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カリビアンカップ2007
カリビアンカップ2007は、カリブ海諸国によって開催されるカリビアンカップの2007年大会。トリニダード・トバゴで本大会は開催される。また、2007 CONCACAFゴールドカップの予選も兼ね、上位4ヶ国が出場権を獲得する。ガイアナのナイジェル・コーディントンが得点王を獲得した。 1次予選. グループ C. ※棄権 2次予選. グループJ. 2007年1月7日 2007年1月9日 ※が、本大会出場 本大会. グループA. 2007年1月12日 2007年1月15日 2007年1月17日 グループB. 2007年1月14日 2007年1月16日 2007年1月18日 準決勝. 2007年1月20日 3位決定戦. 2007年1月23日 決勝. 2007年1月23日
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千葉県道20号千葉大網線
千葉県道20号千葉大網線(ちばけんどう20ごう ちばおおあみせん)は千葉県千葉市中央区神明町の国道357号との交点を起点とし、千葉市緑区や市原市を経て、大網白里市仏島の国道128号、千葉県道83号山田台大網白里線との交点を終点とする県道(主要地方道)である。千葉県道路愛称名による愛称は「大網街道」。
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日本軽金属ホールディングス
日本軽金属ホールディングス株式会社(にっぽんけいきんぞくホールディングス、)は、アルミニウムの一貫生産メーカー日本軽金属などを傘下に持つ持株会社である。日経平均株価(日経225)構成銘柄の一つであるが、2023年4月3日の株式取引分から構成銘柄から除外される予定。 概要. 2012年に日本軽金属が単独株式移転により設立した持株会社。同時にグループ再編を行い、直接の子会社は日本軽金属、押出関連事業を統括する中間持株会社の日軽金加工開発ホールディングス、箔・粉末製品事業を営む東洋アルミニウム、トレーラ(被けん引車)・自動車車体等の製造業を営む日本フルハーフの4社となっている。 諸問題. 死の川. 富士川はかつてはアユ釣りが盛んで、2010年ぐらいまでは熊本県の球磨川とともに「尺アユ」(30cmを超える大型のアユ)が釣れる河川として全国に知られた。なかでも「富士川鮎釣り大会」は、富士川町制90周年記念として1991年に第一回が開催されて以来、山梨県の観光資源のひとつであった。しかし2010年代以降はアユの生息がほぼ確認されていない。 静岡新聞の報道では、少なくとも2011年以降、山梨県の元治水課長が社長(当時)を務める採石業者(子会社の日本軽金属が一部出資)が、雨畑川(山梨県早川町)にアクリルアミドポリマーを含む汚泥を不法投棄したことにより、富士川水系の中下流域が汚染され、生物が生息できない「死の川」となっている。 駿河湾におけるサクラエビ漁業も、1999年には2451トンの水揚げがあったものが、2020年には25.8トンと近年は著しく減少しているが、日本軽金属雨畑ダムの濁った水が早川、富士川を経て駿河湾に注ぎ込んでいるためだと、2020年に静岡県知事川勝平太は主張している。 雨畑ダムは日軽金が管理する発電専用のダムで、ダム湖の水は日本軽金属のアルミ製錬のために利用され、普段は富士川に放出されずに日軽金の敷設した専用のパイプラインを通って、日本軽金属蒲原製造所(静岡市清水区)の放水路から放出されるが、2016年時点での堆砂率93%と全く治水機能を持たないため、雨が降るたびに近隣への浸水を防ぐために発電を停止し、洪水吐ゲートからヘドロを含んだ大量の土砂を富士川に吐き出していた。 採石業者は「増水すれば流れる」と承知のうえで汚泥を敷地に投棄、またコンクリート業者も、採石業者の許可を得てコンクリートくずを採石業者の敷地に投棄し、ほとんどが雨畑川に流出した。雨畑ダムの堆砂率の多さから、2019年8月の台風10号によって、ダム周囲の集落が浸水するなど大きな被害を受けたため、水害対策の為に角瀬発電所への水の引き込みは2019年8月より停止しており、現在は雨畑ダムの濁った水が富士川水系にそのまま流れている。 駿河湾サクラエビの不漁問題を抱える静岡県では非常に問題視されており、山梨県の採石業者の不法投棄問題も、由比港漁協(サクラエビが水揚金額の約9割を占める)の訴えを受けた静岡・山梨両県の合同調査によって2019年に判明した。この問題は、静岡新聞で積極的に報道されており、駿河湾のサクラエビ問題に始まってヘドロ不法投棄問題から戦後の日本軽金属の水利権問題にまで切り込んだ静岡新聞の特集「サクラエビ異変」が2021年に「水産ジャーナリスト賞」を受賞している。 静岡新聞は「駿河湾の宝石」と呼ばれるサクラエビの不漁の元凶として、雨畑ダムと日本軽金属を2019年より激しく非難しており、2020年1月1日には日本軽金属が雨畑ダムを含む富士川水系の4つの発電所を「アルミ製錬のために利用する」という建前で、実際は売電に転用していた「水利権の目的外使用」であったことを報道。2020年2月には地元政治家(山梨県第1区)の中島克仁衆議院議員を動かして日本国政府の答弁書を引き出し、2020年11月には山梨県が国土交通省からの意見聴取を受ける事態となり、2021年2月より、日本軽金属の水利権問題が国会で議論されるまでに至った。静岡新聞は山梨県の自治体による「水返せ運動」を引き起こすべく、山梨県や地元自治体に対する情報公開請求やアンケートなどの数々のアクションを起こしている。 山梨県としては特に問題視もされておらず、サクラエビの不漁問題の原因も「不法投棄の泥かは分からない」と考えており、したがって検出試験などの調査も行われていない。2019年に行われた山梨県・静岡県の合同による富士川の浮遊物質量の調査の結果では、山梨県側としては「調査前にまとまった降雨の見られたときを除き、目立った濁りは見られなかった」という認識であり、「富士川は、水の汚れが少ない、清らかな川」と結論付けられた。 一方で、静岡県としては「環境基準の4倍を超えた観測地点があった調査日が、早川中下流で5日、雨畑川上流・雨畑ダム貯水池では8日あった」という認識であり、その濁りの原因を公式発表に記載しようとして山梨県側と対立、公式発表まで半年もめた末、山梨県大気水質保全課の公式発表とは別に、静岡県水産業局が「雨畑川上流からの土砂流入が原因の可能性が高い」と静岡県庁で「独自の補足」を行う異例の事態となった。山梨県の採石業者の不法投棄問題は、当初は山梨県によって刑事告発も検討されていたが、2019年6月に「撤去完了」し、また下流域の水質にも異常は見られなかった(山梨県環境整備課の認識)ため、告発はなされなかった。 これらの富士川流域(山梨県内)の問題への対処は、静岡県と山梨県で温度差があるのも問題で、静岡新聞では2019年元旦より連日報道されているが、山梨県内ではあまり報道されておらず、山梨県環境整備課も「富士川にアユがいない」ということを2020年12月に静岡新聞の報道で知ったとのこと。また、2020年現在の山梨県知事の長崎幸太郎は、雨畑ダムのヘドロ問題はあくまで浸水対策の観点から問題視しているだけで、さらに「山梨県は海がないので、われわれが関心を持っているのは河川だ」と、駿河湾のサクラエビ問題には山梨県は静岡県側と協力してヘドロ問題に対処する行動をみせながら、現実には両県で対立している。 雨畑ダムは、2019年の台風19号で県道や「雨畑の吊橋」が崩落し、地区の孤立を招いたために長崎知事がダムを視察して日軽金を厳しく批判したが、日軽金自身も雨畑ダムの問題で2020年3月期に特別損失110億円を計上するなど手を焼いており、国から行政指導を受けたために誰かが対処せざるを得ない雨畑ダム問題は、 富士川から鮎がいなくなっても、富士川漁協(山梨県身延町)からは特に問題視されていないが、その背景として、日本軽金属から富士川漁協に年間1,500万円という、多額の漁業補償金が流れていることを静岡新聞が2019年6月に報道した。 雨畑ダムにおける水害の惹起. 富士川水系の雨畑川に子会社の日本軽金属が建設した雨畑ダムの堆砂率が90%を超えており、川岸の集落にたびたび浸水等の水害を惹き起こしている。集落に壁を設置するなどしているが、抜本的な解決には至っていない。 日本軽金属名古屋工場におけるアルミ板製品の不正検査. 2021年5月17日、子会社の日本軽金属が名古屋工場で生産するアルミ板製品の検査において1996年ごろから不正が行っていたことが判明。同年5月14日付で名古屋工場のJIS認証取り消しが行われた。 外部リンク.
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はぴねす!瑞穂坂学園校内放送
はぴねす!瑞穂坂学園校内放送(はぴねす みずほざかがくえんこうないほうそう)は、ゲーム『はぴねす!』のキャラクターソングCDに収録されたラジオ番組、および2006年9月15日から2007年3月9日まで音泉、またメディファクラジオより隔週で配信されたインターネットラジオ番組、全13回。 パーソナリティーは榊原ゆい(神坂 春姫役)と成瀬未亜(柊 杏璃役)。 2007年4月6日から、引き続き榊原と成瀬をパーソナリティとして、『ういんどみるPresents はぴねす!情報局』としてリニューアルされることになった。 コーナー. カッコ内はコーナー担当者。榊原と成瀬が担当する場合と、春姫(声:榊原)と杏璃(声:成瀬)が担当する場合がある。 第4回では、雄真(声:大原)が参加。
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崖っぷちホテル!
『崖っぷちホテル!』(がけっぷちホテル)は、日本テレビ系「日曜ドラマ」枠にて2018年4月15日から6月17日まで、毎週日曜22時30分 - 23時25分に放送されたテレビドラマである。主演は岩田剛典。再建をめざす(元)高級ホテルの従業員を描くシチュエーション・コメディ作品。 あらすじ. 宇海直哉がホテル グランデ インヴルサを訪れる。かつては高級ホテルとして名が知れていたホテル グランデ インヴルサであるが、今では仕事に自信のない女性総支配人桜井佐那の下、やる気のないスタッフだらけで破産寸前の状況に陥っている。桜井は、有能なホテルマンである宇海にホテル再建への協力を求める。副支配人となった宇海は様々なアイデアで従業員のやる気を引き出していく。 キャスト. ホテル グランデ インヴルサ(HOTEL GRANDE INVERSAO). 本作品の舞台となる日本のどこかにある老舗高級ホテル。ポルトガル語で「大逆転」の意味を持つ名の高級ホテル。 ゲスト. ※ 複数話登場する人物には演者名横に登場話を追記。 スピンオフ. 2018年6月17日の最終話放送終了後に、ドラマの後日譚を描くオリジナルストーリー『崖っぷちホテル! 〜本日のお客様は、宇海直哉様〜』が、Huluにて配信開始。全2話。
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長泉塚古墳
長泉塚古墳(ちょうせんづかこふん)は、愛知県丹羽郡扶桑町高雄にある古墳。形状は円墳。県の史跡に指定されている。古墳時代後期の築造と推定される。 概要. 犬山扇状地の低台地につくられた古墳時代後期の円墳で、東西約21m、南北約24m、高さ約4mであり、周溝がめぐらされている。内部構造、副葬品については明らかでない。普通見られる円墳であるが、東部に周濠の跡があり、また墳丘に2~3mの段をめぐらせているのは珍しい例として、1964年(昭和39年)3月23日、愛知県文化財(史跡)に指定された。現状の墳丘は樹木に覆われているが、2 - 3mの段があり、全体の形は円墳を2段重ねたような上円下円墳で、珍しい形状である。また、この地方では珍しく墳丘の周囲には濠がめぐらされた形跡がある。 従来南新田地区の所有であったが、愛知県の文化財指定を機会に託美神社の所有となった。その後、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風などで破損がひどくなり、愛知県及び扶桑町の補助で、1975年(昭和50年)、補修工事を行い、破損箇所の土盛り、倒木の整理などを行い、社を下へ移し原形に復元した。更に、1980年(昭和55年)、外周フェンスの修理、1985年(昭和60年)には由緒碑を設置するなどして史跡としての環境を整えた。 歴史. 当地方の土豪を葬った古墳であると伝えられているが、その詳細について位は全く不明。寛文年間には長泉院九郎エ門という人物が在住し、人々は古墳の祟りを恐れて近づかなかったため、比較的によくその原形を保っているかに見える。また、キリシタン屋敷があったとする伝聞もあるが、その由緒については、語り伝えもなく、知る由もないが、豪族の墳丘で、その主は古代豪族の一族のものであると考えられている。 伝承. 長泉塚古墳を中心に約8反5畝の畑地は、長泉院と称するキリスト教教会堂の遺跡で、布教者イルマン及び教徒の斬込地という。伝承によると、昔この地に小堂があって、イルマン主徒が住んでおり、日夜聖書を誦し、護摩を焚きその灰を散布したので、この一帯は農作物の出来が悪く、この地に居住する家はいつも凶事が絶えなかったという。 構造. 周囲にはこの地方では珍しく堀がめぐらされていた形跡があり、塚は原生林に覆われていて、頂上部から下方に細って見える。雨による土の流失であろうか、人の登壇によって細ったものであろうか、壇の頂上から下方にかけて、ゆるやかな円形を成していない。全体の形はあたかも円墳を二段に重ねたような、二重かさねの姿で、二段式古墳であると説明されていて、古墳の型としては特異なもので珍しい存在である。
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PAEアポロン・ポントゥ
PAEアポロン・ポントゥ(Apollon Pontou Football Club ())は、ギリシャのテッサロニキ県テッサロニキのをホームタウンとするサッカークラブである。 歴史. カラマリアに定住したポントス人難民の間で音楽を広めるためにクラブを創設する動きが起こり、1926年1月24日にアポロン・カラマリアス (Απόλλων Καλαμαριάς) として創設された。当時、メンバーがマンドリンとギターで演奏していたため、クラブの紋章にはギリシア神話に登場する音楽の神「アポローン」が採用された。クラブカラーには命を落とした数千人の難民の血を表す赤色と喪を表す黒色が選ばれた。 当初はマンドリン、男女合唱団、サッカー、バレーボール、陸上競技部門が存在した。 1957-58シーズンにマケドニアサッカー協会 (EPSM) のファーストディビジョンで、強豪チームのPAOK、アリス、イラクリスを抑えてテッサロニキ県の優勝チームとなった。1959年に16チームで構成されたアルファ・エスニキが創立され、オリジナルメンバーの一員として参加した。 2011年にPAEアポロン1926 (ΠΑΕ Απόλλων 1926) に改称された。2017年にプロリーグに復帰した時に、ポントス人の祖先に敬意を表して、PAEアポロン・ポントゥ (ΠΑΕ Απόλλων Πόντου) に改称された。 2018-19シーズンにフットボールリーグで7位の成績を残して、2019-20シーズンのリーグシステムの変更に伴って新創立されたスーパーリーグ2の参加資格を獲得した。
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えんどコイチ
えんど コイチ(本名 遠藤 幸一、1956年9月28日 - )は、日本の漫画家。新潟県白根市(現在は新潟市南区)出身。血液型O型。 来歴. 1981年、週刊少年チャンピオン(秋田書店)掲載の『遠足の日』でデビュー。 1981年、週刊少年チャンピオンで『アノアノとんがらし』を連載後、集英社へ移籍。1983年末からフレッシュジャンプで『死神くん』を連載。 1984年からは週刊少年ジャンプでも『ついでにとんちんかん』を連載、アニメ化もされるなど、ヒット作となる。その後は少年漫画誌や青年漫画誌を中心に作品を発表している。 人物. 『ついでにとんちんかん』のヒットで、一般的にはギャグ漫画家だと認識されているが、えんど自身は「ギャグも描ける作家である」と認識して欲しかったらしく、続編の『ミラクルとんちんかん』連載終了後、ギャグメインの作品をほとんど発表していない時期があった。 文庫版『ついでにとんちんかん』によると、現在(文庫版発刊時)も独身とのこと。 虻川美穂子(北陽)のブログ(2011年6月1日分)によると、えんどコイチと会い、とんちんかんメンバー4人が描かれたサイン色紙を貰ったとのこと。また、その後も虻川のブログにてえんどコイチと会った事が書かれているなど、交流が続いていることが窺える。また、地元のジャズバンドで、ベーシストとして活動している。 作品リスト. 代表作. 追出仁(ついでに)町を舞台に「怪盗とんちんかん」が大富豪の邸宅にあるゴミに等しいものをわざわざ予告状まで出して盗み出すドタバタなギャグストーリーから始まり、「とんちんかん2」や「ミラクルとんちんかん」など、ギャグ漫画として「とんちんかん」がシリーズ化していった。
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橋内優也
橋内 優也(はしうち ゆうや、1987年7月13日 - )は、滋賀県栗東市出身のプロサッカー選手。ポジションはディフェンダー。Jリーグ・松本山雅FC所属。東海大学付属第五高等学校卒業。 元サッカー選手の橋内竜真は実弟。 来歴. 中学時代までは地元滋賀県でサッカーをしていたが、高校は福岡県の東海大学付属第五高等学校に越境入学。同期に藤田直之、実弟の竜真も同校出身。高校時代から持ち前の身体能力を活かしてDFだけでなくFWとしても活躍。2年時の2004年にサンフレッチェ広島ユースと対戦、同チームで最も才能を評価されていた前田俊介をマンマークしたプレーぶりが評価され、広島に入団するきっかけとなった。 2006年、サンフレッチェ広島に入団、同期は柏木陽介・槙野智章・趙佑鎮。同シーズン4月から暫定で監督を務めた望月一頼は、橋内をプレス要員としてFWで起用。同年5月3日J1対大宮アルディージャ戦にてFWとして出場、広島のシーズン初勝利に貢献した。 監督がミハイロ・ペトロヴィッチに交代した以降は右CBあるいは右アウトサイドとしてプレーしたが、怪我がちで出場機会に恵まれなかった。2008年末、移籍を前提に他チームに練習参加していたがまとまらなかった。翌2009年、引き続き広島に在籍、同年6月3日に若手主体となったナビスコ杯対大分トリニータ戦にてプロ初得点を決める。 2009年9月より、JFL・ガイナーレ鳥取へ期限付き移籍。センターバックとしてすぐにレギュラーを掴み、DFながら10試合で4得点を挙げる活躍を見せたものの、チームのJ2昇格には貢献できなかった。 2010年より、徳島ヴォルティスへ期限付き移籍。2011年より、同チームへ完全移籍。 2017年、松本山雅FCへ完全移籍。 人物. 50m走は5秒台、垂直跳びで75cm以上飛べる、高い身体能力を持ち合わせた選手。基本ポジションはセンターバックや右サイドバックだが、FWとしても起用された事がある。 若手のリーダー役として、Jサテライトリーグでキャプテンを務めた。 顔が実年齢よりもかなり老けて見えるため、18歳でサンフレッチェ広島に入団した当初から「おっさん」の愛称で呼ばれている。本人も悪い気はしていない が、松本山雅FC移籍後の新体制発表会では「奥さんが悲しむので『ハシ』と呼んでください。」「おっさん以外なら何でもいいです。お父さんなら大丈夫です。」と答えている。 個人成績. 52||2||4||1||0||0||56||3 224||8||1||0||4||0||229||8 13||0||colspan=2|-||2||0||15||0 10||4||colspan="2"|-||0||0||10||4 299||14||5||1||6||0||310||15 その他公式戦
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本間京子
本間 京子(ほんま きょうこ、1979年7月26日 - )は、山形県出身の元バスケットボール選手・指導者である。ニックネームは「ビク」。ポジションはガードフォワード。 来歴. 天童三中ではテニス部に所属し県大会ベスト4。テニス部引退後は走り幅跳びの選手も兼任。限られた練習環境のもと身体能力のみで走り幅跳びの当時の山形県新記録を樹立した逸話がある。そしてバスケ未経験ながら山形学院高等高等学校からバスケ推薦で入学。山形学院高校から、北原憲彦が指揮を執る第一勧銀に入社。 第一勧銀が廃部になると、アシスタントコーチを務めていた青木拓郎がヘッドコーチ就任した広島銀行に移籍。 だが、2003年に広銀も廃部となったため、青木のアシスタントコーチ就任を受けジャパンエナジーに移籍。1シーズン目でオールジャパン・Wリーグ2冠に貢献。2005-06シーズンは1先発出場を含む13試合に出場するが、プレーオフに進めず、2006-07シーズンは出場機会が減少、プレーオフには進んだものの出場なし。 2007年、青木が指揮を執る日立ハイテクに移籍。一転して出場全試合先発出場を果たすが、WI降格。WIでは先発ゼロもチームを支え、Wリーグ復帰を置き土産に2010年引退。 2012年、共栄大学女子バスケットボール部コーチに就任。
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おちこぼれフルーツタルト
『おちこぼれフルーツタルト』()は、浜弓場双による日本の4コマ漫画。『まんがタイムきららキャラット』(芳文社)にて、2015年1月号から3月号までのゲスト掲載を経て、同年の7月号から連載を開始した。公式での略称は「おちフル」。東京都小金井市を舞台に、芸能界で落ちこぼれのヒロインたちが自分たちの家である寮の取り壊し危機を救うためにアイドルユニットを結成して活動する物語。 また、テレビアニメ『あんハピ♪』の放送枠において、まんがタイムきらら史上で初めて単行本が発売される前に単独のCMが組まれた。 あらすじ. ラットプロダクションの第4寮(通称「ネズミ荘」)には売れない芸能人の女の子たち、元子役の関野ロコ、ミュージシャンの貫井はゆ、モデルの前原仁菜が集まり、共同生活を送っていた。そんな場所にアイドルになることを夢見て上京した少女・桜衣乃がやってくる。ところが彼女がやってくるのと時を同じくして、売れない彼女たちを抱え込むのを善しとせず寮が取り壊されることが決定してしまう。そこでネズミ荘の住人たちは寮の取り壊しを防ぐべく、マネージャーの梶野穂歩が起死回生の策として立ち上げたリアリティ番組企画「おちこぼれフルーツタルト」に参加することとなり、アイドルユニット「フルーツタルト」を結成して1億円の借金を返済することを目指して活動を始める。 登場人物. 登場人物の姓はそれぞれ小金井市近辺の町名から取られている。名は「いろは歌」に由来し、それぞれの頭文字を繋げると「いろはにほへとちりぬるおわか」(イノ・ロコ・はゆ・ニナ・ホホ・へも・トネ・チコ・リリ・ぬあ・るあ・おと・わか・カヤ)となる。 声の項はテレビアニメ版で役を演じた声優。 フルーツタルト. ラットプロダクション所属のアイドルユニット。メンバー別にイメージカラーと、イメージとなるフルーツが設定されており、ステージ衣装の色や柄に反映されている。売れない芸能人(新人の衣乃とへもを除く)ばかり寄せ集めて結成したユニットだが、作為性のない素人感を生かしたファンとの距離感の近さを強みとしている。 野外ライブをする際には、マネージャーの穂歩に見せパンを穿いてくるように指示され、へも加入前の4人は水着やタイツを着用するが最後はジャージのズボンを着用したため、穂歩に脱がされてしまう。 メンバー全員の下着購入では衣装として経費で落とすという方法をクリームあんみつのチコに提案されているが、穂歩に見せパンするなら良いと言われている。 5分のミニ番組のタイトルは「おちこぼれフルーツタルト」でアニメと同タイトルである。放送時間帯も深夜24:00〜24:55の1時間番組でクリームあんみつの番組である「あんみつ学園」の直後の深夜24:55〜25:00の5分間で後ろの番組も人気番組なので、深夜の割には高視聴率である。 テレビ番組の視聴率及び、クリームあんみつのライブで同時出演し、さらにチコが姉のロコのことを「姉でフルーツタルトのリーダー」と観覧客に紹介するなど、フルーツタルトの売り込み要素が完全にクリームあんみつに便乗している。 クリームあんみつ. 大手プロダクションであるキャットプロ所属のアイドルユニット。劇中においては既に名声を得ている「完成されたアイドル」として、落ちこぼれであるフルーツタルトと対比される存在。ステージ上の姿と私生活での姿にはギャップがあり、普段の言動を目の当たりにしたフルーツタルトのメンバーからは「変態さん」などと評されているものの、カメラが回っている本番中では一気にキリッとした雰囲気に切り替わる。 クリームあんみつのあんみつ学園!という1時間のバラエティの看板テレビ番組を持っており、1回目の放送の水泳の授業では3人とも泳げないカナヅチとして紹介されて、犬かき50m泳ぎを行う。 ファン層はそういう人間が多いようで、ライブのコールアンドレスポンスが「いっぱい罵ってあげるね」だったり、アイドル甲子園の1000票特典が「罵り券」だったりとフルーツタルトがやや引き気味になるほど。 テレビアニメ. 『まんがタイムきららキャラット』2019年5月号にてテレビアニメ化が発表され、2020年10月から12月にかけてAT-X、BS日テレほかにて放送された。原作第1巻から第3巻までの内容が、幾つかのエピソードを省略しつつも、おおむね原作に沿った内容で映像化された。AT-Xでは、本編の終了後にミニ番組『おちフルすて〜しょん』が放送された。 『まんがタイムきらら』およびその姉妹誌に同一の作者によって連載された2つ以上の作品がそれぞれテレビアニメ化されたのは、それらの誌上において初のことである。 原作漫画には頭身の変化などの絵柄の変遷があるものの、テレビアニメ版は掲載誌の作風を出しやすいという理由により、原作第2巻頃の頭身を目安にして統一された。 当初は2020年7月からの放送を予定していたが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期となった。ただし監督の川口によれば、延期された分だけブラッシュアップの作業に時間を割くことができたとしている。 第9話ではロンドンブーツ1号2号の田村淳と天津の向清太朗がゲスト出演している。 作品の舞台とアニメーションを手がけるfeel.の本社所在地は同じ小金井である。 楽曲. 本作の主要登場人物を演じる出演声優が、劇中のアイドルユニット名義で主題歌や挿入歌を担当している。 挿入歌. 原作漫画の劇中に登場する歌に曲をつけたものが劇中歌として流れる。原作漫画では具体的な歌詞の内容についての言及がなく曲名のみ設定されていた歌にも歌詞がつけられている。フルーツタルトによる劇中歌は、高校生である登場人物らが自分たちで作詞作曲や振り付けを行っているという設定を反映して、曲やダンスもゆるめな「良い意味での素人感」が意図されている。劇中におけるアイドルたちのダンスシーンの振り付けは、ダンサーの実演によるモーションを簡易的な3Dとして取り込み、それをガイドにして手描きで作画するという手法が用いられた。 各話リスト. 各話のサブタイトルの頭文字をつなげるとキャラクターのネーミング同様「いろはにほへとちりぬるお」となり、対応するキャラクターがタイトルバック、タイトルコール、Aパート終了時のアイキャッチ及び次回予告を担当する。
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ネットワンシステムズ
ネットワンシステムズ株式会社()は、東京都千代田区に本社を置く、1988年、三菱商事とアンガマン・バスの合弁で設立されたネットワークインテグレーターである。東京証券取引所プライム市場に上場。JPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。 沿革. 社名の由来. 社名は、Ungermann-Bass.Incが開発したルーティングプロトコルのUB Net/One(Ungermann-Bass Net/One)に由来する。 事業内容. 1988年の創業以来、一貫してネットワーク基盤の設計・構築・運用に強みをもつ。また、シスコシステムズ社製品の取扱いに関して、国内屈指の実績を誇る。近年では主力としてきたネットワーク基盤に加え、セキュリティコンサルティング、ユニファイドコミュニケーション(UC)、サーバー、ストレージとICTプラットフォーム全体の設計・構築・運用を手がける。
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フルーリュスの戦い
フルーリュスの戦い()は、ベルギーの都市フルーリュスとその近郊で発生した戦い。
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U195 (潜水艦)
U-195は、第二次世界大戦中に建造されたドイツ海軍()のIXD1型補給潜水艦で、。1941年5月15日にブレーメンのAG・ヴェーザー社で起工され、1942年4月8日に進水し、1942年9月5日にハインツ・ブッフホルツ少佐を艦長として就役した。 U-195は1943年10月から1944年4月にかけて、魚雷発射管が撤去され貨物室として252tの貨物を積載できるよう改造された。IXD1型はU-180及びこのU-195の2隻が建造され、当初は6基の魚雷艇用ディーゼルエンジンで推進軸2軸の構成を試みたが、過熱を引き起こすなどの問題があって、2基の2,200hp ディーゼルエンジンに換装された。U-180は1944年に日本へ向けての航海に出発する途中ビスケー湾で失われた。 艦歴. 第1次哨戒. U-195はキールを1943年3月20日に出発し南アフリカ連邦沖の海域へ行き、そこまでで2隻を沈め、1隻に損傷を与えた 第2次哨戒. フリードリヒ・スタインフェルト中尉の指揮でU-195は1944年8月24日にボルドーを出港し127日後の12月28日にバタヴィアに到着した。 第3次哨戒. U-195の最後の哨戒は、他のUボートがインド洋での任務を終了しヨーロッパへ帰還するために必要な補給を行なうものであった。U-195は1945年1月19日にバタヴィアを出港しマダガスカル南方のインド洋へ向かった。そこでモンスーン戦隊に属するUボートに対し給油を行ない、3月4日にバタヴィアへ帰還した。その後3月5日にバタヴィアを出港し、3月7日にスラバヤへ移動した。 大日本帝国海軍による接収. 1945年(昭和20年)5月初めにドイツが降伏した後、U-195は大日本帝国海軍に接収され伊506として7月15日に艦籍に入った。8月にスラバヤで連合国軍に降伏し、1946年2月16日、のバリ海でイギリス軍により海没処分された。 撃沈隻数は2隻、計14,391トンにのぼる。また、商船1隻、6,797トンに損傷を与えた。
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ディシャ・パタニ
ディシャ・パタニ(Disha Patani、1992年6月13日 - )は、インドの女優、モデル。主にボリウッドで活動している。 デビュー当初は生年月日を「1992年6月13日」としていたが、現在は「1995年7月27日」と主張している。これはディシャに限った話ではなく、インド映画界では30歳を超えた女優は役に恵まれる機会が少なくなるため、多くの女優が年齢を偽っていると指摘されている。また、当初は名前を「Disha Patni」と名乗っていた。 キャリア. 2013年にミスインドのインドール代表選に出場したことがきっかけとなり、女優としてデビューする。キャドバリーのの広告に起用されて注目を集め、2015年に『』で映画デビューする。2016年にタイガー・シュロフと共にミュージック・ビデオに出演し、YouTubeにアップロードされた映像は1週間で3,200万回再生された。同年に出演した『』では多くの映画賞を受賞するなど高い評価を得ており、インド国内のGoogleで最も検索されたボリウッド女優となった。2017年には『カンフー・ヨガ』でヒロインを演じ、ジャッキー・チェンと共演した。
