text
stringlengths
0
6.63k
すべての王侯貴族が集まっているのをみれば、
けがれのない帝王の姿がみえるではないか。
今は静かに物云わぬ魂がどんなに満足していることか。
かつてはその足にふまえた全世界をもってしても
その欲望を満たすこともおさえることも出来なかったのに。
死とはあらゆる人間の虚栄をとかす霜解けである。
秋も更けて、暁闇がすぐに黄昏となり、暮れてゆく年に憂愁をなげかけるころの、おだやかな、むしろ物さびしいある日、わたしはウェストミンスター寺院を逍遥して数時間すごしたことがある。悲しげな古い大伽藍の荘厳さには、この季節の感覚になにかぴったりするものがあった。その入口を通ったとき、わたしは、昔の人の住む国に逆もどりし、過ぎ去った時代の闇のなかに身を没してゆくような気がした。
わたしはウェストミンスター・スクールの中庭から入り、低い円天井の長い廊下を通って行ったが、そこは巨大な壁にあけられた円形の穴でかすかに一部分が明るくなっているだけなので、あたかも地下に潜ったような感じがした。この暗い廊下を通して廻廊が遠くに見え、聖堂守の老人の黒い衣をまとった姿が、うす暗い円天井の下に動き、近くの墓地からぬけ出してきた幽霊のように見えた。
こういう陰鬱な僧院の跡を通って寺院に近づいてゆくと、おのずから厳粛な思索にふさわしい気持ちになるものである。廻廊は昔ながらの世間を遠ざかった静寂の面影をいまだにとどめている。灰色の壁は湿気のために色があせ、歳月を経て崩れおちそうになっている。白い苔の衣が壁にはめこんだ記念碑の碑文をおおい、髑髏や、そのほかの葬儀の表象をもかくしている。鋭く刻んだ鑿のあとは、精巧な彫刻をほどこしたアーチの狭間飾りからすでに消え去っている。薔薇の模様がかなめ石を飾っていたが、その美しく茂った姿はなくなってしまっている。あらゆるものが、幾星霜のおもむろな侵蝕のあとをとどめている。だが、そのほろびのなかにこそ、何か哀愁をそそり、また心を楽しくさせるものがあるのだ。
太陽は廻廊の中庭に黄色い秋の光を注ぎ、中央のわずかばかりの芝生を照らし、円天井の通路の一隅をほのぐらく美しく輝かしていた。拱廊のあいだから見あげると、青い空がわずかに見え、雲が一片流れていた。そして、寺院の尖塔が太陽に輝いて蒼天に屹立しているのが眼にうつった。
わたしは足を進めて、寺院の内部に通ずるアーチ形の扉に行った。一歩なかに入ると、建物の巨大さが、廻廊の低い円天井と比べると一きわ引きたって、心にのしかかってくる。わたしはおどろいて眼をみはった。簇柱は巨大で、しかも、アーチがその柱の上から驚くほど高く舞いあがっているのだ。柱の足もとのあたりに右往左往している人間は、自分がつくりだしたものに比べれば、ほんの微小なものにしかすぎない。この厖大な建物は広くて、うすぐらいので、神秘的な深い畏怖の念をおこさせる。わたしたちは細心の注意をはらってそっと歩き、墓場の神聖な静寂を破るのを恐れるかのようにするのだが、それでも一足ごとに壁がささやき、墓がひびき、わたしたちは、自分がかき乱した静けさをいやがうえにも強く感じるのだ。
この場にみなぎっている荘厳さは、魂を圧倒し、見る人の声をうばって、粛然として襟を正させるようだ。むかしの偉大な人たちの遺骸がここに集っていて、自分がそのなかにとりかこまれたような感じがするのだ。かつて彼らはその功績で歴史を満たし、その名声を世界にとどろかせたのだった。しかし、彼らが今は死んで押しあいひしめいているのを見ると、人間の野心のはかなさに微笑さえも湧いてくるのだ。生きていたときには、いくたの王国を得ても満足しなかったのだが、今は貧弱な片隅か、陰気な人目にふれぬようなところか、大地のほんの一かけらがしぶしぶと与えられているにすぎない。いかに多くの像や形や細工物を工夫しても、ただ通りがかりの人の気まぐれな一瞥をとらえるだけのことしかできないのだ。かつては全世界の尊敬と賞讃とをいく世にもわたってかちえようと大志をいだいた人でも、その名を忘却から救えるのは、ほんの短い数年のあいだだけなのだ。
わたしは詩人の墓所でしばらく時をすごした。これは寺院の袖廊、すなわち十字廊の一端を占めている。記念碑がだいたいにおいて簡単なのは、文人の生涯には彫刻家が刻むべき目ざましい題目がないからである。シェークスピアとアディスンとを記念するためには彫像が建てられている。しかし、大部分は胸像か、円形浮彫しかなく、なかにはただ碑銘だけのものもある。これらの記念物が簡素なのにもかかわらず、この寺院を訪れる人たちはだれでもそこにいちばん長く止まっているのにわたしは気がついた。偉人や英雄のすばらしい記念碑を見るときの冷淡な好奇心や漠然とした賞讃のかわりに、もっと親しみのある懐しい感情が湧いてくるのだ。ひとびとはそこを去りかねて、あたかも友人や仲間の墓のあたりにいるようにしている。じっさい、作家と読者とのあいだには友情に似たものがあるのだ。ほかの人が後世に知られているのは、ただ歴史を媒介しただけであり、それは絶えずかすかにぼんやりとしてくる。ところが、著者とその仲間とのあいだの交わりは、つねに新しく、活溌で、直接的である。作家は自分のために生きるよりも以上に読者のために生きたのだ。彼は身のまわりの楽しみを犠牲にし、社交的な生活をする喜びからみずからを閉じこめたが、遠くはなれたひとびとや、遠い未来と、それだけにいっそう親しく交ろうとした。世界が彼の名声を忘れずに大切にしているのは当然である。彼の名声は暴力や流血の行為によってあがなわれたのではなく、孜々として楽しみをひとびとに分けあたえたためのものだからだ。後の世の人が喜びをもって彼を思いだすのも当然である。彼は空虚な名声や、仰々しい行為を後世に遺産として残したのではなく、あらゆる知恵の宝、思想の輝かしい宝石、言葉の金鉱脈を残したからだ。
詩人の墓所からわたしは歩みをつづけて、寺院のなかの国王の墓があるところへ行った。かつては礼拝堂であったが、今は偉い人たちの墓や記念碑があるあたりをわたしは行きつもどりつした。歩をめぐらすたびに、だれか有名な名や、歴史に名を輝かし、権勢をほしいままにした家門の紋章に行きあった。これらのうすぐらい死の部屋に眼をそそぐと、古風な像が立ちならんでいるのが目にとまった。あるものは壁龕のなかに跪き、あたかも神に祈るようだった。あるものは墓の上に身を長くのばし、両手を敬虔に固くあわせていた。武士たちは甲冑すがたで、戦いがおわって休んでいるようだ。高僧は牧杖と僧帽を身につけており、貴族は礼服と冠をつけ、埋葬を目前にひかえて安置されているようだ。妙に人数は多いのに、どの姿もじっとして黙っているこの光景を見ると、あらゆる生きものが突然石に変えられてしまったあの昔話に出てくる町のなかの邸を歩いているような気がする。
わたしは立ちどまって、一つの墓をしみじみと眺めた。その上には、甲冑に身をかためた騎士の像が横たわっていた。大きな円楯が片方の腕にのり、両手を祈願するかのように胸の上で合わせていた。顔はほとんど兜でかくれ、両脚は十字に組みあわされ、この戦士が聖なる戦いに従軍したことを物語っていた。これは十字軍の兵士の墓、熱狂して戦さにおもむいたものの一人の墓だった。彼らは、宗教と物語とをいかにもふしぎに混ぜあわせ、そのなした業は、事実と作り話とを結び、歴史とお伽噺とを結ぶ輪となっているのだ。たとえ粗末な紋章とゴシック風の彫刻にかざられていても、こういう冒険者の墓にはなにか絵のようにすばらしく美しいものがある。こういった墓はおおかた古ぼけた礼拝堂にあるが、それとよく調和している。そして、それをじっと眺めていると、想像は燃えあがり、キリストの墓地のための戦争をめぐって詩歌がくりひろげた伝説的な連想や、幻想にあふれた物語や、騎士道時代の荘厳華麗に思いが飛ぶのだ。こういう墓はすでにまったく過ぎさった時代の遺物である。記憶から消えさってしまったものの遺物、わたしたちの風俗習慣とは全然似ても似つかぬものの遺物なのだ。それらはどこか遠いふしぎな国から流れよったものに似て、わたしたちはなんら正確な知識をもっていないし、わたしたちのそれについての考えは漠然として、幻のようである。ゴシックの墓の上のこれらの像が、あたかも死の床について眠っているか、あるいは、臨終の祈願をささげているかのように、横たわっている姿には、何かきわめて荘厳で、畏ろしいものが感じられる。それらはわたしの感情に強い感銘をあたえ、とうてい現代の記念碑に多く見うけられる風変りな姿態や、凝りすぎた奇想や、象徴的な彫像の群などは及びもつかないのである。また、わたしは昔の墓の碑銘の多くがすぐれているのにも心をうたれた。むかしは、ものごとを簡潔にしかも堂々と言う立派な方法があったのだ。ある高潔な一族について、「兄弟はみな勇敢にして、姉妹はみな貞節なりき」と言明する墓碑銘よりももっと崇高に、家族の価値や名誉ある家系についての自覚をあらわす碑銘をわたしは知らない。
