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市東亮子
市東 亮子(しとう りょうこ、6月30日 - )は、日本の漫画家。千葉県出身。女性。 1981年、『ボニータ』(秋田書店)7月号に掲載の『さりげなくラブ・ミー』でデビュー。以後、同誌や『月刊プリンセス』(秋田書店)など少女誌を中心に執筆活動を行っている。代表作は『やじきた学園道中記』、『BUD BOY』など。
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市東 亮子は、日本の漫画家。千葉県出身。女性。 1981年、『ボニータ』(秋田書店)7月号に掲載の『さりげなくラブ・ミー』でデビュー。以後、同誌や『月刊プリンセス』(秋田書店)など少女誌を中心に執筆活動を行っている。代表作は『やじきた学園道中記』、『BUD BOY』など。
{{存命人物の出典皆無|date=2014年7月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 市東 亮子 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢||6|30}} | 生地 = {{JPN}}・[[千葉県]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1981年]] - | ジャンル = | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''市東 亮子'''(しとう りょうこ、[[6月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[千葉県]]出身。女性。 [[1981年]]、『[[ボニータ (雑誌)|ボニータ]]』([[秋田書店]])7月号に掲載の『さりげなくラブ・ミー』でデビュー。以後、同誌や『[[月刊プリンセス]]』([[秋田書店]])など少女誌を中心に執筆活動を行っている。代表作は『[[やじきた学園道中記]]』、『[[BUD BOY]]』など。 == 作品リスト == === 漫画作品 === <!--現状では、副題は可能な限り記述、読みの併記は省略しています--> * 夢の夢(秋田書店、全3巻) * ひとり模様(秋田書店、全1巻) * 籠の鳥-市東亮子セレクション「鳥」-(秋田書店、全2巻) * 東から来た男シリーズ * 超ド級無敵アイドル戦隊 バトルフィンガーファイブ(秋田書店、全2巻) * ラーメン・ラビリンス(秋田書店、全1巻) * 道玄坂探偵事務所 竜胆(原作:[[花村萬月]]、秋田書店、全1巻) * 白色幻鳥(秋田書店、全1巻) * 紫苑 屠られし者、その血によりて(原作:花村萬月、秋田書店、全1巻) * GAME-獲物もしくは遊技-(秋田書店、全2巻) * D-ZONE 全2巻(秋田書店) * LIVE!!シリーズ(原作:[[永野椎菜]] ※初期のみ) * 童顔刑事 全2巻(秋田書店) * アマル-黎明の出雲伝説-(原作:[[伊月慶子]]、秋田書店、全3巻) * やまだら(幻冬舎コミックス、全1巻) * ストローブ卿夢幻館へようこそ(幻冬舎コミックス、全2巻) * 市東亮子短編集(幻冬舎コミックス、全3巻) ※各巻それぞれに「シリアス」「コメディ」「ミステリアス」の副題があり、テーマごとに編集された短編集。 * [[浅見光彦シリーズ|博多殺人事件]](原作:[[内田康夫]]、秋田書店、全1巻) * [[やじきた学園道中記]](1982年 - 1991年、『[[ボニータ (雑誌)|ポニータ]]』掲載 → 2003年 - 2006年、『[[ミステリーボニータ]]』掲載、秋田書店、全29巻) ** やじきた学園道中記 昭和仕立 八丁堀事始メ(2010年、『[[プリンセスGOLD]]』掲載、秋田書店、全1巻) ** やじきた学園道中記II(『プリンセスGOLD』2010年 - 2015年10月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/160233|title=長池とも子が劉備と孫尚香の年の差カップル描く新連載、GOLDで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2015-09-16|accessdate=2021-10-15}}</ref>、秋田書店、全12巻) ** [[やじきた学園道中記|やじきた学園道中記F]](『プリンセスGOLD』2016年1月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/169468|title=青池保子が修道士オドの市警時代描く新連載&「やじきた」最終章、GOLDで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2015-12-16|accessdate=2021-10-15}}</ref> - 2020年2月号(休刊号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/363361|title=プリンセスGOLDが今号で休刊、中山星香や市東亮子らの作品は別雑誌に移籍|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-01-16|accessdate=2021-10-15}}</ref>)→『ミステリーボニータ』 2020年4月号<ref name="natalie20200306">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/370107|title=「パズルゲーム」シリーズ新章がボニータで、「やじきた学園」の移籍連載も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-03-06|accessdate=2021-10-15}}</ref> - 2022年5月号、秋田書店、全14巻) - 休刊により移籍連載{{R|natalie20200306}} ** [[やじきた学園道中記|星にききたまえ-Ask The Stars-]](『ミステリーボニータ』 2022年7月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/bonita/2022/7|title=ミステリーボニータ 2022年7月特大号|publisher=秋田書店|accessdate=2023-09-06}}</ref> - 2023年9月号<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-08-04|title=星にききたまえ-Ask The Stars- 最終話|journal =ミステリーボニータ|volume=2023年9月号|publisher = 秋田書店|page=344|asin = B0CBQM1CJ3}}</ref>、秋田書店、全3巻) ** [[やじきた学園道中記|やじきた異世界道中記]](『ミステリーボニータ』2023年12月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/bonita/2023/12|title=ミステリーボニータ 2023年12月特大号|publisher=秋田書店|accessdate=2023-11-06}}</ref> - ) * [[BUD BOY]](1992年 - 2009年、『[[恋姫 (雑誌)|恋姫]]』・『[[月刊プリンセス]]』・『別冊プリンセス』・『プリンセスGOLD』掲載、秋田書店、全19巻・番外編3巻) * エリュシオン-青宵廻廊-(2009年 - 2012年、『[[スピカ_(雑誌)|Webスピカ]]』掲載、[[幻冬舎コミックス]]、既刊5巻)※2012年8月24日現在 === 寄稿 === * 『[[エロイカより愛をこめて]] 35周年メモリアルブック』(2012年9月14日発売<ref name="natalie20120821">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/75053|title=「エロイカ」35周年本に萩尾、美内、安野ら36名が寄稿|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-08-21|accessdate=2021-10-15}}</ref>) - トリビュートイラスト{{R|natalie20120821}} * 『プリンセスGOLD』2014年4月号別冊付録『そうだ、東北へ行こう!!』<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/112162|title=吉川うたたが芭蕉描く「鳥啼き魚の〜」別冊、プリGOLDに|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-03-16|accessdate=2021-10-15}}</ref> * 『プリンセスGOLD』創刊35周年お祝いイラスト(『プリンセスGOLD』2014年5月号別冊付録『GOLD 35th Anniversary スペシャルBOOK!!』収録<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/114594|title=プリGOLD35周年!細川智栄子、魔夜峰央らイラスト寄稿|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-04-16|accessdate=2021-10-15}}</ref>) * 『ミステリーボニータ』創刊30年お祝いメッセージ(『ミステリーボニータ』2016年6月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/186191|title=ミステリーボニータ創刊30年!高階良子ら36組がお祝いメッセージ描き下ろし|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-05-06|accessdate=2021-10-15}}</ref>) * 『エロイカより愛をこめて』に愛をこめて!!(『ミステリーボニータ』2021年7月号、『エロイカより愛をこめて』45周年企画連載第1回<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/431271|title=青池保子「エロイカより愛をこめて」への愛を語る企画がボニータで、初回は市東亮子|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-06-05|accessdate=2021-10-15}}</ref>) == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://blog.goo.ne.jp/ymt24 大和魂] - 公式サイト(旧ブログ) * [http://ymt24.at.webry.info/ 大和魂] - 公式サイト(新ブログ) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:しとう りようこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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633
一節切
一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。 尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの手孔がある。音域は尺八よりも狭く、約1オクターヴ半ほどである。 前野良沢や一休宗純、雪舟、北条幻庵なども一節切の奏者として知られている。織田信長に仕えた大森宗勲も名手である。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。現在、残された楽譜は存在するが、音価(音の長さ)の指定がなくどのような演奏だったのかを再現するのは難しく、専ら好事家の研究対象となっている。 最も有名な一節切としては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に受け継がれた『乃可勢(のかぜ)』という名笛がある。 薩摩には、『天吹(てんぷく)』と呼ばれる一節切に似た小型の縦笛が伝わっている。 2012年5月15日、テレビ東京の『開運!なんでも鑑定団』に安土桃山時代の一節切が登場し、150万円の鑑定額がついた。
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一節切(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。尺八の前身ともいわれる真竹製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。
[[ファイル:一節切.jpg|thumb|300px|一節切]] '''一節切'''(ひとよぎり)は、日本の伝統楽器。[[尺八]]の前身ともいわれる[[マダケ|真竹]]製の縦笛で、節が一つだけあるのがその名前の由来である。 == 概要 == [[ファイル:Shingen no Hitoyogiri cropped Totomi Koseki Zue Frame 26.jpg|thumb|left|200px|富永藤兵衛(手前)に一節切を与える[[武田信玄]](奥)(「信玄之一節切」[[藤長庚]]編集『[[遠江古蹟圖會]]』1803年。[[国立国会図書館]]蔵)]] 尺八が竹の根本部分を用いるのに対し、一節切は幹の中間部を用いるため、尺八に比べて細径・薄肉である。全長は一尺一寸一分(約34cm)で、尺八と同じように、前面に四孔、裏側に一孔の計五つの[[音孔|手孔]]がある。音域は尺八よりも狭く、約1[[オクターヴ]]半ほどである。 [[前野良沢]]や[[一休宗純]]、[[雪舟]]<ref>[https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205208 尺八(一節切)] 文化遺産オンライン</ref>、[[北条幻庵]]なども一節切の奏者として知られている。[[織田信長]]に仕えた大森宗勲も名手である<ref>{{Kotobank|大森宗勲|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}、2018年5月5日閲覧。</ref><ref>{{Kotobank|大森宗勲|2=デジタル版 日本人名大辞典+Plus}}、2018年5月5日閲覧。</ref><ref>{{Kotobank|大森宗勲|2=朝日日本歴史人物事典}}、2018年5月5日閲覧。</ref>。しかし、もともと武家や上流階級の風雅な嗜みとしての趣向が強く、一般市民には普及していなかったことや、より音域が広く音量の大きい普化尺八が普及したこともあって、江戸時代の始まりより徐々に廃れていった。現在、残された楽譜は存在するが、[[音価 (音楽)|音価]](音の長さ)の指定がなくどのような演奏だったのかを再現するのは難しく、専ら好事家の研究対象となっている。 == その他 == 最も有名な一節切としては、[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川家康]]の[[三英傑]]に受け継がれた『[[乃可勢]](のかぜ)』という名笛がある。 [[薩摩藩|薩摩]]には、『天吹(てんぷく)』と呼ばれる一節切に似た小型の縦笛が伝わっている。 2012年5月15日、[[テレビ東京]]の『[[開運!なんでも鑑定団]]』に安土桃山時代の一節切が登場し、150万円の鑑定額がついた<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/kaiun_db/otakara/20120515/02.html 一節切]、テレビ東京『開運!なんでも鑑定団』、2012年5月15日。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[和楽器]] * [[木管楽器]] * [[笛]] * [[尺八]] * [[乃可勢]] {{Japan-culture-stub}} {{Musical-instrument-stub}} {{和楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひとよきり}} [[Category:木管楽器]] [[Category:和楽器]]
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パンパイプ
パンパイプ (panpipes) あるいはパンフルート (pan flute) は木管楽器の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に筏状に束ねて作られた縦笛である。 古代から知られており、多くの場合5つかそれ以上の管を束ねて作られる。長い間民族楽器として親しまれており、パイプオルガンやハーモニカの原型とも考えられている。管は主として葦、竹やダンチクで作られるが、木やプラスチック、金属なども用いられる。 パンパイプの管は一端が塞がれた閉管であり、同じ長さで両端が開いた開管より1オクターヴ低い音が出る。フルートや篠笛のような笛は、1本の管で低音から高音まで出さねばならないので、実はかなり無理のある構造なのだが、パンパイプは低音を出しやすい太い管と高音を出しやすい細い管を使い分けて作ることができ、その意味では合理的な楽器である。発音自体は比較的容易であるが、肺活量を必要とし、演奏は必ずしも容易ではない。 ルーマニアに伝わるパンパイプは「ナイ」、南米アンデス地方に伝わるものは「サンポーニャ」として知られている。ラオスやタイには管を円筒状に並べたタイプがあり、「Wot」と呼ばれてイーサーン地方の民族音楽に使われている。 ギリシア神話の牧神パーンが吹いたということからパンパイプ、パンフルートと呼ばれる。 パンパイプは、パーンにまつわる物語からシュリンクス(シランクス)という名称でも知られる。 パンパイプは古代ギリシャの時代から存在が知られているが、ヨーロッパの多くの国々では忘れ去られていた時期がある。モーツァルトの歌劇「魔笛」に登場するパパゲーノが手にする笛はパンパイプの事である。 しかし、そのヨーロッパでも小国ルーマニアでは、民族楽器「NAI」ナイとして演奏されてきた。20世紀になってから、ルーマニアでこの楽器を見直す動きが起こり、管の本数が増やされたり、材料を中国産の女竹に変更するなどの改良が加えられていった。ルーマニアの国立音楽大学で正課として取り上げられるようになったことで、多くの名人が生まれた。 第二次世界大戦後、ルーマニア出身のナイ奏者ゲオルゲ・ザンフィルが演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。 ゲオルゲ・ザンフィルの一番弟子にラドゥ・ネキフォル (Radu Nechifor) がいる。ザンフィルのオーケストラソリストを始めとし、世界中で演奏活動を行っている。民族音楽のみならず、クラシック、ジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽を演奏し、パンフルートの可能性を広げた。ルーマニアのシビウ市で開催される国際パンフルートマスタークラスの主催者である。2018年に初来日を果たす。 ザンフィルの演奏に衝撃を受けた一人にスイスのヨリ・ムルクがいる。ザンフィルは彼に演奏法だけでなく、改良されたナイの製法も伝授した。 パンパイプはシルクロードを通って中国にも伝わり、奈良時代に日本に伝来し、排簫(はいしょう)と呼ばれていた。正倉院宝物墨絵弾弓に描かれた散楽図には排簫を演奏する楽人が描かれている。しかし、近年になって正倉院に残されていた残骸を参考に復元されるまで、雅楽の世界からはいつしか姿を消していた。 日本では、2017年より日本パンフルートフェスティバルが開催されている。世界のパンフルート奏者が来日し、コンサートやワークショップを行うなど、パンフルートを通じた文化交流も深めている。 2019年より東京音楽大学付属民族音楽研究所に、日本初大学でパンフルート入門講座が開講された。 2019年5月、駐日ルーマニア大使館公認日本ルーマニアパンフルート協会が設立され、ゲオルゲ・ザンフィルが名誉会長に就任した。 2020年3月、成蹊大学ルーマニアプロジェクトパンフルートグループの活動を開始する。 2020年4月より東京音楽大学付属民族音楽研究所主催社会人特別講座にパンフルート講座が開講された。 管が上下方向になるように構え、管の開端に水平方向に息を吹きかけると音が出る。息の圧力と唇の張りを高めると奇数倍音を出すことができる。閉管構造なので、偶数倍音は出せない。管を傾けたり、顎を動かすことによって半音(♯や♭の付いた音)を出すことが出来る。楽器を持つ手を揺り動かしたり、息の圧力を変えることによってビブラートをかけることもできる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "パンパイプ (panpipes) あるいはパンフルート (pan flute) は木管楽器の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に筏状に束ねて作られた縦笛である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "古代から知られており、多くの場合5つかそれ以上の管を束ねて作られる。長い間民族楽器として親しまれており、パイプオルガンやハーモニカの原型とも考えられている。管は主として葦、竹やダンチクで作られるが、木やプラスチック、金属なども用いられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "パンパイプの管は一端が塞がれた閉管であり、同じ長さで両端が開いた開管より1オクターヴ低い音が出る。フルートや篠笛のような笛は、1本の管で低音から高音まで出さねばならないので、実はかなり無理のある構造なのだが、パンパイプは低音を出しやすい太い管と高音を出しやすい細い管を使い分けて作ることができ、その意味では合理的な楽器である。発音自体は比較的容易であるが、肺活量を必要とし、演奏は必ずしも容易ではない。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ルーマニアに伝わるパンパイプは「ナイ」、南米アンデス地方に伝わるものは「サンポーニャ」として知られている。ラオスやタイには管を円筒状に並べたタイプがあり、「Wot」と呼ばれてイーサーン地方の民族音楽に使われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ギリシア神話の牧神パーンが吹いたということからパンパイプ、パンフルートと呼ばれる。 パンパイプは、パーンにまつわる物語からシュリンクス(シランクス)という名称でも知られる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "パンパイプは古代ギリシャの時代から存在が知られているが、ヨーロッパの多くの国々では忘れ去られていた時期がある。モーツァルトの歌劇「魔笛」に登場するパパゲーノが手にする笛はパンパイプの事である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし、そのヨーロッパでも小国ルーマニアでは、民族楽器「NAI」ナイとして演奏されてきた。20世紀になってから、ルーマニアでこの楽器を見直す動きが起こり、管の本数が増やされたり、材料を中国産の女竹に変更するなどの改良が加えられていった。ルーマニアの国立音楽大学で正課として取り上げられるようになったことで、多くの名人が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦後、ルーマニア出身のナイ奏者ゲオルゲ・ザンフィルが演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ゲオルゲ・ザンフィルの一番弟子にラドゥ・ネキフォル (Radu Nechifor) がいる。ザンフィルのオーケストラソリストを始めとし、世界中で演奏活動を行っている。民族音楽のみならず、クラシック、ジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽を演奏し、パンフルートの可能性を広げた。ルーマニアのシビウ市で開催される国際パンフルートマスタークラスの主催者である。2018年に初来日を果たす。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ザンフィルの演奏に衝撃を受けた一人にスイスのヨリ・ムルクがいる。ザンフィルは彼に演奏法だけでなく、改良されたナイの製法も伝授した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "パンパイプはシルクロードを通って中国にも伝わり、奈良時代に日本に伝来し、排簫(はいしょう)と呼ばれていた。正倉院宝物墨絵弾弓に描かれた散楽図には排簫を演奏する楽人が描かれている。しかし、近年になって正倉院に残されていた残骸を参考に復元されるまで、雅楽の世界からはいつしか姿を消していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本では、2017年より日本パンフルートフェスティバルが開催されている。世界のパンフルート奏者が来日し、コンサートやワークショップを行うなど、パンフルートを通じた文化交流も深めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2019年より東京音楽大学付属民族音楽研究所に、日本初大学でパンフルート入門講座が開講された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2019年5月、駐日ルーマニア大使館公認日本ルーマニアパンフルート協会が設立され、ゲオルゲ・ザンフィルが名誉会長に就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2020年3月、成蹊大学ルーマニアプロジェクトパンフルートグループの活動を開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2020年4月より東京音楽大学付属民族音楽研究所主催社会人特別講座にパンフルート講座が開講された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "管が上下方向になるように構え、管の開端に水平方向に息を吹きかけると音が出る。息の圧力と唇の張りを高めると奇数倍音を出すことができる。閉管構造なので、偶数倍音は出せない。管を傾けたり、顎を動かすことによって半音(♯や♭の付いた音)を出すことが出来る。楽器を持つ手を揺り動かしたり、息の圧力を変えることによってビブラートをかけることもできる。", "title": "演奏" } ]
パンパイプ (panpipes) あるいはパンフルート は木管楽器の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に筏状に束ねて作られた縦笛である。
[[Image:chileanPanpipes-cutout.jpg|thumb|サンポーニャ (南米アンデス地方に伝わるパンパイプ)]] '''パンパイプ''' (panpipes) あるいは'''パンフルート''' (pan flute) は[[木管楽器]]の一種で、一端が閉じられた長さ・太さの異なる数本の管を、開端をそろえて長さの順に[[いかだ|筏]]状に束ねて作られた[[縦笛]]である<ref name="Daijiten">下中直也(編)『音楽大事典』全6巻、平凡社、1981年</ref>。 == 概要 == 古代から知られており、多くの場合5つかそれ以上の管を束ねて作られる。長い間[[民族楽器]]として親しまれており、[[パイプオルガン]]や[[ハーモニカ]]の原型とも考えられている。管は主として[[ヨシ|葦]]、[[竹]]や[[ダンチク]]で作られるが、[[木]]や[[プラスチック]]、[[金属]]なども用いられる。 パンパイプの管は一端が塞がれた[[管楽器#開管と閉管|閉管]]であり、同じ長さで両端が開いた開管より1[[オクターヴ]]低い音が出る。[[フルート]]や[[篠笛]]のような笛は、1本の管で低音から高音まで出さねばならないので、実はかなり無理のある構造なのだが、パンパイプは低音を出しやすい太い管と高音を出しやすい細い管を使い分けて作ることができ、その意味では合理的な楽器である。発音自体は比較的容易であるが、肺活量を必要とし、演奏は必ずしも容易ではない。 [[ルーマニア]]に伝わるパンパイプは「ナイ」、[[南米]][[アンデス山脈|アンデス]]地方に伝わるものは「[[サンポーニャ]]」として知られている。[[ラオス]]や[[タイ王国|タイ]]には管を[[円筒]]状に並べたタイプがあり、「Wot」と呼ばれて[[イーサーン]]地方の民族音楽に使われている。 === 名称の由来 === [[ギリシア神話]]の[[パーン (ギリシア神話)|牧神パーン]]が吹いたということからパンパイプ、パンフルートと呼ばれる。 パンパイプは、パーンにまつわる物語から[[シランクス|シュリンクス(シランクス)]]という名称でも知られる。 {{Main|パーン (ギリシア神話)#パーンとニュムペーたち}} == 歴史 == パンパイプは古代[[ギリシャ]]の時代から存在が知られているが、[[ヨーロッパ]]の多くの国々では忘れ去られていた時期がある。[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]の[[歌劇]]「[[魔笛]]」に登場するパパゲーノが手にする笛はパンパイプの事である。 しかし、そのヨーロッパでも小国ルーマニアでは、民族楽器「NAI」ナイとして演奏されてきた。20世紀になってから、ルーマニアでこの楽器を見直す動きが起こり、管の本数が増やされたり、材料を[[中国]]産の[[女竹]]に変更するなどの改良が加えられていった。ルーマニアの国立音楽大学で正課として取り上げられるようになったことで、多くの名人が生まれた。 [[第二次世界大戦]]後、ルーマニア出身のナイ奏者[[ゲオルゲ・ザンフィル]]が演奏活動を始めたことにより、ナイが世界に知られるようになった。 [[ゲオルゲ・ザンフィル]]の一番弟子に[[ラドゥ・ネキフォル]] (Radu Nechifor) がいる。ザンフィルのオーケストラソリストを始めとし、世界中で演奏活動を行っている。民族音楽のみならず、クラシック、ジャズ、ロックなど様々なジャンルの音楽を演奏し、パンフルートの可能性を広げた。ルーマニアのシビウ市で開催される国際パンフルートマスタークラスの主催者である。2018年に初来日を果たす。 ザンフィルの演奏に衝撃を受けた一人に[[スイス]]のヨリ・ムルクがいる。ザンフィルは彼に演奏法だけでなく、改良されたナイの製法も伝授した。 パンパイプは[[シルクロード]]を通って中国にも伝わり、奈良時代に日本に伝来し、排簫(はいしょう)と呼ばれていた。[[正倉院]]宝物墨絵弾弓に描かれた散楽図には排簫を演奏する楽人が描かれている。しかし、近年になって正倉院に残されていた残骸を参考に復元されるまで、[[雅楽]]の世界からはいつしか姿を消していた。 日本では、2017年より日本パンフルートフェスティバルが開催されている。世界のパンフルート奏者が来日し、コンサートやワークショップを行うなど、パンフルートを通じた文化交流も深めている。 2019年より[[東京音楽大学付属民族音楽研究所]]に、日本初大学でパンフルート入門講座が開講された。 2019年5月、[[駐日ルーマニア大使館]]公認[[日本ルーマニアパンフルート協会]]が設立され、[[ゲオルゲ・ザンフィル]]が名誉会長に就任した。 2020年3月、[[成蹊大学]][[ルーマニア]]プロジェクトパンフルートグループの活動を開始する。 2020年4月より[[東京音楽大学付属民族音楽研究所]]主催社会人特別講座にパンフルート講座が開講された。 == 演奏 == [[Image:Panpipes.png|right|Pan pipes]] 管が上下方向になるように構え、管の開端に水平方向に息を吹きかけると音が出る。息の圧力と唇の張りを高めると[[奇数]][[倍音]]を出すことができる。閉管構造なので、[[偶数]]倍音は出せない。管を傾けたり、顎を動かすことによって[[半音]]([[シャープ (記号)|♯]]や[[フラット (記号)|♭]]の付いた音)を出すことが出来る。楽器を持つ手を揺り動かしたり、息の圧力を変えることによって[[ビブラート]]をかけることもできる。 == 関連項目 == * [[簫]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == *[http://pannohue.web.fc2.com/ 岩田英憲・風簫(ふうしょう)の会] *[http://hibiki.shinnyo-en.or.jp/ 千年の響き(正倉院復元楽器)] *[https://scrapbox.io/panflute/ 日本ルーマニアパンフルート協会] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:はんはいふ}} [[Category:シャクハチ類]] [[Category:民俗楽器]] {{musical-instrument-stub}} [[es:Zampoña]]
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チェッカーズ
チェッカーズ(THE CHECKERS)は、男性7人組のロックバンド。1980年代から1990年代前半にかけて活動した。福岡県久留米市にて結成。デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」であった。 他に、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、パーカッションのアンディ檜山(桧山正利)がいた。 チェッカーズ解散後、郁弥、武内、大土井、尚之は所属事務所を退社、それぞれソロ活動を行なう。武内は本人主催のイベントや音楽プロデュース、鶴久と高杢は同じ事務所に所属、音楽以外の活動をしていたが、高杢が2005年個人事務所設立に伴い独立。鶴久、徳永も所属事務所から退社し、徳永は別のバンドで活動。武内・大土井・徳永・尚之の楽器陣4人はアブラーズを結成、活動していたが、徳永が2004年8月17日に舌がんのため40歳で死去したため、現在は3人で活動。 メンバーが集まりバンド名を決める際に、当時良く聞いていたバンド『COOLS』『CHANELS』が「C」で始まり「S」で終わることから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代から親交のある武内の同級生でベーシストの武田圭治(現THE TRAVELLERS)。ヤマハのコンテスト出場時には「ザ・チェッカーズ」としてエントリーしている。 デビュー当初はチェック柄の衣装を着ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが誤りで、バンド名が先にあった。チェック柄の衣装のアイディアは、当時のヤマハのマネージャーが考案した。 表記についてはシングル、アルバムのジャケット等については初期はカタカナ表記「チェッカーズ」及び英語表記「THE CHECKERS」(または「The Checkers」)、中期以降は後者の英語表記で記され、「歌のトップテン」については一時期(1988年頃)英語の大文字表記、「突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100」については英語の小文字表記で記されていたが、正式表記は一貫してカタカナ表記。 デビュー前から、秋山道男が総合プロデューサーとして「バンドとしてのコンセプト」を考え、メンバーの髪型(当初はリーゼントだった)、ファッションなどを決めた。また、映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』のシノプシスを考案した。 立ち位置はボーカルは左から、鶴久、郁弥、高杢。楽器陣は左から大土井、尚之、徳永、武内が基本(ボーカルの関係で入れ替わることもある)。郁弥がメインでボーカルを務める曲がほとんど(シングル曲全て)。楽器陣4人にも各人メインボーカル担当曲がある。コーラスはメインボーカルと徳永を除いた5人ですることが多い。 後期は、鶴久がキーボードを使用するにあたり、前列が左から尚之、郁弥、高杢。後列が鶴久、大土井、徳永、武内となることもあったが、アシスタントとしてツアーにキーボードとパーカッションに八木橋カンペー、アンディ檜山が着いてからは元の位置に戻った。 「ギザギザハートの子守唄」から「Song for U.S.A.」までの初期シングルA面10曲は一貫して芹澤廣明が作曲・編曲。作詞は主に売野雅勇、「ギザギザハートの子守唄」「神様ヘルプ!」の2曲が康珍化。初期のB面曲やアルバム曲は芹澤・売野コンビによるものとメンバーによるものとで半々。12枚目のシングル「NANA」以降はシングル・アルバム共に全てメンバーによる作詞・作曲。メンバーの作詞は、ほぼ郁弥だが、高杢の作詞も見受けられる。 作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「ひらけ!ポンキッキ」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、ひこねのりおによるアニメーション映像ともども人気が高い。鶴久はグループ在籍時からゆうゆに楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価され、尚之と合わせメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がける。 シングルA面曲の作曲は尚之が8曲、鶴久が7曲手掛けていて、他に大土井と武内が2曲ずつ手掛けている。 「オリジナル曲が作れるアイドルグループ」の先駆者として人気を博していたが、4thアルバム『FLOWER』を発売した頃から、収録曲の10曲中5曲がメンバーが制作した楽曲になり、「チェッカーズは、脱アイドル宣言を行うのではないか」との噂が絶えなかった。しかし本人達は後日「自分達は脱アイドルを宣言したことは無いし、現在でもアイドルである」と発言、解散するまで自分達はアイドルであることの姿勢を崩さなかった。 鑑賞マナーについて、ファンに対し言及した。 呼びかけたマナーの内容としては、以下のものがあった。 ふとした事から、英国のロックバンド『The George Springhill Band(ジョージ・スプリングヒル・バンド)』の事を知り感銘したメンバーが、彼らの事を知って貰うためのコピーバンドとして1985年と1987年、チェッカーズとは別に「キュート・ビート・クラブ・バンド」(Cute Beat Club Band。以下、C.B.C.Bと記載)としても活動した。バンド名は自分達のファンクラブの名から取ったもの。1985年には企画アルバム、1987年には12インチシングル、ライブアルバム、写真集を発売している。また、C.B.C.Bでは作詞家に秋元康を起用している。尚、C.B.C.B.として活動するときのメンバーの名前は、以下の通り。だが、これはネタである。ジョージ・スプリングヒル・バンド名義の3曲もメンバーのオリジナルで、演奏もメンバーによるもの。郁弥曰く「本業はチェッカーズ、C.B.C.B.は趣味」。 番外:まんてんワイドのテーマ(TBSラジオ「エド山口のまんてんワイド」のために作詞作曲されたオリジナルでシングル化されておらず、アルバムにも収録されていない。) ※ Blu-ray発売日の出典 『とんねるずのみなさんのおかげです』に準レギュラーとして出演。 また、「チェッカーズンズン」、「NOT CHECKERS TV」などの単独番組でもコント等を行なった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チェッカーズ(THE CHECKERS)は、男性7人組のロックバンド。1980年代から1990年代前半にかけて活動した。福岡県久留米市にて結成。デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」であった。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "他に、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、パーカッションのアンディ檜山(桧山正利)がいた。", "title": "メンバー" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チェッカーズ解散後、郁弥、武内、大土井、尚之は所属事務所を退社、それぞれソロ活動を行なう。武内は本人主催のイベントや音楽プロデュース、鶴久と高杢は同じ事務所に所属、音楽以外の活動をしていたが、高杢が2005年個人事務所設立に伴い独立。鶴久、徳永も所属事務所から退社し、徳永は別のバンドで活動。武内・大土井・徳永・尚之の楽器陣4人はアブラーズを結成、活動していたが、徳永が2004年8月17日に舌がんのため40歳で死去したため、現在は3人で活動。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "メンバーが集まりバンド名を決める際に、当時良く聞いていたバンド『COOLS』『CHANELS』が「C」で始まり「S」で終わることから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代から親交のある武内の同級生でベーシストの武田圭治(現THE TRAVELLERS)。ヤマハのコンテスト出場時には「ザ・チェッカーズ」としてエントリーしている。", "title": "バンド名の由来" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "デビュー当初はチェック柄の衣装を着ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが誤りで、バンド名が先にあった。チェック柄の衣装のアイディアは、当時のヤマハのマネージャーが考案した。", "title": "バンド名の由来" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "表記についてはシングル、アルバムのジャケット等については初期はカタカナ表記「チェッカーズ」及び英語表記「THE CHECKERS」(または「The Checkers」)、中期以降は後者の英語表記で記され、「歌のトップテン」については一時期(1988年頃)英語の大文字表記、「突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100」については英語の小文字表記で記されていたが、正式表記は一貫してカタカナ表記。", "title": "バンド名の表記" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "デビュー前から、秋山道男が総合プロデューサーとして「バンドとしてのコンセプト」を考え、メンバーの髪型(当初はリーゼントだった)、ファッションなどを決めた。また、映画『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』のシノプシスを考案した。", "title": "総合プロデューサー・秋山道男" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "立ち位置はボーカルは左から、鶴久、郁弥、高杢。楽器陣は左から大土井、尚之、徳永、武内が基本(ボーカルの関係で入れ替わることもある)。郁弥がメインでボーカルを務める曲がほとんど(シングル曲全て)。楽器陣4人にも各人メインボーカル担当曲がある。コーラスはメインボーカルと徳永を除いた5人ですることが多い。", "title": "パート構成" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "後期は、鶴久がキーボードを使用するにあたり、前列が左から尚之、郁弥、高杢。後列が鶴久、大土井、徳永、武内となることもあったが、アシスタントとしてツアーにキーボードとパーカッションに八木橋カンペー、アンディ檜山が着いてからは元の位置に戻った。", "title": "パート構成" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "「ギザギザハートの子守唄」から「Song for U.S.A.」までの初期シングルA面10曲は一貫して芹澤廣明が作曲・編曲。作詞は主に売野雅勇、「ギザギザハートの子守唄」「神様ヘルプ!」の2曲が康珍化。初期のB面曲やアルバム曲は芹澤・売野コンビによるものとメンバーによるものとで半々。12枚目のシングル「NANA」以降はシングル・アルバム共に全てメンバーによる作詞・作曲。メンバーの作詞は、ほぼ郁弥だが、高杢の作詞も見受けられる。", "title": "楽曲制作" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「ひらけ!ポンキッキ」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、ひこねのりおによるアニメーション映像ともども人気が高い。鶴久はグループ在籍時からゆうゆに楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価され、尚之と合わせメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がける。 シングルA面曲の作曲は尚之が8曲、鶴久が7曲手掛けていて、他に大土井と武内が2曲ずつ手掛けている。", "title": "楽曲制作" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "「オリジナル曲が作れるアイドルグループ」の先駆者として人気を博していたが、4thアルバム『FLOWER』を発売した頃から、収録曲の10曲中5曲がメンバーが制作した楽曲になり、「チェッカーズは、脱アイドル宣言を行うのではないか」との噂が絶えなかった。しかし本人達は後日「自分達は脱アイドルを宣言したことは無いし、現在でもアイドルである」と発言、解散するまで自分達はアイドルであることの姿勢を崩さなかった。", "title": "脱アイドルへの拒否" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "鑑賞マナーについて、ファンに対し言及した。", "title": "コンサートにおけるマナーの呼びかけ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "呼びかけたマナーの内容としては、以下のものがあった。", "title": "コンサートにおけるマナーの呼びかけ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ふとした事から、英国のロックバンド『The George Springhill Band(ジョージ・スプリングヒル・バンド)』の事を知り感銘したメンバーが、彼らの事を知って貰うためのコピーバンドとして1985年と1987年、チェッカーズとは別に「キュート・ビート・クラブ・バンド」(Cute Beat Club Band。以下、C.B.C.Bと記載)としても活動した。バンド名は自分達のファンクラブの名から取ったもの。1985年には企画アルバム、1987年には12インチシングル、ライブアルバム、写真集を発売している。また、C.B.C.Bでは作詞家に秋元康を起用している。尚、C.B.C.B.として活動するときのメンバーの名前は、以下の通り。だが、これはネタである。ジョージ・スプリングヒル・バンド名義の3曲もメンバーのオリジナルで、演奏もメンバーによるもの。郁弥曰く「本業はチェッカーズ、C.B.C.B.は趣味」。", "title": "「Cute Beat Club Band」としての活動" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "番外:まんてんワイドのテーマ(TBSラジオ「エド山口のまんてんワイド」のために作詞作曲されたオリジナルでシングル化されておらず、アルバムにも収録されていない。)", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "※ Blu-ray発売日の出典", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『とんねるずのみなさんのおかげです』に準レギュラーとして出演。", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、「チェッカーズンズン」、「NOT CHECKERS TV」などの単独番組でもコント等を行なった。", "title": "出演" } ]
チェッカーズは、男性7人組のロックバンド。1980年代から1990年代前半にかけて活動した。福岡県久留米市にて結成。デビュー時のキャッチコピーは「退屈退治」であった。
{{Otheruseslist|日本のバンド|このバンドのベスト・アルバム|THE CHECKERS (アルバム)|その他の用法|チェッカーズ (曖昧さ回避)}} {{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = チェッカーズ | 背景色 = band | 別名 = Cute Beat Club Band | 出身地 = {{JPN}}<!-- 当該者が音楽活動を始めた地 --> | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref name="okmusic">{{Cite web|和書|title=チェッカーズ(チェッカーズ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%BA |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク |accessdate=2021-03-31 }}</ref>|[[ドゥーワップ]]<ref name="okmusic" />|[[ロックンロール]]<ref name="okmusic" />|[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<ref name="okmusic" />}} | 活動期間 = [[1980年]] - [[1992年]] | レーベル = [[ポニーキャニオン|キャニオン・レコード→ポニーキャニオン]] | 事務所 = {{Plainlist| * [[ヤマハ音楽振興会]](1983年 - 1984年) * [[スリースタープロ]](1985年 - 1992年) }} | 共同作業者 = | 公式サイト = | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[藤井フミヤ|藤井郁弥]](リード[[ボーカル]]) * [[武内享]]([[ギター]]) * [[高杢禎彦]](サイドボーカル・[[パーカッション]]) * [[大土井裕二]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]) * [[鶴久政治]](サイドボーカル・[[キーボード (楽器)|キーボード]]) * [[徳永善也]]([[ドラムセット|ドラムス]]) * [[藤井尚之]]([[サクソフォーン|サックス]]) }} }} '''チェッカーズ'''({{lang|en|''THE CHECKERS''}})は、[[男性]]7人組の[[バンド (音楽)#ロックバンド|ロックバンド]]<ref>{{Cite news |title=デビュー35周年、元チェッカーズの4人が再集結「音楽をやめることはない」 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2122253/full/ |newspaper=ORICON NEWS |publisher=オリコン |date=2018-10-26 |accessdate=2021-05-12 }}</ref>。[[1980年代]]から[[1990年代]]前半にかけて活動した。[[福岡県]][[久留米市]]にて結成。デビュー時の[[キャッチコピー]]は「退屈退治」であった。 == メンバー == * '''[[藤井フミヤ|藤井郁弥]]'''(ふじい ふみや、[[1962年]][[7月11日]] - ):[[リードボーカル]](曲によってはギターやブルースハープも担当) ** [[久留米市立南筑高等学校]][[卒業]]。<!--チェッカーズ結成前は、バンド・カルコークのボーカル。高校時代に加入。当初はサイドボーカルだったが人気と実力から次第にメインボーカルに昇格した-->通称「'''フミヤ'''」。<!-- 年下のメンバーやファンの間からは「'''やっしゃん'''」とも呼ばれていた(現在はそう呼ばれることを当の藤井フミヤ本人は快く思っていない。むしろ呼ばないで欲しいとファンクラブ内の日記にて強く主張しているがそれを知らない「出戻り組」のファンが今だに呼ぶことがあり懸念材料となっている{{要出典|date=2022年6月}})。 -->サックス担当の藤井尚之の実兄。血液型はA型。グループ内最年長のメンバー。 * '''[[武内享]]'''(たけうち とおる、[[1962年]][[7月21日]] - ):[[ギター]]、リーダー ** [[福岡県立八女工業高等学校]]卒業。実家はスナックで、よくメンバーが集まって練習していた。[[ビートルズ]]、[[ドゥーワップ]]マニア。通称「'''トオル'''」。血液型はO型。当初はA型と公言していたが、その後血液検査によりO型であった事が判明した。 * '''[[高杢禎彦]]'''(たかもく よしひこ、[[1962年]][[9月9日]] - ):[[ボーカル|サイドボーカル]](低音パートを担当。他'''[[パーカッション]]'''なども担当)。 ** 私立[[柳川高等学校]]卒業。低音のボーカルを得意とする。小さい頃からガキ大将。保育園の時から郁弥と遊んでいた仲で、中学校まで[[wikt:級友|同級生]]だった。高校生の頃、坊主頭にヒゲを生やしていたので、当時とても高校生には見えなかったらしい。徳永をチェッカーズに入れるためにさらう時の車を運転していた。解散後の2003年に発売された書籍「[[チェッカーズ (本)|チェッカーズ]]」が話題に。通称「'''モク'''」。血液型はA型。 * '''[[大土井裕二]]'''(おおどい ゆうじ、[[1962年]][[11月2日]] - ):[[エレクトリックベース|ベース]]、サブリーダー ** [[福岡県立三井高等学校]]卒業、[[日本経済大学|第一経済大学(現在の日本経済大学)]]中退。[[矢沢永吉]]に憧れてベースを始めた。チェッカーズ結成前は、バンド・シークレッツのベース。チェッカーズ加入当時は、自分で組むバンドまでのつなぎという条件でベースを引き受けた。通称「'''ユウジ'''」、ファンたちの愛称は「'''裕(ゆう)ちゃん'''」。血液型はB型。 * '''[[鶴久政治]]'''(つるく まさはる、[[1964年]][[3月31日]] - ):[[ボーカル|サイドボーカル]](高音パートを担当。他'''[[キーボード (楽器)|キーボード]]'''なども担当) ** [[久留米市立南筑高等学校]]卒業、[[日本経済大学|第一経済大学(現在の日本経済大学)]]中退。チェッカーズ結成前は、バンド・50'sのボーカル。通称「'''マサハル'''」。ファンたちの愛称は「'''マーさん'''」。血液型はA型。グループ内で唯一の非喫煙者。 * '''[[徳永善也]]'''(とくなが よしや、[[1964年]][[6月7日]] - [[2004年]][[8月17日]]):[[ドラムセット|ドラムス]] ** 私立[[筑紫台高等学校|筑紫工業高等学校(現在の筑紫台高等学校)]]卒業。チェッカーズ加入前からドラマーとしての評判が知れ渡っており、多くのバンドから勧誘された。通称「'''クロベエ'''」。血液型はA型。 * '''[[藤井尚之]]'''(ふじい なおゆき、[[1964年]][[12月27日]] - ):[[サクソフォーン|サックス]](他'''[[ギター]]、[[フルート]]'''も担当) ** 私立[[九州産業大学付属九州産業高等学校|九州産業高等学校(現在の九州産業大学付属九州産業高等学校)]]卒業。郁弥の実弟。元々ベースを担当していたが、大土井の加入により、サックスに転向。通称「'''ナオユキ'''」。ファンたちの愛称は「'''尚(なお)ちゃん'''」。血液型はA型。グループ内最年少のメンバー。 他に、サポートメンバーとしてキーボードの八木橋カンペー、[[パーカッション]]のアンディ檜山([[メルティングポット|桧山正利]])がいた。 == 略歴 == === デビュー前 === * 1970年代後半当時の久留米はアマチュアバンドが隆盛であり、特に[[ドゥーワップ]]、[[ロックンロール]]を得意とするバンドが多く、週末ごとに開催されていたダンスパーティーに出演しては腕を競うように演奏し、盛り上げていた。<!--郁弥は「カル・コーク」、武内は「シェイク」、裕二は「シークレッツ」、徳永は「キューティスー」のメンバーとして各自活動していた。-->のちのメンバーも、各々バンドに所属していた。やがて、交流を持ち、セッションなどをするようになる。 * [[1980年]]、郁弥と武内を中心に新たにグループを結成。2人は最初に当時別のバンドのボーカルを担当していた鶴久をメンバーに引き入れ、次に高杢が酒に酔ったフミヤに加入を懇願し、テストに合格して加入。その後は各分野において非常に腕利きの人間はメンバー達自ら勧誘した。例として裕二は郁弥、武内、高杢が裕二の自宅に訪問し頭を下げて頼み込む、徳永は前述の3人が乗車する車に連れ込みチェッカーズに入るか山に埋まるか選べと半ば強引な勧誘をされた。フミヤの弟尚之はフミヤが母親から頼まれメンバーに加入したという経緯がある。当初は10人前後の大所帯であったがメンバーチェンジなどを繰り返し、のちのメンバー7人に落ち着いた。 * [[1981年]]8月29日、福岡サンパレスで行われた[[ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト]]九州地区大会「L-MOTION」ジュニア<!--20歳未満対象-->・レディース大会に"THE CHECKERS"<!--久留米市・親和楽器店 推薦-->として出場し、グランプリを受賞(シニア部門においても特別賞を受賞)。同年9月に行われた「LIGHT MUSIC CONTEST '81」本選大会・ジュニア部門で最優秀賞を受賞{{Efn|コンテストで披露された実況録音を収録したLPレコード『Light Music Contest '81』(1981年、YAMAHA/フィリップスレコード)に、ザ・チェッカーズ名義で「チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」「恋するチューニング」「やけとうや(Yakety yak)」の3曲が収録されている。ライナーノーツでのバンド紹介項には“50年代のリズム&ブルースを楽しく自分達なりにアレンジしてやっています。”と記されている。}}。受賞後すぐにプロデビューの話が舞い込んだが、鶴久が高校3年で徳永と尚之が高校2年であったため「メンバー全員の高校卒業を待ってから」と保留する(郁弥、武内、高杢、大土井はこの年の3月に高校卒業)。 === 前期(1983年 - 1986年上半期)・アイドル的人気の沸騰 === * 徳永と尚之の高校卒業を受けて、[[1983年]]3月29日、上京。郁弥・尚之兄弟が揃って上京するにあたり、父親は猛反対をした。どちらか一方は(藤井家の跡取りとして久留米に)残るよう強く迫り、親戚一同も賛同の上長男の郁弥ではなく尚之に白羽の矢を立てたが、母親が間に入り説得したため、兄弟揃って上京することができたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.j-wave.co.jp/2020/04/post-5745.html|title=藤井フミヤ、兄弟でバンドをするにあたり…父親の一言「どっちか置いていけ」|website=J-WAVE NEWS|publisher=J-WAVE|data=2020-04-17|accessdate=2023-09-22}}</ref>。上京後は、目黒区のヤマハ音楽振興会の寮で生活をしながら、デビューに向けてレッスンを重ねる。アマチュア時代に得意としていたドゥーワップやオールディーズを一時封印し、まずはメジャーシーンに名を連ね、人気を獲得するという会社の方針に従う<ref>{{Cite web|和書|url=https://fumufumunews.jp/articles/-/21623?page=4|title=チェッカーズ人気の火付け役・売野雅勇が振り返る「5回ダメ出し」「フミヤとの思い出」|website=フムフムニュース|publisher=主婦と生活社|data=2021-08-20|accessdate=2023-09-22}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/12/04/kiji/20221204s00041000453000c.html|title=元チェッカーズ鶴久 「ギザギザハートの子守唄」秘話…100位圏外も「プロデューサーの狙い」|website=SponichiAnnex|publisher=スポーツニッポン新聞社|data=2022-12-02|accessdate=2023-09-22}}</ref>。 * 1983年9月21日、「[[ギザギザハートの子守唄]]」でデビュー。しかし、大きなヒットにはならなかった。翌1984年1月に2ndシングルをリリースするにあたりプロモーション活動を活発に行う。1984年1月9日から13日まで、[[テレビ東京]]の[[朝の情報番組]]「[[おはようスタジオ]]」{{Efn|現「[[おはスタ]]」の前身番組。}}に連日出演して生演奏を披露した。日を追うごとに観覧者が増え、中高生を中心に口コミで知名度があがった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2286030/full/|title=藤井フミヤ、チェッカーズは「テレ東から売れた」 突然前髪を切った事件の真相も|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|data=2023-07-06|accessdate=2023-09-22}}</ref>。 * [[1984年]]1月24日、2ndシングル「[[涙のリクエスト]]」をリリース。チェッカーズの名を一躍全国区に押し上げる大ヒットとなった。同楽曲のヒットに牽引され、前年リリースのデビュー・シングル「ギザギザハートの子守唄」も見直され売上が回復。5月にリリースした3rdシングル「[[哀しくてジェラシー]]」もヒット、3曲が[[オリコンチャート]]やランキング番組のベスト10内に同時ランクイン。チェッカーズは社会現象化し、ファッションなどにも大きな影響を与える<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2188647/full/#slide-menu|title=藤井フミヤ、チェッカーズ初期の名曲なぜ“封印”? コロナ禍で解禁した理由|website=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|data=2021-03-27|accessdate=2023-09-22}}</ref>。[[第35回NHK紅白歌合戦]]初出場。以降解散まで9年連続で紅白出場。 * [[1985年]]、初の映画「[[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]]」公開。シングル「[[ジュリアに傷心]]」がオリコンチャート年間第1位。[[ブロマイド]]の年間売上実績でも第1位を獲得。所属事務所を[[ヤマハ音楽振興会]]から個人事務所・[[スリースタープロ]]へ移籍。 === 中期(1986年下半期 - 1989年)・楽曲のオリジナル化とソロ活動の並行 === * [[1986年]]、2度目の映画「[[チェッカーズSONG FOR U.S.A.]]」公開。初のメンバー制作シングル「[[NANA (曲)|NANA]]」を発売。しかし、際どい歌詞が問題視され、[[日本放送協会|NHK]]で放送禁止になり話題となる<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20131125-a279/ |title=フミヤが分析 最近『君がいるから僕も頑張れる』的な歌多い |publisher=[[マイナビニュース]] |accessdate=2018-06-07|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180612141543/https://news.mynavi.jp/article/20131125-a279/|archivedate=2018-06-12}}</ref>。 * [[1987年]]、全曲メンバーオリジナルのアルバム「[[GO (チェッカーズのアルバム)|GO]]」発売。尚之がメンバー初のソロデビュー(シングル及び同名ソロアルバム「[[NATURALLY (藤井尚之のアルバム)|NATURALLY]]」発表)。これを機に徐々にメンバーのソロ活動が増える。一時期“Cute Beat Club Band”名義で活動。年末には日本武道館にて、日本人バンドでは初となるセンターステージ([[劇場#劇場の様式|オープン形式]])によるコンサートを行う<ref>{{Cite web|和書|url=https://hominis.media/category/musician/post3382/|title=再ブレイク中の武田真治もファン!チェッカーズが日本の芸能史に刻み付けたもの|website=ホミニス|publisher=スカパーJSAT|data=2019-03-01|accessdate=2023-09-22}}</ref>{{Efn|ソロ歌手では同年1月12日に長渕剛が行っている。}}。 * [[1988年]]夏、同年3月に落成されたばかりの[[東京ドーム]]でコンサートを行う。12月、郁弥が出演したCM用に収録された楽曲「[[Mother's Touch]]」が自身のソロシングルとして発売。しかし、チェッカーズのメンバーとして在籍している間はソロ活動(ライブ、音楽番組での歌唱など)をしない約束から、オファーがあっても出演を辞退した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1454990540532/|title=国民的人気バンド チェッカーズ解散の真相とは?|website=エキサイトニュース|publisher=エキサイト株式会社|data=2016-02-12|accessdate=2023-09-22}}</ref>。 * [[1989年]]、鶴久、高杢が相次いでソロCDデビュー。 === 後期・末期(1990年 - 1992年)・ミュージシャン・グループへ、メンバーの結婚、解散 === * [[1990年]]6月、郁弥がメンバーの中でもっとも早く結婚。同年12月に高杢が[[できちゃった結婚|婚約者の妊娠を機に入籍]]。 * 1991年、郁弥及び高杢にそれぞれ第一子(郁弥の第一子は[[フジテレビ]][[アナウンサー]]の[[藤井弘輝]])が誕生。 * 1992年の解散までの間にメンバー中、武内、鶴久を含む4人が既婚者となる<ref>大土井と尚之は解散後の1993年と2005年にそれぞれ結婚している。尚之はメンバーの中でもっとも遅い結婚で、父親になった年齢は最高齢(2010年の長女誕生時45歳)となった。徳永は2004年に死去するまで、独身だった。武内は解散後に離婚して再婚をしている。</ref>。 * 1991年の年末から始まったレコーディング中に郁弥よりほかのメンバーに対して解散の希望が伝えられ、武内、大土井、尚之が賛成、高杢は反対、鶴久と徳永は保留としたものの、プロダクション社長の決定により1992年末の紅白歌合戦を最後に解散することが決定した<ref>{{Cite book|和書|author=速水健朗 |title=バンド臨終図巻 ビートルズからSMAPまで |publisher=文春文庫 |date=2016-12-10 |page=238 |isbn=978-4167907594}}</ref>。 * [[1992年]]秋、新聞でチェッカーズの解散が報じられ、[[10月9日]]放送[[テレビ朝日]]「[[ミュージックステーション]]」内で正式に解散を発表。12月にラストツアーを行い、[[12月31日]]の[[第43回NHK紅白歌合戦]]出場を最後に解散。 *最後の紅白では当初は白組トリおよび大トリでの出演が有力視されており、番組側もその方向で調整を進めていたが、それまでの紅白でグループでトリを取ったという前例が全くなかったことから、トリでの出演は見送られ、中盤での登場となった{{Efn|この前例はそれから11年後の[[2003年]]・[[第54回NHK紅白歌合戦|第54回]]にて[[SMAP]]が大トリをつとめたことにより打ち破られた。}}。 *解散理由についてリーダー武内は先述の「ミュージックステーション」及び[[12月8日]]放送の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[FNS歌謡祭]]」で「チェッカーズとして活動すると同時に、メンバーそれぞれの個性を伸ばしていこうというバンドだったので、道が変わってきた」とコメントしている。 === 解散後 === チェッカーズ解散後、郁弥、武内、大土井、尚之は所属事務所を退社、それぞれソロ活動を行なう。武内は本人主催のイベントや音楽プロデュース、鶴久と高杢は同じ事務所に所属、音楽以外の活動をしていたが、高杢が2005年個人事務所設立に伴い独立。鶴久、徳永も所属事務所から退社し、徳永は別のバンドで活動。武内・大土井・徳永・尚之の楽器陣4人は[[アブラーズ]]を結成、活動していたが、徳永が[[2004年]][[8月17日]]に[[舌癌|舌がん]]のため40歳で死去したため、現在は3人で活動。 * バンドの再結成については、徳永が亡くなっていること、2004年の[[チェッカーズ (本)|メンバーの確執騒動]]で郁弥と高杢の不仲が修復不可能になっていること(詳細は[[チェッカーズ (本)|当該項目]]を参照)、武内が「再結成はない」と断定<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/toru_master2/status/422743880891502592|title=武内享公式Twitter|date=2015-07-18|accessdate=2017-09-13}}</ref><ref name="shukan-josei">{{Cite web|和書|url=https://www.jprime.jp/articles/-/20718|title=藤井フミヤの名前を出すと…「チェッカーズ和解」報道を武内享と高杢禎彦に直撃|work=[[週刊女性PRIME]]|publisher=[[主婦と生活社]]|date=2021-04-129|accessdate=2021-04-30}}</ref>、郁弥と大土井も再結成について否定的な見解を表明している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/46936|title=藤井フミヤ断言「チェッカーズ再結成はない」|publisher=[[東京スポーツ|東スポweb]]|date=2017-06-21|accessdate=2017-09-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.lmaga.jp/news/2018/10/49629/4/|title=元チェッカーズ大土井裕二、全国を巡る今|date=2018-10-06|accessdate=2020-06-29}}</ref>、尚之も「クロベエがいないしね…<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2092832/full/|title=藤井フミヤ、チェッカーズ再結成「難しい」 他グループの復活「うらやましい」|publisher=[[オリコン|ORICON NEWS]]|date=2017-06-21|accessdate=2020-07-27}}</ref>」とコメントしていることから、オリジナル・メンバーによる再結成は事実上不可能な状況。 * 初期の作品を作曲・プロデュースした芹澤は、郁弥と確執があったことを認めており、高杢が書籍を出版した際も芹澤が取材で、郁弥に対して否定的な意見を述べたことがある。しかし2020年9月に郁弥より芹澤に連絡があり、その後34年ぶりに郁弥と会い、一緒に食事をしている。2021年3月27日に[[NHK BSプレミアム]]放送された「激レア!藤井フミヤ ギザギザハートからTRUE LOVE!」の出演依頼を郁弥から受けた際も快諾、作詞家の売野と共に共演となった。芹澤は「会ってメシ食おうって言ってきた時点で、もう私たちの間にわだかまりはない」と、郁弥とは和解したと答えている<ref>{{Cite web|和書|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1966165/|title=藤井フミヤ 絶縁恩師と34年ぶり和解!幻のデビュー曲解禁の訳|work=[[女性自身]]|publisher=[[光文社]]|date=2021-03-30|accessdate=2021-03-30}}</ref>。芹澤は2020年9月に武内とも会食、武内がSNSで報告した<ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/toru_master2/status/1300466973344628743|title=武内享公式Twitter|date=2020-09-01|accessdate=2021-03-30}}</ref>。その際、武内より2018年に開催、郁弥がゲストで参加したアブラーズの2018年のライブをDVDにて発売する際に、武内が芹澤に直接「発売させて頂きます」と報告<ref name="shukan-josei"/>。その直後に武内から郁弥に「直接話せばきっと和解できる」と助言をしている<ref name="shukan-josei"/>。尚、郁弥は後日の取材で、芹澤に会ったことは認めているが、確執については否定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20210414_1651507.html/2|title=チェッカーズ名曲を解禁の藤井フミヤ、恩師と“絶縁”真相を語る|work=[[NEWSポストセブン]]|publisher=[[小学館]]|date=2021-04-14|accessdate=2021-04-30}}</ref>。 * 2021年8月5日、ポニーキャニオンが[[YouTube]]に公式チャンネル『チェッカーズ公式YouTubeチャンネル』を開設。同年9月21日、始動。[[ミュージック・ビデオ]]8本公開。今後もライブ映像なども含め、随時更新するという<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/446036|title=本日デビュー記念日のチェッカーズ、YouTube公式チャンネルを開設|work=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-21|accessdate=2021-09-22}}</ref>。 * 2022年1月15日、NHK-BSの番組「伝説のコンサート」にて「チェッカーズ ファイナル・ツアーin武道館 リマスター版」が放送された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/ts/KZ1WX2427V/episode/te/J9Q8VQYLJ9/|title=伝説のコンサート『チェッカーズ ファイナル・ツアーin武道館 リマスター版』 |publisher=NHK|accessdate=2022-05-30}}</ref>。放送内容に約20分の特典映像を加えた5.1chデジタルリマスター版が制作され、劇場上映されることが決定した<ref>[https://twitter.com/checkers_live/status/1489509278163611648 劇場上映版 チェッカーズ FINAL TOUR【リマスター版】公式Twitter 2022年2月4日付]</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/465532|title=チェッカーズ解散から30年…ラストライブが全国のスクリーンでよみがえる|work=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-14|accessdate=2022-05-30}}</ref>。同年3月23日、全国25か所の映画館で5月29日に一夜限りの上映を行うことが告知された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000216944#utm_source=tw_BARKS_NEWS&utm_medium=social&utm_campaign=tw_auto|title=『劇場上映版 チェッカーズ FINAL TOUR』、上映日が5月29日に決定|work=BARKS|publisher=Japan Music Network Inc.|date=2022-03-23|accessdate=2022-05-30}}</ref>{{Efn|チェッカーズの郷里である福岡県に[[TOHOシネマズ]][[ららぽーと福岡]]が2022年4月25日に開業したため、それに合わせて4月29日に先行上映を行うことも併せて発表した。}}。 :2022年5月29日19時より上映された。なお、上映館では、1992年のFINAL TOURで販売されたパンフレットの復刻版、ポスターの絵柄を使用したクリアファイルセット、2022年3月に復刻盤としてリリースしたアルバム「THE CHECKERS」の復刻盤が発売された<ref>[https://twitter.com/checkers_live/status/1518526393210273792 劇場上映版 チェッカーズ FINAL TOUR【リマスター版】公式Twitter 2022年4月25日付]</ref>。 == バンド名の由来 == メンバーが集まりバンド名を決める際に、当時良く聞いていたバンド『COOLS』『CHANELS』が「C」で始まり「S」で終わることから、メンバーで「C」で始まり「S」で終わる名前を考え、「チェッカーズ(CHECKERS)」というバンド名となった。名付け親はアマチュア時代から親交のある武内の同級生でベーシストの武田圭治(現[http://www.the-travellers.com/main.html THE TRAVELLERS])。ヤマハのコンテスト出場時には「ザ・チェッカーズ」としてエントリーしている。 デビュー当初は[[タータン|チェック]]柄の衣装を着ていたため、よく「チェックの柄」から名前を取ったと言われるが誤りで、バンド名が先にあった。チェック柄の衣装のアイディアは、当時のヤマハのマネージャーが考案した。 == バンド名の表記 == 表記についてはシングル、アルバムのジャケット等については初期はカタカナ表記「'''チェッカーズ'''」及び英語表記「'''THE CHECKERS'''」(または「'''The Checkers'''」)、中期以降は後者の英語表記で記され、「[[歌のトップテン]]」については一時期(1988年頃)英語の大文字表記、「[[突然バラエティー速報!!COUNT DOWN100]]」については英語の小文字表記で記されていたが、正式表記は一貫してカタカナ表記。 == 総合プロデューサー・秋山道男 == デビュー前から、[[秋山道男]]が総合プロデューサーとして「バンドとしてのコンセプト」を考え、メンバーの髪型(当初はリーゼントだった)、ファッションなどを決めた。また、映画『[[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]]』のシノプシスを考案した<ref>[[平岡正明]]『若松プロ、夜の三銃士』愛育社 157頁</ref>。 == パート構成 == * 藤井郁弥:ボーカル担当。曲によって[[ハーモニカ|ブルースハープ]]や[[アコースティック・ギター]]を演奏。高杢のソロの際は[[タンバリン]]も使っていた。前奏や間奏でのハイトーンコーラスを自身で行うこともある。 * 武内享:ギター、コーラス担当。曲によってはアコースティック・ギターも演奏。ギターはチェッカーズの音楽の中では[[リズムギター]]としての要素が強く、ギターソロは少ない。楽曲アレンジの中心的存在。 * 高杢禎彦:低音のボーカル担当。[[タンバリン]]。曲によってはオクタパッド(パーカッションの一種で、鍵盤の代わりに打面がついたシンセサイザー)やリードボーカルも担当。アカペラにおいても一番低いパートを担当。ステージでは向かって右側。 * 大土井裕二:ベース、コーラス担当。 * 鶴久政治:コーラスではメロディーの郁弥より高い音程を担当するが、声は結構太い。曲によってリードボーカルのほか、キーボード、タンバリンも担当。ステージでは向かって左側。 * 徳永善也:ドラム担当。主に[[ソナー (楽器メーカー)|SONOR]]のドラムを愛用している。ライブでは度々ドラム・ソロを披露。 * 藤井尚之:サックス担当。曲によって、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンを使い分けるがテナー・サックスを使用する曲が多い。「素直にI'm Sorry」ではフルート、「OH!!POPSTAR」ではギター(骨折時に、音楽番組で披露。音源ではサックス)など様々な楽器を担当。コーラス&アカペラでは一番高い声を担当。 立ち位置はボーカルは左から、鶴久、郁弥、高杢。楽器陣は左から大土井、尚之、徳永、武内が基本(ボーカルの関係で入れ替わることもある)。郁弥がメインでボーカルを務める曲がほとんど(シングル曲全て)。楽器陣4人にも各人メインボーカル担当曲がある。コーラスはメインボーカルと徳永を除いた5人ですることが多い。 後期は、鶴久がキーボードを使用するにあたり、前列が左から尚之、郁弥、高杢。後列が鶴久、大土井、徳永、武内となることもあったが、アシスタントとしてツアーにキーボードとパーカッションに八木橋カンペー、アンディ檜山が着いてからは元の位置に戻った。 == 楽曲制作 == 「[[ギザギザハートの子守唄]]」から「[[Song for U.S.A.]]」までの初期シングルA面10曲は一貫して[[芹澤廣明]]が作曲・編曲。作詞は主に[[売野雅勇]]、「ギザギザハートの子守唄」「[[神様ヘルプ!]]」の2曲が[[康珍化]]。初期のB面曲やアルバム曲は芹澤・売野コンビによるものとメンバーによるものとで半々。12枚目のシングル「NANA」以降はシングル・アルバム共に全てメンバーによる作詞・作曲。メンバーの作詞は、ほぼ郁弥だが、高杢の作詞も見受けられる。 作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「[[ひらけ!ポンキッキ]]」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、[[ひこねのりお]]による[[アニメーション]]映像ともども人気が高い。鶴久はグループ在籍時から[[岩井由紀子|ゆうゆ]]に楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価され、尚之と合わせメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がける。 <!--作曲は主に武内、大土井、鶴久、尚之によってなされている。 大土井の作曲は他の3人に比べると若干少ないが、「[[ひらけ!ポンキッキ]]」に提供した「ガチョウの物語」は普段の彼らとは一転してユーモラスな曲調ながらもチェッカーズらしさも存分に活かした楽曲で、[[ひこねのりお]]による[[アニメーション]]映像ともども人気が高い。鶴久はグループ在籍時から[[岩井由紀子|ゆうゆ]]に楽曲提供するなど、その高い作曲能力を評価されており、尚之と合わせてメンバーオリジナル曲になってからのヒット作を多数手がけている。-->シングルA面曲の作曲は尚之が8曲、鶴久が7曲手掛けていて、他に大土井と武内が2曲ずつ手掛けている。 == 脱アイドルへの拒否 == 「オリジナル曲が作れるアイドルグループ」の先駆者として人気を博していたが、4thアルバム『[[FLOWER (チェッカーズのアルバム)|FLOWER]]』を発売した頃から、収録曲の10曲中5曲がメンバーが制作した楽曲になり、「チェッカーズは、脱アイドル宣言を行うのではないか」との噂が絶えなかった。しかし本人達は後日「自分達は脱アイドルを宣言したことは無いし、現在でもアイドルである」と発言、解散するまで自分達はアイドルであることの姿勢を崩さなかった。 == コンサートにおけるマナーの呼びかけ == 鑑賞マナーについて、ファンに対し言及した。 呼びかけたマナーの内容としては、以下のものがあった。 * [[ペンライト]]の使用禁止。 * [[紙テープ]]や[[贈り物]]等、ステージへ物の投げ込み禁止。 * MCを行なっている時のメンバーへの声援禁止。 * [[バラード]]等、静かな曲を演奏している時の手拍子禁止。 * ごみは持ち帰る事。 == 「Cute Beat Club Band」としての活動 == ふとした事から、英国のロックバンド『The George Springhill Band(ジョージ・スプリングヒル・バンド)』の事を知り感銘したメンバーが、彼らの事を知って貰うためのコピーバンドとして[[1985年]]と[[1987年]]、チェッカーズとは別に「キュート・ビート・クラブ・バンド」(Cute Beat Club Band。以下、C.B.C.Bと記載)としても活動した。バンド名は自分達の[[ファンクラブ]]の名から取ったもの。1985年には[[親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様|企画アルバム]]、1987年には12インチシングル、ライブアルバム、写真集を発売している。また、C.B.C.Bでは作詞家に[[秋元康]]を起用している。尚、C.B.C.B.として活動するときのメンバーの名前は、以下の通り。だが、これはネタである。ジョージ・スプリングヒル・バンド名義の3曲もメンバーのオリジナルで、演奏もメンバーによるもの。郁弥曰く「本業はチェッカーズ、C.B.C.B.は趣味」。 : 藤井郁弥 → Hellow Fujii(vocal)ハロー・フジイ : 武内享 → Crazy Tohru(guitar)クレイジー・トオル : 高杢禎彦 → Elegant Moku(vocal)エレガント・モク : 大土井裕二 → Route Yuji(bass)ルート・ユウジ : 鶴久政治 → Special Tsuruku(vocal)スペシャル・ツルク : 徳永善也 → Knight Yoshiya(drums)ナイト・ヨシヤ : 藤井尚之 → Evally Fujii(sax)エヴァリィ・フジイ === Cute Beat Club Band Discography === * '''[[親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様]]<1985.12.21>(アルバム)''' * '''[[7つの海の地球儀]]<12inchEP 1987.11.06、CD 1988.05.21>(シングル)''' * '''[[NOT CHECKERS-円高差益還元ライブ]]<1987.11.21>(アルバム)''' * '''NOT CHECKERS This is THE CUTE BEAT CLUB BAND SHOW<1987.12.16>(ビデオ)''' <!-- 資料:http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Guitar/9372/checkers/cbcb2.htm より --> == 作品 == === シングル === # [[ギザギザハートの子守唄]]([[1983年]]9月21日) #* 作詞:[[康珍化]] #*作曲・編曲:[[芹澤廣明]] #* 1984年度年間20位([[オリコンチャート|オリコン]]) # [[涙のリクエスト]]([[1984年]]1月21日) #* 作詞:[[売野雅勇]] #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* 1984年度年間4位(オリコン) # [[哀しくてジェラシー]](1984年5月1日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* 1984年度年間5位(オリコン) # [[星屑のステージ]](1984年8月23日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* [[TBSテレビ|TBS]]系列連続ドラマ「[[うちの子にかぎって…]]」主題歌 #* 1984年度年間8位(オリコン) # [[ジュリアに傷心]](1984年11月21日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* 1985年度年間1位(オリコン) # [[あの娘とスキャンダル]]([[1985年]]3月21日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* [[東宝]]映画『[[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]]』主題歌 #* 1985年度年間5位([[オリコンチャート|オリコン]]) # [[俺たちのロカビリーナイト]](1985年7月5日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* 1985年度年間8位(オリコン) # [[HEART OF RAINBOW 〜愛の虹を渡って〜/ブルー・パシフィック]](1985年9月21日) #* 両A面、12インチシングル #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* [[グリコアーモンドチョコレート]]CMソング(HEART OF RAINBOW 〜愛の虹を渡って〜) #*TDK カセットテープCMソング(ブルー・パシフィック) #* 1985年度年間30位(オリコン) # [[神様ヘルプ!]](1985年11月1日) #* 作詞:康珍化 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* 1985年度年間44位(オリコン) # [[OH!! POPSTAR]]([[1986年]]2月21日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* [[東宝]]映画「[[タッチ 背番号のないエース]]」挿入歌 #* 1986年度年間9位(オリコン) # [[Song for U.S.A.]](1986年6月5日) #* 作詞:売野雅勇 #*作曲・編曲:芹澤廣明 #* [[東宝]]映画「[[チェッカーズSONG FOR U.S.A.|SONG FOR U.S.A]]」主題歌 #* 1986年度年間11位(オリコン) # [[NANA (曲)|NANA]](1986年10月15日) #* 作詞:[[藤井フミヤ|藤井郁弥]]、作曲:[[藤井尚之]]、編曲:チェッカーズ・八木橋カンペー #* 1986年度年間48位(オリコン) # [[I Love you, SAYONARA]]([[1987年]]3月5日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:[[大土井裕二]]、編曲:THE CHECKERS FAM. #* セイコー アベニューCMソング #* 1987年度年間15位(オリコン) # [[WANDERER (チェッカーズの曲)|WANDERER]](1987年7月8日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:[[鶴久政治]]、編曲:THE CHECKERS FAM. #* 1987年度年間25位(オリコン) # [[Blue Rain]](1987年11月6日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. #* TBS系列「[[日立 世界・ふしぎ発見!]]」EDテーマ # [[7つの海の地球儀]](1987年11月6日) #* Cute Beat Club Band名義で発売 #* 作詞:[[秋元康]]、作曲:[[鶴久政治|Special Tsuruku]]、編曲:[[ミッキー・ムーディ|Micky Moody]] #* 12インチシングルEP、CD版は1988年5月21日発売 # [[ONE NIGHT GIGOLO]]([[1988年]]3月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:[[武内享]]、編曲:THE CHECKERS FAM. #* [[ライオン (企業)|ライオン]] ページワンCMソング # [[Jim&Janeの伝説]](1988年6月29日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[素直にI'm Sorry]](1988年10月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[Room (チェッカーズの曲)|Room]]([[1989年]]3月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. #* 1989年度年間37位(オリコン) # [[Cherie (チェッカーズの曲)|Cherie]](1989年7月5日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[Friends and Dream]](1989年12月6日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[運命 (SADAME)]]([[1990年]]3月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. #* [[マツダ・ファミリア]]CMソング # [[夜明けのブレス]](1990年6月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. #* 東宝映画「[[タスマニア物語]]」キャンペーンソング #* 1990年度年間34位(オリコン) # [[さよならをもう一度 (チェッカーズの曲)|さよならをもう一度]](1990年11月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[Love '91]]([[1991年]]3月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:大土井裕二、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[ミセス マーメイド]](1991年9月4日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:鶴久政治、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[ふれてごらん 〜please touch your heart〜]](1991年12月4日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[今夜の涙は最高]]([[1992年]]3月21日) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. # [[Blue Moon Stone]]([[1992年]][[5月21日]]) #* 作詞:藤井郁弥、作曲:藤井尚之、編曲:THE CHECKERS FAM. #* [[トヨタ・スプリンターマリノ]]CMソング # [[Present for You]](1992年11月20日) #* 作詞・作曲:THE CHECKERS、編曲:THE CHECKERS FAM. #* [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列「[[タイム3]]」EDテーマ #* 実際の作詞は藤井郁弥、作曲は武内享 番外:まんてんワイドのテーマ(TBSラジオ「[[エド山口のまんてんワイド]]」のために作詞作曲されたオリジナルでシングル化されておらず、アルバムにも収録されていない。) *作詞:藤井郁弥、作曲・編曲:不明(メンバーの誰か) === アルバム === ==== オリジナル・アルバム ==== # [[絶対チェッカーズ!!]]([[1984年]]7月21日) # [[もっと!チェッカーズ]](1984年12月5日) # [[毎日!!チェッカーズ]]([[1985年]]8月21日) # [[FLOWER (チェッカーズのアルバム)|FLOWER]]([[1986年]]3月30日) # [[GO (チェッカーズのアルバム)|GO]]([[1987年]]5月2日) # [[SCREW (チェッカーズのアルバム)|SCREW]]([[1988年]]7月21日) # [[Seven Heaven]]([[1989年]]7月19日) # [[OOPS!]]([[1990年]]8月8日) # [[I HAVE A DREAM (チェッカーズのアルバム)|I HAVE A DREAM]]([[1991年]]6月21日) # [[BLUE MOON STONE]]([[1992年]]6月19日) ==== ベスト・アルバム ==== # [[THE CHECKERS BEST]]([[1987年]]7月21日) #* リリース時点でのチェッカーズの楽曲からのセレクション。 #*ライブバージョン2曲、ニューバージョン2曲を含む2枚組。 # [[チェッカーズ THE BEST]]([[1991年]]12月15日) #* 楽曲をメンバー自身で制作するようになった「NANA」から「Love'91」までの全シングル曲を収録。 #*Disc2に同内容のカラオケ音源を収録。 # [[THE CHECKERS (アルバム)|THE CHECKERS]]([[1992年]]12月16日) #* チェッカーズの全楽曲からのセレクション。3枚組。 # [[THE OTHER SIDE]](1992年12月16日) #* 同時発売「THE CHECKERS」に未収録の、カップリング曲から構成された裏ベスト的内容。 #*リミックス・ヴァージョン1曲収録。 # [[EARLY SINGLES]]([[1994年]]8月19日) #* 楽曲制作をメンバーで行うようになる前の「[[ギザギザハートの子守唄]]」から「Song for U.S.A」までの初期シングルセレクション。収録時間の許す限りカップリング曲も収録。 # [[The New Selection of THE CHECKERS ~Ballad Selection]]([[1999年]]2月17日) # [[The New Selection of THE CHECKERS ~Ballad Selection II]](1999年3月17日) # [[ALL SONGS REQUEST]]([[2003年]]3月5日) #* ファン投票によるリクエストベスト。上位30曲を収録。2枚組。 # [[COMPLETE THE CHECKERS 〜all singles collection]]([[2004年]]3月17日) #* すべてのシングルA面曲を収録。2枚組。 # [[COMPLETE THE CHECKERS all singles collection REVERSE]](2004年7月14日) #* すべてのカップリング曲を収録。2枚組。 # [[ALL BALLADS REQUEST]]([[2005年]]3月16日) #* ファン投票によるバラードリクエストベスト。上位15曲を収録。 # THE CHECKERS 80's COMPLETE BOX([[2008年]]3月19日) #* [[1980年代]]にリリースされたオリジナルアルバムのBOXセット。初回限定生産、 10枚組。 # [[THE CHECKERS SUPER BEST COLLECTION 32]]([[2009年]]9月16日) #* すべてのシングルA面曲にボーナストラックを加えた2枚組。 # [[THE CHECKERS 30TH ANNIVERSARY BEST 7×30 SINGLES|THE CHECKERS 30TH ANNIVERSARY BEST ~7×30 SINGLES~]](2013年6月19日) # [[チェッカーズ ベストヒット 16 ZETTAI盤]](2014年2月12日) # [[チェッカーズ ベストヒット 16 MOTTO盤]](2014年2月12日) # [[プラチナムベスト チェッカーズ オールタイム・コレクション]](2015年6月17日) #* [[ハイ・クオリティCD|UHQCD]]仕様、全35曲収録 ==== ライブ・アルバム ==== # [[NOT CHECKERS-円高差益還元ライブ]]([[1987年]]11月21日 Cute Beat Club Band名義) # [[THE CHECKERS FINAL ラスト武道館ライブ 1992.12.28]]([[1993年]]3月19日) ==== 企画アルバム ==== # [[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]]オリジナル・[[サウンドトラック]]([[1985年]]4月27日) # [[親愛なるジョージ・スプリングヒル・バンド様]](1985年12月21日、「Cute Beat Club Band」名義、CD・カセットのみ) # [[SONG FOR U.S.A.]]([[1986年]]7月21日) # [[NON-STOP CHECKERS]](1986年9月5日) === ビデオ === ; 1985年 * A Making of TAN TAN たぬき * [[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]] * TYPHOON CHECKERS in SEIBU STADIUM ; 1986年 * SONG FOR U.S.A. ; 1987年 * CUTE BEAT CLUB BAND「NOT CHECKERS This is THE CUTE BEAT CLUB BAND SHOW」 ; 1988年 * THE CHECKERS “GO” TOUR I * THE CHECKERS “GO” TOUR II * BACK STAGE 1988 CONCERT TOUR “SCREW” ; 1989年 * 藤井尚之/The Session ; 1990年 * New Editional SEVEN HEAVEN * 鶴久政治/Dear The Merry X'mas(ビデオ・CD・絵本の3点セット商品) ; 1992年 * SPADE CLUB * DIAMOND HEARTS * THE CHECKERS 1992 SUMMER TOUR “BLUE MOON STONE” Vol.1 * THE CHECKERS 1992 SUMMER TOUR “BLUE MOON STONE” Vol.2 ; 1993年 * “7×10” 1983 - 1992 SINGLES ; 1999年 * '''THE CHECKERS CHRONICLEシリーズ'''(過去にリリースされたビデオの復刻シリーズ) ** 1985-1 「Typhoon' TOUR」 ** 1985-2 「PIRATES TOUR」 ** 1986 「FLASH!! TOUR」 ** 1987 「GO TOUR」 ** 1988 「SCREW TOUR」 ** 1989 「SEVEN HEAVEN TOUR」 *: ファンクラブ限定通販ビデオ「SEVEN HEAVEN」のVol.1 - 5を収録。 ** 1986 - 1990 「SPADE CLUB & DIAMOND HEARTS」 ** 1990 「OOPS! TOUR」 ** 1991-1 「I have a Dream TOUR “WHITE PARTY” 1」 *: ファンクラブ限定通販ビデオ「WHITE PARTY」のVol.1 - 2を収録。 ** 1991-2 「I have a Dream TOUR “WHITE PARTY” 2」 *: ファンクラブ限定通販ビデオ「WHITE PARTY」のVol.3 - 4を収録。 ** 1992-1 「Blue Moon Stone TOUR 1」 ** 1992-2 「Blue Moon Stone TOUR 2」 ** 1992-3 「FINAL TOUR」 ** 1992-4 「FINAL TOUR “ACCESS ALL AREA”」 *: ファンクラブ限定通販ビデオ「ACCESS ALL AREA」のVol.1 - 3を収録。 ** 1992-5 「FINAL TOUR “ACOUSTIC COLLECTION”」 *: ファンクラブ限定通販ビデオ「SIT DOWN PLEASE」のVol.3 - 4を収録。 ** 1992-6 「Rec.」 ** 1983 - 1992 「7×10 SINGLES」 * 「'''FINAL TOUR BOX 〜The CHECKERS 1992'''」(BOX入りのビデオ9本セット) # DOCUMENT FINAL Vol.1 # DOCUMENT FINAL Vol.2 # DOCUMENT FINAL Vol.3 # DOCUMENT FINAL Vol.4 # DOCUMENT FINAL Vol.5 # FINAL TOUR ACOUSTIC CORNER Vol.1 # FINAL TOUR ACOUSTIC CORNER Vol.2 # FINAL TOUR ACOUSTIC CORNER Vol.3 # Special Edition (特典映像) * THE CHECKERS Single CLIPS!! vol.I 〜完全保存版〜 * THE CHECKERS Single CLIPS!! vol.II 〜完全保存版〜 * THE CHECKERS Single CLIPS!! vol.III 〜完全保存版〜 * The Complete CHECKERS Vol.1 * The Complete CHECKERS Vol.2 ; 2000年 * Another CHRONICLE 〜THE CHECKERS CHRONICLE/ SPECIAL PRESENT VIDEO *:(「THE CHECKERS CHRONICLEシリーズ」の懸賞プレゼント用ビデオ) * TRUTH 1983 - 1992 Vol.1 * TRUTH 1983 - 1992 Vol.2 * TRUTH 1983 - 1992 Vol.3 * TRUTH 1983 - 1992 Vol.4 * TRUTH 1983 - 1992 Vol.5 ; 2001年 * SOUND☆CHECK Vol.1 * SOUND☆CHECK Vol.2 * SOUND☆CHECK Vol.3 === ファンクラブ用通販限定ビデオ === * Vol.1 「The Checkers 1986 Japan Tour. FLASH! 〜on Dec.27. '86 at the BUDOKAN」(1987年) * Vol.2 「徳永善也/素顔 〜THE CHECKERS in LONDON / NEW YORK」(1988年) * Vol.3 「藤井尚之/CORONA」(1989年) * Vol.4 「鶴久政治/LOVIN' SPOONFUL PARTY!」(1989年) * Vol.5 「SEVEN HEAVEN 1 〜THE CHECKERS 1989 SUMMER TOUR」(1989年) * Vol.6 「SEVEN HEAVEN 2 〜THE CHECKERS 1989 SUMMER TOUR」(1989年) * Vol.7 「SEVEN HEAVEN 3 〜THE CHECKERS 1989 SUMMER TOUR」(1989年) * Vol.8 「SEVEN HEAVEN 4 〜THE CHECKERS 1989 SUMMER TOUR」(1989年) * Vol.9 「SEVEN HEAVEN 5 〜THE CHECKERS 1989 SUMMER TOUR」(1989年) * Vol.10 「徳永善也/心の旅 〜素顔II」(1990年) * Vol.11 「鶴久政治/Timely A -Live- 〜MASAHARU TSURUKU 1990 CONCERT TOUR」(1990年) * Vol.12 「鶴久政治/Timely B -Voice- 〜MASAHARU TSURUKU 1990 CONCERT TOUR」 (1990年) * Vol.13 「THE CHECKERS 1990」(1990年) * Vol.14 「鶴久政治/[[JUMP (映像作品)|JUMP]]」(1991年) * Vol.15 「徳永善也/素顔III 〜虹の部屋」(1991年) * Vol.16 「WHITE PARTY 1 〜THE CHECKERS 1991 I have a dream WINTER TOUR」(1992年) * Vol.17 「WHITE PARTY 2 〜THE CHECKERS 1991 I have a dream WINTER TOUR」(1992年) * Vol.18 「WHITE PARTY 3 〜THE CHECKERS 1991 I have a dream WINTER TOUR」(1992年) * Vol.19 「WHITE PARTY 4 〜THE CHECKERS 1991 I have a dream WINTER TOUR」(1992年) * Vol.20 「鶴久政治/MASAHARU + MASARINA TOUR 1992」(1992年) * Vol.21 「Keep Off 〜THE CHECKERS 1992 SUMMER TOUR “BLUE MOON STONE”」(1992年) * Vol.22 「FINAL 〜THE CHECKERS LAST TOUR」(1993年) * Vol.23 「Rec. 〜PRESENT FOR YOU」(1993年) * Vol.24 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.1 〜THE CHECKERS LAST TOUR “FINAL”」(1995年) * Vol.25 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.2 〜THE CHECKERS LAST TOUR “FINAL”」(1995年) * Vol.26 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.3 〜THE CHECKERS LAST TOUR “FINAL”」(1995年) * Vol.27 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「SIT DOWN PLEASE Vol.1」(1996年) * Vol.28 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「SIT DOWN PLEASE Vol.2」(1996年) * Vol.29 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「SIT DOWN PLEASE Vol.3 〜THE CHECKERS LAST TOUR “FINAL”」(1996年) * Vol.30 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「SIT DOWN PLEASE Vol.4 〜THE CHECKERS LAST TOUR “FINAL”」(1996年) * Vol.31 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「Pirates Vol.1 〜1985.12.26. at NIPPON BUDOKAN」(1997年) * Vol.32 OPEN SESAME!! THE CHECKERS 「Pirates Vol.2 〜1985.12.26. at NIPPON BUDOKAN」(1997年) * Vol.33 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.4 〜THE CHECKERS “FINAL” TOUR BOOK MAKING」(1997年) * Vol.34 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.5」(1997年) * Vol.35 OPEN SESAME!! 「ACCESS ALL AREA Vol.6」(1997年) === DVD・Blu-ray === ※ [[Blu-ray Disc|Blu-ray]]発売日の出典<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/155187|title=チェッカーズ映像作品、主演映画含む20タイトルがBlu-ray化|publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]]|date=2015-07-27|accessdate=2015-07-28}}</ref> * THE CHECKERS Single CLIPS!!(2000年9月) * THE CHECKERS 素顔II〜II(2000年9月) * 1987 GO SUMMER TOUR in 大阪球場 完全ノーカット版(2000年12月) * 1987 GO WINTER TOUR in 日本武道館 完全ノーカット版(2000年12月) * 1988 SCREW SUMMER TOUR in TOKYO DOME 完全ノーカット版(2000年12月) * 1986 FLASH!! WINTER TOUR 完全ノーカット版(2001年7月) * 1990 OOPS! WINTER TOUR 完全ノーカット版(2001年7月) * 1991 I have a Dream〜 White Party〜 WINTER TOUR 完全ノーカット版(2001年7月) * CHECKERS in TAN TAN たぬき(2002年3月) * THE CHECKERS SINGLES(2000年9月) * ALL SONG REQUEST 〜DVD EDITION(DVD:2003年6月、Blu-ray:2015年12月16日) * '''THE CHECKERS CHRONICLEシリーズ''' ** 1985 「Typhoon TOUR」(DVD:2003年9月、Blu-ray:2015年9月16日) ** 1985 「PIRATES TOUR」(DVD:2003年9月、Blu-ray:2015年9月16日) ** 1986 「FLASH!! TOUR」(DVD:2003年9月、Blu-ray:2015年9月16日) ** 1987 「GO TOUR」(DVD:2003年9月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1988 「SCREW TOUR」(DVD:2003年9月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1989 「SEVEN HEAVEN TOUR」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1990 「OOPS! TOUR」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1991 「I have a Dream TOUR “WHITE PARTY” I」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1991 「I have a Dream TOUR “WHITE PARTY” II」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年10月21日) ** 1992-1 「Blue Moon Stone TOUR I」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1992-2 「Blue Moon Stone TOUR II」(DVD:2003年10月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1992-3 「FINAL TOUR」(DVD:2003年11月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1992-4 「FINAL TOUR “ACCESS ALL AREA”」(DVD:2003年11月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1992-5 「FINAL TOUR “ACOUSTIC COLLECTION”」(DVD:2003年11月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1992-6 「Rec.」(DVD:2003年11月、Blu-ray:2015年11月18日) ** 1983 - 1992 「7 x 10 SINGLES」(DVD:2003年12月、Blu-ray:2015年12月16日) ** 1986 - 1990 「SPADE CLUB & DIAMOND HEARTS」(DVD:2003年12月、Blu-ray:2015年12月16日) ** The Complete Checkers Vol.I(DVD:2003年12月、Blu-ray:2015年9月16日) ** The Complete Checkers Vol.II(DVD:2003年12月、Blu-ray:2015年9月16日) ** CUTE BEAT CLUB BAND 「NOT CHECKERS」(DVD:2003年12月、Blu-ray:2015年9月16日) * ザ・ベストテン チェッカーズ -永久保存版-(2011年3月) == コンサート == {| class="wikitable" style=font-size:small |- | style="width:3.5em" rowspan="2" | [[1983年]] | style="width:16em" rowspan="4" |ファースト・ライブ | style="width:8em;font-size:smaller;"|単発コンサート |style="font-size:smaller;"|[[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;"|[[THE BREAKERS]]との対バンライブ |- | colspan="3" style="font-size:smaller;"|[[12月29日]] [[原宿駅前ステージ|原宿アッシュ]] |- | style="width:3.5em" rowspan="14" |[[1984年]] | style="width:8em;font-size:smaller;"|単発コンサート |style="font-size:smaller;"|[[1月21日]] - [[2月25日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |3か所4公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;"| |- | colspan="3" style="font-size:smaller;"|<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[1月21日]] [[原宿RUIDO|新宿ルイード]]<br />[[1月28日]] 大阪ORANGE SHOWER<br />[[2月25日]] 新宿ルイード |- | style="width:16em" rowspan="2" |ハートにチェックインツアー1984 | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[3月3日]] - [[4月3日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |10か所10公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |雑誌[[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]]提供による、初の全国ツアー。バンドとしては唯一、地元久留米にて公演が行なわれた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[3月3日]] 名古屋グレイトフルユッカ<br />[[3月4日]] 横浜SHELLGARDEN<br />[[3月10日]] 浜松ヤマハ四ッ池センター<br />[[3月11日]] 大阪 [[梅田バナナホール]]<br />[[3月18日]] 新宿ルイード<br />[[3月20日]] 広島ウッディストリート<br />[[3月26日]] [[PENNY LANE 24|札幌PENNY LANE 24]]<br />[[3月28日]] [[仙台フォーラス|仙台フォーラスモーニングムーンスタジオ]]<br />[[3月31日]] 久留米市民会館<br />[[4月1日]] 福岡[[都久志会館]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |ホワイトデー・ライブ | style="width:8em;font-size:smaller;" |単発コンサート |style="font-size:smaller;"|[[3月14日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |[[ホワイトデー]]に開催された記念に、入場者にはお土産としてマシュマロが配られた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[草月ホール]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |チェックインパーティー'84 | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[4月28日]] - [[5月2日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |4か所4公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |雑誌[[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]]提供による、2度目のコンサートツアー。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[4月28日]] 福岡電気ホール<br />[[4月29日]] [[オリックス劇場|大阪厚生年金会館中ホール]]<br />[[4月30日]] [[電力ビル|仙台電力ホール]]<br />[[5月2日]] [[日本青年館]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |夏は絶対!チェッカーズツアー1984 | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月14日]] - [[9月7日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |17か所??公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |3度目の全国ツアー。シングルの大ヒットを受けて、このツアーよりチケットの入手が非常に困難となった。応募者多数の為、大阪公演が大阪厚生年金会館から大阪城ホールへと変更となった。また公演日によっては、1日2回公演が行われた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月14日]] [[よみうりランド|よみうりランドEAST]]<br />[[7月25日]] [[さっぽろ芸術文化の館|北海道厚生年金会館]]<br />[[7月30日]] [[大阪城ホール]]<br />[[8月2日]] [[長崎市公会堂]]<br />[[8月7日]] [[長野県県民文化会館|長野文化会館]]<br />[[8月12日]] [[つま恋リゾート 彩の郷|つま恋エキシビションホール]]<br />[[8月14日]] [[メルパルク広島|広島郵便貯金会館]]<br />[[8月15日]] [[福岡サンパレス]]<br />[[8月17日]] [[名古屋市民会館]]<br />[[8月21日]] [[長岡市立劇場]]<br />[[8月23日]] [[仙台市民会館]]<br />[[8月24日]] [[群馬県民会館]]<br />[[8月28日]] [[山梨県立県民文化ホール|山梨文化センター]]<br />[[8月30日]] [[千葉県文化会館|千葉文化会館]]<br />[[9月1日]] [[イオン南越谷店|越谷コミュニティセンター]]<br />[[9月3日]] [[茨城県立県民文化センター|茨城県民文化センター]]<br />[[9月7日]] [[神奈川県民ホール]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |あぜくら主催 ジャストサマーフェスティバル | style="width:8em;font-size:smaller;" |イベント |style="font-size:smaller;"|[[8月19日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |大阪の呉服屋[[愛染蔵]]主催の、[[浴衣]]を[[ドレスコード]]としたイベント。チェッカーズはスペシャルゲストとしてライブを行なった。他に、[[沖田浩之]]と[[明石家さんま]]によるジョイントコンサートや、[[笑福亭鶴瓶]]によるトークライブも開催された。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |大阪城ホール |- | style="width:16em" rowspan="2" |もっと!チェッカーズツアー1984 | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[12月13日]] - [[12月25日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |6か所7公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |東京以外は、初のアリーナ公演となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[12月13日]] [[東京厚生年金会館]]<br />[[12月14日]] 東京厚生年金会館<br />[[12月16日]] [[名古屋市国際展示場]]<br />[[12月19日]] [[北海道立産業共進会場|札幌共進会場]]<br />[[12月21日]] [[横浜文化体育館|神奈川県立文化体育館]]<br />[[12月23日]] 大阪城ホール<br />[[12月25日]] [[福岡国際センター]] |- | style="width:3.5em" rowspan="6" |[[1985年]] | style="width:16em" rowspan="2" |KIMI TO SCAN-DAL '85 TOUR | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[3月22日]] - [[4月18日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |12か所15公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |全公演ホールで行なわれたツアーで、チケットに関しメンバーが「'''複数公演行かれる予定の方は、是非お友達に譲ってください。'''」とメンバーが[[ラジオ]]で呼びかける程、入手困難となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[3月22日]] 大阪厚生年金会館<br />[[3月23日]] 名古屋市民会館<br />[[3月25日]] 北海道厚生年金会館<br />[[3月28日]] [[群馬音楽センター]]<br />[[3月30日]] [[中野サンプラザ]]<br />[[3月31日]] 中野サンプラザ<br />[[4月1日]] [[愛知厚生年金会館]]<br />[[4月4日]] 千葉県文化会館<br />[[4月6日]] [[宮城県民会館]]<br />[[4月9日]] [[神戸国際会館]]<br />[[4月10日]] 広島郵便貯金ホール<br />[[4月11日]] 大阪厚生年金会館<br />[[4月12日]] [[京都会館|京都会館第1ホール]]<br />[[4月17日]] 福岡サンパレス<br />[[4月18日]] 福岡サンパレス |- | style="width:16em" rowspan="2" |TYPHOON CHECKERS | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月7日]] - [[9月8日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |29か所32公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |8月12日、[[西武球場]]でのコンサートでは空の轟音を聞いた人達が居て、ビデオに空を飛んで行く黒い影が映っており、時刻と方向から見て'''[[日本航空123便墜落事故|123便]]'''か現地に向った米軍機か自衛隊機かではないかと噂されているが、後に発行されたものではその黒い影が消されている。そのコンサート中に[[日本航空123便墜落事故]]で亡くなった[[坂本九]]さんの話題が出て「[[上を向いて歩こう]]」が歌われた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月7日]] [[沖縄市野球場|沖縄市営球場]]<br />[[7月14日]] [[アドベンチャーワールド|和歌山ワールドサファリアドベンチャーワールド第2スタジアム]]<br />[[7月16日]] [[高槻現代劇場|高槻市民会館]]<br />[[7月19日]] 山梨県民文化ホール<br />[[7月23日]] [[釧路市民文化会館]]<br />[[7月25日]] るべしべ市営球場<br />[[7月28日]] [[真駒内屋外競技場|真駒内オープンスタジアム]]<br />[[8月1日]] [[松山市民会館]]<br />[[8月2日]] [[高松市民会館]]<br />[[8月3日]] [[山口市民会館]]<br />[[8月5日]] [[島根県民会館]]<br />[[8月6日]] [[倉敷市民会館]]<br />[[8月8日]] [[金沢歌劇座|金沢市観光会館]]<br />[[8月9日]] [[富山市公会堂]]<br />[[8月10日]] 長野県県民文化会館<br />[[8月12日]] [[西武ドーム|西武球場]]<br />[[8月16日]] [[鹿児島市民文化ホール|鹿児島市民文化ホール第一ホール]]<br />[[8月17日]] [[熊本市民会館]]<br />[[8月19日]] [[大分文化会館]]<br />[[8月20日]] 宮崎市民会館<br />[[8月21日]] [[海の中道海浜公園]]<br />[[8月22日]] [[高知県民文化ホール]]<br />[[8月24日]] [[尼崎市総合文化センター|尼崎アルカイックホール]]<br />[[8月26日]] 大阪厚生年金会館<br />[[8月27日]] 大阪厚生年金会館<br />[[8月30日]] 中野サンプラザ<br />[[8月31日]] 中野サンプラザ<br />[[9月1日]] 中野サンプラザ<br />[[9月3日]] [[福島県文化センター]]<br />[[9月5日]] [[秋田県民会館]]<br />[[9月6日]] [[岩手県民会館]]<br />[[9月8日]] [[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |PIRATES TOUR | style="width:8em;font-size:smaller;" |ツアー |style="font-size:smaller;"|[[11月22日]] - [[12月27日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |10か所22公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |初の完全アリーナツアー。このツアーより年末の武道館公演が恒例となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[11月22日]] [[北海道立産業共進会場|札幌月寒グリーンドーム]]<br />[[11月23日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[11月25日]] [[仙台市体育館]]<br />[[11月26日]] 仙台市体育館<br />[[11月29日]] [[郡山総合体育館]]<br />[[11月30日]] 郡山総合体育館<br />[[12月4日]] [[新潟市体育館]]<br />[[12月5日]] 新潟市体育館<br />[[12月9日]] 横浜文化体育館<br />[[12月10日]] 横浜文化体育館<br />[[12月11日]] [[愛知県体育館]]<br />[[12月12日]] 愛知県体育館<br />[[12月14日]] [[広島サンプラザ]]<br />[[12月15日]] 広島サンプラザ<br />[[12月17日]] 大阪城ホール<br />[[12月18日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月22日]] 福岡国際センター<br />[[12月23日]] 福岡国際センター<br />[[12月25日]] [[日本武道館]]<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="8" |[[1986年]] | style="width:16em" rowspan="2" |国際スポーツフェア'86 春のフィナーレ チェッカーズ オン ステージ | style="width:8em;font-size:smaller;"|単発コンサート |style="font-size:smaller;"|[[5月10日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |フジテレビ主催「国際スポーツフェア」による、一日だけのスペシャルライブ。尚、代々木競技場でのコンサートは、この公演の時のみしか行なわれていない。後に[[フジテレビ系]]にて、『WA WA WA 代々木 THE CHECKERS』というタイトルにて、このライブの模様が放送された。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[国立代々木競技場|国立代々木競技場第一体育館]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |映画「SONG FOR U.S.A」コンサートシーン撮影 | style="width:8em;font-size:smaller;"|映画撮影 |style="font-size:smaller;"|[[6月1日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |映画のコンサートシーン撮影の為に、ファンクラブ限定にて観客としてのエキストラを募集し、撮影が行われた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[千駄ヶ谷コート|神宮外苑プール]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |STAR KIDS THE CHECKERS | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月19日]] - [[4月18日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |12か所22公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月19日]] 西武球場<br />[[7月20日]] 西武球場<br />[[7月24日]] [[ワールド記念ホール|神戸ワールド記念ホール]]<br />[[7月25日]] 神戸ワールド記念ホール<br />[[7月27日]] 真駒内オープンスタジアム<br />[[7月29日]] 仙台市体育館<br />[[7月30日]] 仙台市体育館<br />[[8月1日]] 鹿児島市民文化第一ホール<br />[[8月2日]] 鹿児島市民文化第一ホール<br />[[8月4日]] 福岡国際センター<br />[[8月5日]] 福岡国際センター<br />[[8月8日]] 広島サンプラザ<br />[[8月9日]] 広島サンプラザ<br />[[8月10日]] [[愛媛県県民文化会館|愛知県民文化会館]]<br />[[8月11日]] 愛知県民文化会館<br />[[8月21日]] [[実践倫理宏正会研修会館|金沢実践倫理記念会館]]<br />[[8月22日]] [[福井市体育館]]<br />[[8月29日]] [[大阪スタヂアム|大阪球場]]<br />[[8月30日]] 大阪球場<br />[[9月1日]] 愛知県立体育館<br />[[9月2日]] 愛知県立体育館<br />[[9月7日]] 西武球場 |- | style="width:16em" rowspan="2" |THE CHECKERS 1986 JAPAN TOUR "FLASH!!" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[11月23日]] - [[12月27日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |13か所23公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[11月23日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[11月24日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[11月27日]] [[高知県民体育館]]<br />[[11月29日]] [[高松市総合体育館]]<br />[[12月2日]] 富山市公会堂<br />[[12月3日]] 富山市公会堂<br />[[12月5日]] [[福島県文化センター]]<br />[[12月6日]] 福島県文化センター<br />[[12月9日]] 山梨県民文化ホール<br />[[12月10日]] 長野県県民文化会館<br />[[12月11日]] [[静岡市民文化会館]]<br />[[12月13日]] [[広島サンプラザ]]<br />[[12月14日]] 広島サンプラザ<br />[[12月16日]] 福岡国際センター<br />[[12月17日]] 福岡国際センター<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月20日]] 大阪城ホール<br />[[12月21日]] 大阪城ホール<br />[[12月22日]] [[愛知県体育館]]<br />[[12月23日]] 愛知県体育館<br />[[12月25日]] 日本武道館<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="12" |[[1987年]] | style="width:16em" rowspan="2" |1987 CONCRET TOUR "GO" SPRING | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[5月11日]] - [[6月30日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |27か所35公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |「見たいファン全員にはチケットは行き渡らないだろう」としながらも、メンバーの強い意向により行なわれたホールツアー。このツアーより、ツアータイトルがアルバムタイトルと連動するようになる。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[5月11日]] 神奈川県民ホール<br />[[5月12日]] [[さいたま市文化センター|浦和市文化センター]]<br />[[5月13日]] 浦和市文化センター<br />[[5月14日]] [[宇都宮市文化会館]]<br />[[5月16日]] 静岡市民文化会館<br />[[5月18日]] 千葉県文化会館<br />[[5月19日]] 群馬県民会館<br />[[5月20日]] 山梨県民文化ホール<br />[[5月22日]] [[磐田市民文化会館]]<br />[[5月26日]] 名古屋市民会館<br />[[5月27日]] 名古屋市民会館<br />[[5月29日]] 福岡サンパレス<br />[[5月30日]] 福岡サンパレス<br />[[6月1日]] 神戸国際会館<br />[[6月2日]] 神戸国際会館<br />[[6月3日]] [[和歌山県民文化会館]]<br />[[6月5日]] [[高松市民会館]]<br />[[6月6日]] 高知県民文化ホール<br />[[6月8日]] [[徳島市立文化センター]]<br />[[6月9日]] 愛媛県民文化会館<br />[[6月11日]] [[下関市民会館]]<br />[[6月12日]] 広島厚生年金会館<br />[[6月13日]] 広島厚生年金会館<br />[[6月15日]] [[周南市文化会館|徳山市文化会館]]<br />[[6月16日]] 倉敷市民会館<br />[[6月17日]] [[島根県民会館]]<br />[[6月19日]] [[アルモニーサンク|九州厚生年金会館]]<br />[[6月20日]] 九州厚生年金会館<br />[[6月22日]] 鹿児島市民文化第一ホール<br />[[6月23日]] 宮崎市民会館<br />[[6月24日]] 大分文化会館<br />[[6月26日]] [[北陸電力会館 本多の森ホール|石川厚生年金会館]]<br />[[6月27日]] 石川厚生年金会館<br />[[6月29日]] [[フェニックス・プラザ|福井フェニックスプラザ]]<br />[[6月30日]] 福井フェニックスプラザ |- | style="width:16em" rowspan="2" |NISSIN POWER STATION 公開録音ライブ | style="width:8em;font-size:smaller;"|公開録音ライブ |style="font-size:smaller;"|[[5月25日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |TOKYO FM系の音楽番組「NISSIN POWER STATION」によるミニライブ。ペアで250名の招待に対し、応募は25000通あった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[TOKYO FM HALL|FM東京ホール]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |1987 CONCRET TOUR "GO" SUMMER | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月18日]] - [[9月5日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |15か所28公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |「(春のツアーの)チケットが取れなかった。」という意見を踏まえ、東京と大阪のみスタジアム公演を開催。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月18日]] [[沖縄市民会館]]<br />[[7月19日]] 沖縄市民会館<br />[[7月23日]] 京都会館第一ホール<br />[[7月24日]] 京都会館第一ホール<br />[[7月28日]] [[郡山市民文化センター]]<br />[[7月29日]] 福島県民文化センター<br />[[7月31日]] 郡山市民文化センター<br />[[8月2日]] 青森市文化会館<br />[[8月3日]] 岩手県民会館<br />[[8月4日]] 山形県民会館<br />[[8月8日]] 大阪球場<br />[[8月9日]] 大阪球場<br />[[8月12日]] [[フェスティバルホール|大阪フェスティバルホール]]<br />[[8月13日]] 大阪フェスティバルホール<br />[[8月14日]] 大阪フェスティバルホール<br />[[8月17日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月18日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月19日]] [[苫小牧市民会館]]<br />[[8月22日]] 西武球場<br />[[8月23日]] 西武球場<br />[[8月25日]] 秋田県民会館 8月26日 宮城県民会館<br />[[8月28日]] 宮城県民会館<br />[[9月1日]] 中野サンプラザ<br />[[9月2日]] 中野サンプラザ<br />[[9月3日]] 中野サンプラザ<br />[[9月4日]] 中野サンプラザ<br />[[9月5日]] 中野サンプラザ |- | style="width:16em" rowspan="2" |海外公演 | style="width:8em;font-size:smaller;"|単発ライブ |style="font-size:smaller;"|[[10月7日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |初、そして唯一の海外公演。このライブの模様は、後にレコード及びビデオとして発売。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |ロンドン・アストリアシアター |- | style="width:16em" rowspan="2" |1987 CONCRET TOUR "GO" WINTER | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[11月16日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |8か所17公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |アリーナツアーとしては、初のセンターステージを採用。春と夏のツアーでチケットやバックステージパスのデザインを同じにした所、チケット等の偽物が出回る事態となり、冬のツアーはチケット等のデザインが変更となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[11月16日]] 大阪城ホール<br />[[11月17日]] 大阪城ホール<br />[[11月18日]] 大阪城ホール<br />[[11月21日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[11月22日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[11月27日]] 仙台市体育館<br />[[12月10日]] [[新潟市産業振興センター]]<br />[[12月15日]] 福岡国際センター<br />[[12月16日]] 福岡国際センター<br />[[12月18日]] 広島サンプラザ<br />[[12月22日]] [[名古屋市総合体育館]]<br />[[12月24日]] 名古屋市総合体育館<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館<br />[[12月29日]] 日本武道館 |- | style="width:16em" rowspan="2" |CUTE BEAT CLUB BAND スーパー・プレミアム・ショー | style="width:8em;font-size:smaller;"|イベント |style="font-size:smaller;"|[[12月2日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |CBCBのビデオ発売を記念して行われたプレミアムショーで、ファンクラブ会員限定で1300人を招待した。当日は、ビデオ本編と「7つの海の地球儀」のビデオクリップの上映、メンバーとスペシャルゲストの[[泉麻人]]と[[秋元康]]による舞台挨拶が行われた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[渋谷公会堂]] |- | style="width:3.5em" rowspan="8" |[[1988年]] | style="width:16em" rowspan="2" |NISSIN POWER STATION 公開録音ライブ | style="width:8em;font-size:smaller;"|公開録音ライブ |style="font-size:smaller;"|[[7月24日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |TOKYO FM系の同番組によるミニライブ第2弾。500名の招待に対し、応募は63000通あった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[日清パワーステーション]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |'88 SUMMER TOUR "SCREW" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月29日]] - [[8月24日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |7か所16公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |このツアーより、コンサートツアーは夏と冬の2回となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月29日]] 愛媛県民文化会館<br />[[7月30日]] 愛媛県民文化会館<br />[[8月2日]] 福岡サンパレス<br />[[8月3日]] 福岡サンパレス<br />[[8月4日]] 九州厚生年金会館<br />[[8月6日]] 広島郵便貯金会館ホール<br />[[8月7日]] 広島郵便貯金会館ホール<br />[[8月8日]] 広島郵便貯金会館ホール<br />[[8月13日]] [[小牧市総合運動場野球場|愛知小牧市民球場]]<br />[[8月14日]] 愛知小牧市民球場<br />[[8月17日]] 大阪球場<br />[[8月18日]] 大阪球場<br />[[8月19日]] 大阪球場<br />[[8月23日]] 日本武道館<br />[[8月24日]] 日本武道館<br />[[8月25日]] 日本武道館 |- | style="width:16em" rowspan="2" |'88 SUMMER TOUR "SCREW" in BIG EGG | style="width:8em;font-size:smaller;"|単発ライブ |style="font-size:smaller;"|[[8月26日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |1か所1公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |初の東京ドーム公演。ラストツアー以外では、初めてそして唯一アンコールが2回行なわれた。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |[[東京ドーム]] |- | style="width:16em" rowspan="2" |'88 WINTER TOUR "SCREW" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[11月30日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |7か所17公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[11月30日]] 横浜文化体育館<br />[[12月1日]] 横浜文化体育館<br />[[12月3日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月4日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月10日]] 仙台市体育館<br />[[12月13日]] 大阪城ホール<br />[[12月14日]] 大阪城ホール<br />[[12月15日]] 大阪城ホール<br />[[12月16日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 福岡国際センター<br />[[12月20日]] 福岡国際センター<br />[[12月22日]] [[名古屋市総合体育館|名古屋レインボーホール]]<br />[[12月23日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館<br />[[12月29日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="4" |[[1989年]] | style="width:16em" rowspan="2" |1989 SUMMER TOUR "SEVEN HEAVEN" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月26日]] - [[8月24日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |17か所24公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月26日]] 長野県県民文化会館<br />[[7月28日]] 石川厚生年金会館<br />[[7月31日]] 宮城県民会館<br />[[8月1日]] 福島県文化センター<br />[[8月2日]] 郡山市民文化センター<br />[[8月3日]] 宮城県民会館<br />[[8月5日]] 山形県民会館<br />[[8月6日]] 秋田県民会館<br />[[8月7日]] 岩手県民会館<br />[[8月12日]] 大阪球場<br />[[8月13日]] 大阪球場<br />[[8月18日]] 日本武道館<br />[[8月19日]] 日本武道館<br />[[8月22日]] 日本武道館<br />[[8月23日]] 日本武道館<br />[[8月24日]] 日本武道館<br />[[8月26日]] 広島郵便貯金会館<br />[[8月27日]] 広島郵便貯金会館<br />[[8月28日]] 倉敷市民会館<br />[[8月30日]] 香川県民ホール<br />[[8月31日]] 愛媛県県民文化会館<br />[[9月3日]] 福岡サンパレス<br />[[9月4日]] 福岡サンパレス<br />[[9月5日]] 九州厚生年金会館 |- | style="width:16em" rowspan="2" |1989 WINTER TOUR "SEVEN HEAVEN" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[11月30日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |7か所15公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[11月29日]] [[静岡県草薙総合運動場体育館|静岡県総合体育館]]<br />[[12月2日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月3日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月9日]] 仙台市体育館<br />[[12月13日]] 福岡国際センター<br />[[12月17日]] 大阪城ホール<br />[[12月18日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月20日]] 大阪城ホール<br />[[12月23日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月24日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館<br />[[12月29日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="4" |[[1990年]] | style="width:16em" rowspan="2" |1990 SUMMER TOUR "OOPS!" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月19日]] - [[8月31日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |11か所26公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月19日]] 香川県県民ホール<br />[[7月20日]] 香川県県民ホール<br />[[7月22日]] 愛媛県県民文化会館<br />[[7月25日]] [[メルパルク広島|メルパルクホール広島]]<br />[[7月26日]] メルパルクホール広島<br />[[7月27日]] メルパルクホール広島<br />[[7月30日]] 大阪城ホール<br />[[7月31日]] 大阪城ホール<br />[[8月1日]] 大阪城ホール<br />[[8月2日]] 大阪城ホール<br />[[8月4日]] 倉敷市民会館<br />[[8月5日]] 徳島市文化会館<br />[[8月7日]] 福岡サンパレス<br />[[8月8日]] 福岡サンパレス<br />[[8月9日]] 九州厚生年金会館<br />[[8月12日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月13日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月16日]] 日本武道館<br />[[8月17日]] 日本武道館<br />[[8月18日]] 日本武道館<br />[[8月20日]] 日本武道館<br />[[8月21日]] 日本武道館<br />[[8月27日]] [[横浜アリーナ]]<br />[[8月29日]] [[名古屋市国際会議場|名古屋市国際会議場センチュリーホール]]<br />[[8月30日]] 名古屋市国際会議場センチュリーホール<br />[[8月31日]] 名古屋市国際会議場センチュリーホール |- | style="width:16em" rowspan="2" |1990 WINTER TOUR "OOPS!" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[12月4日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |6か所13公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" | |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[12月4日]] 福岡国際センター<br />[[12月7日]] 仙台市体育館<br />[[12月15日]] 横浜アリーナ<br />[[12月17日]] 大阪城ホール<br />[[12月18日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月20日]] 大阪城ホール<br />[[12月23日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月24日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館<br />[[12月29日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="4" |[[1991年]] | style="width:16em" rowspan="2" |1991 SUMMER TOUR "I HAVE A DREAM" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月21日]] - [[8月28日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |9か所22公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |コンサートチケットのデザインは、毎回趣向をこらしたものであったが、それがこのツアーを最後に終了となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月21日]] 北海道厚生年金会館<br />[[7月22日]] 北海道厚生年金会館<br />[[7月25日]] [[名古屋市国際会議場|名古屋市センチュリーホール]]<br />[[7月26日]] 名古屋センチュリーホール<br />[[7月27日]] 名古屋センチュリーホール<br />[[7月30日]] 大阪城ホール<br />[[7月31日]] 大阪城ホール<br />[[8月1日]] 大阪城ホール<br />[[8月2日]] 大阪城ホール<br />[[8月5日]] [[仙台サンプラザ|仙台サンプラザホール]]<br />[[8月6日]] 仙台サンプラザホール<br />[[8月7日]] 仙台サンプラザホール<br />[[8月11日]] メルパルクホール広島<br />[[8月12日]] メルパルクホール広島<br />[[8月13日]] 愛媛県県民文化会館<br />[[8月15日]] 香川県県民ホール<br />[[8月19日]] 福岡サンパレス<br />[[8月20日]] 福岡サンパレス<br />[[8月23日]] 日本武道館<br />[[8月24日]] 日本武道館<br />[[8月27日]] 日本武道館<br />[[8月28日]] 日本武道館 |- | style="width:16em" rowspan="2" |1991 WINTER TOUR "I HAVE A DREAM WHITE PARTY" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[12月17日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |3か所10公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |「白いで、おしゃれをして来て」とドレスコードを指定されたツアー。その観客の白い服をスクリーン代わりにし、色々な映像が映し出された。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[12月17日]] 大阪城ホール<br />[[12月18日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月20日]] 大阪城ホール<br />[[12月22日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月23日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月25日]] 日本武道館<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館 |- | style="width:3.5em" rowspan="4" |[[1992年]] | style="width:16em" rowspan="2" |1992 SUMMER TOUR "Blue Moon Stone" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[7月22日]] - [[8月30日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |11か所24公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |アルバムとの連動ツアーとしては、このツアーが最後となった。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[7月22日]] 名古屋市センチュリーホール<br />[[7月23日]] 名古屋センチュリーホール<br />[[7月24日]] 名古屋センチュリーホール<br />[[7月27日]] 大阪城ホール<br />[[7月28日]] 大阪城ホール<br />[[7月29日]] 大阪城ホール<br />[[7月30日]] 大阪城ホール<br />[[8月2日]] [[広島市文化交流会館|広島厚生年金会館]]<br />[[8月3日]] 広島厚生年金会館<br />[[8月4日]] 愛媛県県民文化会館<br />[[8月9日]] 新潟県民会館<br />[[8月10日]] 石川厚生年金会館<br />[[8月12日]] 長野県県民文化会館<br />[[8月14日]] 仙台サンプラザホール<br />[[8月15日]] 仙台サンプラザホール<br />[[8月19日]] 日本武道館<br />[[8月20日]] 日本武道館<br />[[8月21日]] 日本武道館<br />[[8月22日]] 日本武道館<br />[[8月24日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月25日]] 北海道厚生年金会館<br />[[8月28日]] 福岡サンパレス<br />[[8月29日]] 福岡サンパレス<br />[[8月30日]] 福岡サンパレス |- | style="width:16em" rowspan="2" |THE CHECKERS LAST TOUR "FINAL" | style="width:8em;font-size:smaller;"|ツアー |style="font-size:smaller;"|[[12月3日]] - [[12月29日]] | style="width:7.9em;font-size:smaller;" |7か所16公演 | rowspan="2" style="font-size:smaller;" |解散発表後の最後のコンサートツアー。この公演では毎回アンコールが2回行なわれた。また最終日の日本武道館公演では、会場まで来たが場内に入れなかった場外にいるファンのために、会場の扉を開けて外にいるファンにも演奏を聞こえるようにした。 |- | colspan="3" style="font-size:smaller;" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">一覧</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;">[[12月3日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月4日]] 札幌月寒グリーンドーム<br />[[12月7日]] 横浜アリーナ<br />[[12月10日]] 仙台市体育館<br />[[12月14日]] 福岡国際センター<br />[[12月16日]] 大阪城ホール<br />[[12月17日]] 大阪城ホール<br />[[12月18日]] 大阪城ホール<br />[[12月19日]] 大阪城ホール<br />[[12月21日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月22日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月23日]] 名古屋レインボーホール<br />[[12月25日]] 日本武道館<br />[[12月26日]] 日本武道館<br />[[12月27日]] 日本武道館<br />[[12月28日]] 日本武道館 |- |} == 出演 == === 映画 === * [[CHECKERS IN TAN TAN たぬき]]([[1985年]]4月27日公開、[[東宝]]) - スポニチグランプリ新人賞 * [[チェッカーズSONG FOR U.S.A.]]([[1986年]]7月26日公開、東宝) === ドラマ === * [[月曜ドラマランド]](フジテレビ) **チェッカーズin涙のリクエスト <small>ぼくらの恋は海賊DJから始まった</small>(1986年4月14日) **フローズン・ホラーSHOW <small>血も凍る人食い冷蔵庫・今夜アイドルのコワーイ初体験</small>(1987年5月18日) - カイロプラクティック師・マロ 役(武内)・刑事 役(大土井)<!--テレビドラマデータベースなどに郁弥の表記があるが、本作のエンディングクレジットに表記はない-->。武内は劇中で「マッサージ師のテーマ」を歌唱。 * [[木曜スペシャル]]『[[青春を東海岸にかけた野郎たち! アメリカン・ランナウェイ]]』(1987年12月17日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 郁弥・高杢・大土井 * [[時間ですよ|時間ですよ 新春スペシャル「梅の湯はギャグでいっぱい」]] 第3話(1989年1月2日、[[TBSテレビ|TBS]]) === バラエティー === 『[[とんねるずのみなさんのおかげです]]』に準レギュラーとして出演。 ; ノリ男 : おかげです中学3年生に扮した、[[木梨憲武]](ノリ男)と教師役は[[石橋貴明]]、チェッカーズが繰り広げる学園コント。藤井尚之がよくサックスを持って登場していた。「[[ONE NIGHT GIGOLO]]」の歌い出しでノリ男が「kill you」と言ってスリッパで叩かれていた。ノリ男はチェッカーズを'''チェッカルズ'''と呼んでいた。また[[宮沢りえ]]が準レギュラーとして登場するまで同じおかげです中学を舞台にした「ノリコ」のコーナーに出演していた。 ; 珍義なき戦い : 映画「[[仁義なき戦い]]」のパロディ。徳永善也扮する黒瓶怒羅造組長と、若頭に木梨、組員に藤井兄弟、高杢。対立する「石橋一家」の代表である石橋の右腕に鶴久、黒瓶組と同盟を結ぶ神戸ヤクザに武内と大土井という配役のコント。 : 去ろうとする武内に対して石橋が後頭部に何度も蹴りを入れ、武内が「蹴った?」と聞くやり取りを何度かした後、尚之にゴングを要請しスタジオ中を所狭しとメンバー、[[とんねるず]]に加えてスタッフまで巻き込んだ大乱闘を行う。激しい乱闘シーンでは怪我をするメンバーも多かった。 ; ロックンロール最高物語 : とんねるずとチェッカーズメンバーが番組内で結成したバンド「矢島工務店」をモチーフにしたコントで、メンバーは、木梨(ノーチン):ボーカル、石橋(ターキー):琴、鶴久(マーサ):ギター、徳永(サンディー):ドラム。レパートリーは[[山本譲二]]のヒット曲「みちのくひとり旅」と[[島津ゆたか]]の「ホテル」のカバーだが、音源として発売はされていない。なお、このコーナーが後年の[[矢島美容室]]の誕生の遠因となっている。 ; 新・巨人の星 : [[巨人の星]]のパロディ。配役は石橋([[星飛雄馬]])、木梨([[星明子]])、徳永([[星一徹]])、鶴久([[伴宙太]])、郁弥([[花形満]])、高杢([[左門豊作]])、尚之([[川上哲治]])、武内([[長嶋茂雄]])、大土井(速水譲次)。 ; 太陽にぽえろ! : [[太陽にほえろ!]]のパロディ。配役は石橋([[石原裕次郎|ボス]])、木梨([[露口茂|山さん]])、武内([[小野寺昭|殿下]])、尚之([[松田優作|ジーパン]])、高杢([[木之元亮|ロッキー]])、大土井([[勝野洋|テキサス]])、鶴久([[竜雷太|ゴリさん]])、徳永([[高橋惠子|シンコ]])、郁弥([[萩原健一|マカロニ]])。[[地井武男]]がオリジナルと同じトシさん役で友情出演している。 ; 男はつれぇよ~タカ次郎 忘れな草~ : [[男はつらいよ]]のパロディ。配役は石橋(タカ次郎)、木梨(さくら)、郁弥(博)、大土井(おいちゃん)、高杢(おばちゃん)、武内(御前様)、鶴久(源公)、徳永(タコ社長)、尚之(マドンナ)。1991年8月22日に「夏休み特別企画」として放送されたが、シリーズ化はせず1回で終了となる。珍義なき戦いよりも前に作られたコントだが、石橋に蹴られた武内が「蹴った?」と聞くやり取りはこの時にも使われていた。 ; ウエストサイトシーン物語 : 「お気楽ミュージカル」として放送された[[ウエスト・サイド物語]]風のコント。全2回。郁弥、尚之、武内、大土井が所属する「チェッカルズ団」と木梨、鶴久、徳永が所属する「ドキドキ団」の抗争を描き、高杢はウエストサイド署警官に扮する。劇中のミュージカルシーンでは主に郁弥がチェッカーズのシングル曲を歌い、他のキャストがダンサーを務める。 また、「チェッカーズンズン」、「NOT CHECKERS TV」などの単独番組でもコント等を行なった。 === その他のテレビ番組 === * [[YOU (テレビ番組)|YOU]]「お父さんにもわかるチェッカーズ入門」(1985年5月25日、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) === CM === * [[サントリー]] ジェットストリーム(新聞編、小川編)(1985年) * [[TDK]] [[TDK AD|AD]](4代目)(1984年9月-1986年1月) * [[江崎グリコ|グリコ]] アーモンドチョコレート(1985年) * [[セイコーホールディングス|セイコー]] アベニュー(1987年) * [[ケンウッド]] ROXY(1989年) === NHK紅白歌合戦出場歴 === {| class="wikitable" style="font-size:small;text-align:center" |- ! 年度!!放送回!! 回!! 曲目!! 出演順!! 対戦相手 |- |[[1984年]]||[[第35回NHK紅白歌合戦|第35回]]||初||涙のリクエスト||10/20||[[小泉今日子]] |- |[[1985年]]||[[第36回NHK紅白歌合戦|第36回]]||2||ジュリアに傷心||04/20||小泉今日子(2) |- |[[1986年]]||[[第37回NHK紅白歌合戦|第37回]]||3||Song for U.S.A.||15/20||[[水前寺清子]] |- |[[1987年]]||[[第38回NHK紅白歌合戦|第38回]]||4||I Love you, SAYONARA||04/20||[[中森明菜]] |- |[[1988年]]||[[第39回NHK紅白歌合戦|第39回]]||5||素直にI'm Sorry||05/21||小泉今日子(3) |- |[[1989年]]||[[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]||6||Friends and Dream||05/20||[[荻野目洋子]] |- |[[1990年]]||[[第41回NHK紅白歌合戦|第41回]]||7||夜明けのブレス||04/29||[[工藤静香]] |- |[[1991年]]||[[第42回NHK紅白歌合戦|第42回]]||8||ミセス・マーメイド||09/28||[[永井真理子]] |- |[[1992年]]||[[第43回NHK紅白歌合戦|第43回]]||9||フェアウェル・メドレー{{Efn|「ギザギザハートの子守唄」「涙のリクエスト」「星屑のステージ」「I Love you, SAYONARA」「Present for You」のメドレー}}||21/28||工藤静香(2) |} ;注意点 * 出演順は「出演順/出場者数」で表す。 * 対戦相手の歌手名のカッコ内の数字はその歌手との対戦回数を表す。 == 著書 == * 「もっと!チェッカーズ」([[扶桑社]] [[1984年]]) * 「NEXT」([[ソニー・マガジンズ]] [[1985年]]) * 「SEVEN」(ソニー・マガジンズ [[1991年]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[奥村靫正]] - [[芸術|アート]][[ディレクター]] * [[1983年の音楽#デビュー]] - 同じ年にデビューした歌手 == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/channel/UCByPvN5wFmTnsI3kejSpOsA/featured チェッカーズ公式YouTubeチャンネル] * [https://www.ponycanyon.co.jp/artist/132002 チェッカーズ] - ポニーキャニオン:アーティストページ * [https://checkerslive.jp/ 劇場上映版 チェッカーズ FINAL TOUR【リマスター版】] **{{Twitter|checkers_live|劇場上映版 チェッカーズ FINAL TOUR【リマスター版】}} {{チェッカーズ}} {{毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞}} {{藤井フミヤ}} {{とんねるずのみなさんのおかげです}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちえつかあす}} [[Category:チェッカーズ|*]] [[Category:日本の音楽バンド]] [[Category:日本のポップ・バンド]] [[Category:ロックンロール・バンド]] [[Category:1980年に結成した音楽グループ]] [[Category:1992年に解散した音楽グループ]] [[Category:ポニーキャニオンのアーティスト]] [[Category:日本の男性アイドルグループ]] [[Category:7人組の音楽グループ]] [[Category:NHK紅白歌合戦出演者]] [[Category:兄弟姉妹の音楽グループ]] [[Category:オリコン年間シングルチャート1位獲得アーティスト]]
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バンドネオン
バンドネオン(英: bandoneon、西: bandoneón)はコンサーティーナ族の蛇腹楽器である。 蛇腹楽器の中では中型のサイズの楽器である(重さは5キログラムから7キログラムくらいの機種が多い)。アコーディオンが蛇腹の押し引きを左手で行うのに対して、バンドネオンは左右の両手の力で蛇腹の押し引きを行うため、楽器のサイズの割りに大音量を出すことが可能で、鋭い明快なスタッカートなど音のメリハリもつけやすい(これはコンサーティーナ族共通の特長である)。 日本ではタンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、海外ではタンゴ以外のジャンルの音楽の演奏でも使われ、また独奏楽器としても高い演奏能力をもつ楽器である。 蛇腹楽器の一種であるが、いわゆる「アコーディオン」とは違う楽器であり、バンドネオン奏者に「アコーディオン奏者の○○さん」と声をかける事はタブーとされる。 アコーディオンは左右非相称で、左右の筐体は形も機能も異なり、右手側の筐体をバンドで演奏者の体に固定することが多い。これに対して、バンドネオン(および、バンドネオンの原型であるコンサーティーナ)は左右相称であり、左右の筐体は音域が違うものの形や機能は同じで、筐体をバンドで体に固定することはない。詳しくは蛇腹楽器のバンドの説明を参照。 以下に蛇腹楽器の分類におけるバンドネオンの位置を示す。 バンドネオンはボタン式の鍵盤楽器である。蛇腹の左右に、ボタン鍵盤をそなえた筐体(きょうたい。器械を内蔵した箱)がついており、蛇腹を押し引きすることで空気の流れを作り、ボタン鍵盤と連動したフリーリードを鳴らして音を出す。 ケムニッツァ・コンサーティーナと非常に似ている。以下、アルゼンチン・タンゴで最も普通に使われている「ライニッシュ式配列」のバンドネオンの写真を示す。 調律などのメンテナンスは、専門の技術が必要である。 バンドネオンの演奏家や愛好者は世界各地に存在する。本項では、発明国であるドイツと、タンゴと結びついたアルゼンチン、そして日本の状況を述べる。 バンドネオンは、ドイツのコンサーティーナ(ドイツ語ではコンツェルティーナ)を土台として1847年に開発された楽器である。 1829年、ウィーンの楽器製作家シリル・デミアンはアコーディオンを発明した。 ドイツのケムニッツ市の楽器製作家カール・フリードリヒ・ウーリヒ(Carl Friedrich Uhlig)は、ウィーンに旅したときにデミアンのアコーディオンを購入し、それをヒントに、バンドネオンの原型も含むさまざまなタイプのドイツ式コンサーティーナを開発した。 その後、同じドイツの楽器製作家ハインリヒ・バンドは、ケムニッツ市へ旅した際にウーリッヒのコンサーティーナを購入し、低音域を拡張するなどボタン配列に変更を加えて、1847年にバンドネオンを考案した。ただしバンド自身は当初、自分の楽器を「アコーディオン」と呼び、「バンドネオン」とは呼ばなかった。後に、バンドの名前と、アコーディオンの「イオン」を組み合わせて「Bandonion」(バンドニオン)という楽器名が生まれた。Bandonionの綴りが現在のBandoneonに変更された正確な時期や経緯は、不明である。今日のドイツでも一般的には「バンドネオン」と呼ばれるが、ドイツの「生粋の」バンドネオン愛好家や業界関係者にはいまだに「バンドネオンではなくバンドニオンだ」と主張する人が多い(小松2021,p.195)。 バンドネオンの発明者はハインリヒ・バンドであるが、バンドネオンの基本原理を開発した始祖はウーリッヒであると言える。また、現代の演奏者が弾いている大型の現代的なバンドネオンを確立したのは、ハインリヒの息子アルフレッド・バンド(Alfred Band, 1855年-1923年)である(小松2021,pp.204-209)。 バンドネオンは野外での教会の儀式でパイプオルガンの代用として使われたり、クラシック音楽や民俗音楽の演奏で使用された。 ドイツはバンドオネンの故郷であるが、他の蛇腹楽器との競合などさまざまな理由で、20世紀半ば以降は演奏人口が激減し、今日に至っている。 今日、バンドネオンと言えばアルゼンチン・タンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、この楽器がドイツからアルゼンチンへ移入された経緯や時期については諸説紛々として明確ではない。最大公約数的な説明としては、1890年ごろにアルゼンチンに持ち込まれ(1880年代、アフリカ系アルゼンチン人のセバスティアン・パルドがタンゴで用いたとする文献もある)、1900年ごろからタンゴの楽器として使われ始め、1910年ごろにはタンゴに欠かせない楽器になっていた、ということである。 アルゼンチンのタンゴ楽団は、最初はギター・フルート・ヴァイオリンという編成であり、バンドネオンの応用が徐々に広まったものの、しばらくバンドネオンなしが主流だった。20世紀になり、ドイツから大量のバンドネオンが輸出され、タンゴでよく用いられる楽器となった。 バンドネオンの使用で、「タンゴ」の音楽の性質は大きく変化した。フルート時代のタンゴは人々がひたすら歌い踊り生活の憂さを忘れようとするものだったが、バンドネオンのタンゴは人生や恋の苦しみを吐露して悲しみをつのらせたり慰めを求めるものになった。バンドネオンのせつない音色は心の痛みを表現するのにうってつけであった。 バンドネオンは長いあいだタンゴの伴奏楽器であったが、バンドネオン奏者で作曲家でもあったアストル・ピアソラはダンスから独立した純粋器楽としてのバンドネオンの可能性を追求した。当初、ピアソラのバンドネオンは不評であったが、1995年にギドン・クレーメルがピアソラをオマージュしたCDを発表したことで評価は一変し、バンドネオンはタンゴファンのみならず、世界中のクラシックファンのあいだでも見直されるようになった。 日本にバンドネオンが初めて渡来した時期は不明である。板東俘虜収容所(1917年-1920年)のドイツ兵捕虜の楽隊の写真には中型のバンドネオンが映っている(小松2021,p.214)。 タンゴの伴奏楽器として、クロマティック式とダイアトニック式の両方が伝わった。日本人のプロ奏者の活躍は昭和期からで、オルケスタ・ティピカ東京のバンド・リーダー早川真平(1914年 - 1984年)、16歳でバンドネオンを始め晩年まで演奏活動を続けた佐川峯(1919年 - 2018年3月6日)、タンゴの本場アルゼンチンで認められ現地のタンゴ楽団代表にまでなった米山義則(1955年 - 2006年)などが有名。その後のプロ奏者については「日本の主なバンドネオン奏者」を参照。 戦前の日本のタンゴ演奏者にとって、中国の上海や大連などが好景気の稼ぎ場だった。当時、ドイツのAA社はフランス向けにクロマティック式バンドネオンを作ったが、思いのほか売れなかった。楽器商はそれを上海、天津、奉天、香港などで売りさばいた。このため日本の古い世代のバンドネオン奏者は、戦前から戦後にかけて、少数の例外を除きクロマティック派であった。ただしクロマティック式の音色は、楽器の構造上、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンの音色とどうしても違う。そのため日本人のクロマティック式バンドネオン奏者で、ディアトニック式バンドネオンへの転向という回り道を余技なくされる者もいた(小松2021,pp.417-421)。 比較的早くから国産品が普及したアコーディオンと違い、バンドネオンの国産品はない(日本国内でレストアした中古品は多い)。日本でもタンゴ以外の音楽でバンドネオンが使われる場面は増えつつあるが、今もタンゴの伴奏楽器というイメージが強い。また奏法の難しさもあり、日本での演奏者人口はピアノやギターなどと比べると今も少なく「絶滅危惧楽器」と揶揄されることもある。とは言え、バンドネオンの音色は根強い人気があり、バンドネオンのプロ奏者や学習者は今も一定数存在している。 サンバやミロンガなどのフォルクローレで使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたるバルス・タンゴのバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「黄金の心」 などで聴ける。 また、バンドネオン独奏にこだわる演奏家もいる。映画『サンチャゴに雨が降る』でのアストル・ピアソラのバンドネオン独奏の録音は有名である。 日本の叙情歌を演奏したレコードやアニメソングを収録したCDもあり、武満徹作曲の作品にバンドネオンが使われるものがある。また、バッハなどのクラシック音楽の曲を演奏する演奏家もいる。 蛇腹楽器の常として、バンドネオンもモデルによってボタン配列の方式が全く異なるため、楽器の購入や習得にあたっては注意を要する。主な方式は以下の通りである。 上記以外にも、プロ奏者が楽器職人に特注して一部のボタン鍵の音高を変えたり、ボタン鍵を増やしたバンドネオンもある。ピアノ式鍵盤と同様のボタン鍵配列を採用した機種や、もはやバンドネオンとは言えない変わった設計の機種も存在し、まれに中古品市場で出回ることもある。 蛇腹楽器の常として、バンドネオンも、さまざまな鍵盤配列方式が考案されて乱立し、それぞれの方式は特定の音楽ジャンルと結びつくなどして、いまだ統一されていない。最も規則的で合理的なヴイッキ・ヘイデン式鍵盤配列(英語版)(押引同音)はまったく普及せず、逆に、規則はずれが多く非合理的なライニッシュ式配列がアルゼンチンを中心に広く世界に普及している。 バンドネオンを含む蛇腹楽器の演奏技術は、鍵盤配列の不規則性を逆手に取って生かしたものも少なくない。また現行の鍵盤配列は、演奏者が現地の個性的な音楽を演奏しやすいよう、規則はずれのボタン鍵を追加するなど、試行錯誤の歴史の積み重ねの末に確立したものである。鍵盤配列の各方式の優劣や適否は、机上の合理性のみで判断できるものではない。 アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である。 日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。 20世紀前半、アルゼンチンのバンドネオン奏者たちは、ドイツのメーカーに新品を発注する際、タンゴを弾きやすいようボタン鍵の増設を特注した。タンゴ形成の発展途上の試行錯誤の積み重ねから生まれたのが、ライニッシュ式配列である。ライニッシュ式配列の中央のボタン配列はドイツ本国のアインハイツ式とよく似ている。隣同士の特定のボタンを同時に押すと、ダイアトニック・コンサーティーナあるいはアコーディオンの左手と同じように、和音が鳴るようになっている。しかし、周辺部の音階配置は、アルゼンチンの奏者からのオーダーに応じてその都度増設を繰り返したという歴史的な経緯もあり、ほぼ不規則である。 アルゼンチン・タンゴの象徴的な楽器であるライニッシュ式バンドネオンは、習得が非常に難しいことから「悪魔が発明した楽器」とも呼ばれる。ただし小松亮太は「演奏の巧拙はともかく、バンドネオンのボタン配列を記憶すること自体は特別な才能を要することではない」と反論したうえで、自分は「悪魔の楽器」云々は「自分の商売道具に勿体をつけているようで、どうも僕には人前で口にする勇気がない」と述べている(小松2021,pp.101-103)。 タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。 小松亮太によれば、ライニッシュ式バンドネオンであることは、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンであることの必要条件ではあっても、十分条件ではない。(1)ボタン数は右手38個、左手33個ていどのライニッシュ式、(2)ボタンの音階配列が不規則で押し引き異音式、(3)通称AA社または通称ELA社の製品、(4)およそ1920年代から第二次世界大戦前までに(3)のメーカーがアルゼンチンへの輸出用に製造した仕様である、という4つの条件のうちの1つでも逸脱した楽器は、アルゼンチン・タンゴでのバンドネオンと違う音色であると述べる(小松2021,p.110)。 バンドネオンのボタン配列を、ヨーロッパで普及しているクロマティック・ボタン・アコーディオンのCシステム(イタリア式配列)にあわせて並べ変えた方式で、73ボタン(左 33、右40)、146音が基本。1925年にフランスのアコーディオン奏者 Charles Peguriが考案した。 配列は規則的なので、習得は比較的容易である。日本のタンゴ楽団も含め、アルゼンチン以外のタンゴ楽団で広く使用されてきた。ただし日本でも、1950年代ぐらいからアルゼンチン本国と同様のライニッシュ式バンドネオンの使用が広まり、今日に至っている。 ヴィッキ式配列は、カスパー・ヴィッキ(Kasper Wicki)がバンドネオンのために考案した鍵盤配列で、1896年にスイスで特許を取得した。これとは別個に、コンサーティーナ奏者のブライアン・ヘイデン(Brian Hayden)も同様のコンセプトの鍵盤配列を考案し、1986年に特許を取得したので、今日では両者をあわせて「ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列」と呼ばれる。 鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式デュエット・コンサーティーナや、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。 蛇腹を引いたときの方が音が響く。蛇腹によく共鳴するためだと言われる。従って、バンドネオン奏者は蛇腹を引く音を多用し、蛇腹を引いて演奏しては空気抜きレバーを押しながら蛇腹を戻す、ということを繰り返すことが多い。特に、タンゴの鋭いスタッカートは、膝を使いながら蛇腹を瞬時に引くことによって出される。 標準的なバンドネオンの演奏としては、座ってバンドネオンを膝に置いて弾くのがごく一般的であるが、アストル・ピアソラは立ち膝で演奏することもあった。伝統的な演奏法は両足を閉じて弾くスタイルであり 、1920年代の細身の音色はこの奏法でしか出すことができない。現代の奏法は、楽器を片足のみに載せて弾くため、分厚く大きな音量が出るので、グランドピアノの蓋を全開にした音量とも互角で張り合える。 初期のオルケスタ・ティピカはコントラバスとバイオリンが全て立奏の後列、バンドネオン5人がぎっしり隙間なく詰められて横に座り、ピアノがダンススポット袖近くの左というのが一般的であった。上下関係も厳しく、バンドネオン第1が一番偉くマスターに近い。 バンドネオンの製造は今も昔も、職人が経営する工房で家内制手工業的に行われることが多い。オートメーション化が難しい職人の手仕事が多く必要である上、演奏人口もギターやピアノ、バイオリンなどに比べれば少ないため、大規模な楽器工場での大量生産には向いていない。そのため、高名な製造元であっても、職人の名人芸の技術継承がうまくゆかなかったり、諸般の事情で廃業することもある。逆に、バンドネオンの製造を新規に始める職人や工房も存在する。 製作元については、第二次世界大戦前のドイツのアルフレッド・アーノルド(アルフレート・アルノルト(ドイツ語版))社製のバンドネオンにこだわる演奏家が今もかなり多い。同社は1911年にザクセン王国(現ザクセン州)南部のカールスフェルト(ドイツ語版)に設立されたが、第二次世界大戦後の1948年に収用により消滅した。同社が製作したバンドネオンの評価は今も非常に高く、楽器市場では今も高価なビンテージ・モデルとして流通している。 アルフレッド・アーノルド社製のバンドネオンは、「AA」の商標からはドブレ・アー(Doble A)とも呼ばれている。ちなみに、戦後の東ドイツのクリンゲンタールで作られた「AA」ブランドのバンドネオンや、アルフレッドの甥でイニシャルは同じくA.Aになるアルノ・アーノルドが戦後に製造したバンドネオンは、アルフレッド・アーノルドのバンドネオンとは全く別物なので、要注意である。下記の写真を参照のこと。 1861年に同じカールスフェルトで設立されたELA社、すなわちエルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold)社のバンドネオンも、演奏に用いられる。ELAブランドとして知られている。ちなみに、エルンスト・ルイス・アルノルトの妻は、ドイツ式コンサーティーナの発明者カール・フリードリヒ・ウーリヒの娘であり、この夫婦のあいだに生まれた三男がアルフレッド・アーノルドである。。 同じくザクセンのクリンゲンタール(ドイツ語版)に所在するマイネル&ヘロルト(Meinel & Herold)社製造のバンドネオンを、レオポルド・フェデリコは愛用している。3Bブランド(Tres B)で知られている。クリンゲンタールにはいくつかのバンドネオン・メーカー、博物館がある。 アコーディオン・メーカーで知られるホーナー社も、バンドネオンを製造していた。また、ベルリンのプレミア(Premier)社も、新品のバンドネオンを製造している。その他、製造元が10社ぐらいある。 バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカといった機種を再生産する方向へ変わっている。 今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。 現在、新品のバンドネオンを製作あるいは販売している主な業者は以下のとおり。戦前のAA(Alfred Arnold社)のクオリティに近い再現品を新品として製作する業者もいる。 ドイツ ベルギー スペイン イタリア アルゼンチン ブラジル バンドネオンではないのに外見が似ているためバンドネオンと混同されがちな蛇腹楽器もある。またMIDI楽器もある。 蛇腹の無いバンドネオン型の自作MIDIキーボードキットで、電子楽器の一種。 タンゴ楽団の代表が、バンドネオン奏者とは限らない。
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"比較的早くから国産品が普及したアコーディオンと違い、バンドネオンの国産品はない(日本国内でレストアした中古品は多い)。日本でもタンゴ以外の音楽でバンドネオンが使われる場面は増えつつあるが、今もタンゴの伴奏楽器というイメージが強い。また奏法の難しさもあり、日本での演奏者人口はピアノやギターなどと比べると今も少なく「絶滅危惧楽器」と揶揄されることもある。とは言え、バンドネオンの音色は根強い人気があり、バンドネオンのプロ奏者や学習者は今も一定数存在している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "サンバやミロンガなどのフォルクローレで使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたるバルス・タンゴのバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「黄金の心」 などで聴ける。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また、バンドネオン独奏にこだわる演奏家もいる。映画『サンチャゴに雨が降る』でのアストル・ピアソラのバンドネオン独奏の録音は有名である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "日本の叙情歌を演奏したレコードやアニメソングを収録したCDもあり、武満徹作曲の作品にバンドネオンが使われるものがある。また、バッハなどのクラシック音楽の曲を演奏する演奏家もいる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "蛇腹楽器の常として、バンドネオンもモデルによってボタン配列の方式が全く異なるため、楽器の購入や習得にあたっては注意を要する。主な方式は以下の通りである。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上記以外にも、プロ奏者が楽器職人に特注して一部のボタン鍵の音高を変えたり、ボタン鍵を増やしたバンドネオンもある。ピアノ式鍵盤と同様のボタン鍵配列を採用した機種や、もはやバンドネオンとは言えない変わった設計の機種も存在し、まれに中古品市場で出回ることもある。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "蛇腹楽器の常として、バンドネオンも、さまざまな鍵盤配列方式が考案されて乱立し、それぞれの方式は特定の音楽ジャンルと結びつくなどして、いまだ統一されていない。最も規則的で合理的なヴイッキ・ヘイデン式鍵盤配列(英語版)(押引同音)はまったく普及せず、逆に、規則はずれが多く非合理的なライニッシュ式配列がアルゼンチンを中心に広く世界に普及している。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "バンドネオンを含む蛇腹楽器の演奏技術は、鍵盤配列の不規則性を逆手に取って生かしたものも少なくない。また現行の鍵盤配列は、演奏者が現地の個性的な音楽を演奏しやすいよう、規則はずれのボタン鍵を追加するなど、試行錯誤の歴史の積み重ねの末に確立したものである。鍵盤配列の各方式の優劣や適否は、机上の合理性のみで判断できるものではない。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "20世紀前半、アルゼンチンのバンドネオン奏者たちは、ドイツのメーカーに新品を発注する際、タンゴを弾きやすいようボタン鍵の増設を特注した。タンゴ形成の発展途上の試行錯誤の積み重ねから生まれたのが、ライニッシュ式配列である。ライニッシュ式配列の中央のボタン配列はドイツ本国のアインハイツ式とよく似ている。隣同士の特定のボタンを同時に押すと、ダイアトニック・コンサーティーナあるいはアコーディオンの左手と同じように、和音が鳴るようになっている。しかし、周辺部の音階配置は、アルゼンチンの奏者からのオーダーに応じてその都度増設を繰り返したという歴史的な経緯もあり、ほぼ不規則である。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アルゼンチン・タンゴの象徴的な楽器であるライニッシュ式バンドネオンは、習得が非常に難しいことから「悪魔が発明した楽器」とも呼ばれる。ただし小松亮太は「演奏の巧拙はともかく、バンドネオンのボタン配列を記憶すること自体は特別な才能を要することではない」と反論したうえで、自分は「悪魔の楽器」云々は「自分の商売道具に勿体をつけているようで、どうも僕には人前で口にする勇気がない」と述べている(小松2021,pp.101-103)。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "小松亮太によれば、ライニッシュ式バンドネオンであることは、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンであることの必要条件ではあっても、十分条件ではない。(1)ボタン数は右手38個、左手33個ていどのライニッシュ式、(2)ボタンの音階配列が不規則で押し引き異音式、(3)通称AA社または通称ELA社の製品、(4)およそ1920年代から第二次世界大戦前までに(3)のメーカーがアルゼンチンへの輸出用に製造した仕様である、という4つの条件のうちの1つでも逸脱した楽器は、アルゼンチン・タンゴでのバンドネオンと違う音色であると述べる(小松2021,p.110)。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "バンドネオンのボタン配列を、ヨーロッパで普及しているクロマティック・ボタン・アコーディオンのCシステム(イタリア式配列)にあわせて並べ変えた方式で、73ボタン(左 33、右40)、146音が基本。1925年にフランスのアコーディオン奏者 Charles Peguriが考案した。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "配列は規則的なので、習得は比較的容易である。日本のタンゴ楽団も含め、アルゼンチン以外のタンゴ楽団で広く使用されてきた。ただし日本でも、1950年代ぐらいからアルゼンチン本国と同様のライニッシュ式バンドネオンの使用が広まり、今日に至っている。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヴィッキ式配列は、カスパー・ヴィッキ(Kasper Wicki)がバンドネオンのために考案した鍵盤配列で、1896年にスイスで特許を取得した。これとは別個に、コンサーティーナ奏者のブライアン・ヘイデン(Brian Hayden)も同様のコンセプトの鍵盤配列を考案し、1986年に特許を取得したので、今日では両者をあわせて「ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列」と呼ばれる。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式デュエット・コンサーティーナや、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。", "title": "ボタン配列の各方式" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "蛇腹を引いたときの方が音が響く。蛇腹によく共鳴するためだと言われる。従って、バンドネオン奏者は蛇腹を引く音を多用し、蛇腹を引いて演奏しては空気抜きレバーを押しながら蛇腹を戻す、ということを繰り返すことが多い。特に、タンゴの鋭いスタッカートは、膝を使いながら蛇腹を瞬時に引くことによって出される。", "title": "演奏法" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "標準的なバンドネオンの演奏としては、座ってバンドネオンを膝に置いて弾くのがごく一般的であるが、アストル・ピアソラは立ち膝で演奏することもあった。伝統的な演奏法は両足を閉じて弾くスタイルであり 、1920年代の細身の音色はこの奏法でしか出すことができない。現代の奏法は、楽器を片足のみに載せて弾くため、分厚く大きな音量が出るので、グランドピアノの蓋を全開にした音量とも互角で張り合える。", "title": "演奏法" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "初期のオルケスタ・ティピカはコントラバスとバイオリンが全て立奏の後列、バンドネオン5人がぎっしり隙間なく詰められて横に座り、ピアノがダンススポット袖近くの左というのが一般的であった。上下関係も厳しく、バンドネオン第1が一番偉くマスターに近い。", "title": "演奏法" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "バンドネオンの製造は今も昔も、職人が経営する工房で家内制手工業的に行われることが多い。オートメーション化が難しい職人の手仕事が多く必要である上、演奏人口もギターやピアノ、バイオリンなどに比べれば少ないため、大規模な楽器工場での大量生産には向いていない。そのため、高名な製造元であっても、職人の名人芸の技術継承がうまくゆかなかったり、諸般の事情で廃業することもある。逆に、バンドネオンの製造を新規に始める職人や工房も存在する。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "製作元については、第二次世界大戦前のドイツのアルフレッド・アーノルド(アルフレート・アルノルト(ドイツ語版))社製のバンドネオンにこだわる演奏家が今もかなり多い。同社は1911年にザクセン王国(現ザクセン州)南部のカールスフェルト(ドイツ語版)に設立されたが、第二次世界大戦後の1948年に収用により消滅した。同社が製作したバンドネオンの評価は今も非常に高く、楽器市場では今も高価なビンテージ・モデルとして流通している。 アルフレッド・アーノルド社製のバンドネオンは、「AA」の商標からはドブレ・アー(Doble A)とも呼ばれている。ちなみに、戦後の東ドイツのクリンゲンタールで作られた「AA」ブランドのバンドネオンや、アルフレッドの甥でイニシャルは同じくA.Aになるアルノ・アーノルドが戦後に製造したバンドネオンは、アルフレッド・アーノルドのバンドネオンとは全く別物なので、要注意である。下記の写真を参照のこと。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1861年に同じカールスフェルトで設立されたELA社、すなわちエルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold)社のバンドネオンも、演奏に用いられる。ELAブランドとして知られている。ちなみに、エルンスト・ルイス・アルノルトの妻は、ドイツ式コンサーティーナの発明者カール・フリードリヒ・ウーリヒの娘であり、この夫婦のあいだに生まれた三男がアルフレッド・アーノルドである。。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "同じくザクセンのクリンゲンタール(ドイツ語版)に所在するマイネル&ヘロルト(Meinel & Herold)社製造のバンドネオンを、レオポルド・フェデリコは愛用している。3Bブランド(Tres B)で知られている。クリンゲンタールにはいくつかのバンドネオン・メーカー、博物館がある。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "アコーディオン・メーカーで知られるホーナー社も、バンドネオンを製造していた。また、ベルリンのプレミア(Premier)社も、新品のバンドネオンを製造している。その他、製造元が10社ぐらいある。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカといった機種を再生産する方向へ変わっている。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "現在、新品のバンドネオンを製作あるいは販売している主な業者は以下のとおり。戦前のAA(Alfred Arnold社)のクオリティに近い再現品を新品として製作する業者もいる。", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ドイツ", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ベルギー", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "スペイン", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "イタリア", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アルゼンチン", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ブラジル", "title": "製造元" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "バンドネオンではないのに外見が似ているためバンドネオンと混同されがちな蛇腹楽器もある。またMIDI楽器もある。", "title": "似た楽器" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "蛇腹の無いバンドネオン型の自作MIDIキーボードキットで、電子楽器の一種。", "title": "似た楽器" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "タンゴ楽団の代表が、バンドネオン奏者とは限らない。", "title": "著名なバンドネオン奏者" } ]
バンドネオンはコンサーティーナ族の蛇腹楽器である。
{{Infobox 楽器 |楽器名 = バンドネオン |その他の名称 = タンゴ・コンサーティーナ |英語名 = bandoneon |ドイツ語名 = Bandoneon |フランス語名 = Bandonéon |イタリア語名 = Bandoneón |中国語名 = 班多钮手风琴 |画像 = 画像:Buenos Aires - Bandoneon tango player - 7435.jpg |画像サイズ = 160px |画像の説明 = [[ブエノスアイレス]]のバンドネオン奏者 |分類 = [[鍵盤楽器]] [[蛇腹楽器]] [[気鳴楽器]] |音域 = 機種によって異なる。一例:F3~F6<ref>{{Cite web|和書|url =https://web.archive.org/web/20160813094153/http://asahi-net.or.jp/~hb9t-ktd/music/Japan/Instrument/range_gm.html |title =楽器と音域 |publisher =asahi-net.or.jp |date = |accessdate =2019-03-21 }}</ref> |関連項目 = * [[蛇腹楽器]] * [[アコーディオン]] * [[コンサーティーナ]] * [[タンゴ]] * [[ダイアトニック]] |}} [[ファイル:Bandoneón.ogg|thumb|right|240px|バンドネオンを含む合奏]] [[ファイル:Early-bandonion.jpg|thumb|right|240px|初期のバンドネオン、1905年頃]] [[ファイル:aa-bandoneon.jpg|thumb|right|240px|アルフレッド・アーノルド・バンドネオン、1949年頃]] '''バンドネオン'''({{lang-en-short|bandoneon}}、{{lang-es-short|bandoneón}})は[[コンサーティーナ]]族の[[蛇腹楽器]]である。 == 概説 == === 特徴 === [[蛇腹楽器]]の中では中型のサイズの楽器である(重さは5キログラムから7キログラムくらいの機種が多い)。[[アコーディオン]]が蛇腹の押し引きを左手で行うのに対して、バンドネオンは左右の両手の力で蛇腹の押し引きを行うため、楽器のサイズの割りに大音量を出すことが可能で、鋭い明快なスタッカートなど音のメリハリもつけやすい(これは[[コンサーティーナ]]族共通の特長である)。 日本では[[タンゴ]]の伴奏楽器というイメージが強いが、海外ではタンゴ以外のジャンルの音楽の演奏でも使われ<ref name="小松亮太2021"/><ref group="注釈">タンゴの本番アルゼンチンでも、タンゴのバンドネオンとくらべれば稀ではあるが、フォルクローレやクラシック音楽でバンドネオンを使うケースもある。松浦伸吾「バンドネオンの演奏表現における可能性―楽器構造の視点から―」(『音楽研究 第25巻 大阪音楽大学音楽博物館年報』pp.15-33,2010年5月)p.31参照。</ref>、また独奏楽器としても高い演奏能力をもつ楽器である。 === アコーディオンとの区別 === [[蛇腹楽器]]の一種であるが、いわゆる「アコーディオン」とは違う楽器であり、バンドネオン奏者に「アコーディオン奏者の○○さん」と声をかける事はタブーとされる<ref>早川純「[http://apartment-home.net/column/201412-201501/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%9B%9E%e3%80%80%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AC%E3%81%81/ 第三回 バンドネオンはアコーディオンではぬぁい!!]」2014.12.18</ref>。 アコーディオンは左右非相称で、左右の筐体は形も機能も異なり、右手側の筐体をバンドで演奏者の体に固定することが多い。これに対して、バンドネオン(および、バンドネオンの原型である[[コンサーティーナ]])は左右相称であり、左右の筐体は音域が違うものの形や機能は同じで、筐体をバンドで体に固定することはない。詳しくは[[蛇腹楽器#バンドの有無|蛇腹楽器のバンドの説明]]を参照。 以下に[[蛇腹楽器]]の分類におけるバンドネオンの位置を示す。 {| class="wikitable" |- ! !! 左右非相称 !! 左右相称 |- | [[ダイアトニック|押引異音]]式 || [[アコーディオン#ダイアトニック・アコーディオン|ダイアトニック・ボタン・アコーディオン]] || [[コンサーティーナ#アングロ・コンサーティーナ|アングロ・コンサーティーナ]]<br>[[コンサーティーナ#ジャーマン・コンサーティーナ|ジャーマン・コンサーティーナ]]<br>[[コンサーティーナ#ケムニッツァ・コンサーティーナ|ケムニッツァ・コンサーティーナ]]<br>'''バンドネオン'''(ディアトニック・バンドネオン) |- | [[クロマティック|押引同音]]式 || [[アコーディオン#クロマティック・アコーディオン|クロマティック・ボタン・アコーディオン]]<br><br>[[アコーディオン#ピアノ・アコーディオン|ピアノ・アコーディオン]] || [[コンサーティーナ#イングリッシュ・コンサーティーナ|イングリッシュ・コンサーティーナ]]<br>[[コンサーティーナ#デュエット・コンサーティーナ|デュエット・コンサーティーナ]]<br>'''クロマティック・バンドネオン''' |} === 楽器の基本構造 === バンドネオンはボタン式の[[鍵盤楽器]]である。蛇腹の左右に、ボタン鍵盤をそなえた[[筐体]](きょうたい。器械を内蔵した箱)がついており、蛇腹を押し引きすることで空気の流れを作り、ボタン鍵盤と連動したフリーリードを鳴らして音を出す。 ==== 外部構造 ==== [[コンサーティーナ#ケムニッツァ・コンサーティーナ|ケムニッツァ・コンサーティーナ]]と非常に似ている。以下、アルゼンチン・タンゴで最も普通に使われている「ライニッシュ式配列」のバンドネオンの写真を示す。 <gallery> File:Bandoneon_Alfred_Arnold_right_hand.jpg|アルフレッド・アーノルド・バンドネオンの右手側(高音側)。各ボタンにふられた数字や記号にも注目。親指は空気抜きレバーに触れている。手首のあたりは模様付きのグリル(格子窓のような穴をあけた板)になっている。 File:Bandoneon_Alfred_Arnold_center.jpg|同、中央。蛇腹の上部に、Ω形の小さな紐通しが2個ついている。この金具はバンドネオンを首から紐で吊り下げるための紐留めで、ドイツで立奏していた時代のなごり。 File:Bandoneon Alfred Arnold left hand.jpg|同、左手側(低音側)。ボタン鍵の並ぶ形が右手側と少し違う。手首のあたりは化粧板の共鳴箱(チャンバー)なので、音色は右手側よりややソフトでくぐもった感じになる<ref>松浦伸吾「バンドネオンの演奏表現における可能性―楽器構造の視点から―」(『音楽研究 第25巻 大阪音楽大学音楽博物館年報』pp.15-33,2010年5月)p.19</ref>。 File:Bandoneon_left_hand_chamber.jpg|左手側のチャンバーを別角度からのぞくと、半月状の穴が見える。 </gallery> ==== 内部構造 ==== <gallery> BandoneonApart2.jpg|左右の筐体、それぞれの面板と器械部分。 BandoneonApart1.jpg|筐体内部、面板側。ボタンと空気穴をつなぐ「てこ」が並んでいる。 Bandoneon-inside.jpg|筐体内部、蛇腹側。リードとサブタ皮(空気の逆流防止弁)が並んでいる。 BandoneonApart3.jpg|蛇腹 BandoneonApart4.jpg|蛇腹 BandoneonApart5.jpg|蛇腹を思い切り広げた状態 </gallery> 調律などのメンテナンスは、専門の技術が必要である。 === 歴史 === バンドネオンの演奏家や愛好者は世界各地に存在する。本項では、発明国であるドイツと、タンゴと結びついたアルゼンチン、そして日本の状況を述べる。 ==== ドイツ ==== バンドネオンは、ドイツの[[コンサーティーナ]](ドイツ語ではコンツェルティーナ)を土台として1847年に開発された楽器である。 1829年、[[ウィーン]]の楽器製作家シリル・デミアンは[[アコーディオン]]を発明した。 ドイツの[[ケムニッツ]]市の楽器製作家カール・フリードリヒ・ウーリヒ(Carl Friedrich Uhlig)は、ウィーンに旅したときにデミアンのアコーディオンを購入し、それをヒントに、バンドネオンの原型も含むさまざまなタイプの[[コンサーティーナ#ジャーマン・コンサーティーナ|ドイツ式コンサーティーナ]]を開発した。 その後、同じドイツの楽器製作家[[ハインリヒ・バンド]]は、ケムニッツ市へ旅した際にウーリッヒのコンサーティーナを購入し<ref>渡辺芳也『アコーディオンの本』(春秋社、1993年)p.98</ref>、低音域を拡張するなどボタン配列に変更を加えて、1847年にバンドネオンを考案した。ただしバンド自身は当初、自分の楽器を「アコーディオン」と呼び<ref>『アコーディオンの本』p.83</ref>、「バンドネオン」とは呼ばなかった。後に、バンドの名前と、アコーディオンの「イオン」を組み合わせて「Bandonion」(バンドニオン)という楽器名が生まれた。Bandon'''i'''onの綴りが現在のBandon'''e'''onに変更された正確な時期や経緯は、不明である。今日のドイツでも一般的には「バンドネオン」と呼ばれるが、ドイツの「生粋の」バンドネオン愛好家や業界関係者にはいまだに「バンドネオンではなくバンドニオンだ」と主張する人が多い(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,p.195)。 バンドネオンの発明者はハインリヒ・バンドであるが、バンドネオンの基本原理を開発した始祖はウーリッヒであると言える<ref name="マルヤマ2018d"/>。また、現代の演奏者が弾いている大型の現代的なバンドネオンを確立したのは、ハインリヒの息子'''アルフレッド・バンド'''(Alfred Band, 1855年-1923年)である(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,pp.204-209)。 バンドネオンは野外での教会の儀式で[[パイプオルガン]]の代用として使われたり、クラシック音楽や民俗音楽の演奏で使用された。 ドイツはバンドオネンの故郷であるが、他の蛇腹楽器との競合などさまざまな理由で、20世紀半ば以降は演奏人口が激減し、今日に至っている。 <gallery> File:C.F.Uhlig Bandoneon.jpg|ウーリッヒのバンドネオン。ボタン鍵の数や配列以外は、現在のバンドネオンとほぼ同じである。 File:Kofferetikett C.F.Uhlig Harmonika Fabrik.jpg|ウーリッヒのラベル。初期型のバンドネオンが描かれている。綴りはまだBandon'''i'''onである。 File:Hans Martin Sutermeister playing bandoneon.JPG|バンドネオンを頭上に持ちあげ笑顔で弾く[[ハンス・マーティン・ズーターマイスター]](スイス)。本来のバンドネオンは顔の表情も奏法も自由な楽器であった。 </gallery> ==== アルゼンチン ==== [[File:Junín Cuarteto Rodríguez DiPierro Aloisi Soto 1929 HJ77 001.jpg|thumb|250px|right|1929年の写真。バンドネオン、バイオリン、ギター。現代のバンド編成では、ギターの代わりにピアノやコントラバスが加わることが多い。]] 今日、バンドネオンと言えばアルゼンチン・タンゴの伴奏楽器というイメージが強いが、この楽器がドイツからアルゼンチンへ移入された経緯や時期については諸説紛々として明確ではない。最大公約数的な説明としては、1890年ごろにアルゼンチンに持ち込まれ(1880年代、[[アフリカ系アルゼンチン人]]のセバスティアン・パルドが[[タンゴ]]で用いたとする文献もある)、1900年ごろからタンゴの楽器として使われ始め、1910年ごろにはタンゴに欠かせない楽器になっていた、ということである<ref>[[生明俊雄]]『タンゴと日本人』(集英社新書、2018年)p.38-p.39</ref>。 アルゼンチンのタンゴ楽団は、最初はギター・フルート・ヴァイオリンという編成であり、バンドネオンの応用が徐々に広まったものの、しばらくバンドネオンなしが主流だった。20世紀になり、ドイツから大量のバンドネオンが輸出され、タンゴでよく用いられる楽器となった。 バンドネオンの使用で、「タンゴ」の音楽の性質は大きく変化した。フルート時代のタンゴは人々がひたすら歌い踊り生活の憂さを忘れようとするものだったが、バンドネオンのタンゴは人生や恋の苦しみを吐露して悲しみをつのらせたり慰めを求めるものになった。バンドネオンのせつない音色は心の痛みを表現するのにうってつけであった<ref>生明俊雄『タンゴと日本人』(集英社新書、2018年)p.39</ref>。 バンドネオンは長いあいだタンゴの伴奏楽器であったが、バンドネオン奏者で作曲家でもあった[[アストル・ピアソラ]]はダンスから独立した純粋器楽としてのバンドネオンの可能性を追求した。当初、ピアソラのバンドネオンは不評であったが、1995年に[[ギドン・クレーメル]]がピアソラをオマージュしたCDを発表したことで評価は一変し<ref>生明俊雄『タンゴと日本人』(集英社新書、2018年)p.221</ref>、バンドネオンはタンゴファンのみならず、世界中のクラシックファンのあいだでも見直されるようになった。 <gallery> File:Tango Aravi (Institut du monde arabe) (6905700561).jpg|アルゼンチン出身で1991年からはパリで活動するヒルベルト・ペレイラ氏(Gilberto Pereyra)によるタンゴの伴奏。 File:Shinzo Abe and Mauricio Macri in November 2018 02.jpg|バンドネオンを持つ[[安倍晋三]]首相と談笑する[[マウリシオ・マクリ]]大統領。 File:Bandoneonista callejero en Constitución.JPG|[[ブエノスアイレス]]の[[コンスティトゥシオン (ブエノスアイレス)|コンスティトゥシオン]]駅での路上演奏。 </gallery> ==== 日本 ==== 日本にバンドネオンが初めて渡来した時期は不明である。[[板東俘虜収容所]](1917年-1920年)のドイツ兵捕虜の楽隊の写真には中型のバンドネオンが映っている(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,p.214)。 タンゴの伴奏楽器として、クロマティック式とダイアトニック式の両方が伝わった。日本人のプロ奏者の活躍は昭和期からで、オルケスタ・ティピカ東京のバンド・リーダー[[早川真平]](1914年 - 1984年)、16歳でバンドネオンを始め晩年まで演奏活動を続けた佐川峯(1919年 - 2018年3月6日)、タンゴの本場アルゼンチンで認められ現地のタンゴ楽団代表にまでなった米山義則(1955年 - 2006年)などが有名。その後のプロ奏者については「[[バンドネオン#日本_2|日本の主なバンドネオン奏者]]」を参照。 戦前の日本のタンゴ演奏者にとって、中国の上海や大連などが好景気の稼ぎ場だった。当時、ドイツのAA社はフランス向けにクロマティック式バンドネオンを作ったが、思いのほか売れなかった。楽器商はそれを上海、天津、奉天、香港などで売りさばいた。このため日本の古い世代のバンドネオン奏者は、戦前から戦後にかけて、少数の例外を除きクロマティック派であった。ただしクロマティック式の音色は、楽器の構造上、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンの音色とどうしても違う。そのため日本人のクロマティック式バンドネオン奏者で、ディアトニック式バンドネオンへの転向という回り道を余技なくされる者もいた(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,pp.417-421)。 比較的早くから国産品が普及したアコーディオンと違い、バンドネオンの国産品はない(日本国内でレストアした中古品は多い)。日本でもタンゴ以外の音楽でバンドネオンが使われる場面は増えつつあるが<ref group="注釈">近年はバンドネオンでアニソンを弾いたCDも発売されている。バンドネオン奏者の[[小松亮太]]氏のCD『天空のバンドネオン タンゴでスタジオジブリ』2017</ref>、今もタンゴの伴奏楽器というイメージが強い。また奏法の難しさもあり、日本での演奏者人口はピアノやギターなどと比べると今も少なく「絶滅危惧楽器」と揶揄されることもある<ref group="注釈">テレビ朝日『[[題名のない音楽会]]』2018年10月6日(土)放送 「絶滅危惧楽器 バンドネオンの音楽会」 【ゲスト】小松亮太(バンドネオン) 【演奏】宮本笑里(ヴァイオリン)、 北村聡(バンドネオン)、鈴木崇朗(バンドネオン)、コー・サンジ(バンドネオン)、早川純(バンドネオン)、川波幸恵(バンドネオン)他</ref>。とは言え、バンドネオンの音色は根強い人気があり、バンドネオンのプロ奏者や学習者は今も一定数存在している。 === 使用される音楽のジャンル === [[サンバ (アルゼンチン)|サンバ]]や[[ミロンガ]]などの[[フォルクローレ]]で使われることもあり、アルゼンチンのご当地ワルツたる[[バルス・タンゴ]]のバンドネオン入りのレコード録音も、フランシスコ・カナロ作曲の 「[[黄金の心]]」 などで聴ける。 また、バンドネオン独奏にこだわる演奏家もいる。映画『[[サンチャゴに雨が降る]]』での[[アストル・ピアソラ]]のバンドネオン独奏の録音は有名である。 日本の叙情歌を演奏したレコードやアニメソングを収録したCD<ref>小松亮太「天空のバンドネオン~タンゴでスタジオジブリ~」(2017年9月27日 規格品番 SICC-9004)</ref>もあり、[[武満徹]]作曲の作品にバンドネオンが使われるものがある。また、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]などのクラシック音楽の曲を演奏する演奏家もいる。 == ボタン配列の各方式 == 蛇腹楽器の常として、バンドネオンもモデルによってボタン配列の方式が全く異なるため、楽器の購入や習得にあたっては注意を要する。主な方式は以下の通りである<ref name="マルヤマ2018" />。 * 押引異音式(「[[ダイアトニック]]」「バイソニック」とも) **アインハイツ(Einheit)式配列 **ライニッシュ(Rheinische)式配列 * 押引同音式(「[[クロマティック]]」「ユニソニック」とも) **ペギュリ式(Peguri System)配列 **クセロー式(Kusserow System)配列 **マノーリ式(Manouri System)配列 上記以外にも、プロ奏者が楽器職人に特注して一部のボタン鍵の音高を変えたり、ボタン鍵を増やしたバンドネオンもある。ピアノ式鍵盤と同様のボタン鍵配列を採用した機種や、もはやバンドネオンとは言えない変わった設計の機種も存在し<ref name="マルヤマ2018d" />、まれに中古品市場で出回ることもある。 蛇腹楽器の常として、バンドネオンも、さまざまな鍵盤配列方式が考案されて乱立し、それぞれの方式は特定の音楽ジャンルと結びつくなどして、いまだ統一されていない。最も規則的で合理的な{{仮リンク|ヴイッキ・ヘイデン式鍵盤配列|en|Wicki-Hayden_note_layout}}(押引同音)はまったく普及せず、逆に、規則はずれが多く非合理的なライニッシュ式配列がアルゼンチンを中心に広く世界に普及している。 バンドネオンを含む蛇腹楽器の演奏技術は、鍵盤配列の不規則性を逆手に取って生かしたものも少なくない。また現行の鍵盤配列は、演奏者が現地の個性的な音楽を演奏しやすいよう、規則はずれのボタン鍵を追加するなど、試行錯誤の歴史の積み重ねの末に確立したものである。鍵盤配列の各方式の優劣や適否は、机上の合理性のみで判断できるものではない。 : [[小松亮太]]によれば、バンドネオンはもともと発明国のドイツでは「買ったその日にすぐ弾ける」ほど簡単で便利な楽器であり、ドイツ人がバンドネオンで楽しんでいた音楽はかなり単純だったのでそれで良かったこと、アルゼンチン人がドイツから輸入したバンドネオンでタンゴの複雑な音楽を演奏するようになってもバンドネオンのボタン配列の不規則性は解消されなかったが、'''この不規則性こそがバンドネオン特有の音色の要(かなめ)として絡んでくる'''こと、を述べている(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,pp105-107)。 === アインハイツ式(押引異音) === アインハイツ(ドイツ語で「統一」の意)式は72ボタン(左 35、右 37)144音(144 voces)が基本で、発明国ドイツおよびヨーロッパ諸国ではこれが標準仕様である<ref name="マルヤマ2018" />。 <gallery> Bandoneon Einheit ARNOLD ARNO 20190311 right.jpg|アルノ・アーノルド(「[[バンドネオン#製造元|製造元]]」の項を参照)製の、アインハイツ式配列のバンドネオン。掌台には音色切り替えスイッチが5個ついている。 Bandoneon Einheit ARNOLD ARNO 20190311 middle.jpg|同・中央部。右下に映っている通常サイズの黒いバンドネオン(ライニッシュ式)に比べると、この機種は二回りほども大きい。 Bandoneon Einheit ARNOLD ARNO 20190311 left.jpg|同・左手。ボタンの並びかたの形がライニッシュ式と微妙に違うことに注意。 </gallery> === ライニッシュ式(押引異音) === [[Image:Bandoneón-142-Flat.svg|thumb|right|ライニッシュ式配列。各ボタンごとに、上半分には蛇腹を引っ張った時に出る音の高さ、下半分には蛇腹を押した時に出る音の高さが書いてある。]] 日本語では「ライン式」とも言う。71ボタン(左 33、右 38)142音(142 voces)が基本で<ref group="注釈">それよりも多い左36個・右40個・合計76個のバンドネオン 152 voces もある。また、より少ない左31個・右34個・合計65個のバンドネオン 130 voces もある。近年は音域を拡張した 156 voces も生産されているが、一般的ではない。</ref>、タンゴの本場アルゼンチンではこの方式のボタン配列が標準仕様である。 20世紀前半、アルゼンチンのバンドネオン奏者たちは、ドイツのメーカーに新品を発注する際、タンゴを弾きやすいようボタン鍵の増設を特注した。タンゴ形成の発展途上の試行錯誤の積み重ねから生まれたのが、ライニッシュ式配列である。ライニッシュ式配列の中央のボタン配列はドイツ本国のアインハイツ式とよく似ている。隣同士の特定のボタンを同時に押すと、ダイアトニック・コンサーティーナあるいはアコーディオンの左手と同じように、和音が鳴るようになっている。しかし、周辺部の音階配置は、アルゼンチンの奏者からのオーダーに応じてその都度増設を繰り返したという歴史的な経緯もあり、ほぼ不規則である。 アルゼンチン・タンゴの象徴的な楽器であるライニッシュ式バンドネオンは、習得が非常に難しいことから「悪魔が発明した楽器」とも呼ばれる。ただし小松亮太は「演奏の巧拙はともかく、バンドネオンのボタン配列を記憶すること自体は特別な才能を要することではない」と反論したうえで、自分は「悪魔の楽器」云々は「自分の商売道具に勿体をつけているようで、どうも僕には人前で口にする勇気がない」と述べている(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,pp.101-103)。 タンゴの独特の音楽性は、複雑な構造を持つバンドネオンの運指、吸気リズムを自然に活かした演奏技術との相互発展の産物であり、単純に合理性で解釈できるものではない。 小松亮太によれば、ライニッシュ式バンドネオンであることは、アルゼンチン・タンゴのバンドネオンであることの必要条件ではあっても、十分条件ではない。(1)ボタン数は右手38個、左手33個ていどのライニッシュ式、(2)ボタンの音階配列が不規則で[[ダイアトニック|押し引き異音式]]、(3)通称AA社または通称ELA社の製品、(4)およそ1920年代から第二次世界大戦前までに(3)のメーカーがアルゼンチンへの輸出用に製造した仕様である、という4つの条件のうちの1つでも逸脱した楽器は、'''アルゼンチン・タンゴでのバンドネオンと違う音色'''であると述べる(小松2021<ref name="小松亮太2021"/>,p.110)。 === ペギュリ式(押引同音) === バンドネオンのボタン配列を、ヨーロッパで普及している[[アコーディオン#クロマティック・アコーディオン|クロマティック・ボタン・アコーディオン]]のCシステム(イタリア式配列)にあわせて並べ変えた方式で、73ボタン(左 33、右40)、146音が基本。1925年にフランスのアコーディオン奏者 Charles Peguriが考案した<ref name="マルヤマ2018" />。 配列は規則的なので、習得は比較的容易である。日本のタンゴ楽団も含め、アルゼンチン以外のタンゴ楽団で広く使用されてきた。ただし日本でも、1950年代ぐらいからアルゼンチン本国と同様のライニッシュ式バンドネオンの使用が広まり、今日に至っている。 <gallery> File:Clavier main gauche standard fig 2.jpg|左手側のボタン配列 File:Clavier main droite 1 fig 1.jpg|右手側のボタン配列 </gallery> === ヴィッキ・ヘイデン式(押引同音) === [[File:Wicki-Hayden Piano Color.png|thumb|200px|right|{{仮リンク|ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列|en|Wicki-Hayden_note_layout}}の概念図を、ピアノの白鍵と黒鍵に準じて便宜的に色分けした図。それぞれのボタン鍵どうしの音程は、右横は長2度、右上は完全5度、左上は完全4度、真上は完全8度(オクターブ)、と完全に規則的である。]] ヴィッキ式配列は、カスパー・ヴィッキ(Kasper Wicki)がバンドネオンのために考案した鍵盤配列で、1896年にスイスで特許を取得した。これとは別個に、コンサーティーナ奏者のブライアン・ヘイデン(Brian Hayden)も同様のコンセプトの鍵盤配列を考案し、1986年に特許を取得したので、今日では両者をあわせて「ヴィッキ・ヘイデン式鍵盤配列」と呼ばれる<ref>concertina.comの記事「[http://www.concertina.com/gaskins/wicki/ The Wicki System—an 1896 Precursorof the Hayden System]」</ref>。 鍵盤の並び方は規則的で覚えやすく、運指も合理的であったが、バンドネオンの鍵盤配列としては普及しなかった。ヘイデン式[[コンサーティーナ#デュエット・コンサーティーナ|デュエット・コンサーティーナ]]や、新開発の一部の電子楽器の鍵盤配列に採用されているだけである。 == 演奏法 == 蛇腹を引いたときの方が音が響く。蛇腹によく共鳴するためだと言われる。従って、バンドネオン奏者は蛇腹を引く音を多用し、蛇腹を引いて演奏しては空気抜きレバーを押しながら蛇腹を戻す、ということを繰り返すことが多い。特に、タンゴの鋭いスタッカートは、膝を使いながら蛇腹を瞬時に引くことによって出される。 標準的なバンドネオンの演奏としては、座ってバンドネオンを膝に置いて弾くのがごく一般的であるが、[[アストル・ピアソラ]]は立ち膝で演奏することもあった。伝統的な演奏法は両足を閉じて弾くスタイルであり<ref>{{Cite web|和書|url =https://web.archive.org/web/20170102213915/http://intro.ne.jp/contents/2010/06/23_1947.html |title =アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち|publisher =intro.ne.jp |date =2017-01-02 |accessdate =2019-03-21 }}</ref> 、1920年代の細身の音色はこの奏法でしか出すことができない。現代の奏法は、楽器を片足のみに載せて弾くため、分厚く大きな音量が出るので、[[グランドピアノ]]の蓋を全開にした音量とも互角で張り合える。 初期の[[オルケスタ・ティピカ]]はコントラバスとバイオリンが全て立奏の後列、バンドネオン5人がぎっしり隙間なく詰められて横に座り、ピアノがダンススポット袖近くの左というのが一般的であった。上下関係も厳しく、バンドネオン第1が一番偉くマスターに近い。 == 製造元 == バンドネオンの製造は今も昔も、職人が経営する工房で[[家内制手工業]]的に行われることが多い。オートメーション化が難しい職人の手仕事が多く必要である上、演奏人口もギターやピアノ、バイオリンなどに比べれば少ないため、大規模な楽器工場での大量生産には向いていない。そのため、高名な製造元であっても、職人の名人芸の技術継承がうまくゆかなかったり、諸般の事情で廃業することもある。逆に、バンドネオンの製造を新規に始める職人や工房も存在する。 製作元については、第二次世界大戦前のドイツの'''アルフレッド・アーノルド'''<ref group="注釈">「Alfred Arnold」という人名・社名に対して、日本では、ドイツ語風の「アルフレート・アルノルト」と英語風の「アルフレッド・アーノルド」の2つの読み方が行われている。ドイツにあった会社なので「アルフレート・アルノルト」のほうが理にかなっているが、日本では昭和期以来、英語読みの「アルフレッド・アーノルド」のほうがよく使われる(昭和期の日本のプラモデル業界で、ドイツの「[[VI号戦車|ティーガー戦車]]」が英語読みの「タイガー戦車」で販売されていた状況と似ている)。</ref>({{仮リンク|アルフレート・アルノルト|de|Alfred Arnold (Unternehmen)}})社製のバンドネオンにこだわる演奏家が今もかなり多い。同社は1911年に[[ザクセン王国]](現[[ザクセン州]])南部の{{仮リンク|カールスフェルト|de|Carlsfeld (Eibenstock)}}に設立されたが、第二次世界大戦後の1948年に収用により消滅した。同社が製作したバンドネオンの評価は今も非常に高く、楽器市場では今も高価なビンテージ・モデルとして流通している。<br> アルフレッド・アーノルド社製のバンドネオンは、「AA」の商標からはドブレ・アー(Doble A)とも呼ばれている。ちなみに、戦後の東ドイツのクリンゲンタールで作られた「AA」ブランドのバンドネオンや、アルフレッドの甥でイニシャルは同じくA.Aになるアルノ・アーノルドが戦後に製造したバンドネオンは、アルフレッド・アーノルドのバンドネオンとは全く別物なので、要注意である。下記の写真を参照のこと。 1861年に同じカールスフェルトで設立された'''ELA社'''、すなわちエルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold)社のバンドネオンも、演奏に用いられる。ELAブランドとして知られている。ちなみに、エルンスト・ルイス・アルノルトの妻は、[[コンサーティーナ#ジャーマン・コンサーティーナ|ドイツ式コンサーティーナ]]の発明者カール・フリードリヒ・ウーリヒの娘であり、この夫婦のあいだに生まれた三男がアルフレッド・アーノルドである。<ref group="注釈">エルンスト・ルイス・アルノルト(Ernst Louis Arnold, 1828年-1910年)には息子が3人いた。長男はエルンスト・ヘルマン・アーノルド(Ernst Hermann Arnold, 1859年-1946年)、二男はポール・アーノルド(Paul Arnold, 1866年-1952年)、三男はアルフレッド・アーノルド(Alfred Arnold, 1878年-1933年)である。ポールの息子はアルノ・アーノルド(Arno Arnold, 1893年-1970年)で、アルフレッドの息子はホルスト・アルフレッド・アーノルド(Horst Alfred Arnold, 1905年-1979年)である。彼らアーノルド一族はみなバンドネオンの製作に従事した。</ref>。 同じくザクセンの{{仮リンク|クリンゲンタール|de|Klingenthal}}に所在するマイネル&ヘロルト(Meinel & Herold)社製造のバンドネオンを、[[レオポルド・フェデリコ]]は愛用している。'''3Bブランド'''(Tres B)で知られている。クリンゲンタールにはいくつかのバンドネオン・メーカー、博物館がある。 アコーディオン・メーカーで知られる[[ホーナー (企業)|ホーナー]]社も、バンドネオンを製造していた。また、ベルリンのプレミア(Premier)社も、新品のバンドネオンを製造している。その他、製造元が10社ぐらいある。 バンドネオンについては、新しい楽器よりも、古くても調律・メンテナンスがしっかりしたものが演奏家から選ばれる傾向にある。ただし、ライブ中の故障、タンゴ演奏家・聴衆の高齢化という問題が大きく、近年はAAレプリカ<ref>{{Cite web |url =https://web.archive.org/web/20180729043554/http://bandonionfabrik.de/en/instruments.html |title =Instruments built by master|publisher =bandonionfabrik.de |date =2018-07-29 |accessdate =2019-03-21 }}</ref>といった機種を再生産する方向へ変わっている。 <gallery> File:Detail_bandonéon_AA.JPG|アルフレッド・アーノルドのバンドネオンの「AA印」。2つのAは離れている。戦後の東ドイツの「AA印」との違いに注意。 File:Registered trademark or MARCA REGISTRADA of "AA" Bandoneon made in made in Klingenthal, Sachsen, East German, at Taniguchi Gakki, Tokyo 2019-12-17.jpg|旧[[東ドイツ]]のクリンゲンタール(Klingenthal)で作られたバンドネオンの「AA」商標。アルフレッド・アーノルドではない。2つのAが重なっていることに注意。[[谷口楽器]]にて撮影。 File:Registered trademarks written on the inside of AA or Alfred Arnold bandoneon PREMIER at Taniguchi Gakki, Tokyo 2019-12-16.jpg|バンドオネンの中身にスタンプされた、アルフレッド・アーノルドの商標。生産地の地名カールスフェルトも明記してある。[[谷口楽器]]にて撮影。 File:Registrated Trademark or MARCA REGISTRADA of Alfred Arnold Bandoneon PREMIER.jpg|アルフレッド・アーノルドのバンドネオン本体の刻印。生産地の地名カールスフェルトも明記してある。[[谷口楽器]]にて撮影。 File:Arno Arnold, Registrated Trademark of Bandoneon.jpg|アルフレッド・アーノルドの甥でバンドネオン製造業者のアルノ・アーノルド(Arno Arnold, 1893年-1970年)の商標。[[谷口楽器]]にて撮影。 File:3B or BBB (Meinel & Herold) Bandoneon at Taniguchi Gakki, Tokyo 2019-12-15.jpg|3Bブランド(マイネル&ヘロルト)のバンドネオン。筐体(きょうたい)の隅に記された3つのBの商標に注意。[[谷口楽器]]にて撮影。 </gallery> === 製造元メーカー === 今も中古品市場で製品がよく出回っているメーカー。 *アルフレッド・アーノルド({{仮リンク|アルフレート・アルノルト|de|Alfred Arnold (Unternehmen)}}) (Alfred Arnold) *エルンスト・ルイス・アルノルト (Ernst Louis Arnold) *マイネル&ヘロルト (Meinel & Herold) *[[ホーナー (企業)|ホーナー]] (Hohner) 現在、新品のバンドネオンを製作あるいは販売している主な業者は以下のとおり。戦前のAA(Alfred Arnold社)のクオリティに近い再現品を新品として製作する業者もいる<ref>「外道バンドネオン奏者 マルヤマ」氏による記事「[http://jabaraparty.jp/2018/11/27/%E7%AC%AC%E5%8F%82%E8%A9%B1%EF%BC%9A%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%85%A5%E6%89%8B%E6%96%B9%E6%B3%95%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%84%E3%81%A6/ 第参話:バンドネオンの入手方法に就いて]」2018年11月27日 2018年12月4日閲覧</ref>。 ドイツ *Uwe Hartenhauer *Bandonion- & Concertinafabrik Klingenthal GmbH *Klaus Gutjahr *Handzuginstrumente Carlsfeld(Robert Wallschläger) *プレミア(Premier) ベルギー *Harry Geuns スペイン *Bakuneón(Nicolás Córdova Olivos) イタリア *スキャンダリ・アコーディオン(Scandalli Accodions) *ビクトリア・アコーディオン(Victoria Accodions) *ビジーニ(Pigini) アルゼンチン *バルタサール・エストル(Baltazar Estol) *La Casa del Bandoneón(Oscer Fischer) *Fuelles Fredes(Juan Pablo Fredes) ブラジル *Bandoneon DQ (Daniel Eduardo Quandt) == 似た楽器 == バンドネオンではないのに外見が似ているためバンドネオンと混同されがちな蛇腹楽器もある。またMIDI楽器もある。 *[[コンサーティーナ#ケムニッツァ・コンサーティーナ|ケムニッツァ・コンサーティーナ]] 近縁の楽器だが'''バンドネオンではない'''。 <gallery> File:Chemnitzer concertina Pearl Queen right hand.jpg|1926年製のケムニッツァ・コンサーティーナ File:Chemnitzer Concertina Star Old Timer.jpg|現代型の大型のケムニッツァ・コンサーティーナ </gallery> *[[コンサーティーナ#クロマティフォン|クロマティフォン]] 外見や寸法は酷似するが'''バンドネオンではない'''。 <gallery> File:Chromatiphone collection of Mr.FUJIWARA Seiya 01.jpg|右手側。ボタン鍵の並べ方はクロマチック式である。音色も違う。空気抜きレバーもない。この筐体(きょうたい)の4つのかどは尖っているが、バンドネオンと同様にかどを三角形に切り落とした機種もある<ref>'Chromatiphon' (gleichtönig) System: Hugo Stark (logisch)(Slg.Oriwohl, Nr. B- 30) http://www.bandonion.info/de/solo,b-30.htm 閲覧日2022年4月29日</ref>。 File:Chromatiphone collection of Mr.FUJIWARA Seiya 02.jpg|蛇腹はバンドネオンと酷似している。 File:Chromatiphone collection of Mr.FUJIWARA Seiya 03.jpg|左手側。バンドネオンは親指だけバンド(ベルト)の外に出すが、クロマティフォンは手首ごとバンドの中に入れ込むなど、楽器の構えかたも違う。 </gallery> *バンドミネドーニ(bandoMIneDonI) 蛇腹の無いバンドネオン型の自作MIDIキーボードキットで、電子楽器の一種<ref>https://booth.pm/ja/items/3014468 閲覧日2022年11月21日</ref>。 <gallery> File:BandoMIneDonI.jpg|バンドミネドーニ。収納箱の左右の両脇に、バンドネオンのボタン鍵と同じ配列のMIDIキーボード(LEDで輝いている)を取り付けた状態。非常に軽い。 </gallery> == 著名なバンドネオン奏者 == タンゴ楽団の代表が、バンドネオン奏者とは限らない。 === アルゼンチン・ウルグアイ === *[[ビセンテ・グレコ]] *[[エドゥアルド・アローラス]] *[[ペドロ・マフィア]] *{{仮リンク|パキータ・ベルナルド|es|Paquita Bernardo}} *[[ペドロ・ラウレンス]] *[[エクトル・バレラ]] *[[アニバル・トロイロ]] *[[アストル・ピアソラ]] *[[ミゲル・カロー]] *[[エドゥアルド・ロビーラ]] *[[レオポルド・フェデリコ]] *{{仮リンク|ダニエル・ビネリ|es|Daniel Binelli}} *[[ネストル・マルコーニ]] *{{仮リンク|ルベン・フアレス|es|Rubén Juárez}} === トルコ === *[[トルガ・サルマン]] (Tolga Salman) === 日本 === *[[早川真平]] *[[池田光夫]] *[[森川倶志]] *[[門奈紀生]] *[[京谷弘司]] *[[米山義則]] *[[田邉義博]] *[[小川紀美代]] *[[小松亮太]] *北村聡 *[[啼鵬]] *[[三浦一馬]] *[[平田耕治]] *[[早川純]] *[[鈴木崇朗]] *[[仁詩]] *[[上杉英人]] *[[川波幸恵]] *奥村友紀 === 台湾 === *吳詠隆(Wu Yung-Lung) === 韓国 === *고상지(Koh Sangji) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="小松亮太2021">小松亮太『タンゴの真実』(旬報社、2021年) ISBN 978-4845116799</ref> <ref name="マルヤマ2018">[http://jabaraparty.jp/2018/11/01/%E7%AC%AC%E5%BC%90%E8%A9%B1%EF%BC%9A%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%81%A8%E4%BB%95%E6%A7%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/ 「外道バンドネオン奏者 マルヤマ」氏による記事「第弐話:バンドネオンの種類と仕様について」2018年11月1日]2018年11月4日閲覧</ref> <ref name="マルヤマ2018d">[http://jabaraparty.jp/2018/12/23/%E7%AC%AC%E8%82%86%E8%A9%B1%EF%BC%9A%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%E4%BD%95%E3%81%8B%E3%81%AB%E5%B0%B1%E3%81%84%E3%81%A6/ 「外道バンドネオン奏者 マルヤマ」氏による記事「第肆話:バンドネオンではない何かに就いて」2018年12月23日]2018年12月24日閲覧</ref> }} == 参考文献 == === 書籍 === *小松亮太『タンゴの真実』(旬報社、2021年) {{ISBN2|978-4845116799}} *舳松伸男『タンゴ―歴史とバンドネオン』([[東方出版]]) {{ISBN2|978-4885912573}} *Hans-Peter Graf: ''Entwicklung einer Instrumentenfamilie: Der Standardisierungsprozeß des Akkordeons'', Verlag Peter Lang 1998, {{ISBN2|3-631-32841-9}} *Peter Fries: ''Bandoneon-Schule. Studien und Etüden. Musikpartitur deutsch.'' Apollo Paul Lincke, Berlin/Mainz 1935, 1950, 1994 (Repr.). *Klaus Gutjahr: ''Bandoneonspielen leicht gemacht. 2 Bde.'', Proyecto Bango, Berlin 1998. *Walter Pörschmann: ''Schule des modernen Bandoneonspiels. 2 Bde.'', Nr. 1540, 3. Auflage, Spezialverlag Pörschmann & Sohn, Leipzig 1925. === 映画 === *''Film zum Tanztheater Bandoneón''. Pina Bausch en Buenos Aires. Argentinien 1995; 45 Minuten; Regie: Milos Deretich, Gabriela Schmidt, Gabriela Massuh. Produktion: Goethe-Institut Buenos Aires. Musik: Astor Piazzolla. === ディスコグラフィー === *Astor Piazzolla: ''Konzert für Bandoneon''. Lothar Hensel, Johannes Goritzki u. Deutsche Kammerakademie Neuss. Capriccio 1996. CD 10565 *''Tres movimientos tanguísticos porteños''. Konzert für Bandoneon. Josep Pons und Orquestra de Cambra Teatre Lliure. Harmonia Mundi France 1996. HMC 901595 (CD) == 関連項目 == *[[タンゴ]] *[[コンサーティーナ]] *[[蛇腹楽器]] *[[アコーディオン]] *[[ダイアトニック]] *[[クロマティック]] == 外部リンク == {{Commons|Bandoneon}} === バンドネオンボタン配置 === *[http://www.bandoneonist.ch/pdf/keyb/AA_142.pdf Christian's Bandoneon Page - The keyboard system 142 voces] - バンドネオン 142 voces のボタン配置 === バンドネオンボタン配置掲載サイト === *[http://www.yk.rim.or.jp/~msda/ バンドネオンメモランダム] - 「ボタン」のリンクで鍵盤の配置も掲載 *[http://www.bandoneon-hartenhauer.de Bandoneonbau Uwe Hartenhauer Germany] - 鍵盤の配列(ドイツ語音名)も掲載 *[http://www.bandoneonist.ch/band '''Christian's Bandoneon Page'''] (English) *[http://www.bandomecum.com.ar '''Proyecto Bandomecum'''] Bandoneon's Portal Page (Spanish) === バンドネオン奏者のホームページ === 人名のアイウエオ順に配列。 *[http://www5c.biglobe.ne.jp/~kimiyo/ バンドネオン奏者 小川紀美代オフィシャルサイト] *[http://kyotanikoji.com/ 京谷弘司のホームページ] *[http://ryotakomatsu.net/ 小松亮太オフィシャルサイト] *[https://www.hayakawajun.com/ 早川純のホームページ] *[http://kazumamiura.com/ 三浦一馬のオフィシャルサイト] *[http://www.hiratakoji.com/ 平田耕治のオフィシャルサイト] === バンドネオンを所蔵している博物館 === * [http://www.klingenthal.de/DE/Musikstadt/Musik_im_Museum/Musik_im_Museum.html Musik-und Wintersportmuseum Klingenthal] ドイツ・ザクセン州・クリンゲンタールにあるMusic & Wintersports博物館(アングロ・コンサーティーナ、バンドネオン) * [http://www.harmonikamuseum-zwota.de Harmonikamuseum Zwota] ドイツ・ザクセン州・ズウォタ(クリンゲンタールの隣町)にあるhamonica博物館(アングロ・コンサーティーナ、バンドネオン) * [http://www.horniman.ac.uk Horniman Museum and Gardens] イギリス・ロンドンにあるホーニマン博物館(イングリッシュ・コンサーティーナ、アングロ・コンサーティーナ、バンドネオン) {{デフォルトソート:はんとねおん}} {{Normdaten}} [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:蛇腹楽器]] [[Category:タンゴ]]
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クセノポン
クセノポン(クセノポーン、古希: Ξενοφῶν、英: Xenophon、紀元前427年? - 紀元前355年?)は、古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。 クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。 クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、ディオゲネス・ラエルティオス著の『ギリシャ哲学者列伝』(第2巻第6章)に書かれている。 青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。 クセノポンは若いころ、ペルシア王アルタクセルクセス2世の弟キュロスが兄王を打倒すべく雇ったギリシア傭兵に参加した(紀元前401年~紀元前399年)。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。 傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。 『アナバシス』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻したスパルタに雇われることで終わる。クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王アゲシラオス2世に心酔していたことが分かる。始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、コリントス戦争が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、コロネイアの戦いにて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。 このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。その功績を讃えられ、アンタルキダスの和約によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタからオリュンピア近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次はコリントスに移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。 クセノポンの著作全体は、ギリシア語の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。 師ソクラテスの言行。
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クセノポンは、古代ギリシア・アテナイの軍人、哲学者、著述家。アテナイの騎士階級の出身で、ソクラテスの弟子(友人)の1人でもあった。クセノフォンとも。 クセノポンはグリュロスなる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは紀元前362年のマンティネイアの戦いでテーバイの名将エパメイノンダスを討ち取ったといわれる。
{{Redirect|クセノフォン|同名人物その他のクセノフォン(クセノポン)}} [[画像:Xenophon.jpg|200px|thumb|クセノポン]] '''クセノポン'''(クセノポーン、{{lang-grc-short|Ξενοφῶν}}、{{lang-en-short|Xenophon}}、[[紀元前427年]]? - [[紀元前355年]]?)は、[[古代ギリシア]]・[[アテナイ]]の[[軍人]]、[[哲学者]]、[[著述家]]。アテナイの[[騎士]]階級の出身で、[[ソクラテス]]の弟子(友人)の1人でもあった。'''クセノフォン'''とも。 クセノポンは[[グリュロス]]なる人物の息子で、(古代ギリシアでは父の名を息子につける慣習があるため)同名の息子がいる。息子のグリュロスは[[紀元前362年]]の[[マンティネイアの戦い (紀元前362年)|マンティネイアの戦い]]で[[テーバイ]]の名将[[エパメイノンダス]]を討ち取ったといわれる(パウサニアス, VIII. 11. 6; IX. 15. 5)。 == 生涯 == === ソクラテスとの出会い=== クセノポンがソクラテスの弟子になるにあたっては、次のようなことがあったと、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]著の『[[ギリシャ哲学者列伝]]』(第2巻第6章)に書かれている。 青年時代、アテナイの町を歩いていると、ソクラテスがやってきて、杖でクセノポンの行く手を阻んだ。ソクラテスは、青年クセノポンに尋ねる。「○○を手に入れるには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えると、ソクラテスは畳み掛けるように、さまざまな食料品についてこの質問を繰り返した。クセノポンがいちいちそれに答えると、最後にソクラテスはこう言った。「では、立派な人になるためには、どこに行けばよいか知っているか?」。クセノポンが答えられないでいると、ソクラテスはこう言った。「では、私のところに来て、勉強しなさい」。クセノポンは、この時以降、ソクラテスの弟子になったという。 === ペルシアへ === {{main|アナバシス}} クセノポンは若いころ、[[アケメネス朝|ペルシア]]王[[アルタクセルクセス2世]]の弟[[小キュロス|キュロス]]が兄王を打倒すべく雇ったギリシア[[傭兵]]に参加した([[紀元前401年]]~[[紀元前399年]])。クセノポンがこのことについてソクラテスに相談すると、ソクラテスは「神様にお伺いをたてろ」と言った。しかしクセノポンは「参加するにあたっては、どの神にお供えをすればいいか」とお伺いをたててしまい、その答えを聞いてしまった。クセノポンは参加したくてたまらなかったのであろう。ソクラテスはしかたなく「『参加するにあたっては』、とお伺いを立ててしまった以上、神様にうそはつけない」として、参加を許したという。しかし、このおかげでクセノポンは師の死(紀元前399年)に立ち会うことができなかった。 傭兵として参加した東征も、キュロスの戦死によって失敗に終わる。しかし、雇用主と指揮官の死去によってペルシア帝国の真ん中に放り出された傭兵部隊をまとめ、激しい攻撃や自然の猛威を防ぎながらも敵中を脱することができたのは、クセノポンの名采配あってこそだった。 === ペルシアからの帰還とその後=== 『[[アナバシス]]』はギリシア傭兵たちがまとめて小アジアに侵攻した[[スパルタ]]に雇われることで終わる。クセノポンは、そのままスパルタ軍の一員として活躍したようである。彼の著作『アゲシラオス』を見ると、スパルタ王[[アゲシラオス2世]]に心酔していたことが分かる。始めは、スパルタ軍と小アジアを支配するペルシア帝国との戦いであったが、ギリシア本土で反スパルタ陣営の反乱が生じ、[[コリントス戦争]]が勃発するにあたり、スパルタ軍の一員であるクセノポンも反スパルタ陣営との戦いに突入することになる。アテナイも反スパルタ陣営に在ったので、[[コロネイアの戦い]]にて、とうとうアテナイ軍を敵にまわして戦うはめになってしまった。 このため、クセノポンは当時の敵国であったスパルタに加担して、祖国に弓を引いたということで、アテナイを追放される。それでも、クセノポンはコリントス戦争をスパルタ側として戦い続けた。その功績を讃えられ、[[アンタルキダスの和約]]によってコリントス戦争が終結した後に、クセノポンはスパルタから[[オリュンピア]]近くのスキルスに荘園をもらって住み、悠々自適の生活を送りつつ、狩猟や著述にいそしんだという。その後情勢が変わってテーバイがスパルタを破ってスキルスを占領したためにクセノポンはスキルスを追われる事になる。だが、皮肉にも今度はテーバイの台頭を恐れたアテナイとスパルタが同盟を結んだために、クセノポンはアテナイ追放から解かれた。しかし、アテナイに帰国したかどうかは定かではなく、スキルスの次は[[コリントス]]に移住し、そこでその生涯を閉じた。没年は定かではない。 == 著作 == {{Works of Xenophon}} クセノポンの著作全体は、[[ギリシア語]]の模範テキストに多く用いられたため、ほぼ散逸すること無く現代に伝承されている。 ; ソクラテス関連 師ソクラテスの言行。 *『[[ソクラテスの思い出]]』(メモラビリア) *『[[ソクラテスの弁明 (クセノポン)|ソクラテスの弁明]]』 *『[[饗宴 (クセノポン)|饗宴]]』 *『[[家政論]]』(オイコノミコス) ; その他(長編) *『[[ギリシア史]]』 - [[トゥキュディデス]]の『'''[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]'''』の後を受け書かれ、ペロポネソス戦争の後半戦とアテナイに対するスパルタの勝利、スパルタによるギリシアの覇権奪取、そしてテバイの台頭によるスパルタの凋落を描き、[[紀元前362年]]の[[マンティネイアの戦い (紀元前362年)|マンティネイアの戦い]]を以って終わる。2著を合わせてペロポネソス戦争の記録が完成されたことで知られている。 *『[[アナバシス]]』 - [[小キュロス]]の[[ペルシア]]王への反乱軍への参加と撤退を描いた。 *『[[キュロスの教育]]』 - [[アケメネス朝]]ペルシアを建国した[[キュロス2世|大キュロス]]の生涯を描いた小説。 ; その他(短編/小品) *『[[ヒエロン (クセノポン)|ヒエロン――または僭主的な人]]』 - [[シュラクサイ]]の[[僭主]][[ヒエロン1世]]を登場人物とした対話篇。 *『[[アゲシラオス (クセノポン)|アゲシラオス]]』 - クセノポンの同時代人で友人でもあった[[スパルタ王]][[アゲシラオス2世]]の伝記。 *『[[ラケダイモン人の国制]]』 *『[[歳入論]]』 *『[[騎兵隊長について]]』 *『[[馬術について]]』 *『[[狩猟について]]』 ; 偽書 *『[[アテナイ人の国制 (クセノポン)|アテナイ人の国制]]』 == 日本語訳 == ;京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 *『ソクラテス言行録 1』 [[内山勝利]]訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、2011年 **『ソクラテスの思い出』(メモラビリア)を収録 *『ソクラテス言行録 2』 内山勝利訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2022年 **『家政管理論』、『酒宴』(饗宴)、『ソクラテスの弁明』を収録 *『ギリシア史 1・2』(ヘレニカ)、[[根本英世]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1998-99年 *『キュロスの教育』 [[松本仁助]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2004年 *『クセノポン小品集』 松本仁助訳、京都大学学術出版会〈[http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?isbn=9784876981182 西洋古典叢書]〉、2000年 **『ヒエロン―または僭主的な人』- 以下を収録 **『アゲシラオス』  **『ラケダイモン人の国制』 **『政府の財源』 **『騎兵隊長について』 **『馬術について』 **『狩猟について』 **『アテナイ人の国制』  ;文庫判 *『ソークラテースの思い出』 [[佐々木理]]訳、[[岩波文庫]]。訳文は古い(初版1953年、改版1974年) *『アナバシス』 [[松平千秋]]訳、岩波文庫、1993年。旧版は[[筑摩書房]]。[[読売文学賞]]受賞(第37回) *『ソクラテスの思い出』 相澤康隆訳、[[光文社古典新訳文庫]]、2022年 ;その他 *『ソクラテスの弁明・饗宴』(アポロギア・シュンポシオン) [[船木英哲]]訳、文芸社、2006年。 ** [[電子出版]]:SW出版、2016年<ref>書籍は絶版で、また書籍自体(2020年6月現在)は、希少性もあり古書値は数万円台で取引されていた。そのため訳者が、別の版元で、[[電子書籍]]を廉価(300円台)で出している。</ref> *『オイコノミコス : 家政について』 越前谷悦子訳、リーベル出版、2010年。 *『クセノポーンの馬術』 [[田中秀央]]・吉田一次訳(荒木雄豪編、新版:恒星社厚生閣)。最古の馬術書としての訳書。 == 参考文献 == *[[八木雄二]] 『裸足のソクラテス 哲学の祖の実像を追う』[[春秋社]]、2017年 **クセノポンの著作の重要箇所を訳・註釈し、ソクラテスの人となりを再現する試み。 *真下英信 『伝クセノポン「アテーナイ人の国制」の研究』[[慶應義塾大学出版会]]、2001年 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[パイドン]] - [[プラトン]] * [[アカデメイア]] * [[ギリシア哲学]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くせのほん}} [[Category:クセノポン|*]] [[Category:古代ギリシアの歴史家]] [[Category:古代ギリシアの哲学者]] [[Category:古代ギリシアの政治哲学者]] [[Category:紀元前の学者]] [[Category:古代アテナイの人物]] [[Category:ペルシア戦争の人物]] [[Category:傭兵]] [[Category:紀元前420年代生]] [[Category:紀元前350年代没]]
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ディオゲネス
ディオゲネス(希: Διογένης)は、ギリシャ語の男性名。
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ディオゲネスは、ギリシャ語の男性名。 古代ギリシア期の哲学者 ディオゲネス (アポロニア) (紀元前460年頃) ディオゲネス (犬儒学派) - シノペのディオゲネス。 ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀) - 『哲学者列伝』で知られる。 ロマノス4世ディオゲネス - 東ローマ皇帝
'''ディオゲネス'''({{lang-el-short|Διογένης}})は、ギリシャ語の男性名。 * [[古代ギリシア]]期の哲学者 ** [[ディオゲネス (アポロニア)]] ([[紀元前460年]]頃) ** [[ディオゲネス (犬儒学派)]] ([[紀元前412年]]? - [[紀元前323年]]?)- [[スィノプ|シノペ]]のディオゲネス。 ** [[ディオゲネス・ラエルティオス]](3世紀) - 『[[哲学者列伝]]』で知られる。 * [[ロマノス4世ディオゲネス]] - 東ローマ皇帝 {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:ていおけねす}} [[Category:ギリシャ語の男性名]]
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エピクロス
エピクロス(Επίκουρος、Epikouros、紀元前341年 – 紀元前270年)は、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。 現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。 エピクロスはアテナイの植民地であったサモス島に、紀元前341年に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。 当時アテナイ人の青年には2年間の兵役義務があり、紀元前323年エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時アカデメイアでクセノクラテスの、またリュケイオンでテオプラストスの講義を聞いたと言われる。 2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、アレクサンドロス大王の後継者ペルディッカスによって弾圧され、対岸の小アジアのコロポンに避難していた。コロポンの家族と合流した後、デモクリトス派の哲学者ナウシパネスの門下で学んだと思われる。 紀元前311年、エピクロスはレスボス島で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方のラムプサコスに移り、のちのエピクロス派を支える弟子たちを迎えた。 紀元前307年か紀元前306年には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「エピクロスの園」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、ディオゲネス・ラエルティオスは哲学者列伝の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。 エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。紀元前270年、エピクロスは72歳でこの世を去った。 「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟ヘルマルコスが引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、ガイウス・ユリウス・カエサルの時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。 エピクロスの自然思想は、原子論者であったデモクリトスに負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である原子と空虚から、世界が成り立つとする。 そうした存在を把握する際に用いられるのが感覚であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、認識に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。 こうした彼の認識論は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「死について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は感覚を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxiaアタラクシア)」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。 エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとしたストア派の反対である。 倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に快楽主義という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は帰結主義的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。 より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば友情、健康、食事、衣服、住居を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心(アタラクシア)」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性についてストア派から激しく批判されることになった。 このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「メノイケウス宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。 プラトンとアリストテレス以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙、主要教説を収録している。 岩波文庫に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、1888年にバチカンの写本から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。 ポンペイ近郊の遺跡ヘルクラネウムのパピルス荘からは、パピルス断片『自然について(英語版)』が出土した。 彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。
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エピクロスは、快楽主義などで知られる古代ギリシアのヘレニズム期の哲学者。エピクロス派の始祖である。 現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。
{{No footnotes|date=2017年8月}} [[File:Epikur.jpg|thumb|エピクロスの胸像]] '''エピクロス'''({{lang|el|'''Επίκουρος'''}}、Epikouros、[[紀元前341年]] – [[紀元前270年]])は、[[快楽主義]]などで知られる[[古代ギリシア]]の[[ヘレニズム]]期の[[哲学者]]。[[エピクロス主義|エピクロス派]]の始祖である。 現実の煩わしさから解放された状態を「快」として、人生をその追求のみに費やすことを主張した。後世、エピキュリアン=快楽主義者という意味に転化してしまうが、エピクロス自身は肉体的な快楽とは異なる精神的快楽を重視しており、肉体的快楽をむしろ「苦」と考えた。 == 生涯 == エピクロスは[[アテナイ]]の植民地であった[[サモス島]]に、[[紀元前341年]]に生まれた。エピクロスの両親は、アテナイ人入植者であり、父は教師であったが、家族の生活は貧しかった。 当時アテナイ人の青年には2年間の[[兵役]]義務があり、[[紀元前323年]]エピクロスも18歳の時、アテナイへ上京した。この時[[アカデメイア]]で[[クセノクラテス]]の、また[[リュケイオン]]で[[テオプラストス]]の講義を聞いたと言われる。 2年のアテナイ滞在後、エピクロスは家族のもとに戻るが、サモス島のアテナイ人入植者は、[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の後継者[[ペルディッカス]]によって弾圧され、対岸の[[小アジア]]の[[コロポン]]に避難していた。コロポンの家族と合流した後、[[デモクリトス]]派の哲学者[[ナウシパネス]]の門下で学んだと思われる。 [[紀元前311年]]、エピクロスは[[レスボス島]]で自身の学校を開くが迫害を受け、翌年には小アジア北方の[[ラムプサコス]]に移り、のちの[[エピクロス主義|エピクロス派]]を支える弟子たちを迎えた。 [[紀元前307年]]か[[紀元前306年]]には、エピクロスは弟子たちとともにアテナイへ移った。ここで郊外の庭園付きの小さな家を購入し、そこで弟子たちと共同生活を始めた。いわゆる「[[エピクロスの園]]」である。このエピクロスの学園は万人に開かれ、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]は[[ギリシア哲学者列伝|哲学者列伝]]の中で、この学園の聴講生として何人かの遊女の名前を記録している。 エピクロスはこの後、友人を訪ねる数度の旅行以外は、アテナイのこの学園で過ごした。[[紀元前270年]]、エピクロスは72歳でこの世を去った。 == その後 == 「エピクロスの園」は、レスボス島以来の高弟[[ヘルマルコス]]が引き継いだ。この学園は、エピクロス学派の拠点としてその後も長くつづき、[[ガイウス・ユリウス・カエサル]]の時代には第14代目の学頭が継承していたと言う。 == 学説 == === 自然思想と認識論 === エピクロスの自然思想は、[[原子論]]者であった[[デモクリトス]]に負っている。つまりそれ以上分割できない粒子である[[原子]]と[[真空|空虚]]から、世界が成り立つとする。 そうした存在を把握する際に用いられるのが[[感覚]]であり、エピクロスはこれは信頼できるものだとみなし、[[認識]]に誤りが生じるのはこの感覚経験を評価する際に行われる思考過程によるものだとした。 こうした彼の[[認識論]]は、後述する彼の倫理学説の理論的基盤となっている。たとえば彼は「[[死]]について恐れる必要はない」と述べているが、その理由として、死によって人間は[[感覚]]を失うのだから、恐怖を感じることすらなくなるのであり、それゆえ恐れる必要はないといった主張を行っている。このように「平静な心(ataraxia[[アタラクシア]])」を追求することを是とした彼の倫理学説の淵源は、彼の自然思想にあると言える。 === 倫理学 === {{快楽主義}} エピクロスは、幸福を人生の目的とした。これは人生の目的を徳として、幸福はその結果に過ぎないとした[[ストア派]]の反対である。 倫理に関してエピクロスは「快楽こそが善であり人生の目的だ」という考えを中心に置いた主張を行っており、彼の立場は一般的に[[快楽主義]]という名前で呼ばれている。ここで注意すべきは、彼の快楽主義は[[帰結主義]]的なそれであって、快楽のみを追い求めることが無条件に是とされるものではない点が重要である。すなわち、ある行為によって生じる快楽に比して、その後に生じる不快が大きくなる場合には、その行為は選択すべきでない、と彼は主張したのである。 より詳しく彼の主張を追うと、彼は欲求を、自然で必要な欲求(たとえば[[友情]]、[[健康]]、[[食事]]、衣服、[[住居]]を求める欲求)、自然だが不必要な欲求(たとえば大邸宅、豪華な食事、贅沢な生活)、自然でもなく必要でもない欲求(たとえば名声、権力)、の三つに分類し、このうち自然で必要な欲求だけを追求し、苦痛や恐怖から自由な生活を送ることが良いと主張し、こうして生じる「平静な心([[アタラクシア]])」を追求することが善だと規定した。こうした理想を実現しようとして開いたのが「庭園」とよばれる共同生活の場を兼ねた学園であったが、そこでの自足的生活は一般社会との関わりを忌避することによって成立していたため、その自己充足的、閉鎖的な特性について[[ストア派]]から激しく批判されることになった。 このようにエピクロスによる快楽主義は、自然で必要な欲望のみが満たされる生活を是とする思想であったが、しばしば欲望充足のみを追求するような放埒な生活を肯定する思想だと誤解されるようになった。しかしこうした生活については、エピクロス自身によって「[[メノイケウス]]宛の手紙」の中で、放埒あるいは性的放縦な享楽的生活では快がもたらされないとして否定的な評価が与えられている。 == 著作 == [[プラトン]]と[[アリストテレス]]以外の古代ギリシアの哲学者たちの著作は完全な形では現存せず、多くはさまざまな文献に引用された断片のみ後世に伝えられたが、エピクロスも例外ではない。ただし、古代ギリシア哲学者について主要な資料のひとつとなっている、[[ディオゲネス・ラエルティオス]]の『[[ギリシア哲学者列伝]]』は、多くの哲学者について、断片や風説を紹介するにとどまるのに、エピクロスについては最後の章を丸ごと当てて、エピクロスについての評伝と彼が書いたと伝えられる手紙、主要教説を収録している。 *{{仮リンク|ヘロドトス宛の手紙|en|Letter to Herodotus}} *ピュトクレス宛の手紙 *[[メノイケウス宛の手紙]] *主要教説 [[岩波文庫]]に訳された『エピクロス:教説と手紙』は、これに加え、[[1888年]]に[[バチカン]]の[[写本]]から発見された断片と、後の人々がエピクロスの言葉として引用した断片とをまとめて収録したものである。 [[ポンペイ]]近郊の遺跡[[ヘルクラネウム]]の[[パピルス荘]]からは、[[パピルス]]断片『{{仮リンク|自然について (エピクロス)|en|On Nature (Epicurus)|label=自然について}}』が出土した<ref>{{Citation|和書|title=西洋哲学史 II 「知」の変貌・「信」の階梯|last=近藤|first=智彦|year=2011|publisher=講談社〈講談社選書メチエ〉|editor=[[神崎繁]]・[[熊野純彦]]・[[鈴木泉]]|chapter=ヘレニズム哲学|ISBN=978-4062585156}}38f頁。</ref>。 == 思想の背景 == 彼は「隠れて生きよ」と述べたが、その背景にはマケドニアによる反体制者の処刑、政治活動や思想への弾圧などアテネの不穏な社会情勢があったと言われている。 == 語録== * 「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」 * 「われにパンと水さえあれば、神と幸福を競うことができる」 * 「われわれが快楽を必要とするのは、ほかでもない、現に快楽がないために苦痛を感じている場合なのであって、苦痛がない時には、我々はもう快楽を必要としない」 == 関連項目 == * [[楊朱]] * [[カール・マルクス]] * [[ジェレミ・ベンサム|ベンサム]] == 関連書籍 == * [[出隆]]、[[岩崎允胤]]訳 『エピクロス 教説と手紙』([[岩波文庫]], 1959)ISBN 4003360613。他にワイド版2002 * [[日下部吉信]] 『西洋古代哲学史』([[昭和堂]], 1981) ISBN 4812287111 * [[山本光雄]]、[[戸塚七郎]]訳編 『後期ギリシア哲学者資料集』([[岩波書店]], 1985) ISBN 4000007904 * [[ディオゲネス・ラエルティオス]] 『[[ギリシア哲学者列伝]](下)』(岩波文庫, 1994) ISBN 4003366336 == 脚注 == <references /> {{Normdaten}} {{デフォルトソート:えひくろす}} [[Category:エピクロス|*]] [[Category:紀元前3世紀の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの哲学者]] [[Category:古代ギリシアの心の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの倫理学者]] [[Category:古代ギリシアの認識論の哲学者]] [[Category:ヘレニズム時代の哲学者]] [[Category:エピクロス主義哲学者|*]] [[Category:道徳哲学者]] [[Category:科学哲学者]] [[Category:宗教研究の哲学者]] [[Category:古代アテナイの人物]] [[Category:宗教懐疑論の人物]] [[Category:サモス島]] [[Category:紀元前341年生]] [[Category:紀元前270年没]]
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芦奈野ひとし
芦奈野 ひとし(あしなの ひとし、1963年4月25日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横須賀市出身。 1994年にアフタヌーン四季賞春のコンテストで四季賞を受賞した『ヨコハマ買い出し紀行』が連載化してデビューし、代表作となった。 スクリーントーンと斜線で陰影を表現したシンプルな画面と、ノスタルジックでのんびりしつつも少し不思議な物語、セリフの少ない独特の間のとりかたを特徴とする。
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芦奈野 ひとしは、日本の漫画家。神奈川県横須賀市出身。 1994年にアフタヌーン四季賞春のコンテストで四季賞を受賞した『ヨコハマ買い出し紀行』が連載化してデビューし、代表作となった。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 芦奈野 ひとし | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1963|4|25}}<ref name="講談社">[http://kc.kodansha.co.jp/product?isbn=9784063301960 ヨコハマ買い出し紀行 芦奈野ひとし画集 著者紹介] 講談社コミックプラス</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[神奈川県]][[横須賀市]]<ref name="講談社"/> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1963|4|25|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1994年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[ヨコハマ買い出し紀行]]』 | 受賞 = {{ubl|[[アフタヌーン四季賞]](『ヨコハマ買い出し紀行』)|第38回[[星雲賞]]コミック部門(同)}} | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|http://www.example.org}}や[http://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''芦奈野 ひとし'''(あしなの ひとし、[[1963年]][[4月25日]]<ref name="講談社"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[横須賀市]]出身<ref name="講談社"/>。 [[1994年]]に[[アフタヌーン四季賞]]春のコンテストで四季賞を受賞した『[[ヨコハマ買い出し紀行]]』が連載化してデビューし、代表作となった<ref name="講談社"/>。 == 略歴 == * [[1994年]](平成6年) - 『ヨコハマ買い出し紀行』でアフタヌーン四季賞春のコンテスト四季賞を受賞<ref name="講談社"/>、「月刊アフタヌーン」で連載が始まる。 * [[1998年]](平成10年) - 『ヨコハマ買い出し紀行』がOVA化される。 * [[2000年]](平成12年) - 『ヨコハマ買い出し紀行』が第24回講談社漫画賞一般部門の候補作となる。 * [[2002年]](平成14年) - 『ヨコハマ買い出し紀行』が再びOVA化される。 * [[2006年]](平成18年) - 『ヨコハマ買い出し紀行』連載終了。 * [[2007年]](平成19年) - 7月、「月刊アフタヌーン」で『カブのイサキ』の連載が始まる。9月、『ヨコハマ買い出し紀行』が第38回[[星雲賞]]コミック部門を受賞<ref>[https://animeanime.jp/article/2007/09/02/2173.html 日本SF大会 星雲賞メディア部門「時をかける少女」受賞(9/2)] アニメ!アニメ! [[イード (企業)|イード]]</ref>。 * [[2012年]](平成24年) - 『カブのイサキ』連載終了。 * [[2014年]](平成26年) - 「月刊アフタヌーン」で『コトノバドライブ』の連載が始まる。 * [[2017年]](平成29年) - 『コトノバドライブ』連載終了。 == 作風 == [[スクリーントーン]]と斜線で陰影を表現したシンプルな画面と、ノスタルジックでのんびりしつつも少し不思議な物語、セリフの少ない独特の間のとりかたを特徴とする{{要出典|date=2018年3月}}。 == 作品リスト == === 漫画作品 === <!--*タイトル(発表年、書誌名、出版社、掲載号)--> *[[ヨコハマ買い出し紀行]](1994年 - 2006年、[[月刊アフタヌーン]]、[[講談社]]。単行本 全14巻、1995年 - 2006年、アフタヌーンKC 新装版 全10巻、2009年 - 2010年、アフタヌーンKC) *PositioN(1999年 - 2002年、[[アフタヌーンシーズン増刊]]、講談社) *峠(月刊アフタヌーン、2006年7月号 ※『ヨコハマ買い出し紀行』新装版 第10巻に収録) <!--:単行本には未収録。(ヨコハマ買い出し紀行以外のすべてにいえること)--> *Trbo Type S(2006年、[[えの素トリビュート]]、講談社) *くまばちのこと(月刊アフタヌーン、2007年2月号) *[[カブのイサキ]](2007年 - 2012年、月刊アフタヌーン、講談社。単行本 全6巻、2008年 - 2013年、アフタヌーンKC) *[[コトノバドライブ]](2014年 - 2017年、月刊アフタヌーン、講談社。単行本 全4巻) === 画集・その他 === *ヨコハマ買い出し紀行-ポストカードブック(1997年、講談社) *ヨコハマ買い出し紀行-芦奈野ひとし画集(2003年、講談社) === イラスト === *トリビュート to 宙のまにまに 草間望&羽鳥晴子(2009年、月刊アフタヌーン) - 2009年8月号に掲載。[[柏原麻実]]作の漫画作品『[[宙のまにまに]]』を題材にしたイラスト作品。 === インタビュー === *ヨコハマ買い出し紀行-ラジオドラマCD化記念([[ぱふ]]、[[雑草社]] 1996年3月号) *ヨコハマ買い出し紀行-OVA化記念(ぱふ、1998年7月号) *迷いに行きますので-芦奈野ひとし([[アウトライダー (雑誌)|アウトライダー]]、[[ミリオン出版]] 2002年1月号) *カラーイラストテクニック-芦奈野ひとし(ぱふ、2003年2月号) == 関連人物 == ; [[鶴田謙二]] : デビュー当時は鶴田謙二のような漫画家を目指したいと語っており、大きな影響を受けている{{要出典|date=2018年3月}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == {{節スタブ|date=2018年3月}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:あしなの ひとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:SF漫画家]]
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松田聖子
松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。 所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県久留米市荒木町出身。血液型A型。 日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、さまざまな面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。 1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当の街中に溢れかえった。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている(中森明菜は、歌番組でこの類の話題が出るとき、「聖子ちゃんのアルバム持ってますよ」とかわしていた。また、歌番組で『白いパラソル』を自己流の振り付けで歌ったり、アルバムで『瑠璃色の地球』をカバーしており、ライバル歌手としてではなく、切磋琢磨する同士としての認識が強かった)。 芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた。 出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという。 聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。 楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子・中山美穂・浅香唯・工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。 デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている。 私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。 1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。 デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている。 1962年3月10日、福岡県久留米市荒木町(当時の三潴郡筑邦町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員(厚生省事務官)の父親と、同県八女市の庄屋出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった。 出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代には柳河藩12万石(立花家)の家老格だった旧家。家紋は蒲池久憲以来の「左三巴」。8歳上の兄がいる。 幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた。久留米市立荒木小学校卒業後、久留米市立荒木中学校に入学しテニス部に所属。ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズの曲を歌っていたという。自宅と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となっていた。なお、1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している。中学時代はスチュワーデスか保母になりたいと思っていた。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという(デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。 1977年、4月8日、カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学する。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校が選ばれた。キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ。行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される。大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる。 高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組みピンクレディーの曲で出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった。 高校2年となる1978年、CBS・ソニーと集英社『セブンティーン』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」で、「大好きなミッキーマウスに会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会に出場した。 しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスターの前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の若松宗雄は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープを取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようとスカウトする決意をした。若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。このときのテープは若松が現在も保管しており、2022年に上梓された「松田聖子の誕生」でテープの写真が公開された。 法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。そんな状況が続き、父親もこのまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、1979年1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。 晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある平尾昌晃音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校(渡辺プロ系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している。支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした。若松は次にプロダクション尾木の尾木徹社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった。 1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い相澤秀禎社長のサンミュージックプロダクションであった。当初は相澤が支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る。 当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、翌年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を中退した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に予定されていた父親の東京出張に合わせて法子も上京する運びとなった。そして、父親と共に5日間ほど東京に滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。食事の帰り道、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。 1979年7月、堀越高等学校に転学する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。 相澤は朝のジョギングが日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを同行した。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな鎮守社に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという。 プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものだった(中山はそれを法子に告げていなかった)。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。 1979年10月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始。この時同番組のスポンサーの平凡パンチからは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの宮本幸一の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。 同月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子)。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している。 1980年1月末、NHK総合『レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。 注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とかコマーシャルソングとしての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節」で歌手デビューを果たした。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった。デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。 聖子の歌声はタイアップCMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色」、「夏の扉」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆(後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという。 デビュー日となる4月1日、日本テレビ『ズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に「裸足の季節」で初登場。7月3日、TBS『ザ・ベストテン』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い岩崎良美とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。 9月、「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。このシーンは70年代と80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した。 伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した。 小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。さらに作詞に松本隆を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美、大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理、来生たかお、原田真二、甲斐祥弘、南佳孝、林哲司、矢野顕子、玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供し、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録した。 デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキーな色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。元々B面だった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲だった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。 こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた。 社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている。 1985年1月、交際していた郷ひろみ(結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演していた神田正輝が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた結婚式は、石原プロの俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった。司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう...... よかった」とだけ応じる場面があった。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)。 妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。 1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。 1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルだった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech〜マラケッシュ〜」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった。 1989年6月、サンミュージックとの契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる。 11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。 1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven」、「THE RIGHT COMBINATION」、アルバム『Seiko』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「We Are Love」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「きっと、また逢える...」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える...」(1992年)、7位の「大切なあなた」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう」(1994年)、5位の「さよならの瞬間」(1996年)などをヒットさせた。 作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルだった。「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」のように、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親調への転調をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。 1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。 1996年発売の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう」が久々にチャート1位となる。自身初のミリオンセラーを記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期には「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。 1997年1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。 1999年のアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1』から2004年のアルバム『Sunshine』までは原田が作曲・プロディースを担当した。その間、海外進出第3弾となったアルバム『area62』もアメリカのインディーズレーベルで発売した。 2005年以降は、鳥山雄司プロディースのアルバム『fairy』を経て、2006年の『bless you』で再び小倉とのコンビとなるが、2007年の『Baby's breath』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。 2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした。 2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している。 2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『Bibbidi-Bobbidi-Boo』から起用された編曲家の野崎洋一が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。 2014年2月末、新事務所「felicia club」を設立し「ファンティック」から移籍。 2017年、新たな取り組みとして全編ジャズで構成されたアルバム『SEIKO JAZZ』を発売。2019年には第2弾となる『SEIKO JAZZ 2』を発売した。 2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている。 2021年12月18日、一人娘である長女・神田沙也加が札幌市内のホテルの高層階から転落して死去。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという。翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり、選出されていた『第72回NHK紅白歌合戦』も出場を辞退した。 同月21日、札幌市内の斎場に赴き、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った。 「ぶりっ子」という呼称は、当時の人気漫才コンビ春やすこ・けいこや山田邦子が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある。この言葉は当時の流行語にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。 上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送のNHK・朝の連続テレビ小説『あまちゃん』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった。 実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。 1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「聖子ちゃんず」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。 「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷店が行きつけだった。 1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時にワンレングスのロングヘアーになっている場合が多い。 1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。 1998年公開の映画『アルマゲドン』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだがカメオ出演を果たしている。 1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の『わたしが美しくなった100の秘密』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。 2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。 デビュー当時は同期である岩崎良美、浜田朱里らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。浜田朱里とは2022年4月に都内で久々に再会していた事を女性週刊誌で報道された。同じく同期の田原俊彦は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲だった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった近藤真彦とは昔から交流があり、1988年にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。 飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあったモト冬樹とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。小柳ルミ子はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも「ルミちゃん」と呼ばれて信頼されていたという。聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。 音源が存在したり、関係者が存在を証言している未発表曲として以下のものが確認されている。 歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大ヒットにより、第31回(1980年)に紅白歌合戦へ初出場。その後、第39回(1988年)まで9年連続で出演したが、次の第40回(1989年)は落選した。 それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、第71回(2020年)は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。第72回(2021年)は選出されたが、出場を辞退した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "松田 聖子(まつだ せいこ、1962年3月10日 - )は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県久留米市荒木町出身。血液型A型。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "日本を代表するアイドル歌手。1970年代を代表するアイドルだった山口百恵が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、さまざまな面で日本の大衆文化に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1970年代を代表するアイドル山口百恵が引退した年の1980年4月に「裸足の季節」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する1980年代を代表するアイドルとして活動した。類い稀な声質と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、トレードマークの「聖子ちゃんカット」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当の街中に溢れかえった。後に中森明菜と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている(中森明菜は、歌番組でこの類の話題が出るとき、「聖子ちゃんのアルバム持ってますよ」とかわしていた。また、歌番組で『白いパラソル』を自己流の振り付けで歌ったり、アルバムで『瑠璃色の地球』をカバーしており、ライバル歌手としてではなく、切磋琢磨する同士としての認識が強かった)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた三浦徳子は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた小田裕一郎から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "聖子を発掘してプロデュースしたCBS・ソニーディレクターの若松宗雄は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回デモを聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「Pineapple」は1982年10月1日には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。1983年発売のアルバム「ユートピア」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。マルチトラック・レコーダーには後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、CD時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート第1位を獲得した。これはピンク・レディーが当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた南野陽子・中山美穂・浅香唯・工藤静香の1位獲得記録の合計を上回るものであった。この記録は、CDバブルを迎えた2000年に破られるまで11年10か月間保持していた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「白いパラソル」以降は作詞に松本隆が起用され(19枚目のシングル『ハートのイアリング』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「青い珊瑚礁」から大村雅朗が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した。1980年代の作曲家は財津和夫、松任谷由実(『呉田軽穂』名義)、細野晴臣などニューミュージック系の作家が多かった。こうしたシンガーソングライターの起用について若松は、かつて自身が担当したキャンディーズと吉田拓郎のコラボの成功が念頭にあり、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた郷ひろみと破局。その後、すぐに映画で共演した神田正輝との交際が公となり、1985年6月に結婚。翌1986年10月1日に長女・沙也加を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「小さなラブソング」の作詞に始まり、「Canary」、「時間旅行」、「シェルブールは霧雨」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、1990年代以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組むシンガーソングライターとしての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、1990年にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。1996年には、小倉良と共作した「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」が初のミリオンセラーを記録し、自身最大のヒット曲(2022年現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『SEIKO JAZZ』、『SEIKO JAZZ 2』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『女性自身』や『婦人公論』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度アンケートでは常に上位にランクインした。2007年4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、NHKスペシャル『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『朝日新聞』の天声人語(4月15日付)にもその話題が取り上げられた。大宅壮一文庫創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の小沢一郎らを抑えて「日本の雑誌に最も頻繁に登場した著名人」とされている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1962年3月10日、福岡県久留米市荒木町(当時の三潴郡筑邦町)に、同県柳川市出身で社会保険事務所に勤める公務員(厚生省事務官)の父親と、同県八女市の庄屋出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は柳川城の城主だった蒲池氏第16代目蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の三男・蒲池統安の子孫であり、江戸時代には柳河藩12万石(立花家)の家老格だった旧家。家紋は蒲池久憲以来の「左三巴」。8歳上の兄がいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた。久留米市立荒木小学校卒業後、久留米市立荒木中学校に入学しテニス部に所属。ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズの曲を歌っていたという。自宅と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となっていた。なお、1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している。中学時代はスチュワーデスか保母になりたいと思っていた。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという(デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1977年、4月8日、カトリック系の久留米信愛女学院高等学校に入学する。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校が選ばれた。キリスト教研究部に入部し、聖書の勉強に勤しむ。行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される。大ファンの郷ひろみのコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "高校入学まもない春、福岡開催のテイチク新人歌手オーディションに応募し、桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回ホリプロタレントスカウトキャラバン九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組みピンクレディーの曲で出場した。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "高校2年となる1978年、CBS・ソニーと集英社『セブンティーン』が主催する『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸のディズニーランドにご招待」で、「大好きなミッキーマウスに会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に福岡市民会館で行われた九州地区大会に出場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスターの前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の若松宗雄は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープを取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようとスカウトする決意をした。若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。このときのテープは若松が現在も保管しており、2022年に上梓された「松田聖子の誕生」でテープの写真が公開された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。そんな状況が続き、父親もこのまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、1979年1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある平尾昌晃音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校(渡辺プロ系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している。支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした。若松は次にプロダクション尾木の尾木徹社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い相澤秀禎社長のサンミュージックプロダクションであった。当初は相澤が支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の中山圭子に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、翌年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を中退した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に予定されていた父親の東京出張に合わせて法子も上京する運びとなった。そして、父親と共に5日間ほど東京に滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。食事の帰り道、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1979年7月、堀越高等学校に転学する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "相澤は朝のジョギングが日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを同行した。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな鎮守社に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものだった(中山はそれを法子に告げていなかった)。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという姓名判断に委ねた結果、沖紘子の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1979年10月、日本テレビ系ドラマ『おだいじに』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある太川陽介とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、ニッポン放送『ザ・パンチ・パンチ・パンチ』のパーソナリティ「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始。この時同番組のスポンサーの平凡パンチからは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの宮本幸一の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "同月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしてもえくぼが出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの山田由紀子)。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1980年1月末、NHK総合『レッツゴーヤング』の中のユニット「サンデーズ」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の札幌ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、田原俊彦らと共に新メンバーに抜擢される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とかコマーシャルソングとしての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「裸足の季節」で歌手デビューを果たした。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、1970年代を代表するアイドル山口百恵の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった。デビュー時のキャッチフレーズは「抱きしめたい! ミス・ソニー」。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "聖子の歌声はタイアップCMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した。「エクボ」のCMシリーズではその後も「風は秋色」、「夏の扉」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の松本隆(後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "デビュー日となる4月1日、日本テレビ『ズームイン!!朝!』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末にはフジテレビ『夜のヒットスタジオ』に「裸足の季節」で初登場。7月3日、TBS『ザ・ベストテン』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い岩崎良美とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「青い珊瑚礁」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした。「青い珊瑚礁」では編曲に大村雅朗を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "9月、「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得(オリコンチャートでは最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「さよならの向う側」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。このシーンは70年代と80年代を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『第22回日本レコード大賞』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『第31回NHK紅白歌合戦』にもデビュー1年目で初出場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「聖子ちゃんカット」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "小田裕一郎による西海岸風のサウンドに始まり、2年目にはチューリップのリーダーである財津和夫を起用。さらに作詞に松本隆を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある大瀧詠一、松任谷由実、細野晴臣、佐野元春、尾崎亜美、大江千里といったニューミュージック系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても杉真理、来生たかお、原田真二、甲斐祥弘、南佳孝、林哲司、矢野顕子、玉置浩二等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供し、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりややハスキーな色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「赤いスイートピー」、「SWEET MEMORIES」などの代表曲が生まれた。元々B面だった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的なサントリー缶ビールのCM曲だった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」のクレジット表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「風は秋色」から1988年の26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」まで24曲連続でオリコン週間シングルチャート1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1985年1月、交際していた郷ひろみ(結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった。その会見からわずか数日後の2月には、映画『カリブ・愛のシンフォニー』で共演していた神田正輝が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた結婚式は、石原プロの俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く披露宴では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった。司会を務めたのは当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得したテレビ朝日は、約10時間に亘りこの模様を放送。ゴールデンタイムの平均視聴率は34.9%(ビデオリサーチ・関東地区)を記録した。2日後の6月26日の『夜のヒットスタジオ』では司会の芳村真理が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう...... よかった」とだけ応じる場面があった。その後に郷は「ハリウッド・スキャンダル」と「哀愁のカサブランカ」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『第36回NHK紅白歌合戦』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1986年10月1日、長女の沙也加を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『SUPREME』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『第28回日本レコード大賞』では「アルバム大賞」を受賞した。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『第37回NHK紅白歌合戦』にも出場した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1987年4月発売のシングル「Strawberry Time」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルだった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。1988年のアルバム『Citron』はデイヴィット・フォスターによるプロデュースで、シングルの「Marrakech〜マラケッシュ〜」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1989年6月、サンミュージックとの契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「ファンティック」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、絶縁状態で別れる事となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "11月、27枚目のシングル「Precious Heart」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1990年、海外進出となるシングル「All the way to Heaven」、「THE RIGHT COMBINATION」、アルバム『Seiko』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『SOUND OF MY HEART』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「We Are Love」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「きっと、また逢える...」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。1992年のアルバム『1992 Nouvelle Vague』から1998年のアルバム『Forever』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは小倉良との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える...」(1992年)、7位の「大切なあなた」(1993年)、12位の「輝いた季節へ旅立とう」(1994年)、5位の「さよならの瞬間」(1996年)などをヒットさせた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルだった。「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」のように、同主調や平行調、あるいは属調や下属調などの近親調への転調をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降したミラーボールの中から登場し会場を沸かせた。翌1995年の『第46回NHK紅白歌合戦』では、ピンクのドレスに熊のぬいぐるみを背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1996年発売の「あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう」が久々にチャート1位となる。自身初のミリオンセラーを記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期には「私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1997年1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌1998年5月に、6歳年下の歯科医師と2度目の結婚(2000年12月に離婚)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1999年のアルバム『永遠の少女』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『20th Party』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、原田真二も制作に加わり、同年のアルバム『LOVE & EMOTION VOL.1』から2004年のアルバム『Sunshine』までは原田が作曲・プロディースを担当した。その間、海外進出第3弾となったアルバム『area62』もアメリカのインディーズレーベルで発売した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2005年以降は、鳥山雄司プロディースのアルバム『fairy』を経て、2006年の『bless you』で再び小倉とのコンビとなるが、2007年の『Baby's breath』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の神田沙也加と音楽番組やバラエティ番組でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2006年、年末のディナーショーにてかつての所属事務所サンミュージック会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌2007年には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2011年には、女性アーティストからの楽曲提供は尾崎亜美以来26年ぶりとなる、竹内まりや作詞・作曲のシングル「特別な恋人」がオリコン14位となった。2012年6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。2015年には、デビュー35周年記念のシングルとして「時間の国のアリス」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂(松任谷由実)のコンビによる「永遠のもっと果てまで/惑星になりたい」が発売されてチャート11位となった。2016年にはYOSHIKI作詞・作曲のシングル「薔薇のように咲いて 桜のように散って」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『Bibbidi-Bobbidi-Boo』から起用された編曲家の野崎洋一が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "2014年2月末、新事務所「felicia club」を設立し「ファンティック」から移籍。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2017年、新たな取り組みとして全編ジャズで構成されたアルバム『SEIKO JAZZ』を発売。2019年には第2弾となる『SEIKO JAZZ 2』を発売した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2020年、デビュー40周年を迎え、アルバム『SEIKO MATSUDA 2020』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた財津和夫と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2021年12月18日、一人娘である長女・神田沙也加が札幌市内のホテルの高層階から転落して死去。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという。翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり、選出されていた『第72回NHK紅白歌合戦』も出場を辞退した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "同月21日、札幌市内の斎場に赴き、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "「ぶりっ子」という呼称は、当時の人気漫才コンビ春やすこ・けいこや山田邦子が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある。この言葉は当時の流行語にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送のNHK・朝の連続テレビ小説『あまちゃん』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "1980年代には聖子の髪型を真似た「聖子ちゃんカット」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「聖子ちゃんず」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『カリブ・愛のシンフォニー』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』四谷店が行きつけだった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時にワンレングスのロングヘアーになっている場合が多い。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1990年のアメリカでの歌手デビューのために徹底的に英語を学び、CNNのインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また2005年の台湾におけるコンサートなどでは北京語も披露している。1990年代後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1998年公開の映画『アルマゲドン』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだがカメオ出演を果たしている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1999年に公開されたキルスティン・ダンスト主演の『わたしが美しくなった100の秘密』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2010年には、アメリカの人気サスペンスドラマ『BONES』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "デビュー当時は同期である岩崎良美、浜田朱里らと仲が良かったとされ、特に堀越高等学校の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。浜田朱里とは2022年4月に都内で久々に再会していた事を女性週刊誌で報道された。同じく同期の田原俊彦は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲だった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった近藤真彦とは昔から交流があり、1988年にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあったモト冬樹とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。小柳ルミ子はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも「ルミちゃん」と呼ばれて信頼されていたという。聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "音源が存在したり、関係者が存在を証言している未発表曲として以下のものが確認されている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大ヒットにより、第31回(1980年)に紅白歌合戦へ初出場。その後、第39回(1988年)まで9年連続で出演したが、次の第40回(1989年)は落選した。", "title": "出演" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、第71回(2020年)は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。第72回(2021年)は選出されたが、出場を辞退した。", "title": "出演" } ]
松田 聖子は、日本のアイドル・歌手・シンガーソングライター・女優。 所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト2008年12月25日のデータより)。福岡県久留米市荒木町出身。血液型A型。
