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介錯
介錯(かいしゃく)は、切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為。 または、付き添って世話をすること。 腹部を切開しただけでは人は即死しない。従って切腹では、割腹の後、自ら喉を突き通したり心臓を刺すことが正式な作法であったが、現実問題として難しい場合が多かった。そこで切腹を行う者の負担を軽減し、また即死できない本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になった。後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立した。 首を刀で斬り落とすのには、首の骨の関節を切る、また「首の皮一枚」を残すなどいくつかの作法が存在する。頭部を完全に切断せず首の皮で胴体に繋げた状態とするのは、胸の前にぶらさがった頭の重みで切腹者を前のめりの状態で死なせる配慮で、首が落ちずに危うくつながる意味の「首の皮一枚」という表現はここから出た。すなわち本来の「首の皮一枚」という状態は、別に命が助かったわけではない。切腹の儀礼化がさらに進んだ江戸時代中期以降になると、いわゆる「扇子腹」で切腹人が小刀・脇差に見立てた扇子に手を伸ばそうとした瞬間に介錯することもあった。 また、首の皮一枚を残すという事が「切腹」≠「不名誉な斬首刑」を表している。 剣の扱いに未熟な者は手許を誤って斬り損ね、何度も首に斬りつけたり、刀を損傷してしまうことも多々あった。三島事件の際に介錯した森田必勝は、2度斬り損ねた上に刀を曲げてしまった。介錯の不手際は切腹人を苦しめるのみならず、面目を失する行為とされたため、介錯人は通例として剣の腕の立つ者が選ばれた。 介錯は、居合道の形として現代でも伝承が続いている。介錯の形を伝える流派は無双直伝英信流(無雙神傳英信流、夢想神伝流)に並流された大森流などである。夢想神伝流では順刀とも呼ばれる。 切腹に限らず、介錯の語には「補助する」という広い意味もある。鉄骨などをクレーンで吊り上げる時、補助者がロープで揺れを抑えることを「介錯する」と呼称し、舞台芸能では世話をすることを介錯と称する。例えば、文楽などの古典芸能では小道具の受け渡しを介錯と呼ぶ。現代の演劇では、幕の開閉や役者の動作の補助などを介錯と呼ぶ。照明などの角度を変更するための介錯棒という道具もある。
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介錯(かいしゃく)は、切腹に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を刀で斬る行為。 または、付き添って世話をすること。
{{Otheruses||漫画家|介錯 (漫画家)}} {{出典の明記|date=2020年7月}} '''介錯'''(かいしゃく)は、[[切腹]]に際し、本人を即死させてその負担と苦痛を軽減するため、介助者が背後から切腹人の首を[[日本刀|刀]]で斬る行為。 または、付き添って世話をすること<ref>{{Cite Kotobank|word=介錯|encyclopedia=精選版 [[日本国語大辞典]] / デジタル[[大辞泉]]など|access-date=2023-03-12}}</ref><ref>甲府市市史編さん委員会 編『甲府市史』通史編 第一巻《原始・古代・中世》、甲府市役所、1991年4月20日、368頁、{{NDLJP|9540836}}{{要登録}}。</ref>。 == 概要 == [[ファイル:Seppuku.jpg|300px|thumb|切腹の様子を再現した写真。実際はこれよりも余裕のある配置になるが、レンズの画角が狭い為このような配置になっている。人物の位置関係は構図の都合上ほぼ横並びになっている。後方で刀を振り上げているのが介錯人。実際は切腹する人物の後ろではなくほぼ左横に配される。]] 腹部を切開しただけでは人は即死しない。従って切腹では、割腹の後、自ら喉を突き通したり[[心臓]]を刺すことが正式な作法であったが、現実問題として難しい場合が多かった。そこで切腹を行う者の負担を軽減し、また即死できない本人が醜態を見せることのないよう、背後から首を斬って切腹を手伝う者が必要になった。後に切腹の儀礼化が進むと、介錯は切腹の一部となり、足の運びや刀の構え方などの作法も確立した。 首を刀で斬り落とすのには、首の骨の関節を切る、また「首の皮一枚」を残すなどいくつかの作法が存在する。頭部を完全に切断せず首の皮で胴体に繋げた状態とするのは、胸の前にぶらさがった頭の重みで切腹者を前のめりの状態で死なせる配慮で、首が落ちずに危うくつながる意味の「首の皮一枚」という表現はここから出た。すなわち本来の「首の皮一枚」という状態は、別に命が助かったわけではない。切腹の儀礼化がさらに進んだ江戸時代中期以降になると、いわゆる「扇子腹」で切腹人が[[小刀]]・[[脇差]]に見立てた扇子に手を伸ばそうとした瞬間に介錯することもあった。 また、首の皮一枚を残すという事が「切腹」≠「不名誉な斬首刑」を表している。 剣の扱いに未熟な者は手許を誤って斬り損ね、何度も首に斬りつけたり、刀を損傷してしまうことも多々あった。[[三島事件]]の際に介錯した[[森田必勝]]は、2度斬り損ねた上に刀を曲げてしまった。介錯の不手際は切腹人を苦しめるのみならず、面目を失する行為とされたため、介錯人は通例として剣の腕の立つ者が選ばれた。 == 伝承 == 介錯は、[[居合]]道の[[形稽古|形]]として現代でも伝承が続いている。介錯の形を伝える流派は[[無双直伝英信流]]([[無雙神傳英信流]]、[[夢想神伝流]])に並流された大森流などである。夢想神伝流では順刀とも呼ばれる。 == 広義の介錯 == 切腹に限らず、介錯の語には「補助する」という広い意味もある。鉄骨などをクレーンで吊り上げる時、補助者がロープで揺れを抑えることを「介錯する」と呼称し、舞台芸能では世話をすることを介錯と称する。例えば、[[文楽]]などの[[古典芸能]]では小道具の受け渡しを介錯と呼ぶ。現代の[[演劇]]では、幕の開閉や役者の動作の補助などを介錯と呼ぶ。照明などの角度を変更するための介錯棒という道具もある。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[情けの一撃]] - {{lang-fr|Coup de grâce}}の訳語。「慈悲の一撃」、「とどめ」とも訳される。瀕死の動物や人間の苦しみを終わらせるために行われる処置の事。 * [[山田浅右衛門]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{デフォルトソート:かいしやく}} [[Category:武士]] [[Category:死の幇助]] [[Category:日本の文化]] [[Category:演劇]] [[Category:和製漢語]] [[Category:切腹]]
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川原泉
川原 泉(かわはら いずみ、1960年9月24日 - )は、日本の漫画家。女性。鹿児島県指宿市出身、鹿児島市在住。鹿児島大学法文学部卒業。専攻は日本史。 大学4年在学中に、初めての漫画「ジュリエット白書」を『花とゆめ』に投稿。その後、大学の教授の紹介で地元女子校の教員採用の面接を受けたが、良妻賢母教育と勉学のどちらを優先するかという質問に「もちろん勉学」と答えた結果、不採用となる。この件が川原のお嬢様学校コンプレックスの元となったという。以降は目標を漫画に定め、1983年、『花とゆめ』増刊に掲載された「たじろぎの因数分解」でデビューした。以来、白泉社を中心に活動。 1985年、「ゲートボール殺人事件」の頃、東京へ引越しし、世田谷区に住む。 1986年、アイススケート漫画『銀のロマンティック...わはは』の取材のため札幌を訪れた際に、当時の担当編集者が同じだった縁で三原順と会い、交流は三原の病没まで続いた。 1987年、初の長期連載となった『笑う大天使(わらうミカエル)』の仕事が一段落し、一旦帰郷した際に初めてファミリーコンピュータを購入し、『女神転生』などのゲームに熱中。『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』の影響で『魔法の国ザンス』シリーズなどのファンタジーにも興味を持つに至る。 1988年、「笑う大天使 オペラ座の怪人」の原稿を落としてしまい、打ちひしがれた川原は都落ちを決意、荷物をまとめたが周囲の励ましにより帰郷を中止。せっかく荷造りをしたのだからと前の仕事場から徒歩5分の場所に移転する。 1996年、鹿児島市に引越す。 2005年、『ブレーメンII』で第36回 星雲賞コミック部門と第4回(2004年度)センス・オブ・ジェンダー賞特別賞を受賞。 2006年夏、『笑う大天使』が映画化。 架空の学校。明治36年(1903年)創立の由緒正しき名門お嬢様学校で、生徒は「アーク・エンジェルの乙女達」と呼ばれる。カトリック系聖ミカエル教団に属し、宗教の時間・朝の礼拝など、宗教行事も多く取り入れられた、幼稚園から短大まである女子校。教師の半数をシスター(外国人多数)が占める。「よき妻 よき母」を育てるための教育に重きを置き、礼儀作法や清掃活動などには大変厳格だが、多くの生徒がエスカレーター式に付属短大へ入学するためか、勉強への強い意欲はあまり見られず、偏差値は中の上程度と思われ、『不思議なマリナー』の中で、「上品だが、そのぶんバカ」との発言がある。挨拶はいつでも「ごきげんよう」。「登下校の際は車による送り迎え禁止」という校則がある。 浮世離れした深窓の令嬢がほとんどだが、変わった毛色の生徒が2 - 3人必ず混ざっている。制服はシスターのような白いハイカラーの襟の胸元にひも状のリボン、プリーツではないひざ下のスカートに三つ折りソックス。ベレー帽をかぶる。映画版『笑う大天使』では、ベレー帽にスクウェアカットの胸元の黒いAラインワンピース、胸下にベルト状の細い白のリボンをつけて、足元は黒ストッキングと、かなりフェミニンになっている。 「archangel」は日本ではアーク・エンジェルの読みが一般的だが、『笑う大天使』以前の作品では、「大天使」のルビは「アーチエンジェル」となっている。また、『笑う大天使』において、その事を自虐的なネタとして取り上げている。 江戸時代の外様大名が治める架空の藩で、奥州にあるという設定。石高は25万石。藩主は鳴沢家。秋吉田城は「空の鳴滝城」と謳われる名城で、私有財産として現存している設定である。特産は巨大松茸。現代でも旧・家臣団が鳴沢家当主の法要に列席するために集まってくる。 MHKのアナウンサー。眼鏡を掛けている。ジャンルを問わず作品の報道を一手に引き受ける人物である。ヘリンボーンの上着がトレードマーク。 振られキャラ。銀行頭取の令嬢である。映画『笑う大天使』では、菊地凛子が演じた。 ※掲載誌はいずれも白泉社。
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川原 泉は、日本の漫画家。女性。鹿児島県指宿市出身、鹿児島市在住。鹿児島大学法文学部卒業。専攻は日本史。
'''川原 泉'''(かわはら いずみ、[[1960年]][[9月24日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[女性]]<ref>{{Cite web|和書| url=https://booklive.jp/focus/author/a_id/18823| title=川原泉の一覧 | work=[[BookLive]] | accessdate=2020-12-1}}</ref>。[[鹿児島県]][[指宿市]]出身、[[鹿児島市]]在住。[[鹿児島大学]][[法文学部]]卒業。専攻は[[日本の歴史|日本史]]。 == 来歴 == 大学4年在学中に、初めての漫画「[[ジュリエット白書]]」を『[[花とゆめ]]』に投稿。その後、大学の教授の紹介で地元女子校の教員採用の面接を受けたが、良妻賢母教育と勉学のどちらを優先するかという質問に「もちろん勉学」と答えた結果、不採用となる。この件が川原のお嬢様学校コンプレックスの元となったという。以降は目標を漫画に定め、[[1983年]]、『花とゆめ』増刊に掲載された「[[たじろぎの因数分解]]」でデビューした。以来、[[白泉社]]を中心に活動<ref name="hondana">雑誌『エグゼクティブ』([[ダイヤモンド社]])2001年6月号 本棚探検隊が行く 128 川原泉の本棚(取材・文:甲斐武佳、撮影:津藤文生)参考。</ref>。 [[1985年]]、「[[ゲートボール殺人事件]]」の頃、東京へ引越しし、[[世田谷区]]に住む。 [[1986年]]、[[スケート|アイススケート]]漫画『[[銀のロマンティック…わはは]]』の取材のため[[札幌市|札幌]]を訪れた際に、当時の担当編集者が同じだった縁で[[三原順]]と会い、交流は三原の病没まで続いた<ref>『はみだしっ子』第1巻 解説:川原泉 参考。</ref>。 [[1987年]]、初の長期連載となった『[[笑う大天使]](わらうミカエル)』の仕事が一段落し、一旦帰郷した際に初めて[[ファミリーコンピュータ]]を購入し、『[[女神転生]]』などのゲームに熱中<ref>『笑う大天使』第1巻 11頁 1/4スペースによーこそ (2) 参考。</ref>。『[[ドラゴンクエストシリーズ|ドラゴンクエスト]]』や『[[ファイナルファンタジーシリーズ|ファイナルファンタジー]]』の影響で『[[魔法の国ザンス]]』シリーズなどのファンタジーにも興味を持つに至る<ref name="hondana"/>。 [[1988年]]、「笑う大天使 オペラ座の怪人」の原稿を落としてしまい、打ちひしがれた川原は都落ちを決意、荷物をまとめたが周囲の励ましにより帰郷を中止。せっかく荷造りをしたのだからと前の仕事場から徒歩5分の場所に移転する<ref>『笑う大天使』第2巻 77頁 1/4スペース白書・4 参考。</ref>。 [[1996年]]、[[鹿児島市]]に引越す<ref name="hondana"/>。 [[2005年]]、『[[ブレーメンII]]』で第36回 [[星雲賞]]コミック部門と第4回(2004年度)[[センス・オブ・ジェンダー賞]]特別賞を受賞。 [[2006年]][[夏]]、『笑う大天使』が[[映画|映画化]]。 == 人物・作品 == * '''カーラ'''は公式化された愛称であり、『[[メイプル戦記]]』のおまけ「カーラ君を探せ」、『[[小人たちが騒ぐので]]』などで「友人M」の「カワハラ君」という呼びかけが「カーラ君」と聞こえるのが由来。 * 書店に行く度に2万円ほど本を購入し、生活費で一番お金をかけているのは本であるというほどの読書家。恋愛ものの本はほとんど読む事はなく、好きなのは[[サイエンス・フィクション|SF]]や[[ホラー小説|ホラー]]で、[[ロバート・R・マキャモン]]、[[スティーヴン・キング]]、そして特に[[ディーン・R・クーンツ]]の作品を好んでいる<ref name="yahoo">{{Wayback|url=http://books.yahoo.co.jp/interview/detail/07166800/01.html|date=20060812111833|title=Yahoo!ブックス インタビュー 川原泉}}</ref>。また、『[[銀河英雄伝説]]』のファンでもあり、徳間文庫版第7巻「怒涛編」の解説を執筆、徳間デュアル文庫版のハンドブックにも再録されている。 * 1/4スペースなどの記述によると、タカシという兄がいる。彼とのエピソードのいくつかが披露されている他、漫画にも彼(の似顔)をモデルとした、地味な顔立ちでメガネ着用のキャラクターが散見される。 * 1/4スペースやエッセイ漫画などでは、昔からの女性の友人2人(特に「友人M」)が登場するエピソードが多く見られる。 * ヒロインの相手は、年の離れた社会的地位のある男性という設定が多い。 * 好きなミュージシャンに[[王様]]を挙げていて、王様も川原作品のファンである。 * [[紀文食品]]の「魚河岸あげ」が、東京で発見したおいしいものベスト3に入ると『[[メイプル戦記]]』の1/4スペースに書いているほど好きである。また「小人たちが騒ぐので」の中にも3回ほど「魚河岸あげ」が登場する。この事が縁となり、その思いと紀文食品が結びついて、描き下ろし作品「漫画魚河岸あげの魅力」が紀文食品のサイト内で発表された<ref>紀文 HOME > ブランドサイト > 魚河岸あげ® > [マンガで伝わる魚河岸あげ®の魅力 https://www.kibun.co.jp/brand/uogashiage/manga/index.html]</ref>。 == 作中の設定 == === 聖ミカエル学園(セントミカエルがくえん) === 架空の学校。[[明治]]36年([[1903年]])創立の由緒正しき名門お嬢様学校で、生徒は「アーク・エンジェルの乙女達」と呼ばれる。カトリック系聖ミカエル教団に属し、宗教の時間・朝の礼拝など、宗教行事も多く取り入れられた、幼稚園から短大まである女子校。教師の半数をシスター(外国人多数)が占める。「よき妻 よき母」を育てるための教育に重きを置き、礼儀作法や清掃活動などには大変厳格だが、多くの生徒が[[エスカレーター]]式に付属[[短期大学|短大]]へ入学するためか、勉強への強い意欲はあまり見られず、偏差値は中の上程度と思われ、『不思議なマリナー』の中で、「上品だが、そのぶんバカ」との発言がある。挨拶はいつでも「ごきげんよう」。「登下校の際は車による送り迎え禁止」という[[校則]]がある。 浮世離れした深窓の令嬢がほとんどだが、変わった毛色の生徒が2 - 3人必ず混ざっている。制服は[[修道士|シスター]]のような白いハイカラーの襟の胸元にひも状のリボン、プリーツではないひざ下のスカートに三つ折りソックス。[[ベレー帽]]をかぶる。映画版『[[笑う大天使#映画版|笑う大天使]]』では、ベレー帽にスクウェアカットの胸元の黒い[[Aライン]]ワンピース、胸下にベルト状の細い白のリボンをつけて、足元は黒[[ストッキング]]と、かなり[[フェミニン]]になっている。 「[[大天使|archangel]]」は日本ではアーク・エンジェルの読みが一般的だが、『笑う大天使』以前の作品では、「大天使」の[[ルビ]]は「'''アーチ'''エンジェル」となっている。また、『笑う大天使』において、その事を自虐的なネタとして取り上げている。 ; 同校生徒が登場する作品 :* 笑う大天使 :** 笑う大天使 空色の革命 :** 笑う大天使 オペラ座の怪人 :** 笑う大天使 夢だっていいじゃない :* 銀のロマンティック…わはは :* メイプル戦記 :* [[不思議なマリナー]] :* [[大地の貴族]] <!--* [[レナード現象には理由がある]] 表題作品、表題コミックス内で確認できず--> === 秋吉田藩 === 江戸時代の外様大名が治める架空の藩で、[[陸奥国|奥州]]にあるという設定。石高は25万石。藩主は鳴沢家。秋吉田城は「空の鳴滝城」と謳われる名城で、私有財産として現存している設定である。特産は巨大松茸。現代でも旧・家臣団が鳴沢家当主の法要に列席するために集まってくる。 ; 同藩が登場する作品 :* [[殿様は空のお城に住んでいる]] - 江戸時代中期の秋吉田藩の殿様と正室の少女と、その側近たちの時代活劇。 :* 笑う大天使 - メインキャラの[[笑う大天使#登場人物|斎木和音]]の母方の先祖が秋吉田藩の藩主。 :** 笑う大天使 空色の革命 - 和音の母である旧秋吉田藩「鳴沢家」の令嬢と、実業家の父との話が軸のひとつ。 :* 秋吉田藩レポート - 『まるごと川原泉』2号に掲載された。 === 穴田アナ === '''M'''HKの[[アナウンサー]]。眼鏡を掛けている。[[ジャンル]]を問わず作品の報道を一手に引き受ける人物である。[[ヘリンボーン (模様)|ヘリンボーン]]の上着がトレードマーク。 ; 穴田アナが登場する作品 :* [[空の食欲魔人]] - [[大韓航空機撃墜事件]]のニュース報道。 :* [[甲子園の空に笑え!]] - 高校野球の実況中継。 :* [[ゲートボール殺人事件]] - 花吹雪市の朝のニュース特集(暴力団抗争)。 :* [[銀のロマンティック…わはは]] - フィギュアスケートの実況中継。主人公の父親がトーク番組「穴田の部屋」にゲスト出演。 :* 笑う大天使 - 名門女子高校生連続誘拐事件のニュース報道。 :* メイプル戦記 - プロ野球の実況中継。 :* [[愚者の楽園]] - K県のニュース(台風情報)※K県に出張中に出演 :* [[中国の壺]] - アメリカと中国の地震のニュース報道。 === 桜井敦子 === 振られキャラ。[[銀行]][[頭取]]の令嬢である。映画『笑う大天使』では、[[菊地凛子]]が演じた。 ; 彼女を振った相手 :* 司城一臣(笑う大天使) :* 瀬名弓彦(フロイト1/2) :* 小早川秀明(メイプル戦記) == 作品リスト == === 漫画作品 === ※掲載誌はいずれも[[白泉社]]。 * [[ジュリエット白書]] ([[別冊花とゆめ]] 1983年冬の号)※コミックス収録にあたり全面的に描き直された。 * [[メロウ・イエロー・バナナムーン]] (別冊花とゆめ 1983年夏の号) * [[たじろぎの因数分解]] ([[花とゆめ]] 1983年9月大増刊号) * [[悪魔を知る者]] (別冊花とゆめ 1983年秋の号) * [[真実のツベルクリン反応]] (花とゆめ 1983年22号) * [[花にうずもれて]] (花とゆめ 1983年11月大増刊号) * [[空の食欲魔人]] (花とゆめ 1984年1号) * [[進駐軍(GHQ)に言うからねっ!]] (花とゆめ 1984年5号) * [[カレーの王子さま (漫画)|カレーの王子さま]]:空の食欲魔人<ref>{{Cite web |title=BinB Speed Reader |url=https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/?cid=0000068082_jp_0001&u0=1&u1=0&rurl=https://www.cmoa.jp/title/68082/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-03-14}}</ref> (花とゆめ 1984年22号) * [[3月革命 (漫画)|3月革命]] (花とゆめ 1984年8号) * [[月夜のドレス]] (花とゆめ 1984年12号) * [[悲しみのオイル・ダラー]] ([[花とゆめEX]] 1984年7月1日号) * [[甲子園の空に笑え!]] (花とゆめ 1984年16 - 18号) * [[アップル・ジャック]]:陸の食欲魔人<ref>{{Cite web |title=BinB Speed Reader |url=https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/?cid=0000068082_jp_0001&u0=1&u1=0&rurl=https://www.cmoa.jp/title/68082/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-03-14}}</ref> (花とゆめ 1984年24号) * [[不思議なマリナー]]:海の食欲魔人<ref>{{Cite web |title=BinB Speed Reader |url=https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/?cid=0000068082_jp_0001&u0=1&u1=0&rurl=https://www.cmoa.jp/title/68082/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-03-14}}</ref> (別冊花とゆめ 1985年夏の号) * [[ミソ・スープは哲学する]]:青い瞳の食欲魔人<ref>{{Cite web |title=BinB Speed Reader |url=https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/?cid=0000068082_jp_0001&u0=1&u1=0&rurl=https://www.cmoa.jp/title/68082/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-03-14}}</ref> (花とゆめ 1985年4号) * [[ゲートボール殺人事件]] (花とゆめ 1985年10 - 12号) * [[アンドロイドはミスティー・ブルーの夢を見るか?]] :宇宙の食欲魔人<ref>{{Cite web |title=BinB Speed Reader |url=https://www.cmoa.jp/bib/speedreader/?cid=0000068082_jp_0001&u0=1&u1=0&rurl=https://www.cmoa.jp/title/68082/ |website=www.cmoa.jp |access-date=2023-03-14}}</ref>(別冊花とゆめ 1985年夏の号) * [[Intorlerance... あるいは暮林助教授の逆説]] (花とゆめ 1985年18 - 19号) * [[パセリを摘みに]] (花とゆめ 1985年23号) * [[銀のロマンティック…わはは]] (花とゆめ 1986年3 - 7号) * [[架空の森]] (花とゆめ 1986年13号) * [[愚者の楽園|愚者の楽園 8月はとぼけてる]] (花とゆめ 1986年17号) * [[大地の貴族|大地の貴族 9月はなごんでる]] (花とゆめ 1986年19号) * [[美貌の果実|美貌の果実 10月はゆがんでる]] (花とゆめ 1986年21号) * [[笑う大天使]] (花とゆめ 1987年3 - 14、17 - 19号) ** 笑う大天使 空色の革命 (花とゆめ 1988年3号) ** 笑う大天使 オペラ座の怪人 (花とゆめ 1988年6、12、16、19号) ** 笑う大天使 夢だっていいじゃない (花とゆめ 1988年23号) * [[森には真理が落ちている]] (花とゆめ 1988年1号) * [[フロイト1/2]] (花とゆめ 1989年4、8号) * [[追憶は春雨ぢゃ]] (花とゆめ 1989年11号) * [[かぼちゃ計画]] (花とゆめ 1989年14号) * [[中国の壺]] (花とゆめ 1989年19、21、23号) * [[殿様は空のお城に住んでいる]] (花とゆめ 1990年4、9、14号) * [[バビロンまで何マイル?]] (花とゆめ 1990年19号 - 1991年4、7 - 10、12 - 13号) * [[0の行進]] ([[花曜日]] 1991年SUMMER号) * [[メイプル戦記]] (花とゆめ 1991年17 - 20号、1992年10号…1995年21号(不定期連載)) * [[ヴァンデミエール 葡萄月の反動]] (花とゆめ 1993年19号※、1994年6、8号) ※急病のため2Pのみ * [[小人たちが騒ぐので]] ([[PUTAO]] 1997年7月号 - 1998年6月号) * [[ロレンツォのカエル]] ([[セリエミステリー]] 1997年4月号) * [[ブレーメンII]] ([[MELODY (雑誌)|MELODY]] 1999年6月号 - 2003年9月号、2004年2 - 7月号) * [[「〜がある」シリーズ]] ** レナード現象には理由がある (MELODY 2003年1月号) ** ドングリにもほどがある (MELODY 2003年11月号、2004年1月号) ** あの子の背中に羽がある (MELODY 2004年11月号、2005年3、8月号) ** 真面目な人には裏がある (MELODY 2005年10月号 - 2006年2、4月号) ** その理屈には無理がある (MELODY 2006年10月号) ** その科白には嘘がある (MELODY 2006年12月号 - 2007年2月号) ** グレシャムには罠がある (MELODY 2007年2、4、10月号) ** コメットさんにも華がある (MELODY 2007年12月号 - 2008年4月号、2011年4月号別冊ふろく) ** バーナム効果であるあるがある (MELODY 2011年8月号 - ) === エッセイほか === * 本日のお言葉 (白泉社 1989年10月) 川原漫画から精選された珠玉のお言葉400余、ほか ** 新・本日のお言葉 (白泉社 2000年1月) * 事象の地平 (白泉社 1998年7月) 川原教授のまるかじりエッセイ集 * [[川原泉の本棚]] (白泉社 2003年2月) 川原泉による選・イラストのアンソロジー本 ** 川原泉の本棚2 (白泉社 2004年2月) * デジタル原始人☆川原泉(白泉社 2022年5月<ref name="natalie20220502">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/476259|title=レイヤー?