詩人の墓所と反対側の袖廊に一つの記念碑があり、それは現代芸術のもっとも有名な作品のなかに数えられているが、わたしにとっては、崇高というよりもむしろ凄惨なように思われるのだ。それはルビヤック作のナイティンゲール夫人の墓である。記念碑の下部は、その大理石の扉が半分開きかかっているようにかたどられており、経帷子につつまれた骸骨が飛び出ようとしている。その骸骨が犠牲者に投げ槍をはなつとき、経帷子は肉のとれたからだからすべりおちようとする。彼女は、おそれおののいている夫の腕のなかに倒れかかろうとし、夫は狂気のようにその一撃を避けようとするが、その甲斐はない。全体には恐ろしい真実性があり、精神がこもってできあがっている。怪物の開いた口からほとばしり出てくる意味のわからぬ勝利の鬨の声が聞えるような気さえする。しかし、なぜ不必要な恐怖で死をつつもうとしなければならないのだろうか。わたしたちが愛する人たちの墓のまわりに恐怖をひろげなければならないのだろうか。墓をとりまくべきものは、死んだ人に対して愛情や尊敬の念をおこさせるものであり、生きている人を正しい道にみちびくものである。墓は嫌悪や驚愕の場所ではなく、悲哀と瞑想の場所である。
こういう暗い円天井や、しんとした側廊を歩きまわり、死んだ人の記録をしらべているあいだにも、外からはせわしい生活の物音がときおり伝わってくる。馬車ががたがたと行きすぎる音。大ぜいの人たちのつぶやく声。あるいは愉しそうなかるい笑い声が聞えてくる。死のような静寂が周囲にみなぎっているので、その対照はあまりにも目ざましい。こうして、生き生きした生命の大波が押しよせて、墓場の壁にうちかえすのをきくのは、ふしぎな感じがするものである。
こういうふうにして、わたしは墓から墓へ、礼拝堂から礼拝堂へ歩きつづけた。次第に日はかたむいて、寺院のあたりを徘徊する人の遠い足音はいよいよ稀れになってきた。美しい音色の鐘が夕べの祈祷を告げた。遠くに、白い法衣を着た合唱隊員たちが側廊をわたって、聖歌隊席にはいってゆくのが見えた。わたしはヘンリー七世の礼拝堂の入口の前に立った。奥ふかくて、暗い、しかも荘厳なアーチをくぐって、階段が通じていた。大きな真鍮の門には、贅をつくして精巧に細工がしてあり、重々しく蝶番でひらき、高慢にも、この豪華をきわめた墓へは一般の人間の足などふみこませまいとしているようだった。
中に入ると、建築の華麗と精細な彫刻の美とに眼をおどろかされる。壁にも残る隈なく装飾がほどこされ、狭間飾りをちりばめてあったり、また壁龕が彫りこんであったりして、その中に聖人や殉教者の像がたくさん建っている。巧みな鑿のわざで、石は重さと密度とを失ったかのように見え、魔術でもかけたように頭上高く吊りあげられている。格子模様の屋根は蜘蛛の巣のようにおどろくほどこまかく、軽々と、そしてしっかり造りあげられていた。礼拝堂の両側にはバスの騎士の高い席があり、樫の木でゆたかに彫刻されているが、ゴシック建築特有の奇怪な飾りがついていた。この席の尖った頂きには、騎士たちの兜と前立がつけてあり、肩章と剣もそえてあった。そして、その上にさがった旗には紋章が描かれており、金と紫と紅の輝きが、屋根の冷たい灰色の格子模様と対照をなして引き立っている。この壮大な霊廟の中央に、その創建者の墓があり、その彫像が妃の像とならんで、華麗な墓石の上に横たわり、全体は目もあやな細工をした真鍮の手摺りでかこんである。
この壮大さにはもの悲しいさびしさがあった。墓と戦勝記念品とが奇妙に入りまじっているのだ。これらの強い烈しい野心を象徴するものは、万人が早晩行きつかねばならぬ塵と忘却とを示す記念品のすぐかたわらにあるのだ。かつてはひとびとが大ぜい集まり盛観であったのに、今は人影もなく寂莫としてしまった場所を歩くよりも深いわびしさを人の心に感じさせるものはない。騎士も、その従者もいない空席を見まわし、かつては彼らがふりかざした旗が埃はついてもなお絢爛とならんでいるのを見て、わたしが思いうかべた光景は、この広間がイギリスの勇士や美女で輝き、宝石を身にかざった貴族や軍人の美々しいすがたに光り、大ぜいのひとびとの足音や、ざわざわと賞めたたえる声に満ちて生き生きしていたころのことである。すべては過ぎ去った。死の沈黙がふたたびあたりを領し、それをさえぎるのはときおり鳥がさえずる声だけだ。この鳥たちは礼拝堂に入りこんで、小壁や、垂飾りに巣をつくっているのだが、これは、ここが人影まれで寂しいことのしるしでもある。旗にしるされた名前を読むと、それは遠く広く世界じゅうに散らばっていった人たちの名前だった。遠い海の波に翻弄されたものもあり、遠い国で戦ったものもあり、また宮廷や内閣のせわしい陰謀にたずさわったものもある。しかし、彼らはすべて、この暗い名誉の館において一つでも多く栄誉を得ようとしたのだった。陰鬱な記念碑にむくいられようとしたのだ。
この礼拝堂の両側にある小さな二つの側廊は、人間が墓にはいれば平等になるという悲壮な実例をあげている。圧制したものは圧制されたものの地位まで下がり、不倶戴天の敵同士の屍さえもまじりあってしまうのだ。側廊の一つにはあの傲慢なエリザベスの墓があり、別のほうには、彼女の犠牲となった、美しい薄幸なメアリーの墓がある。一日の一時間として、だれかが、メアリーの圧制者に対する怒りをこめて、あわれみの叫び声を彼女の運命にそそがないときはない。エリザベスの墓の壁は、絶えず彼女の敵の墓でもらされる同情の溜め息の音をひびきかえしているのだ。
メアリーが埋葬されている側廊には異様な憂鬱な雰囲気がただよっている。窓からかすかに光がはいってくるが、その窓にたまった埃で暗くなってしまう。この側廊の大部分は暗い影のなかに沈んでおり、壁は年をへて雨風のためにしみがつき、汚れている。メアリーの大理石の像は墓の上に横たわり、そのまわりには鉄の手摺りがあるが、ひどく銹びていて、彼女の国スコットランドの国花、薊の紋がついている。わたしは歩きまわって疲れたので、その墓のかたわらに腰をおろして休んだが、心のなかには、あわれなメアリーの数奇で悲惨な物語が渦巻いていた。
ときどき聞えていた足音はこの寺院から絶えてしまっていた。ただときおり耳にはいるのは、遠くで僧が夕べの祈りをくりかえす声と、合唱隊がそれに答えるかすかな声だけだった。その声がしばらく途切れると、一切の物音がなりやんでしまう。あたりは次第にしんとして、寂莫とした気配が迫り、暗さが濃くなり、今までよりいっそう深く厳かなおもむきを帯びてきた。
突然、低い重々しいオルガンの調べがひびきはじめた。それは次第次第に強くなり、大波のようにどよめきわたった。その音量のゆたかさ、その壮大さは、この堂々たる建築になんとよく調和したことだろう。いかに壮麗にその調べは広大な円天井にひろがり、この死の洞穴を通じて、おごそかな旋律を鳴りわたらせ、沈黙した墓に鳴りひびいたことか。それはやがてもりあがって勝ち誇った歓喜の叫びとなり、渾然とした調べはいよいよ高く、ひびきの上にひびきをつみかさねていった。その音がやむと、聖歌隊のやさしい歌声が快いしらべとなって流れ出し、高く舞いあがり、屋根のあたりで歌い、高い円天井で鳴るように思われ、清純な天国の曲とまがうばかりだった。ふたたびオルガンがとどろき、恐ろしい大音響をまきおこし、大気を凝縮して音楽にし、滔々として魂に押しよせてくる。なんという殷々たる音律であろう。なんと厳かな、すさまじい協和音であろう。その音はさらに濃密に、なおも力強くなって、大伽藍にみなぎり、壁さえもゆりうごかすかと思われる。耳を聾するばかりで、五感はまったく圧倒されてしまう。そして今や、朗々とうねりあがってゆき、大地から天上へかけのぼる。魂は奪い去られ、この高まる音楽の潮のまにまに空高く浮びあがるような気さえする。
わたしは、音楽がときとして湧きおこしがちな幻想にひたって坐っていた。夕闇が次第に身のまわりに濃くなり、記念碑がなげる暗影はいよいよ深くなってきた。遠くの時計が、しずかに暮れてゆく日をしらせた。