{{画像提供依頼|顔写真(できれば、全盛期と現在の2枚)|date=2023年3月|cat=芸能人}} {{Infobox Musician<!-- プロジェクト:音楽家を参照 --> | 名前 = 松田 聖子 | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = singer | 出生名 = 蒲池 法子(かまち のりこ)<ref name="ryote">{{Harvnb|両手|1980|p=109,234}}</ref> | 別名 = SEIKO(海外進出時などの名称) | 出生 = {{生年月日と年齢|1962|3|10}} | 出身地 = {{JPN}}<br />[[福岡県]][[久留米市]][[荒木町]] | 死没 = | 学歴 = [[堀越高等学校]]卒業 | ジャンル = {{Hlist-comma|[[歌謡曲]]<ref>{{Cite book |和書 |title=大人のためのハイレゾオーディオ完全マニュアル |url=https://books.google.co.jp/books?id=CAG5BwAAQBAJ&lpg=PA1&hl=ja&pg=PA76#v=onepage&q&f=false |publisher=[[学研プラス]] |year=2015 |page=76 |asin=B00VE4B67M }}</ref>|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=Alexey |last=Eremenko |title=Seiko Matsuda {{!}} Biography & History |class=artist |id=seiko-matsuda-mn0000367877/biography |accessdate=2021-01-13 }}</ref>|[[J-POP]]<ref name="allmusic" />|[[ジャズ]]<ref name="allmusic" />}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[歌手]]|[[アイドル]]|[[シンガーソングライター]]|[[俳優|女優]]}} | 担当楽器 = [[ボーカル]] | 活動期間 = [[1979年]] - | レーベル = {{Plainlist| * [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー→ソニーレコード]](1980年 - 1995年) * [[マーキュリー・レコード#マーキュリー・ミュージックエンタテインメント|マーキュリー・ミュージックエンタテインメント→キティMME]](1996年 - 2001年) * [[ソニー・ミュージックレコーズ]](2002年 - 2008年) * [[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルシグマ]](2009年 - 2014年) * [[ユニバーサルミュージック (日本)|EMI RECORDS]](2015年 - )}} | 事務所 = felicia club | 共同作業者 = {{Plainlist| * [[若松宗雄]](1980年 - 1989年、2000年 - 2003年) * [[大村雅朗]](1980年 - 1989年)<ref name="110107_seiko_memories">{{Cite web|和書|url=https://www.110107.com/s/oto/page/seiko_memories?ima=2614 |title=『SEIKO MEMORIES~Masaaki Omura Works~』スペシャルサイト |website=OTONANO |publisher=ソニー・ミュージックダイレクト |accessdate=2018-08-12}}</ref> * [[松本隆]](1981年 - 1988年、1999年、2015年) * [[小倉良]](1992年 - 1998年、2000年、2002年、2005年 - 2015年) * [[原田真二]](2000年 - 2004年) }} | 公式サイト = [https://www.seikomatsuda.co.jp/ 松田聖子オフィシャルサイト] }} '''松田 聖子'''(まつだ せいこ、[[1962年]][[3月10日]] - )は、[[日本]]の[[アイドル]]・[[歌手]]・[[シンガーソングライター]]・[[俳優|女優]]。 所属事務所はfelicia club(フェリシアクラブ)<ref name="meikan">{{Harvnb|名鑑|2016}}</ref>。身長160cm、体重42kg(身長、体重は公式サイト[[2008年]][[12月25日]]のデータより)。[[福岡県]][[久留米市]][[荒木町]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]A型。 == 概説== 日本を代表する[[アイドル]][[歌手]]。[[1970年代]]を代表するアイドルだった[[山口百恵]]が引退すると交代するようにデビュー、まもなくヒット曲を連発しただけではなく、髪型や、後には生き方など、様々な面で日本の[[大衆文化]]に大きな影響を与えるカリスマ的な存在となった。 [[1970年代]]を代表するアイドル[[山口百恵]]が引退した年の[[1980年]]4月に「[[裸足の季節]]」でレコードデビュー。伸びのある歌声で注目され、リリースしたレコードが次々とヒットを記録する[[1980年代]]を代表するアイドルとして活動した<ref name="naka2" />。類い稀な声質と「[[ぶりっ子]]」と言われるほどの可愛らしい仕草や容姿とが相まって人気を獲得し、[[トレードマーク]]の「[[聖子ちゃんカット]]」と呼ばれるヘアスタイルを模倣した若い女性たちが当の街中に溢れかえった<ref name="naka2" />。後に[[中森明菜]]と人気を争うようになり、当時を知るファンの間では音楽番組における順位争いや、「聖子と明菜のどちらが好きか」という議論が語り草となっている(中森明菜は、歌番組でこの類の話題が出るとき、「聖子ちゃんのアルバム持ってますよ」とかわしていた。また、歌番組で『白いパラソル』を自己流の振り付けで歌ったり、アルバムで『瑠璃色の地球』を[[カバー]]しており、ライバル歌手としてではなく、切磋琢磨する同士としての認識が強かった)。 芸能界が「百恵引退後のアイドル像」を模索する中で、百恵の「実人生とアイドル像を限りなく一致させる」方針とは正反対の「ドレスを着飾ったアイドルの原点」を演じるという方向性を取り、実際に衣装や容姿に自身の主張を通していた(『聖子ちゃんカット』も自身が行きつけの美容室で相談しながら作り上げたものである)。聖子のアイドル像は、百恵の徹底した「脱アイドル」以前にあった「アイドルの原点」を表現する事にあり、これが若者の支持を集めたのではないかと評されている。百恵が引退した1980年10月の時点で、デビュー半年後の聖子は既に「ポスト山口百恵」の筆頭として認知されるに至っていた<ref name="naka2"/><ref group="注釈">ただし聖子に対する「ポスト山口百恵」という表現はマスコミが行っているだけであり、本人もプロデューサーの若松もそのような考えは念頭になかったことを著書「松田聖子の誕生」で明らかにしている。そもそもレコード会社は同じCBS・ソニーであったが、百恵は企画制作2部の[[酒井政利]]が担当し、聖子は企画制作6部の若松が担当していた。</ref>。 出版プロデューサーの但馬オサムは「容姿だけでなく歌の表現力でも1980年代のアイドル歌手としては突出したものを持っていた」と評価しており、歌の下手なアイドルでも通用した「かわい子ちゃん歌手」の時代からの転換を象徴していた<ref name="shashin1">{{Harvnb|写真|2016|pp=43-45}}</ref>。声量に関しても特筆すべきものがあり、初期の楽曲の作詞を手掛けた[[三浦徳子]]は初めて聖子の歌声を聴いた時を振り返って「いくらでも声が出るんで驚きました。マイクなんかいらないくらい」とコメントしている。また、三浦が「母音をしゃくりあげるような歌い方」と表現する特徴的な歌唱法は同じく初期の楽曲の作曲を手掛けた[[小田裕一郎]]から受けたレッスンの影響によるもので、彼の歌い方にそっくりだという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/detail/shinyabin20191228_02.html |title=金田一秀穂×三浦徳子 アイドル歌謡の作詞術 |publisher=読むらじる |date=2019-12-28 |accessdate=2020-10-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201017145055/https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/detail/shinyabin20191228_02.html|archivedate=2020-10-17}}</ref>。 聖子を発掘して[[プロデュース]]した[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]]ディレクターの[[若松宗雄]]は、聖子の魅力について第一に声質を挙げ、透明感と強さ、その中に娯楽性とある種の知性を感じたと語っている。絶頂期は多忙なスケジュールから曲のレッスンを受ける時間はなく、レコーディング当日に楽曲を聴いて即収録に挑んでいた。プロデューサーからもとにかく勘が良いと言われており、2〜3回[[デモテープ|デモ]]を聞いただけで曲調を覚えて歌えるようになっていたという。若松は聖子の上げた売り上げを惜しみなく有能なスタッフや新技術へと投入し、オリジナルアルバム「[[Pineapple (アルバム)|Pineapple]]」は[[1982年]][[10月1日]]には世界初のCDとして発売された50タイトルの中に名を連ねている。[[1983年]]発売のアルバム「[[ユートピア (アルバム)|ユートピア]]」からデジタルレコーディングが行われるようになり、デジタルレコーディングの先駆者となった。[[マルチトラック・レコーダー]]には後にCDマスタリングのスタンダードとなるソニーのPCM-3324が導入され、[[コンパクトディスク|CD]]時代を見据えた準備を他のアイドルよりも数年早く開始していた。1983年には過去作品も含めて音質にこだわったCD、マスターサウンドLP、メタルマスターCTが発売された。 楽曲の記録としては、1980年の3枚目のシングル「[[風は秋色/Eighteen|風は秋色]]」から[[1988年]]の26枚目のシングル「[[旅立ちはフリージア]]」まで24曲連続で[[オリコンチャート|オリコン週間シングルチャート]]第1位を獲得した<ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子の80年代伝説Vol.5 松本隆や大滝詠一との出会いが、ポップス史に残る名盤を生んだ4thアルバム『風立ちぬ』〜前編〜 - 【GINZA】東京発信の最新ファッション&カルチャー情報 - COLUMN|url=https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-05/|website=GINZA|publisher=[[マガジンハウス]]|date=2020-10-20|accessdate=2021-05-08|language=ja}}</ref>。これは[[ピンク・レディー]]が当時持っていた9曲連続を大幅に塗り替える記録であり、1980年代当時「アイドル四天王」と呼ばれた[[南野陽子]]・[[中山美穂]]・[[浅香唯]]・[[工藤静香]]の1位獲得記録の合計を上回るものであった<ref>{{Cite journal |和書 |author= |title=特集 続・1位は続くよどこまでも 連続首位獲得記録―アーティスト編 |publisher=[[オリコン・エンタテインメント|オリジナルコンフィデンス]] |journal=ORICON WEEKLY |issue=1989年11月6日号 |number= |pages=22}}</ref><ref group="注釈">『[[Precious Heart]]』リリース時点。</ref>。この記録は、[[CD不況#CDバブル|CDバブル]]を迎えた[[2000年]]に破られるまで11年10か月間保持していた。 デビュー初期の曲は、主として三浦徳子の作詞・小田裕一郎の作曲によるものだったが、6枚目のシングル「[[白いパラソル]]」以降は作詞に[[松本隆]]が起用され(19枚目のシングル『[[ハートのイアリング]]』まで)、作曲家の選択も含め松本のプロデュース色が濃くなっていった。編曲は2枚目のシングル「[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]」から[[大村雅朗]]が主体となり、アルバム曲を含めた多くの楽曲を担当した<ref name="110107_seiko_memories"/>。1980年代の作曲家は[[財津和夫]]、[[松任谷由実]](『呉田軽穂』名義)、[[細野晴臣]]など[[ニューミュージック]]系の作家が多かった。こうした[[シンガーソングライター]]の起用について若松は、かつて自身が担当した[[キャンディーズ]]と[[吉田拓郎]]の[[コラボレーション#音楽|コラボ]]の成功が念頭にあり<ref name="ginzamag">{{Cite interview|和書|subject=水原空気|subject2=若松宗雄|url=https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|title=松田聖子の80年代伝説Vol.8 乙女心がおしゃれなWジャケットにギュッと詰まった6thアルバム『Candy』|date=2021-01-23|work=ginzamag.column|publisher=[[マガジンハウス]]|accessdate=2018-02-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210123132018/https://ginzamag.com/column/seikomatsuda-80s-08/|archivedate=2021-01-23}}</ref>、「独創的なシンガーソングライターとアイドルのコラボは予想を超えた新しい世界を生み出す」という判断からだったと述べている<ref name="ginzamag"/>。 私生活では、デビュー前から憧れの存在であり数年にわたる交際の末に結婚間近とまで言われていた[[郷ひろみ]]と[[破局]]。その後、すぐに映画で共演した[[神田正輝]]との交際が公となり、[[1985年]]6月に結婚。翌[[1986年]]10月1日に長女・[[神田沙也加|沙也加]]を出産するなど、話題は尽きなかった。母となり大きな転換期を経た後も変わらずアイドル歌手としてヒットを続けたため、「ママドル」という呼称も生まれた。 1980年代から作詞や作曲を行うことが時折あり、「[[ユートピア (アルバム)#収録曲|小さなラブソング]]」の作詞に始まり、「[[Canary (アルバム)#収録曲|Canary]]」、「[[SUPREME#収録曲|時間旅行]]」、「[[Strawberry Time (アルバム)#収録曲|シェルブールは霧雨]]」などを作曲。この経験が後のセルフプロデュースにつながっていき、[[1990年代]]以降は作詞・作曲やアルバムのプロデュースに自ら取り組む[[シンガーソングライター]]としての活動を展開していった。その一環として海外での音楽活動も意欲的に行っており、[[1990年]]にSeiko名義で全米デビューを果たした後も日本でのポップス路線と並行してたびたびリリースを続けていた。[[1996年]]には、[[小倉良]]と共作した「[[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう|あなたに逢いたくて〜Missing You〜]]」が初の[[ミリオンセラー]]を記録し、自身最大のヒット曲([[2022年]]現在)となった。歌手として円熟味が増した近年では、海外進出時に出会った著名な音楽家との交流を元に全編英語詞のジャズアルバム(『[[SEIKO JAZZ]]』、『[[SEIKO JAZZ 2]]』)をリリースするなど、新たな一面も見せている。 デビューから40年あまり、過激なプライベート報道や様々なバッシングに遭いながらもなお「アイドル」と呼ばれ続けるその活動に敬意を表して「永遠のアイドル」と称されることもあり、『[[女性自身]]』や『[[婦人公論]]』その他の雑誌、TVなどのメディアにおいて「生き方に憧れる女性有名人」「輝いている女性有名人」「スターだと思う有名人」「永遠のアイドルだと思う有名人」などの好感度[[アンケート]]では常に上位にランクインした。[[2007年]]4月9日、「松田聖子的生き方」とそれに共感する同世代の女性たちに焦点を当てたドキュメンタリー番組、[[NHKスペシャル]]『松田聖子 女性の時代の物語』が放送され、放送後も『[[朝日新聞]]』の[[天声人語]](4月15日付)にもその話題が取り上げられた。[[大宅壮一文庫]]創設以来の人名索引総合ランキングでは「松田聖子」が1位(2020年10月)となっており、2位の[[小沢一郎]]らを抑えて「日本の[[雑誌]]に最も頻繁に登場した著名人」とされている<ref>{{Cite web|和書|title=人名索引総合ランキング|url=https://www.oya-bunko.or.jp/magazine/ranking_year/tabid/126/Default.aspx|website=大宅壮一文庫|accessdate=2021-10-29}}</ref>。 == 経歴 == === 生い立ち === [[1962年]][[3月10日]]、[[福岡県]][[久留米市]][[荒木町]](当時の[[三潴郡]][[筑邦町]])に、同県[[柳川市]]出身で[[社会保険事務所]]に勤める[[国家公務員|公務員]]([[厚生省]][[事務官]])の父親と、同県[[八女市]]の[[庄屋]]出身の母親の長女として、母方の伯母が院長夫人だった高良台病院で生まれた。難産で生まれた時には仮死状態であった<ref name="naka1">「第一章 夜明け前――1972年~79年」{{Harvnb|中川|2014|pp=18-65}}</ref>。 出生名は蒲池 法子(かまち のりこ)。生家は[[柳川城]]の城主だった[[蒲池氏]]<ref>{{Cite book|和書|title=戦国大名県別国盗り物語|year=2015|publisher=PHP研究所|page=164|author=八幡 和郎|isbn=9784569763392}}</ref>第16代目[[蒲池鑑盛]](蒲池宗雪)の三男・[[蒲池統安]]の子孫であり、[[江戸時代]]には[[柳河藩]]12万石<ref>{{Cite web|和書|title=立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 {{!}} Q&A|url=http://www.muneshige.com/faq.html|website=|accessdate=2021-12-29}}</ref>([[立花氏|立花家]])の[[家老]]格だった[[旧家]]<ref>福岡県立柳川古文書館</ref><ref name="oshita">{{Harvnb|大下|1989}}</ref><ref>[http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/044tamatsuru.html 玉鶴姫の意地]。詳しくは「[[蒲池氏#子孫たち(大木喬任、広津和郎、宇都宮徳馬、松田聖子他)]]」を参照</ref>。[[家紋]]は[[蒲池久憲]]以来の「左三巴」{{refnest|group="注釈"|神田正輝との結婚披露宴の際に身に付けていた緞子織りの白無垢に左三巴紋が記されていた事がテレビでも放送された。}}。8歳上の兄がいる<ref name="naka1"/>。 幼少期太っていた法子は、「ブタまんじゅう」と呼ばれてからかわれていた<ref name="naka1"/>。[[久留米市立荒木小学校]]卒業後、[[久留米市立荒木中学校]]に入学しテニス部に所属。ラケットを忘れた後輩にそっと自身のラケットを差し出す優しさがあり、歌うことが好きで、ラケットのグリップをマイク代わりにテニスコートでキャンディーズの曲を歌っていたという<ref>2021年12月27日読売新聞(大阪本社)朝刊9面、投書「先輩の聖子さん悲しみに胸痛む」</ref>。自宅と同校が隣接しているため、油断して遅刻の常習者となっていた。なお、1997年には同校創立50周年記念に正門を寄贈している。中学時代は[[客室乗務員|スチュワーデス]]か[[保育士|保母]]になりたいと思っていた<ref name="naka1"/>。母親は二重まぶたのはっきりした目なのに自分は一重まぶただったため、母親の目が羨ましかったという<ref name="naka1"/>(デビュー後の雑誌インタビューによっては、好きな自分の体の部位として目を挙げた事もある)。 === 高校時代 - 歌手志望へ === [[1977年]]、<!--福岡屈指の進学校[[福岡県立八女高等学校|県立八女高校]]を受験するも不合格となり{{要出典|date=2019-05}}、-->[[4月8日]]、[[カトリック教会|カトリック]]系の[[久留米信愛中学校・高等学校|久留米信愛女学院高等学校]]に入学する<ref name="naka1"/>。ジャンパースカートとボレロの制服に憧れ、父親も娘を淑やかなお嬢さんに育てたいという方針でこの高校が選ばれた<ref name="naka1"/>。[[キリスト教]]研究部に入部し、[[聖書]]の勉強に勤しむ<ref name="naka1"/>。行事の度に皆の前で聖書を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される<ref name="naka1"/>。大ファンの[[郷ひろみ]]のコンサートが福岡で行われる度に観に行き、歌手に憧れるようになる<ref name="naka1"/>。 高校入学まもない春、福岡開催の[[テイチク]]新人歌手オーディションに応募し、[[桜田淳子]]の「[[気まぐれヴィーナス]]」を歌うが二次審査で落選。8月には第二回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]]九州大会にも応募するが書類選考の第一次審査で落選<ref name="naka1"/>。この時一緒に応募した友人は一次審査に合格したものの大会直前に扁桃腺手術をして歌えなくなったため、法子(聖子)が急遽フォロー役でコンビを組み[[ピンクレディー]]の曲で出場した<ref name="naka1"/>。2人は最終審査の5組に残ったが優勝できなかった<ref name="naka1"/>。 高校2年となる[[1978年]]、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]]と[[集英社]]『[[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]]』が主催する『[[ミス・セブンティーンコンテスト]]』九州地区大会に再び桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」を録音したテープを送り予選合格。歌手になりたいという動機以外の応募理由には、優勝特典が「アメリカ西海岸の[[ディズニーランド]]にご招待」で、「大好きな[[ミッキーマウス]]に会える」という事と、全国大会のゲスト審査員が憧れの郷ひろみであったからである。そして4月に[[福岡市民会館]]で行われた九州地区大会に出場した<ref name="naka1"/>。 しかし、両親には内緒で応募していたため、コンテスト当日は「大好きな歌手に会いに行く」と嘘をつき母親に会場まで車で送ってもらった。母親は法子と別れて買い物に行くが、買い物を終えて会場に入ってみると我が子がステージ上で歌っていて驚いたという。どうせすぐに負けるだろうと思い見ていたが、結果はなんと優勝で全国大会への切符をつかむ事となった。父親にバレると絶対に叱られると考え、帰宅後は賞品のトロフィーを物置に隠し、花束は母親が結婚式帰りの友人に貰った事にして誤魔化した。ただ、全国大会までには話しておかなければと、数日後に打ち明けたが、公務員で厳格な父親は娘の芸能界入りに断固反対。今まで1度も手を挙げた事がない父親が初めて法子の顔をぶった。学校でも「規則なので許されない。どうしても出たいなら退学するしかない」と言われ、シスターの前で泣いたという。結局全国大会は辞退する事となった。一方、決戦大会を視察してこれといった逸材を発見できなかったCBSソニー企画制作部の[[若松宗雄]]は、コンテスト事務局に問い合わせて各地区の出場者のデモテープを取り寄せた。プロフィールも写真も無い音声だけの資料を100名分ほどチェックしていた時、九州地区大会で優勝した法子の歌声に衝撃を受け、「この子は絶対に売れる」と確信して別件でプロデビューさせようと[[スカウト (勧誘)|スカウト]]する決意をした<ref name="naka1"/>。若松は法子の歌声を初めて聴いた時のショックを「まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃でした」と語っている。このときのテープは若松が現在も保管しており、[[2022年]]に上梓された「松田聖子の誕生」でテープの写真が公開された。 法子の芸能界入りは、学校の規則や父親の反対により既に断念されていたが、諦めきれなかった若松は久留米の実家まで足を運び父親に直談判した。しかし、父親の信念は固く、ここから半年以上の間、法子と若松は父親を説得し続ける事になる。若松が何度も娘と連絡を取り合っている事に見兼ねた父親が、自分を介さない電話のやり取りをやめるよう若松に告げたため、事務所の女性スタッフに友人の振りをして電話を掛けてもらったり、法子の冬休みに東京の親戚の家に行くという口実で直接会うなど工夫を重ねた。法子も近況報告と「絶対に歌手になる」という強い想いを綴った手紙を毎月のように若松へ送り、遂には「お父さんが認めてくれなければ家を出ます」と宣言した。そんな状況が続き、父親もこのまま否定し続けるのは娘にとって良くないのではないかとの考えに至り、「3年で芽が出なければ帰ってくる」という約束でようやく承諾を得る事ができた。そして、[[1979年]]1月中頃、父親は若松を呼び出し、法子と両親の4人での食事の場で「若松さんに預けます。あなたに預けますから責任を持って預かって下さい」と念を押して託した。 晴れて歌手を目指す事が決まった法子は、福岡にある[[平尾昌晃]]音楽学校に週2回通い、稽古を積んだ。当時の様子として平尾は、「歌手になる事を夢見る子は多いが、その先に自分の成功をイメージできている子は珍しい」と感心したという<ref>{{Cite web|和書|title=平尾昌晃氏、岩崎良美らが見た「松田聖子、誕生の瞬間」|url=https://www.news-postseven.com/archives/20200414_1555624.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン|accessdate=2021-10-31}}</ref>。若松は所属事務所を探す目的で東京音楽学院九州統括福岡校([[渡辺プロ]]系列)の支部長に声を掛け、法子を紹介している<ref name="naka1"/>。支部長も法子を気に入り、本社にその旨を伝えていたが、東京の渡辺プロ本社は送られてきたデモテープをあまり重視せず、「この娘はガニ股でテレビ映りが良くない。舞台でも問題がある」との理由で、スタイルの悪いO脚の法子の写真を見て不採用とした<ref name="naka1"/><ref>{{Harvnb|軍司|1992|pp=299-300}}</ref>。若松は次に[[プロダクション尾木]]の[[尾木徹]]社長に話を持ちかけたが、これも不採用となった<ref group="注釈">尾木プロは1980年に[[浜田朱里]]をデビューさせる予定があったため。奇しくも松田聖子と浜田朱里は堀越時代の同級生であり、親友でもある。</ref>。 === 上京 - 芸能界入り === 1979年5月、事務所探しに奔走する若松が次に声をかけたのが面倒見の良い[[相澤秀禎]]社長の[[サンミュージックプロダクション]]であった。当初は相澤が支持していた新人アイドル候補がいた事もあり一旦は断られるも、何度か交渉を行った結果、翌月に面接を行う事が決まる。6月、相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われた。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至る<ref name="naka1"/><ref name="ninki">{{Harvnb|相澤|1988}}</ref>。 当時のサンミュージックは、新人アイドルとして売り出す予定の[[中山圭以子|中山圭子]]に注力していたため、法子がすぐに歌手デビューする予定はなく(翌年にはその方針が変わる事となる)、翌年3月に高校を卒業してから来るのが自然な流れであった。そうして一旦は福岡に戻ったが、1日でも早く歌手になりたかった法子は単身で相澤の自宅を訪れ、高校を[[退学#中途退学と満期退学|中退]]した事、そして歌手への想いを伝えた。その行動力と熱意に押された相澤は法子を自宅に下宿させる事にした<ref name="naka1"/>。若松へは母親から電話があり、なるべく早めに動いた方が運気が良い気がするという本人の話を受けて、7月に予定されていた父親の東京[[出張]]に合わせて法子も[[上京]]する運びとなった。そして、父親と共に5日間ほど東京に滞在して父親だけが帰郷する日、若松を含めた3人はレストランで最後の食事をした。食事の帰り道、法子は寂しさのあまり泣きだしてしまい、見かねた父親が「そんなに悲しいなら一緒に帰ろう」と薦めるが、両親の反対を押し切ってまで来たのだから頑張らねばという想いから、泣きながら「帰りません!」と強い口調で返したという。 1979年7月、[[堀越高等学校]]に[[転学]]する為、面接を受ける事となる。その際、教室の外で待っていた付き添いの若松に、中から出てきた面接官の教師が「あの子本当に歌手としてやっていけるんですかね?」と尋ねてきたという。法子の潜在的な能力を理解していた若松は一言「大丈夫です」とだけ返した。面接の結果は合格で転入が決まった。急な転校によって友人らと離れてしまったので、翌月2日間だけ休みを貰って帰郷し、親しい友人らによって法子のお別れ会が行われた。 相澤は朝の[[ジョギング]]が日課であり、下宿するタレントも一緒に走るのが恒例となっている。法子も毎朝5時半に起床し、約30分のコースを同行した。そこでタレントとしての心構えや一般常識、マナーから人との関わり方まで色々な事を教えられた。道中、小さな[[鎮守神#鎮守社|鎮守社]]に寄って手を合わせるのだが、法子はいつも「毎日、誰よりも厳しいレッスンを積んで努力します」と声に出して拝んでいたという<ref>{{Cite web|和書|title=サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会|url=https://www.news-postseven.com/archives/20130530_191330.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン|accessdate=2021-10-31}}</ref>。 プロダクションが用意した「新田明子」と「松田聖子」という芸名から、法子は後者を選んだ<ref name="naka1"/>。ちなみに「新田明子」は中山圭子の為に考えられてボツになったものだった(中山はそれを法子に告げていなかった)<ref name="naka1"/>。当初は「新田明子」でほぼ決定の状態であったが、あまりパッとしない印象であり本人も気に入らなかったため、社長の相澤が当時凝っていたという[[姓名判断]]に委ねた結果、[[沖紘子]]の名付けで「松田聖子」に決まったという説もある。 1979年10月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系ドラマ『[[おだいじに]]』のレギュラー出演が決定し、女優デビューする事となる。名前を憶えてもらうため、芸名の「松田聖子」がそのまま役名となった<ref name="naka1"/>。ドラマ内でサンミュージックの先輩でもある[[太川陽介]]とのキスシーンがあったが、聖子にとってはそれがファーストキスであったため、シーンを撮り終えた途端に聖子が布団を被って泣き出し、相手役の太川は複雑な心境になったという。11月、[[ニッポン放送]]『[[ザ・パンチ・パンチ・パンチ]]』の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]「パンチ・ガール」のオーディションに合格し、翌年1月からレギュラー出演開始<ref name="naka1"/>。この時同番組のスポンサーの[[平凡パンチ]]からは「スレンダーなので、グラビア映えしない」として一度はノーが出されたが、同番組ディレクターの[[宮本幸一]]の強い説得で、平凡パンチの担当部長・編集長とも最後には折れて、同番組への出演が叶ったということがあった<ref>[[亀渕昭信]]『秘伝オールナイトニッポン 奇跡のオンエアはなぜ生まれたか』([[小学館新書]]、2023年4月、ISBN 9784098254477)p.90 - 92「第3章 宮本幸一 思い込みと『推し』の力」</ref>。そしてこの頃、歌手デビュー予定のタレントという事で「歌わない歌手 デビュー」と紙面に取り上げられた事がある。 同月、[[資生堂]]の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションを受け、一次審査の面接、二次審査の水着での踊りに合格するが、最終審査のテスト撮影でどうしても[[えくぼ]]が出なかったため不合格となる(選ばれたのは、同じく新人タレントの[[山田由紀子]])<ref name="naka2"/>。これ以前にもアイスクリームのCM出演オーディションを受け落選している<ref name="naka2"/>。 [[1980年]]1月末、[[NHK総合]]『[[レッツゴーヤング]]』の中のユニット「[[レッツゴーヤング#サンデーズ|サンデーズ]]」のメンバーオーディションを受ける。本来はドラマ『おだいじに』の[[札幌市|札幌]]ロケがこの日まで予定されていたが、1日早く終わったおかげで受ける事ができた。そして翌月、[[田原俊彦]]らと共に新メンバーに抜擢される。 === 歌手デビュー - 1980年代を代表するアイドルへ === 注力中の所属アイドルの売り上げ不振に頭を悩ませていた相澤は、聖子が出演不合格となった「エクボ」のCM制作サイドに陳情。それによって何とか[[コマーシャルソング]]としての起用が1980年2月に決定し、4月1日にシングル「[[裸足の季節]]」で歌手デビューを果たした<ref name="naka2"/>。なお、相澤は聖子にビジュアル面を期待しておらず、もっぱら歌だけでやって行こうと考えていた為、出演させなかったとも語っている<ref name="ninki"/>。上述のような様々な要因が重なり偶然にも、[[1970年代]]を代表するアイドル[[山口百恵]]の引退という、時代の転換期である1980年にデビューする事となった<ref name="naka2"/>。デビュー時の[[キャッチフレーズ]]は「'''抱きしめたい! ミス・ソニー'''」。 聖子の歌声は[[タイアップ]]CMによってテレビで頻繁に流れたものの、当初は顔と名前の浸透度が低く、CMに出演した山田由紀子が歌っていると勘違いする人も多かった。山田と2人で行ったCMイベントのサイン会でも聖子の前には誰も並ばず、「あの娘は誰?」という目で見られ悔しい思いをしたと、後に発言している。それから程なくしてテレビの歌番組などに聖子が登場するようになると、その容姿と声量のある魅力的な声が相まって瞬く間に人気が沸騰した<ref name="naka2"/>。「エクボ」のCMシリーズではその後も「[[風は秋色/Eighteen|風は秋色]]」、「[[夏の扉]]」などでも歌唱のみの起用が続いた。テレビCMで流れる聖子の歌声を初めて耳にした作詞家の[[松本隆]](後に聖子の楽曲の作詞を手掛ける事になる)は、「彼女の声の質感と自分の言葉がすごく合うような気がした」と直感的に感じたという<ref name="naka2"/>。 デビュー日となる4月1日、日本テレビ『[[ズームイン!!朝!]]』に出演し、CBSソニー社員らの声援をバックに告知を行う。同月、NHK『レッツゴーヤング』に「サンデーズ」のメンバーとしてレギュラー出演開始、かつて音楽学校でレッスンを受けた平尾昌晃と共演する。4月末には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[夜のヒットスタジオ]]』に「裸足の季節」で初登場。[[7月3日]]、[[TBSテレビ|TBS]]『[[ザ・ベストテン]]』にも「スポットライト」コーナーに第11位として仲の良い[[岩崎良美]]とともに初登場した。8月には2枚目のシングル「[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]」で、『ザ・ベストテン』に第8位で初ランクした<ref name="naka2"/>。「青い珊瑚礁」では編曲に[[大村雅朗]]を初めて起用し、以後大村は同郷の聖子を長年支えることになる。 9月、「青い珊瑚礁」で『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得([[オリコンチャート]]では最高第2位)。2週連続1位となった9月25日の放送では、「[[さよならの向う側]]」で10位にランクインした山口百恵と初共演した。このシーンは[[1970年代の日本|70年代]]と[[1980年代の日本|80年代]]を代表するアイドルの最初で最後の共演となった。同年10月発売の3枚目のシングル「風は秋色」で初めてオリコン第1位を獲得。年末の『[[第22回日本レコード大賞]]』では「青い珊瑚礁」で新人賞を受賞。『[[第31回NHK紅白歌合戦]]』にもデビュー1年目で初出場した<ref name="naka2"/>。 伸びのある透き通った歌声と「ぶりっ子」と言われるほどの可愛らしい振る舞いによって、その人気はうなぎ登りとなった。セミロングのふわっとした女の子らしいヘアスタイルは「[[聖子ちゃんカット]]」と呼ばれて全国の若い女性の間で大流行し、翌年1981年の年末に突然、聖子がショートカットになると今度はショートカットが流行り出した<ref name="naka2"/>。 [[小田裕一郎]]による西海岸風のサウンドに始まり、2年目には[[チューリップ (バンド)|チューリップ]]のリーダーである[[財津和夫]]を起用。さらに作詞に[[松本隆]]を迎え、「聖子プロジェクト」とも呼ばれる若松・松本・大村を中心とした強力なプロデュース体制が成立する。松本や大村は交流のある[[大瀧詠一]]、[[松任谷由実]]、[[細野晴臣]]、[[佐野元春]]、[[尾崎亜美]]、[[大江千里 (アーティスト)|大江千里]]といった[[ニューミュージック]]系のミュージシャンを次々とシングルの作曲に起用していった。アルバムにおいても[[杉真理]]、[[来生たかお]]、[[原田真二]]、[[甲斐祥弘]]、[[南佳孝]]、[[林哲司]]、[[矢野顕子]]、[[玉置浩二]]等、錚々たる顔ぶれが質の高い楽曲を多数提供し、山口百恵ですら数万枚であったオリジナルアルバムのセールスをシングル並みの数十万枚に引き上げ、当時のアイドルのアルバムとしては異例のセールスを記録した。 デビュー間もない頃の声量のある力強い声質は酷使によりやや[[ハスキーボイス|ハスキー]]な色合いを帯びていったが、それが大人の魅力となり「[[赤いスイートピー]]」、「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]」などの代表曲が生まれた。元々[[A面/B面|B面]]だった「SWEET MEMORIES」は、ペンギンのキャラクターが印象的な[[サントリー]]缶ビールのCM曲だった。使われたのは英語詞の部分で、当初は「歌・松田聖子」の[[クレジットタイトル|クレジット]]表記も無かった為、「誰が歌っているのか?」という問い合わせや反響が相次いだ。これは本人がCMに出演しなくても歌声だけで注目を集めたデビュー曲の「裸足の季節」と通じるものがある。その後、歌番組でこの曲が歌われるようになると名曲として広く知れ渡り、多くのアーティストにカバーされるほどの代表曲となった。 こうして作り出された恵まれた楽曲を歌いこなし、1980年の3枚目のシングル「[[風は秋色/Eighteen|風は秋色]]」から[[1988年]]の26枚目のシングル「[[旅立ちはフリージア]]」まで24曲連続で[[オリコンチャート|オリコン週間シングルチャート]]1位を獲得、山口百恵から松田聖子へとアイドルの頂点は引き継がれた<ref name="naka7"/><ref name="naka8">「第八章 緩やかな下降線――1986年~88年」{{Harvnb|中川|2014|pp=317-350}}</ref>。 社長の相澤は、ファンが欲しているものをその場で判断してそれにあった雰囲気作りをする聖子の頭の回転の速さと行動力を評価しており、持ち前の声の良さとプロ根性と共にその「巧妙な自己演出」が松田聖子という歌手を完成させたと語っている<ref name="ninki"/>。 === 結婚・出産 - ママドルへ === [[1985年]]1月、交際していた[[郷ひろみ]](結婚間近と噂されていた)との破局を発表し、単独で記者会見を行う。「生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った」と泣きながら語る一幕は話題となった<ref name="naka7"/>{{refnest|group="注釈"|後に郷は「会見する事も知らなかった。あんなセリフも言っていない。僕が生まれ変わって虫だったらどうする気だろう?」とジョークを交じえて否定したという<ref name="naka7"/>}}。その会見からわずか数日後の2月には、映画『[[カリブ・愛のシンフォニー]]』で共演していた[[神田正輝]]が聖子との交際を認め、4月に婚約を発表。6月に行われた[[結婚式]]は、[[石原プロモーション|石原プロ]]の俳優陣を含む豪華な面々が参列し、式場周りには多くの報道陣が詰めかけた。続く[[結婚披露宴|披露宴]]では、スター同士のカップルという事で多くの芸能人が招待される非常に派手な催しとなった<ref name="naka7"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/bunshun?id=41667|title=山口百恵と松田聖子の結婚で決定的に違ったものとは? アイドルと“結婚”というタブーの歴史|publisher=時事ドットコム|date=2020-11-19|accessdate=2020-12-19|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201119031639/https://www.jiji.com/jc/bunshun?id=41667|archivedate=2020-11-19}}</ref>。[[司会]]を務めたのは当時[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[日本のアナウンサー|アナウンサー]]の[[徳光和夫]]。結婚式・披露宴の独占放送権を獲得した[[テレビ朝日]]は、約10時間に亘りこの模様を放送。[[ゴールデンタイム]]の平均視聴率は34.9%([[ビデオリサーチ]]・関東地区)を記録した<ref name="naka7"/>。2日後の6月26日の『[[夜のヒットスタジオ]]』では司会の[[芳村真理]]が、出演者の郷ひろみに「聖子ちゃん、きれいだったわよ」と言い、郷が「そう…… よかった」とだけ応じる場面があった<ref name="naka7"/>。その後に郷は「[[ハリウッド・スキャンダル]]」と「[[哀愁のカサブランカ]]」を熱唱した(「哀愁のカサブランカ」の歌に合わせて、聖子との共演シーンが流される演出がなされた)<ref name="naka7"/>。 妊娠・出産の準備のため年内での歌手活動休止を発表。年末の『[[第36回NHK紅白歌合戦]]』を最後に音楽番組への出演が途切れた。結婚以前のインタビューなどでは、自身の将来について、結婚後は芸能界を引退し主婦業に専念したいという趣旨のコメントも見受けられたが、夫となった神田正輝が「自由に働けば良い」と復帰を容認していた事もあり、ファンの期待に応える形で歌手業を続ける選択をした。 [[1986年]]10月1日、長女の[[神田沙也加|沙也加]]を出産。ワイドショーなどのメディアは、退院の様子や娘を抱いてインタビューに応える場面など一挙手一投足を報じた。同年6月、妊娠中にレコーディングしたアルバム『[[SUPREME]]』を発売。自身のアルバム作品で最高の売り上げを記録し、年末の『[[第28回日本レコード大賞]]』では「アルバム大賞」を受賞した<ref name="naka8"/>。同番組で久々のテレビ歌唱を果すと、続けて『[[第37回NHK紅白歌合戦]]』にも出場した。 [[1987年]]4月発売のシングル「[[Strawberry Time]]」で歌手業に本格復帰。出産後も以前と変わらぬスタイルで活躍する様子から「ママドル」という呼称も生まれた。聖子がきっかけで生まれたこの言葉はその後も、かつてアイドルだった子持ちの女性タレントを示す言葉として頻繁に使用されるようになった。[[1988年]]のアルバム『[[Citron]]』は[[デイヴィット・フォスター]]によるプロデュースで、シングルの「[[Marrakech〜マラケッシュ〜]]」も第1位のヒット作となったが、この曲が『ザ・ベストテン』最後の出演となった<ref name="naka8"/>。 === 独立 - セルフ・プロデュースへ === [[1989年]]6月、[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]との契約満了を機に同社から独立し、8月に個人事務所「[[ファンティック]]」を設立した。この独立に関しては、海外進出を狙うレコード会社側と、それを受け入れない事務所側との方針のズレが原因だと言われている。アメリカ行きを決断した聖子は、育ての親である事務所社長の相澤に連絡を取ろうと何度も電話をかけるが、独立にショックを受けていた相澤が電話に出る事はなく、[[絶縁 (人間関係)|絶縁]]状態で別れる事となる<ref name="サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会">{{Cite web|和書|title=サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会|url=https://www.news-postseven.com/archives/20130530_191330.html?DETAIL|website=NEWSポストセブン|accessdate=2021-10-31}}</ref><ref name="故・相澤会長が描いていた聖子再生計画「全盛期の輝きを…」">{{Cite web|和書|title=故・相澤会長が描いていた聖子再生計画「全盛期の輝きを…」|url=https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1609277/|website=女性自身|accessdate=2021-10-31}}</ref>。 11月、27枚目のシングル「[[Precious Heart]]」がオリコンチャート2位止まりとなり、連続1位の記録が遂に途絶えた。 [[1990年]]、海外進出となるシングル「[[All the way to Heaven]]」、「[[THE RIGHT COMBINATION]]」、アルバム『[[Seiko (アルバム)|Seiko]]』などを国内外で発売した(1985年にアルバム『[[SOUND OF MY HEART]]』で海外進出を目指していたが、芸能活動休止によるプロモーション不足のため中止された)。日本ではあまり報道されていなかったが「THE RIGHT COMBINATION」はカナダで2位とヒットし、結果を残した。11月のシングル「[[We Are Love]]」から再び日本に拠点を移して活動。続くシングル「[[きっと、また逢える…]]」以降は、作詞だけでなく作曲にも自ら取り組むようになった。[[1992年]]のアルバム『[[1992 Nouvelle Vague]]』から[[1998年]]のアルバム『[[Forever (松田聖子のアルバム)|Forever]]』まではセルフ・プロデュースが基本となり、全曲の作詞・作曲を自身で行った(作曲の多くは[[小倉良]]との共作)。シングルではチャート4位の「きっと、また逢える…」(1992年)、7位の「[[大切なあなた]]」([[1993年]])、12位の「[[輝いた季節へ旅立とう]]」([[1994年]])、5位の「[[さよならの瞬間]]」([[1996年]])などをヒットさせた。 作詞家としては恋愛感情を赤裸々にさらけ出す歌詞、あるいは生き方や気持ちの切り替え方などを含め、非常に前向きな歌詞を書く事が多い。当時の作曲法としては、聖子がイメージしたメロディをピアノや鼻歌などで伝え、共作者の小倉がギターなどで形にするというスタイルだった。「[[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう|あなたに逢いたくて〜Missing You〜]]」のように、[[同主調]]や[[平行調]]、あるいは[[属調]]や[[下属調]]などの[[近親調]]への[[転調]]をアクセントに使う傾向も見られ、これは小倉の特徴でもある。 1994年の『[[第45回NHK紅白歌合戦]]』で6年ぶりに同番組に出場。舞台上に下降した[[ミラーボール]]の中から登場し会場を沸かせた。翌[[1995年]]の『[[第46回NHK紅白歌合戦]]』では、ピンクのドレスに熊の[[ぬいぐるみ]]を背負うという出立ちで、「青い珊瑚礁」などを含むメドレーを披露してアイドル性の健在ぶりを見せた。 1996年発売の「[[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう]]」が久々にチャート1位となる。自身初の[[ミリオンセラー]]を記録し、最大のヒット曲(2021年現在)となった。この時期には「[[私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に]]」(1997年)など、長女・沙也加への母性愛をテーマとした楽曲もいくつか発表した。 [[1997年]]1月、神田正輝と離婚した事を公表。翌[[1998年]]5月に、6歳年下の[[歯科医師]]と2度目の結婚([[2000年]]12月に離婚)。 [[1999年]]のアルバム『[[永遠の少女]]』では、11年ぶりに松本隆が作詞を担当し、作曲も聖子以外の作家の作品となった。1997年に亡くなった大村雅朗の遺した楽曲「櫻の園」も収録された。歌手活動20周年を迎えた2000年のアルバム『[[20th Party (アルバム)|20th Party]]』からは再び、自身と小倉良の楽曲がメインとなるが、[[原田真二]]も制作に加わり、同年のアルバム『[[LOVE & EMOTION VOL.1]]』から[[2004年]]のアルバム『[[Sunshine (アルバム)|Sunshine]]』までは原田が作曲・プロディースを担当した。その間、海外進出第3弾となったアルバム『[[area62]]』もアメリカの[[インディーズ]]レーベルで発売した。 [[2005年]]以降は、[[鳥山雄司]]プロディースのアルバム『[[fairy (アルバム)|fairy]]』を経て、[[2006年]]の『[[bless you (松田聖子のアルバム)|bless you]]』で再び小倉とのコンビとなるが、[[2007年]]の『[[Baby's breath (松田聖子のアルバム)|Baby's breath]]』で初めて作詞・作曲を単独で行ったアルバムを発売。それ以降もセルフ・プロデュースのアルバムがメインとなった。 2001年から2005年ごろは、芸能界デビューした娘の[[神田沙也加]]と[[音楽番組]]や[[バラエティ番組]]でよく共演したり、2005年以降は自身の旧来ファンである著名人とも共演したりした{{refnest|group="注釈"|『[[うたばん]]』で聖子の大ファンだという[[米良美一]]と共演。[[2008年]][[3月10日]]放送の『[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]』で聖子の大ファンだという[[中川翔子]]と共演。[[2008年]][[11月10日]]放送の『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』で聖子の大ファンだという[[はるな愛]]と共演。}}。 [[2006年]]、年末のディナーショーにてかつての所属事務所[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]会長の相澤秀禎と17年ぶりに再会。ようやく和解できた喜びから、楽屋に駆けつけた相澤の姿を見て号泣したという。翌[[2007年]]には聖子からの提案によりサンミュージックと業務提携している<ref name="サンミュージック相澤会長 松田聖子との17年断絶と涙の再会"/><ref name="故・相澤会長が描いていた聖子再生計画「全盛期の輝きを…」"/>。 [[2011年]]には、女性アーティストからの楽曲提供は[[尾崎亜美]]以来26年ぶりとなる、[[竹内まりや]]作詞・作曲のシングル「[[特別な恋人]]」がオリコン14位となった。[[2012年]]6月に、同世代の大学准教授(歯科医)と3度目の結婚。[[2015年]]には、デビュー35周年記念のシングルとして「[[時間の国のアリス/夏服のイヴ|時間の国のアリス]]」以来31年ぶりに松本隆と呉田軽穂([[松任谷由実]])のコンビによる「[[永遠のもっと果てまで/惑星になりたい]]」が発売されてチャート11位となった。[[2016年]]には[[YOSHIKI]]作詞・作曲のシングル「[[薔薇のように咲いて 桜のように散って]]」がチャート6位のヒットとなった。2015年の『[[Bibbidi-Bobbidi-Boo]]』から起用された編曲家の[[野崎洋一]]が、以降の作品で編曲を担当する事が多い。 [[2014年]]2月末、新事務所「felicia club」を設立し「[[ファンティック]]」から移籍。 [[2017年]]、新たな取り組みとして全編[[ジャズ]]で構成されたアルバム『[[SEIKO JAZZ]]』を発売。[[2019年]]には第2弾となる『[[SEIKO JAZZ 2]]』を発売した。 [[2020年]]、デビュー40周年を迎え、アルバム『[[SEIKO MATSUDA 2020]]』を9月にリリース。初期の楽曲を数多く手掛けた[[財津和夫]]と37年ぶりのタッグを組んで制作した「風に向かう一輪の花」などを収録。同曲の歌詞の内容はファンへの感謝や自身の人生の回顧と今後の決意となっており、40周年記念における中心的楽曲となっている<ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子×財津和夫が37年ぶりにタッグ! 新曲「風に向かう一輪の花」配信スタート&ティザー映像公開|url=https://web.archive.org/web/20200930073659/https://www.m-on-music.jp/0000430811/|website=音楽WEBメディア M-ON! MUSIC(エムオンミュージック)|accessdate=2021-01-02|language=ja|first=音楽WEBメディア M.-ON!|last=MUSIC(エムオンミュージック)}}</ref>。 === 一人娘・神田沙也加の死 === [[2021年]]12月18日、一人娘である長女・[[神田沙也加]]が[[札幌市]]内のホテルの高層階から転落して死去<ref>{{Cite web|和書|title=神田沙也加に関するお知らせ|url=https://www.sayaka-kanda.net/|website=www.sayaka-kanda.net|accessdate=2021-12-19}}</ref>。当日は自身のディナーショーを行なっていたが、聖子の実兄である事務所社長の計らいにより、公演後に状況を知ることになったという<ref>{{Cite news|title=松田聖子 あの日は一睡もせず沙也加さんに寄り添った|url= https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/12/25/kiji/20211224s00041000656000c.html?amp=1|publisher=スポーツニッポン新聞社|date=2021-12-25|accessdate=2022-1-15}}</ref>。翌19日、所属事務所より「未だこの現実を受け止めることが出来ない状態」にあるとコメントが発表された<ref>{{Cite web|和書|title=所属事務所からのお知らせ|url=https://www.universal-music.co.jp/matsuda-seiko/news/2021-12-19/|website=松田聖子|date=2021-12-19|accessdate=2021-12-19|language=ja}}</ref>。同年中に予定されていたディナーショーは全て中止となり<ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子、今夜のディナーショー中止を発表|url=https://natalie.mu/music/news/458386|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-12-19|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子 ディナーショー大阪公演も中止 23日から4日間 東京に続き 長女・神田沙也加さん急逝 - スポニチ Sponichi Annex 芸能|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/12/20/kiji/20211220s00041000237000c.html|website=スポニチ Sponichi Annex|accessdate=2021-12-21|language=ja}}</ref>、選出されていた『[[第72回NHK紅白歌合戦]]』も出場を辞退した<ref name="松田聖子、紅白歌合戦出場を辞退 NHKが発表">{{Cite news | title = 松田聖子、紅白歌合戦出場を辞退 NHKが発表 | newspaper = [[スポーツ報知]] | date = 2020-12-25 | accessdate = 2020-12-25 | url = https://hochi.news/articles/20211225-OHT1T51114.html?page=1}}</ref>。 同月21日、札幌市内の斎場に赴き、一連の式の後に報道陣の前に姿を見せ、沙也加の父で元夫の神田正輝と並んで短い会見を行った<ref>{{Cite web|和書|title=神田正輝、松田聖子と緊急会見…沙也加さん急逝受け「そっとしておいていただけたら」|url=https://hochi.news/articles/20211221-OHT1T51111.html|website=スポーツ報知|date=2021-12-21|accessdate=2021-12-22|language=ja}}</ref>。 == 年譜 == === 1970年代まで === ; [[1962年]] * [[3月10日]]、[[福岡県]][[久留米市]][[荒木町]](当時の[[三潴郡]][[筑邦町]])に生まれる。出生名・蒲池法子(かまちのりこ)。 ; [[1974年]] * 4月、[[久留米市立荒木中学校]]に入学。[[テニス]]部に入部し3年間在籍した。 ; [[1977年]] * 4月、[[カトリック教会|カトリック]]系の[[久留米信愛中学校・高等学校|久留米信愛女学院高等学校]]に入学。[[キリスト教]]研究部に入部。行事の際、皆の前で[[聖書]]を読む「女神」という役職(各学年で1人ずつ)に選出される<ref name="naka1"/>。 ; [[1978年]] * [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS・ソニー]]と[[集英社]]主催の「[[ミス・セブンティーンコンテスト]]」九州地区大会で優勝。CBS・ソニー制作部・若松宗雄にスカウトされ、若松の紹介で東京音楽学院九州校([[渡辺プロ]]系列)に通い、東京の渡辺プロ本社にデモテープを送るが、写真選考で不採用となる<ref name="naka1"/>。 ; [[1979年]] * 6月、若松の導きにより[[サンミュージックプロダクション]]のオーディションを受けるため上京。社長の[[相澤秀禎]]や男性社員はピンと来なかったが、直接歌唱を聴いた音楽プロデューサーの女性幹部社員らに注目され合格。同プロダクションと契約。 * 7月、卒業を待たずに高校を中退。歌手デビューのため単身上京。サンミュージックの寮に入り、[[堀越高等学校]]に転入<ref name="naka1"/>。その後、「松田聖子」という芸名を付与される。 * 11月、[[ニッポン放送]]『[[ザ・パンチ・パンチ・パンチ]]』の[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]「パンチ・ガール」のオーディションに合格。翌年1月からレギュラー出演開始。 * 12月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系ドラマ『[[おだいじに]]』に出演。役名も「松田聖子」。 * 12月、[[資生堂]]の洗顔クリーム「エクボ」のCMモデルのオーディションの最終審査で[[えくぼ]]が出ず不合格(選ばれたのは[[山田由紀子]])。 === 1980年代 === ; [[1980年]] * 2月、資生堂の洗顔クリーム「エクボ」の[[CMソング]]として歌唱起用が決定。 * 4月1日、「エクボ」のCMソング「[[裸足の季節]]」で歌手デビュー。デビュー当時の[[キャッチフレーズ]]は「'''抱きしめたい! ミス・ソニー'''」。 * 4月13日、[[NHK総合]]『[[レッツゴーヤング]]』に[[レッツゴーヤング#サンデーズ|サンデーズ]]のメンバーとしてレギュラー出演開始。 * 4月28日、「裸足の季節」で、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[夜のヒットスタジオ]]』に初登場。 * 7月、デビュー3か月でファンクラブ発足 発会式には5,000人が集まる。 * 7月、よみうりランドグリーンステージで『さわやかコンサート』を開き、8,000人のファンを動員する。 * 7月3日、「裸足の季節」で、[[TBSテレビ|TBS]]『[[ザ・ベストテン]]』の「スポットライト」コーナーに初登場(11位)。 * 8月14日、「[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]」で、TBS『ザ・ベストテン』に初ランクイン(8位)<ref name="naka2"/>。 * 9月18日、「青い珊瑚礁」で、TBS『ザ・ベストテン』の第1位を初めて獲得。 * 9月25日、『ザ・ベストテン』で「青い珊瑚礁」が2週連続第1位となる。 * 9月30日、日本青年館ファーストコンサート『First Kiss』開催。 * 10月 3枚目のシングル「[[風は秋色]]」で初のヒットチャート第1位獲得。 * 8月 - 12月、「青い珊瑚礁」で[[第22回日本レコード大賞]]新人賞をはじめ、10もの大きな音楽祭の賞を獲得。[[第31回NHK紅白歌合戦]]に初出場。「[[聖子ちゃんカット]]」と呼ばれる[[ヘアスタイル]]が大流行し、「[[ブロマイド]]」の年間売り上げでトップに輝く。 ; [[1981年]] * 1月、[[イタリア]]の[[サンレモ音楽祭]]に出場。 * 3月、「青い珊瑚礁」が1981年春の[[選抜高等学校野球大会]]の入場行進曲になる。 * 4月、初の全国横断コンサート(6か所8公演)の締めくくりに[[日比谷野外音楽堂]]で『'81聖子ビックコンサート in TOKYO』を開く。 * 7月 - 9月、コンサートツアー『Nice Summer Seiko』 * 8月8日、初主演映画『[[野菊の墓 (映画)|野菊の墓]]』公開。 * 8月13日、「白いパラソル」が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「初登場第1位」を獲得(9072点)。 * 12月、「聖子ちゃんカット」をバッサリ切り、ショートカットになる。 * この年の暮れから、父親の[[定年]]退職を機に両親を九州から呼んで共に暮らすようになる<ref name="naka5">「第五章 激突――1983年」{{Harvnb|中川|2014|pp=203-241}}</ref>。のち[[神田正輝]]と結婚するまでは東京都[[目黒区]]東が丘の一軒家で、この家の門は、代表作「青い珊瑚礁」のサビ部分「あ〜私の恋は〜」の五線譜で飾られていた。 ; [[1982年]] * 3月、CBS・ソニー・ヒット賞受賞。 * 4月 - 5月、コンサートツアー『[[ファンタスティック・コンサート レモンの季節|FANTASTIC CONCERT]]』開催。 * 8月、[[新宿コマ劇場]]・[[梅田コマ劇場]]『聖子フェスティバル』 * 12月25日、初の[[日本武道館]]でのコンサート『Christmas Queen』を開く。 ; [[1983年]] * 2月、12枚目のシングル「[[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]]」が10曲連続シングルチャート1位となり、 9曲連続の[[ピンク・レディー]]の記録を破る。 * 2月、[[大阪厚生年金会館]]で『Seiko New Year Concert』開催。 * 3月28日、[[沖縄市]]営体育館でのコンサートにて、「[[渚のバルコニー]]」の歌唱中に観客席から男が乱入し、工事用のプラスチックパイプで聖子の頭部を目掛けて数回殴打するという事件が発生。男は傷害の現行犯ですぐに逮捕されたが、聖子は右頭部と右手に全治約1週間の軽傷を負い恐怖で失神し、その日のコンサートは中止となった<ref name="naka5"/>{{refnest|group="注釈"|逮捕された男は沖縄の地元民ではなく、[[埼玉県]][[入間市]](旧[[高麗郡]])に住むファンを名乗る19歳の少年であった。[[ノイローゼ]]を患っており埼玉県の精神病院に入院していた精神病患者でもあった。2日前の26日に外泊許可を取得し、前日の27日に家族と一緒に買い物に[[東京]]に来ていたが、その最中に行方をくらまし、手持ちの小遣い35,000円で航空券を購入して沖縄へ飛ぶ。その後、凶器となった陳列ケース棚を留めるスチール製の金具を購入した。犯行動機については「'''有名人である松田聖子を殴る事で自分も有名になりたかった'''」と供述しており、聖子にとってはいわれなき災難であった [https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/148117 コンサート中 暴漢に襲われた松田聖子] 日刊ゲンダイDIGITAL、2023年3月30日閲覧}}この様子は日本テレビが[[ザ・トップテン]]の放送のために撮影をしていたため、ワイドショー等で頻繁に放送された。その後、4月5日の[[熊本県|熊本]]コンサートから復帰を果たした(なお、現地の当時の様子を伝えていた[[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]]{{refnest|group="注釈"|フジテレビ系列だが、ザ・トップテンの放送及び中継に参加していた。}}の[[中安章生]]はザ・トップテンのスタジオと中継の際、誤って「[[白いパラソル]]を歌っていた」と伝えている)。 * 4月、フジテレビの音楽番組『ザ・スター』に出演。『ザ・スター 松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子』放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kayopops.jp/info/info20180808_01/ |title=ザ・スター松田聖子スペシャル 振り向けば・・・聖子 |publisher=歌謡ポップスチャンネル |accessdate=2018-08-17|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180817092335/https://www.kayopops.jp/info/info20180808_01/|archivedate=2018-08-17}}</ref>。 * 7月、コンサートツアー『アン・ドゥ・トロワ』開催。[[中井貴一]]共演の主演映画『[[プルメリアの伝説 天国のキッス]]』公開(主題歌は13枚目のシングル「[[天国のキッス]]」)。 * 8月、「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]」がサントリー生ビールのCMソングに。ジャケット写真は最初のものと後に発売された両A面版と2パターンある。 * 11月17日、「SWEET MEMORIES」(9位、6796点)と「[[瞳はダイアモンド]]」(2位、8199点)が、TBS『ザ・ベストテン』で番組史上初となる「2曲同時初登場」を記録。 * 12月、日本武道館でコンサート『[[Seikoland 〜武道館ライブ'83〜|SEIKO LAND]]』開催。[[伊集院静]]が舞台演出。 ; [[1984年]] * 1月 - 4月、コンサートツアー『JEWELS』開催(15か所16公演)。 * 4月 - 6月、コンサートツアー『FANTASTIC FLY』開催。日本武道館では香水をまく演出が話題に。伊集院静が舞台演出。 * 7月、[[ハワイ大学]]へ短期留学。[[羽賀研二]]共演の主演映画『[[夏服のイヴ]]』公開。 * 7月 - 11月、コンサートツアー『Magical Trump』開催。伊集院静が舞台演出。 * 12月、コンサートツアー『GOLDEN JUKE』開催 * 『ドレミファドン』のアンケートで「結婚したい女性」のNo.1(回答は若い男性対象)となる。 ; [[1985年]] * 1月23日、交際を公にしていた歌手・[[郷ひろみ]]と破局、[[東宝スタジオ]]の食堂にて涙の会見を行う<ref name="naka7"/>。 * 2月、ハワイから帰国した[[神田正輝]]が記者会見で松田聖子との交際を認める<ref name="naka7"/>。 * 4月9日、神田正輝との婚約発表<ref name="naka7"/>。 * 4月13日、神田正輝共演の主演映画『[[カリブ・愛のシンフォニー]]』([[メキシコ]]ロケ)公開。 * 4月18日、『ザ・ベストテン』にて、結婚後の芸能活動は未定であり、引退も視野に休業する旨を報告。 * 4月 - 5月、コンサートツアー『[[SEIKO CALL 〜Live'85〜|SEIKO PRISM AGENCY]]』開催(5か所8公演)。 * 6月24日、神田正輝と[[カトリック碑文谷教会|サレジオ教会]]で結婚式を、[[ホテルニューオータニ]]で披露宴を挙げる。2人の結婚は、世紀の結婚をもじって「'''聖輝の結婚'''」と呼ばれた<ref name="naka7"/> * 11月、翻訳した絵本『ベビー・ディヴァインの冒険』の発売<ref name="naka8"/>。 * 12月、『[[第36回NHK紅白歌合戦]]』の出演以降、出産準備のため、約1年間テレビ出演などの主だった芸能活動を休止する。 ; [[1986年]] * 東京都世田谷区[[砧 (世田谷区)|砧]]に家を新築し、夫・両親と居住。その後、近隣に転居<ref>{{Cite web|和書|title=神田沙也加さん“形見”の「松田聖子御殿」初公開!保存続ける婦人科院長が明かす一家との交流 |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/f5362df3564d764689d79624cc3b9e0904c90f2b |publisher=[[女性自身]] |website=Yahoo! News |date=2023-01-11 |accessdate=2023-01-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=クリニック概要 |publisher=成城松村クリニック |url=https://www.seijo-keikoclub.com/clinic/ |accessdate=2023-01-14}}</ref>。 * 1月、神田法子名義で自叙伝『聖子』出版<ref name="naka8"/>。 * 6月1日、妊娠中に収録したアルバム『[[SUPREME]]』をリリース。 * 10月1日、長女・[[神田沙也加]]を東京[[飯田橋]]の[[東京逓信病院]]で出産<ref name="naka8"/>。 * 12月、『[[第28回日本レコード大賞]]』で『SUPREME』がアルバム大賞を受賞。1年ぶりにステージに立ち、アルバムから3曲をメドレーで歌唱。続いて『[[第37回NHK紅白歌合戦]]』にも出場<ref name="naka8"/>。 ; [[1987年]] * 4月、約2年ぶりのシングル「[[Strawberry Time]]」リリース。結婚・出産を経てもアイドル人気は衰えず、“ママになったアイドル”という意味の「'''ママドル'''」と呼ばれる。 * 4月、写真集『Five Seasons』([[篠山紀信]]/撮影)出版。 * 4月23日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後のスポットライトを獲得(2年ぶりの出演)。ランクインは次々週まで待つ事になる。 * 6月4日、「Strawberry Time」でTBS『ザ・ベストテン』最後の1位を獲得。 * 5月 - 6月、コンサートツアー『[[Super Diamond Revolution|SEIKO SUPER DIAMOND REVOLUTION]]』開催(8か所15公演)。 * 9月、TBS特別企画ドラマ『スイート・メモリーズ』主演。 ; [[1988年]] * 2月14日、東京都目黒区の[[自由が丘]]にブティック「'''フローレス・セイコ'''」(Flawless Seiko) をオープン<ref name="naka8"/>。「フローレス (Flawless)」とは "(宝石が)傷のない、完璧な" という意味で、ダイアモンドの最高級を表す<ref name="naka8"/>。(※2014年11月1日に「felicia club by Seiko Matsuda」に店名を改名しリニューアルオープン) * 3月、CBS・ソニー・ゴールドディスク大賞受賞。 * 4月28日、「[[Marrakech〜マラケッシュ〜]]」でTBS『ザ・ベストテン』最後の出演<ref name="naka8"/>。 * 5月 - 9月、コンサートツアー『[[Sweet Spark Stream]]』開催(19か所25公演)映画監督・根岸吉太郎が演出を手がける。 * 9月、26枚目のシングル「[[旅立ちはフリージア]]」で24曲連続チャート1位獲得。 * 10月27日、「旅立ちはフリージア」でTBS『ザ・ベストテン』最後のランクイン(10位)。 * 12月、『[[第39回NHK紅白歌合戦]]』に「Marrakech〜マラケッシュ〜」で9年連続出場。80年代最後の紅白出演となった。 ; [[1989年]] * 6月30日、所属事務所「[[サンミュージックプロダクション]]」との契約を満了。独立し、個人事務所「[[ファンティック]]」に籍を置く。 * 9月、写真集『NO COMMENT』([[篠山紀信]]/撮影)出版。 * 12月 - 1月、コンサートツアー『[[Precious Moment 〜1990 Live At The Budokan〜|Precious Moment]]』開催(6か所14公演) === 1990年代 === ; [[1990年]] * 5月、シングル「[[THE RIGHT COMBINATION]]」(USA) で、「New Kids On The Block」のDonnie Wahlbergとデュエット。 * 6月、アルバム『[[Seiko (アルバム)|Seiko]]』で全米デビュー、アメリカでは『USマガジン』や『インターセクト』で特集される。またイギリスの[[:en:TV-am|TV-am]]の朝のワイドショー番組『[[:en:Good Morning Britain (1983 TV programme)|Good Morning Britain]]』(1990年8月)<ref>「米へ進出 日本のポピュラー」『[[日本経済新聞]]』1991年4月20日付朝刊、p.39。</ref>、BBCテレビにも出演し、世界中のメディアに登場。 ; [[1992年]] * 2月、ブティック「フローレス・セイコ」が4周年を迎え、記念イベントが行われ2,000人のファンが詰めかける。 * 3月25日、初の聖子自身による全曲作詞作曲プロデュースアルバム『[[1992 Nouvelle Vague]]』発売。先行シングルは、自身初の主演連続ドラマTBS『[[おとなの選択]]』の主題歌「[[きっと、また逢える…]]」。この年から本人による作詞作曲プロデュースによる楽曲発表が主体となっていく。 * 6月 - 7月、コンサートツアー『[[LIVE 1992 Nouvelle Vague|1992 Nouvelle Vague]]』開催(10か所16公演)。 * 12月、初のクリスマスディナーショー(4か所8公演)を開く。 ; [[1993年]] * 6月 - 7月、コンサートツアー『[[LIVE DIAMOND EXPRESSION|DIAMOND EXPRESSION]]』開催(16か所24公演)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(全国13か所21公演)。 ; [[1994年]] * [[たかの友梨]]ビューティークリニックのイメージキャラクターに選ばれ、「ヌーディッシュ宣言」と題した本人の巨大広告やTVCMが話題となり、ワイドショーやマスコミなどで「第2次聖子ブーム」と騒がれる。 * 6月 - 8月、コンサートツアー『[[Live Glorious Revolution|Glorious Revolution]]』開催(19か所28公演)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。 ; [[1995年]] * 6月 - 8月、コンサートツアー『[[LIVE It's Style'95|It's Style '95]]』開催(23か所33公演)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。 ; [[1996年]] * 5月にハリウッドとの合作作品となる主演映画『サロゲート・マザー』が公開。主題歌「[[I'll Be There For You (松田聖子の曲)|I'll Be There For You]]」を同曲の提供者でもある[[ロビー・ネヴィル]]とデュエットする。 * 5月発売米誌『BIKINI』でセミ・ヌードを披露。 * 再び全米進出を目指すため、デビュー以来所属したソニーレコードを離れ、「[[マーキュリー・レコード#マーキュリー・ミュージックエンタテインメント|マーキュリー・ミュージックエンタテインメント]]」に移籍。 * 6月10日、全米進出第2弾となる「[[WAS IT THE FUTURE]]」を発売する。 * シングル「[[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう|あなたに逢いたくて〜Missing You〜]]」が8年ぶりのオリコンシングルチャート1位、売り上げ110万枚と[[ミリオンセラー]]を突破し、自身最大のヒットとなる。 * 6月、コンサートツアー『[[Live Vanity Fair'96|Vanity Fair]]』開催(21か所39公演)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(8か所20公演)。 ; [[1997年]] * 1月、神田正輝と離婚。離婚のニュースは、芸能報道の枠を超えて各局とも一般ニュース枠でも報じ、[[号外]]が出された。神田との離婚後も、学業半ばの娘の姓が変わらないようにするため[[氏名#復氏の原則と例外|婚氏続称]]を選び、[[民法]]上は神田姓であった。 * 6月 - 7月、コンサートツアー『[[Seiko Live'97 My Story|My Story]]』開催(13か所26公演)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所22公演)。 ; [[1998年]] * 5月、6歳年下の[[歯科医師]]と交際2か月で結婚。会った瞬間「ビビビッと来た」というコメントが[[流行語]]になり、「ビビビ婚」などと呼称された。 * 6月 - 11月、コンサートツアー『[[Seiko Live'98 Forever|Forever]]』開催(全国8か所22公演)(広島及び福岡公演は急病のため延期となった)。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(全国8か所21公演)。 ; [[1999年]] * マネージメント事務所を「ファンティック」からソニーのプロデューサーだった若松宗雄が代表を務める「グリーンパークミュージック」に移籍。 * 10月、事務所移籍の諸事情で武道館他全国アリーナ会場の使用予約をとる事ができなかったため、初のライブハウス・ツアー『[[Seiko Matsuda Zepp Tour 1999 〜137分33秒の奇跡〜|Zepp Tour]]』開催(4か所9公演)。 * 12月18日、11年半ぶりに作詞家に[[松本隆]]を起用したアルバム『[[永遠の少女]]』を発売する。なお先行シングルの「[[哀しみのボート]]」は、フジテレビ系で放送されたテレビドラマ『[[OUT〜妻たちの犯罪〜]]』の挿入歌となった。 * 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所17公演)。 === 2000年代 === ; [[2000年]] * 7月 - 8月、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2000 20th Party|SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2000]]』開催(9か所16公演)。 * 9月、かつて交際していた[[郷ひろみ]]との[[デュエット]]曲「[[True Love Story/さよならのKISSを忘れない|True Love Story]]」発表の話があり受諾・発表し世間を驚かせる。 * 12月、二度目の離婚。 * 12月、クリスマスディナーショー2000開催(12か所18公演)。 ; [[2001年]] * 3月、初のスプリングディナーショーを開催する(全国9か所17公演)。 * 6月 - 8月、コンサートツアー2001『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2001 LOVE & EMOTION|LOVE & EMOTION]]』開催(全国13か所23公演)。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国12か所)。 ; [[2002年]] * [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]に復帰。 * 芸能事務所「グリーンパークミュージック」から「ファンティック」に再移籍。 * 3月11日、ダイヤモンドのように最も輝く女性として『ダイヤモンド・パーソナリティー賞』を受賞し1000万円相当のダイヤを授与される。 * 6月21日、全米進出第3弾となる『[[area62]]』をHIP-O RECORDSより全米にて発売。 * 毎年恒例となっている夏のコンサートツアーには、発売されたアルバムタイトルがそのままツアータイトルになる事がほとんどだが、02年には国内でのアルバム発売がなかったために『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2002 Jewel Box]]』と題したコンサートツアーが開催され約15万人を動員する。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー2002開催(全国15か所20公演)。 * 12月31日、この年から[[2003年]]まで、[[大阪城ホール]]で年末のカウントダウン・ライブを行う。[[放送衛星|BS]]中継もされた(2005年以降は[[東京体育館]]で開催)。 ; [[2003年]] * 同年もアルバム発売がなかったため、夏のコンサートツアー(『[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2003 Call me]])は同年6月に発売されたシングル「[[Call me (松田聖子の曲)|Call me]]」をツアータイトルとし、「Call meでMeet me」キャンペーンと銘打った抽選により、ファンの楽屋招待と握手という直接交流企画を自身のコンサートツアーにおいて初めて実施して話題となる(全国12か所20公演)。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(全国11か所)。岐阜市内のホテルでのディナーショーのアンコール中、握手した手を離さない男性ファンがいたため、ステージ上でしりもちをつき「頚椎捻挫、背部挫傷」の全治3週間の怪我を負う。 ; [[2004年]] * 5月3日、[[横浜スタジアム]]にて横浜-巨人戦の始球式を行う。 * 7月11日、[[長野オリンピックスタジアム]]でのサンヨーオールスターゲーム第2戦のゲーム前に「[[君が代]]」を斉唱する。 * 約3年ぶりのオリジナルアルバム『[[Sunshine (松田聖子のアルバム)|Sunshine]]』が、7月21日付のオリコンアルバムチャート(週間)で初登場6位を獲得。アルバムトップテン入りで女性アーティストでは[[松任谷由実]]に並ぶ歴代1位に輝いた。 * 10年ぶりに出演(障害児童の母親役)したテレビドラマ『[[たったひとつのたからもの]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])が関東地区で平均30.1%、関西地区で平均23.6%(ビデオリサーチ調べ)の高視聴率となる。なお、このドラマはアジア・テレビジョン・アワード2005 単発ドラマ部門 最優秀作品賞を受賞する。 * 12月31日、デビュー25周年記念イベントを記念してファンクラブ限定の『スーパープレミアムコンサート』を新高輪プリンスホテルにて16時からと20時45分からの2部にわけて開催される。会員限定という事もあり、通常のコンサートやディナーショーとは違い、聖子自身の幼少からの未公開写真や縁の品を観覧室に展示し順に観覧できるという特別な趣向が凝らされたイベントを行う。 ; [[2005年]] * 6月5日の[[さいたまスーパーアリーナ]]を初日に、歌手活動25周年に当たる全国ツアー『[[25th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2005 fairy|fairy]]』を開始。[[台湾]]のファンからの強い要請に応え、8月20日、最終公演を台湾の新荘市にある新荘体育館で行う(デビュー初の海外公演)。観客5000人から熱烈に歓迎され、[[中国語]]でも歌った。 * 9月5日開始の[[AMラジオ]]史上初となる全国民放AMラジオ47局の統一キャンペーン「あなたに伝えたい〜言い出せなかった“ありがとう”」キャンペーンソングに「[[しあわせな気持ち]]」が起用され、11月には特別番組のメインパーソナリティーも務める。 ; [[2006年]] * 7月31日付オリコン・アルバムチャートで10万円の74枚組CDボックス『[[Seiko Matsuda]]』を96位にランクインさせた。このボックス・セットは週間売上金額で2億1500万円を記録し、2位の『[[Beautiful Songs〜ココロ デ キク ウタ〜]]』(9300万円)を2倍以上引き離していた。また、これまで、アルバムでチャートイン(トップ300)した最高額作品は、1989年8月の[[美空ひばり]]の6万円の35枚組『今日の我に明日は勝つ』(9位)だったが、松田聖子はこの記録を16年11か月ぶりに更新した。その後、当初の発売予定の1万セットを完売し、売り上げだけで約10億円となる。 ; [[2007年]] * 松田聖子を取り上げた[[ドキュメンタリー]]『松田聖子〜女性の時代の物語』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]])が放映される。視聴率は9.3%(同放送の平均視聴率は5〜6%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)だった。3月、歌手活動について古巣の「サンミュージック」と業務提携契約を締結。 * 8月1日、横浜スタジムにて横浜-巨人戦の始球式を行う。 * 11月20日、沖縄で24年ぶりの公演(ディナーショー)。 ; [[2008年]] * 7月5日公開の実写版『[[火垂るの墓]]』で清太の母・雪子を演じ7年ぶりの映画出演となる。回想シーンでの登場を除けば登場は冒頭のみだが同作の挿入歌を担当。 ; [[2009年]] * 6月、[[ユニバーサルミュージック (日本)|ユニバーサルミュージック]]への再移籍を発表。 * 毎年恒例となっている夏のコンサートツアーには、発売されたアルバムタイトルがそのままツアータイトルになる事がほとんどだが、09年にはアルバムの発売がなかったために『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2009 "My Precious Songs"|Seiko Matsuda Concert Tour 2009 My Precious Songs]]』と題したコンサートツアーが開催され約14万人を動員する。 === 2010年代 === ; [[2010年]] * 4月21日、プリンセス・セイコとして[[矢島美容室]]とコラボレーションしたシングル「[[アイドルみたいに歌わせて]]」をリリース。 * 5月5日、シングル「[[いくつの夜明けを数えたら]]」がフジテレビ『[[チーム・バチスタシリーズ#チーム・バチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋|チーム・バチスタ2 ジェネラル・ルージュの凱旋]]』の主題歌となる。ドラマ主題歌としては14年ぶりの起用であった。 * 5月19日、26日の2週に渡って[[日本放送協会|NHK]]の『[[SONGS (テレビ番組)|SONGS]]』で松田聖子スペシャルが放送され、1週目が7.5%(同番組の平均視聴率は3 - 4%前後とされる:ビデオリサーチ調べ)で番組史上歴代2位の視聴率となり、翌2週目にはさらに視聴率を伸ばし、8.3%と歴代1位となる視聴率を獲得した。 * 6月6日 - 8月7日、『[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2010 "My Prelude"|30th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2010 My Prelude]]』を開催(10箇所14公演)、計15万人以上動員する。 * 10月10日、20年ぶりとなるファンクラブ会員限定の『30周年記念ファンの集い』を[[赤坂プリンスホテル]]にて開催。参加は有料抽選申し込みだったが、日程的に急だったにも関わらず予想以上に申し込み人数が多くなってしまったため、4回に分けてファンの集いを行い、約5000人のファンと交流を果たす。 * 10月20日、東京国際フォーラムで[[デイヴィッド・フォスター]]の実に16年ぶりの日本公演となる『DAVID FOSTER &FRIENDS JAPAN TOUR 2010』にスペシャルゲストとして登場し、デイビッドが88'年に聖子に作曲提供した「[[抱いて]]」を彼のピアノ伴奏にて披露する。 * 1983年に放映を開始した[[サントリー]]のTV-CMで、聖子自身が名前を伏せ「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]」をアニメのペンギンにあてて歌い話題となったが、そのアニメキャラクターのペンギンと27年ぶりに再びサントリーの缶コーヒー「ボス シルキーブラック」のCMで競演を果たし話題となる。 ; [[2011年]] * 6月 - 8月、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2011 Cherish|SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2011 Cherish]]』を開催(7箇所11公演) * 9月7日、Hollywood Bowlで開かれた[[クインシー・ジョーンズ]]主催の『Quincy Jones Global Gumbo All Stars』にゲスト出演し、クインシーとの話し合いで同年3月11日に起きた[[東日本大震災]]への復興への願いも込めて全米[[ビルボード]]1位にもなった[[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう|スキヤキ]]」を歌う。 * 10月1日、毎年恒例の夏の全国コンサートツアー中、客席のファンからの要望が多かった事により、昨年の30周年記念のファンの集いに引き続き、この年はザ・プリンスパークタワー東京で2年連続となるファンの集いを、司会進行に、松田聖子の大ファンと公言し続けている[[藤井隆]]を迎え開催、4回に分け約5000人のファンと交流する。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(12箇所27公演) * 11月23日、30周年記念シングルとして[[竹内まりや]]との初コラボレーションによる「[[特別な恋人]]/声だけ聞かせて」を発売。女性アーティストによるシングル詞・曲楽曲提供は、1985年発売の[[尾崎亜美]]の「[[ボーイの季節]]」以来約26年ぶりとなる。 * 12月16日放送の『[[オールナイトニッポンGOLD]]』(ニッポン放送)の公開録音を28年ぶりにファンを抽選で招待し行う。 * 12月31日、毎年恒例となっているカウントダウン・ライブのため出場していなかった「NHK紅白歌合戦」に、カウントダウンのライブ会場である東京体育館から中継という形で10年ぶりに出場し、「震災復興に“親子の絆”という事で少しでも勇気を与えられたら」と、娘である神田沙也加と共に、自身の曲ではなく[[坂本九]]の「[[上を向いて歩こう]]」をデュエットした。 ; [[2012年]] * 5月2日、自身が作詞・作曲を手がけた新曲「[[涙のしずく (松田聖子の曲)|涙のしずく]]」を発表。「涙のしずく」は、2012年4月28日公開の映画『[[わが母の記]]』のイメージソングに決定した<ref>[https://www.moviecollection.jp/news/11821/ 松田聖子が親子の絆を描いた『わが母の記』イメージソングを作詞・作曲] 2012年4月10日 ''[[ムービーコレクション]]''</ref>。 * 6月 - 8月、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2012 Very Very|SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2012 Very Very]]』を開催(6箇所9公演) * 6月13日、自身の公式[[ホームページ]]にて一般男性との結婚を発表<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20120613-966728.html 松田聖子が再々婚を発表]</ref>。再々婚後も神田姓を続称しているかどうかは明らかにしていないため、[[2013年]]現在の本名は不明。 * 9月に全米でリリースされたジャズグループ、[[フォープレイ]]のアルバム『Espirit De Four』の中の「Put Our Hearts Together」でゲストボーカリストとして参加。この曲は東日本大震災の追悼も込めた形で[[ボブ・ジェームス]]が作ったもの。 * 9月9日、東京国際フォーラムで行われた『東京JAZZ 2012』に、ボブ・ジェームス率いるユニットの特別ゲストとして出演。 * 10月29日、『Put Our Hearts Together コンサートin 大船渡』に出演。この模様は12月27日、NHK総合テレビでドキュメンタリー番組として放送された。 * 11月4日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催。司会は藤井隆。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(9箇所20公演) * 12月28日 - 29日、舞浜アンフィシアターにて初のバラードコンサート『[[Seiko Ballad 2012|Seiko Ballad]]』を開催。 ; [[2013年]] * 4月2日、[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]にて、阪神―中日戦の始球式を行う。 * 4月23日、6月5日に発売される[[藤井隆]]のCDシングル「She is my new town / I just want to hold you」の作詞・作曲・プロデュースを手掛けた事を発表。2曲ともにコーラスでも参加している。 * 6月 - 7月、コンサートツアー『[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2013 "A Girl in the Wonder Land" 〜BUDOKAN 100th ANNIVERSARY〜|SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2013 A Girl in the Wonder Land]]』を開催(5箇所8公演) * 7月31日 - 8月1日、[[東京国際フォーラム]]で行われた[[クインシー・ジョーンズ]]の32年振りとなる来日公演にシークレットゲストとして出演。 * 9月14日、幕張メッセで行われた『UNIVERSAL SIGMA 10TH ANNIVERSARY 「SIGMA FES. 2013」 〜U-EXPRESS LIVE AUTUMN〜』に出演。 * 9月16日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング開催を予定するも荒天のため中止となる。 * 10月30日、[[クリス・ハート]]とのデュエットソング「[[夢がさめて]]」を発売。 * 11月2日、TOKYO FM 『McDonald's SOUND IN MY LIFE』のゲストとして東京・渋谷スペイン坂スタジオに生出演。その後、東京・お台場ヴィーナスフォートでシングル発売記念イベントを開催。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショーを開催(10箇所22公演) * 12月31日、[[グランドプリンスホテル新高輪]]「飛天」にて、『[[2013 New Year's Eve Live Party 〜Count Down Concert 2013-2014〜|2013 New Year's Eve Live Party]]』を開催。2回公演で、2回目は紅白歌合戦と、カウントダウンセレモニーが含まれていた。 ; [[2014年]] * 2月28日、個人事務所「[[ファンティック]]」から、新たに立ち上げた事務所「felicia club」へ移籍。 * 6月8日 - 8月31日、コンサートツアー『[[〜Pre 35th Anniversary〜 Seiko Matsuda Concert Tour 2014 Dream & Fantasy]]』を開催(11箇所14公演) * 11月1日、「felicia club by Seiko Matsuda」(feliciaとclubの間はハートマーク)が自由が丘に開店 * 11月21日 - 12月24日、クリスマスディナーショーを開催(10箇所22公演) * 12月31日、[[第65回NHK紅白歌合戦]]に大トリとして出場し、個人別で最高視聴率を獲得する。 ; [[2015年]] * 4月17日 - 18日、舞浜アンフィシアターにて『35th Anniversary "Thank You Event!!"』と称したファンミーティングを開催する(合計5公演)。司会は[[モト冬樹]] * 6月13日 - 8月30日、コンサートツアー『[[〜35th Anniversary〜 Seiko Matsuda Concert Tour 2015 "Bibbidi-Bobbidi-Boo"]]』を開催(5か所8公演) * 10月1日、[[六本木ヒルズアリーナ]]で催された映画『PAN〜ネバーランド、夢のはじまり〜』ジャパン・プレミアレッドカーペットに出演する。 * 10月11日、舞浜アンフィシアターにて『35th Anniversary Seiko Matsuda Fan Meeting 2015』を開催する(1日3公演)。キーボード奏者・野崎洋一とアルバム『[[SQUALL (松田聖子のアルバム)|SQUALL]]』から『[[Canary (アルバム)|Canary]]』までを振り返る。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所24公演) * 12月31日、[[第66回NHK紅白歌合戦]]に2年連続大トリとして出場した。 ; [[2016年]] * 4月17日、舞浜アンフィシアターにてファンミーティング『SEIKO MATSUDA 2016 "Heart♡心"EVENT!!』を開催(1日2公演) * 6月11日 - 9月22日、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2016「Shining Star」|Seiko Matsuda Concert Tour 2016 Shining Star]]』を開催(5か所9公演) * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所22公演) ; [[2017年]] * 6月10日 - 8月20日、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2017「Daisy」|Seiko Matsuda Concert Tour 2017 Daisy]]』を開催(5か所8公演)。7月8日の東京公演は、ケガのため椅子に座った状態で行われた。関係者によると、数日前に転倒した際に背中と腰を強打し、一時は立ち上がる事もできなかったという。翌日の公演も同様に行われ、2日間の東京公演を決行した。 * 11月2日、オーチャードホールにて『SEIKO JAZZ 2017』を開催。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(10か所21公演)。 * 11月24日スタートのNHKのドラマ『[[マチ工場のオンナ]]』の主題歌「新しい明日」を担当。同局のドラマ主題歌を歌うのは初めて<ref>{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2098888/full/ |title=松田聖子、NHKで初のドラマ主題歌 主演の内山理名「うわぁぁ」と感激 |newspaper=ORICON NEWS |publisher=oricon ME |date=2017-10-13 |accessdate=2017-10-14}}</ref>。 ; [[2018年]] * 1月25日、大阪フェスティバルホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。 * 2月9日、愛知県芸術劇場大ホールにて『SEIKO JAZZ』を開催。 * 3月10日、舞浜アンフィシアターにて『SEIKO MATSUDA Birthday party 2018』を開催。(1日3公演) * 6月9日 - 9月2日、コンサートツアー『[[Seiko Matsuda Concert Tour 2018 Merry-go-round]]』を開催(5か所8公演) * 11月4日、 Billboard Live Tokyoにて『PREMIUM SEIKO JAZZ LIVE 2018』を開催 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所24公演) ; [[2019年]] * 2月27日、オーチャードホールにて『"SEIKO JAZZ 2" Concert Tour 2019』を開催 * 6月8日 - 8月3日、コンサートツアー『Pre 40th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour 2019 "Seiko's Single Collection"』を開催。 * 7月5日 - 8月5日、6日、8日の追加公演が発表され日本武道館は3daysになり福岡は久留米2daysが追加され千秋楽は大阪城ホールとなった。 * 11月 - 12月、クリスマスディナーショー開催(11か所23公演) === 2020年代 === ; [[2020年]] * 3月14日、[[中野サンプラザホール]]にて"SEIKO MATSUDA プレミアム バースデーステージ 2020"を開催予定も新型コロナウィルス感染拡大の影響により中止 * 4月1日、『SWEET MEMORIES 〜甘い記憶〜』を先行配信リリース<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/373567 |title=本日デビュー40周年の松田聖子、6月にアニバーサリーアルバム発売 |publisher=natalie |date=2020-04-01 |accessdate=2021-04-04}}</ref> * 6月6日 - 10月3日、Seiko Matsuda Concert Tour 2020 "Singles & Very Best Songs Collection!!"を開催予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大の影響により2021年6月以降に延期 * 7月15日、『瑠璃色の地球 2020』を配信リリース<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/387669 |title=松田聖子「瑠璃色の地球」34年の時を経てリレコーディング版リリース |publisher=natalie |date=2020-07-15 |accessdate=2020-07-16}}</ref> * 10月3日、デビュー以来初のライブ配信『40th Anniversary Seiko Matsuda 2020 "Romantic Studio Live”』を動画配信サービスU-NEXTにて開催。U-NEXTによるライブ配信最高峰の高音質・高画質を意味するPREMIUM LIVE EXPERIENCEでの初の作品となる * 12月、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にてクリスマスディナーショー開催(4日4公演) * 12月31日、日本武道館にて40th Anniversary「Seiko Matsuda 2020」Pre Count Down Concert!!〜今年中に会いたかったよ!!(*´▽`*)〜を開催。“40th Anniversary「Seiko Matsuda 2020〜2021」Count Down Concert!!〜新年 最初に会えるねっ!!(*‘∀‘)〜”は電車終夜運転中止による移動手段制限のため中止 ; [[2021年]] * 4月1日、『青い珊瑚礁〜Blue Lagoon〜』を配信リリース<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/422657 |title=松田聖子が40年ぶりに"聖子ちゃんカット"披露 |publisher=natalie |date=2021-04-01 |accessdate=2021-04-04}}</ref> * 6月2日、『時間の国のアリス〜Alice in the world of time〜』を配信リリース<ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子が1人8役であの曲をバンド演奏、1980年代に思いを馳せて|url=https://natalie.mu/music/news/430695|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-06-11|language=ja}}</ref> * 6月5日 - 10月24日、Happy 40th Anniversary!! Seiko Matsuda Concer Tour 2020〜2021 "Singles & Very Best Songs Collection!!"を開催 * 12月15日 - 18日 、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にてクリスマスディナーショー「SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2021」を開催。最終日(19日)は中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/458386?ref=ynews|title=松田聖子、今夜のディナーショー中止を発表|publisher=音楽ナタリー|date=2021-12-20|accessdate=2021-12-20}}</ref>。また、23日から26日まで[[ホテルニューオータニ大阪]]で開催予定だった公演も全て中止となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/458557|title=松田聖子ディナーショー、大阪公演も中止が決定|publisher=音楽ナタリー|date=2021-12-20|accessdate=2021-12-20}}</ref>。25日には、出場を予定されていた『[[第72回NHK紅白歌合戦]]』を辞退したことが[[NHK]]により発表された<ref name="松田聖子、紅白歌合戦出場を辞退 NHKが発表"/>。 ; [[2022年]] * 4月9日 - 10日、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にて「SEIKO MATSUDA Premium Dinner Show 2022」を開催。<ref>{{Cite news |url=https://hochi.news/articles/20220409-OHT1T51219.html?page=1 |title=松田聖子、112日ぶりの復帰ステージで涙「この先も沙也加と歌って参ります」|publisher=スポーツ報知 |date=2022-04-09 |accessdate=2022-04-13}}</ref> * 5月5日 - 7日、ホテルニューオータニ大阪 鳳凰の間にて「SEIKO MATSUDA Premium Dinner Show 2022」を開催。 * 6月11日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2022“My Favorite Singles & Best Songs”』がさいたまスーパーアリーナにて開幕。<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/06/12/kiji/20220612s00041000137000c.html|title=全国ツアー初日迎えた松田聖子 沙也加さんの曲、思い出の地で涙の熱唱「娘は心に生き続けてくれています」|publisher=SponichiAnnex |date=2022-06-12 |accessdate=2022-06-12}}</ref> * 9月2日、日本武道館公演120回を達成。 * 9月3日、日本武道館にてコンサートツアー(5箇所10公演)が閉幕。 * 11月12日、HBO Asia "FOLKLORE 2" 松田聖子初監督作品 "The Day Wind Blew~あの風が吹いた日~" 特別上映会&松田聖子監督プレミアムシネマトークショーが開催される (1日2回)。 * 12月14日 - 17日、グランドプリンスホテル新高輪 大宴会場 飛天にて「SEIKO MATSUDA Christmas Dinner Show 2022」を開催。 * 12月23日 - 26日、ホテルニューオータニ大阪 鳳凰の間にて「Seiko Matsuda CHRISTMAS DINNER & CONCERT 2022」を開催。 ; [[2023年]] * 5月27 - 28日、東京都世田谷区でファンミーティング(1日2回)開催。 * 6月10日、コンサートツアー『Seiko Matsuda Concert Tour 2023“Parade”』がさいたまスーパーアリーナにて開幕。 * 9月3日、日本ガイシホールにてコンサートツアー(5箇所12公演)が閉幕。 == エピソード == === ぶりっ子 === 「[[ぶりっ子]]」という呼称は、当時の人気[[漫才]]コンビ[[春やすこ・けいこ]]や[[山田邦子]]が、聖子の見せる可愛いらしい仕草や言動がわざとらしいとしてからかったのが始まりで、ラジオ番組などで見せるサバサバした砕けた横顔とのギャップが顕著である事がその要因とされる。また、レコード大賞新人賞を受賞した際に故郷の母親と電話でやり取りをする場面で、顔をしかめて泣き声を上げながらも、涙が明確に見えなかった様子から「うそ泣き聖子」と呼ばれ、「年上や男性、大衆に媚びるのが上手いしたたかな女」と、当時の女性の反感を買っていた面もある<ref name="shashin1"/>。この言葉は当時の[[流行語]]にまでなった。また、世間に浸透してその後も長らく使われるようになった事から、流行の発端となった聖子の事を「元祖ぶりっこ」と呼ぶ動きもある。 上記のように、本来は否定的な意味合いを含む言葉で、人気者への嫉妬や羨望から来るものが大きい。ただ、彼女がアイドルとして第一線で活躍を続けて実力を示すに従い徐々にそのような意味合いは薄れていき、彼女の人気を盛り立てる要素となっていった。2013年放送の[[NHK]]・[[連続テレビ小説|朝の連続テレビ小説]]『[[あまちゃん]]』第38話では、主人公の母・春子が実在の人物である聖子について、「ぶりっ子って言葉の語源は聖子ちゃんだからね。かわい子ぶっているのに同性に嫌われない。むしろ憧れの対象だったわけ。」と語る場面があった{{refnest|group="注釈"|当該のセリフは本放送のみで、映像作品ではカットされている。}}。 実際に大衆から「ぶりっ子」と呼ばれていたのはデビューから数年ほどの間で、それ以降は自身もコントなどで露骨に「ぶりっ子」を演じたり、他人を「ぶりっ子」呼ばわりするなど、ネタとして使用する事も多かった。また、バラエティ番組などで「ガハハ」と声を上げて豪快に笑ったり、トーク時に飾らない言葉で受け答えするなど素の部分を見せた事で逆に共感を得ていった面もある。 === ヘアスタイル === [[1980年代]]には聖子の髪型を真似た「[[聖子ちゃんカット]]」が世間の女性の間で大流行した。後に登場した多くのアイドル達(「花の82年組」と呼ばれる[[小泉今日子]]、[[松本伊代]]、[[堀ちえみ]]、[[石川秀美]]など)も同様のスタイルでデビューするなど、この時代の女性達に与えた影響は大きい。聖子自身はそんな「聖子ちゃんカット」流行真っ只中の1981年の暮れにばっさり切り、ショートカットにしている。よって、彼女自身がこの髪型にしていたのはデビュー年の1980年から81年暮までの約2年間だった。聖子がショートカットにした事で追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。1982年には「[[聖子ちゃんず]]」というそっくりさんユニットまでもが登場し、メンバーそれぞれが聖子ちゃんカットのバージョン違いを披露している。 「ソバージュ」とよばれる1980年代後期から世間で流行したカーリーヘアーも、まだ日本ではそのスタイル名も聞き慣れない1983年頃にいち早く取り入れて披露すると、名前が知れ渡り一気に広まっていく事になる。1984年の秋に映画『[[カリブ・愛のシンフォニー]]』撮影用にニューヨークで髪型を変えるまでは、所属事務所近くの美容室『ヘアーディメンション』[[四谷]]店が行きつけだった。 1990年代中頃からは、前髪を上げて額を大きく露出させる髪型が多く、彼女を象徴するスタイルとなっている。近年では、髪を下ろした時に[[ワンレングス]]のロングヘアーになっている場合が多い。 === 海外進出 === [[1990年]]の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]での[[歌手]][[デビュー]]のために徹底的に[[英語]]を学び、[[CNN]]のインタビューその他で堪能な英会話力を示し、また[[2005年]]の[[台湾]]におけるコンサートなどでは[[北京語]]も披露している。[[1990年代]]後半は歌手デビュー以外にもハリウッドデビューも考え、積極的にオーディションを受けて幾つか端役も得ている。 [[1998年]]公開の映画『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』で、日本人観光客の役として数秒ほどのシーンだが[[カメオ出演]]を果たしている。 [[1999年]]に公開された[[キルスティン・ダンスト]]主演の『[[わたしが美しくなった100の秘密]]』という青春コメディーの作品にて、ストーリーに無関係の冒頭のアジア人家族の娘役として登場した。 [[2010年]]には、アメリカの人気サスペンスドラマ『[[BONES -骨は語る-|BONES]]』のシーズン5・第15回『魂の伴侶』に、主人公のベストセラー作について取材する為に訪米した「リク・イワナガ」役でゲスト出演した。 === 交友 === デビュー当時は同期である[[岩崎良美]]、[[浜田朱里]]らと仲が良かったとされ、特に[[堀越高等学校]]の同級生でもあった良美とは聖子の結婚後も長く付き合いが続いていたという。浜田朱里とは2022年4月に都内で久々に再会していた事を女性週刊誌で報道された。同じく同期の[[田原俊彦]]は番組やCMなどで共演する機会が非常に多く、お互いのファンが心配するほど親密な仲だった。ただ、恋仲という訳ではなく、共に「良き友人であり、良きライバル」だと発言している。他にも、当時同じレコード会社で共演機会も多かった[[近藤真彦]]とは昔から交流があり、[[1988年]]にはたまたま同じタイミングでニューヨークでの仕事があり、せっかくの機会だから会おうと、お互いのスタッフを交えて食事をした事がある。 飲酒の習慣がない聖子は芸能界での交友録も多くはないと云われているが、元夫で神田正輝のゴルフ友達でもあった[[モト冬樹]]とは家族ぐるみの付き合いがあり、プライベートでカラオケに行ったり、自宅に招いて食事を振る舞う事もあったという。[[小柳ルミ子]]はデビュー当時から40年来の交流があり、聖子の父親からも「ルミちゃん」と呼ばれて信頼されていたという。聖子を妹のように可愛がって今もメールのやり取りやお互いにプレゼントを贈ったりしていると、小柳のブログやインタビューで度々明かされている。 === その他 === * 1980年前半の全盛期を迎えていた頃、[[ジャイアント馬場]]との初対面の際に馬場から、「俺は[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]しか見ないから(松田聖子を)知らない」と言われた事がある<ref group="注釈">松田聖子のプロデュサーであった若松宗雄の著書「松田聖子の誕生」では若松とデビュー前の聖子が話をしていた乃木坂の小さな喫茶店でほぼ必ず馬場が寛いでいたことが記されており、実際には聖子の顔を知っていた可能性がある。</ref>。 * 1990年代後半からは「[[ディナーショー]]の女王」として知られ、1992年より毎年行われるそのショーは高い人気を誇っている。チケット代は日本の全タレントの中で最も高い部類に入るが、常に即日完売となり入手が困難だと言われている。[[グランドプリンスホテル新高輪]]などのS席は50,500円と高額で、過去には[[ヒルトン名古屋]]にて4人セットで220,000円という価格のものも存在した。 * [[2003年]]11月、兄が卒業した[[久留米大学附設中学校・高等学校|久留米大学附設高等学校]]の[[同窓会]]東京支部の総会に、私人としてノーギャラで、旧姓の蒲池法子でゲスト出演した。子供の頃から兄とは仲がよい<ref>[http://mic.itconsult.co.jp/th/th312-kuroki.htm ちょっといい話]</ref>。 * [[2006年]][[5月19日]]放送の『[[ぐるぐるナインティナイン]]』の「ゴチになります!7」にVIPチャレンジャーとして登場し、レギュラー陣を抑えて第1位を獲得。ニアピン賞付きで5万円を獲得する快挙を達成。しかし、2回目の出演では逆にビリになって自腹で払っている。 * [[TBSテレビ|TBS]]の[[テレビドラマ|ドラマ]]『[[渡る世間は鬼ばかり]]』には同姓同名の松田聖子という人物が登場した(演じているのは[[中島唱子]])。<ref group="注釈">同作の「松田聖子」は中華料理店「幸楽」の従業員。聖子はドラマ中盤で結婚して苗字が変わったため、その後の役名は「田島聖子」になっている</ref>また、離婚後の神田正輝が「渡る世間は鬼ばかり」に出演した際には、役名の「松田聖子」と共演する場面があった。 * 「蒲池」という名字が、[[ZARD]]の[[坂井泉水]](本名:蒲池幸子)と同じなので、従姉妹や親戚なのではないか、と噂されることがあったが、仮に遠い先祖が同じだったとしても、2人は従姉妹でもなければ親戚でもない。 * 元夫の[[神田正輝]]、娘の[[神田沙也加]]と共に[[干支#十二支|干支]]が3人全員[[寅|寅年]]である。 * 2015年4月に開催されたファンクラブイベント『Thank You Event!!』において、本人より明らかにされたエピソード。 ** 『[[ミス・セブンティーンコンテスト]]』九州地区大会出場時には、2曲の楽曲を準備するよう指示があったため、[[桜田淳子]]の「[[気まぐれヴィーナス]]」と[[渡辺真知子]]のデビュー曲「[[迷い道]]」を準備しリハーサルで歌ったところ、係員より前者の「気まぐれヴィーナス」を指定された。 ** 上京の1か月後より収録・出演したドラマ『[[おだいじに]]』において、九州[[訛り]]が抜けずにNGを連発。[[杉村春子]]、[[池内淳子]]などの大御所俳優に迷惑をかけたと語っている。 ** 健康維持・リフレッシュの方法は入浴と睡眠である。[[入浴剤]]は使用せず、43℃の熱い真湯に10分間ほど入る(シャワー使用時は45℃に表示されている)。ストレッチを毎日行っている。 == 作品 == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !!width="400"|タイトル!!c/w!!width="150"|発売日!!規格!!品番!!style="font-size:10px"|[[オリコンチャート|JP]] |- |rowspan="2"|1st !rowspan="2"|[[裸足の季節]] |rowspan="2"|RAINBOW 〜六月生まれ |[[1980年]]4月1日||EP||06SH746||12 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5675||94 |- |rowspan="2"|2nd !rowspan="2"|[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]] |rowspan="2"|TRUE LOVE 〜そっとくちづけて〜 |1980年7月1日||EP||06SH802||2 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5676||88 |- |rowspan="2"|3rd !rowspan="2"|[[風は秋色/Eighteen]] |rowspan="2"| |1980年10月1日||EP||07SH866||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5677|| - |- |rowspan="2"|4th !rowspan="2"|[[チェリーブラッサム]] |rowspan="2"|少しずつ春 |[[1981年]]1月21日||EP||07SH911||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5678||93 |- |rowspan="2"|5th !rowspan="2"|[[夏の扉]] |rowspan="2"|頬に潮風 |1981年4月21日||EP||07SH977||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5679||92 |- |rowspan="2"|6th !rowspan="2"|[[白いパラソル]] |rowspan="2"|花一色 〜野菊のささやき〜 |1981年7月21日||EP||07SH1026||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5680||95 |- |rowspan="2"|7th !rowspan="2"|[[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]] |rowspan="2"|Romance |1981年10月7日||EP||07SH1067||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5681||91 |- |rowspan="2"|8th !rowspan="2"|[[赤いスイートピー]] |rowspan="2"|制服 |[[1982年]]1月21日||EP||07SH1112||1 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5682||85 |- |rowspan="3"|9th !rowspan="3"|[[渚のバルコニー]] |rowspan="3"|レモネードの夏 |1982年4月21日||EP||07SH1148||1 |- |1982年5月21日||CT||10KH1152|| - |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5683|| - |- |rowspan="3"|10th !rowspan="3"|[[小麦色のマーメイド]] |rowspan="3"|マドラス・チェックの恋人 |1982年7月21日||EP||07SH1188||1 |- |1982年8月1日||CT||10KH1194|| - |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5684|| - |- |rowspan="3"|11th !rowspan="3"|[[野ばらのエチュード]] |rowspan="3"|愛されたいの |1982年10月21日||EP||07SH1233||1 |- |1982年11月1日||CT||10KH1249||83 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5685|| - |- |rowspan="3"|12th !rowspan="3"|[[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]] |rowspan="3"|レンガの小径 |[[1983年]]2月3日||EP||07SH1253||1 |- |1983年3月5日||CT||10KH1280||68 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5686|| - |- |rowspan="3"|13th !rowspan="3"|[[天国のキッス]] |rowspan="3"|わがままな片想い |1983年4月27日||EP||07SH1289||1 |- |1983年5月8日||CT||10KH1301||55 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5687||98 |- |rowspan="3"|14th !rowspan="3"|[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]] |rowspan="3"| |1983年8月1日||EP||07SH1366||1 |- |1983年8月10日||CT||10KH1354||58 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5688||100 |- |rowspan="3"|15th !rowspan="3"|[[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ]] |rowspan="3"| |1983年10月28日||EP||07SH1421||1 |- |1983年11月11日||CT||10KH1368||37 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5689|| - |- |rowspan="3"|16th !rowspan="3"|[[Rock'n Rouge]] |rowspan="3"|ボン・ボヤージュ |[[1984年]]2月1日||EP||07SH1455||1 |- |1984年||CT||10KH1443||47 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5690|| - |- |rowspan="3"|17th !rowspan="3"|[[時間の国のアリス/夏服のイヴ]] |rowspan="3"| |1984年5月10日||EP||07SH1500||1 |- |1984年||CT||10KH1474||54 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5691|| - |- |rowspan="3"|18th !rowspan="3"|[[ピンクのモーツァルト]] |rowspan="3"|硝子のプリズム |1984年8月1日||EP||07SH1540||1 |- |1984年8月10日||CT||10KH1538||71 |- |2004年4月10日||CD||SECL-5692||99 |- |rowspan="3"|19th !rowspan="3"|[[ハートのイアリング]] |rowspan="3"|スピード・ボート |1984年11月1日||EP||07SH1580||1 |- |1984年11月10日||CT||10KH1586||68 |- |2004年4月14日||CD||SECL-5693|| - |- |rowspan="3"|20th !rowspan="3"|[[天使のウィンク]] |rowspan="3"|七色のパドル |[[1985年]]1月30日||EP||07SH1600||1 |- |1985年2月25日||CT||10KH1637||58 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5694|| - |- |rowspan="3"|21st !rowspan="3"|[[ボーイの季節]] |rowspan="3"|Caribbean Wind |1985年5月9日||EP||07SH1640||1 |- |1985年6月1日||CT||10KH1889||65 |- |2004年4月14日||CD||SRCL-5695|| - |- |22nd ![[DANCING SHOES]] (Club Mix)<br />(SEIKO) |CRAZY ME, CRAZY FOR YOU |1985年6月24日||12inch||12AH1896||1 |- |rowspan="3"|23rd 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|rowspan="4"|[[1990年]]4月30日||CD||656475 2|| - |- |CT||656475 4|| - |- |LP||656475 6|| - |- |EP||656475 74|| - |- |rowspan="2"|29th !rowspan="2"|[[THE RIGHT COMBINATION]]<br />(Seiko and Donnie Wahlberg) |rowspan="2"|LOVER'S PARADISE |rowspan="2"|1990年7月15日||8cmCD||CSDL-3151||28 |- |CT||CSSL3151|| - |- |rowspan="2"|30th !rowspan="2"|[[who's that boy]]<br />(SEIKO) |rowspan="2"|He's so good to me |rowspan="2"|1990年10月1日||CT|||| - |- |CD||73523|| - |- |rowspan="2"|31st !rowspan="2"|[[We Are Love]] |rowspan="2"|Kiss Me Please |rowspan="2"|1990年11月21日||CT||CSSL-3194|| - |- |8cmCD||CSDL-3194||16 |- |rowspan="2"|32nd !rowspan="2"|[[きっと、また逢える…]] |rowspan="2"|Matins 〜朝の祈り〜 |rowspan="2"|[[1992年]]2月5日||CT||SRSL-3323|| - |- |8cmCD||SPCL-3433||4 |- |rowspan="2"|33rd !rowspan="2"|[[あなたのすべてになりたい/Shinin' Shinin']] |rowspan="2"| |rowspan="2"|1992年8月1日||CT||SRSL-3359|| - |- |8cmCD||SRDL-3514||31 |- |rowspan="2"|34th !rowspan="2"|[[大切なあなた]] |rowspan="2"|最後の“さよなら” |rowspan="2"|[[1993年]]4月21日||CT||SRSL-3388|| - |- |8cmCD||SRDL-3642||7 |- |35th ![[A Touch of Destiny]] |Sweet Memories (English New Version) |1993年5月21日||8cmCD||SRDL-3664||51 |- |rowspan="2"|36th !rowspan="2"|[[かこわれて、愛jing]]<br />(MATSUYAKKO) |rowspan="2"| |rowspan="2"|1993年11月10日||CT||SRSL-3422|| - |- | rowspan="5" |8cmCD||SRDL-3767||63 |- |37th ![[もう一度、初めから]] |There for You |[[1994年]]5月11日||SRDL-3821||22 |- |38th ![[輝いた季節へ旅立とう]] |It's Style |1994年12月1日||SRDL-3953||12 |- |39th ![[素敵にOnce Again]] |想い出の“渚のバルコニー” |[[1995年]]4月21日||SRDL-4001||22 |- |40th ![[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう]] | |[[1996年]]4月22日||PHDL-1081||1 |- |rowspan="4"|41st !rowspan="4"|[[Let's Talk About It]]<br />(SEIKO) |rowspan="4"| |rowspan="4"|1996年4月24日||12inch||31458 1563 1|| - |- |CT||31458 1562 4|| - |- |rowspan="2"|CD||31458 1562 2|| - |- |31458 1563 2|| - |- |42nd ![[I'll Be There For You (松田聖子の曲)|I'll Be There For You]]<br />(松田聖子 with Robbie Nevil) | |1996年5月17日|| rowspan="2" |8cmCD||PHDL-1062||35 |- |43rd ![[さよならの瞬間]] |Dear My Darling |1996年11月18日||PHDL-1076||5 |- |44th ![[Good For You]]<br />(SEIKO) | |1996年12月10日||LP||31458 2059 1|| - |- |45th ![[私だけの天使〜Angel〜/あなたのその胸に]] | |[[1997年]]4月23日||8cmCD||PHDL-1111||5 |- |46th ![[Gone with the rain]] |Good For You (Sweetest Mix) |1997年12月3日||CD||PHCL-1203||28 |- |47th ![[恋する想い〜Fall in love〜]] |I Love You |[[1998年]]6月17日|| rowspan="3" |8cmCD||PHDL-1151||34 |- |48th ![[Touch the LOVE]] |ルツェルンの畔で |1998年11月26日||PHDL-1181||66 |- |49th ![[哀しみのボート]] |葡萄姫 |[[1999年]]10月27日||PHDL-1202||27 |- |50th ![[20th Party]] |恋はいつでも95点 |[[2000年]]5月17日|| rowspan="7" |CD||PHCL-20019||17 |- |51st ![[上海ラヴソング]] |チャペルの小径 |2000年6月7日||PHCL-20024||37 |- |52nd ![[Unseasonable Shore]] |夏色の瞳 |2000年6月14日||PHCL-20025||35 |- |53rd ![[True Love Story/さよならのKISSを忘れない]]<br />(郷ひろみ・松田聖子) | |2000年9月27日||SRCL-4922||7 |- |54th ![[The Sound of Fire]] |奇蹟の起る夜☆kiseki no okoru yoru☆ |2000年11月29日||UMCK-4003||46 |- |55th ![[あなたしか見えない]] |Ave Maria 2001 featuring soundfly SONO |[[2001年]]6月20日||UMCK-5523||30 |- |56th ![[愛♡愛〜100%♥Pure Love〜]] |Ding Dong |2001年11月14日||UMCK-5535||49 |- |rowspan="2"|57th !rowspan="2"|[[all to you]]<br />(SEIKO) |rowspan="2"| |rowspan="2"|[[2002年]]4月30日||LP||440 050 054 2|| - |- | rowspan="6" |CD||HIPF-05039 2|| - |- |58th ![[素敵な明日]] | |2002年6月5日||SRCL-5350||29 |- |59th ![[just for tonight]]<br />(SEIKO) | |2002年6月17日||440 060 094 2|| - |- |rowspan="2"|60th !rowspan="2"|[[Call me (松田聖子の曲)|Call me]] |rowspan="2"|This is the place 2003 |[[2003年]]6月4日||SRCL-5570||17 |- |2004年7月7日||SRCL-5790|| - |- |61st ![[逢いたい (松田聖子の曲)|逢いたい]] |風色のKiss |[[2004年]]5月26日||SRCL-5738||12 |- |rowspan="2"|62nd !rowspan="2"|[[Smile on me]]<br />(SEIKO with Crazy.T) |rowspan="2"|制服のボタン |rowspan="2"|2004年7月7日||CD+DVD||SRCL-5759/60|| rowspan="2" |18 |- | rowspan="8" |CD||SRCL-5761 |- |63rd ![[永遠さえ感じた夜]] |夢見てた二人 |[[2005年]]2月2日||SRCL-5867||34 |- |64th ![[I'll fall in love]] |思い出にできなくて |2005年8月24日||SRCL-5960||30 |- |65th ![[しあわせな気持ち]] |The time went by |2005年9月21日||SRCL-5968||28 |- |66th ![[bless you (松田聖子の曲)|bless you]] |ふたつの心達 |[[2006年]]4月26日||SRCL-6272||29 |- |67th ![[WE ARE.]]<br />(PawPaw) |君との未来図 |2006年5月24日||SRCL-6279|| - |- |68th ![[涙がただこぼれるだけ]] |砂の上でくちづけしてね |[[2007年]]5月23日||SRCL-6566||38 |- |69th ![[真夏の夜の夢 (松田聖子の曲)|真夏の夜の夢]]<br />(松田聖子×藤井隆) |二人ならば |2007年8月1日||SRCL-6611||36 |- |rowspan="2"|70th !rowspan="2"|[[クリスマスの夜 (松田聖子の曲)|クリスマスの夜]] |rowspan="2"|Merry Christmas |rowspan="2"|2007年11月21日||CD+DVD||SRCL-6684〜5||rowspan="2"|34 |- | rowspan="3" |CD||SRCL-6686 |- |71st ![[花びら舞う季節に (松田聖子の曲)|花びら舞う季節に]] |あなただけ広い世界に |[[2008年]]3月19日||SRCL-6769||32 |- |72nd ![[Love is all (松田聖子の曲)|Love is all]] |忘れたりしないでね |[[2008年]]6月25日||SRCL-6820||32 |- |rowspan="2"|73rd !rowspan="2"|[[あの輝いた季節]] |rowspan="2"|いつまでもこの胸の中に |rowspan="2"|[[2008年]]10月22日||CD+DVD||SRCL-6902〜3||rowspan="2"|30 |- | rowspan="2" |CD||SRCL-6904 |- |74th ![[アイドルみたいに歌わせて]]<br />([[矢島美容室]] feat.プリンセス・セイコ) | |[[2010年]]4月21日||AVCD-31864B||16 |- |rowspan="2"|75th !rowspan="2"|[[いくつの夜明けを数えたら]] |rowspan="2"|You are my Angel |rowspan="2"|2010年5月5日||CD+DVD||UMCK-9329||rowspan="2"|12 |- |CD||UMCK-5270 |- |rowspan="2"|76th !rowspan="2"|[[特別な恋人]] |rowspan="2"|声だけ聞かせて |rowspan="2"|2011年11月23日||CD+DVD||UMCK-9457||rowspan="2"|14 |- |CD||UMCK-5355 |- |rowspan="2"|77th !rowspan="2"|[[涙のしずく (松田聖子の曲)|涙のしずく]] |rowspan="2"|上を向いて歩こう |rowspan="2"|2012年5月2日||CD+DVD||UMCK-9481||rowspan="2"|20 |- |CD||UMCL-5378 |- |rowspan="2"|78th !rowspan="2"| [[LuLu!!]] |rowspan="2"|Sweet Lover |rowspan="2"|2013年5月22日||CD+DVD||UMCK-9618||rowspan="2"|23 |- |CD||UMCL-5428 |- |rowspan="2"|79th !rowspan="2"|[[夢がさめて]]<br />(松田聖子 & [[クリス・ハート]]) |rowspan="2"|もう一度抱きしめたい |rowspan="2"|2013年10月30日||CD+DVD||UMCK-9647||rowspan="2"|14 |- |CD||UMCK-5451 |- |rowspan="2"|80th !rowspan="2"| [[I Love You!! 〜あなたの微笑みに〜]] |rowspan="2"|Free |rowspan="2"|2014年5月21日||CD+DVD||UMCK-9673||rowspan="2"|27 |- |CD||UMCK-5469 |- |rowspan="4"|81st !rowspan="4"|[[永遠のもっと果てまで/惑星になりたい]] |rowspan="4"| |rowspan="4"|2015年10月28日||CD+DVD||UPCH-89240||rowspan="4"|11 |- |CD+グッズ||UPCH-89246 |- |CT||UPSH-89001 |- | rowspan="2" |CD||UPCH-80414 |- |rowspan="3"|82nd !rowspan="3"|[[薔薇のように咲いて 桜のように散って]] |rowspan="3"|薔薇のように咲いて 桜のように散って Piano Ver. |rowspan="3"|2016年9月21日||UPCH-80445 |rowspan="3"|6 |- |CD+DVD||UPCH-89293 |- |CD+封入ポスター||UPCH-89306 |} === 正規プロモ盤/ノベルティ盤 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" !タイトル!!内容!!年!!規格!!品番 |- !白いパラソル |白いパラソル<br />白いパラソル(カラオケ)||1981|| rowspan="2" |EP||YESS 3 |- !風立ちぬ |風立ちぬ(モノラル)<br />Romance(モノラル) |1981 |XDSH-93019 |- !聖子とおしゃべりデート |「Pineapple」販促コメント||1982||CT||TPBH-94015 |- ![[金色のリボン|クリスマスメドレー]] |クリスマスメドレー<br />恋人がサンタクロース||1984||EP||XDSH-93098 |- !Love Message |「ユートピア」新曲コメント||1983||CT||XAKH-90021 |- ![[DANCING SHOES|Dancing Shoes]] |DANCING SHOES (Single ver.)<br />CRAZY ME, CRAZY FOR YOU||1985|| rowspan="6" |EP||XDSH-93043<br />07SH-1670 |- ![[SOUND OF MY HEART|Touch Me]] |TOUCH ME<br />DANCING SHOES (Album ver.)||1985||XDSH-93104 |- ![[瑠璃色の地球]] |瑠璃色の地球<br />白い夜||1986||XDSH-93122 |- ![[SUPREME|時間旅行]] |時間旅行<br />マリオネットの涙||1986||XDSH-93132 |- !Precious Heart |Precious Heart<br />恋の魔法でCatch Your Heart||1989||XDSH-93246 |- !All The Way To Heaven |All the way to Heaven<br />he's so good to me||1990||656 019 7 |- !Seiko<br />SPECIAL DJ COPY |All the way to Heaven<br />who's that boy<br />THE RIGHT COMBINATION||1990|| rowspan="3" |12cmCD||XDDH-93049 |- !The Right Combination |THE RIGHT COMBINATION||1990||SCK-73417 |- !Who's That Boy |who's that boy||1990||SCK-73523 |- !rowspan="2"|あなたに逢いたくて 〜Missing You〜 |rowspan="2"|あなたに逢いたくて〜Missing You〜<br />明日へと駆け出してゆこう||rowspan="2"|1996||12cmCD<br />羽根入りBOX||SACL-1002 |- |CD||SADL-1009 |- !rowspan="2"|Let's Talk About It |Extended Club Vocal<br />Club Dub<br />X Beat Mix I<br />LP Version<br />R&B Street Mix W/ Rap<br />X Beat Dub II||rowspan="2"|1996||LP||AMPRO-00215 |- |R&B Steet Mix W/O Rap<br />R&B Street Mix W/ Rap<br />Radio House Vocal<br />Hip Hop Mix<br />LP Version||12cmCD||AMSAD-00208 |- !rowspan="2"|Good For You |X-Beat Dub<br />X-Beat Instrumental<br />Dark & Lovely Dub<br />X-Beat Straight Pass||rowspan="2"|1996||rowspan="2"|12inch||AMPRO-00359 |- |Spike Club Vocal<br />Spike Instrumental<br />Radio Remix W/O Rap<br />Radio Remix W/ Rap<br />Spike Radio Mix<br />LP Version||AMPRO-00370 |- !さよならの瞬間 |さよならの瞬間||1996||CD||SDAL-1019 |- !私だけの天使〜Angel〜 |私だけの天使〜Angel〜<br />あなたのその胸に||1997|| rowspan="3" |12cmCD||9DCP-9001 |- !Gone with the rain |Gone with the rain<br />[[Sweetest Time|KissしてX'mas]]||1997||9DCP-9004 |- !恋する想い〜Fall in love〜 |恋する想い〜Fall in love〜<br />[[Forever (松田聖子のアルバム)|Forever]]||1998||9DCP-9008 |- !Touch the LOVE |Touch the LOVE<br />ルツェルンの畔で||1998|| -|| - |- !哀しみのボート |哀しみのボート<br />葡萄姫||1999||12cmCD||PHLD-1202 |- !20th Party |20th Party<br />恋はいつでも95点||2000|| rowspan="4" |CT|| - |- !The Sound of Fire |The Sound of Fire<br />奇跡の起る夜☆kiseki no okoru yoru☆||2000|| - |- !あなたしか見えない |あなたしか見えない<br />Ave Maria 2001||2001|| - |- !愛♡愛〜100%♥Pure Love〜 |愛♡愛〜100%♥Pure Love〜<br />Ding Dong||2002|| - |- !素敵な明日 |素敵な明日||2003||12cmCD||SDCR-80077 |- !all to you |Stonebridge Club Mix<br />Stonebridge Club Instrumental Mix<br />Stonebridge Club Radio Mix<br />Stonebridge Alt Club Mix<br />Stonebridge Dub Mix<br />Stonebridge Alt Radio Mix||2002||CD||HIPF-05039 2 |- !rowspan="2"|just for tonight |Mark!s Rampant Vocal<br />Mark!s Rampant Dub||rowspan="2"|2002||rowspan="2"|LP||JFT001 |- |Mark!s Rampant Radio<br />Mark!s Rampant Now Vocal<br />Mark!s Message Vocal||JFT002 |} === オリジナル・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !width="400"|タイトル !width="150"|発売日 !規格!!品番 !style="font-size:10px"|[[オリコンチャート|JP]] |- |rowspan="11"|1st !rowspan="11"|[[SQUALL (松田聖子のアルバム)|SQUALL]] |rowspan="2"|1980年8月1日||LP||27AH1032||2 |- |CT||27KH844||1 |- |1983年6月22日||マスターサウンドLP||30AH1607|| - |- |1983年7月1日||メタルマスターCT||33KH1332|| - |- |1983年12月21日||rowspan="3"|CD||35DH68|| - |- |1987年11月21日||32DH783|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1267|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20011||64 |- |2012年2月15日||MHCL-20146|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30107|| - |- |2014年9月25日||SACD||SSMS-001|| - |- |rowspan="11"|2nd !rowspan="11"|[[North Wind (アルバム)|North Wind]] |rowspan="2"|1980年12月1日||LP||27AH1154||1 |- |CT||27KH932||2 |- |1983年6月22日||マスターサウンドLP||30AH1608|| - |- |1983年7月1日||メタルマスターCT||33KH1333|| - |- |1983年12月22日||rowspan="3"|CD||35DH69|| - |- |1987年11月21日||32DH784|| - |- |1991年5月15日||SRCL-1853|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20013||74 |- |2012年2月15日||MHCL-20147|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30108|| - |- |2015年8月28日||SACD||SSMS-007|| - |- |rowspan="11"|3rd !rowspan="11"|[[Silhouette (松田聖子のアルバム)|Silhouette 〜シルエット〜]] |rowspan="2"|1981年5月21日||LP||28AH1267||2 |- |CT||28KH992||2 |- |1981年6月21日||マスターサウンドLP||30AH1204|| - |- |1983年3月21日||CD||35DH29|| - |- |1983年7月1日||メタルマスターCT||33KH1334|| - |- |1987年11月21日||rowspan="2"|CD||32DH785|| - |- |1991年5月15日||SRCL-1854|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20015||68 |- |2012年2月15日||MHCL-20148|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30109|| - |- |2015年8月28日||SACD||SSMS-008|| - |- |rowspan="11"|4th !rowspan="11"|[[風立ちぬ (松田聖子のアルバム)|風立ちぬ]] |rowspan="2"|1981年10月21日||LP||28AH1337||1 |- |CT||28KH1083||1 |- |rowspan="2"|1981年11月21日||マスターサウンドLP||30AH1213|| - |- |メタルマスターCT||33KH1092|| - |- |1983年2月25日||rowspan="3"|CD||35DH26|| - |- |1987年11月21日||32DH786|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1268|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20017||52 |- |2012年2月15日||MHCL-20149|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30110|| - |- |2014年9月25日||SACD||SSMS-002|| - |- |rowspan="11"|5th !rowspan="11"|[[Pineapple (アルバム)|Pineapple]] |rowspan="2"|1982年5月21日||LP||28AH1432||1 |- |CT||28KH1160||1 |- |1982年6月21日||マスターサウンドLP||30AH1220||75 |- |1982年7月1日||メタルマスターCT||33KH1173|| - |- |1982年10月1日||rowspan="3"|CD||35DH3|| - |- |1987年11月21日||32DH787|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1269|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20019||49 |- |2012年2月15日||MHCL-20150|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30111|| - |- |2014年10月31日||SACD||SSMS-003|| - |- |rowspan="11"|6th !rowspan="11"|[[Candy (松田聖子のアルバム)|Candy]] |rowspan="2"|1982年11月10日||LP||28AH1494||1 |- |CT||28KH1252||1 |- |rowspan="3"|1982年12月21日||マスターサウンドLP||30AH1601||70 |- |メタルマスターCT||33KH1265|| - |- |rowspan="3"|CD||35DH19|| - |- |1987年11月21日||32DH789|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1270|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20021||63 |- |2012年3月14日||MHCL-20153|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30112|| - |- |2014年10月31日||SACD||SSMS-004|| - |- |rowspan="11"|7th !rowspan="11"|[[ユートピア (アルバム)|ユートピア]] |rowspan="2"|1983年6月1日||LP||28AH1528||1 |- |CT||28KH1310||1 |- |1983年6月22日||CD||38DH39|| - |- |1983年7月1日||メタルマスターCT||33KH1331||80 |- |1983年9月1日||マスターサウンドLP||32AH1610||55 |- |1987年11月21日||rowspan="2"|CD||32DH790|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1271|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20023||50 |- |2012年3月14日||MHCL-20154|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30113|| - |- |2014年11月28日||SACD||SSMS-005|| - |- |rowspan="11"|8th !rowspan="11"|[[Canary (アルバム)|Canary]] |rowspan="2"|1983年12月10日||LP||28AH1666||1 |- |CT||28KH1425||1 |- |rowspan="3"|1983年12月21日||メタルマスターCT||33KH1431|| - |- |マスターサウンドLP||32AH1618||64 |- |rowspan="3"|CD||38DH62|| - |- |1987年11月21日||32DH791|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1272|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20025||73 |- |2012年3月14日||MHCL-20155|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30114|| - |- |2015年9月30日||SACD||SSMS-009|| - |- |rowspan="11"|9th !rowspan="11"|[[Tinker Bell]] |rowspan="4"|1984年6月10日||LP||28AH1734||1 |- |CT||28KH1485||1 |- |メタルマスターCT||33KH1489|| - |- |CD||35DH100|| - |- |1984年7月1日||マスターサウンドLP||32AH1628||72 |- |1987年11月21日||rowspan="2"|CD||32DH793|| - |- |1990年10月15日||CSCL-1273|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20027||89 |- |2012年3月14日||MHCL-20156|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30115|| - |- |2015年9月30日||SACD||SSMS-010|| - |- |rowspan="10"|10th !rowspan="10"|[[Windy Shadow]] |rowspan="4"|1984年12月8日||LP||28AH1800||1 |- |CT||28KH1600||2 |- |メタルマスターCT||33KH1618|| - |- |CD||32DH170|| - |- |1984年12月21日||マスターサウンドLP||32AH1634|| - |- |1990年10月15日||CD||CSCL-1274|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20029||85 |- |2012年3月14日||MHCL-20157|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30116|| - |- |2015年10月30日||SACD||SSMS-011|| - |- |rowspan="9"|11th !rowspan="9"|[[The 9th Wave]] |rowspan="3"|1985年6月5日||LP||28AH1880||1 |- |CT||28KH1685|| - |- |CD||32DH238|| - |- |1985年6月21日||マスターサウンドLP||32AH1640||95 |- |1990年10月15日||CD||CSCL-1275|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20031||90 |- |2012年4月18日||MHCL-20158|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30117|| - |- |2015年10月30日||SACD||SSMS-012|| - |- |rowspan="6"|12th !rowspan="6"|[[SOUND OF MY HEART]]<br />(SEIKO) |rowspan="3"|1985年8月15日||LP||28AH1910||2 |- |CT||28KH1720||2 |- |CD||32DH266||39 |- |1995年3月8日||CD||SRCL-3178|| - |- |2009年8月5日||ブルースペックCD||SRCL-20033|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30118|| - |- |rowspan="8"|13th !rowspan="8"|[[SUPREME]] |rowspan="3"|1986年6月1日||LP||28AH2030||1 |- |CT||28KH1850||1 |- | rowspan="2" |CD||32DH440|| - |- |1995年3月8日||SRCL-3179|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20035||93 |- |2012年4月18日||MHCL-20159|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30119|| - |- |2014年11月28日||SACD||SSMS-006|| - |- |rowspan="7"|14th !rowspan="7"|[[Strawberry Time (アルバム)|Strawberry Time]] |rowspan="3"|1987年5月16日||LP||28AH2170||1 |- |CT||28KH2157||1 |- | rowspan="2" |CD||32DH656||1 |- |1995年3月8日||SRCL-3180|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20037||99 |- |2012年4月18日||MHCL-20160|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30120|| - |- |rowspan="7"|15th !rowspan="7"|[[Citron]] |rowspan="3"|1988年5月11日||LP||28AH5040||rowspan="3"|1 |- |CT||28KH5040 |- | rowspan="2" |CD||32DH5040 |- |1995年3月8日||SRCL-3181|| - |- |2009年8月5日||rowspan="2"|ブルースペックCD||SRCL-20039|| - |- |2012年4月18日||MHCL-20161|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30121|| - |- |rowspan="4"|16th !rowspan="4"|[[Precious Moment]] |rowspan="2"|1989年12月6日||CD||CSCL-1039||rowspan="2"|6 |- |CT||CSTL-1039 |- |2009年8月5日||ブルースペックCD||SRCL-20041|| - |- |2013年7月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30122|| - |- |rowspan="6"|17th !rowspan="6"|[[Seiko (アルバム)|Seiko]]<br />(SEIKO) |rowspan="3"|1990年5月15日||LP||466577 1|| - |- |CD||CK-46046|| - |- |CT||CT-46046|| - |- |rowspan="2"|1990年6月7日||CD||CSCL-1090||rowspan="2"|2 |- |CT||CSTL-1090 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30282|| |- |rowspan="3"|18th !rowspan="3"|[[We Are Love (アルバム)|We Are Love]] |rowspan="2"|1990年12月10日||CD||CSCL-1569||rowspan="2"|3 |- |CT||CSTL-1569 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30283|| |- |rowspan="4"|19th !rowspan="4"|[[Eternal (松田聖子のアルバム)|Eternal]] |rowspan="2"|1991年5月2日||CD||CSCL-1918||rowspan="2"|3 |- |CT||CSTL-1714 |- |1992年12月12日||MD||SRYL-7087|| - |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30284|| |- |rowspan="4"|20th !rowspan="4"|[[1992 Nouvelle Vague]] |rowspan="2"|1992年3月25日||CD||CSCL-2364|| rowspan="2" |8 |- |CT||CSTL-1807 |- |1992年11月1日||MD||SRYL-7064|| - |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30285|| |- |rowspan="3"|21st !rowspan="3"|[[Sweet Memories'93]] |rowspan="2"|1992年12月2日||CD||CSCL-2546||rowspan="2"|12 |- |CT||CSTL-1853 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30286|| |- |rowspan="4"|22nd !rowspan="4"|[[DIAMOND EXPRESSION]] |rowspan="3"|1993年5月21日||CD||CSCL-2616||rowspan="3"|4 |- |CT||CSTL-1864 |- |MD||SRYL-7107 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30287|| |- |rowspan="4"|23rd !rowspan="4"|[[A Time for Love]] |rowspan="3"|1993年11月21日||CD||CSCL-2803||rowspan="3"|21 |- |CT||CSTL-1899 |- |MD||SRYL-7137 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30288|| |- |rowspan="4"|24th !rowspan="4"|[[Glorious Revolution]] |rowspan="3"|1994年6月12日||CD||CSCL-2915||rowspan="3"|8 |- |CT||CSTL-1911 |- |MD||SRYL-7148 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30289|| |- |rowspan="4"|25th !rowspan="4"|[[It's Style '95]] |rowspan="3"|1995年5月21日||CD||CSCL-3230||rowspan="3"|2 |- |CT||CSTL-1951 |- |MD||SRYL-7199 |- |2014年12月24日||ブルースペックCD2||MHCL-30290|| |- |rowspan="4"|26th !rowspan="4"|[[WAS IT THE FUTURE]]<br />(SEIKO) |rowspan="2"|1996年5月14日||CD||31454 0480 2|| - |- |CT||31454 0480 4|| - |- |1996年6月10日||CD||PHCL-1007||12 |- |2010年5月26日||[[スーパー・ハイ・マテリアルCD|スーパーハイマテリアルCD]]||UMCK-9337|| - |- |rowspan="2"|27th !rowspan="2"|[[Vanity Fair]] |1996年5月27日||CD||PHCL-5028||2 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9336|| - |- |rowspan="2"|28th !rowspan="2"|[[Guardian Angel (松田聖子のアルバム)|Guardian Angel]] |1996年12月5日||CD||PHCL-5001||10 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9344|| - |- |rowspan="2"|29th !rowspan="2"|[[My Story (松田聖子のアルバム)|My Story]] |1997年5月21日||CD||PHCL-5070||5 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9338|| - |- |rowspan="2"|30th !rowspan="2"|[[Sweetest Time]] |1997年12月3日||CD||PHCL-12||23 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9345|| - |- |rowspan="2"|31st !rowspan="2"|[[Forever (松田聖子のアルバム)|Forever]] |1998年5月8日||CD||PHCL-5101||12 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9339|| - |- |rowspan="2"|32nd !rowspan="2"|[[永遠の少女]] |1999年12月18日||CD||PHCL-5130||24 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9340|| - |- |rowspan="2"|33rd !rowspan="2"|[[20th Party (アルバム)|20th Party]] |2000年6月28日||CD||PHCL-5151||16 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9341|| - |- |rowspan="2"|34th !rowspan="2"|[[LOVE & EMOTION VOL.1]] |2001年6月19日||CD||UMCK-4029||19 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9342|| - |- |rowspan="2"|35th !rowspan="2"|[[LOVE & EMOTION VOL.2]] |2001年11月28日||CD||UMCK-4040||43 |- |2010年5月26日||スーパーハイマテリアルCD||UMCK-9343|| - |- |rowspan="3"|36th !rowspan="3"|[[area62]]<br />(SEIKO) |2002年6月11日|| rowspan="10" |CD||4400600542|| - |- |rowspan="2"|2002年6月21日||VIVI-19623|| - |- |TGCS-1439|| - |- |37th ![[Sunshine (アルバム)|Sunshine]] |2004年6月9日||SRCL-5756/8||6 |- |38th ![[fairy (アルバム)|fairy]] |2005年4月6日||SRCL-5894||7 |- |39th ![[Under the beautiful stars]] |2005年12月7日||SRCL-6115||34 |- |40th ![[bless you (松田聖子のアルバム)|bless you]] |2006年5月31日||SRCL-6286||14 |- |41st ![[Eternal II]] |2006年12月6日||SRCL-6455||54 |- |42nd ![[Baby's breath (松田聖子のアルバム)|Baby's breath]] |2007年6月6日||SRCL-6567||19 |- |43rd ![[My pure melody]] |2008年5月21日||SRCL-6806/8||15 |- |rowspan="2"|44th !rowspan="2"|[[My Prelude]] |rowspan="2"|2010年5月26日||CD+フォトブック||UMCK-9333||rowspan="2"|4 |- |CD||UMCK-1355 |- |rowspan="2"|45th !rowspan="2"|[[Cherish (松田聖子のアルバム)|Cherish]] |rowspan="2"|2011年6月1日||CD+フォトブック||UMCK-9438||rowspan="2"|10 |- |CD||UMCK-1395 |- |rowspan="2"|46th !rowspan="2"|[[Very Very]] |rowspan="2"|2012年6月6日||CD+フォトブック||UMCK-9490||rowspan="2"|9 |- |CD||UMCK-1420 |- |rowspan="3"|47th !rowspan="3"|[[A Girl in the Wonder Land]] |rowspan="3"|2013年6月5日||CD||UMCK-1447||rowspan="3"|5 |- |CD+DVD||UMCK-9624 |- |CD+フォトブック||UMCK-9625 |- |rowspan="3"|48th !rowspan="3"|[[Dream & Fantasy]] |rowspan="3"|2014年6月4日||CD||UMCK-1482||rowspan="3"|5 |- |CD+フォトブック||UMCK-9679 |- |CD+DVD||UMCK-9680 |- |rowspan="3"|49th !rowspan="3"|[[Bibbidi-Bobbidi-Boo]] |rowspan="3"|2015年6月10日||CD||UMCK-1510||rowspan="3"|6 |- |CD+DVD||UMCK-9744 |- |CD+フォトブック||UMCK-9745 |- |rowspan="3"|50th !rowspan="3"|[[Shining Star (松田聖子のアルバム)|Shining Star]] |rowspan="3"|2016年6月8日||CD||UPCH-20419||rowspan="3"|5 |- |CD+DVD||UPCH-29218 |- |CD+フォトブック||UPCH-29219 |- |rowspan="3"|51st !rowspan="3"|[[Daisy (松田聖子のアルバム)|Daisy]] |rowspan="3"|2017年6月7日||CD||UPCH-20453||rowspan="3"|5 |- |CD+DVD||UPCH-29257 |- |CD+フォトブック||UPCH-29258 |- |rowspan="3"|52nd !rowspan="3"|[[Merry-go-round (松田聖子のアルバム)|Merry-go-round]] |rowspan="3"|2018年6月6日||CD||UPCH-20488||rowspan="3"|10 |- |CD+DVD||UPCH-29299 |- |CD+フォトブック||UPCH-29300 |- |rowspan="4"|53rd !rowspan="4"|[[SEIKO MATSUDA 2020]] |rowspan="3"|2020年9月30日<br/ > |CD||UPCH-20551||rowspan="3"|3 |- |CD+DVD||UPCH-29365 |- |CD+ハチマキ||PDCN-1921 |- |2021年10月20日||CD||UPCH-29407||TBA |- |rowspan="3"|54th !rowspan="3"|[[SEIKO MATSUDA 2021]] |rowspan="3"|2021年10月20日||CD||UPCH-20591||rowspan="3"|4 |- |CD+DVD||UPCH-29406 |- |CD+BD+2LP+ポスター||PDCN-1927 |} === ベスト・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !width="650"|タイトル !width="150"|発売日 !style="font-size:10px"|[[オリコンチャート|JP]] |- |1 ![[聖子・fragrance]] |1981年11月1日||3 |- |2 ![[Seiko・index]] |1982年7月1日||4 |- |3 ![[Seiko・plaza]] |1983年11月11日||1 |- |4 ![[Touch Me, Seiko]] |1984年3月15日||1 |- |5 ![[Seiko・Town]] |1984年11月1日||1 |- |6 ![[Seiko-Train]] |1985年3月6日||1 |- |7 ![[Seiko Box]] |1985年11月10日||7 |- |8 ![[LOVE BALLADE (松田聖子のアルバム)|LOVE BALLADE]] |1986年11月21日||5 |- |9 ![[Snow Garden (松田聖子のアルバム)|Snow Garden]] |1987年11月21日||1 |- |10 ![[Seiko Monument]] |1988年7月21日||10 |- |11 ![[Bible (アルバム)|Bible]] |1991年12月1日||8 |- |12 ![[Bible II]] |1994年12月1日||14 |- |13 ![[Bible III]] |1996年3月1日||16 |- |14 ![[Complete Bible|Complete Bible 〜Seiko Matsuda All Singles Collection〜]] |1996年9月21日||45 |- |15 ![[Winter Tales]] |1996年11月1日||44 |- |16 ![[Seiko Matsuda 1980-1995]] |1997年4月1日|| - |- |17 ![[Seaside 〜Summer Tales〜]] |1997年6月21日|| - |- |18 ![[Dear (松田聖子のアルバム)|Dear]] |1997年11月21日||27 |- |19 ![[Seiko Celebration]] |1998年7月18日|| - |- |20 ![[Seiko '96-'98]] |1998年11月30日||57 |- |21 ![[Ballad 〜20th Anniversary]] |1999年4月1日|| - |- |22 ![[SEIKO SUITE]] |2000年7月5日||40 |- |23 !聖子 傳 The Legendary Collection(香港限定盤) |2000年11月9日|| |- |24 ![[LOVE Seiko Matsuda 20th Anniversary Best Selection|LOVE <small>Seiko Matsuda 20th Anniversary Best Selection</small>]] |2000年11月29日||27 |- |25 !SUPER COLLECTION |2000年|| - |- |rowspan="2"|26 ![[Another Side of Seiko 27]] |rowspan="2"|2003年11月27日||rowspan="2"|44 |- ![[Another Side of Seiko 27|Another Side of Seiko 14]] |- |rowspan="2"|27 ![[Best of Best 27]] |rowspan="2"|2004年4月14日||rowspan="2"|8 |- ![[Best of Best 27|Best of Best 13]] |- |28 ![[Seiko Smile Seiko Matsuda 25th Anniversary Best Selection|Seiko Smile <small>Seiko Matsuda 25th Anniversary Best Selection</small>]] |2005年1月26日||26 |- |29 ![[Seiko Matsuda]] |2006年7月19日||96 |- |rowspan="2"|30 ![[Premium Diamond Bible]] |rowspan="2"|2009年9月30日||rowspan="2"|19 |- ![[Diamond Bible]] |- |31 ![[Seiko Matsuda Christmas Songs]] |2009年11月11日||39 |- |32 ![[Seiko Matsuda Single Collection 30th Anniversary Box 〜The voice of a Queen〜]] |2010年5月26日||140 |- |33 ![[Touch Me, Seiko II]] |2010年9月22日||94 |- |34 ![[SEIKO STORY〜80's HITS COLLECTION〜]] |2011年12月7日||23 |- |35 ![[松田聖子 スーパー・ヒットコレクション|松田聖子 スーパー・ヒットコレクション Vol.1]] |rowspan="2"|2012年2月23日||95 |- |36 ![[松田聖子 スーパー・ヒットコレクション|松田聖子 スーパー・ヒットコレクション Vol.2]] |207 |- |37 ![[エトランゼ (松田聖子のアルバム)|エトランゼ]] |2012年5月30日||71 |- |38 ![[Seiko Matsuda Hit Collection Vol.1]] |rowspan="2"|2012年9月1日||- |- |39 ![[Seiko Matsuda Hit Collection Vol.2]] | |- |40 !Calendar |2012年11月7日||67 |- |41 !聖子 スイート・コレクション 〜80'sヒッツ |2012年12月3日|| - |- |42 ![[Seiko Matsuda Best Ballad]] |2014年12月24日||106 |- |rowspan="2"|43 ![[We Love SEIKO -35th Anniversary 松田聖子究極オールタイムベスト50Songs-]] |2015年12月9日||3 |- ![[We Love SEIKO -35th Anniversary 松田聖子究極オールタイムベスト50Songs-|We Love SEIKO Deluxe Edition -35th Anniversary 松田聖子究極オールタイムベスト50 + 2 Songs-]] |2017年11月15日||39 |- |44 ![[Seiko Matsuda sweet days]] |2018年1月31日||23 |- |45 ![[SEIKO MEMORIES 〜Masaaki Omura Works〜]] |2018年2月28日||31 |- |46 ![[SEIKO STORY〜90s-00s HITS COLLECTION〜]] |2019年8月7日||32 |- |47 ![[Seiko Matsuda 40th Anniversary Bible -blooming pink-]] |2020年4月1日||23 |- |48 ![[Seiko Matsuda 40th Anniversary Bible -bright moment-]] |2021年2月14日||32 |- |49 ![[Bible -milky blue-]] |rowspan="2"|2023年10月25日|| |- |50 ![[Bible -pink & blue- Special edition]] | |} === リミックス・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !width="400"|タイトル !width="150"|発売日 !style="font-size:10px"|[[オリコンチャート|JP]] |- |1||[[SEIKO MATSUDA:RE-MIXES]]||1999年10月6日||100 |- |2||[[seiko remixes 2000]]||2000年9月27日||97 |} === 企画アルバム/ミニアルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" !width="400"|タイトル!!width="150"|発売日 ![[オリコンチャート|JP]] |- |[[金色のリボン]]||1982年12月5日 |1 |- |[[Seiko・Avenue]]||1984年11月21日 | |- |[[ゴヤ…歌でつづる生涯]]||1989年5月21日 |49 |- |[[Christmas Tree]]||1991年11月21日 | 9 |- |Sing Song 3(3曲入り8cmCDミニアルバム)||1993年10月1日 | |- |[[I'll fall in love 愛的禮物]]||2005年8月26日 | |- |[[SEIKO JAZZ]]<br />(SEIKO MATSUDA)||2017年3月29日 |6 |- |[[SEIKO JAZZ 2]]<br />(SEIKO MATSUDA)||2019年2月20日 |11 |- ||SEIKO JAZZ 3<br />(SEIKO MATSUDA)||2024年2月14日予定 | |} === オリジナル・サウンドトラック === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !width="400"|タイトル !width="150"|発売日 !style="font-size:10px"|[[オリコンチャート|JP]] |- |1||[[野菊の墓 (サウンドトラック)|野菊の墓]]||1981年8月8日||8 |- |2||[[プルメリアの伝説 (サウンドトラック)|プルメリアの伝説]]||1983年7月1日||1 |- |3||[[夏服のイヴ (サウンドトラック)|夏服のイヴ 〜BREEZE & SKY〜]]||1984年7月7日||7 |- |4||[[カリブ・愛のシンフォニー (サウンドトラック)|CARIBE, Sinfonia de Amor]]||1985年5月3日||19 |- |5||[[ペンギンズ・メモリー 幸福物語 (サウンドトラック)|ペンギンズ・メモリー 幸福物語]]||1985年6月21日||5 |- |6||[[松田聖子オリジナル・サウンドトラック集 1981〜1985]]||2010年8月11日||195 |} === トリビュート・アルバム/インストゥルメンタル・アルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !!タイトル!!発売日<!--!!オリコン最高位--> |- |1||CARAVELLI PLAYS 聖子||1983年8月25日 |- |2||SUPREME Sound Portrait (三枝成彰)||1986年10月5日 |- |3||[[ROMANTIQUE (トリビュート・アルバム)|ROMANTIQUE]]||1991年12月21日 |- |4||[[SEIKO BALLADS 〜SWEET MEMORIES〜]]||2004年4月14日 |- |5||[[Jewel Songs 〜Seiko Matsuda Tribute & Covers〜]]||2006年12月13日 |- |6||[[MemorieS 〜Songs for the Season of White〜]]||2010年12月15日 |- |7||[[MemorieS 〜Goodbye and Hello〜]]||2011年5月18日 |- |8||[[MemorieS 〜Bitter Sweet Pineapple〜]]||2011年8月24日 |- |9||[[MemorieS 〜The Last Leaf〜]]||2011年11月23日 |- |rowspan="2"|10 |[[VOICE〜声優たちが歌う松田聖子ソング〜 Female Edition]] |rowspan="2"|2020年12月9日 |- ||[[VOICE〜声優たちが歌う松田聖子ソング〜 Male Edition]] |} === VHS・DVD・Blu-ray === {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! !!タイトル!!発売日 |- |1||[[ファンタスティック・コンサート レモンの季節]]||1982年6月21日 |- |2||[[Seikoland 〜武道館ライブ'83〜]]||1984年2月25日 |- |3||[[SEIKO CALL 〜Live'85〜]]||1985年8月1日 |- |4||[[Super Diamond Revolution]]||1987年9月2日 |- |5||[[Sweet Spark Stream]]||1989年9月14日 |- |6||[[Precious Moment 〜1990 Live At The Budokan〜]]||1990年4月21日 |- |7||[[SEIKO clips]]||1991年8月1日 |- |8||[[1991 Concert Tour Amusement Park]]||1991年9月21日 |- |9||[[Seiko Clips2 1992 Nouvelle Vague]]||1992年6月1日 |- |10||[[LIVE 1992 Nouvelle Vague]]||1992年10月1日 |- |11||[[Seiko Clips3 DIAMOND EXPRESSION]]||1993年6月21日 |- |12||[[LIVE DIAMOND EXPRESSION]]||1993年11月1日 |- |13||[[Seiko Clips4 Glorious Revolution]]||1994年6月22日 |- |14||[[Live Glorious Revolution]]||1994年10月21日 |- |15||[[Video Bible 〜Best Hits Video History〜]]||1995年3月24日 |- |16||[[Seiko Clips5 It's Style'95]]||1995年7月1日 |- |17||[[LIVE It's Style'95]]||1995年11月22日 |- |18||[[Vanity Fair (ミュージック・ビデオ)|Vanity Fair]]||1996年6月3日 |- |19||[[Live Vanity Fair'96]]||1996年11月11日 |- |20||[[Bon Voyage 〜The Best Lives and Clips〜]]||1996年12月1日 |- |21||[[WAS IT THE FUTURE (ミュージック・ビデオ)|WAS IT THE FUTURE]]||1996年12月2日 |- |22||[[My Story (ミュージック・ビデオ)|My Story]]||1997年6月4日 |- |23||[[Seiko Live'97 My Story]]||1997年10月8日 |- |24||[[Forever (ミュージック・ビデオ)|Forever]]||1998年6月1日 |- |25||[[Seiko Live'98 FOREVER]]||1998年10月21日 |- |26||[[Seiko '96〜'98]]||1998年12月2日 |- |27||[[Seiko Matsuda Zepp Tour 1999 〜137分33秒の奇跡〜]]||2000年3月29日 |- |28||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2000 20th Party]]||2000年12月13日 |- |29||[[Video the LOVE 〜Seiko Matsuda 20th Anniversary Video Collection 1996-2000〜]]||2001年3月28日 |- |30||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2001 LOVE & EMOTION]]||2001年11月28日 |- |31||[[SEIKO LOVE & EMOTION]]||2002年3月27日 |- |32||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2002 Jewel Box]]||2002年11月20日 |- |33||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2003 Call me]]||2003年11月27日 |- |34||[[SEIKO MATSUDA COUNT DOWN LIVE PARTY 2003-2004]]||2004年3月10日 |- |35||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2004 Sunshine]]||2004年11月17日 |- |36||[[25th Anniversary Seiko Matsuda PREMIUM DVD BOX]]||2005年6月8日 |- |37||[[25th Anniversary SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2005 fairy]]||2005年11月23日 |- |38||[[SEIKO MATSUDA COUNT DOWN LIVE PARTY 2005-2006]]||2006年3月28日 |- |39||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2006 bless you]]||2006年9月20日 |- |40||[[SEIKO MATSUDA COUNT DOWN LIVE PARTY 2006-2007]]||2007年3月28日 |- |41||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2007 Baby's breath]]||2007年9月19日 |- |42||[[SEIKO MATSUDA COUNT DOWN LIVE PARTY 2007-2008]]||2008年3月26日 |- |43||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2008 My pure melody]]||2008年10月22日 |- |44||[[SEIKO MATSUDA COUNT DOWN LIVE PARTY 2008-2009]]||2009年3月18日 |- |45||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2009 "My Precious Songs"]]||2009年11月18日 |- |46||[[Seiko Matsuda COUNT DOWN LIVE PARTY 2009-2010]]||2010年3月31日 |- |47||Seiko Matsuda Video Diamond Bible||2010年9月29日 |- |48||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2010 "My Prelude"]]||2010年11月17日 |- |49||[[Seiko Matsuda COUNT DOWN LIVE PARTY 2010-2011]]||2011年4月13日 |- |50||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2011 Cherish]]||2011年11月23日 |- |51||[[SEIKO MATSUDA Count Down Live Party 2011-2012]]||2012年3月28日 |- |52||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2012 Very Very]]||2012年11月14日 |- |53||[[Seiko Ballad 2012]]||2013年3月27日 |- |54||[[SEIKO MATSUDA CONCERT TOUR 2013 "A Girl in the Wonder Land" 〜BUDOKAN 100th ANNIVERSARY〜]]||2013年11月20日 |- |55||[[2013 New Year's Eve Live Party 〜Count Down Concert 2013-2014〜]]||2014年3月26日 |- |56||[[〜Pre 35th Anniversary〜 Seiko Matsuda Concert Tour 2014 Dream & Fantasy]]||2014年11月12日 |- |57||[[〜35th Anniversary〜 Seiko Matsuda Concert Tour 2015 "Bibbidi-Bobbidi-Boo"]]||2015年12月9日 |- |58||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2016「Shining Star」]]||2016年11月16日 |- |59||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2017「Daisy」]]||2017年11月15日 |- |60||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2018 Merry-go-round]]||2018年11月14日 |- |61||[[Pre 40th Anniversary Seiko Matsuda Concert Tour 2019 "Seiko's Singles Collection"]]||2019年11月20日 |- |62||[[Happy 40th Anniversary!! Seiko Matsuda Concert Tour 2020〜2021 "Singles & Very Best Songs Collection!"]]||2021年11月24日 |- |63||[[Seiko Matsuda Concert Tour 2022 "My Favorite Singles & Best Songs at Saitama Super Arena"]]||2022年12月14日 |} === 未発表曲 === 音源が存在したり、関係者が存在を証言している未発表曲として以下のものが確認されている。 *白い風は旅人 - [[1980年]]の作と推定<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=A8iJplZ8SY4 「白い風は旅人について」若松宗雄チャンネル]</ref>。事務所サイドで制作されたものの採用されずお蔵入りになったとされるが、動画サイト等で聞くことができる。 *幸せなんて欲しくないわ - [[1985年]]の作と推定。[[松本隆]]作詞、[[吉田拓郎]]作曲。詳細は「[[ボーイの季節]]」を参照。 *夢のクレッセントムーン - [[1987年]]に開始した[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[FNS27時間テレビ]]』の第1回放送『[[FNSスーパースペシャルテレビ夢列島|FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島]]』のテーマソングとしてBoy Meets Girlの「Waiting for a Star to Fall」を日本語訳にカバーしたもの。聖子が『27時間テレビ』に携わったのは現状この一回限りである。 == 楽曲提供 == * Alan Reed : 「LOVE YOU BETTER」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura : 「BETWEEN MY LINES」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura : 「STANDIN' TALL」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura : 「YOU AND ME AND TIME」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura、編曲:Ryo Ogura : 「YOU'RE THE GIRL」作詞:Seiko Matsuda・Suzi Kim 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura : 「YOUR EYES (Japanese Version)」{{refnest|group="注釈"|山下達郎のカバー曲、原曲は英語詞だが、松田が日本語詞を提供している。}}作詞:Alan O'day 作曲:[[山下達郎]] 日本語詞:Seiko Matsuda 編曲:Ryo Ogura * [[岡田有希子]] : 「くちびるNetwork」作詞:Seiko 作曲:[[坂本龍一]] 編曲:[[かしぶち哲郎]] : 「愛…illusion」作詞:Seiko 作曲:[[飛澤宏元]] 編曲:かしぶち哲郎 * [[神田正輝]] : 「雨のシナリオ〜Can't Say Good-bye〜」作詞・作曲:SEIKO 編曲:[[大村雅朗]] * [[滝島梓|電波子]] : 「駈けていく少女」作詞:Seiko Matsuda 作曲・編曲:[[後藤次利]] * [[藤井隆]] : 「SHE IS MY NEW TOWN」作詞:Seiko Matsuda 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura : 「I just want to hold you」作詞:Seiko Matsuda 作曲:Seiko Matsuda・Ryo Ogura 編曲:Ryo Ogura == 記録 == === シングル === * 首位獲得数:25作(歴代6位・女性アーティスト単独2位) ** 12枚目のシングル「[[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]]」で[[ピンク・レディー]]の1位獲得数9枚を抜いて単独首位獲得数1位を記録する。首位獲得数25作まで記録を伸ばすが2000年10月に[[B'z]]に抜かれるまで([[1983年]]2月〜[[2000年]]10月)の約17年8か月間首位獲得数1位を保持していた。 ** 女性アーティスト・ソロ部門では2006年3月に[[浜崎あゆみ]]に抜かれるまで(1983年2月〜[[2006年]]3月)の23年1か月間首位獲得数1位を保持していた。 ** 厳密には「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]]」が「ガラスの林檎」で首位を取り、AB面入替え・ジャケット変更した「SWEET MEMORIES」で首位を取ったため、首位獲得「曲数」では26曲である。 * 首位連続獲得数:24作(歴代7位・女性アーティスト単独2位) ** 3作目の「[[風は秋色/Eighteen]]」〜26作目の「[[旅立ちはフリージア]]」([[1980年]]10月〜[[1988年]]9月)まで首位1位獲得数を保持し、上記に続いて12枚目のシングル「[[秘密の花園 (曲)|秘密の花園]]」でピンク・レディーの首位連続数9作を抜いて首位連続最高数単独1位を記録保持する。2000年7月にB'zに抜かれるまで(1983年2月〜2000年7月)の約17年5か月間首位連続最高数1位を保持していた。 ** 女性アーティト・ソロ部門では2010年10月に浜崎あゆみに抜かれるまで(1983年2月〜[[2010年]]10月)の27年8か月間首位連続獲得数1位を保持していた。 ** 上記同様、厳密には「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]]」が「ガラスの林檎」、「SWEET MEMORIES」で首位を取ったため、連続首位獲得「曲数」では25曲である。 * 月間チャート首位獲得曲:15作(歴代3位・ソロ1位) * 月間チャート1位月数:17月(歴代2位・ソロ1位) * 月間チャート1位最高連続獲得数:4作(計3回、歴代7位タイ・ソロでは単独3位) * 同曲による首位2週以上獲得数:14作(歴代1位) * [[オリコン]]首位獲得週数:50週(歴代4位・ソロでは単独2位) * オリコンシングル同作による首位返り咲き最長週数:11週(「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]]」・1983年8月15日付〜10月31日付)(歴代3位・ソロ1位、再発売の曲も含めると:歴代4位・ソロ2位) * オリコン首位・2位同時獲得:(「[[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ]]」・「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・1983年11月7日付)([[藤圭子]]に次いで2人目) * オリコン首位返り咲き作品数:3作「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」・「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」・「[[Strawberry Time]]」(歴代1位タイ) * ベスト10位以内獲得数:33作 * ミリオンセラー獲得数:1作 * シングル総売上枚数;1543.9万枚(歴代14位・女性アーティスト単独5位) ** 19作目の「[[ハートのイアリング]]」で、史上8人目(ソロでは7人目)、女性アーティストでは3人目のシングル総売上枚数1000万枚を達成。デビューからの4年8か月での達成当時は、ピンク・レディーに次いでの当時2番目の早さ。 ** 34作目の「[[大切なあなた]]」で[[沢田研二]]の総売上最多枚数を抜き総売上枚数単独1位になり、([[1993年]]5月〜[[1994年]]8月)まで総売上最多枚数記録を保持していた。[[CHAGE and ASKA]]の37作目のシングル「[[HEART/NATURAL/On Your Mark]]」で総売り上げ最多枚数記録を抜かれた。 ** 53作目の「[[True Love Story/さよならのKISSを忘れない]]」でシングル総売上枚数1500万枚を達成。史上8人目で女性アーティスト・ソロでは2人目の快挙であった。 ** 日本人でアメリカの[[Billboard Hot 100]]にチャートインしたアーティストとしては3番目の順位である。「Right Combination」が最高位54位(1963年-[[坂本九]]「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」1位、1979年-[[ピンク・レディー]]「Kiss in The Dark」37位)。 === アルバム === * 首位獲得数:19作(歴代4位・女性アーティスト単独3位) * ベスト10位以内獲得数:50作(2017.06)(歴代2位・女性アーティスト1位タイ) * ベスト100位以内同時チャートイン作数:13作(歴代3位タイ・日本人歴代1位タイ・女性アーティスト単独1位) * 8年間首位獲得(歴代5位・女性アーティスト3位タイ) * アルバム総売上枚数1356.9万枚 === ザ・ベストテンでの記録 === * 1位となった回数:44回(3位) * 1位となった曲数:15曲(2位) * 1位となった連続最高週数:「[[瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ]]」(1983年11月24日放送〜1984年1月12日放送)の8週で4位タイ * ベストテン入りした回数:218回(3位) * ベストテン入りした曲数:25曲(3位) * 1位となった年内最高獲得数:13回(1983年度による6位タイ) * 史上初の200回ランキング(1985年7月4日)※それを後に田原俊彦が達成し、通算回数も聖子を抜き『最多出演』のソファをゲット === その他の記録 === * アルバム・シングル総合売り上げ:2953万枚(歴代13位・女性ソロアーティスト5位)(2012年) * [[日本武道館]]コンサート回数:121回(歴代2位・女性1位)(2022年9月3日現在)。2022年9月2日の公演で1982年12月25日の初公演以来120公演を達成した。 * [[オリコン]]の年間アーティスト・トータル・セールス首位を獲得した(1984年) * [[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]の大トリを2年連続(2014年〜2015年)でつとめる(紅組では[[美空ひばり]]、[[八代亜紀]]以来史上3人目)。 * オリコンアルバム通算トップ10入り獲得作品数:53作 (歴代2位・女性アーティスト1位タイ) <ref>{{Cite web|和書|title=松田聖子、新アルバムが初登場4位 トップ10入り作品  1位タイ |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202110250000687.html| publisher=ニッカンスポーツ |date=2021-10-26 |accessdate=2021-10-26}}</ref>。 == 出演 == === テレビドラマ === * [[おだいじに]](1979年11月5日 - 1980年5月5日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) - 松田聖子 役 * [[玉ねぎむいたら…]](1981年4月3日 - 11月6日、[[TBSテレビ|TBS]]) - 斎藤梓 役(初回2話のみゲスト出演) * [[フジ三太郎]] 第6話「衝撃! 恐るべき少年放火魔!」(1982年11月25日、[[テレビ朝日]]) * [[日立テレビシティ]]「[[松田聖子のはじめての情事]]」(前篇/後篇)(1983年10月19日・26日、TBS) - 石井恵子 役 * スウィート・メモリーズ(1987年9月30日、TBS) - 水野薫・水野佳代 役(二役) * 風に恋して(1989年1月2日、テレビ朝日) - 三枝あやこ 役 * ママ母戦争(1990年5月3日、日本テレビ) - 伊集院ななこ 役 * [[おとなの選択]](1992年1月10日 - 3月20日、TBS) - 谷口未希 役 * [[季節はずれの海岸物語]]'92秋(1992年10月8日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 優香子 役 * [[わたしってブスだったの?]](1993年4月16日 - 7月2日、TBS) - 帰山夕子 役 * [[家族ネットワーク]](1994年1月4日、テレビ朝日) - 竹内翠 役 * [[季節はずれの海岸物語]]ファイナル(1994年10月13日、フジテレビ) - 優香子 役 * The Big Easy(1997年、USAネットワーク) * Partners(2000年、アメリカTVムービー) * [[たったひとつのたからもの]](2004年10月26日、日本テレビ) - 佐藤由美 役 * [[世にも奇妙な物語]] 2005年 秋の特別編『過去が届く午後』(2005年10月4日、フジテレビ) * [[花ざかりの君たちへ (テレビドラマ)#花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜|花ざかりの君たちへ 〜イケメン♂パラダイス〜]] 第1話・最終話(2007年7月 - 9月、フジテレビ) - 桜咲学園校長・椿 役(特別出演) ** [[花ざかりの君たちへ (テレビドラマ)#花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜|花ざかりの君たちへ 〜イケメン♂パラダイス〜 卒業式&7と1/2話スペシャル]](2008年10月12日、フジテレビ) - 桜咲学園校長・椿役(特別出演) * [[和田アキ子物語]](2008年6月20日、フジテレビ) - 先輩女性歌手 役(特別出演) * [[BONES -骨は語る-|BONES シーズン5 15話]](2010年、[[FOXチャンネル|アメリカFOX]]) - リク・イワナガ 役(吹き替えも担当) * [[大河ドラマ]]「[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]」(2012年1月 - 12月、[[日本放送協会|NHK]]) - [[祇園女御]]・[[乙前]] 役 === 音楽 === * [[レッツゴーヤング]](1980年、NHK)※[[サンデーズ]]の一員 *レッツゴーヤング(1981年、NHK)※司会者(田原俊彦と共に。メイン司会者は太川陽介) * ザ・スター 松田聖子 振り向けば・・・聖子(1983年3月1日 - 29日〈毎週火曜日、全5回〉、フジテレビ)※音楽バラエティ番組 * [[music-enta]](2000年、テレビ朝日) === バラエティ === * [[8時だョ!全員集合]](1980年 - 1985年、TBS)※ゲスト出演 * [[ドリフ大爆笑]](フジテレビ)※ゲスト出演 * [[たのきん全力投球!]](TBS)※ゲスト出演 * [[ヤンヤン歌うスタジオ]](テレビ東京)※ゲスト出演 * [[歌謡ドッキリ大放送!!]](テレビ朝日)※ゲスト出演 * [[カックラキン大放送!!]](日本テレビ)※ゲスト出演 * [[さんまのまんま]](1986年6月9日、1991年1月3日、1991年10月12日、2007年4月20日、関西テレビ) * [[とんねるずのみなさんのおかげです]](1988年 - 1997年、フジテレビ)※ゲスト出演 * 志村けんのだいじょうぶだぁお茶の間に笑顔をSP(2015年11月25日、フジテレビ) * 志村けんのバカ殿様笑いのお年玉スペシャル(2016年1月5日、フジテレビ) === テレビアニメ === * [[キング・オブ・ザ・ヒル]](2002年5月、FOX)- [[音楽ゲーム]]をする女の子 役(ゲストキャラクター) * [[タマ&フレンズ 探せ!魔法のプニプニストーン]](2006年11月、[[アニマックス]])- PawPaw 役 * [[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]](2007年8月、テレビ朝日)- 本人 役(特別ゲスト) === ドキュメンタリー === * [[NHKスペシャル]] 松田聖子 女性の時代の物語(2007年4月9日、NHK)※初のドキュメンタリー番組出演 * [[NHK MUSIC SPECIAL]] 松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年(2020年9月22日、NHK)※デビュー40周年記念番組。後日、未公開シーンを追加編集した「ロング・バージョン」「完全版」が放送された。 === 映画 === * [[野菊の墓 (映画)|野菊の墓]](1981年8月8日、[[東映]])<ref name="nogiku">別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』pp.72-73.</ref>- 初主演・民子 役 *[[プルメリアの伝説 天国のキッス]](1983年7月2日、[[東宝]])<ref name="nogiku"/>- 主演・早坂恵美子 役 * [[夏服のイヴ]](1984年7月7日公開、東宝)- 主演・藤枝牧子 役 * [[カリブ・愛のシンフォニー]](1985年4月13日、東宝)<ref name="nogiku"/> -主演・沢木彩 役 * [[ペンギンズ・メモリー 幸福物語]](1985年6月22日、[[東宝東和]])- ジル 役 (歌唱部分CV) * [[どっちもどっち]](1990年11月10日、東宝)- 主演・門脇亜由子 役 【W主演:[[明石家さんま]]】 * Final Vendetta(サロゲート・マザー)(1996年5月18日、東映)- 主演・ナオミ・野村 役 * [[アルマゲドン (映画)|Armageddon(アルマゲドン)]](1998年12月12日、ブエナ ビスタ インターナショナル ジャパン)※[[カメオ出演]] * GEDO The Final Blade (外道) (2000年2月19日、東映) * Drop Dead Gorgeous(わたしが美しくなった100の秘密) (2000年11月4日) ※カメオ出演 * [[千年の恋 ひかる源氏物語]](2001年12月15日、東映)- 揚げ羽の君 役 * Shanghai Baby(上海ベイビー)(2007年5月18日、ドイツ作品) * [[火垂るの墓#実写映画|火垂るの墓]](2008年7月5日、パル企画)- 雪子(清太の母)役 * [[矢島美容室 THE MOVIE 〜夢をつかまネバダ〜]](2010年4月29日、[[松竹]])- プリンセス・セイコ 役 * 家族のレシピ(2019年3月9日、エレファントハウス)- 美樹 役 === ラジオ === * [[今日は一日○○三昧|今日は一日"松田聖子"三昧]](2021年11月3日、[[NHK-FM放送|NHK-FM]])ゲスト出演 * [[中塚政幸]]のガッツガッツナイト(1980年12月 - 1981年3月、[[TBSラジオ]]) * [[スーパーギャング]](1987年5月18日、TBSラジオ) * 松田聖子のピンクのスニーカー(1980年10月 - 1983年3月、[[文化放送]]) * [[SONY Night Square]] [[松田聖子 夢で逢えたら]](1981年4月 - 1983年3月、ニッポン放送) * [[ザ・パンチ・パンチ・パンチ]](1980年1月 - 12月、[[ニッポン放送]]) * [[愛にくちづけ]](1983年10月 - 1985年3月、ニッポン放送) * [[オールナイトニッポン]]シリーズ(ニッポン放送) ** 松田聖子の[[オールナイトニッポン]](1986年6月、1987年4月、1987年11月、1989年6月、1990年11月、2008年5月19日) ** 松田聖子の[[オールナイトニッポンGOLD]](2010年5月28日、2010年12月15日、2011年6月2日、2013年6月21日、2018年6月8日、2020年9月30日) ** 松田聖子の[[オールナイトニッポンMUSIC10]](2015年10月 - 2018年3月)- 火曜日・月1回担当 ** 松田聖子の[[オールナイトニッポンPremium]](2021年10月18日) * [[ひとつぶの青春]](1982年4月 - 1983年3月、[[エフエム東京|FM東京]]ネット) === CM === * [[江崎グリコ]] ** ヨーレル ** [[グリコアーモンドチョコレート|アーモンドチョコレート]]&セシルチョコレート(田原俊彦と共演) ** フロート ** クルール ** パナップ ** [[ポッキー]](歌:風立ちぬ、野ばらのエチュード、CMオリジナル・複数曲あり) ** [[カプリソーネ]]([[ゆーとぴあ]]と共演) ** キャデリーヌ ** チョコピック ** ワンタッチカレー ** 熟カレー([[神田沙也加]]と共演) * [[エスエス製薬]] エスタック、ブロン液W * [[大阪瓦斯|大阪ガス]] ガスファンヒーターエアコン(歌:CMオリジナル・複数曲あり) * [[学研ホールディングス|学研]] ニューコース問題集 * [[角川書店]] ザ・テレビジョン * [[カネボウ化粧品|カネボウ]] バイオ口紅、ファンデーション(歌:Rock'n Rouge、ピンクのモーツァルト) * [[コーセー]] アミノマイルド * さしじん([[田原俊彦]]と共演) * [[サントリー]] ** CANビール(歌のみ:SWEET MEMORIES、ボーイの季節(Engrish Version)、Blue Love Letter(Engrish Version)、CMオリジナル曲) ** [[ボス (コーヒー)|BOSS]]シルキーブラック「シルキー歌姫(ディーバ)」篇(歌:SWEET MEMORIES、瞳はダイアモンド) * [[資生堂]] ** エクボシリーズ(歌のみ:裸足の季節、風は秋色、夏の扉、Romance/出演は[[山田由紀子]]) ** ピンポンパンツ(歌:CMオリジナル) * [[住宅情報館]] ** 「想いに応えて」篇 * [[シュワルツコフヘンケル]] パオン ディオーサ(クリーム リニューアル篇にて神田沙也加と共演) * [[スカイパーフェクTV]] * [[セイコーグループ|服部時計店]] ピコレ、アルバ * [[ソニー]] ** [[ベータマックス]] ** パソコン ([[HiTBiT]]) 1983年から1984年にかけて、[[ソニー]]が発売した独自規格の[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]「[[SMC-777]]」、「SMC-777C」および[[MSX|MSXパソコン]]「HB-55」のイメージ[[キャラクター]]となった。 ** [[ウォークマン|カセットウォークマン]] * [[大京]] ライオンズマンション([[神田沙也加]]と共演)(歌:逢いたい) * [[大日本除虫菊|KINCHO]] ゴン * [[ダイハツ]] 新シャレード(歌のみ:天使のウインク) * [[たかの友梨ビューティークリニック]](歌:Back For More) * [[宝酒造]] TaKaRaCANチューハイ * [[ドクターデヴィアス]]化粧品(歌:Ave Maria 2001) * [[ドミノピザ]] * [[トヨタ自動車]]「[[トヨタ・カムリ|カムリ]]」 * [[トリンプ・インターナショナル|トリンプ・インターナショナル・ジャパン]]「FLORALE by Triumph」(2016年、2017年)<ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/music/news/188398 |title=松田聖子、トリンプ新ブランドCMでランジェリー姿を披露 |newspaper=音楽ナタリー |date=2016-05-25 |accessdate=2016-05-25}}</ref> * [[日清食品]] 家族のやきそば([[神田正輝]]と共演) * [[日本和装]] ** 「日本和装の夢」 ** 「No.1」篇 ** 「いろんな超いろんな聖子さん」篇 (あなたもおいで) ** 「いろんな超いろんな聖子さん」篇 (いつかではなく、今きれいに)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wasou.com/cm/2021spring.html |title=日本和装「CM/広告ギャラリー」 |publisher=日本和装 |date=2021-01-09 |accessdate=2021-01-10}}</ref> * [[PHS]]アステル * [[マクセル|maxell]] * [[ピザーラ]] * HILLS AVENUE<ref>{{Cite web|和書|url=https://hillsavenue.com/shop/pages/cmlp.aspx?utm_source=gdn&utm_campaign=cm&utm_medium=listing |title=CM公開中!松田聖子xヒルズアベニュー |publisher=ヒルズアベニュー |date=2017-02-27 |accessdate=2017-02-27}}</ref> ** 「自由を、履く。デビュー」篇 * [[ファミリーマート]](歌:We Are Love) * [[SUBARU]] [[スバル・レックス|レックス]]シリーズ(歌:Precious Heart、WHO'S THAT BOY) * [[富士フイルム]] ** アスタリフト *** 「偶然の出逢い」篇([[中島みゆき]]と共演) *** 「旅先の出逢い」篇 *** 「純白の出逢い」篇 *** 「ハリーさん・語る」篇「ハリーさん・歌う」篇 *** 「アスタキサンチンとは?」篇「ハリーさん体操」篇 *** 「お肌の試食」篇「お肌の実感」篇 *** 「屋上新年会・アスタリフトジェリー」篇 *** 「それぞれの旅先」篇([[小泉今日子]]と共演) *** 「東京上空でお正月・アスタリフトジェリー」篇 *** 「お肌の実感」篇(2012年改定) *** 「衝撃の出会い レタッチペン新登場」篇 *** 「実感してください」篇 *** 「肌時間旅行」篇 *** 「赤組・松田聖子」篇 *** 「聖子さんと赤い球体」篇 *** 「新発想・ジェリー」篇([[高畑充希]]と共演) ** アスタリフト ホワイト *** 「澄みきる美。輝く美。」篇(高畑充希と共演) ** フジカラー * [[ブラザー工業]] コンパルシリーズ他(歌:CMオリジナル) * [[プロクター・アンド・ギャンブル]] P&G ** 「[[ファブリーズ]]ダブル除菌」 *** 「寝汗がひどい夫」篇([[遠藤憲一]]と共演) ** 「キッチン専用ファブリーズ」 *** 「妻の意地」篇(遠藤憲一と共演) * [[三菱電機]] 炊飯器他(歌のみ:赤いスイートピー、チェルシー・ホテルのコーヒー・ハウス、マリオネットの涙/出演は神田正輝) * [[ミノルタ]](現:[[コニカミノルタ]])トークマン([[オートフォーカス]]カメラ)(歌:CMオリジナル) * [[ムーンスター|月星化成]] ウエストサイド、ジャガーΣ、ファルコンバイオフェック、ディズニーシューズ(歌:CMオリジナル・複数曲あり) * [[メガネトップ]]「眼鏡市場」 ** SUMMER COLLECTION「サングラスが欲しいなぁと思ったら」篇(2015年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20150625dog00m200069000c.html |title=松田聖子:「眼鏡市場」新CMキャラクターに |publisher=まんたんWEB |date=2015-06-26 |accessdate=2015-06-26}}</ref> ** P'layer「新しいメガネ欲しいなぁと思ったら」篇<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meganeichiba.jp/cm/ |title=眼鏡市場「CMギャラリー」|publisher=眼鏡市場 |date=2015-08-08 |accessdate=2015-08-08}}</ref> ** 「価値あるレンズ、価値ある価格。」篇([[西田敏行]]と共演)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meganeichiba.jp/cm/ |title=眼鏡市場「CMギャラリー」 |publisher=眼鏡市場 |date=2015-11-20 |accessdate=2015-11-20}}</ref> ** 「2016 お正月」篇 ** 「スマホ老眼」篇 ** 「価値あるレンズ、価値ある価格。高機能レンズ」篇(西田敏行と共演)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meganeichiba.jp/cm/ |title=眼鏡市場「CMギャラリー」 |publisher=眼鏡市場 |date=2016-04-01 |accessdate=2016-04-01}}</ref> ** 「真夏のサングラス」篇<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.meganeichiba.jp/cm/ |title=眼鏡市場「CMギャラリー」 |publisher=眼鏡市場 |date=2016-04-23 |accessdate=2016-04-23}}</ref> ** 「2017 お正月」篇 * [[森永製菓|森永]]L&L * [[山之内製薬]] カコナール(※現在の発売元は[[第一三共ヘルスケア]])(歌:Angel Tears) * [[USEN|有線放送]] U-kara * [[ユニマット]] * [[ライオン (企業)|ライオン]] チャーミーV(歌:CMオリジナル) === NHK紅白歌合戦出場歴 === 歌手デビュー年のセカンド・シングル「青い珊瑚礁」の大[[ヒット]]により、[[第31回NHK紅白歌合戦|第31回]]([[1980年]])に紅白歌合戦へ初出場。その後、[[第39回NHK紅白歌合戦|第39回]]([[1988年]])まで9年連続で出演したが、次の[[第40回NHK紅白歌合戦|第40回]]([[1989年]])は落選した。 それ以降の松田は、紅白歌合戦への復帰と不出場を繰り返すが、[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]([[2020年]])は女性歌手として、紅白通算24回目の出場と成った。これは紅組歌手で、史上8位タイ記録となる(白組歌手も含めると、歴代19位タイ記録)。[[第72回NHK紅白歌合戦|第72回]]([[2021年]])は選出されたが、出場を辞退した。 {|class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;white-space:nowrap" !年度!!放送回!!回!!曲目!!出演順!!対戦相手!!備考 |- |1980年||[[第31回NHK紅白歌合戦|第31回]]||初||[[青い珊瑚礁 (曲)|青い珊瑚礁]]||02/23||[[田原俊彦]]||紅白初出場 |- |1981年||[[第32回NHK紅白歌合戦|第32回]]||2||[[夏の扉]]||05/22||[[千昌夫]]|| |- |1982年||[[第33回NHK紅白歌合戦|第33回]]||3||[[野ばらのエチュード]]||05/22||[[郷ひろみ]]|| |- |1983年||[[第34回NHK紅白歌合戦|第34回]]||4||[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|ガラスの林檎]]||16/21||田原俊彦(2)|| |- |1984年||[[第35回NHK紅白歌合戦|第35回]]||5||[[Rock'n Rouge]]||08/20||郷ひろみ(2)|| |- |1985年||[[第36回NHK紅白歌合戦|第36回]]||6||[[天使のウィンク]]||12/20||[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]|| |- |1986年||[[第37回NHK紅白歌合戦|第37回]]||7||[[瑠璃色の地球]]||13/20||[[加山雄三]]|| |- |1987年||[[第38回NHK紅白歌合戦|第38回]]||8||[[Strawberry Time]]||09/20||加山雄三(2)|| |- |1988年||[[第39回NHK紅白歌合戦|第39回]]||9||[[Marrakech〜マラケッシュ〜]]||02/21||[[少年隊]]|| |- |1994年||[[第45回NHK紅白歌合戦|第45回]]||10||[[輝いた季節へ旅立とう]]||11/25||[[吉田拓郎]]||6年ぶりの出場 |- |1995年||[[第46回NHK紅白歌合戦|第46回]]||11||松田聖子ヒット・メドレー<br/>-SEIKO Chan to La La La-<ref group="注">「青い珊瑚礁」(2回目)→「[[時間の国のアリス/夏服のイヴ|時間の国のアリス]]」→「[[素敵にOnce Again]]」のメドレー</ref>||12/25||[[米米CLUB]]|| |- |1996年||[[第47回NHK紅白歌合戦|第47回]]||12||[[あなたに逢いたくて〜Missing You〜/明日へと駆け出してゆこう|あなたに逢いたくて〜Missing You〜]]||13/25||[[玉置浩二]]|| |- |1999年||[[第50回NHK紅白歌合戦|第50回]]||13||[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES|SWEET MEMORIES]]||21/27||郷ひろみ(3)||3年ぶりの出場<br />[[渡辺貞夫]]と共演 |- |2000年||[[第51回NHK紅白歌合戦|第51回]]||14||あなたに逢いたくて〜Missing You〜(2回目)||19/28||[[布施明]]|| |- |2001年||[[第52回NHK紅白歌合戦|第52回]]||15||瑠璃色の地球2001(2回目)||19/27||[[ザ・ドリフターズ]]|| |- |2011年||[[第62回NHK紅白歌合戦|第62回]]||16||[[上を向いて歩こう]]||21/25||[[氷川きよし]]||10年ぶりの復帰出場<br />[[神田沙也加]]とデュエット |- |2013年||[[第64回NHK紅白歌合戦|第64回]]||17||New Year's Eve Special Love Song Medley 2013<ref group="注">「あなたに逢いたくて〜Missing You〜」(3回目)→「[[夢がさめて]]」のメドレー</ref>|||24/25||[[嵐 (グループ)|嵐]]||2年ぶりの出場<br />トリ前<br />[[クリス・ハート]]とデュエット |- |2014年||[[第65回NHK紅白歌合戦|第65回]]||18||あなたに逢いたくて〜Missing You〜(4回目)|||23/23||嵐(2)||'''大トリ''' |- |2015年||[[第66回NHK紅白歌合戦|第66回]]||19||[[赤いスイートピー]]|||26/26||[[近藤真彦]]||'''大トリ(2)''' |- |2016年||[[第67回NHK紅白歌合戦|第67回]]||20||[[薔薇のように咲いて 桜のように散って]]||20/23||[[X JAPAN]]|| |- |2017年||[[第68回NHK紅白歌合戦|第68回]]||21||[[新しい明日 (松田聖子の曲)|新しい明日]]||16/23||[[平井堅]]|| |- |2018年||[[第69回NHK紅白歌合戦|第69回]]||22||SEIKO DREAM MEDLEY 2018<ref group="注">「[[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]]」→「[[ハートのイアリング]]」→「[[天国のキッス]]」→「[[渚のバルコニー]]」のメドレー</ref>||19/22||氷川きよし(2)||コーナー出演者としても歌唱<ref group="注">前半の「夢のキッズショー」コーナー出演者として、「[[切手のないおくりもの]]」等を歌唱</ref> |- |2019年||[[第70回NHK紅白歌合戦|第70回]]||23||Seiko Best Single Medley <ref group="注">「時間の国のアリス」(2回目)→「Rock'n Rouge」(2回目)→「[[チェリーブラッサム]]」→「夏の扉」(2回目)のメドレー</ref>||20/21||氷川きよし(3)||トリ前(2) |- |2020年||[[第71回NHK紅白歌合戦|第71回]]||24||瑠璃色の地球 2020(3回目)||20/21||氷川きよし(4)||トリ前(3) |} {{Reflist|group="注"}} * 対戦相手の歌手名の()内の数字はその歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある()はトリ等を務めた回数を表す。 * 曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。 * 出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。 == 受賞歴 == * 1980年 ** [[日本テレビ音楽祭]] 新人賞 ** [[ヤング歌謡大賞・新人グランプリ|歌謡新人グランプリ]] グランプリ ** [[銀座音楽祭]] 専門審査員奨励賞 ** [[新宿音楽祭]] 金賞 ** [[横浜音楽祭]] 新人賞特別賞 ** テレビ朝日[[全日本歌謡音楽祭|あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭]] 最優秀新人賞 ** [[日本歌謡大賞]] 新人賞 ** [[FNS歌謡祭]] 新人賞 ** [[日本有線大賞]] 新人賞 ** [[全日本有線放送大賞]] 新人賞 ** [[第22回日本レコード大賞]] 新人賞 * 1981年 ** 日本テレビ音楽祭 金の鳩賞 ** テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 審査員奨励賞 ** 日本歌謡大賞 放送音楽賞 ** [[第23回日本レコード大賞]] ゴールデンアイドル賞 * 1982年 ** CBS・ソニー ヒット賞 ** 日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞 ** テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 特別賞 ** 日本歌謡大賞 放送音楽賞 ** FNS歌謡祭 グランプリ ※受賞楽曲「野ばらのエチュード」 ** 日本有線大賞 有線音楽賞 ** 全日本有線放送大賞 優秀スター賞 ** [[第24回日本レコード大賞]] 金賞 * 1983年 ** CBS・ソニー ヒット賞 ** 日本テレビ音楽祭 トップアイドル賞 ** テレビ朝日あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭 ゴールデングランプリ ※受賞楽曲「ガラスの林檎」 ** 日本歌謡大賞 最優秀放送音楽賞 ** [[第25回日本レコード大賞]] 金賞、ベストアルバム賞 * 1986年 [[第28回日本レコード大賞]] アルバム大賞 * 1988年 CBS・ソニー ゴールデンディスク大賞 * 1990年 [[日刊スポーツ映画大賞]] 話題賞(受賞理由:「どっちもどっち」の大胆演技で映画界の話題作りに貢献) * 1992年 [[第34回日本レコード大賞]] 最優秀ボーカル賞 * 2002年 ** 第19回ダイヤモンド パーソナリティ賞(ダイヤモンド・インフォメーション・センター) ** 第40回ゴールデンアロー賞 ゴールデン・スター賞女性部門 * 2005年 アジア・テレビジョンアワード2005単発ドラマ部門 最優秀作品賞「たったひとつのたからもの」(主演作品) * 2007年 ショートショートフィルムフェスティバル&アジア2007 PV話題賞「涙がただこぼれるだけ」 * 2009年 第18回[[日本映画批評家大賞]] 審査員特別賞(映画「火垂るの墓」) * 2013年 [[第55回日本レコード大賞]] 企画賞 * 2015年 [[第57回日本レコード大賞]] 最優秀歌唱賞 * 2017年 [[第59回日本レコード大賞]] 企画賞(Seiko Matsuda名義) * 2018年 第32回[[日本ゴールドディスク大賞]] ジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー(Seiko Matsuda名義) * 2020年 [[第62回日本レコード大賞]] 特別賞 == 著書 == * 『両手で聖子』松田聖子著。[[集英社]] * 『もう一度あなた』松田聖子著。[[ワニブックス]] * 『夢で逢えたら』松田聖子著。ワニブックス * 『聖子20歳 愛と歌の青春譜』松田聖子著。少年画報社 * 『青色のタペストリー』松田聖子著。[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]] * 『夢で逢えたらパート2』松田聖子著。ワニブックス * 『愛にくちづけ 22歳のプレリュード』[[扶桑社|リビングマガジン]] * 『聖子』神田法子著。[[小学館]] - ISBN 4093632413 * 『勇気を出してSay Hello! Live Talk English』松田聖子著。[[集英社]] - ISBN 4087801411 * 『愛する人に』松田聖子著・[[稲越功一]] 写真。[[朝日出版社]] - ISBN 4255950059 == 写真集 == * 『松田聖子スペシャル』[[近代映画社]] * 『聖子ひとりじめ』[[ソニー・マガジンズ|CBS・ソニー出版]] * 『Eighteen』[[マガジンハウス|平凡出版]] * 『Lovely・ナインティーン』[[音楽専科社]] * 『聖子おしゃれアルバム』[[実業之日本社]] * 『野菊の墓写真特集』[[勁文社]] * 『松田聖子特集号PART2』近代映画社 * 『やさしさfor you』音楽専科社 * 『SEIKO Photograph』近代映画社 * 『真夏のときめき』近代映画社 * 『明星特別編集 聖子』[[集英社]] * 『パステルカラーの調べ』音楽専科社 * 『プルメリアの伝説 写真集』近代映画社 * 『プルメリアの伝説』[[秋田書店]] * 『のちの想いに...聖子』[[ワニブックス]] * 『ひとりじめ松田聖子』[[学研ホールディングス|学習研究社]] * 『楽譜ヒット曲集付写真集』近代映画社 * 『夏服のイヴ SEIKO in NEWZEALAND』近代映画社 * 『夏服のイヴ』[[旺文社]] * 『EXCITING LIVE 武道館』集英社 * 『カリブ・愛のシンフォニー』旺文社 * 『カリブ・愛のシンフォニー』[[集英社文庫]] * 『愛・聖子』集英社 * 『1911DAYS』近代映画社 * 『five seasons』[[扶桑社]] * 『NO COMMENT』扶桑社 * 『赤いスイートピー』[[篠山紀信]] 写真。[[講談社]] - ISBN 4062129094 == 書籍 == * 『松田聖子大百科』実業之日本社 * 『野菊の墓大百科』勁文社 * 『松田聖子アイドル百科2』勁文社 * 『松田聖子のバランスシート』相澤秀禎著。[[光文社]] * 『松田聖子の世界』放送映画出版 * 『聖子のシンデレラ・ロード』相澤秀禎著。光文社 * 『聖子の恋のありったけ』相澤秀禎著。[[講談社]] * 『憧れて・・・ジューンブライド』光文社 * 『愛ゆえに、聖子!』相澤秀禎著。講談社 * 『松田聖子』地球音楽ライブラリー。[[TOKYO FM出版]] - ISBN 4887451067 * 『松田聖子 改訂版』地球音楽ライブラリー。TOKYO FM出版 - ISBN 9784887451865 * 『松田聖子論』[[小倉千加子]]著。[[朝日新聞社]] - ISBN 4022640839 * 『魔性のシンデレラ 松田聖子ストーリー』[[大下英治]]著。[[角川書店]] - ISBN 4041571146 * 『松田聖子の誕生』若松宗雄著。新潮新書 - ISBN 9784106109607 == 監督作品 == * フォークロア・シリーズ2『あの風が吹いた日』(2021年11月4日)<ref>{{Cite web2|url=https://www.oricon.co.jp/news/2210217/full/|title=松田聖子、映画監督デビュー『あの風が吹いた日』 東京国際映画祭で上映決定|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|date=2021-10-14|accessdate=2022-09-20}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2|refs= <ref name="naka2">「第二章 遅れてきたアイドル――1980年」{{Harvnb|中川|2014|pp=66-116}}</ref> <ref name="naka7">「第七章 華燭と大賞――1985年」{{Harvnb|中川|2014|pp=277-316}}</ref> }} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=[[相澤秀禎]]|date=1988-04|title=人気づくりの法則|publisher=[[東洋経済新報社]]|isbn=978-4492553091|ref={{Harvid|相澤|1988}}}} * {{Citation|和書|author=[[大下英治]]|date=1989-07|title=魔性のシンデレラ――松田聖子ストーリー|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4041571149|ref={{Harvid|大下|1989}}}} * {{Citation|和書|author=[[軍司貞則]]|date=1992-03|title=ナベプロ帝国の興亡―Star Dust|publisher=[[文藝春秋]]|isbn= 978-4163460109|ref={{Harvid|軍司|1992}}}} - 文庫版は1995年5月 ISBN 978-4167571016 * {{Citation|和書|author=[[中川右介]]|date=2014-12|title=松田聖子と中森明菜[増補版]一九八〇年代の革命|publisher=[[朝日文庫]]|isbn=978-4022618146|ref={{Harvid|中川|2014}}}} * {{Citation|和書|author=松田聖子|date=1980-12|title=両手で聖子――Seikoはじめてのメッセージ|publisher=[[集英社]]|isbn=|ref={{Harvid|両手|1980}}}} - 文庫版は1981年7月 * {{Citation|和書|author=|date=2016-12|title=昭和55年 写真生活|publisher=[[ダイアプレス]]|isbn=978-4802302524|ref={{Harvid|写真|2016}}}} * {{Citation|和書|author=|date=2016-01|title=[[日本タレント名鑑]] 2016|publisher=[[VIPタイムズ社]]|isbn=978-4904674079|ref={{Harvid|名鑑|2016}}}} == 関連項目 == * [[聖子ちゃんカット]] * [[ぶりっこ]] * [[Bibleシリーズ]] * [[ファンティック]](旧個人事務所) * [[リカちゃん]](1998年にフローレスセイコ限定で『松田聖子ドール Seikoちゃん』というリカちゃんサイズの人形を[[タカラ (玩具メーカー)|タカラ]]から発売した) * [[新人類]] == 関連人物 == <!--追加される場合には、ノートにて十分な関連性を明示されることをお薦めします。共演者などは、作品に関する記述の中に含める方が適切かもしれません。--> * [[神田正輝]] - 元夫。 * [[神田沙也加]] - 実娘。 == 外部リンク == * {{Official website}} * {{YouTube|c=UC3qI2t2Oq8Xeoc46A08PKig/featured|title=松田聖子オフィシャルYouTubeチャンネル}} * [https://www.sonymusic.co.jp/artist/SeikoMatsuda/ ソニー ミュージックによる公式サイト] * [https://www.universal-music.co.jp/matsuda-seiko/ ユニバーサル ミュージックによる公式サイト] {{松田聖子}} {{日本レコード大賞最優秀歌唱賞}} {{FNS歌謡祭グランプリ}} {{FNS歌謡祭最優秀歌唱賞}} {{NHK紅白歌合戦 紅組トリ}} {{Portal bar|日本|福岡県|音楽|アイドル|人物伝}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まつた せいこ}} [[Category:松田聖子|*まつた せいこ]] [[Category:日本の女性アイドル]] [[Category:日本の女性ポップ歌手]] [[Category:日本のジャズ・ミュージシャン]] [[Category:日本の女性シンガーソングライター]] [[Category:20世紀日本の女優]] [[Category:21世紀日本の女優]] [[Category:アイドル出身の俳優]] [[Category:日本の女性タレント]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:NHK紅白歌合戦出演者]] [[Category:過去のサンミュージック所属者]] [[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]] [[Category:ユニバーサルミュージックジャパンのアーティスト]] [[Category:蒲池氏]] [[Category:神田正輝|+]] [[Category:堀越高等学校出身の人物]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
2003-02-08T14:35:01Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E8%81%96%E5%AD%90
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森田まさのり
森田 まさのり(もりた まさのり、本名:森田 真法、1966年12月22日 - )は、日本の漫画家。滋賀県栗東市(旧栗太郡栗東町)出身。血液型O型。代表作は『ろくでなしBLUES』、『ROOKIES』など。 大宝小学校から栗東中学校に進学、学校の分離によって栗東西中学校を卒業後、守山高校在学中に執筆した作品『IT'S LATE』が手塚賞佳作に入選した。同作の『フレッシュジャンプ』掲載で「森田真法」名義で漫画家デビュー。 高校卒業と同時に漫画家を目指し上京。原哲夫の下でアシスタント活動を行う。『週刊少年ジャンプ』増刊号などに数編の読み切り作品を掲載後、1987年、『BACHI-ATARI ROCK』で『週刊少年ジャンプ』本誌に初掲載。その後、同誌上に1988年から『ろくでなしBLUES』、1998年から『ROOKIES』を連載。2005年からは同誌上で『べしゃり暮らし』を連載したが、体調を崩して休載。週刊ペースでは無理となり、2007年から『週刊ヤングジャンプ』に掲載誌を移して不定期連載となる。 絵のタッチは古くは手塚治虫や藤子不二雄A風であったが、上京時には北条司に近いものであった。そのため上京後はアシスタント志望として北条司の所へ足を運んだがそちらは人手が足りており、紹介されるかたちで原哲夫に師事することになった。 その後アシスタント時代に原哲夫以外にも谷口ジローや池上遼一の作品に感化され、森田の画風は完成していった。アシスタント時代に培った森田の画風の武器は「口」であり、そこだけは誰にも負けないよう、発音通りの口が描けるように頑張ったという。またその他の表現としては、『北斗の拳』においてザコキャラクターがギャグっぽいことを行うシーンがあり、その部分に強い影響を受けたという。 また、高校卒業と同時に漫画家の道へ入ったため、会社組織で働いたこともなければバイトの経験も、果てには合コンの経験すらほとんど無いと言い、このため、森田は描けることと言ったら高校時代までのこと、としている。 プライベートではプロ野球球団・阪神タイガースのファンであり、『ROOKIES』の登場人物名は阪神タイガースの選手名から取られている。特にホームラン王・田淵幸一の大ファンである。2014年には阪神とコラボレーションを行い、広告を展開するなどした。なお、ドラマ化に当たって登場人物名を全て巨人選手へ変更する計画が打診されたが、森田はこれを強く断っている。 実家は浄土真宗本願寺派の寺院であり、寺の長男として生まれたため、高校1年の夏休みのときに得度を受け僧籍を得ている。 親には跡を継いでほしいという希望があったが、「大学に行かせたと思って4年だけ東京に行かせてくれ!」「4年で連載を持って有名になるから」と懇願。その活動中にプロ漫画家デビューを果たした。ただし森田は、「4年間で必ず売れる!」と不退転の覚悟で上京しており、実家に戻る気は無かったという。元来は3年で連載を得て、4年で金持ちになる計画であったのだが、計画よりは少々遅れたものの、上京4年目に連載を獲得している。森田はこれは「4年計画」と呼ぶ。 作品『バチあたりROCK』はこの体験が生かされているほか、実家を父親に資料写真として撮影してもらっている。父親は、真面目で為になる宗教漫画を描いてくれると思っていた。現在、同寺は森田が養子を迎え、その養子が跡を継いでいる。 なお、漫画家になった結果、郷土や寺の後を継ぐことを期待してくれていた檀家を裏切るかたちとなり、森田はこの点に後ろめたさを感じていると語るが、その分、郷土である滋賀県のために尽くし、また檀家さんにも自身の活躍を見てもらいたいが檀家さんはあまり漫画を読まないだろう、との配慮から、作品のドラマ化・パチンコ化などの話は積極的に受けている 。また滋賀県は決して琵琶湖だけではなく、赤こんにゃくや近江牛などおいしい食べものもたくさんあるのであるから、誇りを持ってほしい、と語っている。 『ROOKIES』のドラマ化に当たっては、当初は守山高校でロケを希望したが許可がおりず、栗東中学校で行うこととなった。これは、いずれも森田の母校である。なお、校舎や野球部の部室も、栗東中学のそれがモデルである。 漫画以外の活動としては、上述の阪神タイガースとのコラボレーションのほか、2004年にロックバンド175RのCD、『GLORY DAYS』のジャケットにメンバーのイラストを描いたことがある。
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森田 まさのりは、日本の漫画家。滋賀県栗東市(旧栗太郡栗東町)出身。血液型O型。代表作は『ろくでなしBLUES』、『ROOKIES』など。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 森田まさのり |ふりがな = もりた まさのり |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 森田 真法 |生年 = {{JPN}}・[[滋賀県]][[栗東市]](旧・[[栗太郡]]栗東町) |生地 = {{生年月日と年齢|1966|12|22}} |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = |活動期間 = [[1984年]] - |ジャンル = [[少年漫画]] |代表作 = 『[[ろくでなしBLUES]]』<br />『[[ROOKIES]]』<br />『[[べしゃり暮らし]]』 |受賞 = 第27回:[[手塚賞]]佳作『IT,S LATE!』<br/>第29回:手塚賞佳作『ミステリアス・キッド』<br/>[[M-1グランプリ]]2018準々決勝進出(ベストアマチュア賞) |サイン = |公式サイト = }} '''森田 まさのり'''(もりた まさのり、本名:'''森田 真法'''、[[1966年]][[12月22日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[滋賀県]][[栗東市]](旧[[栗太郡]]栗東町)出身<ref name = iroiro />。[[血液型]]O型<ref name = hokuto />。代表作は『[[ろくでなしBLUES]]』、『[[ROOKIES]]』<ref name = iroiro />など。 == 略歴 == 大宝小学校から栗東中学校に進学、学校の分離によって栗東西中学校を卒業後、[[滋賀県立守山中学校・高等学校|守山高校]]在学中に執筆した作品『IT'S LATE』が[[手塚賞]]佳作に入選した<ref name = hokuto />。同作の『[[フレッシュジャンプ]]』掲載で「'''森田真法'''」名義で漫画家デビュー<ref name = hokuto />。 高校卒業と同時に漫画家を目指し上京。[[原哲夫]]の下で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]活動を行う<ref name = hokuto />。『[[週刊少年ジャンプ]]』増刊号などに数編の読み切り作品を掲載後、[[1987年]]、『BACHI-ATARI ROCK』で『週刊少年ジャンプ』本誌に初掲載<ref name = hokuto />。その後、同誌上に[[1988年]]から『[[ろくでなしBLUES]]』、[[1998年]]から『[[ROOKIES]]』を連載。<br />[[2005年]]からは同誌上で『[[べしゃり暮らし]]』を連載したが、体調を崩して休載。週刊ペースでは無理となり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202106120000177.html|title=森田まさのり氏「週刊ペースじゃ描けない」 掲載誌移行の舞台裏明かす|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-12|accessdate=2021-06-12}}</ref>、2007年から『[[週刊ヤングジャンプ]]』に掲載誌を移して不定期連載となる。 == 人物 == 絵のタッチは古くは[[手塚治虫]]や[[藤子不二雄A]]風であったが<ref name = hokuto />、上京時には[[北条司]]に近いものであった。そのため上京後はアシスタント志望として北条司の所へ足を運んだがそちらは人手が足りており、紹介されるかたちで原哲夫に師事することになった<ref name = hokuto />。 その後アシスタント時代に原哲夫以外にも[[谷口ジロー]]や[[池上遼一]]の作品に感化され、森田の画風は完成していった<ref name = hokuto />。アシスタント時代に培った森田の画風の武器は「口」であり、そこだけは誰にも負けないよう、発音通りの口が描けるように頑張ったという<ref name = hokuto />。またその他の表現としては、『北斗の拳』においてザコキャラクターがギャグっぽいことを行うシーンがあり、その部分に強い影響を受けたという<ref name = hokuto />。 また、高校卒業と同時に漫画家の道へ入ったため、会社組織で働いたこともなければバイトの経験も、果てには合コンの経験すらほとんど無いと言い、このため、森田は描けることと言ったら高校時代までのこと、としている<ref name = iroiro />。 プライベートではプロ野球球団・[[阪神タイガース]]のファンであり、『ROOKIES』の登場人物名は阪神タイガースの選手名から取られている<ref name = iroiro /><ref name = hokuto /><ref name = natalie />。特に[[ホームラン王]]・[[田淵幸一]]の大ファンである<ref name = natalie />。2014年には阪神とコラボレーションを行い、広告を展開するなどした<ref name = sanspo /><ref name = natalie />。なお、ドラマ化に当たって登場人物名を全て[[読売ジャイアンツ|巨人]]選手へ変更する計画が打診されたが、森田はこれを強く断っている<ref name = iroiro />。 実家は[[浄土真宗本願寺派]]の寺院であり、寺の長男として生まれたため、高校1年の夏休みのときに得度を受け僧籍を得ている<ref>2016.1.8 朝のNHK大阪ローカルニュースインタビューより</ref>。 親には跡を継いでほしいという希望があったが、「大学に行かせたと思って4年だけ東京に行かせてくれ!」「4年で連載を持って有名になるから」と懇願<ref>{{Cite web|和書|title=我が青春の週刊少年ジャンプ(17)実家の後継ぎ問題で連載がピンチに|url=https://www.asagei.com/15665|website=アサ芸プラス|accessdate=2020-05-29|language=ja}}</ref>。その活動中にプロ漫画家デビューを果たした<ref>[http://www.pref.shiga.lg.jp/person/masanori_morita/index.html 滋賀県広報誌2014年1・2月号より]</ref>。ただし森田は、「4年間で必ず売れる!」と不退転の覚悟で上京しており、実家に戻る気は無かったという<ref name = iroiro />。元来は3年で連載を得て、4年で金持ちになる計画であったのだが<ref name = iroiro />、計画よりは少々遅れたものの、上京4年目に連載を獲得している<ref name = iroiro />。森田はこれは「4年計画」と呼ぶ。 作品『バチあたりROCK』はこの体験が生かされているほか、実家を父親に資料写真として撮影してもらっている。父親は、真面目で為になる宗教漫画を描いてくれると思っていた。現在、同寺は森田が養子を迎え、その養子が跡を継いでいる<ref>[https://www.asagei.com/excerpt/15665 我が青春の週刊少年ジャンプ(17)実家の後継ぎ問題で連載がピンチに]</ref>。 なお、漫画家になった結果、郷土や寺の後を継ぐことを期待してくれていた[[檀家]]を裏切るかたちとなり、森田はこの点に後ろめたさを感じていると語るが<ref name = iroiro />、その分、郷土である滋賀県のために尽くし、また檀家さんにも自身の活躍を見てもらいたいが檀家さんはあまり漫画を読まないだろう、との配慮から、作品のドラマ化・パチンコ化などの話は積極的に受けている<ref name = iroiro /> <ref>[https://news.mynavi.jp/article/20161020-a315/ 『ROOKIES』原作者明かす佐藤隆太との秘話に感動の声「アツい!」] マイナビニュース 2016年10月20日、2019年12月6日閲覧</ref>。また滋賀県は決して琵琶湖だけではなく、[[赤こんにゃく]]や[[近江牛]]などおいしい食べものもたくさんあるのであるから、誇りを持ってほしい、と語っている<ref name = iroiro />。 『ROOKIES』のドラマ化に当たっては、当初は守山高校で[[ロケーション撮影|ロケ]]を希望したが許可がおりず、栗東中学校で行うこととなった。これは、いずれも森田の母校である<ref name = iroiro />。なお、校舎や野球部の部室も、栗東中学のそれがモデルである<ref name = iroiro />。 漫画以外の活動としては、上述の阪神タイガースとのコラボレーションのほか、2004年にロックバンド[[175R]]の[[コンパクトディスク|CD]]、『GLORY DAYS』のジャケットにメンバーのイラストを描いたことがある<ref name = asian />。 === その他 === * 影響を受けた漫画は[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|&#9398;}}]]の自伝的漫画『[[まんが道]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asagei.com/excerpt/15662 |title=我が青春の週刊少年ジャンプ(16)森田まさのり「“イタい漫画家”の典型なんです」|accessdate=2022-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=藤子不二雄Aさん死去 ちばてつや、森田まさのり、江口寿史…漫画家から感謝と追悼続々|url=https://yorozoonews.jp/article/14592975|website=よろず~(2022年4月7日)|accessdate=2022年04月10日}}</ref>で、子供時代は3人で合作を行い、手塚治虫に漫画を見てもらいにスタジオまで足を運んだという(その時に手塚はおらず後でサイン入りハガキが送られてきた){{要出典|date=2014-6}}。 * 元来は喫煙者であったが1994年に禁煙を始め、連載のページ欄外の柱に禁煙日数を毎週、記し続けるのが恒例となっている{{要出典|date=2014-6}}<!-- 具体的な雑誌名や号数が必要。 -->。 * 『ROOKIES』に「田淵」というキャラクターが出てこない理由は、森田曰く「田淵という名は自分には軽々しく使える名前ではない」<ref>分冊マンガ講座 ジャンプ流! 2016年 8/4号 vol.14 『伝心!制作の現場から』</ref>(『ろくでなしBLUES』では太尊の弟・用高の子供時代のパジャマのデザインが田淵のユニフォーム)。 * {{要出典範囲|『ROOKIES』での対戦相手は一部を除き巨人の選手名をもじっている|date=2014-6}}。 * {{要出典範囲|同じ阪神ファンの漫画家の[[つの丸]]と大変仲が良く、|date=2014-6}}『ろくでなしBLUES』内につの丸作のキャラクター[[モンモンモン|モンモン]]がTシャツの絵として登場したことがある{{要ページ番号|date=2014-6}}。 * 『ROOKIES』が[[TBSテレビ]]でドラマ化される前に、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]からドラマ化のオファーがあったものの、川藤以下登場人物の名前を[[読売ジャイアンツ]]の選手に変えることを条件にオファーを出されたために辞退したことがある<ref>『漫道コバヤシ』2013年10月19日放送分(『漫道コバヤシ 巻二』収録)</ref>。 * 『[[週刊ヤングジャンプ]]』誌上でのコメント([[2009年]]3月)で、「一番ハマったドラマ」として『[[飛び出せ!青春]]』を挙げている。 * 『[[堂本剛の正直しんどい]]』([[テレビ朝日]]系列)の3代目タイトルアニメーションのイラストを手掛けた<ref>『堂本剛の正直しんどい』2009年10月1日放送分</ref>。 * [[松本人志]]のファンであることを公言し、「いつか笑いとは何かと追求していく人の話を描きたい」と語っていた{{R|ROOKIES}}。 * ポッドキャスト配信番組『[[漫画元気発動計画]]』でのトークにおいて『べしゃり暮らし』が「最後の作品でいい」とライフワーク的な位置づけの作品であることを語っている{{要出典|date=2014-6}}。 * 2017年4月、平成29年度[[滋賀県警察]]警察官および警察事務職員等採用案内パンフレットのポスターを手掛けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.pref.shiga.lg.jp/police/saiyou/ |title=滋賀県警察採用案内|publisher=滋賀県警察の広場|accessdate=2017-05-11}}</ref>。 * 2018年8月、[[長田悠幸]]とのアマチュアお笑いコンビ「漫画家」を結成し、[[M-1グランプリ2018]]に出場。[[井上雄彦]]など他の漫画家たちを羨むぼやき[[漫才]]を展開して準々決勝進出を果たし、ベストアマチュア賞を受けた。 * 2019年12月、[[夕闇に誘いし漆黒の天使達]]のミニアルバム「CD番長」のジャケットを手が掛けたことが発表された。 == 作品 == * BACHI-ATARI ROCK - 森田まさのり傑作短編集(1989年、集英社。2010年4月に『森田まさのり作品集1 - BACHI-ATARI ROCK』として、[[集英社文庫]]コミック版で再版された) ** ミステリアス・キッド(集英社) ** SYNCHRONICITY(集英社) ** JUMPIN' JACK FLASH(集英社) ** バチあたりROCK(1988年、集英社) * [[ろくでなしBLUES]](1988年 - 1997年、集英社) - 台湾版(鐵拳對鋼拳) * ろくでなしぶるーちゅ(1996年、集英社) * [[ROOKIES]](1998年 - 2003年、集英社) - 台湾版(教頭當家、菜鳥總動員) * 柴犬 - 森田まさのり短編集(2004年、集英社。2010年12月に『森田まさのり作品集2 - 柴犬』として、集英社文庫コミック版で再版された) ** A MESSAGE TO YOU, RODY - 1997、週刊少年ジャンプ特別編集増刊'97SPRING『赤マルジャンプ』 ** ALLTHEWAYDOWN - 1994、週刊少年ジャンプ特別編集増刊'94SPRING『赤マルジャンプ』 ** 柴犬 - 2004、『週刊YOUNGJUNP』第37・38号併号、第39号 ** ギャングエイジ - 1997『週刊少年ジャンプ』第29号「ジャンプ愛読者杯'97」 ** 砂-SABAKU-漠 - 1997、『MANGAALLMAN』 ** 殺し屋も笑う - 1991、『週刊少年ジャンプ』第5号 * スベルヲイトワズ(2005年、集英社) - 短編集 * [[べしゃり暮らし]](2005年 - 2015年・2019年、集英社) * HELLO BABY(原作)(2007年、集英社)[[小畑健]]が作画を担当 * まんが暮らし(2008年、集英社) * 絶望のペテン師たち(原作) - (2016年、集英社)[[冨澤浩気]]が作画を担当 * とびだせビャクドー!ジッセンジャー - (2017年、[[本願寺出版社]]) - 絵本<ref>{{Cite news|title=人気マンガ家が描く、仏教絵本が完成!『とびだせビャクドー! ジッセンジャー』森田まさのりさんインタビュー(1/3) {{!}} 絵本ナビ|url=https://www.ehonnavi.net/specialcontents/contents.asp?id=322|accessdate=2018-09-02|language=ja|work=絵本ナビ}}</ref> * ザシス(2022年 - 、集英社) == アシスタント経験者 == * [[岸大武郎]]<ref name="ex1">「METAL FINISH」単行本第2巻228頁より。</ref> * [[岩田やすてる|岩田康照]] * おおた文彦 * 小林政王<ref>ミリオン出版『実話ナックルズ』2016年4月号</ref> * [[鶴岡伸寿]]<ref name="ex1" /> * [[園田辰之助]] * 武善仁 * [[伊藤誠 (漫画家)|伊藤誠]] * 長友健篩 == 出演 == === イベント === * 森田まさのりデビュー25周年&焙煎たがい。デビュー20周年記念トークライブ「インド人とメキシコ人(2013年8月10日、阿佐ヶ谷ロフトA)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.loft-prj.co.jp/schedule/lofta/16977|title=森田まさのりデビュー25周年&焙煎たがい。デビュー20周年記念トークライブ「インド人とメキシコ人」 – LOFT PROJECT SCHEDULE|accessdate=2018-09-02|website=www.loft-prj.co.jp|language=ja}}</ref> * インド人とメキシコ人Vol.2森田まさのりデビュー30周年&焙煎たがい。デビュー25周年記念トークライブ(2018年8月19日、週プレ酒場)<ref>{{Cite web|和書|url=https://shupure-sakaba.jp/event/0819/|title=週プレ酒場|accessdate=2018-09-02|website=shupure-sakaba.jp}}</ref> === テレビ === * [[クイズ!脳ベルSHOW]]([[BSフジ]]、2022年6月15日 - 17日) == 関連項目 == * [[赤塚賞]](審査員の一人として参加していた) * [[戸舘新吾]](アシスタント仲間、親友) * [[漫画元気発動計画]](インタビュー番組出演) == 脚注 == {{reflist|2|refs = <ref name="ROOKIES">{{Cite book|和書 |author=森田まさのり |date=2001-11-07 |isbn=4-08-873229-4 |at=カバー折り返し |publisher=[[集英社]] |series = [[ジャンプ・コミックス]]|title= ROOKIES |volume=第18巻}}</ref> <ref name = sanspo>{{Cite web|和書| url = https://www.sanspo.com/article/20140218-GDII4XX6RFJOHANEGBCV6ISDSM/ | title = 阪神・藤浪が西岡が…「ROOKIES」とコラボ - 野球 - | publisher = sanspo.com | date = 2014-2-18 | accessdate = 2014-06-03}}</ref> <ref name = natalie>{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/comic/news/110045 | title = コミックナタリー - 森田まさのりが阪神タイガースの選手を執筆!藤浪とも対面 | publisher = コミックナタリー | date = 2014年2月17日 | accessdate = 2014-06-03}}</ref> <ref name = asian>{{Cite web|和書| url = http://aasianbeat.com/ja/feature/issue_artists/n09071501-3.html | title = 人気J-POPのシングルジャケットとマンガのコラボレーションはこんなにあった! 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山岸凉子
山岸 凉子(やまぎし りょうこ、1947年〈昭和22年〉9月24日 - )は、日本の漫画家。北海道空知支庁管内(空知郡)上砂川町出身。北海道札幌旭丘高等学校、北海道女子短期大学(現・北翔大学短期大学部)美術科卒業。名を「涼子」(さんずいの涼)と書くのは誤りで「凉子」(にすい)が正しい。萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子らと共に24年組と呼ばれる一人である。 1969年、「レフトアンドライト」でデビュー。1971年から連載されたバレエ漫画『アラベスク』で注目され、1980年から連載された『日出処の天子』は1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。1977年から連載された『妖精王』は1988年にアニメ化。2000年から『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始し、同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。 北海道上砂川町出身の両親の元に生まれる。2歳上の兄と、1歳下の妹がいる。三井鉱山の社員であった父親の転勤に伴い、2歳で函館、小学校3年生で小樽、中学2年生で札幌に転居する。札幌に転居後、母親が大病を患い入院する。 市立札幌旭丘高校2年生のとき、妹がたまたま買ってきた漫画雑誌に掲載されていた里中満智子のデビュー作をみて、自分と同じ年齢の人がデビューしていることに衝撃を受け漫画家を志す。高校3年生のときに母親が死去する。 1968年3月、北海道女子短期大学美術科を卒業、4月からアルバイトを始め、貯めたお金で東京に行き原稿をもって出版社を回る。最後に持ち込んだ『りぼん』編集部の目にとまり、『りぼんコミック』1969年5月号掲載の「レフトアンドライト」でデビューする。1969年10月、上京し、杉並区下井草の四畳半のアパートに入居する。お風呂がなかったため、一駅隣りの鷺ノ宮に住んでいた同郷の大和和紀と忠津陽子と連絡を取り合って一緒に銭湯へ行っていたという。そこで一年少々過ごしたのち、阿佐谷の新築アパートに転居、上京してきた妹も同居するようになった。 1971年からりぼんにて連載開始された『アラベスク』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として人気を得た。1972年秋には萩尾望都、竹宮惠子らと長期の海外旅行に出かけ、ソ連で本場のバレエを鑑賞してきた。 1974年から花とゆめに場を移して描かれた『アラベスク』第二部では、華麗なイラスト的表現を、また、少女である主人公が大人の女性へと成長する様子を描くなど、当時は前人未到であった手法やテーマを積極的に開拓していった。 妹が婚約したことにより同居生活を解消し、その後、千葉県の我孫子、ひばりが丘と転居、原稿締め切り前の追い込みではアシスタントが8人ほど来て騒がしくなるためアパート住まいでは限界を感じ、1979年に国分寺に2階建ての一軒家を新築する。 1980年、『LaLa』で代表作『日出処の天子』を連載開始する。主人公である聖徳太子が超能力及び霊能力者であり、また生育環境が原因の同性愛者であるという設定は当時センセーションを巻き起こした。1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。 2000年にダ・ヴィンチにて『アラベスク』から約30年ぶりとなるバレエ漫画『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始する。同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞。2011年をもって連載終了した。 2011年ダ・ヴィンチにて『ケサラン・パサラン』の連載を開始、2012年10月号で終了した。2014年に『モーニング』にて、百年戦争を題材としたジャンヌ・ダルクを主人公とした『レベレーション(啓示)』の隔月連載を開始し、2020年10月に完結した。 2016年に弥生美術館にて展覧会「山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―」が開催された。翌年には京都国際マンガミュージアムでも開催された。2019年には生まれてから2歳まで過ごした北海道上砂川町でトークショーを開催した。 漫画の電子書籍版は発売されていなかったが、2021年10月4日にKADOKAWAと講談社から初めて発売されることになった。 (準備中)
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山岸 凉子は、日本の漫画家。北海道空知支庁管内(空知郡)上砂川町出身。北海道札幌旭丘高等学校、北海道女子短期大学(現・北翔大学短期大学部)美術科卒業。名を「涼子」(さんずいの涼)と書くのは誤りで「凉子」(にすい)が正しい。萩尾望都・大島弓子・竹宮惠子らと共に24年組と呼ばれる一人である。 1969年、「レフトアンドライト」でデビュー。1971年から連載されたバレエ漫画『アラベスク』で注目され、1980年から連載された『日出処の天子』は1983年度第7回講談社漫画賞を受賞した。1977年から連載された『妖精王』は1988年にアニメ化。2000年から『舞姫 テレプシコーラ』の連載を開始し、同作で2007年度第11回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 山岸 凉子 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1947|9|24}} | 没年 = | ジャンル =主に [[少女漫画]] | 活動時期 = [[1969年]] - 現在 | 職業 = [[漫画家]] | 公式サイト = | 代表作 = 『[[アラベスク (漫画)|アラベスク]]』<br />『[[天人唐草]]』<br />『[[日出処の天子]]』<br />『[[妖精王]]』<br />『[[舞姫 テレプシコーラ]]』<br />『[[レベレーション(啓示)]]』 | 受賞 = [[講談社漫画賞]]<br />[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞 }} '''山岸 凉子'''(やまぎし りょうこ、[[1947年]]〈[[昭和]]22年〉[[9月24日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[空知支庁]]管内([[空知郡]])[[上砂川町]]出身{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=97}}。[[北海道札幌旭丘高等学校]]、[[北翔大学短期大学部|北海道女子短期大学]](現・[[北翔大学短期大学部]])美術科卒業。名を「'''涼子'''」([[水部|さんずい]]の涼)と書くのは誤りで「凉子」([[冫部|にすい]])が正しい。[[萩尾望都]]・[[大島弓子]]・[[竹宮惠子]]らと共に[[24年組]]と呼ばれる一人である。 [[1969年]]、「レフトアンドライト」でデビュー。[[1971年]]から連載されたバレエ漫画『[[アラベスク (漫画)|アラベスク]]』で注目され、[[1980年]]から連載された『[[日出処の天子]]』は[[1983年]]度第7回[[講談社漫画賞]]を受賞した。1977年から連載された『[[妖精王]]』は1988年にアニメ化。[[2000年]]から『[[舞姫 テレプシコーラ]]』の連載を開始し、同作で[[2007年]]度第11回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞を受賞した。 == 来歴 == [[北海道]][[上砂川町]]出身の両親の元に生まれる<ref>{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/32616|title=自信のなさや心の傷が作品を描かせてくれた──山岸凉子が“最初で最後の”トークショーで語ったこと|website=文春オンライン|date=2020-02-16|accessdate=2023-01-07}}</ref>。2歳上の兄と、1歳下の妹がいる{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=97}}。[[日本コークス工業|三井鉱山]]の社員であった父親の転勤に伴い、2歳で[[函館市|函館]]、小学校3年生で[[小樽市|小樽]]、中学2年生で[[札幌市|札幌]]に転居する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=97-98}}。札幌に転居後、母親が大病を患い入院する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=98}}。 [[市立札幌旭丘高等学校|市立札幌旭丘高校]]2年生のとき、妹がたまたま買ってきた漫画雑誌に掲載されていた[[里中満智子]]のデビュー作をみて、自分と同じ年齢の人がデビューしていることに衝撃を受け漫画家を志す{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=102-103}}。高校3年生のときに母親が死去する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=100}}。 [[1968年]]3月、[[北翔大学短期大学部|北海道女子短期大学]]美術科を卒業、4月からアルバイトを始め、貯めたお金で東京に行き原稿をもって出版社を回る{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=103}}。最後に持ち込んだ『[[りぼん]]』編集部の目にとまり、『りぼんコミック』[[1969年]]5月号掲載の「レフトアンドライト」でデビューする{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=103-104}}。1969年10月、上京し、杉並区[[下井草]]の[[四畳半]]のアパートに入居する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=104}}。お風呂がなかったため、一駅隣りの[[鷺ノ宮]]に住んでいた同郷の[[大和和紀]]と[[忠津陽子]]と連絡を取り合って一緒に[[銭湯]]へ行っていたという{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=104-105}}。そこで一年少々過ごしたのち、[[阿佐谷]]の新築アパートに転居、上京してきた妹も同居するようになった{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=105}}。 [[1971年]]から[[りぼん]]にて連載開始された『[[アラベスク (漫画)|アラベスク]]』は、少女漫画界初の本格バレエ漫画として人気を得た。[[1972年]]秋には[[萩尾望都]]、[[竹宮惠子]]らと長期の海外旅行に出かけ、[[ソ連]]で本場のバレエを鑑賞してきた{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=106}}。 [[1974年]]から[[花とゆめ]]に場を移して描かれた『アラベスク』第二部では、華麗なイラスト的表現を、また、少女である主人公が大人の女性へと成長する様子を描くなど、当時は前人未到であった手法やテーマを積極的に開拓していった。 妹が婚約したことにより同居生活を解消し、その後、千葉県の[[我孫子市|我孫子]]、[[ひばりが丘 (東京都)|ひばりが丘]]と転居、原稿締め切り前の追い込みでは[[アシスタント_(漫画)|アシスタント]]が8人ほど来て騒がしくなるためアパート住まいでは限界を感じ、[[1979年]]に[[国分寺市|国分寺]]に2階建ての一軒家を新築する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=106-107}}。 [[1980年]]、『[[LaLa]]』で代表作『[[日出処の天子]]』を連載開始する。主人公である[[聖徳太子]]が超能力及び霊能力者であり、また生育環境が原因の同性愛者であるという設定は当時センセーションを巻き起こした。[[1983年]]度第7回[[講談社漫画賞]]を受賞した。 [[2000年]]に[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]にて『アラベスク』から約30年ぶりとなるバレエ漫画『[[舞姫 テレプシコーラ]]』の連載を開始する。同作で[[2007年]]度第11回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞受賞。2011年をもって連載終了した。 [[2011年]]ダ・ヴィンチにて『ケサラン・パサラン』の連載を開始、2012年10月号で終了した。[[2014年]]に『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』にて、[[百年戦争]]を題材とした[[ジャンヌ・ダルク]]を主人公とした『[[レベレーション(啓示)]]』の隔月連載を開始し、[[2020年]]10月に完結した。 [[2016年]]に[[弥生美術館]]にて展覧会「山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界―」が開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yayoi-yumeji-museum.jp/yayoi/exhibition/past_detail.html?id=742|title=山岸凉子展 「光 -てらす-」 ―メタモルフォーゼの世界― | 過去の展覧会|website=弥生美術館・竹久夢二美術館|accessdate=2021-09-25}}</ref>。翌年には[[京都国際マンガミュージアム]]でも開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kyotomm.jp/event/exh_yamagishiryoko/|title=山岸凉子展「光-てらす-」-メタモルフォーゼの世界-|website=京都国際マンガミュージアム|accessdate=2021-09-25}}</ref>。[[2019年]]には生まれてから2歳まで過ごした北海道[[上砂川町]]でトークショーを開催した<ref>{{Cite web|和書|url=https://morning.kodansha.co.jp/news/5184.html|title=【画業50周年記念】 山岸凉子初のトークショーが、いよいよ今週末10/6(日)開催。故郷・北海道上砂川町の体育センターにて。|website=モーニング|date=2019-10-04|accessdate=2023-01-11}}</ref>。 漫画の[[電子書籍]]版は発売されていなかったが、[[2021年]]10月4日にKADOKAWAと講談社から初めて発売されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/news/846834/a/|title=山岸凉子作品ついに電子書籍解禁!! 伝説的傑作『日出処の天子』や最新連載作ほか10/4発売、9/17より予約開始!|website=ダ・ヴィンチweb|date=2021-09-19|accessdate=2023-01-11}}</ref>。 == 作風 == * 幼い頃から[[オーブリー・ビアズリー]]の絵を好み、ビアズリーのように細くはっきりと描けたらと思っていたという。 * 漫画はほとんど読んでいなかったが、高校2年の頃に[[白土三平]]の「[[カムイ伝]]」に影響を受け、漫画家になろうと決意する。白土の作品姿勢と美しいシャープな描線を目標にして漫画家になれるまでの苦しい4年間を頑張り抜いた。<ref>「コミック'94 春号<!--文藝春秋2月臨時増刊?-->」 - わが心のまんが山岸凉子が心の師と仰ぐ白土三平の『カムイ伝』</ref>。 * デビューから数作は編集部の意向で丸顔の可愛い絵柄であったが、[[1971年]]発表の「雨とコスモス」でがらっと変更したところ「野獣のような顔」と非常に不評であった<ref>『Otome continue Vol.6』(太田出版、2011年、{{ISBN2|978-4778312596}})萩尾望都との対談</ref>。[[水野英子]]は山岸との対談において、山岸の描く細い線は衝撃的であったと言い、「漫画史的に言うと、あれで[[手塚治虫|手塚]]タッチから解放された」と述べている<ref>『舞姫 テレプシコーラ』第4巻、メディア・ファクトリー、2003年、{{ISBN2|978-4840104913}}、198頁</ref> * 登場人物のセリフを納めるいわゆる[[ふきだし]]を四角く独特のスタイルで描いている事も特徴的だが、当初は一般的な楕円タイプを用いていた。変えた理由は、文字数を見誤る事が多かったのが、四角にしたところ写植がスムーズに入り、具合がいいためにそうなったと語っている<ref>『だっくす』1978年9,10月号 特集 山岸凉子 「とりとめもなくささやかに少女マンガを語ること 山岸凉子 樹村みのり ささやななえ」参考。</ref>。 * ホラー作品を数多く手がけ、クオリティの高さとその恐ろしさには定評がある。また、霊感モチーフを採り入れて運命や業の深さを追及する作品も多い。 * 造詣の深い[[ギリシア神話]]の登場人物やストーリーを[[話題|モチーフ]]として採り入れた作品が多いことから、[[安彦良和]]監督によるギリシア神話世界を舞台にしたアニメーション映画『[[アリオン (漫画)|アリオン]]』([[1986年]])では、安彦の依頼を受け[[オリュンポス十二神|オリンポスの神々]]の衣装デザインとキャラクターデザインの一部{{Efn|「ガイア」([[アリオン (漫画)|アリオン]]内の登場人物の項を参照のこと)を担当。}}を手がけた。 * 1972年の『ゲッシング・ゲーム』は、少女漫画雑誌初の男性同性愛の話である。 == 人物 == * 作品を充実させるために、取材は徹底的に行う<ref name="hitokiko">[[北海道新聞]]、2010年9月23日朝刊1面「北海道ひと紀行 - ヒットメーカー」</ref>。『舞姫 テレプシコーラ』第2部の執筆では、主人公が出場する[[ローザンヌ国際バレエコンクール]]の主要な舞台である[[スイス]]、[[ローザンヌ]]へ4回取材旅行を行った<ref name="hitokiko"/>。 * 少女時代に習っていた[[バレエ]]を40代で再開した<ref>{{Wayback|url=https://www.yomiuri.co.jp/book/news/20050928bk05.htm|title=山岸凉子、有吉京子さん 30年ぶりバレエ漫画:本よみうり堂:YOMIURI ONLINE|date=20060212013838}}</ref>。 * 牛乳が大の苦手。 * 甘い物が苦手<ref>「恐怖の甘い物一家」より</ref>。 == 作品リスト == {| style="font-size:smaller" | style="background-color: #fdd; width: 1em; border: 1px solid gray;" | | 連載作品 | style="background-color: #ffffff; width: 1em; border: 1px solid gray;" |無色 | 単発・読み切り作品 |} === 中編・長編 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" !#!!作品名!!掲載誌!!発表年・掲載号!!注記 |- style="background-color:#fdd" !1 |<span style="display:none">あらへすく</span>アラベスク |りぼん |1971年10月号 - 1973年4月号 | |- style="background-color:#fdd" !2 |<span style="display:none">あらへすくたいにふ</span>[[アラベスク (漫画)|アラベスク 第二部]] | rowspan="3" |花とゆめ |1974年{{0}}6月号{{Efn|name="sokan"|創刊号}} - 1975年22号{{Efn|1975年1月より月2回刊}} | |- style="background-color:#fdd" !3 |<span style="display:none">めたもるふおしすてん</span>[[メタモルフォシス伝]] |1976年10号 - 1976年20号 | |- style="background-color:#fdd" !4 |<span style="display:none">ようせいおう</span>[[妖精王]] |1977年{{0}}9号 - 1978年21号 | |- style="background-color:#fdd" !5 |[[日出処の天子|<span style="display:none">ひいつるところのてんし</span>日出処の天子]] |LaLa |1980年{{0}}4月号 - 1984年6月号 |講談社漫画賞少女部門受賞 |- style="background-color:#fdd" !6 |<span style="display:none">やまとたける</span>ヤマトタケル |[[月刊Asuka|ASUKA]] |1986年12月号 - 1987年7月号 |原作:[[梅原猛]] |- style="background-color:#fdd" !7 |<span style="display:none">ふういん</span>封印 |LaLa |1994年{{0}}7月号 - 1995年7月号 |後に『ツタンカーメン』と改題 |- style="background-color:#fdd" !8 |<span style="display:none">おに</span>鬼 | rowspan="2" |[[コミックトム|comicトム]] |1995年10月号 - 1996年1月号 | |- style="background-color:#fdd" !9 |<span style="display:none">つたんかあめん</span>ツタンカーメン |1996年{{0}}5月号 - 1997年4月号 | |- style="background-color:#fdd" !10 |<span style="display:none">あおのしたい</span>[[青青の時代]] | rowspan="2" |comicトムプラス |1998年{{0}}5月号 - 2000年2月号 | |- style="background-color:#fdd" !11 |<span style="display:none">はくかんし</span>白眼子 |2000年{{0}}5月号 - 2000年9月号 | |- style="background-color:#fdd" !12 |<span style="display:none">てれふしこおら</span>舞姫 テレプシコーラ | rowspan="4" |ダ・ヴィンチ |2000年11月号 - 2006年11月号 | |- style="background-color:#fdd" !13 |<span style="display:none">てれふしこおらたいにふ</span>舞姫 テレプシコーラ 第2部 |2007年11月号 - 2010年10月号 |2010年11月号に番外編掲載 |- style="background-color:#fdd" !14 |<span style="display:none">ういり</span>[[ヴィリ (漫画)|ヴィリ]] |2007年{{0}}1月号 - 2007年9月号 | |- style="background-color:#fdd" !15 |<span style="display:none">けさらんはさらん</span>ケサラン・パサラン |2011年{{0}}3月号 - 2012年10月号 | |- style="background-color:#fdd" !16 |<span style="display:none">れへれえしよんけいし</span>レベレーション(啓示) |[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]] |2015年4・5合併号 - 2020年48号 |隔月連載 |} === 短編 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" !#!!作品名!!掲載誌!!発表年・掲載号!!収録!!注記 |- !1 |<span style="display:none">れふとあんとらいと</span>レフトアンドライト | rowspan="13" |りぼんコミック |1969年{{0}}5月号 |全集28 |デビュー作 |- !2 |<span style="display:none">あしたはあおそら</span>あしたは青空 |1969年{{0}}7月号 | | |- !3 |<span style="display:none">あのこはてんし</span>あの子は天使 |1969年{{0}}8月号 | | |- !4 |<span style="display:none">たたいましあいちゆう</span>ただいま試合中! |1969年10月号 | | |- !5 |<span style="display:none">みにみにせんせい</span>ミニミニ先生 |1969年11月号 | | |- !6 |<span style="display:none">はろおやんくやんく</span>ハロー!ヤングヤング |1969年12月号 | rowspan="2" |全集28 | |- !7 |<span style="display:none">さんにいちせろ</span>3・2・1・0! |1970年{{0}}1月号 | |- !8 |<span style="display:none">みすめかねはおとしころ</span>ミスめがねはお年ごろ |1970年{{0}}2月号 |全集32 | |- !9 |<span style="display:none">はるかせにしやんふ</span>春風にジャンプ |1970年{{0}}3月号 | | |- !10 |<span style="display:none">はるにはあおいめか</span>春には青い芽が… |1970年{{0}}4月号 | | |- !11 |<span style="display:none">くつきいとれもんていい</span>クッキーとレモンティー |1970年{{0}}5月号 | | |- !12 |<span style="display:none">かいからのこい</span>貝がらの恋 |1970年{{0}}5月号増刊 | | |- !13 |<span style="display:none">ふらほおなつやすみ</span>ブラボー!夏休み |1970年{{0}}7月号 | | |- !14 |<span style="display:none">ひまわりさいた</span>ひまわり咲いた |りぼん |1970年{{0}}7月号付録 | | |- !15 |<span style="display:none">ちいさなはと</span>小さな鳩 | rowspan="3" |りぼんコミック |1970年{{0}}8月号 | | |- !16 |<span style="display:none">らくりま</span>ラグリマ |1970年{{0}}9月号 |全集28 | |- !17 |<span style="display:none">えいこうのくりいんふいいると</span>栄光のグリーン・フィールド |1970年10月号 |全集32 | |- !18 |<span style="display:none">みすのなかのそら</span>水の中の空 |りぼん |1970年10月号付録 | | |- !19 |<span style="display:none">しんふおにいたいこはん</span>シンフォニー第5番 | rowspan="3" |りぼんコミック |1970年11月号 |全集32 | |- !20 |<span style="display:none">とおいさんひか</span>遠い賛美歌 |1970年12月号 | | |- !21 |<span style="display:none">わたしはこうもりちやん</span>わたしはコウモリちゃん | rowspan="2" |1971年{{0}}1月号 | | |- !22 |冬の旅 |りぼん | | |- !23 |<span style="display:none">しろいへやのふたり</span>白い部屋のふたり |りぼんコミック |1971年{{0}}2月号 |全集28 |[[:it:Shiroi heya no futari|イタリア語版]] |- !24 |<span style="display:none">はろおえふりほてい</span>ハロー!エブリボディ | rowspan="4" |りぼん |1971年{{0}}4月号 - 6月号 | | |- !25 |<span style="display:none">あめとこすもす</span>雨とコスモス |1971年{{0}}8月号 | | |- !26 |<span style="display:none">ねしのさけひ</span>ネジの叫び |1971年{{0}}9月号 |全集26 | |- !27 |<span style="display:none">つきのおちは</span>月の落葉 |1972年{{0}}4月号増刊 | | |- !28 |<span style="display:none">けつしんくけえむ</span>ゲッシング・ゲーム | rowspan="3" |[[Seventeen (日本の雑誌)|別冊セブンティーン]] |1972年11月号 |全集25 | |- !29 |<span style="display:none">たれかかかせのなかて</span>だれかが風の中で… |1973年{{0}}1月号 |全集30 | |- !30 |<span style="display:none">あかいかみのしようねん</span>赤い髪の少年 | rowspan="2" |1973年{{0}}5月号 |全集31 | |- !31 |<span style="display:none">さんしよくすみれ</span>三色すみれ | rowspan="2" |りぼん |全集30 | |- !32 |<span style="display:none">ゆうれいたん</span>ゆうれい談 |1973年{{0}}6月号付録 |全集17 | |- !33 |<span style="display:none">はろつここんちえると</span>バロッコ・コンチェルト |[[月刊ファニー|ファニー]] |1973年{{0}}9月号 |全集25 | |- !34 |<span style="display:none">ていんかあへる</span>ティンカー・ベル |[[デラックスマーガレット]] |1973年秋の号 |全集27 | |- !35 |<span style="display:none">わたしのにんきよひめ</span>わたしの人魚姫 |[[別冊フレンド|別冊少女フレンド]] |1974年{{0}}1月号 |全集26 | |- !36 |<span style="display:none">ねむれるもりの</span>ねむれる森の… |[[なかよし]] |1974年{{0}}3月号 |全集29 | |- !37 |<span style="display:none">かくえんのむふふふ</span>学園のムフフフ |別冊セブンティーン | rowspan="2" |1974年{{0}}5月号 |全集31 | |- !38 |<span style="display:none">るつこつく</span>ル・コック |ティーニー |全集25 | |- !39 |<span style="display:none">らふんつえるらふんつえる</span>ラプンツェル・ラプンツェル |別冊少女フレンド |1974年{{0}}6月号 |全集29 | |- !40 |<span style="display:none">かほちやのはしや</span>かぼちゃの馬車 |[[Seventeen (日本の雑誌)|月刊セブンティーン]] |1974年11月号 |全集31 | |- !41 |<span style="display:none">こうふくのおうし</span>幸福の王子 |[[月刊プリンセス|プリンセス]] |1975年{{0}}1月号 |全集30 | |- !42 |<span style="display:none">くりいんかあねえしよん</span>グリーン・カーネーション |月刊セブンティーン | rowspan="2" |1976年{{0}}1月号 |全集25 | |- !43 |<span style="display:none">くりすます</span>クリスマス |プリンセス |全集27 | |- !44 |<span style="display:none">ひいなのまいそう</span>ひいなの埋葬 |花とゆめ |1976年{{0}}6号 |全集32 | |- !45 |<span style="display:none">しゆりんくすはあん</span>シュリンクス・パーン |プリンセス |1976年{{0}}5月号 | | |- !46 |<span style="display:none">なつのくうわ</span>夏の寓話 |月刊セブンティーン |1976年{{0}}8月号 |全集26 | |- !47 |<span style="display:none">おちくほものかたり</span>[[落窪物語]] |[[リリカ (雑誌)|リリカ]] |1976年10月号{{Efn|name="sokan"}}・11月号 |全集32 | |- !48 |<span style="display:none">はにゆきす</span>パニュキス |花とゆめ |1976年24号・1977年1号 |全集24 | |- !49 |<span style="display:none">あるこおのおと</span>アルゴー・ノート |月刊セブンティーン |1977年{{0}}1月号 |全集25 | |- !50 |<span style="display:none">せいれえん</span>セイレーン | rowspan="2" |花とゆめ | rowspan="2" |1977年{{0}}3号 | | |- !51 |<span style="display:none">ふへしもおぬ</span>プペ・シモーヌ | | |- !52 |<span style="display:none">せらひむ</span>愛天使 |[[LaLa]] |1977年{{0}}3月号 | | |- !53 |<span style="display:none">けんそうきよく</span>幻想曲 |月刊セブンティーン |1977年{{0}}8月号 |全集24 | |- !54 |<span style="display:none">とりいむ</span>ドリーム |LaLa |1978年2月号・3月号 | rowspan="3" |全集23 | |- !55 |<span style="display:none">うんていいね</span>ウンディーネ | rowspan="2" |[[プチコミック]] |1978年10月号増刊 | |- !56 |<span style="display:none">はあひい</span>ハーピー |1978年12月号増刊 | |- !57 |<span style="display:none">てんにんからくさ</span>天人唐草 |[[少女コミック|週刊少女コミック]] |1979年{{0}}2号 |全集26 | |- !58 |<span style="display:none">きるけえ</span>キルケー |プチコミック |1979年2月号増刊 |全集24 | |- !59 |<span style="display:none">くろのへれねえ</span>黒のヘレネー |花とゆめ |1979年11号 |全集31 | |- !60 |<span style="display:none">あめのほうもんしや</span>雨の訪問者 |月刊セブンティーン |1979年{{0}}7月号 |全集24 | |- !61 |<span style="display:none">くうる</span>グール |ペーパームーン |1979年18号 |全集31 | |- !62 |<span style="display:none">はんしい</span>バンシー |LaLa |1979年10月号 |全集29 | |- !63 |<span style="display:none">すひんくす</span>スピンクス |花とゆめ |1979年20号 |全集27 | |- !64 |<span style="display:none">めてゆうさ</span>メデュウサ |[[奇想天外 (SF雑誌)|別冊奇想天外]] |1979年{{0}}9号 |全集23 | |- !65 |<span style="display:none">あくむ</span>悪夢 |[[マンガ少年]] |1980年{{0}}5月号 |全集27 | |- !66 |<span style="display:none">きようふのあまいものいつか</span> 恐怖の甘い物一家 |ギャルズライフ |1980年10月号 | rowspan="2" |全集29 | |- !67 |<span style="display:none">たふねえ</span>ダフネー |[[プチフラワー]] |1981年冬の号 | |- !68 |<span style="display:none">すとろへりいないとないと</span>ストロベリー・ナイト・ナイト |マンガ少年 |1981年{{0}}3月号 |全集26 | |- !69 |<span style="display:none">きつねしよ</span>狐女 |フォアレディ |1981年{{0}}4月号 |全集16 | |- !70 |<span style="display:none">あやかしのやかた</span>あやかしの館 | rowspan="2" |プチコミック |1981年{{0}}6月号 |全集17 | |- !71 |<span style="display:none">さすらいのねえむつくり</span>さすらいのネーム作り | rowspan="2" |1981年{{0}}9月号 |全集32 | |- !72 |<span style="display:none">かこのなかのとり</span>籠の中の鳥 |プチフラワー |全集16 | |- !73 |<span style="display:none">あるよるに</span>ある夜に |[[新書館#grape fruit(グレープフルーツ)|グレープフルーツ]] |1981年創刊号 | | |- !74 |<span style="display:none">きらいこう</span>鬼来迎 |[[DUO (マンガ雑誌)|デュオ]] |1981年11月号 |全集16 | |- !75 |<span style="display:none">あたしのの</span>化野の… | rowspan="2" |プチコミック |1982年{{0}}1月号 |全集27 | |- !76 |<span style="display:none">やしやこせん</span>夜叉御前 |1982年{{0}}4月号 | rowspan="2" |全集16 | |- !77 |<span style="display:none">はつひやくひくに</span>八百比丘尼 |プチフラワー |1982年{{0}}9月号 | |- !78 |<span style="display:none">あららうちわはなし</span>あらら・内輪話 |[[LaLa|別冊LaLa]] |1982年夏の号 |全集32 | |- !79 |<span style="display:none">しおのこえ</span>汐の声 |プチコミック |1982年11月号・12月号 |全集17 | |- !80 |<span style="display:none">せいかいは</span>青海波 |グレープフルーツ |1982年7号 | | |- !81 |<span style="display:none">とくしやからのゆうれいたん</span>読者からのゆうれい談 |[[バラエティ (日本の雑誌)|バラエティ]] |1983年{{0}}6月号 - 8月号 |全集17 | |- !82 |<span style="display:none">よもつひらさか</span>黄泉比良坂(よもつひらさか) |[[ボニータ (雑誌)|ボニータ]] |1983年10月号 | | |- !83 |<span style="display:none">おそこより</span>海底(おぞこ)より |[[ひとみ (雑誌)|ひとみDelluxe]] |1983年11月号 | | |- !84 |<span style="display:none">そえうま</span>副馬(そえうま) |グレープフルーツ |1983年10号 | | |- !85 |<span style="display:none">ひいつるところのてんしかくやうら</span>日出処の天子・楽屋裏 |LaLa |1984年{{0}}3月号 | | |- !86 |<span style="display:none">きめいら</span>[[キメィラ]] |プチフラワー |1984年{{0}}5月号 | | |- !87 |<span style="display:none">ちひきのいわ</span>千引きの石(いわ) |ぶ〜け |1984年{{0}}9月号 | | |- !88 |<span style="display:none">うまやこのひめみこ</span>[[日出処の天子#馬屋古女王|馬屋古女王]] |LaLa |1984年11月号 |全集9 |『日出処の天子』の続編。『LaLa』には全編掲載されず、後に『ASUKA』へ移籍のうえ全編掲載となった。 |- !89 |<span style="display:none">あめのとりふね</span>天鳥船(あめのとりふね) | rowspan="3" |プチフラワー |1985年{{0}}1月号 | | |- !90 |<span style="display:none">わたつみのいろこのみや</span>海の魚鱗宮 |1985年{{0}}4月号 |全集16 | |- !91 |<span style="display:none">ひるこ</span>蛭子 |1985年{{0}}7月号 | | |- !92 |<span style="display:none">うまやこのひめみこ2</span>[[日出処の天子#馬屋古女王|馬屋古女王]] |[[月刊Asuka|ASUKA]] |1985年{{0}}8月号{{Efn|name="sokan"}}・9月号 |全集9 |『LaLa』掲載作品の続編 |- !93 |<span style="display:none">へみひれ</span>蛇比礼 |ぶ〜け |1985年{{0}}9月号 | | |- !94 |<span style="display:none">ときしくのかくのきのみ</span> 時じくの香の木の実 |ASUKA |1985年10月号 | | |- !95 |<span style="display:none">とこよのなかなきとり</span>常世長鳴鳥 |グレープフルーツ |1985年21号 | | |- !96 |<span style="display:none">かみかくし</span>神かくし | rowspan="3" |ASUKA |1985年11月号 - 1986年1月号 |全集9 | |- !97 |<span style="display:none">わたしのにんきようはよいにんきよう</span>わたしの人形は良い人形 |1986年2月号 - 4月号 | | |- !98 |<span style="display:none">すいえん</span>水煙 |1986年{{0}}5月号 | | |- !99 |<span style="display:none">あめのぬほこ</span>天沼矛 |グレープフルーツ |1986年27号 | | |- !100 |<span style="display:none">このはなさくやひめ</span>木花佐久夜毘売 | rowspan="5" |ASUKA |1986年{{0}}6月号 | | |- !101 |<span style="display:none">るるそうけ</span>流々草花 |1986年{{0}}7月号 |全集21 | |- !102 |<span style="display:none">つくよみ</span>月読 |1986年{{0}}8月号 | | |- !103 |<span style="display:none">ほしのましろきはなたはの</span>星の素白き花束の… |1986年{{0}}9月号 | | |- !104 |<span style="display:none">るりのつめ</span>瑠璃の爪 | rowspan="2" |1986年10月号 | | |- !105 |<span style="display:none">かかみよかかみ</span>鏡よ鏡… |ぶ〜け | |「星の運行」を改題 |- !106 |<span style="display:none">ちようこうらく</span>鳥向楽 |ASUKA |1986年11月号 | | |- !107 |<span style="display:none">ふえふきとうし</span>笛吹き童子 |VIVA PRINCESS |1986年12月25日号 | | |- !108 |<span style="display:none">つきのきぬ</span>[[月の絹]] | rowspan="8" |ASUKA |1987年{{0}}8月号 | | |- !109 |<span style="display:none">くりいんふうす</span>[[グリーン・フーズ]] Part1・Part2 |1987年{{0}}9月号・11月号 | | |- !110 |<span style="display:none">こすもす</span>コスモス |1987年12月号 | | |- !111 |<span style="display:none">ならくたるたろす</span>[[奈落 タルタロス]] |1988年{{0}}2月号 | | |- !112 |<span style="display:none">はえとおん</span>[[パエトーン (漫画)|パエトーン]] |1988年{{0}}5月号 | |[[潮出版社]]がウェブで無料公開している |- !113 |<span style="display:none">ししやのいえ</span>死者の家 |1988年{{0}}8月号 | | |- !114 |<span style="display:none">きんこきんさ</span>銀壷・金鎖 |1988年11月号 | | |- !115 |<span style="display:none">よるのにし</span>夜の虹 |1989年{{0}}2月号 | | |- !116 |<span style="display:none">ほくしんのここ</span>[[牧神の午後 (漫画)|牧神の午後]] |ぶ〜け |1989年11月号・12月号 | | |- !117 |<span style="display:none">しんきろう</span>蜃気楼 | rowspan="2" |[[YOU (雑誌)|YOU-all]] |1990年vol.1 | | |- !118 |<span style="display:none">はいとはいはあ</span>パイド・パイパー |1990年vol.2 | | |- !119 |<span style="display:none">ふつかつき</span>二日月 | rowspan="2" |ぶ〜け |1990年{{0}}8月号 | | |- !120 |<span style="display:none">もろもろのよこくについて</span>もろもろの予告について |1990年{{0}}9月号 | | |- !121 |<span style="display:none">ちゆうとうはへいについてひとこと</span>中東派兵について一言 |[[ヤングユー|別冊YOUNG YOU]] |1990年WINTER号 | | |- !122 |<span style="display:none">かおのいし</span>顔の石 |ぶ〜け |1991年{{0}}1月号 | | |- !123 |<span style="display:none">すさくもん</span>朱雀門 |[[月刊プリンセス|別冊プリンセス]] |1991年{{0}}2月25日号 | | |- !124 |<span style="display:none">ふるうろおしす</span>ブルー・ロージズ | rowspan="3" |YOU-all |1991年vol.7 | | |- !125 |<span style="display:none">ふのあんし</span>負の暗示 |1991年vol.8 | | |- !126 |<span style="display:none">ふたくちおんな</span>二口女 |1992年vol.12 | | |- !127 |<span style="display:none">けつひようしゆら</span>月氷修羅 |別冊プリンセス |1992年{{0}}5月25日号 | | |- !128 |<span style="display:none">ししまのそこ</span>緘黙の底 |[[YOU (雑誌)|YOU-SPECIAL]] |1992年No.1 | | |- !129 |<span style="display:none">かめのそきのいろ</span>甕のぞきの色 |別冊プリンセス |1992年11月25日号・1993年2月25日号 | | |- !130 |<span style="display:none">ゆうれいたくしい</span>ゆうれいタクシー |[[ネムキ|眠れぬ夜の奇妙な話]] |1993年{{0}}3月30日号 | | |- !131 |<span style="display:none">きふねのみち</span>貴船の道 |セリエミステリー |1993年{{0}}5月号 | | |- !132 |<span style="display:none">はすのいと</span>蓮の糸 |別冊プリンセス |1993年{{0}}5月25日号 | | |- !133 |<span style="display:none">きしもしん</span>[[鬼子母神 (漫画)|鬼子母神]] |[[ビッグゴールド]] |1993年{{0}}7月号 | | |- !134 |<span style="display:none">きとうらく</span>着道楽 |別冊プリンセス |1993年{{0}}8月25日号 | | |- !135 |<span style="display:none">ひなかひめ</span>肥長比売 |comicトム |1993年10月号 | | |- !136 |<span style="display:none">たいむすりつふ</span>タイムスリップ |[[COMICアレ!]] |1993年11月20日号 | | |- !137 |<span style="display:none">あめおんな</span>雨女 |眠れぬ夜の奇妙な話 |1994年{{0}}3月25日号 | | |- !138 |<span style="display:none">ふらつくすわん</span>[[黒鳥 (漫画)|黒鳥-ブラックスワン-]] | rowspan="4" |セリエミステリー |1994年{{0}}4月号 | | |- !139 |<span style="display:none">はとしえふすと</span>[[ハトシェプスト (漫画)|ハトシェプスト]] |1995年10月号 | | |- !140 |<span style="display:none">てんしかあと</span>天使カード |1996年{{0}}2月号 | | |- !141 |<span style="display:none">はとしえふすと2</span>ハトシェプストII |1996年{{0}}4月号 | | |- !142 |<span style="display:none">めていあ</span>メディア |[[Amie]] |1997年{{0}}3月号 | | |- !143 |<span style="display:none">いしす</span>[[イシス (漫画)|イシス]] |comicトム |1997年{{0}}6月号 - 8月号 | | |- !144 |<span style="display:none">おしいれ</span>押し入れ | rowspan="2" |Amie |1997年11月号 | | |- !145 |夜の馬 |1998年{{0}}3月号 | | |- !146 |<span style="display:none">おさんほねこちやん</span>お散歩ネコちゃん |[[MELODY (雑誌)|メロディ]] |1999年10月号 | | |- !147 |<span style="display:none">ひんしのはつひようかい</span>瀕死の発表会 |ダ・ヴィンチ |2004年{{0}}9月号 | | |- !148 |<span style="display:none">はれえたいけんもろもろ</span>バレエ体験モロモロ |クロワゼ |2007年vol.25 | | |- !149 |<span style="display:none">はれえすたしおはいけん</span>Ballet Studio拝見 |ダ・ヴィンチ |2007年11月号 | | |- !150 |<span style="display:none">かいたんかいたん</span>快談・怪談 |[[BE・LOVE]] |2010年23号・24号 | | |- !151 |<span style="display:none">ねこねこねこ</span>猫・ねこ・ネコ |Mei 冥 Vol.1{{Efn|name="sokan"}} |2012年 | | |- !152 |<span style="display:none">ことたま</span>言霊 |BE・LOVE |2013年4号 - 6号 | | |- !153 |艮(うしとら) | rowspan="2" |モーニング |2014年2・3号 ‐ 6号 | | |- !154 |<span style="display:none">とらこんめいと</span>ドラゴンメイド |2021年46号 | | |} == 書籍 == === 山岸凉子作品集 === * 白泉社、1984年 - 1985年 # 『日出処の天子 1』、1984年7月 # 『日出処の天子 2』、1984年8月 # 『日出処の天子 3』、1984年9月 # 『日出処の天子 4』、1984年10月 # 『日出処の天子 5』、1984年11月 # 『日出処の天子 6』、1985年1月 # 『スピンクス 傑作集1』、1984年7月 # 『ティンカー・ベル 傑作集2』、1984年8月 # 『黒のヘレネー 傑作集3』、1984年9月 # 『夏の寓話 傑作集4』、1984年10月 # 『籠の中の鳥 傑作集5』、1984年11月 === 山岸凉子全集 === * 角川書店〈あすかコミックス・スペシャル〉、1986年 - 1988年 # 『日出処の天子 1』 # 『日出処の天子 2』 # 『日出処の天子 3』 # 『日出処の天子 4』 # 『日出処の天子 5』 # 『日出処の天子 6』 # 『日出処の天子 7』 # 『日出処の天子 8』 # 『馬屋古女王』 (神かくし、神入り山 神かくし Part2 収録) # 『アラベスク第1部 1』 # 『アラベスク第1部 2』 # 『アラベスク第1部 3』 # 『アラベスク第2部 1』 # 『アラベスク第2部 2』 # 『アラベスク第2部 3』 # 『海の魚鱗宮』 (狐女、籠の中の鳥、鬼来迎、夜叉御前、八百比丘天 収録) # 『ゆうれい談』 (読者からのゆうれい談、あやかしの館、汐の声、対談・山岸凉子の幽霊譚 収録) # 『妖精王 1』 # 『妖精王 2』 # 『妖精王 3』 # 『妖精王 4』(他に「流々草花」収録) # 『メタモルフォシス伝』 # 『ドリーム』 (ウンディーネ、ハーピー、メデュウサ 収録) # 『パニュキス』 (キルケー、雨の訪問者、幻想曲 収録) # 『グリーン・カーネーション』 (ゲッシング・ゲーム、バロッコ・コンチェルト、ル・コック、アルゴー・ノート 収録) # 『天人唐草』 (ネジの叫び、わたしの人魚姫、夏の寓話、ストロベリー・ナイト・ナイト 収録) # 『クリスマス』 (ティンカー・ベル、スピンクス、悪夢、化野の… 収録) # 『レフトアンドライト』 (ハロー!ヤングヤング、 3・2・1・0!、ラグリマ、白い部屋のふたり 収録) # 『ダフネー』 (ねむれる森の…、ラプンツェル・ラプンツェル、バンシー、恐怖の甘い物一家 収録) # 『愛天使』 (三色すみれ、だれかが風の中で…、幸福の王子、シュリンクス・パーン 収録) # 『黒のヘレネー』 (セイレーン、グール、赤い髪の少年、かぼちゃの馬車、学園のムフフフ 収録) # 『ひいなの埋葬』 (ミスめがねはお年ごろ、シンフォニー第5番、栄光のグリーンフィールド、落窪物語、内輪話スペシャル(凉子のティー・タイム、トマトとアサリのむき身のスパゲティ、RYOKO YAMAGISHI IN SPIRAL SPACE、運動神経、さすらいのネーム作り) 収録) === 山岸凉子スペシャルセレクション === * 潮出版社、2009年 - 2016年 # 『わたしの人形は良い人形』、2009年、{{ISBN2|978-4267905315}} # 『汐の声』、2010年、{{ISBN2|978-4267905322}} # 『神かくし』、2010年、{{ISBN2|978-4267905339}} # 『甕のぞきの色』、2010年、{{ISBN2|978-4267905346}} # 『天人唐草』、2010年、{{ISBN2|978-4267905353}} # 『夏の寓話』、2010年、{{ISBN2|978-4267905360}} # 『常世長鳴鳥』、2010年、{{ISBN2|978-4267905377}} # 『二日月』、2010年、{{ISBN2|978-4267905384}} # 『鬼子母神』、2010年、{{ISBN2|978-4267905391}} # 『ヤマトタケル』、2011年、{{ISBN2|978-4267905407}} # 『妖精王 1』、2011年、{{ISBN2|978-4267905681}} # 『妖精王 2』、2011年、{{ISBN2|978-4267905698}} # 『妖精王 3』、2011年、{{ISBN2|978-4267905704}} # 『メタモルフォシス伝』、2014年、{{ISBN2|978-4267906060}} # 『青青の時代 1』、2016年、{{ISBN2|978-4267906077}} # 『青青の時代 2』、2016年、{{ISBN2|978-4267906084}} === 長編・中編 === (準備中) <!--* 『[[アラベスク]]』--> <!--* 『[[メタモルフォシス伝]]』--> <!--* 『[[妖精王]]』--> <!--* 『[[日出処の天子]]』--> <!--* 『ヤマトタケル』原作:梅原猛、角川書店、1987/12/1--> <!--* 『ヤマトタケル』前・後編、角川書店〈あすかコミックス〉、1991年--> <!--* 『封印』1995年 --> <!--* 『ツタンカーメン』1997年 --> <!--* 『青青の時代』1999年 --> <!--* 『白眼子』潮出版〈希望コミックス〉、2000年11月1日 *: 「白眼子」「鳥向楽」「天沼矛」 * 『白眼子』潮出版社〈潮漫画文庫〉、2006年6月1日、{{ISBN2|}}--> <!--* 『舞姫 テレプシコーラ』2001年--> <!--* 『ヴィリ』メディアファクトリー〈MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ〉 、2007年10月23日--> === 短編集 === * 『ひまわり咲いた 山岸凉子傑作集1』、集英社〈りぼんマスコットコミックス〉、1970年12月10日発行 *: 「ひまわり咲いた」「クッキーとレモンティ」「ミニミニ先生」「レフトアンドライト」収録。 * 『ラグリマ 山岸凉子傑作集2』、集英社〈りぼんマスコットコミックス〉、1971年3月10日発行 *: 「ラグリマ」「春には青い芽が…」「貝がらの恋」「3・2・1・0!」「あの子は天使」収録。 * 『白い部屋のふたり 山岸凉子傑作集3』、集英社〈りぼんマスコットコミックス〉、1973年9月10日発行 *: 「白い部屋のふたり」「遠い賛美歌」「水の中の空」収録 * 『ティンカー・ベル』、[[朝日ソノラマ]]〈[[サンコミックス]]〉、1975年5月10日発行 *: 「ティンカー・ベル」「ラプンツェル・ラプンツェル」「かぼちゃの馬車」「わたしの人魚姫」「ねむれる森の…」収録。 * 『白い部屋のふたり 山岸凉子傑作集』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1975年8月10日発行 * 『ひいなの埋葬 山岸凉子傑作集2』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1976年5月1日発行 *: 「ひいなの埋葬」「幸福の王子」「三色すみれ」を収録。 * 『赤い髪の少年』、朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、1976年7月1日発行 *: 「ネジの叫び」「だれかが風の中で…」「赤い髪の少年」「学園のムフフフ」「クリスマス」収録。 * 『ひまわり咲いた 山岸凉子傑作集3』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1976年8月20日発行 * 『ラグリマ』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1976年12月20日発行 * 『セイレーン』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1977年5月1日発行 *: 「セイレーン」「パニュキス」「愛天使」収録 * 『ゲッシング・ゲーム』、集英社〈セブンティーン・コミックス〉、1977年6月10日発行 *: 「ゲッシング・ゲーム」「バロッコ・コンチェルト」「ル・コック」「グリーン・カーネーション」収録。 * 『シュリンクス・パーン』、主婦の友社〈ロマンコミック自選全集〉、1978年7月1日発行 *: 「シュリンクス・パーン」「ラプンツェル・ラプンツェル」「貝がらの恋」「かぼちゃの馬車」「三色すみれ」「凉子 ないしょ話」収録 * 『ゆうれい談』、小学館〈セブンコミックス〉、1978年8月1日 * 『スピンクス』、白泉社〈花とゆめコミックス〉、1980年2月20日発行、{{ISBN2|4592116402}} * 『天人唐草』、朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、1980年7月25日発行 *: 「天人唐草」「キルケー」「夏の寓話」「悪夢」収録。 * 『狐女・天人唐草』、小学館、1981年 * 『ハーピー』、朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、1981年6月30日発行、{{ISBN2|4257916443}} *: 「ハーピー」「雨の訪問者」「ウンディーネ」「ストロベリー・ナイト・ナイト」収録。 * 『メデュウサ』、朝日ソノラマ〈サンコミックス〉、1982年6月 *: 「鬼来迎」「籠の中の鳥」「恐怖の甘い物一家」「ダフネー」「メデュウサ」収録。 * 『あやかしの館』、小学館〈フラワーコミックス PS版 山岸凉子傑作集1〉、1983年2月 * 『黄泉比良坂』、秋田書店〈ボニータコミックス〉、1985年11月1日 * 『時じくの香の木の実』角川書店〈[[あすかコミックス]]〉、1987年2月17日発行、{{ISBN2|4-04-924005-X}} *: 「常世長鳴鳥」「青海波」「副馬」「天沼矛」「水煙」「時じくの香の木の実」を収録。 * 『わたしの人形は良い人形』、角川書店〈あすかコミックス〉、1987年8月17日発行、{{ISBN2|4-04-924021-1}} *: 「わたしの人形は良い人形」「黄泉比良坂」「星の素白き花束の」を収録。 * 『瑠璃の爪』、角川書店〈あすかコミックス〉、1987年6月17日発行、{{ISBN2|4-04-924015-7}} *: 「瑠璃の爪」「鳥向楽」「海底より」「ある夜に」「木花佐久夜毘売」「あらら・内輪話」を収録。 * 『[[パエトーン (漫画)|パエトーン]]』、角川書店〈あすかコミックス〉、1988年6月17日発行、 *: 「グリーン・フーズ Part1」「グリーン・フーズ Part2」「キメィラ」「月の絹」「パエトーン」を収録。 * 『奈落 タルタロス』、角川書店〈あすかコミックス〉、1989年1月17日発行 ISBN 4-04-924082-3 *: 「コスモス」「死者の家」「奈落 タルタロス」「銀壺・金鎖」「夜の虹」の5編を収録。 * 『鏡よ鏡…』、集英社〈ぶーけコミックスワイド版〉 、1990年5月1日 * 『鬼来迎 山岸凉子恐怖選 1』、朝日ソノラマ〈ハロウィン少女コミック館〉、1991年7月1日 * 『メデュウサ 山岸凉子恐怖選 2』、朝日ソノラマ〈ハロウィン少女コミック館〉、1991年8月 *: 「メデュウサ」「ハーピー」「ダフネー」「ストロベリー・ナイト・ナイト」「恐怖の甘い物一家」収録。 * 『牧神の午後』、朝日ソノラマ、1991年12月1日 * 『パイド・パイパー』、集英社〈ユーコミックスデラックス〉、1992年2月26日発行、{{ISBN2|4088622111}} *: 「パイド・パイパー」「蜃気楼」「負の暗示」収録。 * 『千引きの石 山岸凉子恐怖選 3』、朝日ソノラマ〈ハロウィン少女コミック館〉、1992年2月1日 * 『汐の声 山岸凉子恐怖選 4』、朝日ソノラマ〈ハロウィン少女コミック館〉1992年3月1Ⅰ * 『笛吹き童子』、秋田書店〈プリンセスコミックス〉、1992年12月1日 * 『甕のぞきの色』、秋田書店〈プリンセスコミックス〉、1993年7月1日 * 『黒鳥-ブラックスワン-』、白泉社〈白泉社レディースコミックス〉、1995年7月1日 *:「黒鳥」「貴船の道」「緘黙の底」「鬼子母神」 * 『鬼』、潮出版社〈希望コミックス〉、1997年6月25日 ISBN 4-267-90303-4 *: 「鬼」「肥長比売」収録 * 『押し入れ』、講談社〈AmieKC〉、1998年4月13日発行 ISBN 4-06-340015-8 *: 「押し入れ」「夜の馬」「メディア」「雨女」「マイ ブーム」収録 * 『[[牧神の午後 (漫画)|牧神の午後]]』、メディアファクトリー〈MFコミックス ダ・ヴィンチシリーズ〉 、2008年3月29日発行、{{ISBN2|978-4040660257}} *: 「牧神の午後」「黒鳥 ブラックスワン」「瀕死の発表会」「Ballet Studio 拝見」「山岸凉子と行く『ローザンヌ国際バレエコンクール2007』珍道中記」を収録。 * 『押し入れ』、講談社〈KCデラックス〉、2009年3月23日、{{ISBN2|978-4063756807}} * 『言霊』、講談社〈KCデラックス〉、2013年、{{ISBN2|978-4063768206}} * 『艮』(うしとら)、講談社〈モーニングKC〉、2023年7月21日、ISBN 978-4065322116   *: 「艮」「死神」「時計草」「ドラゴンメイド」を収録。 === 短編集(文庫サイズ) === * 『天人唐草』、[[文藝春秋]]〈[[文春文庫ビジュアル版]]〉、1994年3月10日発行、{{ISBN2|978-4168110313}} *: 「天人唐草」「ハーピー」「狐女」「籠の中の鳥」「夏の寓話」を収録。解説:[[中島らも]]。 * 『夜叉御前』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1994年3月10日発行、{{ISBN2|978-4168110320}} *: 「時じくの香の木の実」「キルケー」「鬼来迎」「笛吹き童子」「海底より」「夜叉御前」を収録。解説:[[夢枕獏]]。 * 『月読』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1996年8月10日発行、{{ISBN2|978-4168110436}} *: 「天沼矛」「木花佐久夜毘売」「蛭子」「蛇比礼」「月読」「ウンディーネ」を収録。 * 『甕のぞきの色』、秋田書店〈秋田文庫〉、1997年2月10日発行、{{ISBN2|978-4253172400}} *: 「甕のぞきの色」「蓮の糸」「二口女」「月氷修羅」「朱雀門」を収録。解説:[[高見恭子]]。 * 『わたしの人形は良い人形』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1997年5月10日発行、{{ISBN2|978-4168110443}} *: 「千引きの石」「汐の声」「ネジの叫び」「わたしの人形は良い人形」を収録。 * 『シュリンクス・パーン』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1997年6月10日発行、{{ISBN2|978-4168110450}} *: 「シュリンクス・パーン」「パニュキス」「パイド・パイパー」「グール(屍鬼)」「鏡よ鏡…」を収録。 * 『ハトシェプスト 古代エジプト王朝唯一人の女ファラオ』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1998年6月10日発行、{{ISBN2|4-16-811048-6}} *: 「ハトシェプスト Ⅰ」「ハトシェプスト Ⅱ」「キメィラ」「海の魚鱗宮」「スピンクス」を収録。 * 『神かくし』、秋田書店〈秋田文庫〉、1998年9月5日発行、{{ISBN2|978-4253172462}} *: 「神かくし」「神入山(神かくしPART.2)」「負の暗示」「黄泉比良坂」「夜の虹」を収録。解説:[[木村奈保子]]。 * 『タイムスリップ』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1999年1月10日発行、{{ISBN2|978-4168110498}} *: 「天鳥船」「コスモス」「八百比丘尼」「蜃気楼」「悪夢」「タイムスリップ」を収録。 * 『黒鳥―ブラック・スワン』、白泉社〈白泉社文庫〉、1999年3月1日、{{ISBN2|978-4592883296}} * 『ブルー・ロージス』、文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1999年11月10日発行、{{ISBN2|978-4168110504}} *: 「パエトーン」「星の素白き花束の」「化野の…」「ブルー・ロージス」「銀壺・金鎖」「学園のムフフフ」を収録。 * 『ゆうれい談』、メディアファクトリー〈MF文庫〉、2002年8月1日、{{ISBN2|978-4840106108}} * 『鬼』、潮出版社〈潮漫画文庫〉、2002年、{{ISBN2|978-4267016431}} * 『イシス』、潮出版社〈潮漫画文庫〉、2003年5月22日、{{ISBN2|978-4267016608}} * 『パイド・パイパー』、メディアファクトリー〈MF文庫〉、2003年7月1日、{{ISBN2|978-4840108263}} * 『天人唐草』、文藝春秋〈文春文庫〉、2018年、{{ISBN2|978-4167911492}} * 『月読』、文藝春秋〈文春文庫〉、2019年、{{ISBN2|978-4167912703}} * 『自選作品集 ハトシェプスト 古代エジプト王朝唯一人の女ファラオ』、文藝春秋〈文春文庫〉、2020年2月10日発行、{{ISBN2|978-4167914479}} *: 「ハトシェプスト Ⅰ」「ハトシェプスト Ⅱ」「イシス」を収録。他に「デビュー50周年 山岸凉子トークショー完全載録」。解説:[[岩下志麻]]。 * 『鬼子母神』 文藝春秋〈文春文庫〉、2022年、{{ISBN2|978-4167918682}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=週刊文春|date=2022-02-20|title=少女漫画家「家」の履歴書|publisher=文藝春秋|series=文春新書|ref={{SfnRef|「家」の履歴書|2022}} }} == 外部リンク == * [https://natalie.mu/comic/artist/3702 山岸凉子 - コミックナタリー] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:やまきし りようこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:北翔大学出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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ヘラクレイトス
ヘラクレイトス(希: Ἡράκλειτος, Hērakleitos、 紀元前540年頃 - 紀元前480年頃? ヘラクリタスとも)は、古代ギリシアの哲学者、自然哲学者。 エフェソスで生まれたとされている。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、貴族制の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、かかわることを拒否した。そしてアルテミス神殿に退いて子供たちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。水腫に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。 著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。 アナクシマンドロスから対立と変化、ピュタゴラスからは調和の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。 万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないもの、「ロゴス」(λόγος, logos)を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは「火」(πῦρ, pyr, ピュール)であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」としたタレスなどのそれとは異なっている。この「生成」の思想は、パルメニデスの「存在」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、井筒俊彦によれば、実際には同じ事柄(形而上学における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、プラトンが引用している「万物は流転する」(Τα Πάντα ῥεῖ (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある)。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。 その著作の難解さと厭世観から「暗い哲学者」、あるいは、「泣く哲学者」と呼ばれる。また、ヘーゲルなどの思想の源流として、弁証法の始まりを担う人としても考えられている。
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ヘラクレイトスは、古代ギリシアの哲学者、自然哲学者。
{{Infobox_哲学者 <!-- 分野 --> |地域 = [[西洋哲学]] |時代 = [[古代哲学]] |color = #B0C4DE <!-- 画像 --> |image_name = Heraclitus, Johannes Moreelse.jpg |image_caption = <!-- 人物情報 --> |名前 = ヘラクレイトス<br>{{Script/Greek|Ἡράκλειτος}} |生年月日 = |没年月日 = |学派 = 特定の学派には属していなかったと考えられているが、後に支持者は「ヘラクレイトス派」となった。 |研究分野 = [[形而上学]]、[[認識論]]、[[倫理学]]、[[政治]] |影響を受けた人物 = |影響を与えた人物 = [[パルメニデス]]、[[プラトン]]、[[アリストテレス]]、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]、[[マルティン・ハイデッガー|ハイデッガー]]、[[アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド|ホワイトヘッド]]、[[カール・ポパー]]、その他大勢 |特記すべき概念 = [[ロゴス]]、[[流転]] | }} [[ファイル:Heraklit.jpeg|thumb|[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]作『[[アテナイの学堂]]』に見るヘラクレイトス・中央の階段左付近で考え事をしている。ただ人物のモデルは、[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]といわれている。]] '''ヘラクレイトス'''({{lang-el-short|Ἡράκλειτος}}, Hērakleitos、 [[紀元前540年]]頃 - [[紀元前480年]]頃? ヘラクリタスとも)は、[[古代ギリシア]]の[[哲学者]]、[[自然哲学]]者。 == 生涯 == [[エフェソス]]で生まれたとされている。王族の家系に生まれたという説があるが詳細は不明である。父はプロソンまたはヘラコンという。ヘラクレイトスがエペソスの貴族階級に属したことはおそらく間違いがない。政治に関しては民主制を軽蔑し、[[貴族制]]の立場を取った。誇り高い性格の持ち主で、友人のヘルモドロスがエペソスの民衆により追放されたことに怒り、政治から手を引いた。[[ディオゲネス・ラエルティオス]]によれば、のちにエペソスの人は国法の制定をヘラクレイトスに委託したが、ヘラクレイトスは友人を追放したエペソスの国制を悪しきものとみて、[[人間不信|かかわることを拒否]]した。そして[[アルテミス神殿]]に退いて子供たちとサイコロ遊びに興じたため、人々が不審に思い理由を尋ねると「おまえたちと政治に携わるより、このほうがましだ」と答えたという。[[水腫]]に罹り、医者に見せることを拒んで、自分で治療を試みたが死んだと伝えられる。 == 著作 == 著書といわれる『自然について』は現存せず、引用によってのみ断片が伝わる。この書は『万有について』『政治について』『神学について』の三書を総合したものであるともいわれる。 == 思想 == [[アナクシマンドロス]]から[[対立]]と[[変化]]、[[ピタゴラス|ピュタゴラス]]からは[[調和]]の考えを受け継いだ(ピュタゴラスに対しては、しかし、いかさま師であると述べている)。{{要出典|date=2020年1月22日 (水) 14:26 (UTC)}} '''[[万物流転|万物は流転している]]'''と考え、自然界は絶えず変化していると考えた<ref>{{Cite book|和書 |author = ペーテル・エクベリ |year = 2017 |title = おおきく考えよう 人生に役立つ哲学入門 |publisher = [[晶文社]] |page = 43 |isbn = 978-4-7949-6975-0}}</ref>。しかし一方で、その背後に変化しないもの、「'''[[ロゴス]]'''」({{lang|el|λόγος}}, logos)を見ている。ヘラクレイトスはまたロゴスは「'''[[火]]'''」({{lang|el|πῦρ}}, pyr, ピュール)であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をその象徴としたのである。燃焼は絶えざる変化であるが、常に一定量の油が消費され、一定の明るさを保ち、一定量の煤がたまるなど、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物の[[アルケー]]であり、水や他の物質は火から生ずると述べられる。ただし、これらの考え方におけるアルケーの概念は、「万物のアルケーは水である」とした[[タレス]]などのそれとは異なっている。この「[[生成]]」の思想は、[[パルメニデス]]の「[[存在]]」の思想としばしば対立するものとして見られてきた。もっとも、[[井筒俊彦]]によれば、実際には同じ事柄([[形而上学]]における根源的な部分)を異なる面から述べているにすぎないという(『井筒俊彦全集1 神秘哲学』参照)。ヘラクレイトスの言葉としては、[[プラトン]]が引用している「万物は流転する」({{lang|el|Τα Πάντα ῥεῖ}} (Ta Panta rhei). "everything flows" )がもっともよく知られているが、実際のヘラクレイトスの著作断片にこの言葉はなく(あるいは失われ)、後世の人が作った言葉であるともいわれる{{誰|date=2020年1月22日 (水) 14:26 (UTC)}}。「同じ河に二度入ることはできない」などの表現にその意味合いが含まれていると思われる(疑義もある{{誰|date=2020年1月22日 (水) 14:26 (UTC)}})。また、「万物は一である」とも「一から万物が生まれる」とも述べ、哲学史上初めて、「根源的な一者」と「多くの表面的なもの」との関連を打ち出した人物としても注目されている。{{要出典|date=2020年1月22日 (水) 14:26 (UTC)}} その著作の難解さと[[悲観主義|厭世観]]から「'''暗い哲学者'''」、あるいは、「'''泣く哲学者'''」と呼ばれる。また、[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]などの思想の源流として、[[弁証法]]の始まりを担う人としても考えられている。{{要出典|date=2020年1月22日 (水) 14:26 (UTC)}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == *[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]](下)』 [[加来彰俊]]訳、[[岩波文庫]]、1994年。ISBN 4003366336 *{{cite book |last=Kirk |first=G. S. |author-link=Geoffrey Kirk |title=Heraclitus, the Cosmic Fragments |year=1954 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge}} * {{cite book |last=Davenport |first=Guy |author-link=Guy Davenport (translator) |title=Herakleitos and Diogenes |url=https://archive.org/details/herakleitosdioge00hera |url-access=registration |location=Bolinas |publisher=Grey Fox Press |year=1979 |isbn=978-0-912516-36-3}} * {{Cite book |last1=Heraclitus |last2=Haxton (translator) |first2=Brooks |last3=Hillman (Forward) |first3=James |author3-link=James Hillman |year=2001 |title=Fragments: The Collected Wisdom of Heraclitus |place=New York |publisher=Viking (The Penguin Group, Penguin Putnam, Inc.) |isbn=978-0-670-89195-5 |url-access=registration |url=https://archive.org/details/fragmentscollect00hera }}. Parallel Greek & English * {{cite book |last=Patrick |first=G. T. W. |title=Heraclitus of Ephesus: The Fragments |url=https://archive.org/details/fragmentsofworko00hera |year=1889|publisher=Baltimore, N. Murray }} * {{cite book |last=Wheelwright |first=Philip |author-link=Philip Wheelwright |title=Heraclitus |url=https://archive.org/details/heraclitus0000whee |url-access=registration |year=1959 |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ}} * {{cite book |last=Marcovich |first=Miroslav |author-link=Miroslav Marcovich |title=Heraclitus. Greek Text with a Short Commentary |publisher=Academia Verlag |place=Sankt Augustin |year=2001 |isbn=978-3-89665-171-6}} First edition: ''Heraclitus'', editio maior. Mérida, Venezuela, 1967 * {{cite book |last=Kahn |first=Charles H. |title=The Art and Thought of Heraclitus. An Edition of the Fragments with Translation and Commentary |year=1979 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=978-0-521-21883-2}} * {{cite book|editor1-last=Sallis|editor1-first=John|editor2-last=Maly|editor2-first=Kenneth|title=Heraclitean fragments|year=1980|publisher=University of Alabama Press|location=University|isbn=978-0-8173-0027-2}} * {{cite book |last=Robinson |first=T. M. |year=1987 |title=Heraclitus: Fragments: A Text and Translation with a Commentary |publisher=University of Toronto Press |location=Toronto |isbn=978-0-8020-6913-9}} * [[:de:Karl-Martin Dietz|Dietz, Karl-Martin]] (2004): ''Metamorphosen des Geistes.'' Freies Geistesleben, Stuttgart 2004, Band 1: ''Prometheus der Vordenker: Vom göttlichen zum menschlichen Wissen.'' Band 2: ''Platon und Aristoteles. Das Erwachen des europäischen Denkens.'' Band 3: ''Heraklit von Ephesus und die Entwicklung der Individualität.'' Freies Geistesleben, Stuttgart, 2004, {{ISBN2|3-7725-1300-X}} == 関連項目== {{Commons|Heraclitus}} * [[レオロジー]] == 外部リンク == {{IEP|heraclit|Heraclitus}} {{SEP|heraclitus|Heraclitus}} {{ソクラテス以前の哲学者}} {{自然法論のテンプレート}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:へらくれいとす}} [[Category:紀元前6世紀の哲学者]] [[Category:紀元前5世紀の哲学者]] [[Category:古代ギリシアの数学者]] [[Category:ソクラテス以前の哲学者]] [[Category:自然哲学者]] [[Category:存在論の哲学者]] [[Category:宗教研究の哲学者]] [[Category:紀元前540年代生]] [[Category:紀元前480年代没]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:エフェソス]] [[Category:生没年不詳]]
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川崎のぼる
川崎 のぼる(かわさき のぼる、男性、1941年1月28日 - )は、日本の漫画家。大阪府大阪市出身。本名:川崎 伸。血液型O型。代表作は『巨人の星』(原作:梶原一騎)、『いなかっぺ大将』、『荒野の少年イサム』(原作:山川惣治)、『てんとう虫の歌』他多数。 熊本県で絵本作家として活動を行っている。 漫画原作者のかわさき健は実子。KEN名義で原作を担当した『う〜まんぼ!』は親子合作の作品である。 少年時代は、両親の出身地の長崎県に疎開していた。貧困の中、中学卒業後、1957年に『乱闘・炎の剣』(単行本)でデビュー。 さいとう・たかをのアシスタントを経て、貸本漫画界で活躍する。1965年、『週刊少年サンデー』連載『アタック拳』で一般漫画誌に活躍の舞台を移す。その後、『週刊少年マガジン』に連載した梶原一騎原作の『巨人の星』が大ヒットし、国民的知名度を得た。 2003年に妻の故郷である熊本県菊池郡菊陽町へ移住する。以後、熊本県関連のポスター・キャラクターデザインや絵本執筆を中心に活動を行なっており、2010年には阿蘇市の観光PR用キャラクター(ゆるキャラ)『五岳君』と『火の子ちゃん』のデザインを手掛けた。 作画は写実的で肉体的なタッチだが、デフォルメも適度に混ざり、作風も劇画からギャグまで幅広い。『巨人の星』などでは、主要キャラクターは劇画風で、子供やアナウンサー、記者、観客など「その他大勢」的な人物の顔はギャグ漫画風に描かれ、例えば『いなかっぺ大将』の「西一(にしはじめ)」に似た顔もあり、それらが違和感なくおさまっている。 大きな動物は身体がリアルで、顔は擬人化している。しかし、ニャンコ先生のような小猫、小犬は相当デフォルメされている。人物の手の筋肉や骨骼の描写は細かく、身体との比率から見て実際より手(手の甲)が大きく見えることもあり、コマ内では手の描写を多用することで、人物の心の動きや内側を描き出している。また、ゴジラのような怪獣(『風のサンタ』に登場)やヒグマ(『ムツゴロウが征く』に登場)などの描写では、リアリズムとギャグを描き分けるテクニックは確かである。 『いなかっぺ大将』では、風大左エ門は掲載当初、星飛雄馬のような二枚目顔が基本だったが、早い時期からアニメでおなじみのギャグ顔に移行していった。この作品は本来、風大左エ門の「柔道漫画」という側面もあったが、川崎の『アニマル1』頃からのギャグ的才能が開花し、次第にギャグ漫画へと移行していった。僚友のビッグ錠は、これを見て「やっこさん、始めよったな」とほくそえんだという。 『巨人の星』の作画を『週刊少年マガジン』の編集者から依頼された際には、働きづめでは野球にはほとんど興味がなく、友達との草野球の経験もない、という理由で一度は断っている。後に川崎は、熱狂的な阪神ファンとなっている。 『巨人の星』を『週刊少年マガジン』に、『いなかっぺ大将』を小学館学年誌全般に掛け持ちで執筆していた頃は、1週間に2度ほどしかまともに眠ることはなかったという。締め切りは頑として守る主義であったため、当時の担当編集者も文句が挟めない状態だったらしい。これは間を置かず『てんとう虫の歌』の時期にも受け継がれたため、病床に伏したこともあった。よって、当時の川崎原作のアニメもほとんど観ることはなかったとのことである。 絵が緻密になったのは梶原一騎との仕事ののちと認識され、それ以前は馬場のぼるなどにも影響された、瓢々としたタッチの漫画を主流としていた。少女漫画も手がけたことがある。 水島新司とは、ほとんど同じ時期にデビューした同期みたいな存在だった。
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川崎 のぼるは、日本の漫画家。大阪府大阪市出身。本名:川崎 伸。血液型O型。代表作は『巨人の星』、『いなかっぺ大将』、『荒野の少年イサム』、『てんとう虫の歌』他多数。 熊本県で絵本作家として活動を行っている。 漫画原作者のかわさき健は実子。KEN名義で原作を担当した『う〜まんぼ!』は親子合作の作品である。
{{Infobox 漫画家 |名前=川崎 のぼる |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名=川崎 伸 |生年={{生年月日と年齢|1941|1|28}} |生地={{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]] |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]]・[[絵本作家]] |活動期間=[[1957年]] - |ジャンル=[[スポーツ漫画]]・[[ギャグ漫画]] |代表作=『[[巨人の星]]』(原作:[[梶原一騎]])<br />『[[いなかっぺ大将]]』<br />『[[荒野の少年イサム]]』(原作:[[山川惣治]])<br />『[[てんとう虫の歌]]』 他 |受賞=第8回[[講談社児童まんが賞]]([[1967年]])<br />第14回[[小学館漫画賞]]([[1968年]])<br />第2回[[講談社漫画賞]]少年部門([[1978年]]) |サイン= |公式サイト= }} '''川崎 のぼる'''(かわさき のぼる、男性、[[1941年]][[1月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]][[大阪市]]出身。本名:川崎 伸。[[血液型]]O型。代表作は『[[巨人の星]]』(原作:[[梶原一騎]])、『[[いなかっぺ大将]]』、『[[荒野の少年イサム]]』(原作:[[山川惣治]])、『[[てんとう虫の歌]]』他多数。 [[熊本県]]で[[絵本作家]]として活動を行っている。 漫画原作者のかわさき健は実子。KEN名義<ref>三鷹市美術ギャラリー『川崎のぼる ~汗と涙と笑いと~ 展』展示物より</ref>で原作を担当した『う〜まんぼ!』は親子合作の作品である。 == 来歴 == 少年時代は、両親の出身地の[[長崎県]]に疎開していた。貧困の中、中学卒業後、[[1957年]]に『乱闘・炎の剣』(単行本)でデビュー。 [[さいとう・たかを]]のアシスタントを経て、[[貸本漫画]]界で活躍する。[[1965年]]、『[[週刊少年サンデー]]』連載『アタック拳』で一般漫画誌に活躍の舞台を移す。その後、『[[週刊少年マガジン]]』に連載した[[梶原一騎]]原作の『[[巨人の星]]』が大ヒットし、国民的知名度を得た。 [[2003年]]に[[妻]]の故郷である[[熊本県]][[菊池郡]][[菊陽町]]へ移住する。以後、熊本県関連のポスター・[[キャラクターデザイン]]や絵本執筆を中心に活動を行なっており、[[2010年]]には[[阿蘇市]]の観光PR用キャラクター([[ゆるキャラ]])『五岳君』と『火の子ちゃん』のデザインを手掛けた。 == 人物 == 作画は写実的で肉体的なタッチだが、デフォルメも適度に混ざり、作風も劇画からギャグまで幅広い。『巨人の星』などでは、主要キャラクターは劇画風で、子供やアナウンサー、記者、観客など「その他大勢」的な人物の顔はギャグ漫画風に描かれ、例えば『いなかっぺ大将』の「西一(にしはじめ)」に似た顔もあり、それらが違和感なくおさまっている。 大きな動物は身体がリアルで、顔は擬人化している。しかし、ニャンコ先生のような小猫、小犬は相当デフォルメされている。人物の手の[[筋肉]]や骨骼の描写は細かく、身体との比率から見て実際より手(手の甲)が大きく見えることもあり、コマ内では手の描写を多用することで、人物の心の動きや内側を描き出している。また、[[ゴジラ (架空の怪獣)|ゴジラ]]のような怪獣(『風のサンタ』に登場)やヒグマ(『ムツゴロウが征く』に登場)などの描写では、リアリズムとギャグを描き分けるテクニックは確かである。 『いなかっぺ大将』では、風大左エ門は掲載当初、星飛雄馬のような二枚目顔<ref>{{Cite web|和書|title=まんだらけ通信販売 |url=https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1083742399 |website=order.mandarake.co.jp |access-date=2023-10-20}}</ref>が基本だったが、早い時期からアニメでおなじみのギャグ顔<ref>{{Cite web|和書|title=まんだらけ通信販売 |url=https://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1215824050 |website=order.mandarake.co.jp |access-date=2023-10-20}}</ref>に移行していった。この作品は本来、風大左エ門の「柔道漫画」という側面もあったが、川崎の『アニマル1』頃からのギャグ的才能が開花し、次第にギャグ漫画へと移行していった。僚友の[[ビッグ錠]]は、これを見て「やっこさん、始めよったな」とほくそえんだという。 『巨人の星』の作画を『週刊少年マガジン』の編集者から依頼された際には、働きづめでは野球にはほとんど興味がなく、友達との[[日本のアマチュア野球|草野球]]の経験もない、という理由で一度は断っている。後に川崎は、熱狂的な[[阪神タイガース|阪神]]ファンとなっている。 『巨人の星』を『[[週刊少年マガジン]]』に、『[[いなかっぺ大将]]』を[[小学館の学年別学習雑誌|小学館学年誌]]全般に掛け持ちで執筆していた頃は、1週間に2度ほどしかまともに眠ることはなかったという。締め切りは頑として守る主義であったため、当時の担当編集者も文句が挟めない状態だったらしい。これは間を置かず『てんとう虫の歌』の時期にも受け継がれたため、病床に伏したこともあった。よって、当時の川崎原作のアニメもほとんど観ることはなかったとのことである<ref>てんとう虫コミックスライブラリー版『てんとう虫の歌』(2)巻末インタビューより</ref>。 絵が緻密になったのは梶原一騎との仕事ののちと認識され、それ以前は[[馬場のぼる]]などにも影響された、瓢々としたタッチの漫画を主流としていた。少女漫画も手がけたことがある。 [[水島新司]]とは、ほとんど同じ時期にデビューした同期みたいな存在だった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/news/202201170000267.html|title=【水島新司さん死去】「巨人の星」川崎のぼるさん「大切な同志、寂しい」|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-17|accessdate=2022-01-17}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[巨人の星]](原作:[[梶原一騎]]) * 新・巨人の星(原作:梶原一騎) * [[男の条件]](原作:梶原一騎) * 花も嵐も(原作:梶原一騎) * [[スカイヤーズ5]](原案:小泉太郎、[[石川喬司]]) * 死神博士 * ムサシ(原作:[[小池一夫]]) * [[いなかっぺ大将]] * ちんからほいすけ(1968年 [[小学一年生]]連載/1971年-1972年 [[れお]]連載)<ref>{{Cite web|和書|title=簡易検索結果|「ちんからほいすけ」に一致する資料: 14件中1から2件目|国立国会図書館サーチ |url=https://iss.ndl.go.jp/books?any=%E3%81%A1%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BB%E3%81%84%E3%81%99%E3%81%91&display=&op_id=1 |website=iss.ndl.go.jp |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref> * [[荒野の少年イサム]](原作:[[山川惣治]]) * [[てんとう虫の歌]] * [[フットボール鷹]] * 花と龍(1979年 [[月刊コロコロコミック]]連載) * ムツゴロウが征く(原作:[[畑正憲]]) * [[アニマル1]] * タイガー66 * 長男の時代(原作:[[小池一夫]]) * どんぐり大将 * [[風のサンタ]] * どうどう野郎 * う〜まんぼ!(原作:[[KEN]]) * [[星野仙一]]物語 勝ちたいんや!(原作:[[小池一夫]]) * ふきだまり (1976年) * 殺陣師二代 * キャプテン五郎 * 忍び狼疾風 * 死の砦  * 大平原児 黒い黒い谷 (1967年) * 大魔鯨(原作:梶原一騎) * 歌え!!ムスタング(原作:福本和也) * 浪人丹兵衛絶命!!(「週刊少年マガジン」1972年8月27日号掲載)<ref>{{Cite web|和書|title=週刊少年マガジン 1972年(昭和47年)8月27日 36号 川崎のぼる/池上遼一/ちばてつや/赤塚不二夫/本宮ひろ志/ビッグ錠/つのだじろうの落札情報詳細 |url=https://aucfree.com/items/t644396422 |website=aucfree.com |access-date=2023-10-21 |last=}}</ref> * [[ウルトラQ]]・ガラモンの逆襲(原作:[[金城哲夫]]・「少年ブック」1966年5月号掲載)<ref>{{Cite web|和書|title=【マンガ探偵局がゆく】話題の特撮シリーズの原点 格闘劇画でおなじみ中城健『ウルトラQ』コミカライズ(1/2ページ) |url=https://www.zakzak.co.jp/article/20220827-PQY52GSTLBJ4TAG73QJCJFOIV4/ |website=zakzak:夕刊フジ公式サイト |date=2022-08-27 |access-date=2023-10-20 |language=ja |last=中野晴行}}</ref> * 旅立ち(「週刊少年マガジン」1976年9月1日号掲載)<ref>{{Cite web|和書|title=即決 【週刊少年マガジン】1974年(昭和49年)36... |url=https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/o1096702444 |website=ヤフオク! |access-date=2023-10-20 |language=ja}}</ref> === 絵本 === * 岩石おばさんとホー 猫の火祭り(原作:福田章)- [[2007年]]刊行 * ひょっこりじぞう(原作:日高史人) - [[2011年]]刊行 * [[水俣市]]制60周年を記念して原作を募集した「みなまた環境絵本」の第1弾<ref>[https://web.archive.org/web/20130730081901/http://kumanichi.com/osusume/hotnews/kiji/20110310001.shtml 水俣市制作の環境絵本「ひょっこりじぞう」完成] - [[熊本日日新聞]] 2011年3月27日閲覧</ref> === その他 === * 第14回全国ボランティアフェスティバル火の国くまもと - ポスター原画 * 描かれた登場人物は[[星飛雄馬]]と[[左門豊作]](熊本農林高校から[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]に入団)だった。 * [[阿蘇市]]観光PRキャラクター「五岳君」・「火の子ちゃん」 - キャラクターデザイン * [[五木村]][[五木の子守唄]]PRキャラクター「いつきちゃん」 - キャラクターデザイン * [[菊陽町]][[にんじん]][[焼酎]]「酔紅」 - ラベルデザイン == 受賞歴 == * [[1967年]](昭和42年)度、第8回[[講談社児童まんが賞]](『[[巨人の星]]』)。 * [[1968年]](昭和43年)度、第14回[[小学館漫画賞]]受賞(『[[いなかっぺ大将]]』)。 * [[1978年]](昭和53年)度、第2回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞(『フットボール鷹』)。 == アシスタント == * [[かざま鋭二]] * [[みね武]] * [[大和田夏希]] * [[森正人 (漫画家)|森正人]] * [[磯田和一]] * 登龍太 * 青木めだか * [[宮田淳一]] * 岡本まさあき * 小川集 == 関連人物 == * [[さいとう・たかを]] * [[ビッグ錠]](友人) * [[南波健二]] * [[馬場のぼる]] * [[梶原一騎]] * [[永島慎二]] * [[村上よしゆき (漫画家)|村上よしゆき]] - 漫画家。川崎のぼるが名付け親である、と公言している。 * [[伊藤毅 (俳優)|伊藤毅]] - 『[[ザ・ライバル「少年サンデー・少年マガジン物語」]]』(NHK 2009年)にて川崎のぼるを演じる。 == 出典 == <references/> {{巨人の星}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわさき のほる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本の男性絵本作家]]
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佐々木倫子
佐々木 倫子(ささき のりこ、1959年10月7日 - )は、日本の漫画家。北海道旭川市出身、札幌市在住。女性。血液型はAB型。 北海道旭川東高等学校、北海道教育大学教育学部旭川校卒業。1980年『花とゆめ夏の増刊号』(白泉社)掲載の「エプロン・コンプレックス」でデビューした。当初のペンネームは「佐々木規子」で、『ペパミント・スパイ』(花とゆめ1982年9月増刊号掲載)から現在の本名の表記に変更された。 主に白泉社の『花とゆめ』系列誌を中心に活動していたが、『動物のお医者さん』を最後に白泉社から小学館に活動の場を移し、『おたんこナース』以降は小学館の青年誌をメインに活動している。 (括弧内は雑誌掲載年)
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佐々木 倫子は、日本の漫画家。北海道旭川市出身、札幌市在住。女性。血液型はAB型。 北海道旭川東高等学校、北海道教育大学教育学部旭川校卒業。1980年『花とゆめ夏の増刊号』(白泉社)掲載の「エプロン・コンプレックス」でデビューした。当初のペンネームは「佐々木規子」で、『ペパミント・スパイ』(花とゆめ1982年9月増刊号掲載)から現在の本名の表記に変更された。 主に白泉社の『花とゆめ』系列誌を中心に活動していたが、『動物のお医者さん』を最後に白泉社から小学館に活動の場を移し、『おたんこナース』以降は小学館の青年誌をメインに活動している。
{{other people|漫画家|言語学者|佐々木倫子 (言語学者)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 佐々木 倫子<!-- 姓と名がある場合は間に半角スペースを入れる --> | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|10|07}} | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[北海道]][[旭川市]]<!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1980年]] - <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[青年漫画]]<!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[動物のお医者さん]]』<!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''佐々木 倫子'''(ささき のりこ<ref>『花與夢雑誌』1993年9月10日号(第17期)、大然文化事業股份公司、P77,P232。</ref>、[[1959年]][[10月7日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[旭川市]]出身、[[札幌市]]在住<ref>[https://mainichi.jp/articles/20181104/dyo/00m/200/030000c 地元・北海道の連ドラに勢ぞろい 芳根京子主演の「チャンネルはそのまま!」]</ref>。[[女性]]。血液型はAB型。 [[北海道旭川東高等学校]]、[[北海道教育大学]]教育学部旭川校卒業。[[1980年]]『[[花とゆめ]]夏の増刊号』([[白泉社]])掲載の「エプロン・コンプレックス」でデビューした。当初のペンネームは「佐々木規子」で、『ペパミント・スパイ』(花とゆめ1982年9月増刊号掲載)から現在の本名の表記に変更された。 主に白泉社の『花とゆめ』系列誌を中心に活動していたが、『[[動物のお医者さん]]』を最後に白泉社から[[小学館]]に活動の場を移し、『[[おたんこナース]]』以降は小学館の青年誌をメインに活動している。 == 作品リスト == (括弧内は雑誌掲載年) === シリーズ物・長編作品 === * 漫研カデューシャスのシリーズ ** コミック・フェスティバル(1980年、[[花とゆめ]])(単行本「林檎でダイエット」に収録) ** 降誕祭ミステリー(1982年、花とゆめ)(単行本「林檎でダイエット」に収録) * [[忘却シリーズ]](1983年 - 1987年、花とゆめ、花とゆめ増刊号、[[白泉社]]、全3巻「食卓の魔術師」「家族の肖像」「代名詞の迷宮」) * [[ペパミント・スパイ]](1982年 - 1988年、花とゆめ増刊号、花ゆめEPO、白泉社、全2巻) * [[美人姉妹シリーズ]](1986年 - 1987年、花とゆめ、花ゆめEPO、白泉社、全1巻「林檎でダイエット」) * 社交ダンス漫画のシリーズ ** 夜霧のブルース(1987年、花とゆめ) ※単行本未収録 ** タンゴウォーク(1987年、花とゆめ) ※単行本未収録 * [[動物のお医者さん]](1988年 - 1993年、花とゆめ、白泉社、全12巻、文庫版全8巻) * [[おたんこナース]](原案・取材:[[小林光恵]]、1995年 - 1998年、[[ビッグコミックスピリッツ]]、[[小学館]]、全6巻) * [[Heaven?]](1999年 - 2003年、ビッグコミックスピリッツ、小学館、全6巻、文庫版全4巻) * [[月館の殺人]](原作:[[綾辻行人]]、2005年 - 2006年、[[月刊IKKI]]、小学館、上下巻) * [[チャンネルはそのまま!]](2008年 - 2013年、ビッグコミックスピリッツ、小学館、全6巻) === 短編作品 === * エプロン・コンプレックス(1980年、花とゆめ)(単行本「食卓の魔術師」に収録) * 平手打ちのラプソディー(1981年、花とゆめ) ※単行本未収録 * ごきげんいかが 秋のテーマ(1981年、別冊花とゆめ) ※単行本未収録 * 風の上 空の下(1983年、別冊花とゆめ)(単行本「代名詞の迷宮」に収録) * プラネタリウム通信(1983年、花ゆめEX)(単行本「食卓の魔術師」に収録) * バレリーナ(1984年、花ゆめEX)(単行本「家族の肖像」に収録) * カルケット恐怖症(1984年、花ゆめEX)(単行本「家族の肖像」に収録) * デパートガール(1986年、花とゆめ) ※単行本未収録 * 貴族の館(1987年)(幽霊コミックアンソロジー「眠れぬ夜に」に収録) === エッセイまんが等 === * 引越ししました(1991年1月10日 WINTER 創刊号、花曜日) ※単行本未収録 * 札幌通信(1996年7月(創刊号)-1996年12月号 、PUTAO) ※単行本未収録 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ささき のりこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北海道教育大学出身の人物]] [[Category:北海道旭川東高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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高橋陽一
高橋 陽一(たかはし よういち、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家・経営者。東京都葛飾区四つ木出身。東京都立南葛飾高等学校卒業。元妻は声優の日比野朱里(旧名:小粥よう子)。血液型はA型。 主にスポーツを題材とした作品を執筆している。代表作はサッカーを題材にした作品『キャプテン翼』。 1980年、『週刊少年ジャンプ』において読み切り作品『キャプテン翼』でデビュー。翌年、同作品で連載開始。同作品は人気を博し、1983年にテレビ東京系でアニメ化された。『キャプテン翼』の最初のアニメ化で翼役を演じた小粥よう子(現・日比野朱里)と結婚した。 現在のサッカー選手には『キャプテン翼』に影響された少年たちも多い。 スフィアリーグに参加する芸能人女子フットサルチーム「南葛シューターズ」の監督や葛飾区のサッカークラブチーム「南葛SC」の後援会会長も務め、南葛SCのJリーグ加盟に必要な運営法人の代表取締役も務めている。また、『Road to 2002』では翼がFCバルセロナで入団し活躍することから、2004年2月16日にFCバルセロナ会長から直々に招待され、VIP席で試合を観戦したこともある。また、FCバルセロナのライバルであるレアル・マドリードの会長(当時)からは「なぜツバサをうちのチームに入れてくれなかったんだ」というコメントを受けている。 さらに作中で翼がバルセロナに入団した際、バルセロナのスポンサーであるナイキ社から「翼のスパイクをアディダス社からナイキ社に変更してほしい」という要望を受けたがこれを固辞している。これに関して高橋は、『週刊ヤングジャンプ』誌の取材で「僕はアディダスのファンなので」と語っている。 2006年には漫画家として異例のCM出演に留まらず、翼との共演を果たした。 サッカー以外にもスポーツ全般を好み中学生時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属、『エース!』連載中も草野球チームやソフトボールのチームをいくつか掛け持っており、北海道移転前からの北海道日本ハムファイターズのファンでもある。 また、漫画以外でもフランスのプロサッカークラブ、グルノーブル・フット38のイメージキャラクターも手がけている。さらに、イラク復旧活動の際には自衛隊側からの依頼で「イラクの子供に喜んで受け入れてもらうため」に、自衛隊の車両に『キャプテン翼』のキャラクターを描くなど、執筆活動以外の活動も行っている。2009年には、オリンピックの東京招致活動の一環であるメッセージフラッグに、「大空翼」と「若林源三」のイラストとメッセージを書き込んだ。 2011年には女子W杯に出場した日本女子代表の激励のため開催国ドイツに赴く。その際、翼と澤穂希をモデルにした応援キャラクターの『楓ちゃん』を書き込んだ日の丸をチームに寄贈した。その後日本が女子W杯初優勝を果たした際、澤もこの日の丸を身にまとってウイニングランを行っている。 2008年6月18日J2第18節横浜FC対徳島ヴォルティス戦より、横浜FCマッチデープログラム内に『はばたけ蹴太』を全13回計26ページにて連載、雑誌以外の連載物は初となった。 2014年頃、小粥よう子(現・日比野朱里)と離婚。 2015年2月、一般社団法人日本フットゴルフ協会アンバサダーに就任。2018年12月27日、葛飾区名誉区民として顕彰された。 2023年6月、日本サッカー殿堂を受賞した。授賞理由として、上記「キャプテン翼」を通して、多くの少年・少女らにサッカーを普及させ、またこの作品を通してプロのサッカー選手になった選手も多く、日本サッカーの普及に貢献するだけでなく、全世界でもコミックスが全9000万部以上発行を超え、テレビアニメが輸出されており、世界的なサッカー選手を排出するきっかけを作り影響を与えたことが評価された。
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高橋 陽一は、日本の漫画家・経営者。東京都葛飾区四つ木出身。東京都立南葛飾高等学校卒業。元妻は声優の日比野朱里。血液型はA型。 主にスポーツを題材とした作品を執筆している。代表作はサッカーを題材にした作品『キャプテン翼』。
{{Other people|漫画家|教育学者|高橋陽一 (教育学者)}} {{別人|高橋洋一}} {{存命人物の出典明記|date=2008年11月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 高橋 陽一 | ふりがな = たかはし よういち | 画像 = Yōichi Takahashi - Lucca Comics & Games 2011 - crop.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|7|28}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[葛飾区]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1960|7|28|****|**|**}} --> | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]・[[経営者]] | 活動期間 = [[1980年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[キャプテン翼]]』 | 受賞 = | 公式サイト = }} '''高橋 陽一'''(たかはし よういち、[[1960年]][[7月28日]]<ref name="mangaka500">「日本漫画家名鑑500」編集委員会『日本漫画家名鑑500』アクア・プランニング、1992年発行、522 - 523頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref name="manga">「漫画家リレー訪問記・高橋陽一先生」『漫画新聞』日本漫画学院、1994年4月、5頁。</ref>・[[経営者]]。[[東京都]][[葛飾区]][[四つ木]]出身。[[東京都立南葛飾高等学校]]卒業<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、224頁</ref>。元妻は[[声優]]の[[日比野朱里]](旧名:小粥よう子)<ref name="mangaseek" />。[[血液型]]はA型。 主にスポーツを題材とした作品を執筆している。代表作は[[サッカー]]を題材にした作品『[[キャプテン翼]]』。 == 概要 == [[1980年]]、『[[週刊少年ジャンプ]]』において読み切り作品『キャプテン翼』でデビュー。翌年、同作品で連載開始。同作品は人気を博し、[[1983年]]に[[テレビ東京]]系で[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化された。『キャプテン翼』の最初のアニメ化で翼役を演じた小粥よう子(現・[[日比野朱里]])と結婚した。 現在の[[サッカー選手]]には『キャプテン翼』に影響された少年たちも多い。 [[スフィアリーグ]]に参加する[[芸能人女子フットサル]]チーム「[[南葛シューターズ]]」の監督や葛飾区のサッカークラブチーム「[[南葛SC]]」の後援会会長も務め、南葛SCのJリーグ加盟に必要な運営法人の[[代表取締役]]<ref>[https://www.soccerdigestweb.com/news/detail2/id=55512 リアル「南葛SC」誕生の原点―ー高橋陽一氏が抱く“おらが街のクラブ”への想い](サッカーダイジェストweb)</ref>も務めている。また、『Road to 2002』では翼が[[FCバルセロナ]]で入団し活躍することから、[[2004年]][[2月16日]]にFCバルセロナ会長から直々に招待され、VIP席で試合を観戦したこともある。また、FCバルセロナのライバルである[[レアル・マドリード]]の会長(当時)からは「なぜツバサをうちのチームに入れてくれなかったんだ」というコメントを受けている<ref>[http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200711100143.html] 朝日新聞:マンガの力 (4) キャプテン翼の「洗脳」(中)</ref>。 さらに作中で翼がバルセロナに入団した際、バルセロナのスポンサーである[[ナイキ]]社から「翼のスパイクを[[アディダス]]社からナイキ社に変更してほしい」という要望を受けたがこれを固辞している。これに関して高橋は、『[[週刊ヤングジャンプ]]』誌の取材で「僕はアディダスのファンなので」と語っている。 [[2006年]]には漫画家として異例のCM出演に留まらず、翼との共演を果たした。 サッカー以外にもスポーツ全般を好み中学生時代は[[卓球]]部に、高校時代は[[軟式野球]]部に所属<ref name="mangaka500" />、『[[エース!]]』連載中も[[日本のアマチュア野球|草野球]]チームや[[ソフトボール]]のチームをいくつか掛け持っており、北海道移転前からの[[北海道日本ハムファイターズ]]のファンでもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fighters.co.jp/news/detail/00000170.html|title=『キャプテン翼』の高橋陽一先生による“大谷翔平”グッズが4/20発売!|publisher=北海道日本ハムファイターズ|date=2017-04-17|accessdate=2017-05-23}}</ref>。 また、漫画以外でも[[フランス]]のプロサッカークラブ、[[グルノーブル・フット38]]のイメージキャラクターも手がけている<ref>[http://www.grenoblefoot38.fr/htm38/3p.shtml grenoblefoot38.fr]。なお、グルノーブルのオーナーは日本企業である。</ref>。さらに、イラク復旧活動の際には自衛隊側からの依頼で「イラクの子供に喜んで受け入れてもらうため」に、[[自衛隊]]の車両に『キャプテン翼』のキャラクターを描くなど、執筆活動以外の活動も行っている。[[2009年]]には、オリンピックの[[2016年東京オリンピック構想|東京招致活動]]の一環であるメッセージフラッグに、「[[大空翼]]」と「[[若林源三]]」のイラストとメッセージを書き込んだ。 [[2011年]]には[[2011 FIFA女子ワールドカップ|女子W杯]]に出場した日本女子代表の激励のため開催国ドイツに赴く。その際、翼と[[澤穂希]]をモデルにした応援キャラクターの『楓ちゃん』を書き込んだ日の丸をチームに寄贈した<ref>[http://www.soccer-king.jp/daihyo/article/201107171230_nadeshiko_takahashi.html 漫画家の高橋陽一氏が翼君、楓ちゃんとともになでしこを激励] サッカーキング 2011年8月15日閲覧</ref>。その後日本が女子W杯初優勝を果たした際、澤もこの日の丸を身にまとってウイニングランを行っている。 [[2008年]][[6月18日]][[J2リーグ|J2]]第18節[[横浜FC]]対[[徳島ヴォルティス]]戦より、横浜FCマッチデープログラム内に『はばたけ蹴太』を全13回計26ページにて連載、雑誌以外の連載物は初となった。 [[2014年]]頃、小粥よう子(現・[[日比野朱里]])と離婚<ref>{{Cite web|和書|title=Facebookにログイン|url=https://www.facebook.com/login/?next=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2F100002585083596%2Fposts%2F4100223263407136%2F|website=Facebook|accessdate=2021-11-06|language=ja}}</ref>{{信頼性要検証|date=2021年12月}}。 [[2015年]]2月、一般社団法人日本フットゴルフ協会アンバサダーに就任。[[2018年]]12月27日、葛飾区名誉区民として顕彰された<ref>[https://www.city.katsushika.lg.jp/information/1000074/1005528.html 葛飾区名誉区民の紹介] - 葛飾区 2022年1月1日閲覧</ref>。 [[2023年]][[6月]]、[[日本サッカー殿堂]]を受賞した<ref>[https://www.jfa.jp/news/00032360/ 第19回日本サッカー殿堂 掲額者決定]</ref>。授賞理由として、上記「キャプテン翼」を通して多くの少年・少女らにサッカーを普及させ、またこの作品を通してプロのサッカー選手になった選手も多く、日本サッカーの普及に貢献するだけでなく、全世界でもコミックスが全9,000万部以上を発行。テレビアニメも全世界で放映されており、世界的なサッカー選手を輩出するきっかけを作り、影響を与えたことが評価された。 == 作品リスト == === 連載漫画 === *[[キャプテン翼]](1981年 - 1988年)種目:[[男子サッカー]] *翔の伝説(1988年 - 1989年)種目:[[テニス]] *[[エース!]](1989年 - 1991年)種目:[[野球]] *[[CHIBI]](1992年 - 1993年)種目:[[ボクシング]] *キャプテン翼 ワールドユース編(1994年 - 1997年)種目:男子サッカー *[[-蹴球伝-フィールドの狼 FW陣!]](1999年)種目:サッカー *[[ハングリーハート WILD STRIKER]] - 『[[週刊少年チャンピオン]]』(2002年 - 2004年)種目:サッカー *キャプテン翼 -ROAD TO 2002-(2001年 - 2004年)種目:男子サッカー *キャプテン翼 -GOLDEN 23-(2005年 - 2008年)種目:男子サッカー *キャプテン翼 海外激闘編 IN CALCIO 日いづる国のジョカトーレ(2009年)種目:男子サッカー *キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA(2010年 - 2011年)種目:男子サッカー *誇り 〜プライド〜(2011年 - )種目:サッカー *キャプテン翼 ライジングサン(2014年 - 2023年)種目:男子サッカー *キャプテン翼 ライジングサン THE FINAL(2023年 - '''連載中''')種目:男子サッカー *ブラサカブラボー(2017年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/258757|title=パラリンピックジャンプ発売、井上雄彦の車いすバスケ観戦記や猿渡哲也らの連載|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-11-29|accessdate=2021-08-18}}</ref> - )種目:[[ブラインドサッカー]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/441338|title=高橋陽一がブラインドサッカーを描く、「ブラサカブラボー」が単行本に|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-08-18|accessdate=2021-08-18}}</ref> === 短編漫画 === *100Mジャンパー 種目:[[スキージャンプ]] *キャプテン翼関連作品 **キャプテン翼(読切版、短編集『100Mジャンパー』に収録) **ボクは岬太郎 **キャプテン翼 ワールドユース特別編 最強の敵!オランダユース **キャプテン翼 海外激闘編 EN LA LIGA 最終章(2012年) **キャプテン翼短編集 DREAM FIELD-現在2巻が刊行されている。 *-卒業- 100MジャンパーII 種目:スキージャンプ(読切版、短編集『ボクは岬太郎』に収録) *BASUKE-バスケ- 種目:[[バスケットボール]](読切版、短編集『ボクは岬太郎』に収録) *キーパーコーチ 種目:サッカー *攻・守!-KOSHU!- 種目:サッカー(読切版、短編集『キーパーコーチ』に収録) *北壁ダウンヒラー 種目:[[アルペンスキー]](読切版、短編集『キャプテン翼 ワールドユース特別編 最強の敵!オランダユース』に収録) *CHIBI 種目:ボクシング(読切版、短編集『キャプテン翼 ワールドユース特別編 最強の敵!オランダユース』に収録) *昴(すばる)種目:ボクシング(読切版、短編集『100Mジャンパー』に収録) *初恋同士 種目:[[剣道]](読切版、短編集『100Mジャンパー』に収録) *轟元太一本勝負 種目:[[柔道]](読切版、短編集『100Mジャンパー』に収録) === 小説 === *ゴールデンキッズ ([[ゴマブックス]]、2008年7月) 種目:サッカー **表紙の絵や挿絵も高橋が手掛ける。[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]を主人公にした作品。 *サッカー少女 楓([[講談社]]、2011年8月)種目:[[女子サッカー]] === 自叙伝 === *キャプテン翼のつくり方(リピックブック、2018年7月) === キャラクターデザイン === *カラマール - [[WOWOW]]サッカーのオリジナルキャラクター(2020年)<ref name="TVLIFE20200415">{{Cite web|和書|url=https://www.tvlife.jp/entame/275864|title=『キャプ翼』高橋陽一がWOWOWサッカーのオリジナルキャラ“カラマール”を描き下ろし|publisher=TV LIFE web|date=2020-04-15|accessdate=2021-03-22}}</ref> === その他 === *[[中央国際高等学校]]校歌の作詞 == メディア出演 == === CM === * TOYOTA「トビラを開けよう」キャンペーン(2006年) * [https://www.youtube.com/watch?v=FU6nOces9Ns brazuca Around The World: Japan -- adidas Football] adidas Youtube(2014年) * [[東京ガス]]「東京ガスの電気」『バーバースガ 自由化ショット』編(2016年) - 床屋の客 役 ※CMで使用された描きおろしの漫画「副キャプテン自由化」は東京ガスのHPで閲覧出来る<ref>[http://power.tokyo-gas.co.jp/comic/dl/comic.pdf 「副キャプテン自由化」]東京ガス</ref>。 * indeed(2018年) === テレビ番組 === * 漫画家 高橋陽一が選ぶ![[UEFA EURO 2008|UEFA EURO ™ ベストマッチセレクション 2008年大会]] 決勝 ドイツvsスペイン(2020年4月15日、[[WOWOW]]ライブ)<ref name="TVLIFE20200415"/>リピート放送あり == 関連項目 == === 師匠 === * [[平松伸二]]<ref name="manga" /> - [[ドーベルマン刑事]]から[[リッキー台風]]迄アシスタントに就く。平松の自伝的作品『[[そしてボクは外道マンになる]]』には高橋も登場する<ref>11話「高橋陽一登場!」</ref>。 === アシスタント === * [[和月伸宏]]<ref>週刊少年ジャンプ特別編集『全史『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』 剣心華伝』集英社、1999年12月22日初版発行、ISBN 978-4087820379、144 - 145頁</ref> * [[小泉ヤスヒロ]]<ref>伊藤彩子『まんが原作者インタビューズ』同文書院、1999年発行、ISBN 9784810376616、231頁</ref> * 戸田邦和<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.soccer-king.jp/sk_blog/article/152199.html|title=「高橋陽一先生のアシスタント時代は好き勝手やっていた」 戸田邦和(漫画家)インタビュー前編|publisher=サッカーキング|date=2013-12-04|accessdate=2017-05-23}}</ref> == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|0728takahashi}} {{キャプテン翼}} {{南葛SCのメンバー}} {{南葛シューターズ}} {{日本サッカー殿堂}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:たかはし よういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:四つ木]] [[Category:日本のサッカーに関する人物]] [[Category:日本サッカー殿堂]]
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すがやみつる
すがや みつる (1950年9月20日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者、小説家。学位は修士(実践人間科学)(早稲田大学・2011年)。京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授も務めた。 本名は菅谷 充(読みは同じ)。他のペンネームは漫画原作者として鶴見 史郎(ツルミはミツルのもじり)、鷹見 吾郎がある他、本名でも小説家として活動している。静岡県富士市出身。血液型O型。 代表作は、『仮面ライダー』、『ゲームセンターあらし』、『こんにちはマイコン』等。 マイコン、コンピューターゲーム、パソコン通信、実務に関する教養漫画、F1など、時代を先取りした題材をテーマとするが、つねに本格的な流行到来前に新たなジャンルに取り組んでいる。 Amazon Kindle版で多数再刊。 表記の無いものは全て石ノ森章太郎原作作品。 全て菅谷 充名義 「『あらし』のような漫画だけでは、漫画家生命が太く短くて持たない」と考えた事が理由で、地味な描き下ろしを続けた。十何年も増刷を続けたり、一万部売れれば大ヒットのこのジャンルで、十万部をこえた作品もある。下書きだけをした仕事もあるという。
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すがや みつる は、日本の漫画家、漫画原作者、小説家。学位は修士(実践人間科学)(早稲田大学・2011年)。京都精華大学マンガ学部キャラクターデザインコース教授も務めた。 本名は菅谷 充(読みは同じ)。他のペンネームは漫画原作者として鶴見 史郎(ツルミはミツルのもじり)、鷹見 吾郎がある他、本名でも小説家として活動している。静岡県富士市出身。血液型O型。 代表作は、『仮面ライダー』、『ゲームセンターあらし』、『こんにちはマイコン』等。 マイコン、コンピューターゲーム、パソコン通信、実務に関する教養漫画、F1など、時代を先取りした題材をテーマとするが、つねに本格的な流行到来前に新たなジャンルに取り組んでいる。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = すがや みつる | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 菅谷 充 | 生年 = {{生年月日と年齢|1950|09|20}} | 生地 = [[静岡県]][[富士市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]]、[[漫画原作者]]、[[小説家]]、[[大学]][[教授]] | 称号 = [[修士(実践人間科学)]]<br />([[早稲田大学]]・[[2011年]]) | 活動期間 = [[1972年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]、[[児童漫画]]、[[架空戦記]] | 代表作 = {{Plainlist| * 『[[仮面ライダー]]』 * 『[[ゲームセンターあらし]]』 * 『[[こんにちはマイコン]]』 }} | 受賞 = {{Plainlist| * [[小学館漫画賞]](1983) * モータースポーツ大賞(2003) }} | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [http://www.m-sugaya.jp/ すがやみつるHomepage] }} {{Portal 文学}} '''すがや みつる''' ([[1950年]][[9月20日]]{{R|OFM1}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[漫画原作者]]、[[小説家]]。[[学位]]は[[修士(実践人間科学)]]([[早稲田大学]]・[[2011年]])。[[京都精華大学]]マンガ学部キャラクターデザインコース教授も務めた。 本名は菅谷 充(読みは同じ){{R|OFM1}}。他のペンネームは漫画原作者として'''鶴見 史郎'''(ツルミはミツルのもじり)、'''鷹見 吾郎'''がある他、本名でも小説家として活動している。[[静岡県]][[富士市]]出身。血液型O型。 代表作は、『[[仮面ライダー]]』、『[[ゲームセンターあらし]]』、『[[こんにちはマイコン]]』等。 [[パーソナルコンピュータ|マイコン]]、[[コンピューターゲーム]]、[[パソコン通信]]、実務に関する教養漫画、[[フォーミュラ1|F1]]など、時代を先取りした題材をテーマとするが、つねに本格的な流行到来前に新たなジャンルに取り組んでいる。 == 略歴 == * 小学校卒業間近頃 - 当時ブームだった[[プラモデル]]と戦記漫画、そしてクラスメイトから借りた[[手塚治虫]]監修の『マンガのかきかた』([[秋田書店]])に触発され、戦記漫画から描き始める。[[戦闘機]]をうまく描く人としてあこがれたのは、[[松本零士]]や[[小松崎茂]]。小松崎が描いていた「[[少年ブック]]」にも戦闘機のイラストを投稿していた。 * [[静岡県立富士高等学校]]在籍時代 - 「マンガ研究会ミュータント・プロ」に加入。『墨汁三滴』(石ノ森の[[同人誌|肉筆回覧誌]]『[[墨汁一滴]]』を踏襲したもの)で活動{{R|OFM1}}。 * 1969年 - 漫画家になることを決意し、卒業後上京。[[江波じょうじ]]のアシスタントを半年務める。その後は『墨汁三滴』の知り合いである[[細井雄二]]の母の家に居候、マンガ専門の編集プロダクションを1年(人気漫画家の漫画原稿を見て参考にしたいという)、さらに従兄弟が経営する[[芸能事務所]]の手伝いを経て、[[石森プロ]]に入り[[石ノ森章太郎]]に師事。『[[さるとびエッちゃん]]』のキャラクター商品の絵描きの仕事などを手伝う{{R|OFM1}}。 * 1972年 - 『[[テレビマガジン]]』([[講談社]])にて『[[新・仮面ライダー#テレビマガジン|仮面ライダー]]』(原作 石ノ森章太郎)でデビューし、少年漫画を中心に活発な執筆活動を行う。 * 1978年 - 『[[ゲームセンターあらし]]』を『[[コロコロコミック]]』([[小学館]])にて連載開始。小中学生を中心に爆発的人気となった。 * 1983年 - [[日本電気|NEC]]の低価格ホビー用パソコン[[PC-6000シリーズ|PC-6001]]を題材にしたパソコンの紹介・入門漫画、『[[こんにちはマイコン]]』、『[[マイコン電児ラン]]』の2作品を発表。当時の『コロコロコミック』読者の少年達に多くの影響を与えたと言われている。『あらし』『[[こんにちはマイコン]]』の両作品で「[[小学館漫画賞]]児童漫画部門」を受賞{{R|OFM1}}。そのかたわら[[モータースポーツ]]に関心をもち、[[パソコン通信]]を通じて内外の情報を発信する。 * 1987年 - パソコン通信サービスの[[ニフティサーブ]]の「モータースポーツ・フォーラム」初代[[システムオペレーター]]に就任、レース結果やテストタイムの取材、情報提供、チーム情報など発信を続ける。[[1992年]]に退任。 * 1994年 - 『漆黒の独立航空隊』で小説家デビュー。以後も[[架空戦記]]ものや、モータースポーツを題材とした小説を発表し、活動の比重を小説に移している。 * 2003年 - 長年のモータースポーツ界への貢献を評され、[[日本自動車工業会]]「東京モーターショー2003 モータースポーツ大賞」を受賞。 * 学問を究めたいということで、[[早稲田大学人間科学部]]eスクール([[インターネット]]による[[通信制]]課程)人間情報科学科に入学([[インストラクショナルデザイン]]専攻)。2011年3月、[[早稲田大学]][[大学院]][[人間科学研究科]]修士課程を修了。4月からeスクールの教育コーチで後進の指導にも当たる。 * 2012年4月から、[[京都精華大学]]マンガ学部マンガプロデュース学科の非常勤講師を務め、翌2013年4月から、マンガ学部キャラクターデザインコース常勤教員に就任。2021年3月に退職。 == 主な作品 == Amazon Kindle版で多数再刊。 === 漫画(コミカライズ) === 表記の無いものは全て[[石ノ森章太郎]]原作作品。 ; 仮面ライダーシリーズ *「[[仮面ライダー]]」(テレビマガジン) * 「[[新・仮面ライダー]]」([[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]) * 「[[仮面ライダーV3]]」(テレビマガジン、冒険王) * 「[[仮面ライダーX]]」(テレビマガジン、冒険王) * 「[[仮面ライダーアマゾン]]」(冒険王) * 「[[仮面ライダーストロンガー]]」(冒険王) * 「[[仮面ライダー (スカイライダー)]]」(テレビマガジン) * 「[[仮面ライダースーパー1]]」(テレビマガジン) ; 仮面ライダーシリーズ以外の東映特撮作品 * 「[[人造人間キカイダー]]」([[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]) * 「[[キカイダー01]]」(小学一年生) * 「[[秘密戦隊ゴレンジャー]]」(小学四年生) - 1975年4月号、5月号の2回のみ。 * 「[[がんばれ!!ロボコン]]」([[テレビランド]]、小学一年生、小学三年生) * 「[[ロボット110番]]」 (テレビランド) * 「[[快傑ズバット]]」 (冒険王) * 「[[スパイダーマン (東映)|スパイダーマン]]」(原作:[[スタン・リー]]、[[八手三郎]] 冒険王) - テレビ特撮版のコミカライズ。 ; その他 * 「[[星の子チョビン]]」(テレビマガジン) * 「[[キャプテン・フューチャー]]」(原作:[[エドモンド・ハミルトン]] テレビマガジン) - テレビアニメ版のコミカライズ。 * 劇画ロードショー([[月刊少年チャンピオン]]) - 映画のコミカライズ枠で5本を担当。 **「[[ベン・ハー]]」 - 1973年6月号 **「[[最後の猿の惑星]]」 - 1973年8月号 **「[[ラスト・アメリカン・ヒーロー]]」 - 1973年11月号 **「[[ダーティハリー2]]」 - 1974年2月号 **「[[マックQ]]」 - 1974年6月号 * 『[[ザ・商社]]』(エム・アイ・エー、アドベンチャー情報コミックス) 1985、のち改訂『リクルート必須マニュアル ザ・商社』(パラゴンブックス) 1987 * 『[[真田十勇士|テレビまんが 真田十勇士]]』全8巻 (原作:[[柴田錬三郎]]、キャラクターデザイン:石森章太郎、学研) *#「猿飛佐助誕生の巻」 *#「霧隠才蔵参上の巻」 *#「穴山小助死闘の巻」 *#「高野小天狗飛翔の巻」 *#「由利鎌之助の巻」 *#「三好清海滑空の巻」 *#「真田大助奮戦の巻」 *#「大坂夏の陣の巻」 === 漫画(オリジナル) === * 「大地のカミカゼ」(原作:[[稲垣謙三]]) - 1年間だけ存在したマンガ誌「[[週刊少年アクション]]」に掲載されたフォーミュラレースもの。2話で同誌は休刊となった。 * 「ネスコタン」('''すがや美鶴'''名義での執筆 原作:[[河島治之]] テレビマガジン) * 「[[ひみつ指令マシン刑事999]]」(テレビマガジン) - すがや初のオリジナル単行本発刊作品。当初は[[響わたる]]という原作者がいた。 * 「[[ラジコン探偵団]]」(テレビマガジン) <!---下記『少年戦闘隊 オーロラ7』の事。重複により注釈化。* オーロラ7(テレビマガジン)---> * 「ラーメン親子」(テレビマガジン) * 「炎のサーキット」([[どっかんV]]) * 「まぼろしの恐竜」([[コロコロコミック]]) * 「イースター島の謎」(コロコロコミック) * 「[[F・1キッド]]」(コロコロコミック) * 「[[ゲームセンターあらし]]」(コロコロコミック) - 続編や番外編などもある。 * 「[[マイコン電児ラン]]」([[別冊コロコロコミック]]) * 「ミラクル一番おれは天平」(コロコロコミック) * 「風キッド」(コロコロコミック) * 「高速救命隊レスキューZ」(小学五年生) * 「エレクトロボーイけん」(小学二年生) * 「チャレンジ一平」(小学三年生) * 「夢売人ドリィミィ」([[リュウ (雑誌)|リュウ]]) * 「オフコン カンパニー」([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]) * 「饅頭こわい」(原作:[[安田二郎]] モーニング) * 「ファイナル・ラップ」([[モーニング (漫画雑誌)|モーニングマグナム]]増刊) * 「ふくめんせいぎマン」([[テレビランド]]) * 「プラモ少年キット」([[小学一年生]]) * 「少年戦闘隊 オーロラ7」(テレビマガジン) * 「[[黄金の道 学園マネー・ウォーズ]]」([[マガジン・ノン]]) * 「稲妻の神話」([[ビッグコミック増刊号]]) * 「情報の日」([[ビッグゴールド]]) * 「Mr.すがやのテレコンRuRuRu」([[コミックウー]]) === 漫画原作 === * 「[[シェリフ (鶴見史郎・真樹村正の漫画)|シェリフ]]」(鶴見史郎名義、画・[[どろんぱ|真樹村正]]) * 「[[デッドヒート瞬]]」(鶴見史郎名義、画・もろが卓→後の[[ガスコン金矢]]<ref>{{Twitter|gasconkanaya|ガスコン金矢}}</ref>) * 「[[マイコン刑事]]」(鷹見吾郎名義、画・[[下條よしあき]]) === 小説 === 全て'''菅谷 充'''名義 *『日本本土竜虎決戦録 書下ろし超絶架空戦記』1 - 2(アスキー、アスペクトノベルス) 1999 *『蒼穹の艦隊』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『蒼天の艦隊』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『風濤の艦隊』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『風濤の艦隊第二部 超零戦、飛翔せよ!』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『碧雲の艦隊 影武者「大和」太平洋に吼ゆ』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『碧雲の艦隊2 不沈空母ミッドウェイ島轟沈!』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『碧雲の艦隊3 ダブル大和、真珠湾突撃す』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『灼熱の艦隊』1 - 4(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『覇王の連合艦隊』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『漆黒の独立航空隊』1 - 6(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『燃ゆる海鷲』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『燃ゆる海鷲2 激烈! ソロモン大空戦』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『燃ゆる海鷲3 大撃滅! ガダルカナル航空戦』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『大爆進! 独立航空艦隊風雲大作戦』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『疾風迅雷 海軍航空艦隊大作戦』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『大制覇 重空母武蔵世界の海を征く』1 - 3(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『太平洋の覇者 連合機動艦隊大戦記』1 - 3 (有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『荒鷲の帝国空軍 北米本土爆撃指令!』(学研プラス、歴史群像新書) *『旭日のGP(グランプリ)』上・下(学研プラス、歴史群像新書) *『灼熱の走路1 挑戦! インディカーシリーズ』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『灼熱の走路2 激闘インディ500』(有楽出版社、ジョイ・ノベルス) *『龍の伝説』1 - 3(三栄書房) *『反世界大戦 覇龍の剣』1 - 3(ジョイ・ノベルス) *『反世界大戦 双龍の海戦』1 - 3(ジョイ・ノベルス) *『帝国空軍奮戦史1 凍土の海鷲1941』(コスミックインターナショナル、コスモノベルス) *『帝国空軍奮戦史2 北海の海鷲1943』(コスミックインターナショナル、コスモノベルス) *『蒼穹の激闘 B29強奪作戦』(コスミックインターナショナル、コスモノベルス) *『南太平洋波高し - ダグラス・マッカーサー暗殺指令』(コスミックインターナショナル、コスモノベルス) *『マッカーサー暗殺特務指令: 陸軍中野学校忍者部隊秘録1』(Kindle版、すがやみつるノベルス、陸軍中野学校忍者部隊秘録シリーズ) *『超・空の要塞マリアナ大爆撃: 陸軍中野学校忍者部隊秘録2』(Kindle版、すがやみつるノベルス、陸軍中野学校忍者部隊秘録シリーズ) *『サラリーマンのためのパソコン入門講座 殺人篇』(アスキー、アスペクトノベルス) === 実用書 === 「『あらし』のような漫画作品だけでは、漫画家生命が太く短くで持たない」と考えた事が理由で、地味な描き下ろし作品の執筆も続けた。一万部売れれば大ヒットの実用書ジャンルで10数年にわたって増刷を続ける作品や、売上10万部を越えた作品もある。下書きだけを担当した仕事もあるという。 *『コミック版 最新ハム問題集』(CQ出版、編、画:くまの歩CQ COMICS) *『こんにちは ニューメディア - N・Mときいてイラつく人へ コミック版』(徳間書店) 1984 *『すがやみつるのすぐできるパソコン通信』 (アスキー) 1986 *『ライバルに大差をつける超速読トレーニング』(徳間書店) 1987 *『情報力がぐ~んとアップ!いまパソコン通信がおもしろい』 (徳間書店) 1987 *『すがやみつるのマンガ・[[Lotus 1-2-3|ロータス1-2-3]]入門』(構成、学習研究社、ハイテクコミックス、画:山田ゴロ) 1989 *『作家・ライター志望者のための電脳文章作法』(小学館文庫) 1999 *『マンガでわかる小説入門』 ([[ダイヤモンド社]]、漫画:[[横山えいじ]]) 2005 - 職業作家になるための入門書。執筆用のPCソフトの解説もあり。 *『ゲームセンターあらしと学ぶ プログラミング入門 まんが版こんにちはPython』([[日経BP]]) 2020 === 回想 === *『仮面ライダー青春譜 もうひとつの昭和マンガ史』(ポット出版) 2011 *『コミカライズ魂 『仮面ライダー』に始まる児童マンガ史』(河出書房新社、河出新書) 2022 *『すがやみつるの生活習慣病奮闘記』(星医院 院長ブログ<ref>https://hoshiiin.com/blog</ref>) 2022年~ === アニメーション関係 === * 「[[激走!ルーベンカイザー]]」 - キャラクター原案担当 === その他 === * [[藤子・F・不二雄]]大全集『ロケットけんちゃん』(2014年、小学館) - 解説 == 趣味 == * [[アマチュア無線]] : 更新手続きをしなかったため、[[無線局]]免許を一時失効した。[[2009年]](平成21年)8月5日付けで、コールサインJI1MFTにて再開局している。また、すがやが電子工作全般をやっていたため、コロコロコミック編集部が流行となっていた『[[ブロックくずし]]』を題材にした漫画を誰に描かせようか考えていた際に白羽の矢が立ち、『あらし』を描くきっかけとなった。 * パソコンとモータースポーツ : [[マールボロ (たばこ)|マールボロ]]が[[フランス]]の[[ミニテル]]上で運営していた「Marlboro Racing Service」に、日本国内のレース結果を英訳した記事を提供。[[インターネット]]の普及以前から、アメリカのパソコン通信大手[[CompuServe]]で得たモータースポーツの情報を日本の[[ニフティサーブ]]上で翻訳して公開する一方、日本のレース結果をCompuServeに報告することも行っていたが、その英文にあまりにも間違いが多かったため、CompuServeモータースポーツ・フォーラムのメンバー有志による「ミツルのためのイングリッシュ・レッスン」が開催され[[オンライン]]による英作文添削が行われた。これによってすがやの英語力が向上した。この経験を元に、『パソコン通信で英語がわかった―35歳からの英語・国際パソコン通信体験』という本を出版した<ref>[https://web.archive.org/web/20100606065405/http://sugaya.otaden.jp/e26599.html すがやみつるのネットライフ(第12回)] - すがやみつるblog(インターネットアーカイブ2010年6月6日分キャッシュ)</ref>。 : インターネットで情報を提供する先駆けとして、1990年代にネット上で精力的に活動した。その経験で得たネットの持つ速報性という長所を様々な書籍で紹介している。日本における[[インディ500]]中継でのゲスト解説として呼ばれることも多かった。 == エピソード == * 漫画原稿の締め切りに作品が間に合わなくなった[[手塚治虫]]に代わって、原稿を一晩で描いてくれという急な依頼を編集部から受けた。依頼通りに原稿を仕上げたが、結局手塚の原稿が間に合ったため、すがやのこの作品は雑誌に掲載されなかった。しかしちゃんと原稿料はもらえたという。同様のエピソードが[[藤子不二雄A]]の作品『[[まんが道]]』にもある。 * 漫画家としては珍しく、自らの描いた漫画の[[引用]]に寛容な姿勢を示している。詳細は[[脱ゴーマニズム宣言事件#影響]]を参照。 *『[[週刊ファミ通]]』にて代表作『[[ゲームセンターあらし]]』のパロディギャグ4コマ漫画『ゲームセンターいがらし』の開始が決まり、事前にその連載許可をファミ通編集者から求められた。すがやは「パロディだというので、パロディなら許諾など求めないでくださいとお願いしました。パロディには[[風刺]]や批評性、毒がないと面白くならないからです」と述べており、自身の作品パロディ化を快諾した。このいきさつは実質的な著者だった[[スタパ齋藤]](原作:万打無、作画:原田哲夫となっているがギャグとしての偽名であり、齋藤が個人で制作)は連載終了までまったく知らされていなかった。すがやは2000年開始の『[[アーケードゲーマーふぶき]]』にも公認パロディ作品(公認オマージ作品)として許可を出している。 *俳優の[[畠山麦]]とは、自身が上京した頃からの友人であったが、畠山が自殺したことについて、当時、自分が気をきかせて売り込んだ事に責任を感じ、滅入っていたと明かしている。 * 1990年代以後は「『あらし』や『こんにちはマイコン』を読んだおかげで、コンピュータ業界やゲーム業界に入りました」というファンメールをよくもらうと語る。 *[[やくみつる]]が2016年の『[[Pokémon GO|ポケモンGO]]』ブームに「プレイヤーを心の底から侮蔑(ぶべつ)します。都内でやるのを禁止するべき」などと批判的な発信をしていた際、すがやがひらがなのみつるという名前の漫画家ということで勘違いされる[[風評被害]]を受け、批判される炎上騒ぎに巻き込まれた。自身は「それはボクじゃないもん。すでにやっているから、そんなこと言えないもん。ダイエットにポケモンGO!」とツイートし対応した<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1607/26/news133.html|title=「ポケモンGO」批判のやくみつる氏と「ゲームセンターあらし」すがやみつる氏を勘違いする人続出 本人「ボクじゃないもん」|work=ねとらぼ|accessdate=2016-07-31}}</ref>。 == 関連人物 == === 師匠 === * [[江波じょうじ]] : 半年たった時、江波の仕事が一時的に激減してしまい、退職させてもらった。 * [[ジョージ秋山]] : 編集プロダクション時代「絵が描けるから」という事で、一枚の原稿を秋山が一方からペン入れ、すがやがもう片方からベタ塗りという、アクロバティックな作業を指示された。編集を辞めた後も再度秋山のアシを務める。 * [[斉藤ゆずる]] : 『[[柔道一直線]]』の斉藤執筆期間のみ従事。 * [[石ノ森章太郎]] : 『仮面ライダー』への起用は石ノ森の推薦によるものであった{{R|OFM1}}。すがや自身は映画や小説が好きだった点を買われたのではないかと推測している{{R|OFM1}}。 : テレビマガジンで『仮面ライダー』を連載開始してしばらくは、監修という形で石ノ森にアドバイスをもらいつつ執筆していたが{{R|OFM1}}、少しでも分からないことや納得できないことがあると、昼夜を問わず質問攻めにした。師匠である石ノ森から絵の拙さ・雑さを再三に指摘されていたため、絵の技術に対するコンプレックスを払拭するため、アイデア作りのノウハウの習得に力を入れたという。後年、石ノ森はすがやに「俺に『アシスタント』は大勢いたが、『弟子』はすがやだけだった」と述べている{{R|OFM1}}。 === アシスタント === * [[山田ゴロ]]、[[成井紀郎]] :この二人は『ライダー』の漫画も単独で描いているが、すがやの描く『ライダー』の仕事量が増えた際、すがやの常駐アシを務めている。また山田が結婚相手を見つけた際、すがやが引き金となった一人である。 * [[ながいのりあき]] :忙しい時に助っ人に来てくれた事がある。雇用関係にはなく、正式なアシスタントではないが、交流は深い。 * [[中島昌利]] :すがやの最初の専属アシスタント。 * [[あさいもとゆき]] :当時、弱冠22歳。すがやの元でアシスタントをするとともに、[[同人誌即売会]]において『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』の[[成年向け漫画|成年向け]][[二次創作]][[同人誌]]を頒布しながら糊口を凌いでいた<ref>[[のむらしんぼ]]『[[コロコロ創刊伝説]]』第2巻、p.120</ref>。新しい[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]漫画を立ち上げようとしていた編集者が「『あらし』と同じ、ゲームの漫画だから」とすがやに相談した時にその場にいたため、すがやの推薦で『[[ファミコンロッキー]]』を執筆する事になって独立する<ref>のむらしんぼ『コロコロ創刊伝説』第2巻、p.95</ref>。 * [[津原義明]] * [[ほしの竜一]] * [[岩田和久]] * [[岡崎忠彦]] * [[池田淳一]] === 他の人物 === * [[ひおあきら]] :ミュータントプロ会長。 * [[細井雄二]] :ミュータントプロ副会長。すがやは一時期、細井の実家に居候していた。 * [[畠山麦]] :すがやが上京した頃に知り合った友人。すがやが一時芸能プロで働いていた際、すがやの担当俳優であり、両者の関係は短いながらも深い。詳細は[[畠山麦]]を参照。 * [[石津嵐]] :近所に住んでいた[[虫プロダクション]]出身の小説家。石津の原作で、すがやが執筆した読み切り作品もある。下述の石津彩の父親。 * [[石津彩]] :上述の石津嵐の娘で、舞台女優、声優。上記の関係で、赤ん坊の頃より、家族ぐるみのつきあいを続けている。 * [[里中満智子]] :妻が里中の元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]であった関係で知り合った。 * 竹田津恩 :企画・執筆の弟子。「すぐできるパソコン通信」「すぐできる日本語ワープロ」(アスキー)を共著。 * [[真樹村正]]、ガスコン金矢 :『こんにちはマイコン』を発表した当時、真樹村や金矢にパソコンの面白さを教える。その後、真樹村はアダルトゲーム『[[マリちゃん危機一髪]]』を製作し、金矢は雑誌『[[ログイン (雑誌)|ログイン]]』の編集者となった。 == 出典 == {{Reflist |refs= <ref name="OFM1">{{Harvnb|OFM仮面ライダー1|2004|p=30|loc=五十嵐浩司「石ノ森章太郎を継ぐ者 仮面ライダーマンガ家列伝 第1回 すがやみつる」}}</ref> }} == 参考文献 == *『ぶっちぎりヒーロー道・リターンズ!!まんがチャンピオンまつり/すがやみつるインタビュー([[洋泉社]]、[[1998年]]4月2日発行) *{{Cite book|和書|title=KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー|volume=Vol.1|volume-title=仮面ライダー1号|date=2004-07-09|publisher =[[講談社]]|isbn=4-06-367086-4|ref={{SfnRef|OFM仮面ライダー1|2004}}}} == 外部リンク == * [http://www.m-sugaya.jp/ すがやみつるWebマガジン] : 公式サイト * [https://web.archive.org/web/20090228164723/http://sugaya.otaden.jp/ すがやみつるブログ] : 公式ブログ * {{Twitter|msugaya}} * {{マンガ図書館Z作家|409|すがやみつる}} <!---*[http://members.jcom.home.ne.jp/mamorukai/ 漫画原稿を守る会]「漫画原稿を守る会」世話役。サイト--> {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect1=鶴見史郎 |1-1=日本の漫画原作者 |redirect2=鷹見吾郎 |2-1=日本の漫画原作者 |redirect3=菅谷充 |3-1=日本の小説家 |3-2=架空戦記作家 |3-3=本名のリダイレクト }} {{すがやみつる}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:すかや みつる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:京都精華大学の教員]] [[Category:修士(実践人間科学)取得者]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:1950年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:スポーツライター]] [[Category:モータースポーツ解説者]] [[Category:アマチュア無線関連の人物]]
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つのだじろう
つのだ じろう(本名:角田 次朗〈読み同じ〉、1936年〈昭和11年〉7月3日 - )は、日本の漫画家・心霊研究家。東京府東京市下谷区豊住町(現:東京都台東区下谷1丁目)出身。血液型O型。八人兄弟の次男であり、四弟のつのだたかしはリュート奏者、末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子である。 当時の下谷区豊住町で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県に疎開、戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻る。新宿区立淀橋中学校(現:新宿区立西新宿中学校)、東京都立青山高等学校卒業。 高校在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の島田啓三であることに気づく。つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き、これをきっかけに師事することとなる。1955年(昭和30年)、『漫画少年』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。この作品はわずか3ページほどの短編であるが、師である島田から何度も書き直しを命じられ、苦心の末に投稿を許されて掲載されたものだという。 同じく『漫画少年』に投稿していた若い漫画家達と知り合い、そのツテで新漫画党に入党。豊島区のトキワ荘に通う事になる。1958年、『りぼん』連載の『ルミちゃん教室』がヒットししばらくは少女漫画を主に描いていた。1961年、『なかよし』に連載した『ばら色の海』で、第2回講談社児童まんが賞を受賞。その後は少年漫画誌に移りギャグ漫画を描くようになり、『ブラック団』『忍者あわて丸』などで人気を博す。 1971年から梶原一騎原作で描いた空手バイオレンス漫画『空手バカ一代』が大ヒット、以降は劇画調の作品を描くようになる(『空手バカ一代』は連載途中で降板。その経緯については空手バカ一代#作品の周辺を参照)。デビュー間もない頃、東京・両国橋でオレンジ色のUFOを目撃したことをきっかけにオカルトを研究していたつのだはその知識を生かし、1973年に『うしろの百太郎』『恐怖新聞』といった怪奇漫画を立て続けに連載、大ブームを巻き起こしオカルト漫画の第一人者となった。 その他の代表作として、本格派将棋漫画である『5五の龍』、様々な女性達の運命をリアルに描いた『女たちの詩』シリーズなど、TVドラマ化された作品が多数ある。ギャグからシリアスなもの、少年・少女向けから大人向けまでとオールラウンドなジャンルで活躍した。 他、短編など多数。