ファイル?デジタル原始人・川原泉がマンガのデジタル制作に挑戦|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-05-02|accessdate=2022-05-10}}</ref>)共著:[[福田素子]]{{R|natalie20220502}} == 参考文献 == * 川原泉 『笑う大天使』 1 - 3巻([[花とゆめコミックス|花とゆめCOMICS]]、白泉社、1987年、1988年、1989年) * 三原順 『[[はみだしっ子]]』 第1巻(白泉社文庫、1996年) * 『まるごと川原泉』 1 - 3号(白泉社MELODY別冊 2004年9月増刊、2004年11月増刊、2005年1月増刊) == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [http://www.kibun.co.jp/brand/uogashiage/ 魚河岸あげ] - 紀文食品魚河岸あげ特集サイト * [https://www.kibun.co.jp/brand/uogashiage/manga/index.html マンガでチェック!魚河岸あげ®の魅力] - 上記サイト中の漫画紹介ページ {{リダイレクトの所属カテゴリ |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=聖ミカエル学園 |1-1=架空の学校 }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かわはら いすみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:鹿児島大学出身の人物]] [[Category:鹿児島県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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尾田栄一郎
尾田 栄一郎(おだ えいいちろう、本名同じ、1975年1月1日 - )は、日本の男性漫画家。熊本県熊本市出身。九州東海大学中退。血液型はA型。愛称は尾田っち(笑)既婚。2児の父。 1997年より、『週刊少年ジャンプ』で『ONE PIECE』を連載中。同作の2022年8月時点の累計発行部数は、国内累計4億1000万部、世界累計5億1000万部を突破しており、「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネス世界記録に認定されている。67巻は日本国内出版史上最高記録となる初版405万部を発行している。 油絵が趣味だった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め、4歳の時に漫画家という職業の存在を知り「大人になっても働かなくていいんだ!」と思い漫画家を目指し始める。初めて読んだ漫画は藤子不二雄Aの『怪物くん』であり、それがきっかけで漫画家になる決心をしたという。小学五年生時には『キャプテン翼』の影響でサッカー部に入部。このサッカー部での経験が元で後に自分の漫画内でチームの楽しさを描くきっかけになったと語っている。 漫画は中学2年生の頃から本格的に描き始めた。『ONE PIECE』の題材とした海賊が好きになった原点は『小さなバイキングビッケ』であり、中学時代には「ジャンプに海賊の漫画を描こう」と目標を定め、アイディアを貯め始める。高校一年生の時にサッカー部を辞め、漫画一本に集中することに決める。 1992年の東海大学付属第二高等学校在学中に月火水木金土(つきひみずきこんどう)のペンネームで投稿した短編「WANTED!」が『週刊少年ジャンプ』の新人賞の手塚賞に準入選する。1993年には「一鬼夜行」が10月期第104回ホップ☆ステップ賞にて入選を受賞。 1994年に九州東海大学工学部建築学科を1年時で中退し、甲斐谷忍・徳弘正也・和月伸宏のアシスタントを務める。アシスタント時代に描いた読切の海賊漫画「ROMANCE DAWN」が、後の『ONE PIECE』の原型となる。 1997年に『週刊少年ジャンプ』で海賊達の冒険を描く『ONE PIECE』の連載を開始。初連載ながらも1999年にはアニメ化され、国民的人気作品となった。 2002年、アニメ『ONE PIECE』の劇場版第3作『ONE PIECE 珍獣島のチョッパー王国』の同時上映作品『夢のサッカー王!』に愛称の「オダッチ」役で声優として出演。 2007年、『週刊少年ジャンプ』2007年4・5合併号に、『ONE PIECE』と鳥山明の『ドラゴンボール』のコラボ作品「CROSS EPOCH」が掲載された。 2009年にはアニメ『ONE PIECE』の劇場版10作目を記念して『ONE PIECE FILM STRONG WORLD』の映画ストーリー・コスチューム&クリーチャーデザイン・製作総指揮を務める。この映画は様々な東映記録を塗り替え、漫画原作のアニメ映画としては歴代最高記録(当時)の興行収入48億円の大ヒットとなり、2010年上半期邦画興行成績ランキング第1位、2010年年間邦画興行成績ランキング第4位となった。同年、鈴木敏夫のラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』に出演した。 2010年、『週刊少年ジャンプ』2010年39号掲載の『ONE PIECE』第597話で物語に大きな区切りがついたことに伴い、連載を40号(9月6日発売)から43号(9月27日発売)まで4週にわたり長期休載、44号(10月4日発売)より連載を再開。甲斐谷忍はツイッターで尾田が実質休んだのは一週間のみで残りは仕事をしていたと語っている。尾田は休暇の間は家族でハワイに旅行した。 2011年、『週刊少年ジャンプ』2011年17号に島袋光年の『トリコ』のアニメ化に伴い、『ONE PIECE』と『トリコ』のコラボコミック「実食! 悪魔の実!!」が掲載された。尾田は島袋に指定されたところに絵を描いただけだが、作中には尾田の考えたモンスター「トラノイヲカルキツネノイヲカルブタ」が登場している。 2012年、初の展覧会『ONE PIECE展』の監修を務めた。テーマ曲にはかねてから親交のあった中田ヤスタカ書き下ろしの「パノラミック・エクスペリエンス」が使われた。同年、『ONE PIECE』劇場版12作目となる『ONE PIECE FILM Z』の総合プロデューサーを務めた。興行収入は『STRONG WORLD』を上回る68.7億円を記録するメガヒット作となった。 2013年5月、扁桃周囲膿瘍で入院しジャンプの連載を2週休載した。退院後は定期的に1週休載する連載シフトを敷いていた。2014年5月、病状完治を目的として扁桃腺切除の手術を受けるため、2週休載することが発表された。 2015年6月15日、『ONE PIECE』が「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネス世界記録に認定され、「漫画界の先人達または協力者達、読者の皆様への感謝を忘れず、これからも記録に恥じぬ作品を描いていきたいと思います」とコメントした。 2016年の熊本地震では、復興支援として『ONE PIECE』の主人公ルフィ名義で8億円を寄付。また、南阿蘇鉄道のラッピング車両等にイラスト提供を行うなど復興プロジェクトに協力。復興活動への尽力が評価され、2018年4月4日に熊本県民栄誉賞を受賞した。 2023年6月6日、目の手術を受けるため『週刊少年ジャンプ』での『ONE PIECE』の連載を29号(6月19日発売)から32号(7月10日発売)まで4週にわたり休載することを発表。 いずれも、集英社より発行。 いずれも、〈ジャンプ・コミックス〉より新書判で発行。 アニメ『ONE PIECE』のメイン声優陣とは深い親交があり、「プロのエンターテイナーとの交流はいい刺激になる」と語っている。
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尾田 栄一郎は、日本の男性漫画家。熊本県熊本市出身。九州東海大学中退。血液型はA型。愛称は尾田っち(笑)既婚。2児の父。 1997年より、『週刊少年ジャンプ』で『ONE PIECE』を連載中。同作の2022年8月時点の累計発行部数は、国内累計4億1000万部、世界累計5億1000万部を突破しており、「最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ」としてギネス世界記録に認定されている。67巻は日本国内出版史上最高記録となる初版405万部を発行している。
{{JIS2004|説明=[[ハート (シンボル)|ハートマーク]]}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 尾田 栄一郎 | ふりがな = おだ えいいちろう | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 生地 = {{JPN}}・[[熊本県]][[熊本市]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|978-4-8169-1760-8}}、89頁</ref> | 国籍 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1975|1|1}}{{R|mangaseek}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | ジャンル = [[少年漫画]] | 活動期間 = [[1997年]] - | 代表作 = 『[[ONE PIECE]]』 | 受賞 = * 第44回[[手塚賞]]準入選(『[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#WANTED!|WANTED!]]』) * 第104回[[ホップ☆ステップ賞]]入選(『[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#一鬼夜行|一鬼夜行]]』) * 第41回[[日本漫画家協会賞]]大賞<ref name="mangakakyokai">{{Cite web|和書|date=2012-05-11|url=http://www.nihonmangakakyokai.or.jp/news.php?tbl=event&id=799|title=2012年度 第41回日本漫画家協会賞 決定|publisher=社団法人 日本漫画協会|accessdate=2012-05-11}}</ref>(『ONE PIECE』) * 熊本県民栄誉賞 | サイン =Eiichiro Oda sign.svg }} '''尾田 栄一郎'''(おだ えいいちろう、本名同じ{{R|mangaseek}}、[[1975年]][[1月1日]]{{R|mangaseek}} - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[熊本県]][[熊本市]]出身{{R|mangaseek}}。[[九州東海大学]]中退{{R|mangaseek}}。血液型は[[ABO式血液型|A型]]{{R|mangaseek}}。愛称は'''尾田っち'''。既婚。2児の父。 [[1997年]]より、『[[週刊少年ジャンプ]]』で『'''[[ONE PIECE]]'''』を連載中。同作の2022年8月時点の累計発行部数は、国内累計4億1000万部、世界累計5億1000万部を突破しており<ref>{{Cite web|和書|date=2022-08-04|url=https://mantan-web.jp/article/20220803dog00m200046000c.html|title=ONE PIECE:全世界累計5億部突破 驚異の47巻連続初版300万部超 単一作者の最多発行部数でギネス更新|work=[[まんたんウェブ]]|accessdate=2022-08-14}}</ref>、「'''最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ'''」として[[ギネス世界記録]]に認定されている<ref name="guiness">{{Cite web|和書|date=2015-06-15|url=https://guinnessworldrecords.jp/news/2015/6/onepiece20150615|title=「ルフィが手に入れた世界一の証|『ONE PIECE』とギネス世界記録|publisher=[[ギネス世界記録|ギネスワールドレコーズ]]|accessdate=2015-7-01}}</ref>。67巻は日本国内出版史上最高記録となる初版405万部を発行している<ref name="vol74">{{Cite web|和書|date=2014-05-28|url=https://animeanime.jp/article/2014/05/28/18848.html|title=「ONE PIECE」74巻6月4日発売 11巻連続初版400万部超え|publisher=アニメ!アニメ!|accessdate=2014-06-04}}</ref><ref name="vol67">{{Cite web|和書|date=2012-08-03|url=https://mantan-web.jp/article/20120803dog00m200006000c.html|title=ONE PIECE : 初版発行部数405万部で3巻ぶり日本記録更新に|publisher=まんたんウェブ|accessdate=2012-08-03}}</ref>。 == 来歴 == [[油絵]]が趣味だった父親の影響で幼い頃から絵を描き始め<ref>『[[ピューと吹く!ジャガー]]公式ファンブック ふえ科自由研究 〜君とつないだ手のぬくもりは何度かな?〜』(2008)[[うすた京介]]との対談。</ref>、4歳の時に漫画家という職業の存在を知り「大人になっても働かなくていいんだ!」と思い漫画家を目指し始める<ref name="OP4">尾田栄一郎「SBS」『ONE PIECE』4巻 [[集英社]]〈[[ジャンプ・コミックス]]〉1998年8月9日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-872594-8}}、150頁</ref>。初めて読んだ漫画は[[藤子不二雄A|藤子不二雄&#9398;]]の『[[怪物くん]]』であり<ref>集英社 『ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 2』(2003) P102の藤子不二雄Aとの対談より。</ref>、それがきっかけで漫画家になる決心をしたという<ref>{{Cite web|和書|date= |url=https://jinken-official.jimdo.com/%E8%AC%9B%E6%BC%94%E9%8C%B2-%E4%BC%9A%E8%A6%8B%E9%8C%B2/%E8%97%A4%E5%AD%90%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%9B%84a-2004/ |title=藤子不二雄A(2004) |publisher=早稲田大学 人物研究会 公式サイト |accessdate=2018-11-10}}</ref>。小学五年生時には『[[キャプテン翼]]』の影響で[[サッカー]]部に入部<ref name="switch" >『[[SWITCH (雑誌)|SWITCH]]』(2009)vol.27 No.12 尾田と[[桜井和寿]]の対談</ref>。このサッカー部での経験が元で後に自分の漫画内でチームの楽しさを描くきっかけになったと語っている{{R|romacedawn}}。 漫画は中学2年生の頃から本格的に描き始めた{{R|OP4}}。『ONE PIECE』の題材とした海賊が好きになった原点は『[[小さなバイキングビッケ]]』であり<ref>「バイキング Part3」『ONE PIECE』2巻、4、1998年4月8日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-872544-1}}、134頁</ref>、中学時代には「ジャンプに海賊の漫画を描こう」と目標を定め<ref>『WANTED! 尾田栄一郎短編集』(1998)202頁</ref>、アイディアを貯め始める{{R|countdown}}。高校一年生の時にサッカー部を辞め、漫画一本に集中することに決める{{R|switch}}。 [[1992年]]の[[東海大学付属熊本星翔高等学校|東海大学付属第二高等学校]]在学中に'''月火水木金土'''(つきひみずきこんどう)のペンネームで投稿した短編「[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#WANTED!|WANTED!]]」が『[[週刊少年ジャンプ]]』の新人賞の[[手塚賞]]に準入選する{{R|mangaseek}}。[[1993年]]には「[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#一鬼夜行|一鬼夜行]]」が10月期第104回[[ホップ☆ステップ賞]]にて入選を受賞。 [[1994年]]に[[九州東海大学]]{{Efn2|2008年に[[東海大学]]に統合。}}[[工学部]][[建築学科]]を1年時で中退し、[[甲斐谷忍]]<ref name="monsters">「MONSTERS 解説」『WANTED! 尾田栄一郎短編集』[[集英社]]〈[[ジャンプ・コミックス]]〉1998年11月9日初版発行、{{ISBN2|978-4-08-872631-1}}、156頁</ref>・[[徳弘正也]]{{R|monsters}}・[[和月伸宏]]<ref name="kadenp54">週刊少年ジャンプ特別編集『全史『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』 剣心華伝』集英社、1999年12月22日初版発行、{{ISBN2|978-4-08-782037-9}}、54頁</ref><ref name="romacedawn">「ROMANCE DAWN 解説」『WANTED! 尾田栄一郎短編集』(1998)202頁</ref>の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務める{{R|OP4}}。アシスタント時代に描いた読切の海賊漫画「[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#ROMANCE DAWN|ROMANCE DAWN]]」が、後の『'''[[ONE PIECE]]'''』の原型となる。 [[1997年]]に『週刊少年ジャンプ』で海賊達の冒険を描く『ONE PIECE』の連載を開始。初連載ながらも[[1999年]]にはアニメ化され、国民的人気作品となった。 [[2002年]]、[[ONE PIECE (アニメ)|アニメ『ONE PIECE』]]の劇場版第3作『[[ONE PIECE 珍獣島のチョッパー王国]]』の同時上映作品『[[夢のサッカー王!]]』に愛称の「'''オダッチ'''」役で声優として出演。<!--{{要出典範囲|date=2021年10月|[[2004年]]11月7日に[[ミュージカル]]『ONE PIECE』でナミを演じた元モデルの稲葉ちあきと結婚した。}}--> [[2007年]]、『週刊少年ジャンプ』2007年4・5合併号に、『ONE PIECE』と[[鳥山明]]の『[[ドラゴンボール]]』のコラボ作品「[[CROSS EPOCH]]」が掲載された。 [[2009年]]にはアニメ『ONE PIECE』の劇場版10作目を記念して『'''[[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]'''』の映画ストーリー・コスチューム&クリーチャーデザイン・製作総指揮を務める。この映画は様々な東映記録を塗り替え、漫画原作のアニメ映画としては歴代最高記録(当時)の興行収入48億円の大ヒットとなり、2010年上半期邦画興行成績ランキング第1位、2010年年間邦画興行成績ランキング第4位となった<ref>[http://corp.toei-anim.co.jp/pdf/201103_1Q_presen.pdf 東映アニメーション2011年3月期第1四半期決算] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130202095443/http://corp.toei-anim.co.jp/pdf/201103_1Q_presen.pdf |date=2013年2月2日 }}</ref>。同年、[[鈴木敏夫]]のラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』に出演した。 [[2010年]]、『週刊少年ジャンプ』2010年39号掲載の『ONE PIECE』第597話で物語に大きな区切りがついたことに伴い、連載を40号(9月6日発売)から43号(9月27日発売)まで4週にわたり長期休載、44号(10月4日発売)より連載を再開。[[甲斐谷忍]]は[[ツイッター]]で尾田が実質休んだのは一週間のみで残りは仕事をしていたと語っている。尾田は休暇の間は家族で[[ハワイ]]に旅行した<ref>『ONE PIECE』単行本61巻</ref>。 [[2011年]]、『週刊少年ジャンプ』2011年17号に[[島袋光年]]の『[[トリコ]]』のアニメ化に伴い、『ONE PIECE』と『トリコ』のコラボコミック「[[実食! 悪魔の実!!]]」が掲載された。尾田は島袋に指定されたところに絵を描いただけだが<ref>『週刊少年ジャンプ』2011年19号目次の尾田の作者コメント</ref>、作中には尾田の考えたモンスター「トラノイヲカルキツネノイヲカルブタ」が登場している。 [[2012年]]、初の展覧会『ONE PIECE展』の監修を務めた。テーマ曲にはかねてから親交のあった[[中田ヤスタカ]]書き下ろしの「パノラミック・エクスペリエンス」が使われた<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2006090/full/ 中田ヤスタカ、「ONE PIECE展」テーマ曲制作]ORICON、2012年1月23日</ref>。同年、『ONE PIECE』劇場版12作目となる『'''[[ONE PIECE FILM Z]]'''』の総合プロデューサーを務めた。興行収入は『STRONG WORLD』を上回る68.7億円を記録するメガヒット作となった。 2013年5月、扁桃周囲膿瘍で入院しジャンプの連載を2週休載した<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0053179 「ワンピース」尾田栄一郎が扁桃周囲膿瘍で入院 連載は2週休載]シネマトゥデイ 2013年5月21日</ref>。退院後は定期的に1週休載する連載シフトを敷いていた。2014年5月、病状完治を目的として[[扁桃|扁桃腺]]切除の手術を受けるため、2週休載することが発表された<ref>[http://www.shonenjump.com/j/2014/05/wj2829one-piece.html WJ28号、29号におけるONE PIECE休載のお知らせ]週刊少年ジャンプ公式サイト 2014年5月28日</ref>。 2015年6月15日、『ONE PIECE』が「'''最も多く発行された単一作家によるコミックシリーズ'''」として[[ギネス世界記録]]に認定され、「漫画界の先人達または協力者達、読者の皆様への感謝を忘れず、これからも記録に恥じぬ作品を描いていきたいと思います」とコメントした<ref name="guiness">{{Cite web|和書|date=2015-06-15|url=https://guinnessworldrecords.jp/news/2015/6/onepiece20150615|title=「ルフィが手に入れた世界一の証|『ONE PIECE』とギネス世界記録|publisher=[[ギネス世界記録|ギネスワールドレコーズ]]|accessdate=2015-7-01}}</ref>。 2016年の[[熊本地震 (2016年)|熊本地震]]では、復興支援として『ONE PIECE』の主人公ルフィ名義で8億円を寄付。