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形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。
たとえば、「辛労なり」は、終止形・連体形とも「辛労な」となった。
もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。
したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。
「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。
今日の共通語も東国語の系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。
このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。
文語の終止形が化石的に残っている場合もある。
文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。
今日、「漢字が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。
この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「持つ」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。
これらの動詞は、やがて一段化して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった。
これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。
従来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と下二段動詞の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。
この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。
そこから類推した結果、「文字を読む」に対して「文字が読むる(読める)」などの可能動詞が出来上がったものと考えられる。
近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた。
「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。
この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。
受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。
もともと、日本語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった。
したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。
『枕草子』の「にくきもの」に
とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。
一方、「この橋は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったと見られる。
これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。
「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。
のような欧文風の受け身が用いられている。
漢字(中国語の語彙)が日本語の中に入り始めたのはかなり古く、文献の時代にさかのぼると考えられる。
今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが、上古漢字の場合、馬と梅の発音は違う。
異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた。
中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。
鎌倉時代最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数(文中の同一語を一度しかカウントしない)で全体の31%を占めるに至っている。
ただし、延べ語数(同一語を何度でもカウントする)では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める。
幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている。
漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。
「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。
古典中国語にない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという。
漢字は今もよく使っている。
雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている(「語種」参照)。
漢字を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。
このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共に日本に伝えられた。
「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。
また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる。
西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。
室町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペイトウ」「サラサ」「ジュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロード」などの語が取り入れられた。
「メリヤス」など一部スペイン語も用いられた。
江戸時代にも、「カッパ(合羽)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「エニシダ」などのスペイン語が用いられるようになった。
また、江戸時代には、蘭学などの興隆とともに、「アルコール」「エレキ」「ガラス」「コーヒー」「ソーダ」「ドンタク」などのオランダ語が伝えられた。
幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。
「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通使われない語で、当時一般に使われていたものもあった。
坪内逍遥『当世書生気質』(1885) には書生のせりふの中に「我輩の時計(ウオツチ)ではまだ十分(テンミニツ)位あるから、急いて行きよつたら、大丈夫ぢゃらう」「想ふに又貸とは遁辞(プレテキスト)で、七(セブン)〔=質屋〕へ典(ポウン)した歟(か)、売(セル)したに相違ない」などという英語が多く出てくる。
このような語のうち、日本語として定着した語も多い。
第二次世界大戦が激しくなるにつれて、外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが、戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。
現在では、報道・交通機関・通信技術の発達により、新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。
雑誌調査では、異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており、現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている(「語種」参照)。
漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。
漢語は活用しない語であり、本質的には体言(名詞)として取り入れられたが、「す」をつければサ変動詞(例、祈念す)、「なり」をつければ形容動詞(例、神妙なり)として用いることができた。
漢語により、厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。
一般に、和語は一語が広い意味で使われる。
たとえば、「とる」という動詞は、「資格をとる」「栄養をとる」「血液をとる」「新人をとる」「映画をとる」のように用いられる。
ところが、漢語を用いて、「取得する(取得す)」「摂取する」「採取する」「採用する」「撮影する」などと、さまざまなサ変動詞で区別して表現することができるようになった。
また、日本語の「きよい(きよし)」という形容詞は意味が広いが、漢語を用いて、「清潔だ(清潔なり)」「清浄だ」「清澄だ」「清冽だ」「清純だ」などの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。
外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。
「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。
漢語・外来語の増加によって、形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。
元来、和語には形容詞・形容動詞ともに少なかったが、数の上では、形容詞が形容表現の中心であり、形容動詞がそれを補う形であった。
『万葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、形容詞3.3%、形容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、形容詞5.3%、形容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ところが、漢語・外来語を語幹とした形容動詞が漸増したため、現代語では形容動詞が形容詞を上回るに至っている(「品詞ごとの語彙量」の節参照)。ただし、一方で漢語・外来語に由来する名詞・サ変動詞なども増えているため、語彙全体から見ればなお形容詞・形容動詞の割合は少ない。
形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており、近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。
一方、形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。
特に、「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や、「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。
しかも、新しい形容動詞の多くは漢語・外来語を語幹とするものである。
現代雑誌の調査によれば、形容動詞で語種のはっきりしているもののうち、和語は2割ほどであり、漢語は3割強、外来語は4割強という状況である。
元来、日本に文字と呼べるものはなく、言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いた(いわゆる神代文字は後世の偽作とされている)。漢字の記された遺物の例としては、1世紀のものとされる福岡市出土の「漢委奴国王印」などもあるが、本格的に使用されたのはより後年とみられる。
『古事記』によれば、応神天皇の時代に百済の学者王仁が「論語十巻、千字文一巻」を携えて来日したとある。
稲荷山古墳出土の鉄剣銘(5世紀)には、雄略天皇と目される人名を含む漢字が刻まれている。
「隅田八幡神社鏡銘」(6世紀)は純漢文で記されている。
このような史料から、大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。
6世紀〜7世紀になると儒教、仏教、道教などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった。
漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能(はつはるの)」のように日本語の1音1音を漢字の音(または訓)を借りて写すことがあった。
この表記方式を用いた資料の代表が『万葉集』(8世紀)であるため、この表記のことを「万葉仮名」という(すでに7世紀中頃の木簡に例が見られる)。
9世紀には万葉仮名の字体をより崩した「草仮名」が生まれ(『讃岐国戸籍帳』の「藤原有年申文」など)、さらに、草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。
これによって、初めて日本語を自由に記すことが可能になった。
平仮名を自在に操った王朝文学は、10世紀初頭の『古今和歌集』などに始まり、11世紀の『源氏物語』などの物語作品群で頂点を迎えた。
僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によって「て」「に」「を」「は」などの助詞その他を表すことがあった(ヲコト点)。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。
やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。
平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。
たとえば、/ha/(当時の発音は [ɸa])に当たる平仮名としては、「波」「者」「八」などを字源とするものがあった。
1900年(明治33年)に「小学校令施行規則」が出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。
これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。
変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。
平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。
その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。
たとえば、「はな(花)」の「は」と「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([ɸa]) であったとみられるが、平安時代に起こったハ行転呼により、「かは(川)」など語中語尾の「は」は「ワ」と発音するようになった。
ところが、「ワ」と読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」という発音を表記するとき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。
ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。
その時々の知識人は、仮名遣いについての規範を示すこともあったが(藤原定家『下官集』など)、必ずしも古い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。また、従う者も、歌人、国学者など、ある種のグループに限られていた。
万人に用いられる仮名遣い規範は、明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。
漢字の字数・字体および仮名遣いについては、近代以降、たびたび改定が議論され、また実施に移されてきた。
仮名遣いについては、早く小学校令施行規則(1900年)において、「にんぎやう(人形)」を「にんぎょー」とするなど、漢字音を発音通りにする、いわゆる「棒引き仮名遣い」が採用されたことがあった。