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つのだ じろうは、日本の漫画家・心霊研究家。東京府東京市下谷区豊住町出身。血液型O型。八人兄弟の次男であり、四弟のつのだたかしはリュート奏者、末弟のつのだ☆ひろはミュージシャン。漫画原作者・ゲームクリエイターのビトウゴウは息子である。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = つのだ じろう | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 角田 次朗<br/>(つのだ じろう) | 生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[下谷|下谷区]]<br />(現:[[東京都]][[台東区]]) | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1936|7|3}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1955年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br/>[[青年漫画]] | 代表作 =『[[恐怖新聞]]』<br />『[[空手バカ一代]]』(原作:[[梶原一騎]])<br />『[[うしろの百太郎]]』 | 受賞 =[[1961年]]:第2回[[講談社児童まんが賞]](『ばら色の海』) }} '''つのだ じろう'''(本名:角田 次朗〈読み同じ〉、[[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[7月3日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[心霊]]研究家。[[東京府]][[東京市]][[下谷区]]豊住町(現:[[東京都]][[台東区]]下谷1丁目)出身。[[ABO式血液型|血液型]]O型。八人兄弟の次男であり、四弟の[[つのだたかし]]は[[リュート]]奏者、末弟の[[つのだ☆ひろ]]は[[音楽家|ミュージシャン]]。[[漫画原作者]]・[[ゲームクリエイター]]の[[ビトウゴウ]]は息子である。 == 来歴 == 当時の下谷区豊住町で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ[[空襲]]を避けるため一家で[[福島県]]に疎開<ref name="teramitsu">寺光忠男『正伝・昭和漫画 ナンセンスの系譜』[[毎日新聞社]]、1990年、pp.95-101</ref>、戦争が終わった中学2年生の時に東京に戻る。新宿区立淀橋中学校(現:[[新宿区立西新宿中学校]])、[[東京都立青山高等学校]][[卒業]]<ref name="teramitsu" />。 [[高等学校|高校]]在学中に自宅近くのグラウンドで草野球を観戦していたところ、一方のチームの監督が漫画家の[[島田啓三]]であることに気づく。つのだはベンチに押しかけ自作の漫画原稿を島田に見せて無理やり論評を聞き<ref name="teramitsu" />、これをきっかけに師事することとなる。[[1955年]]([[昭和]]30年)、『[[漫画少年]]』に「新・桃太郎」が掲載され漫画家デビュー。この作品はわずか3ページほどの短編であるが、師である島田から何度も書き直しを命じられ、苦心の末に投稿を許されて掲載されたものだという<ref name="teramitsu" />。 同じく『漫画少年』に投稿していた若い漫画家達と知り合い、そのツテで[[新漫画党]]に入党。[[豊島区]]の[[トキワ荘]]に通う事になる。[[1958年]]、『[[りぼん]]』連載の『ルミちゃん教室』がヒットししばらくは[[少女漫画]]を主に描いていた。[[1961年]]、『[[なかよし]]』に連載した『ばら色の海』で、第2回[[講談社児童まんが賞]]を受賞。その後は[[少年漫画]]誌に移り[[ギャグ漫画]]を描くようになり、『ブラック団』『[[ピュンピュン丸|忍者あわて丸]]』などで人気を博す。 [[1971年]]から[[梶原一騎]]原作で描いた空手バイオレンス漫画『[[空手バカ一代]]』が大ヒット、以降は[[劇画]]調の作品を描くようになる(『[[空手バカ一代]]』は連載途中で降板。その経緯については[[空手バカ一代#作品の周辺|空手バカ一代#作品の周辺]]を参照)。デビュー間もない頃、東京・[[両国橋]]でオレンジ色の[[未確認飛行物体|UFO]]を目撃したことをきっかけに[[オカルト]]を研究していたつのだは<ref name="teramitsu" />その知識を生かし、[[1973年]]に『[[うしろの百太郎]]』『[[恐怖新聞]]』といった怪奇漫画を立て続けに連載、大ブームを巻き起こし[[オカルト]]漫画の第一人者となった。 その他の代表作として、本格派[[将棋]]漫画である『[[5五の龍]]』、様々な女性達の運命をリアルに描いた『女たちの詩』シリーズなど、[[テレビドラマ|TVドラマ]]化された作品が多数ある。ギャグからシリアスなもの、少年・少女向けから大人向けまでとオールラウンドなジャンルで活躍した。 == 人物 == * 秦の[[始皇帝]]の子孫を自認している。現在は角田姓だが、先祖の姓は秦(しんの)であった。つのだじろうの祖父は福島県出身で名前は秦徳次郎、父は秦雄喜(しんのゆうき)だった。明治時代、雄喜が小学生だったころ、血縁関係のない角田富蔵の家に徳次郎が子供とともに夫婦養子として入籍して角田姓になったが、養子関係は3年で解消。が、戸籍を戻さなかったため、角田姓になってしまった。老年になった父・雄喜から初めてこの事実を聞かされたつのだじろうは、「つのだプロダクション」を解散して1980年から新しく「秦企画(しんのきかく)」という会社を建てた。その前後から、仕事場兼自宅で不思議な火事が起きたり、始皇帝の霊が母親の夢枕に立ち子孫へのお告げを述べたり、中国の始皇帝陵に参詣したじろうが[[張良]]の霊に憑依されるなど、さまざまな心霊現象が続いた(と、つのだ本人は主張している)<ref>つのだじろう著『つのだじろうの黒い本』[[リイド社]]、2000年、{{ISBN2|978-4845815869}}、pp.139-185</ref>。 * 「恐怖マンガとしての表現」の範囲で[[エンターテインメント]]性を重視し、心霊研究に関しては、単なる興味本位の「心霊スポット巡り」や「狐狗狸([[こっくりさん|こっくり]])さん」といった、霊を弄ぶような行為に警鐘を鳴らし続けた。「先祖を大切にする事」「守護霊の存在」といった内容を漫画作品や執筆、時には出演したTV番組や講演などで常に訴え続けてきた。また「超能力・霊能力」の実証研究や分析もしている。 * トキワ荘に出入りしていた当時は生真面目な青年であり、新漫画党の映画に関する雑談や飲み会などを「不真面目な態度」と激怒し、巻紙に抗議文を書いてトキワ荘を飛び出す<ref name="teramitsu" />。その後、[[藤子・F・不二雄|藤本弘]]から弁明の返書をもらい、トキワ荘に戻ってきた時に彼らの漫画に対する情熱を目の当たりにし、トキワ荘の「道楽派」となり積極的に遊ぶようになる<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.ebookjapan.jp/ebj/content/author/fujiko_saibara/index.asp |title= 藤子不二雄Ⓐ新刊配信記念 スペシャルインタビュー!! |website= eBookJapan |accessdate= 2021-11-13 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20180619113154/https://www.ebookjapan.jp/ebj/content/author/fujiko_saibara/index.asp |archivedate= 2018-06-19 }}</ref>。それまで一切やらなかった酒、タバコを始め、遊びの道にのめり込んだつのだの変貌ぶりを見て、一同は「クソ真面目から真面目が無くなったら、ただの”クソ”だけなった。」と口を揃えたという。 *作劇の範囲は「ギャグ」「コメディ」「シリアス」「ギャンブル」「人情」「女性」など多岐にわたり、自身も「特定のジャンルだけにこだわり『〇〇漫画家』等と呼ばれることは好まない。」と公言している。 * [[将棋]]アマ四段、[[スキー]]1級、[[書道]]三段、[[催眠術]]、[[空手道|空手]]、[[剣道]]、[[浮世絵]][[春画]]など多趣味で知られている。特に将棋については『5五の龍』他の作品に見られる通り造詣が深い。 * 『空手バカ一代』を連載していた際、作品のモデルとなった[[極真会館]]に通い、[[大山倍達]]から直々に稽古をつけて貰っていたという。しかし、誘われて一緒に入門した藤子Aは修行の厳しさに早々と逃亡。つのだだけがその後2年間通い続けた。 == 略歴 == * [[1955年]] - 『漫画少年』に「新桃太郎」で[[デビュー]]。新漫画党に入党し、トキワ荘グループの一員となる。 * 1958年 - 月刊漫画誌『[[りぼん]]』([[集英社]])に連載された「ルミちゃん教室」が人気を博す。 * [[1961年]] - 少年・少女・青年誌などに話題作を発表し続け「第2回講談社漫画賞」を受賞。 * [[1963年]] - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]]、[[鈴木伸一]]、[[藤子不二雄]]らと共にアニメ製作会社[[スタジオ・ゼロ]]を設立する。 * [[1971年]] - スタジオ・ゼロ解散。 * 1971年 - 『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])に掲載された「[[空手バカ一代]]」が人気を博し、のちに[[テレビアニメ]]も製作された。 * [[1973年]] - 『週刊少年マガジン』誌上で「うしろの百太郎」、『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])誌上で「恐怖新聞」をそれぞれ連載。以後、心霊研究家としても活躍するようになる。 == 作品リスト == * スーパー万兵衛(1957年、月刊「少年」、光文社) * ルミちゃん教室(1958年、りぼん、集英社) * ばら色の海(1961年、[[なかよし]]、講談社) * 雨の子のうた(1961年、なかよし、講談社) * ブラック団(1964年、[[週刊少年サンデー]]、[[小学館]]) * あかね雲のうた(1964年、りぼん、集英社) * 俺の太陽(1965年 - 1966年、週刊少年サンデー、小学館) * 忍者あわて丸(1965年 - 1968年、週刊少年キング、少年画報社、TVアニメ「[[ピュンピュン丸]]」およびWEBアニメ「[[花のずんだ丸]]」の原作) * 怪虫カブトン(1966年、週刊少年サンデー) * [[グリグリ (漫画)|グリグリ]](1967年、週刊少年サンデー、小学館、「怪虫カブトン」の脇役だったグリグリを主人公にした作品) * ライバル左腕(1966年、『冒険王』、[[野球漫画]]。少女投手を登場させた初の野球漫画となる) * ライバルの旗(1967年、『冒険王』、[[野球漫画]]) * [[てなもんや一本槍]](1968年、週刊少年サンデー、小学館、同名のテレビコメディのコミカライズ版、原作:[[香川登志緒]]) * [[ドリフターズですよ!特訓特訓また特訓]](1969年、週刊少年キング、少年画報社、同名の東宝映画のコミカライズ版) * 發の罠(1969年、[[プレイコミック]]11月10日号、[[秋田書店]]) * すっとびコンビの世界一周 とびだせドンポコ (1969年 - 1970年、[[5年の学習|5年の学習]]、[[学習研究社]])<ref>{{Cite book |title=5年の学習 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000237624-00 |publisher=学習研究社 |date=1969-04 |location=東京 |last=学習研究社}}</ref><ref>{{Cite book |title=5年の学習 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000237632-00 |publisher=学習研究社 |date=1970-03 |location=東京 |last=学習研究社}}</ref> * [[虹をよぶ拳]](1969年 - 1971年、[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]、秋田書店) * [[空手バカ一代]](1971年 - 1973年、週刊少年マガジン、講談社) * [[泣くな! 十円]](1971年 - 1973年、[[週刊少年チャンピオン]]、秋田書店) * 女たちの詩シリーズ(1971年 - 1973年、プレイコミック、秋田書店) * マホメット(1972年1月 - 同年4月、漫画サンデー、小学館、未単行本) * [[うしろの百太郎]](1973年 - 1976年、週刊少年マガジン) * [[亡霊学級]](1973年、週刊少年チャンピオン) * [[恐怖新聞]](1973年 - 1976年、週刊少年チャンピオン) * ワイルド・コミックス [[横溝正史]]シリーズ [[八つ墓村]] [[犬神家の一族]] [[悪魔の手毬唄]](1976年 [[富士見書房]] このシリーズは、これ以降、[[獄門島]] [[悪魔が来たりて笛を吹く]] [[本陣殺人事件]] [[病院坂の首縊りの家]]の全七作品が刊行予定だったが、発刊されなかった) *霊界通信(週刊少年サンデー) * メギドの火(1976年、週刊少年サンデー) * [[その他くん]](1976年、週刊少年マガジン) * グリグリジャイアンツ(1977年、小学一年生) * 呪凶介PSI霊査室(1977年、週刊少年キング) * ときめきの墓(1977年 - 1978年、週刊明星、集英社) * ゴッドハンド(1978年、週刊少年チャンピオン) * 魔子(1978年、[[ビッグコミック]]、小学館) * 5五の龍(1978年 - 1980年、週刊少年キング) * 銀座花族(1980年、週刊女性、主婦と生活社、TVドラマ「[[虹子の冒険]]」の原作) * 真夜中のラヴ・レター(1981年、週刊女性、主婦と生活社) *恋人は主護霊さま(週刊女性、主婦と生活社) *ついに霊魂をとらえた!(1982年、サンデー社)活字本 * 日時計花時計(週刊女性、主婦と生活社) *蓮華伝説(漫画ゴラク) * [[うしろの百太郎|新うしろの百太郎]](週刊少年マガジン、講談社) * [[学園七不思議]](1986年 - 1989年、[[サスペリア (雑誌)|サスペリア]]、秋田書店、TVアニメ「[[ハイスクールミステリー学園七不思議]]」の原作) * 新説百物語(1987年 - 1990年、月刊[[ハロウィン (雑誌)|ハロウィン]]、朝日ソノラマ) * ホラーペンション(1987年、月刊ハロウィン、TVドラマ化) * [[恐怖新聞II]](1990年 - 1993年、サスペリア) * [[うしろの百太郎|うしろの百太郎 平成版]](2003年、書き下ろし) * 恐怖新聞 平成版(2003年、書き下ろし) * うしろの始皇帝(2006年、学習研究社刊)活字本新刊 * つのだじろうの浮世絵春画ばなし(2007年ソフトバンククリエィテブ刊)活字本新刊 * マンガ日本の古典 32巻「[[怪談 (小泉八雲)|怪談]]」(原作:[[小泉八雲]]、[[中央公論新社|中央公論社]]) * 赤バットのうた(まんが王)<ref>{{Cite book |title=赤バットのうた(つのだじろう) / 古書夢や / 古本、中古本、古書籍の通販は「日本の古本屋」 |url=https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=308831359 |language=ja |last=東京都古書籍商業協同組合}}</ref> 他、短編など多数。 == 関連書籍 == * いきなり最終回 PART4(1992年、[[JICC出版局]]) - 恐怖新聞の最終回が掲載。つのだへのインタビューもあり。 == 師匠 == * [[島田啓三]] == アシスタント == * [[芳谷圭児]] * [[石井いさみ]] * [[制野秀一]] * ひびきゆうぞう(守谷哲巳) * [[居村眞二]] * [[芥真木]] * 田上憲治 * [[もとやま礼子]] * 上田久治 * 高屋潤 * 馬越香代子 * 高橋道恵<ref>{{Cite web|和書|url= https://mediaarts-db.bunka.go.jp/mg/magazine_works/6358 |title= 週刊少年サンデー メギドの火(つのだじろう/[スタッフ]居村真二/[スタッフ]上田久治/[スタッフ]高屋潤/[スタッフ]馬越香代子/[スタッフ]高橋道恵) |website= メディア芸術データベース |publisher= 文化庁 |accessdate= 2021-11-13 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20181013132907/https://mediaarts-db.bunka.go.jp/mg/magazine_works/6358 |archivedate= 2018-10-13 }}</ref> == つのだじろうを演じた人物 == *[[塩沢兼人]] - テレビアニメ『[[ぼくらマンガ家 トキワ荘物語]]』([[日生ファミリースペシャル]]) *[[須間一也]] - テレビドラマ『[[まんが道#銀河テレビ小説・まんが道 青春編|まんが道 青春編]]』([[銀河テレビ小説]]) *[[翁華栄]] - 映画「[[トキワ荘の青春]]」 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[トキワ荘]] * [[スタジオ・ゼロ]] * [[梶原一騎]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20000817094307/http://www02.so-net.ne.jp/~megido/ つのだじろうHOMEPAGE] {{赤塚不二夫}} {{石ノ森章太郎}} {{藤子不二雄}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つのた しろう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:コミックス・ウェーブ・フィルム|人つのた しろう]] [[Category:東京都立青山高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:オカルティスト]] [[Category:心霊研究家]]
2003-02-08T15:14:02Z
2023-12-14T16:15:13Z
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北条司
北条 司(ほうじょう つかさ、本名:北條 司、1959年〈昭和34年〉3月5日 - )は、日本の男性漫画家・実業家。株式会社コアミックス設立者であり取締役、及び関連会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役。福岡県小倉市(現在の同県北九州市小倉北区)出身。九州工業高校・九州産業大学芸術学部卒。トレードマークはサングラスで、公開されている写真や自画像のほぼ全てが着用した姿となっている。 1980年(昭和55年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号に掲載された『おれは男だ!』でデビューし、翌1981年(昭和56年)より開始された『キャッツ♥アイ』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後2000年(平成12年)に堀江信彦らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。 代表作に『キャッツ♥アイ』・『シティーハンター』など。 建設会社勤務の父親と専業主婦の母親の間の次男として、1959年(昭和34年)福岡県小倉市に生まれ、小学校からは北九州市内の八幡で過ごす。市立泉台小学校・市立高見中学校・私立九州工業高校・九州産業大学と進学し、高校までを北九州市内で、漫画家として上京するまでを福岡県内で過ごす。 物心ついた時には既に絵を描く事が好きで、北条の母の証言によると幼稚園時代には鏡に映った自分の手を熱心にスケッチするなどしていた。また、兄がアニメキャラクター等を模写していたのに対して北条は模写が苦手で、小さな頃からオリジナルの絵を描く事が多かったという。早生まれで体が小さかった事もあり、絵を描く事は北条にとって周りにも誇れる唯一の自己表現手段となっていった。漫画を読むのも好きではあったがテレビの方により夢中になっており、特に漫画に強い思い入れがあったわけではなかった。初めてコマ割りのある漫画を描いたのは小学校1年生の時であったが、これは「『ウルトラQ』よりもおもしろい漫画がある」と友人にホラを吹いたことをごまかすためのものであった。 このように幼少時から絵を描き続けていた北条であったが、小学2年生の時に担任の教師から「子供らしい絵を描け」などと絵をけなされる事件が起きる。北条にとって唯一の表現手段であった絵をけなされるのは自分を全否定されることに近く、この事件が強いトラウマとなって絵を描くことが嫌いになり、目立つことを恐れる暗い少年となってしまう。 以降、北条は小説を大量に読むようになり、特に中学時代はSF小説を読み漁る生活を送る。また学校推薦映画となっていた『ひまわり』(ヴィットリオ・デ・シーカ)を観て衝撃を受け、様々な映画を観るようになる。ただし金がかかるので、映画館で観られるのは月1回程度であり、もっぱらテレビの洋画劇場で放映されたものを観ていた。 中学3年の時に漫画家を目指す友人が出来る。彼がペンを使い本格的に執筆している事に影響を受け、北条も本格的な執筆を始めるようになった。この友人とは別の高校に進学するも交流は続き、彼の呼びかけから漫画の同好会にも参加する。男女織り交ぜた6人で、共同の漫画執筆も始めたが未完に終わっており、この時の体験から自分に毎週漫画を描く漫画家生活は無理だと当時は思っていた。 その後、賞金を目当てに漫画の投稿を始め、金が無くなると新作を描いては投稿するという生活を始める。当初はジャンルを問わずに投稿をしていたが、努力賞でわずかな賞金しかもらえなかったことから、少女漫画への投稿は辞めている。一方で読者としては時おり目についた物を読む程度であり、週刊誌を買うようなことはせず、引き続き映画と小説の方により興味を持っていた。 高校を卒業後、福岡市内の九州産業大学へと進学し下宿生活を始める。大学では芸術学部デザイン学科に進んで広告デザインを学び、映画関係の仕事がしたいと考えていた。漫画は引き続き賞金目当ての投稿を続けており、喫茶店に通うようになったことから漫画もよく読むようになった。 金のない下宿生活の中で、手塚賞の賞金が100万円である事を知り、応募を決める。それまでは手塚賞の存在を知りながらも『週刊少年ジャンプ』(集英社)主催である事を知らず、同誌を読んだ事もなかった。ちょうどネームも描かずに一日1ページずつぐらいでなんとなく描きためていた作品があった事から31頁にまとめて投稿。この作品「スペースエンジェル」が準入選となって賞金20万円を手にし、入社一年目だった堀江信彦が担当編集に付く。 その後、描けば金になるとの理由から催促されるままに3編の読切を描き、そのなかの「おれは男だ!」が『WJ』に掲載されて在学中にデビューを果たす。 「F.COMPO」の連載を続ける中、2000年(平成12年)には堀江信彦・原哲夫・次原隆二・神谷明・根岸忠らと共に、株式会社コアミックスを設立。翌年、同社編集の新雑誌を創刊する準備に忙しくなったことから、『F.COMPO』の連載を終了する。そして2001年(平成13年)5月に『週刊コミックバンチ』(新潮社発行)を創刊し、創刊号より『エンジェル・ハート』の連載を開始する。2004年(平成16年)にはコアミックスの関連会社として著作権管理等を業務として設立された株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ(以下、NSP)の取締役に就任している。 2010年(平成22年)のコアミックスと新潮社の契約満了に伴い『週刊コミックバンチ』は休刊となり、コアミックスはNSPと徳間書店と共に後継紙の1つとなる『月刊コミックゼノン』を創刊する。これに伴い「A.H.」は「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題の上で『ゼノン』に移籍し、2017年(平成29年)7月号まで連載した。 ※ 掲載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』に掲載。 『C♥E』と『C.H.』の成功により、「美女とアクション」が代名詞のようにされていたが、北条本人としては少年誌に求められるものとして「アクションっぽいもの」を取り入れてはいたもののあくまで登場人物の心の流れをメインに描いており、こうした評価は不本意で「アクション作家のつもりはない」と述べている。『C.H.』の次となる連載作品『こもれ陽の下で...』はこうした評価に対する反発として、「美女とアクション」を徹底的に排したものとして始められている。 北条が自身で意識して描いたのは『F.COMPO』が最初ではあるが、『天使の贈りもの』『ファミリー・プロット』『少女の季節 - サマードリーム -』とそれ以前の作品でも家族関係が主題となっている作品は多く、友人より北条の作品の根底的なテーマは「家族愛」であるとの指摘を受けている。 上述の通り「美女」が代名詞となるようにその画力は高く、二階堂黎人は「絵が素晴らしく綺麗であり、セクシーな女性を描くのが得意であり、夜の描写が美しい」とその画力を評価している。 なお2000年に行われたインタビューでは、見出しに「美女の顔はみな同じ?」とされ、北条自身も「美女」については「顔の描き分けは全然していない」と語っている。北条によれば、読者の求める「北条美人」から外れない様に、敢えてそういった手法を採っているとのことである。 ■ : 連載作品、■ : 読切作品。 ■ : オリジナル、■ : 再出版、■ : 短編集。 2010年に北条のデビュー30周年を記念し、北条のキャラクターを他の漫画家が描くトリビュート・ピンナップ企画が『週刊コミックバンチ』で2度行われた。同年の『バンチ』休刊後に後継紙となった『月刊コミックゼノン』では、新たなトリビュートイラストと『バンチ』での企画分のダイジェスト版を収録した『北条司30周年記念特製画集』が付録とされた。以下、この企画で寄稿した漫画家を列挙する。
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北条 司は、日本の男性漫画家・実業家。株式会社コアミックス設立者であり取締役、及び関連会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役。福岡県小倉市(現在の同県北九州市小倉北区)出身。九州工業高校・九州産業大学芸術学部卒。トレードマークはサングラスで、公開されている写真や自画像のほぼ全てが着用した姿となっている。 1980年(昭和55年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)20号に掲載された『おれは男だ!』でデビューし、翌1981年(昭和56年)より開始された『キャッツ♥アイ』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後2000年(平成12年)に堀江信彦らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。 代表作に『キャッツ♥アイ』・『シティーハンター』など。
{{別人|北条秀司}} {{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 北条 司 | ふりがな = ほうじょう つかさ | 画像 = Tsukasa Hojo 20100702 Japan Expo 1.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 北條 司<ref name="chgbcover">『C.H.パーフェクトガイドブック』表紙そで</ref> | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|3|5}}<ref name="ahgbcover" /> | 生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[小倉市]](現在の同県[[北九州市]][[小倉北区]])<ref name="ahgbcover">『A.H.公式ガイドブック』表紙そで</ref> | 没年 = | 没地 = | ジャンル = [[少年漫画]]、[[青年漫画]] | 活動期間 = [[1979年]]<ref name="ahgbcover" /> - 現在 | 代表作 = 『[[キャッツ・アイ|キャッツ{{JIS2004フォント|♥}}アイ]]』<br />『[[シティーハンター]]』<ref name="ahgbcover" /> | 受賞 = 第18回:[[手塚賞]]準入選(「スペース・エンジェル」) | サイン = | 公式サイト = [http://www.hojo-tsukasa.com/ 北条司 OFFICIAL WEB SITE] }} '''北条 司'''(ほうじょう つかさ、本名:北條 司<ref name="chgbcover" />、[[1959年]]〈昭和34年〉[[3月5日]]<ref name="ahgbcover" /> - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]・[[実業家]]。株式会社[[コアミックス]]設立者<ref name="coamix">「[http://www.coamix.co.jp/kaisya/gaiyo.html 事業概要]」『[http://www.coamix.co.jp/news/index.html コアミックス]』</ref>であり取締役<ref name="hti20p107">『20周年記念 イラストレーションズ』107頁</ref>、及び関連会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役<ref name="nsp">「[http://www.nsp.tv/company.htm 会社概要]」『[http://www.nsp.tv/top.htm 株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ]』</ref>。[[福岡県]][[小倉市]]<ref group="注" name="kokura">北条が3歳の1963年に合併され[[北九州市]]となっている。</ref>(現在の同県[[北九州市]][[小倉北区]])出身<ref name="ahgbcover" />。[[真颯館高等学校|九州工業高校]]・[[九州産業大学]][[芸術学部]]卒<ref name="illus1p92">『北条司 ILLUSTRATIONS』92頁</ref>。[[トレードマーク]]は[[サングラス]]で、公開されている[[写真]]や[[自画像]]のほぼ全てが着用した姿となっている。 [[1980年]](昭和55年)に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])20号に掲載された『[[天使の贈りもの (漫画)#おれは男だ!|おれは男だ!]]』でデビューし、翌[[1981年]](昭和56年)より開始された『[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]』で連載デビュー<ref name="ahgbcover" />。主に『週刊少年ジャンプ』を始めとした集英社の雑誌で活躍。その後[[2000年]](平成12年)に[[堀江信彦]]らと共にコアミックスを設立し、同社が編集を行う雑誌に活動の場を移している。 代表作に『キャッツ♥アイ』・『[[シティーハンター]]』など<ref name="ahgbcover" />。 == 来歴 == === 幼少期 === 建設会社勤務の父親と専業主婦の母親の間の次男として、1959年(昭和34年)[[福岡県]][[小倉市]]<ref group="注" name="kokura" />に生まれ、[[小学校]]からは北九州市内の八幡で過ごす<ref name="名前なし-1">『C.H.パーフェクトガイドブック』168頁</ref>。[[北九州市立泉台小学校|市立泉台小学校]]・[[北九州市立高見中学校|市立高見中学校]]・私立[[真颯館高等学校|九州工業高校]]・[[九州産業大学]]と進学し<ref name="illus1p92" />、高校までを北九州市内で、漫画家として上京するまでを福岡県内で過ごす。 物心ついた時には既に絵を描く事が好きで、北条の母の証言によると[[幼稚園]]時代には鏡に映った自分の手を熱心に[[スケッチ]]するなどしていた。また、兄がアニメキャラクター等を模写していたのに対して北条は模写が苦手で、小さな頃からオリジナルの絵を描く事が多かったという<ref>『C.H.パーフェクトガイドブック』169頁</ref>。早生まれで体が小さかった事もあり、絵を描く事は北条にとって周りにも誇れる唯一の自己表現手段となっていった。漫画を読むのも好きではあったがテレビの方により夢中になっており、特に漫画に強い思い入れがあったわけではなかった。初めてコマ割りのある漫画を描いたのは小学校1年生の時であったが、これは「『[[ウルトラQ]]』よりもおもしろい漫画がある」と友人にホラを吹いたことをごまかすためのものであった<ref>『20周年記念 イラストレーションズ』101頁</ref><ref>この段落は『A.H.公式ガイドブック』89頁、『コミックバンチ』32号の154頁を参考とした。</ref>。 このように幼少時から絵を描き続けていた北条であったが、小学2年生の時に担任の教師から「子供らしい絵を描け」などと絵をけなされる事件が起きる。北条にとって唯一の表現手段であった絵をけなされるのは自分を全否定されることに近く、この事件が強い[[心的外傷|トラウマ]]となって絵を描くことが嫌いになり、目立つことを恐れる暗い少年となってしまう。 ===少年時代=== 以降、北条は小説を大量に読むようになり、特に中学時代は[[サイエンス・フィクション|SF]]小説を読み漁る生活を送る。また学校推薦映画となっていた『[[ひまわり (1970年の映画)|ひまわり]]』([[ヴィットリオ・デ・シーカ]])を観て衝撃を受け、様々な映画を観るようになる。ただし金がかかるので、[[映画館]]で観られるのは月1回程度であり、もっぱらテレビの洋画劇場で放映されたものを観ていた<ref>この段落は、『コミックバンチ』32号の154 - 155頁、『C.H.パーフェクトガイドブック』169 - 171頁を参考とした。</ref>。 中学3年の時に漫画家を目指す友人が出来る。彼が[[ペン]]を使い本格的に執筆している事に影響を受け、北条も本格的な執筆を始めるようになった。この友人とは別の高校に進学するも交流は続き、彼の呼びかけから漫画の同好会にも参加する。男女織り交ぜた6人で、共同の漫画執筆も始めたが未完に終わっており、この時の体験から自分に毎週漫画を描く漫画家生活は無理だと当時は思っていた<ref>この段落は、『C.H.パーフェクトガイドブック』170頁、『コミックバンチ』32号の155 - 156頁、『ILLUSTRATIONS』95頁を参考とした。</ref>。 その後、賞金を目当てに漫画の投稿を始め、金が無くなると新作を描いては投稿するという生活を始める。当初はジャンルを問わずに投稿をしていたが、努力賞でわずかな賞金しかもらえなかったことから、[[少女漫画]]への投稿は辞めている<ref>『A.H.公式ガイドブック』89 - 90頁</ref>。一方で読者としては時おり目についた物を読む程度であり、週刊誌を買うようなことはせず、引き続き映画と小説の方により興味を持っていた<ref name="chpgbP171">『C.H.パーフェクトガイドブック』171頁</ref>。 === 大学時代・漫画家デビュー === 高校を卒業後、[[福岡市]]内の[[九州産業大学]]へと進学し[[下宿]]生活を始める。大学では[[芸術学部]][[デザイン]]学科に進んで広告デザインを学び、映画関係の仕事がしたいと考えていた。漫画は引き続き賞金目当ての投稿を続けており、[[喫茶店]]に通うようになったことから漫画もよく読むようになった<ref>この段落は『C.H.パーフェクトガイドブック』171 - 172頁を参考とした。</ref>。 金のない下宿生活の中で、[[手塚賞]]の賞金が100万円である事を知り、応募を決める。それまでは手塚賞の存在を知りながらも『週刊少年ジャンプ』(集英社)主催である事を知らず、同誌を読んだ事もなかった。ちょうどネームも描かずに一日1ページずつぐらいでなんとなく描きためていた作品があった事から31頁にまとめて投稿。この作品「スペースエンジェル」<ref group="注" name="sa">1991年の『ILLUSTRATIONS』95頁では、「スペースエンジェル」がペン入れをして完結した初めて作品であることを述べている。ただし2006年の『A.H.公式ガイドブック』の投稿経歴とは矛盾しており、本稿では後年のインタビューである後者の記述を優先している。</ref>が準入選となって賞金20万円を手にし、入社一年目だった[[堀江信彦]]が担当編集に付く。 その後、描けば金になるとの理由から催促されるままに3編の読切を描き、そのなかの「おれは男だ!」が『WJ』に掲載されて在学中にデビューを果たす<ref>この段落は『C.H.パーフェクトガイドブック』172頁、『コミックバンチ』32号の157頁、『A.H.公式ガイドブック』90頁を参考とした。</ref>。 === 集英社時代 === ; キャッツ♥アイ : 大学を卒業するも漫画を描いて就職活動をしていなかったことから、とりあえずとして漫画家になることとする。ただし、北条は当初「地方でこつこつと短編を発表するような地味な漫画家でいい」と考えており、連載や上京の意志はなかった。しかし、読切として描いた『キャッツ♥アイ』(以下、C♥E) が好評であったことから、堀江は北条の知らぬところで同作を連載会議に掛け、連載を決定してしまう。そして「連載が決まり、アパートも用意したから2日後に上京してこい」と連絡を受けて半ば強引に上京させられ、あっという間に北条は連載生活へと入っていく。 : 当時の北条は慣れぬ連載には様々な面で苦労をし、連載終了後に本作の連載自体が漫画の練習であったことや、本作の印象としては「苦い思い出しかない」ことを語っている。同作は4年に渡り連載が続けられ、アニメ化される程のヒットを収める<ref>この段落は『ILLUSTRATIONS』95頁と『20周年記念 イラストレーションズ』102 - 103頁を参考とした。</ref>。 ; シティーハンター : 『C♥E』の連載中の[[1983年]]に、第11回愛読者賞用の読切として「[[シティーハンター#読切版|シティーハンター -XYZ-]]」を描き、愛読者賞を獲得する<ref group="注" name="aidokusya">愛読者賞はこの年で終了されており、同作は最後の愛読者賞受賞作品となっている。ただし、1997年には同主旨の催しとして愛読者'''杯'''が行なわれている。</ref>。同作は「『C♥E』の神谷真人(ねずみ)を主人公に」とのコンセプトで誕生した[[冴羽獠]]のデビュー作である。 : 1985年の「C♥E」終了の同年には、同作を元とした連載『シティーハンター』(以下、C.H.)を開始する。前作に続き『C.H.』もアニメ化され、6年以上に渡って連載が継続される代表作となる。しかし、連載の終了は4週間前に通告されるという突然なものであった。この事は北条に描き切っていないという強い思いを与え、後のリメイク作品『[[エンジェル・ハート]]』(以下A.H.)が誕生する原因となる<ref>この段落は、『20周年記念 イラストレーションズ』104頁、『A.H.公式ガイドブック』91 - 92頁を参考とした。</ref>。 ; 青年誌への移籍 : 『C.H.』終了後はアクションに対する疲れから植物との交流を描いた「[[こもれ陽の下で…]]」、担当の求めに応じて再びアクションを描いた「[[RASH!!]]」を連載するもいずれも短命に終わる。この時期は集英社との関係等から漫画を描くことがつまらなくなり、漫画家をやめることも本気で考えていた。 : その後、性別逆転夫婦を描いた「[[F.COMPO]]」を『週刊少年ジャンプ』で連載するつもりで企画するが、少年誌では難しいとの判断から、前年に創刊された[[青年漫画|青年誌]]『[[MANGAオールマン]]』へと移籍する<ref>『20周年記念 イラストレーションズ』105 - 106頁</ref>。4年に渡って連載された同作は「この作品を描いても楽しめないようだったら廃業しよう」との思いで始められたリハビリのような作品であり、この成功により北条は一生漫画家としてやっていく自信をつける<ref>この段落は『コミックバンチ』33号の191 - 192頁を参考とした。</ref>。 === コアミックスの設立 === 「F.COMPO」の連載を続ける中、[[2000年]](平成12年)には[[堀江信彦]]・[[原哲夫]]・[[次原隆二]]・[[神谷明]]・根岸忠らと共に、株式会社コアミックスを設立<ref name="coamix" />。翌年、同社編集の新雑誌を創刊する準備に忙しくなったことから、『F.COMPO』の連載を終了する<ref name="hti20p107" />。そして[[2001年]](平成13年)5月に『[[週刊コミックバンチ]]』([[新潮社]]発行)を創刊し、創刊号より『エンジェル・ハート』の連載を開始する。[[2004年]](平成16年)にはコアミックスの関連会社として著作権管理等を業務として設立された株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ(以下、NSP)の取締役に就任している<ref name=nsp />。 [[2010年]](平成22年)のコアミックスと新潮社の契約満了に伴い『週刊コミックバンチ』は休刊となり<ref>{{Cite web|和書|date=2010-06-25|url=http://www.coamix.co.jp/2010/06/comicbunch.html|title=読者のみなさまへ|work=[http://www.coamix.co.jp/archives.html 株式会社コアミックス:アーカイブ]|publisher=[[コアミックス]]|accessdate=2011-12-29}}</ref>、コアミックスはNSPと[[徳間書店]]と共に後継紙の1つとなる『[[月刊コミックゼノン]]』を創刊する<ref name="zenon">{{Cite web|和書|date=2010-10-25|url=https://natalie.mu/comic/news/39569|title=コミックゼノン創刊号、御パンツ付録でかぶいて候|work=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|accessdate=2011-12-29}}</ref>。これに伴い「A.H.」は「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題の上で『ゼノン』に移籍し、[[2017年]](平成29年)7月号まで連載した。 == 年表 == {{Small|※ 掲載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』に掲載。}} * 1959年(昭和34年) - 福岡県小倉市に生まれる<ref name="illus1p92" />。 * 196?年(昭和4?年) - 市内八幡に引っ越す<ref name="名前なし-1"/>。 * [[1973年]](昭和48年) - [[真颯館高等学校|九州工業高校]]に入学<ref name="illus1p92" />。 * [[1977年]](昭和52年) - 高校を卒業し、[[九州産業大学]]に入学<ref name="illus1p92" />。在学中に福岡市で下宿生活を始める<ref name="ahgbp90">『A.H.公式ガイドブック』90頁</ref>。 * [[1979年]](昭和54年) - りぼん漫画スクールに投稿した「パープリン」が「もうひと息賞」に選ばれるも編集部に「劇画っぽすぎる」と評される。第18回手塚賞に投稿した「スペース・エンジェル」が[[手塚治虫]]に「学生服が似合う絵」と評され<ref>{{Cite web|author=北条司|date=不明|url=http://www.hojo-tsukasa.com/portfolio/index.html|title=作品紹介|work=[http://www.hojo-tsukasa.com/ 北条司 OFFICIAL WEB SITE]|accessdate=2011-12-29}}</ref>、準入選を取る<ref name="chgbcover" />。 * 1980年(昭和55年) - 読切「[[天使の贈りもの (漫画)#おれは男だ!|おれは男だ!]]」でデビュー<ref name="ahgbcover" />。 * 1981年(昭和56年) - 大学を卒業<ref name="illus1p92" />。「[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]」の連載が決まり上京。連載デビュー( - 1985年)<ref>『C.H.パーフェクトガイドブック』173 - 174頁</ref>。 * [[1982年]](昭和57年) - 初の単行本『キャッツ♥アイ』1巻が4月に発売。 * 1983年(昭和58年) - 『キャッツ♥アイ』が初のテレビアニメ化。 * [[1985年]](昭和60年) - 『シティーハンター』連載開始( - 1991年)。 * [[1986年]](昭和61年) - 「SPLASH! 」を『[[スーパージャンプ|週刊少年ジャンプ特別編集 スーパージャンプ]]』に掲載。初の[[青年漫画|青年誌掲載]]。 * [[1988年]](昭和63年) - 初の短編集『[[天使の贈りもの (漫画)]]』が11月に発売。 * [[1993年]](平成5年) - 「こもれ陽の下で…」連載開始( - 1994年)。 * [[1994年]](平成6年) - 「RASH!!」連載開始( - 1995年)。少年誌最後の連載作品となる。 * [[1996年]](平成8年) - 「F.COMPO」を『MANGAオールマン』において連載開始( - 2000年)。初の青年誌連載。 * 2000年(平成12年) - 堀江信彦らと共に株式会社コアミックスを設立<ref name="coamix" />。 * 2001年(平成13年) - コアミックスが『週刊コミックバンチ』を創刊。同誌創刊号より「エンジェル・ハート」を連載開始。 * 2004年(平成16年) - コアミックスの関連会社として設立された、株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズの取締役に就任<ref name=nsp />。 * 2007年(平成19年) - 『週刊コミックバンチ』2008年4.5合併号付録(2007年12月発売?)にて「ライアのまど」のキャラクターデザイン・絵コンテを製作。本作は「エンジェル・ハート」にミキが登場した時に冴子がプレゼントした絵本を元にしたイラスト・ブック。 * 2010年(平成22年) - 『週刊コミックバンチ』が休刊となり、後継雑誌となる『月刊コミックゼノン』をコアミックスの編集で創刊<ref name="zenon" />。「エンジェル・ハート」を「エンジェル・ハート 2ndシーズン」に改題し、『ゼノン』創刊号より連載を継続( - 2017年)。 == 作風 == 『C♥E』と『C.H.』の成功により、「美女とアクション」が代名詞のようにされていたが、北条本人としては少年誌に求められるものとして「アクションっぽいもの」を取り入れてはいたもののあくまで登場人物の心の流れをメインに描いており、こうした評価は不本意で「アクション作家のつもりはない」と述べている。『C.H.』の次となる連載作品『こもれ陽の下で…』はこうした評価に対する反発として、「美女とアクション」を徹底的に排したものとして始められている<ref>『20周年記念 イラストレーションズ』104頁</ref>。 北条が自身で意識して描いたのは『F.COMPO』が最初ではあるが、『[[天使の贈りもの (漫画)#天使の贈りもの|天使の贈りもの]]』『[[桜の花 咲くころ#ファミリー・プロット|ファミリー・プロット]]』『[[桜の花 咲くころ#少女の季節|少女の季節 - サマードリーム -]]』とそれ以前の作品でも家族関係が主題となっている作品は多く、友人より北条の作品の根底的なテーマは「家族愛」であるとの指摘を受けている<ref>『自選イラストレーション100』106頁</ref>。 上述の通り「美女」が代名詞となるようにその画力は高く、[[二階堂黎人]]は「絵が素晴らしく綺麗であり、セクシーな女性を描くのが得意であり、夜の描写が美しい」とその画力を評価している<ref>二階堂黎人「作品解説ブックレット」『北条司短編集 天使の贈りもの』</ref>。 なお2000年に行われたインタビューでは、見出しに「美女の顔はみな同じ?」とされ、北条自身も「美女」については「顔の描き分けは全然していない」と語っている。北条によれば、読者の求める「北条美人」から外れない様に、敢えてそういった手法を採っているとのことである{{sfn|北条|2000}}。 == 作品リスト == === 漫画作品 === <div style="font-size:smaller;"> * 2017年5月現在。 * 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。 * デフォルトでの表記は発表順。未発表作品については投稿した漫画賞の時期で代用。他列でのソート後に再度発表順でソートするには、最左列を利用する。 * 「種」欄は連載か短編かで2種に大別。3話以上のものを連載として扱った。 * 「収」・「文」・「自」欄は収録単行本またはイラスト集を「略号-x」の形で示す。ただし「文」欄と「大」欄ではそれぞれ、文庫判および大判短編集への再収録のみを扱う。略号対応については下記のものを除き、[[#漫画単行本]]を参照。 ** 略号 - '''画1st''':『北条司 ILLUSTRATIONS』、'''画20''':『北条司 漫画家20周年記念 イラストレーションズ』、'''Z''':『CITY HUNTER COMPLETE EDITON』Z巻 ** 「x」は各単行本内での収録順を示す。 <span style="color:#fdd;">■</span> : 連載作品、<span style="color:#ddf;">■</span> : 読切作品。 </div> {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller; background-color:#ddf" ! !! 作品名 !! 種 !! 発行 !! 掲載誌 !! 収 !! 文 !! 自 !! 注記 |- style="text-align:center; background-color:#aaa" | <span style="display:none">0</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span>1970年代 || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || |- ! 1 | <span style="display:none">すへえすえんしえる1</span>スペース・エンジェル<br />【手塚賞版】 || 短編 || <span style="display:none">C</span>‐ || 雑誌未掲載(1979年投稿) || <span style="display:none">C</span>‐ || ‐ || ‐ || 第18回手塚賞準入選作。単行本未収録。<br />後の愛読者賞用の作品とは同名の別作品。 |- style="text-align:center; background-color:#aaa" | <span style="display:none">1.5</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span>1980年代 || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || |- ! 2 | <span style="display:none">おれはおとこた</span>[[天使の贈りもの (漫画)#おれは男だ!|おれは男だ!<br />〔アナログ・ラプソディ〕]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1980年8月増刊号 || 短1-2 || 文1-1 || ‐ || デビュー作。 |- ! 3 | <span style="display:none">さあとてか</span>三級刑事(サード・デカ) || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1981年1月増刊号 || <span style="display:none">C</span>‐ || ‐ || ‐ || 単行本未収録。原作:渡海風彦。 |- ! 4 | <span style="display:none">きやつつあい1</span>キャッツ♥アイ【読切版】 || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1981年29号 || キ-1 || ‐ || ‐ || 連載版の第1話として単行本に収録。 |- style="background-color:#fdd" ! 5 | <span style="display:none">きやつつあい2</span>[[キャッツ・アイ|キャッツ♥アイ]]【連載版】<br /><ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/104138/|title=キャッツ・アイ(第1期) : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-12-06}}</ref> || <span style="display:none">6</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1981年40号 - 1984年44号 || キ-2 || ‐ || Z-3 || 連載デビュー作。<br />アニメ化・映画化されている。<br />『Z』への収録は2話のみ。 |- ! 6 | <span style="display:none">すへえすえんしえる2</span>スペース・エンジェル<br />【愛読者賞版】 || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1982年16号 || <span style="display:none">C</span>‐ || ‐ || ‐ || 第10回ジャンプ愛読者賞3位。<br />単行本未収録。<br />『C♥E』をベースとした<br />スペースオペラ作品。 |- ! 7 | <span style="display:none">していいはんたあXYZ</span>[[シティーハンター#読切版|シティーハンター —XYZ—]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1983年18号 || 短1-4 || 文1-2 || Z-1 || 第11回ジャンプ愛読者賞1位。 |- ! 8 | <span style="display:none">していいはんたあたふるえつし</span>[[シティーハンター#読切版|シティーハンター <br />—ダブル-エッジ—]] || 短編 || 集英社 || [[フレッシュジャンプ]] 1984年2月号 || 短1-5 || 文1-3 || Z-2 || |- ! 9 | <span style="display:none">きやつつあい3</span>キャッツ♥アイ【後日譚】 || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1985年6号 || キ-3 || ‐ || ‐ || 連載版の後日譚で最終話として<br />単行本に収録。 |- style="background-color:#fdd" ! 10 | <span style="display:none">していいはんたあ/</span>シティーハンター || <span style="display:none">5</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1985年13号 - 1991年50号 || シ || ‐ || ‐ || アニメ化・映画化されている。 |- ! 11 | <span style="display:none">ねこまんまおかわり</span>[[天使の贈りもの (漫画)#ネコまんまおかわり&#9825;|ネコまんまおかわり&#9825;]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1986年6号 || 短1-3 || 文1-4 || 自-4 || |- ! 12 | <span style="display:none">すふらつしゆ1</span>SPLASH! || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">ス1</span>WJ増刊 スーパージャンプ 1987年4月号 || <span style="display:none">A</span>画1st || ‐ || ‐ || |- ! 13 | <span style="display:none">すふらつしゆ2</span>SPLASH!2 || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">ス1</span>WJ増刊 スーパージャンプ 1987年6月号 || <span style="display:none">A</span>画1st || ‐ || ‐ || |- ! 14 | <span style="display:none">すふらつしゆ3</span>SPLASH!3 || 短編 || 集英社 || スーパージャンプ 1988年11月号 || <span style="display:none">A</span>画1st || ‐ || ‐ || |- ! 15 | <span style="display:none">てんしのおくりもの</span>[[天使の贈りもの (漫画)#天使の贈りもの|天使の贈りもの]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1988年34号 || 短1-1 || 文1-5 || 自-2 || |- ! 16 | <span style="display:none">すふらつしゆ4</span>SPLASH!4 || 短編 || 集英社 || スーパージャンプ 1989年4月号 || <span style="display:none">A</span>画1st || ‐ || ‐ || |- style="text-align:center; background-color:#aaa" | <span style="display:none">16.5</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span>1990年代 || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || |- ! 17 | <span style="display:none">たくしいとらいはあ</span>[[桜の花 咲くころ#TAXI DRIVER|TAXI DRIVER]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1990年6号 || 短2-3 || 文2-1 || ‐ || |- ! 18 | <span style="display:none">ふあみりいふろつと</span>[[桜の花 咲くころ#ファミリー・プロット|ファミリー・プロット]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1992年11号 || 短2-2 || 文2-2 || 自-1 || |- ! 19 | <span style="display:none">しようしよのきせつ</span>[[桜の花 咲くころ#少女の季節|少女の季節 <br />—サマードリーム—]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1992年39号 || 短2-4 || 文1-6 || 自-5 || |- ! 20 | <span style="display:none">さくらのはなさくころ</span>[[こもれ陽の下で…#桜の花 咲くころ|桜の花 咲くころ]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1993年3・4合併号 || 短2-1 || 文1-7 || 自-3 || |- style="background-color:#fdd" ! 21 | <span style="display:none">こもれひのもとて</span>こもれ陽の下で… || <span style="display:none">4</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1993年31号 - <br />1994年5・6合併号 || こ || ‐ || ‐ || |- style="background-color:#fdd" ! 22 | <span style="display:none">らつしゆ</span>RASH!! || <span style="display:none">3</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1994年43号 - 1995年09号 || ラ || ‐ || ‐ || |- ! 23 | <span style="display:none">すふらつしゆ5</span>SPLASH!5 || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">マ</span>MANGAオールマン 1995年11月号 || <span style="display:none">B</span>画20 || ‐ || ‐ || |- ! 24 | <span style="display:none">あおそらのはて</span>[[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜#蒼空の果て|蒼空の果て <br />—少年たちの戦場—]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1995年16号・17号 || 短3-1 || 文2-3 || ‐ || 原作:二橋進吾。 |- ! 25 | <span style="display:none">しようねんたちのいたなつ</span>[[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜#少年たちのいた夏|少年たちのいた夏 <br />〜Melody of Jenny〜]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1995年28号・29号 || 短3-2 || 文2-4 || 自-6 || |- ! 26 | <span style="display:none">あめりかんとりいむ</span>[[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜#American Dream|American Dream]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">シ1</span>週刊少年ジャンプ 1995年36・37合併号 || 短3-3 || 文2-5 || ‐ || 原作:二橋進吾。 |- style="background-color:#fdd" ! 27 | <span style="display:none">ふあみりいこんほ</span>[[F.COMPO]] || <span style="display:none">2</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">マ</span>MANGAオールマン 1996年10号 - 2000年23号 || フ || ‐ || ‐ || |- ! 28 | <span style="display:none">さあいすおふあさしん</span>THE EYES OF ASSASSIN || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">メ</span>[[MEN'S NON-NO]] 1997年6月号 || 短4-3 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- ! 29 | <span style="display:none">はろつと1</span>Parrot || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">メ</span>[[MEN'S NON-NO]] 1997年7月号 || 短4-1 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- ! 30 | <span style="display:none">えあまん</span>AIR MAN || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">メ</span>[[MEN'S NON-NO]] 1997年8月号 || 短4-4 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- ! 31 | <span style="display:none">きやつつあい4</span>[[キャッツ・アイ|CAT'S EYE]] || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">メ</span>[[MEN'S NON-NO]] 1997年9月号 || 短4-5 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- ! 32 | <span style="display:none">ほおとれいとおふふああさあ</span>Portrait of father || 短編 || 集英社 || <span style="display:none">メ</span>[[MEN'S NON-NO]] 1997年10月号 || 短4-6 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- style="background-color:#fdd" ! 33 | <span style="display:none">はろつと2</span>Parrot || <span style="display:none">1</span>連載 || 集英社 || <span style="display:none">ハ</span>[[BART (雑誌)|BART3230]] 1998年12月号 - 1999年5月号 || 短4-2 || ‐ || ‐ || フルカラー作品。<br />デジタルワーク:永田太。 |- style="text-align:center; background-color:#aaa" | <span style="display:none">33.5</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span>2000年代 || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || |- style="background-color:#fdd" ! 34 | <span style="display:none">えんしえるはあと1</span>[[エンジェル・ハート]] || <span style="display:none">0</span>連載 || <span style="display:none">A</span>新潮社 || <span style="display:none">コ2</span>週刊コミックバンチ <br />2001年1号 - 2010年36・37合併号 || エ1 || ‐ || ‐ || 『[[シティーハンター|C.H.]]』の[[パラレルワールド|並行世界]]を描いたリメイク作。<br />アニメ化・ドラマ化されている。 |- style="text-align:center; background-color:#aaa" | <span style="display:none">34.5</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span>2010年代 || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || <span style="display:none">Z</span> || |- style="background-color:#fdd" ! 35 | <span style="display:none">えんしえるはあと2</span>エンジェル・ハート <br />2ndシーズン || <span style="display:none">1</span>連載 || <span style="display:none">B</span>徳間書店 || <span style="display:none">コ1</span>月刊コミックゼノン 2010年12月号 - 2017年7月号 || エ2 || ‐ || ‐ || 『エンジェル・ハート』の続編。 |} === 書籍 === ==== 漫画単行本 ==== <div style="font-size:smaller;"> * 2017年7月現在。 * 書名が同じ物は【 】内の注記で区分をつけている。 * デフォルトでの表記は作品毎にまとめて初巻の発行順とし、短編集については最後にまとめた。他列でのソート後にデフォルトの順へと戻すには、最左列を利用する。 * 「判」欄はその書籍の判型をしめし、ハードカバー本については「H」を付記する。 * 「略」欄は上記[[#漫画作品]]の収録欄で用いている略号を示す。 <span style="color:#fcc;">■</span> : オリジナル、<span style="color:#fee;">■</span> : 再出版、<span style="color:#ccf;">■</span> : 短編集。 </div> {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller; background-color:#fcc" ! !! 書名 !! 発行 !! レーベル !! 判 !! 発行年 !! 巻 !! 注記 !! 略 |- ! 1 | キャッツ♥アイ【JC版】 || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1982年<span style="display:none">04月</span> - 1985年<span style="display:none">07月</span> || style="text-align:right;" | 18 || || キ |- style="background-color:#fee" ! 2 | キャッツ♥アイ【愛蔵版】 || 集英社 || ‐ || <span style="display:none">4</span>B6H || 1994年<span style="display:none">01月 - 10月</span> || style="text-align:right;" | 10 || 愛蔵版。 || キ |- style="background-color:#fee" ! 3 | キャッツ♥アイ【文庫版】 || 集英社 || <span style="display:none">ズ</span>集英社文庫コミックス版 || <span style="display:none">1</span>文庫 || 1995年<span style="display:none">11月</span> - 1996年<span style="display:none">04月</span> || style="text-align:right;" | 10 || 文庫版。 || キ |- style="background-color:#fee" ! 4 | <span style="display:none">キョ</span> [[キャッツ・アイ|CAT'S♥EYE COMPLETE EDITON]] || <span style="display:none">B</span>徳間書店 || <span style="display:none">ト</span>徳間コミックス || <span style="display:none">5</span>A5 || 2005年<span style="display:none">10月</span> - 2006年<span style="display:none">06月</span> || style="text-align:right;" | 15 || [[完全版コミックス|完全版]]。 || キ |- ! 5 | シティーハンター【JC版】 || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1986年<span style="display:none">01月</span> - 1992年<span style="display:none">04月</span> || style="text-align:right;" | 35 || || シ |- style="background-color:#fee" ! 6 | シティーハンター【文庫版】 || 集英社 || <span style="display:none">ズ</span>集英社文庫コミックス版 || <span style="display:none">1</span>文庫 || 1996年<span style="display:none">06月</span> - 1997年<span style="display:none">10月</span> || style="text-align:right;" | 18 || 文庫版。 || シ |- style="background-color:#fee" ! 7 | <span style="display:none">シテゥ</span> [[シティーハンター|CITY HUNTER COMPLETE EDITON]] || <span style="display:none">B</span>徳間書店 || <span style="display:none">ト</span>徳間コミックス || <span style="display:none">5</span>A5 || 2003年<span style="display:none">12月</span> - 2005年<span style="display:none">06月</span> || style="text-align:right;" | 32<br />+3 || [[完全版コミックス|完全版]]。<br />+3はイラスト集 (X,Y巻)、短編集 (Z巻)。 || シ |- ! 8 | <span style="display:none">コ</span> こもれ陽の下で… || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1994年<span style="display:none">03月 - 07月</span> || style="text-align:right;" | 3 || || こ |- ! 9 | <span style="display:none">ラ</span> RASH!! || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1995年<span style="display:none">02月 - 05月</span> || style="text-align:right;" | 2 || || ラ |- ! 10 | <span style="display:none">フ1</span> F.COMPO【SC版】 || 集英社 || <span style="display:none">エ</span>[[MANGAオールマン#SCオールマン|SCオールマン]] || <span style="display:none">3</span>B6 || 1997年<span style="display:none">04月</span> - 2001年<span style="display:none">01月</span> || style="text-align:right;" | 14 || || フ |- style="background-color:#fee" ! 11 | <span style="display:none">フ2</span> F.COMPO【ZC版】 || <span style="display:none">B</span>徳間書店 || [[月刊コミックゼノン#ゼノンコミックス|ゼノンコミックスDX]] || <span style="display:none">3</span>B6 || 2011年<span style="display:none">07月</span> - 2012年 || style="text-align:right;" | 11 || 出版社を変えての再出版。 || フ |- ! 12 | エンジェル・ハート || <span style="display:none">A</span>新潮社 || <span style="display:none">ハ</span>BUNCH COMICS || <span style="display:none">3</span>B6 || 2001年<span style="display:none">10月</span> - 2010年<span style="display:none">09月</span> || style="text-align:right;" | 33 || || エ1 |- ! 13 | エンジェル・ハート 2nd season || <span style="display:none">B</span>徳間書店 || [[月刊コミックゼノン#ゼノンコミックス|ゼノンコミックス]] || <span style="display:none">3</span>B6 || 2011年<span style="display:none">03月</span> - 2017年 || style="text-align:right;" | 16 || || エ2 |- style="background-color:#ccf" ! 14 | <span style="display:none">テ1</span> [[天使の贈りもの (漫画)|天使の贈りもの 北条司短編集[1]]] || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1988年<span style="display:none">11月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 1冊目の短編集。 || 短1 |- style="background-color:#ccf" ! 15 | <span style="display:none">サ</span> [[桜の花 咲くころ|桜の花 咲くころ 北条司短編集[2]]] || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1993年<span style="display:none">05月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 2冊目の短編集。 || 短2 |- style="background-color:#ccf" ! 16 | <span style="display:none">シヨ1</span> [[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜|少年たちのいた夏 <br />〜Melody of Jenny〜{{Wrap}}北条司短編集[3]]] || 集英社 || [[ジャンプ・コミックス]] || <span style="display:none">2</span>新書 || 1996年<span style="display:none">02月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 3冊目の短編集。 || 短3 |- style="background-color:#ccf" ! 17 | <span style="display:none">ハ</span>北条司短編集 Parrot 幸福の人 || 集英社 || プレイボーイコミック || <span style="display:none">6</span>B5 || 2000年<span style="display:none">03月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 4冊目の短編集、ISBN 4-08-857040-5。<br />フルカラーでデジタルワークは永田太。 || 短4 |- style="background-color:#eef" ! 18 | <span style="display:none">シト</span> [[天使の贈りもの (漫画)#文庫版|北条司短編集1 シティーハンター - XYZ -]] || 集英社 || <span style="display:none">ズ</span>集英社文庫コミックス版 || <span style="display:none">1</span>文庫 || 2000年<span style="display:none">01月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 短編集、JC版3冊を2冊にまとめた文庫版。 || 文1 |- style="background-color:#eef" ! 19 | <span style="display:none">シヨ2</span> [[少年たちのいた夏 〜Melody of Jenny〜#文庫版|北条司短編集2{{Wrap}}少年たちのいた夏 <br />〜Melody of Jenny〜]] || 集英社 || <span style="display:none">ズ</span>集英社文庫コミックス版 || <span style="display:none">1</span>文庫 || 2000年<span style="display:none">01月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 短編集、JC版3冊を2冊にまとめた文庫版。 || 文2 |- style="background-color:#eef" ! 20 | <span style="display:none">テ2</span> [[天使の贈りもの (漫画)#自選短編集|北条司短編集 天使の贈りもの]] || 集英社 || <span style="display:none">エ</span>[[MANGAオールマン#SCオールマン|SCオールマン]] || <span style="display:none">5</span>A5 || 2000年<span style="display:none">10月</span> || style="text-align:right;" | 1 || 愛蔵版、JC版からの自選短編集。 || 自 |} ==== イラスト集 ==== * 『北条司 ILLUSTRATIONS』集英社〈[[ジャンプ・コミックス|ジャンプ・コミックス デラックス]]〉1991年3月13日第1刷発行、ISBN 4-08-858150-4 * 『北条司 漫画家20周年記念 イラストレーションズ』集英社、2000年12月25日第1刷発行、ISBN 4-08-782598-1 * 『北条司 漫画家25周年記念 自選イラストレーション100』徳間書店、2005年12月13日初版発行、ISBN 978-4-19-862101-8 ==== ガイドブック ==== * 『シティーハンターパーフェクトガイドブック』集英社、2000年1月25日第1刷、ISBN 4-08-782038-6 * 『エンジェル・ハート公式ガイドブック』新潮社〈BUNCHI COMICS〉2008年5月25日初版、ISBN 978-4-10-771398-8 === 映像作品 === * 『[[エンジェルサイン]]』(2019年) - コアミックス主催「[[サイレントマンガオーディション]]」のアジア・ヨーロッパ・南米の受賞5作品を実写化したオムニバス映画。北条は総監督を務める。 == 関連人物 == === 担当編集者 === ;[[堀江信彦]] : デビュー前からの初代[[編集者|担当編集者]]で<ref name="ahgbp90" />、共にコアミックスを設立する<ref name="coamix" />など長く北条のパートナーを務めている。『C.H.』のヒロイン「香」の名前は当時生まれたばかりであった堀江の娘の名前から付けられている<ref>「初代担当編集者が語るCITY HUNTER誕生秘話」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:01』2003年12月15日発行、ISBN 4197802137、60頁</ref>。 === 漫画家仲間 === ; [[原哲夫]] :同じく堀江が担当であった漫画家仲間。コアミックスの共同設立者の一人<ref name="coamix" />。 ; [[次原隆二]] : 同じく堀江が担当であった漫画家仲間。コアミックスの共同設立者の一人<ref name="coamix" />。北条がまだ福岡に在住していたデビュー時期に、インフルエンザに倒れて原稿が落としかねない状況となり、近くにいる漫画家として紹介されて手伝いに入った事がある<ref>『コミックバンチ』32号、158頁</ref>。 === 元アシスタント === ;[[井上雄彦]] : 1988年<ref>「井上雄彦が語る「師匠・北条司から学んだ事」」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:02』2003年12月15日発行、ISBN 4197802145、210頁</ref>から1年弱北条の元で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めていた<ref name="ahgbp97">『A.H.公式ガイドブック』97頁</ref>。『C.H.』の完全版には「師匠・北条司から学んだ事」と題した文を寄稿している<ref>「井上雄彦が語る「師匠・北条司から学んだ事」」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:02』209 - 213頁</ref>。また『A.H.』1500万部を記念した鼎談を梅澤・北条と行っている<ref name="ahgb3">「北条司 井上雄彦 &#x6885;澤春人特別座談会」『A.H.公式ガイドブック』94 - 99頁</ref>。 ; [[梅澤春人]] : 井上と同じ時期に1年強ほどアシスタントを務めていた<ref name="ahgbp97" />。『A.H.』1500万部を記念し、井上・北条と鼎談を行っている<ref name="ahgb3" />。 ; [[柳川喜弘]] : 元アシスタント<ref>「[http://slow-slow.hp.infoseek.co.jp/prf.html 柳川喜弘プロフィール]」『[http://slow-slow.hp.infoseek.co.jp/ 柳川喜弘ホームページ]』</ref>。『週刊少年ジャンプ』『コミックバンチ』で連載を持っていた。 === その他 === ;[[神谷明]] : 『C.H.』で冴羽{{補助漢字フォント|&#29536;}}役を担当した声優で、コアミックスの共同設立者の一人<ref name="coamix" />。神谷の事務所名「冴羽商事」は冴羽{{補助漢字フォント|&#29536;}}に由来している<ref>『CITY HUNTER COMPLETE DVD BOX』The ART of CITY HUNTER 71頁</ref>。北条とは家族ぐるみの交流があり<ref>「人気声優神谷明氏 秘蔵イラスト&C・Hを語る!!」『CITY HUNTER COMPLETE EDITON VOLUME:X』2004年9月15日発行、ISBN 4197802633、115頁</ref>、神谷が[[阪神・淡路大震災]]の復興チャリティとして[[WITH YOU (音楽ユニット)|WITH YOU]]を結成した際には北条も参加している。 ;[[錦ソクラ]] : 2017年より月刊コミックゼノン誌上にて、シティーハンターの公式[[スピンオフ]]作品である[[シティーハンター#スピンオフ|今日からCITY HUNTER]]を連載しており、参考書/「CITY HUNTER」 北条司として、同作品に名を連ねている。 ; [[えすとえむ]] : 2018年よりシティーハンターの海坊主を主人公にした[[シティーハンター#スピンオフ|CITY HUNTER外伝 伊集院隼人氏の平穏ならぬ日常]]をコミックタタン上に連載。キャラクター原案として北条の名が連ねられている。 === トリビュートイラスト関連 === 2010年に北条のデビュー30周年を記念し、北条のキャラクターを他の漫画家が描くトリビュート・ピンナップ企画が『週刊コミックバンチ』で2度行われた。同年の『バンチ』休刊後に後継紙となった『月刊コミックゼノン』では、新たなトリビュートイラストと『バンチ』での企画分のダイジェスト版を収録した『北条司30周年記念特製画集』が付録とされた。以下、この企画で寄稿した漫画家を列挙する。 * 「北条司 DEBUT 30TH ANNIVERSARY TRIBUTE PIN-UP」『週刊コミックバンチ』2010年4・5合併号 ** [[井上雄彦]]/[[梅澤春人]]/[[朝基まさし]]/[[のりつけ雅春]]/[[新條まゆ]]/原哲夫 * 「Tsukasa Hojo Debut 30th Anniversary Tribute Pin-Up 2nd」『週刊コミックバンチ』2010年24号、第2弾トリビュートダイジェスト ** [[小畑友紀]]/[[芹沢直樹]]/[[高橋留美子]]/次原隆二/[[冨樫義博]]/[[渡辺航]] * 『北条司30周年記念特製画集』(『月刊コミックゼノン』2012年1月号付録) **[[久保ミツロウ]]/[[村田雄介]]/[[ヤマザキマリ]]/[[佐原ミズ]]/[[大島司]]/[[小野洋一郎]] == 参考文献 == {{Refbegin}} * 「INTERVIEW TSUKASA HOJO」『北条司 ILLUSTRATIONS』94 - 97頁 * 「北条司 LONG INTERVIEW PART2」『シティーハンターパーフェクトガイドブック』167 - 178頁 * 「HOJO TSUKASA interview」『北条司 漫画家20周年記念 イラストレーションズ』101 - 107頁 * 「《漫画家のかたち》北条司(前編)」『週刊コミックバンチ』32号(2002年7・8合併号)、新潮社、2002年1月29日・2月5日発行、153 - 158頁 * 「《漫画家のかたち》北条司(後編)」『週刊コミックバンチ』33号(2002年9号)新潮社、2月12日発行、190 - 194頁 * 『北条司 漫画家25周年記念 自選イラストレーション100』 ** 「作品リスト」「単行本リスト」105頁 ** 「北条司 インタビュー」106 - 107頁 * 「第3章 スペシャルインタビュー」『エンジェル・ハート公式ガイドブック』87 - 99頁 {{Refend}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == * {{citation|last=北条|first=司|title = 愛蔵版コミックス シティーハンターパーフェクトガイドブック | year = 2000 | publisher = 集英社 | capter = 北条司ロングインタビュー PART1}} == 外部リンク == {{Commonscat|Tsukasa Hojo|北条司}} * [http://www.hojo-tsukasa.com/ 北条司公式ホームページ] * [http://www.hojo-tsukasa.com/bbs_new/bbs.cgi 掲示板] * [http://www.coamix.co.jp/ コアミックス] - 公式サイト。 * [http://www.nsp.tv/top.htm 株式会社ノース・スターズ・ピクチャーズ] - 公式サイト。 * {{Twitter|hojo_official|北条司オフィシャル}}(2010年6月28日 16:32:02 - )'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' *{{mediaarts-db|C56618|北条司}} {{シティーハンター}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ほうしよう つかさ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:コアミックス|人ほうしよう つかさ]] [[Category:真颯館高等学校出身の人物]] [[Category:九州産業大学出身の人物]] [[Category:北九州市出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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年表
年表(ねんぴょう、英: timeline タイムライン)は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと。 年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した表のことである。 冒頭の条件を満たしていれば年表であるので、年表は多種多様であり、さまざまな種類があり、分類法もいくつもある。 テーマ、つまり何に焦点を当てているかで年表を分類することがある。 表に用いられている手法で分類することもある。(ほぼ)文字ばかりの表 / 視覚的効果も多用した表、といった線引きである。 年表は、教育的な場面でよく用いられる。歴史上の出来事の前後関係や、各時期の傾向、俯瞰的な概略などを、学習者が掴むのに、年表が手助けとなるからである。 特に図で表した年表の場合、出来事の間隔や(戦争や生涯などの)出来事が起きていた時間の長さ、同時に起きていた出来事などを視覚化することが出来る。 年表は歴史の学習で特によく用いられる。それにより、時間とともに変化する感覚が伝わるからである。戦争や社会運動は年表の主題としてよく使われる。また、伝記でも使われる。 年表は自然科学、特に天文学・生物学・地質学の学習者のために使われる。 なお教育者や研究者も、他者を教育するためだけでなく、出来事を整理整頓しなおして自分の理解の助けとするために年表を作ることがある。 英語、ドイツ語、フランス語などの「横書き」が原則の(圧倒的に多い)言語では、結果として縦方向に伸びてゆくように、古い出来事ほど上に、新しい出来事ほど下になるように構成される。 現代の日本語というのは横書きでも縦書きでも書かれるものなので、そういう言語では年表は、横書き時には縦方向に、縦書き時には横方向に伸びるように構成される。日本語では縦書き時には右から左へと書く習慣なので、縦書き時には、古い出来事は右側に、新しい出来事は左側に配置されることが一般的。 各年・各年代を表すページへの年代順の一覧。
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年表は、(歴史上の)出来事を年の順(「年月日」の順、「日付」の順)に記載した表のこと。 年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した表のことである。
{{For|類似の用語|タイムライン|タイムテーブル|スケジュール}} {{出典の明記|date=2023年3月}} '''年表'''(ねんぴょう、{{Lang-en-short|timeline}} タイムライン)は、(歴史上の)出来事を[[編年|年の順]](「年月日」の順、「[[日付]]」の順)に記載した[[テーブル (情報)|表]]のこと<ref>[[広辞苑]]第六版「年表」</ref>。 年表というのは、(日本語では)すでに起きたこと(=「歴史上のこと」)を、起きた日付で排列(配列)した[[テーブル (情報)|表]]のことである<ref group="注釈">それに対して、まだ起きていないこと、未来の予定などを日付順に記載した表は、(日本語の場合は)「[[予定表]]」や「[[計画|スケジュール]]表」などと呼ぶ傾向がある。英語では、過去のことを扱う場合でも、未来のことを扱う場合でも、ともかく、時(time)が、線(line)的に並んでいれば、おかまいなしに「timeline」と呼ぶ傾向が、近年強まっている。実は日本語の「年表」という用語にも、「過去でなければならない」という意味の漢字や語根は含まれていない。ただ(時を表すための字である)「年」と(表形式だという意味の字)「表」の組み合わせである。</ref>。 == 種類・分類 == 冒頭の条件を満たしていれば年表であるので、年表は多種多様であり、さまざまな種類があり、分類法もいくつもある。 <u>テーマ</u>、つまり何に焦点を当てているかで年表を分類することがある。 *「歴史」という言葉で指されがちな領域を広く扱っているものを「歴史年表」と呼ぶ。主に[[政権]]史(ある地域での[[権力者]]や[[政府]]の交代・盛衰の歴史)、[[戦争]]史、[[政治]]史であり、当該域の[[文化史]]に関してはほんの部分抽出といったところである。<ref group="注釈">本当は「歴史」と言っても、音楽史もあれば、科学史もあるし、庶民の(権力闘争とは縁遠い)普通の生活の歴史などもあるのだが、なぜか「歴史」と言うと、なぜか「権力史」になりがちで、政治権力や権力者のことばかりに焦点を当てて他を無視しがちである。たとえば100万人で構成された古代国家があった場合でも、権力者やその取り巻きになっているのはわずか数千人程度で、残りの大多数は権力とはほぼ無縁の、平凡な人々である。ごく一部の例外的な人間の権力闘争にばかり焦点が当てられ、残りの大多数の人々の生活や人生の実態に関する記述がないがしろにされてしまっている。このあたりの問題点は、アカデミックな世界でも、ここ数十年、頻繁に指摘されるようになってきている。</ref> つまり漠然と「歴史年表」と呼ばれているのは、実は、主として政権・権力者・戦争に焦点を当てた(当ててしまった)年表である。[[世界史]]に焦点を当てた表を「世界史年表」と言う。特定の地域にだけ焦点を当てた歴史(たとえば[[ヨーロッパ史|西欧史]]、[[中東史]]、[[中国史]]、[[朝鮮史]]([[韓国史]])、[[日本史]]など)の年表を記載したものは「西欧史年表」「中東史年表」「中国史年表」「朝鮮史年表」(韓国史年表)「日本史年表」などと呼ばれている。 *そうではない領域に焦点を当てた年表もある。たとえば音楽史年表、科学史年表などがある。 {{Seealso|年表一覧}} *個人の人生の中での歴史(出来事)に焦点を当てた年表が、多くの成果を長年に渡って成し遂げた人物に関する書物(伝記など)や(百科事典などの)記事にはしばしば記載される。たとえば業績の多い音楽家や科学者などにはそうした年表が記載される。英語では全く同じように「timeline」と呼ぶが、日本語では(たいてい)「年譜」と呼ぶ(日本語では「表」と「譜」で文字は異なっているが、指している本質、年月日順に配列した表、ということは全く同じである)。「個人史年表」などとも言う。なお、近年の日本では、(著名な業績を挙げた人でなくても)普通の人々が定年後などに自分だけをテーマにした個人史(「自分史」)を(自分や家族などに向けて)書くということを行う人もいるので、そこに「自分史年表」という名の年表を記載する、ということも行われている。 表に用いられている<u>手法</u>で分類することもある。(ほぼ)文字ばかりの表 / 視覚的効果も多用した表、といった線引きである。 * もっぱら文字で表した年表。たとえば、起こった年(月日)と出来事を1つの[[行]]にし、それを並べたもの。 * 長い直線を描いて一種の「時間軸」とし、時間軸上の出来事のあった時間に日付と出来事を書くもの。見る人に、ひとつひとつの状態に対応する「時の長さ」を意識させる。 :図で表す場合、年表の主題と出来事によって、年表の時間軸はどんな時間スケールでも使うことができる。ほとんどの年表は[[線型性|線形]]スケールを使用している。図上の距離はそこで表される時間に比例している。この時間スケールは、年表中ので出来事に依存している。[[地球史年表|地球史の年表]]は何億年もの期間を表すが、{{仮リンク|アメリカ同時多発テロ事件のタイムライン|en|Timeline for the day of the September 11 attacks}}は数分の間に起きた出来事を表す。地球史年表のような非常に長い期間の年表には、[[対数スケール]]の時間軸が用いられる。 *時間軸と[[直交]]する方向に地理的な空間を割り当てて、空間と時間の広がりを踏まえて、地球上の出来事を広く俯瞰できるようにしたもの。 {{gallery|height=240px |File:Safavid dynasty timeline-en.svg|[[サファヴィー朝]]の歴史年表。縦長の色分けされた帯を、主たる要素として配置している。 |File:Atg.timeline.png|[[アレクサンドロス大王]]の生涯に焦点を当てた年表。その父の[[ピリッポス2世 (マケドニア王)|ピリッポス2世]]も記載して、両者の人生が重なっていた時期や、アレクサンドロス大王が成果を上げた時期が大王の人生の中ではどのあたりなのか、を見る人に意識させている。 |ファイル:A New Chart of History color.jpg|[[ジョゼフ・プリーストリー]]の『{{仮リンク|歴史の新図表|en|A New Chart of History}}』(1765年)。縦軸方向には地理的な場所を配置し、見る人の視野を広くさせ、できるだけ世界全体の歴史を、時間・空間ともに俯瞰させよう、という心くばりがある。 |ファイル:ChristianityBranches-2ja.svg|[[キリスト教]]の[[教派]]の分派・派生関係の歴史に焦点を当てた年表。ツリー構造で表現。分かりやすくなるよう色分けして表現。要所に年号と出来事を言葉で書き込んでいる。 }} == 教育での利用 == 年表は、教育的な場面でよく用いられる。歴史上の出来事の前後関係や、各時期の傾向、俯瞰的な概略などを、学習者が掴むのに、年表が手助けとなるからである。 特に図で表した年表の場合、出来事の間隔や(戦争や生涯などの)出来事が起きていた時間の長さ、同時に起きていた出来事などを視覚化することが出来る。 ;歴史の学習での利用 年表は歴史の学習で特によく用いられる。それにより、時間とともに変化する感覚が伝わるからである。戦争や社会運動は年表の主題としてよく使われる。また、[[伝記]]でも使われる。 ;自然科学での利用 年表は自然科学、特に[[天文学]]・[[生物学]]・[[地質学]]の学習者のために使われる。 ;他 なお教育者や研究者も、他者を教育するためだけでなく、出来事を整理整頓しなおして自分の理解の助けとするために年表を作ることがある。 == 縦書き横書きと時間軸 == 英語、ドイツ語、フランス語などの「[[縦書きと横書き|横書き]]」が原則の(圧倒的に多い)言語では、結果として縦方向に伸びてゆくように、古い出来事ほど上に、新しい出来事ほど下になるように構成される。 現代の日本語というのは[[縦書きと横書き|横書きでも縦書きでも]]書かれるものなので、そういう言語では年表は、横書き時には縦方向に、縦書き時には横方向に伸びるように構成される。日本語では縦書き時には右から左へと書く習慣なので、縦書き時には、古い出来事は右側に、新しい出来事は左側に配置されることが一般的。 == ギャラリー == {{gallery|height=280px |ファイル:Tidslinje 1.JPG|[[スウェーデン]]・[[エレブルー]]の屋外に設置された、銅製のタイムライン「歴史の50メートル」 |File:Timeline postgresql.png|[[PostgreSQL]]というデータベース管理システムの歴史に焦点を当てた年表 |File:Timeline of web browsers.svg|さまざまな[[ウェブブラウザ]]の歴史を俯瞰するための年表 |File:Image-CMB Timeline300 (ja).png|[[宇宙の歴史]]、[[ビッグバン]]以降の空間の膨張を立体的に表現してみせた年表。 }} ==各年代の項目== 各年・各年代を表すページへの年代順の一覧。 === 1900年以降 === {| border="0" cellspacing="1" cellpadding="3" style="font-size:95%; border:solid #aaa 1px;" | style="background-color:#ccc;" | [[19世紀]]||style="background-color:#ddd;" rowspan="2"|[[1900年代]]||[[1900年|1900]]|| || || || || || || || || || |- | style="background-color:#ccc;" rowspan="11" |[[20世紀]]|| ||[[1901年|1901]]||[[1902年|1902]]||[[1903年|1903]]||[[1904年|1904]]||[[1905年|1905]]||[[1906年|1906]]||[[1907年|1907]]||[[1908年|1908]]||[[1909年|1909]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[1910年代]]||[[1910年|1910]]||[[1911年|1911]]||[[1912年|1912]]||[[1913年|1913]]||[[1914年|1914]]||[[1915年|1915]]||[[1916年|1916]]||[[1917年|1917]]||[[1918年|1918]]||[[1919年|1919]] |- | style="background-color:#ddd;" |[[1920年代]]||[[1920年|1920]]||[[1921年|1921]]||[[1922年|1922]]||[[1923年|1923]]||[[1924年|1924]]||[[1925年|1925]]||[[1926年|1926]]||[[1927年|1927]]||[[1928年|1928]]||[[1929年|1929]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[1930年代]]||[[1930年|1930]]||[[1931年|1931]]||[[1932年|1932]]||[[1933年|1933]]||[[1934年|1934]]||[[1935年|1935]]||[[1936年|1936]]||[[1937年|1937]]||[[1938年|1938]]||[[1939年|1939]] |- | style="background-color:#ddd;" |[[1940年代]]||[[1940年|1940]]||[[1941年|1941]]||[[1942年|1942]]||[[1943年|1943]]||[[1944年|1944]]||[[1945年|1945]]||[[1946年|1946]]||[[1947年|1947]]||[[1948年|1948]]||[[1949年|1949]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[1950年代]]||[[1950年|1950]]||[[1951年|1951]]||[[1952年|1952]]||[[1953年|1953]]||[[1954年|1954]]||[[1955年|1955]]||[[1956年|1956]]||[[1957年|1957]]||[[1958年|1958]]||[[1959年|1959]] |- | style="background-color:#ddd;" |[[1960年代]]||[[1960年|1960]]||[[1961年|1961]]||[[1962年|1962]]||[[1963年|1963]]||[[1964年|1964]]||[[1965年|1965]]||[[1966年|1966]]||[[1967年|1967]]||[[1968年|1968]]||[[1969年|1969]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[1970年代]]||[[1970年|1970]]||[[1971年|1971]]||[[1972年|1972]]||[[1973年|1973]]||[[1974年|1974]]||[[1975年|1975]]||[[1976年|1976]]||[[1977年|1977]]||[[1978年|1978]]||[[1979年|1979]] |- | style="background-color:#ddd;" |[[1980年代]]||[[1980年|1980]]||[[1981年|1981]]||[[1982年|1982]]||[[1983年|1983]]||[[1984年|1984]]||[[1985年|1985]]||[[1986年|1986]]||[[1987年|1987]]||[[1988年|1988]]||[[1989年|1989]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[1990年代]]||[[1990年|1990]]||[[1991年|1991]]||[[1992年|1992]]||[[1993年|1993]]||[[1994年|1994]]||[[1995年|1995]]||[[1996年|1996]]||[[1997年|1997]]||[[1998年|1998]]||[[1999年|1999]] |- | style="background-color:#ddd;" rowspan="2"|[[2000年代]]||[[2000年|2000]]||||||||||||||||||| |- | style="background-color:#ccc;" rowspan="4"|[[21世紀]]||||[[2001年|2001]]||[[2002年|2002]]||[[2003年|2003]]||[[2004年|2004]]||[[2005年|2005]]||[[2006年|2006]]||[[2007年|2007]]||[[2008年|2008]]||[[2009年|2009]] |- style="background-color:#eee;" | style="background-color:#ddd;" |[[2010年代]]||[[2010年|2010]]||[[2011年|2011]]||[[2012年|2012]]||[[2013年|2013]]||[[2014年|2014]]||[[2015年|2015]]||[[2016年|2016]]||[[2017年|2017]]||[[2018年|2018]]||[[2019年|2019]] |- | style="background-color:#ddd;" |[[2020年代]]||[[2020年|2020]]||[[2021年|2021]]||[[2022年|2022]]||[[2023年|2023]]||[[2024年|2024]]||[[2025年|2025]]||[[2026年|2026]]||[[2027年|2027]]||[[2028年|2028]]||[[2029年|2029]] |- | style="background:#ddd;"|[[2030年代]]||[[2030年|2030]]||[[2031年|2031]]||[[2032年|2032]]||[[2033年|2033]]||[[2034年|2034]]||[[2035年|2035]]||[[2036年|2036]]||[[2037年|2037]]||[[2038年|2038]]||[[2039年|2039]] |} === 全体 === {| border="0" cellpadding="2" cellspacing="2" style="text-align:right;" |- style="background-color:#eee;" | colspan="2" style="background-color:#ccc; 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365日
365日(365にち)は、日と暦に関するページへのメタリンク。365日と閏日(2月29日)について、それぞれ何の日かを調べることができる。
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{{Otheruses||Mr.Childrenの楽曲|SENSE (アルバム)}} '''365日'''(365にち)は、[[日]]と[[暦]]に関するページへのメタリンク。365日と[[閏日]]([[2月29日]])について、それぞれ何の日かを調べることができる。 == リンク == {| |- !style="text-align: right;"|[[1月]] |style="font-size: smaller;"|[[1月1日|1]] [[1月2日|2]] [[1月3日|3]] [[1月4日|4]] [[1月5日|5]] [[1月6日|6]] [[1月7日|7]] [[1月8日|8]] [[1月9日|9]] [[1月10日|10]] [[1月11日|11]] [[1月12日|12]] [[1月13日|13]] [[1月14日|14]] [[1月15日|15]] [[1月16日|16]] [[1月17日|17]] [[1月18日|18]] [[1月19日|19]] [[1月20日|20]] [[1月21日|21]] [[1月22日|22]] [[1月23日|23]] [[1月24日|24]] [[1月25日|25]] [[1月26日|26]] [[1月27日|27]] [[1月28日|28]] [[1月29日|29]] [[1月30日|30]] [[1月31日|31]] |- !style="text-align: right;"|[[2月]] |style="font-size: smaller;"|[[2月1日|1]] [[2月2日|2]] [[2月3日|3]] [[2月4日|4]] [[2月5日|5]] [[2月6日|6]] [[2月7日|7]] [[2月8日|8]] [[2月9日|9]] [[2月10日|10]] [[2月11日|11]] [[2月12日|12]] [[2月13日|13]] [[2月14日|14]] [[2月15日|15]] [[2月16日|16]] [[2月17日|17]] [[2月18日|18]] [[2月19日|19]] [[2月20日|20]] [[2月21日|21]] [[2月22日|22]] [[2月23日|23]] [[2月24日|24]] [[2月25日|25]] [[2月26日|26]] [[2月27日|27]] 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|&nbsp; |&nbsp; |} {| class="wikitable" style="float: left; margin:0 1em 1em 0; text-align: right;" !colspan="7" style="background-color: #ccc;"|[[5月]] |- |[[5月1日|1]] |[[5月2日|2]] |[[5月3日|3]] |[[5月4日|4]] |[[5月5日|5]] |[[5月6日|6]] |[[5月7日|7]] |- |[[5月8日|8]] |[[5月9日|9]] |[[5月10日|10]] |[[5月11日|11]] |[[5月12日|12]] |[[5月13日|13]] |[[5月14日|14]] |- |[[5月15日|15]] |[[5月16日|16]] |[[5月17日|17]] |[[5月18日|18]] |[[5月19日|19]] |[[5月20日|20]] |[[5月21日|21]] |- |[[5月22日|22]] |[[5月23日|23]] |[[5月24日|24]] |[[5月25日|25]] |[[5月26日|26]] |[[5月27日|27]] |[[5月28日|28]] |- |[[5月29日|29]] |[[5月30日|30]] |[[5月31日|31]] |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |&nbsp; |} {| class="wikitable" style="float: left; margin:0 1em 1em 0; text-align: right;" !colspan="7" style="background-color: #ccc;"|[[6月]] |- |[[6月1日|1]] |[[6月2日|2]] |[[6月3日|3]] |[[6月4日|4]] |[[6月5日|5]] |[[6月6日|6]] |[[6月7日|7]] |- |[[6月8日|8]] |[[6月9日|9]] |[[6月10日|10]] |[[6月11日|11]] |[[6月12日|12]] |[[6月13日|13]] |[[6月14日|14]] |- |[[6月15日|15]] |[[6月16日|16]] |[[6月17日|17]] |[[6月18日|18]] 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水木しげる
水木 しげる(みずき しげる 、本名:武良 茂〈むら しげる〉、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日)は、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。 大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。 1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。 高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、大日本帝国陸軍軍人として第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。 復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。 1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。 1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。 最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。 1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。 長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。 妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。 調布市名誉市民、東京都名誉都民、鳥取県名誉県民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。 2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。 1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木生誕当時、父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていた。身重の母親・琴江は夫に会うために鳥取県から来て、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢については不明確だが、生後まもなくから2歳までの間とのこと。その後父は事業に失敗して帰郷、一家全員境港に定住する結果となる。 5歳の頃「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。 比較的恵まれた環境で育つが、学校の勉強はできる方ではなく両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという風変わりな生徒だった。当時「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。屁を自在に出すことができ、朝礼のおりに放屁して他の生徒たちを笑わせていた。そんな調子で成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く明るい性格もあってガキ大将として君臨した。水木の母は学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、成績優秀な兄と弟は尋常小学校卒業後は旧制中学校に進学を果たし、勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で水木の母は教師から「無理」と即答された。将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進み、すぐに不安を忘れて遊び回る子供に戻った。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ新聞に掲載された。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。 高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と嘆いたという。しかし当の水木はほとんど平静で、田舎から都会に出て働くのを楽しみにもしていた。 大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、ここもクビになった。その後体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へ戻る。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな絵の勉強に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を...」という父の言葉に躍り上がったと回想している。 水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という珍しい無試験の美術学校を見つけて入学した。しかし学院は学校というには小さな個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から学校に行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。 16歳の頃に父が丹波篠山に支店長として転勤し、水木だけを一人暮らしさせるのは不経済という判断から父と丹波篠山の借家に引っ越した。後に母も境港から移り住み、兄と弟は旧制中学の寮に住んでいたので3人暮らしとなった。暫くは篠山から大阪の美術学校に通い続けた。18歳の頃、篠山山中の祠で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。 精華美術学院での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系旧制専門学校である東京美術学校(現・東京芸術大学)で学んで画家になるという夢が膨らんだ。しかし高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指す事に決め、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。 1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず成績不振且つ欠席が多くなり、半年で退学処分となった。間もなくマイペースぶりから新聞配達もクビになり、大阪の中之島洋画研究所に通った。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、1941年12月に日本がイギリスやアメリカ、オランダとの間に開戦する。 1942年、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や聖書などを読み漁った。その中で一番気に入ったのがドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。 21歳の時、召集令状が届き本籍地の鳥取歩兵第40連隊留守隊に入営することとなった。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった。 初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて喇叭手を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た。 最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え、九州など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、ニュージーランド軍との前線のニューブリテン島ラバウル行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。 歩兵第229連隊(岐阜県第38師団隷下)は鳥取から門司港へ向かい、日本を出発。その連隊所属となった水木も従わされ、やがてパラオからラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける。 ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。 ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転でゲリラ戦に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。 やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から機銃掃射され、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した。 九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。 追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。 しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。 最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族(英語版)と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれた。 8月25日、部隊長から「日本のポツダム宣言受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。 カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。 1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。 4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという。翌年になって治療の順番が回って来る通知を受け、上京して相模原病院で再手術を受けた(麻酔が不足していたため結構な痛みを伴うものだったとのことで、後年に水木は元気な状態へ戻るまで10日程度かかったと述懐している)。 病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請する成り行きとなり、転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。 経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。 生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。 学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で東海道募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて神戸に辿り着いた時には這々の体になりかけていた。結局美術学校は、その数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。 先の募金旅行で辿り着いた神戸市の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」をペンネームにした。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家加太こうじの助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。 1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に西宮へ引っ越した。BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して貸本の版元に持ち込みを行った。同じく紙芝居から離れた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。 この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。 貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので「水木しげる以外にも「むらもてつ」「東真一郎」など複数のペンネームを使い分けてもいた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われることになっていて、当時の国家公務員の初任給が1万足らずで紙芝居が1作200円から1000円であった事の視点では破格の高給だった。ただし、それは毎月作品を採用かつ量産された場合の契約条件であった。遅筆の水木が不慣れだった当初に、一ヶ月で作品を仕上げられる事は殆どなく、完成しても売れる見込みあると判断されなければ出版社が買い取ってくれないか、買い取られても「初回で様子見」として2万5000円未満に下げられた報酬しか支払われなかった。そればかりか初回で売れなければ他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な業界だった。貸本出版社も零細企業が多く、納入が決まっても紙芝居の貸元同様に代金の支払いが滞ることも頻繁だった。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と「堀田弘」「竹取おさむ」など勝手に作者名を変更される屈辱も味わった。 すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、即座に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日という異例のスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。 この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載。また、雑誌の編集役も請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、益々生活が苦しくなる。あまりの貧しさに、自宅へやって来た税務署員から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返した。結婚の翌年に長女の尚子(後の水木プロ社長)が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。 1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは違う紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げたが、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげると『鬼太郎』の名が知られていく契機となった。後年に水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。 名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化した。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。以後は佐藤プロや『悪魔くん』を出版した東考社の貸本漫画に活躍の場を移すが、『悪魔くん』は思ったほど人気が出ず全5巻予定が3巻で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して革命を起こす」という悪魔くんの思想描写は当時の水木自身の「懸命に働いても貧乏が続く生活」への悲しみと憤りから発したもの。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。 1964年、病気療養から復帰した長井勝一が新しく漫画雑誌を作り、水木も依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は読み切り短編「不老不死の術」を掲載した。以降ガロで白土三平やつげ義春らと共に看板作家として名を上げた。1965年に講談社はW3事件の影響で「劇画路線」を採用し、水木は『週刊少年マガジン』で「SF物」の連載を依頼されるが、自分の得意分野ではないため悩んだ末に一旦辞退した。しかし半年後、その『少年マガジン』の編集長が内田勝に交代し、作風を限定しない条件へ変更のうえで水木は再度依頼され、今度は執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのは苦労したが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。それまでの長い貧乏生活で質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、ようやく雑誌連載の原稿料ですべて返済でき、なんとか質流れにならず取り戻すことが叶った。ただ、最初に質屋に入れた背広だけは10年経って変形していたため、元の形態に戻そうと外に干したら盗まれてしまったという。 講談社漫画賞受賞で急増した仕事に対処するため1966年に水木プロダクションを設立。つげ義春、池上遼一、鈴木翁二らがアシスタント参加したことで、これ以降の水木漫画の特徴である「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した独特なものとなっている。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界が一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語でもあった「妖怪」が、さらに広まる経緯ともなった。『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。1970年には連載が11誌に達し、他にテレビやイベントの仕事も引き受けるなど、時間に追われる日々を過ごした。 気侭な人生をモットーとする水木は、どんな状況でも睡眠時間だけは十分に取るが、この時期だけはほぼ徹夜続きで、目眩や耳鳴りの症状も出る程だった。プロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感した。まもなく、軍隊時代の恩人で戦後は阪急電車の職員になった宮一郎元軍曹と26年振りに再会。そして二人で戦地を尋ねる旅行に出向く。再訪したニューブリテン島でトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見て自身のペースを失っていた事に気付き、帰国後仕事をセーブする。この時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆する。 仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的遣り繰りが厳しくなった。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど自暴自棄になって霊的世界への興味や創作意欲を失うが、次女の悦子が修学旅行で妖怪「目々連」を目撃し、水木は喜んで立ち直った。それから「鬼太郎」を筆頭に、それまで描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。 ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。 水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、幼少期を過ごした出身地鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。 90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。 また、映像作品では『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現した。2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。 2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。 その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。 2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院中に頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。 通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。 祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したラバウルをイメージした花が配され、遺影の前には天皇(当時)からの祭粢料が飾られた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。 2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「東京アニメアワードフェスティバル2016」でアニメ功労部門を受賞。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され、2017年1月のNHK『クローズアップ現代+』で特集が組まれた。 2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催。鳥取県境港では記念品の配布などが行われている。 2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。 2018年4月から2020年3月にかけて、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には水木しげるロードがリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた。 2020年の新型コロナウイルス感染症に関連して妖怪・アマビエが話題となり、水木の描いた妖怪画も大きな反響を呼んだ。 2022年7月8日、水木しげる生誕100周年を記念して、六本木ヒルズ展望台東京シティビューにて「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」が開催された。 1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。 水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。 大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い。一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪(樹木子など)も何体か描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。 1992年に『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズが刊行された。 水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。 それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。 大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。 のんのんばあとは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。 景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。...親父は足軽」という。 ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。 ふさは水木が小学5年生の時に死去した。 幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。 2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。 戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。 水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。 また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降のラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。 『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。 2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。 貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。 以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など。 シリーズ物や、長編作品を中心に記載。 『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。 他、多数。 「ゲゲゲの鬼太郎」関連作品についてはゲゲゲの鬼太郎#ゲームを、「悪魔くん」関連作品については悪魔くん#ゲームを参照。 『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。 (鳥取県境港市入船町、東京都調布市) (鳥取県米子市東倉吉町) 住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。 “本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "水木 しげる(みずき しげる 、本名:武良 茂〈むら しげる〉、1922年〈大正11年〉3月8日 - 2015年〈平成27年〉11月30日)は、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1922年(大正11年)に大阪で生まれ、鳥取県境港市で育つ。幼少時、神仏に仕える拝み屋の妻でまかない婦として家に出入りしていた景山ふさ(のんのんばあ)が語り聞かせた妖怪の話に強い影響を受ける。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "高等小学校卒業後、画家を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し1943年に召集され、大日本帝国陸軍軍人として第二次世界大戦下のニューギニア戦線・ラバウルに出征。過酷な戦争体験を重ね、アメリカ軍やオーストラリア軍の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、ニューブリテン島に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた紙芝居作家を経て上京。1958年、貸本漫画『ロケットマン』で貸本漫画家としてデビュー。1960年から断続的に『墓場鬼太郎』シリーズを発表し始める。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1961年、飯塚布枝と見合い結婚。1963年、『悪魔くん』を貸本の東考社から出版。1964年、『ガロ』で商業誌デビュー。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1965年に『テレビくん』で講談社児童まんが賞を受賞し、貸本時代に描いていた『ゲゲゲの鬼太郎』や『河童の三平』といった作品が『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』にそれぞれ掲載され、妖怪を扱った作品により人気作家となった。1966年には『悪魔くん』がテレビドラマ化。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は1968年より6度テレビアニメ化されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1993年、幼少期を過ごした境港市に町おこしとして水木しげるロードが建設され、2003年には水木しげる記念館が開館した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、1991年に紫綬褒章、2003年に旭日小綬章を受章。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また1973年に執筆した『総員玉砕せよ!』がアングレーム国際漫画祭遺産賞、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "調布市名誉市民、東京都名誉都民、鳥取県名誉県民。2010年に文化功労者にも選ばれた。2013年から『水木しげる漫画大全集』が刊行。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2015年11月30日、多臓器不全により死去。93歳没。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1922年(大正11年)3月8日、大阪府西成郡粉浜村(現在の大阪市住吉区東粉浜)に生まれた。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木生誕当時、父親の亮一は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていた。身重の母親・琴江は夫に会うために鳥取県から来て、大阪で水木を産んだ。父は共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現在の境港市入船町)に帰した。境港に戻った理由は「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からという。水木が境港に戻った年齢については不明確だが、生後まもなくから2歳までの間とのこと。その後父は事業に失敗して帰郷、一家全員境港に定住する結果となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "5歳の頃「死」に興味を抱き、3歳の弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹(大叔母)に「やいと(灸)」をすえられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "比較的恵まれた環境で育つが、学校の勉強はできる方ではなく両親が尋常小学校入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという風変わりな生徒だった。当時「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。屁を自在に出すことができ、朝礼のおりに放屁して他の生徒たちを笑わせていた。そんな調子で成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く明るい性格もあってガキ大将として君臨した。水木の母は学歴を気にする性質であったため教育に熱心で、成績優秀な兄と弟は尋常小学校卒業後は旧制中学校に進学を果たし、勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが、進路相談で水木の母は教師から「無理」と即答された。将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の高等小学校に進み、すぐに不安を忘れて遊び回る子供に戻った。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ新聞に掲載された。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と嘆いたという。しかし当の水木はほとんど平静で、田舎から都会に出て働くのを楽しみにもしていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという。谷町(現・大阪市中央区)にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、ここもクビになった。その後体調を崩して黄疸の症状が出た為、療養すべく鳥取へ戻る。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな絵の勉強に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を...」という父の言葉に躍り上がったと回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の上本町で、京都市美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という珍しい無試験の美術学校を見つけて入学した。しかし学院は学校というには小さな個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった。立派な画家になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという。失望から学校に行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "16歳の頃に父が丹波篠山に支店長として転勤し、水木だけを一人暮らしさせるのは不経済という判断から父と丹波篠山の借家に引っ越した。後に母も境港から移り住み、兄と弟は旧制中学の寮に住んでいたので3人暮らしとなった。暫くは篠山から大阪の美術学校に通い続けた。18歳の頃、篠山山中の祠で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『おとろし』らしきものに出遭ったことがあるという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "精華美術学院での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系旧制専門学校である東京美術学校(現・東京芸術大学)で学んで画家になるという夢が膨らんだ。しかし高等小学校卒の水木には旧制専門学校の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指す事に決め、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・大阪府立園芸高等学校)を受験した。同年の筆記試験は国史(日本史)の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ。定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率で、合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった。水木は不合格原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「満蒙開拓義勇軍に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している。惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1940年(昭和15年)新聞配達で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず成績不振且つ欠席が多くなり、半年で退学処分となった。間もなくマイペースぶりから新聞配達もクビになり、大阪の中之島洋画研究所に通った。水木は両親と今後を話し合い、両親から日本大学付属の旧制大阪夜間中学校(現・大阪学園大阪高等学校)への進学を勧められ、同校に入学。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には宝塚ファミリーランドの動物園や昆虫館、宝塚歌劇によく足を運んでいた。そうした中、1941年12月に日本がイギリスやアメリカ、オランダとの間に開戦する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1942年、20歳になった水木は徴兵検査を受け、結果は体は頑健ながら近眼により乙種合格で、補充兵役に編入され現役入営(入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や聖書などを読み漁った。その中で一番気に入ったのがドイツの詩人ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』で、これは戦地にも持っていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "21歳の時、召集令状が届き本籍地の鳥取歩兵第40連隊留守隊に入営することとなった。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で幹部と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて喇叭手を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に曹長から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え、九州など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、ニュージーランド軍との前線のニューブリテン島ラバウル行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "歩兵第229連隊(岐阜県第38師団隷下)は鳥取から門司港へ向かい、日本を出発。その連隊所属となった水木も従わされ、やがてパラオからラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて日露戦争で活躍した老朽船の「信濃丸」だった。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた。配属部隊の上官はなぜか茨城県出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ニューブリテン島での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊中隊長である児玉清三中尉(30歳代後半の材木屋出身の予備役将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎軍曹や砂原勝己軍医大尉なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の連合軍の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は玉砕の命令を出すが、児玉中隊長の機転でゲリラ戦に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から機銃掃射され、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、銃剣とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は虚無主義的な考え方をするようになった。そんな陰惨な日々は続き、マラリアを発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに血液型も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの輸血処置も不可能となり、止血されるが左腕に死斑が出てしまい、延命処置として軍医によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民であるトライ族(英語版)と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己大尉が庇ってくれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "8月25日、部隊長から「日本のポツダム宣言受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1946年3月、24歳の時に駆逐艦「雪風」で浦賀港に入港し、ようやく日本へ復員した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の国立病院機構相模原病院)に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「灯台守なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという。翌年になって治療の順番が回って来る通知を受け、上京して相模原病院で再手術を受けた(麻酔が不足していたため結構な痛みを伴うものだったとのことで、後年に水木は元気な状態へ戻るまで10日程度かかったと述懐している)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も配給制において政府の許可制である魚屋の資格を申請する成り行きとなり、転職した。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の荻洲立兵より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに輪タク業を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「魚屋を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた闇市商売も続けていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で東海道募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて神戸に辿り着いた時には這々の体になりかけていた。結局美術学校は、その数年後に中退した。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "先の募金旅行で辿り着いた神戸市の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが神戸市兵庫区水木通にあった事から「水木荘」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の貸元に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた活弁士の鈴木勝丸が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「水木しげる」をペンネームにした。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家加太こうじの助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に西宮へ引っ越した。BC級戦犯で巣鴨プリズンに拘留されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつノウハウを掴んで「空手鬼太郎」「河童の三平」など後年の活躍に繋がる作品を制作した。しかしテレビや貸本漫画など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して貸本の版元に持ち込みを行った。同じく紙芝居から離れた加太こうじの推薦もあり、兎月書房という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『ロケットマン』を出版し、35歳で貸本漫画家となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "貸本時代初期の水木は主に戦記漫画やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを兎月書房から刊行した。他にもホラー漫画、SF漫画、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので「水木しげる以外にも「むらもてつ」「東真一郎」など複数のペンネームを使い分けてもいた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われることになっていて、当時の国家公務員の初任給が1万足らずで紙芝居が1作200円から1000円であった事の視点では破格の高給だった。ただし、それは毎月作品を採用かつ量産された場合の契約条件であった。遅筆の水木が不慣れだった当初に、一ヶ月で作品を仕上げられる事は殆どなく、完成しても売れる見込みあると判断されなければ出版社が買い取ってくれないか、買い取られても「初回で様子見」として2万5000円未満に下げられた報酬しか支払われなかった。そればかりか初回で売れなければ他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な業界だった。貸本出版社も零細企業が多く、納入が決まっても紙芝居の貸元同様に代金の支払いが滞ることも頻繁だった。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と「堀田弘」「竹取おさむ」など勝手に作者名を変更される屈辱も味わった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県能義郡大塚村(現在の島根県安来市)出身の飯塚布枝と見合いをし、即座に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の遠縁だった。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日という異例のスピード婚で、式場は米子の灘町後藤のお屋敷が用いられた。新婚旅行の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり、兎月書房の貸本用雑誌である『少年戦記』で水木しげる作戦シリーズなどを連載。また、雑誌の編集役も請け負って小松崎茂や坂井三郎らとも交流している。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、益々生活が苦しくなる。あまりの貧しさに、自宅へやって来た税務署員から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返した。結婚の翌年に長女の尚子(後の水木プロ社長)が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1960年、兎月書房から『墓場鬼太郎』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは違う紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げたが、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した。これが人気作となり、徐々に水木しげると『鬼太郎』の名が知られていく契機となった。後年に水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが鬼太郎だった」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から三洋社に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の長井勝一社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化した。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『河童の三平』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。以後は佐藤プロや『悪魔くん』を出版した東考社の貸本漫画に活躍の場を移すが、『悪魔くん』は思ったほど人気が出ず全5巻予定が3巻で打ち切りとなった。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して革命を起こす」という悪魔くんの思想描写は当時の水木自身の「懸命に働いても貧乏が続く生活」への悲しみと憤りから発したもの。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1964年、病気療養から復帰した長井勝一が新しく漫画雑誌を作り、水木も依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『月刊漫画ガロ』の第1号が出版され、水木は読み切り短編「不老不死の術」を掲載した。以降ガロで白土三平やつげ義春らと共に看板作家として名を上げた。1965年に講談社はW3事件の影響で「劇画路線」を採用し、水木は『週刊少年マガジン』で「SF物」の連載を依頼されるが、自分の得意分野ではないため悩んだ末に一旦辞退した。しかし半年後、その『少年マガジン』の編集長が内田勝に交代し、作風を限定しない条件へ変更のうえで水木は再度依頼され、今度は執筆を承諾した。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのは苦労したが、『別冊少年マガジン』に掲載した『テレビくん』が第4回講談社児童漫画賞を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした。それまでの長い貧乏生活で質屋に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、ようやく雑誌連載の原稿料ですべて返済でき、なんとか質流れにならず取り戻すことが叶った。ただ、最初に質屋に入れた背広だけは10年経って変形していたため、元の形態に戻そうと外に干したら盗まれてしまったという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "講談社漫画賞受賞で急増した仕事に対処するため1966年に水木プロダクションを設立。つげ義春、池上遼一、鈴木翁二らがアシスタント参加したことで、これ以降の水木漫画の特徴である「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した独特なものとなっている。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界が一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語でもあった「妖怪」が、さらに広まる経緯ともなった。『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。1970年には連載が11誌に達し、他にテレビやイベントの仕事も引き受けるなど、時間に追われる日々を過ごした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "気侭な人生をモットーとする水木は、どんな状況でも睡眠時間だけは十分に取るが、この時期だけはほぼ徹夜続きで、目眩や耳鳴りの症状も出る程だった。プロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感した。まもなく、軍隊時代の恩人で戦後は阪急電車の職員になった宮一郎元軍曹と26年振りに再会。そして二人で戦地を尋ねる旅行に出向く。再訪したニューブリテン島でトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見て自身のペースを失っていた事に気付き、帰国後仕事をセーブする。この時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『総員玉砕せよ!』を執筆する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的遣り繰りが厳しくなった。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど自暴自棄になって霊的世界への興味や創作意欲を失うが、次女の悦子が修学旅行で妖怪「目々連」を目撃し、水木は喜んで立ち直った。それから「鬼太郎」を筆頭に、それまで描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "ブーム再燃後は『のんのんばあとオレ』『コミック昭和史』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした。1991年に紫綬褒章を、2003年に旭日小綬章をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、幼少期を過ごした出身地鳥取県境港市の町おこしに協力し、水木しげるロードの建設が開始され、2003年に水木しげる記念館の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、文化功労者に選出される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。晩年の主な作品としては、長年の課題としていた出雲を描いた『水木しげるの古代出雲』、泉鏡花の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『わたしの日々』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また、映像作品では『ゲゲゲの鬼太郎』の実写映画や貸本版『墓場鬼太郎』のテレビアニメなどが実現した。2010年には、妻・布枝の著書『ゲゲゲの女房』がNHK連続テレビ小説としてテレビドラマ化、および映画化されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・アングレーム国際漫画賞、米アイズナー賞などを受賞している。2011年、東日本大震災について考察した絵を描き、ニューヨーク・タイムズに掲載された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "2013年、自身初の全集となる『水木しげる漫画大全集』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『わたしの日々』の雑誌連載を『ビッグコミック』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "その後も、2015年4月より、93歳で『怪』に小泉八雲の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2015年11月11日、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した。頭部打撲による硬膜下血腫を治療する為に緊急手術を受け、入院中に頭部打撲は回復したものの、同年11月30日未明に容体が急変し、午前7時18分に多臓器不全のため入院先の東京都三鷹市の杏林大学医学部付属病院で死去した。93歳没。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた。翌年の1月31日には東京・青山葬儀所にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征したラバウルをイメージした花が配され、遺影の前には天皇(当時)からの祭粢料が飾られた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。弔辞は野沢雅子、さいとう・たかを、松田哲夫らが読み上げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2016年2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「東京アニメアワードフェスティバル2016」でアニメ功労部門を受賞。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され、2017年1月のNHK『クローズアップ現代+』で特集が組まれた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催。鳥取県境港では記念品の配布などが行われている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "2017年3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "2018年4月から2020年3月にかけて、『ゲゲゲの鬼太郎』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には水木しげるロードがリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "2020年の新型コロナウイルス感染症に関連して妖怪・アマビエが話題となり、水木の描いた妖怪画も大きな反響を呼んだ。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "2022年7月8日、水木しげる生誕100周年を記念して、六本木ヒルズ展望台東京シティビューにて「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」が開催された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "水木は妖怪を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い。一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪(樹木子など)も何体か描いている。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "1992年に『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズが刊行された。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏、京極夏彦、多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "のんのんばあとは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。...親父は足軽」という。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ふさは水木が小学5年生の時に死去した。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降のラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された。", "title": "人物・エピソード" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。", "title": "別名義" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など。", "title": "別名義" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "シリーズ物や、長編作品を中心に記載。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は前述。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "他、多数。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "「ゲゲゲの鬼太郎」関連作品についてはゲゲゲの鬼太郎#ゲームを、「悪魔くん」関連作品については悪魔くん#ゲームを参照。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "『ゲゲゲの女房』がヒットした2010年には『あさイチ』(NHK総合、2010年5月19日)、『ボクらの時代』(フジテレビ、2010年8月15日)などに夫妻で出演。", "title": "出演・関連作品" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "(鳥取県境港市入船町、東京都調布市)", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "(鳥取県米子市東倉吉町)", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "住田氏は近世期中ごろから米子の東倉吉町に居住し、住田屋を号した。衣料、雑貨を営業し、近代に入って呉服類を中心に営業を継続拡張した。", "title": "家族・親族" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "“本住田屋”の住田善平は、1896年(明治29年)12月 - 1900年(明治33年)12月まで米子町町長をつとめた。善平の長女が武良家に嫁いだ。", "title": "家族・親族" } ]
水木 しげるは、日本の漫画家、妖怪研究家、紙芝居作家。 大阪府大阪市住吉区出生、鳥取県境港市入船町育ち。ペンネームは、紙芝居作家時代に兵庫県神戸市の水木通り沿いで経営していたアパート「水木荘」から名付けた。1958年に漫画家デビュー。代表作となる『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』などを発表し、妖怪漫画の第一人者となる。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 水木 しげる | 画像 = Shigeru Mura cropped 1 Shigeru Mura 201011.jpg | 画像サイズ = 200px | 脚注 = 文化功労者選出に際して<br />公表された肖像写真 | 本名 = 武良 茂(むら しげる) | 生年 = {{生年月日と年齢|1922|3|8|no}} | 出生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]] | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1922|3|8|2015|11|30}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[三鷹市]] | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = [[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]<br />[[旭日章#名称と等級|旭日小綬章]]<br />[[文化功労者]]<br />[[名誉都民|東京都名誉都民]]<br />[[調布市]][[名誉市民]]<br />[[鳥取県]][[名誉県民]] | 活動期間 = [[1958年]] - [[2015年]] | ジャンル = [[ホラー漫画|妖怪漫画]]・[[戦争漫画]] | 代表作 = 『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』<br />『[[河童の三平]]』<br />『[[悪魔くん]]』<br />『[[総員玉砕せよ!]]』<br />『[[のんのんばあとオレ]]』<br />『[[日本妖怪大全]]』 | 受賞 = * 第6回[[講談社児童漫画賞]](『[[テレビくん]]』) * 第13回[[講談社漫画賞]](『[[コミック昭和史]]』) * 第25回[[日本漫画家協会賞]]文部大臣賞(『ゲゲゲの鬼太郎』) * 第37回児童文化功労賞 * 第29回[[星雲賞]]アート部門 * 第7回[[手塚治虫文化賞]]特別賞 * 第5回[[織部賞]]グランプリ * 第34回[[アングレーム国際漫画祭]][[アングレーム国際漫画祭 最優秀作品賞|最優秀作品賞]](『のんのんばあとオレ』) * 2008年:[[朝日賞]] * 第36回アングレーム国際漫画祭遺産賞(『[[総員玉砕せよ!]]』) * 2012年:[[アイズナー賞]]最優秀アジア作品賞(『総員玉砕せよ!』) * 2015年:アイズナー賞最優秀アジア作品賞(『コミック昭和史』) | サイン = | 公式サイト = [https://www.mizukipro.com/ げげげ通信] }} '''水木 しげる'''(みずき しげる 、本名:武良 茂〈むら しげる〉、[[1922年]]〈[[大正]]11年〉[[3月8日]] - [[2015年]]〈[[平成]]27年〉[[11月30日]]<ref name="asahi20151130">{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASHCZ45BRHCZUCLV002.html |title=漫画家の水木しげるさん死去93歳 「ゲゲゲの鬼太郎」 |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2015-11-30 |accessdate=2015-11-30 |archiveurl=https://megalodon.jp/2015-1130-1315-21/www.asahi.com/articles/ASHCZ45BRHCZUCLV002.html |archivedate=2015-11-30 |archiveservice=ウェブ魚拓 |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[妖怪]]研究家<ref> {{Official website|mizuki.sakaiminato.net|水木しげる記念館}} トップページ、2022年3月8日閲覧。</ref>、[[紙芝居]]作家。 [[大阪府]][[大阪市]][[住吉区]]出生{{sfn|水木|2007|p=33}}{{sfn|足立|2010|p=70}}、[[鳥取県]][[境港市]][[入船町 (境港市)|入船町]]育ち{{sfn|水木|2007|p=33}}<ref name="Zinmeiroku_p583">『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 583頁)</ref>。[[ペンネーム]]は、[[紙芝居]]作家時代に[[兵庫県]][[神戸市]]の水木通り沿いで経営していた[[アパート]]「水木荘」から名付けた<ref>{{Cite news |url=http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201511/0008607996.shtml |title= 水木しげるさん死去 妖怪物で新分野 神戸・阪神間で下積み |newspaper=神戸新聞 |date=2015-11-30 |archiveurl=https://archive.is/55zuZ |archivedate=2015-11-30 |archiveservice=archive.today |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref>。[[1958年]]に漫画家デビュー。代表作となる『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』『[[河童の三平]]』『[[悪魔くん]]』などを発表し、[[妖怪]]漫画の第一人者となる。 == 概要 == [[ファイル:Sakaiminato Mizuki Shigeru Road Bowler Hat Of Shigeru Mizuki 1.JPG|thumb|left|200px|「山高帽の水木先生」像([[鳥取県]][[境港市]])]] [[1922年]](大正11年)に[[大阪府|大阪]]で生まれ、[[鳥取県]][[境港市]]で育つ。幼少時、[[神仏]]に仕える[[祈祷師|拝み屋]]の妻で[[家政婦|まかない婦]]として家に出入りしていた[[のんのんばあ|景山ふさ]](のんのんばあ)が語り聞かせた[[妖怪]]の話に強い影響を受ける。 [[高等小学校]]卒業後、[[画家]]を目指して大阪で働きながら学ぶ。やがて徴兵年齢に達し[[1943年]]に[[召集]]され、[[大日本帝国陸軍]]軍人として[[第二次世界大戦]]下の[[ニューギニアの戦い|ニューギニア戦線]]・[[ラバウル]]に出征。過酷な戦争体験を重ね、[[アメリカ軍]]や[[オーストラリア軍]]の攻撃で左腕を失う。一方で現地民のトライ族と親しくなり、[[ニューブリテン島]]に残ることも希望したが、周囲の説得で日本へ復員した。 復員後は貧窮により画家の修行を諦め、生活のために始めた[[紙芝居]]作家を経て上京。[[1958年]]、[[貸本漫画]]『[[ロケットマン (水木しげるの漫画)|ロケットマン]]』で貸本漫画家としてデビュー。[[1960年]]から断続的に『[[ゲゲゲの鬼太郎|墓場鬼太郎]]』シリーズを発表し始める。 [[1961年]]、[[武良布枝|飯塚布枝]]と見合い結婚。[[1963年]]、『[[悪魔くん]]』を貸本の[[東考社]]から出版。[[1964年]]、『[[月刊漫画ガロ|ガロ]]』で商業誌デビュー。 [[1965年]]に『[[テレビくん]]』で[[講談社児童まんが賞]]を受賞し、貸本時代に描いていた『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』や『[[河童の三平]]』といった作品が『[[週刊少年マガジン]]』『[[週刊少年サンデー]]』にそれぞれ掲載され、[[妖怪]]を扱った作品により人気作家となった。[[1966年]]には『悪魔くん』がテレビドラマ化。 最大のヒット作となった『ゲゲゲの鬼太郎』は[[1968年]]より6度テレビアニメ化されている。 1993年、幼少期を過ごした[[境港市]]に町おこしとして[[水木しげるロード]]が建設され、2003年には[[水木しげる記念館]]が開館した。 長年の漫画と妖怪文化への功績が称えられ、[[1991年]]に[[紫綬褒章]]、[[2003年]]に[[旭日小綬章]]を受章。[[2007年]]、『[[のんのんばあとオレ]]』によりフランス・[[アングレーム国際漫画祭]]で[[日本人]]初の最優秀作品賞を受賞。また[[1973年]]に執筆した『[[総員玉砕せよ!]]』が[[アングレーム国際漫画祭]]遺産賞、米[[アイズナー賞]]最優秀アジア作品賞をそれぞれ受賞している。 妖怪研究家として、[[世界妖怪協会]]会長、[[日本民俗学会]]会員、民族芸術学会評議委員などを歴任。 [[調布市]][[名誉市民]]、[[東京都]][[名誉都民]]、[[鳥取県]][[名誉県民]]。[[2010年]]に[[文化功労者]]にも選ばれた。[[2013年]]から『[[水木しげる漫画大全集]]』が刊行。 [[2015年]][[11月30日]]、[[多臓器不全]]により死去。93歳没。 == 生涯 == === 生い立ち === [[image:Shigeru Mizuki at age 3.jpg|thumb|200px|right|3歳の頃の水木しげる]] [[1922年]]([[大正]]11年)3月8日、[[大阪府]][[西成郡]][[粉浜|粉浜村]](現在の[[大阪市]][[住吉区]]東粉浜{{sfn|足立|2010|p=70}})に生まれた{{sfn|水木|2007|p=33}}。父・武良亮一、母・琴江の次男。水木生誕当時、父親の亮一は、親戚が大阪の[[梅田地区の鉄道駅|梅田駅]]近くで経営していた[[印刷会社]]で働いていた{{sfn|足立|2010|p=70}}。身重の母親・琴江は夫に会うために[[鳥取県]]から来て、大阪で水木を産んだ{{sfn|足立|2010|p=70}}。父は共同[[経営者]]とともに[[農機具]]を[[輸入]][[販売]]する[[会社]]を興す為に、妻子をいったん故郷の鳥取県[[西伯郡]][[境町 (鳥取県)|境町]]入船町(現在の[[境港市]][[入船町 (境港市)|入船町]])に帰した{{sfn|水木|2007|p=33}}。境港に戻った理由は「大阪は[[大気汚染|空気が汚れて]]いて[[母乳|乳の飲み]]が悪い」からという{{sfn|足立|2010|p=70}}。水木が境港に戻った年齢については不明確だが、生後まもなくから2歳までの間とのこと{{refnest|group="注"|水木が境港に戻った年齢は、「2歳ぐらいのとき」{{sfn|水木|2007}}、または「生後1ヵ月」{{sfn|水木|2002}}{{sfn|足立|2010}}と記されている。}}。その後父は事業に失敗して帰郷、一家全員境港に定住する結果となる{{sfn|水木|2007|p=33}}。 5歳の頃「[[死]]」に興味を抱き、3歳の弟を[[海]]に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の[[妹]]([[大叔母]])に「[[灸|やいと(灸)]]」をすえられた{{sfn|水木|2007|pp=43-44}}。 === 少年時代 === 比較的恵まれた環境で育つが、学校の勉強はできる方ではなく両親が[[尋常小学校]]入学を1年遅らせたほどだった。自身も認めるマイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという風変わりな生徒だった。当時「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。[[屁]]を自在に出すことができ、朝礼のおりに放屁して他の生徒たちを笑わせていた{{sfn|水木|2007|p=48}}。そんな調子で成績は振るわず体育と図画以外は「総崩れ」だったが{{sfn|水木|2007|p=50}}、一歳年上で体格が大きかった為に腕っ節は強く明るい性格もあって[[ガキ大将]]として君臨した{{sfn|水木|2007|p=48}}。水木の母は[[学歴]]を気にする性質であったため教育に熱心で、成績優秀な兄と弟は尋常小学校卒業後は[[旧制中学校]]に進学を果たし{{sfn|水木|2007|p=55}}、勉強そっちのけだった水木も漠然と旧制中学受験を希望したが{{sfn|水木|2007|p=55}}、進路相談で水木の母は教師から「無理」と即答された{{sfn|水木|2007|p=55}}。将来への不安を覚えたが、中等教育の予備校でもある無試験の[[高等小学校]]に進み、すぐに不安を忘れて遊び回る子供に戻った{{sfn|水木|2007|p=55}}。高等小学校時代も図画の成績は良く、小学校の教頭の勧めで公民館で授業で描いた絵の展覧会が開かれ新聞に掲載された{{sfn|水木|2007|p=56}}。学内コンクールでも金賞を何度も取り、鳥取二科展の審査員でもあった先の教頭からは油絵の道具を譲ってもらったりと可愛がられた{{sfn|水木|2007|p=57}}。 高等小学校卒業後も旧制中学校には進めず、社会に出て働き先を探す為に故郷を離れる事になった。生命保険会社に勤めて神戸に単身赴任していた父を頼りに近畿に移り、親戚の紹介で出生地の大阪に舞い戻った{{sfn|水木|2007|p=58}}。たった一人でふるさとを離れて働きに出る水木のことを不憫に思う母は、兄や弟と違って要領の悪い次男を心配して「お前はこれからどうなるんだろう」「中学に行く人たちとの差は開くばかりだよ」「務まるかなあ」と嘆いたという{{sfn|水木|2007|p=59}}。しかし当の水木はほとんど平静で、田舎から都会に出て働くのを楽しみにもしていた{{sfn|水木|2007|p=59}}。 === 青年時代 === 大阪では都会の立ち並ぶビルと行き交う人の多さに圧倒され、夜の街の光には「まるで祭りのようだ」と思ったという{{sfn|水木|2007|p=59}}。[[谷町]](現・大阪市[[中央区 (大阪市)|中央区]])にあった石版印刷会社の田辺版画社に住み込みで勤務したが{{sfn|水木|2007|p=58}}、マイペースさから仕事に付いて行けず僅か2ヶ月でクビになった{{sfn|水木|2005|p=480}}。次は寺田町にある小村版画社に入社したがこれも配達の道順が覚えられず、やっと道を覚えると今度は下町の職人達の手仕事を見物している内に荷物を届けるのを忘れる有り様で、ここもクビになった{{sfn|水木|2007|p=61}}。その後体調を崩して[[黄疸]]の症状が出た為、療養すべく鳥取へ戻る{{sfn|水木|2002|p=18}}。帰郷後、息子に労働は向いていないと思った父親は好きな絵の勉強に進ませる事にした。水木は「もう職探しはやめて絵の勉強を…」という父の言葉に躍り上がったと回想している{{sfn|水木|2007|p=64}}。 [[File:Shigeru Mizuki at age 18.jpg|thumb|200px|right|18歳ごろの水木しげる]] 水木は勉学が苦手な自分の気質を考慮して、様々な美術学校から「試験や入学資格の無い所」を探したという。やがて大阪の[[上本町]]で、京都市美術工芸学校(現・[[京都市立芸術大学]])で学んだ画家の松村景春が設立した精華美術学院という珍しい無試験の美術学校を見つけて入学した<ref name="maruki">[https://web.archive.org/web/20151208070841/http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/2005.html 丸木美術館学芸員日誌]</ref>。しかし学院は学校というには小さな個人塾のような所で、授業内容も実践的な図案講習会に近かった{{sfn|水木|2007|p=65}}。立派な[[画家]]になるんだと思い詰めて一心不乱に独習を重ねてきた自身の方が、もったいぶって教える先生より技量が上と感じたという{{sfn|水木|2007|p=65}}。失望から学校に行かなくなり、近所の森や山で時間を潰す日々を送った。 [[画像:八上城(高城山).jpg|thumb|水木が16歳の頃に一時家族3人で暮らしていた[[丹波篠山市|丹波篠山]]。ここから軽便鉄道と国鉄を乗り継いで大阪の美術学校へ通った。]] 16歳の頃に父が丹波篠山に支店長として転勤し、水木だけを一人暮らしさせるのは不経済という判断から父と丹波篠山の借家に引っ越した。後に母も境港から移り住み、兄と弟は旧制中学の寮に住んでいたので3人暮らしとなった。暫くは篠山から大阪の美術学校に通い続けた<ref>{{Cite book |和書 |author=水木しげる |title=ほんまにオレはアホやろか |year=2002 |month=8 |publisher=新潮社 |page=23 |isbn=978-4-10-135731-7}}</ref>。18歳の頃、篠山山中の[[祠]]で「不心得者や悪戯をする者を神社で見つけると突然上から落ちてきて脅かす」妖怪・『[[おとろし]]』らしきものに出遭ったことがあるという<ref>{{Cite book |和書 |author=水木しげる |title=水木しげるの憑物百怪 |year=1995 |publisher=学習研究社 |pages=122-123 |isbn=978-4-05-400514-3}}</ref>。 精華美術学院での反省から学校を選び直す事を思い立ち、美術系[[旧制専門学校]]である[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現・[[東京芸術大学]])で学んで[[画家]]になるという夢が膨らんだ{{sfn|水木|2007|p=68}}。しかし高等小学校卒の水木には[[旧制専門学校]]の受験資格はなかったので、まずは旧制中学校を再び目指す事に決め{{sfn|水木|2007|p=68}}、精華美術学院を退校して大阪府立園芸学校(現・[[大阪府立園芸高等学校]])を受験した{{sfn|水木|2007|p=68}}。同年の筆記試験は国史([[日本史]])の一科目だけであり、参考書をほとんど丸暗記して試験に臨んだ{{sfn|水木|2007|p=69}}。定員50名に対し受験者51名(つまり一人だけが落ちる)という低倍率{{sfn|水木|2007|p=69}}で、合格すると自信満々で結果すら見に行かなかったが、父が確認すると不合格だった{{sfn|水木|2007|p=70}}。水木は不合格原因について、面接で「卒業したらどうするんだ」と聞かれ、「[[満蒙開拓青少年義勇軍|満蒙開拓義勇軍]]に入ります」というのが模範回答だが、旧制中学校卒の資格が目当てであって別に園芸や農業に興味はないと正直に答えたためではないかと推測している{{sfn|水木|2007|p=71}}。惨めな思いをしたが、父は怒らず「本当に満州行きになったらどうするんだ」と優しく慰めてくれたという。 [[1940年]]([[昭和]]15年)[[新聞配達]]で働きながら別の学校(日本鉱業学校採掘科)を受験、今度は合格する。しかし例によって専門科目に全く興味が抱けず成績不振且つ欠席が多くなり、半年で退学処分となった{{sfn|水木|2005|p=480}}。間もなくマイペースぶりから新聞配達もクビになり、大阪の[[中之島 (大阪府)|中之島洋画研究所]]に通った。水木は両親と今後を話し合い、両親から[[日本大学]]付属の旧制大阪夜間中学校(現・[[大阪高等学校 (私立)|大阪学園大阪高等学校]])への進学を勧められ、同校に入学{{sfn|水木|2005|p=480}}。昼間には『支那通信』というガリ版新聞を配達する仕事をし、休日には[[宝塚ファミリーランド]]の[[動物園]]や昆虫館、[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]によく足を運んでいた{{sfn|水木|2002|pp=68-70}}。そうした中、[[1941年]]12月に日本が[[イギリス]]や[[アメリカ]]、[[オランダ]]との間に開戦する。 === 軍隊時代 === [[File:Mura Family.jpg|thumb|200px|right|<center>鳥取連隊([[二等兵|陸軍二等兵]])時代<br />(父・母・弟と)<br /></center>]] [[1942年]]、20歳になった水木は[[徴兵検査]]を受け{{sfn|水木|2007|p=77}}、結果は体は頑健ながら[[近視|近眼]]により乙種合格で{{sfn|水木|2007|p=7}}、補充兵役に編入され現役[[入営]](入隊)はしなかった。だが戦争が激化する中で兵員不足のため召集対象者の枠は広がっていき、やがて自分も召集され入営する可能性が高まっていった。「出征すれば間違いなく死ぬ」と考えていた水木は哲学書や仏教書や[[聖書]]などを読み漁った{{sfn|水木|2007|p=76}}。その中で一番気に入ったのが[[ドイツ]]の詩人[[ヨハン・エッカーマン]]『[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]との対話』で、これは戦地にも持っていった。 21歳の時、[[召集令状]]が届き{{sfn|水木|2007|p=77}}[[本籍地]]の鳥取[[歩兵第40連隊]]留守隊に入営することとなった{{sfn|水木|2007|p=77}}。なお、在学していた夜間中学は自動的に退校処分となった(後述)。軍隊生活でもマイペース振りはそのままで、その大胆な態度から風呂で[[幹部]]と間違われて古年兵に背中を流してもらったこともあった{{sfn|水木|2007|p=79}}。 初年兵教育を終え、何をしてもマイペースで行動も鈍く使い道が無いと上官たちからも判断されて[[ビューグル|喇叭手]]を命じられるが、これも上手く吹けず罰として連日炎天下の中で広い営庭(連隊宿舎の庭)を何周も走らされることとなった辛さもあって、自ら配置転換を申し出た{{sfn|水木|2007|p=81}}。 最初は取り合ってもらえなかった(人事係からも、なだめる意味で「しんどいかもしれんが辛抱してやってくれ」と緩やかに諭されてもいた)が、しつこく配置転換を申し出続けたため三度目に[[曹長]]から「北がいいか、南がいいか」と尋ねられた{{sfn|水木|2007|p=81}}。その質問を国内配置についての事と考え、「寒いのが嫌いなので南であります」と答え{{sfn|水木|2007|p=8}}、[[九州]]など国内南部の連隊へ配属になると思ったが、1943年に南方でオーストラリア軍やアメリカ軍、[[ニュージーランド軍]]との前線の[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]行きが決定。水木も南方戦線の状況は知っており、その激戦地へ派遣される羽目になって目の前が真っ暗になる程の深い衝撃を受ける{{sfn|水木|2007|p=8}}、異動命令直後に二泊三日の外泊が許され両親が戻っている境港に里帰りしたが、お互い何も喋れなかったという{{sfn|水木|2007|p=8}}。 歩兵第229連隊([[岐阜県]][[第38師団 (日本軍)|第38師団]]隷下)は鳥取から[[門司港]]へ向かい、日本を出発。その連隊所属となった水木も従わされ、やがて[[パラオ]]からラバウルまで輸送される。その輸送船はかつて[[日露戦争]]で活躍した老朽船の「[[信濃丸]]」だった{{sfn|水木|1994|p=15}}。敵潜水艦の魚雷攻撃をかわしつつ水木の所属した部隊は何とかラバウルに着いたが、後のラバウル派遣部隊は全て途中で沈没させられたため、水木の部隊がラバウルに到着できた最後の部隊となった{{sfn|水木|2002|p=84}}。軍内での鉄拳制裁は日常茶飯事で{{sfn|水木|2007|p=86}}、内地にいた時から風変わりで役に立たない兵隊として上官から目を付けられていた水木には「ビンタの王様」というあだ名がついた{{sfn|水木|2007|p=86}}。配属部隊の上官はなぜか[[茨城県]]出身者が多く、強い訛り言葉を水木が聞き取れないことも鉄拳制裁の口実にされ、連日上官や古兵たちから理不尽な虐めを受け続ける{{sfn|水木|2007|p=86}}。 [[ニューブリテン島]]での戦争体験は、後の水木の描いた作品に多大な影響を与えている。軍隊生活と馴染めなかった水木も、所属していた第2中隊[[中隊|中隊長]]である児玉清三[[中尉]](30歳代後半の材木屋出身の[[予備役]]将校)からは、その腕を買われて似顔絵を描く事をよく頼まれ<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001130006_00000 「漫画で伝え続ける戦争体験」] - [[NHKアーカイブスポータル#テーマ|NHK戦争証言アーカイブス]]</ref>、水木に事あるごとに言いがかりをつけては嬲ることしか考えない上官たちの中で、例外的に水木が個人として優しく接してもらえた人物だった。同様に下士官の宮一郎[[軍曹]]や砂原勝己[[軍医]][[大尉]]<ref group="注">のち砂原国立加古川病院名誉院長。なお、名前の「勝巳」表記は誤り。</ref>なども数少ない水木に親切に接してくれた上官で、水木が戦後復員して再会してからも交流が続いた人たちだった。 ニューブリテン島ズンゲンの戦いにおいて、日本より数段優れた装備と圧倒的な物量の[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]の前に、所属する支隊の成瀬懿民少佐(水木の作中では「ズンゲン支隊」とも呼ばれている)は[[玉砕]]の命令を出すが、児玉中隊長の機転で[[ゲリラ戦]]に転じ生命を拾うこととなる。しかし支隊本部の誤った総員玉砕報告に反して生存者が出たことで、児玉は責任を取らされ自決した。 やがて水木は決死隊の兵隊の一人としてバイエンに配属される。出先で上官から指示が出ている最中に居眠りをしていた罰で夜勤の最後の当番を命ぜられ、眠い中で見張りをするも自然の風景に見惚れてしまい上官たちを起こす予定時間を5分ほど過ぎると、その時敵の飛行機から[[機銃掃射]]され<ref group="注">『ラバウル戦記』では、機銃掃射ではなく原住民ゲリラの襲撃としている。</ref>、水木以外の寝ていた上官たちは瞬時に全滅した。水木は慌てて海に飛び込んで逃げたが、原住民ゲリラに発見され、[[銃剣]]とふんどし一丁でジャングルを数日間逃げ惑い、日本兵への捜索隊の追跡を何とかやりすごしつつ奇跡的に生還した{{sfn|水木|1994|pp=141-153}}。 九死に一生を得て部隊に戻ると仲間達は喜んでくれたが、兵器を捨てて逃げた事を上官にとがめられ、「なぜ死なずに逃げたのか」と詰問され、「死に場所は見つけてやる」と言い捨てられた{{sfn|水木|2007|p=96}}。これまでは戦場でも何とか朗らかに振舞ってきた水木も、この件で流石に塞ぎこみ、これ以降は[[虚無主義]]的な考え方をするようになった{{sfn|水木|2007|p=97}}。そんな陰惨な日々は続き、[[マラリア]]を発症、高熱で錯乱状態に陥ってジャングルを彷徨い歩き、危うく死にかけた{{sfn|水木|2007|p=97}}。 追い討ちをかけるように敵機の爆撃で左腕に出血多量の重傷を負い、間の悪いことに[[血液型]]も忘れてしまっていたことで上官や仲間からの[[輸血]]処置も不可能となり、[[止血]]されるが左腕に[[死斑]]が出てしまい、延命処置として[[軍医]]によって麻酔のない状態(水木自身は意識朦朧で割合痛みは感じた記憶が無いとのこと)で左腕の切断手術を受けるなど、絶体絶命な半死半生の状態へと追い込まれた{{sfn|水木|2007|pp=98-99}}。 しばらく経過した1945年の初め頃、他の傷病兵と後方に送られる。傷病兵の間では「役立たずになった兵士はまとめてどこかに捨てられる」との噂も立っており、水木も不安だったが、そんなこともなく辿り着いたのはナマレに設置された野戦病院で、治療の傍ら畑仕事などに駆り出された{{sfn|水木|2007|pp=100-101}}。 最前線に比べれば安全な土地で死の恐怖が和らぐと、島の原住民である{{仮リンク|トライ族|en|Tolai people}}と交流する余裕ができた。他の兵隊の様に威張らない水木を気に入ったトライ族から歓待を受け、水木の側も配給のタバコをお礼に渡すなどしている内に意気投合し、やがて集落の仲間として受け入れられた。軍規違反を承知で理由を付けてトライ族の集落に通い、トライ族の側も水木が再びマラリアで倒れると食料を持って見舞いに来てくれた。事ある毎に自分を罵倒していた上官の大尉からは「あいつは頭がおかしいぞ」と陰口を叩かれたが、先述の砂原勝己[[大尉]]が庇ってくれた{{sfn|水木|2007|pp=102-103}}。 8月25日、部隊長から「日本の[[ポツダム宣言]]受諾(条件降伏)」についての訓示を受ける。水木も他の兵士達も意味する所が理解できず「戦争に勝ったのか」との囁きが漏れたが、程なく「戦争に負けた」という話だとわかった{{sfn|水木|2007|pp=102-103}}。軍内では落胆の声が広がったが水木は「生き延びた!」と思い、戦場で死ななかった事に感無量だった{{sfn|水木|2007|p=104}}。 カゼル岬にあった連合軍の捕虜収容所に収監されて本国送還の順番を待つ間、トライ族から農地を分けるから一緒に暮らさないかと誘われ{{sfn|水木|2007|pp=109-110}}、現地除隊して永住することを真剣に考えたこともあった{{sfn|水木|1994|p=225}}。しかし、砂原から「家族に会ってから決めても遅くないぞ」と助言され、帰国を決意したという。ただし、これについて砂原は「言った記憶がない」とも述懐している。 1946年3月、24歳の時に[[駆逐艦]]「[[雪風 (駆逐艦)|雪風]]」で[[浦賀]]港に入港し、ようやく日本へ[[復員]]した。 === 美術学校時代 === [[ファイル:National Hospital Organization Sagamihara National Hospital.JPG|thumb|250px|right|水木が治療を受けた[[国立病院機構相模原病院]]]] 4年振りに復員帰国できた水木は国立相模原病院(旧・神奈川臨時第3陸軍病院、現在の[[国立病院機構相模原病院]])に入院となり、応急処置だった片腕の本格的手術の順番を待つ{{sfn|水木|2007|p=113}}。終戦直後の医者や物資の不足で直ぐに順番が回ってこないので、医師からも一旦故郷の境港に戻っても良いと許可を得、帰郷して養生する日々を送った。両親は水木が片腕を失った事を知らなかった為、事実を知った後に母が片腕を使わずに家事をしたり、父が片腕無しでも務まる仕事を調べて「[[灯台守]]なんかどうじゃろう」と知恵を絞ったりと、次男の不幸を悲しんでいたという。しかし水木自身は生き残れた喜びと「絵を続けられるかもしれない」という希望を胸に抱き、出征前に目に焼き付けておいた故郷の風景を眺め、清々しい気持ちで過ごせたという{{sfn|水木|2007|p=114}}。翌年になって治療の順番が回って来る通知を受け、上京して相模原病院で再手術を受けた(麻酔が不足していたため結構な痛みを伴うものだったとのことで、後年に水木は元気な状態へ戻るまで10日程度かかったと述懐している)。 病院直営の染物工場で絵付けの仕事で入院中の生活費を稼いでいたが、雀の涙程度の収入にしかならなかった。手術の前後に他の患者と闇米の買い出しでも生活費を稼ぎ、本格的に闇屋家業で一財産を得ようかと目論んで東北に食料の買い付けに向かった事もあったが、そちらは失敗して「どんな道でもプロになるのは険しい」と反省した{{sfn|水木|2007|pp=116-118}}。その後病院仲間から誘われて「新生会」という「傷病兵の明るい未来」をスローガンに掲げて様々な事業を考えていた傷痍軍人団体に加盟し、復員兵による廃墟ビルへの居座りや募金活動などに参加した。廃墟ビルへの居座りは東京都から反対されて失敗したが、募金活動は成果を挙げた。しかし、上層部のくだらない内紛で加盟員の離脱が相次ぎ、水木も[[配給制]]において政府の許可制である[[魚屋]]の資格を申請する成り行きとなり、転職した{{sfn|水木|2007|pp=116-118}}。予め契約を取った家庭に魚を届ける形式で復員後の生活も一時安定するようになった。この魚屋をはじめる際に元将校の[[荻洲立兵]]より「突撃あるのみ」と叱咤激励されてもいる。 経済的に余裕が出て絵に対する思いも湧き、26歳の時に武蔵野美術学校(現在の[[武蔵野美術大学]])が学生を募集中と知る。すぐに入学を思い立つが、旧制専門学校であった同校には旧制中学もしくは新制高校の卒業資格が必要だった。水木は件の夜間学校に掛け合ったが、「出征により退校」となっていた事から卒業資格は与えられないと回答された{{sfn|水木|2007|pp=116-118}}。それでも在学証明書を貰って美術学校に直談判し、特別に入校を許可される。1948年、26歳の時に入学した美術学校は敗戦直後という事もあって学生の服装は古びていて、技術や年齢層も不揃いだったが懸命に学んでいたという。 生活費に加えて学費も稼ぐために、仕事の方は新たに[[自転車タクシー|輪タク業]]を始めるべく、折良く同じ傷痍軍人団体加盟時からの知人で魚売りの相方だった通称「モッちゃん(本名は不詳)」が、水木とは逆に「[[魚屋]]を独立開業したいので、良ければ四万円で権利を全て譲って欲しい」と申し出てた好都合なタイミングでもあったので、その希望値四万円で「モッちゃん」に魚売りの権利を完全に売り、それを資金に輪タクを四台購入。一日五百円で貸し出す商売を細やかに始める。また、同時に上京してきた弟と協力して米軍物資の横流しなど当時は半非合法ながら政府から黙認を得ていた[[闇市]]商売も続けていた{{sfn|水木|2007|pp=119-120}}。 学業と仕事に明け暮れたが、商売はやはり素人ゆえに闇市は僅かな儲けしか得られずジリ貧で、輪タクも出だしは近所の住民から好調だったが、やがて大手に押されて下降して行き店閉まいした。学業の方も絵で食べていく事の経済的厳しさを痛感する中で、起死回生を狙って訪ねてきた「新生会」の副会長と二人で[[東海道]]募金行脚を挙行するも、あぶく銭しか集まらず、帰りの旅費だけを稼ぐ目標に切り替えて[[神戸]]に辿り着いた時には這々の体になりかけていた{{sfn|水木|2007|p=120}}。結局美術学校は、その数年後に中退した{{sfn|水木|2007|p=124}}。これが水木にとって最後の学業への試みとなり、「色々な学校に行ったが、結局は高等小学校のみ卒業となった」と回想している。 === 紙芝居時代 === 先の募金旅行で辿り着いた[[神戸市]]の安宿の主人から「この建物をアパートとして買ってもらえんやろか」と購入を持ちかけられた。抵当が付いていたが格安の値段だったので、輪タク業など今までの事業で貯めた資金と足りない分は父に借金して購入した。このアパートが[[神戸市]][[兵庫区]]水木通にあった事から「'''水木荘'''」と名付け、大家業を始めた。勝手が分からず不動産屋に頼んで募集の広告を掲載した所、水木と同じ変わり者ばかりが入居して家賃収入は捗捗しくなかった。大家業が軌道に乗らず副業を探した29歳の時に紙芝居作家の弟子をしている青年がアパートに入居した。一度は諦めた絵に対する熱意から、その青年にいくつか紹介してもらった紙芝居の[[貸元]]に手製の紙芝居を持ち込んで回った。水木曰く「内容がゲイジュツ的」だった為か評価は今ひとつだったが、林画劇社という貸元で演じ手の纏め役をしていた[[活弁士]]の[[鈴木勝丸]]が水木の作品を気に入り、同社の紙芝居作家として採用された{{sfn|水木|2007|p=125}}。夢にまで見た絵に係る仕事に付いたが、紙芝居業は貸元も零細企業で代金の支払いは滞りがちであった{{sfn|水木|2007|pp=126-127}}。暫くして鈴木が林画劇社から独立して自身の貸元「阪神画劇社」を設立すると水木も引き抜かれて専属作家になった。鈴木が水木の本名(武良茂)を覚えてくれず「水木さん」と間違って呼ぶため、そのまま「'''水木しげる'''」をペンネームにした{{sfn|水木|2007|pp=126-127}}。鈴木の紹介で知り合った人気の紙芝居作家[[加太こうじ]]の助手なども務めながら紙芝居を描く日々が続いた。 1953年、アパート経営に行き詰まり大家業から手を引き、水木荘を売却して借金を精算。直後に[[西宮]]へ引っ越した{{sfn|水木|2007|p=131}}。[[BC級戦犯]]で[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に[[拘留]]されていた兄・宗平が出所したので一家で同居する{{sfn|水木|2007|p=131}}。紙芝居の専業作家として作品作りに没頭し、少しずつ[[ノウハウ]]を掴んで「空手[[鬼太郎]]」「[[河童の三平]]」など後年の活躍に繋がる作品を制作した{{sfn|水木|2007|pp=134-135}}。しかし[[テレビ]]や[[貸本漫画]]など他の娯楽に押されて紙芝居業界は急速に衰退していった。紙芝居に見切りを付けて漫画家への更なる転身を決め、1957年に上京して[[貸本]]の版元に持ち込みを行った。同じく紙芝居から離れた[[加太こうじ]]の推薦もあり、[[兎月書房]]という小さな出版社から別の作家が書き残した「赤電話」という漫画を完成させる仕事を受注した{{sfn|水木|2007|pp=134-135}}。 この仕事を無事に終え、1958年に正式なデビュー作として『[[ロケットマン (水木しげるの漫画)|ロケットマン]]』を出版し、35歳で貸本漫画家となった{{sfn|水木|2007|pp=134-135}}。 === 貸本時代 === 貸本時代初期の水木は主に[[戦記漫画]]やギャグ漫画などを中心に制作しており、『飛び出せピョン助』『戦場の誓い』などを[[兎月書房]]から刊行した。他にも[[ホラー漫画]]、[[SF漫画]]、[[ギャグ漫画]]、[[少女漫画]]、[[時代劇]]などの多彩なジャンルをさまざまなタッチで描き分けている。作家が他の出版社から作品を出すのを嫌がる傾向があったので「水木しげる以外にも「'''むらもてつ'''」「'''東真一郎'''」など複数のペンネームを使い分けてもいた。貸本漫画は一冊120ページ程度の作品につき2万5000円から3万円程度の報酬が出版社から支払われることになっていて、当時の国家公務員の初任給が1万足らずで紙芝居が1作200円から1000円であった事の視点では破格の高給だった{{sfn|水木|2007|p=136}}。ただし、それは毎月作品を採用かつ量産された場合の契約条件であった。遅筆の水木が不慣れだった当初に、一ヶ月で作品を仕上げられる事は殆どなく、完成しても売れる見込みあると判断されなければ出版社が買い取ってくれないか、買い取られても「初回で様子見」として2万5000円未満に下げられた報酬しか支払われなかった。そればかりか初回で売れなければ他の出版社にも不評の噂が回って締め出しを食らうという過酷な業界だった。貸本出版社も零細企業が多く、納入が決まっても紙芝居の[[貸元]]同様に代金の支払いが滞ることも頻繁だった{{sfn|水木|2007|p=137}}。懸命に働いても生活は楽にならず、家賃滞納や質屋通いが続いた。作品が評価されず不遇の生活が続く内に暗く陰惨な作風が強まり、出版社から「作風が暗い」と敬遠されて余計に生活が苦しくなるという悪循環に陥っていった。一時は「水木しげるの名では売れない」と「'''堀田弘'''」「'''竹取おさむ'''」など勝手に作者名を変更される屈辱も味わった。 すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、[[島根県]][[能義郡]]大塚村(現在の[[島根県]][[安来市]])出身の[[武良布枝|飯塚布枝]]と[[見合い]]をし、即座に結婚した。間に立ったのは布枝の母の弟で、この叔父の妻の実家が武良家の[[親戚|遠縁]]だった{{sfn|布枝|2008|p=30}}。結婚する最初で最後の機会と考えた水木は「普通の会社員の二倍稼いでいる」と仲人口で見栄を張って洗練された都会人を装ったが、気が緩んだ拍子に方言を連発してしまったという。見合いから結婚式までわずか5日という異例のスピード婚で{{sfn|布枝|2008|p=39}}、式場は[[米子市|米子]]の灘町後藤のお屋敷が用いられた<ref>{{Cite web|和書|url=http://yonagokenchikujuku.com/map/part/yonago/gotou_ke.html |title=建築マップ 「灘町後藤家」 |publisher=米子建築塾.Web |accessdate=2015-11-30}}</ref>。[[新婚旅行]]の余裕すらなく大急ぎで東京に戻り、作品制作を再開した。 この頃の水木は戦記漫画が一番の売れ筋であり{{sfn|水木|2007|p=144}}、[[兎月書房]]の貸本用雑誌である『少年戦記』で[[水木しげる作戦シリーズ]]などを連載。また、雑誌の編集役も請け負って[[小松崎茂]]や[[坂井三郎]]らとも交流している。しかし原稿料は出し渋られ、紙芝居業界に続いて貸本漫画業界も衰退して行き、益々生活が苦しくなる。あまりの貧しさに、自宅へやって来た[[税務署|税務署員]]から「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑われたが、その言いように怒った水木は質札の束を突きつけ「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と税務署員を追い返した。結婚の翌年に長女の尚子(後の水木プロ社長)が生まれた時は真剣に漫画家を辞める事も考えたという。そうした中でかつて紙芝居作家時代に描いた「鬼太郎」を題材にする事を思い付いた。 [[1960年]]、兎月書房から『[[ゲゲゲの鬼太郎|墓場鬼太郎]]』シリーズの執筆を開始し、第一作となる「幽霊一家」が貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。後年の鬼太郎とは違う紙芝居時代に近い陰鬱な怪奇物に仕上げたが、当初は全く売れず『妖奇伝』も第2号で打ち切りとなった。だが打ち切り後に一部の読者から熱心な連載再開を要望する手紙が届き、倒産間際だった兎月書房は最後の希望を託して『墓場鬼太郎』シリーズの刊行を継続した{{sfn|水木|2007|p=149}}。これが人気作となり、徐々に水木しげると『鬼太郎』の名が知られていく契機となった。後年に水木は「窮地に陥るといつも現れて救ってくれるのが[[鬼太郎]]だった」と述べている{{sfn|水木|2007|p=148}}。 === 人気作家へ === 名が売れ多少強気の姿勢に出られるようになり、『墓場鬼太郎』の原稿料を支払わない兎月書房から[[三洋社]]に移籍して『鬼太郎夜話』を刊行した{{sfn|水木|2007|p=150}}。『鬼太郎夜話』も人気を得たが、三洋社の[[長井勝一]]社長が結核で入院して経営が混乱した事で打ち切りになってしまい、既に納入していた5巻目の「カメ男の巻」は原稿自体が行方不明という幻の作品と化した。『鬼太郎夜話』打ち切り後、兎月書房と和解して鬼太郎と共に紙芝居時代の作品である『[[河童の三平]]』を漫画化したが、1962年に兎月書房は倒産。以後は[[佐藤まさあき|佐藤プロ]]や『[[悪魔くん]]』を出版した[[東考社]]の貸本漫画に活躍の場を移すが、『悪魔くん』は思ったほど人気が出ず全5巻予定が3巻で打ち切りとなった{{sfn|水木|2007|p=151}}。貸本版の『悪魔くん』は経済的な貧しさから生じた過激な社会風刺に満ちており、「間違っている世の中を倒して革命を起こす」という悪魔くんの思想描写は当時の水木自身の「懸命に働いても貧乏が続く生活」への悲しみと憤りから発したもの<ref>[[講談社]]漫画文庫、水木しげる著、『[[コミック昭和史#関連作品|完全版 水木しげる伝]]』、[[2005年]][[1月12日]]発行、59-64頁。</ref>。こうして、水木が得意とする妖怪漫画の原型が紙芝居から貸本漫画時代にかけて形作られた。 1964年、病気療養から復帰した[[長井勝一]]が新しく漫画雑誌を作り、水木も依頼を受けた。同年9月に現代漫画の源流の一つとなる『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』の第1号が出版され、水木は読み切り短編「不老不死の術」を掲載した{{sfn|水木|2007|p=153}}。以降ガロで[[白土三平]]や[[つげ義春]]らと共に看板作家として名を上げた。1965年に講談社は[[W3事件]]の影響で「劇画路線」を採用し、水木は『[[週刊少年マガジン]]』で「SF物」の連載を依頼されるが、自分の得意分野ではないため悩んだ末に一旦辞退した。しかし半年後、その『少年マガジン』の編集長が[[内田勝]]に交代し、作風を限定しない条件へ変更のうえで水木は再度依頼され、今度は執筆を承諾した{{sfn|水木|2007|p=155}}。貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのは苦労したが{{sfn|布枝|2008}}、『[[別冊少年マガジン]]』に掲載した『[[テレビくん]]』が第4回[[講談社児童漫画賞]]を受賞し、45歳にして人気作家の仲間入りを果たした{{sfn|水木|2007|p=156}}。それまでの長い貧乏生活で[[質屋]]に入れていた物品は質札3cm分にもなっていたが、ようやく雑誌連載の原稿料ですべて返済でき、なんとか質流れにならず取り戻すことが叶った。ただ、最初に質屋に入れた背広だけは10年経って変形していたため、元の形態に戻そうと外に干したら盗まれてしまったという{{sfn|水木|2002|pp=212-213}}。 講談社漫画賞受賞で急増した仕事に対処するため[[1966年]]に水木プロダクションを設立。つげ義春、[[池上遼一]]、[[鈴木翁二]]らがアシスタント参加したことで、これ以降の水木漫画の特徴である「[[点描]]が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した独特なものとなっている。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界が一大[[妖怪]]ブームとなる。また[[民俗学]]での専門用語でもあった「妖怪」が、さらに広まる経緯ともなった。『週刊少年マガジン』で「大図解」を担当していた[[大伴昌司]]も水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。[[1970年]]には連載が11誌に達し、他にテレビやイベントの仕事も引き受けるなど、時間に追われる日々を過ごした。 気侭な人生をモットーとする水木は、どんな状況でも睡眠時間だけは十分に取るが、この時期だけはほぼ徹夜続きで、[[目眩]]や[[耳鳴り]]の症状も出る程だった{{sfn|水木|2007|p=160}}。プロダクション設立後は運営経費の捻出にも悩まされ、「漫画では大金持ちにはなれない」と痛感した{{sfn|水木|2007|p=157}}。まもなく、軍隊時代の恩人で戦後は[[阪急電車]]の職員になった宮一郎元軍曹と26年振りに再会。そして二人で戦地を尋ねる旅行に出向く{{sfn|水木|2007|pp=162-163}}。再訪した[[ニューブリテン島]]でトライ族の集落も訪れ、久しぶりに牧歌的な生活を見て自身のペースを失っていた事に気付き、帰国後仕事をセーブする{{sfn|水木|2007|p=166}}。この時期に本人が最も思い出深いと語る戦記漫画『[[総員玉砕せよ!]]』を執筆する。 仕事を抑えた事に加えて初期のブームが一段落した1980年代初期には低迷期を迎え、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほど経済的遣り繰りが厳しくなった。一時は水木も「妖怪なんていないんだ」と言い出すなど自暴自棄になって霊的世界への興味や創作意欲を失うが、次女の[[水木悦子|悦子]]が[[修学旅行]]で妖怪「[[目々連]]」を目撃し、水木は喜んで立ち直った<ref>水木悦子 『お父ちゃんと私』 やのまん、2008年3月、p.159-165。 </ref>。それから「鬼太郎」を筆頭に、それまで描いた妖怪漫画の度重なる映像化や再放送などで人気が復活し、世代を超えて知名度を得た。連載を減らした時からアシスタントには趣味でもあった妖怪絵巻の制作を手伝ってもらい、膨大な数の妖怪画を蓄積していたが、こうした妖怪に関する考察や資料も作品の再評価に繋がった{{sfn|水木|2007|p=166}}。 [[ファイル:Sakaiminato Mizuki Shigeru Honoring Monument 1.JPG|thumb|[[鳥取県]][[境港市]]「水木しげる氏顕彰碑」]] === ブーム再燃後 === ブーム再燃後は『[[のんのんばあとオレ]]』『[[コミック昭和史]]』など自らが描きたいと思う作品を選びながら執筆するようになり、個性派作家としての人気を確固たるものにした{{sfn|水木|2007|p=167}}。[[1991年]]に[[紫綬褒章]]を、[[2003年]]に[[旭日小綬章]]をそれぞれ長年の漫画家としての活躍を讃えられて受章している。 水木の特異なキャラクターと昭和と戦後漫画の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、水木自身について興味を抱かれる機会も増えた。1993年、幼少期を過ごした出身地[[鳥取県]][[境港市]]の町おこしに協力し、[[水木しげるロード]]の建設が開始され、2003年に[[水木しげる記念館]]の開館によって完成した。同地は鳥取県における観光名所として発展している。2010年、[[文化功労者]]に選出される。 === 晩年の活躍 === 90歳を超えてなお新作漫画やエッセイを発表し続けた。晩年の主な作品としては、長年の課題としていた[[出雲]]を描いた『[[水木しげるの古代出雲]]』、[[泉鏡花]]の生涯を漫画化した『水木しげるの泉鏡花伝』、最後の連載漫画となった『[[わたしの日々]]』、青年期に戦地まで持ち込んだ『ゲーテとの対話』のうち現代社会に活かせる内容を著した『ゲゲゲのゲーテ』などがある。 また、映像作品では『[[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)|ゲゲゲの鬼太郎]]』の実写映画や貸本版『[[墓場鬼太郎 (テレビアニメ)|墓場鬼太郎]]』のテレビアニメなどが実現した。<br />2010年には、妻・[[武良布枝|布枝]]の著書『[[ゲゲゲの女房]]』がNHK[[連続テレビ小説]]としてテレビドラマ化、および[[ゲゲゲの女房 (映画)|映画化]]されるなど改めて水木の人生に注目が集まった。海外での評価も高まり、フランス・[[アングレーム国際漫画祭|アングレーム国際漫画賞]]、米[[アイズナー賞]]などを受賞している。2011年、[[東日本大震災]]について考察した絵を描き、[[ニューヨーク・タイムズ]]に掲載された<ref>『The New York Times』2011年3月20日</ref>。 2013年、自身初の全集となる『[[水木しげる漫画大全集]]』が講談社から刊行開始。同年には近況を綴った『[[わたしの日々]]』の雑誌連載を『[[ビッグコミック]]』誌で開始、90歳を超えて新連載を始めるのは異例の記録となる<ref name="man">[https://mantan-web.jp/article/20150508dog00m200036000c.html 水木しげる:93歳“ご長寿”マンガ家の連載が“突然”最終回] MANTANWEB 2015年11月30日閲覧</ref>。 その後も、2015年4月より、93歳で『[[怪 (ムック)|怪]]』に[[小泉八雲]]の原作に絵をつけた作品である『怪画談』の連載を開始(水木しげる+水木プロダクション名義)。同年12月発売の『怪 vol.0046』に発表された第3回が遺作となった。第4回からは水木プロダクション作品として連載が続けられ、2016年7月発売の『怪 vol.0048』に掲載された第5回で完結した。 === 死去 === [[ファイル:Chofu The Grave Of Shigeru Mizuki 1.jpg|thumb|水木しげるの墓(当初は生前墓として建てられた)<small>(2015年12月)</small>]] [[2015年]][[11月11日]]、東京都調布市の自宅で転倒して頭部を強く打ち、都内の病院に入院した<ref name="Sponichi">[http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/11/30/kiji/K20151130011602450.html 「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん死去 93歳] スポーツニッポン 2015年11月30日閲覧</ref>。頭部打撲による[[硬膜下血腫]]を治療する為に緊急手術を受け、入院中に頭部打撲は回復したものの<ref name="47n1">{{Cite news |url=http://www.47news.jp/CN/201511/CN2015113001001607.html |title=水木さんの死因は多臓器不全 事務所が訂正 |newspaper=共同通信 |date=2015-11-30 |archiveurl=https://archive.is/PKwuU |archivedate=2015-11-30 |archiveservice=archive.today |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref>、同年[[11月30日]]未明に容体が急変し、午前7時18分に[[多臓器不全]]のため入院先の東京都[[三鷹市]]の[[杏林大学医学部付属病院]]で死去した<ref>{{Cite web|和書|url=https://r.nikkei.com/article/DGXLASDG30H4P_Q5A131C1MM8000|title=漫画家の水木しげる氏が死去 93歳、「ゲゲゲの鬼太郎」|publisher=日本経済新聞|date=2015-11-30|accessdate=2020-11-23}}</ref><ref name="47n1"/><ref name="asahi20151130"/><ref name="Sponichi"/>。93歳没。 通夜、葬儀・告別式は近親者のみで営まれた<ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/articles/20151202/spn/00m/200/007000c |title=水木しげるさん死去 通夜は自宅近くの寺で 涙声「父ちゃん、父ちゃん」 |newspaper=毎日新聞 |date=2015-12-02 |accessdate=2016-02-02 |archiveurl=https://archive.is/pc4Cm |archivedate=2016-02-02 |archiveservice=archive.today |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/articles/20151203/spn/00m/200/002000c |title=水木しげるさん 近親者のみで葬儀「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」追悼放送 |newspaper=毎日新聞 |date=2015-12-03 |accessdate=2016-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151210183743/http://mainichi.jp:80/articles/20151203/spn/00m/200/002000c |archivedate=2015-12-10 |archiveservice=Wayback Machine |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref>。翌年の[[1月31日]]には[[東京]]・[[青山葬儀所]]にて「お別れの会」が開かれ、親交のあった著名人や一般弔問者など約7800人が参列した<ref name="oricon16013101">{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/2066158/full/ |title=水木しげるさんお別れの会に7800人参列 追悼の声続々 |newspaper=Oricon style |date=2016-01-31 |accessdate=2016-02-02}}</ref>。 祭壇は水木の短編漫画『丸い輪の世界』をイメージして作られ、周囲には鬼太郎や悪魔くんなどのイラストが並んだ<ref name="natalie160131">{{Cite news |title=水木しげるお別れの会、夫人らが「丸い輪」の向こう側の水木サンを偲ぶ |newspaper=コミックナタリー |date=2016-01-31 |url=https://natalie.mu/comic/news/174361 |accessdate=2018-07-09}}</ref>。遺影の下には水木の故郷から見える山や海、左右には太平洋戦争時に出征した[[ラバウル]]をイメージした花が配され<ref name="natalie160131" />、遺影の前には[[明仁|天皇]](当時)からの[[祭粢料]]が飾られた<ref>{{Cite web|和書|url= https://tocana.jp/2016/02/post_8922_entry.html |title= 水木しげる先生お別れの会参列記 一反木綿の握り寿司や目玉おやじのマカロン…「本当にありがとうございました」 |author= 光益公映 |publisher= TOCANA |date= 2016-02-17 |accessdate= 2019-03-11 }}</ref>。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」<ref name="oricon16013101" />。弔辞は[[野沢雅子]]、[[さいとう・たかを]]、[[松田哲夫]]らが読み上げた<ref name="oricon16013101" />。 === 没後 === [[2016年]]2月、アニメーション産業・文化の発展に寄与したことが称えられ、「[[東京アニメアワード|東京アニメアワードフェスティバル]]2016」でアニメ功労部門を受賞<ref>{{Cite news |title=水木しげる「東京アニメアワードフェスティバル2016」アニメ功労部門を受賞 |newspaper=コミックナタリー |date=2016-02-04 |url=https://natalie.mu/comic/news/174951 |accessdate=2018-07-09}}</ref>。同月には水木の仕事場から未公開の日記が発見され<ref>{{Twitter status|mizukipro|700585893355106304|水木プロダクション2016年2月19日}}</ref>、2017年1月のNHK『[[クローズアップ現代+]]』で特集が組まれた<ref>{{Cite web|和書|date=2017-01-05 |url=http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3913/1.html |title=オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ~未公開 水木しげるの日記~ |work=[[クローズアップ現代+]] |publisher=NHK |accessdate=2018-07-09|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170107000121/http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3913/1.html|archivedate=2017-01-07}}</ref>。 2016年、東京都調布市は命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」と名付け、水木の功績を称えるイベントなどを毎年開催<ref>{{Cite news |url=https://www.asahi.com/articles/photo/AS20161109003700.html |title=水木しげるさん命日を「ゲゲゲ忌」に 調布市 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2016-11-10 |accessdate=2020-01-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200128130528/https://www.asahi.com/articles/photo/AS20161109003700.html|archivedate=2020-01-28}}</ref>。鳥取県境港では記念品の配布などが行われている<ref>{{Cite news |url=https://www.sanspo.com/article/20191130-CWGSEDQGFRMLTJZYJO47QA3ORM/ |title=水木しげるさん命日「ゲゲゲ忌」 鳥取・境港で記念品配布 |newspaper=サンスポ |date=2019-11-30 |accessdate=2020-01-28}}</ref>。 [[2017年]]3月、水木しげるの生涯を回顧する展覧会「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が東京・松屋銀座で行われ、その後は全国を巡回する<ref>{{Cite news |title=「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が名古屋に、今後は沖縄&島根にも巡回 |newspaper=コミックナタリー |date=2018-04-08 |url=https://natalie.mu/comic/news/277095 |accessdate=2018-07-09}}</ref>。 [[2018年]]4月から[[2020年]]3月にかけて、『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第6シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』のテレビアニメ第6シリーズが放送。2018年7月には[[水木しげるロード]]がリニューアルオープンし、先の『ゲゲゲの鬼太郎』と合わせた記念イベントでは、妻・布枝ら家族も姿を見せた<ref>{{Cite web|和書|date=2018-07-14 |url=https://www.nishinippon.co.jp/item/o/432876/ |title=水木しげるロード、25年で新装 妻の武良さん出席し記念式典 |website=西日本新聞 |accessdate=2020-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2018-07-08 |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1807/08/news012.html |title=鳥取県「水木しげるロード」がリニューアルオープン |website=ねとらぼ |accessdate=2020-12-03}}</ref>。 2020年の[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナウイルス感染症]]に関連して妖怪・[[アマビエ]]が話題となり、水木の描いた妖怪画も大きな反響を呼んだ<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-18 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2157759/ |title=水木しげるさんが描いた“アマビエ”SNSで話題に 「神々しい」「疫病が収まりますように…」 |website=ORICON NEWS |accessdate=2020-12-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2020-05-21 |url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/16718 |title=水木しげるさんアマビエの予言 病流行の時、私の写しを人々に見せよ |website=東京新聞 TOKYO Web |accessdate=2020-12-06}}</ref>。 2022年7月8日、水木しげる生誕100周年を記念して、[[六本木ヒルズ]]展望台東京シティビューにて「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~」が開催された<ref>[https://mizuki-yokai-ex.roppongihills.com/ 水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~2022.07.08]</ref>。 == 人物・エピソード == === 妖怪研究家として === 1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。 水木は[[妖怪]]を題材にするにあたり、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。[[鳥山石燕]]など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「[[子泣き爺]]」「[[砂かけ婆]]」「[[塗壁|ぬりかべ]]」「[[一反木綿]]」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。 大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ<ref>京極夏彦・宮部みゆき 「妖怪と心の闇をのぞく」『対談集 妖怪大談義』 角川書店〈角川文庫〉、2008年6月。</ref>、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い<ref>[[小松和彦]] 「水木しげると現代の妖怪文化」『妖怪まんだら』 世界文化社、2010年7月。</ref>。一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪([[樹木子]]など)も何体か描いている<ref>{{Cite book |和書 |author=京極夏彦 |author2=多田克己 |author3=村上健司 |title=完全復刻 妖怪馬鹿 |year=2008 |publisher=新潮社 |pages=341-344 |isbn=978-4-10-135351-7}}</ref>。また、[[2007年]]8月に、妖怪研究家の[[湯本豪一]]が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国[[ブリガム・ヤング大学]]の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『[[水木しげるの妖怪事典]]』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。 1992年に『[[妖怪画談|カラー版 妖怪画談]]』を[[岩波新書]]から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『[[妖鬼化]]』シリーズが刊行された。 水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、[[1995年]]に[[世界妖怪協会]]を設立して会長となる。[[荒俣宏]]、[[京極夏彦]]、[[多田克己]]らが会員となり、「[[世界妖怪会議]]」が開催される。[[1997年]]からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『[[怪 (ムック)|怪]]』([[角川書店]])が刊行開始。水木も漫画を執筆している。 それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの[[大泉実成]]らと、[[アフリカ]]・[[マリ共和国]]の[[ドゴン族]]、[[マレーシア]]の夢を自由に見られる[[セノイ族]]、[[オーストラリア]]の[[アボリジニ]]、[[メキシコ]]のインディオたちの村、アメリカの先住民・[[ホピ族]]の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地の[[スピリチュアル]]文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。 [[大泉実成]]『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『[[日本妖怪大全]]』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。 === のんのんばあと水木 === '''[[のんのん婆|のんのんばあ]]'''とは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた'''景山ふさ'''という老婆のことである{{sfn|水木|2007|p=39}}。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた{{sfn|水木|2007|p=39}}。 景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「([[松江市|松江]]の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という{{sfn|足立|2010|p=331}}。 ふさは子供たちを集めては[[お化け]]や[[妖怪]]や[[地獄]]の話をしてくれた{{sfn|水木|2007|p=39}}。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている{{sfn|水木|2007|p=39}}。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。 ふさは水木が小学5年生の時に死去した。 幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』のタイトルの原点となったと語っている。『[[のんのんばあとオレ]]』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品は[[日本放送協会|NHK]]で実写ドラマとなって放映された。 2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が[[荒俣宏]]と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。 === 戦争 === [[戦争]]を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『[[総員玉砕せよ!]]』は9割以上実体験であると語る。[[2007年]](平成19年)[[8月12日]]には[[NHKスペシャル]]の終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『[[鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜]]』が放送された。 水木は戦中現地で[[マラリア]]熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己[[軍医]]大尉に現地[[除隊]]を申し込むほどだった。砂原は[[2004年]](平成16年)[[1月28日]]に逝去したが、[[1996年]](平成8年)[[7月26日]]に放送された『[[驚きももの木20世紀]]』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「[[土人]]」と呼んでいる。近年では土人という用語は[[差別用語]]と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、'''大地の民'''という意味合いで親しみを込めて使用している。 また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『[[大空のサムライ]]』を出版したばかりの[[坂井三郎]]に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く[[零式艦上戦闘機|零戦]]を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続け[[ガダルカナル島]]戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降の[[ラバウル]]での地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた<ref>梅本浩 『ビルマ航空戦:日英米の資料を対照して描いた「隼」の戦闘記録』下巻 大日本絵画、2002年12月。{{要ページ番号|date=2018-10-16}}</ref>。 『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年[[自殺]]者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた<ref>[[2004年]]8月28日放送『NHK土曜インタビュー』より</ref>。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。 [[2015年]]5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『[[新潮]]』2015年8月号に掲載された<ref>{{Cite news |date=2015-07-06 |url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150702-OYT8T50048.html |title=水木しげるさん出征前の手記…戦争へ20歳の苦悩 |newspaper=[[YOMIURI ONLINE]] |publisher=[[読売新聞社]] |accessdate=2015-07-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150713054836/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150702-OYT8T50048.html |archivedate=2015-07-13}}</ref>。 === 人柄・性格 === * 晩年の一人称は「水木サン」だった。「私」や「僕」、「俺」または「小生」を使っていたこともある{{refnest|group="注"|実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は「自分」という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという{{sfn|布枝|2008}}。}}。 *子供の頃は自己紹介の折に「しげる」という名前が上手く発音できず「げげる」になってしまった事から「ゲゲ」と言われており、墓場鬼太郎がアニメ化の際に「ゲゲゲの鬼太郎」に変更されるきっかけになった<ref>実写映画版「ゲゲゲの鬼太郎」のパンフレット記事より(目次・ページ付共になし)。[[2007年]][[4月17日]]発行。</ref><ref>『神秘家 水木しげる伝』、205頁、[[角川文庫]]、[[2010年]][[3月25日]]発行。</ref>。 * 「胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢で「ズイダ」というあだ名([[雲伯方言]]で「何でも食べる浅ましい者」という意味)で呼ばれていた{{sfn|水木|2004|pp=20-21}}。90歳を過ぎても食欲は非常に旺盛で、特に病気もなく健康そのものだった。自身の[[ツイッター]]でも食事や間食の様子がたびたび書かれていた<ref>{{Cite news |title=【ゲゲゲ】水木しげる先生(90歳)はハンバーガーが大好きだった! マクドナルドもフレッシュネスも食べまくる(笑) |newspaper=exciteニュース |date=2013-03-04 |url=https://www.excite.co.jp/News/net_clm/20130304/Rocketnews24_300494.html |accessdate=2018-07-09}}</ref><ref>{{Cite news |title=漫画家水木しげる先生が92歳にして『とんかつマックバーガー』にチャレンジ! そして「がいにうまい!」と完食 |newspaper=[[ロケットニュース24]] |date=2014-12-02 |url=https://rocketnews24.com/2014/12/02/516652/ |accessdate=2018-07-09}}</ref>。数多い友人の中でも大食漢やよく太った人を喜び、[[荒俣宏]]とはよく一緒に旅行しては旅先でグルメを競い合っていた<ref>ワールド・ミステリー・ツアー 東欧篇{{Full citation needed|title=出版社、出版年、著者名、ページ番号が不明。『ワールド・ミステリー・ツアー』を、水木の人物像や行動に関する一次資料とするなら、二次資料を用いずに一次資料の内容を勝手に要約することは方針違反(ショートカット WP:PSTS を参照)。|date=2018年6月26日 (火) 23:21 (UTC)}}</ref>。好物は[[すき焼き]]。 * 座談が面白いことで有名で、多忙な水木のために水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、実際には水木自身がそれを無視して来客と何時間も会話を楽しんでいたという。また、テレビ番組に出演したこともあったが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともあった{{sfn|水木ほか|2002|pp=90-98}}。 * 家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも一部分は3階建てという迷路のような家になってしまったという{{sfn|水木|2005|pp=109-113}}{{sfn|布枝|2008|pp=166-168}}。また、『[[東西奇ッ怪紳士録]]』には「[[二笑亭]]主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫[[シュヴァルの理想宮]])の建築道楽の2篇が収録されている。 * 『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌そのままに朝寝を好んでいた。NHKの『[[あさイチ]]』で水木プロダクションから生中継が行われた際も、当初から妻の布枝だけが出演する約束になっており、水木本人は普段通り就寝していた。 * 水木自身、長生きの秘訣として普段から[[睡眠]]の重要性を説いており、自分はどんなに忙しくても1日10時間は寝ると語っていた。逆に、自分より年下の[[手塚治虫]]や[[石ノ森章太郎]]は[[徹夜]]ばかり続けていたために早死にしてしまったと、[[手塚治虫文化賞]]の受賞スピーチで語っている{{sfn|足立|2010|pp=410-411}}。また、水木と同じく長生きの漫画家として知られた[[やなせたかし]]も水木の意見に賛同している<ref>[https://www.1101.com/yanase_takashi/index.html 「箱入りじいさん」の94年。(その6)および(その7)]</ref>。とはいえ、水木家はもともと父が88歳、母が94歳、兄が97歳、弟が96歳でそれぞれ没した、かなり長命な家系であったことも事実である。水木の93歳にせよ一種の事故死であり、前述の転倒事故がなければもっと長生きしていた可能性は高いと考えられる。 * 評論家の呉智英は、「ひょっとしたら、水木しげるの最高傑作は水木しげるかもしれない」と評した{{sfn|水木ほか|2002|p=182}}。 * アシスタントであった[[つげ義春]]が水木に最後に会ったのは[[2009年]]から[[2010年]]頃で、場所は地元の[[神社]]であった。水木がいきなり「つまらんでしょ?」と話しかけたので、つげも「つまらんです」と相槌を打つと、「やっぱり!」と答えたという<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASHCZ5K6YHCZUCLV012.html |title=向井理さん、つげ義春さん…悼む声続々 水木さん死去 |newspaper=朝日新聞 |date=2015-11-30 |archiveurl=https://megalodon.jp/2015-1130-2145-11/www.asahi.com/articles/ASHCZ5K6YHCZUCLV012.html |archivedate=2015-11-30 |archiveservice=ウェブ魚拓 |deadlinkdate=2018-10-16}}</ref>。 === 執筆関係 === * 自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『[[コミック昭和史]]』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている事が多い。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は貧しくて十分な食事が取れなかった事情もあり、やせて細い顔をしていた。 * 売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。晩年は300冊を超えるという)。また、「[[ハヤカワ・ミステリ]]」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た[[桜井昌一]]は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。また、[[長井勝一]]は「貧乏していても資料を丹念に集めるという点では、類のない人だった」と回想していた<ref>{{Cite book |和書 |author=呉智英 |coauthors=梅原猛 |year=2015 |title=水木しげる―鬼太郎、戦争、そして人生 |publisher=新潮社 |page=64|isbn=978-4-10-602261-6 }}</ref>。なお、若き時代の[[呉智英]]などが、その資料の整理を手伝った。 * 初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものもあったが、当時はまだ[[著作権]]に対する認識が浸透していなかった時代であり、特に問題とはならなかった<ref name="courrier180515">{{Cite web|和書|date=2018-05-15 |url=https://courrier.jp/columns/121651/ |title=「実はコスモポリタンだった水木サン」空前絶後の大全集、秘められた裏側を初めて語る! |website=[[クーリエ・ジャポン]] |publisher=講談社 |accessdate=2018-07-09}}</ref>。ただし、1966年に[[朝日ソノラマ]]から刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、[[星新一]]作品「福の神」<ref>[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000045654 「忍法秘話」掲載作品〔全〕]</ref>とのストーリーの類似が指摘され、水木は[[盗作]]を認めて謝罪。朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された<ref>『THE ART OF 新書版コミックス サンコミックス編』(まんだらけ)P.12,P97</ref>。「太郎稲荷」は[[水木しげる漫画大全集]]の『「忍法秘話」掲載作品〔全〕』が2013年に刊行された際に、そのまま収録されてしまい、星新一の遺族からの抗議をうけ、第3刷から『原作・星新一「福の神」(新潮文庫刊『妖精配給会社』所収)』と作品内に表記することで対応した<ref>{{Cite web|和書|date=2013-09-10 |url=http://comic-sp.kodansha.co.jp/mizuki/news/20130910.html |title=お詫びと訂正のお知らせ |work=水木しげる漫画大全集 |publisher=講談社 |accessdate=2018-07-09}}</ref>。 * 水木作品では資料写真のみならず、国内外の絵画や彫像などの創作作品を模写したものが多数使用されている<ref>{{Cite journal |和書 |title =水木画のひみつ 水木しげるにとって「引用」とはなにか? |date=2016-02 |publisher=[[青林工藝舎]] |journal=アックス |issue=109|pages=66-73}}</ref>。なお、『[[水木しげる漫画大全集]]』の出版にあたり、海外のものも含めて一つ一つ著作権者を探して許諾を得ていった<ref name="courrier180515" />。 * ある日長女に「手塚治虫先生の漫画には夢がある。お父ちゃんの漫画には夢がない」と言われ「馬鹿野郎!俺は現実を書いているんだ!」と激昂したという<ref>{{Cite book |和書 |author1=水木悦子|authorlink1=水木悦子|author2=赤塚りえ子|authorlink2=赤塚りえ子|author3=手塚るみ子|authorlink3=手塚るみ子|year=2010 |title=ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘 |publisher=文藝春秋 |page=19|isbn=978-4-16-372050-0 }}</ref><ref group="注">他方、手塚の長男の[[手塚眞]]は水木漫画の愛読者で、後年の監督作品『妖怪天国』につながっている。</ref>。 *年下の手塚治虫にはライバル心を抱いており「屈折した思いもあった」と語る。それだけに、手塚治虫文化賞の内定を受諾した際、妻と二人の娘も「え?もらうの?」と驚いたという{{sfn|水木|2007|p=171}}。 * 美人画や色っぽい絵を描くのが苦手で、よく担当の編集者からダメ出しをされていた<ref>{{Cite book|和書 |author=水木悦子 |year=2017 |title=ゲゲゲの娘日記 |publisher=KADOKAWA |pages=120-121 |isbn=978-4-04-106355-2 }}</ref>。 === 境港市・調布市との関係 === [[image:Sakaiminato Mizuki Production Chugoku Branch 3.JPG|thumb|200px|水木プロダクション中国支部(境港市入船町)]] [[File:境港本町アーケード商店街2.JPG|thumb|200px|right|境港本町アーケード商店街]] ; 境港市 : 故郷の鳥取県[[境港市]]に「[[水木しげるロード]]」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、[[水木ロード郵便局]](既存局を改称)もある。なお、[[境港郵便局]]をはじめ市内7郵便局の[[風景印]]は全て鬼太郎らのキャラクターが[https://web.archive.org/web/20100729015106/http://www.geocities.jp/characterpostmark/chara05-01.html デザインされている]。 :設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「[[水木しげる記念館]]」も開館している。また同市では[[世界妖怪協会]]による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。 :[[米子駅]]と[[境港駅]]を結ぶ[[西日本旅客鉄道|JR]][[境線]]では「[[鬼太郎列車]]」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。 :境港市の観光協会による「第1回'''妖怪'''人気投票」で水木本人が3位になっている。 :[[2007年]][[3月22日]]、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している<ref>『[[日本海新聞]]』{{Full citation needed|date=2018-10-16 |title=日付など不明。}}</ref>。 ;調布市 [[ファイル:Keio Bus Higashi L20623 Chofu City Mini Bus Liesse CNG.jpg|thumb|200px|『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが描かれた、[[調布市ミニバス]]「鬼太郎バス」の車両(京王バス東・L20623)]] : 水木が50年近く住んだ[[東京都]][[調布市]]は、市を挙げて水木の顕彰に努めており、[[2008年]]に水木は名誉市民に選ばれた<ref>[http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1204777524507/index.html 「水木しげるさんを名誉市民に」名誉市民顕彰式が開催される] 調布市公式サイト(2018年1月19日閲覧)。</ref>。調布市内の名誉市民となるのは[[本多嘉一郎]]に続き2例目<ref>{{Cite news|title=水木しげるさん、調布名誉市民に|newspaper=[[MSN産経ニュース]]|date=2008-02-28|url=http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/080228/tky0802280314003-n1.htm|access-date=2022-10-06|archive-url=https://web.archive.org/web/20080302071017/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/080228/tky0802280314003-n1.htm|archive-date=2008-03-02}}</ref>。市内にある水木やその作品ゆかりの地を紹介する[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]]マップを発行するなど<ref>[http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1535344033957/index.html 調布市「ゲゲゲの鬼太郎」第6期聖地巡礼マップVOL.1発行](2018年9月17日閲覧)。</ref>、観光面での地域振興にもつなげている。 : 調布市は[[2016年]]に、水木の一周忌を前に命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」とすることを決め、[[スタンプラリー]]などの追悼事業を実施すると発表した<ref>[http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1478650497074/index.html プレスリリース (2016年11月9日発表) ゲゲゲ忌] 調布市公式サイト</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1477528000196/index.html |title=「ゲゲゲ忌」調布市名誉市民・水木しげるさん追悼|調布市 |publisher=調布市 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161117070613/http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1477528000196/index.html |archivedate=2016-11-17 |archiveservice=Wayback Machine |deadlinkdate=2018-10-16|accessdate=2019-03-03}}</ref>。 : [[調布駅]]南口にある「調布市文化会館たづくり」1階には、調布が登場する水木作品を紹介する「ゲゲゲギャラリー」が設けられている<ref>[https://www.chofu-culture-community.org/forms/info/info.aspx?info_id=7840 ゲゲゲギャラリー] 調布市文化・コミュニティ振興財団(2018年1月19日閲覧)</ref>。 : 調布市の[[コミュニティバス]]「[[調布市ミニバス]]」には『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』のキャラクターが車体に描かれ、愛称「鬼太郎バス」として3路線4ルートが運行されている<ref>[http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118853530/index.html 調布市ミニバス(コミュニティバス)] 調布市公式サイト</ref><ref name=keiogegegemap>[https://www.keio.co.jp/area/gegegemap/chohu.html 沿線おでかけ情報 ゲゲゲ散策マップ 調布駅周辺コース] 京王グループ公式サイト</ref>。 :『ゲゲゲの女房』がテレビドラマ化された2010年には、[[京王電鉄]]から調布市内の[[京王線]]5駅と[[京王バス東・調布営業所|京王バス]]の乗車券をセットにした「ゲゲゲ記念切符」も発売された<ref name=chofukeizai20100910>[https://chofu.keizai.biz/headline/518/ 調布駅など3駅で「ゲゲゲ記念切符」-京王電鉄が5,000セット販売] 2010年09月10日 調布経済新聞</ref><ref name=keiogegegemap /> : [[2003年]]10月には「[[深大寺そば]]」で有名な調布市[[深大寺]]の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ、本社:鳥取県米子市)が経営している<ref>[http://kitaro-chaya.jp/ 調布市深大寺 鬼太郎茶屋] 妖怪舎</ref>。(なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、「妖怪舎」とは無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。) : [[京王線]][[調布駅]]北口の[[布多天神社]][[参道]]にある「天神通り商店街」には、ゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎である。 {{Double image aside|right|Chofu Jindaiji Kitaro-chaya 1.JPG|180|Chofu Tenjindori Shopping Street 1.JPG|160| 鬼太郎茶屋|天神通り商店街 }} : 自宅近くの覚證寺には、鬼太郎などが彫刻された墓<ref group="注">水木の存命中に、生前墓として建てられた。</ref>と、水木が描いた「二河白道図」が置かれている。 == 略年譜 == * [[1922年]]([[大正]]11年) **3月8日に大阪で生まれ、父の故郷である[[鳥取県]][[境港市]]に移る。 * [[1927年]]([[昭和]]2年、5歳) **まかない婦の景山ふさ([[のんのんばあ]])に可愛がられ、妖怪の話に強い影響を受ける。 * [[1929年]](昭和10年、7歳) **境尋常小学校(現・[[境港市立境小学校]])に一年遅れて入学する。 * [[1935年]](昭和10年、13歳) **境尋常小学校を卒業。境尋常小学校[[高等小学校|高等科]](境尋常高等小学校)へ進学。 * [[1937年]](昭和12年、15歳) **境尋常高等小学校卒業。石版印刷所や版画社に就職するが、すぐに解雇される{{sfn|水木|2007|p=61}}。 * [[1938年]](昭和13年、16歳) **画家を志し、精華美術学院に入学。 * [[1939年]](昭和14年、17歳) **新聞販売店に住み込みで[[新聞配達|配達]]の仕事を始める{{sfn|水木|2007|p=73}}。 * [[1940年]](昭和15年、18歳) **日本鉱業学校採掘科に入学するが、半年で[[退学]]する。 * [[1941年]](昭和16年、19歳) **日本大学付属大阪夜間中学(現・[[大阪高等学校 (私立)|大阪学園大阪高等学校]])に入学。 * [[1943年]](昭和18年、21歳) **[[召集令状]]が届き、[[ニューブリテン島]][[ラバウル]]へ出征。 * [[1944年]](昭和19年、22歳) **爆撃により左腕を失う。 * [[1945年]](昭和20年、23歳) **ニューブリテン島ナマレの野戦病院で療養し、現地人のトライ族と親しくなる。 **終戦を迎え、トライ族との永住を望み現地除隊を申し出るが、説得され断念する。 * [[1946年]](昭和21年、24歳) **復員し、神奈川の病院で治療を受ける。 * [[1948年]](昭和23年、26歳) **[[武蔵野美術大学|武蔵野美術学校]]に入学。私生活では[[自転車タクシー|輪タク業]]や魚屋など職を転々とする。 * [[1950年]](昭和25年、28歳) **[[神戸市|神戸]]で「水木荘」と名付けたアパートの大家となり、副業として[[紙芝居]]制作も始める。 * [[1951年]](昭和26年、29歳) **阪神画劇社の専属紙芝居作家となり、「水木しげる」のペンネームを使用し始める。 * [[1953年]](昭和28年、31歳) **経営が行き詰まり「水木荘」を売却。 * [[1957年]](昭和32年、35歳) **衰退した[[紙芝居]]業界に見切りをつけ、漫画家への転進を目指して上京。 * [[1958年]](昭和33年、36歳) **デビュー作『[[ロケットマン (水木しげるの漫画)|ロケットマン]]』を[[兎月書房]]から刊行。漫画家に転身する。 * [[1959年]](昭和34年、37歳) **[[調布市]]に家を購入。 * [[1960年]](昭和35年、38歳) **[[兎月書房]]の貸本誌『妖奇伝』にて、『[[ゲゲゲの鬼太郎|墓場鬼太郎]]』シリーズを開始。 * [[1961年]](昭和36年、39歳) **[[武良布枝|飯塚布枝]]と[[見合い]][[結婚]]。 **[[兎月書房]]より、『[[河童の三平#貸本版|河童の三平]]』を刊行開始。 * [[1963年]](昭和38年、41歳) **[[東考社]]より、『[[悪魔くん#「松下一郎」版|悪魔くん]]』を刊行開始。 * [[1964年]](昭和39年、42歳) **[[青林堂]]の『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』で雑誌デビュー。 * [[1965年]](昭和40年、43歳) **[[講談社]]の『[[月刊少年マガジン|別冊少年マガジン]]』でメジャー出版社デビュー。 **『[[テレビくん]]』で[[講談社児童漫画賞]]受賞。 **『[[週刊少年マガジン]]』で『墓場の鬼太郎』の掲載が開始。 * [[1966年]](昭和41年、44歳) **水木[[プロダクション]]設立。 **『悪魔くん』が実写テレビドラマ化。 * [[1968年]](昭和43年、46歳) **『墓場の鬼太郎』を『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第1シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』に改名し、初のテレビアニメ化。 * [[1971年]](昭和46年、49歳) **『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第2シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が2度目のアニメ化。 **26年ぶりにニューブリテン島ナマレを訪れ、トライ族と再会。以降、何度も同地を訪れるようになる。 * [[1973年]](昭和48年、51歳) **実体験を描いた戦記漫画『[[総員玉砕せよ!]]』を[[講談社]]から刊行。 * [[1977年]](昭和52年、55歳) **自伝エッセイ『[[のんのんばあとオレ]]』を[[筑摩書房]]から刊行。 * [[1985年]](昭和60年、63歳) **『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第3シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が3度目のアニメ化。 * [[1989年]]([[平成]]元年、67歳) **『悪魔くん』がアニメ化。 **『[[コミック昭和史]]』で[[講談社漫画賞]]受賞。 * [[1991年]](平成3年、69歳) **[[紫綬褒章]]受章。 **『[[のんのんばあとオレ]]』がNHKでテレビドラマ化され、翌年には続編が放送。 * [[1992年]](平成4年、70歳) **『[[妖怪画談|カラー版 妖怪画談]]』を[[岩波新書]]から刊行。 * [[1993年]](平成5年、71歳) **生まれ故郷、鳥取県[[境港市]]に「[[水木しげるロード]]」がオープン。 * [[1995年]](平成7年、73歳) **[[世界妖怪協会]]を設立。会員は、[[荒俣宏]]、[[京極夏彦]]、[[多田克己]]ら。 * [[1996年]](平成8年、74歳) **『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が4度目のアニメ化。 **境港市で世界妖怪協会主催の「[[世界妖怪会議]]」が開催される。 * [[1997年]](平成9年、75歳) **[[世界妖怪協会]]公認の妖怪マガジン『[[怪 (ムック)|怪]]』が[[角川書店]]から刊行開始。 * [[1998年]](平成10年、76歳) **作画活動50周年を記念して、『[[妖鬼化|水木しげる妖怪原画集 妖鬼化(むじゃら)]]』全8巻を翌年に掛けて刊行。 * [[2003年]](平成15年、81歳) **境港市に「[[水木しげる記念館]]」開館。 * [[2004年]](平成16年、82歳) **荒俣宏・京極夏彦プロデュースによる「大(Oh!)水木しげる展」が[[鳥取県立博物館]]で開幕。以後、2006年まで全国巡回。 * [[2005年]](平成17年、83歳) **水木しげる、荒俣宏、京極夏彦、[[宮部みゆき]]共同原案の映画『[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]]』が公開。 * [[2007年]](平成19年、85歳) **『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第5シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が5度目のアニメ化。 **松竹により『[[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が初の実写映画化。 **『[[総員玉砕せよ!]]』が『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』のタイトルでテレビドラマ化。 * [[2008年]](平成20年、86歳) **アニメ版鬼太郎生誕40周年。貸本版の『[[墓場鬼太郎 (テレビアニメ)|墓場鬼太郎]]』が初のアニメ化。 **実写映画版2作目となる『[[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)#第2作目『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』|ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌]]』(松竹)が公開。 * [[2010年]](平成22年、88歳) **妻の布枝の著書『[[ゲゲゲの女房]]』がドラマ化および映画化。 * [[2013年]](平成25年、91歳) **『[[水木しげる漫画大全集]]』(講談社)刊行開始。 * [[2015年]](平成27年、93歳) **[[多臓器不全]]のため死去。 * [[2018年]](平成30年) **『水木しげる漫画大全集』(講談社)が、別巻・補巻含め全113巻で完結。 **『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第6シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』が6度目のアニメ化。 **水木しげるロードが大規模リニューアル。 == 別名義 == 貸本時代の水木は、出版社や作品などによって複数の名義を使い分けていた。特に自身が編集を任されていた貸本誌では、多数の作家が執筆しているように見せるため、1冊の中で複数の作品を別名義で書き分けていた。 以下は、名義の一覧と簡単な使用歴など<ref>山口信二 『水木しげる貸本漫画のすべて』 やのまん、2007年5月。</ref>{{sfn|水木|2007|pp=138-139}}。 ; 東真一郎 :[[西宮市|西宮]]時代に階下を貸していた歯科医の名前「東」と、兄の長男の名前「真一郎」を合わせた名前。兎月書房以外の出版社で多数使用。 ; むらもてつ :少年時代に名乗っていた雅号から付けた名前。戦記漫画で使用。 ; 関谷すすむ :短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。 ; 武良茂、武良しげる :水木の本名。短編漫画、読み物、イラストなどで多数使用。 ; 米替富夫 :貸本時代のアシスタントの名前をいじったもの。短編漫画で使用。 ; 戦記屋三平 :戦記読み物やイラストで使用。 ; なんでも屋三平 :科学読み物やイラストで使用。 ; 萩原治、堀田弘 :出版社が勝手に付けた名前。時代劇漫画で使用。 ; 猿飛佐一 :忍者読み物やイラストで使用。 ; 武取いさむ :出版社が勝手に付けた名前。戦記漫画で使用。 ; 水木洋子 :少女漫画で使用。[[水木洋子|同名]]の脚本家とは無関係。 == 受賞・栄典 == * [[1965年]] 『[[テレビくん]]』で第6回[[講談社児童漫画賞]] * [[1989年]] 『[[コミック昭和史]]』で第13回[[講談社漫画賞]]一般部門 * [[1991年]] ** NHK鳥取放送局製作『[[のんのんばあとオレ]]』で平成3年度[[文化庁芸術作品賞]] ** [[紫綬褒章]] - [[南方熊楠]]が[[昭和天皇]]に「ご進講」をした際と同じ、「モーニングとシルクハット」姿で授賞式に臨んだ。 * [[1996年]] 「『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』他一連の妖怪漫画」に対して第25回[[日本漫画家協会賞]]文部大臣賞 * [[1998年]] ** 第37回[[日本児童文芸家協会|児童文化功労賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=児童文化功労賞|website=日本児童文芸家協会|url=https://jidoubungei.jp/about/award/achievement-award.html|accessdate=2022-09-17}}</ref> ** 第29回[[星雲賞]]アート部門 * [[2003年]] ** 第7回[[手塚治虫文化賞]]特別賞 ** [[旭日章|旭日小綬章]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/list_hp/k_tokyo.pdf|title=平成15年秋の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都|format=PDF|publisher=内閣府|accessdate=2023-05-25|date =2003-11-03|page=3|archiveurl=https://web.archive.org/web/20031204091500/http://www8.cao.go.jp:80/intro/kunsho/list_hp/k_tokyo.pdf|archivedate=2003-12-04|deadlinkdate=2023-05}}</ref> * [[2005年]] [[織部賞]]グランプリ * [[2007年]] ''Non Non Bâ''(『のんのんばあとオレ』仏訳)で第34回[[アングレーム国際漫画祭|アングレーム国際バンド・デシネ・フェスティバル]] オフィシャル2007 最優秀コミック賞。日本人が同賞を受賞するのは初。 * [[2008年]] 調布市[[名誉市民]] * [[2009年]] ** 2008年度[[朝日賞]]<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 2001-2018年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738075 |accessdate=2023-01-06}}</ref> ** ''Opération Mort''(『[[総員玉砕せよ!]]』仏訳)で第36回アングレーム国際バンド・デシネ・フェスティバル 遺産賞 * [[2010年]] ** 鳥取県[[名誉県民]]<ref>{{Cite web|和書|title=県民栄誉賞・県民功績賞・名誉県民|website=[[鳥取県]]|url=https://www.pref.tottori.lg.jp/273151.htm|accessdate=2022-07-22}}</ref> ** [[文化功労者]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG22057_V21C10A0MM0000/|title=安藤・三宅氏ら7人に文化勲章 ノーベル賞2氏も|accessdate=2023-03-21|publisher=[[日本経済新聞]]|date=2010-10-26}}</ref> * [[2011年]] 東京都[[名誉都民]]<ref>{{Cite web|和書|title=東京都名誉都民顕彰者一覧(令和3年10月1日現在)|website=[[東京都]]|url=https://www.seikatubunka.metro.tokyo.lg.jp/bunka/bunka_seisaku/files/0000000229/02_meiyotominichiran_R031001.pdf|accessdate=2022-07-22}}</ref> * [[2012年]] ''Onward Towards Our Noble Deaths''(『総員玉砕せよ!』英訳)で2012年度[[アイズナー賞]]最優秀アジア作品賞 * [[2015年]] ''Showa A History of Japan''(『[[コミック昭和史]]』英訳)で2015年度アイズナー賞最優秀アジア作品賞 * [[2016年]] [[東京アニメアワード|東京アニメアワードフェスティバル]]2016 アニメ功労部門 == 作品 == === 代表作 === ==== ゲゲゲの鬼太郎 ==== {{main|ゲゲゲの鬼太郎}} * 墓場鬼太郎(1960年 - 1964年、[[兎月書房]] - [[貸本漫画]]) * 墓場の鬼太郎(1965年 - 1967年、[[週刊少年マガジン]]) * 鬼太郎夜話(1967年 - 1969年、[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]) * ゲゲゲの鬼太郎(1967年 - 1969年、週刊少年マガジン) * 鬼太郎のベトナム戦記(1968年、[[宝石 (雑誌)|月刊宝石]]) * ゲゲゲの鬼太郎(1971年、[[週刊少年サンデー]]) * 鬼太郎とねずみ男(1973年、いんなあとりっぷ) * 死神大戦記(1974年、[[学習研究社|学研劇画文庫]]) * 鬼太郎の世界お化け旅行(1976年、[[少年アクション]]) * 続ゲゲゲの鬼太郎(1977年、[[週刊実話]]) * ゲゲゲの鬼太郎挑戦シリーズ(1977年、[[週刊漫画サンデー]]) * 新ゲゲゲの鬼太郎 スポーツ狂時代(1978年、週刊実話) * 新ゲゲゲの鬼太郎(1978年、週刊実話) * 大ボラ鬼太郎(1980年、DONDON) * 雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎(1980年 - 1981年、[[少年ポピー|月刊少年ポピー]]) * 最新版ゲゲゲの鬼太郎(1985年 - 1987年、[[コミックボンボン]]) * 新編ゲゲゲの鬼太郎(1986年 - 1987年、週刊少年マガジン) * ゲゲゲの鬼太郎 鬼太郎地獄編(1987年、[[月刊少年マガジン]]) * 鬼太郎国盗り物語(1990年 - 1993年、コミックボンボン) * 鬼太郎霊団(1996年・1997年、[[ビッグゴールド]]、漫画サンデー) ==== 河童の三平 ==== {{main|河童の三平}} * 河童の三平(1961年 - 1962年、兎月書房 - 貸本漫画) * カッパの三平(1966年、[[月刊ぼくら]]) * 河童の三平(1968年 - 1969年、週刊少年サンデー) * カッパの三平(1993年 - 1994年、[[小学一年生]]) ==== 悪魔くん ==== {{main|悪魔くん}} * 悪魔くん(1963年 - 1964年、[[東考社]] - 貸本漫画) * 悪魔くん(1966年 - 1967年、週刊少年マガジン) * 悪魔くん復活 千年王国(1970年、[[週刊少年ジャンプ]]) * 悪魔くん 世紀末大戦(1987年 - 1988年、[[光文社|コミックBE!]]) * 最新版悪魔くん(1988年 - 1990年、コミックボンボン) * ノストラダムス大予言(1993年・1994年、[[辰巳出版]]) === 貸本漫画 === シリーズ物や、長編作品を中心に記載。 {{columns-list|2| * [[ロケットマン (水木しげるの漫画)|ロケットマン]](1958年、[[兎月書房]]) - 漫画デビュー作。 * 戦場の誓い(1958年、兎月書房) * [[怪奇猫娘]](1958年、緑書房) * 0号作戦(1958年、緑書房) * [[プラスチックマン]](1958年、綱島出版社) * スポーツマン宮本武蔵(1958年、綱島出版社) * 怪獣ラバン(1958年、暁星書房) * 地獄の水(1958年、暁星書房) * [[恐怖の遊星魔人]](1958年、暁星書房) * 暁の突入(1958年、兎月書房) * 空中爆雷(1958年、兎月書房) * [[水木しげる作戦シリーズ]](1959年 - 1960年、兎月書房) * [[水木しげる秘話シリーズ]](1959年 - 1960年、兎月書房) * 鬼軍曹シリーズ(1959年 - 1960年、兎月書房) * ベビーZシリーズ(1960年、兎月書房) * [[ゲゲゲの鬼太郎|墓場鬼太郎シリーズ]](1960年 - 1964年、兎月書房・[[三洋社]]・[[東考社]]・[[佐藤プロ]]) * 壮絶!特攻(1961年、[[曙出版]]) * 駆逐艦魂(1961年、曙出版) * 零戦総攻撃(1961年、曙出版) * 墓の町(1961年、曙出版) * [[河童の三平]](1961年 - 1962年、兎月書房) * 怪奇鮮血の目(1961年、曙出版) * 化烏(1961年、いずみ出版) * 人魂を飼う男(1962年、曙出版) * 墓をほる男(1962年、曙出版) * [[地底の足音]](1962年、曙出版) * 鈴の音(1962年、やなぎプロ) * 火星年代記(1962年、やなぎプロ) * 妖棋死人帳(1962年、[[セントラル文庫]]) * 呪いの谷(1963年、全漫プロダクション) * 怪談 嘆き川(1963年、セントラル文庫) * 花の流れ星(1963年、セントラル文庫) * 怪談 幻行燈(1963年、セントラル文庫) * [[悪魔くん]](1963年 - 1964年、東考社) * 怪談 かえり船(1964年、東考社) * 怪談 夜の草笛(1964年、東考社) * 深雪物語(1964年、東考社) * 地獄流し(1964年、東考社) * 古墳大秘記(1964年、東考社) * 猫姫様(1965年、東考社) * 呪われた村(1965年、東考社) * 青葉の笛(1965年、東京・[[日の丸文庫]]) * ゴマスリ二等兵(1965年、東京・日の丸文庫) * [[地獄 (漫画)|地獄]](1965年、佐藤プロ) }} === 連載漫画 === 『ゲゲゲの鬼太郎』、『河童の三平』、『悪魔くん』は[[#代表作|前述]]。 * 新講談 宮本武蔵(1965年、[[ガロ (雑誌)|ガロ]]) * 子供の国(1965年、ガロ) * なまけの与太郎(1966年、[[中○コース|中一コース]]) * [[日本の民話 (漫画)|日本の民話]](1967年 - 1969年、[[漫画アクション]]) * 世界怪奇シリーズ(1968年、[[ビッグコミック]]) * [[妖怪百物語]](1968年、[[週刊少年キング]]) * [[サラリーマン死神]](1968年 - 1969年、ビッグコミック) * 水木氏のメルヘン(1969年 - 1970年、ビッグコミック) * [[河童千一夜]](1969年 - 1970年、漫画アクション) * 現代妖怪譚(1969年、小説エース) * SILENT SHOCK(1970年、現代コミック) * 妖怪水車(1970年、[[週刊ぼくらマガジン]]) * [[コロポックルの枕]](1970年、[[週刊プレイボーイ]]) * [[コケカキイキイ]](1970年、[[週刊漫画サンデー]]) * 怪奇幻想旅行(1970年 - 1971年、漫画アクション) * [[星をつかみそこねる男]](1970年 - 1972年、ガロ) * [[コケカキイキイ外伝]](1970年 - 1971年、週刊漫画サンデー) * 東スポまんが展(1971年 - 1972年、[[東京スポーツ]]) - 4コマ漫画 * 野坂昭如原作 異色文芸シリーズ(1971年、漫画アクション) * [[劇画ヒットラー]](1971年、週刊漫画サンデー) * 公害戯評(1971年 - 1973年、公害新報) - 1コマ漫画 * 新・春雨物語(1973年、[[潮出版社|潮]]) * 新・雨月物語(1973年、潮) * 魔女モンロー(1973年、[[コミック&コミック]]) * [[フーシギくん]](1974年、[[テレビマガジン]]) * のんのんばあ(1975年 - 1976年、[[週刊少年チャンピオン]]) * [[縄文少年ヨギ]](1976年、[[双葉社|週刊パワァコミック]]) * 水木しげるの妖怪めぐり(1977年、[[どっかんV]]) * 水木しげるの幻想劇画(1977年 - 1978年、DONDON) * ぽけっとまん(1978年、週刊少年キング) * 沖田総司(1978年 - 1979年、週刊実話) * [[おばけのムーラちゃん]](1979年、テレビマガジン) * [[猫楠]](1991年 - 1992年、[[ミスターマガジン]]) * [[妖怪博士の朝食]] ** 不思議シリーズ(1992年 - 1993年、[[ビッグゴールド]]) ** 妖怪変化シリーズ(1993年 - 1995年、ビッグゴールド) * ようかい百ものがたり(1994年、[[小学一年生]]) * [[東西奇ッ怪紳士録]](1996年 - 1997年、ビッグゴールド) * [[神秘家列伝]](1997年 - 2004年、[[怪 (ムック)|怪]]) * [[木槌の誘い]](1998年 - 1999年、ビッグゴールド) * カランコロン漂泊記(1999年、ビッグコミック)※活字エッセイは97年から * [[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](2004年 - 2005年、怪) * 神秘家 水木しげる伝(2006年 - 2007年、怪) * 水木しげるの異界旅行記(2008年 - 2009年、怪) * [[水木しげるの遠野物語]](2008年 - 2009年、ビッグコミック) * ゲゲゲの不思議草子(2010年 - 2012年、怪) * [[ゲゲゲの家計簿]](2011年 - 2012年、ビッグコミック) * 水木しげるの日本霊異記(2012年 - 2014年、怪) * [[わたしの日々]](2014年 - 2015年、ビッグコミック) === 長編描き下ろし漫画 === * [[総員玉砕せよ!]](1973年、[[講談社]]) * 東海道四谷怪談(1974年、[[学習研究社|学研劇画文庫]] - 日本の妖異) * [[ゲゲゲの鬼太郎#長期シリーズ化|死神大戦記]](1974年、学研劇画文庫 - 日本の妖異) * 耳なし芳一(1975年、学研劇画文庫 - 日本の妖異) * [[コミック昭和史]] 全8巻(1988年 - 1989年、講談社) * [[のんのんばあとオレ]] 全2巻(1992年、講談社) * [[悪魔くん#テレビドラマ|ノストラダムス大予言]] 全2巻(1993年・1994年、[[辰巳出版]]) * 今昔物語 全2巻(1995年・1996年、[[中央公論社]] - マンガ日本の古典) * ボクの一生はゲゲゲの楽園だ 全6巻(2001年、講談社) ** (改題)完全版 水木しげる伝 全3巻(2004年、[[講談社漫画文庫]]) * [[水木しげるの古代出雲]](2012年、[[角川書店]]) * 方丈記(2013年、[[小学館]] - マンガ古典文学) * 水木しげるの泉鏡花伝(2015年、小学館) === 短編読み切り漫画 === {{columns-list|2| * 不老不死の術(1964年、[[ガロ (雑誌)|ガロ]]) * 勲章(1964年、ガロ) * ねこ忍(1964年、ガロ) * 神変方丈記(1965年、ガロ) * 幸福の甘き香り(1965年、ガロ) * [[テレビくん]](1965年、[[月刊少年マガジン|別冊少年マガジン]]) * はかない夢(1965年、ガロ) * マンモスフラワー(1965年、ガロ) * [[宇宙虫]](1965年、別冊少年キング) * 福の神(1965年、ガロ) * 怪物マチコミ(1966年、[[漫画天国]]) * 河童(1966年、少年サンデー増刊) - 貸本版のリメイク * 猫又(1966年、[[週刊少年キング]]) - 貸本版のリメイク * 未来をのぞく男(1966年、ガロ) * 古道具屋の怪(1966年、[[週刊漫画サンデー]]) * 丸い輪の世界(1966年、ガロ) * 合格(1966年、[[漫画読本|文春漫画読本]]) * 釣り落とした魚(1966年、[[漫画娯楽読本]]) * 錬金術(1967年、ガロ) * 「幸福」という名の怪物(1967年、[[週刊アサヒ芸能]]増刊) * 最初の米・よみのくに(1967年、[[週刊少年サンデー]]) * 星をあやつる男(1969年、[[サンデー毎日]]) * [[化木人のなぞ]](1969年、週刊少年キング) * 原始さん(1969年、文春漫画読本) * [[一番病]](1969年、[[ビッグコミック]]) * 終電車の女(1970年、[[週刊女性]]) * 敗走記(1970年、別冊少年マガジン) * [[ベーレンホイターの女]](1970年、[[漫画アクション]]) * [[糞神島]](1971年、漫画アクション) * 偶然の神秘(1971年、[[COM (雑誌)|COM]]) * ヘンラヘラヘラ(1971年、[[希望の友]]) * 血太郎奇談(1972年、希望の友) * [[不思議な手帖]](1973年、コミックミステリー) * 姑娘(1973年、[[リイドコミック]]増刊) * 突撃!悪魔くん(1973年、月刊少年ジャンプ) * 快傑くまくす(1973年、週刊漫画サンデー) * 落第王(1974年、週刊漫画サンデー) * 漫画狂の詩-池上遼一伝-(1975年、週刊少年サンデー増刊号) * 死神マボロシちゃん(1976年、[[マンガ少年]]) * キンドコング(1977年、週刊パワァコミック) * 花町ケンカ大将(1978年、週刊少年キング) * 地獄と天国(1979年、[[少年ワールド|月刊少年ワールド]]) * レーモン河畔(1980年、[[ビッグゴールド]]) }} 他、多数。 === 著作 === ==== エッセイ ==== * 娘に語るお父さんの戦記 小さな天国の話(1975年、[[河出書房新社]] / 2022年、[[河出文庫]]) ** (改題)娘に語るお父さんの戦記(1982年、河出文庫 / 1985年、河出書房新社) ** (改題)水木しげるの 娘に語るお父さんの戦記(1995年、河出文庫) ** (改題)娘に語るお父さんの戦記 南の島の戦争の話(1999年、[[社会批評社]]) * [[のんのんばあとオレ]](1977年、[[筑摩書房]]・「[[ちくま少年図書館]]」 / 1990年、[[ちくま文庫]]) * ほんまにオレはアホやろか(1978年、[[ポプラ社]] / 2002年、[[新潮文庫]] / 2004年、ポプラ社・「私の生き方文庫」 / 2010年、ポプラ社・新装版 / 2016年、[[講談社文庫]]) * 水木しげるの不思議旅行(1978年、[[サンケイ出版]]) - 1977年から1978年にかけて『月刊小説』で連載。 ** (改題)不思議旅行 (1984年、[[中公文庫]]) ** (改題)怪感旅行(2001年、中公文庫) ** 水木しげるの不思議旅行(2016年、中公文庫) * ねぼけ人生(1982年、筑摩書房 / 1999年、ちくま文庫) * 妖怪天国(1992年、筑摩書房 / 1996年、ちくま文庫) * 水木しげるのラバウル戦記(1994年、筑摩書房 / 1997年、ちくま文庫) * トペトロとの50年(1995年、[[扶桑社]]) ** (改題)ラバウル従軍後記 トペトロとの50年 (2002年、中公文庫) * 水木しげるのカランコロン(1995年、[[作品社]]) ** (分冊・改題)妖怪になりたい(2003年、河出文庫) ** (分冊・改題)なまけものになりたい(2003年、河出文庫) * カランコロン漂泊記(2000年、[[小学館文庫]] / 2010年、[[小学館]]・新装版) - 1997年、1999年に『[[ビッグコミック]]』で連載。 * 生まれたときから「妖怪」だった(2002年、[[講談社]] / 2005年、[[講談社+α文庫]]) * 水木サンの幸福論(2004年、[[日本経済新聞社]] / 2007年、[[角川文庫]]) - 2003年に『[[私の履歴書]]』([[日本経済新聞]])で連載。 * 水木しげるのんのん人生 ぼくはこんなふうに生きてきた(2004年、[[大和書房]]) * 本日の水木サン 思わず心がゆるむ名言366日(2005年、[[草思社]]) - [[大泉実成]]・編の名言集。 ** (改題)水木サンの迷言366日 (2010年、[[幻冬舎文庫]]) * 水木しげる 人生をいじくり回してはいけない(2010年、[[日本図書センター]]・「人生のエッセイ」) - 再録エッセイ・インタビュー集。 ** (改題)人生をいじくり回してはいけない(2015年、ちくま文庫) * ちゃんと食えば、幸せになる 水木三兄弟の日々是元気(2012年、[[保健同人社]]) ** (再構成・改題)よく食べ、よく寝て、よく生きる 水木三兄弟の教え(2016年、[[文春文庫]]) * 戦争と読書 水木しげる出征前手記(2015年、[[角川新書]]) - [[荒俣宏]]との共著。 * ゲゲゲのゲーテ(2015年、[[双葉新書]]) * 水木サンと妖怪たち 見えないけれど、そこにいる(2016年、筑摩書房) ==== 画集・図鑑 ==== * 水木しげる妖怪画集(1970年、[[朝日ソノラマ]]) ** 水木しげる妖怪画集 改訂版(1985年、朝日ソノラマ) ** 水木しげる妖怪画集 愛蔵復刻版(2017年、[[復刊ドットコム]]) * 妖怪なんでも入門(1974年、[[小学館]]) ** (改題)水木しげる 妖怪大百科(2004年、小学館) * 東西妖怪図絵(1975年、[[読売新聞社]]) ** 東西妖怪図絵 愛蔵復刻版(2017年、復刊ドットコム) * [[水木しげるの妖怪事典]](1981年、[[東京堂出版]]) * 水木しげるのあの世の事典(1983年、東京堂出版) * 水木しげるの続・妖怪事典(1984年、東京堂出版) * 水木しげるの世界妖怪事典(1985年、東京堂出版) * [[妖怪世界編入門]](小学館 1986年) * 水木しげるの中国妖怪事典(1990年、東京堂出版) * 水木しげるの続・世界妖怪事典(2000年、東京堂出版) * [[日本妖怪大全]](1991年、[[講談社]]) ** 図説 日本妖怪大全(1994年、[[講談社+α文庫]]) * 続・日本妖怪大全(1994年、講談社) ** 図説 日本妖怪大鑑(2007年、講談社+α文庫) * 決定版 日本妖怪大全 妖怪・あの世・神様(2014年、講談社) * [[妖怪画談]](1992年、[[岩波新書]]) * 続 妖怪画談(1993年、岩波新書) ** 愛蔵版 妖怪画談(2002年、[[岩波書店]]) - 上記、妖怪画談2冊を再編集したもの。 * 幽霊画談(1994年、岩波新書) * 水木しげるの憑物百怪(1995年、[[学習研究社]]) - 1991年から1995年に掛けて『[[ムー (雑誌)|月刊ムー]]』で連載。 ** 水木しげるの憑物百怪 上・下(2005年、[[小学館文庫]]) ** 愛蔵版 水木しげるの憑物百怪(2016年、学研プラス) * 妖精画談(1996年、岩波新書) * [[妖鬼化|妖鬼化(むじゃら)]] 全8巻(1998年 - 1999年、[[Softgarage]]) ** 妖鬼化(むじゃら) 全6巻(2003年 - 2004年) ** 妖鬼化(ムジャラ)完全版 全12巻(2008年 - 2010年) * 水木しげる 妖怪道五十三次(2003年、[[やのまん]]) * 水木しげるの日本全国神様百怪(2010年、小学館) * 妖怪 水木しげる画集(2019年、講談社) ==== 絵本 ==== * のんのんばあ カッパの水(1975年、[[新興出版社啓林館#文研出版ブランド|文研出版]]) * のんのんばあ おばけどろぼう(1976年、文研出版) * 水木しげるのおばけ学校 全12巻(1980年 - 1983年、[[ポプラ社]]) * ゲゲゲの鬼太郎おばけのくに 全8巻(1987年 - 1988年、ポプラ社) * 絵巻えほん 妖怪の森(1995年、[[こぐま社]]) * 絵巻えほん ゲゲゲの鬼太郎 妖怪島へ(1996年、こぐま社) * 水木しげるのふしぎ妖怪ばなし 全8巻(2007年 - 2009年、[[メディアファクトリー]]) * 水木少年とのんのんばあの地獄めぐり(2013年、[[マガジンハウス]]) * 水木しげるの妖怪なぞなぞめくり 家の中の巻(2015年、こぐま社) * 水木しげるの妖怪なぞなぞめくり 山里の巻(2015年、こぐま社) ==== 監修 ==== * 妖かしの宴 わらべ唄の呪い(1999年、[[PHP研究所]]) * ゲゲゲの鬼太郎 謎全史(2002年、[[JTB]] 、著:[[村上健司]]、佐々木卓) * こんなに楽しい!妖怪の町(2006年、[[実業之日本社]]、著:[[五十嵐佳子]]) === 作詞 === * 「[[悪魔くん#テレビドラマ|悪魔くん]]」- [[山下毅雄]]の作曲、[[ボーカル・ショップ]]の歌唱。 * 「[[ゲゲゲの鬼太郎 (曲)|ゲゲゲの鬼太郎]]」(主題歌) - [[いずみたく]]の作曲で、[[熊倉一雄]]が歌唱した。 * 「カランコロンの歌」(ゲゲゲの鬼太郎 第1期・第2期のエンディングテーマ) - いずみたくの作曲で、[[加藤みどり]]&[[ひばり児童合唱団]]が歌唱した。 === 論文 === * [https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E6%B0%B4%E6%9C%A8%E3%81%97%E3%81%92%E3%82%8B&count=100&sortorder=3 国立情報学研究所収録論文] [[国立情報学研究所]] === ゲーム === 「ゲゲゲの鬼太郎」関連作品については[[ゲゲゲの鬼太郎#ゲーム]]を、「悪魔くん」関連作品については[[悪魔くん#ゲーム]]を参照。 * 水木しげるの妖怪百鬼夜行(1995年、[[ケイエスエス]]、[[スーパーファミコン]]) * [[水木しげるの妖怪武闘伝]](1997年、ケイエスエス、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) * [[水木しげるの妖怪図鑑|水木しげるの妖怪図鑑 総集編]](1998年、講談社、[[セガサターン]]) * [[水木しげるの妖怪写真館]](1999年、[[SNK (1978年設立の企業)|SNK]]、[[ネオジオポケットカラー]]) * 妖怪花あそび(2001年、[[アンバランス (ゲーム会社)|アンバランス]]、PlayStation) * 水木しげるの新・妖怪伝(2001年、[[プライムシステム]]、[[ゲームボーイ]]) * [[四八(仮)]](2007年、[[バンプレスト]]、[[PlayStation 2]]) - シナリオ提供 === その他 === * 映画『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』(1994年、[[高畑勲]]監督) - [[井上ひさし]]らとともに資料提供などに協力しておりエンドロールの「協力」にクレジットされている。この映画に登場する水木先生のモチーフともなっている。 * 『[[てれび絵本]] えほん寄席 [[死神 (落語)|死神]]』([[NHK教育]]) - アニメーションの原画を担当。死神のデザインは「サラリーマン死神」のものと酷似。落語家のデザインは[[ねずみ男]]に似ている。[[目玉おやじ]]もゲスト出演。 == 出演・関連作品 == === 出演 === ==== テレビ番組(出演) ==== *[[新世界紀行]](TBS、1988年8月、1989年6月4日) *[[ETV8]]「妖怪たちはどこへ行った 〜水木しげるのねぼけ人生」(NHK、1989年5月4日) *妖怪博士水木しげるの夢探検シリーズ(テレビ東京、1990年:日本編、1991年:台湾編、1992年:タイ・スリランカ編) *[[世界・わが心の旅]] パプアニューギニア 精霊がうたう森(NHK BS2、1996年1月20日) *[[いのちの響]](TBS、1998年7月5日) *[[いつみても波瀾万丈]](日本テレビ、2000年1月30日) *[[たけしの誰でもピカソ]](テレビ東京、2004年7月30日、2008年10月24日) *[[グレートマザー物語]]「水木しげるの母・琴江〜神様になった鬼太郎」(テレビ朝日、2005年8月14日) *妖怪・水木しげるのゲゲゲ幸福論([[BSジャパン]]、2006年3月18日) *:主演:水木しげる 朗読:[[和久井映見]](悦子役) *:出演:[[荒俣宏]]、[[呉智英]]、[[南伸坊]]、[[京極夏彦]]、[[佐野史郎]]、武良幸夫(水木しげる弟・マネージャー)、武良布枝(水木しげる夫人)、武良悦子(次女・悦子)、村沢昌夫(水木しげるアシスタント) *:第43回[[ギャラクシー賞]]テレビ部門選奨受賞<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.houkon.jp/galaxy-award/%E7%AC%AC43%E5%9B%9E%EF%BC%882005%E5%B9%B4%E5%BA%A6%EF%BC%89/ |title= 第43回ギャラクシー賞受賞作品 |publisher= [[放送批評懇談会]] |accessdate= 2019-03-21 }}</ref>。 *[[知るを楽しむ]]〜人生の歩き方。「百歳まで生きるでしょう」([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、2008年6月、全4回) *:水木夫妻のこれまでの人生を[[松本和也]]とのインタビュー形式で綴った講義。 *:[[2010年]]に[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BShi]]「[[プレミアム8]]」で「水木しげるのなまけ者になりなさい〜ゲゲゲの女房とののほほん人生〜」と題して、未収録・新規の撮り下ろしのインタビューを交えた再編集版を放送。 *[[ハイビジョン特集]] 鬼太郎 幸せ探しの旅 〜100年後の遠野物語〜(BShi、2010年3月13日) *[[衝撃速報!アカルイ☆ミライ]](TBS、2012年6月3日)- 水木三兄弟で出演。 * 水木しげる93歳の探検記〜妖怪と暮らした出雲国〜(2015年9月、山陰放送、JNN中四国ブロック(9月5日)・BS-TBS(9月6日)) 『[[ゲゲゲの女房]]』がヒットした2010年には『[[あさイチ]]』([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2010年5月19日)、『[[ボクらの時代]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2010年8月15日)などに夫妻で出演。 ==== ドラマ・映画(出演) ==== *[[ゲゲゲの鬼太郎#映像化作品|月曜ドラマランド ゲゲゲの鬼太郎]](1985年) - 霊界郵便配達夫役 *[[悪魔くん#月曜ドラマランド版|月曜ドラマランド 悪魔くん]](1986年) - 先生役 *妖怪天国(1986年) - 巡礼者役 : [[手塚眞]]監督の[[Vシネマ]]。[[手塚治虫]]や[[楳図かずお]]も出演。 *ゲゲゲの鬼太郎 妖怪奇伝・魔笛 エロイム エッサイム(1987年) - 霊界郵便配達夫役 * [[巷説百物語シリーズ#京極夏彦「怪」|京極夏彦 「怪」]] 第4話「福神ながし」(WOWOW、2000年9月15日) - [[鳥山石燕]]役 *[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](2005年) - 妖怪大翁役 * 水木しげるの妖怪ワールド 恐山物語 (2006年)- ナレーター === 水木を扱った作品 === ==== テレビ番組 ==== *[[BSマンガ夜話]]「[[悪魔くん千年王国]]」([[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]]、1998年8月27日) *:出演:[[大月隆寛]]、[[いしかわじゅん]]、[[夏目房之介]]、[[岡田斗司夫]]、[[北野誠 (タレント)|北野誠]]、[[清水ミチコ]] *:夏目房之介は、水木しげるの作品に通底するテーマを世界に対する不合理と不可思議であると指摘し、前者が『悪魔くん』に代表される革命漫画、後者が『鬼太郎』に代表される妖怪漫画の系譜に至っており、1970年代以降は後者の作品が残っていった点を指摘している。また、絵柄の特徴として細密な背景と単純な線で描かれた人物キャラクターの対比され、これが「卑小な人間」と「革命」や「偉大な自然」などテーマの対比にもなっている点を指摘している。 *:また、夏目やいしかわじゅん、岡田斗司夫らは、『悪魔くん』の革命思想は1960年代の左翼運動や[[白土三平]]の影響がありつつも、水木自身は上記の「卑小な人間」の観点から革命の成就に関して諦観をもっている点を指摘している。 *[[驚きももの木20世紀]]([[朝日放送テレビ|ABC]]、1996年7月26日) *[[知ってるつもり?!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2000年8月20日) *[[20世紀の遺伝子]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2002年6月1日) *[[生活ほっとモーニング]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2005年8月30日) *[[マンガノゲンバ]](NHK BS2、2010年1月11日、1月15日) *しげると布枝〜漫画家夫婦の旅路(NHK総合、2010年3月24日、25日)- [[戸井十月]]によるドキュメンタリー *[[ぴったんこカン・カン]]([[TBSテレビ|TBS]]、2010年8月20日、9月3日、9月10日) *[[中居正広の金曜日のスマたちへ]]「ゲゲゲの女房 大ヒットの真相」(TBS、2010年9月24日) *ゲゲゲを発掘した男 〜奇の編集長・内田勝〜([[ファミリー劇場|CSファミリー劇場]]、2013年1月12日) *[[BS朝日ザ・ドキュメンタリー|ザ・ドキュメンタリー]]「“ゲゲゲの鬼太郎” 水木しげる〜妖怪漫画家が見た天国と地獄〜」([[BS朝日]]、2016年11月10日) *[[クローズアップ現代+]]「オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ 〜未公開 水木しげるの日記〜」(NHK、2017年1月5日) *THE LAST STORY 〜マエストロたちの遺言〜([[BS日本|BS日テレ]]、2018年10月7日) *[[ザ・プロファイラー 〜夢と野望の人生〜]]「水木しげる ゲゲゲの夢見た幸福人生」([[NHK BSプレミアム|BSプレミアム]]、2018年12月6日) *[[池上彰の戦争を考えるSP|池上彰の戦争を考えるSP 終戦75周年特別企画〜感染症の悲劇〜]]([[テレビ東京]]、2020年8月15日) *[[歴史探偵]]「妖怪大国ニッポン!」(NHK総合、2022年6月8日) *[[日曜美術館]]「水木しげるの妖怪画」([[NHK教育テレビジョン|Eテレ]]、2022年7月31日)<ref name="Mizuki100th-NHK">{{PDFlink|[https://www.nhk.or.jp/info/pr/toptalk/assets/pdf/soukyoku/2022/06/007.pdf 「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」とおもな関連番組] NHK広報局、2022年6月22日}}</ref> *水木しげるの妖怪バンザイ!(BSプレミアム、2022年8月26日)<ref name="Mizuki100th-NHK"/> *[[100分de名著|100分de水木しげる]](Eテレ、2022年8月27日)<ref name="Mizuki100th-NHK"/><ref>[https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/2022special2/index.html 100分de水木しげる] NHK『100分de名著』</ref> *[[ブラタモリ]]「境港・米子」編(NHK総合、2022年8月27日)<ref>[https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/episode/te/Q8QYMNXR7R/ 「境港・米子〜思わずゲゲゲ! “鳥取のしっぽ”は不思議だらけ!?〜」] NHK『ブラタモリ』公式サイト、2022年8月24日閲覧</ref> ==== ドラマ・映画 ==== *『[[のんのんばあとオレ]]』(NHK、1991年8月19日 - 23日・1992年8月24日 - 28日) *[[NHKスペシャル]]『[[鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜]]』(NHK、2007年8月12日) :『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ。 *NHK[[連続テレビ小説]]『[[ゲゲゲの女房]]』(NHK、2010年4月 - 9月) *『[[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]]』(映画、2010年) : 妻の自伝を原作としたドラマ・映画。 ==== 舞台 ==== *『[[ゲゲゲの女房]]』(2011年) *『ゲゲゲの先生へ』(2018年) : 水木の世界観を表現した舞台作品。脚本・演出は[[前川知大]]。 === DVD === *水木サン大全 - 水木しげると荒俣宏の対談(2004年) *妖怪水木しげるのゲゲゲ幸福論(同テレビ番組のDVD版) === CM === *[[ユニクロ]]「フリース」(2000年) *[[フンドーキン醤油]](2010年)- 夫妻で出演 == 家族・親族 == === 武良家 === [[File:Mura House.jpg|thumb|300px|right|<center>伯耆境港・武良惣平<br />[[木綿]]操綿古手類卸商 諸国回漕店 荷為換取扱所<br /></center>]] (鳥取県[[境港市]][[入船町 (境港市)|入船町]]、[[東京都]][[調布市]]) ;家系 : “武良”(むら)という[[名字|苗字]]は全国的には珍しいが、[[境港市|境港]]にはたくさんある{{sfn|水木|2007|pp=37-38}}。武良氏は[[隠岐国|隠岐]]発祥と考えられており、[[隠岐諸島]]の島後(とうご)にある[[隠岐郡]][[隠岐の島町]](旧:隠岐郡[[西郷町 (島根県)|西郷町]])に“武良祭り”があり、“武良トンネル”が残っている{{sfn|水木|2007|p=37}}。水木は、自らのルーツを求めて、隠岐を訪問している。 : 水木の著書『ねぼけ人生』〈新装版〉12頁によれば、「僕の祖先のことは、マジメに調べたことはないが、武良という姓もちょっと変わっているし、古い記録にも時々出てくる。最近読んだ『出雲祭事記』(講談社)という本によると、隠岐諸島の島後(諸島の北側の島)に武良郷という村があって、ここでは、ずいぶん昔から、二年に一度村民が寄り集って“武良祭り”という祭りをやっていたらしい。隠岐と境港は海をへだてた隣どうしだから、たぶん、武良郷あたりから、空腹に耐えかねた連中が食い物を求めて境港にやってきたのだろう。それが僕の遠い先祖ではないかと、推測している。」という。 : [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の弓ヶ浜に高岡城という[[城]]があって、武良隣左ェ門という[[豪族]]がおり、この一族が記録に残るルーツだろうと水木は考えている{{sfn|水木|2007|p=37}}。 : 当時の境港のあたりは、[[毛利氏]]と[[尼子氏]]の勢力争いの場であったが尼子氏側の亀井能登守が毛利側の騙し討ちにあった時、その手引きをしたのが武良隣左ェ門だったと父から聞き伝えられている{{sfn|水木|2005|p=479}}。 : その後[[江戸時代]]になって武良惣平の代では、境港で[[回船問屋]]を営んでいた{{sfn|水木|2007|p=37}}{{sfn|水木|2002|pp=14-16}}。 : [[竹内村]](高松)の武良氏について『伯耆志』には「高岡城趾と古松三幹あり。往古'''武良某'''此所に居りしと云へり。今村中其裔あり。」<ref>『境港市史 上巻』(昭和61年)370頁</ref>とある{{sfn|水木|2007|p=222}}。 : 水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』14頁によれば「境港の[[竹内村|竹之内]]には高岡城趾といわれる所があり、古松が三本はえている。『伯耆志』によると、ここが武良氏の舘の跡だということになる。米子の郷土史家の説では、僕の家の墓地のあたりが武良舘のあった所だそうだ。どっちが真実かわからないが、どうやらずっと昔に、このあたりに武良氏という一族がいて、それが僕にまでつながっていることだけは本当らしい。」という。[[File:Mura Store.jpg|thumb|200px|right|<center>四方家所蔵の広告</center>]] ; 曽祖父・惣平([[回船問屋]]) : [[境港市|境港]]で“武良惣平商店”という回船問屋を営み、一時は大層な羽振りをきかせていたが、[[鉄道]]便の発達で[[明治時代|明治]]になると家業は衰えた{{sfn|水木|2007|p=36}}。惣平は1892年([[明治]]25年)[[境町 (鳥取県)|境町]]会議員に当選した<ref>『境港市史 下巻』1986年(昭和61年) 788頁</ref>。 : 境港市長[[中村勝治]]によると「水木しげる先生の曽祖父にあたる武良惣平氏は自ら交易船を所有し、繰綿や[[木綿]]などの商いを手広く営んでいたと伝えられています」という<ref group="注">平成22年7月吉日・鳥取県境港市長[[中村勝治]]。</ref>。 ; 祖父(実業家){{sfn|水木|2002|pp=104-107,201-203}} : 水木によると、「祖父は、米子の[[町長]]で[[呉服]]商をしていた住田善兵衛の長女と結婚する。そして、僕の父の亮一が誕生するのだが、その頃には回船業がいよいよダメになり、大きな家は人手に渡ってスッカラカンになった。それでも、祖父は多少やり手だったので、また努力して、昔日のおもかげはないものの、何とか家も建てた。」という{{sfn|水木|1999|pp=14-15}}。 : 家業の回船問屋をやめて、[[大阪]]で「関自動車」というタクシー会社を経営した(後に倒産)。 : また、バタビヤ(現・[[ジャカルタ]])に渡り[[印刷会社]]を興して成功した。親類・彦一は軽食堂を閉店後、印刷会社の人員募集に応じ、バタビヤに渡っている。 [[File:Sumida Store.jpg|thumb|250px|right|<center>住田呉服店の広告紙面<br />(1910年([[明治]]43年))<br /></center>]] ; 祖母・(呉服商、政治家・[[住田善平]]の長女) : 鳥取県[[米子市]][[東倉吉町]]の住田家は[[江戸時代]]から続く[[商家]](呉服商)で、米子町(現・米子市)4代目町長を務めた善平の長女が水木の[[祖父母|祖父]]に嫁いだ。 ; 大叔父・住田延寿 : 大叔父といっても水木の父亮一より2歳年長なだけである{{sfn|水木|2007|p=201}}。 : 武良家に居候(いそうろう)していた。水木の兄宗平によると、「二階にいて、赤[[鉛筆]]片手に[[英語]]の原書ばかり読んでいたが、結局、定職に就かずに遊んで暮らした。今から見ると変人だった」という{{sfn|水木|2007|p=201}}。 ; 父・亮一(会社員、銀行員等) : <!-- 1896年([[明治]]29年)--><!-- 出典を書いて下さい -->[[1984年]]([[昭和]]59年)10月没(享年88){{sfn|水木|2005|p=492}} : 胃が丈夫なことから、水木は父親に「イトツ」(突出して強い胃袋)とあだ名をつけていた{{sfn|水木|2007|p=47}}。 : [[早稲田大学]][[商学部]]{{sfn|足立|2010|p=72}}<!-- 文学部--><!-- 文学部を卒業したという出典を書いて下さい。『完全版 水木しげる伝(上)』 111頁によると、親類・彦一と亮一の会話で彦一が「さすがおじさん、大学の商学部を出ただけのことはある」と述べている場面があります -->卒。在学中は[[歌舞伎]]や芝居見物にうつつを抜かし、町に帰ってきてからも遊蕩三昧(ゆうとうざんまい){{sfn|水木|2007|p=35}}。勤めに出ても、さぼって映画を見ていたのがばれてクビになり、祖父から大金をもらって始めた[[農機具]][[輸入]]事業もあえなく失敗{{sfn|水木|2007|p=35}}。[[File:MizukiShigeru&Father.jpg|thumb|250px|right|<center>父・武良亮一(左)と水木しげる(右)<br />([[ラバウル]]行き直前)<br /></center>]] : [[境町 (鳥取県)|境町]]に戻り、今度は銀行に勤めるようになったが、夜は近所の芝居小屋を借りて映画を上映し、銀行員が本業か映画館が本業かわからないといったぐあいだった{{sfn|水木|1999|pp=15-16}}。 : ある時、銀行強盗が横行したことがあり、当直だった亮一は明け方まで粘ったが、恐怖に耐え切れずついに当直を放棄して家に帰ってしまった{{sfn|水木|2007|p=35}}。このため銀行をクビになったが「なんとかなる主義」という奇妙な主義を信じていたため全く平気だったという。なお『ねぼけ人生〈新装版〉』には“銀行強盗”となっているが、『水木サンの幸福論 <small>-妖怪漫画家の回想-</small>』には“脱獄囚”と記されている。 : また、[[英語]]が得意だったため美保航空隊で駐留軍の[[通訳]]をした{{sfn|水木|2007|p=213}}。 : 妻によると、水木が漫画で成功し、上京して一緒に暮らすようになってからは、好きな映画や歌舞伎を観るなどして、幸せに暮らしていたという{{sfn|布枝|2008}}。死の際は「[[境港市|境港]]に葬ってくれ」と遺言があり、武良家代々の[[菩提寺]]に納めた。そのため水木はその後、境港をしばしば訪れるようになり、「[[水木しげるロード]]」誕生につながったという。 : 水木の兄宗平は父亮一について、「[[ぼんぼん]]の道楽者。自由人だった。少し頼りない。楽をするのが好きで、[[スイカ]]を買っても自分で持たないで、我々に持たすのだ。まったくおやじは[[家長]]らしくなかった。」と述べている{{sfn|水木|2007|p=212}}。 ; 母・琴江 : [[1994年]]([[平成]]6年)4月没(享年94){{sfn|水木|2005|p=497}} : すぐ怒ることから、水木は母親に「イカル」とあだ名をつけていた。 : 母・琴江は[[江戸時代]]、[[苗字帯刀]]を許された米子の[[旧家]]に生まれ、その[[家柄]]を誇りとしていた{{sfn|水木|2002|pp=250-251}}。 : 水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』15頁によると、 : 「母の実家というのが三島という[[米子市]]の[[旧家]]で、[[元禄]]時代から今日までの墓がずらりと並んでいるほどなのだが、これも先代でボツラクしている。この先代という人は[[風流]]人なのはいいが、[[俳句]]だの[[書画]]だのをひねくるばかりで、仕事というものを全くしなかった。」という。 : 『[[グレートマザー物語]]』によると、琴江はしげるが左腕を失ったことを知ると自らの左腕を縛り、一時期右腕だけで生活していたという。 : 妻によると、戦争中に、近所でバケツ・リレーの練習をしていても「負け戦とわかっているのに無駄だ」と参加しなかったという{{sfn|布枝|2008}}。また、水木が東京で貸本漫画家をしている時は、非常に心配し、「漫画がダメなら灯台守になれ」と薦めた。また、しばしば、心配する長文の手紙を送ったという。返事が来ないと、さらに心配して長文の手紙がくるため、水木は母親から手紙が来ると即「元気だ」という返事を書いた。また、「貧乏している」ことが母にばれないよう、[[軍人恩給]]を実家に送っていたという。また、水木が漫画家として成功して両親を呼び寄せた後は、漫画のストーリーにしばしば口を出し、『鬼太郎』に[[シーサー]]が登場するようになったのは、母親の強い薦めがあったためだという。 [[File:水木プロダクション中国支部.JPG|thumb|260px|right|境港の水木プロダクション中国支部]] ; 兄・宗平 : [[1920年]](大正9年)生 - [[2017年]]([[平成]]29年)11月22日没(享年97) <ref>[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001094730 Web NDL Authorities]</ref><ref>[https://twitter.com/mizukipro/status/935062431767740416 水木プロダクションtwitter告知 2017年11月27日]</ref> : 兄の娘夫婦([[境港市|境港]]の水木プロ中国支部担当) ; 弟・幸夫(水木プロ・ゼネラルマネジャー) : [[1924年]](大正13年)生 - [[2021年]]([[令和]]3年)[[4月8日]]没(享年96)<ref>[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001094731 Web NDL Authorities]</ref><ref>[https://twitter.com/mizukipro/status/1380392530982830082 水木プロダクションtwitter告知 2021年4月9日]</ref> ; 妻・[[武良布枝|布枝]]([[島根県]][[安来市]]大塚町出身、呉服商、[[酒屋]]、政治家・飯塚藤兵衛の娘) :[[1932年]](昭和7年)1月生<ref name="Zinmeiroku_p583"/> - :飯塚家の当主は代々飯塚藤兵衛を名乗り、[[呉服]]などを商う[[商家]]として知られていた{{sfn|足立|2010|p=73}}。[[武良布枝|布枝]]の父親の藤兵衛は、若い頃から村会議員を務め、酒や塩の小売業を営みながらやがて市会議員になった人物{{sfn|足立|2010|p=73}}。 :著書 :*『[[ゲゲゲの女房]]』(実業之日本社) :*『ゲゲゲの食卓』(扶桑社) ; 長女・尚子(水木プロ社長) :[[1962年]](昭和37年)12月生<ref name="Zinmeiroku_p583"/> - ; 次女・[[水木悦子|悦子]](水木プロ勤務) :[[1966年]](昭和41年)12月生<ref name="Zinmeiroku_p583"/> - :著書 :*『お父ちゃんと私-父・水木しげるとのゲゲゲな日常』(やのまん) :*『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』(文藝春秋) - ([[赤塚りえ子]]、[[手塚るみ子]]との共著) :*『ゲゲゲの娘日記』(KADOKAWA) === 住田家 === [[ファイル:Sumida Yonago Mayor.JPG|thumb|150px|[[住田善平]]<br />(第四代米子町長、水木しげるの[[祖父母|祖母]]の父)]] (鳥取県[[米子市]][[東倉吉町]]) 住田氏は[[近世]]期中ごろから[[米子市|米子]]の[[東倉吉町]]に[[居住]]し、[[住田呉服店|住田屋]]を号した<ref name="Yonago_p76">米子商工会議所・米子商業史編纂特別委員会 『米子商業史』 米子商工会議所・米子市商店街連合会、1990年、76頁。</ref>。[[衣料]]、[[雑貨]]を[[営業]]し、[[近代]]に入って[[呉服]]類を中心に営業を継続拡張した<ref name="Yonago_p76"/>。 “本住田屋”の[[住田善平]]は、[[1896年]]([[明治]]29年)12月 - [[1900年]](明治33年)12月まで米子町[[町長]]をつとめた<ref>米子市(編) 『米子自治史』 米子市、1939年、27頁。</ref>。善平の長女が武良家に嫁いだ。 ; 善平の息子・[[住田寅次郎|寅次郎]](水木の大叔父) : 米子で初めて[[東京大学|東大]]を出たとされる{{sfn|水木|2007|p=199}}。寅次郎には出世(しゅっせ)欲がなく、米子で町会議員をつとめたり、製パン業を興しパンを売ったりして一生を終えたとのことである。元米子市長[[野坂寛治]]の著書『米子界隈』183頁によると、 : 「第四代[[町長]][[住田善平]]氏は[[住田呉服店]]の御主人で、その令息・<!-- その令息の東京帝国大学--><!-- 野坂寛治氏の著書『米子界隈』にこのような記述はありません -->[[法学士]][[住田寅次郎]]氏は町会議員として、いかなる意味でも英名を四方にはせ、晩年は酒豪としての逸話が山積する。後には転じて製パンを志され、世上これを“学士パン”と呼んだ。学士学士と書いたが、現代の諸君は“アァ学士か”とそこらに落ちている小石のように思うであろうが、[[1902年|明治35]]、[[1903年|6年]]ごろの学士さんはトテモドエライもので、[[住田寅次郎]]氏が法科を、筆者の叔父貴[[野坂康二]]が工科を、共に[[東京帝国大学|東大]]を卒えて帰還した年の夏、[[渡辺駛水|渡辺町長]]その他お歴々の発起によって公会堂で歓迎会を開いて頂いている。それが米子で二人も出たのだからというのですゾ<!-- それが米子で二人も出たのだから--><!-- 野坂寛治氏のもともとの文章をいじって勝手に削除しないで下さい -->。驚き桃の木サンショの木である。」という。<!--野坂寛治氏の文章をいじって勝手に書き加えたり削除したりしないで下さい--> : 寅次郎の弟に絵描きの良三と、[[英語]]を[[趣味]]とした延寿がいる{{sfn|水木|2007|p=200}}。 : 水木によると、「父の[[叔父]]に、[[パリ]]で三十歳で客死した[[画家]]がいて、父はとても尊敬していた。その叔父は[[松井須磨子]]の劇団で背景の絵を描いていて、ちょい役で出演したりしたという。祖母の実家で[[富豪|大金持ち]]の[[住田呉服店|住田一族]]の直系だから、パリ遊学にも行けたのだろう。確かに画才はあったようだ。その叔父の命日と私の誕生日がたまたま同じで、父は“生まれ変わりだ”と信じていた」という{{sfn|水木|2007|p=56}}。 :[[住田呉服店|住田家]]の保存活用の話が進められている<ref>『[[日本海新聞]]』 [[2004年]][[9月2日]] 23面</ref>。 === 親類 === ; 彦一{{sfn|水木|2002|pp=108-112,203-205,360-362}} : 元[[職工]]。大阪で軽食堂を経営していたが[[世界恐慌]]が起こりその煽りを受け閉店。水木の祖父辰司がバタビヤ(現・[[ジャカルタ]])に渡り、[[印刷会社]]を興して成功した後、印刷会社の人員募集に応じてバタビヤに渡った。帰国後[[インドネシア語]]が話せたので[[軍属]]になり、兵隊として再びジャワへ渡る。 ; 定(さだ)やん : 水木の著書『ねぼけ人生〈新装版〉』16-17頁によると、 : 「祖父の方の親類に、定(さだ)やんという奇人がいた。この人は、妖怪の“倉ぼっこ”じゃないが、倉の中で一生を働かずにすごした。働かずにといっても決して暗い一生だったわけではなく、恋愛はする、読書三昧にふける、結婚もする、町会議員には立候補する、といったあんばいで、人一倍楽しい人生を送った」という。 === 略系図 === {{familytree/start}} {{familytree|border=1| | | | |zenh| | | | | | | |so1| |zenh=[[住田善平]]|so1=武良惣平}} {{familytree|border=1| | | | | |!| | | | | | | | | |!| |}} {{familytree|border=1| |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | |!}} {{familytree|border=1| tora| |mori| |grm|~|y|~|grf| | |tora=[[住田寅次郎]]|mori=[[森川桑三郎]]|grm=祖母|grf=祖父}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | |!|}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |ryou|~|y|~|koto|ryou=武良亮一|koto=琴江}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | |!|}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | |,|-|-|-|+|-|-|-|.| | | | | |}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | |so2| |yuki| |mizu|~|y|~|nuno|so2=武良宗平|yuki=武良幸夫|mizu='''水木しげる'''|nuno=[[武良布枝|布枝]]|boxstyle_mizu=background-color: #afa;}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |!|}} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | | | | |,|-|^|-|.| }} {{familytree|border=1| | | | | | | | | | | | | | | | | | | |etu| |nao| |etu=[[水木悦子|悦子]]|nao=尚子}} {{familytree/end}} == 演じた俳優 == ;俳優 * [[ドラマ愛の詩]]『[[のんのんばあとオレ#テレビドラマ|のんのんばあとオレ]]』『続・のんのんばあとオレ』(1991年・1992年) - [[佐藤広純]] ※役名は「村木茂」 * 映画『[[姑獲鳥の夏#映画|姑獲鳥の夏]]』(2005年) - [[京極夏彦]] ※役名は「傷痍軍人」 * [[NHKスペシャル]] ドラマ『[[総員玉砕せよ!#鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜|鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜]]』(2007年8月12日) - [[香川照之]] * [[連続テレビ小説]]『[[ゲゲゲの女房#テレビドラマ|ゲゲゲの女房]]』(2010年3月-9月) - [[向井理]] ※役名は「村井茂」 * 映画『[[ゲゲゲの女房 (映画)|ゲゲゲの女房]]』(2010年11月) - [[宮藤官九郎]] ※役名は本名「武良茂」 * 舞台『[[ゲゲゲの女房#舞台|ゲゲゲの女房]]』(2011年) - [[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]] ;声優 * アニメ『[[ゲゲゲの鬼太郎#アニメ|ゲゲゲの鬼太郎]]』 - [[富田耕吉]](第1作)、[[あずさ欣平]](第3作)、[[島田敏]](墓場鬼太郎) * アニメ映画『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』 - [[藤本譲]] ※役名は「水木先生」 == 関連人物 == === アシスタント === * [[田辺一鶴]] - [[講談師]]。若手講談師時代に水木と知り合い、一時期仕事を手伝っていた。 * [[つげ義春]] - 『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』の連載だけでは食えず、水木の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]も兼任していた。失踪事件を起こしている。 * [[池上遼一]] - 『ガロ』を読んだ水木が長井勝一にスカウトを依頼。住み込みのアシスタントを2年ほど務める。 * [[古川益三]] - 後に[[まんだらけ]]社長となる。雑誌『まんだらけ』で元アシスタントの座談会を掲載した。 * 北川和義 * 佐々岡健次(島根けんじ) - 元貸本漫画家で水木プロの初代チーフアシスタント。水木が画力を評価し[[桜井昌一]]にスカウトを依頼したという。2017年、まんだらけ出版より作品集『血清人間肉』が復刻出版された。 * 山口芳則 * [[鈴木翁二]] * [[辰巳ヨシヒロ]] * [[つりたくにこ]] * [[奈知未佐子]] * 橋本将次 - 元貸本漫画家。貸本漫画だけでは生活できず水木プロで日雇いのアシスタントをしていた。後に劇画家、SMイラストレイターとして活躍。 * [[森野達弥]] * [[土屋慎吾]] - 後に官能劇画家としてデビューする。2013年、アシスタント時代の回顧録漫画『ゲゲゲのアシスタント』を自費出版した。 * 村澤昌夫 - 水木プロのチーフアシスタント。晩年まで水木作品に関わっていた。2017年、回顧録漫画『水木先生とぼく』をKADOKAWAより出版。 * 石黒美影 * 伊藤正樹 - 元貸本漫画家。 * [[呉智英]] - 70年代初頭に水木の資料整理を担当。その間に水木漫画の「原作」をいくつか執筆したが、「難解すぎて」採用されなかった。のち評論家となる。呉は、水木の本質を、「人智を超えたものを信じる人」と、「俗っぽい生活知にあふれた庶民」とが、渾然一体で同居しているところにあると述べている。 === 妖怪・民俗関連 === * [[荒俣宏]] - 1970年代に水木漫画の原作を担当。荒俣は1980年代に水木宅を訪れ、「弟子にしてください」と頼んだ。水木も荒俣のファンだったので、すぐに了承した{{sfn|布枝|2008}}。水木の漫画作品に「アリャマタコリャマタ」として登場。 * [[京極夏彦]] - 小説家としてデビューしなければ水木プロ入りは間違いなかったという。水木の弟子を自称し(水木も認めている)、自宅に水木関連書籍・グッズ専用の部屋(水木庵)を作っている。『[[水木しげる漫画大全集]]』の監修を担当。ちくま文庫から『京極夏彦が選ぶ! 水木しげる未収録短編集』『京極夏彦が選ぶ! 水木しげるの奇妙な劇画集』も刊行している。なお、著作『[[姑獲鳥の夏]]』が映画化された時は京極は水木しげる役<ref group="注">エンドロールでの表記は『傷痍軍人 ('''水木しげる''')』。</ref>を演じた。 * 宮本神酒男 - [[シャーマニズム]]研究家。水木とともにドラキュラの故郷やミャンマーのシャーマンなどの取材旅行をしている。 * [[多田克己]] * [[村上健司]] * [[林巧]] * [[宮田雪]] - 脚本家。水木に漫画原作を提供。アメリカのホピ族インディアンを水木が訪れる渡し役もした。 * [[朝松健]] - 作家。1997年の『悪魔くん世紀末大戦』の原案を担当。 * [[大泉実成]] - ノンフィクション作家。水木の冒険旅行に何度か同行し、紀行本を出版。 * [[足立倫行]] - ノンフィクション作家。水木に密着取材を行い、『妖怪と歩く』を出版。 * [[佐野史郎]] - 俳優。水木のファンで、公私ともに交流がある。アニメ『[[ゲゲゲの鬼太郎 (テレビアニメ第4シリーズ)|ゲゲゲの鬼太郎]]』第4シリーズの吸血鬼エリートや、映画『[[ゲゲゲの鬼太郎 (実写映画)#第2作目『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』|ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌]]』の蛇骨婆を演じる。 * [[小松和彦]] * [[美輪明宏]]  * [[吉村作治]] * [[養老孟司]] === 漫画家・出版関連 === * [[桜井昌一]] - 貸本漫画家。出版社「[[東考社]]」をおこし、貸本版『[[悪魔くん]]』などを発行。貸本業界が崩壊すると、「桜井文庫」として文庫本形式のインディーズ出版を行い、水木の短編を多数出版している<ref group="注">1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる。</ref>。また、水木の漫画作品中に頻出する眼鏡で出っ歯の「[[サラリーマン山田]]」のモデル。なお、2010年の連続テレビ小説『[[ゲゲゲの女房]]』に登場する戌井慎二(演:[[梶原善]])のモデルも桜井である。 * [[鈴木勝丸]] - [[紙芝居]]会社「阪神画劇社」の経営者。紙芝居作家としての水木を見出し、『ゲゲゲの鬼太郎』の原型『ハカバキタロー』の紙芝居を伝える。水木のペンネームの名付け親でもある。 * [[佐藤まさあき]] - 漫画家。自身の出版社「佐藤プロダクション」で水木の漫画を出版していた。編集者だった佐藤の兄・記本隆司と水木は折り合いが悪く、様々なエピソードがある。 * [[白土三平]] - 漫画家。『[[カムイ伝]]』他多数の大ヒット作で知られる。『少年マガジン』が劇画路線を推進する以前から水木を推薦しており{{sfn|足立|2010}}、[[講談社児童まんが賞]]の審査でも水木の『[[テレビくん]]』を推薦していた<ref>『ガロ』1994年9月号</ref>。水木作品では忍者漫画で一山当てた怪人として、水木たちがごちそうになりにいくエピソードなどが語られている。 * [[杉本五郎 (漫画家)|杉本五郎]] - 貸本漫画家仲間で、別名「つゆき・サブロー」。鬼太郎の「霧の中のジョニー/吸血鬼エリート」のモデル。映画フィルムの日本一のコレクターでもあった。 * 梅田栄太郎 - 貸本漫画家仲間で、のち印刷会社の社長。その「調子のいい」言動で、[[ねずみ男]]のモデルとなった。 * [[長井勝一]] - 漫画編集者。[[青林堂]]の前身となる貸本漫画出版の「三洋社」主宰の頃から親交があった。漫画雑誌 『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』の初代編集長。 * [[南伸坊]] - イラストレーター。青林堂の社員時代、『ガロ』で『[[星をつかみそこねる男]]』などを担当。 * [[松田哲夫]] - 学生時代に『ガロ』の仕事を手伝っていた関係で、水木の原稿を取りに行って知り合う。[[筑摩書房]]入社後、水木に自伝『ねぼけ人生』の執筆を薦めた。また「ちくま文庫」創刊後は、水木漫画を多く収録した。 * [[矢口高雄]] - 漫画家。銀行員時代に『ガロ』編集部の紹介でスタジオ見学に訪れたことがある。この時に水木や池上から受けたアドバイスは後々非常に参考になったとのこと<ref>矢口高雄 『9で割れ!』{{Full citation needed|date=2018-10-16|title=出版年の異なる複数のバージョンがあり、どれを用いたか不明。ページ番号も不明。}}</ref>。 === 知人、同人など === * 瀧利郎 - 戦友で、戦後も水木と交流があった。編著に『ラバウル戦の末路』。 * 宮一郎 - 戦友で、戦後は[[阪急電鉄]]に勤務。グループ企業の[[宝塚ファミリーランド]]で『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』関連のイベントを企画したことから水木と再会し、戦地再訪の旅に誘った。 * トペトロ - [[ニューギニア]]での療養中に仲良くなった現地のトライ族の少年。水木は漫画家として成功してから、現地を再訪し、恩返しに中古車を贈った。彼との交際は50年に及ぶが、1993年に亡くなった。トペトロの遺族は葬儀をあげる費用が無かった為、水木が費用を出して盛大な葬儀を行った。その交友関係は『トペトロとの50年』に描かれている。 * [[ら・むうん]]([[有里紅良]]・[[夢来鳥ねむ]]) ** 水木作品の同人サークル「鬼太郎座」を母体として発展構築された劇団兼創作集団。 ** 「鬼太郎座」時代に創られたダイナビジョン作品『女禍』の製作に、水木本人を[[スーパーバイザー]]として招き、教えを受けた。 ** 中心者2名(有里・夢来鳥)は後に『[[HAUNTEDじゃんくしょん]]』など水木作品をモチーフとした商用作品を執筆している。 ** 代表者であった有里紅良は、水木に先立ち、2015年の[[7月2日]]に永眠した。ちょうど水木と同じ年に共に彼岸へと旅立った事になる。 * 関東水木会 - 研究会。[[青林堂]]の『水木しげる叢書』に協力したファンの有志により、「水木先生をバックアップするための好事家の集まり」として1993年11月に立ち上げられた。会長 山口信二、会員 平林重雄、鈴木信一、[[荒井良]]、[[荒俣宏]]、[[京極夏彦]]、[[佐野史郎]]ら。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=1994|month=7|title=水木しげるのラバウル戦記|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-87245-0|ref={{sfnref|水木|1994}}}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=1999|month=7|title=ねぼけ人生|series=ちくま文庫|edition=新装版|publisher=筑摩書房|isbn=4-480-03499-4 |ref={{SfnRef|水木|1999}} }} * {{Cite book |和書 |year=2002 |author=水木しげるほか |title=水木しげる80の秘密 |publisher=角川書店 |isbn=978-4-04-883763-7 |ref={{SfnRef|水木ほか|2002}} }} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2002|month=8|title=ほんまにオレはアホやろか|series=新潮文庫|publisher=新潮社|isbn=978-4-10-135731-7|ref={{sfnref|水木|2002}}}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2004|month=11|title=水木しげるのんのん人生―ぼくはこんなふうに生きてきた|publisher=大和書房|isbn=4-479-39112-6}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2004|month=11|title=水木しげる伝 マンガ 完全版|series=講談社漫画文庫|volume=上(戦前編)|publisher=講談社|isbn=4-06-360836-0|ref={{sfnref|水木|2004}}}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2004|month=12|title=水木しげる伝 マンガ 完全版|series=講談社漫画文庫|volume=中(戦中編)|publisher=講談社|isbn=4-06-360837-9}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2005|month=1|title=水木しげる伝 マンガ 完全版|series=講談社漫画文庫|volume=下(戦後編)|publisher=講談社|isbn=4-06-360838-7|ref={{sfnref|水木|2005}}}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2007|month=4|title=水木サンの幸福論|series=角川文庫|edition=増訂版|publisher=角川書店|isbn=978-4-04-192919-3|ref={{sfnref|水木|2007}}}} - 日本経済新聞社2004年刊の増訂版。 * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2008|month=4|title=神秘家水木しげる伝|series=怪books|publisher=角川書店|isbn=978-4-04-854194-7}} * {{Cite book|和書|author=水木しげる|year=2010|month=6|title=最新版 妖怪まんだら 水木しげるの世界|publisher=世界文化社|isbn=4-418-10121-7 |ref={{SfnRef|水木|2010}} }} * {{Cite book|和書|author=武良布枝|authorlink=武良布枝|year=2008|month=3|title=ゲゲゲの女房 人生は…終わりよければ、すべてよし!!|publisher=実業之日本社|isbn=978-4-408-10727-1|ref={{sfnref|布枝|2008}}}} * {{Cite book|和書|author=足立倫行|authorlink=足立倫行|year=1994|month=10|title=妖怪と歩く 評伝・水木しげる|series=書下しノンフィクション 人間発掘|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-349380-8}} * {{Cite book|和書|author=足立倫行|authorlink=足立倫行|year=2010|month=3|title=妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる|series=新潮文庫|publisher=[[新潮社]]|isbn=978-4101022161|ref={{sfnref|足立|2010}}}} * {{Cite book|和書|author=山口信二|year=2007|month=5|title=水木しげる貸本漫画のすべて|publisher=YMブックス|isbn=978-4-903548-08-1}} == 関連項目 == * [[鳥取県出身の人物一覧]] * [[ガイナーレ鳥取]] * [[鳥取キタロウズ]] * [[曹洞宗]] * [[水木しげるの妖怪図鑑]] * [[つげ義春とぼく]] == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Official website|https://www.mizukipro.com/|げげげ通信}} - 水木プロダクション公式サイト * {{Twitter|mizukipro|水木プロダクション}} * {{Facebook|mizukipro|水木プロダクション}} * {{Official website|mizuki.sakaiminato.net|水木しげる記念館}} * {{YouTube|c=UCF1YAcN4obHtew-GCtGAgYA|Hey, KITAROチャンネル}} * {{NHK人物録|D0009071198_00000}} * [https://www.nytimes.com/2015/12/02/arts/design/shigeru-mizuki-influential-japanese-cartoonist-dies-at-93.html Shigeru Mizuki, Influential Japanese Cartoonist, Dies at 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ヨコハマ買い出し紀行
『ヨコハマ買い出し紀行』(ヨコハマかいだしきこう)は、芦奈野ひとしによる日本の漫画作品。『月刊アフタヌーン』(講談社)において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。 第1作は同誌1994年6月号に読み切りとして掲載(いわゆる第0話)、作者にとってはこの作品がデビュー作でもある。本作品が同年春のアフタヌーン四季賞で四季賞を受賞する。続いて9月号に続編が掲載され、同年12月号からは連載となり、2006年4月号まで掲載された。全140話。物語全体を通して、穏やかな独特の世界を描いていく。 本編の連載終了後、2006年7月号に描き下ろしとして掲載された短編『峠』は、同一の世界を舞台としたものと思われる(時代設定は連載終了時点から数十年後以上と推測される)。 また、ラジオドラマが椎名へきるのラジオ番組で放送され(後にドラマCD化)、二度OVA版が制作されている。 2007年には第38回星雲賞(コミック部門)を受賞した。 「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本(主に三浦半島を中心とした関東地方)を舞台に、「ロボットの人」である主人公初瀬野アルファとその周囲の人々の織りなす「てろてろ」とした時間を描いた作品。 作中の社会状況は、明言はされていないが、断片的な記述を総合すると、地球温暖化が進んで海面上昇が続き、産業が衰退して人口が激減し、人類の文明社会が徐々に衰退し滅びに向かっていることが示唆されている。しかし、その世界に悲壮感はなく、人々はむしろ平穏に満ちた日々を暮らしている。また、詳しくは語られない正体不明の存在も多く、そのまま作中の日常世界に溶け込んでいる。これらの不思議については作中で真相が明かされることはなく、どう解釈するかは読者に任されている。 なお原作終了後に刊行された小説版(著:香月照葉)では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。 各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は個性のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。 いずれも、芦奈野ひとし著、講談社の〈アフタヌーンKC〉より発行。 新装版ではカラーページの再録、ラフスケッチなどの「おまけカット」収録、1冊当りの収録話数を過去の単行本の1.4冊分に増加、表紙の一新(描き下ろし)がなされている。
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『ヨコハマ買い出し紀行』(ヨコハマかいだしきこう)は、芦奈野ひとしによる日本の漫画作品。『月刊アフタヌーン』(講談社)において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。
{{Infobox animanga/Header | タイトル = ヨコハマ買い出し紀行 | ジャンル = [[青年漫画]]、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[終末もの]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[芦奈野ひとし]] | 出版社 = [[講談社]] | 掲載誌 = [[月刊アフタヌーン]] | レーベル = アフタヌーンKC | 開始号 = [[1994年]]6月号 | 終了号 = [[2006年]]4月号 | 開始日 = 1994年 | 終了日 = 2006年 | 話数 = 全140話 | 巻数 = 全14巻 }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = ヨコハマ買い出し紀行 | 原作 = 芦奈野ひとし | 監督 = [[安濃高志]] | キャラクターデザイン = 山形厚史 | 音楽 = [[ゴンチチ|GONTITI]] | アニメーション制作 = [[亜細亜堂]] | 製作 = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージック<br />エンタテインメント]] | 発売日 = 1998年3月・12月 | 話数 = 全2話 }} {{Infobox animanga/OVA | タイトル = ヨコハマ買い出し紀行-Quiet Country Cafe- | 原作 = 芦奈野ひとし | 監督 = [[望月智充]] | キャラクターデザイン = [[関根昌之]] | 音楽 = [[Choro Club]] | アニメーション制作 = 亜細亜堂 | 製作 = [[アニプレックス|SME・ビジュアルワークス]] | 発売日 = 2002年12月・2003年3月 | 話数 = 全2話 }} {{Infobox animanga/Footer | ウィキプロジェクト = [[プロジェクト:漫画|漫画]]・[[プロジェクト:アニメ|アニメ]] | ウィキポータル = [[Portal:漫画|漫画]]・[[Portal:アニメ|アニメ]] }} 『'''ヨコハマ買い出し紀行'''』(ヨコハマかいだしきこう)は、[[芦奈野ひとし]]による[[日本]]の[[漫画]]作品。『[[月刊アフタヌーン]]』([[講談社]])において1994年から2006年まで連載された。単行本全14巻、新装版全10巻。 == 概要 == 第1作は同誌[[1994年]]6月号に読み切りとして掲載(いわゆる第0話)、作者にとってはこの作品がデビュー作でもある。本作品が同年春の[[アフタヌーン四季賞]]で[[四季賞]]を受賞する。続いて9月号に続編が掲載され、同年12月号からは連載となり、[[2006年]]4月号まで掲載された。全140話。物語全体を通して、穏やかな独特の世界を描いていく。 本編の連載終了後、2006年7月号に描き下ろしとして掲載された短編『峠』は、同一の世界を舞台としたものと思われる(時代設定は連載終了時点から数十年後以上と推測される)。 また、[[ラジオドラマ]]が[[椎名へきる]]の[[アニラジ|ラジオ番組]]で放送され(後に[[ドラマCD]]化)、二度[[OVA]]版が制作されている。 [[2007年]]には第38回[[星雲賞]](コミック部門)を受賞した[https://animeanime.jp/article/2007/09/02/2173.html]。 == あらすじ == 「お祭りのようだった世の中」がゆっくりと落ち着き、のちに「夕凪の時代」と呼ばれる近未来の日本(主に[[三浦半島]]を中心とした[[関東地方]])を舞台に、「[[ロボット]]の人」である主人公'''初瀬野アルファ'''とその周囲の人々の織りなす「てろてろ」とした[[時間]]を描いた作品。 作中の社会状況は、明言はされていないが、断片的な記述を総合すると、[[地球温暖化]]が進んで海面上昇が続き、産業が衰退して人口が激減し、人類の文明社会が徐々に衰退し滅びに向かっていることが示唆されている。しかし、その世界に悲壮感はなく、人々はむしろ平穏に満ちた日々を暮らしている。また、詳しくは語られない正体不明の存在も多く、そのまま作中の日常世界に溶け込んでいる。これらの不思議については作中で真相が明かされることはなく、どう解釈するかは読者に[[丸投げ|任されている]]。 なお原作終了後に刊行された小説版(著:[[香月照葉]])では、「夕凪の時代」の後に人口はさらに減少を続け、ほぼ滅亡状態となった「人の夜」を迎えた、としている。 各話は、登場人物の私的な日常を軸に展開し、また「ロボットの人」たちが周囲から、「ロボットという事は[[個性]]のひとつ」として受け入れられて生活している様子をとらえている。 == 登場人物 == ; 初瀬野アルファ(はつせの アルファ) : [[声優|声]] - [[椎名へきる]] : 本作の主人公。若い女性の姿をしたロボット。機種名はA7M2型(量産試作機)。髪は緑色で[[ポニーテール]]にしていることが多いが、たまにそのロングヘアをおろしている。瞳はあずき色。赤いイヤリングをしている。[[三浦半島]]にある「西の[[岬]]」で[[喫茶店]]「カフェ・アルファ」を営む。名前は、開発当時まだ珍しかったアルファ型ロボットから定着した。オーナーの帰りを何年も待ち続けているが、アルファ自身は、老いることなく何年も帰りを待ち続けられるので、「私はロボットでよかった」と思っている。コーヒー豆が尽きてくると、スクーターでヨコハマの街に買い出しに行く。オーナーからもらった[[拳銃]]([[H&K P7]])と特殊な[[カメラ]]を宝物にしている。酒に酔うと、人の知らない[[踊り]]を踊ったり屋外にさ迷い出て徘徊したりするが、本人はよく覚えていない。[[食肉|肉]]、[[鶏卵]]、[[牛乳]]など、動物性[[たんぱく質]]を体内で処理できず、体調不良(めまいや悪寒)を起こしてしまうが、ミルク入り缶コーヒー程度は平気だという。趣味は[[月琴]]を弾くことと、[[魚]]をあしらった小物の収集・製作。水中での遊泳が得意。高い所が大好き。怖い話が大の苦手。[[ミカン]]や[[コーヒー]]や[[砂糖]]が好物のようで、特に砂糖に関しては自ら[[ファン]]と言っており、ある[[黒砂糖|黒糖]]を食べて、うまさのあまり感涙する。「ありゃま」が口癖。 ; 鷹津ココネ(たかつ ココネ) : 声 - [[中川亜紀子]] : アルファの妹分であり、同じく若い女性の姿をしたロボット。アルファ型ロボットの1人。機種名はA7M3型(量産型)。髪は淡い紫色の[[おかっぱ|ボブカット]]。瞳は濃い緑色。青いイヤリングをしている。ムサシノ運送で「おてもと便」係として働いており、カメラの配達を通じてアルファと出会う。配達時には護身用に拳銃([[ワルサーP5|ワルサーP5コンパクト]])を携帯する。かつては人間っぽく振る舞おうと心がけていたが、アルファと出会ってからは、「あまり気楽になろうとしない」ことで気楽になる、という生き方を見つける。他方、ロボットである自分のルーツを探し求めて情報収集をしている。「ココネ」という名前は、研修所で自分でつけたものらしい。アルファと違い、動物性たんぱく質も消化できる。行きつけのオープンカフェ「かんぱち辻の茶」のマスターから片思いされているらしい。その他にも、比較的「都会」であるムサシノの国では、ココネに好感を寄せる友人や同僚も多い。あまり自分をさらけ出さないカタさがあり、そこをネタに同僚のシバちゃんからからかわれている。アルファに大きな影響を受けスクーターを購入し、それに乗ってムサシノからカフェ・アルファまでよく遊びに来る。何回かアルファの家に遊びに来ているうちに、アルファの住んでいる場所に住みたいと思うようになり最終回ではアルファの家で同居しているような描写がある。 ; おじさん : 声 - [[寺島幹夫]] ⇒ [[飯塚昭三]] : カフェ・アルファの近所で[[ガソリンスタンド]]を営む老人。カフェ・アルファの常連客。アルファのよき話し相手である。アルファの愛用バイク(スクーター)の[[ガソリン]]代の代わりに、カフェ・アルファでコーヒーを飲んでいる(いわば物々交換)。子海石先生の学生時代の後輩である。畑を持っており、[[スイカ]]が大豊作だったときは近隣にお裾分けしてまわった。後にスタンドを無人化し、自らは畑仕事に専念する。 ; タカヒロ : 声 - [[陶山章央]] ⇒ [[豊永利行]] : おじさんと一緒に住む少年([[孫]]とも思えるが両者の間柄は明言されていない)。カフェ・アルファによく足を運ぶ。ひところはアルファに、近所の気になるお姉さん的に淡い恋心を抱いていた節もある。[[内燃機関]]関係に興味を持ち、第110話以後、[[内燃機関|エンジン]]の都・[[浜松]](現実の日本においても自動車やバイクのメーカーが集中している)に働きに出る。その後、マッキとの間にサエッタが生まれる。 ; 真月(まつき) : 声 - [[長沢美樹]] : タカヒロの幼馴染の少女。人々からはマッキと呼ばれている。幼少のころからタカヒロに恋心を抱いている描写があり、タカヒロがアルファと親しくしていることからアルファに嫉妬らしき感情を抱くが、のちに和解してカフェ・アルファに手伝いに行くくらい親しくなる。老夫婦(親か祖父母とも思えるが間柄は明言されていない)と暮らしていたが、後にココネの勤めるムサシノ運送で5年間働いて退社し、アルファに勧められてタカヒロの住む浜松へ行く。その後、タカヒロとの間にサエッタを出産する。 ; サエッタ : マッキとタカヒロとの間の娘。第138話に登場。「[[MC.200 (航空機)|サエッタ]]」はタカヒロが命名した。ゴチャッとした林が好きなお転婆だが、性格は落ち着いている(アルファ曰く子供時代のタカヒロとマッキを足して2で割らないかんじ)。マッキとともに三浦半島に帰省したとき、入り江で(かつての母親と同様に)ミサゴに出会う。 ; 子海石先生(こうみいし せんせい) : 声 - [[杉田郁子]] : 初老の女性[[医師]]。[[雷]]に打たれたアルファを治した。おじさんの学生時代の先輩。かつてはロボット開発にも携わっていたらしい。医学部職員時代に1回目の大高潮が発生している。「子海石アルファ」というロボットを預かっていた時期があるという。若い頃はおじさんとつるんで[[オートバイ]]で方々を「歩いて見て回って」いたようである。自らデザインした、古代の[[漢字]]に似た図形([[篆書体]]の「子」に酷似)を、自身のトレードマークとしている。このトレードマークを描いたペンダントを身に付けており、それが自分の「目と足」だという。後にそのペンダントを、未来を見続けるであろうアルファに託す。 ; ミサゴ : 小網代の入り江(小網代湾)に棲む謎の女性。常に全裸。[[言葉]]を話さない。超人的な身体能力で、水面を走ったりする。魚や昆虫を取っては生で食べている。ほぼ[[野生動物]]のような生活をしている。子供の前にしか姿を見せない。雨で凍えたタカヒロを救ったことがある。アヤセやアルファのオーナーも、子供の頃にミサゴを目撃したが、当時の姿は今と変わらない。ほとんど人前に姿を現わさないため、周辺住人からは半ば伝説扱いされている。ミサゴという名は、子海石先生が大学時代に操縦した[[飛行艇|水上飛行艇]]につけられた名称[[ミサゴ|「鶚」]]と同名だが、関連性は不明。 : 『小説 ヨコハマ買い出し紀行 -見て、歩き、よろこぶ者-』では作中人物より「ロボットである」と明言された。 : なお、人は子供時代にしかミサゴに会えない。 ; アヤセ : 声 - [[森川智之]] : 放浪の旅を続ける青年。ミナミトビカマスという架空の魚を[[鷹匠]]のように操って漁をする。それに加えて[[アルバイト]]で収入を得ているらしい。数年ごとに故郷(カフェ・アルファの近辺)に戻ってくるが、そのときにタカヒロ、アルファ、マッキと出会う。かつてミサゴに出会った1人。初瀬野先生とも面識があるらしい。各地を歩きながら、人型キノコなどさまざまな謎を個人的に調査している。カマスが子供を持った頃は、マッキを弟子に取りたいと考えていた。話す言葉がおじさんによく似ており、アルファがそれを指摘する。 ; シバちゃん : ムサシノ運送で「おてもと便」係として働く女性。ココネの同僚。ざっくばらんな性格。付き合っている男性がいるようである。後に他の部署へ異動することが決まる。ロボットでなく人間であるらしい。ココネと気が合うらしく、2人はよくつるんで休日や仕事の合間に遊んだりだべったりしている。のちに管理部に異動してココネとの配達時のペアを組むことがなくなる。ムサシノ運送社員時代のマッキは彼女のことを「すごい人」と評している。 ; 丸子マルコ(まるこ マルコ) : 多摩入江(元[[多摩川]]の流域に海水が侵入してできあがった湾)のほとり田園調布にアトリエを持つ女性型ロボット。アルファ型ロボットの1人。機種名はA7M3型(ココネと同じ)。ボーイッシュな風貌。髪は赤色のショート。瞳は茶色。赤いイヤリングをしている。趣味で油絵を書いており、[[額縁]]屋で働いている。営業スマイルを活かして、「額縁屋の看板娘」として顧客の評判は良い。だが、私的な人付き合いはうまくないらしく、自らオーナーのもとを離れたロボットであり、苗字も自分で変えた。ココネを気に入っており、しばしば遊びに誘うが、遠回しに断わられ続けている。ナイとは旧知の仲。ココネとナイがアルファと親しくなったことに嫉妬して、マルコはカフェ・アルファまで皮肉と批判を言いに来る。しかしそれがきっかけで、アルファと本音でぶつかり合える良い関係となった。 ; ナイ : 声 - [[内藤玲]] : 珍しい男性型ロボット(男性型のロボットはなぜか早死にが多いとのこと)。アルファ型ロボットの1人。髪の毛と目の色は茶色で、伸ばした後ろ髪を縛っている。厚木空港で[[ノースアメリカン]]の[[レシプロエンジン|レシプロ]][[練習機]][[T-6_(航空機・初代)|T-6テキサン]]を使用した定期便の[[パイロット (航空)|パイロット]]をしている。一人旅をしていたアルファと知り合う。口数少なく、あまり人付き合いを好む性格ではないようだが、丸子マルコとは旧知の仲。[[写真]]を取るのが[[趣味]]なようで、アルファのものとほぼ同型のカメラを持っており、ときどきマルコに写真(ただしロボット専用のデータであり人間にはその感覚を伝えきれない)を送る。写真の傾向としてマルコいわく「[[コントラスト]]が強い」ものである。浜松でタカヒロと知り合う。 ; 子海石アルファ(こうみいし アルファ) : はるか上空を延々と飛び続ける「[[ターポン]]」という飛行機に搭乗しているロボット。機種名はA7M1型。アルファやココネの直系の「お姉さん」にあたる。えび茶色の髪と瞳をしている。髪型はサイドだけ伸ばしたセミロング。赤いイヤリングをしている。ターポン内では「アルファー室長」と呼ばれている。上空から、もう降りることのないであろう地上世界を見つめている。生まれて間もない頃(姿は変わらない)には子海石先生の元におり、最初の頃は服を着ることを嫌った。子海石先生からもらったらしいペンダントをいつも身につけている。 ; 初瀬野先生(はつせの せんせい) : アルファのオーナー。何年か前にアルファに店を預けて外出したままである。作中では苗字しか出てこず、また趣味で[[模型飛行機]]をやっていたらしいなど、断片的な情報だけが示されている。人相、人柄、何の先生なのかといった全貌は、最後まで明かされない。作中では一度帰ってきたようだが、たまたまアルファがヨコハマに買い出しに出かけている最中だったため、メモ1枚残してまた行ってしまった(第0話)。出先からカメラをアルファに送った際、ココネにメッセージを託した。第139話に、すでに死去していることを匂わす描写があるが、不明のままである。 ; 私(わたし) : カフェ・アルファの常連客だが、2回しか登場しない。登場するエピソードでは彼の一人称視点で描かれるため外見は不明で名前も明かされない。アルファと会話を交わしつつ、モノローグで自身の心情を語る(口調は年配の男性を想像させる)。カフェ・アルファを「どれだけ間があいても常連になれる店だ」と評している。 == 描写中に見られるその他の要素 == ; スクーター : アルファのスクーターはガソリンを燃料とするレシプロエンジンだが、ココネのスクーターは電気式である。この電気式スクーターは電磁気を使うモーターではなく、電気的刺激で収縮する人工筋肉が動力らしい。 : アルファのスクーターは黄色で、ココネのスクーターはピンク色をしている。 ; アルファの'''カメラ''' : オーナーがアルファに贈ったカメラ。形状は本作品の連載開始と同年の1994年2月に発売された[[Apple]] [[Apple QuickTake|QuickTake 100]]と類似している。「ロボットの人」専用の品。ロボットはこのカメラにつないだコードの先端を口にくわえた状態で、情景をリアルに記録および再生でき、目を閉じればカメラが見ている情景が見える。作中、特別に重要なアイテムとして頻繁に登場する。ココネによれば、このカメラのレンズはアルファたち「ロボットの人」の[[目]]に近いものである。記録媒体は「[[キャラメル]]のようなもの」である(「一粒300枚」ほど)。いわゆるスチル写真をプリントするための銀塩カメラではなく、今で言う[[デジタルカメラ]]に近い。(連載時における登場時期は、現実においても民生用デジタルカメラの黎明期だった)。 : アルファはこのカメラを、本来は鉄砲用に作られたポーチの中にしまっており、外出時にしばしば携行する。似たカメラをナイも持っているが、アルファのカメラはより高性能な(ナイによれば「並でない」)仕様であり、一品物であるらしい。[[ビデオモニター|モニター]]や[[プリンター]]につなげば、(ロボットでない)人間にも単純な画像として一応見ることはできるらしい。 : 『ヨコハマ買い出し紀行 -芦奈野ひとし画集-』(以下「画集」)に収録されている作者インタビューで、人間の五感それぞれを記録する実験があったことと、その各々がA1~A5(アルファ型の1から5まで)に対応することが語られている。うちA1は目(視覚)に相当し、アルファのカメラがその実験成果であることが明かされている(A2は耳(聴覚)に相当し、その実験成果はA-2と標記された[[レコード]]である)。 ; A-2と標記されたレコード : ココネが世田谷の児童館で見つけたレコード。ジャケットにA-2と標記されている。2枚組であり、表裏にM-1からM-4までがスタンプされていて、ココネたちロボットの機種名(A7M3など)との関連を思わせる。同じレコードを子海石先生も所有している。内容はある種のリズムや音のサンプル集。聞いたココネは「私の知っている景色に似ている」と感じた。 : このレコードは、A2(アルファ型の2:人間の五感のうち耳(聴覚)を記録する実験)の成果であることが、画集に収録されている作者インタビューで語られている。 ; 月琴 : 月琴は中国伝来の弦楽器。胴は丸く、ピックで弦を弾き、弦の数は2~4本。アルファの住む初瀬野宅にも月琴が1本あり、3本の弦が張ってある。その正式な所有者はアルファのオーナー(初瀬野先生)だが、アルファは普段よくひとりでこの月琴を弾いており、ときおり人前で弾くこともある。アルファが月琴を弾きながらココネと一緒にハミングしたときは、信じがたいほどの調和が起こって、2人とも我を忘れた。アルファはこの月琴を非常に大切にしており、台風メイホワからの避難時にも、数少ない携行品の1つに選んだ。月琴は当作品に登場する唯一の楽器である。 ; 街灯 : 人工の街灯が、かつての市街地や自動車道の名残りとして、上昇した海面から突き出ている。特に「北の町」の街灯の群れは、夕刻になると無数に点灯し、これをアルファはときどき眺めに来る。一部の好事家たちは、この街灯を海上の小舟から眺めながら酒を飲む。 ; 街灯の木 : 街灯そっくりの形をした光る植物。半人工物と思われる。暗くなると自動的に点灯し青い光を放つ。かつての主要道に沿って無数に自生している。 ; 巨大な柿・栗・ヒマワリ : 巨大な実が数種登場する([[バイオテクノロジー]]の成果か?)。いずれも大きさは一抱えほど。単行本(旧第8巻の4コマ漫画)では、巨大な[[モモ|桃]]と[[クリ|栗]]は実を結ぶまでに3年、[[カキノキ|柿]]は8年かかるとし、桃については実のついた房も描かれているが、梨については言葉を濁している。栗は、焼くとはじけて飛び、危険である(味はよいらしい)。パワーヒマワリという品種の[[ヒマワリ]]が登場し、5mほど(推定)に成長して巨大な花を付ける。その種は、量は多いがサイズは普通のヒマワリと同じである。 ; 人型キノコ、水神さま : キノコ質の白い物体であり、地面に生えている。形が人間に似ているが動かない。多くは水か景色の見える場所に生える。さいたまの国の水神さまは、人型キノコの1つであり、[[だるま]]のように座った格好で動かず、顔が少年であって脳波もあり、地元の人々から参拝され大切に管理保護されている。また、ある山にある公園の廃墟には、だるま型の人型キノコが1体生えている。そのすぐ隣には、より小型の人型キノコが1体生えている。小型のものは、顔がなく、全体が疑問符「?」に似た形をしている。アルファも小型の人型キノコの別個体を、別の場所で1つ発見する。また、千葉の国の[[刑部岬]]の、突端の崖っぷちには、女性の姿をした1体の人型キノコが生えており、海に向かって遠くを見ている。 ; 巨大直方体 : ある山の上にそびえる、ビルのように大きくて四角い、のっぺりした白い物体。表面はキノコか[[コルク]]のように柔らかい。少なくとも3つあり、ほぼ稜線上に並んでいる。なお、巨大直方体がそびえる山のそばに公園の廃墟があり、そこには人型キノコが生えている。 ; ターポン : 高高度を飛行する巨大[[飛行機]]。地上にはもう降りることができないらしく、延々と飛び続けている。6年周期で航路を変更する(北半球航路⇔南半球航路)。内部には乗組員たちの部屋のほか、膨大な本を納めた図書室らしき所もある。子海石アルファとほか2名の乗組員が登場する。機内で新茶が採れる。地上と連絡を取り合う描写は一切なく、地上からは見上げるばかり、機内からはただ地上を見下ろすばかりとなっている。ある乗組員は地上の変化や気象の様子を観測し続けている。 ; [[マックスコーヒー]] : 『[[月刊アフタヌーン]]』[[1996年]]7月号表紙にアルファが登場した際、アルファの横にさり気なく置かれていた[[缶コーヒー]]。ちなみに、マックスコーヒーは実際に[[利根コカ・コーラボトリング]]が販売している商品であり、[[千葉県]]・[[茨城県]]を中心に地域の名物コーヒーとして親しまれていたが、2009年2月16日からは正式に全国販売が開始された。 ; [[崎陽軒#ひょうちゃん|ひょうちゃん]] : 陶器製のしょうゆさし。第40話でアヤセが持っていた。作中では貴重品または希少品らしく、これを譲られた人物が驚いて恐縮する。現実世界では、[[崎陽軒]]の[[焼売|シウマイ]]の箱の中に封入されている。 ; メイポロ : 架空の木の名前。この木の汁を煮詰め、お湯で割って飲む。カフェ・アルファのメニューの一品。 ; 大玉 : 鎌倉の花火大会で1発目に花火として打ち上げられた。実際にはミサイルの[[MIM-14 (ミサイル)|ナイキJ]]。 == 出版物 == === 単行本 === いずれも、[[芦奈野ひとし]]著、講談社の〈[[月刊アフタヌーン#アフタヌーンKC|アフタヌーンKC]]〉より発行。 新装版ではカラーページの再録、ラフスケッチなどの「おまけカット」収録、1冊当りの収録話数を過去の単行本の1.4冊分に増加、[[表紙]]の一新([[書き下ろし|描き下ろし]])がなされている。 * 『ヨコハマ買い出し紀行』 全14巻 *# 1995年8月23日初版発行、ISBN 4-06-321050-2 *# 1996年2月23日初版発行、ISBN 4-06-321055-3 *# 1996年7月23日初版発行、ISBN 4-06-321061-8 *# 1997年3月21日初版発行、ISBN 4-06-321066-9 *# 1998年2月23日初版発行、ISBN 4-06-321081-2 *# 1999年2月22日初版発行、ISBN 4-06-321095-2 *# 2000年2月23日初版発行、ISBN 4-06-321110-X *# 2001年1月23日初版発行、ISBN 4-06-321120-7 *# 2002年3月22日初版発行、ISBN 4-06-321134-7 *# 2003年3月20日初版発行、ISBN 4-06-321147-9 *# 2004年3月23日初版発行、ISBN 4-06-321159-2 *# 2004年11月22日初版発行、ISBN 4-06-321165-7 *# 2005年7月22日初版発行、ISBN 4-06-321171-1 *# 2006年5月23日初版発行、ISBN 4-06-321176-2 * 『新装版 ヨコハマ買い出し紀行』全10巻 *# 2009年10月23日初版発行、ISBN 978-4-06-314588-5 *# 2009年10月23日初版発行、ISBN 978-4-06-314589-2 *# 2009年11月20日初版発行、ISBN 978-4-06-314593-9 *# 2009年12月22日初版発行、ISBN 978-4-06-310615-2 *# 2010年1月22日初版発行、ISBN 978-4-06-310618-3 *# 2010年2月23日初版発行、ISBN 978-4-06-310630-5 *# 2010年3月23日初版発行、ISBN 978-4-06-310644-2 *# 2010年4月23日初版発行、ISBN 978-4-06-310656-5 *# 2010年5月21日初版発行、ISBN 978-4-06-310661-9 *# 2010年7月7日初版発行、ISBN 978-4-06-310671-8 *#* 連載終了後の短編「峠」、作者による「あとがき」を収録。 === その他書籍 === * 『ポストカード・ブック ヨコハマ買い出し紀行』 1997年9月初版発行、ISBN 4-06-330041-2 * 『ヨコハマ買い出し紀行 2000年カレンダー』 1999年12月初版発行、ISBN 4-06-340126-X * 『ヨコハマ買い出し紀行 2001年カレンダー』 2001年1月初版発行、ISBN 4-06-340140-5 * 『ヨコハマ買い出し紀行 2002年カレンダー』 2001年11月初版発行、ISBN 4-06-340168-5 * 『ヨコハマ買い出し紀行 2003年カレンダー』 2002年11月初版発行、ISBN 4-06-340190-1 * 『ヨコハマ買い出し紀行 -芦奈野ひとし画集-』 2003年3月初版発行、ISBN 4-06-330196-6 * 『小説 ヨコハマ買い出し紀行 -見て、歩き、よろこぶ者-』 2008年10月初版発行、ISBN 978-4-06-373326-6 - [[香月照葉]]による小説版。芦奈野ひとしの短篇『峠』を収録。 === CD === * 『ヨコハマ買い出し紀行』(1996年2月) - [[FMラジオ]][[ラジオ番組|番組]]『[[HOLY Shine In Naked]](Shine in Naked)』内で放送された[[ラジオドラマ]]などを収録した[[ドラマCD]]。2002年10月に[[廉価版]]発売。 * 『ヨコハマ買い出し紀行 2』(1997年3月) - ドラマCDの第2弾。2002年10月に廉価版発売。 * 『ヨコハマ買い出し紀行 ベスト・サウンドトラックス』(1998年7月) - 1998年OVA版の[[サウンドトラック]]。[[ゴンチチ]]が作詞作曲を担当。2002年10月に廉価版発売。 * 『ヨコハマ買い出し紀行 3』(2002年12月) - ドラマCDの第3弾。新シリーズ。 * 『ヨコハマ買い出し紀行-Quiet Country Cafe-オリジナル・サウンド・トラック』(2003年1月) - 2003年OVA版のサウンドトラック。 == OVA == === 『ヨコハマ買い出し紀行』 === * 『ヨコハマ買い出し紀行 vol.1』(1998年3月・[[VHS]]および[[レーザーディスク|LD]]) * 『ヨコハマ買い出し紀行 vol.2』(1998年12月・VHSおよびLD) ** なお、2000年7月に『vol.1』『vol.2』をまとめて収録した[[DVD]]が発売されている。 ; スタッフ * 監督・絵コンテ・演出 - [[安濃高志]] * キャラクターデザイン・キャラクター監修 - 山形厚史 * 場面設計、作画監督 - [[関根昌之]] * 美術監督 - [[吉原俊一郎]] * 美術設定 - [[加藤浩]]、平澤晃弘 * 色彩設定 - 小針裕子 * 撮影監督 - 森下成一(1)、斎藤秋男(2) * 編集 - 坂本雅紀 * 音響監督 - [[溝口綾]] * 音楽プロデュース - [[ゴンチチ|GONTITI]] * プロデューサー - 加藤隆二、鈴木誠二、岡村雅裕 * アニメーション制作 - [[亜細亜堂]] * 製作 - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]] ; 主題歌 ; オープニングテーマ「Cafe Alpha」 : 作曲 - [[GONTITI]] ; エンディングテーマ「閉店時間」 : 作曲 - GONTITI ; 挿入歌「遠い町」(1) : 作詞・作曲 - GONTITI / 歌 - アルファ([[椎名へきる]]) ; 挿入歌「風が吹いていた」(2) : 作詞・作曲 - GONTITI / 歌 - アルファ(椎名へきる) === 『ヨコハマ買い出し紀行-Quiet Country Cafe-』 === * 『ヨコハマ買い出し紀行-Quiet Country Cafe- #1』(2002年12月・VHSおよびDVD) * 『ヨコハマ買い出し紀行-Quiet Country Cafe- #2』(2003年3月・VHSおよびDVD) ** こちらは1期とはかなり違う作風で作られている。 ; スタッフ * 監督・脚本・絵コンテ - [[望月智充]] * キャラクターデザイン、作画監督 - 関根昌之 * 場面設計 - [[柳田義明]](1)、[[藤森雅也]]、関根昌之(1)、[[小林治 (1945年生のアニメ演出家)|小林治]] * 美術監督 - [[小林七郎]] * 色彩設計 - 一瀬美代子 * 撮影監督 - 佐々木和宏 * 音楽 - [[Choro Club]](編曲 - [[岩崎琢]]) * 音楽・音響監督 - 児玉隆 * 録音監督 - [[はたしょう二|はたしょうじ]] * プロデューサー - 須藤奈穂美 * アニメーション制作 - 亜細亜堂 * 製作 - [[アニプレックス|SME・ビジュアルワークス]] ; 主題歌 ; エンディングテーマ「ふわふら」 : 歌 - アルファ(椎名へきる) / 作詞 - [[山田ひろし]] / 作曲 - [[岩崎琢]] / [[コーラス (ポピュラー音楽)|Cho]] - [[松浦有希]] / [[ギター|Guitar]] - 笹子重治(Choro Club) == 影響 == * 中国系アメリカ人[[小説家]]の[[ケン・リュウ]]のSF短編小説『もののあはれ』は、『ヨコハマ買い出し紀行』の影響を受け執筆された<ref>[http://www.lightspeedmagazine.com/nonfiction/author-spotlight-ken-liu-5/ Author Spotlight: Ken Liu]Lightspeed, June 2013</ref>。同作は、[[2013年]]度[[ヒューゴー賞 短編小説部門]]を受賞した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[月刊アフタヌーン]] * [[三浦半島]] * [[地球温暖化]] * [[縄文海進]] * [[月琴]] == 外部リンク == *[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000031796 講談社コミックプラス] - 講談社による作品紹介 * [https://www.sonymusicshop.jp/m/arti/artiItm.php?site=S&cd=EC000048&ima=1141 ヨコハマ買い出し紀行DVD公式HP] - [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]によるDVD作品紹介 {{亜細亜堂}} {{安濃高志監督作品}} {{望月智充監督作品}} {{星雲賞コミック部門|第38回}} {{デフォルトソート:よこはまかいたしきこう}} [[Category:漫画作品 よ|こはまかいたしきこう]] [[Category:1994年の漫画]] [[Category:月刊アフタヌーン]] [[Category:SF漫画作品]] [[Category:世界の終末が描かれた作品]] [[Category:横浜市を舞台とした漫画作品]] [[Category:横須賀市を舞台とした漫画作品]] [[Category:東京都を舞台とした漫画作品]] [[Category:ロボットを主人公とした漫画作品]] [[Category:アニメ作品 よ|こはまかいたしきこう]] [[Category:1998年のOVA]] [[Category:亜細亜堂]] [[Category:SMEJのアニメ作品]] [[Category:アニプレックスのアニメ作品]] [[Category:アフタヌーンKCのアニメ作品]] [[Category:横浜市を舞台としたアニメ作品]] [[Category:横須賀市を舞台としたアニメ作品]] [[Category:東京都を舞台としたアニメ作品]] [[Category:ロボットを主人公としたアニメ作品]] [[Category:星雲賞受賞作品]]
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証券取引所(しょうけんとりひきじょ、仏: Bourse、英: Stock exchange)は、主に株式や債券の売買取引を行うための施設であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。 日本においては、金融商品取引法上の「金融商品取引所」の免許を受けなければ証券取引所としての業務を行えない。(なお「証券取引所」とは言えない金融商品取引所(例:大阪取引所、東京金融取引所)も存在することからもわかるように、金融商品取引所は証券取引所を包含する概念となっている) 経済の発展に欠かせない資金調達と資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式および債券の需給を取引所に集中させ、流動性の向上と安定した価格形成を図ることがその主な役割である。 日本国内では元来は金融商品取引法(旧証券取引法)で認められた特別法人であったが、株式会社金融商品取引所への移行が進んでいる(→後述の#証券取引所の形態参照)。 なお、証券取引法の金融商品取引法への改正に伴い、日本では法律上「金融商品取引所」と規定されているが、名称又は商号に「取引所」という文字を用いなければならないとされるにとどまるため、各証券取引所においては、東京証券取引所との経営統合に伴い、デリバティブ取引専門取引所に転換した大阪取引所(旧大阪証券取引所)を除いて従来どおりの名称が2015年現在も利用されている。 株式および債券の購入や売却について、一般の投資家(個人投資家、取引所会員証券会社以外の機関投資家)が証券取引所で直接取引を行うことはできず、会員である証券会社を通じて取引を行う(委託売買)か、直接当事者間で取引を行う相対売買で取引することになる。 12世紀頃、フランスにおいて、銀行が代表して農村の債務を、取引し管理する「courratiers de change」と呼ばれるシステムが存在していた。そして、現在でいう株式仲介人(ブローカー)がこういった所で債権の取引きを行っていった。 欧米圏での「証券取引所」の語源であるフランス語の「Bourse」は、13世紀頃にラテン語で「鞄」を意味する「bursa」から派生して誕生したとも言われている。 13世紀中頃、イタリア(神聖ローマ帝国)では、ヴェネツィアの銀行員が政府の証券の取引きを行っていたことが知られており、他にはピサ、ヴェローナ、ジェノヴァ、フィレンツェ等でもそれぞれの政府の証券が取引きされていた。 神聖ローマ帝国の領邦にあった北ヨーロッパの貿易都市は12世紀初頭にハンザ同盟を結成した。その一つであるベルギーのブルッヘでは、証券取引業者らが13世紀後半頃に「Van der Beurze」と呼ばれる一族の家で集会を行っていたが、これが1309年に制度化され、「Bruges Bourse」が開催された。 この制度は近隣諸国に広がり、ヘントやアムステルダムなどヨーロッパ中で次々に「Bourse」が開かれていくようになり、「Bourse」は「証券取引所」を意味するようになった。13世紀末までにはリューベックがハンザ都市のリーダーとして認められるようになった。 14世紀にはハンザ同盟とデンマーク王国(ヴァルデマー4世)との戦争が勃発したが1370年にはシュトラルズントの和議が締結された。1388年にハンザ同盟はイングランド商人にも特権を与えるようになった。 1531年にはアントウェルペン証券取引所が世界で初めて証券取引所として建設されヨーロッパの貿易拠点として栄えた。ここでは商品それ自体よりもその受領書、さらに、為替手形、預金証書、各種の公債などの証書が取り引きされていた。 イングランド(エリザベス1世)は1565年、ロンドン王立取引所(当初の呼称は「ブルス」、フランス語: Bourse)を開いた。一方、フランシス・ドレークなどスペインなど他国の海上輸送を妨げる海賊も活動した。 株主に企業へ投資させて、その利益と損失を共有する株式会社のシステムはオランダから始まった。1602年にオランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で世界で最初の株券を発行し、有価証券を発行した世界初の会社となっている。 株式組織の取引所は、元々諸外国には存在せず、世界に先駆けて日本で特別に発達したが、太平洋戦争中に一時姿を消した。戦後に、株式組織の取引所が諸外国でみられるようになり、日本でも、再びみられるようになった。 戦時中までの日本における制度では、1875年の株式条例では、取引所の組織は株式会社と規定され、最初に設立した株式取引所が株式組織取引所であった。1887年5月、会員組織化を目的とする取引所条例(ブルース条例)が発布され、取引所は凡て会員組織で経営しなければいけないと定めたが、ブルース条例は、取引所側の猛烈な反対により間もなく廃止され、1893年に会員組織でも株式組織でもよいとする取引所法が発布された。 現在では、証券取引所は金融商品会員制法人(旧称:証券会員制法人)または株式会社でなければ開設できない(金融商品取引法に規定)。金融商品会員制法人とは、金融商品取引業者(証券会社など)を会員とする社団である。以前は全ての証券取引所が証券会員制法人であったが、2001年4月に大証、同年11月に東証、2002年4月に名証がそれぞれ株式会社に組織変更している。過去独立して存在していたジャスダックも株式会社形態であった。 また、近年は私設取引システム(PTS)による取引形態も現れてきた。私設取引システムは1998年12月施行の金融システム改革法で証券会社にその開設と運営が認められたもので、時間外取引市場(主に夜間)として機能している。 証券取引所では売買立会い時間が定められている。日本の場合、東京証券取引所等の現物立会は9時から15時まで行われる。そのうち9時から11時30分を「午前立会い」(前場)、12時30分から15時を「午後立会い」(後場)と称しており、その間は昼休みである。名古屋証券取引所・福岡証券取引所・札幌証券取引所では15時30分までとなっている。2008年の大納会及び2009年の大発会までは、大発会と大納会は前場のみで後場の立会いは行われなかった。取引の電子化により半日にする意義が薄れたため、2009年の大納会及び2010年の大発会から半日立会いを廃止し、前場・後場共に通常通り取引されている。 東京証券取引所の取引時間は、2011年11月20日までは、前場が9時から11時、後場が12時30分から15時であった。2010年11月10日、東京証券取引所は2011年のゴールデンウィーク明け(同年5月9日)から、同取引所の前場の時間帯を午前9時から11時30分に拡大、昼休みを実質30分短縮することを目指すと発表した。しかし2011年3月11日に発生した東日本大震災に伴う節電対策のため延期され、当初の予定から半年あまり経った2011年11月21日より実施された。 日本の場合、1989年1月までは土曜日(1983年8月以降の第2土曜日は全面休場、1972年頃〜1983年7月および1986年8月以降の第3土曜日は全面休場)にも前場のみ取り引きが行われたが、金融機関の完全週休二日制への移行に伴い、現在は毎週土曜日・日曜日・祝日・振替休日・12月31日〜1月3日は全面休場となっている。 天災・戦争・元首の死去等の国家的事態が発生した場合に、臨時に休場となる場合もある。日本では1989年1月7日の昭和天皇崩御や、1995年1月17日には阪神・淡路大震災のため大阪証券取引所のみ全日休場となったことがあった。 2001年のアメリカ同時多発テロ発生の際には、被害を受けたニューヨーク世界貿易センタービル(WTC)近在にあるニューヨーク証券取引所を含め、アメリカのすべての証券(金融)市場が数日間に渡り停止したことがある。 2018年9月6日、札幌証券取引所が北海道胆振東部地震の発生による大規模停電で終日取引を停止した。
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証券取引所は、主に株式や債券の売買取引を行うための施設であり、資本主義経済における中心的な役割を果たしている。 日本においては、金融商品取引法上の「金融商品取引所」の免許を受けなければ証券取引所としての業務を行えない。(なお「証券取引所」とは言えない金融商品取引所も存在することからもわかるように、金融商品取引所は証券取引所を包含する概念となっている)
{{金融市場}} [[ファイル:NYC NYSE.jpg|thumb|200px|[[アメリカ]]の[[ニューヨーク証券取引所]]。世界で最大かつ最も重要な証券取引所である。]] [[ファイル:The Tokyo Stock Exchange - main room 3.jpg|thumb|200px|[[日本]]の[[東京証券取引所]]の内部]] '''証券取引所'''(しょうけんとりひきじょ、{{Lang-fr-short|Bourse}}、{{Lang-en-short|Stock exchange}})は、主に[[株式]]や[[債券]]の売買取引を行うための[[施設]]であり、[[資本主義]]経済における中心的な役割を果たしている。 日本においては、[[金融商品取引法]]上の「'''[[金融商品取引所]]'''」の免許を受けなければ証券取引所としての業務を行えない。(なお「証券取引所」とは言えない金融商品取引所(例:[[大阪取引所]]、[[東京金融取引所]])も存在することからもわかるように、金融商品取引所は証券取引所を包含する概念となっている) == 概要 == 経済の発展に欠かせない資金調達と資本運用の双方が効率的に行われるようにするため、株式および債券の需給を[[取引所]]に集中させ、[[流動性 (経済学)|流動性]]の向上と安定した価格形成を図ることがその主な役割である。 日本国内では元来は金融商品取引法(旧証券取引法)で認められた特別法人であったが、株式会社金融商品取引所への移行が進んでいる(→後述の[[#証券取引所の形態]]参照)。 なお、証券取引法の金融商品取引法への改正に伴い、日本では法律上「金融商品取引所」と規定されているが、名称又は商号に「取引所」という文字を用いなければならないとされるにとどまるため、各証券取引所においては、[[東京証券取引所]]との経営統合に伴い、[[デリバティブ]]取引専門取引所に転換した[[大阪取引所]](旧[[大阪証券取引所]])を除いて従来どおりの名称が2015年現在も利用されている。 株式および債券の購入や売却について、<!--個人-->一般の[[投資家]](個人投資家、取引所会員証券会社以外の機関投資家)が証券取引所で直接取引を行うことはできず、会員である[[証券会社]]を通じて取引を行う(委託売買)か、直接当事者間で取引を行う相対売買で取引することになる。 == 歴史 == {{see also|取引所}} [[12世紀]]頃、[[フランス]]において、[[銀行]]が代表して農村の債務を、取引し管理する「courratiers de change」と呼ばれるシステムが存在していた。そして、現在でいう株式仲介人(ブローカー)がこういった所で債権の取引きを行っていった。 欧米圏での「証券取引所」の語源である[[フランス語]]の「Bourse」は、13世紀頃に[[ラテン語]]で「鞄」を意味する「bursa」から派生して誕生したとも言われている。 13世紀中頃、[[イタリア]]([[神聖ローマ帝国]])では、[[ヴェネツィア]]の銀行員が政府の[[証券]]の取引きを行っていたことが知られており、他には[[ピサ]]、[[ヴェローナ]]、[[ジェノヴァ]]、[[フィレンツェ]]等でもそれぞれの政府の証券が取引きされていた。 [[神聖ローマ帝国]]の領邦にあった北ヨーロッパの貿易都市は12世紀初頭に[[ハンザ同盟]]を結成した。その一つである[[ベルギー]]の[[ブルッヘ]]では、証券取引業者らが[[13世紀]]後半頃に「Van der Beurze」と呼ばれる一族の家で集会を行っていたが<ref>{{仮リンク|Van der Beurze|nl|Van_der_Beurze|preserve=1}}</ref>、これが[[1309年]]に制度化され、「Bruges Bourse」が開催された。 この制度は近隣諸国に広がり、[[ヘント]]や[[アムステルダム]]などヨーロッパ中で次々に「Bourse」が開かれていくようになり、「Bourse」は「証券取引所」を意味するようになった。13世紀末までには[[リューベック]]がハンザ都市のリーダーとして認められるようになった。 14世紀にはハンザ同盟と[[デンマーク王国]]([[ヴァルデマー4世]])との戦争が勃発したが1370年には[[シュトラルズントの和議_(1370年)|シュトラルズントの和議]]が締結された。1388年にハンザ同盟はイングランド商人にも特権を与えるようになった。 1531年には[[アントウェルペン証券取引所]]が世界で初めて証券取引所として建設されヨーロッパの貿易拠点として栄えた。ここでは商品それ自体よりもその受領書、さらに、為替手形、預金証書、各種の公債などの証書が取り引きされていた。 [[イングランド]]([[エリザベス・ステュアート|エリザベス1世]])は1565年、[[ロンドン王立取引所]](当初の呼称は「ブルス」、{{lang-fr|Bourse}})を開いた。一方、[[フランシス・ドレーク]]などスペインなど他国の海上輸送を妨げる[[海賊]]も活動した{{sfn|エイミー・バトラー・グリーンフィールド|2006|p=1}}。 [[株主]]に[[企業]]へ投資させて、その利益と損失を共有する[[株式会社]]のシステムは[[オランダ]]から始まった。[[1602年]]に[[オランダ東インド会社]]が[[アムステルダム証券取引所]]で世界で最初の[[株券]]を発行し、[[有価証券]]を発行した世界初の会社となっている。 株式組織の取引所は、元々諸外国には存在せず、世界に先駆けて日本で特別に発達したが、太平洋戦争中に一時姿を消した。戦後に、株式組織の取引所が諸外国でみられるようになり、日本でも、再びみられるようになった。 == 主要証券取引所 == {{main|証券取引所の一覧}} == 証券取引所の形態 == 戦時中までの日本における制度では、[[1875年]]の株式条例では、取引所の組織は株式会社と規定され、最初に設立した株式取引所が株式組織取引所であった。[[1887年]]5月、会員組織化を目的とする取引所条例(ブルース条例)が発布され、取引所は凡て会員組織で経営しなければいけないと定めたが、ブルース条例は、取引所側の猛烈な反対により間もなく廃止され、[[1893年]]に会員組織でも株式組織でもよいとする取引所法が発布された。 現在では、証券取引所は金融商品会員制法人(旧称:証券会員制法人)または[[株式会社]]でなければ開設できない([[金融商品取引法]]に規定)。金融商品会員制法人とは、[[金融商品取引業者]](証券会社など)を会員とする社団である。以前は全ての証券取引所が証券会員制法人であったが、[[2001年]]4月に大証、同年11月に東証、[[2002年]]4月に名証がそれぞれ株式会社に組織変更している。過去独立して存在していたジャスダックも株式会社形態であった。 また、近年は[[私設取引システム|私設取引システム(PTS)]]による取引形態も現れてきた。私設取引システムは[[1998年]]12月施行の金融システム改革法で証券会社にその開設と運営が認められたもので、時間外取引市場(主に夜間)として機能している。 == 売買立会い時間 == 証券取引所では売買立会い時間が定められている。日本の場合、[[東京証券取引所]]等の現物立会は9時から15時まで行われる。そのうち9時から11時30分を「午前立会い」(前場)、12時30分から15時を「午後立会い」(後場)と称しており、その間は昼休みである。[[名古屋証券取引所]]・[[福岡証券取引所]]・[[札幌証券取引所]]では15時30分までとなっている。[[2008年]]の大納会及び[[2009年]]の大発会までは、[[大発会・大納会|大発会]]と[[大発会・大納会|大納会]]は前場のみで後場の立会いは行われなかった。取引の電子化により半日にする意義が薄れたため、[[2009年]]の大納会及び[[2010年]]の大発会から半日立会いを廃止し、前場・後場共に通常通り取引されている。 東京証券取引所の取引時間は、[[2011年]][[11月20日]]までは、前場が9時から11時、後場が12時30分から15時であった<ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/trading/domestic/tvdivq0000006blj-att/tvdivq000000twr8.pdf 東京証券取引所売買立会時間の変遷][https://www.jpx.co.jp/equities/trading/domestic/tvdivq0000006blj-att/tvdivq000000twr8.pdf pdf]</ref>。2010年[[11月10日]]、東京証券取引所は[[2011年]]の[[ゴールデンウィーク]]明け(同年[[5月9日]])から、同取引所の前場の時間帯を午前9時から11時30分に拡大、昼休みを実質30分短縮することを目指すと発表した<ref>{{Cite news |title=東証、昼休み30分短縮へ=5月連休明けの実施目指す |newspaper=時事通信社 |date=2010-11-10 |url=http://www.jiji.com/jc/zc?k=201011/2010111000508 |accessdate=2011-02-15}}</ref>。しかし2011年3月11日に発生した[[東日本大震災]]に伴う[[節電]]対策のため延期され<ref>[http://www.tse.or.jp/news/20/110408_a.html 東京証券取引所 2011年4月8日発表]</ref>、当初の予定から半年あまり経った2011年11月21日より実施された<ref>[http://www.tse.or.jp/news/20/111119_c.html 東京証券取引所 2011年11月19日発表][http://www.tse.or.jp/news/20/b7gje60000024di1-att/20111119_leaflet(TradingHours).pdf pdf]</ref>。 == 休業日 == 日本の場合、[[1989年]]1月までは土曜日([[1983年]]8月以降の第2土曜日は全面休場、[[1972年]]頃〜[[1983年]]7月および[[1986年]]8月以降の第3土曜日は全面休場)にも前場のみ取り引きが行われたが、[[金融機関]]の完全[[週休二日制]]への移行に伴い、現在は毎週土曜日・日曜日・[[祝日]]・振替休日・12月31日〜1月3日は全面休場となっている。 天災・戦争・元首の死去等の国家的事態が発生した場合に、臨時に休場となる場合もある。日本では1989年[[1月7日]]の[[昭和天皇]]崩御や、[[1995年]][[1月17日]]には[[阪神・淡路大震災]]のため大阪証券取引所のみ全日休場となったことがあった。 [[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ]]発生の際には、被害を受けた[[ニューヨーク世界貿易センタービル]](WTC)近在にあるニューヨーク証券取引所を含め、アメリカのすべての証券(金融)市場が数日間に渡り停止したことがある。 [[2018年]]9月6日、[[札幌証券取引所]]が[[北海道胆振東部地震]]の発生による大規模停電で終日取引を停止した。 == 証券取引所の一覧 == * [[証券取引所の一覧]]([[南アジアの証券取引所の一覧]]、[[アフリカの証券取引所の一覧]]) * [[証券取引所がない国の一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=エイミー・バトラー・グリーンフィールド| translator= {{Anchors|佐藤桂}}佐藤桂| title=完璧な赤 -「欲望の色」をめぐる帝国と密偵と大航海の物語| page=| publisher=| location =| year=2006| isbn=| ref=harv}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Stock exchanges}} * [[競売]] * [[資本市場]] * [[w:List of commodities exchanges|Commodities exchange]] * [[w:Financial regulation|Financial regulation]] * [[証券監督者国際機構]] * [[株主]] * [[w:Stag profit|Stag profit]] * [[w:Stock exchanges of small economies|Stock exchanges for developing countries]] * [[w:Stock trader|Stock investor]] * [[証券市場]] * [[w:Stock market data systems|Stock market data systems]] * [[:fr:Histoire des bourses de valeurs|Histoire des bourses de valeurs]] (フランス語) * [[大発会・大納会]] '''一覧:''' * [[w:List of stock market indices|List of stock market indices]] * [[w:List of financial regulatory authorities by country|List of financial regulatory authorities by country]] * [[w:List of Swiss financial market legislation|List of Swiss financial market legislation]] {{証券取引所}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:しようけんとりひきしよ}} [[Category:証券取引所|*しようけんとりひきしよ]] [[Category:証券市場]]