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プリン塩基
プリン塩基(プリンえんき、)は、プリン骨格を持った核酸塩基である。つまり、プリン環を基本骨格とする生体物質で核酸あるいはアルカロイドの塩基性物質である。プリン体(プリンたい)とも総称される。 核酸塩基であるアデニン(図1.2)、グアニン(図1.3)などヌクレオシド/ヌクレオチド以外にもNADやFADの成分として、あるいはプリンアルカロイドのカフェイン(図1.7)、テオブロミン(図1.6)などが知られている。 食品におけるプリン体. 食品中では旨味の成分であり、核酸中に多く含まれる。そのため細胞数の多いもの、細胞分裂の盛んな組織に多く存在する。プリン体の多い食品としては、以下のものが挙げられる。 なお、日本ではプリン体含有量が低いことを謳ったビール類が宣伝されており、このため(逆説的に)酒類にプリン体が多く含まれているというイメージを持たれることがある。しかし、アルコール飲料としては比較的含有量の多いビールでも3.3mg/100mLから16.6mg/100mL程度であり、他の食品に比べて高いものではない。特に焼酎などの蒸留酒では1mg/100mL以下である。ただし、プリン体の多少に関わらずアルコール摂取は尿酸値を上昇させるため、痛風の場合はアルコール飲料の摂取は少ない方が好ましい。また、菓子の「プリン」はプディング()からの転訛で、「プリン塩基」や「プリン体」のプリン()とは別語源である。 プリン代謝. プリン代謝は核酸塩基の同化作用という意味合いの他、特に陸棲の動物においては、尿素を生成するオルニチン回路と共に体内の過剰な窒素の排泄作用においても重要である。したがって、プリン代謝には、核酸の新生経路(デノボ経路、)および核酸のサルベージ経路 () の他に尿酸合成を介して尿素(図1.8)を生成する経路が知られている。 生合成. プリン塩基の生合成には、新生経路とサルベージ経路の二系統のプリン塩基合成経路が存在する。 新生経路はホスホリボシル二リン酸を出発物質として、グルタミン、グリシン、アスパラギン酸からリボースリン酸上にプリン骨格を構築し、中間体のイノシン酸を生成する。その後は、アスパラギン酸由来のアミノ基が導入されてアデニル酸(AMP)が、グルタミン由来のアミノ基が導入されてグアニル酸(GMP)が生成する。 一方、アデニンホスホリボシルトランスフェラーゼ () やヒポキサンチン-グアニンホスホリボシルトランスフェラーゼにより、分解されたプリン塩基からヌクレオチドを再生するサルベージ経路からも生合成される。 分解. イノシン酸からヒポキサンチン-グアニンホスホリボシルトランスフェラーゼによって生成するヒポキサンチン(図1.4)はサルベージ経路で再生される一方、キサンチンオキシダーゼ()により尿酸(図1.8)が生成される。尿素排泄型の動物においては尿酸はいくつかの酵素によりアラントインを経由して尿素まで分解される。 プリンヌクレオシド / プリンヌクレオチド. プリン塩基を持つ代表的なプリンヌクレオシドおよびプリンヌクレオチドの一覧を次に示す。
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仁鶴の楽書き帖
仁鶴の楽書き帖(にかくのらくがきちょう)は、朝日放送ラジオで2006年10月から2021年3月27日まで毎週土曜日に放送されていた事前収録番組。落語家・笑福亭仁鶴 (3代目) の冠番組で、仁鶴が体調を崩した2017年の秋以降も、他の落語家をパーソナリティの代役を立てたうえで放送を続けていた。 概要. 朝日放送ラジオがラジオ・テレビ兼営局の朝日放送(旧・朝日放送)であった1970年代に、「仁鶴・頭のマッサージ」(当時の深夜番組『ABCヤングリクエスト』で放送されていた事前収録のリスナー投稿コーナー)で若者から絶大なる人気を集めた仁鶴が、落語家としての経験を中心に、懐かしい演芸や、音楽、映画、社会情勢などの話を披露していた。 仁鶴が放送日における歴史上の出来事を前半に話してから、加藤明子(朝日放送→朝日放送テレビアナウンサー)が放送日の誕生花につけられた花言葉を紹介することが特徴。後半にはレギュラーの企画を設けず、テーマにそって歌謡曲や邦楽を紹介するか、今は亡き落語家や漫才師たちの貴重な収録音源を放送していた。 2018年3月までは旧・朝日放送で制作していたが、4月以降は朝日放送ラジオ(旧・朝日放送のラジオ放送事業とラジオ放送免許を承継したグループ会社)に移行。旧・朝日放送から朝日放送テレビ(テレビ放送事業やテレビ放送免許などを承継した会社)へ自動的に転籍していた加藤も、「朝日放送(ABC)アナウンサー」として出演を続けていた。移行後も30分番組として制作されていたが、2021年1月から放送時間を15分に縮小。同年3月27日でレギュラー放送を終了。14年半の放送に幕を降ろした。 笑福亭仁鶴さん追善特別番組『笑福亭仁鶴 最後の楽書き帖』. 当番組は仁鶴不在のまま2021年3月でレギュラー放送を終えたが、朝日放送ラジオでは、「(当時静養中だった)仁鶴が復帰できるまで放送をいったん休止する」という方針を示していた。しかし、仁鶴が2021年8月17日に84歳で永眠したことを受けて、「笑福亭仁鶴さん追善特別番組」を同年12月24日(金曜日)に収録。『笑福亭仁鶴 最後の楽書き帖』というサブタイトルを添えたうえで、当番組の最終回扱いで12月29日(水曜日)の19:30 - 21:00に放送した。これによって、休止期間を経て15年3か月にわたって放送された番組は完結した。 追善特別番組では、『日曜落語 〜なみはや亭〜』『上方落語をきく会』(いずれも朝日放送ラジオの演芸番組)で「席亭」を務めるなど、神戸大学の学生時代から上方落語への造詣が深い伊藤史隆(朝日放送テレビアナウンサー)が加藤と共に進行を担当。上方落語協会の会長で、仁鶴の惣領弟子に当たる笑福亭仁智をスタジオに迎えた。また、当番組で仁鶴が夫婦共演を果たした回の音源、仁鶴が高座で披露していた「初天神」「池田の猪買い」の収録音源、旧・朝日放送時代に仁鶴が出演していたラジオ番組(『仁鶴・頭のマッサージ』など)の音源、仁鶴が歌手として発表した「おばちゃんのブルース」を順次放送。仁鶴と朝日放送ラジオに縁の深い中田カウス・上沼恵美子に対する伊藤のインタビュー音源や、仁鶴と番組でたびたび共演していた桑原征平・林家菊丸からのコメントも流したほか、収録に先駆けてリスナーから募集したメッセージの一部を紹介した。 番組は2022年4月28日、第59回ギャラクシー賞の奨励賞を受賞。受賞を記念して、2022年5月29日 24:30 ‐ 25:30(30日 0:30- 1:30)に一時間に短縮したバージョンが再放送された。
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サウリス
サウリス()は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県にある、人口約400人の基礎自治体(コムーネ)。 地理. 位置・広がり. 隣接コムーネ. 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のBLはベッルーノ県(ヴェネト州)所属を示す。 行政. 分離集落. サウリスには、以下の分離集落(フラツィオーネ)がある。
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于翼
于 翼(う よく、生年不詳 - 583年)は、西魏から隋にかけての軍人、政治家。字は文若。本貫は河南郡洛陽県。 経歴. 于謹の子として生まれた。11歳のとき、宇文泰の娘の平原公主を妻に迎え、員外散騎常侍となり、安平県公に封じられた。550年(大統16年)、爵位は郡公に進み、大都督の位を受け、宇文泰の幕下で側近をつとめ、禁中で宿衛した。鎮南将軍・金紫光禄大夫・散騎常侍・武衛将軍に転じた。554年(恭帝元年)、于謹が江陵を平定すると、獲得した軍資を諸子に分配したが、于翼はひとり取らなかった。宇文泰がこのことを聞くと、特別に奴婢200口を与えたが、于翼は固辞して受け取らなかった。まもなく車騎大将軍・儀同三司の位を受け、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられた。556年(恭帝3年)、六官が建てられると、于翼は左宮伯の位を受けた。 557年、北周が建国されると、于翼は渭州刺史として出向した。兄の于寔が先に渭州に赴任して善政で知られていたが、于翼もまた信義を守り、寛容で簡素な統治を布いたので、兄弟は大小馮君(漢の馮野王・馮立兄弟)に喩えられて讃えられた。ときに吐谷渾が河西回廊に侵入し、涼州・鄯州・河州がみな包囲されたため、使者がやってきて急を告げた。都督秦州諸軍事が于翼に援軍に赴くよう命じたが、于翼は従わなかった。部下がいさめると、于翼は侵攻が略奪を目的としていて、州城の包囲は長続きしないと述べた。数日後に知らせが届くと、于翼の予見どおり吐谷渾は撤退していた。559年、賀蘭祥が吐谷渾を討つと、于翼は州兵を率いて先鋒として奥地に入った。帰還すると、右宮伯の位を受けた。 明帝は文学の士を愛好して、麟趾学を設立し、学問や文才のある者を貴賤問わずに登用して、その講義を聴いた。蕭撝や王褒らのような南朝出身の人物も同じく学士とした。于翼が北朝貴族の身分秩序を乱すことに反対したため、明帝も于翼の意見を容れて、かれらの序列に差をつけた。 560年(武成2年)、明帝が死去すると、于翼は宇文護とともに遺詔を受け、武帝を擁立した。561年(保定元年)、軍司馬に転じた。563年(保定3年)、常山郡公に改封された。566年(天和元年)、司会中大夫に転じた。568年(天和3年)、阿史那皇后が突厥からやってくると、武帝は自ら迎えに出たが、このときの儀礼制度を于翼につかさどらせた。父の于謹が死去したため、于翼は辞職して喪に服したが、礼の規定を超えて哀毀した。ほどなく武帝の命により、無官のまま職務に復帰した。武帝は于翼を人倫の鑑であるとして、皇太子や諸王らの相傅以下の属官の選出を于翼に委ねた。于翼は大将軍に転じ、総中外宿衛兵事をつとめた。 宇文護は武帝が于翼を腹心として信任していたため、嫌悪をつのらせていた。于翼は小司徒に転じ、柱国の位を加えられたが、これは宇文護が外面で尊重したふりをして、実際には于翼を排斥した人事であった。572年(建徳元年)、宇文護が殺害されると、武帝は于翼を召し出して、宇文護の子の中山公宇文訓の代わりに、蒲州刺史として河東に赴任させようとした。于翼は諸王の任を異姓に変えるのは宜しくないとして辞退したため、武帝はこれを聞き入れて越王宇文盛を蒲州刺史とした。 573年(建徳2年)、于翼は安随等六州五防諸軍事・安州総管として出向した。ときに大旱害があり、溳水の流れも絶えるほどであった。旧俗では陽気が亢進すると白兆山で降雨を祈るしきたりであったが、武帝が先に諸祭祀を禁じ、山廟はすでに除去されていた。于翼が主簿を派遣してこれを祭ると、その日のうちに雨が降り、この年は豊年となった。民衆はこのことに感心して、歌舞の会を開き、于翼の徳を讃えた。 575年(建徳4年)、武帝が北斉攻撃の計画を立て、朝臣たちにも秘密にしていたが、納言の盧韞らを前後3回にわたって安州に派遣して于翼と相談したところ、于翼も出兵計画に賛成した。東征が開始されると、于翼は荊・楚の兵2万を率いて、宛・葉から襄城に赴き、10日ほどで北斉の19城を下した。このとき部下の都督で民村に入った者があれば斬に処した。武帝が病にかかったため、東征の軍は帰還し、于翼も安州に戻った。 576年(建徳5年)、陝熊等七州十六防諸軍事・宜陽総管に転じた。于翼は陝への移鎮を希望し、武帝に容れられて、総管のまま陝州刺史に任じられた。この年再び武帝が東征の軍を起こすと、于翼は陝から九曲に入り、造澗などの諸城を攻め落とし、洛陽に達した。北斉の洛州刺史の独孤永業が開門して降伏すると、河南の9州30鎮が一時のうちに北周に下った。ほどなく于翼は洛懐等九州諸軍事・河陽総管に任じられた。 まもなく豫州総管に転じ、河陽・襄州・安州・荊州の総管内で軍才のある者を徴用する権限を任された。儀同以下の官爵は于翼の承制により先に授与して後で奏聞すればよいとされた。陳の将軍の魯天念が長らく光州を包囲していたが、于翼が汝南にやってきたと聞くと、撤退した。霍州の少数民族の首長である田元顕は、于翼に人質を送って帰順した。陳の将軍の任蛮奴が田元顕を攻撃すると、田元顕は柵を立てて抗戦した。しかし于翼が長安に召還されると、田元顕は離反した。 579年(大象元年)、長安に召還されて大司徒に任じられた。于翼は勅命を受けて長城を巡察し、鄣に亭を立てた。西は雁門から東は碣石にいたるまで、古い長城を新しく作りかえ、要害化させた。そのまま幽定七州六鎮諸軍事・幽州総管に任じられた。 580年(大象2年)、尉遅迥が相州で挙兵すると、信書で于翼を招聘してきた。于翼はその使者を捕らえて、信書とともに楊堅のもとに送った。于翼の位は上柱国に進み、任国公に封じられた。于翼は子の于讓を派遣して楊堅に帝位につくよう求める勧進をおこなった。 581年(開皇元年)、隋が建国されると、于翼は太尉となった。幽州で反乱を起こそうとしていると告発されたため、文帝(楊堅)が調べさせたが、その事実はなく、もとの位に戻された。583年(開皇3年)5月、死去した。本官に加えて、蒲晋懐絳邵汾六州諸軍事・蒲州刺史の位を追贈された。諡は穆といった。
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長谷川恒之
長谷川 恒之(はせがわ つねゆき、1959年6月13日 - )は、日本の俳優。千葉県千葉市出身。本名は同じ。身長186cm。血液型B型。
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岡山県道196号高梁停車場線
岡山県道196号高梁停車場線(おかやまけんどう196ごう たかはしていしゃじょうせん)は高梁市旭町のJR伯備線備中高梁駅と国道180号(国道313号重用)を結ぶ一般県道である。 概要. 松山踊り開催時は18:30 - 23:00の約4時間半通行止めになる(踊り自体は19:00 - 22:30に開催)。
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大阪中之島美術館
大阪中之島美術館(おおさかなかのしまびじゅつかん)は、大阪市北区中之島四丁目にある美術館。19世紀後半から21世紀の現代までの近代美術・現代美術を収集・保管・展示する。 コレクション・活動. 大阪市は、大阪市立美術館にある古代美術・東洋美術コレクションのほかに、19世紀以降の近代美術・現代美術のコレクションも形成している。 収集方針は以下のとおり定められており、それに沿ったコレクション形成がなされている。 大阪中之島美術館は、デザイン作品・資料収集の一環として、大阪に集積する家電企業・住宅建材企業などの工業デザイン製品の「記憶」(黎明期・発展期の家電デザイン関係者のオーラルヒストリー)と「記録」(製品の情報)を蓄積・紹介する「インダストリアルデザイン・アーカイブズ研究プロジェクト」(IDAP)を推進している。2014年秋に、当時の大阪新美術館建設準備室・パナソニック株式会社・京都工芸繊維大学の産学官三者連携事業として始まり、後に他の企業や研究機関との協力関係を築くためにIDAPの推進母体として「インダストリアルデザイン・アーカイブズ協議会」を設置した。IDAPは戦後日本の工業デザインに関する記録や情報を収集しウェブで発信しているほか、シンポジウムなどを開催している。 沿革. 1983年、佐伯祐三の絵を多数蒐集したコレクターで、山発産業創業者の山本發次郎の遺族が大阪市に佐伯の作品をはじめ、原勝四郎などの洋画家、白隠ら禅僧の墨蹟、インドネシア更紗などからなるコレクションを一括して寄贈した。これがきっかけとなり、1988年、市制100年を記念して大阪市立近代美術館建設計画が発表され、1989年に5年間で毎年30億円積み立てるという美術品取得基金が設置され、準備室が設置された1990年から本格的な作品購入が始まり、以後コレクションの形成が進んできた。本格的な収集に先立って1989年に19億3000万円で購入したモディリアーニの作品「髪をほどいた横たわる裸婦」は話題となり議論を呼んだ。その後、ジョルジョ・デ・キリコ『福音書的な静物』(4億2800万円)、サルバドール・ダリ『幽霊と幻影』(6億7800万円)、フランク・ステラ『ゲッティ廟(第1ヴァージョン)』(6億3000万円)をはじめ、基金をもとにした購入総額は150億円に上る。 山本發次郎コレクションの寄贈に続き、上村松園作品などを収集した実業家田中徳松のコレクション、山本發次郎コレクションの寄贈に触発され「佐伯やモディリアーニという、異国から来てパリで活動した作家の周辺を補完したい」とエコール・ド・パリの作品などを寄贈した画商・高畠良朋のコレクションが大阪市近代美術館準備室のコレクションに加わった。また2010年末に閉館したサントリーミュージアム天保山が保管していたポスターコレクションがサントリーより準備室に寄託された。 コレクションが充実したものの、展示する美術館の建設は進まなかった。当初から大阪市立近代美術館の建設用地は、中之島にある国立国際美術館北隣の大阪大学医学部跡地に絞られていた(阪大医学部の転出による中之島の活力低下を美術館の集客力で補うという意図による)。阪大医学部跡の国有地は160億円で大阪市が購入。1998年には近代美術館基本計画委員会が「近代美術館基本計画」の答申を行い、延床面積24,000平方メートルの建物を、敷地面積16,900平方メートルの土地に整備費280億円で建設する計画を発表。しかし、予定地から蔵屋敷跡が発掘されたことに加え、市が財政難に陥り建設費(約280億円)が捻出できず、計画は凍結状態となった。作品購入予算もゼロとなり、2004年(平成16年)からは購入自体が停止した。ただし作品の寄付や寄託はこれ以後も続いた。 2004年、出光美術館分館跡のスペースを「大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室」という名称で使用し所蔵品の展示を行ってきた。建設予定地だった中之島の土地は時間貸し駐車場となっていたが、2007年(平成19年)新年度予算案に約500万円を調査費として計上し、当初の事業計画を見直した上で約5年ぶりに建設に向けて事業が再開されることとなった。 平松邦夫市長時代の2010年には「近代美術館あり方検討委員会」が設置され、翌2011年には「大阪市立近代美術館整備計画(案)」が発表され、1998年の答申より規模は3分の2に縮小されることになった。しかし大阪府知事で大阪市長への出馬を目指していた橋下徹は2011年1月には「こんな金があったら小学校にクーラーを、中学生に給食を」「こんなことにストップをかけられないのが大阪市役所の現状だ」と当初は建設に反対し、2011年秋に新市長となると「しょぼい美術館ができたところで大阪の力は高まらない」と「大阪市立近代美術館整備計画」を白紙撤回。二重行政の廃止を主張する大阪維新の会には美術館も既存の美術館を廃止して新美術館に一元化し民間資金を導入するという意向があった。2012年11月25日には大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室は閉館している。 国有地を買った際、大阪市が一定年度までに美術館を建てなかったり美術館以外の用途に転用したりすると国に対して48億円の違約金が発生することになっていた。期限が迫る中、中之島の美術館構想の再起動が迫られ、三度目の計画作りが始まった。2013年には大阪市の戦略会議が中之島への新たな美術館の建設を決定し、その中で天王寺の市立美術館を中之島の新美術館に統合して、古代から現代までを扱う総合美術館とすることも検討された。しかし外部有識者を交えた検討会では、2つの美術館のコレクションの方向性の違い、市立美術館が戦前に開館した際に財界や市民から多くの寄贈を受けた経緯、南北の2つの美術館があることの都市戦略上の意義などから統合に反対する意見が出たほか、統合により巨大化する中之島の美術館の建築費も問題となった。結果、美術館の統合は行わず経営のみを統合することとなったが、この過程で新しい美術館の建設準備室は「近代美術館建設準備室」から「大阪新美術館建設準備室」へと名称を変更していた。2016年8月には大阪新美術館の建築設計競技を実施し、2017年2月9日、集まった案の中から遠藤克彦建築研究所の設計案を最優秀案とし、設計と建設を開始した。2018年からは作品購入予算も復活した。 2018年には美術館名称の公募を実施し、10月18日に館名を「大阪中之島美術館」と決定し、2022年2月2日に開館した。 運営. PFI法に基づく公共施設等運営事業「コンセッション方式」を日本の美術館として初めて導入した。2019年の地方独立行政法人大阪市博物館機構による募集手続きで株式会社朝日ビルディングが優先交渉権者に選定され、同社が2020年に設立した特別目的会社「株式会社大阪中之島ミュージアム」が美術館を運営する。この会社は美術館の建設費等は負担しないが、運営による赤字は負担する。館長や学芸員は大阪市博物館機構に雇用され、そこから株式会社大阪中之島ミュージアムに出向するという形をとる。学芸員の雇用、美術館の事業や企画展の継続性、美術品寄付者や寄託者との信頼関係などは、PFIなどとは違って運営期間に制限のない地方独立行政法人が永続的に関わることになる。
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デイヴィッド・ウェクスラー
デイヴィッド・ウェクスラー(David Wechsler, 1896年1月12日 - 1981年5月2日)は、ルーマニア生まれのユダヤ系アメリカの心理学者。医療、福祉、教育など幅広い分野で活用されている診断的知能検査の開発者として名高い。主なものに児童向けウェクスラー式知能検査(WISC)、ウェクスラー成人知能検査(WAIS)、(WPPSI)がある。 ルーマニア、ヤシ県のレスペズィ村にてユダヤ系の家庭に生まれ、幼時に一家でアメリカに渡る。ニューヨーク市立大学を卒業後、コロンビア大学のエドワード・リー・ソーンダイクやジェームズ・キャッテルに師事し、1917年に修士号を、1925年に博士号を取得。第一次世界大戦中は米国陸軍と共に、被徴兵者を選抜するための心理検査の開発に従事した後、ロンドン大学のチャールズ・スピアマンとカール・ピアソンのもとで研究生活を送った。 5年間の開業生活といくつもの施設を渡り歩いての勤務生活を経て、1932年から1967年までベルヴュー精神病院に主任心理学者として勤務。傍ら、1933年からニューヨーク大学附属病院に勤務。1981年に死去したが、WISC、WAIS、WPPSIなど、ウェクスラーが中心となって開発した心理検査の数々は生前すでに高く評価されていた。 著書に『教育心理学』などがある。
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ボルダリング
ボルダーとは、クライミングの一種で、最低限の道具(クライミングシューズとチョーク)で岩や人工の壁面などを登るスポーツである。「岩の塊」「大きい丸い岩」を意味する英語が語源である。元々はロープを使用したフリークライミングの練習的な位置づけだったが、クライミングから確保という要素が取り除かれ、より純粋に岩を登る事に集中できる。また必要な装備が少なく、手軽に始められる事から、ボルダリングを中心に行うクライマーが増えており、現在では独立したフリークライミングの一形態となっている。 日本では「ボルダリング」()と呼んでいたが、2023年02月10日に日本山岳・スポーツクライミング協会が、2023年4月1日から「ボルダ―」に名称変更すると発表した。 自宅の壁を補強・改修したうえで、つかむためのホールドを取り付け、室内で楽しむ人もいる。 2021年に開催された2020東京オリンピックより、スポーツクライミングの1種目としてオリンピック競技に採用されている。詳細は2020年東京オリンピックのスポーツクライミング競技を参照。 課題とグレード. 課題には難しさを表すグレードがあり、一般的なグレードとして日本式(段級グレード)、ヨーロッパ式(フレンチグレード)、アメリカ式(Vグレード)が使われている。 クラッシュパッドと安全対策. 墜落時の安全のためにクラッシュパッドという、携帯式のマットを使用する。 クライミング用シューズは、歩く事を前提としていないので、足のアーチの機能が由々しく限定される。緩衝材も靴底に無いため、墜落時に踵などを負傷する危険性がある。クラッシュパッドの使用により踵や腰への負傷を予防する事ができ、特に前倒壁においては墜落時における背中や頭部への直撃を防ぐ事ができる。クラッシュパッドは携帯性を重視しているので、墜落時の衝撃を吸収するまでの機能は無い。あくまで怪我防止のための補助具として使用する。 複数人でボルダリングを行う場合、スポッターと呼ばれる補助を行う者が付くことがある。スポッターは墜落時に肩を押す事で、頭部からの墜落を防ぐ。また傾斜地ではクラッシュパッドごと滑り落ちない様に支える事もある。スポッターには、登攀中はクライマーに触れない、墜落時に自らが下敷きにならない、などの注意が必要となる。複数人でボルダリングを行うことにより、前記のようなスポッターによる補助のほか、各自が持ち寄ったクラッシュパッドを重ねることなどによる安全性の向上が期待できる。 ボルダリングでの墜落は、地面まで落ちる事が前提だが、落ちる前に自ら飛び降りる事で墜落時の体勢を立て直し危険を回避できる。 ボルダリング競技. 日本で有名なボルダリングの競技会としてはB-Sessionがある。B-Sessionは1年間を通じてのシリーズ戦を行いその総合ポイントで年間チャンピオンを選出する。勝敗はクリアーした課題の数で順位を決定する。競技はインドアクライミングで行われ、毎回大会用に課題を新しく設定して初登にて競われる。 そのほかに、日本山岳・スポーツクライミング協会が主催するボルダリングジャパンカップが2005年から年一回の間隔で行われているほか、2008年チャレンジ!おおいた国体からは国民体育大会の山岳競技の一種目としてボルダリングが採用されている。
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ジェットスキー
ジェットスキー (Jet Ski) は、カワサキモータース(カワサキ)が製造している水上オートバイのブランド。ジェットスキーは、アメリカ合衆国において「最初に商業的成功を収めた」水上オートバイである。 本来は商品名であるが、商標の普通名称化がおきており、例えば、ヤマハ発動機のマリンジェットなど、他社の水上オートバイをジェットスキーと呼ぶこともある。 歴史. 1970年代初頭に、アメリカ人発明家からの提案を受け、当時の川崎重工が製造に乗り出し、1973年に最初の市販モデル「JS400」がアメリカ合衆国で販売された(1972年に発売されたとする資料もある)。 ジェットスキーがスポーツとして日本に「逆輸入」されたのは1980年で、1984年には日本ジェットスキー協会が設立され、1988年からはプロ選手の認定が始まった。バブル期には「爆発的な人気を呼んでいる」と評されるヒット商品となった。 英語の普通名詞としての「jet ski」. 英語において、固有名詞の「Jet Ski」は、カワサキの登録商標であるが、普通名詞としての「jet ski」は小型のレジャー用の水上の乗り物(パーソナルウォータークラフト、、PWC)を指す。
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アラモス (ソノラ州)
アラモス(Álamos)は、メキシコのソノラ州南部にある町。かつては銀の採掘で繁栄した。 現在は歴史的な街並みを生かし、観光業に力を入れている。メキシコ政府観光局によりプエブロ・マヒコに選出されている。 地理. アラモスは太平洋の海岸と平行に延びる西マドレ山脈の一部であると海岸平野の接合部に位置し、付近のガリにはフエルテ川の支流のが流れる。 周辺の平野部にはの河畔林などの熱帯の落葉樹林、シナロア州との境界線付近にはとげの多い低木林、山岳部にはマツとオークの混合林の常緑樹林がある。一帯にはメキシコラクウショウ、、、ソテツ類のと、、、などの植物が生え、ピューマ、ジャガー、オセロット、ジャガランディ、、イヌワシ、、オオアオサギ、、ミドリコンゴウインコ、クーパーハイタカ、、アメリカドクトカゲ、メキシコドクトカゲ、アラモスドロガメ、テナガエビなどの動物が生息している。 は2007年にユネスコの生物圏保護区に指定され、2010年にラムサール条約登録地となった。 歴史. 1540年のフランシスコ・バスケス・デ・コロナドの探検隊の記録にこの地域の記述がある。1685年に銀が発見され、スペイン人の定住が始まった。アラモスはメキシコ北西部の中心都市として栄えた。しかし、1900年代初頭に銀山が閉鎖されると人口が激減し町は荒廃した。
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ワンズワース