わたしは立ちあがって、寺院を去る支度をした。本堂に通じる階段を下りてゆくとき、わたしの眼はエドワード懺悔王の霊廟にひかれた。そこへ行く小さな階段をのぼり、そこから荒涼とした墓場を見わたした。この廟は壇のように高くなっていて、それをとりまいて近くに王や妃たちの墓があった。この高いところから見おろすと、柱や墓碑のあいだから、下の礼拝堂や部屋が見え、墓が立ちならんでいた。そこに武士や、僧正や、廷臣や、政治家たちが「闇の床」に臥して朽ちつつあるのだ。わたしのすぐそばに、戴冠式用の大椅子が据えてあったが、それは樫の木の荒削りで、遠い昔のゴシック時代のまだ洗練されてない趣味だった。この場面は、演劇的な巧みさで、見る人に、ある感銘をあたえるように工夫されているかのようだった。ここに人間のはなやかな権力の初めと終りの一つの例があるのだ。ここでは文字通り王座から墳墓までただ一歩である。これらの不調和な記念物が集められたのは生存している偉人に教訓をあたえるためだと考える人はないだろうか。つまり、この世の偉い人がもっとも得意で意気揚々としている瞬間にさえ、間もなくその人が世間にかえりみられず、侮辱を受けなければならなくなるということを見せつけるためだと考える人はないだろうか。その人の額をめぐる王冠がたちまちにして滅び去り、墓の塵と恥辱とのなかに横たわり、大衆のうちでももっとも下賤なものの足もとに踏みつけられなければならないということを教えるためだと人は思わないだろうか。妙なことだが、ここでは墓さえももはや聖所ではないのだ。世の中のある人たちのなかには恐るべき軽薄なところがあり、そのために畏れ敬うべきものを弄ぶことになるのだ。また、卑劣な人もあり、生きている人にはらう卑劣な服従と下等な奴隷根性のうらみを、すでに死んだ有名な人に晴らして喜ぶのだ。エドワード懺悔王の棺はあばかれ、その遺骸からは葬式の装飾品がうばいさられてしまった。傲慢なエリザベスの手からは王笏が盗まれている。ヘンリー五世の彫像は頭がとれたまま横たわっている。王の記念碑のなかには、人間の尊敬がいかに偽りで、はかないものであるかという証拠をとどめていないものは一つとしてない。あるものは強奪され、あるものは手足を切りとられ、あるものは下品な言葉や侮蔑の言葉でおおわれている。いずれも多かれ少かれ辱かしめられ、不名誉を蒙っているのだ。
一日の最後の光が今やわたしの頭上の高い円天井の彩色した窓を通してかすかに流れこんでいた。寺院の下のほうはすでに暗い黄昏につつまれている。礼拝堂や側廊はますます暗くなってきた。王たちの像は暗闇に消えいり、大理石の記念像はほのかな光のなかでふしぎな形を見せ、夕暮の風は墓の吐く冷たい息のように側廊をはいよってきた。詩人の墓所を歩く聖堂守の遠い足音にさえも、異様な寂寞としたひびきがあった。わたしは、ひるまえに歩いた路をゆっくりともどって行った。そして、廻廊の門を出ると、扉が背後でぎしぎしと軋って閉まり、建物全体にこだまして、鳴りわたった。
わたしは、今まで見てきたものを心のなかで少し整えて見ようとした。しかし、それはもはやさだかではなく混沌としていた。入口からまだ足を踏み出したか、出さないかというのに、名前や、碑文や、記念品はみなわたしの記憶のなかで入りみだれてしまっていた。わたしは考えた。このおびただしい墳墓の集まりは、屈辱の倉庫でなくてなんであろう。名声の空虚なこと、忘却の確実なことについて、くりかえし説かれた訓戒のうずたかい堆積でなくてなんだろうか。じっさい、これは死の帝国である。死神の暗黒の大宮殿である。死神が傲然と腰をすえ、人間の栄光の遺物をあざわらい、王侯たちの墓に塵と忘却とをまきちらしているのだ。名声の不死とは、とどのつまり、なんとむなしい自慢であろう。時は黙然としてたゆみなくページを繰っているのだ。わたしたちは、現在の物語にあまりに心をうばわれており、過去を興味深いものにした人物や逸話については考えもしない。そして、来る時代も、来る時代も、書物をなげだすように、またたくまに忘れられてゆく。今日崇拝される人は昨日の英雄をわたしたちの記憶から追いだしてしまう。そして、次には、明日そのあとについで出るものによって取って代わられるのだ。「われわれの父祖は」とトマス・ブラウン卿は言っている。「自分の墓をわれわれの短い記憶のなかに見出した。そして、われわれもまたあとに残った人のなかに埋もれてゆくであろうと悲しげに教えている」歴史は次第にぼんやりして寓話になる。事実は疑いや論争で曇らされる。碑文はその碑面から朽ちおちる。彫像は台から倒れおちる。柱も、アーチも、ピラミッドも、砂の堆積以外の何ものであろうか。その墓碑銘は塵に書いた文字以外の何ものであろうか。墓が安全だといっても、なんでもない。防腐のためにたきこめた香が永遠だといっても、なにほどのことがあろうか。アレキサンダー大王の遺骸は風に吹きさらわれて散り去った。彼のうつろな石棺は、今では博物館の単なる珍品にすぎない。「エジプトのミイラは、キャンバイシーズ王も歳月も手をふれることを差しひかえたのに、今は貪欲な人間がけずりとっている。人民のミイラは傷の特効薬だし、王のミイラは鎮痛剤として売られている(原註)」
今、この大建築は、わたしの上にそびえ立っているが、これよりも壮大な墳墓にふりかかったのと同じ運命をそれがたどらぬように守ることができるものがあるだろうか。今、その金箔をほどこした円天井はかくも高くそばだっているが、やがて廃物になって足もとに横たわるときがかならず来るのだ。そのときには、音楽や感嘆の声のかわりに、風が、壊れたアーチを蕭々として吹きならし、梟が破壊した塔から鳴くのだ。そのときには、目も眩い陽光がこの陰鬱な死の家にふりそそぎ、蔦が倒れた柱にまきつき、ジギタリスは、死人をあなどるかのように、名の知れぬ骨壺のあたりに垂れて咲きみだれるのだ。こうして、人はこの世を去り、その名は記録からも記憶からも滅びるのだ。その生涯ははかない物語のようであり、その記念碑さえも廃墟となるのである。
前の章で、わたしはイギリスのクリスマスの催しごとについて概括的な観察をしたので、今度は、その実例を示すために、あるクリスマスを田舎ですごしたときの話を二つ三つ述べたいと思う。読者がこれを読まれるにあたって、わたしが切におすすめしたいのは、学者のようないかめしい態度は取り去り、心からお祭り気分になって、馬鹿げたことも大目に見て、ただ面白いことだけを望んでいただきたいということである。
馭者はたいてい幅のひろい福々しい顔をしているが、妙に赤い斑点があって、飲み食いがさかんなために血液が皮膚の血管のひとつひとつに溢れているかのように見える。ビールをしょっちゅう飲んでいるので、からだはすばらしく脹らんでいるが、そのうえ外套を何枚も着こんでいるから、いよいよもって大きくなる。ご本人は花キャベツのようにその外套のなかに埋まり、いちばん外側のは踵にとどくほどである。彼は、縁の広い、山の低い帽子をかぶり、染めたハンカチの大束を首にまきつけ、気取ったふうに結んで、胸にたくしこんでいる。夏ともなれば、ボタンの穴に大きな花束をさしているが、きっとこれは、だれか彼に惚れた田舎娘の贈り物であろう。チョッキはふつう派手な色で、縞模様がついており、きちっとしたズボンは膝の下までのびて、脛のなかほどまできている乗馬靴にとどいている。
こういう衣裳はいつもきちんと手入れがしてある。彼は洋服を上等な布地でつくることに誇りをもっていて、見かけは粗野であるにもかかわらず、イギリス人の持ちまえといってもよい、身だしなみのよさと、礼儀正しさとがうかがえる。彼は街道すじでたいへん重要な人物で、尊敬もされている。よく村の女房連中の相談相手になり、信用のおける人、頼りになる人と敬まわれ、また、明るい眼をした村の乙女ともよく気心が通じているらしい。馬を換えるところに着くやいなや、彼は勿体ぶった様子で手綱を投げすて、馬を馬丁の世話にまかせてしまう。彼のつとめは宿場から宿場へ馬車を駆ることだけなのだ。馭者台から降りると、両手を大外套のポケットにつっこみ、いかにも王侯らしい様子で旅館の中庭を歩きまわるのだ。ここでいつも彼を取りまき、賞讃するのは、大ぜいの馬丁や、厩番や、靴磨きや、名もない居候連中である。この居候連中は宿屋や酒場にいりびたって、使い走りをしたり、いろいろ半端仕事をして、台所の余り物や、酒場のおこぼれにしこたまありつこうという算段である。こういう連中は馭者を神様のようにあがめ、彼の使う馭者仲間の通り言葉を後生だいじに覚えこみ、馬や、競馬についての彼の意見をそっくり受けうりするのだが、とりわけ一生懸命になって彼の態度物腰をまねようとするのである。襤褸とはいえ、外套の一枚も引っかけている人は、ポケットに両手をつっこみ、馭者の歩きぶりをまねして歩き、通り言葉で話し、馭者の卵になりすますのだ。
わたしはこんなに豪華な想いに耽っていたが、道連れの子供たちが叫んだので、その想いから呼びさまされた。この二、三マイルばかりのあいだ、彼らは馬車の窓から外を見ていたが、いよいよ家が近づいてきたので、どの樹木も、どの農家も、みな彼らの見覚えがあるものばかりだった。そして今彼らは喜んで一斉に騒ぎたてた。「ジョンがいる。それから、カーロだ。バンタムもいるぞ」と叫んで、この楽しそうな少年たちは手をたたいた。
