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1904幎から䜿甚の『尋垞小孊読本』(第1期)はこの棒匕き仮名遣いに埓った。
しかし、これは評刀が悪く、芏則の改正ずずもに、次期1910幎の教科曞から元の仮名遣いに戻った。
第二次䞖界倧戊埌の1946幎には、「圓甚挢字衚」「珟代かなづかい」が内閣告瀺された。
これに䌎い、䞀郚の挢字の字䜓に略字䜓が採甚され、それたでの歎史的仮名遣いによる孊校教育は廃止された。
1946幎および1950幎の米教育䜿節団報告曞では、囜字のロヌマ字化に぀いお勧告および瀺唆が行われ、囜語審議䌚でも議論されたが、実珟しなかった。
1948幎には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指瀺による読み曞き胜力調査が行われた。
挢字が日本人の識字率を抑えおいるずの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反しお日本人の識字率は高氎準であったこずが刀明した。
1981幎には、圓甚挢字衚・珟代かなづかいの制限色を薄めた「垞甚挢字衚」および改蚂「珟代仮名遣い」が内閣告瀺された。
たた、送り仮名に関しおは、数次にわたる議論を経お、1973幎に「送り仮名の付け方」が内閣告瀺され、今日に至っおいる。
戊埌の囜語政策は、必ずしも定芋に支えられおいたずはいえず、今に至るたで議論が続いおいる。
平安時代たでは、朝廷で甚いる公の曞き蚀葉は挢文であった。
これはベトナム・朝鮮半島などず同様である。
圓初挢文は䞭囜語音で読たれたずみられるが、日本語ず䞭囜語の音韻䜓系は盞違が倧きいため、この方法はやがお廃れ、日本語の文法・語圙を圓おはめお蚓読されるようになった。
いわば、挢文を日本語に盎蚳しながら読むものであった。
挢文蚓読の習慣に䌎い、挢文に日本語特有の「賜」(...たたふ)や「坐」(...たす)のような語句を混ぜたり、䞀郚を日本語の語順で蚘したりした「和化挢文」ずいうべきものが生じた(6䞖玀の法隆寺薬垫仏光背銘などに芋られる)。さらには「王等臣等乃䞭尓」(『続日本玀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」ずいった助詞などを小曞きにしお添える文䜓が珟れた。
この文䜓は祝詞(のりず)・宣呜(せんみょう)などに芋られるため、「宣呜曞き」ず呌ばれる。
挢文の読み添えには片仮名が甚いられるようになり、やがおこれが本文䞭に進出しお、挢文蚓読䜓を元にした「挢字片仮名亀じり文」を圢成した。
最叀の䟋は『東倧寺諷誊文皿』(9侖简)ずされる。
挢字片仮名亀じり文では、挢語が倚甚されるばかりでなく、蚀い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「䜕(なん)ゟ蚀ハザル」のように、挢文蚓読に甚いられるものが倚いこずが特城である。
䞀方、平安時代の宮廷文孊の文䜓(和文)は、基本的に和語を甚いるものであっお、挢語は少ない。
たた、挢文蚓読に䜿う蚀い回しもあたりない。
たずえば、挢文蚓読ふうの「甚ダ広クシテ」「䜕ゟ蚀ハザル」は、和文では「いず広う」「などかのたたはぬ」ずなる。
和文は、衚蚘法から芋れば、平仮名にずころどころ挢字の亀じる「平仮名挢字亀じり文」である。
やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりお......」で始たる『枕草子』の文䜓は兞型䟋の䞀぀である。
䞡者の文䜓は、やがお合わさり、『平家物語』に芋られるような和挢混淆文が完成した。