ワンズワース(, )は、ワンズワース区に含まれるロンドン南西部の地区である。チャリング・クロスからの位置にある。この地区はにおいて、グレーター・ロンドン中の主要地点35の1つに選ばれている。 地名の由来. ワンズワースの名前は、この地区でテムズ川に注ぎ込むワンドル川から取られている。ワンズワースの名前は、1086年のドゥームズデイ・ブックに、""Wandesorde" や "Wendelesorde"" として記録されている。これは「"Waendel"(という名前の人)の土地」という意味だが、この名前もワンドル川から借用したものである。この地区を内包するワンズワース区と区別するため、地区の大部分に渡る、かつての「ワンズワース地区」と「メトロポリタン・バラ・オブ・ワンズワース」にあたる地域は、「ワンズワース・タウン」としても知られている。 歴史. ドゥームズデイ・ブック(1086年)が作成された当時、ワンズワース地区はアンスカルフィ()の息子ウィリアムと、聖ワンドリル修道院が分轄していた。ドゥームズデイ・ブックには、面積が12ハイドで、5½ハイドの耕作地との草地が存在すると記録されている。土地の価値は9ポンドとされた。少なくとも16世紀初期までには、ワンズワースへの連続した移民の波が訪れている。1590年代の迫害から逃れ、オランダからやって来たプロテスタントの金属細工師たちから、近年東ヨーロッパのEU加盟国からやって来た人々に至るまで、この地区は多様な人々を受け入れてきた。 ワンズワース・タウンの中心とテムズ川の間には、の敷地が存在する。伝統的な樽ビールは、1581年から425年間この場所で醸造され続け、ラム醸造所は、継続してビール醸造を行っている英国最古の醸造所になった。シャイヤー馬が描かれた醸造所のドレイは、現在でも地元のパブにビールを運ぶ際に使用されている。ヤングスは、2006年9月にベッドフォードのと合併した際にワンズワースでの醸造を停止したが、現在でも1人の職人が少量ながらこの場所での醸造を続けている。また、2012年には、この場所を住宅地とショッピング・レジャー施設が併設する地域として再開発する計画が持ち上がっている 。 ワンズワースガス工場は、近くのテムズ川沿いに1834年に建設された。事業は1854年にワンズワース・アンド・パトニー・ガスライト・アンド・コーク・カンパニー()となり、1856年にはアクト・オブ・パーラメント()と合併している。 石炭ガスを作るための石炭はノース・イースト・イングランドから運び込まれ、ガス工場脇のテムズ川で荷下ろしされた。会社は数度の合併と買収を経て大きくなり、1936年までにはロンドン南西部のかなり広範囲にガスを供給するようになった。会社の名前は合併や近隣会社による買収の度に変更されていたが、1936年からは一貫して「ワンズワース・アンド・ディストリクト・ガス・カンパニー」()との名称が使われている。会社は1949年に国営化され、サウス・イースタン・ガス・ボードの一部に組み込まれている。 地理. 川沿いの以前埠頭が存在した地域は、現在新しいアパートメントが建ち並ぶ区域になっており、バーやレストランもいくつか開店している。シップ・イン()やウォーターフロント()といった有名パブは、それぞれ両端の西側・東側に位置している。 はテムズ川から少し離れた、イースト・ヒルの頂上にあり、地域で「トースト・ラック」()として知られる高級タウンハウス街に隣接している。また同じ地域には、レストランがあるが、この店はかつてハーヴェイズ()として知られた店で、シェフのゴードン・ラムゼイはここで修業をしていたほか、1999年にミシュランの1つ星を獲得したブルース・プールが共同経営者を務めている。この地区にはがあり、建物の中にはフラットや演劇学校・レストランが入っている。 トンズリーズ / オールド・ヨーク・ロード()は、テムズ川と街の中心部両方に程近い、オールド・ワンズワースの住宅街で、街の名前によくトンズリー()との単語が含まれるためこう呼ばれている。オールド・ヨーク・ロードの中心にあるカフェや店舗では、村の生活を思わせるような雰囲気が漂っている。この地区にはロイヤル・スタンダード()イースト・ヒル()、アルマ()といった3つの有名パブが存在する。ブレイディのフィッシュ・レストラン()では伝統的なフィッシュ・アンド・チップスが販売されている。この地区は、BBCのテレビシリーズ『』で使用されている。ワンズワース・コモンの西端と接するイースト・ヒル地区は、多数のヴィクトリア朝建築が立ち並ぶエリアである。 には、映画館とレストランの複合施設・が建っている(以前はと呼ばれていた)。ショッピングセンターの陰にはが存在し、縁には上流のから、南のウィンブルドンまで流れ込むワンドル川が流れている。 は、以前ヴィクトリア図書館が存在したに位置し、2007年にこの場所へ移転してきた。は現在この博物館内に存在し、ヴィクトリア朝の芸術作品コレクションを所蔵している。航空工学のパイオニアであるアリオット・ヴァードン・ローを讃えるグリーン・プラークは、ワンズワース・カウンシルとヴァードン=ロー家の人々が出席して除幕された。このプラークは、ウェスト・ヒル47番地の兄弟宅にローが構えた作業場に付けられ、A3 沿いのワンズワース・ファイア駅近くに位置している。 ワンズワース橋のラウンドアバウト真下にある地下通路は、スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』中で、ホームレスが襲われるシーンに登場する。 交通手段. 最寄り駅は、(クラパムジャンクション駅から1駅、ヴィクトリア駅まで12分)、(クラパムジャンクション駅から1駅、ウォータールー駅まで12分)である。 教会. は、12世紀に遡るワンズワース地区の元々の教区教会であり、現在の建物は大部分が18世紀の建築である。とホーリー・トリニティ・チャーチは、人口増加に伴って19世紀に建設された。 ワンズワース刑務所. 1851年に建設されたはカテゴリBの男性囚人用刑務所である。この刑務所はロンドン最大であるだけでなく、同じ収容人数のと並んでヨーロッパ最大の刑務所の1つである。
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一の糸
『一の糸』(いちのいと)は1964年6月から1965年6月まで「文芸朝日」に連載された有吉佐和子の小説作品、およびそれを原作としてNHK「銀河ドラマ」で1969年4月7日から4月18日まで放送された連続テレビドラマである。カラー作品。全10回。 「一の糸」とは三味線の最も低く、太い糸である。演奏中に万一切れると他の弦ではその音が出せないため、演奏が中断する。 概要. 「銀河ドラマ」第1作。何不自由ない生活から一転して世間の荒波に揉まれる女性と、文楽の三味線一筋に生きる男との二十年に亘る愛と悲しみを描く。本作がNHKドラマ初出演となる佐久間良子が主人公の17歳から40歳までを演じた。第2回テレビ大賞優秀番組賞受賞。 物語. 大正7年、目を患って塞ぎ込んでいた新宿角筈の造り酒屋のひとり娘茜は、気晴らしに文楽を聞きに出掛けた大正座で、若い弾き手清太郎の巧みな撥さばきと一の糸の厳しい音色に魅了された。茜の心には次第に清太郎への思慕が募っていったが、彼には既に妻子があり所詮叶わぬ恋であった。2年後茜と元村の縁談が調った矢先に父が急逝して家業は破綻、婚約も解消され、茜は再起を期しながら母と伊豆の下田へ転じて不慣れな旅館業を始める。時が経ち東京に戻って料亭の女将になっていた茜に妻を亡くしていた清太郎が求婚する。茜は意を決して受け容れたが、後妻に入った露沢家には先妻の残した九人の子供たちがいた。
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サンダンス映画祭
サンダンス映画祭(サンダンスえいがさい、Sundance Film Festival)は、アメリカ合衆国の映画祭。ユタ州のスキーリゾート地で有名なパークシティで、1978年より毎年1月中旬から11日間に渡って開催されている。インディペンデント映画を対象とし、数万人規模の客を招き約200本もの長・短編映画が上映される。日本のNHKがスポンサーに名を連ねている。 名称は、この映画祭を主催するロバート・レッドフォードが映画『明日に向って撃て!』で演じた役柄サンダンス・キッドに由来する。 概要. 1978年、映画製作者たちをユタ州に惹きつけるのを狙いとして、俳優・映画監督のロバート・レッドフォードが「ユタ・US映画祭」として始めた。当初のメイン・イベントは古い映画の回顧展で、映画製作者らによるディスカッションなどが行われた。しかし、当時すでにハリウッドの外で制作された映画群によるプログラムも含まれていた。ユタ州で開催するのはレッドフォードがユタ州の住民であったためである。 サンダンス映画祭はケヴィン・スミス、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ、ジム・ジャームッシュ、デイミアン・チャゼルなどの映画監督の知名度を上げた。また『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』『セックスと嘘とビデオテープ』『ソウ』などのインディペンデント映画を有名にしている。 この映画祭が他を圧倒しているところは、観客に映像作家、俳優だけでなく、配給会社の買い付け担当、弁護士、エージェント、マネージャーなど、ビジネス関係者が圧倒的に多いのが特徴である。特に90年代半ばから、ネクタイ・スーツ姿の携帯電話を持った観客が急増。第二・第三のタランティーノやロドリゲスと契約しにこの映画祭に現れ、ホテルロビーでは連日連夜、早朝まで買い付け担当や弁護士との会合が行われている。 2007年9月下旬に2008年開催分の締め切りがあったが、応募総数が史上最高の8,000本を越えた。 歴代受賞作品. ※観客賞は1989年より設立。グランプリ・観客賞共にドキュメンタリー映画部門もある。
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秋田市立雄和体育館
秋田市立雄和体育館(あきたしりつゆうわたいいくかん)は、秋田県秋田市にある体育館である。 概要. 敷地面積 4,425.35平方メートル 観客席 384人 交通アクセス. 奥羽本線四ツ小屋駅より約20分、秋田市マイタウンバス南部線に乗車、雄和市民サービスセンター前で下車。徒歩1分。
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Stereo criminals
stereo criminals(ステレオ・クリミナルズ)は、日本の男性2人組音楽ユニット。旧名は「AXXL」(アクセル)。 来歴. 1994年、コルベッツとして活動していた松本邦彦とギタリストの弥吉淳二の2人でAXXLを結成し、秋元康作詞「抱きしめても泣き止まない」でワーナーミュージック・ジャパンよりメジャー・デビュー。 1997年、レコード会社を移籍。stereo criminalsに改名。ジョニー・フィンガーズからプロデュースを受けるも1998年に解散。 解散後、松本はコルベッツを再結成。 弥吉は吉川晃司、aiko、植村花菜などのバックバンドでサポート・ミュージシャンや清木場俊介らの音楽プロデューサーとして活動していたが、2018年1月26日に死去、享年49歳。
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Intel MCS-48
Intel 8048またはそのシリーズであるIntel MCS-48はインテル初のマイクロコントローラである。Intel MCS-48は、1976年に導入された。当初のラインナップには8048、8035、8748が存在した。これらは元々NMOSプロセスで生産されていたが、1980年代初めにはCMOS版も供給された。既存の古い設計をサポートするため、1990年代に入っても製造された。 構成. 8048のアーキテクチャはハーバード・アーキテクチャの変形であり、プログラム用ROM(内蔵または外付け)とデータ用RAMを分離して持っていた。27個のI/Oポートを持つが、それらは独自のアドレス空間にマップされ、プログラムやデータとは分離されている。また1回路の8bitタイマ・カウンタを自前でもっていた。8048の内蔵ROMは1KBで、外付けのプログラム用ROMを用いることもできた。内蔵RAMは64バイトであった。ROMの種類、メモリ容量によってファミリーを形成し、例えば8049は2 KiBのマスクROM(8749はEPROM)を内蔵しており、このROMは4 KiBの外部ROMで置き換えることができる。 外部から供給されたクロックは内部の発振器ブロックによって15の内部フェーズに分割される。そこで、最高動作周波数である11MHzの水晶発振器を接続すると、0.73MIPS(1クロック命令について)の性能が出る。1CPUサイクルで実行できる1バイト長の命令もあるが、多くの命令は2CPUサイクルないし2バイトを必要とする。従って実際の動作速度は0.5MIPS程度である。 MCS-48ファミリー. "8049"は2KBのマスクROM(8748と8749はEPROM)と128バイトのRAM、27個のI/Oポートを搭載し、ROMは4KBの外部ROMに置き換えることができた。マイクロコントローラのクロック発振器ブロックは入力クロックを15分周し、最大11MHzで0.73MIPSの駆動が可能であった。命令の7割は1命令サイクルあたり1バイトで、3割は2サイクル・2バイトを必要としたため、実際のパフォーマンスは0.5MIPSほどになる。 フィリップス・セミコンダクタ(現NXP)がこのシリーズを生産するライセンスを所有しており、このアーキテクチャをベースにMAB8400ファミリとして開発していた。これらはI2Cインターフェースを統合した最初のマイクロコントローラで、フィリップスの最初のCDプレーヤー「CD-100」に用いられた。 Intel "8748"はクロック発振器を内蔵しており、8ビットタイマーを2個、I/Oポートを27個、64バイトのRAMと1KBのEPROMを搭載していた。2KB EPROMと128バイトのRAMを搭載したバージョンは"8749"としてリリースされた。 応用. 8048は後に開発された8051に駆逐されつつあるが、21世紀を迎えた時点でもまだ広く用いられている。コストが低く、広範な応用範囲を持ち、1バイト命令セットによってメモリ利用効率が高く、枯れた開発用ツールが存在することがその理由である。そのため、大量生産される民生用電子機器、例えばTVのリモコン、玩具等といったコストダウンが至上命令であるような製品によく用いられる。 8048はマグナボックスオデッセイ、コルグTridentシリーズ、コルグPoly-61、ローランドJupiter-4およびProMarsアナログシンセサイザーに使用された。 オリジナルのIBM PCキーボードは内蔵マイクロコントローラとして8048を使用していた。PC/ATではPCのI/Oアドレス0x60~0x63にあるIntel 8255周辺機器インターフェースチップが0x60-0x64にある8042に置き換えられた。キーボードインターフェースを管理するだけでなく、8042はATのIntel 80286 CPUのA20ラインを制御、または80286をリセットするコマンドを送ることができた(80386やそれ以降のプロセッサとは異なり、80286はリセットする以外にプロテクトモードからリアルモードに戻る方法がなかった)。後のPC/AT互換機では8042の機能はスーパーI/Oチップに統合されていった。日本電気PC-9800シリーズでは、キーボード側の8048と本体側の8251AがI/Oアドレス43Hでシリアル通信を行った。。キーボードと本体間のシリアル通信はシャープX1シリーズでも使用された。 かわった使われ方としては、ROMを持たない8035が任天堂のアーケードゲーム『ドンキーコング』でバックに音楽を流すために使われた例がある。
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熊谷賢一 (射撃選手)
熊谷 賢一(くまがい けんいち、1927年3月17日 - )は、日本の射撃競技(クレー射撃)選手。1960年ローマオリンピックに出場した。 経歴. 愛知県出身。早稲田大学中退。1960年ローマオリンピックには、日本クレー射撃協会所属(常任理事)としてクレー・ピジョン種目に参加、19位の成績を残した。
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結匈人
結匈人、結胸人(けっきょうじん)は中国に伝わる伝説上の人種である。古代中国では南方に位置する国に棲んでいたとされる。 概説. 古代中国の地理書『山海経』の海外南経によると、結匈国は羽民国の西北にあり、結匈人は人間の姿をしているが胸が極端におおきく突き出しているという。
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松田千秋
松田 千秋(まつだ ちあき、 1896年(明治29年)9月29日 - 1995年(平成7年)11月6日)は、日本の海軍軍人。海兵44期。戦艦「大和」第3代艦長。最終階級は海軍少将。妻コマは詩人丸山薫の妹。 経歴. 1896年(明治29年)9月29日、熊本県菊池郡加茂川村大字菰入(現・七城町菰入)に生まれる。旧制熊本県立鹿本中学校を経て、1913年(大正2年)9月3日、海軍兵学校44期に100名中89番の成績で入学。同期に柳本柳作、西田正雄、朝倉豊次、黒島亀人らがいる。1916年(大正5年)12月11日、95名中14番の成績で卒業。少尉候補生となり装甲巡洋艦「常磐」に乗り組み、練習艦隊近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰着。4月5日、練習艦隊の遠洋航海に出発し、8月17日に帰着。8月19日、巡洋戦艦「榛名」乗組。12月1日、少尉に任官。戦艦「河内」乗組。 1918年(大正7年)7月12日、乗艦中の「河内」が爆沈するという大事故に遭遇している。(国立公文書館アジア歴史資料センター「松田千秋尋問書」)同年8月15日、巡洋戦艦「榛名」乗組。11月9日、装甲巡洋艦「吾妻」乗組となり少尉候補生(46期)指導官附を務めた。 1919年(大正8年)3月11日、練習艦隊は遠洋航海に出発、7月20日に帰着した。当時の練習艦隊司令官は中野直枝中将(15期)、練習艦は「常磐」(艦長小松直幹大佐・25期)「吾妻」(艦長飯田延太郎大佐・24期)の2隻。少尉候補生たちは高田利種、山本親雄、重永主計、野村留吉、猪口敏平、貝塚武男、柳沢蔵之助、阿部俊雄、矢牧章、安田義達などであり、目的地は東南アジア・オーストラリア訪問であった。この年の「水交社々員名簿」によると、松田少尉の序列は同期生中10番に上昇している。8月5日、装甲巡洋艦「浅間」乗組。12月1日、中尉に進級し、海軍水雷学校普通科学生になっている。 1920年(大正9年)5月31日、海軍砲術学校普通科学生。12月1日、3等駆逐艦「夕立」乗組。1921年(大正10年)12月1日、巡洋戦艦「金剛」分隊長心得。 1922年(大正11年)12月1日、大尉に昇進し、海軍砲術学校高等科第22期学生を拝命。1923年(大正12年)11月29日、海軍砲術学校高等科を優等で卒業。12月1日、一等駆逐艦「神風」砲術長兼分隊長。1924年(大正13年)12月1日、戦艦「陸奥」分隊長。1925年(大正14年)12月1日、海軍砲術学校教官。 1926年(大正15年)12月1日、海軍大学校甲種第26期入校。この頃までに松田の序列は、同期生中4番まで上昇している。1928年(昭和3年)11月6日、海軍大学校を22名中第12位の成績で卒業。12月10日、少佐に進級し海軍省人事局第1課に勤務。1929年(昭和4年)5月1日、アメリカへ語学留学。 1930年(昭和5年)5月1日、在アメリカ大使館附海軍駐在武官府補佐官。日本海軍の駐米経験者では珍しく頑なまで反米主義者だった。1931年(昭和6年)5月1日、帰朝し、7月1日より軽巡洋艦「木曾」砲術長。9月7日、軍令部第1班第1課。軍令部の改編に伴い1933年(昭和8年)10月1日、軍令部第1部第1課。大和型戦艦建造の基本構想に関わる。11月1日、参謀本部員を兼務。11月15日、中佐に昇進。1934年度(昭和9年度)の軍令部作戦班長を務めた。4月2日、参謀本部員を免じられ、11月15日に海軍省軍務局第2課へ異動。 1935年(昭和10年)4月1日に栗田健男大佐(38期)が艦長を務める軽巡洋艦「阿武隈」の副長に異動、同年11月まで勤め、後任の伊集院松治中佐(43期)と交代。海軍大学校教官 兼技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官へ異動した。11月、鹿児島・宮崎方面にて行われた陸軍特別大演習では、青軍司令官林銑十郎大将(陸士8期)が率いる軍司令部幕僚として参加。松田中佐の同僚として、太平洋戦争期間中に陸軍省軍務局長を務めA級戦犯となった佐藤賢了砲兵少佐(陸士29期、のち中将)もいた。1936年(昭和11年)1月、当時の内務省警保局特別警察部が作成した『海軍士官要監視人物』という極秘資料には松田の名も記載されている。二・二六事件に加担した陸軍青年将校の思想に同情的と見られていた為で該資料に掲載された海軍士官数名は事件後に予備役編入の処分を受けた。11月21日、海軍大学校教官兼第3艦隊参謀。 1937年(昭和12年)8月16日、上海派遣軍参謀を兼務。(国立公文書館アジア歴史資料センター「上海派遣軍司令部に兼勤すべき者 第3艦隊参謀 海軍中佐 松田 千秋」)12月1日、大佐に昇進。12月15日、支那方面艦隊参謀。1938年(昭和13年)8月25日、水上機母艦「神威」艦長。1939年(昭和14年)1月14日、軍令部第3部第5課長。1月25日、兼大本営海軍報道部第2課長。 1940年(昭和15年)5月22日、欧米各国出張。10月1日、総力戦研究所所員(高等官三等)に就任。このとき研究生たちの採用に際して採られた、現在の就職活動などで見かける方式を「面接」と名づけたのは松田大佐である。採用された研究生たちが、模擬内閣という形式でシミュレーションを行い、現実の日米戦争における(原爆投下以外の)戦局推移とほぼ合致する「日本必敗」の結論を導き出したことは有名である。この頃の松田大佐については、猪瀬直樹著「昭和16年夏の敗戦」(中公文庫)に詳しい。 1941年(昭和16年)9月1日、標的艦「摂津」特務艦長に就任、日米開戦を迎えた。この間に航空攻撃に対する操艦マニュアルである「爆撃回避法」を作成している。1944年(昭和19年)のフィリピン沖海戦(比島沖海戦)において、来襲した敵機の爆弾をすべて回避することに成功した戦艦「伊勢」艦長中瀬泝大佐(45期)が、パンフレットを研究して実戦に役立ててくれたと、松田は回想している。(佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」) 1942年(昭和17年)2月10日、聯合艦隊司令部附。聯合艦隊参謀長の宇垣纏中将(40期)は松田が結婚する際に仲人を務めた。2月20日、戦艦「日向」艦長に就任。5月5日、伊予灘で「日向」、「伊勢」、「扶桑」、「山城」による演習中、第七斉射を行った際に「日向」の第5砲塔の爆発事故が起きている。このことが、伊勢型戦艦に対する航空戦艦への改装に繋がることになった。 ミッドウェー作戦前に戦艦「大和」で行われた「第二段作戦図上演習」では、米軍の指揮を担当した。米機動部隊はハワイから出撃してくる可能性があったが、松田が出撃させることはなかった。戦艦「日向」はミッドウェー海戦の一環としてアリューシャン方面に進出している。作戦中、「日向」の電探は帰還途上の悪天候において艦隊の航路保持に役立ち、松田艦長は”レーダーの有効性”を周囲に訴えた。同年12月10日、聯合艦隊司令部附。12月17日、聯合艦隊司令長官山本五十六大将(32期)の旗艦である戦艦「大和」の第3代艦長に就任した。 1943年(昭和18年)5月1日、クラスの一選抜組として少将に昇進する。同日、少将に進級した海兵44期生は、第6艦隊参謀長島本久五郎(電報符343)、軍令部出仕兼海軍省出仕一宮義之(同344)、大和艦長松田千秋(同354)、第5艦隊参謀長大和田昇(同355)、第8艦隊参謀長山澄貞次郎(同356)、軍令部部員兼大本営参謀小島秀雄(同358)である。 (※電報符とは毎年、上は元帥海軍大将から下は少尉候補生まで、全海軍士官に対して序列順に割り振られた背番号のようなものであり、先任後任の序を重視する軍隊では重要な人秘であった。電報符は毎年更新される「現役海軍士官名簿」で定められていた。太平洋戦争期の電報符1は、元帥海軍大将伏見宮博恭王である。) 少将になって間もない6月21日には「伊号第7潜水艦」に乗艦していた甥の松田廣和少尉(71期、戦死後に中尉進級)が戦死している。9月7日、軍令部第1部第1課出仕兼大本営参謀。10月15日、兼海軍省出仕。 1944年(昭和19年)3月31日、聯合艦隊司令長官古賀峯一大将(34期)以下司令部職員の搭乗機が消息を絶つ事件が発生した(海軍乙事件)。その後、軍令承行令に基づいて、スラバヤにいる次席指揮官・高須四郎大将(35期、南西方面艦隊司令長官兼第13航空艦隊司令長官)が代行したが、スラバヤという僻地から指揮をとり統一を欠いた状況について、最前線であるサイパン、テニアンを守備する部隊から不満が出る始末であった。サイパンに出張した松田少将は、南雲忠一中将(36期、中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官)や角田覚治中将(39期、第1航空艦隊司令長官)から、新聯合艦隊司令長官の速やかな発令を要望されている。 同年5月1日、新編された第4航空戦隊司令官に就任、かつて艦長を務めた「日向」に将旗を掲げた。第4航空戦隊は、航空戦艦へ改装された戦艦「日向」(野村留吉大佐、46期)、「伊勢」(中瀬泝大佐、45期)からなる新戦力であった。 佐藤和正著「艦長たちの太平洋戦争」のなかで、松田はこの時期のことについて次のように述べている。 同年10月、小沢治三郎中将(37期)の率いる機動部隊に所属する第4航空戦隊は、世紀の大海戦といわれるフィリピン沖海戦(比島沖海戦)に参加する。と証言している。(「艦長たちの太平洋戦争」、戦艦「大和」艦長・松田千秋少将の証言より) 証言に登場する栗田艦隊とは、松田が軽巡洋艦「阿武隈」の副長時代に仕えた栗田健男元艦長(38期)であり、栗田中将が率いる戦艦「大和」「武蔵」を中心とする第2艦隊のことである。 1945年(昭和20年)2月、北号作戦を実施。松田は部隊を「完部隊」と命名し、制海権を失った海域で同艦隊に大量の物資を積載しての、シンガポールから本土への輸送作戦を行い、敵の攻撃を2度受けたが、近隣のスコールに隠れることができ、無事輸送を完了した。3月1日、軍令部出仕。3月10日、海軍航空本部出仕。3月20日、横須賀海軍航空隊司令。終戦を経て11月1日に予備役編入。 戦後は(株)マツダカルテックスを経営。カード書類のランダム自動抽出装置を初めとする発明に専念し発明品で100以上が特許権・実用新案権を取得し商品化がなされた。 海軍関係者による海軍反省会に出席し、1981年(昭和56年)4月7日の第14回では、「真珠湾攻撃で、日本はアメリカに航空戦力でも戦艦を撃沈できることを教えてしまった」と批判的に回想した。 1995年(平成7年)11月6日死去。享年99歳、海軍将官最後の生き残りであった。
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高橋誠一郎 (文学者)
高橋 誠一郎(たかはし せいいちろう、1949年 - )は、日本のロシア文学者、文芸評論家。 人物・来歴. 福島県二本松市生まれ。1975年東海大学文学部卒業。1979年同大学院文学研究科文明研究専攻修士課程修了。1983年東海大学外国語教育センター助教授、教授。2013年退職。
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大原真理子
大原 真理子(おおはら まりこ、1951年7月31日 - )は、日本の女優。神奈川県出身。演劇集団 円所属。 出演. テレビアニメ. 2002年 2007年 2008年 2009年
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髙松望ムセンビ
髙松 望 ムセンビ(たかまつ のぞみ ムセンビ、1997年8月31日 - )は、日本の陸上競技中長距離走選手。髙松智美ムセンビは妹。 経歴. 父は2001年長野マラソンで優勝したケニア人の、母は日本人、ケニア生まれ。大阪薫英女学院中学校時代には、全国中学生大会1500mを2連覇。2013年全国都道府県対抗女子駅伝では3区で6人を抜き9年ぶりに区間新を更新した。 2014年8月の南京ユース五輪3000mでは9分01秒58の自己ベスト記録で金メダルを獲得した。 2015年12月、第27回全国高等学校駅伝、薫英女学院3区区間賞(チームは3位)。 2016年1月、薫英女学院高校卒業前にスカウトされ渡米し、ナイキ・オレゴン・プロジェクトに翌2017年まで所属していた。
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石川県道234号函屋酒井線
石川県道234号函屋酒井線(いしかわけんどう234ごう はこやさかいせん)とは、石川県羽咋郡志賀町と同県羽咋市とを結ぶ一般県道(石川県道)である。 概要. 眉丈山直下を越え、邑知地溝帯を縦断する。 古くから眉丈山を越える峠道は「金丸村径路」と呼ばれ、大念寺新(現在の羽咋郡志賀町高浜町)から於古川に沿って、末吉、米浜、舘、二所宮、上棚を経て、函屋から金丸へと通じるルートで、羽咋郡北部の中心地の1つである高浜とその周辺の中山間地域の集落、そして後述の西往来(田鶴浜往来とも。現在の石川県道2号七尾羽咋線など)と水運による往来のあった邑知潟に波止場を設け、交通の結節点だった金丸とを結んでいた。眉丈山系を越える道路としては西寄りであり、羽咋広域農道と石川県道251号志賀鹿西線との間にある。 一方で、邑知地溝帯を横断する道路沿いはかつての西往来であり、酒井で東往来(現在の国道159号)と分岐して、大町、金丸新といった邑知潟東部の集落を結んで金丸に入り、田鶴浜へ至るルートであった。邑知地溝帯を横断する道路としては、石川県道232号若部千里浜インター線や羽咋広域農道と石川県道304号鹿西氷見線との間に位置する。当県道は、これら2つの道路を併せたものである。 現況. 起点からすぐ、峠道となっている。能登有料道路のボックスカルバートを過ぎると、幅員狭小となる。両側2車線(片側1車線)で整備されている箇所もあるが、大半の区間は1車線から1.5車線程度のすれ違いが困難な区間が続く。中能登町に入ると、待避所はほとんど整備されていない上、スギ林の中、見通しの悪い急カーブと急勾配の坂道が連続した峠道となっている。麓の中能登町金丸の集落内も狭小である。西往来に入ると、西往来と重複している区間を含め、終点まで両側2車線(片側1車線)の平坦な車道となっている。 歩道は西往来との重複区間である金丸駅口交差点から宮地交差点までの間と、宮地交差点から酒井方向へ約100mの間、長曽川新橋南詰にある下曽祢町バス停から終点の酒井交差点までの各区間にそれぞれ車道の片側に設置されている。中能登町金丸地内の135mと、羽咋市酒井町の酒井交差点の北300mから終点にかけては、地下水を水源とする消雪パイプがそれぞれ設置されている。その他の区間は除雪車などによる除雪が行われるが、函屋から金丸にかけての峠道は交通量が著しく少ないことなどから除雪されず、冬期閉鎖される。 沿道には、当県道を標す各種案内標識や看板が設置されている。県道番号標識は宮地交差点と酒井交差点との区間に立てられている。また、道路管理者である「石川県」の標示や県道番号が入ったデリニエーターも随所に設置されている。当県道と交差する主要道路の交差点手前にも当県道を標す「方面および方向」の案内標識(石川県道233号羽咋田鶴浜線との交差点付近には105-B、宮地および酒井の各交差点の付近には108の2-A)や都道府県道番号(一般都道府県道)の案内標識(118の2-B、118の2-C)が立てられ、当県道の県道番号234号がそれぞれ標示されている。ただし、金丸集落内の区間には全く設置されておらず、道路地図やカーナビゲーションシステムに表されているルートも、発行先によって異なっている。石川県発行の県道関係資料などで意識しない限りは、他の町道と見分けがつきにくい。
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早瀬方禧
早瀬 方禧(はやせ まさよし、1940年4月11日 - 2012年8月15日)は、愛知県蟹江町出身のプロ野球選手(外野手)。 来歴・人物. 中京商業高校では、3年時のに左翼手、控え投手として春夏の甲子園に出場。春の選抜では決勝で済々黌高と対戦、この試合では自身もエース伊藤竜彦をリリーフして活躍したが、1-7で敗退し準優勝に終わる。夏の甲子園でも2回戦で同じ済々黌高に敗れる。1年下のチームメートに遊撃手の石黒和弘、控え投手の平沼一夫(中京大-西濃運輸-東京オリオンズ)がおり、彼等は翌春の選抜優勝の中軸となる。 卒業後は中京大学へ進学。エースとなった平沼らを擁し、愛知大学野球リーグでは8シーズン連続優勝。全日本大学野球選手権大会でも4年連続準決勝進出。リーグ通算91試合出場、308打数87安打、打率.282、5本塁打、54打点。首位打者2回、ベストナイン6回受賞。 卒業後の、阪急ブレーブスへ入団。この年存在した研修制度により6月末からの出場となったもののプロ1年目から左翼手のレギュラーを獲得し、五番打者として94試合に出場した。には三番打者、右翼手として117試合に出場し、打率.268はチームで2番目の成績だった。肩も強くは11補殺を記録、同年は32試合に四番打者として起用されている。には主に五番打者として、阪急のパシフィック・リーグ初優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでは4試合に六番打者、右翼手として先発出場。しかし13打数3安打とあまり活躍の場はなかった。には矢野清の台頭により控えに回るが、代打の切札として活躍し、チームは2年連続でリーグ優勝した。翌年、阪急は3年連続のリーグ優勝を成し遂げるも、ヘルニアにより早瀬の出場はわずか10試合にとどまり、この年暮れに戦力外通告を受けた。 より広島東洋カープへ移籍。しかし全盛期のような活躍はできず、オフに引退した。 引退後は、地元・愛知で焼き鳥屋「やきとりの蕃」を経営した。 2012年8月15日、肺がんのために死去。。