小みちの果てに、真面目くさった顔をした老僕が、制服を着て、少年たちを待っていた。彼にしたがっているのは、老いぼれたポインター犬と、尊敬すべきバンタムだった。バンタムは鼠のような小馬で、たてがみはぼうぼうとして、尾は長くて赤茶色だった。その馬はおとなしく路傍に立って居眠りをしていたが、やがてさんざん駈けまわるときが来ようとは夢にも思っていなかった。
わたしが嬉しかったのは、子供たちが懐かしげに、このまじめな老僕のまわりを跳びはね、また、犬を抱いてやったことだ。犬は喜んで、からだ全体をゆりうごかした。しかし、なんといってもいちばんこの子供たちの興味をそそるのはバンタムだった。みんながいちどに乗りたがったので、ジョンはやっとのこと、順ぐりに乗るように決め、まず、いちばん年上の少年が乗ることになった。
とうとう彼らは立ち去って行った。一人が子馬に乗り、犬はその前を跳んだり吠えたりし、ほかの二人はジョンの手をとって行った。二人は同時にジョンに話しかけ、家のことをたずねたり、学校の話をしたりして、ジョン一人ではどうにもならなかった。わたしは彼らのあとを見送りながら、自分が嬉しいのか悲しいのかわからないような気がした。わたしが思い出したのは、わたしもあの少年たちとおなじように苦労や悲哀を知らず、祭日といえば幸福の絶頂だったころのことだった。わたしたちの馬車は、それから二、三分止まり、馬に水をのませた。そして、また道をつづけたが、角を曲ると、田舎の地主の気持ちのよい邸宅が見えた。わたしはちょうど、一人の貴婦人と二人の少女のすがたを玄関に見わけることができた。それから、わたしの小さな友人たちが、バンタムとカーロとジョン老人といっしょに馬車道を進んでゆくのが見えた。わたしは馬車の窓から首を出して、彼らのたのしい再会の場面を見ようとしたが、木立ちにさえぎられて見えなくなってしまった。
この季節になくてはならぬものだ(原註)。
わたしが旅館について間もなく、駅伝馬車が玄関に乗りつけた。一人の若い紳士がおりてきたが、ランプのあかりでちらっと見えた顔は、見覚えがあるような気がした。わたしが進みでて、近くから見ようとしたとき、彼の視線がわたしの視線とばったり会った。まちがいではなかった。フランク・ブレースブリッジという、元気な、快活な青年で、わたしはかつて彼といっしょにヨーロッパを旅行したことがあった。わたしたちの再会はまことにしみじみとしたものだった。昔の旅の伴侶の顔を見れば、いつでも、愉快な情景や、面白い冒険や、すばらしい冗談などの尽きぬ思い出が湧きでてくるものだ。旅館での短いめぐりあいのあいだに、こういうことをみな話しあうのは不可能だった。わたしが急いでいるのでもなく、ただあちこち見学旅行をしているのだと知って、彼はわたしに、是非一日二日さいて、自分の父の邸に泊ってゆくようにとすすめた。彼はちょうどその邸に休暇で行くところだったし、そこまでは二、三マイルしかなかった。「それは、旅館なぞで、ひとりでクリスマスの食事をなさるよりはいいですよ」と彼は言った。「それに、あなたがいらっしゃって下されば、大歓迎は受けあいです。ちょっとした古風な仕方で致しましょう」彼の言うことはもっともだったし、わたしも、じつをいうと、世の中のひとびとがみんな祝いや楽しみの準備をしているのを見て、ひとりでいるのが、いささか耐えられないような気がしてきていたところだった。そこで、わたしは直ちに彼の招待に応じた。馬車は戸口に着き、間もなくわたしはブレースブリッジ家の邸へ向った。
原註一六八四年版「プア・ロビンの暦」。
年老いた人をいたわりなさい。その銀髪は、
わたしは田舎に住んでいるころ、村の古い教会によく行ったものだ。ほの暗い通路、崩れかかった石碑、黒ずんだ樫の羽目板、過ぎさった年月の憂鬱をこめて、すべてが神々しく、厳粛な瞑想にふける場所ににつかわしい。田園の日曜日は浄らかに静かである。黙然として静寂が自然の表面にひろがり、日ごろは休むことのない心も静められ、生れながらの宗教心が静かに心のなかに湧きあがってくるのを覚える。
かぐわしい日、清らかな、静かな、かがやかしい日、
わたしは、信心深い人間であるとは言えない。しかし、田舎の教会にはいると、自然の美しい静寂のなかで、何かほかのところでは経験することのできない感情が迫ってくるのである。そして、日曜日には、一週間のほかの日よりも、たとえ宗教的にはならないとしても、善人になったような気がするのだ。
ところが、この教会では、いつでも現世的な思いにおしかえされるような感じがしたが、それは、冷淡で尊大なあわれな蛆虫どもがわたしのまわりにいたからだ。ただひとり、真のキリスト教信者らしい敬虔な信仰にひたすら身をまかせていたのは、あわれなよぼよぼの老婆であった。彼女は寄る年波と病とのために腰も曲がっていたが、どことなく赤貧に苦しんでいる人とは思われない面影を宿していた。上品な誇りがその物腰にただよっていた。着ているものは見るからに粗末だったが、きれいでさっぱりしていた。それに、わずかながら、ひとびとは彼女に尊敬をはらっていた。彼女は貧しい村人たちといっしょに席をとらず、ひとり祭壇のきざはしに坐っていたのである。彼女はすでに愛する人とも、友だちとも死に別れ、村人たちにも先立たれ、今はただ天国へゆく望みしか残されていないようにみえた。彼女は弱々しく立ちあがり、年とった体をこごめて祈りを捧げ、絶えず祈祷書を読んでいたが、その手はしびれ、眼はおとろえて、読むことはできず、あきらかに誦んじているのだった。それを見ると、わたしは、その老婆の口ごもる声は、僧の唱和や、オルガンの音や、合唱隊の歌声よりもずっとさきに天にとどくのだと強く思わざるを得なかった。
葬列が墓に近づくと牧師が教会の玄関から出てきた。白い法衣を着け、祈祷書を片手にもち、一人の僧をつれていた。しかし、葬儀はほんの慈善行為にすぎなかった。故人は窮乏の極にあったし、遺族は一文なしだった。だから、葬式はとにかくすましたとはいうものの、形だけのことで、冷淡で、感情はこもっていなかった。よくふとったその牧師は教会の入口から数歩しか出てこず、声は墓のあるところではほとんど聞えなかった。弔いという、あの荘厳で感動的な儀式が、このような冷たい言葉だけの芝居になってしまったのを、わたしは聞いたことがなかった。
わたしは墓に近づいた。柩は地面においてあった。その上に死んだ人の名と年齢とがしるしてあった。「ジョージ・サマーズ、行年二十六歳」憐れな母は人手にすがりながら、その頭のほうに跪いた。そのやせこけた両手を握りあわせて、あたかも祈りを捧げているようだった。だが、そのからだはかすかにゆれ、唇はひきつるようにぴくぴく動いているので、彼女が息子の遺骸を見るのもこれが最後と、親心の切ない思いにむせんでいるのがわかった。
棺を地におろす準備がととのった。このとき愛と悲しみにみちた心を無惨にも傷つける、あの騒ぎがはじまった。あれこれと指図する冷たい事務的な声。砂と砂利とにあたるシャベルの音。そういうものは、愛する人の墓で聞くと、あらゆるひびきのなかでいちばんひどく人の心をいためつけるものだ。周囲のざわめきが、いたいたしい幻想に沈んでいた母親を目ざめさせたようだった。彼女は泣きはらしてかすんだ眼をあげて、狂おしげにあたりを見まわした。ひとびとが綱をもって近づき、棺を墓におろそうとすると、彼女は手をしぼりながら、悲しみのあまり、わっと泣きだした。つきそいの貧しい婦人が腕をとって、地べたから老婆をおこそうと努め、なにか囁いてなぐさめようとした。「さあ、さあ。もうおやめなさいまし。そんなにおなげきなさらないで」老婆はただ頭をふって、手をにぎりしめるばかりで、決してなぐさめられることのない人のようだった。
遺骸が地におろされるときの綱がきしきし鳴る音は、彼女を苦しめたようだった。しかし、なにかのはずみで棺が邪魔物に突きあたったとき、老母の愛情はいちどにほとばしり出た。その様子は、あたかも息子がもはやこの世の苦悩から遠くとどかぬところにいるのに、まだどんな災いがおこるかもしれないと思っているようだった。
わたしはもう見ていられなくなった。胸がいっぱいになって、眼には涙があふれた。かたわらに立って安閑と母の苦しむさまを見ているのは、ひどく心ない仕打ちなのではないかと思った。わたしは墓地のほかのほうに歩いてゆき、会葬者が散るまでそこにとどまっていた。