ここでは、「匷呉」「荊棘」ずいった挢語、「すでに」ずいった挢文蚓読の蚀い回しがある䞀方、「かくやずおがえお哀れなり」ずいった和文の語圙・蚀い回しも䜿われおいる。
今日、最も普通に甚いられる文章は、和語ず挢語を適床に亀えた䞀皮の和挢混淆文である。
「先日、友人ず同道しお郊倖を散策した」ずいうような挢語の倚い文章ず、「この間、友だちず連れだっお町はずれをぶらぶら歩いた」ずいうような和語の倚い文章ずを、適宜混ぜ合わせ、あるいは䜿い分けながら文章を綎っおいる。
話し蚀葉は、時代ず共にきわめお倧きな倉化を遂げるが、それに比べお、曞き蚀葉は倉化の床合いが少ない。
そのため、䜕癟幎ずいう間には、話し蚀葉ず曞き蚀葉の差が生たれる。
日本語の曞き蚀葉がひずたず成熟したのは平安時代䞭期であり、その頃は曞き蚀葉・話し蚀葉の差は倧きくなかったず考えられる。
しかしながら、䞭䞖のキリシタン資料のうち、語り口調で曞かれおいるものを芋るず、曞き蚀葉ず話し蚀葉ずにはすでに倧きな開きが生たれおいたこずが窺える。
江戞時代の排萜本・滑皜本の類では、䌚話郚分は圓時の話し蚀葉が匷く反映され、地の郚分の曞き蚀葉では叀来の文法に埓おうずした文䜓が甚いられおいる。
䞡者の違いは明らかである。
明治時代の曞き蚀葉は、䟝然ずしお叀兞文法に埓おうずしおいたが、単語には日垞語を甚いた文章も珟れた。
こうした曞き蚀葉は、䞀般に「普通文」ず称された。
普通文は、以䞋のように小孊校の読本でも甚いられた。
普通文は、厳密には、叀兞文法そのたたではなく、新しい蚀い方も倚く混じっおいた。
たずえば、「解釈せらる」ずいうべきずころを「解釈さる」、「就孊せしむる矩務」を「就孊せしむるの矩務」などず蚀うこずがあった。
そこで、文郚省は新しい語法のうち䞀郚慣甚の久しいものを認め、「文法䞊蚱容スベキ事項」(1905幎・明治38幎)16条を告瀺した。
䞀方、明治20幎代頃から、二葉亭四迷・山田矎劙ら文孊者を䞭心に、曞き蚀葉を話し蚀葉に近づけようずする努力が重ねられた(蚀文䞀臎運動)。二葉亭は「だ」䜓、矎劙は「です」䜓、尟厎玅葉は「である」䜓ずいわれる文章をそれぞれ詊みた。
このような詊みが広たる䞭で、新聞・雑誌の蚘事なども話し蚀葉に近い文䜓が倚くなっおいく。
叀来の䌝統的文法に埓った文章を文語文、話し蚀葉を反映した文章を口語文ずいう。
第二次䞖界倧戊埌は、法埋文などの公文曞ももっぱら口語文で曞かれるようになり、文語文は日垞生掻の堎から遠のいた。
日本語は、文献時代に入ったずきにはすでに方蚀差があった。
『䞇葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には圓時の東囜方蚀による歌が蚘録されおいる。
820幎頃成立の『東倧寺諷誊文皿』には「歀圓囜方蚀、毛人方蚀、飛隚方蚀、東囜方蚀」ずいう蚘述が芋え、これが囜内文献で甚いられた「方蚀」ずいう語の最叀䟋ずされる。
平安初期の䞭倮の人々の方蚀芳が窺える貎重な蚘録である。
平安時代から鎌倉時代にかけおは、䞭倮の文化的圱響力が圧倒的であったため、方蚀に関する蚘述は断片的なものにずどたったが、宀町時代、ずりわけ戊囜時代には䞭倮の支配力が匱たり地方の力が匷たった結果、地方文献に方蚀を反映したものがしばしば珟われるようになった。
掞門抄物ず呌ばれる東囜系の文献が有名であるが、叀文曞類にもしばしば方蚀が登堎するようになる。
安土桃山時代から江戞時代極初期にかけおは、ポルトガル人の宣教垫が数倚くのキリシタン資料を残しおいるが、その䞭に各地の方蚀を蚘録したものがある。
京郜のこずばを䞭心に据えながらも九州方蚀を倚数採録した『日葡蟞曞』(1603幎〜1604幎)や、筑前や備前など各地の方蚀の蚀語的特城を蚘した『ロドリゲス日本倧文兞』(1604幎〜1608幎)はその代衚である。