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剣の刃
『剣の刃』(つるぎのやいば、"Le Fil de l'Epee")は、1932年にフランス将校軍人だったシャルル・ド・ゴールによる軍事理論書。ただし、具体的な理論が述べられているのではなく、彼が理想とする軍人像、および軍隊と国家との関わりなどが抽象的に論じられている。 本書の刊行から第二次世界大戦が勃発するまでの8年間に、ド・ゴールは『職業的軍隊をめざして』("Vers l’Armée de Métier", 1934年)および『フランスとその軍隊』("La France et son Armée", 1938年)を刊行した。
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南無の郷
南無の郷(なむのさと、英語: Namu no sato Cemetery)は、千葉県佐倉市にある公園墓地(霊園)。所管は文化庁所管の宗教法人信澄寺である。 概要. 千葉県佐倉市にある公園墓地で、一部が千葉県八千代市に属している。1994年(平成6年)に開園し、2008年(平成17年)まで、7回の再整備を含む墓所を拡大整備を行い、佐倉市の認可を受けている。約3万6000平方メートルもの敷地内に、約4,100区画の墓所や緑地公園を有している。 アクセス. 電車およびバス. 最寄駅である勝田台駅北口ロータリー(成田街道側)から、毎週 火・木・土・日曜および祝日に無料の送迎バスを運行している。また、彼岸や盆の期間に増発して運行している。
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リヴォニア戦争
リヴォニア戦争(リヴォニアせんそう、)は、1558年から1583年、テッラ・マリアナ(中世リヴォニア、現在のエストニア、リヴォニア)の支配を巡り行なわれた戦争。モスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にし戦った。1557年(リヴォニア騎士団が加盟)、リヴォニア連盟とポーランド・リトアニア連合(後のポーランド・リトアニア共和国)が相互安全保障条約を結び、イヴァン雷帝は、リヴォニアによるロシアへの敵対行為とみなし、ロシアがリヴォニア騎士団領に侵攻し開戦した。 1561年、リヴォニア騎士団は解散、世俗化した。テッラ・マリアナは、とスウェーデン・エストニアとなり、デンマーク王はを買った。1558年から1578年まで、タルトゥやナルヴァでの軍事的成功と共にロシアの支配が主流となった。 1576年以降、ポーランド・リトアニア共和国が好戦、1577年–1578年のスウェーデン・ポーランド・リトアニア同盟によるでの抗戦を含む。これはポーランド王を拡大させ、長く厳しいへと縺れ込んだ。 1582年のヤム・ザポルスキの和約のもと、ロシアとポーランド・リトアニア共和国は終戦した。ロシアは、リヴォニアとポラツク(現ベラルーシ)からポーランド・リトアニアまでの元占拠地を失った。1583年、ロシアとスウェーデンはに調印し、スウェーデンはエストニア公国を保持しながら大部分のイングリアとリヴォニア北部を獲得した。 概要. 西欧との通商を求めてバルト海への進出を試みるモスクワのツァーリ・イヴァン4世は、リヴォニア騎士団へ宣戦布告したことでリヴォニア戦争は開戦した。 なお、ほぼ同時期、エストニア(エストラント)を巡ってデンマークとスウェーデンとが北方七年戦争(1563年 - 1570年)を起こしているが、直接リヴォニア戦争と関連している訳ではない。デンマーク、スウェーデンが主な戦場としたのは、エストニアやスカンディナヴィア半島であり、ポーランド、ロシアとは直接、戦端を開いていない。 この戦争の最中、ポーランド・ヤギェウォ家とスウェーデン・ヴァーサ家は婚姻関係を結び、同時に対ロシア同盟を組んだ。この同盟により、ロシアはポーランド・スウェーデンから挟撃されることとなった。 侵略の危機に晒されたリヴォニア騎士団は、まずリトアニア大公国と同盟し、さらにポーランド王の従属国化を承認したものの、ロシア軍の侵攻により、滅亡は避けられない状況となった。これに目を付けたリトアニア大公国軍とスウェーデン王国軍がリヴォニアに侵攻したため、リヴォニア騎士団領は解体される事となった。デンマークは、スウェーデンのバルト海進出を阻む為に別個の戦端を開いた。 この状態を見たリヴォニア騎士団長ゴットハルト・ケトラーは、ポーランド王国に臣従し、残った領地をもってポーランドの後ろ盾でクールラント公国を建国した(1561年)。その後リトアニア大公国軍は、ロシア軍と交戦し有利に立つものの、国力を浪費し、長期戦に耐えることが不可能となり、同君連合を取るポーランド王国軍の参戦を求めた。ここにポーランドは直接参戦に踏み切ることになった。またリトアニア大公国の支配階層の多数を占めたルーシ人の住む広大な地域(現在のベラルーシ、ウクライナ、ロシアのスモレンスク地方に相当)はポーランド王国のいくつかの県として再編された。ポーランドとリトアニアは1569年にルブリン合同を結び、両国は共通する議会を持つ一体の政治機構となった。以降のポーランド・リトアニア連合を、「共和国」と呼ぶようになる。 ポーランド・リトアニア共和国の国力は強大となり、リトアニア大公国がウクライナ地方を持っていたときに交わした隣接するクリミア・ハン国との同盟を利用し、オスマン帝国とクリミア・ハン国の共同作戦(露土戦争、1568年 - 1570年)を引き出した。1570年にその講和条約がオスマン帝国とロシアの間で締結されたが、1571年にはクリミア・ハン国が単独でモスクワに侵攻し()、モスクワを焼き払った()。スウェーデンもエリク14世から王位を簒奪したヨハン3世の元で北方七年戦争を終結させ、再攻撃を開始した。ヨハン3世は前国王エリク14世を幽閉、1577年にこれを毒殺し、前王妃・王太子を追放してヴァーサ家の本家としてスウェーデン=フィンランドに君臨した。ポーランドは1572年にヤギェウォ朝が断絶。翌1573年に選挙王政となった。この隙をついてロシアが反撃を始めたものの、ポーランドの政治体制はもともと王権の弱い議会制であり、首相に相当するカンツェシュを事実上の長とする国王評議会(内閣)が軍事・外交を含めた行政のすべてを運営していたため、これはロシアの誤算であった。ロシア軍による侵攻は一時的にはリヴォニアの領有を果たすことに成功したものの、ほどなく北からのスウェーデン、南からのポーランドの同盟軍の反撃に遭い、ロシアの国力を大きく疲弊させられることとなった。余勢を駆ったポーランド軍はさらにステファン・バートリ王の元で逆にロシアに侵攻したが、ポーランドも選挙王政に入り国会による審議や会計監査が厳格化されたことで、政府は出費のかさむ長期戦を余儀なくされることを避けることを決定、和平を結ぶ事に同意した。イヴァン4世も自国の主要都市が包囲されたことで防衛のために和平交渉を開始し、1582年に両国はローマ教皇の仲介で、戦前の状態に戻すことで、休戦条約が結ばれた(ヤム・ザポルスキの和約)。 1583年スウェーデンと(、)を締結して休戦し、スウェーデンはリヴォニアから撤退し、ロシアはエストニア(エストニア公国)とナルヴァとラドガ湖西岸をスウェーデンに割譲した。この結果、ロシアのバルト海進出は絶望的となった。 結果と影響. これによって完全にリヴォニア戦争は終結した。直後の1584年にイヴァン4世が没し、モスクワはこれにより国力の低下をもたらした。さらに専制政治的なツァーリズムに対する大貴族層の反動政治により国家機能の喪失をもたらし、後の動乱(スムータ)の原因となった。さらにポーランド・リトアニア共和国とスウェーデン・バルト帝国の勢力に阻まれ、両国によってヨーロッパから駆逐される形となった。これによりロシアはツァーリ権力の衰微と共に、17世紀半ばまで弱体化して行くこととなる。 その後のリヴォニアは、ポーランド・リトアニア共和国とスウェーデン王国による王位継承問題を巡る抗争の中でスウェーデン・ポーランド戦争の戦地の一つとなり、1629年に南部のクールラントとラトガレ(、1621年に)が共和国に留まり、リガを含めた中・北部が(リーフランド)として分割された(リヴォニアは、ポーランドの勢力下ではイエズス会、スウェーデンの影響下に入った地域ではルーテル教会の布教が行われた。リヴォニア戦争前後を通じて両派の活動によりリヴォニアは解体・分離して行く事となった。一方、布教が現地語で行われたことで、この地域の行政単位が色分けされて行き、この地域の支配者であるバルト・ドイツ人とは異なる民族意識の覚醒が近代において起こることとなり、エストニア人、リヴォニア人(ラトビア人)としての共通の認識を醸成して行くこととなる)。スウェーデンはリヴォニアの大半を獲得し、17世紀を通じてこの地域への影響力を持つこととなった。 ポーランド王国はリトアニア大公国との間で国家体制を一元化して共和国(コモンウェルス)を形成することに成功、クールラント公国の宗主国となり大国の座を確実なものとした。またスウェーデンも、ロシアから領土をもぎ取り、北方七年戦争においてもデンマークを退けた事により、17世紀のバルト帝国創設のきっかけとなった。一方でスウェーデン内部では、ポーランド王家と共通の王家によりポーランド人、ルーシ人たちとともにポーランド・リトアニア・スウェーデン共和国という巨大な議会制の国際政治機構を成立しようと画策するヴァーサ家の本家筋を中心としたカトリック諸侯のコスモポリタンな勢力と、それに反対するヴァーサ家の分家筋を中心としたスウェーデン人のプロテスタント諸侯の民族主義・絶対主義系の勢力の間で、封建主義脱却後の近世の体制をめぐって確執が続いていた。この確執のためスウェーデンはポーランドからの支援を十分に受けることができず、1590年からのロシア・スウェーデン戦争に敗れ、1595年にリヴォニア戦争で得たフィンランド湾深奥部をロシアに奪われた。スウェーデンは、1610年のイングリア戦争でこの地域を奪回したが、長期に渡る戦争と国内の混乱により、国力が低下して弱体化して行くこととなった。 1587年にポーランド国王、リトアニア大公に即位したジグムント3世は、1592年にはスウェーデン王にも即位した。彼はイエズス会に教育を受けた熱烈なカトリック教会の信奉者であり、コモンウェルスの領域を疲弊したロシア・ツァーリ国にも拡大しようと目論んだ。彼は専制的で共和国と統一的なヴァーサ王朝拡大によるカトリック化の推進によって国内外に摩擦と抗争を引き起こすこととなる。これはヴァーサ家の出身地のスウェーデンに直接影響を及ぼし、反対者による分離運動に発展して行くこととなった。さらにリューリク朝断絶によって動乱時代を迎えていたロシアへの介入も問題の拡大に拍車をかけることとなった。共和国内においても、ポーランド・ヴァーサ家の専制政治への試みは、セイムとの対立を引き起こす結果となり、君主と議会の確執は、健全な議会制民主主義の発展を阻害して行くこととなった。 ポーランド・リトアニア・スウェーデン共和国はごく短期間のみ機能した。しかしカトリックのジグムント3世は、幼いころからポーランドに住み、生涯ポーランドをその治世の中心地としていたため、叔父で摂政のカールと配下のプロテスタント諸侯が1598年にスウェーデンをプロテスタント国家へと戻すべくスウェーデン国内で反乱を起こすと、ポーランドからの遠征による鎮圧を試み、失敗に終わった。以後ポーランド・リトアニア・スウェーデン共和国は名目上は存続したものの事実上は機能不全となり、ヴァーサ家もジグムント3世の系統の「ポーランド・ヴァーサ家」と反乱者である叔父のカール9世の系統の「スウェーデン・ヴァーサ家」に完全に分裂していった。17世紀のスウェーデンは、グスタフ・アドルフの元で絶対王政とバルト海の支配権を固めつつあり、事実上の再合同は不可能となって行った。ポーランド・リトアニア・スウェーデン共和国はポーランド=リトアニアとスウェーデンとの間の幾度かの激しい戦いを経て、のちの三十年戦争の終結により名目上においてもポーランド・リトアニア共和国と大国の座を勝ち取ったスウェーデン・バルト帝国に完全に分離することとなり、最終的にスウェーデン王位への請求権は、1660年に放棄することとなった。 ロシアにおいても動乱時代にポーランド・リトアニア共和国は、モスクワを占領しツァーリ位を獲得したにもかかわらず、ジグムント3世によるツァーリ戴冠とカトリック化の野心によってロシアの反カトリック主義と反ポーランド感情を呼び起こし、ロシアとの平和的合同(ポーランド・リトアニア・モスクワ連合)の構想は覆され、ロシア人王朝であるロマノフ朝が創設されることとなった。このため、ジグムント3世の子ヴワディスワフは、名目的にツァーリの称号を名乗っていたが、1634年に国境線の確定と引き替えにレガリアと称号を最終的に放棄するに至った。 リヴォニア戦争においてポーランドのヤギェウォ家との婚姻によってヴァーサ家はポーランド・リトアニア共和国に迎えられることとなったが、そのポーランド・ヴァーサ家の暴走が、その後の17世紀におけるポーランド・リトアニア共和国、スウェーデン王国、ロシア・ツァーリ国の三国関係に決定的な影響をもたらすこととなった。そして17世紀半ば、両ヴァーサ家の抗争は頂点に達し、スウェーデンは北方戦争としてポーランド・リトアニア共和国に侵攻し、一方、国力を回復したロシア・ツァーリ国もロシア・ポーランド戦争を起こし、さらにその周辺国にも軍事侵攻を許し、「大洪水時代」という未曾有の戦乱が引き起こされることとなった。ポーランド・リトアニア共和国は、最終的には侵略国を撃退したものの、その代償は共和国の荒廃と東欧の覇権国からの転落であった。ポーランド・ヴァーサ家の野心的な対外政策は、結果として共和国の衰退とヴァーサ王朝自体の終焉に至ることとなる。
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Flathead
『Flathead』(フラットヘッド)は、スコットランドのロックバンド、ザ・フラテリスの1枚目のアルバム『コステロ・ミュージック』の第2曲目に収録されている曲である。邦題は『気取りやフラッツ』。 解説. 日本ではiPodのCMで使われた歌。「バラッババラー」という歌詞が特徴的な歌である。 この曲の題名"Flathead"は、「間抜け、馬鹿」という意味。
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一木万寿三
一木 万寿三(いちき ますみ、戸籍上では「萬壽三」、1903年 - 1981年5月3日)は洋画家。 経歴. 北海道空知郡滝川村(現・北海道滝川市)で生まれ、少年時代に一家で江部乙村(現・滝川市江部乙町)に転居する。家業のりんご園を手伝いながら絵画の研究に励む。同じく江部乙村の近所に住んでいた岩橋英遠とも親しくなり、1926年(大正15年)(22歳)で上京し、本郷絵画研究所にて学ぶ。そこで岡田三郎助に師事し、安井會太郎らの影響を受けることになる。1929年(昭和4年)に帝展に初入選する。晩年は一水会の作家として自己の画風を誠実に貫く絵画活動を続けた。 1944年(昭和19年)には戦争により郷里の江部乙に疎開するが、江部乙の名産であるリンゴ園やそこに働く人々を明るく伸びやかな作風の作品を書き続けた。全道美術協会の創立にも参加し、北海道洋画界の重鎮として活躍した。 妻は北海道を代表する俳人で、氏と同じく江部乙出身の榛谷美枝子。「リラ冷え」という季語を作った俳人として知られる。娘の熊谷佳久子も「天為」に所属する俳人である。
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崔善愛
崔 善愛(チェ・ソンエ、최 선애、1960年 - )は、在日韓国人のピアニスト。父は牧師で人権活動家の崔昌華。
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復興大臣政務官
復興大臣政務官(ふっこうだいじんせいむかん)は、復興庁を担当する大臣政務官。専任の定員はなく、他府省の大臣政務官に兼任させるものとされている(復興庁設置法10条1項、2項)。
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ゴルディアスの結び目 (小松左京の小説)
『ゴルディアスの結び目』(ゴルディアスのむすびめ)は、小松左京の短編SF小説。および、同作を表題作とする短編集。 タイトルは寓話として知られた「ゴルディアスの結び目」から。 『野性時代』(角川書店)1976年1月号に初掲載された。1978年の第9回星雲賞(日本短編部門)受賞作品。 あらすじ. 裕福な家庭の子女だったマリア・Kは、遊び人の男に騙され、麻薬中毒にされ、売春行為をさせられた。それでもその男に恋していたマリア・Kは耐え、輪姦同然の行為も男のために受け入れたが、男がマリア・Kを捨てて別の女の下へと走ろうとした際に、ついに暴発した。男を殺害し、心臓を貪り喰っていたマリア・Kは保護されることになった。 治療の名目でマリア・Kはある精神病院のコンテナ状に隔絶された部屋に拘束され幽閉されていた。日本人の精神分析医・伊藤浩司が病院に招聘され、マリア・Kの治療のために精神を探る機器を接続し、マリア・Kの心を調べようとする。しかし、マリア・Kは拘束されたままベッドごとサイコキネシスで浮遊し、アポートで密室に岩を出現させるのだった。病院に資金援助する財団と院長は超心理学を実用化させようと、定期的に超能力による暴走を行うマリア・Kを重宝していた。伊藤に期待されていたのは治療ではなく、エネルギー保存の法則を無視したような超能力によるエネルギーの源の調査だったのだ。心的外傷を癒さないよう、院長はマリア・Kを強姦すらしていた。 全てに絶望したマリア・Kはブラックホールを産み出してしまい、部屋の周囲を巻き込みながらブラックホールに飲まれていった。いつしかマリア・Kを愛していた伊藤もいっしょに事象の地平面を目指して行った。院長をはじめ他の関係者は死亡し、解きほぐすことのできない結び目のような、部屋だった小さな球体が残るだけだった。 短編集. 初出は全て『野性時代』(角川書店)。 小松自身のあとがき(角川文庫版、1977年初版)に依れば、本作は小松が南極旅行をした際に感じた事を記した「個人的な旅」であり、「岬にて」が「出発」、「ゴルディアスの結び目」が「渦」、「すぺるむ・さぴえんすの冒険」が「難破」、「あなろぐ・らう゛」が「孤島」にそれぞれ関する「ほんの一行ずつのメモ」とのことである。 また、ハルキ文庫版では「ゴルディアス四部作」と銘打たれている。
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ムンド・マヤ国際空港
ムンド・マヤ国際空港(ムンド・マヤこくさいくうこう、)は、グアテマラ共和国フローレスサンタ・エレナ郊外に位置する国際空港である。フローレス国際空港(フローレスこくさいくうこう、)とも呼ばれる。 ティカルやヤシュハーといったマヤ文明の遺跡を抱えるフローレス周辺地域の国内線・国際線の航空交通を担っており、グアテマラシティ、ベリーズシティといった遠距離地域と結ばれている。 ムンド・マヤ国際空港は、グアテマラ国内の他の空港と同様に拡張工事が行われており、将来的にはより大型の航空機とより多くの航空便の受入れが可能になる。
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一宮町 (兵庫県宍粟郡)
一宮町(いちのみやちょう)は、兵庫県の中西部にあった町。宍粟郡に属した。 2005年、山崎町・一宮町・波賀町・千種町が4町合併して宍粟市となったため消滅した。現在、旧町域は「宍粟市一宮町○○」の町丁名になっている。 町名は播磨国一宮・伊和神社に由来する。なお、兵庫県には津名郡にも一宮町があったが(現・淡路市)、こちらは淡路国一ノ宮・伊弉諾神宮にちなむ。 地理. 西播磨を南流する揖保川上流に位置し、兵庫県宍粟郡の最も山深い地域である。 歴史. 沿革. 「昭和の大合併」において、町村合併促進法に基づき宍粟郡北部地域でも実態調査や住民に対する啓発等によって合併実現への努力が重ねられ、概ね5か村での合併に傾きつつあった。これに対し、兵庫県が当初策定した第一次合併計画では、将来の5か村合併を念頭に「神戸村・染河内村の2か村合併」と「下三方村・三方村・繁盛村の3か村合併」とする案が示されたが、これには各村所有財産の差異、地域の事情、住民感情等があって容易に進まなかった。対等の無条件合併の可能性があるのが「神戸村・染河内村・下三方村」の3か村だったため、北部2か村の同調を得ないまま第一次合併へと踏み切った。その後県の指導もあり、住民においても行財政力の強化のため合併へと前進し、世論の統一をみたので5か村による第二次合併が実現した。 交通. 鉄道路線. 町内に鉄道は走っていない。最寄り駅は、JR西日本姫新線播磨新宮駅。
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鹿沼南バイパス
鹿沼南バイパス(かぬまみなみバイパス)は、栃木県鹿沼市から栃木市に至る国道293号の事業路線名である。 概要. この区間の国道293号は大型車同士のすれ違いに支障をきたす狭隘区間や屈曲部などがあり、安全で円滑な交通の妨げとなっていた。本事業は交通安全の確保、観光交流の拡大、産業活動の支援などを目的として実施され、1997年(平成9年)から事業開始され、2000年に小倉橋西交差点から終点寄りの1期工区が開通し、2015年(平成27年)に2期工区が鹿沼市磯町までそれぞれ供用開始された。当初鹿沼南バイパス2期に含まれていた鹿沼市楡木から磯町の東北自動車道をアンダーパスする区間は楡木バイパス2期に編入されたため、鹿沼南バイパスとしてはこれで全線開通となる。 なお当初の起点は鹿沼市奈佐原であり、現道に接続する延長6.6 kmの道路で計画されていた。なお、起点では現道と接続せず取り付け道路での暫定接続となっているため、2期工区に並行する区間の現道も引き続き国道指定されている。
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ロータス
ロータス (lotus)
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マリー・ボンファンティ
マリー・ボンファンティ(Marie Bonfanti、1845年2月16日 - 1921年1月25日)は、イタリア出身のバレエダンサー・バレエ指導者である。イタリアやロンドンで舞台に立った後にアメリカ合衆国に渡り、『黒衣の盗賊』(The Black Crook)という作品に出演して人気を得た。アメリカ合衆国でバレエダンサーとして活躍し、現役を退いた後はニューヨークで後進の指導にあたった。ルース・セント・デニスの師として知られ、アメリカ合衆国のバレエ発展に貢献した人物である。 生涯. ミラノの生まれ。ミラノ・スカラ座のバレエ学校でカルロ・ブラジスに師事し、個人的な指導も受けていた。1860年代の前半に舞台デビューし、イタリアやロンドンで踊った。 1866年、ボンファンティはアメリカ合衆国に渡り、その地での活動を開始した。契約に際して、彼女は常に「プリマ・バレリーナ・アッソルータ」の称号を要求していたという。渡米後のボンファンティは、「大パリ・バレエ団」("Great Parisienne Ballet Troupe")に加入し、同じくミラノ出身のリタ・サンガッリとともにプルミエール・ダンスーズを務めることになった。 ボンファンティはその年の9月10日にブロードウェイにあったニブロズ・ガーデン劇場()に初登場した。大パリ・バレエ団は、同劇場で9月12日に初演された『黒衣の盗賊』という作品に出演した。この作品は、人間の魂を毎年1人ずつ悪魔に捧げるという契約を結んだ通称を『黒衣の盗賊』というペテン師と、その犠牲になりかかる若い恋人たちの物語であった。『黒衣の盗賊』は純粋なバレエ作品ではなく、音楽・ダンス・演劇を取り混ぜた1大スペクタクル作品で上演には4時間半を費やしたという。この作品はニューヨークで16か月も続演するほどの大成功を収め、その後アメリカの各地を巡演した。なお、『黒衣の盗賊』は後世の人から「アメリカ・ミュージカルの始祖」と言われるほどの重要な作品と評価され、アメリカの舞台芸術史上に大きな位置を占めている。 ボンファンティはその後アメリカ合衆国の各地を巡演し、『黒衣の盗賊』のようなミュージカル・レヴューにいくつか出演した。1882年7月15日、メトロポリタン・アルカサル・コンサートホールでの『シルヴィア』(レオ・ドリーブ作曲)にも出演している。彼女はミラノ・イタリア大歌劇団という団体のプリマ・バレリーナを務め、またニューヨークのメトロポリタンオペラ歌劇場()のプリマ・バレリーナを1885年と1886年の両年に務めた。 ボンファンティの舞踊表現における活動は、1860年代の半ばから20世紀の初頭にわたって広範に継続し、アメリカ合衆国のバレエ発展と普及に大きな貢献を果たした。彼女は1892年に一度引退したが、1901年8月に復帰して、かつて大パリ・バレエ団でともに踊ったリタ・サンガッリと合同でメトロポリタンオペラ歌劇場で公演を行った。引退後にニューヨークで舞踊学校を開設し、1916年まで指導にあたった。アメリカ合衆国におけるモダン・ダンスの先駆者の1人として知られるルース・セント・デニスは彼女の教え子であった。ボンファンティはジョージ・ホフマンという男性と結婚している。
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欅って、書けない?
『欅って、書けない?』(けやきって かけない、略称:けやかけ)は、テレビ東京で2015年10月5日から2020年10月12日まで毎週月曜日 0:35 - 1:05に放送されていた欅坂46の冠バラエティ番組である。 概要. 欅坂46の初冠番組。2015年9月、欅坂46の仮設サイト(現・公式サイト)で放送予定が発表、グループ結成から2か月後となる2015年10月5日(同4日深夜)にテレビ東京で放送開始。乃木坂46の冠番組『乃木坂工事中』(テレビ愛知制作)の後、5分間のミニ枠を挟んで放送されていた。 番組収録は、2015年10月5日の初回放送から同年12月14日の第11回放送まで都内各所のハウススタジオで行われていたが、翌週21日の第12回放送から東京メディアシティで行われていた。2019年4月8日の第175回から2代目スタジオセットを変更。シングルの歌唱メンバーとフォーメーション、グループに関する公式発表を行う場を伴っていた。 2017年8月28日、番組初の特番となる拡大1時間SPを放送。 欅坂46が「櫻坂46」と改称するのに伴い、2020年10月12日放送をもって番組終了。翌週19日から番組タイトルを『そこ曲がったら、櫻坂?』にリニューアルし、放送開始。 当番組は唯一、Blu-rayの発売は行われていない。 出演者. レギュラー. 2020年10月12日(最終回放送日)時点 過去の出演者 放送時間. 年末年始および『世界卓球』・『全仏オープンテニス』といったスポーツ中継が行われるなどの事情がある際は、放送時間を変更したり、放送自体が休止(翌週に延期)したりすることがあった。
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中国朝鮮語
中国朝鮮語(ちゅうごくちょうせんご、)は、中国に居住する朝鮮族の間で使用される朝鮮語を指す。吉林省・黒竜江省・遼寧省のいわゆる東北三省において主に用いられる。 概要. 言語規範. 中国朝鮮語は、1949年の中華人民共和国成立以降、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の言語に規範を求めてきた。そのような経緯もあり、言語規範はどれも北朝鮮のもの(朝鮮語規範集など)とほぼ同一である。したがって、これらの規範をもって中国朝鮮語の「標準語」を規定しうるのであれば、その「標準語」は北朝鮮の標準語(「文化語」)に限りなく近いものであると言える。 中国朝鮮語に関する網羅的な言語規範は、東北三省朝鮮語文事業協議小組が1977年に作成した「朝鮮語規範集」が最初である。この規範集には標準発音法・正書法・分かち書き・文章符号に関する規範が収められた。「朝鮮語規範集」は語彙に関する規範を加え、さらに一部を加筆・修正した改訂版が1984年に作られた。中韓国交樹立後、大韓民国(韓国)からの企業進出、朝鮮語教育機関の進出などが盛んになるにつれて、韓国で使用されている言語が徐々に流布しつつある。 地域差. 現実に朝鮮族の間で話されている朝鮮語は非常に多様である。朝鮮族は李氏朝鮮時代から日本統治時代にかけて、北部を中心とした朝鮮各地から旧満洲地域に移り住んでいる。大体において、咸鏡道出身者は豆満江を渡り対岸の吉林省に、平安道出身者は鴨緑江を渡り対岸の遼寧省の東南部に移り住む場合が多かったため、吉林省では咸鏡道の方言的特徴が、遼寧省の東南部では平安道の方言的特徴が色濃く残っている。朝鮮語の方言とそれぞれの地域とのおおまかな関係は以下の通りである。 中部方言と西南(全羅道)方言の大きな話者地域はなく、東北の各省に散在している。宣徳五・金祥元・趙習(1985)では、中部方言の地域として吉林省柳河県姜家店郷京畿屯、西南方言の地域として吉林省蛟河県天北郷永進村を挙げている。なお、済州方言の話者地域は認められない。 特徴. 音韻・文法・語彙のそれぞれについて、基礎となっている朝鮮語の方言の特徴に合わせて、地域ごとに特徴を持つ。基本的には朝鮮半島の朝鮮語と極めて近いが、語彙を中心にして中国語の影響も一定程度見られる。 音韻. 西南方言地域では単母音 ()および ()を持ち、東南方言地域では、()と()が区別されないなどの特徴を持つ。中国朝鮮語は概して朝鮮半島北部の方言の影響力が強く、一部の//・//・//が//・//・//で現れたり、母音/i/および半母音/j/に先立つ//が語頭に立ちうるといった北部方言の諸特徴をよく保っている。 また、東北方言・東南方言地域では、弁別的な高低アクセントを持ち、音の高低により単語の意味を区別する。 文法. 標準語の(…ですか)が、東北方言地域ではと現れ、東南方言地域ではと現れるなど、地域により方言的特徴がある。 また、統語レベルにおいて中国語の影響を受けている場合がある。 語彙. 語彙においても方言形が散見される。例えば(カエル)に対し(北部方言形)。しかし、語彙については中国語からの影響があり、少なからぬ語彙が現代中国語から借用されているため、元になった朝鮮半島の朝鮮語とも異なった語彙体系を持つ。借用には大別して以下の2種類がある。 延辺朝鮮語は日本語からの借用語もある(満州国の統治による影響): 場合によっては、中国語語彙を中国語の発音のまま使用することがあるが、その場合は「借用」ではなく、朝鮮語と中国語の二重言語使用と言うべきものである。
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クリス・ブラウン (陸上選手)
クリス・ブラウン(Christopher Brown、1978年10月15日 - )はバハマの陸上競技選手、専門は400mを主とする短距離走。ロンドンオリンピック男子4×400mR金メダリスト。シドニー、アテネ、北京、ロンドン、リオデジャネイロオリンピック男子400m、400×400mRバハマ代表。 個人種目では世界室内陸上競技選手権で度々表彰台に上ったほか、世界陸上競技選手権のリレー種目において4度メダルを獲得した。世界陸上競技選手権エドモントン大会4×400mRには第2走者として出場し、バハマ代表として優勝を飾った。 2007年は成功を収めた年であり、パンアメリカン競技大会では400mおよび4×400mRに出場しともに優勝を飾った。世界陸上競技選手権大阪大会400m決勝では44秒45のバハマ記録をマークし4位の成績を残した。4×400mRには(')、アンドレ・ウィリアムズ(')、マイケル・マシュー("")と出場し、2分59秒18の記録で2位となった。 2008年北京オリンピック400mでは44秒84で4位。4×400mRにはアンドレッティ・ベイン、ウィリアムズ、マシューと出場、2分58秒03の記録で2位となり銀メダルを獲得した。 2010年3月ドーハで開催された世界室内陸上競技選手権400mに出場し45秒96の記録で優勝した。 2012年ロンドンオリンピックの開会式ではバハマ選手団の旗手を務め、400mでは4位、4×400mリレーでは金メダルを獲得した。