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株式
株式(かぶしき)とは、株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)や権利のことである(通説)。 「株式」という日本語は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益権を意味する「式(職)」という語に、その沿革を有する。 英語では見方により呼称が異なる。証券としてはストック(stock)といい、株式会社等の自己資本はエクイティ(equity)という。 通説である社員権説では、株式は株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)をいうとされている。株式会社の所有と経営の分離や株式の債権化に伴い、社員権否認説、株式債権説、株式会社財団説なども唱えられているが、共益権を事実上行使しない株主であっても株式そのものが変質しているわけではないとの指摘がある。 株式を表章する有価証券が発行されることがあり、これを株券という。 世界初の株式会社は1602年に設立されたオランダ東インド会社といわれている。株式は会社に対する権利全体を均等に分けるとともに、多額の出資を行った者には複数の株式の所有を認めることで、権利関係の処理の簡便化と流通の利便を図り大規模な事業での資本の調達を可能にする点に特質がある。 例えば日本の会社の形態には株式会社と持分会社があるが、持分会社における社員権である持分は、各社員の出資額などに応じて不均一な形態をとり得るのに対して、株式は、種類ごとに均一に細分化された割合的な構成単位をとる点に特徴がある。ただし、額面株式(一株の価値が券面額等で表示されている株式)を採用している制度では必ずしも持分均一主義をとらなければならないわけではなく、ドイツでは持分不均一主義がとられている。 もともと株式には額面株式しかなく株式の金額は資本の構成分子を意味したが無額面株式の登場により大きく変容している。無額面株式はアメリカのニューヨーク州で初めて発行が認められた。日本の現行の会社法は無額面株式のみとしており、資本と株式の相関関係は失われ(資本と株式の関係の切断)、株式に資本の構成単位としての意味はなくなっている。 株式会社は、事業で得た利益の一部を原則として出資比率に応じて配当という形で株主に分配する。事業が赤字の場合には無配になる可能性がある。また、廃業したり、経営が破綻して倒産した場合には株式の価値がゼロになることもある。しかし、株主の責任は有限責任であり、会社に多額の債務が残っても株主は出資額以上の損失を被ることはない。一方で、会社を解散した場合、債務をすべて履行してなお資産が残れば、その資産の所有権は株主にあり、原則として出資比率に応じて分配する。 株式の売買取引の際に付けられる価格が株価である。株式の所有によって得られる利益(配当等)を配当収益(インカムゲイン)といい、株式の売買によって得られる利益を売買収益(キャピタルゲイン)という。 会社に対して権利を行使する際に株主名簿上に株式を取得した者の氏名や住所を記載することを要する株式を記名株式、このような記載を必要としない株式(株券の提供・供託や口座簿の振替によらさるもの)を無記名株式という。 日本では2004年の法改正まで株式会社は株券の発行が義務づけられており、1990年以前は記名株式と無記名株式の両方があったがいずれも株券の交付だけで株式の譲渡は可能とされていた。日本の現行法では株券は発行しないことが原則となっており(会社法第214条)、会社と株主の関係は株券の発行の有無を問わず株主名簿の記録によって決することとしており全て記名株式である(会社法第130条)。振替株式については株主名簿の名義書換に関する会社法の特例を定める社債、株式等の振替に関する法律の適用を受ける。なお、日本の会社法では株券を発行している会社でも株式の譲渡に裏書は必要とされておらず、株券上には株主の氏名や住所は記載されない。 ドイツには株主名簿制度がなく無記名株式であり、フランスでも無記名株式である。 定款に1株の金額(券面額)の記載があり、それが株券に表示されてある株式を額面株式といい、株券に券面額の記載がない株式を無額面株式という。無額面株式は1915年にニューヨーク州が初めて発行を認めた。 額面株式とともに無額面株式を認めている国にはドイツやフランスがある。 日本では1899年の商法で額面株式のみを認め、1950年の改正商法で無額面株式を導入した。2001年の改正商法により日本では額面株式を完全に廃止して無額面株式に一本化したが、これは主要国では他に例をみない。 一方、イギリスでは特殊な企業形態を除いて無額面株式を発行することは認められていない。 会社の利益の配当や残余財産の分配に際して普通株に優先する株式を優先株、普通株に劣後する株式を劣後株(後配株)という。 日本の会社法では、すべての株式の内容として特別な内容の株式を発行することや(会社法107条)、権利の内容が異なる2種類以上の株式を発行すること(種類株式、会社法108条)が認められている。 株式会社は発行する全部の株式の内容として次の内容を定めることができる(会社法第107条)。 これらは種類株式として設定することもできるが、定款に定められたすべての株式が均一な内容である場合には種類株式ではない。 また、株式会社は次に掲げる事項について内容の異なる二以上の種類の株式を発行することができる(会社法第108条)。 アメリカの模範会社法には優先株や無議決権株式の規定がある。 優先株(Preferred Shares)は利益配当や会社資産の分配のいずれかもしくは両方で普通株に優先する株式である。 無議決権株式(Non-Voting Shares)については多くの州で議決権を有する株式を一種類に限定するか議決権を有しない株式を一種類に限って定めることができるとしている。 株式の発行は、原則として、会社が株主になろうとする者を募集し、申込みを行った者の全部または一部に対して株式を割り当て、これらの者と引受契約を締結する。株式を引き受けた株式引受人は払込義務を生じる。株式引受人は会社設立の場合は会社成立時、新株発行の場合はその効力発生時に株主となる。 人々は収益の分配を条件に資本の提供(投資)を勧誘されても、いつでも容易に資本を回収できる手段がない限り投資には応じにくい。株式会社制度では資本の回収を株式の譲渡によって行うことができる。 会社が特定の株式を消滅させる行為を株式の消却という。日本では会社法の制定までは株主が保有する株式を株主が保有したまま消却する強制消却制度があったが、会社法では消却できるのは自己株式のみとなった(株主が保有する株式については取得条項付株式などとすることで会社が株式を取得した上で消却する)。
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株式(かぶしき)とは、株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)や権利のことである(通説)。 「株式」という日本語は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「株」と、中世における土地収益権を意味する「式(職)」という語に、その沿革を有する。 英語では見方により呼称が異なる。証券としてはストック(stock)といい、株式会社等の自己資本はエクイティ(equity)という。
'''株式'''(かぶしき)とは、[[株式会社]]の構成員(社員=[[株主]])としての地位([[社員権]])や権利のことである(通説)<ref name="textbook39">末永敏和 編著『テキストブック新「会社法」』中央経済社、2005年、39頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A0%AA%E5%BC%8F-2414|title=株式(かぶしき)とは|publisher= コトバンク|accessdate=2019-11-23}}</ref>。 「株式」という日本語は、独占営業の権を許された集団の成員という意味の「[[株仲間|株]]」と、中世における土地収益権を意味する「式([[職の体系|職]])」という語に、その沿革を有する<ref>大久保治男、茂野隆晴『日本法制史(第7版)』(高文堂出版社、1997)243頁</ref>。 英語では見方により呼称が異なる。証券としてはストック(stock)といい、[[株式会社]]等の[[自己資本]]は[[エクイティ]](equity)という。 [[File:Greyhound stock certificate.jpg|thumb|[[1936年]]に発行された[[米国]][[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド・ラインズ]]の株式を保有する権利を与える[[株券]]]] == 概説 == === 法的地位 === 通説である[[社員権]]説では、株式は株式会社の構成員(社員=株主)としての地位(社員権)をいうとされている<ref name="textbook39" />。株式会社の[[所有と経営の分離]]や株式の債権化に伴い、社員権否認説、株式債権説、株式会社財団説なども唱えられているが、[[共益権]]を事実上行使しない株主であっても株式そのものが変質しているわけではないとの指摘がある<ref>末永敏和 編著『テキストブック新「会社法」』中央経済社、2005年、39-40頁</ref>。 株式を表章する[[有価証券]]が発行されることがあり、これを[[株券]]という。 世界初の株式会社は[[1602年]]に設立された[[オランダ東インド会社]]といわれている<ref name="tatsuta7">龍田節、前田雅弘『会社法大要 第2版』有斐閣、2017年、7頁以下</ref>。株式は会社に対する権利全体を均等に分けるとともに、多額の出資を行った者には複数の株式の所有を認めることで、権利関係の処理の簡便化と流通の利便を図り大規模な事業での資本の調達を可能にする点に特質がある<ref name="tatsuta7" />。 ; 持分均一主義 : 株式は均一な大きさに分けられた割合的単位となっていることを'''持分均一主義'''という<ref name="tatsuta7" /><ref name="egashira117" />。株主が所有する株式を勝手に細分化することはできない(一株を数人で共有することはできる)<ref name="egashira117">江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、117頁</ref>。 ; 持分複数主義 : 各株主が複数の株式を所有できることを'''持分複数主義'''という<ref name="egashira117" /> 例えば日本の会社の形態には株式会社と持分会社があるが、持分会社における社員権である持分は、各[[社員]]の出資額などに応じて不均一な形態をとり得るのに対して、株式は、種類ごとに均一に細分化された割合的な構成単位をとる点に特徴がある<ref>伊藤他(2009)63頁、神田(2016)65頁</ref>。ただし、額面株式(一株の価値が券面額等で表示されている株式)を採用している制度では必ずしも持分均一主義をとらなければならないわけではなく<ref>江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、118頁</ref>、ドイツでは持分不均一主義がとられている<ref name="egashira121">江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、121頁</ref>。 もともと株式には額面株式しかなく株式の金額は資本の構成分子を意味したが無額面株式の登場により大きく変容している<ref name="toyo1">東洋信託銀行証券代行部編 『株式実務ハンドブック』商事法務研究会、1990年、1頁</ref><ref name="robert120">ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、120頁</ref>。無額面株式はアメリカの[[ニューヨーク州]]で初めて発行が認められた<ref name="robert120" />。日本の現行の会社法は無額面株式のみとしており、[[資本]]と株式の相関関係は失われ(資本と株式の関係の切断)、株式に資本の構成単位としての意味はなくなっている<ref>末永敏和 編著『テキストブック新「会社法」』中央経済社、2005年、41頁</ref>。 === 経済的地位 === 株式会社は、事業で得た[[利益]]の一部を原則として出資比率に応じて[[配当]]という形で[[株主]]に分配する。事業が[[黒字と赤字|赤字]]の場合には無配になる可能性がある。また、廃業したり、経営が破綻して[[倒産]]した場合には株式の価値がゼロになることもある。しかし、株主の責任は[[有限責任]]であり、会社に多額の[[債務]]が残っても株主は出資額以上の損失を被ることはない。一方で、会社を[[解散]]した場合、債務をすべて履行してなお資産が残れば、その資産の所有権は株主にあり、原則として出資比率に応じて分配する。 株式の売買取引の際に付けられる価格が[[株価]]である。株式の所有によって得られる利益(配当等)を配当収益(インカムゲイン)といい、株式の売買によって得られる利益を売買収益([[キャピタルゲイン]])という<ref>杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、106頁</ref>。 == 株式の内容と種類 == === 株式の態様 === ==== 記名株式・無記名株式 ==== 会社に対して権利を行使する際に[[株主名簿]]上に株式を取得した者の氏名や住所を記載することを要する株式を'''記名株式'''、このような記載を必要としない株式(株券の提供・供託や口座簿の振替によらさるもの)を'''無記名株式'''という<ref>東洋信託銀行証券代行部編 『株式実務ハンドブック』商事法務研究会、1990年、4頁</ref><ref>江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、166-170頁</ref>。 日本では2004年の法改正まで株式会社は株券の発行が義務づけられており、1990年以前は記名株式と無記名株式の両方があったがいずれも株券の交付だけで株式の譲渡は可能とされていた<ref name="tatsuta246-247">龍田節、前田雅弘『会社法大要 第2版』有斐閣、2017年、246-247頁</ref>。日本の現行法では株券は発行しないことが原則となっており(会社法第214条)、会社と株主の関係は株券の発行の有無を問わず株主名簿の記録によって決することとしており全て記名株式である(会社法第130条)<ref name="tatsuta246-247" />。振替株式については株主名簿の名義書換に関する会社法の特例を定める[[社債、株式等の振替に関する法律]]の適用を受ける。なお、日本の会社法では株券を発行している会社でも株式の譲渡に裏書は必要とされておらず、株券上には株主の氏名や住所は記載されない<ref>龍田節、前田雅弘『会社法大要 第2版』有斐閣、2017年、247頁</ref>。 ドイツには株主名簿制度がなく無記名株式であり、フランスでも無記名株式である<ref>江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、170頁</ref>。 ==== 額面株式・無額面株式 ==== 定款に1株の金額(券面額)の記載があり、それが株券に表示されてある株式を'''額面株式'''といい、株券に券面額の記載がない株式を'''無額面株式'''という<ref>神田(2016)65頁</ref>。無額面株式は[[1915年]]に[[ニューヨーク州]]が初めて発行を認めた<ref name="robert120" />。 額面株式とともに無額面株式を認めている国にはドイツやフランスがある<ref name="egashira121" />。 日本では1899年の商法で額面株式のみを認め、1950年の改正商法で無額面株式を導入した<ref name="tatsuta7"/>。[[2001年]]の改正商法により日本では額面株式を完全に廃止して無額面株式に一本化したが、これは主要国では他に例をみない<ref>龍田節、前田雅弘『会社法大要 第2版』有斐閣、2017年、237頁</ref>。 一方、イギリスでは特殊な企業形態を除いて無額面株式を発行することは認められていない<ref name="egashira121" />。 ==== 優先株・劣後株・普通株 ==== 会社の利益の配当や残余財産の分配に際して普通株に優先する株式を'''優先株'''<ref>東洋信託銀行証券代行部編 『株式実務ハンドブック』商事法務研究会、1990年、9頁</ref>、普通株に劣後する株式を'''劣後株'''(後配株)という<ref>東洋信託銀行証券代行部編 『株式実務ハンドブック』商事法務研究会、1990年、11頁</ref>。 === 日本法での株式の内容 === 日本の会社法では、すべての株式の内容として特別な内容の株式を発行することや([[b:会社法第107条|会社法107条]])<ref name="kanda71" />、権利の内容が異なる2種類以上の株式を発行すること(種類株式、[[b:会社法第108条|会社法108条]])が認められている<ref name="kanda71">神田秀樹『法律学講座双書 会社法 第18版』弘文堂、2016年、71頁</ref>。 株式会社は発行する全部の株式の内容として次の内容を定めることができる(会社法第107条)。 # 譲渡制限株式 # 取得条項付株式 # 取得請求権付株式 これらは種類株式として設定することもできるが、定款に定められたすべての株式が均一な内容である場合には種類株式ではない<ref>江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、133頁</ref>。 また、株式会社は次に掲げる事項について内容の異なる二以上の種類の株式を発行することができる(会社法第108条)。 # [[剰余金]]配当優先株式(または劣後株式) # [[残余財産分配請求権|残余財産分配]]優先株式(または劣後株式) # 議決権制限株式 # 譲渡制限株式 # 取得請求権付株式 # 取得条項付株式 # 全部取得条項付種類株式 # 拒否権付種類株式 # 取締役・監査役選任権付種類株式 {{See also|種類株式}} === 米国法での株式の内容 === アメリカの模範会社法には優先株や無議決権株式の規定がある。 優先株(Preferred Shares)は利益配当や会社資産の分配のいずれかもしくは両方で普通株に優先する株式である<ref>ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、135頁</ref>。 無議決権株式(Non-Voting Shares)については多くの州で議決権を有する株式を一種類に限定するか議決権を有しない株式を一種類に限って定めることができるとしている<ref>ロバート・W・ハミルトン『アメリカ会社法』木鐸社、1999年、140頁</ref>。 == 株式の発行‐株式の消却 == === 株式の発行 === 株式の発行は、原則として、会社が株主になろうとする者を募集し、申込みを行った者の全部または一部に対して株式を割り当て、これらの者と引受契約を締結する<ref name="tatsuta213">龍田節、前田雅弘『会社法大要 第2版』有斐閣、2017年、213頁</ref>。株式を引き受けた株式引受人は払込義務を生じる<ref name="tatsuta213" />。株式引受人は会社設立の場合は会社成立時、新株発行の場合はその効力発生時に株主となる<ref name="tatsuta213" />。 {{Main2|日本の会社法における募集株式の発行|募集株式}} === 株式の譲渡 === 人々は収益の分配を条件に資本の提供(投資)を勧誘されても、いつでも容易に資本を回収できる手段がない限り投資には応じにくい<ref name="sugie79">杉江雅彦ほか『証券論25講』晃洋書房、1989年、79頁</ref>。株式会社制度では資本の回収を株式の譲渡によって行うことができる<ref name="sugie79" />。 === 株式の消却 === 会社が特定の株式を消滅させる行為を株式の消却という<ref name="egashira258">江頭憲治郎『株式会社法 第4版』有斐閣、2011年、258頁</ref>。日本では会社法の制定までは株主が保有する株式を株主が保有したまま消却する強制消却制度があったが、会社法では消却できるのは自己株式のみとなった(株主が保有する株式については取得条項付株式などとすることで会社が株式を取得した上で消却する)<ref name="egashira258" />。 ==関連法律== * [[株券等の保管及び振替に関する法律]](証券保管振替制度) * [[社債、株式等の振替に関する法律]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * 伊藤靖史・大杉謙一・[[田中亘]]・[[松井秀征]](2009)『会社法』[[有斐閣]] * [[神田秀樹]](2016)『会社法〔第18版〕』[[弘文堂]] == 関連項目 == {{関連項目過剰|date=2020年5月}} {{Div col|colwidth=30em}} * [[株式分割|株式無償割当て]] * [[株式買取請求権]] * [[株式の持ち合い]] * [[株式公開買い付け]](TOB) * [[株式相場]] * [[株式の希薄化]] * [[株式市場]] * [[株式譲渡自由の原則]] * [[株式併合]] * [[株式分割]] * [[自己株式]] * [[発行可能株式総数]] * [[投資顧問会社]] * [[単位株]] * [[単元株]] * [[第三者割当増資]] * [[新株引受権]] * [[新株予約権]] * [[ストックオプション]] ** [[ESOP]] * [[トラッキング・ストック]] * [[株主総会]] * [[株主代表訴訟]] * [[M&A]] * [[株主優待]] * [[権利確定日]] * [[権利落ち日]] * [[持株会]] * [[ジョイント・ストック・カンパニー]] * [[罫線表]] * [[エリオット波動]] * [[PIPE]] * [[相場師]] * [[仕手]] * [[材料株]] * {{ill2|セル・イン・メイ|en|Sell in May}} {{Div col end}} == 外部リンク == {{Wikibooks|株式}} * [https://www.jpx.co.jp/ 日本取引所グループ] * [https://www.nta.go.jp/law/shitsugi/shotoku/02/02.htm 外貨建取引による株式の譲渡による所得] {{Normdaten}} {{証券取引所}} {{DEFAULTSORT:かふしき}} [[Category:日本の株式会社法]] [[Category:株式市場]] [[Category:株式会社]]
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株主
株主(、英: shareholder、stockholder)とは、株式会社の出資者。株主名簿に記名されている個人・法人のこと。持ち株数に応じた権利(株主権)を有するが、同時に有する株式の引き受け価額を限度とする有限責任を持つ。 株主とは、株式会社の株式を保有する者(自然人・法人)のことであり、その結果株主は、その会社があげた利益の一部を受け取ったり、その会社がどのように運営されるかに関して投票(議決)する権利を得ることになる。 さまざまな分類法がある。 ひとつには コモン・シェアホルダー と プリファード・シェアホルダー による分類法がある。 マジョリティ・シェアホルダー は、当該会社の株式の50%より多く所有している株主(日本語の「以上」という用語はくせもので「50%以上」と表現すると50%も含まれてしまうので、しばしば便宜上「51%以上」などと表現する) 。あくまでその会社の議決権の過半数を支配しており、実質上のその会社の(株主や経営者の中では)支配的な存在となる。日本語で「過半数株主」とも。 株主にはさまざまな権利が認められている。 その権利は、おおまかには「キャッシュフロー権」(キャッシュフローに関する権利)と議決権 に分類されている。 米国法でも株主に利益配当請求権や議決権などが認められている。 株式会社は持分会社と異なり、発起人以外の株主(社員)の氏名は定款に記載しない。株式会社は、株主名簿を作成し、株主の氏名又は名称及び住所、株主の有する株式の数、株主が株式を取得した日などを記載し、又は記録しなければならない(121条)。 株主名簿に記載されていることが会社に対して株主の権利を主張するために必要であるが、名義の書き換えを失念したとしても株主としての地位を失うわけではない。 株式会社が株主に対してする通知又は催告は、株主名簿に記載し、又は記録した当該株主の住所(当該株主が別に通知又は催告を受ける場所又は連絡先を当該株式会社に通知した場合にあっては、その場所又は連絡先)にあてて発すれば足りる(126条)。 株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない(106条)。 株主は株主平等の原則(109条)により、原則として、持ち株数に応じた権利を有する。 株主権(株主の権利)は学問上、その性質に応じて自益権(直接的な経済的利益の享受を目的とする権利)と共益権(会社経営への参画を目的とする権利で、いわゆる経営参加権)に分類される。自益権はそのすべてが一株でももっていれば行使できる「単独株主権」であるが、共益権には一定数以上の株式を保有している株主でなければ行使できない少数株主権もある。会社法においては株主の権利については、105条その他に規定がある。 株主の責任は、その有する株式の引受価額を限度とする(104条)。 「所有と経営の分離」の原則から、株主は会社の経営から概念上分離される。出資者である株主は、株式を購入するために出資をした金額を超えた責任は負わない。更なる負担を求められることもない。これを「株主有限責任の原則」という。
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株主(かぶぬし、とは、株式会社の出資者。株主名簿に記名されている個人・法人のこと。持ち株数に応じた権利を有するが、同時に有する株式の引き受け価額を限度とする有限責任を持つ。
{{加筆|欧州における株主|date=2019年10月}} {{複数の問題 | 独自研究 = 2019年10月6日 (日) 16:33 (UTC) | 出典の明記 = 2019年10月6日 (日) 16:33 (UTC) }} {{読み仮名|'''株主'''|かぶぬし|{{Lang-en-short|shareholder}}、{{lang|en|stockholder}}}}とは、[[株式会社]]の出資者。株主名簿に記名されている[[個人]]・[[法人]]のこと。持ち株数に応じた[[権利]]([[株主権]])を有するが、同時に有する株式の引き受け価額を限度とする[[有限責任]]を持つ<ref name="kotobank">{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A0%AA%E4%B8%BB-2429|title=コトバンク|accessdate=2020-7-15}}</ref>。 == 概説 == 株主とは、[[株式会社]]の[[株式]]を保有する者([[自然人]]・[[法人]])のことであり、その結果株主は、その会社があげた[[利益]]の一部を受け取ったり、その会社がどのように運営されるかに関して[[投票]](議決)する権利を得ることになる<ref>[https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/shareholder Cambridge Dictionary]</ref>。 == 分類・種類 == さまざまな分類法がある。 ひとつには '''コモン・シェアホルダー'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|common shareholders}}</ref> と '''プリファード・シェアホルダー'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|preferred shareholders}}</ref> による分類法がある。 '''マジョリティ・シェアホルダー'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|majority shareholder}}</ref> は、当該会社の株式の50%より多く所有している株主<ref>[https://www.investopedia.com/terms/m/majorityshareholder.asp Majority Shareholder] Investopedia 2021年10月6日閲覧。</ref>(日本語の「以上」という用語はくせもので「50%以上」と表現すると50%も含まれてしまうので、しばしば便宜上「51%以上」などと表現する) 。あくまでその会社の議決権の過半数を支配しており、実質上のその会社の(株主や経営者の中では)支配的な存在となる<ref>[https://business.bengo4.com/practices/432 会社支配に必要な株式数は何%か] 2021年03月11日更新 2021年10月6日閲覧。</ref><ref group="注釈">あくまで株主の中での支配者や取締役会に対する支配者、という意味。会社というのは[[ステークホルダー]]は多種類いて、互いに支えあったり影響を与えあったりする関係にある。その中で[[顧客]]の力は大きく、もしも顧客の大半にそっぽをむかれると、売上が激減し、大抵の会社は立ち行かなくなり、顧客の意向に背いた経営は長期的にはやりつづけられないので、広い意味では、顧客群(お客様)が会社の(間接的だが、最大級の)支配者となっている。またマジョリティ・シェアホルダーが問題含みの判断をしすぎると、ステークホルダーの一種である[[従業員]]も団結して、経営者や大株主に異議を唱えることもあり、全ての従業員が業務をボイコットすれば、(マジョリティ・シェアホルダーがどれだけ議決権があることを振りかざしても、せいぜい一部の従業員を選択的に解雇して、逆に提訴され長期裁判になったり泥沼に陥るなどするばかりで)しばしば結局その会社の健全な経営は続けられなくなる。マジョリティ・シェアホルダーだからといって、何もかもが思い通り、というわけではない。</ref>。日本語で「過半数株主」とも。 === 金融上の株主の分類 === ;'''大株主''' :持ち株比率の高い株主のこと。厳密な定義はない。 ;'''筆頭株主''' :持ち株比率が一番高い株主のこと。一般的には[[親会社]]や創業者一族(※創業者同族による資産管理会社および関連企業)や資本提携の企業、[[メインバンク制|主力取引銀行]](メインバンク)や[[機関投資家]]などが筆頭株主となることが多い。 ;'''法人株主''' : 株主のうち、各種法人・会社企業等の株主。なお、厳密には法定上での組合(※[[組合]]の項を参照)は法人格を有しないため、法人株主に該当しない。 ;'''安定株主''' : 企業の業績や株価の変動などに左右されず、長期的に株式を保有する株主。厳密な定義はない。一般的には親会社や創業者一族・従業員持株会、[[金融機関]]や取引先など。 ;'''浮動株主''' : 業績や株価に反応し、短期で株式を売却すると思われる株主。厳密な定義はない。なお、[[東証株価指数|TOPIX]]浮動株比率では、発行済み株式総数から固定株を除いた株式を浮動株と定義しており、この場合、固定株とは大株主上位10位の保有株(但し、預託機関等の保有株のうち公表資料から浮動株と判断できる株式は浮動株として扱う)、[[自己株式]]等、役員等の保有株等をいう。 ;'''外国人株主''' : [[外国]]に居住地を有する個人・法人の株主。欧州の人々から見れば、米国や中国や日本の株主は外国人株主であり、米国から見れば欧州や中国や日本の株主は外国人株主である<ref group="注釈">日本に限った話をすると、大多数の株式公開会社において、[[定款]]又は株式取扱規則で、日本国内に[[常任代理人]]を置くべき旨を定めており、株主総会招集通知の送達、配当金の支払いは、常任代理人(ほとんどは、海外業務を行っている都市銀行か外国銀行又は外国証券会社の東京支店)に対してなされる。<br>また、一般的に株主名簿における名義人となっている外国法人は、[[カストディアン]]又は[[グローバル・カストディアン]]と呼ばれる金融機関であり、真の株主の委託を受けて事務を代行しているだけである。この場合、真の株主は国外の[[ミューチュアル・ファンド]]等の機関投資家である。<br>なお、海外市場に上場している場合は[[米国預託証券|ADR]]等預託証券の預託会社が名義上の株主となっている場合が多い。</ref>。 ;'''[[機関投資家]]''' : 株式への投資により利益を得ることを業とする法人を言うが、より限定的には、自己資金ではなく、信託された[[投資信託]]、[[年金]]資金など莫大な投資資金を運用する投資家を言う。一般には、銀行を含む[[株式持ち合い]]企業は、機関投資家とは言わない。 ;'''マスタートラスト''' : 従来、投資信託・年金等の信託財産について、[[信託銀行]]及び[[生命保険|生命保険会社]]は自己の名義で保有していたが、資産の保管・管理機能の統合によるコスト削減を目的として複数の金融機関が出資し、信託銀行を設立。それらの株式をすべて名義上譲渡しているため大株主に見えるが、議決権の行使は預託している年金基金等がマスタートラストを通じ間接的に行っている<ref group="注釈">日本に限った話をすると、代表的なマスタートラスとしては [[日本マスタートラスト信託銀行]](主要株主:[[三菱UFJ信託銀行]]、[[日本生命保険]]、[[明治安田生命保険]]、[[ドイツ銀行]])<br>[[日本トラスティ・サービス信託銀行]](主要株主:[[三井住友トラスト・ホールディングス]]、[[りそな銀行]])<br>[[資産管理サービス信託銀行]](主要株主:[[みずほフィナンシャルグループ]]、[[第一生命保険]]、[[朝日生命保険]]、[[明治安田生命保険]]、[[富国生命保険]])などがある。</ref>。 ;'''社員株主制度''' :(ほぼ)日本における株式会社独自の制度で、会社の従業員のみで出資を行い、株式を保有する。すでに時事通信社が同制度を導入していた先駆的存在であったが、報道通信事業者・[[共同通信社]]の株式会社設立を機に、次第に世間に知られるようになった。 === 日本の法令上の株主の分類 === ;'''特別支配株主''' : 179条1項で規定される「株式会社の総株主の議決権の10分の9(これを上回る割合を当該株式会社の定款で定めた場合にあっては、その割合)以上を当該株式会社以外の者及び当該者が発行済株式の全部を有する株式会社その他これに準ずるものとして法務省令で定める法人(特別支配株主完全子法人)が有している場合における当該者」のこと。 ;'''主要株主''' : [[金融商品取引法]]第163条1項で規定される「自己又は他人(仮設人を含む)の名義をもって'''発行済株式の総数の100分の10以上'''の株式(取得または所有の態様その他の事情を勘案して内閣府令で定めるものを除く)を有している株主」のこと。 == 米国法における株主関連法規 == 株主にはさまざまな権利が認められている。 その権利は、おおまかには「キャッシュフロー権」<ref group="注釈">{{lang-en-short|cash-flow rights}}</ref>([[キャッシュフロー]]に関する権利)と議決権<ref group="注釈" name="voting-rights">{{lang-en-short|voting rights}}</ref> に分類されている。 米国法でも株主に[[利益配当請求権]]や[[議決権]]などが認められている<ref>杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、476-478頁</ref>。 {|class=wikitable style="font-size:small" !権利の名前 !権利の内容 |- |style="white-space:nowrap"|'''利益配当請求権'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|right to receive dividends}}</ref> |利益配当請求権は[[取締役会]]において配当決議が行われることで株主が取得する権利である<ref name="sugiura478">杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、478頁</ref>。配当決議により会社は株主に対して[[配当金]]の支払義務を負う<ref name="sugiura478" />。株主が違法配当と知りながら配当金を受け取ったときは会社に対して返還する義務を負う<ref name="sugiura478" />。また、株主が違法配当であることを知らずに配当金を受け取った場合でも会社が[[破産手続開始の原因#支払不能|支払不能]]に陥るときは返還義務を負う<ref name="sugiura478" />。 |- |style="white-space:nowrap"|'''議決権'''<ref group="注釈" name="voting-rights"/> |原則として1株につき1個の議決権が認められる<ref name="sugiura476">杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、476頁</ref>。 *取締役会から名を挙げられた者の 取締役としての採用についての可否に投票する権利<ref name="velasco">{{cite journal|last1=Velasco|first1=Julian|date=2006|title=The Fundamental Rights of the Shareholder|url=https://lawreview.law.ucdavis.edu/issues/40/2/articles/davisvol40no2_velasco.pdf|format=PDF|journal=UC Davis L. Rev.|volume=40|pages=407–467|accessdate=16 April 2018}}</ref>。 *取締役を指名し<ref group="注釈".>とは言っても、さまざまな制約があり、一般論として言えば、指名を行うことはかなり難しい。</ref>、株主決議を行う権利<ref name="velasco" />。 *会社の[[合併 (企業)|合併]]や、[[企業憲章]]の変更に関して投票する権利<ref name="velasco" />。 *株主決議を開催し、議決する権利。 *取締役会からの提案内容に対して議決する権利。 |- |style="white-space:nowrap"|'''帳簿等閲覧請求権'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|right to inspect books and records}}</ref> |帳簿等閲覧請求権の行使には適正な目的が必要であり、5日前までに書面で請求する必要がある<ref name="sugiura476" />。 |- |(名前なし) |株式を売却する権利。 |- |(名前なし) |新株を購入する権利。 |} == 日本法における株主関連法規 == {{law|section=1}} *[[会社法]]は、以下で条数のみ記載する。 === 概説 === 株式会社は[[持分会社]]と異なり、発起人以外の株主(社員)の氏名は[[定款]]に記載しない。株式会社は、[[株主名簿]]を作成し、株主の氏名又は名称及び住所、株主の有する株式の数、株主が株式を取得した日などを記載し、又は記録しなければならない([[b:会社法第121条|121条]])。 [[株主名簿]]に記載されていることが会社に対して株主の権利を主張するために必要であるが、名義の書き換えを失念したとしても株主としての地位を失うわけではない。 株式会社が株主に対してする通知又は催告は、株主名簿に記載し、又は記録した当該株主の住所(当該株主が別に通知又は催告を受ける場所又は連絡先を当該株式会社に通知した場合にあっては、その場所又は連絡先)にあてて発すれば足りる([[b:会社法第126条|126条]])。 株式が二以上の者の共有に属するときは、共有者は、当該株式についての権利を行使する者一人を定め、株式会社に対し、その者の氏名又は名称を通知しなければ、当該株式についての権利を行使することができない([[b:会社法第106条|106条]])。 === 株主平等原則 === 株主は[[株主平等の原則]]([[b:会社法第109条|109条]])により、原則として、持ち株数に応じた権利を有する。 === 株主権の分類 === 株主権(株主の権利)は学問上、その性質に応じて'''自益権'''(直接的な経済的利益の享受を目的とする権利)と'''共益権'''(会社経営への参画を目的とする権利で、いわゆる[[経営参加権]])に分類される。自益権はそのすべてが一株でももっていれば行使できる「単独株主権」であるが、共益権には一定数以上の株式を保有している株主でなければ行使できない[[少数株主権]]もある。[[会社法]]においては株主の権利については、[[b:会社法第105条|105条]]その他に規定がある。 ==== 自益権 ==== ;(直接的な経済的利益の享受を目的とする権利) *剰余金配当請求権、[[利益配当請求権]]、[[残余財産分配請求権]]、[[新株引受権]]、[[株式買取請求権]]など。 ==== 共益権 ==== ;(会社経営への参画を目的とする権利。[[経営参加権]]) *[[株主総会]]における[[株主の議決権|議決権]]([[b:会社法第308条|第308条]]1項 <ref>旧商法241条1項</ref>) **単独株主権 ***取締役会の招集の請求([[b:会社法第367条|367条]]) ***訴訟の提起権 ***:会社の組織に関する行為の無効の訴え([[b:会社法第828条|828条]]) ***:株主総会決議取消訴訟の提起権([[b:会社法第831条|831条]]1項 <ref>旧商法247条</ref>) ***:[[株主代表訴訟|株主代表訴訟提起権]]:6箇月前から継続保有する株主([[b:会社法第847条|847条]]以下 <ref>旧商法267条以下</ref>)。 ***[[株主の差止請求|差止請求権]] ***:募集株式発行差止請求権([[b:会社法第210条|210条]])、新株予約権発行差止請求権([[b:会社法第247条|247条]])、略式組織再編行為差止請求権([[b:会社法第786条|796条]]) ***:取締役の行為差止請求権([[b:会社法第360条|360条]]):6箇月前から継続保有する株主 ***::取締役が、株式会社の目的の範囲外の行為等をし、又はこれらの行為をするおそれがある場合において、著しい損害が生ずるおそれがあるときは、当該取締役に対し、当該行為をやめることを請求することができる。 ***::[[監査役設置会社]]、[[監査等委員会設置会社]]又は[[指名委員会等設置会社]]においては、「回復することができない損害」が生ずるおそれがあるとき請求することができる。 ***:[[執行役]]の行為差止請求権([[b:会社法第422条|422条]]):6箇月前から継続保有する株主 ***閲覧等請求権 ***:[[株主名簿]]の閲覧・交付([[b:会社法第125条|125条]]) ***:取締役会議事録の閲覧・交付([[b:会社法第371条|371条]]) ***::監査役設置会社又は委員会設置会社の株主は、その権利を行使するため必要があるときは、裁判所の許可を得て、請求をすることができる。 ***:[[計算書類]]等の閲覧・交付([[b:会社法第442条|442条]]) ***:[[貸借対照表]]の閲覧・交付([[b:会社法第496条|496条]]) **'''[[少数株主権]]''' **:株主提案権([[b:会社法第303条|303条]]2項)、[[株主総会]]招集請求権([[b:会社法第297条|297条]])、[[会計帳簿]]閲覧請求権([[b:会社法第433条|433条]])、[[簡易合併]]等に対する反対権([[b:会社法第796条|796条]]4項) === 株主の責任 === 株主の[[責任]]は、その有する株式の引受価額を限度とする([[b:会社法第104条|104条]])。 「[[所有と経営の分離]]」の原則から、株主は会社の経営から概念上分離される。出資者である株主は、株式を購入するために出資をした金額を超えた責任は負わない<ref>[http://m-words.jp/w/E69C89E99990E8B2ACE4BBBB.html 有限責任] マネー辞典</ref>。更なる負担を求められることもない。これを「株主[[有限責任]]の原則」という<ref name="buzz">[http://www.exbuzzwords.com/static/keyword_847.html 株主有限責任の原則] exBuzwords</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} ==関連項目== *[[株主総会]] *[[有限責任]] *[[M&A]] *[[総会屋]] *[[株主優待]] *[[権利確定日]] *[[権利落ち日]] *[[投資]] **[[投資家]] *[[持株会]] *[[ESOP]] - 従業員株式所有制度 *[[純資産]] *[[ジョイント・ストック・カンパニー]] *[[株主反革命]] == 外部リンク == *{{Kotobank}} *{{Kotobank|株主権}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふぬし}} [[Category:日本の株式会社法]] [[Category:株式市場]] [[Category:ビジネス経済学]] [[Category:財務会計]]
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662
経営参加権
経営参加権(けいえいさんかけん)は、株式会社の株主が持つ権利の一つで、株主総会に出席し、企業の経営の重要な方針についての決議等に参加し、経営の意思決定に関与する権利である。株主総会の議決権が代表的な権利である。 共益権の一つであり、利益配当請求権・残余財産分配請求権などの自益権とともに、株主の権利の双璧をなす。 通常は1株または1単元株につき1票の議決権が与えられる(一株一議決権の原則)が、端株、無議決権株、単元未満株等の株主には議決権が与えられない(会社法308条)。 この権利により、株式には企業を支配できる価値が含まれると考えられ、株式は支配証券であると捉えられている。 権利を行使するためには、原則として、行使する者一人を定め、会社に氏名又は名称を通知しなければならない。
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経営参加権(けいえいさんかけん)は、株式会社の株主が持つ権利の一つで、株主総会に出席し、企業の経営の重要な方針についての決議等に参加し、経営の意思決定に関与する権利である。株主総会の議決権が代表的な権利である。 共益権の一つであり、利益配当請求権・残余財産分配請求権などの自益権とともに、株主の権利の双璧をなす。 通常は1株または1単元株につき1票の議決権が与えられる(一株一議決権の原則)が、端株、無議決権株、単元未満株等の株主には議決権が与えられない(会社法308条)。 この権利により、株式には企業を支配できる価値が含まれると考えられ、株式は支配証券であると捉えられている。 会社法は、以下で条数のみ記載する。
'''経営参加権'''(けいえいさんかけん)は、[[株式会社]]の[[株主]]が持つ権利の一つで、[[株主総会]]に出席し、企業の[[経営]]の重要な方針についての決議等に参加し、経営の意思決定に関与する権利である。株主総会の議決権が代表的な権利である。 '''共益権'''の一つであり、[[利益配当請求権]]・[[残余財産分配請求権]]などの自益権とともに、株主の権利の双璧をなす。 通常は1株または1[[単元株]]につき1票の[[株主の議決権|議決権]]が与えられる('''一株一議決権の原則''')が、[[端株]]、[[種類株式|無議決権株]]、単元未満株等の株主には議決権が与えられない([[b:会社法第308条|会社法308条]])。 この権利により、[[株式]]には企業を支配できる価値が含まれると考えられ、株式は'''支配証券'''であると捉えられている。 *[[会社法]]は、以下で条数のみ記載する。 == 派生する権利 == *招集通知を受ける権利、[[株主]]提案権(議案提案権、議題提案権) *[[少数株主権]]として、[[株主総会]]招集権。 == 株式を共有する場合 == 権利を行使するためには、原則として、行使する者一人を定め、会社に氏名又は名称を通知しなければならない。 == 行使方法 == *議場へ出席し発言、投票する。 *代理人によって行使する。 *書面によって行使する。  *電磁的方法によって行使する(会社の承諾が必要)。 ==関連項目== *[[株式]] *[[株主]] *[[株主総会]] {{DEFAULTSORT:けいえいさんかけん}} {{law-stub}} [[Category:日本の株式会社法]]
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663
利益配当請求権
利益配当請求権(りえきはいとうせいきゅうけん)とは、株式会社の株主が持つ権利の一つであり、企業の利益の分配である配当を受け取ることができる権利である。 日本においては、会社法105条1項1号に規定がある(「剰余金の配当を受ける権利」)。 企業が必ず配当を出さなければならないわけではなく、利益が無い場合や、あっても内部留保を厚くしたいとの経営判断により、無配になることもある(会社法461条などを参照)。配当の有無や金額は一定の要件を充たす場合(459条など)を除き、株主総会の決議によって決定される(452条)。 また、この権利により、株式には企業の利潤の価値が付与されているとみなすことができ、株券が発行されている場合、株券は利潤証券であると考えられている。
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利益配当請求権(りえきはいとうせいきゅうけん)とは、株式会社の株主が持つ権利の一つであり、企業の利益の分配である配当を受け取ることができる権利である。 日本においては、会社法105条1項1号に規定がある(「剰余金の配当を受ける権利」)。
'''利益配当請求権'''(りえきはいとうせいきゅうけん)とは、[[株式会社]]の[[株主]]が持つ権利の一つであり、企業の利益の分配である[[配当]]を受け取ることができる権利である。 日本においては、[[b:会社法第105条|会社法105条]]1項1号に規定がある(「[[剰余金]]の配当を受ける権利」)。 ==概要== 企業が必ず配当を出さなければならないわけではなく、利益が無い場合や、あっても[[内部留保]]を厚くしたいとの経営判断により、無配になることもある([[b:会社法第461条|会社法461条]]などを参照)。配当の有無や金額は一定の要件を充たす場合([[b:会社法第459条|459条]]など)を除き、[[株主総会]]の決議によって決定される([[b:会社法第452条|452条]])。 また、この権利により、[[株式]]には企業の利潤の価値が付与されているとみなすことができ、[[株券]]が発行されている場合、株券は利潤証券であると考えられている。 ==関連項目== *[[株式]] *[[株主]] {{Law-stub}} {{DEFAULTSORT:りえきはいとうせいきゆうけん}} [[Category:日本の株式会社法]] [[Category:配当]]
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664
残余財産分配請求権
残余財産分配請求権(ざんよざいさんぶんぱいせいきゅうけん)とは、会社などの法人の所有者たる株主・持分保有者が、会社の解散時に債務を弁済した後に残る財産に関して分配を請求することができる権利をいう。 日本法の下では、株式会社の株主が有する権利の一つで、会社が解散した際、清算後に残った財産を保有する株式の数に応じて分配される権利をいう(会社法105条1項2号、旧商法425条本文)。ここでいう財産は文字通りプラスの価値を有する財産に限られ、清算の結果、負債が資産を上回ることが明らかになれば分配はなされず、株主個人が会社の負債の返済義務を負うことはない(株主有限責任の原則、会社法104条、旧商法200条1項)。 存続中の会社を現在直ちに解散し清算すると仮定した場合の残余財産の総額を解散価値と呼び、この解散価値を発行済み株式数で除したものが一株あたり純資産 (BPS) である。このように、株式には解散価値に基づく価値があり、株式は物的証券であると考えられている。
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残余財産分配請求権(ざんよざいさんぶんぱいせいきゅうけん)とは、会社などの法人の所有者たる株主・持分保有者が、会社の解散時に債務を弁済した後に残る財産に関して分配を請求することができる権利をいう。
'''残余財産分配請求権'''(ざんよざいさんぶんぱいせいきゅうけん)とは、[[会社]]などの[[法人]]の所有者たる[[株主]]・[[持分]]保有者が、会社の[[解散]]時に[[債務]]を[[弁済]]した後に残る財産に関して分配を請求することができる権利をいう。 ==概要== 日本法の下では、[[株式会社]]の株主が有する権利の一つで、会社が[[解散]]した際、[[清算]]後に残った財産を保有する[[株式]]の数に応じて分配される権利をいう([[b:会社法第105条|会社法105条]]1項2号、旧[[商法]]425条本文)。ここでいう財産は文字通りプラスの価値を有する財産に限られ、清算の結果、[[負債]]が[[資産]]を上回ることが明らかになれば分配はなされず、株主個人が会社の負債の返済義務を負うことはない('''株主有限責任の原則'''、[[b:会社法第104条|会社法104条]]、旧商法200条1項)。 存続中の会社を現在直ちに解散し清算すると仮定した場合の残余財産の総額を[[解散価値]]と呼び、この解散価値を発行済み株式数で除したものが[[一株あたり純資産]] (BPS) である。このように、株式には解散価値に基づく価値があり、株式は'''物的証券'''であると考えられている。 ==関連項目== *[[会社法]] *[[利益配当請求権]] == 脚注 == <references/> {{DEFAULTSORT:さんよさいさんふんはいせいきゆうけん}} {{law-stub}} [[Category:日本の会社法]] [[Category:企業法|さんよさいさんふんはいせいきゆうけん]]
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MAJOR
『MAJOR』(メジャー)は、満田拓也による日本の漫画。『週刊少年サンデー』(小学館)にて1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された。同誌2015年15号より続編『MAJOR 2nd』が連載中。2021年11月時点で累計発行部数は5500万部を記録している。 サブタイトルは「DRAMATIC BASEBALL COMIC」。テレビアニメ版のタイトルは『メジャー』とカタカナ表記される。また、各種関連商品では「MAJOR DREAM」と表記される。 『週刊少年サンデー』(小学館)1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された、小学館で連載された野球漫画の中でも著名な作品の一つ。 第41回(平成7年度)小学館漫画賞少年部門、第2回(2011年)サムライジャパン野球文学賞ベストナイン受賞。『少年サンデー』連載作品としては、2001年に当時コミックスの巻数としては最多の記録を保持していた『GS美神 極楽大作戦!!』の全39巻を塗り替えた(2017年現在は『名探偵コナン』が最多記録を更新中)。 2014年11月26日から2016年10月19日まで、スマートフォン用コミックアプリの『マンガワン』にてアンコール連載がなされていた。 テレビアニメは2004年から放送が開始され、2010年に第6シリーズまでの全シリーズの本放送が終了した。2008年冬には劇場版が公開された。 主人公である茂野吾郎の半生を描いた作品で、彼の成長とともに所属するチームを情熱で突き動かし、チームが一丸となって目標に向かって前進していくのが、本作の基本的なスタイルである。 「友情」や「努力」といった少年漫画として普遍的なテーマを扱いながら、「家族」「逆境」といった『サンデー』の独自性も出た作品となっている。「逆境」は乗り越えられる主要テーマの一種であるため、吾郎の入団するチームは何かしらの問題を抱えた弱小チームであることが多い。 桑田真澄や井川慶、岩村明憲、田中将大、前田健太ら現役・元プロ野球選手にもファンが多い。 『週刊少年サンデー』2015年15号より、茂野吾郎の息子・茂野大吾が主人公の続編『MAJOR 2nd』が連載中。 MAJORシリーズは内容から以下のように分けることができ、本稿および関連項目においては便宜的にこれを用いる。 作中において、幼稚園編とリトルリーグ編の間には3年、リトルリーグ編と中学編の間には4年の空白がそれぞれある。また、メジャーリーグ編終盤で吾郎が清水にプロポーズしてから8年の月日が経っている。さらに、吾郎と薫の娘いずみ誕生とワールドチャンピオン制覇から7年の月日が経過している。これらの空白期間を除けば、作中で1年から1年半経つと作品の舞台が変わり、新編へと移っているのが特徴である。リトルリーグ編から急に中学編へ飛んだことについて作者の満田は、「この漫画は三船リトルの物語ではなく、吾郎の物語だから」とコメントしている。 本作でストーリーに深く関わる球団は、以下の通り。 ワールドカップ編には実在のプロ野球選手をモデルとした登場人物が多数登場する。このことについて満田は、作品の性質上現実に活躍する選手を無視できなかったとコメントしている。実在の選手をモデルとした登場人物についてくわしくは、MAJORの登場人物#W杯日本代表を参照。 ストーリーは茂野吾郎に主眼が置かれており、基本的にその他の登場人物や集団は主人公とかかわる範囲外でのスポットを当てられることはほとんどない(群像劇とは異なる)。この作風が最後まで一貫したため、吾郎の物語は視点がぶれることなく完結した。メジャーリーグ編終盤に8年の月日が流れ、さらにその後に7年の月日が経過することで、物語の終わりに吾郎は二児の父親となる。連載期間16年の長編ドラマは吾郎の成長を描きながら終局へ向かった。 2004年から2010年までNHK教育テレビジョンにて6シリーズに分けて放送された。 2008年12月13日に映画『劇場版MAJOR メジャー 友情の一球』が東宝の配給により公開された。
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『MAJOR』(メジャー)は、満田拓也による日本の漫画。『週刊少年サンデー』(小学館)にて1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された。同誌2015年15号より続編『MAJOR 2nd』が連載中。2021年11月時点で累計発行部数は5500万部を記録している。 サブタイトルは「DRAMATIC BASEBALL COMIC」。テレビアニメ版のタイトルは『メジャー』とカタカナ表記される。また、各種関連商品では「MAJOR DREAM」と表記される。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Otheruses|満田拓也の漫画作品|その他の用法|メジャー (曖昧さ回避)}} {{Infobox animanga/Header | タイトル = MAJOR | ジャンル = [[野球漫画|野球]]、[[学園漫画|学園]]、[[少年漫画]] }} {{Infobox animanga/Manga | 作者 = [[満田拓也]] | 出版社 = [[小学館]] | 他出版社 = {{flagicon|Taiwan}}[[青文出版集団]] | 掲載誌 = [[週刊少年サンデー]] | レーベル = 少年サンデーコミックス | 開始 = 1994年33号 | 終了 = 2010年32号 | 巻数 = 全78巻 | 話数 = 全747話 }} {{Infobox animanga/Footer |ウィキプロジェクト= [[プロジェクト:漫画|漫画]] |ウィキポータル= [[Portal:漫画|漫画]] }} 『'''MAJOR'''』(メジャー)は、[[満田拓也]]による[[日本]]の[[漫画]]。『[[週刊少年サンデー]]』(小学館)にて1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された。同誌2015年15号より続編『'''[[MAJOR 2nd]]'''』が連載中。2021年11月時点で累計発行部数は5500万部を記録している<ref>{{Cite news |url=https://gendai.media/articles/-/88721?page=3 |title=“あの異例の宣言文”から7年…ついに交替した「少年サンデー」新編集長は何者か? |work=現代ビジネス |date=2021-11-03 |accessdate=2021-11-09}}</ref>。 サブタイトルは「'''DRAMATIC BASEBALL COMIC'''」。[[テレビアニメ]]版のタイトルは『[[メジャー (アニメ)|メジャー]]』とカタカナ表記される。また、各種関連商品では「'''MAJOR DREAM'''」と表記される。 == 概説 == 『[[週刊少年サンデー]]』(小学館)1994年33号より2010年32号まで全747話が連載された、小学館で連載された[[野球]]漫画の中でも著名な作品の一つ。 第41回(平成7年度)[[小学館漫画賞]]少年部門、第2回(2011年)[[サムライジャパン野球文学賞]]ベストナイン受賞。『少年サンデー』連載作品としては、2001年に当時コミックスの巻数としては最多の記録を保持していた『[[GS美神 極楽大作戦!!]]』の全39巻を塗り替えた(2017年現在は『[[名探偵コナン]]』が最多記録を更新中)。 2014年11月26日から2016年10月19日まで、[[スマートフォン]]用コミックアプリの『[[マンガワン]]』にて[[アンコール]]連載がなされていた<ref>[https://natalie.mu/comic/news/137390/ 満田拓也の野球マンガ「MAJOR」復活!サンデーで3月から続編スタート](コミックナタリー 2015年1月30日)</ref>。 テレビアニメは2004年から放送が開始され、2010年に第6シリーズまでの全シリーズの本放送が終了した。2008年冬には劇場版が公開された。 主人公である'''[[茂野吾郎]]'''の半生を描いた作品で、彼の成長とともに所属するチームを情熱で突き動かし、チームが一丸となって目標に向かって前進していくのが、本作の基本的なスタイルである。 「友情」や「努力」といった少年漫画として普遍的なテーマを扱いながら、「家族」「[[逆境]]」といった『サンデー』の独自性も出た作品となっている。「逆境」は乗り越えられる主要テーマの一種であるため、吾郎の入団するチームは何かしらの問題を抱えた弱小チームであることが多い。 [[桑田真澄]]や[[井川慶]]、[[岩村明憲]]、[[田中将大]]、[[前田健太]]ら現役・元プロ野球選手にもファンが多い<ref>{{Cite journal|和書|month=3|journal=CIRCUSMAX2009年4月号|pages=57|author=|year=2009|publisher=[[ベストセラーズ]]}}</ref>。 『週刊少年サンデー』2015年15号より、茂野吾郎の息子・茂野大吾が主人公の続編『'''[[MAJOR 2nd]]'''』が連載中。 == 構成 == MAJORシリーズは内容から以下のように分けることができ、本稿および関連項目においては便宜的にこれを用いる。 ; MAJOR # '''幼稚園編'''(アニメでは[[保育園]]) - 単行本1巻 - 3巻第6話 # '''リトルリーグ編''' - 単行本3巻第7話 - 14巻第5話 # '''三船東中学校編''' - 単行本14巻6話 - 24巻第2話 # '''海堂学園高校編''' - 単行本24巻第3話 - 33巻第2話 # '''聖秀学院高校編''' - 単行本33巻第3話 - 47巻第7話 # '''マイナーリーグ編''' - 単行本47巻第8話 - 54巻第2話 # '''W杯編''' - 単行本54巻第3話 - 65巻 # '''メジャーリーグ編''' - 単行本66巻 - 78巻第6話 # '''日本プロ野球編''' - 単行本78巻第7話 - 第9話・第10話(最終話) 作中において、幼稚園編とリトルリーグ編の間には3年、リトルリーグ編と中学編の間には4年の空白がそれぞれある。また、メジャーリーグ編終盤で吾郎が清水にプロポーズしてから8年の月日が経っている。さらに、吾郎と薫の娘いずみ誕生とワールドチャンピオン制覇から7年の月日が経過している。これらの空白期間を除けば、作中で1年から1年半経つと作品の舞台が変わり、新編へと移っているのが特徴である。リトルリーグ編から急に中学編へ飛んだことについて作者の満田は、「この漫画は三船リトルの物語ではなく、吾郎の物語だから」とコメントしている<ref name=C>キャラクター名鑑の作者インタビューより →[[#関連書籍]]</ref>。 == 登場人物 == {{see|MAJORの登場人物}} == 現実との関わり == === プロ野球球団 === 本作でストーリーに深く関わる球団は、以下の通り。 ; 横浜マリンスターズ【原作】 / 横浜ブルーオーシャンズ【アニメ】 : 万年Bクラスの弱小球団。その名前やマリンスターズの本拠地が[[横浜スタジアム]](アニメでは横浜オーシャンスタジアム)であること、チームカラーが青であることなどから、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]がモデルであると思われる。 : 作品の舞台に[[横浜市|横浜]]を選んだ理由について、満田は「(満田が以前住んでいた蒲田からの)交通の便も良く、東京と違って海や山が出てきてもおかしくないから」とコメントしている<ref name=C>キャラクター名鑑の作者インタビューより →[[#関連書籍]]</ref>。 ; 東京シャイアンズ(巨仁)【原作】 / 東京ウォリアーズ【アニメ】 : 毎年Aクラスの強豪球団。その名前やユニフォームから[[読売ジャイアンツ]](巨人)がモデルとされる。チームカラーは赤{{Efn2|読売ジャイアンツのチームカラーはオレンジである。}}。 : 作中では資金ぶりのよさが強調され、英毅も「さすが金持ち球団」と評している。 ; メンフィス・バッツ【AAA】 / インディアナ・ホーネッツ【MLB】 : チームカラーは緑。 ; オクラホマ・ファルコンズ【AAA】 / テキサス・レイダーズ【MLB】 : {{要出典範囲|モデルは[[テキサス・レンジャーズ]]|date=2019年10月}}。チームカラーは青。 === プロ野球選手 === ワールドカップ編には実在のプロ野球選手をモデルとした登場人物が多数登場する。このことについて満田は、作品の性質上現実に活躍する選手を無視できなかったとコメントしている<ref name=C>キャラクター名鑑の作者インタビューより →[[#関連書籍]]</ref>。実在の選手をモデルとした登場人物についてくわしくは、[[MAJORの登場人物#W杯日本代表]]を参照。 == 終盤のストーリーの年譜 == ストーリーは茂野吾郎に主眼が置かれており、基本的にその他の登場人物や集団は主人公とかかわる範囲外でのスポットを当てられることはほとんどない([[群像劇]]とは異なる)。この作風が最後まで一貫したため、吾郎の物語は視点がぶれることなく完結した。メジャーリーグ編終盤に8年の月日が流れ、さらにその後に7年の月日が経過することで、物語の終わりに吾郎は二児の父親となる。連載期間16年の長編ドラマは吾郎の成長を描きながら終局へ向かった。 ; 空白年間のストーリー及び、MAJORの世界の年譜 : 19 - 20歳‐吾郎はメジャー1年目を終えて帰国後、清水薫にプロポーズする(結婚した具体的な時期は不明)。 :: 空白年間 :: 20 - 24歳‐引き続きインディアナ・ホーネッツの先発投手として活躍し、3回の最優秀防御率、2回の最多勝を獲得し、サイ・ヤング賞に二度輝く。 :: 22 - 23歳‐シーズン終了後にFA資格を得て{{Efn2|現実の2009年のMLBのFA制度では資格取得までに最短6年かかるが、劇中の台詞、テロップ等の時間設定に間違いはないという前提に立つ場合、この世界のMLBでは4年でFA資格が得られる制度があると考えるしかない。}}、あらためてホーネッツと3年契約を結ぶ。 :: 23 - 24歳‐スプリングキャンプで、ホーネッツと3年契約した真意を同僚に語る。血行障害を再発し、クローザーに転向する。 :: 25 - 26歳‐セーブ王を獲得。ホーネッツとの3年契約が終了するが再契約。FA資格を取得した日本の佐藤寿也と眉村健{{Efn2|現実の2012年のNPBの海外FA制度では資格取得までに最短9年かかるが、劇中の台詞、テロップ等の時間設定に間違いはないという前提に立つ場合、この世界のNPBでは8年で海外FA資格が得られる制度があると考えるしかない。}}は、翌年からメジャーリーグへ挑戦し、寿也がホーネッツに眉村がレイダースに加わる。キーンはホーネッツからレイダースへ移籍、ギブソンはレイダースの監督に就任する。 :: 26 - 27歳‐前年に引き続きセーブ王を獲得。ホーネッツはワールドシリーズに進出。 : 26 - 27歳‐ホーネッツがワールドシリーズでレイダースを破って優勝。吾郎と薫の間の娘・いずみが誕生した。アニメ(OVA)ではメジャーリーグ引退までホーネッツに在籍したことになっている。 :: 空白年間 :: 27 - 32歳‐メジャーリーグ投手として活躍を続ける。後年、肩を故障して治療を行う。 :: 29 - 30歳‐吾郎と薫の間に息子・大吾が誕生する。 :: 31 - 32歳‐肩が満足に回復せず、球団から解雇される。投手としてメジャーリーグから引退。 :: 32 - 33歳‐家族と共に帰国する。 : 33 - 34歳‐いずみは小学1年生、大吾は3歳。吾郎は打者として再起するべくトレーニングに励む。11月、日本プロ野球のトライアウトを受ける。 : 34 - 35歳‐育成枠として春季キャンプとオープン戦に参加。打者として公式戦に出場。 == 書誌情報 == === 漫画 === * 満田拓也 『MAJOR』 小学館〈少年サンデーコミックス〉、全78巻 *# 1995年1月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123491 |title=MAJOR 1 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|4-09-123491-7}} *# 1995年4月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123492 |title=MAJOR 2 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|4-09-123492-5}} *# 1995年6月17日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123493 |title=MAJOR 3 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|4-09-123493-3}} *# 1995年7月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123494 |title=MAJOR 4 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|4-09-123494-1}} *# 1995年10月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123495 |title=MAJOR 5 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|4-09-123495-X}} *# 1995年12月9日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09123496 |title=MAJOR 6 |publisher=小学館 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|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122014 |title=MAJOR 72 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122014-1}} *# 2009年9月17日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09121729 |title=MAJOR 73 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-121729-5}} *# 2009年12月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122025 |title=MAJOR 74 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122025-7}} *# 2010年3月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122184 |title=MAJOR 75 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122184-1}} *# 2010年5月18日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122289 |title=MAJOR 76 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122289-3}} *# 2010年9月17日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122520 |title=MAJOR 77 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122520-7}} *# 2010年12月17日発売<ref>{{Cite web |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09122680 |title=MAJOR 78 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-122680-8}} === 小説 === * 『小説 MAJOR〈1〉横浜編』土屋理敬(著者)、2008年10月7日発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09408311 |title=小説 MAJOR〈1〉横浜編 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-09-408311-8}} * 『小説 MAJOR〈2〉福岡編』土屋理敬(著者)、2008年11月12日発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09408322 |title=小説 MAJOR〈2〉福岡編 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-09-408322-4}} * 『小説 MAJOR〈3〉中学生編』丹沢まなぶ(著者)、2010年1月8日発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09408464 |title=小説 MAJOR〈3〉中学生編 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-09-408464-1}} * 『小説 MAJOR〈4〉海堂高校編』丹沢まなぶ(著者)、2010年8月5日発行(同日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09408531 |title=小説 MAJOR〈4〉海堂高校編 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>)、{{ISBN2|978-4-09-408531-0}} === 関連書籍 === * 『MAJOR[キャラクター名鑑]』2006年1月14日発行、{{ISBN2|4-09-120019-2}} * 『アニメMAJORキャラクターズハンドブック HEROES』2006年9月15日発行、{{ISBN2|4-09-120648-4}} * 『アニメMAJORキャラクターズハンドブック HEROES2』2008年11月18日発行、{{ISBN2|978-4-09-121474-4}} * 『オールカラー 劇場版MAJOR {{ruby|友情の一球|ウイニングショット}}』2009年2月18日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09121637 |title=オールカラー 劇場版MAJOR 友情の一球 |publisher=小学館 |accessdate=2021-06-13}}</ref>、{{ISBN2|978-4-09-121637-3}} * 『MAJOR 吾郎語録』2009年6月18日発行、{{ISBN2|978-4-09-121673-1}} * 『MAJOR[キャラクター名鑑完全版]』2010年9月17日発行、{{ISBN2|978-4-09-122577-1}} * 『アニメMAJORキャラクターハンドブック HEROES3』2010年12月17日発行、{{ISBN2|978-4-09-122720-1}} * 『メジャーパーフェクトソングコレクション』2010年12月17日発行 AVCA‐29876〜7/B * 『MAJORワールドシリーズ激闘編 新作OVA付き特製コミックス 上』2011年12月14日発行、{{ISBN2|978-4-09-941730-7}} * 『MAJORワールドシリーズ激闘編 新作OVA付き特製コミックス 下』2012年1月18日発行、{{ISBN2|978-4-09-941731-4}} == アニメ == {{see|メジャー (アニメ)}} 2004年から2010年まで[[NHK教育テレビジョン]]にて6シリーズに分けて放送された。 2008年12月13日に映画『'''[[劇場版MAJOR メジャー 友情の一球]]'''』が[[東宝]]の配給により公開された。 == ゲーム == ; i-MODE用ゲームコンテンツ「メジャードリーム」 : 2007年7月21日に株式会社T2iエンターテイメントより、ドラマティック・ベースボール・ゲームサイトと銘打って「メジャードリーム」がリリースされた。webによる対戦カードゲーム「ドリームメーカー」と、iアプリによるリアルタイム通信対戦ゲーム「ドリームステージ」が楽しめる。また、待受け画面等のダウンロードもできる。開発と運営は、株式会社アールフォース・エンターテインメント。 ; [[Wii]]用ソフト「メジャーWii 投げろ!ジャイロボール」 : 2008年2月7日に[[タカラトミー]]より発売。開発元は[[六面堂]]。アニメ第3シリーズがベース。1試合2時間以上と非常にリアリティな時間の試合が楽しめる。なお、試合中にいきなりミニゲームが始まるなど、意表をついた仕様でもある。 ; Wii用ソフト「[[メジャーWii パーフェクトクローザー]]」<!--キリがないのでこれ以上バグの例を挙げないように--> : 2008年12月11日にタカラトミーより発売。開発元は[[ドリームファクトリー (企業)|ドリームファクトリー]]。アニメ第4シリーズがベースで「投げろ!ジャイロボール」の続編にあたる。「打者と審判が背を向ける」「捕手しかボールを拾わなくなる」(基本的に守備はフルオートで投手、捕手以外動けず、捕手、投手、遊撃手の3人しかゴロを捕球できない。一、二、三塁手はベースカバーとフライの捕球しかできない)、「吾郎やバッターの首が反転する」、「野球のルールにそぐわない判定がなされる」、「試合展開、結果を無視してストーリーが進行する(特に最終戦では9回終了時点で点差が付いていても延長戦に突入し、試合に負けても、勝って優勝を決めたということにされてしまう)」などのバグ、ルールの誤解などのシステム上の問題、不具合がいくつも見られ<ref>[https://www.j-cast.com/2008/12/19032594.html 後ろを向いてバットを振る!! お粗末野球ゲームにネット騒然](J-CASTニュース、2008年12月19日)</ref>、『[[ファミ通]]』の[[クロスレビュー]]でもアルツ鈴木が4点、本田やよいが4点、デイリー松尾が3点、阿部ピロシが4点をつけた(合計15/40点、最低点は12点)<ref>『週刊ファミ通』2008年12月19日号(No.1044)43ページより</ref><ref>[https://www.famitsu.com/games/t/2693/reviews/ MAJORDREAM メジャーWii パーフェクトクローザーのレビュー・評価・感想] ファミ通.com 2020年6月23日閲覧。</ref>。 ; [[ニンテンドーDS]]用ソフト「メジャーDS ドリームベースボール」 : 2008年7月31日にタカラトミーより発売。開発元は[[アメディオ]]。アニメ第3シリーズおよび第4シリーズがベース。 ; [[GREE]]用アプリ「メジャードリーム 〜熱闘!直球バトル〜」 : 2012年11月8日にグリーと小学館集英社プロダクション、gumiによりサービス開始。基本プレイ無料アイテム課金制。テレビアニメを基にしており、プレイヤーは、夢の野球チームを目指す球団のゼネラルマネージャーとして、ガチャやスカウトで集めた選手カードの育成・編成を行いながら自分だけのドリームチームを作り上げ、ライバルチームとの試合を勝ち抜いて最強の球団を目指していくソーシャルゲーム。 == コラボレーション == ; [[サンデー×マガジン 熱闘!ドリームナイン]] : 登場作品の1つとして、聖秀学院高校の選手が登場。 ; [[実況パワフルプロ野球 (スマートフォン)|パワプロアプリ]]、[[実況パワフルプロ野球サクセススペシャル]] : MAJORの世界を舞台とした『海堂学園高校』編を配信。シナリオにはMAJOR、後に外部の人物扱いとなるが、[[MAJOR 2nd]]登場人物も登場。 : 舞台設定は原作が元となっているため、アニメで追加された設定は無い。 ; [[実況パワフルプロ野球2018]] : トーナメントモードの1つ「パワフェス」で、海堂学園高校と聖秀学院高校の選手及びジョー・ギブソンJr.で構成された「MAJOR高校選抜」が有料DLC限定コンテンツとして登場(購入すると、ゲーム内で使用できるアニメ第一シリーズオープニングテーマ「心絵」も同時解禁)。本作の主要キャラクターと[[実況パワフルプロ野球 サクセスモード|実況パワフルプロ野球シリーズのオリジナルキャラクター]]のクロスオーバーイベントも用意された。 :また、MAJOR 2nd時代の三船リトルドルフィンズも同モードで登場、ただし本作のキャラとの兼ね合いから、大吾が仲間にいると、2回戦で登場する茂野大吾の父親である吾郎は「高校時期の茂野吾郎に似た者」と設定されている。 == ルールなどについての補足 == ; リトルリーグ * 現実の[[リトルリーグ]]の[[トーナメント方式|トーナメント戦]]では、1人の投手は6イニングまでしか投げられず、投球数が85球を超えた場合そのときの打者の番が終わったとき投手を交代しなければならない。さらに、次の試合では、前の試合で20球を超えて投げた投手は出場できない。 * リトルリーグでは、投手が投げたボールがホームベースの上を通過するまで、ランナーは離塁できないルールであるため、投球モーション中の盗塁はできない。 *本牧リトル戦で、一郎が盗塁の際に吾郎が投球モーション中に離塁しているが、現実のリトルリーグではボールがホームベースを通過してから又は打者が打ってからでなければ離塁はできない。 * 横浜リトル戦で、吾郎が放った打球がワンバウンドで外野ポールに当たった後もプレーが続けられているが、通常ポールはフェンス外に立てられており、フェンスの高さより上部のポールに打球が当たれば'''「明らかにプレイングフィールドの外へ出た=スタンドに入った」'''ことになるので、ルール上はボールが当たった時点で[[ボールデッド]](バウンドした打球がスタンドに入った時と同じ扱いになりプレーは止まる)になり、打者には2つの進塁権(いわゆるエンタイトルツーベース)が与えられる。 * また、吾郎は上記のプレーで三塁へ進む際にヘッドスライディングを行なっている。しかし、実際のリトルリーグでは進塁方向へのヘッドスライディングが禁止されており、これを破った場合はアウトとなる。 * リトルリーグではベンチ入りメンバーは全員出場しなければならないルールも存在する。 ; 高校野球 * 聖秀学院対久里山戦で、9回に聖秀の田代が打った大飛球を外野手が捕球した後スタンドに落ちたプレーを本塁打としているが、ルール上は捕球後に野手がスタンドに落ちてもボールを落とさなければ打者はアウトである。 * 現実の[[日本の高校野球]]においては、大会中に選手の[[野球の背番号|背番号]]が変更されることは許されていないため、アニメ版もこれにならい、第3シリーズ第10話よりオープニングの吾郎の背番号が1から10に変更された。 * 聖秀学院対海堂学園戦で、田代の放った打球が二塁走者である清水に当たった際に([[守備妨害]]ではなく)ボールインプレーと判定されているのは、「その前に野手が打球に触れたから」とされている。しかし、実際には、走者が「投手を除く内野手の股間や横を通過したフェアボールに、そのすぐ直後で触れた場合」は守備妨害を宣告されることなくボールインプレーであるから、野手が触れていたか否かは問題ではない。 ; プロ野球・メジャー * メジャーに上がってからキーンが付けている背番号は1だが、一般的な捕手のプロテクターは背中のベルトが縦1直線なので背番号が見にくくなるため、捕手が1をつけることは避けられている{{Efn2|過去に、横浜大洋ホエールズ時代の[[谷繁元信]]捕手が背番号1を付け、背番号が見えるように横2本ベルトのプロテクターを使用したが、後に背番号8に変更した。}}。ただし、捕手が背番号1を着用することが禁止されているわけではない{{Efn2|1950年代から1960年代前半まで活躍したデル・クランダール([[:en:Del Crandall|英語版]])が着用していた。}}。 ; 屋上における球技 * 高校編において屋上で野球部として練習をする場面が描かれるが、実際には屋上における球技の類はフェンスやネット等による完全な囲い等の安全面での対策が無い限りは禁止されている。 == テーマの類似した作品 == ; 球道くん {{Main|球道くん#エピソード}} ; その他の類似作品 : 競技は違うものの、[[少年サンデー|同誌]]でかつて連載されていた、[[村枝賢一]]の『[[俺たちのフィールド]]』にも主人公の生い立ちから後に仲間となるライバルの存在まで[[オーバーラップ]]する点が幾つかある。同じく同誌の人気連載だった『[[がんばれ元気]]』も『MAJOR』『俺たちのフィールド』と同様の骨子を持っており、これらの流れは『がんばれ元気』に源流がある。その他、『ボクらの甲子園』など過去のスポーツ漫画との類似も見られる。 : 2009年3月23日放映の『[[日経スペシャル カンブリア宮殿|カンブリア宮殿]]』において明かされた逸話では、編集担当によると「父親を早く殺してしまえ」というアドバイスがされたという。アドバイスされた展開を繰り広げる作品は『がんばれ元気』や[[村上もとか]]の剣道漫画『[[六三四の剣]]』が挙げられ、また、父親ではないが、[[あだち充]]の野球漫画『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』では、物語序盤で双子の兄弟の片方(弟)が亡くなることが、物語におけるテーマとなっている。総じて、『少年サンデー』のスポーツ漫画では、重要人物が初期設定または物語の途中で死亡する展開が多いと言える。満田の次回作である『[[BUYUDEN]]』でもヒロインの父がボクシングの試合中に命を落としている。サンデー以外の作品などでは『[[エリアの騎士]]』では主人公の兄が交通事故でなくなっている。 『[[シュート!]]』などでは主人公たちに影響を与えたサッカー部の主将が白血病で病死している。『[[プリンセスナイン]]』では主人公は早くに父親を亡くしている。『[[ノノノノ]]』では主人公の父親が自殺未遂をし兄が焼身自殺をしている。 == その他 == ; 描き下ろしイラスト : [[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]の情報無料雑誌『ondo』のvol.5の8ページ - 9ページでの「message to swallows MY OPINION」の第1回目で満田拓也がゲスト対談し、9ページにヤクルトのストライプのユニフォーム(背番号は56)を着た吾郎が描き下ろし掲載された事がある。 ; ミズノとの契約 : スポーツメーカーの[[ミズノ]]が2005年3月から1年間、吾郎に対し独占的に野球用具を提供する契約を結んでいる。金額は未公表。漫画では吾郎のグラブやバットが全てミズノ製として使用されており、脇役にもミズノ製の道具が使われている。尚、この契約はミズノが出版元の[[小学館]]に契約金を支払い、作者の満田拓也にその一部が渡されている。 ; W杯 : 作中でメジャーリーガーが出場する世界大会としてW杯が春に開催しているが、その後で現実でも2006年春に[[ワールド・ベースボール・クラシック]][[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回大会]]が開催された(W杯編開始時点ではWBC開催が決定していなかった)。そのため、本作のW杯と現実のWBCや[[IBAFワールドカップ]]とはルールなどが若干異なる。WBCの日本優勝が決定したときのWEBサンデー上での作者のコメントによると、あくまで『MAJOR』はフィクションであるので、実際の結果が漫画に影響を及ぼすことはないとしている。ただし、W杯会場の決勝トーナメントは第1回WBC準決勝・決勝の球場となった[[ペトコ・パーク]]がモデル。また、WBCの連投制限ルールも作中に取り入れられている。 ; 連載600回記念 : 連載600回記念の際、メジャーリーガーの[[井川慶]]、[[岩村明憲]]、[[桑田真澄]]からお祝いのコメントが来ていた。 ; ジャイロボール : 作中でジャイロボールは「[[球種 (野球)|変化球]]ではなく、ストレートの一種」として扱われているが、実際のジャイロボールは[[マグヌス効果]]による揚力が発生しないため、フォークボールに似た放物線の軌道を描く。詳しくは[[ジャイロボール]](フォーシームジャイロ)を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://websunday.net/work/722/ WEBサンデー|MAJOR 2nd] {{ja icon}} *{{Wayback|url=https://www6.nhk.or.jp/anime/program/detail.html?i=major |title=NHKアニメワールド メジャー MAJOR |date=20160804161809}} {{ja icon}} <!-- * 劇場版MAJOR メジャー 友情の一球(ウイニングショット)(注)現在他の企業がURLを取得し本作品とは無関係な物になっています。 --> {{MAJOR}} {{小学館漫画賞少年向け部門||少年部門}} {{デフォルトソート:めしやあ}} [[Category:MAJOR|*]] [[Category:漫画作品 め|しやあ]] [[Category:1994年の漫画]] [[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]] [[Category:少年野球を題材とした漫画作品]] [[Category:日本の高校野球を題材とした漫画作品]] [[Category:NPBを題材とした漫画作品]] [[Category:MLBを題材とした漫画作品]] [[Category:小学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:中学校を舞台とした漫画作品]] [[Category:神奈川県を舞台とした漫画作品]] [[Category:アメリカ合衆国を舞台とした漫画作品]] [[Category:家族を題材とした漫画作品]] [[Category:小学館漫画賞少年向け部門の受賞作品]] [[Category:Wii用ソフト|めしやあとりいむふおあういい]]
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株価
株価(かぶか、イギリス英語: share prices、アメリカ英語: stock prices)とは、当該の株式に関して、株式市場において実際に約定があった価格のこと。出来値。 なお、「売り注文」または「買い注文」として、売り手や買い手から希望の値段が一方的に提示されたものの、実際には約定に至らない値段のことは「気配値()」と言い、一般に「株価」とは区別されている。 株価は一般に、株式市場が開いている間は、様々なものごとの影響を受けて変動する。基本的には、長期的にも短期的にも、また1日の内でも株価は変動しうる。 株価は一般に、長期的にも、短期的にも、また1日の内でも変動し、様々な値をとる。理論的には売買が成立したすべての価格の数値が株価であり、(現代では、市場のサーバのデータベースに残された記録の形で存在し)大量の数字の羅列となりうるもので、変動を続けるその株価を、数字の羅列を避けて視覚的に表す場合は一般に、複雑に波打ったグラフの形で表現されることになる。 ある1日の株価に焦点を当てた場合は、当該日に市場が開いてから最初に取引された株価は始値()、最後に取引された株価は終値()、立会時間中で最も高い株価は高値()、最も安い株価は安値()と呼ぶ。これら4つの値は四本値()と呼ばれている。 なお、証券取引所内で売買取引をする際の株価を呼び値とも表現する。株価は、呼び値単位を最小単位として変動する。 もともとは株価は上方にも下方にも自由に変動しうるものだったが、株式市場の運営者によっては、「あまりにも急速な変動は好ましくない」「市場参加者にパニックが起きることは防止したほうが良い」などと考え、1日に変動できる株価が一定の範囲に制限している市場もある。この場合の制限が値幅制限で、株価が値幅制限の限界まで暴騰・暴落することをそれぞれストップ高・ストップ安という(ただし、株式が上場された初日において、始値が決定されるまでの間には値幅制限がない)。 日本の株式市場における株価の決定方式は、大きく2つに分けることができる。一つは「オークション方式」といい、売買当事者が希望する価格と数量を証券取引所に告げることにより、証券取引所側で約定を行うもので、日本では一般に使用されている決定方式である。もう一つは「マーケットメイク方式」といい、マーケットメイカーとなった証券会社が、確実に成立する気配値を出して売り方と買い方を募るもので、日本ではごく一部の銘柄において採用されている方式である。 株価を動かすような要因を材料といい、直接的に株価に影響を及ぼす内部要因と間接的に株価に影響を及ぼす外部要因がある。 株価変動の内部要因は、株式数の増加や減少などによって株式の需給に直接的に影響するものであり、代表例として、増資、株式の分割、株式の消却、株式の持ち合いの解消、などがある。 一方、株価変動の外部要因は株価の形成に間接的に影響を及ぼしているものであり、会社の内部からもたらされる要因(企業業績の状態、新製品の開発・発表・発売、企業の合併や買収、リストラ、企業の不祥事など)と会社の外部からもたらされる要因(株価指数、金利や為替・物価などの変動、国外での戦争・政変、自然災害の発生など)がある。 株価の形成には様々な要因が絡まっており、そのメカニズムは極めて複雑である。株価決定の最大の要因は企業業績で、好調な企業の株価は上がり、不調な企業の株価は下がるとされているが、実際の相場では、好調な業績が発表されても投資家がこれ以上の成長は期待できない(好材料が出つくした)と判断すれば、売りが優勢となり株価は下落する。反対に業績の悪化が発表されても投資家がこれ以上の業績の低下はない(悪材料が出つくした)と判断すれば、買いが優勢となり株価は上昇する。このように将来の企業業績などを織り込みながら株価が将来を先取りして変動することを株価の先見性という。 金融市場のグローバル化やIT化により世界中の株式市場が連鎖的に反応することも多くなっている。 株価の変動を、視覚的に把握するための図のことを罫線表(チャート)と呼ぶ。米国ではもともとは主としてスティックチャート(縦長の棒に小さな横線が入ったもの)ばかりが用いられていた。(が、後に日本のローソク足の存在やその利便性がアメリカ人にも広く知られるようになり、米国ではそれも広まった。)日本では、四本値をローソク足(ある期間内で、始値に対して終値が相対的に上げたか下げたかが色で直感的に分かるもの)が最も普及しており、スティックチャートはほとんど用いられない。各国の投資家が株価を上手く予想しようと、ある期間内の四本値だけでなく、前後の値の影響も組み込んだ様々なチャート、テクニカル分析を開発した。例えば「一目均衡表」などである。 特定の市場全体の動向を把握するために、その市場で売買される複数の銘柄の株価を元に算出した値が株価指数である。特に著名なものとしては、米国のダウ平均株価、英国のFTSE100種総合株価指数、ドイツ株価指数などが挙げられる。日本国内市場の指数としては東証株価指数(TOPIX)や日経平均株価(日経225)などが有名である。
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株価とは、当該の株式に関して、株式市場において実際に約定があった価格のこと。出来値。 なお、「売り注文」または「買い注文」として、売り手や買い手から希望の値段が一方的に提示されたものの、実際には約定に至らない値段のことは「気配値」と言い、一般に「株価」とは区別されている。
[[File:株式に関係する変数の関係.png|thumb|株式に関係する変数の関係]] '''株価'''(かぶか、{{lang-en-gb|share prices}}、{{lang-en-us|stock prices}})とは、当該の[[株式]]に関して、[[株式市場]]において実際に[[約定]]があった[[価格]]のこと。出来値<ref>大辞泉「株価」</ref>。 なお、「売り注文」または「買い注文」として、売り手や買い手から希望の値段が一方的に提示されたものの、実際には[[約定]]に至らない値段のことは「{{読み仮名|気配値|けはいね}}」と言い、一般に「株価」とは区別されている。 == 株価の変動 == 株価は一般に、株式市場が開いている間は、様々なものごとの影響を受けて変動する。基本的には、長期的にも短期的にも、また1日の内でも株価は変動しうる。 株価は一般に、長期的にも、短期的にも、また1日の内でも変動し、様々な値をとる。理論的には売買が成立したすべての価格の数値が株価であり、(現代では、市場の[[サーバ]]のデータベースに残された記録の形で存在し)大量の数字の羅列となりうるもので、変動を続けるその株価を、数字の羅列を避けて視覚的に表す場合は一般に、複雑に波打った[[統計図表|グラフ]]の形で表現されることになる。 ある1日の株価に焦点を当てた場合は、当該日に市場が開いてから最初に取引された株価は{{読み仮名|'''始値'''|はじめね}}<ref group="注">{{lang-en-short|opening price}}</ref>、最後に取引された株価は{{読み仮名|'''終値'''|おわりね}}<ref group="注">{{lang-en-short|closing price}}</ref>、[[立会時間]]中で最も高い株価は{{読み仮名|'''高値'''|たかね}}<ref group="注">{{lang-en-short|high price}}</ref>、最も安い株価は{{読み仮名|'''安値'''|やすね}}<ref group="注">{{lang-en-short|low price}}</ref>と呼ぶ。これら4つの値は{{読み仮名|'''四本値'''|よんほんね}}と呼ばれている。 なお、[[証券取引所]]内で売買取引をする際の株価を'''[[呼び値]]'''とも表現する。株価は、[[呼び値単位]]を[[最小単位]]として変動する。 もともとは株価は上方にも下方にも自由に変動しうるものだったが、株式市場の運営者によっては、「あまりにも急速な変動は好ましくない」「市場参加者にパニックが起きることは防止したほうが良い」などと考え、1日に変動できる株価が一定の範囲に制限している市場もある。この場合の制限が'''[[値幅制限]]'''で、株価が[[値幅制限]]の限界まで暴騰・[[暴落]]することをそれぞれ'''[[値幅制限|ストップ高]]・[[値幅制限|ストップ安]]'''という(ただし、株式が上場された初日において、始値が決定されるまでの間には[[値幅制限]]がない)。 日本の株式市場における株価の決定方式は、大きく2つに分けることができる。一つは「'''オークション方式」'''といい、売買当事者が希望する価格と数量を[[証券取引所]]に告げることにより、証券取引所側で約定を行うもので、日本では一般に使用されている決定方式である。もう一つは「'''[[マーケットメイク]]方式」'''といい、[[マーケットメイカー]]となった証券会社が、確実に成立する気配値を出して売り方と買い方を募るもので、日本ではごく一部の[[銘柄]]において採用されている方式である。 === 株価の変動の要因 === 株価を動かすような要因を材料といい、直接的に株価に影響を及ぼす内部要因と間接的に株価に影響を及ぼす外部要因がある<ref name="chiba38">{{Cite book |和書 |author=千葉 優子 |year=2009 |title=図解 30分で「株価のしくみ」がすっきりわかる本 |page=38}}</ref>。 株価変動の内部要因は、'''株式数の増加や減少'''などによって株式の需給に直接的に影響するものであり、代表例として、'''増資'''、'''株式の分割'''、'''株式の消却'''、'''株式の持ち合いの解消'''、などがある<ref name="chiba38-39">{{Cite book |和書 |author=千葉 優子 |year=2009 |title=図解 30分で「株価のしくみ」がすっきりわかる本 |pages=38-39}}</ref>。 * '''株式の分割'''は理論上は発行した株式が増加するとともに分割比率に比例して1株当たりの価値は低下するのであるが、[[個人投資家]]が株式を買いやすくなるため2000年代前半には株式の分割の発表後に株価が急騰するケースがみられた<ref name="chiba60">{{Cite book |和書 |author=千葉 優子 |year=2009 |title=図解 30分で「株価のしくみ」がすっきりわかる本 |page=60}}</ref>。 * '''自社株買い'''(さらに'''株式の消却''')は市場に流通する株式数が減少するため1株当たりの利益は上昇するが、余剰金を取り崩して購入に当てるため理論上は株価に中立といわれている<ref name="chiba58">{{Cite book |和書 |author=千葉 優子 |year=2009 |title=図解 30分で「株価のしくみ」がすっきりわかる本 |page=58}}</ref>。しかし、株式の需要と供給の関係をみれば株価は上昇しやすくなると考えられることから'''自社株買い'''を行う企業も少なくない<ref name="chiba58" />。しかし、2000年代の世界的な金融危機の後、事業資金を多く確保しておきたいという会社が増えており自社株買いに慎重な状況もみられる<ref name="chiba58" />。 一方、株価変動の外部要因は株価の形成に間接的に影響を及ぼしているものであり、'''会社の内部からもたらされる要因'''(企業業績の状態、新製品の開発・発表・発売、企業の合併や買収、リストラ、企業の不祥事など)と'''会社の外部からもたらされる要因'''(株価指数、金利や為替・物価などの変動、国外での戦争・政変、自然災害の発生など)がある<ref name="chiba38-39" />。 株価の形成には様々な要因が絡まっており、そのメカニズムは極めて複雑である<ref name="chiba38" />。株価決定の最大の要因は'''企業業績'''で、好調な企業の株価は上がり、不調な企業の株価は下がるとされているが、実際の相場では、好調な業績が発表されても投資家がこれ以上の成長は期待できない(好材料が出つくした)と判断すれば、売りが優勢となり株価は下落する<ref name="chiba38" />。反対に業績の悪化が発表されても投資家がこれ以上の業績の低下はない(悪材料が出つくした)と判断すれば、買いが優勢となり株価は上昇する<ref name="chiba38" />。このように将来の企業業績などを織り込みながら株価が将来を先取りして変動することを'''株価の先見性'''という<ref name="chiba38" />。 金融市場のグローバル化やIT化により世界中の株式市場が連鎖的に反応することも多くなっている<ref name="chiba50">{{Cite book |和書 |author=千葉 優子 |year=2009 |title=図解 30分で「株価のしくみ」がすっきりわかる本 |page=50}}</ref>。 === 株価の変動の表現 === 株価の変動を、視覚的に把握するための図のことを[[罫線表]](チャート)と呼ぶ。米国ではもともとは主として[[スティックチャート]](縦長の棒に小さな横線が入ったもの)ばかりが用いられていた。(が、後に日本の[[ローソク足チャート|'''ローソク足''']]の存在やその利便性がアメリカ人にも広く知られるようになり、米国ではそれも広まった。)日本では、四本値を[[ローソク足]](ある期間内で、始値に対して終値が相対的に上げたか下げたかが色で直感的に分かるもの)が最も普及しており、スティックチャートはほとんど用いられない。各国の投資家が株価を上手く予想しようと、ある期間内の四本値だけでなく、前後の値の影響も組み込んだ様々なチャート、[[テクニカル分析]]を開発した。例えば「'''[[一目均衡表]]'''」などである。 == 株価にまつわるモデルや理論 == *[[ランダムウォーク]] - 以前はしばしば理論を研究しようとする学者などにより「株価はランダムウォークとして動き、短期・中期・長期に関わらず常に予測不能な動きを示す」とも説明(主張)されていた。 *[[フラクタル]] - 大局的にも局所的にも同じような動き方をする。 *[[カオス理論|カオス]] - 時間が経過するに連れて観測誤差の影響が増大し、未来予測が成り立たなくなる。 == 株価指数 == 特定の市場全体の動向を把握するために、その市場で売買される複数の銘柄の株価を元に算出した値が[[株価指数]]である。特に著名なものとしては、米国の[[ダウ平均株価]]、英国の[[FTSE100種総合株価指数]]、[[ドイツ株価指数]]などが挙げられる。日本国内市場の指数としては[[東証株価指数]](TOPIX)や[[日経平均株価]](日経225)などが有名である。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == *[[投資顧問会社]] *[[株式相場]] *[[株価操縦]] *[[テクニカル分析]] *[[大数の法則]] *[[罫線表]] *[[株式]] *[[株式投資]] *[[株式市場]] *[[為替]] *[[外国為替]] *[[システムトレード]] *[[デイトレード]] *[[移動平均]] *[[三尊天井]] *[[ニュースティッカー]] *[[ショートスクイズ]] *[[ヘッジファンド]] *[[個人投資家]] *[[アノマリー (市場)|アノマリー(市場)]] *[[美人投票]] *[[ランダム・ウォーク理論]] *[[日経平均株価]] *[[日経225先物取引]] *[[株価指数先物取引]] {{罫線表の種類}} {{証券取引所}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふか}} [[Category:株式市場|かふか]] [[Category:経済指標|かふか]]
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満田拓也
満田 拓也(みつだ たくや、1965年6月17日 - )は、日本の漫画家。広島県福山市出身。双子座、血液型O型。埼玉県在住。 代表作は『MAJOR』。主にスポーツ漫画を得意とし、作品を掲載している『週刊少年サンデー』(小学館)誌上では「スポーツ漫画の第一人者」と形容されることもある。 『MAJOR』で第41回(平成7年度)小学館漫画賞受賞。 1982年、「蛮勇」で第11回小学館新人コミック大賞少年部門佳作を受賞、同作品でデビュー。 1988年、『週刊少年サンデー』(小学館)にて、バレーボールを題材にした『健太やります!』を連載。同作品の舞台である坂見台高校は、満田の出身高である広島県立福山誠之館高等学校がモデルとなっており、随所にその形跡が見られる。1994年まで連載した。 1994年、『週刊少年サンデー』にて、野球漫画『MAJOR』を連載、16年間続く長編漫画となり2004年にアニメ化されるなど大ヒットとなった。2010年に終了し、単行本は全78巻に及んだ。これは、後に『名探偵コナン』に抜かれるまで少年サンデーコミックス史上最多巻数記録であった。 2011年、『週刊少年サンデー』にて、ボクシングを題材とした『BUYUDEN』を連載した。しかし2014年1月に打ち切りとなり連載は終了した。 現在は『週刊少年サンデー』にて、『MAJOR』の主人公、吾郎の息子である大吾を主人公とした続編『MAJOR 2nd』を連載中である。なお、2018年53号から2019年20号まで、体調不良のため長期休載していた。2021年46号から2022年48号まで体調不良のため再度長期休載となった。
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満田 拓也は、日本の漫画家。広島県福山市出身。双子座、血液型O型。埼玉県在住。 代表作は『MAJOR』。主にスポーツ漫画を得意とし、作品を掲載している『週刊少年サンデー』(小学館)誌上では「スポーツ漫画の第一人者」と形容されることもある。 『MAJOR』で第41回(平成7年度)小学館漫画賞受賞。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 満田 拓也 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[広島県]][[福山市]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1965|6|17}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1982年]]<ref name="Profile">{{Cite web|和書|url=https://websunday.net/author/678/ |title=サンデーまんが家BACKSTAGE|満田拓也 - 少年サンデー |publisher=小学館 |accessdate=2018-11-12}}</ref> - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[スポーツ漫画]] | 代表作 = 『[[MAJOR]]』{{R|thetv}} | 受賞 = 第41回[[小学館漫画賞]]([[1995年]])<ref name="Profile" /> | 公式サイト = }} '''満田 拓也'''(みつだ たくや、[[1965年]][[6月17日]]<ref name="tsstv2018sportslovers" /> - )は、日本の[[漫画家]]。[[広島県]][[福山市]]出身<ref name="tsstv2018sportslovers" />。[[双子座]]、[[血液型]]O型<ref name="Profile" />。[[埼玉県]]在住<ref>『週刊少年サンデー』目次「今週のクエスチョン」より</ref>。 代表作は『[[MAJOR]]』<ref name="thetv">{{Cite web|和書|url=https://thetv.jp/person/1000070865/|title=満田拓也|website=WEBザテレビジョン|publisher=KADOKAWA|accessdate=2023-07-19}}</ref>。{{要出典範囲|date=2023-07-19|主に[[スポーツ漫画]]を得意とし、作品を掲載している『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])誌上では「スポーツ漫画の第一人者」と形容されることもある。}} 『[[MAJOR]]』で第41回(平成7年度)[[小学館漫画賞]]受賞<ref name="Profile" />。 == 来歴 == [[1982年]]、「蛮勇」で第11回[[小学館新人コミック大賞]]少年部門佳作を受賞、同作品でデビュー<ref name="Profile" />。 [[1988年]]、『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])にて、[[バレーボール]]を題材にした『[[健太やります!]]』を連載。同作品の舞台である坂見台高校は、満田の出身高である[[広島県立福山誠之館高等学校]]がモデルとなっており、随所にその形跡が見られる。1994年まで連載した。 [[1994年]]、『週刊少年サンデー』にて、[[野球漫画]]『[[MAJOR]]』を連載、16年間続く長編漫画となり[[2004年]]にアニメ化されるなど大ヒットとなった。[[2010年]]に終了し、単行本は全78巻に及んだ。これは、後に『[[名探偵コナン]]』に抜かれるまで少年サンデーコミックス史上最多巻数記録であった。 [[2011年]]、『週刊少年サンデー』にて、[[ボクシング]]を題材とした『[[BUYUDEN]]』を連載した。しかし[[2014年]]1月に[[打ち切り]]となり連載は終了した。 現在は『週刊少年サンデー』にて、『MAJOR』の主人公、吾郎の息子である大吾を主人公とした続編『[[MAJOR 2nd]]』を連載中である。なお、2018年53号から2019年20号まで、体調不良のため長期休載していた<ref>週刊少年サンデー2018年52号21ページより。</ref><ref>[https://twitter.com/info_MAJOR twitter・「MAJOR(メジャー)」情報](2019年4月23日閲覧)</ref>。2021年46号から2022年48号まで体調不良のため再度長期休載となった<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/448139|title=「古見さん」古賀葵らアニメキャストがサンデーに、「MAJOR 2nd」は長期休載へ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-06|accessdate=2021-12-10}}</ref>。 == 作品リスト == * [[健太やります!]]([[週刊少年サンデー]] 1989年30号 - 1994年24号、全26巻・ワイド版全14巻・文庫版全14巻) * [[MAJOR]](週刊少年サンデー 1994年33号 - 2010年32号、全78巻) * [[BUYUDEN]](週刊少年サンデー 2011年16号 - 2014年9号、全13巻) * [[MAJOR 2nd]](週刊少年サンデー 2015年15号 - '''連載中'''、既刊27巻) * 漫画NTT株は大化けする! * まんがで覚えるバイク(原付)免許(1987年、永岡書店) == 師匠 == * [[原秀則]] == アシスタント == * [[久米田康治]](ただし務めたのは2日間だけという) * [[松江名俊]] * [[藪野続久]]<ref>[http://tzkyabuno.exblog.jp/11504828/ 本人のブログ]における2010年7月9日のコメントより。</ref> * [[奥英樹]]<ref>[http://www.oscd.jp/journal/pro/index.html vol. 04:漫画家 奥英樹さん|ザ プロフェッショナル インタビュー|OSCD Journal|大阪総合デザイン専門学校]</ref> == アシスタント仲間 == * [[猪熊しのぶ]] == その他 == * [[東京ヤクルトスワローズ]]の情報誌『ondo』で対談した事があり、『[[MAJOR]]』の[[茂野吾郎]]がスワローズのユニフォームを着たイラストが描き下ろされた。 * [[テレビ新広島]]『[[全力応援 スポーツLOVERS]]』のポスターを2018年秋に描き下ろし<ref name="tsstv2018sportslovers">{{Cite web|和書|url=http://www.tss-tv.co.jp/web/press/2018/spolovers/index.html |title=「全力応援 スポーツLOVERS」新ポスターは漫画家・満田拓也氏の描き下ろしイラスト! |publisher=テレビ新広島 |accessdate=2018-11-12}}</ref>。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:みつた たくや}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島県立福山誠之館高等学校出身の人物]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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値幅制限
値幅制限(ねはばせいげん)とは、株価の異常な暴騰・暴落を防ぐために、株価が1日に変動できる上下の幅を制限するものである。 この値幅制限の上限まで株価が上昇することをストップ高、下限まで下落することをストップ安という。 値幅制限は、証券取引所の役割である適正な株価の形成と、不測の損害からの投資家保護という目的のもと制定されている。 前営業日の終値(特別気配のまま引けた場合は最終気配値)を基準株価とし、この基準株価から1日に変動できる上下の幅を定めている。 値幅制限の具体的な効果としては、ここまでしか株価は上がらない・下がらないというリミッターが機能することにより異常な値動きを物理的に防止する効果と、リミッターが存在する事によって投資家の恐怖心理・過熱心理が和らげられパニック売りなど正常な判断力の失われた取引を抑制する心理的な効果がある。 また、ストップ高・ストップ安のまま取引が引けた場合は、そこで株価を留めたまま1日置くことで過熱した投資家心理をクールダウンさせる効果も持つ。 値幅制限のない証券取引所は、株式の流動性が高まる・IRなどの情報が短時間で株価に反映されるなどの利点を有しているが、その反面、2015年5月20日と6月3日に値幅制限のない香港証券取引所で、一部の銘柄がわずかな時間で60%超の暴落を引き起こすといった一例も発生するなど、株価形成や投資家保護の面で欠点を有している。中でも、ザラ場の値動きに対処することが難しい会社員などの個人投資家は、よりこうした欠点の影響を受けやすく不利益を被る可能性が高い。 現在の日本の証券取引所では全ての上場銘柄に値幅制限が適用されているが、2008年までJASDAQ内に存在したマーケットメイク銘柄においては値幅制限が適用されていなかった。これはマーケットメイカーが適切な気配値を提示するシステムであったためであり、値幅制限に代わり、30%以上の株価変動があった場合に15分間の取引停止となるサーキットブレーカー制度が設けられていた。 これは相場の沈静化を促すための手段であったが、実際にはサーキットブレーカー解除後も相場が沈静化しないケースも多く、通常の値幅制限のある銘柄とは比較にならないほどの暴騰・暴落を引き起こす銘柄が続出した。サーキットブレーカー制度はこのような出来高の多くない新興銘柄に対しては満足に機能したとは言えない結果に終わった。 日本では東京証券取引所が2010年初めに新システム「arrowhead(アローヘッド)」の運用を開始したことに伴い値幅制限の改正が行われ、多くの価格帯で値幅制限が拡大された。 この「arrowhead(アローヘッド)」の導入により、ミリ秒単位での高速取引・アルゴリズム取引が機関投資家の手によって行われるようになったが、その結果、昔では見られなかったような株価の乱高下が発生しやすくなっており、小型株・大型株問わず全体として株価の変動幅は以前よりも大きくなっていると見られている。 このようなコンピュータ取引をふまえた近年の株式市場では、値幅制限の重要性は一層高まってきているという見方もある。 制限値幅は原則として下表の通り規定されているが、呼び値単位の切り上げによって規定された値幅よりわずかに大きくなるケースがある。 (例:前営業日に2,991円だった株式がストップ高になると500円高の3,491円となるところであるが、3,000円台における呼び値は5円刻み(TOPIX100構成銘柄を除く)であるため、3,495円の値が付けられ504円高がストップ高となる) 下表の「制限値幅」「最大騰落率」は、上記を考慮しない数字である。 特例として、一定の条件を満たした上でストップ高/ストップ安が2日連続で続いた場合は、値幅制限を4倍とする拡大措置が取られる。 以下の条件を満たした上で2日連続ストップ高となった場合、上限値幅のみ4倍に拡大される。逆に、同様の条件を満たした上で2日連続ストップ安となった場合は、下限値幅のみ4倍に拡大される。 拡大措置が発動された日以降は、ストップ値段以外の値段で売買が成立した場合に措置が解除され、翌営業日より通常の値幅制限に戻される。 経営破綻(破産法・会社更生法・民事再生法の申請)や、重大な不祥事により整理銘柄に指定された銘柄は、指定された日の翌々営業日より、下限値幅のみ撤廃する措置がとられる。 この撤廃措置は、最初に約定した日の翌営業日に解除され、通常の値幅制限に戻される。 新規上場銘柄(IPO)においては、上場初日は公募価格を基準価格とし、その基準価格の4倍を上限、基準価格の1/4倍を下限として制限する。 上場初日に初値がつかなかった場合は、その日の最終気配値を基準価格とし、翌営業日も上記と同様の取り扱いとなる。 初値がついた時点で上記の値幅制限は終了し、初値を基準価格とした通常の値幅制限が適用される(翌営業日からではなく、初値がついた瞬間から適用される)。 社会情勢の混乱などで大暴落が予想されるときには、値幅制限の縮小といった臨時措置がとられる事がある。 直近では、アメリカ同時多発テロ事件が発生した翌日の2001年9月12日より3日間、東証の値幅制限が当時の通常値幅の1/2に縮小された。
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値幅制限(ねはばせいげん)とは、株価の異常な暴騰・暴落を防ぐために、株価が1日に変動できる上下の幅を制限するものである。 この値幅制限の上限まで株価が上昇することをストップ高、下限まで下落することをストップ安という。
'''値幅制限'''(ねはばせいげん)とは、[[株価]]の異常な暴騰・暴落を防ぐために、株価が1日に変動できる上下の幅を制限するものである。 この値幅制限の上限まで株価が上昇することを'''ストップ高'''、下限まで下落することを'''ストップ安'''という。 == 概説 == 値幅制限は、[[証券取引所]]の役割である適正な株価の形成と、不測の損害からの投資家保護という目的のもと制定されている。 前営業日の[[終値]](特別気配のまま引けた場合は最終気配値)を基準株価とし、この基準株価から1日に変動できる上下の幅を定めている。 値幅制限の具体的な効果としては、ここまでしか株価は上がらない・下がらないというリミッターが機能することにより異常な値動きを物理的に防止する効果と、リミッターが存在する事によって投資家の恐怖心理・過熱心理が和らげられパニック売りなど正常な判断力の失われた取引を抑制する心理的な効果がある。 また、ストップ高・ストップ安のまま取引が引けた場合は、そこで株価を留めたまま1日置くことで過熱した投資家心理をクールダウンさせる効果も持つ。 値幅制限のない証券取引所は、株式の流動性が高まる・[[インベスター・リレーションズ|IR]]などの情報が短時間で株価に反映されるなどの利点を有しているが、その反面、[[2015年]][[5月20日]]と[[6月3日]]に値幅制限のない香港証券取引所で、一部の銘柄がわずかな時間で60%超の暴落を引き起こすといった一例も発生するなど、株価形成や投資家保護の面で欠点を有している。中でも、[[ザラ場]]の値動きに対処することが難しい会社員などの個人投資家は、よりこうした欠点の影響を受けやすく不利益を被る可能性が高い。 ==日本== 現在の日本の証券取引所では全ての上場銘柄に値幅制限が適用されているが、[[2008年]]まで[[ジャスダック|JASDAQ]]内に存在した[[マーケットメイク]]銘柄においては値幅制限が適用されていなかった。これはマーケットメイカーが適切な気配値を提示するシステムであったためであり、値幅制限に代わり、30%以上の株価変動があった場合に15分間の取引停止となる[[サーキットブレーカー制度]]が設けられていた。 これは相場の沈静化を促すための手段であったが、実際にはサーキットブレーカー解除後も相場が沈静化しないケースも多く、通常の値幅制限のある銘柄とは比較にならないほどの暴騰・暴落を引き起こす銘柄が続出した。サーキットブレーカー制度はこのような出来高の多くない新興銘柄に対しては満足に機能したとは言えない結果に終わった。 日本では[[東京証券取引所]]が[[2010年]]初めに新システム「arrowhead(アローヘッド)」の運用を開始したことに伴い値幅制限の改正が行われ、多くの価格帯で値幅制限が拡大された。 この「arrowhead(アローヘッド)」の導入により、[[ミリ秒]]単位での[[高頻度取引|高速取引]]・[[アルゴリズム取引]]が機関投資家の手によって行われるようになったが、その結果、昔では見られなかったような株価の乱高下が発生しやすくなっており、小型株・大型株問わず全体として株価の変動幅は以前よりも大きくなっていると見られている。 このようなコンピュータ取引をふまえた近年の株式市場では、値幅制限の重要性は一層高まってきているという見方もある。 === 値幅制限表 === 制限値幅は原則として下表の通り規定されているが、[[呼び値]]単位の切り上げによって規定された値幅よりわずかに大きくなるケースがある。 (例:前営業日に2,991円だった株式がストップ高になると500円高の3,491円となるところであるが、3,000円台における[[呼び値]]は5円刻み(TOPIX100構成銘柄を除く)であるため、3,495円の値が付けられ504円高がストップ高となる) 下表の「制限値幅」「最大騰落率」は、上記を考慮しない数字である。 {| class="wikitable" |- ! 基準値段 !! 制限値幅 !! 最大騰落率 |- | align="right" | 100円未満 || align="right" | ±30円 || align="right" | 3000.0% ~ 30.3% |- | align="right" | 200円未満 || align="right" | ±50円 || align="right" | 50.0% ~ 25.1% |- | align="right" | 500円未満 || align="right" | ±80円 || align="right" | 40.0% ~ 16.0% |- | align="right" | 700円未満 || align="right" | ±100円 || align="right" | 20.0% ~ 14.3% |- | align="right" | 1,000円未満 || align="right" | ±150円 || align="right" | 21.4% ~ 15.0% |- | align="right" | 1,500円未満 || align="right" | ±300円 || align="right" | 30.0% ~ 20.0% |- | align="right" | 2,000円未満 || align="right" | ±400円 || align="right" | 26.7% ~ 20.0% |- | align="right" | 3,000円未満 || align="right" | ±500円 || align="right" | 25.0% ~ 16.7% |- | align="right" | 5,000円未満 || align="right" | ±700円 || align="right" | 23.3% ~ 14.0% |- | align="right" | 7,000円未満 || align="right" | ±1,000円 || align="right" | 20.0% ~ 14.3% |- | align="right" | 10,000円未満 || align="right" | ±1,500円 || align="right" | 21.4% ~ 15.0% |- | align="right" | 15,000円未満 || align="right" | ±3,000円 || align="right" | 30.0% ~ 20.0% |- | align="right" | 20,000円未満 || align="right" | ±4,000円 || align="right" | 26.7% ~ 20.0% |- | align="right" | 30,000円未満 || align="right" | ±5,000円 || align="right" | 25.0% ~ 16.7% |- | align="right" | 50,000円未満 || align="right" | ±7,000円 || align="right" | 23.3% ~ 14.0% |- | align="right" | 70,000円未満 || align="right" | ±10,000円 || align="right" | 20.0% ~ 14.3% |- | align="right" | 100,000円未満 || align="right" | ±15,000円 || align="right" | 21.4% ~ 15.0% |- | align="right" | 150,000円未満 || align="right" | ±30,000円 || align="right" | 30.0% ~ 20.0% |- | align="right" | 200,000円未満 || align="right" | ±40,000円 || align="right" | 26.7% ~ 20.0% |- | align="right" | 300,000円未満 || align="right" | ±50,000円 || align="right" | 25.0% ~ 16.7% |- | align="right" | 500,000円未満 || align="right" | ±70,000円 || align="right" | 23.3% ~ 14.0% |- | align="right" | 700,000円未満 || align="right" | ±100,000円 || align="right" | 20.0% ~ 14.3% |- | align="right" | 1,000,000円未満 || align="right" | ±150,000円 || align="right" | 21.4% ~ 15.0% |- | align="right" | 1,500,000円未満 || align="right" | ±300,000円 || align="right" | 30.0% ~ 20.0% |- | align="right" | 2,000,000円未満 || align="right" | ±400,000円 || align="right" | 26.7% ~ 20.0% |- | align="right" | 3,000,000円未満 || align="right" | ±500,000円 || align="right" | 25.0% ~ 16.7% |- | align="right" | 5,000,000円未満 || align="right" | ±700,000円 || align="right" | 23.3% ~ 14.0% |- | align="right" | 7,000,000円未満 || align="right" | ±1,000,000円 || align="right" | 20.0% ~ 14.3% |- | align="right" | 10,000,000円未満 || align="right" | ±1,500,000円 || align="right" | 21.4% ~ 15.0% |- | align="right" | 15,000,000円未満 || align="right" | ±3,000,000円 || align="right" | 30.0% ~ 20.0% |- | align="right" | 20,000,000円未満 || align="right" | ±4,000,000円 || align="right" | 26.7% ~ 20.0% |- | align="right" | 30,000,000円未満 || align="right" | ±5,000,000円 || align="right" | 25.0% ~ 16.7% |- | align="right" | 50,000,000円未満 || align="right" | ±7,000,000円 || align="right" | 23.3% ~ 14.0% |- | align="right" | 50,000,000円以上 || align="right" | ±10,000,000円 || align="right" | 20.0% ~ {{0|00.0}}% |} === 特例措置 === ==== 値幅制限の拡大 ==== 特例として、一定の条件を満たした上でストップ高/ストップ安が2日連続で続いた場合は、値幅制限を4倍とする拡大措置が取られる。 以下の条件を満たした上で2日連続ストップ高となった場合、上限値幅のみ4倍に拡大される。逆に、同様の条件を満たした上で2日連続ストップ安となった場合は、下限値幅のみ4倍に拡大される。 {| class="wikitable" !条件 |- |2日連続ストップ高/ストップ安を記録し、かつ以下のどちらかが該当していること *2日間の出来高がゼロである *2日間のうちに出来高があるものの、すべて午後立会終了時に成立した売買によるものである |} 拡大措置が発動された日以降は、ストップ値段以外の値段で売買が成立した場合に措置が解除され、翌営業日より通常の値幅制限に戻される。 ==== 整理銘柄 ==== 経営破綻([[破産法]]・[[会社更生法]]・[[民事再生法]]の申請)や、重大な不祥事により[[整理銘柄]]に指定された銘柄は、指定された日の翌々営業日より、下限値幅のみ撤廃する措置がとられる。 この撤廃措置は、最初に約定した日の翌営業日に解除され、通常の値幅制限に戻される。 ==== 新規上場銘柄 ==== 新規上場銘柄(IPO)においては、上場初日は公募価格を基準価格とし、その基準価格の4倍を上限、基準価格の1/4倍を下限として制限する。 上場初日に初値がつかなかった場合は、その日の最終気配値を基準価格とし、翌営業日も上記と同様の取り扱いとなる。 初値がついた時点で上記の値幅制限は終了し、初値を基準価格とした通常の値幅制限が適用される(翌営業日からではなく、初値がついた瞬間から適用される)。 ==== 値幅制限の縮小 ==== 社会情勢の混乱などで大暴落が予想されるときには、値幅制限の縮小といった臨時措置がとられる事がある。 直近では、[[アメリカ同時多発テロ事件]]が発生した翌日の[[2001年]][[9月12日]]より3日間、東証の値幅制限が当時の通常値幅の1/2に縮小された。 === 値幅制限に関する記録 === ;連続ストップ高記録(終値ベース) *[[フィスコ]] - 18日連続(2009年2月2日 - 2月26日) ;連続ストップ安記録(終値ベース) *[[光通信 (企業)|光通信]] - 20日連続(2000年3月31日 - 4月27日) == 日本以外の証券市場 == *[[ニューヨーク証券取引所]]:値幅制限なし *[[NASDAQ]]:値幅制限なし *[[ロンドン証券取引所]]:値幅制限なし *[[フランクフルト証券取引所]]:値幅制限なし *[[ユーロネクスト]]:値幅制限なし *[[韓国証券取引所]]:30% *[[上海証券取引所]]:10% *[[深圳証券取引所]]:10% *[[台湾証券取引所]]:10% *[[香港証券取引所]]:値幅制限なし *[[タイ証券取引所]]:30% *[[マレーシア証券取引所]]:30% == 関連項目 == *[[株価]] *[[呼び値]] *[[証券取引所]] *[[サーキットブレーカー制度]] {{DEFAULTSORT:ねははせいけん}} [[Category:株式市場]]
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呼び値
呼び値(よびね)とは、主に株式や債券を取引所で取引する際に、意思表示された取引の希望価格のことである。特にいくらで買うという買い注文の呼び値を買い呼び値、いくらで売るという売り注文の呼び値を売り呼び値と表現する。 証券取引所での株取引においては株価に応じた呼び値単位が定められており、この単位より細かい価格の指定はできない。例えば呼び値単位が100円の価格帯では、52,000円の次は52,100円であり、52,050円といった価格では取引できない。 呼び値の刻みはシステムの改良に伴い、呼び値が小さくなる方向へ、変更されてきている。最近では2008年7月22日、2010年1月4日、2014年1月14日、7月22日に改正が行われた。 特に2014年1月14日および7月22日の改正では大規模銘柄であるTOPIX100銘柄(TOPIX Core30銘柄にTOPIX Large70銘柄を加えたもの)に限って変更された(その他の銘柄は変更はなし)。また、7月22日の改正はTOPIX100銘柄の1000円以下の銘柄が10銭単位、5000円以下の銘柄が50銭単位の呼び値という銭単位の呼び値を導入した。 (TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし) (TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし)
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呼び値(よびね)とは、主に株式や債券を取引所で取引する際に、意思表示された取引の希望価格のことである。特にいくらで買うという買い注文の呼び値を買い呼び値、いくらで売るという売り注文の呼び値を売り呼び値と表現する。 証券取引所での株取引においては株価に応じた呼び値単位が定められており、この単位より細かい価格の指定はできない。例えば呼び値単位が100円の価格帯では、52,000円の次は52,100円であり、52,050円といった価格では取引できない。 呼び値の刻みはシステムの改良に伴い、呼び値が小さくなる方向へ、変更されてきている。最近では2008年7月22日、2010年1月4日、2014年1月14日、7月22日に改正が行われた。 特に2014年1月14日および7月22日の改正では大規模銘柄であるTOPIX100銘柄に限って変更された(その他の銘柄は変更はなし)。また、7月22日の改正はTOPIX100銘柄の1000円以下の銘柄が10銭単位、5000円以下の銘柄が50銭単位の呼び値という銭単位の呼び値を導入した。
'''呼び値'''('''よびね''')とは、主に[[株式]]や[[債券]]を取引所で取引する際に、意思表示された取引の希望価格のことである。特にいくらで買うという買い注文の呼び値を'''買い呼び値'''、いくらで売るという売り注文の呼び値を'''売り呼び値'''と表現する。 [[証券取引所]]での株取引においては[[株価]]に応じた'''呼び値単位'''が定められており、この単位より細かい価格の指定はできない。例えば呼び値単位が100円の価格帯では、52,000円の次は52,100円であり、52,050円といった価格では取引できない。 呼び値の刻みはシステムの改良に伴い、呼び値が小さくなる方向へ、変更されてきている。最近では[[2008年]][[7月22日]]、[[2010年]][[1月4日]]、[[2014年]][[1月14日]]、[[7月22日]]に改正が行われた。 特に2014年1月14日および7月22日の改正では大規模銘柄であるTOPIX100銘柄([[TOPIX Core30]]銘柄に[[TOPIX Large70]]銘柄を加えたもの)に限って変更された(その他の銘柄は変更はなし)。また、7月22日の改正はTOPIX100銘柄の1000円以下の銘柄が10銭単位、5000円以下の銘柄が50銭単位の呼び値という[[銭]]単位の呼び値を導入した。 == 上場株式の現行呼び値単位 == (TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし) {| class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan="2" style="text-align:center"|株価!!colspan="2" style="text-align:center"|呼び値 |- !TOPIX100構成銘柄!!その他の銘柄 |- |〜1,000円||0.1円||rowspan="2"|1円 |- |1,000.5〜3,000円||rowspan="2"|0.5円 |- |3,000.5〜5,000円||5円 |- |5,001〜10,000円||1円||rowspan="2"|10円 |- |10,005〜30,000円||rowspan="2"|5円 |- |30,005〜50,000円||50円 |- |50,010〜100,000円||10円||rowspan="2"|100円 |- |100,050〜300,000円||rowspan="2"|50円 |- |300,050〜500,000円||500円 |- |500,100〜1,000,000円||100円||rowspan="2"|1,000円 |- |1,000,500〜3,000,000円||rowspan="2"|500円 |- |3,000,500〜5,000,000円||5,000円 |- |5,001,000〜10,000,000円||1,000円||rowspan="2"|10,000円 |- |10,005,000〜30,000,000円||rowspan="2"|5,000円 |- |30,005,000〜50,000,000円||50,000円 |- |50,010,000円〜||10,000円||100,000円 |} == 上場株式の過去の呼び値単位 == === 2008年7月18日までの呼び値 === {| class="wikitable" style="text-align:right" !style="text-align:center"|株価!!style="text-align:center"|呼び値単位 |- |〜2,000円||1円 |- |2,005〜3,000円||5円 |- |3,010〜30,000円||10円 |- |30,050〜50,000円||50円 |- |50,100〜100,000円||100円 |- |101,000〜1,000,000円||1,000円 |- |1,010,000〜20,000,000円||10,000円 |- |20,050,000〜30,000,000円||50,000円 |- |30,100,000円〜||100,000円 |} === 2009年12月30日までの呼び値 === {| class="wikitable" style="text-align:right" !style="text-align:center"|株価!!style="text-align:center"|呼び値単位 |- |〜2,000円||1円 |- |2,005〜3,000円||5円 |- |3,010〜30,000円||10円 |- |30,050〜50,000円||50円 |- |50,100〜300,000円||100円 |- |301,000〜3,000,000円||1,000円 |- |3,010,000〜20,000,000円||10,000円 |- |20,050,000〜30,000,000円||50,000円 |- |30,100,000円〜||100,000円 |} === 2014年1月10日までの呼び値 === {| class="wikitable" style="text-align:right" !style="text-align:center"|株価!!style="text-align:center"|呼び値単位 |- |〜3,000円||1円 |- |3,005〜5,000円||5円 |- |5,010〜30,000円||10円 |- |30,050〜50,000円||50円 |- |50,100〜300,000円||100円 |- |300,500〜500,000円||500円 |- |501,000〜3,000,000円||1,000円 |- |3,005,000〜5,000,000円||5,000円 |- |5,010,000〜30,000,000円||10,000円 |- |30,050,000〜50,000,000円||50,000円 |- |50,100,000円〜||100,000円 |} === 2014年7月18日までの呼び値 === (TOPIX100構成銘柄のみの変更・「その他の銘柄」は変更なし) {| class="wikitable" style="text-align:right" !rowspan="2" style="text-align:center"|株価!!colspan="2" style="text-align:center"|呼び値 |- !TOPIX100構成銘柄!!その他の銘柄 |- |〜3,000円||rowspan="3"|1円||1円 |- |3,001〜5,000円||5円 |- |5,001〜10,000円||rowspan="2"|10円 |- |10,005〜30,000円||rowspan="2"|5円 |- |30,005〜50,000円||50円 |- |50,010〜100,000円||10円||rowspan="2"|100円 |- |100,050〜300,000円||rowspan="2"|50円 |- |300,050〜500,000円||500円 |- |500,100〜1,000,000円||100円||rowspan="2"|1,000円 |- |1,000,500〜3,000,000円||rowspan="2"|500円 |- |3,000,500〜5,000,000円||5,000円 |- |5,001,000〜10,000,000円||1,000円||rowspan="2"|10,000円 |- |10,005,000〜30,000,000円||rowspan="2"|5,000円 |- |30,005,000〜50,000,000円||50,000円 |- |50,010,000円〜||10,000円||100,000円 |} {{DEFAULTSORT:よひね}} [[Category:金融市場]]
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配当
配当(はいとう)とは、金銭等を「割り当てて配ること」あるいは「割り当てて配られたもの」をいう。会社や保険、ギャンブル(賭博)、破産手続、民事執行手続等で用いられる。 企業における配当とは、企業が経営活動の結果として獲得した利益を出資者あるいは株主に分配することをいう。 米国法でも株主には利益配当請求権(Right for receive dividends)がある。distribution (分配) との用語を用いる州法もある (例 : カルフォルニア会社法)。 また、米国法で株主に対して株式が無償発行されるケースには株式分割(stock splits)と株式配当(stock dividends)がある。株式配当は現金の代わりに株主の保有する株式に応じて無償で株式を交付する利益配当である。株式分割も株式配当も追加の払い込みを必要としない。 なお、米国法には資本を取り崩して配当を行う清算配当(liquidation dividends)の制度があり、これは実質的には資本の払戻しにあたる。 日本法では、社員(株主)が利益配当請求権(剰余金配当請求権、105条1項1号、621条1項)に基づいて受け取ることができる利益の分配のことである。株式会社は、その株主に対し、剰余金の配当をすることができる(453条)。配当は、会社の利益を源泉として支払われるものであるため、その内容は一定ではない。赤字で利益のない期や、あっても少なく内部留保を厚くしたい場合には無配、すなわち配当が支払われない場合がある。 原則として配当は株主総会の決議によって決定される(454条1項)。 ただし、以下の場合には、定款で定めることによって取締役会によって配当を決定することが可能である。 株券で支払う株式配当については、日本の会社法では配当財産が現金以外である場合が存在すること(現物配当)を明示的に認めているものの、株式、社債及び新株予約権は対象から除いている(会社法454条1項1号、4項)。かつては現金配当のかわりに株式(新株)自体を配当として株主に配る株式配当があった(実質的には現行法の株式分割に相当する)。なお、日本で額面株式が存在していた時代は、株式の額面額を配当する額面配当と呼ばれるものも存在した。 生命保険・損害保険において配当とは、契約者が支払った保険料のうち、実際の保険運営において生じた余剰を契約者に返還するものを言う。保険株式会社では契約者配当と呼ぶのに対し、保険相互会社では社員配当と呼ぶ。 生命保険の場合、配当は以下の5つに区分できる。 ただし、1990年代〜2000年代には予定利率(当初見積もった資金の運用利率)を下回る運用環境が続いたことから、配当金がほとんど支払われない場合も多かった。そのため当初より配当を支払わない事にし、その分保険料額を引き下げた「無配当保険」や、利差配当に関してのみ配当を支払う「利差配当保険(準有配当保険)」も現れている。 なお、本来は配当金が支払われるべきはずである契約であったにもかかわらず、不当に支払われなかった事案が一部の保険会社で明らかになっている。 ギャンブルにおける的中に対しての払戻を配当と呼ぶ。払戻金の事を配当金とも呼ぶ。 配当金を決める方式には2通りあり、それぞれ と呼ばれる。 日本の公営競技における投票券およびスポーツ振興くじではパリミュチュエル方式が採用され、配当金(払戻金)は、的中券100円分に対する金額で表現される。 破産手続きにおける配当とは、破産者の財団を換価して得られた金銭を、破産債権者にその債権の額に応じて分配することをいう。 民事執行手続きにおける配当とは、債務者の財産を換価した後、その売却代金を各債権者に対し分配することをいう。債権者が2人以上で、かつ売却代金で各債権者の債権及び執行費用の全部を弁済することができない場合に実施される(民事執行法84条1項)。
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配当(はいとう)とは、金銭等を「割り当てて配ること」あるいは「割り当てて配られたもの」をいう。会社や保険、ギャンブル(賭博)、破産手続、民事執行手続等で用いられる。
{{加筆|欧州における配当|date=2019年10月}} {{出典の明記|date=2011年9月}} '''配当'''(はいとう)とは、金銭等を「割り当てて配ること」あるいは「割り当てて配られたもの」をいう。[[会社]]や[[保険]]、ギャンブル([[賭博]])、[[破産|破産手続]]、[[民事執行法|民事執行手続]]等で用いられる。 [[File:Greyhound stock certificate.jpg|thumb|[[1936年]]に発行された[[米国]][[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド・ラインズ]]の株式を保有する権利を与える[[株券]]]] == 企業における配当 == === 概説 === 企業における配当とは、企業が経営活動の結果として獲得した利益を出資者あるいは株主に分配することをいう<ref name="otsuki428">『大月金融事典』大月書店、2002年、428頁</ref>。 ;配当の種類 :配当の内容により、資金で支払う現金配当や株券で支払う株式配当などがある<ref name="otsuki428" />。 :配当の時期では、一般の'''「普通配当」'''、特別に増益した期に増額する'''「特別配当」'''、創立記念や上場記念として増額する'''「記念配当」'''などがある。 ;配当の変更 :配当を予定していたのに無配に変更することを'''無配転落'''という。逆に無配の会社が配当を出すことに変更することを'''「復配」'''という。また、配当を減らす場合は'''「減配」'''、増やす場合は'''「増配」'''と言う。 ;配当利回り :[[配当利回り]]とは、1株あたりの配当を[[株価]]で割ったもの。[[預金|預貯金]]で言う[[金利]]と類似しているが、支払われ方等が大いに異なる。 ;配当性向 :[[配当性向]]とは、配当で支払う金額を[[利益|当期利益]]で割ったものを[[パーセント|百分率]]で示したもの。配当利回りが高くても、この値が高いと減配や、場合によっては無配転落も心配される。 {{会計}} === 米国法における配当 === 米国法でも株主には利益配当請求権('''Right for receive dividends''')がある<ref>杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、478頁</ref>。distribution (分配) との用語を用いる州法もある (例 : カルフォルニア会社法)。 また、米国法で株主に対して株式が無償発行されるケースには株式分割('''stock splits''')と株式配当('''stock dividends''')がある<ref>杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、464頁</ref>。株式配当は現金の代わりに株主の保有する株式に応じて無償で株式を交付する利益配当である<ref>杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、464-465頁</ref>。株式分割も株式配当も追加の払い込みを必要としない<ref name="sugiura465">杉浦秀樹『米国ビジネス法』中央経済社、2007年、465頁</ref>。 なお、米国法には資本を取り崩して配当を行う清算配当('''liquidation dividends''')の制度があり、これは実質的には資本の払戻しにあたる<ref name="sugiura465" />。 === 日本法における配当 === {{law|section=1}} * この節で、[[日本]]の[[会社法]]については条名のみ記載する。 日本法では、[[社員]]([[株主]])が[[利益配当請求権]]([[剰余金]]配当請求権、[[b:会社法第105条|105条]]1項1号、621条1項)に基づいて受け取ることができる利益の分配のことである。[[株式会社]]は、その株主に対し、剰余金の配当をすることができる(453条)。配当は、会社の利益を源泉として支払われるものであるため、その内容は一定ではない。[[黒字と赤字|赤字]]で利益のない期や、あっても少なく[[内部留保]]を厚くしたい場合には'''無配'''、すなわち配当が支払われない場合がある。 原則として配当は[[株主総会]]の決議によって決定される(454条1項)。 ただし、以下の場合には、定款で定めることによって取締役会によって配当を決定することが可能である。 * 会社法に定められた要件を満たす会計監査人設置会社での配当の場合 *:会計監査人設置会社(取締役(監査等委員会設置会社にあっては、監査等委員である取締役以外の取締役)の任期の末日が選任後1年以内に終了する事業年度のうち最終のものに関する定時株主総会の終結の日後の日であるもの及び監査役設置会社であって監査役会設置会社でないものを除く。)での配当(459条1項4号)。 *:ただし、配当財産が金銭以外の財産であり、かつ、株主に対して金銭分配請求権を与えないこととする場合を除く(459条1項4号)。 * 中間配当の場合 *:中間配当とは、事業年度を1年とする会社([[取締役会設置会社]])が、事業年度中につき1回に限り一定の日を定めてその日における株主に対して[[取締役会]]の決議により行う金銭の分配をいう([[b:会社法第454条|454条]]5項)。これをなすには定款の定めが必要となる。 株券で支払う株式配当については、日本の会社法では配当財産が現金以外である場合が存在すること(現物配当)を明示的に認めているものの、株式、社債及び新株予約権は対象から除いている([[b:会社法第454条|会社法454条]]1項1号、4項)。かつては現金配当のかわりに株式(新株)自体を配当として株主に配る株式配当があった(実質的には現行法の[[株式分割]]に相当する)。なお、日本で額面株式が存在していた時代は、株式の額面額を配当する'''額面配当'''と呼ばれるものも存在した。 ==保険における配当== [[生命保険]]・[[損害保険]]において'''配当'''とは、契約者が支払った保険料のうち、実際の保険運営において生じた余剰を契約者に返還するものを言う。保険株式会社では契約者配当と呼ぶのに対し、保険相互会社では社員配当と呼ぶ。 生命保険の場合、配当は以下の5つに区分できる。 * 通常配当 ** 費差配当 - 会社の運営にかかる費用が、当初の見積もりより低かった場合の配当 ** 死差配当 - 実際の契約者死亡率(保険金支払い率)が、当初の見積もりより低かった場合の配当 ** 利差配当 - 保険金の運用利率が、当初の予想を上回った場合の配当 * 特別配当 - 10年以上の契約期間を有する保険に対して、特別に支払われる配当 ** 長期継続特別配当 - 10年以上契約が継続している契約に対して支払われる。ラムダ配当 ** 消滅時特別配当 - 10年以上契約が継続した契約に対して、契約が消滅した際に支払われる。ミュー配当 ただし、1990年代〜2000年代には[[予定利率]](当初見積もった資金の運用利率)を下回る運用環境が続いたことから、配当金がほとんど支払われない場合も多かった。そのため当初より配当を支払わない事にし、その分保険料額を引き下げた「無配当保険」や、利差配当に関してのみ配当を支払う「利差配当保険(準有配当保険)」も現れている。 なお、本来は配当金が支払われるべきはずである契約であったにもかかわらず、不当に支払われなかった事案が一部の保険会社で明らかになっている<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20060626mh05.htm]</ref>。 ==ギャンブルにおける配当== ギャンブルにおける的中に対しての払戻を'''配当'''と呼ぶ。払戻金の事を配当金とも呼ぶ。 配当金を決める方式には2通りあり、それぞれ # [[ブックメーカー方式]] # [[パリミュチュエル方式]] と呼ばれる。 日本の[[公営競技]]における[[投票券 (公営競技)|投票券]]および[[スポーツ振興くじ]]ではパリミュチュエル方式が採用され、配当金(払戻金)は、的中券100円分に対する金額で表現される。 ==破産手続きにおける配当== 破産手続きにおける'''配当'''とは、破産者の財団を換価して得られた金銭を、破産債権者にその債権の額に応じて分配することをいう。 {{main|配当 (破産)}} == 民事執行手続きにおける配当 == 民事執行手続きにおける'''配当'''とは、債務者の財産を換価した後、その売却代金を各債権者に対し分配することをいう。債権者が2人以上で、かつ売却代金で各債権者の債権及び執行費用の全部を弁済することができない場合に実施される(民事執行法84条1項)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === <references/> ==関連項目== {{Wiktionary}} * [[株式]] * [[配当落ち]] * [[配当金領収証]] * [[配当控除]] * [[権利確定日]] * [[権利落ち日]] * [[蛸配当]] * [[みなし配当]] * [[民事執行法]](差押における配当要求の根拠法) * [[供託]] (民事執行法第166条に規程されている、配当等を実施しなければならない理由) == 外部リンク == * {{コトバンク}} {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:はいとう}} [[Category:ファンダメンタル分析]] [[Category:保険]] [[Category:賭博]] [[Category:法]] [[Category:配当|*]]
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無配
無配(むはい)
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無配(むはい) 株式などの配当がないこと。 無料配布、無料配信の略語。 無配生殖(アポガミー) - 無融合生殖(アポミクシス)も参照。
'''無配'''(むはい) * [[株式]]などの[[配当]]がないこと。 * [[無料]][[wikt:配布|配布]]、無料[[配信]]の[[略語]]。 * {{仮リンク|無配生殖|en|apogamy}}([[アポガミー]]) - [[無融合生殖]](アポミクシス)も参照。 {{aimai}} {{DEFAULTSORT:むはい}}
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株券
株券(かぶけん)は株式会社の株主が持つ株式を表章する有価証券のことである。 株券の作成方法としては、証券印刷会社に委託して作成する方法と、市販の株券用紙にチェックライター等で株数その他の必要的記載事項を記載する方法がある。大企業では前者の方法を採るが、小さな企業ではコスト面から後者を選択することも多い。さらに、実際は株券不所持制度を利用し、実体としての株券を発行しないことがほとんどである。また、株式の譲渡を定款で制限しているような会社については違法を承知で株券自体を発行しないこともあったといわれる。 2009年の株券電子化までは、証券取引所において株式が取引される、即ち上場の条件として、偽造変造防止の観点から、発行される株券(但し、証券取引所における流通単位である1株券または1単元株券のみ)が、各証券取引所において十分な管理組織を有していると確認された印刷会社において印刷され、かつ各取引所において定める様式に適合する株券(適合株券)であることを要していた。そのため、高度な印刷技術と厳しい管理体制を有する一部の印刷会社において株券を印刷することが義務づけられていた。 株券を証券という観点から見た場合、「物的証券」・「利潤証券」・「支配証券」という三つの異なる側面を持つと言える。 会社法について以下では、条名のみ記載する。 2003年(平成15年)9月、法制審議会で全面的な「株券不発行制度」を導入するための商法等の改正案の要綱がまとめられた。2004年(平成16年)6月には「株式等の取引に係る決済の合理化を図るための社債等の振替に関する法律等の一部を改正する法律」(この改正法の中において「商法」「社債等の振替に関する法律」(改正後の名称は「社債、株式等の振替に関する法律」)などの法律が改正された)の改正が成立し、証券取引所に上場している株式会社は、2009年(平成21年)1月1日に一斉に「株券不発行制度」に移行した(株券の電子化と呼ばれる)。 「ほふり」(株式会社証券保管振替機構)に株券が預託され、登録された株券については、そのまま新しい振替制度に移行された。株券を「ほふり」に預託しなくとも株主名簿において、名義が本人名義に書き換えられていれば権利を失うことはないが、株券が手元にあり、かつ株主名簿の書換えをしないまま2009年1月1日を迎えた場合、株券に係る権利を失った。 2005年(平成17年)に成立した会社法においては、全ての株式会社につき、定款で株券を発行する旨の記載がない限り、株券を発行しなくてもよいこととされた(214条)。株券を発行すると定款で定めている株式会社のことを特に株券発行会社とよぶ。ただし、経過措置として、会社法施行時(2006年5月1日)に株券不発行の定めをしていない会社については、その会社の定款において株券を発行する旨の定めがあるものとみなされた(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律76条4項)。 株券発行会社は、株式を発行した日以後遅滞なく、当該株式に係る株券を発行しなければならない(215条1項)、また、株式の併合、分割をしたときは、その効力を生ずる日以後遅滞なく、併合、分割した株式に係る株券を発行しなければならない(215条2項3項)。 公開会社でない株券発行会社は、株主から請求がある時までは、これらの規定の株券を発行しないことができる(215条4項)。 会社の商号、株数、株券の番号、株式の内容(普通株式か、種類株式であるか)、代表取締役の署名、などを記載することが要求される(216条)。 株主権の移転(株式の譲渡)は株券の交付のみにより、株券の占有者は適法の所持人と推定される(131条第2項)。会社は、株券を提示され名義書き換えを求められた場合、正当な理由のない限り、これを拒否することはできない。また、株券を紛失または盗取され、それが第三者に善意取得される可能性があり(旧商法229条)、善意取得されると、株主名簿の記載有無にかかわらず当該株券記載の権利を失うこととなる。即ち、株券は、有価証券法理の支配する証券流通の領域では完全な無記名証券である(竹内昭夫「会社法講義」参照)。 株券を購入したり譲り受けたりしただけでは株主権を行使するにおいて、発行会社に対抗することはできない。名義書換の手続きを行い、発行会社の株主名簿に氏名、住所、持ち株数を記載する必要がある。この手続きを忘れていた株式は失念株と呼ばれ、旧株主と新株主の間で新たに割り当てられた新株の所有権等をめぐって、トラブルになることがあったが、株券電子化により2009年1月1日以降の譲渡については問題は生じない。また2008年までも株券保管振替制度を利用すれば、名義書換の必要はなかった。 商法施行来、株券を紛失または盗取された株主は他の有価証券の権利者と同様、非訟事件手続法に定められた公示催告手続の下、除権判決により権利の回復を図らざるをえなかったが、善意取得を阻止できないなどその実効性が薄かったため、2002年(平成14年)改正商法において、株券失効制度が導入された。しかしながら、株券失効制度によっても、(1)株主が確定的に権利を回復するまで1年を要する (2)株券の移転による善意取得を阻止することが困難である、等の不備は、株式の譲渡を株券による限り回避しえず、抜本的な解決策が求められた。 このため。2005年に成立した会社法において株券喪失登録簿制度が規定されている(221条~232条)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "株券(かぶけん)は株式会社の株主が持つ株式を表章する有価証券のことである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "株券の作成方法としては、証券印刷会社に委託して作成する方法と、市販の株券用紙にチェックライター等で株数その他の必要的記載事項を記載する方法がある。大企業では前者の方法を採るが、小さな企業ではコスト面から後者を選択することも多い。さらに、実際は株券不所持制度を利用し、実体としての株券を発行しないことがほとんどである。また、株式の譲渡を定款で制限しているような会社については違法を承知で株券自体を発行しないこともあったといわれる。", "title": "実体としての株券" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2009年の株券電子化までは、証券取引所において株式が取引される、即ち上場の条件として、偽造変造防止の観点から、発行される株券(但し、証券取引所における流通単位である1株券または1単元株券のみ)が、各証券取引所において十分な管理組織を有していると確認された印刷会社において印刷され、かつ各取引所において定める様式に適合する株券(適合株券)であることを要していた。そのため、高度な印刷技術と厳しい管理体制を有する一部の印刷会社において株券を印刷することが義務づけられていた。", "title": "実体としての株券" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "株券を証券という観点から見た場合、「物的証券」・「利潤証券」・「支配証券」という三つの異なる側面を持つと言える。", "title": "有価証券としての株券" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "会社法について以下では、条名のみ記載する。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2003年(平成15年)9月、法制審議会で全面的な「株券不発行制度」を導入するための商法等の改正案の要綱がまとめられた。2004年(平成16年)6月には「株式等の取引に係る決済の合理化を図るための社債等の振替に関する法律等の一部を改正する法律」(この改正法の中において「商法」「社債等の振替に関する法律」(改正後の名称は「社債、株式等の振替に関する法律」)などの法律が改正された)の改正が成立し、証券取引所に上場している株式会社は、2009年(平成21年)1月1日に一斉に「株券不発行制度」に移行した(株券の電子化と呼ばれる)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "「ほふり」(株式会社証券保管振替機構)に株券が預託され、登録された株券については、そのまま新しい振替制度に移行された。株券を「ほふり」に預託しなくとも株主名簿において、名義が本人名義に書き換えられていれば権利を失うことはないが、株券が手元にあり、かつ株主名簿の書換えをしないまま2009年1月1日を迎えた場合、株券に係る権利を失った。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "2005年(平成17年)に成立した会社法においては、全ての株式会社につき、定款で株券を発行する旨の記載がない限り、株券を発行しなくてもよいこととされた(214条)。株券を発行すると定款で定めている株式会社のことを特に株券発行会社とよぶ。ただし、経過措置として、会社法施行時(2006年5月1日)に株券不発行の定めをしていない会社については、その会社の定款において株券を発行する旨の定めがあるものとみなされた(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律76条4項)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "株券発行会社は、株式を発行した日以後遅滞なく、当該株式に係る株券を発行しなければならない(215条1項)、また、株式の併合、分割をしたときは、その効力を生ずる日以後遅滞なく、併合、分割した株式に係る株券を発行しなければならない(215条2項3項)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "公開会社でない株券発行会社は、株主から請求がある時までは、これらの規定の株券を発行しないことができる(215条4項)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "会社の商号、株数、株券の番号、株式の内容(普通株式か、種類株式であるか)、代表取締役の署名、などを記載することが要求される(216条)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "株主権の移転(株式の譲渡)は株券の交付のみにより、株券の占有者は適法の所持人と推定される(131条第2項)。会社は、株券を提示され名義書き換えを求められた場合、正当な理由のない限り、これを拒否することはできない。また、株券を紛失または盗取され、それが第三者に善意取得される可能性があり(旧商法229条)、善意取得されると、株主名簿の記載有無にかかわらず当該株券記載の権利を失うこととなる。即ち、株券は、有価証券法理の支配する証券流通の領域では完全な無記名証券である(竹内昭夫「会社法講義」参照)。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "株券を購入したり譲り受けたりしただけでは株主権を行使するにおいて、発行会社に対抗することはできない。名義書換の手続きを行い、発行会社の株主名簿に氏名、住所、持ち株数を記載する必要がある。この手続きを忘れていた株式は失念株と呼ばれ、旧株主と新株主の間で新たに割り当てられた新株の所有権等をめぐって、トラブルになることがあったが、株券電子化により2009年1月1日以降の譲渡については問題は生じない。また2008年までも株券保管振替制度を利用すれば、名義書換の必要はなかった。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "商法施行来、株券を紛失または盗取された株主は他の有価証券の権利者と同様、非訟事件手続法に定められた公示催告手続の下、除権判決により権利の回復を図らざるをえなかったが、善意取得を阻止できないなどその実効性が薄かったため、2002年(平成14年)改正商法において、株券失効制度が導入された。しかしながら、株券失効制度によっても、(1)株主が確定的に権利を回復するまで1年を要する (2)株券の移転による善意取得を阻止することが困難である、等の不備は、株式の譲渡を株券による限り回避しえず、抜本的な解決策が求められた。", "title": "日本の会社法での株券" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "このため。2005年に成立した会社法において株券喪失登録簿制度が規定されている(221条~232条)。", "title": "日本の会社法での株券" } ]
株券(かぶけん)は株式会社の株主が持つ株式を表章する有価証券のことである。
{{出典の明記|date=2019年6月}} '''株券'''(かぶけん)は[[株式会社]]の[[株主]]が持つ[[株式]]を表章する[[有価証券]]のことである。 [[File:Greyhound stock certificate.jpg|thumb|[[1936年]]に発行された[[米国]][[グレイハウンド (バス)|グレイハウンド・ラインズ]]の株式を保有する権利を与える株券]] ==実体としての株券== 株券の作成方法としては、証券印刷会社に委託して作成する方法と、市販の株券用紙に[[チェックライター]]等で株数その他の必要的記載事項を記載する方法がある。大企業では前者の方法を採るが、小さな企業ではコスト面から後者を選択することも多い。さらに、実際は株券不所持制度を利用し、実体としての株券を発行しないことがほとんどである。また、株式の譲渡を定款で制限しているような会社については違法を承知で株券自体を発行しないこともあったといわれる。 2009年の株券電子化までは、[[証券取引所]]において株式が取引される、即ち[[上場]]の条件として、偽造変造防止の観点から、発行される株券(但し、証券取引所における流通単位である1株券または1[[単元株]]券のみ)が、各証券取引所において十分な管理組織を有していると確認された印刷会社において印刷され、かつ各取引所において定める様式に適合する株券(適合株券)であることを要していた。そのため、高度な印刷技術と厳しい管理体制を有する一部の印刷会社<ref>例えば[[東京証券取引所]]においては、[[大日本印刷]](株)、[[凸版印刷]](株)、[[共同印刷]](株)、[[プロネクサス]](株)、[[瀬味証券印刷]](株)、[[昌栄印刷]](株)、[[図書印刷]](株)、[[サンメッセ]](株)及び[[国立印刷局]]。</ref>において株券を印刷することが義務づけられていた。 ==有価証券としての株券== 株券を証券という観点から見た場合、「物的証券」・「利潤証券」・「支配証券」という三つの異なる側面を持つと言える。 ;物的証券 :株主の持つ[[残余財産分配請求権]]に着目した場合、株式は会社の[[資産]]を分割したものであるから物的証券であると考えられる。 ;利潤証券 :株主の持つ[[利益配当請求権]]に着目した場合、株式は配当という利潤を生む証券であるから利潤証券であると考えられる。このため[[理論株価]]には、将来にわたって期待できる(利率を考慮した)配当の総額が含まれる。 ;支配証券 :株主の持つ[[経営参加権]]に着目した場合、株式は[[株主の議決権|議決権]]を行使して会社を支配するものであるから支配証券であると考えられる。 ==日本の会社法での株券== {{law|section=1}} [[会社法]]について以下では、条名のみ記載する。 ===株券不発行制度と株券不発行の原則化=== [[2003年]](平成15年)[[9月]]、法制審議会で全面的な「株券不発行制度」を導入するための商法等の改正案の要綱がまとめられた。[[2004年]]([[平成]]16年)[[6月]]には「株式等の取引に係る決済の合理化を図るための社債等の振替に関する法律等の一部を改正する法律」(この改正法の中において「商法」「社債等の振替に関する法律」(改正後の名称は「社債、株式等の振替に関する法律」)などの法律が改正された)の改正が成立し、[[証券取引所]]に[[上場]]している株式会社は、2009年(平成21年)[[1月1日]]に一斉に「'''株券不発行制度'''」に移行した([[有価証券のペーパーレス化|株券の電子化]]と呼ばれる)。 「ほふり」(株式会社[[証券保管振替機構]])に株券が預託され、登録された株券については、そのまま新しい振替制度に移行された。株券を「ほふり」に預託しなくとも株主名簿において、名義が本人名義に書き換えられていれば権利を失うことはないが、株券が手元にあり、かつ株主名簿の書換えをしないまま2009年1月1日を迎えた場合、株券に係る権利を失った。 2005年(平成17年)に成立した[[会社法]]においては、全ての株式会社につき、定款で株券を発行する旨の記載がない限り、株券を発行しなくてもよいこととされた([[b:会社法第214条|214条]])。株券を発行すると定款で定めている株式会社のことを特に'''[[株券発行会社]]'''とよぶ。ただし、経過措置として、会社法施行時(2006年5月1日)に株券不発行の定めをしていない会社については、その会社の定款において株券を発行する旨の定めがあるものとみなされた(会社法の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律76条4項)。 ===株券の発行=== 株券発行会社は、株式を発行した日以後遅滞なく、当該株式に係る株券を発行しなければならない([[b:会社法第215条|215条]]1項)、また、株式の併合、分割をしたときは、その効力を生ずる日以後遅滞なく、併合、分割した株式に係る株券を発行しなければならない(215条2項3項)。 [[公開会社でない会社|公開会社でない]]株券発行会社は、株主から請求がある時までは、これらの規定の株券を発行しないことができる(215条4項)。 ===株券の記載事項=== [[File:South Manchuria RW 1920.jpg|thumb|400px|[[南満州鉄道|南満州鉄道株式会社]]の株券。<br />商法第225条(削除 会社法第216条が継承)により作成。]] 会社の[[商号]]、株数、株券の番号、株式の内容(普通株式か、種類株式であるか)、[[代表取締役]]の[[署名]]、などを記載することが要求される([[b:会社法第216条|216条]])。 ===株式の譲渡=== 株主権の移転(株式の譲渡)は株券の交付のみにより、株券の[[占有]]者は適法の所持人と[[推定]]される([[b:会社法第131条|131条]]第2項)。会社は、株券を提示され名義書き換えを求められた場合、正当な理由のない限り、これを拒否することはできない。また、株券を紛失または盗取され、それが第三者に[[善意取得]]される可能性があり(旧商法229条)、善意取得されると、株主名簿の記載有無にかかわらず当該株券記載の権利を失うこととなる。即ち、株券は、有価証券法理の支配する証券流通の領域では完全な[[無記名証券]]である([[竹内昭夫]]「会社法講義」参照)。 ===株主名簿と保管振替制度=== 株券を購入したり譲り受けたりしただけでは株主権を行使するにおいて、発行会社に対抗することはできない。名義書換の手続きを行い、発行会社の[[株主名簿]]に氏名、住所、持ち株数を記載する必要がある。この手続きを忘れていた株式は[[失念株]]と呼ばれ、旧株主と新株主の間で新たに割り当てられた新株の所有権等をめぐって、トラブルになることがあったが、株券電子化により2009年1月1日以降の譲渡については問題は生じない。また2008年までも[[証券保管振替制度|株券保管振替制度]]を利用すれば、名義書換の必要はなかった。 ===株券喪失登録制度=== 商法施行来、株券を紛失または盗取された株主は他の有価証券の権利者と同様、[[非訟事件手続法]]に定められた[[公示催告]]手続の下、[[除権決定|除権判決]]により権利の回復を図らざるをえなかったが、[[善意取得]]を阻止できないなどその実効性が薄かったため、[[2002年]](平成14年)改正<ref>商法等の一部を改正する法律(平成14年5月29日法律第44号)</ref>[[商法]]において、[[株券失効制度]]が導入された。しかしながら、株券失効制度によっても、(1)株主が確定的に権利を回復するまで1年を要する (2)株券の移転による善意取得を阻止することが困難である、等の不備は、株式の譲渡を株券による限り回避しえず、抜本的な解決策が求められた。 このため。[[2005年]]に成立した[[会社法]]において'''株券喪失登録簿制度'''が規定されている([[b:会社法第221条|221条]]~[[b:会社法第232条|232条]])。 *株券の無効([[b:会社法第228条|228条]]) *株券喪失登録簿の備置き及び閲覧等([[b:会社法第231条|第231条]]) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.jasdec.com/ 証券保管振替機構] * [https://www.moj.go.jp/SHINGI/030910-2-1.html 法制審議会による株券不発行制度の導入に関する要綱の答申] * [https://web.archive.org/web/20100806000849/http://www.kessaicenter.com/densi/index.html 株券の電子化について](証券決済制度推進センター) * [https://web.archive.org/web/20090503070627/http://www.azsa.or.jp/b_info/letter/52/01.html 株式制度の改正と実務](あずさ監査法人(現有限責任あずさ監査法人)) {{normdaten}} {{DEFAULTSORT:かふけん}} [[Category:日本の株式会社法]] [[Category:株式市場]] [[Category:有価証券]] [[Category:日本の有価証券法]]
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株価指数
株価指数(かぶかしすう、英: stock market index)は、株式の相場の状況を示すために、個々の株価を一定の計算方法で総合し、数値化したものである。狭義には基準値を100または1000とした指数化されたもののみを指すが、広義には平均株価などの指数でない数値のものも含む場合があり、また、株価指数は株式取引の指標として用いられるだけでなく、投資信託のベンチマークや、先物取引やオプション取引の際の原資産としても用いられる。
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'''株価指数'''(かぶかしすう、{{lang-en-short|stock market index}})は、[[株式]]の相場の状況を示すために、個々の[[株価]]を一定の計算方法で総合し、数値化したものである<ref>{{Cite web|和書|title=株価指数とは |url=https://kotobank.jp/word/%E6%A0%AA%E4%BE%A1%E6%8C%87%E6%95%B0-465751 |website=コトバンク |accessdate=2022-03-20 |language=ja |first= |last=}}</ref>。狭義には基準値を100または1000とした[[指数 (経済)|指数]]化されたもののみを指すが、広義には平均株価などの指数でない数値のものも含む場合があり、また、株価指数は株式取引の指標として用いられるだけでなく、[[投資信託]]のベンチマークや、[[先物取引]]や[[オプション取引]]の際の原資産<ref>【SMBC日興証券】[https://www.smbcnikko.co.jp/terms/japan/ka/J0029.html 初めてでもわかりやすい用語集] 2021年10月9日閲覧</ref>としても用いられる。 ==株価指数の種類== *[[時価総額加重平均型株価指数]]([[浮動株基準株価指数]]) *[[株価平均型株価指数]] ==主な株価指数== ===日本=== * 東京証券取引所 **[[東証株価指数]](TOPIX) **[[東証REIT指数]] **[[東証スタンダード市場TOP20]] **[[東証グロース市場250指数]] **TOPIXニューインデックスシリーズ ***[[TOPIX Core30]] ***[[TOPIX Large70]] ***[[TOPIX 100]] ***[[TOPIX Mid400]] ***[[TOPIX 500]] ***[[TOPIX 1000]] ***[[TOPIX Small]] ***[[TOPIX Small500]] **[[東証業種別株価指数]] **[[TOPIX-17シリーズ]] **[[TOPIXスタイルインデックスシリーズ]] * 日本経済新聞社 **[[日経平均株価]](日経225) **[[日経500種平均株価]] **[[JPXプライム150指数]] **[[JPX日経インデックス400]] **[[日経株価指数300]] **[[日経総合株価指数]] **[[JPX日経中小型株指数]] ;かつて日本に存在し廃止された株価指数 * 大阪取引所 **大証300種株価指数 **大証250種修正株価平均 **大証40種修正株価平均 **[[ヘラクレス指数]] ***ヘラクレスグロース ***ヘラクレススタンダード *グリーンシート **[[ERIX]] **[[ERIX Core]] *SBIグループ **ニュージャパン・インデックス * JASDAQ-Bloomberg 指数 **ジャスダック・ブルームバーグマーケットバリューTop50 (JQ-BBG Top50) **ジャスダック・ブルームバーグマーケットバリューTop100 (JQ-BBG Top100) **ジャスダック・ブルームバーグマーケットバリューMiddle400 (JQ-BBG Middle400) **ジャスダック・ブルームバーグLead100 (JQ-BBG Lead100) ===北アメリカ=== *[[S&P 500]]、[[S&P 100]]、[[S&P 500配当貴族指数]] *[[ラッセル3000]]、[[ラッセル2000]] *[[ウィルシャー5000]] *[[ナスダック総合指数|NASDAQ総合指数]]、[[ナスダック100指数]] *[[ダウ平均株価|ニューヨークダウ工業株30種平均株価]]、[[ダウ・ジョーンズ輸送株平均|輸送株平均]]、[[ダウ・ジョーンズ公共株平均|公共株平均]] *[[フィラデルフィア半導体指数]] *[[S&P トロント総合指数]] *[[S&P トロント60指数]] *[[ボルサ指数]] ===南アメリカ=== *[[メルバル指数]] *[[ボベスパ指数]] ===ヨーロッパ=== *[[FTSE100種総合株価指数]] *[[ドイツ株価指数]] *[[CAC 40]] *[[ユーロ・ストックス50指数]] *[[FTSE MIB指数]] *[[IBEX 35]] *[[RTS指数]] *[[MOEXロシア指数]] ===アジア=== *[[上海総合指数]] *[[上海50指数]] *[[深圳総合指数]] *[[深圳成分指数]] *[[CSI300指数]] *[[FTSE中国A50指数]] *[[FTSE中国50指数]] *[[ハンセン中国企業指数]](HSCEI) *[[ハンセン中国レッドチップ指数]](HSCCI) *[[香港ハンセン株価指数]] *[[ストレーツ・タイムス指数|シンガポールST指数]] *[[韓国総合株価指数]](KOSPI) *[[加権指数|台湾加権指数]](TAIEX) *[[SET指数]] *[[ストレーツ・タイムス指数]](ST) *[[フィリピン総合指数]](PSEi) *[[ジャカルタ総合指数]](JCI) *[[S&P BSE SENSEX]] *[[NIFTY 50]] ===オセアニア=== *[[S&P/ASX 200]] *[[S&P/NZX 50]] ===世界=== *[[MSCI指数]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{reflist}} == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{株価指数}}{{証券取引所}} {{DEFAULTSORT:かふかしすう}} [[Category:株式市場|かふかしすう かぶか]] [[Category:株価指数|*かふかしすう]]
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東証株価指数
東証株価指数(とうしょうかぶかしすう)、TOPIX(トピックス、英: TOkyo stock Price IndeX)は、東京証券取引所プライム市場上場株式銘柄や旧:第一部に上場していたスタンダード市場上場株式銘柄を対象として、日本取引所グループ(JPX)の子会社である株式会社JPX総研が1秒毎に、算出・公表している株価指数である。日本経済新聞社が算出している日経平均株価と共に日本株の代表的なベンチマークとして普及している。 「東証株価指数」「TOPIX」ともJPX総研の登録商標(第3031964号)である。 東証株価指数は、東証第一部に上場する株式の時価総額の合計を終値ベースで評価し、基準日である1968年1月4日の時価総額を100として、新規上場・上場廃止・増減資・企業分割などにより修正され、指数化したものである。 日経平均株価に比べ、特定業種と企業の値嵩株の動きによる株価影響を受けない利点を持つ反面、株券の持ち合いにより、時価総額のダブルカウントが起きやすい欠点も有していた。このため、東京証券取引所は、2004年7月に時価総額加重平均型株価指数から浮動株基準株価指数への変更を示唆した。その後、2005年10月31日、2006年2月28日、2006年6月30日の3段階に分けて、東証REIT指数を除く全ての株価指数を、浮動株基準株価指数へ移行させた。 2021年12月21日、JPXは、取引所の運営会社ではない新たな子会社として、金融商品市場に関係するデータ・インデックスサービス及びシステム関連サービスを提供する「株式会社JPX総研」を設立した。翌年4月1日には、株式会社東京証券取引所と株式会社大阪取引所のデータ、デジタル関係事業をJPX総研に承継する会社分割が行われ、東証のシステム開発などを担ってきた東証システムサービスがJPX総研に吸収合併された。これらの組織再編によりJPXのデータ、デジタル関係事業がJPX総研に集約されたため、TOPIXを含む指数の算出サービスはJPX総研のインデックスビジネス部が担当している。 2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(新市場への上場区分は不問、特設注意市場銘柄に指定された銘柄を除く)、同年4月4日以降に東京証券取引所プライム市場へ新規上場もしくは東京証券取引所スタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ市場変更を行った銘柄(特設注意市場銘柄に指定された銘柄を除く)並びに東証株価指数を構成している企業を吸収合併したスタンダード市場上場企業・グロース上場企業で構成される。 銘柄の追加・除外は、以下のルールにのっとって行われる。 (銘柄の追加) (銘柄の除外) 2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(テクニカル上場を行った銘柄や東証株価指数を構成していない企業が東証株価指数構成銘柄を吸収合併した場合も含む、2020年11月1日以降に市場第一部へ新規上場申請を行った銘柄並びに市場第二部・マザーズ・JASDAQから第一部へ上場市場の変更申請を行った銘柄、新市場移行後にプライム市場へ新規上場申請を行った銘柄並びにスタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ上場市場の変更申請を行った銘柄は除く)は、段階的ウエイト低減銘柄の審査対象となり、流通株式時価総額や年間売買代金回転率が段階的ウエイト低減銘柄に抵触した場合は、2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される。 2021年7月9日に、「新市場区分における上場維持基準への適合状況の通知」における1次判定の結果が各上場企業へ通知され、市場第一部上場企業の約3割に当たる664社が、プライム市場に不適合である事が明らかとなった。2022年10月7日に段階的ウエイト低減銘柄が発表され、2168銘柄(プライム1835銘柄、スタンダード333銘柄)中、493銘柄(プライム206銘柄、スタンダード288銘柄)が段階的ウエイト低減銘柄に指定された。指定された上場企業は、2022年10月以降段階的にウエイト低減を行い、2023年10月に実施される再評価において流通株式時価総額が100億円以上で、かつ年間売買代金回転率が0.2回転以上の場合は段階的ウエイト低減銘柄から除外されるが、流通株式時価総額が100億円未満の場合は段階的ウエイト低減銘柄継続となる。 第1回判定は、原則として新市場区分の選択手続における適合状況の二次判定時(ただし、書類の提出が行われなかった場合は一次判定時)の流通株式時価総額を採用し、一律2021年4月から6月までの株価平均を用いて計算する。第2回判定は、各上場企業の事業年度の末日(新市場区分への適合状況の一次判定に用いた決算期の翌期)の流通株式数に事業年度の末日以前3か月間の株価平均を乗じて計算する。 2023年10月6日に段階的ウエイト低減銘柄継続となる銘柄が発表となり、482銘柄中43銘柄が段階的ウエイト低減銘柄から除外されたが、残る439銘柄(プライム166銘柄、スタンダード272銘柄、グロース1銘柄)は2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される。 段階的ウエイト低減銘柄の指定を受けない残りの銘柄は、2025年1月最終営業日以降もそのまま東証株価指数構成銘柄となる。 2023年12月6日現在。下表の銘柄は2025年1月最終営業日に東証株価指数から除外される。段階的ウェイト低減銘柄に指定されている一部の東証プライム市場上場企業は、2023年10月20日に東証スタンダード市場へ市場変更された。 東京証券取引所に上場している全銘柄からプライム・スタンダード・グロース関係なく、選定方法は別途コンサルテーションを実施して決定する。金融庁の金融審議会は流動性の乏しい小型株が大量に TOPIX に含まれていることを問題視している。400社のJPX日経インデックス400と約2200社の TOPIX の値動きはほぼ同一であり、この事は TOPIX に含まれている小型株は指数の値付けにほぼ影響を及ぼしていないことを意味している。 TOPIX に連動するETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 レバレッジ型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している。 日本の投資信託としては下記がある。下記以外にも多数ある。 先物は下記に上場している。 店頭CFDとして取り扱っている証券会社もある。日本の取引所CFDのくりっく株365には上場していない。 日経平均株価をTOPIXで割った値はNT倍率と呼ばれている。2000年以降のNT倍率は、概ね 9.5 - 12.5前後で推移している。日経平均株価の変動は輸出関連・ハイテク株や、ファーストリテイリング・KDDI・ファナック・ソフトバンクグループ・京セラ・東京エレクトロンなどの値がさ株による影響が大きいのに対し、TOPIXは時価総額の大きい企業の株や内需関連株による影響が大きく、特に大手銀行株の構成比が、両者で大きく異なっている。 したがって、NT倍率が大きく上昇したり、逆に下降したりするときは、多くの投資家が売買している銘柄の種類が遷移していることが分かる。
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東証株価指数(とうしょうかぶかしすう)、TOPIXは、東京証券取引所プライム市場上場株式銘柄や旧:第一部に上場していたスタンダード市場上場株式銘柄を対象として、日本取引所グループ(JPX)の子会社である株式会社JPX総研が1秒毎に、算出・公表している株価指数である。日本経済新聞社が算出している日経平均株価と共に日本株の代表的なベンチマークとして普及している。 「東証株価指数」「TOPIX」ともJPX総研の登録商標(第3031964号)である。
{{出典の明記|date=2018年12月}} {{読み仮名_ruby不使用|'''東証株価指数'''|とうしょうかぶかしすう}}、{{読み仮名_ruby不使用|'''TOPIX'''|トピックス|{{lang-en-short|links=no|TOkyo stock Price IndeX}}}}は、[[東京証券取引所]]プライム市場上場[[株式]]銘柄や旧:第一部に上場していたスタンダード市場上場[[株式]]銘柄を対象として、[[日本取引所グループ]](JPX)の子会社である株式会社[[JPX総研]]が1秒毎<!--2005/4/18より1分から15秒に。http://www.tse.or.jp/old_news/200504/050418_a.html-->に、算出・公表している[[株価指数]]である<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=TOPIX(東証株価指数) |url=https://www.jpx.co.jp/markets/indices/topix/ |website=日本取引所グループ |access-date=2023-03-15 |language=ja}}</ref>。[[日本経済新聞社]]が算出している[[日経平均株価]]と共に日本株の代表的な[[ベンチマーク]]として普及している<ref>[https://www.morningstar.co.jp/fund/analyst/2016/3q/MFA120160728.html ベンチマークを設定しているアクティブファンドは全体の何割?] 守谷清貴 2016年7月28日配信 2021年8月18日閲覧。</ref>。 「東証株価指数」「TOPIX」ともJPX総研の[[商標|登録商標]](第3031964号)<ref group="注釈">商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務として、「有価証券指数その他の投資物件の創設及び提供,有価証券の相場情報の提供」で登録されている。</ref>である。 == 概要 == 東証株価指数は、東証第一部に上場する株式の[[時価総額]]の合計を終値ベースで評価し、基準日である1968年1月4日の時価総額<ref group="注釈">当初数値は8兆6020億5695万1154円。</ref>を100として、[[新規上場]]・[[上場廃止]]・増減資・[[企業分割]]などにより修正され、指数化したものである。 日経平均株価に比べ、特定業種と企業の[[値嵩株]]の動きによる[[株価]]影響を受けない利点を持つ反面、[[株券]]の持ち合いにより、時価総額のダブルカウントが起きやすい欠点も有していた。このため、東京証券取引所は、2004年7月に[[時価総額加重平均型株価指数]]から[[浮動株基準株価指数]]への変更を示唆した。その後、2005年10月31日、2006年2月28日、2006年6月30日の3段階に分けて、[[東証REIT指数]]を除く全ての株価指数を、浮動株基準株価指数へ移行させた。 2021年12月21日、JPXは、[[取引所]]の運営会社ではない新たな子会社として、[[金融商品]]市場に関係するデータ・インデックスサービス及びシステム関連サービスを提供する「株式会社[[JPX総研]]」を設立した<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.jpx.co.jp/corporate/news/news-releases/0010/nlsgeu0000060lu0-att/20211125_J.pdf |format=PDF |title=子会社の設立について |access-date=2022-09-15 |publisher=株式会社日本取引所グループ}}</ref>。翌年4月1日には、株式会社東京証券取引所と株式会社[[大阪取引所]]のデータ、デジタル関係事業をJPX総研に承継する会社分割が行われ<ref name=":3">{{Cite web|和書|url=https://www.jpx.co.jp/corporate/news/news-releases/0063/nlsgeu0000066wdd-att/20220222_J_2.pdf |format=PDF |title=JPX総研の事業開始に向けた完全子会社間の組織再編(会社分割・合併)について |access-date=2022-09-15 |publisher=株式会社日本取引所グループ}}</ref>、東証のシステム開発などを担ってきた[[東証システムサービス]]がJPX総研に吸収合併された<ref name=":3" />。これらの組織再編によりJPXのデータ、デジタル関係事業がJPX総研に集約されたため、TOPIXを含む指数の算出サービスはJPX総研のインデックスビジネス部が担当している<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jpx.co.jp/corporate/investor-relations/ir-library/events/tvdivq0000009f1z-att/JPX_IR_Day_2022_JPXI_J.pdf |format=PDF |title=JPX総研 データ・デジタルサービス |access-date=2023-03-15 |publisher=日本取引所グループ |date=2022-07-05 |author=JPX総研 代表取締役社長 宮原幸一郎 |work=JPX IR Day 2022}}</ref>。 == 沿革 == *1969年{{0}}7月{{0}}1日 - 東証株価指数・東証規模別株価指数の公表を開始。 *1969年{{0}}8月18日 - 東証第二部株価指数の公表を開始。 *1988年{{0}}9月{{0}}3日 - 東京証券取引所にてTOPIX[[先物取引]]開始。 *1989年10月20日 - 東京証券取引所にてTOPIX[[オプション取引]]開始。 *1998年{{0}}8月{{0}}2日 - TOPIXニューインデックスシリーズの公表を開始。 *1999年{{0}}2月{{0}}1日 - 配当込み株価指数の公表を開始。 *2001年{{0}}7月13日 - 東京証券取引所にてTOPIX [[上場投資信託|ETF]]取引開始。 *2003年{{0}}8月{{0}}1日 - 東証REIT指数の公表を開始。 *2003年{{0}}9月16日 - [[東証マザーズ指数]]の公表を開始。 *2005年10月31日 - TOPIXの第一回浮動株化。 *2005年11月17日 - [[ユーロネクスト]]にてTOPIX ETF取引開始。 *2006年{{0}}2月28日 - TOPIXの第二回浮動株化。 *2006年{{0}}6月30日 - TOPIXの浮動株化完了。 *2007年12月{{0}}3日 - [[S&P/TOPIX150シャリア指数]]の公表を開始。 *2007年12月10日 - TOPIX-17シリーズの公表を開始。 *2009年{{0}}2月{{0}}9日 - TOPIXスタイルインデックスシリーズの公表を開始。 *2009年{{0}}2月{{0}}9日 - TOPIXコンポジットインデックスシリーズの公表を開始。 *2010年{{0}}3月{{0}}8日 - 東証配当フォーカス100指数の公表を開始。 *2010年{{0}}6月21日 - 東証REIT用途別指数シリーズの公表を開始。 *2010年{{0}}7月22日 - TOPIX配当指数、TOPIX Core30配当指数の公表を開始。 *2010年{{0}}9月13日 - TOPIXの配信間隔を1秒単位に短縮。 *2022年{{0}}4月{{0}}1日 - JPX総研が業務を開始し、TOPIXを含む東証の指数関連業務を承継<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=TOPIXの新たなロゴマークの決定について |url=https://www.jpx.co.jp/corporate/news/news-releases/0060/20220404-01.html |website=日本取引所グループ |access-date=2023-03-20 |language=ja}}</ref>。 *2022年{{0}}4月{{0}}4日 - 新市場区分への移行に伴い見直しを実施<ref name="jpx20201225">{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/governance/index-consultation/nlsgeu0000057ls1-att/j_consultation4.pdf TOPIX(東証株価指数)等の見直しについて]}} 東京証券取引所 2020年12月25日配信。</ref>。TOPIXの新たなロゴマークを決定<ref name=":1" />。 *2022年10月31日 - 新しいTOPIXへの移行を開始する。移行期間は2025年1月31日まで。 *2025年{{0}}1月31日 - 新しいTOPIXへ移行。 ==構成銘柄== 2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(新市場への上場区分は不問、[[特設注意市場銘柄]]に指定された銘柄を除く)、同年4月4日以降に東京証券取引所プライム市場へ新規上場もしくは東京証券取引所スタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ市場変更を行った銘柄(特設注意市場銘柄に指定された銘柄を除く)並びに東証株価指数を構成している企業を吸収合併したスタンダード市場上場企業・グロース上場企業で構成される<ref name="jpx20201225" /><ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-12-25/QLVUOCT1UM0Y01 JPX:TOPIX算出見直し、浮動株比率は政策保有株分を除外] ブルームバーグ 2020年12月25日配信。</ref><ref>[https://www.jpx.co.jp/news/6030/20230714-01.html 合併に伴う株価指数算出上の取扱いについて(コンフィデンス)]JPX総研 2023年7月14日</ref>。 銘柄の追加・除外は、以下のルールにのっとって行われる。 (銘柄の追加) *新規上場(直接新規上場)銘柄 : 新規上場日の翌月末(最終営業日) *新規上場(株式移転等に伴う新設会社等がプライム市場に速やかに上場する場合) : 新規上場日 *スタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ上場市場が変更となった銘柄 : 市場変更日の翌月末(最終営業日) *合併において、東証株価指数を構成していないスタンダード市場上場企業並びにグロース上場企業が吸収合併存続会社となり、東証株価指数を構成している企業が吸収合併消滅会社となる場合:吸収合併消滅会社の上場廃止日 (銘柄の除外) *整理銘柄指定による上場廃止銘柄 : 整理銘柄指定日の4営業日後 *株式移転等のために上場廃止となり、当該株式移転等に伴う新設会社がプライム市場に速やかに上場する場合 : 当該新設会社等の新規上場日 *合併などにより上場廃止となる銘柄 : 上場廃止日 *特設注意市場銘柄に指定された銘柄:特設注意市場銘柄指定日の4営業日後 *2023年10月に実施された段階的ウエイト低減銘柄における再評価で流通株式時価総額100億円未満となった439銘柄:2025年1月最終営業日(2022年4月3日時点で市場第一部へ上場していた銘柄。但し、2020年11月1日以降に市場第一部へ新規上場申請を行った銘柄並びに市場第二部・マザーズ・JASDAQから第一部へ上場市場の変更申請を行った銘柄は除く) === 段階的ウエイト低減銘柄 === 2022年4月1日時点における東証株価指数構成銘柄(テクニカル上場を行った銘柄や東証株価指数を構成していない企業が東証株価指数構成銘柄を吸収合併した場合も含む、2020年11月1日以降に市場第一部へ新規上場申請を行った銘柄並びに市場第二部・マザーズ・JASDAQから第一部へ上場市場の変更申請を行った銘柄、新市場移行後にプライム市場へ新規上場申請を行った銘柄並びにスタンダード市場・グロース市場からプライム市場へ上場市場の変更申請を行った銘柄は除く)は、段階的ウエイト低減銘柄の審査対象となり、流通株式時価総額や年間売買代金回転率が段階的ウエイト低減銘柄に抵触した場合は、2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される<ref name="jpx20201225" /><ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/market-restructure/revisions-indices/01.html 段階的ウエイト低減銘柄の判定と再評価について] 東京証券取引所</ref><ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/governance/index-consultation/nlsgeu0000057ls1-att/j_consultation4_adata1.pdf TOPIX(東証株価指数)等の見直しについて(指数コンサルテーション結果公表を踏まえた主な変更点)]}} 東京証券取引所 2021年4月30日</ref>。 2021年7月9日に、「新市場区分における上場維持基準への適合状況の通知」における1次判定の結果が各上場企業へ通知され、市場第一部上場企業の約3割に当たる664社が、プライム市場に不適合である事が明らかとなった<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASP7975XRP79ULFA01Z.html 1部上場664社がプライム基準に届かず 東証市場再編] 朝日新聞 2021年7月10日</ref>。2022年10月7日に段階的ウエイト低減銘柄が発表され、2168銘柄(プライム1835銘柄、スタンダード333銘柄)中、493銘柄(プライム206銘柄、スタンダード288銘柄)が段階的ウエイト低減銘柄に指定された<ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/governance/index-consultation/nlsgeu0000057ls1-att/j_data2.pdf TOPIX見直し概要]}} 東京証券取引所</ref><ref name="weight">{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/news/6030/jr4eth0000003hbq-att/TOPIX_re-evaluation_J.pdf TOPIXにおける段階的ウエイト低減銘柄一覧]}}東京証券取引所</ref><ref>[https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2022-10-07/RJB354T0G1KW01 千葉興銀など493社、TOPIX段階的ウエート低減銘柄-JPX]ブルームバーグ 2022年10月7日</ref>。指定された上場企業は、2022年10月以降段階的にウエイト低減を行い、2023年10月に実施される再評価において流通株式時価総額が100億円以上で、かつ年間売買代金回転率が0.2回転以上の場合は段階的ウエイト低減銘柄から除外されるが、流通株式時価総額が100億円未満の場合は段階的ウエイト低減銘柄継続となる。 第1回判定は、原則として新市場区分の選択手続における適合状況の二次判定時(ただし、書類の提出が行われなかった場合は一次判定時)の流通株式時価総額を採用し、一律2021年4月から6月までの株価平均を用いて計算する。第2回判定は、各上場企業の事業年度の末日(新市場区分への適合状況の一次判定に用いた決算期の翌期)の流通株式数に事業年度の末日以前3か月間の株価平均を乗じて計算する。 *2021年6月30日時点で流通株式時価総額が100億円以上の場合 - ウエイト低減なし *2021年6月30日時点で流通株式時価総額が100億円未満の場合 - 2021年12月までに実施された第1回判定を受ける *2021年12月までに実施された第1回判定で流通株式時価総額が100億円以上の場合 - ウエイト低減なし *2021年12月までに実施された第1回判定で流通株式時価総額が100億円未満の場合 - 2022年10月に実施された第2回判定を受ける *2022年10月に実施された第2回判定で流通株式時価総額が100億円以上の場合 - ウエイト低減なし *2022年10月に実施された第2回判定で流通株式時価総額が100億円未満の場合 - 段階的ウエイト低減銘柄に指定 *2023年10月に実施される再評価で流通株式時価総額が100億円以上で、かつ年間売買代金回転率が0.2回転以上の場合 - 段階的ウエイト低減銘柄から除外(5回目以降、移行係数を0.1ずつ引き上げ、2024年7月最終営業日に移行係数を1へ回復) *2023年10月に実施される再評価で流通株式時価総額が100億円以上で、かつ年間売買代金回転率が0.2回転以下の場合 - 段階的ウエイト低減銘柄(5回目以降、移行係数は0.6で停止) *2023年10月に実施される再評価で流通株式時価総額が100億円未満の場合 - 段階的ウエイト低減銘柄継続となり、2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外 2023年10月6日に段階的ウエイト低減銘柄継続となる銘柄が発表となり、482銘柄中43銘柄が段階的ウエイト低減銘柄から除外されたが、残る439銘柄(プライム166銘柄、スタンダード272銘柄、グロース1銘柄)は2025年1月最終営業日に東証株価指数構成銘柄から除外される<ref>[https://jp.reuters.com/markets/global-markets/REM4LL74URIHDNXVLKFPS7MQNI-2023-10-06/ JPX総研、TOPIX銘柄の2割を除外へ 25年1月末に]ロイター 2023年10月6日</ref>。 段階的ウエイト低減銘柄の指定を受けない残りの銘柄は、2025年1月最終営業日以降もそのまま東証株価指数構成銘柄となる。 ==== 段階的ウエイト低減銘柄一覧 ==== 2023年12月6日現在。下表の銘柄は2025年1月最終営業日に東証株価指数から除外される<ref name="weight" />。段階的ウェイト低減銘柄に指定されている一部の東証プライム市場上場企業は、2023年10月20日に東証スタンダード市場へ市場変更された。 {| class=wikitable style="font-size:small" ! コード ! 銘柄名 ! 市場 |- | 1384 || [[ホクリヨウ]] || スタンダード |- | 1420 || [[サンヨーホームズ]] || スタンダード |- | 1429 || [[日本アクア]] || プライム |- | 1430 || [[ファーストコーポレーション]] || スタンダード |- | 1433 || [[ベステラ]] || プライム |- | 1446 || [[キャンディル]] || スタンダード |- | 1712 || [[ダイセキ環境ソリューション]] || スタンダード |- | 1717 || [[明豊ファシリティワークス]] || スタンダード |- | 1768 || [[ソネック]] || スタンダード |- | 1811 || [[錢高組]] || スタンダード |- | 1814 || [[大末建設]] || プライム |- | 1826 || [[佐田建設]] || スタンダード |- | 1827 || [[ナカノフドー建設]] || スタンダード |- | 1847 || [[イチケン]] || スタンダード |- | 1848 || [[富士ピー・エス]] || スタンダード |- | 1866 || [[北野建設 (長野県)|北野建設]] || スタンダード |- | 1867 || [[植木組]] || スタンダード |- | 1909 || [[日本ドライケミカル]] || スタンダード |- | 1914 || [[日本基礎技術]] || スタンダード |- | 1921 || [[巴コーポレーション]] || スタンダード |- | 1967 || [[ヤマト (群馬県)|ヤマト]] || スタンダード |- | 1972 || [[三晃金属工業]] || スタンダード |- | 2009 || [[鳥越製粉]] || スタンダード |- | 2107 || [[東洋精糖]] || スタンダード |- | 2112 || [[塩水港精糖]] || スタンダード |- | 2139 || [[中広]] || スタンダード |- | 2163 || [[アルトナー]] || プライム |- | 2169 || [[CDS (企業)|CDS]] || スタンダード |- | 2180 || [[サニーサイドアップグループ]] || スタンダード |- | 2183 || [[リニカル]] || スタンダード |- | 2196 || [[エスクリ]] || スタンダード |- | 2198 || [[アイ・ケイ・ケイ|アイ・ケイ・ケイホールディングス]] || プライム |- | 2215 || [[第一屋製パン]] || スタンダード |- | 2286 || [[林兼産業]] || スタンダード |- | 2311 || [[エプコ]] || スタンダード |- | 2376 || [[サイネックス]] || スタンダード |- | 2410 || [[キャリアデザインセンター]] || プライム |- | 2418 || [[ツカダ・グローバルホールディング]] || スタンダード |- | 2424 || [[ブラス (企業)|ブラス]] || スタンダード |- | 2428 || [[ウェルネット]] || スタンダード |- | 2464 || [[Aoba-BBT]] || スタンダード |- | 2485 || [[ティア (企業)|ティア]] || スタンダード |- | 2487 || [[CDG (企業)|CDG]] || スタンダード |- | 2597 || [[ユニカフェ]] || スタンダード |- | 2599 || [[ジャパンフーズ]] || スタンダード |- | 2612 || [[かどや製油]] || スタンダード |- | 2686 || [[ジーフット]] || スタンダード |- | 2687 || [[シー・ヴイ・エス・ベイエリア]] || スタンダード |- | 2689 || [[オルバヘルスケアホールディングス]] || スタンダード |- | 2722 || [[アイケイ|IKホールディングス]] || スタンダード |- | 2735 || [[ワッツ (企業)|ワッツ]] || スタンダード |- | 2764 || [[ひらまつ]] || スタンダード |- | 2796 || [[ファーマライズホールディングス]] || スタンダード |- | 2812 || [[焼津水産化学工業]] || スタンダード |- | 2818 || [[ピエトロ (福岡県)|ピエトロ]] || スタンダード |- | 2820 || [[やまみ]] || スタンダード |- | 2883 || [[大冷]] || スタンダード |- | 2904 || [[一正蒲鉾]] || スタンダード |- | 2924 || [[イフジ産業]] || スタンダード |- | 2982 || [[エー・ディー・ワークス|ADワークスグループ]] || プライム |- | 3004 || [[神栄]] || スタンダード |- | 3054 || [[ハイパー (商社)|ハイパー]] || スタンダード |- | 3067 || [[東京一番フーズ]] || スタンダード |- | 3073 || [[DDグループ]] || プライム |- | 3079 || [[ディーブイエックス]] || スタンダード |- | 3082 || [[きちりホールディングス]] || スタンダード |- | 3135 || [[マーケットエンタープライズ]] || プライム |- | 3157 || [[ジオリーブグループ]] || スタンダード |- | 3159 || [[丸善CHIホールディングス]] || スタンダード |- | 3160 || [[大光]] || スタンダード |- | 3166 || [[OCHIホールディングス]] || スタンダード |- | 3169 || [[ミサワ]] || スタンダード |- | 3172 || [[ティーライフ]] || スタンダード |- | 3173 || [[Cominix]] || スタンダード |- | 3175 || [[塚田農場|エー・ピーホールディングス]] || スタンダード |- | 3178 || [[チムニー (居酒屋)|チムニー]] || スタンダード |- | 3202 || [[ダイトウボウ]] || スタンダード |- | 3204 || [[トーア紡コーポレーション]] || スタンダード |- | 3205 || [[ダイドーリミテッド]] || スタンダード |- | 3246 || [[コーセーアールイー]] || スタンダード |- | 3271 || [[THEグローバル社]] || スタンダード |- | 3275 || [[ハウスコム]] || スタンダード |- | 3277 || [[サンセイランディック]] || スタンダード |- | 3280 || [[エストラスト]] || スタンダード |- | 3294 || [[イーグランド]] || スタンダード |- | 3299 || [[ムゲンエステート]] || スタンダード |- | 3321 || [[ミタチ産業]] || スタンダード |- | 3361 || [[トーエル]] || スタンダード |- | 3392 || [[デリカフーズホールディングス]] || スタンダード |- | 3393 || [[スターティアホールディングス]] || プライム |- | 3396 || [[フェリシモ]] || スタンダード |- | 3434 || [[アルファ (鍵)|アルファ]] || スタンダード |- | 3446 || [[ジェイテックコーポレーション]] || プライム |- | 3447 || [[信和]] || スタンダード |- | 3452 || [[ビーロット]] || スタンダード |- | 3454 || [[ファーストブラザーズ]] || スタンダード |- | 3467 || [[アグレ都市デザイン]] || スタンダード |- | 3484 || [[テンポイノベーション]] || プライム |- | 3486 || [[グローバル・リンク・マネジメント]] || プライム |- | 3489 || [[フェイスネットワーク (不動産業)|フェイスネットワーク]] || スタンダード |- | 3501 || [[住江織物]] || プライム |- | 3512 || [[日本フエルト]] || スタンダード |- | 3513 || [[イチカワ]] || スタンダード |- | 3521 || [[エコナックホールディングス]] || スタンダード |- | 3524 || [[日東製網]] || スタンダード |- | 3526 || [[芦森工業]] || スタンダード |- | 3529 || [[アツギ]] || スタンダード |- | 3538 || [[ウイルプラスホールディングス]] || スタンダード |- | 3544 || [[サツドラホールディングス]] || スタンダード |- | 3551 || [[ダイニック]] || スタンダード |- | 3553 || [[共和レザー]] || スタンダード |- | 3559 || [[ピーバンドットコム]] || スタンダード |- | 3571 || [[ソトー]] || スタンダード |- | 3577 || [[東海染工]] || スタンダード |- | 3607 || [[クラウディアホールディングス]] || スタンダード |- | 3611 || [[マツオカコーポレーション]] || スタンダード |- | 3627 || [[ネオス (情報・通信業)|テクミラホールディングス]] || スタンダード |- | 3639 || [[ボルテージ (企業)|ボルテージ]] || スタンダード |- | 3640 || [[電算]] || スタンダード |- | 3648 || [[AGS (企業)|AGS]] || スタンダード |- | 3666 || [[テクノスジャパン (IT企業)|テクノスジャパン]] || スタンダード |- | 3667 || [[enish]] || スタンダード |- | 3672 || [[オルトプラス]] || スタンダード |- | 3675 || [[クロス・マーケティンググループ]] || プライム |- | 3682 || [[エンカレッジ・テクノロジ]] || スタンダード |- | 3683 || [[サイバーリンクス]] || スタンダード |- | 3686 || [[ディー・エル・イー]] || スタンダード |- | 3770 || [[ザッパラス]] || スタンダード |- | 3784 || [[ヴィンクス]] || スタンダード |- | 3826 || [[システムインテグレータ (企業)|システムインテグレータ]] || スタンダード |- | 3839 || [[ODKソリューションズ]] || スタンダード |- | 3852 || [[サイバーコム (仙台市)|サイバーコム]] || スタンダード |- | 3864 || [[三菱製紙]] || プライム |- | 3877 || [[中越パルプ工業]] || プライム |- | 3878 || [[巴川製紙所]] || スタンダード |- | 3896 || [[阿波製紙]] || スタンダード |- | 3909 || [[ショーケース (企業)|ショーケース]] || スタンダード |- | 3912 || [[モバイルファクトリー]] || スタンダード |- | 3918 || [[PCIホールディングス]] || スタンダード |- | 3920 || [[アイビーシー]] || スタンダード |- | 3924 || [[ランドコンピュータ]] || プライム |- | 3928 || [[マイネット]] || スタンダード |- | 3934 || [[ベネフィットジャパン]] || スタンダード |- | 3940 || [[ノムラシステムコーポレーション]] || スタンダード |- | 3963 || [[シンクロ・フード]] || プライム |- | 3965 || [[キャピタル・アセット・プランニング]] || スタンダード |- | 3968 || [[セグエグループ]] || プライム |- | 3969 || [[エイトレッド]] || スタンダード |- | 3981 || [[ビーグリー]] || スタンダード |- | 3985 || [[テモナ]] || スタンダード |- | 3992 || [[ニーズウェル]] || スタンダード |- | 3996 || [[サインポスト (企業)|サインポスト]] || スタンダード |- | 4031 || [[片倉コープアグリ]] || スタンダード |- | 4093 || [[東邦アセチレン]] || プライム |- | 4098 || [[チタン工業]] || スタンダード |- | 4231 || [[タイガースポリマー]] || スタンダード |- | 4238 || [[ミライアル]] || スタンダード |- | 4245 || [[ダイキアクシス]] || スタンダード |- | 4248 || [[竹本容器]] || スタンダード |- | 4284 || [[ソルクシーズ]] || スタンダード |- | 4295 || [[フェイス (企業)|フェイス]] || スタンダード |- | 4319 || [[TAC (予備校)|TAC]] || スタンダード |- | 4320 || [[CEホールディングス]] || スタンダード |- | 4346 || [[ネクシィーズグループ]] || スタンダード |- | 4392 || [[FIG (企業)|FIG]] || プライム |- | 4404 || [[ミヨシ油脂]] || スタンダード |- | 4406 || [[新日本理化]] || スタンダード |- | 4430 || [[東海ソフト]] || スタンダード |- | 4439 || [[東名 (企業)|東名]] || スタンダード |- | 4440 || [[ヴィッツ (企業)|ヴィッツ]] || スタンダード |- | 4441 || [[トビラシステムズ]] || スタンダード |- | 4446 || [[Link-U]] || プライム |- | 4463 || [[日華化学]] || スタンダード |- | 4465 || [[ニイタカ]] || スタンダード |- | 4512 || [[わかもと製薬]] || スタンダード |- | 4531 || [[有機合成薬品工業]] || スタンダード |- | 4539 || [[日本ケミファ]] || スタンダード |- | 4615 || [[神東塗料]] || スタンダード |- | 4619 || [[日本特殊塗料]] || スタンダード |- | 4678 || [[秀英予備校]] || スタンダード |- | 4679 || [[田谷]] || スタンダード |- | 4728 || [[トーセ]] || スタンダード |- | 4762 || [[エックスネット]] || スタンダード |- | 4829 || [[日本エンタープライズ]] || スタンダード |- | 4847 || [[インテリジェント ウェイブ]] || プライム |- | 4926 || [[シーボン]] || スタンダード |- | 4929 || [[アジュバンホールディングス]] || スタンダード |- | 4977 || [[新田ゼラチン]] || スタンダード |- | 5009 || [[富士興産]] || スタンダード |- | 5015 || [[ビーピー・カストロール]] || スタンダード |- | 5018 || [[MORESCO]] || スタンダード |- | 5187 || [[クリエートメディック]] || スタンダード |- | 5204 || [[石塚硝子]] || スタンダード |- | 5210 || [[日本山村硝子]] || スタンダード |- | 5261 || [[リソルホールディングス]] || プライム |- | 5337 || [[ダントーホールディングス]] || スタンダード |- | 5363 || [[東京窯業]] || スタンダード |- | 5367 || [[ニッカトー]] || スタンダード |- | 5388 || [[クニミネ工業]] || スタンダード |- | 5391 || [[エーアンドエーマテリアル]] || スタンダード |- | 5476 || [[日本高周波鋼業]] || スタンダード |- | 5491 || [[日本金属]] || スタンダード |- | 5535 || [[プロパティエージェント|ミガロホールディングス]] || プライム |- | 5603 || [[虹技]] || スタンダード |- | 5612 || [[日本鋳鉄管]] || スタンダード |- | 5658 || [[日亜鋼業]] || スタンダード |- | 5721 || [[エス・サイエンス]] || スタンダード |- | 5819 || [[カナレ電気]] || スタンダード |- | 5852 || [[アーレスティ]] || プライム |- | 5915 || [[駒井ハルテック]] || プライム |- | 5923 || [[高田機工]] || スタンダード |- | 5936 || [[東洋シヤッター]] || スタンダード |- | 5942 || [[日本フイルコン]] || スタンダード |- | 5951 || [[ダイニチ工業]] || スタンダード |- | 5958 || [[三洋工業]] || スタンダード |- | 5986 || [[モリテック スチール]] || スタンダード |- | 5998 || [[アドバネクス]] || スタンダード |- | 6029 || [[アトラグループ]] || スタンダード |- | 6037 || [[ファーストロジック]] || スタンダード |- | 6044 || [[三機サービス]] || スタンダード |- | 6048 || [[デザインワン・ジャパン]] || スタンダード |- | 6054 || [[リブセンス]] || スタンダード |- | 6059 || [[ウチヤマホールディングス]] || スタンダード |- | 6083 || [[ERIホールディングス]] || スタンダード |- | 6087 || [[アビスト]] || スタンダード |- | 6093 || [[エスクロー・エージェント・ジャパン]] || スタンダード |- | 6096 || [[レアジョブ]] || スタンダード |- | 6121 || [[TAKISAWA]] || スタンダード |- | 6138 || [[ダイジェット工業]] || スタンダード |- | 6165 || [[パンチ工業]] || スタンダード |- | 6171 || [[土木管理総合試験所]] || スタンダード |- | 6185 || [[SMN]] || スタンダード |- | 6186 || [[一蔵]] || スタンダード |- | 6189 || [[グローバルキッズCOMPANY]] || スタンダード |- | 6203 || [[豊和工業]] || スタンダード |- | 6208 || [[石川製作所]] || スタンダード |- | 6210 || [[東洋機械金属]] || スタンダード |- | 6217 || [[津田駒工業]] || スタンダード |- | 6218 || [[エンシュウ]] || スタンダード |- | 6236 || [[NCホールディングス]] || スタンダード |- | 6292 || [[カワタ]] || スタンダード |- | 6294 || [[オカダアイヨン]] || プライム |- | 6316 || [[丸山製作所]] || スタンダード |- | 6319 || [[シンニッタン]] || スタンダード |- | 6325 || [[タカキタ]] || スタンダード |- | 6335 || [[東京機械製作所]] || スタンダード |- | 6356 || [[日本ギア工業]] || スタンダード |- | 6362 || [[石井鐵工所]] || スタンダード |- | 6373 || [[大同工業]] || スタンダード |- | 6390 || [[加藤製作所]] || プライム |- | 6393 || [[油研工業]] || スタンダード |- | 6428 || [[オーイズミ]] || スタンダード |- | 6444 || [[サンデン]] || スタンダード |- | 6489 || [[前澤工業]] || スタンダード |- | 6505 || [[東洋電機製造]] || スタンダード |- | 6513 || [[オリジン (メーカー)|オリジン]] || スタンダード |- | 6538 || [[キャリアインデックス]] || スタンダード |- | 6540 || [[船場 (企業)|船場]] || スタンダード |- | 6546 || [[フルテック]] || スタンダード |- | 6547 || [[グリーンズ]] || スタンダード |- | 6551 || [[ツナググループ・ホールディングス]] || スタンダード |- | 6552 || [[GameWith]] || スタンダード |- | 6555 || [[MS&Consulting]] || スタンダード |- | 6653 || [[正興電機製作所]] || プライム |- | 6654 || [[不二電機工業]] || スタンダード |- | 6675 || [[サクサホールディングス]] || スタンダード |- | 6704 || [[岩崎通信機]] || スタンダード |- | 6715 || [[ナカヨ]] || スタンダード |- | 6748 || [[星和電機]] || スタンダード |- | 6771 || [[池上通信機]] || スタンダード |- | 6803 || [[ティアック]] || スタンダード |- | 6848 || [[東亜ディーケーケー]] || スタンダード |- | 6853 || [[共和電業]] || スタンダード |- | 6858 || [[小野測器]] || スタンダード |- | 6901 || [[澤藤電機]] || スタンダード |- | 6904 || [[原田工業]] || スタンダード |- | 6926 || [[岡谷電機産業]] || スタンダード |- | 6927 || [[ヘリオス テクノ ホールディング]] || スタンダード |- | 6928 || [[エノモト]] || プライム |- | 6932 || [[遠藤照明]] || スタンダード |- | 6938 || [[双信電機]] || スタンダード |- | 6973 || [[協栄産業]] || スタンダード |- | 6989 || [[北陸電気工業]] || スタンダード |- | 7022 || [[サノヤスホールディングス]] || スタンダード |- | 7030 || [[スプリックス]] || スタンダード |- | 7035 || [[and factory]] || スタンダード |- | 7037 || [[テノ. ホールディングス]] || スタンダード |- | 7044 || [[ピアラ (企業)|ピアラ]] || スタンダード |- | 7059 || [[コプロ・ホールディングス]] || プライム |- | 7060 || [[ギークス]] || スタンダード |- | 7122 || [[近畿車輛]] || スタンダード |- | 7127 || [[一家ホールディングス]] || スタンダード |- | 7135 || [[ジャパンクラフトホールディングス]] || スタンダード |- | 7150 || [[島根銀行]] || スタンダード |- | 7161 || [[じもとホールディングス]] || スタンダード |- | 7183 || [[あんしん保証]] || スタンダード |- | 7191 || [[イントラスト]] || スタンダード |- | 7192 || [[日本モーゲージサービス]] || スタンダード |- | 7196 || [[Casa]] || スタンダード |- | 7212 || [[エフテック]] || スタンダード |- | 7213 || [[レシップホールディングス]] || スタンダード |- | 7214 || [[GMB (企業)|GMB]] || スタンダード |- | 7215 || [[ファルテック]] || スタンダード |- | 7247 || [[ミクニ]] || スタンダード |- | 7256 || [[河西工業]] || スタンダード |- | 7266 || [[今仙電機製作所]] || スタンダード |- | 7271 || [[安永 (自動車部品)|安永]] || スタンダード |- | 7277 || [[TBK]] || スタンダード |- | 7284 || [[盟和産業]] || スタンダード |- | 7291 || [[日本プラスト]] || スタンダード |- | 7305 || [[新家工業]] || スタンダード |- | 7347 || [[マーキュリアホールディングス]] || プライム |- | 7374 || [[コンフィデンス・インターワークス]] || グロース |- | 7416 || [[はるやまホールディングス]] || スタンダード |- | 7417 || [[南陽 (福岡県)|南陽]] || スタンダード |- | 7427 || [[エコートレーディング]] || スタンダード |- | 7442 || [[中山福]] || スタンダード |- | 7445 || [[ライトオン]] || スタンダード |- | 7455 || [[パリミキホールディングス]] || スタンダード |- | 7481 || [[尾家産業]] || スタンダード |- | 7487 || [[小津産業]] || スタンダード |- | 7494 || [[コナカ]] || スタンダード |- | 7506 || [[ハウス オブ ローゼ]] || スタンダード |- | 7514 || [[ヒマラヤ (企業)|ヒマラヤ]] || スタンダード |- | 7524 || [[マルシェ (企業)|マルシェ]] || スタンダード |- | 7561 || [[ハークスレイ]] || スタンダード |- | 7601 || [[ポプラ (コンビニエンスストア)|ポプラ]] || スタンダード |- | 7608 || [[エスケイジャパン]] || スタンダード |- | 7615 || [[京都きもの友禅|YU-WA Creation Holdings]] || スタンダード |- | 7619 || [[田中商事]] || スタンダード |- | 7640 || [[トップカルチャー]] || スタンダード |- | 7646 || [[PLANT]] || スタンダード |- | 7673 || [[ダイコー通産]] || スタンダード |- | 7709 || [[クボテック]] || スタンダード |- | 7727 || [[オーバル (企業)|オーバル]] || スタンダード |- | 7743 || [[シード (レンズメーカー)|シード]] || プライム |- | 7769 || [[リズム (時計)|リズム]] || プライム |- | 7775 || [[大研医器]] || スタンダード |- | 7782 || [[シンシア (医療機器メーカー)|シンシア]] || スタンダード |- | 7795 || [[共立印刷|KYORITSU]] || スタンダード |- | 7811 || [[中本パックス]] || スタンダード |- | 7819 || [[粧美堂]] || スタンダード |- | 7822 || [[永大産業]] || スタンダード |- | 7833 || [[アイフィスジャパン]] || スタンダード |- | 7872 || [[エステールホールディングス]] || スタンダード |- | 7897 || [[ホクシン]] || スタンダード |- | 7898 || [[ウッドワン]] || スタンダード |- | 7908 || [[きもと]] || スタンダード |- | 7916 || [[光村印刷]] || スタンダード |- | 7918 || [[ヴィア・ホールディングス]] || スタンダード |- | 7940 || [[ウェーブロックホールディングス]] || スタンダード |- | 7971 || [[東リ]] || スタンダード |- | 7999 || [[MUTOHホールディングス]] || スタンダード |- | 8007 || [[高島 (商社)|高島]] || プライム |- | 8013 || [[ナイガイ]] || スタンダード |- | 8025 || [[ツカモトコーポレーション]] || スタンダード |- | 8038 || [[東都水産]] || スタンダード |- | 8041 || [[OUGホールディングス]] || スタンダード |- | 8077 || [[トルク (企業)|トルク]] || スタンダード |- | 8089 || [[ナイス (神奈川県の企業)|ナイス]] || スタンダード |- | 8091 || [[ニチモウ]] || プライム |- | 8104 || [[クワザワ|クワザワホールディングス]] || スタンダード |- | 8107 || [[キムラタン]] || スタンダード |- | 8118 || [[キング (アパレル)|キング]] || スタンダード |- | 8127 || [[ヤマトインターナショナル]] || スタンダード |- | 8166 || [[タカキュー]] || スタンダード |- | 8181 || [[東天紅 (企業)|東天紅]] || スタンダード |- | 8207 || [[テンアライド]] || スタンダード |- | 8230 || [[はせがわ]] || スタンダード |- | 8260 || [[井筒屋]] || スタンダード |- | 8289 || [[Olympicグループ]] || スタンダード |- | 8291 || [[日産東京販売ホールディングス]] || スタンダード |- | 8349 || [[東北銀行]] || スタンダード |- | 8365 || [[富山銀行]] || スタンダード |- | 8383 || [[鳥取銀行]] || スタンダード |- | 8416 || [[高知銀行]] || スタンダード |- | 8518 || [[日本アジア投資]] || スタンダード |- | 8537 || [[大光銀行]] || スタンダード |- | 8542 || [[トマト銀行]] || スタンダード |- | 8562 || [[福島銀行]] || スタンダード |- | 8563 || [[大東銀行]] || スタンダード |- | 8596 || [[九州リースサービス]] || スタンダード |- | 8617 || [[光世証券]] || スタンダード |- | 8732 || [[マネーパートナーズグループ]] || スタンダード |- | 8742 || [[小林洋行]] || スタンダード |- | 8769 || [[アドバンテッジリスクマネジメント]] || スタンダード |- | 8772 || [[アサックス]] || スタンダード |- | 8835 || [[太平洋興発]] || スタンダード |- | 8904 || [[AVANTIA]] || スタンダード |- | 8908 || [[毎日コムネット]] || スタンダード |- | 8917 || [[ファースト住建]] || スタンダード |- | 8928 || [[穴吹興産]] || スタンダード |- | 8944 || [[ランドビジネス]] || スタンダード |- | 8945 || [[サンネクスタグループ]] || スタンダード |- | 9115 || [[明海グループ]] || スタンダード |- | 9130 || [[共栄タンカー]] || スタンダード |- | 9232 || [[パスコ (航空測量)|パスコ]] || スタンダード |- | 9265 || [[ヤマシタヘルスケアホールディングス]] || スタンダード |- | 9275 || [[ナルミヤ・インターナショナル]] || スタンダード |- | 9306 || [[東陽倉庫]] || スタンダード |- | 9312 || [[ケイヒン]] || スタンダード |- | 9322 || [[川西倉庫]] || スタンダード |- | 9325 || [[ファイズホールディングス]] || スタンダード |- | 9351 || [[東洋埠頭]] || スタンダード |- | 9366 || [[サンリツ]] || スタンダード |- | 9368 || [[キムラユニティー]] || スタンダード |- | 9380 || [[東海運]] || スタンダード |- | 9385 || [[ショーエイコーポレーション]] || スタンダード |- | 9414 || [[日本BS放送]] || スタンダード |- | 9417 || [[スマートバリュー]] ||スタンダード |- | 9419 || [[ワイヤレスゲート]] || プライム |- | 9428 || [[クロップス]] || スタンダード |- | 9466 || [[アイドママーケティングコミュニケーション]] || スタンダード |- | 9475 || [[昭文社|昭文社ホールディングス]] || スタンダード |- | 9479 || [[インプレス|インプレスホールディングス]] || スタンダード |- | 9633 || [[東京テアトル]] || スタンダード |- | 9675 || [[常磐興産]] || スタンダード |- | 9704 || [[アゴーラ・ホスピタリティー・グループ]] || スタンダード |- | 9731 || [[白洋舍]] || スタンダード |- | 9760 || [[進学会ホールディングス]] || スタンダード |- | 9763 || [[丸紅建材リース]] || スタンダード |- | 9765 || [[オオバ]] || プライム |- | 9768 || [[いであ]] || スタンダード |- | 9854 || [[愛眼]] || スタンダード |- | 9872 || [[北恵]] || スタンダード |- | 9930 || [[北沢産業]] || スタンダード |- | 9972 || [[アルテック (卸売業)|アルテック]] || スタンダード |- | 9982 || [[タキヒヨー]] || スタンダード |- | 9986 || [[蔵王産業]] || スタンダード |- | 9993 || [[ヤマザワ]] || スタンダード |- | 9994 || [[やまや]] || スタンダード |- |} === 移行完了後 === 東京証券取引所に上場している全銘柄からプライム・スタンダード・グロース関係なく、選定方法は別途コンサルテーションを実施して決定する。金融庁の金融審議会は流動性の乏しい小型株が大量に TOPIX に含まれていることを問題視している<ref>[https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/market-str/min/0531/20190531.html 金融審議会「市場構造専門グループ」(第2回) 議事録:金融庁]</ref><ref>[https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/market-str/min/1112/20191112.html 金融審議会「市場構造専門グループ」(第4回) 議事録:金融庁]</ref><ref>[https://www.gordonbrothers.co.jp/column/topics20210810/ 東証の市場区分とTOPIX改革とその影響 | 株式会社ゴードン・ブラザーズ・ジャパン | 動産ビジネスのトップイノベーター]</ref>。400社の[[JPX日経インデックス400]]と約2200社の TOPIX の値動きはほぼ同一であり<ref>[https://emaxis.jp/special/chart/index.html?send=step1&state=1&param%5B%5D=250874&param%5B%5D=250888&param%5B%5D=252029 比較チャート | インデックスファンド・シリーズ eMAXIS(イーマクシス)]</ref>、この事は TOPIX に含まれている小型株は指数の値付けにほぼ影響を及ぼしていないことを意味している。 == ETF・投資信託・先物 == {| class="wikitable floatright" style="text-align: right;" |+ 過去10年間の利回り ! 銘柄 !! レバレッジ !! 年率 |- ! NEXT FUNDS TOPIX連動型上場投信 | 1倍 || 8.87%<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/fund/performance/?fcode=01312017 NEXT FUNDS TOPIX連動型上場投信 01312017 : 投資信託 : 運用実績 - 日本経済新聞]</ref> |- ! TOPIXブル2倍上場投信 | 2倍 || 13.04%<ref>[https://www.nikkei.com/nkd/fund/performance/?fcode=9D311124 TOPIXブル2倍上場投信 9D311124 : 投資信託 : 運用実績 - 日本経済新聞]</ref> |- | colspan="3" | 2023年11月末現在。円建て、配当込み。 |} TOPIX に連動する[[上場投資信託|ETF]]としては下記のものが[[東京証券取引所]]に上場している<ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/products/etfs/issues/01-01.html 銘柄一覧(ETF) | 日本取引所グループ]</ref>。 * ダイワ上場投信-トピックス(1305)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/5841/detail_top.html ダイワ上場投信−トピックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> * NEXT FUNDS TOPIX連動型上場投信(1306)<ref>[https://nextfunds.jp/lineup/1306/ NEXT FUNDS TOPIX連動型上場投信(1306) | NEXT FUNDS]</ref> * 上場インデックスファンドTOPIX(1308)<ref>[https://www.nikkoam.com/products/etf/lineup/topix 1308 - 上場インデックスファンドTOPIX | ETF(上場投資信託)|日興アセットマネジメント]</ref> * MAXIS トピックス上場投信(1348)<ref>[https://maxis.mukam.jp/etf_fund/181348.html MAXIS トピックス上場投信 | MAXIS]</ref> * One ETF トピックス(1473)<ref>[http://www.am-one.co.jp/fund/summary/313001/ One ETF トピックス|ファンド情報|アセットマネジメントOne]</ref> * iシェアーズ・コア TOPIX ETF(1475)<ref>[https://www.blackrock.com/jp/individual/ja/products/279438/ishares-core-topix-etf iシェアーズ・コア TOPIX ETF]</ref> * NZAM 上場投信 TOPIX(2524)<ref>[https://www.ja-asset.co.jp/fund/140834/index 農林中金全共連アセットマネジメント| 詳細]</ref> * SMDAM トピックス上場投信(2557)<ref>[https://www.smd-am.co.jp/fund/190409/ SMDAM トピックス上場投信 | ファンド概要 | ファンド | 三井住友DSアセットメントマネジメント]</ref> * iFreeETF TOPIX(年4回決算型)(2625)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3518/detail_top.html iFreeETF TOPIX(年4回決算型) / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> - 配当が年1回ではなく年4回になっている [[レバレッジ]]型・インバース型のETFとしては下記のものが東京証券取引所に上場している<ref>[https://www.jpx.co.jp/equities/products/etfs/leveraged-inverse/01.html 銘柄一覧(レバレッジ型・インバース型商品) | 日本取引所グループ]</ref>。 * TOPIXベア2倍上場投信(-2倍)(1356)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1356.html TOPIXベア2倍ETF|ダブルインバースETF|シンプレクス]</ref> * ダイワ上場投信-TOPIXレバレッジ(2倍)指数(1367)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3503/detail_top.html ダイワ上場投信-TOPIXレバレッジ(2倍)指数 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> * ダイワ上場投信-TOPIXダブルインバース(-2倍)指数(1368)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3504/detail_top.html ダイワ上場投信-TOPIXダブルインバース(-2倍)指数 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> * ダイワ上場投信-TOPIXインバース(-1倍)指数(1457)<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/etf/funds/detail/3506/detail_top.html ダイワ上場投信-TOPIXインバース(-1倍)指数 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> * TOPIXブル2倍上場投信(2倍)(1568)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1568.html TOPIXブル2倍ETF|レバレッジETF|シンプレクス]</ref> * TOPIXベア上場投信(-1倍)(1569)<ref>[https://www.simplexasset.com/etf/etf1569.html TOPIXベアETF|インバースETF|シンプレクス]</ref> 日本の[[投資信託]]としては下記がある。下記以外にも多数ある。 * [[三菱UFJ国際投信]] ** eMAXIS Slim 国内株式(TOPIX)<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/252634.html eMAXIS Slim 国内株式(TOPIX) | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** eMAXIS TOPIXインデックス<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/250888.html eMAXIS TOPIXインデックス | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** 三菱UFJ TOPIX・ファンド<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/920734.html 三菱UFJ TOPIX・ファンド | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** つみたて日本株式(TOPIX)<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/252883.html つみたて日本株式(TOPIX) | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** 三菱UFJ トピックスインデックスオープン<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/150269.html 三菱UFJ トピックスインデックスオープン | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** トピックスオープン<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/925145.html トピックスオープン | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> ** 三菱UFJ トピックスオープン<ref>[https://www.am.mufg.jp/fund/532001.html 三菱UFJ トピックスオープン | 投資信託なら三菱UFJ国際投信]</ref> * [[野村アセットマネジメント]] ** Funds-i 野村インデックスファンド・TOPIX<ref>[https://www.nomura-am.co.jp/fund/funddetail.php?fundcd=140519 野村インデックスファンド・TOPIX(愛称:Funds-i TOPIX) | 投資信託情報 | 野村アセットマネジメント]</ref> ** トピックス・インデックス・オープン<ref>[https://www.nomura-am.co.jp/fund/funddetail.php?fundcd=140058 野村インデックスファンド・TOPIX(愛称:Funds-i TOPIX) | 投資信託情報 | 野村アセットマネジメント]</ref> * [[日興アセットマネジメント]] ** インデックスファンドTSP<ref>[https://www.nikkoam.com/fund/detail/29050 インデックスファンドTSP | 日興アセットマネジメント]</ref> ** インデックスファンドTOPIX(日本株式)<ref>[https://www.nikkoam.com/fund/detail/358290 インデックスファンドTOPIX(日本株式) | 日興アセットマネジメント]</ref> * [[ニッセイアセットマネジメント]] ** ニッセイTOPIXオープン<ref>{{Cite web|和書|title=ニッセイTOPIXオープン|投資信託のニッセイアセットマネジメント |url=https://www.nam.co.jp/fundinfo/nto/main.html |website=ニッセイアセットマネジメント株式会社 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref> ** <購入・換金手数料なし>ニッセイTOPIXインデックスファンド<ref>{{Cite web|和書|title=<購入・換金手数料なし>ニッセイTOPIXインデックスファンド|投資信託のニッセイアセットマネジメント |url=https://www.nam.co.jp/fundinfo/ntif/main.html |website=ニッセイアセットマネジメント株式会社 |access-date=2022-10-07 |language=ja}}</ref> * 大和アセットマネジメント ** ダイワつみたてインデックス日本株式<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3733/detail_top.html ダイワつみたてインデックス日本株式 / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> ** トピックス・インデックスファンド<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/0808/detail_top.html トピックス・インデックスファンド / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> ** D-I’s TOPIXインデックス<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3226/detail_top.html D-I’s TOPIXインデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> ** ダイワ・ノーロード TOPIXファンド<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/4612/detail_top.html ダイワ・ノーロード TOPIXファンド / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> ** iFree TOPIXインデックス<ref>[https://www.daiwa-am.co.jp/funds/detail/3309/detail_top.html iFree TOPIXインデックス / 大和アセットマネジメント株式会社]</ref> * JA TOPIXオープン<ref>[https://www.ja-asset.co.jp/fund/140814/index JA TOPIXオープン 農林中金全共連アセットマネジメント| 詳細]</ref> * ステート・ストリート日本株式インデックス・オープン<ref>[https://www.ssga.com/jp/ja/institutional/ic/funds/state-street-japanese-equity-index-open-jp90c000d778 MA日本株: ステート・ストリート日本株式インデックス・オープン]</ref> * [[ブラックロック]]日本株式オープン<ref>[https://www.blackrock.com/jp/individual/ja/products/261084/blackrock-japanese-equity-open-fund ブラックロック日本株式オープン]</ref> [[株価指数先物取引|先物]]は下記に上場している。 * [[大阪取引所]] ** TOPIX先物 - 取引単位は指数の数値×10,000円。呼値の単位は0.5ポイント。<ref>[https://www.jpx.co.jp/derivatives/products/domestic/topix-futures/index.html TOPIX先物 | 日本取引所グループ]</ref> ** ミニTOPIX先物 - 取引単位は指数の数値×1,000円。呼値の単位は0.25ポイント。<ref>[https://www.jpx.co.jp/derivatives/products/domestic/mini-topix-futures/index.html ミニTOPIX先物 | 日本取引所グループ]</ref> * [[シカゴ・マーカンタイル取引所]] ** Yen Denominated TOPIX - 取引単位は指数の数値×5,000円。呼値の単位は0.5ポイント。<ref>[https://www.cmegroup.com/markets/equities/international-indices/yen-denominated-topix.contractSpecs.html Yen Denominated TOPIX Futures Contract Specs - CME Group]</ref> 店頭[[差金決済取引|CFD]]として取り扱っている証券会社もある。日本の取引所CFDの[[くりっく株365]]には上場していない<ref>[https://www.clickkabu365.jp/about_cfd/about_cfd14.html 取扱商品|取引概要|くりっく株365とは?|くりっく株365公式ホームページ]</ref>。 ==日経平均株価との関係== 日経平均株価をTOPIXで割った値は'''NT倍率'''と呼ばれている。2000年以降のNT倍率は、概ね 9.5 - 12.5前後で推移している。日経平均株価の変動は輸出関連・ハイテク株や、[[ファーストリテイリング]]・[[KDDI]]・[[ファナック]]・[[ソフトバンクグループ]]・[[京セラ]]・[[東京エレクトロン]]などの[[値がさ株]]による影響が大きいのに対し、TOPIXは時価総額の大きい企業の株や内需関連株による影響が大きく、特に大手銀行株の構成比が、両者で大きく異なっている。 したがって、NT倍率が大きく上昇したり、逆に下降したりするときは、多くの投資家が売買している銘柄の種類が遷移していることが分かる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{reflist|group="注釈"}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[TOPIX Core30]] * [[TOPIX Large70]] * [[TOPIX 100]] - 東証規模別株価指数(大型株) * [[TOPIX Mid400]] - 東証規模別株価指数(中型株) * [[TOPIX 500]] * [[TOPIX 1000]] * [[TOPIX Small]] - 東証規模別株価指数(小型株) * [[インデックスファンド]] == 外部リンク == *[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/topix/ TOPIX(東証株価指数)] - 日本取引所グループ {{TOPIX 100}} {{株価指数}} {{DEFAULTSORT:とうしようかふかしすう}} [[Category:株式市場]] [[Category:日本の株価指数]] [[Category:東京証券取引所]] [[Category:日本のブランド]]
2003-02-08T18:06:26Z
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トランプ
トランプ(Trump)は、日本ではカードを使用した室内用の玩具を指すために用いられている用語で、もっぱら4種各13枚の計52枚 (+α) を1セットとするタイプのものを指して言うことが多い。「プレイング・カード」(英語: Playing card)「西洋かるた」とも。多種多様なゲームに用いられるほか、占いの道具としても手品(マジック)の小道具としてもよく用いられる。 起源についてははっきりしておらず諸説あるが、中国など東方で発生したものがイスラーム圏に、そしてヨーロッパに伝えられた、とするのが、ひとつの有力な説である(→#歴史)。日本では16世紀にポルトガルからラテン・スートのタイプが伝来し普及したが、明治以降の日本では英米式のカードが普及している(→#日本で一般的なカード)。 日本語では「トランプ」と呼ぶ習慣になっている。英語の trump は本来は幾種類かのゲームのルールにある切り札の意味で、なぜそれがカードを指して使われるようになったかはあまりはっきりしない。また切り札の意味で「トランプ」という語をゲーム中で使うコントラクトブリッジなどでは注意が必要である。16世紀にポルトガルから伝来したので、ポルトガル語 carta を音写して以前には「かるた」とも言った。 世界の各地域によって呼び方は異なる。南欧各地では、スペイン語の “baraja・naipes” のようにトランプを意味する専用の語がある。一方で、フランス語 ‹ carte à jouer キャルト・ア・ジュエ›、英語 “playing cards” はともに「遊戯用カード」という意の一般的な表現にもなっている。 日本語の場合のような捻れ現象は珍しくなく、特定のゲームの名前がトランプを指すようになった言語もある。例えばギリシャ語の「τράπουλα()」は、ベネチアの古いゲームの名であるトラッポラに由来し、中国語の「撲克(プーコー)牌」やタイ語の「ไพ่ป๊อก()」はポーカーに由来し、またベトナム北部で「tú lơ khơ()」と呼ぶのは、ロシアで人気のあるドゥラークというゲームの名前が中国語経由で伝わったものである。インドネシア語の「kartu remi」は、ラミーに由来する。 日本語の「トランプ」の他、マレーシアの「daun terup」の「terup」も英語の「trump」由来である。 起源は諸説あり、古くは古代エジプトに由来するとする説などが存在していたが、現在は中国説が最も有力であり、また、全て東方に発生したものが欧州に移入されたとする点では一致している。これら東方に発生したものが西アジア方面から復員した十字軍やサラセン人などの手によって欧州に伝えられた可能性が高い。 12世紀以前の中国に「葉子(馬弔・マーディアオ)」というトランプの一種があったことから、これが欧州に伝わったとする説。「馬弔(マーディアオ)」は、今日の「麻雀(マージャン)」の元となった遊戯である。 明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。 トプカプ博物館所蔵の15世紀ごろのマムルーク朝のカードは、偶像崇拝に抵触しないように、絵札には人物は書かれておらず、かわりに文字で説明がされている。このためスート名と絵札の名前が判明している。完全な形で残っているわけではないが、ダラーヒム(=貨幣)、トゥーマーン(=カップ)、スユーフ(=刀剣)、ジャウカーン(=ポロ競技用のスティック)の4つのスートがあり、各スートには1から10までの数札とマリク(=王)、ナーイブ(=総督)、ナーイブ・サーニー(=第二総督)の3種類の絵札があったと考えられている。カップのスート名「トゥーマーン」はトルコ語で「万」を意味する語であり、中国の紙牌のスートである「萬子」との関連性が考えられる。ウィリアム・ヘンリー・ウィルキンソンは、漢字の「万」を上下逆さまにした形がカップになったと推測している。 起源が定まっていないことから欧州への伝来についても諸説あるが、少なくとも14世紀には欧州各地に記録が見られることから相当数広まっていたと考えられる。欧州に最初にトランプが出現したのは14世紀前半のイタリアとされているが、スペイン説も有力。カードの構成は当時のアラブのカードのデザインを襲用している。ただし、スートのうち「ポロ用スティック」は、欧州においてはポロ競技に馴染みがなかったことから、イタリアでは儀式用の杖、スペインでは棍棒に変化した。 15世紀も後半になると、フランスではスートがダイヤ(♢)、スペード(♤)、ハート(♡)、クラブ(♧)に変わり、絵札の騎士が女王と差し替えられた。valet, dame, roi となった。 このフランススタイルがイギリスに渡り、valet が jack に、dame が queen に、roi が king になり、英語圏に広がってゆくことになった。 フランスにおいて、フランス革命期には、王は守護神 (Génie)、女王は自由 (Liberté)、ジャックは平等 (Égalité) に置き換わった。これは王政復古くらいまで続いた。 プレイング・カードを「トランプ」と呼ぶのは日本だけで欧米では「プレイング・カード」と呼ぶのが普通である。トランプとは"切り札"という意味があり明治時代、入国した欧米人がゲームをしながら「トランプ」という言葉を何度も発していた為、日本人はそれをカードの名称だと勘違いしたものと言われる。 日本では16世紀に、ポルトガルからラテンスートのトランプが伝来した。48枚の札からなっており、ポルトガル語のcarta(カルタ) がそのまま日本語になり、ひらがなで「かるた」と書かれたり、漢字では「賀留多」「歌留多」「紙牌」などと書かれた。1597年に長宗我部元親が「博奕かるた諸勝負」を禁止していることから、この頃には既にカルタが相当流行したものと考えられる。また1634年の角倉船の絵馬にはトランプをしている男女の絵がある。 ポルトガルから伝わったカルタをもとに日本で作られたカルタは天正かるたと呼ばれる。天正かるたはその最初の札に「天正金入極上仕上」と記してあったことから、後世そのように呼ばれた。天正かるたの枚数を増やしたうんすんカルタの名前は17世紀後半の『雍州府志』や大田南畝の『半日閑話』などに見ることができる。これら西洋カルタ系統のものは早くから賭け事に使われ、江戸幕府でもかるたの賭け事をしばしば禁じた。株札・花札などは、いずれもこの系統のカルタから変化したものである。 また、日本古来より存在した歌貝(貝あわせ)などを発展させ、札を西洋かるたの様式にして作られた百人一首などのカルタは系統が異なるものである。 なお、江戸時代にはフランス式(英米式)のスートも一部の学者には知られていた。 トランプが再び盛んに行われるようになるのは明治時代になってからである。トランプの名は1885年に出た桜城酔士の「西洋遊戯かるた使用法」に見られ、カードのゲームと奇術(マジック)が紹介されている。明治では最初、米国やイギリスから輸入されていたが、やがて(英米式で)国産品もつくられるようになった。 山内任天堂(任天堂の前身)は、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけての日露戦争時に、愛媛県松山市内に開設されたロシア軍捕虜の収容所で捕虜の無聯を慰めるため、政府からの依頼を受けてトランプの製造を開始したという伝説が存在する。 しかし、 アメリカオハイオ州シンシナティにあるUSプレイング・カード社本社の付属博物館の展示物から1903年(明治36年)にはすでに山内任天堂のトランプが制作されていることが確認でき、事実と矛盾する。なお、任天堂の公式ホームページには1902年(明治35年)に日本初のトランプ製造に着手したとある。 1953年には任天堂がプラスチック素材を取り入れたトランプを開発・販売。現在ではプラスチック素材が取り入れられたトランプが大きく普及している。現在日本国内にて普通に見られるのは、国産品、欧州、アメリカ、中国、台湾からの輸入品が多い。プラスチックのトランプは従来ポリ塩化ビニルが多く使われていたが、環境問題への対応のため、最近はPETなどへの置き換えが進みつつある。 世界各地のカードは様々である。 イタリア、スペイン及びラテンアメリカ諸国で使われているスートで、剣、カップ、貨幣、杖(もしくは棍棒)よりなる。剣がスペード、カップがハート、貨幣がダイヤ、杖がクラブに対応する。ヨーロッパにカードが現れた当初の形式を保っており、16世紀の日本に伝えられたカードもこの形式であった。 各スートはそれぞれ、騎士(刀剣)、僧職(聖杯)、農民(棍棒)、商人(金貨)を表すとも言われる。ただしこれに特別な根拠はなく、俗説のひとつと見た方がよい。プレイングカードをベースに、『トランプ』と呼ばれる絵札を加えてタロットへと発展する際、小アルカナに付加された、いわゆるこじ付けの一つと思われる。このため、「占いに使われるタロットカードの小アルカナに愚者(フール)の札を加えてトランプが発生した」という説も間違いとされている。タロットはもともとは遊戯用のカードで、占いに転用されるようになったのは18世紀になってからである。近年ではタロットの方が、ゲームをより複雑で面白くするためにトランプに絵札を加えていったのではないか、とされており、逆にトランプからタロットが派生したと考えられている。 カードは全体的に細長い。 スペインのカードには数札の10がなく、絵札が10からはじまる。多くのゲームでは8や9も使用しない。絵札は sota(ナイトの従者、10)・caballo(ナイト、文字通りには「馬」、11)・rey(王、12)からなる。 イタリアのカードは8・9・10がなく、絵札は fante(歩兵、ジャック相当)・cavallo(ナイト、「馬」)・re(王)からなる。ただし、イタリア北西部(ミラノ・ジェノヴァ・ピエモンテ州)およびフィレンツェのトランプはフランスタイプのスートを持つ。とくにジェノヴァ・ピエモンテ州のものは枚数も36枚(数札が6から10まで)で、他のイタリアのトランプと異なる。 下はスペイン式カードの絵札である。王のインデックスが13でなく12になっていることに注意。 ポルトガルでも、かつてはラテンタイプのカードを使用していた。現在はフランスタイプを使用しているが、スートの名前はラテンタイプのものをそのまま流用している。また、ブリスコラというゲームはポルトガルではジャックがクイーンより強いが、これはジャックの絵柄がかつての騎士に、クイーンが従者に似ているためである。 ドイツのスートは鈴・心臓・木の葉・ドングリよりなる。木の葉とドングリは、絵札以外では中央に生えた木の枝からはえているように描かれる。9と10のカードは鈴と心臓では縦3列にマークを配置するが、木の葉とドングリは中央に木があるために2列にならざるを得ず、配置の仕方が異なる。ドイツのゲームでは、低位のカードを使用しないことが多い。たとえばスカートでは2から6までを使用しない。Aに相当するカードは「ダウス」と呼ばれるが、これは実は2のことである。絵札は「ウンター(低ジャック)・オーバー(高ジャック)・ケーニヒ(王)」よりなる。 スイスのスートは鈴・盾・野バラ・ドングリよりなる。やはり2から5までを使用しないのが普通である。10には旗の絵が描かれており、バナーと呼ばれる。 15世紀の後半にフランスで現在日本で見る形のスートが生まれた。当時は多色刷りの技術がなく、色はステンシルを使って手で塗っていたため、製造を容易にするためにドイツタイプのスートを単色に変更し、スートのシンボルの形を極端に単純化したものである。 フランス語 のカードは「1」から始まる。あくまで「1」であって「A」ではない。 「1」〜「10」の次は valet ヴァレ(=侍者、従者)、dame ダーム(=女王)、roi ロワ(=王) であり、インデックスにも通常「V・D・R」の文字が記されている。 フランスでは、一般に、トランプの絵札に実在もしくは伝説の人物を当てはめられていて、人物の絵が1枚1枚異なっている。16世紀にフランスのパリで作られたものは、以下の通りの人物に当てはめられていた。これが、現在のフランスのカードのデザインに継承されている。 これに対して、ルーアンではスペード、ハート、ダイヤ、クラブの順に、Roi(王)をダビデ、アレキサンダー、カエサル、カール、Dame(婦人)をパラス、ユディト、ラケル、アルジーヌ、Valet(侍者)はヘクトル、ラ・イル、オジェ、ランスロ、とされている。 パリの組み合わせがフランスで広まって現在に至っている。現在でも一般的に使われている。 上記のフランスタイプ(特にパリのデザイン)は現在でも、フランスで一般的、ごく当たり前であり、フランスおよびフランスの(旧)植民地や海外県などで用いられている。このフランス式デザインは日本でも輸入玩具のショップなどで買うことができる(フランスではあくまでフランス語を使い、基本的に英語の使用を嫌うので、一般に「A」「J」「Q」「K」などと書かれた英米式のカードは使わない)。 フランス・ルーアンタイプのカードが16世紀の英国に伝わった。 なお英語圏では、スートのデザインはフランスと同じであるが、名称の “spade” はイタリア語の spada スパーダ (=剣)に由来し、クラブは「棍棒」の意味であるなど、ラテンタイプに由来する名前がついている。 フランスのカードでは、スートごとに特定の英雄などが割り当てられていて人物のデザインもひとりひとり異なっていたが、イギリスのカードでは、特定のモデルはいなくなった。 この英国式のカードがイギリスの植民地(米国を含む)や明治以降の日本で普及した。 明治時代以降に日本で一般的に使われるようになったトランプは(もともとは「フランスタイプ」を変化させた)「英米(アングロアメリカン)タイプ」と呼ばれるものである。英語圏では、英米式が最も一般的に用いられていて、日本ではかつてポルトガルなどの影響下にあった時にはそちらの様式が日本に入ってきていた。その結果、イギリスやアメリカで行われているゲームや英語の用語をカタカナに置き換えるなどして導入する、ということが行われている。(なお、日本で仮にスペインやイタリアで一般的なタイプやドイツのものを大々的に導入していた場合でも、そちらのタイプのカードで一般的なゲームや用語を導入すれば済んだわけなので、それはそれで問題はない。) 52枚のカードから構成されるが、通常はジョーカー1〜2枚を含んだ53〜54枚の形で市販されている。ジョーカーが2枚含まれる場合は1枚はエキストラ・ジョーカー(準札)としてもう1枚よりも色を抑えて印刷されることが多い。また、コマーシャルカードと呼ばれるコントラクトブリッジの点数表(ラバー方式)や広告などがもう1枚つく製品もあり、これをエキストラ・ジョーカーと同じ扱いとする場合もある。なお、そのような用途で用いられたコマーシャルカードは日本国内では俗にジジと呼ばれている。 ジョーカー以外の52枚の札は、スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種のスート(絵柄マーク)に分かれており、各スートには13の「ランク」(番号)の札がある。 13のランクは、A(エース)、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)となっている。J・Q・Kの3つのランクには通常人物の画像が描かれており、まとめて「絵札(コート・カード、court cards、またはフェイス・カード、face card)」と呼ばれ、それ以外は数札(スポット・カード、spot card)と呼ばれる。上下逆に持ったときにひっくり返す手間を省くため、絵札には上下に2つの半身像が描かれていることが多い。この形式を「ダブルヘッド」と呼ぶ。多くのゲームではエースは単なる1ではなく、Kよりも強いカードとして扱われることが多い。2をデュースと呼ぶ事もある。エースおよびデュースは元々それぞれダイスの1および2を表す言葉である。以前は3〜6はそれに倣って順にトレイ、ケイト、シンク、サイスと呼んでいた事もある。A・K・Q・J・10の5枚を「オナー・カード(またはアナー・カード、英: honor card)」と呼ぶことがある。 カードの左上と右下の端には通常「Q♥」「K♦」のようにインデックスが記されている。 以上の1揃えで、デッキ(deck、デックとも)またはパックと呼ぶ。 スートの種類と数マークが左上と右下のみで、中央部の絵柄が数に対応した花札の月になっているもの(株札の筋が背景に併記されている場合もある)。花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使える。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種(13月が稲穂に朱鷺、0月が雷)、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 通常のトランプではスペードのエース(オールマイティ)にあることが多い商標は、ダイヤモンドのクイーン(桐の第二札)にある。 絵札がJ(ジャック)・Q(クイーン)・K(キング)ではなく、B(ブロンズ)・S(シルバー)・G(ゴールド)になっているもの。カードの序列を人で決めていること、特にQよりKのランクを上にしてることが女性より男性の方が格が上としておりジェンダーバイナリーに縛られていてふさわしくないこと、白人だけが登場するのも人類平等に反しているということで、人ではなくかつメダルの順位にも使われ世界的に馴染みのあるB・S・Gを採用している。 標準的なトランプのカードの大きさには、ブリッジサイズとポーカーサイズの二種類がある。 ただし、「ブリッジ」「ポーカー」という名称は便宜的なものであり、ブリッジサイズのトランプでポーカーをプレイしても、なんの問題もないどころか、アメリカのカジノの大部分はポーカーをするのにブリッジサイズのカードを使用している。 トランプ以外のカードゲームやトレーディングカードでも、これらのサイズを踏襲しているものが多い。 トランプを使ったゲームの数は、あるゲームを別のゲームの変種とするかどうかで大きく違ってくるが、数百種類があることは確かである。ここではそのすべてを羅列することはしない。より詳しい一覧は、カードゲームおよびCategory:トランプを見られたい。また日本独自のトランプゲームの一覧はCategory:日本のトランプゲームにまとめられている。 トランプゲームの分類方法にはさまざまのものがあるが、ここではデビッド・パーレットの新しい分類による。 なお、パーレットの古い分類ではクライミングゲーム・ゴーイングアウトゲームは「シェディングゲーム」、ラミーは「コレクティングゲーム」にまとめていた。ペイシェンスゲームはオーダリングゲームと呼んでいた。 日本の漫画、アニメ、特撮等では、主人公らの名前や服装の一部がトランプモチーフの作品がある。 トランプは世界的に見ても古くから課税の対象とされてきた。 日本では、1902年に施行された骨牌税(こっぱいぜい。骨牌とは源義は骨で作られた《麻雀用のような》牌のことだが、ここではトランプや花札などギャンブルに用いられるカードのこと。特にトランプのカードを指すこともある)法、1957年にはこれが改正されたトランプ類税法で課税されていた。この規定により、パッケージに証紙を貼る事が義務化されていた。ただし、いわゆる児童用トランプなどと呼ばれる裏面にカードを識別できる印などを付けてゲームで使えない物は課税されなかった。1989年の一般消費税導入時に、消費税法に統合廃止されている。 英国のカードとそれに倣っているカードでは、スペードのエースのカードに製作者が書かれ、その中央のスペードマークのみダイヤ・クラブ・ハートのそれと比べて大きく、また凝った模様が施されているものも多い。この由来は、イングランド王ジェームズ1世の時代まで遡る。トランプのカードに、1パッケージあたり幾らという形で税金が掛けられたため、その支払いの証拠として、出荷時にパックの一番表側に置かれる慣習であるスペードのエースに、偽造防止の目的で複雑な模様の納税証明印が押された。これがデザインとしてカードの側に転移したものである。英国ではその後、1960年8月4日まで1765年印紙法 (Stamp Act 1765) によりトランプは課税されていた(なお、日本では明治の頃から、このスペードのエースを指して「スペキュレーション」(英: speculation)、もしくは「ゴッド」「オールマイティ」と呼んでいたが、これは日本以外には見られない呼び方で、由来は不明である)。 トランプに対する課税と印紙・証紙類も歴史的にみて深いつながりがあるといわれている。印紙・証紙類にはタバコなど物品に貼付するタイプのものがあり、その多くは物品を封印する形で貼り付けられ、開封によって印紙・証紙類が無効となり消印される機能を持っていた。 トランプに課税される場合にも箱に封印タイプの印紙・証紙類が貼られることが多く、ここからカードマジックで新品のトランプであることを示すために証紙の封を切って見せる習慣が生まれたといわれている。 トランプに限らず、ゲームに関する歴史は一般的に記録されにくい。また、トランプは手品や占いの小道具として用いられることが多く、それらは神秘性を求めるため多くの俗説が生まれた。 以下は明確な証拠が無い為間違いとされている。 Unicodeバージョン6.0(2010年)で、追加多言語面にトランプのためのブロック(U+1F0A0 - 1F0FF)が追加され、トランプの裏面・52枚のカードと騎士4枚、ジョーカー2種類の59の符号が定義された。バージョン7.0(2014年)では3種類めのジョーカーと、22枚の切り札(タロットゲーム用、占い用の大アルカナと枚数は同じだがデザインが異なる)が追加された。 ほかに基本多言語面のU+2660 - U+2667にスートが定義されている。
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"起源が定まっていないことから欧州への伝来についても諸説あるが、少なくとも14世紀には欧州各地に記録が見られることから相当数広まっていたと考えられる。欧州に最初にトランプが出現したのは14世紀前半のイタリアとされているが、スペイン説も有力。カードの構成は当時のアラブのカードのデザインを襲用している。ただし、スートのうち「ポロ用スティック」は、欧州においてはポロ競技に馴染みがなかったことから、イタリアでは儀式用の杖、スペインでは棍棒に変化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "15世紀も後半になると、フランスではスートがダイヤ(♢)、スペード(♤)、ハート(♡)、クラブ(♧)に変わり、絵札の騎士が女王と差し替えられた。valet, dame, roi となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "このフランススタイルがイギリスに渡り、valet が jack に、dame が queen に、roi が king になり、英語圏に広がってゆくことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "フランスにおいて、フランス革命期には、王は守護神 (Génie)、女王は自由 (Liberté)、ジャックは平等 (Égalité) に置き換わった。これは王政復古くらいまで続いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "プレイング・カードを「トランプ」と呼ぶのは日本だけで欧米では「プレイング・カード」と呼ぶのが普通である。トランプとは\"切り札\"という意味があり明治時代、入国した欧米人がゲームをしながら「トランプ」という言葉を何度も発していた為、日本人はそれをカードの名称だと勘違いしたものと言われる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "日本では16世紀に、ポルトガルからラテンスートのトランプが伝来した。48枚の札からなっており、ポルトガル語のcarta(カルタ) がそのまま日本語になり、ひらがなで「かるた」と書かれたり、漢字では「賀留多」「歌留多」「紙牌」などと書かれた。1597年に長宗我部元親が「博奕かるた諸勝負」を禁止していることから、この頃には既にカルタが相当流行したものと考えられる。また1634年の角倉船の絵馬にはトランプをしている男女の絵がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ポルトガルから伝わったカルタをもとに日本で作られたカルタは天正かるたと呼ばれる。天正かるたはその最初の札に「天正金入極上仕上」と記してあったことから、後世そのように呼ばれた。天正かるたの枚数を増やしたうんすんカルタの名前は17世紀後半の『雍州府志』や大田南畝の『半日閑話』などに見ることができる。これら西洋カルタ系統のものは早くから賭け事に使われ、江戸幕府でもかるたの賭け事をしばしば禁じた。株札・花札などは、いずれもこの系統のカルタから変化したものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、日本古来より存在した歌貝(貝あわせ)などを発展させ、札を西洋かるたの様式にして作られた百人一首などのカルタは系統が異なるものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "なお、江戸時代にはフランス式(英米式)のスートも一部の学者には知られていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "トランプが再び盛んに行われるようになるのは明治時代になってからである。トランプの名は1885年に出た桜城酔士の「西洋遊戯かるた使用法」に見られ、カードのゲームと奇術(マジック)が紹介されている。明治では最初、米国やイギリスから輸入されていたが、やがて(英米式で)国産品もつくられるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "山内任天堂(任天堂の前身)は、1904年(明治37年)から1905年(明治38年)にかけての日露戦争時に、愛媛県松山市内に開設されたロシア軍捕虜の収容所で捕虜の無聯を慰めるため、政府からの依頼を受けてトランプの製造を開始したという伝説が存在する。 しかし、 アメリカオハイオ州シンシナティにあるUSプレイング・カード社本社の付属博物館の展示物から1903年(明治36年)にはすでに山内任天堂のトランプが制作されていることが確認でき、事実と矛盾する。なお、任天堂の公式ホームページには1902年(明治35年)に日本初のトランプ製造に着手したとある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1953年には任天堂がプラスチック素材を取り入れたトランプを開発・販売。現在ではプラスチック素材が取り入れられたトランプが大きく普及している。現在日本国内にて普通に見られるのは、国産品、欧州、アメリカ、中国、台湾からの輸入品が多い。プラスチックのトランプは従来ポリ塩化ビニルが多く使われていたが、環境問題への対応のため、最近はPETなどへの置き換えが進みつつある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "世界各地のカードは様々である。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "イタリア、スペイン及びラテンアメリカ諸国で使われているスートで、剣、カップ、貨幣、杖(もしくは棍棒)よりなる。剣がスペード、カップがハート、貨幣がダイヤ、杖がクラブに対応する。ヨーロッパにカードが現れた当初の形式を保っており、16世紀の日本に伝えられたカードもこの形式であった。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "各スートはそれぞれ、騎士(刀剣)、僧職(聖杯)、農民(棍棒)、商人(金貨)を表すとも言われる。ただしこれに特別な根拠はなく、俗説のひとつと見た方がよい。プレイングカードをベースに、『トランプ』と呼ばれる絵札を加えてタロットへと発展する際、小アルカナに付加された、いわゆるこじ付けの一つと思われる。このため、「占いに使われるタロットカードの小アルカナに愚者(フール)の札を加えてトランプが発生した」という説も間違いとされている。タロットはもともとは遊戯用のカードで、占いに転用されるようになったのは18世紀になってからである。近年ではタロットの方が、ゲームをより複雑で面白くするためにトランプに絵札を加えていったのではないか、とされており、逆にトランプからタロットが派生したと考えられている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カードは全体的に細長い。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スペインのカードには数札の10がなく、絵札が10からはじまる。多くのゲームでは8や9も使用しない。絵札は sota(ナイトの従者、10)・caballo(ナイト、文字通りには「馬」、11)・rey(王、12)からなる。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "イタリアのカードは8・9・10がなく、絵札は fante(歩兵、ジャック相当)・cavallo(ナイト、「馬」)・re(王)からなる。ただし、イタリア北西部(ミラノ・ジェノヴァ・ピエモンテ州)およびフィレンツェのトランプはフランスタイプのスートを持つ。とくにジェノヴァ・ピエモンテ州のものは枚数も36枚(数札が6から10まで)で、他のイタリアのトランプと異なる。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "下はスペイン式カードの絵札である。王のインデックスが13でなく12になっていることに注意。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ポルトガルでも、かつてはラテンタイプのカードを使用していた。現在はフランスタイプを使用しているが、スートの名前はラテンタイプのものをそのまま流用している。また、ブリスコラというゲームはポルトガルではジャックがクイーンより強いが、これはジャックの絵柄がかつての騎士に、クイーンが従者に似ているためである。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ドイツのスートは鈴・心臓・木の葉・ドングリよりなる。木の葉とドングリは、絵札以外では中央に生えた木の枝からはえているように描かれる。9と10のカードは鈴と心臓では縦3列にマークを配置するが、木の葉とドングリは中央に木があるために2列にならざるを得ず、配置の仕方が異なる。ドイツのゲームでは、低位のカードを使用しないことが多い。たとえばスカートでは2から6までを使用しない。Aに相当するカードは「ダウス」と呼ばれるが、これは実は2のことである。絵札は「ウンター(低ジャック)・オーバー(高ジャック)・ケーニヒ(王)」よりなる。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "スイスのスートは鈴・盾・野バラ・ドングリよりなる。やはり2から5までを使用しないのが普通である。10には旗の絵が描かれており、バナーと呼ばれる。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "15世紀の後半にフランスで現在日本で見る形のスートが生まれた。当時は多色刷りの技術がなく、色はステンシルを使って手で塗っていたため、製造を容易にするためにドイツタイプのスートを単色に変更し、スートのシンボルの形を極端に単純化したものである。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "フランス語 のカードは「1」から始まる。あくまで「1」であって「A」ではない。 「1」〜「10」の次は valet ヴァレ(=侍者、従者)、dame ダーム(=女王)、roi ロワ(=王) であり、インデックスにも通常「V・D・R」の文字が記されている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "フランスでは、一般に、トランプの絵札に実在もしくは伝説の人物を当てはめられていて、人物の絵が1枚1枚異なっている。16世紀にフランスのパリで作られたものは、以下の通りの人物に当てはめられていた。これが、現在のフランスのカードのデザインに継承されている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これに対して、ルーアンではスペード、ハート、ダイヤ、クラブの順に、Roi(王)をダビデ、アレキサンダー、カエサル、カール、Dame(婦人)をパラス、ユディト、ラケル、アルジーヌ、Valet(侍者)はヘクトル、ラ・イル、オジェ、ランスロ、とされている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "パリの組み合わせがフランスで広まって現在に至っている。現在でも一般的に使われている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "上記のフランスタイプ(特にパリのデザイン)は現在でも、フランスで一般的、ごく当たり前であり、フランスおよびフランスの(旧)植民地や海外県などで用いられている。このフランス式デザインは日本でも輸入玩具のショップなどで買うことができる(フランスではあくまでフランス語を使い、基本的に英語の使用を嫌うので、一般に「A」「J」「Q」「K」などと書かれた英米式のカードは使わない)。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "フランス・ルーアンタイプのカードが16世紀の英国に伝わった。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお英語圏では、スートのデザインはフランスと同じであるが、名称の “spade” はイタリア語の spada スパーダ (=剣)に由来し、クラブは「棍棒」の意味であるなど、ラテンタイプに由来する名前がついている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "フランスのカードでは、スートごとに特定の英雄などが割り当てられていて人物のデザインもひとりひとり異なっていたが、イギリスのカードでは、特定のモデルはいなくなった。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この英国式のカードがイギリスの植民地(米国を含む)や明治以降の日本で普及した。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "明治時代以降に日本で一般的に使われるようになったトランプは(もともとは「フランスタイプ」を変化させた)「英米(アングロアメリカン)タイプ」と呼ばれるものである。英語圏では、英米式が最も一般的に用いられていて、日本ではかつてポルトガルなどの影響下にあった時にはそちらの様式が日本に入ってきていた。その結果、イギリスやアメリカで行われているゲームや英語の用語をカタカナに置き換えるなどして導入する、ということが行われている。(なお、日本で仮にスペインやイタリアで一般的なタイプやドイツのものを大々的に導入していた場合でも、そちらのタイプのカードで一般的なゲームや用語を導入すれば済んだわけなので、それはそれで問題はない。)", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "52枚のカードから構成されるが、通常はジョーカー1〜2枚を含んだ53〜54枚の形で市販されている。ジョーカーが2枚含まれる場合は1枚はエキストラ・ジョーカー(準札)としてもう1枚よりも色を抑えて印刷されることが多い。また、コマーシャルカードと呼ばれるコントラクトブリッジの点数表(ラバー方式)や広告などがもう1枚つく製品もあり、これをエキストラ・ジョーカーと同じ扱いとする場合もある。なお、そのような用途で用いられたコマーシャルカードは日本国内では俗にジジと呼ばれている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ジョーカー以外の52枚の札は、スペード、ハート、クラブ、ダイヤの4種のスート(絵柄マーク)に分かれており、各スートには13の「ランク」(番号)の札がある。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "13のランクは、A(エース)、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)となっている。J・Q・Kの3つのランクには通常人物の画像が描かれており、まとめて「絵札(コート・カード、court cards、またはフェイス・カード、face card)」と呼ばれ、それ以外は数札(スポット・カード、spot card)と呼ばれる。上下逆に持ったときにひっくり返す手間を省くため、絵札には上下に2つの半身像が描かれていることが多い。この形式を「ダブルヘッド」と呼ぶ。多くのゲームではエースは単なる1ではなく、Kよりも強いカードとして扱われることが多い。2をデュースと呼ぶ事もある。エースおよびデュースは元々それぞれダイスの1および2を表す言葉である。以前は3〜6はそれに倣って順にトレイ、ケイト、シンク、サイスと呼んでいた事もある。A・K・Q・J・10の5枚を「オナー・カード(またはアナー・カード、英: honor card)」と呼ぶことがある。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "カードの左上と右下の端には通常「Q♥」「K♦」のようにインデックスが記されている。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "以上の1揃えで、デッキ(deck、デックとも)またはパックと呼ぶ。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "スートの種類と数マークが左上と右下のみで、中央部の絵柄が数に対応した花札の月になっているもの(株札の筋が背景に併記されている場合もある)。花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使える。任天堂はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種(13月が稲穂に朱鷺、0月が雷)、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "通常のトランプではスペードのエース(オールマイティ)にあることが多い商標は、ダイヤモンドのクイーン(桐の第二札)にある。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "絵札がJ(ジャック)・Q(クイーン)・K(キング)ではなく、B(ブロンズ)・S(シルバー)・G(ゴールド)になっているもの。カードの序列を人で決めていること、特にQよりKのランクを上にしてることが女性より男性の方が格が上としておりジェンダーバイナリーに縛られていてふさわしくないこと、白人だけが登場するのも人類平等に反しているということで、人ではなくかつメダルの順位にも使われ世界的に馴染みのあるB・S・Gを採用している。", "title": "各地のカード" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "標準的なトランプのカードの大きさには、ブリッジサイズとポーカーサイズの二種類がある。", "title": "サイズ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ただし、「ブリッジ」「ポーカー」という名称は便宜的なものであり、ブリッジサイズのトランプでポーカーをプレイしても、なんの問題もないどころか、アメリカのカジノの大部分はポーカーをするのにブリッジサイズのカードを使用している。", "title": "サイズ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "トランプ以外のカードゲームやトレーディングカードでも、これらのサイズを踏襲しているものが多い。", "title": "サイズ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "トランプを使ったゲームの数は、あるゲームを別のゲームの変種とするかどうかで大きく違ってくるが、数百種類があることは確かである。ここではそのすべてを羅列することはしない。より詳しい一覧は、カードゲームおよびCategory:トランプを見られたい。また日本独自のトランプゲームの一覧はCategory:日本のトランプゲームにまとめられている。", "title": "トランプゲームの分類" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "トランプゲームの分類方法にはさまざまのものがあるが、ここではデビッド・パーレットの新しい分類による。", "title": "トランプゲームの分類" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "なお、パーレットの古い分類ではクライミングゲーム・ゴーイングアウトゲームは「シェディングゲーム」、ラミーは「コレクティングゲーム」にまとめていた。ペイシェンスゲームはオーダリングゲームと呼んでいた。", "title": "トランプゲームの分類" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "日本の漫画、アニメ、特撮等では、主人公らの名前や服装の一部がトランプモチーフの作品がある。", "title": "トランプに関する作品" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "トランプは世界的に見ても古くから課税の対象とされてきた。", "title": "課税の歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "日本では、1902年に施行された骨牌税(こっぱいぜい。骨牌とは源義は骨で作られた《麻雀用のような》牌のことだが、ここではトランプや花札などギャンブルに用いられるカードのこと。特にトランプのカードを指すこともある)法、1957年にはこれが改正されたトランプ類税法で課税されていた。この規定により、パッケージに証紙を貼る事が義務化されていた。ただし、いわゆる児童用トランプなどと呼ばれる裏面にカードを識別できる印などを付けてゲームで使えない物は課税されなかった。1989年の一般消費税導入時に、消費税法に統合廃止されている。", "title": "課税の歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "英国のカードとそれに倣っているカードでは、スペードのエースのカードに製作者が書かれ、その中央のスペードマークのみダイヤ・クラブ・ハートのそれと比べて大きく、また凝った模様が施されているものも多い。この由来は、イングランド王ジェームズ1世の時代まで遡る。トランプのカードに、1パッケージあたり幾らという形で税金が掛けられたため、その支払いの証拠として、出荷時にパックの一番表側に置かれる慣習であるスペードのエースに、偽造防止の目的で複雑な模様の納税証明印が押された。これがデザインとしてカードの側に転移したものである。英国ではその後、1960年8月4日まで1765年印紙法 (Stamp Act 1765) によりトランプは課税されていた(なお、日本では明治の頃から、このスペードのエースを指して「スペキュレーション」(英: speculation)、もしくは「ゴッド」「オールマイティ」と呼んでいたが、これは日本以外には見られない呼び方で、由来は不明である)。", "title": "課税の歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "トランプに対する課税と印紙・証紙類も歴史的にみて深いつながりがあるといわれている。印紙・証紙類にはタバコなど物品に貼付するタイプのものがあり、その多くは物品を封印する形で貼り付けられ、開封によって印紙・証紙類が無効となり消印される機能を持っていた。", "title": "課税の歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "トランプに課税される場合にも箱に封印タイプの印紙・証紙類が貼られることが多く、ここからカードマジックで新品のトランプであることを示すために証紙の封を切って見せる習慣が生まれたといわれている。", "title": "課税の歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "トランプに限らず、ゲームに関する歴史は一般的に記録されにくい。また、トランプは手品や占いの小道具として用いられることが多く、それらは神秘性を求めるため多くの俗説が生まれた。", "title": "トランプに関する俗説" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "以下は明確な証拠が無い為間違いとされている。", "title": "トランプに関する俗説" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "Unicodeバージョン6.0(2010年)で、追加多言語面にトランプのためのブロック(U+1F0A0 - 1F0FF)が追加され、トランプの裏面・52枚のカードと騎士4枚、ジョーカー2種類の59の符号が定義された。バージョン7.0(2014年)では3種類めのジョーカーと、22枚の切り札(タロットゲーム用、占い用の大アルカナと枚数は同じだがデザインが異なる)が追加された。", "title": "Unicode" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "ほかに基本多言語面のU+2660 - U+2667にスートが定義されている。", "title": "Unicode" } ]
トランプ(Trump)は、日本ではカードを使用した室内用の玩具を指すために用いられている用語で、もっぱら4種各13枚の計52枚 (+α) を1セットとするタイプのものを指して言うことが多い。「プレイング・カード」の小道具としてもよく用いられる。 起源についてははっきりしておらず諸説あるが、中国など東方で発生したものがイスラーム圏に、そしてヨーロッパに伝えられた、とするのが、ひとつの有力な説である(→#歴史)。日本では16世紀にポルトガルからラテン・スートのタイプが伝来し普及したが、明治以降の日本では英米式のカードが普及している(→#日本で一般的なカード)。
{{Otheruseslist|[[カードゲーム]]の一種|2016年当選の第45代[[アメリカ合衆国大統領]]|ドナルド・トランプ|その他の用法|トランプ (曖昧さ回避)}} {{出典の明記|date=2016年2月}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} [[ファイル:Deck of cards used in the game piquet.jpg|サムネイル|350px|[[フランス]]のカード。<!-- リンク切れ:2021年3月 ([[:en:Jeu de cartes français|portrait français]] を遊ぶ時のセット。) -->「1」から始まる(「A」ではない)。{{lang|fr|[[:fr:Roi|Roi]] de [[:fr:cœur|cœur]]}} ロワ・ド・クール(=ハートのキング)が1枚見せてある。[[フランス]]のカードは、王などに具体的な[[人間|人物]]像があてはめられていて、絵が1枚1枚異なっている。]] [[ファイル:Set of playing cards 52.JPG|サムネイル|350px|英米式カードの52枚セット<ref>{{Cite web|和書|url=https://toyokeizai.net/articles/-/129334|title=カードゲーム「トランプ」意外と知らない基本 | 蘊蓄の箪笥 100章、経済ニュースの新基準|publisher=東洋経済オンライン|date=2016-08-03|accessdate=2020-11-26}}</ref>。これに[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]が加わる。[[英語圏]]で普及。[[明治時代|明治]]以降の[[日本]]でも普及した。]] [[File:Rozrywki oficerów Rosyjskiego 12 Dywizjonu Artylerii Moździerzy w Galicji lub na Słowacji (94-5-1).jpg|サムネイル|350px|トランプゲームに興じる[[ロシア帝国|ロシア]]の[[士官]]([[1914年]]頃撮影)。]] '''トランプ'''(Trump)は、[[日本]]では[[カード]]を使用した室内用の[[玩具]]を指すために用いられている用語で<ref>『[[大辞林]]』</ref>、もっぱら4種各13枚の計52枚 (+α) を1セットとするタイプのものを指して言うことが多い。「'''プレイング・カード'''」({{lang-en|Playing card}})「'''[[西洋]][[かるた]]'''」とも。多種多様な[[ゲーム]]に用いられるほか、[[占い]]の道具としても[[奇術|手品(マジック)]]の小道具としてもよく用いられる。 起源についてははっきりしておらず諸説あるが、[[中国]]など東方で発生したものが[[イスラーム]]圏に、そして[[ヨーロッパ]]に伝えられた、とするのが、ひとつの有力な説である(→[[#歴史]])。日本では[[16世紀]]に[[ポルトガル]]からラテン・[[スート]]のタイプが伝来し普及したが、[[明治時代|明治]]以降の日本では[[イギリス|英]][[アメリカ|米]]式のカードが普及している(→[[#日本で一般的なカード]])。 == 呼称 == [[日本語]]では「トランプ」と呼ぶ習慣になっている。[[英語]]の {{lang|en|[[trump]]}} は本来は幾種類かのゲームの[[規則|ルール]]にある[[切り札]]の意味で、なぜそれが[[カード]]を指して使われるようになったかはあまりはっきりしない。また切り札の意味で「トランプ」という語をゲーム中で使う[[コントラクトブリッジ]]などでは注意が必要である。[[16世紀]]に[[ポルトガル]]から伝来したので、[[ポルトガル語]] {{lang|pt|carta}} を音写して以前には「[[かるた]]」とも言った。 世界の各地域によって呼び方は異なる。南欧各地では、[[スペイン語]]の “{{lang|es|baraja・naipes}}” のようにトランプを意味する専用の語がある。一方で、[[フランス語]] &lsaquo; {{lang|fr|carte à jouer}} キャルト・ア・ジュエ&rsaquo;、英語 “{{lang|en|playing cards}}” はともに「遊戯用カード」という意の一般的な表現にもなっている。 日本語の場合のような捻れ現象は珍しくなく、特定のゲームの名前がトランプを指すようになった言語もある。例えば[[ギリシャ語]]の「{{読み仮名|{{el|τράπουλα}}|トラプラ}}」は、[[ベネチア]]の古いゲームの名である[[トラッポラ]]に由来し、[[中国語]]の「撲克(プーコー)牌」や[[タイ語]]の「{{読み仮名|{{lang|th|ไพ่ป๊อก}}|パイ・ポーク}}」は[[ポーカー]]に由来し、また[[ベトナム]]北部で「{{読み仮名|{{lang|vn|tú lơ khơ}}|トゥー・ロー・ホー}}」と呼ぶのは、[[ロシア]]で人気のある[[ドゥラーク]]というゲームの名前が中国語経由で伝わったものである。[[インドネシア語]]の「{{lang|id|kartu remi}}」は、[[ラミー]]に由来する。{{efn2|カードの名称ではないが、マイクロソフトがWindowsに[[クロンダイク]]というゲームを[[ソリティア]]という名称で添付したため「ソリティア」という本来は1人ゲームを指す総称が「クロンダイク」という1種類のゲームを指して(誤って)使われている、という例がある。}} 日本語の「トランプ」の他、[[マレーシア]]の「{{lang|ms|daun}}{{efn2|1=「daun」=葉}} {{lang|ms|terup}}」の「{{lang|ms|terup}}」も英語の「{{lang|en|trump}}」由来である。 == 歴史 == [[ファイル:Ming Dynasty playing card, c. 1400.jpg|サムネイル|120px|[[トルファン市]]で発見された1400年頃の[[中国]]の遊戯カード (9.5×3.5[[センチメートル|cm]])]] === 起源 === 起源は諸説あり、古くは[[古代エジプト]]に由来するとする説などが存在していたが、現在は[[中国]]説が最も有力であり、また、全て東方に発生したものが[[ヨーロッパ|欧州]]に移入されたとする点では一致している。これら東方に発生したものが[[西アジア]]方面から復員した[[十字軍]]や[[サラセン人]]などの手によって[[ヨーロッパ|欧州]]に伝えられた可能性が高い。 ; 古代エジプト起源説 : [[1816年]]に[[イギリス]]のサミュエル・ウェラー・シンガーが自著「プレイングカードの歴史」にて紹介した[[古代エジプト]]の神秘哲学が[[タロット]]というトランプに表象されていることから非常に古くから[[エジプト]]にトランプがあったとする説。しかし近年の研究で、現存する最古の[[タロットカード]]よりも古いトランプの現物や記録が存在することなどから、[[タロット]]の方がプレイングカードから派生したと考えられ、この説に関しては現在は否定的な意見が多く、最近では[[タロット]]と[[古代エジプト]]の関係も否定されている。 ; インド起源説 : [[チェス]]とともに[[6世紀]]ごろの[[インド]]で発祥したとする説。[[ロマ|ジプシー]]が[[7世紀]]ごろに[[インド]]から[[ヨーロッパ|欧州]]に伝来したとされるが、信憑性は薄いとされている。 ; 中国起源説 : [[ファイル:山東濰坊楊家埠的水滸牌.png|サムネイル|300px|山東省の葉子戯([[馬弔]]・マーディアオ)]] [[ファイル:Carte bergamasche.jpg|サムネイル|300px|16世紀イタリア・[[ベルガモ]]のトランプ40枚組]] [[12世紀]]以前の[[中国]]に「[[馬弔|葉子]](馬弔・マーディアオ)」というトランプの一種があったことから、これが[[ヨーロッパ|欧州]]に伝わったとする説。「[[馬弔]](マーディアオ)」は、今日の「[[麻雀]](マージャン)」の元となった遊戯である<ref name="NM">{{harv|永松憲一|2001|p=15}}。</ref>。 明の[[成化]]年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると<ref>(明)陸容[[s:zh:菽園雜記/卷14|『菽園雑記』第十四巻]]:「闘葉子之戯、吾崑城上自士夫、下至僮豎皆能之。予游崑庠八年、独不解此。人以拙嗤之。近得閲其形製、一銭至九銭各一葉、一百至九百各一葉、自万貫以上皆図人形、万万貫呼保義宋江、千万貫行者武松、百万貫阮小五、九十万貫活閻羅阮小七、八十万貫混江竜李進、七十万貫病尉遅孫立、六十万貫鉄鞭呼延綽、五十万貫花和尚魯智深、四十万貫賽関索王雄、三十万貫青面獣楊志、二十万貫一丈青張横、九万貫插翅虎雷横、八万貫急先鋒索超、七万貫霹靂火秦明、六万貫混江竜李海、五万貫黒旋風李逵、四万貫小旋風柴進、三万貫大刀関勝、二万貫小李広花栄、一万貫浪子燕青。或謂賭博以勝人為強、故葉子所図、皆才力絶倫之人、非也。蓋宋江等皆大盗、詳見『宣和遺事』及『癸辛雑識』。作此者、蓋以賭博如群盗劫奪之行、故以此警世。而人為利所迷、自不悟耳。記此、庶吾後之人知所以自重云。」</ref>、当時の[[崑山市|昆山]]で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『[[水滸伝]]』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では[[水滸牌]]と呼ぶことが多い。 === アラブのカード === {|class="wikitable" align="right" |[[ファイル:Mamluk playing card 1.jpg|80px|貨幣の7]] |[[ファイル:Mamluk playing card 3.jpg|80px|ポロスティックの4]] |[[ファイル:Mamluk playing card 7.jpg|80px|カップのキング]] |- |colspan="3"|貨幣の6・ポロの4・カップのキング |} [[トプカプ宮殿|トプカプ博物館]]所蔵の15世紀ごろの[[マムルーク朝]]のカードは、偶像崇拝に抵触しないように、絵札には人物は書かれておらず、かわりに文字で説明がされている。このためスート名と絵札の名前が判明している。完全な形で残っているわけではないが、ダラーヒム(=[[貨幣]])、トゥーマーン(=[[カップ]])、スユーフ(=[[刀剣]])、ジャウカーン(=[[ポロ]]競技用のスティック)の4つのスートがあり、各スートには1から10までの数札と'''マリク'''(=王)、ナーイブ(=総督)、ナーイブ・サーニー(=第二総督)の3種類の絵札があったと考えられている。カップのスート名「トゥーマーン」は[[トルコ語]]で「万」を意味する語であり、中国の紙牌のスートである「萬子」との関連性が考えられる。[[ウィリアム・ヘンリー・ウィルキンソン]]は、漢字の「万」を上下逆さまにした形がカップになったと推測している<ref>{{cite journal |last = Wilkinson |first = William Henry |url = http://healthy.uwaterloo.ca/museum/Archives/Wilkinson/Wilkinson.html |title = Chinese Origin of Playing Cards |journal = The American Anthropologist |issue = Volume VIII |year = 1895 |page = 75 }}</ref>。 {{clear}} === 欧州への伝来 === [[ファイル:15thCenturySpanishCardDeck.jpg|サムネイル|1500年頃の3枚の遊戯カード(スペイン)]] 起源が定まっていないことから[[ヨーロッパ|欧州]]への伝来についても諸説あるが、少なくとも[[14世紀]]には[[ヨーロッパ|欧州]]各地に記録が見られることから相当数広まっていたと考えられる。[[ヨーロッパ|欧州]]に最初にトランプが出現したのは14世紀前半の[[イタリア]]とされているが、[[スペイン]]説も有力。カードの構成は当時の[[アラブ諸国|アラブ]]のカードのデザインを襲用している。ただし、スートのうち「ポロ用スティック」は、欧州においてはポロ競技に馴染みがなかったことから、[[イタリア]]では儀式用の[[杖]]、スペインでは[[棍棒]]に変化した。 15世紀も後半になると、[[フランス]]ではスートが[[ダイヤ (シンボル)|ダイヤ(♢)]]、[[スペード (シンボル)|スペード(♤)]]、[[ハート (シンボル)|ハート(♡)]]、[[クラブ (シンボル)|クラブ(♧)]]に変わり、絵札の[[騎士]]が[[女王]]と差し替えられた。{{lang|fr|valet, dame, roi}} となった。 このフランススタイルが[[イギリス]]に渡り、{{lang|fr|valet}} が {{lang|en|jack}} に、{{lang|fr|dame}} が {{lang|en|queen}} に、{{lang|fr|roi}} が {{lang|en|king}} になり、英語圏に広がってゆくことになった。 フランスにおいて、フランス革命期には、王は守護神 ({{lang|fr|Génie}})、女王は自由 ({{lang|fr|Liberté}})、ジャックは平等 ({{lang|fr|Égalité}}) に置き換わった。これは[[王政復古]]くらいまで続いた。 === 日本のトランプの歴史 === ==== 名称について ==== プレイング・カードを「トランプ」と呼ぶのは日本だけで欧米では「プレイング・カード」と呼ぶのが普通である。トランプとは"[[切り札]]"という意味があり明治時代、入国した欧米人がゲームをしながら「トランプ」という言葉を何度も発していた為、日本人はそれをカードの名称だと勘違いしたものと言われる{{要出典|date=2019年9月}}。 ==== 伝来から明治時代まで ==== 日本では[[16世紀]]に、[[ポルトガル]]からラテンスートのトランプが伝来した。48枚の札からなっており、[[ポルトガル語]]のcarta([[カルタ]]) がそのまま日本語になり、ひらがなで「かるた」と書かれたり、漢字では「賀留多」「歌留多」「紙牌」などと書かれた。[[1597年]]に[[長宗我部元親]]が「'''博奕かるた諸勝負'''」を禁止していることから、この頃には既にカルタが相当流行したものと考えられる。また[[1634年]]の角倉船の[[絵馬]]にはトランプをしている男女の絵がある。 ポルトガルから伝わったカルタをもとに日本で作られたカルタは[[天正かるた]]と呼ばれる。天正かるたはその最初の札に「天正金入極上仕上」と記してあったことから、後世そのように呼ばれた。天正かるたの枚数を増やした[[うんすんカルタ]]の名前は17世紀後半の『[[雍州府志]]』や[[大田南畝]]の『[[半日閑話]]』などに見ることができる。これら西洋カルタ系統のものは早くから賭け事に使われ、[[江戸幕府]]でもかるたの賭け事をしばしば禁じた。[[株札]]・[[花札]]などは、いずれもこの系統のカルタから変化したものである。 また、日本古来より存在した[[貝合わせ|歌貝]](貝あわせ)などを発展させ、札を西洋かるたの様式にして作られた[[百人一首]]などのカルタは系統が異なるものである。 なお、[[江戸時代]]にはフランス式(英米式)のスートも一部の学者には知られていた<ref>[http://www.tsuyama-ct.ac.jp/honkou/moyooshi/senjyou99/pamphlet/yougaku.htm 津山洋学資料館]</ref><ref>[https://www.city.sendai.jp/kyouiku/museum/jr_kids/kids/kids_06/kids065.html トランプ(オランダカルタ)](仙台市博物館)</ref>。 トランプが再び盛んに行われるようになるのは[[明治時代]]になってからである。トランプの名は[[1885年]]に出た[[桜城酔士]]の「'''西洋遊戯かるた使用法'''<ref>桜城酔士(1885)『[{{NDLDC|861403}} 西洋遊戯 骨牌使用法(かるたのとりかた)]』団々社(国会図書館近代デジタルライブラリー)</ref>」に見られ、カードのゲームと[[奇術]](マジック)が紹介されている。明治では最初、米国やイギリスから輸入されていたが、やがて(英米式で)国産品もつくられるようになった。 ==== 山内任天堂による国内生産 ==== 山内任天堂([[任天堂]]の前身)は、[[1904年]](明治37年)から[[1905年]](明治38年)にかけての[[日露戦争]]時に、[[愛媛県]][[松山市]]内に開設された[[ロシア]]軍捕虜の収容所で捕虜の無聯を慰めるため、政府からの依頼を受けてトランプの製造を開始したという伝説が存在する。 しかし、 [[アメリカ合衆国|アメリカ]][[オハイオ州]][[シンシナティ]]にある[[U.Sプレイング・カード社|USプレイング・カード社]]本社の付属博物館の展示物から[[1903年]](明治36年)にはすでに山内任天堂のトランプが制作されていることが確認でき、事実と矛盾する<ref>{{Cite web|和書|title=一.骨牌税法の制定 - 日本かるた文化館|url=https://japanplayingcardmuseum.com/1-0-cartatax-law-enactment/|accessdate=2020-06-05|language=ja}}</ref>。なお、任天堂の公式ホームページには1902年(明治35年)に日本初のトランプ製造に着手したとある<ref>{{Cite web|和書|title=任天堂株式会社:会社の沿革|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/history/index.html|website=任天堂ホームページ|accessdate=2020-06-05}}</ref>。 ==== 現代 ==== [[1953年]]には[[任天堂]]がプラスチック素材を取り入れたトランプを開発・販売。<!--{{要出典範囲|date=2013年6月10日|title=任天堂から世界にプラスチックトランプが広まったという出典をお願いします|それが世界に広がり}}、-->現在ではプラスチック素材が取り入れられたトランプが大きく普及している。現在日本国内にて普通に見られるのは、国産品、欧州、アメリカ、中国、台湾からの輸入品が多い。プラスチックのトランプは従来[[ポリ塩化ビニル]]が多く使われていたが、環境問題への対応のため、最近は[[ポリエチレンテレフタラート|PET]]などへの置き換えが進みつつある。 == 各地のカード == 世界各地のカードは様々である。 ;枚数 :1デッキの枚数も20枚から108枚まであり、[[ヨーロッパ]]では32枚や36枚というものが多い。ほとんどの日本人がトランプと言えば「52枚」が常識と思ってしまうのと同様に、イタリアでは40枚であることが常識であり、[[ロシア]]では36枚であることが常識である。 :英語圏の[[アメリカ合衆国]]でも[[ピノクル]]専用の48枚のカードも市販されている。特殊な例ではあるが、[[フィリピン]]で112枚というものも存在する([[四色牌]]に似た「クワホ」というゲーム用)。 :32枚または36枚のカードはもともと[[ピケ (トランプゲーム)|ピケ]]という2人で行う古典的なトリックテイキングゲーム用のもので'''ピケ・デック'''と呼ばれる。 ;スート :スートも地域によって異なる。 === ラテンタイプ === [[イタリア]]、[[スペイン]]及び[[ラテンアメリカ]]諸国で使われているスートで、[[剣]]、[[カップ]]、[[貨幣]]、[[杖]](もしくは[[棍棒]])よりなる。剣がスペード、カップがハート、貨幣がダイヤ、杖がクラブに対応する。[[ヨーロッパ]]にカードが現れた当初の形式を保っており、16世紀の日本に伝えられたカードもこの形式であった。 各スートはそれぞれ、[[騎士]](刀剣)、[[僧職]](聖杯)、[[農民]](棍棒)、[[商人]](金貨)を表すとも言われる。ただしこれに特別な根拠はなく、俗説のひとつと見た方がよい。プレイングカードをベースに、『トランプ』と呼ばれる絵札を加えて[[タロット]]へと発展する際、[[小アルカナ]]に付加された、いわゆるこじ付けの一つと思われる。このため、「占いに使われる[[タロット]]カードの小アルカナに[[愚者]](フール)の札を加えてトランプが発生した」という説も間違いとされている。タロットはもともとは遊戯用のカードで、占いに転用されるようになったのは[[18世紀]]になってからである。近年ではタロットの方が、ゲームをより複雑で面白くするためにトランプに絵札を加えていったのではないか、とされており、逆にトランプからタロットが派生したと考えられている。 カードは全体的に細長い。 スペインのカードには数札の10がなく、絵札が10からはじまる。多くのゲームでは8や9も使用しない。絵札は {{lang|es|sota}}(ナイトの従者、10)・{{lang|es|caballo}}(ナイト、文字通りには「馬」、11)・{{lang|es|rey}}(王、12)からなる。 イタリアのカードは8・9・10がなく、絵札は {{lang|it|fante}}(歩兵、ジャック相当)・{{lang|it|cavallo}}(ナイト、「馬」)・{{lang|it|re}}(王)からなる。ただし、イタリア北西部(ミラノ・ジェノヴァ・ピエモンテ州)およびフィレンツェのトランプはフランスタイプのスートを持つ。とくにジェノヴァ・ピエモンテ州のものは枚数も36枚(数札が6から10まで)で、他のイタリアのトランプと異なる。 下はスペイン式カードの絵札である。王のインデックスが13でなく12になっていることに注意。 {| class="wikitable" |+ 棍棒スートの絵札 |[[ファイル:Bastos King spanishdeck.jpg|80px]] |[[ファイル:Bastos Knight spanishdeck.jpg|80px]] |[[ファイル:Bastos Knave spanishdeck.jpg|80px]] |- | {{lang|es|rey}} || {{lang|es|caballo}} || {{lang|es|sota}} |} [[ポルトガル]]でも、かつてはラテンタイプのカードを使用していた。現在はフランスタイプを使用しているが、スートの名前はラテンタイプのものをそのまま流用している。また、[[ブリスコラ]]というゲームはポルトガルではジャックがクイーンより強いが、これはジャックの絵柄がかつての騎士に、クイーンが従者に似ているためである。 {|class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed" ! colspan="5" | '''イタリアのラテン式スート''' |- ! colspan="5" | スペイン様式(スペインおよびイタリアの大半で使用) |- | width="100px"| '''ピアチェンツァ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Suit Spade.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Suit Coppe.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Suit Denari.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Suit Bastoni.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''ナポリ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme spade carte napoletane.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme coppe carte napoletane.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme denari carte napoletane.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme bastoni carte napoletane.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''シチリア''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme spade carte siciliane.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme coppe carte siciliane.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme denari carte siciliane.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme bastoni carte siciliane.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''ロマーニャ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme spade carte romagnole.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme coppe carte romagnole.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme denari carte romagnole.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[ファイル:Seme bastoni carte romagnole.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''サルデーニャ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="honeydew"| [[File:Seme spade carte sarde.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[File:Seme coppe carte sarde.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[File:Seme denari carte sarde.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="honeydew"| [[File:Seme bastoni carte sarde.svg|50x100px]] |- ! colspan="5" | イタリア様式(北イタリアの一部で使用) |- | width="100px"| '''ベルガモ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme spade carte bergamasche.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme coppe carte bergamasche.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme denari carte bergamasche.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme bastoni carte bergamasche.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''トレヴィーゾ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme spade carte trevisane.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme coppe carte trevisane.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme denari carte trevisane.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[ファイル:Seme bastoni carte trevisane.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''トリエステ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme spade carte triestine.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme coppe carte triestine.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme denari carte triestine.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme bastoni carte triestine.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''トレント''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme spade carte trentine.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme coppe carte trentine.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme denari carte trentine.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme bastoni carte trentine.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''ブレシア''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme spade carte bresciane.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme coppe carte bresciane.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme denari carte bresciane.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme bastoni carte bresciane.svg|50x100px]] |- | width="100px"| '''ボローニャ''' | align="center" width="100px" height="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme spade carte bolognesi.svg|50x100px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme coppe carte bolognesi.svg|50x90px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme denari carte bolognesi.svg|70px]] | align="center" width="100px" bgcolor="lavender"| [[File:Seme bastoni carte bolognesi.svg|50x100px]] |- | align="left"| 和訳<br />'''[[イタリア語]]<br>[[スペイン語]]''' !align="center"| 剣<br />{{lang|it|Spade}}<br />{{lang|es|Espadas}} !align="center"| カップ<br />{{lang|it|Coppe}}<br />{{lang|es|Copas}} !align="center"| 貨幣<br />{{lang|it|Denari}}<br />{{lang|es|Oros}} !align="center"| 棍棒<br />{{lang|it|Bastoni}}<br />{{lang|es|Bastos}} |} === ドイツタイプ === [[ファイル:Bild-VierOber.jpg|thumb|ドイツ式の4種類のオーバー]] [[ドイツ]]のスートは[[鈴]]・[[心臓]]・木の葉・[[ドングリ]]よりなる。木の葉とドングリは、絵札以外では中央に生えた木の枝からはえているように描かれる。9と10のカードは鈴と心臓では縦3列にマークを配置するが、木の葉とドングリは中央に木があるために2列にならざるを得ず、配置の仕方が異なる。ドイツのゲームでは、低位のカードを使用しないことが多い。たとえば[[スカート (トランプゲーム)|スカート]]では2から6までを使用しない。Aに相当するカードは「ダウス」と呼ばれるが、これは実は2のことである。絵札は「ウンター(低ジャック)・オーバー(高ジャック)・ケーニヒ(王)」よりなる。 [[スイス]]のスートは鈴・[[盾]]・[[バラ|野バラ]]・ドングリよりなる。やはり2から5までを使用しないのが普通である。10には旗の絵が描かれており、バナーと呼ばれる。 {{clear}} === フランスタイプと英米タイプ === ==== フランスタイプ ==== 15世紀の後半に[[フランス]]で現在日本で見る形のスートが生まれた。当時は多色刷りの技術がなく、色は[[ステンシル]]を使って手で塗っていたため、製造を容易にするためにドイツタイプのスートを単色に変更し、スートのシンボルの形を極端に単純化したものである。 [[フランス語]] のカードは<u>「1」から始まる</u>。あくまで「1」であって<u>「A」ではない</u>。 「1」〜「10」の次は {{lang|fr|valet}} ヴァレ(=侍者、従者)、{{lang|fr|dame}} ダーム(=女王)、{{lang|fr|roi}} ロワ(=王) であり、インデックスにも通常「V・D・R」の文字が記されている。 フランスでは、一般に、トランプの絵札に実在もしくは伝説の人物を当てはめられていて、人物の絵が1枚1枚異なっている。[[16世紀]]にフランスの[[パリ]]で作られたものは、以下の通りの人物に当てはめられていた。これが、現在のフランスのカードのデザインに継承されている。 {| align=center |- align=center ! scope=col width=300 | 従者 {{lang|fr|Valets}} ! scope=col width=300 | 女王 {{lang|fr|Dames}} ! scope=col width=300 | 王 {{lang|fr|Rois}} |- |[[ファイル:Jack of hearts fr.svg|100px|left|Valet de cœur]] '''[[ラ・イル]]'''<br>[[ジャンヌ・ダルク]]の戦友。<br>英語読みなら「ラハイア」。 |[[ファイル:Queen of hearts fr.svg|100px|left|Dame de cœur]] '''[[ユディト]]'''<br>『[[旧約聖書]]』[[外典]]の一つ「[[ユディト記]]」に登場するユダヤの女戦士。{{efn2|もしくはカール大帝の子[[ルートヴィヒ1世 (フランク王)|ルートヴィヒ1世]]の妻。}}英語読みなら「ジューディス」。 |[[ファイル:King of hearts fr.svg|100px|left|Roi de cœur]] '''[[カール大帝]]'''<br>シャルルマーニュ、中世の[[フランク王国|フランク]]国王。 |- |[[ファイル:Jack of diamonds fr.svg|100px|left|Valet de carreau]] '''[[ヘクトル|エクトール]]'''<br>ギリシア神話に登場する[[イリオス|トロイ]]の王子。<br>[[トロイア戦争]]の英雄。<br>他説では[[シャルルマーニュ伝説]]に登場する騎士[[ローラン (シャルルマーニュ伝説)|ローラン]]とも云われている。 |[[ファイル:Queen of diamonds fr.svg|100px|left|Dame de carreau]] '''[[ラケル]]'''<br>旧約聖書のヤコブの妻。 |[[ファイル:King of diamonds fr.svg|100px|left|Roi de carreau]] '''[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]'''<br>ジュリアス・シーザー。[[古代ローマ]]の政治家、軍人。 |- |[[ファイル:Jack of spades fr.svg|100px|left|Valet de pique]] '''[[オジェ・ル・ダノワ]]''' <br>カール大帝の騎士。<br>デンマークでは '''ホルガー・ダンスク'''の名。<br>英語読みでは「オジーア・ザ・ダン」。 |[[ファイル:Queen of spades fr.svg|100px|left|Dame de pique]] '''[[パラス]]'''<br>[[ギリシャ神話]]の[[トリトン]]の娘。もしくは友人である[[アテーナー#パラスとパラディオン|パラス・アテナ]]。こちらはギリシア神話の戦いの[[女神]]。{{efn2|[[ローマ神話]]では[[ミネルウァ]]。}} |[[ファイル:King of spades fr.svg|100px|left|Roi de pique]] '''[[ダビデ|ダビデ王]]'''<br>『[[旧約聖書]]』の「[[列王記]]」に登場する[[ソロモン|ソロモン王]]の父<br>[[古代イスラエル]]国王。 |- |[[ファイル:Jack of clubs fr.svg|100px|left|Valet de trèfle]] '''[[ランスロット|ランスロ]]'''<br>『[[騎士道物語|中世騎士物語]]』に登場するアーサー王に仕えた円卓の騎士の一人。 |[[ファイル:Queen of clubs fr.svg|100px|left|Dame de trèfle]] '''アルジーヌ'''<br>ラテン語の女王を意味する単語・'''レーギーナ'''の[[アナグラム]](Regina→Argine)で、英語読みなら「アージン」。{{efn2|モデルは[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の妻である[[マリー・ダンジュー]](Marie d'Anjou、[[アラゴン王国|アラゴン]]のマリーとも)、もしくは愛人の[[アニェス・ソレル]] (Agnès Sorel)、またはこの二人を混合したものとされている。また一説としておそらくギリシャ神話の[[アルゲイアー]]、若しくは[[アルゴー船]]を制作したアルゴスの母親とされる。}} |[[ファイル:King of clubs fr.svg|100px|left|Roi de trèfle]] '''[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]'''<br>ギリシア時代の[[マケドニア王国|マケドニア]]国王。 |} [[ファイル:King of spades fr.svg|サムネイル|200px|[[ダビデ]]を象徴する[[ハープ|竪琴]]を手にしたスペードのキングの拡大図]] これに対して、[[ルーアン]]ではスペード、ハート、ダイヤ、クラブの順に、{{lang|fr|Roi}}(王)をダビデ、アレキサンダー、カエサル、カール、{{lang|fr|Dame}}(婦人)をパラス、ユディト、ラケル、アルジーヌ、{{lang|fr|Valet}}(侍者)はヘクトル、ラ・イル、オジェ、ランスロ、とされている。 パリの組み合わせがフランスで広まって現在に至っている。現在でも一般的に使われている。 上記のフランスタイプ(特にパリのデザイン)は現在でも、フランスで一般的、ごく当たり前であり、フランスおよび[[フランスの海外県・海外領土|フランスの(旧)植民地や海外県など]]で用いられている。このフランス式デザインは日本でも輸入玩具のショップなどで買うことができる(フランスではあくまでフランス語を使い、基本的に英語の使用を嫌うので、一般に「A」「J」「Q」「K」などと書かれた英米式のカードは使わない)。 ==== 英米タイプ ==== フランス・ルーアンタイプのカードが16世紀の英国に伝わった。 なお[[英語圏]]では、スートのデザインはフランスと同じであるが、名称の “{{lang|en|spade}}” はイタリア語の {{lang|it|spada}} スパーダ (=剣)に由来し、クラブは「棍棒」の意味であるなど、ラテンタイプに由来する名前がついている。 フランスのカードでは、スートごとに特定の英雄などが割り当てられていて人物のデザインもひとりひとり異なっていたが、イギリスのカードでは、特定のモデルはいなくなった。 この英国式のカードがイギリスの植民地(米国を含む)や明治以降の日本で普及した。 === 日本で一般的なカード === {{特殊文字|説明=[[ハートマーク]]と[[ダイヤマーク]]}} [[明治時代]]以降に[[日本]]で一般的に使われるようになったトランプは(もともとは「[[フランス]]タイプ」を変化させた)「英米([[アングロアメリカン]])タイプ」と呼ばれるものである。[[英語圏]]では、英米式が最も一般的に用いられていて、日本ではかつてポルトガルなどの影響下にあった時にはそちらの様式が日本に入ってきていた。その結果、[[イギリス]]や[[アメリカ]]で行われているゲームや[[英語]]の用語を[[カタカナ]]に置き換えるなどして導入する、ということが行われている。(なお、日本で仮に[[スペイン]]や[[イタリア]]で一般的なタイプやドイツのものを大々的に導入していた場合でも、そちらのタイプのカードで一般的なゲームや用語を導入すれば済んだわけなので、それはそれで問題はない。) 52枚のカードから構成されるが、通常は[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]1〜2枚を含んだ53〜54枚の形で市販されている。ジョーカーが2枚含まれる場合は1枚はエキストラ・ジョーカー<ref>{{Cite book|和書 | author= 中原 弘 | title= トランプの遊び方 ゲームと占い | year=1977 | date=1977-11-25 | page= 25 | publisher=株式会社新星出版社|isbn = }}</ref>(準札)としてもう1枚よりも色を抑えて印刷されることが多い。また、コマーシャルカードと呼ばれる[[コントラクトブリッジ]]の点数表(ラバー方式)や広告などがもう1枚つく製品もあり、これをエキストラ・ジョーカーと同じ扱いとする場合もある。なお、そのような用途で用いられたコマーシャルカードは日本国内では俗にジジと呼ばれている。 ジョーカー以外の52枚の札は、[[スペード (シンボル)|スペード]]、[[ハート (シンボル)|ハート]]、[[クラブ (シンボル)|クラブ]]、[[ダイヤ (シンボル)|ダイヤ]]の4種の[[スート]](絵柄マーク)に分かれており、各スートには13の「ランク」(番号)の札がある。 13のランクは、A(エース)、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J(ジャック{{efn2|古い英語では {{lang|en|knave}} {{ipa|neɪv}} と呼ぶのが正式だった。「少年、召し使い」の意。}})、Q(クイーン)、K(キング)となっている。J・Q・Kの3つのランクには通常人物の画像が描かれており、まとめて「絵札(コート・カード、{{lang|en|court cards}}、またはフェイス・カード、{{lang|en|face card}})」と呼ばれ、それ以外は数札(スポット・カード、{{lang|en|spot card}})と呼ばれる。上下逆に持ったときにひっくり返す手間を省くため、絵札には上下に2つの半身像が描かれていることが多い。この形式を「ダブルヘッド」と呼ぶ。多くのゲームではエースは単なる1ではなく、Kよりも強いカードとして扱われることが多い。2をデュースと呼ぶ事もある。'''[[エース (トランプ)|エース]]'''および'''[[デュース]]'''は元々それぞれ[[サイコロ|ダイス]]の1および2を表す言葉である。以前は3〜6はそれに倣って順に'''トレイ、ケイト、シンク、サイス'''と呼んでいた事もある。'''A・K・Q・J・10'''の5枚を「'''オナー・カード(またはアナー・カード、{{lang-en-short|honor card}})'''」と呼ぶことがある。 カードの左上と右下の端には通常「{{cards|qh}}」「{{cards|kd}}」のようにインデックスが記されている。 以上の1揃えで、[[デッキ]](deck、デックとも)またはパックと呼ぶ。 {|class="wikitable" style="text-align:center" |+ 一般的な52枚セットのトランプ図柄 !スート !A !2 !3 !4 !5 !6 !7 !8 !9 !10 !J !Q !K |- !呼び名 ![[エース (トランプ)|エース]] !デュース !トレイ !ケイト !シンク !サイス !セブン !エイト !ナイン !テン ![[ジャック (トランプ)|ジャック]] ![[クイーン (トランプ)|クイーン]] ![[キング (トランプ)|キング]] |- ![[クラブ (シンボル)|クラブ]] |{{card|club|A|40px}} |{{card|club|2|40px}} |{{card|club|3|40px}} |{{card|club|4|40px}} |{{card|club|5|40px}} |{{card|club|6|40px}} |{{card|club|7|40px}} |{{card|club|8|40px}} |{{card|club|9|40px}} |{{card|club|10|40px}} |{{card|club|J|40px}} |{{card|club|Q|40px}} |{{card|club|K|40px}} |- ![[ダイヤ (シンボル)|ダイヤ]] |{{card|diamond|A|40px}} |{{card|diamond|2|40px}} |{{card|diamond|3|40px}} |{{card|diamond|4|40px}} |{{card|diamond|5|40px}} |{{card|diamond|6|40px}} |{{card|diamond|7|40px}} |{{card|diamond|8|40px}} |{{card|diamond|9|40px}} |{{card|diamond|10|40px}} |{{card|diamond|J|40px}} |{{card|diamond|Q|40px}} |{{card|diamond|K|40px}} |- ![[ハート (シンボル)|ハート]] |{{card|heart|A|40px}} |{{card|heart|2|40px}} |{{card|heart|3|40px}} |{{card|heart|4|40px}} |{{card|heart|5|40px}} |{{card|heart|6|40px}} |{{card|heart|7|40px}} |{{card|heart|8|40px}} |{{card|heart|9|40px}} |{{card|heart|10|40px}} |{{card|heart|J|40px}} |{{card|heart|Q|40px}} |{{card|heart|K|40px}} |- ![[スペード (シンボル)|スペード]] |{{card|spade|A|40px}} |{{card|spade|2|40px}} |{{card|spade|3|40px}} |{{card|spade|4|40px}} |{{card|spade|5|40px}} |{{card|spade|6|40px}} |{{card|spade|7|40px}} |{{card|spade|8|40px}} |{{card|spade|9|40px}} |{{card|spade|10|40px}} |{{card|spade|J|40px}} |{{card|spade|Q|40px}} |{{card|spade|K|40px}} |} === 花札トランプ === スートの種類と数マークが左上と右下のみで、中央部の'''絵柄'''が数に対応した花札の月になっているもの(株札の筋が背景に併記されている場合もある)。花札・株札(10月までを使用)・トランプのいずれにも使える。[[任天堂]]はじめ複数の製造業者で作られている。13月=閏(雪)は八重垣姫(光)、竹に雀(タネ)、黄短冊(タン)、黄雪{{efn2|八重垣姫は上杉謙信の娘(創作・『本朝二十四孝』など)、黄色は藤原氏(信長の黄色の幟に織田木瓜が有名)、「竹に雀」の家紋は伊達家も使用。}}の4枚、0月=ジョーカー(蓮)はカス札2枚。何も書かれていない予備の白札。業者によってはキングとジョーカー用のタネ札の絵柄(虎や龍ほか)や花種(13月が稲穂に[[トキ|朱鷺]]、0月が雷){{efn2|「錦札」は株札が筋でなく漢数字になっている。}}、短冊の文字(「さゝめゆき」など)が異なる。 通常のトランプではスペードのエース(オールマイティ)にあることが多い商標は、ダイヤモンドのクイーン(桐の第二札)にある。 === ポリティカルコレクトネス対応トランプ === 絵札がJ(ジャック)・Q(クイーン)・K(キング)ではなく、B(ブロンズ)・S(シルバー)・G(ゴールド)になっているもの。カードの序列を人で決めていること、特にQよりKのランクを上にしてることが女性より男性の方が格が上としておりジェンダーバイナリーに縛られていてふさわしくないこと、白人だけが登場するのも人類平等に反しているということで、人ではなくかつメダルの順位にも使われ世界的に馴染みのあるB・S・Gを採用している。 == サイズ == 標準的なトランプのカードの大きさには、'''ブリッジサイズ'''と'''ポーカーサイズ'''の二種類がある。 ; ブリッジサイズ : 約57[[ミリメートル]] × 約89ミリメートル({{分数|2|1|4}} × {{分数|3|1|2}} [[インチ]])。横幅が狭いので、手に持つ枚数が多いゲームに適している。 ; ポーカーサイズ : 約63ミリメートル × 約88ミリメートル({{分数|2|1|2}} × {{分数|3|1|2}} インチ)。横幅が広いので、手に持つ枚数が少ないゲームに適している。[[ISO 216]]のB8とほぼ同じである。 ただし、「ブリッジ」「ポーカー」という名称は便宜的なものであり、ブリッジサイズのトランプで[[ポーカー]]をプレイしても、なんの問題もないどころか、アメリカのカジノの大部分はポーカーをするのにブリッジサイズのカードを使用している<ref>たとえば [https://web.archive.org/web/20130121150246/http://www.kemcards.net/wide_size_vs_narrow_size.cfm KEMのサイト]の説明を参照</ref>。 トランプ以外の[[カードゲーム]]や[[トレーディングカード]]でも、これらのサイズを踏襲しているものが多い。 == トランプゲームの分類 == トランプを使ったゲームの数は、あるゲームを別のゲームの変種とするかどうかで大きく違ってくるが、数百種類があることは確かである。ここではそのすべてを羅列することはしない。より詳しい一覧は、[[カードゲーム]]および[[:Category:トランプ]]を見られたい。また日本独自のトランプゲームの一覧は[[:Category:日本のトランプゲーム]]にまとめられている。 トランプゲームの分類方法にはさまざまのものがあるが、ここではデビッド・パーレットの新しい分類<ref>{{cite book |last=Parlett |first=David |year=1992,2004 |title=The A-Z of Card Games |publisher=Oxford University Press |isbn=9780198608707 }} </ref>による。 ; [[トリックテイキングゲーム]] : 各競技者が手札を1枚ずつ出し、もっとも強いカードを出したものがそのトリックを取るもの。 :; プレイントリックゲーム :: トリック数を競うもの。 ::* [[コントラクトブリッジ]]・[[ホイスト]]・(イギリスの)[[ナポレオン (イギリスのトランプゲーム)|ナポレオン]](ナップ)・[[スペード (トランプゲーム)|スペード]] :; ポイントトリックゲーム :: 特定の種類のカードの枚数や点数を競うもの。 ::* (日本の)[[ナポレオン (日本のトランプゲーム)|ナポレオン]]・[[ゴニンカン]]・[[ツーテンジャック]]・[[スカート (トランプゲーム)|スカート]]・[[ピノクル]]・[[アルカナ40]] :; ペナルティトリックゲーム :: トリックを取らないことを目指すもの。 ::* [[ハーツ (トランプゲーム)|ハーツ]] ; カードキャッチゲーム : 多くのカードを取ったものが勝ちとするもの。[[戦争 (トランプゲーム)|戦争]]など。トリックテイキングゲームもカードキャッチゲームの一種である。 :; フィッシングゲーム :: 手札と場札を合わせて取るもの。 ::* [[カシノ]]・[[スコパ]] ; アディングアップゲーム : カードのランクを足していくもの。[[クリベッジ]]が代表{{efn2|実際のパーレットの本ではクリベッジは「Matching games」に分類されているが、ここに属するものはクリベッジしかない。パーレットの他の本ではクリベッジを「Adding-up games」に入れているので、こちらに移動した}}。 ; コレクティングゲーム : カードの組み合わせを作るもの。[[51 (トランプゲーム)|51]]・[[うすのろ]] :; ゴーイングアウトゲーム :: 早く手札をなくした者を勝ちとするもの。 ::* [[ババ抜き]]・[[7並べ]]・[[ダウト]]・[[ページワン]]・[[アメリカンページワン]]・[[ドボン]]・[[ドゥラーク]]・[[シットヘッド]] ::* [[ラミー]] : [[セブンブリッジ]]・[[ジン・ラミー]]・[[カナスタ]] :; クライミングゲーム :: 相手より強いカードを出すか、さもなくばパスするもの。 ::* [[争上游]]・[[鋤大D]]・[[大富豪]]、大貧民 :; ストップス :: カードをランク順になるように出していくもの。 ::* [[ポープ・ジョーン]] ; メモリーゲーム :* [[神経衰弱 (トランプゲーム)|神経衰弱]] ; ペイシェンスゲーム : カードをある規則によって並べかえるもの。ひとり遊びの多くがここに属する。 :* [[クロンダイク]]・[[キャンフィールド]]・[[フリーセル]]・[[ピラミッド (トランプゲーム)|ピラミッド]]・[[ゴルフ (トランプゲーム)|ゴルフ]]など。しかし、[[スピード (トランプゲーム)|スピード]]のように、ひとり遊びでないものもある。 ; ギャンブリングゲーム : ゲームの結果がほぼ運にたよるもの。 :* [[十三張]] :* [[フィフティーン]] :; ヴァイイングゲーム<!-- Vying games [[:en:Category:Vying games]] 参照 --> :: 一番良い手が誰であるか賭けて争うもの。[[ポーカー]]が代表的。 :; バンキングゲーム :: ひとりの親と複数の子が戦うもの。 ::* [[ブラックジャック]]・[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]・[[カリビアンスタッド]] なお、パーレットの古い分類ではクライミングゲーム・ゴーイングアウトゲームは「シェディングゲーム」、ラミーは「コレクティングゲーム」にまとめていた。ペイシェンスゲームはオーダリングゲームと呼んでいた。 == トランプに関する作品 == {{独自研究|section=1|date=2017年5月}} 日本の漫画、アニメ、特撮等では、主人公らの名前や服装の一部がトランプモチーフの作品がある。 === 小説 === {{div col}} * [[スペードの女王]]([[アレクサンドル・プーシキン]])([[ファロ (トランプゲーム)|ファロ]]) * [[不思議の国のアリス]]([[ルイス・キャロル]]) * [[カードミステリー―失われた魔法の島]]([[ヨースタイン ゴルデル]]) * [[ガルガンチュア物語]]([[アントニ・クラベ]]) * [[誰が配ったの?]]([[リング・ラードナー]]) * [[ハートの7]]([[モーリス・ルブラン]]) * [[バカラの勝負]](モーリス・ルブラン) * [[バッツル夫人のホイスト小論]] * [[カナリヤ殺人事件]]([[S・S・ヴァン=ダイン]])([[ポーカー]]) * [[ひらいたトランプ]]([[アガサ・クリスティ]])([[コントラクト・ブリッジ]]) * [[四つの兇器]]([[ジョン・ディクスン・カー]])([[バセット]]) * [[007 カジノ・ロワイヤル|カジノ・ロワイヤル]]([[イアン・フレミング]])(鉄道ゲーム chemin de fer:[[バカラ (トランプゲーム)|バカラ]]の一種) * [[007 ムーンレイカー|ムーンレイカー]](イアン・フレミング)(コントラクト・ブリッジ) * [[007 ゴールドフィンガー|ゴールドフィンガー]](イアン・フレミング)([[カナスタ]]) * [[トランプ台上の首]]([[横溝正史]]) * [[スペードの女王 (横溝正史)|スペードの女王]](横溝正史) * [[悪魔の百唇譜]](横溝正史) * [[トランプ殺人事件]]([[竹本健治]])(コントラクト・ブリッジ) * ''Grand Slam: Thirteen Great Bridge Stories'' (1975; Eugene Roger, James Edwards編)(コントラクト・ブリッジに関する小説のアンソロジー) {{div col end}} === 漫画 === * [[しゅごキャラ!]] === アニメ === * [[ドキドキ!プリキュア]] * [[かみさまみならい ヒミツのここたま|ここたまシリーズ]] * [[機動武闘伝Gガンダム]] === ゲーム === * [[AMNESIA]] * [[ファイナルファンタジー零式]] * [[ツイステッドワンダーランド]] === ドラマ・特撮 === * [[フラワーアクション009ノ1]] * [[ジャッカー電撃隊]] * [[超合体魔術ロボ ギンガイザー]] * [[仮面ライダー剣]] * [[ひみつ×戦士 ファントミラージュ!]] == 課税の歴史 == トランプは世界的に見ても古くから課税の対象とされてきた<ref name="booklet">[https://www.npb.go.jp/ja/museum/tenji/kako/pdf/h28_inshi-shoshi_booklet.pdf 印紙・証紙 小さなグラフィックデザインの世界] [[お札と切手の博物館]]、2018年11月6日閲覧。</ref>。 <!--[[1628年]]、[[イングランド]]政府は[[スペードのエース]]に[[税金]]をかけ、それに捺す納税証明印のデザインを複雑にすることで偽造を防止した。--><!-- 英語版の記事によれば、由来はイングランド王ジェームズ1世の時代に遡るとされており、1628年という数字はそれと一致しません。また、1960年8月4日までの、カードに掛かる税は1765年の印税法によるものとされており、そちらも1628年とは一致しません--> 日本では、1902年に施行された[[骨牌税]](こっぱいぜい。骨牌とは源義は骨で作られた《麻雀用のような》牌のことだが、ここではトランプや花札などギャンブルに用いられるカードのこと。特にトランプのカードを指すこともある<ref group="注">北原白秋の詩『骨牌の女王の手に持てる花』は「骨牌」をトランプと解さなければ「女王」(Qのカード)に意味が繋がらない(「カルタのクインの〜」と詠む)。このためたとえば森歐外『舞姫』より引用「今宵は夜毎にこゝに集ひ來る 骨牌(カルタ)仲間も「ホテル」に宿りて、」の「カルタ」は「カード」で(国際航路の客船といった背景などから)これはトランプを指していると解される</ref>)法、1957年にはこれが改正された[[トランプ類税]]法で課税されていた。この規定により、パッケージに証紙を貼る事が義務化されていた。ただし、いわゆる児童用トランプなどと呼ばれる裏面にカードを識別できる印などを付けてゲームで使えない物は課税されなかった{{efn2|なお、いわゆる「児童用トランプ」は非課税}}。1989年の[[消費税法|一般消費税]]導入時に、消費税法に統合廃止されている。 === スペードのエースのデザイン === 英国のカードとそれに倣っているカードでは、[[スペードのエース]]のカードに製作者が書かれ、その中央の[[スペード (シンボル)|スペード]]マークのみダイヤ・クラブ・ハートのそれと比べて大きく、また凝った模様が施されているものも多い。この由来は、[[ジェームズ1世 (イングランド王)|イングランド王ジェームズ1世]]の時代まで遡る。トランプのカードに、1パッケージあたり幾らという形で税金が掛けられたため、その支払いの証拠として、出荷時にパックの一番表側に置かれる慣習であるスペードのエースに、偽造防止の目的で複雑な模様の納税証明印が押された。これがデザインとしてカードの側に転移したものである。英国ではその後、1960年8月4日まで[[1765年印紙法]] (Stamp Act 1765) によりトランプは課税されていた(なお、日本では明治の頃から、このスペードのエースを指して「スペキュレーション」(英: {{lang|en|speculation}})、もしくは「ゴッド」「オールマイティ」と呼んでいた<ref>{{Citation|和書|title=トランプものがたり|author=[[松田道弘]]|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波新書]]|year=1979}}</ref>が、これは日本以外には見られない呼び方で、由来は不明である)。 === 封印(封緘紙) === トランプに対する課税と印紙・証紙類も歴史的にみて深いつながりがあるといわれている<ref name="booklet" />。印紙・証紙類にはタバコなど物品に貼付するタイプのものがあり、その多くは物品を封印する形で貼り付けられ、開封によって印紙・証紙類が無効となり消印される機能を持っていた<ref name="booklet" />。 トランプに課税される場合にも箱に封印タイプの印紙・証紙類が貼られることが多く、ここから[[カードマジック]]で新品のトランプであることを示すために証紙の封を切って見せる習慣が生まれたといわれている<ref name="booklet" />。 == トランプに関する俗説 == {{独自研究|section=1|date=2017年5月}} トランプに限らず、ゲームに関する歴史は一般的に記録されにくい。また、トランプは手品や占いの小道具として用いられることが多く、それらは神秘性を求めるため多くの俗説が生まれた。 以下は明確な[[証拠]]が無い為'''間違い'''とされている。 * トランプは[[タロット]]から生まれた。[[ジョーカー (トランプ)|ジョーカー]]は[[タロットのフール]]。 * [[ソリティア]]は[[占い]]が[[ゲーム]]として発展したものである。 * カードの4つのスートは[[四季]]を示し、カードが52枚あるのは[[1年]]が52週であることから来ている。また、エースを1、ジャックを11、クイーンを12、キングを13として52枚の数を合計すると364になり、これにジョーカーを1として足すと365(1年の日数)になる。エキストラジョーカーは[[閏年]](1年が366日)の為。 == Unicode == [[Unicode]]バージョン6.0(2010年)で、[[追加多言語面]]にトランプのためのブロック(U+1F0A0 - 1F0FF)が追加され、トランプの裏面・52枚のカードと騎士4枚、ジョーカー2種類の59の符号が定義された<ref>{{citation|url=https://www.unicode.org/versions/Unicode6.0.0/|title=Unicode 6.0.0|date=2010-10-11|publisher=Unicode, Inc.}}</ref>。バージョン7.0(2014年)では3種類めのジョーカーと、22枚の切り札([[タロット]]ゲーム用、占い用の[[大アルカナ]]と枚数は同じだがデザインが異なる)が追加された。 ほかに[[基本多言語面]]のU+2660 - U+2667に[[スート]]が定義されている。 {| class="wikitable" style="text-align:center" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|127136|1F0A0|-|トランプ裏面<br>PLAYING CARD BACK|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127137|1F0A1|-|スペードのA<br>PLAYING CARD ACE OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127138|1F0A2|-|スペードの2<br>PLAYING CARD TWO OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127139|1F0A3|-|スペードの3<br>PLAYING CARD THREE OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127140|1F0A4|-|スペードの4<br>PLAYING CARD FOUR OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127141|1F0A5|-|スペードの5<br>PLAYING CARD FIVE OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127142|1F0A6|-|スペードの6<br>PLAYING CARD SIX OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127143|1F0A7|-|スペードの7<br>PLAYING CARD SEVEN OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127144|1F0A8|-|スペードの8<br>PLAYING CARD EIGHT OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127145|1F0A9|-|スペードの9<br>PLAYING CARD NINE OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127146|1F0AA|-|スペードの10<br>PLAYING CARD TEN OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127147|1F0AB|-|スペードのJ<br>PLAYING CARD JACK OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127148|1F0AC|-|スペードのC<br>PLAYING CARD KNIGHT OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127149|1F0AD|-|スペードのQ<br>PLAYING CARD QUEEN OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127150|1F0AE|-|スペードのK<br>PLAYING CARD KING OF SPADES|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127153|1F0B1|-|ハートのA<br>PLAYING CARD ACE OF HEARTS|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127154|1F0B2|-|ハートの2<br>PLAYING CARD TWO OF HEARTS|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127155|1F0B3|-|ハートの3<br>PLAYING CARD THREE OF HEARTS|font=絵文字フォント}} {{CharCode|127156|1F0B4|-|ハートの4<br>PLAYING CARD FOUR OF HEARTS|font=絵文字フォント}} 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カルタムンディと傘下の製造会社 ==== :; {{BEL}} ::* {{仮リンク|カルタムンディ社|en|Cartamundi}} - 世界最大のカード製造会社。買収により以下の子会社を持つ。 :; {{USA2}} ::* [[U.Sプレイング・カード社]] - 世界で代表的なトランプ製造業者、「[[ビー (トランプ)|ビー]]」、「[[バイスクル]]」、「[[タリホー (トランプ)|タリホー]]」などのブランドで知られる。2019年12月にカルタムンディ社に買収され子会社化。 :; {{FRA}} ::* {{仮リンク|フランスカルト社|fr|France Cartes}} -「{{仮リンク|グリモー (企業)|fr|Grimaud (entreprise)|label=グリモー}}」ブランドなどを統合。2014年にカルタムンディ社に買収され子会社に。詳細は英語版の当該欄かフランス語版のフランスカルトの欄を参照。 :; {{GER}} ::* {{仮リンク|ASS社|de|ASS Altenburger}} - 2002年カルタムンディ社に買収される。{{仮リンク|バイエルン・タロック|de|Bayerisches Tarock}}のトップブランドでもある。 :; {{ESP}} ::* エラクリオ・フルニエ社 - 2019年カルタムンディ社に買収。 :; {{BRA}} ::* コパッグ社 - 2005年カルタムンディ社に買収。 === 日本 === * [[任天堂]] - 日本で代表的なトランプ製造業者で、絵柄をカスタムしたトランプの受注生産も請け負っている。 * [[エンゼルプレイングカード]] * [http://www.dai-tora.com/ 大日本トランプ] * 日本カルタ - ウインドミル * [[天田印刷加工]](現・[[あまだ|エンスカイplus]]) - ジブリ関連などのキャラクター製品。上記のカルタムンディ社と提携し子会社の日本カードプロダクツを設立。 * [http://www.shobundo.org/card/index.html 昇文堂-オリジナルトランプ製造] === かつてのトランプ製造会社 === :; {{GBR}} ::* [[デ・ラ・ルー]]社 :; {{JPN}} ::* エーストランプ(東洋トランプ) ::* 平凡トランプ ::* ユニバーサルトランプ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[トランプ用語一覧]] * {{ill2|トランプカードのニックネーム|en|List of playing-card nicknames}} * [[カードゲーム]] * [[カードマジック]] * [[シャッフル (カード)]] * [[トランプタワー]] * [[トランプ類税]] == 外部リンク == {{Sisterlinks | q = no | n = no | v = no }} * {{Wayback |date=20090626102844 |url=http://trionfi.com/0/s/ |title=Tarot and Playing Card Museum {{en icon}} }} * [https://i-p-c-s.org/history.html History of Playing-Cards] {{en icon}} - {{仮リンク|国際トランプ協会|en|International Playing-Card Society}} * [https://www.nintendo.co.jp/others/playing_cards/ トランプ] - [[任天堂]] {{トランプ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とらんふ}} [[Category:カードゲーム]] [[Category:玩具]] [[Category:トランプ|*]] [[Category:紙製品]]
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スペードの女王
『スペードの女王』(スペードのじょおう、ロシア語:Пиковая дама)は、ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンの短編小説。1834年に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した。『大尉の娘』とも比せられるプーシキンの代表的な散文作品であり、引き締まった文体とホフマンを思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作。また1830年前後の幻想と現実とが交差する都市ペテルブルクを舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり、長編小説『未成年』に〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉がでてくるが、ドストエフスキーもこの作品を激賞したことで有名である。 その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬままナポレオンのごとき野望を持てあまし、二つの固着観念のせめぎあいのなかで(ヴィノグラードフ)ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている。 1890年には本作を元にチャイコフスキーが同名のオペラを作曲している。また1916年(監督ヤーコフ・プロタザノフ)、1948年(監督:ソロルド・ディキンソン)には映画化もされた。日本では神西清による訳で知られ、宝塚歌劇団でも2度の舞台化がされている。 工兵士官であるゲルマンは、騎兵士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。 しかし思索にふけりながら歩き、ふと顔を上げた先は伯爵夫人の屋敷だった。ゲルマンは覚悟を決める。伯爵夫人にいいように使われるみじめな娘リザヴェータをかどわかし、逢い引きの風を装って館に忍び込み、伯爵夫人の寝室に滑り落ちた。ゲルマンは勝つための手を自分にも教えろと迫るが、しかし伯爵夫人は「あれは笑談だった」と言ったぎり無言のままであった。ついにゲルマンは懐から拳銃をとりだして突きつける、と伯爵夫人は恐怖に戦き、そのままこと切れた。 リザヴェータの手引で館を脱出し、その後の伯爵夫人の葬式にも顔を出したゲルマンはある夜にたまさか目を覚ました。誰かが訪ねてきたと気をやる彼の枕元に、あの伯爵夫人が姿を現した。驚くゲルマンに、老女は「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」の順でカルタを張れば勝てると告げたのだった。必勝の策を得たゲルマンは、カルタで大金持ちとなったチェカリンスキイのテーブルについた。「三」に有るだけの金を賭け、ゲルマンは見事に勝ちをおさめた。次の日は「七」に有るだけの金を賭け、やはり鮮やかに勝った。三度目の勝負の日には、噂を聞きつけてたくさんの観衆が集まっていた。 ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。― そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。...... ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三トロイカ」「七セミョルカ」「一トウズ」、「三トロイカ」「七セミョルカ」「女王ダーマ」と呟くだけになったのだという。 『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこのアネクドートをもとにした作品を肉付けしていった。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この暴動が起こった土地であるオレンブルクなどをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになって時間が生まれる。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『青銅の騎士』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである。そして「読書文庫」紙上で発表され、後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐにベリンスキーやドストエフスキー、フランスではメリメやジイドといった人々に絶賛を受け、現在ではプーシキンの、つまりロシア文学における最高傑作の1つに数えられるようになった。 帰化したドイツ人を父に持つ平民出の青年で、計算高さだけでなく立身への野心もそなえている。モデルと考えられているのは、南方結社を組織しデカブリストの乱を率いたパーヴェル・ペステリである。ゲルマン同様にこのペステリも帰化ドイツ人の子で、やはりナポレオンに似ていたと伝わっている。また『スペードの女王』を書いていた頃の日記には、ある公爵とペステリの話をしたことを記してもいる。ペステリと交際のあったプーシキンは、敗れ去ったデカブリストたちへの「痛恨」を詩的形象としてゲルマンにことよせたのである。ゲルマンと比較される主人公を描く他作品としてドストエフスキー『罪と罰』(ラスコーリニコフ)、スタンダール『赤と黒』(ジュリヤン・ソレル)、バルザック『あら皮』(ラファエル)などの名が挙がる。 かつては美貌を誇ったが、いまでは醜く老い、うら若いリザヴェータを「殉教者のように」こき使っている。モデルとしてきわめて有力なのは、プーシキンが手紙で触れるN・P公爵夫人ことナターリヤ・ペトロヴナ・ゴリツィナ公爵夫人である。これはモスクワ特別市長ドミートリー・ゴリツィン公爵の妻であり、エカチェリーナ2世にも仕えたことのある女官である。プーシキンは実際に面識があったわけではなかったが、公爵夫人はマダム・ムスタッシュとも呼ばれ、『スペードの女王』の老伯爵夫人のようにかつてはパリの花形だった。そうしたゴリツィナ夫人の噂話を取り込む形で、フェドトブナ伯爵夫人という人物をつくりあげたと考えられている。一方で人となりや容貌などで矛盾する点もあり、伯爵夫人のモデルは実はエカテリーナ・アプラクシナという女性であったか、もしくはディテールに使用されていたとする説もある。 トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である。ゲルマンにカルタで勝つチェカリンスキイのプロトタイプにはアゴーニ=ドガノフスキーという人物がいる。プーシキンはよくこの人物の家で賭博をし、カルタで数万ルーブリの借金まで負っている。 この作品におけるひと揃いの数字三、七、一はたいへん重要なモチーフであり、賭博の場面だけでなく小説全体を貫いている。つまりトランプの数字としてだけはなく、登場人物の思考や時間、金銭、さらには数字に由来する動詞や音韻、図像として読み込まれてきた。ネイサン・ローゼンは三、七、一という数字が持つ魔術的な意味に注目し、それらがこの小説における超自然的な力を生み出す源泉だとしている。またこの数字の組み合わせの触発源として、グリンカの1828年の詩『トビアの結婚披露宴(Брачный пир Товия)』やカール・ホインの小説『オランダのユダ(Der holländische Jude)』、賭けトランプの『ファロ』などが考えられる。 「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「メフィストフェレス」じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」を生きなければならなくなるのである。 『スペードの女王』において真に謎めいているのは、亡霊が現れて予言をすることではなく、その予言を聞いたはずのゲルマンが『一』の代わりに『女王』を張ったことである。この不思議な現象を説明するためにいくつもの論文が書かれており、ゲルマンの負けを「純粋な偶然」や「見間違い」とする見方も存在してきた。ダヴィドフは、伯爵夫人とスペードの女王の間の図像的な連関や、ジェンダーの混乱、伯爵夫人の夫(つまり『一』)への優位などを指摘し、こういった見方にも論拠があるとしている。ヴィノグラードフによる終局の解釈は有名であり、これは『女王』の出現を、ゲルマンの内面に抑圧された殺人への罪の意識の物象化とみなすものである。いずれにせよ多くの研究者はこの謎めいたクライマックスを超自然的な力と現実的な力の融合によって説明しようとしている。 この小説への評価と同様、オペラ化も最初に行ったのはロシア人でなくフランス人だった。1850年のパリで、ウジェーヌ・スクリーブの台本、ジャック・アレヴィの作曲による3幕物がオペラ=コミック座で上演されたが、これは失敗したといわれている。しかし1890年にチャイコフスキー作曲(モデスト・チャイコフスキー作詞)の3幕のオペラがペテルブルクで初演され、大成功をおさめる。そもそもチャイコフスキーはオペラ化に対して積極的でなく、『スペードの女王』は「ぼくの心を動かさない」とまで手紙に書いていた。だが1889年に、帝室劇場の支配人であるイワン・フセヴォロシュスキイに依頼されて、翌年1月にはフィレンツェで作曲にとりくんだ。熱がこもっていたのは明らかで、わずか44日ほどで完成をみている。その後もマーラーの指揮による1902年、ウィーンでの上演を皮切りに、ミラノ、ベルリンなどでも好評を博した。ストーリーは原作と大きく異なり、結末においては最後の札で『女王』を出して負けたゲルマンの前に伯爵夫人が亡霊となって現れ、ゲルマンは自らの運命をさとり死を選ぶ、といった内容だった。大きな相違点はそれだけでなく、オペラの『スペードの女王』は「ペテルブルクもの」ではあっても、ゴーゴリやドストエフスキーの作品がそうであるように暗鬱な「楽屋裏の」街ではなく、女帝エカテリーナの時代の輝かしいペテルブルクなのである。そこには同時代のロシアに絶望していたチャイコフスキーとプーシキンの確かな人間賛歌が響き合っている。
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『スペードの女王』は、ロシアの作家アレクサンドル・プーシキンの短編小説。1834年に雑誌「読書文庫」に発表され、すぐさま大変な人気を博した。『大尉の娘』とも比せられるプーシキンの代表的な散文作品であり、引き締まった文体とホフマンを思わせる幻想的な雰囲気に満ちた格調高い名作。また1830年前後の幻想と現実とが交差する都市ペテルブルクを舞台にした「ペテルブルクもの」に連なり、長編小説『未成年』に〔スペードの女王の主人公〕「ゲルマンは巨大な人物だ。異常な、まったくペテルブルグ的な典型だ―ペテルブルグ時代の典型だ」という言葉がでてくるが、ドストエフスキーもこの作品を激賞したことで有名である。 その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬままナポレオンのごとき野望を持てあまし、二つの固着観念のせめぎあいのなかで(ヴィノグラードフ)ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている。 1890年には本作を元にチャイコフスキーが同名のオペラを作曲している。また1916年(監督ヤーコフ・プロタザノフ)、1948年には映画化もされた。日本では神西清による訳で知られ、宝塚歌劇団でも2度の舞台化がされている。