この時期には琉球方蚀(琉球語)の資料も登堎する。
最叀期に属するものずしおは、䞭囜資料の『琉球通蚳語』(16䞖玀前半成立)があり、琉球の蚀葉を音蚳衚蚘によっお倚数蚘録しおいる。
たた、1609幎の島接䟵攻事件で琉球王囜を支配䞋に眮いた薩摩藩も、蚘録類に琉球の蚀葉を断片的に蚘録しおいるが、語史の資料ずしお芋た堎合、琉球諞島に䌝わる叀代歌謡・りムむを集めた『おもろさうし』(1531幎〜1623幎)が、質・量ずもに他を圧倒しおいる。
奈良時代以来、江戞幕府が成立するたで、近畿方蚀が䞭倮語の地䜍にあった。
朝廷から埳川家ぞ埁倷倧将軍の宣䞋がなされお以降、江戞文化が開花するずずもに、江戞語の地䜍が高たり、明治時代には東京語が日本語の暙準語ず芋なされるようになった。
明治政府の成立埌は、政治的・瀟䌚的に党囜的な統䞀を図るため、たた、近代囜家ずしお倖囜に察するため、蚀葉の統䞀・暙準化が求められるようになった。
孊校教育では「東京の䞭流瀟䌚」の蚀葉が採甚され、攟送でも同様の蚀葉が「共通甚語」(共通語)ずされた。
こうしお暙準語の芏範意識が確立しおいくに぀れ、方蚀を矯正しようずする動きが広がった。
教育家の䌊沢修二は、教員向けに曞物を著しお東北方蚀の矯正法を説いた。
地方の孊校では方蚀を話した者に銖から「方蚀札」を䞋げさせるなどの眰則も行われた。
軍隊では呜什䌝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の䜿甚が指導された。
䞀方、戊埌になるず各地の方蚀が倱われ぀぀あるこずが危惧されるようになった。
NHK攟送文化研究所は、(昭和20幎代の時点で)各地の玔粋な方蚀は80歳以䞊の老人の間でのみ䜿われおいるにすぎないずしお、1953幎から5幎蚈画で党囜の方蚀の録音を行った。
この録音調査には、柳田邊倫、東条操、岩淵悊倪郎、金田䞀春圊など蚀語孊者らが指導にあたった。
ただし、戊埌しばらくは共通語の取埗に力点を眮いた囜語教育が初等教育の珟堎で続き、昭和22幎(1947幎)の孊習指導芁領囜語科線(詊案)では、「なるべく、方蚀や、なたり、舌のも぀れをなおしお、暙準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいこずばを぀かい、俗語たたは方蚀をさけるようにする」ずの蚘茉が芋られる。
たた、昭和33幎(1958幎)の小孊校孊習指導芁領でも、「小孊校の第六孊幎を終了するたでに, どのような地域においおも, 党囜に通甚するこずばで, 䞀応聞いたり話したりするこずができるようにする」ずの蚘述がある。
たた、経枈成長ずずもに地方から郜垂ぞの人口流入が始たるず、暙準語ず方蚀の軋蜢が顕圚化した。
1950幎代埌半から、地方出身者が自分の蚀葉を笑われたこずによる自殺・事件が盞次いだ。
このような情勢を受けお、方蚀の矯正教育もなお続けられた。
鎌倉垂立腰越小孊校では、1960幎代に、「ネサペ運動」ず称しお、語尟に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方蚀特有の語尟を぀けないようにしようずする運動が始められた。
同趣の運動は党囜に広がった。
高床成長埌になるず、方蚀に察する意識に倉化が芋られるようになった。
1980幎代初めのアンケヌト調査では、「方蚀を残しおおきたい」ず回答する者が90%以䞊に達する結果が出おいる。
方蚀の共通語化が進むずずもに、いわゆる「方蚀コンプレックス」が解消に向かい、方蚀を倧切にしようずいう気運が盛り䞊がった。
1990幎代以降は、若者が蚀葉遊びの感芚で方蚀を䜿うこずに泚目が集たるようになった。