老母がおもむろに苦しげに墓を立ち去り、この世で自分にとって愛しいすべてのものであった人の遺骸をあとにして、語る相手もない貧しい生活に帰ってゆくのを見ると、わたしの心は彼女のことを思って痛んだ。裕福な人たちが苦しんだからといってそんなものはなんでもないではないか、とわたしは考えた。彼らにはなぐさめてくれる友だちがある。気をまぎらしてくれるたのしみがある。悲しみを逸らし散らしてくれるものがいくらでもある。若い人たちの悲しみはどうだろう。その精神がどんどん成長して、すぐに傷口をとじてしまう。心には弾力があって、たちまち圧迫の下からとびあがる。愛情は若くしなやかで、すぐに新しい相手にまきついてしまう。だが、貧しい人たちの悲しみ。この人たちには、ほかに心をなだめてくれるものはない。年老いた人たちの悲しみ。この人たちの生活はどんなによくても冬の日にすぎず、もはや喜びがかえり咲きするのを待つこともできない。寡婦のかなしみ。年老い、孤独で、貧乏にあえぎ、老いし日の最後に残された慰めである一人息子の死を悼んでいる。こういう悲しみをこそ、わたしたちはなぐさめるすべのないことをしみじみと感ずるものだ。
しばらくしてわたしは墓地を去った。家へむかう途中で、わたしは、あの、なぐさめ役になった婦人に会った。彼女は老母をひとり住いの家に送った帰りだった。わたしはさきほど見たいたわしい光景にまつわる委細を彼女から聞きだすことができた。
故人の両親は子供のころからこの村に住んでいた。彼らはごくさっぱりした田舎家に暮らし、いろいろと野良仕事をしたり、またちょっとした菜園もあったりして、暮らし向きは安楽で、不平をこぼすこともない幸福な生活を送っていた。彼らには一人の息子があり、成長すると、老いた両親の柱になり、自慢の種になった。「ほんとに」とその婦人は言った。「あの息子さんは、美男子で、気だてはやさしくって、だれでもまわりの人には親切で、親御さんには孝行でした。あの息子さんに、日曜日に出あったりすると、心がすっきりしたものですよ。いちばんいい服を着て、背が高く、すらっとしていて、ほがらかで。年とったお母さんの手をとって教会へ来たものです。お母さんときたら、いつでもあのジョージさんの腕にもたれるほうが、御自分の旦那さんの腕にもたれるのより好きだったんですからね。おかわいそうに。あのかたが息子さんを自慢なさるのも当り前のことでしたよ。このあたりにあんな立派な若者はいませんでしたもの」
不幸なことに、ある年、飢饉で農家が困窮したとき、その息子は人に誘われて、近くの河をかよっている小船で働くようになった。この仕事をしはじめてまだ間もないころ、彼は軍隊に徴集されて水兵にされてしまった。両親は彼が捕虜になったしらせを受けたが、それ以上のことはなにもわからなかった。彼らの大切な支柱がなくなってしまったのだ。父親はもともと病気だったが、気をおとして滅入りこんでしまい、やがて世を去った。母親は、ただひとり老境に残されて力もなく、もはや自分で暮しを立てることもできず、村の厄介をうけることになった。しかし、今もなお、村じゅうのひとびとは彼女に同情をもっており、古くから村に住んでいる人として尊敬もしているのだった。彼女がいくたの幸福な日々をすごした田舎家にはだれも住みこもうとしないので、彼女はその家にいることを許され、そこでひとりさびしく、ほとんど助ける人もなく暮していたのだ。食べものもわずかしか要らなかったが、それはほとんど彼女の小さな菜園の乏しいみのりでまかなわれた。その菜園は近所の人たちがときどき彼女のために耕してやるのだった。こういう事情をわたしが聞いたときよりほんの二、三日前、彼女が食事のために野菜をつんでいると、菜園に面した家のドアがふいに開く音がきこえた。見知らぬ人が出てきて、夢中になってあたりを見まわしている様子だった。この男は水兵の服を着て、やせおとろえて、ぞっとするほど血の気がなく、病いと苦労とのためにすっかり弱っているようだった。彼は彼女を見つけ、そして、急いで彼女のほうへやってきた。しかし、彼の足どりは弱々しくふらふらしていた。彼は彼女の前にしゃがみこんでしまい、子供のようにむせび泣いた。憐れな女は彼を見おろしたが、その眼はうつろで、見定まらなかった。「ああ、お母さん、お母さん。御自分の息子がおわかりにならないんですか。かわいそうな息子のジョージが」ほんとうにそれはかつて気高かった若者の敗残の姿だった。負傷をうけ、病におかされ、敵地に俘虜となってさいなまれ、最後に、やせた脚を引きずって家路をたどり、幼年時代の場所に憩いをもとめて帰ってきたのだ。
わたしは、このような悲しみと喜びとがすっかり混りあってしまっためぐりあいを事こまかには書くまい。とにかく息子は生きていた。家に帰ってきた。彼はまだまだ生きて、母の老後をなぐさめ大事にしてくれるかも知れない。しかし、彼は精根つきはてていた。もしも彼の悲運が、決定的なものではなかったとしても、その生れた家のわびしいありさまが、十分それを決定的なものにしただろう。彼は夫を失なった母が眠れぬ夜をすごした藁ぶとんに横たわったが、ふたたび起きあがることはできなかった。
村人たちはジョージ・サマーズが帰ったと聞くと、こぞって彼に会いにやってきて、自分たちのとぼしい力の許すかぎりのなぐさめと助力とをあたえようと申し出た。しかし、彼は弱りきっていて口もきけず、ただ眼で感謝の気持ちをあらわすだけだった。母親は片時もはなれずに付きそっていた。彼はほかの人にはだれにも看護してもらいたくないように見えた。
「子供のころ世話を見てくれた」母、枕のしわをのばしてくれ、困っているときにはいつも助けてくれた母のことを考えぬものはあるまい。ああ、母の子に対する愛には永久に変らぬやさしさがあり、ほかのどんな愛情よりもすぐれているのだ。その愛は利己心で冷たくなるようなものではない。危険にめげるものではない。その子がつまらぬものになったからといって弱められるものでもなく、子が恩を忘れても消えるものではない。彼女はあらゆる安楽を犠牲にして子の為をはかるのだ。すべてのたのしみを彼の喜びのために捧げるのだ。彼女は子が名声を得れば光栄と感じ、子が栄えれば歓喜するのだ。そして、もし不幸が彼をおそえば、その不幸のゆえにこそ彼をなおさら愛おしく思い、たとえ不名誉が子の名を汚しても、その不名誉にもかかわらずなお彼を愛し、いつくしむのだ。またもし世界じゅうの人が彼を見すてたならば、彼女は彼のために世界じゅうの人になってやるのだ。
あわれなジョージ・サマーズは、病気になって、しかもだれもなぐさめてくれる人がないことがどんなものか知っていた。ひとりで牢獄にいて、しかもだれも訪れる人がないことがどんなものか身をもって味わったのだ。彼は一時も母が自分の目の届かぬところに行くのには耐えられなかった。母が立ち去ると、彼の眼はそのあとを追っていった。彼女は何時間も彼のベッドのかたわらに坐って、彼が眠っているすがたを見まもっていたものだ。ときたま彼は熱っぽい夢におどろいて眼をさまし、気づかわしげに見あげたが、母が上にかがみこんでいるのを見ると、その手をとって、自分の胸の上におき、子供のように安らかに眠りにおちるのだった。こんなふうにして、彼は死んだのだ。
このみじめな不幸の話をきいて、わたしが最初にしたいと思ったことは、老婆の家を訪問して経済的な援助をしたい、そしてできれば慰めて上げたいということだった。しかし、たずねて見てわかったことだが、村人たちは親切心が厚く、いちはやく事情の許すかぎりのことはしてやっていた。それに、貧しい人たちはお互いの悲しみをいたわるにはどうしたらよいか、いちばんよく知っているのだから、わたしはあえて邪魔することはやめた。
その次の日曜日にわたしがその村の教会にゆくと、驚いたことに、あの憐れな老婆がよろよろと歩廊を歩いていって、祭壇のきざはしのいつもの席についた。
彼女はなんとかして自分の息子のために喪服とはゆかぬまでも、それらしいものを身に着けようとしたのだった。この信心深い愛情と一文なしの貧困とのたたかいほど胸をうつものはあるまい。黒いリボンか、何かそれに似たもの、色あせた黒のハンカチ、それと、もう一つ二つ貧しいながらもそういうこころみをし、そとにあらわれた印で、言うに言われぬ悲しみを語ろうとしていた。まわりを見まわすとわたしの目に入るものは、死者の功績をしるした記念碑があり、堂々とした紋標があり、冷たく荘厳な大理石の墓があり、こういうもので権勢のある人たちが、生前は世の誇りとなったようなひとびとの死を壮大に悼んでいるのだ。ところが目をうつすと、この貧しい寡婦が、老齢と悲しみに腰をかがめて神の祭壇のところで、悲嘆にうちくだかれた心の底から、なお信仰あつく、祈りと、神を讃えることばを捧げている。その姿を見ると、わたしは、この真の悲しみの生きた記念碑は、こういう壮大なもののすべてにも価すると思った。
わたしが彼女の物語を、会衆のなかの裕福な人たち数人に話したところ、彼らはそれに感動した。彼らは懸命になって彼女の境遇をもっと楽にしてやろうとし、苦しみを軽くしようと努めた。しかし、それもただ墓へゆく最後の二、三歩をなだらかにしたにすぎなかった。一、二週間のちの日曜日には、彼女は教会の例の席に姿を見せなかった。そして、わたしはその近在を立ち去る前に、彼女が静かに最後の息をひきとったということをきいて、これでよいのだと感じた。彼女はあの世に行って自分が愛していた人たちとまたいっしょになったのだ。そして、そこでは、決して悲しみを味わうことがなく、友だち同士は決して別れることがないのだ。