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その平民出身の主人公ゲルマンは、大金を求めて人知の限りを尽くすが、愛と友情とを知らぬまま[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]のごとき野望を持てあまし、二つの固着観念のせめぎあいのなかで([[ヴィクトル・ヴィノグラードフ|ヴィノグラードフ]]<ref>クセニヤ 2010年 p.114</ref>)ついには発狂して全てを失ってしまう。神西清はこの作品にプーシキン自身の内面とも通じ合う「悲劇」を見いだしている<ref>神西 1967年 p.248</ref>{{#tag:ref|最後には幸せな結婚をするリザヴェータを中心に滑稽みもないではない。たとえば彼女は少女じみた熱をこめて手紙を待つ。これは将来の伴侶を見つけられるかどうか、という一種の「賭け」であり、ゲルマンの悲壮な賭けと対照をみせる。そして待ちわびた手紙を破りすてる場面は、小説中で最も滑稽な瞬間だといえるだろう<ref>Debreczeny 1983, pp.216-217</ref>|group="n"}}。 [[1890年]]には本作を元に[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]が[[スペードの女王 (オペラ)|同名のオペラ]]を作曲している。また[[1916年]](監督[[ヤーコフ・プロタザノフ]])、1948年(監督:ソロルド・ディキンソン)には映画化もされた。[[日本]]では[[神西清]]による訳で知られ、[[宝塚歌劇団]]でも2度の舞台化がされている。 == あらすじ == [[File:Пушкинская 74 Пушкин Дама граффити.JPG|thumb|300px|プーシキンとスペードの女王(建物に直接描かれている ハリコフ)]] [[工兵]]士官であるゲルマンは、[[騎兵]]士官トムスキイの家で連夜開かれるカルタ勝負を熱心に見守りはするが、決して自分では金を賭けようとはしない。しかしトムスキイに言わせれば、ゲルマンよりも自分の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人が賭けをしないことのほうが奇妙なのだという。なんでも伯爵夫人はかつてカルタで散々に負けたのだが、ある人から必勝の手を教わり、失ったはずの大金を取り戻したことがあるのだ。さらに同じように大負けした青年を哀れに思い、その策を授けて勝たせてやったというのである。それを聞いたゲルマンは心を躍らせたが、同時に自分にとっての必勝の手は節度なのだと思い直す。 {{quotation|……所であの話だが、一体あれは本当なのかな。いやいや、倹約、節制、勤勉、これが俺の三枚の勝ち札だ。これこそ俺の身代を築き上げるどころか七層倍にもして、安楽と独立を齎すものなのだ|神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.26}} しかし思索にふけりながら歩き、ふと顔を上げた先は伯爵夫人の屋敷だった。ゲルマンは覚悟を決める。伯爵夫人にいいように使われるみじめな娘リザヴェータをかどわかし、逢い引きの風を装って館に忍び込み、伯爵夫人の寝室に滑り落ちた。ゲルマンは勝つための手を自分にも教えろと迫るが、しかし伯爵夫人は「あれは笑談だった」と言ったぎり無言のままであった。ついにゲルマンは懐から拳銃をとりだして突きつける、と伯爵夫人は恐怖に戦き、そのままこと切れた。 リザヴェータの手引で館を脱出し、その後の伯爵夫人の葬式にも顔を出したゲルマンはある夜にたまさか目を覚ました。誰かが訪ねてきたと気をやる彼の枕元に、あの伯爵夫人が姿を現した。驚くゲルマンに、老女は「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「一<small>トウズ</small>」の順でカルタを張れば勝てると告げたのだった。必勝の策を得たゲルマンは、カルタで大金持ちとなったチェカリンスキイのテーブルについた。「三」に有るだけの金を賭け、ゲルマンは見事に勝ちをおさめた。次の日は「七」に有るだけの金を賭け、やはり鮮やかに勝った。三度目の勝負の日には、噂を聞きつけてたくさんの観衆が集まっていた。 {{quotation| チェカリンスキイは顫える手に札を配った。右手には『女王』が、左手には『一』が出た。<br /> 「『一<small>トウズ</small>』がやった!」とゲルマンは言って、持ち札を起こした。<br /> 「いや、『女王<small>ダーマ</small>』の負けと存じますが」とチェカリンスキイが優しく言い直した。<br /> ゲルマンは愕然と自分の手を見た。張った筈の『一』は消えて、開いたのはスペードの『女王』であった。―この指が引き違いをする筈はないのだが。―<br /> そのとき、スペードの『女王』が眼を窄めて、北叟笑みを漏らしたと見えた。その生き写しの面影に、彼は悚然とした。……<br /> 「あいつだ!」彼は眼を据えて絶叫した。|前掲書 pp.60-61}} ゲルマンは精神に変調をきたし、ほどなく精神病院に入れられた。何を聞かれても早口で「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「一<small>トウズ</small>」、「三<small>トロイカ</small>」「七<small>セミョルカ</small>」「女王<small>ダーマ</small>」と呟くだけになったのだという。 == 解題 == === 執筆と反響 === [[File:Pushkin Alexander, self portret, 1820s.jpg|thumb|left|180px|アレクサンドル・プーシキン(自画像)]] {{quote box|width=33% |align=right|わたしの『スペードの女王』はすっかり流行りっ児だ。賭博者連中は三、七、一と張っている。宮中では、老伯爵夫人がN・P公爵夫人に似ているという評判だが、あの連中も腹を立ててはいないらしい|1834年4月7日の手紙<ref name="神西256">神西 1967年 p.256</ref>}} 『スペードの女王』の萌芽は、1819年に創作ノートに書き留められた『ナージニカ』に求められる<ref name="森田238">森田 2007年 p.238</ref>。その後1828年にゴリツィン公爵から「3枚のトランプ」の話を聞いたプーシキンは、構想段階であった『ナージニカ』とこの[[アネクドート]]をもとにした作品を肉付けしていった<ref name="森田238"/>。そして1833年8月、プーシキンは『プガチョフ叛乱史』を執筆するために、この[[プガチョフの乱|暴動]]が起こった土地である[[オレンブルク]]などをまわって資料を集め、その帰路でボロジノの村に逗留した<ref name="神西246">神西 1967年 p.246</ref>。しかしコレラが発生したために滞在の予定が伸びて、2ヶ月近く留まることになって時間が生まれる<ref name="森田226">森田 2007年 p.226</ref>。この時期に『プガチョフ叛乱史』や、やはり傑作である『[[青銅の騎士 (詩)|青銅の騎士]]』などとともに『スペードの女王』が書かれたのである<ref name="神西246"/>。そして「読書文庫」紙上で発表され、後に選集にもおさめられたが、原稿は散逸してしまった<ref name="森田226"/>。発表後すぐに人気を集め、プーシキンが手紙でそれを自賛するほどであった。当時こそ文学として真に評価されていたとはいいがたいが、すぐに[[ヴィッサリオン・ベリンスキー|ベリンスキー]]やドストエフスキー、フランスでは[[プロスペル・メリメ|メリメ]]や[[アンドレ・ジッド|ジイド]]といった人々に絶賛を受け{{#tag:ref|メリメは1849年に『スペードの女王』の仏訳を行っている。誤訳も少なくなかったが訳業としてはすぐれたもので、プーシキンというロシア人の名を借りたメリメ自身の作品と考えられるほどだった<ref>神西 1967年 pp.257-258</ref>|group="n"}}、現在ではプーシキンの、つまり[[ロシア文学]]における最高傑作の1つに数えられるようになった<ref>神西 1967年 pp.256-259</ref>。 === 登場人物 === [[File:Nathalie_Petrovna_Golitsyn.jpg|thumb|伯爵夫人のモデルとされるナターリヤ・ゴリツィナ公爵夫人。賭博を好み、晩年は視力が衰えた彼女のため大きな書体のトランプが用意されていたという<ref name="davydov320">Davydov 1999, p.320</ref>。またトランプで負債を負った孫に勝ち札を教えて負けを取り戻させたエピソードも実際に伝わっている<ref name="davydov320"/>。美しい顔立ちからはほど遠く、むしろたいへんな醜婦だったともいわれる<ref name="笠間2"/>]] [[file:Perrot View of the Smolny Convent 1841.jpg|thumb|1840年ごろのペテルブルク、スモーリヌイ修道院。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ベールイなどの何人もの作家によってペテルブルクは幻想と現実の折り重なった都市として描かれ、無数の「ペテルブルクもの」を生み出してきた。]] ;ゲルマン 帰化したドイツ人を父に持つ平民出の青年で、計算高さだけでなく立身への野心もそなえている。モデルと考えられているのは、南方結社を組織しデカブリストの乱を率いた[[パーヴェル・ペステリ]]である。ゲルマン同様にこのペステリも帰化ドイツ人の子で、やはりナポレオンに似ていたと伝わっている。また『スペードの女王』を書いていた頃の日記には、ある公爵とペステリの話をしたことを記してもいる。ペステリと交際のあったプーシキンは、敗れ去ったデカブリストたちへの「痛恨」<ref name="神西5051"/>を詩的形象としてゲルマンにことよせたのである<ref name="神西5051">神西 1967年 pp.250-251</ref><!--出典はパラグラフ全体-->。ゲルマンと比較される主人公を描く他作品としてドストエフスキー『罪と罰』(ラスコーリニコフ){{#tag:ref|ドストエフスキーは『賭博者』(アレクセイ・イワーノヴィチ)、『未成年』(アルカージイ)などにも大きな影響をみせている<ref>Debreczeny 1983, p.186</ref>|group="n"}}、[[スタンダール]]『赤と黒』(ジュリヤン・ソレル)、[[バルザック]]『あら皮』(ラファエル)などの名が挙がる<ref name="神西5051"/><ref>森田 2007年 pp.228-230</ref>。 ;アンナ・フェドトブナ伯爵夫人 かつては美貌を誇ったが、いまでは醜く老い、うら若いリザヴェータを「殉教者のように」こき使っている。モデルとしてきわめて有力なのは、プーシキンが手紙で触れるN・P公爵夫人ことナターリヤ・ペトロヴナ・ゴリツィナ公爵夫人である<ref name="笠間1">笠間 1982年 p.1</ref>。これはモスクワ特別市長ドミートリー・ゴリツィン公爵の妻であり、エカチェリーナ2世にも仕えたことのある女官である<ref name="神西5455">神西 1967年 p.254-255</ref>。プーシキンは実際に面識があったわけではなかったが、公爵夫人はマダム・ムスタッシュとも呼ばれ{{#tag:ref|年老いてから口ひげを生やし始めたため、それを嗤ってあだ名された<ref name="笠間2"/>|group="n"}}、『スペードの女王』の老伯爵夫人のようにかつてはパリの花形だった。そうしたゴリツィナ夫人の噂話を取り込む形で、フェドトブナ伯爵夫人という人物をつくりあげたと考えられている<ref name="笠間1"/>。一方で人となりや容貌などで矛盾する点もあり、伯爵夫人のモデルは実はエカテリーナ・アプラクシナという女性であったか、もしくはディテールに使用されていたとする説もある<ref name="笠間2">笠間 1982年 p.2</ref>。 トムスキイやリザヴェータのモデルを求める試みは成功をみていない。またプーシキンその人も賭博好きでありたばたび賭博を作中に登場させているが、ゲルマンのそれは単なる気晴らしではなく、「安楽と独立」をもたらす希望であった点は重要な対比である<ref>森田 2007年 p.242</ref>。ゲルマンにカルタで勝つチェカリンスキイのプロトタイプにはアゴーニ=ドガノフスキーという人物がいる。プーシキンはよくこの人物の家で賭博をし、カルタで数万ルーブリの借金まで負っている<ref>Debreczeny 1983, p.195</ref>。 === 三、七、一 === {{quotation|『三』『七』『一』は夢にまで追い掛けて来て、さまざまな形を現した。『三<small>(トロイカ)</small>』は見事な大輪の花となって開き、『七<small>(セミョルカ)</small>』はゴチック式の門となって閉じた。その上『一<small>(トゥズ)</small>』は女郎蜘蛛に化けた。|神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.55}} この作品におけるひと揃いの数字三、七、一はたいへん重要なモチーフであり、賭博の場面だけでなく小説全体を貫いている<ref>Debreczeny 1983, p.220</ref>。つまりトランプの数字としてだけはなく、登場人物の思考や時間、金銭、さらには数字に由来する動詞や音韻、図像として読み込まれてきた{{#tag:ref|一方でダヴィドフがいうように、『スペードの女王』にはいくつもの数が現れるため、それらの組み合わせからあらゆるものを引き出すことが可能であり、また三、七、一という順序には全く注意が払われていな<ref>Davydov 1999, p.311</ref>|group="n"}}。ネイサン・ローゼンは三、七、一という数字が持つ魔術的な意味に注目し、それらがこの小説における超自然的な力を生み出す源泉だとしている<ref>Rosen 1975, p.256</ref>。またこの数字の組み合わせの触発源として、グリンカの1828年の詩『トビアの結婚披露宴({{lang|ru|Брачный пир Товия}})』やカール・ホインの小説『オランダのユダ({{lang|de|Der holländische Jude}})』、賭けトランプの『[[ファロ (トランプゲーム)|ファロ]]』などが考えられる<ref>Davydov 1999, pp.310-311</ref>。 === 英雄ナポレオン === 「横から見ればナポレオン」とトムスキイに評される<ref name="神西43">神西清訳『スペードの女王・ベールキン物語』岩波文庫、1967年 p.43</ref>『スペードの女王』の主人公ゲルマンにはその通り「ナポレオン主義」が見いだされてきた<ref name="森田227">森田 2007年 p.227</ref>。金と名誉とを求める平民出のゲルマンは、伯爵夫人の殺害や無垢なリザヴェータをただ利用することを躊躇しない。容貌だけでなく、この野心と「[[メフィストフェレス]]」<ref name="神西43"/>じみた悪魔性においてゲルマンはナポレオンのイメージが重ねられているといってよい<ref>森田 2007年 p.229</ref>。しかし彼はこのナポレオン主義によって破滅し、死の手前で「不条理な生」<ref>森田 2007年 p.230</ref>を生きなければならなくなるのである。<!--しかしナポレオンが英雄としての側面を持つように、ゲルマンもその意味で両義的な人物である。伯爵夫人の部屋が[[モンゴルフィエ兄弟|モンゴルフィエ]]の気球や[[フランツ・アントン・メスメル|メスメル]]の磁気といった「前世紀の」品々であふれている通り、この老婆は18世紀フランスの[[アンシャン・レジーム|旧体制]]を象徴する存在として描かれている<ref name="鳥山12">鳥山 2010年 p.12</ref>。ナポレオンがそれを打倒して英雄になったように、ゲルマンは非対称的に伯爵夫人を「見る」行為によって征服し、殺すことで英雄としてのナポレオン像にも比せられているのである<ref name="鳥山12"/>。だがゲルマンもまた幻想の伯爵夫人に「見つめられ」て一方的な支配権を失い、ナポレオンの没落と軌を一にするかのように、破滅へ向かうのである<ref>鳥山 2010年 p.14</ref>。--> === 謎めいた終局 === [[File:Queen of spades en.svg|thumb|180px|left|''もう一枚は年若な鉤鼻の美女で、打ち粉した髪を額ぎわ深く撫で上げ、薔薇の花を挿している。''{{#tag:ref|寝室に飾られた伯爵夫人の肖像画 ―神西清訳『スペードの女王』岩波文庫、1967年 p.35<br>方形の枠におさまった、薔薇をまとった若い女性。ここで伯爵夫人は明らかにスペードの女王の意匠と重ねられている<ref name="Davydov322"/>|group="n"}}]] 『スペードの女王』において真に謎めいているのは、亡霊が現れて予言をすることではなく、その予言を聞いたはずのゲルマンが『一』の代わりに『女王』を張ったことである<ref name="Davydov322">Davydov 1999, p.322</ref>。この不思議な現象を説明するためにいくつもの論文が書かれており、ゲルマンの負けを「純粋な偶然」や「見間違い」とする見方も存在してきた<ref name="Davydov322"/>。ダヴィドフは、伯爵夫人とスペードの女王の間の図像的な連関や、ジェンダーの混乱、伯爵夫人の夫(つまり『一』)への優位などを指摘し、こういった見方にも論拠があるとしている<ref>Davydov 1999, pp.323-324</ref>。ヴィノグラードフによる終局の解釈は有名であり、これは『女王』の出現を、ゲルマンの内面に抑圧された殺人への罪の意識の物象化とみなすものである<ref name="Davydov322"/>。いずれにせよ多くの研究者はこの謎めいたクライマックスを超自然的な力と現実的な力の融合によって説明しようとしている<ref>クセニヤ 2010年 p.115</ref>。 == オペラ == {{main|スペードの女王 (オペラ)}} [[File:Tchaikovsky and the Figners 1890.jpg|thumb|チャイコフスキーと1890年の初演でそれぞれゲルマンとリーザ役で歌ったニコライ・フィグネルとメデア・フィグネル]] この小説への評価と同様、オペラ化も最初に行ったのはロシア人でなくフランス人だった。1850年のパリで、[[ウジェーヌ・スクリーブ]]の台本、[[ジャック・アレヴィ]]の作曲による3幕物が[[オペラ=コミック座]]で上演されたが、これは失敗したといわれている{{#tag:ref|原因はアレヴィに求められた<ref>神西 1967年 p.259</ref>|group="n"}}。しかし1890年にチャイコフスキー作曲(モデスト・チャイコフスキー作詞)の3幕のオペラがペテルブルクで初演され、大成功をおさめる<ref name="神西259">神西 1967年 p.259</ref>。そもそもチャイコフスキーはオペラ化に対して積極的でなく、『スペードの女王』は「ぼくの心を動かさない」とまで手紙に書いていた<ref name="浅岡33">浅岡 2005年 p.33</ref>{{#tag:ref|だがプーシキンの言葉はあまりに完璧で、そこでは音楽は不要であると語ったというチャイコフスキーの友人の回想もある<ref name="浅岡34">浅岡 2005年 p.34</ref>|group="n"}}。だが1889年に、帝室劇場の支配人であるイワン・フセヴォロシュスキイに依頼されて、翌年1月にはフィレンツェで作曲にとりくんだ<ref name="浅岡33"/>。熱がこもっていたのは明らかで、わずか44日ほどで完成をみている<ref name="浅岡33"/>。その後もマーラーの指揮による1902年、ウィーンでの上演を皮切りに、ミラノ、ベルリンなどでも好評を博した<ref name="神西259"/>。ストーリーは原作と大きく異なり{{#tag:ref|例えば小説に登場しないゲルマンの恋敵が登場する<ref name="浅岡33"/>|group="n"}}、結末においては最後の札で『女王』を出して負けたゲルマンの前に伯爵夫人が亡霊となって現れ、ゲルマンは自らの運命をさとり死を選ぶ、といった内容だった<ref name="神西259"/>。大きな相違点はそれだけでなく、オペラの『スペードの女王』は「ペテルブルクもの」ではあっても、ゴーゴリやドストエフスキーの作品がそうであるように暗鬱な「楽屋裏の」街ではなく、女帝エカテリーナの時代の輝かしいペテルブルクなのである<ref name="浅岡4142">浅岡 2005年 pp.41-42</ref>。そこには同時代のロシアに絶望していたチャイコフスキー<ref>浅岡 2005年 p.36</ref>とプーシキンの確かな人間賛歌が響き合っている<ref>浅岡 2005年 p.42</ref>。 == ミュージカル == {{See|スペードの女王 (宝塚歌劇)|冬の嵐、ペテルブルグに死す}} == 日本語訳 == *{{Cite book |title=スペードの女王・ベールキン物語 |author=アレクサンドル・プーシキン、[[神西清]]訳 |year=1967 |publisher=[[岩波文庫]] |isbn=4003260422}} *{{Cite book |title=悪魔のトランプ占い |author=アレクサンドル・プーシキン他、渡辺節子訳 |year=1986 |publisher=[[ポプラ社]] |series=(ポプラ社文庫―怪奇・推理シリーズ) |isbn=4591022994}} *{{Cite book |title=スペードの女王 |author=アレクサンドル・プーシキン、[[岡本綺堂]]訳 |year=1987 |publisher=[[河出書房新社]] |series=世界怪談名作集 03|isbn=4003260422}}-[http://www.aozora.gr.jp/cards/001088/card42305.html (青空文庫)] *{{Cite book |title=スペードのクイーン / ベールキン物語 |author=アレクサンドル・プーシキン、[[望月哲男]]訳 |year=2015 |publisher=[[光文社古典新訳文庫]] |isbn=9784334753054}} == 脚注 == <references group="n"/> ; 出典 {{Reflist|30em}} ; 参考文献 * {{Cite journal|和書|author=藻利佳彦 |title=『スペードの女王』に関する一考察 |journal=ロシア語ロシア文学研究 |publisher=日本ロシア文学会 |year=1992 |issue=24 |pages=108-110 |naid=110001249209 |id={{NDLJP|10924640}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10924640}} * {{Cite journal|和書|author=笠間啓治 |title=「スペードの女王」の老伯爵夫人のモデルをめぐって |journal=ロシア語ロシア文学研究 |issn=03873277 |publisher=日本ロシア文学会 |year=1982 |month=sep |issue=14 |pages=1-10 |naid=110001256915 |id={{NDLJP|10925559}} |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10925559}} * {{Cite journal|和書|author=鳥山祐介 |year=2010 |title=プーシキン『スペードの女王』と光学劇場 : 「幻想性」のコンテクストをめぐって |url=https://doi.org/10.15083/00038179 |journal=Slavistika : 東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室年報 |volume=25 |pages=1-10 |publisher=東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学研究室 }} * {{Cite journal|和書|author=森田敦子 |year=2007 |title=プーシキン『スペードの女王』の比較文学的考察 : スタンダール『赤と黒』・バルザック『あら皮』『赤い宿屋』との対比 |url=https://hdl.handle.net/2115/38703 |journal=スラヴ研究 |volume=54 |pages=225-243 |publisher=北海道大学スラブ研究センター |naid=120001377323 |issn=05626579}} * {{Cite journal|和書|author=レズニク・クセニヤ |year=2010 |title=プーシキン『スペードの女王』における〈意志の疎外〉と「え知れぬ或る力」 : 幻想文学再考のために |url=https://docs.google.com/viewer?pid=explorer&srcid=0B98uZ7pO0pjgZjhhZDgyODYtYTdlNS00NzExLWE0NzQtNjMwNWE2ZWE4NmQ1&docid=6fdf61fdccd2b9aacb3e47955d45e879|40e8f6b9ef26bcc69f33b68a1e31dd3e&chan=EQAAAH8RR/3Lvy0SXxVXJefvwz3gHohp0Ve7SjuCI0nmtlHR&a=v&rel=zip;z1;%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E7%A0%94%E7%A9%B6%EF%BC%97%E5%8F%B7.pdf |journal=テクスト研究 |volume=7 |pages=111-129 |publisher=テクスト研究学会|naid=40020169780|issn=1349-7162 }} * {{Cite journal |author=浅岡宣彦 |year=2005 |title=ペテルブルグと音楽―オペラ《スペードの女王》について― |url=http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/UCRC/200/data/pdf_0503fiction/04_asaoka.pdf |journal=COE国際シンポジウム報告書『都市のフィクションと現実』 |pages=33-43 |publisher=大阪市立大学大学院文学研究科 }} *{{Cite journal |author=Nathan Rosen |year=1975 |title=The Magic Cards in The Queen of Spades |url=http://www2.fwcds.org/faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Magic%20in%20QofS.pdf |journal=The Slavic and East European Journal |volume=19 |issue=2 |pages=255-275 |publisher=American Association of Teachers of Slavic and East European Languages }} *{{Cite journal |author=Sergei Davydov |year=1999 |title=The Ace in "The Queen of Spades" |url=http://community.middlebury.edu/~sdavydov/The%20Ace%20in%20%27The%20Queen%20of%20Spades,%27%20in%20Pushkin%20volume%20of%20Slavic%20Review%2058,%20No.%202%20%28Summer%201999%29,%20309-328.pdf |journal=Slavic Review |volume=58 |issue=2 |pages=309-328 |publisher=Association for Slavic, East European, and Eurasian Studies }} *{{Cite book |author=Paul Debreczeny |year=1983 |title=The Other Pushkin: A Study of Alexander Pushkin's Prose Fiction |url=https://books.google.co.jp/books?id=fKSrAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=Paul+Debreczeny&hl=ja&sa=X&ei=q5SfT6fQKvGMmQWdvJT-AQ&ved=0CDQQ6AEwAA#v=onepage&q=Paul%20Debreczeny&f=false |publisher=Stanford University Press }} ;関連文献 *{{Cite journal |author=Gary Rosenshield |year=1994 |title=Choosing the Right Card: Madness, Gambling, and the Imagination in Pushkin's "The Queen of Spades" |url=http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Choosing%20the%20Right.pdf |journal=PMLA |volume=109 |issue=5 |pages=995-1008 |publisher=Modern Language Association }} *{{Cite journal |author=Maxim D. Shrayer |year=1992 |title=Rethinking Romantic Irony: Puškin, Byron, Schlegel and The Queen of Spades |url=http://www2.fwcds.org/Faculty/Faculty%20Resources%20Page/Boberg/Pushkin/Rethinking.pdf |journal=The Slavic and East European Journal |volume=36 |issue=4 |pages=397-414 |publisher=American Association of Teachers of Slavic and East European Languages }} == 外部リンク == * {{Cite web|和書|author=松岡正剛 |date=2001-08-09 |url=https://1000ya.isis.ne.jp/0353.html |title=アレクサンドル・プーシキン『スペードの女王 ベールキン物語』 |publisher=松岡正剛の千夜千冊|accessdate=2012-04-29}} * {{Cite web |url=http://www.pushkiniana.org/naps.html |title=the Pushkin Review |publisher=North American Pushkin Society|accessdate=2012-04-30}} * [http://public-library.narod.ru/Pushkin.Alexander/pikovaya.html スペードの女王(ロシア語)] * [http://home.tiscali.cz:8080/ist987/libreta/picdama.html オペラのリブレット(ロシア語)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すへえとのしよおう}} [[Category:スペードの女王|*]] [[Category:アレクサンドル・プーシキンの小説]] [[Category:ロシアの短編小説]] [[Category:1830年代の小説]] [[Category:賭博を題材とした作品]] [[Category:トランプを題材とした作品]] [[Category:ロシアを舞台とした小説]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B
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かごめかごめ
かごめかごめは、こどもの遊びの一つ。または、その時に歌う歌。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う。 「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。 鬼は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、昭和初期に山中直治によって記録された千葉県野田市の歌が全国へと伝わり現在に至った。野田市が発祥地といわれることから、東武野田線の清水公園駅の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。 被差別部落を扱っている歌だとされるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている。 地方により歌詞が異なる。 文献史料では、このかごめかごめは江戸中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、明治末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。 なお京都には「かごめかごめ」と同じ遊び方の(中央に座った鬼が、自分の真後ろが誰かを当てる)、「京の大仏つぁん」という遊び歌がある。歌詞は「京の京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた」で、当時日本一の高さを誇っていた方広寺大仏(京の大仏)は、寛政10年(1798年)に落雷のため焼失してしまったが、隣りにあった三十三間堂は奇跡的に類焼を免れたことを歌っている。 この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。 姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない遊女、徳川埋蔵金の所在を謡ったものとする俗説などがある。 解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。以下に一部を紹介する。 天の岩戸に閉じ込められた神(天照主日大御神)を岩戸より出てきていただくことを願う歌。かごめかごめ : 2次元で描いた場合は、六芒星で描かれる。実際は3次元(3D)の編み籠目(あみかごめ)になる。「かごの中のとりは」: 籠の中の鳥は点を表すしている。キリストが天の父と呼んだ「主」の王の上につく点。これが籠目の中の鳥に値する。いついつでやる : いつ神は出てこられるのか。夜明けの晩に : 暗い日の欠けた世から日の照らす明るい世になる時を表す。神が出てくるために明るくなるし、私たちが世を明るくしようと努力するこの2つの事柄が交差した時を表す。鶴と亀がすーべった : 鶴と亀は神と仏を意味する。神は7次元ある神霊界の第7次元、第6次元に坐り、神が5次元より下の次元に移動する時に仏に変化する。神も仏の元は同じである。そりため鶴、亀を同列にしている。すーべったは統べる、統一する働きを表す。真の神が現れ、この世を統一運営することを指している。後ろの正面だあれ : 後ろ、つまり背後、見えないところを表す。人の目には認識できない、だが必ず居るという意味。だあれはその神はだれなのかを問う意味。天照主日大御神になる。
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かごめかごめは、こどもの遊びの一つ。または、その時に歌う歌。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う。 「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。
{{出典の明記|date=2015年11月11日 (水) 21:50 (UTC)}} '''かごめかごめ'''は、[[こどもの文化|こどもの遊び]]の一つ。または、その時に歌う[[歌]]。「細取・小間取(こまどり)」「子捕り・子取り(こどり)」「子をとろ子とろ」とも言う<ref>『[[広辞苑]]-第五版』、[[岩波書店]]。</ref>。 「[[目隠し鬼]]」などと同じく、大人の[[宗教]]的[[儀礼]]を子供が真似たものとされる<ref>{{Cite book|和書|author=柳田國男|authorlink=柳田國男|title=民間伝承論|publisher=共立社|year=1934|page=181}}</ref>。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。 {{試聴 |filename=Kagome Kagome.song.ogg |title=「かごめかごめ」の歌 |description=[[千葉県]][[野田市]]の歌詞に準じる。 }} <score vorbis=1 midi=1>{ \key a \minor \time 2/4 \tempo 4=60 \relative d' { a'4 a8 b| a a a r| a a16 a a8 g16 g| a8 a16 g e8 r| a8 g a g a a16 g e8 r| a a a b| a a a r| a g16 g a8 g16 g| a8 a16 g e8 r| a16 a a a a8 b a8. g16 a8 r \bar "|." } \addlyrics { か ご め か ご め か ご の な か の と り ー は い つ い つ で や ー る よ あ け の ば ん に つ る と か め と す べ っ た う し ろ の しょう めん だ ー れ } } </score> == 概要 == [[鬼]]は目を隠して中央に座り、その周りを他の子が輪になって歌を歌いながら回る。歌が終わった時に鬼は自分の真後ろ(つまり後ろの正面)に誰がいるのかを当てる。各地方で異なった歌詞が伝わっていたが、[[昭和]]初期に[[山中直治]]によって記録された[[千葉県]][[野田市]]の歌が全国へと伝わり現在に至った。野田市が発祥地といわれることから、[[東武野田線]]の[[清水公園駅]]の前に「かごめの唄の碑」が建立されている。 [[部落問題|被差別部落]]を扱っている歌だとされるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている<ref>[[森達也]]『放送禁止歌』[[光文社]]知恵の森文庫、2003年 30、231頁。{{ISBN2|4-334-78225-6}}。ISBN 978-4-334-78225-2。</ref>。 === 歌詞 === 地方により歌詞が異なる。 *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀'''と'''<!--違いが判りづらいので強調-->滑った 後ろの正面だあれ? *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀'''が'''<!--違いが判りづらいので強調-->滑った 後ろの正面だあれ? *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が'''統べた'''<!--同様に強調--> 後ろの正面だあれ? *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に つるつる滑った 鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ *かごめかごめ 籠の中の鳥は いつもかつもお鳴きゃぁる(お鳴きやる) 八日の晩に 鶴と亀が滑ったとさ、ひと山 ふた山 み山 越えて ヤイトを すえて やれ 熱つ や(お灸を据えて、やれ熱や) *籠目籠目 加護の中の鳥居は いついつ出会う 夜明けの番人 つるっと亀が滑った 後ろの少年だあれ? *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だあれ? *かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出会う 夜明けの番人 鶴と亀が滑った 後ろの少年だあれ? 文献史料では、このかごめかごめは[[江戸時代|江戸]]中期以降に現れる。『後ろの正面』という表現は、[[明治]]末期以前の文献では確認されていない。さらに、『鶴と亀』『滑った』についても、明治以前の文献で確認されていない。 なお京都には「かごめかごめ」と同じ遊び方の(中央に座った[[鬼]]が、自分の真後ろが誰かを当てる)、「京の大仏つぁん」という遊び歌がある。歌詞は「'''京の京の大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン 後ろの正面どなた'''」で、当時日本一の高さを誇っていた[[方広寺]]大仏([[京の大仏]])は、[[寛政]]10年([[1798年]])に落雷のため焼失してしまったが、隣りにあった[[三十三間堂]]は奇跡的に類焼を免れたことを歌っている<ref>[[田中緑紅]] 『京の京の大仏っあん』1957年 p.7</ref>。 == 現存する文献== ;「竹堂随筆」 : 竹堂随筆(ちくどうずいしゅう):[[文政]]3年([[1820年]])頃に編纂)<ref group="注釈">原書は活字に起こされ『続日本歌謡集成』[[東京堂出版]]([[1961年]]([[昭和]]36年) - [[1964年]](昭和39年))にて出版。</ref> :浅草覚吽院に住した修験僧「行智」の編んだ童謡集で、[[宝暦]]・[[明和]]年間([[1751年]] - [[1772年]])頃に収録された童謡集 :「かァごめかごめ。かーごのなかの鳥は。いついつでやる。夜あけのばんに。 :つるつるつっぺぇつた。なべのなべのそこぬけ。そこぬいてーたーァもれ。」 ;「戻橋背御摂」 : 戻橋背御摂(もどりばしせなのごひいき):[[文化 (元号)|文化]]10年([[1813年]])、江戸市村座で初演された[[歌舞伎]]芝居 : 鶴屋南北の作で、芝居に取り入れた子供の遊び唄。戻橋背御摂に関しては大南北全集(春陽堂)、鶴屋南北全集(三一書房)などで確認できる。 :「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつっはいた」(大南北全集) :「かご目かご目篭の中の鳥はいついつ出やる、夜明けの晩につるつるつるはいつた」(鶴屋南北全集) ;「月花茲友鳥」 : 月花茲友鳥(つきとはなここにともどり):文政6年([[1823年]])、市村座で初演された浄瑠璃。 : 清元全集(日本音曲全集刊行會)、日本歌謡集成(春秋社)などで確認できる。 :「かごめかごめ籠の中の鳥は、いついつ出やる、夜明けの晩に、つるつるつるつゝぱつた」 ;「幼稚遊昔雛形」 : 幼稚遊昔雛形(おさなあそびむかしのひながた):[[天保]]15年([[1844年]])に刊行された万亭応賀編の童謡童遊集 :「かごめ かごめ かごのなかへ(の)とりは いついつねやる :よあけのまえに つるつるつッペッた :なべの なべの そこぬけ そこぬけたらどんかちこ そこいれてたもれ(孫引き)」 ;「俚謡集拾遺」 :俚謡集拾遺(りようしゅうしゅうい):[[1915年]]([[大正]]4年)刊行 :[[1905年]]([[明治]]38年)、文部省により各都道府県から集められ、[[1914年]](大正3年)に刊行された「俚謡集」に収録されなかったものを集めたのが俚謡集拾遺である。 :「籠目かごめ、籠の中の鳥は、いついつでやる、夜明けの晩に、ツルツル辷(つ)ウベッた。」(東京) :「籠目かごめ、籠の中のますは、何時何時出やる、十日の晩に、鶴亀ひきこめひきこめ。」(長野県) :「かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる、よあけの晩げつゝらつゥ」(新潟県) == 「かごめかごめ」に関する俗説 == {{独自研究|section=1|date=2011年8月}} この歌の歌詞が表現する一風変わった(ある意味神秘的な)光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がある。ただ、『鶴と亀』以降の表現は明治期以降に成立したと思われるため、それらの解釈に古い起源などを求めることは困難である。また、この歌の発祥の地についても不詳である。 姑によって後ろから突き飛ばされ流産する妊婦や、監視された環境から抜け出せない[[遊女]]、[[徳川埋蔵金]]の所在を謡ったものとする俗説などがある。 === 歌詞の解釈 === 解釈に際しては、歌詞を文節毎に区切り、それぞれを何かの例えであると推定し、その後で全体像を論じる形をとっているものが多い。以下に一部を紹介する。 ==== 「かごめ」 ==== *[[籠目]]、すなわち竹で編まれた籠の編み目を表す。 *「囲め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、皆で「囲め、囲め」と呼び合っている。 *「屈め」が訛ったもの。つまり、かごめ遊びをする際に、オニに対して「屈め、屈め」と言っている<ref>この説をとるものとして、例えば、柳田國男「こども風土記」がある(定本柳田國男全集21巻8頁)。</ref>。 *籠目の形、すなわち六角形のことである。 *籠目の形、すなわち[[六芒星]]のことである。 *「籠女」と書き、見た目が籠を抱いているような女性、すなわち妊婦のことである。 *処刑場を囲んだ竹垣を表している。 *「かごめ」は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)である。即ち、神の雰囲気を具える女、日本で古くから厚く信仰されていた祈祷を行う「巫女」(ミコ、預言者)や「斎宮」の意味である。 *籠目の神紋、つまり「亀甲紋」「二重亀甲」を指している ==== 「かごのなかのとり」 ==== *「籠の中の鳥」であり、当時の風俗から考えて鳥は鶏である。 *かごめ遊びの中で、オニとなった人を「籠の中の鳥」に喩えている。 *「籠の中の鳥居」と解釈し、籠に囲まれた小さな鳥居、もしくは竹垣に囲まれた神社を表している。 *ある点を籠目の形(六角形または五芒星)に結んで出来た図形の中心に存在する物を指している。 *籠目の形をした空間の中心に存在する物を指している。 *籠女(妊婦)の中にいるもの、つまり胎児のことを指す。 *子供のことである。 *「とり」=トリをとる人。祭り等で、最後の締めをやる人。最後尾に就いて、取り溢しが無いように皆を追い上げて、締めをする人。 *籠目の中に鳥に関連する絵が描かれた紋章、「二重亀甲違い鷹の羽」「亀甲に違い鷹の羽」「亀甲に鶴の丸」等といったものを指している ==== 「いついつでやる」 ==== *「何時、何時、出会う」であり、「何時になったら出会うの?」「いつになったら出て来るの?」と疑問を投げかけている。 *「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行くの?」と疑問を投げかけている。 *「何時、何時、出遣る」であり、「何時になったら出て行けるの?」と疑問を投げかけている。 *「何時、何時、出遣る」であり、”それ”が「いつ、出現するか?」「いつ、出て来るのか?」と疑問を投げかけている。 *「何時、何時、出やる」であり、「何時になったら出るのかな?」と疑問を投げかけるのであるが、「出やる」の「やる」は西日本で、目下の者や愛玩動物に対して親しみを込めて使う敬語的語彙であり、共通語で的確な訳語がないが、「出やがる」に親しみのニュアンスを持たせたとでも云うべき意味を持つ。 ==== 「よあけのばんに」 ==== *「夜明けの晩」つまり「夜明け=夜の終り、朝の始まり」「晩=夕暮れ、夜」であり、「真夜中過ぎ」を指している。 *「夜明けの番人」であり、籠の中の鳥、つまり鶏のことである。 *「夜明けの晩に」は「夜明けから晩に至るまで」という意味であり、「朝早くから夜遅くまで」という時間の経過を表している。 *「夜明けの晩」つまりは光を見る前であり、胎児からの視点では臨月に当たる。 *「夜明け」は夜が明けたときで、「晩」は夜のこと。つまり「夜明けの晩」とは「存在しない時間」のこと。 *「夜明けの晩」つまり「夜明け」の「晩=終り(朝が始まりなら晩は終り)」であり、「夜が明ける終りの部分」つまり「日の出=日光を見る(日光東照宮の方向を見る)」を指している。 *「夜明けの晩」つまり「夜明けとも言える晩」であり、午前4時前後の時間帯を指している。 *「朝」と「晩(夜)」、対称的な物事の象徴を指している ==== 「つるとかめがすべった」 ==== *「鶴と亀が滑った」であり、縁起の良い象徴の2つが滑るということで、吉兆(もしくは凶兆)を表している。 *「鶴と亀が統べた」であり、鶴および亀に象徴される為政者(または建造物)を表している。 *「鶴と亀が統べった」であり、鶴および亀に象徴される為政者が、「統治した」と「滑った」を掛けてある。 *京都に伝わる童謡の歌詞「つるつる つっぱいた」が変化したもので、「ずるずると引っ張った」という意味である。 *[[清元節]]の[[浄瑠璃]]「月花茲友鳥」より、「つるつるつるつっぱいた」が変化したもので、「するすると突っ込んで入っていった」という意味である。 *「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴である2つが滑るということで、死を表している。 *[[敦賀市|敦賀]]と[[亀岡市|亀岡]]を統べるで[[明智光秀]]が統治。 *「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の真前に(側近くに)置かれている「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」のことであり、徳川家康の側近つまり[[天海]]が「統治する(陰で操る)」という意味である。 *「天の象徴」と「地上の象徴」、対称的な物事を例えている。 *対称性が崩れる、対称性が破れることを指している。 ====「うしろのしょうめん だあれ」==== *「後ろの正面」は、真後ろを表し、「真後ろにいるのは誰?」と問うている。 *「後ろの正面」は「鬼」の背面(背中側)を指す。 *「後ろの正面、誰?」は、「後ろを向いた時に正面に居る人は誰?」との意味。転じて、逆の存在・影の指揮者・取り憑いていた存在等を表す。 *「表」と「裏」といった対称的な物事を例えている *江戸時代、京都で「正面」と言えば[[方広寺]]大仏殿を指し、正面の後ろに葬られた人物([[豊臣秀吉]])を連想させている。 *[[斬首]]された首が転がって、体は正面を向いているけれど首が後ろを向いて、「私を殺したのは誰?」と問うている。 *または、死んだことに気付かず目の前の首がない体は誰のものだろうと疑問に思っている様子を表している。 *ただし、この「しょうめん」の部分の歌詞は、一部の地域では「しょうねん(少年)」とする場合もある。 *[[明智光秀]]の出身地([[岐阜県]][[可児市]])から[[日光市|日光]]([[日光東照宮]])<ref group="注釈">日光の[[輪王寺]]慈眼堂には天海の廟所がある。</ref>の方向を向くと、「後ろの正面」はちょうど、日本で唯一、明智光秀の[[肖像画]]を所蔵している[[本徳寺 (岸和田市)|本徳寺]]<ref group="注釈">もと貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主[[岡部行隆]]の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。</ref> がある[[大阪府]][[岸和田市]]([[貝塚市]])になる<ref>『陰謀と暗号の歴史ミステリー』2008年4月15日発行 SAKURA MOOK33 編集発行人 西塚裕一 発行所 株式会社[[笠倉出版社]]</ref>。 ==== 歌全体の解釈 ==== ;「かごめかごめ」はその歌詞の[[多義性]]、論理のおかしさ、普通ではなく合理的でない所が、人間の類推の能力に働きかけ、聞く人を楽しませる、面白味のある言葉遊びの歌として日本中に流行したとする説。 :主に子供が遊ぶ「かごめかごめ」は、歌の冒頭で一人の目の見えない状態の子供を複数の子供が取り囲み「かごめ かごめ」と囃し立てるところから始まる。ここでの「かごめ」は、「囲め」と「籠のなかの女」と「格子状で隙間のある[[籠目]]」等の複数の意味を持つ[[多義語]]となっている。次に「かごのなかのとりは」で、冒頭の「かごめ」の意味を「鳥類のかもめ」<ref>https://web.archive.org/web/20061007130505/www.hrr.mlit.go.jp/takada/gakusyu/field/hime/hime055.pdf 国土交通省北陸地方整備局. 2015年11月12日閲覧。2006年10月7日時点の[http://www.hrr.mlit.go.jp/takada/gakusyu/field/hime/hime055.pdf オリジナル]{{リンク切れ|date=2019年7月19日}}をアーカイブ。</ref>の意味へ一転させ、取り囲まれた女児を「鳥が囲まれている(とりかこまれている)」「籠の中の鳥」等と意味付けている。次に「いついつでやる」で、「鳥はいつ籠から出ていくのか」「答え合わせはいつだろう」という期待感を持たせると同時に「鳥が誰かと会う」ことを[[隠喩]]し、多義性を持たせている。次に「よあけのばんに」で「夜が明けた晩」という[[矛盾]]、「朝と夜の順序が逆」という[[倒置]]を用い、疑問と混乱を誘うおかしみを出している。そして「つるとかめがすべった」で、「鳥は鶴だった」と「かもめ」から一転させ、「鳥が出会ったのは亀であった」という拍子抜けを誘い、「縁起の良い鶴と亀が滑って転んだ」という失敗への[[隠喩]]を持たせ、最後に「うしろのしょうめんだあれ」で「後ろなのに正面」という[[矛盾]]、「誰が真後ろにいるかを当てて頂戴」という多義性を持たせている。 ;元々児童遊戯の歌として成立したとする説(国語辞典などが採用) :籠の中の鳥=オニであり、「囲め、囲め、オニの人は何時になったら次の人と交代して出て来ることができるのでしょうか。後ろの正面は誰?」と解釈する。ただし「鶴と亀がすべった」の部分については「語呂やリズムを合わせる為」と曖昧にしているものが多い。 ; 遊女説(提唱者不明) :一日中(夜明けの晩に)男性の相手をさせられ(鶴と亀が滑った)、いつここから抜け出せるのだろう(いついつ出やる)と嘆いているうちにもう次の相手の顔(後ろの正面だあれ)が見え隠れしている、という自由のない遊女(籠の中の鳥)の悲哀を表している。 ; [[日光東照宮]]説(提唱者不明。埋蔵金と結びつけてテレビ番組等で紹介されている) :日光東照宮の三神庫と呼ばれる建築物群や奥院には鶴と亀が対になって飾られている所があり、歌詞中の「鶴と亀が統べった」はこの彫刻を指しているとしている。 ; 豊國廟説([[宮本健次]]など) :正面とは京都の[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]周辺(現在の正面通り)を指し、[[徳川家康]]を神格化する際に邪魔となった豊臣秀吉を神の座から引き摺り降ろす為に行われた、豊国神社の打ち壊しと、秀吉の棺を掘り返して庶民と同じ屈葬にして埋め直した事件を表したものである。 ; [[蘆名氏|芦名]]埋蔵金説(提唱者不明) :「鶴と亀」はそれぞれ芦名家の城の別名であり、埋蔵金の隠し場所を示している。 ;彌久賀神社説(提唱者不明) :亀甲紋を採用する神社が多くあるのは出雲である。その中でも、「違い鷹の羽」を中に内包するマークを神紋とする有名な神社は恐らく「'''彌久賀神社'''」であり、歌詞の前半に「二重亀甲違い鷹の羽」の家紋及び神紋を示唆する内容があることから、その神社を指しているのではないかと推測される。この神社は古くから「[[天之御中主神|アメノミナカヌシ]]」を主祭神として祀る珍しい神社であり、その神は宇宙最初期に現れた創成神だとされる。 ;陰謀説(提唱者不明)<!---未確認情報---> : 「かごめ」は'''籠女'''と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて[[流産]]してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。 ; 囚人説(提唱者不明)<!---未確認情報---> : かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。 ;明智光秀・南光坊天海同一人物説([[岩辺晃三]]) :[[天海|南光坊天海]]の正体が、[[山崎の戦い]]に敗れた後も生き延びた[[明智光秀]]であることを示唆しているとする説<ref>{{Cite book|和書 |author=岩辺晃三 |authorlink=岩辺晃三 |title=天海・光秀の謎―会計と文化 |publisher=税務経理協会 |year=1993 |month=2 |isbn=4-419-01801-1 }}</ref>。鶴と亀には、日光東照宮の彫刻の他に[[敦賀市|敦賀]]と[[亀岡市|亀岡]]の意味もあるとする。ただし前述のように、「鶴と亀」の部分が明治期以前に存在していたことを示す文献は確認されていない。 ; 神示説(提唱者不明)<!---未確認情報---> : 「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。 ==== 天の岩戸説 ====   天の岩戸に閉じ込められた神(天照主日大御神)を岩戸より出てきていただくことを願う歌。かごめかごめ : 2次元で描いた場合は、六芒星で描かれる。実際は3次元(3D)の編み籠目(あみかごめ)になる。「かごの中のとりは」: 籠の中の鳥は点を表すしている。キリストが天の父と呼んだ「主」の王の上につく点。これが籠目の中の鳥に値する。いついつでやる : いつ神は出てこられるのか。夜明けの晩に : 暗い日の欠けた世から日の照らす明るい世になる時を表す。神が出てくるために明るくなるし、私たちが世を明るくしようと努力するこの2つの事柄が交差した時を表す。鶴と亀がすーべった : 鶴と亀は神と仏を意味する。神は7次元ある神霊界の第7次元、第6次元に坐り、神が5次元より下の次元に移動する時に仏に変化する。神も仏の元は同じである。そりため鶴、亀を同列にしている。すーべったは統べる、統一する働きを表す。真の神が現れ、この世を統一運営することを指している。後ろの正面だあれ : 後ろ、つまり背後、見えないところを表す。人の目には認識できない、だが必ず居るという意味。だあれはその神はだれなのかを問う意味。天照主日大御神になる。 === 歌詞解釈以外の俗説 === ; 降霊術説 :「カゴの中の鳥は」と歌っているところで円の中に人がいなければ霊を呼び出すという、[[コックリさん]]と同様の[[交霊術]]に使われる歌であるという説もある。 ;呪術説 :真ん中の子供に神様を宿らせるまじないであったとする説。 ;遊戯説 :影の支配者を当てる遊戯。 ;ヘブライ語説 :歌詞が[[ヘブライ語]]であるという説。[[日ユ同祖論]]などで論じられる場合もある。 == 関連項目 == * 「[[うしろの正面だあれ]]」 - [[海老名香葉子]]著の児童文学作品 * 「[[華一匁]]」 - [[アリス九號]]の楽曲(作詞:将/作曲:アリス九號)。 * 「うしろの正面だあれ」 - [[斉藤由貴]]の楽曲。アルバム『[[ripple]]』収録。 * 「[[LOVE LIFE LIVE 弥生|弥生]]」 - [[研ナオコ]]の楽曲(作詞:[[阿木燿子]]/作曲:[[宇崎竜童]])。曲中に引用。 * 「カゴノトリ」 - [[TOMOSUKE]]("橙色特別室"名義)による『[[GuitarFreaks]]』『[[DrumMania]]』の楽曲。曲中に引用。 * 「交響曲第2番」 - [[久石譲]]の楽曲。第3楽章の主題に引用。 * [[ハニーズ]] - ヤングカジュアル婦人服を中心とした企画・製造・販売会社。CMに「かごめかごめ」の替え歌が使用されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|section=1|date=2011年8月18日 (木) 09:33 (UTC)}} * 定本[[柳田國男]]集 [[筑摩書房]] {{DEFAULTSORT:かこめかこめ}} [[Category:子供の遊び]] [[Category:日本の童歌]] [[Category:日本のゲーム]] [[Category:鳥を題材とした楽曲]] [[Category:放送禁止となった楽曲]] [[Category:被差別部落]] [[Category:楽曲 か|こめかこめ]]
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杉浦茂
杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。 杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。その後、仕事の休止を挟んで1968年からの第三期では、シュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。 1908年(明治41年)、東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれる。湯島尋常小學校(今の文京区立湯島小学校)時代は友人に恵まれ、押川春浪から田山花袋、上田秋成などの多様な小説や、『猿飛佐助』を初めとする立川文庫(立川文明堂刊)などで講談趣味を教わった。また、週末には本郷の第五福寶館や、長じてからは新宿の武蔵野館などの映画館に通い、アメリカ製の喜劇物や西部劇などをたびたび鑑賞した。20歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)にも親しみ、これらの文物が後の漫画創作の下地となった。 郁文館中學校(旧制・現在の郁文館中学校・高等学校)時代に、当時の人気漫画家北沢楽天とその一門に影響され、初めての漫画(ポンチ絵)を描く。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は、後の漫画家人生の原点になった。しかし、その後も継続して漫画を描いていたわけではなく、杉浦によると、漫画家になるまでは漫画への興味、知識は特に無かったという。父親は杉浦を眼科医にさせたかったが、杉浦の夢はプロの西洋画家になることであった。中学時代に上級生から教えられた藤田嗣治に憧れ、また、趣味で日本画を描いていた父と文展(文部省美術展覽会、後の帝展、日展)に通うことで、その思いを募らせた。 1924年(大正13年)、父が、過労によって当時流行していた嗜眠性脳炎(眠り病)を患い急死。二人の兄が医学校に進学したこともあって家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)への進学の道を絶たれる。その後、医者になった兄の金銭援助を受け、1926年から1930年まで太平洋畫會研究所に入所。西洋画の制作に取り組む。人物画のモデルを雇うには金がかかるいうこともあり、杉浦は、好んで西洋建築のある風景画を描いた。外出して写生をしている内に、野獣派の長谷川利行や横山潤之助と知り合うことにもなった。また、研究所とは別に1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで洋画家の高橋虎之助にも師事。1930年には、日展(日本美術展覧会)の前身である第11回帝展(帝国美術展覧会)洋画部に、油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選している。 全ての生活の糧を二人の兄に頼っていた杉浦は、一念発起して洋画家とは別の道を目指すことにする。知人から田河水泡への紹介状をもらい、その後3カ月、勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩んだ末、1932年(昭和7年)4月1日、小石川の高級アパート・久世山ハウスを訪ね、田河の門下となった。田河はこの時、すでに『のらくろ』により売れっ子作家となっており、杉浦もその名前は知っていた。入門の数日後には、山梨から上京してきた倉金虎雄(後の倉金章介)も門下になり、それまで弟子がいなかった田河に、二人の門下生ができた。田河の妻、高見澤潤子によれば、「弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。」という。ただし、杉浦は戦後の1947年にも、その頃荻窪にあった田河の家を訪れており、親交が全く途絶えたわけではなかった。 田河は「制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだ」という考えから、指導を特に行わなかった。杉浦は、倉金とともに原稿のベタ塗りなどを手伝いつつ、東京朝日新聞(1932年12月18日付)に一枚ものの『どうも近ごろ物騒でいけねえ』を執筆、デビューを果たす。その後もいくつかの短中篇作品が少年誌に掲載された。しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり、この傾向はその後も続いた。また、戦前の作品からは、描線や登場人物の表情に横井福次郎の影響も見受けられる。杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男(堅山南風門下)という同い年の2人の親友がアシスタントに入った。 1933年(昭和8年)には、家から独立。杉並区高円寺のアパートに移り住んだのち、翌1934年に音羽の小石川アパートへ引っ越し、同アパートに住んでいた挿絵画家の霜野二一彦、漫画家の広瀬しん平と親交を得る。その後、1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。 1937年(昭和12年)、田河を顧問に昭和漫畫會が結成され、杉浦もその一員となる。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、その5月より田河が創刊した『小學漫畫新聞』は、発行停止を余儀なくされる。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長に日本兒童漫畫家協會が結成され、昭和漫畫會同人全員とともに杉浦も参加。この後も、1940年に新日本漫畫家協會、1942年に少年文學作家畫家協會が発足し、1943年には、新日本漫画家協会が発展解消、大政翼贊會肝煎で日本に居た全漫画家が入会した日本漫畫奉公會(会長北沢楽天)が結成され、杉浦もそれらに参加した。 戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し、雑誌の仕事が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を単行本へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に國華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。 1943年(昭和18年)に結婚し、横浜市港北区妙蓮寺から江戸川区小岩町へ移り住む。しかし、結婚披露宴の費用で貯金を費やし、単行本の仕事も無くなり、漫画家生活を諦める寸前にまで陥ってしまう。前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りで、仕事机や本棚、結婚祝いの柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった。そんな時、電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家岡田晟(倉金と同郷で親友)と偶然出会い、そのまま勤め先である映画会社の茂原映画研究所に同行し、就職させてもらう。杉浦の後に、仕事に困っていた旧知の漫画家の帷子進もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を担当した。 元来病弱な杉浦は、徴兵検査で丙種とされていたたが、1945年(昭和20年)7月に召集を受け、世田谷の砲兵連隊に入隊、熊本県へ派兵される。アメリカ軍の有明海上陸に備え、玉名郡梅林村の梅林國民學校に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱えて人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが、急な環境の変化と栄養失調により下痢を起こし、半病人となった。 終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料(さつまいも)の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、日本映画社(日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる福井英一と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる。 1946年(昭和21年)、杉浦は、帷子宅で出版社新生閣の社長鈴木省三に紹介される。小学館出身の鈴木は、新生閣で当時大流行していたこども漫画に注力していた。杉浦は、単行本『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、これが戦後初の漫画仕事となった。その後、新生閣では西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』には『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。 鈴木は、経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰し、同じ一ツ橋グループの集英社出版部長を兼任。集英社で『おもしろ漫画文庫』を創刊した。杉浦の代表作となる『猿飛佐助』は、その21巻目として描かれた。同作は12万4千部刷られ、同文庫の中で一番の売上を記録。この大好評を受け、『猿飛佐助』は雑誌『おもしろブック』(集英社)に連載となる(1954年3月 - 1955年12月)。また、これをきっかけに杉浦の仕事は大幅に増え、1958年までの 5年間の間(46歳 - 50歳)に、後の代表作となる様々な長編漫画が生み出された。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、完全オリジナルの『ドロンちび丸』。西部劇では、背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、コミカライズ作品では『モヒカン族の最後』、『ゴジラ』、『大あばれゴジラ』がある。この時期の作品テーマは、冒険物(1950年まで)から西部劇(1953年まで)に移り、さらに時代物へと変わっていったが、それぞれの作品に、戦前の小説や映画を盛んに見た経験が活かされている。1958年には、集英社から、描下ろし作品『杉浦茂傑作漫画全集』が全 8巻で刊行された。しかし、対応しきれないほどの仕事が殺到し、昼も夜も仕事をし続けた杉浦は体調を崩してしまう。1959年という年は『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)の二つの漫画誌が創刊され、有力漫画家の仕事が月刊誌から週刊誌へ移行していった時期だが、杉浦は、とてもやりきれないと週刊誌の依頼を断っている。 この子供向け漫画を中心とした第 2期の活動は1966年(昭和41年)まで続いた。 1960年代以降は、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになる。慣れぬ持ち込み行い、時流に乗る様な大人漫画も描いた。 1968年(杉浦60歳)から漫画の仕事を再開(第3期)。この時期は「とにかく漫画は面白さが大切」という考えから、さらに作風が奔放になり、アートの様な、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。また、1969年の虫コミックス(虫プロ商事)での『猿飛佐助』の再単行本化以降、自身の手で過去の作品をよりはちゃめちゃに改稿するようになるが、このことに対する読者から抗議の投書が来たことにより、改稿をやめている。 70歳に入ってからも精力的に活動を続けた。名作を杉浦流に改変した『日本名作劇場』を『太陽 (平凡社)』(1980年1月号 - 1981年6月号)に執筆。単行本『まんが聊斎志異』(上巻 1989年刊、中巻 1990年刊)を描き下ろす。また、1980年代から、杉浦のナンセンスでシュールな作風がサブカルチャーの興隆と共に再評価されると、1989年の第29回児童文化功労者に選出された。さらに、杉浦の作品集が何度か編まれている。また、この他にイラストの仕事も手掛けている。森永製菓「ぼうチョコ」のパッケージイラストや、有楽町西武の開店を宣伝するポスターと、CM のキャラクターのデザイン(1984年)、ソニー、日立、横浜ドリームランド、ニコンへのイラスト提供、筒井康隆『お助け・三丁目が戦争です』金の星社(1986年)と、糸井重里『私は嘘が嫌いだ』ちくま文庫(1993年)の挿絵などである。 1996年(平成8年)、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第5巻のために「2901年宇宙の旅」を描下ろし、64年に及んだ長い長い画業を終えた。 1999年(平成11年)、杉浦は交通事故で腰の骨を折って寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには回復したものの、2000年(平成12年)4月23日、入院先の病院で腹膜炎により死去した。92歳だった。 杉浦の原稿は散逸がひどく、死後も作品の発掘が進められている。2007年から中野書店のものと同名の『杉浦茂傑作選集』が青林工藝舎より刊行され、これまでに未収録だった改稿版が単行本化された。2013年には、1958年に刊行された『杉浦茂傑作漫画全集』(集英社)全8巻の内、 4巻(2, 5, 6, 7)が選ばれ、BOX入り『杉浦茂傑作漫画選集 0人間』として小学館クリエイティブから刊行された。また、2002年に、東京都三鷹市の三鷹市美術ギャラリーにて「杉浦茂 - なんじゃらほい - の世界展」、2009年に、京都市中京区の京都国際マンガミュージアムで「冒険と奇想の漫画家・杉浦茂101年祭」展、2012年には、東京都江東区の森下文化センター(田河水泡・のらくろ館と同じ建物)で「びっくりどんぐり奇想天外 杉浦茂のとと? 展」と、画業を紹介する展覧会も開催された。四方田犬彦は、著書『日本の漫画への感謝』(潮出版社、2013年)の中で、杉浦茂を最初に取り上げている。 杉浦作品は、その独自色の強い強烈な作風から漫画の歴史では語りづらく異端である。同時代に活躍した手塚治虫も、戦前から杉浦のことをユニークな作品を描く漫画家として注目していたが「田河水泡門下とはつゆ知らず、倉金良行(章介)さんとは一線を劃した独立独歩の作家だと思っていた」と語っている。呉智英は、杉浦作品を「戦後復興期から高度成長開始期という現代マンガ成立期でも特筆すべき存在」とし、全盛期の1950年代でさえ、様式的でないギャグや超現実的な物が横溢する作風は異質であり、時代を先取りするものであったと評する。米沢嘉博は、杉浦茂の世界を「メタモルフォセスと奇人変人と食い物にあふれかえった、マンガ故のでたらめで自由な世界」と表現した。山口昌男は杉浦を「へたうまのはしり」と目しており、杉浦が影響を受けた映画や歌舞伎などの世界がコラージュの技法も使って、時間や空間、論理の制約を受けず、登場人物が飛躍する様を「カーニバルのそれに近いイメージの祝祭空間」と評している。 杉浦作品の大胆な筋運びは、杉浦の漫画に対する独特な姿勢が大きく影響している。普通は、構想をまとめた後にネームや下書きなどを経てペン入れに至るが、杉浦は頭の中で、大体の構想をまとめた後、下書きをせずに一発でペンを入れ、執筆途中でも「こちらの方が面白い」と思い至ったら話の筋を曲げるようなことを頻繁に行っていた。弟子の斉藤によれば、杉浦は「ぼくはね、話が前とつながってなくてもいいんだよ」と語っていたという。こうした奔放さは、杉浦作品の大ゴマでよく見る、物語の筋と関係ない群衆が、主要登場人物を埋没させるほどにてんでバラバラに行動し、おしゃべりしたり歌ったりするお祭り騒ぎのような賑やかさにも表れている。また、画家時代の腕を活かしたリアル調の絵でギャグをしたり、デフォルメの絵とリアルの絵を交互に挟んだりする奇抜なセンスも見られる。また、杉浦作品に欠かせないものの一つに、気味の悪い怪物がある。カンブリア紀の生き物さながらのものや、文化や時代性に捕らわれないぶっ飛んだデザインの数々の怪物が現れ、忍術物では登場人物の忍者たちがそういったものに変化(へんげ)している。 杉浦は登場人物の名づけ方も独特である。代表作の『猿飛佐助』を例にとると、食べ物に由来した「うどんこプップのすけ」や「コロッケ五えんのすけ」、「おおそうじでんじろう」(大河内傳次郎)や「たんげ五ぜん」(丹下左膳)などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といった何とも言えないものなど、独自の言語センスを発揮した。斉藤は、杉浦が読者の子供の覚えやすさと親しみやすさを重視してのことだという。こうした言語センスは登場人物の台詞回しにも表れている。例えば、杉浦のプロレスマニアぶりが発揮された『拳斗けん太』や『プロレスの助』では、「えーい」と兇器も辞さない激しい挌闘、暴力で倒された相手が、「ぱ」や「パ」、「て」などの一言悲鳴をあげたり、「ふわ」、「ホワッ」、「ふういてえ」などと笑顔で断末魔をあげたりするところは読者に牧歌的な印象を与える効果が出ている。また、唐沢俊一は登場人物がよく本筋と関係なくとりとめもない無駄口を叩くことを指摘し、登場人物への名づけセンスや台詞回しに落語からの影響を指摘している。歌を歌う群衆について前述したが、主要人物もよく歌を歌っている。『猿飛佐助』では真田十勇士の一人三好青海入道が、「しらないまーに食べちゃった♪」と他人の食べ物をテンポよく歌って歌詞で状況説明してつまみ食いをするギャグを披露している。 戦後の黄金期(第二期)、杉浦には3人のアシスタントがいた。戦前から引き続き、友人加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去。この加藤以外の2人が杉浦の弟子で、1人は斉藤あきら、もう1人は藤巻悟郎である。藤巻は数年で引退したため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけだった。戦前の杉浦は漫画の素人だったにも関らず、師匠の田河から漫画について直接教わらなかったが、斉藤も1954年の入門当時、印刷工場勤務の傍ら定時制の高校に通う10代の少年であり、漫画については高校の新聞部で1コマ漫画を描いた経験がある程度だった。斉藤は杉浦が近くに住んでいることを知って親しみをもち、ファンレターを出した。すると、杉浦から地図付きの返信が届き、江戸川区小岩町の自宅に招かれた。訪問当日、杉浦と談笑した後、急に杉浦が描きかけの原稿の余白に絵を描くことを指示した。この時斉藤は自分が絵を描くことを伝えていなかったし、また、漫画は好きだったものの、漫画家になるつもりは全くなかった。斉藤本人は手伝いはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦から手伝いの依頼が来て、ついに入門することになったという。杉浦と斉藤は、漫画のアイデアの出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話し合わなかった。ただ、田河がそうだったように、杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は、長じて漫画技術を習得して杉浦以外にも高野よしてるや手塚治虫、横山光輝の元でもアシスタントを経験し、独立して「ジャガープロ」を設立した。その後、ジャガープロは赤塚不二夫のフジオ・プロダクション「斉藤班」となり、斉藤は赤塚のアシスタントも務めたが、他の漫画家のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという。 杉浦への弟子入り後にフジオ・プロに入った斉藤が語るように、赤塚不二夫は杉浦茂のファンで、登場人物の「レレレのおじさん」の「レレレ」は杉浦作品から来ているし、それ以外にも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」等の定番の台詞にも影響も与えた。また、杉浦作品の登場人物が頻繁に見せる手のポーズに、広げた指のうち中指と薬指を曲げるポーズがあるが(アメリカ手話の「I Love You」の形。読者に向かって手の甲を向けるか平を向けるかは一定しない)、このポーズは手塚治虫『鉄腕アトム』や赤塚不二夫『天才バカボン』、いしいひさいち『ののちゃん』でも確認できる。もう一つ、有名なポーズがあり、腕とつながっていない拳が頭を掻くものだが、手塚治虫が『七色いんこ』や『旋風Z』(SUGIURA SHIGERU の手書き註釈あり)などでギャグポーズとして活用している。また、手塚の『おれは猿飛だ!』は杉浦の『猿飛佐助』の自己流解釈であると語っている。 また、漫画家の日野日出志、みうらじゅん、本秀康やいしかわじゅん、みなもと太郎、花輪和一、タイガー立石など、グラフィックデザイナーの田名網敬一、SF作家のかんべむさし、横田順彌、ミュージシャンの細野晴臣が杉浦から影響を受けたことを語っている。ギャグ漫画家の唐沢なをきは、杉浦への追悼と表し、自作『カスミ伝』にて一話まるまる作風と絵柄を杉浦に似せて描いている。 アニメ監督の宮﨑駿も影響を受けた一人であり、宮﨑によって読売新聞のテレビCMとして、杉浦作品のアニメ化が企画され、『猿飛佐助』、『太閤記』、『八百八狸』などを原作に、駿の長男である宮﨑吾朗が演出を担当し、スタジオジブリによって制作された。このテレビCMは『ふうせんガムすけ』編と題され、2009年より放送された。 主要作品のみ掲載とし、例えば新聞雑誌掲載作品は特筆すべきもの以外割愛した。杉浦茂『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第5巻巻末収録の「杉浦茂・全作品リスト」を主に参考に、ペップ出版編集部編『杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』』ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>別巻収録の小野寺正巳編「完璧作品リスト」で補足して作成した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日 - 2000年4月23日)は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "杉浦の創作活動は3期に分けられる。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される。その後、仕事の休止を挟んで1968年からの第三期では、シュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1908年(明治41年)、東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれる。湯島尋常小學校(今の文京区立湯島小学校)時代は友人に恵まれ、押川春浪から田山花袋、上田秋成などの多様な小説や、『猿飛佐助』を初めとする立川文庫(立川文明堂刊)などで講談趣味を教わった。また、週末には本郷の第五福寶館や、長じてからは新宿の武蔵野館などの映画館に通い、アメリカ製の喜劇物や西部劇などをたびたび鑑賞した。20歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)にも親しみ、これらの文物が後の漫画創作の下地となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "郁文館中學校(旧制・現在の郁文館中学校・高等学校)時代に、当時の人気漫画家北沢楽天とその一門に影響され、初めての漫画(ポンチ絵)を描く。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は、後の漫画家人生の原点になった。しかし、その後も継続して漫画を描いていたわけではなく、杉浦によると、漫画家になるまでは漫画への興味、知識は特に無かったという。父親は杉浦を眼科医にさせたかったが、杉浦の夢はプロの西洋画家になることであった。中学時代に上級生から教えられた藤田嗣治に憧れ、また、趣味で日本画を描いていた父と文展(文部省美術展覽会、後の帝展、日展)に通うことで、その思いを募らせた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)、父が、過労によって当時流行していた嗜眠性脳炎(眠り病)を患い急死。二人の兄が医学校に進学したこともあって家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)への進学の道を絶たれる。その後、医者になった兄の金銭援助を受け、1926年から1930年まで太平洋畫會研究所に入所。西洋画の制作に取り組む。人物画のモデルを雇うには金がかかるいうこともあり、杉浦は、好んで西洋建築のある風景画を描いた。外出して写生をしている内に、野獣派の長谷川利行や横山潤之助と知り合うことにもなった。また、研究所とは別に1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで洋画家の高橋虎之助にも師事。1930年には、日展(日本美術展覧会)の前身である第11回帝展(帝国美術展覧会)洋画部に、油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "全ての生活の糧を二人の兄に頼っていた杉浦は、一念発起して洋画家とは別の道を目指すことにする。知人から田河水泡への紹介状をもらい、その後3カ月、勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩んだ末、1932年(昭和7年)4月1日、小石川の高級アパート・久世山ハウスを訪ね、田河の門下となった。田河はこの時、すでに『のらくろ』により売れっ子作家となっており、杉浦もその名前は知っていた。入門の数日後には、山梨から上京してきた倉金虎雄(後の倉金章介)も門下になり、それまで弟子がいなかった田河に、二人の門下生ができた。田河の妻、高見澤潤子によれば、「弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。」という。ただし、杉浦は戦後の1947年にも、その頃荻窪にあった田河の家を訪れており、親交が全く途絶えたわけではなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "田河は「制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだ」という考えから、指導を特に行わなかった。杉浦は、倉金とともに原稿のベタ塗りなどを手伝いつつ、東京朝日新聞(1932年12月18日付)に一枚ものの『どうも近ごろ物騒でいけねえ』を執筆、デビューを果たす。その後もいくつかの短中篇作品が少年誌に掲載された。しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり、この傾向はその後も続いた。また、戦前の作品からは、描線や登場人物の表情に横井福次郎の影響も見受けられる。杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男(堅山南風門下)という同い年の2人の親友がアシスタントに入った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1933年(昭和8年)には、家から独立。杉並区高円寺のアパートに移り住んだのち、翌1934年に音羽の小石川アパートへ引っ越し、同アパートに住んでいた挿絵画家の霜野二一彦、漫画家の広瀬しん平と親交を得る。その後、1936年には本郷区本郷森川町にある徳田秋声の経営する不二ハウスへ移った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1937年(昭和12年)、田河を顧問に昭和漫畫會が結成され、杉浦もその一員となる。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、その5月より田河が創刊した『小學漫畫新聞』は、発行停止を余儀なくされる。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長に日本兒童漫畫家協會が結成され、昭和漫畫會同人全員とともに杉浦も参加。この後も、1940年に新日本漫畫家協會、1942年に少年文學作家畫家協會が発足し、1943年には、新日本漫画家協会が発展解消、大政翼贊會肝煎で日本に居た全漫画家が入会した日本漫畫奉公會(会長北沢楽天)が結成され、杉浦もそれらに参加した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し、雑誌の仕事が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を単行本へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に國華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1943年(昭和18年)に結婚し、横浜市港北区妙蓮寺から江戸川区小岩町へ移り住む。しかし、結婚披露宴の費用で貯金を費やし、単行本の仕事も無くなり、漫画家生活を諦める寸前にまで陥ってしまう。前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りで、仕事机や本棚、結婚祝いの柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった。そんな時、電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家岡田晟(倉金と同郷で親友)と偶然出会い、そのまま勤め先である映画会社の茂原映画研究所に同行し、就職させてもらう。杉浦の後に、仕事に困っていた旧知の漫画家の帷子進もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を担当した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "元来病弱な杉浦は、徴兵検査で丙種とされていたたが、1945年(昭和20年)7月に召集を受け、世田谷の砲兵連隊に入隊、熊本県へ派兵される。アメリカ軍の有明海上陸に備え、玉名郡梅林村の梅林國民學校に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱えて人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが、急な環境の変化と栄養失調により下痢を起こし、半病人となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料(さつまいも)の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、日本映画社(日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる福井英一と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1946年(昭和21年)、杉浦は、帷子宅で出版社新生閣の社長鈴木省三に紹介される。小学館出身の鈴木は、新生閣で当時大流行していたこども漫画に注力していた。杉浦は、単行本『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、これが戦後初の漫画仕事となった。その後、新生閣では西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』には『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "鈴木は、経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰し、同じ一ツ橋グループの集英社出版部長を兼任。集英社で『おもしろ漫画文庫』を創刊した。杉浦の代表作となる『猿飛佐助』は、その21巻目として描かれた。同作は12万4千部刷られ、同文庫の中で一番の売上を記録。この大好評を受け、『猿飛佐助』は雑誌『おもしろブック』(集英社)に連載となる(1954年3月 - 1955年12月)。また、これをきっかけに杉浦の仕事は大幅に増え、1958年までの 5年間の間(46歳 - 50歳)に、後の代表作となる様々な長編漫画が生み出された。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、完全オリジナルの『ドロンちび丸』。西部劇では、背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、コミカライズ作品では『モヒカン族の最後』、『ゴジラ』、『大あばれゴジラ』がある。この時期の作品テーマは、冒険物(1950年まで)から西部劇(1953年まで)に移り、さらに時代物へと変わっていったが、それぞれの作品に、戦前の小説や映画を盛んに見た経験が活かされている。1958年には、集英社から、描下ろし作品『杉浦茂傑作漫画全集』が全 8巻で刊行された。しかし、対応しきれないほどの仕事が殺到し、昼も夜も仕事をし続けた杉浦は体調を崩してしまう。1959年という年は『週刊少年サンデー』(小学館)と『週刊少年マガジン』(講談社)の二つの漫画誌が創刊され、有力漫画家の仕事が月刊誌から週刊誌へ移行していった時期だが、杉浦は、とてもやりきれないと週刊誌の依頼を断っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "この子供向け漫画を中心とした第 2期の活動は1966年(昭和41年)まで続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1960年代以降は、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになる。慣れぬ持ち込み行い、時流に乗る様な大人漫画も描いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1968年(杉浦60歳)から漫画の仕事を再開(第3期)。この時期は「とにかく漫画は面白さが大切」という考えから、さらに作風が奔放になり、アートの様な、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。また、1969年の虫コミックス(虫プロ商事)での『猿飛佐助』の再単行本化以降、自身の手で過去の作品をよりはちゃめちゃに改稿するようになるが、このことに対する読者から抗議の投書が来たことにより、改稿をやめている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "70歳に入ってからも精力的に活動を続けた。名作を杉浦流に改変した『日本名作劇場』を『太陽 (平凡社)』(1980年1月号 - 1981年6月号)に執筆。単行本『まんが聊斎志異』(上巻 1989年刊、中巻 1990年刊)を描き下ろす。また、1980年代から、杉浦のナンセンスでシュールな作風がサブカルチャーの興隆と共に再評価されると、1989年の第29回児童文化功労者に選出された。さらに、杉浦の作品集が何度か編まれている。また、この他にイラストの仕事も手掛けている。森永製菓「ぼうチョコ」のパッケージイラストや、有楽町西武の開店を宣伝するポスターと、CM のキャラクターのデザイン(1984年)、ソニー、日立、横浜ドリームランド、ニコンへのイラスト提供、筒井康隆『お助け・三丁目が戦争です』金の星社(1986年)と、糸井重里『私は嘘が嫌いだ』ちくま文庫(1993年)の挿絵などである。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第5巻のために「2901年宇宙の旅」を描下ろし、64年に及んだ長い長い画業を終えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1999年(平成11年)、杉浦は交通事故で腰の骨を折って寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには回復したものの、2000年(平成12年)4月23日、入院先の病院で腹膜炎により死去した。92歳だった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "杉浦の原稿は散逸がひどく、死後も作品の発掘が進められている。2007年から中野書店のものと同名の『杉浦茂傑作選集』が青林工藝舎より刊行され、これまでに未収録だった改稿版が単行本化された。2013年には、1958年に刊行された『杉浦茂傑作漫画全集』(集英社)全8巻の内、 4巻(2, 5, 6, 7)が選ばれ、BOX入り『杉浦茂傑作漫画選集 0人間』として小学館クリエイティブから刊行された。また、2002年に、東京都三鷹市の三鷹市美術ギャラリーにて「杉浦茂 - なんじゃらほい - の世界展」、2009年に、京都市中京区の京都国際マンガミュージアムで「冒険と奇想の漫画家・杉浦茂101年祭」展、2012年には、東京都江東区の森下文化センター(田河水泡・のらくろ館と同じ建物)で「びっくりどんぐり奇想天外 杉浦茂のとと? 展」と、画業を紹介する展覧会も開催された。四方田犬彦は、著書『日本の漫画への感謝』(潮出版社、2013年)の中で、杉浦茂を最初に取り上げている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "杉浦作品は、その独自色の強い強烈な作風から漫画の歴史では語りづらく異端である。同時代に活躍した手塚治虫も、戦前から杉浦のことをユニークな作品を描く漫画家として注目していたが「田河水泡門下とはつゆ知らず、倉金良行(章介)さんとは一線を劃した独立独歩の作家だと思っていた」と語っている。呉智英は、杉浦作品を「戦後復興期から高度成長開始期という現代マンガ成立期でも特筆すべき存在」とし、全盛期の1950年代でさえ、様式的でないギャグや超現実的な物が横溢する作風は異質であり、時代を先取りするものであったと評する。米沢嘉博は、杉浦茂の世界を「メタモルフォセスと奇人変人と食い物にあふれかえった、マンガ故のでたらめで自由な世界」と表現した。山口昌男は杉浦を「へたうまのはしり」と目しており、杉浦が影響を受けた映画や歌舞伎などの世界がコラージュの技法も使って、時間や空間、論理の制約を受けず、登場人物が飛躍する様を「カーニバルのそれに近いイメージの祝祭空間」と評している。", "title": "作風と評価" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "杉浦作品の大胆な筋運びは、杉浦の漫画に対する独特な姿勢が大きく影響している。普通は、構想をまとめた後にネームや下書きなどを経てペン入れに至るが、杉浦は頭の中で、大体の構想をまとめた後、下書きをせずに一発でペンを入れ、執筆途中でも「こちらの方が面白い」と思い至ったら話の筋を曲げるようなことを頻繁に行っていた。弟子の斉藤によれば、杉浦は「ぼくはね、話が前とつながってなくてもいいんだよ」と語っていたという。こうした奔放さは、杉浦作品の大ゴマでよく見る、物語の筋と関係ない群衆が、主要登場人物を埋没させるほどにてんでバラバラに行動し、おしゃべりしたり歌ったりするお祭り騒ぎのような賑やかさにも表れている。また、画家時代の腕を活かしたリアル調の絵でギャグをしたり、デフォルメの絵とリアルの絵を交互に挟んだりする奇抜なセンスも見られる。また、杉浦作品に欠かせないものの一つに、気味の悪い怪物がある。カンブリア紀の生き物さながらのものや、文化や時代性に捕らわれないぶっ飛んだデザインの数々の怪物が現れ、忍術物では登場人物の忍者たちがそういったものに変化(へんげ)している。", "title": "作風と評価" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "杉浦は登場人物の名づけ方も独特である。代表作の『猿飛佐助』を例にとると、食べ物に由来した「うどんこプップのすけ」や「コロッケ五えんのすけ」、「おおそうじでんじろう」(大河内傳次郎)や「たんげ五ぜん」(丹下左膳)などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といった何とも言えないものなど、独自の言語センスを発揮した。斉藤は、杉浦が読者の子供の覚えやすさと親しみやすさを重視してのことだという。こうした言語センスは登場人物の台詞回しにも表れている。例えば、杉浦のプロレスマニアぶりが発揮された『拳斗けん太』や『プロレスの助』では、「えーい」と兇器も辞さない激しい挌闘、暴力で倒された相手が、「ぱ」や「パ」、「て」などの一言悲鳴をあげたり、「ふわ」、「ホワッ」、「ふういてえ」などと笑顔で断末魔をあげたりするところは読者に牧歌的な印象を与える効果が出ている。また、唐沢俊一は登場人物がよく本筋と関係なくとりとめもない無駄口を叩くことを指摘し、登場人物への名づけセンスや台詞回しに落語からの影響を指摘している。歌を歌う群衆について前述したが、主要人物もよく歌を歌っている。『猿飛佐助』では真田十勇士の一人三好青海入道が、「しらないまーに食べちゃった♪」と他人の食べ物をテンポよく歌って歌詞で状況説明してつまみ食いをするギャグを披露している。", "title": "作風と評価" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "戦後の黄金期(第二期)、杉浦には3人のアシスタントがいた。戦前から引き続き、友人加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去。この加藤以外の2人が杉浦の弟子で、1人は斉藤あきら、もう1人は藤巻悟郎である。藤巻は数年で引退したため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけだった。戦前の杉浦は漫画の素人だったにも関らず、師匠の田河から漫画について直接教わらなかったが、斉藤も1954年の入門当時、印刷工場勤務の傍ら定時制の高校に通う10代の少年であり、漫画については高校の新聞部で1コマ漫画を描いた経験がある程度だった。斉藤は杉浦が近くに住んでいることを知って親しみをもち、ファンレターを出した。すると、杉浦から地図付きの返信が届き、江戸川区小岩町の自宅に招かれた。訪問当日、杉浦と談笑した後、急に杉浦が描きかけの原稿の余白に絵を描くことを指示した。この時斉藤は自分が絵を描くことを伝えていなかったし、また、漫画は好きだったものの、漫画家になるつもりは全くなかった。斉藤本人は手伝いはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦から手伝いの依頼が来て、ついに入門することになったという。杉浦と斉藤は、漫画のアイデアの出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話し合わなかった。ただ、田河がそうだったように、杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は、長じて漫画技術を習得して杉浦以外にも高野よしてるや手塚治虫、横山光輝の元でもアシスタントを経験し、独立して「ジャガープロ」を設立した。その後、ジャガープロは赤塚不二夫のフジオ・プロダクション「斉藤班」となり、斉藤は赤塚のアシスタントも務めたが、他の漫画家のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという。", "title": "弟子" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "杉浦への弟子入り後にフジオ・プロに入った斉藤が語るように、赤塚不二夫は杉浦茂のファンで、登場人物の「レレレのおじさん」の「レレレ」は杉浦作品から来ているし、それ以外にも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」等の定番の台詞にも影響も与えた。また、杉浦作品の登場人物が頻繁に見せる手のポーズに、広げた指のうち中指と薬指を曲げるポーズがあるが(アメリカ手話の「I Love You」の形。読者に向かって手の甲を向けるか平を向けるかは一定しない)、このポーズは手塚治虫『鉄腕アトム』や赤塚不二夫『天才バカボン』、いしいひさいち『ののちゃん』でも確認できる。もう一つ、有名なポーズがあり、腕とつながっていない拳が頭を掻くものだが、手塚治虫が『七色いんこ』や『旋風Z』(SUGIURA SHIGERU の手書き註釈あり)などでギャグポーズとして活用している。また、手塚の『おれは猿飛だ!』は杉浦の『猿飛佐助』の自己流解釈であると語っている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、漫画家の日野日出志、みうらじゅん、本秀康やいしかわじゅん、みなもと太郎、花輪和一、タイガー立石など、グラフィックデザイナーの田名網敬一、SF作家のかんべむさし、横田順彌、ミュージシャンの細野晴臣が杉浦から影響を受けたことを語っている。ギャグ漫画家の唐沢なをきは、杉浦への追悼と表し、自作『カスミ伝』にて一話まるまる作風と絵柄を杉浦に似せて描いている。 アニメ監督の宮﨑駿も影響を受けた一人であり、宮﨑によって読売新聞のテレビCMとして、杉浦作品のアニメ化が企画され、『猿飛佐助』、『太閤記』、『八百八狸』などを原作に、駿の長男である宮﨑吾朗が演出を担当し、スタジオジブリによって制作された。このテレビCMは『ふうせんガムすけ』編と題され、2009年より放送された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "主要作品のみ掲載とし、例えば新聞雑誌掲載作品は特筆すべきもの以外割愛した。杉浦茂『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第5巻巻末収録の「杉浦茂・全作品リスト」を主に参考に、ペップ出版編集部編『杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』』ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>別巻収録の小野寺正巳編「完璧作品リスト」で補足して作成した。", "title": "作品" } ]
杉浦 茂は、日本の漫画家である。東京府東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区湯島二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に杉浦シゲルがある。
{{Otheruseslist|'''漫画家の杉浦茂'''|元・漫画家の[[政治家]]|杉柾夫|[[オウム真理教]]の幹部|杉浦茂 (オウム真理教)}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 杉浦 茂 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 杉浦 茂 |生年 = [[1908年]][[4月3日]] |生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]湯島新花町(現・[[東京都]][[文京区]][[湯島]] 2丁目) |没年 = {{死亡年月日と没年齢|1908|4|3|2000|4|23}} |没地 = {{JPN}} |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |称号 = |活動期間 = [[1932年]] - [[1996年]] |ジャンル = 子供漫画<br />ギャグ漫画 |代表作 = [[猿飛佐助]] |受賞 = [[1989年]] - 第29回[[児童文化功労者]] |サイン = |公式サイト = [http://sugiura.pecori.jp/kinen/ 杉浦茂記念祭 公式ウェブサイト] {{ja icon}} }} '''杉浦 茂'''(すぎうら しげる、[[1908年]][[4月3日]]<ref group="注釈">『[[著作権台帳]]』第二十六版、日本著作権協議会、[[2001年]]によれば[[3月31日]]生。</ref><ref name="jiden194">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.194</ref> - [[2000年]][[4月23日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]である。[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]湯島新花町(現在の[[東京都]][[文京区]][[湯島]]二丁目)生まれ。戦前はユーモア漫画や教育漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼び、88歳まで執筆活動を続けた。初期の筆名に'''杉浦シゲル'''がある。 __TOC__{{-}} == 年表 == * [[1908年]]([[明治]]41年)[[4月3日]] - 生誕。 * [[1926年]]([[大正]]15年) - [[1930年]](昭和5年) - 18歳から22歳まで太平洋畫會研究所入所。 * [[1930年]]([[昭和]]5年) - 22歳。『夏の帝大』で第11回[[日展|帝展]](現[[日展]])洋画部入選。 * [[1932年]](昭和7年) - 24歳。[[田河水泡]]に師事。作品『どうも近ごろ物騒でいけねえ』が[[東京朝日新聞]]に載り、漫画家[[デビュー]]。 * [[1943年]](昭和18年) - 35歳。茂原映画研究所に就職。 * [[1945年]](昭和20年)7月 - 37歳。召集令状が届き、世田谷砲兵連隊に配属され、[[熊本県]]に駐屯。 * 1945年(昭和20年)9月下旬 - 復員。 * [[1953年]](昭和28年) - [[1958年]](昭和33年) - 46歳から50歳まで、杉浦茂の5年間の黄金期。 * [[1954年]](昭和29年) - 46歳。[[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]]が杉浦に入門。 * [[1958年]](昭和33年) - 50歳。約半年間療養。 * [[1996年]]([[平成]]8年) - 88歳。遺作となる『2901年宇宙の旅』執筆。 * [[2000年]](平成12年)[[4月23日]] - 92歳。歿 == 生涯 == 杉浦の創作活動は3期に分けられる<ref name="jiden164">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.164</ref>。戦前の第1期ではユーモア漫画や教育漫画を、徴兵を挟んで終戦の翌年からの第2期では、一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。この時期のうち、1953年から1958年までは、その殺人的な仕事量と、多くの代表作が生み出されたことから「杉浦茂の黄金期」とされ、「奇跡の5年間」とも表される<ref name="nakano80">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] p.80</ref>。その後、仕事の休止を挟んで1968年からの第三期では、シュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描き、サブカルチャーブームにも乗ってイラスト仕事も行った。 === 生い立ち === 1908年(明治41年)、東京市本郷区湯島に開業医の三男として生まれる。湯島尋常小學校(今の[[文京区立湯島小学校]])時代は友人に恵まれ、[[押川春浪]]から[[田山花袋]]、[[上田秋成]]などの多様な小説や、『猿飛佐助』を初めとする[[立川文庫]](立川文明堂刊)などで講談趣味を教わった。また、週末には本郷の[[福宝堂|第五福寶館]]や、長じてからは[[新宿]]の[[新宿武蔵野館|武蔵野館]]などの映画館に通い、アメリカ製の喜劇物や西部劇などをたびたび鑑賞した。20歳ごろからは兄が定期購読していた『[[新青年 (日本)|新青年]]』([[博文館]]発行)にも親しみ<ref name="marugoto136-139">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.136 - 139</ref>、これらの文物が後の漫画創作の下地となった<ref name="jiden54-61">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.54 - 61</ref>。 郁文館中學校(旧制・現在の[[郁文館中学校・高等学校]])時代に<ref name="jiden196">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.196</ref><ref name="manga201">[[#まんが|漫画家人名事典]] p.201</ref>、当時の人気漫画家[[北沢楽天]]とその一門に影響され、初めての漫画(ポンチ絵)を描く。餠を題材にした四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は、後の漫画家人生の原点になった<ref name="jiden77-78">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.77-78</ref>。しかし、その後も継続して漫画を描いていたわけではなく、杉浦によると、漫画家になるまでは漫画への興味、知識は特に無かったという<ref name="marugoto36">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.36</ref>。父親は杉浦を眼科医にさせたかったが<ref name="bonjin259">[[#猪瀬|二度目の仕事:日本凡人伝]] p.259</ref>、杉浦の夢はプロの西洋画家になることであった。中学時代に上級生から教えられた藤田嗣治に憧れ<ref name="jiden61-63">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.61-63</ref>、また、趣味で日本画を描いていた父と[[日展|文展]](文部省美術展覽会、後の帝展、日展)に通うことで、その思いを募らせた<ref name="jiden196" />。 1924年(大正13年)、父が、過労によって当時流行していた[[嗜眠性脳炎]](眠り病)を患い急死<ref name="jiden149">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.149</ref>。二人の兄が医学校に進学したこともあって家計が悪化し、杉浦は美術学校(芸大)への進学の道を絶たれる。その後、医者になった兄の金銭援助を受け<ref name="marugoto147">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.147</ref>、1926年から1930年まで[[太平洋美術会|太平洋畫會研究所]]<ref group="注釈">こういった美術研究所は、経済的事情で美術学校に行けないが画家を志す若者の受け皿になる施設となっていた。</ref>に入所。西洋画の制作に取り組む。人物画のモデルを雇うには金がかかるいうこともあり、杉浦は、好んで西洋建築のある風景画を描いた<ref group="注釈">このころの絵は1945年(昭和20年)の[[東京大空襲]]により焼けてしまってほとんど残っていない。</ref><ref name="jiden150">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.150</ref>。外出して写生をしている内に、[[野獣派]]の[[長谷川利行]]や[[横山潤之助]]と知り合うことにもなった<ref name="marugoto147-155">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.147 - 155 杉浦は画業を捨て漫画業に専念するようになってからも挿絵画の[[松野一夫]]や霜野二一彦の親交を得ている。</ref>。また、研究所とは別に1927年(昭和2年)から1931年(昭和6年)まで洋画家の[[高橋虎之助]]にも師事。1930年には、日展(日本美術展覧会)の前身である第11回帝展(帝国美術展覧会)洋画部に、油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選している<ref group="注釈">この絵は兄の知合いで大阪で病院を経営する医師が購入した。「杉浦茂インタビュー」『[[彷書月刊]]』1994年3月号、pp.5,8.</ref>。 === 漫画家へ(第一期) === 全ての生活の糧を二人の兄に頼っていた杉浦は、一念発起して洋画家とは別の道を目指すことにする。知人から田河水泡への紹介状をもらい、その後3カ月、勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩んだ末、1932年(昭和7年)4月1日、小石川の高級アパート・久世山ハウスを訪ね、田河の門下となった。田河はこの時、すでに『[[のらくろ]]』により売れっ子作家となっており、杉浦もその名前は知っていた<ref group="注釈">田河も杉浦と同じく芸術家を経て漫画家となった経歴を持っており、[[村山知義]]主催の芸術集団[[MAVO]] にも参加していた前衛芸術家であった。</ref>。入門の数日後には、山梨から上京してきた倉金虎雄(後の[[倉金章介]])も門下になり、それまで弟子がいなかった田河に、二人の門下生ができた<ref group="注釈">さらに後には[[長谷川町子]]も同門に加わる。戦前の弟子はこの三人ですべて。</ref>。田河の妻、[[高見澤潤子]]によれば、「弟子と言えば、杉浦茂が一番弟子であり、荻窪の家へはときどき訪ねて来て、倉金章介やその他の若い人たちと、よくいっしょにあつまっていたが、その後は、あまり家に来なくなった。」という<ref name="norakuro135">[[#高見澤|のらくろひとりぼっち:夫・田河水泡と共に歩んで]] p.135</ref>。ただし、杉浦は戦後の1947年にも、その頃荻窪にあった田河の家を訪れており、親交が全く途絶えたわけではなかった<ref name="jiden50-51">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.50-51</ref>。 田河は「制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだ」という考えから、指導を特に行わなかった<ref name="marugoto37">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.37</ref><ref name="jiden151">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.151</ref>。杉浦は、倉金とともに原稿のベタ塗りなどを手伝いつつ、[[東京朝日新聞]](1932年12月18日付)に一枚ものの『どうも近ごろ物騒でいけねえ』を執筆、デビューを果たす<ref>杉浦 (2002)p.151、井上 (2002)p.167。猪瀬 (1988)pp.258, 261, 262. や小野寺 (1988)p.191、『漫画家人名事典』(2003)p.201 などでは、「思はぬ助け舟」(『[[少年倶楽部|少年倶樂部]]』1933年7月号、[[講談社|大日本雄辯會講談社(現・講談社)]])と「クロ子のお使い」(『[[少女倶楽部|少女倶樂部]]』同)が雑誌デビューということでデビュー作となっている。それぞれ 1ページのこの2作品は、田河の紹介で掲載された。</ref>。その後もいくつかの短中篇作品が少年誌に掲載された。しかし、杉浦はネタの引出しが少なく、苦肉の策として別の雑誌に同じネタを使い回すこともあり<ref name="jiden166-168">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.166 - 168</ref>、この傾向はその後も続いた<ref name="jiden182-183">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.182 - 183。1期で使ったネタを洗練させ、創作活動の 2期目、3期目に再利用することもあった。</ref>。また、戦前の作品からは、描線や登場人物の表情に[[横井福次郎]]の影響も見受けられる<ref name="jiden170-173">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.170 - 173</ref>。杉浦の元には、洋画家の岩月信澄(栗原信門下)と日本画家の加藤宗男([[堅山南風]]門下)という同い年の2人の親友がアシスタントに入った<ref group="注釈">2人は杉浦が洋画の道を目指していたときに知り合ってからの仲だった。</ref><ref name="jiden40">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.40</ref>。 1933年(昭和8年)には、家から独立。[[杉並区]][[高円寺]]のアパートに移り住んだのち、翌1934年に[[音羽]]の小石川アパートへ引っ越し、同アパートに住んでいた挿絵画家の霜野二一彦、漫画家の広瀬しん平と親交を得る。その後、1936年には[[本郷区]]本郷森川町にある[[徳田秋声]]の経営する不二ハウスへ移った。 1937年(昭和12年)、田河を顧問に昭和漫畫會が結成され、杉浦もその一員となる。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、その5月より田河が創刊した『小學漫畫新聞』<ref group="注釈">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]]186ページには『こどもマンガ新聞』とある。</ref>は、発行停止を余儀なくされる。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、[[宮尾しげを]]を会長に[[日本児童漫画家協会|日本兒童漫畫家協會]]が結成され、昭和漫畫會同人全員とともに杉浦も参加。この後も、1940年に[[新日本漫画家協会|新日本漫畫家協會]]、1942年に[[少年文学作家画家協会|少年文學作家畫家協會]]が発足し、1943年には、新日本漫画家協会が発展解消、[[大政翼賛会|大政翼贊會]]肝煎で日本に居た全漫画家が入会した[[日本漫画奉公会|日本漫畫奉公會]](会長[[北沢楽天]])<ref>杉浦の記述には「日本漫画報国会」(杉浦 (1988)p.187)や「日本漫画報公会」(杉浦 (2002)p.46)とあるが、清水 (2005)p.38 の記述に合せる。</ref>が結成され、杉浦もそれらに参加した。 戦争が激化するにつれ、政府は企業への統制を強めた。出版社が統廃合され、雑誌の数も減少し<ref group="注釈">最終的に少年少女向け雑誌は六誌だけとなった。『[[少年倶楽部|少年倶樂部]]』(大日本雄辯會講談社(現講談社))、『[[少女倶楽部|少女倶樂部]]』(同)、[[良い子の友と少國民の友|『少國民の友』(小學館)、『良い子の友』(同)]]、『[[日本のコドモ]]』(國民圖書刊行會(現[[チャイルド本社]]))、『[[週刊少國民]]』([[朝日新聞社]])である。</ref><ref name="sensou383">[[#櫻本|戦争とマンガ]] p.383</ref>、雑誌の仕事<ref group="注釈">「オテツダヒブタイ」『[[講談社の絵本|講談社の繪本]]』[[講談社|大日本雄辯會講談社]]、1940年11月15日刊が最後。</ref>が無くなるにつれ、多くの漫画家は発表の場を[[単行本]]へ移した。杉浦も1941年(昭和16年)に初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版。その後も啓蒙的な教育作品を制作し、単行本での発表を続けた。戦前期の杉浦は、主に國華堂書店から10冊の描下ろし単行本を出版した。 1943年(昭和18年)に[[結婚]]し、[[横浜市]][[港北区]][[妙蓮寺 (横浜市港北区)|妙蓮寺]]から[[江戸川区]][[小岩町]]へ移り住む。しかし、結婚披露宴の費用で貯金を費やし<ref name="marugoto164">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.164</ref>、単行本の仕事も無くなり<ref group="注釈">1943年出版の『北ノ人達』國華堂日童社刊が最後。</ref>、漫画家生活を諦める寸前にまで陥ってしまう。前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りで、仕事机や本棚、結婚祝いの柱時計も古道具屋に売ってしまうほどだった<ref name="jiden47-48">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.47 - 48</ref><ref name="bonjin269-270">[[#猪瀬|二度目の仕事:日本凡人伝]] pp.269 - 270</ref>。そんな時、電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家[[岡田晟]](倉金と同郷で親友)と偶然出会い、そのまま勤め先である映画会社の茂原映画研究所に同行し、就職させてもらう<ref group="注釈">ここでは線画部長として[[山本早苗]](山本善次郎)が、次長として西倉喜代治が働いていた。</ref>。杉浦の後に、仕事に困っていた旧知の漫画家の[[帷子進]]もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画の[[セル画]]の仕事を担当した<ref name="jiden164-166">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.164 - 166</ref>。 元来病弱な杉浦は、徴兵検査で丙種とされていたたが、1945年(昭和20年)7月に召集を受け、[[世田谷区|世田谷]]の砲兵連隊に入隊、[[熊本県]]へ派兵される。アメリカ軍の[[有明海]]上陸に備え、[[玉名郡]][[梅林村]]の梅林國民學校<ref group="注釈">2014年現在の[[玉名市立梅林小学校]]</ref>に駐屯し、首から吊るした火薬箱を両手で抱えて人間爆弾として突撃するための訓練などを受けたが<ref name="jiden157-158">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.157 - 158</ref>、急な環境の変化<ref name="marugoto167">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.167</ref>と栄養失調<ref name="marugoto188">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.188</ref>により下痢を起こし、半病人となった。 === 戦後の黄金期(第二期) === 終戦後、杉浦は1945年(昭和20年)9月末に復員したが、翌年まで漫画の仕事は無く、食料([[サツマイモ|さつまいも]])の確保に明け暮れる。戦中の勤め先であった茂原映画研究所は、[[日本映画社]](日映)に吸収されてアニメ映画専門の会社となり、後に漫画家となる[[福井英一]]と知り合えたものの、杉浦と同僚の帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから、共に会社を辞めることになる<ref>[[杉浦茂#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想p]].49, 50. 『少年漫画劇場』第 8巻、[[筑摩書房]]、1971年あとがき(『杉浦茂ニコニコ大会』青林工藝舎<杉浦茂傑作選集> 2巻、2009年 ISBN 978-4-88379-282-5 巻末に再掲)には、兵役から復員して、[[練馬区]]南町(現・[[練馬区]][[桜台 (練馬区)|桜台]])にあった漫画動画社に入社、ここで福井と知り合うも働きぶりが悪く[[解雇|クビ]]になったとある。</ref>。 1946年(昭和21年)、杉浦は、帷子宅で出版社[[新生閣]]の社長[[鈴木省三 (編集者)|鈴木省三]]に紹介される<ref name="marugoto188" />。[[小学館]]出身の鈴木は、新生閣で当時大流行していたこども漫画に注力していた。杉浦は、単行本『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、これが戦後初の漫画仕事となった。その後、新生閣では西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』には『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。 鈴木は、経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰し、同じ[[一ツ橋グループ]]の[[集英社]]出版部長を兼任。集英社で『おもしろ漫画文庫』を創刊した。杉浦の代表作となる『猿飛佐助』は、その21巻目として描かれた。同作は12万4千部刷られ、同文庫の中で一番の売上を記録<ref name="marugoto30-32">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.30 - 32</ref>。この大好評を受け、『猿飛佐助』は雑誌『[[おもしろブック]]』(集英社)に連載となる(1954年3月 - 1955年12月)<ref group="注釈">この連載は、『続猿飛佐助』として『おもしろ漫画文庫』の 1巻にまとめられた。</ref>。また、これをきっかけに杉浦の仕事は大幅に増え、1958年までの 5年間の間(46歳 - 50歳)に、後の代表作となる様々な長編漫画が生み出された<ref name="nakano80" />。忍術物の『猿飛佐助』、『少年児雷也』、完全オリジナルの『ドロンちび丸』。西部劇では、背景の描き方等にアメコミの影響が見受けられる『弾丸トミー』<ref name="jiden111-113">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.111 - 113</ref>、『ピストルボーイ』、SF物の『怪星ガイガー』(改題改稿して『0人間』)などである。また、[[コミカライズ|コミカライズ作品]]では『モヒカン族の最後』<ref group="注釈">原作は[[アメリカ合衆国]]の作家[[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]]が[[1826年]]に発表した[[モヒカン族の最後|同名小説]]。</ref>、『ゴジラ』<ref group="注釈">原作は1954年の[[東宝]]映画『[[ゴジラ (1954年の映画)|ゴジラ]]』([[本多猪四郎]]監督)。</ref>、『大あばれゴジラ』<ref group="注釈">原作は『ゴジラ』の続編にあたる1955年の『[[ゴジラの逆襲]]』([[小田基義]]監督)。</ref>がある。この時期の作品テーマは、冒険物(1950年まで)から西部劇(1953年まで)に移り、さらに時代物へと変わっていったが、それぞれの作品に、戦前の小説や映画を盛んに見た経験が活かされている<ref>[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.204 - 207 の「漫画と映画 題名関連リスト」は、杉浦がいかに映画を見て、作品のネタにしていたかがよく現れている。</ref>。1958年には、集英社から、描下ろし作品『杉浦茂傑作漫画全集』が全 8巻で刊行された。しかし、対応しきれないほどの仕事が殺到し、昼も夜も仕事をし続けた杉浦は体調を崩してしまう。1959年という年は『[[週刊少年サンデー]]』(小学館)と『[[週刊少年マガジン]]』([[講談社]])の二つの漫画誌が創刊され、有力漫画家の仕事が月刊誌から週刊誌へ移行していった時期だが、杉浦は、とてもやりきれないと週刊誌の依頼を断っている<ref name="bonjin254">[[#猪瀬|二度目の仕事:日本凡人伝]] p.254</ref><ref name="nakano134-135">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] pp.134 - 135</ref>。 この子供向け漫画を中心とした第 2期の活動は1966年(昭和41年)<ref group="注釈">『スタミナドンちゃん』『少年ブック』1967年正月臨時増刊号)。</ref>まで続いた。 === 第三期以降 === [[1960年代]]以降は、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになる。慣れぬ持ち込み行い、時流に乗る様な大人漫画も描いた<ref name="jiden117-117">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.117 - 118 このことを後悔し、2002年に作品集『杉浦茂マンガ館』(筑摩書房)への収録を断っている</ref>。 1968年(杉浦60歳)から漫画の仕事を再開(第3期)。この時期は「とにかく漫画は面白さが大切」という考えから、さらに作風が奔放になり、アートの様な、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。また、1969年の[[虫コミックス]]([[虫プロ商事]])での『猿飛佐助』の再単行本化以降、自身の手で過去の作品をよりはちゃめちゃに改稿するようになるが、このことに対する読者から抗議の投書が来たことにより、改稿をやめている<ref name="marugoto173">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.173</ref>。 70歳に入ってからも精力的に活動を続けた。名作を杉浦流に改変した『日本名作劇場』を『[[太陽 (平凡社)]]』(1980年1月号 - 1981年6月号)に執筆。単行本『まんが聊斎志異』(上巻 1989年刊、中巻 1990年刊)を描き下ろす。また、[[1980年代]]から、杉浦のナンセンスでシュールな作風がサブカルチャーの興隆と共に再評価されると、1989年の第29回[[児童文化功労者]]に選出された。さらに、杉浦の作品集が何度か編まれている<ref group="注釈">1981年には、中野書店から『杉浦茂傑作選集』(全 4巻と別巻 1冊)、1987年から1988年にかけて、ペップ出版から『杉浦茂ワンダーランド』(全 8巻と別巻 1冊)、1993年から1996年に、筑摩書房から『杉浦茂マンガ館』(全 5巻)がそれぞれ出版された。</ref>。また、この他にイラストの仕事も手掛けている。[[森永製菓]]「ぼうチョコ」のパッケージイラストや<ref name="jiden108-109">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.108 - 109</ref>、[[西武の店舗一覧#有楽町西武|有楽町西武]]の開店を宣伝するポスターと、CM のキャラクターのデザイン(1984年)、[[ソニー]]、[[日立製作所|日立]]、[[横浜ドリームランド]]、[[ニコン]]<ref>筑摩書房編集部 (1996)p.427</ref>へのイラスト提供<ref name="bonjin250-251">[[#猪瀬|二度目の仕事:日本凡人伝]] pp.250 - 251</ref>、[[筒井康隆]]『お助け・三丁目が戦争です』[[金の星社]](1986年)と、[[糸井重里]]『私は嘘が嫌いだ』[[ちくま文庫]](1993年)の挿絵などである。 1996年(平成8年)、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第5巻のために「2901年宇宙の旅」<ref group="注釈">『マンガ館』第5巻は絶版だが、この描下ろしは、2009年(平成21年)に刊行された選集、『イエローマン:杉浦茂シュールへんてこりん傑作選』[[エンターブレイン]] ISBN 978-4-7577-4902-3 で読める。</ref>を描下ろし、64年に及んだ長い長い画業を終えた<ref group="注釈">以降も[[年賀状]]などにイラストを描いてはいる。</ref>。 1999年(平成11年)、杉浦は[[交通事故]]で腰の骨を折って[[寝たきり]]になり、その後[[椅子]]に座れるほどには回復したものの、2000年(平成12年)4月23日、入院先の病院で[[腹膜炎]]により死去した<ref name="jiden81-83">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.81 - 83</ref>。92歳だった。 === 死後 === 杉浦の原稿は散逸がひどく<ref>青林工藝舎編集部 (2009)p.124</ref>、死後も作品の発掘が進められている。2007年から中野書店のものと同名の『杉浦茂傑作選集』が[[青林工藝舎]]より刊行され、これまでに未収録だった改稿版が単行本化された。2013年には、1958年に刊行された『杉浦茂傑作漫画全集』(集英社)全8巻の内、 4巻(2, 5, 6, 7)が選ばれ、BOX入り『杉浦茂傑作漫画選集 0人間』として[[小学館クリエイティブ]]から刊行された。また、2002年に、東京都三鷹市の[[三鷹市美術ギャラリー]]にて「杉浦茂 - なんじゃらほい - の世界展」、2009年に、[[京都市]][[中京区]]の[[京都国際マンガミュージアム]]で「冒険と奇想の漫画家・杉浦茂101年祭」展、2012年には、東京都[[江東区]]の[[森下文化センター]]([[田河水泡・のらくろ館]]と同じ建物)で「びっくりどんぐり奇想天外 杉浦茂のとと? 展」と、画業を紹介する展覧会も開催された。[[四方田犬彦]]は、著書『日本の漫画への感謝』([[潮出版社]]、2013年)の中で、杉浦茂を最初に取り上げている<ref>{{Citation|和書|last=四方田|first=犬彦|title=日本の漫画への感謝|publisher=潮出版社|edition=初|date=2013-11-20|page=11|isbn=978-4-267-01961-6}}</ref>。 == 作風と評価 == 杉浦作品は、その独自色の強い強烈な作風から漫画の歴史では語りづらく異端である<ref name="sengo70">[[#米沢|戦後ギャグマンガ史]] p.70</ref>。同時代に活躍した[[手塚治虫]]も、戦前から杉浦のことをユニークな作品を描く漫画家として注目していたが「田河水泡門下とはつゆ知らず、倉金良行(章介)さんとは一線を劃した独立独歩の作家だと思っていた」と語っている<ref name="marugoto63">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] p.63</ref>。[[呉智英]]は、杉浦作品を「戦後復興期から高度成長開始期という現代マンガ成立期でも特筆すべき存在」とし、全盛期の[[1950年代]]でさえ、様式的でないギャグや超現実的な物が横溢する作風は異質であり、時代を先取りするものであったと評する<ref>呉智英 (1986)p.134 なお、ここで呉は、杉浦と[[杉柾夫]]とを混同し、『杉浦は、戦前から、杉柾夫の名前で時評風俗漫画を描いていたが、戦後、画風を一新して...』としているが、これは事実誤認であり、前述の通り、杉浦は戦前より本名で作品を発表しており、杉浦本人が杉とは別人であることを述べている。[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]]p.175, 178。この誤記は[[双葉文庫]]版(1997年)において削除されている。</ref>。[[米澤嘉博|米沢嘉博]]は、杉浦茂の世界を「メタモルフォセスと奇人変人と食い物にあふれかえった、マンガ故のでたらめで自由な世界」と表現した<ref name="marugoto15-25">[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.15 - 25</ref>。[[山口昌男]]は杉浦を「へたうまのはしり」と目しており、杉浦が影響を受けた映画や歌舞伎などの世界がコラージュの技法も使って、時間や空間、論理の制約を受けず、登場人物が飛躍する様を「カーニバルのそれに近いイメージの祝祭空間」と評している<ref>山口 (1983)pp.156-159.</ref>。 杉浦作品の大胆な筋運びは、杉浦の漫画に対する独特な姿勢が大きく影響している。普通は、構想をまとめた後にネームや下書きなどを経てペン入れに至るが、杉浦は頭の中で、大体の構想をまとめた後、下書きをせずに一発でペンを入れ、執筆途中でも「こちらの方が面白い」と思い至ったら話の筋を曲げるようなことを頻繁に行っていた。弟子の斉藤によれば、杉浦は「ぼくはね、話が前とつながってなくてもいいんだよ」と語っていたという<ref name="jiden99">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.99</ref>。こうした奔放さは、杉浦作品の大ゴマでよく見る、物語の筋と関係ない群衆が、主要登場人物を埋没させるほどにてんでバラバラに行動し、おしゃべりしたり歌ったりするお祭り騒ぎのような賑やかさにも表れている。また、画家時代の腕を活かしたリアル調の絵でギャグをしたり、デフォルメの絵とリアルの絵を交互に挟んだりする奇抜なセンスも見られる<ref name="sengo70-75">[[#米沢|戦後ギャグマンガ史]] pp.70 - 75</ref>。また、杉浦作品に欠かせないものの一つに、気味の悪い怪物がある。[[カンブリア紀]]の生き物さながらのもの<ref name="nakano120-121">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] pp.120 - 121</ref>や、文化や時代性に捕らわれないぶっ飛んだデザインの数々の怪物が現れ<ref name="nakano122-123">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] pp.122 - 123</ref>、忍術物では登場人物の忍者たちがそういったものに変化(へんげ)している。 杉浦は登場人物の名づけ方も独特である。代表作の『猿飛佐助』を例にとると、食べ物に由来した「うどんこプップのすけ」や「コロッケ五えんのすけ」、「おおそうじでんじろう」([[大河内傳次郎]])や「たんげ五ぜん」([[丹下左膳]])などのダジャレ、「おもしろかおざえもん」といった何とも言えないものなど、独自の言語センスを発揮した<ref name="jiden183-188">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.183 - 188</ref><ref name="sengo73">[[#米沢|戦後ギャグマンガ史]] p.73</ref><ref name="nakano50">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] p.50</ref>。斉藤は、杉浦が読者の子供の覚えやすさと親しみやすさを重視してのことだという<ref name="jiden106">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.106</ref>。こうした言語センスは登場人物の台詞回しにも表れている。例えば、杉浦のプロレスマニアぶりが発揮された『拳斗けん太』や『プロレスの助』では、「えーい」と兇器も辞さない激しい挌闘、暴力で倒された相手が、「ぱ」や「パ」、「て」などの一言悲鳴をあげたり、「ふわ」、「ホワッ」、「ふういてえ」などと笑顔で断末魔をあげたりするところは読者に牧歌的な印象を与える効果が出ている<ref name="nakano107">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] p.107</ref>。また、[[唐沢俊一]]は登場人物がよく本筋と関係なくとりとめもない無駄口を叩くことを指摘し、登場人物への名づけセンスや台詞回しに落語からの影響を指摘している<ref>唐澤俊一「異端の饒舌」『彷書月刊』1994年3月号、pp.18-20.</ref>。歌を歌う群衆について前述したが、主要人物もよく歌を歌っている。『猿飛佐助』では[[真田十勇士]]の一人三好青海入道が、「しらないまーに食べちゃった♪」と他人の食べ物をテンポよく歌って歌詞で状況説明してつまみ食いをするギャグを披露している<ref name="sengo75">[[#米沢|戦後ギャグマンガ史]] p.75</ref>。 == 弟子 == 戦後の黄金期(第二期)、杉浦には3人のアシスタントがいた。戦前から引き続き、友人加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去。この加藤以外の2人が杉浦の弟子で、1人は[[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]]、もう1人は藤巻悟郎である。藤巻は数年で引退したため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけだった<ref name="jiden100">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.100,102</ref>。戦前の杉浦は漫画の素人だったにも関らず、師匠の田河から漫画について直接教わらなかったが、斉藤も1954年<ref group="注釈">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.86、[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.188 - 189には、1952年に斉藤、藤巻両者の入門とある。</ref>の入門当時、印刷工場勤務の傍ら定時制の高校に通う10代の少年であり、漫画については高校の新聞部で1コマ漫画を描いた経験がある程度だった。斉藤は杉浦が近くに住んでいることを知って親しみをもち、ファンレターを出した。すると、杉浦から地図付きの返信が届き、[[江戸川区]][[小岩町]]の自宅に招かれた。訪問当日、杉浦と談笑した後、急に杉浦が描きかけの原稿の余白に絵を描くことを指示した。この時斉藤は自分が絵を描くことを伝えていなかったし、また、漫画は好きだったものの、漫画家になるつもりは全くなかった。斉藤本人は手伝いはこれきりにするつもりだったのだが、また杉浦から手伝いの依頼が来て、ついに入門することになったという<ref name="jiden86-91">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.86 - 91</ref>。杉浦と斉藤は、漫画のアイデアの出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話し合わなかった。ただ、田河がそうだったように、杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は、長じて漫画技術を習得して杉浦以外にも[[高野よしてる]]や手塚治虫、[[横山光輝]]の元でもアシスタントを経験し、独立して「ジャガープロ」を設立した。その後、ジャガープロは[[赤塚不二夫]]の[[フジオ・プロダクション]]「斉藤班」となり、斉藤は赤塚のアシスタントも務めたが、他の漫画家のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという<ref name="jiden96-100">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.96 - 100</ref>。 == 影響 == [[File:I Love You.png|thumb|アメリカ手話で「[[:en:ILY sign|I Love You]]」]] 杉浦への弟子入り後にフジオ・プロに入った斉藤が語るように、赤塚不二夫は杉浦茂のファンで<ref name="jiden116-117">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.116 - 117</ref>、登場人物の「レレレのおじさん」の「レレレ」は杉浦作品から来ている<ref>[http://www.koredeiinoda.net/manga/rerereten.html レレレのおじさん大解剖! - 赤塚不二夫公認サイトこれでいいのだ!!]</ref>し、それ以外にも「あたいのことさ」とか「いっけねえ」、「いたいのなんのって、もう」等の定番の台詞にも影響も与えた<ref name="sengo75" />。また、杉浦作品の登場人物が頻繁に見せる手のポーズに、広げた指のうち中指と薬指を曲げるポーズがあるが([[アメリカ手話]]の「[[:en:ILY sign|I Love You]]」の形。読者に向かって手の甲を向けるか平を向けるかは一定しない)、このポーズは手塚治虫『[[鉄腕アトム]]』や赤塚不二夫『[[天才バカボン]]』、[[いしいひさいち]]『[[ののちゃん]]』でも確認できる<ref name="jiden199">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.199</ref><ref name="jiden202">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] p.202</ref>。もう一つ、有名なポーズがあり、腕とつながっていない拳が頭を掻くものだが、手塚治虫が『[[七色いんこ]]』や『[[旋風Z]]』(SUGIURA SHIGERU の手書き註釈あり)などでギャグポーズとして活用している<ref name="marugoto63" /><ref name="nakano76-79">[[#中野|杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの]] pp.76 - 79</ref>。また、手塚の『[[おれは猿飛だ!]]』は杉浦の『猿飛佐助』の自己流解釈であると語っている<ref>『おれは猿飛だ!』[[講談社]]<[[手塚治虫漫画全集]]>、1982年(昭和58年)のあとがき</ref>。 また、漫画家の[[日野日出志]]、[[みうらじゅん]]、[[本秀康]]<ref>「杉浦小僧の部屋」『This is 杉浦茂 ~Message from杉浦小僧~』(2003『MANGArt』特別号)、2003年10月、pp.68,74,76.</ref>や[[いしかわじゅん]]、[[みなもと太郎]]、[[花輪和一]]、[[タイガー立石]]<ref>立石 (1988)pp.111 - 114. 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド> 6巻解説、1988年</ref>など<ref>[[#ペップ|杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』]] pp.44 - 95</ref>、グラフィックデザイナーの[[田名網敬一]]<ref>「杉浦小僧の部屋」『This is 杉浦茂 ~Message from杉浦小僧~』(2003『MANGArt』特別号)、2003年10月、p.54</ref>、SF作家の[[かんべむさし]]、[[横田順彌]]<ref>横田 (1988)pp.96 - 99. 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド> 1巻解説、1987年(昭和62年)</ref>、ミュージシャンの[[細野晴臣]]<ref>細野 (1988)p.110 - 111 初出ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>五巻解説、1988年</ref>が杉浦から影響を受けたことを語っている。ギャグ漫画家の[[唐沢なをき]]は、杉浦への追悼と表し、自作『[[カスミ伝]]』にて一話まるまる作風と絵柄を杉浦に似せて描いている。 [[アニメ監督]]の[[宮崎駿|宮﨑駿]]も影響を受けた一人であり、宮﨑によって[[読売新聞]]のテレビCMとして、杉浦作品のアニメ化が企画され<ref name="yomiuri">「読売新聞のCM『ふうせんガムすけ』編」『[http://www.yomiuri.co.jp/cm/ 読売新聞CM : YOMIURI ONLINE(読売新聞)] {{リンク切れ|date= 2015年6月}}』[[読売新聞]]。</ref><ref name="natalie20090731">「スタジオジブリ最新作は杉浦茂×宮崎駿×宮崎吾朗」『[https://natalie.mu/comic/news/19315 コミックナタリー - スタジオジブリ最新作は杉浦茂×宮崎駿×宮崎吾朗]』[[ナタリー (ニュースサイト)|ナターシャ]]、2009年(平成21年)7月31日。</ref>、『猿飛佐助』、『太閤記』、『八百八狸』などを原作に<ref name="natalie20090731"/>、駿の[[長男]]である[[宮崎吾朗|宮﨑吾朗]]が演出を担当し、[[スタジオジブリ]]によって制作された<ref name="yomiuri"/>。このテレビCMは『ふうせんガムすけ』編と題され、2009年より放送された<ref name="natalie20090731"/>。 == 作品 == === 漫画 === 主要作品のみ掲載とし、例えば新聞雑誌掲載作品は特筆すべきもの以外割愛した。杉浦茂『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第5巻巻末収録の「杉浦茂・全作品リスト」を主に参考に、ペップ出版編集部編『杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』』ペップ出版<杉浦茂ワンダーランド>別巻収録の小野寺正巳編「完璧作品リスト」で補足して作成した。 <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">一期</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * どうも近ごろ物騒でいけねえ、1コマ漫画、[[東京朝日新聞]]、1932年12月18日 - '''※ デビュー作''' * クロ子のお使、 1頁、『[[少女倶楽部|少女俱樂部]]』、[[講談社|大日本雄辯會講談社]]、1933年7月号 - '''※ 雑誌デビュー作''' * 思はぬ助け舟、1頁、『[[少年倶楽部|少年俱樂部]]』、大日本雄辯會講談社、1933年7月号 - ※ 雑誌デビュー作 * 滿洲の侠ちゃん、連載、[[滿洲日々新聞]]日曜子供版、1933年 - 師・田河水泡の引継ぎ * 「クラブ齒磨」広告漫画、12篇掲載、『[[滿洲日報]]』、[[東京日日新聞]]、1934年 - 1935年 * 忍術漫画城、32頁、『[[新少年]]』8月号附録、[[博文館]]、1937年 - 初めて描いた中篇で忍術漫画 * ゲンキナコグマ、56頁、國華堂書店、1941年 - '''初の単行本''' * ミナミノクニ、頁数不明、國華堂書店、1942年 - 単行本 * ボクラノブタイ、26頁、國華堂書店、1942年 - 単行本 * コドモ南海記、168頁、國華堂書店、1942年 - 単行本 * 愉快ナ豆象、56頁、國華堂書店、1942年 - 単行本 * 北ノ人達、18頁、國華堂日童社、1943年 - 単行本 * ジヤワノキニーネノ話、頁数不明、國華堂日童社、1943年 * ツンドラノ話、頁数出版社不明、1943年 </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">二期</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 冒険ベンちゃん、22頁、[[新生閣]]、1946年 - 単行本 * 魔法のランプ、22頁、新生閣、1946年 - 単行本 * 密林と冒険ハッチ、64頁、新生閣、1947年 - 単行本 * 南海魔島、頁数不明、新生閣、1947年 - 単行本 * 魔神博士、頁数不明、新生閣、1947年 - 単行本 * 一心太助、128頁、新生閣、1947年 - 単行本 * 冒険ベンちゃん、『[[少年少女漫画と読物]]』1948年4月号 - 1950年8月号、新生閣 - 連載作品 * ジャムくん、『小学四年』1948年11月号 - 1949年3月号、『小学五年』昭和24年4月号、[[二葉書店]] - 連載作品 * 冒険ベンちゃん・魔境アマゾンの探検、128頁、新生閣、1948年 - 単行本 * ガムちゃんの冒険・怪魔島探検、93頁、[[文林社]]、1948年 - 単行本 * 密林の少年王、48頁、新生閣、1948年 - 単行本 * キリン号の旅、83頁、『小学四年』附録、1949年1月号 - 7月号、二葉書店 - 連載作品 * ハロー侠ちゃん、各12頁、『[[少年漫画帳]]』1949年6・8・10月号、[[少年漫画社]] - 連載作品 * アップルジャム君、312頁、『[[少年少女おもしろブック]]』1950年2月号 - 1954年9月号、集英社 - 連載作品、横 1段漫画 * 弾丸トミー、『少年少女漫画と読み物』1950年9月号 - 1952年3月号、[[新生閣]] - 連載作品 * 冒険ベンちゃん、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>[[中村書店]]、1950年 - 雑誌連載の単行本化 * 弾丸トミー、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1950年 - 雑誌連載の単行本化 * 弾丸トミー・痛快カウボーイ、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1951年 - 雑誌連載の単行本化 * ピストルボーイ、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1951年 - 雑誌連載の単行本化 * キャプテン小僧、125頁、『少年少女漫画と読み物』1952年4月号 - 1953年11月号 - 連載作品 * ピストルボーイ・幌馬車、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1952年 - 雑誌連載の単行本化 * 弾丸トミー・インディアン渓谷、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1952年 - 雑誌連載の単行本化 * 続・冒険ベンちゃん・恐怖塔、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1952年 - 雑誌連載の単行本化 * ピストルボーイ・拳銃王、96頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1953年 - 雑誌連載の単行本化 * モヒカン族の最後、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、1953年 - 単行本 * 猿飛佐助、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、1953年 - 単行本 * 猿飛佐助、250頁、『少年少女おもしろブック』1954年3月号 - 1955年12月号、集英社 - 単行本の人気を受けた連載作品、単行本の『続・猿飛佐助』に当たるもの。 * 南海キッド、122頁、『少年少女おもしろブック』1954年8月号別冊附録、集英社 * 忍術合戦、80頁、『少年少女おもしろブック』1954年9月号別冊附録、集英社 * 円盤Z、128頁、[[トモブック社]]、1954年 - 『キャプテン小僧』の改題の上、単行本化 * ピストルボーイ・アパッチ平原、128頁、トモブック社、1954年 - 単行本 * 冒険ベンちゃん・怪艇魔王、111頁、<ナカムラマンガシリーズ>中村書店、1954年 - 雑誌連載の単行本化 * 太閤記、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、1954年 - 単行本 * 決戦忍術城、96頁、『少年少女おもしろブック』1955年1月号別冊附録 * 侠助侠勇伝、34頁、『[[少年画報]]』1955年1月号 - 1955年5月号、[[少年画報社]] - 連載作品 * 怪星ガイガー、70頁、『[[漫画王]]』1955年1月号別冊附録、[[秋田書店]] * アンパン放射能、95頁、『漫画王』1955年1月号 - 1956年8月号、秋田書店 * ゴジラ、64頁、『少年クラブ』1955年3月号別冊附録、講談社 - [[東映]]の特撮映画、[[ゴジラ]]の漫画化作品 * ドロンちび丸、680頁、『[[幼年ブック]]』1955年4月号 - 1957年8月号、集英社 - 本誌以外に附録にも掲載 * 大あばれゴジラ、24頁、『少年少女おもしろブック』1955年6月号附録、集英社 * プロレスの助、64頁、『少年少女おもしろブック』1955年7月号別冊附録、集英社 * 拳斗けん太、80頁、『少女おもしろブック』1955年9月号別冊附録、集英社 * 近藤勇、66頁、『少年少女おもしろブック』1955年11月号別冊附録、集英社 * 忍術白金城、156頁、集英社、1955年 - 決戦忍術城を改題の上、単行本化 * 少年西遊記、頁数不明、『少年少女おもしろブック』1956年1月号 - 1957年3月号、集英社 - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載 * 岩見重太郎、64頁、『幼年ブック』1956年1月号別冊附録、集英社 * とらわか丸、32頁、『小学二年生』1956年4月号 - 7月号、小学館 - 連載作品 * 宮本武蔵、80頁、『少年少女おもしろブック』1956年7月号別冊附録、集英社 * 少年児雷也、392頁、『[[少年 (雑誌)|少年]]』1956年8月号 - 1957年11月号、[[光文社]] - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載 * 続・猿飛佐助、108頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、1956年 - 雑誌連載の単行本化 * 冒険ガン助、224頁、『少年少女おもしろブック』1957年4月号 - 11月号、集英社 - 連載作品、本誌以外に別冊附録にも掲載 * モクモクドンちゃん、224頁、『[[日の丸 (漫画雑誌)|日の丸]]』1957年9月号 - 1958年9月号、集英社 - 連載作品 * 後藤又兵衛、80頁、『少年少女おもしろブック』1957年12月号 - 1958年5月号、集英社 - 本誌以外に別冊附録にも掲載 * 続太閤記、107頁、<おもしろ漫画文庫>集英社、1957年 - 単行本 * 水戸黄門漫遊記、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第一巻、集英社、1957年 * 孫悟空、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第二巻、集英社、1957年 * 曽呂利さん、91頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第三巻、集英社、1957年 * 弥次喜多珍道中、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第四巻、集英社、1958年 * 一心太助、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第五巻、集英社、1958年 * 0人間、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第六巻、集英社、1958年 - 『怪星ガイガー』を一部改稿の上改題 * 弾丸トミー、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第七巻、集英社、1958年 * 八百八狸、92頁、<杉浦茂傑作漫画全集>第八巻、集英社、1959年 * ミスターロボット、190頁、『少年』1959年1月号 - 12月号、光文社 - 本誌以外に別冊附録にも掲載 * 少年児雷也、127頁、[[若木書房]]、1959年 - 雑誌連載の単行本化 * 少年珍探偵団、128頁、『[[少年ブック]]』1962年新年増刊号別冊附録、集英社 * 孫悟空、36頁、『[[月刊のらくろ]]』1965年8月号 - 10月号、[[ろまん書房]] </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: left;">三期</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> * 猿飛佐助、236頁、<虫コミックス>[[虫プロ商事]]、1969年 - 「虫コミ版」、1954年の雑誌連載を全面改稿の上、単行本化 * ミフネ、72頁、『現代コミック』1970年1月8日・22日号、2月12日・16日号、3月12日号、[[日本社]] - 連載作品 * ドロンちび丸、236頁、<虫コミックス>[[虫プロ商事]]、1971年 - 「虫コミ版」、1955年の雑誌連載を全面改稿の上、単行本化 * 忍術物語、54頁、『[[宝島 (雑誌)|宝島]]』1974年7月号、[[宝島社|JICC出版局]] - 忍術大全をめぐる、全 4話のオムニバス作品 * モヒカン族の最後、111頁、[[晶文社]]、1974年 - 1953年の同名作品を全面改稿、描下ろし『忍術物語』、改稿版『ミフネ』併せて収録 * 日本名作劇場、54頁、『[[太陽 (平凡社)|太陽]]』1980年1月号 - 1981年6月号、平凡社 * 杉浦茂のおもしろ世界、155頁、<思索ナンセンス選集>[[思索社]]、1983年 - 描下ろし「さるとび天助」、「ガンモドキー」、「日輪丸」、「イエローマン」収録 * JIRAIYA THE NINNJYA BOY, 『RAW』#7、RAW BOOKS & GRAPHICS - 1985年。[[小野耕世]]が英訳し、[[ニューヨーク]]の雑誌に掲載されたもの。 * まんが聊斎志異、上巻、[[コア出版]]、1989年 ISBN 978-4906175-611 * まんが聊斎志異、中巻、[[フットワーク出版]]、1990年 ISBN 978-487689-0149 - 下巻の原稿は完成していたものの、出版社と縺れて刊行されなかった<ref name="jiden135-138">[[#杉浦2|杉浦茂:自伝と回想]] pp.135-138</ref>。その後、『杉浦茂マンガ館:東洋の奇々怪々』第四巻、筑摩書房に全話が収録された。 * 2901年宇宙の旅・習作、未発表、1993年 - 最後の描下ろしのもとになったもの * 2901年宇宙の旅、24頁、1996年 - 最後の描下ろし、『杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅』第 5巻、筑摩書房収録 </div></div> === テレビCM === * [[読売新聞]]「ふうせんガムすけ」編 - 原作 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = [[呉智英]] |date = 1986 |title = 現代マンガの全体像:待望していたもの:超えたもの |publisher = [[情報センター出版局]] |isbn = |ref = 呉 }} *{{Cite book|和書 |author = [[猪瀬直樹]] |date = 1988 |title = 二度目の仕事:日本凡人伝 |chapter = イラストレーター*元祖ヘタウマ絵 杉浦茂氏の日本のフリークスランド |publisher = [[新潮社]]<[[新潮文庫]]> |isbn = 978-4-10-138903-5 |ref = 猪瀬 }} - 同社単行本『あさってのジョー』1985年(昭和61年)の改題の上の文庫化。猪瀬による杉浦へのインタビュー *{{Cite book|和書 |editor = ペップ出版編集部編 |date = 1988 |title = 杉浦まんが研究『まるごと杉浦茂』 |publisher = ペップ出版 |isbn = 978-4-89351-038-9 |ref = ペップ }} *{{Cite book|和書 |author = 杉浦茂 |date = |title = 杉浦茂マンガ館:2901年宇宙の旅 |volume = 5巻 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 978-4-480-70145-9 |ref = 杉浦1 }}- 巻末に筑摩書房編集部による「杉浦茂・全作品リスト」がある *{{Cite book|和書 |author = [[高見澤潤子]] |date = 1996 |title = のらくろひとりぼっち:夫・田河水泡と共に歩んで |publisher = [[潮書房|光人社]]<光人社NF文庫> |isbn = 978-4-7698-2131-1 |ref = 高見澤}} *{{Cite book|和書 |author = [[櫻本富雄]] |date = 2000 |title = 戦争とマンガ |publisher = [[創土社]] |isbn = 978-4-7893-0008-7 |ref = 櫻本 }} *{{Cite book|和書 |author = 杉浦茂 |date = 2002 |title = 杉浦茂:自伝と回想 |publisher = 筑摩書房 |isbn = 978-4-480-88518-0 |ref = 杉浦2 }} *{{Cite book|和書 |author = |editor = まんがseek、日外アソシエーツ編集部 |date = 2003 |title = 漫画家人名事典 |publisher = [[日外アソシエーツ]] |isbn = 978-4-8169-1760-8 |ref = まんが }} *{{Cite book|和書 |author = [[清水勲]] |date = 2005 |title = マンガ研究 |volume = 8 |chapter = 戦時下におけるマンガ・漫画家 |publisher = [[日本マンガ学会]] |isbn = 978-4-8433-2503-2 |pages = 38-42 |ref = 清水 }} *{{Cite book|和書 |author = 杉浦茂 |date = |title = 南海キッド |volume = 杉浦茂傑作選集3 |publisher = [[青林工藝舎]] |isbn = 978-4-88379-294-8 |ref = 杉浦3 }} *{{Cite book|和書 |author = 米沢嘉博 |date = 2009 |title = 戦後ギャグマンガ史 |publisher = 筑摩書房<[[ちくま文庫]]> |isbn = 978-4-480-42621-5 |ref = 米沢 }}- 底本は、同名単行本([[新評社]]刊、1981年(昭和57年)) *{{Cite book|和書 |editor = [[中野晴行]] |date = 2009 |title = 杉浦茂の摩訶不思議世界:へんなの |publisher = [[晶文社]] |isbn = 978-4-7949-6742-8 |ref = 中野 }} * 『[[彷書月刊]]』1994年3月号、[[弘隆社]] * 『This is 杉浦茂 ~Message from杉浦小僧~』(2003『MANGArt』特別号)、[[ソニー・クリエイティブプロダクツ]]、2003年10月 * 山口昌男「イメージの祝祭空間」杉浦茂『杉浦茂のおもしろ世界』[[思索社]]<思索ナンセンス選集>1、1983年10月 ISBN 4-7835-1089-X == 外部リンク == * [http://sugiura.pecori.jp/kinen/ 杉浦茂記念祭 公式ウェブサイト] {{ja icon}} - [[mixi]]「杉浦茂 記念祭」コミュニティの公式サイト及び杉浦茂の紹介ページ。 * [http://mitaka.jpn.org/gallery/044/ 杉浦茂−なんじゃらほい−の世界展] {{ja icon}} - 2002年(平成15年)に[[三鷹市]]美術ギャラリーで開かれた展覧会の紹介ページ。 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すきうら しける}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1908年生]] [[Category:2000年没]]
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特殊相対性理論
特殊相対性理論(とくしゅそうたいせいりろん、独: Spezielle Relativitätstheorie、英: Special relativity)は、あらゆる慣性系間の等価性を公理とした物理学の理論である。特殊相対論(とくしゅそうたいろん)とも訳される。特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される理論であるが、一般相対論と特殊相対論を特に区別せずに、相対性理論と呼称されることもある。光速に近い速度で相対移動する観測者対について古典力学 (ニュートン力学)は一般に実験事実と整合しないが、特殊相対性理論においては、観測者に固有の(あるいは観測者間の互いの)時間と空間の測量について定式化することで、これらの関係・法則を捉える。 力学において、電磁気学の説くところによれば、観測者あるいは観測対象の慣性運動を伴う実験において、その結果には従来のニュートン力学の示すところと不整合が生じ得る (#特殊相対性理論に至るまでの背景)。アルベルト・アインシュタインは1905年に発表した論文において特殊相対性理論を発表し、電磁気学的現象まで含めた慣性系間の等価性を公理として、以下の帰結を示した。 特殊相対性理論はニュートン力学では説明できなかった事柄をことごとく説明しており、とりわけ、ニュートン力学が矛盾をきたす光速度に近い速度で運動する物体の力学的挙動に対して、その実験事実によく整合する。こういった経緯から、特殊相対性理論を含む相対性理論は、現代物理学において重要な一体系として支持されている。定性的には、物体に対するエネルギーの放出・吸収にともなったその質量の減少・増加などが確認されている。 その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される特殊論である。一般相対性理論が重力をはじめとする外力(あるいは慣性力)のある非慣性系等の定式化を含むものであるのに対して、特殊相対性理論では慣性力のはたらかない状況(たとえば加減速のない状況)、すなわち慣性系を主眼に据えて扱う。慣性系は非慣性系を含むあらゆる座標系の特殊・特別な場合のひとつであるので、本理論はこれを指すために「特殊」の語を冠して特殊相対論と呼称している。 ニュートンは力学を記述するに当たって以下のような、「絶対時間と絶対空間」を定義した。 すなわち、時間と空間は、そこにある物体の存在や運動に影響を受けないと仮定した。これをもって、我々が日常的直観として抱いている時間や空間に対する根本的感覚を表そうとした。この絶対時間をかかげるニュートン力学においても、あらゆる慣性系は本質的に等価(すなわち相対的)でもある。ニュートン力学では、2つの慣性座標系(慣性系Aおよび慣性系B)における同一点A = (t, x)とB = (t′, x′)を示す関係は、次に示すガリレイ変換によって結ばれている。 (t′, x′) = (t, x − v t) 狭義の例を示すならば、ある座標系Aに対して等速直線運動する別の座標系Bがあるとして、これら二つの座標系は本質的に等価(相対的)である。すべての基準となる静止座標系といった概念は、上式では規定されておらず、力学の法則はあらゆる慣性系からの観測について本質的に同一である。すなわち、ガリレイ変換によって形式が変わらない。ガリレイ変換におけるニュートンの運動方程式の不変性、すなわち、この変換でつながる座標系間の等価性は、 ガリレオの相対性原理 (Galilean invariance) と呼ばれる。ニュートン力学は、少なくとも当時に再現し得た諸実験事実と整合し、その矛盾があらわになる時代を迎えるまで(以下節)、力学の普遍的法則とも捉えられた。 19世紀後半になると、当時既に知られていた電磁気学に関するいくつかの基礎方程式群が、ジェームズ・クラーク・マクスウェルにより系統化され、マクスウェル方程式としてあらわされた。マクスウェル方程式の自由空間における解のひとつは電磁波である。この解が示す電磁波の伝播速度は、当時知られていた精度での光速度 c とよく一致した。このため、光と電磁波が同一のものと捉えられ、マクスウェル方程式は、電磁気学の基礎方程式であるのみならず、光の挙動を記述する支配方程式とみなされるようになった。 同時期において光学分野では、光の回折現象が知られていた。これを説明するために、光を波の伝播と見做す光の波動説が見出され、その支持が広まった。光の波動説では、光も空間を伝播する「もの」であるため、光が伝わる媒質であるエーテルなるものが宇宙に満たされているという仮説が、ホイヘンスにより提案された。 光の波動説およびエーテルを前提とした議論では、エーテルに対して静止している理想的な座標系においてマクスウェル方程式は実験事実をよく支持し、有用な基礎物理方程式とみなされた。その一方で、エーテルに対して運動する基準系から見た状況について、次第に関心が寄せられるようになっていった。 ニュートン力学の基礎方程式であるニュートンの運動方程式は、ガリレイ変換による座標変換のもとで本質的には形を変えない。しかし、電磁気学の基礎方程式であるマクスウェル方程式は、ガリレイ変換のもとで形式が本質的に変化してしまう。この数式上の変化は、マクスウェル方程式が真に成り立つ慣性系がこの世界のどこかにあり、(形式を変化させずに)マクスウェル方程式が別の慣性系においても成立できる「ガリレイ変換でない新たな座標変換」が必要だと予想された。 ヘルツはこの変形された方程式を運動座標系における電磁場の支配方程式として導出したが、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験によって否定された。当時の電磁気学についての問題提起として、たとえば以下のようなものが挙げられる。 このような光の速度と観測者・光源の運動(運動する座標間の変換)に関して混迷した状況があり、なんらかの新たな実験及び理論が求められる状況であった。そのようななか、「ガリレイの相対性原理を是とし、光の速度が慣性系に依存するのであれば、様々な異なる慣性系(運動座標系)から光の速度を計測すれば、マクスウェル方程式と一致する"ただ一つの静止基準系"が見つかるであろう」との発想からマイケルソン・モーリーの実験が行われた。 マイケルソン・モーリーの実験 (Michelson–Morley experiment)にて、両氏は、地球の公転移動に着目した。実験空間の環境下において、公転運動の進行方向の前後に対してエーテルの「風」が吹くことを想定して、そこで伝播する2経路の光の干渉縞を見ることを通じて、光のエーテル中の伝播速度を精密に測定しようと試みた。これにより、エーテル中における観測者の移動速度(ここでは地球の公転速度)の影響を調べられると考えたのである。これは当時の技術で十分に機能できる手法であった。しかしながら、光の速度に有意の差異は認められず、両氏の期待した観測者移動速度の影響(「エーテルの風」の効果)は実験的に支持されなかった。この当時は「観測者の運動の光速度に及ぼす影響について、”予想されていた水準”よりは、無に近いか全く無いものであろう」と結論された。 一方で、上記の実験を支持できる物理体系を見出す試みとして、ヘルツ、フィッツジェラルド、ローレンツ、ポアンカレなどの学者は、エーテル説に付け加えて、辻褄合わせのための仮定を付与することで実験事実と理論を整合させようと試みた。例えばローレンツとフィッツジェラルドは各々独立に、運動する物体が「エーテルの風」を受けて収縮するフィッツジェラルド=ローレンツ収縮(ローレンツのエーテル理論(英語版))を提示した。フィッツジェラルド=ローレンツ収縮によって、マイケルソン・モーリーの実験では「エーテルの風」の効果がキャンセルされたと説明しており、その際の収縮の度合いを説明する座標変換式(ローレンツ変換、Lorentz transformation)を定式化した。しかしながら、この座標変換の理解のみでは検証可能性を欠いていた。他方で、ローレンツとポアンカレは、時間の流れが観測者によって異なるとする「局所時間」という相対性理論の萌芽ともいえる思索を提起し、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験に合致できる電磁場の方程式を導出していた。 以上の理論はいずれも数式上は実験事実と合致しており、現代物理学が支持するアインシュタインの理論とも整合する。すなわち、このような数式を持ち込みさえすれば、従来の物理理論との実験上の矛盾はひとまず解消されるということは、一定の成果ではあった。しかしこれらの理論は、あくまでもエーテル仮説(絶対空間の存在)と光速度不変則(実験事実)の食い違う部分のみを解消する為に導出された解決策に過ぎず、たとえば下記のような疑問について、理論上・実験上の不満を残した。 ガリレイ等価原理に則るならば、マイケルソンらの実験結果を整合するように解釈するには、物体の移動速度と位置と時刻の関係について、まったくの未知の法則の発見が必要であることを示すのみである。 結局、以上までの一連の経緯を経て当時の物理学が得たものは、光速は不変という実験事実が分かったこと、および、時間や空間の絶対的均質性といった前提が揺らいだことであった。前提の思想として「絶対空間」や「絶対時間」に拘泥しがちな一方で、「絶対空間」ではないはずの実験環境下で精密測定される光の速度はどれも一定値(有意の差のない範囲で同一・不変)であり、それに整合する一応の理論は構築可能であった。このように、時間・空間に対する思想と実験結果に対する(いわば応急措置的な)理論の間に、ある種の不調和ともとれる状況があった。そういった従来の疑わしい前提を排除したうえで、新たに基礎的な物理法則体系を提唱・検証する必要が生じていた。これを成し遂げたのが、当時アマチュアの物理研究家であったアインシュタインであった。 アインシュタインは、自身のいくつかの(主に3つの)論文 を通して、「特殊相対性理論」を確立した。その大部分は、1つ目の論文「運動物体の電気力学について ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING BODIES」に記されている。本節では、アインシュタインの「運動物体の電気力学について」を軸に据えつつ、後世の補足・解釈も踏まえながら、特殊相対性理論の基礎となる部分(公理と数学的準備)について説明する。 アインシュタインによる著作「運動物体の電気力学について」は、序文と10個の節からなる。第5節までは「力学」、第6節以降は「電気力学」とそれぞれ題されている。序文の中で「相対性原理」と「光源の運動と無関係に光速は一定である」という2つの前提が示されている。この2条件をもって、”静止物体のためのマクスウェル理論に基づいて運動物体を論ずるのに十分”と述べられている。 アインシュタインの原論文における特殊相対性理論では、以下の二つの事柄を指導原理(前提条件、公理)として、その物理学的枠組みが展開されている。#特殊相対性理論に至るまでの背景に述べた「エーテルに対して動いていない”特別なひとつの慣性系”が存在するはず」という思想からの脱却である。 特殊相対性原理は運動方程式がある種の座標変換に関して共変であるべき、との原理である。なお、アインシュタインの最初の論文では単に「相対性原理」と呼ばれていた。のちに一般相対性理論が世に出てから、それと区別するために「特殊相対性原理」と呼ばれるようになった。 光速度不変の原理は相対性理論構築に必要な最低限の要請をマクスウェル理論から抽出したものであり、物理的に新しい主張を含むのは特殊相対性原理のみである。 なお、現代では光速度不変の原理として以下のような表現を採用する流儀も多い。 しかし、これは本来、特殊相対性原理と(原論文の)光速度不変の原理から、次に記すように演繹される内容である。 以上の指導原理に加えて、主に次の2つの要請を満たすことを要求としたうえで、特殊相対性理論は構築されている。 なお、これら指導原理や諸要請の他にも、従来の物理学から継承される「空間の等質性」や「空間の等方性」といった暗黙の前提は、特殊相対性理論においても基礎とされている。 以上の指導原理と諸要請・前提を満たすべく、特殊相対性理論においては、2つの慣性系の間の座標変換則を次のように導入する(実際に特殊相対性理論で用いられる座標変換「ローレンツ変換」を導く)。以下では、c を不変の光速度とし、時刻 t の代わりにc を乗じた ct を用いることとして、時間軸と空間軸を統一的に扱って述べる。 今、慣性運動する2人の観測者(すなわち何ら外力のかかっていない観測者)A、Bがある一点ですれ違ったとする。A の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct, x) 、B の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct′, x′) とする。ここで、2つの時刻 ct、ct′ は各観測者に独立なものである。すなわち、特殊相対性理論においてここでまさに、絶対時間が放棄されている(二人の観測者に共通の「絶対時間」はどこにも存在しない)。もちろん、位置座標軸も各観測者に独立固有の存在であり、二人の観測者に共通の空間的尺度「絶対空間」もない。なお、以降では便宜上、二人の観測者がすれ違った際に、位置と時刻の起点(一般に原点・ゼロ点)を規定することが多いが、位置と時刻の起点は再現性のある然るべき手段によって適宜取り直してもよい。また、二人の観測者に共通の絶対時間も絶対空間も存在せず不可知である一方で、それぞれの観測者が(何らかの手段で)もう一方の観測者が観測した時刻・位置の値を知ることは一般に妨げられない。 ここで、2つの座標系の間の一般的な変換規則の数学表現として、テイラー展開による座標変換規則をまず考える。(ct, x)あるいは (ct′, x′) という表現から示唆されるように、各慣性系での時刻・空間座標の数値の組は4次元の行ベクトル・列ベクトルとして扱える(時刻(1次元)と空間(3次元)をあわせた4次元。下記では縦ベクトル(列ベクトル)の表記を用いる)。一般に座標変換規則は、何らかの定数ベクトル b→ と行列 Λ (この場合では4行4列の行列)とを用いて、次のように記述できる。 AとB が最も接近してすれ違った際において、位置と時刻を双方の座標系の原点と定めると、 b→ = 0→ と簡略化することができる。また、特殊相対性理論においては、外力の無い慣性系を前提とする。このことから、上式の二次以上の項はゼロとできる(二次以上の項があると、AとB が相互に加速度運動していることとなり、慣性系であるという要請から外れる)。以上の諸仮定をもとに、次に示す線形変換の形態として、特殊相対性理論に則った座標変換則を得ることができる。 すなわち、特殊相対性理論においては、物理現象は4次元のベクトル空間で記述される。慣性系はその4次元ベクトル空間の基底であり、各慣性系の間の座標変換は行列Λによる線形写像である。 上記であつかった空間の3次元に時刻(1次元)を加えた4次元の時空間における点を世界点と呼ぶ。 ある慣性座標系から見て、ある時刻 t1 に、3次元空間上のある位置 x1 を光が通過したとする。その後、この光が時刻 t2 に位置 x2 まで伝播したとする。光速度は不変量 c であるので、これは すなわち、 である事を意味する。 世界点 1 と世界点 2 の間に定義される量 を世界間隔もしくは世界距離と呼ぶことにする。ある慣性系において s12 = 0 が成り立つならば、特殊相対性原理から、他の任意の慣性系でも s′12 = 0 が成り立つことになる。ここで、微分表現を採用して、これらの微小世界間隔を次のように表記する。 これらは同次微小量であることから、 という関係式が成り立つ。ここで、この係数 aは時間と空間の一様性から時間と座標に依存せず、空間の等方性から慣性系間の相対速度の方向に依存しないことが要請される。したがって、慣性系間の相対速度の絶対値にのみ依存する。特殊相対性理論において、微小世界間隔の不変性、すなわち、a(|V|) ≡ 1であることを示す手法は、たとえば以下の2つが存在する。 2つの慣性系 K1, K2 の間の相対速度を Vとすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2および係数 a(|V|) についての関係式として、逆変換に対する要請から が得られ、代入して a ( | V | ) 2 = 1 {\displaystyle a(|{\boldsymbol {V}}|)^{2}=1} が得られる。a(|V|) > 0よりa(|V|) ≡ 1が得られる。 三つの慣性系 K1, K2, K3 の間の相対速度を V12, V23, V31 とすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2, ds3 および係数 a(|V|) についての関係式として が得られる。後者の左辺は V12, V23 の絶対値にのみ依存するのに対し、右辺のV31は V12, V23間の角度にも依存すると考えられるため、 a(|V|) はVによらず、定数であることがわかる。(ここで、ニュートン力学とは異なり、相対性理論ではガリレイ変換は成立せず、 V 31 ≠ − V 12 − V 23 {\displaystyle {\boldsymbol {V}}_{31}\neq -{\boldsymbol {V}}_{12}-{\boldsymbol {V}}_{23}} であることに注意せよ。)さらに、関係式から a(|V|) ≡ 1 が得られる。 以上二つのいずれを採用するにせよ、微小世界間隔はあらゆる慣性系間で保存されることになる(座標変換に関して不変)。したがって、このような微分の集積である有限の世界間隔についても、慣性系間の座標変換を経ても不変の保存量となる。 世界距離の定義から、以下の内積風の二項演算子 を考えると、世界距離の二乗は η((ct,x,y,z),(ct,x,y,z)) に一致する。このような二項演算子 η をミンコフスキー内積もしくはミンコフスキー計量と呼び、ミンコフスキー内積の定義されたベクトル空間をミンコフスキー空間と呼ぶ。ミンコフスキー空間上の点を世界点もしくは事象と呼び、ミンコフスキー空間のベクトルは通常の3次元のベクトルと区別する為、4元ベクトルという。 なお、世界点 P は、P と原点 O とを結ぶ4元ベクトル O P → {\displaystyle {\overrightarrow {\mathrm {OP} }}} と自然に同一視できるので、以下、表現に紛れがなければ世界点を4元ベクトルとして表現する。 特殊相対性理論では、時空間をミンコフスキー空間として記述する。 4元ベクトル a→ に対し η(a→, a→) が非負であれば ‖ a → ‖ := η ( a → , a → ) {\displaystyle \|{\vec {a}}\|:={\sqrt {\eta ({\vec {a}},{\vec {a}})}}} をミンコフスキー・ノルムといい、世界点 a→、b→ に対し、η(a→ − b→, a→ − b→) が非負であれば η(a→ − b→, a→ − b→) の平方根を a→、b→ の世界距離という。 なお、世界「距離」という名称ではあるが、 といった点から数学的な距離の公理を満たさない。 また、||a→|| は常に定義できるとは限らないばかりかミンコフスキー・ノルムが定義できる値に対しても三角不等式の逆向きの不等式 ‖ a → + b → ‖ ≥ ‖ a → ‖ + ‖ b → ‖ {\displaystyle \|{\vec {a}}+{\vec {b}}\|\geq \|{\vec {a}}\|+\|{\vec {b}}\|} が成り立つ事から、ミンコフスキー・ノルムも数学で通常使われるノルムの定義を満たさない。 本項では、ミンコフスキー内積を としたが、書籍によっては符号を逆にした をミンコフスキー内積としているものもあるので注意が必要である。 本項と同じ符号づけを時間的規約、本項とは反対の符号づけを空間的規約と呼んで両者を区別する。 また本項ではミンコフスキー内積を η で表したが、g で表したり、両者を混用することもある。例えば佐藤 (1994)は、特殊相対性理論には η を用いる一方で一般相対性理論では g を用いている。またシュッツ (2010)ではミンコフスキー内積には g を用いてその行列表示は η としている。 V を n 次元実ベクトル空間とし、 を V 上の対称二次形式とする。このとき、V の基底 e→1, ..., e→n と非負整数 p、q が存在し、 が成立する事が知られている。しかも p、q は (V, η) のみに依存し、基底 e→1, ..., e→n には依存しない(シルヴェスターの慣性法則)。 p = 1、q = n − 1 となる二次形式 η をミンコフスキー計量と呼び、組 (V, η) を n次元ミンコフスキー空間という。 特殊相対性理論で用いるのは、次元 n が4の場合なので、以下特に断りがない限り、n = 4とする。 空間方向の次元を2に落としたミンコフスキー空間を図示した。図では何らかの慣性系から見たミンコフスキー空間が描かれており、この慣性系に対して静止している観測者 (observer) が原点にいる。この観測系における座標の成分表示を (ct, x, y) とする。 この観測者にとっての時間軸 (ct, 0, 0) は図で「時間」と書かれた軸であり、この観測者にとって時間は時間軸にそって流れる。従って図の上方が未来であり、下方が過去である。観測者が慣性系に対して静止している事を仮定したので、時間が t 秒経つと、観測者のミンコフスキー空間上の位置は (ct, 0, 0) に移る。 一方、この観測者にとって現在にある世界点の集まり(すなわちこの観測者にとっての空間方向)は図の「現在」と書かれた平面であり、この観測者からみた空間方向の座標軸 (0, x, 0), (0, 0, y) が「空間」と書かれた二本の軸である。 世界距離の定義から、原点を通る光の軌跡は を満たす。この方程式を満たす世界点の集合は2つの円錐として描かれ、これを光円錐という。図の上にある逆さまの円錐が未来の光円錐 (future light cone) であり、図の下にある円錐が過去の光円錐 (past light cone) である。 原点を通る光の軌跡は、光円錐上にある直線である。観測者は光を使って物をみるので、過去の光円錐の上にある世界点が観測者に見える(もちろん、他の物体に遮られなければ)。 ミンコフスキー空間上の4元ベクトル x→ の終点が(未来もしくは過去の)光円錐の内側にあるとき x→ は時間的であるといい、終点が光円錐の外側にあるとき x→ は空間的であるといい、光円錐上にあるとき x→ は光的であるという。定義より明らかに、以下が成り立つ:x→ が時間的、空間的、光的であるのは、η(x→, x→) がそれぞれ正、負、0のときである。 光円錐上の点 x→ は η(x→, x→) という座標系と無関係な値の符号で特徴づけられるので、4元ベクトルが時間的か、空間的か、光的かは原点を起点するどの慣性座標系からみても不変である事がわかる。特に、光円錐は原点を起点するどの慣性座標系からみても同一である。 原点Oを通る観測者から見た慣性座標系を一つ固定すると、前述のようにその慣性座標系における二つの位置ベクトル間のミンコフスキー内積は と書ける。このような座標系で、 と定義すると、e→0、e→1、e→2、e→3 はあきらかにミンコフスキー空間の基底であり、しかも を満たす。 ユークリッド空間の類似から(M2)式を満たす基底 e→0、e→1、e→2、e→3 を正規直交基底と呼ぶ事にすると、慣性座標系から正規直交基底が1つ定まった事になる。e→0 をこの基底の時間成分といい、e→1、e→2、e→3 をこの基底の空間成分という。 逆に(M2)式の意味で正規直交基底である e→0、e→1、e→2、e→3 を一つ任意に選び、この基底における座標の成分表示を (ct, x, y, z) と書くことにすると、ミンコフスキー内積が(M1)式を満たすことを簡単に確認できる。 以上の議論から、原点にいる観測者の慣性座標系と正規直交基底は1対1に対応する事がわかる。従って以下両者を同一視する。 ただし、正規直交基底の中には、e→0 が過去の方向を向いていたり、e→1、e→2、e→3 が左手系だったりするものもあるので、このようなものは以下除外して考えるものとする。 運動している質点がミンコフスキー空間内に描く軌跡を世界線と言う。今、世界線が原点を通る直線となる質点の運動があるとし、その直線の(4元)方向ベクトルを u→ とする(長さは問わない)。 この質点の運動を慣性座標系 e→0、e→1、e→2、e→3 にいる観測者 A が原点で眺めるとする。この慣性座標系における u→ の成分表示を (ct, x, y, z) とすると、3次元ベクトル (x/t, y/t, z/t) は A から見た質点の速度ベクトルであると解釈できる。 次に u→ の速度を光速と比較してみる。u→ の速度が光を下回る必要十分条件は、√x + y + z / t < c となることであるので、これを書き換えると、(ct) − x − y − z > 0 となる。ミンコフスキー計量の定義より、この式は η(u→, u→) > 0 と慣性座標系によらない形で表現できる。従って、η(u→, u→) > 0 であれば、どの慣性系から見ても光速度を下回り、逆に η(u→,u→) < 0 であれば どの慣性系から見ても光速度を上回る。 前述のように η(u→, u→) の正負によって、u→ を時間的もしくは空間的と呼ぶので、まとめると以下が結論づけられる: 最後のものは光速度不変の原理からの直接の帰結でもある。 なお、上の議論では、質点の世界線が直線である事を仮定したが、そうでない場合も原点での接線を u→ として同様の議論をする事で同じ結論が得られる。 ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間 V 上の線形変換 φ : V → V でミンコフスキー計量を変えないもの、すなわち任意の4元ベクトル a→、b→ に対し、 が成立するものの事である。 ユークリッド空間で内積を変えない線形変換は合同変換であるので、ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間における合同変換の対応物である。 ただし正規直交基底の場合と同様、ローレンツ変換にも が存在するのでこのようなものは以下除外して考える。 なお、空間方向の向き、時間方向の向きの両方を保つローレンツ変換を正規ローレンツ変換という事があるが、本項では以下、特に断りがない限り、単にローレンツ変換と言ったならば正規ローレンツ変換を指すものとする。 ローレンツ変換 φ と4元ベクトル b→ を使って の形に書ける線形変換をポアンカレ変換という。特殊相対性理論では、2人の観測者が原点で出会ったケースにおいてローレンツ変換に関して議論する事が多いが、これは出会った場所を原点に平行移動した上で議論しているという事なので、実質的にはポアンカレ変換に関する議論である事が多い。 4次元ミンコフスキー空間 (V, η) では、 次の定理が成立する事が知られている。 定理 ― (e→0, e→1, e→2, e→3)、(e′→0, e′→1, e′→2, e′→3)を V の2組の正規直交基底とする。 このとき、V 上の線形変換 φ で を満たすものがただ一つ存在し、しかも φ はローレンツ変換である。 この定理はユークリッド空間における2つの正規直交基底が直交変換により写りあう事の類似である。 前述のように、正規直交基底は慣性座標系と対応している。よって上の定理は、以下を意味する:慣性座標系から別の慣性座標系への座標変換はローレンツ変換である。 ローレンツ変換の具体的な形を求める為、まずは基底をより解析がしやすいものに置き換える。 基底 e→0, e→1, e→2, e→3 の「空間部分」である e→1, e→2, e→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E とし、同様に基底 e′→0, e′→1, e′→2, e′→3 の空間部分である e′→1, e′→2, e′→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E′ とする。これらはそれぞれの慣性座標系における空間方向を表している。 e→1, e→2, e→3 を E 内で回転した別の正規直交基底に取り替えても、e→0, e→1, e→2, e→3 と実質的に同じ慣性系を表しているとみなしてよい。そこで (e→1, e→2, e→3), (e′→1, e′→2, e′→3) をそれぞれ E 内、E′ 内で回転することで、ローレンツ変換 φ の行列表示 Λ を簡単な形で表すことを試みる。 E と E′ の共通部分 E ∩ E′ を U とすると、U は4次元ベクトル空間上の2つの3次元部分ベクトル空間の共通部分なので、U は2次元(以上)のベクトル空間である。従って E 内で (e→1, e→2, e→3) を回転することで、e→2, e→3 ∈ U としてよく、同様に E′ 内の回転により e′→2, e′→3 ∈ U とできる。最後に U 内で e→'1, e→'2 を回転することで e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 としてよい。 これらの基底に対し、(L1)式を満たすローレンツ変換 φ の行列表現を Λ = (Λν)μν とする。これはすなわち、 を満たすという事であり、これら2つの基底における座標の成分表示をそれぞれ (ct, x, y, z)、(ct′, x′, y′, z′)とすると が成立するという事でもある。 e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 であったので、ローレンツ変換の行列表示は、 という形であり、ローレンツ変換がミンコフスキー空間における「回転」であったことを利用すれば、上の行列の(*)の部分が、 という形であることがわかる。これを導く厳密な方法はいくつかあるが、簡便な方法としては虚数単位 i を用いて時間軸を τ = ict と置く事で通常のユークリッド空間の回転とみなせる(ウィック回転)という事実を使うものがある。 最終的に2つの基底における座標の成分表示の関係(L2)式は以下のように書ける事がわかる。 定理(ローレンツ変換の具体的な形) ― 必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は と表示できる。 この値 ζ は正規直交基底の取り方に依存せず、ローレンツ変換 φ の固有値のみによって決まることが知られており、ζ を φ のラピディティという。なお、ζ は と具体的に求めることもできる。 慣性座標系 (ct, x, y ,z) にいる観測者 A は、原点を通過した後、(ct, 0, 0, 0) という直線(世界線)にそって進んでいく。この様子を別の観測者 B の慣性座標系 (ct′, x′, y′, z′) で記述した式は(L3)式に (x, y, z) = (0, 0, 0) を代入した によって表現できる。この世界線の「傾き」 は2人の観測者の相対速度と解釈できるので、観測者 A から見た観測者 B の相対速度を v とすると、 となる。よって、 である。そこでローレンツ因子 γ を γ := 1 1 − ( v / c ) 2 {\displaystyle \gamma :={\frac {1}{\sqrt {1-(v/c)^{2}}}}} と定義すると、以下が導かれる: 相対速度を用いたローレンツ変換の表示 ― 観測者Aから見た観測者Bの相対速度を v とするとき、必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は と書ける。 我々は(L4)式やそれと同値な(L3)式を導くとき、空間方向の座標変換をおこなった。これは別の見方をすると、ローレンツ変換から空間方向の回転成分を取り除いたものが(L3)式や(L4)式であるということである。 (L3)式や(L4)式のように書けるローレンツ変換、すなわち空間方向に回転しないローレンツ変換の事をローレンツ・ブーストと呼ぶ。 ローレンツ変換の式(L4)式において、v/c ≈ 0 (0に近似) とすると、(L4)式は、 となり、ガリレイ変換に一致する。すなわち、「ニュートン力学近似」とは、慣性座標系間の相対速度 v が光速 c と比べて十分小さい場合の理論であるということが言える。 このことからニュートン力学はガリレイ変換に不変であるというガリレイの相対性原理は、特殊相対性理論では以下の形で成立していると考えられる: 全ての物理法則はローレンツ変換に対して不変でなければならない。 本節では光速を超えずに移動する観測者 A の感じる時間の長さ(観測者の固有時間)s が、A の世界線の(ミンコフスキー計量で測った)「長さ」に一致することを示す。 固有時間について述べる前に、まず慣性系から見た時間についての公式を与える。 x→ を世界点とし、(e→0, e→1, e→2, e→3) を原点における慣性座標系とする。このとき、以下が成立する: 慣性座標系 (e→0, e→1, e→2, e→3) における x→ の起こる時刻は η(x→, e→0)である。 ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さの場合は右辺を c で割る必要がある。 実際、(e→0, e→1, e→2, e→3) における成分表示を (ct, x, y, z) とすると、x→ の起こる時刻は x→ を時間軸方向へ射影したものに一致するが、x→ を時間軸方向へ射影した値は η(x→,e→0) である。 本節では以下を示す:時間的もしくは光的な4元ベクトル u→ に沿って原点から u→ の終点まで直線的に動く観測者の固有時間 s は u→ のミンコフスキー・ノルム ‖ u → ‖ = η ( u → , u → ) {\displaystyle \|{\vec {u}}\|={\sqrt {\eta ({\vec {u}},{\vec {u}})}}} に一致する。 なお、u→ が時間的もしくは光的な4元ベクトルであることから η(u→, u→) > 0 であるので、上式の平方根は意味を持つ。 ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さは τ = s/c である。 上の事実を示すため、O から u→ に沿って移動する観測者を考えると、この観測者の慣性座標系は、e→0 = u→ / ||u→|| を時間方向の単位(4元)ベクトルとする正規直交基底 (e→0, e→1, e→2, e→3) により表せる。この座標系に前述の公式を適用すれば、この座標系で観測者が原点から u→ の終点まで世界線を移動するのにかかる固有時間は η ( u → , e → 0 ) = ‖ u → ‖ η ( e → 0 , e → 0 ) = ‖ u → ‖ {\displaystyle \eta ({\vec {u}},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|\eta ({\vec {e}}_{0},{\vec {e}}_{0})=\|{\vec {u}}\|} となり、最初の公式が示された。 上では観測者が原点を通る世界線に沿って移動する場合について述べたが、原点を通らない世界線に関しても、観測者が上を u→ から w→ まで直線的に動く間に ||u→ - w→|| の固有時間が流れる事を同様の議論により証明できる。 本節では光速を超えずに移動する観測者 A の世界線 C が曲線である場合に対して A の固有時間を求める方法を述べる。 観測者 A の時空間上の位置 x→ が実数 r によってパラメトライズされて x→ = x→(r) と書けているとすると、観測者が x→(r0) から x→(r0 + Δr) まで移動する間に、 の固有時間が流れることになる。したがって観測者 A が C に沿って動いた際に流れる固有時間 s は以下のように求まる: s = ∫ C d s = ∫ C ‖ d x → d r ‖ d r . {\displaystyle s=\int _{\mathrm {C} }\mathrm {d} s=\int _{\mathrm {C} }\left\|{\frac {\mathrm {d} {\vec {x}}}{\mathrm {d} r}}\right\|\mathrm {d} r.} これはユークリッド空間において曲線の長さを求める弧長積分のミンコフスキー空間版であるので、上の公式は、観測者 A の固有時間が A の描く世界線 C の「長さ」に一致することを意味している。 次に上で示した式を慣性座標で表す。A とは別の観測者 B が慣性運動しており、B の慣性座標系 (ct, x, y, z) における A の位置 x→(r) が と書けていたとすると、以下が言える: d s 2 = ‖ d x → d r ‖ 2 d r 2 = ‖ d x → ‖ 2 = c 2 d t 2 − d x 2 − d y 2 − d z 2 . {\displaystyle {\begin{aligned}\mathrm {d} s^{2}&=\left\|{\frac {\mathrm {d} {\vec {x}}}{\mathrm {d} r}}\right\|^{2}\mathrm {d} r^{2}=\|\mathrm {d} {\vec {x}}\|^{2}\\&=c^{2}\mathrm {d} t^{2}-\mathrm {d} x^{2}-\mathrm {d} y^{2}-\mathrm {d} z^{2}.\end{aligned}}} 以上の議論では変数 r で世界線 C をパラメトライズしたが、物理学的に自然な値である秒を単位とした固有時 τ そのものを使って、x→ = x→(τ) とパラメトライズするのが一般的である。このようにパラメトライズしたとき、質点 x→ の4元速度(英語版) u→ と4元加速度(英語版) a→ を以下のように定義する: すなわち、x→ のミンコフスキー空間上の位置の変化率を固有時間 τ で測ったものが4元速度で、4元速度の変化率を τ で測ったものが4元加速度である。 4元速度のミンコフスキー・ノルムは を満たす。このことから、4元速度は x の世界線の接線で長さが c であるものである事がわかる。この事実は、ユークリッド空間の曲線を弧長で微分したときの長さが1になることと対応している。長さが1でなく c なのは時間の単位が c 秒でなく1秒だからである。 以上の事から4元速度のミンコフスキー・ノルムの2乗が定数 c なので、これを微分する事で η ( u → , a → ) = 0 {\displaystyle \eta ({\vec {u}},{\vec {a}})=0} である事がわかる。すなわち4元速度と4元加速度は「直交」している。 変分法を用いる事で、以下の事実を示せる:ミンコフスキー空間上の2つの世界点 x→, y→ を結ぶ世界線(で光速度未満のもの)のうち、最も固有時間が長くなるのは、x→ と y→ を直線的に結ぶ世界線である。 x→ から y→ へと直線的に動く観測者は慣性系にいることになるので、これは慣性運動している場合が最も固有時間が長くなる事を意味する。 固有時間が世界線の「長さ」であった事に着目すると、上述した事実は、ユークリッド空間上の二点を結ぶ最短線が直線であることに対応している事がわかる。なお、ユークリッド空間では「最短」であったはずの直線がミンコフスキー空間上では「最大」に変わっているのは、ミンコフスキーノルムの2乗 (ct) − x − y − z の空間部分がユークリッドノルムの2乗 x + y + z とは符号が反対である事に起因する。 ニュートン力学では、3次元空間のガリレイ変換に対して不変になるように理論が構築されている。それに対し特殊相対性理論では、4次元時空間のローレンツ変換に対して不変になるように理論を構築する必要があるので、ニュートン力学の概念をそのまま用いることはできない。本節では、ニュートン力学の諸概念を「4次元化」し、それがローレンツ変換(と平行移動)に対して不変になることを示すことで特殊相対性理論における力学を構築する。 以下、記法を簡単にするため、4元ベクトルの成分を ( x 0 , x 1 , x 2 , x 3 ) := ( c t , x , y , z ) {\displaystyle (x^{0},x^{1},x^{2},x^{3}):=(ct,x,y,z)} などと書くことにする。 光速を超えないで運動する質点 x→ の世界線を x→ = x→(τ) と秒を単位とした固有時 τ でパラメトライズする。このとき、質点 x→ の4元運動量を と定義する。ここで m は質点 x→ の慣性座標における質量(静止質量と呼ぶ)である。すなわち、4元運動量は、4元速度に静止質量を掛けたものである。 4元運動量の物理学的意味を見るため、慣性座標系 (x, x, x, x) を固定し、p→ をこの座標系に関して p→ = (p, p, p, p) と成分表示する。 i = 1, 2, 3 に対し、4元運動量の定義より、 である。ここで v = (v, v, v) はこの慣性座標系における質点の速度ベクトルであり、v = |v|である。 v / c → 0 の極限において p は mv に漸近するので、4元運動量の空間部分 (p, p, p) はニュートン力学の運動量 (mv, mv, mv) をローレンツ変換で不変にしたものであるとみなす事ができる。 また、(p, p, p) は質点の「見かけ上の重さ」が である場合の運動量とみなすこともできる。 4元運動量の時間成分 p に c を掛けたものをテイラー展開すると、 である。 第二項はニュートン力学における運動エネルギーであるので cp はエネルギーに相当していると考えられる。 従って第一項の E := m c 2 {\displaystyle E:=mc^{2}} もエネルギーを表していると解釈できる。この値は質点が例え慣性系に対して静止していて v = 0 であっても持つエネルギーであることから、この値を質点の静止質量エネルギーと呼ぶ。 質量 m を持つこととエネルギー mc2 を持つことは等価であり、質量欠損や核反応・対消滅に伴うエネルギー放出・吸収から確かめられている。 4元運動量のミンコフスキー・ノルムは である。一方、慣性座標系を1つ固定して4元運動量を成分表示したとき、前に示したように、E = cp はエネルギーを表し、p = (p, p, p) は運動量に対応していた。運動量の大きさを p = |p| とすると、E と p は以下の関係式を満たす: 左辺は慣性系によらないので、E − (cp) は慣性系によらず一定値 (mc) になることを意味する。 p ≪ mc であれば上の式は となり、静止質量エネルギー mc を無視すれば、p / 2m が質点の運動エネルギーに相当するというニュートン力学の式に対応していることがわかる。 光速で移動する有限のエネルギーを持った粒子を考える。この時、mγc2 の γ が無限大に発散してしまうので、m = 0 でなければならない。この逆も成立するため、質量を持たずに有限のエネルギーを持つ物質は常に光速で走り続けねばならず、また光速で移動するエネルギーを持つ物質はすべて質量が0であることが分かる。 特殊相対性理論以前の電磁気学において、J.J.トムソンやワルター・カウフマン(英語版)によって電子の質量の速さ依存性が指摘されていた。それを説明する理論としてマックス・アブラハムは、電子の慣性質量の起源を全て電磁場に求めるという電磁質量概念 (Electromagnetic mass) を提唱したが、電子以外の物質の構成要素に対して一般化することができなかった。 一方、特殊相対性理論はその物質の質量の速さ依存性についての一般的な説明と慣性質量とエネルギーに関する普遍的な関係を与える。 すでに運動量の概念を4元ベクトル化したので、力の概念を4元ベクトル化した4元力 f→ が定義できれば、 ニュートンによる質点の運動方程式 f = dp / dt をローレンツ変換に不変にした特殊相対性理論の運動方程式 が定式化できる。 現在知られている4種類の力のうち、電磁気力、強い力、弱い力の3つは4元力として表現可能な事が知られている。このうち電磁気力を4元力として表現する方法は後の節で述べる。 一方、重力は特殊相対性理論の範囲で4元ベクトル化しようとしてもローレンツ変換に対して不変にならないためうまくいかない。重力を扱うには一般相対性理論が必要となる。 特殊相対性理論から導かれる帰結として、たとえば、主に以下の事項を挙げることができる。項目ごとの詳細は後述する。 次の事柄は、特殊相対性理論の前提あるいは理論展開(#特殊相対性理論の基礎)するところそのものである。特殊相対論によって座標変換に関して対称な簡潔な数式系にまとめられることができたこと、さらに、後に実験事実として得た諸結果が特殊相対性理論によく整合したことから、物理の基本原理として、これらはより支持されるようになった(#特殊相対性理論の実験的検証)。 以下では話を簡単にするため時間1次元+空間1次元の計2次元の場合について述べる。 ある慣性系 (ct′, x′) において静止している剛体について、この慣性系 (ct′, x′) で測った剛体の長さをこの剛体の固有長さと呼ぶ。 今、固有長さ l の棒が慣性系 (ct′, x′) に対して静止しており、これを別の慣性系 (ct, x) から眺めたとする。話を簡単にするため、2つの慣性系の原点はいずれも棒の1つの端点 O に一致しているものとする。 棒は慣性系 (ct′, x′) に対して静止しているので、棒の他方の端点が描く世界線 C は (ct′, l) と t′ でパラメトライズできる。 慣性系 (ct, x) における現在 (0, x) と世界線 C との交わりはローレンツ変換により なので、棒の長さは x = l / γ {\displaystyle x=l/\gamma } となる。ここで γ > 1 はローレンツ因子 1/√1 − (v/c) である。 これにしたがうと、棒に対して長さ方向に運動している座標系からみると、棒の長さは 1/γ 倍に縮んだかのように見える。この現象を ローレンツ収縮もしくはフィッツジェラルド=ローレンツ収縮という。 地上で(地面に対して)静止している観測者からみて、高速で飛んでいるロケットは(地上に)停まっているときよりも短く見える(進行方向に収縮している)。 地上から上空へ向かうロケットを地上から観測したとき、ロケットの後端に設置した時計は、ロケットの先端に設置した時計よりずれが大きい。このとき、ロケットに乗る観測者からすれば、ロケットの速度での運動座標系において、ロケットの後端と先端の時計が刻む時刻は同時に見える。 なお、実際にはロケットが観測者にどのように見えるかという点については、特殊相対性理論による時刻・座標のずれに加えて、ロケット各部からの光の到達時刻を加味する必要がある(これを考慮に入れた場合、さらに歪んだ見え方となりうる) ローレンツ収縮は、アインシュタインが特殊相対性理論を提案する以前に、ローレンツとフィッツジェラルドが独立に提案したものである。彼らの提案は、数式上は特殊相対性理論のそれと同一であるが、彼らの理論はエーテル仮説を前提としており、物体は「エーテルの風」を受けて3次元空間内で実際に縮むとするものであった。すなわち、あくまでも彼らは「エーテルが静止している絶対空間がある」という考えのもとに立っていた。 それに対して、特殊相対性理論では、ローレンツ収縮を4次元時空間の各観測者ごとの座標系において解釈したものであり、絶対空間や絶対時間の存在を前提としない。前述のように慣性系によって測っている場所が違う事が収縮の起こる原因である。 運動する観測者 A があり、A とは別の観測者 B が慣性運動し、A 側の座標系 (ct, x, y, z) にて B の位置が、 と書けるとき、 というローレンツ変換について不変な量 s をとり、A側の固有時刻を τ = s / c とする。 であることより d τ d t = 1 − ( v / c ) 2 {\displaystyle {\frac {\mathrm {d} \tau }{\mathrm {d} t}}={\sqrt {1-(v/c)^{2}}}} である。右辺はローレンツ因子 γ の逆数である。これを観測者 A の世界線 C に沿って積分すると T = ∫ C 1 − ( v ( t ) / c ) 2 d t {\displaystyle T=\int _{\mathrm {C} }{\sqrt {1-(v(t)/c)^{2}}}\mathrm {d} t} により、A 側の固有時間 T が得られる。ここで v(t) は時刻 t における A と B の相対速度である。 v < c ゆえ、積分内は常に1未満であり、慣性系B側の時間 T′ との関係は次式となる: T < T ′ . {\displaystyle T<T'.} これはすなわち、ある慣性系でみたときの時間は固有時間よりも長い事を意味する。 特に観測者 A も慣性運動しているときは、相対速度 v は常に一定であり、次式となる: T = T ′ 1 − ( v / c ) 2 . {\displaystyle T=T'{\sqrt {1-(v/c)^{2}}}.} 観測者 A、B が慣性運動しており、さらに質点 C が運動しているとする(慣性運動とは限らない)。 観測者 A の座標系を (ct, x, y, z) とし、観測者 B の座標系を (ct′, x′, y′, z′) とし、A から見た B の相対速度の大きさを V とし、 をローレンツ因子とする。 必要ならミンコフスキー空間の原点を取り替えることで C は原点を通っているとしてよく、さらに C の運動方向は y軸、z軸と直交しているとし、y'軸、z'軸がy軸、z軸と一致しているとしても一般性を失わない。 観測者 A、B から見た C の速度をそれぞれ (vx,vy,vz)、(v′x,v′y,v′z) とするとき、B の座標系から A の座標系への速度変換則は、ローレンツ変換の(L4)式より以下のようになる: 本節では、質点の速度が光速を越えない限り、特殊相対性理論においても因果律が成り立つことを示す。以下、特に断りがない限り、質点、観測者の双方とも光速度以下であるものとする。 x→, y→ をミンコフスキー空間上の2つの世界点とする。y→ − x→ が未来の光円錐の内部にあるとき、x→ は y→ の因果的過去 (causally precede) といい、x→ < y→ と書く。同様に y→ − x→ が未来の光円錐の内部もしくは未来の光円錐上にあるとき、x→ は y→ の年代的過去 (chronologically precede) といい、x→ ≦ y→ と書く。 因果的過去は以下のように特長づけられる: ミンコフスキー空間上の点 x→ にある質点が光速未満(resp. 以下)で y→ に到達できる ⇔ x→ < y→ (resp. x→ ≦ y→)。 よって特に以下が成立する: x→ ≦ y→ かつ y→ ≦ z→ ⇒ x→ ≦ z→。 従って「≦」は数学的な(半)順序の公理を満たす。 以下の事実は、質点の速度が光速を越えない限り座標系の取り替えで因果律が破綻しない事を意味している: x→ ≦ y→ かつ x→ ≠ y→ ⇔ 全ての慣性座標系で、y→ は x→ より時間的に後に起こる。 実際、どのような慣性座標系を選んでも、その時間軸 e→0 は未来の光円錐内または未来の光円錐上にあるので、x→ ≦ y→ であれば、x→ から y→ までに流れる時間 η(y→ - x→, e→0) は正である。 一方、x→ ≦ y→ でも y→ ≦ x→ でもないとき、すなわち y→ − x→ が空間的なときはこのような関係は成り立たない。y→ − x→ が空間的なとき、以下の3種類の慣性座標系が存在する: すなわち空間的な関係にある2点 x→、y→ の時間的な順序関係は慣性系に依存してしまう。これはニュートン力学的な直観に反するが、x→ と y→ には因果関係がないので、どちらが先に起ころうとも因果律が破綻することはない。 今、ここに一組の双子がおり、二人は慣性運動しながら次第に離れているとする。このとき兄から見ると、弟の時計は遅れてみえ、逆に弟から見ると兄の時計は遅れてみえる事が特殊相対性理論から帰結される。 これは一見奇妙に見えるため、時計のパラドックスと呼ばれることもあるが、実は特に矛盾している訳ではない。なぜなら慣性運動している二人は二度と出会うことがないので、もう一度再会してどちらの時計が遅れているのかを確認するすべはないからである。 では次の状況はどうだろうか。やはり一組の双子がいて、弟は慣性運動している。一方、兄はロケットに乗って遠方まで行き、その後ロケットで弟のもとに帰ってきたとする。前述のように弟からみれば兄の時計は遅れるはずで、兄の時計からみれば弟の時計は遅れるはずなので、ふたりが再会したときに矛盾が生じるはずである。 結論からいえば、特殊相対性理論から示されるのは、ロケットに乗った兄より慣性運動していた弟の方が再会時に時計が進んでいるという事である。すなわち再会時に兄が弟よりも若い。 なぜならミンコフスキー空間上で、兄がロケットで飛び立ったときの世界点を x→ とし、兄が再び弟に再会したときの世界点を y→ とすると、x→ と y→ を結ぶ世界線のうち最も固有時間が長くなるのは慣性運動する世界線であることをすでに示したからである。従って慣性運動していた弟はロケットに乗った兄より多くの固有時間を費やした事になるのである。 では逆に弟のほうが兄より若くなったとする主張のどこが間違っていたのかというと、我々が時間の縮みの公式を導いたとき、慣性系である事を仮定していたのであるが、兄の座標系はロケットが行きと帰りで向きを変える際加速度運動しているので慣性系ではない。従って兄の座標系に対して単純に時間の縮みの公式を適応したのが間違いだったのである。 今、長さ l のハシゴ と奥行き L < l のガレージがあるとし、ハシゴは高速でガレージに近づいてきたとする。ガレージが静止して見える慣性系から見ると、ハシゴがローレンツ収縮するので、ハシゴはガレージに入ってしまう。一方、ハシゴが静止して見える慣性系からみると、逆にガレージの方がローレンツ収縮してしまうので、ハシゴはガレージに入らないはずである。正しいのはどちらであろうか。 結論からいうと、どちらも正しく、ガレージの系から見た場合は、ハシゴはガレージに入るように見え、ハシゴの系から見るとハシゴはガレージに入らないように見える。すなわち、ハシゴの前端と後端に関する事象を区別して述べれば、ガレージの静止系ではハシゴの後端がガレージに入りきった後、ハシゴの前端がガレージの裏の壁にぶつかるのに対し、ハシゴの静止系ではハシゴがガレージに入り切らず、ハシゴの後端がガレージに入る前にハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる。ハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる事象とハシゴの後端がガレージに入りきる事象には因果関係がないので、どちらが先に起こるのかは慣性系によって変化するのである。 先に進む前に、特殊相対性理論で頻繁に用いられるテンソル代数の知識について述べる。 特殊相対性理論では、 のように上つきと下つきで同じ添え字(この場合は μ)が使われているときは、Σ 記号を省略し、 と書き表す慣用的な記法が用いられることが多い。この記法をアインシュタインの縮約記法という。 この縮約記法は行列の積や3項以上の場合にも同様に用いられ、例えば は と略す。 一方、たとえ2箇所の添え字が共通していても、 のように添え字が両方下つき、もしくは両方上つきの場合は Σ を省略しない。 (V, η) を4次元ミンコフスキー空間とし、e→0, e→1, e→2, e→3 を (V, η) 上の(正規直交とは限らない)基底とする。このとき、以下の性質を満たす V の基底 e→, e→, e→, e→ が一意に存在する事が知られており、この基底を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底という: ここで δ μ ν {\displaystyle \delta ^{\mu }{}_{\nu }} はクロネッカーのデルタである。 正規直交基底の場合は双対基底は非常に簡単に書くことができる: 上でも分かるように、双対基底は元の基底と空間方向の向きが反対である。 本項では正規直交の場合にしか双対基底の概念を用いないが、一般相対性理論を定式化する際には一般の基底に対する相対基底が必要となる為、以下基底は正規直交とは限らない場合について述べる。 双対基底はミンコフスキー計量の成分表示を使って具体的に求めることができる。 とするとき、(ημν)μν の逆行列を ((η))μν とすれば、 である。実際、 である。 双対基底の定義から、次が成立する: e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底の双対基底は e→0, e→1, e→2, e→3 自身である。 以下の議論では、「通常の」基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を一組固定し、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。しかし上の定理でもわかるように、どちらの基底を「通常の」基底とみなし、どちらを双対基底とみなすのかは任意である。本項では、空間方向が右手系のものを通常の基底とみなし、左手系のものをその双対基底とみなすことにする。 V の元 a→ を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表す場合、a→ の各成分の添え字を のように上つきに書く(アインシュタインの縮約で表記)。一方、a→ を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底 e→, e→, e→, e→ を用いて表す場合、a→ の各成分の添え字を のように下つきに書く。明らかに である。また正規直交基底の場合は明らかに が成立する。 V の2つの元 a→、b→ のミンコフスキー内積をとるとき、一方を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表し、他方をその双対基底で表すと、 と通常の内積のように書け、ミンコフスキー内積特有の符号の煩わしさから解放されるので便利である。 基底を一つ指定したとき、a は添え字 μ に対し反変、aμ は添え字 μ に対し共変であるという。これらの名称は、基底を取り替えた際の成分の変化に由来する。すなわち、ミンコフスキー空間上にもう1組の基底 (e′→0, e′→1, e′→2, e′→3) を用意し、基底の間の座標変換が成分表示で と書けていたとすると4元ベクトル a→ の反変成分 a→ = a′e′→ν = ae→μ は、 という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底とは反対に Λν の逆行列で結ばれる。それゆえ、「反対の変化」、すなわち反変と呼ばれる。 一方、基底の変更に対する共変成分の変化を見るため、双対基底が基底の変更でどのような影響を受けるか調べる。 とすると、 すなわち、Γμ は Λμ の逆行列 (Λ)ν であるので、双対基底は という変換規則に従うことがわかる。よって4元ベクトル a→ の共変成分 a→ = a′νe′→ = aμe→ は、 という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底と共通の行列 Λν で結ばれる。それゆえ、「共通の変化」、すなわち共変と呼ばれる。 本節ではテンソルに関する基本的な知識を紹介する。ただし本節での解説はミンコフスキー空間 V 上に限定したものであるので、一般の空間で成り立つとは限らない。 n を自然数とする。写像 T : V n → R {\displaystyle T\colon V^{n}\to \mathbb {R} } が以下の性質(多重線形性)を満たすとき、T をn次のテンソルという: 特殊相対性理論で重要なのは主に2次のテンソルであるので、以下2次のテンソルに話を限定するが、一般の場合も同様である。なお、2次のテンソルは数学で二次形式と呼ばれるものと同一である。 2次のテンソル T に対し、 が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を対称テンソルという。また が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を反対称テンソルという。 T をミンコフスキー空間上の2次のテンソルとし、e→0, e→1, e→2, e→3 をミンコフスキー空間の基底とし、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。このとき、上述の基底や相対基底を使って T を4通りに成分表示する事が可能である: 4元ベクトル a→, b→ を と成分表示する(アインシュタインの縮約で表記)と、 T ( a → , b → ) = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν {\displaystyle T({\vec {a}},{\vec {b}})=T_{\mu \nu }a^{\mu }b^{\nu }=T^{\mu }{}_{\nu }a_{\mu }b^{\nu }=T_{\mu }{}^{\nu }a^{\mu }b_{\nu }=T^{\mu \nu }a_{\mu }b_{\nu }} が成立する。 上述の4通りの成分表示において、T は上付きの添え字に対し反変、下付きの添え字に対し共変であるという。 4元ベクトルの場合と同様、基底を別のものに取り替えたとき T の各成分は、反変の添え字に関しては基底変換行列の逆行列が、共変の添え字に関しては基底変換行列そのものが作用する。例えば とすると なので、ダッシュつきの基底に関する成分 T′ν は と、上付きの添え字には反変、下付の添え字には共変に変化する。 ミンコフスキー計量 η も二次の対称テンソルであるので、上述のように成分表示できる。 基底が正規直交であれば、ミンコフスキー計量の成分表示は非常に簡単になり、 のように書くことができる。 ミンコフスキー空間上の線形写像 f : V → V が与えられたとき、2次のテンソルを と定義できる。 逆にミンコフスキー空間上の2次のテンソル T が任意に与えられたとき、(T1)式を満たす線形写像 f が一意に存在する事が知られている。従って2次のテンソルと線形写像を自然に同一視できる。 2次のテンソル T に対応する線形写像は基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を用いると、下記のように具体的に書き表す事もできる: ミンコフスキー空間上の各世界点 P にテンソル TP を割り振ったもの(すなわちミンコフスキー空間からテンソルの集合への写像 P ⤅ TP)をテンソル場という。 相対性理論でテンソル場は中核に位置する概念であり、電磁場を初めとして様々なものをテンソル場として表現する。 本節では、電磁気学の基本的な概念や方程式を特殊相対性理論に合致する形に書き換える。 以下、慣性系 を1つ固定し、この慣性系において電磁気学を記述する。詳細は省くが、本節の記述は、他の慣性系で電磁気学を記述したものとローレンツ変換で移りあう事を確認できるので、特殊相対性理論に合致している。 なお、本項では国際単位系を用いる場合に対して記述したが、Landau, Lifshitz (3rd ed.) (1971)などガウス単位系(英語版)を用いている書籍における定義とは光速度 c のかかる位置が違うなどの差があるので注意が必要である。 電荷密度 ρ と電流密度 j = (jx, jy, jz) を使って、4元電流密度を、 によって定義する。 すると連続の方程式 は、4元電流密度と4元勾配(英語版) (4–gradient) (∂0, ∂1, ∂2, ∂3) を用いて と表現できる。ここで ∂ν は ∂ / ∂x の略記である。 真空の誘電率、透磁率をそれぞれ ε0, μ0 とすると、マクスウェル方程式により導かれる電磁波の速度 1 / √μ0ε0 が真空中の光速度と一致する事が実験・観測により確かめられたので、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。この事実から、 である。 さらに電場 E = (Ex, Ey, Ez) と磁束密度 B = (Bx, By, Bz) を用いて電磁テンソルを により定義する。 電磁場を別の慣性系から見た場合、電場と磁束密度がそれぞれ E′ = (E′x, E′y, E′z) と B′ = (B′x, B′y, B′z) であったとし、これらから作った電磁テンソルを F′ とする。 F′ と F がローレンツ・ブースト(L4)式で移りあう為の必要十分条件は、 が成立する事である事を簡単な計算で確認できる。ここで v は2つの慣性系の間の相対速度で、γ = 1 / √1 − (|v|/c) はローレンツ因子である。 非相対論的極限 v / c ≈ 0 では γ ≈ 1 なので、上述の条件式は、古典電磁気学で知られている慣性系間の変換公式 に一致する。 よって電磁テンソルはローレンツ変換に対して共変であると結論づけられる。 特殊相対性理論以前のマックスウェル方程式の解釈には非対称性があった。例えば磁石を固定されたコイルに近づけた場合は電磁誘導により電流が流れると解釈されるが、逆にコイルを固定された磁石に近づけた場合はローレンツ力で電子が動かされることにより電流が流れると解釈された。今日的な視点から見れば、これら2つのケースは単なる慣性系の取り替えに過ぎないにも関わらず、両者の解釈が異なるのは不自然である。事実、流れる電流の量はどちらのケースであっても同一であり、磁石とコイルの相対速度だけで決まる。 このような非対称な解釈になったのは、当時は電場と磁束密度は完全に別概念であったことによる。(E1)式も、今日の目から見ると電場と磁束密度を電磁テンソルという同一のテンソルとしてまとめるべき事を示唆しているように見えるが、当時は(E1)式の第二項はあくまでも「仮想的な」電場や磁束密度の効果であるとみなされた。 上述したような理論の非対称性の解消に関心のあったアインシュタインは、特殊相対性理論によりこの非対称性を解消した。 すでに電磁テンソルがローレンツ変換に対して共変であることを示したので、マクスウェル方程式を電磁場テンソルで表せば、マクスウェル方程式もローレンツ変換に対して共変であることを示せる。 電磁テンソルと4元電流密度を使うとマクスウェル方程式の2式 はいずれも と同一の形で表現でき、残りの2式 はいずれも と同一の形で表現できる。なお、リッチ計算の記法を用いると、上の式は とも表記できる。 マクスウェル方程式は微分形式と外微分を用いるとさらに簡潔に表現できる事が知られているが、微分形式に関する予備知識を必要とするので本節では述べない(マクスウェル方程式#微分形式による表現を参照)。 電磁場には必ず以下の条件をみたす組 φ, A(電磁ポテンシャル)が存在する事が知られている 本節では、電磁ポテンシャルの4元ベクトル版である4元ポテンシャル A → = ( A 0 , A 1 , A 2 , A 3 ) := ( φ / c , A ) {\displaystyle {\vec {A}}=(A^{0},A^{1},A^{2},A^{3}):=(\phi /c,{\boldsymbol {A}})} を用いる事で、マクスウェル方程式を表現する。 1つの電磁場に対し(E2)式を満たす電磁ポテンシャルは一意ではない事が知られている。そこでローレンツ共変性を損ねない形で電磁ポテンシャルを制限するため、4元勾配を使った以下の条件(ローレンツ・ゲージ)を課す: ∂ A α ∂ x α = 0. {\displaystyle {\frac {\partial A^{\alpha }}{\partial x^{\alpha }}}=0.} このとき、マクスウェル方程式は4元電流密度を用いて ◻ A → = μ 0 j → {\displaystyle \Box {\vec {A}}=\mu _{0}{\vec {j}}} という一本の式で書き表せる。ここで はダランベルシアンである。 今、電荷 q を持った質点があるとし、この質点の4元速度を u→ とし、u→ の反変成分を (u0, u1, u2, u3) とする。このとき、この質点が電磁場から受ける4元力を、電磁場テンソル F を用いて f α = q F α β u β {\displaystyle f^{\alpha }=qF^{\alpha \beta }u_{\beta }} によって定義すると、この4元力からできる質点の運動方程式は である。ここで p は質点の4元運動量の β 成分で、τ は質点の固有時間である。 上の運動方程式は α = 0, 1, 2, 3 に対して定義されているが、4元運動量と4元速度の空間成分(の共変表現)p = (p, p, p), v = (u, u, u) に着目すると、電磁場テンソルの定義より、運動方程式の空間成分は となることがわかる。ここで γ はローレンツ因子 1 / √1 − (|v|/c) である。 すなわち相対論における運動方程式の空間成分は、ローレンツ力に関する運動方程式 と完全に一致する。 運動方程式の時間成分に関しては、cp が質点のエネルギー E を表していた事に着目すると、 なので、下記の式が従う: 右辺は単位時間当たりに電磁場のローレンツ力が質点に対してした仕事なので、この式はローレンツ力による仕事がエネルギーに変わる事を意味している。すなわちこれは、エネルギー保存則にあたる式である。 特殊相対性理論は、次のような事象からも検証されている。 特殊相対性理論すなわち慣性力のない慣性系を対象とする理論体系が一通り出来上がった後、アインシュタインは、非慣性系と重力場へ対象を広げる仕事に取り組み、より一般的な理論である一般相対性理論を導いた。 特殊相対性理論では「あらゆる慣性系どうしが等価である」ことを原理としたが、さらに「慣性力と重力は本質的に区別がなく等価である」との視点に立ち、一般相対性理論を展開した。一般相対性理論によると、離れた観測者には光は速さが変化し曲線を描いて見える。この理論は、ニュートンの万有引力論による物理事象の捉え方を、全面的かつ発展的に書き換える内容である。 一般相対性理論では思索の対象を慣性系以外にも広げており、その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論の「特殊な場合」に相当し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する理論である。これらの2つの相対性理論を総称して(あるいは、両者を区別をせずに)相対性理論と呼ぶこともある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論(とくしゅそうたいせいりろん、独: Spezielle Relativitätstheorie、英: Special relativity)は、あらゆる慣性系間の等価性を公理とした物理学の理論である。特殊相対論(とくしゅそうたいろん)とも訳される。特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される理論であるが、一般相対論と特殊相対論を特に区別せずに、相対性理論と呼称されることもある。光速に近い速度で相対移動する観測者対について古典力学 (ニュートン力学)は一般に実験事実と整合しないが、特殊相対性理論においては、観測者に固有の(あるいは観測者間の互いの)時間と空間の測量について定式化することで、これらの関係・法則を捉える。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "力学において、電磁気学の説くところによれば、観測者あるいは観測対象の慣性運動を伴う実験において、その結果には従来のニュートン力学の示すところと不整合が生じ得る (#特殊相対性理論に至るまでの背景)。アルベルト・アインシュタインは1905年に発表した論文において特殊相対性理論を発表し、電磁気学的現象まで含めた慣性系間の等価性を公理として、以下の帰結を示した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論はニュートン力学では説明できなかった事柄をことごとく説明しており、とりわけ、ニュートン力学が矛盾をきたす光速度に近い速度で運動する物体の力学的挙動に対して、その実験事実によく整合する。こういった経緯から、特殊相対性理論を含む相対性理論は、現代物理学において重要な一体系として支持されている。定性的には、物体に対するエネルギーの放出・吸収にともなったその質量の減少・増加などが確認されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される特殊論である。一般相対性理論が重力をはじめとする外力(あるいは慣性力)のある非慣性系等の定式化を含むものであるのに対して、特殊相対性理論では慣性力のはたらかない状況(たとえば加減速のない状況)、すなわち慣性系を主眼に据えて扱う。慣性系は非慣性系を含むあらゆる座標系の特殊・特別な場合のひとつであるので、本理論はこれを指すために「特殊」の語を冠して特殊相対論と呼称している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ニュートンは力学を記述するに当たって以下のような、「絶対時間と絶対空間」を定義した。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "すなわち、時間と空間は、そこにある物体の存在や運動に影響を受けないと仮定した。これをもって、我々が日常的直観として抱いている時間や空間に対する根本的感覚を表そうとした。この絶対時間をかかげるニュートン力学においても、あらゆる慣性系は本質的に等価(すなわち相対的)でもある。ニュートン力学では、2つの慣性座標系(慣性系Aおよび慣性系B)における同一点A = (t, x)とB = (t′, x′)を示す関係は、次に示すガリレイ変換によって結ばれている。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "(t′, x′) = (t, x − v t)", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "狭義の例を示すならば、ある座標系Aに対して等速直線運動する別の座標系Bがあるとして、これら二つの座標系は本質的に等価(相対的)である。すべての基準となる静止座標系といった概念は、上式では規定されておらず、力学の法則はあらゆる慣性系からの観測について本質的に同一である。すなわち、ガリレイ変換によって形式が変わらない。ガリレイ変換におけるニュートンの運動方程式の不変性、すなわち、この変換でつながる座標系間の等価性は、 ガリレオの相対性原理 (Galilean invariance) と呼ばれる。ニュートン力学は、少なくとも当時に再現し得た諸実験事実と整合し、その矛盾があらわになる時代を迎えるまで(以下節)、力学の普遍的法則とも捉えられた。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "19世紀後半になると、当時既に知られていた電磁気学に関するいくつかの基礎方程式群が、ジェームズ・クラーク・マクスウェルにより系統化され、マクスウェル方程式としてあらわされた。マクスウェル方程式の自由空間における解のひとつは電磁波である。この解が示す電磁波の伝播速度は、当時知られていた精度での光速度 c とよく一致した。このため、光と電磁波が同一のものと捉えられ、マクスウェル方程式は、電磁気学の基礎方程式であるのみならず、光の挙動を記述する支配方程式とみなされるようになった。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "同時期において光学分野では、光の回折現象が知られていた。これを説明するために、光を波の伝播と見做す光の波動説が見出され、その支持が広まった。光の波動説では、光も空間を伝播する「もの」であるため、光が伝わる媒質であるエーテルなるものが宇宙に満たされているという仮説が、ホイヘンスにより提案された。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "光の波動説およびエーテルを前提とした議論では、エーテルに対して静止している理想的な座標系においてマクスウェル方程式は実験事実をよく支持し、有用な基礎物理方程式とみなされた。その一方で、エーテルに対して運動する基準系から見た状況について、次第に関心が寄せられるようになっていった。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ニュートン力学の基礎方程式であるニュートンの運動方程式は、ガリレイ変換による座標変換のもとで本質的には形を変えない。しかし、電磁気学の基礎方程式であるマクスウェル方程式は、ガリレイ変換のもとで形式が本質的に変化してしまう。この数式上の変化は、マクスウェル方程式が真に成り立つ慣性系がこの世界のどこかにあり、(形式を変化させずに)マクスウェル方程式が別の慣性系においても成立できる「ガリレイ変換でない新たな座標変換」が必要だと予想された。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ヘルツはこの変形された方程式を運動座標系における電磁場の支配方程式として導出したが、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験によって否定された。当時の電磁気学についての問題提起として、たとえば以下のようなものが挙げられる。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "このような光の速度と観測者・光源の運動(運動する座標間の変換)に関して混迷した状況があり、なんらかの新たな実験及び理論が求められる状況であった。そのようななか、「ガリレイの相対性原理を是とし、光の速度が慣性系に依存するのであれば、様々な異なる慣性系(運動座標系)から光の速度を計測すれば、マクスウェル方程式と一致する\"ただ一つの静止基準系\"が見つかるであろう」との発想からマイケルソン・モーリーの実験が行われた。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マイケルソン・モーリーの実験 (Michelson–Morley experiment)にて、両氏は、地球の公転移動に着目した。実験空間の環境下において、公転運動の進行方向の前後に対してエーテルの「風」が吹くことを想定して、そこで伝播する2経路の光の干渉縞を見ることを通じて、光のエーテル中の伝播速度を精密に測定しようと試みた。これにより、エーテル中における観測者の移動速度(ここでは地球の公転速度)の影響を調べられると考えたのである。これは当時の技術で十分に機能できる手法であった。しかしながら、光の速度に有意の差異は認められず、両氏の期待した観測者移動速度の影響(「エーテルの風」の効果)は実験的に支持されなかった。この当時は「観測者の運動の光速度に及ぼす影響について、”予想されていた水準”よりは、無に近いか全く無いものであろう」と結論された。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方で、上記の実験を支持できる物理体系を見出す試みとして、ヘルツ、フィッツジェラルド、ローレンツ、ポアンカレなどの学者は、エーテル説に付け加えて、辻褄合わせのための仮定を付与することで実験事実と理論を整合させようと試みた。例えばローレンツとフィッツジェラルドは各々独立に、運動する物体が「エーテルの風」を受けて収縮するフィッツジェラルド=ローレンツ収縮(ローレンツのエーテル理論(英語版))を提示した。フィッツジェラルド=ローレンツ収縮によって、マイケルソン・モーリーの実験では「エーテルの風」の効果がキャンセルされたと説明しており、その際の収縮の度合いを説明する座標変換式(ローレンツ変換、Lorentz transformation)を定式化した。しかしながら、この座標変換の理解のみでは検証可能性を欠いていた。他方で、ローレンツとポアンカレは、時間の流れが観測者によって異なるとする「局所時間」という相対性理論の萌芽ともいえる思索を提起し、Wilson や Röntgen–Eichenwald の実験に合致できる電磁場の方程式を導出していた。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以上の理論はいずれも数式上は実験事実と合致しており、現代物理学が支持するアインシュタインの理論とも整合する。すなわち、このような数式を持ち込みさえすれば、従来の物理理論との実験上の矛盾はひとまず解消されるということは、一定の成果ではあった。しかしこれらの理論は、あくまでもエーテル仮説(絶対空間の存在)と光速度不変則(実験事実)の食い違う部分のみを解消する為に導出された解決策に過ぎず、たとえば下記のような疑問について、理論上・実験上の不満を残した。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ガリレイ等価原理に則るならば、マイケルソンらの実験結果を整合するように解釈するには、物体の移動速度と位置と時刻の関係について、まったくの未知の法則の発見が必要であることを示すのみである。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "結局、以上までの一連の経緯を経て当時の物理学が得たものは、光速は不変という実験事実が分かったこと、および、時間や空間の絶対的均質性といった前提が揺らいだことであった。前提の思想として「絶対空間」や「絶対時間」に拘泥しがちな一方で、「絶対空間」ではないはずの実験環境下で精密測定される光の速度はどれも一定値(有意の差のない範囲で同一・不変)であり、それに整合する一応の理論は構築可能であった。このように、時間・空間に対する思想と実験結果に対する(いわば応急措置的な)理論の間に、ある種の不調和ともとれる状況があった。そういった従来の疑わしい前提を排除したうえで、新たに基礎的な物理法則体系を提唱・検証する必要が生じていた。これを成し遂げたのが、当時アマチュアの物理研究家であったアインシュタインであった。", "title": "特殊相対性理論に至るまでの背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "アインシュタインは、自身のいくつかの(主に3つの)論文 を通して、「特殊相対性理論」を確立した。その大部分は、1つ目の論文「運動物体の電気力学について ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING BODIES」に記されている。本節では、アインシュタインの「運動物体の電気力学について」を軸に据えつつ、後世の補足・解釈も踏まえながら、特殊相対性理論の基礎となる部分(公理と数学的準備)について説明する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "アインシュタインによる著作「運動物体の電気力学について」は、序文と10個の節からなる。第5節までは「力学」、第6節以降は「電気力学」とそれぞれ題されている。序文の中で「相対性原理」と「光源の運動と無関係に光速は一定である」という2つの前提が示されている。この2条件をもって、”静止物体のためのマクスウェル理論に基づいて運動物体を論ずるのに十分”と述べられている。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アインシュタインの原論文における特殊相対性理論では、以下の二つの事柄を指導原理(前提条件、公理)として、その物理学的枠組みが展開されている。#特殊相対性理論に至るまでの背景に述べた「エーテルに対して動いていない”特別なひとつの慣性系”が存在するはず」という思想からの脱却である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "特殊相対性原理は運動方程式がある種の座標変換に関して共変であるべき、との原理である。なお、アインシュタインの最初の論文では単に「相対性原理」と呼ばれていた。のちに一般相対性理論が世に出てから、それと区別するために「特殊相対性原理」と呼ばれるようになった。 光速度不変の原理は相対性理論構築に必要な最低限の要請をマクスウェル理論から抽出したものであり、物理的に新しい主張を含むのは特殊相対性原理のみである。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なお、現代では光速度不変の原理として以下のような表現を採用する流儀も多い。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかし、これは本来、特殊相対性原理と(原論文の)光速度不変の原理から、次に記すように演繹される内容である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以上の指導原理に加えて、主に次の2つの要請を満たすことを要求としたうえで、特殊相対性理論は構築されている。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお、これら指導原理や諸要請の他にも、従来の物理学から継承される「空間の等質性」や「空間の等方性」といった暗黙の前提は、特殊相対性理論においても基礎とされている。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "以上の指導原理と諸要請・前提を満たすべく、特殊相対性理論においては、2つの慣性系の間の座標変換則を次のように導入する(実際に特殊相対性理論で用いられる座標変換「ローレンツ変換」を導く)。以下では、c を不変の光速度とし、時刻 t の代わりにc を乗じた ct を用いることとして、時間軸と空間軸を統一的に扱って述べる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "今、慣性運動する2人の観測者(すなわち何ら外力のかかっていない観測者)A、Bがある一点ですれ違ったとする。A の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct, x) 、B の慣性系における位置と時刻を表す座標系を (ct′, x′) とする。ここで、2つの時刻 ct、ct′ は各観測者に独立なものである。すなわち、特殊相対性理論においてここでまさに、絶対時間が放棄されている(二人の観測者に共通の「絶対時間」はどこにも存在しない)。もちろん、位置座標軸も各観測者に独立固有の存在であり、二人の観測者に共通の空間的尺度「絶対空間」もない。なお、以降では便宜上、二人の観測者がすれ違った際に、位置と時刻の起点(一般に原点・ゼロ点)を規定することが多いが、位置と時刻の起点は再現性のある然るべき手段によって適宜取り直してもよい。また、二人の観測者に共通の絶対時間も絶対空間も存在せず不可知である一方で、それぞれの観測者が(何らかの手段で)もう一方の観測者が観測した時刻・位置の値を知ることは一般に妨げられない。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ここで、2つの座標系の間の一般的な変換規則の数学表現として、テイラー展開による座標変換規則をまず考える。(ct, x)あるいは (ct′, x′) という表現から示唆されるように、各慣性系での時刻・空間座標の数値の組は4次元の行ベクトル・列ベクトルとして扱える(時刻(1次元)と空間(3次元)をあわせた4次元。下記では縦ベクトル(列ベクトル)の表記を用いる)。一般に座標変換規則は、何らかの定数ベクトル b→ と行列 Λ (この場合では4行4列の行列)とを用いて、次のように記述できる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "AとB が最も接近してすれ違った際において、位置と時刻を双方の座標系の原点と定めると、 b→ = 0→ と簡略化することができる。また、特殊相対性理論においては、外力の無い慣性系を前提とする。このことから、上式の二次以上の項はゼロとできる(二次以上の項があると、AとB が相互に加速度運動していることとなり、慣性系であるという要請から外れる)。以上の諸仮定をもとに、次に示す線形変換の形態として、特殊相対性理論に則った座標変換則を得ることができる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "すなわち、特殊相対性理論においては、物理現象は4次元のベクトル空間で記述される。慣性系はその4次元ベクトル空間の基底であり、各慣性系の間の座標変換は行列Λによる線形写像である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "上記であつかった空間の3次元に時刻(1次元)を加えた4次元の時空間における点を世界点と呼ぶ。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ある慣性座標系から見て、ある時刻 t1 に、3次元空間上のある位置 x1 を光が通過したとする。その後、この光が時刻 t2 に位置 x2 まで伝播したとする。光速度は不変量 c であるので、これは", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "すなわち、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "である事を意味する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "世界点 1 と世界点 2 の間に定義される量", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "を世界間隔もしくは世界距離と呼ぶことにする。ある慣性系において s12 = 0 が成り立つならば、特殊相対性原理から、他の任意の慣性系でも s′12 = 0 が成り立つことになる。ここで、微分表現を採用して、これらの微小世界間隔を次のように表記する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これらは同次微小量であることから、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "という関係式が成り立つ。ここで、この係数 aは時間と空間の一様性から時間と座標に依存せず、空間の等方性から慣性系間の相対速度の方向に依存しないことが要請される。したがって、慣性系間の相対速度の絶対値にのみ依存する。特殊相対性理論において、微小世界間隔の不変性、すなわち、a(|V|) ≡ 1であることを示す手法は、たとえば以下の2つが存在する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2つの慣性系 K1, K2 の間の相対速度を Vとすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2および係数 a(|V|) についての関係式として、逆変換に対する要請から", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "が得られ、代入して a ( | V | ) 2 = 1 {\\displaystyle a(|{\\boldsymbol {V}}|)^{2}=1} が得られる。a(|V|) > 0よりa(|V|) ≡ 1が得られる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "三つの慣性系 K1, K2, K3 の間の相対速度を V12, V23, V31 とすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 ds1, ds2, ds3 および係数 a(|V|) についての関係式として", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "が得られる。後者の左辺は V12, V23 の絶対値にのみ依存するのに対し、右辺のV31は V12, V23間の角度にも依存すると考えられるため、 a(|V|) はVによらず、定数であることがわかる。(ここで、ニュートン力学とは異なり、相対性理論ではガリレイ変換は成立せず、 V 31 ≠ − V 12 − V 23 {\\displaystyle {\\boldsymbol {V}}_{31}\\neq -{\\boldsymbol {V}}_{12}-{\\boldsymbol {V}}_{23}} であることに注意せよ。)さらに、関係式から a(|V|) ≡ 1 が得られる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "以上二つのいずれを採用するにせよ、微小世界間隔はあらゆる慣性系間で保存されることになる(座標変換に関して不変)。したがって、このような微分の集積である有限の世界間隔についても、慣性系間の座標変換を経ても不変の保存量となる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "世界距離の定義から、以下の内積風の二項演算子", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "を考えると、世界距離の二乗は η((ct,x,y,z),(ct,x,y,z)) に一致する。このような二項演算子 η をミンコフスキー内積もしくはミンコフスキー計量と呼び、ミンコフスキー内積の定義されたベクトル空間をミンコフスキー空間と呼ぶ。ミンコフスキー空間上の点を世界点もしくは事象と呼び、ミンコフスキー空間のベクトルは通常の3次元のベクトルと区別する為、4元ベクトルという。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、世界点 P は、P と原点 O とを結ぶ4元ベクトル O P → {\\displaystyle {\\overrightarrow {\\mathrm {OP} }}} と自然に同一視できるので、以下、表現に紛れがなければ世界点を4元ベクトルとして表現する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論では、時空間をミンコフスキー空間として記述する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "4元ベクトル a→ に対し η(a→, a→) が非負であれば", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "‖ a → ‖ := η ( a → , a → ) {\\displaystyle \\|{\\vec {a}}\\|:={\\sqrt {\\eta ({\\vec {a}},{\\vec {a}})}}}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "をミンコフスキー・ノルムといい、世界点 a→、b→ に対し、η(a→ − b→, a→ − b→) が非負であれば η(a→ − b→, a→ − b→) の平方根を a→、b→ の世界距離という。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "なお、世界「距離」という名称ではあるが、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "といった点から数学的な距離の公理を満たさない。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、||a→|| は常に定義できるとは限らないばかりかミンコフスキー・ノルムが定義できる値に対しても三角不等式の逆向きの不等式", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "‖ a → + b → ‖ ≥ ‖ a → ‖ + ‖ b → ‖ {\\displaystyle \\|{\\vec {a}}+{\\vec {b}}\\|\\geq \\|{\\vec {a}}\\|+\\|{\\vec {b}}\\|}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "が成り立つ事から、ミンコフスキー・ノルムも数学で通常使われるノルムの定義を満たさない。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "本項では、ミンコフスキー内積を", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "としたが、書籍によっては符号を逆にした", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "をミンコフスキー内積としているものもあるので注意が必要である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "本項と同じ符号づけを時間的規約、本項とは反対の符号づけを空間的規約と呼んで両者を区別する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また本項ではミンコフスキー内積を η で表したが、g で表したり、両者を混用することもある。例えば佐藤 (1994)は、特殊相対性理論には η を用いる一方で一般相対性理論では g を用いている。またシュッツ (2010)ではミンコフスキー内積には g を用いてその行列表示は η としている。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "V を n 次元実ベクトル空間とし、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "を V 上の対称二次形式とする。このとき、V の基底 e→1, ..., e→n と非負整数 p、q が存在し、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "が成立する事が知られている。しかも p、q は (V, η) のみに依存し、基底 e→1, ..., e→n には依存しない(シルヴェスターの慣性法則)。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "p = 1、q = n − 1 となる二次形式 η をミンコフスキー計量と呼び、組 (V, η) を n次元ミンコフスキー空間という。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論で用いるのは、次元 n が4の場合なので、以下特に断りがない限り、n = 4とする。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "空間方向の次元を2に落としたミンコフスキー空間を図示した。図では何らかの慣性系から見たミンコフスキー空間が描かれており、この慣性系に対して静止している観測者 (observer) が原点にいる。この観測系における座標の成分表示を (ct, x, y) とする。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "この観測者にとっての時間軸 (ct, 0, 0) は図で「時間」と書かれた軸であり、この観測者にとって時間は時間軸にそって流れる。従って図の上方が未来であり、下方が過去である。観測者が慣性系に対して静止している事を仮定したので、時間が t 秒経つと、観測者のミンコフスキー空間上の位置は (ct, 0, 0) に移る。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "一方、この観測者にとって現在にある世界点の集まり(すなわちこの観測者にとっての空間方向)は図の「現在」と書かれた平面であり、この観測者からみた空間方向の座標軸 (0, x, 0), (0, 0, y) が「空間」と書かれた二本の軸である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "世界距離の定義から、原点を通る光の軌跡は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "を満たす。この方程式を満たす世界点の集合は2つの円錐として描かれ、これを光円錐という。図の上にある逆さまの円錐が未来の光円錐 (future light cone) であり、図の下にある円錐が過去の光円錐 (past light cone) である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "原点を通る光の軌跡は、光円錐上にある直線である。観測者は光を使って物をみるので、過去の光円錐の上にある世界点が観測者に見える(もちろん、他の物体に遮られなければ)。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ミンコフスキー空間上の4元ベクトル x→ の終点が(未来もしくは過去の)光円錐の内側にあるとき x→ は時間的であるといい、終点が光円錐の外側にあるとき x→ は空間的であるといい、光円錐上にあるとき x→ は光的であるという。定義より明らかに、以下が成り立つ:x→ が時間的、空間的、光的であるのは、η(x→, x→) がそれぞれ正、負、0のときである。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "光円錐上の点 x→ は η(x→, x→) という座標系と無関係な値の符号で特徴づけられるので、4元ベクトルが時間的か、空間的か、光的かは原点を起点するどの慣性座標系からみても不変である事がわかる。特に、光円錐は原点を起点するどの慣性座標系からみても同一である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "原点Oを通る観測者から見た慣性座標系を一つ固定すると、前述のようにその慣性座標系における二つの位置ベクトル間のミンコフスキー内積は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "と書ける。このような座標系で、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "と定義すると、e→0、e→1、e→2、e→3 はあきらかにミンコフスキー空間の基底であり、しかも", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "を満たす。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "ユークリッド空間の類似から(M2)式を満たす基底 e→0、e→1、e→2、e→3 を正規直交基底と呼ぶ事にすると、慣性座標系から正規直交基底が1つ定まった事になる。e→0 をこの基底の時間成分といい、e→1、e→2、e→3 をこの基底の空間成分という。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "逆に(M2)式の意味で正規直交基底である e→0、e→1、e→2、e→3 を一つ任意に選び、この基底における座標の成分表示を (ct, x, y, z) と書くことにすると、ミンコフスキー内積が(M1)式を満たすことを簡単に確認できる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "以上の議論から、原点にいる観測者の慣性座標系と正規直交基底は1対1に対応する事がわかる。従って以下両者を同一視する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "ただし、正規直交基底の中には、e→0 が過去の方向を向いていたり、e→1、e→2、e→3 が左手系だったりするものもあるので、このようなものは以下除外して考えるものとする。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "運動している質点がミンコフスキー空間内に描く軌跡を世界線と言う。今、世界線が原点を通る直線となる質点の運動があるとし、その直線の(4元)方向ベクトルを u→ とする(長さは問わない)。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "この質点の運動を慣性座標系 e→0、e→1、e→2、e→3 にいる観測者 A が原点で眺めるとする。この慣性座標系における u→ の成分表示を (ct, x, y, z) とすると、3次元ベクトル (x/t, y/t, z/t) は A から見た質点の速度ベクトルであると解釈できる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "次に u→ の速度を光速と比較してみる。u→ の速度が光を下回る必要十分条件は、√x + y + z / t < c となることであるので、これを書き換えると、(ct) − x − y − z > 0 となる。ミンコフスキー計量の定義より、この式は η(u→, u→) > 0 と慣性座標系によらない形で表現できる。従って、η(u→, u→) > 0 であれば、どの慣性系から見ても光速度を下回り、逆に η(u→,u→) < 0 であれば どの慣性系から見ても光速度を上回る。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "前述のように η(u→, u→) の正負によって、u→ を時間的もしくは空間的と呼ぶので、まとめると以下が結論づけられる:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "最後のものは光速度不変の原理からの直接の帰結でもある。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "なお、上の議論では、質点の世界線が直線である事を仮定したが、そうでない場合も原点での接線を u→ として同様の議論をする事で同じ結論が得られる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間 V 上の線形変換 φ : V → V でミンコフスキー計量を変えないもの、すなわち任意の4元ベクトル a→、b→ に対し、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "が成立するものの事である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "ユークリッド空間で内積を変えない線形変換は合同変換であるので、ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間における合同変換の対応物である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "ただし正規直交基底の場合と同様、ローレンツ変換にも", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "が存在するのでこのようなものは以下除外して考える。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "なお、空間方向の向き、時間方向の向きの両方を保つローレンツ変換を正規ローレンツ変換という事があるが、本項では以下、特に断りがない限り、単にローレンツ変換と言ったならば正規ローレンツ変換を指すものとする。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "ローレンツ変換 φ と4元ベクトル b→ を使って", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "の形に書ける線形変換をポアンカレ変換という。特殊相対性理論では、2人の観測者が原点で出会ったケースにおいてローレンツ変換に関して議論する事が多いが、これは出会った場所を原点に平行移動した上で議論しているという事なので、実質的にはポアンカレ変換に関する議論である事が多い。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "4次元ミンコフスキー空間 (V, η) では、 次の定理が成立する事が知られている。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "定理 ― (e→0, e→1, e→2, e→3)、(e′→0, e′→1, e′→2, e′→3)を V の2組の正規直交基底とする。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "このとき、V 上の線形変換 φ で", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "を満たすものがただ一つ存在し、しかも φ はローレンツ変換である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "この定理はユークリッド空間における2つの正規直交基底が直交変換により写りあう事の類似である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "前述のように、正規直交基底は慣性座標系と対応している。よって上の定理は、以下を意味する:慣性座標系から別の慣性座標系への座標変換はローレンツ変換である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "ローレンツ変換の具体的な形を求める為、まずは基底をより解析がしやすいものに置き換える。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "基底 e→0, e→1, e→2, e→3 の「空間部分」である e→1, e→2, e→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E とし、同様に基底 e′→0, e′→1, e′→2, e′→3 の空間部分である e′→1, e′→2, e′→3 の張るミンコフスキー空間上の部分空間を E′ とする。これらはそれぞれの慣性座標系における空間方向を表している。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "e→1, e→2, e→3 を E 内で回転した別の正規直交基底に取り替えても、e→0, e→1, e→2, e→3 と実質的に同じ慣性系を表しているとみなしてよい。そこで (e→1, e→2, e→3), (e′→1, e′→2, e′→3) をそれぞれ E 内、E′ 内で回転することで、ローレンツ変換 φ の行列表示 Λ を簡単な形で表すことを試みる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "E と E′ の共通部分 E ∩ E′ を U とすると、U は4次元ベクトル空間上の2つの3次元部分ベクトル空間の共通部分なので、U は2次元(以上)のベクトル空間である。従って E 内で (e→1, e→2, e→3) を回転することで、e→2, e→3 ∈ U としてよく、同様に E′ 内の回転により e′→2, e′→3 ∈ U とできる。最後に U 内で e→'1, e→'2 を回転することで e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 としてよい。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "これらの基底に対し、(L1)式を満たすローレンツ変換 φ の行列表現を Λ = (Λν)μν とする。これはすなわち、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "を満たすという事であり、これら2つの基底における座標の成分表示をそれぞれ (ct, x, y, z)、(ct′, x′, y′, z′)とすると", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "が成立するという事でもある。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "e′→2 = e→2、e′→3 = e→3 であったので、ローレンツ変換の行列表示は、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "という形であり、ローレンツ変換がミンコフスキー空間における「回転」であったことを利用すれば、上の行列の(*)の部分が、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "という形であることがわかる。これを導く厳密な方法はいくつかあるが、簡便な方法としては虚数単位 i を用いて時間軸を τ = ict と置く事で通常のユークリッド空間の回転とみなせる(ウィック回転)という事実を使うものがある。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "最終的に2つの基底における座標の成分表示の関係(L2)式は以下のように書ける事がわかる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "定理(ローレンツ変換の具体的な形) ― 必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "と表示できる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "この値 ζ は正規直交基底の取り方に依存せず、ローレンツ変換 φ の固有値のみによって決まることが知られており、ζ を φ のラピディティという。なお、ζ は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "と具体的に求めることもできる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "慣性座標系 (ct, x, y ,z) にいる観測者 A は、原点を通過した後、(ct, 0, 0, 0) という直線(世界線)にそって進んでいく。この様子を別の観測者 B の慣性座標系 (ct′, x′, y′, z′) で記述した式は(L3)式に (x, y, z) = (0, 0, 0) を代入した", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "によって表現できる。この世界線の「傾き」", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "は2人の観測者の相対速度と解釈できるので、観測者 A から見た観測者 B の相対速度を v とすると、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "となる。よって、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "である。そこでローレンツ因子 γ を", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "γ := 1 1 − ( v / c ) 2 {\\displaystyle \\gamma :={\\frac {1}{\\sqrt {1-(v/c)^{2}}}}}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "と定義すると、以下が導かれる:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "相対速度を用いたローレンツ変換の表示 ― 観測者Aから見た観測者Bの相対速度を v とするとき、必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "と書ける。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "我々は(L4)式やそれと同値な(L3)式を導くとき、空間方向の座標変換をおこなった。これは別の見方をすると、ローレンツ変換から空間方向の回転成分を取り除いたものが(L3)式や(L4)式であるということである。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "(L3)式や(L4)式のように書けるローレンツ変換、すなわち空間方向に回転しないローレンツ変換の事をローレンツ・ブーストと呼ぶ。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "ローレンツ変換の式(L4)式において、v/c ≈ 0 (0に近似) とすると、(L4)式は、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "となり、ガリレイ変換に一致する。すなわち、「ニュートン力学近似」とは、慣性座標系間の相対速度 v が光速 c と比べて十分小さい場合の理論であるということが言える。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "このことからニュートン力学はガリレイ変換に不変であるというガリレイの相対性原理は、特殊相対性理論では以下の形で成立していると考えられる:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "全ての物理法則はローレンツ変換に対して不変でなければならない。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "本節では光速を超えずに移動する観測者 A の感じる時間の長さ(観測者の固有時間)s が、A の世界線の(ミンコフスキー計量で測った)「長さ」に一致することを示す。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "固有時間について述べる前に、まず慣性系から見た時間についての公式を与える。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "x→ を世界点とし、(e→0, e→1, e→2, e→3) を原点における慣性座標系とする。このとき、以下が成立する:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "慣性座標系 (e→0, e→1, e→2, e→3) における x→ の起こる時刻は η(x→, e→0)である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さの場合は右辺を c で割る必要がある。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "実際、(e→0, e→1, e→2, e→3) における成分表示を (ct, x, y, z) とすると、x→ の起こる時刻は x→ を時間軸方向へ射影したものに一致するが、x→ を時間軸方向へ射影した値は η(x→,e→0) である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "本節では以下を示す:時間的もしくは光的な4元ベクトル u→ に沿って原点から u→ の終点まで直線的に動く観測者の固有時間 s は u→ のミンコフスキー・ノルム ‖ u → ‖ = η ( u → , u → ) {\\displaystyle \\|{\\vec {u}}\\|={\\sqrt {\\eta ({\\vec {u}},{\\vec {u}})}}} に一致する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "なお、u→ が時間的もしくは光的な4元ベクトルであることから η(u→, u→) > 0 であるので、上式の平方根は意味を持つ。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "ただしここでいう「時間の長さ」は c 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さは τ = s/c である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "上の事実を示すため、O から u→ に沿って移動する観測者を考えると、この観測者の慣性座標系は、e→0 = u→ / ||u→|| を時間方向の単位(4元)ベクトルとする正規直交基底 (e→0, e→1, e→2, e→3) により表せる。この座標系に前述の公式を適用すれば、この座標系で観測者が原点から u→ の終点まで世界線を移動するのにかかる固有時間は", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "η ( u → , e → 0 ) = ‖ u → ‖ η ( e → 0 , e → 0 ) = ‖ u → ‖ {\\displaystyle \\eta ({\\vec {u}},{\\vec {e}}_{0})=\\|{\\vec {u}}\\|\\eta ({\\vec {e}}_{0},{\\vec {e}}_{0})=\\|{\\vec {u}}\\|}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "となり、最初の公式が示された。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "上では観測者が原点を通る世界線に沿って移動する場合について述べたが、原点を通らない世界線に関しても、観測者が上を u→ から w→ まで直線的に動く間に ||u→ - w→|| の固有時間が流れる事を同様の議論により証明できる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "本節では光速を超えずに移動する観測者 A の世界線 C が曲線である場合に対して A の固有時間を求める方法を述べる。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "観測者 A の時空間上の位置 x→ が実数 r によってパラメトライズされて x→ = x→(r) と書けているとすると、観測者が x→(r0) から x→(r0 + Δr) まで移動する間に、", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "の固有時間が流れることになる。したがって観測者 A が C に沿って動いた際に流れる固有時間 s は以下のように求まる:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "s = ∫ C d s = ∫ C ‖ d x → d r ‖ d r . {\\displaystyle s=\\int _{\\mathrm {C} }\\mathrm {d} s=\\int _{\\mathrm {C} }\\left\\|{\\frac {\\mathrm {d} {\\vec {x}}}{\\mathrm {d} r}}\\right\\|\\mathrm {d} r.}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "これはユークリッド空間において曲線の長さを求める弧長積分のミンコフスキー空間版であるので、上の公式は、観測者 A の固有時間が A の描く世界線 C の「長さ」に一致することを意味している。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "次に上で示した式を慣性座標で表す。A とは別の観測者 B が慣性運動しており、B の慣性座標系 (ct, x, y, z) における A の位置 x→(r) が", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "と書けていたとすると、以下が言える:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "d s 2 = ‖ d x → d r ‖ 2 d r 2 = ‖ d x → ‖ 2 = c 2 d t 2 − d x 2 − d y 2 − d z 2 . {\\displaystyle {\\begin{aligned}\\mathrm {d} s^{2}&=\\left\\|{\\frac {\\mathrm {d} {\\vec {x}}}{\\mathrm {d} r}}\\right\\|^{2}\\mathrm {d} r^{2}=\\|\\mathrm {d} {\\vec {x}}\\|^{2}\\\\&=c^{2}\\mathrm {d} t^{2}-\\mathrm {d} x^{2}-\\mathrm {d} y^{2}-\\mathrm {d} z^{2}.\\end{aligned}}}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "以上の議論では変数 r で世界線 C をパラメトライズしたが、物理学的に自然な値である秒を単位とした固有時 τ そのものを使って、x→ = x→(τ) とパラメトライズするのが一般的である。このようにパラメトライズしたとき、質点 x→ の4元速度(英語版) u→ と4元加速度(英語版) a→ を以下のように定義する:", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "すなわち、x→ のミンコフスキー空間上の位置の変化率を固有時間 τ で測ったものが4元速度で、4元速度の変化率を τ で測ったものが4元加速度である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "4元速度のミンコフスキー・ノルムは", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "を満たす。このことから、4元速度は x の世界線の接線で長さが c であるものである事がわかる。この事実は、ユークリッド空間の曲線を弧長で微分したときの長さが1になることと対応している。長さが1でなく c なのは時間の単位が c 秒でなく1秒だからである。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "以上の事から4元速度のミンコフスキー・ノルムの2乗が定数 c なので、これを微分する事で", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "η ( u → , a → ) = 0 {\\displaystyle \\eta ({\\vec {u}},{\\vec {a}})=0}", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "である事がわかる。すなわち4元速度と4元加速度は「直交」している。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "変分法を用いる事で、以下の事実を示せる:ミンコフスキー空間上の2つの世界点 x→, y→ を結ぶ世界線(で光速度未満のもの)のうち、最も固有時間が長くなるのは、x→ と y→ を直線的に結ぶ世界線である。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "x→ から y→ へと直線的に動く観測者は慣性系にいることになるので、これは慣性運動している場合が最も固有時間が長くなる事を意味する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "固有時間が世界線の「長さ」であった事に着目すると、上述した事実は、ユークリッド空間上の二点を結ぶ最短線が直線であることに対応している事がわかる。なお、ユークリッド空間では「最短」であったはずの直線がミンコフスキー空間上では「最大」に変わっているのは、ミンコフスキーノルムの2乗 (ct) − x − y − z の空間部分がユークリッドノルムの2乗 x + y + z とは符号が反対である事に起因する。", "title": "特殊相対性理論の基礎" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "ニュートン力学では、3次元空間のガリレイ変換に対して不変になるように理論が構築されている。それに対し特殊相対性理論では、4次元時空間のローレンツ変換に対して不変になるように理論を構築する必要があるので、ニュートン力学の概念をそのまま用いることはできない。本節では、ニュートン力学の諸概念を「4次元化」し、それがローレンツ変換(と平行移動)に対して不変になることを示すことで特殊相対性理論における力学を構築する。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "以下、記法を簡単にするため、4元ベクトルの成分を", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "( x 0 , x 1 , x 2 , x 3 ) := ( c t , x , y , z ) {\\displaystyle (x^{0},x^{1},x^{2},x^{3}):=(ct,x,y,z)}", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "などと書くことにする。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "光速を超えないで運動する質点 x→ の世界線を x→ = x→(τ) と秒を単位とした固有時 τ でパラメトライズする。このとき、質点 x→ の4元運動量を", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "と定義する。ここで m は質点 x→ の慣性座標における質量(静止質量と呼ぶ)である。すなわち、4元運動量は、4元速度に静止質量を掛けたものである。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "4元運動量の物理学的意味を見るため、慣性座標系 (x, x, x, x) を固定し、p→ をこの座標系に関して p→ = (p, p, p, p) と成分表示する。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "i = 1, 2, 3 に対し、4元運動量の定義より、", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "である。ここで v = (v, v, v) はこの慣性座標系における質点の速度ベクトルであり、v = |v|である。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "v / c → 0 の極限において p は mv に漸近するので、4元運動量の空間部分 (p, p, p) はニュートン力学の運動量 (mv, mv, mv) をローレンツ変換で不変にしたものであるとみなす事ができる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "また、(p, p, p) は質点の「見かけ上の重さ」が", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "である場合の運動量とみなすこともできる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "4元運動量の時間成分 p に c を掛けたものをテイラー展開すると、", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "である。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "第二項はニュートン力学における運動エネルギーであるので cp はエネルギーに相当していると考えられる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "従って第一項の", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "E := m c 2 {\\displaystyle E:=mc^{2}}", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "もエネルギーを表していると解釈できる。この値は質点が例え慣性系に対して静止していて v = 0 であっても持つエネルギーであることから、この値を質点の静止質量エネルギーと呼ぶ。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "質量 m を持つこととエネルギー mc2 を持つことは等価であり、質量欠損や核反応・対消滅に伴うエネルギー放出・吸収から確かめられている。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "4元運動量のミンコフスキー・ノルムは", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "である。一方、慣性座標系を1つ固定して4元運動量を成分表示したとき、前に示したように、E = cp はエネルギーを表し、p = (p, p, p) は運動量に対応していた。運動量の大きさを p = |p| とすると、E と p は以下の関係式を満たす:", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "左辺は慣性系によらないので、E − (cp) は慣性系によらず一定値 (mc) になることを意味する。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "p ≪ mc であれば上の式は", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "となり、静止質量エネルギー mc を無視すれば、p / 2m が質点の運動エネルギーに相当するというニュートン力学の式に対応していることがわかる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "光速で移動する有限のエネルギーを持った粒子を考える。この時、mγc2 の γ が無限大に発散してしまうので、m = 0 でなければならない。この逆も成立するため、質量を持たずに有限のエネルギーを持つ物質は常に光速で走り続けねばならず、また光速で移動するエネルギーを持つ物質はすべて質量が0であることが分かる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論以前の電磁気学において、J.J.トムソンやワルター・カウフマン(英語版)によって電子の質量の速さ依存性が指摘されていた。それを説明する理論としてマックス・アブラハムは、電子の慣性質量の起源を全て電磁場に求めるという電磁質量概念 (Electromagnetic mass) を提唱したが、電子以外の物質の構成要素に対して一般化することができなかった。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "一方、特殊相対性理論はその物質の質量の速さ依存性についての一般的な説明と慣性質量とエネルギーに関する普遍的な関係を与える。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "すでに運動量の概念を4元ベクトル化したので、力の概念を4元ベクトル化した4元力 f→ が定義できれば、 ニュートンによる質点の運動方程式 f = dp / dt をローレンツ変換に不変にした特殊相対性理論の運動方程式", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "が定式化できる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "現在知られている4種類の力のうち、電磁気力、強い力、弱い力の3つは4元力として表現可能な事が知られている。このうち電磁気力を4元力として表現する方法は後の節で述べる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "一方、重力は特殊相対性理論の範囲で4元ベクトル化しようとしてもローレンツ変換に対して不変にならないためうまくいかない。重力を扱うには一般相対性理論が必要となる。", "title": "特殊相対性理論における力学" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論から導かれる帰結として、たとえば、主に以下の事項を挙げることができる。項目ごとの詳細は後述する。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "次の事柄は、特殊相対性理論の前提あるいは理論展開(#特殊相対性理論の基礎)するところそのものである。特殊相対論によって座標変換に関して対称な簡潔な数式系にまとめられることができたこと、さらに、後に実験事実として得た諸結果が特殊相対性理論によく整合したことから、物理の基本原理として、これらはより支持されるようになった(#特殊相対性理論の実験的検証)。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "以下では話を簡単にするため時間1次元+空間1次元の計2次元の場合について述べる。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "ある慣性系 (ct′, x′) において静止している剛体について、この慣性系 (ct′, x′) で測った剛体の長さをこの剛体の固有長さと呼ぶ。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "今、固有長さ l の棒が慣性系 (ct′, x′) に対して静止しており、これを別の慣性系 (ct, x) から眺めたとする。話を簡単にするため、2つの慣性系の原点はいずれも棒の1つの端点 O に一致しているものとする。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "棒は慣性系 (ct′, x′) に対して静止しているので、棒の他方の端点が描く世界線 C は (ct′, l) と t′ でパラメトライズできる。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "慣性系 (ct, x) における現在 (0, x) と世界線 C との交わりはローレンツ変換により", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "なので、棒の長さは", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "x = l / γ {\\displaystyle x=l/\\gamma }", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "となる。ここで γ > 1 はローレンツ因子 1/√1 − (v/c) である。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "これにしたがうと、棒に対して長さ方向に運動している座標系からみると、棒の長さは 1/γ 倍に縮んだかのように見える。この現象を ローレンツ収縮もしくはフィッツジェラルド=ローレンツ収縮という。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "地上で(地面に対して)静止している観測者からみて、高速で飛んでいるロケットは(地上に)停まっているときよりも短く見える(進行方向に収縮している)。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "地上から上空へ向かうロケットを地上から観測したとき、ロケットの後端に設置した時計は、ロケットの先端に設置した時計よりずれが大きい。このとき、ロケットに乗る観測者からすれば、ロケットの速度での運動座標系において、ロケットの後端と先端の時計が刻む時刻は同時に見える。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "なお、実際にはロケットが観測者にどのように見えるかという点については、特殊相対性理論による時刻・座標のずれに加えて、ロケット各部からの光の到達時刻を加味する必要がある(これを考慮に入れた場合、さらに歪んだ見え方となりうる)", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "ローレンツ収縮は、アインシュタインが特殊相対性理論を提案する以前に、ローレンツとフィッツジェラルドが独立に提案したものである。彼らの提案は、数式上は特殊相対性理論のそれと同一であるが、彼らの理論はエーテル仮説を前提としており、物体は「エーテルの風」を受けて3次元空間内で実際に縮むとするものであった。すなわち、あくまでも彼らは「エーテルが静止している絶対空間がある」という考えのもとに立っていた。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "それに対して、特殊相対性理論では、ローレンツ収縮を4次元時空間の各観測者ごとの座標系において解釈したものであり、絶対空間や絶対時間の存在を前提としない。前述のように慣性系によって測っている場所が違う事が収縮の起こる原因である。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "運動する観測者 A があり、A とは別の観測者 B が慣性運動し、A 側の座標系 (ct, x, y, z) にて B の位置が、", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "と書けるとき、", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "というローレンツ変換について不変な量 s をとり、A側の固有時刻を τ = s / c とする。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "であることより", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "d τ d t = 1 − ( v / c ) 2 {\\displaystyle {\\frac {\\mathrm {d} \\tau }{\\mathrm {d} t}}={\\sqrt {1-(v/c)^{2}}}}", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "である。右辺はローレンツ因子 γ の逆数である。これを観測者 A の世界線 C に沿って積分すると", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "T = ∫ C 1 − ( v ( t ) / c ) 2 d t {\\displaystyle T=\\int _{\\mathrm {C} }{\\sqrt {1-(v(t)/c)^{2}}}\\mathrm {d} t}", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "により、A 側の固有時間 T が得られる。ここで v(t) は時刻 t における A と B の相対速度である。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "v < c ゆえ、積分内は常に1未満であり、慣性系B側の時間 T′ との関係は次式となる:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "T < T ′ . {\\displaystyle T<T'.}", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "これはすなわち、ある慣性系でみたときの時間は固有時間よりも長い事を意味する。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "特に観測者 A も慣性運動しているときは、相対速度 v は常に一定であり、次式となる:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "T = T ′ 1 − ( v / c ) 2 . {\\displaystyle T=T'{\\sqrt {1-(v/c)^{2}}}.}", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "観測者 A、B が慣性運動しており、さらに質点 C が運動しているとする(慣性運動とは限らない)。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "観測者 A の座標系を (ct, x, y, z) とし、観測者 B の座標系を (ct′, x′, y′, z′) とし、A から見た B の相対速度の大きさを V とし、", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "をローレンツ因子とする。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "必要ならミンコフスキー空間の原点を取り替えることで C は原点を通っているとしてよく、さらに C の運動方向は y軸、z軸と直交しているとし、y'軸、z'軸がy軸、z軸と一致しているとしても一般性を失わない。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "観測者 A、B から見た C の速度をそれぞれ (vx,vy,vz)、(v′x,v′y,v′z) とするとき、B の座標系から A の座標系への速度変換則は、ローレンツ変換の(L4)式より以下のようになる:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "本節では、質点の速度が光速を越えない限り、特殊相対性理論においても因果律が成り立つことを示す。以下、特に断りがない限り、質点、観測者の双方とも光速度以下であるものとする。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "x→, y→ をミンコフスキー空間上の2つの世界点とする。y→ − x→ が未来の光円錐の内部にあるとき、x→ は y→ の因果的過去 (causally precede) といい、x→ < y→ と書く。同様に y→ − x→ が未来の光円錐の内部もしくは未来の光円錐上にあるとき、x→ は y→ の年代的過去 (chronologically precede) といい、x→ ≦ y→ と書く。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "因果的過去は以下のように特長づけられる:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "ミンコフスキー空間上の点 x→ にある質点が光速未満(resp. 以下)で y→ に到達できる ⇔ x→ < y→ (resp. x→ ≦ y→)。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "よって特に以下が成立する:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "x→ ≦ y→ かつ y→ ≦ z→ ⇒ x→ ≦ z→。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "従って「≦」は数学的な(半)順序の公理を満たす。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "以下の事実は、質点の速度が光速を越えない限り座標系の取り替えで因果律が破綻しない事を意味している:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "x→ ≦ y→ かつ x→ ≠ y→ ⇔ 全ての慣性座標系で、y→ は x→ より時間的に後に起こる。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "実際、どのような慣性座標系を選んでも、その時間軸 e→0 は未来の光円錐内または未来の光円錐上にあるので、x→ ≦ y→ であれば、x→ から y→ までに流れる時間 η(y→ - x→, e→0) は正である。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "一方、x→ ≦ y→ でも y→ ≦ x→ でもないとき、すなわち y→ − x→ が空間的なときはこのような関係は成り立たない。y→ − x→ が空間的なとき、以下の3種類の慣性座標系が存在する:", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "すなわち空間的な関係にある2点 x→、y→ の時間的な順序関係は慣性系に依存してしまう。これはニュートン力学的な直観に反するが、x→ と y→ には因果関係がないので、どちらが先に起ころうとも因果律が破綻することはない。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "今、ここに一組の双子がおり、二人は慣性運動しながら次第に離れているとする。このとき兄から見ると、弟の時計は遅れてみえ、逆に弟から見ると兄の時計は遅れてみえる事が特殊相対性理論から帰結される。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "これは一見奇妙に見えるため、時計のパラドックスと呼ばれることもあるが、実は特に矛盾している訳ではない。なぜなら慣性運動している二人は二度と出会うことがないので、もう一度再会してどちらの時計が遅れているのかを確認するすべはないからである。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "では次の状況はどうだろうか。やはり一組の双子がいて、弟は慣性運動している。一方、兄はロケットに乗って遠方まで行き、その後ロケットで弟のもとに帰ってきたとする。前述のように弟からみれば兄の時計は遅れるはずで、兄の時計からみれば弟の時計は遅れるはずなので、ふたりが再会したときに矛盾が生じるはずである。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "結論からいえば、特殊相対性理論から示されるのは、ロケットに乗った兄より慣性運動していた弟の方が再会時に時計が進んでいるという事である。すなわち再会時に兄が弟よりも若い。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "なぜならミンコフスキー空間上で、兄がロケットで飛び立ったときの世界点を x→ とし、兄が再び弟に再会したときの世界点を y→ とすると、x→ と y→ を結ぶ世界線のうち最も固有時間が長くなるのは慣性運動する世界線であることをすでに示したからである。従って慣性運動していた弟はロケットに乗った兄より多くの固有時間を費やした事になるのである。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "では逆に弟のほうが兄より若くなったとする主張のどこが間違っていたのかというと、我々が時間の縮みの公式を導いたとき、慣性系である事を仮定していたのであるが、兄の座標系はロケットが行きと帰りで向きを変える際加速度運動しているので慣性系ではない。従って兄の座標系に対して単純に時間の縮みの公式を適応したのが間違いだったのである。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "今、長さ l のハシゴ と奥行き L < l のガレージがあるとし、ハシゴは高速でガレージに近づいてきたとする。ガレージが静止して見える慣性系から見ると、ハシゴがローレンツ収縮するので、ハシゴはガレージに入ってしまう。一方、ハシゴが静止して見える慣性系からみると、逆にガレージの方がローレンツ収縮してしまうので、ハシゴはガレージに入らないはずである。正しいのはどちらであろうか。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "結論からいうと、どちらも正しく、ガレージの系から見た場合は、ハシゴはガレージに入るように見え、ハシゴの系から見るとハシゴはガレージに入らないように見える。すなわち、ハシゴの前端と後端に関する事象を区別して述べれば、ガレージの静止系ではハシゴの後端がガレージに入りきった後、ハシゴの前端がガレージの裏の壁にぶつかるのに対し、ハシゴの静止系ではハシゴがガレージに入り切らず、ハシゴの後端がガレージに入る前にハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる。ハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる事象とハシゴの後端がガレージに入りきる事象には因果関係がないので、どちらが先に起こるのかは慣性系によって変化するのである。", "title": "特殊相対性理論の帰結" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "先に進む前に、特殊相対性理論で頻繁に用いられるテンソル代数の知識について述べる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論では、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "のように上つきと下つきで同じ添え字(この場合は μ)が使われているときは、Σ 記号を省略し、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "と書き表す慣用的な記法が用いられることが多い。この記法をアインシュタインの縮約記法という。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "この縮約記法は行列の積や3項以上の場合にも同様に用いられ、例えば", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "は", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "と略す。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "一方、たとえ2箇所の添え字が共通していても、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "のように添え字が両方下つき、もしくは両方上つきの場合は Σ を省略しない。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "(V, η) を4次元ミンコフスキー空間とし、e→0, e→1, e→2, e→3 を (V, η) 上の(正規直交とは限らない)基底とする。このとき、以下の性質を満たす V の基底 e→, e→, e→, e→ が一意に存在する事が知られており、この基底を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底という:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "ここで δ μ ν {\\displaystyle \\delta ^{\\mu }{}_{\\nu }} はクロネッカーのデルタである。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "正規直交基底の場合は双対基底は非常に簡単に書くことができる:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "上でも分かるように、双対基底は元の基底と空間方向の向きが反対である。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "本項では正規直交の場合にしか双対基底の概念を用いないが、一般相対性理論を定式化する際には一般の基底に対する相対基底が必要となる為、以下基底は正規直交とは限らない場合について述べる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "双対基底はミンコフスキー計量の成分表示を使って具体的に求めることができる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "とするとき、(ημν)μν の逆行列を ((η))μν とすれば、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "である。実際、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "である。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "双対基底の定義から、次が成立する:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底の双対基底は e→0, e→1, e→2, e→3 自身である。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "以下の議論では、「通常の」基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を一組固定し、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。しかし上の定理でもわかるように、どちらの基底を「通常の」基底とみなし、どちらを双対基底とみなすのかは任意である。本項では、空間方向が右手系のものを通常の基底とみなし、左手系のものをその双対基底とみなすことにする。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "V の元 a→ を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表す場合、a→ の各成分の添え字を", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "のように上つきに書く(アインシュタインの縮約で表記)。一方、a→ を e→0, e→1, e→2, e→3 の双対基底 e→, e→, e→, e→ を用いて表す場合、a→ の各成分の添え字を", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "のように下つきに書く。明らかに", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "である。また正規直交基底の場合は明らかに", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "が成立する。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "V の2つの元 a→、b→ のミンコフスキー内積をとるとき、一方を基底 e→0, e→1, e→2, e→3 で表し、他方をその双対基底で表すと、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "と通常の内積のように書け、ミンコフスキー内積特有の符号の煩わしさから解放されるので便利である。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "基底を一つ指定したとき、a は添え字 μ に対し反変、aμ は添え字 μ に対し共変であるという。これらの名称は、基底を取り替えた際の成分の変化に由来する。すなわち、ミンコフスキー空間上にもう1組の基底 (e′→0, e′→1, e′→2, e′→3) を用意し、基底の間の座標変換が成分表示で", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "と書けていたとすると4元ベクトル a→ の反変成分 a→ = a′e′→ν = ae→μ は、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底とは反対に Λν の逆行列で結ばれる。それゆえ、「反対の変化」、すなわち反変と呼ばれる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "一方、基底の変更に対する共変成分の変化を見るため、双対基底が基底の変更でどのような影響を受けるか調べる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "とすると、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "すなわち、Γμ は Λμ の逆行列 (Λ)ν であるので、双対基底は", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "という変換規則に従うことがわかる。よって4元ベクトル a→ の共変成分 a→ = a′νe′→ = aμe→ は、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底と共通の行列 Λν で結ばれる。それゆえ、「共通の変化」、すなわち共変と呼ばれる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "本節ではテンソルに関する基本的な知識を紹介する。ただし本節での解説はミンコフスキー空間 V 上に限定したものであるので、一般の空間で成り立つとは限らない。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 286, "tag": "p", "text": "n を自然数とする。写像 T : V n → R {\\displaystyle T\\colon V^{n}\\to \\mathbb {R} } が以下の性質(多重線形性)を満たすとき、T をn次のテンソルという:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 287, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論で重要なのは主に2次のテンソルであるので、以下2次のテンソルに話を限定するが、一般の場合も同様である。なお、2次のテンソルは数学で二次形式と呼ばれるものと同一である。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 288, "tag": "p", "text": "2次のテンソル T に対し、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 289, "tag": "p", "text": "が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を対称テンソルという。また", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 290, "tag": "p", "text": "が全ての4元ベクトル a→、b→ に対して成り立つとき、T を反対称テンソルという。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 291, "tag": "p", "text": "T をミンコフスキー空間上の2次のテンソルとし、e→0, e→1, e→2, e→3 をミンコフスキー空間の基底とし、e→, e→, e→, e→ をその双対基底とする。このとき、上述の基底や相対基底を使って T を4通りに成分表示する事が可能である:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 292, "tag": "p", "text": "4元ベクトル a→, b→ を", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 293, "tag": "p", "text": "と成分表示する(アインシュタインの縮約で表記)と、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 294, "tag": "p", "text": "T ( a → , b → ) = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν = T μ ν a μ b ν {\\displaystyle T({\\vec {a}},{\\vec {b}})=T_{\\mu \\nu }a^{\\mu }b^{\\nu }=T^{\\mu }{}_{\\nu }a_{\\mu }b^{\\nu }=T_{\\mu }{}^{\\nu }a^{\\mu }b_{\\nu }=T^{\\mu \\nu }a_{\\mu }b_{\\nu }}", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 295, "tag": "p", "text": "が成立する。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 296, "tag": "p", "text": "上述の4通りの成分表示において、T は上付きの添え字に対し反変、下付きの添え字に対し共変であるという。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 297, "tag": "p", "text": "4元ベクトルの場合と同様、基底を別のものに取り替えたとき T の各成分は、反変の添え字に関しては基底変換行列の逆行列が、共変の添え字に関しては基底変換行列そのものが作用する。例えば", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 298, "tag": "p", "text": "とすると", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 299, "tag": "p", "text": "なので、ダッシュつきの基底に関する成分 T′ν は", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 300, "tag": "p", "text": "と、上付きの添え字には反変、下付の添え字には共変に変化する。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 301, "tag": "p", "text": "ミンコフスキー計量 η も二次の対称テンソルであるので、上述のように成分表示できる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 302, "tag": "p", "text": "基底が正規直交であれば、ミンコフスキー計量の成分表示は非常に簡単になり、", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 303, "tag": "p", "text": "のように書くことができる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 304, "tag": "p", "text": "ミンコフスキー空間上の線形写像 f : V → V が与えられたとき、2次のテンソルを", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 305, "tag": "p", "text": "と定義できる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 306, "tag": "p", "text": "逆にミンコフスキー空間上の2次のテンソル T が任意に与えられたとき、(T1)式を満たす線形写像 f が一意に存在する事が知られている。従って2次のテンソルと線形写像を自然に同一視できる。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 307, "tag": "p", "text": "2次のテンソル T に対応する線形写像は基底 e→0, e→1, e→2, e→3 を用いると、下記のように具体的に書き表す事もできる:", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 308, "tag": "p", "text": "ミンコフスキー空間上の各世界点 P にテンソル TP を割り振ったもの(すなわちミンコフスキー空間からテンソルの集合への写像 P ⤅ TP)をテンソル場という。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 309, "tag": "p", "text": "相対性理論でテンソル場は中核に位置する概念であり、電磁場を初めとして様々なものをテンソル場として表現する。", "title": "テンソル代数の準備" }, { "paragraph_id": 310, "tag": "p", "text": "本節では、電磁気学の基本的な概念や方程式を特殊相対性理論に合致する形に書き換える。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 311, "tag": "p", "text": "以下、慣性系", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 312, "tag": "p", "text": "を1つ固定し、この慣性系において電磁気学を記述する。詳細は省くが、本節の記述は、他の慣性系で電磁気学を記述したものとローレンツ変換で移りあう事を確認できるので、特殊相対性理論に合致している。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 313, "tag": "p", "text": "なお、本項では国際単位系を用いる場合に対して記述したが、Landau, Lifshitz (3rd ed.) (1971)などガウス単位系(英語版)を用いている書籍における定義とは光速度 c のかかる位置が違うなどの差があるので注意が必要である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 314, "tag": "p", "text": "電荷密度 ρ と電流密度 j = (jx, jy, jz) を使って、4元電流密度を、", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 315, "tag": "p", "text": "によって定義する。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 316, "tag": "p", "text": "すると連続の方程式", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 317, "tag": "p", "text": "は、4元電流密度と4元勾配(英語版) (4–gradient) (∂0, ∂1, ∂2, ∂3) を用いて", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 318, "tag": "p", "text": "と表現できる。ここで ∂ν は ∂ / ∂x の略記である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 319, "tag": "p", "text": "真空の誘電率、透磁率をそれぞれ ε0, μ0 とすると、マクスウェル方程式により導かれる電磁波の速度 1 / √μ0ε0 が真空中の光速度と一致する事が実験・観測により確かめられたので、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。この事実から、", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 320, "tag": "p", "text": "である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 321, "tag": "p", "text": "さらに電場 E = (Ex, Ey, Ez) と磁束密度 B = (Bx, By, Bz) を用いて電磁テンソルを", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 322, "tag": "p", "text": "により定義する。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 323, "tag": "p", "text": "電磁場を別の慣性系から見た場合、電場と磁束密度がそれぞれ E′ = (E′x, E′y, E′z) と B′ = (B′x, B′y, B′z) であったとし、これらから作った電磁テンソルを F′ とする。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 324, "tag": "p", "text": "F′ と F がローレンツ・ブースト(L4)式で移りあう為の必要十分条件は、", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 325, "tag": "p", "text": "が成立する事である事を簡単な計算で確認できる。ここで v は2つの慣性系の間の相対速度で、γ = 1 / √1 − (|v|/c) はローレンツ因子である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 326, "tag": "p", "text": "非相対論的極限 v / c ≈ 0 では γ ≈ 1 なので、上述の条件式は、古典電磁気学で知られている慣性系間の変換公式", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 327, "tag": "p", "text": "に一致する。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 328, "tag": "p", "text": "よって電磁テンソルはローレンツ変換に対して共変であると結論づけられる。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 329, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論以前のマックスウェル方程式の解釈には非対称性があった。例えば磁石を固定されたコイルに近づけた場合は電磁誘導により電流が流れると解釈されるが、逆にコイルを固定された磁石に近づけた場合はローレンツ力で電子が動かされることにより電流が流れると解釈された。今日的な視点から見れば、これら2つのケースは単なる慣性系の取り替えに過ぎないにも関わらず、両者の解釈が異なるのは不自然である。事実、流れる電流の量はどちらのケースであっても同一であり、磁石とコイルの相対速度だけで決まる。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 330, "tag": "p", "text": "このような非対称な解釈になったのは、当時は電場と磁束密度は完全に別概念であったことによる。(E1)式も、今日の目から見ると電場と磁束密度を電磁テンソルという同一のテンソルとしてまとめるべき事を示唆しているように見えるが、当時は(E1)式の第二項はあくまでも「仮想的な」電場や磁束密度の効果であるとみなされた。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 331, "tag": "p", "text": "上述したような理論の非対称性の解消に関心のあったアインシュタインは、特殊相対性理論によりこの非対称性を解消した。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 332, "tag": "p", "text": "すでに電磁テンソルがローレンツ変換に対して共変であることを示したので、マクスウェル方程式を電磁場テンソルで表せば、マクスウェル方程式もローレンツ変換に対して共変であることを示せる。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 333, "tag": "p", "text": "電磁テンソルと4元電流密度を使うとマクスウェル方程式の2式", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 334, "tag": "p", "text": "はいずれも", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 335, "tag": "p", "text": "と同一の形で表現でき、残りの2式", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 336, "tag": "p", "text": "はいずれも", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 337, "tag": "p", "text": "と同一の形で表現できる。なお、リッチ計算の記法を用いると、上の式は", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 338, "tag": "p", "text": "とも表記できる。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 339, "tag": "p", "text": "マクスウェル方程式は微分形式と外微分を用いるとさらに簡潔に表現できる事が知られているが、微分形式に関する予備知識を必要とするので本節では述べない(マクスウェル方程式#微分形式による表現を参照)。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 340, "tag": "p", "text": "電磁場には必ず以下の条件をみたす組 φ, A(電磁ポテンシャル)が存在する事が知られている", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 341, "tag": "p", "text": "本節では、電磁ポテンシャルの4元ベクトル版である4元ポテンシャル", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 342, "tag": "p", "text": "A → = ( A 0 , A 1 , A 2 , A 3 ) := ( φ / c , A ) {\\displaystyle {\\vec {A}}=(A^{0},A^{1},A^{2},A^{3}):=(\\phi /c,{\\boldsymbol {A}})}", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 343, "tag": "p", "text": "を用いる事で、マクスウェル方程式を表現する。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 344, "tag": "p", "text": "1つの電磁場に対し(E2)式を満たす電磁ポテンシャルは一意ではない事が知られている。そこでローレンツ共変性を損ねない形で電磁ポテンシャルを制限するため、4元勾配を使った以下の条件(ローレンツ・ゲージ)を課す:", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 345, "tag": "p", "text": "∂ A α ∂ x α = 0. {\\displaystyle {\\frac {\\partial A^{\\alpha }}{\\partial x^{\\alpha }}}=0.}", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 346, "tag": "p", "text": "このとき、マクスウェル方程式は4元電流密度を用いて", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 347, "tag": "p", "text": "◻ A → = μ 0 j → {\\displaystyle \\Box {\\vec {A}}=\\mu _{0}{\\vec {j}}}", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 348, "tag": "p", "text": "という一本の式で書き表せる。ここで", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 349, "tag": "p", "text": "はダランベルシアンである。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 350, "tag": "p", "text": "今、電荷 q を持った質点があるとし、この質点の4元速度を u→ とし、u→ の反変成分を (u0, u1, u2, u3) とする。このとき、この質点が電磁場から受ける4元力を、電磁場テンソル F を用いて", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 351, "tag": "p", "text": "f α = q F α β u β {\\displaystyle f^{\\alpha }=qF^{\\alpha \\beta }u_{\\beta }}", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 352, "tag": "p", "text": "によって定義すると、この4元力からできる質点の運動方程式は", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 353, "tag": "p", "text": "である。ここで p は質点の4元運動量の β 成分で、τ は質点の固有時間である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 354, "tag": "p", "text": "上の運動方程式は α = 0, 1, 2, 3 に対して定義されているが、4元運動量と4元速度の空間成分(の共変表現)p = (p, p, p), v = (u, u, u) に着目すると、電磁場テンソルの定義より、運動方程式の空間成分は", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 355, "tag": "p", "text": "となることがわかる。ここで γ はローレンツ因子 1 / √1 − (|v|/c) である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 356, "tag": "p", "text": "すなわち相対論における運動方程式の空間成分は、ローレンツ力に関する運動方程式", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 357, "tag": "p", "text": "と完全に一致する。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 358, "tag": "p", "text": "運動方程式の時間成分に関しては、cp が質点のエネルギー E を表していた事に着目すると、", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 359, "tag": "p", "text": "なので、下記の式が従う:", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 360, "tag": "p", "text": "右辺は単位時間当たりに電磁場のローレンツ力が質点に対してした仕事なので、この式はローレンツ力による仕事がエネルギーに変わる事を意味している。すなわちこれは、エネルギー保存則にあたる式である。", "title": "特殊相対性理論における電磁気学" }, { "paragraph_id": 361, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論は、次のような事象からも検証されている。", "title": "特殊相対性理論の実験的検証" }, { "paragraph_id": 362, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論すなわち慣性力のない慣性系を対象とする理論体系が一通り出来上がった後、アインシュタインは、非慣性系と重力場へ対象を広げる仕事に取り組み、より一般的な理論である一般相対性理論を導いた。", "title": "一般相対性理論へ" }, { "paragraph_id": 363, "tag": "p", "text": "特殊相対性理論では「あらゆる慣性系どうしが等価である」ことを原理としたが、さらに「慣性力と重力は本質的に区別がなく等価である」との視点に立ち、一般相対性理論を展開した。一般相対性理論によると、離れた観測者には光は速さが変化し曲線を描いて見える。この理論は、ニュートンの万有引力論による物理事象の捉え方を、全面的かつ発展的に書き換える内容である。", "title": "一般相対性理論へ" }, { "paragraph_id": 364, "tag": "p", "text": "一般相対性理論では思索の対象を慣性系以外にも広げており、その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論の「特殊な場合」に相当し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する理論である。これらの2つの相対性理論を総称して(あるいは、両者を区別をせずに)相対性理論と呼ぶこともある。", "title": "一般相対性理論へ" } ]
特殊相対性理論は、あらゆる慣性系間の等価性を公理とした物理学の理論である。特殊相対論(とくしゅそうたいろん)とも訳される。特殊相対性理論は一般相対性理論に包含される理論であるが、一般相対論と特殊相対論を特に区別せずに、相対性理論と呼称されることもある。光速に近い速度で相対移動する観測者対について古典力学 (ニュートン力学)は一般に実験事実と整合しないが、特殊相対性理論においては、観測者に固有の(あるいは観測者間の互いの)時間と空間の測量について定式化することで、これらの関係・法則を捉える。