1995幎にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方蚀替え歌が話題を呌び、報道蚘事にも取り䞊げられた。
銖郜圏出身の郜内倧孊生を察象ずした調査では、東京の若者の間にも関西方蚀が浞透しおいるこずが芳察されるずいう。
2005幎頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(ずおも)かわいいヌ!」「いくべ」などず各地の方蚀を䌚話に織り亀ぜお䜿うこずが流行し始め、女子高生のための方蚀参考曞の類も珟れた。
「超おもしろい」など「超」の新甚法も、もずもず静岡県で発生しお東京に入ったずされるが、若者蚀葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっおいる(「方蚀由来の若者蚀葉」を参照)。
方蚀孊の䞖界では、か぀おは、暙準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方蚀研究は、必ずしもそのような芖点のみによっお行われおはいない。
䞭倮語の叀圢が方蚀に残るこずは倚く、方蚀研究が䞭倮語の史的研究に資するこずはいうたでもない。
しかし、それにずどたらず、個々の方蚀の研究は、それ自䜓、独立した孊問ず捉えるこずができる。
山浊玄嗣の「ケセン語」研究に芋られるように、研究者が自らの方蚀に誇りを持ち、日本語ずは別個の蚀語ずしお研究するずいう立堎も生たれおいる。
日本人自身が日本語に関心を寄せおきた歎史は長く、『叀事蚘』『䞇葉集』の蚘述にも語源・甚字法・助字などに぀いおの関心が垣間芋られる。
叀来、さたざたな分野の人々によっお日本語研究が行われおきたが、ずりわけ、江戞時代に入っおからは、秘䌝にこだわらない自由な孊颚が起こり、客芳的・実蚌的な研究が深められた。
近代に西掋の蚀語孊が茞入される以前に、日本語の基本的な性質はほが明らかになっおいたずいっおも過蚀ではない。
以䞋では、江戞時代以前・以埌に分けお抂説し、さらに近代に぀いお付説する。
江戞時代以前の日本語研究の流れは、倧きく分けお3分野あった。
䞭囜語(挢語)孊者による研究、悉曇(しったん)孊者による研究、歌孊者による研究である。
䞭囜語ずの接觊、すなわち挢字の音節構造に぀いお孊習するこずにより、日本語の盞察的な特城が意識されるようになった。
『叀事蚘』には「淀胜碁呂嶋自淀以䞋四字以音」(オノゎロ嶋〈淀より以䞋の四字は音を以ゐよ〉)のような音泚がしばしば付けられおいるが、これは挢字を借字ずしお甚い、䞭囜語で衚せない日本語の固有語を1音節ず぀挢字で衚蚘したものである。
こうした衚蚘法を通じお、日本語の音節構造が自芚されるようになったず考えられる。
たた挢文の蚓読により、䞭囜語にない助詞・助動詞の芁玠が意識されるようになり、挢文を読み䞋す際に必芁な「お」「に」「を」「は」などの芁玠は、圓初は点を挢字に添えるこずで衚珟しおいたのが(ヲコト点)、埌に借字、さらに片仮名が甚いられるようになった。
これらの芁玠は「おにをは」の名で䞀括され、埌に䞀぀の研究分野ずなった。
日本語の1音1音を借字で蚘すようになった圓初は、音韻組織党䜓に察する意識はただ匱かったが、埌にあらゆる仮名を1回ず぀集めお誊文にしたものが成立しおいる。
平安時代初期に「倩地の詞」が、平安時代䞭期には「いろは歌」が珟れた。
これらはほんらい挢字音のアクセント習埗のために䜿われたずみられるが、のちにいろは歌は文脈があっお内容を芚えやすいこずから、『色葉字類抄』(12侖简)など物の順番を瀺す「いろは順」ずしお甚いられ、たた仮名の手本ずしおも人々の間に䞀般化しおいる。
䞀方、悉曇孊の研究により、梵語(サンスクリット)に敎然ずした音韻組織が存圚するこずが知られるようになった。