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山本康正
山本 康正(やまもと やすまさ、1981年 - )は、日本のベンチャーキャピタリスト、京都大学特任准教授、ハーバード大学客員研究員。 来歴. 1981年、大阪府生まれ。3人兄弟の末っ子。4歳の時に日本航空123便墜落事故で父親を亡くす。西大和学園中学校・高等学校、京都大学農学部卒業。東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学研究系環境学専攻国際環境協力コース修士課程修了。修士号取得後、三菱東京UFJ銀行(現:三菱UFJ銀行)ニューヨーク米州本部に勤務。ハーバード大学大学院で理学修士号を取得後、Googleに入社してフィンテックや人工知能(AI)などで日本企業のデジタル活用(DX)を推進。2018年より米国のベンチャーキャピタルDNX Ventures インダストリーパートナー。2021年より、パシフィック・リーグマーケティング株式会社(PLM)のテクノロジーアドバイザーを務めている。
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愛媛県立宇和島南中等教育学校
愛媛県立宇和島南中等教育学校(えひめけんりつ うわじまみなみちゅうとうきょういくがっこう)は、愛媛県宇和島市文京町にある県立中等教育学校。
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蟷螂襲
蟷螂 襲(とうろう しゅう、1958年10月21日 - )は、日本の俳優、劇作家。身長174cm、体重63kg。血液型はAB型。PM/飛ぶ教室主宰。ライターズカンパニー田畑冨久子事務所所属。 人物・来歴. 兵庫県尼崎市出身。立命館大学文学部哲学科卒業。 1979年、劇団犯罪友の会にて初舞台。劇団満開座を経て、1989年より中島らも主催の笑殺軍団リリパットアーミーに所属。 1994年にはPM/飛ぶ教室を旗揚げ。
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ローナ・ヘイウッド
ローナ・メアリー・ヘイウッド(Lorna Mary Haywood, 1939年1月29日 - )は、イギリスのソプラノ歌手。 バーミンガムの生まれ。ロンドン王立音楽大学でメアリー・パーソンズとゴードン・クリントン、ジュリアード音楽院でセルジウス・カーゲン、バーヴァリー・ジョンソンの各氏に声楽を師事。1964年のジュリアード音楽院でのレオシュ・ヤナーチェクの《カーチャ・カバノヴァー》の上演で初舞台を踏んだ。1966年にはコヴェントガーデン王立歌劇場に初登場している。1990年代末から歌手活動を引退し、オペラの演出家として活動するようになった。
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ハプログループM7a (mtDNA)
ハプログループM7a (mtDNA)(ハプログループM7a (ミトコンドリアDNA)、)とは、分子人類学で用いられる、人類のミトコンドリアDNAハプログループ(型集団)の分類のうち、ハプログループMを祖先に持ち「ハプログループM7」より分岐したものである。 概略. 起源. 約4万年以上前に誕生したアジア最大の母系グループである「M」型から分岐したM7より分岐したグループで、約2万5000年前に「スンダランド」で誕生し北上して日本列島に到達した系統にあたるとする見方がある一方で、シベリア南部 - 極東あたりで発生したとする見方もある。 古人骨. 2010年までに沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から発掘された、旧石器時代の人骨を国立科学博物館が分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち2点は、このハプログループM7aと呼ばれる系統であることが明らかとなった。 分布. 日本人の約7.6%がこの型に属し、沖縄(23%)、本州(7%)の他、北海道アイヌ(16%)や、縄文人の人骨からも検出されている。韓国人にも3%弱確認され、日本から移住し在住・帰化している日本人であると思われる。 系統樹. ハプログループM7のサブクレードの系統樹は、との論文に基づく。
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ポール・トーマス (ベーシスト)
ポール・トーマス(英:Paul Thomas、1980年10月5日 - )はアメリカ合衆国のミュージシャン。グッド・シャーロットのメンバー。
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まなびパークたじみ
まなびパークたじみは、岐阜県多治見市にある複合学習施設。命名権名称はヤマカまなびパーク。 特色. 多治見市図書館本館と多治見市学習館で構成されている。学習館は、生涯学習支援の拠点になっており、市民講座(たじみオープンキャンパス)、桔梗大学(高齢者を対象とした学習プログラム)、各種講演のほか、放送大学や岐阜大学大学院サテライト教室などの通信教育事業、美術展や文芸祭などの文化教育事業、地域の学習支援事業(アウトリーチ)、青少年教育事業、市民やグループ活動の支援を行っている。 施設. 2階から4階が図書館、4階から7階が学習館となっている。(4階部分は共用)
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Applied Physics Express
Applied Physics Express (アプライド・フィジクス・エクスプレス、APEX, Appl. Phys. Express) は、2008年1月に日本で創刊された、応用物理学分野の科学学術雑誌。4ページ以内の、査読された速報記事(レター論文)のみ掲載される。応用物理学会を主体とし、日本物理学会との協同内部組織である物理系学術誌刊行センター (PCPAP) によって刊行されている雑誌の一つ。同じく応用物理学会PCPAPが発行している"Japanese Journal of Applied Physics" (JJAP) の姉妹誌。 概要. 投稿は会員・非会員に関係なく全世界から受け付けている。「新しい研究結果に関する最新かつ簡明なレポートの迅速な普及を目的」としており、投稿から最短で2週間で発行される。オンライン発行を主体とし、また全ページカラー印刷である。 学術会議の特集号として刊行される場合もある。 JJAPからの分離独立. 応用物理学分野における進展が早くなる中、速報性の高い論文誌が求められるようになり、1982年以降、"JJAP" は "Part 1" (Regular Papers, Short Notes, Review Papers) と "Part 2" (Letter, Express Letters) とに分かれて発刊されるようになった。Letters、Express Lettersは、発見や実験の速報性が要求されるために、本論文が発行される前に刊行が必要なための分離であった。2008年1月、当時"JJAP"の発行を行っていた物理系学術誌刊行協会(IPAP)は、"JJAP Part 2" を分離する形で "Applied Physics Express" を創刊した。なお "Part 1" は、現在も"Japanese Journal of Applied Physics"として、刊行されている。IPAPの発展的解消に伴い、現在は応用物理学会から発行されている。
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日本社会党
日本社会党(にっぽんしゃかいとう、にほんしゃかいとう、、、略称: JSP)は、かつて存在した日本の政党。社会主義を掲げる革新政党である。 略称は社会党、社会。新聞やメディアでは民社党と混同しないよう社党と記される場合もある。1960年に党内の右派が離党し、民主社会党(のちの民社党)を結成。本党は1996年に社会民主党に改名した。 1945年に新生日本を社会主義によって切り開いていくべく、第二次世界大戦中に身を潜めていた社会大衆党を中心とする戦前の無産政党や労働運動関係者、社会運動家らが安部磯雄らに呼応して結集し結成された。 全日本自治団体労働組合(自治労)、日本教職員組合(日教組)等の官公庁労働組合(官公労)を中心とした日本労働組合総評議会(総評)が最大の支持基盤だった。これらの支持基盤は、2022年現在も立憲民主党を中心に、社会民主党や新社会党にも引き継がれている。 党史. 結党から片山内閣へ. 日本社会党は1945年、第二次世界大戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。右派の社会民衆党(社民)系、中間派の日本労農党(日労)系、左派の日本無産党(日無)系などが合同したもので、右派、中間派は民主社会主義的な社会主義観を、左派は労農派マルクス主義的な社会主義観をもち、後に分裂して民主社会党(後の民社党)を結成していく右派は反共主義でもあった。日労系の中心的メンバーは、戦前、社会主義運動の行き詰まりを打開するために、天皇を中心とした社会主義の実現を求めて軍部に積極的に協力し、護国同志会出身者を中心に、大政翼賛会への合流を推進した議員が多かった。一方、左派は天皇制打倒を目指そうとした者が多かった。なお最初の結党の動きは、終戦の翌日に西尾末広(後の民社党初代委員長)と水谷長三郎が上京に向けて動き出すところから始まり、旧社会民衆党の議員が中心となって動き出した。 結党当初、党名は「日本社会党」か「社会民主党」かで議論となり、日本語名を「日本社会党」、英語名称を「Social Democratic Party of Japan」(SDPJ、直訳は日本社会民主党)とすることで決着した。後に左派が主導権を握るにつれ次第に「Japanese Socialist Party」(JSP、直訳は日本社会党)の英語名称が使われるようになった。その後再び右派の発言力が強くなり社会民主主義が党の路線となると、SDPJの略称が再確認された。 このように社民系、日労系、日無系の3派の対立を戦前から引きずり、たびたび派閥対立を起こした。社会党結成に加わった左派の荒畑寒村は後に「社会主義とはまるで縁のない分子と、情実と、便宜のために作られたに過ぎなかった」と評しており、事実として結成懇談会では社会主義について全く触れられてはいなかった。ただこの派閥対立は後述するように1959年の右派(後の民社党)離脱とベ平連運動後は自衛隊と日米安保への賛否の対立はなくなっていくこととなり、この2つには反対で一致して行き、マルクス・レーニン主義か社会民主主義かを巡るものに収斂していった。 なお、日労系は戦争に協力したとして、指導者の多くが公職追放され、結党当初は影響力を持つことが出来なかった。革新華族として知られた徳川義親侯爵など名望家を担ぐ思惑から、当初は委員長は空席とされ、初代の書記長に片山哲が就任した(後に委員長に就任)。 ポツダム宣言受諾により、大日本帝国憲法の改正が必要になると、各党から改憲案が出され、社会党も1946年2月23日「社會黨 憲法改正要綱」を発表した。民間の憲法研究会案の作成にも加わった高野岩三郎、森戸辰男等が起草委員となったが、3派の妥協の産物といえる内容だった。社会主義経済の断行を宣言する一方、天皇制を存置する代わりに実権を内閣と議会に移す、国民の生存権を保証し、労働を義務とするなど、社会主義を別にすれば、実際にできた新憲法にかなり近い内容であった。また、新憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の規定および、27条で「休息」に言及したのは、帝国議会の審議で社会党の主張が反映された修正という。社会党案の独自性としては、社会主義経済を明記してあるほか、国民投票による衆議院解散、内閣総辞職を可能にし、直接民主制の要素を強めていること、議会を通年とすること、死刑廃止を明記したことなどが挙げられる。 新憲法下最初の総選挙である1947年第23回総選挙で比較第1党となり、その結果民主党・国民協同党との3党連立内閣である片山内閣が成立したが、右派の重鎮であった平野力三農相の公職追放を巡って右派の一部が社会革新党を結成して脱党したり、党内左派が公然と内閣の施政方針を批判したり党内対立はやまず、このため翌1948年に片山内閣は瓦解した。 西尾末広内閣官房長官は左派の入閣を認めず、左派は事実上の党内野党となっていた。それに続く芦田内閣でも社会党は与党となり、左派の一部も入閣したが、最左派の黒田寿男ら6人が予算案に反対して除名されるなど、最右派と最左派を切り捨てる結果になった。昭和電工事件で芦田や西尾副総理が逮捕されると下野に追い込まれた。12月3日、除名された黒田らは労働者農民党を結成。1949年1月の第24回総選挙では、48名に激減して委員長の片山も落選した。 総選挙敗北後の第4回大会で、国民政党か階級政党かをめぐって森戸辰男と稲村順三との間でおこなわれた森戸・稲村論争は、その後の左右対立の原型となった。なおこの時には、社会党の性格は「階級的大衆政党」と定義されて、決着した。1949年8月には、さらに左派から足立梅市らが除名され、社会党再建派を組織した。 左右の分裂と総評、社会主義協会の結成. 1950年(昭和25年)1月16日、社会党左派と社会党右派の対立激化で一旦分裂する。この時には75日後の4月3日の党大会にて統一し、対立は収まったに見えたが、サンフランシスコ講和条約への賛否を巡って再び左右両派が対立し、1951年(昭和26年)10月24日再分裂する。左右両派が対立するなか、1950年(昭和25年)に日本労働組合総評議会(総評)が結成される(武藤武雄議長、島上善五郎事務局長)。総評は労働組合から日本共産党の影響を排除しようとするGHQの肝いりで結成された。 しかし、国内で再軍備論争が過熱するようになると、総評内では再軍備反対派が台頭し、第二回大会では「平和四原則」(全面講和・中立堅持・軍事基地反対・再軍備反対)が決定された。第二代事務局長の高野実も反米・反政府の姿勢を強めた。1951年(昭和26年)には山川均・大内兵衛・向坂逸郎など戦前の労農派マルクス主義の活動家が中心となって社会主義協会が結成されるなど、その後社会党を支える組織的、理論的背景がこの頃に形成されていった。この西欧社会民主主義と異なる日本社会党の性格を、日本型社会民主主義と呼ぶ見解もある。 1951年(昭和26年)、分裂直前に委員長に就任した鈴木茂三郎は「青年よ再び銃をとるな」と委員長就任演説で訴え、非武装中立論を唱えた。この考え方は厭戦感情の強かった当時の若者などにアピールして、分裂以後も非武装中立論を唱えた左派社会党は党勢を伸ばした。左派社会党躍進の背景には、総評の支援もあった。一方、右派社会党は再軍備に積極的な西尾末広と消極的な河上丈太郎の対立もあって、再軍備に対して明確な姿勢を打ち出すことが出来ず、さらに労組の支援も十分にうけられなかったために伸び悩んだ。こうして、左派優位の体制が確立した。この間、1952年(昭和27年)には、社会革新党の後身である協同党が右派に合流している。 左派社会党は1954年(昭和29年)に、向坂逸郎らが作成に関与し社会主義革命を明記した綱領(左社綱領)を決定した。作成の過程で清水慎三から民族独立闘争を重視した「清水私案」が提出されたが、綱領委員会で討議の結果否決された。左社綱領は、労農派マルクス主義の主張が体系的に述べられたものであったが、左右社会党が再統一を果たすと、折衷的な内容の綱領である「統一社会党綱領」がつくられた。 社会党、特に左派は再軍備反対と共に、護憲を公約に掲げるようになった。1955年(昭和30年)の第27回総選挙では、左右社会党と労農、共産の4党で、改憲に必要な2/3議席獲得を阻止する1/3の議席を確保したため注目された。 日本国憲法は社会党案に近い内容で、そのため制定当初から社会党は好意的であった。しかし、左派には社会主義憲法の制定、天皇制廃止を求める意見があり、一方の右派には再軍備賛成など、いずれも改憲が必要となる意見が存在した。そのため、"左派は護憲派と名乗りながら実際の憲法の内容を必ずしも支持せず、逆に右派で後に分裂して民社党を結党していく勢力は、次第に明文・解釈改憲 に傾いていった"。 再統一と60年安保闘争・三池争議. 左右両派は1955年10月13日に神田共立講堂で党大会を開き社会党再統一を果たした(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長)。1950年代の躍進により、再統一時の社会党の衆議院での議席は156にまで拡大した。同年11月には保守合同で自由民主党が結成され、両党を合わせて55年体制とも呼ばれるようになった。 当時は二大政党制を理想とする考え方が強く、社会党自身も政権獲得は間近いと考えていた。1956年3月には、最高裁判所機構改革に並行し、違憲裁判手続法の法案を衆議院法務委員会へ提出した。また、7月の第4回参議院選挙では、自民61議席に対し、社会49議席と健闘した。そのため、社会党の総選挙にかける期待は大きかった。 1957年1月には労働者農民党が合流し、ようやく社会党勢力の分裂は完全に解消された。この時点で衆議院160議席となっていた。 しかし、1958年の第28回総選挙では社会166、自民287と保守の議席に迫ることができなかった。得票数は伸びたが、保守合同で候補者の乱立を抑えた自民の前に伸び悩んだのである。ただし、後から見れば社会党にとっては最高記録であり、また唯一 1/3 を超す議席を獲得した選挙だった。 1959年第5回参議院選挙では東京選挙区で公認候補が全滅するなど党勢が伸び悩んだ。最右派の西尾末広は、階級政党論、容共、親中ソ路線が敗因と批判した。さらに、安保改定に反対するなら安保条約に代わる安全保障政策を明確にすること、安保改定阻止国民会議の主導権を総評から社会党に移し、国民会議から共産党を追放するよう要求した。逆に、総評の太田薫と岩井章は、共産党との共闘(社共共闘)を原則にするよう主張し、両者は真っ向から対立した。 これ以前の1956年、総評に批判的な右派労組が全日本労働組合会議(全労会議)を結成し、三井三池争議では会社側と協調する動きを見せるなどした(第二組合、左派から見た御用組合)。全労会議と密接な関係を持っていた西尾末広派と河上丈太郎派の一部は、1959年に相次いで脱党し翌年民主社会党(後の民社党)を結成する。 当時、日米安全保障条約の改定が迫りつつあり、社会党は安保条約の廃棄を争点に政権獲得を狙った。福岡県大牟田市の三井三池争議も泥沼化し、この三池争議と安保闘争を社会党は全精力を傾けて戦うことになる。このなかから、社会党青年部を基礎に社青同(日本社会主義青年同盟)が1960年に結成された。三池争議も労働側に著しく不利な中労委の斡旋案が出されるに至り敗北が決定的となり、新安保条約も結局自然成立してしまった。 構造改革論争と「道」の策定. 民社党が分裂したものの野党第1党の地位を維持しながら、保守勢力に対する革新勢力の中心として存続した。浅沼稲次郎委員長刺殺事件直後の1960年第29回総選挙では、145議席を獲得。民社党参加者の分を18議席奪い返したが、民社との潰し合いもあり、自民は296議席と逆に議席を増やした。 1958年総選挙直後から、党内では党組織の改革運動が始まり、中心人物の江田三郎は、若手活動家の支持によって指導者の地位を確立した。江田は安保闘争と三池争議挫折の反省から、漸進的な改革の積み重ねによって社会主義を実現しようという構造改革論を提唱するが、江田の台頭に警戒心を抱いた佐々木更三との派閥対立を激化させる結果に終わった。また、佐々木と手を結んだ社会主義協会の発言力も上昇した。党の「大衆化」の掛け声とは裏腹に、指導者たちは派閥抗争に明け暮れ、社会党は専ら総評の組織力に依存する体質に陥った。1964年には、社会主義協会の影響が強い綱領的文書「日本における社会主義への道」(通称「道」)が決定され、事実上の綱領となった。「道」は1966年の補訂で、事実上プロレタリア独裁を肯定する表現が盛り込まれた。 社会党は社会民主主義政党による社会主義インターナショナルに加盟していたが(民社党も分裂後に別個に加盟)、社民主義については、資本主義体制を認めた上の「改良主義」に過ぎないと、左派を中心に非常に敵視した。左派は、現体制の改良ではなく資本主義体制そのものを打倒する革命を志向し、社民主義への転換は資本主義への敗北だと受け止めたのである。民社党の離反による左派勢力増大もあり、党内右派も積極的に社民主義を主張できなくなった。その結果、社会主義インター加盟政党でありながら、ソ連・中国や東欧諸国など東側の共産主義陣営に親近感を示す特異な綱領をもつ政党となった。この間、社会党幹部はソ連や中国に友好訪問を繰り返す一方、アメリカについては、1957年に訪米団を派遣してから、18年間も訪米団が派遣されないなど疎遠な関係が続き、共産主義の東側諸国に傾斜した外交政策がとられた。なお、社会主義インターは日本社会党が反対する米国の「ベトナム戦争」を支持したため、社会党はしばらくの間、会費を滞納していたという。しかし退会はしなかった。 この時期、日本共産党が第6回全国協議会(六全協)を開催し、混乱要因であった武装闘争路線を放棄し、ソ連・中国と決別し自主独立路線を採用した。日本共産党は日本社会のマイノリティーとも一線を引くことになり、部落解放同盟や朝鮮総連は日本共産党と距離をおき、日本社会党との距離を縮めていくことになる。 党内の派閥対立は、民社党として右派が離脱後は安全保障(自衛隊、日米安保を認めるか)を巡るものはほぼ解消され、マルクス・レーニン主義路線の是非を問うものに変わっていった。 党勢の停滞. この間、1963年の第30回総選挙では前回比1議席減の144議席、1967年第31回総選挙では同4議席減の140議席と、予想に反して社会党の党勢は停滞・微減した。高度経済成長の中、人口の農村から都市への移動は続いており、労働組合を支持基盤とする社会党の議席は本来増加するはずであった。社会党自身も、この時期は政権獲得に必要な過半数の候補者を擁立しなかったものの、後年の長期低落にみられるような候補者数の絞り込みはしていなかった。 社会党議員団の中に、労組への過剰依存に対する懸念がなかったわけではない。1964年には、成田書記長によって、「日常活動の不足、議員党的体質、労組依存」が社会党の弱点として指摘されている。いわゆる「成田三原則」と呼ばれるものであり、停滞克服の一定の努力はした。要するに大衆的基盤の欠如が問題視されたのであるが、この点は以後も結局改善されず、また成田が指摘した三原則の克服は、党官僚の跳梁跋扈や、党活動家の左傾化、議員や議員後援会から党が遊離することなど、後に江田離党問題に浮上するような、世間から社会党が遊離する原因ともなった。更に社会党は、社会変化に適応した政策策定の不十分さと内部の派閥抗争により、結果的に有効な対策を打ち出せなかった。これについて、石川真澄は、新たな都市流入人口は、相当部分が「常時棄権層」に回る一方、一部は公明党や日本共産党など、地域の世話役活動に熱心な政党に吸引され社会党には流入せず、社会党の支持層は、旧支持層の加齢に並行して高齢化していき、都市部では次第に多党化現象が顕著になっていったと指摘している。また、田中善一郎などは、この時期の自民党の候補者減と野党の候補者増で、結果的に野党票が増えたと分析している。これらの指摘は、都市部で社会党支持者が離れたとの分析という点で共通している。 低落を決定づけた1969年の総選挙. 1969年の第32回総選挙では候補者を26人も絞ったが、140から90へと大きく議席を減らす。特に都市部での落ち込みは決定的で、東京都では13から2議席に激減した。この原因について石川真澄は、選挙の投票率が前回から大きく下落し、その下落幅が社会党候補の絶対得票率の下落にほぼ等しいこと、新聞各紙による社会党候補者の当選者数の予想の失敗(朝日新聞はこの選挙での社会党の当選者数を118名前後と予想していた)から、前回選挙までは社会党に投票していた旧来の支持層の多くが棄権し、投票所に行けば社会党候補に投票するはずであった有権者の相当部分が実際には投票所に行かなかったため、社会党候補の得票数が減少し、その結果として各選挙区で当落線上にあった社会党候補の大部分が落選したためであるとの見解を示している。そして、この時に社会党にとって特に不利になるような社会構造の変化が突然起こったわけではない以上、当時の政治的な問題が原因だとしか考えられず、その原因として考えられるのは、この時期に起きた社会主義に幻滅を与える数々の事件(新左翼による暴力的な全国学生闘争/70年安保闘争やそれに伴う内部暴力抗争=内ゲバ)、中華人民共和国の文化大革命の混乱、チェコスロバキアへのソ連率いるワルシャワ条約機構軍の侵攻(チェコ事件)などについて、社会党がはっきりと批判的な態度を取らず曖昧な態度に終始していたこと、文革やソ連の侵攻について党内には理解を示す動きすらあったことではないかと推測している。また、この時から各種世論調査で「支持政党なし」層が急増することにも注目し、社会党を支持していた層のうち、69年総選挙で一旦棄権した後、社会党支持には戻らず「支持政党なし」に移行した有権者が多数存在していたのではないかとも述べている。 しかし、自主独立路線を確立しソ連や中国への批判姿勢を強めた日本共産党は、この時期から議席が拡大傾向を示すようになり、社会党の側からも脅威と見られるようになった(これが社共共闘が壊れた理由の一つでもある)。また新左翼に対する若年層の支持はそれなりにあったし、中華人民共和国の文化大革命の実態はこの時点ではほとんど知られておらず、「ベトナム戦争はアメリカ帝国主義の不正義性とアジア各国の非ソ連型社会主義の優越性を示すもの」として、社会主義への期待は一部に残っていた。 社会党の財政は弱体で、所属議員数に応じて会派に支給される立法事務費を党財政の足しにしていた。そのため、50議席減による減収によって、 本部書記局員、機関紙局員の約1/3にあたる67人が整理(自主退職含む)されることとなった。指名解雇者の反発は大きく本部内部に多数のアジビラが貼られたほか、外部には解雇を非難する立て看板も立てられる事態になった。また、人員整理は再就職の当てがある人材を対象としていたため、優秀な職員を手放すことになったことは痛手となった。 1972年の第33回総選挙では、成田知巳委員長、石橋政嗣書記長(成田-石橋体制)のもとで前回の90から118へ戻し、ある程度の議席を回復したものの、得票数では前回失った票数の約半分を取り戻すにとどまり、完全に議席を取り戻すまでには行かなかった。 都市部での退潮と万年野党化. 55年体制の成立当初は、社会党は政権獲得を目指したが、地域などへの利益誘導を武器とする自民党の一党優位体制が長く続くなかで、これに対抗するための地域の世話役活動が衰弱し、公明党や共産党に支持基盤を奪われることとなった。さらには中選挙区制のもとで、個々の選挙区の獲得議席を安定化させるために候補者絞り込みを行ってきたため、社会党は議席の現状維持を容認し長期低落傾向を示すようになった。社会党は「万年野党」と呼ばれ、支持者にも自民党政権の永続を前提とする認識が広がり始めた。 特に都市部での凋落はひどかった。東京都議会ではその傾向がひどく、1969年東京都議会議員選挙で、公明党に抜かれ第3党となり、1973年東京都議会議員選挙では共産党にも追い抜かれ、第4党に転落した。その一方、地方では自民党と社会党で議席を分け合う構図はほとんど変わらなかった。(ただし、圧倒的に自民党の議席が多く、北海道など一定の地盤のある県を除き、2:1以上に議席の格差があった)後述する革新自治体を都市部に誕生させる実績は残したものの、全体として社会党は都市型政党から次第に農村型政党に変貌していった。 革新自治体と社会主義協会派の台頭. 1960年代後半から1970年代の社会党は日本共産党も含む全野党共闘路線をとり、自治体首長選挙では共産党と共闘し(社共共闘)、東京都、大阪府など各地で革新首長を誕生させた。四日市ぜんそくや川崎公害など昭和40年代に公害問題や社会福祉の充実など一定の成果を残したが、財政悪化を招いたとの批判がいわゆる「保守政党」からされることがある。 この時期には、社青同内の解放派(のちの革命的労働者協会(革労協))など極左派が排除される一方、社会主義協会の影響力が組織的にも強まった。向坂逸郎を総帥とする当時の社会主義協会は、マルクス・レーニンの「古典」の解釈ドグマを絶対視し(安東仁兵衛は協会派のイデオロギーを、ベルンシュタインを修正主義と批判し、レーニン主義を極左主義と批判し、社会主義への移行を歴史の必然的法則であると主張するカウツキー主義=西欧における正統派マルクス主義に近いと評している)ソ連を社会主義の祖国と仰ぎ、チェコ事件でソ連の軍事介入を公然と支持するなど、社会党の党是である中立政策を逸脱する路線をとっていた。また組織的にも独自の綱領と地方組織をもち、所属議員はほとんど持たない一方で、社会党の地方組織の活動家や労働組合の専従活動家などの中心的党員を会員とし、党組織での影響力を強めていた。 1967年10月25日付のソ連共産党中央委員会国際部のロスティスラフ・ウリヤノフスキー副部長が署名したソ連中央委員会あての報告書によると「日本社会党指導部がソ連共産党指導部に対し日本社会党に経済援助を与えるよう要請してきた。このことの具体化を図るため日本社会党の当時の財務委員長の原茂らがモスクワを訪れた。彼らによれば日本社会党が陥っている負債8億円に及んだ財政危機について語られた」。その後の細かいやりとりも経てソ連共産党国際部が出した結論は「日本社会党が果たしている日ソ関係での重要な役割を考慮してこの計画に全面的な資金を与える」というものだった。実際には国際公党間の直接の資金収受はできないと考えた双方はソ連外国貿易省と日本社会党と結びついた貿易商社を使って資金の闇収受を行った。ソ連共産党が日本国内における親ソ派との連携を図るうえで社会党との利害関係が一致していた。その翌年に起きたソ連のチェコスロバキア侵攻(プラハの春)にたいして、社会党がソ連擁護の論陣を張った。こうした事実も、当初はデマゴーグだと弁明した者もいたが、クレムリンの秘密文書が明るみにでてすべて事実であることが確認された。 親ソ傾向の社会主義協会派の勢力拡大により、本来の左派である佐々木は中国との接近を強めるとともに、構造改革論争以来の仇敵の江田と結び、以後、協会派と反協会派の党内対立が激化した。1975年にソ連敵視を意味する覇権主義反対を明記した日中共同声明を成田委員長が結んだことで、両者の対立はさらに激化した。闇資金をもらっておいて、その理屈は何だとばかりにソ連は激しく抵抗した。この事情は、当時の一般日本国民には全く知られることがなかった。 協会規制と「新宣言」. 1976年の第34回総選挙で初めて自民党が過半数割れ(ただし追加公認で過半数確保)すると、政権交代は現実のものとして論議に上った。しかし党の内紛は続き、江田三郎は1977年党大会で協会派が代議員の多数を制し、副委員長を解任されたことで社会党に絶望したと述べて離党し、社会市民連合(後の社会民主連合)を結成した。経済問題に強い江田及び構造改革派の失脚により、護憲と国労の比重が増していくことになる。 江田離党と1977年参院選敗北が契機となり、成田委員長らは辞職し、協会規制がおこなわれ、社会主義協会の活動に一定の歯止めがかけられた。これ以降、総評の変化もあり1980年代以降の社会党は、飛鳥田一雄委員長、平林剛書記長の指導の下、日本共産党を除き、民社党や公明党などの中道政党と連立政権を作ろうという構想(社公民路線)をとった。 1970年代後半からは議席数では与野党が伯仲したが、有権者の意識の上では、自民党政権はむしろ安定性を増していた。1980年の衆参ダブル選挙(第36回総選挙・第12回参議院選挙)で自民党は大勝したが、1983年の第37回総選挙で再び与野党の議席は伯仲した。