また、[[南阿蘇鉄道]]の[[ラッピング車両]]等にイラスト提供を行うなど復興プロジェクトに協力<ref>{{Cite web|和書|date=2018-06-15|url=https://www.sankei.com/article/20180615-F2I4TJCOL5NEJBN46G567EHUEY/|title=ルフィ名義で8億円、熊本県へ復興支援…「ワンピース」作者の尾田栄一郎さん|publisher=[[産経新聞]]|accessdate=2018-11-30}}</ref>。復興活動への尽力が評価され、2018年4月4日に熊本県民栄誉賞を受賞した<ref name="県民栄誉賞">{{Cite web|和書|date=2018-04-04|url=https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/405974/|title=ワンピース作者に栄誉賞 震災復興に尽力で 熊本県|publisher=[[西日本新聞]]|accessdate=2018-04-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180404134910/https://www.nishinippon.co.jp/flash/f_kyushu/article/405974/ |archivedate=2018-04-04}}</ref>。 2023年6月6日、目の手術を受けるため『週刊少年ジャンプ』での『ONE PIECE』の連載を29号(6月19日発売)から32号(7月10日発売)まで4週にわたり休載することを発表<ref>{{Cite news|url= https://www.oricon.co.jp/news/2281901/full/ |title= 漫画『ONE PIECE』4週にわたり休載へ 作者・尾田栄一郎氏が目の手術、仕事に影響するほどの乱視と明かす |newspaper= ORICON NEWS |publisher= oricon ME |date= 2023-06-06 |accessdate= 2023-06-06 }}</ref>。 == 受賞歴 == * 「FLY UP BOY」で第69回ホップ☆ステップ賞最終候補 * 1992年下期 - 「[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#WANTED!|WANTED!]]」で第44回[[手塚賞]]準入選(「月火水木金土」名義) * 1993年 - 「[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#一鬼夜行|一鬼夜行]]」で第104回ホップ☆ステップ賞入選 * 2000年 - 『ONE PIECE』で第4回[[手塚治虫文化賞]]最終選考6位 * 2001年 - 『ONE PIECE』で第5回手塚治虫文化賞最終選考6位 * 2002年 - 『ONE PIECE』で第6回手塚治虫文化賞最終選考6位 * 2006年 - 『ONE PIECE』で[[日本のメディア芸術100選]]マンガ部門選出 * 2012年 - 『ONE PIECE』で第41回[[日本漫画家協会賞]]大賞受賞{{R|mangakakyokai}} * 2018年 - 熊本県民栄誉賞{{R|県民栄誉賞}} * 2019年 - [[Yahoo! JAPAN#Yahoo!検索大賞|Yahoo!検索大賞]]作家部門賞<ref>{{Cite web|和書|date=2019-12-04|url=https://natalie.mu/comic/news/358043|title=Yahoo!検索大賞で尾田栄一郎が作家部門賞を受賞、鬼滅の刃がアニメ部門賞に|work=コミックナタリー|accessdate=2019-12-04}}</ref> * 2023年 - 第18回[[財団法人渡辺音楽文化フォーラムプロデューサー賞渡辺晋賞|渡辺晋賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2269781/full/|title=『第18回 渡辺晋賞』は『ONE PIECE』作者・尾田栄一郎氏が授賞「光栄かつ、恐縮です」|date=2023-03-03|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン|oricon ME]]|accessdate=2023-03-03}}</ref>、第42回[[藤本賞]] 特別賞<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/521223|title=「THE FIRST SLAM DUNK」が第42回藤本賞に、特別賞は「ONE PIECE FILM RED」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-04-18|accessdate=2023-04-18}}</ref> == 人物 == * 一番好きな『ジャンプ』作品は『[[キン肉マン]]』とジャンプ30周年の際のコメントで答えている。『ONE PIECE』内の隠れキャラクター[[ONE PIECEの登場人物一覧#小ネタ|パンダマン]]は、元々は尾田が『キン肉マン』の超人募集に応募した際に生まれたキャラクターである<ref name="blue">『ONE PIECE BLUE GRAND DATA FILE』(2002)</ref>。 * 最も尊敬する漫画家は[[鳥山明]]{{R|blue}}。「神様」とまで表現しており<ref>集英社 『ONEPIECE尾田栄一郎画集COLOR WALK 1』(2001) P102の鳥山明との対談より。</ref>、仕事机から仰ぎ見る位置に鳥山のサインを飾ってある(このサインを手に入れるため、徳弘正也に頼んで鳥山のところに連れていってもらい、握手している写真も撮った){{R|blue}}<ref>徳弘正也『水のともだちカッパーマン』1巻おまけ4コマ漫画</ref>。 * 大御所扱いされるのを嫌っており、担当編集者にも「尾田先生」とは呼ばせないようにしている<ref>NHK『[[探検バクモン]]「めくるめく“紙ワザ”の世界へ〜少年・少女編〜』(2015年5月20日)</ref>。 * 嫉妬するほどいい作品として[[新川直司]]の作品である『[[四月は君の嘘]]』を挙げている。その理由は「漫画での表現が最も苦手とするジャンルである『音楽』の表現を見事にうまく表現している」からである<ref>フジテレビで2015年12月29日に放送された『一流が嫉妬したスゴい人』より。アンケートで回答している。</ref>。 * 2016年7月10日に放送されたフジテレビ系『伝説の瞬間発掘ファイル〜アニメ編〜』の番組内で、『ONE PIECE』ファンであるサッカー選手・[[香川真司]]とプレゼント交換をし、自分のプレゼントが渡った瞬間を映像で見たいという香川の要望に対し、顔出しNGの条件付きで初めて日本のテレビ番組に出演した<ref>{{Cite news |title=尾田栄一郎氏、テレビ初出演にファン騒然!香川真司のムチャ振りがきっかけ |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2016-07-10 |url=https://www.daily.co.jp/soccer/2016/07/10/0009272589.shtml |accessdate=2016-07-13}}</ref>。 * アトリエは自宅と併設されている。2019年1月9日に放送された[[フジネットワーク|フジテレビ系]]『[[ホンマでっか!?TV]]』の番組内で、『ONE PIECE』のファンである司会の[[明石家さんま]]や、尾田と親交がある[[木村拓哉]]などが尾田の自宅に訪問する様子が放送された<ref>{{Cite news |title=尾田栄一郎が木村拓哉との出会いの秘話語る「ホンマでっか!?TV」2時間SP |work=コミックナタリー |date=2019-01-08 |url=https://natalie.mu/comic/news/315037 |accessdate=2019-01-10}}</ref>。 * 交友関係が広く、サッカー選手の香川真司、歌手の[[きゃりーぱみゅぱみゅ]]、[[桜井和寿]]、木村拓哉、明石家さんまなどの著名人とプライベートで仲が良い<ref>{{Cite web|和書|date=2017-10-2 |url=https://taishu.jp/articles/-/55748 |title=きゃりーぱみゅぱみゅに香川真司!?『ONE PIECE』尾田栄一郎氏の「広すぎる交友録」 |publisher=日刊大衆 |accessdate=2017-11-02}}</ref>。 * 尾田のアシスタントを務めた池沢春人によれば、寝るとき以外はずっと漫画を描いている<ref>{{Cite journal|和書|date=2017-7-7|publisher=集英社|journal=ONE PIECE magazine|issue=Vol.1||pages=121-128}}</ref>。安藤英によれば、締め切り近くになると3時間も寝ず、「眠くなるから」と言って食事もとらない<ref>{{Cite journal|和書|date=2017-8-4|publisher=集英社|journal=ONE PIECE magazine|issue=Vol.2||pages=105-111}}</ref>。 === 趣味 === * 趣味は映画鑑賞で、好きなジャンルは任侠映画と西部劇{{R|blue}}。任侠映画の『[[次郎長三国志]]』を偏愛しており、2011年に発売されるDVDボックスのイラストも手掛けている<ref>『ONE PIECE』64巻「『次郎長三国志』のコーナー!!!」、216頁</ref>。[[加藤泰]]や[[山中貞雄]]の映画も好み、任侠映画全般を愛好している<ref>ラジオ番組『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』(2009年12月15日)</ref>。また、『[[バグダッド・カフェ]]』も好きな作品で、『ONE PIECE』に登場する「スパイダーズカフェ」は、『バグダッド・カフェ』の舞台をモチーフにしている<ref>『ONE PIECE』20巻SBS、146頁</ref>。 * [[Mr.Children]]のファン。映画主題歌をMr.Childrenとすることを条件として『[[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]』での仕事を引き受けた<ref>『[[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]』パンフレット(2009)</ref>。 == 執筆姿勢 == === ONE PIECE関連 === * 『ONE PIECE』は少年のものであるべきと考え、「作中で恋愛を描かない」、「殺人や死亡シーンをなるべく描かない」、「戦いの後には仲間たちとの楽しい[[宴会|宴]]が始まる」といった制約を設けて執筆している<ref name="aera">AERA 2009年12月21日号</ref>。また、毎週15歳の頃の自分が楽しめるか確認している{{R|switch}}。 * 『ONE PIECE』という[[ファンタジー]]の世界で、どこかにリアリティを求めるとすれば、それは人間の感情だと思っている。そこはしっかり守っていかないと、全部嘘っぱちになると語る<ref name="treasures">『ONE PIECE 10th Treasures』(2007)</ref>。 * 『ONE PIECE』のラストは連載前から決めてある<ref name="men's2010"> 『MEN'S NON-NO』2010年1月号</ref>。最終章が一番盛り上がる漫画にする<ref name="manga">『mangaオモ!』2003年winter001号 </ref>。担当編集者の引継ぎの際には毎回、尾田から担当に直接、ラストまでの大まかなストーリーラインを提示する。2010年7月の時点で物語の半分くらい<ref name="nikkei">『日経エンターテインメント』2010年8月号</ref>。 * 今後『ONE PIECE』以外の長編はもう描かないと決めている。理由は、体力的に次の長期連載をやるのは無理だから{{R|aera}}。 * 『ONE PIECE』は当初5年で完結させる予定だった。新しい島に行けば新しい仲間がいてすぐに仲間になってくれるから、1年半で仲間は全員集まるだろうとゲーム感覚で考えていたからである。ところが、キャラクターたちはゲームではなく、人間だった。麦わら帽子をかぶった手足が伸びる人間が現れて「海賊になろう」と言われても、仲間になってはくれない。相当なエピソードがなければ、仲間になろうとは思えない。そこが大きな誤算だったという<ref name="pia">『ONE PIECE ぴあ』(2010)</ref>。 * 『ONE PIECE』はラストが決まっている以上、早く最後の画に行き着きたいという気持ちがどこかにある。しかし、キャラクターの気持ちは一人一人丁寧に考えて描きたいし、それを捨て駒のように扱いたくもないから、いざ描くとなるとどうしても長くなってしまうと語る{{R|men's2010}}。 * 『ONE PIECE』が予想以上の長寿漫画となったことで、新たに、「読者が卒業することなくずっと読み続けて、それぞれ家庭を持ち子供が出来たら親子で一緒に読んで欲しい」という野望ができた{{R|treasures}}。 * 『ONE PIECE』の新しいシリーズを始めるときは、毎回新しく漫画を描くつもりでやっている。一休みして別の漫画を始めても、この漫画で全部やってしまっても、作家としてのやりたいものの消化という意味では同じだと考えている{{R|switch}}。 * 『ONE PIECE』の主人公とは長い付き合いになると思ったので、尾田の中で一番作りこまずに、自然に描けたキャラクターがルフィとなった。しかし、作りこまなかった分、本当の姿も模索していた。尾田が初めてルフィの本当の姿に気付いたのは、ウソップ編になってから。ウソップがクラハドールを殴った後、第25話でルフィが子供たちと一緒になって「ばーか!!」と言ったとき、「あ、ルフィって子供なんだ」と気付いた。それまでは17歳の冒険好きの少年という設定が頭の中にあり、理屈でゴチャゴチャとキャラクターを考えていたのだが、ルフィは自分の理想の子供を描けばいいんだと気付いてからは、ルフィは勝手に動き、喋り、笑い、怒るようになっていったという{{R|manga}}。 * 尾田は、ルフィの兄である[[海賊 (ONE PIECE)#ポートガス・D・エース|エース]]が死を迎える場面を描いたことについて「本当に悩みました」「読者の反響は僕の想像以上でした」と振り返っている<ref name="opcom180723">{{Cite web|和書|publisher=[[読売新聞]]|work=YOMIURI ONLINE|url=https://www.yomiuri.co.jp/topics/ichiran/20180723-OYT8T50083.html |title=ルフィは僕の理想の子供〜「ONE PIECE」作者、尾田栄一郎さん |date=2018-7-24 |accessdate=2018-08-18}}</ref>。尾田はこのシーンを描いたことについて「ルフィが前に進むためには、大きな試練を経験させる必要があった」と語り、「僕もルフィと一緒に乗り越えなければいけない所でした」「楽しいばかりでは、長い連載はやっていけないんです」と明かしている{{R|opcom180723}}。 * ルフィたちに「2年間の修業期間」を設けたことについては、「四皇などの敵に勝つには、2年間が必要だった」「17歳のルフィでは勝てるはずがなかった」と明かしている{{R|opcom180723}}。仲間たちと再会までの期間を「2年」としたのは、「ルフィをそこまで大人にしたくなかった。少年漫画であることにこだわりたかったんです」と述べている{{R|opcom180723}}。 === 漫画関連 === * 世の中に対してどうこうと言う難しいメッセージは作品に込めない。テーマは、物語をまとめるための道具であって、受け手に何かを考えさせようという意識はない。あくまで娯楽作品として描いている{{R|switch|men's2010}}。 * 話作りの方法としては、まず、見せ場を思い浮かべて、次に、そこを読者にとってグッとくるものにするために必要なストーリーを考える<ref name="animationlog">『ONE PIECE ANIMATION LOGBOOK』(2002)</ref>。 * 話作りは執念だと考え、どんな話をやろうとも面白くなる術があると信じている。キャラクターは勝手に動き出すが、その行動の中で一番面白い行動、違和感のない行動が絶対に存在する。その面白い行動を、誰かと掛け合わせることで、さらに面白くなる。それを執念で見つけ出す{{R|pia}}。 * 漫画もアニメも、基本的に、ストーリーよりも演出の方が重要だと考えている{{R|animationlog}}。 * 感動的なエピソードについて、キャラクターが動き始めたときに、自分で少し手を貸して演出を加えることで、それを一つの感動的な話に仕上げることはあるが、初めから感動話にしようと狙って書いたことは一度もない{{R|switch}}。感動話はキャラクターの感情の盛り上がりから生まれるもので、作家が感動させることを目的に話を作ってしまったら、キャラクターを押しつぶしてしまうと語る<ref>『ONE PIECE FILM STRONG WORLD EIICHIRO ODA ARTBOOK』(2009)</ref>。 * キャラクターが泣くシーンは、自分自身が泣けないと涙を流させない{{R|treasures}}。 * 「10のことを伝えるため100を描く」<ref>『[[週刊プレイボーイ]]』2007年31号</ref>、「普通の漫画の3倍のエピソードを盛り込むのが自分のテーマ」<ref name="manganou">『マンガ脳の鍛えかた』(2010)</ref>と語っている。 * 普通、話を作って進めるにはメインの人達だけ描けばいい。しかし自分は、それに対して町の人たちがどう思っているのかというような、その画面に収まっている全ての感情を描きたい。カメラである場所を写したときに、一番ものすごいリアクションをとるのが主役で、それに対する反対意見もあるだろうし、同調もある。それらを全部まとめて描いていかないと、そのシチュエーションや時代背景は表現しきれないと語る{{R|animationlog}}。 * セリフでの説明は本当はしたくない。絵と動きで表現して分からせたい。しかし、伝わらなければ意味がない。作家的なこだわりを捨てて説明してでも、伝えなければならないシーンは沢山あると語る{{R|treasures}}。 * 担当編集者にはアイディアを出さない様にしてもらっている。理由は人に頼ってしまったり、人のせいにしてしまわないようにするため<ref>『ONE PIECE』56巻SBS、66頁 </ref>。ただし、気になることがあれば遠慮なく指摘してほしいと語っている<ref name="paper1">{{cite news |title=編集者対談 |author=[[日刊スポーツ新聞社]] |newspaper=大ワンピース新聞 |date=2016-6-24}}</ref>。 * 見たこともないキャラクターのシルエットが出来た瞬間が一番嬉しい。漫画で一番やりたいのは、ストーリーではなくキャラクターの造形。こんなスタイルの人間は可能かな、と、あれこれデザインしている時間が楽しいと語る<ref>『井上雄彦ぴあ』(2009)</ref>。 * キャラクターの性格は描いているうちに分かることもあれば、ノリで出た口癖がそのキャラクターの根幹になることもある。何はともあれ「絵」。面白い顔ができれば、その顔が変なことをしゃべり始める。そうなればしめたものだという{{R|pia}}。 * 時代は感じさせないようにしている。流行りもののネタは絶対に扱わないし、すたれていくと分かっているものは扱わない。昔から残っている古典的なものや、自分から発信されていくもので構成すれば、古さは出ないと思っている<ref name="color3">集英社 『ONEPIECE尾田栄一郎画集COLOR WALK 3』(2006)天野喜孝との対談より。</ref>。 * 週刊連載で、毎週何か一つは読者をビックリさせるものを入れようと思っている。読者が次の号を待っている間にこうなるんじゃないかと想像するものよりも凄いものを見せたいと語る<ref>集英社 『ONEPIECE尾田栄一郎画集COLOR WALK 4』(2010)やなせたかしとの対談より。</ref>。 * 群集シーン、動物、煙、雲、海など、「生きて動く物」は全て自分自身で描いている<ref>『ONE PIECE』52巻SBS、108頁 </ref>。 * 回想シーンは過去に描いたものは使わず、全て新規描き下ろしにしている<ref>『ONE PIECE』60巻SBS、146頁 </ref>。 * [[スクリーントーン]]は貼り始めるときりがなく時間がかかるため、ほとんど使わない<ref>『ONE PIECE』5巻SBS、168頁</ref>。 * 1週間のうち、ネームに3日、作画に3日、残りの1日を単行本作りなど連載以外の作業に使うのが基本のペース{{R|nikkei}}。 * カラー原稿には2日かける。何を描くかを決めるのに一番時間がかかり、それに丸一日は費やす。色づけは基本的に[[コピック]]で行う。江戸絵を描くときには[[ホルベイン工業|ホルベイン]]の色鉛筆を使う{{R|manganou}}。WJ表紙イラストだけは編集部から「秋なので運動会をテーマにして欲しい」などの注文があり、その枠の中で描くが、見開きの扉絵やコミックスのカバーなどに関しては自由に描いている{{R|color3}}。 * 新学期に友達を作るのに役立つなど、人と人とをつなぐことが、自分が漫画を描くことの役割の一つではないかと考えている{{R|men's2010}}。 * 各キャラクターの感謝やお礼の言葉は、最もストレートな「ありがとう」で可能な限り統一している<ref name="sbs86">『ONE PIECE』第86巻SBS</ref>。 == 評価の声 == * [[井上雄彦]] ** 『井上雄彦ぴあ』(2009年)での対談で、「連載の第一話を読んだ時点で『すごい漫画が始まった』『間違いなく大丈夫だと確信した』と思った」「作者が伝えたい意思が満ち溢れている」「『ONE PIECE』のすごいところはルフィの目が点なところ。“面白いものはあれこれ足さなくても面白い!”という意思表現の象徴」と賞賛。 * [[鳥山明]] ** 尾田の画集『COLOR WALK 1』(2001年)での対談で、「『ONE PIECE』を子供に勧められて読んでみたら、どうして皆がワンピースワンピースって騒ぐのかよく分かった」「このまま王道を描き続けてほしい」と語っている。 * [[藤子不二雄A|藤子不二雄&#9398;]] ** 『COLOR WALK 2』(2003年)での対談で、「自分の好きなことを描いてそれが読者にウケているという理想的な流れを感じる」と評価。 * [[天野喜孝]] ** 『COLOR WALK 3』(2006年)での対談で、「絵の中に視点が入り込んでる」「キャラクターがこちらに飛び出してくる」として賞讃。 * [[やなせたかし]] ** 『COLOR WALK 4』(2010年)での対談で、「何よりも自分が楽しんで描いているのがよく分かる」「[[手塚治虫]]、[[白土三平]]、[[浦沢直樹]]、[[三浦建太郎]]の作品を読んだときと同様にショックを受けた」と語っている。 * [[松本大洋]] ** 『COLOR WALK 5』(2010年)での対談で、「尾田さんの絵はこれぞ漫画!って感じがする」と評価。 * [[稲垣理一郎]] ** 「この人は本当にナチュラルボーン少年漫画家」と絶賛<ref>稲垣理一郎公式サイト「米スタジオ」2006年4月24日、26日。</ref>。 * [[和月伸宏]] ** 「漫画の申し子のような人」と評価<ref>[[ジャンプスクエア]]5・6月合併号 和月へのインタビュー</ref>。 * [[富野由悠季]] ** 「誰にもない自分だけに固有の価値なんてものを持ってるのは、それこそ尾田栄一郎ぐらいだよ」と語っている<ref>{{Cite web|和書|date=2012-04-05|url=http://r25.yahoo.co.jp/interview/detail/?id=20120405-00023305-r25&page=3&order=1|title=ロングインタビュー 富野由悠季(3)|publisher=web R25|accessdate=2012-04-08}}</ref>。 * [[細田守]] ** webアニメスタイル 特別企画ミニインタビュー『[[ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島]]』細田守インタビュー(1)で原作について「面白かったです。よくできた少年マンガだなと思いましたよ。あるべき少年マンガの姿だな、と思いましたけどね。」と語っている。 * 久島(デビュー前に尾田を担当していたジャンプ編集者) ** 初対面の時点で他の新人漫画家とは違う雰囲気と感じ成功を確信、アシスタント修行へ行かせたり、喧嘩のように激しい打ち合わせをしながら読み切りを作成させるなど尾田の地力を養わせた。また、「根性が凄く、読み切りを全てボツにしても一週間後には別のネームを仕上げてきた」「日本人の根底にある[[浪花節]]的なものを自分の柱にもっており、それを作品内でしっかり描けている」とも評している{{R|countdown}}。 * 服部ジャン=バティスト哲(6代目ジャンプ担当編集者) ** 「面白い作品を届けるために超人的なパワーを発揮する」と語っている{{R|countdown}}。 == 作品リスト == === 漫画作品 === {| class="wikitable" style="font-size:smaller; background-color:#ddf" ! タイトル !! 形式 !! 掲載誌 !! 備考 |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#WANTED!|WANTED!]]||読切||未掲載(1992年)||1992年下期[[手塚賞]]準入選受賞作。 |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#神から未来のプレゼント|神から未来のプレゼント]]||読切||『[[月刊少年ジャンプ]]オリジナル』1993年10月号|| |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#一鬼夜行|一鬼夜行]]||読切||『[[週刊少年ジャンプの増刊号|週刊少年ジャンプ増刊]]』1994年Spring Special||第104回ホップ☆ステップ賞入選作。 |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#MONSTERS|MONSTERS]]||読切||『週刊少年ジャンプ増刊』1994年Autumn Special|| |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#ROMANCE DAWN|ROMANCE DAWN]]【増刊版】||読切||『週刊少年ジャンプ増刊』1996年Summer Special|| |- |[[WANTED! 尾田栄一郎短編集#ROMANCE DAWN|ROMANCE DAWN]]【WJ版】||読切||『[[週刊少年ジャンプ]]』1996年41号|| |- style="background-color:#fdd" |[[ONE PIECE]]||連載||『週刊少年ジャンプ』1997年34号 - 連載中{{Efn2|name="date"|2023年11月現在。}}||第41回日本漫画家協会賞大賞受賞作。 |- |[[CROSS EPOCH]]||読切||『週刊少年ジャンプ』2007年4・5合併号||[[鳥山明]]との合作。 |- |[[実食! 悪魔の実!!]]||読切||『週刊少年ジャンプ』2011年17号||[[島袋光年]]との合作。 |} === 書籍 === いずれも、集英社より発行。 ==== 漫画単行本 ==== いずれも、〈[[ジャンプ・コミックス]]〉より新書判で発行。 * 『[[ONE PIECE]]』1997年 - 続刊中、既刊107巻{{Efn2|name="date"}} * 『[[WANTED! 尾田栄一郎短編集]]』1998年11月9日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-872631-6}} ==== 画集 ==== * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK(2001年7月発行、{{ISBN2|4-08-859217-4}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 2(2003年11月発行、{{ISBN2|978-4-08-859376-0}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 3 LION(2006年1月発行、{{ISBN2|4-08-859376-6}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 4 EAGLE(2010年3月発行、{{ISBN2|4-08-859538-6}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 5 SHARK(2010年12月発行、{{ISBN2|978-4-08-782356-1}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 6 GORILLA(2014年1月発行、{{ISBN2|978-4-08-782747-7}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 7 TYRANNOSAURUS(2016年7月発行、{{ISBN2|978-4-08-792509-8}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 8 WOLF(2018年3月2日発売、{{ISBN2|978-4-08-792523-4}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 9 TIGER(2020年9月16日発売、{{ISBN2|978-4-08-792557-9}}) * ONE PIECE 尾田栄一郎画集 COLOR WALK 10 DRAGON(2023年4月4日発売、{{ISBN2|978-4-08-792604-0}}) * ONE PIECE FILM STRONG WORLD EIICHIRO ODA ARTBOOK(2009年12月発行、{{ISBN2|978-4-08-782251-9}}) === その他 === * 映画『夢のサッカー王!』(2002年、『[[ONE PIECE 珍獣島のチョッパー王国]]』の同時上映作品) - オダッチ役で声優として出演。 * ゲーム『From TV animation ONE PIECE ナナツ島の大秘宝』(2002年) - オウムデザイン * 映画『[[ONE PIECE THE MOVIE エピソードオブチョッパー+ 冬に咲く、奇跡の桜]]』(2008年) - 企画協力・オリジナルキャラクターデザイン * ゲーム『[[ONE PIECE アンリミテッドクルーズ]]』(2008年) - オリジナルキャラクターデザイン * 映画『[[ONE PIECE FILM STRONG WORLD]]』(2009年) - 映画ストーリー・コスチューム&クリーチャーデザイン・製作総指揮 * [[最強ジャンプ]]マスコットキャラクター『ファラオン』(2011年) - キャラクターデザイン * 映画『[[ONE PIECE FILM Z]]』(2012年) - 総合プロデューサー * [[週刊少年ジャンプ]]45周年記念マスコットキャラクター『ジャッター』(2013年) - キャラクターデザイン * ゲーム『[[ONE PIECE アンリミテッドワールド レッド]]』(2013年) - オリジナルキャラクターデザイン * 映画『[[ONE PIECE FILM GOLD]]』(2016年) - 総合プロデューサー * 映画『[[ONE PIECE STAMPEDE]]』(2019年) - 監修 * 映画『[[ONE PIECE FILM RED]]』(2022年) - 総合プロデューサー == 関連人物 == === 漫画家 === ==== 師匠 ==== ; [[甲斐谷忍]] : 『翠山ポリスギャング』の製作に参加{{R|OP4}}。 ; [[徳弘正也]] : 甲斐谷の元でアシスタントを務めた後{{R|monsters}}、『[[ジャングルの王者ターちゃん|ジャングルの王者ターちゃん&#9825;]]』『[[水のともだちカッパーマン]]』の製作に参加{{R|OP4}}。尾田は徳弘の元でアシスタントをしていた際、人物の輪郭の描き方や表現手法などを学ばせてもらった。同時期に徳弘から言われた「描き込みは伝わるんだぞ」という言葉は最も印象に残っているという<ref>『ONE PIECE BLUE DEEP』(2012)</ref>。 ; [[和月伸宏]] : 『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』の製作に参加{{R|kadenp54|romacedawn|OP4}}。同時期に和月の元でアシスタントを務めた人物として、'''[[武井宏之]]'''、'''[[しんがぎん]]'''、'''[[いとうみきお]]'''、'''[[鈴木信也]]'''がいる{{R|kadenp54}}。 : 尾田は和月、武井と共に、[[安西信行]]のサークルが発刊した『[[機動戦士ガンダム]]』の同人誌『DRILL GUNDAM』(2000年)に「[[ザクII|ザク]]」のイラストを寄稿している<ref name="mandarake">{{Cite web|和書|date=2010-2-17 |url=https://www.mandarake.co.jp/information/2010/02/17/21sby01/index.html |title=まんだらけ 渋谷店 【DEEP男性同人】ジオング→パーファクトジオング→ジュディーオング(笑)(安西信行/DRILL GUNDAM) |publisher=まんだらけ |accessdate=2019-12-31}}</ref>。 ; [[漫☆画太郎]] :『[[まんゆうき 〜ばばあとあわれなげぼくたち〜]]』の第1話の製作に参加<ref>週刊少年ジャンプ2017年43号巻末コメント。</ref>。 ==== アシスタント ==== * キユ([[松井勝法]])<ref>週刊少年ジャンプ2000年46号巻末コメント</ref> * [[江尻立真]]<ref>『ONE PIECE 10th Treasures』(2007)138頁</ref> * [[池沢春人]]<ref name=wj1311>週刊少年ジャンプ2013年11号巻末コメント。</ref> * 安藤英<ref name=wj1311/> * [[天望良一]]<ref name=Tw130802>[https://twitter.com/tokiwablue21/status/363444643641298946 芝田Twitter 2013年8月2日]</ref> * [[芝田優作]]<ref name=Tw130802/><ref name=wj1434>週刊少年ジャンプ2014年34号巻末コメント。</ref> * [[石山諒]]<ref name=wj1434/> ==== その他 ==== ; [[島袋光年]] : 同世代の漫画家で、仲のいい友人。デビューが決まった際はお互いに電話で報告し合った{{R|treasures}}。 ; [[岸本斉史]] : 共に1974年度生まれで、デビューも近い。岸本の代表作『[[NARUTO -ナルト-]]』は『ONE PIECE』と双璧の人気を博した。互いに友でありライバルと認め合っており<ref name="wj1450">週刊少年ジャンプ2014年50号巻末コメント</ref><ref>朝日新聞2014年11月11日発行 岸本斉史インタビュー</ref>、家族ぐるみでも親交が深い。 ; [[栗原正尚]] : 共に第44回手塚賞の受賞者。尾田は栗原の『[[怨み屋本舗]] EVIL HEART』第2巻に描き下ろしイラストを寄せている。 === 担当編集者 === # ダッチー(本名不明)(『ONE PIECE』連載前、月刊少年ジャンプ時代){{R|blue}} # 久島(『ONE PIECE』連載前、週刊少年ジャンプ時代)<ref name="countdown">週刊少年ジャンプ2010年41号「ONE PIECE グランドカウントダウン」</ref>{{R|blue}} # [[浅田貴典]](1996年 - 2001年4月頃){{R|countdown}}<ref name="opmagazine3">{{Cite journal |和書 |date=2017-9-1 |publisher=集英社 |journal=ONE PIECE magazine |issue=Vol.3 |title=尾田栄一郎×歴代編集者 20th Anniversary Crosstalk |pages=17-22}}</ref> # 土生田高裕(2001年4月頃 - 2005年2月頃){{R|countdown}}<ref name="wj050809">週刊少年ジャンプ2005年8号、9号巻末コメント</ref> # 渡辺大輔(2005年2月頃 - 2006年10月頃){{R|countdown|wj050809}}<ref name="wj0649">週刊少年ジャンプ2006年49号巻末コメント</ref>{{R|opmagazine3}} # 川島直樹(2006年10月頃 - 2007年11月頃){{R|countdown|wj0649}}<ref name="wj0749">週刊少年ジャンプ2007年49号巻末コメント</ref> # 大西恒平(2007年11月頃 - 2008年6月頃){{R|countdown|wj0749}}<ref name="wj0832">週刊少年ジャンプ2008年32号巻末コメント</ref><ref name="shinbun1">{{cite news |title=編集者対談 |author=[[日刊スポーツ新聞社]] |newspaper=週刊ONE PIECE新聞 |date=2012-11-22}}</ref> # 服部ジャン=バティスト哲(2008年6月頃 - 2010年12月頃){{R|countdown|wj0832}}<ref name="wj110304">週刊少年ジャンプ2011年3・4号巻末コメント</ref>{{R|shinbun1}} # 井坂尊(2010年12月頃 - 2014年6月頃){{R|shinbun1|wj110304}}<ref name="wj1431">週刊少年ジャンプ2014年31号巻末コメント</ref> # 杉田卓(2014年6月頃 - 2017年1月頃){{R|wj1431|paper1}}<ref name="tsite">{{Cite web|和書|url=http://top.tsite.jp/news/comic/o/34023785/index|date=2017-1-16 |title=「ジャンプ」で唯一! 「原作担当」「メディア担当」……『ONE PIECE』には“2人の担当編集”がいる! |publisher=T-site|accessdate=2017-7-11}}</ref> # 内藤拓真(2017年1月頃 - 2019年){{R|tsite}}<ref name="magazine">{{Cite journal|和書|date=2017-7-7|publisher=集英社|journal=ONE PIECE magazine|issue=Vol.1||title=SSBS|pages=152}}</ref><ref name="wj1918">週刊少年ジャンプ2019年18号巻末コメント</ref> # 高野健(2019年 - 2020年){{R|wj1918}}<ref>{{Cite web|和書|date=2019-11-25 |url=https://mantan-web.jp/article/20191124dog00m200033000c.html |title=ONE PIECE:今年最も売れたマンガに 愛され続ける理由 2位は「鬼滅の刃」 意外な共通点も… |publisher=MANTANWEB |accessdate=2019-12-31}}</ref> # 岩崎湧治(2020年 - 2023年)<ref>週刊少年ジャンプ2020年29号巻末コメント</ref><ref name="wj2312">週刊少年ジャンプ2023年12号巻末コメント</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20210902-GMXODUZBOFITHNP5MU6HA2KQLI/ |title=「ONE PIECE」100巻刊行へ 〝世界一の漫画〟の歩んだ四半世紀 |publisher=産経新聞 |date=2021-09-02 |accessdate=2023-02-21}}</ref> # 穴山(2023年 - ){{R|wj2312}} === 声優 === アニメ『ONE PIECE』のメイン声優陣とは深い親交があり、「プロのエンターテイナーとの交流はいい刺激になる」と語っている{{R|treasures}}。 ; [[田中真弓]] : [[モンキー・D・ルフィ]]の担当声優。 : 尾田は読み切りの時からルフィの声優には田中がいいと考えていたが、その意向を伝えておらず、オーディションに田中が参加して驚いたという{{R|treasures}}。 ; [[大谷育江]] : [[トニートニー・チョッパー]]の担当声優。 : 尾田は「客にこび、甘ったれた『マスコットキャラ』という奴らが嫌い」だったため、当初チョッパーの口元を本物の[[トナカイ]]と同じく隆起させていたが、アニメで小泉昇の描く可愛らしいチョッパーと大谷の「反則もの」の声に感化され、考えを変えてマスコット・チョッパーを徹底的に解禁した<ref>「ワンパラ」vol.3</ref>。 ; [[矢尾一樹]] : [[フランキー (ONE_PIECE)|フランキー]]の担当声優。 : フランキー以前に矢尾がジャンゴ役で出演してからの友人関係。フランキーは、アニメの初代プロデューサーから「アニメは長寿番組になるから、声優陣に違う風を吹かせるためにも矢尾一樹が麦わらの一味に入れるようにしてくれ」とオーダーがあり、矢尾をイメージして作られている<ref>「[[コスコスプレプレ]]」矢尾一樹出演時の発言より{{信頼性要検証|date=2023-02}}。</ref>。 ; [[中井和哉]]、[[岡村明美]]、[[山口勝平]]、[[平田広明]]、[[山口由里子]]、[[チョー (俳優)|チョー]] : それぞれ[[ロロノア・ゾロ]]、[[ナミ (ONE_PIECE)|ナミ]]、[[ウソップ]]、[[サンジ]]、[[ニコ・ロビン]]、[[ブルック (ONE_PIECE)|ブルック]]の担当声優。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em|2}} {{ONE PIECE}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おた えいいちろう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:熊本市出身の人物]] [[Category:東海大学付属熊本星翔高等学校出身の人物]] [[Category:日本のギネス世界記録保持者]] [[Category:1975年生]] [[Category:存命人物]]
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唐沢なをき
唐沢 なをき(からさわ なをき、男性、1961年10月21日 - )は、日本の漫画家、同人作家。 本名は唐沢 直樹。別筆名に南里 こんぱる。兄の唐沢俊一との共著では唐沢商会名義を使っていた時期もあるが、現在は両名の並記が主である。 北海道札幌市出身。薬局を営む両親の元に生まれる。生まれてからしばらく、昼間のうちは親戚の家に預けられて育てられていた。幼少時代はテレビアニメ『鉄人28号』や特撮『ウルトラQ』、『ウルトラマン』に熱中。 漫画では特に赤塚不二夫から大きな影響を受けて育った。実家である薬局に余っていた大学ノートとボールペンを利用して怪獣図鑑や漫画を描き始め、高校時代までに約50冊分のノートに漫画を描いていた。 高校に入ると、兄に誘われて同人誌活動を始める。同時期、札幌では島本和彦とあさりよしとおが同人活動しており、同人誌即売会で机を並べることもあった。高校卒業後は多摩美術大学付属の専門学校に入学するために上京。卒業を控えて就職活動でデザイン会社にいくも、担当者から生活態度まで全否定を受けてその帰りの電車の中で漫画家を目指すようになる。 漫画家デビューのため小学館へ持ち込みを開始するが 持ち込み時代はギャグや絵柄について否定され続け、時として高橋留美子の絵柄を真似るように言われたという。この時期に小学館の編集者から紹介されて弘兼憲史のアシスタントを1年ほど勤める。 白泉社の担当から評価されて、1985年に「南里こんぱる」のペンネームで同社の『月刊コミコミ』1986年1月号に掲載された『無敵刑事』でデビュー。同年末にコミコミ編集部の紹介でとり・みきのアシスタントを始める。『コミコミ』での仕事は3ヶ月に1回しかなく他に月数回のアシスタントのとエロ雑誌のカットだけが収入源 だったが、作品については特に文句を言われなくなったという。 徳間書店の『ハイパーゾーン』に持ち込んだのをきっかけに『月刊少年キャプテン』から読切の仕事を貰う。それ以後、連載も増えて順調に仕事を続けられるようになり、20年以上精力的に執筆している。 2009年、NHK『マンガノゲンバ』の取材を受けるが、この時のスタッフの態度があまりに非常識だったため、途中で出演を辞退している。この件は「まんが極道」の中でネタにしている。 2012年10月1日より読売新聞夕刊にて4コマ漫画『オフィス ケン太』の連載を開始。同紙夕刊での4コマ漫画連載は、鈴木義司『サンワリ君』(2004年7月2日連載終了)以来8年3ヶ月ぶりとなる。 日本漫画家協会の参与を務めている。 もっぱらギャグ漫画のフィールドで活躍している。漫画の常識や漫画という体裁・メディア性そのものをネタとする、実験的なメタ・ギャグを得意とする。その作風はデビュー以前からほとんど変わっていないという(ただし、初期はほとんどなかった下ネタやプライベートな内輪ネタを扱うようになるなどの変化もある)。パロディ・オマージュ・揶揄も好んでネタとし、ギャグとして他の漫画家の絵柄や作風を模倣することも多い。特に杉浦茂など、昭和の漫画家の作風をリスペクトしている。 兄・唐沢俊一原作のものを除き、ほとんどの作品は短編連作または4コマ漫画。また非常に多作であることも特徴で、一時期は月30本の締切を抱えていた。本人の弁によれば「細かい仕事をたくさんこなしていかないと食べられないだけ」という。 『電脳炎』『電脳なをさん』『パソ犬モニ太』などパソコンをネタにした漫画も生み出しているが、自身はパソコンなどコンピューターが苦手であると語り、『電脳炎』に出てくるパソコン嫌いのお父さんは自分がモデルだとしている。 血液型はB型。 妻はエッセイストの唐沢よしこ。作家で「と学会」元運営委員でもある唐沢俊一は実兄。 兄の俊一曰く「親戚づきあいなどはかなり苦手なのだが、交友関係は広く、マンガ業界からSF業界、映像業界に至るまで人脈を持っている」という。
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唐沢 なをきは、日本の漫画家、同人作家。 本名は唐沢 直樹。別筆名に南里 こんぱる。兄の唐沢俊一との共著では唐沢商会名義を使っていた時期もあるが、現在は両名の並記が主である。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 唐沢 なをき |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 唐沢 直樹(からさわ なおき) |生年 = {{生年月日と年齢|1961|10|21}} |生地 = {{JPN}} [[北海道]][[札幌市]] |没年 = |没地 = |国籍 = |職業 = 漫画家 |活動期間 = [[1985年]] - |ジャンル = ギャグ漫画 |代表作 = 『[[カスミ伝]]』シリーズ<br />『[[怪奇版画男]]』<br />『[[まんが極道]]』 |受賞 = 第27回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『怪奇版画男』)<br />第46回[[文藝春秋漫画賞]](『[[電脳炎]]』) |サイン = |公式サイト = [http://www.nawosan.com/index.shtml からまん] }} '''唐沢 なをき'''(からさわ なをき、男性、[[1961年]][[10月21日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、[[2003年]]2月、ISBN 978-4816917608、109頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、同人作家。 本名は'''唐沢 直樹'''<ref name="mangaseek" />。別[[ペンネーム|筆名]]に'''南里 こんぱる'''。[[兄]]の[[唐沢俊一]]との共著では'''唐沢商会'''名義を使っていた時期もあるが、現在は両名の並記が主である。 == 経歴 == [[北海道]][[札幌市]]出身<ref name="mangaseek" />。[[薬局]]を営む両親の元に生まれる。生まれてからしばらく、昼間のうちは親戚の家に預けられて育てられていた<ref name="B">唐沢俊一『B級学「マンガ編」』[[海拓舎]]、[[1999年]] ISBN 4-907727-00-3、184 - 216頁。</ref>。幼少時代はテレビアニメ『[[鉄人28号]]』や特撮『[[ウルトラQ]]』、『[[ウルトラマン]]』に熱中<ref name="spirit">おしぐちたかし『漫画魂 おしぐちたかしインタビュー集』[[白夜書房]]、2003年 ISBN 4-89367-911-2、45-52頁</ref><ref name="mycomk1">[https://news.mynavi.jp/article/20071222-karasawa/ 怪獣博士・マンガ家の唐沢なをき氏に聞くウルトラ怪獣の魅力(1)怪獣が来た!]</ref>。 漫画では特に[[赤塚不二夫]]から大きな影響を受けて育った<ref name="yasei">「「笑い」を生む技術 唐沢なをき、ギャグマンガ家一代」『[[小説野性時代|野性時代]]』[[2007年]]7月号、[[角川書店]]、28-33頁</ref>。実家である薬局に余っていた大学ノートと[[ボールペン]]を利用して怪獣図鑑や漫画を描き始め、高校時代までに約50冊分のノートに漫画を描いていた<ref name="spirit"/><ref name ="mycom1">[https://news.mynavi.jp/article/20080806-karasawa/ マンガ家・唐沢なをきの軌跡 - オレのギャグマンガ道 (1) マンガを描きまくった少年時代]</ref><ref name="tori132">とり、132頁</ref>。 高校に入ると、兄に誘われて[[同人誌]]活動を始める<ref name ="mycom1"/>。同時期、札幌では[[島本和彦]]と[[あさりよしとお]]が同人活動しており、[[同人誌即売会]]で机を並べることもあった<ref name ="mycom1"/><ref>[http://www.tobunken.com/diary/diary20050705000000.html 裏モノ日記2005年 :: 07月 :: 05日(火曜日)]</ref>。高校卒業後は[[多摩美術大学]]付属の専門学校に入学するために上京<ref name ="mycom2">[https://news.mynavi.jp/article/20080806-karasawa/2 マンガ家・唐沢なをきの軌跡 - オレのギャグマンガ道(2) マンガ家になることを決意]</ref>。卒業を控えて就職活動でデザイン会社にいくも、担当者から生活態度まで全否定を受けてその帰りの電車の中で漫画家を目指すようになる<ref name ="mycom2"/><ref name="naka">中野渡淳一『漫画家誕生 169人の漫画道』[[新潮社]]、[[2006年]]、ISBN 4-10-301351-6 、296-297頁</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070807171048/http://www.kanshin.jp/comic-beam/?mode=keyword&id=635794 漫画家に訊く! ~ぶっちゃけそのへんどうなんスか!