{{Pathnav|[[物理学]]|[[相対性理論]]|frame=1}} '''特殊相対性理論'''(とくしゅそうたいせいりろん、{{lang-de-short|Spezielle Relativitätstheorie}}、{{lang-en-short|Special relativity}})は、あらゆる[[慣性系]]間の等価性を公理とした[[物理学]]の理論である。'''特殊相対論'''(とくしゅそうたいろん)とも訳される。特殊相対性理論は[[一般相対性理論]]に包含される理論であるが、一般相対論と特殊相対論を特に区別せずに、'''相対性理論'''と呼称されることもある。光速に近い速度で相対移動する観測者対について[[古典力学]] ([[ニュートン力学]])は一般に実験事実と整合しないが、特殊相対性理論においては、観測者に固有の(あるいは観測者間の互いの)時間と空間の測量について定式化することで、これらの関係・法則を捉える。 == 概要 == [[力学]]において、[[電磁気学]]の説くところによれば、観測者あるいは観測対象の[[慣性]]運動を伴う実験において、その結果には従来の[[ニュートン力学]]の示すところと不整合が生じ得る ([[#特殊相対性理論に至るまでの背景]])。[[アルベルト・アインシュタイン]]は[[1905年]]に発表した論文{{Sfn|アインシュタイン|1905a}}において特殊相対性理論を発表し、電磁気学的現象まで含めた慣性系間の等価性を[[公理]]として、以下の帰結を示した。 *ある観測者に対する、時間の経過と空間中の移動速度との関係 **相対運動する座標系における時間の経過 **相対運動する座標系における、“ローレンツ収縮”の空間上の形状にかかる効果 *[[質量とエネルギーの等価性]] 特殊相対性理論はニュートン力学では説明できなかった事柄をことごとく説明しており、とりわけ、ニュートン力学が矛盾をきたす光速度に近い速度で運動する物体の力学的挙動に対して、その実験事実によく整合する。こういった経緯から、特殊相対性理論を含む[[相対性理論]]は、現代物理学において重要な一体系として支持されている。定性的には、物体に対するエネルギーの放出・吸収にともなったその質量の減少・増加などが確認されている。 その名の通り、特殊相対性理論は[[一般相対性理論]]に包含される特殊論である。一般相対性理論が[[重力]]をはじめとする外力(あるいは慣性力)のある[[非慣性系]]等の定式化を含むものであるのに対して、特殊相対性理論では慣性力のはたらかない状況(たとえば加減速のない状況)、すなわち[[慣性系]]を主眼に据えて扱う。慣性系は非慣性系を含むあらゆる座標系の特殊・特別な場合のひとつであるので、本理論はこれを指すために「特殊」の語を冠して特殊相対論と呼称している。 == 特殊相対性理論に至るまでの背景 == {{Main|en:history of special relativity}} === ニュートン力学とガリレイの相対性原理 === [[アイザック・ニュートン|ニュートン]]は[[ニュートン力学|力学]]を記述するに当たって以下のような、「[[絶対時間と絶対空間]]」を定義した。 {{Cquote3|  ;絶対時間 :その本質において外界とはなんら関係することなく一様に流れ、これを持続と呼ぶことのできるもの ;絶対空間 :その本質においていかなる外界とも関係なく常に均質であり揺らぎがないもの|4=[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]|5=『[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]』{{sfnp|佐藤|1994|p=2}}}} すなわち、時間と空間は、そこにある物体の存在や運動に影響を受けないと仮定した{{sfnp|佐藤|1994|p=2}}。これをもって、我々が日常的直観として抱いている時間や空間に対する根本的感覚を表そうとした{{sfnp|佐藤|1994|p=2}}。この絶対時間をかかげるニュートン力学においても、あらゆる[[慣性系]]は本質的に等価(すなわち相対的)でもある。ニュートン力学では、2つの慣性座標系(慣性系Aおよび慣性系B)における同一点{{math|''A'' {{=}} (''t'', '''''x''''')}}と{{math|''B'' {{=}} (''t&prime;'', '''''x&prime;''''')}}を示す関係は、次に示す'''[[ガリレイ変換]]'''によって結ばれている。 {{Indent|{{math|(''t&prime;'', '''''x&prime;''''') {{=}} (''t'', '''''x''''' &minus; '''''v''''' ''t'')}}}} :ここで {{mvar|t, '''x'''}} は慣性系Aにおける時刻と位置であり、{{mvar|t&prime;, '''x&prime;'''}} は慣性系Bにおける時刻と位置である。{{mvar|'''v'''}} は、慣性系Aから見た慣性系Bの移動速度である。 狭義の例を示すならば、ある座標系Aに対して[[等速直線運動]]する別の座標系Bがあるとして、これら二つの座標系は本質的に等価(相対的)である。すべての基準となる静止座標系といった概念は、上式では規定されておらず、力学の法則はあらゆる慣性系からの観測について本質的に同一である。すなわち、ガリレイ変換によって形式が変わらない。ガリレイ変換における[[ニュートンの運動方程式]]の不変性、すなわち、この変換でつながる座標系間の等価性は、 '''[[ガリレイ不変性|ガリレオの相対性原理]]'''{{enlink|Galilean invariance}}と呼ばれる{{疑問点|date=2021年4月|title=慣性系の同等性 を指すのか、ガリレイ変換の下での不変性 まで含んだ意味か、曖昧。}}。ニュートン力学は、少なくとも当時に再現し得た諸実験事実と整合し、その矛盾があらわになる時代を迎えるまで(以下節)、力学の普遍的法則とも捉えられた。 === 電磁気学/光学の相対性原理との矛盾 === 19世紀後半になると、当時既に知られていた[[電磁気学]]に関するいくつかの基礎方程式群が、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]により系統化され、'''[[マクスウェルの方程式|マクスウェル方程式]]'''としてあらわされた。マクスウェル方程式の自由空間における解のひとつは[[電磁波]]である。この解が示す電磁波の伝播速度は、当時知られていた精度での[[光速度]] {{Mvar|c}} とよく一致した。このため、[[光]]と[[電磁波]]が同一のものと捉えられ、マクスウェル方程式は、電磁気学の基礎方程式であるのみならず、光の挙動を記述する支配方程式とみなされるようになった。 同時期において[[光学]]分野では、光の[[回折]]現象が知られていた。これを説明するために、光を波の伝播と見做す[[光の波動説]]が見出され、その支持が広まった。光の波動説では、光も空間を伝播する「もの」であるため、光が伝わる媒質である'''[[エーテル (物理)|エーテル]]'''なるものが宇宙に満たされているという仮説が、[[クリスティアーン・ホイヘンス|ホイヘンス]]により提案された。 光の波動説およびエーテルを前提とした議論では、エーテルに対して静止している理想的な座標系{{refnest|group="注"|ローレンツはこのようなエーテルに対して静止している系のことをそのまま『静止している系』または『静止系』と呼んだ{{sfnp|ローレンツ電子論|1973}}。}}{{R|group="注"|LPabs}}においてマクスウェル方程式は実験事実をよく支持し、有用な基礎物理方程式とみなされた。その一方で、エーテルに対して運動する基準系から見た状況について、次第に関心が寄せられるようになっていった。 ニュートン力学の基礎方程式であるニュートンの運動方程式は、ガリレイ変換による座標変換のもとで本質的には形を変えない。しかし、電磁気学の基礎方程式である'''マクスウェル方程式は、ガリレイ変換のもとで形式が本質的に変化してしまう'''<ref group="注">ここで述べる意味での「本質的に形式が変化する」や「本質的に不変」といった表現に関しては、数学的に立ち入った説明が必要であり、概説・導入部の域を超えるので、詳説は以降の節の「共変」に関する説明を参照されたし。</ref>。この数式上の変化は、マクスウェル方程式が真に成り立つ慣性系がこの世界のどこかにあり、(形式を変化させずに)マクスウェル方程式が別の慣性系においても成立できる「ガリレイ変換でない新たな座標変換」が必要だと予想された。 [[ハインリヒ・ヘルツ|ヘルツ]]はこの変形された方程式を運動座標系における電磁場の支配方程式として導出した{{Sfnp|Hertz|1890}}{{Sfnp|砂川|1999}}が、Wilson や Röntgen&ndash;Eichenwald の実験によって否定された{{sfnp|広重|1980|loc=『世代交代期における電磁理論』}}{{Sfn|後藤|1970|loc={{page needed|date=2016年5月23日 (月) 10:31 (UTC)}}}}{{Sfn|砂川|1999|refname=砂川1999要ページ番号a|loc={{Page needed|date=2016年5月23日 (月) 10:31 (UTC)}}}}。当時の電磁気学についての問題提起として、たとえば以下のようなものが挙げられる。 *光の伝播速度は実験的に光源の速度に依存しないことが判っている。にもかかわらず、その媒質(エーテル)が存在しないとすることは理解しがたい(よって、エーテルがあるに違いない)。 *'''エーテルの存在を仮定するならば、エーテルに対して静止する「絶対静止系」が存在することになる'''{{R|group="注"|LPabs}}。これは、絶対空間を否定する相対性原理に反し得る。{{sfnp|佐藤|1994|p=5}} このような光の速度と観測者・光源の運動(運動する座標間の変換)に関して混迷した状況があり、なんらかの新たな実験及び理論が求められる状況であった。そのようななか、「'''ガリレイの相対性原理を是とし、光の速度が慣性系に依存する'''{{sfnp|佐藤|1994|p=5}}のであれば、様々な異なる慣性系(運動座標系)から光の速度を計測すれば、マクスウェル方程式と一致する"ただ一つの静止基準系"が見つかるであろう」との発想から[[マイケルソン・モーリーの実験]]{{Sfnp|マイケルソン・モーリー|1887}}が行われた。 ===マイケルソン・モーリーの実験=== ==== エーテル前提の解釈 ==== '''[[マイケルソン・モーリーの実験]]''' ({{enlink|Michelson&ndash;Morley experiment|p=off|s=off}}){{Sfnp|マイケルソン・モーリー|1887}}にて、両氏は、地球の公転移動に着目した。実験空間の環境下において、公転運動の進行方向の前後に対してエーテルの「風」が吹くことを想定して、そこで伝播する2経路の光の干渉縞を見ることを通じて、光のエーテル中の伝播速度を精密に測定しようと試みた。これにより、エーテル中における観測者の移動速度(ここでは地球の公転速度)の影響を調べられると考えたのである。これは当時の技術で十分に機能できる手法であった<ref group="注">即ち、もし両氏の仮説が正しいのなら、「光の速度差」を検出可能な精度を有していた。</ref>。しかしながら、光の速度に有意の差異は認められず、両氏の期待した観測者移動速度の影響(「エーテルの風」の効果)は実験的に支持されなかった。この当時は「観測者の運動の光速度に及ぼす影響について、”予想されていた水準”よりは、無に近いか全く無いものであろう」と結論された。 一方で、上記の実験を支持できる物理体系を見出す試みとして、[[ハインリヒ・ヘルツ|ヘルツ]]、[[ジョージ・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]、[[ヘンドリック・ローレンツ|ローレンツ]]、[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]など{{sfnp|後藤|1970|p=386&ndash;388}}{{Sfn|砂川|1999|refname=砂川1999要ページ番号b|loc={{Page needed|date=2016年5月23日 (月) 10:31 (UTC)}}}}の学者は、エーテル説に付け加えて、辻褄合わせのための仮定を付与することで実験事実と理論を整合させようと試みた。例えばローレンツとフィッツジェラルドは各々独立に、運動する物体が「エーテルの風」を受けて収縮する'''フィッツジェラルド=ローレンツ収縮'''{{sfnp|Lorentz|1904}}<ref group="注">特殊相対性理論では物体が実際に縮むという意味のフィッツジェラルド=ローレンツ収縮はしない。ローレンツの理論との混同を招き紛らわしいので特殊相対性理論では用いない方が良い用語である{{要出典|date=2016年5月}}<!--佐藤の本を始め、大抵の相対論の教科書では「ローレンツ収縮」と言う言葉を使っているが、正確性に欠ける百科事典や辞書ではこの語を掲載している(後述)。-->。</ref>({{仮リンク|ローレンツのエーテル理論|en|Lorentz ether theory}})を提示した。フィッツジェラルド=ローレンツ収縮によって、マイケルソン・モーリーの実験では「エーテルの風」の効果がキャンセルされたと説明しており、その際の収縮の度合いを説明する座標変換式('''[[ローレンツ変換]]'''、{{enlink|Lorentz transformation|p=off|s=off}}{{refnest|group="注"|この変換に対して最初にローレンツ変換という名称をあたえたのは[[ポアンカレ]]である{{sfnp|ポアンカレ|1905}}。}})を定式化した。しかしながら、この座標変換の理解のみでは検証可能性を欠いていた<ref group="注">ローレンツの理論では物体が'''実際に'''収縮するとみなすので、運動する物体が一律に収縮するならば、「長さ」の基準となる物差しさえも収縮してしまい、結果として収縮は観測されない為に検証不能となる。一方、特殊相対性理論では実際に収縮するのではなく、同時である状態が座標系によって異なる(位置のみならず運動状態によっても同時性が異なる)ため収縮して観測される、とされる。特殊相対性理論においては普遍定数である光速を物差しとして「長さ」が再定義されており、上述した検証不能性の問題は生じない。</ref>。他方で、ローレンツと[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]は、時間の流れが観測者によって異なるとする「局所時間」という相対性理論の萌芽ともいえる思索を提起し<ref group="注">ただし、ローレンツは局所時間をあくまで形式的なものだとした。</ref>、Wilson や Röntgen&ndash;Eichenwald の実験に合致できる電磁場の方程式を導出していた{{Sfnp|Lorentz|1895}}。 以上の理論はいずれも'''数式上は'''実験事実と合致しており、現代物理学が支持するアインシュタインの理論とも整合する。すなわち、このような数式を持ち込みさえすれば、従来の物理理論との実験上の矛盾はひとまず解消されるということは、一定の成果ではあった。しかしこれらの理論は、あくまでもエーテル仮説(絶対空間の存在)と光速度不変則(実験事実)の食い違う部分のみを解消する為に導出された解決策に過ぎず、たとえば下記のような疑問について、理論上・実験上の不満を残した。 * 運動する物体が、実際に縮むことなどあり得るのか? 実際に縮むのであれば、その物体の破壊には影響するのか?{{refnest|group="注"|ローレンツが提唱した時点ですでに楕円体に変形した電子の安定性について[[マックス・アブラハム]]から批判が出ていた{{sfnp|ローレンツ電子論|1973|p=235}}。}} * 数式上導入された「局所時間」を、物理学の体系としてどう解釈するのか?<ref group="注">実際、アインシュタインの理論を認めたローレンツは{{Harvtxt|ローレンツ電子論|1973|p=360}} において『わたくしが誤った主な原因は、変数 {{mvar|t}} だけが真の時間と見なしうるのであって、わたくしの局所時 {{mvar|t'}} は補助的な数学的な量以上のものと見なしてはならないという観念を固守していたことである。それに反して、Einsteinの理論では {{mvar|t'}} は {{mvar|t}} と同じ役を果たす。』({{mvar|t'}} はこの節における {{mvar|τ}} である)と述懐している</ref> ==== ガリレイ原理にのっとった解釈 ==== ガリレイ等価原理に則るならば、マイケルソンらの実験結果を整合するように解釈するには、物体の移動速度と位置と時刻の関係について、まったくの未知の法則の発見が必要であることを示すのみである。 <!--いま、ある慣性系における静止した観測者Aと静止した光源Lを考える。光源Lから出る光の速さを観測者Aはcと観測したとする。次に観測者Aに対して一定方向に速さvで運動する観測者A'と光源L'を考える。光源L'は観測者A'から見ると静止している。光源L'から出る光の速さを観測者A'はc'と観測したとすると特殊相対性原理よりc'=cであることが言える。(a(v)をvの関数として、c'=a(v)cとおく。a(v)が速さvの関数で向きによらないのは空間の等方性による。特殊相対性原理より全ての慣性系は等価であるので逆にc=a(v)c'も言えて、a(v)<math>{}^2</math>=1よりc'=cを得る。)すなわち、どの慣性系でも観測者に対して静止した光源から出る光の速さはcと観測される。ここまでが特殊相対性原理の主張である。次に、観測者A'と光源L, L'の関係について考える。光源Lは観測者A'に対して運動しているが、光速度不変の原理より光の速さは光源の運動によらない。従って、観測者A'は光源Lから出る光の速さを光源L'のものと同じくcと観測する。最後に観測者A, A'と光源Lに注目する。上の議論から、観測者AとA'はともに光源Lから出る光の速さをcと観測する。すなわち、 : 一つの光源を考えたとき、光源に対して静止している観測者も、光源に対して等速度運動している観測者も光源から出る光の速さを同じcとして観測する という驚くべき内容が結論される。(この結論の方を光速度不変の原理として採用する流儀も多い。)これは日常の感覚からすると奇異に感じられるが、[[マイケルソン・モーリーの実験]]の結果から支持されるところである。--> 結局、以上までの一連の経緯を経て当時の物理学が得たものは、光速は不変という実験事実が分かったこと、および、時間や空間の絶対的均質性といった前提が揺らいだことであった。前提の思想として「絶対空間」や「絶対時間」に拘泥しがちな一方で、「絶対空間」ではないはずの実験環境下で精密測定される光の速度はどれも一定値(有意の差のない範囲で同一・不変)であり、それに整合する一応の理論は構築可能であった。このように、時間・空間に対する思想と実験結果に対する(いわば応急措置的な)理論の間に、ある種の不調和ともとれる状況があった。そういった従来の疑わしい前提を排除したうえで、新たに基礎的な物理法則体系を提唱・検証する必要が生じていた。これを成し遂げたのが、当時アマチュアの物理研究家であったアインシュタインであった。 == 特殊相対性理論の基礎 == [[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]は、自身のいくつかの(主に3つの)論文{{R|einstein}} を通して、「'''特殊相対性理論'''」を確立した。その大部分は、1つ目の論文「運動物体の電気力学について ON THE ELECTRODYNAMICS OF MOVING BODIES」に記されている。本節では、アインシュタインの「運動物体の電気力学について」を軸に据えつつ、後世の補足・解釈も踏まえながら、特殊相対性理論の基礎となる部分(公理と数学的準備)について説明する。 === 『運動物体の電気力学について』概要 === アインシュタインによる著作「運動物体の電気力学について」は、序文と10個の節からなる。第5節までは「力学」、第6節以降は「電気力学」とそれぞれ題されている。序文の中で「'''相対性原理'''」と「'''光源の運動と無関係に光速は一定である'''」という2つの前提が示されている。この2条件をもって、”静止物体のためのマクスウェル理論に基づいて運動物体を論ずるのに十分”と述べられている。 ===指導原理=== <!--{{Main|{{仮リンク|特殊相対性理論における前提|en|Postulates of special relativity}}}}--> アインシュタインの原論文における特殊相対性理論では、以下の二つの事柄を指導原理(前提条件、公理)として、その物理学的枠組みが展開されている<!--{{sfnp|シュッツ|2010|pp=1,2}}{{sfnp|佐藤|1994|p=8}}-->{{sfnp|内山|1977|p=6-7}}{{sfnp|パウリ|2007|p=33-36}}。[[#特殊相対性理論に至るまでの背景]]に述べた「エーテルに対して動いていない”特別なひとつの慣性系”が存在するはず<!--であり、他の”特別でない慣性系たち”における物理現象は”特別なひとつの慣性系”からの座標変換を経て理解するべきだ-->」という思想からの脱却である。 ;特殊相対性原理 :物理法則に関してすべての慣性系は対等である。すなわち、あらゆる慣性系において物理法則を記述する運動方程式は、その形式が不変である。 ;光速度不変の原理 :真空中の光の速さは光源の運動状態に無関係である。<!--真空における光の速度 {{mvar|c}} はどの慣性座標系でも同一である <ref group="注">前述のように光は[[電磁波]]であるので、これは電場や磁束密度に[[ダランベール演算子|ダランベルシアン]] <math>\Box_c</math> を作用させるとどの慣性系でも 0 になるということである。これは現代から考えれば当たり前であるが、ヘルツは運動座標系においてはヘルツ項なるものが必要であると主張したりしており、当時は当たり前ではなかった。ヘルツ項については{{Harvtxt|砂川|1999}}が詳しい。</ref>--> <!-- 光速度不変の原理は前述した[[マイケルソン・モーリーの実験]]の結果から帰結される。実際、この実験の結果によれば、地球から見た光速度は季節によらず同一であった。地球の運動方向や速度は季節によって異なるので、この実験の結果は、光速度が系の運動方向や速度によらないことを意味し、これはすなわちどの[[慣性系]]から見ても光速度が不変である事を強く示唆しているのである{{sfnp|佐藤|1994|p=8}}。一方、相対性原理は[[ガリレイの相対性原理]]を緩和したもので、全ての慣性座標系が等価であることは仮定するが、慣性座標系の間の変換則がガリレイ変換であるとは仮定しない。この原理は、光速度不変の原理から示唆される。光速度不変の原理によれば、どの慣性座標系でも同一であるのだから、絶対静止座標系のような「特別な」座標系は存在せず、全ての慣性座標系は等価であると思われるのである{{sfnp|佐藤|1994|p=8}}。--> 特殊相対性原理は運動方程式が<!--ガリレイ変換やローレンツ変換、あるいは、何らかの別の-->ある種の座標変換に関して共変であるべき、との原理である。なお、アインシュタインの最初の論文では単に「相対性原理」と呼ばれていた。のちに一般相対性理論が世に出てから、それと区別するために「特殊相対性原理」と呼ばれるようになった。 光速度不変の原理は相対性理論構築に必要な最低限の要請をマクスウェル理論から抽出したものであり、物理的に新しい主張を含むのは特殊相対性原理のみである{{sfnp|内山|1977|p=7-8}}。 なお、現代では光速度不変の原理として以下のような表現を採用する流儀も多い{{sfnp|佐藤|1994|p=8}}{{sfnp|シュッツ|2010|p=2}}。 :「真空中の光の速さは一定であり、どの慣性系で測定しても同じ値をとる」 <!--特殊相対性理論の前提条件は特殊相対性原理と光速値不変の2つとされる。これはアインシュタインの原論文にある2つの前提条件とは異なる。原論文では「あらゆる慣性系において物理法則は同一」「(光源の移動によらず)光速一定」であり、この2点は相対論構築に必要な最低限の要請をマクスウェル理論から抽出したという位置づけである。この2条件を合わせると、以下に記すように、高速度/値不変則が導かれる。--> しかし、これは本来、特殊相対性原理と(原論文の)光速度不変の原理から、次に記すように演繹される内容である。 :いま、ある慣性系Sと、Sに対して一定方向に速さvで運動する慣性系S'を考える。光速度不変の原理より、慣性系Sにおいては、あらゆる光の速さが光源の運動状態によらず一定値をとる。ここではそれをcとする。同様に、慣性系S'においては、あらゆる光の速さがc'と観測されるとする。このとき、慣性系間の等価性を主張する特殊相対性原理に従うならば、c' = cであることが言える<ref group="注">定式化して具体的に述べる。a(v)をvの関数として、c' = a(v)cとおく(a(v)が速さvの関数で向きによらないのは空間の等方性による)。特殊相対性原理より全ての慣性系は同等であるので逆にc = a(v)c'も言えて、a(v)<math>{}^2</math>=1よりc'=cを得る。</ref>。すなわち、「全ての慣性系において、あらゆる光源からの光の速さは一定値cである」という主張は、アインシュタインの原論文の二つの指導原理から導出可能である。このように、光の速さのような物理定数<ref group = "注">マクスウェル方程式の解の導出経緯をたどれば、SI単位系での真空中の誘電率と透磁率という別の物理定数について、これら(の積)と光速は原理上同一のものである。</ref>は全ての慣性系で同一の値をとることを、特殊相対性原理は含意しているのである{{sfnp|広江|2008|p=13}}{{sfnp|Landau|Lifshitz|1978|p=2}}。 以上の指導原理に加えて、主に次の2つの要請を満たすことを要求としたうえで、特殊相対性理論は構築されている。 ;「特殊相対性理論は、電磁気学(マクスウェル方程式)と整合するべきである」 :光の支配方程式とされるマクスウェル方程式には、当時は観測者の運動の効果(慣性系から別の動く慣性系への座標変換への対応)が抜けているとされていた。しかし、光速度を不変とする特殊相対性理論の思想的枠組みを取り入れれば、座標変換を考慮に含めても、マクスウェル方程式自体は修正不要であることが示されている([[#特殊相対性理論における電磁気学]])。 ;「特殊相対性理論の成果は、それまでのニュートン力学と両立すべきである」 :特殊相対性理論で用いる慣性座標系間の変換則は、'''非相対論的極限''' ({{math|''v'' / ''c'' &rarr; 0}}) においてガリレイ変換に漸近する(ここで {{Mvar|v}} は2つの慣性座標系間の速度で、{{Mvar|c}} は真空中の光速度である{{sfnp|佐藤|1994|p=8}})。そのため、この条件下では、ガリレイ変換のもとで不変のニュートン力学との齟齬はないことが示されている。 なお、これら指導原理や諸要請の他にも、従来の物理学から継承される「空間の等質性」や「空間の等方性」といった暗黙の前提は、特殊相対性理論においても基礎とされている。 ===変換則の形態=== 以上の指導原理と諸要請・前提を満たすべく、特殊相対性理論においては、2つの[[慣性系]]の間の座標変換則を次のように導入する(実際に特殊相対性理論で用いられる座標変換「[[#ローレンツ変換|ローレンツ変換]]」を導く)。以下では、{{mvar|c}} を不変の[[光速度]]とし、時刻 {{mvar|t}} の代わりに{{mvar|c}} を乗じた {{mvar|ct}} を用いることとして、時間軸と空間軸を統一的に扱って述べる。 今、慣性運動する2人の観測者(すなわち何ら[[外力]]のかかっていない観測者){{Math|A}}、{{Math|B}}がある一点ですれ違ったとする。{{Math|A}} の慣性系における位置と時刻を表す座標系を {{math|(''ct'', '''''x''''')}} 、{{Math|B}} の慣性系における位置と時刻を表す座標系を {{math|(''ct''&prime;, '''''x'''''&prime;)}} とする。<!--なお、両者の座標系で同一の[[光速|光速度]] {{mvar|c}} を用いることができるのは、光速度不変の原理による。-->ここで、2つの時刻 {{mvar|ct}}、{{mvar|ct&prime;}} は各観測者に独立なものである。すなわち、特殊相対性理論においてここでまさに、絶対時間が放棄されている(二人の観測者に共通の「絶対時間」はどこにも存在しない){{sfnp|佐藤|1994|p=9}}。もちろん、位置座標軸も各観測者に独立固有の存在であり、二人の観測者に共通の空間的尺度「絶対空間」もない。なお、以降では便宜上、二人の観測者がすれ違った際に、位置と時刻の起点(一般に原点・ゼロ点)を規定することが多いが、位置と時刻の起点は再現性のある然るべき手段によって適宜取り直してもよい。また、二人の観測者に共通の絶対時間も絶対空間も存在せず不可知である一方で、それぞれの観測者が(何らかの手段で)もう一方の観測者が観測した時刻・位置の値を知ることは一般に妨げられない<ref group = "注">現に物理学者は、このような二人の観測者それぞれが観測する時刻・位置を自由に知ることができることを前提に、相対性理論の論じることができる(本記事の議論がまさにそれである)。これは相対性理論に基づく実験実施においても可能な行為である。</ref>。 ここで、2つの座標系の間の一般的な変換規則の数学表現として、[[テイラー展開]]による座標変換規則をまず考える。{{math|(''ct'', '''''x''''')}}あるいは {{math|(''ct''&prime;, '''''x'''''&prime;)}} という表現から示唆されるように、各慣性系での時刻・空間座標の数値の組は4次元の行ベクトル・列ベクトルとして扱える(時刻(1次元)と空間(3次元)をあわせた4次元。下記では縦ベクトル(列ベクトル)の表記を用いる)。一般に座標変換規則は、何らかの定数ベクトル {{mvar|{{vec|b}}}} と[[行列 (数学)|行列]] {{mvar|&Lambda;}} (この場合では4行4列の行列)とを用いて、次のように記述できる。 :<math>\begin{pmatrix}ct'\\ \boldsymbol{x}'\end{pmatrix} = \vec{b} + \Lambda\begin{pmatrix}ct\\ \boldsymbol{x}\end{pmatrix}+</math>(二次以上の項) {{Math|A}}と{{Math|B}} が最も接近してすれ違った際において、位置と時刻を双方の座標系の原点と定めると、 {{math|{{vec|''b''}} {{=}} {{vec|0}}}} と簡略化することができる。また、特殊相対性理論においては、外力の無い慣性系を前提とする。このことから、上式の二次以上の項はゼロとできる(二次以上の項があると、{{Math|A}}と{{Math|B}} が相互に加速度運動していることとなり、慣性系であるという要請から外れる{{sfnp|佐藤|1994|p=9}})。以上の諸仮定をもとに、次に示す[[線形変換]]の形態として、特殊相対性理論に則った座標変換則を得ることができる。 :<math>\begin{pmatrix}ct'\\ \boldsymbol{x}'\end{pmatrix} = \Lambda\begin{pmatrix}ct\\ \boldsymbol{x}\end{pmatrix}</math> すなわち、'''特殊相対性理論においては、物理現象は4次元のベクトル空間で記述される。慣性系はその4次元ベクトル空間の基底であり、各慣性系の間の座標変換は行列{{mvar|&Lambda;}}による線形写像である'''。 ===世界間隔=== 上記であつかった空間の3次元に時刻(1次元)を加えた4次元の時空間における点を'''世界点'''と呼ぶ{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}。 ある慣性座標系から見て、ある時刻 {{Math|''t''{{sub|1}}}} に、3次元空間上のある位置 {{Math|'''''x'''''{{sub|1}}}} を光が通過したとする。その後、この光が時刻 {{Math|''t''{{sub|2}}}} に位置 {{Math|'''''x'''''{{sub|2}}}} まで伝播したとする。光速度は不変量 {{Mvar|c}} であるので、これは :<math>\frac{|\boldsymbol x_1-\boldsymbol x_2|}{|t_1-t_2|}=c</math> すなわち、 :<math>c^2(t_1-t_2)^2-|\boldsymbol x_1-\boldsymbol x_2|^2=0</math> である事を意味する{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}。 世界点 1 と世界点 2 の間に定義される量 :<math>s_{12}:=\sqrt{c^2(t_1-t_2)^2-|\boldsymbol x_1-\boldsymbol x_2|^2}</math> を'''[[世界間隔]]'''{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}もしくは'''世界距離'''{{要出典|date=2020年8月}}と呼ぶことにする。ある慣性系において {{Math|''s''{{sub|12}}{{sup|2}} {{=}} 0}} が成り立つならば、特殊相対性原理から、他の任意の慣性系でも {{Math|''s''&prime;{{sub|12}}{{sup|2}} {{=}} 0}} が成り立つことになる。ここで、微分表現を採用して、これらの微小世界間隔を次のように表記する。 :<math>\mathrm{d}s^2:=c^2(\mathrm dt)^2-|\mathrm{d}\boldsymbol{x}|^2, \quad \mathrm{d}s'^2:=c^2(\mathrm dt')^2-|\mathrm{d}\boldsymbol{x'}|^2</math> これらは同次微小量であることから、 :<math>\mathrm{d}s^2=a\mathrm{d}s'^2</math> という関係式が成り立つ。ここで、この係数 {{Mvar|a}}は時間と空間の一様性から時間と座標に依存せず、空間の等方性から慣性系間の相対速度の方向に依存しないことが要請される。したがって、慣性系間の相対速度の絶対値にのみ依存する{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}。特殊相対性理論において、微小世界間隔の不変性、すなわち、{{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}}) &equiv; 1}}であることを示す手法は、たとえば以下の2つが存在する。 ==== 逆変換に関する要請を利用する手法 ==== 2つの慣性系 {{Math|''K''{{sub|1}}, ''K''{{sub|2}}}} の間の相対速度を {{Math|'''''V'''''}}とすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 {{Math|d''s''{{sub|1}}, d''s''{{sub|2}}}}および係数 {{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}})}} についての関係式として、逆変換に対する要請から :<math>\mathrm{d}s_1{}^2=a(|\boldsymbol V|)\mathrm{d}s_2^2,\quad \mathrm{d}s_2{}^2=a(|\boldsymbol -V|)\mathrm{d}s_1{}^2</math> が得られ、代入して <math>a(|\boldsymbol V|)^2=1</math> が得られる{{sfnp|野村 清英|2019|p=5}}。{{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}}) > 0}}より<ref group="注">証明:[https://en.wikipedia.org/w/index.php?curid=39499535#Rigorous_Statement_and_Proof_of_Proportionality_of_ds2_and_ds%E2%80%B22 Derivations of the Lorentz transformations - Wikipedia]</ref>{{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}}) &equiv; 1}}が得られる。 ==== 速度合成に関する要請を利用する手法 ==== 三つの慣性系 {{Math|''K''{{sub|1}}, ''K''{{sub|2}}, ''K''{{sub|3}}}} の間の相対速度を {{Math|'''''V'''''{{sub|12}}, '''''V'''''{{sub|23}}, '''''V'''''{{sub|31}}}} とすると、それぞれの慣性系における微小世界間隔 {{Math|d''s''{{sub|1}}, d''s''{{sub|2}}, d''s''{{sub|3}}}} および係数 {{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}})}} についての関係式として :<math>\mathrm{d}s_1{}^2=a(|\boldsymbol V_{12}|)\mathrm{d}s_2^2,\quad \mathrm{d}s_2{}^2=a(|\boldsymbol V_{23}|)\mathrm{d}s_3^2, \quad \mathrm{d}s_3{}^2=a(|\boldsymbol V_{31}|)\mathrm{d}s_1^2,</math> :<math>\therefore \frac{a(|\boldsymbol V_{12}|)}{a(|\boldsymbol V_{23}|)}=a(|\boldsymbol V_{31}|)</math> が得られる。後者の左辺は {{Math|'''''V'''''{{sub|12}}, '''''V'''''{{sub|23}}}} の絶対値にのみ依存するのに対し、右辺の{{Math|'''''V'''''{{sub|31}}}}は {{Math|'''''V'''''{{sub|12}}, '''''V'''''{{sub|23}}}}間の角度にも依存すると考えられるため、 {{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}})}} は{{Math|'''''V'''''}}によらず、定数であることがわかる{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}。(ここで、ニュートン力学とは異なり、相対性理論ではガリレイ変換は成立せず{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§5 速度の変換|1978}}、<math>\boldsymbol V_{31}\neq-\boldsymbol V_{12}-\boldsymbol V_{23}</math>であることに注意せよ。)さらに、関係式から {{Math|''a''({{Mabs|'''''V'''''}}) &equiv; 1}} が得られる{{sfnp|Landau|Lifshitz|loc=§2 世界間隔|1978}}。 以上二つのいずれを採用するにせよ、微小世界間隔はあらゆる慣性系間で保存されることになる(座標変換に関して不変)。したがって、このような微分の集積である有限の世界間隔についても、慣性系間の座標変換を経ても不変の保存量となる。 === ミンコフスキー空間 === 世界距離の定義から、以下の内積風の[[二項演算子]] :<math>\eta((ct,x,y,z),(ct',x',y',z')):=(ct)\cdot(ct')-xx'-yy'-zz'</math> を考えると、世界距離の二乗は {{math|''&eta;''((''ct,x,y,z''),(''ct,x,y,z''))}} に一致する。このような二項演算子 {{mvar|&eta;}} を'''ミンコフスキー内積'''もしくは'''ミンコフスキー計量'''と呼び、ミンコフスキー内積の定義されたベクトル空間を'''[[ミンコフスキー空間]]'''と呼ぶ。ミンコフスキー空間上の点を'''世界点'''もしくは'''事象'''{{sfnp|シュッツ|2010|p=7}}と呼び、ミンコフスキー空間のベクトルは通常の3次元のベクトルと区別する為、'''[[4元ベクトル]]'''という<ref group="注">本項では{{Harvtxt|シュッツ|2010}}に従い、4元ベクトルは {{mvar|{{vec|a}}}} のように矢印をつけて表し、通常の3元ベクトルは {{mvar|'''a'''}} のように太字で表した。しかしベクトルの表記は本によって異なり、{{Harvtxt|前原|1993}}では4元ベクトルを太字で表している。</ref>。 なお、世界点 {{mvar|P}} は、{{mvar|P}} と原点 {{mvar|O}} とを結ぶ4元ベクトル <math>\overrightarrow{\mathrm{OP}}</math> と自然に同一視できるので、以下、表現に紛れがなければ世界点を4元ベクトルとして表現する。 特殊相対性理論では、時空間をミンコフスキー空間として記述する。 ====ミンコフスキー・ノルム==== 4元ベクトル {{mvar|{{vec|a}}}} に対し {{math|''&eta;''({{vec|''a''}}, {{vec|''a''}})}} が非負であれば {{Indent|<math>\|\vec{a}\|:=\sqrt{\eta(\vec{a},\vec{a})}</math>}} を'''ミンコフスキー・ノルム'''といい、世界点 {{mvar|{{vec|a}}}}、{{mvar|{{vec|b}}}} に対し、{{math|''&eta;''({{vec|''a''}} &minus; {{vec|''b''}}, {{vec|''a''}} &minus; {{vec|''b''}})}} が非負であれば {{math|''&eta;''({{vec|''a''}} &minus; {{vec|''b''}}, {{vec|''a''}} &minus; {{vec|''b''}})}} の平方根を {{mvar|{{vec|a}}}}、{{mvar|{{vec|b}}}} の'''世界距離'''という。 なお、世界「距離」という名称ではあるが、 *負の値や[[虚数]]も取りうる *0ベクトルでなくとも世界距離が0になることがある といった点から[[距離空間|数学的な距離の公理]]を満たさない。 また、{{mvar|{{!!}}{{vec|a}}{{!!}}}} は常に定義できるとは限らないばかりかミンコフスキー・ノルムが定義できる値に対しても'''[[三角不等式]]の逆向き'''の不等式 {{Indent|<math>\|\vec{a}+\vec{b}\|\ge\|\vec{a}\|+\|\vec{b}\|</math>}} が成り立つ事から、ミンコフスキー・ノルムも数学で通常使われる[[ノルム]]の定義を満たさない。 ====符号と記法に関して==== {{Main|符号の規約}} 本項では、ミンコフスキー内積を :<math>\eta((ct,x,y,z),(ct',x',y',z'))=(ct)\cdot(ct')-xx'-yy'-zz'</math> としたが、書籍によっては符号を逆にした :<math>\eta((ct,x,y,z),(ct',x',y',z'))=-(ct)\cdot(ct')+xx'+yy'+zz'</math> をミンコフスキー内積としているものもあるので注意が必要である。 本項と同じ符号づけを'''時間的規約'''、本項とは反対の符号づけを'''空間的規約'''と呼んで両者を区別する。 また本項ではミンコフスキー内積を {{mvar|&eta;}} で表したが、{{mvar|g}} で表したり、両者を混用することもある。例えば{{Harvtxt|佐藤|1994}}は、特殊相対性理論には {{mvar|&eta;}} を用いる一方で一般相対性理論では {{mvar|g}} を用いている。また{{Harvtxt|シュッツ|2010}}ではミンコフスキー内積には {{mvar|g}} を用いてその行列表示は {{mvar|&eta;}} としている。 ====厳密な定義==== {{mvar|V}} を {{mvar|n}} 次元実ベクトル空間とし、 :<math>\eta\colon V\times V\to\mathbb{R}</math> を {{mvar|V}} 上の対称[[二次形式]]とする。このとき、{{mvar|V}} の基底 {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}, ..., {{vec|''e''}}{{sub|''n''}}}} と非負整数 {{mvar|p}}、{{mvar|q}} が存在し、 :<math>\eta\left(\sum_\mu a^\mu\vec{e}_\mu,\sum_\nu b^\nu\vec{e}_\nu\right) = a^1b^1+\cdots+a^pb^p-a^{p+1}b^{p+1}-\cdots-a^{p+q}b^{p+q}</math> が成立する事が知られている。しかも {{mvar|p}}、{{mvar|q}} は {{math|(''V'', ''&eta;'')}} のみに依存し、基底 {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}, ..., {{vec|''e''}}{{sub|''n''}}}} には依存しない('''[[シルヴェスターの慣性法則]]''')。 {{math|''p'' {{=}} 1}}、{{math|''q'' {{=}} ''n'' &minus; 1 }} となる二次形式 {{mvar|&eta;}} を'''ミンコフスキー計量'''と呼び、組 {{math|(''V'', ''&eta;'')}} を {{mvar|n}}次元'''ミンコフスキー空間'''という。 特殊相対性理論で用いるのは、次元 {{mvar|n}} が4の場合なので、以下特に断りがない限り、{{math|''n'' {{=}} 4}}とする。 ====ミンコフスキー空間の図示==== [[画像:World line (ja).svg|thumb|306x306px|時間1次元+空間2次元のミンコフスキー空間を描いた抽象図。<br /> 過去光円錐の範囲内において発生した森羅万象の結果が観測者の示す中心点へと集まり、その結果に対する森羅万象が未来光円錐の範囲内へと時間軸に沿って広がっていく様を表現している。]] 空間方向の次元を2に落としたミンコフスキー空間を図示した。図では何らかの慣性系から見たミンコフスキー空間が描かれており、この慣性系に対して静止している'''観測者''' (observer) が原点にいる。この観測系における座標の成分表示を {{math|(''ct'', ''x'', ''y'')}} とする。 この観測者にとっての'''時間軸''' {{math|(''ct'', 0, 0)}} は図で「時間」と書かれた軸であり、この観測者にとって時間は時間軸にそって流れる。従って図の上方が'''未来'''であり、下方が'''過去'''である。観測者が慣性系に対して静止している事を仮定したので、時間が {{mvar|t}} 秒経つと、観測者のミンコフスキー空間上の位置は {{math|(''ct'', 0, 0)}} に移る。 一方、この観測者にとって'''現在'''にある世界点の集まり(すなわちこの観測者にとっての空間方向)は図の「現在」と書かれた平面であり、この観測者からみた空間方向の座標軸 {{math|(0, ''x'', 0), (0, 0, ''y'')}} が「空間」と書かれた二本の軸である。 世界距離の定義から、原点を通る光の軌跡は :{{math|(''ct''){{sup|2}} &minus; ''x''{{sup|2}} &minus; ''y''{{sup|2}} {{=}} 0}} を満たす。この方程式を満たす世界点の集合は2つの円錐として描かれ、これを'''光円錐'''という。図の上にある逆さまの円錐が未来の光円錐 (future light cone) であり、図の下にある円錐が過去の光円錐 (past light cone) である。 原点を通る光の軌跡は、光円錐上にある直線である。観測者は光を使って物をみるので、過去の光円錐の上にある世界点が観測者に見える(もちろん、他の物体に遮られなければ)。 ミンコフスキー空間上の4元ベクトル {{mvar|{{vec|x}}}} の終点が(未来もしくは過去の)光円錐の内側にあるとき {{mvar|{{vec|x}}}} は'''時間的'''であるといい、終点が光円錐の外側にあるとき {{mvar|{{vec|x}}}} は'''空間的'''であるといい、光円錐上にあるとき {{mvar|{{vec|x}}}} は'''光的'''であるという。定義より明らかに、以下が成り立つ:{{mvar|{{vec|x}}}} が時間的、空間的、光的であるのは、{{math|''&eta;''({{vec|''x''}}, {{vec|''x''}})}} がそれぞれ正、負、0のときである。 光円錐上の点 {{mvar|{{vec|x}}}} は {{math|''&eta;''({{vec|''x''}}, {{vec|''x''}})}} という座標系と無関係な値の符号で特徴づけられるので、'''4元ベクトルが時間的か、空間的か、光的かは原点を起点するどの慣性座標系からみても不変である'''事がわかる。特に、光円錐は原点を起点するどの慣性座標系からみても同一である。 ====慣性座標系の数学的特徴づけ==== 原点Oを通る観測者から見た慣性座標系を一つ固定すると、前述のようにその慣性座標系における二つの位置ベクトル間のミンコフスキー内積は <!--NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\eta((ct,x,y,z),(ct',x',y',z'))=(ct)\cdot(ct')-xx'-yy'-zz'</math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|M1|(M1)}}}} と書ける。このような座標系で、 :<math>\vec{e}_0:=\begin{pmatrix} 1\\0\\0\\0 \end{pmatrix}</math>、<!--mathを分けているのは携帯での表示を改善するため--><math>\vec{e}_1:=\begin{pmatrix} 0\\1\\0\\0 \end{pmatrix}</math>、<math>\vec{e}_2:=\begin{pmatrix} 0\\0\\1\\0 \end{pmatrix}</math>、<math>\vec{e}_3:=\begin{pmatrix} 0\\0\\0\\1 \end{pmatrix}</math> と定義すると、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} はあきらかにミンコフスキー空間の基底であり、しかも <!-- NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\eta(\vec{e}_\mu,\vec{e}_\nu)=\begin{cases} 1&\text{if}\ \mu=\nu=0\\ -1&\text{if}\ \mu=\nu\neq 0\\ 0&\text{otherwise}\end{cases} </math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|M2|(M2)}}}} を満たす。 ユークリッド空間の類似から{{EquationNote|M2|(M2)}}式を満たす基底 {{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を'''正規直交基底'''{{sfnp|シュッツ|2010|p=57}}と呼ぶ事にすると、慣性座標系から正規直交基底が1つ定まった事になる。{{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}} をこの基底の'''時間成分'''といい、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} をこの基底の'''空間成分'''という。 逆に{{EquationNote|M2|(M2)}}式の意味で正規直交基底である {{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を一つ任意に選び、この基底における座標の成分表示を {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} と書くことにすると、ミンコフスキー内積が{{EquationNote|M1|(M1)}}式を満たすことを簡単に確認できる。 以上の議論から、'''原点にいる観測者の慣性座標系と正規直交基底は1対1に対応する'''事がわかる。従って以下両者を同一視する。 ただし、正規直交基底の中には、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}} が過去の方向を向いていたり、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} が左手系だったりするものもあるので、このようなものは以下除外して考えるものとする<ref group="注">厳密にいうと我々はここで、 # ミンコフスキー空間の向きづけが事前に定められていること # 2つの光円錐のうち1つを「未来」の光円錐であると事前に定められていること を暗に仮定し、 * {{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}} が未来の光円錐内にあり、 * ({{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) の向きがミンコフスキー空間の向きと一致する ものだけを考えることにしたのである。</ref>。 ====世界線、光速との比較==== 運動している質点がミンコフスキー空間内に描く軌跡を'''世界線'''と言う。今、世界線が原点を通る直線となる質点の運動があるとし、その直線の(4元)方向ベクトルを {{mvar|{{vec|u}}}} とする(長さは問わない)。 この質点の運動を慣性座標系 {{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}} にいる観測者 {{Math|A}} が原点で眺めるとする。この慣性座標系における {{mvar|{{vec|u}}}} の成分表示を {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} とすると、3次元ベクトル {{math|(''x''/''t'', ''y''/''t'', ''z''/''t'')}} は {{Math|A}} から見た質点の速度ベクトルであると解釈できる。 次に {{mvar|{{vec|u}}}} の速度を光速と比較してみる。{{mvar|{{vec|u}}}} の速度が光を下回る必要十分条件は、{{math|{{sqrt|''x''{{Sup|2}} + ''y''{{Sup|2}} + ''z''{{Sup|2}}}} / ''t'' &lt; ''c''}} となることであるので、これを書き換えると、{{math|(''ct''){{sup|2}} &minus; ''x''{{sup|2}} &minus; ''y''{{sup|2}} &minus; ''z''{{sup|2}} &gt; 0}} となる。ミンコフスキー計量の定義より、この式は {{math|''&eta;''({{vec|''u''}}, {{vec|''u''}}) > 0}} と'''慣性座標系によらない形で'''表現できる。従って、{{math|''&eta;''({{vec|''u''}}, {{vec|''u''}}) > 0}} であれば、'''どの慣性系から見ても'''光速度を下回り、逆に {{math|''&eta;''({{vec|''u''}},{{vec|''u''}}) < 0}} であれば '''どの慣性系から見ても'''光速度を上回る。 前述のように {{math|''&eta;''({{vec|''u''}}, {{vec|''u''}})}} の正負によって、{{mvar|{{vec|u}}}} を時間的もしくは空間的と呼ぶので、まとめると以下が結論づけられる: *方向ベクトル {{mvar|{{vec|u}}}} が時間的 &hArr; 質点はどの慣性系から見ても光速を下回る *方向ベクトル {{mvar|{{vec|u}}}} が空間的 &hArr; 質点はどの慣性系から見ても光速を上回る *方向ベクトル {{mvar|{{vec|u}}}} が光的 &hArr; 質点はどの慣性系から見ても光速と等しい 最後のものは光速度不変の原理からの直接の帰結でもある。 なお、上の議論では、質点の世界線が直線である事を仮定したが、そうでない場合も原点での接線を {{mvar|{{vec|u}}}} として同様の議論をする事で同じ結論が得られる。 ===ローレンツ変換=== ====定義==== '''[[ローレンツ変換]]'''とは、ミンコフスキー空間 {{mvar|V}} 上の[[線形変換]] {{math|''&phi;'' : ''V'' &rarr; ''V''}} でミンコフスキー計量を変えないもの、すなわち任意の[[4元ベクトル]] {{mvar|{{vec|a}}}}、{{mvar|{{vec|b}}}} に対し、 :<math>\eta(\varphi(\vec{a}),\varphi(\vec{b}))=\eta(\vec{a},\vec{b})</math> が成立するものの事である。 ユークリッド空間で[[内積]]を変えない線形変換は[[合同変換]]であるので、ローレンツ変換とは、ミンコフスキー空間における合同変換の対応物である。 ただし正規直交基底の場合と同様、ローレンツ変換にも * 空間方向の向きを保たないもの * 時間方向の向きを保たないもの が存在するのでこのようなものは以下除外して考える<ref group="注">数学的に言えば、[[ローレンツ群]] {{Math|O(1,3)}} は空間方向の向きを保つか、時間方向の向きを保つかにより、4つの連結成分に分割されており、そのうち単位元を含む連結成分である制限ローレンツ群 {{Math|SO{{sup|+}}1,3)}} の元のみを考えるという事である。</ref>。 なお、空間方向の向き、時間方向の向きの両方を保つローレンツ変換を'''正規ローレンツ変換'''という事があるが{{sfn|佐藤|1994|p=15}}、本項では以下、特に断りがない限り、単にローレンツ変換と言ったならば正規ローレンツ変換を指すものとする。 [[ローレンツ変換]] {{mvar|&phi;}} と[[4元ベクトル]] {{mvar|{{vec|b}}}} を使って :{{math|''f''({{vec|''x''}}) {{=}} ''&phi;''({{vec|''x''}}) + {{vec|''b''}}}} の形に書ける[[線形変換]]を'''[[ポアンカレ群|ポアンカレ変換]]'''という。特殊相対性理論では、2人の観測者が[[原点 (数学)|原点]]で出会ったケースにおいてローレンツ変換に関して議論する事が多いが、これは出会った場所を原点に平行移動した上で議論しているという事なので、実質的にはポアンカレ変換に関する議論である事が多い。 ====ローレンツ変換の意義==== 4次元ミンコフスキー空間 {{math|(''V'', ''&eta;'')}} では、 次の定理が成立する事が知られている。 {{math theorem|name=定理|1= {{math|({{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}})}}、{{math|({{vec|''e&prime;''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}})}}を {{mvar|V}} の2組の正規直交基底とする。 このとき、{{mvar|V}} 上の線形変換 {{mvar|&phi;}} で <!-- NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\begin{align}&(\vec{e}'_0, \vec{e}'_1, \vec{e}'_2, \vec{e}'_3)\\&=(\varphi(\vec{e}_0), \varphi(\vec{e}_1),\varphi( \vec{e}_2), \varphi(\vec{e}_3))\end{align}</math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|L1|(L1)}} |cellpadding= 6 }} を満たすものがただ一つ存在し、しかも {{mvar|&phi;}} はローレンツ変換である。 }} この定理はユークリッド空間における2つの正規直交基底が直交変換により写りあう事の類似である。 前述のように、正規直交基底は慣性座標系と対応している。よって上の定理は、以下を意味する:慣性座標系から別の慣性座標系への座標変換はローレンツ変換である。 ====ローレンツ変換の具体的な形==== [[File:Lt hyperbolic functions 2.svg|thumb|300px|ローレンツ変換の図示。{{mvar|(ct,x)}} を {{mvar|(ct',x)}} に変換する様子が {{math|''&zeta;'' ≈ +0.66}}に対して描かれている。]] ローレンツ変換の具体的な形を求める為、まずは基底をより解析がしやすいものに置き換える。 基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} の「空間部分」である {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} の張るミンコフスキー空間上の部分空間を {{mvar|E}} とし、同様に基底 {{Math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|0}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|1}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}}}} の空間部分である {{Math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|1}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}}}} の張るミンコフスキー空間上の部分空間を {{mvar|E&prime;}} とする。これらはそれぞれの慣性座標系における空間方向を表している。 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を {{mvar|E}} 内で回転した別の正規直交基底に取り替えても、{{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} と実質的に同じ慣性系を表しているとみなしてよい。そこで {{Math|({{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}), ({{vec|''e&prime;''}}{{sub|1}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}})}} をそれぞれ {{mvar|E}} 内、{{mvar|E&prime;}} 内で回転することで、ローレンツ変換 {{mvar|&phi;}} の行列表示 {{math|&Lambda;}} を簡単な形で表すことを試みる<ref group="注">これは3次元空間上の回転Rにより、({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) を ({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}},R({{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}), R({{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}), R({{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}})) に移し、({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) にも同様の変換を施す事を意味する。なお、({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) と ({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) では用いる回転行列Rが異なってもよい。このような変換がミンコフスキー計量を保つ線形変換(従ってローレンツ変換)である事は簡単に確認できる。よってこれらの変換を施した後も ({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) と ({{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|1}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}}}, {{math|{{vec|''e''}}{{sub|3}}}}) が正規直交基底であるという事実は保たれる。</ref>。 {{mvar|E}} と {{mvar|E&prime;}} の共通部分 {{mvar|''E'' &cap; ''E&prime;''}} を {{mvar|U}} とすると、{{mvar|U}} は4次元ベクトル空間上の2つの3次元部分ベクトル空間の共通部分なので、{{mvar|U}} は2次元(以上)のベクトル空間である。従って {{mvar|E}} 内で {{Math|({{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}})}} を回転することで、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}} &isin; ''U''}} としてよく、同様に {{mvar|E&prime;}} 内の回転により {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}} &isin; ''U''}} とできる。最後に {{mvar|U}} 内で {{math|{{vec|''e''}}'{{sub|1}}, {{vec|''e''}}'{{sub|2}}}} を回転することで {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} としてよい。 これらの基底に対し、{{EquationNote|L1|(L1)}}式を満たすローレンツ変換 {{mvar|&phi;}} の行列表現を {{math|&Lambda; {{=}} (&Lambda;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}){{sub|''&mu;&nu;''}}}} とする。これはすなわち、 :<math>(\vec{e}'_0, \vec{e}'_1, \vec{e}'_2, \vec{e}'_3)= (\vec{e}_0, \vec{e}_1, \vec{e}_2, \vec{e}_3)\Lambda</math> を満たすという事であり、これら2つの基底における座標の成分表示をそれぞれ {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}}、{{math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;, ''y''&prime;, ''z''&prime;)}}とすると {{NumBlk|:|<math>\left(\begin{array}{c}ct'\\x'\\y'\\z'\end{array}\right)=\Lambda\left(\begin{array}{c}ct\\x\\y\\z\end{array}\right)</math>|{{EquationRef|L2}}}} が成立するという事でもある。 {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|2}}}}、{{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} であったので、ローレンツ変換の行列表示は、 :<math>\Lambda=\left(\begin{array}{cc|cc}*&&&\\&&&\\\hline&&1&\\&&&1\end{array}\right)</math> という形であり、ローレンツ変換がミンコフスキー空間における「回転」であったことを利用すれば、上の行列の(*)の部分が、 :<math>\left(\begin{array}{cc}\cosh\zeta&-\sinh\zeta\\-\sinh\zeta&\cosh\zeta\end{array}\right)</math> という形であることがわかる。これを導く厳密な方法はいくつかあるが、簡便な方法としては[[虚数単位]] {{mvar|i}} を用いて時間軸を {{mvar|''&tau;'' {{=}} ''ict''}} と置く事で通常のユークリッド空間の回転とみなせる('''[[ウィック回転]]''')という事実を使うものがある。 最終的に2つの基底における座標の成分表示の関係{{EquationNote|L2|(L2)}}式は以下のように書ける事がわかる。 {{math theorem|name=定理(ローレンツ変換の具体的な形)|1= 必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は <!--携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\left(\begin{array}{c}ct'\\x'\\y'\\z'\end{array}\right)=\left(\begin{array}{c}ct\cosh\zeta-x\sinh\zeta\\-ct\sinh\zeta+x\cosh\zeta\\y\\z\end{array}\right)</math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|L3|(L3)}} |cellpadding= 6 }} と表示できる<ref group="注">このように表示できるのは、ローレンツ変換の固有値が {{mvar|e{{Sup|&zeta;}}}}、{{mvar|e{{sup-|&zeta;}}}}、{{mvar|e{{Sup|&iota;&alpha;}}}}、{{mvar|e{{sup-|&iota;&alpha;}}}} の形に書けることと関係している。ここで{{mvar|&zeta;}}は[[ラピディティ]]。</ref>。 }} この値 {{mvar|&zeta;}} は正規直交基底の取り方に依存せず、ローレンツ変換 {{mvar|&phi;}} の[[固有値]]のみによって決まることが知られており、{{mvar|&zeta;}} を {{mvar|&phi;}} の'''[[ラピディティ]]'''という。なお、{{mvar|&zeta;}} は :<math>\zeta=\operatorname{arccosh}(\eta(\vec{e}_0,\vec{e}'_0))</math> と具体的に求めることもできる。 ====ローレンツ変換の物理的解釈==== {{Main|en:Derivations of the Lorentz transformations}} 慣性座標系 {{Math|(''ct'', ''x'', ''y'' ,''z'')}} にいる観測者 {{Math|A}} は、原点を通過した後、{{Math|(''ct'', 0, 0, 0)}} という直線('''世界線''')にそって進んでいく。この様子を別の観測者 {{Math|B}} の慣性座標系 {{Math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;, ''y''&prime;, ''z''&prime;)}} で記述した式は{{EquationNote|L3|(L3)}}式に {{Math|(''x'', ''y'', ''z'') {{=}} (0, 0, 0)}} を代入した :<math>\begin{pmatrix}ct'\\x'\\y'\\z'\end{pmatrix} = \begin{pmatrix}ct\cosh\zeta\\-ct\sinh\zeta\\0\\0\end{pmatrix}</math> によって表現できる。この世界線の「傾き」 :<math>x'/t'=-c\tanh\zeta</math> は2人の観測者の相対速度と解釈できるので、観測者 {{Math|A}} から見た観測者 {{Math|B}} の相対速度を {{Mvar|v}} とすると、 :<math>v=c\tanh\zeta</math> となる<ref group="注">符号が反転しているのは、{{mvar|v}} が観測者Aから見た観測者Bの相対速度であるのに対し、{{math|''x''&prime;/''t''&prime;}} は観測者Bから見た観測者Aの相対的だからである。なお、特殊相対性理論においても観測者の入れ替えで相対速度の符号が反転するという事実はローレンツ変換の逆変換に対して同様の議論をする事で確認できる。</ref>。よって、 :<math>\cosh\zeta=\frac{1}{\sqrt{1-\tanh^2\zeta}}=\frac{1}{\sqrt{1-(v/c)^2}},</math> :<math>\sinh\zeta=\frac{\tanh\zeta}{\sqrt{1-\tanh^2\zeta}}=\frac{(v/c)}{\sqrt{1-(v/c)^2}}</math> である。そこで'''[[ローレンツ因子]]''' {{mvar|&gamma;}} を {{Indent|<math>\gamma:=\frac{1}{\sqrt{1-(v/c)^2}}</math>}} と定義すると、以下が導かれる: {{math theorem|name=相対速度を用いたローレンツ変換の表示|1= 観測者Aから見た観測者Bの相対速度を {{Mvar|v}} とするとき、必要なら空間方向の座標軸を回転させる事で、ローレンツ変換は <!-- NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\left(\begin{array}{c}ct'\\x'\\y'\\z'\end{array}\right)=\left(\begin{array}{c}(ct-x\cdot(v/c))\gamma\\(x-vt)\gamma\\y\\z\end{array}\right)</math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|L4|(L4)}} |cellpadding= 6 }} と書ける。 }} 我々は{{EquationNote|L4|(L4)}}式やそれと同値な{{EquationNote|L3|(L3)}}式を導くとき、空間方向の座標変換をおこなった。これは別の見方をすると、ローレンツ変換から空間方向の回転成分を取り除いたものが{{EquationNote|L3|(L3)}}式や{{EquationNote|L4|(L4)}}式であるということである。 {{EquationNote|L3|(L3)}}式や{{EquationNote|L4|(L4)}}式のように書けるローレンツ変換、すなわち空間方向に回転しないローレンツ変換の事を'''[[ローレンツ・ブースト]]'''と呼ぶ。 ====ガリレイの相対性原理と特殊相対性原理==== ローレンツ変換の式{{EquationNote|L4|(L4)}}式において、{{math|''v''/''c'' &asymp; 0}} (0に近似) とすると、{{EquationNote|L4|(L4)}}式は、 :<math>\left(\begin{array}{c}ct'\\x'\\y'\\z'\end{array}\right)=\left(\begin{array}{c}ct\\x-vt\\y\\z\end{array}\right)</math> となり、ガリレイ変換に一致する。すなわち、「ニュートン力学近似」とは、慣性座標系間の相対速度 {{Mvar|v}} が光速 {{Mvar|c}} と比べて十分小さい場合の理論であるということが言える。 このことから{{疑問点範囲|[[ニュートン力学]]は[[ガリレイ変換]]に不変であるというガリレイの相対性原理は、特殊相対性理論では以下の形で成立している|date=2021年7月|title=不正確。「相当する」と言いたいのか?}}と考えられる: {{Indent|<!-- '''特殊相対性原理''': --> 全ての物理法則はローレンツ変換に対して不変でなければならない。{{sfnp|佐藤|1994|p=29}} }} <!-- 特殊相対性原理の内容は慣性系の同等性であって、具体的な変換の仕方までは指定しないでしょう。 ローレンツ変換は、特殊相対性原理 と 光速不変(orマクスウェル方程式)から導出されるもののはず。 --> ===固有時=== 本節では光速を超えずに移動する観測者 {{Math|A}} の感じる時間の長さ(観測者の'''[[固有時|固有時間]]'''){{Mvar|s}} が、{{Math|A}} の[[世界線]]の(ミンコフスキー計量で測った)「長さ」に一致することを示す。 ====慣性系から見た時間==== 固有時間について述べる前に、まず慣性系から見た時間についての公式を与える。 {{mvar|{{vec|x}}}} を世界点とし、{{Math|({{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}})}} を原点における慣性座標系とする。このとき、以下が成立する: {{Indent|慣性座標系 {{Math|({{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}})}} における {{mvar|{{vec|x}}}} の起こる時刻は {{math|''&eta;''({{vec|''x''}}, {{vec|''e''}}{{sub|0}})}}である。}} ただしここでいう「時間の長さ」は {{mvar|c}} 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さの場合は右辺を {{mvar|c}} で割る必要がある。 実際、{{Math|({{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}})}} における成分表示を {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} とすると、{{mvar|{{vec|x}}}} の起こる時刻は {{mvar|{{vec|x}}}} を時間軸方向へ[[射影作用素|射影]]したものに一致するが、{{mvar|{{vec|x}}}} を時間軸方向へ射影した値は {{math|''&eta;''({{vec|''x''}},{{vec|''e''}}{{sub|0}})}} である。 ====直線的に動く場合の固有時間==== 本節では以下を示す:時間的もしくは光的な4元ベクトル {{mvar|{{vec|u}}}} に沿って原点から {{mvar|{{vec|u}}}} の終点まで直線的に動く観測者の固有時間 {{mvar|s}} は {{mvar|{{vec|u}}}} のミンコフスキー・ノルム <math>\|\vec{u}\|=\sqrt{\eta(\vec{u},\vec{u})}</math> に一致する。 なお、{{mvar|{{vec|u}}}} が時間的もしくは光的な4元ベクトルであることから {{math|''&eta;''({{vec|''u''}}, {{vec|''u''}}) > 0}} であるので、上式の平方根は意味を持つ。 ただしここでいう「時間の長さ」は {{mvar|c}} 秒を1単位として数えた時間である。秒を単位とした時間の長さは {{math|''&tau;'' {{=}} ''s''/''c''}} である。 上の事実を示すため、{{Math|O}} から {{mvar|{{vec|u}}}} に沿って移動する観測者を考えると、この観測者の慣性座標系は、{{math|{{vec|''e''}}{{sub|0}} {{=}} {{vec|''u''}} / {{!!}}{{vec|''u''}}{{!!}}}} を時間方向の単位(4元)ベクトルとする正規直交基底 {{Math|({{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}})}} により表せる。この座標系に前述の公式を適用すれば、この座標系で観測者が原点から {{mvar|{{vec|u}}}} の終点まで世界線を移動するのにかかる固有時間は {{Indent|<math>\eta(\vec{u},\vec{e}_0)=\|\vec{u}\| \eta(\vec{e}_0,\vec{e}_0)=\|\vec{u}\|</math>}} となり、最初の公式が示された。 上では観測者が原点を通る世界線に沿って移動する場合について述べたが、原点を通らない世界線に関しても、観測者が上を {{mvar|{{vec|u}}}} から {{mvar|{{vec|w}}}} まで直線的に動く間に {{math|{{!!}}{{vec|''u''}} - {{vec|''w''}}{{!!}}}} の固有時間が流れる事を同様の議論により証明できる。 ====一般の場合==== 本節では光速を超えずに移動する観測者 {{Math|A}} の世界線 {{Math|C}} が曲線である場合に対して {{Math|A}} の固有時間を求める方法を述べる。 観測者 {{Math|A}} の時空間上の位置 {{mvar|{{vec|x}}}} が実数 {{mvar|r}} によってパラメトライズされて {{math|{{vec|''x''}} {{=}} {{vec|''x''}}(''r'')}} と書けているとすると、観測者が {{math|{{vec|''x''}}(''r''{{sub|0}})}} から {{math|{{vec|''x''}}(''r''{{sub|0}} + &Delta;''r'')}} まで移動する間に、 :<math>\Delta s=\| \vec{x}(r_0+\Delta r)- \vec{x}(r_0) \|= \left\|\frac{\Delta\vec{x}}{\Delta r}\right\| \Delta r</math> の固有時間が流れることになる。したがって観測者 {{Math|A}} が {{Math|C}} に沿って動いた際に流れる固有時間 {{Mvar|s}} は以下のように求まる: {{Indent|<math>s=\int_\mathrm{C}\mathrm{d}s=\int_\mathrm{C}\left\|\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}r}\right\|\mathrm{d}r.</math>}} これはユークリッド空間において曲線の長さを求める[[弧長|弧長積分]]のミンコフスキー空間版であるので、上の公式は、観測者 {{Math|A}} の固有時間が {{Math|A}} の描く世界線 {{Math|C}} の「長さ」に一致することを意味している。 次に上で示した式を慣性座標で表す。{{Math|A}} とは別の観測者 {{Math|B}} が慣性運動しており、{{Math|B}} の慣性座標系 {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} における {{Math|A}} の位置 {{math|{{vec|''x''}}(''r'')}} が :{{math|{{vec|''x''}}(''r'') {{=}} (''ct''(''r''), ''x''(''r''), ''y''(''r''), ''z''(''r''))}} と書けていたとすると、以下が言える: {{Indent|<math>\begin{align}\mathrm{d}s^2 &= \left\|\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}r}\right\|^2\mathrm{d}r^2 = \|\mathrm{d}\vec{x}\|^2\\ &= c^2\mathrm{d}t^2-\mathrm{d}x^2-\mathrm{d}y^2-\mathrm{d}z^2.\end{align}</math>}} ====4元速度と4元加速度==== 以上の議論では変数 {{mvar|r}} で世界線 {{Math|C}} をパラメトライズしたが、物理学的に自然な値である秒を単位とした固有時 {{mvar|&tau;}} そのものを使って、{{math|{{vec|''x''}} {{=}} {{vec|''x''}}(''&tau;'')}} とパラメトライズするのが一般的である。このようにパラメトライズしたとき、質点 {{mvar|{{vec|x}}}} の'''{{仮リンク|4元速度|en|Four-velocity}}''' {{mvar|{{vec|u}}}} と'''{{仮リンク|4元加速度|en|Four-acceleration}}''' {{mvar|{{vec|a}}}} を以下のように定義する: :<math>\vec{u}:=\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}\tau}</math>、 <math>\vec{a}:=\frac{\mathrm{d}^2\vec{x}}{\mathrm{d}\tau^2}.</math> すなわち、{{mvar|{{vec|x}}}} のミンコフスキー空間上の位置の変化率を固有時間 {{mvar|&tau;}} で測ったものが4元速度で、4元速度の変化率を {{mvar|&tau;}} で測ったものが4元加速度である。 4元速度のミンコフスキー・ノルムは :<math>\frac{1}{c}\left\|\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}\tau}\right\| = \frac{\| \mathrm{d}\vec{x} \| }{ \mathrm{d}s} = \frac{\mathrm{d}s}{\mathrm{d}s} = 1</math> を満たす{{sfnp|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971|p=22}}。このことから、4元速度は {{mvar|x}} の世界線の接線で長さが {{mvar|c}} であるものである事がわかる。この事実は、ユークリッド空間の曲線を弧長で微分したときの長さが1になることと対応している。長さが1でなく {{mvar|c}} なのは時間の単位が {{mvar|c}} 秒でなく1秒だからである。 以上の事から4元速度のミンコフスキー・ノルムの2乗が定数 {{math|''c''{{Sup|2}}}} なので、これを微分する事で {{Indent|<math>\eta(\vec{u},\vec{a})=0</math>}} である事がわかる。すなわち4元速度と4元加速度は「直交」している{{sfnp|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971|p=22}}。 ====固有時間による慣性系の特徴付け==== 変分法を用いる事で、以下の事実を示せる:ミンコフスキー空間上の2つの世界点 {{mvar|{{vec|x}}, {{vec|y}}}} を結ぶ世界線(で光速度未満のもの)のうち、最も固有時間が長くなるのは、{{mvar|{{vec|x}}}} と {{mvar|{{vec|y}}}} を直線的に結ぶ世界線である。 {{mvar|{{vec|x}}}} から {{mvar|{{vec|y}}}} へと直線的に動く観測者は慣性系にいることになるので、これは慣性運動している場合が最も固有時間が長くなる事を意味する。 固有時間が世界線の「長さ」であった事に着目すると、上述した事実は、ユークリッド空間上の二点を結ぶ最短線が直線であることに対応している事がわかる。なお、ユークリッド空間では「最短」であったはずの直線がミンコフスキー空間上では「最大」に変わっているのは、ミンコフスキーノルムの2乗 {{math|(''ct''){{sup|2}} &minus; ''x''{{sup|2}} &minus; ''y''{{sup|2}} &minus; ''z''{{sup|2}}}} の空間部分がユークリッドノルムの2乗 {{math|''x''{{sup|2}} + ''y''{{sup|2}} + ''z''{{sup|2}}}} とは符号が反対である事に起因する。 ==特殊相対性理論における力学== ニュートン力学では、3次元空間のガリレイ変換に対して不変になるように理論が構築されている。それに対し特殊相対性理論では、4次元時空間のローレンツ変換に対して不変になるように理論を構築する必要があるので、ニュートン力学の概念をそのまま用いることはできない。本節では、ニュートン力学の諸概念を「4次元化」し、それがローレンツ変換(と平行移動)に対して不変になることを示すことで特殊相対性理論における力学を構築する。 以下、記法を簡単にするため、4元ベクトルの成分を {{Indent|<math>(x^0,x^1,x^2,x^3):=(ct,x,y,z)</math>}} などと書くことにする。 ===4元運動量 === 光速を超えないで運動する質点 {{mvar|{{vec|x}}}} の世界線を {{math|{{vec|''x''}} {{=}} {{vec|''x''}}(''&tau;'')}} と秒を単位とした固有時 {{mvar|&tau;}} でパラメトライズする。このとき、質点 {{mvar|{{vec|x}}}} の'''[[4元運動量]]'''を :<math>\vec{p}:=m\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}\tau}</math> と定義する。ここで {{mvar|m}} は質点 {{mvar|{{vec|x}}}} の慣性座標における質量('''[[不変質量|静止質量]]'''と呼ぶ)である。すなわち、4元運動量は、4元速度に静止質量を掛けたものである。 4元運動量の物理学的意味を見るため、慣性座標系 {{math|(''x''{{sup|0}}, ''x''{{sup|1}}, ''x''{{sup|2}}, ''x''{{sup|3}})}} を固定し、{{mvar|{{vec|p}}}} をこの座標系に関して {{math|{{vec|''p''}} {{=}} (''p''{{sup|0}}, ''p''{{sup|1}}, ''p''{{sup|2}}, ''p''{{sup|3}})}} と成分表示する。 ====4元運動量の空間成分==== {{math|''i'' {{=}} 1, 2, 3}} に対し、4元運動量の定義より、 :<math>p^i=m\frac{\mathrm{d}x^i}{\mathrm{d}\tau}=\frac{m\mathrm{d}x^i/\mathrm{d}t}{\mathrm{d}\tau/\mathrm{d}t}=\frac{mv^i}{\sqrt{1-(v/c)^2}}</math> である。ここで {{math|'''''v''''' {{=}} (''v''{{sup|1}}, ''v''{{sup|2}}, ''v''{{sup|3}})}} はこの慣性座標系における質点の速度ベクトルであり、{{math|''v'' {{=}} {{!}}'''''v'''''{{!}}}}である。 {{math|''v'' / ''c'' &rarr; 0}} の極限において {{mvar|p{{sup|i}}}} は {{math|''mv''{{sup|i}}}} に漸近するので、4元運動量の空間部分 {{math|(''p''{{sup|1}}, ''p''{{sup|2}}, ''p''{{sup|3}})}} はニュートン力学の運動量 {{math|(''mv''{{sup|1}}, ''mv''{{sup|2}}, ''mv''{{sup|3}})}} をローレンツ変換で不変にしたものであるとみなす事ができる。 また、{{math|(''p''{{sup|1}}, ''p''{{sup|2}}, ''p''{{sup|3}})}} は質点の「見かけ上の重さ」{{sfnp|佐藤|1994|p=83}}が :<math>M:=\frac{m}{\sqrt{1-(v/c)^2}}</math> である場合の運動量とみなすこともできる。 ====4元運動量の時間成分==== 4元運動量の時間成分 {{math|''p''{{sup|0}}}} に {{mvar|c}} を掛けたものを[[テイラー展開]]すると、 :<math>\begin{align}cp^0&=cm\frac{\mathrm{d}x^0}{\mathrm{d}\tau}=\frac{m\mathrm{d}x^0/\mathrm{d}t}{\mathrm{d}\tau/\mathrm{d}t}\\&=\frac{mc^2}{\sqrt{1-(v/c)^2}}=mc^2+\frac{mv^2}{2}+\cdots\end{align}</math> である。 第二項はニュートン力学における運動エネルギーであるので {{math|''cp''{{sup|0}}}} はエネルギーに相当していると考えられる。 従って第一項の {{Indent|<math>E:=mc^2</math>}} もエネルギーを表していると解釈できる。この値は質点が例え慣性系に対して静止していて {{math|''v'' {{=}} 0}} であっても持つエネルギーであることから、この値を質点の'''[[E=mc2|静止質量エネルギー]]'''と呼ぶ。 質量 {{math|''m''}} を持つこととエネルギー {{math|''mc''²}} を持つことは等価であり、[[質量欠損]]や[[核反応]]・[[対消滅]]に伴うエネルギー放出・吸収から確かめられている。 ====エネルギーと運動量の関係==== {{Main|en:energy–momentum relation}} 4元運動量のミンコフスキー・ノルムは :<math>\left\|\frac{\mathrm{d}\vec{p}}{\mathrm{d}\tau}\right\|=m\left\|\frac{\mathrm{d}\vec{x}}{\mathrm{d}\tau}\right\|=m\frac{\| \mathrm{d}\vec{x} \|}{\mathrm{d}\tau}=m\frac{\mathrm{d}s}{\mathrm{d}\tau}=mc</math> である。一方、慣性座標系を1つ固定して4元運動量を成分表示したとき、前に示したように、{{math|''E'' {{=}} ''cp''{{sup|0}}}} はエネルギーを表し、{{math|'''''p''''' {{=}} (''p''{{sup|1}}, ''p''{{sup|2}}, ''p''{{sup|3}})}} は運動量に対応していた。運動量の大きさを {{math|''p'' {{=}} {{!}}'''''p'''''{{!}}}} とすると、{{mvar|E}} と {{mvar|p}} は以下の関係式を満たす: :<math>(mc^2)^2=\|c\vec{p}\|^2=(cp^0)^2-|c\boldsymbol{p}|^2=E^2-(cp)^2.</math> 左辺は慣性系によらないので、{{math|''E''{{Sup|2}} &minus; (''cp''){{Sup|2}}}} は慣性系によらず一定値 {{math|(''mc''{{Sup|2}}){{Sup|2}}}} になることを意味する。 {{math|''p'' &#8810; ''mc''}} であれば上の式は :<math>E=\sqrt{(mc^2)^2+(cp)^2}=mc^2+\frac{p^2}{2m}+\cdots</math> となり{{sfnp|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971|p=26}}、静止質量エネルギー {{math|''mc''{{sup|2}}}} を無視すれば、{{math|''p''{{Sup|2}} / 2''m''}} が質点の運動エネルギーに相当するというニュートン力学の式に対応していることがわかる。 ==== 正の質量を持った質点は光速度以上になれない==== 光速で移動する有限のエネルギーを持った粒子を考える。この時、{{math|''m&gamma;c''²}} の {{mvar|γ}} が無限大に発散してしまうので、{{math|''m'' {{=}} 0}} でなければならない。この逆も成立するため、質量を持たずに有限のエネルギーを持つ物質は常に光速で走り続けねばならず、また光速で移動するエネルギーを持つ物質はすべて質量が0であることが分かる。 ==== 特殊相対性理論以前の解釈==== 特殊相対性理論以前の電磁気学において、[[ジョゼフ・ジョン・トムソン|J.J.トムソン]]や{{仮リンク|ワルター・カウフマン|en|Walter Kaufmann (physicist)}}によって電子の質量の速さ依存性が指摘されていた。それを説明する理論として[[マックス・アブラハム]]は、電子の慣性質量の起源を全て電磁場に求めるという電磁質量概念{{enlink|Electromagnetic mass}}を提唱したが、電子以外の物質の構成要素に対して一般化することができなかった<ref group="注">質量の電磁気学的概念(電磁質量概念)の詳細とその発展については、{{harvtxt|ヤンマー|1977}}第11章を参照。</ref>。 一方、特殊相対性理論はその物質の質量の速さ依存性についての一般的な説明と慣性質量とエネルギーに関する普遍的な関係を与える{{refnest|group="注"|この関係はアインシュタインの論文『物体の慣性は、そのエネルギーの大きさに依存するか』{{sfnp|アインシュタイン|1905b}}によって見出されたと言われる。ただし、この論文における {{math|''E'' {{=}} ''mc''²}} の導出は循環論法になっているといわれる{{sfnp|ヤンマー|1977|pp=156&ndash;157}}。}}。 ===運動方程式=== すでに運動量の概念を4元ベクトル化したので、力の概念を4元ベクトル化した'''4元力''' {{mvar|{{vec|f}}}} が定義できれば、 ニュートンによる質点の運動方程式 {{math|''f'' {{=}} d'''''p''''' / d''t''}} をローレンツ変換に不変にした特殊相対性理論の運動方程式 :<math>\vec{f}=m\frac{\mathrm{d}\vec{p}}{\mathrm{d}t}</math> が定式化できる。 現在知られている4種類の力のうち、電磁気力、[[強い相互作用|強い力]]、[[弱い相互作用|弱い力]]の3つは4元力として表現可能な事が知られている{{sfnp|佐藤|1994|p=55}}。このうち電磁気力を4元力として表現する方法は後の節で述べる。 一方、重力は特殊相対性理論の範囲で4元ベクトル化しようとしてもローレンツ変換に対して不変にならないためうまくいかない{{sfnp|佐藤|1994|p=45}}。重力を扱うには一般相対性理論が必要となる。 ==特殊相対性理論の帰結== 特殊相対性理論から導かれる帰結として、たとえば、主に以下の事項を挙げることができる。項目ごとの詳細は後述する。 * ある観測者(A, Bとする)が有限の速度差をもって互いに運動(相対運動)するとき、一方の観測者Aから観測したもう一方の観測者Bの時計の時刻の遅れが生じる。このずれの大きさは相対運動の速さによる([[#時間(時刻の隔たり)の伸び]])。この観測のずれはまさに「相対的」であり、もう一方の観測者Bから観測者Aの持つ時計を観測しても遅れを認めることができる。観測者AとBは等価であり、双方が双方の時計に(自身の持つ時計と比べて)遅れが生じていると観測できる。(「観測者Aと観測者Bのどちらかの時計が誤りである」あるいは「観測者Aでも観測者Bでもない”絶対時間”を指す正しい時計が存在する」、といった考え方を特殊相対性理論は放棄している) * 相対運動する物体どうしは、互いに相手からは縮んで見える([[#ローレンツ収縮]])。これも上記の考え方に類似であり、どちらかの観測者のモノサシが誤っていたり、”絶対空間”にある正しいモノサシは存在したりはしない。 * エネルギーと質量は可換であり、観測者・観測対象の運動状態によって(座標変換によって)双方は相互に変換される。 * 速度の合成則は非線形接続である。たとえば、観測者に対して光速の0.6倍で動く宇宙船から、(宇宙船からみて)光速の0.6倍で物体を進行方向に射出しても、観測者から見た宇宙船からの射出部隊の速度は光速の1.2倍にはならない。([[#速度の合成則]]) * 運動する物体<ref group = "注">たとえば、現実の実験で観測できている「物体」がそうであるように、ここでの物体の運動速度は光速未満であることを暗黙に仮定している。</ref>は高速になるほど加速しづらくなり、光速に到達することはない。 次の事柄は、特殊相対性理論の前提あるいは理論展開([[#特殊相対性理論の基礎]])するところそのものである。特殊相対論によって座標変換に関して対称な簡潔な数式系にまとめられることができたこと、さらに、後に実験事実として得た諸結果が特殊相対性理論によく整合したことから、物理の基本原理として、これらはより支持されるようになった([[#特殊相対性理論の実験的検証]])。 * 光の速度は観測者の移動の影響を受けず一定値である。 * 慣性系相互の座標変換において、物理法則を普遍に保つ変換則はローレンツ変換である。 * マクスウェル方程式は修正する必要はない。 === ローレンツ収縮 === [[File:Graph for explanation of Lorentz contraction.png|thumb|230px|ローレンツ収縮。図では時間 {{Mvar|ct}} を {{Mvar|w}} で表している。慣性系 {{Mvar|(x',w')}} に固有長さが {{Mvar|l}} の棒({{Mvar|x'}} 軸の濃い紫)があり、この棒の時空間上の軌跡が薄紫である。それを別の慣性系 {{Mvar|(x,w)}} で計ると長さが {{Math|{{Sfrac|''l''|''γ''}}}} に縮んで見える。ここで {{Mvar|γ}} はローレンツ因子 {{math|{{Sfrac|1|{{Sqrt|1 &minus; (''v''/''c''){{Sup|2}}}}}}}} である。慣性系 {{Mvar|(x',w')}} と慣性系 {{Mvar|(x,w)}} とでは棒の測っている箇所が違うことに注意。図の双曲線は原点からの世界距離の2乗 {{math|''w''{{Sup|2}} &minus; ''x''{{Sup|2}}}} が {{math|&minus;''l''{{Sup|2}}}} になる箇所。]] 以下では話を簡単にするため時間1次元+空間1次元の計2次元の場合について述べる。 ある慣性系 {{Math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;)}} において静止している剛体について、この慣性系 {{Math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;)}} で測った剛体の長さをこの剛体の'''固有長さ'''と呼ぶ。 今、固有長さ {{Mvar|l}} の棒が慣性系 {{Math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;)}} に対して静止しており、これを別の慣性系 {{Math|(''ct'', ''x'')}} から眺めたとする。話を簡単にするため、2つの慣性系の原点はいずれも棒の1つの端点 {{Math|O}} に一致しているものとする。 棒は慣性系 {{Math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;)}} に対して静止しているので、棒の他方の端点が描く世界線 {{Math|C}} は {{Math|(''ct''&prime;, ''l'')}} と {{Mvar|t&prime;}} でパラメトライズできる。 慣性系 {{Math|(''ct'', ''x'')}} における現在 {{Math|(0, ''x'')}} と世界線 {{Math|C}} との交わりはローレンツ変換により :<math>\begin{pmatrix}ct'\\l\\\end{pmatrix} = \gamma\begin{pmatrix}c\cdot0+x\cdot(v/c)\\x-v\cdot0\\\end{pmatrix}</math> なので、棒の長さは {{Indent|<math>x=l/\gamma</math>}} となる。ここで {{Math|''&gamma;'' > 1}} はローレンツ因子 {{math|1/{{Sqrt|1 &minus; (''v''/''c''){{Sup|2}}}}}} である。 これにしたがうと、棒に対して長さ方向に運動している座標系からみると、棒の長さは {{Math|1/''&gamma;''}} 倍に縮んだかのように見える。この現象を '''[[ローレンツ変換#ローレンツ=フィッツジェラルド収縮|ローレンツ収縮]]'''{{sfnp|佐藤|1994|p=24}}{{Sfnp|シュッツ|2010|p=22}}もしくは'''フィッツジェラルド=ローレンツ収縮'''<ref>{{Kotobank|ローレンツ収縮|2=世界大百科事典 第2版}}</ref><ref>{{Kotobank|フィッツジェラルド‐ローレンツ短縮|2=法則の辞典}}</ref>という。 ==== ロケット(宇宙船)==== 地上で(地面に対して)静止している観測者からみて、高速で飛んでいるロケットは(地上に)停まっているときよりも短く見える(進行方向に収縮している)。 地上から上空へ向かうロケットを地上から観測したとき、ロケットの後端に設置した時計は、ロケットの先端に設置した時計よりずれが大きい。このとき、ロケットに乗る観測者からすれば、ロケットの速度での運動座標系において、ロケットの後端と先端の時計が刻む時刻は同時に見える。 なお、実際にはロケットが観測者にどのように見えるかという点については、特殊相対性理論による時刻・座標のずれに加えて、ロケット各部からの光の到達時刻を加味する必要がある(これを考慮に入れた場合、さらに歪んだ見え方となりうる) ====ローレンツ自身の解釈との違い==== ローレンツ収縮は、アインシュタインが特殊相対性理論を提案する以前に、ローレンツとフィッツジェラルドが独立に提案したものである。彼らの提案は、数式上は特殊相対性理論のそれと同一であるが、彼らの理論はエーテル仮説を前提としており、物体は「エーテルの風」を受けて'''3次元空間内で実際に縮む'''{{sfnp|ローレンツ電子論|1973|p=214}}とするものであった。すなわち、あくまでも彼らは「エーテルが静止している絶対空間がある」という考えのもとに立っていた。 それに対して、特殊相対性理論では、ローレンツ収縮を4次元時空間の各観測者ごとの座標系において解釈したものであり、絶対空間や絶対時間の存在を前提としない。前述のように'''慣性系によって測っている場所が違う'''事が収縮の起こる原因である。 ===時間(時刻の隔たり)の伸び=== 運動する観測者 A があり、A とは別の観測者 B が慣性運動し、A 側の座標系 {{math|(''ct, x, y, z'')}} にて B の位置が、 :{{math|{{vec|''x''}}(''&tau;'') {{=}} (''ct''(''&tau;''), ''x''(''&tau;''), ''y''(''&tau;''), ''z''(''&tau;''))}} と書けるとき、 :<math>\mathrm{d}s^2=(c\mathrm{d}t)^2-\mathrm{d}x^2-\mathrm{d}y^2-\mathrm{d}z^2</math> というローレンツ変換について不変な量 {{mvar|s}} をとり、A側の[[固有時|固有時刻]]を {{math|''&tau;'' {{=}} ''s'' / ''c''}} とする。 :<math>c^2\left(\frac{\mathrm{d}\tau}{\mathrm{d}t}\right)^2=\left(\frac{\mathrm{d}s}{\mathrm{d}t}\right)^2=c^2-\left(\frac{\mathrm{d}x}{\mathrm{d}t}\right)^2-\left(\frac{\mathrm{d}y}{\mathrm{d}t}\right)^2-\left(\frac{\mathrm{d}z}{\mathrm{d}t}\right)^2=c^2-v^2</math> であることより {{Indent|<math>\frac{\mathrm{d}\tau}{\mathrm{d}t}=\sqrt{1-(v/c)^2}</math>}} である。右辺はローレンツ因子 {{math|''&gamma;''}} の逆数である。これを観測者 A の世界線 C に沿って積分すると {{Indent|<math>T=\int_\mathrm{C} \sqrt{1-(v(t)/c)^2} \mathrm{d}t</math>}} により、A 側の固有時間 {{mvar|T}} が得られる。ここで {{math|''v''(''t'')}} は時刻 {{mvar|t}} における A と B の相対速度である。 {{math|''v'' < ''c''}} ゆえ、積分内は常に1未満であり、慣性系B側の時間 {{mvar|T&prime;}} との関係は次式となる: {{Indent|<math>T < T'. </math>}} これはすなわち、'''ある慣性系でみたときの時間は固有時間よりも長い'''事を意味する。 特に観測者 A も慣性運動しているときは、相対速度 {{mvar|v}} は常に一定であり、次式となる: {{Indent|<math>T=T'\sqrt{1-(v/c)^2}. </math>}} === 速度の合成則 === 観測者 {{Math|A}}、{{Math|B}} が慣性運動しており、さらに質点 {{Math|C}} が運動しているとする(慣性運動とは限らない)。 観測者 {{Math|A}} の座標系を {{math|(''ct'', ''x'', ''y'', ''z'')}} とし、観測者 {{Math|B}} の座標系を {{math|(''ct''&prime;, ''x''&prime;, ''y''&prime;, ''z''&prime;)}} とし、{{Math|A}} から見た {{Math|B}} の相対速度の大きさを {{mvar|V}} とし、 :<math>\gamma=1/\sqrt{1-(V/c)^2}</math> をローレンツ因子とする。 必要ならミンコフスキー空間の原点を取り替えることで {{Math|C}} は原点を通っているとしてよく、さらに {{Math|C}} の運動方向は {{mvar|y}}軸、{{mvar|z}}軸と直交しているとし、{{mvar|y'}}軸、{{mvar|z'}}軸が{{mvar|y}}軸、{{mvar|z}}軸と一致しているとしても一般性を失わない。 観測者 {{Math|A}}、{{Math|B}} から見た {{Math|C}} の速度をそれぞれ {{math|(''v''{{sub|''x''}},''v''{{sub|''y''}},''v''{{sub|''z''}})}}、{{math|(''v&prime;''{{sub|''x''}},''v&prime;''{{sub|''y''}},''v&prime;''{{sub|''z''}})}} とするとき、{{Math|B}} の座標系から {{Math|A}} の座標系への速度変換則は、ローレンツ変換の{{EquationNote|L4|(L4)}}式より以下のようになる: :<math>\begin{align}(v'_x,v'_y,v'_z) &= \frac{c(\mathrm{d}x', \mathrm{d}y', \mathrm{d}z')}{c\mathrm{d}t'}\\ &= \frac{c(\gamma(\mathrm{d}x-v\mathrm{d}t), \mathrm{d}y, \mathrm{d}z)}{\gamma(c\mathrm{d}t+(v/c)\mathrm{d}x)}\\ &= \frac{(v_x-V, v_y/\gamma, v_z/\gamma)}{1+ Vv_x/c^2}.\end{align}</math> ===因果律、同時性の相対性=== 本節では、質点の速度が光速を越えない限り、特殊相対性理論においても因果律が成り立つことを示す。以下、特に断りがない限り、質点、観測者の双方とも光速度以下であるものとする。 {{mvar|{{vec|x}}, {{vec|y}}}} をミンコフスキー空間上の2つの世界点とする。{{math|{{vec|''y''}} &minus; {{vec|''x''}}}} が未来の光円錐の内部にあるとき、{{mvar|{{vec|x}}}} は {{mvar|{{vec|y}}}} の'''因果的過去''' (causally precede) といい、{{math|{{vec|''x''}} &lt; {{vec|''y''}}}} と書く。同様に {{math|{{vec|''y''}} &minus; {{vec|''x''}}}} が未来の光円錐の内部もしくは未来の光円錐上にあるとき、{{mvar|{{vec|x}}}} は {{mvar|{{vec|y}}}} の'''年代的過去''' (chronologically precede) といい、{{math|{{vec|''x''}} &#8806; {{vec|''y''}}}} と書く。 因果的過去は以下のように特長づけられる: {{Indent|ミンコフスキー空間上の点 {{mvar|{{vec|x}}}} にある質点が光速未満(resp. 以下)で {{mvar|{{vec|y}}}} に到達できる &hArr; {{math|{{vec|''x''}}}} < {{math|{{vec|''y''}}}} (resp. {{math|{{vec|''x''}}}} &#8806; {{math|{{vec|''y''}}}})。}} よって特に以下が成立する: {{Indent|{{math|{{vec|''x''}}}} &#8806; {{math|{{vec|''y''}}}} かつ {{math|{{vec|''y''}}}} &#8806; {{math|{{vec|''z''}}}} &rArr; {{math|{{vec|''x''}}}} &#8806; {{math|{{vec|''z''}}}}。}} 従って「&#8806;」は数学的な[[順序集合|(半)順序]]の公理を満たす。 以下の事実は、質点の速度が光速を越えない限り座標系の取り替えで因果律が破綻しない事を意味している: {{Indent|{{math|{{vec|''x''}}}} &#8806; {{math|{{vec|''y''}}}} かつ {{mvar|{{vec|x}}}} &ne; {{mvar|{{vec|y}}}} &hArr; '''全ての慣性座標系で'''、{{mvar|{{vec|y}}}} は {{mvar|{{vec|x}}}} より時間的に後に起こる。}} 実際、どのような慣性座標系を選んでも、その時間軸 {{math|{{vec|''e''}}{{Sub|0}}}} は未来の光円錐内または未来の光円錐上にあるので、{{mvar|{{vec|x}}}} &#8806; {{mvar|{{vec|y}}}} であれば、{{mvar|{{vec|x}}}} から {{mvar|{{vec|y}}}} までに流れる時間 {{math|''&eta;''({{vec|''y''}} - {{vec|''x''}}, {{vec|''e''}}{{sub|0}})}} は正である。 一方、{{mvar|{{vec|x}}}} &#8806; {{mvar|{{vec|y}}}} でも {{mvar|{{vec|y}}}} &#8806; {{mvar|{{vec|x}}}} でもないとき、すなわち {{math|{{vec|''y''}} &minus; {{vec|''x''}}}} が空間的なときはこのような関係は成り立たない。{{math|{{vec|''y''}} &minus; {{vec|''x''}}}} が空間的なとき、以下の3種類の慣性座標系が存在する: # {{mvar|{{vec|y}}}} が {{mvar|{{vec|x}}}} より後に起こる # {{mvar|{{vec|y}}}} と {{mvar|{{vec|x}}}} が同時に起こる # {{mvar|{{vec|x}}}} が {{mvar|{{vec|y}}}} より先に起こる すなわち空間的な関係にある2点 {{mvar|{{vec|x}}}}、{{mvar|{{vec|y}}}} の時間的な順序関係は慣性系に依存してしまう。これはニュートン力学的な直観に反するが、{{mvar|{{vec|x}}}} と {{mvar|{{vec|y}}}} には因果関係がないので、どちらが先に起ころうとも因果律が破綻することはない{{sfnp|佐藤|1994|p=17}}。 ===時計のパラドックス=== 今、ここに一組の双子がおり、二人は慣性運動しながら次第に離れているとする。このとき兄から見ると、弟の時計は遅れてみえ、逆に弟から見ると兄の時計は遅れてみえる事が特殊相対性理論から帰結される。 これは一見奇妙に見えるため、'''時計のパラドックス'''と呼ばれることもあるが{{sfnp|佐藤|1994|p=21}}、実は特に矛盾している訳ではない。なぜなら慣性運動している二人は二度と出会うことがないので、もう一度再会してどちらの時計が遅れているのかを確認するすべはないからである。 ===双子のパラドックス=== {{Main|双子のパラドックス}} では次の状況はどうだろうか。やはり一組の双子がいて、弟は慣性運動している。一方、兄はロケットに乗って遠方まで行き、その後ロケットで弟のもとに帰ってきたとする。前述のように弟からみれば兄の時計は遅れるはずで、兄の時計からみれば弟の時計は遅れるはずなので、ふたりが再会したときに矛盾が生じるはずである。 結論からいえば、特殊相対性理論から示されるのは、ロケットに乗った兄より慣性運動していた弟の方が再会時に時計が進んでいるという事である。すなわち再会時に兄が弟よりも若い{{sfnp|佐藤|1994|pp=21&ndash;24,59&ndash;50}}。 なぜならミンコフスキー空間上で、兄がロケットで飛び立ったときの世界点を {{mvar|{{vec|x}}}} とし、兄が再び弟に再会したときの世界点を {{mvar|{{vec|y}}}} とすると、{{mvar|{{vec|x}}}} と {{mvar|{{vec|y}}}} を結ぶ世界線のうち最も固有時間が長くなるのは慣性運動する世界線であることをすでに示したからである。従って慣性運動していた弟はロケットに乗った兄より多くの固有時間を費やした事になるのである{{sfnp|佐藤|1994|pp=21&ndash;24,59&ndash;50}}。 では逆に弟のほうが兄より若くなったとする主張のどこが間違っていたのかというと、我々が時間の縮みの公式を導いたとき、慣性系である事を仮定していたのであるが、兄の座標系はロケットが行きと帰りで向きを変える際加速度運動しているので慣性系ではない{{sfnp|佐藤|1994|pp=21&ndash;24,59&ndash;50}}。従って兄の座標系に対して単純に時間の縮みの公式を適応したのが間違いだったのである{{sfnp|佐藤|1994|pp=21&ndash;24,59&ndash;50}}。 ===ガレージのパラドックス=== {{Main|en:ladder paradox}} 今、長さ {{mvar|l}} のハシゴ と奥行き {{math|''L'' &lt; ''l''}} のガレージがあるとし、ハシゴは高速でガレージに近づいてきたとする。ガレージが静止して見える慣性系から見ると、ハシゴがローレンツ収縮するので、ハシゴはガレージに入ってしまう。一方、ハシゴが静止して見える慣性系からみると、逆にガレージの方がローレンツ収縮してしまうので、ハシゴはガレージに入らないはずである。正しいのはどちらであろうか。 結論からいうと、どちらも正しく、ガレージの系から見た場合は、ハシゴはガレージに入るように見え、ハシゴの系から見るとハシゴはガレージに入らないように見える。すなわち、ハシゴの前端と後端に関する事象を区別して述べれば、ガレージの静止系ではハシゴの後端がガレージに入りきった'''後'''、ハシゴの前端がガレージの裏の壁にぶつかるのに対し、ハシゴの静止系ではハシゴがガレージに入り切らず、ハシゴの後端がガレージに入る'''前'''にハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.phys.u-ryukyu.ac.jp/~maeno/cgi-bin/pukiwiki/index.php?%C1%EA%C2%D0%CF%C02009%C7%AF%C5%D9%C2%E814%B2%F3|title=相対論2009年度第14回|work=物理Tips|publisher=[[琉球大学]]|author=前野昌弘|date=2015-12-24|accessdate=2016-05-23}}</ref>。ハシゴの前端がガレージの裏壁にぶつかる事象とハシゴの後端がガレージに入りきる事象には因果関係がないので、どちらが先に起こるのかは慣性系によって変化するのである。 ==テンソル代数の準備== 先に進む前に、特殊相対性理論で頻繁に用いられるテンソル代数の知識について述べる。 ===アインシュタインの縮約記法=== {{Main|アインシュタインの縮約記法}} 特殊相対性理論では、 :<math>\sum_\mu a^\mu b_\mu</math> のように上つきと下つきで同じ添え字(この場合は {{mvar|&mu;}})が使われているときは、{{math|&Sigma;}} 記号を省略し、 :<math>a^\mu b_\mu</math> と書き表す慣用的な記法が用いられることが多い。この記法を'''アインシュタインの縮約記法'''という。 この縮約記法は行列の積や3項以上の場合にも同様に用いられ、例えば :<math>\sum_{\kappa,\tau} a^\mu{}_\kappa b^\kappa{}_\tau c^\tau{}_\nu</math> は :<math> a^\mu{}_\kappa b^\kappa{}_\tau c^\tau{}_\nu </math> と略す。 一方、たとえ2箇所の添え字が共通していても、 :<math> \sum_\mu a_\mu b_\mu </math>、<math> \sum_\nu c^\nu d^\nu </math> のように添え字が両方下つき、もしくは両方上つきの場合は {{math|&Sigma;}} を省略しない。 ===双対基底=== {{math|(''V'', ''&eta;'')}} を4次元ミンコフスキー空間とし、{{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を {{math|(''V'', ''&eta;'')}} 上の(正規直交とは限らない)基底とする。このとき、以下の性質を満たす {{mvar|V}} の基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sup|0}}, {{vec|''e''}}{{sup|1}}, {{vec|''e''}}{{sup|2}}, {{vec|''e''}}{{sup|3}}}} が一意に存在する事が知られており、この基底を {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} の'''[[双対基底]]'''という{{R|group="注"|双対空間の同一視}}: : 任意の {{math|''&mu;, &nu;'' {{=}} 0, ..., 3}} に対し、<math>\eta(\vec{e}^\mu,\vec{e}_\nu)=\delta^\mu{}_{\nu}.</math> ここで <math>\delta^\mu{}_{\nu}</math> は[[クロネッカーのデルタ]]である。 正規直交基底の場合は双対基底は非常に簡単に書くことができる: :<math>(\vec{e}^0,\vec{e}^1,\vec{e}^2,\vec{e}^3)=(\vec{e}_0,-\vec{e}_1,-\vec{e}_2,-\vec{e}_3).</math> 上でも分かるように、双対基底は元の基底と空間方向の向きが反対である。 本項では正規直交の場合にしか双対基底の概念を用いないが、一般相対性理論を定式化する際には一般の基底に対する相対基底が必要となる為、以下基底は正規直交とは限らない場合について述べる。 双対基底はミンコフスキー計量の成分表示を使って具体的に求めることができる。 :<math>\eta_{\mu\nu} = \eta(\vec{e}_\mu, \vec{e}_\nu)</math> とするとき、{{Math|(''&eta;''{{Sub|''&mu;&nu;''}}){{Sub|''&mu;&nu;''}}}} の逆行列を {{Math|((''&eta;''{{sup-|1}}){{Sup|''&mu;&nu;''}}){{Sub|''&mu;&nu;''}}}} とすれば、 :<math>\vec{e}^\mu=(\eta^{-1})^{\mu\xi}\vec{e}_\xi</math> である。実際、 :<math>\eta(\vec{e}^\mu,\vec{e}_\nu)=(\eta^{-1})^{\mu\xi}\eta(\vec{e}_\xi ,\vec{e}_\nu)= (\eta^{-1})^{\mu\xi} \eta_{\xi\nu}=\delta^\mu{}_\nu</math> である。 双対基底の定義から、次が成立する: {{Indent|{{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} の双対基底の双対基底は {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} 自身である。}} 以下の議論では、「通常の」基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を一組固定し、{{Math|{{vec|''e''}}{{sup|0}}, {{vec|''e''}}{{sup|1}}, {{vec|''e''}}{{sup|2}}, {{vec|''e''}}{{sup|3}}}} をその双対基底とする。しかし上の定理でもわかるように、どちらの基底を「通常の」基底とみなし、どちらを双対基底とみなすのかは任意である。本項では、空間方向が右手系のものを通常の基底とみなし、左手系のものをその双対基底とみなすことにする。 ===共変性と反変性=== {{Main|ベクトルの共変性と反変性}} {{mvar|V}} の元 {{mvar|{{vec|a}}}} を基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} で表す場合、{{mvar|{{vec|a}}}} の各成分の添え字を :<math>\vec{a}= a^\mu\vec{e}_\mu</math> のように上つきに書く(アインシュタインの縮約で表記)。一方、{{mvar|{{vec|a}}}} を {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} の双対基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sup|0}}, {{vec|''e''}}{{sup|1}}, {{vec|''e''}}{{sup|2}}, {{vec|''e''}}{{sup|3}}}} を用いて表す場合、{{mvar|{{vec|a}}}} の各成分の添え字を :<math>\vec{a}= a_\mu\vec{e}^\mu</math> のように下つきに書く。明らかに :<math>a^\mu=\eta(\vec{a},\vec{e}^\mu),\quad a_\mu=\eta(\vec{a},\vec{e}_\mu)</math> である。また正規直交基底の場合は明らかに :<math>(a^0,a^1,a^2,a^3)=(a_0,-a_1,-a_2,-a_3)</math> が成立する。 {{mvar|V}} の2つの元 {{mvar|{{vec|a}}}}、{{mvar|{{vec|b}}}} のミンコフスキー内積をとるとき、一方を基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} で表し、他方をその双対基底で表すと、 :<math>\eta\left(\sum_\mu a^\mu\vec{e}_\mu, \sum_\nu b_\nu\vec{e}^\nu\right)=a^0b_0+a^1b_1+a^2b_2 +a^3b_3=a^\mu b_\mu</math> と通常の内積のように書け、ミンコフスキー内積特有の符号の煩わしさから解放されるので便利である。 基底を一つ指定したとき、{{mvar|a{{sup|&mu;}}}} は添え字 {{mvar|&mu;}} に対し'''反変'''、{{mvar|a{{sub|&mu;}}}} は添え字 {{mvar|&mu;}} に対し'''共変'''であるという。これらの名称は、基底を取り替えた際の成分の変化に由来する。すなわち、ミンコフスキー空間上にもう1組の基底 {{Math|({{vec|''e&prime;''}}{{sub|0}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|1}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|2}}, {{vec|''e&prime;''}}{{sub|3}})}} を用意し、基底の間の座標変換が成分表示で : {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|''&nu;''}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|''&mu;''}}&Lambda;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} と書けていたとすると4元ベクトル {{math|{{vec|''a''}}}} の反変成分 {{math|1={{vec|''a''}} = ''a''&prime;{{sup|''&nu;''}}{{vec|''e''&prime;}}{{sub|''&nu;''}} {{=}} ''a''{{sup|''&mu;''}}{{vec|''e''}}{{sub|''&mu;''}}}} は、 : {{math|''a''&prime;{{sup|''&nu;''}} {{=}} (&Lambda;{{sup-|1}}){{sup|''&nu;''}}{{sub|''&mu;''}} ''a''{{sup|''&mu;''}}}} という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底とは反対に {{math|&Lambda;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} の逆行列で結ばれる。それゆえ、「反対の変化」、すなわち反変と呼ばれる。 一方、基底の変更に対する共変成分の変化を見るため、双対基底が基底の変更でどのような影響を受けるか調べる。 : {{math|{{vec|''e''&prime;}}{{sup|''&nu;''}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sup|''&mu;''}}&Gamma;{{sub|''&mu;''}}{{sup|''&nu;''}}}} とすると、 :<math>\delta^\mu{}_\nu=\eta(\vec{e}'^\mu,\vec{e}'_\nu)=\Gamma^\mu{}_\xi\Lambda^\kappa{}_\nu\eta(\vec{e}^\xi,\vec{e}_\kappa)</math> <math>=\Gamma^\mu{}_\xi\Lambda^\kappa{}_\nu\delta^\xi{}_\kappa= \Gamma^\mu{}_\xi\Lambda^\xi{}_\nu</math> すなわち、{{math|&Gamma;{{sub|''&mu;''}}{{sup|''&nu;''}}}} は {{math|&Lambda;{{sub|''&mu;''}}{{sup|''&nu;''}}}} の逆行列 {{math|(&Lambda;{{sup-|1}}){{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} であるので、双対基底は : {{math|{{vec|''e''&prime;}}{{sup|''&nu;''}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sup|''&mu;''}}(&Lambda;{{sup-|1}}){{sub|''&mu;''}}{{sup|''&nu;''}}}} という変換規則に従うことがわかる。よって4元ベクトル {{mvar|{{vec|a}}}} の共変成分 {{math|{{vec|''a''}} {{=}} ''a''&prime;{{sub|''&nu;''}}{{vec|''e''&prime;}}{{sup|''&nu;''}} {{=}} ''a''{{sub|''&mu;''}}{{vec|''e''}}{{sup|''&mu;''}}}} は、 : {{math|1=''a''&prime;{{sub|''&nu;''}} = &Lambda;{{sub|''&nu;''}}{{sup|''&mu;''}} ''a''{{sub|''&mu;''}}}} という関係になるので、ダッシュつきの座標系にうつるとき、基底と共通の行列 {{math|&Lambda;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} で結ばれる。それゆえ、「共通の変化」、すなわち共変と呼ばれる。 ===テンソル=== 本節ではテンソルに関する基本的な知識を紹介する。ただし本節での解説はミンコフスキー空間 {{Mvar|V}} 上に限定したものであるので、一般の空間で成り立つとは限らない{{R|group="注"|双対空間の同一視}}。 {{Mvar|n}} を自然数とする。写像 <math>T\colon V^n\to \mathbb{R}</math> が以下の性質('''多重線形性''')を満たすとき、{{Mvar|T}} を'''{{Mvar|n}}次の[[テンソル]]'''という: : {{Mvar|V}} の任意の4元ベクトル {{Mvar|{{vec|a}}{{sup|&mu;}}{{sub|&nu;}}}} と任意の実数 {{Mvar|k{{sup|&mu;}}{{sub|&nu;}}}} に対し、 ::<math>\begin{align}&T(\sum_{\nu_1}k^{1}_{\nu_1}\vec{a}_{\nu_1}^{1},\ldots,\sum_{\nu_n}k^{n}_{\nu_n}\vec{a}_{\nu_n}^{n})\\&=\sum_{\nu_1,\ldots,\nu_n}k^{1}_{\nu_1}\cdots k^{n}_{\nu_n}T(\vec{a}_{\nu_1}^{1},\ldots,\vec{a}_{\nu_n}^{n}).\end{align}</math> 特殊相対性理論で重要なのは主に2次のテンソルであるので、以下2次のテンソルに話を限定するが、一般の場合も同様である。なお、2次のテンソルは数学で'''[[二次形式]]'''と呼ばれるものと同一である。 2次のテンソル {{Mvar|T}} に対し、 : <math>T(\vec{a},\vec{b})= T(\vec{b},\vec{a}) </math> が全ての4元ベクトル {{Mvar|{{vec|a}}}}、{{Mvar|{{vec|b}}}} に対して成り立つとき、{{Mvar|T}} を'''対称テンソル'''という。また : <math>T(\vec{a},\vec{b})= -T(\vec{b},\vec{a}) </math> が全ての4元ベクトル {{Mvar|{{vec|a}}}}、{{Mvar|{{vec|b}}}} に対して成り立つとき、{{Mvar|T}} を'''反対称テンソル'''という。 ====成分表示==== {{Mvar|T}} をミンコフスキー空間上の2次のテンソルとし、{{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} をミンコフスキー空間の基底とし、{{Math|{{vec|''e''}}{{sup|0}}, {{vec|''e''}}{{sup|1}}, {{vec|''e''}}{{sup|2}}, {{vec|''e''}}{{sup|3}}}} をその双対基底とする。このとき、上述の基底や相対基底を使って {{Mvar|T}} を4通りに'''成分表示'''する事が可能である: :<math>\begin{align} T_{\mu\nu}&=T(\vec{e}_{\mu},\vec{e}_{\nu}),\\ T^{\mu}{}_{\nu}&=T(\vec{e}^{\mu},\vec{e}_{\nu}),\\ T_{\mu}{}^{\nu}&=T(\vec{e}_{\mu},\vec{e}^{\nu}),\\ T^{\mu\nu}&=T(\vec{e}^{\mu},\vec{e}^{\nu}). \end{align}</math> 4元ベクトル {{mvar|{{vec|a}}}}, {{mvar|{{vec|b}}}} を : <math>\vec{a}=a^\mu\vec{e}_\mu=a_\mu\vec{e}^\mu</math> : <math>\vec{b}=b^\nu\vec{e}_\nu=b_\nu\vec{e}^\nu</math> と成分表示する(アインシュタインの縮約で表記)と、 {{Indent|<math>T(\vec{a},\vec{b})=T_{\mu\nu}a^\mu b^\nu =T^\mu{}_{\nu} a_\mu b^\nu =T_\mu{}^{\nu} a^\mu b_\nu =T^{\mu\nu} a_\mu b_\nu </math>}} が成立する。 上述の4通りの成分表示において、{{Mvar|T}} は上付きの添え字に対し'''反変'''、下付きの添え字に対し'''共変'''であるという。 4元ベクトルの場合と同様、基底を別のものに取り替えたとき {{Mvar|T}} の各成分は、反変の添え字に関しては基底変換行列の逆行列が、共変の添え字に関しては基底変換行列そのものが作用する。例えば : {{math|{{vec|''e&prime;''}}{{sub|''&nu;''}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sub|''&mu;''}}&Lambda;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} とすると : {{math|{{vec|''e&prime; ''}}{{sup|''&nu;''}} {{=}} {{vec|''e''}}{{sup|''&mu;''}}(&Lambda;{{sup-|1}}){{sub|''&mu;''}}{{sup|''&nu;''}}}} なので、ダッシュつきの基底に関する成分 {{Math|''T''&prime;{{sup|''&mu;''}}{{sub|''&nu;''}}}} は :<math>T'^{\mu}{}_{\nu}=T(\vec{e}'^{\mu},\vec{e}'_{\nu})= T(\vec{e}^{\xi},\vec{e}_{\kappa}) (\Lambda^{-1})_\xi{}^\mu\Lambda ^\kappa{}_{\nu} = T^{\xi}{}_{\kappa}(\Lambda^{-1})_\xi{}^\mu\Lambda ^\kappa{}_{\nu} </math> と、上付きの添え字には反変、下付の添え字には共変に変化する。 ====ミンコフスキー計量の成分表示==== ミンコフスキー計量 {{Mvar|&eta;}} も二次の対称テンソルであるので、上述のように成分表示できる。 基底が正規直交であれば、ミンコフスキー計量の成分表示は非常に簡単になり、 :<math>(\eta_{\mu\nu})_{\mu\nu}=(\eta^{\mu\nu})_{\mu\nu}=\left(\begin{array}{cccc}1&&&\\&-1&&\\&&-1&\\&&&-1\end{array}\right),</math> :<math>(\eta_{\mu}{}^{\nu})_{\mu\nu} =(\eta ^{\mu}{}_{\nu})_{\mu\nu}=\left(\begin{array}{cccc}1&&&\\&1&&\\&&1&\\&&&1\end{array}\right).</math> のように書くことができる。 ====2次のテンソルと線形写像==== ミンコフスキー空間上の線形写像 {{math|''f'' : ''V'' &rarr; ''V''}} が与えられたとき、2次のテンソルを {{NumBlk|:|<math>T(\vec{a},\vec{b})=\eta(\vec{a},f(\vec{b}))</math>|{{EquationRef|T1}}}} と定義できる。 逆にミンコフスキー空間上の2次のテンソル {{Mvar|T}} が任意に与えられたとき、{{EquationNote|T1|(T1)}}式を満たす線形写像 {{Mvar|f}} が一意に存在する事が知られている。従って2次のテンソルと線形写像を自然に同一視できる。 2次のテンソル {{Mvar|T}} に対応する線形写像は基底 {{Math|{{vec|''e''}}{{sub|0}}, {{vec|''e''}}{{sub|1}}, {{vec|''e''}}{{sub|2}}, {{vec|''e''}}{{sub|3}}}} を用いると、下記のように具体的に書き表す事もできる: :<math>a^\mu\vec{e}_\mu\mapsto T^\nu{}_\mu a^\mu\vec{e}_\nu.</math> ====テンソル場==== ミンコフスキー空間上の各世界点 {{Mvar|P}} にテンソル {{Mvar|T{{Sub|P}}}} を割り振ったもの(すなわちミンコフスキー空間からテンソルの集合への写像 {{mvar|P {{Unicode|&#10501;}} T<sub>P</sub>}})を'''テンソル場'''という。 相対性理論でテンソル場は中核に位置する概念であり、電磁場を初めとして様々なものをテンソル場として表現する。 ==特殊相対性理論における電磁気学== 本節では、電磁気学の基本的な概念や方程式を特殊相対性理論に合致する形に書き換える。 以下、慣性系 :<math>(x^0,x^1,x^2,x^3),~x^0=ct</math> を1つ固定し、この慣性系において電磁気学を記述する。詳細は省くが、本節の記述は、他の慣性系で電磁気学を記述したものとローレンツ変換で移りあう事を確認できるので、特殊相対性理論に合致している。 なお、本項では[[国際単位系]]を用いる場合に対して記述したが、{{Harvtxt|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971}}など{{仮リンク|電磁気の単位#CGSガウス単位系|label=ガウス単位系|en|Gaussian units|preserve=1}}を用いている書籍における定義とは光速度 {{Mvar|c}} のかかる位置が違うなどの差があるので注意が必要である<ref group="注">なお、'''特殊相対性理論の原論文'''{{Harv|アインシュタイン|1905a}}は[[電磁気の単位|CGSガウス単位系]]を用いている{{疑問点|date=2016年10月|talksection=原論文の単位系について}}。</ref>。 === 4元電流密度と連続の方程式 === [[電荷密度]] {{Mvar|ρ}} と[[電流密度]] {{math|'''''j''''' {{=}} (''j{{Sub|x}}'', ''j{{Sub|y}}'', ''j''{{Sub|z}})}} を使って、'''[[電荷・電流密度|4元電流密度]]'''を、 :<math>(j^0,j^1,j^2,j^3):=(c\rho,j_x,j_y,j_z)</math> によって定義する。 すると[[連続の方程式]] :<math>\frac{\partial\rho}{\partial t}+\nabla\cdot\boldsymbol{j}=0</math> は、4元電流密度と'''{{仮リンク|4元勾配|en|four-gradient}}''' (4&ndash;gradient) {{math|(''&part;''{{Sub|0}}, ''&part;''{{Sub|1}}, ''&part;''{{Sub|2}}, ''&part;''{{Sub|3}})}} を用いて :<math>\partial_\nu j^\nu=0</math> と表現できる。ここで {{mvar|&part;{{Sub|&nu;}}}} は {{math|''&part;'' / ''&part;x{{Sup|&nu;}}''}} の略記である。 === 電磁テンソル === 真空の[[真空の誘電率|誘電率]]、[[透磁率]]をそれぞれ {{math|''&epsilon;''{{sub|0}}, ''&mu;''{{sub|0}}}} とすると、マクスウェル方程式により導かれる電磁波の速度 {{math|1 / {{sqrt|''&mu;''{{Sub|0}}''&epsilon;''{{Sub|0}}}}}} が真空中の光速度と一致する事が実験・観測により確かめられたので、光の正体は電磁波であると考えられるようになった。この事実から、 :<math>c=\frac{1}{\sqrt{\mu_0\varepsilon_0}}</math> である。 さらに[[電場]] {{math|'''''E''''' {{=}} (''E{{Sub|x}}'', ''E{{Sub|y}}'', ''E{{Sub|z}}'')}} と[[磁束密度]] {{math|'''''B''''' {{=}} (''B{{Sub|x}}'', ''B{{Sub|y}}'', ''B{{Sub|z}}'')}} を用いて'''[[電磁テンソル]]'''を :<math>(F^{\alpha\beta})_{\alpha\beta}:=\begin{pmatrix} 0&-E_x/c&-E_y/c&-E_z/c\\ E_x/c&0&-B_z&B_y\\ E_y/c&B_z&0&-B_x\\ E_z/c&-B_y&B_x&0 \end{pmatrix}</math> により定義する。<!--なお、我々は <math>\boldsymbol{E}/c^2</math> と <math>\boldsymbol{B}</math> により電磁テンソルを定義しているが{{Harvtxt|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971}}のように <math>\boldsymbol{E}</math> と <math>\boldsymbol{H}</math> により定義する書籍もある([[E-B対応とE-H対応]])。←勘違い。どうやらこの本は磁束密度の記号としてBでなくHを使ってある模様--> 電磁場を別の慣性系から見た場合、電場と磁束密度がそれぞれ {{math|'''''E'''''&prime; {{=}} (''E''&prime;{{Sub|''x''}}, ''E''&prime;{{Sub|''y''}}, ''E''&prime;{{Sub|''z''}})}} と {{math|'''''B'''''&prime; {{=}} (''B''&prime;{{Sub|''x''}}, ''B''&prime;{{Sub|''y''}}, ''B''&prime;{{Sub|''z''}})}} であったとし、これらから作った電磁テンソルを {{math|''F''&prime;{{Sup|''&alpha;&beta;''}}}} とする。 {{math|''F''&prime;{{Sup|''&alpha;&beta;''}}}} と {{mvar|F{{Sup|&alpha;&beta;}}}} がローレンツ・ブースト{{EquationNote|L4|(L4)}}式で移りあう為の必要十分条件は、 :<math>\begin{align} (E'_x,B'_x)&=(E_x,B_x),\\ (E'_y,B'_y)&=\gamma(E_y- |\boldsymbol{v}| B_z,B_y+ |\boldsymbol{v}| E_z /c^2 ),\\ (E'_z,B'_z)&=\gamma(E_z+ |\boldsymbol{v}| B_y,B_z- |\boldsymbol{v}| E_y /c^2 ) \end{align}</math> が成立する事である事を簡単な計算で確認できる{{sfnp|佐藤|1994|p=39}}{{sfnp|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971|p=62}}。ここで {{mvar|'''v'''}} は2つの慣性系の間の相対速度で、{{math|''&gamma;'' {{=}} 1 / {{sqrt|1 &minus; ({{!}}'''''v'''''{{!}}/''c''){{Sup|2}}}}}} はローレンツ因子である。 非相対論的極限 {{math|'''''v''''' / ''c'' &asymp; 0}} では {{math|''&gamma;'' &asymp; 1}} なので、上述の条件式は、古典電磁気学で知られている慣性系間の変換公式 <!-- NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math> \begin{array}{l} \boldsymbol{E}'=\boldsymbol{E}+\boldsymbol{v}\times\boldsymbol{B},\\ \boldsymbol{B}'=\boldsymbol{B}- \boldsymbol{v}\times\boldsymbol{E}/c^2 \end{array} </math>&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|E1|(E1)}} |cellpadding= 6 }} に一致する。 よって電磁テンソルはローレンツ変換に対して共変であると結論づけられる。 === 相対性理論以前の解釈 === 特殊相対性理論以前のマックスウェル方程式の解釈には非対称性があった。例えば磁石を固定されたコイルに近づけた場合は[[電磁誘導]]により電流が流れると解釈されるが、逆にコイルを固定された磁石に近づけた場合は[[ローレンツ力]]で電子が動かされることにより電流が流れると解釈された。今日的な視点から見れば、これら2つのケースは単なる慣性系の取り替えに過ぎないにも関わらず、両者の解釈が異なるのは不自然である。事実、流れる電流の量はどちらのケースであっても同一であり、磁石とコイルの相対速度だけで決まる。 このような非対称な解釈になったのは、当時は電場と磁束密度は完全に別概念であったことによる。{{EquationNote|E1|(E1)}}式も、今日の目から見ると電場と磁束密度を電磁テンソルという同一のテンソルとしてまとめるべき事を示唆しているように見えるが、当時は{{EquationNote|E1|(E1)}}式の第二項はあくまでも「仮想的な」電場や磁束密度の効果であるとみなされた。 上述したような理論の非対称性の解消に関心のあった{{sfnp|広重|1971}}[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]は、特殊相対性理論によりこの非対称性を解消した{{R|einstein}}。 === マクスウェル方程式 === {{Main|古典電磁気学の共変定式}} ====電磁テンソルによる表現==== すでに電磁テンソルがローレンツ変換に対して共変であることを示したので、マクスウェル方程式を電磁場テンソルで表せば、マクスウェル方程式もローレンツ変換に対して共変であることを示せる。 電磁テンソルと4元電流密度を使うとマクスウェル方程式の2式 :<math>\begin{align}\nabla\cdot\boldsymbol{E}&=\frac{\rho}{\epsilon_0}\\ \nabla\times\boldsymbol{B}-\frac{1}{c^2}\frac{\partial\boldsymbol{E}}{\partial t}&=\mu_0\boldsymbol{j}\end{align}</math> はいずれも :<math>\partial_{\alpha} F^{\alpha\beta}=\mu_0 j^{\beta}</math> と同一の形で表現でき、残りの2式 :<math>\begin{align}\nabla\cdot\boldsymbol{B}&=0\\ \frac{\partial\boldsymbol{B}}{\partial t}+\nabla\times\boldsymbol{E}&=0\end{align}</math> はいずれも :<math>\partial_\gamma F_{\alpha\beta}+\partial_\alpha F_{\beta\gamma}+\partial_\beta F_{\gamma\alpha}=0</math>({{Math|''&alpha;'', ''&beta;'', ''&gamma;''}} は相異なる) と同一の形で表現できる。なお、リッチ計算の記法を用いると、上の式は :<math>\partial_{[\alpha}F_{\beta\gamma]}=0</math> とも表記できる。 マクスウェル方程式は[[微分形式]]と[[外微分]]を用いるとさらに簡潔に表現できる事が知られているが、微分形式に関する予備知識を必要とするので本節では述べない([[マクスウェル方程式#微分形式による表現]]を参照)。 ====4元ポテンシャルによる表現==== 電磁場には必ず以下の条件をみたす組 {{mvar|&phi;, '''A'''}}('''[[電磁ポテンシャル]]''')が存在する事が知られている <!-- NumBlkだと携帯で正しく表示されなかったので改善-->{{Equation box 1 |indent =: |equation = <math>\boldsymbol{B}=\operatorname{rot} \boldsymbol{A}</math>、<math>\boldsymbol{E}=-\operatorname{grad}\phi-\frac{\partial \boldsymbol{A}}{\partial t}</math> &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; {{EquationRef|E2|(E2)}} |cellpadding= 6 }} 本節では、電磁ポテンシャルの4元ベクトル版である'''4元ポテンシャル''' {{Indent|<math>\vec{A}=(A^0, A^1, A^2, A^3):=(\phi/c,\boldsymbol{A})</math>}} を用いる事で、マクスウェル方程式を表現する。 1つの電磁場に対し{{EquationNote|E2|(E2)}}式を満たす電磁ポテンシャルは一意ではない事が知られている。そこでローレンツ共変性を損ねない形で電磁ポテンシャルを制限するため、4元勾配を使った以下の条件('''ローレンツ・ゲージ''')を課す: {{Indent|<math>\frac{\partial A^\alpha}{\partial x^\alpha}=0.</math>}} このとき、マクスウェル方程式は4元電流密度を用いて {{Indent|<math>\Box\vec{A}=\mu_0\vec{j}</math>}} という一本の式で書き表せる。ここで :<math>\Box:=\frac{1}{c^2}\frac{\partial^2}{\partial t^2}-\frac{\partial^2}{\partial x^2}-\frac{\partial^2}{\partial y^2}-\frac{\partial^2}{\partial z^2}</math> は[[ダランベール演算子|ダランベルシアン]]である。 === ローレンツ力と運動方程式 === 今、電荷 {{mvar|q}} を持った質点があるとし、この質点の4元速度を {{mvar|{{vec|u}}}} とし、{{mvar|{{vec|u}}}} の反変成分を {{math|(''u''{{sub|0}}, ''u''{{sub|1}}, ''u''{{sub|2}}, ''u''{{sub|3}})}} とする。このとき、この質点が電磁場から受ける4元力を、電磁場テンソル {{math|''F''{{sup|''&alpha;&beta;''}}}} を用いて {{Indent|<math>f^{\alpha}=qF^{\alpha\beta}u_{\beta}</math>}} によって定義すると、この4元力からできる質点の運動方程式は :<math>\frac{\mathrm{d}p^{\alpha}}{\mathrm{d}\tau}=qF^{\alpha\beta}u_{\beta}</math> である。ここで {{math|''p''{{sup|''&beta;''}}}} は質点の4元運動量の {{mvar|&beta;}} 成分で、{{mvar|&tau;}} は質点の固有時間である。 上の運動方程式は {{math|''&alpha;'' {{=}} 0, 1, 2, 3}} に対して定義されているが、4元運動量と4元速度の空間成分(の共変表現){{math|'''''p''''' {{=}} (''p''{{Sup|1}}, ''p''{{Sup|2}}, ''p''{{Sup|3}}), '''''v''''' {{=}} (''u''{{Sup|1}}, ''u''{{Sup|2}}, ''u''{{Sup|3}})}} に着目すると、電磁場テンソルの定義より、運動方程式の空間成分は : 左辺の空間成分 <math>=\gamma\frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t}</math> : 右辺の空間成分 <math>=\gamma q(\boldsymbol{E}+\boldsymbol{v}\times\boldsymbol{B})</math> となることがわかる。ここで {{mvar|&gamma;}} はローレンツ因子 {{math|1 / {{sqrt|1 &minus; ({{!}}'''''v'''''{{!}}/''c''){{Sup|2}}}}}} である。 すなわち相対論における運動方程式の空間成分は、ローレンツ力に関する運動方程式 :<math>\frac{\mathrm{d}\boldsymbol{p}}{\mathrm{d}t}=q(\boldsymbol{E}+\boldsymbol{v}\times\boldsymbol{B})</math> と完全に一致する。 運動方程式の時間成分に関しては、{{math|''cp''{{sup|0}}}} が質点のエネルギー {{mvar|E}} を表していた事に着目すると、 : 左辺の時間成分 <math>=\frac{\gamma}{c}\frac{\mathrm{d}E}{\mathrm{d}t}</math> : 右辺の時間成分 <math>=\frac{\gamma}{c}(q\boldsymbol{E}\cdot\boldsymbol{v})</math> なので、下記の式が従う: :<math>\frac{\mathrm{d}E}{\mathrm{d}t}=q\boldsymbol{E}\cdot\boldsymbol{v}=q(\boldsymbol{E}+\boldsymbol{v}\times\boldsymbol{B})\cdot\boldsymbol{v}.</math> 右辺は単位時間当たりに電磁場のローレンツ力が質点に対してした仕事なので、この式はローレンツ力による仕事がエネルギーに変わる事を意味している。すなわちこれは、'''エネルギー保存則'''にあたる式である{{sfnp|佐藤|1994|p=46}}。 == 特殊相対性理論の実験的検証 == 特殊相対性理論は、次のような事象からも検証されている。 *電場と磁場の統一理論としての特殊相対性理論の検証<ref group="注">アインシュタインは一般相対性理論においては重力と慣性力を統一(等価原理)し、さらに晩年は電磁力と重力の統一を目指した統一理論を研究していた。</ref> *: 電流が流れる電線の周りに磁場が生じる。 *時計の遅れの検証 ** 横方向のドップラー効果の測定(赤道上の時計の遅れの実験){{sfnp|矢野|1991|p=201}}<ref group="注">当初はアインシュタインにより地球の極と赤道上の実験として提案されたが、メスバウアー効果の発見により、実験室に配置した円盤上で検証可能となった。</ref> **:[[メスバウアー効果]]を起こす放射線源とその吸収体について、放射線源を回転する円盤の中心に、吸収体を円周に配置して回転させるとメスバウアー効果が発生しなくなる{{sfnp|Hay|1960}}{{sfnp|相対性理論と量子力学の誕生|1972}}, 第7,8章<ref group="注">他にも検証不可能だと思われていた一般相対性理論の検証もメスバウアー効果の発見によって可能となった。たとえば、重力偏移によるいわゆる時計の遅れなどについても既に検証されている。パウンド–レブカ実験 (Pound–Rebka experiment) など。</ref>。 ** ハフェル–キーティング実験 (Hafele–Keating experiment) **:航空機で運んだ[[原子時計]]と地上で静止したままの原子時計との間に発生するズレが理論と誤差([[不確定性原理]]も含む)の範囲で一致する<ref>{{YouTube|gdRmCqylsME|当時の映像}}</ref>。なお、この実験における相対論効果は **:# 特殊相対性理論における運動によるいわゆる時計の遅れ、 **:# 一般相対性理論における重力偏移によるいわゆる時計の遅れ、 **:# [[サニャック効果]](Sagnac effect) **:の3つが複合して現れる{{refnest|group="注"|[[GPS]](Global Positioning System ; 全地球測位システム)も同様にこの3つの効果が現れるため、その分補正を行なわなくてはならない{{sfnp|ジョーンズ|2001|pp=184&ndash;193}}。}}。 ** 粒子の[[平均寿命]]の延長 **:[[宇宙線]]の衝突により発生する非常に寿命の短い粒子が、単純に光速度程度で移動したと考えても数百メートル程度しか移動できないはずであるのに、地上で観測することができる。また、[[粒子加速器]]で粒子を光速近くまで加速すると、崩壊するまでの寿命が延びる。なお、この寿命の延びは厳密に特殊相対性理論による予測に従う。 *質量とエネルギーの等価性 *:[[オットー・ハーン]]は[[核分裂反応|核分裂]]を発見したが、この反応の際の[[質量欠損]]により、大量のエネルギーが放出された。この放出は特殊相対性理論の帰結のひとつである質量とエネルギーの等価性 [[E=mc2|{{Math|''E'' {{=}} ''mc''²}}]] において欠損相当の質量に換算される[[原子核]]内部の[[核子]]の[[結合エネルギー]]である。 *その他 *:光速近くまで加速した[[電子]]等の荷電粒子を[[磁場]]によって曲げると、[[放射光]]と呼ばれる光が発生する。この光は特殊相対性理論の効果により前方に集中し、粒子軌道の接線方向への極めて指向性の高い光となる。 == 一般相対性理論へ == 特殊相対性理論すなわち慣性力のない慣性系を対象とする理論体系が一通り出来上がった後、アインシュタインは、非慣性系と[[重力場]]へ対象を広げる仕事に取り組み、より一般的な理論である[[一般相対性理論]]を導いた。 特殊相対性理論では「あらゆる慣性系どうしが等価である」ことを原理としたが、さらに「慣性力と[[重力]]は本質的に区別がなく等価である」との視点に立ち、一般相対性理論を展開した。一般相対性理論によると、離れた観測者には光は速さが変化し曲線を描いて見える。この理論は、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]の[[万有引力]]論による物理事象の捉え方を、全面的かつ発展的に書き換える内容である。 一般相対性理論では思索の対象を慣性系以外にも広げており、その名の通り、特殊相対性理論は一般相対性理論の「特殊な場合」に相当し、一般相対性理論は特殊相対性理論を包含する理論である<ref group = "注">ただし、各理論が専らに主張するテーマは、相対運動下での時空間の理解(特殊相対論)であったり、重力と時空間の計量の理解(一般相対論)であったり、といったように異なる。</ref>。これらの2つの相対性理論を総称して(あるいは、両者を区別をせずに)[[相対性理論]]と呼ぶこともある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{reflist|30em|group="注"|refs= <ref group="注" name="LPabs">ローレンツ–ポアンカレの理論ではその前提がはっきりと示されている{{Harvtxt|広重|1967|p=72}}。</ref> <ref group="注" name="双対空間の同一視">本項では(ミンコフスキー)計量により、ベクトル空間{{Mvar|V}}とその双対空間 {{Mvar|V{{Sup|*}}}} が同一視できるケースのみを扱う。</ref> }} === 出典 === {{reflist|25em|refs= {{refnest|name="einstein"|{{Harvtxt|アインシュタイン|1905a}}及び『[[運動物体の電気力学について|運動している物体の電気力学について]]』{{sfnp|矢野|1991|pp=180&ndash;226}}}} }} == 参考文献 == === 原論文 === * {{Cite journal|author=A.Einstein|title=Zur Elektrodynamik bewegter Körper|trans-title=運動している物体の電気力学について|date=June 30, 1905|url=http://www.physik.uni-augsburg.de/annalen/history/einstein-papers/1905_17_891-921.pdf|format=[[Portable Document Format|PDF]]|journal=[[アナーレン・デア・フィジーク|Annalen der Physik]]|location=[[ライプツィヒ|Leipzig]]|volume=322|issue=10|pages=891&ndash;921|language=[[ドイツ語|German]]|issn=0003-3804|oclc=5854993|bibcode=1905AnP...322..891E|doi=10.1002/andp.19053221004|ref={{SfnRef|アインシュタイン|1905a}}}} **邦訳:{{Cite book|和書|author=アルベルト・アインシュタイン|authorlink=アルベルト・アインシュタイン|translator=内山龍雄|date=1988-11-16|title=相対性理論|series=[[岩波文庫]]|publisher=[[岩波書店]]|id={{全国書誌番号|89014307}}|isbn=978-4003393413|ncid=BN02773137|oclc=674504252|asin=4003393414}} * {{Cite journal|url=http://www.itp.kit.edu/~ertl/Hauptseminar_SS13/papers/einstein_ist_die_traegheit_eines_koerpers_von_seinem_Energiegehalt_abhaengig.pdf|title=Ist die Trägheit eines Körpers von seinem Energieinhalt abhängig?|format=[[Portable Document Format|PDF]]|trans-title=物体の慣性は、そのエネルギーの大きさに依存するか|author=A.Einstein|journal=[[アナーレン・デア・フィジーク|Annalen der Physik]]|location=[[ライプツィヒ|Leipzig]]|volume=323|issue=13|pages=639–641|language=[[ドイツ語|German]]|issn=0003-3804|oclc=5854993|bibcode=1905AnP...323..639E|doi=10.1002/andp.19053231314|date=September 27, 1905|ref={{SfnRef|アインシュタイン|1905b}}}} *{{Cite journal|last=Hertz|first=Heinrich|authorlink=ハインリヒ・ヘルツ|year=1890|month=September|url=http://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/andp.18902771102/pdf|title=Über die Grundgleichungen der Electrodynamik für bewegte Körper|trans-title=運動物体に対する電気力学の基本方程式について|format=[[Portable Document Format|PDF]]|journal=[[アナーレン・デア・フィジーク|Annalen der Physik]]|location=[[ライプツィヒ|Leipzig]]|volume=277|issue=11|pages=369–399|issn=0003-3804|oclc=5854993|doi=10.1002/andp.18902771102|ref=harv}} === 全般 === *{{Cite book|和書|author=佐藤勝彦|authorlink=佐藤勝彦 (物理学者)|date=1996-12-18|title=相対性理論|editor1=長岡洋介|editor2=原康夫|editor2-link=原康夫|series=岩波基礎物理シリーズ|publisher=[[岩波書店]]|id={{全国書誌番号|97049882}}|isbn=4000079298|ncid=BN15591416|oclc=675345203|asin=4000079298|ref={{SfnRef|佐藤|1994}}}} *{{Cite book|和書|author=シュッツ|authorlink=:en:Bernard F. Schutz|translator=江里口良治・[[二間瀬敏史]]|date=2010-12-11|series=シュッツ 相対論入門|title=特殊相対論|edition=第2版|publisher=[[丸善雄松堂|丸善]]|id={{全国書誌番号|21863153}}|isbn=978-4621083109|ncid=BB04513937|oclc=744209903|asin=4621083104|ref={{SfnRef|シュッツ|2010}}}} *{{Cite book|和書|author1=ランダウ|authorlink1=レフ・ランダウ|author2=リフシッツ|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ|translator=[[恒藤敏彦]]・[[広重徹]]|date=1978-10-30|edition=原書第6版|title=場の古典論=電気力学,特殊および一般相対性理論=|series=ランダウ=リフシッツ理論物理学教程|publisher=[[東京図書出版]]|id={{全国書誌番号|79000237}}|isbn=978-4489011610|ncid=BN00890297|oclc=841897028|asin=448901161X|ref={{sfnref|Landau|Lifshitz|1978}}}} **本項執筆には英語第3版を参照した(最新は第4版){{cite book|authorlink=レフ・ランダウ|author=L.D. Landau|authorlink2=エフゲニー・リフシッツ|author2=E.M. Lifshitz|year=1971|month=June|title=The Classical Theory of Fields|edition=3rd|series=Course of theoretical physics|volume=2|translator=[[:de:Morton Hamermesh|Hamermesh, M.]]|publisher={{enlink|Pergamon Press|p=off|s=off}}|location=[[オックスフォード|Oxford]]|isbn=978-0-08-016019-1|ncid=BA04678383|asin=0080160190|oclc=473400139|id={{ASIN|B00JO9YQMG}} ([[Amazon Kindle|Kindle]])|ref={{SfnRef|Landau, Lifshitz (3rd ed.)|1971}}}} *{{Cite book|和書|last=前原|first=昭二|date=1993-07-01|title=線形代数と特殊相対論|publisher=[[日本評論社]]|id={{全国書誌番号|93061332}}|isbn=978-4535606067|ncid=BN09501532|oclc=674230845|asin=4535606064|ref=harv}} * {{cite book|和書|author=H.A.ローレンツ|title=ローレンツ 電子論|translator=広重徹|year=1973|ref={{SfnRef|ローレンツ電子論|1973}}}} * {{cite book|和書|author=M.ボルン|author2=W.ビーム|title=アインシュタインの相対性原理|translator=瀬谷 正男|year=1971|publisher=講談社|ref=ボルン}} * {{cite book|和書|author=メラー|title=相対性理論|translator=永田 恒夫, 伊藤 大介|publisher=みすず書房|year=1959|ref=メラー}} * {{cite book|和書|last=矢野|first=健太郎|title=アインシュタイン|year=1991|ref=harv|publisher=講談社|series=講談社学術文庫}} * {{cite book|和書|author=アインシュタイン|translator=矢野健太郎|title=相対論の意味|volume=附:非対称場の相対論|year=1958|ref={{SfnRef|相対論の意味|1958}}|publisher=岩波書店}} * {{cite book|和書|last=砂川|first=重信|title=理論電磁気学|publisher=紀伊國屋書店|edition=第3版|year=1999|ref=harv}} * {{cite book|和書|author=砂川重信|title=電磁気学|origdate=1977|edition=新装版|date=1987|publisher=岩波書店|ref={{SfnRef|砂川|1977}}}} * {{cite book|和書|last=後藤|first=憲一|editor=山崎 修一郎|title=詳解電磁気学演習|year=1970|ref=harv}} * {{Cite journal|和書|last=広重|first=徹|authorlink=広重徹|url=https://doi.org/10.11316/butsuri1946.26.380 |title=相対論はどこから生まれたか|format=PDF|journal=日本物理學會誌|publisher=[[日本物理学会]]|volume=26|date=1971-06-05|issue=6|pages=380&ndash;388|naid=110002072547|issn=0029-0181|oclc=834302891|doi=10.11316/butsuri1946.26.380|ref=harv}}({{cite book|和書|last=広重|first=徹|authorlink=広重徹|editor=西尾成子|title=相対論の形成 −広重徹科学史論文集−|year=1980|publisher=みすず書房|ref=harv}}) * {{cite book|和書|author=ファインマン|translator=宮島 龍興|title=ファインマン物理学〈3〉電磁気学|publisher=岩波書店|year=1986|ref={{SfnRef|ファインマン電磁気学|1986}}}} * {{cite book|和書|title=電磁気学 初めて学ぶ電磁場理論|year=2013|last=遠藤|first=雅守|publisher=森北出版|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=史上最強図解 これならわかる! 電磁気学|year=2014|last=遠藤|first=雅守|publisher=ナツメ社|ref=harv}} * {{cite book|和書|title=物理学史Ⅱ|author=広重 徹|publisher=培風館|year=1968-03|id={{全国書誌番号|68001733}}|isbn=4563024066|ncid=BN00957321|asin=4563024066|ref={{SfnRef|広重|1967}}}} * {{Cite web|和書|url=http://maya.phys.kyushu-u.ac.jp/~knomura/education/Undergraduate/General-Relativity/text.pdf |title=一般相対性理論 |access-date=2022-06-25 |publisher=九州大学 |author=野村 清英 |last=野村 |first=清英 |page=5 |date=2019-04-23}} * {{cite book|和書|title=相対性理論|author=内山龍雄|series=物理テキストシリーズ8|publisher=岩波書店|year=1977-03|ref={{SfnRef|内山|1977}}}} * {{cite book|和書|title=相対性理論(上)|author=W.パウリ|publisher=筑摩書房|year=2007-12|ref={{SfnRef|パウリ|2007}}}} * {{cite book|和書|title=趣味で相対論|author=広江克彦|publisher=理工図書|year=2008-6|ref={{SfnRef|広江|2008}}}} ;時刻合わせ、電磁波測距儀、いわゆる時計の遅れの実験について * {{cite book|和書|title=相対性理論と量子力学の誕生|year=1972|series=現代物理の世界|author=アインシュタイン|author2=シュレディンガーほか|translator=谷川安孝, 中村誠太郎, 青木 昌三|ref={{SfnRef|相対性理論と量子力学の誕生|1972}}}} * {{cite book|和書|author=トニー・ジョーンズ|title=原子時間を計る―300億分の1秒物語|translator=松浦 俊輔|year=2001|publisher=青土社|ref={{SfnRef|ジョーンズ|2001}}|url=https://books.google.co.jp/books?id=krZBQbnHTY0C&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false}} * {{cite book|和書|title=電磁波測距儀|last=須田|first=教明|edition=改訂版|publisher=森北出版|year=1976|ref=harv}} * {{cite journal|author=Michelson|author2=Albert Abraham|author3=Morley|author4=Edward Williams|title=On the Relative Motion of the Earth and the Luminiferous Ether|url=http://www.aip.org/history/gap/PDF/michelson.pdf|year=1887|month=November|journal=[[:en:American Journal of Science|American Journal of Science]]|series=Series 3|volume=34|issue=203|pages=333&ndash;345|format=[[Portable Document Format|PDF]]|doi=10.2475/ajs.s3-34.203.333|oclc=643884995|issn=0002-9599|ref={{SfnRef|マイケルソン・モーリー|1887}}}} * {{cite journal|title=電波時計のしくみ|series=通信ソサエティマガジン|last=岩間|first=司|publisher=電子情報通信学会|year=2011|volume=夏号|issue=17|pages=4&ndash;5|url=http://www.ieice.org/~cs-edit/magazine/img/kids/pdf/pdf_clock.pdf|format=[[Portable Document Format|PDF]]|ref=harv}} === その他参照 === * {{cite book|和書|editor=国立天文台|title=理科年表|edition=平成25年版|year=2012|ref=理科年表}} * {{cite book|和書|author=恒藤 敏彦|title=弾性体と流体|series=物理入門コース 8|date=1983-09-14|publisher=岩波書店|id={{全国書誌番号|84005992}}|isbn=4000076485|ncid=BN00620248|asin=4000076485|ref=恒藤(1983)}} * {{cite book|和書|author=マックス・ヤンマー|title=質量の起源|translator=大槻 義彦, 葉田野 義和, 斉藤 威|year=1977|publisher=講談社|ref={{SfnRef|ヤンマー|1977}}}} * {{Cite wikisource|class=book|year=1895|last=Lorentz|publisher=E. J. Brill|location=Leiden|first=Hendrik Antoon|authorlink=ヘンドリック・ローレンツ|ref=harv|wslink=Versuch einer Theorie der electrischen und optischen Erscheinungen in bewegten Körpern|title=Versuch einer Theorie der electrischen und optischen Erscheinungen in bewegten Körpern [運動する物体における電磁的・光学的現象を理論化する試み]|author=Hendrik Antoon Lorentz|wslanguage=de}} * {{Cite wikisource|class=journal|wslink=Electromagnetic phenomena|title=Electromagnetic phenomena in a system moving with any velocity smaller than that of light [光速以下の速度で運動する系における電磁現象]|wslanguage=en|last=Lorentz|first=Hendrik Antoon|year=1904|journal=Proceedings of Royal Netherlands Academy of Arts and Sciences|volume=6|publisher=[[オランダ王立芸術科学アカデミー|Royal Netherlands Academy of Arts and Sciences]]|pages=809&ndash;831|ref=harv}} * {{Cite wikisource|class=journal|author=H. Poincaré|title=Sur la dynamique de l'électron [電子の動力学について]|date=23 July 1905|wslink=Sur la dynamique de l’électron (juillet)|wslanguage=fr|journal=Rendiconti del Circolo matematico di Palermo|volume=21|pages=129&ndash;176|ref={{SfnRef|ポアンカレ|1905}}}} * {{cite book|title=The principle of relativity; original papers|year=1920|author=Albert Einstein|author2=Hermann Minkowski|others=Meghnad Saha, Satyendranath Bose (translate)|url=https://archive.org/details/principleofrelat00eins|oclc=6308161}} * {{Cite journal|title=Measurement of the Red Shift in an Accelerated System Using the Mössbauer Effect in Fe{{sup|57}}|url=http://journals.aps.org/prl/pdf/10.1103/PhysRevLett.4.165|author=H. J. Hay|author2=J. P. Schiffer|author3=T. E. Cranshaw|author4=P. A. Egelstaff|journal=[[フィジカル・レビュー|Phys. Rev. Lett.]]|volume=4|issue=4|pages=165&ndash;166|date=15 February 1960|publisher=Atomic Energy Research Establishment|location=Harwell, England|doi=10.1103/PhysRevLett.4.165|ref={{SfnRef|Hay|1960}}}} == 関連項目 == {{columns-list|colwidth=15em| * [[電磁気学]] * [[エーテル (物理)|エーテル]] * [[波動方程式]] * [[電磁波]] * [[流体力学]] * [[一般相対性理論]] * [[マイケルソン干渉計]] * [[リモートセンシング]] ** [[レーダー]] ** [[スピード測定器]] * [[サニャック効果]] }} === 関連人物 === {{columns-list|colwidth=20em| * [[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]] * [[ヘンドリック・ローレンツ]] * [[ジョージ・フィッツジェラルド]] * [[アンリ・ポアンカレ]] * [[ヘルマン・ミンコフスキー]] * [[エルンスト・マッハ]] * [[マックス・プランク]] }} == 外部リンク == * {{Cite wikisource|title=Translation:The Sagnac Effect: An Experimentum Crucis in Favor of the Aether?}} * {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} * {{Britannica|science|special-relativity|Special relativity}} {{Physics-footer}} {{相対性理論}} {{アルベルト・アインシュタイン}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とくしゆそうたいせいりろん}} [[Category:特殊相対性理論|*]] [[Category:アルベルト・アインシュタイン]] [[Category:時空]] [[Category:力学]]
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冬季ねあ
冬季 ねあ(ふゆき ねあ)は、日本の漫画家。主に、『月刊ガンガンWING』(スクウェア・エニックス)で活動。
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{{存命人物の出典皆無|date=2016年9月2日 (金) 16:55 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 冬季 ねあ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = |生地 = |没年 = |没地 = |死因 = |職業 = [[漫画家]] |称号 = |活動期間 = [[1998年]] - |ジャンル = |代表作 = [[ファイアーエムブレム 聖戦の系譜#漫画|ファイアーエムブレム 光をつぐもの]] |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''冬季 ねあ'''(ふゆき ねあ)は、日本の[[漫画家]]。主に、『[[月刊ガンガンWING]]』([[スクウェア・エニックス]])で活動。 == 漫画作品 == * 1999年2月1日発売 ガンガンWINGコミックス『[[ファイアーエムブレム 聖戦の系譜#漫画|ファイアーエムブレム 光をつぐもの]] 1』 * 1999年11月1日発売 ガンガンWINGコミックス『ファイアーエムブレム 光をつぐもの 2』 * 2000年7月1日発売 ガンガンWINGコミックス『ファイアーエムブレム 光をつぐもの 3』 * 2001年3月1日発売 ガンガンWINGコミックス『ファイアーエムブレム 光をつぐもの 4』 * 2001年9月1日発売 ガンガンWINGコミックス『ファイアーエムブレム 光をつぐもの 5』 * 2002年4月1日発売 ガンガンWINGコミックス『JINX』 * 2003年3月1日発売 ガンガンWINGコミックス『[[天眷御伽草子]] 1』 * 2003年12月27日発売 ガンガンWINGコミックス『天眷御伽草子 2』 * 2004年9月27日発売 ガンガンWINGコミックス『天眷御伽草子 3』 * 2005年4月27日発売 ガンガンWINGコミックス『天眷御伽草子 4』 * 2006年8月26日発売 ガンガンWINGコミックス『Ark 1』 * 2007年1月27日発売 ガンガンWINGコミックス『Ark 2』 * 2007年8月27日発売 ガンガンWINGコミックス『Ark 3』 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の漫画家一覧]] * [[月刊ガンガンWING]] * [[スクウェア・エニックス]] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:ふゆき ねあ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:存命人物]]
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別天荒人
別天 荒人(べってん こうと、1973年6月25日 - )は、日本の漫画家、イラストレイター。島根県出身。東京都国分寺市在住。男性。 1997年、漫画家デビュー(イラストレーターとしてはそれ以前から活動)。「源平伝NEO」以降は原作者を付けて掲載している。
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別天 荒人は、日本の漫画家、イラストレイター。島根県出身。東京都国分寺市在住。男性。
'''別天 荒人'''(べってん こうと、[[1973年]][[6月25日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレイター]]。[[島根県]]出身。[[東京都]][[国分寺市]]在住。男性。 == 略歴 == [[1997年]]、漫画家デビュー(イラストレーターとしてはそれ以前から活動)。「源平伝NEO」以降は原作者を付けて掲載している。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[源平伝NEO]]([[あかほりさとる]]原作。1998年-2001年、[[月刊少年エース]]〈[[角川書店]]〉連載。角川コミックス・エース刊、全4巻) *# 1999年、ISBN 4047132780 *# 1999年、ISBN 404713306X *# 2000年、ISBN 4047133582 *# 2001年、ISBN 4047134295 * [[プリンス・スタンダード]](1998年-2003年、[[コミックガム]]〈[[ワニブックス]]〉連載。ガムコミックス刊、全7巻) *# 1998年、ISBN 4-8470-3294-2 *# 1999年、ISBN 4-8470-3325-6 *# 2000年、ISBN 4-8470-3352-3 *# 2001年、ISBN 4-8470-3407-4 *# 2002年、ISBN 4-8470-3428-7 *# 2002年、ISBN 4-8470-3420-1 *# 2003年、ISBN 4-8470-3444-9 ** プリンス・スタンダード 新装版([[月刊コミックブレイド]]〈マッグガーデン〉連載。全6巻) **# 2006年、ISBN 486127334X **# 2006年、ISBN 4861273358 **# 2007年、ISBN 4861273463 **# 2007年、ISBN 4861273471 **# 2007年、ISBN 4861273595 **# 2007年、ISBN 4861273609 * マルキュウ([[コミックシード!]]〈[[ぺんぎん書房]]〉連載)絶版 *# 2003年、ISBN 4901978144 *# 2004年、ISBN 4901978438 * [[ガールフレンド (漫画)|ガールフレンド]]([[外薗昌也]]原作。[[週刊ヤングジャンプ]]〈[[集英社]]〉連載。ヤングジャンプコミックス刊、全5巻) *# 2004年、ISBN 4088766237 *# 2005年、ISBN 4088767659 *# 2005年、ISBN 4088768949 *# 2006年、ISBN 4088771451 *# 2007年、ISBN 4088772636 * [[ハルカゼBITTER☆BOP]]([[コミックブレイドMASAMUNE]]〈[[マッグガーデン]]〉連載。全4巻) *# 2005年、ISBN 4861271290 *# 2006年、ISBN 4861272564 *# 2007年、ISBN 4861273617 *# 2007年、ISBN 4861274451 * [[明日泥棒 (漫画)|明日泥棒]](外薗昌也原作。週刊ヤングジャンプ→[[月刊ヤングジャンプ]]〈集英社〉連載。全4巻) *# 2008年、ISBN 4088774426 *# 2008年、ISBN 4088775287 *# 2009年、ISBN 4088775775 *# 2009年、ISBN 4088776453 * [[トーキョー・ガールズ・デストラクション]](WEBコミック [[マグコミ|Beat's]]〈マッグガーデン〉連載。全3巻) *# 2012年、ISBN 4861279437 *# 2012年、ISBN 4800000149 *# 2012年、ISBN 4800000645 * [[怪盗ロワイヤル|怪盗ロワイヤル〜ロザルタの秘宝を追え!!〜]]([[たなかかなこ]]原作、[[岡田道尚]]シナリオ協力、[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]/[[ワカマツカオリ]]原案。週刊ヤングジャンプ連載〈集英社〉。単巻) *# 2011年、ISBN 4088792130 * [[ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミア ILLEGALS-]]([[堀越耕平]]「[[僕のヒーローアカデミア]]」原作、[[古橋秀之]]脚本。[[ジャンプGIGA]]→[[少年ジャンプ+]]連載〈集英社〉。全15巻) * スパイダーマン:オクトパスガール(「[[スパイダーマン|SPIDER-MAN]]」〈[[マーベル・コミック|MARVEL]]〉原作、古橋秀之脚本。少年ジャンプ+連載〈集英社〉) === 読み切り漫画 === * アナザースカイ(集英社、2011年、ISBN 408879219X) ** 僕のキライな君のコト(月刊ヤングジャンプ掲載) ** Cat People([[甘露 (漫画原作者)|甘露]]原作。[[月刊ヤングジャンプ#漫革|漫革]]掲載) ** ナツムシ([[星井博文]]原作。漫革掲載) ** Sweets or Die([[月刊少年シリウス]]掲載) ** お姫様ストライカー([[月刊コミックブレイド]]掲載) ** 竜日 -ryujitsu-(月刊ヤングジャンプ掲載) === イラスト === * [[ガープス]](著:[[山本弘 (作家)|山本弘]]・[[友野詳]]・[[グループSNE]]、表紙イラスト・挿絵、全3巻) * [[ルナル・サーガ#ルナル・サーガ#カルシファード|ルナル・サーガ・リプレイ]](著:友野詳・グループSNE、表紙イラスト・挿絵、全2巻) * [[FIGHTER]](著:[[吉田直]]、表紙イラスト・挿絵) * [[突撃お宝発掘部]](著:[[麻生俊平]]、表紙イラスト・挿絵、全2巻) * [[源平伝NEO]](著:[[あかほりさとる]]、表紙イラスト・挿絵、全3巻) * [[気球に乗って五週間]](著:[[ジュール・ヴェルヌ]]、表紙イラスト、集英社文庫版期間限定) * [[チャンセラー号の筏]](著:ジュール・ヴェルヌ、表紙イラスト、集英社文庫版期間限定) * [[イモムシランデブー]](著:[[久麻當郎]]、表紙イラスト・挿絵) === 画集 === * Girl Friend(2006年、ISBN 4087821501) == 外部リンク == * {{Twitter|bet10co10|別天荒人}} * {{pixiv|547821}} * {{tumblr|bet10co10}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:へつてん こうと}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:島根県出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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青年漫画
青年漫画(せいねんまんが)は、日本における漫画のジャンルのひとつであり、少年漫画よりも上の年齢層を対象とした漫画。 かつては成人の男性をおもな対象としていたが、現在では若年層や女性の読者も増え、少年漫画・少女漫画もしくは女性漫画との境界も薄れつつある。幅広い作風の作品を取り扱う事により広範な読者を獲得し、漫画業界においては掲載雑誌数および対象読者層の観点から市場の大きなジャンルとなっている。 扱われるテーマはビジネス、賭博、グルメなど多岐にわたるが、少年漫画や少女漫画ではあまり扱われない大学生、社会人の生活、社会人向けの実践的な知識、本格的なミステリー、社会問題、経済関連のテーマなどが扱われることも多く、思想的・政治的な表現を盛り込んだ作品もある。老若男女、様々な人物たちを成人男性の視点で傍観する作品もある為、少年漫画に近い作品、少女漫画に近い作品を生み出すこともできる(実際に、青年漫画の用法を使った「マニア向け少年漫画」「男性向け少女漫画」を名乗っている雑誌もある)。概ね高校生以上の年代層をターゲットとしており、少年漫画と比べてが読者層の年齢が高いことから、ホラー漫画や格闘漫画の傾向による性的・暴力的な描写への制約も薄い。性的・暴力的な描写、喫煙・飲酒シーンなどがなく、それに関する概念・問題点のみを描写している全年齢対象の青年漫画もある。 少年漫画・少女漫画もしくは女性漫画に近べて表現の制約が少なく、作者の自由度が高いジャンルであり、少年漫画や少女漫画から移籍してきた作家も多い。掲載作品のメディアミックスに関してはテレビドラマ化・映画化の割合が多く、アニメ(TVアニメ作品・OVA作品)化もしくはゲーム化される機会が多い少年漫画・少女漫画・メディアミックス系の漫画雑誌と対比すれば、より広範な読者層の支持が期待される。ただし、少年漫画にも言える事だが、女性キャラクターは男性キャラクターと比べるとエロティックさ、目に見える行動といった外見的な魅力、役割が重視されており、男性キャラクターと同じぐらい登場頻度を増やすと背景画と一続きのような絵柄になり、読者の感情移入を促す人物として描写する分には限度がある。少年漫画と同様に男性キャラクター、男性が抱える社会問題を描くのに向いている。 成人向け漫画(漫画によるポルノグラフィ)の通称である「成年漫画」とは全く異なるジャンルであり、出版・流通の段階では厳密に区別される。しかし、成人向け漫画業界から青年漫画業界への作家の流入もあり、一部の雑誌では実質的に成人向け漫画雑誌に近い誌面になっている(作品において「成年向け青年漫画」となっている)場合もある。他方、成人向け漫画雑誌にも「マークなし」と呼ばれるソフト路線の作品を扱う雑誌が存在し、グレーゾーンの存在が両者の区別を困難にしている場合がある。 出版・流通・販売の段階では、マニアックな漫画雑誌や、月刊コミック電撃大王などメディアミックスに重点を置いた漫画雑誌に掲載された作品も青年漫画に含まれるが、マーケティングの手法や消費者の立場からは青年漫画と区別されることもある。 昭和30年代から漫画サンデー誌が存在したとみられるが、これは大人向け(18禁の意味ではない)つまり教養のある人向けの色気を含んだ内容の雑誌であり、青年漫画誌として見られていたわけではない。 昭和39年に週刊漫画ゴラクが発売され、昭和40年代初めには漫画サニーなどの青年向けのエロと危険と暴力の匂いのする雑誌があり、昭和42年の週刊漫画アクション誌でルパン三世などがヒットして市場と分野が成長した。 おりから、日本の高度成長の結果、貿易黒字が続き、紙パルプが入手しやすくなって各分野の漫画雑誌が次々に増えていった時代である。またカウンターカルチャーが盛んだった時代でもある。 女性の青年層向けマンガの雑誌としては、経済的に自立しづらい高校生も青年に含めるならば、1968年創刊のセブンティーン誌など(当時はハイティーン誌と呼ばれた)があるが、若い大人に似た意味の青年であれば、1970年代末創刊のBE・LOVE(1979)、YOU(1980)などの雑誌から明確な分野が始まる。 その後、女性の18歳以上を対象とした分野は、レディースコミックと呼ばれるようになる。
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青年漫画(せいねんまんが)は、日本における漫画のジャンルのひとつであり、少年漫画よりも上の年齢層を対象とした漫画。
{{複数の問題 |出典の明記=2023年6月 |独自研究=2023年6月}} '''青年漫画'''(せいねんまんが)は、[[日本]]における[[漫画]]のジャンルのひとつであり、[[少年漫画]]よりも上の年齢層を対象とした漫画。 == 概要 == かつては成人の男性をおもな対象としていたが、現在では若年層や女性の読者も増え、[[少年漫画]]・[[少女漫画]]もしくは[[女性漫画]]との境界も薄れつつある。幅広い作風の作品を取り扱う事により広範な読者を獲得し、漫画業界においては掲載雑誌数および対象読者層の観点から市場の大きなジャンルとなっている。 扱われるテーマは[[ビジネス]]、[[賭博]]、[[グルメ]]など多岐にわたるが、少年漫画や少女漫画ではあまり扱われない大学生、社会人の生活、社会人向けの実践的な知識、本格的な[[ミステリー]]、[[社会問題]]、[[経済]]関連のテーマなどが扱われることも多く、[[思想]]的・[[政治]]的な表現を盛り込んだ作品もある。老若男女、様々な人物たちを成人男性の視点で傍観する作品もある為、少年漫画に近い作品、少女漫画に近い作品を生み出すこともできる(実際に、青年漫画の用法を使った「マニア向け少年漫画」「男性向け少女漫画」を名乗っている雑誌もある)。概ね[[高校生]]以上の年代層をターゲットとしており、少年漫画と比べてが読者層の年齢が高いことから、[[ホラー漫画]]や[[格闘漫画]]の傾向による性的・暴力的な描写への制約も薄い。性的・暴力的な描写、喫煙・飲酒シーンなどがなく、それに関する概念・問題点のみを描写している全年齢対象の青年漫画もある。 少年漫画・少女漫画もしくは女性漫画に近べて表現の制約が少なく、作者の自由度が高いジャンルであり、少年漫画や少女漫画から移籍してきた作家も多い。掲載作品の[[メディアミックス]]に関しては[[テレビドラマ]]化・[[映画]]化の割合が多く、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]](TVアニメ作品・[[OVA]]作品)化もしくは[[コンピューターゲーム|ゲーム]]化される機会が多い少年漫画・少女漫画・メディアミックス系の漫画雑誌と対比すれば、より広範な読者層の支持が期待される。ただし、少年漫画にも言える事だが、女性キャラクターは男性キャラクターと比べるとエロティックさ、目に見える行動といった外見的な魅力、役割が重視されており、男性キャラクターと同じぐらい登場頻度を増やすと背景画と一続きのような絵柄になり、読者の感情移入を促す人物として描写する分には限度がある。少年漫画と同様に男性キャラクター、男性が抱える社会問題を描くのに向いている。 [[成人向け漫画]](漫画によるポルノグラフィ)の通称である「'''成年漫画'''」とは全く異なるジャンルであり、出版・流通の段階では厳密に区別される。しかし、成人向け漫画業界から青年漫画業界への作家の流入もあり、一部の雑誌では実質的に成人向け漫画雑誌に近い誌面になっている(作品において「成年向け青年漫画」となっている)場合もある。他方、成人向け漫画雑誌にも「[[成人向け漫画#出版・流通業界の自主規制|マークなし]]」と呼ばれるソフト路線の作品を扱う雑誌が存在し、グレーゾーンの存在が両者の区別を困難にしている場合がある{{誰2|date=2015年5月}}。 出版・流通・販売の段階では、マニアックな漫画雑誌や、[[月刊コミック電撃大王]]などメディアミックスに重点を置いた漫画雑誌に掲載された作品も青年漫画に含まれるが、マーケティングの手法や消費者の立場からは青年漫画と区別されることもある。 == 歴史 == 昭和30年代から[[漫画サンデー]]誌が存在したとみられるが、これは大人向け(18禁の意味ではない)つまり教養のある人向けの色気を含んだ内容の雑誌であり、青年漫画誌として見られていたわけではない。 昭和39年に[[週刊漫画ゴラク]]が発売され、昭和40年代初めには[[漫画サニー]]などの青年向けのエロと危険と暴力の匂いのする雑誌があり、昭和42年の[[週刊漫画アクション]]誌で[[ルパン三世]]などがヒットして市場と分野が成長した。 おりから、日本の高度成長の結果、貿易黒字が続き、紙パルプが入手しやすくなって各分野の漫画雑誌が次々に増えていった時代である。また[[カウンターカルチャー]]が盛んだった時代でもある。 女性の青年層向けマンガの雑誌としては、経済的に自立しづらい高校生も青年に含めるならば、1968年創刊の[[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]]誌など(当時は[[ハイティーン]]誌と呼ばれた)があるが、若い大人に似た意味の青年であれば、1970年代末創刊の[[BE・LOVE]](1979)、[[YOU (雑誌)|YOU]](1980)などの雑誌から明確な分野が始まる。 その後、女性の18歳以上を対象とした分野は、[[レディースコミック]]と呼ばれるようになる。 == 関連項目 == * [[シニア漫画]] == 外部リンク == <!-- * [http://www.j-magazine.or.jp/data_002/m6.html 一般社団法人 日本雑誌協会 - JMPAマガジンデータ:男性コミック] - 「少年向けコミック誌」「男性向けコミック誌」で区分(※ただし「男性向け」は未再分化)--> * [http://www.shueisha.co.jp/magazines/m_comic.html 集英社 SHUEISHA 雑誌] - 「少年・青年コミック誌」として漫画雑誌を区分 * [http://www.fujisan.co.jp/category/3081/ Fujisan.co.jp - 青年コミック] - 「青年コミック」として漫画雑誌を区分 * [http://www.ebookjapan.jp/ebj/genre/manga.html eBookJapan - 男性マンガ] - 「男性マンガ」を「青年マンガ」「少年マンガ」に区分(雑誌・単行本) * [http://www.cmoa.jp/boy/ コミックシーモア - 少年マンガ・青年マンガ] - 「青年マンガ」「少年マンガ」に区分(単行本) * [http://sp.comics.mecha.cc/genre/seinen-manga めちゃコミック - 青年漫画]「青年漫画」として区分(単行本) * [http://sokuyomi.jp/man/ ソク読み - 青年漫画・コミック] - 「青年コミック」として区分(単行本) {{DEFAULTSORT:せいねんまんか}} [[Category:漫画のジャンル (対象読者別)]] [[Category:日本の青少年|まんか]]
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SF漫画
SF漫画(エスエフまんが)とは科学、もしくは空想(擬似)科学をテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いた漫画を指す。ここでいう「SF」とは小説のサイエンス・フィクション(science fiction)のことであり、そういう小説に書かれるような内容を描いた漫画をSF漫画という。 アメリカ合衆国では1930年代初めごろ、新聞に連載される形で始まった。その後世界各国で書かれているが、アメリカと日本で特に盛んである。 アメリカ合衆国でのSF漫画(コミック)のはじまりは、1938年の『スーパーマン』である。その後、SF的設定のスーパーヒーローもの、『フラッシュ・ゴードン』や『バック・ロジャーズ(英語版)』のように宇宙を舞台にしたもの等、様々なSF漫画が登場した。 1950年代、ECコミックはSF漫画を洗練させていくことで大きな成功を収めたが、フレデリック・ワーサムの著書 Seduction of the Innocent を端緒として漫画排斥の機運が子を持つ親や教育者の間で高まり、漫画出版を続けられなくなった。そのような中でも、子どもや若者向けのSF漫画は1960年代を通して出版され続けた。60年代末にはヒッピー運動の中でアンダーグラウンド・コミックスが生まれ、大人向けSF漫画が復活する。 それ以前にもSFと見なされる漫画はあったが、日本におけるSFを題材にした漫画の主要な流れは、第2次世界大戦以後、手塚治虫による『火星博士』(1947年)や『鉄腕アトム』(1952年-)を発端として、横山光輝、松本零士、藤子不二雄、永井豪、石ノ森章太郎などの少年漫画から始まった。その後、萩尾望都や竹宮惠子などが少女漫画においてSFを描き始めるようになると、内容的にも一層の多様性と発展が見られるようになった。大友克洋の『AKIRA』や士郎正宗の『アップルシード』等の作品は海外でもよく知られている。 イギリスでは、コミック誌 Eagle に『ダン・デア(英語版)』が1950年から連載された。60年代半ばには教育雑誌 Look and Learn にドン・ローレンス(英語版)の描いた The Trigan Empire が連載され、その後彼は Storm を生み出した。1970年代になるとコミック誌 2000 AD でスポーツや戦争といった一般的テーマを扱ったSF漫画が定期的に掲載され、ジャッジ・ドレッドなどのキャラクターも生み出した。その成功を受けて Tornado、Starlord、Crisis といった類似のコミック誌が登場したが、いずれも数年しか続かなかった。 フランス初のSF漫画は、1925年から新聞に連載された Zig et Puce au XXIème Siècle(21世紀のZigとPuce)で、1935年に単行本化された。十代のキャラクター Zig と Puce の冒険物語である。大人向けのSF漫画としては Futuropolis (1937-38) が最初であり、続編的な Electropolis (1940) が続いた。第二次世界大戦中、ナチスの占領によって『フラッシュ・ゴードン』の輸入が禁止されたため、連載していた雑誌の穴埋めのために Le Rayon U が描かれることになった。フランス初のSF漫画専門誌は1947年創刊の Radar だが、長くは続かなかった。長く続いたSF漫画誌としては Meteor があり、1953年から1964年まで続いた。その後の有名な作品としては『バーバレラ』(1962)、雑誌としてはメタル・ユルラン (1974) がある。漫画家としては、エンキ・ビラルやジャン・ジロー(メビウス〈Moebius〉)が知られている。 インターネットの普及により、ネット上でSF漫画を発表することが増えている。SFウェブコミックの草分けとしては、Polymer City Chronicles (1994) がある。他にも Schlock Mercenary (2000) や Starslip Crisis (2005) といったSFウェブコミックがある。 SF作家の小松左京、筒井康隆は漫画を描いていた時期がある。それぞれの項目を参照のこと。
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SF漫画(エスエフまんが)とは科学、もしくは空想(擬似)科学をテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いた漫画を指す。ここでいう「SF」とは小説のサイエンス・フィクションのことであり、そういう小説に書かれるような内容を描いた漫画をSF漫画という。 アメリカ合衆国では1930年代初めごろ、新聞に連載される形で始まった。その後世界各国で書かれているが、アメリカと日本で特に盛んである。
[[File:Planet Comics 42.jpg|thumb|right|250px|Planet Comics 誌の表紙(1946年5月号)]] '''SF漫画'''(エスエフまんが)とは[[科学]]、もしくは空想(擬似)科学をテーマとしたり、あるいは舞台背景や小道具に用いた[[漫画]]を指す。ここでいう「SF」とは小説の[[サイエンス・フィクション]](''science fiction'')のことであり、そういう小説に書かれるような内容を描いた漫画をSF漫画という。 [[アメリカ合衆国]]では1930年代初めごろ、新聞に連載される形で始まった。その後世界各国で書かれているが、アメリカと[[日本]]で特に盛んである。 == 歴史 == {{see also|サイエンス・フィクション#歴史}} アメリカ合衆国でのSF漫画([[アメリカン・コミックス|コミック]])のはじまりは、1938年の『[[スーパーマン]]』である。その後、SF的設定の[[スーパーヒーロー]]もの、『[[フラッシュ・ゴードン]]』や『{{仮リンク|バック・ロジャーズ|en|Buck Rogers}}』のように宇宙を舞台にしたもの等、様々なSF漫画が登場した。 1950年代、[[ECコミック]]はSF漫画を洗練させていくことで大きな成功を収めたが、[[フレデリック・ワーサム]]の著書 ''Seduction of the Innocent'' を端緒として漫画排斥の機運が子を持つ親や教育者の間で高まり、漫画出版を続けられなくなった。そのような中でも、子どもや若者向けのSF漫画は1960年代を通して出版され続けた。60年代末には[[ヒッピー]]運動の中で[[アンダーグラウンド・コミックス]]が生まれ、大人向けSF漫画が復活する。 それ以前にもSFと見なされる漫画はあったが、日本におけるSFを題材にした漫画の主要な流れは、第2次世界大戦以後、[[手塚治虫]]による『[[火星博士]]』(1947年)や『[[鉄腕アトム]]』(1952年-)を発端として、[[横山光輝]]、[[松本零士]]、[[藤子不二雄]]、[[永井豪]]、[[石ノ森章太郎]]などの少年漫画から始まった。その後、[[萩尾望都]]や[[竹宮惠子]]などが少女漫画においてSFを描き始めるようになると、内容的にも一層の多様性と発展が見られるようになった。[[大友克洋]]の『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』や[[士郎正宗]]の『[[アップルシード]]』等の作品は海外でもよく知られている。 イギリスでは、コミック誌 ''[[:en:Eagle (comic)|Eagle]]'' に『{{仮リンク|ダン・デア|en|Dan Dare}}』が1950年から連載された。60年代半ばには教育雑誌 ''[[:en:Look and Learn|Look and Learn]]'' に{{仮リンク|ドン・ローレンス|en|Don Lawrence}}の描いた ''[[:en:The Trigan Empire|The Trigan Empire]]'' が連載され、その後彼は ''[[:en:Storm (Don Lawrence)|Storm]]'' を生み出した。1970年代になるとコミック誌 ''[[:en:2000 AD (comics)|2000 AD]]'' でスポーツや戦争といった一般的テーマを扱ったSF漫画が定期的に掲載され<ref>{{Cite web|first=Paul |last= Gravett |url= http://www.paulgravett.com/articles/064_nostalgia/064_nostalgia.htm |title=Great British Comics: Nostalgia Ain't What It Used To Be |quote=''[[:en:Action (comics)|Action]]''<nowiki>'</nowiki>s topicality and extreme images sparked a media furore and distributor crackdown, but from its ashes arose ''2000AD'', the same themes transposed into the 'fantasy' future of science fiction but as dark and disturbing as ever. |publisher=''[[:en:Comics International|Comics International]]'' |date=2005 |accessdate=2009-04-06 |deadlink=2012-03-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090220194319/http://paulgravett.com/articles/064_nostalgia/064_nostalgia.htm |archivedate=2009年2月20日}}</ref>、[[ジャッジ・ドレッド]]などのキャラクターも生み出した。その成功を受けて ''[[:en:Tornado (comic)|Tornado]]''、''[[:en:Starlord|Starlord]]''、''[[:en:Crisis (Fleetway)|Crisis]]'' といった類似のコミック誌が登場したが、いずれも数年しか続かなかった。 フランス初のSF漫画は、1925年から新聞に連載された ''Zig et Puce au XXIème Siècle''(21世紀のZigとPuce)で、1935年に単行本化された。十代のキャラクター Zig と Puce の冒険物語である。大人向けのSF漫画としては ''Futuropolis'' (1937-38) が最初であり、続編的な ''Electropolis'' (1940) が続いた。第二次世界大戦中、ナチスの占領によって『フラッシュ・ゴードン』の輸入が禁止されたため、連載していた雑誌の穴埋めのために ''[[:en:Le Rayon U|Le Rayon U]]'' が描かれることになった。フランス初のSF漫画専門誌は1947年創刊の ''Radar'' だが、長くは続かなかった。長く続いたSF漫画誌としては ''Meteor'' があり、1953年から1964年まで続いた。その後の有名な作品としては『[[バーバレラ]]』(1962)、雑誌としては[[メタル・ユルラン]] (1974) がある。漫画家としては、[[エンキ・ビラル]]や[[ジャン・ジロー]](メビウス〈Moebius〉)が知られている。 インターネットの普及により、ネット上でSF漫画を発表することが増えている。SF[[ウェブコミック]]の草分けとしては、''[[:en:Polymer City Chronicles|Polymer City Chronicles]]'' (1994) がある。他にも ''[[:en:Schlock Mercenary|Schlock Mercenary]]'' (2000) や ''[[:en:Starslip Crisis|Starslip Crisis]]'' (2005) といったSFウェブコミックがある。 == SF漫画家 == {{See also|[[:Category:SF漫画家|SF漫画家(カテゴリ)]]}} === 参考 === [[SF作家]]の[[小松左京]]、[[筒井康隆]]は漫画を描いていた時期がある。それぞれの項目を参照のこと。 == 海外の主なSF漫画家(原作者を含む) == * [[ジャック・カービー]](1917年 - 1994年) * [[スタン・リー]](1922年 - ) * [[ジャン=クロード・メジエール]](1938年 - ) * [[ジャン・ジロー]](1928年 - ) - メビウスの名で知られている。 * [[エンキ・ビラル]](1951年 - ) * [[アラン・ムーア]](1953年 - ) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite book|title=Science Fiction Comics: The Illustrated History |last=Benton |first=Mike |authorlink= |others= |year=1992 |publisher=Taylor Publishing |series=Taylor History of Comics |location= |isbn=087833789X |page= |pages=153 |url= }} {{Refend}} == 関連項目 == *[[:Category:SF漫画家|SF漫画家(カテゴリ)]] *[[漫画家]] *[[漫画作品一覧]] {{サイエンス・フィクション}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えすえふまんか}} [[Category:SF漫画作品|*]]
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ホラー漫画
ホラー漫画(ホラーまんが)は、漫画のジャンルのひとつ。怪奇漫画・恐怖漫画とも言う。 主に恐怖感を煽ることを目的として構成された作品を指す。精神的・生理的恐怖に訴えるもの、目に見えない存在・理解できない存在(主に幽霊を題材とする)による超常現象等をテーマにしたものや、死や痛みを直接的にテーマにしたブルータルなもの(残酷描写を主眼に置いた作品)等もあり、これらの作品においては「被害者の視点」を重視したものが多い。楳図かずお、日野日出志、伊藤潤二、古賀新一などが、このジャンルを中心として数多くの作品を発表している代表的な作家である。 広義には、シュールなユーモアやナンセンスなギャグ表現を盛り込んでコメディを目指したもの、妖怪や異世界を描くことを中心としたもの(「妖怪漫画」など)、非日常的な存在と対決するいわゆる「退魔もの」(オカルト的な要素を持ち、「バトルもの」の性質も含む)、等も含まれることがある。ただしこれらの作品は、本来の主題である「恐怖感」の要素とは不可分ではあるものの、直接それを目的としたものではない。 1960年代の貸本劇画、1960年代から1980年代にかけて、ひばり書房・立風書房・曙出版などから出版された描き下ろし単行本、1980年代から1990年代にかけて朝日ソノラマの『ハロウィン』・ぶんか社の『ホラーM』などのレディース・少女向けの専門漫画雑誌などに発表されたホラー漫画作品は、アングラ的サブカルチャーとしての性質が強く、その方面での愛好者も存在する。 アメリカ合衆国では、1930年代ごろからホラー漫画が登場し始め、この当時はユニバーサル・ホラーに影響を受けたものが多かった。 1940年代にはホラー要素のある推理物や犯罪ものが増えた。 1960年代半ばに行われた表現規制の緩和に伴う 殺人鬼映画やスプラッター映画の大ブームが来るまで、映画では成しえなかったおぞましい描写はテイルズ・フロム・ザ・クリプト(英語版)等で知られるECコミックをはじめとする漫画雑誌が担っていた。 この当時のホラー漫画の描写はあまりにも過激であるため、賛否両論が巻き起こり、しばしば検閲にかけられた。 20世紀末期から21世紀にかけてはDCコミックスの『ヘルブレイザー』や、ダークホースコミックの『ヘルボーイ』などが登場し、映画化を果たした作品も出てきている。 主にホラー漫画を多く執筆している漫画家を記述。
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ホラー漫画(ホラーまんが)は、漫画のジャンルのひとつ。怪奇漫画・恐怖漫画とも言う。
{{複数の問題 | 独自研究 = 2008年8月 | 出典の明記 = 2016年9月 }} [[ファイル:Adventures Into the Unknown No 1.jpg|thumb|230px|[[1950年代]]のアメリカ系ホラー漫画の表紙。]] '''ホラー漫画'''(ホラーまんが)は、[[漫画]]のジャンルのひとつ。'''怪奇漫画'''・'''恐怖漫画'''とも言う。 == 概要 == [[File:BlackMagicNo28.jpg|thumb|200px]]主に恐怖感を煽ることを目的として構成された作品を指す。精神的・生理的恐怖に訴えるもの、目に見えない存在・理解できない存在(主に[[幽霊]]を題材とする)による[[超常現象]]等をテーマにしたものや、死や痛みを直接的にテーマにしたブルータルなもの(残酷描写を主眼に置いた作品)等もあり、これらの作品においては「被害者の視点」を重視したものが多い。[[楳図かずお]]、[[日野日出志]]、[[伊藤潤二]]、[[古賀新一]]などが、このジャンルを中心として数多くの作品を発表している代表的な作家である。 広義には、[[シュール#日本におけるシュルレアリスム|シュール]]な[[ユーモア]]や[[ナンセンス]]な[[ギャグ]]表現を盛り込んで[[喜劇|コメディ]]を目指したもの、[[妖怪]]や異世界を描くことを中心としたもの(「妖怪漫画」など)、非日常的な存在と対決するいわゆる「退魔もの」([[オカルト]]的な要素を持ち、「バトルもの」の性質も含む)、等も含まれることがある。ただしこれらの作品は、本来の主題である「恐怖感」の要素とは不可分ではあるものの、直接それを目的としたものではない。 [[1960年代]]の[[貸本劇画]]、1960年代から[[1980年代]]にかけて、[[ひばり書房]]・[[立風書房]]・[[曙出版]]などから出版された描き下ろし単行本、1980年代から[[1990年代]]にかけて[[朝日ソノラマ]]の『[[ハロウィン (雑誌)|ハロウィン]]』・[[ぶんか社]]の『[[ホラーM]]』などのレディース・少女向けの専門漫画雑誌などに発表されたホラー漫画作品は、[[アングラ]]的[[サブカルチャー]]としての性質が強く、その方面での愛好者も存在する。 === 欧米におけるホラー漫画 === [[File:CC No 13 Dr Jekyll and Mr Hyde.jpg|thumb|200px|ホラー漫画史初の長編作品とみなされている、{{仮リンク|ギルバートン・パブリケーションズ|en|Gilberton (publisher)}} の"''[[ジーキル博士とハイド氏|Dr. Jekyll and Mr.Hyde]]''"(1943年8月発刊)]] アメリカ合衆国では、1930年代ごろからホラー漫画が登場し始め、この当時は[[ユニバーサル映画|ユニバーサル]]・ホラーに影響を受けたものが多かった<ref name="stpvi">Vassallo, Michael J. "The History of Atlas Horror/Fantasy" in ''Marvel Masterworks: Atlas Era Strange Tales Vol. 1'' ([[マーベル・コミック|Marvel Publishing]]: [[ニューヨーク|New York City]], [[ニューヨーク州|New York]], 2007), ISBN 978-0-7851-2771-0, p. vi</ref>。 1940年代にはホラー要素のある推理物や犯罪ものが増えた。 1960年代半ばに行われた表現規制の緩和に伴う [[スラッシャー映画|殺人鬼映画]]や[[スプラッター映画]]の大ブームが来るまで、映画では成しえなかったおぞましい描写は{{仮リンク|テイルズ・フロム・ザ・クリプト|en|Tales from the Crypt (comics)}}等で知られる[[ECコミック]]をはじめとする漫画雑誌が担っていた<ref name="Hutchings 2009">{{cite book|last1=Hutchings|first1=Peter|title=The A to Z of Horror Cinema|series=The A to Z Guide Series|volume=100|year=2008|publisher=The Scarecrow Press, Inc.|location=Lanham, MD|isbn=978-0-8108-6887-8|page=72|url=https://books.google.fr/books?id=N_5DPHOVG7YC|accessdate=2015-10-29}}</ref>。 この当時のホラー漫画の描写はあまりにも過激であるため、賛否両論が巻き起こり、しばしば検閲にかけられた。 20世紀末期から21世紀にかけては[[DCコミックス]]の『ヘルブレイザー』や、[[ダークホースコミック]]の『[[ヘルボーイ]]』などが登場し、映画化を果たした作品も出てきている。 == ホラー漫画家 == 主にホラー漫画を多く執筆している[[漫画家]]を記述。 === 日本 === <!--代表的な作品が例示されていない作家を一時的にコメントアウト。復帰に際しては作品の提示をお願いします。(2010年10月2日)--> <!--今後、ジャンルの該当作品が一作品しかない作家をコメントアウトする予定ですので、代表作の追記をお願いします。(2010年10月2日)--> * [[相川有]]『[[DARK EDGE]]』『[[バタフライ (漫画)|バタフライ]]』 * [[赤人義一]]『[[屍姫]]』 * [[阿部ゆたか]]『卒業の日 止まらない殺意』 * 有田景『有田景商店街』 * [[伊藤潤二]]『[[富江]]』『[[うずまき (漫画)|うずまき]]』『ギョ!!蠢く恐怖』 * [[稲垣みさお]]『[[リング (鈴木光司の小説)#漫画|リング]]』『猟奇伝説アルカード』『死体処理請負人アマネ』 * [[犬木加奈子]]『不気田くんシリーズ』、『[[不思議のたたりちゃん]]』 * [[上野すばる]]『[[学校怪談 (北川久・上野すばるの漫画)|学校怪談]]』『[[赤のカイン]]』 * [[楳図かずお]]『{{ill2|へび女|en|Reptilia (manga)}}』『[[洗礼 (漫画)|洗礼]]』『[[漂流教室]]』『[[神の左手悪魔の右手]]』 * [[大橋薫]]『くるぐる使い』『口裂け少女さっちゃん』『レミングの行方』『セルロイド カーニバル』 * [[奥瀬サキ|奥瀬早紀]]『[[コックリさんが通る]]』『火閻魔人』『支配者の黄昏』『[[低俗霊狩り]]』 * 尾崎みつお『女吸血鬼マリーネ』 <!--* [[長田ノオト]]--> * 中里宣『[[涅槃姫みどろ]]』(原作:[[大西祥平 (ライター)|大西祥平]]) * [[押切蓮介]]『[[でろでろ]]』『[[ゆうやみ特攻隊]]』『[[ミスミソウ (漫画)|ミスミソウ]]』『[[サユリ]]』 * [[御茶漬海苔]]『惨劇館』『恐怖テレビ(旧名:TVO)』 * 蕪木彩子『お骨を拾う少女』『虫に願いを』 * [[川口まどか]]『[[死と彼女とぼく]]』 * [[神田森莉]]『37564学園』『怪奇カエル姫』 * [[木々津克久]]『[[おどろ 〜陽子と田ノ中の百鬼行事件簿〜]]』『[[フランケン・ふらん]]』 * [[菊川近子]]『赤い爪あと』『百の眼が見ていた』 * [[楠桂]]『[[鬼切丸 (漫画)|鬼切丸]]』『鬼魔』『恐ろし語り』『古祭』 * [[古賀新一]]『[[エコエコアザラク]]』 * [[児嶋都]]『おとめ地獄〜ヴァージニア・インフェルノ』『怪奇大盛!!肉子ちゃん』 * 五島慎太郎『少女が殺される』『吸血ドラキュラ』 * [[さがみゆき]]『墓を掘る少女』『怪談雨月物語』『人喰い屋敷』『美少女とカラス』 * [[志水アキ]]『[[夜刀の神つかい]]』(原作:[[奥瀬サキ]]) * [[しのらさとし]]『[[ごきげん!ミコちゃん]]』『夜の波紋』『恐怖の方程式』『死骸妄想』 * [[関よしみ]]『血を吸う教室』『ウイルスの牙』『マッドハウス』『魔少女のおもちゃ箱』 * [[千之ナイフ]]『少女パンドラ』『[[死太郎くん]]』『[[カマキリ女]]』『[[死の女神]]』『[[迷宮サーカス]]』 * [[高橋葉介]]『[[夢幻紳士]]』『[[学校怪談 (高橋葉介の漫画)|学校怪談]]』 * [[高港基資]]『顔をみるな』『[[女優霊]]』 <!--* [[谷間夢路]]--> * [[つのだじろう]]『[[恐怖新聞]]』『[[うしろの百太郎]]』 * [[徳南晴一郎]]『怪談人間時計』『怪談猫の喪服』 * [[中山昌亮]]『[[不安の種]]』『後遺症ラジオ』 * [[成毛厚子]]『闇からの誘い』 * [[西義之]]『[[ムヒョとロージーの魔法律相談事務所]]』『[[ぼっけさん]]』 * [[のぞみえるつきよ]]、[[たちばな真未]]『[[ドール=ガール]]』 * [[呪みちる]]『青空の悪魔円盤』『スケスケメガネ伝説』 * [[花沢健吾]]『[[アイアムアヒーロー]]』 * [[花輪和一]]『朱雀門』『不成仏霊童女』 * [[浜慎二]]『SF恐怖入門』『幽霊が泣く教室』『百年少女』 * [[早見純]]『純のはらわた』 * [[日野日出志]]『地獄の子守唄』『地獄変』『蔵六の奇病』『毒虫小僧』 * 広永マキ『メビウスの館』『怪奇!スター誕生ものがたり』 * [[ひよどり祥子]]『闇夜に遊ぶな子供たち』『フロイトシュテインの双子』『[[死人の声をきくがよい]]』 * [[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|&#9398;}}]]『[[笑ゥせぇるすまん]]』『[[魔太郎がくる!!]]』『[[ブラック商会変奇郎]]』『[[黒ベエ]]』 * [[藤田素子]]『お江戸残酷物語』『死の迷路』 * [[まつざきあけみ]]『華麗なる恐怖シリーズ』『踊る死仮面』『惨劇姫』 * [[松本洋子]]『[[ばらの葬列]]』『[[呪いの黒十字]]』『[[魔物語 (松本洋子の漫画)|魔物語]]』 * [[松本光司 (漫画家)|松本光司]]『[[彼岸島]]』 * [[丸尾末広]] 『[[少女椿]]』 * [[魔夜峰央]]『[[アスタロト (漫画)|アスタロト]]』 『[[妖怪始末人トラウマ!!]]』 * [[美内すずえ]]『[[妖鬼妃伝]]』 * [[三家本礼]]『[[サタニスター]]』『[[ゾンビ屋れい子]]』 * [[水木しげる]]『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』『[[悪魔くん]]』 * [[みなぎ得一]]『[[足洗邸の住人たち。]]』 * [[諸星大二郎]]『[[妖怪ハンター]]』『[[暗黒神話]]』 * [[山咲トオル]]『戦慄!!タコ少女』 * [[山崎峰水]]『[[くもはち]]』『[[黒鷺死体宅配便]]』(ともに原作:[[大塚英志]]) * [[山本まゆり]]『[[魔百合の恐怖報告]]』 * [[渡千枝]]『鈴蘭〜忌まわしき侵入者〜』『わたしが消えた!』 === アメリカ === * [[ジョス・ウィードン]]『[[The Long Way Home]]』他バフィーシリーズの企画を行っている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[ホラー小説]] * [[ホラー映画]] === 近接ジャンル === * [[サイエンス・フィクション]] * [[ファンタジー]] * [[ダーク・ファンタジー]] * [[ミステリ]] * [[推理漫画]] * [[スリラー]] * {{仮リンク|サイコスリラー|en|Psychological thriller}} * {{仮リンク|コメディホラー|en|Comedy horror}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ほらあまんか}} [[Category:漫画のジャンル]] [[Category:ホラー漫画|*]] [[Category:サブカルチャー]]
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篳篥
篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ(現在では安価なプラスチック製のものも作られている)、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛である。発音体にはダブルリードのような形状をした蘆舌(ろぜつ)を用いる。 乾燥した蘆(葦、あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる籐を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ。 音域は、双調(西洋音階のソ・G4)から1オクターブと全音(長2度)上の黄鐘(ラ・A5)が基本である。しかし、息の吹き込み方の強弱や蘆舌のくわえ方の深さによってかなり音高が変化する。これを利用した奏法を塩梅(えんばい)と呼ぶ。塩梅を使うことによって、音高の変化が連続的になり、旋律の進行が滑らかになる。例えば、指遣いはそのままに、一旦塩梅で音を下げ、それから高音に移る、といったことができる。 雅楽では、笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥をまとめて三管と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する。 雅楽における篳篥の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側に小さく書かれている漢字が運指を表す。 篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、和邇部茂光、大石峯良、源博雅、藤原遠理(とおまさ)、源俊頼などがいる。特に大石峯良を「篳篥の楽祖」としている。 西洋の楽曲を演奏するために篳篥を演奏するとき、その音はサックスに似ている。 篳篥のリードは伝統的には鵜殿のヨシ原で採取されたヨシを使ってきたが、高速道路計画の影響や、毎年行われる蘆原焼きが新型コロナパンデミックの影響で2年連続で実行されなかった影響などで、このままだと篳篥に適したヨシが全滅してしまうと言われており、雅楽の歴史的危機とも言われている。 亀茲が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った蘆舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、紀元前1世紀頃から中国へ流入した。3世紀から5世紀にかけて広く普及し、日本には6世紀前後に、中国の楽師によって伝来されたが、正倉院には当時の遺物はない。 大篳篥は現行の篳篥(小篳篥)に比べて音域が完全4度低いとされる。また古文献には大篳篥・小篳篥の他に「中篳篥」が紹介されていることもある。 大篳篥は平安時代にはふんだんに使用されていた。「扶桑略記」「続教訓抄」「源氏物語」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。大篳篥も平安時代の廃絶以前の当時の遺物は現存しておらず、記録上でのみその存在を知られるものとなっていた。再び大篳篥が日の目を浴びるのは明治時代であった。1878年(明治11年)、山井景順が大篳篥を作成し、それを新曲に用いた。大篳篥の伝承曲も現存しておらず、現代では記録を元に復元された大篳篥が西洋音楽系の楽曲の編曲や邦楽の新作曲、現代音楽等に利用されている。 篳篥の指孔は、表側の7つは吹き口に近い順に、「丁」「一」「四」「六」「凢」「工」「五」、裏側の2つは「丄」「ム」と名づけられている。運指の形もそれぞれの孔名と同じ名称を用いるが、その場合は孔名の指孔を開け、その直前までの指孔を閉じた形を基本とする。全ての指孔を閉じた形は「舌」という。 裏側の「丄」「ム」はそれぞれ左手親指と右手親指が担当する指孔だが、このうち右手親指の「ム」を開けた時の音は構造上は出すことができるが、実際の曲(少なくとも現行の古典曲)では用いられず、右手親指の「ム」の指孔は実際の曲では常に閉じたままであり、その「ム」の音は「出すと国が滅びる亡国の音」という言い伝えがあるという。そのため実際の楽譜では「ム」以外の9つの譜字が用いられる。 「丄」は「上」の異体字である。「丁」は古くは「丅」(げ、「下」の異体字)であったが、篳篥の最高音なのに「下」なのはおかしいということで、のちに「丁」に改められた。 篳篥の音程には寺院の鐘の音が使われる。京都の妙心寺、知恩院の梵鐘の音とそれぞれ決められている。 楽器の音階を決める穴配りと穴開けには高度の製作技術が必要とされる。 穴開けには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の囲炉裏の天井で 300年 - 350年、日々の生活の中で燻(いぶ)された煤竹であるため非常に堅く割れやすい。 紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた火熾しの「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。 素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。 漆を中に塗って音階を調整する。 製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の 6 ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。 木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。 篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。漆は湿度が高いと急激に固まり(乾き)湿度が低いと固まらない(乾かない)ため、昔の京都でこの作業ができた時期は春は3月末から5月末、秋はさらに短い期間であった。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう、とされた。 篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。 管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。 舌の材料に用いられる葦は琵琶湖、淀川から採取されることが多い。なかでも淀川右岸の鵜殿で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている。 採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、拉鋏という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。 舌を磨く際にはムクノキの葉が用いられる。
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篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。
{{Infobox 楽器 |楽器名 = 篳篥 |その他の名称 = |英語名 = Hichiriki |ドイツ語名 = Hichiriki |フランス語名 = Hichiriki |イタリア語名 = Hichiriki |ポルトガル語名 = Hichiriki |中国語名 = 篳篥/筚篥 |画像 = Image:Hichiriki.JPG |画像サイズ = 180px |画像の説明 = 舌(左)と篳篥の本体(右) |分類 = [[リード (楽器)|リード]] |音域 = |関連楽器 = *[[雅楽]] 三管 **[[笙]] **[[龍笛]] |関連項目 = }} '''篳篥'''(ひちりき)は、[[雅楽]]や、雅楽の流れを汲む[[近代に作られた神楽]]などで使う[[管楽器]]の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。 == 構造 == 篳篥は[[漆]]を塗った[[竹]]の管で作られ(現在では安価なプラスチック製のものも作られている)、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ[[縦笛]]である。発音体には[[ダブルリード]]のような形状をした蘆舌(ろぜつ)を用いる。 乾燥した[[蘆]](葦、あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる[[籐]]を四つに割り、間に切り口を入れて折り合わせて括った輪をはめ込む。もう一方には管とリードの隙間を埋める為に図紙(ずがみ)と呼ばれる[[和紙]]が何重にも厚く巻きつけて作られている。図紙には細かな音律を調整する役割もある。そして図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器の[[オーボエ]]に近い構造である。リードの責を嵌めた部分より上を「舌」、責から下の部分を「首」と呼ぶ。 == 概要 == 音域は、[[十二律|双調]](西洋[[音階]]のソ・G4)から1[[オクターブ]]と全音(長2度)上の[[十二律|黄鐘]](ラ・A5)が基本である。しかし、息の吹き込み方の強弱や蘆舌のくわえ方の深さによってかなり音高が変化する<ref name="世界">[https://kotobank.jp/word/%E5%A1%A9%E6%A2%85%28%E9%9B%85%E6%A5%BD%29-1266912 世界大百科事典内の塩梅(雅楽)の言及] コトバンク、2022年1月24日閲覧</ref>。これを利用した奏法を[[塩梅]](えんばい)と呼ぶ<ref>[https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/naritachi/gakki/ka2.html 篳篥の奏法と役割 - 雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー] 2022年1月24日閲覧</ref>。塩梅を使うことによって、音高の変化が連続的になり、旋律の進行が滑らかになる<ref name="世界"/>。例えば、指遣いはそのままに、一旦塩梅で音を下げ、それから高音に移る、といったことができる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%A1%A9%E6%A2%85-38338 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「塩梅」の解説] コトバンク、2022年1月24日閲覧</ref>。 雅楽では、[[笙]](しょう)、[[龍笛]](りゅうてき)と篳篥をまとめて'''三管'''と呼び、笙は天から差し込む光、龍笛は天と地の間を泳ぐ龍の声、篳篥は地に在る人の声をそれぞれ表すという。篳篥は笙や龍笛より音域が狭いが音量が大きい。篳篥は主旋律(より正しくは「主旋律のようなもの」)を担当する。 雅楽における篳篥の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側に小さく書かれている漢字が運指を表す。 篳篥にはその吹奏によって人が死を免れたり、また盗賊を改心させたなどの逸話がある。しかしその一方で、胡器であるともされ、高貴な人が学ぶことは多くはなかった。名器とされる篳篥も多くなく、海賊丸、波返、筆丸、皮古丸、岩浪、滝落、濃紫などの名が伝わるのみである。その名人とされる者に、[[和邇部茂光]]、[[大石峯良]]、[[源博雅]]、[[藤原遠理|藤原遠理(とおまさ)]]、[[源俊頼]]などがいる。特に大石峯良を「篳篥の楽祖」としている<ref>『神社有職故実』102頁昭和26年7月15日神社本庁発行 </ref>。 西洋の楽曲を演奏するために篳篥を演奏するとき、その音は[[サックス]]に似ている。 篳篥のリードは伝統的には[[鵜殿のヨシ原]]で採取されたヨシを使ってきたが、高速道路計画の影響や、毎年行われる蘆原焼きが新型コロナパンデミックの影響で2年連続で実行されなかった影響などで、このままだと篳篥に適したヨシが全滅してしまうと言われており、雅楽の歴史的危機とも言われている。 == 歴史 == [[亀茲]]が起源の地とされている。植物の茎を潰し、先端を扁平にして作った蘆舌の部分を、管に差し込んで吹く楽器が作られており、[[紀元前1世紀]]頃から中国へ流入した。[[3世紀]]から[[5世紀]]にかけて広く普及し、[[日本]]には[[6世紀]]前後に、中国の楽師によって伝来されたが、[[正倉院]]には当時の遺物はない。 == 大篳篥 == 大篳篥は現行の篳篥(小篳篥)に比べて音域が完全4度低いとされる。また古文献には大篳篥・小篳篥の他に「中篳篥」が紹介されていることもある。 大篳篥は[[平安時代]]にはふんだんに使用されていた。「[[扶桑略記]]」「[[続教訓抄]]」「[[源氏物語]]」などの史料、文学作品にも、大篳篥への言及がある。しかし、平安時代以降は用いられなくなった。大篳篥も平安時代の廃絶以前の当時の遺物は現存しておらず、記録上でのみその存在を知られるものとなっていた。再び大篳篥が日の目を浴びるのは[[明治]]時代であった。[[1878年]](明治11年)、[[山井景順]]が大篳篥を作成し、それを新曲に用いた。大篳篥の伝承曲も現存しておらず、現代では記録を元に復元された大篳篥が西洋音楽系の楽曲の編曲や邦楽の新作曲、現代音楽等に利用されている。 == 指孔名(譜字)と音程 == 篳篥の指孔は、表側の7つは吹き口に近い順に、「丁」「一」「四」「六」「凢」「工」「五」、裏側の2つは「丄」「ム」と名づけられている。[[運指]]の形もそれぞれの孔名と同じ名称を用いるが、その場合は孔名の指孔を開け、その直前までの指孔を閉じた形を基本とする。全ての指孔を閉じた形は「舌」という。 {| class="wikitable" style="text-align:center" |-bgcolor=e0e0e0 |'''名称'''||舌||五||工||凢||ム||六||四||一||丄||丁 |- |'''読み'''||ぜつ||ご||こう||はん||む||りく||し||いち||じょう||てい |- |'''正律'''||G4||A4||B4||C5||(C#5)||D5||E5||F#5||G5||A5 |- |'''音程の目安'''||F4-G4||G4-A4||A4-B4||C5-C#5||||C5-D5||D#5-E5||E5-F#5||F5-G5||G5-A5 |} 雅楽の六調子のいずれの曲を吹くかによって、正律で出す音とメラして(低くして)出す音が変わる。 裏側の「丄」「ム」はそれぞれ左手親指と右手親指が担当する指孔だが、このうち右手親指の「ム」を開けた時の音は構造上は出すことができるが、実際の楽曲(少なくとも現行の古典曲)では用いられず、右手親指の「ム」の指孔は実際の楽曲では常に閉じたままであり、その「ム」の音は「出すと国が滅びる亡国の音」という言い伝えがあるという。そのため実際の楽譜では「ム」以外の9つの譜字が用いられる。「ム」の正律はC#5とされるが、実際の楽曲ではC#5は「六」の運指によって出す。 「丄」は「上」の異体字である。「丁」は古くは「丅」(げ、「下」の異体字)であったが、篳篥の最高音なのに「下」なのはおかしいということで、のちに「丁」に改められた。 == 篳篥の製作 == 篳篥の音程には[[寺院]]の[[鐘]]の音が使われる。[[京都]]の[[妙心寺]]、[[知恩院]]の[[梵鐘]]の音とそれぞれ決められている。 楽器の音階を決める穴配りと穴開けには高度の製作技術が必要とされる。 穴開けには電動錐は使われない。穴と穴に距離がある楽器ならば素材が割れないので電動錐を使えるが、篳篥は穴の間隔が近く、使う素材は枯れて古く乾燥し、農家の[[囲炉裏]]の天井で 300年 - 350年、日々の生活の中で燻(いぶ)された煤竹であるため非常に堅く割れやすい。 紐巻上げ式で、神社の儀式で神火をおこすときに使われることでも知られる日本古来から使われてきた[[火起こし|火熾し]]の「巻き錐」を使い、割れないように穴をあける。 素材の竹は自然に育ったものなので内径、肉厚がすべて微妙に異なるため、外形の穴の位置を正確に真似ただけでは音階は決まらない。 [[漆]]を中に塗って音階を調整する。 製作技術習得者には、音律の習得は技術習得の最初の 6 ヶ月間に集中して習得してしまうことが求められる。 木漆と水を合せて内径をヘラで塗る。乾かして吹いて確認し、音階を調整する。 篳篥に使われている素材は乾ききった古くもろい竹であるため、塗りに失敗すると漆の乾き際に穴から下まで一直線に割れが入る。[[漆]]は湿度が高いと急激に固まり(乾き)湿度が低いと固まらない(乾かない)ため、昔の京都でこの作業ができた時期は春は3月末から5月末、秋はさらに短い期間であった。篳篥の内側の漆はこの時期のみ塗ることができ、この時期以外は塗ると割れてしまう、とされた。 篳篥の形は古来から大きさが決まっているので先人の作品が技術向上の参考になる。 管楽器の笙は1尺7寸、13世紀の鎌倉初期までは大きな笙だったがその後は小さくなった。しかし笛と篳篥は昔から長さが決まっているのでそれ以前の昔に作られた名器が参考になる。 舌の材料に用いられる葦は[[琵琶湖]]、[[淀川 (近畿)|淀川]]から採取されることが多い。なかでも淀川右岸の[[鵜殿のヨシ原|鵜殿]]で採取される葦は堅さ、締り共に最良とされていた。しかし環境の悪化の影響で材料に使える良質な葦の確保が難しくなっている。 採取した葦は4,5年ほどの年月をかけ、一切の湿気を排除した場所で乾燥させる。その後、[[拉鋏]]という専門の道具を用い、火鉢の上にかざして押し潰して平滑にし、先端に和紙を貼り付ける。 舌を磨く際には[[ムクノキ]]の葉が用いられる。 == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2015年11月|section=1}} * {{Citation|和書|author=安倍季昌 |title=雅楽篳篥千年の秘伝 |publisher=[[たちばな出版]] }} == 関連項目 == * [[露通し]] * [[ピリ (楽器)|ピリ]] - 中国・朝鮮の伝統音楽における楽器で、漢字では同じ「篳篥」の字を書く。 == 外部リンク == {{Commonscat}} * [http://kaz3275.sitemix.jp/gagaku/ 採桑老の口傳→出手→雅楽] {{和楽器}} {{楽器}} {{雅楽}} {{Musical-instrument-stub}} {{Japan-culture-stub}} {{Shinto-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひちりき}} [[Category:木管楽器]] [[Category:和楽器]] [[Category:雅楽]] [[Category:神楽]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%B3%E7%AF%A5
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三線
三線(さんしん)は、弦楽器の一種。日本の沖縄県と鹿児島県の奄美群島で主に用いられる。 中国福建省で生まれた弦楽器「三弦」を原型とする撥弦楽器である。 戦国時代の永禄年間、琉球王国や堺を経由して日本本土に伝わり、三味線の起源の一つとなった。三線と比べて、本土の三味線は棹が長く、中国の三弦は棹の長さの割には胴が小さい。またオリジナルの中国の三弦も、江戸時代に長崎に来舶した中国人がもたらした清楽(しんがく)とともに、あらためて日本本土で定着した。三味線は猫や犬の皮を使ったので、中国の三弦は日本本土では俗称で「蛇皮線」とも呼ばれた。蛇皮線は、1894年に勃発した日清戦争をきっかけに清楽が衰退したことで、日本本土では姿を消した。 15世紀以降、琉球王国(現在の大東諸島を除いた沖縄県および鹿児島県奄美群島)で独自に発展した。福建省からは閩人三十六姓の来琉(1392年~)によりもたらされたとの見方もある。 三線は音を出す胴の部分に蛇(ニシキヘビ)の皮を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の弦を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。主に単音でメロディ部分を演奏する。助数詞には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。 沖縄県では楽譜は「工工四(くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。これは、中国の三弦楽譜「工六四」(くるるんしー、と沖縄で呼ばれる)が原点とみられる。 沖縄文化(琉球文化)を象徴する存在の一つとして知られる。かつては琉球王国領内において、宮中での琉球舞踊に用いる琉球古典音楽や、士族や農民たちが歌う民謡(沖縄民謡や奄美民謡)のために男性が三線を弾いた。琉球王府は、美術工芸品を製作する貝摺(かいずり)奉の下に三線職人を抱えていた。 今日では古典音楽や民謡の他、ポップスやクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらない。 沖縄県は近代以降移民が盛んになったため、日本本土に移り住む人やハワイ、南米のブラジルやボリビアなど海外移民先の沖縄人コミュニティーを通して、琉球文化圏外にも広まった。日本の音楽界では長く注目されなかったが、第二次世界大戦前に「安里屋ユンタ」(1934年録音、歌詞は日本語標準語の「新民謡」)がラジオ放送で人気を博したり、1970年代に竹中労らが沖縄音楽を紹介したりした後、1990年代の「沖縄ブーム」の到来により全国的に知られるようになった。三線を前面に押し出した楽曲として初めてのミリオンセラーはロックバンド・THE BOOMの「島唄」(1992年全国発売)である。 2018年11月に経済産業大臣指定伝統的工芸品に指定された。 沖縄以外の南西諸島にも、それぞれ独自の三線が存在する。 例えば奄美群島の「奄美三線」(あまみさんしん)は、弦や撥(ばち)が沖縄三線と違うだけでなく、使用楽譜は横三つの線で番号を使う奄美独特の楽譜だったり(沖縄は工工四)、奏法もアップストロークが主で(沖縄三線はダウンストローク)左手の抑え指は中指を使わずに行う(沖縄三線は薬指を使わない)など、現地の演奏者から見ると大きな違いがある。 沖縄県では一般に「さんしん」という。奄美群島においては「三味線」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。三弦は福建語でsamhian(サムヒエン)、北京官話ではsānxiàn(サンシエン)と読む。山内盛彬はサンセン(三線)からサミセンへ変化していったという説を唱えている。三線の胴の太鼓部分に蛇の皮を張るため、三味線(猫や犬の皮を張る)と区別するために、日本本土を含めて「ジャビセン(蛇皮線)」「ジャミセン(蛇味線)」と呼ばれることも多い。ただし、この呼称は沖縄では嫌われるという。 小さな島が点在する南西諸島では島ごとに方言が大きく異なるため、数多くの異称がある。統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。 琉球処分後の明治時代、沖縄の伝統的な地名・人名を「日本風に」2文字で表記する方法が流行した(汀志良次→汀良、古波蔵→古蔵、神里原→神原など)。三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある。 三線は元々中国発祥で三線を琉球時代の沖縄に持って行ったところ沖縄の文化になったと言える。 中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「三弦」を直接のルーツとする。琉球王国は統一(1429年)後、中国大陸や東南アジアとの交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では久米三十六姓帰化(14世紀末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという。15世紀後半には尚真王が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう永禄年間初頭(1558年または1559年)に泉州(現在の大阪府南部)堺へと伝わり、日本本土の三味線の起源となった。 福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した。 17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国摂政・羽地朝秀(任期1666年 - 1673年)の影響が窺える。 琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。そのため、調弦は男性用になっている。 蛇皮は中国との貿易でもたらされた。乾隆32年(1767年)の輸入品の中には5張の蛇皮が見える。王国時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。 那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。 19世紀後半、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降には、様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。 第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ(沖縄戦)、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。 沖縄戦後、沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれた。米軍基地内のバーやコザの繁華街などではアメリカ兵相手に、三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした登川誠仁の『ペストパーキンママ』(1948年。原曲はアル・デクスター『ピストル・パッキン・ママ』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。 南米ボリビアに移民した沖縄県出身地の街・オキナワ移住地(コロニア・オキナワ)や同じく南米のブラジル、米国ハワイの沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。 1972年に沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された後、知名定男率いるネーネーズやりんけんバンドなど一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは1990年代の沖縄ブーム以降である。1992年には山梨県出身の宮沢和史らのバンド・THE BOOMが三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『島唄』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。1999年公開の映画『ナビィの恋』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、2001年に放映されたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。 2010年3月、沖縄県内の三線職人の有志が集い、三線製作の技術向上と地域ブランド化、後進の育成、品質の保全を目的とした沖縄県三線製作事業協同組合が発足した。 2021年現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。鹿児島県では伝統工芸品奄美のサンシン(奄美地方)として指定されている。 沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。 沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。 三線には様々な改良楽器が存在する。 三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としてはカリン、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、黒檀などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では台湾やフィリピン産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。 棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。 音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀、ガラス、アルミ、樹脂を用いた棹も実際に存在する。 胴の部材には主にイヌマキ(チャーギ)やクスノキ、リュウガンが用いられる。高価な三線にはケヤキ、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には東南アジア産のゴムノキなども用いられる。この胴部材にインドニシキヘビの蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。 胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。 第二次世界大戦直後、アメリカ合衆国による沖縄統治下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いたカンカラ三線や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも米軍の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、金武村(当時)の日本兵捕虜収容所で作られた楽曲「屋嘉節」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、20世紀末頃からは学校教育でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。 野生の蛇からの蛇皮採取はワシントン条約に抵触する可能性があるため、現在ではビルマニシキヘビやアミメニシキヘビが養殖され、三線に使用されている。1954年(昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』や戦前の演奏風景を収めた写真からは、ボールパイソンやボア、クサリヘビ科(ハブやマムシが属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も窺える。 本張りと呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が沖縄県の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。 古謝美佐子のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。特に海外公演もする者の場合は蛇皮製品は出入国時に税関で手続きに苦労したり、本皮は気候の違いで調子が悪くなりやすいため避けられる。なお札幌市豊平川さけ科学館にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。 三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には絹糸を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色したナイロン製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。 ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。大正時代頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。 弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里、梅、菊、カンプー、歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に黒檀や紫檀、黒柿である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨、ラクト材、象牙、プラスチックなどで装飾したものが多い。 駒(ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は竹(モウソウチク)や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。 義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は水牛の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。 形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。 必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。よなは徹など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。 元来、棹の表面は黒く漆塗りされる。近年ではウレタンの吹き付け塗装が主流である。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。 棹がやや細く、短く、皮が緩めに張られた型。弦は絹糸を使う。太い低音が響くため、琉球王朝時に城門を開ける合図の鐘の音に似ていたことからこう呼ばれた。後述のように「盛嶋開鐘」が現存しているほか、2000年代に復刻された。 開鐘の名の由来となった、明け方に突かれる鐘の音は「開静鐘」と呼ばれた。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。尚家に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて開鐘と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は第二次世界大戦により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、1982年に尚裕より沖縄県立博物館に寄贈された。現在は沖縄県立博物館・美術館にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。 準開鐘に属するもの 沖縄県では基本的に撥を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれる。奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、撥で胴を叩かない。奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四(クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。 最も一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りの時は奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。 三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は当て字。現在、赤犬子神社(赤犬子宮 (アカナクー) )が読谷村楚辺にある。 湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。両派の主な違いは、主にかぎやで風に代表される。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。 主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。 音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。
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"中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「三弦」を直接のルーツとする。琉球王国は統一(1429年)後、中国大陸や東南アジアとの交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では久米三十六姓帰化(14世紀末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという。15世紀後半には尚真王が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう永禄年間初頭(1558年または1559年)に泉州(現在の大阪府南部)堺へと伝わり、日本本土の三味線の起源となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "17世紀初頭には琉球王国が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、清から訪れる冊封使の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である踊奉行の玉城朝薫が1719年、能や歌舞伎など日本の芸能を参考にした組踊を創始し、三線・島太鼓・胡弓といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国摂政・羽地朝秀(任期1666年 - 1673年)の影響が窺える。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。そのため、調弦は男性用になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "蛇皮は中国との貿易でもたらされた。乾隆32年(1767年)の輸入品の中には5張の蛇皮が見える。王国時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "那覇の辻・仲島などの遊郭では芸妓・遊女が座敷芸として唄三線を身につけた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "19世紀後半、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降には、様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ(沖縄戦)、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "沖縄戦後、沖縄はアメリカ軍の統治下に置かれた。米軍基地内のバーやコザの繁華街などではアメリカ兵相手に、三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした登川誠仁の『ペストパーキンママ』(1948年。原曲はアル・デクスター『ピストル・パッキン・ママ』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "南米ボリビアに移民した沖縄県出身地の街・オキナワ移住地(コロニア・オキナワ)や同じく南米のブラジル、米国ハワイの沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1972年に沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された後、知名定男率いるネーネーズやりんけんバンドなど一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは1990年代の沖縄ブーム以降である。1992年には山梨県出身の宮沢和史らのバンド・THE BOOMが三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『島唄』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。1999年公開の映画『ナビィの恋』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、2001年に放映されたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年3月、沖縄県内の三線職人の有志が集い、三線製作の技術向上と地域ブランド化、後進の育成、品質の保全を目的とした沖縄県三線製作事業協同組合が発足した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2021年現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。鹿児島県では伝統工芸品奄美のサンシン(奄美地方)として指定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。", "title": "型と種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。", "title": "型と種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "三線には様々な改良楽器が存在する。", "title": "型と種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としてはカリン、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、黒檀などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では台湾やフィリピン産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀、ガラス、アルミ、樹脂を用いた棹も実際に存在する。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "胴の部材には主にイヌマキ(チャーギ)やクスノキ、リュウガンが用いられる。高価な三線にはケヤキ、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には東南アジア産のゴムノキなども用いられる。この胴部材にインドニシキヘビの蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦直後、アメリカ合衆国による沖縄統治下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いたカンカラ三線や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも米軍の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、金武村(当時)の日本兵捕虜収容所で作られた楽曲「屋嘉節」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、20世紀末頃からは学校教育でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "野生の蛇からの蛇皮採取はワシントン条約に抵触する可能性があるため、現在ではビルマニシキヘビやアミメニシキヘビが養殖され、三線に使用されている。1954年(昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』や戦前の演奏風景を収めた写真からは、ボールパイソンやボア、クサリヘビ科(ハブやマムシが属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も窺える。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "本張りと呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が沖縄県の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "古謝美佐子のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。特に海外公演もする者の場合は蛇皮製品は出入国時に税関で手続きに苦労したり、本皮は気候の違いで調子が悪くなりやすいため避けられる。なお札幌市豊平川さけ科学館にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には絹糸を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色したナイロン製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。大正時代頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里、梅、菊、カンプー、歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に黒檀や紫檀、黒柿である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨、ラクト材、象牙、プラスチックなどで装飾したものが多い。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "駒(ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は竹(モウソウチク)や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は水牛の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。よなは徹など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。", "title": "部位と素材" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "元来、棹の表面は黒く漆塗りされる。近年ではウレタンの吹き付け塗装が主流である。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。", "title": "塗り" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "棹がやや細く、短く、皮が緩めに張られた型。弦は絹糸を使う。太い低音が響くため、琉球王朝時に城門を開ける合図の鐘の音に似ていたことからこう呼ばれた。後述のように「盛嶋開鐘」が現存しているほか、2000年代に復刻された。", "title": "開鐘(ケージョー、ケージョウ)とは" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "開鐘の名の由来となった、明け方に突かれる鐘の音は「開静鐘」と呼ばれた。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。尚家に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて開鐘と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は第二次世界大戦により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、1982年に尚裕より沖縄県立博物館に寄贈された。現在は沖縄県立博物館・美術館にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。", "title": "開鐘(ケージョー、ケージョウ)とは" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "準開鐘に属するもの", "title": "開鐘(ケージョー、ケージョウ)とは" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "沖縄県では基本的に撥を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれる。奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、撥で胴を叩かない。奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四(クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "最も一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りの時は奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。", "title": "奏法" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は当て字。現在、赤犬子神社(赤犬子宮 (アカナクー) )が読谷村楚辺にある。", "title": "流派" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。両派の主な違いは、主にかぎやで風に代表される。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。", "title": "流派" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。", "title": "流派" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。", "title": "流派" } ]
三線(さんしん)は、弦楽器の一種。日本の沖縄県と鹿児島県の奄美群島で主に用いられる。
{{Otheruses|楽器の三線(さんしん)|鉄道用語の三線(さんせん)|複々線#三線}} {{参照方法|date=2016年6月9日 (木) 07:20 (UTC)}} [[画像:Shitahaku_kejo.jpg|thumb|240px|真壁型(志多伯開鐘写し)本皮]] [[File:蛇皮線 三絃 三線 明清楽 楽器 1894 JABISEN or SANXIAN musical instrument used in MINSHINGAKU.jpg|thumb|日本本土では蛇皮線(三弦子)は[[清楽]]の楽器として広まった。1894年刊『[[明清楽]]之栞』より。]] '''三線'''(さんしん)は、[[弦楽器]]の一種。[[日本]]の[[沖縄県]]と[[鹿児島県]]の[[奄美群島]]で主に用いられる。 == 概要 == 中国[[福建省]]で生まれた[[弦楽器]]「[[三弦]]」を原型とする[[撥弦楽器]]である。 === 日本本土 === [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[永禄]]年間、[[琉球王国]]や[[堺]]を経由して日本[[本土]]に伝わり、[[三味線]]の起源の一つとなった。三線と比べて、本土の三味線は棹が長く、中国の三弦は棹の長さの割には胴が小さい。またオリジナルの中国の三弦も、江戸時代に長崎に来舶した中国人がもたらした[[清楽]](しんがく)とともに、あらためて日本本土で定着した。三味線は猫や犬の皮を使ったので、中国の三弦は日本本土では俗称で「蛇皮線」とも呼ばれた。蛇皮線は、1894年に勃発した日清戦争をきっかけに清楽が衰退したことで、日本本土では姿を消した。 === 南西諸島 === [[15世紀]]以降、[[琉球王国]](現在の[[大東諸島]]を除いた[[沖縄県]]および[[鹿児島県]][[奄美群島]])で独自に発展した。[[福建省]]からは[[久米三十六姓|閩人三十六姓]]の来琉([[1392年]]~)によりもたらされたとの見方もある。 三線は音を出す胴の部分に[[蛇]]([[ニシキヘビ]])の[[蛇皮|皮]]を張り、胴の尻から棹の先(天部)に向けて3本の[[弦 (楽器)|弦]]を張り渡して、弦を弾いて鳴らす。主に単音で[[メロディ]]部分を演奏する。[[助数詞]]には「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」等を用いる。 [[沖縄県]]では楽譜は「[[工工四]](くんくんしー)」という独特の記譜法を用いる。これは、中国の三弦楽譜「工六四」(くるるんしー、と沖縄で呼ばれる)が原点とみられる。 沖縄文化(琉球文化)を象徴する存在の一つとして知られる。かつては琉球王国領内において、宮中での[[琉球舞踊]]に用いる[[琉球古典音楽]]や、士族や農民たちが歌う民謡([[沖縄民謡]]や[[島唄|奄美民謡]])のために男性が三線を弾いた。琉球王府は、美術工芸品を製作する貝摺(かいずり)奉の下に三線職人を抱えていた<ref>【美ら島から】三線/中国起源 琉球で独自の進化(大城学)『[[読売新聞]]』朝刊[[2018年]][[1月24日]](文化面)</ref>。 今日では古典音楽や民謡の他、[[ポップ・ミュージック|ポップス]]やクラブミュージックなど様々なジャンルで用いられ、演奏するアーティストも沖縄音楽や沖縄文化圏に留まらない。 沖縄県は近代以降[[移民]]が盛んになったため、日本本土に移り住む人や[[ハワイ州|ハワイ]]、南米の[[ブラジル]]や[[ボリビア]]など海外移民先の沖縄人コミュニティーを通して、琉球文化圏外にも広まった。日本の音楽界では長く注目されなかったが、[[第二次世界大戦]]前に「[[安里屋ユンタ]]」([[1934年]]録音、歌詞は日本語標準語の「[[新民謡]]」)が[[ラジオ]]放送で人気を博したり、[[1970年代]]に[[竹中労]]らが[[沖縄音楽]]を紹介したりした後、[[1990年代]]の「沖縄ブーム」の到来により全国的に知られるようになった。三線を前面に押し出した楽曲として初めての[[ミリオンセラー]]はロックバンド・[[THE BOOM]]の「[[島唄 (THE BOOM)|島唄]]」([[1992年]]全国発売)である。 2018年11月に[[経済産業大臣指定伝統的工芸品]]に指定された。 沖縄以外の南西諸島にも、それぞれ独自の三線が存在する。 例えば[[奄美群島]]の「奄美三線」(あまみさんしん)は、弦や撥(ばち)が沖縄三線と違うだけでなく、使用楽譜は横三つの線で番号を使う奄美独特の楽譜だったり(沖縄は工工四)、奏法もアップストロークが主で(沖縄三線はダウンストローク)左手の抑え指は中指を使わずに行う(沖縄三線は薬指を使わない)など、現地の演奏者から見ると大きな違いがある。 == 呼称 == [[沖縄県]]では一般に「さんしん」という。[[奄美群島]]においては「[[三味線]]」「蛇皮線」「ジャミセン」という。「さんしん」という呼称については、起源である三弦との関係が指摘される。三弦は[[福建語]]で''samhian''(サムヒエン)、[[北京語|北京官話]]では''sānxiàn''(サンシエン)と読む。[[山内盛彬]]はサンセン(三線)からサミセンへ変化していったという説を唱えている。三線の胴の太鼓部分に[[蛇の皮]]を張るため、[[三味線]]([[ネコ|猫]]や[[イヌ|犬]]の皮を張る)と区別するために、日本本土を含めて「ジャビセン(蛇皮線)」「ジャミセン(蛇味線)」と呼ばれることも多い。ただし、この呼称は沖縄では嫌われるという<ref>【美ら島から】三線/中国起源 琉球で独自の進化(大城学)『読売新聞』朝刊2018年1月24日(文化面)</ref>。 小さな島が点在する南西諸島では島ごとに[[方言]]が大きく異なるため、数多くの異称がある。統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。 [[琉球処分]]後の明治時代、沖縄の伝統的な地名・人名を「日本風に」2文字で表記する方法が流行した(汀志良次→汀良、古波蔵→古蔵、神里原→神原など)。三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある{{誰|date=2015年1月}}。 === 方言による呼称抜粋 === * 三線(サンシン) - 沖縄本島、[[奄美大島]]ほか<ref>セントラル楽器民謡企画部『奄美民謡総覧』、小川学夫・指宿正樹・指宿邦彦・指宿良彦編、南方新社</ref> * 三味線(シャミセン) - 沖縄本島の首里周辺、奄美大島<ref>岩本三味線教室、岩本岩寿、『奄美民謡入門三味線楽譜(第1集)』、2000年、奄美、セントラル楽器</ref> * 蛇皮線(ジャビセン) - 奄美大島 * 蛇味線(ジャミセン) * サミシル - [[徳之島]]の一部など<ref>『徳之島民謡傑作集ワイド』:セントラル楽器</ref><ref>山民謡保存会「山民謡集」、鹿児島県徳之島町山</ref> * シャミシル - 鹿児島県徳之島町亀津など<ref>「セントラル楽器徳之島民謡傑作集ワイド収録一切節」</ref> * サミセン - 徳之島の一部など<ref>「公民館講座島唄教室」、鹿児島県徳之島町</ref> * サンシル - [[沖永良部島]]<ref>川畑先民、吉田治里共著『沖之永良部民謡集{三味線・唄・歌詞}蛇皮線独習書シリーズ2改定版』沖之永良部民謡協会監修、吉田蛇皮線楽譜研究所</ref>、徳之島など * サンシヌ - [[与論島]]<ref>与論中央公民館発行『与論中央公民館サンシヌ講座楽譜(初級、中級編)』</ref> *サンシリ - (沖縄本島[[金武町|金武]]) * サミシン、シャミシン - [[石垣島]]や[[竹富町]]域など == 歴史 == 三線は元々中国発祥で三線を琉球時代の沖縄に持って行ったところ沖縄の文化になったと言える。 === 起源 === 中国大陸の東南部(現在の福建省)の弦楽器「[[三弦]]」を直接のルーツとする。琉球王国は統一([[1429年]])後、中国大陸や[[東南アジア]]との交易により多くの文物を取り入れていた。伝承では[[久米三十六姓]]帰化([[14世紀]]末)以前にはすでに琉球に持ち込まれていたという{{要出典|date=2015年1月}}。[[15世紀]]後半には[[尚真王]]が士族の教養のために三弦を奨励していた。その後、日本でいう[[永禄]]年間初頭([[1558年]]または[[1559年]])に[[和泉国|泉州]](現在の[[大阪府]]南部)[[堺市|堺]]へと伝わり、日本本土の[[三味線]]の起源となった。 福建省の三弦は部位・構造・素材のいずれも三線とほぼ同じものだが、三線の方が棹が短く、胴は平べったく変化した<ref>[http://okinawa34.jp/sanshin/history 三線の歴史 - 沖縄県三線製作事業協同組合]に三弦と三線を並べた画像がある</ref>。 === 琉球王国時代 === [[17世紀]]初頭には[[琉球王国]]が三線主取(サンシンヌシドゥイ)という役職を設けた。琉球王国は、[[清]]から訪れる[[冊封使]]の接遇のために典礼を定めて盛大な接待式典を挙行していたが、そのための役職である[[踊奉行]]の[[玉城朝薫]]が[[1719年]]、[[能]]や[[歌舞伎]]など日本の芸能を参考にした'''[[組踊]]'''を創始し、三線・島太鼓・[[胡弓]]といった沖縄音楽・琉球舞踊の発展の礎となった。日本の芸能が取り入れられた背景には、日本文化への造詣が深かった王国[[琉球の摂政|摂政]]・[[羽地朝秀]](任期[[1666年]] - [[1673年]])の影響が窺える。 琉球舞踊同様に三線は男性の楽器とされてきた。そのため、調弦は男性用になっている。 [[蛇皮]]は中国との貿易でもたらされた。[[乾隆]]32年(1767年)の輸入品の中には5張の蛇皮が見える<ref>安里他『沖縄県の歴史』、195頁。</ref>。王国時代は[[貴族]]や[[琉球の位階|士族]]といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、[[漆器|漆塗り]]の箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に[[床の間]]に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、[[バショウ|芭蕉]]の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して[[毛遊び]](もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。 [[那覇市|那覇]]の辻・仲島などの[[遊廓|遊郭]]では芸妓・[[遊女]]が座敷芸として唄三線を身につけた。 === 近代 === [[19世紀]]後半、[[琉球処分]]を経て日本の施政下に入った[[明治時代]]以降には、様々な流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。 [[第二次世界大戦]]末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ([[沖縄戦]])、多くの三線が被害を受けた。製作後250年を経た三線や琉球国王所有の三線の他、「開鐘(ケージョー)」と総称される名器のうち数丁も永遠に失われた。 === 現代 === 沖縄戦後、沖縄は[[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカ軍の統治]]下に置かれた。米軍基地内のバーや[[コザ]]の繁華街などではアメリカ兵相手に、三線によるライブが盛んに催された。基地に流れていたアメリカのヒット曲を聞きかじって三線でコピーした[[登川誠仁]]の『ペストパーキンママ』([[1948年]]。原曲は[[アル・デクスター]]『[[ピストル・パッキン・ママ]]』)などは当時の沖縄の世相を反映している。戦後は沖縄大衆演劇を中心に復興し、古典や民謡の各流派も大会を開催している。日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やポップミュージックの曲の中にも三線が採り入れられるようになったが、影響は沖縄文化圏に留まっていた。 南米[[ボリビア]]に移民した沖縄県出身地の街・[[オキナワ移住地]](コロニア・オキナワ)や同じく南米の[[ブラジル]]、米国[[ハワイ州|ハワイ]]の沖縄系日系人コミュニティでは、三線が彼らのアイデンティティを示すアイコンとなっている。 [[1972年]]に[[沖縄返還|沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還]]された後、[[知名定男]]率いる[[ネーネーズ]]や[[りんけんバンド]]など一部は日本本土の音楽シーンでも活躍したが、三線や沖縄音楽が本格的に知られるようになるのは[[1990年代]]の沖縄ブーム以降である。[[1992年]]には[[山梨県]]出身の[[宮沢和史]]らのバンド・[[THE BOOM]]が三線を全面に押し出した琉球音階のポップス曲『[[島唄 (THE BOOM)|島唄]]』を発表し、150万枚に迫る大ヒットとなった。[[1999年]]公開の映画『[[ナビィの恋]]』は沖縄をモチーフとした映画としては異例のヒットを記録し、[[2001年]]に放映された[[NHK連続テレビ小説]]『[[ちゅらさん]]』で沖縄ブームが不動となったことで、趣味として三線を始めたり沖縄音楽に親しむことが沖縄文化圏以外においても一般的となった。三線は生産量が増え、初心者向けのセットや教本なども多数発売されるようになった。一方で三線の素材として理想的とされる黒檀は手に入りにくくなって価格が高騰し、質の悪い素材を塗装でごまかした粗悪品も存在する。 [[2010年]]3月、沖縄県内の三線[[職人]]の有志が集い、三線[[製作]]の技術向上と[[地域ブランド]]化、後進の育成、品質の保全を目的とした[http://okinawa34.jp/ 沖縄県三線製作事業協同組合]が発足した。 2021年現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、7名の工芸士が認定されている。[[鹿児島県]]では伝統工芸品[[奄美のサンシン]]([[奄美地方]])として指定されている。 == 型と種類 == 沖縄三線と奄美三線では形状が異なる。本土の三味線の影響をより強く受けた奄美三線は全体的に大きい。 === 沖縄三線の型 === 沖縄三線は棹の形状から7種類の型(かた)に分類される。それぞれの型の元となった三線が存在し、名称は元となった三線の製作者の名を冠している。現在製作されている三線はすべてそれらの複製である。かつては形状の差異についての認識は曖昧だったが、琉球三線楽器保存育成会らが定義を整理した。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型の三線も多く出回っていた。近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。 ; 南風原型(フェーバラー) : 最も古い型であり、名工「南風原」の作と伝えられている。棹は細身で天(チラ)は曲がりが少なく扁平。野坂(スンウリ)は大きく曲がり、野丸(ティアタイ)は半円である。野丸と鳩胸(ウトゥチカラ)の区別がほとんどできない。高音域の音であっても澄んだ音がでるように野(トゥーイ)は下がっている。南風原型はさらに拝領南風原型(ハイリョウフェーバラー)・翁長親雲上型(オナガペーチン)に分けられる。 ; 知念大工型(チニンデーク) : 初代三線主取であった知念大工の作とされる。棹は太く、天の曲がりは大きい。天の部分と野丸の下部から鳩胸にかけて痩せ細った馬の背のように中央が盛り上がっているのが大きな特徴。天も南風原型と比べると広い。野坂は短く、野丸は丸みを帯びている。 ; 久場春殿型(クバシュンデン) : 久場春殿の作とされている。沖縄三線では最も大型で、天の曲がりが小さく薄い。上部から下方へ次第に太くなり、野丸と鳩胸の区切りがほとんど出来ない。胴内の軸には三角形の穴があり、一段の段が付けられている。両側には碁盤のへそのような溝がある。芯の付け根に段が刻まれている。かつて辻界隈の遊郭では護身用の武具(棍)として用いられたという逸話がある。 ; 久葉の骨型(クバヌフニー) : 同じく久場春殿の作とされる。横から見ると[[ビロウ|蒲葵]]の骨に似ていることからその名がついた。[[箏]]と匹敵する美音をもつとされる。久場春殿とは対照的に、三線の中で棹が最も細い。野丸と鳩胸の区切りはほとんどない。 ; 真壁型(マカビー) : 名工「真壁[[里之子]]」の作。均衡がとれた美しさから真壁型が最も多く製作され、かつ人気も高い。開鐘と呼ばれる三線は全てこの型。他の名工達と異なり、王国の官職にあった真壁の棹に対する情熱は相当なもので、完成した棹であっても納得のいかないものは[[薪]]として火にくべたという伝承がある。棹は細身で天は中絃から曲がり、糸蔵(チルマダイ)が短い。宇根親雲上型(ウーニペーチン)もこの型に属する。今市販されている三線の多くは廉価版でもこの形をベースにしている。 ; 平仲知念型(ヒラナカチニン) : 三線主取であった知念の弟子、平仲の作。棹は細めだが、鳩胸に丸みがない。天は大きく湾曲していて、中央は少し盛り上がって丸みを帯びている。知念大工の系統と見る人もいるが、現在の動向では「平仲知念型を型として再検討する必要がある」という風潮のようである。 ; 与那城型(ユナー) : 真壁型と同時代の与那城の作とされている。[[琉球古典音楽]]の演奏家はこの型を好む傾向にある。この型は更に小与那型(クーユナー)、江戸与那型(エドユナー)、佐久川与那型(サクェカーユナー)、鴨口与那型(カモグチユナー)に分かれる。真壁型よりも棹厚く、月の輪と棹の野面とが直角をなしているのが大きな特徴。天は糸蔵の先から曲がり、範穴はやや下方に開けられている。糸蔵は長く、鳩胸も大きめ。特に江戸与那型の芯には大小3つの穴が開けられている。後世に自分よりも優れた名工が現れたとき、修正の余地を与える意味で厚くしたと言われている。面取与那(メントゥイユナー)とも呼ばれる「与那城の遺作」とも呼ばれた「通常の与那の野面が天の曲がり付近から野坂に掛けて平均的に面が取られ、範穴も真壁型の様に取られたかのような名器」も存在したとの伝承も存在する。「修正の余地の意味」の異説として「三線大工の師でも有った名工真壁に対して、与那城が{間違った棹作りをした時にはいつでも師真壁に面を取り去って下さい}との謙虚な心積りで居たから」と言う話も伝わっている。 === 奄美三線 === {{See|島唄#サンシン}} === 変わり三線 === 三線には様々な改良楽器が存在する。 ; エレキ三線 : コンサートやライブでの使用のために、胴部分にマイクや[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]を内蔵している。 ; パーランクー三線 : [[エイサー]]で用いられるパーランクーに棹をつけた三線。 ; ジャンボ三線 : [[うりずん娘]]が使用。全長6メートル。二人掛かりで演奏。 ; ダブルネック三線 : 棹が二本付いた三線。 ; オキハワ : 弦を四本にし、フレットを付けた三線。 == 部位と素材 == === 棹(ソー) === 三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としては[[カリン]]、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、[[コクタン|黒檀]]などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である(希少なために高価になっている面もあり、八重山産であれば必ず良い音を保証するという意味ではない)。現在では[[台湾]]や[[フィリピン]]産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。 棹の原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める必要がある。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。職人によっては、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。 音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金や銀、ガラス、アルミ、樹脂を用いた棹も実際に存在する。 === 胴(チーガ) === 胴の部材には主に[[イヌマキ]](チャーギ)や[[クスノキ]]、[[リュウガン]]が用いられる。高価な三線には[[ケヤキ]]、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には[[東南アジア]]産の[[ゴムノキ]]なども用いられる。この胴部材に[[インドニシキヘビ]]の蛇皮を張るのが伝統的な三線の胴の製法である。 胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。皮の張り具合(強さ)をみて、音の高い方を表、反対側を裏とする。南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。 [[第二次世界大戦]]直後、[[アメリカ合衆国による沖縄統治]]下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いた'''カンカラ三線'''や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも[[アメリカ軍|米軍]]の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、[[金武町|金武村]](当時)の[[屋嘉捕虜収容所|日本兵捕虜収容所]]で作られた楽曲「[[屋嘉節]]」などはカンカラ三線で歌うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、[[20世紀]]末頃からは[[学校教育]]でもカンカラ三線が社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。 野生の蛇からの蛇皮採取は[[絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約|ワシントン条約]]に抵触する可能性があるため、現在では[[ビルマニシキヘビ]]や[[アミメニシキヘビ]]が養殖され、三線に使用されている。[[1954年]](昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』<ref>[[池宮喜輝]]著、沖縄芸能保存会(1954)</ref>や戦前の演奏風景を収めた写真からは、[[ボールニシキヘビ|ボールパイソン]]や[[ボア科|ボア]]、[[クサリヘビ科]]([[ハブ (動物)|ハブ]]や[[ニホンマムシ|マムシ]]が属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も窺える。 '''本張り'''と呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が[[沖縄県]]の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。 [[古謝美佐子]]のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。特に海外公演もする者の場合は蛇皮製品は出入国時に[[税関]]で手続きに苦労したり、本皮は気候の違いで調子が悪くなりやすいため避けられる。なお[[札幌市豊平川さけ科学館]]にある鮭皮を胴に使用した三線のように、胴の素材を変えた変わり種三線もある。 === 弦(チル) === 三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。それぞれ三味線の一の糸、二の糸、三の糸に相当する。素材は伝統的には[[絹|絹糸]]を撚ったものであったが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすかったために今日では白色のテトロンかナイロン製の弦が普及している。まれにエナメル製の弦も用いられるが、手触りの悪さから一般的ではない。奄美群島の三線では、黄色く染色したナイロン製の細い弦「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。 === 胴巻き(ティーガー) === ティーガーとは「手皮」の琉球語読み。胴の周りにつける装飾的な胴巻きのこと。以前は家紋をあしらったシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。[[大正時代]]頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではほとんど作られない。 === 糸巻き(カラクイ) === 弦の張り具合を調節する糸巻きをカラクイという。調弦により音階を調節する。その形状から、首里、梅、菊、カンプー、歯車型などいくつかのデザインがある。素材は主に[[コクタン|黒檀]]や[[シタン|紫檀]]、黒[[カキノキ|柿]]である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨、ラクト材、[[象牙]]、プラスチックなどで装飾したものが多い。 === 駒(ウマ) === [[駒 (弦楽器)|駒]](ウマ)を胴面に立てると弦が離れ、弾ける状態になる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背側を棹に向けると倒れにくい。素材は[[竹]]([[モウソウチク]])や牛骨が一般的であるが、規定はない。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、三線用の消音駒(忍び駒、忍びウマ)も存在する。 === 爪・撥(チミ・バチ) === 義甲(バチ)のこと。標準語で「ツメ」ともいう。バチの材質は[[スイギュウ|水牛]]の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。 形状はやや湾曲し、先端は削って使用する。大きさは5〜15センチほどで、大まかな傾向として古典や舞踊の曲には大型のツメを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。三線の奏法はダウンストロークが基本となるため、ツメの背(下側)は丸みを帯びている。「掛け音」(アップストローク)の際には文字通り先端を弦に「掛けて」音を出す形になる。 必ずツメを使うというわけではなく、自分の人差し指の爪で「爪弾く」ことも多い。[[よなは徹]]など爪弾くスタイルにこだわる奏者もいる。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。 === その他の部位の名称 === <div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"> * 糸掛(チルドゥミ) * 猿尾(ミジアティ) * 心(チーガタムチ) * 心穴上(ミジトゥイウイミー) * 心穴下(ミジトゥイシチャミー) * 爪形(ウトゥアティ) * 爪裏(ウトゥダマイ) </div><div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"> * 野坂(スンウリ) * 鳩胸(ウトゥチカラ) * 野(トゥーイ) * 野丸(ティーアタイ) * 粟転(ウトゥノクイ) * 歌口(ウトゥガニ) * 糸蔵(チルダマイ) </div><div style="float:left; vertical-align: top; white-space: nowrap;"> * 範穴(カラクイミー) * 天(チラ) * 月の輪(チラカマチ) * 虹(ウイチラムチネー) * 乳袋(ミルクミミ) * 胴表(チーガウムティ) * 胴裏(チーガウラ) </div>{{clear}} == 塗り == 元来、棹の表面は黒く漆塗りされる。近年では[[ウレタン]]の吹き付け[[塗装]]が主流である。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。 == 開鐘(ケージョー、ケージョウ)とは == 棹がやや細く、短く、皮が緩めに張られた型。弦は絹糸を使う。太い低音が響くため、琉球王朝時に城門を開ける合図の鐘の音に似ていたことからこう呼ばれた。後述のように「盛嶋開鐘」が現存しているほか、2000年代に復刻された<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXKZO26030950T20C18A1BC8000/ 町田宗男:三線 琉球の音色響け◇王朝時代から続く盛嶋など「開鐘」を復刻製作◇]『日本経済新聞』朝刊2018年1月24日(文化面)</ref>。 開鐘の名の由来となった、明け方に突かれる鐘の音は「開静鐘」と呼ばれた。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。[[琉球国王の一覧|尚家]]に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて'''開鐘'''と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は[[第二次世界大戦]]により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、[[1982年]]に[[尚裕]]より[[沖縄県立博物館]]に寄贈された。現在は[[沖縄県立博物館・美術館]]にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。 * [[1916年]][[4月17日]]、[[琉球新報社]]の記事より **盛島(ムリシマ)開鐘、西平(ニシンダ)開鐘、湧川(ワクガー)開鐘、熱田(アッタ)開鐘、翁長(ヲゥナガ)開鐘 * 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」と冨原守清「琉球音楽考」より ** 盛島開鐘、西平開鐘、湧川開鐘、城(グスク)開鐘、安真太平(アマダンジャ/アマダンチャ)開鐘 * 「沖縄大百科事典」の'''開鐘'''の項目(又吉真三)より ** 盛島開鐘、西平開鐘、湧川開鐘、城開鐘、安真太平開鐘(西平、湧川の代わりに久田と大宜味を入れる場合もある) 準開鐘に属するもの * 友寄(トゥムシ)、豊平(トヨヒラ)、屋良部崎(ヤラブザキ)、前田、翁長、熱田、屋冨祖、城間(グスクマ)、松田、富盛(トゥムイ)、安室(アムロ)、志多伯(シタハク) == 奏法 == 沖縄県では基本的に[[撥]]を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれる。奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では[[本土]]の三味線と異なり、撥で胴を叩かない。奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した[[工工四]](クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。 最も一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、[[弾き語り]]の時は奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。 == 流派 == 三線の演奏には[[琉球国王|琉球王朝]]の宮廷音楽として発達した[[琉球古典音楽]]と、庶民の間に歌い継がれてきた[[沖縄民謡]]、奄美群島の[[島唄]]とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者が'''[[おもろ]]'''や自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は[[当て字]]。現在、赤犬子神社(赤犬子宮 (アカナクー) )が[[読谷村]]楚辺にある。 [[File:NAHA City Okinawa Prefecture Japan 5th September 2023 09.jpg|thumb|「琉球音楽 野村流始祖先師顕彰碑」。沖縄県那覇市]] 湛水親方こと[[幸地賢忠]]が創設した湛水流から、[[知念績高]]の弟子であった[[安冨祖正元]]と[[野村安趙]]が、それぞれの流れを伝える[[安冨祖流]]と[[野村流]]を興す。両派の主な違いは、主に[[かぎやで風節|かぎやで風]]に代表される。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。 主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、[[毛遊び]]や祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の[[流行]]や地域の[[噂|うわさ話]]、[[替え歌]]、[[春歌]]、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。 音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、[[琉球民謡協会]]では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。 * [[1957年]]設立 - [[琉球民謡協会]] * [[1976年]]設立 - 沖縄民謡協会 * [[1989年]]設立 - 琉球民謡保存会 * [[2002年]]設立 - 琉球民謡音楽協会 * [[2004年]]設立 - 琉球國民謡協会 * [[1949年]]設立 - 八重山音楽安室流協和会 * [[1958年]]設立 - 八重山音楽安室流保存会 * [[1970年]]設立 - 八重山音楽大浜用能流保存会 * [[1976年]]設立 - 八重山古典民謡保存会 * [[1998年]]設立 - 八重山音楽安室流室山会 * 宮古民謡協会 * 宮民謡保存会 * 宮古民謡保存協会 * 在沖宮古民謡協会 * 琉球民謡登川流研究保存会 == 主な演奏者 == {{節スタブ|date=2016年6月}} === 琉球 === * [[新良幸人]]([[パーシャクラブ]]) * [[池田卓]] * [[MERRY]](具志恵) * [[石垣優]]([[やなわらばー]]) * [[伊丹英子]]([[ソウル・フラワー・モノノケ・サミット]]) * [[糸数カメ]] * [[伊禮麻乃]] * [[伊禮俊一]] * [[上原知子]] * [[上間綾乃]] * [[上江洌清作]]([[MONGOL800]]) * [[内里美香]] * [[大島保克]] * [[大城美佐子]] * [[乙女椿]] * [[華菜枝]] * [[嘉手苅林昌]] * [[嘉手苅林次]] * [[我如古より子]] * [[川門正彦]] * [[川畑アキラ]]([[ザ・コブラツイスターズ]]) * [[喜納昌永]] * [[喜納昌吉]] * [[金城繁]] * [[金城睦松]] * [[金城実 (三線奏者)|金城実]] * [[儀間崇]]([[MONGOL800]]) * [[国吉源次]] * [[国吉真勇]] * [[ゲレン大嶋]]([[チュラマナ]]、[[coco←musika]]など) * [[古我地]] * [[古謝美佐子]] * [[島袋正雄]] * [[城間竜太]] * [[新里英之]]([[HY (バンド)|HY]]) * [[新城浪]] * [[大工哲弘]] * [[高嶺英亨]] * [[高嶺ミツ]] * [[知名定男]] * [[知名定人]] * [[知名定繁]] * [[知念宗真]] * [[照喜名朝一]] * [[照屋政雄]] * [[照屋林賢]]([[りんけんバンド]]) * [[照屋林助]] * [[通事安京]] * [[中川敬]]([[ソウル・フラワー・ユニオン]]) * [[仲村奈月]]([[ソウル・フラワー・モノノケ・サミット]]) * [[夏川りみ]] * [[饒辺愛子]] * [[饒辺勝子]] * [[登川誠仁]] * [[南ぬ風人まーちゃん]] * [[八木政男]] * [[鳩間可奈子]] * [[浜川春子]] * [[比嘉栄昇]]([[BEGIN (バンド)|BEGIN]]) * [[平安隆]] * [[前川守賢]] * [[前川義紀]] * [[宮城克年]] * [[ミヤギマモル]] * [[宮里悠平]]([[HY (バンド)|HY]]) * [[宮沢和史]]([[THE BOOM]]) * [[宮良康生]] * [[宮良忍]](ex-[[DA PUMP]]) * [[村松健]] * [[森久保慶子]](小原慶子) * [[山内盛彬]] * [[山川まゆみ]] * [[山里勇吉]] * [[山城孝治]](バーボンズ) * [[よなは徹]] * [[世持桜]] * [[徳原盛文]] === 奄美 === * [[中孝介]] * [[武下和平]] * [[坪山豊]] * [[築地俊造]] * [[石原久子]] * [[里アンナ]] * [[牧岡奈美]] * [[川畑さおり]] * [[城南海]] * [[前田博美]] * [[禎一馬]] * [[ハシケン]] * [[元ちとせ]] * [[安田宝英]] * [[マブリ|タナカアツシ]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[安里進]]・田名真之・真栄平房昭・西里喜行・豊見山和行・[[高良倉吉]]・編『沖縄県の歴史』(県史47)、山川出版社、2004年。 * 島袋正雄 「沖縄三線の起源と各型について」 * 王耀華「中国と琉球の三弦音楽」 * 冨原守清「琉球音楽考」 * 宜保榮治郎「三線のはなし」 * 山内盛彬「山内盛彬著作集 第一巻」 * 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」 * 大城學 第385回 博物館文化講座「三線と沖縄の人たち」配布資料 == 外部リンク == * [http://okinawa34.jp 沖縄県三線製作事業協同組合 公式ウェブサイト] {{ja icon}} * [http://maburi.iza-yoi.net/ 奄美の島唄と三味線がよくわかるサイト 奄美島唄の世界] {{ja icon}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:さんしん}} [[Category:沖縄県の音楽]] [[Category:奄美群島の文化]] [[Category:弦楽器]] [[Category:和楽器]] [[Category:三味線]] [[Category:経済産業大臣指定伝統的工芸品]]
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ガムラン
ガムラン(インドネシア語: gamelan)は、東南アジアのインドネシアで行われている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の民族音楽の総称である。広義では、インドネシア周辺のマレーシア、フィリピン南部スールー諸島などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。欧米や日本などでは、ガムラン音楽 (Gamelan music) とも呼ばれる。 2021年12月15日、インドネシアのガムランは国連教育科学文化機関(UNESCO)無形文化遺産の代表リストに登録された。 「ガムラン」とは古代ジャワ語の「たたく、打つ、つかむ」等の意味を持つ、動詞ガムル (gamel) に由来する。 元来はインドネシア、ジャワ島中部の伝統芸能であるカラウィタンで使われるサロン (saron) やゴン (gong) などの伝統楽器のことであった。 また、打楽器以外にも、古代詩を朗詠する歌もガムランの重要な要素となっている。 ガムランは二極対立的なインドネシアの宇宙観を反映した音楽構造をもっている。例えば、AのパートとBのパートを組み合わせると、Cという本来の旋律が浮かび上がる。このガムランの基本的な演奏技法をコテカン(kotekan)といい、ほぼすべての楽器に及んでいる。ヤープ・クンストはこうした二元論的なインドネシア音楽の基本構造を指して「コロトミー構造の音楽」と名付けた。ガムランは16もしくは32ビートで上記のように対になって演奏されるが、調律されていない2つの楽器の微妙なずれによって生まれる音のうねりをオンバ(ombak)といい、ガムランの聴きどころとされている。 ジャワ島のガムランの打楽器に使われる素材は青銅が主であり、鉄製のものもあるが、青銅製のものが最も音が美しいとされている。インドネシアでは青銅の原料となる錫はほとんど産出されず、ほとんどがマレーシアから運ばれたものであり、かつての青銅文化であるドンソン文化がマレー半島を経由してインドネシアに伝わったことを物語っている。 現在では、ジャワ島隣のバリ島の銅鑼、鍵盤打楽器の音楽もガムランと呼ばれるが、バリ島には金属打楽器の代わりに竹を使ったガムランも存在する。 青銅楽器は、鍵盤打楽器(鉄琴のようなもの)と銅鑼の二つのタイプに分かれる。さらに、鍵盤打楽器は、鍵盤が木枠の上に釘と緩衝材を用いて直接置かれるサロンと、鍵盤の穴に紐を通し、木枠の両端に吊り橋状にぶら下げたグンデルとに分かれる。サロンは重厚な響きが特徴で、それに対してグンデルは重厚感はないものの長い残響を得ることができる。 銅鑼は、楽曲の節目を示す「節目楽器」であるゴンと、旋律、リズムを刻んだり、旋律装飾を行ったりするボナンに分かれる。 竹製楽器の種類には、打ち付けたり、吹いて音を出す竹の閉管であるブンブン、その発展型であるティンクリック、竹琴、グンタン(竹の一弦琴)、スリン(竹笛)、西ジャワより広まったと言われるゆすってカラカラと音を出すアンクルンなどがある。 カチャピやシトゥル、チェレンプンが有名である。スンダのカチャピ・スリンは、日本の尺八と琴の二重奏とほぼ同一の演奏形態であり青銅楽器は存在しないが、これもガムランである。 中部ジャワのガムランは、単にジャワ・ガムランと呼ばれるもので、以下のような種類がある(ジャワ語の発音をカタカナで表し難いため、楽器名のカタカナ表記には揺れがある)。もっとも古い楽曲にモンガン (Monggang)がある。 西部ジャワのガムランは、いわゆるスンダ・ガムランと呼ばれるものである。ガムラン・ドゥグン、ジャイポンガン、ガムラン・サレンドロ、カチャピ・スリン(楽器の名前が様式に転じた)、トゥンバン・スンダなどがある。 北西部ジャワのチルボンなどのガムランは、チルボン・ガムランと呼ばれる。 バリ島のガムラン、いわゆるバリ・ガムランには、以下のような楽器がある。 そのほかには以下のような楽器がある。 バリ島のガムラン音楽は、その時期によって、古楽、中世音楽、近代音楽とに分けることができる。マジャパヒト王国の崩壊に伴って、その貴族や僧がバリ島への移住を始める16世紀以前からバリ島にすでにあったと考えられている音楽。基本的に宗教的な性格を強く帯びており、儀式の際に奏でられる。音階の種類の多彩さが、その特徴である。その後、マジャパヒト王国の末裔によって中部ジャワに開花した16世紀来の宮廷文化から、20世紀のオランダ植民地支配が実効化するまでの期間の音楽。レゴンなどの舞踊や舞踏劇などの宮廷芸能と結びついた音楽で、ガムラン・ガンブー、ブバロンガンなどがこれにあたる。20世紀以降の観光、娯楽と結びついた民衆音楽で、ゴン・クビヤール、ガムラン・アルジャ、ジェゴグなどがこれにあたる。 インドネシアでは伝統的なペロッグ音階 (インドネシア語: pelog) とスレンドロ音階 (インドネシア語: slendro) の二つの五音音階(一オクターブを五分割した音階)が演奏目的別に使い分けられる。バリでは、前者がサイ・ゴン、後者がサイ・グンデル・ワヤンと呼ばれる。 単純に2の倍数だけでは説明のつかない、加速や減速を伴うリズムがジャワにある。 近年は観光客に合わせ、演奏時間の短縮が行われているものの、伝統音楽を保持していた時代は、演奏時間の長さが指摘された。影絵芝居のために一昼夜を要する曲もある。 以下に挙げた国のみならず、楽器が国外に流出したためにガムラン演奏は世界中で盛んにおこなわれている。サルヴァトーレ・シャリーノ、ジョン・ケージ、ウィル・エイスマ、ホセ・マセダのようにガムランアンサンブルに刺激されて作曲する者も少なくない。 アメリカの作曲家ルー・ハリソンはこれらの楽器を調律しなおして自分の作曲に用いており、インドネシアの伝統美とは一風変わったオリジナリティが漂う。アメリカのいくつかの大学では、ガムランのサークルが大変に盛り上がりを見せており、大変高い水準を維持するサークルも見られる。 インドネシアはかつての宗主国だった経緯もあり(「オランダ領東インド」を参照)、ガムランの楽器がオランダで使われる例も見られた。松平頼則のオーケストラ作品「舞楽」の初演の際、打楽器の種類は特に指定していない部分を、ブルーノ・マデルナがガムランの楽器を用いて1963年にアムステルダムで指揮した。 ガムラン演奏家・音楽学者エリシェ・プラントゥマ(Elsje Plantema)が1993年に設立したガムラングループがアムステルダムを拠点にオランダ国内、ヨーロッパ各地で演奏活動、ワークショップを行っている。 かつてインドネシアと共にオランダの植民地であったスリナムには、ジャワ島からの移民が居住しており、複数のガムラングループが存在する。2020年に移民130周年を迎えるにあたり、これらのスリナム・ガムラングループがオランダの無形文化遺産に登録される計画がある。 1889年のパリ万国博覧会でガムランが紹介され、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルら近代フランスの作曲家に大きな影響を与えた。オリヴィエ・メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の第1楽章には「ガムラン」と題された部分が登場する。 1937年6月19日にはパリでオランダ公使館の催しとしてジャワ舞踊家レイデン・マス・ジョジャナ Raden Mas Jodjanaの公演が行われた。 阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店などの阪急東宝グループの創始者、小林一三(逸翁)商工大臣として1940年にジャワ島を訪問した際、ジョグジャカルタの王家筋に伝えられていたガムランの楽器が寄贈されたのが日本へ運ばれたガムランの最初とされる。しかし、その後その楽器はしまいこまれ、演奏は行われていなかったが、インドネシアでの修復を経て1998年に披露コンサートが行われていた。2007年には宝塚歌劇『MAHOROBA』でも使用されている。 これとは別に東京芸術大学の楽理科の教授であった小泉文夫が、東洋音楽の研究等のために一式購入してアンサンブルを組織し始めた。現在では、バリ、ジャワ、スンダのいずれのスタイルのガムラン・アンサンブルも組織されている。伝統に回帰するグループが存在する一方、ガムランによる即興や、ガムランによる新曲委嘱といった可能性を追求するグループもある。 目下、大学での正式なカリキュラムで学べるように環境を整えていくことが課題となっているが、西洋音楽偏重で始まった日本の常識を超えることはなかなか難しい。現在ガムラン演奏芸術では日本の大学の学位は取れないため、インドネシアへの留学が必要になる。なかでも沖縄県立芸術大学ではバリ、ジャワ双方のアンサンブルがあり、いずれも専門課程としては組み込まれてはいないものの、活動を続けている。特にバリ・ガムランのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と目される梅田英春准教授(音楽民族学、人類学)の指導の下、意欲的な活動が行われている。さらに、東京音楽大学付属民族音楽研究所では学生に限らず、広く一般にも門戸を広げこの「青銅のシンフォニー」を紹介している。 ポピュラー音楽では、坂本龍一が、ガムランのサンプリング音や音階などを作品に積極的に取り入れている。また、現代音楽のフィールドでも評価されるなど、世界的にも評価の高い日本のプログレッシブロックバンドKENSOが、スレンドロ音階とペログ音階の両方を用いた「Tjandi Bentar」(アルバム「天鳶絨症綺譚」収録。2002年)を発表し、NEARfest 2005など海外で演奏し、高い評価を受けている。 現在、野村誠、三輪眞弘、松永通温、會田瑞樹などが、ガムランアンサンブルへの新作を多く手掛けている。
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"1889年のパリ万国博覧会でガムランが紹介され、クロード・ドビュッシーやモーリス・ラヴェルら近代フランスの作曲家に大きな影響を与えた。オリヴィエ・メシアンの『トゥーランガリラ交響曲』の第1楽章には「ガムラン」と題された部分が登場する。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1937年6月19日にはパリでオランダ公使館の催しとしてジャワ舞踊家レイデン・マス・ジョジャナ Raden Mas Jodjanaの公演が行われた。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店などの阪急東宝グループの創始者、小林一三(逸翁)商工大臣として1940年にジャワ島を訪問した際、ジョグジャカルタの王家筋に伝えられていたガムランの楽器が寄贈されたのが日本へ運ばれたガムランの最初とされる。しかし、その後その楽器はしまいこまれ、演奏は行われていなかったが、インドネシアでの修復を経て1998年に披露コンサートが行われていた。2007年には宝塚歌劇『MAHOROBA』でも使用されている。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "これとは別に東京芸術大学の楽理科の教授であった小泉文夫が、東洋音楽の研究等のために一式購入してアンサンブルを組織し始めた。現在では、バリ、ジャワ、スンダのいずれのスタイルのガムラン・アンサンブルも組織されている。伝統に回帰するグループが存在する一方、ガムランによる即興や、ガムランによる新曲委嘱といった可能性を追求するグループもある。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "目下、大学での正式なカリキュラムで学べるように環境を整えていくことが課題となっているが、西洋音楽偏重で始まった日本の常識を超えることはなかなか難しい。現在ガムラン演奏芸術では日本の大学の学位は取れないため、インドネシアへの留学が必要になる。なかでも沖縄県立芸術大学ではバリ、ジャワ双方のアンサンブルがあり、いずれも専門課程としては組み込まれてはいないものの、活動を続けている。特にバリ・ガムランのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と目される梅田英春准教授(音楽民族学、人類学)の指導の下、意欲的な活動が行われている。さらに、東京音楽大学付属民族音楽研究所では学生に限らず、広く一般にも門戸を広げこの「青銅のシンフォニー」を紹介している。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ポピュラー音楽では、坂本龍一が、ガムランのサンプリング音や音階などを作品に積極的に取り入れている。また、現代音楽のフィールドでも評価されるなど、世界的にも評価の高い日本のプログレッシブロックバンドKENSOが、スレンドロ音階とペログ音階の両方を用いた「Tjandi Bentar」(アルバム「天鳶絨症綺譚」収録。2002年)を発表し、NEARfest 2005など海外で演奏し、高い評価を受けている。", "title": "インドネシア国外における受容" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現在、野村誠、三輪眞弘、松永通温、會田瑞樹などが、ガムランアンサンブルへの新作を多く手掛けている。", "title": "インドネシア国外における受容" } ]
ガムランは、東南アジアのインドネシアで行われている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の民族音楽の総称である。広義では、インドネシア周辺のマレーシア、フィリピン南部スールー諸島などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。欧米や日本などでは、ガムラン音楽 とも呼ばれる。 2021年12月15日、インドネシアのガムランは国連教育科学文化機関(UNESCO)無形文化遺産の代表リストに登録された。
{{Otheruses||フランスの軍人|モーリス・ガムラン}} [[ファイル:Traditional indonesian instruments02.jpg|thumb|310px|ガムラン]] '''ガムラン'''({{Lang-id|gamelan}})は、[[東南アジア]]の[[インドネシア]]で行われている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の[[民族音楽]]の総称である。広義では、インドネシア周辺の[[マレーシア]]、[[フィリピン]]南部[[スールー諸島]]などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。欧米や日本などでは、'''ガムラン音楽''' (Gamelan music<ref>{{Cite web |url = https://online.ucpress.edu/jm/article-abstract/15/3/390/63257/Humor-Mischief-and-Aesthetics-in-Javanese-Gamelan?redirectedFrom=PDF|title = Humor, Mischief, and Aesthetics in Javanese Gamelan Music|website =online.ucpress.edu |publisher = online.ucpress.edu|date = |accessdate = 2021-02-24}}</ref>) とも呼ばれる。 [[2021年]][[12月15日]]、インドネシアのガムランは[[国連教育科学文化機関]](UNESCO)[[無形文化遺産]]の代表リストに登録された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jakartashimbun.com/free/detail/57825.html|title=ガムラン、無形文化遺産に ユネスコ 大統領「誇りに思う」|publisher=じゃかるた新聞|date=2021-12-20|accessdate=2022-01-07}}</ref>。 == 概要 == 「ガムラン」とは古代ジャワ語の「たたく、打つ、つかむ」等の意味を持つ、[[動詞]]ガムル (gamel) に由来する{{sfn|中川、小迫 |1990|pp=55-81}}。 元来は[[インドネシア]]、[[ジャワ島]]中部の伝統芸能であるカラウィタンで使われるサロン (saron) やゴン (gong) などの伝統楽器のことであった。 また、打楽器以外にも、古代詩を朗詠する歌もガムランの重要な要素となっている。 ガムランは二極対立的なインドネシアの[[宇宙観]]を反映した音楽構造をもっている{{sfn|中川、小迫 |1990|pp=55-81}}。例えば、AのパートとBのパートを組み合わせると、Cという本来の旋律が浮かび上がる。このガムランの基本的な演奏技法をコテカン(kotekan)といい、ほぼすべての楽器に及んでいる。[[ヤープ・クンスト]]はこうした二元論的なインドネシア音楽の基本構造を指して「コロトミー構造の音楽」と名付けた。ガムランは16もしくは32[[ビート (音楽)|ビート]]で上記のように対になって演奏されるが、[[調律]]されていない2つの楽器の微妙なずれによって生まれる音のうねりをオンバ(ombak)といい、ガムランの聴きどころとされている{{sfn|中川、小迫 |1990|pp=55-81}}。 == 楽器の原材料 == [[ファイル:Sarons of Gamelan Sekati, Yogyakarta.jpg|thumb|ガムラン・スカティのサロン、ジョグジャカルタ]] [[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Jonge angklungspelers West-Java TMnr 10017867.jpg|thumb|アンクルンを演奏するインドネシアの少年達、1918年]] ジャワ島のガムランの[[打楽器]]に使われる素材は[[青銅]]が主であり、[[鉄]]製のものもあるが、青銅製のものが最も音が美しいとされている。インドネシアでは青銅の原料となる[[錫]]はほとんど産出されず、ほとんどが[[マレーシア]]から運ばれたものであり、かつての青銅文化である[[ドンソン文化]]がマレー半島を経由してインドネシアに伝わったことを物語っている。 現在では、ジャワ島隣の[[バリ島]]の[[銅鑼]]、鍵盤打楽器の音楽もガムランと呼ばれるが、バリ島には金属打楽器の代わりに[[竹]]<ref>{{Cite web |url = https://escholarship.org/uc/item/2cs8b6z7|title = Jegog Gamelan and Dance in Sangkaragung Village, Negara Jembrana, Bali Indonesia|website = escholarship.org|publisher = escholarship.org|date = |accessdate = 2021-02-24}}</ref>を使ったガムランも存在する。 === 青銅楽器 === 青銅楽器は、鍵盤打楽器([[鉄琴]]のようなもの)と銅鑼の二つのタイプに分かれる。さらに、鍵盤打楽器は、鍵盤が木枠の上に釘と緩衝材を用いて直接置かれるサロンと、鍵盤の穴に紐を通し、木枠の両端に吊り橋状にぶら下げたグンデルとに分かれる。サロンは重厚な響きが特徴で、それに対してグンデルは重厚感はないものの長い残響を得ることができる。 銅鑼は、楽曲の節目を示す「節目楽器」であるゴンと、旋律、リズムを刻んだり、旋律装飾を行ったりするボナンに分かれる。 === 竹製楽器 === 竹製楽器の種類には、打ち付けたり、吹いて音を出す竹の閉管であるブンブン、その発展型であるティンクリック、竹琴、グンタン(竹の一弦琴)、スリン(竹笛)、西ジャワより広まったと言われるゆすってカラカラと音を出す[[アンクルン]]などがある。 === 撥弦楽器 === カチャピやシトゥル、チェレンプンが有名である。[[スンダ]]の[[カチャピ・スリン]]は、日本の[[尺八]]と[[琴]]の二重奏とほぼ同一の演奏形態であり青銅楽器は存在しないが、これもガムランである。 ==各地のガムラン== === 中部ジャワのガムラン === [[ファイル:Gamelan ceremonial Munggang, Kraton Surakarta.jpg|thumb|儀式で行なわれているガムラン・モンガン。クラトン、[[スラカルタ]](ソロ)]] [[ファイル:Javanese Gamelan.jpg|thumb|伝統的なジャワの結婚式におけるガムラン。2人の女性歌手シンデンを伴っている , Taman Mini Indonesia Indah, [[ジャカルタ]], [[インドネシア]]]] [[ファイル:Sacred Dance Bedhoyo Ketawang A.JPG|thumb|ガムランの伴奏で踊られる舞踊ブドヨ Bedhoyo]] 中部ジャワのガムランは、単に[[ジャワ・ガムラン]]と呼ばれるもので、以下のような種類がある([[ジャワ語]]の発音を[[片仮名|カタカナ]]で表し難いため、楽器名のカタカナ表記には揺れがある)。もっとも古い楽曲に'''[[モンガン]]''' (Monggang<ref>{{Cite web|和書|url =https://web.archive.org/web/20181228071953/http://www.osaka-geidai.ac.jp/geidai/laboratory/kiyou/pdf/kiyou22/kiyou22_22.pdf |title =ガムラン音楽 - 大阪芸術大学 |publisher =www.osaka-geidai.ac.jp |date = |accessdate =2018-12-28 }}</ref>)がある。 * '''グンデル・バルン''' ''Gender barung''(鍵盤打楽器、ビブラフォンのようなもの) * '''グンデル・パヌルス''' ''Gender panerus''(鍵盤打楽器、ビブラフォンのようなもの) * '''スルントゥム''' ''Slentem''('''グンデル・パヌンブン''' Gender panunbung とも言う、鍵盤打楽器、ビブラフォンのようなもの) * '''サロン・ドゥムン''' ''Saron demung''(単にドゥムンとも言う、鍵盤打楽器) * '''サロン・パヌルス''' ''Saron panerus''('''サロン・パキン''' Sarong peking とも言う、鍵盤打楽器) * '''サロン・バルン''' ''Saron barung''(ジョグジャカルタでは'''サロン・リチッ''' Saron ricikと言う、鍵盤打楽器) * '''ボナン・パヌンブン''' ''Bonang panunbung''(ゴング・チャイムの類) * '''ボナン・パヌルス''' ''Bonang panerus''(ゴング・チャイムの類) * '''[[ボナン・バルン]]''' ''Bonang barung''(ゴング・チャイムの類) * '''ゴン・アグン''' ''Gong ageng''(単にゴンとも言う、銅鑼の類。'''ゴン・グデ''' Gong gedhe とも) * '''ゴン・スウアン''' ''Gong suwukan''(単にスウアンとも言う、銅鑼の類) * '''クノン''' ''Kenong'' * '''クノン・ジャパン''' ''Kenong Japan''(クノンに似た楽器) * '''クンプル''' ''Kempul''(クンポルとも。銅鑼の類) * '''クトゥ''' ''Ketut''(クトとも言う。) * '''クンピャン''' ''Kempyang'' * '''ブドゥック''' ''Beduk''(超大型太鼓) * '''クンダン・アグン''' ''Kendhang ageng''('''クンダン・グデ''' Kendhang gedhe とも言う、大型太鼓) * '''クンダン・クティプン''' ''Kendhang Ketipung''(クンダン・クティポン、単にクティプンあるいはクティポンとも、小型太鼓) * '''チブロン''' ''Ciblon''(中型太鼓) * '''ガンバン・カユ''' ''Gambang kayu''(単にガンバンとも言う、木琴の類) * '''ガンバン・ガンサ''' ''Gambang Gangsa''(鍵板が金属製品のガンバン) * '''ルバブ'''(ルバッブ) ''Rebab''(二弦の擦弦楽器、名称はアラブの楽器名から) * '''クマナ''' ''Kemanak''(体鳴楽器。バナナの形をしている) * '''[[スリン]]''' ''Suling''(竹の縦笛) * '''チェレンプン''' ''Celempung''(チュルンプンとも言われる。[[ツィター]]のような楽器) * '''シトゥル''' ''Siter''(琴のような楽器、ツィターのような楽器) === 西部ジャワのガムラン === [[ファイル:Gamelandegung.jpg|thumb|スンダのガムラン・ドゥグン]] 西部ジャワのガムランは、いわゆる[[スンダ・ガムラン]]と呼ばれるものである。[[ガムラン・ドゥグン]]<ref>{{Cite web|和書|url =https://archive.li/Xdkh8 |title =平成29年度岩手大学公開講座 |publisher =www.ccrd.iwate-u.ac.jp |date = |accessdate =2018-12-30 }}</ref>、[[ジャイポンガン]]、[[ガムラン・サレンドロ]]、[[カチャピ・スリン]](楽器の名前が様式に転じた)、[[トゥンバン・スンダ]]などがある。 *'''ボナン'''(コレナン) ''Bonang/kolènang''   *'''サロン'''(パキン) ''Saron/peking'' *'''パヌルス''' ''Panerus'' *'''ジェングロン''' ''Jengglong'' *'''ゴン・アグン''' ''Goong ageung'' *'''クンダン''' ''Kendang'' *'''スリン・デグン''' ''Suling degung'' *'''ガンバン''' ''Gambang'' *'''ケチッレッ''' ''Kecrek'' *'''カチャピ''' ''Kacapi'' **'''カチャピ・リンチッ''' ''Kacapi rincik''(小さなカチャピ、原語では''お子さんカチャピ'') **'''カチャピ・インドゥンッ''' ''Kacapi indung''(大きなカチャピ、原語では''おかあさんカチャピ'') *'''ドゥムン''' ''Demung'' === 北西部ジャワのガムラン === 北西部ジャワの[[チルボン]]などのガムランは、[[チルボン・ガムラン]]と呼ばれる。 *'''ベドゥグ''' ''Bedug'' *'''ベリ''' ''Beri'' *'''ボナン''' ''Bonang'' *'''ブロン''' ''Brong'' *'''ガンバン''' ''Gambang'' *'''グンデル''' ''Gender'' *'''ゴン・グデ''' ''Gong Gede'' *'''ゴン・サベ''' ''Gong Sabet'' *'''ジェングロン''' ''Jenglong'' *'''カブルク''' ''Kebluk'' *'''クマナク''' ''Kemanak'' *'''クミャン''' ''Kemyang'' *'''クンダン・グデ''' ''Kendang Gede'' *'''クノン''' ''Kenong'' *'''クプラク''' ''Keprak'' *'''クチプン''' ''Ketipung'' *'''クトゥ''' ''Ketuk'' *'''キウル''' ''Kiwul'' *'''クレナン''' ''Klenang'' *'''パネルス''' ''Penerus'' *'''ルバブ''' ''Rebab'' *'''サロン''' ''Saron'' *'''スリン''' ''Suling'' *'''スリン・ミリン''' ''Suling Miring'' *'''チチル''' ''Titil'' === バリ島のガムラン === バリ島のガムラン、いわゆる[[バリ・ガムラン]]には、以下のような楽器がある。 <gallery> Gamelan of Bali 200507-1.jpg|バリのガムラン:ガンサ Gamelan of Bali 200507-3.jpg|バリのガムラン:クンダン Gamelan of Bali 200507-4.jpg|バリのガムラン:レヨン(トロンポン) Gamelan of Bali 200507-5.jpg|バリのガムラン:ゴング </gallery> そのほかには以下のような楽器がある。 *'''ゲンゴン''' ''Genggong'' *'''パレレト''' ''Pereret'' *'''リンディッ''' ''Rindik'' *'''スリン''' ''Suling'' *'''ウガル''' ''Ugal'' *'''ジェゴガン''' ''Jegogan'' *'''ジュブラ''' ''Jublag'' *'''カンティル''' ''Kantil'' *'''プマデ''' ''Pemade'' *'''クンプリ''' ''Kempli'' *'''チェン・チェン''' ''Ceng-Ceng''<ref>{{Cite web |url = http://myindonesiann.blogspot.com/2017/10/ceng-ceng-traditional-musical-instruments-from-bali.html|title = Ceng Ceng|website = myindonesiann.blogspot.com|publisher = myindonesiann.blogspot.com|date = |accessdate = 2021-02-26}}</ref> ==== バリ島のガムラン音楽 ==== バリ島のガムラン音楽は、その時期によって、古楽、中世音楽、近代音楽とに分けることができる。[[マジャパヒト王国]]の崩壊に伴って、その貴族や僧がバリ島への移住を始める16世紀以前からバリ島にすでにあったと考えられている音楽。基本的に宗教的な性格を強く帯びており、儀式の際に奏でられる。音階の種類の多彩さが、その特徴である。その後、マジャパヒト王国の末裔によって中部ジャワに開花した16世紀来の宮廷文化から、20世紀のオランダ植民地支配が実効化するまでの期間の音楽。[[レゴン]]などの舞踊や舞踏劇などの宮廷芸能と結びついた音楽で、ガムラン・ガンブー、ブバロンガンなどがこれにあたる。20世紀以降の観光、娯楽と結びついた民衆音楽で、ゴン・クビヤール、ガムラン・アルジャ、ジェゴグなどがこれにあたる。 == 音楽としてのガムラン == [[ファイル:COLLECTIE TROPENMUSEUM Gamelanorkest TMnr 10026902.jpg|300px|thumb|バリ島のガムラン]] === 使用音階 === インドネシアでは伝統的な[[ペロッグ]]音階 ({{lang-id|pelog}}) と[[スレンドロ]]音階 ({{lang-id|slendro}}) の二つの五音音階(一オクターブを五分割した音階)が演奏目的別に使い分けられる。バリでは、前者がサイ・ゴン、後者がサイ・グンデル・ワヤンと呼ばれる。 {{multi-listen start}} {{multi-listen item|filename=Pelog.ogg|title=ペロッグ音階の例|description=|format=[[Ogg]]}} {{multi-listen end}} === 使用リズム === 単純に2の倍数だけでは説明のつかない、加速や減速を伴うリズムがジャワにある。 ===形態=== 近年は観光客に合わせ、演奏時間の短縮が行われているものの、伝統音楽を保持していた時代は、演奏時間の長さが指摘された。影絵芝居<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.travel.co.jp/guide/article/19086/|title = 影絵というと子どものものだと思っていませんか。それは違います。|website = www.travel.co.jp|publisher = www.travel.co.jp|date = |accessdate = 2021-02-24}}</ref>のために一昼夜を要する曲もある。 == インドネシア国外における受容 == 以下に挙げた国のみならず、楽器が国外に流出したためにガムラン演奏は世界中で盛んにおこなわれている。[[サルヴァトーレ・シャリーノ]]、[[ジョン・ケージ]]、[[ウィル・エイスマ]]<ref>{{Cite web |url = https://musicalics.com/en/node/89048|title = Mawar jiwa — 1992 — gamelan orchestra and live-electronics — Comm. by Amsterdams Fonds voor de Kunsten, DONEMUS|website = musicalics.com|publisher = musicalics.com|date = 2017-09-01|accessdate = 2021-02-24}}</ref>、[[ホセ・マセダ]]のようにガムランアンサンブルに刺激されて作曲する者も少なくない。 === アメリカ合衆国 === [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の作曲家[[ルー・ハリソン]]はこれらの楽器を調律しなおして自分の作曲に用いており、インドネシアの伝統美とは一風変わったオリジナリティが漂う。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のいくつかの大学では、ガムランのサークルが大変に盛り上がりを見せており、大変高い水準を維持するサークル<ref>{{Cite web |url = http://www.uwyo.edu/music/ensembles/gamelan.html|title = GAMELAN|website = www.uwyo.edu|publisher = www.uwyo.edu|date = |accessdate = 2021-02-24}}</ref>も見られる。 === オランダ === インドネシアはかつての[[宗主国]]だった経緯もあり(「[[オランダ領東インド]]」を参照)、ガムランの楽器が[[オランダ]]で使われる例も見られた。[[松平頼則]]のオーケストラ作品「舞楽」の初演の際、打楽器の種類は特に指定していない部分を、[[ブルーノ・マデルナ]]がガムランの楽器を用いて1963年に[[アムステルダム]]で指揮した。 ガムラン演奏家・[[音楽学者]][[エリシェ・プラントゥマ]](Elsje Plantema)<ref>{{Cite web |url = https://tongtongfair.nl/lang-lezen/elsje-plantema-gamelan/|title = Musicologe Elsje Plantema over gamelan|website = tongtongfair.nl|publisher = tongtongfair.nl|date = |accessdate = 2021-02-26}}</ref>が1993年に設立したガムラングループが[[アムステルダム]]を拠点にオランダ国内、ヨーロッパ各地で演奏活動、ワークショップを行っている。 === スリナム === かつてインドネシアと共にオランダの植民地であったスリナムには、ジャワ島からの移民が居住しており、複数のガムラングループが<ref>{{Cite web |url = https://www.immaterieelerfgoed.nl/en/page/4952/javanese-gamelan-of-suriname|title = JAVANESE GAMELAN OF SURINAME|website = www.immaterieelerfgoed.nl|publisher = www.immaterieelerfgoed.nl|date = |accessdate = 2021-02-26}}</ref>存在する。2020年に移民130周年を迎えるにあたり、これらの[[スリナム・ガムラン]]グループがオランダの無形文化遺産<ref>{{Cite web |url = https://stichji.javanen.nl/2020/05/05/behoud-surinaams-javaanse-gamelan|title = die op de UNESCO Memory of the World list staan)|website = stichji.javanen.nl|publisher = stichji.javanen.nl|date = |accessdate = 2021-02-26}}</ref>に登録される計画がある。 === フランス === [[1889年]]の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]でガムランが紹介され、[[クロード・ドビュッシー]]や[[モーリス・ラヴェル]]ら近代[[フランス]]の作曲家に大きな影響を与えた。[[オリヴィエ・メシアン]]の『[[トゥーランガリラ交響曲]]』の第1楽章には「ガムラン」と題された部分が登場する。 1937年6月19日にはパリでオランダ公使館の催しとしてジャワ舞踊家レイデン・マス・ジョジャナ Raden Mas Jodjanaの公演が行われた。 === 日本 === [[阪急電鉄]]、[[宝塚歌劇団]]、[[阪急百貨店]]などの[[阪急東宝グループ]]の創始者、[[小林一三]](逸翁)商工大臣として1940年にジャワ島を訪問した際、ジョグジャカルタの王家筋に伝えられていたガムランの楽器が寄贈されたのが日本へ運ばれたガムランの最初とされる。しかし、その後その楽器はしまいこまれ、演奏は行われていなかったが、インドネシアでの修復を経て1998年に披露コンサートが行われていた。2007年には宝塚歌劇『MAHOROBA』でも使用されている。 これとは別に[[東京芸術大学]]の[[楽理科]]の教授であった[[小泉文夫]]が、東洋音楽の研究等のために一式購入してアンサンブルを組織し始めた。現在では、バリ、ジャワ、スンダのいずれのスタイルのガムラン・アンサンブルも組織されている。伝統に回帰するグループが存在する一方、ガムランによる即興や、ガムランによる新曲委嘱といった可能性を追求するグループもある。 目下、大学での正式なカリキュラムで学べるように環境を整えていくことが課題となっているが、西洋音楽偏重で始まった日本の常識を超えることはなかなか難しい。現在ガムラン演奏芸術では日本の大学の学位は取れないため、インドネシアへの留学が必要になる。なかでも[[沖縄県立芸術大学]]ではバリ、ジャワ双方のアンサンブルがあり、いずれも専門課程としては組み込まれてはいないものの、活動を続けている。特にバリ・ガムランのアンサンブルは、日本における代表的なガムラン奏者の一人と目される[[梅田英春]]准教授([[音楽民族学]]、[[人類学]])の指導の下、意欲的な活動が行われている。さらに、[[東京音楽大学付属民族音楽研究所]]では学生に限らず、広く一般にも門戸を広げこの「青銅のシンフォニー」を紹介している。 ポピュラー音楽では、[[坂本龍一]]が、ガムランのサンプリング音や音階などを作品に積極的に取り入れている。また、現代音楽のフィールドでも評価されるなど、世界的にも評価の高い日本のプログレッシブロックバンド[[KENSO]]が、スレンドロ音階とペログ音階の両方を用いた「Tjandi Bentar」(アルバム「天鳶絨症綺譚」収録。2002年)を発表し、NEARfest 2005など海外で演奏し、高い評価を受けている。 現在、[[野村誠]]<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:xkE7BCZBFWkJ:https:%2F%2Fwww.suntory.co.jp%2Fsuntoryhall%2Farticle%2Fdetail%2F001257.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231017230142/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:xkE7BCZBFWkJ:https:%2F%2Fwww.suntory.co.jp%2Fsuntoryhall%2Farticle%2Fdetail%2F001257.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=jp&strip=1&vwsrc=0 |author = 野村誠|title = 『タリック・タンバン』(2023)|website = www.suntory.co.jp|publisher = SUNTORYHALL|date = |archivedate = 2023-10-18|accessdate = 2023-10-18}}</ref>、[[三輪眞弘]]<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:stG7KCh6BLYJ:https:%2F%2Fwww.iamas.ac.jp%2Faf%2F01%2Fhtml%2Fexpand.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231017230610/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:stG7KCh6BLYJ:https:%2F%2Fwww.iamas.ac.jp%2Faf%2F01%2Fhtml%2Fexpand.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |author = 三輪眞弘|title = 逆シュミレーション音楽の拡がり|website = www.iamas.ac.jp|publisher = www.iamas.ac.jp|date = |archivedate = 2023-10-18|accessdate = 2023-10-18}}</ref>、[[松永通温]]<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:_dTry1zaXHAJ:www.gamelans.org%2Fmusic%2Fmusic.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231017230816/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:_dTry1zaXHAJ:www.gamelans.org%2Fmusic%2Fmusic.html&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |author = ダルマ・ブダヤ|title = 聴くダルマ・ブダヤ|website = www.gamelans.org|publisher = www.gamelans.org|date = |archivedate = 2023-10-18|accessdate = 2023-10-18}}</ref>、[[會田瑞樹]]<ref>{{Cite web |url = https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:U3CXHrt5j60J:https:%2F%2Fwww.kac.or.jp%2Fevents%2F32425%2F&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20231017231038/https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:U3CXHrt5j60J:https:%2F%2Fwww.kac.or.jp%2Fevents%2F32425%2F&sca_esv=574277537&hl=ja&gl=us&strip=1&vwsrc=0 |author = マルガサリ|title = マルガサリ第2回定期公演《花のみち》vol.2|website = www.kac.or.jp|publisher = www.kac.or.jp|date = |archivedate = 2023-10-18|accessdate = 2023-10-18}}</ref>などが、ガムランアンサンブルへの新作を多く手掛けている。 == 画像 == <gallery> Gamelan practice at Mangkunagaran.jpg|ガムラン・モンガン、マンクヌガラン、スラカルタ Gamelan Laras Slendro Si Ketuyung Keraton Kasepuhan.jpg|ガムラン、スレンドロ音階のもの Instruments (1) of Montebello Gamelan.jpg|ジャワのガムラン Instruments (2) of Montebello Gamelan.jpg|ジャワのガムラン COLLECTIE TROPENMUSEUM Een Gamelan-orkest speelt ter gelegenheid van de installatie van de zoon van wijlen Paku Alam VII in de dalem het verblijf van de vorst te Yogyakarta Java TMnr 10003354.jpg|ジャワ島のガムラン、ジョグジャカルタ Traditional indonesian instruments.jpg|手前:サロン・バルン、奥:サロン・パヌルス Demung Saron Peking, STSI Surakarta.jpg|左から右へ、サロン・パヌルス、サロン・バルン、サロン・デュムン、STSIスラカルタ Bonang barung and panerus. STSI Surakarta.jpg|ボナン・バルンとボナン・パヌルス、STSIスラカルタ Sarons and Gongs, ISI Yogyakarta.jpg|サロンとゴン、ISIヨグヤカルタ Sarons and Genders at Pakualaman.jpg|サロンとグンデル、パクアラマン Traditional indonesian stringed instrument.jpg|チェレンプン Traditional indonesian instrument being played at the indonesian embassy.jpg|ジャワのグンデル Traditional indonesian drums.jpg|ジャワ・ガムランの中型太鼓クンダンKendang、キャンベラ、オーストラリア Traditional indonesian instruments04.jpg|奥側に並んでいるのがクンプル Gamelan-Yogyakarta.jpg|ガムラン奏者、ジャワ、ジョグジャカルタ、1985年、手前はクトゥッ、奥がクノン(撥で叩こうとしている) COLLECTIE TROPENMUSEUM Man die de ketuk bespeelt in een gamelanorkest TMnr 20000380.jpg|クトゥッketuk、1966年 COLLECTIE TROPENMUSEUM Een rebabspeler TMnr 60052115.jpg|ジャワ・ガムランで使われる楽器ルバブrebabの著名な演奏者K.P.H. Notoprojo Wayang Kulit 1890.jpg|ガムランの音楽と共に演じられる影絵人形芝居ワヤン・クリッWayang Kulit(人形遣いダランDalangによる)ジャワ島、1890年頃 Gamelan of Bali 200507-2.jpg|バリの楽器 Senang Hati-Diah Larasati Musicians.jpeg|竹のガムランによる演奏、バリ島 Bali-Danse 0704a.jpg|バリ島のガムランを伴奏に踊られる舞踊レゴンLegong COLLECTIE TROPENMUSEUM Legong danseres met op de achtergrond een gamelanorkest in het Bali Hotel TMnr 20000315.jpg|ガムランの伴奏で踊るバリ島のレゴン、1971年 Balinese dancers.jpg|観光客のために踊るバリ島のダンサー、[[ウブド]] COLLECTIE TROPENMUSEUM De beroemde Balinese danser I Mario TMnr 10004713.jpg|著名なバリ島の舞踊家イ・マリオi Mario、1940年 COLLECTIE TROPENMUSEUM Portert van twee jonge Balinese danseressen TMnr 10004678b.jpg|バリ島の少女ダンサー、1929年 COLLECTIE TROPENMUSEUM Balinese danseres met een gouden kroon TMnr 10004733.jpg|バリ島のダンサー、1952年 COLLECTIE TROPENMUSEUM Bali gamelanorkest. TMnr 60008125.jpg|バリ島のガムラン、1920-1921年 COLLECTIE TROPENMUSEUM Balinese danser voert een dans uit onder begeleiding van een gamelanorkest TMnr 10004737.jpg|バリ島のガムラン COLLECTIE TROPENMUSEUM Balinese danseressen met een gamelanorkest TMnr 10004734.jpg|バリ島のガムラン COLLECTIE TROPENMUSEUM Balinese kebyardans met begeleiding van een gamelanorkest TMnr 10004738.jpg|バリ島のガムラン COLLECTIE TROPENMUSEUM Twee gamelanspelers op Bali TMnr 60030949.jpg|バリ島のガムラン kacapi-suling.JPG|西ジャワの楽器琴カチャピKacapiと竹笛スリンsuling </gallery> == 参考文献 == <!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい。 書籍の宣伝目的の掲載はおやめ下さい。--> * {{Cite journal |和書 |author1 = [[中川真]] |author2 = 小迫直子 |title = 音と身ぶりのリズム |journal = 民族とリズム |date = 1990 |publisher = 東京書籍 |series = 民族音楽叢書 |isbn = 4487752582 |ref = harv }} == 関連書籍 == <!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍などを記載して下さい。 書籍の宣伝はおやめ下さい。--> * 風間純子著『ジャワの音風景』めこん、1994年3月、{{ISBN2|4839600856}} * 田中勝則著『インドネシア音楽の本』北沢図書出版、1996年11月、{{ISBN2|4873710219}} (文献、索引あり)<!--2006年2月2日 (木) 02:00‎ (UTC)--> * 東海晴美、大竹昭子、泊真二取材・編、内藤忠行、リオ・ヘルミ写真『踊る島バリ 聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り手たち』パルコ出版、1990年1月、{{ISBN2|4891942282}}<!--2006年2月2日 (木) 02:00‎ (UTC)--> * 皆川厚一著『ガムラン武者修行 音の宝島バリ暮らし』パルコ出版、1994年4月、{{ISBN2|489194367X}}<!--2006年2月2日 (木) 02:00‎ (UTC)--> * 皆川厚一著『ガムランを楽しもう 音の宝島バリの音楽』音楽之友社、1998年8月、{{ISBN2|4276321204}}<!--2006年2月2日 (木) 02:00‎ (UTC)--> == 関連項目 == * [[スレンドロ]] * [[ペロッグ]] * [[ワヤン・クリ]] * [[レゴン]] * [[インドネシアの音楽]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{Commonscat|Gamelan}} * {{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/9459/Yamagata1.htm |title=ガムランの歴史、ガムランとは |date=20060206024758}} * {{Cite journal|和書|author=虫明知彦 |title=ドビュッシーの作品におけるガムラン音楽の変容 : -1903年作〈パゴダ〉と1889年パリ万国博覧会で展示されたガムラン音楽- |journal=東京音楽大学大学院博士後期課程 2018年度博士共同研究A報告書《モデル×変容》 |publisher=東京音楽大学 |year=2019 |month=mar |pages=1-22 |naid=120006643918 |url=http://id.nii.ac.jp/1300/00001266/}} * [https://www.gamelanhuis.nl/ GAMELANHUIS] * [https://www.immaterieelerfgoed.nl/en/page/4952/javanese-gamelan-of-suriname JAVANESE GAMELAN OF SURINAME] * [http://www.hankyu-bunka.or.jp/blog/%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88/1065/ 小林一三が持ち帰ったガムランが蘇る!] * [http://gamelan.free.fr/Jodjanad.htm Les danses de Raden Mas Jodjana] * {{en_icon}} [https://ich.unesco.org/en/RL/gamelan-01607 Gamelan - intangible heritage - Culture Sector - UNESCO] - UNESCO無形文化遺産の代表リストの項目。{{Accessdate|2021-01-07}} {{デフォルトソート:かむらん}} {{Normdaten}} [[Category:ガムラン|*]] [[Category:インドネシアの音楽]] [[Category:打楽器]] [[Category:ジャワ島]] [[Category:バリ島]] [[Category:音楽のジャンル]] [[Category:打楽器のための楽曲|*かむらん]] [[Category:インドネシア語の語句]] [[Category:無形文化遺産]]
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ウード
ウード(アラビア語: عود(ˁūd)、トルコ語: ud、ペルシア語: بربط(barbat)、英語: oud、スペイン語: laúd)は、リュート属に分類される撥弦楽器。 プレクトラムを用いて演奏する。中東から(アラビア、イラクなど)北アフリカのモロッコにかけてのアラブ音楽文化圏、そしてギリシャで使われる。リュートや琵琶と近縁であり、半卵形状の共鳴胴を持ち、ネックの先が大きく反っている。ただし、リュートや琵琶と違いフレットを持たない。弦は一般に6コース11弦で、10本の弦を5対の複弦とし最低音の弦のみ単弦である。 楽器の「ウード」(ならびに語源的に近縁なリュート)の語源ははっきりしないが、アラビア語のالعود (al-ʿūd) は文字通りには藁のような形状の薄い木片を指す。よってウードの演奏に伝統的に用いられていた木製のプレクトラムや、背面に使われる薄い木片や、類似の皮張りの楽器とは異なる木製の共鳴板を指しているのかもしれない。en:Eckhard Neubauerの近年の研究によれば、ウードという単語は、糸や弦楽器やリュートを指すペルシャ語の単語 rud の単なる借用語である可能性がある。 ファーラービーによると、ウードはアダムの六世孫であるレメクによって発明されたという。この伝説では、息子の死を悲しむレメクがその死体を木に架けたという。そして息子の漂白された骨の形から、最初のウードの着想を得たという。 リュート系の楽器の最古の図像的記録は、ウルク期の南部メソポタミア(現在のナーシリーヤ市)にさかのぼる。これはDominique Collon博士により発見された5000年以上前の円筒印章上のもので、現在大英博物館に所蔵されている。 テュルク系民族の同系の楽器に、「コプズ(コムズ)」(en:komuz)という楽器がある。かつてこの楽器には魔力があると信じられ、戦場の軍楽隊で使用された。このことは突厥碑文に記録され、軍楽隊は後代に他のテュルク系国家やヨーロッパ人によって使用された。音楽学者のジヌチェン・タンルコルルen:Çinuçen Tanrıkorurは、今日のウードは中央アジア付近のテュルク系民族のコプズから派生したものであり、追加弦は彼らによって追加されたものだとしている。 ウードはイラクで特に長い伝統を有しており、イラクでは「その音楽には国の魂が宿る」と言われている。 9世紀のバグダードの法学者は楽器の持つ癒しの力を称賛し、19世紀の作家のムハンマド・シハーブ・アッ=ディーンは「情緒を平静に置き」「心を落ち着けよみがえらせる」と述べた。2003年のイラク進攻en:2003 invasion of Iraqと世俗派のバアス党の崩壊に伴い、世俗的音楽を「ハラーム」(禁止)とみなすイスラーム過激派の増加によって、多くのウード演奏者と教師は潜伏や亡命を余儀なくさせられた。 1923年に起きたギリシャとトルコの住民交換により現在のトルコからギリシャに移住してきた人たちにより、ギリシャ本土でもウードがポピュラーな楽器となり、現在ではレベティコなどギリシャの伝統音楽において重要な楽器の一つとなっている。また、2022年にウードの製作と演奏はシリアとイランの推薦により、UNESCOの無形文化遺産に登録されている。 ネック:ウードはその他の多くの撥弦楽器と異なり、ネック(棹)(en:Neck (music))にフレット(柱)を持たない。それにより奏者はグリッサンドやトリル(en:Trill (music))の技法をより良く表現できる。またフレットがないことによりマカームに見られる微分音を演奏できる。 ウードにフレットがないのは後代の改良の結果である。1100年ごろのウードにはフレットが存在したが、1300年にはフレットは消失した。ウードからフレットが除かれたことは、中東音楽の発展が装飾音を重視していたことを反映している。 弦:多くのウードは11本の弦を持つ。10本の弦は、5コースの複弦であり、11本目の弦は最低音の1本で、単弦である。ウードの演奏に用いる力は現代のギターに比べると軽い。 ペグボックス:ウードのペグボックス(糸蔵)(en:Pegbox)はネックから45度から90度曲がっている。 胴:ウードの胴の背面は半卵形状に膨らんでおり、ギターの背面のように平らではない。この設計によってウードは共鳴を生み出し、複雑な音色を作る。 サウンドホール:ウードには1から3のサウンドホールがある(en:Sound hole)。 ウードのプレクトラムの長さは人差し指よりも少し長い。アラビア語ではこのプレクトラムを「リーシャ」(reesheまたはrisha)といい、トルコではmızrapという。伝統的には、ウードのプレクトラムはタカの羽軸や亀の甲羅を使って作る。しかし今日では安いプラスチック製のプレクトラムが一般的である。 ウード奏者はプレクトラムの質への要求が厳しく、通常はプラスチック製品から自作する。ウード奏者は、サンドペーパーでプレクトラムのへりをとがらせて、最高の音色が出せるように気を付ける。 以下は各地のウードの種類であり、こうしたウードは形状や調律に大きな差がある。 トルコ語:“ud”、ギリシアやアルメニアで使用される類型を含み、ギリシアでは“outi”という。大きさはより小さく、ネックがより短く、音がより高く、音色がより明亮である。 アラブ・ウードより小型で、アラブ・ウードと音調が異なり、音高がより高い。トルコ・ウードと似るが、より小さい。 北アフリカのウードだが、すでに使用する人がいない。 ギリシアの楽器のen:Laoutoとen:Lavtaは、その形はウードに似るが、奏法が大いに異なり、フレットを持つ。その源流はビザンティン・リュート(Byzantine lutes)にさかのぼる。Laoutoはクレタ島で使用される。 ウードには各種の調律法がある。以下に述べる調律は、最下部の単弦から最上部の双弦への順の配列である。
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ウードは、リュート属に分類される撥弦楽器。 プレクトラムを用いて演奏する。中東から(アラビア、イラクなど)北アフリカのモロッコにかけてのアラブ音楽文化圏、そしてギリシャで使われる。リュートや琵琶と近縁であり、半卵形状の共鳴胴を持ち、ネックの先が大きく反っている。ただし、リュートや琵琶と違いフレットを持たない。弦は一般に6コース11弦で、10本の弦を5対の複弦とし最低音の弦のみ単弦である。
{{Otheruses}} [[File:Oud - MIM PHX.jpg|thumb|ウード]] [[File:OUD.ogg|thumb|ウードの演奏例]] '''ウード'''({{lang-ar|عود}}({{unicode|ˁūd}})、{{lang-tr|ud}}、{{lang-fa|بربط}}({{unicode|barbat}})、{{lang-en|oud}}、{{lang-es|laúd}})は、[[リュート]]属に分類される[[撥弦楽器]]。 [[ピック|プレクトラム]]を用いて演奏する。[[中東]]から([[アラビア]]、[[イラク]]など)[[北アフリカ]]の[[モロッコ]]にかけての[[アラブ音楽]]文化圏、そして[[ギリシャ]]で使われる。[[リュート]]や[[琵琶]]と近縁であり、半卵形状の共鳴胴を持ち、ネックの先が大きく反っている。ただし、リュートや琵琶と違い[[フレット]]を持たない。[[弦 (楽器)|弦]]は一般に6コース11弦で、10本の弦を5対の複弦とし最低音の弦のみ単弦である。 == 語源 == 楽器の「ウード」(ならびに語源的に近縁な[[リュート]])の語源ははっきりしないが、[[アラビア語]]のالعود (''al-ʿūd'') は文字通りには藁のような形状の薄い木片を指す。よってウードの演奏に伝統的に用いられていた木製の[[プレクトラム]]や、背面に使われる薄い木片や、類似の皮張りの楽器とは異なる木製の共鳴板を指しているのかもしれない<ref>{{cite web|last=During|first=Jean|title='Barbat'|url=http://www.iranicaonline.org/articles/barbat|work=Encyclopedia Iranica|accessdate=17 April 2011}}</ref>。[[:en:Eckhard Neubauer]]の近年の研究によれば、ウードという単語は、糸や弦楽器やリュートを指す[[ペルシャ語]]の単語 ''rud'' の単なる借用語である可能性がある<ref>Douglas Alton Smith. ''A History of the Lute from Antiquity to the Renaissance''. p. 9. Lute Society of America (LSA), 2002. ISBN 0-9714071-0-X.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.utexas.edu/utpress/journals/archive/am/00449202_ap030061.html |title=Asian Music Tribal Music of India, 32, 1, Fall, 2000/ Winter, 2001 |publisher=Utexas.edu |date= |accessdate=2010-12-23}}</ref>。 == 歴史 == [[File:Aleppo-Music0Band.jpg|thumb|left|1915年ごろの[[シリア]]の[[アレッポ]]の音楽家たち]] [[ファーラービー]]によると、ウードはアダムの六世孫である[[レメク]]によって発明されたという。この伝説では、息子の死を悲しむレメクがその死体を木に架けたという。そして息子の漂白された骨の形から、最初のウードの着想を得たという<ref name=NYT2008/>。 リュート系の楽器の最古の図像的記録は、[[ウルク文化|ウルク期]]の南部[[メソポタミア]](現在の[[ナーシリーヤ]]市)にさかのぼる。これはDominique Collon博士により発見された5000年以上前の[[円筒印章]]上のもので、現在[[大英博物館]]に所蔵されている<ref>{{citation|title=Using the Root Proportion to Design an Oud | author=MITRA JAHANDIDEH, SHAHAB KHAEFI, AHANALI JAHANDIDEH, MASOUD KHAEFI | work=Department of Music, Faculty of Fine Art, Tehran University, Tehran, IRAN, http://www.wseas.us/e-library/conferences/2010/Iasi/AMTA/AMTA-05.pdf.}}</ref>。 [[テュルク系民族]]の同系の楽器に、「コプズ(コムズ)」([[:en:komuz]])という楽器がある。かつてこの楽器には魔力があると信じられ、戦場の軍楽隊で使用された。このことは[[突厥碑文]]に記録され、軍楽隊は後代に他のテュルク系国家やヨーロッパ人によって使用された<ref>Fuad Köprülü, ''Türk Edebiyatında İlk Mutasavvıflar'' (First Sufis in Turkish Literature), Ankara University Press, Ankara 1966, pp. 207, 209.; Gazimihal; Mahmud Ragıb, ''Ülkelerde Kopuz ve Tezeneli Sazlarımız'', Ankara University Press, Ankara 1975, p. 64.; ''Musiki Sözlüğü'' (Dictionary of Music), M.E.B. İstanbul 1961, pp. 138, 259, 260.; Curt Sachs, ''The History of Musical Instruments'', New York 1940, p. 252.</ref>。音楽学者のジヌチェン・タンルコルル[[:en:Çinuçen Tanrıkorur]]は、今日のウードは中央アジア付近のテュルク系民族のコプズから派生したものであり、追加弦は彼らによって追加されたものだとしている。 ウードは[[イラク]]で特に長い伝統を有しており<ref name=NYT2008>{{cite news|title=A Fabled Instrument, Suppressed in Iraq, Thrives in Exile|date=May 1, 2008|work=New York Times|author=[[Erica Goode]]|url=http://www.nytimes.com/2008/05/01/world/middleeast/01oud.html?_r=1&hp=&oref=slogin&pagewanted=all}}</ref>、イラクでは「その音楽には国の魂が宿る」と言われている<ref name=NYT2008/>。 9世紀のバグダードの法学者は楽器の持つ癒しの力を称賛し、19世紀の作家のムハンマド・シハーブ・アッ=ディーンは「情緒を平静に置き」「心を落ち着けよみがえらせる」と述べた<ref name=NYT2008/>。2003年のイラク進攻[[:en:2003 invasion of Iraq]]と世俗派の[[バアス党]]の崩壊に伴い、世俗的音楽を「[[ハラーム]]」(禁止)とみなすイスラーム過激派の増加によって、多くのウード演奏者と教師は潜伏や亡命を余儀なくさせられた<ref name=NYT2008/>。 1923年に起きた[[ギリシャとトルコの住民交換]]により現在のトルコからギリシャに移住してきた人たちにより、ギリシャ本土でもウードがポピュラーな楽器となり、現在では[[レベティコ]]などギリシャの伝統音楽において重要な楽器の一つとなっている。また、2022年にウードの製作と演奏は[[シリア]]と[[イラン]]の推薦により、[[UNESCO]]の[[無形文化遺産]]に登録されている<ref>{{Cite web |title=UNESCO - Crafting and playing the Oud |url=https://ich.unesco.org/en/RL/crafting-and-playing-the-oud-01867 |website=ich.unesco.org |access-date=2022-11-30 |language=en}}</ref>。 == 構造 == '''ネック''':ウードはその他の多くの[[撥弦楽器]]と異なり、ネック(棹)([[:en:Neck (music)]])に[[フレット]](柱)を持たない。それにより奏者は[[グリッサンド]]や[[トリル]]([[:en:Trill (music)]])の技法をより良く表現できる。またフレットがないことにより[[マカーム]]に見られる[[微分音]]を演奏できる。 ウードにフレットがないのは後代の改良の結果である。1100年ごろのウードにはフレットが存在したが、1300年にはフレットは消失した。ウードからフレットが除かれたことは、中東音楽の発展が[[装飾音]]を重視していたことを反映している。 '''弦''':多くのウードは11本の弦を持つ。10本の弦は、5コースの複弦であり、11本目の弦は最低音の1本で、単弦である。ウードの演奏に用いる力は現代の[[ギター]]に比べると軽い。 '''ペグボックス''':ウードのペグボックス(糸蔵)([[:en:Pegbox]])はネックから45度から90度曲がっている。 '''胴''':ウードの胴の背面は半卵形状に膨らんでおり、ギターの背面のように平らではない。この設計によってウードは[[共鳴]]を生み出し、複雑な音色を作る。 '''サウンドホール''':ウードには1から3のサウンドホールがある([[:en:Sound hole]])。 ==プレクトラム== [[ファイル:Holding the risha pos 1.jpg|right|150px|thumb|リーシャ]] ウードの[[プレクトラム]]の長さは[[人差し指]]よりも少し長い。アラビア語ではこのプレクトラムを「リーシャ」(''reeshe''または''risha'')といい、トルコでは''mızrap''という。伝統的には、ウードのプレクトラムはタカの羽軸や亀の甲羅を使って作る。しかし今日では安い[[プラスチック]]製のプレクトラムが一般的である。 ウード奏者はプレクトラムの質への要求が厳しく、通常はプラスチック製品から自作する。ウード奏者は、[[サンドペーパー]]でプレクトラムのへりをとがらせて、最高の音色が出せるように気を付ける。 ==各地の種類== 以下は各地のウードの種類であり、こうしたウードは形状や[[調律]]に大きな差がある。 ===アラブ・ウード=== *シリア・ウード:やや大きて長く、[[音高]]がやや低い。 *イラク・ウード:(ムニール・バシールMunir Bechir形):大きさはシリア・ウードに似る。特徴は浮動式の[[駒 (弦楽器)|駒]]([[:en:Bridge (instrument)]])であり、この設計により集中的に中度の[[周波数]]を発することが出来るので、ギターのような音が出る。この種のウードはイラクのウード名人ムニール・バシール[[:en:Munir Bashir]]の設計による。 *エジプト・ウード:造形はシリア・ウードとイラク・ウードに似るが、より[[ナシ]]形である。音高が僅かに異なる。エジプト・ウードの装飾はより華麗である。 ===トルコ・ウード=== トルコ語:“ud”、ギリシアやアルメニアで使用される類型を含み、ギリシアでは“outi”という。大きさはより小さく、ネックがより短く、音がより高く、[[音色]]がより明亮である。 ===ペルシャ・ウード(バルバット)=== アラブ・ウードより小型で、アラブ・ウードと音調が異なり、音高がより高い。トルコ・ウードと似るが、より小さい。 ===カディーム(古い)・ウード=== [[北アフリカ]]のウードだが、すでに使用する人がいない。 ===ウードではない楽器=== ギリシアの楽器の[[:en:Laouto]]と[[:en:Lavta]]は、その形はウードに似るが、奏法が大いに異なり、フレットを持つ。その源流はビザンティン・リュート(Byzantine lutes)にさかのぼる。Laoutoは[[クレタ島]]で使用される。 ==ウードの調律== ウードには各種の調律法がある。以下に述べる調律は、最下部の単弦から最上部の双弦への順の配列である。 ===アラブ・ウードの調律=== *'''G A D G C F''' *'''D G A D G C''' *'''C F A D G C''' *'''C E A D G C''' *'''F A D G C F''' ===トルコ・ウードの調律=== *旧式トルコ古典調律:'''A D E A D G''' *新式トルコ古典調律:'''F# B E A D G''' *トルコ/アルメニア式調律: '''E A B E A D''' *トルコ/アルメニア式調律変体: '''C# F# B E A D''' *ジュンブシュ調律: '''D E A D G C''' == 奏者 == * [[ラビ・アブ・カリル]](ラビーウ・アブーハリール) * [[ムハンマド・アブドゥルワッハーブ]] * [[常味裕司]] * [[アヌアル・ブラヒム]] * [[ヤクーブ・シャヒーン ]] * [[ジョセフ・タワドロス]] ==脚注== {{reflist|colwidth=30em}} ==関連項目== {{Commonscat|Ouds}} *[[アラブ音楽]] *[[ビザンティン聖歌|ビザンツ音楽]] *[[ヘブライ音楽]] [[:en:Jewish music]] *[[ソマリア音楽]] [[:en:Music of Somalia]] *[[アルメニア音楽]] [[:en:Music of Armenia]] *中東と北アフリカの音楽的伝統 [[:en:Middle Eastern and North African music traditions]] *ウード職人の一覧 [[:en:List of oud makers]] *ウード奏者の一覧 [[:en:List of oud players]] {{Musical-instrument-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ううと}} [[Category:弦楽器]] [[Category:民俗楽器]] [[Category:中近東の楽器]] [[Category:ウード奏者|*]] [[Category:無形文化遺産]]
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ドラゴンクエストモンスターズ
ドラゴンクエストモンスターズ(DRAGON QUEST MONSTERS)は、スクウェア・エニックス(旧・エニックス)から発売されているRPGのシリーズ作品。『ドラゴンクエストシリーズ』の派生作品。 略称は「DQM」。開発はナンバリング作品を制作していたトーセが担当しており、3DSリメイクとDQMJ3のみスクウェア・エニックスが担当している。 ゲーム中に登場するさまざまなモンスターを主人公の仲間にして育成しながら冒険を進めるロールプレイングゲームである。モンスターを仲間にするシステムは『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』のホイミンが初出で、『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』から本格的に始まったが、本シリーズはそれをメインとしたゲームである。後に『スライムもりもりドラゴンクエスト』などの各種派生作品を生むことになる。また、ウェブサイトとアプリを連携させた携帯電話コンテンツもある。 主人公となっているキャラクターは戦闘に直接参加せず、基本的に仲間にしたモンスターが戦いの中心となる。『ジョーカー2P』まで、直接戦闘に参加できるモンスターのパーティは敵味方互いに3体までとなっている(残りは控えの交代制で参加。『テリー3D』以降は4体に増加)。 一度ストーリーをクリアした後もモンスター図鑑を完成させることなど、それまでの物語を追っていくドラゴンクエストとは別に目的が置かれていた。通信機能を利用して他のプレイヤーと対戦したり、他のプレイヤーが育てたモンスターと自分のモンスターを「おみあい」させて子供を作ることもできるようになっている。 各機種対応の携帯電話コンテンツ。 中心となるウェブサイト(街)と、ダウンロードして使用する4つのアプリケーション「牧場アプリ」「森アプリ」「塔アプリ」「闘技場アプリ」から構成される。 ルールが若干異なり、モンスターを「牧場」から旅に出すことによってモンスターを成長させるシステム。ローグライクゲーム形式の「森」や「塔」でアイテムやゴールドを入手する、鍛えたモンスターを市場で売買する、「闘技場」で他のユーザのモンスターと対決させるといったこともできる。また、2005年より、他の2人のユーザのモンスターとパーティを組んでの旅に出すこともできるようになった(当初はiアプリ版のみであったが後にEZ版とS版にも対応)。 iアプリ版とS!アプリ版では、パスワード(「認証キー」と「転送の呪文」)の使用による、プレイステーションソフト『ドラゴンクエストモンスターズ1・2 星降りの勇者と牧場の仲間たち』とのモンスターの受け渡しも可能である。 携帯電話版ドラゴンクエストモンスターズの新バージョン。 ダンジョンでの宝探しやモンスターを旅に出す、闘技場での他ユーザのモンスターとの対決など、『i/S/EZ』のシステムを継承しているが、電話機の性能にあわせてグラフィックが強化されている。「フレンド登録」により、他ユーザとの手紙の交換も可能。 旧バージョン『i/EZ/S』からのモンスターやゴールドの転送を行うことも可能である。モンスターは1ヶ月につき1回可能で、転送元のモンスターは消えない。ゴールドは計1回のみ転送可能で、転送元のゴールドは転送した分減少する。 携帯電話向けの完全新作。一部アイテム課金。 2013年9月1日より、月額利用料金が不要となった。 スマートフォン版はワイド画面に対応し、グラフィックも強化されている。フィーチャーフォン版からのデータを移行させることも可能。 『MOBILE』と本作のグラフィックと図鑑は『モンスターズ1・2』をベースにしている。 ジョーカーシリーズよりも後に出た作品ではあるが、配合方法はジョーカー以前のルールが採用されている。 2017年4月26日にサービスを終了した。 iOS、Android向け作品。一部アイテム課金。開発はCygames。 2014年1月23日配信開始、2月17日には300万ダウンロードを突破した。
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ドラゴンクエストモンスターズは、スクウェア・エニックス(旧・エニックス)から発売されているRPGのシリーズ作品。『ドラゴンクエストシリーズ』の派生作品。
{{Pathnav|frame=1|ドラゴンクエストシリーズ}} {{出典の明記|date=2022年7月}} {{コンピュータゲームシリーズ | タイトル = ドラゴンクエストモンスターズ | 開発元 = [[トーセ]] | 発売元 = [[スクウェア・エニックス]](旧・[[エニックス]]) | ジャンル = [[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]] | 製作者 = | 1作目 = [[ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド]] | 1作目発売日 = [[1998年]][[9月25日]] | 最新作 = [[ドラゴンクエストモンスターズ3 魔族の王子とエルフの旅]] | 最新作発売日 = [[2023年]][[12月1日]] }} '''ドラゴンクエストモンスターズ'''(DRAGON QUEST MONSTERS)は、[[スクウェア・エニックス]](旧・[[エニックス]])から発売されている[[コンピュータRPG|RPG]]の[[シリーズ (作品)|シリーズ作品]]。『[[ドラゴンクエストシリーズ]]』の派生作品。 == 概要 == 略称は「'''DQM'''」。開発はナンバリング作品を制作していた[[トーセ]]が担当しており、3DSリメイクとDQMJ3のみスクウェア・エニックスが担当している。 ゲーム中に登場するさまざまな[[ドラゴンクエストのモンスター一覧|モンスター]]を主人公の仲間にして育成しながら冒険を進める[[コンピュータRPG|ロールプレイングゲーム]]である。モンスターを仲間にするシステムは『[[ドラゴンクエストIV 導かれし者たち]]』の[[スライム (ドラゴンクエスト)#マジックスライム属|ホイミン]]が初出で、『[[ドラゴンクエストV 天空の花嫁]]』から本格的に始まったが、本シリーズはそれをメインとしたゲームである。後に『[[スライムもりもりドラゴンクエスト]]』などの各種派生作品を生むことになる。また、[[ウェブサイト]]と[[アプリ]]を連携させた[[携帯電話]]コンテンツもある。 == ゲームシステム == 主人公となっているキャラクターは戦闘に直接参加せず、基本的に仲間にしたモンスターが戦いの中心となる。『ジョーカー2P』まで、直接戦闘に参加できるモンスターのパーティは敵味方互いに3体までとなっている(残りは控えの交代制で参加。『テリー3D』以降は4体に増加)。 一度ストーリーをクリアした後もモンスター図鑑を完成させることなど、それまでの物語を追っていくドラゴンクエストとは別に目的が置かれていた。通信機能を利用して他のプレイヤーと対戦したり、他のプレイヤーが育てたモンスターと自分のモンスターを「おみあい」させて子供を作ることもできるようになっている。 == シリーズ一覧 == {{Timeline of release years | 1998 = テリーのワンダーランド | 2001 = 2 マルタのふしぎな鍵 ルカの旅立ち/イルの冒険 | 2003 = キャラバンハート | 2006 = ジョーカー | 2010 = ジョーカー2 | 2016 = ジョーカー3 | 2023 = 3 魔族の王子とエルフの旅 }} === ゲーム === ; 本編 :; [[ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド]] ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド』(GB:1998年9月25日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド3D』(3DS:2012年5月30日) ::*: GB版のリメイク。ジョーカーシリーズからスカウトアタックやシンボルエンカウント、控えモンスターのシステムが逆輸入された。他の変更点は[[ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド#ニンテンドー3DS版|タイトルページ]]を参照。 ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランドSP』(iOS・Android:2018年11月7日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ テリーのワンダーランド RETRO』(Switch・iOS・Android:2019年9月17日) ::*: GB版の移植。歩行速度上昇モードが加わった。 :; [[ドラゴンクエストモンスターズ2 マルタのふしぎな鍵]] :: ルカの旅立ち版とイルの冒険版では主人公や出現モンスター等が異なる。 ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ2 マルタのふしぎな鍵 ルカの旅立ち』(GB:2001年3月9日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ2 マルタのふしぎな鍵 イルの冒険』(GB:2001年4月12日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ2 イルとルカの不思議なふしぎな鍵』(3DS:2014年2月6日) ::*: GB版のリメイク。『テリーのワンダーランド3D』同様、ジョーカーシリーズからシステムが逆輸入されている。他の変更点は[[ドラゴンクエストモンスターズ2 マルタのふしぎな鍵#ニンテンドー3DS版|タイトルページ]]を参照 ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ2 イルとルカの不思議な鍵SP』(iOS・Android:2020年8月6日) :; [[ドラゴンクエストモンスターズ3 魔族の王子とエルフの旅]] ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ3 魔族の王子とエルフの旅』(Switch:2023年12月1日) :; 複数収録 ::* 『[[ドラゴンクエストモンスターズ1・2 星降りの勇者と牧場の仲間たち]]』(PS:2002年5月30日) ::*: GB版『テリーのワンダーランド』『マルタのふしぎな鍵』の2作をリメイクし収録。 : ; ジョーカーシリーズ :; [[ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー]] ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー』(DS:2006年12月28日) :; [[ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー2]] ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー2』(DS:2010年4月28日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー2 プロフェッショナル』(DS:2011年3月31日) :; [[ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー3]] ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー3』(3DS:2016年3月24日) ::* 『ドラゴンクエストモンスターズ ジョーカー3 プロフェッショナル』(3DS:2017年2月9日) : ; その他 :* 『[[ドラゴンクエストモンスターズ キャラバンハート]]』(GBA:2003年3月29日) === 携帯アプリ === ==== ドラゴンクエストモンスターズi/S/EZ ==== 各機種対応の携帯電話コンテンツ。 * ドラゴンクエストモンスターズi([[iアプリ]]) - 2002年1月28日配信開始 * ドラゴンクエストモンスターズS<ref group="注釈">当時は『ドラゴンクエストモンスターズJ』、後に『ドラゴンクエストモンスターズV』、2006年10月より現在の名称に変更された。</ref>([[S!アプリ]]) - 2002年6月12日配信開始 * ドラゴンクエストモンスターズEZ<ref group="注釈">同時は『ドラゴンクエストモンスターズez』。</ref>([[EZアプリ]]) - 2003年3月6日配信開始 中心となるウェブサイト(街)と、ダウンロードして使用する4つのアプリケーション「牧場アプリ」「森アプリ」「塔アプリ」「闘技場アプリ」から構成される。 ルールが若干異なり、モンスターを「牧場」から旅に出すことによってモンスターを成長させるシステム。[[ローグライクゲーム]]形式の「森」や「塔」でアイテムやゴールドを入手する、鍛えたモンスターを市場で売買する、「闘技場」で他のユーザのモンスターと対決させるといったこともできる。また、2005年より、他の2人のユーザのモンスターとパーティを組んでの旅に出すこともできるようになった(当初はiアプリ版のみであったが後にEZ版とS版にも対応)。 iアプリ版とS!アプリ版では、[[パスワード (コンピュータゲーム)|パスワード]](「認証キー」と「転送の呪文」)の使用による、プレイステーションソフト『[[ドラゴンクエストモンスターズ1・2 星降りの勇者と牧場の仲間たち]]』とのモンスターの受け渡しも可能である。 ==== ドラゴンクエストモンスターズMOBILE ==== 携帯電話版ドラゴンクエストモンスターズの新バージョン。 * iアプリ版([[FOMA]]90xシリーズ専用) - [[2006年]]5月22日配信開始 * EZアプリ版 - [[2007年]]4月19日配信開始 * S!アプリ版 - 2007年10月1日配信開始 ダンジョンでの宝探しやモンスターを旅に出す、闘技場での他ユーザのモンスターとの対決など、『i/S/EZ』のシステムを継承しているが、電話機の性能にあわせてグラフィックが強化されている。「フレンド登録」により、他ユーザとの手紙の交換も可能。 旧バージョン『i/EZ/S』からのモンスターやゴールドの転送を行うことも可能である。モンスターは1ヶ月につき1回可能で、転送元のモンスターは消えない。ゴールドは計1回のみ転送可能で、転送元のゴールドは転送した分減少する。 ==== ドラゴンクエストモンスターズWANTED! ==== 携帯電話向けの完全新作。一部[[アイテム課金]]。 2013年9月1日より、月額利用料金が不要となった。 * フィーチャーフォン版 ** iアプリ版(FOMA903iシリーズ以降) - 2010年11月24日配信開始 ** EZアプリ版 - 2011年7月28日配信開始 * [[スマートフォン]]版 ** [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版 - 2011年12月1日配信開始。2013年4月19日より[[Google Play]]に対応したことで、ほとんどのAndroid対応機種に対応できるようになった。 ** [[iOS]]版 - 2014年2月20日配信開始。 スマートフォン版はワイド画面に対応し、グラフィックも強化されている。フィーチャーフォン版からのデータを移行させることも可能。 『MOBILE』と本作のグラフィックと図鑑は『モンスターズ1・2』をベースにしている。 ジョーカーシリーズよりも後に出た作品ではあるが、配合方法はジョーカー以前のルールが採用されている。 2017年4月26日にサービスを終了した<ref>{{Cite web|和書|url=http://an.sqexm.net/sp/site/Page/sqmk/wanted/top|title=ドラゴンクエストモンスターズ WANTED!:SQUARE ENIX MARKET|accessdate=2020-11-10}}</ref>。 ==== ドラゴンクエストモンスターズ スーパーライト ==== iOS、Android向け作品。一部[[アイテム課金]]。開発は[[Cygames]]。 2014年1月23日配信開始、2月17日には300万ダウンロードを突破した<ref>{{Cite web|和書|url=http://app.famitsu.com/20140220_319144/ |title=『DQM スーパーライト』プロデューサー激白!あの顛末から今後の展望まで(前編) |publisher=ファミ通app |date=2014-02-20 |accessdate=2014-02-21}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.dragonquest.jp/dqmsl ドラゴンクエストモンスターズ スーパーライト] * {{Twitter|DQMSL_OFFICIAL|DQMSL運営}} * [http://blog.square-enix.com/mobile/dqmm/ ドラゴンクエストモンスターズMOBILEブログ くしざしツインズのバーベキュー★パーティ] {{DragonQuest}} {{Cygames}} {{DEFAULTSORT:とらこんくえすともんすたあす}} [[Category:ドラゴンクエストモンスターズ|*]] [[Category:コンピュータゲームのシリーズ]] [[Category:携帯電話アプリゲーム]] [[Category:ドラゴンクエストのスピンオフ作品|もんすたあす]]
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しげの秀一
しげの 秀一(しげの しゅういち、本名:重野 秀一、1958年〈昭和33年〉3月8日 - )は、日本の漫画家・同人作家。新潟県十日町市松之山出身。新潟県立十日町高等学校卒業。血液型はA型。星座はうお座。 代表作に『バリバリ伝説』、『頭文字D』などがある。 中高時代より同人活動を行っており、その作品を見た漫画家よりひおあきらを紹介されアシスタントとなる(時期としては『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』執筆時)。『増刊少年サンデー』に投稿しデビュー。数作描いたところで1981年(昭和56年)、『増刊少年マガジン』(講談社)に掲載の『おれたち絶好調』で再デビュー。アシスタント歴では石渡治、小林まことなど。 1985年(昭和60年)、第9回講談社漫画賞少年部門受賞(『バリバリ伝説』)。 2022年、画業40周年を記念し原画展が東京にて開催、2023年には広島・新潟・宮城にて開催された。 ※ 発行は注記のない限り全て講談社。
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しげの 秀一は、日本の漫画家・同人作家。新潟県十日町市松之山出身。新潟県立十日町高等学校卒業。血液型はA型。星座はうお座。 代表作に『バリバリ伝説』、『頭文字D』などがある。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = しげの 秀一 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|03|08}} | 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[十日町市]][[松之山町|松之山]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1958|03|08|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1983年]] - | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[バリバリ伝説]]』<br>『[[頭文字D]]』<br>『[[MFゴースト]]』 | 受賞 = 第9回:[[講談社漫画賞]]少年部門(『バリバリ伝説』) | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''しげの 秀一'''(しげの しゅういち、本名:重野 秀一<ref>{{Cite journal |和書 |author=講談社 |title=第九回講談社漫画賞決定 |journal=[[群像]] |volume=40 |issue=7 |publisher=講談社 |date=1985-07 |page=77 }}</ref>、[[1958年]]〈[[昭和]]33年〉[[3月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[同人]]作家。[[新潟県]][[十日町市]][[松之山町|松之山]]出身<ref>[http://www.oradoko.jp/fm-tokamachi/2010/06/artist.html 十日町市出身アーティスト紹介](エフエムとおかまち)</ref>。[[新潟県立十日町高等学校]][[卒業]]。[[血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]<ref>『[[頭文字D]]』単行本第6巻より</ref>。[[星座]]は[[うお座]]。 代表作に『[[バリバリ伝説]]』、『[[頭文字D]]』などがある。 __TOC__<!--(新ベクターで空白が発生するのでコメントアウト){{-}}--> == 経歴 == 中高時代より[[同人]]活動を行っており、その作品を見た漫画家より[[ひおあきら]]を紹介され[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]となる(時期としては『[[さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち]]』執筆時)。『増刊少年サンデー』に投稿しデビュー。数作描いたところで[[1981年]](昭和56年)、『増刊少年マガジン』([[講談社]])に掲載の『おれたち絶好調』で再デビュー。アシスタント歴では[[石渡治]]、[[小林まこと]]など。 [[1985年]](昭和60年)、第9回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞(『バリバリ伝説』)。 [[2022年]]、画業40周年を記念し原画展が東京にて開催、2023年には広島・新潟・宮城にて開催された。 == エピソード == * 小学生時代、[[wikt:級友|同級生]]に頼まれて[[サンダーバード (テレビ番組)|サンダーバード]]の絵を描いていた。サンダーバードで登場する1番好きなメカは[[サンダーバード2号]]と答えている。 * 高校時代は[[校則]]の関係上、[[下駄]]を履いて登校していた。 * [[1979年]](昭和54年)7月、(社)[[御殿場市|御殿場]][[日本青年会議所|青年会議所]](御殿場JC)が周辺道路の渋滞、[[富士グランチャンピオンレース]]観戦の[[暴走族]]が周辺で集会や暴走行為を繰り返す環境の悪化による青少年への影響、省エネ時代にそぐわないことを理由に[[富士スピードウェイ]]の廃止、転用を[[静岡県]]に陳情した。これにより、[[サーキット]]を廃止し[[ゴルフ場]]などの[[レジャーランド]]への転用が発表される事態となった。[[モータースポーツ]]業界は「日本モータースポーツ振興会」を立ち上げ、廃止に反対の立場を表明したため動きがなくなるが、[[1984年]](昭和59年)再び廃止転用の動きが表面化し、[[1985年]](昭和60年)スピードウェイの親会社である[[三菱地所]]がサーキットの廃止について言及する。レース業界はさらに「[[FISCO]]廃止問題連絡協議会」を立ち上げ、大御神レース村ガレージや[[富士グランチャンピオンレース|富士GC]]選手会も参加し、一般レースファンへの[[パブリック・リレーションズ|PR]]活動などを活発に行い、レース関係者が激しく反対運動を展開した。しげの秀一は『[[バリバリ伝説]]』(『[[週刊少年マガジン]]』)のタイトル頁で、[[主人公]]・巨摩郡が「FISCOなくなったら困るぜ!みんなで反対しよう!」と呼びかける形で反対運動に賛同した。[[1986年]](昭和61年)1月、地権者である富士スピードウェイ協力委員会が反対の意を示し、連絡協議会主催により東京で[[シンポジウム]]が開催され、[[神田 (千代田区)|神田]]から[[丸の内]]の三菱地所まで[[東京都]]内を[[デモ活動|デモ行進]]した。同年6月、小山町長に三菱地所から廃止問題についての地権者との調停依頼があり、同年7月30日、廃止問題は白紙とする旨の小山[[市町村長#日本|町長]]の裁定が下され、存続が決定し廃止騒動は収束した<ref>『[http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/info/infor/tayori/no311.pdf] {{リンク切れ|date=2018年3月|bot=InternetArchiveBot}}[[富士スピードウェイ]]の歴史-[[フォーミュラ1|F1]][[日本グランプリ (4輪)|日本グランプリ]]開催と廃止騒動-』静岡県立中央図書館発行</ref>。 * 好きな女性のタイプは「汚れている女の子」 * [[ハイブリッドカー]]に関しては好意的だが、自動運転に関しては「最悪、車がつまらなくなる」と否定的である。 === バリバリ伝説(ネタバレ含む) === * 本編途中で聖秀吉を死なせた理由は、「存在がでかくなりすぎて[[主人公]]を喰う可能性があったから」と、『頭文字D拓海伝説』([[1998年]]([[平成]]10年)発売)の中のインタビューで語っている。 * [[単行本]]で入った初の[[印税]]で購入した[[トヨタ・AE86]]で、[[峠]]を走って[[防護柵 (道路)|ガードレール]]に突っ込む事故を起こしたことがある。その経験が後の『頭文字D』の執筆に役立っているとのこと。 === 頭文字D === * 舞台を[[群馬県]]にした理由は、地元と東京以外で馴染みのある場所だったから。また、自分の愛車・AE86で榛名の下りをタイムアタックしたこともある。 * 上記のAE86やFD3S型[[マツダ・RX-7|RX-7]]など、『頭文字D』に登場するクルマを多数所有してきたが、所有してきた[[自動車|車]]で一番良かったのが[[SUBARU (自動車)|スバル]]の[[スバル・インプレッサ|インプレッサ]]WRX(クーペ・GC8V型)と答えている。ただし中には頭文字Dに登場しているにもかかわらずしげのが1度も所有したことも無い車もあり、終盤に登場した走り屋・北条豪が搭乗している車である[[ホンダ・NSX]](NA1型)は所有したことは無いと答えている。 * 愛車でもあるトレノのほうを主役としていたが、実はトレノよりレビンのほうが好きと答えている。理由は「トレノの方はヘッドライトを点灯していない時の顔は男前ではない」「レビンのほうが固定式のヘッドライトなのでトレノより軽くて速い」から。 * [[輸入車|外車]]に乗る[[走り屋]]は1度も登場していないが、それはしげの自身が連載開始から「外車を出さないというルール」を付けていたからである。そのルールを付けた理由は「日本製の車で日本の峠を走ってて、若い人が乗ってて、手が届くものにしたかったから」。 * [[テレビアニメ]]化された際には「[[3DCG]]合成の走行シーンが特に気に入っている」と評価した。 * [[キャラクター]]で好きなキャラは池谷浩一郎、理由は「描けば描くほど自分の視点になっていった」から。印象に残っているシーンは拓海が京一戦前にベンツの中年と援助交際するなつきを目撃した所(2nd Stage 第4話「燃えない勝利」)と、[[箱根ターンパイク]]で行われた涼介対死神の対決(5th Stage 第9話「死神」・第10話「終止符」)。 == 作品リスト == ※ 発行は注記のない限り全て[[講談社]]。 * [[バリバリ伝説]]([[1983年]] - [[1991年]]、『[[週刊少年マガジン]]』、全38巻) * しげの秀一短編集 リリカル・ナイトストーリー([[1984年]]刊、『週刊少年マガジン』、単巻) * しげの秀一短編集 めもりい・すのー(1991年刊、『週刊少年マガジン』、単巻) * [[トンネルぬけたらスカイ☆ブルー]]([[1992年]]、『[[週刊ヤングマガジン]]』、既刊1巻・以下未刊) * 将(1992年、『週刊少年マガジン』、全3巻) * [[DO-P-KAN]](1992年 - [[1995年]]、『週刊ヤングマガジン』、全10巻) * [[頭文字D]](1995年 - [[2013年]]、『週刊ヤングマガジン』、全48巻) ** 頭文字D番外編 ウエストゲート([[2001年]]、『[[週刊ヤングマガジン#増刊号|ヤングマガジンGT増刊]]』、単行本第30巻収録) ** 頭文字D番外編 ウエストゲート2(2001年、『ヤングマガジンGT増刊』、単行本第33巻収録) * ショアブレイク(読み切り作品、[[2000年]]、『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』) * 高嶺の花([[2014年]]、『週刊ヤングマガジン』、全2巻) * セーラーエース([[2015年]] - [[2017年]]、『週刊ヤングマガジン』、全6巻) * [[MFゴースト]]([[2017年]] - 、『週刊ヤングマガジン』、既刊17巻) == 師匠 == * [[ひおあきら]] * [[ゆうきまさみ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://spi-net.jp/monthly_taidan/index2.html|title=「月刊!スピリッツ」誕生記念対談|accessdate=2009年9月3日}}</ref> == アシスタント == * [[小林たけし]] * [[森川ジョージ]] * [[雅亜公]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://gazoo.com/article/manga/151129.html gazooインタビュー 漫画「頭文字D」の作者 “しげの秀一” に聞いたクルマの魅力] * [https://magazine.yanmaga.jp/c/sailor_ace/ ヤングマガジン公式サイト セーラーエース] * [https://shigenoshuichi.gengaten.com/ しげの秀一原画展] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:しけの しゆういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:新潟県出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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河合克敏
河合 克敏(かわい かつとし、1964年5月2日 - )は日本の漫画家。血液型はO型。静岡県浜松市北区(旧・引佐郡引佐町)出身。 上條淳士のアシスタントを経て、1987年『爆風ガールズ』(週刊少年サンデー8月増刊号)でデビュー。 1988年に第1回コミックグランプリ受賞作として連載が開始された柔道漫画『帯をギュッとね!』(週刊少年サンデー)が初の連載作品となる。この作品が全30巻を数える長期連載となり、一気に人気漫画家となった。 1996年より競艇を題材とした漫画『モンキーターン』(週刊少年サンデー)を連載、こちらも全30巻というヒット作となり、同作品にて1999年度第45回小学館漫画賞を受賞している。また2004年にはアニメ化もされた。 2006年12月より『週刊ヤングサンデー』にて書道を題材にした漫画『とめはねっ! 鈴里高校書道部』を連載開始、同誌の休刊により『ビッグコミックスピリッツ』に掲載の場を移し、2015年16号まで隔週連載した。同作はNHKでドラマ化され、2010年1月から2月にかけて全6回放映された。
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河合 克敏は日本の漫画家。血液型はO型。静岡県浜松市北区(旧・引佐郡引佐町)出身。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 河合 克敏(かわい かつとし) |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1964|5|2}} |生地 = {{JPN}}、[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]<br>(旧・静岡県[[引佐郡]][[引佐町]]) |没年 = |没地 = |血液型 = |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1987年]] - |ジャンル = [[ストーリー漫画]] |代表作 = [[帯をギュッとね!]] 全30巻<br>[[モンキーターン (漫画)|モンキーターン]] 全30巻<br>[[とめはねっ! 鈴里高校書道部]] 全14巻 |受賞 = 第1回コミックグランプリ(1988年)<br>第45回[[小学館漫画賞]](1999年) |サイン = |公式サイト = }} '''河合 克敏'''(かわい かつとし、[[1964年]][[5月2日]]<ref name="aa">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P111</ref> - )は[[日本]]の[[漫画家]]。[[ABO式血液型|血液型]]はO型<ref name="aa"></ref>。[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]](旧・[[引佐郡]][[引佐町]])出身<ref name="aa"></ref>。 == 経歴 == [[上條淳士]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]<ref name="bb">インタビュー記事[https://websunday.net/museum/no11/ サンデー名作ミュージアム『帯をギュッとね!』]</ref>を経て、[[1987年]]『爆風ガールズ』([[週刊少年サンデー]]8月増刊号)でデビュー。 [[1988年]]に第1回コミックグランプリ受賞作<ref name="bb"/>として連載が開始された{{Efn2|正確には[[1989年]]1号からの連載だが発売日は1988年12月のため。}}[[柔道]]漫画『[[帯をギュッとね!]]』(週刊少年サンデー)が初の連載作品となる。この作品が全30巻を数える長期連載となり、一気に人気漫画家となった。 [[1996年]]より[[競艇]]を題材とした漫画『[[モンキーターン (漫画)|モンキーターン]]』(週刊少年サンデー)を連載、こちらも全30巻というヒット作となり、同作品にて[[1999年]]度第45回[[小学館漫画賞]]を受賞している。また[[2004年]]には[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化もされた。 [[2006年]]12月より『[[週刊ヤングサンデー]]』にて[[書道]]を題材にした漫画『[[とめはねっ! 鈴里高校書道部]]』を連載開始、同誌の休刊により『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に掲載の場を移し、2015年16号まで隔週連載した。同作は[[日本放送協会|NHK]]で[[テレビドラマ|ドラマ]]化され、2010年1月から2月にかけて全6回放映された<ref>『ビッグコミックスピリッツ』2009年28号、小学館。</ref>。 == 作品リスト == === 連載 === * [[帯をギュッとね!]] - 『[[週刊少年サンデー]]』(1988年 - 1995年) * [[モンキーターン (漫画)|モンキーターン]] - 『週刊少年サンデー』(1996年 - 2004年)- 2004年にアニメ化された。 * [[とめはねっ! 鈴里高校書道部]] - 『[[週刊ヤングサンデー]]』(2006年 - 2008年)→『[[週刊ビッグコミックスピリッツ]]』(2008年 - 2015年)全178話 * うどんちゃん - 『[[eBigComic4]]』(2018年 - 2020年)全20話<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.ebigcomic4.jp/title/459636 |title=うどんちゃん-河合克敏 |accessdate=2019-4-16 |date=2019-6-8 |website=[[eBigComic4]] |publisher=[[小学館]]、[[eBookJapan]]}}</ref> === 読切 === * 引っ越し - 『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー超]]』 (2003年5月25日号) *渋谷のエラン - 『週刊ヤングサンデー』(2005年33号、34号) * 自転車ダイエットの旅 in 東北{{Efn2|『ビッグコミックスピリッツ』創刊35周年記念読切。}} - 『週刊ビッグコミックスピリッツ』(2016年37・38合併号) * 「大河」が町にやってきた。{{Efn2|同年の[[NHK大河ドラマ]]『[[おんな城主 直虎]]』の舞台で、河合の故郷でもある[[井伊谷]]を取材した読切。}} - 『週刊ビッグコミックスピリッツ』(2017年34号) === キャラクターデザイン === * [[ヒーロークロスライン#サンデー×マガジン クロスライン|サンデー×マガジン クロスライン]] === その他 === * テレビドラマ『[[重版出来!#テレビドラマ|重版出来!]]』(2016年4月、[[TBSテレビ|TBS系]]) - 作中使用漫画・「ツノひめさま」(高畑一寸)の作画 * テレビアニメ『[[アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜]] episode6 視覚障害者柔道』(2019年3月、[[日本放送協会|NHK]]) - 原作 === 関連書籍 === * 漫画家本Vol.5 河合克敏本(2018年、小学館、ISBN 9784091284488) == アシスタント == * [[木根ヲサム]](1996年春〜1998年春)<ref>{{Cite web |url=http://uraltu.main.jp/works.html |title=works |accessdate=2019-4-16 |author=木根ヲサム |date=2016-4-19 |website=Uraltu 木根ヲサム 仕事情報サイト}}</ref> * [[寒川一之]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.websunday.net/mezase/smc_p/hiden/084.html |title=プロが語るまんが秘伝!! part084 寒川一之先生 PART1 |accessdate=2009-9-7 |date=2009-4-25 |website=まんカレ通信 |publisher=小学館 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090425165921/http://websunday.net/mezase/smc_p/hiden/084.html |archivedate=2009-4-25 |deadlinkdate=2019年4月}}</ref> * [[倉薗紀彦]](『モンキーターン』最終回までの約3年半)<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20100912012958/http://ameblo.jp/kurazono-norihiko/entry-10411878472.html |title=アシスタント歴 |accessdate=2009-12-15 |author=倉薗紀彦 |date= |website=倉薗紀彦 の マンガブログ |archiveurl= |archivedate= |deadlinkdate=2015-7-8}}</ref> * [[玉置一平]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www5b.biglobe.ne.jp/~tamakin/nikki.htm |title=玉金ミレニアム不定記 |accessdate=2019-4-16 |author=玉置一平 |date=2009-6-9 |website=玉金ミレニアム |quote=昔、帯をギュっとねという漫画でアシスタントをしていた頃腐るほど描いたのが武道館で、今自分が武道館を描いたらどうなんだろと試してみたかったから。}}</ref> * [[宗我部としのり]]<ref>宗我部としのり『[[ごてんばチアリーダーズ]]』1巻帯推薦文より。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわい かつとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:浜松市出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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チェンバロ