だが、あのなつかしい、思い出ふかいクリスマスのお爺さんはもう逝ってしまったのだろうか。あとに残っているのは、あの年とった頭の白髪と顎ひげだけなのか。それでは、それをもらおう。そのほかにクリスマスのお爺さんのものはないのだから。
肉のご馳走が山ほどあった、偉い人にも賤しい人にも。
それは、この古帽子が真新しかったころのこと。
イギリスで、わたしの心をもっとも楽しく魅惑するのは、昔から伝わっている祭日のならわしと田舎の遊びごとである。そういうものを見て、わたしが思いおこすのは、まだ若かったころに、わたしの空想がえがいた数々の絵である。あのころ、わたしは世界というものを書物を通してしか知らなかったし、世界は詩人たちがえがいた通りのものだと信じこんでいた。そしてさらに、その絵といっしょに、純朴だった昔の日々の香りがもどってくる。そして、やはりおなじ間違いかもしれないが、そのころ世間のひとびとは今よりずっと素朴で、親しみぶかく、そして嬉々としていたように思う。残念なことに、そういうものは日毎にかすかになってくるのである。時がたつにしたがって次第に擦りへらされるだけでなく、新しい流行に消し去られてしまうのだ。この国の各地にあるゴシック建築の美しい遺物が、時代の荒廃にまかされて崩壊したり、あるいは、後の世に手が加えられたり改築されたりして、もとのすがたを失ってゆくのにも似ているのである。しかし、詩は田園の遊戯や祭日の宴楽から多くの主題を得たのだが、今でもそれをなつかしみ、纏綿としてはなれない。それは、あたかも、蔦が古いゴシックの門や崩れかかった塔に、ゆたかな葉をまきつけて、自分を支えてくれた恩にこたえ、ゆらゆらする廃墟を抱きしめ、いわば、その若い緑でいつまでも香り高いものにしておこうとするのとおなじようである。
しかし、さまざまの古い祭のなかでも、クリスマスの祝いは、最も強いしみじみした連想を目ざめさせる。それには、おごそかで清らかな感情がこもっており、それがわたしたちの陽気な気分に溶けあい、心は神聖で高尚な悦楽の境地に高められる。クリスマスのころの教会の礼拝は、たいへん優美で感動的である。キリスト教の起源の美しい物語や、キリスト生誕のときの田園の光景がじゅんじゅんと説かれる。そして、降臨節のあいだに、その礼拝には次第に熱意と哀感が加わり、ついに、あの、人類に平和と善意とがもたらされたクリスマスの朝に、歓喜の声となって噴出するのである。教会で、聖歌隊の全員が鳴りひびくオルガンに合わせて、クリスマスの聖歌を歌い、その勝ち誇った調和音が大伽藍の隅々まで満たしてしまうのを聞くときほど、音楽が荘厳に人の道徳的感情に迫ってくるのを知らない。
古い昔からの美しいしきたりによって、この、愛と平和の宗教の宣布を記念する祭りの日々には、一族は相つどい、また、肉親のものでも、世の中の苦労や、喜びや、悲しみで、いつも引きはなされがちなひとびとがまたひきよせられるのだ。そして、子供たちは、すでに世間に旅立って、遠くはなればなれにさまよっていても、もう一度両親の家の炉ばたに呼びかえされて、その愛のつどいの場所に団欒し、幼年時代のなつかしい思い出のなかで、ふたたび若がえり、いつくしみあうのである。
季節そのものも、クリスマスの祝いに魅力をそえる。ほかの季節には、わたしたちはほとんど大部分の愉しみを自然の美しさから得るのである。わたしたちの心は戸外に飛びだし、陽ざしの暖かい自然のなかで気を晴らすのだ。わたしたちは「野外のいたるところに生きる」のである。鳥の歌、小川のささやき、息吹いている春の香り、やわらかい夏の官能、黄金色の秋の盛観、さわやかな緑の衣をつけた大地、爽快な紺碧の大空、そしてまた豪華な雲が群がる空。すべてがわたしたちの心を、沈黙のまま、なんともいえぬ歓喜で満たし、わたしたちは、尽きぬ感覚の逸楽にひたるのだ。しかし、冬が深くなり、自然があらゆる魅力をうばわれて、一面に雪の経帷子につつまれると、わたしたちは心の満足を精神的な源にもとめるようになる。自然の風光は荒れてさびしく、日は短く陰気で、夜は暗澹として、わたしたちの戸外の散策は拘束され、感情もまた外にさまよい出て行かずに、内にとじこめられ、わたしたちは互いの交歓に愉しみを見つけようとする。わたしたちの思索は、ほかの季節よりも集中し、友情も湧きでてくる。わたしたちは、ひとと睦じくすることの魅力をしみじみと感じ、互いに喜びをわけあうようになり、親しく寄りあうのだ。心は心を呼び、わたしたちは、胸の奥の静かなところにある深い愛の泉から喜びを汲みとるのだが、この泉は求められれば、家庭の幸福の純粋な水を与えてくれるのである。
夜は戸外が真暗で陰鬱なので、炉の火があたたかく輝いている部屋にはいると、心はのびのびとふくらむのだ。赤い焔は人工の夏と太陽の光とを部屋じゅうに満ちわたらせ、どの顔も明るく歓待の色に輝く。人をもてなす誠実な顔が、やさしい微笑みにほころびるのは、冬の炉がいちばんである。はにかみながらそっと相手を見る恋の眼ざしが、いろいろなことを甘く物語るようになるのも、冬の炉ばたにまさるところはない。冬のからっ風が玄関を吹きぬけ、遠くのドアをばたばたさせ、窓のあたりにひゅうひゅう鳴り、煙突から吹きおりてくるとき、奥まった心地よい部屋で、一家の和楽するさまを、落ちついて安心した心持ちで見ることができるほどありがたいことはないだろう。
イギリスでは元来社会のどの階層にも田園の風習が強くしみわたっているので、ひとびとは昔からいつも、祝祭や休日で田園生活の単調さが途切れるのを喜んだ。そして、クリスマスの宗教上の儀式や社会の慣例を特によく守ったのである。以前クリスマスを祝ったときには、ひとびとは古風で滑稽なことをしたり、道化た行列をもよおしたりして、歓楽にわれを忘れ、おたがいに全く友だちになりあったのだが、そういうことについて古物研究家が書いている詳細は、無味乾燥なものでも、読んでたいへん面白いものだ。クリスマスにはどの家も戸を開放し、人はみな胸襟をひらいたようである。百姓も貴族もいっしょになり、あらゆる階級の人がひとつの、あたたかい寛大な、喜びと親切の流れにとけあう。城や荘園邸の大広間には、竪琴が鳴り、クリスマスの歌声がひびき、広い食卓にはもてなしのご馳走が山のように盛りあげられ、その重さに食卓は唸り声をたてるほどだった。ひどく貧乏な百姓家でも、緑色の月桂樹や柊を飾りたてて、祝日を迎えた。炉は陽気に燃えて、格子のあいだから光がちらちらし、通りがかりの人はだれでも招かれて、かけがねをあけ、炉のまわりに集って世間話をしている人の群に加わり、古くからの滑稽な話や、なんどもくりかえされたクリスマスの物語に興じて、冬の夜ながをすごしたのである。
現代の洗練された風習がもたらした最も快からぬことは、心のこもった昔ながらの休日のならわしをうちこわしてしまったことだ。この現代の進歩のために、このような生活の装飾物の鮮明な鑿のあとはなくなり、その活気のある浮彫は取り去られてしまった。世の中はむかしよりいっそう滑らかになり磨きあげられたが、その表面はあきらかにこれという特徴のないものになった。クリスマスの遊戯や儀式の多くは全く消滅してしまい、フォールスタフ老人のスペイン産白葡萄酒のように、いたずらに註釈者の研究や論争の材料になってしまった。これらの遊戯や儀式が栄えた時代は、元気と活力が汪溢していて、ひとびとの人生のたのしみ方は粗野だったが、心のそこから元気いっぱいにやったのだ。そのころは野性的な絵のように美しい時代で、詩には豊富な素材をあたえ、戯曲にはいくたの魅力的な人物や風俗を供したのだ。世間は以前よりいっそう世俗的になった。気晴らしは多くなったが、喜びは減った。快楽の流れの幅は広くなったが、深さは浅くなり、かつては落ちついた家庭生活の奥深いところに和やかに流れていたのに、そういう深い静かな水路はなくなってしまった。社会は開化し優雅になったが、きわだった地方的な特性も、家族的な感情も、純朴な炉辺の喜びも、大半は失った。心の大きい昔の人の伝統的な慣習や、封建時代の歓待ぶりや、王侯然とした饗宴は滅びさり、それが行われた貴族の城や豪壮な荘園邸もそれと運命をともにした。そのような饗宴は、ほの暗い広間や、大きな樫の木の廻廊や、綴織を飾った客間にはふさわしいが、現代の別荘の明るい見栄えのよい広間や、派手な客室には向いていないのである。