~ 第12回 唐沢なをきさん part.1(インターネットアーカイブ)]</ref>。 漫画家デビューのため[[小学館]]へ持ち込みを開始するが<ref name ="mycom3">[https://news.mynavi.jp/article/20080806-karasawa/3 マンガ家・唐沢なをきの軌跡 - オレのギャグマンガ道(3) 迷走する持ち込み時代]</ref> 持ち込み時代はギャグや絵柄について否定され続け<ref name ="mycom3"/><ref name="takara">南信長取材「'96年版〔とてもエライ5人〕その3 唐沢なをき』(別冊宝島編集部『このマンガがえらい!―マンガの「いま」がわかる最新パーフェクト・ガイド』[[宝島社]]、1996年12月、ISBN 978-4796611695 、68-71頁)</ref><ref name="ima">[[本谷有希子]]『イママン 本谷有希子マンガ家インタビュウ&対談集』駒草出版、2007年、ISBN 9784903186511、84-97頁</ref>、時として[[高橋留美子]]の絵柄を真似るように言われたという<ref name="tori132"/><ref name ="mycom3"/><ref name ="takara"/>。この時期に小学館の編集者から紹介されて[[弘兼憲史]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を1年ほど勤める<ref name ="mycom3"/><ref>とり、127頁</ref><ref>「有名マンガ家「師匠と弟子」の物語」『[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]』[[光文社]]、[[2002年]][[4月30日]]号、73頁</ref>。 [[白泉社]]の担当から評価されて、[[1985年]]に「南里こんぱる」のペンネームで同社の『[[月刊コミコミ]]』[[1986年]]1月号に掲載された『無敵刑事』でデビュー。同年末にコミコミ編集部の紹介で[[とり・みき]]のアシスタントを始める<ref>とり、126 - 127頁</ref><ref name="hakkai">[[とり・みき]]「解説」『八戒の大冒険 2002 REMIX』[[エンターブレイン]]、2002年、ISBN 978-4-7577-0763-4、172-174頁</ref><ref>「とりから対談 第二章」『とりから往復書簡』徳間書店、[[2008年]]、ISBN 978-4199500916 、32-33頁</ref>。『コミコミ』での仕事は3ヶ月に1回しかなく他に月数回のアシスタントのとエロ雑誌のカットだけが収入源<ref>唐沢なをき「貧乏自慢 頭のねじ」『[[オール讀物]]』2000年8月号、[[文藝春秋]]、338頁</ref> だったが、作品については特に文句を言われなくなったという<ref name ="takara"/>。 [[徳間書店]]の『[[ハイパーゾーン (雑誌)|ハイパーゾーン]]』に持ち込んだのをきっかけに『[[月刊少年キャプテン]]』から読切の仕事を貰う<ref name="spirit"/><ref>とり、128-130頁</ref>。それ以後、連載も増えて順調に仕事を続けられるようになり、20年以上精力的に執筆している。 [[2009年]]、[[日本放送協会|NHK]]『[[マンガノゲンバ]]』の取材を受けるが、この時のスタッフの態度があまりに非常識だったため、途中で出演を辞退している<ref>[http://blog.nawosan.com/archives/51566006.html からまんブログ『マンガのゲンバ』取材中止しました]</ref>。この件は「まんが極道」の中でネタにしている<ref>『[[コミックビーム]]』[[2009年]]10月号掲載 第42話「いや、そうじゃなくて」</ref>。 2012年10月1日より[[読売新聞]]夕刊にて4コマ漫画『[[オフィス ケン太]]』の連載を開始<ref>2012年9月24日付読売新聞夕刊(東京版)に社告が掲載されている。</ref>。同紙夕刊での4コマ漫画連載は、[[鈴木義司]]『[[サンワリ君]]』([[2004年]][[7月2日]]連載終了)以来8年3ヶ月ぶりとなる。 [[日本漫画家協会]]の参与を務めている。 == 作風 == もっぱら[[ギャグ漫画]]のフィールドで活躍している。漫画の常識や漫画という体裁・メディア性そのものをネタとする、実験的なメタ・ギャグを得意とする。その作風はデビュー以前からほとんど変わっていないという<ref name="yasei"/><ref name="tori132"/>(ただし、初期はほとんどなかった[[下ネタ]]やプライベートな内輪ネタを扱うようになるなどの変化もある)。[[パロディ]]・[[オマージュ]]・[[揶揄]]・[[露悪]]も好んでネタとし、ギャグとして他の漫画家の絵柄や作風を模倣することも多い。特に[[杉浦茂]]など、[[昭和]]の漫画家の作風をリスペクトしている。 兄・唐沢俊一原作のものを除き、ほとんどの作品は短編連作または4コマ漫画。また非常に多作であることも特徴で、一時期は月30本の締切を抱えていた<ref>[[西川魯介]]「解説」『八戒の大冒険 2002 REMIX』[[エンターブレイン]]、2002年、170-171頁</ref>。本人の弁によれば「細かい仕事をたくさんこなしていかないと食べられないだけ」という<ref name="naka"/>。 『電脳炎』『電脳なをさん』『パソ犬モニ太』など[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]をネタにした漫画も生み出しているが、自身はパソコンなどコンピューターが苦手であると語り<ref name="spirit"/><ref>「Alternative Juke Box インタビュー・唐沢なをき」『[[文藝]]』1998年夏季号[[河出書房新社]]、12-13頁</ref>、『電脳炎』に出てくるパソコン嫌いのお父さんは自分がモデルだとしている<ref name="naka"/>。 == 人物など == [[ABO式血液型|血液型]]はB型。 ; 趣味・嗜好 : 子供の頃はかなりの偏食で「海臭い物は全てダメ」だったという。当然魚類も苦手だったが、握り飯の中に入った鮭の切り身を美味いと感じてから、徐々に克服していった。 : 上述の通り大の[[怪獣]]及び[[特撮]]好きで、漫画にそれを生かしている他にも、著名人との対談集『怪獣王』を出版している。妻・唐沢よしこは当初怪獣の知識が全く無かったため、良い夫婦関係を築くためにもということで、いくつかの特撮作品を鑑賞させた。結果、大ハマりしたのは『[[ウルトラマンタロウ]]』だったが、これは唐沢も予想だにしなかったという。 ; 筆名 : デビュー当時に使用していた南里こんぱると言うペンネームは、昭和初期の俳優で後には企画スタッフとしても東映映画に関わった[[南里金春]]の名前をもじったもの。なお、唐沢は後年刊行された初期作品集の名前に「金春」と名付けている。 : なをき・俊一のそれぞれの名前、及び「唐沢商会」は作品によっては「唐澤商会」「唐澤なをき」のように「唐沢」が「唐澤」と表記される場合がある。 : 名前が似ているせいか、[[浦沢直樹]]と間違えられる事があるらしい。 == 家族・親族 == 妻は[[エッセイスト]]の[[唐沢よしこ]]。作家で「[[と学会]]」元運営委員でもある[[唐沢俊一]]は実兄。 * [[叔父]]:[[小野栄一]] * [[妻]]:[[唐沢よしこ]] * [[兄]]:[[唐沢俊一]] * [[義姉]]:[[ソルボンヌK子]] {{familytree/start}} {{familytree| | | | | |,|-|-|-|-|-|-|-|.| |}} {{familytree|YOSHIKO|~|NAWOKI| |KEKO|~|SHUNICHI|YOSHIKO=[[唐沢よしこ]]|NAWOKI='''唐沢なをき'''|KEKO=[[ソルボンヌK子|ソルボンヌ]]<br />[[ソルボンヌK子|K子]]|SHUNICHI=[[唐沢俊一]]|boxstyle_NAWOKI=background-color: #faa;}} {{familytree/end}} == 作品リスト == === 現在連載中の作品 === * [[俺とねこにゃん]]([[モバMAN]]) * [[パチモン大王]]([[フィギュア王]]) * [[ぶよ通信]]([[ガンダムエース]]) * [[モニ太のデジタル辞典]]([[YOMIURI ONLINE]])- イラスト担当、文は唐沢よしこ担当 * [[唐沢なをきの必殺! 屋根落とし!!]]([[時代劇専門チャンネル]]) * [[オフィス ケン太]]([[読売新聞]]夕刊) === 過去の主な連載作品 === * [[カスミ伝]]シリーズ ** [[カスミ伝]]([[月刊少年キャプテン]]) ** カスミ伝S(アスキーコミック→[[コミックビーム]]) ** カスミ伝△([[月刊マガジンZ]]) * [[ホスピタル (漫画)|ホスピタル]]([[月刊アニマルハウス]]) * [[鉄鋼無敵科學大魔號]](月刊少年キャプテン) ** 鉄鋼無敵科學大魔號改([[マガジンイーノ|マガジンGREAT]]) * [[BURAIKEN]](ぶらいけん)(月刊アニマルハウス) * [[夕刊赤富士]]([[夕刊フジ]]) * [[必殺山本るりこ]]([[コミックガンマ]]) * 学園天国([[小説すばる]]) * ヌルゲリラ([[ファミ通]]) * からまん([[SPA!|週刊SPA!]]) * [[二十一世紀科学小僧]]([[コミックビンゴ]]) * [[怪奇版画男]](ビッグコミックスピリッツ21) * 唐沢なをきのうらごし劇場([[B-CLUB (模型雑誌)|B-CLUB]]、[[AX (アニメ雑誌)|AX]]、1994年 - 2000年)2001年に単行本化 * [[けだもの会社]]([[MANGAオールマン]]) * [[さちことねこさま]](コミックビーム) * [[パソ犬モニ太]]([[読売新聞]]夕刊) * [[漫画家超残酷物語]]([[月刊IKKI]]など) * [[唐沢なをきの幻獣辞典]](マガジンGREAT) * [[ウルトラファイト|ウルトラファイト番外地]]([[特撮エース]]) * [[犬ガンダム]]([[ガンダムエース|月刊ガンダムエース]]) * [[電脳炎]]([[ビッグコミックオリジナル]]) * [[がんばれみどりちゃん]]([[イブニング]]) * [[けんこう仮面]]([[ビッグコミックオリジナル増刊]]) - 唐沢よしこと共著 * [[機動戦士ぶよガンダム]]([[ガンダムエース]]) * [[ヌイグルメン!]]([[イブニング]]) * [[とりから往復書簡]]([[月刊COMICリュウ]]) - [[とり・みき]]との共著 * [[電脳なをさん]]([[週刊アスキー]]→cakes、2020年5月に連載終了) * [[僕らの蟹工船 小林多喜二『蟹工船』より]](コミックビーム) * [[まんが極道|まんが家総進撃]]([[コミックビーム]]) === 短編集 === * 八戒の大冒険(1988年3月20日、[[徳間書店]]) ** 八戒の大冒険(1991年9月1日、[[白夜書房]]) ** 八戒の大冒険 2002 REMIX(2002年3月8日、[[エンターブレイン]]) * 金春(1989年8月31日、[[白泉社]]) ** 金春-唐沢なをき初期傑作集-(2004年、エンターブレイン) * 百億萬円(1992年4月20日、[[扶桑社]]) * ハラペーニョ(1996年10月22日、[[アスキー (企業)|アスキー]]) * 唐沢なをきの楽園座(1997年8月27日、[[講談社]]) * YAPOOS - ヤプーズ -(1997年10月22日、アスキー) === 唐沢俊一との共著 === {{Main|唐沢俊一#唐沢商会名義}} === 挿絵 === * 爆笑三国志シリーズ * 念術小僧 大江戸サイキックボーイ(加藤正和) * [[猫丸先輩シリーズ]]([[倉知淳]]) ** 猫丸先輩の推測 ** [[猫丸先輩の空論]] * ほうかご探偵隊(倉知淳) === その他 === * バラバラくん - 絵本 * おへそに太陽を - [[山中恒]]よみもの文庫 * 理科子先生と学ぼう! - キャラクター。読売新聞 第3水曜日掲載。 * 唐沢なをきの大富豪([[ボトムアップ]]、1997年)- [[パソコンゲーム]] * モロ★次元世界物語(『[[諸星大二郎]] デビュー50周年記念 トリビュート』収録<ref name="natalie20210907">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/444103|title=浦沢直樹、萩尾望都、星野之宣、山岸凉子らが描き下ろし「諸星大二郎トリビュート」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-07|accessdate=2021-09-07}}</ref>、2021年) * あの日の生物都市(『諸星大二郎 デビュー50周年記念 トリビュート』収録{{R|natalie20210907}}、2021年) == 関連人物・交友関係 == 兄の俊一曰く「親戚づきあいなどはかなり苦手なのだが、交友関係は広く、マンガ業界からSF業界、映像業界に至るまで人脈を持っている」という<ref name="B"/>。 ;[[唐沢俊一]] :なをきの兄。小学生時代から新しい漫画を描くたびに兄に見せていた<ref name="yasei"/><ref name ="mycom1"/>。なお、なをきは登記上は兄の個人事務所の監査役である<ref>平成21年度の官報および唐沢俊一の個人事務所の登記簿による</ref>。 ;[[伊藤剛 (評論家)|伊藤剛]] :93~94年の約二年弱浦沢直樹の、95年から97年まで断続的に唐沢なをきの[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を努め「[[山本直樹]]先生のところに一度でも行けてれば3なおき揃い踏みだったのですが」と呟く [https://twitter.com/GoITO/status/144451143689437184]。 ;[[とり・みき]] :アシスタントを経験。とり・みきは初めてなをきの作品を褒めた人物であり、そのことが持ち込みでボロボロになったなをきの心の支えとなった<ref name="naka"/><ref name="mycom5">[https://news.mynavi.jp/article/20080806-karasawa/5 マンガ家・唐沢なをきの軌跡 - オレのギャグマンガ道(5) 心の支え]</ref><ref>とり、138頁</ref>。『ひぃびぃ・じぃひぃ』や『[[愛のさかあがり]]』など手伝っていた。後に『とりから往復書簡』を連載する。ただしアシスタント時代の2人の間に会話は少なく、後になをきはとり・みきの影響を受けたと言われていることについて、とり・みき自身は否定している<ref name="hakkai"/><ref>とり、137頁</ref>。 ;[[弘兼憲史]] :1年ほどアシスタントを経験。漫画の基礎を学んだが、弘兼との間に共通の話題は無く、会社のように規則正しい職場にも馴染めずにいた<ref name="mycom5"/><ref>「本当にやった[トホホな初仕事]体験集」『週刊SPA!』[[2004年]][[4月6日]]号、151頁。</ref><ref>とり、127-128頁</ref>。『[[課長島耕作]]』の最終巻に歴代アシスタントとして「唐沢なをき」の名前が載った時が、漫画家になってから友人・知人の反応が一番大きかったという<ref>[[南信長]]『現代マンガの冒険者たち:大友克洋からオノ・ナツメまで』[[NTT出版]]、2008年 ISBN 978-4-7571-4177-3、197頁</ref>。 ;[[菅野博士]] :デビュー前からの友人<ref name="B"/>。 ;[[星里もちる]] :「キャプテン」時代からの友達<ref name="ima"/>。星里の結婚式でのクイズ大会でなをきは車を当てたことがある<ref>唐沢なをき・唐沢よしこ『なをき・よしこのパソコン夫婦バンザイ』[[コーエー]]、[[1995年]]、ISBN 4-87719-248-4、162-165頁</ref>。 ;[[永野のりこ]] :『怪獣王』では対談を行なっている。新人時代、なをき・星里・永野の3人は「キャプテン三羽烏」と言われ、注目を集めていた<ref name="spirit"/>。 ;[[瀬奈陽太郎]] :元アシスタント<ref>唐沢なをき「すごいやせなくん」(瀬奈陽太郎『博士のストレンジな愛情』シューベル出版、 ISBN 4883322602 、2002年9月、204頁)</ref>。 == 関連番組 == * [[BSマンガ夜話]]『カスミ伝S』(2001年2月26日 NHK BS2)- 他に『怪奇版画男』や『電脳なをさん』についても触れた。推薦者の[[岡田斗司夫]]は、唐沢とは面識がなかったものの、兄の俊一とは親しく、また『電脳なをさん』と同じ「[[週刊アスキー]]」で連載を持つなど、縁はあった。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} == 参考資料 == * とり・みき『マンガ家のひみつ』[[徳間書店]]、1997年 ISBN 4-19-860699-4、125-148頁 * 唐沢俊一『B級学「マンガ編」』[[海拓舎]]、[[1999年]]発行 ISBN 4-907727-00-3、184 - 216頁 * おしぐちたかし『漫画魂 おしぐちたかしインタビュー集』[[白夜書房]]、2003年 ISBN 4-89367-911-2、45-52頁 == 外部リンク == * [http://www.nawosan.com/index.shtml からまん][https://web.archive.org/web/19991013192326/http://www2.big.or.jp/~karaman/][https://web.archive.org/web/19970319034633/http://www.threeweb.ad.jp/~karasawa/] - 公式サイト。よしこ夫人が運営している。 ** [http://www.nawosan.com/yomimono/poster/index.html これまでのキャラ掲載] * [http://blog.nawosan.com/index.html からまんブログ] - 唐沢とよしこ夫人のブログ。 * {{cakes.mu|826}} * {{twitter|nawokikarasawa|唐沢なをき}} * {{mediaarts-db|C56684}} * [https://news.mynavi.jp/article/20080806-karasawa/ マンガ家・唐沢なをきの軌跡 - オレのギャグマンガ道] - マイナビニュースでの唐沢のインタビュー。 {{リダイレクトの所属カテゴリ|redirect=唐沢商会|共有筆名|兄弟姉妹の二人}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:からさわ なをき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:札幌市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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玖保キリコ
玖保 キリコ(くぼ きりこ、1959年5月21日 - )は、日本の女性漫画家。東京都文京区出身。本名・福住 幸恵。東洋大学文学部英米文学科卒業。 東京の大学で英米文学を教えていたイギリス人と結婚し1996年に渡英し、現在はロンドン在住。 1982年『LaLa』掲載の「物思いモノローグ」でデビュー。『シニカル・ヒステリー・アワー』の連載で人気を得る。『いまどきのこども』で、男性読者にも知られるようになった。 ピッキーピクニックというバンドにも参加していた。 小学館の『マミイ』の表紙に、2000年4月号から2007年9月号までイラストレーションを掲載した。
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玖保 キリコは、日本の女性漫画家。東京都文京区出身。本名・福住 幸恵。東洋大学文学部英米文学科卒業。 東京の大学で英米文学を教えていたイギリス人と結婚し1996年に渡英し、現在はロンドン在住。
{{存命人物の出典明記|date=2011年5月}} '''玖保 キリコ'''(くぼ きりこ、[[1959年]][[5月21日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、133頁</ref> - )は、日本の女性<ref name="mangaseek" />[[漫画家]]。[[東京都]][[文京区]]出身<ref name="mangaseek" />。本名・'''福住 幸恵'''<ref>[[四方田犬彦]]『待つことの悦び』P. 99</ref>。[[東洋大学]][[文学部]][[英米文学科]]卒業<ref name="mangaseek" />。 東京の大学で[[英米文学]]を教えていた[[イギリス人]]と結婚し1996年に渡英し<ref>[http://www.japanupdate.co.uk/?option=com_content&view=article&id=1013:2015-01-08-19-16-25&catid=44:2010-03-21-14-16-09&Itemid=50 漫画家 玖保キリコさん - ジャパンアップデート]</ref>、現在は[[ロンドン]]在住<ref>[https://news.nissyoku.co.jp/hyakusai/ishii20090626091933542 ヘルシートーク:漫画家・玖保キリコさん(2021年11月20日閲覧)]</ref>。 == 概要 == [[1982年]]『[[LaLa]]』掲載の「物思いモノローグ」でデビュー。『シニカル・ヒステリー・アワー』の連載で人気を得る。『いまどきのこども』で、男性読者にも知られるようになった。 [[ナゴムレコード#その他の過去在籍アーティスト(一時所属含む)|ピッキーピクニック]]というバンドにも参加していた。 [[小学館]]の『[[マミイ]]』の表紙に、2000年4月号から2007年9月号まで[[イラストレーション]]を掲載した。 == 主な作品 == *[[シニカル・ヒステリー・アワー]](1982年 - 1995年、[[白泉社]] [[LaLa]]、全14巻)のち文庫 **くるくるシニカル 帰ってきたツネコちゃん(2005年 - 2007年、白泉社 [[Silky]]、全1巻) *[[いまどきのこども]](1986年 - 1994年、[[小学館]] [[ビッグコミックスピリッツ]]・[[小学一年生]]・[[小学館の学年別学習雑誌|小学六年生]]、全13巻)のち文庫 *シンプルマインズ 白泉社、1987 *アレルジィ 白泉社、1988 *キリコのコリクツ(エッセイ)[[本本堂]]、1989 のち角川文庫 *女社長(1991年 - 1993年、小学館 ビッグコミックスピリッツ、全3巻) *キリコのドッキリコ みぢかなところにキケンがいっぱい 角川文庫 1992.9 *夫とその妻 マガジンハウス 1992.3 *現代犯罪図鑑 [[別役実]]共著 [[岩波書店]] 1992.3 *[[バケツでごはん]](1993年 - 1996年、小学館 ビッグコミックスピリッツ、全8巻)のち文庫 *それなりのジョーシキ [[角川書店]] 1994 のち文庫 *電脳繁盛記 毎日コミュニケーションズ 1996.3 *非常識がジョーシキ 角川書店 1996 のち文庫 *ジョーシキ一本釣り 角川書店 1997 のち文庫 *はんきいぱんきい 白泉社 1997.8 *ちょべりぶ(1998年 - 1999年、小学館、全3巻) *ホテルニューからまつ [[文藝春秋]] 1998.3 *キリコ百貨店 節分ショー(2000/2、小学館 My First BIG) *キリコ百貨店 祝ひな祭り(2000/3、小学館 My First BIG) *キリコ工場(2000/5、白泉社 ジェッツコミックス) *キリコ・ロンドン 角川書店 2000.8 *カエル屋敷のベンジャミン 小学館 2001.5([[ビッグコミックスペリオール]]) *[[動物占い]] *[[アニマルマニア]](2000年 - 2002年、小学館 ビッグコミックスピリッツ、全3巻) *となりのモモゴン [[岩崎書店]] 2002.11 *中級キリコ・ロンドン 角川書店 2002.12 *しましまおばけ 白泉社 2003.11 *モモゴンのクリスマス 岩崎書店 2003.11 *ヒメママ(2007年 - 2009年、[[ウフ]] [[マガジンハウス]]、全3巻) *三匹、おうちにいる([[福音館書店]] [[母の友]]) *てきとーロンドナー(2009年 - 、白泉社 Silky)※連載中 *ロンドン丼 英国暮らしは毎日がドッキリコ! 角川書店 2012.07 *[[カンデム地球防衛隊]](2018年11月25日 - 隔週日曜日更新、白泉社 [[マンガPark]])※連載中 == 注釈 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.kubokiri.com/ 玖保倉庫]玖保キリコのブログやブログ内のマンガもある。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:くほ きりこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都立大泉高等学校出身の人物]] [[category:東洋大学出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:ナゴムレコード]] [[Category:在イギリス日本人]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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倉田真由美