チェンバロ(独: Cembalo, 伊: clavicembalo)は、弦をプレクトラムで弾いて発音する鍵盤楽器である。英語ではハープシコード (harpsichord)、フランス語ではクラヴサン (clavecin) という。 狭義にはグランド・ピアノのような翼形の楽器を指すが、広義には同様の発音機構を持つヴァージナルやスピネット等を含めた撥弦鍵盤楽器を広く指す。 チェンバロはルネサンス音楽やバロック音楽で広く使用されたが、18世紀後半からピアノの興隆と共に徐々に音楽演奏の場から姿を消した。しかし20世紀には古楽の歴史考証的な演奏のために復興され、現代音楽やポピュラー音楽でも用いられている。 撥弦鍵盤楽器の大きさや外形は多様であるが、発音機構の基本は共通している。 鍵を押し下げると、鍵の他端に立てられているジャックと呼ばれる板状の棒が持ち上がり、ジャックの側面に装着されたプレクトラムが弦を下から上に弾いて音を出す。 鍵から手を放すとジャックが下がる。このときプレクトラムは回転するタングに取り付けられているため弦を回り込んで下に戻る。ジャックが元の位置に戻るとジャック上部のダンパーによって弦の振動が止められる。 以下では上記の基本原理をより詳細に説明する。 鍵(1)は単純な梃子で、鍵にあけられた穴に差し込まれたバランスピン(24)を支点として動く。 ジャック(17)は、木製の平たく細長い棒で、鍵の端に垂直に立てられ、上下のジャックガイド(7・22、レジスターとも)で支えられている。ジャックガイドは、スパイン(左側の長い側板)側からチーク(鍵盤右の短いまっすぐな側板部分)側まで走るギャップの中に設置される、ほぞ穴のある細長い2枚の板で、このほぞ穴の中をジャックが上下に動く。アッパー・ガイドはしばしば可動である(#レジスターを参照)。 イタリアのチェンバロでは、ボックス・スライドと呼ばれる厚みのある単一のジャックガイドが用いられる。 ジャックにはタング(図2-3)という木製の可動の部品が取り付けられており、タングにはプレクトラム(図2-4)が取り付けられる。タングはプレクトラムに上から力がかかる場合は動かないが、下から力がかかる場合は回転してプレクトラムをそらすように動作する。これによってプレクトラムが下から上に弦を弾いた後、上から下へは弦を弾かずに戻ることができる。タングはイノシシの毛や薄い真鍮板などで作られたバネによって保持されており、動いた後はバネの弾力により元の位置に戻る。 プレクトラムは通常ごく僅かに上方向に角度をつけて取り付けられ、弦の下ぎりぎりの位置に設置される。歴史的にはプレクトラムはワタリガラス (raven) などの鳥の羽軸で作られていたが、現代では保守が容易なデルリン製のプレクトラムを用いる場合も多い。 プレクトラムが弾く弦の箇所(プラッキング・ポイント)は音質を決定する重要な要素であり、ナット(図1-5、手前側にあるブリッジと共に弦の振動長を決定する構造)からの距離で示される。ナットに近い位置で弦を弾くと倍音が強調され、「鼻にかかった」音色となる。一般にプラッキング・ポイントの距離は低音域に向かって漸増するが、弦の振動長(ナット-ブリッジ間距離)に対する比率は減少する。 ジャックの上部にはフェルト製のダンパーが付けられており、ジャックが持ち上がっていないときにはダンパーが弦の上に乗り消音するようになっている。 (A) 操作されていない状態のジャック。ジャックの一番上にはフェルト製のダンパー(図3-3)が突き出ており、鍵が押されていないときには弦の振動を止めている。 (B) 鍵を押すことでジャックが上がり始めた状態。ジャックが上昇するにつれ弦に押し当てられたプレクトラムは徐々にたわんでいく。 (C) プレクトラムは湾曲の限界点を超えて、弦を弾き、振動を起こす(音の発生)。ジャックの垂直に跳ね上がる動きはジャックレール(図3-1)によって止められる。ジャックレールの内側はジャックの衝撃を和らげるために柔らかいフェルト(図3-2)がつけられている。 (D) 鍵から手を離すと、鍵のもう一方の端は自重で元の位置に戻り、それに従ってジャックも下に降りる。この際プレクトラムは再び弦に接触するが、タング(図3-6)の働きによって、ほとんど音を生じさせることなく弦の下に戻る。ジャックが元の位置まで降りるとダンパーが弦の上に乗り消音する。 弦の素材には真鍮、鉄、丹銅などが使われる。一般にスケールの短いタイプの楽器では全域で真鍮弦が用いられるが、長いスケールの楽器では高音域に鉄弦を用い、低音域に真鍮弦、さらに最低音域では丹銅弦が用いられる。 弦の一端(鍵盤から遠い側)は小さな輪を作りねじって止めたものを、ヒッチピン(図1-10)にかける。ヒッチピンはライナー(11)に打ち込まれている。もう一方はチューニングピン(図1-4)に巻き取り、適切な音高となるように調整する。チューニングピンは堅い木で作られたレストプランク(ピンブロックとも、図1-23)にねじ込まれている。近代的なピアノのような金属フレームを持たないチェンバロは、湿度の変化に弱く、調律が変動しやすいため、演奏者は演奏のみならず、自ら調律する技術も要求される。 弦はブリッジ(図1-9)を介して響板(サウンドボードとも、図1-14)を振動させる。響板とケースの構造体は、弦の振動を効率良く空気の振動へ変換し、音量を拡大する。 響板は一般的にトウヒやモミあるいはイトスギなどの針葉樹の木材の2~4mm程度の薄い板である。 イタリアのチェンバロの響板は、裏側全体がリブで補強されている物が多くあるが、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロの響板は、リブがあるのは低音側手前の領域のみで、ブリッジの下にはリブを持たない。 通常、響板の低音側の手前の部分には、リュートやギターのように穴が開けられ、木や羊皮紙、または金属の装飾が嵌め込まれる、これをローズと呼ぶ。 イタリアのチェンバロのケースは、底板を基礎とした構造で側板は薄い。製作は底板に次々に部品を取り付けていく方法で行われる。まず底板が用意され、その上に縁に沿って側板やライナーを支えるための三角形の板(ニー)が数枚立てた形で取り付けられる。数本の補強材(ボトム・ブレース)とローワー・ベリーレールが底板を横切って取り付けられ、アッパー・ベリーレールがローワー・ベリーレールの上に取り付けられる。ニーの上部にライナーが取り付けられ、ベントサイド側のライナーは、さらに底板にかけて斜めに補強材(アッパー・ブレース)が数本取り付けられる。そうしてできた骨格の周囲に側板が貼られる。 これに対し、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロでは、厚い側板の枠組みがケースの構造の基礎となっている。まず側板とレストプランク、ベリーレール、ブレースを組んで外枠が作られ、響板を取り付けた後、最後に底板が取り付けられる。 以下の画像の楽器は18世紀フランス様式のものであり、後者に属する。 チェンバロの音量は打鍵の強弱には殆ど依存しない。しかしチェンバロは音量、音色を段階的に切り替える仕組みを備えているものが多い。音色の選択機構および音色単位そのものを、オルガンの用語と同様に、レジスター、もしくはストップと呼ぶ。 音量の増加と音色の変化を得る方法として、複数の弦列を備えて、それらを共に鳴らすことが挙げられる。ピッチの異なる弦列を共に鳴らすことも行われる。 8フィート弦は通常のピッチの弦であり、これに対して4フィート弦はオクターヴ高く調律される。同様に、稀に用いられる16フィート弦はオクターヴ低く、2フィート弦は2オクターヴ高く鳴る。なお、これらの「フィート」という用語はオルガンの用語から来ており、実際の弦の長さとは関係ない。異なるピッチの音を共に鳴らすことで音色の変化を得るという方法はオルガンと共通のものである。 複数の弦列を共に用いる場合、プレクトラムが同時に弦を弾くようになっていると、タッチが重くなり演奏に支障を生じる。そのため各弦列の間で発音に僅かな時差が生じるように調節される、これをスタガリングと呼ぶ。またスタガリングにより、鍵盤を押す速さによって発音の集中の度合いが変化するため、タッチによる表現がより豊かになる。 音色の違いは、プラッキング・ポイントの違いによっても得られる。ナットに近い位置で弾くほど、倍音が強調され、鼻にかかった、明るく細い音になる。同じピッチでプラッキング・ポイントの異なるレジスターを持つ場合、相対的にナットに近いところを弾くものを「フロント」と呼び、ナットから遠いところを弾くものを「バック」と呼ぶ。特にナットに近い位置を弾くレジスターとしてナザールがある。 その他、弦のナット近くに革やフェルトを接触させて振動を抑えることでピッツィカート的な音にするバフ・ストップ、プレクトラムに揉み革を用いて柔らかい音を出すポー・ド・ビュフル などがある。 レジスターの選択は、上のジャックガイドを少し横に動かし、プレクトラムが弦に触らないようにして、「除音」の状態にすることで実現される。バフ・ストップの場合は、革やフェルトの小片の並んだレールを横に動かして接触を切り替える。 レジスターの操作は、一般に直接あるいはレバーを介してジャックガイドを手で動かして行うため、レジスターを切り替えるためには鍵盤から手を移動させなければならないが、18世紀後期には膝レバーやペダルでレジスターを操作する機構を持つ楽器も作られた。 楽器に複数の鍵盤を備えることで、鍵盤ごとに異なる音量、音色を持たせ、それらを対比して用いる演奏が可能となる。 複数の鍵盤を持つ場合、上下鍵盤のレジスターを結合する機構を備えることが一般的である。これには主に2種類あり、一つは、引き出し型カプラーで、上鍵盤が前後にスライドするようになっている。上鍵盤を奥に入れることによって、下の段の鍵盤に取り付けられた垂直方向のクサビ状の突起が上の段の鍵盤の端の下に入る。この状態で下段鍵盤を操作すると同時に対応する上段鍵盤が連動する(逆に上段を操作しても下段鍵盤は連動しない)。鍵盤とカプラーの位置の選択によって、奏者は図5におけるジャックA、BとC、および3つ全てという選択肢を得る。 もう一つは、ドッグレッグ・ジャック(英:dogleg jack)と呼ばれるもので、上鍵盤は「犬の足」(ドッグレッグ)型のジャック(図6-A)のくぼみにもぐりこんでおり、下鍵盤を操作しても上鍵盤を操作してもジャックAは動く。カプラー式のように下鍵盤からジャックAを使用する際に上鍵盤を介する必要がないが、ジャックAの使用を上鍵盤に限定することは出来ない。 これらの機構により、下鍵盤の強音と上鍵盤の弱音の対比を効果的に行うことができる。 ルッカース一族の楽器にみられる二段鍵盤は、上述のような対比型二段鍵盤とは異なり、上下鍵盤が四度ずれた配置で同一の弦を弾くもので、移調に使われたと考えられている。 イタリアやフランドルのチェンバロの鍵盤は、現代のピアノと同じくナチュラル・キーが白ないし明るい木材の色でシャープ・キーが黒いが、フランスでは逆にナチュラル・キーが黒くシャープ・キーが白い鍵盤が好まれた。ドイツのチェンバロやモダン・チェンバロにも白黒の逆転した配色の鍵盤が見られる。 チェンバロの鍵盤は一般に現代のピアノの鍵盤よりも奥行きが短い。これは当時の親指をくぐらせない運指に関係している。鍵の横幅はイタリアやフランドルのチェンバロでは3オクターヴで約500mm程度で現代のピアノに近いが、フランスのチェンバロの鍵は横幅が狭く、18世紀フランスの典型例は3オクターヴで約477mmである。 16世紀のイタリアのチェンバロはC/E-f3かC/E-c3(ショート・オクターヴを参照)の音域のものが一般的で、前者のほうが優勢であった。その後17世紀には逆にC/E-c3が主流となる。これはC/E-f3の最高音域は元々通常の演奏には要求されず、演奏に変化を与えるために用いていたものが、後にその演奏習慣が廃れたためと考えられる。17世紀半ばから最低音がGGのものが普及し、18世紀には再び最高音がf3に達して、FF,GG,AA-f3やGG,AA-f3のものが見られるようになった。しかしながらC/E-c3のものも依然として製作された。エンハーモニック鍵盤と呼ばれる、異名同音を弾き分けるための分割されたシャープ・キーを持つチェンバロは、特に16世紀から17世紀初期のイタリアで多く作られた。 ルッカースの一段鍵盤のチェンバロの音域は殆どがC/E-c3であるが、ショート・オクターヴではない半音階の低音を持つものもわずかながら製作された。二段鍵盤の楽器は一般に下鍵盤にC/E-f3、上鍵盤にC/E-c3の鍵盤を有し、両鍵盤は最高音で揃えられて同一の弦を共有している。したがって上鍵盤に対して下鍵盤のピッチは四度低い。より音域の広い、下鍵盤がGG-c3、上鍵盤がF-f3で、同様に両鍵盤を最高音で揃えた二段鍵盤の楽器も作られた。この場合は逆に下鍵盤に対し上鍵盤のピッチが四度低い。 17世紀のフランスのチェンバロの音域はGG/BB-c3が一般的である。ショート・オクターヴによって欠ける変化音のために、最低音域の鍵のいくつかを前後に分割したものもある。 18世紀の前半にはGG-e3やFF-e3が普及し、1760年頃から18世紀末のチェンバロの衰退に至るまでFF-f3(61鍵)がフランスのチェンバロの標準となった。後期の楽器の中には、おそらく視覚的なバランスを取るためにさらにEEを加えたものもある。 18世紀のイギリスのカークマンとシュディのチェンバロの音域はFF,GG-f3が一般的であり、おそらく視覚的に左右対称にするためにFF#を欠いている。1780年頃以降は通常通りFF#が含まれるようになった。カークマンの5オクターヴより広い音域の楽器は、1772年のFF-c4の二段鍵盤の楽器1台のみが知られるが、シュディはCC-f3の楽器を定期的に製作し、 1765年から1782年までの日付を持つ12台が現存している。 ヴァージナル、スピネットなども、チェンバロと同様の発音原理による鍵盤楽器である。ただし、チェンバロ、ヴァージナル、スピネットといった名称は、歴史的には曖昧に用いられており、厳密に区別することは難しい。 ヴァージナル(英: virginal [virginals], 独: Virginal)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が楽器の長辺および鍵盤と平行に張られているものを指す 。 特に長方形の楽器を指すこともある。一般に弦は一組のみで、手前に低音、奥に高音の弦が張られる。そのため鍵の全長は低音で短く、高音で長い。 ヴァージナルという語は1460年頃のプラハのパウルス・パウリリヌスによる記述に最初に見られる。語源に関しては様々な説があるが確かなことはわからない。 ヴァージナルという語の指し示す範囲はしばしば曖昧である。エリザベス朝の頃のイギリスでは virginal という語は撥弦鍵盤楽器全般を指していた。イタリアの多角形のヴァージナルはスピネットと呼ぶことが多い。イタリア語には本来ヴァージナルという語は存在せず、spinetta や arpicordo と呼ばれていた。 イタリアのヴァージナル(あるいはスピネット)は、長方形、あるいは多角形のケースで、突き出た形の鍵盤を持つものが多い。 フランドルのヴァージナルは、鍵盤が本体の左側に位置するスピネット型と、右側に位置するミュゼラー型(muselar, muselaar)に分けられる。どちらも一般に長方形で鍵盤が窪んだ場所に位置し本体から突き出ない。 イタリアのヴァージナルやフランドルのスピネット型のヴァージナルでは弦を弾く位置が通常のチェンバロに近いが、ミュゼラーでは全域で弦の中央に近い所で弾かれる。このことにより、基音が強く倍音の弱い、独特の太くて暖かい音質を持つ。しばしば倍音を補うためにアルピコルドゥムという金属片によってざわざわした音を付加する装置がテノールからバスの音域に付けられる。ミュゼラーでは中低音域のアクションは楽器の響板の真ん中に置かれるため、この音域を弾くときの打鍵音が増幅される問題がある。加えて、弦の中央付近で弾くために、まだ響いている弦の動きがプレクトラムが再度弦に触れることを難しくしてしまい、低音部の連打が難しい。このようなことから、ミュゼラーは複雑な左手のパートを持たない、旋律と和声の組合わせのような曲に向いているとされる。ミュゼラーは16、17世紀には人気があったが、18世紀にはあまり使われなくなった。18世紀のある評論家は、ミュゼラーは「低音部では若い豚のようにブーブー言う」と評している (Van Blankenberg, 1739)。 フランドルでは大小2台のヴァージナルを組み合わせたダブル・ヴァージナルも作られた。 スピネット(英: spinet, 仏: épinette, 独: Spinett, 伊: spinetta, 西: espineta)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が鍵盤に対して斜めに張られているものを指す 。一般に弦は一組のみで鍵盤も一段のみである。典型的にはおおよそ三角形の形状で右側板が湾曲している「ベントサイド・スピネット」を指す。ベントサイド・スピネットは特に18世紀のイギリスでヴァージナルに代わる家庭用鍵盤楽器として普及した。 ヴァージナルと同じくスピネットという語の指し示す範囲もしばしば曖昧である。イタリアでは小型の撥弦鍵盤楽器全般を指して spinetta という語が使われた。フランスでは épinette という語はイギリスにおける virginal と同様に撥弦鍵盤楽器全般に対して用いられた。 クラヴィツィテリウム (clavicytherium) は響板と弦が垂直に、奏者の顔の前にくるように立てられた楽器である。同様の省スペース原理は、後のアップライトピアノでも用いられることとなった。興味深いことに、現存最古のチェンバロはクラヴィツィテリウムである。クラヴィツィテリウムはチェンバロの主流とはならなかったが、その後も散発的に製作され続けており、18世紀にはフランドルのアルベルトゥス・ドゥランによって優れたクラヴィツィテリウムが製作されている。 4フィート弦のみを持つ、1オクターヴ高いピッチの小型の楽器もあり、オッタヴィーノ (ottavino) と呼ばれる。 クラヴィオルガヌム (claviorganum) はチェンバロやヴァージナルをオルガンと組み合わせ、両方の音を同時に鳴らすことのできる複合楽器であり、ヨーロッパ各地で製作された。 1397年のパドヴァの法律家による、ヘルマン・ポールという人物がクラヴィチェンバルムと呼ばれる楽器を発明したと主張している、という記述がチェンバロについての最古の記述である。 1425年のドイツのミンデンの大聖堂の祭壇の彫刻にはチェンバロとこれを奏する人が確認できる。 1440年頃にはアンリ・アルノー・ド・ズヴォレがチェンバロとその発音機構の詳細な図面を残している。 現存する最古のチェンバロは、1480年頃おそらくドイツのウルムで作られたクラヴィツィテリウムで、ロンドンの王立音楽大学に保存されている。 製作者名と製作年代の分かる最古のチェンバロは、1515年から1516年にフィレンツェのヴィンチェンティウスによって作られたものであり、次に1521年のボローニャのヒエロニムスによるものが続く。イタリアのチェンバロの側板は薄く、ケースの外形は細長い。イタリアでは多少の変化がありながらも、18世紀末まで独自の様式のチェンバロ製作の伝統が維持された。1700年頃イタリアのバルトロメオ・クリストフォリがピアノを発明したが、ピアノは当時のイタリアでは大きな影響を与えることがなかった。 アルプスから北では1537年にライプツィヒのミュラーによる作例が存在する。薄い側板のケースはイタリアの楽器と同様であるが、ずんぐりとした外形や、ボックス・スライドではない2枚構成のジャックガイドはイタリアの楽器に見られない特徴である。 このような北ヨーロッパの初期のチェンバロは、かつてはイタリアの楽器から派生したものと考えられたが、現在はむしろイタリアのチェンバロ製作の伝統が北ヨーロッパに起源を持つ可能性が高いと考えられている。 フランドルでは16世紀末から17世紀前半にかけてアントウェルペンのルッカース一族がチェンバロの製作において成功を収めた。ルッカースのチェンバロはイタリアのものより厚い側板が用いられている。 ルッカースの楽器は高く評価され、後にしばしば改造を施されながらも各地で使われ続けた。そして他の地域のチェンバロ製作にも大きな影響を与えた。 ルッカースのチェンバロが各地に輸出される一方で、北ヨーロッパの他の地域ではルッカース以前からの北ヨーロッパの在来の様式によるチェンバロが製作されていたが、 その後、18世紀のフランスでは、ルッカースに倣ったチェンバロが作られるようになり、18世紀フランス様式のチェンバロはフランドル様式の構造を受け継ぎながら、より広い音域と優美な音色を持つことになった。有名な製作者としてはブランシェ一族やパスカル・タスカンなどが挙げられる。 18世紀のイギリスでもカークマンやシュディの工房においてルッカースの影響を受けたチェンバロが製作された。カークマンとシュディのチェンバロの音はフランスの楽器に比べ繊細さに欠けるが華麗で力強い。 チェンバロは18世紀後半から、より強弱表現に長けるピアノに徐々に人気を奪われ、19世紀中は殆ど演奏されることがなくなり、楽器製作の伝統も途絶えた。 19世紀末から古楽演奏のためにチェンバロが復興され、当時のピアノ製作の技術を応用してチェンバロの改良が試みられた。このような楽器は現在ではモダン・チェンバロと呼ばれ、伝統的な製法のチェンバロとは区別される。 1860年代半ばにフランスのピアニスト、ルイ・ディエメがリサイタルにチェンバロの演奏を取り入れた。彼は1769年製のパスカル・タスカンのチェンバロを主に用いた。 1882年にこの楽器は修復され、その後パリのエラール社が借り受けて研究した。 プレイエル社もタスカンの楽器を研究し、両社とも1889年のパリ万国博覧会にチェンバロを出品した。 ドイツでは通称「バッハ・チェンバロ」と呼ばれる楽器 がチェンバロ復興の参考にされた。この楽器の、下鍵盤に16′と8′、上鍵盤に8′と4′という歴史的なチェンバロでは特殊なレジスター構成が理想的なものとされ、モダン・チェンバロに大きな影響を与えた。 1899年にベルリンのヴィルヘルム・ヒールによってこの楽器に基づいたチェンバロが製作されている。 1912年にワンダ・ランドフスカの構想によりプレイエル社が近代的なコンサートホールでの演奏に向けた新型のチェンバロを開発した。 この楽器は、鉄製のフレームを持ち、太い弦が高い張力で張られ、響板の補強法はグランド・ピアノとほぼ同じで、ケースも頑丈に作られていた。下鍵盤に16′、8′、4′、上鍵盤に8′の構成で、レジスターは7本のペダルで操作された。プレイエル社の楽器はドイツのチェンバロ製作にも影響を及ぼし、幾つかのメーカーはプレイエル型のレジスター構成や鉄製フレームを採用した。 1930年ごろからドイツのチェンバロ製作は再び「バッハ」型のレジスター構成に戻り、鉄製フレームは用いられなくなったが、依然としてそれは歴史的な楽器とは大きく異なるものであった。 ノイペルト、ヴィトマイヤー、シュペアハーケ、アンマー、ザスマンなどのメーカーにより製造されたモダン・チェンバロは世界各地に輸出され、演奏家や聴衆の一般的なチェンバロのイメージとなった 一方で20世紀半ば頃からフランク・ハバード、ウィリアム・ダウド、マルティン・スコヴロネックなどの製作家により歴史的なチェンバロの研究がなされ、伝統的製法の再現が試みられた。彼らの作る楽器は高い人気を博し、他の多くの製作家たちも歴史考証的な楽器の製作に転じた。現在では歴史考証的な楽器が主流となり、ルネサンス・バロック期の音楽を演奏する際に、モダン・チェンバロを用いることは殆ど無い。一方、モダン・チェンバロを前提とした音楽作品、例えば、フランシス・プーランクの「クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール」などはモダン・チェンバロで演奏するのが妥当とされる。 イタリアのチェンバロは、底板を基礎として支持材を組み、約4~6mm程度の薄い側板を貼り合わせた構造をとっている。ケースの素材には主にイトスギ材が用いられた。一般にこの薄手の本体は、より頑丈なアウターケースに収納された。後に単一の厚手のケースを持つ楽器も現れたが、外見上は従来通りアウターケースの中にインナーケースが納められているかのように装飾がほどこされた。これを「フォルス・インナー・アウター」(偽インナー・アウター)と呼ぶ。 弦長は全音域の5/6程度までオクターヴごとに倍になる自然な比率に従っている。そのためベントサイドは深く窪み、外形は細長い。鍵盤は一段鍵盤が一般的である。弦列は16世紀には1×8′または1×8′、1×4′の構成が一般的であったが、17世紀以降は2×8′が主流となった。これは通奏低音の演奏に適応したものと考えられる。16世紀の楽器や文献は、高音域で鉄弦が使用されたことを示唆しているが、17世紀以降は全域で真鍮弦を使用することが一般的となった。ジャックガイドは上下2枚構成ではなく、ボックス・スライドと呼ばれる単一の厚みのあるものが用いられる。レストプランクの幅は高音域で狭く、ジャックの列は斜めに並ぶ。響板の裏側は、数本のリブがブリッジの下を横切って取り付けられることが多い。イタリアのチェンバロの音質は、減衰が早く、歯切れの良い音が特徴である。 フランドルのチェンバロ製作では、アントウェルペンのルッカース一族が重要な役割を果たした。ルッカース一族の工房は、ハンス・ルッカースが1579年にアントウェルペンの聖ルカのギルドに加入してから、約1世紀に渡ってアントウェルペンのチェンバロ製作を支配した。 ルッカースのチェンバロは、厚い側板を上下の内部補強材によって連結した枠組が構造の基礎となっており、底板は後から取り付けられた。ケースの素材にはポプラ材が用いられ、側板は約14mm程度の厚さを持っている。高音域の弦長が長めで、低音域の弦長は抑えられており、イタリアのチェンバロよりもずんぐりとした外形をしている。高音域は鉄弦、低音域は真鍮弦が使われた。標準的な弦列構成は1×8′、1×4′で、8′にはバフ・ストップを備える。音域は通常ショート・オクターヴのC/Eからc3までの4オクターヴである。プラッキング・ポイントはナットに近く、一段鍵盤のルッカースのチェンバロの8′のプラッキング・ポイントは、ほぼ18世紀フランスのチェンバロのフロント8′に相当する。ブリッジはイタリアの楽器のものよりも大きく、響板のブリッジの下にはリブを持たない。8′のブリッジと4′のブリッジの間の響板の裏側には4′のヒッチピンにかかる張力に耐えるための補強として4′ヒッチピン・レールがある。4′のブリッジの手前の裏側には斜めにカットオフ・バーと呼ばれる細長い棒が取り付けられ、カットオフ・バーによって区切られた三角形の領域がリブで補強されている。ルッカースのチェンバロの音質は、イタリアのものとは明らかに異なり、響きが長く持続する。 ルッカースは二段鍵盤のチェンバロも製作したが、これは上下で四度ずれた配置の鍵盤で同一の弦を弾くものであり、四度の移調を容易にするためのものであったと考えられている。通常C/E-f3の下鍵盤がC/E-c3の上鍵盤と最高音で揃えられており、下鍵盤では上鍵盤より四度低い音が鳴る。また下鍵盤のプラッキング・ポイントは上鍵盤よりナットから遠い。 ルッカースのチェンバロは規格化された幾つかのサイズで製作され、装飾も規格化されている。外装は大理石を模した柄や鉄帯模様が描かれ、内装は文様を印刷した紙が貼られた。響板およびレストプランク表面は、花や果物、鳥、昆虫、エビなどがテンペラ画によって描かれた。このような響板装飾はイタリアの楽器には見られない特徴である。ローズは鉛と錫の合金で鋳造され金箔が貼られた。ローズの意匠はハープを弾く天使で、製作者のイニシャルが左右に配される。蓋の内側は文様紙が貼られ、ラテン語の格言が書かれるのが標準的だが、高級なものは画家により絵画が描かれた。 ルッカースのチェンバロは合理的な製法により量産され、近隣諸国に大量に輸出されたが、後に時代の要請に従って多くのルッカースのチェンバロは改造され、現存する楽器でオリジナルの状態にあるものは極めて少ない。音域の拡大、弦の増設、一段鍵盤や移調二段鍵盤の楽器の対比二段鍵盤化などが行われ、時には響板及びケースを拡張する大規模な改造も行われた。このような改造はフランス語でラヴァルマン ravalement と呼ばれる。改造が盛んに行われた背景にはルッカースの楽器が高額で取引されたことがある。改造されたルッカースの楽器は他の新しい楽器の数倍の値段で取引されたため、ルッカースの改造楽器を装った贋作も作られた。 18世紀のフランドルの有力なチェンバロ製作者としてはドゥルケン一族が知られている。ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの製作した楽器は少なくとも8台が知られている。彼の楽器の多くは5オクターヴの音域で、2×8′、1×4′の弦列を備える。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、しばしば上鍵盤にナザールのレジスターを備えている。 ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1745年の楽器をモデルとして、現代の製作家マルティン・スコヴロネックが1962年に製作したチェンバロは、グスタフ・レオンハルトが多くの録音に使用したことで有名である。 17世紀のフランスのチェンバロの構造はイタリアとフランドルの中間的な特徴を示し、音質的にも両者の中間に位置する。この様な特徴を持つチェンバロは北ヨーロッパの広い地域で製作されていた。 フランスでは、17世紀半ばから2組の8′弦を独立して演奏できるカプラー式二段鍵盤のチェンバロが発達していた。フランスに典型的な技法である右手と左手で同じ音域を重ねて弾くピエス・クロワゼはこれによって可能となる。17世紀には下鍵盤をスライドさせる形式のカプラーが用いられていたが、18世紀になるまでには上鍵盤をスライドさせるようになった。 18世紀のフランスのチェンバロはルッカースに大きく影響を受けている。フランスの製作家たちはルッカースの楽器の改造を通じてその設計を学んだものと考えられる。標準的な18世紀フランスのチェンバロの構造はルッカースの設計を踏襲しつつ、より大型化したものであり、カプラー式二段鍵盤を備え、上鍵盤が1×8′、下鍵盤が1×8′、1×4′で、音域は5オクターヴに達する。このような18世紀フランス様式のチェンバロは、現代のチェンバロ製作のモデルの主流となっている。 ドイツでは古くからチェンバロの存在が確認できるが、17世紀までのドイツで製作されたチェンバロは僅かな数しか現存していない。18世紀のチェンバロもイタリア、フランス、イギリスなどに比べると現存するものは少ない。18世紀ドイツのチェンバロ製作には幾つかの流派が存在したが、その中でハンブルクの楽器が比較的多く現存している。ハンブルクで活躍したチェンバロ製作者としてはフライシャー一族とハス一族が有名である。ハンブルクのチェンバロの構造は、フランドルの楽器の様に底板の上面に側板が接合されているが、アッパー・ブレースは無く、底板からライナーまでの深さがあるブレースがベントサイドからスパインにかけて横切っている。外見はS字型のベントサイドが特徴的である。ハス一族のチェンバロには16′や2′のレジスターを備えたものも現存している。 ベルリンのミヒャエル・ミートケのチェンバロは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがケーテン宮廷で使用したチェンバロがミートケのものであることから、現代のチェンバロ製作のモデル楽器として人気が高い。 16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、多くのチェンバロのための楽曲が生み出されたが、現存する当時のイギリス製の楽器は少ない。現在知られるイギリスのチェンバロは主に18世紀以降のもので、ジェイコブ・カークマンと、バーカット・シュディの2人の製作家が有名である。彼らの楽器はルッカースの流れをくむ設計で、華麗で力強い音質が特徴であるが、現代のチェンバロ製作のモデルとしてはあまり用いられていない。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、上鍵盤にナザールのレジスターを備える。18世紀後半には音量を変化させる仕組みとして、マシン・ストップと呼ばれるペダルによってレジスターを操作する機構や、オルガンのようなスウェル・シャッター(よろい戸)をペダルで開閉する機構を持つチェンバロも作られた。 20世紀初頭のチェンバロ復興と共に、チェンバロを近代化するべく様々な改良を試みた重構造のチェンバロが製作されるようになった。現在ではこのようなチェンバロは、歴史的なチェンバロや、それらに準じて製作されたチェンバロとは区別して、モダン・チェンバロと呼ばれる。モダン・チェンバロは20世紀半ば過ぎまでチェンバロの主流であったが、歴史的なチェンバロが見直されるようになったため、現在では用いられることは少ない。 一般にモダン・チェンバロは、近代的なピアノのように底が開放された構造をとっている。ケースや響板は厚く頑丈に作られており、中には金属製のフレームを用いるものもある。プレクトラムには主に革が用いられ、ジャックには調整用のネジが備えられている。レジスターはペダルにより操作され、演奏中に自在に切り替えることが可能である。また歴史的なチェンバロでは稀な16′の弦列を備えているものが多い。 初期の鍵盤楽器音楽は楽器の指定が無いことが普通で、チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどで演奏される。現存する最古の鍵盤楽器音楽とされるのは、14世紀のロバーツブリッジ写本(英語: Robertsbridge_Codex)である。 ルネサンス時代には、イベリア半島でアントニオ・デ・カベソンをはじめとする作曲家により、ティエントやディフェレンシアスなどの鍵盤楽器音楽が栄えた。ディエゴ・オルティスは『変奏論』 Trattado de Glossas (1553) でヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロの合奏について述べている。イギリスではウィリアム・バードやジョン・ブルなどの作曲家達により多くのチェンバロ曲が書かれ、『フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック』などの手稿で残されている。 バロック時代には、イタリアで劇的な感情の表出を重視したモノディ様式が生まれ、チェンバロは通奏低音のための楽器として重要な役割を担った。鍵盤楽器音楽においても劇的な表現が追求され、ジローラモ・フレスコバルディは、『トッカータ集 第1巻』 (1615) の序文において、厳格な拍子にとらわれない、情感に応じた自由な演奏を要求している。 18世紀にはナポリ出身のドメニコ・スカルラッティが、ポルトガル王女のバルバラ・デ・ブラガンサに音楽教師として仕え、555のソナタとして知られる個性的なチェンバロ曲を残している。 一方、ルイ14世時代のフランスではジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエールやルイ・クープランをはじめとする作曲家によって、リュート音楽の延長上にチェンバロ(クラヴサン)音楽が栄え、スティル・ブリゼと呼ばれる分散奏法や、繊細な装飾音を多用した、優美な作品が多く生み出された。中心となるのはアルマンドやクーラントといった舞曲であり、これらを組み合わせた組曲はバロック時代のチェンバロ音楽を代表するジャンルの一つとなった。 フランスのクラヴサン音楽は18世紀前半、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーらの時代に繁栄の頂点に達する。彼らの作品においては、古典的な舞曲に代わって、描写的な標題を持つ作品が主体となっていった。その後、ジャック・デュフリやクロード=ベニーニュ・バルバトルらを輩出するものの、フランス革命の勃発により打撃を受けて、フランスのクラヴサン音楽は終焉を迎える。 ドイツのチェンバロ音楽は、イタリアとフランス双方の影響を受け、さらに北ドイツ・オルガン楽派の伝統が加わる。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品には、それらの様式の高度な総合が見られる。バッハの息子や弟子の時代にはクラヴィコードが流行し、さらにピアノがそれに取って代わっていった。 通奏低音にチェンバロを用いることはオペラにおいては19世紀まで残存したが、19世紀を通じて、チェンバロは実質的にピアノに地位を奪われていた。しかし20世紀に入って、古楽復興運動により、再びチェンバロが演奏されるようになると、さまざまな音色を求めるなかで、チェンバロに目を向ける作曲家も登場した。アーノルド・ドルメッチの影響の下、ヴァイオレット・ゴードン=ウッドハウス(1872-1951)、およびフランスではワンダ・ランドフスカがチェンバロ再興の最前線で演奏を行った。 チェンバロ協奏曲がプーランク、ファリャ、ベルトルト・フンメル、グレツキ、グラス、ロベルト・カルネヴァーレなどによって作曲され、マルティヌーはチェンバロのために協奏曲とソナタを作曲し、カーターの二重協奏曲はチェンバロ、ピアノと2つの室内オーケストラのために書かれている。 室内楽の分野では、リゲティがいくつかの独奏曲(『コンティヌウム』など)を作曲しているほか、デュティユーの "Les Citations" (1991年)はチェンバロ、オーボエ、タブルバスとパーカッションのために書かれている。 その他、ショスタコーヴィチは『ハムレット』(1964年)でチェンバロを用いている。シュニトケはオーケストラ用作品でしばしばチェンバロを用いている。 日本の作曲家が取り組みはじめたのは戦後になってからであり、その数も多いとはいえないが、武満徹の「夢見る雨」(独奏曲)などが生まれている。 チェンバロ奏者でもあるヘンドリク・ボウマンは17世紀、18世紀の様式に基づいたチェンバロ独奏曲、チェンバロ協奏曲などを作曲している。 現代では、チェンバロ、もしくはシンセサイザーによる類似の音色がポピュラー音楽でも用いられている。代表的な例としては、ビージーズ、ローリング・ストーンズの「イエスタデイズ・ペイパー」やR.E.M.の "Half a World Away" (アルバム「アウト・オブ・タイム」1991年、収録)、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タンク」があげられる。 また、イージー・リスニングにおいては、ポール・モーリアがチェンバロ(の音色)を好んで用いたことで知られる(「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」が代表的)。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "チェンバロ(独: Cembalo, 伊: clavicembalo)は、弦をプレクトラムで弾いて発音する鍵盤楽器である。英語ではハープシコード (harpsichord)、フランス語ではクラヴサン (clavecin) という。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "狭義にはグランド・ピアノのような翼形の楽器を指すが、広義には同様の発音機構を持つヴァージナルやスピネット等を含めた撥弦鍵盤楽器を広く指す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "チェンバロはルネサンス音楽やバロック音楽で広く使用されたが、18世紀後半からピアノの興隆と共に徐々に音楽演奏の場から姿を消した。しかし20世紀には古楽の歴史考証的な演奏のために復興され、現代音楽やポピュラー音楽でも用いられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "撥弦鍵盤楽器の大きさや外形は多様であるが、発音機構の基本は共通している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "鍵を押し下げると、鍵の他端に立てられているジャックと呼ばれる板状の棒が持ち上がり、ジャックの側面に装着されたプレクトラムが弦を下から上に弾いて音を出す。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "鍵から手を放すとジャックが下がる。このときプレクトラムは回転するタングに取り付けられているため弦を回り込んで下に戻る。ジャックが元の位置に戻るとジャック上部のダンパーによって弦の振動が止められる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "以下では上記の基本原理をより詳細に説明する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "鍵(1)は単純な梃子で、鍵にあけられた穴に差し込まれたバランスピン(24)を支点として動く。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ジャック(17)は、木製の平たく細長い棒で、鍵の端に垂直に立てられ、上下のジャックガイド(7・22、レジスターとも)で支えられている。ジャックガイドは、スパイン(左側の長い側板)側からチーク(鍵盤右の短いまっすぐな側板部分)側まで走るギャップの中に設置される、ほぞ穴のある細長い2枚の板で、このほぞ穴の中をジャックが上下に動く。アッパー・ガイドはしばしば可動である(#レジスターを参照)。 イタリアのチェンバロでは、ボックス・スライドと呼ばれる厚みのある単一のジャックガイドが用いられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ジャックにはタング(図2-3)という木製の可動の部品が取り付けられており、タングにはプレクトラム(図2-4)が取り付けられる。タングはプレクトラムに上から力がかかる場合は動かないが、下から力がかかる場合は回転してプレクトラムをそらすように動作する。これによってプレクトラムが下から上に弦を弾いた後、上から下へは弦を弾かずに戻ることができる。タングはイノシシの毛や薄い真鍮板などで作られたバネによって保持されており、動いた後はバネの弾力により元の位置に戻る。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "プレクトラムは通常ごく僅かに上方向に角度をつけて取り付けられ、弦の下ぎりぎりの位置に設置される。歴史的にはプレクトラムはワタリガラス (raven) などの鳥の羽軸で作られていたが、現代では保守が容易なデルリン製のプレクトラムを用いる場合も多い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "プレクトラムが弾く弦の箇所(プラッキング・ポイント)は音質を決定する重要な要素であり、ナット(図1-5、手前側にあるブリッジと共に弦の振動長を決定する構造)からの距離で示される。ナットに近い位置で弦を弾くと倍音が強調され、「鼻にかかった」音色となる。一般にプラッキング・ポイントの距離は低音域に向かって漸増するが、弦の振動長(ナット-ブリッジ間距離)に対する比率は減少する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ジャックの上部にはフェルト製のダンパーが付けられており、ジャックが持ち上がっていないときにはダンパーが弦の上に乗り消音するようになっている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "(A) 操作されていない状態のジャック。ジャックの一番上にはフェルト製のダンパー(図3-3)が突き出ており、鍵が押されていないときには弦の振動を止めている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "(B) 鍵を押すことでジャックが上がり始めた状態。ジャックが上昇するにつれ弦に押し当てられたプレクトラムは徐々にたわんでいく。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "(C) プレクトラムは湾曲の限界点を超えて、弦を弾き、振動を起こす(音の発生)。ジャックの垂直に跳ね上がる動きはジャックレール(図3-1)によって止められる。ジャックレールの内側はジャックの衝撃を和らげるために柔らかいフェルト(図3-2)がつけられている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "(D) 鍵から手を離すと、鍵のもう一方の端は自重で元の位置に戻り、それに従ってジャックも下に降りる。この際プレクトラムは再び弦に接触するが、タング(図3-6)の働きによって、ほとんど音を生じさせることなく弦の下に戻る。ジャックが元の位置まで降りるとダンパーが弦の上に乗り消音する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "弦の素材には真鍮、鉄、丹銅などが使われる。一般にスケールの短いタイプの楽器では全域で真鍮弦が用いられるが、長いスケールの楽器では高音域に鉄弦を用い、低音域に真鍮弦、さらに最低音域では丹銅弦が用いられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "弦の一端(鍵盤から遠い側)は小さな輪を作りねじって止めたものを、ヒッチピン(図1-10)にかける。ヒッチピンはライナー(11)に打ち込まれている。もう一方はチューニングピン(図1-4)に巻き取り、適切な音高となるように調整する。チューニングピンは堅い木で作られたレストプランク(ピンブロックとも、図1-23)にねじ込まれている。近代的なピアノのような金属フレームを持たないチェンバロは、湿度の変化に弱く、調律が変動しやすいため、演奏者は演奏のみならず、自ら調律する技術も要求される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "弦はブリッジ(図1-9)を介して響板(サウンドボードとも、図1-14)を振動させる。響板とケースの構造体は、弦の振動を効率良く空気の振動へ変換し、音量を拡大する。 響板は一般的にトウヒやモミあるいはイトスギなどの針葉樹の木材の2~4mm程度の薄い板である。 イタリアのチェンバロの響板は、裏側全体がリブで補強されている物が多くあるが、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロの響板は、リブがあるのは低音側手前の領域のみで、ブリッジの下にはリブを持たない。 通常、響板の低音側の手前の部分には、リュートやギターのように穴が開けられ、木や羊皮紙、または金属の装飾が嵌め込まれる、これをローズと呼ぶ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "イタリアのチェンバロのケースは、底板を基礎とした構造で側板は薄い。製作は底板に次々に部品を取り付けていく方法で行われる。まず底板が用意され、その上に縁に沿って側板やライナーを支えるための三角形の板(ニー)が数枚立てた形で取り付けられる。数本の補強材(ボトム・ブレース)とローワー・ベリーレールが底板を横切って取り付けられ、アッパー・ベリーレールがローワー・ベリーレールの上に取り付けられる。ニーの上部にライナーが取り付けられ、ベントサイド側のライナーは、さらに底板にかけて斜めに補強材(アッパー・ブレース)が数本取り付けられる。そうしてできた骨格の周囲に側板が貼られる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "これに対し、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロでは、厚い側板の枠組みがケースの構造の基礎となっている。まず側板とレストプランク、ベリーレール、ブレースを組んで外枠が作られ、響板を取り付けた後、最後に底板が取り付けられる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以下の画像の楽器は18世紀フランス様式のものであり、後者に属する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "チェンバロの音量は打鍵の強弱には殆ど依存しない。しかしチェンバロは音量、音色を段階的に切り替える仕組みを備えているものが多い。音色の選択機構および音色単位そのものを、オルガンの用語と同様に、レジスター、もしくはストップと呼ぶ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "音量の増加と音色の変化を得る方法として、複数の弦列を備えて、それらを共に鳴らすことが挙げられる。ピッチの異なる弦列を共に鳴らすことも行われる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "8フィート弦は通常のピッチの弦であり、これに対して4フィート弦はオクターヴ高く調律される。同様に、稀に用いられる16フィート弦はオクターヴ低く、2フィート弦は2オクターヴ高く鳴る。なお、これらの「フィート」という用語はオルガンの用語から来ており、実際の弦の長さとは関係ない。異なるピッチの音を共に鳴らすことで音色の変化を得るという方法はオルガンと共通のものである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "複数の弦列を共に用いる場合、プレクトラムが同時に弦を弾くようになっていると、タッチが重くなり演奏に支障を生じる。そのため各弦列の間で発音に僅かな時差が生じるように調節される、これをスタガリングと呼ぶ。またスタガリングにより、鍵盤を押す速さによって発音の集中の度合いが変化するため、タッチによる表現がより豊かになる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "音色の違いは、プラッキング・ポイントの違いによっても得られる。ナットに近い位置で弾くほど、倍音が強調され、鼻にかかった、明るく細い音になる。同じピッチでプラッキング・ポイントの異なるレジスターを持つ場合、相対的にナットに近いところを弾くものを「フロント」と呼び、ナットから遠いところを弾くものを「バック」と呼ぶ。特にナットに近い位置を弾くレジスターとしてナザールがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "その他、弦のナット近くに革やフェルトを接触させて振動を抑えることでピッツィカート的な音にするバフ・ストップ、プレクトラムに揉み革を用いて柔らかい音を出すポー・ド・ビュフル などがある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "レジスターの選択は、上のジャックガイドを少し横に動かし、プレクトラムが弦に触らないようにして、「除音」の状態にすることで実現される。バフ・ストップの場合は、革やフェルトの小片の並んだレールを横に動かして接触を切り替える。 レジスターの操作は、一般に直接あるいはレバーを介してジャックガイドを手で動かして行うため、レジスターを切り替えるためには鍵盤から手を移動させなければならないが、18世紀後期には膝レバーやペダルでレジスターを操作する機構を持つ楽器も作られた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "楽器に複数の鍵盤を備えることで、鍵盤ごとに異なる音量、音色を持たせ、それらを対比して用いる演奏が可能となる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "複数の鍵盤を持つ場合、上下鍵盤のレジスターを結合する機構を備えることが一般的である。これには主に2種類あり、一つは、引き出し型カプラーで、上鍵盤が前後にスライドするようになっている。上鍵盤を奥に入れることによって、下の段の鍵盤に取り付けられた垂直方向のクサビ状の突起が上の段の鍵盤の端の下に入る。この状態で下段鍵盤を操作すると同時に対応する上段鍵盤が連動する(逆に上段を操作しても下段鍵盤は連動しない)。鍵盤とカプラーの位置の選択によって、奏者は図5におけるジャックA、BとC、および3つ全てという選択肢を得る。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "もう一つは、ドッグレッグ・ジャック(英:dogleg jack)と呼ばれるもので、上鍵盤は「犬の足」(ドッグレッグ)型のジャック(図6-A)のくぼみにもぐりこんでおり、下鍵盤を操作しても上鍵盤を操作してもジャックAは動く。カプラー式のように下鍵盤からジャックAを使用する際に上鍵盤を介する必要がないが、ジャックAの使用を上鍵盤に限定することは出来ない。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "これらの機構により、下鍵盤の強音と上鍵盤の弱音の対比を効果的に行うことができる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ルッカース一族の楽器にみられる二段鍵盤は、上述のような対比型二段鍵盤とは異なり、上下鍵盤が四度ずれた配置で同一の弦を弾くもので、移調に使われたと考えられている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "イタリアやフランドルのチェンバロの鍵盤は、現代のピアノと同じくナチュラル・キーが白ないし明るい木材の色でシャープ・キーが黒いが、フランスでは逆にナチュラル・キーが黒くシャープ・キーが白い鍵盤が好まれた。ドイツのチェンバロやモダン・チェンバロにも白黒の逆転した配色の鍵盤が見られる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "チェンバロの鍵盤は一般に現代のピアノの鍵盤よりも奥行きが短い。これは当時の親指をくぐらせない運指に関係している。鍵の横幅はイタリアやフランドルのチェンバロでは3オクターヴで約500mm程度で現代のピアノに近いが、フランスのチェンバロの鍵は横幅が狭く、18世紀フランスの典型例は3オクターヴで約477mmである。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "16世紀のイタリアのチェンバロはC/E-f3かC/E-c3(ショート・オクターヴを参照)の音域のものが一般的で、前者のほうが優勢であった。その後17世紀には逆にC/E-c3が主流となる。これはC/E-f3の最高音域は元々通常の演奏には要求されず、演奏に変化を与えるために用いていたものが、後にその演奏習慣が廃れたためと考えられる。17世紀半ばから最低音がGGのものが普及し、18世紀には再び最高音がf3に達して、FF,GG,AA-f3やGG,AA-f3のものが見られるようになった。しかしながらC/E-c3のものも依然として製作された。エンハーモニック鍵盤と呼ばれる、異名同音を弾き分けるための分割されたシャープ・キーを持つチェンバロは、特に16世紀から17世紀初期のイタリアで多く作られた。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ルッカースの一段鍵盤のチェンバロの音域は殆どがC/E-c3であるが、ショート・オクターヴではない半音階の低音を持つものもわずかながら製作された。二段鍵盤の楽器は一般に下鍵盤にC/E-f3、上鍵盤にC/E-c3の鍵盤を有し、両鍵盤は最高音で揃えられて同一の弦を共有している。したがって上鍵盤に対して下鍵盤のピッチは四度低い。より音域の広い、下鍵盤がGG-c3、上鍵盤がF-f3で、同様に両鍵盤を最高音で揃えた二段鍵盤の楽器も作られた。この場合は逆に下鍵盤に対し上鍵盤のピッチが四度低い。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "17世紀のフランスのチェンバロの音域はGG/BB-c3が一般的である。ショート・オクターヴによって欠ける変化音のために、最低音域の鍵のいくつかを前後に分割したものもある。 18世紀の前半にはGG-e3やFF-e3が普及し、1760年頃から18世紀末のチェンバロの衰退に至るまでFF-f3(61鍵)がフランスのチェンバロの標準となった。後期の楽器の中には、おそらく視覚的なバランスを取るためにさらにEEを加えたものもある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "18世紀のイギリスのカークマンとシュディのチェンバロの音域はFF,GG-f3が一般的であり、おそらく視覚的に左右対称にするためにFF#を欠いている。1780年頃以降は通常通りFF#が含まれるようになった。カークマンの5オクターヴより広い音域の楽器は、1772年のFF-c4の二段鍵盤の楽器1台のみが知られるが、シュディはCC-f3の楽器を定期的に製作し、 1765年から1782年までの日付を持つ12台が現存している。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヴァージナル、スピネットなども、チェンバロと同様の発音原理による鍵盤楽器である。ただし、チェンバロ、ヴァージナル、スピネットといった名称は、歴史的には曖昧に用いられており、厳密に区別することは難しい。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヴァージナル(英: virginal [virginals], 独: Virginal)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が楽器の長辺および鍵盤と平行に張られているものを指す 。 特に長方形の楽器を指すこともある。一般に弦は一組のみで、手前に低音、奥に高音の弦が張られる。そのため鍵の全長は低音で短く、高音で長い。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヴァージナルという語は1460年頃のプラハのパウルス・パウリリヌスによる記述に最初に見られる。語源に関しては様々な説があるが確かなことはわからない。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヴァージナルという語の指し示す範囲はしばしば曖昧である。エリザベス朝の頃のイギリスでは virginal という語は撥弦鍵盤楽器全般を指していた。イタリアの多角形のヴァージナルはスピネットと呼ぶことが多い。イタリア語には本来ヴァージナルという語は存在せず、spinetta や arpicordo と呼ばれていた。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "イタリアのヴァージナル(あるいはスピネット)は、長方形、あるいは多角形のケースで、突き出た形の鍵盤を持つものが多い。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フランドルのヴァージナルは、鍵盤が本体の左側に位置するスピネット型と、右側に位置するミュゼラー型(muselar, muselaar)に分けられる。どちらも一般に長方形で鍵盤が窪んだ場所に位置し本体から突き出ない。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "イタリアのヴァージナルやフランドルのスピネット型のヴァージナルでは弦を弾く位置が通常のチェンバロに近いが、ミュゼラーでは全域で弦の中央に近い所で弾かれる。このことにより、基音が強く倍音の弱い、独特の太くて暖かい音質を持つ。しばしば倍音を補うためにアルピコルドゥムという金属片によってざわざわした音を付加する装置がテノールからバスの音域に付けられる。ミュゼラーでは中低音域のアクションは楽器の響板の真ん中に置かれるため、この音域を弾くときの打鍵音が増幅される問題がある。加えて、弦の中央付近で弾くために、まだ響いている弦の動きがプレクトラムが再度弦に触れることを難しくしてしまい、低音部の連打が難しい。このようなことから、ミュゼラーは複雑な左手のパートを持たない、旋律と和声の組合わせのような曲に向いているとされる。ミュゼラーは16、17世紀には人気があったが、18世紀にはあまり使われなくなった。18世紀のある評論家は、ミュゼラーは「低音部では若い豚のようにブーブー言う」と評している (Van Blankenberg, 1739)。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "フランドルでは大小2台のヴァージナルを組み合わせたダブル・ヴァージナルも作られた。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "スピネット(英: spinet, 仏: épinette, 独: Spinett, 伊: spinetta, 西: espineta)は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が鍵盤に対して斜めに張られているものを指す 。一般に弦は一組のみで鍵盤も一段のみである。典型的にはおおよそ三角形の形状で右側板が湾曲している「ベントサイド・スピネット」を指す。ベントサイド・スピネットは特に18世紀のイギリスでヴァージナルに代わる家庭用鍵盤楽器として普及した。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "ヴァージナルと同じくスピネットという語の指し示す範囲もしばしば曖昧である。イタリアでは小型の撥弦鍵盤楽器全般を指して spinetta という語が使われた。フランスでは épinette という語はイギリスにおける virginal と同様に撥弦鍵盤楽器全般に対して用いられた。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "クラヴィツィテリウム (clavicytherium) は響板と弦が垂直に、奏者の顔の前にくるように立てられた楽器である。同様の省スペース原理は、後のアップライトピアノでも用いられることとなった。興味深いことに、現存最古のチェンバロはクラヴィツィテリウムである。クラヴィツィテリウムはチェンバロの主流とはならなかったが、その後も散発的に製作され続けており、18世紀にはフランドルのアルベルトゥス・ドゥランによって優れたクラヴィツィテリウムが製作されている。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "4フィート弦のみを持つ、1オクターヴ高いピッチの小型の楽器もあり、オッタヴィーノ (ottavino) と呼ばれる。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "クラヴィオルガヌム (claviorganum) はチェンバロやヴァージナルをオルガンと組み合わせ、両方の音を同時に鳴らすことのできる複合楽器であり、ヨーロッパ各地で製作された。", "title": "他の撥弦鍵盤楽器" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1397年のパドヴァの法律家による、ヘルマン・ポールという人物がクラヴィチェンバルムと呼ばれる楽器を発明したと主張している、という記述がチェンバロについての最古の記述である。 1425年のドイツのミンデンの大聖堂の祭壇の彫刻にはチェンバロとこれを奏する人が確認できる。 1440年頃にはアンリ・アルノー・ド・ズヴォレがチェンバロとその発音機構の詳細な図面を残している。 現存する最古のチェンバロは、1480年頃おそらくドイツのウルムで作られたクラヴィツィテリウムで、ロンドンの王立音楽大学に保存されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "製作者名と製作年代の分かる最古のチェンバロは、1515年から1516年にフィレンツェのヴィンチェンティウスによって作られたものであり、次に1521年のボローニャのヒエロニムスによるものが続く。イタリアのチェンバロの側板は薄く、ケースの外形は細長い。イタリアでは多少の変化がありながらも、18世紀末まで独自の様式のチェンバロ製作の伝統が維持された。1700年頃イタリアのバルトロメオ・クリストフォリがピアノを発明したが、ピアノは当時のイタリアでは大きな影響を与えることがなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "アルプスから北では1537年にライプツィヒのミュラーによる作例が存在する。薄い側板のケースはイタリアの楽器と同様であるが、ずんぐりとした外形や、ボックス・スライドではない2枚構成のジャックガイドはイタリアの楽器に見られない特徴である。 このような北ヨーロッパの初期のチェンバロは、かつてはイタリアの楽器から派生したものと考えられたが、現在はむしろイタリアのチェンバロ製作の伝統が北ヨーロッパに起源を持つ可能性が高いと考えられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "フランドルでは16世紀末から17世紀前半にかけてアントウェルペンのルッカース一族がチェンバロの製作において成功を収めた。ルッカースのチェンバロはイタリアのものより厚い側板が用いられている。 ルッカースの楽器は高く評価され、後にしばしば改造を施されながらも各地で使われ続けた。そして他の地域のチェンバロ製作にも大きな影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ルッカースのチェンバロが各地に輸出される一方で、北ヨーロッパの他の地域ではルッカース以前からの北ヨーロッパの在来の様式によるチェンバロが製作されていたが、 その後、18世紀のフランスでは、ルッカースに倣ったチェンバロが作られるようになり、18世紀フランス様式のチェンバロはフランドル様式の構造を受け継ぎながら、より広い音域と優美な音色を持つことになった。有名な製作者としてはブランシェ一族やパスカル・タスカンなどが挙げられる。 18世紀のイギリスでもカークマンやシュディの工房においてルッカースの影響を受けたチェンバロが製作された。カークマンとシュディのチェンバロの音はフランスの楽器に比べ繊細さに欠けるが華麗で力強い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "チェンバロは18世紀後半から、より強弱表現に長けるピアノに徐々に人気を奪われ、19世紀中は殆ど演奏されることがなくなり、楽器製作の伝統も途絶えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "19世紀末から古楽演奏のためにチェンバロが復興され、当時のピアノ製作の技術を応用してチェンバロの改良が試みられた。このような楽器は現在ではモダン・チェンバロと呼ばれ、伝統的な製法のチェンバロとは区別される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1860年代半ばにフランスのピアニスト、ルイ・ディエメがリサイタルにチェンバロの演奏を取り入れた。彼は1769年製のパスカル・タスカンのチェンバロを主に用いた。 1882年にこの楽器は修復され、その後パリのエラール社が借り受けて研究した。 プレイエル社もタスカンの楽器を研究し、両社とも1889年のパリ万国博覧会にチェンバロを出品した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ドイツでは通称「バッハ・チェンバロ」と呼ばれる楽器 がチェンバロ復興の参考にされた。この楽器の、下鍵盤に16′と8′、上鍵盤に8′と4′という歴史的なチェンバロでは特殊なレジスター構成が理想的なものとされ、モダン・チェンバロに大きな影響を与えた。 1899年にベルリンのヴィルヘルム・ヒールによってこの楽器に基づいたチェンバロが製作されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "1912年にワンダ・ランドフスカの構想によりプレイエル社が近代的なコンサートホールでの演奏に向けた新型のチェンバロを開発した。 この楽器は、鉄製のフレームを持ち、太い弦が高い張力で張られ、響板の補強法はグランド・ピアノとほぼ同じで、ケースも頑丈に作られていた。下鍵盤に16′、8′、4′、上鍵盤に8′の構成で、レジスターは7本のペダルで操作された。プレイエル社の楽器はドイツのチェンバロ製作にも影響を及ぼし、幾つかのメーカーはプレイエル型のレジスター構成や鉄製フレームを採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1930年ごろからドイツのチェンバロ製作は再び「バッハ」型のレジスター構成に戻り、鉄製フレームは用いられなくなったが、依然としてそれは歴史的な楽器とは大きく異なるものであった。 ノイペルト、ヴィトマイヤー、シュペアハーケ、アンマー、ザスマンなどのメーカーにより製造されたモダン・チェンバロは世界各地に輸出され、演奏家や聴衆の一般的なチェンバロのイメージとなった", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "一方で20世紀半ば頃からフランク・ハバード、ウィリアム・ダウド、マルティン・スコヴロネックなどの製作家により歴史的なチェンバロの研究がなされ、伝統的製法の再現が試みられた。彼らの作る楽器は高い人気を博し、他の多くの製作家たちも歴史考証的な楽器の製作に転じた。現在では歴史考証的な楽器が主流となり、ルネサンス・バロック期の音楽を演奏する際に、モダン・チェンバロを用いることは殆ど無い。一方、モダン・チェンバロを前提とした音楽作品、例えば、フランシス・プーランクの「クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール」などはモダン・チェンバロで演奏するのが妥当とされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "イタリアのチェンバロは、底板を基礎として支持材を組み、約4~6mm程度の薄い側板を貼り合わせた構造をとっている。ケースの素材には主にイトスギ材が用いられた。一般にこの薄手の本体は、より頑丈なアウターケースに収納された。後に単一の厚手のケースを持つ楽器も現れたが、外見上は従来通りアウターケースの中にインナーケースが納められているかのように装飾がほどこされた。これを「フォルス・インナー・アウター」(偽インナー・アウター)と呼ぶ。 弦長は全音域の5/6程度までオクターヴごとに倍になる自然な比率に従っている。そのためベントサイドは深く窪み、外形は細長い。鍵盤は一段鍵盤が一般的である。弦列は16世紀には1×8′または1×8′、1×4′の構成が一般的であったが、17世紀以降は2×8′が主流となった。これは通奏低音の演奏に適応したものと考えられる。16世紀の楽器や文献は、高音域で鉄弦が使用されたことを示唆しているが、17世紀以降は全域で真鍮弦を使用することが一般的となった。ジャックガイドは上下2枚構成ではなく、ボックス・スライドと呼ばれる単一の厚みのあるものが用いられる。レストプランクの幅は高音域で狭く、ジャックの列は斜めに並ぶ。響板の裏側は、数本のリブがブリッジの下を横切って取り付けられることが多い。イタリアのチェンバロの音質は、減衰が早く、歯切れの良い音が特徴である。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "フランドルのチェンバロ製作では、アントウェルペンのルッカース一族が重要な役割を果たした。ルッカース一族の工房は、ハンス・ルッカースが1579年にアントウェルペンの聖ルカのギルドに加入してから、約1世紀に渡ってアントウェルペンのチェンバロ製作を支配した。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "ルッカースのチェンバロは、厚い側板を上下の内部補強材によって連結した枠組が構造の基礎となっており、底板は後から取り付けられた。ケースの素材にはポプラ材が用いられ、側板は約14mm程度の厚さを持っている。高音域の弦長が長めで、低音域の弦長は抑えられており、イタリアのチェンバロよりもずんぐりとした外形をしている。高音域は鉄弦、低音域は真鍮弦が使われた。標準的な弦列構成は1×8′、1×4′で、8′にはバフ・ストップを備える。音域は通常ショート・オクターヴのC/Eからc3までの4オクターヴである。プラッキング・ポイントはナットに近く、一段鍵盤のルッカースのチェンバロの8′のプラッキング・ポイントは、ほぼ18世紀フランスのチェンバロのフロント8′に相当する。ブリッジはイタリアの楽器のものよりも大きく、響板のブリッジの下にはリブを持たない。8′のブリッジと4′のブリッジの間の響板の裏側には4′のヒッチピンにかかる張力に耐えるための補強として4′ヒッチピン・レールがある。4′のブリッジの手前の裏側には斜めにカットオフ・バーと呼ばれる細長い棒が取り付けられ、カットオフ・バーによって区切られた三角形の領域がリブで補強されている。ルッカースのチェンバロの音質は、イタリアのものとは明らかに異なり、響きが長く持続する。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ルッカースは二段鍵盤のチェンバロも製作したが、これは上下で四度ずれた配置の鍵盤で同一の弦を弾くものであり、四度の移調を容易にするためのものであったと考えられている。通常C/E-f3の下鍵盤がC/E-c3の上鍵盤と最高音で揃えられており、下鍵盤では上鍵盤より四度低い音が鳴る。また下鍵盤のプラッキング・ポイントは上鍵盤よりナットから遠い。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ルッカースのチェンバロは規格化された幾つかのサイズで製作され、装飾も規格化されている。外装は大理石を模した柄や鉄帯模様が描かれ、内装は文様を印刷した紙が貼られた。響板およびレストプランク表面は、花や果物、鳥、昆虫、エビなどがテンペラ画によって描かれた。このような響板装飾はイタリアの楽器には見られない特徴である。ローズは鉛と錫の合金で鋳造され金箔が貼られた。ローズの意匠はハープを弾く天使で、製作者のイニシャルが左右に配される。蓋の内側は文様紙が貼られ、ラテン語の格言が書かれるのが標準的だが、高級なものは画家により絵画が描かれた。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "ルッカースのチェンバロは合理的な製法により量産され、近隣諸国に大量に輸出されたが、後に時代の要請に従って多くのルッカースのチェンバロは改造され、現存する楽器でオリジナルの状態にあるものは極めて少ない。音域の拡大、弦の増設、一段鍵盤や移調二段鍵盤の楽器の対比二段鍵盤化などが行われ、時には響板及びケースを拡張する大規模な改造も行われた。このような改造はフランス語でラヴァルマン ravalement と呼ばれる。改造が盛んに行われた背景にはルッカースの楽器が高額で取引されたことがある。改造されたルッカースの楽器は他の新しい楽器の数倍の値段で取引されたため、ルッカースの改造楽器を装った贋作も作られた。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "18世紀のフランドルの有力なチェンバロ製作者としてはドゥルケン一族が知られている。ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの製作した楽器は少なくとも8台が知られている。彼の楽器の多くは5オクターヴの音域で、2×8′、1×4′の弦列を備える。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、しばしば上鍵盤にナザールのレジスターを備えている。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1745年の楽器をモデルとして、現代の製作家マルティン・スコヴロネックが1962年に製作したチェンバロは、グスタフ・レオンハルトが多くの録音に使用したことで有名である。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "17世紀のフランスのチェンバロの構造はイタリアとフランドルの中間的な特徴を示し、音質的にも両者の中間に位置する。この様な特徴を持つチェンバロは北ヨーロッパの広い地域で製作されていた。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "フランスでは、17世紀半ばから2組の8′弦を独立して演奏できるカプラー式二段鍵盤のチェンバロが発達していた。フランスに典型的な技法である右手と左手で同じ音域を重ねて弾くピエス・クロワゼはこれによって可能となる。17世紀には下鍵盤をスライドさせる形式のカプラーが用いられていたが、18世紀になるまでには上鍵盤をスライドさせるようになった。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "18世紀のフランスのチェンバロはルッカースに大きく影響を受けている。フランスの製作家たちはルッカースの楽器の改造を通じてその設計を学んだものと考えられる。標準的な18世紀フランスのチェンバロの構造はルッカースの設計を踏襲しつつ、より大型化したものであり、カプラー式二段鍵盤を備え、上鍵盤が1×8′、下鍵盤が1×8′、1×4′で、音域は5オクターヴに達する。このような18世紀フランス様式のチェンバロは、現代のチェンバロ製作のモデルの主流となっている。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ドイツでは古くからチェンバロの存在が確認できるが、17世紀までのドイツで製作されたチェンバロは僅かな数しか現存していない。18世紀のチェンバロもイタリア、フランス、イギリスなどに比べると現存するものは少ない。18世紀ドイツのチェンバロ製作には幾つかの流派が存在したが、その中でハンブルクの楽器が比較的多く現存している。ハンブルクで活躍したチェンバロ製作者としてはフライシャー一族とハス一族が有名である。ハンブルクのチェンバロの構造は、フランドルの楽器の様に底板の上面に側板が接合されているが、アッパー・ブレースは無く、底板からライナーまでの深さがあるブレースがベントサイドからスパインにかけて横切っている。外見はS字型のベントサイドが特徴的である。ハス一族のチェンバロには16′や2′のレジスターを備えたものも現存している。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "ベルリンのミヒャエル・ミートケのチェンバロは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハがケーテン宮廷で使用したチェンバロがミートケのものであることから、現代のチェンバロ製作のモデル楽器として人気が高い。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "16世紀から17世紀にかけてのイギリスでは、多くのチェンバロのための楽曲が生み出されたが、現存する当時のイギリス製の楽器は少ない。現在知られるイギリスのチェンバロは主に18世紀以降のもので、ジェイコブ・カークマンと、バーカット・シュディの2人の製作家が有名である。彼らの楽器はルッカースの流れをくむ設計で、華麗で力強い音質が特徴であるが、現代のチェンバロ製作のモデルとしてはあまり用いられていない。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、上鍵盤にナザールのレジスターを備える。18世紀後半には音量を変化させる仕組みとして、マシン・ストップと呼ばれるペダルによってレジスターを操作する機構や、オルガンのようなスウェル・シャッター(よろい戸)をペダルで開閉する機構を持つチェンバロも作られた。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "20世紀初頭のチェンバロ復興と共に、チェンバロを近代化するべく様々な改良を試みた重構造のチェンバロが製作されるようになった。現在ではこのようなチェンバロは、歴史的なチェンバロや、それらに準じて製作されたチェンバロとは区別して、モダン・チェンバロと呼ばれる。モダン・チェンバロは20世紀半ば過ぎまでチェンバロの主流であったが、歴史的なチェンバロが見直されるようになったため、現在では用いられることは少ない。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "一般にモダン・チェンバロは、近代的なピアノのように底が開放された構造をとっている。ケースや響板は厚く頑丈に作られており、中には金属製のフレームを用いるものもある。プレクトラムには主に革が用いられ、ジャックには調整用のネジが備えられている。レジスターはペダルにより操作され、演奏中に自在に切り替えることが可能である。また歴史的なチェンバロでは稀な16′の弦列を備えているものが多い。", "title": "様式" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "初期の鍵盤楽器音楽は楽器の指定が無いことが普通で、チェンバロ、クラヴィコード、オルガンなどで演奏される。現存する最古の鍵盤楽器音楽とされるのは、14世紀のロバーツブリッジ写本(英語: Robertsbridge_Codex)である。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ルネサンス時代には、イベリア半島でアントニオ・デ・カベソンをはじめとする作曲家により、ティエントやディフェレンシアスなどの鍵盤楽器音楽が栄えた。ディエゴ・オルティスは『変奏論』 Trattado de Glossas (1553) でヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロの合奏について述べている。イギリスではウィリアム・バードやジョン・ブルなどの作曲家達により多くのチェンバロ曲が書かれ、『フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック』などの手稿で残されている。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "バロック時代には、イタリアで劇的な感情の表出を重視したモノディ様式が生まれ、チェンバロは通奏低音のための楽器として重要な役割を担った。鍵盤楽器音楽においても劇的な表現が追求され、ジローラモ・フレスコバルディは、『トッカータ集 第1巻』 (1615) の序文において、厳格な拍子にとらわれない、情感に応じた自由な演奏を要求している。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "18世紀にはナポリ出身のドメニコ・スカルラッティが、ポルトガル王女のバルバラ・デ・ブラガンサに音楽教師として仕え、555のソナタとして知られる個性的なチェンバロ曲を残している。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "一方、ルイ14世時代のフランスではジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエールやルイ・クープランをはじめとする作曲家によって、リュート音楽の延長上にチェンバロ(クラヴサン)音楽が栄え、スティル・ブリゼと呼ばれる分散奏法や、繊細な装飾音を多用した、優美な作品が多く生み出された。中心となるのはアルマンドやクーラントといった舞曲であり、これらを組み合わせた組曲はバロック時代のチェンバロ音楽を代表するジャンルの一つとなった。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "フランスのクラヴサン音楽は18世紀前半、フランソワ・クープランやジャン=フィリップ・ラモーらの時代に繁栄の頂点に達する。彼らの作品においては、古典的な舞曲に代わって、描写的な標題を持つ作品が主体となっていった。その後、ジャック・デュフリやクロード=ベニーニュ・バルバトルらを輩出するものの、フランス革命の勃発により打撃を受けて、フランスのクラヴサン音楽は終焉を迎える。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ドイツのチェンバロ音楽は、イタリアとフランス双方の影響を受け、さらに北ドイツ・オルガン楽派の伝統が加わる。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品には、それらの様式の高度な総合が見られる。バッハの息子や弟子の時代にはクラヴィコードが流行し、さらにピアノがそれに取って代わっていった。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "通奏低音にチェンバロを用いることはオペラにおいては19世紀まで残存したが、19世紀を通じて、チェンバロは実質的にピアノに地位を奪われていた。しかし20世紀に入って、古楽復興運動により、再びチェンバロが演奏されるようになると、さまざまな音色を求めるなかで、チェンバロに目を向ける作曲家も登場した。アーノルド・ドルメッチの影響の下、ヴァイオレット・ゴードン=ウッドハウス(1872-1951)、およびフランスではワンダ・ランドフスカがチェンバロ再興の最前線で演奏を行った。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "チェンバロ協奏曲がプーランク、ファリャ、ベルトルト・フンメル、グレツキ、グラス、ロベルト・カルネヴァーレなどによって作曲され、マルティヌーはチェンバロのために協奏曲とソナタを作曲し、カーターの二重協奏曲はチェンバロ、ピアノと2つの室内オーケストラのために書かれている。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "室内楽の分野では、リゲティがいくつかの独奏曲(『コンティヌウム』など)を作曲しているほか、デュティユーの \"Les Citations\" (1991年)はチェンバロ、オーボエ、タブルバスとパーカッションのために書かれている。 その他、ショスタコーヴィチは『ハムレット』(1964年)でチェンバロを用いている。シュニトケはオーケストラ用作品でしばしばチェンバロを用いている。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "日本の作曲家が取り組みはじめたのは戦後になってからであり、その数も多いとはいえないが、武満徹の「夢見る雨」(独奏曲)などが生まれている。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "チェンバロ奏者でもあるヘンドリク・ボウマンは17世紀、18世紀の様式に基づいたチェンバロ独奏曲、チェンバロ協奏曲などを作曲している。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "現代では、チェンバロ、もしくはシンセサイザーによる類似の音色がポピュラー音楽でも用いられている。代表的な例としては、ビージーズ、ローリング・ストーンズの「イエスタデイズ・ペイパー」やR.E.M.の \"Half a World Away\" (アルバム「アウト・オブ・タイム」1991年、収録)、エマーソン・レイク・アンド・パーマーの「タンク」があげられる。", "title": "チェンバロのための音楽" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また、イージー・リスニングにおいては、ポール・モーリアがチェンバロ(の音色)を好んで用いたことで知られる(「恋はみずいろ」「オリーブの首飾り」が代表的)。", "title": "チェンバロのための音楽" } ]
チェンバロは、弦をプレクトラムで弾いて発音する鍵盤楽器である。英語ではハープシコード (harpsichord)、フランス語ではクラヴサン (clavecin) という。 狭義にはグランド・ピアノのような翼形の楽器を指すが、広義には同様の発音機構を持つヴァージナルやスピネット等を含めた撥弦鍵盤楽器を広く指す。 チェンバロはルネサンス音楽やバロック音楽で広く使用されたが、18世紀後半からピアノの興隆と共に徐々に音楽演奏の場から姿を消した。しかし20世紀には古楽の歴史考証的な演奏のために復興され、現代音楽やポピュラー音楽でも用いられている。
{{Otheruses||歴史上の都市|バラクラヴァ|日本のロックバンド|チェンバロ (バンド)}} {{Infobox 楽器 |楽器名 = チェンバロ |その他の名称 = {{small|ハープシコード、クラヴサン}} |英語名 = harpsichord |ドイツ語名 = Cembalo |フランス語名 = clavecin |イタリア語名 = clavicembalo |中国語名 = 羽管键琴、大键琴(簡体字)<br/> 羽管鍵琴、大鍵琴(繁体字) |画像 = 画像:Deless-10.jpg |画像サイズ = 200px |画像の説明 = |分類 = [[撥弦楽器]]、[[鍵盤楽器]] |関連項目 = |}} '''チェンバロ'''({{lang-de-short|Cembalo}}, {{lang-it-short|clavicembalo}})は、[[弦 (楽器)|弦]]を[[ピック|プレクトラム]]で弾いて発音する[[鍵盤楽器]]である。[[英語]]では'''ハープシコード''' ({{lang|en|harpsichord}})、[[フランス語]]では'''クラヴサン''' ({{lang|fr|clavecin}}) という。 狭義には[[グランド・ピアノ]]のような翼形の楽器を指すが、広義には同様の発音機構を持つ'''ヴァージナル'''や'''スピネット'''等を含めた撥弦鍵盤楽器を広く指す<ref name="grove">E. M. Ripin, H. Schott, J. Koster, D. Wraight, B. K. de Pascual, G. G. O’BRIEN, A. Huber, W. Dowd, C. Mould, L. Whitehead, M. Elste, "Harpsichord," ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians,'' 2nd ed., London, Macmillan, 2001.</ref>。 チェンバロは[[ルネサンス音楽]]や[[バロック音楽]]で広く使用されたが、18世紀後半から[[ピアノ]]の興隆と共に徐々に音楽演奏の場から姿を消した。しかし20世紀には[[古楽]]の歴史考証的な演奏のために復興され、[[現代音楽]]や[[ポピュラー音楽]]でも用いられている。 == 構造 == === 発音機構 === [[撥弦楽器|撥弦]]鍵盤楽器の大きさや外形は多様であるが、発音機構の基本は共通している。 鍵を押し下げると、鍵の他端に立てられているジャックと呼ばれる板状の棒が持ち上がり、ジャックの側面に装着された[[プレクトラム]]が弦を下から上に弾いて音を出す。 鍵から手を放すとジャックが下がる。このときプレクトラムは回転するタングに取り付けられているため弦を回り込んで下に戻る。ジャックが元の位置に戻るとジャック上部のダンパーによって弦の振動が止められる。 以下では上記の基本原理をより詳細に説明する。 [[File:Clavecin mecanisme.svg|center|thumb|700px|図1: 8フィート2弦の一段鍵盤チェンバロの概念図, (1) 鍵 (キーレバー), (2) ネームバッテン, (3) ネームボード, (4) チューニングピン, (5) ナット, (6) ジャックレール, (7) アッパー・ガイド, (8) 弦, (9) ブリッジ, (10) ヒッチピン, (11) ライナー, (12) ベントサイド/テール, (13) オーバーレール, (14) [[響板]], (15) ギャップ, (16) アッパー・ベリーレール, (17) ジャック, (18) ローワー・ベリーレール, (19) 底板, (20) ラック, (21) ガイドピン, (22) ローワー・ガイド, (23) レストプランク, (24) バランスピン, (25) キーボード・フレーム]] 鍵(1)は単純な[[梃子]]で、鍵にあけられた穴に差し込まれたバランスピン(24)を支点として動く。 ジャック(17)は、木製の平たく細長い棒で、鍵の端に垂直に立てられ、上下のジャックガイド(7・22、レジスターとも)で支えられている。ジャックガイドは、スパイン(左側の長い側板)側からチーク(鍵盤右の短いまっすぐな側板部分)側まで走るギャップの中に設置される、ほぞ穴のある細長い2枚の板で、このほぞ穴の中をジャックが上下に動く。アッパー・ガイドはしばしば可動である([[#レジスター]]を参照)。 イタリアのチェンバロでは、ボックス・スライドと呼ばれる厚みのある単一のジャックガイドが用いられる。 [[File:Clavecin sautereau.svg|center|thumb|200px|図2: ジャック上部の概念図, (1) 弦, (2) タングの軸, (3) タング, (4) プレクトラム, (5) ダンパー]] ジャックにはタング(図2-3)という木製の可動の部品が取り付けられており、タングにはプレクトラム(図2-4)が取り付けられる。タングはプレクトラムに上から力がかかる場合は動かないが、下から力がかかる場合は回転してプレクトラムをそらすように動作する。これによってプレクトラムが下から上に弦を弾いた後、上から下へは弦を弾かずに戻ることができる。タングは[[イノシシ]]の毛や薄い[[真鍮]]板などで作られたバネによって保持されており、動いた後はバネの弾力により元の位置に戻る。 プレクトラムは通常ごく僅かに上方向に角度をつけて取り付けられ、弦の下ぎりぎりの位置に設置される。歴史的にはプレクトラムは[[ワタリガラス]] (raven) などの鳥の羽軸で作られていたが、現代では保守が容易な[[デルリン]]製のプレクトラムを用いる場合も多い。 プレクトラムが弾く弦の箇所(プラッキング・ポイント)は音質を決定する重要な要素であり、ナット(図1-5、手前側にあるブリッジと共に弦の振動長を決定する構造)からの距離で示される。ナットに近い位置で弦を弾くと[[倍音]]が強調され、「鼻にかかった」音色となる。一般にプラッキング・ポイントの距離は低音域に向かって漸増するが、弦の振動長(ナット-ブリッジ間距離)に対する比率は減少する。 ジャックの上部にはフェルト製のダンパーが付けられており、ジャックが持ち上がっていないときにはダンパーが弦の上に乗り消音するようになっている。 [[File:Clavecin sautereau fonctionnement.svg|center|thumb|600px|図3: チェンバロのジャックの動き, (1) ジャックレール, (2) フェルト, (3) ダンパー, (4) 弦, (5) プレクトラム, (6) タング, (7) タングの軸, (8) バネ (9), ジャック, (10) タングの動き]] (A) 操作されていない状態のジャック。ジャックの一番上にはフェルト製のダンパー(図3-3)が突き出ており、鍵が押されていないときには弦の振動を止めている。 (B) 鍵を押すことでジャックが上がり始めた状態。ジャックが上昇するにつれ弦に押し当てられたプレクトラムは徐々にたわんでいく。 (C) プレクトラムは湾曲の限界点を超えて、弦を弾き、振動を起こす(音の発生)。ジャックの垂直に跳ね上がる動きはジャックレール(図3-1)によって止められる。ジャックレールの内側はジャックの衝撃を和らげるために柔らかいフェルト(図3-2)がつけられている。 (D) 鍵から手を離すと、鍵のもう一方の端は自重で元の位置に戻り、それに従ってジャックも下に降りる。この際プレクトラムは再び弦に接触するが、タング(図3-6)の働きによって、ほとんど音を生じさせることなく弦の下に戻る。ジャックが元の位置まで降りるとダンパーが弦の上に乗り消音する。 === 弦と響板 === [[File:Détail de chevallet.JPG|thumb|ブリッジの部分写真。ブリッジの上には、弦に触れてその振動長の一端を決めるブリッジピンが植えられている。]] [[File:Silbermann rose.JPG|thumb|ローズ]] 弦の素材には[[真鍮]]、[[鉄]]、[[丹銅]]などが使われる。一般にスケール<ref group="注釈">通常チェンバロのスケールの比較にはc2(二点ハ)のキーの弦の長さを用いる。</ref>の短いタイプの楽器では全域で真鍮弦が用いられるが、長いスケールの楽器では高音域に鉄弦を用い、低音域に真鍮弦、さらに最低音域では丹銅弦が用いられる。 弦の一端(鍵盤から遠い側)は小さな輪を作りねじって止めたものを、ヒッチピン(図1-10)にかける。ヒッチピンはライナー(11)に打ち込まれている。もう一方はチューニングピン(図1-4)に巻き取り、適切な音高となるように調整する。チューニングピンは堅い木で作られたレストプランク(ピンブロックとも、図1-23)にねじ込まれている。近代的な[[ピアノ]]のような金属フレームを持たないチェンバロは、湿度の変化に弱く、[[調律]]が変動しやすいため、演奏者は演奏のみならず、自ら調律する技術も要求される。 弦はブリッジ(図1-9)を介して響板(サウンドボードとも、図1-14)を振動させる。響板とケースの構造体は、弦の振動を効率良く空気の振動へ変換し、音量を拡大する。 響板は一般的に[[トウヒ属|トウヒ]]や[[モミ属|モミ]]あるいは[[イトスギ]]などの[[針葉樹]]の木材の2~4mm程度の薄い板である。 イタリアのチェンバロの響板は、裏側全体がリブで補強されている物が多くあるが、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロの響板は、リブがあるのは低音側手前の領域のみで、ブリッジの下にはリブを持たない。 通常、響板の低音側の手前の部分には、[[リュート]]や[[ギター]]のように穴が開けられ、木や[[羊皮紙]]、または金属の装飾が嵌め込まれる、これをローズと呼ぶ。 [[File:ClavecinVueSupérieure.JPG|thumb|center|450px|上面から見たチェンバロ]] === ケース === [[File:StructureClavecinItalien.JPG|thumb|イタリアのチェンバロの構造]] [[File:StructureClavecinFlamand.JPG|thumb|フランドルのチェンバロの構造]] [[File:Formes_de_clavecins.PNG|thumb|各様式に典型的なチェンバロの外形の模式図。左からイタリアン(先端が緩やかでベントサイドが深くくぼむ)、フレミッシュ/フレンチ/イングリッシュ(先端が鋭く、ベントサイドがより緩やかにカーブする)、ジャーマン(ベントサイドがそのまま先端部のカーブに連なる)]] イタリアのチェンバロのケースは、底板を基礎とした構造で側板は薄い。製作は底板に次々に部品を取り付けていく方法で行われる。まず底板が用意され、その上に縁に沿って側板やライナーを支えるための三角形の板(ニー)が数枚立てた形で取り付けられる。数本の補強材(ボトム・ブレース)とローワー・ベリーレールが底板を横切って取り付けられ、アッパー・ベリーレールがローワー・ベリーレールの上に取り付けられる。ニーの上部にライナーが取り付けられ、ベントサイド側のライナーは、さらに底板にかけて斜めに補強材(アッパー・ブレース)が数本取り付けられる。そうしてできた骨格の周囲に側板が貼られる<ref name="brook">[http://earlymusic.org/files/PaeantotheItalianHarpsichord.pdf Robert Brook, "A Paean to The Italian Harpsichord," ''Early Music America,'' Vol. 17, No. 1; Spring 2011.]</ref>。 これに対し、フランドルのルッカース一族、及びその影響を受けた様式のチェンバロでは、厚い側板の枠組みがケースの構造の基礎となっている。まず側板とレストプランク、ベリーレール、ブレースを組んで外枠が作られ、響板を取り付けた後、最後に底板が取り付けられる<ref name="grove" />。 以下の画像の楽器は18世紀フランス様式のものであり、後者に属する。 {| class="wikitable" border="0" |+ 製作途中のパスカル・タスカン<ref group="注釈">Pascal Joseph Taskin (1723 – 1793)、18世紀フランスを代表するチェンバロ製作者の一人。</ref>のチェンバロの複製楽器<ref>avec l'aimable autorisation de Marco Brighenti, facteur d'instruments à Parme [http://www.brighenti-harpsichords.com]</ref>''' |- | colspan=2 align="center" | 底板が取り付けられていない底面から見る、ケースの内部構造と各部の名称 |- | A : レストプランク<br /> B : ネームボード<br /> C : スパイン<br /> D : テール<br /> E : ベントサイド<br /> F : チークピース<br /> G : アッパー・ベリーレール<br /> H : ローワー・ベリーレール<br /> I : ボトム・ブレース<br /> J : アッパー・ブレース<br /> K : ライナー<br /> L : 響板<br /> M : 4′ヒッチピン・レール<br /> N : カットオフ・バー<br /> O : リブ<br /> P : ローズ<br /> |[[File:StructureCaisse.JPG|500px]] |- | colspan=2 align="center" | 底面を下にした状態 |- | A : レストプランク<br /> B : ネームボード<br /> C : スパイン<br /> D : テール<br /> E : ベントサイド<br /> F : チークピース<br /> L : 響板<br /> P : ローズ<br /> Q : 8′ブリッジ<br /> R : 4′ブリッジ<br /> S : ギャップ<br /> |[[File:ClavecinCaisseNue.JPG|500px]] |} === レジスター === [[File:Registre.png|thumb|レジスターの原理、上のジャックガイドの位置によってプレクトラムが弦に触れるか触れないかを調節する。ジャックガイドの動く幅は約2mmである。(1) 鍵の端, (2) フェルト, (3) ジャック, (4) ローワー・ガイド, (5) アッパー・ガイド, (6) 弦]] [[File:BuffStop.JPG|thumb|right|バフ・ストップ]] チェンバロの音量は打鍵の強弱には殆ど依存しない。しかしチェンバロは音量、音色を段階的に切り替える仕組みを備えているものが多い。音色の選択機構および音色単位そのものを、[[ストップ_(オルガン)|オルガンの用語]]と同様に、レジスター、もしくはストップと呼ぶ。 音量の増加と音色の変化を得る方法として、複数の弦列を備えて、それらを共に鳴らすことが挙げられる。[[音高|ピッチ]]の異なる弦列を共に鳴らすことも行われる。 8[[フィート]]弦は通常のピッチの弦であり、これに対して4フィート弦はオクターヴ高く調律される。同様に、稀に用いられる16フィート弦はオクターヴ低く、2フィート弦は2オクターヴ高く鳴る。なお、これらの「フィート」という用語はオルガンの用語から来ており、実際の弦の長さとは関係ない。異なるピッチの音を共に鳴らすことで音色の変化を得るという方法はオルガンと共通のものである。 複数の弦列を共に用いる場合、プレクトラムが同時に弦を弾くようになっていると、タッチが重くなり演奏に支障を生じる。そのため各弦列の間で発音に僅かな時差が生じるように調節される、これをスタガリングと呼ぶ。またスタガリングにより、鍵盤を押す速さによって発音の集中の度合いが変化するため、タッチによる表現がより豊かになる。 音色の違いは、プラッキング・ポイントの違いによっても得られる。ナットに近い位置で弾くほど、倍音が強調され、鼻にかかった、明るく細い音になる。同じピッチでプラッキング・ポイントの異なるレジスターを持つ場合、相対的にナットに近いところを弾くものを「フロント」と呼び、ナットから遠いところを弾くものを「バック」と呼ぶ。特にナットに近い位置を弾くレジスターとしてナザール<ref group="注釈"> (英: lute stop, 仏: nasale, 独: Nazard, Spinet, Cornet) 英語でリュート・ストップと呼ばれるが、他の言語ではリュートの名はバフ・ストップに対して用いられるので、混乱を避けるために現在では英語でもナザール・ストップという名称が用いられることがある。1537年のライプツィヒのミュラーのチェンバロで最初に見られ、ドイツ、イギリス、フランドルで普及した。</ref>がある。 その他、弦のナット近くに革やフェルトを接触させて振動を抑えることで[[ピッツィカート]]的な音にするバフ・ストップ<ref group="注釈"> (英: buff stop, 仏: jeu de luth, 独: Lautenzug, 伊: liuto) リュート・ストップ、ハープ・ストップなどとも呼ばれるので、リュート・ストップ(ナザール)と混同しないよう注意が必要である。中間で分割され、高音と低音で音色を対比させることができるものもある。</ref>、プレクトラムに揉み革を用いて柔らかい音を出すポー・ド・ビュフル<ref group="注釈">(仏: peau de buffle)パスカル・タスカンが1768年に発明したとされ、18世紀後期のフランスの楽器に見られる。</ref> などがある。 レジスターの選択は、上のジャックガイドを少し横に動かし、プレクトラムが弦に触らないようにして、「除音」の状態にすることで実現される。バフ・ストップの場合は、革やフェルトの小片の並んだレールを横に動かして接触を切り替える。 レジスターの操作は、一般に直接あるいはレバーを介してジャックガイドを手で動かして行うため、レジスターを切り替えるためには鍵盤から手を移動させなければならないが、18世紀後期には膝レバーやペダルでレジスターを操作する機構を持つ楽器も作られた。 楽器に複数の鍵盤を備えることで、鍵盤ごとに異なる音量、音色を持たせ、それらを対比して用いる演奏が可能となる。 複数の鍵盤を持つ場合、上下鍵盤のレジスターを結合する機構を備えることが一般的である。これには主に2種類あり、一つは、引き出し型カプラーで、上鍵盤が前後にスライドするようになっている。上鍵盤を奥に入れることによって、下の段の鍵盤に取り付けられた垂直方向のクサビ状の突起が上の段の鍵盤の端の下に入る。この状態で下段鍵盤を操作すると同時に対応する上段鍵盤が連動する(逆に上段を操作しても下段鍵盤は連動しない)。鍵盤とカプラーの位置の選択によって、奏者は図5におけるジャックA、BとC、および3つ全てという選択肢を得る。 [[File:Clavecin accouplement.svg|center|thumb|600px|図5:引き出し型カプラー。左:非連結状態。上鍵盤はジャックAを持ち上げ、下鍵盤はジャックBとCを持ち上げる。右:上鍵盤を奥に入れることによって上下の鍵盤が連結された状態。上鍵盤はジャックAを持ち上げ、下鍵盤はジャックA、B、Cを全て持ち上げる。]] もう一つは、ドッグレッグ・ジャック(英:dogleg jack)と呼ばれるもので、上鍵盤は「犬の足」(ドッグレッグ)型のジャック(図6-A)のくぼみにもぐりこんでおり、下鍵盤を操作しても上鍵盤を操作してもジャックAは動く。カプラー式のように下鍵盤からジャックAを使用する際に上鍵盤を介する必要がないが、ジャックAの使用を上鍵盤に限定することは出来ない。 [[File:Clavecin patte chien.svg|center|thumb|350px|図6:ドッグレッグ・ジャック。上鍵盤は「ドッグレッグ」ジャック(ジャックA)を持ち上げ、下鍵盤はジャックA、B、C全てを持ち上げる。]] これらの機構により、下鍵盤の強音と上鍵盤の弱音の対比を効果的に行うことができる。 ルッカース一族の楽器にみられる二段鍵盤は、上述のような対比型二段鍵盤とは異なり、上下鍵盤が四度ずれた配置で同一の弦を弾くもので、[[移調]]に使われたと考えられている。 === 鍵盤と音域 === イタリアやフランドルのチェンバロの鍵盤は、現代のピアノと同じくナチュラル・キーが白ないし明るい木材の色でシャープ・キーが黒いが、フランスでは逆にナチュラル・キーが黒くシャープ・キーが白い鍵盤が好まれた。ドイツのチェンバロやモダン・チェンバロにも白黒の逆転した配色の鍵盤が見られる。 チェンバロの鍵盤は一般に現代のピアノの鍵盤よりも奥行きが短い。これは当時の親指をくぐらせない運指に関係している。鍵の横幅はイタリアやフランドルのチェンバロでは3オクターヴで約500mm程度で現代のピアノに近いが、フランスのチェンバロの鍵は横幅が狭く、18世紀フランスの典型例は3オクターヴで約477mmである<ref name="grove" />。 16世紀のイタリアのチェンバロはC/E-f3かC/E-c3([[ショート・オクターヴ]]を参照)の音域のものが一般的で、前者のほうが優勢であった。その後17世紀には逆にC/E-c3が主流となる。これはC/E-f3の最高音域は元々通常の演奏には要求されず、演奏に変化を与えるために用いていたものが、後にその演奏習慣が廃れたためと考えられる。17世紀半ばから最低音がGGのものが普及し、18世紀には再び最高音がf3に達して、FF,GG,AA-f3やGG,AA-f3のものが見られるようになった。しかしながらC/E-c3のものも依然として製作された<ref>[http://www.denzilwraight.com/compasses.htm Denzil Wraight - Italian Keyboard Instruments, "COMPASSES OF ITALIAN STRING KEYBOARD INSTRUMENTS". ]</ref>。エンハーモニック鍵盤と呼ばれる、[[異名同音]]を弾き分けるための分割されたシャープ・キーを持つチェンバロは、特に16世紀から17世紀初期のイタリアで多く作られた。 ルッカースの一段鍵盤のチェンバロの音域は殆どがC/E-c3であるが、ショート・オクターヴではない半音階の低音を持つものもわずかながら製作された。二段鍵盤の楽器は一般に下鍵盤にC/E-f3、上鍵盤にC/E-c3の鍵盤を有し、両鍵盤は最高音で揃えられて同一の弦を共有している。したがって上鍵盤に対して下鍵盤のピッチは四度低い。より音域の広い、下鍵盤がGG-c3、上鍵盤がF-f3で、同様に両鍵盤を最高音で揃えた二段鍵盤の楽器も作られた。この場合は逆に下鍵盤に対し上鍵盤のピッチが四度低い。 17世紀のフランスのチェンバロの音域はGG/BB-c3が一般的である。ショート・オクターヴによって欠ける変化音のために、最低音域の鍵のいくつかを前後に分割したものもある。 18世紀の前半にはGG-e3やFF-e3が普及し、1760年頃から18世紀末のチェンバロの衰退に至るまでFF-f3(61鍵)がフランスのチェンバロの標準となった。後期の楽器の中には、おそらく視覚的なバランスを取るためにさらにEEを加えたものもある。 18世紀のイギリスのカークマンとシュディのチェンバロの音域はFF,GG-f3が一般的であり、おそらく視覚的に左右対称にするためにFF#を欠いている。1780年頃以降は通常通りFF#が含まれるようになった。カークマンの5オクターヴより広い音域の楽器は、1772年のFF-c4の二段鍵盤の楽器1台のみが知られるが、シュディはCC-f3の楽器を定期的に製作し、 1765年から1782年までの日付を持つ12台が現存している。 == 他の撥弦鍵盤楽器 == ヴァージナル、スピネットなども、チェンバロと同様の発音原理による鍵盤楽器である。ただし、チェンバロ、ヴァージナル、スピネットといった名称は、歴史的には曖昧に用いられており、厳密に区別することは難しい。 === ヴァージナル === [[File:Virginal Pisaurensis.JPG|thumb|イタリアのドミニクス・ピサウレンシスのヴァージナル(16世紀中頃)]] [[File:Virginal.jpg|thumb|フランドルのハンス・ルッカースのスピネット型ヴァージナル(1583年)]] [[File:Muselaar Couchet.JPG|thumb|フランドルのヨハネス・クーシェのミュゼラー型ヴァージナル(1650年)]] ヴァージナル({{lang-en-short|virginal [virginals]}}, {{lang-de-short|Virginal}})は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が楽器の長辺および鍵盤と平行に張られているものを指す<ref name="virginal">E. M. Ripin, D. Wraight, D. Martin, "Virginal," ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians,'' 2nd ed., London, Macmillan, 2001.</ref> 。 特に長方形の楽器を指すこともある。一般に弦は一組のみで、手前に低音、奥に高音の弦が張られる。そのため鍵の全長は低音で短く、高音で長い。 ヴァージナルという語は1460年頃のプラハのパウルス・パウリリヌスによる記述に最初に見られる。語源に関しては様々な説があるが確かなことはわからない。 ヴァージナルという語の指し示す範囲はしばしば曖昧である。[[エリザベス朝]]の頃のイギリスでは virginal という語は撥弦鍵盤楽器全般を指していた。イタリアの多角形のヴァージナルはスピネットと呼ぶことが多い。イタリア語には本来ヴァージナルという語は存在せず、spinetta や arpicordo と呼ばれていた。 イタリアのヴァージナル(あるいはスピネット)は、長方形、あるいは多角形のケースで、突き出た形の鍵盤を持つものが多い。 フランドルのヴァージナルは、鍵盤が本体の左側に位置するスピネット型と、右側に位置するミュゼラー型(muselar, muselaar)に分けられる。どちらも一般に長方形で鍵盤が窪んだ場所に位置し本体から突き出ない。 イタリアのヴァージナルやフランドルのスピネット型のヴァージナルでは弦を弾く位置が通常のチェンバロに近いが、ミュゼラーでは全域で弦の中央に近い所で弾かれる。このことにより、基音が強く倍音の弱い、独特の太くて暖かい音質を持つ。しばしば倍音を補うためにアルピコルドゥムという金属片によってざわざわした音を付加する装置がテノールからバスの音域に付けられる。ミュゼラーでは中低音域のアクションは楽器の響板の真ん中に置かれるため、この音域を弾くときの打鍵音が増幅される問題がある。加えて、弦の中央付近で弾くために、まだ響いている弦の動きがプレクトラムが再度弦に触れることを難しくしてしまい、低音部の連打が難しい。このようなことから、ミュゼラーは複雑な左手のパートを持たない、旋律と和声の組合わせのような曲に向いているとされる。ミュゼラーは16、17世紀には人気があったが、18世紀にはあまり使われなくなった。18世紀のある評論家は、ミュゼラーは「低音部では若い豚のようにブーブー言う」と評している (Van Blankenberg, 1739)。 フランドルでは大小2台のヴァージナルを組み合わせたダブル・ヴァージナルも作られた。 === スピネット === [[File:EpinetteRichard.JPG|thumb|フランスのミシェル・リシャールのスピネット(1675年頃)]] {{Main|スピネット}} スピネット({{lang-en-short|spinet}}, {{lang-fr-short|épinette}}, {{lang-de-short|Spinett}}, {{lang-it-short|spinetta}}, {{lang-es-short|espineta}})は小型の撥弦鍵盤楽器で、弦が鍵盤に対して斜めに張られているものを指す<ref name="spinet"> E. M. Ripin, L. Whitehead, "Spinet," ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians,'' 2nd ed., London, Macmillan, 2001.</ref> 。一般に弦は一組のみで鍵盤も一段のみである。典型的にはおおよそ三角形の形状で右側板が湾曲している「ベントサイド・スピネット」を指す。ベントサイド・スピネットは特に18世紀のイギリスでヴァージナルに代わる家庭用鍵盤楽器として普及した。 ヴァージナルと同じくスピネットという語の指し示す範囲もしばしば曖昧である。イタリアでは小型の撥弦鍵盤楽器全般を指して spinetta という語が使われた。フランスでは épinette という語はイギリスにおける virginal と同様に撥弦鍵盤楽器全般に対して用いられた。 === クラヴィツィテリウム === クラヴィツィテリウム (clavicytherium) は響板と弦が垂直に、奏者の顔の前にくるように立てられた楽器である。同様の省スペース原理は、後の[[アップライトピアノ]]でも用いられることとなった<ref>The Ultimate Encyclopaedia of Musical Instruments, ISBN 1-85868-185-5, p. 138.</ref>。興味深いことに、現存最古のチェンバロはクラヴィツィテリウムである。クラヴィツィテリウムはチェンバロの主流とはならなかったが、その後も散発的に製作され続けており、18世紀にはフランドルのアルベルトゥス・ドゥランによって優れたクラヴィツィテリウムが製作されている<ref>Hubbard 1967, 77</ref>。 === オッタヴィーノ === 4フィート弦のみを持つ、1オクターヴ高いピッチの小型の楽器もあり、オッタヴィーノ (ottavino) と呼ばれる。 === クラヴィオルガヌム === [[File:015 Museu de la Música, claviorgue Hauslaib.jpg|thumb|ニュルンベルクのロレンツ・ハウスライプのクラヴィオルガヌム(1590年頃)]] クラヴィオルガヌム (claviorganum) はチェンバロやヴァージナルを[[オルガン]]と組み合わせ、両方の音を同時に鳴らすことのできる複合楽器であり、ヨーロッパ各地で製作された。 == 歴史 == {{main|チェンバロの歴史}} [[Image:Clavicytherium1480RCM.jpg|thumb|現存する最古のチェンバロ。1480年頃作られた作者不明のクラヴィツィテリウム。]] 1397年の[[パドヴァ]]の法律家による、ヘルマン・ポールという人物がクラヴィチェンバルムと呼ばれる楽器を発明したと主張している、という記述がチェンバロについての最古の記述である。 1425年の[[ドイツ]]の[[ミンデン (ノルトライン=ヴェストファーレン)|ミンデン]]の大聖堂の祭壇の彫刻にはチェンバロとこれを奏する人が確認できる。 1440年頃にはアンリ・アルノー・ド・ズヴォレがチェンバロとその発音機構の詳細な図面を残している。 現存する最古のチェンバロは、1480年頃おそらくドイツの[[ウルム]]で作られたクラヴィツィテリウムで、[[ロンドン]]の[[王立音楽大学]]に保存されている。 製作者名と製作年代の分かる最古のチェンバロは、1515年から1516年に[[フィレンツェ]]のヴィンチェンティウスによって作られたものであり、次に1521年の[[ボローニャ]]のヒエロニムスによるものが続く。[[イタリア]]のチェンバロの側板は薄く、ケースの外形は細長い。イタリアでは多少の変化がありながらも、18世紀末まで独自の様式のチェンバロ製作の伝統が維持された。1700年頃イタリアの[[バルトロメオ・クリストフォリ]]が[[ピアノ]]を発明したが、ピアノは当時のイタリアでは大きな影響を与えることがなかった。 [[アルプス山脈|アルプス]]から北では1537年に[[ライプツィヒ]]のミュラーによる作例が存在する。薄い側板のケースはイタリアの楽器と同様であるが、ずんぐりとした外形や、ボックス・スライドではない2枚構成のジャックガイドはイタリアの楽器に見られない特徴である。 このような北ヨーロッパの初期のチェンバロは、かつてはイタリアの楽器から派生したものと考えられたが、現在はむしろイタリアのチェンバロ製作の伝統が北ヨーロッパに起源を持つ可能性が高いと考えられている<ref name="grove" />。 [[フランドル]]では16世紀末から17世紀前半にかけて[[アントウェルペン]]のルッカース一族がチェンバロの製作において成功を収めた。ルッカースのチェンバロはイタリアのものより厚い側板が用いられている。 ルッカースの楽器は高く評価され、後にしばしば改造を施されながらも各地で使われ続けた。そして他の地域のチェンバロ製作にも大きな影響を与えた。 ルッカースのチェンバロが各地に輸出される一方で、北ヨーロッパの他の地域ではルッカース以前からの北ヨーロッパの在来の様式によるチェンバロが製作されていたが、 その後、18世紀の[[フランス]]では、ルッカースに倣ったチェンバロが作られるようになり、18世紀フランス様式のチェンバロはフランドル様式の構造を受け継ぎながら、より広い音域と優美な音色を持つことになった。有名な製作者としてはブランシェ一族やパスカル・タスカンなどが挙げられる。 18世紀の[[イギリス]]でもカークマンやシュディの工房においてルッカースの影響を受けたチェンバロが製作された。カークマンとシュディのチェンバロの音はフランスの楽器に比べ繊細さに欠けるが華麗で力強い。 チェンバロは18世紀後半から、より強弱表現に長けるピアノに徐々に人気を奪われ、19世紀中は殆ど演奏されることがなくなり、楽器製作の伝統も途絶えた。 19世紀末から[[古楽]]演奏のためにチェンバロが復興され、当時のピアノ製作の技術を応用してチェンバロの改良が試みられた。このような楽器は現在では'''モダン・チェンバロ'''と呼ばれ、伝統的な製法のチェンバロとは区別される。 1860年代半ばにフランスのピアニスト、[[ルイ・ディエメ]]がリサイタルにチェンバロの演奏を取り入れた。彼は1769年製のパスカル・タスカンのチェンバロを主に用いた。 1882年にこの楽器は修復され、その後[[パリ]]の[[エラール]]社が借り受けて研究した。 [[プレイエル]]社もタスカンの楽器を研究し、両社とも1889年の[[パリ万国博覧会 (1889年)|パリ万国博覧会]]にチェンバロを出品した。 ドイツでは通称「バッハ・チェンバロ」と呼ばれる楽器<ref>MIM Berlin, catalog number 5614.</ref> がチェンバロ復興の参考にされた。この楽器の、下鍵盤に16′と8′、上鍵盤に8′と4′という歴史的なチェンバロでは特殊なレジスター構成が理想的なものとされ、モダン・チェンバロに大きな影響を与えた。 1899年に[[ベルリン]]のヴィルヘルム・ヒールによってこの楽器に基づいたチェンバロが製作されている。 1912年に[[ワンダ・ランドフスカ]]の構想によりプレイエル社が近代的なコンサートホールでの演奏に向けた新型のチェンバロを開発した<ref name="pleyel">[http://www.harpsichord.org.uk/EH/Vol2/No5/pleyel.pdf/ J. A. Richard, "The Pleyel Harpsichord," ''The English Harpsichord Magazine,'' Vol. 2, No. 5, 1979.]</ref>。 この楽器は、鉄製のフレームを持ち、太い弦が高い張力で張られ、響板の補強法はグランド・ピアノとほぼ同じで、ケースも頑丈に作られていた。下鍵盤に16′、8′、4′、上鍵盤に8′の構成で、レジスターは7本のペダルで操作された。プレイエル社の楽器はドイツのチェンバロ製作にも影響を及ぼし、幾つかのメーカーはプレイエル型のレジスター構成や鉄製フレームを採用した。 1930年ごろからドイツのチェンバロ製作は再び「バッハ」型のレジスター構成に戻り、鉄製フレームは用いられなくなったが、依然としてそれは歴史的な楽器とは大きく異なるものであった。 ノイペルト、ヴィトマイヤー、シュペアハーケ、アンマー、ザスマンなどのメーカーにより製造されたモダン・チェンバロ<ref>[http://www.jsebestyen.org/harpsichord/audio.html THE SOUNDS OF EUROPEAN REVIVAL HARPSICHORDS]</ref>は世界各地に輸出され、演奏家や聴衆の一般的なチェンバロのイメージとなった 一方で20世紀半ば頃からフランク・ハバード、ウィリアム・ダウド、マルティン・スコヴロネックなどの製作家により歴史的なチェンバロの研究がなされ、伝統的製法の再現が試みられた。彼らの作る楽器は高い人気を博し、他の多くの製作家たちも歴史考証的な楽器の製作に転じた。現在では歴史考証的な楽器が主流となり、ルネサンス・バロック期の音楽を演奏する際に、モダン・チェンバロを用いることは殆ど無い。一方、モダン・チェンバロを前提とした音楽作品、例えば、[[フランシス・プーランク]]の「[[田園のコンセール|クラヴサンと管弦楽のための田園のコンセール]]」などはモダン・チェンバロで演奏するのが妥当とされる。 == 様式 == === イタリア === [[イタリア]]のチェンバロは、底板を基礎として支持材を組み、約4~6mm程度の薄い側板を貼り合わせた構造をとっている。ケースの素材には主に[[イトスギ]]材が用いられた。一般にこの薄手の本体は、より頑丈なアウターケースに収納された。後に単一の厚手のケースを持つ楽器も現れたが、外見上は従来通りアウターケースの中にインナーケースが納められているかのように装飾がほどこされた。これを「フォルス・インナー・アウター」(偽インナー・アウター)と呼ぶ<ref>Hubbard 1967, 20</ref>。 弦長は全音域の5/6程度までオクターヴごとに倍になる自然な比率に従っている。そのためベントサイドは深く窪み、外形は細長い。鍵盤は一段鍵盤が一般的である。弦列は16世紀には1×8′または1×8′、1×4′の構成が一般的であったが、17世紀以降は2×8′が主流となった。これは[[通奏低音]]の演奏に適応したものと考えられる<ref name="grove" />。16世紀の楽器や文献は、高音域で鉄弦が使用されたことを示唆しているが、17世紀以降は全域で真鍮弦を使用することが一般的となった<ref>[http://www.denzilwraight.com/pitch.htm Denzil Wraight - Italian Keyboard Instruments, "PITCH IN ITALIAN STRING KEYBOARD INSTRUMENTS".]</ref>。ジャックガイドは上下2枚構成ではなく、ボックス・スライドと呼ばれる単一の厚みのあるものが用いられる。レストプランクの幅は高音域で狭く、ジャックの列は斜めに並ぶ。響板の裏側は、数本のリブがブリッジの下を横切って取り付けられることが多い。イタリアのチェンバロの音質は、減衰が早く、歯切れの良い音が特徴である。 <gallery> File:Clavecin Trasuntino.JPG|ヴィト・トラズンティーノのチェンバロ(1560年) File:Clavecin Patavinus.JPG|フランシスクス・パタヴィヌスのチェンバロ(1561年) File:ClavecinBaffo.JPG|ジョヴァンニ・アントニオ・バッフォのチェンバロ(1579年) File:Clavecin Boni.JPG|ジョヴァンニ・バッティスタ・ボニのチェンバロ(1619年) File:ClavecinTodini.jpg|ミケーレ・トディーニのチェンバロ(1670年頃) File:Clavecin italien.jpg|ピエトロ・ファビのチェンバロ(1677年) File:Grimaldi1697.jpg|カルロ・グリマルディのチェンバロ(1697年) File:ClavecinItalienAnonyme.JPG|作者不明のチェンバロ(1700年ごろ) File:Clavecin Solfanelli.JPG|ジュゼッペ・ソルファネッリのチェンバロ(1729年) </gallery> === フランドル === [[フランドル]]のチェンバロ製作では、[[アントウェルペン]]のルッカース一族が重要な役割を果たした。ルッカース一族の工房は、ハンス・ルッカースが1579年にアントウェルペンの聖ルカの[[ギルド]]に加入してから、約1世紀に渡ってアントウェルペンのチェンバロ製作を支配した。 ルッカースのチェンバロは、厚い側板を上下の内部補強材によって連結した枠組が構造の基礎となっており、底板は後から取り付けられた。ケースの素材には[[ポプラ]]材が用いられ、側板は約14mm程度の厚さを持っている。高音域の弦長が長めで、低音域の弦長は抑えられており、イタリアのチェンバロよりもずんぐりとした外形をしている。高音域は鉄弦、低音域は真鍮弦が使われた。標準的な弦列構成は1×8′、1×4′で、8′にはバフ・ストップを備える。音域は通常[[ショート・オクターヴ]]のC/Eからc3までの4オクターヴである。プラッキング・ポイントはナットに近く、一段鍵盤のルッカースのチェンバロの8′のプラッキング・ポイントは、ほぼ18世紀フランスのチェンバロのフロント8′に相当する。ブリッジはイタリアの楽器のものよりも大きく、響板のブリッジの下にはリブを持たない。8′のブリッジと4′のブリッジの間の響板の裏側には4′のヒッチピンにかかる張力に耐えるための補強として4′ヒッチピン・レールがある。4′のブリッジの手前の裏側には斜めにカットオフ・バーと呼ばれる細長い棒が取り付けられ、カットオフ・バーによって区切られた三角形の領域がリブで補強されている。ルッカースのチェンバロの音質は、イタリアのものとは明らかに異なり、響きが長く持続する。 ルッカースは二段鍵盤のチェンバロも製作したが、これは上下で四度ずれた配置の鍵盤で同一の弦を弾くものであり、四度の移調を容易にするためのものであったと考えられている。通常C/E-f3の下鍵盤がC/E-c3の上鍵盤と最高音で揃えられており、下鍵盤では上鍵盤より四度低い音が鳴る。また下鍵盤のプラッキング・ポイントは上鍵盤よりナットから遠い。 ルッカースのチェンバロは規格化された幾つかのサイズで製作され、装飾も規格化されている。外装は大理石を模した柄や鉄帯模様が描かれ、内装は文様を印刷した紙が貼られた。響板およびレストプランク表面は、花や果物、鳥、昆虫、エビなどが[[テンペラ]]画によって描かれた。このような響板装飾はイタリアの楽器には見られない特徴である。ローズは鉛と錫の合金で鋳造され金箔が貼られた。ローズの意匠は[[ハープ]]を弾く[[天使]]で、製作者の[[イニシャル]]が左右に配される。蓋の内側は文様紙が貼られ、[[ラテン語]]の格言が書かれるのが標準的だが、高級なものは画家により絵画が描かれた。 ルッカースのチェンバロは合理的な製法により量産され、近隣諸国に大量に輸出されたが、後に時代の要請に従って多くのルッカースのチェンバロは改造され、現存する楽器でオリジナルの状態にあるものは極めて少ない。音域の拡大、弦の増設、一段鍵盤や移調二段鍵盤の楽器の対比二段鍵盤化などが行われ、時には響板及びケースを拡張する大規模な改造も行われた。このような改造はフランス語でラヴァルマン ''ravalement'' と呼ばれる。改造が盛んに行われた背景にはルッカースの楽器が高額で取引されたことがある。改造されたルッカースの楽器は他の新しい楽器の数倍の値段で取引されたため、ルッカースの改造楽器を装った贋作も作られた。 18世紀のフランドルの有力なチェンバロ製作者としてはドゥルケン一族が知られている。ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの製作した楽器は少なくとも8台が知られている。彼の楽器の多くは5オクターヴの音域で、2×8′、1×4′の弦列を備える。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、しばしば上鍵盤にナザールのレジスターを備えている。 ヨハン・ダニエル・ドゥルケンの1745年の楽器をモデルとして、現代の製作家マルティン・スコヴロネックが1962年に製作したチェンバロは、[[グスタフ・レオンハルト]]が多くの録音に使用したことで有名である。 <gallery> File:Clavecin I Ruckers 1627.JPG|ヨハネス・ルッカースのチェンバロ(1627年) File:Clavecin Ruckers 1637-2.JPG|ヨハネス・ルッカースのチェンバロ(1637年) File:Clavecin Ruckers.jpg|ヨハネス・ルッカースのチェンバロ(1612年)18世紀にフランスで改造 File:Clavecin A Ruckers 1618.JPG|アンドレアス・ルッカースのチェンバロ(1618年) File:Clavecin A Ruckers 1620.JPG|アンドレアス・ルッカースのチェンバロ(1620年) File:Clavecin A Ruckers 1644.JPG|アンドレアス・ルッカースのチェンバロ(1644年) File:Clavecin Dulcken 1747.JPG|ヨハン・ダニエル・ドゥルケンのチェンバロ(1747年) </gallery> === フランス === 17世紀の[[フランス]]のチェンバロの構造はイタリアとフランドルの中間的な特徴を示し、音質的にも両者の中間に位置する<ref name="grove" />。この様な特徴を持つチェンバロは北ヨーロッパの広い地域で製作されていた<ref name="kottick">Kottick 2003, 156</ref>。 フランスでは、17世紀半ばから2組の8′弦を独立して演奏できるカプラー式二段鍵盤のチェンバロが発達していた。フランスに典型的な技法である右手と左手で同じ音域を重ねて弾くピエス・クロワゼはこれによって可能となる。17世紀には下鍵盤をスライドさせる形式のカプラーが用いられていたが、18世紀になるまでには上鍵盤をスライドさせるようになった。 18世紀のフランスのチェンバロはルッカースに大きく影響を受けている。フランスの製作家たちはルッカースの楽器の改造を通じてその設計を学んだものと考えられる。標準的な18世紀フランスのチェンバロの構造はルッカースの設計を踏襲しつつ、より大型化したものであり、カプラー式二段鍵盤を備え、上鍵盤が1×8′、下鍵盤が1×8′、1×4′で、音域は5オクターヴに達する。このような18世紀フランス様式のチェンバロは、現代のチェンバロ製作のモデルの主流となっている。 <gallery> File:Clavecin Jean Denis 1648.JPG|ジャン・ドニのチェンバロ(1648年) File:ClavierFrançaisXVIIe.JPG|作者不明のチェンバロ(17世紀) File:Vincent Tibaut, Toulouse, 1679 - clavecin - IMG 3953.JPG|ヴァンサン・ティボーのチェンバロ(1679年) File:ClavecinFrançaisAnonyme.JPG|作者不明のチェンバロ(1720年頃) File:ClavecinHemsch.jpg|アンリ・エムシュのチェンバロ(1761-1762年) File:HpschdJT.jpg|パスカル・タスカンのチェンバロ(1769年)<ref>[[:fr:Clavecin Taskin de 1769]]</ref> File:Taskin1.jpg|パスカル・タスカンのチェンバロ(1788年) </gallery> === ドイツ === [[ドイツ]]では古くからチェンバロの存在が確認できるが、17世紀までのドイツで製作されたチェンバロは僅かな数しか現存していない。18世紀のチェンバロもイタリア、フランス、イギリスなどに比べると現存するものは少ない。18世紀ドイツのチェンバロ製作には幾つかの流派が存在したが、その中で[[ハンブルク]]の楽器が比較的多く現存している。ハンブルクで活躍したチェンバロ製作者としてはフライシャー一族とハス一族が有名である。ハンブルクのチェンバロの構造は、フランドルの楽器の様に底板の上面に側板が接合されているが、アッパー・ブレースは無く、底板からライナーまでの深さがあるブレースがベントサイドからスパインにかけて横切っている。外見はS字型のベントサイドが特徴的である。ハス一族のチェンバロには16′や2′のレジスターを備えたものも現存している。 [[ベルリン]]のミヒャエル・ミートケのチェンバロは、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]が[[ケーテン]]宮廷で使用したチェンバロがミートケのものであることから、現代のチェンバロ製作のモデル楽器として人気が高い。 <gallery> File:Clavecin Muller 1537.JPG|ハンス・ミュラーのチェンバロ(1537年) File:Clavecin Fleischer.JPG|ヨハン・クリストフ・フライシャーのチェンバロ(1710年) File:ClavecinChristianZell.jpg|クリスチャン・ツェルのチェンバロ(1728年) File:Clavecin Hass 1734.JPG|ヒエロニムス・アルブレヒト・ハスのチェンバロ(1734年) File:Berlin (5595279269).jpg|ミヒャエル・ミートケのチェンバロ(1702-1704年頃)<ref group="注釈">ベルリンの[[シャルロッテンブルク宮殿]]にある二台のミートケのチェンバロの一つ、一段鍵盤のチェンバロで通称「白のミートケ」。もう一台は黒いケースの二段鍵盤のチェンバロで「黒のミートケ」と呼ばれている。</ref> File:Bach Cembalo.jpg|作者不明「バッハ・チェンバロ」(18世紀) </gallery> === イギリス === 16世紀から17世紀にかけての[[イギリス]]では、多くのチェンバロのための楽曲が生み出されたが、現存する当時のイギリス製の楽器は少ない<ref>[http://www.harpsichord.org.uk/EH/Vol1/No1/Early_English_Harpsichord_Building.pdf Thomas McGeary, "Early English Harpsichord Building A Reassessment," ''The English Harpsichord Magazine,'' Vol. 1, No. 1, 1973.]。 </ref>。現在知られるイギリスのチェンバロは主に18世紀以降のもので、ジェイコブ・カークマンと、バーカット・シュディの2人の製作家が有名である。彼らの楽器はルッカースの流れをくむ設計で、華麗で力強い音質が特徴であるが、現代のチェンバロ製作のモデルとしてはあまり用いられていない。二段鍵盤の楽器ではドッグレッグ・ジャックを用い、上鍵盤にナザールのレジスターを備える。18世紀後半には音量を変化させる仕組みとして、マシン・ストップと呼ばれるペダルによってレジスターを操作する機構や、[[オルガン]]のようなスウェル・シャッター(よろい戸)をペダルで開閉する機構を持つチェンバロも作られた。 <gallery> File:Clavecin Kirckman.JPG|ジェイコブ・カークマンのチェンバロ(1761年) File:ClavecinShudi.JPG|バーカット・シュディのチェンバロ(1740年) File:Clavecin Shudi 1773.jpg|バーカット・シュディのチェンバロ(1773年) </gallery> === モダン・チェンバロ === 20世紀初頭のチェンバロ復興と共に、チェンバロを近代化するべく様々な改良を試みた重構造のチェンバロが製作されるようになった。現在ではこのようなチェンバロは、歴史的なチェンバロや、それらに準じて製作されたチェンバロとは区別して、モダン・チェンバロと呼ばれる。モダン・チェンバロは20世紀半ば過ぎまでチェンバロの主流であったが、歴史的なチェンバロが見直されるようになったため、現在では用いられることは少ない<ref name="grove" />。 一般にモダン・チェンバロは、近代的な[[ピアノ]]のように底が開放された構造をとっている。ケースや響板は厚く頑丈に作られており、中には金属製のフレームを用いるものもある。プレクトラムには主に革が用いられ、ジャックには調整用のネジが備えられている。レジスターはペダルにより操作され、演奏中に自在に切り替えることが可能である。また歴史的なチェンバロでは稀な16′の弦列を備えているものが多い<ref>歴史的チェンバロとモダン・チェンバロの相違点は[http://www.hpschd.nu/tech/rsc/type.html Carey Beebe Harpsichords, "What sort of harpsichord is that?"]を参照</ref>。 <gallery> File:PleyelGrandModeleDeConcert.JPG|プレイエルのモダン・チェンバロ(1927年) File:Neupert 1950s Harpsichord.jpg|ノイペルトのモダン・チェンバロ(1950年代) File:Clavecin 1979.JPG|シュペアハーケのモダン・チェンバロ(1979年) </gallery> == チェンバロのための音楽 == === 中世から古典派まで === 初期の鍵盤楽器音楽は楽器の指定が無いことが普通で、チェンバロ、[[クラヴィコード]]、[[オルガン]]などで演奏される。現存する最古の鍵盤楽器音楽とされるのは、14世紀の{{日本語版にない記事リンク|ロバーツブリッジ写本|en|Robertsbridge_Codex}}である。 [[ルネサンス音楽|ルネサンス時代]]には、イベリア半島で[[アントニオ・デ・カベソン]]をはじめとする作曲家により、[[ティエント]]や[[変奏曲|ディフェレンシアス]]などの鍵盤楽器音楽が栄えた。[[ディエゴ・オルティス]]は『変奏論』 Trattado de Glossas (1553) で[[ヴィオラ・ダ・ガンバ]]とチェンバロの合奏について述べている。イギリスでは[[ウィリアム・バード]]や[[ジョン・ブル (作曲家)|ジョン・ブル]]などの作曲家達により多くのチェンバロ曲が書かれ、『[[フィッツウィリアム・ヴァージナル・ブック]]』などの手稿で残されている。 [[バロック音楽|バロック時代]]には、イタリアで劇的な感情の表出を重視した[[モノディ]]様式が生まれ、チェンバロは[[通奏低音]]のための楽器として重要な役割を担った。鍵盤楽器音楽においても劇的な表現が追求され、[[ジローラモ・フレスコバルディ]]は、『トッカータ集 第1巻』 (1615) の序文において、厳格な拍子にとらわれない、情感に応じた自由な演奏を要求している。 18世紀にはナポリ出身の[[ドメニコ・スカルラッティ]]が、ポルトガル王女の[[バルバラ・デ・ブラガンサ]]に音楽教師として仕え、555の[[ソナタ]]として知られる個性的なチェンバロ曲を残している。 一方、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]時代のフランスでは[[ジャック・シャンピオン・ド・シャンボニエール]]や[[ルイ・クープラン]]をはじめとする作曲家によって、[[リュート]]音楽の延長上にチェンバロ(クラヴサン)音楽が栄え、スティル・ブリゼと呼ばれる分散奏法や、繊細な装飾音を多用した、優美な作品が多く生み出された。中心となるのは[[アルマンド]]や[[クーラント]]といった舞曲であり、これらを組み合わせた[[組曲]]はバロック時代のチェンバロ音楽を代表するジャンルの一つとなった。 フランスのクラヴサン音楽は18世紀前半、[[フランソワ・クープラン]]や[[ジャン=フィリップ・ラモー]]らの時代に繁栄の頂点に達する。彼らの作品においては、古典的な舞曲に代わって、描写的な標題を持つ作品が主体となっていった。その後、[[ジャック・デュフリ]]や[[クロード=ベニーニュ・バルバトル]]らを輩出するものの、[[フランス革命]]の勃発により打撃を受けて、フランスのクラヴサン音楽は終焉を迎える。 ドイツのチェンバロ音楽は、イタリアとフランス双方の影響を受け、さらに[[北ドイツ・オルガン楽派]]の伝統が加わる。[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]の作品には、それらの様式の高度な総合が見られる。バッハの息子や弟子の時代には[[クラヴィコード]]が流行し、さらに[[ピアノ]]がそれに取って代わっていった。 === 近代の復興後 === 通奏低音にチェンバロを用いることは[[オペラ]]においては19世紀まで残存したが、19世紀を通じて、チェンバロは実質的にピアノに地位を奪われていた。しかし20世紀に入って、古楽復興運動により、再びチェンバロが演奏されるようになると、さまざまな音色を求めるなかで、チェンバロに目を向ける作曲家も登場した。[[アーノルド・ドルメッチ]]の影響の下、[[ヴァイオレット・ゴードン=ウッドハウス]](1872-1951)、およびフランスでは[[ワンダ・ランドフスカ]]がチェンバロ再興の最前線で演奏を行った。 チェンバロ協奏曲が[[フランシス・プーランク|プーランク]]、[[マヌエル・デ・ファリャ|ファリャ]]、[[ベルトルト・フンメル]]<ref>[http://www.bertoldhummel.de/english/register/register.html Bertold Hummel list of works]: Op. 15, ''Divertimento capriccioso'' for harpsichord and chamber orchestra.</ref>、[[ヘンリク・グレツキ|グレツキ]]、[[フィリップ・グラス|グラス]]、[[ロベルト・カルネヴァーレ]]などによって作曲され、[[ボフスラフ・マルティヌー|マルティヌー]]はチェンバロのために協奏曲とソナタを作曲し、[[エリオット・カーター|カーター]]の二重協奏曲はチェンバロ、ピアノと2つの室内[[オーケストラ]]のために書かれている。 室内楽の分野では、[[ジェルジ・リゲティ|リゲティ]]がいくつかの独奏曲(『[[コンティヌウム]]』など)を作曲しているほか、[[アンリ・デュティユー|デュティユー]]の ''"Les Citations"'' (1991年)はチェンバロ、オーボエ、タブルバスとパーカッションのために書かれている。 その他、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]は『ハムレット』(1964年)でチェンバロを用いている。[[アルフレート・シュニトケ|シュニトケ]]はオーケストラ用作品でしばしばチェンバロを用いている<ref>カプリコーンによるシュニトケ室内楽曲集=CDA66885解説書に、「(チェンバロは)シュニトケの大オーケストラ・スコアにてしばしば遭遇する楽器」との記述あり。</ref>。 日本の作曲家が取り組みはじめたのは戦後になってからであり、その数も多いとはいえないが<ref>光井安子「邦人作曲家によるチェンバロ作品と調査」『岩手大学教育学部付属教育実践研究指導センター研究紀要』第7号、1997年。</ref>、[[武満徹]]の「夢見る雨」(独奏曲)などが生まれている。 チェンバロ奏者でもある[[ヘンドリク・ボウマン]]は17世紀、18世紀の様式に基づいたチェンバロ独奏曲、チェンバロ協奏曲などを作曲している。 === ポピュラー音楽 === 現代では、チェンバロ、もしくはシンセサイザーによる類似の音色が[[ポピュラー音楽]]でも用いられている。代表的な例としては、[[ビージーズ]]、[[ローリング・ストーンズ]]の「[[ビトウィーン・ザ・バトンズ|イエスタデイズ・ペイパー]]」<ref>[http://www.scaruffi.com/vol1/stones.html Rolling Stones at Scaruffi.com's "History of Rock Music"]</ref>や[[R.E.M.]]の "Half a World Away" (アルバム「アウト・オブ・タイム」1991年、収録)<ref>[http://www.rollingstone.com/reviews/album/101403/review/5944577/outoftime ''Out of Time'' review by ''Rolling Stone'']</ref>、[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー]]の「[[エマーソン・レイク・アンド・パーマー (アルバム)|タンク]]」があげられる。 また、[[イージー・リスニング]]においては、[[ポール・モーリア]]がチェンバロ(の音色)を好んで用いたことで知られる(「[[恋はみずいろ]]」「[[オリーブの首飾り]]」が代表的)。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *Ripin, E. M., Schott, H., Koster, J., Wraight, D., Pascual B. K. de, O’BRIEN, G. G., Huber, A., Dowd, W., Mould, C., Whitehead, L., Elste, M. (2001). "Harpsichord." ''The New Grove Dictionary of Music and Musicians.'' 2nd ed. London: Macmillan Publishers. *Boalch, Donald H. (1995). ''Makers of the Harpsichord and Clavichord, 1440-1840'', 3rd edition, with updates by Andreas H. Roth and Charles Mould, Oxford University Press. Boalchの1950年代の調査を基本とした、現存するオリジナル楽器を網羅したカタログ。 *Hubbard, Frank (1967). ''Three Centuries of Harpsichord Making'', 2nd ed. Cambridge, MA: Harvard University Press; ISBN 0-674-88845-6. 著名な製作家による、初期チェンバロの製作技法と地域ごとのチェンバロの展開に関する権威ある研究書。 *Kottick, Edward (2003). ''A History of the Harpsichord'', Indiana University Press. 現代の代表的研究者による広範にわたる研究書。 *O'Brien, Grant (1990). ''Ruckers, a harpsichord and virginal building tradition'', Cambridge University Press. ISBN 0521365651. フレミッシュの開拓者、ルッカース一族による発明に関する研究書。 *Russell, Raymond (1959). ''The Harpsichord and Clavichord'' London: Faber and Faber. *Skowroneck, Martin (2003). ''Cembalobau: Erfahrungen und Erkenntnisse aus der Werkstattpraxis = Harpsichord construction: a craftsman's workshop experience and insight.'' Bergkirchen: Edition Bochinsky, ISBN 3-932275-58-6. 現代の伝統的技法再興における代表的職人による英・独で書かれたチェンバロ製作に関する研究書。 *Zuckermann, Wolfgang (1969). ''The Modern Harpsichord, 20th-century instruments and their makers''. October House Inc. *久保田彰 『チェンバロ 歴史と様式の系譜』 ショパン、2009年、ISBN 978-4883642809。 *高橋辰郎、柴田雄康、野村満男、渡邊順生 共著 『古楽器研究 チェンバロをさぐる』 東京コレギウム、2000年、ISBN 4-924541-00-1。 *野村満男 『〈改訂版〉チェンバロの保守と調律』 東京コレギウム、1987年、ISBN 978-4924541030。 *渡邊順生 『チェンバロ・フォルテピアノ』 [[東京書籍]]、2000年、ISBN 978-4487794157。 *野村満男、野村敬喬、柴田雄康、久保田彰 共著 『チェンバロ クラヴィコード 関係用語集』 東京コレギウム、2013年、ISBN 978-4-924541-01-6。 == 関連項目 == *[[ピアノ]] *[[クラヴィコード]] *[[:Category:チェンバロ奏者]] *[[クラシック音楽の演奏家一覧#チェンバロ奏者、フォルテピアノ奏者]] *[[古楽器]] <!--日本POVでないある程度意味のあるリストを作る方が現れるまでひとまずコメントアウト == チェンバロ製作家 == *[[野村滿男]] *[[久保田彰]] *[[高橋辰郎]]--> == 外部リンク == * [http://mvsica.sakura.ne.jp/eki/index.html 初期鍵盤楽器のページ] チェンバロQ&A・リンク集などを含む。 * {{IMSLP2|work=Category:Scores featuring the harpsichord|cname=Scores featuring the harpsichord}} * [http://museum.min-on.or.jp/ 民音音楽博物館] 16~17世紀のチェンバロを実演公開している。 {{Commonscat|Harpsichord}} {{オーケストラの楽器}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちえんはろ}} [[Category:チェンバロ|*]] [[Category:鍵盤楽器]] [[Category:弦楽器]] [[Category:古楽器]]
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東京スカパラダイスオーケストラ
東京スカパラダイスオーケストラ(とうきょうスカパラダイスオーケストラ、英: Tokyo Ska Paradise Orchestra)は、日本のスカバンド。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。レーベルはcutting edge。略称は「スカパラ」。 1985年 1987年 1988年 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2005年 2008年 2014年 2015年 2018年 2019年 2020年 2021年 2022年 2023年 ここではメジャー・デビュー当時及びそれ以降に在籍し、既に脱退した過去のメンバーについて記載する。脱退順。 ※プロモーション及びインタビュー出演除く ※インタビュー出演及びDJ出演を除く ※ホーンズ3=NARGO、北原、GAMO
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東京スカパラダイスオーケストラは、日本のスカバンド。所属事務所はソニー・ミュージックアーティスツ。レーベルはcutting edge。略称は「スカパラ」。
{{Otheruses|バンド|同名の音楽作品|東京スカパラダイスオーケストラ (アルバム)}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = 東京スカパラダイスオーケストラ | 画像 = Tokyo Ska Paradise Orchestra mg 6175.jpg | 画像説明 = {{仮リンク|ユーロックエーヌ・ド・ベルフォール|en|Eurockéennes}}にて(2007年) | 画像サイズ = 250px | 背景色 = band | 別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。通称や略称ではありません。 --> | 出身地 = {{JPN}} | ジャンル = {{Hlist-comma|[[スカ]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |last=AMG Staff |title=Tokyo Ska Paradise Orchestra {{!}} Biography & History |class=artist |id=tokyo-ska-paradise-orchestra-mn0000936442 |accessdate=2020-12-06 }}</ref><ref name="Billboard Bio">{{Cite web |title=Tokyo Ska Paradise Orchestra Announce Tour Dates in U.S., Mexico, More |url=https://www.billboard.com/articles/news/international/7933936/tokyo-ska-paradise-orchestra-tour-dates-united-states-mexico |website=[[ビルボード|Billboard]] |date=2017-08-17 |accessdate=2020-12-06 }}</ref><ref name="Bandwagon Bio">{{Cite web |first=Surej |last=Singh |title=Tokyo Ska Paradise Orchestra set to return to Singapore |url=https://www.bandwagon.asia/articles/tokyo-ska-paradise-orchestra-set-to-return-to-singapore-2018 |website=[[:en:Bandwagon (magazine)|Bandwagon Asia]] |date=2017-12-04 |accessdate=2020-12-06 }}</ref>|[[レゲエ]]<ref name="allmusic" />|[[オルタナティヴ・ロック]]<ref name="allmusic" />|[[ジャズ]]<ref name="Billboard Bio"/><ref name="Bandwagon Bio"/><ref name="eldiario.es">{{Cite web |title=Tokyo Ska Paradise Orchestra, ska japonés para oídos latinos |url=http://www.eldiario.es/cultura/Tokyo-Ska-Paradise-Orchestra-japones_0_690131403.html |website=[[:en:Eldiario.es|Eldiario.es]] |language=Spanish |date=2017-09-24 |accessdate=2020-12-06 }}</ref>}} | 活動期間 = [[1985年]] - | レーベル = {{Hlist-comma|[[ファイルレコード|ファイル]]|[[エピックレコードジャパン|EPIC]]|[[avex trax]]|[[cutting edge]]}} | 事務所 = [[ソニー・ミュージックアーティスツ]] | 共同作業者 = | 公式サイト = [https://www.tokyoska.net/ TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA] | メンバー = {{Plainlist| * NARGO([[トランペット]]) * 北原雅彦([[トロンボーン]]) * GAMO([[テナー・サクソフォーン|テナーサックス]]) * [[谷中敦]]([[バリトンサックス]]) * 沖祐市([[キーボード (楽器)|キーボード]]) * [[川上つよし]]([[ベース (弦楽器)|ベース]]) * [[加藤隆志]]([[ギター]]) * 大森はじめ([[打楽器|パーカッション]]) * [[茂木欣一]]([[ドラムセット|ドラムス]]・[[ボーカル]]) }} | 旧メンバー = {{Plainlist| * 武内雄平(ソプラノサックス・[[フルート]]) * 林昌幸(ギター) * [[ASA-chang|ASA-CHANG]](パーカッション) * クリーンヘッド・ギムラ(ボーカル) * 寺師徹(ギター) * 杉村ルイ(ボーカル) * [[青木達之]](ドラムス) * [[冷牟田竜之]]([[アルト・サクソフォーン|アルトサックス]]・[[アジテーター]]) }} }} {{Infobox YouTube personality | name = 東京スカパラダイスオーケストラ | channel_display_name = TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA OFFICIAL | channel_url = UC5RmUAcm_w5K9cxtQSj7W7g | years_active = [[2009年]] - | genre = [[音楽]] | subscribers = 約29.5万人 | views = 約1億6797.7万回 | silver_button = yes | silver_year = 2018年4月3日 | stats_update = 2023年2月25日 }} '''東京スカパラダイスオーケストラ'''(とうきょうスカパラダイスオーケストラ、{{Lang-en-short|Tokyo Ska Paradise Orchestra}})は、[[日本]]の[[スカ]][[バンド (音楽)|バンド]]。所属事務所は[[ソニー・ミュージックアーティスツ]]。[[レコードレーベル|レーベル]]は[[cutting edge]]。略称は「'''スカパラ'''」<ref name=":0" /><ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/music/news/505884|title=スカパラが「紅白」初出演!オープニングテーマをNHKホールに響かせる「楽しみにしていて下さい」|newspaper=音楽ナタリー|publisher=株式会社ナターシャ|date=2022-12-20|accessdate=2023-01-11}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2261449/full/|title=【紅白】スカパラ、オープニングテーマを担当「大変うれしく思っています」|newspaper=ORICON NEWS|publisher=株式会社oricon ME|date=2022-12-20|accessdate=2023-01-11}}</ref>。 == 来歴 == '''1985年''' * [[ASA-CHANG&巡礼|ASA-CHANG]]により結成。 '''1987年''' * クリーンヘッド・ギムラ、[[青木達之]]の加入を契機に[[川上つよし]]、沖祐市、武内雄平が相次いで加入。当時は加藤敦、三上隆義([[三上博史]]の実兄)、金沢克彦も参加していた。 '''1988年''' * 3月、新宿JAMでのイベント『MARCH OF THE MODS』でステージデビュー。場内の観客による喧嘩が絶えなかった。 * 5月、クリーンヘッド・ギムラに誘われGAMOが加入。川上つよし、沖祐市らの親友であった[[谷中敦]]も正式メンバーとなった。 * 6月、[[ブルー・トニック]]として[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]していた[[冷牟田竜之]]が加入。[[スカフレイムス]]主催のインクスティック芝浦ファクトリーでのイベント「CLUB SKA」に出演。[[サーモンピンク]]色の[[スーツ]]をメンバー全員で揃えた。クリーンヘッド・ギムラが「ジャングルブギ」で初[[ボーカル]]を披露。 * 10月、GAMOが連れてきた北原雅彦が加入。当時、既にプロの[[ミュージシャン]]として活動していた。 * 11月22日、六本木インクスティックで初の単独ライブを行う。 * 12月、NARGOが加入。このメンバーで「スキャラバン」、「ペドラーズ」、「ジャングルブギ」、「キラーストリート・ジャンピン」(初のオリジナル曲、未発表)を収めた[[デモテープ]]を録音。 '''1989年''' * 1月18日、[[フィッシュボーン]]の来日公演の前座を[[日本青年館]]で行なう。この頃から[[口コミ]]により評判が広がり動員数も増える。 * 4月29日、[[ブルー・トニック]]の解散ライブにNARGO、北原、GAMO、ASA-CHANGが参加。 * 6月、林昌幸が加入。[[メジャー・デビュー (音楽家)|メジャー・デビュー]]時のメンバーが揃う。 * 11月18日、3日間で完成させた[[ファイルレコード]]から[[レコード|アナログ盤]]『[[東京スカパラダイスオーケストラ (アルバム)|東京スカパラダイスオーケストラ]]』をリリース。 '''1990年''' * 1月〜2月、メジャー・デビュー・アルバム『[[スカパラ登場]]』の[[レコーディング]]を行なう。 * 3月30日、新宿ステレオホールにてデビュー記念のコンベンションライブを行う。このライブで演奏された「36-22-36」と「[[妖怪人間ベム]]」は1991年3月21日発売『[[東京スカパラダイスオーケストラ ライブ|東京スカパラダイスオーケストラライブ]]』に収録。 * 4月、武内が就職により脱退。 * 4月21日、[[エピックレコードジャパン|EPIC/SONY RECORDS]]からシングル「MONSTER ROCK」でメジャー・デビュー。 * 5月1日、アルバム『[[スカパラ登場]]』を発売。[[オリコン]]初登場10位を記録。 '''1991年''' * 6月21日、2ndアルバム『[[ワールド フェイマス]]』をリリース。 * 同バンド初となる[[日本武道館]]公演(10,000人動員)を成功させる。 '''1992年''' * 6月、ギターの林が脱退。 * 寺師徹がサポートギタリストとして参加する。 '''1993年''' * 3月21日、3rdアルバム『[[PIONEERS]]』をリリース。 * 創立者でありバンマスのASA-CHANGが脱退。 * 7月頃、ギターの寺師徹が加入。 '''1994年''' * 4月21日、4thアルバム『[[FANTASIA (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|FANTASIA]]』をリリース。 '''1995年''' * 4月23日、クリーンヘッド・ギムラ永眠。 * 6月21日、5thアルバム『[[GRAND PRIX (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|GRAND PRIX]]』をリリース。このアルバムには、[[小沢健二]]、[[キミドリ]]、[[石川さゆり]]、[[竹中直人]]、[[高橋幸宏]]、スリラーU、ミスティ・オールドランドなどが参加している。また、ギムラの病気療養中に制作された。 * パーカッションの大森はじめが『ALL JAPAN GRAND PRIX』ツアーからサポートメンバーとして参加。 '''1996年''' * 元旦のストリートライブをもってパーカッションの大森が正式加入。 * 冷牟田がワールドツアー中の[[タイ王国|タイ]]でバイク事故に遭う。 '''1997年''' * 4月1日、[[竹中直人]]出演の[[TBSテレビ|TBS]]バラエティ番組『[[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]]』にレギュラー出演(9月30日まで放送)。 * 6月17日、日本武道館公演。前年の事故から療養中だった冷牟田が一時復帰。デビュー時に脱退した武内雄平と番組で共演している竹中がゲスト出演する。 '''1998年''' * 1月17日、ギターの寺師が脱退。 * エピックレコードジャパンからavex traxへレーベル移籍。 * スカパラ初のボーカリストとして、ギムラの実弟である杉村ルイ(ex.ザ・ヘアー)が加入する。 * ギターの[[加藤隆志]]がサポートメンバーとして参加。 '''1999年''' * 2月、ボーカルの杉村が脱退。 * 5月2日、ドラムス・青木達之が列車に撥ねられ死亡。自殺とされる。 * 5月中旬からのツアー『荒野を走る』はサポートドラマーとして[[BLANKEY JET CITY]]の[[中村達也 (1965年生のドラマー)|中村達也]]を招聘、遂行された。 * 8月の闘魂'99以降、活動停止中の[[フィッシュマンズ]]のドラマー[[茂木欣一]]がサポートとして参加。 * スカパラ(当時まだサポートだった加藤、茂木を含む10人)、[[Fantastic Plastic Machine]]、[[サワサキヨシヒロ]]が集結した総勢14人からなる音楽集団SPEED KINGが結成され、99年末から2000年初頭にかけ活動。 '''2000年''' * 8thアルバム『[[FULL-TENSION BEATERS]]』は、同年にヨーロッパでリリース。 * イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、オランダを12日間(ライブ11本)の海外ツアーを行なう。 * サポートギターとして参加していた加藤が正式加入。 * 同年はメジャーデビュー10周年であったが、前年のメンバーの死去・加入など慌ただしい年だったため、周年記念ライブなどは行なわれなかった。 '''2001年''' * ドラムスの茂木が、11月の『Goin' Round The SKA』ツアーから正式加入。 * 男性シンガーをフィーチャーした歌モノ三部作をリリース([[田島貴男]]「[[めくれたオレンジ]]」、[[チバユウスケ]]「[[カナリヤ鳴く空]]」、[[奥田民生]]「[[美しく燃える森]]」)。スカパラが楽曲(作詞含む)を準備し、外部からボーカリストを招き入れる、いわゆる「歌モノ」はこの時から始まる。 '''2002年''' * 9thアルバム『[[Stompin' On DOWN BEAT ALLEY]]』リリース。オリコンアルバムチャート1位を獲得。 '''2003年''' * ドラムスの茂木が歌唱する「[[銀河と迷路]]」がオリコン9位を記録。スカパラ単独(他からボーカルを招かない状態)では、最高順位。 '''2005年''' * ヨーロッパ11か国157公演のツアーを成功させる。 '''2008年''' * 7月17日、1996年に受けた事故の傷の療養専念のため、アルトサックスの冷牟田が脱退。 '''2014年''' * 7月26日、[[福島県]]いわき市いわき芸術文化交流館アリオスにて25周年のツアーファイナル公演。ASA-CHANGがゲスト出演、スカパラと21年ぶりの共演を果たす。 '''2015年''' * 3月28日、日本武道館公演。ゲストに[[10-FEET]]、[[MONGOL800]]、[[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]、[[亀田誠治]]らが出演する。 '''2018年''' * 8月11日、『[[RISING SUN ROCK FESTIVAL|RISING SUN ROCK FESTIVAL 2018 in EZO]]』クロージングアクトとして出演。サプライズも含め、史上最多の10人のゲストが出演した。 * セットリスト(ゲスト:中村達也、奥田民生、チバユウスケ、[[キヨサク]]、[[TOSHI-LOW]]、[[ハナレグミ]]、[[甲本ヒロト]]、[[尾崎世界観]]、[[斎藤宏介]]、[[峯田和伸]]) # [[火の玉ジャイヴ]] feat. 中村達也 # [[東京スカパラダイスオーケストラ (アルバム)|スキャラバン]] feat. 中村達也 # [[美しく燃える森]] feat. 奥田民生 # [[カナリヤ鳴く空]] feat. チバユウスケ # 銀河と迷路 # [[SKA ME FOREVER|流れゆく世界の中で]] feat. キヨサク # [[BEST OF TOKYO SKA 1998-2007|SKA ME CRAZY]] # [[GLORIOUS (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|野望なき野郎どもへ]] feat. TOSHI-LOW # [[追憶のライラック]] feat. ハナレグミ # [[星降る夜に (東京スカパラダイスオーケストラの曲)|星降る夜に]] feat. 甲本ヒロト # [[Walkin' (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|水琴窟 -SUIKINKUTSU-]] # 爆音ラブソング feat. 尾崎世界観 # 白と黒のモントゥーノ feat. 斎藤宏介 # ちえのわ feat. 峯田和伸 # [[めくれたオレンジ]] feat. 峯田和伸 # [[Stompin' On DOWN BEAT ALLEY|DOWN BEAT STOMP]] # [[Paradise Has NO BORDER|Paradise Has No Border]] '''2019年''' * 10月30日、[[メキシコシティ]]にて開催しているメキシコシティ最大の音楽アワード『Las Lunasdel Auditorio2019』にてライブパフォーマンス賞にノミネートされる。 '''2020年''' * 3月20日、[[代々木第一体育館]]にて行われる予定だった30周年記念公演が[[新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)|新型コロナウイルスの流行]]により中止。急遽[[スペースシャワーTV]]との協力による[[YouTube]]での生配信ライブ『TOKYO SKA JAM "8"』が行われる。 * 4月3日、[[テレビ朝日]]の音楽番組『[[ミュージックステーション]]』に出演。[[aiko]]とのコラボ曲を披露する。 * 7月29日、テレビ朝日の特撮テレビシリーズ『[[仮面ライダーセイバー]]』の制作発表会見に登壇。同番組の主題歌とエンディングテーマを担当することが発表された。 '''2021年''' * 8月8日、[[国立競技場]](オリンピックスタジアム)で開催された[[2020年東京オリンピック]]の閉会式に出演。 '''2022年''' * 12月31日、[[第73回NHK紅白歌合戦]]に初出演。オープニングテーマ「[[愛の讃歌]]」および[[坂本冬美]]の「[[お祭りマンボ]]〜スカパラSP〜」の演奏に参加。 '''2023年''' * 7月27日、ドラムスの茂木が腸閉塞症の疑いで緊急手術を行い、バンドの2公演の開催が見合わせとなる<ref>{{Cite news|url= https://www.sanspo.com/article/20230728-3PR7FO6NZRER5J6Y4LP62VYXHY/ |title= スカパラの茂木欣一、腸閉塞症の疑いで緊急手術 2公演の開催見合わせ |newspaper= サンスポ |publisher= 産経デジタル |date= 2023-07-28 |accessdate= 2023-07-28 }}</ref>。 == メンバー == === 現メンバー === * 年齢順。なお正式なリーダーはおらず、各場面でそれに適したメンバーがその場を仕切るスタイルを取っている。 * 個人で項目のあるメンバーについてはそちらも参照のこと。 {| class="wikitable" style="text-align:center;font-size:small;" !style="width:11em;"| 氏名 !style="width:11em;"| パート !style="width:14em;"| 生年月日・出身地 !style="width:65em;"| 備考 |- | '''北原 雅彦'''<br />(きたはら まさひこ) | '''[[トロンボーン|Trb.]]''' | {{生年月日と年齢|1961|9|7}}<br />[[神奈川県]][[横浜市]][[緑区 (横浜市)|緑区]] |style="text-align:left;"| * 血液型A型。 * メンバー最年長でホーンセクションのリーダー。楽曲のホーンアレンジは基本的に全て北原が担当している。 * [[ドレッドヘアー]]とヒゲが初期からのトレードマークである。 * とにかく動き回るステージングが特徴で、「そのせいでメンバー内で1番楽器が壊れやすい」と語っている。またライブで使用されるセットリストは北原が毎回手書きで作成している。 * メジャーデビュー前は[[レピッシュ|LÄ-PPISCH]]でサポートメンバーとして活動していた。 * NARGOと共に[[スフォンク|SFKUaNK!!]]のメンバーとしても活動している。 * 2015年7月より所属事務所である[[ソニー・ミュージックアーティスツ|SMA]]の顧問を務めている。 * 趣味はサーフィン。 |- | '''GAMO'''<br />(ガモー) | '''[[テナー・サクソフォーン|Tsx.]]''' / [[アジテーター|Agt.]] | {{生年月日と年齢|1965|1|26}}<br />[[北海道]][[岩見沢市]] |style="text-align:left;"| * 本名、'''蒲生 俊貴'''(がもう としき)。1998年までは「GAMOU」という名義で活動していた。 * 血液型B型。 * 武内の脱退後は[[ソプラノ・サクソフォーン|ソプラノサックス]]を担当する事もあるほか、冷牟田の脱退後はアジテーターを兼任している。2ndアルバム『ワールド フェイマス』収録の「四次元山脈」ではバスクラリネットを使用している。 * [[ソニー・ロリンズ]]に影響されて[[サクソフォーン|サックス]]を始めた。 * 上京した当時に住んでいたアパートが取壊しとなり、その立退料で音楽の修行をしに渡米したという経歴を持つ。 * 髪型がよく変わることでも注目を集めており、現在は前髪を[[ぱっつん]]にしたスタイル。 |- | '''大森 はじめ'''<br />(おおもり はじめ) | '''[[パーカッション|Perc.]]''' / [[ボーカル|Vo.]] / Agt. | {{生年月日と年齢|1965|6|29}}<br />[[東京都]][[三鷹市]] |style="text-align:left;"| * 本名およびサポート時代の名義は'''大森 一'''(おおもり はじめ)。血液型B型。 * 1995年の『ALL JAPAN GRAND PRIX』ツアーよりサポートとして参加し、翌年1月1日に正式加入。 * [[コンガ]]、[[ティンバレス]]、[[ギロ]]などを中心に使用し、[[電子ドラム]]を飛び道具として用いるプレイスタイルを取っている。 * 楽曲によってはボーカルやコーラスを担当。正式加入以降はアジテーターも兼任している。 * アメコミやゲームに造詣が深く、2002年の映画『[[スパイダーマン (2002年の映画)|スパイダーマン]]』でフラッシュ・トンプソンの吹替を担当した。 * 冷牟田が90年代前半頃に立ち上げていたDAD MAM GOD(脱退後に立ち上げたのとは別物)のメンバーだった(沖祐市も参加)[[武田真治]]のファースト・アルバム『S』(1995年6月21日リリース)に参加していた。 * [[川上つよしと彼のムードメイカーズ]]のメンバー。 * 2016年4月から會田茂一(アイゴン)とのYouTube番組「マイナス軒(Minus Bros.)[https://www.youtube.com/channel/UCHrW20TbhdO3xtiSsJQiBmg] 」を開始。現在も配信中。 |- | '''沖 祐市'''<br />(おき ゆういち) | '''[[キーボード (楽器)|Key.]]''' / Vo. | {{生年月日と年齢|1966|9|5}}<br />神奈川県[[川崎市]] |style="text-align:left;"| * 血液型B型。出生は[[大阪府]]で、まもなく川崎市に引越した。 * 1997年までは「沖祐一」名義で活動していた。 * キーボードの他に[[アコーディオン]]も使用する。また[[口笛]]も得意とし、「君と僕」「スタア スタア スタア」などのように沖の口笛をメインとした曲も存在する。 * ライブでは普通の横置キーボードを[[ショルダーキーボード|ショルダー・キーボード]]の様に持ち上げてステージを走り回る力技を得意とする。そのせいで過去に何度か手の小指や足首を骨折し終演後病院へ直行する事態になったこともある。 * エレクトーン奏者の沖浩一は実父。 * [[Sembello]]のメンバーとして活動している他、ソロ活動でアルバムもリリースしている。 |- | '''[[谷中敦|谷中 敦]]'''<br />(やなか あつし) | '''[[バリトン・サクソフォーン|Bsx.]]''' / Vo. / Agt. | {{生年月日と年齢|1966|12|25}}<br />東京都[[日野市]] |style="text-align:left;"| * 血液型A型。 * 2001年に発売された「[[めくれたオレンジ]]」以降、ほぼ全てのボーカル曲の作詞を担当。 * バンド加入と同時に[[バリトン・サクソフォーン|バリトンサックス]]を始めた。 * 曲によっては[[フルート]]や[[アルト・サクソフォーン|ストレートアルトサックス]]も使用する。 * 俳優としても活動しており、『[[河童 (小説)|河童 kappa]]』で主演を務めたほか、『[[嫌われ松子の一生 (映画)|嫌われ松子の一生]]』『[[小公女セイラ]]』等に出演している。 * [[フランク・ザッパ]]の崇拝者で、コンピレーション・アルバムもコンパイルしている。 * [[藤枝伸介]]と共に「2 of a kind」というユニットでも活動中。 |- | '''[[川上つよし|川上 つよし]]'''<br />(かわかみ つよし) | '''[[ベース (弦楽器)|Ba.]]''' | {{生年月日と年齢|1967|1|21}}<br />東京都三鷹市 |style="text-align:left;"| * 本名及び旧名義は'''川上 毅'''(かわかみ つよし)。血液型B型。 * メイン楽器は[[フェンダー (楽器メーカー)|Fender]]の[[フェンダー・ジャズベース|ジャズベース]]や[[フェンダー・プレシジョンベース|プレシジョンベース]]。一部楽曲では[[コントラバス|アップライトベース]]も用いる。 * スカを始めとして様々な音楽に精通しており、リズム隊のリーダー的役割を担っている。 * [[サッカー]]、旅行、釣り、温泉、文学等多趣味であり、『[[タモリ倶楽部]]』の「[[空耳アワー]]」のコーナーでは空耳役者として[[奥田民生]]と共に漫才師役を演じた。 * 「[[川上つよしと彼のムードメイカーズ]]」主宰。 |- | '''[[茂木欣一|茂木 欣一]]'''<br />(もてぎ きんいち) | '''[[ドラムセット|Dr.]]''' / Vo. |{{生年月日と年齢|1967|12|15}}<br />神奈川県横浜市[[青葉区 (横浜市)|青葉区]] |style="text-align:left;"| * 血液型A型。 * 1999年の青木の死後、サポートとして参加し、2001年11月より正式加入。 * その歌唱力からボーカルを務めることが多く、スカパラ現メンバーの中ではボーカル担当曲が最も多い。 * メインドラムは[[星野楽器|TAMA]]のStar Bubinga。シンバルは[[セイビアン|SABIAN]]を使用している。 * ドラマーとしては[[オープンハンド|オープン・ハンド]]奏法を用いており、上手側(自身から見て左側)にシンバルを多く配置している。以前はツーバス仕様だった事もあった。 * [[フィッシュマンズ|FISHMANS]]、[[So many tears]]のメンバーとしても活動している。 |- | '''NARGO'''<br />(ナーゴ) | '''[[トランペット|Tp.]]''' | {{生年月日と年齢|1968|4|4}}<br />東京都[[武蔵野市]] |style="text-align:left;"| * 本名、'''名古屋 君義'''(なごや きみよし)。血液型A型。 * 兄の影響で幼少期からジャズに触れており、10歳でトランペットを始めた。 * 曲によっては[[鍵盤ハーモニカ]]、[[スティールパン]]等も使用する。 * 加入当時はスカという音楽について全く知らず、その為ASA-CHANGの命で川上からスカの手解きを受けていた。その時にもらったカセットテープは今でも大切に保管してあるという。 * 北原と共に[[スフォンク|SFKUaNK!!]]のメンバーとしても活動。 |- | '''[[加藤隆志|加藤 隆志]]'''<br />(かとう たかし) | '''[[ギター|Gt.]]''' / Agt. | {{生年月日と年齢|1971|9|20}}<br />[[鳥取県]][[気高町]](現[[鳥取市]]) |style="text-align:left;"| * 血液型A型。 * 元「[[lost CANDI]]」。 * 1998年の寺師の脱退後からサポートとして参加し、2000年1月より正式加入。 * メインギターは'65年製[[フェンダー・ストラトキャスター]]。他にも[[ギブソン・ES-335]]や[[グレッチ|ホワイトファルコン]]、[[フェンダー・ジャガー|ジャガー]]等を使用。 * [[ブライアン・セッツァー]]や[[ザ・スミス]]から影響を受けており、彼の曲はロック・サウンドを前面に出すのが特徴。 *学生時代から[[パンク・ロック|パンク]]に傾倒しており、[[ソニック・ユース|Sonic Youth]]や[[テレヴィジョン (バンド)|Television]]のファンを公言している。 * [[LOSALIOS]]、[[So many tears]]のメンバーとしても活動している。 |} === 旧メンバー === ここではメジャー・デビュー当時及びそれ以降に在籍し、既に脱退した過去のメンバーについて記載する。脱退順。 ; 武内雄平(たけうち ゆうへい):[[ソプラノ・サクソフォーン|ソプラノ・サックス]]、[[フルート]] : 1990年4月に脱退。別称:スバラシイ武内雄平。脱退後[[朝日新聞]]記者を経て、現在[[浜離宮朝日ホール|朝日ホール]]ディレクター兼文化事業部員<ref>{{Cite web|和書|title=カルチャー 楽屋裏パラダイス |url=https://aspara.asahi.com/blog/gakuya/ |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2020-12-06 |deadlinkdate=2020-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111214151016/https://aspara.asahi.com/blog/gakuya/ |archivedate=2011-12-14 }}</ref>。 ; 林昌幸(はやし まさゆき):ギター : 1992年6月に脱退。愛称:MARC。脱退後は、[[BLUE BEAT PLAYERS]]、CHILL、Uncaba Authentic Band、THE CASTLE、The Toucansなどで活動。 ; [[ASA-CHANG&巡礼|ASA-CHANG]](アサチャン、 1963年7月4日 - ):パーカッション : 本名:朝倉弘一(あさくら ひろかず) : 1993年3月に脱退。東京スカパラダイスオーケストラの創始者であり[[バンドマスター|バンマス]]。[[小泉今日子]]などのヘアメイク・アーティストを本業としながらメンバーを募り結成した。93年のアルバム『PIONEERS』の製作後、「自身がこのバンドで演奏したかった音楽はすべてやった」として脱退している。その後は[[ASA-CHANG&巡礼]]を結成し、その他、多彩なユニットも数多く企画しており、スカパラ・メンバーとも共演している。 ; クリーンヘッド・ギムラ(1962年6月11日 - 1995年4月23日):におい、雰囲気、フロントマンなど : 本名:杉村英詩(すぎむら えいじ)。父は芸術家の[[杉村篤]]、兄はミュージシャンの[[杉村洋]]。 : 1987年にトランペットとして加入。後に兼任ボーカルから専任としてフロントマンとなる。メジャー・デビュー直後の1990年6月にバンド活動を休止し突如渡米、同年10月に帰国後にはサングラスにスキンヘッド、金のラメが入ったストールを纏うなど一際目立つ強烈なキャラクターとなっていた。また制作主導した1994年の『FANTASIA』ではギターでも参加していたが、同年7月に[[脳腫瘍]]に倒れ、1995年4月23日死去。{{没年齢|1962|6|11|1995|4|23}}。 ボーカルと紹介される事が多々あるが、ボーカリストとして作品にクレジットされたことはない。 ; 寺師徹(てらし とおる、 {{生年月日と年齢|1961|5|7}} - ):ギター : 元「[[ショコラータ]]」、元「[[ザ・スリル]] (THE THRILL)」。1992年夏頃からサポート参加。翌年7月頃に正式加入。1998年1月17日まで在籍。在籍時も様々なミュージシャンのレコーディング、ライブ・サポートを務める。脱退後は「ブラックベルベッツ」をはじめ、「EROTICAO」、「デミセミクエーバー」、「[[金原千恵子]]バンド」などで活動、また舞台役者デビューも果たしている。一時「TORU TERASHIT」に改名していた。 ; 杉村ルイ(すぎむら るい):[[ボーカル]] : 本名:杉村類。クリーンヘッド・ギムラの実弟。 : 1998年2月 - 1999年2月に在籍。「[[THE HAIR]]」のボーカルを経てバンド加入。メッセンジャーと称されたボーカルのほか、[[ハーモニカ]]も担当した。脱退後はソロで「Lui」、「The Locals」名義などで活動。 ; [[青木達之]](あおき たつゆき、1966年8月15日 - 1999年5月2日):ドラム :1987年にASA-CHANGの誘いでベースの川上と共に加入。1999年に[[小田急小田原線]][[豪徳寺駅]]で急行電車に轢かれ死亡した。{{没年齢|1966|8|15|1999|5|2}}。遺書はなかったが、生活上の悩みを抱えていたことから警察はホームからの飛び降り自殺の線を濃厚としている<ref name=":0">{{Cite news |title=「スカパラ」ドラマー、線路にうつぶせ 自殺?/東京・小田急線豪徳寺駅 |newspaper=[[読売新聞]](東京朝刊) |date=1999年5月4日 |page=27 }}</ref>。 ; [[冷牟田竜之]](ひやむた たつゆき、1962年2月14日 - ):アルト・サックス、[[アジテーター]]、ギター : [[福岡県]]出身。血液型はO型。[[ブルー・トニック]]のベーシストとしてデビュー。「スカパラの若大将」と称された。1996年にワールドツアー中の[[タイ王国|タイ]]でバイク事故に遭い、重傷を負った影響で右足に後遺症が残る。2008年7月17日に療養専念のため脱退。現在は「DAD MOM GOD」「THE MAN」「MORE THE MAN」として活動中。 === サポートメンバー === ; [[會田茂一]]:ギター ; [[中村達也 (1965年生のドラマー)|中村達也]]:ドラムス :青木の急死直後から茂木加入時までのライブに参加。 ; [[高橋幸宏]]:ドラムス ; [[COUCH|小島徹也]]:ドラムス == ディスコグラフィー == === オリジナル・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 |- ! 1st | 1990年5月1日 | '''[[スカパラ登場]]''' | 10位 |- ! 2nd | 1991年6月21日 | '''[[ワールド フェイマス]]''' | 13位 |- ! 3rd | 1993年3月21日 | '''[[PIONEERS]]''' | 21位 |- ! 4th | 1994年4月21日 | '''[[FANTASIA (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|FANTASIA]]''' | 32位 |- ! 5th | 1995年6月21日 | '''[[GRAND PRIX (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|GRAND PRIX]]''' |rowspan="2"| 25位 |- ! 6th | 1996年9月2日 | '''[[トーキョー・ストラット]]''' |- ! 7th | 1998年8月26日 | '''[[ARKESTRA]]''' | 20位 |- ! 8th | 2000年7月26日 | '''[[FULL-TENSION BEATERS]]''' | 32位 |- ! 9th | 2002年5月22日 | '''[[Stompin' On DOWN BEAT ALLEY]]''' | 1位 |- ! 10th | 2003年3月5日 | '''[[HIGH NUMBERS]]''' | 2位 |- ! 11th | 2005年3月9日 | '''[[ANSWER (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|ANSWER]]''' | 14位 |- ! 12th | 2006年6月7日 | '''[[WILD PEACE]]''' | 2位 |- ! 13th | 2008年3月26日 | '''[[Perfect Future]]''' | 9位 |- ! 14th | 2009年2月4日 | '''[[PARADISE BLUE]]''' | 7位 |- ! 15th | 2010年3月10日 | '''[[WORLD SKA SYMPHONY]]''' | 9位 |- ! 16th | 2012年3月21日 | '''[[Walkin' (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|Walkin']]''' | 12位 |- ! 17th | 2012年11月17日 | '''[[欲望 (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|欲望]]''' | 20位 |- ! 18th | 2013年7月3日 | '''[[Diamond In Your Heart]]''' | 15位 |- ! 19th | 2014年8月13日 | '''[[SKA ME FOREVER]]''' | 5位 |- ! 20th | 2017年3月8日 | '''[[Paradise Has NO BORDER]]''' | 6位 |- ! 21st | 2018年3月14日 | '''[[GLORIOUS (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|GLORIOUS]]''' | 11位 |- ! 22nd | 2019年11月20日 | '''[[ツギハギカラフル]]''' | 5位 |- ! 23rd | 2021年3月3日 | '''[[SKA=ALMIGHTY]]''' | 8位 |} === ミニ・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 |- ! 1st | 2010年10月27日 | '''[[Goldfingers]]''' | 16位 |- ! 2nd | 2011年3月16日 | '''[[HEROES (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|HEROES]]''' | 26位 |- ! 3rd | 2011年8月3日 | '''[[Sunny Side of the Street]]''' | 18位 |- ! 4th | 2021年11月10日 | '''[[S.O.S. [Share One Sorrow]|S.O.S. [Share One Sorrow]]]''' | 13位 |- ! 5th | 2023年3月15日 | '''[[JUNK or GEM]]''' | 16位 |} === ベスト・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 ! 規格 |- ! 1st | 1997年11月21日 | '''[[MOODS FOR TOKYO SKA 〜WE DON'T KNOW WHAT SKA IS!〜]]''' | 48位 | ESCB-1842 |- ! 2nd | 2002年11月7日 | '''[[BEST (1989〜1997)]]''' | 23位 | ESCL-2333 |- ! 3rd | 2007年3月21日 | '''[[BEST OF TOKYO SKA 1998-2007]]''' | 2位 |CTCR-14528 |- ! 4th | 2015年3月4日 | '''[[THE LAST (東京スカパラダイスオーケストラのアルバム)|THE LAST]]''' | 7位 | 3CD:CTCR-14863/5<br />3CD+2DVD:CTCR-14860〜2/B〜C<br />4CD+3DVD:CTZR-14856〜9/B〜D |- ! 5th | 2020年3月18日 | '''[[TOKYO SKA TREASURES 〜ベスト・オブ・東京スカパラダイスオーケストラ〜]]''' | 4位 | 3CD+2BD:CTCR-14985〜7/B〜C<br />3CD+DVD:CTCR-14988〜90/B<br />3CD:CTCR-14991〜3<br />4CD+2BD+グッズ:CTZ1-14994〜7/B〜C |} === ライブ・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 ! 規格 |- ! 1st | 1991年3月21日 | '''[[東京スカパラダイスオーケストラ ライブ]]''' |align="center"| - | ESCB-1842 |- ! 2nd | 2001年3月14日 | '''[[Gunslingers -LIVE BEST-]]''' |align="center"| - | AVCD-11911 |- ! 3rd | 2004年2月4日 | '''[[ON TOUR]]''' |align="center"| - | CTCR-14327 |- ! 4th | 2016年3月2日 | '''[[THE LAST -LIVE-]]''' | 16位 | CTCR-14899〜900/B |- ! 5th | 2019年3月13日 | '''[[2018 Tour 「SKANKIN JAPAN」 “スカフェス in 大阪城ホール” 2018.12.24]]''' | 19位 | CTCR-14950〜1/B〜C |- ! | 2020年6月1日 | '''TOKYO SKA 30 無観客ライブ ~僕ら、いつだってワイヤレスで繋がっている 2020.03.20''' |align="center"| - | 配信限定 |} === トリビュート・アルバム === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 ! 規格 |- ! 1st | 2019年3月13日 | '''[[東京スカパラダイスオーケストラトリビュート集 楽園十三景]]''' | 23位 | CTCR-14956 |} === シングル === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 最高順位 ! 規格 ! 備考 |- ! 1st | 1990年4月21日 | '''MONSTER ROCK''' |align="center"| 54位 | 通常盤 (CD) ESDB-3091 | |- ! 2nd | 1991年1月21日 | '''栄光へのカウントダウン''' |align="center"| 84位 | 通常盤 (CD) ESDB-3173 | [[テレビ朝日]]系『[[600ステーション]]』テーマソング |- ! 3rd | 1991年6月21日 | '''ホールインワン''' |align="center"| 93位 | 通常盤 (CD) ESDB-3226 | [[サントリー]]「サマー・ウイスキー」CMソング |- ! 4th | 1992年12月2日 |'''Burning Scale''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3352 | [[パイオニア]]「プライベート」CMソング |- ! 5th | 1993年5月1日 | '''マライの號''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3362 | [[フジテレビジョン|CX]]・[[関西テレビ放送|KTV]]系ドラマ「サスペンス明日の13章」エンディング・テーマ |- ! 6th | 1993年8月21日 | '''gold rush''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3407 | |- ! 7th | 1993年10月23日 | '''ハプニング''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3435 | |- ! 8th | 1993年12月12日 | '''ブルーマーメイド''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3440 | |- ! 9th | 1994年9月7日 | '''HAPPY GO LUCKY''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3512 | [[日本テレビ放送網|NTV]]系「[[スポーツうるぐす]]」テーマ曲 |- ! 10th | 1995年1月21日 | '''東京デラックス''' |align="center"| 74位 | 通常盤 (CD) ESDB-3528 | [[アミューズ]]・[[シネカノン]]・[[テレビ東京|TX]]「[[平成無責任一家 東京デラックス|平成無責任一家]]」主題歌 |- ! 11th | 1995年4月28日 | '''WATERMELON''' |align="center"| 85位 | 通常盤 (CD) ESDB-3568 | featuring [[高橋幸宏]]<ref group="注釈">高橋幸宏が当時所属していた東芝EMIからリリースされたCDは「高橋幸宏 featuring 東京スカパラダイスオーケストラ」名義</ref>。 |- ! 12th | 1995年7月21日 | '''JAM''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3596 | [[日本放送協会|NHKテレビ]]「[[ポップジャム]]」オープニング・テーマ |- ! 13th | 1996年7月21日 | '''ROCK MONSTER STRIKES BACK''' |align="center"| 64位 | 通常盤 (CD) ESCB-1773 | [[NHK教育テレビジョン]]系『[[ソリトン (テレビ番組)|ソリトン]]』テーマソング |- ! 14th | 1997年4月21日 | '''HURRY UP!!''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) ESDB-3753 | [[TBSテレビ|TBSテレビ系]]「[[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]]」挿入歌 |- ! 15th | 1998年4月22日 | '''愛があるかい?''' |align="center"| 82位 | 通常盤 (CD) AVDD-20233 | [[日本電気]]「[[VALUESTAR|VALUE STAR]] NX/La Vie NX」CMソング |- ! 16th | 1998年7月8日 | '''Dear My Sister''' |align="center"| 76位 | 通常盤 (CD) AVDD-20246 | [[東京ニュース通信社]]「[[週刊TVガイド|TVガイド]]」CMソング |- ! 17th | 1999年5月12日 | '''[[火の玉ジャイヴ]]''' |align="center"| 51位 | 通常盤 (CD) AVCD-30043 | |- ! 18th | 1999年11月17日 | '''戦場に捧げるメロディー''' |align="center"| 70位 | 通常盤 (CD) AVCD-30060 | |- ! 19th | 2000年6月21日 | '''フィルムメイカーズ・ブリード 〜頂上決戦〜''' |align="center"| 68位 | 通常盤 (CD) AVCD-30102 | |- ! 20th | 2001年8月8日 | '''[[めくれたオレンジ]]''' |align="center"| 35位 | 通常盤 (CD) CTCR-40083 | 歌モノシングル3部作・第一弾<br />vocalist:[[田島貴男]] ([[ORIGINAL LOVE]])<br />キリンビール「チューハイ氷結果汁」CMソング |- ! 21st | 2001年12月12日 | '''[[カナリヤ鳴く空]]''' |align="center"| 17位 | 通常盤 (CD) CTCR-40095 | 歌モノシングル3部作・第二弾<br />vocalist:[[チバユウスケ]]<br />映画『[[人間失格 太宰治と3人の女たち|人間失格]]』主題歌(2019年公開) |- ! 22nd | 2002年2月14日 | '''[[美しく燃える森]]''' |align="center"| 6位 | 通常盤 (CD) CTCR-40115 | 歌モノシングル3部作・第三弾<br />vocalist:[[奥田民生]]<br />キリンビール「チューハイ氷結果汁」CMソング |- ! 23rd | 2003年2月5日 | '''[[銀河と迷路]]''' |align="center"| 9位 | 通常盤 (CD) CTCR-40163 | [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系ドラマ『[[美女か野獣]]』主題歌 |- ! 24th | 2003年6月4日 | '''[[A Quick Drunkard]]''' |align="center"| 98位 | 通常盤 (CD) CTCR-40166 | [[日本放送協会|NHK]]『[[難問解決!ご近所の底力]]』テーマ曲<br />ANB系ドラマ「[[OL銭道]]」オープニング・テーマ |- ! - | 2003年8月6日 | '''Natty Parade "Shaken Mix"''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) CTC1-40172 | [[スターバックス]]限定発売 |- ! 25th | 2004年5月26日 | '''[[世界地図 (東京スカパラダイスオーケストラの曲)|世界地図]]''' |align="center"| 54位 | 通常盤 (CD) CTCR-40188 | キリン「キリンチューハイ氷結」CMソング |- ! 26th | 2004年7月28日 | '''[[STROKE OF FATE]]''' |align="center"| 40位 | 通常盤 (CD) CTCR-40192 | [[TBCグループ|TBC]]「MEN’S TBC」CMソング |- ! 27th | 2004年10月22日 | '''さらば友よ''' |align="center"| - | 通常盤 (CD) CTCR-40200 | 『Autumn-Winter TOUR』会場限定発売 |- ! 28th | 2005年12月14日 | '''[[追憶のライラック]]''' |align="center"| 23位 | 通常盤 (CD) CTCR-40223 | 歌モノシングル3部作その2・第一弾<br />vocalist:[[ハナレグミ]](永積タカシ) |- ! 29th | 2006年2月15日 | '''[[サファイアの星]]''' |align="center"| 16位 | 通常盤 (CD) CTCR-40228 | 歌モノシングル3部作その2・第二弾<br />vocalist:[[CHARA]] |- ! 30th | 2006年5月10日 | '''[[星降る夜に (東京スカパラダイスオーケストラの曲)|星降る夜に]]''' |align="center"| 13位 | 通常盤 (CD) CTCR-40232 | 歌モノシングル3部作その2・第三弾<br />vocalist:[[甲本ヒロト]] |- ! 31st | 2009年10月7日 |'''[[KinouKyouAshita]]''' |align="center"| 15位 | 通常盤 (CD) CTCR-40298 | [[LIXIL住宅研究所]]「アイフルホーム」CMソング |- ! 32nd | 2010年1月27日 | '''[[流星とバラード]]''' |align="center"| 9位 | 通常盤 (CD) CTCR-40304 | vocalist:奥田民生 |- ! 33rd | 2011年3月16日 | '''[[Break into the Light〜約束の帽子〜/The Sharing Song〜トリコのテーマ〜|Break into the Light〜約束の帽子〜<br />/The Sharing Song〜トリコのテーマ〜]]''' |align="center"| 26位 | 通常盤 (CD) CTCR-40333 | 東映配給アニメ映画「[[ONE PIECE 3D 麦わらチェイス]]」主題歌 |- ! 34th | 2013年12月4日 | '''閃光 feat. [[10-FEET]]''' |align="center"| 13位 | 通常盤 (CD) CTCR-40352<br />初回限定盤 (CD+DVD) CTCR-40351 | 25周年スペシャルプロジェクト バンドコラボ第一弾 |- ! 35th | 2014年3月12日 | '''流れゆく世界の中で feat. [[MONGOL800]]''' |align="center"| 18位 | 通常盤 (CD) CTCR-40360<br />初回限定盤 (CD+DVD) CTCR-40359 | 25周年スペシャルプロジェクト バンドコラボ第二弾 |- ! 36th | 2014年 7月2日 | '''Wake Up! feat. [[ASIAN KUNG-FU GENERATION]]''' |align="center"| 9位 | 通常盤 (CD) CTCR-40362<br />初回限定盤 (CD+DVD) CTCR-40361/B | 25周年スペシャルプロジェクト バンドコラボ第三弾 |- ! 37th | 2015年7月29日 | '''爆音ラヴソング/めくったオレンジ''' |align="center"| 21位 | 通常盤 (CD) CTCR-43373<br />初回生産限定 CD+LIVE CD(2枚組仕様)CTCR-43371/2 | vocalist:尾崎世界観([[クリープハイプ]]) |- ! 38th | 2015年12月9日 | '''嘘をつく唇''' |align="center"| 16位 | 通常盤 (CD) CTCR-40376<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40375/B | vocalist:[[片平里菜]] |- ! 39th | 2016年6月22日 | '''道なき道、反骨の。 feat. [[横山健|Ken Yokoyama]]''' |align="center"| 12位 | 通常盤 (CD) CTCR-40382<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40381/B |rowspan=2| vocalist:東京スカパラダイスオーケストラ feat. Ken Yokoyama |- ! 40th | 2016年9月7日 | '''さよならホテル feat. Ken Yokoyama''' |align="center"| 7位 |通常盤 (CD) CTCR-40385<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40384/B |- ! 41st | 2017年11月29日 | '''白と黒のモントゥーノ feat. [[斎藤宏介]] ([[UNISON SQUARE GARDEN]]''' |align="center"| 22位 | 通常盤 (CD) CTCR-40391<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40390/B | vocalist:斎藤宏介 (UNISON SQUARE GARDEN) |- ! 42nd | 2018年2月21日 | '''ちえのわ feat. [[峯田和伸]]''' |align="center"| 30位 | 通常盤 (CD) CTCR-40393<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40392/B | vocalist:峯田和伸([[銀杏BOYZ]])<br />ジャケットは当初はイラストレーターの[[ハシヅメユウヤ]]が描き下ろしたものが起用されていたが、後に変更された<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/266428 |title=スカパラ×峯田和伸「ちえのわ」ジャケットデザイン変更に |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|音楽ナタリー]] |date=2018-01-23 |accessdate=2020-12-06}}</ref>。 |- ! 43rd | 2018年9月26日 | '''{{Anchors|メモリー・バンド/This Challenger}}メモリー・バンド/This Challenger''' |align="center"| 23位 | 通常盤 (CD) CTCR-40399<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40398/B | 「メモリー・バンド」の歌詞は、作詞を担当した谷中が[[関ジャニ∞]]の[[渋谷すばる]]を思い浮かべて書いた歌詞である<ref>{{Cite web|和書|author=佐藤結衣 |title=関ジャニ∞ 大倉忠義、スカパラ谷中敦と語った“メンバーとの別れ”の経験 ライブへの熱い思いも |url=https://realsound.jp/2019/08/post-399310_2.html |newspaper=[[リアルサウンド (ニュースサイト)|Real Sound]] |publisher=blueprint |date=2019-08-07 |accessdate=2020-12-06}}</ref>。 |- ! 44th | 2018年11月28日 | '''明日以外すべて燃やせ feat. [[宮本浩次 (エレファントカシマシ)|宮本浩次]]''' |align="center"| 12位 | 通常盤 (CD) CTCR-40401<br />初回生産限定 (CD+DVD) CTCR-40400/B | vocalist:宮本浩次([[エレファントカシマシ]])<br />2019年11月3日にアナログ盤発売。 |- ! 45th | 2019年8月7日 | '''[[リボン (東京スカパラダイスオーケストラの曲)|リボン]] feat. [[桜井和寿]]''' |align="center"| 5位 | CD:CTCR-40404<br />CD+DVD:CTCR-40403/B | vocalist:桜井和寿 ([[Mr.Children]])<br />キリンビール「ビールはいつも」篇 CMソング |- ! 46th | 2020年12月23日 | '''[[ALMIGHTY〜仮面の約束|ALMIGHTY 〜仮面の約束]] feat. [[川上洋平]]''' |align="center"| 12位 | CD+DVD:AVCD-94951/B<br />CD+DVD:AVCD-94952/B<br />CD:AVCD-94953<br />CD+DVD+グッズ:AVZD-94949/B<br />CD+グッズ:AVZD-94950 | vocalist:川上洋平 ([[[Alexandros]|[Alexandros]]])<br />[[テレビ朝日]]系ドラマ『[[仮面ライダーセイバー]]』主題歌 |- ! 47th | 2022年03月09日 | '''君にサチアレ''' |align="center"| 17位 | CD+DVD:CTCR-40408/B<br />CD+Blu-ray Disc:CTCR-40409/B<br />CD:CTCR-40410 | 映画『[[ウェディング・ハイ]]』主題歌 |- ! 48th | 2022年7月27日 | '''Free Free Free feat. [[幾田りら]]''' |align="center"| 23位 | CD+Blu-ray Disc:CTCR-40412/B<br />CD:CTCR-40413 | vocalist:幾田りら/YouTube「YouTube Premium」CMソング |} === コラボレーション・シングル === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 ! 最高順位 |- ! 1st | 2006年9月20日 | '''[[ハズムリズム]]'''<ref group="注釈">[[PUFFY]] × 東京スカパラダイスオーケストラ名義</ref> | KSCL-1041 | 15位 |} === 配信限定シングル === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! リリース日 ! タイトル ! 収録作品 |- | 2015年10月16日 | '''Skull Collector''' | Stompin' On DOWN BEAT ALLEY |- | 2018年4月18日 | '''およげ! たいやきくん 〜潜れ! さかなクンVer.〜''' | ちえのわ/およげ!たいやきくん〜潜れ! さかなクンVer.〜 |- | 2019年4月18日 | '''遊戯みたいにGO''' |rowspan="2"| ツギハギカラフル |- | 2019年11月27日 | '''憂愁モダン 〜怪人と探偵のテーマ''' |- | 2020年4月22日 | '''倒れないドミノ''' | SKA=ALMIGHTY |- |rowspan="2"| 2020年9月6日 | '''仮面ライダーセイバー TV size''' |rowspan="2"| 未収録 |- | '''ALMIGHTY 〜仮面の約束 feat. 川上洋平 TV size''' |- | 2020年9月30日 | '''Great Conjunction 2020''' | SKA=ALMIGHTY |- | 2021年5月21日 | '''めでたしソング feat. [[ムロツヨシ]]''' | S.O.S. [Share One Sorrow] |- | 2022年5月4日 | '''サボタージュ (VS. [[ALI (バンド)|ALI]])''' | rowspan="2"| 未収録 |- | 2022年5月11日 | '''ツバメ feat. [[ミドリーズ]] & [[長濱ねる]] & [[東京都立片倉高等学校]]吹奏楽部''' |- | 2022年11月7日 | '''紋白蝶 feat. 石原慎也 ([[Saucy Dog]])''' | JUNK or GEM |- | 2023年2月1日 |'''七人だからレインボー feat. [[てれび戦士]](ショウタ・ソニア・マウナ・レイ・ハルト・ミオ・メイ)''' | 未収録 |- | 2023年3月6日 | '''青い春のエチュード feat. 長屋晴子([[緑黄色社会]])''' | JUNK or GEM |- | 2023年9月13日 |'''ウタカタラッタラ''' | 未収録 |} === サウンドトラック === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 |- ! 1 | 1995年2月1日 | '''東京デラックス オリジナルサウンドトラック''' | ESCB-1472 |- ! 2 | 1999年7月23日 | '''[[とんでもクライシス!]] オリジナルサウンドトラック''' | AVCD-11730 |- ! 3 | 2003年1月16日 | '''[[新・仁義なき戦い/謀殺]] オリジナルサウンドトラック''' | CTCR-14240 |} === 企画盤 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 |- ! 1st | 1991年10月25日 | '''World Famous Remix''' | ESCB-1251 |- ! 2nd | 1993年11月21日(限定盤)<br />1993年12月1日(通常盤) | '''gifted''' | ESCB-1472 |- ! 3rd | 1999年7月23日 | '''JUSTA RECORD COMPILATION Vol.1''' | AVCD-11729 |- ! 4th | 2012年2月8日 | '''on the remix'''<ref group="注釈">これまでのリミックス作品と未発表曲「Lonesome Eddy」が収録。</ref> | CTCR-14751 |- ! 5th | 2015年12月23日 | '''TOKYO SKA Plays Disney''' | AVCW-63120 |} === アナログ盤 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 |- ! 1st | 1989年11月18日 | '''[[東京スカパラダイスオーケストラ (アルバム)|東京スカパラダイスオーケストラ]]'''<ref group="注釈">後にCDアルバムとして再発売。</ref> | |- ! 2nd | 1991年10月25日 | '''World Famous Remix''' | |- ! 3rd | 1994年7月21日 | '''JUST A LITTLE BIT OF TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA''' | |- ! 4th | 1996年8月13日 | '''ROCK MONSTER STRIKES BACK''' | |- ! 5th | 2019年11月3日 | '''明日以外すべて燃やせ feat. 宮本浩次'''<ref group="注釈">2018年にCDとして発売された作品のアナログ盤。</ref> | TYO7S1018 |} === EURO盤 === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 |- ! 1st | 2005年3月14日 | '''Ska Me Crazy 〜THE BEST OF TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA''' | CDMGRAM193 |} === VHS === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 |- ! 1st | 1991年12月1日 | '''スカパラビデオ''' | ESVU-35 |- ! 2nd | 1992年3月25日 | '''音曲の乱''' | ESVU-1228 |- ! 3rd | 1992年8月8日 | '''TOKYO SKA''' | ESVU-367 |- ! 4th | 1992年12月2日 | '''World Series from Tokyo Ska''' | ESVU-368 |- ! 5th | 1993年12月12日 | '''スカパラ at キャバレー''' | ESVU-399 |- ! 6th | 1994年4月21日 | '''LIVE FANTASIA''' | ESVU-404 |- ! 7th | 1994年4月21日 | '''VIDEO FANTASIA''' | ESVU-405 |- ! 8th | 1995年12月1日 | '''LIVE GRAND PRIX''' | ESVU-441 |- ! 9th | 1997年11月21日 | '''18540617''' | ESVU-482 |- ! 10th | 1999年11月17日 | '''SKA EVANGELISTS ON THE RUN TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA 1998>>1999''' | AVVD-90062 |} === DVD === {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller;" ! 枚 ! リリース日 ! タイトル ! 規格 ! 最高順位 |- ! 1st | 2000年3月29日<br />2005年3月24日 | '''SKA EVANGELISTS ON THE RUN TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA 1998>>1999''' | AVBD-91014<br />CTBR-92041 | |- ! 2nd | 2002年9月4日 | '''DOWN BEAT SELECTOR''' | CTBR-92024 | 22位 |- ! 3rd | 2003年1月16日<br />2004年12月08日 | '''DOWN BEAT ARENA 〜横浜アリーナ7.7.2002 [完全版]''' | CTBR-92025<br />CTBR-92039 | 13位 |- ! 4th | 2004年3月3日<br />2006年3月1日 | '''CATCH THE RAINBOW''' | CTBR-92034<br />CTBR-92042 | 18位 |- ! 5th | 2004年3月10日 | '''スカパラ at キャバレー''' | ESBL-2160 | 161位 |- ! 6th | 2004年3月10日 | '''LIVE GRAND PRIX''' | ESBL-2159 | 160位 |- ! 7th | 2004年3月10日 | '''18540617''' | ESBL-2159 | 147位 |- ! 8th | 2005年1月13日<br />2006年3月1日 | '''15TH ANNIVERSARY LIVE SINCE DEBUT 2004.10.22 in 代々木第一体育館''' | CTBR-92040<br />CTBR-92043 | 21位 |- ! 9th | 2007年5月30日 | '''WILD PEACE TOUR FINAL @さいたまスーパーアリーナ''' | CTBR-92048 | 13位 |- ! 10th | 2007年9月12日 | '''SMILE 〜人が人を愛する旅〜''' | CTBR-92051 | 25位 |- ! 11th | 2010年3月10日 | '''"and TOKYO SKA goes on.."''' |CTBR-92064 |14位 |- ! 12th | 2010年12月22日 | '''東京スカパラダイス国技館 & 東京スカパラダイス体育館 LIVE DVD''' | CTBR-92070 | 54位 |- ! 13th |2012年7月4日 | '''Discover Japan Tour -LIVE IN HACHIOJI 2011.12.27''' | CTBR-92080 | 19位 |- ! 14th | 2016年12月14日 | '''「叶えた夢に火をつけて燃やす LIVE IN KYOTO 2016.4.14」&「トーキョースカジャンボリー2016.8.6」''' | CTBR-92119〜20 | 34位 |- ! 15th | 2019年3月13日 | '''2018 Tour「SKANKING JAPAN」“スカフェス in 城ホール” 2018.12.24''' |CTCR-14950〜1/B〜C |19位 |- |} === 書籍 === * {{Cite book|和書|title=虹の軌跡|author =東京スカパラダイスオーケストラ|origdate=2003-12-25|publisher=ロッキング・オン|isbn =978-4860520328}} * {{Cite book|和書|title=スカパラ入門 25 Years of TOKYO SKA|author =東京スカパラダイスオーケストラ|origdate=2014-05-23|publisher=[[リットーミュージック]]|isbn =978-4845623983}} * {{Cite book|和書|title=スカパラon the PLANET|author =東京スカパラダイスオーケストラ|origdate=2007-05-20|publisher=エフエム東京|isbn =978-4887451827}} === 映画 === * 「[[ファンシィダンス#映画|ファンシイダンス]]」監督:周防正行 1989年 101分 * 「SMILE 人が人を愛する旅」 監督:牧野耕一 2007年 89分 === 参加作品 === {|class="wikitable" style=font-size:small |- ! 発売日 ! タイトル ! 規格 ! 収録曲 |- | 1989年12月16日 | '''[[小泉今日子]]『[[Ballad Classics II]]』''' | VDR-1656 | 5.今をいじめて泣かないで<br />8.艶姿ナミダ娘 |- | 1990年9月21日 | '''小泉今日子「[[丘を越えて (小泉今日子の曲)|丘を越えて]]」''' | VIDL-10063 | 1.丘を越えて |- | 1997年4月25日 | '''[[竹中直人]] with 東京スカパラダイスオーケストラ「デカメロン」''' | AMDM-6190 | 1.デカメロン<br />2.海、山、恋だ若大将!!([[加山雄三]]メドレー*美しいヴィーナス〜小さな恋人〜君の瞳の青空〜ブライトホーン) |- | 1997年11月25日 | '''竹中直人『[[Siesta?]]』''' | AMCM-4343 | 3.危ないふたり<br />8.DNA |- | 1999年4月10日 | '''RESPECTABLE ROOSTERS-a tribute to the roosters-''' | COCP-50061 | 10.Rosie |- | 2001年3月28日 | '''[[椎名林檎]]『[[真夜中は純潔]]』''' | TOCT-22155 | 1.真夜中は純潔<ref group="注釈">編曲・演奏を担当(演奏は「新東京スカパラダイスオーケストラ」名義)。本作のミュージック・ビデオにもスカパラメンバーがカメオ出演している。</ref> |- | 2002年2月27日 | '''[[広末涼子]]『広末涼子 Perfect Collection』''' | WPCV-10165/7 | DISC3-1.[[美しく燃える森#収録曲|睡蓮の舟]]<ref group="注釈">プロデュースを担当。</ref> |- | 2003年10月8日 | '''[[ブロンソンズ]]『スーパーマグナム』''' | 139-LDKCD | 5.ロッキーのテーマ(完コピVERSION)/ブロンソンズ with 東京スカパラダイスオーケストラ<br />10.ロッキーのテーマ (KARAOKE)/東京スカパラダイスオーケストラ with ブロンソンズ |- | 2004年11月3日 | '''風街クロニクル 〜another side of happy end〜''' | MHCL-427 | 18.しらけちまうぜ / 東京スカパラダイスオーケストラ featuring 小沢健二 |- | 2006年1月18日 | '''[[ORIGINAL LOVE]]『キングスロード』''' | PCCA-02218 | 2. 恋の片道切符、4. きみのとりこ |- | 2006年4月5日 | '''[[THE HIT MAKER -筒美京平の世界-]]''' | MHCL-771 | DISC5-11. にがい涙 |- | 2006年5月24日 | '''SHIFT second NISSAN CM TRACKS''' | MHCP-971 | 18.君と僕 |- | 2007年4月25日 | '''[[細野晴臣]]トリビュートアルバム -Tribute to Haruomi Hosono-''' | RZCM-45511 | 3.アブソリュート・エゴ・ダンス |- | 2007年7月11日 | '''ソラノオト -Message from space-''' | RZCD-45601B | 5.Rendezvous In Space! |- | 2007年10月24日 | '''[[ユニコーン・トリビュート]]''' | SECL-561 | 1.I'M A LOSER |- | 2007年10月17日 | '''[[服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜]]''' | UPJI-1015 | 7.青い山脈 (instrumental) |- | 2008年9月24日 | '''[[Sirius〜Tribute to UEDA GEN〜]]''' | VICL-62999 | 6.-6m |- | 2008年12月3日 | '''[[スチャダラパー]]『CAN YOU COLLABORATE?〜best collaboration songs & music clips〜』''' | NFCD-27142B | 1.GET UP AND DANCE (with 東京スカパラダイスオーケストラ、L.B.NATION)/スチャダラパー |- | 2009年7月22日 | '''[[BOOMANIA〜THE BOOM SPECIAL BEST COVERS〜]]''' | VFCV-00044 | DISC2-11.風になりたい |- | 2009年9月30日 | '''DJ[[松本素生]]『[[ROCK THE MIX]] 2』''' | VICL-63399 | 7.美しく燃える森 |- | 2010年1月27日 | '''[[NO MUSIC, NO LIFE. SONGS]]''' |RZCD-46471<br />RZCD-46473 | DISC1-8.WORLD SKA CRUISE 〜NO DUB, NO LIFE.〜 |- | 2010年6月9日 | '''[[つるの剛士]]『[[夏のわすれもの feat.東京スカパラダイスオーケストラ/Love Letter]]』''' | PCCA-03184<br />PCCA-70284 | 1.夏のわすれもの feat. 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2011年1月24日 | '''FREEDOM 2010 in 淡路島“青空”''' |TFBQ-18112 | |- | 2011年12月14日 | '''[[ZEEBRA]]『[[Black World/White Heat]]』''' | BVCL-276 | 6.Gang On The Backstreet Feat. 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2012年8月8日 | '''[[RED DIAMOND 〜Tribute to Yukihiro Takahashi〜]]''' | TOCT-29027<br />TOCT-29028 | 9.Bijin Kyoshi At The Swimming School 〜 I-Kasu! |- | 2012年12月5日 | '''[[ファイナルファンタジーシリーズ|FINAL FANTASY]] TRIBUTE 〜THANKS〜''' | SQEX-10358 | DISC1-1.オープニング・テーマ |- | 2014年3月21日 | '''[[シャキーラ]]『[[:en:Shakira (album)#Track listing|Shakira]].』''' | SICP-4098 | 16.[[:en:Can't Remember to Forget You|Can't Remember to Forget You]] feat. [[リアーナ]] (Tokyo Ska Paradise Orchestra Club Mix) |- | 2014年6月18日 | '''[[10-FEET]]『6-feat 2』''' | UPCH-20356 | 3.hammer ska feat. 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2014年9月3日 | '''STRANGER THAN SKA''' | CTCD-20006 | 7.Pride Of Lions |- | 2014年10月8日 | '''[[MONGOL800|800]] TRIBUTE -champloo is the BEST<nowiki>!!</nowiki>-''' | HICC-3803 | 1.DON'T WORRY BE HAPPY |- | 2015年12月23日 | '''ROCK IN DISNEY YEAR END PARTY!''' | AVCW-63121 | 3.チム・チム・チェリー(新録!) |- | 2016年2月10日 | '''[[DJ和]]『フェス、その前に』''' | AICL-3008 | 4.星降る夜に |- | 2017年1月18日 | '''[[チャラン・ポ・ランタン]]『[[トリトメナシ]]』''' | AVCD-93591/B<br />AVCD-93592 | 7.雄叫び |- | 2018年2月2日 | '''[[MAN WITH A MISSION]] feat. 東京スカパラダイスオーケストラ『[[Freak It!]]』''' | 配信限定 | 1.Freak It! |- | 2018年3月21日 | '''カヴァーアルバム3 〜A Tribute to The Elephant Kashimashi〜''' | UMCK-1573 | 5.俺たちの明日/東京スカパラダイスオーケストラ × [[高橋一生]] |- | 2018年4月18日 | '''[[ピコ太郎]]『PPAPPT in 日本武道館』''' | VBD-92666<br />AVXD-92668 | 29.PPAP(スカパラ ver.) with 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2018年5月30日 | '''[[関ジャニ∞]]『[[GR8EST]]』''' | JACA-5724<br /> JACA-5728<br />JACA-5732 | Disc1-12.無責任ヒーロー jam with 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2018年7月25日 | '''[[シシド・カフカ]]『DOUBLE TONE』''' | AVCD-93948B<br />AVCD-93950 | 5.リメンバー・ミー(エンドソング) feat. 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2019年9月4日 | '''[[真心ブラザーズ]]『トランタン』''' | TKCA-74831<br />TKCA-74832 | 3.愛 with 東京スカパラダイスオーケストラ |- | 2020年2月12日 | '''[[大森靖子]]『大森靖子』''' | AVCD-96381B<br />AVCD-96384B<br />AVCD-96387 | Disc2-1.絶対絶望絶好調 (Sound Produced by 東京スカパラダイスオーケストラ) |- | 2020年5月7日 | '''[[Emicida]]『Quem tem um amigo (tem tudo)』''' | 配信限定 | Quem tem um amigo (tem tudo) [feat. Tokyo Ska Paradise Orchestra] |- | 2022年3月10日 | '''[[Los Auténticos Decadentes]]『Oro』''' | 配信限定 | Oro (feat. Bronco & Tokyo Ska Paradise Orchestra) |- | 2023年10月6日 | '''[[菅田将暉]]×東京スカパラダイスオーケストラ 『るろうの形代』''' | 配信限定 | るろうの形代<ref group="注釈">作詞曲(作詞:谷中敦、作曲:川上つよし)と演奏を担当。アニメ『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚』オープニングテーマ</ref> |- |} === その他 === * [[大井競馬場]]のファンファーレ(一般競走、重賞競走、ダートグレード競走、JpnI/GI)、本馬場入場曲(2011年7月31日から) * 1999年に発売されたプレイステーション用ソフト'''[[とんでもクライシス!]]'''のBGMを担当。 == CM出演 == * [[学生援護会]]『daily an』(1990年) * [[サントリー]]『サントリーホワイト』(1991年) * [[パイオニア]]『プライベート』(1992年) * [[東日本旅客鉄道|JR東日本]]『[[JR東日本255系電車|房総ビューエクスプレス]]』(1993年、NARGOのみ出演) * [[コーセー]]『サロンスタイル』(1997年、NARGO・谷中・川上・大森のみ出演) * [[日本電気|NEC]]『VALUESTAR NX/LA VIE NX』(1998年) * NEC『VALUESTAR』(2003年) * [[本田技研工業|HONDA]]『[[モビリオスパイク]] それぞれのスパイク篇 北原雅彦 ver.』(2004年、北原雅彦のみ出演) * [[タワーレコード]]『NO MUSIC, NO LIFE』([[富士フイルム]]とのコラボレーションCM。谷中のみ出演) * [[富士フイルム]]『NO PHOTO, NO LIFE』([[タワーレコード]]とのコラボレーションCM。谷中のみ出演) * [[キリンビバレッジ]]『NUDA 東京スパークリングオーケストラ篇』(2007年) * [[江崎グリコ]]『ZEPPIN 北原雅彦 meets ZEPPIN篇』(2008年、北原雅彦のみ出演) * [[麒麟麦酒]]『[[氷結 (チューハイ)|氷結]]』(2000年〜2005年、歌のみ。2016年〜、BGM演奏、「あたらしくいこう [[さかなクン]]篇・[[志村けん]]篇・[[高橋一生]]×[[浜野謙太]]篇・[[白石麻衣]]篇」出演) * [[ソニー|SONY]]『デジタルノイズキャンセリングヘッドホン 騒音スポット篇』(2009年、GAMOのみ出演) * [[京都競馬場|センテニアル・パーク京都競馬場]]『あたらしい京都競馬場 4月22日デビュー』(2023年) == テレビ出演 == ※プロモーション及びインタビュー出演除く * [[MUSIC FAIR]](1996年2月11日、フジテレビ)小林旭コラボ * バラエティ『[[デカメロン (テレビ番組)|デカメロン]]』 (1997年、[[TBSテレビ|TBS]]) - レギュラー *ドラマ『[[私立探偵 濱マイク]]』第11話(2002年9月9日、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) - 本人役 *ドラマ『[[家族のうた]]』 第2話(2012年4月22日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 本人 役 * [[ピラメキーノ]] (2011年3月28日、テレビ東京) * TOKYO SKA JAM “8”(2019年7月12〜、[[スペースシャワーTV|スペースシャワーTV]]) - レギュラー * [[僕らの音楽 Our Music|僕らの音楽]](2012年3月16日、フジテレビ) == タイアップ == {|class="wikitable" style=font-size:small ! 楽曲 ! タイアップ ! 収録作品 |- | タイトル不明 | [[TBSテレビ|TBS]]「[[どうぶつ奇想天外!]]」オープニングテーマ | 未収録 |- | 君と僕 | TBS「[[ビレッジ吉本]]」エンディングテーマ |rowspan="2"| 1stアルバム『スカパラ登場』 |- | 仔象の行進 | [[本田技研工業|Honda]]「[[ホンダ・ライフ|ライフ]]」CMソング |- | 花ふぶき 〜愛だろ、愛っ。〜 | [[サントリー]]「[[ザ・カクテルバー]]」CMソング | rowspan="4"| 5thアルバム『GRAND PRIX』 |- | Stubborn Kind Of Fellow | Honda「[[ホンダ・ロゴ|ロゴ]]」CMソング |- | 東京デラックス | 映画『[[平成無責任一家 東京デラックス]]』テーマソング |- | パンドラタイムズ | [[テレビ朝日]]『[[象印ニュースクイズ パンドラタイムス]]』テーマ曲 |- | 24 Hours To Ska | [[トヨタ自動車]]「[[トヨタ・ヴォルツ|VOLTZ]]」CMソング |rowspan=2| 10thアルバム『HIGH NUMBERS』 |- | 銀河と迷路 | [[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[美女か野獣]]』主題歌 |- | BLACK JACK | [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]社ゲーム「[[怪盗スライ・クーパー]]」テーマソング | 23rdシングル「銀河と迷路」 |- | STAMPEDE MARCH | [[ダイハツ工業]]「[[ダイハツ・アトレー|アトレーワゴン]]」CMソング | rowspan="2"| 11thアルバム『Answer』 |- | OPEN YOUR EYES | [[日本放送協会|NHK]]「[[NHKプロ野球]]」テーマソング (2005年 - ) |- | Break into the light 〜約束の帽子〜 | 映画『[[ONE PIECE 3D 麦わらチェイス]]』主題歌 | 16thアルバム『Walkin'』 |- | The Sharing Song 〜トリコのテーマ〜 | 映画『[[トリコ 3D 開幕!グルメアドベンチャー!!]]』主題歌 | 2ndミニアルバム『HEROES』 |- | Twinkle Star 〜頼りの星〜 | 東京シティ競馬 トゥインクルレースキャンペーンソング |rowspan=2| 3rdミニアルバム『Sunny Side of the Street』 |- | WORLD SKA BEACH | NHK『[[スタジオパークからこんにちは]]』テーマソング(2010年4月 - ) |- | 流星とバラード | トヨタ自動車「[[トヨタ・ヴァンガード|ヴァンガード]]」CMソング | 32ndシングル「流星とバラード」 |- | 道なき道、反骨の。 | 映画『[[日本で一番悪い奴ら]]』主題歌 <ref>{{Cite news |title=スカパラ、次のコラボ相手は横山健!綾野剛映画主題歌に決定 |url=https://natalie.mu/music/news/180691 |newspaper=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-03-23 |accessdate=2016-03-23 }}</ref> | 39thシングル「道なき道、反骨の。」 |- | Paradise Has No Border |rowspan="2"| キリン「氷結」CMソング | 20thアルバム『Paradise Has No BORDER』 |- | パンドラタイムズ2019 | 未収録 |- | ORIHIME! | ダイハツ工業「[[ダイハツ・タント|タント]]」CMソング |rowspan=7| 22ndアルバム『ツギハギカラフル』 |- | スペクター | MARO「マーロがあるじゃん」篇CMソング |- | 憂愁モダン 〜怪人と探偵のテーマ | ミュージカル『怪人と探偵』テーマソング |- | ¡Dale Dale! 〜ダレ・ダレ!〜 feat. チバユウスケ | [[WOWOW]] スペインサッカー 19-20シーズン イメージソング |- | ツギハギカラフル | 映画『[[任侠学園#実写映画|任俠学園]]』主題歌 |- | ザ・ターミナル |[[エフエム東京|TOKYO FM]]情報番組『[[ONE MORNING]]』オープニングテーマ |- | 遊戯みたいにGO | [[日本テレビ放送網|日本テレビ系]]ドラマ『[[漫画みたいにいかない。#遊戯みたいにいかない。|遊戯みたいにいかない。]]』主題歌 |- | カナリヤ鳴く空 | 映画『[[人間失格 太宰治と3人の女たち]]』主題歌 | 21stシングル「カナリヤ鳴く空」 |- | UFO | UQモバイルCM(2019年4月14日〜) | 未収録 |- | Good Morning 〜ブルー・デイジー feat. aiko | [[テレビ朝日]]『[[グッド!モーニング (テレビ番組)|グッド!モーニング]]』テーマソング | ベスト・アルバム『TOKYO SKA TREASURES 〜ベスト・オブ・東京スカパラダイスオーケストラ〜』 |- | リボン feat. 桜井和寿 | キリンビール「ビールはいつも」篇CMソング | 45thシングル「リボン feat. 桜井和寿」 |- | 風のプロフィール feat. 習志野高校吹奏楽部 | KIRIN「氷結Ⓡ Ready for Refresh!」CMソング | 22ndアルバム『ツギハギカラフル』 |- | ALMIGHTY 〜仮面の約束 feat. 川上洋平 | [[テレビ朝日]]系ドラマ『[[仮面ライダーセイバー]]』主題歌 |rowspan=2| 46thシングル「ALMIGHTY 〜仮面の約束 feat. 川上洋平」 |- | 仮面ライダーセイバー | テレビ朝日系ドラマ『仮面ライダーセイバー』エンディングテーマ |- | 9 | [[J SPORTS]]『[[J SPORTS STADIUM]]2021』野球中継テーマソング |rowspan=6| 23rdアルバム『SKA=ALMIGHTY』 |- | Great Conjunction 2020 | 「AVIOT完全ワイヤレスイヤホン(TE-BD21j)」タイアップ曲 |- | 会いたいね。゚(゚´ω`゚)゚。 feat. 長谷川白紙 | [[J-WAVE]] (81.3FM)「MOVIN' ON」プロジェクトソング |- | 多重露光 feat. 川上洋平 | [[東映]]配給映画『[[劇場短編 仮面ライダーセイバー 不死鳥の剣士と破滅の本]]』主題歌 |- | 倒れないドミノ | J-WAVE(81.3FM)「GOOD MUSIC, GOOD VIBES」キャンペーンソング |- | (Everybody is a) SUPERSTAR | [[WOWOW]]「UEFA EURO 2020 サッカー欧州選手権」サッカー中継テーマソング<ref>{{Cite news2|title=東京スカパラダイスオーケストラ、WOWOW欧州サッカーテーマソングを担当|url=https://natalie.mu/music/news/429610|newspaper=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-05-25|accessdate=2021-05-25}}</ref> |- | 「SKA! BON-DANCE〜We Welcome The Spirits」 | [[TOKYO TORCH]]オリジナルテーマソング | rowspan="2" |4thミニアルバム『[[S.O.S. [Share One Sorrow]|S.O.S. [Share One Sorrow]]]』 |- | SPARK | 東映配給映画『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』主題歌 |- | 君にサチアレ | 松竹配給映画『[[ウェディング・ハイ]]』主題歌 | rowspan="2" |47thシングル「君にサチアレ」 |- |快哉を叫ぶとき |[[J SPORTS]]『[[J SPORTS STADIUM]]2022』野球中継テーマソング |- | 紋白蝶 -8 a.m. SKA- | [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ]]』オープニングテーマ | rowspan="4" |5thミニアルバム『JUNK or GEM』 |- |JUNK or GEM |[[TBSラジオ]] 『[[JUNK]]』サウンドステッカー |- |カルぺ・ディエム~今日がその日さ~ |BS「J SPORTS STADIUM2023 野球中継テーマソング」テーマソング |- |北斗七星 |「東京グレートベアーズ」テーマソング |- |追い越してく星 |[[京都競馬場|センテニアル・パーク京都競馬場]]「あたらしい京都競馬場 4月22日デビュー」CMソング<ref>{{Cite news2|title=スカパラ×京都競馬場コラボ曲「追い越してく星」CMオンエア、グランドオープン当日に生演奏|url=https://natalie.mu/music/news/519584|newspaper=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-04-05|accessdate=2023-04-05}}</ref> | |- |Departure |[[大塚国際美術館]]開館25周年記念テーマソング | |- |ウタカタラッタラ |ネイチャーラボ MARO17「泡沫(ウタカタ)feat.TETSU」篇 CMソング<ref>{{Cite web|和書|title=【MAPPA】と【東京スカパラダイスオーケストラ】による【MARO17】新作アニメーションTVCMが2023年7月20日〜放送開始|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000409.000017718.html|work=PR TIMES|publisher=ネイチャーラボ|date=2023-07-20|accessdate=2023-08-04}}</ref> | |- |The Last Ninja |東映配給映画『身代わり忠臣蔵』テーマ曲<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/549311|title=スカパラ新曲は「The Last Ninja」ムロツヨシ主演「身代わり忠臣蔵」をスリリングに彩るテーマ曲|date=2023-11-16|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-11-16}}</ref> | |} == 主なライブ == === ワンマンライブ・主催イベント === {|class="wikitable" style=font-size:small |- ! 開催日 ! タイトル ! 備考 |- | 1994年 | TOUR FANTASIA | |- | 2002年 | DOWN BEAT ARENA | |- | 2003年 | STANDING TOUR 2003 HIGH NUMBERS | |- | 2004年 | 2004 Autum-Winter Tour | |- | 2006年 | WILD PEACE | |- | 2007年 | 東京スカパラダイスオーケストラ フリーライブ | |- | 2007年 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2007 SPRING TOUR | |- | 2007年 | 2007 Autumn-Winter Tour | |- | 2008年 | TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA -Perfect Future Tour- | |- | 2009年 | Paradise Blue Tour 2009 | |- | 2009年8月8日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 山中湖交流プラザきらら * ROYAL BUSTER * The Scandals * The Japonicans * 東京スカパラダイスオーケストラ * The 69Yobsters * KING NABE & THE VIKINGS * Break * See Spot * New York Ska-Jazz Ensemble * Session </div></div> |- | 2009年10月6日〜12月8日 | and PARADISE goes on...TOUR |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 10/06 なんばHatch * 10/07 なんばHatch * 11/17 SHIBUYA-AX * 12/08 Zepp Nagoya </div></div> |- | 2010年3月12日 | 緊急決定! 3月12日アルバム発売記念ライブ | 新木場STUDIO COAST |- | 2010年3月27日 | 東京スカパラダイス国技館 | 両国国技館 w/ [[奥田民生]] |- | 2010年4月24日 | 東京スカパラダイス体育館 | 東京体育館 w/ 奥田民生 / [[Crystal Kay]] / [[斉藤和義]] |- | 2010年8月7日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー vol.2 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 中湖交流プラザきらら * 川上つよしと彼のムードメイカーズ * Desorden Publico * Dennis Bovell & Open Band * Rude Rich & The High Notes * THE DESCRIPTIONS * THE FATNESS * BLUE LAKE BEAT </div></div> |- | 2010年10月11日 | 大極殿音絵巻 1300年分、踊らせる! 東京スカパラダイスオーケストラ 平城京ダンステリア 踊る、スカパラ大極殿! | 平城宮跡 第一次大極殿前 |- | 2010年11月2日〜2011年1月29日 |WORLD SKA SYMPHONY TOUR |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/02 C.C.Lemonホール * 11/13 神奈川県民ホール 大ホール * 11/16 NHK大阪ホール * 1/06 新宿文化センター * 1/27 練馬区立練馬文化センター * 1/29 富山市芸術文化ホール オーバード・ホール </div></div> |- | 2011年5月27日〜6月23日 | 2011 STANDING TOUR"HEROES" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/27 CLUB CITTA'川崎 * 5/29 Zepp Sendai * 5/31 札幌PENNY LANE 24 * 6/01 札幌PENNY LANE 24 * 6/04 Zepp Fukuoka * 6/06 神戸チキンジョージ * 6/09 富山MAIRO * 6/13 広島CLUB QUATTRO * 6/14 広島CLUB QUATTRO * 6/16 CRAZYMAMA KINGDOM * 6/18 なんばHatch * 6/19 クラブダイアモンドホール * 6/22 Zepp Tokyo * 6/23 Zepp Tokyo </div></div> |- | 2011年8月6日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー vol.3 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 山中湖交流プラザきらら * Fishbone * Oi-SKALL MATES * The Miceteeth * BLUE BEAT PLAYERS * The kingstompers * THE AUTOCRATICS * Moon Inlet Sounds Orchestra </div></div> |- | 2011年9月17日 | 東京スカパラダイスオーケストラ スペシャルライブ@富岡製糸場 | [[富岡製糸場]] |- | 2011年10月21日〜12月27日 | TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA TOUR in Japan "Discover Japan Tour" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 10/21 厚木市文化会館 * 11/03 倉敷市玉島文化センター * 11/04 呉市文化ホール * 11/06 丸亀市民会館 * 11/10 音更町文化センター * 11/11 室蘭市文化センター 大ホール * 11/13 美唄市民会館 * 11/15 紋別市民会館 * 11/21 きゅりあん * 11/23 鯖江市文化センター ホール * 11/25 コスモアイル羽咋 * 11/28 サンパール荒川 * 12/03 宇城市松橋総合体育文化センター ウイングまつばせ * 12/04 エイトピアおおの * 12/09 松戸森のホール21 * 12/11 狭山市市民会館 * 12/12 板橋区立文化会館 * 12/17 和田山ジュピターホール * 12/18 岸和田市立浪切ホール 大ホール * 12/21 仙台サンプラザ ホール * 12/24 小出郷文化会館 * 12/27 オリンパスホール八王子 </div></div> |- | 2012年3月13日 | 東京スカパラダイスオーケストラ FREE LIVE [Walkin'] | 代々木公園 |- | 2012年4月21日〜7月6日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2012 TOUR 【 Walkin' 】 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 4/21 川口総合文化センターリリア メインホール * 4/22 横浜BLITZ * 4/24 静岡市民文化会館 中ホール * 4/30 奈良県文化会館 * 5/01 なんばHatch * 5/03 Zepp Fukuoka * 5/05 熊本県立劇場 * 5/06 鹿児島市民文化ホール 第二 * 5/11 弘前市民会館 * 5/13 Zepp Sendai * 5/19 三木町文化交流プラザ * 5/20 BAY5 SQUARE * 5/26 神戸国際会館こくさいホール * 5/28 Zepp Nagoya * 6/01 岡山市民会館 * 6/03 下関市民会館 * 6/08 まつもと市民芸術館 * 6/10 高周波文化ホール * 6/16 ALSOKホール * 6/17 オリックス劇場 * 6/21 札幌PENNY LANE 24 * 6/22 札幌PENNY LANE 24 * 6/24 岩見沢市民会館・文化センター まなみーる 大ホール * 7/01 本多の森ホール * 7/05 国立代々木競技場 第二体育館 * 7/06 国立代々木競技場 第二体育館 </div></div> |- | 2012年9月7日 | 北原雅彦 生誕51周年記念特別ライブ | 渋谷WWW |- | 2012年9月30日 |トーキョーナイトクルージング | 新木場STUDIO COAST |- | 2012年10月13日 | 東京スカパラダイスオーケストラ世界遺産ライブ 2012 at 日光東照宮 | 日光東照宮 五重塔前特別舞台 |- | 2012年11月28日〜12月29日 | 2012 クラブサーキット「欲望」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/28 SHIBUYA O-EAST * 12/01 仙台Rensa * 12/02 仙台Rensa * 12/04 club SONIC iwaki * 12/06 長野CLUB JUNK BOX * 12/08 富山MAIRO * 12/09 富山MAIRO * 12/11 赤坂BLITZ * 12/13 クラブダイアモンドホール * 12/15 福岡DRUM LOGOS * 12/16 福岡DRUM LOGOS * 12/18 高松MONSTER * 12/19 高松MONSTER * 12/21 恵比寿LIQUIDROOM * 12/24 広島CLUB QUATTRO * 12/26 梅田CLUB QUATTRO * 12/27 BIGCAT * 12/29 なんばHatch </div></div> |- | 2013年3月27日 | 東京スカパラダイスオーケストラ "Too Hot" 限定3本ライブ 第一弾 男子限定ライヴ「Do the Dog」 | 新代田FEVER |- | 2013年4月4日 | 東京スカパラダイスオーケストラ "Too Hot" 限定3本ライブ 第二弾「A Message To You Rudy」supported by FRED PERRY | 新宿LOFT |- | 2013年5月5日 | 東京スカパラダイスオーケストラ "Too Hot" 限定3本ライブ 第三弾 学生限定ライヴ「Too Much Too Young」 | 下北沢GARDEN |- | 2013年05月11日〜23日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2013東名阪・限定ツアー「新たなる欲望」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/11 クラブダイアモンドホール * 5/12 クラブダイアモンドホール * 5/17 SHIBUYA-AX * 5/18 SHIBUYA-AX * 5/22 なんばHatch * 5/23 なんばHatch </div></div> |- | 2013年7月9日 | 東京スカパラダイスオーケストラ「Diamond In Your Heart」発売記念ライブ | SHIBUYA O-EAST |- | 2013年8月22日 | 新生フェスティバルホール・スペシャルライブ | フェスティバルホール |- | 2013年10月26日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカミーティングat 福岡 | 福岡DRUM LOGOS w/ KEMURI |- | 2013年11月5日〜12月31日 | ライブハウスツアー2013"STAND OUT!" |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/05 SHIBUYA O-EAST * 11/07 CLUB CITTA'川崎 * 11/09 高松MONSTER * 11/10 高松MONSTER * 11/12 クラブダイアモンドホール * 11/15 オルガホール * 11/16 松江テルサ テルサホール * 11/23 熊本DRUM Be-9 V1 * 11/24 熊本DRUM Be-9 V1 * 11/29 KYOTO MUSE * 11/30 KYOTO MUSE * 12/01 SOUND SHOWER ark * 12/04 恵比寿LIQUIDROOM * 12/06 NIIGATA LOTS * 12/07 長野CLUB JUNK BOX * 12/08 長野CLUB JUNK BOX * 12/10 cube garden * 12/11 cube garden * 12/12 cube garden * 12/18 広島CLUB QUATTRO * 12/19 広島CLUB QUATTRO * 12/21 福岡DRUM LOGOS * 12/25 恵比寿ザ・ガーデンホール * 12/28 なんばHatch * 12/31 仙台サンプラザ ホール </div></div> |- | 2014年5月17日〜7月26日 | 25th Anniversary Hall Tour 2014『SKA ME CRAZY 』 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/17 川口総合文化センターリリア メインホール * 5/18 神戸国際会館こくさいホール * 5/24 東京エレクトロン韮崎文化ホール * 5/30 札幌市民ホール * 6/01 栃木県総合文化センター * 6/07 淡路市立しづかホール * 6/08 京都劇場 * 6/14 仙台市民会館 * 6/18 柏崎市文化会館アルフォーレ 大ホール * 6/20 高岡市民会館 * 6/22 まつもと市民芸術館 * 6/27 とりぎん文化会館 * 6/29 静岡市民文化会館 中ホール * 7/01 名古屋市公会堂 * 7/05 TOKYO DOME CITY HALL * 7/11 福岡市民会館 * 7/12 広島文化学園HBGホール * 7/19 西条市総合文化会館 * 7/21 佐川町立 桜座 * 7/24 フェスティバルホール * 7/26 いわき芸術文化交流館アリオス </div></div> |- | 2014年8月9日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー vol.4 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 山中湖交流プラザきらら * Beat Bahnhof * beat sunset * Moon Inret Sounds Orchestra * HEY-SMITH * 川上つよし * MONGOL800 * 谷中敦 * 10-FEET * ハナレグミ * 上江洌.清作 & The BK Sounds!! * KEMURI * 細美武士 * 東京スカパラダイスオーケストラ </div></div> |- | 2014年8月12日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents"トーキョーフリージャンボリー" supported by uP!!! | 代々木公園 野外ステージ |- | 2014年9月20日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 奉納コンサート | 春日大社 飛火野特設ステージ |- | 2014年10月28日〜12月28日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 25th Anniversary Live House Tour 「SKA ME FOREVER」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 10/28 CLUB CITTA' 川崎 * 10/30 広島CLUB QUATTRO * 10/31 広島CLUB QUATTRO * 11/02 CRAZYMAMA KINGDOM * 11/05 Diamond Hall * 11/06 Diamond Hall * 11/08 高松MONSTER * 11/09 高松MONSTER * 11/17 cube garden * 11/18 cube garden * 11/19 cube garden * 11/22 KYOTO MUSE * 11/23 KYOTO MUSE * 11/28 響のホール * 11/29 富山MAIRO * 11/30 富山MAIRO * 12/02 渋谷CLUB QUATTRO * 12/03 渋谷CLUB QUATTRO * 12/04 渋谷CLUB QUATTRO * 12/06 青森Quarter * 12/07 盛岡Club Change WAVE * 12/09 仙台Rensa * 12/10 仙台Rensa * 12/12 NIIGATA LOTS * 12/13 長野CLUB JUNK BOX * 12/14 長野CLUB JUNK BOX * 12/16 恵比寿LIQUIDROOM * 12/17 恵比寿LIQUIDROOM * 12/20 熊本B.9 V1 * 12/21 熊本B.9 V1 * 12/27 福岡DRUM LOGOS * 12/28 福岡DRUM LOGOS </div></div> |- | 2014年12月31日 | 東京スカパラダイスオーケストラ COUNTDOWN LIVE 歓喜のスカパラ 2014-2015 | ワールド記念ホール |- | 2015年3月28日 | Live at Budokan 〜The Last〜 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 日本武道館 * 10-FEET * MONGOL800 * ASIAN KUNG-FU GENERATION * [[亀田誠治]] </div></div> |- | 2015年4月28日〜5月7日 | スカパラ'15 春のみちのく 7本勝負 〜東北ライブハウス大作戦編〜 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 4/28 石巻BLUE RESISTANCE * 4/29 石巻BLUE RESISTANCE * 5/01 KLUB COUNTER ACTION MIYAKO * 5/02 KLUB COUNTER ACTION MIYAKO * 5/04 郡山Hip Shot Japan * 5/06 Club SWINDLE * 5/07 Club SWINDLE </div></div> |- | 2015年5月11日・12日・5月13日 | スカパラ'15 春のclub asia 3本勝負 |club asia |- | 2015年5月15日 | スカパラ'15 春の広島クアトロ 1本勝負 | 広島CLUB QUATTRO |- | 2015年5月17日 | スカパラ'15 春のなんばHatch 1本勝負 | なんばHatch |- | 2015年8月8日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー vol.5 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 山中湖交流プラザきらら メインステージ * kin-ichi's session * 東京スカパラダイスオーケストラ * Two Lead * Moon Inlet Sounds Orchestra * Skankey Paradise Gentlemans * FEELFLIP * 東京スカパラダイスオーケストラ 原っぱステージ * OutNotes * 川上つよしと彼のムードメイカーズ </div></div> |- | 2015年08月18日・19日 | 女子限定ライブ&男子限定ライブ -関西編- | Music Club JANUS |- | 2015年9月14日 | 「爆音ラヴソング / めくったオレンジ」購入者限定ライブ |club asia |- | 2015年10月13日〜2016年2月13日 | 2015-2016 Hall Tour「叶えた夢に火をつけて燃やす」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 10/03 川口総合文化センターリリア メインホール * 10/06 町田市民ホール * 10/09 かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール * 10/14 南魚沼市民会館 大ホール * 10/16 砺波市文化会館 大ホール * 10/17 輪島市文化会館 * 10/25 サンポートホール高松 大ホール * 10/30 岡山市民会館 * 11/28 神戸国際会館こくさいホール * 12/04 フェスティバルホール * 12/05 フェスティバルホール * 12/12 大町市文化会館 大ホール * 12/19 上野学園ホール * 12/20 防府市公会堂 * 12/22 静岡市民文化会館 中ホール * 12/25 本多の森ホール * 12/27 鎌倉芸術館 大ホール * 01/09 日本特殊陶業市民会館 フォレストホール * 01/11 熊本県立劇場 演劇ホール * 01/16 高知市文化プラザかるぽーと 大ホール * 01/24 中野サンプラザ ホール * 01/25 中野サンプラザ ホール * 01/30 だて歴史の杜カルチャーセンター 大ホール * 01/31 小樽市民会館 ホール * 02/02 札幌PENNY LANE 24 * 02/07 仙台サンプラザ ホール * 02/12 鹿児島市民文化ホール 第二 * 02/13 福岡市民会館 大ホール * 04/14 ロームシアター京都 メインホール * 04/15 ロームシアター京都 メインホール </div></div> |- | 2016年04月14日〜15日 | 2015-2016 Hall Tour「叶えた夢に火をつけて燃やす」特別追加公演"乱れ咲き花ふぶき 〜春の京都〜" | ロームシアター京都 メインホール |- | 2016年5月2日〜25日 | 2016 ライブハウスツアー「道なき道を行く」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/02 石巻BLUE RESISTANCE * 5/03 石巻BLUE RESISTANCE * 5/05 KLUB COUNTER ACTION MIYAKO * 5/06 KLUB COUNTER ACTION MIYAKO * 5/08 郡山Hip Shot Japan * 5/09 郡山Hip Shot Japan * 5/24 EX THEATER ROPPONGI * 5/25 EX THEATER ROPPONGI </div></div> |- | 2016年8月6日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents トーキョースカジャンボリー vol.6 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> 山中湖交流プラザきらら *東京スカパラダイスオーケストラ * Tropicos * SKALAPPER * Moon Inlet Sounds Orchestra * 東京スカパラダイスオーケストラ </div></div> |- | 2016年11月7日〜12月26日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2016ライブハウスツアー 「Paradise Has No Border」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/07 なんばHatch * 11/09 Diamond Hall * 11/10 Diamond Hall * 11/12 高松MONSTER * 11/13 高松MONSTER * 11/16 cube garden * 11/17 cube garden * 11/18 cube garden * 11/23 新木場STUDIO COAST * 11/25 福岡DRUM LOGOS * 11/26 和歌山SHELTER * 11/27 和歌山SHELTER * 12/02 広島CLUB QUATTRO * 12/03 広島CLUB QUATTRO * 12/05 神戸チキンジョージ * 12/06 神戸チキンジョージ * 12/10 熊本B.9 V1 * 12/11 熊本B.9 V1 * 12/14 長野CLUB JUNK BOX * 12/15 長野CLUB JUNK BOX * 12/17 富山MAIRO * 12/18 富山MAIRO * 12/21 恵比寿ザ・ガーデンホール * 12/25 仙台PIT * 12/26 なんばHatch </div></div> |- | 2017年1月10日 | 東京スカパラダイスオーケストラ presents 2017新春JUSTA "Live" RADIO | THE BOTTOM LINE |- | 2017年5月13日〜7月27日 | TOKYO SKA Has No Border |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/13 川口総合文化センターリリア メインホール * 5/21 滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール 大ホール * 5/23 フェスティバルホール * 5/28 わくわくホリデーホール * 5/30 名寄市民文化センター EN-RAY HALL * 6/02 新潟テルサ * 6/04 フェニックス・プラザ 大ホール * 6/06 長野県伊那文化会館 大ホール * 6/10 ハイスタッフホール 大ホール * 6/11 高知市文化プラザかるぽーと 大ホール * 6/14 かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール * 6/17 市川市文化会館 大ホール * 6/18 厚木市文化会館 大ホール * 6/23 米子市公会堂 大ホール * 6/24 神戸国際会館こくさいホール * 6/28 北上市文化交流センターさくらホール 大ホール * 6/30 静岡市民文化会館 中ホール * 7/02 鹿児島県文化センター 宝山ホール * 7/11 中野サンプラザ * 7/14 日本特殊陶業市民会館 フォレストホール * 7/15 上野学園ホール * 7/16 福岡市民会館 大ホール * 7/20 オリックス劇場 * 7/22 紀南文化会館 大ホール * 7/23 ロームシアター京都 メインホール * 7/27 東京エレクトロンホール宮城 大ホール </div></div> |- | 2017年9月5日・6日・7日 | SPC 20th Anniversary event 東京スカパラダイスオーケストラ × STAR PINE'S CAFE<br />[Special Talk & Live "PARADISE in WEST TOKYO"] | 吉祥寺Star Pine's Cafe |- | 2017年10月21日〜22日 | PARADISE in ISHINOMAKI | 石巻BLUE RESISTANCE w/ ハナレグミ、ウクレレジプシー キヨサク |- | 2017年11月1日 | FM802 ROCK KIDS 802-OCHIKEN Goes ON!!- 『白と黒のモントゥーノ』レコ発記念 SPECIAL LIVE | 阿倍野ROCKTOWN |- | 2017年11月30日〜12月22日 | 2017 ライブハウスツアー「涙後体前」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/30 広島CLUB QUATTRO * 12/01 広島CLUB QUATTRO * 12/04 Diamond Hall * 12/05 Diamond Hall * 12/11 なんばHatch * 12/12 なんばHatch * 12/16 豊洲PIT * 12/22 福岡DRUM LOGOS </div></div> |- | 2017年12月31日 | 仙台カウントダウンライブ 2017-2018 “スカパラ・オールスターズ大感謝祭” | 仙台サンプラザ ホール |- | 2018年3月28日 | 「GLORIOUS」プレミアムライブ | 東京キネマ倶楽部 |- | 2018年4月14日〜6月24日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2018 Tour 『SKANKING JAPAN』“燃やせ、揺らせ”編 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 4/14 新木場STUDIO COAST * 4/20 広島CLUB QUATTRO * 4/22 SENDAI GIGS * 4/25 Zepp Nagoya * 4/27 なんばHatch * 4/28 なんばHatch * 5/02 金沢EIGHT HALL * 5/12 熊本B.9 V1 * 5/13 CAPARVO HALL * 5/18 横浜ベイホール * 5/23 旭川CASINO DRIVE * 5/24 帯広MEGA STONE * 5/26 小樽GOLDSTONE * 5/31 周南RISING HALL * 6/02 CRAZYMAMA KINGDOM * 6/03 CRAZYMAMA KINGDOM * 6/07 浜松窓枠 * 6/08 浜松窓枠 * 6/14 盛岡Club Change WAVE * 6/16 Club SWINDLE * 6/17 弘前Mag-Net * 6/20 渋谷CLUB QUATTRO * 6/21 渋谷CLUB QUATTRO * 6/23 WstudioRED * 6/24 WstudioRED </div></div> |- | 2018年9月29日〜12月9日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2018 Tour 『SKANKING JAPAN』“めんどくさいのが愛だろっ?”編 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 9/29 川口総合文化センターリリア メインホール * 10/06 仙台サンプラザ ホール * 10/08 會津風雅堂 * 10/13 富良野文化会館 大ホール * 10/15 根室市総合文化会館 大ホール * 10/17 わくわくホリデーホール * 10/20 敦賀市民文化センター 大ホール * 10/25 村上市民ふれあいセンター 大ホール * 10/30 サンパール荒川 大ホール * 11/14 須坂市文化会館メセナホール 大ホール * 11/17 高知県立県民文化ホール オレンジホール * 11/18 三原市芸術文化センター ポポロ ホール * 11/23 鳴門市文化会館 ホール * 11/25 安来市総合文化ホール アルテピア 大ホール * 12/01 サザンクス筑後 大ホール * 12/02 ユメニティのおがた 大ホール * 12/04 J:COM ホルトホール大分 大ホール * 12/08 オリンパスホール八王子 * 12/09 犬山市民文化会館 大ホール </div></div> |- | 2018年12月24日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2018 Tour 「SKANKING JAPAN」ファイナル公演“スカフェス in 城ホール” | 大阪城ホール |- | 2019年4月11日 | FC PARADISE presents “春の大感謝祭” | 恵比寿LIQUIDROOM |- | 2019年4月21日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 30th Anniversary Live「Are you ready for TOKYO SKA?」 | 豊洲PIT |- | 2019年5月2日〜6月11日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 30th Anniversary Tour「Traveling Ska JAMboree」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/02 福岡DRUM LOGOS * 5/03 福岡DRUM LOGOS * 5/11 NIIGATA LOTS * 5/12 NIIGATA LOTS * 5/16 札幌PENNY LANE 24 * 5/17 札幌PENNY LANE 24 * 5/22 仙台Rensa * 5/23 仙台Rensa * 5/25 なんばHatch * 5/26 なんばHatch * 5/28 Diamond Hall w/ 10-FEET * 5/29 Diamond Hall w/ 04 Limited Sazabys * 6/06 広島CLUB QUATTRO * 6/07 広島CLUB QUATTRO * 6/09 高松festhalle * 6/11 Zepp DiverCity </div></div> |- | 2019年6月12日 | 30th Anniversary Live「Are you ready for TOKYO SKA?」 | Zepp DiverCity |- | 2019年11月7日 | SPACE SHOWER TV & TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA 30TH ANNIVERSARY<br />「LIVE with YOU -TOKYO SKA JAM "8"」 | 新木場STUDIO COAST |- | 2019年11月21日〜2020年2月23日 | 30th Anniversary Hall Tour2019-20「TOKYO SKA 30 〜ズレたままハジキ飛ばしていこう〜」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/21 川口総合文化センターリリア メインホール * 11/24 フェニーチェ堺 大ホール * 11/25 神戸国際会館こくさいホール * 11/27 静岡市民文化会館 中ホール * 11/29 日本特殊陶業市民会館 フォレストホール * 12/01 フェニックス・プラザ 大ホール * 12/06 盛岡市民文化ホール 大ホール * 12/07 仙台サンプラザ ホール * 12/10 LINE CUBE SHIBUYA * 12/15 長岡市立劇場 大ホール * 12/21 上野学園ホール * 12/22 サンポートホール高松 大ホール * 1/04 富山市芸術文化ホール オーバード・ホール * 1/05 上田市交流文化芸術センター サントミューゼ 大ホール * 1/13 フェスティバルホール * 1/19 厚木市文化会館 大ホール * 1/24 北斗市総合文化センター かなで〜る 大ホール * 1/26 岩見沢市民会館・文化センター まなみーる 大ホール * 2/09 とりぎん文化会館 梨花ホール * 2/11 松山市総合コミュニティセンター キャメリアホール * 2/20 市民会館シアーズホーム夢ホール 大ホール * 2/22 鹿児島県文化センター 宝山ホール * 2/23 福岡サンパレス </div></div> |- | 2020年3月20日 | 『TOKYO SKA JAM "8"』緊急生配信 | オンラインライブ |- | 2020年9月10日 | 東京スカパラダイスオーケストラ オンラインライブ「PARADISKAFE」 | オンラインライブ |- | 2020年10月22日 | TOKYO SKA 30 ~ズレたままハジキ飛ばしていこう~ | 大阪城音楽堂 |- | 2020年11月14日 | 国宝松江城5周年記念 東京スカパラダイスオーケストラ in 松江城 | 松江城 馬溜特設ステージ |- | 2020年12月3日 | Great Conjunction 2020 | Zepp Haneda |- | 2021年1月17日〜7月2日 | 東京スカパラダイスオーケストラ TOUR 2021 「Together Again!」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 1/17 仙台サンプラザホール * 1/20 LINE CUBE SHIBUYA * 1/21 LINE CUBE SHIBUYA * 1/23 福岡サンパレス * 2/07 千葉県民文化会館 大ホール * 2/14 フェスティバルホール * 2/21 新潟テルサ * 3/06 川口総合文化センターリリア * 3/12 東大阪文化創造館 * 3/13 びわ湖ホール * 3/21 札幌文化芸術劇場hitaru * 4/03 富山オーバード・ホール * 4/04 まつもと市民芸術館 * 4/22 岡山市民会館 * 4/24 愛媛県県民文化会館 * 4/25 上野学園ホール * 6/01 フェスティバルホール * 6/13 名古屋国際会議場センチュリーホール * 7/02 東京ガーデンシアター </div></div> |- | 2021年3月22日 | SPACE SHOWER TV & TOKYO SKA PARADISE ORCHESTRA "LIVE with YOU" ~TOKYO SKA JAM 9+~ | 豊洲PIT |- | 2021年9月7日〜12月4日 | 東京スカパラダイスオーケストラ TOUR 2021「TOKYO SKA Treasure Hunt」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 9/07 広島CLUB QUATTRO * 9/08 広島CLUB QUATTRO * 9/17 KT Zepp Yokohama * 9/18 KT Zepp Yokohama * 9/24 Zepp Nagoya * 9/25 Zepp Nagoya * 10/08 Zepp Fukuoka * 10/09 Zepp Fukuoka * 10/16 Zepp Osaka Bayside * 10/17 Zepp Osaka Bayside * 10/21 Zepp DiverCity * 10/22 Zepp DiverCity * 11/06 Zepp Haneda * 11/07 Zepp Haneda * 11/20 高松festhalle * 11/21 高松festhalle * 11/26 SENDAI GIGS * 11/27 SENDAI GIGS * 12/03 Zepp Sapporo * 12/04 Zepp Sapporo </div></div> |- | 2021年11月3日 | HEY-SMITH & 東京スカパラダイスオーケストラ Presents "SKAramble Japan" | USEN STUDIO COAST |- | 2022年4月21日〜7月27日 | 東京スカパラダイスオーケストラ TOUR 2022「BEST OF LUCK」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 4/21 厚木市文化会館 * 4/23 長野市芸術館 * 4/24 糸魚川市民会館 * 5.07 越前市文化センター * 5/08 加賀市文化会館 * 5/13 島根県民会館 * 5/15 神戸国際会館 こくさいホール * 5/21 とうほう・みんなの文化センター * 5/22 やまぎん県民ホール * 5/26 福岡市民会館 * 5/28 周南市文化会館 * 5/29 しこちゅ~ホール -四国中央市民文化ホール- * 6/03 上野学園ホール * 6/05 ロームシアター京都 メインホール * 6/06 大阪フェスティバルホール * 6/10 市民会館シアーズホーム夢ホール 大ホール * 6/11 宝山ホール * 6/15 高周波文化ホール * 6/17 仙台サンプラザホール * 6/19 リンクステーションホール青森 * 6/21 函館市民会館 * 6/23 札幌文化芸術劇場 hitaru * 6/25 旭川市民文化会館 * 6/29 日本特殊陶業市民会館 フォレストホール 大ホール * 7/01 静岡市民文化会館 大ホール * 7/07 川口総合文化センターリリア * 7/18 アクリエひめじ 大ホール * 7/26 中野サンプラザ * 7/27 中野サンプラザ </div></div> |- | 2022年11月11日〜2023年1月29日 | 東京スカパラダイスオーケストラ TOUR「Traveling Ska JAMboree 2022-2023」 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 11/11 Zepp Haneda * 11/12 Zepp Haneda * 11/16 Zepp Nagoya * 11/17 Zepp Nagoya * 12/03 なんばHATCH * 12/04 なんばHATCH * 12/15 Zepp Fukuoka * 12/16 Zepp Fukuoka * 12/24 Zepp Sapporo * 12/25 Zepp Sapporo * 1/19 Zepp Osaka Bayside * 1/21 HIROSHIMA CLUB QUATTRO * 1/22 HIROSHIMA CLUB QUATTRO * 1/28 SENDAI GIGS * 1/29 SENDAI GIGS </div></div> |- | 2023年5月26日〜7月17日 | 東京スカパラダイスオーケストラ 2023 HALL TOUR「JUNK or GEM ~Spring&Summer」ガラクタかオタカラか?スカしてるならそれがタカラだ。 |<div class="NavFrame" style="clear:both;border:0;"> <div class="NavHead">詳細</div> <div class="NavContent" style="text-align:left;"> * 5/26 川口総合文化センターリリア メインホール * 6/01 メディキット県民文化センター 演劇ホール * 6/03 福岡市民会館 * 6/10 シライシアター野洲 * 6/11 半田市福祉文化会館 雁宿ホール * 6/13 フェスティバルホール * 6/15 太子町立文化会館 あすかホール * 6/17 呉信用金庫ホール * 6/18 出雲市民会館 * 6/23 江戸川区総合文化センター * 6/28 白山市松任文化会館 * 6/29 砺波市文化会館 * 7/02 南魚沼市民会館 * 7/07 J:COMホール八王子 * 7/12 矢巾町文化会館 田園ホール * 7/13 荘銀タクト鶴岡 大ホール * 7/17 昌賢学園まえばしホール 大ホール </div></div> |} === 出演イベント === <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;font-size:small;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">1990年 - 2005年</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;font-size:small;"> {{Colbegin|2}} * 1990年08月04日 - [[MEET THE WORLD BEAT]] * 1990年08月07日 - [[UNICORN]] 名古屋 Rock'n Roll Panic '90 * 1990年12月20日 - クリスマスカ * 1991年07月28日 - MEET THE WORLD BEAT'91 * 1995年07月23日 - MEET THE WORLD BEAT'95 * 1998年08月01日 - [[FUJI ROCK FESTIVAL]] 1998 * 1999年07月31日 - FUJI ROCK FESTIVAL 1999 * 1999年08月17日 - PIA Music Foundation SPECIAL * 2000年08月19日 - [[RISING SUN ROCK FESTIVAL]] 2000 in EZO * 2000年08月22日 - [[RUSH BALL]] 2000 * 2001年03月21日 - Vivienne Westwood featuring SEVEN RED MERCURY * 2001年08月04日 - [[ARABAKI ROCK FEST.]] in Sendai Bay 08042001 * 2001年10月13日 - [[朝霧JAM]] 2001 * 2002年07月20日 - KIRIN SOUND TOGETHER [[POP HILL]] '02 * 2002年07月26日 - FUJI ROCK FESTIVAL 2002 * 2002年08月17日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2002 in EZO * 2002年09月01日 - RUSH BALL 2002 * 2003年07月27日 - MEET THE WORLD BEAT 2003 * 2003年08月01日 - [[ROCK IN JAPAN FESTIVAL]] 2003 * 2003年08月02日・03日 - [[SUMMER SONIC]] 2003 * 2003年08月10日 - [[J-WAVE LIVE]] 2000+3 * 2003年08月15日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2003 in EZO * 2003年08月23日 - MONSTER baSH 2003 * 2003年09月27日 - 朝霧JAM 2003 * 2003年12月31日 - [[COUNTDOWN JAPAN]] 03/04 * 2004年08月08日 - ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2004 * 2004年08月14日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2004 in EZO * 2004年12月31日 - COUNTDOWN JAPAN 04/05 * 2005年04月29日 - ARABAKI ROCK FEST.04292005 * 2005年07月30日 - FUJI ROCK FESTIVAL 2005 * 2005年08月19日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2005 in EZO * 2005年08月27日 - MONSTER baSH 2005 * 2005年08月28日 - RUSH BALL 2005 * 2005年12月29日 - COUNTDOWN JAPAN 05/06 {{Colend|2}} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;font-size:small;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">2006年 - 2010年</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;font-size:small;"> {{Colbegin|2}} * 2006年04月30日 - ARABAKI ROCK FEST.06' * 2006年08月18日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2006 in EZO * 2006年12月29日・31日 - COUNTDOWN JAPAN 06/07 * 2007年04月28日 - ARABAKI ROCK FEST.07 * 2007年07月29日 - FUJI ROCK FESTIVAL 2007 * 2007年08月18日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2007 in EZO * 2007年08月26日 - MONSTER baSH 2007 * 2007年09月01日 - SPACE SHOWER [[SWEET LOVE SHOWER]] 2007 * 2007年09月02日 - SOUND MARINA 2007 〜Feel the Voice Special〜 * 2007年09月16日 - MUSIC COMPLEX 2007 * 2008年07月26日 - [[HIGHER GROUND]] 2008 * 2008年08月02日 - [[情熱大陸]] SPECIAL LIVE SUMMER TIME BONANZA'08 * 2008年08月10日 - [[WORLD HAPPINESS]] 2008 * 2008年08月16日 - RISING SUN ROCK FESTIVAN 2008 in EZO * 2008年08月30日 - SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2008 * 2008年08月31日 - RUSH BALL 2008 * 2008年12月28日・30日 - COUNTDOWN JAPAN 08/09 * 2009年05月30日 - GREENROOM FESTIVAL '09 * 2009年07月04日 - Hot Stuff 30th Anniversary Special Live "out of our heads" * 2009年07月24日 - FUJI ROCK FESTIVAL 2009 * 2009年08月15日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2009 in EZO * 2009年08月23日 - MONSTER baSH 2009 * 2009年08月29日 - 音楽と髭達 2009 -Way- * 2009年08月30日 - SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2009 * 2009年12月31日 - COUNTDOWN JAPAN 09/10 * 2010年01月11日 - TOWER RECORDS 30th anniversary SPECIAL FACE THE TOWER OF MUSIC * 2010年01月23日 - au by KDDI presents オンタマカーニバル 2010 * 2010年04月22日 - TOKYO FM&JAPAN FM NETWORK present アースデー・コンサート2010 * 2010年05月02日 - ARABAKI ROCK FEST.10 * 2010年05月15日 - [[JAPAN JAM]] 2010 * 2010年06月05日 - FREEDOM 2010 in 淡路島 "青空" * 2010年07月11日 - [[京都大作戦]]2010 〜今年も子供に戻りな祭〜 * 2010年07月18日 - [[JOIN ALIVE]] 2010 * 2010年07月31日 - [[SETSTOCK]]'10 * 2010年08月08日 - WORLD HAPPINESS 2010 * 2010年08月13日 - J-WAVE LIVE 2000+10 * 2010年10月17日 - ベストヒット☆SMA「AXボンバー!!!!! 」 * 2010年11月30日 - Superfly & The Lemon Bats 〜SWITCH 25th ANNIVERSARY〜 Rock'N'Roll Muncher * 2010年12月08日 - [[Dream Power ジョン・レノン スーパー・ライヴ]] 2010 * 2010年12月29日 - COUNTDOWN JAPAN 10/11 {{Colend|2}} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;font-size:small;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">2011年 - 2015年</div> <div class="NavContent" style="text-align: left;font-size:small;"> {{Colbegin|2}} * 2011年03月05日 - 東京・味の素スタジアムJ2リーグ開幕戦 FC東京対サガン鳥栖 試合前ライブ * 2011年05月02日 - [[忌野清志郎 ロックン・ロール・ショー]] 日本武道館 Love & Peace * 2011年07月30日 - FUJI ROCK FESTIVAL 2011 * 2011年08月03日 - 大井競馬場 TWINKLE LIVE * 2011年08月13日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2011 in EZO * 2011年08月21日 - MONSTER baSH 2011 * 2011年08月27日 - ARABAKI ROCK FEST.11 08 * 2011年09月18日 - [[氣志團]] 極東ROCK'N'ROLL HIGH SCHOOL 「ドキッ! 丸ごとバナナ 男だらけの吹奏大会」 * 2011年10月01日 - [[MONGOL800 ga FESTIVAL What a Wonderful World!!]] 2011 * 2011年10月29日 - [[東日本大震災]]復興祭2011 〜子供たちの未来のために〜 * 2011年12月30日 - COUNTDOWN JAPAN 11/12 * 2012年02月26日 - DEVILOCK NIGHT THE FINAL * 2012年03月10日 - FACTORY LIVE 0310 * 2012年03月18日 - MUSIC CUBE 12 * 2012年04月28日 - ARABAKI ROCK FEST.12 * 2012年07月27日 - WOMAD UK 2012 * 2012年08月10日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2012 in EZO * 2012年08月19日 - SETSTOCK'12 -10th Anniversary in Bihoku- * 2012年08月25日 - [[音楽と髭]]達 2012 -rainbow- * 2012年09月09日 - RADIO BERRY ベリテンライブ2012 Special * 2012年09月22日 - GUNMA ROCK FESTIVAL 2012 * 2012年11月01日 - IVE! TOWER RECORDS 「Zepp! Step! SMA!」 * 2013年02月11日 - DEDICATE to ・・・ 〜gang 451〜 * 2013年05月04日 - SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2013 in 東京 * 2013年05月14日 - KEMURI x ARIMINO presents CHARITY LIVE 2013 "YOUGO"「復活」 * 2013年06月01日 - 頂 2013 * 2013年06月22日 - MIYAKO ISLAND ROCKFESTIVAL 2013 * 2013年07月07日 - 京都大作戦2013 〜天の川今年も宇治で見上げな祭〜 * 2013年07月21日 - JOIN ALIVE 2013 * 2013年08月17日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2013 in EZO * 2013年08月24日 - MONSTER baSH 2013 * 2013年08月25日 - [[Sky Jamboree]] 2013 〜one pray in nagasaki〜 * 2013年08月31日 - RUSH BALL 2013 * 2013年09月01日 - SOUND MARINA '13 * 2013年09月08日 - RADIO BERRY ベリテンライブ2013 Special * 2013年09月15日 - 氣志團万博2013 〜房総爆音梁山泊〜 * 2013年09月23日 - マゴーソニック2013 福岡 〜オラ、スカパラが好きだ!〜 * 2013年10月09日 - [[怒髪天|DOHATSUTEN]] 三十路(ミソジ)まえ “七色の虹をかける野郎ども” * 2013年10月13日 - 朝霧JAM 2013 * 2013年12月29日 - [[RADIO CRAZY]] 2013 * 2013年12月30日 - COUNTDOWN JAPAN 13/14 * 2014年01月31日 - POPHOLIC NIGHT 〜dedicated to Masayuki Kawakatsu〜 * 2014年03月01日 - [[MONGOL800]] ga LIVE "800BEST" at 福岡国際センター * 2014年03月15日 - [[Perfume]] FES!! 2014 * 2014年04月19日 - SMA AWARDS 2014 〜輝く! 日本エスエムエー大賞〜 * 2014年04月26日 - ARABAKI ROCK FEST.14 * 2014年05月03日 - VIVA LA ROCK 2014 * 2014年06月12日 - 〜The 10th Anniversary〜 Like a Rockin' Rollin' Stone Tour * 2014年07月06日 - 京都大作戦2014 〜束になってかかってきな祭!〜 * 2014年07月13日 - [[ASIAN KUNG-FU GENERATION presents NANO-MUGEN FES.]]2014 * 2014年07月27日 - FUJI ROCK FESTIVAL '14 * 2014年08月16日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2014 in EZO * 2014年08月23日 - MONSTER baSH 2014 * 2014年08月24日 - Sky Jamboree 2014 〜one pray in nagasaki〜 * 2014年09月13日 - OSAKA HAZIKETEMAZARE FESTIVAL 2014 * 2014年09月14日 - 男どアホウ [[サンボマスター]] * 2014年09月15日 - 氣志團万博2014 〜房総大パニック ! 超激突!! * 2014年09月24日 - FRED PERRY presents Sub-Sonic Live 2014 * 2014年09月28日 - [[中津川 THE SOLAR BUDOKAN]] 2014 * 2014年10月05日 - MONGOL800 ga FESTIVAL What a Wonderful World!! 13+14 * 2014年11月24日 - 第50回 [[甲南大学]] 摂津祭 プロコンサート2 * 2014年12月27日 - FM802 ROCK FESTIVAL RADIO CRAZY 2014 * 2015年01月16日 - 見砂和照と東京キューバンボーイズ * 2015年02月08日 - OCEANUS"10th Anniversary PARTY〜KING OF BLUE" * 2015年02月22日 - SMA 40th presents「[[堂島孝平]] 活動20周年記念公演 オールスター大感謝祭!」 * 2015年04月01日 - SMA40周年記念ファイナルイベント フリーライブ「みんなとうた」 * 2015年04月04日 - JAPAN NIGHT Jacalta * 2015年04月26日 - ARABAKI ROCK FEST.15 * 2015年05月18日 - ACCIDENT CODE "R" * 2015年05月19日 - [[Scoobie Do]] 野音への道・クアトロマンスリーシリーズ「白熱!スーツの男達編」 * 2015年05月23日 - GREENROOM FESTIVAL '15 * 2015年05月30日 - 阿蘇ロックフェスティバル 2015 * 2015年06月06日 - SMA41st "SMAはヨコハマもお好き?" * 2015年07月05日 - OKETO GREEN FESTIVAL * 2015年07月26日 - [[NUMBER SHOT]] 2015 * 2015年08月09日 - ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2015([[クリープハイプ]]とコラボ) * 2015年08月15日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2015 in EZO * 2015年08月20日 - ROCK KIDS 802 ラジ友夏祭り〜THE MUSIC CAMP 2015〜 * 2015年08月23日 - WILD BUNCH FEST. 2015 * 2015年08月29日 - 音楽と髭達 2015 -MUSIC STADIUM- * 2015年08月30日 - 福歌。2015 * 2015年09月04日 - 23rd Sunset Live 2015 -Love & Unity- * 2015年09月05日 - OTODAMA'15 〜音泉魂〜 * 2015年09月06日 - RADIO BERRY ベリテンライブ2015 Special * 2015年09月09日 - J-WAVE×HOT STUFF "LIVE OASIS" * 2015年09月20日 - 氣志團万博2015 〜房総! 抗争! 天下無双! 妄想! 狂騒! 大暴走! 〜 * 2015年09月22日 - RICO R.I.P. Tribute to legendary Jamaican trombonist Rico Rodriguez [[リコ・ロドリゲス (音楽家)|リコ・ロドリゲス]] 追悼ライヴ * 2015年09月27日 - TOWER RECORDS presents Bowline 2015 curated by クリープハイプ & TOWER RECORDS * 2015年10月23日 - [[9mm Parabellum Bullet]]「カオスの百年TOUR 2015」 * 2015年11月01日 - ROCK KIDS 802-OCHIKEN Goes ON!!-学園祭 SPECIAL LIVE 祭! 祭! 祭! * 2015年12月02日 - 2015 FNS歌謡祭 * 2015年12月28日 - FM802 ROCK FESTIVAL RADIO CRAZY 2015 * 2015年12月30日 - COUNTDOWN JAPAN 15/16 {{Colend|2}} </div></div> <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;font-size:small;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;">2016年 - </div> <div class="NavContent" style="text-align: left;font-size:small;"> {{Colbegin|2}} * 2016年04月02日 - CHIMERA GAMES TOKYO VOL.1 * 2016年04月30日 - ARABAKI ROCK FEST.16 * 2016年05月13日 - TOWER RECORDS SAPPORO PIVOT 20th Anniversary NOrth MUSIC, NOrth LIFE. Vol.11 * 2016年05月15日 - OSAKA METROPOLITAN ROCK FESTIVAL 2016 * 2016年05月21日 - [[TOKYO METROPOLITAN ROCK FESTIVAL]] 2016 * 2016年06月18日 - MIYAKO ISLAND ROCKFESTIVAL 2016 * 2017年12月23日 - ポルノ超特急2017 * 2018年07月15日 - [[ap bank#ap bank fes|ap bank fes '18]] * 2018年10月28日 - ホットスタッフ・プロモーション設立40周年記念イベント『Hot Stuff Promotion 40th Anniversary MASAKA』第3夜『Chaos Rocks』 * 2019年04月27日 - POP HILL 2019 * 2019年04月28日 - ARABAKI ROCK FEST.19 * 2019年05月05日 - JAPAN JAM 2019 * 2019年05月06日 - VIVA LA ROCK 2019 * 2019年06月02日 - LOVE MUSIC FESTIVAL 2019 * 2019年06月29日 - 京都大作戦2019 〜倍返しです! 喰らいな祭〜 * 2019年07月04日 - EX THEATER ROPPONGI presents 東京スカパラダイスオーケストラ × 在日ファンク * 2019年07月06日 - E.YAZAWA SPECIAL EVENT “ONE NIGHT SHOW 2019” * 2019年07月20日 - NUMBER SHOT 2019 * 2019年07月27日 - OGA NAMAHAGE ROCK FESTIVAL vol.10 * 2019年08月04日 ‐ ジャイガ -OSAKA GIGANTIC ROCK FES * 2019年08月12日 - ROCK IN JAPAN FES.2019 * 2019年08月16日 - RISING SUN ROCK FESTIVAL 2019 in EZO * 2019年08月17日 ‐ SUMMER SONIC 2019 * 2019年08月23日 - WILD BUNCHIFEST.2019 * 2019年08月24日 - MONSTER baSH 2019 * 2019年08月25日 - Sky Jamboree 2019 〜one pray in nagasaki〜 * 2019年08月31日 - 音楽と髭達2019 - 最後の花火 * 2019年09月01日 ‐ SWEET LOVE SHOWER 2019 * 2019年09月07日 - OTODAMA'18-'19 〜音泉魂〜 * 2019年09月14日 - 氣志團万博2019 〜房総ロックンロール最高びんびん物語〜 * 2019年09月15日 - 秋田CARAVAN MUSIC FES 2019 * 2019年09月19日 - 都会のラクダ “ホール&ライブハウス” TOUR 2019 〜立ちと座りと、ラクダ放題〜 * 2019年09月29日 - 岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in 横浜アリーナ2019 * 2019年10月08日 - BACKLASH NIGHT ⅡDECADES * 2019年12月04日 - FNS歌謡祭2019 第1夜 * 2019年12月26日 - FM802 ROCK FESTIVAL RADIO CRAZY 2019 * 2019年12月27日 - MUSIC STATION ウルトラSUPER LIVE 2019 * 2019年12月29日 - COUNTDOWN JAPAN 19/20 * 2020年01月16日 - TOKYO CUTTING EDGE Vol.3 〜Tokyo Ska Has No Border〜 * 2020年03月21日 - 緊急生放送!!FNS音楽特別番組 春は必ず来る * 2020年06月21日 - LIVE HUMAN 2020 * 2020年08月01日 - ビバラ! オンライン 2020 * 2020年09月12日 - THE MUSIC DAY 〜人はなぜ歌うのか?〜 * 2020年09月19日 - UNISON SQUARE GARDEN presents「fun time HOLIDAY ONLINE」 * 2020年09月26日 - 氣志團万博2020 〜家でYEAH!!〜 * 2021年5月2日 - JAPAN JAM 2021 * 2021年5月4日 - VIVA LA ROCK 2021 * 2021年7月17日 - J-WAVE LIVE 2021 * 2021年7月18日 - NUMBER SHOT 2021 * 2021年9月26日 - テレビ朝日ドリームフェスティバル2021 * 2021年10月30日 - MONGOL800 ga FESTIVAL What a Small World!! 2021 * 2021年12月26日 - FM802 ROCK FESTIVAL RADIO CRAZY presents THE GRAND SLAM * 2021年12月28日 - COUNTDOWN JAPAN 21/22 * 2021年1月5日 - GO FIGHT!! 城下町シリーズ {{Colend|2}} </div></div> == メンバー個別の出演、客演など == ※インタビュー出演及びDJ出演を除く ※ホーンズ3=NARGO、北原、GAMO === ライブ === * 2010年05月18〜06月25日 - ひふみよ 小沢健二 コンサートツアー 二零一零年 五月六月(ホーンズ3+沖) * 2011年03月06日 - 佐野元春30周年アニバーサリーライブat大阪城ホール(ホーンズALL) * 2011年05月04日 - 【JAPAN JAM】THE BAWDIESとコラボ(ホーンズALL) * 2016年03月22日 - オトザイサトコ ニューアルバム発売記念「女はそれを我慢できない〜スペシャル〜」 東京ワンマンLIVE(大森) === テレビ・ラジオ === * 2011年01月21日 - テレビ朝日『タモリ倶楽部〜"妄想旅行シリーズ 綱島温泉街跡地で温泉気分を味わう"』(川上) * 2011年12月13日〜 - フジテレビ『世界は言葉でできている』不定期出演(谷中) * 2012年03月03日 - ニッポン放送『茂木欣一のオールナイトニッポンR』(茂木) * 2020年01月02日 - ニッポン放送『東京スカパラダイスオーケストラのオールナイトニッポン』(谷中・川上・茂木)<ref>{{Cite news |title=スカパラが岡村隆史の代打で新春ANNに登場、「10の出来事」で30年を振り返る |url=https://natalie.mu/music/news/361193 |newspaper=音楽ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2019-12-26 |accessdate=2020-12-06 }}</ref> === 音源・MV === * 2011年05月 - “AOEQ(藤原ヒロシとYO-KINGよるユニット)”MV「デイ・ドリーム・ビリーバー」(加藤、大森出演) * 2012年03月 - 東日本大震災復興支援プロジェクト“JAPAN UNITED with MUSIC”「[[愛こそはすべて|All You Need Is Love]]」(ホーンズALL) == 関連項目 == * [[ミュージシャン一覧 (グループ)]] * [[夜のヒットスタジオ出演歌手一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commonscat|Tokyo Ska Paradise Orchestra|Tokyo Ska Paradise Orchestra}} * {{Official website}} * {{MySpace|tokyoskanet}} * {{Twitter|tokyoskaj}} ** {{Twitter|a_yanaka|谷中敦}} ** {{Twitter|skakeyboard2|沖祐市}} ** {{Twitter|Mooditter|川上つよし}} ** {{Twitter|Hazzy_O|大森はじめ}} ** {{Twitter|kin_drums|茂木欣一}} * {{Facebook|TokyoSkaParadiseOrchestra}} * {{Instagram|tokyoska_official|tokyoska_official}} ** {{Instagram|a.yanaka|谷中敦}} ** {{Instagram|skakeyboard|沖祐市}} ** {{Instagram|mooditter|川上つよし}} ** {{Instagram|h.omori|大森はじめ}} * {{YouTube|user=tokyoskanet}} ** {{YouTube|playlist=PL7ED7B02213DA7B60|2008-2020 MUSIC VIDEO}} * {{Spotify artist|0UZq6vAHrwGgctvxTzzxYm}} * {{歌ネット歌手|id=3479|name=東京スカパラダイスオーケストラ}} * [https://j-lyric.net/artist/a00072c/ 東京スカパラダイスオーケストラ] - J-Lyric.net * {{Apple Music artist|73969372}} * {{Oricon name|240828}} * [https://web.archive.org/web/19970525010358/http://netnavi.nikkeibp.co.jp/top/skapara/skapara.html 東京スカパラダイスオーケストラ] - netn@vi {{東京スカパラダイスオーケストラ}} {{ソニー・ミュージックアーティスツ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:とうきようすかはらたいすおおけすとら}} [[Category:東京スカパラダイスオーケストラ|*]] [[Category:日本のロック・バンド]] [[Category:日本のジャズ・バンド]] [[Category:スカ]] [[Category:渋谷系]] [[Category:1985年に結成した音楽グループ]] [[Category:ソニー・ミュージックアーティスツ]] [[Category:エピックレコードジャパンのアーティスト]] [[Category:エイベックス・グループのアーティスト]] [[Category:フジロック・フェスティバル出演者]] [[Category:ROCK IN JAPAN FESTIVAL出場者]] [[Category:サマーソニック出演者]] [[Category:9人組の音楽グループ]]
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加倉井ミサイル
加倉井 ミサイル(かくらい みさいる、女性、2月1日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都在住。『ミミまん』連載初期はnobody.というペンネームで活動していた。
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加倉井 ミサイルは、日本の漫画家、イラストレーター。東京都在住。『ミミまん』連載初期はnobody.というペンネームで活動していた。
'''加倉井 ミサイル'''(かくらい みさいる、[[女性]]、[[2月1日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[東京都]]在住。『ミミまん』連載初期は'''nobody.'''というペンネームで活動していた。 == 主な作品 == === 漫画 === * 『[[しびとの剣]]』([[スコラ]]:[[コミックスコラ]]→[[ソニー・マガジンズ]]:[[コミックバーズ]]→[[幻冬舎コミックス]]:コミックバーズにて連載、原作:[[菊地秀行]]、全8巻<ref>単行本は、スコラ版〈スコラSC〉第1-2巻、ソニー・マガジンズ版〈バーズコミックス〉第1-6巻、幻冬舎コミックス版〈バーズコミックス〉第1-8巻。</ref>) * 『[[アークザラッド]]』(スコラ、単行本描き下ろし<ref>{{Cite web|url=http://kakuraimissile.com/?page_id=117|title=kakuraimissile ABOUT|publisher=本人HP「kakuraimissile」|accessdate=2018-02-23}}</ref>、全1巻、未完) * 『[[鴻鵠館1301]]』([[角川書店]]、[[月刊少年エース]]にて連載、単巻) * 『[[アトランシティー]]』([[小学館]]、[[月刊IKKI]]にて連載、原作:[[渡辺浩弐]]、キャラクター原案:[[岡崎武士]]、単巻) * 『[[うつろ舟-Enfant ne coiffe]]』([[一迅社]]、[[コミックZERO-SUM]]にて連載、全4巻) * 『[[マリオンハイド]]』([[メディアファクトリー]]、[[コミックフラッパー]]にて連載、原作:[[北村龍平]]、全2巻) * 『[[ミミまん]]』([[飛鳥新社]]、[[季刊エス]]にて連載中、同人誌 既刊2巻→単行本 全1巻 ※'''かくらいみさいる'''名義で刊行<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/77576|title=かくらいみさいる「ミミまん」単行本化、展覧会を開催|publisher=コミックナタリー|date=2012-10-02|accessdate=2018-02-23}}</ref>) * 『[[RED SHADOW 赤影]]』(角川書店、[[月刊エースネクスト]]にて連載、ストーリー監修:[[斉藤ひろし]]、キャラクター原案:[[横山光輝]]、単巻) * 『[[BYC-裏庭街]]』([[ケータイ★まんが王国]]にて連載、原作:[[猪原賽]]、単巻) * 『[[彷徨の雲 -北斗の拳 ジュウザ外伝-]]』([[新潮社]]、[[週刊コミックバンチ]]にて連載、原案:[[武論尊]]・[[原哲夫]]、全2巻) * 『[[MOGU☆MIMI]]』(飛鳥新社、季刊エスにて連載中、[[D[diː]|<nowiki>D[diː]</nowiki>]]との合作、未単行本化) * その他参加作品 ** 『[[Project PAPO Resonance]]』([[講談社]]) ** 『[[アーリーバーズ]]』(幻冬舎) ** 『[[ケイゾク|ケイゾク/短篇集(アンソロジー)]]』(角川書店) ** 『[[零 -刺青ノ聲-|零 -刺青ノ聲- コミックアンソロジー]]』([[光文社]]) === イラスト === * [[菅野彰]]『海馬が耳から駆けてゆく』([[新書館]]) - 本文イラスト * [[矢彦沢典子]]『妖姫-贄の刻印』([[エニックス]]) - 表紙イラスト、挿絵 * [[富樫倫太郎]]『MUSASHI!』シリーズ(光文社) - 表紙イラスト、挿絵 * [[朱鷺田祐介]]『[[上海退魔行|上海退魔行-新撰組異聞]]』([[エンターブレイン]]) - 表紙イラスト、挿絵 * 『[[Fate/Zero|Fate/Zero Tribute Arts -死にゆく者への祈り-]]』([[コミックとらのあな|虎の穴]]) - イラスト数点 === 画集 === * 『白珖』([[アスキー・メディアワークス]]刊) == 脚注 == <references/> == 外部リンク == * [http://kakuraimissile.com/ 本人HP「kakuraimissile」] * [https://web.archive.org/web/20110319150416/http://mimi.chips.jp/ 鴻鵠館Annex] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かくらい みさいる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の女性イラストレーター]] [[Category:存命人物]]
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かたおか徹治
かたおか 徹治(かたおか てつじ、1952年9月4日 - )は、大阪府出身の漫画家。別名義:片岡徹治、西井とおる、あにま健児。 高校1年時から、当時大阪在住だった山上たつひこ宅に自作原稿を頻繁に持ち寄り親交を持つ。1971年、浪速短期大学のデザイン美術専攻科第1部入学と同時に山上に師事。翌年春に独立し、『ミラーマン』でデビュー。短期大学は後に中退している。 1977年、小池一夫が主宰した劇画村塾の第一期生となる。 2010年4月から2018年3月まで、日本デザイナー学院 M(マンガ)科の非常勤講師を勤めた。 ウルトラマンを始め特撮関連の作品を多く手掛けており、過去に特集記事掲載の依頼は何本もあったという。ウルトラマン関連では、2013年に初の取材を受けている。
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かたおか 徹治は、大阪府出身の漫画家。別名義:片岡徹治、西井とおる、あにま健児。
{{存命人物の出典明記|date=2017-11-16}} '''かたおか 徹治'''(かたおか てつじ、[[1952年]][[9月4日]]<ref name="PHOTO">{{wikicite|ref={{SfnRef|フォトニクル|2015}}|reference=DVD『[[アイアンキング]]フォトニクル』 2015年5月22日発売 発売元-デジタルウルトラプロジェクト DUPJ-131 pp.84-85 「アイアンキング漫画原画」}}</ref> - )は、[[大阪府]]出身の[[漫画家]]。別名義:'''片岡徹治'''、'''西井とおる'''、'''あにま健児'''<ref name="PHOTO" />。 == 略歴 == 高校1年時から、当時大阪在住だった[[山上たつひこ]]宅に自作原稿を頻繁に持ち寄り親交を持つ。1971年、[[浪速短期大学]]のデザイン美術専攻科第1部入学と同時に山上に師事。翌年春に独立し、『ミラーマン』でデビュー<ref name="PHOTO" />。短期大学は後に中退している。 1977年、[[小池一夫]]が主宰した[[劇画村塾]]の第一期生となる。 2010年4月から2018年3月まで、[[日本デザイナー学院]] M(マンガ)科の[[非常勤講師]]を勤めた<ref name="PHOTO" />。 [[ウルトラマン]]を始め[[特撮]]関連の作品を多く手掛けており、過去に特集記事掲載の依頼は何本もあったという。ウルトラマン関連では、2013年に初の取材を受けている<ref>『語れ! ウルトラマン 兄弟激闘編』(KKベストセラーズ・ベストムックシリーズ23)にインタビューが掲載。</ref>。 == 作品リスト == * [[ミラーマン]]([[小学三年生]] 1972年8月号-12月号/[[小学二年生]] 同年10月号-12月号 [[小学館]]) * 闇夜の牙([[中2コース]] 1972年9月号 別冊付録 [[Gakken|学研]]) * 悪魔のおとし物([[中二時代]] 1972年9月号 別冊付録 [[旺文社]]) * 白昼夢([[中3コース]] 1972年9月号 別冊付録 学研) * [[アイアンキング]]([[小学館BOOK]] 1972年11月号-1973年2月号 小学館) * アイアンキング(小学二年生 1972年11月号-1973年4月号 小学館) * [[ファイヤーマン]](小学三年生 1973年1月号-8月号 小学館) * [[科学忍者隊ガッチャマン]](原作:[[吉田竜夫]]、小学二年生 1973年5月号-1974年3月号 小学館) * [[サンダーマスク]](小学二年生 西井とおる名義-1973年4月号のみ 小学館) * [[ゼロテスター]]([[テレビランド]] 1973年9月号-11月号 [[黒崎出版]] → [[徳間書店]])〜[[西井とおる]]名義 * [[ダイヤモンドアイ]](原作:[[川内康範]]、小学三年生 1973年7月号-1974年2月号 小学館) * [[ジャンボーグA]](小学二年生 1973年12月号 小学館) * [[ガラよ行け!]](中一時代 1974年3月号 /旺文社) * [[電撃!!ストラダ5]](小学二年生 1974年5月号 - 8月号 /小学三年生 1974年7月号 小学館) * [[猿の軍団]](小学二年生 1974年 小学館) * [[ミクロマン]](小学二年生 1974年 小学館) * やってきたあいつ〜熱血先生編 (中二時代 1974年11月号-1975年3月号 旺文社) * 正太とキチ ([[週刊少年アクション]] 1975年3号 [[双葉社]]) * 野生の叫び(中三時代 1975年10月号 - 1976年3月号 旺文社) * [[UFO戦士ダイアポロン]](小学二年生 1976年6月号-9月号) * [[ザ・カゲスター]](原作:[[八手三郎]]、小学二年生 1976年9月号-11月号 小学館) * やってきたあいつ 〜青春学園編(中二時代 1976年11月号-1977年3月号 旺文社) * 巨人軍優勝物語(小学三年生 1977年1月号 小学館) * [[刑事犬カール]] (てれびくん 1977年9月号-12月号 小学館) * [[合身戦隊メカンダーロボ]](てれびくん10月号付録 1977年 小学館) * 死神を見た男たち(マリンダイビング 1978年1月号 - 6月号 [[水中造形センター]]) * 決闘ウルトラ兄弟([[コロコロコミック]] 1978年特別増刊2号 小学館) * ウルトラ兄弟対大怪獣(コロコロコミック 1978年特別増刊3号 小学館)〜単行本収録時『ウルトラ一族の大反乱』に改題 * がんばれレッズ (わくわくブック 小三 後期号 1978年 旺文社) * 帰って来たウルトラ兄弟(てれびくん 1978年3月号 小学館) * 帰って来たウルトラ兄弟(小学一年生 1978年11月号 - 1979年3月号 小学館) * なくな源太(わくわくブック 小三 前期号 1979年 旺文社) * 新・ウルトラ兄弟物語(コロコロコミック 1979年1月号 - 10月号 小学館) * ウルトラマン超異次元の対決(小学四年生1979年2月号 小学館) * [[ウルトラセブン]]物語(コロコロコミック1979年春の特別増刊号 小学館) * [[ザ☆ウルトラマン]](小学一年生 1979年5月号 - 1980年4月号小学館) * [[ウルトラ兄弟物語]] 1巻(1979年 小学館) * 食いしんぼう迷犬アポロ(1979年 小学三年生10月号付録 小学館) * 光る眼の少女(中三時代 1979年11月号 - 1980年3月号 旺文社) * 秘録・ウルトラセブンとタロウ(コロコロコミック 1979年11月号 小学館) * [[ゾフィー (ウルトラシリーズ)|ゾフィー]]の伝説(コロコロコミック 1979年12月 - 1980年新年号 小学館) * ウルトラ兄弟物語 2巻(1979年 小学館) * UFOをつかまえろ(1980年 小学三年生2月号付録 小学館) * ウルトラ大戦争(コロコロコミック 1980年2月号 - 4月号 小学館) * 海の聖母(小学六年生 1980年4月号-6月号 / 原作・[[さとう和久]] 小学館) * [[ウルトラマン80]](コロコロコミック 1980年5月号 - 10月号 小学館) * ウルトラマン80 (小学一年生 1980年5月号 - 1981年3月号 小学館) * ウルトラマン80 (小学四年生 1980年5月号 - 1981年1月号 小学館) * ウルトラマン80物語 試練の旅立ち(ウルトラマン80大百科 1980年 ケイブンシャ) * [[原辰徳]]物語(小学六年生 1980年8月号〜9月号 小学館) * ゾフィーの戦い(コロコロコミック 1980年11月 - 1981年3月号 小学館) * ウルトラ兄弟物語 3巻(1980年 小学館) * ウルトラ兄弟物語(小学一年生 1981年4月号 - 1982年3月号小学館) * オレたちだちっこ(月刊少年チャレンジ1981年6月号 / 原作・ミスター茶連児([[遠崎史郎]]) 学研)〜[[あにま健児]]名義 * レオ・ファイター(週刊少年チャレンジ1981年1号 - 6号 / 原作・[[神保史郎]] 学研) * [[アンドロメロス]](小学一年生 1982年4月号 - 1983年3月号小学館) * アンドロメロスの逆襲(別冊コロコロコミック 1982年4号 小学館) * アンドロメロス物語(別冊コロコロコミック 1982年6号 小学館) * アンドロマルスの戦い(別冊コロコロコミック 1982年7号 小学館) * 宇宙戦士アンドロマルス(別冊コロコロコミック 1982年8号 小学館) * 呪いネコの恐怖(コロコロコミック 1982年8月号 小学館) * 戦え!プラモ超戦士(小学三年生 1983年9月号 - 1984年3月号) * [[大怪獣ガメラ]](ゴジラ・ガメラ・大怪獣 1984年 永岡書店) * ウルトラセブンものがたり(小学一年生 1984年1月号 - 3月号 小学館) * 黒猫のたたり(別冊コロコロコミック1984年8月号) * ウルトラマン物語(小学二年生 1984年9月号 小学館) * がんばれ!ドッジーズ(4年の学習 1984年12月号 - 1985年3月号 学研) * 世界の歴史 7 黄金郷の夢−インカ帝国の悲劇−(1984年 中央公論新社) * 学習漫画世界の伝記 [[トーマス・エジソン|エジソン]](1984年 集英社) * 学習漫画世界の伝記 [[エイブラハム・リンカーン|リンカーン]](1984年 集英社) * 世界の歴史・人物事典(1984年 集英社) * [[ゴジラ (1984年の映画)|ゴジラ]](小学一年生 1985年1月号〜2月号 小学館) * バトル・ウルトラ戦士(輝け! ウルトラ戦士!! 1985年 永岡書店) * 伝記世界の偉人 7 コロンブス (1985年 中央公論新社) * 伝記世界の偉人 12 ファーブル (1985年 中央公論新社) * 学習まんが・ふしぎシリーズ(56)わんぱく野外遊び名コーチ(1985年 小学館) * がんばれ!ドッジーズ(4年の学習 学研 1985年4月号 - 1986年3月号 学研) * ファミ魂ウルフ([[わんぱっくコミック]] 1985年第一弾 - 1988年3月号 徳間書店) * シュートだ!アタックス(3年の学習 1985年12月号 - 3月号 学研) * シュートだ!アタックス(4年の学習1985年4月号 - 1986年1月号 学研) * 突撃!バイキングス(ニコニココミック 1986年7月号 - 12月号 / 原作・[[寺島優]] 世界文化社) * ファミ魂ウルフ1〜3巻(1986年 徳間書店) * ファミ魂ウルフ4巻(1987年 徳間書店) * 学習漫画日本の伝記 戦乱の世の風雲児 [[織田信長]](1988年 集英社) * チェンジャー研 (わんぱっくコミック 1988年 - 1989年 徳間書店) * まんが・ビジネスマン入門(1988年 TBSブリタニカ) * 世界の発明・発見事典(1989年 集英社) * たたかえ!ウルトラ兄弟(小学一年生 1989年8月号 - 9月号 小学館) * たたかえ!ウルトラマン(小学一年生 1989年10月号 小学館) * モンスターワールド(6年の学習 1990年6月号 - 12月号 学研) * 若・貴兄弟物語([[コロタン文庫]] がんばれ若・貴大相撲全百科 1992年 小学館) * まんが中学公民171(1992年 学研)〜構成 * まんが中学歴史年代暗記80(1992年 学研)〜構成 * ウルトラマン超ひみつ100(コロタン文庫 1993年 小学館) * 学習漫画世界の伝記 エジソン(1994年 台湾) * 学習漫画世界の伝記 リンカーン(1994年 台湾) * 誰にも描けるメルヘン画〜花〜(1996年 創芸社)〜企画・構成・編集・デザイン * 優納寺純の事件簿(コロタン文庫 まんが名探偵推理クイズ 1996年 小学館) * 学習漫画世界の伝記 エジソン(1996年 タイ) * すてないで!!(埼玉県下小学4年生用副読本/リサイクルコミック 1997年 埼玉県環境部)〜シナリオ * ミニパトぷうぴい(めばえ 1998年 小学館)〜シナリオ * ウルトラ兄弟物語1〜3巻(1998年 双葉社) * ウルトラ兄弟物語4〜5巻(1999年 双葉社) * ゲートボーイズ([[ナイスパル]] 2001年 - 2003年 [[日本ゲートボール連合]]) * ボクたちのワールドカップへの挑戦に学ぼう([[QCサークル]] 2002年 [[日本化学技術連盟]]) * 一寸おばばの羅針盤([[ナチュラルアイ]] 2002年 - 2007年 [[埼玉県生態系保護協会]]) * スグわかる!まんが将棋入門 ハンディー版(2006年 [[くもん出版]]) * 環境学習マンガ エコタイム(ナチュラルアイ 2007年 - 2009年 埼玉県生態系保護協会) * 織田信長(まんが偉人物語歴史に見る成功の秘密 2009年 集英社) * 学習漫画世界の伝記 エジソン(2009年 [[中国科学出版社]]) * 呪いネコの恐怖(熱血!!コロコロ伝説 テーマ別アンソロジー2 驚愕!!トラウマまんが傑作選!!編 2009年 小学館) * 環境学習マンガ ECO TIME(ナチュラルアイ 2011年 - 埼玉県生態系保護協会) * 新装版/学習漫画日本の伝記 戦乱の世の風雲児 織田信長-28刷(2012年 集英社) * 新装版/学習漫画世界の伝記 エジソン-31刷(2012年 集英社) * 新装版/学習漫画世界の伝記 リンカーン-17刷(2012年 集英社) * 電子版/『ミラーマン』『ファイヤーマン』『ジャンボーグ9』円谷レジェンドヒーロー リターンズ (2018年 文春e-Books) * 電子版/突撃!バイキングス 全2巻(2018年 / 原作・寺島優 グループ・ゼロ) * 電子版/ファミ魂ウルフ 1〜4巻(2018年 グループ・ゼロ) * 電子版/チェンジャー研 全2巻(2019年 / シナリオ協力・和智まさき グループ・ゼロ) == 師匠 == * [[山上たつひこ]] * [[小池一夫]] == 関連 == * [[ゲームセンターCX]] - 第69回にて漫画「ファミ魂ウルフ」が取り上げられており、最終回は未収録のため、コミックスのラストが紹介されている。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|wonder_52}} * {{Facebook|tetsuji.kataoka}} * {{Official website|https://kataokatetsuji.wordpress.com}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:かたおか てつし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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片山まさゆき
片山 まさゆき(かたやま まさゆき、1959年4月20日 - )は、日本の漫画家。本名、片山 政幸。千葉県旭市出身。明治大学文学部中退。血液型B型。麻雀漫画を数多く発表しており、同ジャンルの第一人者と目される。愛称は「片チン」。 明治大学漫画研究会に在籍し、在学中から漫画を描いて収入を得ていた。ただし漫研内ではほとんど描いておらず、麻雀ばかりしていたと語っている。1981年、『週刊ヤングマガジン』に掲載された『平和(ピンフ)警察』でデビュー。その後同誌で連載された麻雀漫画『ぎゅわんぶらあ自己中心派』は、強運を持つ主人公・持杉ドラ夫を始めとする個性的なキャラクターが登場して話題となり、片山の出世作となった。 一方で、とことんツキのないキャラクターを主人公に据えた『スーパーヅガン』を『近代麻雀オリジナル』誌上に連載。こちらは『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の1年前から掲載が開始されていた。こちらは、駆け出しこそ今ひとつであったが、半年後ぐらいには同誌の看板漫画にまで成長し、『ぎゅわんぶらあ自己中心派』とともに若者の麻雀人口拡大に寄与した。また、この『スーパーヅガン』は連載終了後の1992年にフジテレビ系列でテレビアニメ化されており、同氏で唯一のアニメ作品である。アニメ版では他作品の主人公爆岡やドラ夫が雀荘の客としてカメオ出演しており、また、本編終了後にファミコンソフト『ぎゅわんぶらあ自己中心派』のコマーシャルを流す演出となっていた。 『ぎゅわんぶらあ自己中心派』『スーパーヅガン』の終了後、明大前に雀荘「ミスチョイス」を開店。店名の由来は『ぎゅわんぶらあ自己中心派』の舞台だった同名の雀荘。しばしば作中にも登場させたが、経営が行き詰って閉店した。その後2002年に吉祥寺駅前に雀荘「ミスチョイスR」を開店。2007年には高円寺駅前に2号店となる雀荘「ミスチョイスQ」を開店している。 上記ギャグ漫画2作品終了後はストーリー漫画に路線を転換。その代表作として『ノーマーク爆牌党』があり、片山が持つ麻雀ノウハウと理論を生かした闘牌シーンを描いた本格派の作品である(ただし、同作は当初からシリアスだったわけではなく当初はギャグ寄りの内容だった)。自身の麻雀の実力も高く、第1回麻雀最強戦では並み居るプロを押しのけて第1期最強位の座に就いており、麻雀界での人脈を生かしてプロの闘牌協力を得ている作品もある。 作風として、麻雀漫画としては異例なほど「裏社会(やくざ)との絡み」「暴力」といった面をストーリーに取り入れず、極力排除している。先述の『スーパーヅガン』や『ミリオンシャンテンさだめだ!!』のように、「麻雀の腕・知識はそれなり以上にあるのに、ツキがないために弱い」キャラクターを主人公に据えることが他作家より多いのも特徴。 2004年から2010年まで連載された『打姫オバカミーコ』は、初心者同然の主人公に一流プロが手ほどきする内容を通して、読者の麻雀学習にも役立つ作品となっている。この作品は同氏の作品で最も巻数が多く、自身も代表作と位置付けている。 一方、画力に難があることは本人も自認しており、キャラクターが上手く描けないでスランプに陥った時、たまたま入手した自作品のパロディ同人誌を参考にしてキャラクターのデザインを修正したというエピソードがあったり、一時期アシスタントとして修行していた時に「片山くんは一生懸命線を引く練習をしている(そこから勉強しなければならなかった)」と報告されたという逸話も持っている。明大の先輩である漫画家のいしかわじゅんの元へデザインのアシスタントに行ったこともある。『BSマンガ夜話』にいしかわが出演した際その時のことについて触れ、「昔、片山がウチに1日だけデザインで来たことがあるが、アシスタントとしてはまったく役に立たなかったので1日でクビにして、二度と呼ばなかった」と語っている。 麻雀以外の題材を扱った作品も何点か発表している。ファミコン漫画『大トロ倶楽部』や、三国志をモチーフにした『SWEET三国志』など、いずれもギャグタッチの作品となっている。また青木裕司との共著で、国際関係史をモチーフにした『サクサク現代史!』、続刊『中国がわからない!、サクサク現代史!・アジア激闘編』を「ナレッジエンタ読本」メディアファクトリーから出版している。
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片山 まさゆきは、日本の漫画家。本名、片山 政幸。千葉県旭市出身。明治大学文学部中退。血液型B型。麻雀漫画を数多く発表しており、同ジャンルの第一人者と目される。愛称は「片チン」。
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1(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一)(1989、竹書房) ISBN 4884750764 * 近代麻雀 何を切る!? 2(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一)(1991、竹書房) ISBN 4884750853 * 近代麻雀 何を切る!? 3 片山まさゆき編(共著:馬場裕一)(1991、竹書房) ISBN 4884750861 * 近代麻雀 何を切る!? 4 満貫を狙え!!(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一)(1992、竹書房) ISBN 488475137X * 近代麻雀 新 何を切る? 逆転の法則(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一)(1994、竹書房) ISBN 978-4884752903 * 定本 何を切る!? 1(共著:馬場裕一、[[西原理恵子]])(1992、竹書房) ISBN 9784884756031 * 定本 何を切る!? 2(共著:馬場裕一、[[みやわき心太郎]]、[[有元美保]]、どい誠)(1995、竹書房) ISBN 9784884758592 * 答えてバビィ 麻雀トラブル解決法 1卓に1冊!!麻雀もめごと和睦の書(共著:馬場裕一、[[桜井章一]])(1996、竹書房) ISBN 978-4812401880 * 片山まさゆきオールスターズ 麻雀入門王 1 入門の章 打てるようになる!!(1998、竹書房) ISBN 4812403685 * 片山まさゆきオールスターズ 麻雀入門王 2 実践の章 アガれるようになる!!(1998、竹書房) ISBN 4812403693 * 片山まさゆきオールスターズ 麻雀入門王 3 戦術の章 勝てるようになる!!(1998、竹書房) ISBN 4812403707 * 何を切る!?MASTER 完全保存版 初心者から上級者まで必ずワンランク雀力アップをお約束!!(共著:馬場裕一)(2000、[[ぶんか社]]) ISBN 978-4821106257 * バビィ&片チンの麻雀 これだけわかればすぐ打てる!(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一)(2001、[[日本文芸社]]) ISBN 978-4537200645 * ナレッジエンタ読本6 サクサク現代史!(共著:青木裕司〈河合塾世界史講師〉)(2008、[[メディアファクトリー]]) ISBN 978-4840123006 * ナレッジエンタ読本16 中国がわからない! サクサク現代史! アジア激闘編(共著:青木裕司〈河合塾世界史講師〉)(2009、メディアファクトリー) ISBN 978-4840126281 * サクサクわかる現代史(共著:青木裕司〈河合塾世界史講師〉)(2010、メディアファクトリー) ISBN 978-4840134965 * サクサクわかる世界経済の仕組み(共著:青木裕司〈河合塾世界史講師〉)(2011、メディアファクトリー) ISBN 978-4840142168 * 片山まさゆきの楽勝麻雀(2018、[[三交社]]) ISBN 978-4879198327 * 馬場裕一の見た夢 –''The Dream that Yuichi Baba had''(イラスト:片山まさゆき、著:馬場裕一、[[黒木真生]])(2023、 [[文友舎]])ISBN 9784867038093 == 出演 == *[[東京六大学麻雀リーグ戦]]([[MONDO TV|MONDO21]]) *[[モンド麻雀プロリーグ|麻雀 BATTLE ROYAL 2008]](MONDO21) *[[競馬場の達人]]([[グリーンチャンネル]]) *[[地球は競馬でまわってる]]([[ラジオNIKKEI]]) == 麻雀戦歴 == * 第1期麻雀最強戦優勝<ref name="歴代最強位">{{Cite web|和書|url=https://mahjong-saikyosen.com/?page_id=373 |title=歴代最強位 |website=麻雀最強戦2023 |publisher=竹書房 |accessdate=2023-07-06}}</ref> * 第18期麻雀最強戦決勝進出<ref name="歴代最強位"/> * 麻雀最強戦2012著名人代表決定戦・風神編優勝 決勝進出<ref name="歴代最強位"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://otn.fujitv.co.jp/b_hp/912200087l.html |title=麻雀最強戦2012 |website=麻雀最強戦2012 |publisher=フジテレビジョン |accessdate=2023-07-06}}</ref> * 麻雀最強戦2015歴代最強位代表決定戦優勝 ファイナル進出<ref>{{Cite web|和書|url=https://jan39.com/news/1663/ |title=麻雀最強戦2015歴代最強位代表決定戦 結果 |website=雀サクッ |publisher=気楽亭 |date=2015-05-06 |accessdate=2023-07-09}}</ref> * 麻雀最強戦2018著名人代表決定戦 技術の剣優勝 決勝進出<ref name="歴代最強位"/> * 麻雀最強戦2022著名人最強決戦優勝 ファイナル進出<ref>{{Cite web|和書|author= 東川亮 |url=https://kinmaweb.jp/archives/177823 |title=【麻雀最強戦2022】ファイナルトーナメント決定!! 今年の最強位を決する16名が集結!! |website=キンマweb |publisher=竹書房 |date=2022-11-14 |accessdate=2023-07-06}}</ref> == 関連人物 == * [[馬場裕一]] プロ雀士。『スーパーヅガン』などに登場する「ババプロ」のモデル。東京六大学麻雀リーグからの知己。 * 渡辺健一 漫画家。明治大学漫画研究会の後輩。『スーパーヅガン』などに登場する「渡辺」のモデル。 * [[五十嵐浩一]] 漫画家。明治大学漫画研究会の先輩。『スーパーヅガン』などに登場する「とっつぁん顔の五十嵐くん」のモデル。 * [[高田裕三]] 漫画家。明治大学漫画研究会の後輩。元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]) * [[桜井章一]] [[雀鬼会]]会長。片山も雀鬼会に参加していたことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://ch.nicovideo.jp/mahjongsaikyosen/blomaga/ar636505 |title=【麻雀最強戦】雀鬼会の佐々木、国士無双で決勝へ【プレイバック】 |website=麻雀最強戦ブロマガ |publisher=ドワンゴ |date=2014-10-05 |accessdate=2023-07-28}}</ref>。『スーパーヅガン』に登場する「桜田門外」のモデル。 * [[柴門ふみ]] 漫画家。麻雀仲間。『ぎゅわんぶらあ自己中心派』に登場する「オクトパシーふみ」のモデル。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Ameba ブログ|katayama-masayuki|片山まさゆきの Sweets打(ぶ)ち}} * {{Twitter|gpc_katachin}} * {{YouTube|c=UC5F4EKwUX3efBoA2csD7sqw|片山まさゆきの自己中麻雀}} * {{マンガ図書館Z作家|896}} * [https://goodplayersclub.com/about/ GPC] {{片山まさゆき}} {{麻雀最強戦|1期}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かたやま まさゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:雀士]] [[Category:銚子市立銚子高等学校出身の人物]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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克・亜樹
克・亜樹(かつ・あき、本名:中村 克明、男性、1961年9月19日 - )は、日本の漫画家。福岡県福岡市西区出身。大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業。 大学在学中の1983年、小学館の第12回小学館新人コミック大賞少年部門で佳作を、白泉社の『花とゆめ』で第88回HMC(花とゆめまんが家コース)トップ賞を受賞。受賞作の『メアリー♥ララバイ』が同年5月発売の『花とゆめ 大増刊』に、『ルピア!』が同年7月発売の『週刊少年サンデー 夏休み増刊号』に掲載されてデビュー。 以後しばらくは、『月刊コミコミ』や『週刊少年サンデー増刊号』などで読み切り作品と短期集中連載作品の執筆を担当。後に、それと並行して『週刊少年サンデー』で連載を持つようになる。 1993年以降は青年誌での執筆が中心となり、現在『ヤングアニマル』および『ヤングアニマル嵐』で『ふたりエッチ』を連載中。 既婚者。 5年制の高等専門学校に通っていた関係から、大学に入学したのは高校卒業・現役入学者の2年遅れであり、年齢が同じ島本和彦は大学の先輩に当たる。また、MEIMUは大学の同級生、樹崎聖は後輩である。元アシスタントに吉崎観音などがいる。 克が小学館で世話になった編集者が島本和彦の担当者でもあったことから、デビュー後しばらく島本のアシスタントをしていたことがある。 影響を受けた作家は高橋葉介。ホラー漫画やホラー映画が好きで『ふたりエッチ』の小野田優良がホラー映画好きという設定は自分の好みを反映させている。投稿作の1本目はホラー漫画であったが、投稿先の『花とゆめ』にも『サンデー』にも没にされた。
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克・亜樹は、日本の漫画家。福岡県福岡市西区出身。大阪芸術大学芸術学部デザイン学科卒業。
{{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 克・亜樹 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 中村 克明(なかむら かつあき) | 生年 = {{生年月日と年齢|1961|9|19}} | 生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1983年]] - | ジャンル = [[青年漫画]]・[[少年漫画]] | 代表作 = 『[[ふたりエッチ]]』<ref name="克・亜樹ブログ">{{Cite web|和書|url=http://www.katsu-aki.info/ |title=克・亜樹ブログ |accessdate=2018-04-06}}</ref><br />『[[星くずパラダイス]]』<ref name="克・亜樹ブログ" /><ref name="対談レポート">{{Cite web|和書|url=http://www.amgakuin.co.jp/contents/?p=7386 |title=克・亜樹先生×もりやまゆうじ先生 対談レポート |publisher=[[アミューズメントメディア総合学院]] |year=2009 |accessdate=2018-04-06}}</ref><br />『[[はっぴぃ直前]]』<ref name="対談レポート" /> | 受賞 = * [[小学館]] 第12回[[小学館新人コミック大賞]]少年部門 佳作<br />(『ルピア!』) * [[白泉社]] 第88回HMCトップ賞<br />(『メアリー♥ララバイ』) | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [http://www.katsu-aki.com/ 克・亜樹 公式サイト アトリエ克] }} '''克・亜樹'''(かつ・あき、本名:'''中村 克明'''、[[男性]]、[[1961年]][[9月19日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[福岡県]][[福岡市]][[西区 (福岡市)|西区]]出身。[[大阪芸術大学]][[芸術学部]]デザイン学科卒業。 == 来歴 == 大学在学中の1983年、[[小学館]]の第12回[[小学館新人コミック大賞]]少年部門で佳作を、[[白泉社]]の『[[花とゆめ]]』で第88回HMC(花とゆめまんが家コース)トップ賞を受賞。受賞作の『メアリー♥ララバイ』が同年5月発売の『花とゆめ 大増刊』に、『ルピア!』が同年7月発売の『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー 夏休み増刊号]]』に掲載されてデビュー<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.katsu-aki.com/profile.html |title=克・亜樹 公式サイト アトリエ克 - プロフィール・アトリエ紹介 |accessdate=2018-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=克・亜樹 |date=2009-04-06 |url=http://www.katsu-aki.info/?eid=819 |title=今月でデビュー26年! &#124; 克・亜樹ブログ |accessdate=2018-04-06}}</ref>。 以後しばらくは、『[[月刊コミコミ]]』や『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]』などで読み切り作品と短期集中連載作品の執筆を担当。後に、それと並行して『[[週刊少年サンデー]]』で連載を持つようになる。 1993年以降は青年誌での執筆が中心となり、現在『[[ヤングアニマル]]』および『[[ヤングアニマル嵐]]』で『[[ふたりエッチ]]』を連載中。 == 人物 == 既婚者<ref>{{Cite web|和書|author=克・亜樹 |date=2009-04-21 |url=http://www.katsu-aki.info/?eid=834 |title=結婚☆☆ &#124; 克・亜樹ブログ |accessdate=2018-04-06}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=克・亜樹 |date=2012-02-18 |url=http://katsu-aki.info/?eid=1886 |title=29周年です! &#124; 克・亜樹ブログ |accessdate=2018-04-06}}</ref>。 5年制の[[高等専門学校]]に通っていた関係から、大学に入学したのは高校卒業・現役入学者の2年遅れであり<ref>{{Cite web|和書|url=http://manganohi.com/interview/15/4993.html |title=『克・亜樹先生』 その1 &#124; まんがのチカラ &#124; まんが☆天国 |publisher=「まんがの日」委員会/講談社、集英社、小学館、白泉社 |year=2008 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090328120648/http://manganohi.com/interview/15/4993.html |archivedate=2009-03-28 |accessdate=2018-04-06}}</ref>、年齢が同じ[[島本和彦]]は大学の先輩に当たる。また、[[MEIMU]]は大学の同級生、[[樹崎聖]]は後輩である。元アシスタントに[[吉崎観音]]などがいる。 克が[[小学館]]で世話になった[[編集者]]が島本和彦の担当者でもあったことから、デビュー後しばらく島本のアシスタントをしていたことがある<ref>{{Cite web|和書|author=克・亜樹 |url=http://www.katsu-aki.com/works/01/ |title=克・亜樹 公式サイト アトリエ克 - 作品解説 第1期 |accessdate=2018-04-06}}</ref>。 影響を受けた作家は[[高橋葉介]]。ホラー漫画やホラー映画が好きで『ふたりエッチ』の小野田優良がホラー映画好きという設定は自分の好みを反映させている。投稿作の1本目はホラー漫画であったが、投稿先の『花とゆめ』にも『サンデー』にも没にされた<ref>[https://live.nicovideo.jp/watch/lv195232830 MANGA姉っくす! Vol.22【ゲスト:克・亜樹先生】 - 2014/10/15 20:00開始 - ニコニコ生放送] 1:34:00</ref>。 == 作品リスト == === 連載作品 === * [[まぼろし佑幻]]([[小学館]]<!--(ワイド版は[[大都社]])-->、『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]』<!--1985年4月号 - 1987年4月号-->連載、全3巻<!--、ワイド版全2巻-->) * [[はっぴぃ直前]](小学館<!--(新装版は[[講談社]])-->、『[[週刊少年サンデー]]』<!--1986年51号 - 1988年22号-->連載、全6巻) * [[SHOW -ショウ-]] ([[白泉社]]、『[[月刊コミコミ]]』<!--1987年12月号 - 1988年12月号-->連載、全2巻) * [[符法師マンダラ伝カラス]](小学館、『週刊少年サンデー増刊号』<!--1988年3月 - 1989年7月号-->連載、全3巻) * [[星くずパラダイス]](小学館、『週刊少年サンデー』<!--1989年37号 - 1991年43号-->・『週刊少年サンデー増刊号』連載、全11巻<!--、文庫版全6巻、(文庫版は白泉社)-->) * [[超龍戦記ザウロスナイト]](小学館、『週刊少年サンデー』<!--1992年1・2合併号 - 1993年10号-->連載、全6巻、ワイド版全3巻) * [[こちらはエデン]]([[エニックス]]、『[[月刊Gファンタジー|月刊ガンガンファンタジー]]』<!--1993年4月号 - 11月号-->連載、全1巻) * [[ぼくの銀色ハウス]](白泉社、『[[ヤングアニマル]]』<!--1993年10号 - 1994年17号-->連載、全4巻) * [[ダイナマイトピーチ]]([[集英社]]、『[[月刊ベアーズクラブ]]』<!--1994年4月 - 10月号-->連載、全1巻) * [[流星ガッチャ]]([[ベネッセコーポレーション|福武書店]]、『[[進研ゼミ中学講座|チャレンジ中学1年生]]』<!--1994年9月1日号 - 1995年3月1日号-->連載、『エンジェル・ハード』第3巻収録) * [[エンジェル・ハード]](白泉社、『ヤングアニマル』<!--1994年20号 - 1995年17号-->連載、全3巻) * [[美少女創世伝説 PRINCESS]] ([[学研ホールディングス|学習研究社]]、『[[コミックガイズ]]』<!--1996年1号 - 7号-->・[[月刊コミックNORA]]<!--1996年9月号 - 1998年5月号-->連載、全5巻) - 再版時には[[角川書店]]から『Princess』と改題された上で刊行。 * [[ふたりエッチ]](白泉社、『ヤングアニマル』・『ヤングアニマル嵐』・『ヤングアニマルDensi』<!--1997年1号 - -->連載、既刊89巻) * [[AYA (漫画)|AYA]] ([[竹書房]]、『[[ビタマン]]』<!--1998年11月号 - 1999年6月号-->連載、全1巻) * [[ハーレム革命]]([[少年画報社]]、『[[ヤングコミック]]』<!--1998年11月号 - 2001年11月号-->連載、全3巻・完全版全2巻) * [[サイキックアカデミー煌羅万象|ψchic academy 煌羅万象]]([[講談社]]、『[[月刊マガジンZ]]』<!--1999年8月号 - 2003年3月号-->連載、全11巻) * [[ふたりエッチ|ふたりエッチ for Ladies ゆらさん日記]](白泉社、『[[Silky]]』<!--2002年12月 - 2004年10月号-->連載、全2巻) * [[ラブ・らっきぃ|ラブ&#9825;らっきぃ]](講談社、『[[週刊ヤングマガジン]]』<!--2003年50号 - 52号・2004年22・23合併号 - 2006年47号-->連載、全7巻) * [[天地開闢 -God Sweeper-]] (講談社、『月刊マガジンZ』<!--2007年5月号 - 2008年5月号-->連載、全3巻) * [[毒×恋]](集英社、『[[スーパージャンプ]]』<!--2008年13号 - -->連載、全3巻) * [[熱いぞ!猫ヶ谷!!]] (講談社、『週刊ヤングマガジン』連載、全6巻) * [[ダンディ★マニアック]]([[徳間書店]]、『[[月刊COMICリュウ]]』<!--2012年11月号-->連載、全2巻) * [[透明人間↑↓協定]](小学館、漫画配信サイト『[[モバMAN]]』、全5巻) * [[ふたりエッチ|ふたりエッチ外伝 性の伝道師アキラ]](原案:監修担当、作画:[[モンキー・チョップ]]、白泉社、『ヤングアニマル』<!--2017年13号 - 2017年22号-->連載、全1巻) * [[3P始めました!!]](小学館、漫画配信サイト『[[eBigComic4]]』連載、全3巻) === コミカライズ作品 === * [[ファイアーエムブレム 紋章の謎#漫画|ファイアーエムブレム 紋章の謎]](原作:[[七月鏡一]]、小学館、『週刊少年サンデー増刊号』<!--1994年1・2月号-->掲載、単行本未収録) * [[天空のエスカフローネ#関連作品|天空のエスカフローネ]](角川書店、『[[月刊少年エース]]』<!--1994年12月号 - 1997年10月号-->連載、全8巻) <!--=== 全2話・読み切り === 瑣末な情報であるためコメントアウトしました。 * メアリーララバイ(花とゆめ増刊1983年5月号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録、白泉社) * ルピア! (増刊少年サンデー1983年7月号、こちらはエデンの単行本に収録) * ふらいんぐBG(増刊少年サンデー1983年11月号、単行本未収録) * ぼくはこうしてキスをした! (増刊少年サンデー1984年4月号、傑作集ドラマチックベルに収録) * マミ☆リーインカーネーション([[メルティレモン]]1985年1号、短編集 風使いのSAILに収録、白泉社) * SOS!学園ファイター(メルティレモン1985年2号、単行本未収録) * 恋死神にご用心(メルティレモン1985年3号、短編集 風使いのSAILに収録) * ドッ奇ン!ウラウラ娘(メルティレモン1985年4号、単行本未収録) * ドッ奇ン!ウラウラ娘 放浪のインディオガール(メルティレモン1985年5号、単行本未収録) * ドッ奇ン!ウラウラ娘 特別編(メルティレモン1985年6号、単行本未収録) * 陽気なマリオネット(月刊コミコミ1986年6月号、ダイナマイトピーチの単行本に収録) * メリンforever(メルティレモン1986年7号、短編集 風使いのSAILに収録) * ドラマチックベル(週刊少年サンデー1986年31・32号、同名の短編集・美少女創世伝説 PRINCESS・プリンセスの単行本に収録) * 謎のドンドコドンを追え! (月刊コミコミ1986年9月号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録) * 風使いのSAIL(月刊コミコミ、1986年10月・11月号、同名の短編集に収録) * PRESIDENT&LADY DAY([[FMレコパル]]1987年15号、単行本未収録、小学館) * 櫂A(月刊コミコミ1987年8月号、短編集 風使いのSAILに収録、白泉社) * 復活!サマー帝王(増刊少年サンデー1987年9月号、傑作集 ときめいてラビットに収録) * 邪使ガイキ異聞(増刊少年サンデー1987年11月号) - 符法師マンダラ伝カラスの元になった作品 * 12月のツバメ(増刊少年サンデー1987年12月号、傑作集ドラマチックベルに収録) * 迷宮のファラオ(増刊少年サンデー1988年1月号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録) * チュナのいる天国([[サイバーコミックス]]([[サイバーコミックス]])1号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録) * 君にスター★シャワー([[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデースペシャル増刊]]1988年1号、短編集 ときめいてラビット・美少女創世伝説 PRINCESSとプリンセスの単行本に収録、小学館) * 時のビーチサイド(週刊少年サンデー1988年30号、傑作集 ときめいてラビットに収録) * ボクの陽だまりリメンバー(週刊少年サンデースペシャル増刊1988年2号、短編集 ときめいてラビットに収録) * 愛してサイキック(週刊少年サンデー1988年39・40号、傑作集ドラマチックベルに収録) * ドッ奇ン!ウラウラ娘(週刊少年サンデー1988年53号、傑作集 ときめいてラビットに収録) * ブラッド(週刊少年サンデースペシャル増刊1989年3号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録) * ベスト・ラブを探せ! ([[月刊アニマルハウス]]1989年創刊号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録、白泉社) * ときめいてラビット(週刊少年サンデー1989年19号、短編集 ときめいてラビットに収録) * 黄金いろの大地(増刊少年サンデー1991年6月号、超龍戦記 ザウロスナイトの単行本に収録) * どこかで天使がみつめてる(週刊少年サンデー1993年27号、短編集 克・亜樹スペシャルに収録) * ファイアーエムブレム 紋章の謎(増刊少年サンデー1994年1・2月号、単行本未収録) * 恋する極楽ペンギン(ベアーズクラブ1994年2月号、ダイナマイトピーチの単行本に収録) * ハーフじゃないもん! (増刊[[ビジネスジャンプ]]1994年10月10日号、ダイナマイトピーチの単行本に収録) * シークレット通信([[月刊少年チャンピオン]]1995年6月号、短編集 克・亜樹スペシャル2に収録、[[秋田書店]]) * ピエプノスの島(ヤングアニマル1995年19号、短編集 克・亜樹スペシャル2に収録) * 母はレジスタンス!! (ヤングアニマル1995年22号、短編集 克・亜樹スペシャル2に収録) * Mr.フロイト(ヤングアニマル1996年8号、短編集 克・亜樹スペシャル2に収録) * ナイトメアD.D.([[コミックゲーメスト]]([[新声社]])1996年11・12月号、短編集 克・亜樹スペシャル2に収録) * つぼみの風景([[まんがライフ]]増刊Namaikiッ!(竹書房)8号、AYA単行本・文庫版・コンビニコミックに収録) * プラーナマスター大聖伝([[コミックガム]]([[ワニブックス]])vol.12、短編集 克・亜樹ラブストーリースペシャルに収録) * Temptation 〜誘惑〜(ビタマン1999年8月号、短編集 克・亜樹ラブストーリースペシャルに収録) * シリウスより愛を込めて([[別冊ヤングマガジン]](講談社)No.13、短編集 克・亜樹ラブストーリースペシャルに収録) * 桜ラビリンス([[月刊サンデージェネックス]](小学館)2001年4月号、克・亜樹ワールド Carnivalと短編集 克・亜樹ラブストーリースペシャルに収録) * 梅花([[漫画アクション|Weekly漫画アクション]]([[双葉社]])2001年31号、短編集 DADDY★バージンに収録、少年画報社) * こだまの森([[月刊ドラゴンジュニア]]([[富士見書房]])2002年3・4月号、短編集 克・亜樹ラブストーリースペシャルに収録) * 克・亜樹ショートストーリー1 透明な裸の少女(ヤングコミック2003年7月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * 克・亜樹ショートストーリー2 40%のLOVE(ヤングコミック2003年8月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * 克・亜樹ショートストーリー3 恥ずかしい...(ヤングコミック2003年9月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * 克・亜樹ショートストーリー4 一度きりのKiss(ヤングコミック2003年10月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * お星さまになりたい(ヤングコミック2003年10月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * SEXUAL DESIRE・MOON(ヤングコミック2003年11月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * DADDY★バージン([[ヤングキング]]2003年13号、同名の短編集に収録、少年画報社) * さかさまの砂時計 〜男の愛は逆光する〜(ヤングコミック2004年5月号、短編集 DADDY★バージンに収録) * MULTI BIRTH (克・亜樹ワールド Carnivalに収録、[[グラフィック社]]) * 静止する幽霊(克・亜樹ワールド Carnivalに収録) * お化けさんのDiary (克・亜樹ワールド Carnivalに収録) * 夫婦×交換(スーパージャンプ2006年14号、単行本未収録) * 空想☆乙女([[週刊ヤングサンデー]]2007年19号、単行本未収録) * ENKOU(スーパージャンプ2008年2号、単行本未収録) --> === 傑作集・短編集 === * 風使いのSAIL (1987年、白泉社、{{ISBN2|4-592-13552-0}}) * 克・亜樹傑作集 ドラマチック&#9825;ベル(1989年、小学館、{{ISBN2|4-09-122190-4}}) * 克・亜樹傑作集 ときめいてラビット(1990年、小学館、{{ISBN2|4-09-122191-2}}) * 克・亜樹スペシャル -異色短編集- (1994年、白泉社、{{ISBN2|4-592-13550-4}}) * 克・亜樹スペシャル 2 -傑作短編集- (1998年、白泉社、{{ISBN2|4-592-13460-5}}) * 克・亜樹ラブストーリースペシャル(2002年、白泉社、{{ISBN2|4-592-13498-2}}) * [[DADDY★バージン]](2004年、少年画報社、{{ISBN2|4-7859-2456-X}}) === 画集 === * A LOT OF KISS 克・亜樹画集(2001年、角川書店、{{ISBN2|4-04-853292-8}}) * ふたりエッチ画集 ゆらゆら(2001年、白泉社、{{ISBN2|4-592-73182-4}}) * 克・亜樹ワールド Carnival (2005年、グラフィック社、{{ISBN2|4-7661-1645-3}}) === その他 === <!--* サンデー19SHOW OSHABERI電話(週刊少年サンデー1988年19号、ドラマチックノベルに収録) --> * 音声漫画動画 Domix たったひとりの存在のキミへ(2013年、[[漫画元気発動計画]]) * [[3月のライオン]] アニメ第1シリーズ 第10話エンドカード(2016年) == 出演 == * MANGA姉っくす! Vol.22(2014年10月15日、[[ニコニコ生放送]]) * [[もう!バカリズムさんのドH!]]「Hなシチュエーションの描き方」(2015年9月28日、[[NOTTV]]) == 元アシスタント == * [[吉崎観音]] * [[樹崎聖]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.katsu-aki.com/ 克・亜樹 公式サイト アトリエ克] * [http://www.katsu-aki.com/blog/ 克・亜樹ブログ] - 克本人によるブログ。 * {{Twitter|kiaaka|克・亜樹}} * {{Wayback |url=http://www.dreamtribe.jp/mangen-domix/contents008.php |title=Domix008:たったひとりの存在のキミへ(by 克・亜樹) - 漫元Domix &#124; DreamTribe(ドリームトライブ) |date=20140504153747}} {{島本和彦}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かつあき}} [[Category:島本和彦|ア かつあき]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪芸術大学出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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かどたひろし
かどた ひろし(生年非公表、5月22日生)は、日本の漫画家・キャラクターデザイナー。宮城県仙台市出身。 様々な職種を経て、23歳に「かどたひろし」としてデビューする。数年後、ペンネームを富子 海に改名するが、周囲から分かりづらいという意見があり、約1年でかどたひろしに戻す。同県出身の少女漫画家安孫子三和とは、専門学校日本ビジネススクール仙台校(現・日本デザイナー芸術学院仙台校)在学中に同じクラスであり、友人でもある。『BLUE CITY』『アヒル真昼に翔びしゃんせ』は「富子海」時代に描かれた作品であるが、現在は「かどたひろし」名義となっている。コーエーの競馬シミュレーションゲーム、ウイニングポストシリーズのキャラクターデザイナーも務めている。
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かどた ひろし(生年非公表、5月22日生)は、日本の漫画家・キャラクターデザイナー。宮城県仙台市出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = かどた ひろし | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢||05|22}} | 生地 = {{JPN}}・[[宮城県]][[仙台市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]<br />[[キャラクターデザイナー]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''かどた ひろし'''(生年非公表、[[5月22日]]生)は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[キャラクターデザイナー]]。[[宮城県]][[仙台市]]出身。 == 経歴 == 様々な職種を経て、23歳に「かどたひろし」としてデビューする。数年後、[[ペンネーム]]を'''富子 海'''に改名するが、周囲から分かりづらいという意見があり、約1年でかどたひろしに戻す。同県出身の少女漫画家[[安孫子三和]]とは、専門学校日本ビジネススクール仙台校(現・日本デザイナー芸術学院仙台校)在学中に同じクラスであり、友人でもある。『BLUE CITY』『アヒル真昼に翔びしゃんせ』は「富子海」時代に描かれた作品であるが、現在は「かどたひろし」名義となっている。[[コーエー]]の競馬シミュレーションゲーム、[[ウイニングポストシリーズ]]のキャラクターデザイナーも務めている。 == 作品リスト == * [[アダルト・ウルフガイ|Wolf Guy]] (原作:[[平井和正]] 全4巻) * BLUE CITY ([[少年画報社]] YKコミックス) * チキン! (マンサンコミックス 全4巻) * シャッフル (ヤングチャンピオンコミックス 全6巻) * 月丸-ワイルドムーン- (スコラSC 全2巻) * 童華〈マリア・ラウ〉 (ヤングチャンピオンコミックス 全1巻) * 相続人TOMOKO (原作:[[大沢在昌]] ヤングチャンピオンコミックス 全2巻) * アヒル真昼に翔びしゃんせ (小池書院) * ダボ (少年画報社 YKコミックス 全7巻) * 新ビッグ・マグナム黒岩先生 (原作:[[新田たつお]] マンサンコミックス) * デビルズケーキ (SANWA COMICS) * 緋牡丹博徒お竜仇討ち旅 (原作:[[鈴木則文]]) * 打天使 (近代麻雀コミックス 全4巻) * 威打天-打天使 番外編- (全1巻) * 風の三日月 (原作:[[梶研吾]] [[竹書房]] コミックス既刊1巻) * 走れ!エロス * 純恋花 (原作:[[倉科遼]]) * 千姫 ([[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝|戦国武将列伝]]) * [[リーツェンの桜]] (原作:[[舘澤貢次]] 「[[双葉社Webマガジン]]」連載中 既刊3巻) * [[そば屋幻庵]] (原作:[[梶研吾]] 「[[コミック乱ツインズ]]」連載中 既刊16巻) * [[上田秀人#作品リスト|勘定吟味役異聞]] (原作:[[上田秀人]] 「[[コミック乱ツインズ]]」連載 既刊14巻) * [[ドクターX〜外科医・大門未知子〜|Doctor-X 外科医・大門未知子]] (制作:[[テレビ朝日]]/脚本:[[中園ミホ]] 既刊2巻) * 御広敷用人 大奥記録(原作:上田秀人 「COMIC熱帯」連載中 既刊1巻) == 未収録作品 == * she's(雑誌が廃刊) * 稲造くん街を走る! * 俺の名はY.W(読み切り) * 丘を越えてゆこうヨ。 * マルシア-MARUSIA-(読み切り) * 雷電本紀 (原作:[[飯嶋和一]]) * 上意討ち (原作:[[池波正太郎]]、「コミック乱ツインズ」2015年8月号) == キャラクターデザイン == * 夜のない街(2000年10月 - 11月 [[仙台市天文台]] 幼児向けプラネタリウムで上映) ※ 現在は上映されていない * わくわく銀河探検(HITACHI CD-ROM 「Astro Museum vol.1 わくわく銀河探検」) * 星のせいこちゃん(仙台市天文台 幼児向けプラネタリウムで上映 ※ 現在は上映されていない) * ジーワンジョッキー2000([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) * ジーワンジョッキー(PlayStation) * Winning Post4"プログラム2000"(PlayStation, Dreamcast) * ホースブレーカー([[Microsoft Windows 95|Windows 95]]/[[Microsoft Windows 98|98]]/[[Microsoft Windows 2000|2000]], [[PocketStation]]対応) * Winning Post4(Windows 95/98, PlayStation, Dreamcast) * Winning Post4 MAXIMUM(マキシマム) ([[PlayStation 2]]) * Winning Post5 (Windows 95/98/Me/2000, PlayStation 2) * Winning Post6 (Windows 95/98/Me/2000, PlayStation 2) * Winning Post6 2006・2008([[PlayStation Portable]]) == 映画 == * ダボ(監督:[[及川善弘]], 主演:[[THE PRIVATES#メンバー|延原達治]]でビデオ映画化) * 麻雀創世記 打天使(監督:[[高橋雄弥]], 主演:[[宮本真希]] VシネマDVD化) ** 第1章 氷の女雀士 復讐の闘打(2008年7月25日発売) ** 第2章 仁義なき血染めの闘打(2008年11月21日発売) ** 第3章 対決!蛇の牌 最後の闘打(2009年1月23日発売) == 外部リンク == * [http://www2t.biglobe.ne.jp/~kadota/ Ah!! 漫画家かどたひろしーKADOtownー]- 公式サイト(更新停止中) * [http://kadotown.blog16.fc2.com/ 「かどたひろしNews」 公式ブログ](最終更新日:2017年11月28日 10:33) * {{Twitter|Kadota_Hiroshi|かどたひろし}}(2010年6月25日 13:50:17 - )'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' * {{マンガ図書館Z作家|2142}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かとた ひろし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:仙台市出身の人物]] [[Category:生年非公表]] [[Category:存命人物]]
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金井たつお
金井 たつお(かない たつお、1955年10月7日 - )は、日本の漫画家。山形県山形市出身。血液型B型。本名は金井龍郎。 山形県立山形中央高等学校卒業後、上京。約2年間の本宮ひろ志のアシスタントを経て1977年に代表作『ホールインワン』でデビュー。『ホールインワン』において、漫画におけるパンチラ描写をほぼ完成させた人物として、『サルまん』などで高く評価されている。 文芸評論家の池上冬樹は高校の同級生。
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金井 たつおは、日本の漫画家。山形県山形市出身。血液型B型。本名は金井龍郎。 山形県立山形中央高等学校卒業後、上京。約2年間の本宮ひろ志のアシスタントを経て1977年に代表作『ホールインワン』でデビュー。『ホールインワン』において、漫画におけるパンチラ描写をほぼ完成させた人物として、『サルまん』などで高く評価されている。 文芸評論家の池上冬樹は高校の同級生。
{{存命人物の出典皆無|date=2013年11月13日 (水) 11:31 (UTC)}} '''金井 たつお'''(かない たつお、[[1955年]][[10月7日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[山形県]][[山形市]]出身。血液型B型。本名は金井龍郎。 [[山形県立山形中央高等学校]]卒業後、上京。約2年間の[[本宮ひろ志]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て1977年に代表作『[[ホールインワン (漫画)|ホールインワン]]』でデビュー<!--(1971年に金井龍郎名義で出した「太陽に泳げ」、「ああ無情」もある)-->。『ホールインワン』において、漫画における[[パンチラ]]描写をほぼ完成させた人物として、『[[サルでも描けるまんが教室|サルまん]]』などで高く評価されている。 [[文芸評論家]]の[[池上冬樹]]は高校の同級生。 == 作品リスト == {{節スタブ}} === 連載 === * [[ホールインワン (漫画)|ホールインワン]](原作:[[高山よしのり|鏡丈二]]、[[週刊少年ジャンプ]]1977年23号 - 1979年49号) * いずみちゃんグラフィティー(週刊少年ジャンプ、1980年2号 - 40号) * ロンリーロード(原作:鏡丈二、[[週刊ヤングジャンプ]]) * [[天まであがれ (漫画)|天まであがれ]](原作:[[武論尊|史村翔]]、[[週刊少年サンデー]]、1981年31号 - 1982年20号) * おれのラウンド(原作:鏡丈二、[[月刊少年ジャンプ]]) * [[ばあじんロード|ばぁじんロード]](週刊ヤングジャンプ) * レッツ☆光二!([[フレッシュジャンプ]]、1983年11月号 - 1984年4月号) * MF輝平(原作:武石正道、フレッシュジャンプ、1984年5月号 - 1985年7月号) * ハイティーンソルジャー([[ビッグコミックスピリッツ]]、1984年) * おれはシャチ(フレッシュジャンプ、1985年9月号 - 1986年6月号) * オペレーション(原作:鏡丈二、週刊ヤングジャンプ、1987年) * バス・ハンター渡(原作:[[吉田幸二]]、[[週刊少年チャンピオン]]1987年41号 - 1989年31号) * 危険な関係(作:[[吉本昌弘]]、ベアーズクラブ、1988年 - 1989年) * スーパーゲーム(原作:鏡丈二) * マッドドッグ拳(原作:田中誠一、週刊少年チャンピオン1989年45号 - 1990年28号) * 新選組(原作:[[工藤かずや]]) * 君だけに愛を(原作:[[集新矢]]、[[スーパージャンプ]]、1994年8号 - 1995年1号) * レディ・スクランブル(原作:松田康志) * 青田大学番外地(原作:[[吉村作治]]、[[SCオールマン]]、1996年 - 1997年) * お台場バーバリアンズ(原作:M.A.T) * 泰子先生の事情(原作:山崎マキ) * サムライガール21(原作:桜小路むつみ) * ナイチンゲールによろしく(原作:[[末田雄一郎]]、[[週刊漫画ゴラク]]) * 花(?)の高校女子ゴルフ部(原作:かわさき健、[[ゴルフレッスンコミック]]〈[[日本文芸社]]〉、2006年 - 2015年) * まんがの花道(原作:桜小路むつみ、[[週刊漫画サンデー]]〈[[実業之日本社]]〉、2009年 - 2010年) * 悪いヤツら 天保六花撰(原作:桜小路むつみ) * OKライン(監修:[[森川陽太郎]]、脚本:桜小路むつみ、[[ゴルフレッスンコミック]]〈日本文芸社〉、2015年10月号 - 2019年1月号) === 読み切り === * 静香のエース(フレッシュジャンプ、1982年8月号) == アシスタント == *[[能田茂]] *[[川尻よしひろ]] *[[山口育孝]] *[[森沢としお]] == 外部リンク == * {{Twitter|kanai_no_kanai|金井たつお 内}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:かない たつお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:山形県立山形中央高等学校出身の人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1955年生]] [[Category:存命人物]]
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鎌田洋次
鎌田 洋次(かまた ようじ、1957年7月3日 - )は、日本の漫画家。男性、宮城県登米市中田町浅水出身。 1979年、週刊少年マガジンSPECIAL増刊掲載の『俺たちの三遊間』 でデビュー 1981年、『こんちきちん』で週刊ヤングマガジンに初の連載。 主に青年漫画雑誌を舞台としていて、スポーツ漫画を数多く描いている。漫画でも野球、サッカーだけでなく、体操や自転車などのジャンルのスポーツ漫画も手がけている。 また、登山・山岳漫画の数少ない描き手でもある。 2010年現在、つりコミックにて『Match the Hatch』を連載中。
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鎌田 洋次は、日本の漫画家。男性、宮城県登米市中田町浅水出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 鎌田 洋次 | 生年 = {{生年月日と年齢|1957|7|3}} | 生地 = {{JPN}}・[[宮城県]][[登米市]][[中田町 (宮城県)|中田町]][[浅水]] | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = | 代表作 = 『風の翼』<br />『タンブリング』<br />『WINGS』 | 受賞 = }} '''鎌田 洋次'''(かまた ようじ、[[1957年]][[7月3日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性、[[宮城県]][[登米市]][[中田町 (宮城県)|中田町]][[浅水]]出身。 == 経歴 == [[1979年]]、[[週刊少年マガジン]]SPECIAL増刊掲載の『俺たちの三遊間』 でデビュー [[1981年]]、『こんちきちん』で[[週刊ヤングマガジン]]に初の連載。 主に[[青年漫画]]雑誌を舞台としていて、[[スポーツ漫画]]を数多く描いている。漫画でも[[野球]]、[[サッカー]]だけでなく、体操や自転車などのジャンルのスポーツ漫画も手がけている。 また、登山・山岳漫画の{{要検証範囲|数少ない描き手|date=2010年12月}}でもある。 [[2010年]]現在、[[つりコミック]]にて『Match the Hatch』を連載中。 ==主な作品== * ウエノは本格派 [[週刊ヤングマガジン]]創刊号掲載 [[野球漫画]] * こんちきちん 週刊ヤングマガジン掲載、野球漫画 * 粋な別れ 週刊ヤングマガジン掲載 短編 * やけに重たい輪行袋 [[講談社]] [[自転車漫画]] * がっちゃ [[双葉社]] 野球漫画 * サイ (原作:[[松橋孝治]]) 双葉社 野球漫画 * 風の翼 [[漫画アクション]]掲載 [[サッカー漫画]] * ほっかほかホンカン (原作:[[久保田千太郎]]) 双葉社 * ANSWER [[ビッグコミックスペリオール]]掲載 * つむじ風 -WHIRL WIND- [[週刊ヤングサンデー]]掲載 * 風の祭 双葉社 [[競輪]]漫画 * タンブリング 漫画アクション掲載 [[女子体操]]漫画 * ブレス -ある長距離走者の9ヶ月- [[週刊ヤングサンデー]]掲載 * [[ハンサムウーマン (漫画)|ハンサムウーマン]] (脚本:[[プランダ村]]) [[ビッグコミックスペリオール]]掲載 * WINGS(ウイングス) 風の翼II 双葉社 サッカー漫画 * 早わかり! 航空会社のしくみ -[[集英社]]版[[学習漫画]] (監修:青木英雄 構成:大月富美子) * ようこそ庄太郎小屋へ 綜合図書 [[釣り漫画]] * 天翔る [[近代麻雀]]掲載 単行本未刊行 * THE BIG WALL(ビッグ・ウォール)(原作:[[横溝邦彦]]) 山岳漫画 * エールをおくろう (原作:[[桧垣公平]]) [[ビッグコミック増刊号]]掲載 * オリンピックの世紀 (原作:[[春場洲太夢]]) 講談社 * 生命の水 -ニッカウヰスキー、夢と情熱の軌跡- [[MANGAオールマン]]2002年08号掲載 * カモシカ 漫画アクション掲載(2003年) 山岳漫画 * [[17歳。]] (原作:[[藤井誠二]]) 漫画アクション掲載 * アルプスあおぞら小屋 ヤマケイJOY掲載 山岳漫画・短編 * WINGS 風の翼2 ワールドカップ最終予選激闘編 [[宙出版]] サッカー漫画 * [[私の甲子園|私<del>みんな</del>の甲子園]] - 原作:[[かわさき健]] 漫画アクション(2006年-2007年)・Web漫画アクション(2007年-2008年) * 子育て純次郎 (原作:[[小嵐九八郎]]) [[プレイコミック]]掲載 (2007年-2008年) * Match the Hatch - [[つりコミック]] (2009年-連載中) == アシスタント == * [[中山ラマダ]] == 外部リンク == * [http://webaction.jp/title/16.html 漫画アクション・作品紹介・私の甲子園] * ファンのページを、学生時代の同僚が会社のHPの中に「漫画家鎌田洋次くんの世界」としてUPしている {{Normdaten}} {{manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かまた ようし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:宮城県出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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神矢みのる
神矢 みのる(かみや みのる、6月8日 - )は、日本の漫画家。神奈川県鎌倉市出身。多摩美術大学卒業、漫画研究会の二年後輩にしりあがり寿がいた。
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神矢 みのるは、日本の漫画家。神奈川県鎌倉市出身。多摩美術大学卒業、漫画研究会の二年後輩にしりあがり寿がいた。
{{特筆性|人物|date=2022年1月}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 神矢 みのる<br /><span style="font-size:90%">(かみや みのる)</span> |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = |生地 = [[神奈川県]][[鎌倉市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = 1978年 - |ジャンル = [[サイエンス・フィクション|SF]] |代表作 = [[プラレス3四郎]] |受賞 = |サイン = |公式サイト = [http://www.k4.dion.ne.jp/~godarrow/ http://www.k4.dion.ne.jp/~godarrow/] }} '''神矢 みのる'''(かみや みのる、[[6月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[鎌倉市]]出身。[[多摩美術大学]]卒業、漫画研究会の二年後輩に[[しりあがり寿]]がいた。 == 作品リスト == {| class="wikitable" |- ! style="background-color:#fff" colspan="2" | 1970年代 |- ! 1978年 | 遙かなる海より([[マンガ少年]])ペンネーム絵夢桂 |- ! 1979年 | ラスト・チェイス([[週刊少年チャンピオン]]) |- ! style="background-color:#fff" colspan="2" | 1980年代 |- ! rowspan="3" | 1981年 | 弾が行く(週刊少年チャンピオン) |- | ボンバー弾(週刊少年チャンピオン) |- | マシン聖域([[月刊少年チャンピオン]]) |- ! rowspan="3" | 1982年 | ギンギン銀之丞(月刊少年チャンピオン) |- | 鉄砲玉ラプソディー(週刊少年チャンピオン) |- | ジン - ジン(原作:[[小堀洋]])(週刊少年チャンピオン) |- ! rowspan="2" | 1983年 | 乱ナーズ([[週刊少年チャンピオン増刊ヤングチャンピオン|ヤングチャンピオン]]) |- | [[プラレス3四郎]](原作:[[牛次郎]])(週刊少年チャンピオン) |- ! rowspan="2" | 1986年 | BOYS([[積木爆]]・原作)(月刊少年チャンピオン) |- | ニンジャじゃ阿仁丸([[コミックボンボン]]) |- ! rowspan="2" | 1987年 | RAFファイターズ([[マガジンスペシャル]]) |- | ガン&パンチ([[月刊少年マガジン]]) |- ! rowspan="2" | 1988年 | フルメタル刑事([[フレッシュジャンプ]]) |- | 魔獣戦奇ジュドー(コミックボンボン) |- ! style="background-color:#fff" colspan="2" | 1990年代 |- ! rowspan="2" | 1990年 | SAIバード(コミックボンボン) |- | BOXER(村雨 竜彦・原作)([[コミックスコラ]]) |- ! 1991年 | [[タマロイド 超Cガンダム]](コミックボンボン) |- ! 1992年 | FM戦士SUMOキッズ(牛 次郎・原作)([[月刊少年ガンガン]]) |- ! rowspan="2" | 1994年 | 夢幻冒険(リアライズド・ファンタジーズ)([[コミックガンマ]]) |- | おたすけモニュマ神(コミックボンボン) |- ! 1995年 | 闘志天翔(佐竹 雅昭・原作)([[覇王マガジン]]) |- ! 1996年 | 江戸川探偵組(コミックボンボン) |- ! 1997年 | [[サイバーエッグ バトルチャンピオン]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]) |- ! 1998年 | [[不沈戦艦紀伊]](原作:[[子竜蛍]])(RGCコミックス) |- ! 1999年 | サンライズ英雄大戦(コミックボンボン) |- ! style="background-color:#fff;" colspan="2" | 2000年代 |- ! 2003年 | [[プラレスラーVAN]](原作:[[牛次郎]])([[チャンピオンRED]]) |- ! 2006年 | [[アクト・オン!]]([[FlexComixブラッド]]) |} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.k4.dion.ne.jp/~godarrow/ |title=公式HP 神矢家 |date=20071230084947}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かみや みのる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:多摩美術大学出身の人物]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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かわぐちかいじ
かわぐち かいじ(本名:川口 開治、1948年7月27日 - )は、日本の漫画家。 広島県御調郡向東町(現・尾道市)出身。広島県立尾道北高校、明治大学文学部日本文学科卒業。東京都小金井市在住。血液型AB型。 1968年に『ヤングコミック』(少年画報社)にて掲載された「夜が明けたら」でデビュー。 代表作に『沈黙の艦隊』、『ジパング』、『太陽の黙示録』、『空母いぶき』など。 1990年代以降、壮大な舞台で男達が活躍する大河ストーリーを得意としている。 マンガジャパン会員となっている。イラストレーター・漫画家のカワグチニラコは娘。シテ方観世流能楽師の川口晃平は息子。 御調郡向東町(現・尾道市)生まれ。 父親は戦時中に掃海艇の乗組員をつとめ、戦後は小型タンカーの船長となっていた。子供時代のかわぐちは、瀬戸内海を航行する父親の船によく乗せてもらっていた。一卵性双生児の弟と幼少時からプラモデル造りに熱中。戦闘機、軍艦、戦車などの実物の性能を詳しく調べていくうち、兄弟2人だけのオタク的な世界を形成していく。同級生の友達が入ってきても、兄弟のあまりのマニアぶりについていけず、一緒に遊ぶことは出来なかったという。他に誰も入れない兄弟2人だけの世界は、この後東京に行ってからも続く。 子供のころ、よく木を削って潜水艦を作って遊んでいた。水面から位相を移動して海中に潜るという感覚がおもしろかったという。また小学生のころ、小澤さとるの潜水艦漫画『サブマリン707』に夢中になり、その作品に出てきたアスロックという自動追尾魚雷を、自分でも描いてみたいと思っていた。のちの『沈黙の艦隊』では、そうした潜水艦の、描きたかった絵を描けたという。 中学時代に見た黒澤明監督の映画『用心棒』に大きなショックを受け、兄弟2人でシナリオを擦り切れる程読む。脚本家志望だったが、貸本屋で永島慎二の漫画『漫画家残酷物語』に影響を受け漫画を描き始める。明治大学に入学し上京。明治大学漫画研究会に入り、初めて見る欧米の漫画に驚嘆したという。当時活発だった学生運動に背を向け、在学中の1968年、21歳の時に「夜が明けたら」(『ヤングコミック』掲載)で漫画家デビュー。 デビュー後、実家の家業を兄弟どちらかが継がなければならないことになったが、弟はミュージシャンの道を諦めてかいじに漫画家を続けさせた。 その後は漫画原作者とタッグを組んで作品を描くものの、10年ほど鳴かず飛ばずが続き、気付くとスタッフがたった1人になっていた。しかし麻雀を題材にした漫画を描き始めると次第に売れるようになり、『近代麻雀オリジナル』(竹書房)で1980年代前半に連載した『プロ マージャン界の光と影』では、得意の「リアルな世界観で価値観がぶつかり合う」ストーリーを見せる。これによりほぼ同時に連載されていた片山まさゆきの漫画『スーパーヅガン』と共に、麻雀漫画の世界に、多彩な表現方法を持ち込む原動力となった。その後、初の時代劇作品『意気に感ず』で画風を変更(キャラクターの目を大きくする)し、これをきっかけに人気が出始めて人気作家となる。 1980年代中ごろ以降は、『モーニング』(講談社)や『ビッグコミック』(小学館)等で人気作・話題作を多数生み出し、現在に至る。