しかし社会党の議席は微増(107から112)にとどまった。公明・民社は表向き社公民路線を取りつつも、自民との政策協議を重視するようになった(自公民路線)。さらに労働界も、政府に対する政策要求の効果を高める目的で、IMF-JCを中心に社会党支持労組の中からも政策協議路線を後押しする動きが強まり、自民党を中心に政策決定していくことを前提にした政党間関係を構築していくようになる。こうした動きは日本共産党から「国政もオール与党化」「大政翼賛会の二の舞」などとの批判が浴びせかけられる。一方では、1960年代から続く、自民党との国対政治が常態となっており、自公民+社の政策協議路線と、自社両党の国対政治が交差しながら、低落した党勢の中で最大限に政策実現を図ろうとしていた。 1985年、社会主義協会の指導者であった向坂逸郎が死去し、その前後から社会主義協会内も現実路線と原則路線との対立が始まった。1986年、激しい論争を経て、石橋政嗣委員長のもと、「道」は「歴史的文書」として棚上げされ、新しい綱領的文書である「日本社会党の新宣言」が決定された。これは従来の、平和革命による社会主義建設を否定し、自由主義経済を認め、党の性格も「階級的大衆政党」から「国民の党」に変更するなど、西欧社会民主主義政党の立場を確立したものである。ただし採決による決着を回避し社会主義協会派代議員を含めた全会一致の採択を実現するための妥協策として、旧路線を継承するとも取れる付帯決議を付加したため、路線転換は明確とはならなかった。 土井ブームの盛り上がりと凋落. 「新宣言」決定後も退潮はとまらず、1986年夏の衆参ダブル選挙(第38回総選挙・第14回参議院選挙)は大敗(衆院で112から85)し、退任した石橋委員長の後継に土井たか子が就任、議会政党としては日本初の女性党首が誕生した。土井社会党は土井の個人人気と女性候補(「マドンナ」と呼ばれた)を積極的擁立など女性層を中心とする選挙戦術を展開し、消費税導入やリクルート事件、農業政策に対する不満を吸収した「激サイティング!社会党」のキャッチコピーを掲げ、1989年の第15回参議院選挙では46議席を獲得。自民党は36議席しか獲得できず、連合の会と共に、自民党を非改選を含めても過半数割れに追い込み、改選議席で自民党を上回った。土井の個人的人気による選挙結果のため、土井ブームと呼ばれた。このとき土井は開票速報番組の中で、「山は動いた」という名言を残している。この時の候補者の多くが消費税撤廃を公約としたため、参議院において消費税廃止法案を提出・可決したが、衆議院において廃案になったため実現しなかった。 1990年の第39回総選挙でも60年代後半並みの136議席(公認漏れなどを含めると140)を回復し前進を示した。しかし、自民党は追加公認を含めて安定多数の286議席を獲得して底力を見せ、社会党がこの選挙で掲げていた政権交代の実現は頓挫した。つまり、社会党の議席増の相当部分は、自民党からでなく、他の野党から奪ったものであり、別の見方をすれば、この時期は日本社会党が西欧諸国の社民主義政党のように保守主義政党と政権交代を繰り返すような勢力となる、「保守政党と社民政党による二大政党制」へと発展できる最大の好機でもあった。 しかし、社会党にとって最大の好機にも関わらず、この選挙で社会党は定数512に対し149人しか擁立できなかった。社会党内の激しい派閥抗争に加え、長年続いた各選挙区における消極策が今回もあらわれたのだった。それは社会党の体力が奪われていることを示していた。土井執行部は180人擁立を目標にしていたが、無所属候補や他党系無所属候補の推薦を含めても160人にとどまった。本来なら陣頭指揮をとるべき書記長の山口鶴男さえ、自分の選挙区での2人目の候補擁立を暗に妨害する始末だった。さらに、資金難も候補擁立の障害となった。土井によれば、落選した場合の生活保障ができなかったことを理由に、勧誘を断られるケースが多かったという。しかし、社会党内部では、政権奪取に失敗にもかかわらず議席数の回復への安堵感が強かったため、社会党は政権獲得の意志を持たない万年野党に満足する政党だとの批判を受けた。さらに、社会党の一人勝ちに、社会党と共闘路線をとっていた民社党・公明党の離反を招く結果となり、社会党の右派はこれを理由に「社会党の一人勝ち」を内部から非難さえした。 なお、この選挙で特筆すべきは公認候補だけで56人という空前の数の新人が誕生したことである。後述のように、この後社会党は政権参加を経ながらも、曲折の後に凋落の一途を辿り、中堅・若手議員の多くが民主党に参加する。社会党出身議員はその重要な母体となるが、中でも90年初当選組は大きな役割を担い、やがて2009年に実現する民主党政権でも、政権中枢の要職に就くことになる(この選挙での初当選議員として、仙谷由人、松本龍、岡崎トミ子、赤松広隆、細川律夫、輿石東、大畠章宏、鉢呂吉雄らがいる。但し鉢呂は当選時無所属)。 いっぽう社会党の最大の支持基盤であった総評は槙枝元文議長、富塚三夫事務局長のもとで同盟、中立労連、新産別の労働4団体との「労働戦線統一」に向けて大きく舵をきり、1982年12月14日の全民労協の結成から、官公労も合流して1989年11月21日、日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開催された。これにともない総評は1989年11月に解散した。連合の初代会長には情報通信労連委員長・山岸章が選出された。これは総評の労使協調路線への転換によって、それまで対立してきた同盟との和解が可能になったことによって実現したものである。 1990年に発生した湾岸危機で政治課題となった自衛隊の派遣では、日本社会党は憲法9条堅持の立場から、「自衛隊海外派遣に反対」を主張し、民社党・公明党との関係は冷え込んだ。これと並行して民社党・公明党との協調を重視する連合など労組幹部などとの摩擦も強まり、土井執行部の求心力は急速に低下した。1991年の統一地方選挙で社会党は敗北、土井は責任を取って委員長を退いた。 なお、この年の東京都知事選では連合の山岸会長が公明党・民社党と共に磯村尚徳を担ぐよう社会党執行部に働きかけた。これは、山岸会長の持論である社公民路線の定着を狙ったものである。自民党の小沢一郎幹事長も磯村を自民党本部の候補として推薦した。社公民3党に小沢など自民党の一部が乗る形で実現した細川護熙内閣の構図はこのとき、既に出来ていたといえる。一方、社会党の独自性を強調する土井を中心とするグループは独自候補にこだわる一方で、なかなか候補者を決められず迷走した。土井を都知事候補に擁立し、土井人気を復活させようという動きも社会党の一部にあったが、土井が決断できず、水泡に帰した。社会党は選挙直前にようやく候補者(大原光憲)を決定したが、供託金没収点(法定得票数、全有効票の10%)にも満たない惨敗に終わった。 後任の委員長には、田邊誠と上田哲が立候補し、全党員投票による選挙となった。有力支持労組をバックにした田邊有利との観測が強かったが、湾岸危機による安全保障論議を背景に左傾化する党内世論のもと、護憲平和路線の維持を訴える上田が左派主体の一般党員に支持を広げ、田邊は労組からの集団入党者の票でようやく勝利した。この選挙結果は、田邊執行部に大きな足枷となり、後の党運営を縛るものとなった。 田邊執行部とPKO法案. 後任の田邊誠委員長は、自民党の金丸信に近く、右派・水曜会のリーダーとして現実路線を期待された。しかしそのことがかえって党内活動家やそれらと連携する党外の平和運動活動家などの警戒的世論にさらされ、1992年のPKO法案の審議では牛歩戦術を連発するなど、強硬な対決姿勢を取った。社会党はPKOを自衛隊とは別組織にすることを条件にPKO法案を受け入れようとし、自民・公明・民社(自公民)の3党は一度は文民による別組織を作ることで合意しており、PKO法案はすんなり成立するかに見えた。しかし、自民党の本心はあくまでも自衛隊によるPKOであった。そのため、民社党・公明党の同意を取り付けるとたちまち別組織案を反故にした(ただし民社党は、公明党を味方につけるため別組織案に合意したのであり、本心は自民党と同じであった)。このため、社会党はPKO法案そのものに反対な強硬派が主導権を握ったのである。 一方、民社党・公明党は自民党と共に内閣信任決議を可決させるなど、実質的に与党となっていた(自公民路線)。社会党は全衆議院議員の辞職まで打ちだしたが、最終的には抵抗を諦めた。その直後、7月26日投開票の第16回参議院選挙は自民党の勝利に終わり、社会党・連合は大敗した。社会党執行部は、改選議席を確保できたことのみに着目してまずまずの結果と強弁し敗北を認めなかったが、結局、田邊執行部は退陣し、書記長の山花貞夫が後任の委員長となった。 金丸訪朝団. 1990年9月26日、北朝鮮有数の景勝地、妙香山の招待所で自民党の金丸信、社会党の田辺誠、北朝鮮主席の金日成(キム・イルソン)が顔を合わせた。訪朝は北朝鮮に拘束されていた第18富士山丸の船長、紅粉勇ら日本人2人の釈放と、日朝友好親善が主目的だった。訪朝団に対する金日成の歓待ぶりはすさまじかった。2万人が動員されたマスゲームは代表例で「金丸信先生と田辺誠先生の引率する日本使節を熱烈に歓迎する!」という人文字が表示された。9月28日自民党、社会党、朝鮮労働党の3党共同宣言がなされたが、その中に記された「戦後45年間の謝罪、十分な償い」が、戦後における北朝鮮への戦後賠償の表明とみなされたため、後に大きな批判にさらされることとなった。 1989年に『在日韓国人政治犯の釈放に関する要望』に多数の社会党議員が署名したが、この釈放対象に北朝鮮による日本人拉致事件の実行犯、工作員・辛光洙(シンガンス)らが含まれていたことが後に問題となる。前年の1988年3月26日の第112回国会予算委員会で梶山静六国家公安委員長が拉致を北朝鮮の犯行が濃厚と認めていた。 細川連立内閣の誕生から村山内閣へ. 1993年の第40回総選挙で社会党は新党ブームに埋没し、改選前の136議席から70議席と議席をほぼ半減させた。社会党の有力支持母体であった連合は政権交代を重視し、加盟産別労組の一部は、これを阻害する社会党の護憲派・左派候補を露骨に排除する「選別推薦」を行い、新党候補などに票を回した(この「選別推薦」により連合の推薦を受けられなかった議員には、元党首の土井や岩垂寿喜男や上田哲がいる。なお、後に民主党の都議会議員となった真木茂は、選別の第一次案を自分が作ったと書いている)。特に都市部では、東京都で11議席から1議席に激減するなど、土井ブームで得た議席を失い、55年体制以来最低の議席数となった。長年の宿敵であった自民党が大敗した選挙であるにもかかわらず、社会党は却ってその存在感を失うこととなり、後のことを考えれば皮肉にもこれが社会党にとっての"終わりの始まり”であったとも言える。 総選挙後に非自民・非共産連立政権の細川内閣に与党として参加。社会党は与党第1党ではあったが、総選挙で一人負けの状態(他党は共産党が1議席を減らした他は、自民党も含めて全党が現状維持か議席増)だったため、与党第1党にもかかわらず首相を出すことができなかったが、一方で無視できるほど力は小さくないという、連立与党内でも微妙な立場となった。閣僚人事においても、主要閣僚は新生党や公明党、日本新党等、細川護熙をはじめ羽田孜、小沢一郎、市川雄一ら旧与党内の実力者に独占された。また、総選挙敗北の責任を取って山花が委員長を辞任、9月に村山富市が委員長に就任した。 1994年、小選挙区制導入に反対した一部議員や党員が離党し、新党護憲リベラルや護憲新党あかつきを結成したことで党の弱体化に拍車がかかった(96年には社民党離党者が新社会党も結成)。細川首相退陣後、新生党・公明党との対立から社会党の連立離脱も取りざたされたが、結局は同じ枠組みでの羽田孜政権参加に合意した。しかし首班選挙直後、日本社会党を除く与党各派の統一会派「改新」の結成呼びかけに反発した村山は羽田連立内閣から離脱を決め、羽田政権は少数与党として発足した。 1994年6月、羽田連立与党は自民党の海部俊樹元首相を首班選に擁立、自民党内の分裂を狙ったが、自民党は村山委員長を首班とする自社連立政権樹立を決定。羽田連立与党との連携を重視する社会党議員も、自党党首首班には抗しきれず、海部に投じた議員はごくわずかにとどまった。政権奪回に執念を燃やす自民党も同様で、決選投票の結果村山の首班指名が決定し、自由民主党、新党さきがけと連立した、自社さ政権である村山政権が発足した。村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線の180度の変更を一方的に宣言した(後に1994年9月3日開催第61回臨時党大会で追認)。この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。 社会民主党への改称. 1996年1月の村山内閣総辞職後、同月社会民主党に改称し、3月には新党として第1回大会を開催、日本社会党の名称は消滅した。小選挙区比例代表並立制のもとでは、社民党単独での衆議院議席獲得は至難であることが予想されたため、新党さきがけとの合併や、鳩山由紀夫・船田元らが提唱した新党構想への合流などの議論が絶えなかった。 その後. 新党構想は結局、鳩山由紀夫・邦夫兄弟や菅直人らが中心となり同年衆議院解散直前に結成された民主党として現実のものとなった。社民党は一旦、民主党への丸ごと参加を決定したが、鳩山由紀夫の「排除の論理」に反発して、すぐに撤回。現職の幹事長であった佐藤観樹を含め約半数の党所属国会議員が「個々人の決断」のもと社民党を去り、民主党結成に参加した。幹部候補生と目された前北海道知事横路孝弘も民主党を選んだ。一方、村山ら約半数の議員は社民党に残留し、土井たか子を党首に復帰させ、第41回総選挙に臨んだ。支持労組の大半は民主党支持に転じたが、地方組織のかなりの部分は社民党に残った。村山内閣時の路線転換に批判的な議員や党員の一部は、離党して1996年に新社会党を結成した。また、山花貞夫・土肥隆一ら野党再編派は1995年に社会党を離党し院内会派「民主の会」を結成していたが、山花らは同年に市民リーグを結成後、民主党の結成に参加。土肥らは民主改革連合に合流し、民改連は1998年に民主党や旧新進党の一部などと合流し(新)民主党を結成した。結果的に大きくは民主党、社民党、新社会党の3つに分裂したことになる。 2017年9月、民主党が改称した民進党は第48回衆議院議員総選挙に向けて小池百合子代表率いる希望の党との合流方針を決定したが、今度は小池がリベラル派の議員を受け入れないとする「排除の論理」を主張し、反発した旧社会党グループに所属する議員の多くは枝野幸男率いる立憲民主党に参加した。旧総評系労組の組織内議員の大半が参加したことや党職員も社会党系が多いことから立憲民主党が日本社会党の系譜を継ぐ政党であるという見方もある。 この総選挙後時点で社会党所属経験のある国会議員は6人(衆院5人、参院1人)であった。衆院では佐々木隆博(社会党時代は北海道議)、赤松広隆および横光克彦の3人は立憲民主党、吉川元(社会党時代は党員として社青同勤務)は社会民主党、谷畑孝は日本維新の会に所属しており、参院では鉢呂吉雄が立憲民主党に所属していた。このうち、社会党での国会議員経験があるのは赤松、横光、谷畑、鉢呂の4名であったが、谷畑は2020年4月に辞職した。2019年12月には立憲民主党が社民党などに対し合流を打診し、55年体制の一翼を担った老舗政党がその歴史に幕を下ろすのかが注目されたが、最終的に合流賛成派と合流反対派で党が分裂することとなり、反対派の残留により社民党も存続することとなった。この過程で、吉川が社民党を離党し立憲民主党へ入党したことにより、社会党所属経験のある現職国会議員は全員が立憲民主党所属となっている。その後、2021年の総選挙で佐々木と赤松は引退、横光は落選して、社会党での国会議員経験がある現職議員は鉢呂ただ一人のみとなった。その鉢呂も、2022年の参院選には立候補しなかったたため、国会議員として社会党所属歴がある現職の議員は姿を消した。 批評、批判. 日本社会党に関する主な批評、批判には以下がある。
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山崎太司
山崎 太司(やまさき たいじ)は、日本の実業家。映像クリエイター。 プレミア・ピクチャーズ株式会社の代表取締役。 人物. 青山学院大学経営学部卒。2006年にプレミア・ピクチャーズを設立。
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ガンダムアストレイ
ガンダムアストレイ (GUNDAM ASTRAY) は『機動戦士ガンダムSEED ASTRAYシリーズ』に登場する、モビルスーツ (MS) に分類される架空の有人式人型ロボット兵器のひとつ。「アストレイ」は英語で「王道ではない」などを意味する。 メカニックデザインは阿久津潤一(ビークラフト)が担当し、いくつかの派生機や装備はその他の多人数が分業でデザインしている。 設定解説. オーブ連合首長国の国営企業であるモルゲンレーテ社が、地球連合大西洋連邦から極秘に製造を請け負った初期GAT-Xシリーズに用いられた大西洋連邦側の技術を盗用して完成させた機体。型式番号は "Main Battle Figure" を略したもので「主要戦闘機」を意味する。また、後に開発される制式量産機「M1アストレイ」の原型機という意味から「プロトタイプアストレイ」、「P(プロト)シリーズ」、「P0シリーズ」、「プロトアストレイ」といった通称を持つ。 C.E.70年当時、戦争が激化する中で自国防衛戦力の強化の必要性を感じたオーブはMSの開発に着手したが、自国のみでの開発は難航を極めていた。既にザフトの主力MSジンを入手・解析しそれをコピーする事は可能であったが、オーブにおける制式MSにはジンを凌駕する性能を欲した。モルゲンレーテではエリカ・シモンズ技術主任の元、独力で地球連合が開発するMSと遜色のないシステム・構造を導入できるレベルに達したが、武装・装甲材・特殊技術では連合側に一日の長があった。反対に、大西洋連邦はナチュラル向けのMS操縦支援OSの実用化に苦戦しており、打開策として共同開発のオファーをモルゲンレーテに持ちかけた。この際、本事業を請け負っていたオーブ五大氏族の一つサハク家は、オーブが最先端を行くパワーパック技術を提供し、それをきっかけにストライクガンダムのストライカーパックの設計、そして自国の資源衛生コロニー「ヘリオポリス」におけるMS製造の請負まで確約させる。そしてサハク家は、その開発・製造過程の技術を盗用することを独断で決定した。 これは明らかに大西洋連邦との契約に違反したものだが、結果的にモルゲンレーテはG兵器からMS本体の開発データを取り込むことに成功した。そのため、基本性能と装備品などはG兵器との類似点が多い。機体の基本構造も連合のG兵器に合わせた作りとなっており、OSもいくつかの改変を行いつつ連合側と共通のものを導入した。ただし、アストレイシリーズのOS開発を担当したヘリオポリスのカトウ教授の手をもってしても成果は上がらず、量産型であるM1アストレイのOS完成にはキラ・ヤマト等の助力を仰ぐ結果となっている。 プロトアストレイの開発はヘリオポリス内の秘密工場で極秘裏に進められ、最終的に5機がロールアウトした。内1~3号機は基本フレームの色が異なる「ゴールドフレーム」「レッドフレーム」「ブルーフレーム」としてC.E.71年に建造されている。 残りの2機は予備パーツであり、C.E.73年からの大戦までは行方をくらましていたが、4号機はその後ほぼそのまま(AIとセンサーを改修)組み上げられて「グリーンフレーム」に、5号機はライブラリアンによる大幅な改修を経て「ミラージュフレーム」として完成している。 その後、プロトアストレイの開発データは望むと望まないとに係らずオーブ国外に流出し、「レイスタ」、「シビリアンアストレイ」などの民生MS開発へと繋がっていった。また、マーシャン製のMSにも部分的に技術が利用された。また流出したデータにより、ライブラリアンはレッドフレームを再建造(「レプリカ」)、アクタイオン社は独自改修した「ノワール」と「ターンレッド」を建造している。 ゴールドフレーム. オーブでスペシャル機を表す金色のフレームを持つ。他のアストレイとは異なり、両腕の掌に増設された連合MSと共通の武器接続プラグを有するためデュエルを初めとするG兵器などの専用ウェポンをプロテクトの解除なしで使用できる。 ヘリオポリスからの脱出時に退路を切り開くためにゲイボルグを使用した折に、整備の不充分さから右腕がバーストを起こし、機体への悪影響を防ぐために排除され、喪失している。元々は脱出時にナチュラル用OSのデータとオプション装備のデータも本機にコピーされ持ち出されるはずだったが、データ量の多さからコピーしきれず、レッドフレームとブルーフレームに写されることとなった 天(未完成). 損失した右腕をオーブ近海で極秘裏に回収したGAT-X207 ブリッツのものに、レッドフレームに破壊された頭部を新造のモノアイ内蔵タイプに換装した改修機。「天」は「アマツ」と読む。 右肩アーマーの上部には赤いラインが施され、右腕のマニピュレーターの指先は鋭角化されている。ブリッツの能力を取り込むことに成功したため、全身はミラージュコロイドを定着・使用するため黒色の装甲となり、右腕のみPS装甲を展開させられるようになった。ギガフロートでの戦闘では右腕だけを消した状態で斬りかかってきたガーベラ・ストレートを掴み、突然空間で静止したかのような錯覚を与えるなどしてレッドフレームを翻弄した。 まだ調整状態であり、ギガフロート攻防戦から第三次ビクトリア攻防戦までの期間に右肩部の微細改修や、後述の「トリケロス改」への換装が行われた。 天. 天の完成型。本体の形状は未完成状態から大きな変化はないものの、背中に装備された「マガノイクタチ」によりイメージが大きく変わり、より禍々しさを増している。ちなみに「マガノイクタチ」はパーツ状態で軌道衛星「アメノミハシラ」に運び込まれ、そこで本体に組み込まれた。未完成状態との差異は背部ユニットと左肩部の安定翼、およびネックガード。 天(完全体). 『SEED ASTRAY special edition』に登場。モルゲンレーテ社が当初予定していた天の完成型。(型式番号:MBF-01) ブリッツの腕から解析されたPS装甲とミラージュコロイドシステムを応用して、全て新規製造のオリジナルパーツで開発される予定だった。しかしギナが出撃を急いだ為、ブリッツの腕を移植して使用することになり、実際に造られることはなかった。両腕がブリッツに近いものとなり、脚部も追加装甲がアンクルガードのみとなっている他は、後の天ミナと同型になっている。また、太股前面の装甲デザインがPGのディテールとなっている。 天ミナ. レッドフレーム及びブルーフレームセカンドLとの戦いにおいて損傷したゴールドフレーム天を、オーブ管轄の宇宙ステーション「アメノミハシラ」にて改造した機体。改修された機体は、前出の改造前の天と区別する意味もあり、搭乗者であるロンド・ミナ・サハクの名からそう呼称される。 天からの主な改修点は、脚部の強化および武装追加である。脚部はフレーム機構が露出している前面をGAT-X207 ブリッツに近い形状の追加装甲で覆い、ハイヒール状の新型足首ユニットに交換されている。これは当初の修復時には天と同様のものが用いられていたが、稼働試験中に偶然遭遇したZGMF-X11A リジェネレイトとの衝突時に脚部を破壊された為である。なお外形上では判別できないが、内部構造も相応に手が加えられており、トータルでは約30%程度のスペック向上が見込まれている。大気圏内を飛行することも可能で、C.E.73年代の最新鋭機とも充分に渡り合えるポテンシャルを秘めており、劇中でもトップクラスの機動力を持つといえるデルタアストレイを一蹴している(これは当然パイロットであるミナの高い技量によるものとも言えるのであるが)。 また、「天空の宣言」後、ザフト脱走兵が潜伏していた町にザフト正規軍がバビを用いて攻撃をしていた際に突如舞い降り、バビを一蹴し町を守った。 また、武装類にはミナの「『天空の宣言』に賛同する者たちを守る」という目的が反映されており、敵機体にほとんどダメージを与えることなく行動不能に陥らせることができるマガノイクタチも含め、相手に必要以上のダメージを与えず敵パイロットの命を奪わずに済むような配慮がされている。 天ハナ. 『天空の皇女』に登場。型式番号はMBF-P01-Re3。サハク家の当主を継ぐことになった風花・アジャーがミナから贈与された天ミナの改修機。再度の改修を考慮していたため武装面はそのままで、頭部フェイス部分を除く装甲の黒色部分をアストレイ開発当初の白に染め直し、右腕部のPS装甲もそれに合わせ稼動時は白に変色するよう調整されている。また、風花がMS操縦技術を持たないため、当主候補だったラス・ウィンスレットがメインパイロットとして、風花はサブパイロットとして搭乗する複座式になっている。 天ハナ バージョン華. 「METAL BUILD」にて設定された、天ハナの本来の改修プラン。型式番号はMBF-P01-Re3<HANA>。劾との模擬戦のデータをもとに、センサー系の強化や実体剣「アメノムラクモ」の追加装備などが計画されていたが、その矢先に機体が大破しアマテラスに改修されたため、プランのみの存在に終わった。 アマテラス. 『天空の皇女』に登場。型式番号はMBF-P01-Re3<AMATERASU>。フェアネスがラスのために天ハナを改修した機体。当初の名称は「天ハナ改」だったが、ラスが風花から「天空の皇女」を継ぐにあたり、「ラスの機体」という意味でミナによって新たに命名された。 天ハナまでの主要装備は全て取り外され、両腕は左右対称のものに換装、頭部ユニットも王冠を頂いたような白を基調としたものに変更されるなど、天の禍々しい姿から一転した神々しい姿に改められている。 天ミナC. 『天空の皇女』に登場。天ハナ譲渡後のミナの機体として新造された天ミナの複製機。形式番号はMBF-P01-Re2C。両腕をプロトアストレイと同一規格の形状にした都合上、右腕部のPS装甲とトリケロス改は装備していないが、他の装備は概ね原型機を踏襲している。 「METAL BUILD」にて設定が定められ、ミラージュコロイド制御用アンテナ「カムドノツルギ天」を両肩に、トリケロスをトツカノツルギ内蔵型に再設計した「トリケロス天」を右腕に、オキツノカガミを改良し省電力・性能強化を実現した「オキツノカガミ天」を2基装備することが明かされた。なお、これらの装備は天ハナへのフィードバックを予定していたものの、改造プランが急遽アマテラスに変更されたため白紙になっている。また、アマテラスから外されたブリッツの右腕がダブルブイを経由してフェアネスのもとから戻ったため、以降は右腕をこちらに換装している。 レッドフレーム. ヘリオポリス崩壊に際し、ジャンク屋のロウ・ギュールにより発見され彼の愛機となる。フレームの色の赤はオーブでナチュラル用の機体を表す色で、ナチュラルが操縦することを前提に開発された検証機である。アニメ『SEED』本篇の第1期オープニングにゲスト出演している。 作中では先んじてナチュラル単独の操縦機となったが、ロウは擬似人格コンピュータの「8」をシステムに繋げてサポートを受けている。ベースOSにも積極的に手を加えており、蘊・奥老人から伝授された剣術や、八極拳らしきデータなど、様々な情報を上書きしている。 先行3機のアストレイの中でも原型を留めている方だが、右腕はゴールドフレームとの初戦以降ヘリオポリスで回収していたP01の物を移植した状態となっている。また、CE73年頃には通常の外観のまま「パワーシリンダー」を組み込んでおり、フレームの出力と耐久性を向上させている。 『FRAME ASTRAYS』では全身に包帯を巻いた姿で登場したが、愛機と共に善くも悪くも有名人だったロウ自身と、中立の立場であるジャンク屋という素性を隠すためのもの。単に「目立ちたかったから」という理由でライゴウとジスト専用シグーに奇襲を仕掛けるが、偽装が剥がれると急いで退散した。このデザインは『電撃ホビーマガジン』誌上にて発表された「ASTRAYS アジア圏模型コンテスト韓国大会」の1位作品が基になっている。 サルベージタイプ. 『ASTRAY R』に登場。ザフトの水中用MSグーンの外装甲を改修した即席の潜水装備。レッドフレームの上半身をすっぽりとグーンの外装甲で覆うことによって耐水圧能力を向上しているが、反面機動力は大幅に低下している。通常のパックパックの状態については、設定画稿では不明で、スライドさせた状態とはずした状態の2種類の解釈が存在している。ガーベラ・ストレートは腰に装備することが出来ないために右背面に設置し、使用時は増設した作業用マニピュレーターを利用する。緊急時には装甲を離脱させることで機動力を取り戻すことができるが、水中戦は想定していないため装甲離脱後にコクピットが浸水した。背面の推進器は装甲離脱後も装備したままとなっている。 『DESTINY ASTRAY R』においては、脱着を可能としたバージョンアップ版が登場している。 フライト・ユニット. オーブでレッドフレームの修理と、その際依頼されたアークエンジェルの修理を行った際に譲り受けたM1アストレイのバックパックを、レッドフレーム用に独自改良した装備。 本体側のバックパックは機能通り下方へスライドされ、空いた背中のスペースにエールストライカーのようにドッキングしている。なお、ビームサーベルも機能通り下方へ移動させているだけなので使用に問題は無いが、「フライト・ユニット装備時は使えない」と間違われやすい。加えて、資料によってはM1Aアストレイの物を使用しているとの記述もあるが、これも間違いである。 試験運用時はM1のバックパックを取り付けただけであったが、後に吸気インテークや燃料タンク兼用ウイングが追加されており、大気圏内での滞空時間や航続距離を飛躍的に延ばす事に成功した。ユニットは本体と分離し単体飛行することもできる(ただし8のサポートが必須となる)。なお、劇中での描写は皆無だが、元々M1のバックパックは大気圏内外問わず使用出来る装備であったこともあり、関連ゲーム『GGENERATION』シリーズ等の作中では宇宙空間のステージでも問題なく機能している。『エクストリームVS』シリーズではこの形態が基本の姿となっている。 後にオルタナティブ・プロジェクトの一環として、ドライグストライクでも運用可能な仕様が作られている。 パワーローダー. 『ASRAY R』から登場。ガーベラ・ストレートVol.2を使うために作られた装備。ロウがZGMF-X09A ジャスティスとミーティアユニットのドッキングを目撃し、それをアイディアとして製作した。 レッドフレームの数倍のサイズがあり、胴体部に合体したレッドフレームが実際にガーベラ・ストレートを構え、その動きをパワーローダーにトレースさせて運用する。普段は上半身と下半身の2つに分けてリ・ホームに格納されている。また、それぞれのパーツは、レッドフレーム以外にワークスジンやバクゥ改などのMSとドッキングしてコアとして制御する事により、作業用重機としても運用可能。人型のMS本体が胴体部にドッキングするその姿は同名の作業用機械に近い風貌を持つ。 パワーはあるものの、そのあまりの巨体ゆえに機動性は劣悪で、通常の戦闘に使えるようなものではなかったようである。リジェネレイトとの戦闘で一部を破壊された。 パワードレッド. レッドフレームの両腕部にジャン・キャリーが開発した強化型駆動システム「パワーシリンダー」を組み込んだ状態。両腕のほか、人間の背骨や背筋に相当するフレーム類が併せて強化され、これによりパワーローダーを使わずにガーベラ・ストレートVol.2を扱えるようになった。見た目はまさにボディビルダーさながらの筋肉質である。使用時には各部が展開する。 この機体は通常のMSとは比較にならない程のパワーを持ち、ガーベラ・ストレートVol.2を振る以外にも、単純な打撃攻撃(パンチ)だけで相当なダメージを与えることができ、PS装甲持ちの機体であろうとも内部メカは無事では済まない。ロウはジャンク屋としての勘で弱点を見抜き、自称「赤い一撃(レッド・フレイム)」でリジェネレイトの内部機能を破壊、行動不能にして連合の勢力圏内へ吹き飛ばした(同質の技としてバリー・ホーの使う「拳神」がある)。 