倉田 真由美(くらた まゆみ、1971年〈昭和46年〉7月23日 - )は、日本の漫画家。本名:叶井 真由美。通称「くらたま」。MIYN(ミューン)所属。代表作は『だめんず・うぉ〜か〜』。 一橋大学商学部卒業。元NHK経営委員会委員。恵泉女学園大学非常勤講師。 福岡県出身。本人によれば、中学3年生の時にスパルタの塾に通って猛烈に勉強したため、大学にはその余力で受かったみたいなものと述べている。 高校時代は「それほど熱心に勉強せずにマンガを描きながら、勉強もしたという感じが近い」と述べている。 福岡県立福岡高等学校3年の頃は小学館や集英社のある東京に憧れ、東京の大学への進学を希望していたが、親からは地元の九州大学より上の国立大学でないとダメだと言われていた。高校では理系だったが、大学受験では、前期に理系の東京工業大学、後期に文系の一橋大学商学部を受験した。 ところが大学入試の前日にも持ち込み原稿を持参し出版社巡りを行い、最後に回った講談社で「まずは受験をしっかりやれ」と言われたという。東京工業大の入学試験は不合格だったが、後期で一橋大学商学部に合格、同大学に入学。 サッカー部の主将に初恋をし、マネージャーとして入部。その後は恋愛に夢中になり、漫画を描くことを止めていた。さらに同じゼミの、当時既にプロの漫画家であった黒田硫黄と自分の画力の差に愕然とし、漫画家になることを断念した。 大学4年の就職活動で山一證券の最終面接まで残ったが、面接官からこの会社を選んだ理由を聞かれ、「歯医者が近いので」と思ったことをそのまま口に出してしまったために面接官の不興を買い、最終面接で落とされた。このエピソードを元に就職活動に失敗する女子学生を描いた漫画を、『ヤングマガジン』ギャグ大賞に応募。大賞を受賞し、デビューを果たした。 ヒット作には恵まれなかったが、雀荘従業員や学習塾講師などのアルバイトの傍ら、漫画の創作を続けた。2000年に週刊誌『SPA!』で、大きな欠陥のある男性との交際を繰り返す女性たちについて描いた作品『だめんず・うぉ〜か〜』の連載を始め、ブレイクを果たす。以後、恋愛・男女関係やコミュニケーションに関する仕事が増える。現在では漫画家としてだけではなく、主にコメンテーターとしてテレビなどにも多く出演している。 28歳で結婚し、第一子となる男児を出産したが、2年後に離婚(親権は倉田)。普段は息子を福岡の実家に預けて東京で生活し、およそ週に一度、息子に会うために福岡へ帰省している。 2009年7月、自らの連載上で未婚のまま第二子を妊娠していることを公表。相手の男性は中村うさぎから紹介された映画配給会社「トルネード・フィルム」取締役・叶井俊太郎。同年9月、叶井と入籍。同年11月、第二子となる女児を出産。 2021年10月、最長8ページの漫画しか描いたことがなかったが、初の長編作品『凶母(まがはは)〜小金井首なし殺人事件 16年目の真相〜』を執筆。「まんが王国」ほか電子書店にて連載を開始。 西原理恵子、浜口乃理子などと同様に、作者自身を主人公としてその日常体験を漫画にするのを基本的な作風とする。 漫画家を目指したきっかけは、西原理恵子の作品を読んで「この程度なら私にも描ける」と思ったからだと『だめんず・うぉ〜か〜』の作中で振り返っている。ただし、西原理恵子本人からは「あんたいくら走っても前に私いないよ」とコメントしている。倉田は、インタビューで画力について聞かれ「西原さんのほうが全っ然うまい。私の絵はヘタウマじゃなくて本当にヘタなんです(笑)」と述べている。 渡辺洋香(女流雀士)や中村うさぎ(小説家)や深澤真紀(コラムニスト)と親交がある。渡辺洋香はだめんず会会長として『だめんず・うぉ〜か〜』レギュラーだった時期があり、中村うさぎとは共著が多く、深澤とも多く仕事をしている。また北芝健と仲が良く、2003年には倉田真由美と北芝健の2人が協力した『踊る大捜査線』のオフィシャル解読本も出版された(同書内で、倉田は青島俊作をだめんずではないと言い切っている)。 2009年から「日本催眠術協会」の役員を務めている。 2010年6月20日付でNHK経営委員会委員。2012年2月末に任期満了で退任。2013年4月から恵泉女学園大学非常勤講師。 2006年7月、民主党が衆議院・参議院・地方選に向けて候補者公募の選考で意見を聞くために開設された有識者会議のメンバーに選ばれてたことを契機に、小沢一郎政経研究会の講演を行なうなど、民主党と深くかかわるようになる。 2009年の政権交代により鳩山由紀夫を首班とする政権が誕生すると、倉田は日本放送協会経営委員会委員に就任することが決まった(2010年5月)。しかし、国会の承認議決において、後述の所得隠しを問題とする自民党・みんなの党・新党改革・たちあがれ日本によって反対を受けた。 2012年の政権交代により、第2次安倍内閣が成立すると麻生太郎副総理を「失言放言が多く、良いところが全くない。景気対策に失敗した時に責任を取らせるためか、引退前の最後の花道で起用しただけ。」と非難し、安倍晋三のことを自身の漫画に登場する『働かないヒモ』と一刀両断した。また、自民党が民主党の政権運営の拙さを指摘したことについても、国民の選択を批判する行為であると非難している。 『こんな男とは絶対、結婚するな!』の共著や、『だめんず・うぉ〜か〜』第7巻の対談などで福島瑞穂と面識があり、福島と山口二郎との共著『本当に憲法改正まで行くつもりですか?』もある。 反ワクチン主義に傾倒し新型コロナワクチンに疑義を唱えており、2023年10月時点でも接種していない。2021年8月にはニューヨークの教職員のワクチン義務化について、「もはやアメリカはまったく自由の国じゃないな」と述べている。2021年10月11日に「昔、水痘に罹った子をわざわざ訪ねて自分の子にうつし免疫を獲得させることは普通にあった。『軽症ですむ子供のうちに罹ってしまう』って、病気によっては最高の解決法なんじゃないのか」とツイートした際には、「それを安全に、手軽に出来るようにしたのがワクチン」「亡くなることだってあるのに...」「最高じゃなかったからワクチンが義務付けられるようになったんでしょ」と指摘された。日本で接種されている水痘(帯状疱疹)ワクチンは1回の接種で水痘にかかるのを80 - 85%減らすことが出来、重症化をほぼ100%防げるものである。医師にも批判されたため、2021年10月13日時点で該当ツイートを削除した。 所得隠し事件 2006年11月29日、自身が社長を務める漫画制作会社「たまくら」(東京都新宿区)が東京国税局の税務調査で、2005年4月期までの3年間に約1800万円の所得隠しをおこなったと指摘されていたことが判明した。数十人の架空のアシスタントを立て、給与を水増ししていたとされている。重加算税を含めた追徴税額は約600万円と報道された。同社は2005年12月に修正申告し、追徴税額を支払った。 倉田本人は事実を認めたうえで、追徴された税金はすでに支払っており、事件は過去のものだと述べている。また『だめんず・うぉ〜か〜』内でもこの事件を振り返り「税理士に60人分の架空のアシスタントを立てろと言われたから立てただけ」「レポーターにつめ寄られてとっても怖かった」と弁明、述懐した。 この件が発覚した後に出演した『たかじんのそこまで言って委員会』(2006年12月10日放送分)冒頭で涙ながらに釈明のコメントを行ったが、宮崎哲弥ら共演者からは悪質だと追及を受ける形となった。また『週刊文春』2006年12月14日号でも「くらたま悪質脱税 だめんずを使って領収書集め」と題する記事が掲載されている。倉田がNHKの経営委員会に入ることが決まった際にも、この事件を理由に批判が起きた。 書名、共著者名、出版社名、出版年、ISBN の順に記載
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倉田 真由美は、日本の漫画家。本名:叶井 真由美。通称「くらたま」。MIYN(ミューン)所属。代表作は『だめんず・うぉ〜か〜』。 一橋大学商学部卒業。元NHK経営委員会委員。恵泉女学園大学非常勤講師。
{{別人|倉田マユミ|x1=女優の}} {{存命人物の出典明記|date=2012年9月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 倉田 真由美 | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[福岡県]]・[[福岡市]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1971|7|23}} | 職業 = [[漫画家]]、[[コメンテーター]] | ジャンル = エッセイ漫画 | 代表作 = [[だめんず・うぉ〜か〜]] | 受賞 = ヤングマガジンギャグ大賞(新人賞) | 公式サイト = [https://kuratamayumi.com/ 倉田 真由美オフィシャルサイト] }} '''倉田 真由美'''(くらた まゆみ、[[1971年]]〈[[昭和]]46年〉[[7月23日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。本名:'''叶井 真由美'''<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/gian/174/meisai/m17421174014.htm 日本放送協会経営委員会委員に小丸成洋君、浜田健一郎君、叶井真由美君、澤登久子君、北原健児君及び竹中ナミ君を任命することについて同意を求めるの件] 第174回国会(常会)議案審議情報(参議院)で本名を確認できる。</ref>。通称「'''くらたま'''」。[[ミューン|MIYN(ミューン)]]所属。代表作は『[[だめんず・うぉ〜か〜]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202106080000400.html|title=倉田真由美氏「子供と大人の同意フェアじゃない」成人と中学生の性交めぐり|publisher=日刊スポーツ|date=2021-06-08|accessdate=2021-06-08}}</ref>。 [[一橋大学商学部]]卒業<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2011-11-23 |url=http://president.jp/articles/-/5076 |title=倉田真由美―妻の「離活」を見抜くには 「不安なく暮らす」ための全課題21【18】 |work=PRESIDENT Online |publisher=[[プレジデント社]] |accessdate=2012-09-25}}</ref>。元[[NHK経営委員会]][[委員]]<ref name="名前なし-1">https://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/new/keiei100620.html</ref><ref name="名前なし-2">https://www.nhk.or.jp/keiei-iinkai/new/keiei120301.html</ref>。[[恵泉女学園大学]][[非常勤講師]]<ref name="名前なし-3">[http://miyn.info/talent_htmls/158167616.htm 「MIYN ( ミユーン ) - MANEGEMENT - 倉田 真由美」]MIYN </ref>。 == 略歴 == === 中学・高校時代 === 福岡県出身。本人によれば、中学3年生の時にスパルタの塾に通って猛烈に勉強したため、大学にはその余力で受かったみたいなものと述べている<ref name="mainichi20080117">[https://web.archive.org/web/20090210070547/http://mainichi.jp/life/edu/exam/center08/archive/news/2008/01/20080117org00m100028000c.html みんな受験生だった:第5回 ごみ箱から受験票を救出?! 倉田真由美さん(マンガ家)] - 毎日jp (毎日新聞)、2008年1月18日。(2009年2月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>『[[AERA]]』2005年4月25日号{{要ページ番号|date=2012年9月}}</ref>。 高校時代は「それほど熱心に勉強せずにマンガを描きながら、勉強もしたという感じが近い」と述べている<ref name="mainichi20080117"/>。 === 大学受験 === [[福岡県立福岡高等学校]]<ref>[https://www.sankei.com/article/20170204-3FQIISWKANK2JDXLHGP65AQBTE/ 「福岡県立福岡高校(上)」]産経ニュース2017.2.4 07:07</ref>3年の頃は[[小学館]]や[[集英社]]のある[[東京]]に憧れ、東京の大学への進学を希望していたが、親からは地元の[[九州大学]]より上の[[国立大学]]でないとダメだと言われていた。高校では[[理系]]だったが、[[大学受験]]では、前期に理系の[[東京工業大学]]、後期に文系の[[一橋大学商学部]]を受験した<ref name="mainichi20080117"/>。 ところが大学入試の前日にも[[持ち込み原稿]]を持参し出版社巡りを行い、最後に回った[[講談社]]で「まずは受験をしっかりやれ」と言われたという<ref name="yomiuri20070615">[https://web.archive.org/web/20090211122738/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/topics/20070615-345185/news/20080312-OHT1T00092.htm 少女漫画家志望を狂わせた東京の「だめんず」…漫画家・倉田真由美さん[私の上京物語]:直撃インタビュー:社会特集:スポーツ報知](2009年2月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。東京工業大の入学試験は不合格<ref name="mainichi20080117"/>だったが、後期で一橋大学商学部に合格、同大学に入学。 === 大学時代 === [[サッカー]]部の主将に初恋をし、マネージャーとして入部。その後は恋愛に夢中になり、漫画を描くことを止めていた。さらに同じ[[ゼミナール|ゼミ]]の、当時既にプロの漫画家であった[[黒田硫黄]]と自分の画力の差に愕然とし、漫画家になることを断念した<ref>倉田真由美『だめんず・うぉ〜か〜』 (SPA! comics)</ref>。 === 漫画家デビュー === 大学4年の就職活動で[[山一證券]]の最終[[面接]]まで残ったが、面接官からこの会社を選んだ理由を聞かれ、「歯医者が近いので」と思ったことをそのまま口に出してしまったために面接官の不興を買い、最終面接で落とされた。このエピソードを元に就職活動に失敗する[[女子大生|女子学生]]を描いた漫画を、『[[週刊ヤングマガジン|ヤングマガジン]]』ギャグ大賞に応募。大賞を受賞し、デビューを果たした。 ヒット作には恵まれなかったが、[[麻雀#雀荘|雀荘]]従業員や[[学習塾]]講師などのアルバイトの傍ら、漫画の創作を続けた。2000年に週刊誌『[[SPA!]]』で、大きな欠陥のある男性との交際を繰り返す女性たちについて描いた作品『だめんず・うぉ〜か〜』の連載を始め、ブレイクを果たす。以後、恋愛・男女関係やコミュニケーションに関する仕事が増える。現在では漫画家としてだけではなく、主にコメンテーターとしてテレビなどにも多く出演している。 28歳で[[結婚]]し、第一子となる男児を出産したが、2年後に[[離婚]](親権は倉田)。普段は息子を福岡の実家に預けて東京で生活し、およそ週に一度、息子に会うために福岡へ帰省している。 [[2009年]]7月、自らの連載上で未婚のまま第二子を妊娠していることを公表。相手の男性は[[中村うさぎ]]から紹介された映画配給会社「トルネード・フィルム」取締役・[[叶井俊太郎]]。同年9月、叶井と入籍。同年11月、第二子となる女児を出産。 2021年10月、最長8ページの漫画しか描いたことがなかったが、初の長編作品『凶母(まがはは)〜小金井首なし殺人事件 16年目の真相〜』を執筆<ref name="natalie20211026">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/448641|title=「だめんず・うぉ〜か〜」倉田真由美、長編マンガ・本格ミステリー・電子マンガ初挑戦|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-26|accessdate=2021-10-26}}</ref>。「[[まんが王国]]」ほか電子書店にて連載を開始{{R|natalie20211026}}。 == 人物 == === 作風 === [[西原理恵子]]、[[浜口乃理子]]などと同様に、作者自身を主人公としてその日常体験を漫画にするのを基本的な作風とする。 漫画家を目指したきっかけは、[[西原理恵子]]の作品を読んで「この程度なら私にも描ける」と思ったからだと『[[だめんず・うぉ〜か〜]]』の作中で振り返っている。<!--独自研究 他にも作中で作風を模倣している立場にも関わらず、西原を馬鹿にしたような言動が数箇所あり、西原ファンの中ではアンチ倉田ファンがかなり多いといわれている。-->ただし、西原理恵子本人からは「あんたいくら走っても前に私いないよ」<ref name="Jinsei 1nensei">西原理恵子『西原理恵子の人生一年生 2』p.65 小学館 2003.5 </ref>とコメントしている。倉田は、インタビューで画力について聞かれ「西原さんのほうが全っ然うまい。私の絵は[[ヘタウマ]]じゃなくて本当にヘタなんです(笑)」<ref name="Jinsei 1nensei" />と述べている。 <!-- また西原は、倉田と同時期に連載していた雑誌『[[ブブカ (雑誌)|BUBKA]]』にて「ぬるい突撃やってんじゃねえよ」と倉田の中途半端なエッセイ漫画をネタ半分で批評{{いつ|date=2012年9月}}。倉田は後輩であるため一旦は下手に出て衝突は収まったものの、自身の『だめんず・うぉ〜か〜』内で西原の豪邸などを揶揄している。[[いしかわじゅん]]はこの一件に{{要出典範囲|date=2012年2月|「身の程を知れ」}}と痛烈に倉田を批判している。ただしこの「衝突」はギャグマンガ家同士がギャグ作品内で行ったものであり、その後も両者の間で交流があることが作品内に描かれている。--> === 交友関係 === [[渡辺洋香]](女流雀士)や[[中村うさぎ]](小説家)や[[深澤真紀]](コラムニスト)と親交がある。渡辺洋香はだめんず会会長として『だめんず・うぉ〜か〜』レギュラーだった時期があり、中村うさぎとは共著が多く、深澤とも多く仕事をしている。また[[北芝健]]と仲が良く、2003年には倉田真由美と北芝健の2人が協力した『[[踊る大捜査線]]』のオフィシャル解読本も出版された(同書内で、倉田は[[青島俊作]]をだめんずではないと言い切っている)。 2009年から「[[日本催眠術協会]]」の役員を務めている<ref>{{cite news|url=http://www.saimin.co.jp/jha/staff.html|publisher=日本催眠術協会|title=役員紹介|accessdate=2010-08-25|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100502023009/http://www.saimin.co.jp/jha/staff.html|archivedate=2010年5月2日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 === 社会的活動・教育活動 === 2010年6月20日付<ref name="名前なし-1"/>で[[日本放送協会|NHK]]経営委員会委員。2012年2月末に任期満了で退任<ref name="名前なし-2"/>。2013年4月から[[恵泉女学園大学]]非常勤講師<ref name="名前なし-3"/>。 === 政治活動 === 2006年7月、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]が[[衆議院]]・[[参議院]]・地方選に向けて候補者公募の選考で意見を聞くために開設された有識者会議のメンバーに選ばれていた<ref>[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]] [https://web.archive.org/web/20080818073706/http://www.dpj.or.jp/news/?num=8875 民主党、「候補者選考に関わる有識者会議」を開催し意見受ける]</ref>ことを契機に、[[小沢一郎政経研究会]]の講演を行なう<ref>[[総務省]] [https://web.archive.org/web/20100215031513/http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/contents/000021534.pdf 政治資金収支報告書及び政党交付金使途等報告書]{{リンク切れ|date=2012年9月}}</ref>など、民主党と深くかかわるようになる。 2009年の政権交代により[[鳩山由紀夫]]を首班とする政権が誕生すると、倉田は[[日本放送協会]]経営委員会委員に就任することが決まった(2010年5月)。しかし、国会の承認議決において、後述の所得隠しを問題とする[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[みんなの党]]・[[新党改革]]・[[たちあがれ日本]]によって反対を受けた<ref>[https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/vote/174/174-0521-v003.htm 本会議投票結果] 国家公務員等の任命に関する件「日本放送協会経営委員会委員(叶井真由美君)」 (参議院)、[https://web.archive.org/web/20100528181151/http://www.asahi.com/politics/update/0525/TKY201005250363.html 倉田・幸田両氏のNHK経営委員就任、衆院も同意] 朝日新聞 2010年5月26日付(2010年5月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 2012年の[[政権交代]]により、[[第2次安倍内閣]]が成立すると[[麻生太郎]]副総理を「失言放言が多く、良いところが全くない。景気対策に失敗した時に責任を取らせるためか、引退前の最後の花道で起用しただけ。」と非難し、安倍晋三のことを自身の漫画に登場する『働かないヒモ』と一刀両断した。また、自民党が民主党の政権運営の拙さを指摘したことについても、国民の選択を批判する行為であると非難している<ref>[https://archive.is/20130501121332/mainichi.jp/feature/news/20121227dde012010047000c.html 特集ワイド:識者が見る、安倍新政権] - 毎日新聞 2012年12月27日 東京夕刊</ref>。 『こんな男とは絶対、結婚するな!』の共著や、『だめんず・うぉ〜か〜』第7巻の対談などで[[福島瑞穂]]と面識があり、福島と[[山口二郎]]との共著『本当に憲法改正まで行くつもりですか?』もある。 === 反ワクチン === [[ワクチン忌避|反ワクチン]]主義に傾倒し[[COVID-19ワクチン|新型コロナワクチン]]に疑義を唱えており、2023年10月時点でも接種していない。2021年8月にはニューヨークの教職員のワクチン義務化について、「もはやアメリカはまったく自由の国じゃないな」と述べている。2021年10月11日に「昔、[[水痘]]に罹った子をわざわざ訪ねて自分の子にうつし免疫を獲得させることは普通にあった。『軽症ですむ子供のうちに罹ってしまう』って、病気によっては最高の解決法なんじゃないのか」とツイートした際には、「それを安全に、手軽に出来るようにしたのがワクチン」「亡くなることだってあるのに…」「最高じゃなかったからワクチンが義務付けられるようになったんでしょ」と指摘された。日本で接種されている水痘([[帯状疱疹]])ワクチンは1回の接種で水痘にかかるのを80 - 85%減らすことが出来、重症化をほぼ100%防げるものである。医師にも批判されたため、2021年10月13日時点で該当ツイートを削除した<ref>{{Cite web|和書|title=「うつして免疫を獲得させる、最高の解決法では」倉田真由美の主張に批判、知識が古いと指摘も|url=https://npn.co.jp/article/detail/200016738/|website=リアルライブ|accessdate=2021-10-26|language=ja}}</ref>。 === 不祥事 === '''所得隠し事件''' 2006年11月29日、自身が社長を務める漫画制作会社「たまくら」(東京都新宿区)が[[東京国税局]]の[[税務調査]]で、2005年4月期までの3年間に約1800万円の所得隠しをおこなったと指摘されていたことが判明した<ref name="47news20061129">{{Cite news | url = https://web.archive.org/web/20140222171904/http://www.47news.jp/CN/200611/CN2006112901000633.html | title = 人件費水増しで所得隠し 倉田真由美さん社長の会社 | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2006-11-29 | accessdate = 2014-02-05 }}</ref>。数十人の架空のアシスタントを立て、給与を水増ししていたとされている<ref name="47news20061129"/>。重加算税を含めた追徴税額は約600万円と報道された<ref name="47news20061129"/>。同社は{{要出典範囲|date=2014年2月5日 (水) 01:56 (UTC)|2005年12月に}}修正申告し、追徴税額を支払った。 倉田本人は事実を認めたうえで、追徴された税金はすでに支払っており、事件は過去のものだと述べている。また『だめんず・うぉ〜か〜』内でもこの事件を振り返り「税理士に60人分の架空のアシスタントを立てろと言われたから立てただけ」「レポーターにつめ寄られてとっても怖かった」と弁明、述懐した。 この件が発覚した後に出演した『たかじんのそこまで言って委員会』(2006年12月10日放送分)冒頭で涙ながらに釈明のコメントを行ったが、宮崎哲弥ら共演者からは悪質だと追及を受ける形となった。