しかし、このように昔の祭礼の面目がなくなったとはいっても、イギリスではクリスマスは今もなお楽しく心がおどるときである。あらゆるイギリス人の胸のなかに、家庭的感情が湧きおこって、強い力をもつのは、見るからに嬉しいことである。親睦の食卓のための万端の準備がされて、友人や親戚がふたたび結びあわされる。ご馳走の贈物はさかんに往き来して、尊敬の意のしるしともなり、友情を深めるものともなる。常緑樹は家にも教会にも飾られて、平和と喜びの象徴となる。こういうことすべてのおかげで、睦まじい交わりが結ばれ、慈悲ぶかい同情心が燃えたたされるのである。夜更けに歌をうたって歩く人たちの声は、たとえ上手ではないとしても、冬の真夜中に湧きおこって、無上の調和をかもしだすのだ。「深い眠りがひとびとの上に落ちる」静かな厳粛な時刻に、わたしは彼らの歌声に起されて、心に喜びをひめて聞きいり、これは、ふたたび天使の歌声が地に降りてきて、平和と善意とを人類に告げしらせるのだとさえ思った。想像力は、このような道徳的な力に働きかけられると、じつに見ごとに、すべてのものを旋律と美とに変えるものだ。雄鶏の鬨の声が、深く寝しずまった村に、ときおり聞えて、「羽のはえた奥方たちに夜半をしらせる」のだが、ひとびとは聖なる祭日の近づいたことを告げているのだと思うのである。
救い主のお生まれを祝う頃ともなりますと、
日の出を告げるこの鶏は夜通し歌っているとやら。
いたずら妖精おとなしく、魔女は通力失って、
いと清らかで、祝福に満ちたときだと言いまする」
周囲のひとびとがみな幸福に呼びかけ、いそいそとして、おたがいに愛しあっているなかで、心を動かされないものがありえようか。クリスマスはまさに感情が若がえるときであり、親睦の火を部屋のなかで燃えたたせるだけでなく、親切な慈悲の火を心のなかにかきたてるときでもある。
若いころの愛の光景がふたたび新鮮になって、老年の不毛な荒野によみがえるのだ。そして、家を思う心は、家庭の喜びの芳香に満ちて、うなだれた気力に生命を吹きこむ。それはあたかも、アラビヤの沙漠に吹くそよ風が、遠くの野原の新鮮な空気を吹きおくって、疲れた巡礼のもとにもたらすのに似ている。
わたしは異国の人としてイギリスに滞在しており、友だちづきあいの炉がわたしのために燃えることもなく、歓待の扉も開かれず、また、友情のあたたかい握手が玄関でわたしを迎えてもくれない。だがそれでもわたしは、周囲のひとびとの愉しい顔から、クリスマスの感化力が輝きでて、わたしの心に光を注いでくれるような気がするのだ。たしかに幸福は反射しあうもので、あたかも天の光のようだ。どの顔も微笑に輝き、無垢な喜びに照り映えて、鏡のように、永久に輝く至高な仁愛の光をほかの人に反射する。仲間の人たちの幸福を考えようともせず、周囲が喜びにひたっているのに、孤独のなかに暗くじっと坐りこみ、愚痴をこぼしている卑劣な人も、あるいははげしく感激し、自己本位な満足を感じる瞬間があるかもしれない。しかし、こういう人は、愉しいクリスマスの魅力であるあのあたたかい同情のこもった、ひととの交わりはできないのである。
悪い夢や、ロビンという名の人のいいお化けから
しばらくのあいだ馬車は庭園の塀に沿ってゆき、ついに門のところで止まった。この門は、重々しい、壮大な、古風なもので、鉄の柵でできていて、その上のほうは面白い唐草や花の形になっていた。門を支えている大きな四角の柱の上には家の紋章がつけてあった。すぐそばに門番の小屋が、黒々とした樅の木かげにおおわれ、灌木のしげみにほとんど埋まっていた。
馭者が門番の大きな鐘を鳴らすと、その音は凍った静かな空気に鳴りひびき、遠くのほうで犬の吠える声がこれに答えた。邸は犬が守っているらしかった。年とった女がすぐに門口に出てきた。月の光が明るく彼女を照らしだしていたので、わたしは、小柄で純朴な女の姿をよく見ることができた。着ているものはたいへん古風な趣味で、きれいな頭巾と胸当てをつけており、銀色のかみの毛が、雪のように白い帽子の下にのぞいていた。彼女は若主人が帰ってきたのを見て、お辞儀をしながら、喜びを言葉にも素振りにもあらわして出てきた。彼女の夫は邸の召使部屋にいて、クリスマス・イーヴを祝っているらしかった。彼は家じゅうでいちばん歌が上手だし、物語をするのもうまかったので、なくてはならない人だったのだ。
友人の提案で、わたしたちは馬車を降り、庭園のなかを歩いて、さほど遠くない邸まで行き、馬車にはあとからついてこさせることにした。道は、すばらしい並木のあいだを曲りくねって行った。その並木の裸になった枝のあいだに、月が光りながら、一点の雲もない深い大空を動いていた。彼方の芝生には雪がかるく一面におおっていて、ところどころきらきら光るのは、月の光が凍った水晶を照らすからだ。そして遠くには、うすい、すきとおるような靄が低地から忍びやかに舞いあがり、次第にあたりを包みかくしてしまいそうな気配だった。
わたしの友は恍惚としてあたりを見まわした。「ほんとうに何度」と彼は言った。「わたしは学校の休暇で帰るとき、この並木路を駈けていったか知れません。子供のころ、この木の下でよく遊んだものです。わたしはこの木々を見ると、幼いころに自分をかわいがってくれた人に対するような尊敬の念さえおこってくるのです。父はいつでもわたしたちにやかましく言って、祭日はちゃんと祝わせ、家の祝いの日には、わたしたちをまわりに呼びあつめたものでした。父はわたしたちの遊戯を指図し監督もしましたが、その厳格さといったら、ほかの親たちが子供の勉強を見るときのようなものでした。たいへん几帳面で、わたしたちが昔のイギリスの遊戯をその本来の形式通りにやらなければならないと言って、古い書物を調べて、どのような『遊びごと』にも先例や典拠をもとめたものです。ですが、学者ぶるといっても、これほど愉快なものはありません。あの善良な老紳士の政策は、子供たちに、家が世界じゅうでもっとも楽しいところだと思わせるようにしたことです。そして、じっさい、わたしはこの快い家庭的な感情こそ親があたえうる贈り物のうちでいちばん立派なものだと思っているんです」
わたしたちの話は、犬の一隊の騒ぎ声でさえぎられた。いろいろな種類や大きさの犬がいた。「雑種、小犬、幼犬、猟犬、それから、つまらぬ駄犬」みな門番の鐘の音と、馬車のがたがた鳴る音におどろかされ、口を開けて、芝生を跳んできた。
トレイも、ブランチも、スウィートハートも、どうだ、みんなわしにほえかかって来るわい」
と、ブレースブリッジは大声で言って、笑った。彼の声をきくと、吠え声が変って、喜びの叫びになり、忽ちにして、彼は忠実な動物たちに取りまかれ、どうすることもできないほどだった。
わたしたちはもう古めかしい邸全体が見えるところに来ていた。邸は半ばは深い影につつまれていたが、半ばは冷たい月光に照らし出されていた。ずいぶんと宏壮な、まとまりのない建物で、さまざまな時代に建てられたらしかった。一棟はあきらかにきわめて古く、どっしりした石の柱のある張出し窓が突きだして、蔦が生いしげり、その葉かげから、小さな菱形の窓ガラスが月光にきらめいていた。邸のほかのところはチャールズ二世の時代のフランス好みの建て方で、友の言うところによれば、それを修理し模様変えをしたのは、彼の祖先で、王政復古のときに、チャールズ二世にしたがって帰国した人だそうだ。建物をとりまく庭園は昔の形式ばった様式にしたがって造園され、人工の花壇、刈りこんだ灌木林、一段高い段、壺を飾った大きな石の欄干があり、鉛製の像が一つ二つ建ち、噴水もあった。友の老父君は細心の注意をはらって、この古風な飾りをすべて原型のままに保とうとしているということだった。彼はこの造園法を賞でて、この庭には宏壮な趣があり、上品で高雅であり、旧家の家風に似つかわしいと考えていた。最近の庭園術で自然を得々として模倣する風潮は、現代の共和主義的な思想とともにおこってきたのだが、君主政体にはそぐわない、それには平等主義の臭味がある、というのだった。わたしは、このように政治を庭園術にみちびきいれるのを聞いて微笑まざるをえなかった。だが、わたしは、この老紳士があまりに頑迷に自分の信条を守りすぎるのではないかという懸念の意を表した。しかし、フランクが受けあって言うには、彼の父が政治をとやかく言うのを聞いたのはほとんどこの時だけで、この意見は、あるとき数週間ほど泊っていった国会議員から借りてきたものにちがいないということだった。主人公は、自分の刈りこんだ水松や、形式ばった高い壇を弁護してくれる議論はなんでも喜んで聞いた。しかし、ときどき現代の自然庭園家に攻撃されることもあるのだった。