本来のガーベラ・ストレート(Vol.2では無い)も装備しており、左腕の付け根のスリットから伸びるアームに鞘ごとマウントされており、使用時には腰の辺りに引き出して抜刀する。なお、右腕側のスリットは蓋の嵌め殺しになっており、アームは無い。 後に、パワーシリンダーが小型化によってノーマルの腕に組み込まれたため、このパワードレッドのパーツはリ・ホーム内に仕舞われていたが、『DESTINY ASTRAY R』では、ロウによってそれまでの3倍の高出力に改良を施された姿で登場。この改良型をロウは「スーパーパワードレッド」とも呼ぶが、外見的な違いは無い。 レッドドラゴン. 『DESTINY ASTRAY R』に登場。フライトユニット装備のレッドフレームに、ロウが開発したマルチツールであるカレトヴルッフを3つと、カレトヴルッフとの連動を前提としたドライグヘッドを装着した形態。フライトユニットに専用アームを介する形でカレトヴルッフを装着しており、カレトヴルッフが翼を模した見た目となる。この形態では3つに増えたカレドヴルッフの相乗効果によってミラージュコロイド放出制御能力が大幅に向上し、空中での機体制御能力にも優れる。またコロイド粒子を使用した機体の姿勢制御によって、フライトユニットとカレトヴルッフを一基のみしか装備していない状態であっても、通常のフライトユニットだけを装備した状態より安定した空中機体制御が可能となっている。当機レッドドラゴンの名称は、カレトヴルッフの名称の源流であるウェールズの伝承にある赤い竜から取られ、機体形状もそれを摸して作られている。 なお、デザイン当初において、この形態はカレトヴルッフ1基とドライグヘッドによるものだったが、製作スタッフの「翼状にしたいので、両側2基にしよう」→「両側2基にすると、1基手にすると片翼になる」との過程から、3基装備となった。 マーズ・ジャケット. ロウが火星に渡った際、レッドフレームを強化換装した機体。マーズ・ジャケットはMJと略称される。 通常時は、デュエルのアサルトシュラウドに似た重装甲アーマーを全身に装備し、頭部のアンテナが下にスライドする事でモノアイが現れ、外見はザフトのニューミレニアムシリーズの機体に似た状態となる。この重装甲アーマー装着時には単独での大気圏突入も可能である。非常時には、全身の装甲を強制排除する事で、本来の高い機動性と戦闘力を持った機体となる。専用ビームライフルの上部は、両刃型のビームナギナタとしての機能を持つ。背部にある2翼のウイングは、日本刀型実体剣を1本ずつ装備しており、他にも高出力のビーム砲やバーニアとしての機能もある。また、腕にはハイペリオンの技術を使用したビームシールド発生装置を装備している。もちろん、ガーベラ・ストレートも帯刀可能。 ロウたちが火星から帰還する際にリ・ホームに同乗していた火星居住者ディアゴ・ローウェル(『DESTINY ASTRAY』当初は常時パイロットスーツを着ていたため正体不明だった)がユニウスセブン落下時に勝手に“借り”て地球に降下し、そのまま地上で使われることとなる。最終的にレッドフレーム本体はロウに返還され、MJパーツはジャンク屋組合製のシビリアンアストレイJGカスタムに付け替えて、ディアゴに譲られた(マーズジャケット参照)。 改. 『VS ASTRAY』に登場。。 レプリカ. ライブラリアンによって再生産されたプロトアストレイ。シビリアンアストレイ等を用いた改造機ではなく、データから作成されたレッドフレームの完全なコピーで、パワーシリンダーなどの改造も含めロウのレッドフレームと同性能・外観で、型式番号も「MBF-P02」のままである。ただしオリジナルの左肩に存在するジャンク屋組合のマークは描かれていない。他のライブラリアン製のGと異なり、ストライカーシステム対応化は行われていない。カーボンヒューマンとして復活した蘊・奥が搭乗しており、タイガー・ピアス(ウン・ノウ専用ジンが装備していた物ではなく、復活した蘊・奥が改めてガーベラ・ストレートと同じ様に打ち鍛えた物らしい)を装備している。 ロウの前にゲイルストライクと共に現れ(このときロウの機体も強化パーツを装備していなかったため、両機ともノーマル状態)、攻撃を仕掛ける。同性能の機体同士で互角の戦いを繰り広げるが、整備の差で敗北。ゲイルストライクへ特攻を図るが、意図に気づいたND-HEにバッテリーを切り離されたため、自爆は阻止された。その後、機体はND-HEが、タイガー・ピアスはロウが回収している。 時系列的に前の『DESTINY ASTRAY B』にも登場し、ダンテ・ゴルディジャーニのアストレイノワールと交戦している。 レッドドラゴニクス. オルタナティブプロジェクトで新しく製造されたレッドドラゴンの改良機。ロウの作ったレッドドラゴンが作業用なのに対し、ダブルブイはレッドドラゴンを無断コピーした上で戦闘用MSとして再設計し当機を作成した。レッドドラゴンとの差異点としては、ドライグヘッドをネオドライクヘッド、カレトヴルッフをネオカレトヴルッフへと換装した他、フライトパックもバッテリーパックとスラスターの強化が施されたネオバックパックに換装され、更に脚部に新規製造のブースターユニットが追加されている。なお名称の「レッドドラゴニクス」は、オリジナルである「レッドドラゴン」よりも強そうな名前を付ける(そして実際に強い)というイメージ演出による名付けである。 ブルーフレーム. 中立コロニー・ヘリオポリス崩壊の裏側で起こっていたアストレイ処分騒動において、叢雲劾がロウ・ギュールより譲り受け、以降長きに渡り愛機となった試作3号機。フレームの色の青はオーブで局地戦仕様を意味する色であり、「オプション装備のスペック検証機」として開発された。 自国のオーブ、盗用した連合だけにとどまらず、ザフトすらも含めた膨大な量のオプション・データが移植済みだったため、傭兵である劾に絶大な恩恵をもたらしてゆくこととなった。 フル・ウェポン. 主にザフト製の実弾火器で固められたオプションセット。長時間にわたって多くの敵と戦うための装備で、電力消費の激しいビームライフルは持たない。弱点は重武装ゆえの重さだが、撃ち尽くしたものから破棄することでカバーする。地球連合に雇われての任務(アルテミスの用心棒、連合の地上部隊)などで選択された。 コンプリートセンサー. ミラージュコロイドを見破るために用いられたオプション。プロトタイプアストレイには共通して頭部交換機能を持ち、それによって頭部の前半分を換装した形態。強化された各センサーと、得た情報を解析する専用コンピュータの2段構えからなる。在来MSとは比較にならない性能である反面、エネルギーの消費がすさまじく、OSにも大きな負荷をかけるため長時間は使用できない。武装はイーゲルシュテルンを除いて本体標準装備そのまま。 ハイスピード・ブースター. 暴走状態の高速実験艦を捕捉するために用いられた大型ブースター。ただし理論では可能でもパイロットには多大な負担がかかり、コーディネイターである劾ですら長時間の加速で気を失うほどだった。高速移動艇等の高性能エンジンを組み合わせてこの任務のためだけに製作された。武装はイーゲルシュテルンとサーベルのみ。 スケイル・システム. ブルーフレームの水中戦オプションで、水中用センサーの頭部ユニット、背中の強力な水中ジェット、四肢に装備されたスケイル・アーマーなどで構成される。このシステムは、アーマー表面に並べられた無数の鱗(Scale)を模した機器を振動させて推力とする技術で、在来のザフト水中用MSとは設計思想が全く異なるものであり、通常ありえなかった「スライド移動」をも可能にした。また、振動のパターン次第ではフォノンメーザー砲を防御することも可能だが、ダメージは残るので緊急時のみの使用法である。なお、潜水用ではないため比較的浅い深度での運用に限られる。武装はアーマーシュナイダーと下記魚雷銃の2つだが、「ASTRAY B 『オペレーション11(TACTICS 13):フライト・ユニット』」ではビームライフルで戦っていた。デザインは町田能彦(スタジオオルフェ)が担当。 『天空の皇女』では、改修型のセカンドリバイ用に新技術を導入して再開発される。 ショートレンジアサルト. 『SEED ASTRAY special edition』にて公開された装備で、非常に狭いフィールドで超接近戦をするためのものとされる。別称 潜入ミッション用近接戦装備。コンプリートセンサーは後年発のリファインデザイン型で、1本だけ持つアーマーシュナイダーは後述の「セカンドリバイ」型。ハンドガンは後述の「フルアーマー・フェイズシフト」の物と明記されており(65頁。ちなみに画稿では左腕に装備)、改装経歴が前後した組み合わせになっている。したがって公式の物語内では未確認だが、かなり近い状態の姿が後述の「セカンドG」にて確認されている。 セカンドG. 初めに、物語上の順番としては「セカンドL」の状態の方が早い登場(完成)となったため、その経緯は後述の「セカンドL」項を参照のこと。 したがって、通常ブルーフレーム セカンドとは「セカンドG」を指し、両肩・胴体・脚部などを改良したセカンド仕様の本体に、あとから再生産されたノーマル型の頭部とバックパックを装着した姿のこと。機体名に含まれている「G」は劾の頭文字としてセカンドLと区別するためのものである。武装はアストレイ標準装備と下記の戦闘ナイフ。 スナイパー・パック. 折り畳み式の砲身を持つ大型ビームライフルを備えた長距離射撃用オプション。バックパックから右腰へビーム砲が、左肩へ狙撃用望遠センサーが位置取る。ビームは若干の曲射も可能。ドレッドノートの頭部を守る戦闘で装備されたがハイペリオンとは相性が悪く、動きの速さに対応するために外し、囮として爆破された。 『METAL BUILD』ではスナイパー・パックをベースに再設計したものが登場した。基本性能は元のままだが、大きくシルエットが変わり単独での飛行性能を獲得。搭載したAIが独自に判断して支援攻撃を行うことが可能だが、精密射撃を行う際にはモビルスーツとの合体が必要となる。合体時は頭部と両肩を覆うような形状となり、両肩のミラージュコロイド発生装置でゲシュマイディッヒ・パンツァーのように限定的ながらビームの歪曲を可能とする。ローエングリンランチャーとの連動も考慮されており、単独飛行時に合体可能なほか、モビルスーツでの同時使用も可能である。 ショートレンジアサルト(仮称). 戸田泰成「ASTRAY R 第4巻 『last unit:パワードレッド』」に登場したもの。頭部にコンプリートセンサー、ハンドガンは右手に持ち、アーマーシュナイダーは当然ながらセカンドとしての物を2本(隠し4本)装備する。劇中ではミラージュコロイドで姿を隠すジェネシスαを探し出し、内部にメンバーを潜入させるためのミッションで選択していた。 特定の呼称は公式で定められていない。 セカンドL. ソキウスとの決闘でバックパックを含む背面に甚大なダメージを負い、勝利の証拠品として頭部を持ち去られてしまったブルーフレームに、劾から伝えられていたプランを基にエリカ・シモンズとロウ・ギュールの手によってオーブで強化改修を施した機体。そのロウの頭文字をとって「L」が名前に組み込まれている。 本体の両肩には劾が設計した「フィンスラスター」というバーニア兼用ユニットを導入。これは並のバックパックに匹敵する出力を有し、強制的な姿勢変更や緊急回避などに使用され、底部面積が小さくなるように改良された脚部とあわせて近接格闘戦における運動性を飛躍的に高めている。 次に、ストライクルージュ用で少しだけ余っていたPS装甲素材を使って「二重装甲」が組み込まれた。わずかな量をコクピット周辺に絞って活用し、省電力で済むよう外部装甲の圧力センサーがダメージを感知したら通電するというアイデアで、奇しくも同時期に連合が開発したトランスフェイズ装甲と同じものであった。 最後に、自分のレッドフレーム用に考えていた「専用頭部ユニット」と「タクティカルアームズ」が提供され全プランが固まった。背中から腰部の尻尾状パーツあたりには単純なフレームジョイントが付いており、それを介して本体とタクティカルアームズがドッキングしている。2本設置されている物は追加のバッテリーパック。そのためアストレイ標準装備は(一部を除いて)常用しなくなったが、戸田泰成『ASTRAY R』第4巻では、ハンドガンを持つ姿、ビームライフルを持つ姿がそれぞれ見られた(167、182頁)。ゲーム『EXTREME VS』では対ビームシールドも装備している。 つまり「セカンドLという名のオプションセット」ともいえるため、セカンド本来の姿は前項「セカンドG」の形態である。なお、Lの状態では頭と背中に装着するタイプのオプションは併用できないが、ミーティアユニット(核動力仕様)とのドッキングは可能だった。 また『DESTINY ASTRAY B』の時点でモルゲンレーテの整備でバッテリー系が高性能のパワーパックに交換され、それ以前より稼働時間が30%延長している。 ローエングリンランチャー. 戦艦を前提にして搭載される陽電子破城砲をMS用にスケールダウンしたオプションセット。砲身は縦分割され両腰に1つずつ装着される。リアアーマーにはエネルギー供給用の核エンジン(核発電機)を設置したため、追加バッテリーパックは外されている。威力は艦載型よりはさすがに劣るが、従来のMS用火器とは比べものにならない破壊力を持つ。 実際に発射するには核エンジンを起動しなければならないが、ニュートロンジャマーの問題があるので単体では使用できない。しかし、衛星を護る巨大モビルアーマー「ペルグランデ」が有するNジャマーキャンセラーを逆利用し、文字通り密接するまで接近することでエンジンを起動させるという戦術で達成した。また、核駆動MSであるドレッドノートイータとの共闘で使用した事もあった。 サード. 『FRAME ASTRAYS』に登場。東アジア圏のジャングル戦に向けて、仲間のリード・ウェラーを通じて調達したパーツを投じ、アメノミハシラ内のファクトリーにてロウが改修を担当した姿。 部隊行動を考慮し通信機能を強化した頭部を持ち、障害物の多くビームの使用制限がある密林での戦闘を考慮し、機体各部にレアメタル製のソードをはじめとした各種装備が追加されている。背部に大型の可動式スラスターユニットを装備し機動力を増強。このユニットは最大で頭部後方に水平展開する。尻部には2挺のライフルをテール状にマウント、手持ちのアーマーシュナイダーはその銃尻に格納する仕様へと微調整。両肩は「フィンスラスター」ではない単純な増加装甲に差し替え。両腕には大型ソードとアンカーランチャーをマウント。アンカーはソードの切っ先と反対方向にあり、使用時は前腕ジョイントを軸にユニットを旋回させる。アキレス腱部にも折り畳み式のナイフが追加されている。また、作中未使用の装備としてニーアーマー内部にはビーム、トリモチ、ニードル、散弾等を発射可能なノズルと、ビームサーベルの発信器、換装用の頭部がデザインされている。 なお、セカンドLと同じく任意でセカンドGに戻せる。実戦投入は任務開始後しばらくしてからで、劾はそれまでの繋ぎとしてハイペリオンGに搭乗していた。 セカンドリバイ. 『VS ASTRAY』に登場。サードの実戦データを元に、セカンドLを再改修した姿。機体全体の見直しと武装の改良により、さらに高い汎用性を得ている。 D. 『DESTINY ASTRAY B』に登場。ダンテ・ゴルディジャーニ駆るアストレイノワールとの決戦用に特化した姿。 セカンド仕様を基本としてきた従来の強化形態と異なり、一旦すべてのパーツを初期のノーマル仕様に戻した上で改修を行っている。ノーマル仕様のパーツはソキウスたちとの戦いで破損・喪失したため、アメノミハシラ内のファクトリーで再生産されたパーツを組み込んでいる。背部にはストライカーパック規格のコネクターが増設され、エールストライカーを改良したヴィーヴルストライカーを標準装備する。、頭部両側、両肩、両腰、ヴィーヴルストライカー上部に格闘用の実体剣を配置。刀身の強度こそソードピストルにおよばないが、機体からの量子通信で遠隔操作されるドラグーン・システムの機能が付加されている。ダンテ戦の後は、両腕にカートリッジ式の2連装銃であると同時にドラグーン・プラットホームとしても機能するブレイドガンが追加装備される。 フォース. 下記のフルアーマー・フェイズシフトを装備した状態のみが公開されている仕様。「フォース」の名称は『機動戦士ガンダムSEED FRAME ASTRAYS Vol.1』10頁で確認できる。機体はほぼ「セカンドG」(肩は通常型で、バックパック&サーベルは未装備)で、右眉間部に短い1本アンテナを備える頭部(他にも、ノーマル型頭部の姿や、巨大な丸型センサーが顔半分をしめる頭部のイラストも)となっている。その初出時は本体の全身のほとんどが無色の線画だったため(足首は小型化したハイヒール仕様)、模型作例ではノーマルのブルーフレームに沿った塗色だったが、後年に描き起こされたフルカラー設定画でセカンド仕様の配色(プレートアーマーが白、胸中央にサーペントテールのロゴ入り)となり、足首もセカンドと同形状となっている。 フルアーマー・フェイズシフト. フェイズシフトを展開できるアーマーオプションで、太陽にある謎の砲台の破壊ミッションで使用された。熱を遮断する融除材ジェルの供給システムも内蔵しており、単独での大気圏突入も可能。全身を覆うような形状は一見鈍重そうなイメージを与えるが、後方へ展開することで高い推力を発揮するスラスターユニットとして機能する。 武装はアーマー上部に備えられた「レーザー砲」2門と、本体側の「大きなバルカン」1門、「ハンドガン」2挺、「ナイフ」2本(×4本)など。「スケイル・システム」と同位置に備えるナイフのデザインは、既存アーマーシュナイダーのどれとも異なる物で、グリップが茶色、鍔が灰色という単純なシースナイフ・タイプのようである。一方、セカンドG(L)における脚部の隠しナイフは、ほぼそのままで装備されている。 グリーンフレーム. 『FRAME ASTRAYS』に登場。全5機製造されたP0シリーズの内、パーツ状態まで製造されヘリオポリス崩壊により行方不明となっていた2機の内の1機。アメノミハシラ内でロウ・ギュールにより組み立てられた。当初、故郷であるアジアのとある村の窮状を知ったバリー・ホーが、アメノミハシラのロンド・ミナ・サハクのもとへ相談に訪れた際に、本機を譲り受けている。その後、バリーを師事して東アジア共和国第13密林保護区に潜伏している反政府ゲリラの青年トロヤ・ノワレに譲渡された。 P04は、パイロットのトロヤがまだ心身共に未熟である事もあってか、他のP0シリーズの様に大幅な事後改装はされておらず、形状、基本性能共に他4機の新造時状態とほぼ同一。特に、機体本体のエクステリアは全く同型である。ただし、組上げ・修復の際に、ロウにより、ヘリオポリスで開発が進められていたナチュラル用OSの発展型、及び擬似人格搭載教育型コンピュータをベースとしたストライクルージュの操縦支援AIの発展型である戦闘支援AIが組込まれ、それと連動したセンサーの強化が行われている(このため機体各部のセンサー類は新造時のアストレイより優れている)。これは、センサーとの連動により、「戦闘状況を分析し、完全な回避行動を可能とする」能力があるとされている。 緑色のフレームは、先行3機のようにオーブによって用途別に色が振り分けられたわけではなく、ジャングルでの使用が決まったのちに塗装されたもの。 ミラージュフレーム. 『VS ASTRAY』に登場。「ライブラリアン」が運用する第5のアストレイ。型式番号の「LM」は「ライブラリアン・ミラージュ」の略。確認されているライブラリアンの所属MSの中では、唯一のオリジナル機からの改造機である。長らく行方が掴めなくなっていたが、ライブラリアンがパーツを発見し、組み上げている。パイロットは、かつて自分を殺した劾への憎悪をそのままに、カーボンヒューマンとして再生されたロンド・ギナ・サハクが務める。 ブルーフレームセカンドリバイの情報を入手したライブラリアンにより格闘戦に特化した改造が施され、ブルーフレームサードのように全身にブレードが装備(両腕で1対、両脚で3枚1組のを1対)されている。また、コマンダーモード(通常形態)からグラディエーターモード(格闘形態)への変形機能も追加されており、頭部が180度回転し後頭部の第2の顔が出現、全身のブレードが展開される。 装甲と外部フレームは、ヴァリアブルフェイズシフト素材に変更され、頭部には新たに3基のアンテナが装備されている。このアンテナは、額に1本、後頭部に2本のブレードアンテナが配されており、前方の1基は、主に指揮官機としての通信機能の為に使用。後方の2基はグラディエーターモードにおいて近接戦でのセンサーが強化され、自機の周辺に散布したミラージュコロイドの動きを把握することで、散布したエリア内の物体の動きを感知するミラージュコロイドセンサーアンテナとなっているが、遠距離の情報収集能力がオミットされるという欠点もある。 手持ち武器として、アストレイ標準装備も用意されているがビームライフルと対ビームシールドはグラディエーターモード時には使用出来ない為、使用する機会が少なく装備されないことも多い。多数の斬撃武器を装備する為、ビームサーベルも投擲武器として使用がメインとなる。また、レッドフレームの様に日本刀型の実体剣「アメノハバキリ」が新たに装備されている。 セカンドイシューに改造後は、この形態を「ファーストイシュー」と区別している。 セカンドイシュー. ミラージュフレームを再改造し、超至近距離の格闘戦のみに特化された姿。基本装備は共通だが、BソードとAソードはC(コンパクト)ソードとして小型化されており、全て3枚1組となっている。変形機能は駆動機構を生かしたより本格的なものとなり、人型のタイラントモード(通常モード)から、バクゥやガイアのデータを使用した四足獣形態のブルートモード(MAモード)へと変形する。改造前同様、遠距離での決め手となる武器はないが、反応速度が劇的に向上されたことで、相手の砲撃を全て回避することが可能となり、砲撃MSによる支援の必要はなくなった。ただし、その性能を十分に生かすにはパイロットの肉体にも改造処置が必要となる。その反応速度により、相手の周りを高速移動しつつ攻撃を加え、反撃の隙を与えない様は「ブルート・フォース・アタック」と呼ばれる。「セカンドイシュー」の原意は「書籍の第2版」。 サードイシュー. ファーストイシューのミラージュコロイドセンサーアンテナ、Bソード、Aソードをセカンドイシューへ組み込んだ機体。セカンドイシューのブルートモードの様な形態には変形しているが、ファーストイシューのグラディエーターモードの様に変形するかは明らかになっていない。その性能は「人間では操縦できない」と言われるほどまで異常な状態になっており、その性能を生かすにはパイロットは人間である事を捨てなければならない程にまで改造する必要がある。 なお、1/100プラモデルではセカンドイシューに同シリーズのミラージュフレームのパーツを組み合わせて再現する事が可能になっており、ファーストイシューのグラディエーターモードやセカンドイシューのブルートモードに当たる形態への変形は可能となっている。 ノワール. 『DESTINY ASTRAY B』に登場。地球連合軍のカスタムMS開発計画「アクタイオン・プロジェクト」の番外編として極秘製造された、プロトアストレイの改修機。ただしプロジェクト機というのは建前であり、実際は劾と深い因縁を持つ傭兵ダンテ・ゴルディジャーニが私的に調達した機体である。 頭部ブレードアンテナが4本に増設され、背部にはストライカーパック規格のオプションコネクターが追加されている。機体名の「ノワール(フランス語の黒)」が示すとおり、機体のカラーリングはダンテのイメージカラーである黒を基調としているが、他のアストレイと違いフレームと装甲の両方が黒となっており、またストライカーパックとしてノワールストライカーを装備したことが、機体名の由来ともされ、本来のアストレイシリーズとは外れた異端の機体であることを示している。 ノワールD. ダンテが乗り捨てたアストレイノワールを「一族」が回収し、ダンテの部下である戦闘用コーディネイター、エルザ・ヴァイスがパイロットを引き継ぎ、より機動性を高めた調整が施された。左肩に施されたダンテのパーソナルマークには、エルザのイニシャルである「E」が上書きされている。破壊されたノワールストライカーに代わって、新たにデスティニーRシルエットが装備されている。名称の末尾に加えられた「D」は「デスティニー」の略である。ダンテが搭乗するブルーフレームDとの戦闘後は彼に返却され、元のノワールの仕様に戻されている。 ターンレッド. 『DESTINY ASTRAY R』に登場。アクタイオン・インダストリー社の技術者ヴァレリオ・ヴァレリ(通称ダブルブイ)が、ロウへの対抗心からアクタイオン・プロジェクトで製造されたアストレイ系機体の予備パーツを持ち入り製作した機体。ダブルブイの搭乗機ではあるが、操縦は彼が8に開発させたAI「80」がすべて担当している。外観は基本的にオリジナルと同じだが、頭部のみは大型のブレードアンテナとチンガードを追加した独自の形状を持つ。武装面ではブルーフレームセカンドLを模倣しており、専用設計のバックパックに2基のタクティカルアームズと4基のバッテリーパックを備えている。タクティカルアームズは設計したロウにも想定外のブーメランとしても使用した。 直衛機として、左右対称型の無人機ハイペリオンGRとハイペリオンGLを従え、「トリオ・システム」によって高度な連携を行う。後にコクピットにはあらゆるエネルギー兵器と衝撃に耐える「超スーパーセーフティーコックピット」という構造に改良され、コックピットハッチ部は「超スーパーセーフティーシャッターグレイト」を内蔵して普通なら死ぬような攻撃でも防ぎきるようになった。また制御AIは自己進化システムを導入した「800」へと改良された。 ロードアストレイ. 『天空の皇女』に登場。「民衆の君主」の異名を持つ財界人フェアネス・ツヴァイクレが、オーブ製のアストレイをベースに自ら再設計した機体。世界をより良くする為に政治家を目指しているフェアネスが、あえて「王道ではない」アストレイに王(Lord)への道(Road)を歩むという意味を込めて、ロード(Lord)アストレイと命名した。 フレームの色はグレーを基調としており、通常装甲の繋ぎ目に配置したフェイズシフト装甲搭載用のエネルギー供給プラグや、ヴォワチュール・リュミエールの搭載を想定した大容量のバックパック換装機構、高出力のS22型パワーシリンダーといった新機構を採用し、さらには駆動OSもフェアネスが独自に作成しているという、ロウをもうならせる趣味が込められた逸品。 初登場時点では未完成状態で、搭載された新機構も十全に機能していないが、フェアネスはアメノミハシラを襲撃してきた3機のジンハイマニューバ2型を単機で撃破する戦果を挙げる。 ロードアストレイΩ. ロードアストレイΩ(ロードアストレイオメガ)は『天空の皇女』に登場する機体。フェアネスの手に渡った150ガーベラのレアメタルΩを用いて、ロードアストレイを改修した機体。型式番号はMHF-01Ω。 装甲の一部にしかレアメタルを採用しなかったため、完全体とは言い難い状態にあるが、フェアネスの操縦技量もあり比類なき強さを発揮する。装備として大剣「ロードロングソード」を持つが、これは2本に分割可能なほか、中心部のパーツには鞭状の武器を内蔵している。 ロードアストレイZ. ロードアストレイZ(ロードアストレイズィー)は『天空の皇女』に登場する機体。物語ではロードZと短く略称されている。パイロットはリーカ・シェダー。 P.L.A.N.T.の手に渡った150ガーベラのレアメタルを用いて、フェアネスがプラントへ牽制の為に送ったロードアストレイΩの設計図を基にして製造した機体。メイン武装は背中にマウントした際、「Z」の形となる2機1対の鎌。ときた光一は自身のTwitterで、青色を基調としたカラー画稿を公表している。 フェアネスが新たなデスティニープランの実行を中止した後、本来は抑止力として開発されたロードZは封印された。
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ハナイチゴ
ハナイチゴ
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別府警察署
別府警察署(べっぷけいさつしょ)は、大分県警察が管轄する警察署の一つ。 概要. 大分県内にある15の警察署の中で、人員規模では大分中央警察署に次いで2番目に大きい。 別府市田の湯町の地方職員共済組合別府保養所「つるみ荘」跡地に新築移転し、2014年6月16日に業務を開始している。新庁舎は、鉄筋コンクリート構造、地下1階、地上4階建て。内装には日田市産のヒノキが多く用いられている。 隠しカメラ設置事件. 2016年7月の第24回参議院議員通常選挙公示前の6月、同署署員が選挙期間中に民進党支援団体が入居する別府市の建物の敷地内に隠しカメラを設置していた事が、同年8月に明らかになった。
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内厩寮
内厩寮(ないきゅうりょう)とは、律令制において奈良時代後期に設置された令外官の一つ。天平神護元年2月(766年)設置。 概要. 宮廷の厩のことを司どり、頭(従五位上・助(正六位下)・大允(正七位下)・少允(従七位上)・大属(従八位上)・少属(従八位下)各1名よりなる。これは左右馬寮の場合と全く同じである。 ただ官人の補任記事を読み解くと、宝亀年間から延暦年間まで「頭」は多くが近衛府の中将(員外中将)・少将が兼任しており、その他のものも衛府の要職を経験しており、位階は官位相当を超えたものだったようである。恐らく近衛府・中衛府・外衛府の成立に応じて、内廷の武備をかため、儀容を整えるためのものであったようである。 職掌として、内廷の馬を扱うものだったようで、 2より 、内厩寮が信濃国に牧を所有し、馬を貢上させていたことが分かり、これが勅旨牧につながっていると考えられている。 3より、相当数の馬中央で飼育されていたことがわかる。 内厩寮成立後も左右馬寮は存続するが、宝亀10年(779年)以降の任命記事(正月王(むつきおう))はなくなり、天応元年(781年)からは主馬寮の記事がかわりに現れる(伊勢老人)。その後、内厩寮は『日本後紀』延暦25年正月(806年)の坂上石津麻呂が頭に、主馬寮は4月の藤原山人が権助に任命されたのをもって現れなくなる。大同3年6月(808年)には左右馬頭として、藤原清主・坂上石津麻呂の任命記事があり、この時にその役割を終え、主馬寮とともに再編されて、9世紀初めには廃止されたものと推定される、と亀田隆之は述べている。
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花柳寿南海
花柳 寿南海 (はなやぎ としなみ、1924年9月14日 - 2018年9月11日)は、東京都生まれの日本舞踊家。本名は柴崎照子(しばざき てるこ)(旧姓・福井)。文化功労者。従四位。 経歴. 1924年、東京都出身。横浜第一高等女学校卒業。3歳から日本舞踊を習い始め1932年に花柳寿京、花柳寿陽に師事し、1942年に花柳寿南海を名乗る。1946年に花柳寿輔の内弟子となる。1967年に「花柳寿南海とおどりを研究する会」、1989年に「花柳寿南海舞踊の会」を主宰する。山姥伝説をもとにした「山姥物」などの古典を得意とする一方で創作舞踊にも力を注いだ。1966年、芸術選奨文部大臣賞受賞。1992年、日本芸術院賞受賞。1997年、勲四等宝冠章受章。2004年、重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。2005年、文化功労者。 2018年9月11日、老衰のため東京都内の病院で死去。。叙従四位、旭日中綬章追贈。
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八甲田農業協同組合
八甲田農業協同組合(はっこうだのうぎょうきょうどうくみあい、略称:JA八甲田、八甲田農協)は2010年3月まで存在し、青森県上北郡東北町に本店を置いていた農業協同組合。 2010年4月1日をもって、上北地域2農協((旧)十和田おいらせ・横浜町)とむつ市のはまなす農協と共に新設合併した(新)十和田おいらせ農業協同組合の発足に伴って解散し、10年間の歴史に幕を下ろした。
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ハイっ、こちらIT課!