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かわぐち かいじは、日本の漫画家。 広島県御調郡向東町(現・尾道市)出身。広島県立尾道北高校、明治大学文学部日本文学科卒業。東京都小金井市在住。血液型AB型。 1968年に『ヤングコミック』(少年画報社)にて掲載された「夜が明けたら」でデビュー。 代表作に『沈黙の艦隊』、『ジパング』、『太陽の黙示録』、『空母いぶき』など。 1990年代以降、壮大な舞台で男達が活躍する大河ストーリーを得意としている。 マンガジャパン会員となっている。イラストレーター・漫画家のカワグチニラコは娘。シテ方観世流能楽師の川口晃平は息子。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = かわぐち かいじ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 川口 開治 | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[日本]]・[[広島県]][[御調郡]][[向東町]](現・[[尾道市]]) | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1948|7|27}} | 没年 = | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1968年]] - | 代表作 = 『[[沈黙の艦隊]]』<br />『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』<br />『[[太陽の黙示録]]』<br />『[[空母いぶき]]』 | 受賞 = 第11回:[[講談社漫画賞]](『[[アクター (漫画)|アクター]]』)<br />第14回:講談社漫画賞(『沈黙の艦隊』)<br />第26回:講談社漫画賞(『ジパング』)<br />第51回:[[小学館漫画賞]]・第10回:[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞(『太陽の黙示録』) }} '''かわぐち かいじ'''(本名:川口 開治、[[1948年]][[7月27日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。 [[広島県]][[御調郡]][[向東町]](現在の[[尾道市]]の一部)生まれ。[[広島県立尾道北高等学校|広島県立尾道北高校]]、[[明治大学]][[文学部]][[日本文学科]]卒業。[[東京都]][[小金井市]]在住。[[血液型]][[ABO式血液型|AB型]]。 [[1968年]]に『[[ヤングコミック]]』([[少年画報社]])にて掲載された「夜が明けたら」でデビュー<ref>[https://natalie.mu/comic/artist/1660 コミックナタリー - かわぐちかいじのプロフィール]より</ref>。<!--(補足メモ)デビュー年について、一部の書籍には「1967年」(笠倉文庫版「愛物語」)・「1969年」(講談社KCDX「'86-'02全短編」)の表記もある。なお『ヤングコミック』の創刊は67年。(補足メモ)--> 代表作に『[[沈黙の艦隊]]』、『[[ジパング (漫画)|ジパング]]』、『[[太陽の黙示録]]』、『[[空母いぶき]]』など。<!--著作多数のため、受賞歴のある作品のみ記載して他は除去--> [[1990年代]]以降、壮大な舞台で男達が活躍する大河ストーリーを得意としている。<!--作品リストに連載時期を併記したことにより時制の明確化。「近年」の表記を改め{いつ?}タグを解除。--> [[マンガジャパン]]会員となっている。 == 来歴 == 父親は戦時中に[[掃海艇]]の乗組員をつとめ、戦後は小型[[タンカー]]の船長となっていた。子供時代のかわぐちは、[[瀬戸内海]]を航行する父親の船によく乗せてもらっていた。一卵性双生児の弟と幼少時から[[プラモデル]]造りに熱中。[[戦闘機]]、[[軍艦]]、[[戦車]]などの実物の性能を詳しく調べていくうち、兄弟2人だけの[[おたく|オタク]]的な世界を形成していく。同級生の友達が入ってきても、兄弟のあまりのマニアぶりについていけず、一緒に遊ぶことは出来なかったという。他に誰も入れない兄弟2人だけの世界は、この後東京に行ってからも続く。 子供のころ、よく木を削って[[潜水艦]]を作って遊んでいた。水面から位相を移動して海中に潜るという感覚がおもしろかったという。また小学生のころ、[[小澤さとる]]の[[潜水艦]]漫画『[[サブマリン707]]』に夢中になり、その作品に出てきた[[アスロック]]という自動追尾魚雷を、自分でも描いてみたいと思っていた。のちの『[[沈黙の艦隊]]』では、そうした潜水艦の、描きたかった絵を描けたという。 中学時代に見た[[黒澤明]]監督の映画『[[用心棒]]』に大きなショックを受け、兄弟2人で[[脚本|シナリオ]]を擦り切れる程読む。[[脚本家]]志望だったが、貸本屋で[[永島慎二]]の漫画『[[漫画家残酷物語]]』に影響を受け漫画を描き始める。[[明治大学]]に入学し上京。明治大学漫画研究会に入り、初めて見る欧米の漫画に驚嘆したという。当時活発だった学生運動に背を向け、在学中の[[1968年]]、21歳の時に「夜が明けたら」(『[[ヤングコミック]]』掲載)で漫画家デビュー。 デビュー後、実家の家業を兄弟どちらかが継がなければならないことになったが、弟はミュージシャンの道を諦めてかいじに漫画家を続けさせた<ref>{{Cite web|和書|url=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2579|title=【田中圭一のペンと箸―漫画家の好物ー】第15話:かわぐちかいじと深大寺のそば|date=2015-9-17|accessdate=2017-6-25}}</ref>。 その後は漫画原作者とタッグを組んで作品を描くものの、10年ほど鳴かず飛ばずが続き、気付くとスタッフがたった1人になっていた。しかし[[麻雀]]を題材にした漫画を描き始めると次第に売れるようになり、『[[近代麻雀|近代麻雀オリジナル]]』([[竹書房]])で[[1980年代]]前半に連載した『プロ マージャン界の光と影』では、得意の「リアルな世界観で価値観がぶつかり合う」ストーリーを見せる。これによりほぼ同時に連載されていた[[片山まさゆき]]<ref>片山はかわぐちの明治大学漫画研究会の後輩にあたる。</ref>の漫画『[[スーパーヅガン]]』と共に、[[麻雀漫画]]の世界に、多彩な表現方法を持ち込む原動力となった。その後、初の[[時代劇]]作品『意気に感ず』で画風を変更(キャラクターの目を大きくする)し、これをきっかけに人気が出始めて人気作家となる。 1980年代中ごろ以降は、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』([[講談社]])や『[[ビッグコミック]]』([[小学館]])等で人気作・話題作を多数生み出し、現在に至る。 == 人物 == * プロ野球は[[広島東洋カープ]]ファン。 * 当時の明大漫研には、[[ほんまりう]](1学年下)、[[いしかわじゅん]](2学年下)らがいた。 * 家族は、大学の同級生で漫研のメンバーでもあった1歳上の妻と、2男1女。長男(第1子)はシテ方[[観世流]][[能楽師]]の川口晃平、長女(第3子)はイラストレーター・漫画家のカワグチニラコ<ref name="gnavi">[http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2579 【田中圭一のペンと箸―漫画家の好物ー】第15話:かわぐちかいじと深大寺のそば] - ぐるなび・2015年9月17日</ref>。プロデビュー後から現在に至るまでの私生活については、娘のニラコが[[ヤングチャンピオン#ヤンチャンWeb|ヤンチャンWeb]]で連載中の「かいじくんちのニラコさん」に詳しい。 * [[急行列車]]で[[新宿駅]] - [[富士山麓電気鉄道富士急行線|富士急行線]]・[[河口湖駅]]を結ぶ「[[富士回遊|かわぐち号]]」と新宿駅 - [[甲府駅]]を結ぶ「[[かいじ (列車)|かいじ号]]」が新宿駅 - [[大月駅]]間で併結運転されていたため、時刻表では「'''かわぐち かいじ'''」と表記されていた。これをペンネームの由来とする説があるが、「かわぐちかいじ」は本名であり、偶然の一致にすぎない。なお、「かわぐち号」「かいじ号」とも運行開始は、かわぐちかいじが漫画家デビューする以前の[[1961年]]と[[1962年]]である。<!--「かわぐち=かいじ」の運行期間の明示が必要。-->ただし、時刻表上で「かわぐち かいじ」表記になったのは両列車が1往復に減って号数がなくなった1982年11月から(その後臨時列車に格下げ→廃止の1986年11月まで)であり、それまでは号数つきで「かわぐち×号 かいじ×号」表記だった。 * [[一卵性双生児]]である弟の川口協治(かわぐちきょうじ)も、後に家業(有限会社川口石油の社長)を継ぎつつ漫画家として活動しており、地元・尾道のミニコミ誌などを中心に連載を続けていたほか<ref>[http://bisan.co.jp/%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E5%8D%94%E6%B2%BB%E3%81%AE%E5%9B%9B%E3%82%B3%E3%83%9E%E6%BC%AB%E7%94%BB-p-onoken034/ 川口協治の四コマ漫画] - 路地ニャン公の尾道ホッと情報</ref>、尾道市文化協会会長なども歴任したが、2013年に死去している<ref>[http://bingoweb.co.jp/report/archives/2013/05/post_1057.php 尾道市文化協会会長 川口協治氏が死去] - 経済レポート・2013年5月10日</ref>。2004年に弟が著書「小林和作伝 花を見るかな」<ref>[[高橋玄洋]]著「花を見るかな―評伝 小林和作―」のコミカライズ版</ref>を出版した際にはかいじが監修を務めたほか、2011年10月に[[尾道市立美術館]]でかいじの原画の展覧会が開かれた際は兄弟揃ってのトークショーなども行われた<ref>[http://www.fmo.co.jp/2011/10/01-113445.php 市立美術館 かわぐちかいじ展 開幕] - エフエムおのみち・2011年10月1日</ref>。 * 2011年より尾道市で行われている「尾道マンガ大賞」では、最終審査の審査員を務めている<ref>[https://www.soumu.go.jp/main_content/000215443.pdf マンガで賑わう尾道まちづくり事業]</ref><ref>[http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=44160 尾道マンガ大賞 「平和」が題材 戦後70年にちなんで 小中高生の作品募る] - ヒロシマ平和メディアセンター・2015年5月12日</ref>。 * [[ネーム (漫画)|ネーム]]作業及び作画中には煙草が欠かせないと語る愛煙家であったが、2019年に[[食道癌|食道ガン]]になり完治後は健康に気をつかい喫煙をやめている<ref>[https://gendai.media/articles/-/68244?page=4 現代ビジネス - 漫画家・かわぐちかいじ衝撃告白「長期休載の理由は、がんでした」]より</ref>。 == 受賞歴 == * 1987年 第11回[[講談社漫画賞]] - 『アクター』 * 1990年 第14回講談社漫画賞 - 『沈黙の艦隊』 * 2002年 第26回講談社漫画賞 - 『ジパング』 * 2005年 第51回[[小学館漫画賞]] - 『太陽の黙示録』 * 2006年 第10回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞 - 『太陽の黙示録』 * 2017年 第62回小学館漫画賞 - 『空母いぶき』 * 2019年 [[小林和作]]賞<ref>{{Cite news |title=広島)尾道出身の漫画家かわぐちかいじさんに小林和作賞 |newspaper=朝日新聞デジタル |date=2019-10-03 |url=https://www.asahi.com/articles/ASM9V4SZ0M9VPITB013.html |accessdate=2019-10-08}}</ref> == 作品リスト == === 連載中の作品 === * 空母いぶき GREAT GAME(原案協力:惠谷治、[[小学館]]、『[[ビッグコミック]]』、2019年 - ) ==== 休載中の作品 ==== * 理尽の不思議な野球(原作:四角丸、[[日本文芸社]]、『[[週刊漫画ゴラク]]』、2012年 - 再開未定) === 完結作品 ===<!--現在のところ順不同--> * 風狂えれじい(少年画報社、『ヤングコミック』、1971年) * けんか葉隠(原作:宮田雪、少年画報社、『ヤングコミック』、1971年 - 1972年) * [[テロルの箱船]](原作:[[宮田雪]]、少年画報社、『ヤングコミック』、1972年) * 死風街(芸文社、『コミックVan』、1972年) * 血染めの紋章(芳文社、『週刊漫画TIMES』、1972年) * 黒い太陽(少年画報社、『ヤングコミック』、1972年 - 1974年) * 唐獅子警察(原作:[[滝沢解]]、芳文社、『週刊漫画TIMES』、1973年) * 軍靴の響き(原作:[[半村良]]、[[少年画報社]]、『ヤングコミック』、1975年) * [[テロルの系譜]](日本文華社(現・[[ぶんか社]])、『週刊ジャンボ』、1975年)<!--ちくま文庫版・朝日新聞出版社版では「日本暗殺史」のサブタイトルが確認できます。独立記事があることにも注意。--> * [[銀狼に孤独をみた]](原作:[[笹沢左保]]、脚色:[[久保田千太郎]]、原題:潮来の伊太郎、1975年 - 1976年) * 黒旗水滸伝 大正地獄編(原作:[[竹中労]]、現代評論社、『現代の眼』、1975年 - 1980年) * やさぐれ刑事(原作:藤本義一、芳文社、『コミックmagazine』、1976年) * 牙拳(原作:[[東史朗]]、[[芳文社]]、『[[週刊漫画TIMES]]』、1976年 - 1978年) * 度胸雲(原作:吉田悠二郎、芳文社、『週刊漫画TIMES』、1978年 - 1979年) * 猛者連ブギ(原作:滝沢解、ベストセラーズK.K、『エロトピア』、1978年 - 1980年) * 私設探偵 赤い牙(原作:勝目梓、原題「夜の牙」、芳文社、『週刊漫画TIMES』、1979年 - 1980年) * 赤い野獣(原作:[[勝目梓]]、原題「闇に光る肌」、芳文社、『週刊漫画TIMES』、1981年) * 探偵ハンマー(日本文芸社、『週刊漫画ゴラク』、1981年 - 1983年) * プロ マージャン界の光と影<!--現状ではサブタイトルを含めた書名にしてあります。「来歴」の節での記述とも統一。-->(竹書房、『近代麻雀オリジナル』、1981年 - 1984年) * 悪人喰い(芳文社、『週刊漫画TIMES』、1981年 - 1982年) * 悪党商会(ベストセラーズK.K、『エロトピア』、1982年) * 夜の密猟者(ベストセラーズK.K、『エロトピア』、1982年) * 蛮族警察(原作:セルジオ関、少年画報社、『ヤングコミック』、1982年) * 蒼き狼たち(原作:吉田幸彦、双葉社、『Aクラス麻雀』、1982年 - 1985年) * 襲名せず(原作:関川夏央、リイド社、『リイドコミック』、1983年) * 意気に感ず(原作:吉田悠二郎、講談社、『モーニング』、1983年) * [[ハード&ルーズ]](原作:[[狩撫麻礼]]、[[双葉社]]、『[[漫画アクション#別冊漫画アクション|別冊漫画アクション]]』、『アクション・キャラクター』、1983年 - 1987年)<!--現状ではサブタイトルは割愛--> * 極道疾風伝 バクダン([[竹書房]]、ごめんなすって、1984年) * 探偵物語カブ(原作:[[林律雄]]、徳間書店、『コミックバンバン』、1984年 - 1985年) * はっぽうやぶれ(竹書房、『近代麻雀オリジナル』、1984年 - 1987年) * [[アクター (漫画)|アクター]](講談社、『モーニング』、1984年 - 1988年) * [[ライオン (漫画)|ライオン]](徳間書店、『コミックバンバン』、1985年 - 1987年) * 第二演出部ディレクター ザ・ガマ(小学館、『ビッグコミック』、1987年 - 1989年) * [[愛物語]]([[徳間書店]]、『コミックバンバン』、1987年 - 1989年)- 1991年にオリジナルビデオ化、1992年にOVA化。 * [[獣のように]](双葉社、『[[週刊漫画アクション]]』、1988年 - 1990年)- 1990年・1992年に[[オリジナルビデオ]]化(3作品)。 * [[沈黙の艦隊]](講談社、『モーニング』、1988年 - 1996年)- 1995年・1997年・1998年に[[OVA]]化(3作品)。 * [[メドゥーサ (漫画)|メドゥーサ Medusa]](小学館、『ビッグコミック』、1990年 - 1994年) * [[YELLOW (宮崎信二・かわぐちかいじの漫画)|YELLOW]](原作:宮崎信二、小学館、『ビッグコミック』、1995年 - 1997年) * COCORO〈心〉(講談社、『モーニング』、1996年 - 1997年) * [[アララギ特急]](講談社、『モーニング』、1997年 - 1998年) * [[告白 CONFESSION (漫画)|告白 CONFESSION]](原作:[[福本伸行]]、講談社、『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』、1997年 - 1998年) * [[イーグル (漫画)|Eagle[イーグル]]](小学館、『ビッグコミック』、1998年 - 2001年) * 瑠璃の波風 沈黙の艦隊〜海江田四郎青春譜(講談社、『モーニング』、1998年 - 1999年)- 「沈黙の艦隊」の[[スピンオフ]]作品。<!--現状では「瑠璃の波風」で「かわぐちかいじ」にリダイレクト。要改善。--> * [[生存 LifE]](原作:福本伸行、講談社、『ヤングマガジンアッパーズ』、1999年 - 2000年)- 2002年に[[テレビドラマ]]化(全4話)。 * [[バッテリー (かわぐちかいじの漫画)|バッテリー]](小学館、『[[週刊ヤングサンデー]]』、1999年 - 2002年) * [[ジパング (漫画)|ジパング]](講談社、『モーニング』、2000年 - 2009年)- 2004年から2005年にテレビアニメ化(全26話)。 * [[太陽の黙示録]](小学館、『ビッグコミック』、2002年 - 2010年)- 2006年に[[テレビアニメ]]化(前後編)。 * [[僕はビートルズ]](原作:藤井哲夫、[[講談社]]、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』、2010年 - 2012年) * [[兵馬の旗]](協力:[[恵谷治]]、[[小学館]]、『ビッグコミック』、2011年 - 2014年) * 役者侍 美粧之介(講談社、『[[MiChao!]]』、2008年)- 既出第1話のみ。第2話の予定もあったが未発表<ref>[https://web.archive.org/web/20100906203300/http://moura.jp/manga/michao/interview/280-3/ 作家インタビュー かわぐちかいじ×イ・ヒョンソク 第3回]</ref>。『MiChao!』の配信終了により未完。 * 俺しかいない〜黒い波を乗り越えて〜(小学館、『ビッグコミック』、2012年)- 読切作品。単行本『[[ヒーローズ・カムバック|3.11を忘れないために ヒーローズ・カムバック]]』に収録。 * [[ジパング 深蒼海流]]([[講談社]]、『モーニング』、2012年 - 2017年) * [[空母いぶき]](原案協力:[[惠谷治]]、[[小学館]]、『[[ビッグコミック]]』、2014年 - 2019年) * [[サガラ 〜Sの同素体〜]](原作:[[真刈信二]]、[[講談社]]、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』、2018年 - 2021年) === 短編集 ===<!--年別昇順--> * かわぐちかいじ 珠玉名作集(双葉社、1998年){{ISBN2|4-575-28810-1}} * 水すまし源五郎 海洋ピカレスクコミック かわぐちかいじ初期作品傑作集(さくら出版、2000年){{ISBN2|4-7977-0005-X}} * 黒い太陽 かわぐちかいじ初期作品集([[ソフトマジック]]、2001年){{ISBN2|4-921181-19-5}} * '86-'02かわぐちかいじ全短編(講談社、2003年){{ISBN2|4-06-334695-1}} * TOKYO X DAY<ref>{{Cite web|和書 |author=東京都総務局総合防災部防災管理課 |date=2015-9-1 |url=https://www.bousai.metro.tokyo.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/008/074/manga/tokyo_xday.pdf |title=TOKYO X DAY |language=日本語 |accessdate=2020-01-12}}</ref>(東京都、2015年) - 東京都が都内全戸に配布した防災ガイドブック『[[東京防災]]』の巻末に掲載された。 === 読み切り === * 剣と六分儀(講談社、『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』2022年50号) === 漫画以外の書籍 === * 沈黙の団塊へ([[ワニブックス]]、2001年1月){{ISBN2|4-8470-1366-2}} * 叫べ!「沈黙の国家」日本(共著:[[恵谷治]]、[[ビジネス社]]、2002年){{ISBN2|4-8284-0972-6}} - 対談集<!--タイトルの鍵括弧はカバーレイアウト上の装飾で、本来は必要ない可能性有り。--> * 小林和作伝 花を見るかな(かわぐちきょうじ著、ガリバープロダクツ、2004年)- 監修<ref>[https://web.archive.org/web/20060721101838/http://www.bingoweb.co.jp/report/back/20041110/reportbk.html びんごトピックス 2004年11月10日号]</ref> * 回想 沈黙の団塊世代へ([[筑摩書房]]、2005年){{ISBN2|4-480-42148-3}}<!--暫定的に別扱いにしましたが、上記の書籍の文庫化で内容は同一の可能性有り。--> * ジパング画集 KAI(講談社、2010年){{ISBN2|4-06-364820-6}} - 画集 == その他の活動 == * [[小学館漫画賞]]・選考委員 - 第54回(2008年)から第62回(2016年)まで == 関連書籍 == * [[別冊宝島]]1769 僕たちの好きなかわぐちかいじ([[宝島社]]、2010年){{ISBN2|978-4-7966-7609-0}} == アシスタント == * [[髙橋ツトム]] <!--* [[永井芳司]]--><!--独立記事が無いため特筆性に疑問。プロフィール自体は検索エンジンで探せますが--> <!--* [[いつきたかし]]--><!--独立記事が無いため特筆性に疑問。プロフィール自体は検索エンジンで探せますが--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Mediaarts-db|C47564|かわぐちかいじ}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かわくち かいし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:文学士取得者]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本出身の双子]] [[Category:一卵性双生児]] [[Category:吃音の人物]]
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川三番地
川 三番地(かわ さんばんち、1957年1月15日 - )は、日本の漫画家。青森県三戸郡田子町出身。本名:田中敬三。 高校卒業後に印刷会社に就職するも漫画家を志し退職。上京し、ちばてつやのアシスタントとなった。 1980年、講談社新人漫画賞に本名である田中敬三名義にて「武道半人前」にて特別入選し、同年より『週刊少年マガジン』にて『男ぞ!硬介』の連載を開始した。初期のペンネームは「川 三番地」(かわ みつばち)。以降、講談社や秋田書店の少年誌を中心に執筆し、双葉社の『週刊漫画アクション』や日本文華社の青年誌でも執筆していた。 キャリア初期は下ネタ系のドタバタギャグが多かったが、1986年に連載開始した『4P田中くん』以降は、師匠ちばてつやの末弟である漫画原作者・七三太朗と組んだ少年誌での仕事が中心となり、その大半が高校野球を題材とした大長編野球漫画である。代表作は『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に連載された『4P田中くん』と、『月刊少年マガジン』(講談社)に連載された『風光る』(どちらも七三原作)。 2009年3月頃から病気療養のために一時活動を休止、連載中の漫画も休載したが、同年7月頃から活動を再開している。
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川 三番地は、日本の漫画家。青森県三戸郡田子町出身。本名:田中敬三。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 川 三番地<br />かわ さんばんち |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 田中 敬三 |生年 = {{生年月日と年齢|1957|1|15}} |生地 = {{JPN}}・[[青森県]][[三戸郡]][[田子町]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = |ジャンル = [[少年漫画]] |代表作 = 『[[4P田中くん]]』<br />『[[風光る〜甲子園〜|風光る]]』 |受賞 = [[講談社漫画賞]]少年部門『風光る』(1992年) |サイン = |公式サイト = }} '''川 三番地'''(かわ さんばんち、[[1957年]][[1月15日]]<ref name="kawasan">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P110</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[青森県]][[三戸郡]][[田子町]]出身<ref name="kawasan" />。本名:田中敬三<ref name="kawasan" />。 == 概要 == 高校卒業後に印刷会社に就職するも漫画家を志し退職<ref>『あしたのジョーに憧れて』より。</ref>。上京し、[[ちばてつや]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]となった<ref name="kawasan" />。 [[1980年]]、[[講談社]]新人漫画賞に本名である'''田中敬三'''名義にて「武道半人前」にて特別入選し<ref name="kawasan" />、同年より『[[週刊少年マガジン]]』にて『男ぞ!硬介』の連載を開始した。初期のペンネームは「'''川 三番地'''」(かわ '''みつばち''')。以降、講談社や[[秋田書店]]の少年誌を中心に執筆し、双葉社の『[[週刊漫画アクション]]』や[[ぶんか社|日本文華社]]の青年誌でも執筆していた。 キャリア初期は下ネタ系のドタバタギャグが多かったが、1986年に連載開始した『[[4P田中くん]]』以降は、師匠ちばてつやの末弟である漫画原作者・[[七三太朗]]と組んだ少年誌での仕事が中心となり、その大半が高校野球を題材とした大長編[[野球漫画]]である<ref name="kawasan" />。代表作は『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])に連載された『4P田中くん』と、『[[月刊少年マガジン]]』([[講談社]])に連載された『[[風光る (七三太朗・川三番地の漫画)|風光る]]』(どちらも七三原作)。 2009年3月頃から病気療養のために一時活動を休止、連載中の漫画も休載したが、同年7月頃から活動を再開している。 == 作品リスト == * 男ぞ!硬介(1980年、講談社)全2巻 * おれは万太夫(1981年-1982年、講談社)全3巻 * ほんでもってESP(1983年-1984年、週刊少年マガジン)全3巻 * 佐藤くん(1985年、講談社)全3巻 * 気ままにスクラム(1985年-1986年、週刊少年マガジン)全2巻 ** 高校[[ラグビーフットボール|ラグビー]]漫画。 * 合体ポリス ユニオン(1986年、[[コミックボンボン]]4月号-5月号、[[講談社]]) ** 男女が合体変身する巨大ヒーロー漫画。 * 弾ちゃん(1987年、日本文華社)全1巻 * みつゆびパラダイス(1987年-1988年、双葉社)全2巻 * THE 鈴木くん(1989年、日本文華社) * どついたるねん(1989年、講談社) * オヤジ高校生(1985年、[[ビッグコミックスピリッツ]]、[[小学館]]) ** 連載前号では「突貫ビタミン」と予告されていたが、タイトルが変更になり2回で打ち切り。[[白井勝也]]編集長の編集後記で「愚かな漫画家と決別しました」と書かれた<ref>[http://iwainohondana.blog85.fc2.com/blog-entry-224.html 古本体質その2/愚かなる作家とディスられた人とスピリッツ]</ref>。その経緯や真相は不明。 * あしたのジョーに憧れて(2013年-2016年、[[月刊少年マガジン+]]、少年マガジンR)全3巻 ** ちばてつやプロダクションでアシスタントをしていた当時を振り返る自伝的漫画。 ;以下、七三太朗原作作品(全て高校野球漫画) :* 4P田中くん([[1986年]]-[[1996年]]、[[週刊少年チャンピオン]]、[[秋田書店]]) :**単行本全51巻。原作の七三太朗は、コンビを組んだのは川の要望だが、科学トレーニングや[[ジャイロボール]]などの近代的な野球描写は、野球に詳しい川のアイデアだったと述べている<ref>{{Cite web|和書|title=“4P田中くん”原作:七三太朗先生レジェンドインタビュー|url=https://content.weeklychamp.com/interview/page3.html|website=週刊少年チャンピオン|accessdate=2021-09-21|language=ja}}</ref>。 :* 風光る(1990年-2006年、[[月刊少年マガジン]]、[[講談社]]) :** 『月刊少年マガジン』で連載されていた。単行本全44巻。 :* [[Dreams (漫画)|Dreams]](1996年-2017年、[[週刊少年マガジン]]→[[マガジンSPECIAL]]、講談社) :** 高校野球漫画ながら「シンクロ打法」等のやや難解な技術論を取り上げたため、『週刊少年マガジン』連載初期は話題性が高かった。2003年途中から系列誌『マガジンSPECIAL』に移り、同誌休刊の2017年まで連載された。 単行本全71巻。 :* [[天のプラタナス]](2006年-2017年、月刊少年マガジン) :** 『月刊少年マガジン』2006年10月号から2017年8月号まで連載。 == 師匠 == * [[ちばてつや]] == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かわ さんはんち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:青森県出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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川原正敏
川原 正敏(かわはら まさとし、1960年8月17日 - )は、日本の漫画家。広島県三原市出身。国立広島商船高等専門学校航海科出身。血液型はA型。『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』においては自身の筆と挿絵による小説も手がけており、全1巻が刊行されている。 2009年、広島県三原市のふるさと大使の1人に任命される。
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川原 正敏は、日本の漫画家。広島県三原市出身。国立広島商船高等専門学校航海科出身。血液型はA型。『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』においては自身の筆と挿絵による小説も手がけており、全1巻が刊行されている。 2009年、広島県三原市のふるさと大使の1人に任命される。
'''川原 正敏'''(かわはら まさとし、[[1960年]][[8月17日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、115頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[広島県]][[三原市]]出身<ref name="mangaseek" />。[[国立学校|国立]][[広島商船高等専門学校]]航海科出身<ref name="mangaseek" />。[[血液型]]はA型<ref name="mangaseek" />。『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』においては自身の筆と挿絵による小説も手がけており、全1巻が刊行されている。 [[2009年]]、[[広島県]][[三原市]]の[[ふるさと大使]]の1人に任命される<ref name="三原市">{{Cite web|和書|format=PDF|url=https://www.city.mihara.hiroshima.jp/uploaded/attachment/6652.pdf|title=三原にゆかりのある10人を三原市ふるさと大使に任命|publisher=[[三原市]]|date=2009-09-01|accessdate=2017-12-20}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[パラダイス学園]](デビュー作、1985年 - 1986年、『[[月刊少年マガジン]]』、[[講談社]]、全3巻) * [[実録漫画]] [[岡田有希子]]物語(1985年、『月刊少年マガジン』2月号読み切り) * [[あした青空]](1986年 - 1987年、『月刊少年マガジン』、全2巻) * エンジェル(全1巻) * HERO(1988年 - 1989年、『[[週刊少年マガジン]]』、講談社、全2巻、ワイド版全1巻) * [[修羅の門]](1989年 - 1996年)、『月刊少年マガジン』、全31巻、文庫版全15巻) ** 修羅の門 第弐門(2010年 - 2015年、『月刊少年マガジン』、全18巻) * [[陸奥圓明流外伝 修羅の刻]](1989年 - (不定期掲載)、『月刊少年マガジン』) * [[海皇紀]](1998年 - 2010年、『月刊少年マガジン』、全45巻) * [[龍帥の翼 史記・留侯世家異伝]](2016年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/178771|title=川原正敏、劉邦に仕えた軍師・張良描く新連載!次号月マガで「RiN」完結|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-03-05|accessdate=2022-12-06}}</ref> - 2022年<ref>{{Cite journal|和書|date = 2022-12-06|journal =月刊少年マガジン|volume=2023年1月号|publisher = 講談社|asin = B00A7ZCL8C}}表紙より。</ref>、『月刊少年マガジン』、全25巻) === 小説 === * 陸奥圓明流外伝 修羅の刻(全1巻) === 漫画原作 === * マイ・チャンピオン(画:[[きむらみつお]]、講談社、全1巻) * 夢の球譜(画:きむらみつお、講談社、全1巻) * [[修羅の門異伝 ふでかげ]](2010年 - 2014年、作画:飛永宏之、『月刊少年マガジン』) * 陸奥圓明流異界伝 修羅の紋 ムツさんはチョー強い?!(画:甲斐とうしろう、講談社、1-8巻) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわはら まさとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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川原由美子
川原 由美子(かわはら ゆみこ、1960年4月20日 - )は、日本の漫画家。北海道北斗市生まれ、東京都育ち。血液型はO型。 小学生の頃から漫画を書き始め、中学生の頃から投稿を始める。中学の頃から登校拒否をするなど学校が嫌いで、高校に進学するも1か月で辞めてしまった。原稿を持って『週刊少女コミック』(小学館)編集部へ見学に行ってアシスタントになりたいと訴えたところ河野やす子を紹介してもらい、8月から約1年半、アシスタントを務めた。アシスタント中も『週刊少女コミック』や『花とゆめ』などに持ち込みを続けた。 デビュー以前はSFっぽい作品を描いていたが、河野やす子の担当者に見せたところ、「マニアックな方面へ行きたいんだったらいらない」と言われ、路線変更。『週刊少女コミック』の「まんが研究生」に応募し、努力賞に選ばれた。もう1作描いた後、1978年、『週刊少女コミック』10号に掲載の「こっちむいてマリー!!」でデビュー。 1979年、『週刊少女コミック』に「風のおとしもの」を初連載。以後、同誌には『KNOCK!』『すくらんぶるゲーム』を連載。 1983年から『別冊少女コミック』(小学館)に『前略・ミルクハウス』を連載。1985年、同作で第31回小学館漫画賞少女部門を受賞した。 1990年代以降は『月刊ASUKA』(角川書店)や『ネムキ』(朝日新聞出版)などに作品を発表する。 1983年までは「川原由美子作品リスト」(『ぱふ』1984年3月号)参照
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川原 由美子は、日本の漫画家。北海道北斗市生まれ、東京都育ち。血液型はO型。
'''川原 由美子'''(かわはら ゆみこ、[[1960年]][[4月20日]]<ref name=interview>「インタビュー 川原由美子」、『[[ぱふ]]』第10巻第3号(通巻86号)、[[雑草社]]、1984年3月号(3月1日発行)、7-14頁、1984年。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[北斗市]]生まれ<ref>[[北海道新聞]]、2013年7月13日夕刊2面「ほっかいどう大マンガ展本日開催 芸術の森にて 9月8日まで」</ref>、[[東京都]]育ち<ref name=interview />。[[ABO式血液型|血液型]]はO型<ref name=interview />。 == 経歴 == 小学生の頃から漫画を書き始め、中学生の頃から投稿を始める<ref name=interview />。中学の頃から登校拒否をするなど学校が嫌いで、高校に進学するも1か月で辞めてしまった<ref name=interview />。原稿を持って『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』([[小学館]])編集部へ見学に行ってアシスタントになりたいと訴えたところ[[河野やす子]]を紹介してもらい、8月から約1年半、アシスタントを務めた<ref name=interview />。アシスタント中も『週刊少女コミック』や『[[花とゆめ]]』などに持ち込みを続けた<ref name=interview />。 デビュー以前はSFっぽい作品を描いていたが、河野やす子の担当者に見せたところ、「マニアックな方面へ行きたいんだったらいらない」と言われ、路線変更<ref name=interview />。『週刊少女コミック』の「まんが研究生」に応募し、努力賞に選ばれた<ref name=interview />。もう1作描いた後、1978年、『週刊少女コミック』10号に掲載の「こっちむいてマリー!!」でデビュー<ref name=interview />。 1979年、『週刊少女コミック』に「風のおとしもの」を初連載<ref>「川原由美子 全作品グラフィティ」、『[[ぱふ]]』第10巻第3号(通巻86号)、[[雑草社]]、1984年3月号(3月1日発行)、15-26頁、1984年。</ref>。以後、同誌には『KNOCK!』『すくらんぶるゲーム』を連載。 1983年から『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』(小学館)に『[[前略・ミルクハウス]]』を連載。1985年、同作で第31回[[小学館漫画賞]]少女部門を受賞した。 [[1990年代]]以降は『[[月刊Asuka|月刊ASUKA]]』([[角川書店]])や『[[ネムキ]]』([[朝日新聞出版]])などに作品を発表する。 == 受賞歴 == * 1985年 - 第31回[[小学館漫画賞]]少女部門(『前略・ミルクハウス』) * 2011年 - 第11回[[センス・オブ・ジェンダー賞]]大賞(『ななめの音楽Ⅰ』『ななめの音楽Ⅱ』) == 作品リスト == 1983年までは「川原由美子作品リスト」(『[[ぱふ]]』1984年3月号)参照<ref>「川原由美子作品リスト」、『[[ぱふ]]』第10巻第3号(通巻86号)、[[雑草社]]、1984年3月号(3月1日発行)、41頁、1984年。</ref> * いみていしょんみすてりあす(1977年、雑誌未発表、単行本『風のおとしもの』収録) * こっちむいてマリー!!(『週刊少女コミック』(小学館)1978年10号) - デビュー作 * スプリング・ブルー(『週刊少女コミック』1978年17号) * 春・まんなか(『週刊少女コミック増刊』1978年5/3号) * ペパーミント・グリーン(『週刊少女コミック』1978年21号) * 雨色の宇宙船(『週刊少女コミック』1978年29号) * 本日快晴!(『週刊少女コミック』1978年39号) * まじかる★ぼっくす(『週刊少女コミック増刊』1978年11/25号) * 冬の海鳥(『週刊少女コミック』1979年1号) * '''風のおとしもの'''(『週刊少女コミック』1979年4-6号) - 初連載 * 午前3時のティータイム(『週刊少女コミック』1979年11号) * 風街便り(『週刊少女コミック増刊』6/28号) * '''気まぐれ四銃士'''(『週刊少女コミック』1979年17号 - 1980年5号) * やねうらべや通信(『週刊少女コミック』1980年3号) * '''KNOCK!'''(『週刊少女コミック』1980年8号 - 1981年2号) * ゆきどまりの森から(『コロネット』(小学館)初春の号) * ストリート・キッズ(『週刊少女コミック』1981年5号) * '''25時のシンデレラ'''(『週刊少女コミック』1981年8-12号) * 万華鏡(『コロネット』初夏の号) * ムーンナイト・ららばい(『週刊少女コミック』1981年15号) * サマー・チャイルド(『週刊少女コミック』1981年16号) * そふと・タッチ(『週刊少女コミック』1981年17号) * ミルキーロード(『週刊少女コミック』1981年18号) - 「やねうらべや通信」の続編 * '''すくらんぶるゲーム'''(『週刊少女コミック』1981年2号 - 1982年23号) * '''花盗人たちの夜'''(『週刊少女コミック』1983年1-3号) - 連作短編 * '''[[前略・ミルクハウス]]'''(『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』 (小学館)1983年3月号 – 1986年5月号) * 吟遊詩人の街(『週刊少女コミック』1983年8号) * 曇りガラスのむこうはいつも晴れている(『週刊少女コミック増刊』5/25号) * ミッドナイトモーション(『週刊少女コミック』1983年17号) * オータムプリンセス(『週刊少女コミック』1983年21号) * ばいばいストロベリーデイズ(『週刊少女コミック』1984年6号) * グルーミィ・ディ・ドリーム(『[[ちゃお]]』(小学館) 1984年10月号) * '''ソルジャーボーイ'''(『ちゃお』 1984年12月号 - 1987年5月号) - 原作[[佐々木守]] * ヒットラーの帽子(『[[ハロウィン (雑誌)|ハロウィン]]』([[朝日ソノラマ]])1986年3月号) * 夏だったね(『別冊少女コミック』1986年8月号) * '''CLIMB THE MOUNTAIN'''(『別冊少女コミック』1986年10月号 - 1987年4月号) * HAPPY BIRTHDAY TO US(『perky comic』([[勁文社]])1987年1月号) * MOONLIGHT SHOWER(『ShortStories』([[白泉社]])1987年SUMMER号) - [[佐藤道明]]との共作。 * 迷子のティンカーベル(『[[ヤングユー|YOUNG YOU]]』([[集英社]])1987年9月号) * 翡翠の森(『ちゃお』1987年12月号,1988年1月号) * たちどまった冬景色(『別冊少女コミック』1988年2月号) * 天使が堕ちた朝(『ShortStories』1988年SPRING号) - [[佐藤道明]]との共作。 * かたゆでの朝(『ShortStories』1988年SUMMER号) - [[佐藤道明]]との共作。 * '''ペーパームーンにおやすみ'''(『[[Mimi (雑誌)#姉妹誌|mimi Excellent]]』([[講談社]])1989年No.10,No.11,1990年No.14,No.15) * '''BUBBLE GUM REVOLUTION'''(『[[Mimi (雑誌)|mimi]]』(講談社)1989年18号,24号,1990年12号) * ななめの音楽(『[[LaLa]]』(白泉社)1990年1月号) - [[佐藤道明]]との共作。読切作品。 * ばら色の吐息(『mimi』1990年18号) * 途中下車(『[[アニメージュ]]』([[徳間書店]])1990年10月号ふろく 漫画大行進'90 AUTUMN) * ゴージャス -GORGEOUS-(『mimi Excellent』1990年No.17) * '''センチメンタル'''(『mimi』1990年24号 - 1991年2号) * ピ・ア・ス(『アニメージュ』1991年4月号ふろく 漫画大行進'91 SPRING) * '''明日見る夢'''(『コサージュ』([[小池書院|スタジオ・シップ]])1991年VOL.1 - 1994年1月号) * 遠い水音(『[[ネムキ|眠れぬ夜の奇妙な話]]』([[朝日ソノラマ]])1991年vol.3) * 春を解く呪文(『眠れぬ夜の奇妙な話』1992年vol.5) * '''あなたに逢いたい'''(『[[月刊Asuka]]』([[角川書店]])1992年2月号 - 5月号,7月号 - 10月号) * '''[[観用少女]]'''(『[[ネムキ|眠れぬ夜の奇妙な話]]』([[朝日ソノラマ]])1992年VOL.10,1993年VOL.16,1994年VOL.18,1994年VOL.20-1996年VOL.30,1996年5月号-1997年5月号,9月号,1998年5月号,9月号-1999年3月号,7月号-11月号,2000年11月号,2001年1月号,5月号) * 夜の声(『眠れぬ夜の奇妙な話』1993年vol.11) * 白い帽子の夏(『コサージュ』1993年10月号) * デイ・ゲーム(『[[JOURすてきな主婦たち|Jour]]』([[双葉社]])1993年11月号) * BREATH(『コサージュ』1994年4月号) * ソラミミPOST(『ミステリーJour Special』第46集(双葉社)1994年8/19号) * PARK(『コミックaria』([[光風社出版]])1994年vol.1) * 金米糖のハイヒール(『ミステリーJour Special』第55集 1995年10/19号) * ソライロめがね(『ミステリーJour Special』第62集 1996年6月増刊号) * マーマレード・スカイ(『ミステリーJour Special』第67集 1997年2月増刊号) * BAKU -獏-(『[[ヤングロゼ]]』(角川書店)1997年6月号) * りぼん(『ミステリーJour Special』第77集 1998年8月増刊号) * 冷凍人間(『[[ヤングキングアワーズ#アワーズガール|アワーズ・ガール]]』([[少年画報社]])2000年12月号) * MANI-MAX(『アワーズ・ガール』2001年3月号) * '''ななめの音楽'''(『[[ネムキ]]』([[朝日新聞出版]])2009年5月号 - 2011年1月号) - [[佐藤道明]]原案 * バスタブで背泳ぎ(『[[シンカン]]』(朝日新聞出版) 2009年) * '''TUKIKAGEカフェ'''(『[[シンカン]]』2010年VOL.02 - 2012年VOL.07) * '''マカロンムーン'''(『[[Nemuki+]]』(朝日新聞出版)2013年5月号 - 2014年3月号) - 「ななめの音楽」の登場人物「伊咲こゆる」との共著 == アシスタント == * [[麻原いつみ]]<ref>「御友人からひとこと 麻原いつみ」、『[[ぱふ]]』第10巻第3号(通巻86号)、[[雑草社]]、1984年3月号(3月1日発行)、32頁、1984年。</ref> * [[石垣環]] * [[佐藤道明]] == 関連項目 == * [[ステイ・ゴールド (映画)|ステイ・ゴールド]] - [[野沢尚]]原案・脚本による1988年の日本映画。川原は「原作」とクレジットされている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.lares.dti.ne.jp/~muel/gara.htm 我楽] - ファンページ * {{マンガ図書館Z作家|1044}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわはら ゆみこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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神崎将臣
神崎 将臣(かんざき まさおみ、1964年8月17日 - )は、日本の漫画家。代表作は「KAZE」「重機甲兵ゼノン」シリーズなど。 1985年、少年ビッグコミック2号掲載の「HUNTER」でデビュー。
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神崎 将臣は、日本の漫画家。代表作は「KAZE」「重機甲兵ゼノン」シリーズなど。 1985年、少年ビッグコミック2号掲載の「HUNTER」でデビュー。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 神崎 将臣 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1964|8|17}} |生地 = |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = 漫画家 |称号 = |活動期間 = [[1985年]] - |ジャンル = |代表作 = |受賞 = |サイン = |配偶者 = |公式サイト = }} '''神崎 将臣'''(かんざき まさおみ、[[1964年]][[8月17日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作は「[[KAZE]]」「[[重機甲兵ゼノン]]」シリーズなど。 [[1985年]]、[[少年ビッグコミック]]2号掲載の「[[ハンター#その他の名詞|HUNTER]]」でデビュー。 == 作品リスト・各概要 == <!-- およその作品発表・単行本出版年月の降順。 --> === 漫画 === * [[ハンター#その他の名詞|HUNTER]] : デビュー作である読切り版。 * [[聖者は夜やってくる]] * 神崎将臣選集(ブル・ドック) * [[重機甲兵ゼノン]] * アシュギーネ : 松下電器産業(現[[パナソニック]])のパソコンであった[[MSX]]2・A1シリーズのイメージキャラクターを使ったコミカライズ作品。『[[週刊少年サンデー#増刊号|週刊少年サンデー増刊号]]』に1987年4月号から1987年9月号まで連載。[[1988年]][[1月]]単行本発売。 * [[萬川集海]](原作:[[小池一夫]]) * 転生伝説 バンガ(原作:[[会川昇]]) * HUNTER : デビュー作の設定を引き継いだ連載版。犯罪者たちに両親と妹を殺された少年が、戦いのエキスパートして成長し、組織「HUNTER」の一員として様々な依頼を請け負う。 : 主人公、佐野明男は後の作品『[[XENON-199X・R-]]』に成長した姿で登場している。 : [[2008年]]に徳間書店から『HUNTER -XENON SAGA 異聞-』として復刊。 * KAGEROU * [[GUN CRISIS]] * [[KAZE (漫画)|KAZE]] : 完全版(完結版)が[[アニメージュ]]コミックより発売中。 * [[ストリートファイターII#漫画|ストリートファイターII -RYU]] * [[覇王街]] * [[ドラゴンクエスト 幻の大地]](脚本:とまとあき、「神崎まさおみ」名義) * [[鋼-HAGANE-]] : 「[[重機甲兵ゼノン]]」と世界観を共有し、かつてのキャラクターが一部登場した作品。現在、ゼノンシリーズの中で最も後の時代を描いたものとされている。 * SHOGUN COP * [[ブルーバック (漫画)|ブルーバック]] : 2008年に[[徳間書店]]から『XENON ブルーバック』として新装版単行本が発売。 : 体調不良により連載を休止、その後ほど無く掲載誌そのものが休刊になる。それらの事情により『XENON-199X・R-』と繋がりを持つ物語として、ゼノンシリーズの一翼を担う作品として新たに位置付けられた。この作品単体としては未完の形となっているが、ストーリーそのものは『XENON-199X・R-』と統合する形で続行されている。 : 新装版のあとがきに“ゼノンの時代の後のつもりで描いていたため当初は『XENON-199X・R-』に統合する気はなかった”といった内容が書かれている。 * [[イかせて!!バンビーナ]] * [[XENON-199X・R-]] : 「重機甲兵ゼノン」の続編。[[2006年]]9月より徳間書店『[[月刊COMICリュウ]]』にて連載。『鋼-HAGANE-』、『ブルーバック』、『HUNTER』に関係するキャラクターが登場し、[[クロスオーバー作品|クロスオーバー]]な世界観で物語が展開する。 * [[悔い改めよと叫ぶ声在り~萬探偵高円寺歩事件簿~]] * 聖者は夜やってくる(リメイク版) * [[ワイルド7#トリビュート作品|WILD7 TRIBUTE(ワイルド7 トリビュート)]] : [[少年画報社]]『[[ヤングキング]]』22号(2009年10月27日発売)に掲載。 * [[仮面の忍者 赤影#仮面の忍者 赤影 Remains (2012年)|仮面の忍者 赤影 Remains]] : 単行本は秋田書店より全4巻が刊行されている。 * [[OHゲLet's!!]](脚本:[[ARATA]]) ; アンソロジー * [[ストリートファイター (ゲーム)#関連商品|ストリートファイター アート・コミック・アンソロジー]] : [[エンターブレイン]]より2009年[[3月14日]]に発売された[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイターシリーズ]]のアンソロジー書籍。作家の一人として描き下ろした漫画が収録されている。 ; ゲーム * [[星霊狩り]] * [[ダウンロード (ゲーム)|ダウンロード]] : どちらもキャラクターデザインを担当。なお、両作とも原作は小説家の中島渉が手掛けている。 === 映画 === * SHOGUN COP : [[1999年]]、ハリウッド未公開映画。 == 外部リンク == <!-- * [https://web.archive.org/web/20010224174510/http://www.masaomi-kanzaki.com/ KANZAKIN](公式サイト) --> * {{Twitter|kanzakin}} * {{マンガ図書館Z作家|419}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かんさき まさおみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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733
神戸さくみ
神戸 さくみ(かんべ さくみ、1月1日 - )は、日本の漫画家。埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。 1980年、少年画報社『週刊少年キング』で「9ヶ月年上」(原作:さとう和久)にてデビュー。同年同誌にて初連載開始となった『龍一くんライブ』が7巻まで発行され著者の代表作の1つとなった。以降、1988年頃まで、同社や小学館の『ビッグコミック』などの少年誌を中心に連載や読み切りを執筆していた。 1989年頃より、主な執筆の場をこれまでの少年誌から女性をターゲットとした雑誌に切り替え、小学館の少女漫画誌や祥伝社の女性向け漫画雑誌『FEEL YOUNG』などにて1994年頃まで執筆していた。
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神戸 さくみは、日本の漫画家。埼玉県大宮市(現さいたま市)出身。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 神戸 さくみ(かんべ さくみ) |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢||1|1}} |生地 = {{JPN}}[[埼玉県]][[大宮市]] |没年 = |没地 = |血液型 = |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1980年]] - |ジャンル = [[少年漫画]]、[[少女漫画]] |代表作 = 龍一くんライブ<br>パラダイス通信 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''神戸 さくみ'''(かんべ さくみ、[[1月1日]]<ref name="aa">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P117</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[埼玉県]][[大宮市]](現[[さいたま市]])出身<ref name="aa" />。 == 概要 == [[1980年]]、[[少年画報社]]『[[週刊少年キング]]』で「9ヶ月年上」(原作:さとう和久)にてデビュー<ref name="aa" />。同年同誌にて初連載開始となった『龍一くんライブ』が7巻まで発行され著者の代表作の1つとなった。以降、[[1988年]]頃まで、同社や[[小学館]]の『[[ビッグコミック]]』などの少年誌を中心に連載や読み切りを執筆していた。 [[1989年]]頃より、主な執筆の場をこれまでの少年誌から女性をターゲットとした雑誌に切り替え、小学館の[[少女漫画]]誌や[[祥伝社]]の女性向け[[漫画雑誌]]『[[FEEL YOUNG]]』などにて[[1994年]]頃まで執筆していた。 == 作品リスト == === 男性向け雑誌掲載分 === * 龍一くんライブ(少年画報社)全7巻(1980年 - 1982年)<!-- 単行本詳細情報は不明です --> * 神戸さくみ選集(小学館)全2巻 # ISBN 9784091503916(1983年10月) # ISBN 9784091503923(1985年2月) * パラダイス通信(小学館)全3巻 # ISBN 9784091807915(1985年1月) # ISBN 9784091807922(1985年2月) # ISBN 9784091807939(1985年5月) * ミセスKに伝言(小学館)全1巻 # ISBN 9784091811912(1986年9月) === 女性向け雑誌掲載分 === * TOKYO恋愛コレクション(祥伝社)全1巻 # ISBN 9784396760038(1989年10月) * はい・こちらEトラベル(小学館)全1巻 原作:[[矢島正雄]] # ISBN 9784091337818(1991年6月) * 香水ストーリーズ(祥伝社)全2巻 # ISBN 9784396760274(1991年7月) # ISBN 9784396760441(1992年5月) * フェイク(祥伝社)全1巻 # ISBN 9784396760922(1994年3月) == 主なアシスタント経験者 == * [[五十嵐浩一]]<ref>日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P30</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:かんへ さくみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:さいたま市出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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きくち正太
きくち 正太(きくち しょうた、1961年1月8日 - )は、日本の漫画家。秋田県平鹿郡大森町(現・横手市)出身。 大学卒業後から1988年4月に、『獣王バイオ』にて『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)よりデビュー。 漫画家の中でも非常に珍しいガラスペン愛用者。デフォルメされた特徴的な絵により、色気とギャグ(時代遅れの親父ギャグを含む)、最近は「和」に対する傾倒と蘊蓄を前面に押し出した作風が特徴(ガラスペンを用いるようになったのはこの作画に適した描線を描くためである)。根底には「義理、人情、努力」などの古よりある価値観の存在が感じられる。釣りに対する思い入れが大きい。 2008年、『おせん』が蒼井優主演により日本テレビ系でテレビドラマ化された。きくちはそのあまりの出来の悪さにショックを受け、一時活動を休止したことを後に語っている。(作者にとって作品(ここでは「おせん」)は子供でありその子供が嫁に行き、幸せになれると思っていたらそれが実は身売りだった。と述べている。) 作者の嗜好のせいか、作品中に眼鏡をかけた大人の女性や少女が登場することが多い。『ブラック・ジャック』のカバー作品では、ヒロインのピノコまで眼鏡をかけている。 ギタリストとしても音楽活動を行なっており、Acoustic Instrumental Trio「あらかぷ」を結成し、東京都内のライブハウスに出演している。 きくちは美味しんぼや、美味しんぼの登場人物、海原雄山のモデルとなった北大路魯山人の影響を受けていて、「おせん」では丸のままではなくパック詰めされた鰹節の削り節を買う人がいるから売っているとおせんに言わせたり、調味料についても食べたい物の選択肢を用意し、ハンバーガーを選択した場合「異常です。」とし調味料はすべて処分した方が舌が正常になり味がわかるようになるとおせんの巻末のおまけページに書いている。 また、実生活では調理家電についてミキサーや電子レンジを処分した事をおまけページで明かしている。
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きくち 正太は、日本の漫画家。秋田県平鹿郡大森町(現・横手市)出身。
'''きくち 正太'''(きくち しょうた、[[1961年]][[1月8日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[秋田県]][[平鹿郡]][[大森町 (秋田県)|大森町]](現・[[横手市]])出身。 == 来歴 == [[大学]]卒業後から[[1988年]]4月に、『獣王バイオ』にて『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])よりデビュー<ref name="evening" /><ref name="shitumon" />。 == 人物 == {{複数の問題|section=1 |出典の明記=2015年12月28日 (月) 00:57 (UTC) |独自研究=2015年12月28日 (月) 00:57 (UTC) |言葉を濁さない=2015年12月28日 (月) 00:57 (UTC) }} 漫画家の中でも非常に珍しい[[ガラスペン]]愛用者<ref name="gentosha" /><ref name="shitumon" /><ref name="yomiuri" />。デフォルメされた特徴的な絵により、色気とギャグ(時代遅れの親父ギャグを含む)、最近は「和」に対する傾倒と蘊蓄を前面に押し出した作風が特徴(ガラスペンを用いるようになったのはこの作画に適した描線を描くためである)。根底には「義理、人情、努力」などの古よりある価値観の存在が{{誰2|date=2015年12月28日 (月) 00:57 (UTC)}}感じられる。釣りに対する思い入れが大きい。 [[2008年]]、『[[おせん]]』が[[蒼井優]]主演により[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系で[[テレビドラマ]]化された。きくちはそのあまりの出来の悪さにショックを受け、一時活動を休止したことを後に語っている。(作者にとって作品(ここでは「おせん」)は子供でありその子供が嫁に行き、幸せになれると思っていたらそれが実は身売りだった。と述べている。) 作者の嗜好のせいか、作品中に[[眼鏡]]をかけた大人の女性や少女が登場することが多い。『[[ブラック・ジャック]]』のカバー作品では、ヒロインのピノコまで[[眼鏡]]をかけている。 ギタリストとしても音楽活動を行なっており、Acoustic Instrumental Trio「あらかぷ」を結成し、東京都内のライブハウスに出演している<ref name="gentosha" />。 きくちは[[美味しんぼ]]や、美味しんぼの登場人物、海原雄山のモデルとなった[[北大路魯山人]]の影響を受けていて、「おせん」では丸のままではなくパック詰めされた[[鰹節]]の削り節を買う人がいるから売っているとおせんに言わせたり、[[調味料]]についても食べたい物の選択肢を用意し、ハンバーガーを選択した場合「異常です。」とし調味料はすべて処分した方が舌が正常になり味がわかるようになるとおせんの巻末のおまけページに書いている。 また、実生活では[[調理家電]]についてミキサーや電子レンジを処分した事をおまけページで明かしている。 == 作品リスト == * 獣王バイオ(1989年、秋田書店、『週刊少年チャンピオン』、全9巻) - デビュー作。この作品は『[[北斗の拳]]』を思わせる世紀末的な伝説世界を描いたもの。 * 三四郎<sup>2</sup>(さんしろうのじじょう)(1990年、秋田書店、『週刊少年チャンピオン』、全20巻) * [[そばっかす!]](1994年、秋田書店、『週刊少年チャンピオン』、全11巻) - 高校女子柔道を舞台にした[[スポ根]]マンガ。アニメ化の企画があり絵コンテも描かれていたが、実現しなかった。 * ブル田さん(原作:高橋三千綱、1997年、講談社、『モーニング』、全6巻) - 中断している作品。原作付きで、きくち本人の弁によれば「作画のみに専念した作品」。 * Rioの黒船丸!(2000年、ソニーマガジンズ、バーズコミックス、全1巻) - 導入部だけで未完になった作品。 * 太夫(だ・ゆう)(2000年、少年画報社、ヤングキングコミックス、全6巻) - 15歳の女子高校生にして色街の総元締めが主人公。 * ダキニの九魔(2001年、秋田書店、全2巻) - 足掛け数年に渡り間隔を開けて掲載され、ようやく2巻で完結。きくちの絵の変遷が判る作品。 * [[おせん]](2001年、講談社、『モーニング』、『イブニング』、全16巻) ** 一升庵大女将渡る世間にもの申す(2006年、講談社、『イブニング』、全2話) - おせんの[[スピンオフ]]作品。 * きりきり亭のぶら雲先生(2002年、幻冬舎、バーズコミックス、全9巻) ** 壺中堂二代目主人物語 天上の眼(2005年、幻冬舎、バーズコミックス、全1巻) - 『ぶら雲先生』の登場人物で、骨董屋・壺中堂の二代目、響幽庵を主人公にしたスピンオフ作品。 * 私のアイザック(2005年、少年画報社、ヤングキングコミックス、1巻) - 釣りをテーマにした話。作者自身が体験した釣りの話をモチーフにしている。 * おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ(2009年、講談社、『イブニング』、全11巻) * きりきり亭主人(2009年、日本文芸社、『[[別冊漫画ゴラク]]』、全2巻) * 俺たちのLASTWALTZ(2010年、日本文芸社、『別冊漫画ゴラク』2月号-、全14話、既刊1巻) * あたりまえのぜひたく(2015年、[[幻冬舎]]→[[幻冬舎コミックス]]、『幻冬舎plus』→『comicブースト』、既刊6巻) * 瑠璃と料理の王様と(2015年 - 2020年、講談社、『イブニング』、全13巻) * はなれのおねえさん(2018年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/292448|title=“はなれ”にやってきたのは、料理上手で世話焼きで、ちょっぴりエッチなお姉さん|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-07-24|accessdate=2022-03-24}}</ref> - 2022年、幻冬舎、『[[たそがれ食堂]]』vol.1<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/236852|title=土山しげる、きくち正太らのグルメマンガ集めた「たそがれ食堂」vol.1発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-06-15|accessdate=2022-03-24}}</ref> - 、バーズコミックス、全4巻) == 脚注 == {{Reflist|refs= <ref name="evening">[http://evening.moae.jp/lineup/241 おせん 真っ当を受け継ぎ繋ぐ] - イブニング公式</ref> <ref name="gentosha">{{Cite web|和書|url=https://www.gentosha.jp/article/2638/|title=あたりまえのぜひたく:第一話 そばといったらカレーそば。|publisher=[[幻冬舎]]|date=2014-10-05|accessdate=2015-12-28}} 著者紹介項の記述より。</ref> <ref name="shitumon">{{Cite web|和書|url=http://www.manga-gai.net/column/shitumon/shitumon_kikuchi.html|title=プロのマンガ家さんに聞く30の質問/きくち正太|publisher=漫画街|accessdate=2015-12-28}}</ref> <ref name="yomiuri">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20160106023330/http://www.yomiuri.co.jp/life/book/review/comic/20150609-OYT8T50428.html|title=本よみうり堂 書評 『あたりまえのぜひたく。』 きくち正太著|date=2015-05-07|accessdate=2015-12-28}}{{リンク切れ|date=2018年3月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref> }} == 関連項目 == * [[鬼頭莫宏]] - 元アシスタント。代表作は「なるたる」、「ぼくらの」など。 * 加藤亮 - 元アシスタント。代表作は「ヒトガタムシ」。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:きくち しようた}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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菊池としを
菊池 としを(きくち としを、1960年〈昭和35年〉7月23日 - )は、日本の漫画家。愛知県東海市出身。本名は菊池 俊夫 政岡としやのアシスタントを経て、1983年講談社『週刊少年マガジン』に「スリー・シックスティ」が掲載されデビュー。 初連載作品は1985年より同社の『マガジンSPECIAL』にて連載開始された『蓮華伝説アスラ』。以降1995年ごろまでは同社の『週刊少年マガジン』やその増刊号である『マガジンSPECIAL』など少年誌を中心に執筆。当時としては珍しく、PCを駆使した作画もしていた。 1995年より執筆の場を集英社の青年誌である『ビジネスジャンプ』に移し約2年間『天空の門』を連載。 新宗教幸福の科学に入会したことを公表しており、1992年から幸福の科学のグループ会社、幸福の科学出版発行の雑誌『ザ・リバティ』などに現在も作品を発表している。 蓮華伝説アスラや天空の門では少年漫画のような画風だったが現在は写実的な画風が多い。
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菊池 としをは、日本の漫画家。愛知県東海市出身。本名は菊池 俊夫
{{Infobox 漫画家 |名前=菊池 としを(きくち としを) |画像= |画像サイズ= |本名=菊池俊夫 |生年={{生年月日と年齢|1960|7|23}} |生地={{JPN}}[[愛知県]][[東海市]] |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1983年]] - |ジャンル=[[ストーリー漫画]] |代表作=『[[明王伝レイ]]』<br>『天空の門』<br>『蓮華伝説アスラ』 |受賞= |サイン= |公式サイト= }} '''菊池 としを'''(きくち としを、[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉7月23日<ref name="kikuchi">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 978-4-8169-1760-8、P119</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[愛知県]][[東海市]]出身<ref name="kikuchi" />。本名は'''菊池 俊夫'''<!-- 読み同じ --><ref name="kikuchi" /> == 概要 == [[政岡としや]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]<ref name="kikuchi" />を経て、[[1983年]][[講談社]]『[[週刊少年マガジン]]』に「スリー・シックスティ」が掲載されデビュー<ref name="kikuchi" />。 初連載作品は[[1985年]]より同社の『[[マガジンSPECIAL]]』にて連載開始された『蓮華伝説アスラ』。以降[[1995年]]ごろまでは同社の『週刊少年マガジン』やその増刊号である『マガジンSPECIAL』など[[少年誌]]を中心に執筆。当時としては珍しく、PCを駆使した作画もしていた。 [[1995年]]より執筆の場を[[集英社]]の青年誌である『[[ビジネスジャンプ]]』に移し約2年間『天空の門』を連載。 新宗教[[幸福の科学]]に入会したことを公表しており<ref>『[[FRIDAY (雑誌) ]]』 1991年7月26日号 58頁</ref>、1992年から[[幸福の科学]]のグループ会社、[[幸福の科学出版]]発行の雑誌『[[ザ・リバティ]]』などに現在も作品を発表している。 == 作品リスト == === 連載漫画 === * [[蓮華伝説アスラ]](1985年 - 1987年、『マガジンSPECIAL』、[[講談社]])全5巻 * [[明王伝レイ]](1988年 - 1993年、『週刊少年マガジン』→『マガジンSPECIAL』、講談社)全15巻 ※[[2000年]]に同社より新装版発行。 * 新士師記サムソン(1993年、『マガジンSPECIAL』、講談社) * YOH 光の抄(1993年 - 1994年、『マガジンSPECIAL』、講談社)全2巻 * 天空の門(1995年 - 1998年、『ビジネスジャンプ』、[[集英社]])全6巻 === 幸福の科学関連 === * マンガで見る幸福の科学1「天国の門」反省の章(1992年、幸福の科学出版) * マンガで見る幸福の科学4「幸福の道」(仕事)(1994年、幸福の科学出版) * 宗教的人格権裁判(1995年、幸福の科学出版)全1巻 * リアル・パニック(2010年 - 2012年1月 月刊誌「[[ザ・リバティ]]」幸福の科学出版) * 新 過去世物語(2016-月刊誌「ザ・リバティ」幸福の科学出版) == 画風 == 蓮華伝説アスラや天空の門では少年漫画のような画風だったが現在は写実的な画風が多い。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:きくち としを}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:幸福の科学の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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喜国雅彦
喜国 雅彦(きくに まさひこ、1958年10月17日 - )は、日本の漫画家。香川県高松市出身。香川県立坂出高等学校を経て多摩美術大学油絵学科卒業。妻は同じく漫画家の国樹由香。 高校時代に、萩尾望都やガロ系の漫画を読み、漫画家を志望する。多摩美術大学在学中、漫画研究会でしりあがり寿、祖父江慎、しゅりんぷ小林らと知り合う。 1981年風雅名義にて、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に「ふぉ~てぃん」が掲載されデビュー。しかしその後は作品が雑誌に掲載されることはなく、しりあがりらと多摩美OB何名かで同人誌を刊行したところ、他の漫画家の作品と間違われて編集者に評価され、本人はまったく描いたことがなかったギャグ4コマを描き、『ビッグコミックスピリッツ』増刊号に読み切り作品「大人は分かってくれない」で再デビューする。翌1987年より『週刊ヤングサンデー』(小学館)にて4コマ漫画『傷だらけの天使たち』を連載。一躍人気ギャグ漫画家となる(後にジャパンホームビデオよりアニメ化18話+実写化13話から成るビデオが発売される)。 1980年代末から1990年代初頭にかけて、『別冊近代麻雀』(竹書房)にて名作漫画をパロディにした麻雀漫画を多数発表。これもまた評判を呼び、『mahjong まんが王』『mahjong まんが大王』として出版された。 1989年にみうらじゅんなどと組んだバンド大島渚で、ベーシストとしてイカすバンド天国(TBS)に出場。その後、同バンドによる「カリフォルニアの青いバカ」でベストソング賞を受賞する。 1990年に竹書房から月刊誌風の単行本『YOUNGキクニ』が発売されて話題となった。 1994年に初の非ギャグ作品である『月光の囁き』が連載開始に。この作品は1999年に塩田明彦監督により実写映画化された。 以降、現在までギャグ漫画を中心に活動。近年は探偵小説の古書収集の趣味を生かしたマニアなエッセイも手がける。その趣味もあってか、新本格派ミステリー作家に友人が多く、本格ミステリ作家クラブ及び日本推理作家協会の会員でもある。綾辻行人、竹本健治、我孫子武丸など、ミステリ作品の装画や挿絵を多数手がけている。 2023年秋、自身の視力低下及び体調の衰えを原因とし、漫画家を引退することを発表。但し、BURRN!連載中の『ROCKOMANGA!2』のみ連載を継続。
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喜国 雅彦は、日本の漫画家。香川県高松市出身。香川県立坂出高等学校を経て多摩美術大学油絵学科卒業。妻は同じく漫画家の国樹由香。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 喜国 雅彦 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = [[1958年]][[10月17日]] | 生地 = [[香川県]][[高松市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]]・[[随筆家]] | 最終学歴  = [[多摩美術大学]]油画科卒業 | 活動期間 = <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成年向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = 第4回みうらじゅん親友漫画賞<br />第68回[[日本推理作家協会賞]] <br />第17回[[本格ミステリ大賞]] | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|http://www.example.org}}や[http://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''喜国 雅彦'''(きくに まさひこ、[[1958年]][[10月17日]]<ref name="kikuni">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P119-120</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[香川県]][[高松市]]出身<ref name="kikuni" />。[[香川県立坂出高等学校]]<ref>本人の [https://twitter.com/kunikikuni/status/145021521751056385 ツイッター] 発言による。</ref>を経て[[多摩美術大学]]油絵学科卒業<ref name="kikuni" />。妻は同じく漫画家の[[国樹由香]]。 == 来歴 == 高校時代に、[[萩尾望都]]や[[ガロ系]]の漫画を読み、漫画家を志望する<ref name=A>[[山田五郎]]対談集『20世紀少年白書』世界文化社より。</ref>。多摩美術大学在学中、漫画研究会で[[しりあがり寿]]、[[祖父江慎]]、しゅりんぷ小林らと知り合う。 [[1981年]]'''風雅<!-- かぜ・みやび -->'''名義にて、『[[週刊ヤングジャンプ]]』([[集英社]])に「ふぉ~てぃん」が掲載されデビュー<ref name="kikuni" />。しかしその後は作品が雑誌に掲載されることはなく、しりあがりらと多摩美OB何名かで同人誌を刊行したところ、他の漫画家の作品と間違われて編集者に評価され、本人はまったく描いたことがなかったギャグ4コマを描き、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』増刊号に読み切り作品「大人は分かってくれない」で再デビューする<ref name="kikuni" /><ref name=A/>。翌[[1987年]]より『[[週刊ヤングサンデー]]』([[小学館]])にて4コマ漫画『傷だらけの天使たち』を連載。一躍人気ギャグ漫画家となる(後にジャパンホームビデオよりアニメ化18話+実写化13話から成るビデオが発売される)。 [[1980年代]]末から[[1990年代]]初頭にかけて、『[[別冊近代麻雀]]』([[竹書房]])にて名作漫画を[[パロディ]]にした麻雀漫画を多数発表。これもまた評判を呼び、『mahjong まんが王』『mahjong まんが大王』として出版された。 [[1989年]]に[[みうらじゅん]]などと組んだバンド[[大島渚 (バンド)|大島渚]]で、ベーシストとして[[イカすバンド天国]]([[TBSテレビ|TBS]])に出場。その後、同バンドによる「カリフォルニアの青いバカ」でベストソング賞を受賞する。 [[1990年]]に竹書房から月刊誌風の単行本『YOUNGキクニ』が発売されて話題となった。 [[1994年]]に初の非ギャグ作品である『月光の囁き』が連載開始に。この作品は[[1999年]]に[[塩田明彦]]監督により実写映画化された。 以降、現在まで[[ギャグ漫画]]を中心に活動。近年は[[推理小説|探偵小説]]の古書収集の趣味を生かしたマニアな[[随筆|エッセイ]]も手がける。その趣味もあってか、[[新本格派ミステリー作家]]に友人が多く、[[本格ミステリ作家クラブ]]及び[[日本推理作家協会]]の会員でもある。[[綾辻行人]]、[[竹本健治]]、[[我孫子武丸]]など、ミステリ作品の装画や挿絵を多数手がけている。 2023年秋、自身の視力低下及び体調の衰えを原因とし、漫画家を引退することを発表。但し、[[BURRN!]]連載中の『ROCKOMANGA!2』のみ連載を継続。 == 人物 == *一人っ子。 *酒は全く飲めない。 *『[[日本一の男の魂]]』の企画がきっかけで[[マラソン]]が趣味になり、[[東京マラソン]]にも参加している。ただし、本人によると走る事に関しては体に良くないが心の健康管理であるとコメントしている<ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20100909/enn1009091559007-n2.htm 【元気のヒミツ】「体に良くない」マラソンで心の健康管理 漫画家・喜国雅彦さん] ZAKZAK 2010年9月9日</ref>。 *『傷だらけの天使たち』などの初期作品では、自分が[[陰茎|短小]]であることを時折、自虐的にネタにしていた。 *下着はビキニパンツ派で派手なデザインのものしか持っていなかったが、緊急入院の際に恥ずかしい思いをしたことをきっかけにボクサーパンツ派になった<ref>『この花はわたしです。』第一巻に収録されている『作者急病のため休載します。』より。なお、ヘヴィメタル雑誌『BURRN!』の『ROCKOMANGA!』でも、同様のネタを国樹が代筆している。</ref>。 *[[東日本大震災]]のボランティア活動をしている。それについてまとめたエッセイ『シンヂ、僕はどこに行ったらええんや』が2012年に双葉社から発売された。 === 音楽関連 === *夫婦揃って[[ヘヴィメタル]]ファン(特に[[モトリー・クルー]]のファン)であり、『[[BURRN!]]』誌で1989年1月号から2012年5月号まで23年間に渡り『ROCKOMANGA!』という6コマ漫画を連載。連載終了後の2013年、諸事情により出版社を[[リットー・ミュージック]]に変更し、新作の描き下ろしを含めた単行本(全1巻)が発売された。 :『BURRN!』2014年4月号より『ROCKOMANGA!2』として復活。『ROCKOMANGA!』は縦方向に6コマだったが、『2』は3コマずつの横方向にコマが進んでいる。 *『ROCKOMANGA!』では、[[Wikipedia]]に嘘やでたらめが書かれることに対する批判のネタを描いていた<ref>「ROCKOMANGA!」197p (BURRN! 2007年10月号掲載分)。尚、喜国は単行本の中で当項目についても触れている。</ref> *[[ZIGGY]]のメンバーとはインディーズ時代からの古い付き合いでもある。 *[[2011年]]には[[氣志團]]のツアーTシャツイラストを担当<ref>[http://inufun.sblo.jp/archives/20111105-1.html 氣志團VS森重樹一] 犬ふんランニング日記 2011年11月5日</ref>。 *「大島渚」活動休止後も不定期ではあるが音楽活動を続けており、2010年代には元[[REACTION (バンド)|REACTION]]の反町哲之や[[AURA (ロックバンド)|AURA]]のKoREDSらによる[[吉田拓郎]]のトリビュートバンド「マサ拓Z」、アコギユニット「和WarlucK樂」でライブを。親交のあるメタルバンドのイベントで歌うこともある。 *2019年9月に開催された氣志團万博の2日目に大島渚で出演。オリジナルメンバーはみうらじゅんと喜国のみ。サポートに[[安斎肇|安齋肇]]、[[山田五郎]]、[[古田たかし]]、[[和嶋慎治]]([[人間椅子 (バンド)|人間椅子]])を呼び、平成元年のバンドが令和元年に復活を果たした。 == 受賞歴 == ;1997年 :第4回[[みうらじゅん]]親友漫画賞 ;2015年 :第68回[[日本推理作家協会賞]](評論その他の部門) - 『本棚探偵最後の挨拶』(双葉社)<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.mystery.or.jp/prize/detail/10683 |title= 2015年 第68回 日本推理作家協会賞 |publisher= 日本推理作家協会 |accessdate= 2018-02-18 }}</ref> ;2017年 :第17回[[本格ミステリ大賞]](評論・研究部門) - 『本格力 本棚探偵のミステリ・ブックガイド』(国樹由香との共著。講談社)<ref>{{Cite web|和書|url= http://honkaku.com/taishou.html#pageLink01 |title= 2017年度 第17回本格ミステリ大賞 |publisher= 本格ミステリ作家クラブ |accessdate= 2018-02-18 }}</ref> == 作品リスト == === 漫画・書籍 === * 傷だらけの天使たち * 弱気なバッド・ボーイズ * mahjong まんが王 * mahjong まんが大王 * よりぬきキクニさん * [[三丁目防衛軍]] * [[いつも心に太陽を!]] * 天国の悪戯 * [[月光の囁き]] * 悪魔のうたたね * [[日本一の男の魂]] * くり+かの([[国樹由香]]作画) * この花はわたしです。([[国樹由香]]作画) * 少年マンガ画報([[高取英]]との共著) * ROCKOMANGA!(ヘヴィメタル雑誌『[[BURRN!]]』で連載) ** ROCKOMANGA!2 * 本棚探偵の冒険(エッセイ) * 本棚探偵の回想(エッセイ) * 本棚探偵の生還(エッセイ) * 本棚探偵最後の挨拶(エッセイ) * メフィストの漫画([[国樹由香]]との共著) * 魔Qケン→魔Qケン乙 * [[色即ぜねれいしょん]]([[みうらじゅん]]原作) * 東京マラソンを走りたい(エッセイ) * シンヂ、僕はどこに行ったらええんや(エッセイ) * キクニの旅ラン 走りたおすぜJAPAN! * 冷馬記 HIYAUMAKI([[山上たつひこ]]原作) * 本格力 本棚探偵のミステリ・ブックガイド(評論)([[国樹由香]]との共著) *今宵は誰と─小説の中の女たち─ === アルバムジャケット === * 『アイデン&ティティ』大島渚(1991年) * 『日本一の男の魂 オリジナルサウンドトラック』(1999年) * 『JAPANESE HEAVY METAL TRIBUTE 魂』オムニバス(2000年) * 『JAPANESE HEAVY METAL TRIBUTE 魂II』オムニバス(2002年) * 『STAND PROUD 3』オムニバス(2002年) * 『Moth in Lilac』Moth in Lilac(2014年) * 『M.i.L.』Moth in Lilac(2016年) * 『RE-ARISE II』RE-ARISE(2016年) * 『GRACE THROUGH INSANITY』RAZOR HIGHWAY(2019年) === その他 === * 『史上最大の作戦』中山加奈子CDプロモビデオ(1995年)*背景に作品使用 * 『地獄のアロハ』【完全限定生産盤】筋肉少女帯人間椅子(2015年)*封入冊子の表紙イラスト、漫画 * 新本格30周年のシンボルイラスト(2017年) === 映像化、CD化作品 === * 傷だらけの天使たち(1990年にビデオ化)アニメ、実写 * 三丁目防衛軍(1994年にCD化)CDドラマ * 日本一の男の魂(1999年にTBS「ワンダフル」枠で放送)アニメ→オリジナルサウンドトラック(1999年) * いつも心に太陽を!(1999年にTBS「ワンダフル」枠で放送)アニメ * 月光の囁き(1999年に映画化され、2000年にビデオ化)実写 * 月光の囁き ディレクターズカット版(2003年DVD化)*特典映像の座談会に喜国も出演 === ゲーム === * インディアンジェスチャー(カードゲーム/やのまん/1988年)アイデア、イラスト * 喜国雅彦の雀闘士銅鑼王(スーパーファミコン/POW/1993年)キャラクター設定 * 喜国雅彦の雀闘士銅鑼王2(スーパーファミコン/POW/1993年)キャラクター設定 * 笑う婦警さん パチスロハンター(プレイステーション/HUMAN/1994年)キャラクター設定、絵コンテ == 出演 == === 舞台 === * 夜の手塚治虫〜ここでしか語れない、黒くて妖しいオサムのこと。(2018年10月12日、[[吉祥寺シアター]]) - 手塚の臨時アシスタント・喜国雅彦役<ref>{{Cite web|title=Kichijoji Anime wonderland 19th|url=http://www.kichifes.jp/wonderland/event/yoru.html|website=www.kichifes.jp|accessdate=2019-07-17}}</ref> == 脚注 == {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[高見まこ]] - 高見の元アシスタント * [[守村大]] - 守村の元アシスタント * [[古屋兎丸]] - 多摩美出身漫画家 * [[国樹由香]] == 外部リンク == *{{twitter|kunikikuni|喜国雅彦&国樹由香}} *[https://www.instagram.com/kunikikuni/ 喜国雅彦&国樹由香](インスタグラム) *[https://kunikikuni.jimdo.com/ こたくんといっしょ](喜国夫妻公式HP) *[https://web.archive.org/web/20180329053017/http://inufun.sblo.jp/ 犬ふんランニング日記](喜国雅彦公式ブログ) *[http://www.webasta.jp/serial/talk/01.php WEB asta]『全員少年探偵団』刊行記念対談(喜国雅彦 × 藤谷治) * {{マンガ図書館Z作家|2928|喜国雅彦}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:きくに まさひこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:20世紀日本の随筆家]] [[Category:21世紀日本の随筆家]] [[Category:日本の蔵書家]] [[Category:ミステリに関連する人物]] [[Category:日本推理作家協会賞受賞者]] [[Category:本格ミステリ大賞受賞者]] [[Category:みうらじゅん賞受賞者]] [[Category:芸術学士取得者]] [[Category:多摩美術大学出身の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:ファンダムに関連する人物]]
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北崎拓
北崎 拓(きたざき たく、本名同じ、1966年7月27日 - )は、日本の漫画家。兵庫県芦屋市出身。男性。血液型はAB型。 漫画家としてデビューする前は、「北崎ひろみ」「北崎拓美」のペンネームで、『月刊ホビージャパン』『模型情報』の読者投稿欄にイラストを投稿していた。
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北崎 拓は、日本の漫画家。兵庫県芦屋市出身。男性。血液型はAB型。
{{存命人物の出典明記|date=2012年9月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 北崎拓 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 同じ | 生地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[芦屋市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1966|7|27}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1984年]] - | ジャンル = [[ラブコメ]] [[時代劇]] [[少年漫画]] [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[なぎさMe公認]]』<br/>『[[ますらお -秘本義経記-]]』など | 受賞 = | 公式サイト = }} '''北崎 拓'''(きたざき たく、本名同じ<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、122頁</ref>、[[1966年]][[7月27日]]<ref name="mangaseek" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]][[芦屋市]]出身。男性<ref name="mangaseek" />。[[ABO式血液型|血液型]]はAB型<ref name="mangaseek" />。 == 人物 == 漫画家としてデビューする前は、「北崎ひろみ」「北崎拓美」のペンネームで、『[[月刊ホビージャパン]]』『[[模型情報]]』の読者投稿欄にイラストを投稿していた。 == 作品 == * 英雄行進曲(『[[少年ビッグコミック]]』1984年) * 空色み〜な(『[[少年ビッグコミック]]』1985年16号 - 1987年6号(最終号)) * [[スパイラルゾーン|バトルスコーピオンK]](『[[模型情報]]』1986年8月号 - 12月号) ※「北崎拓美」名義 * ヒーロー志願(『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』1987年1号(創刊号) - 1988年6号) * [[望郷戦士|望郷戦士(ティアフルソルジャー)]](『[[週刊少年サンデー]]』1988年38号 - 1989年51号) * [[エンゼルコップ|エンジェル・コップ]](『[[月刊ニュータイプ]]』1989年6月号 - 9月号) * [[たとえばこんなラヴ・ソング]](『週刊少年サンデー』1990年28号 - 1991年50号) * [[ふ・た・り]](『週刊少年サンデー』1992年18号 - 1993年43号) * [[ますらお -秘本義経記-]]シリーズ ** ますらお -秘本義経記-(『週刊少年サンデー』1994年14号 - 1996年3・4合併号) ** ますらお 秘本義経記 大姫哀想歌(『[[ヤングキングアワーズ]]』2014年2月号 - 2014年6月号) ** ますらお 秘本義経記 〜波弦、屋島〜(『ヤングキングアワーズ』2015年2月号 - 2022年1月号) * [[なぎさMe公認]](『週刊少年サンデー』1996年16号 - 1999年34号) * タイムスキップ真央ちゃん(『[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]』2000年3月号 - 『小学六年生』2001年2・3月合併号) * [[なんてっ探偵アイドル|なんてっ探偵♥アイドル]](原案協力:[[井上敏樹]])(『[[週刊ヤングサンデー]]』2000年28号 - 2004年34号) * [[クピドの悪戯]]シリーズ ** [[クピドの悪戯 虹玉|虹玉]](『週刊ヤングサンデー』2004年42号 - 2006年18号) ** [[さくらんぼシンドローム クピドの悪戯II|さくらんぼシンドローム]](『週刊ヤングサンデー』2006年34号 - 2008年35号(休刊号)、『[[週刊ヤングサンデー#YSスペシャル|YSスペシャル]]』2008年1号 - 2009年5号) ** [[オレ×ヨメ クピドの悪戯#オレ×ヨメ|オレ×ヨメ]](『[[ビッグコミックスピリッツ]]』2009年1号 - 2009年3号) ** [[オレ×ヨメ クピドの悪戯#逆襲のオレ×ヨメ|逆襲のオレ×ヨメ]](『[[月刊!スピリッツ]]』2009年10月号 - 12月号) ** [[このSを、見よ! クピドの悪戯]](『ビッグコミックスピリッツ』2009年42号 - 2013年20号) ** [[クピドの悪戯 惑いのレイコ]](『[[月刊ヤングキングアワーズGH]]』2017年9月号 - 2019年2月号) ** [[秘匿夫婦〜クピドの悪戯〜]](『[[週刊漫画ゴラク]]』No.2788 - 連載中) * 天そぞろ(原作:[[あかほりさとる|あかほり悟]]、協力:[[堀口茉純]])(『ビッグコミックスピリッツ』2015年24号 - 2016年37・38合併号) * 月に溺れるかぐや姫〜あなたのもとへ還る前に〜(『[[サンデーうぇぶり]]』(夜サンデー)2019年2月8日 - 2020年12月25日) * テレビアニメ『[[蒼き鋼のアルペジオ|蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-]]』(再放送版・第2話エンドカード) == 関連人物 == * [[曽田正人]] - 元アシスタント<ref>[http://twitter.com/sodamasahito/status/16122817225428993 曽田のツイッターでの発言より]</ref> * [[乃木坂太郎]] - 元アシスタント<ref>[http://jac.1616bbs.com/bbs/jac_tree_p_15893.html ビッグコミックスピリッツ北崎拓先生新連載アシスタント募集]</ref> * [[加藤元浩]] - 元アシスタント<ref>『[[Q.E.D. 証明終了]]』単行本34巻、カバー折り返しのコメントで師匠・北崎拓について回想している。</ref> * [[本名ワコウ]] - 元アシスタント == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://takukitazaki.blog109.fc2.com/ クピドの裏側(出張版)] * {{Twitter|takukitazaki}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:きたさき たく}} {{Normdaten}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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衣谷遊
衣谷 遊(きぬたに ゆう、本名:池本裕治、1962年 - )は、日本の漫画家。愛媛県北宇和郡松野町出身。
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衣谷 遊は、日本の漫画家。愛媛県北宇和郡松野町出身。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2014年4月16日 (水) 18:19 (UTC) |特筆性=2014年4月16日 (水) 18:19 (UTC)}} '''衣谷 遊'''(きぬたに ゆう、本名:'''池本裕治'''、[[1962年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[愛媛県]][[北宇和郡]][[松野町]]出身。 == 作品リスト == === 漫画作品 === <!--現状のリストは順不同--> * [[ALCBANE]](原作:[[たかしげ宙]]、メカデザイン:[[福地仁]]、「[[ヒーロークロスライン]]」連載、全3巻) * [[デビルマン#派生漫画作品|AMON デビルマン黙示録]](原作:[[永井豪]]、[[講談社]]「[[月刊マガジンZ]]」連載、全6巻) * [[聖戦士ダンバイン#漫画|聖戦士ダンバイン異伝 エグザイル・サーガ 銀竜の章]]([[バンダイ]]「[[サイバーコミックス]]」連載、全1巻) * エンジェルアーム(「エンジェルパラダイム」改題。[[角川書店]]「[[コミックコンプ]]」→[[メディアワークス]]「[[電撃コミックガオ!]]」連載、全7巻) * 極東奇譚(講談社「月刊マガジンZ」連載、全3巻) * 懲りないロンリーボーイズ(全1巻) * [[JAJA姫武勇伝]](原作:[[中村うさぎ]]、メディアワークス「電撃コミックガオ!」連載、全3巻) * [[スチームボーイ]](原作:[[大友克洋]]、講談社「月刊マガジンZ」連載、全2巻) * [[デビルマン#派生漫画作品|デビルマン黙示録 STRANGE DAYS]](原作:永井豪、講談社「月刊マガジンZ」連載、全1巻) * 白龍(原作:[[和田慎二]]、[[学習研究社]]「[[コミックNORA]]」連載、全3巻) * Shion―漂泊の抒情詩人シリーズ([[東京三世社]]、全3巻) ** Shion(新装版)([[東京エディターズ]]、全1巻) * [[ファイナルファンタジーIII#漫画|悠久の風伝説 ファイナルファンタジーIIIより]](原作:[[寺田憲史]]、角川書店「[[マル勝ファミコン]]」連載、全3巻) * ラッキーラクーン([[エニックス]]「[[月刊Gファンタジー]]」連載、全2巻) * [[リヴァイアサン (漫画)|リヴァイアサン]](原作:[[大塚英志]]、メディアワークス「電撃コミックガオ!」連載、全12巻) * レイラ&レイ(メディアワークス「電撃コミックガオ!」連載、全3巻) * [[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX#コミック版|攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX]](<!--原作:[[士郎正宗]]、-->講談社「[[週刊ヤングマガジン]]」→同「[[月刊ヤングマガジン]]」連載、全5巻) * 衣谷遊作品集 ジャンゴ([[学習研究社]]、全1巻、短編集) * [[攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX#コミック版|攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX 〜The Laughing Man〜]](<!--原作:[[士郎正宗]]、-->[[ディー・エヌ・エー|DeNA]]「[[マンガボックス]]」連載、全4巻) * [[バイオレンスジャック|バイオレンスジャック20XX]](原作:永井豪、講談社「月刊ヤングマガジン」連載、全4巻) === イラスト他 === * [[タイム・リープ あしたはきのう]](著者:[[高畑京一郎]]、メディアワークス、表紙イラスト) * Y's art works 衣谷遊画集(メディアワークス、2006年、ISBN 978-4840233309) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:きぬたに ゆう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:愛媛県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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九月乃梨子
九月 乃梨子(くがつ のりこ、1964年9月5日 - )は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。主に少女漫画などを執筆していた。 水樹和佳のアシスタントを経て、1987年集英社の少女向け漫画誌『ぶ〜け』の「Monotone」にてデビュー。以降、1993年まで同誌を中心に執筆していた。1995年頃より、祥伝社の女性向け雑誌である『FEEL YOUNG』に移籍し作品を執筆していた。代表作は、『ぶ〜け』にて6年連載されたマイペースで天真爛漫な短大生(のちにOL)庭子とそのボーイフレンド山本くんとのコメディー「まぬけんぼう庭子の記録『...点点点』」。九月っちゃんの愛称で作品内にて本人もしばしば登場し、担当者との旅行エッセイ記録漫画も多数収録されている。
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九月 乃梨子は、日本の漫画家。千葉県千葉市出身。主に少女漫画などを執筆していた。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 九月 乃梨子(くがつ のりこ) |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1964|9|5}} |生地 = {{JPN}}[[千葉県]][[千葉市]] |没年 = |没地 = |血液型 = B |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1987年]] - |ジャンル = [[少女漫画]] |代表作 = 『…点点点』全10巻 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''九月 乃梨子'''(くがつ のりこ、[[1964年]][[9月5日]]<ref name="aa">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P129</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[千葉県]][[千葉市]]出身<ref name="aa" />。主に[[少女漫画]]などを執筆していた。 == 概要 == [[水樹和佳]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]<ref name="aa" />を経て、[[1987年]][[集英社]]の少女向け漫画誌『[[ぶ〜け]]』の「Monotone」にてデビュー<ref name="aa" />。以降、[[1993年]]まで同誌を中心に執筆していた。[[1995年]]頃より、[[祥伝社]]の女性向け雑誌である『[[FEEL YOUNG]]』に移籍し作品を執筆していた。代表作は、『ぶ〜け』にて6年連載されたマイペースで天真爛漫な短大生(のちにOL)庭子とそのボーイフレンド山本くんとのコメディー「まぬけんぼう庭子の記録『…点点点』」。'''九月っちゃん'''の愛称で作品内にて本人もしばしば登場し、担当者との旅行エッセイ記録漫画も多数収録されている。 == 作品リスト == === 単行本リスト === * まぬけんぼう庭子の記録「…点点点」(ぶ〜け、集英社)全10巻 *# ISBN 9784088601663(1988年12月) *# ISBN 9784088601755(1989年5月) *# ISBN 9784088602004(1990年3月) *# ISBN 9784088602219(1990年10月) *# ISBN 9784088602486(1991年8月) *# ISBN 9784088602677(1992年4月) *# ISBN 9784088602875(1993年1月) *# ISBN 9784088603155(1993年10月) *# ISBN 9784088603278(1994年2月) *# ISBN 9784088603476(1994年9月) * ちびさん(FEEL YOUNG、祥伝社)全1巻 *# ISBN 9784396761547(1996年8月) === 主な単行本未収録作品 === * 人生笑えば楽しいさ(ぶ〜け) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:くかつ のりこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:千葉市出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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743
くじらいいく子
くじらい いく子(くじらい いくこ、1958年3月20日 - )は、日本の漫画家。東京都新宿区出身。女性。青年漫画誌を中心に作品を発表している。 中学のときから漫画を描き始める。その後、OLとして会社に勤めていたが、1978年『タナーのねこのたなた』(『ちゃお』)でデビュー。ペンネームは漢字だったが、雑誌掲載時にひらがなにされていたという。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "くじらい いく子(くじらい いくこ、1958年3月20日 - )は、日本の漫画家。東京都新宿区出身。女性。青年漫画誌を中心に作品を発表している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "中学のときから漫画を描き始める。その後、OLとして会社に勤めていたが、1978年『タナーのねこのたなた』(『ちゃお』)でデビュー。ペンネームは漢字だったが、雑誌掲載時にひらがなにされていたという。", "title": null } ]
くじらい いく子は、日本の漫画家。東京都新宿区出身。女性。青年漫画誌を中心に作品を発表している。 中学のときから漫画を描き始める。その後、OLとして会社に勤めていたが、1978年『タナーのねこのたなた』(『ちゃお』)でデビュー。ペンネームは漢字だったが、雑誌掲載時にひらがなにされていたという。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = くじらい いく子 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|3|20}} | 没年 = | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1978年]] - | 代表作 = 『[[マドンナ (漫画)|マドンナ]]』 | 受賞 = | 公式サイト = [https://ameblo.jp/kujirai-ikuko/ 公式ブログ] }} '''くじらい いく子'''(くじらい いくこ、[[1958年]][[3月20日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[新宿区]]出身。女性。[[青年漫画]]誌を中心に作品を発表している。 中学のときから漫画を描き始める。その後、OLとして会社に勤めていたが、[[1978年]]『タナーのねこのたなた』(『[[ちゃお]]』)でデビュー。ペンネームは漢字だったが、雑誌掲載時にひらがなにされていたという。 == 作品リスト == * こんちくしょうブルース(全1巻) * ブルー・ジーン([[1986年]]、[[ビッグコミックスピリッツ]]、[[小学館]]、全3巻) * [[マドンナ (漫画)|マドンナ]]([[1987年]] - [[1992年]]、ビッグコミックスピリッツ、小学館、全22巻、文庫版:[[2000年]]、[[中央公論新社]]、全7巻) ** [[冨永みーな]]主演で[[OVA]](オリジナルビデオアニメ)化された。 * よそのねこ(原作:[[岡本螢]]、挿絵担当、全1巻) * おんなのこたち倶楽部([[1989年]]、[[月刊Asuka|あすか]]、[[角川書店]]、全1巻) * 南国カンカン娘(1989年、角川書店) * 東京ドドンパ・ママ([[1990年]]、角川書店、短編集、全1巻) * あったしまえブルース(1990年、角川書店、全1巻) * 洗いざらしのシンデレラ(1990年、角川書店、全1巻) * シーサイド・ドキドキ(1990年、角川書店、全1巻) * TOKYOばあじん(1990年、角川書店、全1巻) * 長袖のアロハ(1990年、角川書店、全1巻) * NEW・おんなのこたち倶楽部([[1991年]]、角川書店) * ショウ!([[1993年]]、ビッグコミックスピリッツ、小学館、全4巻) * [[守ってあげたい!]]([[1994年]] - [[1995年]]、[[週刊ヤングサンデー]]、小学館、全4巻) * [[アイスマン (漫画)|アイスマン]](『週刊ヤングサンデー』[[1996年]] 14号 - [[1997年]]10号、小学館、全4巻) * 江の島女子高ラグビー部!!(1996年、[[週刊ヤングマガジン]]、[[講談社]]、全1巻) * 湘南ゲンジロー([[1998年]] - [[1999年]]、[[文藝春秋]] 全3巻) * 新宿ギョインバット(1999年、[[ビッグゴールド]]、小学館、全1巻) * ラグビーに乾杯!(原作:[[森本優子]]、全1巻) * 早乙女タイフーン([[2001年]] - [[2002年]]、ビッグコミックスピリッツ、小学館、全2巻) * エガオを見せて([[2003年]]、[[集英社]]) * 欲望セブンティーン(原作:[[小原信治]]、2003年、[[ビッグコミックスペリオール]]、小学館、全1巻) * 愛じゃん〜風まかせ雀荘横恋慕〜([[2006年]]、[[近代麻雀オリジナル]]、[[竹書房]]) * 花もキミを見てる(全1巻) * [[象の背中]](原作:[[秋元康]]、[[2007年]]、[[週刊コミックバンチ]]、[[新潮社]]、全2巻) * リリコイ恋愛内科([[ビッグコミックオリジナル増刊]]、小学館、全2巻) * ハッピーねこまんが コマサですっ!([[朝日新聞出版]]、全1巻) * いとしのタンバリン(ビッグコミックオリジナル増刊、小学館、全3巻) * 薔薇とブラックパンツ([[Beaglee]]、既刊1巻) * [[ぜつぼうごはん]](ビッグコミックオリジナル増刊、小学館、既刊1巻) == アシスタント == * [[山本英夫]]<ref>山本英夫『のぞき屋』〈小学館文庫〉小学館</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * [http://kujiraiikuko.com/ くじらいいく子 OFFICIAL] - 公式サイト * [https://ameblo.jp/kujirai-ikuko/ くじらいいく子 オフィシャルブログ 「クジラのキモチ」 Powered by Ameba] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:くしらい いくこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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楠桂
楠 桂(くすのき けい、本名:大橋真弓、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。愛知県丹羽郡岩倉町(現・岩倉市)出身・在住。同じく漫画家の大橋薫とは一卵性双生児の姉妹で、自身はその妹。代表作に『八神くんの家庭の事情』、『鬼切丸』など。 小学3年生の頃より漫画を描き始め、中学3年生の頃よりペンを使いはじめる。1981年に15歳で集英社の第14回りぼん新人漫画賞で準入選を受賞する。その後「何かが彼女にとりついた?」でデビュー。集英社、新書館、ラポートなどで活躍するが、徐々に活動ジャンルを少年誌・ヤング誌に移す。 既婚で娘と息子がいる。これら家族のエピソードはエッセイ本として刊行されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "楠 桂(くすのき けい、本名:大橋真弓、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。愛知県丹羽郡岩倉町(現・岩倉市)出身・在住。同じく漫画家の大橋薫とは一卵性双生児の姉妹で、自身はその妹。代表作に『八神くんの家庭の事情』、『鬼切丸』など。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "小学3年生の頃より漫画を描き始め、中学3年生の頃よりペンを使いはじめる。1981年に15歳で集英社の第14回りぼん新人漫画賞で準入選を受賞する。その後「何かが彼女にとりついた?」でデビュー。集英社、新書館、ラポートなどで活躍するが、徐々に活動ジャンルを少年誌・ヤング誌に移す。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "既婚で娘と息子がいる。これら家族のエピソードはエッセイ本として刊行されている。", "title": null } ]
楠 桂は、日本の漫画家。愛知県丹羽郡岩倉町(現・岩倉市)出身・在住。同じく漫画家の大橋薫とは一卵性双生児の姉妹で、自身はその妹。代表作に『八神くんの家庭の事情』、『鬼切丸』など。 小学3年生の頃より漫画を描き始め、中学3年生の頃よりペンを使いはじめる。1981年に15歳で集英社の第14回りぼん新人漫画賞で準入選を受賞する。その後「何かが彼女にとりついた?」でデビュー。集英社、新書館、ラポートなどで活躍するが、徐々に活動ジャンルを少年誌・ヤング誌に移す。 既婚で娘と息子がいる。これら家族のエピソードはエッセイ本として刊行されている。
'''楠 桂'''(くすのき けい、本名:大橋真弓<ref name="k2">{{Cite web|和書 |author=楠桂 |coauthors=大橋薫 |date=不明 |url=http://www.ngy1.1st.ne.jp/~k2office/profm.html |title=プロフィール 真弓 |work=[http://www.ngy1.1st.ne.jp/~k2office/ K2OFFICE] |accessdate=2009-03-04 }}</ref>、[[1966年]]<ref name="7tsubu">[[一条ゆかり]]・編『りぼん新人まんが傑作選【1】7つぶの宝石』集英社〈[[りぼんマスコットコミックス]]〉1984年11月15日第3刷発行、28頁</ref>[[3月24日]]<ref name="k2" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[愛知県]][[丹羽郡]]岩倉町(現・[[岩倉市]])出身・在住<ref name="k2" />。同じく漫画家の[[大橋薫]]とは一卵性双生児の姉妹で、自身はその妹<ref>{{Cite web|和書 |date=不明 |url=http://websunday.net/gx/sakuhin/kusunoki.html |title=GX作家&作品紹介 |work=[https://sundaygx.com/ サンデーGENE-X] |publisher=[[小学館]] |accessdate=2009-03-04 }}</ref>。代表作に『[[八神くんの家庭の事情]]』、『[[鬼切丸 (漫画)|鬼切丸]]』など。 小学3年生の頃より漫画を描き始め、中学3年生の頃より[[つけペン|ペン]]を使いはじめる<ref name="7tsubu" />。[[1981年]]に15歳で[[集英社]]の第14回[[りぼん]]新人漫画賞で準入選を受賞する<ref name="7tsubu" />。その後「何かが彼女にとりついた?」でデビュー<ref name="k2" />。集英社、新書館、ラポートなどで活躍するが、徐々に活動ジャンルを少年誌・ヤング誌に移す。 既婚で娘<ref>{{Cite web |author=楠桂 |date=2008-08-01 |url=http://k2office.blog62.fc2.com/blog-entry-54.html |title=怪!! |work=[http://k2office.blog62.fc2.com/ k2オフィス楠桂] |accessdate=2009-03-04 }}</ref>と息子<ref>{{Cite web|和書 |author=楠桂 |date=2008-07-02 |url=http://k2office.blog62.fc2.com/blog-entry-52.html |title=遅れてハッピーバースディ |work=[http://k2office.blog62.fc2.com/ k2オフィス楠桂] |accessdate=2009-03-04 }}</ref>がいる。これら家族のエピソードはエッセイ本として刊行されている。 == 作品リスト(あいうえお順) == * 愛はかく語りき 全2巻 * [[あくまでラブコメ]] 全4巻 * Unな彼女 全3巻 * 古祭 全1巻 * イノセントW 全3巻 * 運命の夜(原作:サラ・クレイヴン<ref>{{Cite web|和書|url=https://harpercollins.co.jp/hqc/books/detail/14148|title=運命の夜|publisher=ハーレクイン|accessdate=2022-01-11}}</ref>)全1巻 * etc. エトセトラ * 大江戸てやんでい!! * 恐ろし語り 全1巻 * 乙女怪談〜化学室の花子さん〜 * [[鬼切丸 (漫画)|鬼切丸]] 全20巻 ** 鬼切丸伝 既刊18巻(2023年11月現在) * 鬼魔 * おれのキングダム 全12巻 * おれん家フォークロア 既刊2巻(2021年8月現在) * [[ガールズザウルス]] 全3巻 ** ガールズザウルスDX(『[[月刊サンデージェネックス]]』へ連載移籍後)全10巻 * 神の名は 日の本神話異聞 全3巻 * 楠桂傑作集 あっぱれこま姫 * 楠劇場 * CRIME CITY * ケダモノの唄 全2巻 * 恋してフローズン 全1巻 * 恋弔い * 獄炎堂 * ごめんなさいこ・ぱわあ 全1巻 * サーカス・ワンダー 全1巻 * SI-SE-N〜死線〜 * 週番規則厳守せよ * 続愛はかく語りき * 人狼草紙 * [[大都会にほえろ]] 全9巻 * たとえばこんな幽霊奇談 全1巻 * Dの封印 * デッドリー・カーニバル * トワイライトチャンネル(週刊少年サンデー平成4年13号-14号及び増刊号7月号-9月号、「鬼切丸」5巻-7巻に収録) * どっかんLOVE 全1巻 * どんまいプリンセス * 幕末平成KID 新撰組妖奇譚 全1巻 * [[BITTER VIRGIN]] 全4巻 * ぶちかまし眠り姫 全1巻 * ぷち.はね * ぼくの学校は戦場だった 全1巻 * ホラーのおすすめ * みぎこ日本一!! 全1巻 * もののけ☆ちんかも 全1巻 * 桃太郎まいる! 全1巻 * モンスターの大好物(小学五年生・平成7年9月号、「鬼切丸」8巻収録) * 八百万討神伝 神GAKARI 全4巻 * [[八神くんの家庭の事情]] 全7巻 * 山田くんが通る * 幽子ちゃん100連発!! 全3巻 * [[妖魔 (漫画)|妖魔]] 全2巻 === 大橋薫との合作 === * 大橋薫&真弓(楠桂)作品集 * 楠桂&大橋薫合作作品集 K2 OFFICE * 戦国月夜 全2巻 * Diabolo -悪魔- 全3巻 * リトル・ショップ・オブ大橋姉妹 === アンソロジー === * 東日本大震災チャリティー漫画本 PARTY! SORA<ref group="注">計37人の作家による作品。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://marga2011charity.blog.fc2.com/ |title=PARTY!〜東日本大震災チャリティー漫画本〜HP|author=[[ななじ眺]]・[[葉月めぐみ]] |accessdate=2016-06-05}}</ref>(2011年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mediapal.co.jp/book/202/ |title=東日本大震災チャリティー漫画本 PARTY! SORA|楠 桂他|チャリティー漫画本|出版案内|publisher=株式会社メディアパル |accessdate=2016-06-05}}</ref>、メディアパル、{{ISBN2|978-4-89610-202-4}}) ** 山田くんが通る 番外編<ref>{{Cite web|和書|date=2011-07-18 |url=https://natalie.mu/comic/news/53232 |title=「君届」番外編も!マーガレット作家によるチャリティ本|work=コミックナタリー |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |accessdate=2016-06-05}}</ref> === キャラクターデザイン === * 美浜幕府([[愛知県]][[知多郡]][[美浜町 (愛知県)|美浜町]]のご当地キャラクター) === エッセイ === * 寿戦記 (ことぶきせんき) * 不育症戦記 生きた赤ちゃんを抱けるまで(ふいくしょうせんき - ) == 映像化作品 == * [[八神くんの家庭の事情]] - 1990年にアニメVHS、LD、OVA化、2003年にはDVDも発売。1994年 - 1995年にはテレビドラマ化もしたが、あまりに原作とかけ離れた設定に激怒し、「自分はドラマ版のストーリーには何ら関知していない」と声明を出すに至る。 * [[妖魔 (漫画)|妖魔]] - 1989年にアニメ劇場公開、VHS、LD、OVA化。 == 音楽 == === アルバム === ;楠桂&大橋薫 名義 * Little Shop of K&M - 1988年(ポリスター) * PLATINA - 1992年(トライエム) * 上海ルビー - 1988年(トライエム) === イメージ・アルバム === * [[楠劇場]] - 1988年(東芝EMI)楽曲:[[谷山浩子]] * [[八神くんの家庭の事情]] PART1~PART3、完璧ベストコレクション - 1988~1991年(キティレコード) * [[鬼切丸 (漫画)|鬼切丸]] - 1992年(テイチクエンタテインメント) * [[あくまでラブコメ]] - 1992年(テイチクエンタテインメント) * ぶちかまし眠り姫 - 1992年(メルダック) * [[大都会にほえろ]] - 1994年(シックスティレコード) === ドラマCD === * 大都会にほえろ〜電波ジャック乱入事件 - 1998年(日本クラウン) == アシスタント == * [[小本田絵舞]]{{要出典|date=2008年9月}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.ngy1.1st.ne.jp/~k2office/ K2OFFICE] - 公式サイト、実姉・大橋薫と共同 * [http://k2office.blog62.fc2.com/ k2オフィス楠桂 漫画家楠桂の赤裸々秘密日記] - 公式ブログ * {{twitter|keikusunoki}} * {{マンガ図書館Z作家|95}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:くすのき けい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:一卵性双生児]] [[Category:日本出身の双子]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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747
紅林直
紅林 直(くればやし なお、1971年11月18日 - )は日本の漫画家。男性。 静岡県出身。妻は漫画家の仙道ますみ。公益社団法人日本漫画家協会所属。『週刊少年サンデー』(小学館)でデビュー。代表作の『嬢王』は2005年、続編『嬢王Virgin』も2009年にテレビドラマ化されている。 2016年7月公開の短編映画『風のように』のトークイベントが、同月に東京都の下北沢トリウッドにて開催。イベントで紅林も登壇し、トークを行った。 2019年6月4日、実写映画『アルキメデスの大戦』を上映する「漫画家特別試写会」が開催。原作者の三田紀房が漫画家仲間を試写に案内し、紅林も参加。
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紅林 直は日本の漫画家。男性。 静岡県出身。妻は漫画家の仙道ますみ。公益社団法人日本漫画家協会所属。『週刊少年サンデー』(小学館)でデビュー。代表作の『嬢王』は2005年、続編『嬢王Virgin』も2009年にテレビドラマ化されている。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 紅林 直 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1971|11|18}} | 生地 = {{JPN}}・[[静岡県]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = [[青年漫画]]、[[成人向け漫画]] | 代表作 = 『[[嬢王]]』(作画) | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''紅林 直'''(くればやし なお、[[1971年]][[11月18日]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|url=https://mangapedia.com/紅林直-v6qd0t7e4|title=紅林 直(漫画家)|work=マンガペディア|accessdate=2021-08-15}}</ref> - )は[[日本]]の[[漫画家]]。男性{{R|mangapedia}}。 [[静岡県]]出身{{R|natalie1938}}。妻は漫画家の[[仙道ますみ]]{{R|mangapedia}}<ref>{{Cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000614.000001485.html|title=『えっち』『あい。』『リベンジH』の漫画家・仙道ますみデビュー25周年記念eBookJapanが『JOY』&『PLEASURE』を制作し、無料配信を開始。本人による作品解説、夫・紅林直氏との記念対談も|newspaper=PR TIMES|publisher=PR TIMES|date=2017-05-25|accessdate=2021-08-15}}</ref>。[[日本漫画家協会|公益社団法人日本漫画家協会]]所属<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/index-tbl=member&idx=KA&id=7556.html|title=紅林直|work=公益社団法人日本漫画家協会|accessdate=2021-08-15}}</ref>。『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])でデビュー<ref name="natalie1938">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/artist/1938 |title=紅林直 |publisher=コミックナタリー |accessdate=2021-08-07}}</ref>。代表作の『[[嬢王]]』は2005年、続編『嬢王Virgin』も2009年にテレビドラマ化されている<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/20127|title=「嬢王Virgin」TVドラマ化、原幹恵がキャバ嬢に挑戦|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2009-08-19|accessdate=2021-08-15}}</ref>。 == 作品リスト == === 連載 === * フォーチュン(『[[ウルトラジャンプ]]』、[[集英社]]、全2巻) * [[山靴よ疾走れ!!]](原作:生田正(途中から)、『[[週刊ヤングジャンプ]]』1999年30号 - 2001年28号、集英社、全5巻) * GROWINGドライブ(原作:[[坂田信弘]]、『週刊ヤングジャンプ』、集英社、全3巻) * 黒い獣 ベット・ノワール(『[[ミステリーDX]]』、[[大都社]]、全1巻) * [[嬢王]](原作:[[倉科遼]]、『[[ビジネスジャンプ]]』2004年18号 - 2008年5号、集英社、全12巻) ** 嬢王Virgin(原作:倉科遼、『ビジネスジャンプ』2009年11号 - 2010年19号、集英社、全5巻)※「嬢王」の続編 * 恋極 -KOIGOKU-(原作:中尾礼、講談社、全1巻<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000311001 |title=恋極 -KOIGOKU- |website=講談社コミックプラス |accessdate=2021-08-07}}</ref>) * 花屋=式(原作:中尾礼、『[[コミックチャージ]]』、[[角川書店]]、全2巻) * SOLEIL〜ソレイユ(原作:倉科遼、『ビジネスジャンプ』→『BJ魂』、集英社、全3巻) * [[ジャンケット]](原作:[[赤木太陽]]、『[[近代麻雀オリジナル]]』、竹書房、全2巻) * [[かの名はポンパドール]](原作:[[佐藤賢一]]、『[[ジャンプ改]]』Vol.1<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/51940|title=新マンガ誌「ジャンプ改」本日誕生!表紙は二ノ宮知子新作|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2011-06-25|accessdate=2021-08-15}}</ref>、2012年5月号(創刊号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/67548|title=ジャンプ改正式創刊!二ノ宮知子らの単行本7作品も同時発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-04-10|accessdate=2021-08-15}}</ref>) - 2013年9月号、集英社、全4巻) * カナデのソラ(原作:狩野シロ、監修:[[吉田玲子]]、『[[漫画サンデー]]』、[[実業之日本社]]、全1巻) * 超訳・伊勢物語 月やあらぬ(原作:[[永久保貴一]]、『[[週刊漫画TIMES]]』2012年3月23日号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/65836|title=平安のプレイボーイ在原業平描く新連載、漫画TIMESで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2012-03-09|accessdate=2021-08-15}}</ref> - 、[[芳文社]]、全2巻) * 特攻ドクター(原案:藤森龍、監修:丸田一人、原作協力:酒井義、『ぷら@ほ〜む』2014年6月13日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/118884|title=嬢王の紅林直が描く医療もの「特攻ドクター」WEBで始動|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-06-13|accessdate=2021-08-15}}</ref> - 、[[ホーム社]]、全3巻(電子書籍のみで発売)) * RT -リプレイタイム-(原作:[[ハセベバクシンオー]]、『スロマガ7』、[[双葉社]]、全2巻(電子書籍のみで発売)) * 女優遺産(『[[まんが王国]]』、[[ビーグリー]]、全4巻(電子書籍のみで発売)) * 尚子〜パンプキンナイト外伝〜(原作:[[外薗昌也]]、『[[LINEマンガ]]』2020年6月2日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/381555|title=LINEマンガでオリジナル新連載8本が本日から、「パンプキンナイト」前日譚など|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-06-02|accessdate=2021-08-15}}</ref> - ) === 読み切り === * WITCH Profile〜魔女の回顧録〜(『ビジネスジャンプ』2010年5号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/26603|title=次号ビージャンはダブル紅林直。嬢王+奇怪図書館読み切り|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2010-01-10|accessdate=2021-08-15}}</ref>) * 実録!!ヤクザの下半身事情(『[[サイゾー]]』2018年5月号<ref name="natalie20180418">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/278233|title=サイゾー「裏社会学」特集に、「嬢王」紅林直&「推しメン最強伝説」ナカG登場|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-04-18|accessdate=2021-08-15}}</ref>) - 「マンガで学ぶ『(裏)社会学』」企画作品{{R|natalie20180418}}。 === 成人向け === * マンダラBOY(『Dokiッ!』、[[竹書房]]、全2巻) * HELP!!+(『Dokiッ!』、竹書房、全1巻) * 傭兵団旅記シェフ(『Dokiッ!』、竹書房、全1巻) * アイ☆カギ(『ヴァージン女学淫』、竹書房、全1巻) == 寄稿 == * 漫画家めし(『まんぷくジャンプ』<ref name="natalie20110118">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/43603|title=グルメマンガ集結の新増刊「まんぷくジャンプ」発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2011-01-18|accessdate=2021-08-15}}</ref>、2011年1月) - 秘蔵レシピ公開{{R|natalie20110118}} * 映画『[[この世界の片隅に]]』公式ファンブック(2017年7月28日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/242661|title=映画「この世界の片隅に」公式ファンブック発売、マンガ家ら総勢89名参加|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-07-28|accessdate=2021-08-15}}</ref>) * 漫画家のごはんのおとも語り(2018年3月発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/274045|title=克・亜樹、okamaら60人のマンガ家が“ごはんのおとも”を1Pマンガで綴る単行本|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-03-18|accessdate=2021-08-15}}</ref>) * 漫画家本 [[西森博之]]本(2018年9月18日発売<ref name="natalie20180918">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/300167|title=「西森博之本」インタビューやくらもちふさことの対談収録、福田雄一コラムも|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-09-18|accessdate=2021-08-15}}</ref>) - 「漫画でわかる西森博之と私」コーナー寄稿{{R|natalie20180918}}。 == 活動 == 2016年7月公開の短編映画『風のように』のトークイベントが、同月に東京都の下北沢トリウッドにて開催<ref name="natalie20160706">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/193581|title=アニメ「風のように」上映後にちばてつや、村上もとか、紅林直らがトーク|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-07-06|accessdate=2021-08-15}}</ref>。イベントで紅林も登壇し、トークを行った{{R|natalie20160706}}。 2019年6月4日、実写映画『[[アルキメデスの大戦]]』を上映する「漫画家特別試写会」が開催<ref name="natalie20190606">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/334425|title=「アルキメデスの大戦」マンガ家だらけの試写会に藤子不二雄(A)、福本伸行ら|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-06-06|accessdate=2021-08-15}}</ref>。原作者の[[三田紀房]]が漫画家仲間を試写に案内し、紅林も参加{{R|natalie20190606}}。 == 師匠 == * [[みやすのんき]]{{R|mangapedia}} * [[西森博之]]{{R|natalie1938|mangapedia}} == アシスタント == * [[馬場康誌]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|naokure|紅林直}} * {{pixiv|7516657|クレバ}} * [https://web.archive.org/web/20010303074548/http://www9.freeweb.ne.jp/diary/titan9/ 紅蛙騎士団] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くれはやし なお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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黒岩よしひろ
黒岩 よしひろ(くろいわ よしひろ、1962年9月9日 - 2018年5月8日)は、日本の漫画家。男性。長野県上水内郡信州新町(現・長野市)出身、血液型O型。代表作に『鬼神童子ZENKI』(谷菊秀原作)など。 桂正和の下でアシスタントを務めながら自身の作品を投稿し、1983年に『ビューティビースト』で第26回手塚賞佳作、『舞子ミステリアス』でフレッシュジャンプ賞入選を受賞。『週刊少年ジャンプ』(集英社)でデビューを果たす。 作風や絵柄については桂の他、永井豪などの影響を受けている事を単行本の後書きなどで自ら語っている。テーマとしてはオカルト物、演出的には特撮的なテイストが入っている作品が多い。 後に『ジャンプ』専属を離れて児童漫画から成年コミックまで幅広いジャンルを手がけるようになる。 2018年5月8日、心筋梗塞のため死去。55歳没。同月16日にブログにおいて黒岩の妻から公表された。
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黒岩 よしひろは、日本の漫画家。男性。長野県上水内郡信州新町(現・長野市)出身、血液型O型。代表作に『鬼神童子ZENKI』(谷菊秀原作)など。
{{出典の明記|date=2018-05-16}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 黒岩 よしひろ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = [[1962年]][[9月9日]] |生地 = {{JPN}} [[長野県]] |没年 = {{死亡年月日と没年齢|1962|9|9|2018|5|8}} |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]] |称号 = |活動期間 = |ジャンル = |代表作 = 『[[鬼神童子ZENKI]]』 |受賞 = 第26回[[手塚賞]]佳作(『ビューティビースト』) |サイン = |公式サイト = }} '''黒岩 よしひろ'''(くろいわ よしひろ、[[1962年]][[9月9日]] - [[2018年]][[5月8日]]<ref name="sponichi20180518">{{Cite news | url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/16/kiji/20180516s00041000150000c.html | title = 漫画家・黒岩よしひろさんが心筋梗塞で死去 55歳 「週刊少年ジャンプ」で連載 | work = Sponichi Annex | publisher = [[スポーツニッポン]] | date = 2018-05-16 | accessdate = 2018-05-18 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20180518124803/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/16/kiji/20180516s00041000150000c.html | archivedate = 2018-05-18}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[長野県]][[上水内郡]][[信州新町]](現・[[長野市]])出身、血液型[[ABO式血液型|O型]]。代表作に『[[鬼神童子ZENKI]]』([[谷菊秀]]原作)など。 == 来歴 == [[桂正和]]の下で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めながら自身の作品を投稿し、[[1983年]]に『ビューティビースト』で第26回[[手塚賞]]佳作、『舞子ミステリアス』で[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#フレッシュジャンプ賞|フレッシュジャンプ賞]]入選を受賞。『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])でデビューを果たす。 作風や絵柄については桂の他、[[永井豪]]などの影響を受けている事を単行本の後書きなどで自ら語っている。テーマとしてはオカルト物、演出的には[[特撮]]的なテイストが入っている作品が多い。 後に『ジャンプ』専属を離れて児童漫画から[[成年コミック]]まで幅広いジャンルを手がけるようになる。 2018年5月8日、心筋梗塞のため死去。{{没年齢|1962|9|9|2018|5|8}}。同月16日にブログにおいて黒岩の妻から公表された<ref name="sponichi20180518"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://kuroiwa-yosihiro.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-badf.html|title=大切なお知らせ|accessdate=2018-05-16|date=2018-05-16|website=黒岩よしひろブログ}}</ref>。 == 作品リスト == * 夢語り(短編集)(1986年、集英社) * [[サスケ忍伝]](1986年、集英社、週刊少年ジャンプ連載) * [[魔神竜バリオン]](1987年、集英社、週刊少年ジャンプ連載) * [[変幻戦忍アスカ]](1988年、集英社、週刊少年ジャンプ連載) * 不思議ハンターSpecial(上記パイロット版である表題作品を含む短編集、1990年、集英社) * [[不思議ハンター]]([[飯塚幸弘]]原作。1991年、集英社、週刊少年ジャンプ連載)<ref>{{Cite web|和書|title=不思議ハンター(漫画) |url=https://mangapedia.com/%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC-soqfgidfs |website=マンガペディア |access-date=2022-11-10 |language=ja |first=DIGITALIO |last=Inc}}</ref> * [[鬼神童子ZENKI]]([[谷菊秀]]原作。1992年、集英社、[[月刊少年ジャンプ]]連載) * [[流星超人ズバーン]](1998年、集英社、月刊少年ジャンプ連載) * [[怪奇まんだら]](2001年、集英社、月刊少年ジャンプ連載) * [[爆転シュート ベイブレード|ベイブレード大戦 聖龍伝]](キャラクター原案:青木たかお、2002年、[[小学館]]、[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]連載) * [[陰陽夜話SEIMEI]](2004年、[[双葉社]]、[[アクションピザッツ]]連載) * [[ふわふわ。]](2003年、[[竹書房]]) * [[永遠のそら]](2005年、[[少年画報社]]、[[ヤングキング]]連載) * [[おうたま]](2005年、[[コアマガジン]]、[[メガストア|コミックメガストア]]連載) * [[魔法戦隊マジレンジャー THE MOVIE インフェルシアの花嫁]]([[東映]]原作、2006年、[[角川書店]]) * [[ステージガールズ]]([[上野毛あさみ]]原作)(2007年、デジマ、[[コミック・ガンボ]]連載) * [[マクロスF|マクロスF 超次空歌巫女ランカ]](2008年、[[KADOKAWA]]、[[月刊コンプエース]]連載) * [[おきらくごくらくはっぴぃDays]](2009年、双葉社、アクションピザッツ連載) * [[ふぃぎゅあ こととねシークレット]](2009年、竹書房) * [[はっぴぃ★ゆめくら]](2013年、双葉社、アクションピザッツ連載) * [[あの娘にいたずら○恥操作]](2012年、[[大洋図書]]、ジューシーラブ掲載) * [[容赦なし!ケダモノ女子寮管理人]](2014年、大洋図書、ジューシーラブ掲載) * [[バディスピリッツ]](構成担当、[[岸本みゆき]]原作、[[李成圭|gyuo]]作画。2014年、小学館、[[月刊ヒーローズ]]連載) * 乙女神天照(2017年、[[一ツ橋グループ|ホーム社]]、Webマンガサイト・Z連載)連載中に死去、絶筆作品となった<ref>{{Cite web|和書|url=http://comip.jp/z/ama.html|title=訃報 黒岩よしひろ先生 ご逝去|accessdate=2018-05-16|date=2018-05-16|website=WEB漫画サイト『Z』}}</ref><ref>{{Cite news | url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/16/kiji/20180516s00041000163000c.html | title = 黒岩よしひろさん死去で連載中の漫画は終了 執筆途中の最新話公開へ | work = Sponichi Annex | publisher = [[スポーツニッポン]] | date = 2018-05-16 | accessdate = 2018-05-18 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20180518125011/https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/16/kiji/20180516s00041000163000c.html | archivedate = 2018-05-18}}</ref>。 == その他 == * [[ガールズインユニフォーム]] - キャラクターデザイン * [[天衣舞装ルクシオン]] - [[2005年]]に[[MAIKA]]ブランドより発売された18禁PC用ゲームソフト。原画担当。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連人物 == * [[桂正和]] * [[稲田浩司]] * [[有賀照人]] * [[まつもと泉]] - 黒岩が助っ人として、まつもとの作業を手伝ったことがある。 == 外部リンク == * [http://kuraoiwa.o.oo7.jp/ 黒岩よしひろ公式ホームページ] - 公式サイト * [http://kuroiwa-yosihiro.cocolog-nifty.com/ 黒岩よしひろブログ] - 公式ブログ * {{Twitter|kuroiwa_yoshi}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くろいわ よしひろ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:2018年没]]
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現代洋子
現代 洋子(げんだい ようこ、1964年11月3日 - )は、日本の漫画家。三重県四日市市出身。 三重県立四日市南高等学校、早稲田大学第一文学部卒業。在学中は早稲田大学漫画研究会に所属。元々は漫画家希望ではなく、一条ゆかりに会えるという子供の頃からの夢もあり、雑誌編集者希望で、大学時代に1年間『漫画サンデー』編集部でアルバイトをしていた。編集者になるためにアピールするという目的で漫画を描いて投稿したところ、デビューが決まってしまったとインタビューで答えている。ペンネームの由来は投稿時、ペンネームを決める際に、そばに就職活動で希望であった出版社の受験向けに勉強していた際に利用していた、現代用語の基礎知識という本があったことからとされる。 1986年集英社「オールマーガレット新人まんが大賞」にて、準グランプリを受賞。同年、『ザ・マーガレット』で『19 1/2(ナインティーン・ハーフ)』でデビュー。集英社の女性向け漫画雑誌での連載が多いが、『コーラス』で「ともだちなんにんなくすかな♪」を連載していた際、小学館の編集者八巻和弘の誘いにより、男性向け漫画雑誌『ビッグコミックスピリッツ』に、著名人のインタビューを漫画にした「おごってジャンケン隊」を連載したことで、男性にも有名になった。 1998年「ともだちなんにんなくすかな♪」を通じて知り合った夫と結婚。現在、二女の母。夫の従妹が声優の倖月美和で、結婚式では司会を務めたとのこと。けらえいこは大学の先輩に当たる。 中日ドラゴンズ、水戸泉の大ファン。 容姿が光浦靖子に似ており、かつて「おごってジャンケン隊」に光浦がゲストでやってきた際には、光浦から借りた眼鏡をかけた現代の写真が掲載され、そのそっくり度合いがアピールされたこともある。
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現代 洋子は、日本の漫画家。三重県四日市市出身。
'''現代 洋子'''(げんだい ようこ、[[1964年]][[11月3日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[三重県]][[四日市市]]出身。 == 概要 == [[三重県立四日市南高等学校]]、[[早稲田大学第一文学部]]卒業。在学中は[[早稲田大学漫画研究会]]に所属。元々は漫画家希望ではなく、[[一条ゆかり]]に会えるという子供の頃からの夢もあり、雑誌編集者希望で、大学時代に1年間『[[漫画サンデー]]』編集部でアルバイトをしていた<ref>集英社刊単行本「ともだちなんにんなくすかな♪」2巻 P57</ref>。編集者になるためにアピールするという目的で漫画を描いて投稿したところ、デビューが決まってしまったとインタビューで答えている<ref>[http://www.microsoft.com/japan/mac/iusers/mm/contents/mm4.mspx 参考サイト] office for Mac 事例紹介インタビュー 漫画家 現代洋子さん</ref>。ペンネームの由来は投稿時、ペンネームを決める際に、そばに就職活動で希望であった出版社の受験向けに勉強していた際に利用していた、[[現代用語の基礎知識]]という本があったことからとされる<ref>集英社刊単行本「ともだちなんにんなくすかな♪」1巻 P76</ref>。 [[1986年]][[集英社]]「オールマーガレット新人まんが大賞」にて、準グランプリを受賞。同年、『ザ・マーガレット』で『19 1/2(ナインティーン・ハーフ)』でデビュー。集英社の女性向け[[漫画]][[雑誌]]での連載が多いが、『[[Cocohana|コーラス]]』で「ともだちなんにんなくすかな♪」を連載していた際、[[小学館]]の編集者[[八巻和弘]]の誘いにより、男性向け[[漫画]][[雑誌]]『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に、著名人のインタビューを漫画にした「[[おごってジャンケン隊]]」を連載したことで、男性にも有名になった。 [[1998年]]「ともだちなんにんなくすかな♪」を通じて知り合った夫と結婚。現在、二女の母。夫の従妹が[[声優]]の[[倖月美和]]で、結婚式では司会を務めたとのこと<ref>集英社刊単行本「ともだちなんにんなくすかな♪」2巻 P136</ref>。[[けらえいこ]]は大学の先輩に当たる。 [[中日ドラゴンズ]]、[[水戸泉政人|水戸泉]]の大ファン。 容姿が[[光浦靖子]]に似ており、かつて「おごってジャンケン隊」に光浦がゲストでやってきた際には、光浦から借りた[[眼鏡]]をかけた現代の写真が掲載され、そのそっくり度合いがアピールされたこともある<ref>小学館刊「おごってジャンケン隊」単行本第1巻に収録</ref>。 == 作品 == * 人生で必要な英語はすべて病院で学んだ(挿絵担当、『[[週刊新潮]]』[[加藤友朗]]著) * 右向け…左っ!!(マーガレットコミックス、全3巻、1988年、集英社) * はためいわくな隣人(マーガレットコミックス、全1巻、1988年、集英社) * TAD(マーガレットコミックス、全1巻、1989年、集英社) * 街角の女神たち(マーガレットコミックス、全1巻、1989年、集英社) * [[ブルーな彼氏に赤いバラ]](マーガレットコミックス、全1巻、1990年、集英社) * 放課後かれんだぁ(マーガレットコミックス、全1巻、1990年、集英社) * 星降る夜はノストラダムス(マーガレットコミックス、全1巻、1991年、集英社) * 東京バラッド(マーガレットコミックス、全3巻、1993年 - 1994年、集英社) * [[天職へのチャンピオン]](KCキス、全1巻、1995年、[[講談社]]) * バージン人生読本(KCキス、全1巻、1995年、講談社) * ともだちなんにんなくすかな♪(ヤングユーコミックスワイド版、全2巻、1996年 - 1999年、集英社) * 赤いヒモの伝説(ヤングユーコミックス、全1巻、1997年、集英社) * 金の卵 銀の指輪(ヤングユーコミックス、全1巻、1998年、集英社) * みそぢのこいぢをぢゃまするな(オフィスユーコミックス、全1巻、1998年、創美社) * [[おごってジャンケン隊]](SPIRITS COMICS SPECIAL、全5巻、1998年 - 2002年、小学館) * [[おしゃぶりマンボ]](ヤングユーコミックスワイド版、全1巻、2002年、集英社) * 恋のふんころがし プラス げんちゃんてんこもり(クイーンズコミックスワイド版、全1巻、2003年、集英社) * おむかえまで8時間(クイーンズコミックスワイド版、全2巻、2005年 - 2007年、集英社) * 社長DEジャンケン隊(ビッグコミックススペシャル、全2巻、2005年 - 2006年、小学館) * ハングリー!(クイーンズコミックスワイド版、全1巻、2008年、集英社) * どうする?2人め-別キャラ姉妹の育て方(アキタエッセイコレクション、2008年、秋田書店) * 三鷹の中心で「なう!」をつぶやく(2010年、小学館) * 主婦40歳、復職めざしてます(2014年、KADOKAWA/メディアファクトリー) * あおちんドキドキ一年生([[小学一年生]]2009年4月号 - 2011年3月号<ref>[https://note.com/gendai/n/n051c1f9cbf75 2014年6月7日の本人noteより]</ref>、小学館)保護者用綴じ込み付録の小冊子「ぺあくらぶ」に連載 == 出演 == * [[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]](1999年、現代) == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website| https://www.gendaiyoko.com/|現代洋子の基礎知識}}[https://web.archive.org/web/20160304185730/http://www005.upp.so-net.ne.jp/gendai/](公式サイト) * {{twitter|GendaiYoko}} * {{Facebook|gendaiyoko}} * {{Note.com|gendai}} * {{マンガ図書館Z作家|74}} * {{Mediaarts-db|name=現代洋子}} * [https://ameblo.jp/gendai-yoko 現代洋子オフィシャルブログ「現代洋子の基礎知識」] * [https://web.archive.org/web/20010111010000/http://www.spi.shogakukan.co.jp/spi/inspi_new/gen_sakka.htm 現代洋子の「げんちゃん雲隠れ日記」] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:けんたい ようこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:早稲田大学出身の人物]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:本名非公開の人物]]
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郷田マモラ
郷田 マモラ(ごうだ マモラ、本名:上之郷 守(かみのごう まもる)、1962年 - )は、日本の漫画家である。 三重県伊勢市出身、東京都在住。血液型B型。大阪総合デザイン専門学校でグラフィックデザインを学び、卒業。フリーのイラストレーターとして活動した後、1993年に『虎の子がゆく!』がちばてつや賞一般部門大賞を受賞、『花の咲く庭』がミスターマガジンの新人漫画賞入選を受賞し、二誌同時デビューとなった。 1998年、女性監察医の活躍を描いた『きらきらひかる』がフジテレビ系にて深津絵里主演によりドラマ化。2005年、『MAKOTO』が君塚良一監督、松竹配給のもと映画化。 2007年には拘置所の新人刑務官と死刑囚の友情を描いた『モリのアサガオ』で、平成19年度文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞。2008年、生野慈朗監督、ギャガ・コミュニケーションズ配給による映画化されたのに続き、2010年にはテレビ東京系にて伊藤淳史主演・テレパック制作によりドラマ化される。 2013年4月から5月にかけて、自身の事務所で女性アシスタントに陰茎を手淫させるなどの猥褻な行為をしたり、野球の硬球を投げつけ、突き飛ばして後頭部を蹴るなどの暴行をしたとして、強制猥褻や傷害により6月5日に逮捕された。8月27日、東京地裁立川支部により懲役3年・執行猶予3年の有罪判決が言い渡された。判決直後は被害者への謝罪と、今後はペンネームを変えてやり直すとしていたが、判決が公告された翌年、原作者として『ニコラオスの嘲笑 警部補・森村つぐみ』を週刊女性8/26号より連載を開始し、わずか1年と経たない内に前言を撤回する行動をとった。 2017年よりcomicoにて原作者として『「卒業」ぼくらと、ことりの物語』を連載するが2018年7月9日を以て連載終了となり、2018年より『[poor] (プア)ゼラニウムの誘惑』を連載、2021年完結。 2021年、『モリのアサガオ2』が執筆され、『モリのアサガオ』の続編として描かれている。 趣味は音楽鑑賞。好きなアーティストにさねよしいさ子、モーツァルト、スコット・ジョプリンを挙げている。スポーツ観戦も趣味。いとこにドールハウス作家の工藤和代がいる。 物語は大阪の町を舞台に展開し、大半の人物のセリフは関西弁となっている。作中に登場する「根古田区」は架空の町。作画には穂先が1cmの面相筆を使用している。
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郷田 マモラは、日本の漫画家である。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 郷田 マモラ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 上之郷 守 |生年 = [[1962年]] |生地 = [[三重県]][[伊勢市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1993年]] - |ジャンル = [[劇画]] |代表作 = 『[[きらきらひかる (漫画)|きらきらひかる]]』<br />『[[モリのアサガオ]]』 他 |受賞 = [[ちばてつや賞]]一般部門大賞([[1993年]])<br />ミスターマガジン新人漫画賞入選(1993年)<br />第11回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]([[2007年]]) |サイン = |公式サイト = }} '''郷田 マモラ'''(ごうだ マモラ、本名:'''上之郷 守'''(かみのごう まもる)、[[1962年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]である。 == 略歴 == [[三重県]][[伊勢市]]出身、[[東京都]]在住。血液型B型。[[大阪総合デザイン専門学校]]でグラフィックデザインを学び、卒業。フリーのイラストレーターとして活動した後、[[1993年]]に『虎の子がゆく!』が[[ちばてつや賞]]一般部門大賞を受賞、『花の咲く庭』がミスターマガジンの新人漫画賞入選を受賞し、二誌同時デビューとなった<ref>[http://webaction.jp/title/14.php モリのアサガオ] - Web漫画アクション</ref>。 [[1998年]]、女性[[監察医]]の活躍を描いた『[[きらきらひかる (漫画)|きらきらひかる]]』が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系にて[[深津絵里]]主演によりドラマ化。[[2005年]]、『MAKOTO』が[[君塚良一]]監督、[[松竹]]配給のもと映画化。 [[2007年]]には[[拘置所]]の新人[[刑務官]]と[[死刑囚]]の友情を描いた『[[モリのアサガオ]]』で、平成19年度[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]大賞受賞<ref>{{Wayback |url=http://plaza.bunka.go.jp/festival/2007/manga/000835/ |title=マンガ部門 大賞 モリのアサガオ|date=20071207174439 }} - 文化庁メディア芸術プラザ</ref>。[[2008年]]、[[生野慈朗]]監督、[[ギャガ・コミュニケーションズ]]配給による映画化<ref>[http://www.cinemacafe.net/movies/cgi/20672/ 映画 モリのアサガオ 映画作品情報] - cinemacafe.net</ref>されたのに続き、[[2010年]]には[[テレビ東京]]系にて[[伊藤淳史]]主演・[[テレパック]]制作によりドラマ化される<ref>[http://www.tv-tokyo.co.jp/moriasa/ テレビ東京「モリのアサガオ」公式サイト]</ref>。 [[2013年]]4月から5月にかけて、自身の事務所で女性アシスタントに陰茎を手淫させるなどの[[猥褻]]な行為をしたり、野球の硬球を投げつけ、突き飛ばして後頭部を蹴るなどの暴行をしたとして、[[強制猥褻]]や[[傷害]]により6月5日に逮捕された<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0815/TKY201308150086.html 漫画家の郷田マモラ被告を起訴 強制わいせつ罪など] 朝日新聞 2013年8月15日</ref><ref>[http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20130816-1174072.html 社会派漫画家が強制わいせつ] 日刊スポーツ 2013年8月16日</ref>。8月27日、[[東京地裁立川支部]]により懲役3年・執行猶予3年の有罪判決が言い渡された<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0827/TKY201308270133.html 漫画家の郷田マモラ被告に有罪判決 強制わいせつ罪など] 朝日新聞 2013年8月27日</ref>。判決直後は被害者への謝罪と、今後は[[ペンネーム]]を変えてやり直すとしていた<ref>[https://web.archive.org/web/20130828080822/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130828-OHT1T00001.htm 郷田マモラ被告、執行猶予つき有罪判決 ペンネーム変え再出発] スポーツ報知 2013年8月28日</ref>が、判決が公告された翌年、原作者として『ニコラオスの嘲笑 警部補・森村つぐみ』を[[週刊女性]]8/26号より連載を開始し、わずか1年と経たない内に前言を撤回する行動をとった。<br /> 2017年よりcomicoにて原作者として『「卒業」ぼくらと、ことりの物語』を連載するが2018年7月9日を以て連載終了となり、2018年より『[poor] (プア)ゼラニウムの誘惑』を連載、2021年完結。<br /> 2021年、『モリのアサガオ2』が執筆され、『モリのアサガオ』の続編として描かれている。 == 人物 == 趣味は音楽鑑賞。好きなアーティストに[[さねよしいさ子]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[スコット・ジョプリン]]を挙げている。スポーツ観戦も趣味。いとこにドールハウス作家の工藤和代がいる<ref>「サマヨイザクラ」あとがき。</ref>。 == 特徴 == 物語は[[大阪]]の町を舞台に展開し、大半の人物のセリフは[[関西弁]]となっている。作中に登場する「根古田区」は架空の町<ref>{{Wayback |url=http://hougen.atok.com/column/doc/pc/manga01.html |title=笑う金魚の方言 方言マンガ探訪 第一回 郷田マモラ先生|date=20081006144945}} - 全国方言WEB ほべりぐ</ref>。作画には穂先が1cmの面相筆を使用している<ref>モリのアサガオ第1巻 P224 郷田の部屋1「作画スタッフ大ぼしゅう」</ref>。 == 漫画作品 == {{節スタブ}} ; 『[[きらきらひかる (漫画)|きらきらひかる-浪速美人監察医物語]]』 : [[1995年]] - [[2000年]]。[[監察医]]の道を歩む「天野ひかる」の物語。単行本全13巻、文庫版全8巻。[[講談社]]。 :; 『きらきらひかる2』 :: [[2002年]] - [[2004年]]。「天野ひかる」と「白川真言」が出会ってからの物語。単行本全5巻、文庫版全3巻。講談社。 :; 『きらきらひかる最終章』 :: [[2007年]]。単行本全2巻。[[双葉社]]。 : ; 『幸福な人生』 : 2000年。デビュー作2編を含む7編の短編集。単行本全1巻。講談社。 ; 『MAKOTO』 : [[2001年]]。霊が見える[[監察医]]「白川真言」の物語。単行本全1巻双葉社、文庫版全1巻講談社。 ; 『[[モリのアサガオ]]』 : 2004年 - 2007年。[[刑務官]]「及川直樹」と同い年の[[死刑囚]]「渡瀬満」の物語。全7巻。双葉社。 :; 『モリのアサガオ2』 : [[2021年]] - 。渡瀬満処刑後の及川直樹を描く。 ; 『[[サマヨイザクラ]]』 : [[2008年]] - [[2009年]]。[[裁判員制度]]で、裁判員に選ばれた主人公の相羽圭一を中心に、殺人事件の裁判を執り行う物語。全2巻。双葉社。 ; 『星屑の少年たちへ なにわの思春期外来奮戦記』 : [[臨床心理士]]の話。既刊2巻。双葉社。 ; 『あしゅらみち -冤罪-』 :漫画アクション、2012年8月7日号から連載。「あしゅらみち-冤罪-」は「モリのアサガオ」「サマヨイザクラ」に続く司法三部作の最終作で、冤罪がテーマ。第1話では社内でイジメに遭う運送会社の従業員・加治と、変人扱いされている同僚の女性社員・田原が親睦を深める様子が描かれた。2013年に打切り。 ; 『ニコラオスの嘲笑 警部補・森村つぐみ』 : [[2014年]] - [[2018年]]。[[シングルマザー]]の女性刑事が、ある殺傷事件で、その現場にいたとされる[[フリーター]]の男を逮捕するも、その男が[[冤罪]]であることを指摘するという、警察ミステリー。原作。作画・[[長岡敦子]](桃井ジョン)。連載中。[[主婦と生活社]]。 ; 『[[この小さな手]]』 : 原作。作画・吉田浩。連載終了。マンガonウェブ。 ;『「卒業」ぼくらと、ことりの物語』 : [[2017年]] - 2019年7月9日 :原作者。作画は北見明子。連載終了。comico。 ;『[poor] (プア)ゼラニウムの誘惑』 : 2018年 - 2021年。マンガonウェブ。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こうた まもら}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]]
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コージィ城倉
コージィ 城倉(コージィ じょうくら、1963年 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。長野県出身。初期のペンネームはコージィ♡城倉(『おれはキャプテン』開始時に♡を外す)。漫画原作者としてのペンネームは森高 夕次(もりたか ゆうじ)。 長野県赤穂高等学校卒業後、デザイン系専門学校に2年間通う。卒業後はグラフィックデザイナーとして働くが、勤務先の経営不振に危機感を感じて出版各社へ漫画を持ち込み、25歳でスピリッツ賞の佳作となる。1989年に『男と女のおかしなストーリー』でプロデビュー。初期はヤングサンデー、ヤングマガジンなどの青年誌で執筆していたが、週刊少年サンデー連載の『砂漠の野球部』で異彩を放ち、以後、野球漫画を多く手掛けている。2023年現在は、グランドジャンプにて『キャプテン2』を連載中。 その一方、漫画原作者としても『おさなづま』がヒットし、漫画家活動とほぼ並行する形で現在まで続いている。 代表作は『砂漠の野球部』『おれはキャプテン』『ももえのひっぷ』、漫画原作の代表作に『グラゼニ』、『おさなづま』などがある。 東京ヤクルトスワローズのファンで、TBSラジオとヤクルト戦中継が多いニッポン放送を聴いており、『鶴光の噂のゴールデンアワー』のアシスタントだった田中美和子の大ファンで、2013年9月15日の『ニッポン放送ショウアップナイター』にゲスト出演して神宮球場で田中と対面した。 『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)2007年第34号において、森高夕次名義でイラストを描いている。
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コージィ 城倉は、日本の漫画家、漫画原作者。長野県出身。初期のペンネームはコージィ♡城倉(『おれはキャプテン』開始時に♡を外す)。漫画原作者としてのペンネームは森高 夕次。
{{独自研究 | date = 2011-07}} {{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = コージィ城倉 | ふりがな = コージィ じょうくら | 別名義 = 森高 夕次 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = 1963年 | 生地 = | 没年 = | 没地 = | 国籍 = [[日本]]・[[長野県]] | 職業 = [[漫画家]]<br/>[[漫画原作者]] | 活動期間 = [[1989年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = [[砂漠の野球部]]<br/>[[おれはキャプテン]]<br/>ももえのひっぷ<br/>[[グラゼニ]](漫画原作者として)<br/>おさなづま(漫画原作者として) | 受賞 = [[ビッグコミックスピリッツ|スピリッツ賞]]<br/>第37回[[講談社漫画賞]]一般部門<br/>(『グラゼニ』) | サイン = | 公式サイト = }} '''コージィ 城倉'''(コージィ じょうくら、[[1963年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[漫画原作者]]。[[長野県]]出身。初期の[[ペンネーム]]は'''コージィ♡城倉'''(『おれはキャプテン』開始時に♡を外す)。漫画原作者としてのペンネームは'''森高 夕次'''(もりたか ゆうじ)。 == 経歴・人物 == [[長野県赤穂高等学校]]卒業後、デザイン系専門学校に2年間通う。卒業後は[[グラフィックデザイナー]]として働くが、勤務先の経営不振に危機感を感じて出版各社へ漫画を持ち込み、25歳で[[ビッグコミックスピリッツ|スピリッツ賞]]の佳作<ref>{{Cite web|和書|url=http://comic-soon.shogakukan.co.jp/blog/interview/manga-gensakusya-Moritakayuji-1/|title=【インタビュー】漫画原作者に聞く! 第3回『江川と西本』『チェイサー』森高夕次/コージィ城倉氏(その1)|website=コミスン|publisher=小学館|date=2018-07-24|accessdate=2018-10-30}}</ref>となる。1989年に『男と女のおかしなストーリー』でプロデビュー。初期はヤングサンデー、ヤングマガジンなどの青年誌で執筆していたが、週刊少年サンデー連載の『[[砂漠の野球部]]』で異彩を放ち、以後、野球漫画を多く手掛けている。2023年現在は、[[グランドジャンプ]]にて『[[キャプテン (漫画)|キャプテン2]]』を連載中。 その一方、漫画原作者としても『[[おさなづま]]』がヒットし、漫画家活動とほぼ並行する形で現在まで続いている。 代表作は『[[砂漠の野球部]]』『おれはキャプテン』『ももえのひっぷ』、漫画原作の代表作に『[[グラゼニ]]』、『[[おさなづま]]』などがある。 [[東京ヤクルトスワローズ]]のファン<ref name="shuube">週刊ベースボール2012年2月6日号 P16</ref>で、[[TBSラジオ]]とヤクルト戦中継が多い[[ニッポン放送]]を聴いており、『[[鶴光の噂のゴールデンアワー]]』のアシスタントだった[[田中美和子]]の大ファンで、2013年9月15日の『[[ニッポン放送ショウアップナイター]]』にゲスト出演して[[神宮球場]]で田中と対面した。 == 作風 == * スポーツ根性ものから[[ラブコメディ]]まで、幅広いジャンルを描いている。 * [[小学館]]の『[[週刊少年サンデー|少年サンデー]]』系と[[講談社]]の『[[週刊少年マガジン|少年マガジン]]』系で同時に連載したほか、週刊を3本同時連載した<ref>[http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p04.html 「コージィ城倉スペシャルインタビュー 読みやすさの原点に立ち返る。それが『おれはキャプテン』コージィの野望・仕事編 ネーム派作家コージィ城倉](現在はリンク切れ)(同[https://web.archive.org/web/20040504074054/http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p04.html アーカイブ])</ref>。 * 高校時代まで[[野球部]]<ref name="Excite2">[http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html 「コージィ城倉スペシャルインタビュー 読みやすさの原点に立ち返る。それが『おれはキャプテン』コージィの野望・過去&未来編 死ぬまでマンガを描いていたい](現在はリンク切れ)(同[https://web.archive.org/web/20040504074054/http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html アーカイブ])</ref>で[[捕手]]<ref name=":02">「[http://ama-baseball.mainichi.jp/kurojishi/86/gurazeni/interview_01.html 都市対抗野球大会:スペシャルコンテンツ 原作者 森高夕次さんが語る 都市対抗とグラゼニ]」 [[毎日新聞]] 2016年12月14日閲覧</ref>をつとめた。 * 原作者名義の「森高夕次」は、影響を受けた[[梶原一騎]]の別名「高森朝雄」に倣った<ref name="Excite">[http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html 「コージィ城倉スペシャルインタビュー 読みやすさの原点に立ち返る。それが『おれはキャプテン』コージィの野望・過去&未来編 死ぬまでマンガを描いていたい](現在はリンク切れ)(同[https://web.archive.org/web/20040504074054/http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html アーカイブ])</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === * ぬーやん * かんとく * [[砂漠の野球部]] * すくすく * U・G・メジャー * 愛米(ラブコメ) * プニャリン * [[ティーンズブルース]] * [[おれはキャプテン]] * おれはキャプテン くたばれ甲子園の章 * Grass Breath(城倉浩司名義) * エクスパンション・サウスポー * ももえのひっぷ * [[チェイサー (漫画)|チェイサー]] * [[ロクダイ]] * モーニングを作った漫画たち(『[[モーニング (漫画雑誌)|週刊モーニング]]』) * [[プレイボール (漫画)|プレイボール2]](原案:[[ちばあきお]]) * [[キャプテン (漫画)|キャプテン2]](原案:ちばあきお) === 漫画原作 === * 総理を殺せ(絵:[[阿萬和俊]]) * おさなづま(絵:あきやまひでき) * [[ショー☆バン]](絵:[[松島幸太朗 (漫画家)|松島幸太朗]]) * [[トンネル抜けたら三宅坂]](絵:[[藤代健]]([[コミックバウンド]]版)、[[月子 (漫画家)|月子]](『[[ビッグコミックスペリオール]]』版)) * [[琴子の道]](絵:[[松山せいじ]]) * [[ストライプブルー]](絵:松島幸太朗) * [[グラゼニ]] シリーズ<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/106136/|title=グラゼニ : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-05-14}}</ref>(絵:[[足立金太郎|足立金太郎(アダチケイジ)]]) * 湯けむり球児(絵:[[木下由一]]) * [[江川と西本]](絵:[[星野泰視]]) * あしたのジロー(絵:荒木光) * ハーラーダービー(絵:水上あきら) * 4軍くん(仮)(絵:末広光) === 漫画構成 === * [[ファイ・ブレイン 神のパズル|ファイ・ブレイン 最期のパズル]](原作:[[矢立肇]] 絵:上野春生) == 備考 == 『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])2007年第34号において、森高夕次名義でイラストを描いている。 == アシスタント == * [[小林拓己]] * [[月子 (漫画家)|月子]]<ref>『トンネル抜けたら三宅坂』第1巻より。</ref> == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=森高夕次 |1-1=日本の漫画原作者 }} {{DEFAULTSORT:こおしいしようくら}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のグラフィックデザイナー]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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こしたてつひろ
こした てつひろ(1965年3月8日 - )は、日本の漫画家。岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里出身、埼玉県蓮田市在住。 1985年、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)誌上にて、『拝啓サラダボーイ』でデビュー。少年誌から児童誌へ活動の場を移し、『炎の闘球児 ドッジ弾平』で第37回(平成3年度)小学館漫画賞受賞。作品に『炎の闘球児 ドッジ弾平』、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』などがある。 『ドッジ弾平』でドッジボールブームを、『レッツ&ゴー』でミニ四駆ブームを起こすなど、特に1990年代に第一線で活躍した漫画家である。
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こした てつひろは、日本の漫画家。岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里出身、埼玉県蓮田市在住。 1985年、『週刊少年サンデー増刊号』(小学館)誌上にて、『拝啓サラダボーイ』でデビュー。少年誌から児童誌へ活動の場を移し、『炎の闘球児 ドッジ弾平』で第37回(平成3年度)小学館漫画賞受賞。作品に『炎の闘球児 ドッジ弾平』、『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』などがある。 『ドッジ弾平』でドッジボールブームを、『レッツ&ゴー』でミニ四駆ブームを起こすなど、特に1990年代に第一線で活躍した漫画家である。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = こした てつひろ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[岩手県]][[上閉伊郡]][[大槌町]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1965|3|8}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1965|3|8|****|**|**}} --> | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1985年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[児童漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = [[1991年]]:第37回[[小学館漫画賞]] | 公式サイト = }} '''こした てつひろ'''([[1965年]]<ref>『ミニ四駆RC伝説 燃えろ!アバンテ兄弟』1巻奥付より。</ref>[[3月8日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、149頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岩手県]][[上閉伊郡]][[大槌町]][[吉里吉里]]出身<ref name="mangaseek" />、[[埼玉県]][[蓮田市]]在住。 [[1985年]]、『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』([[小学館]])誌上にて、『拝啓サラダボーイ』でデビュー。少年誌から児童誌へ活動の場を移し、『[[炎の闘球児 ドッジ弾平]]』で第37回(平成3年度)[[小学館漫画賞]]受賞。作品に『炎の闘球児 ドッジ弾平』、『[[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]]』などがある。 『ドッジ弾平』で[[ドッジボール]]ブームを、『レッツ&ゴー』で[[ミニ四駆]]ブームを起こすなど、特に[[1990年代]]に第一線で活躍した漫画家である。 == 作品リスト == * 拝啓サラダボーイ(『週刊少年サンデー増刊号』1985年12月号 - 1987年8月号、全2巻) * パニック方程式(『週刊少年サンデー』1986年23号 - 1987年9号、全4巻) * [[燃えろ!アバンテ兄弟|ミニ四駆RC伝説 燃えろ!アバンテ兄弟]](『[[別冊コロコロコミック]]』1989年 - 1990年、全2巻) * [[炎の闘球児 ドッジ弾平]](『[[月刊コロコロコミック]]』1989年11月号 - 1995年6月号、[[てんとう虫コミックス]] 全18巻) ** 炎の闘球女 ドッジ弾子(『[[週刊コロコロコミック]]』2022年11月28日<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/502969|title=「炎の闘球児 ドッジ弾平」の娘が令和に奮闘する続編開幕!前作の全巻無料公開も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-11-28|accessdate=2022-11-28}}</ref> - ) * [[爆走兄弟レッツ&ゴー!!]](『月刊コロコロコミック』1994年7月号 - 1997年11月号、てんとう虫コミックス 全13巻) ** 爆走兄弟レッツ&ゴー!!MAX(『月刊コロコロコミック』1998年1月号 - 1999年10月号、てんとう虫コミックス 全7巻) ** 爆走兄弟レッツ&ゴー!! Return Racers!!(2014年 - 2021年、『[[コロコロアニキ]]』第1号 - 2021年春号→コロコロオンライン、てんとう虫コミックス 全6巻) ** レッツ&ゴー!! 翼 ネクストレーサーズ伝(2017年 - 2021年、『[[コロコロイチバン!]]』2017年10月号 - 2021年3月号、てんとう虫コミックス 全5巻) * [[GET THE GOAL!! 4V4嵐]](『月刊コロコロコミック』2000年3月号 - 2001年12月号、全4巻) * [[かっとびレーサー!ダンガン狼]](『月刊コロコロコミック』2004年4月号 - 2005年10月号、全3巻) * 最強番犬ガオー(『コロコロイチバン!』9号〈2006年9月号〉 - 14号〈2007年7月号〉) * ゴールゲッター勇斗(2007年4月 - 2008年3月、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学二年生]]』・『月刊コロコロコミック』2007年4月 - 2008年3月、てんとう虫コミックスペシャル 全1巻) * 獣神伝 -勇者と希望のカード-(『コロコロイチバン!』15号〈2007年9月号〉 - 21号〈2008年9月号〉) * [[ヤッターマン (2008年のテレビアニメ)|ヤッターマン]](『小学一年生』、『小学二年生』、『小学三年生』2008年 - 2009年、てんとう虫コミックスペシャル 全2巻) * [[イナズマイレブン]]シリーズ(原案協力:利田浩一、原作・監修:[[レベルファイブ]]、『コロコロイチバン!』2010年3月号 - 2014年4月号) ** イナズマイレブン爆外伝集(全2巻) ** [[イナズマイレブンGO]] 爆外伝集(全3巻) * [[トイ・ストーリーシリーズ]](2010年 てんとう虫コミックススペシャル [[ディズニー]]コミックス) == 短期連載など == * 妖怪戦士チビおに(<!--全話数不明-->『[[別冊コロコロコミック]]』1988年12月、1989年2月号) * 超球児ガオー!!(『別冊コロコロコミック』1993年8月号 - 10月号) * サッカーキッド(『別冊コロコロコミック』1994年) * ガンガン!頑太(全2話、『[[コミックGOTTA|ハイパーコロコロ]]』1999年春号、夏号) * [[カスタムロボ]](『別冊コロコロコミック』1999年8月号 - 12月号) * [[カスタムロボV2]](全3話、『別冊コロコロコミック』2001年2月号 - 2001年6月号) * 妖怪ハンタージンタ!(全2話、『コロコロコミック』2002年1月号、2月号) * [[ドッジファイター一撃!]](全3話、『コロコロコミック』2002年12月号 - 2003年2月号) * つっぱれ!番太(『[[コロコロイチバン!]]』2006年3月号) * 熱血!ミニ四駆スクール!!(『小学三年生』2009年4月号 - 2011年3月号) * ミニ四バトラー牙(『小学四年生』2010年4月号 - 2011年3月号) * ミニ四駆ちょうさ隊(『小学三年生』2011年4月号 - 2012年3月号) * ガッツリ!ミニ四駆劇場(『小学四年生』2011年4月号 - 2012年3月号) * イナズマイレブンGO(原作:レベルファイブ、『[[てれびくん]]』2012年3月号、2012年7月号) * イナズマイレブンGO化身ひみつ全百科(2012年5月) * イナズマイレブンGO2 クロノストーン(原作:レベルファイブ、『てれびくん』2013年1月号) == ゲーム == * サッカーキッド([[スーパーファミコン]]、[[やのまん]]、1993年) * ヤムヤム(スーパーファミコン、[[バンダイ]]、1995年) == 商品デザイン == * [[タミヤ]] [[フルカウルミニ四駆]]シリーズ/[[エアロミニ四駆]]シリーズ/[[リアルミニ四駆]]シリーズ/[[ミニ四駆PRO]]シリーズ「バイソンマグナム」、「ロデオソニック」、「トライダガーXX」 == ドラマCD == * 爆走兄弟レッツ&ゴー!! 超青春ドラマCD(2017年、原案・イラスト) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こした てつひろ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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こせきこうじ
こせき こうじ(1959年2月5日 - )は、日本の漫画家。千葉県八街市出身。 1978年、『ああ一郎』が第16回手塚賞準入選(同期受賞者に門馬もとき)、1980年より同作品でデビュー。 代表作に『ペナントレース やまだたいちの奇蹟』、『県立海空高校野球部員山下たろーくん』など。
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こせき こうじは、日本の漫画家。千葉県八街市出身。 1978年、『ああ一郎』が第16回手塚賞準入選(同期受賞者に門馬もとき)、1980年より同作品でデビュー。 代表作に『ペナントレース やまだたいちの奇蹟』、『県立海空高校野球部員山下たろーくん』など。
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758
小谷憲一
小谷 憲一(こたに けんいち、1954年2月10日 - )は、日本の漫画家。京都府宮津市出身。血液型はAB型。 宮津市で生まれ、小学生の頃までは漫画らしい絵を描く程度で中学・高校の頃も漫画を時々読む程度であり、漫画執筆とはおよそ縁の遠い少年時代だった。高校卒業後、絵を描くことが好きだったことから京都市のデザインスタジオに就職する。しかし講師の指導内容に納得が行かず、従わない事がしばしばあった。結果、19歳の時に講師と喧嘩になり「東京へ行って勉強して来い」と言われ、スタジオを追い出される。 追い出された当初は漫画の道に進む事も考えていたが、親の反対と親戚が清水焼の職人をしていた事もあって一時は陶芸の道に進む。だが、どうしてもデザイン(描く仕事)がしたかった小谷は、全財産の8万円を持って東京へ飛び出す。親の支援も無く、小谷は背水の陣の思いの中での決意だった。 東京に出てきた当初は、銀座のクラブで働きながら漫画を描き、時に投稿などを行うという生活を送っていた。そんな生活を送る中、22歳の時に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に掲載されていた手塚プロダクションのアシスタント募集の広告を目にし応募、採用されアシスタントの一員となる。手塚プロには1年ほど在籍しており、小谷にとっては実り多い時期であったが、「自分の目指す絵の方向性と異なるのではないか」という考えと、「保障された生活では甘えが出るため自分を追い込みたい」との考えにより手塚プロを離れ、再び銀座のクラブで働きながら、他の漫画家のアシスタントや漫画の投稿などを行う生活に戻る。 編集者との縁もあって、小谷が23歳の時に『週刊少年ジャンプ』(集英社)1977年20号にて読切作品「山犬狩り」が掲載されデビュー。翌1978年には『週刊少年ジャンプ』37号に読切作品「黒獅子魂」を掲載し、同年同誌43号から1979年2号まで掲載された『渡り教師』(原作:高山芳紀)での連載デビューを経て、『週刊少年ジャンプ』1979年31号より代表作『テニスボーイ』(原作:寺島優)の連載を始める。以後、『週刊少年ジャンプ』や『月刊少年ジャンプ』、『スーパージャンプ』等の集英社の漫画雑誌を中心に執筆活動を続けている。
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小谷 憲一は、日本の漫画家。京都府宮津市出身。血液型はAB型。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 小谷 憲一 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[京都府]][[宮津市]]<ref name="日本漫画学院" /> | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1955|2|10}}<ref name="日本漫画学院" /> | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1977年]]<ref name="日本漫画学院" /><ref name="ジャンプ1977年" /> - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[テニスボーイ]]』<br />『DESIRE』など | 受賞 = | 公式サイト = }} '''小谷 憲一'''(こたに けんいち、[[1954年]][[2月10日]]<ref name="日本漫画学院">{{Cite web|和書|url=http://www.manga-g.co.jp/interview/2009/int09-02.html |title=小谷憲一先生インタビュー/2009年2月号 |website=日本漫画学院Web |publisher=[[日本漫画学院]] |accessdate=2011-05-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111021024314/http://www.manga-g.co.jp/interview/2009/int09-02.html |archivedate=2011-10-21 |deadlinkdate=2022-04-02}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[京都府]][[宮津市]]出身<ref name="日本漫画学院" />。[[血液型]]はAB型<ref name="日本漫画学院" />。 == 経歴 == 宮津市で生まれ<ref name="日本漫画学院" />、小学生の頃までは漫画らしい絵を描く程度で中学・高校の頃も漫画を時々読む程度であり、漫画執筆とはおよそ縁の遠い少年時代だった<ref name="日本漫画学院" />。高校卒業後、絵を描くことが好きだったことから[[京都市]]のデザインスタジオに就職する<ref name="日本漫画学院" />。しかし講師の指導内容に納得が行かず、従わない事がしばしばあった<ref name="日本漫画学院" />。結果、19歳の時に講師と喧嘩になり「東京へ行って勉強して来い」と言われ、スタジオを追い出される<ref name="日本漫画学院" />。 追い出された当初は漫画の道に進む事も考えていたが、親の反対と親戚が清水焼の職人をしていた事もあって一時は陶芸の道に進む<ref name="日本漫画学院" />。だが、どうしてもデザイン(描く仕事)がしたかった小谷は、全財産の8万円を持って東京へ飛び出す<ref name="日本漫画学院" />。親の支援も無く、小谷は背水の陣の思いの中での決意だった<ref name="日本漫画学院" />。 東京に出てきた当初は、銀座のクラブで働きながら漫画を描き、時に投稿などを行うという生活を送っていた<ref name="日本漫画学院" />。そんな生活を送る中、22歳の時に『[[週刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])に掲載されていた[[手塚プロダクション]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]募集の広告を目にし応募、採用されアシスタントの一員となる<ref name="日本漫画学院" />。手塚プロには1年ほど在籍しており、小谷にとっては実り多い時期であったが、「自分の目指す絵の方向性と異なるのではないか」という考えと、「保障された生活では甘えが出るため自分を追い込みたい」との考えにより手塚プロを離れ、再び銀座のクラブで働きながら、他の漫画家のアシスタントや漫画の投稿などを行う生活に戻る<ref name="日本漫画学院" />。 編集者との縁もあって、小谷が23歳の時に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])[[1977年]]20号にて読切作品「山犬狩り」が掲載されデビュー<ref name="日本漫画学院" /><ref name="ジャンプ1977年">[http://www.biwa.ne.jp/~starman/1977/1977jump.htm 1977年週刊少年ジャンプ] 2011年5月13日閲覧。</ref>。翌[[1978年]]には『週刊少年ジャンプ』37号に読切作品「黒獅子魂」を掲載<ref name="ジャンプ1978年">[http://www.biwa.ne.jp/~starman/1978/1978jump.htm 1978年週刊少年ジャンプ] 2011年5月13日閲覧。</ref>し、同年同誌43号から[[1979年]]2号まで掲載された『渡り教師』(原作:[[高山よしのり|高山芳紀]])での連載デビュー<ref name="ジャンプ1978年" /><ref>[http://www.biwa.ne.jp/~starman/1979/1979jump.htm 1979年週刊少年ジャンプ] 2011年5月13日閲覧。</ref>を経て、『週刊少年ジャンプ』1979年31号より代表作『[[テニスボーイ]]』(原作:[[寺島優]])の連載を始める<ref name="日本漫画学院" />。以後、『週刊少年ジャンプ』や『[[月刊少年ジャンプ]]』、『[[スーパージャンプ]]』等の集英社の漫画雑誌を中心に執筆活動を続けている。 == 作品リスト == === 漫画作品 === * 山犬狩り([[週刊少年ジャンプ]] 1977年20号、読切) * 黒獅子魂(週刊少年ジャンプ 1978年37号、読切) * 渡り教師(原作:[[高山よしのり|高山芳紀]]、週刊少年ジャンプ 1978年43号 - 1979年2号、全1巻) * [[テニスボーイ]](原作:[[寺島優]]、週刊少年ジャンプ 1979年31号 - 1982年9号、全14巻、JCS版全9巻、文庫版全9巻) * ウイニング・ショット(原作:寺島優、週刊少年ジャンプ 1982年21号 - 1982年43号、全3巻) * OH! GAL(週刊少年ジャンプ 1980年12号、読切) * [[スキャンドール]](週刊少年ジャンプ 1983年3号 - 1983年39号、全4巻、JSA版全3巻) * KID(週刊少年ジャンプ 1984年22号 - 1984年40号、全2巻) * ウルフにKISS(原作:寺島優、週刊少年ジャンプ 1985年39号 - 1985年51号、全2巻) * 気ままにアイドル([[月刊バーズ|コミックバーガー]] 創刊号(1986年11月) - 1990年、全7巻、ホーム社版全5巻) * [[ホールドアップ☆キッズ]]([[月刊少年ジャンプ]]、1986年 - 1990年、全11巻) * 17ANS([[スーパージャンプ]] 1990年10月号 - 1995年24号、全14巻) * Doubles(月刊少年ジャンプ、1991年 - 1992年、全2巻) * SHOW!(スーパージャンプ 1996年9号 - 1997年1号、全2巻) * DESIRE(スーパージャンプ 1997年10号 - 2006年8号、全25巻) ** DESIRE 2nd season(スーパージャンプ 2006年17号 - 2010年5号、全7巻) ※月1回連載 ** DESIRE web season * そして、僕は君に還る(スーパージャンプ 2010年10号 - 2011年1号、全2巻) === 短編集などの書籍 === * 小谷憲一短編集1 ショッキングMOMOKO(1991年9月、[[集英社]]、全1巻) * 小谷憲一セレクション(1999年12月、集英社、全1巻) * DESIRE-the best shot―KEN-ICHI KOTANI ILLUSTRATRAIONS(2001年12月、集英社、全1巻) - 『DESIRE』のイラスト集。 * DESIRE Premium Collection(2007年3月 - 7月、集英社、全5巻) - 『DESIRE』の傑作選。 == 関連作品 == * [[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜]](2009年、[[秋田書店]]) - アシスタント時代の小谷が登場。 * ブラック・ジャックREAL〜感動の医療体験談〜(2013年、秋田書店) - 実話を元にしたストーリーに、手塚治虫のアシスタント経験者らが絵を描いた作品集。小谷も1編を担当。 == アシスタント == * [[浅田弘幸]]<ref>[https://natalie.mu/comic/artist/2188 コミックナタリー 浅田弘幸プロフィール]</ref> * [[柴山薫]]<ref>[http://page.freett.com/kaorushibayama/column/index.htm 柴山薫ファンサイト内に投稿された柴山薫自身によるコラム]の中の「ライバル誕生」にて、小谷のアシスタントを務めていた事を明かしている。(2011年5月13日閲覧){{リンク切れ|date=2022年4月}}</ref> * [[玉木美孝]] - 浅田の紹介により、アシスタントを務めた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sega.jp/archive/creators/vol_17/1.html |title=開発者インタビュー「Creators Note」#17 玉木 美孝 |website=セガ 公式サイト |publisher=[[セガ]] |accessdate=2011-05-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080517150740/http://sega.jp/archive/creators/vol_17/1.html |archivedate=2008-05-17 |deadlinkdate=2013-07-03}}</ref>。 * [[中嶋ちずな]] - 5年ほど、小谷のもとでアシスタントを務めた<ref>本人HP日記の[[インターネットアーカイブ]]上の記録より。[https://web.archive.org/web/20080109031451/http://guranitto.zombie.jp/nikki.html 2008年1月5日付の日記]にてアシスタントを務めていた事を明かしている。2011年5月13日閲覧。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こたに けんいち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]]
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小手川ゆあ
小手川 ゆあ(こてがわ ゆあ、1月12日 - )は、日本の女性漫画家である。大分県出身、熊本県熊本市育ち。血液型はO型。代表作に『おっとり捜査』、『死刑囚042』、『ARCANA』など。 1995年、「週刊ヤングジャンプ増刊・漫革」9/5号に『おっとり捜査』を初掲載。その後何回かの読み切りを掲載した後、1996年の「週刊ヤングジャンプ」33号にて連載開始。「漫革」1997年9/26号より増刊不定期連載へ移行し、「別冊ヤングジャンプ」2000年8/15号にて最終回を迎える。同年「月刊少年エース」9月号で『Anne・Freaks』を連載開始。また、同時期に「週刊ヤングジャンプ」にて月イチ連載として『ARCANA』を連載開始。その後、2002年から「週刊ヤングジャンプ」にて『死刑囚042』を単発的に連載し、2004年に完結する。2007年には歌人・枡野浩一の小説が原作の『ショートソング』を「スーパージャンプ」にて連載。2009年から2013年にかけて「スーパージャンプ」、後「グランドジャンプPREMIUM」にて『君のナイフ』を連載。 デビュー作である『おっとり捜査』は今も根強い人気を誇る。また『死刑囚042』は死刑囚を通じて生と死を描いた彼女の新たな代表作となった。 漫画家の仙道ますみ、竹田エリと交友がある。竹田エリには『おっとり捜査』や『ARCANA』の巻末に四コマ漫画を描いてもらっている。
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小手川 ゆあは、日本の女性漫画家である。大分県出身、熊本県熊本市育ち。血液型はO型。代表作に『おっとり捜査』、『死刑囚042』、『ARCANA』など。
{{存命人物の出典皆無|date=2021年6月}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 小手川 ゆあ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = [[1月12日]] |生地 = [[大分県]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]] |称号 = |活動期間 = [[1995年]] - 現在 |ジャンル = |代表作 =『[[おっとり捜査]]』<br />『[[死刑囚042]]』<br />『[[ARCANA]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''小手川 ゆあ'''(こてがわ ゆあ、[[1月12日]] - )は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]である。[[大分県]]出身、[[熊本県]][[熊本市]]育ち。血液型は[[O型]]。代表作に『[[おっとり捜査]]』、『[[死刑囚042]]』、『[[ARCANA]]』など。 == 来歴 == [[1995年]]、「週刊ヤングジャンプ増刊・[[漫革]]」9/5号に『[[おっとり捜査]]』を初掲載。その後何回かの読み切りを掲載した後、[[1996年]]の「[[週刊ヤングジャンプ]]」33号にて連載開始。「漫革」1997年9/26号より増刊不定期連載へ移行し、「別冊ヤングジャンプ」[[2000年]]8/15号にて最終回を迎える。同年「[[月刊少年エース]]」9月号で『[[Anne・Freaks]]』を連載開始。また、同時期に「週刊ヤングジャンプ」にて月イチ連載として『[[ARCANA]]』を連載開始。その後、[[2002年]]から「[[週刊ヤングジャンプ]]」にて『[[死刑囚042]]』を単発的に連載し、[[2004年]]に完結する。[[2007年]]には[[歌人]]・[[枡野浩一]]の小説が原作の『[[ショートソング]]』を「[[スーパージャンプ]]」にて連載。[[2009年]]から[[2013年]]にかけて「スーパージャンプ」、後「[[グランドジャンプPREMIUM]]」にて『[[君のナイフ]]』を連載。 デビュー作である『おっとり捜査』は今も根強い人気を誇る。また『死刑囚042』は死刑囚を通じて生と死を描いた彼女の新たな代表作となった。 [[漫画家]]の[[仙道ますみ]]、[[竹田エリ]]と交友がある。竹田エリには『おっとり捜査』や『ARCANA』の巻末に四コマ漫画を描いてもらっている。 == 作品リスト == {{節スタブ|date=2013年11月}} === 漫画 === * [[おっとり捜査]] 全10巻 * [[ARCANA#読み切り版『ARCANA』|ARCANA(読切)]] * Silent * [[Anne・Freaks]] 全4巻 * [[ARCANA]] 全2巻 * SUSPECTS - 単行本未収録。 * [[ライン (漫画)|ライン]] 全1巻 * [[死刑囚042]] 全5巻 * [[ショートソング]] 全2巻 * [[君のナイフ]] 全10巻 * [[BORDER (金城一紀)|BORDER]] Between life and death - 原作担当は[[金城一紀]]。全4巻 * LICENSE ライセンス 全4巻 * 殺人プルガトリウム 全3巻 === ゲーム === * [[電幻天使対戦麻雀 シャングリラ]](1999年)キャラクターデザイン === イラスト・挿絵 === * 青空の下の密室 ―着流し探偵事件帖([[村瀬継弥]]/著、[[富士見ミステリー文庫]]、富士見書房、2001年8月){{ISBN2|978-4829161340}} * 白いブランコの鎮魂曲 ―着流し探偵事件帖(村瀬継弥/著、富士見ミステリー文庫、富士見書房、2002年3月){{ISBN2|978-4829161562}} === カバーイラスト === * 『たましくるイタコ千歳のあやかし事件帖 』([[堀川アサコ]]) * 『魔所―イタコ千歳のあやかし事件帖2―』(堀川アサコ) === その他 === * [[リーガル・ハイ#第2期|リーガルハイ]] 第2話(2013年10月16日、フジテレビ) - 漫画『破壊の天才』作画 == 外部リンク == * {{Twitter|kotegawayua}} * {{Wayback|url=http://www.kotegawayua.jp/|title=小手川ゆあの極楽刑務所|date=20170928063449}} - 公式サイト * {{Wayback|url=http://www.ask.ne.jp/~yua/|title=マーダーズ ゲート|date=20010404075140}} - 旧公式サイト {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:こてかわ ゆあ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大分県出身の人物]] [[Category:熊本市出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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小林まこと
小林 まこと(こばやし まこと、1958年〈昭和33年〉5月13日 - )は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。本名:小林誠。主に講談社の漫画雑誌にて執筆。プロレス、格闘技好きで知られる。 郷里では小ん林(こんばやし)と呼ばれる。歌手の小林幸子とは親戚に当たる。 小学生の頃から漫画を200ページほどペン入れしていたが、楳図かずおの影響が濃い少女漫画風恐怖漫画ばかりだった。作品タイトルには野山の遊び相手の一人であるヘビの名ばかりを使い、作品の主題歌まで作っていた。 黒埼町立(現:新潟市立)黒埼中学校時代も続けてヘビの名を使った作品を描き、その作品で『りぼん』の新人賞に応募して努力賞に入賞、その賞金5千円で学生服を買う。 新潟県立新潟商業高等学校時代は柔道部に入り、その経験が『格闘三兄弟』『柔道部物語』など後の作品に生きた。柔道を続けながら、やはりヘビの名を使った144ページの怪奇物の大作『シロマダラ』を描き、高校2年生の時小学館に持ち込む。この作品はプロデビュー後に編集者の栗原良幸に見込まれ、描き直しを経て「月刊少年マガジン」で大々的に連載したが、無理なスケジュールが祟って中断となった。 高校卒業後には上京し、望月三起也に頭を下げてアシスタントにしてもらったものの、本人曰く仕事が「きつい」とのことから2か月で退職した。漫画以外のアルバイトを1か月続けてはきつくて辞めるを繰り返す間に描きあげた怪奇物の作品を各誌に持ち込むが、どこにも採用されなかったため、小学生時代から描き続けてきた恐怖漫画を断念する。 そこで開き直って、音楽バンドをテーマにしたコメディ漫画『格闘三兄弟』を、子供の頃から好きだった「週刊少年マガジン」に持ち込むと、編集者の工富保にそのキャラクターを見込まれる。そして、工富に話した「高校時代、柔道部の試合でブレーンバスターをかけられて負けた」という実体験をヒントに、格闘技をテーマにして新たに描き直した『格闘三兄弟』で第20回週刊少年マガジン新人漫画賞に応募する。この時の「週刊少年マガジン」は創刊1000号記念で、賞金が普段の30万円から、100万円+ステレオセットというビッグプライズになっていた。当初小野新二が有利と見られていたが、小林の応募で受賞者選びは難航した。最後は決選投票で小林の入選(1位)が決まり、1978年に同誌でデビューを果たした。 『格闘三兄弟』掲載後、引き続き同誌でこの作品の主要キャラクター達を登場人物とした『1・2の三四郎』の連載を始める。この作品で、1982年に第5回講談社漫画賞少年部門を、『週刊少年マガジン』連載の漫画家としては史上最年少の23歳で受賞した。1995年には、市川徹監督、佐竹雅昭主演により映画化されている。 『What's Michael?』は、アニメ化・CM・テレビドラマ化されるだけでなく、日本国外にも輸出されるほどのヒット作となり、1987年に第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。 体力的な問題で一時期漫画家を引退していたが、『JJM 女子柔道部物語』の執筆のために復帰した。
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小林 まことは、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。本名:小林誠。主に講談社の漫画雑誌にて執筆。プロレス、格闘技好きで知られる。
{{別人|小林誠|小林真|小林眞}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 小林 まこと | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 小林 誠<br/>(こばやし まこと) | 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1958|5|13}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1958|5|13|****|**|**}} --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1978年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[1・2の三四郎]]』<br/>『[[ホワッツマイケル|What's Michael?]]』<br/>『[[柔道部物語]]』 | 受賞 = 第5回[[講談社漫画賞]]少年部門(『[[1・2の三四郎]]』)<br/>第10回講談社漫画賞一般部門(『[[ホワッツマイケル|What's Michael?]]』) | サイン = | 公式サイト = http://www.konbayashi.com }} '''小林 まこと'''(こばやし まこと、[[1958年]]〈[[昭和]]33年〉[[5月13日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]][[新潟市]]出身。本名:'''小林誠'''。主に[[講談社]]の漫画雑誌にて執筆。[[プロレス]]、[[格闘技]]好きで知られる。 == 経歴 == ===生い立ち=== 郷里では小ん林(こんばやし)と呼ばれる。歌手の[[小林幸子]]とは親戚に当たる<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1412/18/news171.html|title=漫画家・小林まことの公式Webサイトがオープン、意外な一面も?|newspaper=ITmedia eBook USER|publisher=アイティメディア|date=2014-12-18|accessdate=2023-01-24}}</ref>。 小学生の頃から漫画を200ページほどペン入れしていたが、[[楳図かずお]]の影響が濃い[[少女漫画]]風恐怖漫画ばかりだった{{efn2|少女漫画だったのは漫画好きの友人の影響である。}}。作品タイトルには野山の遊び相手の一人であるヘビの名ばかりを使い、作品の主題歌まで作っていた。 [[黒埼町]]立(現:新潟市立)黒埼中学校時代も続けてヘビの名を使った作品を描き、その作品で『[[りぼん]]』の新人賞に応募して努力賞に入賞、その賞金5千円で学生服を買う。 [[新潟県立新潟商業高等学校]]時代は柔道部に入り、その経験が『格闘三兄弟』『[[柔道部物語]]』など後の作品に生きた<ref name="ashihara">{{Cite interview|和書|subject= 青春・柔道部物語|interviewer= |title= 漫画家・小林まことさん(昭和52年卒業)に聞く 完全版|url= http://ashiwara.jp/kaihou/vol53/08-1.html|work=新潟県立新潟商業高等学校 葦原同窓会|date= |accessdate=2015-09-10}}</ref>。柔道を続けながら、やはりヘビの名を使った144ページの怪奇物の大作『シロマダラ』を描き、高校2年生の時[[小学館]]に持ち込む。この作品はプロデビュー後に編集者の栗原良幸に見込まれ、描き直しを経て「[[月刊少年マガジン]]」で大々的に連載したが、無理なスケジュールが祟って中断となった。 ===上京後=== 高校卒業後には上京し、[[望月三起也]]に頭を下げて[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]にしてもらったものの、本人曰く仕事が「きつい」とのことから2か月で退職した。漫画以外のアルバイトを1か月続けてはきつくて辞めるを繰り返す間に描きあげた怪奇物の作品を各誌に持ち込むが、どこにも採用されなかったため、小学生時代から描き続けてきた恐怖漫画を断念する<ref name="ashihara"/>。 そこで開き直って、音楽バンドをテーマにしたコメディ漫画『格闘三兄弟』を、子供の頃から好きだった「[[週刊少年マガジン]]」に持ち込むと、編集者の[[工富保]]にそのキャラクターを見込まれる。そして、工富に話した「高校時代、柔道部の試合で[[ブレーンバスター]]をかけられて負けた」という実体験をヒントに、[[格闘技]]をテーマにして新たに描き直した『格闘三兄弟』で第20回[[週刊少年マガジン新人漫画賞]]に応募する{{efn2|この頃のコメディ作品には、『[[いなかっぺ大将]]』など[[川崎のぼる]]の影響が見られる。}}。この時の「週刊少年マガジン」は創刊1000号記念で、賞金が普段の30万円から、100万円+ステレオセットというビッグプライズになっていた。当初[[小野新二]]が有利と見られていたが、小林の応募で受賞者選びは難航した。最後は決選投票で小林の入選(1位)が決まり、[[1978年]]に同誌でデビューを果たした{{efn2|小林によると、小野は後々まで「どうせ俺は(佳作だから)10万円とテレビゲーム」と皮肉っていたという。佳作同期にはもろが卓(ガスコン金矢)がいた。また、小野と共に「新人三バカトリオ」と呼ばれることになる、[[大和田夏希]]もこの賞を狙っていたが、原稿が間に合わなかった。}}。 ===1・2の三四郎・ホワッツマイケルが大ヒット=== 『格闘三兄弟』掲載後、引き続き同誌でこの作品の主要キャラクター達を登場人物とした『[[1・2の三四郎]]』の連載を始める。この作品で、[[1982年]]に第5回[[講談社漫画賞]]少年部門を、『週刊少年マガジン』連載の漫画家としては史上最年少の23歳で受賞した。[[1995年]]には、[[市川徹]]監督、[[佐竹雅昭]]主演により映画化されている。 『[[ホワッツマイケル|What's Michael?]]』は、アニメ化・[[コマーシャルメッセージ|CM]]・[[テレビドラマ]]化されるだけでなく、日本国外にも輸出されるほどのヒット作となり、[[1987年]]に第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。 ===近年の活動=== 体力的な問題で一時期漫画家を引退していたが、『[[JJM 女子柔道部物語]]』の執筆のために復帰した<ref>{{Cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2102515/full/|title=引退から復帰、漫画家・小林まことが『女子柔道部物語』制作秘話を語り尽くす|newspaper=ORICON NEWS|publisher=oricon ME|date=2017-12-18|accessdate=2023-01-24}}</ref>。 == 作品リスト == * 格闘三兄弟([[1978年]]、[[週刊少年マガジン]]、[[講談社]]) - 第20回新人漫画賞入選 * [[1・2の三四郎]]([[1978年]] - [[1983年]]、週刊少年マガジン) * シロマダラ([[1979年]] - [[1980年]]、[[月刊少年マガジン]]、講談社)- 未完 * それいけ岩清水([[1980年]] - [[1981年]]、月刊少年マガジン) * ビジェ~ンのテーマ([[1981年]]、月刊少年マガジン) - 読み切り * いらっしゃいませ([[1982年]]、[[週刊ヤングマガジン]]、講談社) - 読み切り * 闘魂プロダクション([[1982年]] - [[1983年]]、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、講談社) * I am マッコイ([[1983年]] - [[1985年]]、[[マガジンSPECIAL]]、講談社) * マンガの描き方([[1983年]] - [[1984年]]、モーニング) * 雪女([[1984年]]、週刊少年マガジン) - 読み切り * [[ホワッツマイケル|What's Michael?]]([[1984年]] - [[1989年]]、モーニング) * 柔道部物語([[1985年]]、週刊ヤングマガジン)- 読み切り * 小林まこと写真集([[1985年]]、モーニング)- 読み切り * [[柔道部物語]]([[1985年]] - [[1991年]]、週刊ヤングマガジン) * マイケルのでんぐりがえり([[1988年]]、コミック絵本モーニング、講談社) * 男の裏町([[1988年]]、週刊ヤングマガジン)- 読み切り * へば!ハローちゃん([[1991年]] - [[1994年]]、[[ミスターマガジン]]、講談社) * [[ガブリン]]([[1992年]] - [[1994年]]、[[mimi]]、講談社)- 未完 * [[1・2の三四郎 2]]([[1994年]] - [[1998年]]、週刊ヤングマガジン) - 1・2の三四郎の続編 * ちちょんまんち([[1998年]] - [[2002年]]、[[ヤングマガジンアッパーズ]]、講談社) ** 天国への階段 - 上記を加筆・再構成した作品(講談社KCDX、全4巻、2004年)。 * ホワッツマイケル 9巻め([[2001年]] - [[2002年]]、[[イブニング]]、講談社) * [[格闘探偵団]]([[2002年]] - [[2005年]]、イブニング)- 1・2の三四郎2の続編 * [[ガブリン]]([[2006年]] - [[2007年]]、[[コミックボンボン]]、講談社)- リメイク版、未完 * [[青春少年マガジン1978〜1983]]([[2008年]]、週刊少年マガジン) * ワイルド7トリビュート([[2009年]]、[[ヤングキング]]、[[少年画報社]])- 読み切り * ベイカー街少年探偵団(イラスト) * 劇画・長谷川伸シリーズ(原作:[[長谷川伸]]) **[[関の弥太っぺ#漫画|関の弥太ッペ]]([[2009年]]、イブニング) ** [[沓掛時次郎#漫画版|沓掛時次郎]]([[2010年]]、イブニング) ** [[一本刀土俵入り|一本刀土俵入]]([[2011年]] - [[2012年]]、イブニング) ** [[瞼の母#漫画化作品|瞼の母]]([[2013年]] -[[2014年]] 、イブニング) * JJM 女子柔道部物語([[2016年]] - 、イブニング→[[コミックDAYS]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/514631|title=イブニングが23年間の歴史に幕、最終号に「アザゼルさん。」「ギャングキング」読み切り|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-02-28|accessdate=2023-02-28}}</ref>) - 日本女子柔道界で初のオリンピック金メダリストとなった[[恵本裕子]]をモデルにしたもの == その他 == * 1979年頃に[[小野新二]]が結婚した際、その二次会会場でアルバイトをしていた女性が、小林の妻となっている。 * 『1・2の三四郎』連載開始後すぐ、遅筆の漫画家として知られるようになる。自伝漫画の『青春少年マガジン』によると、週刊漫画を1話描くのに8日を要し、連載中に穴を開けることも珍しくなく、それが休載扱いでなく誌面で堂々とネタになるほどであった。本当に病気で休載したのは、『シロマダラ』が連載不可能になった時だけであるという。他にも新人賞や講談社漫画賞の授賞式で遅刻をしている。一時は[[江口寿史]]に次ぐ「日本で2番目に締切を守らない漫画家」の名を譲らなかったが、その後は執筆作品の移行などにより、最も酷かった時期からは立ち直っている。 * その作風から豪快で饒舌な人物と思われがちだが、実際は沈思黙考するタイプである。 * 趣味はバンド活動、昭和30年代の映画を観ること、壊れやすい車に乗ることという。 * 『青春少年マガジン』では、小学校時代から『三四郎』連載中まで多数の資料が発掘されており、物は比較的捨てずにためる主義である人物であることがわかる。 * ベーシストとしても活動しており、2014年には全曲を自身で作曲したオールインストゥルメンタルのCDアルバム「[http://konbayashi.com/?page_id=78 KONBAYASHI 1]」を発売。 == 師匠 == * [[望月三起也]] == アシスタント == * [[こしばてつや]] * [[しげの秀一]] - 臨時として1日だけ小林のアシスタントをしたことがある。小林は当時、しげのを年下と思っていた。 * 木山道明 * [[高橋和男]] * 羽田伊吹 == 関連項目 == * [[のら猫どらスケの夢]] - 映像のキャラクターデザインを手掛けた == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://konbayashi.com/ KONBAYASHI LAND] - 小林まこと公式ウェブサイト * {{facebook|100009638707099}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こはやし まこと}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:1958年生]] [[Category:存命人物]]
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小山ゆう
小山 ゆう(こやま ゆう、本名:大竹 由次(おおたけ よしじ)、男性、1948年2月20日 - )は、日本の漫画家。静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)出身。 代表作は『がんばれ元気』『お〜い!竜馬』『あずみ』など。『がんばれ元気』『おれは直角』『お〜い!竜馬』はテレビアニメ化され、『あずみ』は上戸彩主演で映画化された。 ペンネームの「小山ゆう」は、恩人である小池一夫の「小」、友人の山本又一朗の「山」、そして自身の本名である由次(よしじ)の「ゆう」を組み合わせたものである。 静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)で専業農家の長男として出生。静岡県立島田商業高等学校卒業後、作曲家を目指して上京した。上京まで漫画はほとんど読まず、興味も薄かったという。 上京後、新聞広告で見て入ったアニメ制作会社のテレビ動画株式会社でアニメーターのアルバイトを1年ほどする。休憩時間中にさいとう・たかをの『無用ノ牙』の模写をしていたのがきっかけで、1968年にさいとう主宰の「さいとう・プロダクション」を紹介され。アシスタントとして漫画の世界へ入り、漫画家を目指す決意をする。3年半後、さいとうプロの友人だった山本又一朗とやまさき拓味と3人でオリオンプロを設立し、キャラクター商品のデザインや挿絵やカットの仕事を請け負うも1年半で廃業。1971年、漫画の仕事をするため、先にさいとうプロを独立していた小池一夫のスタジオシップ(現・小池書院)へ3人で移籍した。 1973年、『週刊少年サンデー』に掲載の『おれは直角』でデビュー。ペーソス溢れる作中のギャグ調の描写で人気作となる。同作連載終了後の1976年にスタジオシップを退社。 1976年から『週刊少年サンデー』誌上で連載開始した、ボクシング漫画『がんばれ元気』では一転してギャグを使わず、少年の成長物語を描いた。同作は5年間の長期連載作となり、1977年には第22回小学館漫画賞少年少女部門を受賞。そして、1980年に自身初のテレビアニメ化作品になった。このころ、『週刊少年ジャンプ』の西村繁男編集長や本宮ひろ志に見込まれ、手塚賞の審査員を務めたが、引き抜きには応じなかった。 1980年代はディストピアSF漫画『愛がゆく』、スピリチュアル陸上漫画『スプリンター』、青春ファンタジー漫画『チェンジ』などで異彩を放っていたが、『少年ビッグコミック』が青年漫画誌『ヤングサンデー』へリニューアルし、久々に『週刊少年サンデー』で連載した『少年』が不可解な打ち切りになるなど、少年漫画誌の地殻変動を受けたこともあり、1990年代に入ると『ビッグコミック』系の青年漫画誌へホームグラウンドを移していく。 1986年から1996年にかけて、大好きだという坂本龍馬を主人公とした『お〜い!竜馬』を武田鉄矢を原作担当に迎えて連載。 1991年には『おれは直角』が、1992年には『お〜い!竜馬』がそれぞれテレビアニメ化された。 1994年から『ビッグコミックスペリオール』誌上で連載開始した『あずみ』は、長年の念願だったというチャンバラの時代劇漫画だった。同作で1998年に、第43回小学館漫画賞青年一般部門と第1回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞。さらに2003年と2005年には旧友の山本又一朗のプロデュースにより映画化されるなど、続編も含めてシリーズ合計66巻の大長編となった。
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小山 ゆうは、日本の漫画家。静岡県小笠郡菊川町(現・菊川市)出身。
{{別人|小林ゆう}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 小山 ゆう | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 大竹 由次<br />おおたけ よしじ<ref name="FPD">『Fusion Product 創刊号』ふゅーじょんぷろだくと、1981年7月。PP152-153。</ref> | 生地 = {{JPN}}・[[静岡県]][[小笠郡]][[菊川町 (静岡県)|菊川町]](現・[[菊川市]]) | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1948|2|20}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1973年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]・[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[おれは直角]]』<br />『[[がんばれ元気]]』<br />『[[お〜い!竜馬]]』(原作:[[武田鉄矢]])<br />『[[あずみ]]』 | 受賞 = 第22回:[[小学館漫画賞]]少年少女部門(『がんばれ元気』)<br />第43回:小学館漫画賞青年一般部門(『あずみ』)<br />第1回:[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞(『あずみ』) | 公式サイト = [http://www.yu-koyama.com 小山ゆう 公式ホームページ] }} '''小山 ゆう'''(こやま ゆう、本名:'''大竹 由次'''(おおたけ よしじ)<ref name="FPD" />、男性<ref name="FPD" />、[[1948年]][[2月20日]]<ref name="FPD" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[静岡県]][[小笠郡]][[菊川町 (静岡県)|菊川町]](現・[[菊川市]])出身。 == 人物 == 代表作は『[[がんばれ元気]]』『[[お〜い!竜馬]]』『[[あずみ]]』など。『がんばれ元気』『[[おれは直角]]』『お〜い!竜馬』は[[テレビアニメ]]化され、『あずみ』は[[上戸彩]]主演で映画化された。 ペンネームの「小山ゆう」は、恩人である[[小池一夫]]の「小」、友人の[[山本又一朗]]の「山」、そして自身の本名である由次(よしじ)の「ゆう」を組み合わせたものである<ref name="utsu293">宇都宮滋一『「ダメ!」と言われてメガヒット 名作マンガの知られざる制作現場』[[東邦出版]]、2003年、p.293</ref>。 == 略歴 == [[静岡県]][[小笠郡]][[菊川町 (静岡県)|菊川町]](現・[[菊川市]])で専業農家の長男として出生。[[静岡県立島田商業高等学校]]卒業後、[[作曲家]]を目指して上京した<ref>宇都宮滋一(2003)、pp.271-272</ref>。上京まで漫画はほとんど読まず、興味も薄かったという<ref>小山ゆう「特別寄稿」『文藝別冊 KAWADE夢ムック ちばてつや 漫画家生活55周年記念号』[[河出書房新社]]、2011年、p.72</ref>。 上京後、新聞広告で見て入った[[アニメ制作会社]]のテレビ動画株式会社で[[アニメーター]]のアルバイトを1年ほどする。休憩時間中に[[さいとう・たかを]]の『無用ノ牙』の模写をしていたのがきっかけで<ref>根岸康雄『まんが家インタビュー オレのまんが道(I)』[[小学館]]、1989年、p.173</ref>、[[1968年]]にさいとう主宰の「さいとう・プロダクション」を紹介され<ref>宇都宮(2003)、pp.272-273</ref><ref>インタビュー・構成木村修「スペシャルインタビュー 小山ゆう」『格闘マンガで強くなる!』アスペクト、1997年、p.12</ref>。[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として漫画の世界へ入り、漫画家を目指す決意をする<ref name="FPD" />。3年半後、さいとうプロの友人だった[[山本又一朗]]と[[やまさき拓味]]と3人でオリオンプロを設立し、キャラクター商品のデザインや挿絵やカットの仕事を請け負うも1年半で廃業。[[1971年]]、漫画の仕事をするため、先にさいとうプロを独立していた[[小池一夫]]のスタジオシップ(現・[[小池書院]])へ3人で移籍した<ref>宇都宮(2003)、pp.279-283</ref>。 [[1973年]]、『[[週刊少年サンデー]]』に掲載の『[[おれは直角]]』でデビュー<ref name="FPD" />。ペーソス溢れる作中のギャグ調の描写で人気作となる<ref>根岸(1989)、p.178</ref>。同作連載終了後の[[1976年]]にスタジオシップを退社<ref name="utsu293" />。 [[1976年]]から『週刊少年サンデー』誌上で連載開始した、ボクシング漫画『[[がんばれ元気]]』では一転してギャグを使わず、少年の成長物語を描いた<ref>根岸(1989)、p.179</ref>。同作は5年間の長期連載作となり、[[1977年]]には第22回[[小学館漫画賞]]少年少女部門を受賞。そして、[[1980年]]に自身初の[[テレビアニメ]]化作品になった。このころ、『[[週刊少年ジャンプ]]』の[[西村繁男]]編集長や[[本宮ひろ志]]に見込まれ、[[手塚賞]]の審査員を務めたが、引き抜きには応じなかった。 1980年代は[[ディストピア]]SF漫画『[[愛がゆく]]』、[[スピリチュアル]]陸上漫画『スプリンター』、青春ファンタジー漫画『チェンジ』などで異彩を放っていたが、『[[少年ビッグコミック]]』が青年漫画誌『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』へリニューアルし、久々に『週刊少年サンデー』で連載した『少年』が不可解な打ち切りになるなど、少年漫画誌の地殻変動を受けたこともあり、1990年代に入ると『[[ビッグコミック]]』系の青年漫画誌へホームグラウンドを移していく。 [[1986年]]から[[1996年]]にかけて、大好きだという[[坂本龍馬]]を主人公とした『[[お〜い!竜馬]]』を[[武田鉄矢]]を原作担当に迎えて連載<ref>根岸(1989)、p.180</ref>。 [[1991年]]には『おれは直角』が、[[1992年]]には『お〜い!竜馬』がそれぞれテレビアニメ化された。 [[1994年]]から『[[ビッグコミックスペリオール]]』誌上で連載開始した『[[あずみ]]』は、長年の念願だったという[[チャンバラ]]の時代劇漫画だった<ref>宇都宮(2003)、pp.308-310</ref>。同作で[[1998年]]に、第43回小学館漫画賞青年一般部門と第1回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]優秀賞を受賞。さらに2003年と2005年には旧友の山本又一朗のプロデュースにより映画化される<ref>宇都宮(2003)、pp.312-315</ref>など、続編も含めてシリーズ合計66巻の大長編となった。 == 作品リスト == *[[おれは直角]](1973年 - 1976年、『[[週刊少年サンデー]]』、[[小学館]]、全14巻) *[[がんばれ元気]](1976年 - 1981年、『週刊少年サンデー』、全28巻) *いざ!竜馬(たつま)(1978年 - ?年、『[[少年ビッグコミック|マンガくん]]』、全2巻) *サムライ数馬(1979年 - ?年、『少年サンデー増刊号』、全2巻) *風の三郎(『マンガくん』(1979年)→『[[少年ビッグコミック]]』(1979年 - 1980年)、全5巻) *[[愛がゆく]](1981年 - 1984年、『[[少年ビッグコミック]]』、全12巻) *スプリンター(1984年 - 1987年、『週刊少年サンデー』、全14巻) *原宿ストーリー(原作:佐々木守、1985年、『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]』) *[[お〜い!竜馬]] (原作:[[武田鉄矢]]、『少年ビッグコミック』(1986年 - 1987年)→『[[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]』(1987年 - [[1996年]])、全23巻) *チェンジ(1987年 - 1988年、『[[週刊少年マガジン]]』、[[講談社]]、全3巻) *少年(原作:[[矢島正雄]]、1989年、『週刊少年サンデー』) *ももたろう(1993年 - 1994年、『[[ビッグコミックスペリオール]]』、小学館、全10巻) *[[あずみ]](1994年 - 2008年、『ビッグコミックスペリオール』、全48巻) *[[AZUMI (漫画)|AZUMI〜あずみ〜]](2008年 - 2014年、『ビッグコミックスペリオール』、全18巻) *[[雄飛 (漫画)|雄飛]](2014年 - 2018年、『ビッグコミックスペリオール』、全16巻) *颯汰の国(2019年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/319424|title=小山ゆうが江戸幕府に立ち向かった男を描く新連載「颯汰の国」ビッグコミックで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-02-09|accessdate=2021-09-30}}</ref> - 2023年<ref>{{Cite journal|和書|date = 2023-06-09|title=最終話 真の自由を求めて|journal =ビッグコミック|volume=2023年12号|publisher = 小学館|page=251|asin=B0C678VY87}}</ref>、『[[ビッグコミック]]』、全15巻) *女神の標的(2023年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/548654|title=小山ゆうが描くヒストリカルサスペンス「女神の標的」、ビッグコミックで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-11-10|accessdate=2023-11-10}}</ref> - 、『ビッグコミック』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{Official website}} * {{Mediaarts-db|id=C48193|name=小山ゆう}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こやま ゆう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物]] [[Category:静岡県立島田商業高等学校出身の人物]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:存命人物]]
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近藤和久
近藤 和久(こんどう かずひさ、1959年4月2日 - )は、日本の漫画家。愛知県豊田市出身。男性。 1983年、講談社の第8回ちばてつや賞ヤング部門で佳作賞を受賞。翌1984年にSF作品『THE マシーン』(雑誌未掲載)でコミックボンボン新人賞の大賞を受賞後、ホラー漫画『血を吸うマンション』(コミックボンボン1984年10月号)でデビュー。1984年11月号から『機動戦士ガンダム MS戦記』を全4回で連載、続く1985年3月号からは『機動戦士Ζガンダム』を1年間連載。以降、主にアニメ『機動戦士ガンダム』シリーズを題材にした漫画作品を手がけ、アニメ『機動戦士Ζガンダム』にはメカニックデザイナーとしても参加している(「ジムII」原案、「Ζガンダム」変形修正案など)。 大友克洋や小林源文などに強い影響を受けた画風で、ミリタリー色の強い描写と独自の解釈によるアレンジされた兵器が特徴。特に『機動戦士ガンダム MS戦記』で発表したハードディテール版ザクIIの意匠は当時の読者に衝撃を与え、ガンダムシリーズの漫画作品における独自にアレンジされたモビルスーツは「近藤版」と呼ばれ、ガレージキット化もされている(なお、近藤の後発作品に登場するザクIIは、この「近藤版」よりかなり線が減らされている)。
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近藤 和久は、日本の漫画家。愛知県豊田市出身。男性。
{{出典の明記|date=2016年3月30日 (水) 11:37 (UTC)}} '''近藤 和久'''(こんどう かずひさ、[[1959年]][[4月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[愛知県]][[豊田市]]出身。[[男性]]。 {{Infobox 漫画家|ふりがな=こんどう かずひさ|名前=近藤 和久|画像=|画像サイズ=|脚注=|本名=|別名義=|生年=[[1959年]][[4月2日]]|生地=[[愛知県]][[豊田市]]|没年=|没地=|国籍=|職業=漫画家|称号=|活動期間=|ジャンル=少年漫画|代表作=『血を吸うマンション』<br />『THE マシーン』|受賞=第8回[[ちばてつや]]賞ヤング部門佳作賞<br />[[コミックボンボン]]新人賞大賞|サイン=|公式サイト=}} == 経歴など == [[1983年]]、[[講談社]]の第8回[[ちばてつや]]賞ヤング部門で佳作賞を受賞。翌[[1984年]]にSF作品『THE マシーン』(雑誌未掲載)で[[コミックボンボン]]新人賞の大賞を受賞後、ホラー漫画『[[血を吸うマンション]]』([[コミックボンボン]]1984年10月号)でデビュー。1984年11月号から『[[MS戦記 機動戦士ガンダム0079外伝|機動戦士ガンダム MS戦記]]』を全4回で連載、続く[[1985年]]3月号からは『[[機動戦士Ζガンダム]]』を1年間連載。以降、主にアニメ『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズを題材にした漫画作品を手がけ、アニメ『[[機動戦士Ζガンダム]]』にはメカニックデザイナーとしても参加している(「[[ジムII]]」原案、「[[Ζガンダム]]」変形修正案など)。 [[大友克洋]]や[[小林源文]]などに強い影響を受けた画風で、ミリタリー色の強い描写と独自の解釈によるアレンジされた兵器が特徴。特に『[[MS戦記 機動戦士ガンダム0079外伝|機動戦士ガンダム MS戦記]]』で発表したハードディテール版[[ザクII]]の意匠は当時の読者に衝撃を与え、ガンダムシリーズの漫画作品における独自にアレンジされた[[モビルスーツ]]は「近藤版」と呼ばれ、[[ガレージキット]]化もされている(なお、近藤の後発作品に登場するザクIIは、この「近藤版」よりかなり線が減らされている)。 == 作品リスト == * ガンダム関連 ** 機動戦士ガンダム MS戦記シリーズ *** [[MS戦記 機動戦士ガンダム0079外伝|機動戦士ガンダム MS戦記]] - ストーリー原案は[[高橋昌也 (作家)|高橋昌也]]。のちに「MS戦記 機動戦士ガンダム0079外伝」に改題。 *** [[機動戦士ガンダム ジオンの再興]] *** [[新MS戦記 機動戦士ガンダム短編集]] ** [[機動戦士Ζガンダム]] ** サイドストーリー・オブ・ガンダム・ゼータ *** [[機動戦士Ζガンダム]]を独自に再構成した内容で、[[シャア・アズナブル|クワトロ]]大尉は妹[[セイラ・マス]]を人質にとられ[[バスク・オム]]大佐の下で秘密警察組織・[[ティターンズ]]の指揮官となっていた。部下は[[ジェリド・メサ]]少尉。乗機は[[百式 (ガンダムシリーズ)|百式]]や[[ガンダムMk-III]]。[[カミーユ・ビダン]]は[[サイド3]]出身で[[ジオン公国]]の残党である[[エゥーゴ]]の伍長。[[ジオン公国]]を裏切った[[シャア・アズナブル]]を憎んでいる。乗機は[[アッシマー]]。[[アムロ・レイ]]大尉は[[地球連邦軍]]に幽閉され酒浸りの身の上で、たまに[[シャア・アズナブル|クワトロ]]大尉が面会に来る。後に[[カミーユ・ビダン]]達[[エゥーゴ]]の部隊により救出されヒッコリーから宇宙に上がる。月では[[エゥーゴ]]のガンダム開発計画である[[Ζ計画]]が進行中。[[エゥーゴ]]のMSは[[ザクII]]、[[ドム]]、[[ハイザック]]、[[マラサイ]]、[[ビグザム]]、[[キュベレイ|G-3]]、[[Ζガンダム|Zグスタフ]]など。[[ティターンズ]]は[[ジムII]]、[[ガンダムMk-II]]、[[ガンダムMk-III]]、[[百式 (ガンダムシリーズ)|百式]]、[[ギャプラン|シュツルム・イェーガー]]など。導入部までで終了し以後続編は描かれていない。 ** [[機動戦士ガンダム0079]] ** [[機動戦士ガンダム バニシングマシン]] ** [[機動戦士ガンダム オペレーション:トロイ]] ** [[機動戦士ガンダム THE MSV]] ** [[機動戦士ガンダム ANAHEIM RECORD]] ** 機動戦士ガンダム 名も無き戦場 ** 機動戦士ガンダム0079 EPISODE LUNA II * [[スパイラルゾーン]] ** 対BC戦用特殊部隊の活躍を描いた近未来戦物、「デスソルジャー」、「サンドイエロー」など。「デスソルジャー」では、スパイラルゾーンに登場する装甲スーツの他、モーターパラグライダー、[[MC-130 コンバット・タロン|MC-130E コンバット・タロン]]などが登場。 * [[オーバーグロス]] ** 2006年現在、第1巻のみ、人間型兵器「グラスホッパー」が登場 * [[大怪獣激闘 ガメラ対バルゴン COMIC VERSION]] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こんとう かすひさ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:愛知県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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さいとう・たかを
さいとう・たかを(本名:齊藤 隆夫〈さいとう たかお〉、1936年〈昭和11年〉11月3日 - 2021年〈令和3年〉9月24日)は、日本の漫画家。和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。東京都中野区、岩手県花巻市在住。 貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、劇画界の代表的人物である。また「さいとう・プロダクション」を設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立した。 1936年(昭和11年)、5人兄弟の末子として和歌山市に生まれるが、生後まもなく転居し、のちに大阪府堺市に移り住む。さいとう自身は43歳になるまで和歌山で生まれたことを知らなかった。 父親はさいとうが幼い時に家を出たため、母親が理髪店を営みながら女手一つで子供5人を育てた。小さい頃は図画工作(美術)科目とケンカが得意の、いわゆる不良少年であり、将来の夢はボクサーか画家になることであった。中学時代には府の絵画展で金賞を獲得している。 1950年に堺市立福泉中学校を卒業し、実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく将来の夢は挿絵画家だったが、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感 から、当時はまっていた映画や進駐軍が持ち込んだ「10セント・コミックス」に影響を受け、ストーリー漫画を志す。 同時期に手塚治虫(同じ誕生日でもある)の『新寶島』を見て衝撃を受け、「紙で映画が作れる!」と興奮したという。当時のさいとうは手塚の影響を受け、柔らかなタッチの絵を描いていた。 1952年には家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『空気男爵』を、大阪の貸本出版社日の丸文庫に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。 1956年には漫画に専念するために家業の理髪店を辞めるが、母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになった。さいとうによれば、自身が漫画家として大成した後も「母親は漫画家という職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった」と述べている。 同年には、辰巳ヨシヒロや松本正彦らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始めた。当時、さいとうは高校生だった川崎のぼるをアシスタントとして働かせていたが、さいとうの人使いが荒かったことから、川崎は早々に逃げ出している。 1958年(昭和33年)先輩漫画家の久呂田まさみに連れられて上京、東京都国分寺市のアパートに居を構える。1959年、国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家のさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス、K・元美津、桜井昌一、山森ススム、佐藤まさあき、松本正彦ら8人で劇画制作集団「劇画工房」が結成される。人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して多数の貸本劇画短編集を出版するが、組織論や仕事配分、ギャラの分配などで揉め、翌年1960年春に劇画工房は短期で分裂した。 「劇画工房」の分裂後、佐藤まさあきや川崎のぼる、南波健二、ありかわ栄一ら、ガンアクション系の劇画家5人で新・劇画工房の設立を計画するが、頓挫。その計画を元に1960年(昭和35年)、東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立した。さいとうの組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、さいとうの兄の斉藤發司がマネージャーを務めることになる。以後、多数の貸本劇画を出版する。中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博した。 1962年(昭和37年)、貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。メンバーはさいとう・たかを、横山まさみち、永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志、都島京弥、いばら美喜、山田節子、武本サブロー、影丸譲也、他。もっとも、この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違い劇画家の親睦のための団体であり、一般読者会員にも会報などを発行していた。 貸本業界が傾き始めた1963年、ボーイズライフ連載の『007』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。1967年には時代劇アクション劇画『無用ノ介』(『週刊少年マガジン』)を連載。劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作となった。 その後、1968年(昭和43年)10月より連載開始の『ゴルゴ13』(『ビッグコミック』)は、さいとうにとっての代表作であり、日本の「劇画」の代名詞となる。『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、1976年(昭和51年)1月に1975年度小学館漫画賞の青年一般部門、2005年(平成17年)1月に2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞し、2021年(令和3年)7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」としてギネス世界記録に認定された。 21世紀に入ると『ゴルゴ13』『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の3作の長期連載を軸に活動、大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開した。 しかし、2008年に武本サブロー、2014年に石川フミヤスと、長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去したこともあって、さいとうの作業量が増加した。そのため2015年2月、体力的な負担を理由に『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定した。残り2作品の連載執筆に専念しつつ(これらもページ数を減らしている)、『梅安』再開も模索したが、結局体力の限界を理由に2016年3月『梅安』連載終了を告知した。 そうした状況であったが、最晩年の2021年7月から『ビッグコミック増刊号』(元は『ビッグコミック』本誌と並行して『ゴルゴ13』を連載していたが、上述の事情で新作を休止していた)にて、『ゴルゴ13』のスピンオフ作品である『銃器職人・デイブ』の連載を開始している。 2021年9月24日、膵臓がんのため死去。84歳没。連載中の『ゴルゴ13』については「自分抜きでも続いていってほしい」とのさいとうの遺志に沿い、さいとう・プロダクションと脚本スタッフ、連載元の『ビッグコミック』編集部の協力体制で連載を継続させていくという。 もう一つの連載作品である『鬼平犯科帳』も同年9月30日に連載の継続がリイド社公式サイトで発表された。さいとうが確立した漫画制作の分業制は、自身の死をもって究極の形となった。 2021年10月26日、日本国政府は正六位に叙することを閣議決定した。 株式会社さいとう・プロダクションは、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた漫画制作プロダクションである。 漫画アシスタントは低賃金長時間労働が一般的であるが、さいとう・プロダクションは雇用条件に気を配っており、スタッフの待遇の良さには定評がある。分業で漫画制作することによって、無理なく長期連載を請け負うことが出来ているゆえに可能なビジネスモデルである。 例えば、手塚治虫が手塚プロダクションで漫画作品を描いた場合には、手塚治虫個人の名前だけが作家名として表記されるのが常であったが、さいとう・プロダクションの作品の場合は、最後のページでスタッフ一覧のクレジットタイトルが映画作品と同様に示されている。ただし、単行本ではこれらのクレジットは削除されており、単なる余白となっている。 さいとうが亡くなった現状、作画スタッフがキャラの顔を似せて描こうとすると1時間近くかかるため、大量にストックされている顔をトレースして描いているという。 下記に、鬼平犯科帳の制作工程を挙げる。 さいとう・プロには作画スタッフが総勢10名いて、それとは別に下書きを担当するひきの・しんじが鬼平の脚本を読んで、鉛筆で下書きを描くという。それを作画チーフのふじわら・よしひでと、双子の兄である藤原輝美がチェックし、構図を鬼平流にアレンジする。 構図が決まると、「背景」担当の白川修司、「主要キャラ」担当の木村周司、「脇役キャラ」担当の宇良尚子に原稿を渡す。白川と宇良が中心になり、作画をそれぞれ別のスタッフに割り振る。 キャラが描かれて背景がすべて入ったら、最後は仕上げとなり、スタッフ全員でトーン貼り・ベタ塗り・修正を施していく。下書きから原稿完成まで、だいたい7日くらいかかるという。 余談だがさいとうたかをは主人公の目しかかかないと称されることもあるが、これは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で登場する漫画家と作者である秋本治がさいとうの熱心なファンであることから結びついた都市伝説の類である。 以下はさいとう・プロダクション公式サイト内、制作スタッフ(2021年3月 閲覧)を参照にして記述、このページでの紹介順、さいとう自身と物故者の石川フミヤスは除く リイド社はさいとう・プロダクションの出版部門が分社化されたものであり、さいとうの兄の斉藤發司がリイド社およびさいとう・プロダクションの代表取締役社長を務めてきた。2016年に發司が死去したことを受け、發司の長男で専務取締役(当時)だった斉藤哲人が社長を引き継いでいる。 設立当時、大手出版社では漫画雑誌の出版がメインで、単行本を出版するということをあまりしていなかったため、その当時からの慣例で、さいとうの漫画は他社の雑誌に連載されている作品であっても単行本はリイド社から出版されている(『ゴルゴ13』は、小学館『ビッグコミック』連載で、単行本はリイド社、小学館でも一部再刊)。
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さいとう・たかをは、日本の漫画家。和歌山県和歌山市生まれ、大阪府堺市出身。東京都中野区、岩手県花巻市在住。 貸本漫画時代に劇画の分野を確立した人物の一人であり、一般漫画の世界に転向後も『ゴルゴ13』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、劇画界の代表的人物である。また「さいとう・プロダクション」を設立し、各スタッフの分業体制により作品を制作するという方式を確立した。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = さいとう・たかを | 画像 = Takao Saito Gaimu.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = [[2017年]]撮影 | 本名 = 齊藤 隆夫 | 生年 = {{生年月日と年齢|1936|11|3|no}} | 生地 = {{JPN}}・[[和歌山県]][[和歌山市]]<ref name="jiji" /> | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1936|11|3|2021|9|24}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]]<ref name="jiji" /> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = [[紫綬褒章]]<br />[[旭日小綬章]] | 活動期間 = [[1955年]] - [[2021年]] | ジャンル = [[劇画]] | 代表作 = 『[[ゴルゴ13]]』<br/>『[[鬼平犯科帳]]』 | 受賞 = 第21回:[[小学館漫画賞]]青年一般部門<br />第50回:小学館漫画賞審査員特別賞(いずれも『ゴルゴ13』による)<br />和歌山県文化表彰文化賞<br />第23回:[[手塚治虫文化賞]]特別賞 | 公式サイト = [https://www.saito-pro.co.jp/ さいとう・プロダクション公式サイト] }} '''さいとう・たかを'''(本名:齊藤 隆夫〈さいとう たかお〉<ref name="jiji">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210929051941/https://www.jiji.com/amp/article?k=2021092900622&g=soc|title=さいとう・たかをさん死去 84歳、劇画「ゴルゴ13」|publisher=時事通信|date=2021-09-29|accessdate=2021-11-15}}</ref>、[[1936年]]〈[[昭和]]11年〉[[11月3日]] - [[2021年]]〈[[令和]]3年〉[[9月24日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref group="注">劇画家と呼ばれる事もある。</ref>。[[和歌山県]][[和歌山市]]生まれ、[[大阪府]][[堺市]]出身<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASP9Y72L8P9YPPTB001.html|title=「ふるさとは大阪」病床でさいとう・たかをさんが懐かしんだ中学時代|accessdate=2021-09-30}}</ref><!--<ref name="saito">{{Cite web|url=https://www.saito-pro.co.jp/staff.html|title=さいとう・たかをプロフィール|accessdate=2018-02-28|publisher=さいとう・プロダクション}}</ref>-->。[[東京都]][[中野区]]、[[岩手県]][[花巻市]]在住。 [[貸本漫画]]時代に[[劇画]]の分野を確立した人物の一人であり、一般漫画の世界に転向後も『[[ゴルゴ13]]』をはじめとする数々のヒット作品を生み出した、劇画界の代表的人物である。また「さいとう・プロダクション」を設立し、各スタッフの[[分業]]体制により作品を制作するという方式を確立した。 == 来歴 == === 少年時代 === [[1936年]]([[昭和]]11年)、5人兄弟の末子として和歌山市に生まれるが、生後まもなく転居し、のちに大阪府堺市に移り住む。さいとう自身は43歳になるまで和歌山で生まれたことを知らなかった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20180120-GULVP2NS5FIXZLERLIK2DXVJCY/|title=「故郷に認められ本当にうれしい」 さいとう・たかをさんに和歌山県文化賞授与(2018年1月20日)|accessdate=2018-02-28|publisher=[[産経新聞|産経ニュース]]}}</ref>。 父親はさいとうが幼い時に家を出たため、母親が[[理髪店]]を営みながら女手一つで子供5人を育てた<ref name="bakumon130123">『[[探検バクモン]]』2013年1月23日付放送分</ref>。小さい頃は[[図画工作]](美術)科目とケンカが得意の、いわゆる不良少年であり、将来の夢は[[ボクサー (スポーツ)|ボクサー]]か[[画家]]になることであった。中学時代には府の絵画展で金賞を獲得している。 1950年に[[堺市立福泉中学校]]を卒業し、実家の理髪店で働き始める。当時は漫画に興味がなく将来の夢は[[挿絵]]画家だったが、挿絵業界は今後狭まっていく、あるいは自分の考えている方向とは違う方に行くだろうという漠然とした不安感<ref>石ノ森章太郎『漫画超進化論』([[河出書房新社]]、1989年)p.86-87</ref> から、当時はまっていた[[映画]]や[[連合国軍最高司令官総司令部|進駐軍]]が持ち込んだ「10[[セント (通貨)|セント]]・コミックス」に影響を受け<ref>{{Cite web|和書|url=http://bond-mag.jp/interview/saitotakawo.html|title=さいとう・たかを インタビュー |accessdate=2021-09-30}}</ref>、[[ストーリー漫画]]を志す。 同時期に[[手塚治虫]](同じ誕生日でもある)の『[[新寶島]]』を見て衝撃を受け、「紙で映画が作れる!」と興奮したという<ref name="bakumon130123" />。当時のさいとうは手塚の影響を受け、柔らかなタッチの絵を描いていた。 === 貸本漫画家デビュー === 1952年には家業である理髪店を姉と継ぐが、1955年に仕事の合間に2年近く掛けて描いたストーリー漫画『[[空気男爵]]』を、[[大阪]]の貸本出版社[[日の丸文庫]]に持ち込む。等倍の紙に漫画を描いたため、社長の山田秀三にダメ出しされるが、一年かけて書き直し、デビューが決まる。それ以降、日の丸文庫の看板漫画家として単行本を次々と発表する。 1956年には漫画に専念するために家業の理髪店を辞めるが、母親は激怒して漫画を親の仇であるかのごとく嫌うようになった。さいとうによれば、自身が漫画家として大成した後も「母親は漫画家という職業を死ぬまで嫌い、病床に置かれた僕の本に一度たりとも触れなかった」と述べている<ref>[[荒俣宏]]『日本まんが 第弐巻: 男が燃えた!泣いた!笑った!』p.34</ref>。 同年には、[[辰巳ヨシヒロ]]や[[松本正彦]]らと同じアパートで共同生活を送りながら漫画を描き始めた。当時、さいとうは高校生だった[[川崎のぼる]]をアシスタントとして働かせていたが、さいとうの人使いが荒かったことから、川崎は早々に逃げ出している。 === 上京・劇画工房誕生 === [[1958年]](昭和33年)先輩漫画家の[[久呂田まさみ]]に連れられて上京、[[東京都]][[国分寺市]]のアパートに居を構える。[[1959年]]、国分寺に居住していた日の丸文庫系劇画家のさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、[[石川フミヤス]]、[[K・元美津]]、[[桜井昌一]]、[[山森ススム]]、[[佐藤まさあき]]、[[松本正彦]]ら8人で劇画制作集団「[[劇画工房]]」が結成される。人気劇画家の制作集団とあって貸本出版社からの執筆依頼が殺到して多数の貸本劇画短編集を出版するが、組織論や仕事配分、[[ギャランティー|ギャラ]]の分配などで揉め、翌年1960年春に劇画工房は短期で分裂した。 === さいとう・プロダクション設立 === 「劇画工房」の分裂後、佐藤まさあきや川崎のぼる、[[南波健二]]、[[ありかわ栄一]]ら、[[ガンアクション]]系の劇画家5人で[[劇画工房#新・劇画工房|新・劇画工房]]の設立を計画するが、頓挫。その計画を元に[[1960年]](昭和35年)、東京都国分寺市に自らの漫画制作会社「さいとう・プロダクション」を設立した。さいとうの組織論に共鳴していた石川フミヤスらがスタッフに加わり、さいとうの兄の[[斉藤發司]]がマネージャーを務めることになる。以後、多数の貸本劇画を出版する。中でも『台風五郎』はシリーズ化され人気を博した。 [[1962年]](昭和37年)、貸本劇画家有志と「劇画集団」を設立。メンバーはさいとう・たかを、[[横山まさみち]]、[[永島慎二]]、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、[[旭丘光志]]、都島京弥、[[いばら美喜]]、[[セツコ・山田|山田節子]]、[[武本サブロー]]、[[影丸譲也]]、他。もっとも、この団体は漫画制作を目的とした新・旧劇画工房とは違い劇画家の親睦のための団体であり、一般読者会員にも会報などを発行していた。 === 一般漫画誌に進出~ゴルゴ13の大ヒット === 貸本業界が傾き始めた[[1963年]]、[[ボーイズライフ]]連載の『[[007]]』のコミカライズを機に一般漫画誌に本格進出。[[1967年]]には[[時代劇]]アクション劇画『[[無用ノ介]]』(『[[週刊少年マガジン]]』)を連載。劇画路線の『マガジン』を代表するヒット作となった。 その後、[[1968年]](昭和43年)10月より連載開始の『[[ゴルゴ13]]』(『[[ビッグコミック]]』)は、さいとうにとっての代表作であり、日本の「[[劇画]]」の代名詞となる。『ゴルゴ13』は現在も連載中の長寿漫画であり、[[1976年]](昭和51年)1月に1975年度[[小学館漫画賞]]の青年一般部門、[[2005年]]([[平成]]17年)1月に2004年度小学館漫画賞の審査委員特別賞を受賞し、[[2021年]]([[令和]]3年)7月には「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として[[ギネス世界記録]]に認定された<ref>{{Cite news|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2107/09/news074.html|title=「ゴルゴ13」ギネス世界記録に 「最も発行巻数が多い単一漫画シリーズ」として|work=ITmedia NEWS|date=2021-07-09|accessdate=2021-09-30}}</ref>。 === 2000年代以降の活動 === 21世紀に入ると『ゴルゴ13』『[[鬼平犯科帳]]』『[[仕掛人・藤枝梅安]]』の3作の長期連載を軸に活動、大ベテランとなっても月産150ページ以上の旺盛な執筆活動を展開した。 しかし、2008年に武本サブロー、2014年に石川フミヤスと、長年にわたって仕事を支えてきたチーフアシスタントが相次いで死去したこともあって、さいとうの作業量が増加した。そのため2015年2月、体力的な負担を理由に『仕掛人・藤枝梅安』の休載を決定した。残り2作品の連載執筆に専念しつつ(これらもページ数を減らしている)、『梅安』再開も模索したが、結局体力の限界を理由に2016年3月『梅安』連載終了を告知した。 そうした状況であったが、最晩年の2021年7月から『[[ビッグコミック増刊号]]』(元は『ビッグコミック』本誌と並行して『ゴルゴ13』を連載していたが、上述の事情で新作を休止していた)にて、『ゴルゴ13』の[[派生作品|スピンオフ作品]]である『銃器職人・デイブ』の連載を開始している<ref name="natalie20210716">{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/437046|title=「ゴルゴ13」連載53年目で初のスピンオフ開幕!銃器職人のデイブが主人公|date=2021-07-16|accessdate=2021-07-16}}</ref>。 === 死去 === [[2021年]][[9月24日]]、[[膵癌|膵臓がん]]のため死去<ref name="golgo">{{Cite news2|url=https://www.oricon.co.jp/news/2208578/full/|title=『ゴルゴ13』さいとう・たかをさん、すい臓がんのため死去 84歳 本人の遺志を継ぎ連載は継続へ|newspaper=ORICON NEWS|agency=oricon ME|date=2021-09-29|accessdate=2021-09-29}}</ref>。{{没年齢|1936|11|3|2021|9|24}}。連載中の『ゴルゴ13』については「自分抜きでも続いていってほしい」とのさいとうの遺志に沿い、さいとう・プロダクションと脚本スタッフ、連載元の『ビッグコミック』編集部の協力体制で連載を継続させていくという{{R|golgo}}。 もう一つの連載作品である『鬼平犯科帳』も同年[[9月30日]]に連載の継続がリイド社公式サイトで発表された<ref>{{Cite press release |和書 |title=追悼 さいとう・たかを先生|publisher=株式会社リイド社|date=2021-09-30|url=https://www.leed.co.jp/2021093001|accessdate=2021-09-30}}</ref>。さいとうが確立した漫画制作の分業制は、自身の死をもって究極の形となった{{R|golgo}}。 2021年[[10月26日]]、日本国政府は[[正六位]]に叙することを閣議決定した<ref name="wbs">{{Cite news |title=漫画家さいとうたかをさんに正六位 |newspaper=WBS和歌山放送ニュース |date=2021-10-26 |url=https://news.wbs.co.jp/165402 |accessdate=2021-12-18 |publisher=和歌山放送 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20211026155052/https://news.wbs.co.jp/165402 |archivedate=2021年10月26日 }}</ref>。墓所は港区[[梅窓院]]。 == 人物 == === 少年時代 === * 中学生のころ、「こんなもんただのクイズだ、試験でもなんでもない。個人の能力がわかるはずがない」と考え、一度もまともに試験を受けなかった。しかし、ある教師が担当になったとき、いつものように答案用紙を白紙で返すと、その教師はさいとうの答案用紙を持って来て机の上に置き、「これを白紙で出すのは君の意思だから構わない、しかしこの答案用紙を提出するのは君の義務なんだから、自分の責任の証明として名前だけは書け」と諭されて感銘を受け、それを期に人間の約束と責任について深く考えるようになったという。この教師の姓が「東郷」であり、『[[ゴルゴ13 (架空の人物)|ゴルゴ13]]』が名乗る名(デューク東郷)の一部となった。なお、この東郷教師は奇しくも漫画家天王子きつねの母方の祖母の親戚筋でもあった。 * さいとうの少年時代のやんちゃぶりは自伝的漫画『いてまえ武尊』に詳しい。さいとう曰く「飼い猫を焼いて食ったこと以外はほぼ実話」としている。 * 『[[漫画少年]]』ファンの友達に勧められ、一度だけ『漫画少年』に投稿した経験があり、それが審査員の手塚治虫に悪い見本として取り上げられ酷評されたという<ref>石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)p.87</ref>(しかし実際には投稿欄の手塚によると思われていた文章は編集者が書いたものであり、手塚は忙しくて名前だけ貸していた状態であったことが後に分かる)。 === 家族との関係 === * さいとうの父親が、営んでいた理髪店を放り出し、写真家・画家・彫刻家などを目指すが挫折し、出奔して家を出ていったことから、母親は芸術関係の仕事を人一倍嫌悪した。父親の絵をさいとうの目の前で何の躊躇もなく[[かまど]]にくべて焼き「男が芸術で食べていけるわけが無い」と吐き捨てたという。小学生時代のさいとうが地元大阪府の展覧会に応募し金賞を取った絵も、即座にかまどに放り捨てられ燃やされたとのこと。 * 漫画家となるために実家の理髪店を辞めた際には大激怒され、以来母親は漫画と漫画家を親の仇のごとく憎悪するようになったという。さいとうが漫画家として大成した後も送ったゴルゴ13の単行本を見もせずに即刻焼却し、その挙句、死の床にあっても単行本に指一つ触れようとしないどころか視界から背け、和解を拒むなど、さいとうのことを最期まで認めず、同時に許さなかった。このことはさいとうも気にしているようで、執筆室には仕事をしているさいとうに向かい合うように亡母の写真が飾られている。 * さいとうの兄の[[斉藤發司]]も同様で、發司がさいとう・プロダクションおよびリイド社の代表取締役社長になった後にも、子供に「漫画など読むな」と説教していたという。 * 元妻の[[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 さ行#セツコ・山田|セツコ・山田]]との間に娘が2人いるが、この姉妹はじゃんぐる堂の共同ペンネームで[[同人誌]]・商業誌(親族が経営する[[リイド社]]の『[[コミック乱]]』を含む)に漫画を執筆している。 === 創作 === * デビュー当初は[[サイエンス・フィクション|SF]]志向があったが、若い労働者が主体だった貸本漫画の客層がそれを受け入れなかったため、アクション漫画がメインになっていった。 * 元は作画を[[Gペン]]で行っていたが、太さの違う[[サインペン]]でペン入れを行うようになった。また、[[ネーム (漫画)|ネーム]]後には基本的に下書きをせず、いきなりペン入れから始める。キャラクターは眉毛や[[もみあげ|モミアゲ]]といった特徴的な部分から書き始める。 * 作中の台詞の数字は[[固有名詞]]を除いて全て[[漢数字]]を使う。 === 趣味・嗜好 === * 趣味はテレビや映画鑑賞、若い頃からの[[大相撲]]ファンでもある。元大相撲[[力士]]の[[三濱洋俊明]]は母方の親戚にあたる。 * 1980年代にはゴルフに熱中しており、山梨の富士野屋別館には交流の深い漫画家仲間である[[石ノ森章太郎]]、[[北見けんいち]]、[[ちばてつや]]、[[つのだじろう]]、[[藤子不二雄A]]、[[古谷三敏]]らと書いた[[寄せ書き]]が額縁入りで飾られている([[松本零士]]も来る予定だったが、原稿が間に合わず参加できなかったという)。 * 小学4年生から吸っているという愛煙家であり<ref>[https://megalodon.jp/2023-1014-2332-59/https://serai.jp:443/hobby/1043204 【インタビュー】追悼・さいとう・たかを(劇画家)「1秒先のことしか頭にない。過ぎたことはすべて忘れる。だから“挑戦”ができるんです」 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト]</ref>、「煙草と名のつく物は何でも吸ってきた」と話し、過去には[[葉巻きたばこ|葉巻]](細巻きの[[メキシコ]]産の銘柄を愛煙していた)や[[パイプ (たばこ)|パイプ]]も喫煙したことがあると語っている。執筆も喫煙しながら行う。現在は紙巻きたばこを愛煙しており、これまで嗜好していた銘柄は、プレミア・ワンやメビウス・ディースペックなどとのこと。元々は、吸い終えた煙草の火で次の煙草に着火するという、チェーンスモーカーであったらしく、一日の喫煙量は相当なものになっていたようであるが、現在の喫煙量は1日40本ほどになったと話す<ref>{{Cite web|和書|url=https://ironna.jp/article/462|title=「先生とタバコとの出会いをお聞かせください」|accessdate=2018-06-28|publisher=iRONNA}}</ref>。 === その他 === * 漫画家になってからも、友人の永島慎二を殴ろうとした[[ヤクザ]]をメンチを切って追い払う、泥酔して絡んできた久呂田まさみを投げ飛ばす、などの数々の武勇伝がある。 * さいとう・プロダクションのある中野区に在住していたが、妻の出身である[[岩手県]]にも居を構えていた。なお、『ゴルゴ13』で岩手県出身の[[商社]]マン(後に商社を辞めて帰郷)をたびたび登場させたり、[[東條英機]]が[[A級戦犯|戦犯]]として逮捕された自分の奪還を企てた者に達観の心境を示す場面があったりするなど、漫画の中に岩手県への思いが示されている。 * [[能見正比古]]の提唱した[[血液型性格診断]]の熱烈な信奉者であり、血液型の著書を複数出している。 * 大阪府堺市の名誉大使として、2014年9月26日に委嘱を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/citypromo/miryokuhasshin/index.html|title=堺の魅力を発信 「堺名誉大使」「堺親善大使」|accessdate=2018-02-28|publisher=堺市]}}</ref>。 * 『ゴルゴ13』は理髪店などに置かれることが多いが、これは一話完結で待ち時間でも読みやすいからであると同時に作者が理髪店出身という経緯から親しみをこめているという店も存在する<ref>{{Cite web|和書|url=https://otapol.com/2015/01/post-2350.html |title=日本男性は知らずに『ゴルゴ13』に詳しくなっている!?  床屋や定食屋に置かれる“店舗マンガ”の傾向とは…? |author=編集部 |website=[[おたぽる]] |publisher=[[サイゾー|株式会社サイゾー]] |date=2015-01-23 |accessdate=2021-10-06}}</ref>。 == さいとう・プロダクション == {{基礎情報 会社 | 社名 = 株式会社さいとう・プロダクション | 英文社名 = Saito-Production Co., Ltd.<ref name="ndl">{{Cite web|和書|url=https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00298645 |title=さいとうプロダクション |website=Web NDL Authorities |publisher=[[国立国会図書館]] |date=2019-02-20 |accessdate=2021-10-04}}</ref> | ロゴ = | 画像 = Saito-pro building.jpg | 画像説明 = さいとう・プロダクションの事務所 | 種類 = [[株式会社]] | 市場情報 = | 略称 = さいとうプロ<ref name="ndl" /> | 国籍 = {{JPN}} | 郵便番号 = 164-0001 | 本社所在地 = [[東京都]][[中野区]][[中野 (中野区)|中野]]1丁目55番3号<ref name="nta">{{Cite web|和書|url=https://www.houjin-bangou.nta.go.jp/henkorireki-johoto.html?selHouzinNo=8011201011604 |title=株式会社さいとう・プロダクションの情報 |website=国税庁法人番号公表サイト |publisher=国税庁 |date=2021-04-08 |accessdate=2021-10-04}}</ref> | 設立 = [[1964年]][[9月]]<br />(創業[[1960年]][[4月]])<ref name="company">{{Cite web|和書|url=https://www.saito-pro.co.jp/company |title=会社概要 |publisher=株式会社さいとう・プロダクション |accessdate=2021-10-04}}</ref> | 業種 = [[:Category:日本のサービス業|サービス業]] | 法人番号 = 8011201011604 | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 劇画の創作<br />商標権の取得並びにその利用<ref name="company" /> | 代表者 = [[代表取締役]][[社長]] 齊藤隆夫 | 資本金 = | 売上高 = | 総資産 = | 従業員数 = 16名(嘱託含む)<ref name="company" /> | 決算期 = | 主要株主 = | 主要関連会社 = リイド社 | 関係する人物 = | 外部リンク = https://www.saito-pro.co.jp/ | 特記事項 = }} '''株式会社さいとう・プロダクション'''は、初めて漫画制作に分業体制や脚本部門を置いた漫画制作プロダクションである。 漫画アシスタントは低賃金長時間労働が一般的であるが、さいとう・プロダクションは雇用条件に気を配っており、スタッフの待遇の良さには定評がある。分業で漫画制作することによって、無理なく長期連載を請け負うことが出来ているゆえに可能な[[ビジネスモデル]]である。 例えば、手塚治虫が手塚プロダクションで漫画作品を描いた場合には、手塚治虫個人の名前だけが作家名として表記されるのが常であったが、さいとう・プロダクションの作品の場合は、最後のページでスタッフ一覧のクレジットタイトルが映画作品と同様に示されている。ただし、単行本ではこれらのクレジットは削除されており、単なる余白となっている。 さいとうが亡くなった現状、作画スタッフがキャラの顔を似せて描こうとすると1時間近くかかるため、大量にストックされている顔をトレースして描いているという。 ===作画工程=== 下記に、鬼平犯科帳の制作工程を挙げる<ref>{{Cite web|和書|title=「劇画はメリハリや!」さいとう・たかをの遺志を継ぎ、鬼平、ゴルゴの顔を描く作画チーフの“凄腕”|url=https://bunshun.jp/articles/-/62153?page=2|website=文春オンライン|date=2023-04-26|accessdate=2023-04-26}}</ref>。 さいとう・プロには作画スタッフが総勢10名いて、それとは別に下書きを担当する[[ひきの真二|ひきの・しんじ]]が鬼平の脚本を読んで、鉛筆で下書きを描くという。それを作画チーフの[[藤原芳秀|ふじわら・よしひで]]と、双子の兄である藤原輝美がチェックし、構図を鬼平流にアレンジする。 構図が決まると、「背景」担当の白川修司、「主要キャラ」担当の木村周司、「脇役キャラ」担当の宇良尚子に原稿を渡す。白川と宇良が中心になり、作画をそれぞれ別のスタッフに割り振る。 キャラが描かれて背景がすべて入ったら、最後は仕上げとなり、スタッフ全員でトーン貼り・ベタ塗り・修正を施していく。下書きから原稿完成まで、だいたい7日くらいかかるという。 余談だが'''さいとうたかをは主人公の目しかかかない'''と称されることもあるが、これは『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』で登場する漫画家<ref>30巻9話【デビュー!の巻】</ref>と作者である[[秋本治]]がさいとうの熱心なファンであることから結びついた都市伝説の類である。 === スタッフ === ==== 現スタッフ ==== 以下はさいとう・プロダクション公式サイト内、[https://www.saito-pro.co.jp/staff 制作スタッフ](2021年3月 閲覧)を参照にして記述、このページでの紹介順、さいとう自身と物故者の石川フミヤスは除く * 宇良尚子 * 木村周司 * 白川修司 * 藤原輝美 * ふじわら・よしひで([[藤原芳秀]]) * 上農博昭 * 古賀憲 * 松森茂嘉 * 永嶋康宏 ==== 過去のスタッフ・アシスタント ==== * [[石川フミヤス]] * [[武本サブロー]] * [[甲良幹二郎]] - さいとうの晩年(2018年 - 2021年頃)に『鬼平犯科帳』で構図を担当している。 * [[K・元美津]] * [[小池一夫]](脚本) * 赤司教 * 青木和夫 * なかざと遊生 * 徳富祐 * TAKU * 正村弟 * 横井仁司 * 谷平由佳 * [[川崎のぼる]] * [[南波健二]] * [[磯田和一]] * 伊賀和洋 * [[神田たけ志]] * [[叶精作]] * [[神江里見]] * [[小山ゆう]] * [[やまさき拓味]] * やまおか玲次 * [[山本又一朗]](プロデューサー、[[トライストーン・エンタテイメント]]代表取締役社長) * 折茂賢司(ゲームプロデューサー) * 上柚宇大 * クニムラ利雄 * 杉本洋平 * 大野恵 * いとう・たかし * 千葉利助 * 北原功士 * 小松翔太 == リイド社 == [[リイド社]]はさいとう・プロダクションの出版部門が分社化されたものであり、さいとうの兄の[[斉藤發司]]がリイド社およびさいとう・プロダクションの代表取締役社長を務めてきた。[[2016年]]に發司が死去したことを受け、發司の長男で専務取締役(当時)だった斉藤哲人が社長を引き継いでいる。 設立当時、大手出版社では漫画雑誌の出版がメインで、単行本を出版するということをあまりしていなかったため、その当時からの慣例で、さいとうの漫画は他社の雑誌に連載されている作品であっても単行本はリイド社から出版されている(『[[ゴルゴ13]]』は、[[小学館]]『[[ビッグコミック]]』連載で、単行本はリイド社、小学館でも一部再刊)。 == 受賞(章)歴 == * 1976年1月 - 第21回[[小学館漫画賞]]青年一般部門(『[[ゴルゴ13]]』) * 2003年11月 - [[紫綬褒章]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tobunken.go.jp/japanese/nenshi/2003.html|title=美術界年史 2003年(11月 秋の褒章受章者)|accessdate=2023-03-08|publisher=[[東京文化財研究所]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121019222801/http://www.tobunken.go.jp/japanese/nenshi/2003.html|archivedate=2012-10-19|deadlinkdate=2023-03}}</ref> * 2003年11月3日 - 第一回理容チョキちゃん大賞(主催・全理連)受賞<ref>[http://www10.ocn.ne.jp/~chante/sub21.htm シャンテ・サロンニュース] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130924005501/http://www10.ocn.ne.jp/~chante/sub21.htm |date=2013年9月24日 }}</ref> * 2005年1月 - 第50回小学館漫画賞審査委員特別賞(『ゴルゴ13』) * 2010年4月 - [[旭日小綬章]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2303V_Y0A420C1PE8000/|title=春の叙勲、4021人|accessdate=2023-04-07|publisher=日本経済新聞|date =2010-04-29}}</ref> * 2017年11月 - 第2回まんが郷いわて特別賞 受賞 * 2018年1月 - 和歌山県文化表彰文化賞<ref>{{Cite web|和書|date=|publisher= 和歌山県 企画部企画政策局文化学術課|url=http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/022100/hyosho/hyousyou.html|title=和歌山県文化表彰|accessdate=2018-02-23}}</ref> * 2019年9月 - [[名誉都民]]<ref>[https://www.sankei.com/article/20191001-CI62R3LXAROE5JNEUHKXLFEH4A/ 「名誉都民にさいとう・たかをさんら3人」] 産経ニュース(2019年10月1日)2019年10月7日閲覧。</ref> * 2021年 - [[正六位]]<ref name="wbs" /> == 作品リスト == === 劇画作品 === * [[怪盗シュガー]] * [[影狩り]] * [[空気男爵]] * 『[[雲盗り暫平]]』シリーズ * 『[[ゴルゴ13]]』シリーズ ** 銃器職人・デイブ - 『ゴルゴ13』のスピンオフ{{R|natalie20210716}}。 * 『[[仕掛人・藤枝梅安]]』シリーズ * 『ホーキング』 * THE シャドウマン * [[サイレント・ワールド]] * ベリー・ファーザー * 『[[サバイバル (漫画)|サバイバル]]』シリーズ * [[七人の侍]] * [[007シリーズ|『007』シリーズ]] - [[イアン・フレミング]]原作『[[007 死ぬのは奴らだ|死ぬのは奴らだ]]』『[[007 サンダーボール作戦|サンダーボール作戦]]』『[[女王陛下の007]]』『[[007 黄金銃を持つ男|黄金の銃を持つ男]]』の劇画化。全4冊。 * 『台風五郎』シリーズ * 『[[小説吉田学校#漫画化作品|歴史劇画 大宰相]]』 - [[戸川猪佐武]]の『[[小説吉田学校]]』を漫画化。 * 『デビルキング』シリーズ * 『[[バロム・1]]』シリーズ * 『[[ブレイクダウン (漫画)|ブレイクダウン]]』 * 漂流 * いてまえ武尊 * 『東京捜査戦線 いぬ棒』シリーズ * 『[[無用ノ介]]』シリーズ * [[OPERATIONG.G.]] * 『[[鬼平犯科帳]]』シリーズ * [[太平記]] (マンガ日本の古典) * [[水滸伝]] * 血闘!新選組 * 毒ダネ特派員カスガ(『KASUGA』シリーズ) * 『キティ・ホーカー』シリーズ * 『マッド★メガ』シリーズ * 『挑戦野郎』シリーズ * 『海上特殊救難隊-板垣豪-』シリーズ * 『[[捜し屋禿鷹登場!!]]』シリーズ * [[織田信長]] * [[武田信玄]] * [[北条時宗]] * [[ホテル探偵DOLL]] * 武芸紀行 * 『刺客 怨み葵』シリーズ(脚本:[[工藤かずや]]) * 過去からの声(原案:[[手塚治虫]]) * [[鯨神]](原作:[[宇能鴻一郎]]) * [[日本沈没]](漫画:さいとうプロ、原作:[[小松左京]]) * 買厄人 九頭竜([[石ノ森章太郎]]『買厄懸場帖 九頭竜』をリメイク) * 『Mr. BIRD』シリーズ === 活字作品、関連本 === * 『劇画家生活30周年記念 さいとう・たかを 劇画の世界』(1986年、リイド社)ISBN 4-947538-60-0 * 『さいとう・たかをのコーヒーブレイク 俺の秘密ファイル』(1992年、フローラル出版)ISBN 4-930831-08-3 * 『さいとう・たかをの【ゴルゴ流】血液型人物観察術』(2002年、[[PHP研究所]])ISBN 4-569-62043-4 * 『さいとう・たかを 劇・男』(劇・男制作委員会、2003年、リイド社)ISBN 4-8458-2374-8 * 『俺の後ろに立つな―さいとう・たかを劇画一代』(2010年、[[新潮社]])ISBN 978-4-10-325731-8 * 『画業60周年記念出版 さいとう・たかをゴリラコレクション 劇画1964』(2015年、リイド社)ISBN 978-4-8458-4420-3 * 『さいとう・たかを本 漫画家本vol.7』(2018年、小学館)ISBN 978-4091286161 === その他 === * 完全復刻版 影・街(石川フミヤス、草川秀男、久呂田まさみ、さいとう・たかを、桜井昌一、佐藤まさあき、高橋真琴、辰巳ヨシヒロ、松本正彦) == メディア出演 == === テレビ === * [[情熱大陸]]([[毎日放送|MBSテレビ]]、2006年2月5日)<ref>{{Cite web2 |url=http://www.mbs.jp/jounetsu/2006/02_05.shtml |title=さいとう・たかを(劇画家) |website=情熱大陸 |publisher=毎日放送 |accessdate=2021-09-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070501081801/http://www.mbs.jp/jounetsu/2006/02_05.shtml |archivedate=2007-05-01 |url-status=live}}</ref> * [[探検バクモン]]「ゴルゴ13の秘密基地に潜入せよ!」([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2013年1月16日・23日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://amass.jp/16305/|title=NHK総合『探検バクモン』のゴルゴスペシャル「ゴルゴ13の秘密基地に潜入せよ!」が1/16、23放送|website=amass|date=2013-01-15|accessdate=2021-09-29}}</ref> * [[浦沢直樹の漫勉]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]、2015年9月25日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/manben/saito/ |title=さいとう・たかを |website=浦沢直樹の漫勉 |publisher=NHK |accessdate=2021-09-29}}</ref> * [[漫道コバヤシ]] #22「画業60周年記念!ゴルゴ13シリーズ さいとう・たかをSP」([[フジテレビONE]]、2015年12月14日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/169214 |title=さいとう・たかを、TVで「ゴルゴ13」最終回や世界情勢ネタの仕入先を語る |website=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2015-12-14 |accessdate=2021-09-29}}</ref> * [[ゴロウ・デラックス]]([[TBSテレビ]]、2016年7月22日(21日深夜))<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bookbang.jp/article/515606 |title=稲垣吾郎の「銃」好きな一面が明らかに 『ゴルゴ13』さいとう・たかをの都市伝説に迫る | テレビ・ラジオで取り上げられた本 |website=Book Bang -ブックバン- |publisher=新潮社 |date=2016-07-23 |accessdate=2021-09-29}}</ref> * [[SWITCHインタビュー 達人達]]「さいとう・たかを×[[山中俊治]]」(NHK Eテレ、2019年12月21日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.saito-pro.co.jp/archives/2259 |title=NHK Eテレ 「SWITCH インタビュー 達人達」12月21日放送にさいとうたかをが出演します |website=さいとう・プロダクション |date=2019-12-19 |accessdate=2021-09-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/switch-int/ts/MPZZ23W13W/episode/te/GZRJL998PP/ |title=さいとう・たかを×山中俊治 |date=2019-12-21 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/TLrva |archivedate=2021-10-29 |accessdate=2021-10-30}}</ref> * [[ごごナマ]](NHK総合、2020年1月9日)<ref>{{Cite web|和書|url=https://amass.jp/129939/|title=『ゴルゴ13』さいとう・たかをゲスト出演 創作の秘密に迫る NHK『ごごナマ』1月9日放送|website=amass|date=2020-01-08|accessdate=2021-09-29}}</ref> * [[アナザーストーリーズ 運命の分岐点]]「“用件を聞こうか”~ゴルゴ13 最大の危機~」([[NHK-BSP]]、2020年10月6日) === 雑誌 === * 2016年5月26日発売の『[[週刊文春]]』2016年6月2日号 頁64-67に、樋口武男の「複眼対談」第68回で、対談記事「さいとう・たかを 劇画家」が掲載。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == * [https://www.saito-pro.co.jp/ さいとう・プロダクション] * {{Twitter|saitoproduction|さいとう・プロダクション}} * {{NHK人物録|D0009072659_00000}} * [http://www.shinjukuloft.com/galaxy/archive/e/2008/post_20.php さいとう・たかをインタビュー] * [https://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_i_saitoutakawo.html インタビュー「プロ意識が支えた40年」『新刊ニュース』2009年4月号より抜粋の記事、インタビュアーは石川淳志] * [https://dot.asahi.com/articles/-/114966 「“ゴルゴ”の最終回は頭の中に」さいとう・たかをのやり残したこと(週刊朝日2018年7月20日号インタビュー記事)] * [https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220910-OYT1T50186/ 故さいとう・たかを氏のお別れの会、29日に帝国ホテルで(読売新聞記事2022年9月10日)] * [https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220929-OYT1T50232/ さいとう・たかをさんをしのぶ「お別れの会」開催…ちばてつやさん「漫画を大人まで広げた」(読売新聞オンライン掲載記事2022年9月29日)] * [https://www.asahi.com/articles/ASQ9Y5DK3Q9YUCVL01X.html 漫画家仲間は見た 「ゴルゴ13」さいとう・たかをさんの手のひら(朝日新聞2022/9/29掲載記事)] {{ゴルゴ13}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さいとう たかを}} [[Category:さいとう・たかを|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:さいとう・プロダクションの人物|*]] [[Category:リイド社]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:旭日小綬章受章者]] [[Category:正六位受位者]] [[Category:名誉都民]] [[Category:日本のギネス世界記録保持者]] [[Category:日本の理容師]] [[Category:堺市出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:2021年没]] [[Category:膵癌で亡くなった人物]]
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斉藤富士夫
斉藤 富士夫(さいとう ふじお、1961年5月21日 - )は、日本のギャグ漫画家。新潟県白根市(現在の新潟県新潟市南区)出身。新潟県立新潟江南高等学校→法政大学文学部卒業。 1984年、『俺はドラマティック』(マガジンSPECIAL)でデビュー。 1992年、『激烈バカ』のVシネマ『吉本軍団激烈バカ』に出演した。
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'''斉藤 富士夫'''(さいとう ふじお、[[1961年]][[5月21日]] - )は、[[日本]]の[[ギャグ漫画|ギャグ]][[漫画家]]。[[新潟県]][[白根市]](現在の新潟県[[新潟市]][[南区 (新潟市)|南区]])出身。[[新潟県立新潟江南高等学校]]→[[法政大学]][[文学部]]卒業。 [[1984年]]、『俺はドラマティック』([[マガジンSPECIAL]])でデビュー。 [[1992年]]、『[[激烈バカ]]』の[[オリジナルビデオ|Vシネマ]]『[[吉本興業|吉本]]軍団激烈バカ』に出演した。 == 作品リスト == * [[激烈バカ]](1988年 - 1994年、[[週刊少年マガジン]]、全15巻、[[講談社]]) ** 激烈バカX(2008年 - ?年、[[モバMAN]]、[[小学館]]) * [[あたまがビッグバン]](1994年 - 1995年、週刊少年マガジン、全2巻、講談社) * [[魂のカルテ]](1998年 - ?年、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、全1巻、講談社) - '''ドクターさいとう'''名義 * [[奇妙なボーダーライン]](2001年 - ?年、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、全1巻、講談社) == 外部リンク == * {{YouTube|channel=UCbmjcBW4Rd8QU2yni4GQ9UA|さいとうふじお}} - 作品を自ら動画にて公開。激烈バカの一部エピソードも動画にて収められている。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:さいとう ふしお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:法政大学出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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三枝義浩
三枝 義浩(さえぐさ よしひろ、1967年 - )は、日本の漫画家。代表作に『キムンカムイ』。 2008年よりペンネームを奥井 義浩(おくい よしひろ)に変更しネット配信漫画を執筆している。 1989年、講談社の漫画雑誌『マガジンSPECIAL』掲載の『毎度ラーメン屋です』でデビュー。『毎度ラーメン屋です』はコメディタッチの作品だった。長期連載作品として『毎度ラーメン屋です』と『キムンカムイ』のほか、1~2話完結の実話をもとに描いたドキュメントシリーズを『週刊少年マガジン』上で定期的に執筆しており、その内容は反戦運動を主体とした戦争作品と医療・福祉・環境系をテーマにした作品などである。 全作品「三枝義浩」名義で執筆している。
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三枝 義浩は、日本の漫画家。代表作に『キムンカムイ』。 2008年よりペンネームを奥井 義浩に変更しネット配信漫画を執筆している。
{{存命人物の出典皆無|date=2016年9月17日 (土) 15:49 (UTC)}} '''三枝 義浩'''(さえぐさ よしひろ、[[1967年]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作に『キムンカムイ』。 2008年よりペンネームを'''奥井 義浩'''(おくい よしひろ)に変更しネット配信漫画を執筆している。 == 来歴・人物 == [[1989年]]、[[講談社]]の漫画雑誌『[[マガジンSPECIAL]]』掲載の『毎度ラーメン屋です』でデビュー。『毎度ラーメン屋です』はコメディタッチの作品だった。長期連載作品として『毎度ラーメン屋です』と『キムンカムイ』のほか、1~2話完結の実話をもとに描いたドキュメントシリーズを『[[週刊少年マガジン]]』上で定期的に執筆しており、その内容は[[反戦運動]]を主体とした[[戦争]]作品と[[医療]]・[[福祉]]・[[環境]]系をテーマにした作品などである。 == 作品リスト == === 連載作品 === ;「三枝義浩」名義 * [[毎度ラーメン屋です]](1989年 - 1991年、[[マガジンSPECIAL]]、[[講談社]]) * [[キムンカムイ]](1999年、[[週刊少年マガジン]]、[[講談社]]) ;「奥井義浩」名義 *ソルジャー・ドクター(2008年 ネット配信 リンクスタッフ) *研修医物語(2012年 ネット配信 レジコミュ) *ケンシュー(2014年 ネット配信 レジコミュ)連載中 === ドキュメント作品 === 全作品「三枝義浩」名義で執筆している。 :''ここでは単行本のタイトルについて記述する。雑誌上のタイトルは[[週刊少年マガジン連載作品の一覧#ドキュメント系]]を参照。'' * [[チョルノーブィリ|チェルノブイリ]]の少年たち(1992年) * [[後天性免疫不全症候群|AIDS]]―少年はなぜ死んだか(1993年) * 埋もれた楽園―[[谷津干潟]]・ゴミと闘った20年(1993年) * 太陽の仲間たちよ―[[身体障害者]]とある医師の挑戦(1994年) * 歩け[[アイメイト]]―[[盲導犬]](1995年) * AIDS 2―告げられなかった真実(1996年) * 出口のない海―[[人間魚雷]][[回天]]特攻作戦の悲劇(1996年) * [[語り継がれる戦争の記憶]] (1) (1995年) * 語り継がれる戦争の記憶 (2) (1997年) * 語り継がれる戦争の記憶 (3) (1998年) * 汚れた弾丸―[[劣化ウラン弾]]に苦しむ[[イラク]]の人々 / アフガニスタンで起こったこと―不屈の医師 中村哲物語(2004年) * ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか? / [[東京大空襲]] リンゴの歌(2005年) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:さえくさ よしひろ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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770
酒井美羽
酒井 美羽(さかい みわ、1956年2月23日 - )は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。女性。本名・来栖涼 東京デザイナー学院卒業後、山田ミネコ、忠津陽子、田中雅子らのアシスタントを経験。1977年、「ロリオン」で第2回白泉社アテナ大賞第2席に入賞。1978年、『花とゆめ』(白泉社)9号に掲載の「2年の春」でデビュー。以後、『花とゆめ』などに少女漫画作品を掲載。後に『Silky』(白泉社)、『YOU』(集英社)などでレディースコミック作品を描く。恋愛をテーマとした作品を得意とする。『ミステリーボニータ』(秋田書店)2020年12月号より「酒井美羽の少女まんが戦記」をスタートした。 酒井が定番としている設定の一つに「年の差カップル」の存在が挙げられる。この年の差カップル設定は、酒井が中学生の頃に読んで夢中となったシャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』が原点となっているという。年の差カップルをメインに掲げた初期作品としては、2年近く連載された『ミルクタイムにささやいて』を含む「ミミと州青のラブコメディ」シリーズ(年齢差は12歳)が挙げられる。より後期の作品としては『抱いて抱いて抱いて♥ダーリン』(年齢差は18歳)が挙げられ、この作品を作成したきっかけは年の差カップルの決定版を描きたかったからだと酒井は語っている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "酒井 美羽(さかい みわ、1956年2月23日 - )は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。女性。本名・来栖涼", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京デザイナー学院卒業後、山田ミネコ、忠津陽子、田中雅子らのアシスタントを経験。1977年、「ロリオン」で第2回白泉社アテナ大賞第2席に入賞。1978年、『花とゆめ』(白泉社)9号に掲載の「2年の春」でデビュー。以後、『花とゆめ』などに少女漫画作品を掲載。後に『Silky』(白泉社)、『YOU』(集英社)などでレディースコミック作品を描く。恋愛をテーマとした作品を得意とする。『ミステリーボニータ』(秋田書店)2020年12月号より「酒井美羽の少女まんが戦記」をスタートした。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "酒井が定番としている設定の一つに「年の差カップル」の存在が挙げられる。この年の差カップル設定は、酒井が中学生の頃に読んで夢中となったシャーロット・ブロンテの長編小説『ジェーン・エア』が原点となっているという。年の差カップルをメインに掲げた初期作品としては、2年近く連載された『ミルクタイムにささやいて』を含む「ミミと州青のラブコメディ」シリーズ(年齢差は12歳)が挙げられる。より後期の作品としては『抱いて抱いて抱いて♥ダーリン』(年齢差は18歳)が挙げられ、この作品を作成したきっかけは年の差カップルの決定版を描きたかったからだと酒井は語っている。", "title": "概要" } ]
酒井 美羽は、日本の漫画家。熊本県熊本市出身。女性。本名・来栖涼
{{特殊文字}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 酒井 美羽 | ふりがな = さかい みわ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 北園 美和子{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}}<br />(旧姓:酒井{{Sfn|可部達郎|1981|p=158-159}}{{Sfn|村石憲一|1986|p=77}}) | 別名義 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1956|02|23}}{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}} | 生地 = [[日本]]・[[熊本県]][[熊本市]]{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}} | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = | 活動期間 =[[1978年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[女性漫画]] | 代表作 = 『[[ミルクタイムにささやいて]]』<br />『その男、ワガママにつき』など{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}} | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''酒井 美羽'''(さかい みわ、[[1956年]][[2月23日]]<ref name="FPD">『Fusion Product 創刊号』ふゅーじょんぷろだくと、1981年7月。PP158 -159。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref name="FPD" />。[[熊本県]][[熊本市]]出身<ref name="FPD" />、血液型は[[ABO式血液型|O型]]{{Efn2|p. 398より:結婚後の本名・出身地・生年月日・血液型を記載{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}}。}}。[[女性]]<ref name="FPD" />。本名・北園美和子{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=398-399}}。 == 概要 == [[東京デザイナー学院]]卒業後、[[山田ミネコ]]、[[忠津陽子]]、[[田中雅子 (漫画家)|田中雅子]]らの[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経験。[[1977年]]、「ロリオン」で第2回[[白泉社アテナ新人大賞|白泉社アテナ大賞]]第2席に入賞。[[1978年]]、『[[花とゆめ]]』(白泉社)9号に掲載の「2年の春」でデビュー<ref name="FPD" />。以後、『花とゆめ』などに[[少女漫画]]作品を掲載。<br />後に『[[Silky]]』(白泉社)、『[[YOU (雑誌)|YOU]]』([[集英社]])などで[[レディースコミック]]作品を描く。恋愛をテーマとした作品を得意とする。『[[ミステリーボニータ]]』([[秋田書店]])2020年12月号より「酒井美羽の少女まんが戦記」をスタートした。 酒井が定番としている設定の一つに「年の差カップル」の存在が挙げられる。この年の差カップル設定は、酒井が中学生の頃に読んで夢中となった[[シャーロット・ブロンテ]]の[[長編小説]]『[[ジェーン・エア]]』が原点となっているという<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakusensha.co.jp/comicate/comi_no64/sakai/intv1.html|title=酒井美羽インタビュー 1.デビューは投稿3回で!|accessdate=2010-07-09}}</ref>。年の差カップルをメインに掲げた初期作品としては、2年近く連載された『[[ミルクタイムにささやいて]]』を含む「ミミと州青のラブコメディ」シリーズ(年齢差は12歳)が挙げられる。より後期の作品としては『抱いて抱いて抱いて♥ダーリン』(年齢差は18歳)が挙げられ、この作品を作成したきっかけは年の差カップルの決定版を描きたかったからだと酒井は語っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hakusensha.co.jp/comicate/comi_no64/sakai/intv2.html|title=酒井美羽インタビュー 2.想いはいつも一途|accessdate=2010-07-09}}</ref>。 [[1986年]]5月28日に行われた聖カテドラル教会での北園昌利(馴れ初めはアシスタント)との挙式の模様が『まんが情報誌[[ぱふ]]』にカラーグラビアで掲載され、[[魔夜峰央]]・[[谷地恵美子]]・[[高口里純]]・[[野間美由紀]]・[[佐々木淳子]]・[[山田ミネコ]]など大勢の友人漫画家たちも集合し祝われた{{Efn2|p. 77より:ウェディングドレス姿の結婚式の写真が夫君のフルネーム紹介と共に雑誌に掲載される漫画家は非常に稀である。なお漫画家の名前は掲載順に準拠した{{Sfn|村石憲一|1986|p=77}}。}}。その後、母としても多忙な日々を送っている(1992年時点{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p= 398-399}})。 編集委員会の委員長を[[石ノ森章太郎]]が務めた『日本漫画家名鑑500』にて、「ミルクタイムにささやいて」・「BAD GIRL」・「その男、ワガママにつき」・「[[セーラーブルーの青春]]」の4作品の書影を代表作として掲載している([[1992年]]時点{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p= 398-399}})。 == 作品リスト == === 少女漫画 === {{columns-list|25em| * 通り過ぎた季節(全2巻) ** 【改題】亜紀子のカレンダー(全3巻(16歳・17歳・18歳)) * ミミと州青のラブコメディ シリーズ ** あの娘におせっかい ** もういちど愛して! ** [[ミルクタイムにささやいて]](花とゆめCOMICS 全7巻、白泉社レディースコミックス 全9巻) ** 初体験ボーイ源之助!!!(全2巻) * [[セーラーブルーの青春]](全6巻) * マンハッタンサンセット * アデル * 異国にて<ref>花とゆめCOMICS「アデル」に収録</ref> * 花嫁はふくれっつら * 立枯れの森 ホラー傑作集 * 新キャベツ物語 * すきさ 好きさ すきさ * [[その男、ワガママにつき]](全10巻) ** その男、ワガママにつき+(プラス) ** その男、ワガママにつき+α(プラスアルファ)(上下巻) ** その男、ワガママにつき∞(ムゲンダイ) ** その男、ワガママにつき あみ♂ばん * 今夜もねむれない * メッセージ…佐由里 * 恋スルメロディ娘。 * 彼のクィーン 彼女のGP(グランプリ) * アリスの花道(全2巻) * 下北沢でロケットパンチ * [[¥十億少女]](ビリオンガール)(全10巻) * 教師(あたし)にやらせな!S☆T☆J * 彼と彼女のイエイエ * カフェ・ド・きまぐれビーチ * 涙の果実 }} === 女性漫画 === {{columns-list|25em| * 結婚を2倍楽しむ方法 * ミステレフォン ミセス・テレフォン * できちゃった * レディース・コミックなんかいらない * お坊っちゃまナイスですね * 神主さまは凄いらしい * BAD GIRL * 夢見るサーティー * ホテルへ行こう * カラオケへ行こう * わたしの鼻は天より高い * 101回目のトラバーユ(全2巻) * それゆけ秘宝館 * おくさまは28歳 * 夫婦は天下のまわりもの(全5巻) * 痛いの痛いのとんでいけ * ママはやしの実わり (全3巻) * 王子さまといっしょ * 永遠のラビリンス * ナイショ×ボーイ * 酒井美羽スペシャルセレクション (全4巻) * [[抱いて抱いて抱いて♥ダーリン]] (全15巻) ** もっと抱いてダーリン(全2話、電子書籍のみ) * マジメ男にご用心! * HR(ホームルーム)でつかまえてっ (全4巻) * [[ハッピートラブル・うえでぃんぐ]] (全8巻) * マジメ女でご免なさい * 涙の果実 * マリッジ・マリッジ・マリッジ!! * ボクのギャル社長 * キル・ラブ * M式プリンセス (全4巻) ** イバラ姫とSの従者たち -M式プリンセス番外編 * 極道マネージャー * 泣き虫ランチ * 限界スキャンダル * オオカミ先生のお気に入り (全2巻) * 絶対シンパシー (全2巻) * ライアーラブ 嘘つきの報酬 * 10ダンス! ダンス! ダンス!! (全3巻) * セレブリティ・ゲーム (全3巻) }} === 文庫 === {{columns-list|25em| * ミミと州青のラブコメディ シリーズ ** あの娘におせっかい ** もういちど愛して! ** [[ミルクタイムにささやいて]](全3巻) * その男、ワガママにつき(全6巻) * [[¥十億少女]](ビリオンガール)(全5巻) * アリスの花道 * 結婚を2倍楽しむ方法 * ミステレフォン ミセス・テレフォン * できちゃった * お坊っちゃまナイスですね * BAD GIRL * 夢見るサーティー * ホテルへ行こう * カラオケへ行こう * 夫婦は天下のまわりもの(全2巻) * ママはやしの実わり(全2巻) * 酒井美羽2in1シリーズ ** 彼と彼女のイエイエ/カフェ・ド・きまぐれビーチ ** 恋スルメロディ娘。/その男、ワガママにつき あみ♂ばん ** ナイショ×ボーイ/教師(あたし)にやらせな! }} === ロマンスコミックス === {{columns-list|25em| * 傲慢シークにご用心 * ボスと恋に落ちる方法 * 富豪弁護士は赤毛がお好き/ご主人様と恋の契約 * 恋は危険なプリンスと/SPはプリティウーマン * プレイボーイの甘い罠 * 王様と白衣のシンデレラ * 義兄(あに)は危険な大富豪 * わけあり王女とボディガード/ミランダの大失敗 * 傲慢弁護士と恋のバトル * 怖がり霊媒師とイジワル大富豪 * ボスとセアラの契約結婚 * 身代わりレディとスクリーンの恋人 * 年下シークの甘い誘惑/年上シークの危険な密約 * 彼は危険なミリオネア * CEOと恋の手ほどき * ハリウッドスターの恋人 * クイーンの値段 * 公爵様の射止め方 * 傲慢社長と愛の契約/冷徹社長と恋の戦略 * 金髪のシーク * 落札された騎士/SPとシンデレラロマンス * シークと砂漠の花嫁 * 熱砂の王子と恋をする方法 * 捨てられ王子の契約結婚 * 淑女フェリーサの遺産 * ブルゴーニュの恋人 * 嵐の王子と灼熱の恋 * 傲慢男爵の禁じられた花 * 高慢侯爵の愛の罠 * お忍びプリンスと恋する淑女 * 放蕩伯爵のプリンセスメイド * 最高の恋人になる方法 * 漆黒シークと秘密の王宮 * トパーズは愛の迷路 * 非情王子と恋の誘惑 * 初恋CEOの命令婚 * 隻眼侯爵の甘美なる契約 * カジノ王の愛と復讐 * 熱愛シークの危険な誘惑 }} === その他 === * 酒井美羽の少女まんが戦記(既刊1巻) * マンガ日本の古典 31巻「[[春色梅児誉美]]」(原作:[[為永春水]]、[[中央公論社]])(全1巻、文庫全1巻) * シークのSはサドのS - BL漫画 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=[[ふゅーじょんぷろだくと|可部達郎]] |date =1981-07-01 |title=まんが家総力インタビュー:酒井美羽|journal=まんが専門誌FUSION PRODUCT(ふゅーじょん ぷろだくと)1981年7月号(創刊号)|volume=1 |issue=1 |pages=158-159 |publisher=[[ラポート]] |id={{全国書誌番号|01019280}} |ref={{SfnRef|可部達郎|1981}} }}<!-- 雑誌コード:07779/定価630円。--> * {{Citation|和書|author=「日本漫画家名鑑500」編集委員会(委員長:[[石ノ森章太郎]])・[[加藤昇]] 編|date=1992-12-18 |title=日本漫画家名鑑500:[[1945年|1945]]-[[1992年|1992]] |pages=1069 |publisher=アクア・プランニング|id={{全国書誌番号|93037702}} |ref={{SfnRef|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992}} }}<!--奥付及び編集後記より:1991年夏・東京池袋にて開催『まんが大博覧会:作家500人展』の一環で編纂された名鑑。限定5千部印刷し、協賛した漫画家・図書館・マスコミ各社等に無料配布/非売品との事。--> * {{Citation|和書|editor=村石憲一|date=1986-08-01 |title=ご結婚おめでとうございます|journal=まんが情報誌[[ぱふ]] 1986年8月号(通巻117号)|volume=12 |issue=9 |pages=77 |publisher=[[雑草社]] |id={{全国書誌番号|00042666}} |ref={{SfnRef|村石憲一|1986}} }}<!-- 雑誌コード:17561/定価480円。--> == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20070312044737/homepage.mac.com/royal_milk_company/ 酒井美羽 懐古資料館(『花とゆめ』時代の作品を完全網羅)] * {{Mediaarts-db|C55677|酒井美羽}} * {{Twitter|sakaimiwa333}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:さかい みわ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:熊本市出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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坂口いく
坂口 いく(さかぐち いく、12月31日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。神奈川県出身。代表作に『闇狩人』など。 1982年、第23回手塚賞佳作(『BREAK A ROAD』)。 集英社の子会社。冊子の編集・出版を請け負い、販売は集英社から行われる。 東京三世社の子会社。倒産後、親会社に統合。
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坂口 いくは、日本の漫画家・漫画原作者。神奈川県出身。代表作に『闇狩人』など。 1982年、第23回手塚賞佳作。
{{別人|小山田いく|x1=漫画家の}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 坂口 いく |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = 12月31日 |生地 = {{JPN}}・[[神奈川県]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = [[漫画家]]・[[漫画原作者]] |称号 = |活動期間 = |ジャンル = |代表作 = 『[[闇狩人]]』 |受賞 = 第23回[[手塚賞]]佳作 |サイン = |公式サイト = }} '''坂口 いく'''(さかぐち いく、[[12月31日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[漫画原作者]]。[[神奈川県]]出身。代表作に『[[闇狩人]]』など。 [[1982年]]、第23回[[手塚賞]]佳作(『BREAK A ROAD』)。 == 作品リスト == === 集英社 === * 『[[風のシモン]]』(月刊少年ジャンプ・ジャンプオリジナル) * 『[[闇狩人]]』(月刊少年ジャンプ) * 『闇狩人異伝 Dの軌跡』(ジャンプオリジナル) * 坂口いく短編集『がんばればHERO』 * 坂口いく短編集『100%』 * 坂口いく短編集『闇狩人・家族の肖像』(月刊少年ジャンプ) * 『霊戦記行SHIVA』 * 『TOKYO徒然荘物語』(ヤングジャンプ) ==== ホーム社 ==== 集英社の子会社。冊子の編集・出版を請け負い、販売は集英社から行われる。 * 『新選組隊外記 無名の剣』(コミック時代活劇) * 『闇狩人Δ』(原作・絵コンテを担当、作画:[[細川真義]])Z(ホーム社のウェブコミックサイト) === ぶんか社 === * 『[[きりんBREAK A ROAD]]』 === 東京三世社 === * 『GEKI戦記』 ==== フロム出版 ==== 東京三世社の子会社。倒産後、親会社に統合。 * 『我竜京介PUBLICファイル』 === 秋田書店 === * 『[[ちぇんじ123]]』(ちぇんじひふみ)(原作・絵コンテを担当、作画:[[岩澤紫麗]]) === 哲学出版 === * 『MS-DOSでいじめないで』(1989年4月、朝野 光との共著) === 小学館 === * 『時忘の捨姫(ときわすれのすてひめ)-時緒縁起譚-』(原作・絵コンテを担当、作画:[[荒巻美由希]]) === スクウェア・エニックス === * 『公務ですから!』(原作・絵コンテを担当、作画:[[清水ユウ]])[[月刊ビッグガンガン]] * 『[[闇狩人|新 闇狩人]]』(原作・絵コンテを担当、作画:[[細川真義]])月刊ビッグガンガン == アシスタント == * [[松枝尚嗣]] {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さかくち いく}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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坂田靖子
坂田 靖子(さかた やすこ、1953年2月25日 - )は、日本の漫画家。女性。 ポスト24年組の一人に数えられる。短編が多く、コメディからシリアスまで多岐にわたる。ユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ナンセンス性、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図など評価が高い。同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた。現在も石川県金沢市在住。 大阪府高槻市出身。幼児の頃から本が好きで、保育園に入る前にマンガを読み始めていたという。小学校に入る2年ほど前に、水野英子の少女漫画『星のたてごと』を読み感動。中学3年生の時に初めてマンガ友達ができ、漫画を描いて見せあうようになる。石ノ森章太郎の本で手書きの原稿を綴じて回し読みする「肉筆回覧誌」を知り、雑誌の読書コーナーでメンバーを募り20人ほどで活動を始め、中学3年生の時に漫画研究会ラヴリを創設。高校生の時16歳で初の肉筆回覧誌を発行。漫画の描き手を探し回り、17歳で花郁悠紀子と出会い大親友となる。 萩尾望都の熱烈なファンで、1971年(当時高校生18歳)の冬に、萩尾ら24年組の少女漫画家が集まって住んでいた通称・大泉サロン(大泉学園)を花郁悠紀子と共に訪問、その後夏に花郁と共に長期で滞在し食事や原稿の手伝いをする。漫画研究会ラヴリには、花郁悠紀子、橋本多佳子 (漫画家)、小沢真理、岡野史佳といったのちのプロ作家が参加し、地方都市金沢で活動しながら70年代後半には同人界で全国的に知られるレジェンド的存在となった。1975年、『花とゆめ』掲載の「再婚狂騒曲」でデビュー。デビュー時の編集長・小長井信昌は漫画界のベテランであったが、坂田のマンガはよくわからないが、読者は面白いと言っているので好きなように描くようにと言い、一般受けする学園ラブコメなどを描くよう強制することも全くなかった。坂田は深く尊敬する編集長のもとで自由に創作し、小長井が1976年に創刊した新雑誌『LaLa』に創刊メンバーとして参加。1979年から、ラヴリの同人誌が肉筆回覧誌からオフセット印刷になり、同人誌「ラヴリ」は1990年代初頭までに50冊弱刊行された。(ラヴリから「やおい」という言葉が生まれた。参考:やおい#やおいという言葉の誕生)白泉社との専属契約がおわると、1980年代から小学館『プチフラワー』、マガジン・マガジン『JUNE』、新書館『グレープフルーツ』、ペヨトル工房『銀星倶楽部』、朝日ソノラマ『DUO』、早川書房『SFマガジン』、潮出版社『コミックトム』、白泉社『MOE』など幅広い雑誌で活動。 2016年時点で金沢在住。2016年3月に銀座で初の個展を行う。 デビュー前は今と異なり、少し悲しい話の方が多かった。『バジル氏の優雅な生活』の頃から、ユーモアのある、ウィットに富んだ作品が増える。坂田はこの変遷について、「最初の頃はよくわからなかったせいもありまして、しっとりした話だとか悲しい話とかにも惹かれたんですけど、だんだん年を取ってきますと、人生はけっこう楽しいなって(笑)。開き直ってきまして。」と語っている。 坂田曰く、依頼を貰う時に内容についての指定はほとんどなく、事前の打ち合わせも滅多になく、それぞれの雑誌の読者の好みに合わせて自由に描いているという。しかし、坂田の中では商業作品と同人作品は分かれており、あえて描き分けていた。『アモンとアスラエール』『ベル デアボリカ』のように自主的な制限もせず趣味で描いた作品は、最初自費出版や同人誌の形で本になり、その後単行本に収録されている。 イギリスを舞台にした小品が多く、また、無国籍なファンタジーから日本の怪談・説話を素地にした作品を描く。代表作にヴィクトリア朝イギリスが舞台の『バジル氏の優雅な生活』、『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』などがある。海外が舞台の作品も多いが、海外旅行には全く行ったことがなく、想像だけで作品を作っている。主にコメディタッチの作風で知られるが、人間の複雑な心理面に迫る深刻な主題の作品も見られ、多種多様な作品を描く多才な作家である。(本人によると、シリアスな作品が少ないのは単純に依頼が少ないからとのこと。そのため、同人誌や自費出版の作品にはシリアスな物が多い)。シリアスな作品としては、『誇り高き戦場』(アラン・シリトー原作)、『パエトーン』、『桃の村』などがある。全体としては悲惨な結末や退廃的なラストは少なく、ユーモア・ナンセンス性があり、児童文学史研究家の土井安子は、坂田作品は失敗続きでも生きることを肯定しており、その点は児童文学と共通で、両方を好きな人も多いと述べている。萩尾望都は、坂田のユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図を高く評価しており、『ベル デアボリカ』を究極のラブストーリーと評してる。 「少年」という存在が好きで、『D班レポート』のような少年たちが活躍するコメディや、雑誌『JUNE』で連載したやおいテイストのあるショートショートもある。名画や芸術、テレビCMなど、現実のネタを作品に埋め込むのが好きで、今だったら編集部の許可が必要になるだろうが、東洋の伝統的な「以前にある素晴らしい完成度のものを下に敷いて、さらに二次的、三次的に膨らませて創作物を作っていく」という「本歌取り」の感覚を好んでいると述べている。 深く影響を受けた漫画家は手塚治虫、水野英子、萩尾望都。ファンタジーでは、『メアリー・ポピンズ』と『ナルニア国物語』に特に大きな影響を受けた。映画好きで、中学生くらいから映画ばかり見ていた。ミュージカル映画が好きで、フレッド・アステアやジーン・ケリーなどの「ザッツ・エンタテインメント」系の作品群、当時の封切映画では「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」「メリー・ポピンズ」などを好む。アルフレッド・ヒッチコック、ウィリアム・ワイラー、デビッド・リーンも好きで、フェデリコ・フェリーニの映画にも一時期はまっていた。アジアものに関しては、NHKで放送された『遠野物語』のドキュメンタリー風の紹介番組や、当時のアジアブームでメディアで紹介された文化や物語の数々、手塚治虫『西遊記』、上田としこ『フイチンさん』の影響を受けているようだと述べている。また、落語や狂言のような笑いを好んでいる。RPGゲーマーとしても知られ、RPGの魔法使いから『ベル デアボリカ』が生まれた。
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坂田 靖子は、日本の漫画家。女性。 ポスト24年組の一人に数えられる。短編が多く、コメディからシリアスまで多岐にわたる。ユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ナンセンス性、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図など評価が高い。同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた。現在も石川県金沢市在住。
'''坂田 靖子'''(さかた やすこ、[[1953年]][[2月25日]]<ref name="FPD">『Fusion Product 創刊号』ふゅーじょんぷろだくと、1981年7月。PP134-135。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/坂田靖子-fjqkxywyg|title=坂田 靖子(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2022-01-02}}</ref>。女性{{R|mangapedia}}。 ポスト[[24年組]]の一人に数えられる<ref name="個展">[https://natalie.mu/comic/news/177571 坂田靖子の40年間を振り返る1冊で萩尾望都と対談、初の個展も開催] コミックナタリー 2016年2月26日</ref>。短編が多く、コメディからシリアスまで多岐にわたる。ユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ナンセンス性、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図など評価が高い<ref name="対談"/>。同人界の初期から石川県で漫画研究会ラヴリを主宰し様々な影響を与えた{{R|mangapedia}}。{{要出典範囲|date=2022-01-02|現在も[[石川県]][[金沢市]]在住。}} == 来歴 == [[大阪府]][[高槻市]]出身<ref name="プロフ">「プロフィール」『総特集 坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』 河出書房新社、2016年</ref>。幼児の頃から本が好きで、保育園に入る前にマンガを読み始めていたという<ref name="宇宙学">ロングインタビュー「坂田靖子の宇宙学(コスモロジー)」『総特集 坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』 河出書房新社、2016年</ref>。小学校に入る2年ほど前に、[[水野英子]]の少女漫画『[[星のたてごと]]』を読み感動<ref 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ふしぎの国のマンガ描き』 河出書房新社、2016年</ref>。萩尾望都は、坂田のユーモアとウィットに富んだ洒脱で粋な作風、ストーリー性、シンプルでコントラストのある独特の構図を高く評価しており、『ベル デアボリカ』を究極のラブストーリーと評してる<ref name="対談"/>。 「少年」という存在が好きで、『D班レポート』のような少年たちが活躍するコメディや、雑誌『[[JUNE (雑誌)|JUNE]]』で連載した[[やおい]]テイストのあるショートショートもある。名画や芸術、テレビCMなど、現実のネタを作品に埋め込むのが好きで、今だったら編集部の許可が必要になるだろうが、東洋の伝統的な「以前にある素晴らしい完成度のものを下に敷いて、さらに二次的、三次的に膨らませて創作物を作っていく」という「[[本歌取り]]」の感覚を好んでいると述べている<ref name="宇宙学"/>。 ==影響== 深く影響を受けた漫画家は[[手塚治虫]]、水野英子、萩尾望都<ref name="宇宙学"/>。ファンタジーでは、『[[メアリー・ポピンズ]]』と『[[ナルニア国物語]]』に特に大きな影響を受けた<ref name="宇宙学"/>。映画好きで、中学生くらいから映画ばかり見ていた。ミュージカル映画が好きで、[[フレッド・アステア]]や[[ジーン・ケリー]]などの「ザッツ・エンタテインメント」系の作品群、当時の封切映画では「[[マイ・フェア・レディ]]」「[[サウンド・オブ・ミュージック]]」「メリー・ポピンズ」などを好む<ref name="宇宙学"/>。[[アルフレッド・ヒッチコック]]、[[ウィリアム・ワイラー]]、[[デビッド・リーン]]も好きで、[[フェデリコ・フェリーニ]]の映画にも一時期はまっていた<ref name="宇宙学"/>。アジアものに関しては、NHKで放送された『[[遠野物語]]』のドキュメンタリー風の紹介番組や、当時のアジアブームでメディアで紹介された文化や物語の数々、手塚治虫『西遊記』、[[上田としこ]]『[[フイチンさん]]』の影響を受けているようだと述べている<ref name="対談"/>。また、落語や狂言のような笑いを好んでいる<ref name="対談"/>。RPGゲーマーとしても知られ<ref name="プロフ"/>、RPGの魔法使いから『ベル デアボリカ』が生まれた<ref name="宇宙学"/>。 == 作品リスト == === 1970年代 === ;1977年 * エルドンの夜(花とゆめコミックス)ISBN 9784592116127 * 夜のお茶会(花とゆめコミックス)ISBN 9784592116189 * おやすみまえの本(チェリッシュ・ブック) ; 1978年 * 青絹の風(花とゆめコミックス) * ぼくらは優等生(花とゆめコミックス)(後、『D班レポート1』に改題) * おばけ地帯(花とゆめコミックス)ISBN 9784592116325 * さだまさし やさしさの風景(チェリッシュ・ブック)アンソロジー形式、イラスト参加 ;1979年 * D班レポート2(花とゆめコミックス)ISBN 9784592110194 * チャンの騎士たち(花とゆめコミックス)ISBN 9784592116349 === 1980年代 === ;1980年 * [[バジル氏の優雅な生活]]1(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113515 * D班レポート3(花とゆめコミックス)完結 ISBN 9784592110200 ;1981年 * バジル氏の優雅な生活2(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113522 * バジル氏の優雅な生活3(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113539 * ヒューイ・デューイ物語(花とゆめコミックス) ISBN 9784592116547 ;1982年 * ライラ・ペンション(花とゆめコミックス)ISBN 9784592116783 * アモンとアスラエール(ペーパームーンコミックス)ISBN 9784403610271:同人誌として作られたものがほぼそのまま出版された<ref name="年譜"/> * 兄弟仁義(ペーパームーンコミックス)らっぽり任侠版波津彬子編、共著 ;1983年 * バジル氏の優雅な生活4(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113546 * バジル氏の優雅な生活5(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113553 * 魔法圏(新書館)ISBN 9784403610417 * 闇夜の本1(サンコミックス)ISBN 9784257917267 * 星食い(サンコミックス)ISBN 9784257917304 * フレドリック・ブラウンは二度死ぬ(朝日ソノラマ)橋本多佳子、波津彬子との共著 ISBN 9784257900474 ;1984年 * バジル氏の優雅な生活6(花とゆめコミックス)ISBN 9784592113560 * ライム博士の12か月(花とゆめコミックス) ISBN 9784592117025 * 村野(ジェッツコミックス) ISBN 4-592-13033-2 * エレファントマン・ライフ(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13038-3 * 探偵ゲーム(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13042-1 * パエトーン(ペーパームーンコミックス)ISBN 9784403610530 * 闇夜の本2(サンコミックス)ISBN 4-257-91787-3 * 誇り高き戦場(朝日ソノラマ)デュオセレクション ISBN 4-257-90053-9 * ゾウアザラシかいに(チェリッシュ絵本館)ISBN 9784592820048 ;1985年 * バジル氏の優雅な生活7(花とゆめコミックス)ISBN 4-592-11357-8 * ピーターとピスターチ(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13071-5 * 闇夜の本3(サンコミックス)ISBN 4-257-91825-X ;1986年 * バジル氏の優雅な生活8(花とゆめコミックス)ISBN 4-592-11358-6 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中1(プチフラワーコミックス)ISBN 4-09-178631-6 * ノーベル・マンション(花とゆめコミックス) ISBN 9784592117698 * 月と博士(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13090-1 * 天花粉(希望コミックス)ISBN 4-267-90174-0 * 花模様の迷路(ペーパームーンコミックス)ISBN 4-403-61100-1 * 女神の見た夢(朝日ソノラマ)ゲスト参加 ISBN 4-257-90079-2 * 闇夜の本オリジナルアルバム(キングレコード)イメージアルバム ;1987年 * バジル氏の優雅な生活9(花とゆめコミックス)完結 ISBN 9784592113591 * 闇月王(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13118-5 * 吉祥花人ラクシュミー(ジェッツコミックス)佐藤史生責任編集アンソロジー ISBN 4-592-13112-6 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中2(プチフラワーコミックス)ISBN 4-09-178632-4 * カヤンとクシ(希望コミックス)アジア変幻記1 ISBN 978-4267901751 * マイルズ卿ものがたり(ペーパームーンコミックス)ISBN 4-403-61141-9 * 叔父様は死の迷惑(あすかコミックス)ISBN 9784049240221 ;1988年 * 塔にふる雪(希望コミックス)アジア変幻記2 ISBN 4-267-90176-7 * バラエティ・ギフト(秋田書店)ISBN 4-253-10209-3 * チューくんとハイちゃん(アクションコミックス)ISBN 4-575-93129-2 ;1989年 * シマウマ(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13129-0 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中3(プチフラワーコミックス)ISBN 4-09-178633-2 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中4(プチフラワーコミックス)ISBN 4-09-178634-0 * 坂田靖子の本1 おばけや怪物の話(希望コミックス)ISBN 9784267012006 * 坂田靖子の本2 夢とまぼろしのおはなし(希望コミックス)ISBN 4-267-01201-6 * ゾウの肩かけ(プリンセスコミックス)ISBN 4-253-07398-0 * パパゲーノ(偕成社)坂田靖子傑作集 ISBN 4-89594-305-4 * 時間を我等に(早川書房)坂田靖子作品集 ISBN 4-15-203395-9 * 引っ越していくあなたへ(角川グリーティングブック)ISBN 4-04-711022-1 === 1990年代 === ;1990年 * ダンジョンズ&ドラゴンズ1(ワイドKC)ISBN 4-06-176581-7 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中5(プチフラワーコミックス)完結 ISBN 4-09-178635-9 * 坂田靖子の本3 てんやわんやのおはなし(希望コミックス)ISBN 4-267-01202-4 * ビーストテイル(希望コミックス)ISBN 4-267-90199-6 * 黄金の梨1(プリンセスコミックス)ISBN 4-253-07721-8 * 水の森綺譚1(偕成社)ISBN 9784030143500 * GIRLS MANEERS BOOK(グンゼ)非売品 ;1991年 * ダンジョンズ&ドラゴンズ2(ワイドKC)完結 ISBN 4-06-176615-5 * 珍見異聞1 芋の葉に聴いた咄(希望コミックス)ISBN 4-267-90221-6 * バジル氏の優雅な生活1 愛蔵版(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13813-9 * バジル氏の優雅な生活2 愛蔵版(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13814-7 * バジル氏の優雅な生活3 愛蔵版(ジェッツコミックス)完結 ISBN 4-592-13815-5 * アリス・ブック1 新作集(新潮コミック)アンソロジー ISBN 4-10-603026-8 * アリス・ブック2 名作集(新潮コミック)アンソロジー ISBN 4-10-603027-6 ;1992年 * 水の片鱗 マクグラン画廊(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13149-5 * 黄金の梨2(プリンセスコミックス)ISBN 4-253-07722-6 * チューくんとハイちゃん(ジュールコミックス)ISBN 4-575-33135-X * ビギン・ザ・ビギン1(ミッシィコミックス)ISBN 4-391-91405-0 ;1993年 * ビギン・ザ・ビギン2(ミッシィコミックス)ISBN 9784391914719 * 珍見異聞2 磯の貝に聴いた咄(希望コミックス)完結 ISBN 4-267-90244-5 * 水の森綺譚2(偕成社)ISBN 9784030143609 * 記念写真(ジュールコミックス)ショート不思議ストーリーズ ISBN 4-575-33158-9 * エルドンとジムと(ジェッツコミックス)初期傑作集 ISBN 4-592-13791-4 * きのうとあしたと(ジェッツコミックス)初期傑作集 ISBN 4-592-13792-2 * おばけとネコと(ジェッツコミックス)初期傑作集 ISBN 4-592-13793-0 ;1994年 * キムチ(ジェッツコミックス)ミステリ-短編集 ISBN 4-592-13158-4 * パスタ野郎(ジェッツコミックス)ISBN 4-592-13159-2 * 黄金の梨3(プリンセスコミックス)ISBN 4-253-07723-4 * 水の森綺譚3(偕成社)ISBN 9784030143708 * くされ縁([[サン出版|マガジン・マガジン]])ISBN 4-906011-03-9 ;1995年 * 怪奇体験談(ジュールコミックス)ショート不思議ストーリーズ ISBN 4-575-33208-9 * 堤中納言物語(中央公論新社)マンガ日本の古典7 ISBN 978-4-12-403285-7 * 半熟少年(マガジン・マガジン)ISBN 4-906011-14-4 * 時間を我等に(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030506-4 * 星食い(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030523-4 * 闇夜の本1(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030529-3 * 闇夜の本2(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030533-1 * 闇夜の本3(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030537-4 ;1996年 * 伊平次とわらわ1(希望コミックス)ISBN 4-267-90276-3 * 伊平次とわらわ2(希望コミックス)完結 ISBN 4-267-90288-7 * 常夏DEサンバ(ミッシィコミックス)新ビギン・ザ・ビギン ISBN 4-391-91581-2(ISBN 4872871146) * 黄金の梨4(プリンセスコミックス)完結 ISBN 4-253-07724-2 * ダンジョン狂騒曲(ソフトバンク)ISBN 4-7973-0124-4 * マイルズ卿ものがたり(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030542-0 * 花模様の迷路(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030559-5 * バエトーン(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030567-6 * バジル氏の優雅な生活1(白泉社文庫)ISBN 4-592-88251-2 * バジル氏の優雅な生活2(白泉社文庫)ISBN 4-592-88252-0 * バジル氏の優雅な生活3(白泉社文庫)ISBN 4-592-88253-9 * 階段宮殿(文春文庫ビジュアル版)自選作品集 ISBN 4-16-811041-9 * ハリーの災難(文春文庫ビジュアル版)自選作品集 ISBN 4-16-811042-7 * THE X FILES 2 海の彼方に(少年キャプテンコミックススペシャル)漫画化 ISBN 4-19-830115-8 * リカの想い出 永遠の少女たちへ(ネスコ)アンソロジー ISBN 4-89036-703-9 ;1997年 * 水の森綺譚4(偕成社)ISBN 9784030143807 * てかてかアイランド(ミッシィコミックス)ISBN 4-87287-181-2 * よなきうどん(マガジン・マガジン)ISBN 4-906011-26-8 * バジル氏の優雅な生活4(白泉社文庫)ISBN 4-592-88254-7 * バジル氏の優雅な生活5(白泉社文庫)完結 ISBN 4-592-88255-5 * 叔父様は死の迷惑(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030574-9 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中 旅情篇(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030581-1 * マーガレットとご主人の底抜け珍道中 望郷篇(ハヤカワ文庫)ISBN 4-15-030584-6 ;1998年 * 緑が丘3丁目(ジュールコミックス)不思議TOWNストーリー ISBN 4-575-33227-5 * 村野(白泉社文庫)ISBN 4-592-88384-5 * エレファントマン・ライフ(白泉社文庫)ISBN 4-592-88385-3 * ダンジョンズ&ドラゴンズ(KCデラックス)ISBN 4-06-333977-7 ;1999年 * バスカビルの魔物(早川書房)ミステリコミック集 ISBN 4-15-208229-1 * 探偵ゲーム(白泉社文庫)ISBN 4-592-88386-1 * 月と博士(白泉社文庫)ISBN 4-592-88387-X * 闇月王(白泉社文庫)ISBN 4-592-88388-8 * 水の片鱗 マクグラン画廊(白泉社文庫)ISBN 4-592-88389-6 * 堤中納言物語(中央公論新社)マンガ日本の古典7 ISBN 4-12-203527-9 === 2000年代 === ;2000年 * タイニーポムポム(プチフラワーコミックス)ISBN 4-09-178636-7 * チューくんとハイちゃん(双葉文庫)ISBN 4-575-72260-X * 天花粉(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01571-6 * ビーストテイル(潮漫画文庫) ISBN 4-267-01572-4 * カヤンとクシ(潮漫画文庫)アジア変幻記1 ISBN 4-267-01573-2 * 塔にふる雪(潮漫画文庫)アジア変幻記2 ISBN 4-267-01574-0 * 珍見異聞1 芋の葉に聴いた咄(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01575-9 * 珍見異聞2 磯の貝に聴いた咄(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01576-7 ;2001年 * イソップ扁桃腺(希望コミックス)ISBN 4-267-90365-4 * 珍犬デュカスのミステリー(ジュールコミックス)ISBN 4-575-33246-1 * 伊平次とわらわ1(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01577-5 * 伊平次とわらわ2(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01578-3 * 女神の見た夢(双葉文庫名作シリーズ)ゲスト参加 ISBN 4-575-72290-1 * ねこミックス1(コミックねこだけアンソロジー)アンソロジー ISBN 4-87287-835-3 * あなたのための小さな物語3ロマンティック・ストーリーズ(ポプラ社)赤木かん子編 春の磯(磯の貝に聴いた咄)再録 ISBN 4-591-06759-9 ;2002年 * サカタ荘221号室(PHP研究所)ISBN 4-569-61991-6 * D班レポート(白泉社文庫)ISBN 4-592-88390-X * ライラ・ペンション ノーベル・マンション(白泉社文庫)ISBN 4-592-88391-8 * 水の森紀譚1(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01627-5 * 水の森紀譚2(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01628-3 * 水の森紀譚3(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01629-1 * 水の森紀譚4(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01630-5 * 水の森紀譚5(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01631-3 * ビギン・ザ・ビギン1(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01647-X * ビギン・ザ・ビギン2(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01648-8 * ビギン・ザ・ビギン3(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01649-6 * ビギン・ザ・ビギン4(潮漫画文庫)ISBN 4-267-01650-X * 記念写真(双葉文庫)ショート不思議ストーリーズ ISBN 4-575-72410-6 * フレドリック・ブラウンは二度死ぬ(講談社漫画文庫)橋本多佳子、波津彬子共著 ISBN 4-06-360432-2 * ねこミックス2(コミックねこだけアンソロジー)アンソロジー ISBN 4-87287-836-1 * ねこミックス3(コミックねこだけアンソロジー)アンソロジー ISBN 4-87287-837-X * 猫のファンタジー([[幻冬舎コミックス]])アンソロジー ISBN 4-344-80295-0 * あなたのための小さな物語11自立(ポプラ社)赤木かん子編 虫めづる姫君(堤中納言物語)再録 ISBN 4-591-07148-0 ;2003年 * デル・カント・バジェット(スクウェア・エニックス)ISBN 9784757508620 * ライム博士の12ヶ月(白泉社文庫)ISBN 4-592-88392-6 * 誇り高き戦場(講談社漫画文庫)ISBN 4-06-360493-4 * 緑が丘3丁目(双葉文庫)ISBN 4-575-72484-X ;2004年 * 珍犬デュカスのミステリー2(ジュールコミックス)ISBN 4-575-33297-6 * 猫のファンタジー2(幻冬舎コミックス)アンソロジー ISBN 4-344-80368-X * 風と雲と犬たちに(幻冬舎コミックス)アンソロジー ISBN 4-344-80397-3 ;2005年 * 花のミステリー(あおば出版)アンソロジー ISBN 4-87317-632-8 ;2006年 * バスカビルの魔物(ハヤカワコミック文庫)ISBN 9784150308667 * 星のミステリー(あおば出版)アンソロジー ISBN 4-87317-661-1 * ホラーセレクション6ホームスイートホラー(ポプラ社)赤木かん子編 予知夢(珍犬デュカスのミステリー)再録 ISBN 4-591-09077-9 ;2007年 * 無駄知識王(幻冬舎コミック)アンソロジー ISBN 978-4-344-81129-4 ;2008年 * ラブストーリーセレクション3眠れぬ夜をこえて(ポプラ社)赤木かん子編 はいずみ(堤中納言物語)再録 ISBN 978-4-591-10135-3 * ラブストーリーセレクション5恋のかけひき(ポプラ社)赤木かん子編 貝合(堤中納言物語)再録 ISBN 978-4-591-10137-7 ;2009年 * 海に行かないか(朝日新聞出版)ISBN 978-4022140197 4月7日発売 * たぷたぷだいあり(朝日新聞出版)ISBN 978-4022140203 5月7日発売 * 珍犬デュカスのミステリー1(双葉文庫)ISBN 978-4-575-72715-9 6月16日発売 * 珍犬デュカスのミステリー2(双葉文庫)ISBN 978-4-575-72716-6 6月16日発売 * クリスマス・キャロル(光文社)ISBN 978-4-334-90162-2 11月27日発売 === 2010年代 === ;2010年 * ベル デアボリカ1(朝日新聞出版)ISBN 978-4-02-214042-5 6月4日発売:1998年に制作を開始し、2000年に自費出版された作品<ref name="年譜"/> *サカタ食堂 坂田靖子よりぬき作品集 ISBN 978-4861768057、ジャイブ、11月6日発売 ;2011年 * へだたり 坂田靖子よりぬき作品集 (ピュアフルコミックス) ISBN 978-4861768170 ジャイブ 1月27日発売 * オレンジとレモン 坂田靖子よりぬき作品集 (ピュアフルコミックス) ISBN 978-4861768439、ジャイブ、6月7日発売 ;2012年 * サカタさんのおばけ屋敷―坂田靖子よりぬき作品集 (ピュアフルコミックス) ISBN 978-4861768873、ジャイブ、3月7日発売 ;2013年 * サタニックブランチ 変人探偵エム (ジュールコミックス) ISBN 978-4575335071、双葉社、3月35日発売 *のちの物語 1 (夢幻燈コミックス) ISBN 978-4596743152、ハーパーコリンズ・ ジャパン、10月23日発売:『ベル デアボリカ』の続編 ;2016年 *ゴブリンズ・ライ 変人探偵エム (ジュールコミックス) ISBN 978-4575336184 双葉社 1月16日発売 ;2018年 *ランプシェード 変人探偵エム (ジュールコミックス) ISBN 978-4575337303 双葉社 8月17日発行 ;2020年 *ツビッキーコレクション①(ジュールコミックス) ISBN 978-4575337976 双葉社  *ツビッキーコレクション②(ジュールコミックス) ISBN 978-4575338300 双葉社 11月17日発行 *坂田靖子のクリスマス☆マニア! ISBN 978-4309291161 河出書房新社 11月30日発行 ;2022年 *ツビッキーコレクション 3(ジュールコミックス) ISBN 978-4575338676 双葉社 1月17日発行 === その他 === * 「闇夜の本」オリジナル・アルバム(キングレコード)K28G-7232 1985年1月21日発売 *『こどもの詩』[[川崎洋]] 編、[[文春新書]]、2000年 挿画少数 *『総特集 坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』 河出書房新社、2016年 ==関連人物== *[[花郁悠紀子]]:漫画家、漫画研究会ラヴリの会員<ref name="同人"/>、波津彬子の姉、坂田の親友 *[[波津彬子]]:漫画家、ラヴリの会員、坂田の元アシスタント<ref name="同人"/> *[[橋本多佳子 (漫画家)]]:漫画家、ラヴリの会員<ref name="同人"/> *[[ささやななえこ]]:デビューしたばかりのささやに手紙を出し、文通していた<ref name="年譜"/> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www2u.biglobe.ne.jp/~ysakata/ サカタBOX] - 公式ウェブサイト * [https://publications.asahi.com/webcomic/ 朝日新聞出版webコミック夢幻館] - ベル デアボリカ(Bel diabolica)連載 * [https://www.futabasha.co.jp/magazine/jour.html 双葉社Jourすてきな主婦たち] - 珍犬デュカスのミステリー不定期連載 * [http://haneusagi.la.coocan.jp/sakata/ 坂田靖子Data Base] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:さかた やすこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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桜沢エリカ
桜沢 エリカ(さくらざわ エリカ、1963年7月8日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。女性。既婚。 テレビ番組のコメンテーターも務める。 東京都文京区出身。早くに両親が離婚したため、小学3年生まで祖父母の家で育つ。少女時代は母の買ってくる一条ゆかり、竹宮惠子、山岸凉子らの作品に親しみ、絵を真似て描くようになった。 東京都立向丘高等学校2年の頃に自販機本『少女アリス』に興味を持ち、出版社を訪れたことをきっかけに文章と漫画を雑誌掲載するようになる。19歳で漫画家としてデビュー。 同時期にデビューした岡崎京子、内田春菊らと共に、性的な内容を描く女性漫画家として「女の子エッチ漫画家」として知られるようになる。特に岡崎京子とは同年生まれであり、初期は作風や発表媒体も近かったため、比較されることが多かった(2人とも伝説的漫画雑誌『漫画ブリッコ』にも執筆している)。 セツ・モードセミナー中退。 1985年に初の単行本『ウーくんのソフト屋さん Special』を出版後、1985年短編集『かわいいもの』、1987年『フールズ・パラダイス』、同年『チェリーにおまかせ!』など、思春期の少女を主人公とした作品を発表。1991年から1993年にかけて発表した『メイキン・ハッピィ』で人気を得る。 1999年、35歳のときに4歳年下の西麻布のクラブ店長兼DJだった青木武紀と結婚。一男一女をもうける。出産後は自身の経験を元にした『今日もお天気』シリーズを発表している。なお、自身の妊娠が分かった際、当時DJの仕事をしていた夫に対し、「子育てして欲しいから、仕事をやめてくれる?」と専業主夫になるよう要望し、夫は快諾したとのことである。 2006年には『贅沢なお産』が水野真紀主演でドラマ化、また『天使』が深田恭子主演で映画化された。 2009年、映画化を前提に書き下ろした新作『プール』を発表。
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桜沢 エリカは、日本の漫画家。東京都出身。女性。既婚。 テレビ番組のコメンテーターも務める。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 桜沢 エリカ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1963|7|8}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = | 活動期間 = [[1982年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br>[[レディースコミック]] | 代表作 = {{ubl|『かわいいもの』|『[[メイキン・ハッピィ]]』|『こまどりの詩 ビューティーレジェンド四代記』|他多数}} | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''桜沢 エリカ'''(さくらざわ エリカ、[[1963年]][[7月8日]] - <ref name=nichigai/>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身。女性。既婚<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「ヒモ」と呼ばれた男が極める専業主夫の道 {{!}} 恋愛・結婚|url=https://toyokeizai.net/articles/-/167938|website=東洋経済オンライン|date=2017-04-17|accessdate=2021-09-02|language=ja}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=漫画家・桜沢エリカさんに直撃! 「大黒柱妻と主夫」幸せ全開の秘訣|url=https://president.jp/articles/-/20448|website=PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン)|date=2016-10-27|accessdate=2021-09-02|language=ja|first=PRESIDENT|last=Inc}}</ref>。 テレビ番組のコメンテーターも務める<ref name=nichigai>日外アソシエーツ『漫画家・アニメ作家人名事典』p.183(1996年12月)</ref>。 == 経歴 == [[東京都]][[文京区]]出身<ref>{{Cite web|和書|title=『新・家の履歴書』に。|url=http://www.nadeshico.co.jp/blog/?p=33817|website=nadeshico BLOG|accessdate=2021-09-02|language=ja}}</ref>。早くに両親が離婚したため、小学3年生まで祖父母の家で育つ<ref name="yamaha">[http://hummingpark.yamaha.co.jp/talk/12-1.html hummingpark.yamaha.co.jp]</ref>{{リンク切れ|date=2015年11月}}。少女時代は母の買ってくる[[一条ゆかり]]、[[竹宮惠子]]、[[山岸凉子]]らの作品に親しみ、絵を真似て描くようになった<ref name="asahi">[http://opendoors.asahi.com/jn/intreview/005.shtml opendoors.asahi.com]</ref>。 [[東京都立向丘高等学校]]2年の頃に[[自販機本]]『[[少女アリス (自販機本)|少女アリス]]』に興味を持ち、出版社を訪れたことをきっかけに文章と漫画を雑誌掲載するようになる<ref name="yamaha"/>{{リンク切れ|date=2015年11月}}。19歳で漫画家としてデビュー<ref name="asahi" />。 同時期にデビューした[[岡崎京子]]、[[内田春菊]]らと共に、性的な内容を描く女性漫画家として「女の子エッチ漫画家」として知られるようになる。特に[[岡崎京子]]とは同年生まれであり、初期は作風や発表媒体も近かったため、比較されることが多かった(2人とも伝説的漫画雑誌『[[漫画ブリッコ]]』にも執筆している)。 [[セツ・モードセミナー]]中退<ref name=nichigai/>。 1985年に初の単行本『ウーくんのソフト屋さん Special』を出版後、1985年短編集『かわいいもの』、1987年『フールズ・パラダイス』、同年『チェリーにおまかせ!』など、思春期の少女を主人公とした作品を発表。1991年から1993年にかけて発表した『[[メイキン・ハッピィ]]』で人気を得る。 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*『チェリーにおまかせ!』(青林堂/1987-06) *『フールズ・パラダイス』(河出書房新社/1987-09/カワデ・パーソナル・コミックス) *『レッツ・ゴー・ラブリー』(青林堂/1987-12) *『シッポがともだち』1巻(集英社/1989-06/Youコミックスデラックス) *『ジャスト・ラヴァーズ』(マガジンハウス/1989-06) *『わたしに優しい夜』(マガジンハウス/1990-07) *『僕のエンジェル・ダスト』(秋田書店/1990-10/少年チャンピオン・コミックス・エクストラ) *『シッポがともだち』2巻(集英社/1991-05/Youコミックスデラックス) *『Love so special』(角川書店/1991-08) *『[[メイキン・ハッピィ]]』1巻(祥伝社/1992-10/Feel young comics gold) *『メイキン・ハッピィ』2巻(祥伝社/1992-10/Feel young comics gold) *『相思相愛』(太田出版/1992-12/Postcard book) *『シッポがともだち』3巻(集英社/1993-04/Youコミックスデラックス) *『メイキン・ハッピィ』3巻(祥伝社/1993-04/Feel young comics gold) *『[[COOL/DOLCE VITA|COOL]]』(集英社/1993-11/ヤングユーコミックス・ワイド版) *『[[恋の掟 (漫画)|恋の掟]]』(祥伝社/1994-12/Feel comics gold) *『[[愛しあう事しかできない]]』(祥伝社/1995-04/FC gold) *『[[エスケープ (桜沢エリカの漫画)|エスケープ]]』(祥伝社/1996-02/Feel comics gold) *『シッポがともだち』4巻(集英社/1996-07/Youコミックス) *『Love vibes』(集英社/1996-09/Young YOU comics chorus series ワイド版) *『[[シーツの隙間]]』(祥伝社/1996-09/フィールコミックスFC gold) *『[[エンジェル・ブレス]]』(祥伝社/1997-01/FC young gold) *『[[掌にダイヤモンド]]』(祥伝社/1997-09/フィールコミックスFC gold) *『[[ロマンスの泉]]』(祥伝社/1998-11/フィールコミックスFC gold) *『[[CRASH (桜沢エリカの漫画)|CRASH]]』1巻(祥伝社/1999-04/FC gold) *『CRASH』2巻(祥伝社/1999-07/FC gold) *『ケセランパサラン』集英社/1999-03/ヤングユーコミックス・コーラスシリーズ) *『[[天使 (漫画)|天使]]』(祥伝社/1999-12/FC gold) *『[[ラブリー!]]』1巻(宝島社/1999-07/Wonderland comics) *『シッポがともだち』5巻(集英社/2000-01/Youコミックス) *『ラブリー!』1巻(祥伝社/2000-11/フィールコミックス) *『ラブリー!』2巻(祥伝社/2000-11/フィールコミックス) *『[[天使 (漫画)|天使の巣]]』(祥伝社/2001-03/フィールコミックスFC gold) *『[[贅沢なお産]]』(飛鳥新社/2001-06) *『ラブリー!』3巻(祥伝社/2001-09/フィールコミックス) *『今日もお天気 誕生編』(祥伝社/2002-04/フィールコミックス) *『シッポがともだち』6巻(集英社/2002-04/Youコミックス) *『[[アロマチック・ビターズ]]』1巻(祥伝社/2002-06/フィールコミックス) *『夢のかたち』(集英社/2003-01/ヤングユーコミックス・ワイド版) *『今日もお天気 すくすく編』(祥伝社/2003-03/フィールコミックス) *『[[スクール・デイズ (漫画)|スクール・デイズ]]』(祥伝社/2003-06) *『アロマチック・ビターズ』2巻(祥伝社/2003-08/フィールコミックス) *『ボディ&ソウル』(祥伝社/2004-04/フィールコミックス)※寺門琢己との共著 *『ボディ&ソウル2』(祥伝社/2004-09/フィールコミックス)※寺門琢己との共著 *『今日もお天気 第2子誕生編』(祥伝社/2004-11/フィールコミックス) *『かしこい私の外貨投資』(監修:日興コーディアル証券/小学館/2005-02/Big comic books) *『天使の棲む街』(祥伝社/2005-06/フィールコミックス) *『シッポがともだち』7巻(集英社/2005-07/Youコミックス) *『天使』2巻(祥伝社/2006-01/FC gold) *『今日もお天気 卒園編』(祥伝社/2006-06/フィールコミックス) *『愛のなせるわざ』(集英社/2006-11) *『エリカスタイル』(祥伝社/2006-11) *『黄昏のニキータちゃん sweet & bitter days of adejo』(主婦と生活社/2007-01/Giga comics) *『星乃谷荘へようこそ』(集英社/2007-07/Queen’s comics) *『奇跡でも運命でもなく確実に幸せな結婚につながる恋愛のしくみ』(幻冬舎/2007-09) *『今日もお天気 入学入園編』(祥伝社/2007-10/フィールコミックス) *『神野恭介の華麗な日常』(扶桑社/2008-11) *『今日もお天気 5歳&8歳編』(祥伝社/2008-12/フィールコミックス) *『ラブリー!』4巻(祥伝社/2009-01/フィールコミックスFC gold) *『女を磨く大人の恋愛ゼミナール』(集英社/2009-03) *『[[プール (2009年の映画)|プール]]』(幻冬舎/2009-08) *『今日もお天気 みみたん入学編』(祥伝社/2009-10/フィールコミックス) *『[[愛の生活]]』(創美社 ; 2009-11/Office you comics) *『箱根駅伝に恋をしよう走れ!ミル子』(マガジンハウス/2010-05) *『黄昏のニキータちゃん2010』(ワニ・プラス ; 2010-05/ワニプラスコミック) *『東京トランタン』(祥伝社/2010-06) *『恋の香り』1巻(創美社/2010-06/Office you comics) *『今日もお天気 猫がともだち編』(祥伝社/2010-10/フィールコミックス) *『ドクター実狩の悩ましき日々』(集英社/2010-10) *『恋の香り』2巻(創美社/2010-12/Office you comics) *『君のいる場所』(祥伝社/2011-09) *『夢の雫』(オフィスユーコミックス/2012-05) *『Love a work?』(宝島社/2013-03) *『SCHOOL DAYS』(祥伝社/2013-07) 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*『ジャスト・ラヴァーズ』(メディアファクトリー/2000-04/MF文庫) *『ラブ・ストーリーズ』(メディアファクトリー/2000-04/MF文庫) *『大恋愛専科』(メディアファクトリー/2000-04/MF文庫) *『チェリーにおまかせ!』(メディアファクトリー/2000-05/MF文庫) *『ユウベノナツ』(メディアファクトリー/2000-06/MF文庫) *『かわいいもの』(メディアファクトリー/2000-07/MF文庫) *『毎日が秋の空』(メディアファクトリー/2000-08/MF文庫) *『僕のエンジェル・ダスト』(メディアファクトリー/2000-09/MF文庫) *『フールズ・パラダイス』(メディアファクトリー/2000-10/MF文庫) *『私の青い鳥』(メディアファクトリー/2000-11/MF文庫) *『Cool』(祥伝社/2001-06/祥伝社コミック文庫) *『メイキン・ハッピィ上』(祥伝社/2001-11/祥伝社コミック文庫) *『メイキン・ハッピィ下』(祥伝社/2001-11/祥伝社コミック文庫) *『恋の掟/エスケープ』(祥伝社/2002-06/祥伝社コミック文庫) *『シーツの隙間/ラブ・ヴァイブス』(祥伝社/2002-10/祥伝社コミック文庫) *『愛しあう事しかできない/ラブ・ソー・スペシャル』(祥伝社/2003-02/祥伝社コミック文庫) *『エンジェル・ブレス/わたしに優しい夜』(祥伝社/2003-11/祥伝社コミック文庫) *『サロン』(祥伝社/2003-08/祥伝社コミック文庫) *『シッポがともだち』3巻(集英社/2003-11/You漫画文庫) *『贅沢なお産』(新潮社/2003-09/新潮文庫) *『CRASH』(祥伝社/2004-08/祥伝社コミック文庫) *『世界の終わりには君と一緒に』(祥伝社/2004-05/祥伝社コミック文庫) *『ケセランパサラン/ロマンスの泉』(祥伝社/2005-02/祥伝社コミック文庫) *『恋人たち エリカコレクション』(新潮社/2005-05/新潮文庫) *『掌にダイヤモンド』(祥伝社/2005-08/祥伝社コミック文庫) *『シッポがともだち』4巻(集英社/2006-01/You漫画文庫) *『アロマチック・ビターズ』(祥伝社/2009-02/祥伝社コミック文庫) *『確実に幸せになる恋愛のしくみ20』(幻冬舎/2010-02/幻冬舎文庫) *『天使』1巻(祥伝社/2010-07/祥伝社コミック文庫) *『天使』2巻(祥伝社/2010-07/祥伝社コミック文庫) *『恋のはじまり Sakurazawa Erica collection』(ポプラ社/2010-08/ポプラ文庫) *『恋愛中毒 Sakurazawa Erica collection』(ポプラ社/2010-08/ポプラ文庫) *『女を磨く大人の恋愛ゼミナール』(集英社/2011-08/集英社文庫) === その他 === * [[サントリー]] [[C.C.レモン]](CMキャラクターデザイン、1996年) *『Lovers selection』(祥伝社/2009-09)※オムニバス * [[カゴメ]]「[[カゴメ・野菜生活100|野菜生活100]] きれいに赤野菜」(CM中に挿入されるアニメーションの作画) * [[空手バカボン]]『バカボンの頭脳改革 -残酷お子供地獄-』(ジャケットイラストレーション、1988年) * [[かの香織]]『ANGEL SONGS ~THE VERY BEST OF CANO CAOLI~』(ジャケットイラストレーション、2007年) * [[23時開店!女の談話室 スナックHKB23]] (BS-TBS、2018年8月18日) == テレビ出演 == * [[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[冗談画報]]」 - [[泉麻人]]とともに司会担当。   * フジテレビ「[[プロ野球ニュース]]」オフシーズン企画の司会を[[中井美穂]](フジテレビアナウンサー)と共に務めていた。 * フジテレビ「[[情報プレゼンター とくダネ!]]」水曜日コメンテーター。 * [[毎日放送]]「[[情熱大陸]]」[[2007年]][[3月18日]]。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[FEEL YOUNG]] * [[YOUNG YOU]] * [[漫画ブリッコ]] * [[やっぱり猫が好き]] - タイトルバックのイラスト * [[ボニータ!ボニータ!! 〜名古屋ガールズコレクション〜]] - スタジオセットイラスト == 外部リンク == * {{Official website|http://www.nadeshico.co.jp/artist/sakurazawa/index.html}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:さくらさわ えりか}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:ホメオパシー]] [[Category:東京都立向丘高等学校出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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桜多吾作
桜多 吾作(おうた ごさく、1948年3月16日 - 2022年12月12日)は、日本の漫画家。山形県上山市出身。本名は太田順一(おおた じゅんいち)。 石ノ森章太郎のアシスタントを経た後、「ボーイフレンドや~い」で少女漫画家・山上純一郎としてデビュー。単独名義のほか、萩尾望都との合作なども発表する。 少年誌に活躍の場を移行後、北川寛、本名の太田順一などのペンネームを経て「桜多吾作」名となる。一時、石森プロの先輩でもある永井豪が率いるダイナミックプロにも合流、同プロ原作アニメ作品のコミック化を数多く手がける。一方で、「桜多吾作とプロダクション・アドベンチャー」としても独立した作品を発表した。児童誌のコミックボンボンで執筆する際には、おうたごさくと平仮名表記で執筆している。 代表作の『釣りバカ大将』を始めとして、趣味である釣りをテーマにした釣り漫画を多く執筆しており、スポーツニッポン釣り面では1981年から2019年までイラストエッセイを連載していた。ほか、釣り関係の入門書や学習漫画の執筆にも数多く携わっていた。 2022年11月末、新型コロナウイルスに感染して救急搬送され、一時状態は安定していたものの同年12月12日、肺炎のため死去した。74歳没。桜多の訃報は、作家の高千穂遙のTwitter投稿で翌2023年1月1日に明らかになった。 桜多吾作版『マジンガーZ』は、初期は『別冊少年ジャンプ』(集英社)に掲載された後、『冒険王』(秋田書店)に連載された。また続編の『グレートマジンガー』『UFOロボ グレンダイザー』も同誌で引き続き連載された。そのベースとなったアニメ版は登場人物や世界設定を共有するゆるやかな連作だったのに対し、桜多版コミックではシリーズとしての継続性をさらに強めている。 第1作目の『マジンガーZ』序盤までは、一般的な「TVアニメのコミカライズ」の範疇だったが、徐々に桜多自身のオリジナリティを発揮した。ペシミスティックな社会的視点、TVアニメでは語られなかった部分への言及・補完などが盛りこまれ、大河ドラマ的な一大SFストーリーへと変貌していった。
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自衛隊との関係 : 機械獣と交戦する[[自衛隊]]に対し、あしゅら男爵が「ろくな予算をもらえず、アメリカのお下がりの武器で戦っている」云々と揶揄する。それ以外にも、自衛隊の出番が多く、最終決戦の際には米軍からちょろまかした「[[核爆弾|秘密兵器]]」でピグマン子爵を倒している。 : 自衛隊の岡部指揮官はセミレギュラー化し、『グレートマジンガー』にも引き続き登場する。 ; 劇場版の扱い : アニメ作品では[[パラレルワールド]]とされている劇場版『[[マジンガーZ対デビルマン]]』、および『[[マジンガーZ対暗黒大将軍]]』が、本編中のエピソードとして組み込まれている。 ; 幹部たち :あしゅら男爵は独自の野望を持ちヘルに造反する。またブロッケン伯爵はあまりにも横暴なヘルに愛想をつかす。 :厳密にはヘル傘下でないが、ゴーゴン大公とヘルは当初から相互不信関係にあり、マジンガーに勝ったと思ったヘルがゴーゴン大公を暗殺しようとしたが失敗する。地獄城での決戦の際、TVアニメでは見殺しにとどめたが、桜多版ではゴーゴンがヘルを暗殺する。また前述の反乱の際、あしゅらに妖機械獣を提供したところが初登場となる。 :なおTVアニメでは反乱を起こしたピグマン子爵は、最後まで忠実だった。 ; オリジナル異色短編 :; 「チップカモイ編」 :: 兜甲児とあしゅら男爵が異次元世界に召喚される。その世界を支配している半魚人達は、甲児たちの住む世界への侵略を企んでいた。それを食い止めるため、兜甲児とあしゅら男爵が共闘する。 :; 「戦え!!ドクターヘル」 :: ドクターヘルの生い立ちを描いた短編。最終回前に収録されている。 ; 兜甲児のサイボーグ化 : 最終回にて、ミケーネの戦闘獣との戦いで兜甲児が瀕死の重傷を負い、兜剣造博士の手によって[[サイボーグ]]に改造される。 : 『グレートマジンガー』以降では、桜多はこの設定には触れられていない。 === グレートマジンガー === ; ミケーネ帝国の思惑 : 鉄也が自衛隊の訓練に参加し、山中に秘密基地を建設中のミケーネ帝国と遭遇するエピソードが存在する(第2話)。その際、アルゴス長官が大人達、特に日本人の頑迷さを揶揄する場面が出てくる。また、同エピソードにて、暗黒大将軍のモノローグという形で、ミケーネ帝国の窮状や、日本占領に固執する理由が語られる。 ; 量産型グレート : グレートマジンガーの設計図と超合金ニューZの製造法を盗み出した新住日重工が、グレートの複製品を量産して他国に販売しようとする。これがミケーネ帝国の手に渡り、科学要塞研究所はピンチに陥る。この設定は、後年のゲーム作品『[[スーパーロボット大戦シリーズ]]』にも一部が流用されている。 : この種のストーリーでは、軍需産業の社長は私腹を肥やすことが目的というのが定番であるが、本作では「輸出立国日本が今後も生計を立てていくためには有力な輸出品が無ければならない。世界中に品物が行き渡った現在、もはやグレートを外国に売るしかない」という、国益を重視した明確な主張が語られている。 : 最終的に社長の娘の犠牲によってグレート量産計画は阻止されたが、社長の危惧した通り日本には未曾有の大不況が訪れることになる。 ; ミケーネ帝国と日本政府の密約 : ミケーネ帝国の新指揮官・地獄大元帥は「グレートマジンガーを破壊すれば、日本だけは攻撃しない」と、日本政府に申し出る。戦闘獣による破壊活動で地方都市を壊滅させられていた日本政府はこれを了承。政府の申し入れを拒んだ科学要塞研究所は、自衛隊の攻撃により破壊される。 : 兜博士以下、科学要塞研究所のメンバーは、弓教授の説得により脱出。岡部指揮官ほか、一部の自衛隊員も同行する。一同は流浪の民と化し、各地で強盗を働き物資を調達しながら、ゲリラ活動を続けた。 : 科学要塞研究所の陥落を確認したミケーネ帝国は、密約を一方的に破棄して東京を武力占領する。 : グレートが登場しない事が言及され、都民がグレートに助けを求める姿が描かれている。 ; みさとの登場 : みさとは、ボスの親戚で『マジンガーZ』終盤の女性レギュラー。TV版『グレートマジンガー』では登場していないが、科学要塞研究所からの脱出を機に弓教授と共にレギュラー化する。グレートの操縦も行ったが、主にお色気要員として描写されていた。ヤヌス公爵に捕まり、爪で真っ二つに引き裂かれて死亡した。 ; 宇宙からの攻撃 : 地獄大元帥は宇宙空間を漂流する巨大な氷塊を整形してレンズにし、地上に焦点を合わせて攻撃を繰り返す。 : 兜博士は攻撃のため、アメリカ政府([[アメリカ航空宇宙局|NASA]])に協力を要請。アメリカ政府はミケーネ帝国と兜一行を天秤にかける。そのためタイムリミットとなり、グレート、ビューナス、岡部指揮官などは実力行使に出るが、最終的に会談はまとまる。 : 氷塊レンズはバーダラー率いる戦闘獣軍団が護衛していたが、グレートとビューナスのダミー風船、核兵器により全滅。氷塊レンズも破壊される。 ; 剣鉄也の戦死 : 鉄也を救うために兜剣造が犠牲になる。その呵責から鉄也はグレートで地獄大元帥ら主要なメンバーが戦勝に浮かれていたミケーネ帝国の中心部へ特攻、自爆する。 : 鉄也の戦死についてはTV版でも協議されたが、不採用となっている。 ;他 : 炎ジュンが肌の色を気にして手を洗うというアニメのシーンが、全裸のシャワーシーンになっている。このシーンは後に、[[新名昭彦|新名明彦]]の『[[マジンガーエンジェル]]』で、[[越智一裕]]の『[[ダイナミックヒーローズ]]』でオマージュされた。 === UFOロボ グレンダイザー === ; デューク・フリードとしての記憶 : グレンダイザーで地球に逃れてきて宇門源蔵に助けられたデューク・フリードは、深層催眠によって忌まわしい過去を封印、地球人としての記憶を植え付けられ、自らを宇門大介と思い込んで暮らしていた。 : ベガ星連合軍の地球襲撃を目の当たりにして、デューク・フリードとしての記憶が蘇る。 ; ミケーネ帝国の登場 : 大多数の手駒を失ったミケーネ帝国・闇の帝王は、ベガ星連合軍に対抗するためデューク・フリード達に共闘を持ちかける。デューク達は闇の帝王の招待に応じ、兜甲児も不本意ながら共同戦線を承諾して、ミケーネ帝国へ向かう。 : 会談を前にしてミケーネ帝国がベガ星連合軍に襲撃される。闇の帝王の本体である頭脳が入った培養ケースを、安全な場所へ運び出そうとした時、甲児が誤って落として割ってしまう。闇の帝王は死亡、ミケーネ帝国も壊滅する。 : 事後、父親や鉄也の死の元凶である闇の帝王を憎んでいた甲児は、自分はケースをわざと落としてしまったのでは、と自問する。 ; フリード星人と円盤獣 : 円盤獣には、理性を殺されベガ星人に対する忠誠心を植え付けられたフリード星人の脳が使われている。グレンダイザーが倒した円盤獣ギルギルには、デュークの幼なじみナイーダの弟の脳が使われていたことから、デュークは洗脳されていたナイーダに「多くの同胞や弟を殺している」「故郷を見捨てて一人グレンダイザーを持ち出し逃げた裏切り者」と責められ、命を狙われてしまう。洗脳から解かれたナイーダは、愛するデュークがひどいショックを受け錯乱状態に陥ってしまったことを知り、自責の念と贖罪からベガ軍の大部隊に特攻をかけて散る。ナイーダの犠牲をきっかけに正気を取り戻したデュークは、打倒ベガ星連合軍を誓う。 : このエピソードは感銘を受けた演出家の[[勝間田具治]]の手によって、桜多に了解を取ったうえでアニメに逆輸入された(第25話)<ref>『UFOロボ グレンダイザー DVD-BOX2』 東映ビデオ株式会社 DSTD02252 2004年5月21日 ブックレット p.9</ref>。なお円盤獣にフリード星人の脳が使われている説明はアニメ版でも(洗脳状態のナイーダの発言が事実かどうかはともかく)そのまま取り入れられており、洗脳されたフリード星人がパイロットになっている訳ではない。 ; 円盤獣達が味方に : 円盤獣を倒すことへの躊躇や葛藤を振り払いつつ戦い続けるデューク。そんな折、デュークのかつての臣下の脳が使用された円盤獣達の洗脳が解けて、味方になる。しかし、このことを利用したズリル長官の謀略により、ベガ星連合軍のスパイと喧伝され、地球人に追われることとなる。結果的に誤解は解けたものの、味方になった円盤獣は全滅してしまう。 : 「かつての部下達」の名前は、古典SF作家の[[エドガー・ライス・バローズ]]、[[エドモンド・ハミルトン]]とその作品の火星のプリンセスからとったもの。 ; デュークの離反と帰還 : 臣下の円盤獣達の全滅と前後して、人質を見殺しにできない甘さを見せるなど、戦いに非情になれないデュークに危惧を抱いた宇門博士は、睡眠学習装置を使って強制的に戦闘意欲を向上させようとする。これに気付いたデュークは怒り、一時的ではあるがグレンダイザーで地球を離れてしまう。しかし臣下の円盤獣達の進言もあって、「今後地球人が愚かな振る舞いをすれば、自らが地球の支配者にとってかわる。そのために地球人というよりも地球を守る」と宣言したうえで和解、戦線に復帰する。 ; ラーガの登場 : 古代人によって作られた地球の護り神であるロボット「ラーガ」が登場、地球版のグレンダイザーともいうべきもので、デザインにも類似性が見られる。ミケーネ帝国で偶然にも、(操縦ライセンスとなる)指輪を拾っていた弓さやかが搭乗者となる。 ; 終末 : ベガ大王の謀略によって世界各国が疑心暗鬼に陥り、核戦争勃発寸前となった。地球の環境を核による汚染から守るためズリルが反乱を起こし、ベガ大王を殺害して実権を握る。 : しかし、時すでに遅く核戦争が勃発。放射能に覆われてゆく地球を前に、グレンダイザーとラーガは先史文明から託されていた「本来の機能」を発動。世界各地の古代遺跡と呼応して天変地異を引き起こし、地表を破壊して宇門博士や団兵衛達を含む地球人類を全滅させ、操縦席にいたデュークと妹のマリア、そしてラーガに搭乗したさやかを冷凍冬眠させたまま、地中深く潜って眠りについてしまう。 : 環境が激変し文明が滅んだ地球に生き残った兜甲児と牧葉ひかるは、いつの日かデュークたちが目覚めるその時まで、人類を絶やさぬよう復興を決意する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Facebook|100004751073366}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おうた こさく}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:釣り人]] [[Category:ダイナミックプロの人物]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:2022年没]] [[Category:2019新型コロナウイルス感染症で亡くなった日本の人物]]
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2023-02-27T13:57:12Z
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