召使たちはあまり遊戯に熱中していたので、わたしたちがなんど鐘を鳴らしても、なかなか気がつかなかった。やっとわたしたちの到着が伝えられると、主人がほかの二人の息子といっしょに、出迎えに出てきた。一人は賜暇で帰っていた若い陸軍将校で、もう一人はオクスフォード大学の学生で、ちょうど大学から帰ってきたばかりだった。主人は健康そうな立派な老紳士で、銀色のかみの毛はかるく縮れ、快活な赤ら顔をしていた。人相見が、わたしのように、前もって一つ二つ話を聞いていれば、風変りと情ぶかい心とが奇妙にまじりあっているのを見出したであろう。
家族の再会はあたたかで愛情がこもっていた。夜も大分遅くなっていたので、主人はわたしたちに旅の衣裳を着かえさせようとせず、ただちに案内して、大きな古風な広間にあつまっている人たちのところへ連れていった。一座の人たちは大家族の親類縁者で、例によって、年とった叔父や叔母たち、気楽に暮らしている奥さんたち、老衰した独身の女たち、若々しい従弟たち、羽の生えかけた少年たち、それから、寄宿舎住いの眼のぱっちりしたやんちゃ娘たちがいりまじっていた。彼らはさまざまなことをしていた。順番廻りのカルタ遊びをしているものもあり、煖炉のまわりで話をしているものもあった。広間の一隅には若い人たちがあつまっていたが、なかにはもうほとんど大人になりかかったものや、まだうら若い蕾のような年頃のものもいて、たのしい遊戯に夢中になっていた。また、木馬や、玩具のラッパや、壊れた人形が床の上にいっぱい散らかっているのは、かわいらしい子供たちが大ぜいいたあとらしく、楽しい一日を遊びすごして、今は寝床へおいやられて、平和な夜を眠っているのであろう。
老主人が先祖伝来の肱かけ椅子に腰かけ、代々客を歓待してきた炉ばたにいて、太陽が周囲の星を照らすように、まわりを見まわして、みんなの心にあたたかみと喜びとを注いでいるのを見るのは、ほんとうにたのしかった。犬さえも彼の足もとに寝そべって、大儀そうに姿勢をかえたり欠伸をしたりして、親しげに主人の顔を見あげ、尾を床の上で振りうごかし、また、からだをのばして眠りこんでしまい、親切に守ってくれることを信じきっていた。ほんとうの歓待には心の奥から輝き出るものがあり、それはなんとも言い表わすことができないが、そくざに感じとれるもので、初対面の人もたちまち安楽な気持ちになるのである。わたしも、この立派な老紳士の快い炉ばたに坐って数分たたないうちに、あたかも自分が家族の一員であるかのように寛いだ気分になった。
わたしたちが着いてしばらくすると、晩餐の用意のできたことがしらされた。晩餐は広い樫の木造りの部屋にしつらえられたが、この部屋の鏡板は蝋が引いてあってぴかぴか光り、周囲には家族の肖像画がいくつか柊と蔦で飾られていた。ふだん使うあかりのほかに、クリスマスの蝋燭と呼ばれる大きな蝋燭が二本、常緑木を巻きつけて、よく磨きあげた食器棚の上に、家に伝わった銀の食器といっしょに置いてあった。食卓には充実した料理が豊富にのべひろげられていた。だが、主人はフルーメンティを食べて夕食をすませた。これは麦の菓子を牛乳で煮て、ゆたかな香料を加えたものであり、むかしはクリスマス・イーヴの決まりの料理だった。わたしは、なつかしの肉パイがご馳走の行列のなかに見つかったので喜んだ。そして、それが全く正式に料理されていることがわかり、また、自分の好みを恥じる必要のないことがわかったので、わたしたちがいつも、たいへん上品な昔なじみに挨拶するときの、あのあたたかな気持ちをこめて、その肉パイに挨拶した。
晩餐のおかげで、みな陽気になった。竪琴ひきの老人が召使部屋から呼ばれてきた。彼は今までそこで一晩じゅうかきならしていて、あきらかに主人の自家製の酒を呑んでいたらしかった。聞くところによると、彼はこの邸の居候のようなもので、表むきは、村の住人だが、自分の家にいるときよりも、地主の邸の台所にいるほうが多かった。それというのも老紳士が「広間の竪琴」の音が好きだったからである。
これに反して、若いオクスフォードの学生は未婚の叔母を連れて出た。この悪戯学生は、叱られぬのをよいことにして、ちょっとしたわるさをさんざんやった。彼は悪戯気たっぷりで、叔母や従姉妹たちをいじめては喜んでいた。しかし、無鉄砲な若者の例にもれず、彼は婦人たちにはたいへん好かれたようだった。舞踊している人のなかで、いちばん興味をひいた組は、例の青年将校と、老主人の保護をうけている、美しい、はにかみやの十七歳の少女だった。ときどき彼らはちらりちらりと恥ずかしそうに眼をかわしているのをわたしはその宵のうちに見ていたので、二人のあいだには、やさしい心が育くまれつつあるのだと思った。それに、じっさい、この青年士官は、夢見る乙女心をとらえるにはまったくぴたりとあてはまった人物だった。彼は背が高く、すらりとして、美男子だった。そして、最近のイギリスの若い軍人によくあるように、彼はヨーロッパでいろいろなたしなみを身につけてきていた。フランス語やイタリア語を話せるし、風景画を描けるし、相当達者に歌も歌えるし、すばらしくダンスは上手だった。しかも、とりわけ、彼はウォータールーの戦で負傷しているのだ。十七歳の乙女で、詩や物語をよく読んでいるものだったら、どうして、このような武勇と完璧との鑑をしりぞけることができようか。
舞踊が終ると、彼はギターを手にとり、古い大理石の煖炉にもたれかかり、わたしにはどうも、わざとつくったと思われるような姿勢で、フランスの抒情詩人が歌った小曲をひきはじめた。ところが、主人は大声で、クリスマス・イーヴには昔のイギリスの歌以外は止めるように言った。そこで、この若い吟遊詩人はしばらく上を仰いで、思いだそうとするかのようだったが、やがて別の曲をかきならしはじめ、ほれぼれするようなやさしい様子で、ヘリックの「ジュリアに捧げる小夜曲」を歌った。
この歌は、あの美しいジュリアのために捧げられたのかもしれないし、あるいはそうでなかったかもしれない。彼のダンスの相手がそういう名だということがわかったのだ。しかし、彼女はそのような意味にはたしかに気がつかなかったらしい。彼女は歌い手のほうを見ず、床をじっと見つめていた。じじつ、彼女の顔は美しくほんのりと赤く染まっていたし、胸はしずかに波うっていた。しかし、それはあきらかにダンスをしたためのことだった。じっさい、彼女は全く無関心で、温室咲きのすばらしい花束をつまんではきれぎれにして面白がっていた。そして、歌がおわるころには、花束はめちゃめちゃになって床に散っていた。
一座の人たちはついにその夜は散会することになり、昔流の、心のこもった握手を交わした。わたしが広間をぬけて、自分の部屋に行くとき、クリスマスの大薪の消えかかった燃えさしが、なおもほの暗い光を放っていた。もしこの季節が「亡霊も畏れて迷い出ない」ときでなかったら、わたしは真夜中に部屋から忍び出て、妖精たちが炉のまわりで饗宴をもよおしているのではないかとのぞき見したい気になったかもしれない。
わたしの部屋は邸の古いほうの棟にあり、どっしりした家具は、巨人がこの世に住んでいた時代につくられたものかもしれないと思われた。部屋には鏡板が張ってあり、なげしにはぎっしりと彫刻がしてあり、花模様や、異様な顔が奇妙にとりまぜられていた。そして、黒ずんだ肖像画が陰気そうに壁からわたしを見おろしていた。寝台は色あせてはいたが、豪華な紋緞子で、高い天蓋がついており、張出し窓と反対側の壁のくぼみのなかにあった。わたしが寝台に入るか入らないうちに、音楽の調べが窓のすぐ下の大気から湧きおこったように思われた。わたしは耳をそばだて、楽隊が演奏しているのだとわかった。そして、その楽隊はどこか近くの村からやってきた夜の音楽隊であろうと思った。彼らは邸をぐるりと廻ってゆきながら、窓の下で演奏していた。わたしはカーテンをあけて、その音楽をもっとはっきり聞こうとした。月の光が窓の上の枠から流れこみ、古ぼけた部屋の一部を照らしだした。音楽はやがて去ってゆき、やわらかに夢のようになり、夜の静寂と月の光とに溶けあうような気がした。わたしは耳をそばだてて、聞き入った。音はいよいよやさしく遠くなり、次第に消え去ってゆくにつれ、わたしの頭は枕に沈み、そして、わたしは眠りこんでしまった。
ヘリックはその歌の一つにこの大薪のことを歌っている。
クリスマスの大薪は、今もイギリスの多くの農家や台所で燃すのだが、特に北部のほうが盛んである。百姓のあいだには、この大薪についていくつかの迷信がある。もしそれが燃えているあいだに、すがめの人か、あるいは、裸足の人がはいってきたら、不吉の前兆とされている。クリスマスの大薪の燃えさしは大切にしまっておいて、翌年のクリスマスの火をつけるのに使われる。
README.md exists but content is empty. Use the Edit dataset card button to edit it.
Downloads last month
0
Edit dataset card