ハイっ、こちらIT課!(ハイっ、こちらアイティーか!、原題: The IT Crowd)は、イギリス・チャンネル4製作のシットコム。2006年に第1シリーズ、2007年に第2シリーズ、2008年に第3シリーズ、2010年に第4シリーズがそれぞれ6話ずつ放送された。現在第5、第6シーズンの製作が決まっている。監督・脚本はグレアム・リネハン。 日本では、第1シーズンが2007年1月からWOWOWの「コメディUK!」枠で、第2シーズンが2008年10月4日から11月16日まで、第3シーズンも2010年11月27日から12月25日まで同じく「コメディUK!」枠で放送された。第4シーズンは2011年1月8日からWOWOWで放送される予定である。 あらすじ. 大企業レイノム(Reynholm)社の地下にあるお荷物部署「IT課」は、他の部署の目が届かないことをいいことにロイとモスのオタク社員2人は自由気ままに過ごしている。そこに新たにコンピュータに関してはまったく無知な女性マネージャー・ジェンが2人の上司として赴任する…。
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北海道大麻高等学校
北海道大麻高等学校(ほっかいどうおおあさこうとうがっこう、Hokkaido Ohasa High School)は、北海道江別市にある道立の高等学校。 部活動・同好会. 運動部. 全道
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交響曲ト長調
交響曲ト長調(こうきょうきょくとちょうちょう)の一覧
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亀田郵便局
亀田郵便局(かめだゆうびんきょく)
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オーキントン移住受付センター
オーキントン移住受付センター(Oakington Immigration Reception Centre)は、イングランド、ケンブリッジシャーに位置する、2000 - 2010年に運営された、英国内務省の移住者収容所。
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世界文学全集
世界文学全集(せかいぶんがくぜんしゅう)とは、世界の文学の名著をまとめた出版形態である。全集とは本来、「すべての書物」をさす言葉だが、そのような意味での世界文学全集を作成販売するのは不可能であり、主要作品をまとめたもののみで全集と称することが多い。 ブーム. 全盛期の累計発行部数は2000万部から3000万部ほどであった。 世界文学全集の起源(大正時代). 以下は矢口の調査による。複数の世界文学をまとめて販売する作品集のはじまりは、新潮社の「近代名著文庫」8編9冊(1913年)とされる。その内容は以下。 他に大正~昭和初期に企画された作品集は下記がある。 昭和以後のおもな世界文学全集. 日外アソシエーツの調査によれば、世界文学全集に相当するものは、個人全集、国や地域別全集、少年少女向け全集を除いても、日本で100以上出版されてきた。本項ではそのすべてを紹介する事は不可能なので、主に矢口の著作「世界文学全集」に紹介されたものを中心にあげる。 新潮社. 日本における「世界文学全集」の名は、1927年開始の新潮社の全集に始まる。 改造社. 「大衆文学全集」といいながら、「ロビンソン・クルーソー」「ガリヴァ旅行記」「ジェイン・エア」などを含む。ポーの短編も江戸川乱歩訳で紹介。 河出書房. 「新社」とあわせて、世界文学全集の発行数は日本最多。 河出書房新社. 1957年に河出書房は倒産し新社となった。 三笠書房. 1950年代には、ヘミングウェイ、フォークナー、バール・バック、ミッチェルなど、20世紀アメリカ文学の翻訳で最先端だった。 平凡社. 世界を網羅する文学全集は多くないが、中国文学全集は他社の追随を許さない。ロシア文学全集もある。 筑摩書房. 紀元前にさかのぼる古典重視が特徴。河出と共通の訳者が多い。 集英社. 1960年代以後に参入した、後発の全集出版社の代表格。 中央公論社. 若手の新訳者を抜擢し、「全巻新訳」と宣伝。結局新訳は過半くらい。 講談社. 少年少女向け全集に注力し、大人向けの全集参入は後発になった。 学習研究社. 本業の少年少女向けから大人向けに進出した。 「世界文学全集」によく採用された作品とその訳者. 下記は「作家名から引ける世界文学全集案内 (I期)」を資料とした、収録された回数が多い作品である。短編は収録が容易なために、採用数が多い傾向がある。 世界文学全集の出版最盛期が1950-1970年代だった事を考慮すると、以下の作品は、その時代の価値観を反映しているかもしれない。
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雄鉄昭和駅
雄鉄昭和駅(ゆうてつしょうわえき)は北海道釧路市昭和町にあった、雄別鉄道雄別本線の駅である。同線の廃止とともに廃駅となった。 概要. 1921年(大正10年)から釧路川の大規模な河川改修が始まり、建設用資材積卸用側線が当駅近くから分岐し敷設されたため釧路川信号所が置かれた。その後新富士駅の富士製紙釧路工場の依頼により同工場所有の阿寒原生林からの原木運搬のため同工場へ当駅の地点から鳥取岐線と呼ばれた引込線が分岐したため鳥取信号機が置かれ、その後の河川改修の進捗や、埠頭線の完成によって鳥取岐線側が石炭運搬用として整備される過程で、両信号所の位置が都度変更され一時は同一地点に在る状況も発生したが、詳細は残されていない。最終的には河川改修が終了して釧路川信号所は廃止され、埠頭線連絡石炭運搬用分岐点として鳥取信号所が1951年(昭和26年)に正式に設置された。この信号所には40m程度のホームがあったが、一般人の旅客扱いについては不明。その後鶴野線の完成による鳥取岐線の廃止に伴い、同信号所も廃止となるところを、周辺人口も増加していることから新たに整備して旅客駅として開業したのが当駅である。 構造. 木造の島式ホーム1面2線で、ホーム北側が2番線本線で乗降用に使用。南側には廃止して使用していない旧・鳥取岐線用機回し線が1番線として撤去されずに施錠されて残されていた。 鳥取信号所時代は基本構造は雄鉄昭和駅と同じで、他に鳥取岐線用機関車が配置されていたために1番線機回し線側に炭水設備を有していた。また分岐器より先の鳥取岐線側でも岐線本線と機回し線の2本に分かれていた。
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山口県立宇部中央高等学校
山口県立宇部中央高等学校(やまぐちけんりつ うべちゅうおうこうとうがっこう)は、山口県宇部市東梶返四丁目に所在する公立の高等学校。通称は、「中央」(ちゅうおう)、「中央高校」(ちゅうおうこうこう)、「宇部中央」(うべちゅうおう)。 概要. 生徒数及び入学者は例年、女子の比率が高い傾向にある。 古川薫(後年に直木賞を受賞)と担任の中野真琴が共同して学校発行の機関同人誌『里程標』創刊号を1950年に発行する。古川薫は安倍晋三元首相の父で元外相の安倍晋太郎とも親交が深かった。2005年12月、当時の首相の小泉純一郎が古川薫を首相官邸に招き、昼食を共にした。 弓道の強豪校として知られ、1989年(平成元年)に女子弓道部がインターハイで初優勝して以来、1998年(平成10年)から2000年(平成12年)にかけてのインターハイ3連覇など数々の良績を残している。また、男子弓道部も2005年(平成17年)にインターハイで4位入賞している。校訓は「明日へ」である。 学科. 全日制 定時制
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ハックニー
ハックニー、ハクニー
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女盗賊プーラン
『女盗賊プーラン』(おんなとうぞくプーラン、原題:Bandit Queen)は、1994年に公開されたインドの伝記映画。盗賊から政治家に転身したプーラン・デーヴィーの半生を描いており、『インド盗賊の女王プーラン・デヴィの真実』の著者が脚本家として参加している。シェーカル・カプールが監督、が主演を務めている。第47回カンヌ国際映画祭の監督週間部門で初上映され、エディンバラ映画祭でも上映された。第67回アカデミー賞の外国語映画賞インド代表作品に選出されたが、ノミネートはされなかった。 トラブル. プーランは映画が事実に基いていないと主張して上映禁止を求め、受け入れられない場合は劇場の外で焼身自殺すると通告した。最終的に製作会社のチャンネル4が4万ポンドを支払ったため、彼女は主張を取り下げた。
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ゆるキャン△ (テレビドラマ)
『ゆるキャン△』は、あfろの漫画作品『ゆるキャン△』を原作とした日本のテレビドラマ。 2020年1月10日から3月27日まで、第1期がテレビ東京『木ドラ25』枠にて放送された。初回放送直前の2020年1月9日21時30分からは、LINE LIVEにて福原遥と大原優乃が見所を紹介する「#ゆるキャン△ 放送直前 福原遥&大原優乃ゆる生LIVE配信」が行われた。 2021年4月2日から6月18日まで、第2期が『ゆるキャン△2』のタイトルで『木ドラ24』枠にて放送。第2期では本編に加えて『へやキャン△』も厳選したエピソードをショートストーリーとして放送する。これに先立つ形で、同年3月29日23時6分から年末年始のエピソードを描いた特別編『ゆるキャン△スペシャル』が放送され、これにあわせる形でスペシャル放送直前の同日20時30分から公式Instagramにて福原と大原の二人によるインスタライブの配信が行われた。主人公の志摩リンを福原が、各務原なでしこを大原がそれぞれ演じたことでも話題になった。 劇中に登場する観光地・宿泊地. 本作品では山梨・長野・静岡に実在する様々な観光地・宿泊地が登場している。 製作. 企画・撮影. 製作に当たってテレビ東京プロデューサーの藤野慎也は「実写化なりのオリジナル表現にも挑戦しつつ、可能な限り原作コミックを忠実に再現したい」と考えていたことを明かしている。そのため、ロケーションに当たってはテレビアニメ版同様に富士の国やまなしフィルム・コミッションの協力を得て、モデルとなったキャンプ場7か所すべてから撮影許可を得た。撮影に当たっては一ヶ所ずつロケハンを行い、どのように撮れば各キャンプ場の魅力を引き出せるのか、スタッフ間で入念に話し合ったという。ただ、天候に左右されるため、例えば初日は浩庵キャンプ場でのロケを予定していたのが雪が降ったためスケジュールを大幅に修正、ふもとっぱらキャンプ場ではロケハン時には富士山からの日の出が全く見られない状況だったが撮影日当日は見事に晴れた、などのエピソードも語られている。 ヘッドクォーターのプロデューサー、熊谷喜一は原作を読んだ時点で「“ゆるさ”という言葉は“しなやかさ”でもあるなって感じました。5人の女子高生も、しなやかに人間関係を変化させていっていて、この“しなやかさ”こそが作品の魅力であり、面白さだな」と語り、S・D・Pプロデューサーの岩倉達哉も原作の感想として「ドラマがすごいしっかりとしていて、よくできている」とした上で、実写化の意図について「自然の中で彼女たちが見ているものには絶対に何かしらの価値があって、それを見るために面倒くさがらず、まずは動くっていうのがすごくすてきだなって感じたので、ドラマ化することで視聴者にも何か届くものがあるだろうなと思いました」、熊谷も「リンたちが不便さを楽しむ様子や、たき火を見つめる彼女たちの向こう側に、彼女たちが得ようとしている“何か”が映ればいいなって思いました」と語っている。 ディレクター陣やプロデューサー陣など、制作スタッフが強く意識したのはアニメ版ではなく原作の方であり、熊谷は「原作をきちんと把握して、現実のキャンプ場、実際の土地を舞台にしたリアルな場所で芝居をすると、必然的にカット割りが似てくる。原作がリアルな場所を描いているからこそ、実写のほうも必然的にそこに近づくんです」と、原作を再現することで結果として自然とアニメ版と近い画作りになったとしている。 企画の立ち上げに当たっては熊谷が元々キャンプが趣味というのもあり、この数年のキャンプブームを感じる中で原作漫画にたどり着き、読了後ただのキャンプものに終わっていないことやソロキャンプだけでなくグループキャンプの良さも描かれていること、リアルな場所が描かれていることが実写化に向いている題材だと考え、岩倉に相談を持ちかけた。岩倉も原作に一度触れたことがあり、熊谷からの話をきっかけに再び読み直すと「女子高生たちの心のドラマがちゃんと描かれている」と、実写化にあうと感じていた。そして岩倉はテレビ東京でやるのが一番と考え、「勇者ヨシヒコシリーズ」で組んだことのある藤野に話を持っていった。 藤野も自らキャンプに興味を持ち始めており、2019年5月の時点で同じくキャンプを題材としたドラマ『ひとりキャンプで食って寝る』(2019年10月 - 12月放送)の制作が始まっていたことから、「自分でもこのようなドラマをプロデュースできたら」と思っていたところに岩倉から話が来たことで渡りに船とばかりに企画を進めることになった。冬季のロケになるため放送時期も含め早期に取り組む必要があると考え、独占配信を行っているAmazonプライムビデオに直ちに声をかけたところ乗り気となったことから企画が進み、通常なら1〜2年かかるところが数ヶ月で放送が決まっていったという。 演技・キャスティング. 演技に関しては、リン役の福原は出演が決まってから原作漫画およびテレビアニメ版を見て研究しており、これまで演じたことのないクールなキャラについて「(人気作のため)皆がリンちゃんのイメージを既に持っていると思ったので、初めは苦戦しました」「探り探り演じている」、と語っている他、劇中で使うテントの設営練習を繰り返すなど、キャンプ慣れしているキャラクターを再現する努力を重ねて撮影に臨んだ。福原の演技に関しては、藤野も岩倉も「地道な役作りの結果」と評している。なでしこ役の大原もオーディションで決定し、藤野は「なかなかあの天真爛漫なキャラを演じるのって、いろんな女優さんを見たんですが、そこをブレイクスルーしてあそこまで演じきれる子はなかなかいないでしょう」と評している。大原自身は「強く『この役を生きてみたい!』と思った役だったので、演じさせていただけた喜びは、すごくありました」と述べ、福原同様に人気作を演じるプレッシャーと不安があったことを明かしている他、役作りに関して所作と声のトーンから始めており、「走り方やちょっとした動きでも、なでしこらしさを心がけている」と語っている。なお、福原と大原はローティーン向け雑誌『ピチレモン』(学研パブリッシング)の専属モデル時代からの親友であり、共演作もあるが、藤野はプライベートでも仲が良いことを知らなかったという。また福原はインタビューの中で大原と共にあおい役の箭内とも共演歴があり、さらに恵那役の志田とも『ピチレモン』のモデル時代からの知己だったことを挙げて、気心の知れた共演者が多かったことが、結果的に原作のゆるい空気感再現にぴったりだったと述べている。田辺桃子が演じる千明に関しては、田辺は「原作を読んだイメージを壊したくないです」と、あえてアニメを見ずに、原作だけで自分の中でイメージを膨らませて演じているという。 ドラマ版独自のキャスティングとしてはキャンプを趣味とするお笑い芸人がゲスト出演しており、第1期ではピン芸人のヒロシが本人役として複数回出演、第2期の第5話では、山中湖のキャンプ場の管理人役でお笑いコンビ・バイきんぐの西村瑞樹が出演している。西村はゆるキャン△の出演に際して、「本当にキャンパー冥利に尽きます。撮影をしたキャンプ場ではテンション上がって実際に一泊させてもらい、とても良い思い出が出来ました」と感想を語っている。 反響. 製作発表直後は人気作の実写化という事もあり、反響も多く、中にはファンからの反発の意見もあり、藤野は「ここまで言われるのかとへこんだ。ただこういった意見があったからこそ皆さんの大切な作品に泥を塗ることができないと改めて心に誓うことができた」と語っている。福原と大原も反響の多さに原作が愛されていると実感するとともにプレッシャーを感じつつも、良い作品にできるよう改めて思ったと語っている。 放送後、既存ファンからは原作やテレビアニメ版を忠実に再現した内容が好評を呼び、中でもテレビアニメ・劇場アニメ版でなでしこを演じた花守ゆみりが「笑顔に癒された」というエピソードも語ったなでしこ役の大原の演技、千明を演じる田辺のビジュアル・演技再現度の高さ、実写ならではの風景の美麗さが話題となった。風景描写に関してはアニメファンから「すごい作画だ」と冗談も出るほどに好評価を得ている。視聴者の反応に藤野は「再現度が高いと喜んでもらっている意見が比較的多かったので、正直ホッとしました」、福原も反響の多さに「すごく嬉しい」と語っている。 第2期第2話では、アニメ版でナレーション / リンの祖父役を務める声優・大塚明夫が、ドラマ版でもリンの祖父役として声のみとはいえ出演を果たし、視聴者からは「にくい演出」「スタッフの愛を感じる」「今後のご本人登場に期待」など喜びの声が続出したという。元々、2020年4月に始まった大塚のキャンプ旅企画「あきキャン△」で大塚本人が出演していたこともあり、「ドラマ版にも登場するのでは」と期待が寄せられていたという。 第2期第10話では、なでしこが「ここをキャンプ地とする!」と一人で宣言する場面をはじめとした深夜バラエティ番組『水曜どうでしょう』を彷彿とさせる台詞の数々に視聴者から反響があったという。 評価. ライター・ドラマ評論家の成馬零一は本作品について、「出来のよかったアニメ版と比べられ、始まる前は批判的な意見も多かったが、アニメの完コピという大胆な策に打って出たことで評価は反転し絶賛の声が多数上がっている。何より福原遥や大原優乃といった女子高生を演じる若手女優が可愛く撮れているのはポイントが高く、アイドルドラマとして圧倒的に正しい」と評している。さらに成馬は「ソロキャンをするリンとなでしこたち野クルのメンバーの絶妙な距離感がとても心地よく、新型コロナウイルスのニュースでささくれ立っていた心が癒やされる思いだった」と称賛している。成馬は年末企画「成馬零一の『2020年 年間ベストドラマTOP10』」で本作品を6位に挙げている。 フリーライターの苫とり子は、各主要演者について以下のように評している。 放送日程. 第1期 特別編 第2期 BD / DVD. 2020年10月9日に第1期のBD-BOX/DVD-BOXとして発売。映像特典としてメイキング映像や出演者による自撮り映像、上述の放送直前LINE LIVEで配信された映像を収録。 2021年10月6日にはスペシャルを含む第2期のBD-BOX/DVD-BOXが発売。映像特典としてメイキング映像や出演者による自撮り映像、同年3月29日に放送された『ゆるキャン△スペシャル』の映像を収録。
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岩手トヨタ自動車
岩手トヨタ自動車株式会社 (いわてトヨタじどうしゃ) は、岩手県盛岡市に本社を置くトヨタ自動車の販売系およびトヨタ店チャネルの専属ディーラーである。岩手トヨペットの持株会社であるT-MIGのグループ企業。 概要. 岩手県内全域においてトヨタ店を展開している。2006年からトヨタ自動車直営が続いていたが、2020年に岩手トヨペットの持株会社であるT-MIGが全株式を取得した。なお、高級車ブランドレクサスの販売店は、グループ会社である岩手トヨペットが運営している。
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アポロ賞
アポロ賞(アポロしょう、"Prix Apollo")は、フランスで出版されたSF小説を対象とした文学賞。とによって創設され、1972年から1990年まで続いた。外国作品の場合、フランスにて翻訳出版された時に選考の対象となった。 アポロ賞消滅後の1992年、フランスSF大賞(Grand prix de la science-fiction française、1974年創設)がと改称し、外国作品も対象にするというアポロ賞のコンセプトを引き継いで新たに外国作品部門を設けた。 受賞作リスト. (カッコ内は、外国作品の場合の仏題)
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篠永正道
篠永 正道(しのなが まさみち、1946年 - )は、日本の医学者、脳神経外科医。 2005年より国際医療福祉大学熱海病院脳神経外科教授。2021年7月31日国際医療福祉大学退職。2021年8月1日よりふれあい平塚ホスピタル勤務。 人物・来歴. 1946年(昭和21年)福島県生まれ。1972年に横浜市立大学医学部を卒業。1981年から1982年にかけてアメリカ合衆国・ノースカロライナ大学神経外科に留学。 1985年に横浜市立大学脳神経外科講師、1992年]平塚共済病院脳神経外科部長、平塚共済病院救急センター長を歴任。 日本脳神経外科学会専門医・評議員、日本脳卒中学会専門医、日本脊髄外科学会専門医、日本頭痛学会専門医、日本ニューロモデュレーション学会評議員。医学博士。 2005年5月から国際医療福祉大学熱海病院脳神経外科教授に就任。 2021年7月31日国際医療福祉大学退職。
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1992年アルベールビルオリンピックのアイスホッケー競技
1992年アルベールビルオリンピックのアイスホッケー競技(1992ねんアルベールビルオリンピックのアイスホッケーきょうぎ)は、1992年2月8日から2月22日までの競技日程で実施された。 概要. 12カ国が参加して行われた。競技では、6カ国ごとに2つのグループに分かれ総当りの予選リーグを行った。予選リーグ各組の上位4チーム計8チームが準決勝へ進出し、5位と6位が9-12位決定戦に進んだ。準々決勝および9-12決定戦以降はトーナメント方式で行われ、最終順位を決定した。
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11月12日
11月12日(じゅういちがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から316日目(閏年では317日目)にあたり、年末まであと49日ある。
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パイロットプラント
パイロットプラント (pilot plant) とは、主として化学、機械、電気などの工業、あるいは農業などにおいて実用的なプラント設計に先立ち、必要な設計データ収集のために試験的に組み立てる、ほぼ実用プラントと同様の機能を持った試験室的段階と実用の段階との中間の位置づけとなるプラント。文字通り、水先案内人 (pilot) となる予備プラントである。研究者と実用機械、設備、装置などの設計、保守、運転者などの各分野の専門家らと経済、公害、行政法までもよく知る総合判断の出来るプロジェクトチームリーダーとで構成する、職制とは一線を画すプロジェクトチーム制となることが多い。 実用機械・設備・装置などは、質量・面積・体積・電流値などが巨大化(スケールアップ、scale up)するため、予期せぬトラブルが起こることが多く、一度、実用機(器)を設置すると部分的な設計変更が効かないことが多い。このため、パイロットプラントでは、基本的な次元、すなわち、長さ(面積、体積を含む)・質量・時間・電流などとその時の温度、入力(熱量や動的エネルギーなど)とその結果得られる仕事量(収率、生産量、発電量などの中間または最終目的となるもの)との関係などの詳細なデータが取られる。
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フライトライン
フライトライン (""、2018年3月14日 - )は、アメリカ合衆国の競走馬・種牡馬。主な勝ち鞍は2021年のマリブステークス、2022年のメトロポリタンハンデキャップ、パシフィッククラシックステークス、ブリーダーズカップ・クラシック。 経歴. デビュー前. ある日、代理人のデビッド・インゴードがレーンズエンドファームのビル・ファリッシュと共に名門サマーウインドファームを訪れた。目的は三冠馬アメリカンファラオの栗毛の半弟のタピット産駒だったのだが、インゴードは別の鹿毛のタピット産駒に一目惚れする。その後数回その馬を見る機会があったが直感が揺らぐことはなく、しかし多額の費用がかかることが予想されたので5つの馬主グループをまとめて2019年のファシグティプトン8月セールに出場した同馬を100万ドルで購買した。 翌年の2歳になった1月、トレーニングの準備中にフライトラインは何かに驚き厩舎のドアの金属部にトモをぶつけ大怪我を負ってしまい、治癒後も新型コロナウイルス感染症による社会の混乱もあって育成が大幅に遅れ、デビューは3歳になった2021年の4月まで待つことになった。 3歳時(2021年). 2021年にサンタアニタ競馬場の未勝利戦でデビューし終始馬なりで13馬身1/4身差で楽勝。続く9月の2戦目も終始馬なりで圧勝した。 あまりの圧倒的な勝ち方に陣営は3戦目にブリーダーズカップ・スプリントを熱望したが馬主が拒否したため、年末のマリブステークス(GI)に出走した。GI2勝にブリーダーズカップ・スプリント2着の実績があるドクターシーヴェルなども出走したが、逃げて直線に入っても後続との差が詰まることなく2着のベイビーヨーダに最後まで馬なりのままで11馬身半差をつけ圧勝した。 4歳時(2022年). 4歳初戦にはサンカルロスステークス(GII)が予定されていたが、2月の調教後に後肢の飛節を痛めたため回避。6月のメトロポリタンハンデキャップに直行することになった。前年のブリーダーズカップ・スプリント勝ち馬アロハウエストや国際レート123ポンドの強豪スピーカーズコーナーなどが出走したものの単勝1.4倍の1番人気に推される。レースでは出遅れてしまい逃げられず、逃げるスピーカーズコーナーに2度進路を塞がれたため外に出してマークすることになったが3コーナーから進出すると2着のハッピーセイバーに最後は流しつつ6馬身差をつけて圧勝した。 その後予定通り9月のパシフィッククラシックステークスに出走する。一気の距離延長に加え同年のドバイワールドカップ勝ち馬カントリーグラマーやサンタアニタハンデャップ勝ち馬のエクスプレストレインなど西海岸を代表する古馬が顔をそろえたものの、逃げ馬をマークし途中で競り落とすと後は直線で少し追い、最後は100メートル以上手綱を緩める程の余裕でカントリーグラマーに19馬身1/4差をつけ快勝、5連勝を飾った。 現地時間11月5日(日本時間11月6日)、ブリーダーズカップ・クラシックに出走。出走馬8頭全てGI馬という超豪華メンバーの中、前走の勝ち方や連勝の勢いなどを評価され、単勝オッズ1.44倍の圧倒的一番人気に推された。レースでは、逃げるライフイズグッドのすぐ後ろを追走し、4コーナーで並ぶ間も無く同馬を外から交わすと、持ったまま加速。鞍上のF・プラが直線で後ろを振り返るほどのスピードでそのまま他馬を突き放し、8馬身の差をつけ完勝。デビューから6連勝、GIはこれで4連勝となった。レース後、調教師のJ.サドラーは「この馬は史上最強の馬の一頭であり、そのことを今日証明してみせたと思う。」と語り、また「彼はこの競馬界に何か特別なものをもたらした。私たちはヒーロー、チャンピオン、無敗の馬が必要で、それがこの馬なのだ。」と誇らしげに話した。その後、このレースを最後に引退することを発表、引退後の2023年よりレーンズエンドファームで種牡馬入りする。6戦9,400mでトータル71馬身差を付けるという成績を残した。 種牡馬時代. BCクラシック勝利の翌日、ケンタッキー州のレーンズエンドファームで種牡馬になることが発表された。初年度の種付け料は150頭の頭数制限付きで20万ドル。 競走馬としての評価・特徴. 身体的特徴. サドラー調教師によると体高は16.2ハンド。身体的能力の高さに常に脚部不安が付きまとい、現役時には初戦後と、2022年の年明けに2度軽度の脚部不安を起こしている。そのため管理するサドラー調教師は常に「完璧な状態でしか出走させない」と話しており、これがキャリアの少なさに結びついている。 走行. 驚異的な加速能力を有しており、出そうと思えば最初の2fを43秒台で走ることもできる。その結果レースではハイペースの逃げや2番手になっている。あまりに速すぎるため、ほとんどの場合ライバルが道中で消耗してしまってついていけなくなり、結果どのレースも最後は常に流していて、そのためレースでは鞭を打たれたことが一度もない。本気で走り切ったことがないその生涯でレコードを計時することはなかったが、それでいながらコースレコードに肉薄するようなタイムを数回出している。単純なタイムの比較になるがブリーダーズカップ・スプリント(6f=およそ1200メートル)を馬なりで勝ち切るスピードがある。中距離ではマイルのスピードを維持しながら1 1/4マイル(およそ2000メートル)を走破する。フライトラインの全レースでの6f通過時の最遅タイムは1:09.97でありマイルの最遅タイムは1:34.58だったが、それでいて最後は必ず伸びるため相手陣営を大いに悩ませた。アメリカ競馬に造詣が深く、スペシャルウィークなどで知られる白井寿昭元調教師は「どうもならんわ。スピードが違い過ぎる」と評価している。 フライトラインの走りの危険性は関係者にも広く知れ渡っていて、パシフィッククラシック時には2着のカントリーグラマーのジョン・ヴェラスケス騎手に管理するボブ・バファート調教師から「あの馬を追いかけるな」という指示が出た。またBCクラシックではライフイズグッド陣営が「フライトラインが今まで走ったことのないようなペースで行く」と宣言した通りの逃げで、6f通過時が1:09.27(当日のBCスプリントの勝ちタイムが1:09:11)、マイルの通過時は当日のBCダートマイルより速い1:34.58という異常なペースになったが、いつも通り追走しながら突き放した。3着のマイク・スミス騎手は「2頭は自殺行為ともいえるハイペースで走っていたので、自分にもチャンスは来ると思っていました。テイバはあらんかぎり力を振りしぼって最高の走りをしましたが、フライトラインは信じられないほどすごかったのです。セクレタリアトのようなものですよ。これまで見た中で最強です。」と振り返った。 各種指数. ワールド・ベスト・レースホース・ランキング. ワールド・ベスト・レースホース・ランキングでは、2021年のマリブステークス勝利により124ポンドの評価を与えられた。2022年のメトロポリタンハンデキャップでは127ポンドを獲得した。パシフィッククラシックステークスでは139ポンドを獲得し、北米調教馬記録のシガーの135ポンドを大幅に更新した。翌年1月にはレーティングが140ポンドに修正され、フランケルと並んで2023年現在最高のレーティングを保持する競走馬となった。 パシフィッククラシックステークスの評価は国際競馬統括機関連盟 (IFHA) の9月の中間発表で137~140ポンドのどれにするかで意見が割れた。アメリカのハンディキャッパーはフランケルと比べた場合キャリアが浅いことを気にして「より強いメンバーが集まるブリーダーズカップ・クラシックの走りを見てから判断したい」という意見で138ポンドだった。140ポンドに対して慎重な国も多く、結果139ポンドになった。その後ブリーダーズカップ・クラシックの圧勝を受けてパシフィッククラシックステークスのレーティングは満場一致で140ポンドに決定、修正された。 ブリーダーズカップ・クラシックを140ポンドに評価すべきという意見もあったが、その場合着差を考慮すると2着以下のレーティングが高くなりすぎるという理由から、このレースは無理にレーティングを140ポンドの対象にしないという結論に至った。 タイムフォーム・レーティング. 世界的な競走馬指標であるタイムフォームのレーティングではパシフィッククラシックステークス勝利時に143ポンドを獲得し、これは同指標におけるアメリカ調教馬の過去最高の数字で歴史的に見てもこの数字より上は4頭しかいない。 ベイヤースピード指数. 強烈なパフォーマンスからアメリカで信奉されているベイヤースピード指数でも非常に高い数値を出しており、初戦が105、2戦目が114、3戦目は118だった。特に118は出色で、2021年に全米で走ったすべての競走馬で最も高い数字だった。114も2位タイである。2022年はメトロポリタンハンデキャップが112、パシフィッククラシックステークスが126でブリーダーズカップ・クラシックは121。注目すべきはパシフィッククラシックステークスで、126は過去18年における北米のすべてのレースにおいて最高の数字であり、1 1/4マイルでは史上最高だった。ブリーダーズカップ・クラシックの121も21世紀の同レースでゴーストザッパーに次ぐ数字である。 血統表. 父タピットは全米首位種牡馬3回の種牡馬。母系はアメリカ競馬の重鎮であるフィップス家の育てた名門牝系。母は芝G3勝ち馬で、芝ダート両G1の2着などがあり、引退後のセリで230万ドルの高値で売買された。曾祖母ファインダーズフィーはG1エイコーンS勝ちがある。五代母BliteyからBCスプリントのダンシングスプリー、その孫でG1を8勝した全米3歳牝馬チャンピオンのヘヴンリープライズなども出ている。
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隼田登志夫
隼田 登志夫(はやた としお、1955年7月19日 - )は、日本の実業家。マツモトキヨシ代表取締役社長を務めた。 人物・経歴. 1979年國學院大學法学部法律学科卒業、マツモトキヨシ入社。商品部長、店舗運営部長を経て、2002年取締役店舗運営部長に昇格。2003年取締役薬粧本部長。2004年取締役店舗運営本部長。2005年取締役営業本部長。2007年取締役ファーマシー事業本部長。2008年常務取締役。2009年から代表取締役社長を務め、新業態「H&B Place」の展開などにあたった。
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長江郡
長江郡(チャンガンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国慈江道の中北部に位置する郡。郡の名前は長津郡と江界郡から一字ずつ取ったものである。 地理. 北西に満浦市、北に慈城郡、東に 和坪郡・狼林郡、南に 江界市・城干郡、西で時中郡と接する。 長江郡の地形は北東方に 江南山脈、南西に 狄踰嶺山脈が通過して岩と山地が多い。 最高峰は北の境界にある金坡山(1918m)である。 歴史. 独立前には平安北道江界郡の一部だった。 1949年1月に南部が前川郡、北部が満浦郡に分離して咸鏡南道長津郡東門面が統合された。12月江界郡公北面、従南面、従西面、曲河面、漁雷面、東門面を長江郡に改称した。 1952年12月に行政区域改編で従南面、従西面と公北面一部に再構成された。 年表. この節の出典 経済. 清涼飲料と製薬工場がある。従城江沿いに稲作が行われ、高地では葡萄などの作物が栽培される。 また、亜鉛が採掘される。 交通. 郡の南東に江界線が通過する。 行政区域. 1邑 3区 10里で構成される。
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中村裕子
中村裕子(なかむら ゆうこ)は日本放送協会の制作統括。 概要. 東京都港区出身。慶應義塾大学卒業後、日本放送協会に入局。長野局などを経て池上彰らのレギュラー番組の週刊こどもニュースなどを担当し、番組ディレクターとなった。現在はNHKエデュケーショナルのコンテンツ制作開発センターこども幼児グループ所属のチーフプロデューサー。 作品. 担当番組. など 
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クオリティ・オブ・リビングによる都市順リスト
クオリティ・オブ・リビングによる都市順リスト(クオリティ・オブ・リビングによるとしじゅんリスト)は、マーサー・ヒューマン・リソース・コンサルティング()による「クオリティ・オブ・リビング調査」を基に、世界231都市のクオリティ・オブ・リビングを数値化したものである。ニューヨークが基準値として100で表され、それと比較する形で各都市の数値が計算される。 項目. 数値は以下の39項目から算出される。
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西松和彦
西松 和彦(にしまつ かずひこ、10月20日 - )は、日本の男性声優。キャロットハウス所属(預かり)。東京都出身。 身長174cm。趣味は音楽鑑賞、音響製作、読書、釣り、ゲーム。特技水泳。
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石川春律
石川 春律(いしかわ はるのり、1935年 - 2008年) は、日本の細胞生物学者、医師。群馬大学名誉教授。日本電子顕微鏡学会会長や、日本細胞生物学会会長を務めた。 人物・経歴. 鹿児島県出水市出身。1960年九州大学医学部医学科卒業後、整形外科入局。1965年九州大学大学院医学研究科修了、医学博士。1966年ペンシルベニア大学医学研究員。1972年東京大学医学部助教授。1983年群馬大学医学部解剖学第二講座教授。1994年群馬大学医学部長、日本細胞生物学会会長。2000年日本電子顕微鏡学会会長。2001年群馬大学名誉教授。2008年没。
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ジョン・エア (初代エア男爵)
初代エア男爵ジョン・エア(、1720年 – 1781年9月30日)は、アイルランド王国の政治家、貴族。1748年から1768年まで議員を務めた。 生涯. 聖職者(1750年2月17日没)と妻メアリー(、旧姓コックス()、リチャード・コックスの娘)の息子として、1720年に生まれた。1738年7月15日にダブリン大学トリニティ・カレッジに入学、1754年にLL.D.の名誉学位を授与された。 1748年から1768年までの代表として議員を務めた。1752年にを、1758年にを務めた。1768年7月16日にアイルランド貴族であるゴールウェイ県におけるエアコートのエア男爵に叙され、1769年10月17日に議員に就任した。 1781年9月30日にで死去、息子が夭折したため爵位は廃絶した。エアコートの地所は甥ジャイルズ(、1829年没、子供あり)が継承した。 家族. 1746年5月、イリナー・ヘップバーン(、旧姓ストーントン()、1788年4月没、ジェームズ・ストーントンの娘)と結婚、1男1女をもうけた。
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柳川弘志
柳川 弘志(やながわ ひろし、1944年- )は、日本の生物学・化学者、慶應義塾大学客員教授。 人物紹介. 神奈川県出身。1969年横浜国立大学工学部応用化学科卒業、1974年東北大学大学院理学研究科化学専攻博士課程修了、「アスパラガス酸の化学と生化学」で理学博士。三菱化成(現三菱化学)生命科学研究所研究員、2000年慶應義塾大学理工学部生命情報学科教授。2010年客員教授。 専門分野は、ゲノムネットワーク解析、タンパク質の進化分子工学、進化分子工学 COE採択メンバー・リーダー。21世紀COEプログラム・生命科学分野、システム生物学による生命機能の理解と制御
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世界青少年囲碁選手権大会
世界青少年囲碁選手権大会(せかいせいしょうねんいごせんしゅけんたいかい、世界青少年圍棋錦標賽、World Youth Go Championship)は、台湾の応昌期囲棋教育基金会の主催する囲碁の大会。青少年の囲碁レベル向上を目的として、1984年に開始。第6回からは12歳以下の少年組と16歳以下の青年組が行われる。 参加国は、中国、台湾、日本、韓国、シンガポール、タイ、米国、カナダなど。過去の優勝者や入賞者には、1988年の常昊など、その後の世界トップクラスの棋士になった選手が多い。 第36回までの少年組1位の国籍は中国17回、韓国16回、台湾2回、日本1回(関航太郎)。青年組1位の国籍は中国20回、韓国10回、台湾1回。 少年組と青年組の両方で1位となった選手は、夏銜譽、李康、韓升周、柯潔、李欽誠の5名。 ルールは応昌期ルール。
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エレン・センプル
エレン・チャーチル・センプル(Ellen Churchill Semple、1863年1月8日 - 1932年5月8日)は、アメリカ合衆国の女性地理学者。センプルの業績は人文地理学(人類地理学)と環境論に深く関わっている。センプルは、彼女の一連の著書および論文によって、ドイツの地理学者フリードリヒ・ラッツェルの業績のある側面を英語圏の地理学者に知らしめた。センプルの標準的な学問上の業績に関する評価は、「社会環境よりもむしろ自然環境(物理的環境)が文化を規定する」という理論である環境決定論を主張したというものであるが、決定論とは相反する環境の影響についても論じている。 経歴. センプルはスコットランド系の父・アレクサンダー・ボナー・センプルとイギリス系の母・エメライン・プライス・センプルの5人の子の末子としてケンタッキー州ルイビルに生まれた。父はセンプルが8歳の時に亡くなるが、兵器商をしていたため南北戦争で莫大な富を築き、生活には困らなかった。読書と乗馬とテニスを趣味とする活発な少女であった。1878年に15歳でヴァッサー大学に入学、1882年に優秀な成績で同学を卒業、姉のパティ・ブラックバーン・センプルが設立した学校で古代史の授業を担当する傍らで修士号取得に向け論文を執筆、"Slavery:a study in sociology"で修士の学位を取得する。その間、ラッツェルの著書『人類地理学』と出会い、ラッツェルのいるライプツィヒ大学に留学することを決意する。当時のライプツィヒ大学は女子学生の正式な入学を認めておらず、教授の許可を得て聴講することしかできなかった。センプルは1891年から1892年にかけてと1895年の2回ライプツィヒ大学に留学した。1904年、母とラッツェルが相次いで亡くなった。 1906年、シカゴ大学での講義を始め、1921年にはクラーク大学()教授に就任した。同年にはアメリカ地理学会の会長に就任している。シカゴ大学での講義「地中海地域の人類地理学」の受講生の中にはリチャード・ハーツホーンがいた。 フロリダ州ウェストパームビーチで死去、ルイビルのケーブ・ヒル墓地に埋葬されている。ルイビルには彼女の名をとったエレン・C・センプル小学校(Ellen C. Semple Elementary School)がある。 学問上の評価. センプルは師・ラッツェルの人類地理学の思想と方法論を英語圏に広めたことで知られるが、ラッツェルの悪い部分のみを広めた、行き過ぎた環境決定論である、といった批判的な語り方をされることが多い。主著『地理的環境の影響』("Influences of Geographic Environment")に関しても「科学的厳密性にはほど遠いもの」と非難されている。同書は「人間は地表の産物である」という書き出しから始まり、環境の文明への影響を平易な文章で記述し、『アメリカの歴史とその地理的状況』("American History and Its Geographic Conditions")は、アメリカ合衆国の歴史における過酷な自然への適応と競争による淘汰を正当化したため多くの読者を獲得し、環境決定論の普及と通俗化が進む契機となった。この人気は半世紀を経過しても衰えることなく、後世のアメリカの地理学者を呆れさせるほどだった。 多くの批判の一方で2007年に没後75年を迎えたことをきっかけに、アメリカ地理学会でセンプルの地理学研究を改めて検討する取組が行われた。 田中(2008)によれば、従来の研究では、センプルはラッツェルの影響を受けた、という面ばかりが強調されてきたが、ドイツ留学を通してラッツェルに当時のアメリカの情報や国勢調査データ、学術雑誌を提供するなど、ラッツェルにセンプルが影響を与えた面もあるという。センプルの提供した資料はラッツェルの著書『アメリカ』("Amerika")に生かされている。