また『週刊文春』2006年12月14日号でも「くらたま悪質脱税 だめんずを使って領収書集め」と題する記事が掲載されている。{{要出典範囲|date=2014年2月5日 (水) 01:56 (UTC)|倉田がNHKの経営委員会に入ることが決まった際にも、この事件を理由に批判が起きた}}。 == 著作 == === 単独 === * [[だめんず・うぉ〜か〜]] * 突撃くらたま24時――東京デンジャラス探訪 - 白夜書房 2001年 ISBN 978-4893677518 ** 文庫本 - 講談社 2004年 ISBN 978-4062569200 * くらたまのお蔵だし - 扶桑社 2002年 ISBN 978-4594034962 * たま先生に訊け! (1) 双葉社 2002年 ISBN 978-4575294064 ** 文庫本 - 双葉社 2005年 ISBN 978-4575712995 * どっちが委員会 - 講談社 2002年 ISBN 978-4063345643 * たま先生に訊け! (2) 双葉社 2003年 ISBN 978-4575295436 ** 文庫本 - 双葉社 2005年 ISBN 978-4575713008 * くらたまのどっちが委員会!?――世の中の小問題を考える毒舌バトル - 講談社 2003年 ISBN 978-4062567732 * くらたま切り捨て御免! - 講談社 2004年 ISBN 978-4063348989 * 花のオンナ道 - マガジンハウス 2004年 ISBN 978-4838715046 ** 文庫本 - 光文社 2007年 ISBN 978-4334784669 * くらたま流 恋のお悩み一刀両断! - PHP研究所 2005年 ISBN 978-4569643601 * ほやじ日記 - 朝日新聞社 2005年 ISBN 978-4022579928 * いい男には恋のルールは通じない!―本命の彼とうまくいく方法 - 青春出版社 2006年 ISBN 978-4413036139 * おやじの格差 - 朝日新聞社 2006年 ISBN 978-4022502223 * ラブ中。 - マガジンハウス 2006年 ISBN 978-4838717187 * だめんず症候群(扶桑社新書 1) - 扶桑社 2007年 ISBN 978-4594052461 * くらたま式恋愛ヂカラ強化ナビ ラブラブ中。 - マガジンハウス 2007年 ISBN 978-4838717873 * 婚活―その人と結婚するために - 三笠書房 2009年 ISBN 978-4837965015 * くらたまの恋愛やり直し!!塾 - 主婦の友社 2009年 ISBN 978-4072666142 * 婚活迷宮の女たち - ダイヤモンド社 2010年 ISBN 978-4478013885 === 共著 === 書名、共著者名、出版社名、出版年、ISBN の順に記載 * うさぎとくらたまのホストクラブなび(中村うさぎ共著) - 角川書店 2002年 ISBN 978-4048837910 ** 文庫本 - 角川書店 2005年 ISBN 978-4044125257 * くらたま&amp;岩月教授のだめ恋愛脱出講座([[岩月謙司]]共著) - 青春出版社 2002年 ISBN 978-4413033459 * 死ぬまでにしたい10のこと(10名の女性によるエッセイのアンソロジー) - ソニーマガジンズ 2003年 ISBN 978-4789721288 * 喫茶店で2時間もたない男とはつきあうな!([[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]共著) - 集英社 2004年 ISBN 978-4083330261 ** 文庫本 - 集英社 2007年 ISBN 978-4086501347 * くらたま&amp;ヨーコの恋愛道場 〜教えて! 10人の達人たち〜(渡辺洋香共著) - 白夜書房 2004年 ISBN 978-4893679215 * うさたま見聞録(中村うさぎ共著) - 角川書店 2004年 ISBN 978-4048838733 * うさたま恋のER緊急救命室(中村うさぎ共著) - 宝島社 2004年 ISBN 978-4796639309 * うさたまの暗夜行路対談(中村うさぎ共著) - 講談社 2004年 ISBN 978-4062124201 * ゴージャスめし([[弘兼憲史]]共著) - 講談社 2004年 ISBN 978-4063375534 * うさたまの霊長類オンナ科図鑑(中村うさぎ共著) - 角川書店 2005年 ISBN 978-4048839334 * うさたまのオバ化注意報(中村うさぎ共著) - 小学館 2005年 ISBN 978-4093964616 * ダメだ! この会社――わが社も他社も丸裸([[山崎元]]共著) - 小学館 2005年 ISBN 978-4093875455 * こんな男とは絶対、結婚するな!([[福島瑞穂|福島みずほ]]共著) - 大和書房 2005年 ISBN 978-4479770800 * 本当に憲法改正まで行くつもりですか?([[山口二郎]]、[[福島瑞穂|福島みずほ]]共著 倉田真由美挿絵) - 実務教育出版 2007年 ISBN 978-4788926202 * うさたまのいい女になるっ!―暗夜行路対談(中村うさぎ共著) - 講談社 2008年 ISBN 978-4062759519 * くらたまとフカサワのアジアはらへり旅([[深澤真紀]]共著) - 理論社 2008年 ISBN 978-4652079362 * うさたまの妖怪オンナ科図鑑([[中村うさぎ]]共著) - 角川グループパブリッシング 2008年 ISBN 978-4048850049 * 人に愛される子を育てる! 魔法のアドバイス([[多湖輝]]共著) - 宝島社 2008年 ISBN 978-4796660617 * 女性解放区([[杉本彩]]、[[さかもと未明]]共著) - PHP研究所 2009年 ISBN 978-4569771731 * こころの薬―幸せになれる診療室([[大平健]]共著) - 新潮社 2009年 ISBN 978-4101160825 * ダメになってもだいじょうぶ―600人とSEXして4回結婚して破産してわかること([[叶井俊太郎]]共著) - 幻冬舎 2010年 ISBN 978-4344019188 === その他 === * 勝手に!踊る大捜査線 フジテレビ出版 2003年 ISBN 978-4594041380 :: 倉田と[[北芝健]]が協力している『[[踊る大捜査線]]』のオフィシャル解読本。この本で倉田は青島刑事をだめんずじゃないと言い切っている。 * [[諸富祥彦]]著『ケッコン構造改革のススメ!―新・男と女の掟62+1』 倉田真由美挿絵 実業之日本社 2003年 ISBN 978-4408105529 * ミシェル・アレクサンダー、ジェニー・ロング『10日間でダメ男と別れる方法』倉田真由美訳 主婦の友社 2004年 ISBN 978-4072452271 * ダサたまのオシャレケモノ道(「GLOW」宝島社) === 雑誌の連載記事 === * だめんずうぉ〜か〜([[週刊SPA!]]) * フリドラ男([[週刊朝日]]=イラストとコラム) * 終末アイドル フルフル9([[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]) * わらびん([[デーリー東北]]) === CM === * [[NTT-BJ]]・[[タウンページ]]TVCM『[[弁護士]]編』(2010年) - [[石原良純]]とのコラボアニメCM == 主な出演 == <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> === テレビ番組 === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> ; 現在 * [[バラいろダンディ]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]、2014年4月 - 、月曜日) *[[めんたいワイド]]([[福岡放送]]、2006年10月 ‐ ) ; 過去 <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> *[[そこまで言って委員会NP|たかじんのそこまで言って委員会(現・そこまで言って委員会NP)]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]、2006年6月 - 2007年9月) <!--上記KTV「FNNスーパーニュースアンカー」金曜コメンテーターに就いたことに伴う降板扱い--> *[[スッキリ (テレビ番組)|スッキリ!!(現・スッキリ)]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、2006年4月 - 2006年11月、木曜日) * [[ウェークアップ!ぷらす]](読売テレビ、時期不明) * [[ワイド!スクランブル|ワイド!スクランブル(現・大下容子ワイドスクランブル)]]([[テレビ朝日]]、2006年 - 時期不明) * [[100人目のバカ]](不定期放送) * [[ザ!情報ツウ]](日本テレビ、時期不明) * [[真相報道 バンキシャ!]](日本テレビ、時期不明) * [[ウォッチ!]]([[TBSテレビ|TBS]]、時期不明) * [[@サプリッ!]](日本テレビ、時期不明) * [[みのもんたの朝ズバッ!]](TBS、2005年4月 - 2006年3月、金曜日) * [[FNNスーパーニュースアンカー]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]、2007年12月 - 2009年3月、金曜日) * [[5時に夢中!]](TOKYO MX、2009年4月 - 2009年9月、水曜日) * [[ニッポン・ダンディ]](TOKYO MX、2013年10月 - 2014年3月、火曜日) *[[ビビット (テレビ番組)|白熱ライブ ビビット→ビビット]](TBS、2016年10月 - 2019年9月、火曜日パーソナリティ)<ref>{{cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/30/kiji/K20160930013450470.html|title=「ビビット」新レギュラーに眞鍋かをり、田嶋陽子氏ら参戦|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-09-30|accessdate=2016-09-30}}</ref> *ラストアイドル(グループ)(テレビ朝日)審査員 === ラジオ === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> ; 過去 * [[大竹まこと ゴールデンラジオ!]]([[文化放送]]、2015年9月1日 - 2020年3月23日) - パートナー。2016年9月27日までは火曜日、2016年10月3日からは月曜日に出演した。 * Love a la mode([[CROSS FM]]、水曜21:30-23:30、2023年1月4日-3月29日、全13回) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 関連項目 == * [[中村うさぎ]] * [[渡辺洋香]] * [[北芝健]] * [[叶井俊太郎]] * [[日本催眠術協会]] - 倉田が役員をつとめる一般財団法人 == 外部リンク == * [https://kuratamayumi.com/ オフィシャルサイト] *[https://twitter.com/kuratamagohan?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor 倉田真由美](@kuratamagohan)- [[Twitter]] * {{ameba ブログ|kurata-mayumi|倉田真由美オフィシャルブログ「食べたり食べたり」}} * [https://web.archive.org/web/20060111022645/http://be-dream.jp/200/03/203_1.php キャリアライフストーリー Vol.3 倉田真由美さん] ベネッセドリームエントリー 2005年5月13日(2006年1月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くらた まゆみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:NHK経営委員]] [[Category:恵泉女学園大学の教員]] [[Category:一橋大学出身の人物]] [[Category:福岡県立福岡高等学校出身の人物]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:日本の反ワクチン活動家]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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高河ゆん
高河 ゆん(こうが ゆん、本名:山田 理沙(やまだ りさ、旧姓:木村)、1965年7月9日 - )は、日本の漫画家・同人作家。東京都品川区出身、世田谷区在住。東京都立三田高等学校卒業。血液型はB型。夫は漫画家のたつねこ。一女の母。 代表作に『アーシアン』、『LOVELESS』、『車田水滸伝 HERO OF HEROES』など。 二次創作の同人作家出身であり、『銀河旋風ブライガー』、『キャプテン翼』、『聖闘士星矢』、『魔王伝』などが知られている。商業誌デビュー後も同人活動は継続している。 ペンネームは車田正美作『リングにかけろ』の登場人物である高嶺竜児、河合武士、剣崎順(じゅんの読みから)を合わせて名づけられた。『ぱふ』2006年9月号のインタビューにて「本来なら高河じゅんだが、高河ゆんにした」と答えている。 ずっと自己流で制作しており、漫画入門書の類はプロデビューから数年後に初めて読んだ。ネームおよび原稿用紙は特注品で、「高河ゆん専用」(由来は『機動戦士ガンダム』の「シャア専用ザク」)と印刷されている。 現在は『コミックZERO-SUM』で『LOVELESS』を、『コミックZERO-SUM増刊WARD』で『佐藤くんと田中さん -The blood highschool』を連載中。また、『月刊ニュータイプ』2012年10月号より連載が開始された『悪魔のリドル』(漫画:南方純)の原作を担当している。また『チャンピオンRED』では車田正美の漫画作品のクロスオーバー作品となる『車田水滸伝 HERO OF HEROES』の連載も開始。
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高河 ゆんは、日本の漫画家・同人作家。東京都品川区出身、世田谷区在住。東京都立三田高等学校卒業。血液型はB型。夫は漫画家のたつねこ。一女の母。 代表作に『アーシアン』、『LOVELESS』、『車田水滸伝 HERO OF HEROES』など。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{複数の問題 |存命人物の出典明記=2018年9月 |独自研究=2018年9月 |参照方法=2018年9月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 高河 ゆん | 画像 = Yun Kouga - Lucca Comics & Games 2016.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 山田 理沙 | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[品川区]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1965|7|9}} | 没年 = | ジャンル = [[少女漫画]]<br/>[[少年漫画]]<br />[[恋愛漫画]]<br/>[[ファンタジー漫画]] | 活動期間 = [[1985年]] - | 職業 = [[漫画家]]・[[同人]]作家 | 公式サイト = | 代表作 = 『[[アーシアン]]』<br />『[[ローラカイザー]]』<br />『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]』<br />『[[車田水滸伝 HERO OF HEROES]]』 | 受賞 = }} '''高河 ゆん'''(こうが ゆん、本名:山田 理沙(やまだ りさ、旧姓:木村<!--プライバシーにかかわるかも-->)、[[1965年]][[7月9日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[同人]]作家。[[東京都]][[品川区]]出身、[[世田谷区]]在住。[[東京都立三田高等学校]]卒業。[[血液型]]はB型。夫は漫画家の[[たつねこ]]。一女の母。 代表作に『[[アーシアン]]』、『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]』、『[[車田水滸伝 HERO OF HEROES]]』など。 == 概要 == [[二次創作]]の同人作家出身であり<ref>[https://web.archive.org/web/19991116102536/http://village.infoweb.ne.jp/~fwic2950/kouga/database/database.htm 作品データーベース]</ref>、『[[銀河旋風ブライガー]]』、『[[キャプテン翼]]』、『[[聖闘士星矢]]』、『[[魔界都市ブルース|魔王伝]]』などが知られている。[[商業誌]]デビュー後も同人活動は継続している。 ペンネームは[[車田正美]]作『[[リングにかけろ]]』の登場人物である高嶺竜児、河合武士、剣崎順(じゅんの読みから)を合わせて名づけられた。『[[ぱふ]]』2006年9月号のインタビューにて「本来なら高河じゅんだが、高河ゆんにした」と答えている。 ずっと自己流で制作しており、漫画入門書の類はプロデビューから数年後に初めて読んだ。[[ネーム (漫画)|ネーム]]および[[原稿用紙#漫画における原稿用紙|原稿用紙]]は特注品で、「高河ゆん専用」(由来は『[[機動戦士ガンダム]]』の「[[シャア・アズナブル|シャア]]専用[[ザクII|ザク]]」)と印刷されている。 現在は『[[コミックZERO-SUM]]』で『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]』を、『[[コミックZERO-SUM増刊WARD]]』で『[[佐藤くんと田中さん -The blood highschool]]』を連載中。また、『[[月刊ニュータイプ]]』2012年10月号より連載が開始された『[[悪魔のリドル]]』(漫画:[[南方純]])の原作を担当している。また『[[チャンピオンRED]]』では車田正美の漫画作品の[[クロスオーバー作品]]となる『[[車田水滸伝 HERO OF HEROES]]』の連載も開始。 == 略歴 == {{出典の明記|date=2018年9月|section=1}} * 宝保育園へ入園 * 1972年 - [[品川区立後地小学校]]へ入学 * 1976年 - 小学5年生で初めてコミックスを購入する。記念すべき第一号は[[萩尾望都]]の『[[ポーの一族]]』であった。 * 中学生の時、[[車田正美]]公認ファンクラブに入会する。 * 1981年 - [[東京都立三田高等学校]]へ入学 * 1982年 - [[コミックマーケット]]に初参加して[[同人誌]]を読む。 * 1983年 - 留年し高校2年生を2回繰り返す。[[同人サークル]]を作り同人誌の制作を始める。 * 1984年 - 夏休みを利用してアメリカでホームステイし、[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]を観戦。後に『[[アーシアン]]』第1話に活かされる。 * 1986年 - 同人史上で初のダンスパーティーを開催する。 * 1986年 - 上智大学法学部の入学試験に不合格 * 1986年 - 同人誌を見た学習研究社からの依頼でコミックス『若草物語』を描き下ろす。 * 1986年 - 『[[マインドサイズ|メタルハート]]』([[光文社]]「コミックVAL」1986年11月号)で[[商業誌]]デビュー。 * 1987年 - 『[[キャプテン翼]]』の二次創作同人誌『ASIA』を発行。同人時代の代表作とされる。 * 1987年 - 同人業界に『[[魔界都市ブルース|魔王伝]]』ブームを起こす。 * 1987年 - 友人が[[ウィングス (雑誌)|ウィングス]]編集部に同人誌『ASIA』を持ち込み、編集者にスカウトされプロの漫画家になる決意をする。 * 1987年 - 『アーシアン』第2話「HONG KONG CHINESE」の取材に[[香港]]へ旅行。 * 1988年 - 原画展「ASIA 1」 * 1988年 - マネージャー交代。千蔵マキから吉川千鶴へ。 * 1989年 - 原画展「ASIA 2」 * 1990年 - アニメ映画『[[CAROL (アニメ)|CAROL]]』の[[キャラクターデザイン|キャラクター原案]]に起用される。 * 1990年より休筆 * 1990年 - 原画展「ASIA 3」 * 1991年より執筆活動再開 * 1991年 - 原画展「TPC」(高河ゆん、[[おおや和美]]、[[田村由美]]、[[森丘茉莉]]) * 1993年 - [[たつねこ]]と結婚 * 1993年 - 原画展「ASIA 4」(原画集販売) * 1994年より出産、育児休暇に入る。 * 1995年 - 「コミックマーケット48」カタログ表紙を描き下ろす。 * 1997年 - 原画展「5人のプロジン・アマジン展」(高河ゆん、[[武内直子]]、たつねこ、田村由美、[[萩原一至]]) * 1997年 - 『[[妖精事件]]』の取材に[[アイルランド]]へ旅行。 * 1998年 - 原画展「高河・なるしま展」(高河ゆん、[[なるしまゆり]]) * 2000年 - 展覧会「【少女漫画の新しい展開】展」([[大橋薫]]&[[楠桂]]、高河ゆん、なるしまゆり、[[くさなぎ俊祈]]) * 2002年 - [[エニックスお家騒動]]に関連した[[一迅社]]設立に伴い『LOVELESS』の連載を『[[月刊Gファンタジー]]』から『[[コミックZERO-SUM]]』へ。 * 2005年 - 『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]』テレビアニメ化 * 2006年 - [[西尾維新]]による初のオリジナル漫画原作『放課後、七時間目。』を漫画化<ref>編集長に、高河ゆんの漫画は、「言葉」を「漫画」で表現する技法の進化のひとつの頂点、と評される。フォントディレクションは、高河ゆんの過去作品(商業誌、同人誌、共)全て見た上で書体が選ばれた。[http://shop.kodansha.jp/bc/mailmagazine/backnumber/faust_04.html 講談社メールマガジンファウスト]</ref>。 * 2007年 - テレビアニメ『[[機動戦士ガンダム00]]』のキャラクター原案に起用される。 * 2008年 - テレビアニメ『機動戦士ガンダム00 セカンドシーズン』のキャラクター原案を手懸ける。 * 2009年 - [[ロサンゼルス・コンベンションセンター]]で開催された[[Anime Expo]]にゲスト参加 * 2010年 - アニメ映画 『[[劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-]]』のキャラクター原案を手懸ける。 * 2010年 - 「コミックマーケット78」において[[2010年日本における口蹄疫の流行|口蹄疫被害]]への[[チャリティー]]同人誌製作企画に参加<ref>[https://web.archive.org/web/20100520012308/http://www.moonphase.jp/miyabi/kouteibon/index.html 宮崎口蹄疫義援チャリティー同人誌](2010年5月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref> * 2010年 - [[東京都青少年の健全な育成に関する条例|東京都青少年健全育成条例改正]]への反対表明を各所で幾度も出す<ref>[http://yunkouga.jugem.jp/?eid=468 BLOG 2010.12.08 非実在青少年規制』改メ『非実在犯罪規制』へ]</ref>。 * 2011年 - [[西川貴教]]の企画した'''STAND UP! JAPAN'''<ref>[http://standupjapan.org/ 東日本大震災チャリティープロジェクト「STAND UP! JAPAN 中央共同募金会」]</ref>にて[[東日本大震災]]チャリティーオークションに出品 * 2011年 - [[アニメイト]]主催'''Smile Heart'''にて東日本大震災チャリティーオークションに出品 * 2011年 - [[pako]]と共同でテレビアニメ『[[UN-GO]]』のキャラクターデザインを担当する。 * 2011年 - アニメイト[[福島県|福島]]にて、東日本大震災の復興支援サイン会を行う<ref>[http://www.animate.co.jp/shop/shop_east/fukushima/ アニメイト福島]</ref>。 * 2012年 - 12月「'''yyuunn'''」名義で[[Pixiv]]での活動を開始する。 == 人物像・逸話 == {{独自研究|date=2018年9月|section=1}} === 逸話 === * 小学生時代、[[児童文学]]を熱心に読む。[[アストリッド・リンドグレーン]]の作品、『[[ナルニア国ものがたり]]』、『[[ゲド戦記]]』など。 * 小学校5年生の時に初めてコミックスで買ったのが『[[ポーの一族]]』である。以降、[[萩尾望都]]の熱心な読者になり、作品はコミックスで購入していた。 * 中学生当時、「[[週刊少年ジャンプ]]」連載の[[車田正美]]作『[[リングにかけろ]]』の熱狂的ファンとなり、作者に会いたい一心でファンレターを熱心に送り、仕事場を訪れる機会を何度か得た。公認ファンクラブにも入会していた。 * 高校2年生の時にバイトと同人活動に明け暮れた結果留年した。 * 同人界に[[菊地秀行]]『[[魔界都市ブルース|魔王伝]]』のブームを起こした<ref>[http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/works1/parohistory.html 「キャプテン翼」以降の女性アニパロ史]三崎尚人・著『同人漫画大百科』収録([[辰巳出版]]刊)</ref>。 * 同人時代は、漫画を一ヶ月に200ページ以上、多い時には600ページ近く描いていた。 * 1990年前後は多くの作品を描きたいがために、[[栄養ドリンク]]と一緒に無水[[カフェイン]]を5時間おきに飲む事もあった。副作用で[[乗り物酔い]]の状態になり、[[乗り物酔い防止薬|酔い止め薬]]も服用し、それでも改善しない時は仰向けに寝て描いていた。最終手段として[[ニトログリセリン]]を摂取し、心臓にショックを与え目を覚ましていた。 * 締め切りのプレッシャーに大変弱く、修羅場の最中に書き置きを残して空港に向かい、最短で搭乗可能な便で逃亡することが何度かあった。しかし三日以内には仕事場に帰っていた。 === 関連人物 === * 共同で同人誌を制作したメンバーは、[[後藤星]]、加藤明日香、結城惺、源氏のお町、JUN、須賀邦彦、[[おおや和美]]、岩崎翼、風祭壮太、千蔵マキ、喬塔寧、[[那州雪絵]]、[[立野真琴]]、[[厦門潤]]、[[島田ひろかず]]、裏千家さとみ、尾崎芳美、新田一実、えみこ山、くりこ姫、橘しいな、石澤夕花、藤原志津子、もこなあぱぱ、[[CLAMP]]、[[Dr.モロー]]、[[門井亜矢]]、松ゆたこ、[[萩原一至]]、三途川よりまし、[[麻宮騎亜]]、[[柴田昌弘]]、[[中津賢也]]、[[栗本薫]]、月夜野 亮、[[たつねこ]]、霜月旬、美杉果林、[[こいでみえこ]]、[[箱田真紀]]、[[尾崎南]]、[[橘皆無]]、大日向基、榎木らいざ、真由良、[[うたたねひろゆき]]、[[南野ましろ]]、森永ミルク、那月由之介、和泉八雲、香上由高、篁みづき、[[氷川へきる]]、[[武内直子]]、[[なるしまゆり]]、[[峰倉かずや]]、[[三輪士郎]]、[[影木栄貴]]、[[つだみきよ]]、などである。 * 初代マネージャー千蔵マキが「[[アーシアン#ORIGINAL ALBUM 1|アーシアン ORIGINAL ALBUM 1]]」内の一曲を作詞、歌唱している。 * 二代目マネージャー吉川千鶴が小説『[[超獣伝説ゲシュタルト|超獣伝説ゲシュタルト 烙印の殉教者]]』を刊行した。 * 以下の通り[[大貫健一]]と共同する機会が多い。 ** OVA『[[アーシアン#OVA|アーシアン]]』1、2(キャラクターデザイン担当:大貫健一) ** OVA『[[アーシアン#OVA3|アーシアン]]』3(監督:大貫健一) ** 『[[BLOODY BRIDE いまどきのバンパイア]]』(共同でキャラクターデザインを担当) ** 『[[機動戦士ガンダム00]]』(キャラクターデザイン原案:高河ゆん、作画監督:大貫健一(数話)) ** 『[[劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-]]』(同上) * 萩原一至、なるしまゆり、[[田村由美]]との交流が深い。 * 一時期、[[永野護]]と[[対戦型格闘ゲーム|アーケード格闘ゲーム]]の対戦仲間だった。 * カラーCGは、[[みつみ美里]]に師事した。 * 一迅社編集長、[[杉野庸介]]との肉筆対談を単行本『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]』初回限定特典の小冊子に掲載している。 === 嗜好 === * キャラクターの名前、同人作品の題名などに「宝」と付ける事が度々ある。 * [[眼鏡フェティシズム]]の傾向があり、着用したキャラクターを登場させる割合が高い。 * [[ポニーテール]]姿の男性キャラの設定が多い。 * 好きなキャラクターは『[[銀河旋風ブライガー]]』の[[銀河旋風ブライガー#登場人物|アイザック]]、『[[キャプテン翼]]』の[[若島津健]]、『[[少女革命ウテナ]]』の[[少女革命ウテナの登場人物#初期決闘関係者|姫宮アンシー]]などである。 == 作品一覧 == === 漫画作品 === * '''[[若草物語#漫画|若草物語]]'''(原作:[[ルイーザ・メイ・オルコット]]) ** [1985年6月/ハイコミック名作/[[学研ホールディングス|学習研究社]]] * '''[[マインドサイズ]]''' ** [1988年6月30日/VAL光文社コミックス/[[光文社]]] *** '''メタルハート''' (コミックVAL1986年11月号) *** '''かわきの瞳 -マインドサイズ1-''' (VALプリティ創刊号1987年4月) *** '''君の国をはなれても -マインドサイズ2-''' (描き下ろし) *** '''グラス・マジック''' (描き下ろし) * '''[[アーシアン]]''' ** [[[月刊ウィングス]]1987年8月号-1988年4月号、[[サウス (雑誌)|サウス]]1988年7月10日号-1995年24号(春号)/[[新書館]]] * '''[[サフラン・ゼロ・ビート]]''' ISBN 4-403-61326-8 ** [1993年11月25日/ウイングス・コミックス/新書館] *** '''サフラン・ゼロ・ビート''' (別冊[[ぱふ]]1988年初夏号/[[雑草社]]) *** '''サフラン・ゼロ・ビートll HANDS OF GOD''' (月刊ウィングス1991年9月号) * '''[[子供たちは夜の住人]]''' ** [オルフェ1988年7月号、ホラーハウス1989年2月号-1989年5月号、メヌエット1990年第2号-1990年7月号/[[大陸書房]]] * '''[[ローラカイザー]]''' ** [[[プリンセスGOLD]]1988年9月25日号-1993年11号/プリンセス・コミックス/[[秋田書店]]] * '''[[REN-AI 恋愛]]''' ** [[[月刊プリンセス]]1989年1月号-1999年9月号/プリンセス・コミックス] * '''高河ゆん初期傑作集''' ISBN 4-575-28773-3 ** [1997年10月15日/日本漫画家大全/[[双葉社]]] *** '''ほっと・すたっふ'88''' ([[花とゆめ]]EPO1988年11月号/[[白泉社]]) *** '''狼をめぐる冒険''' (花とゆめEPO1989年5月号) *** '''9月の夏''' (花とゆめEPO1989年11月号) *** '''約束の夏''' (月刊ウィングス1991年11月号) * '''[[You're My Only Shinin' Star (漫画)|You're My Only Shinin' Star]] 君はぼくの輝ける星''' ISBN 4-06-360740-2 ** [[[モーニング (漫画雑誌)|モーニングパーティ増刊]]28号1989年-35号1990年/[[講談社]]] * '''[[飢餓一族]]''' ISBN 4-05-600065-4 ** [LCミステリー1992年3月号-1993年2月号/ピチコミックスDXミステリー/学習研究社] * '''[[超獣伝説ゲシュタルト]]''' ** [ファンタスティックコミック1992年7月25日号、ガンガンファンタジー1993年4月号-1993年9月号、[[月刊Gファンタジー]]1994年2月号-2001年2月号/[[エニックス]]] * '''妖精事件''' ** [[[月刊アフタヌーン]]1993年6月号-1999年11月号/講談社] ** '''妖精事件 1992''' (モーニングパーティ増刊1992年2月4日号) ** '''暗闇坂''' (アフタヌーンシーズン増刊No.1 1999年10月8日) * '''LA VIE EN ROSE''' ** [forMrs.1995年1月号-1998年1月号/プリンセスコミックスデラックス/秋田書店] * '''[[恋愛-CROWN-]]''' ** [クリムゾン1998年9月1日号-2002年3月号/クリムゾンコミックス/[[集英社クリエイティブ|創美社]]] * '''[[はぴぷり]]''' ** [はなまるきっず1999年5月号-2001年3月号/ピチコミックスデラックス/学習研究社] * '''[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS]]''' ** [月刊Gファンタジー2001年12月号-2002年2月号、[[コミックZERO-SUM]]2002年5月号-/ZERO-SUMコミックス/[[一迅社]]] * '''[[アーシアン|アーシアン外伝 秘密の花園]]''' ** [クリムゾン2002年7月号-2002年11月号/[[集英社]]] * '''[[佐藤くんと田中さん -The blood highschool]]''' ** [[[コミックZERO-SUM増刊WARD]]Vol.17 2007年8月16日-/一迅社] * '''機動戦士ガンダム00 in those days''' ISBN 978-4-04-715500-8 ** [2010年8月26日/[[カドカワコミックス#カドカワコミックス・エース|角川コミックス・エース]]/[[KADOKAWAグループ#現・KADOKAWA Future Publishingに吸収合併された企業|角川グループパブリッシング]]] ** (原作:矢立肇・富野由悠季、監修:[[水島精二]]・[[黒田洋介]]) *** '''wanderer.'''(月刊ニュータイプ2008年11月号) *** '''I'm home.'''(月刊ニュータイプ2009年3月号) *** '''主をほめたたえよ-アレルヤ-'''(月刊ニュータイプ2009年4月号) *** '''The beginning man.'''(『機動戦士ガンダム00 高河ゆん Dear Meisters COMIC&ARTS』描き下ろし) *** '''空と大地のまじわるところ'''(月刊ニュータイプ2010年7月号別冊付録) *** '''The second birthday'''(月刊ニュータイプ2010年8月号別冊付録) * '''[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)#「いつかどこかの街角で」|いつかどこかの街角で]]''' ** (コミックZERO-SUM2010年11月号) ==== 未完作品(連載中含まず) ==== * '''[[B型同盟]]''' ** [[[月刊ニュータイプ]]1988年4月号-1989年5月号/[[ニュータイプ100%コミックス]]/[[角川書店]]] * '''[[源氏 (漫画)|源氏]]''' ** [月刊ウィングス1988年6月号-1995年6月号/ウイングス・コミックス] * '''超新化エナス'''(原作:[[平野俊貴|平野俊弘]]) ** ([[月刊ニュータイプ#コミックGENKi]]1988年8月号-1989年8月号) * '''[[夜嬢帝国]]''' ISBN 4-253-07492-8 ** [プリンセススペシャル1988年9月15日号-1989年2月1日号、プリンセスデラックス1989年4月25日号/プリンセス・コミックス] * '''[[ありす IN WONDERLAND]]''' ** [プリティ1989年1月10日号-1992年5月10日号/VAL光文社コミックス] * '''ヴァンプ-吸血の徒-''' ** (サウスエクストラ1989年11月20日号、LCミステリー1995年9月号-1996年3月号) * '''[[CAROL (アニメ)#CAROL-K|CAROL-K]]'''(原案:[[木根尚登]]) ** ([[きみとぼく (雑誌)|きみとぼく]]1995年6月号-1998年3月号/[[ソニー・マガジンズ]]) * '''[[アーシアン#未収録漫画|アーシアン外伝 The Secret Garden]]''' ** (月刊ウィングス1995年7月号-1996年4月号) * '''ハリケーン・ヒル''' ** ([[マガジンSPECIAL]]1997年11月号/講談社) * '''[[クロニクル (漫画)|クロニクル]]''' ISBN 4-7575-0098-X ** [[[月刊少年ガンガン]]1998年4月号、Gファンタジー1998年11月号-1999年8月号] * '''天使庁''' ** (クリムゾン2002年11月号-2003年7月号、コミックZERO-SUM増刊WARD2003年夏号vol.1-2007SPRINGvol.16) * '''KILL ME''' ** (BE×BOY2003年4月号-2006年4月号/[[ビブロス (出版社)|ビブロス]]) ==== 完結単行本未収録作品 ==== * '''SDアーシアン「春眠暁を覚えずと申しますが」''' ** (月刊ウィングス1991年6月号) * '''SD源氏「目に青葉 山ほととぎす 初がつお」 ''' ** (月刊ウィングス1991年7月号) * '''SDサフラン・ゼロ・ビート「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」''' ** (月刊ウィングス1991年8月号) * '''[[クロックタワーゴーストヘッド#メディア展開|クロックタワーゴーストヘッド]]'''(原作:[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ゲーム) ** (月刊Gファンタジー1998年9月号、10月号) * '''恋愛-CROWN-''' ** (描き下ろし漫画/「高河・なるしま展」カタログ/1998年12月24日/創美社) * '''放課後、七時間目。'''(原作:[[西尾維新]])ISBN 4-06-378808-3 ** ([[コミックファウスト]]/2006年6月24日/講談社) * '''機動戦士ガンダム00 楽園TV''' ASIN B0041TA7OK ** ([[ガンダムエース]]増刊「ガンダム00エース」/2010年9月18日/角川グループパブリッシング) === 画集 === * '''LOVE SONGS''' ISBN 4-403-61165-6 ** [1988年8月25日/新書館] ** (収録作品)『[[アーシアン#画集|アーシアン]]』 * '''SSSSPECIAL''' ISBN 4-403-61194-X ** [1989年7月5日/新書館] ** (収録作品)『[[アーシアン#画集|アーシアン]]』『[[源氏 (漫画)#画集|源氏]]』 * '''高河ゆん原画展 '93 ASIA4原画集''' ** [1993年8月10日/CLUB:Y:CLUB(同人サークル)] * '''超獣伝説ゲシュタルト'''(大判ポストカードブック)ISBN 4-87025-361-5 ** [1998年10月16日/エニックス] * '''YOUR EYES ONLY''' ISBN 4-7580-3005-7 ** [2005年7月9日/一迅社] ** (収録作品)『恋愛-CROWN-』『[[アーシアン#画集|完結版 アーシアン]]』『[[はぴぷり#画集|はぴぷり]]』『[[LOVELESS (高河ゆんの漫画)#画集|LOVELESS]]』『[[ローラカイザー#魔獣の来る夜|魔獣の来る夜]]』『ライトジーンの遺産』『[[機動戦士Ζガンダム]]』『[[機動戦士ガンダムSEED]]』『[[機動戦士ガンダムSEED DESTINY]]』 * '''機動戦士ガンダム00 高河ゆんデザインワークス''' ISBN 978-4-7580-1128-0 ** [2009年1月14日/一迅社] ** (ファーストシーズンデザイン稿、カラーイラスト、[[千葉道徳]]との対談、他) * '''機動戦士ガンダム00 高河ゆん Dear Meisters COMIC&ARTS''' ISBN 978-4-04-854356-9 ** [2009年6月24日/角川グループパブリッシング] ** (ファースト&セカンドシーズン全キャラクターデザイン稿、ART GALLERY) ** (収録漫画)「wanderer.」「I’m home.」「主をほめたたえよ-アレルヤ-」「The beginning man.」 * '''劇場版機動戦士ガンダム00 高河ゆんワークスコンプリート''' ISBN 978-4-7580-1206-5 ** [2010年12月17日/一迅社] ** (未公開デザイン稿、鼎談:高河ゆん×水島精二×[[宮野真守]]) === その他(作品一覧) === * '''CYCLAND(サイクランド)YUN‐KOUGA REVIEW CATALOGUE''' ISBN 4-89369-122-8 ** '''黄昏のマジック・キングダム'''(漫画) ** '''第百一話'''(小説) ** (自伝、エッセイ、絵日記、キャラクター解説、作品リスト、他) ** [1991年7月9日/BNN] * '''別冊ぱふ'92AUTUMN 高河ゆん完全特集''' ** ([[栗本薫]]との対談、インタビュー、作品リスト、活動年表、再録記事、他) [1992年12月1日/雑草社] * '''[[ローラカイザー#魔獣の来る夜|魔獣の来る夜]]''' ISBN 4-87282-802-X ** (栗本薫との共著) [2001年8月20日/あんず堂] * '''いまどきのバンパイア-高河ゆん+大貫健一設定原画集''' ISBN 4-8470-2452-4 ** [1997年1月30日/[[ワニブックス]]] * '''LOVELESS MIND MAP''' ISBN 4-7580-5167-4 ** (TVアニメLOVELESSオフィシャルガイドブック) [2005年7月25日/一迅社] * '''UN-GO pako&高河ゆんデザインワークス''' ** (鼎談:pako×高河ゆん×水島精二)[2011年12月29日/一迅社] * '''[[悪魔のリドル]]''' ** (原作:高河ゆん、画:[[南方純]]、連載:月刊ニュータイプ2012年10月号 - 2016年11月号) * '''[[車田水滸伝 HERO OF HEROES]]''' ** (原作:[[車田正美]]、画:高河ゆん、連載:チャンピオンRED 2014年5月号 - 、2014年2月号にプレ新連載掲載) === アンソロジーコミック === * [[新機動戦記ガンダムW]] 1st ISBN 4-05-601076-5 ** [1995年10月6日/[[ノーラコミックス]]DXPockeシリーズ/学習研究社] * TRY![[勇者指令ダグオン|ダグオン]] 3巻 ** [1996年8月8日/[[ブロッコリー (企業)|ブロッコリー]]] * [[ファイアーエムブレム 聖戦の系譜]]ファンSpecial ISBN 4-89366-580-4 ** [1996年10月5日/[[ファミ通]]ファンブック/[[アスペクト (企業)|アスペクト]]] * [[スーパーコミック劇場]]VOL4 [[サイキックフォース]]「炎の瞳」(たつねことの合作)ISBN 4-87025-944-3 ** [1997年3月27日/エニックス] * サイキックフォース キャラクターズコレクション ** [1997年5月4日/ブロッコリー] * スーパーコミック劇場VOL6 [[女神異聞録ペルソナ]]「王様とわたし」 ISBN 4-87025-679-7 ** [1997年10月27日/エニックス] * [[ひぐらしのなく頃に]] ビジュアルファンブック ISBN 4-7580-1034-X ** [2005年6月24日/一迅社] * [[蒼穹のファフナー]] オフィシャルアンソロジーコミック ISBN 4-89425-384-4 ** [2005年11月25日/[[ホビージャパン]]] * [[ゼロサムオリジナルアンソロジーシリーズArcana|ゼロサムオリジナルアンソロジーシリーズ]] ** Arcana 1(執事)[2006年10月25日/一迅社] ISBN 4-7580-5253-0 ** Arcana 2(賊・怪盗)[2007年1月31日] ISBN 978-4-7580-5267-2 ** Arcana 3(王子&姫)「花王」[2007年4月25日] ISBN 978-4-7580-5282-5 ** Arcana 4(吸血鬼)「川を渡れ」[2007年8月3日] ISBN 978-4-7580-5302-0 * [[月刊少年エース]]2007年10月号増刊[[新世紀エヴァンゲリオン]]総集編 ** [2007年8月21日/角川グループパブリッシング] * [[破天荒遊戯]] コミックアンソロジー ISBN 978-4-7580-5337-2 ** [2008年2月25日/一迅社] * [[新世紀エヴァンゲリオン#漫画・小説|新世紀エヴァンゲリオン コミックトリビュート]] ISBN 978-4-04-715419-3 ** [2010年4月3日/角川グループパブリッシング] * [[最遊記シリーズ|最遊記]]ANTHOLOGY ISBN 978-4-7580-5525-3 ** [2010年7月24日/一迅社] == キャラクターデザイン(原案) == * [[CAROL (アニメ)|CAROL]] - [[アニメーション映画]] **(原作:[[木根尚登]]、監督:[[出崎哲]]、制作:[[アニメイト#アニメイトフィルム|アニメイトフィルム]]、[[マジックバス]]) * [[ハイスクール・オーラバスター#OVA|ハイスクール・オーラバスター]] - [[OVA]] **(原作:[[若木未生]]、監督:[[亀垣一]]、制作:[[オー・エル・エム|O.L.M]]) * [[クリスタニア#コンピュータゲームソフト|神王伝説クリスタニア]] - [[コンピュータゲーム]]ソフト **(原作:[[水野良]]) * [[BLOODY BRIDE いまどきのバンパイア]] - プレイステーション用[[ゲームソフト]] **(制作:[[アトラス (ゲーム会社)|アトラス]]) * [[機動戦士ガンダム00]] - [[テレビアニメ]] **(原作:[[矢立肇]]、[[富野由悠季]]、監督:[[水島精二]]、製作:[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]、[[毎日放送]]) * [[劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-]] - アニメーション映画 **(原作:矢立肇、富野由悠季、監督:水島精二、製作:サンライズ、[[毎日放送]]、[[バンダイビジュアル]]) * [[UN-GO]] - [[テレビアニメ]] **(原案:[[坂口安吾]]、監督:水島精二、製作:[[ボンズ (アニメ制作会社)|ボンズ]]、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]([[ノイタミナ]]))<ref>{{Cite web|publisher=UN-GO OFFICIAL SITE|url=http://www.un-go.com/04staff/index.html|title=UN-GO Staff|accessdate=2011-07-06}}</ref> ** 『[[UN-GO#漫画|UN-GO 因果論]]』([[UN-GO#劇場版|劇場版 UN-GO episode:0 因果論]]のコミカライズ) *** (ストーリー:[[會川昇]]、画:[[pako]]、作画協力:高河ゆん) *** [月刊ニュータイプ2011年10月号-2012年4月号/カドカワコミックス・エース/2012年5月9日/角川書店] * [[スーパーロボット大戦X]] - [[PlayStation 4]]・[[PlayStation Vita]]用ゲームソフト ** ([[バンダイナムコエンターテインメント]]、2018年3月29日発売) == イラスト・挿し絵作品 == * 不思議の国からきた少女([[筒井広志]]) ** [1988年11月20日/[[角川文庫]]/角川書店] * MIND SCREEN(結城惺) ** [1991年9月25日、1993年7月1日、1997年3月10日/ウィングス・ノヴェルス/新書館] * キャット・ボーイ(図子慧) ** [1990年3月1日/[[角川ルビー文庫]]/角川書店] * N.D.D (NEVER DIE DETECTIVE)([[大沢在昌]]) ** ([[コミックバーズ|コミックバーガー]]1991年15号-1992年21号/[[スコラ]]) * 魔剣伝([[流星香]]) ** [1991年7月25日、1991年9月25日/[[新潮文庫]]/[[新潮社]]] * [[まんが家マリナ・シリーズ|シャルルに捧げる夜送曲]]([[藤本ひとみ]]) ** [1994年10月10日、1994年11月10日、1995年1月10日/[[コバルト文庫]]/集英社] * [[源氏 (漫画)|源氏小説版]](綾乃なつき) ** [1997年4月25日、1997年12月25日/集英社] * BLOODY BRIDE いまどきのバンパイア(水城黎亜) ** [1997年2月24日/ビクターノベルス/[[ビクターエンタテインメント|ビクターブックス]]] * ハイスクール・オーラバスター(若木未生) ** [1997年12月10日、1998年8月10日、1999年1月10日、2000年1月10日、2000年8月10日、2000年12月10日、2002年10月10日、2004年8月10日/コバルト文庫] * [[超獣伝説ゲシュタルト|超獣伝説ゲシュタルト 烙印の殉教者]](吉川千鶴) ** [1999年4月16日、1999年9月17日/Gファンタジーノベルズ/エニックス] * 地平線に映る声(相坂きいろ) ** [2001年12月1日/[[角川ビーンズ文庫]]/角川書店] * リューンサーガ enterbrain(星野ケイ) ** [2002年2月12日/A-NOVELS/[[エンターブレイン]]] * ライトジーンの遺産([[神林長平]]) ** [2003年5月31日/[[ソノラマ文庫]]/[[朝日ソノラマ]]] * [[るるぶ|もえるるぶ]]東京案内2006年版 ** [2006年1月30日/[[JTBパブリッシング]]] * 獣シリーズ([[浦賀和宏]]) ** ([[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]/講談社) * [[LOVELESS (高河ゆんの漫画)|LOVELESS 泡沫の絆]]([[夏居あや]]) ** [2008年7月19日/[[一迅社文庫アイリス]]/一迅社] * 神々たちの午睡([[あさのあつこ]]) ** ([[アニメディア]]2008年11月号、12月号/学習研究社) * LOVELESS ふたつの雪花(夏居あや) ** [2009年4月20日/一迅社文庫アイリス/一迅社] * 金の瞳と鉄の剣([[虚淵玄]]) ** [2011年4月15日/[[星海社FICTIONS]]/[[星海社]]] === トレーディングカード === * LOVELESS(原作版) ** [2006年10月27日/[[アニメイト]]] * [[ガンダムウォー]] 戦場の女神2 ** [2008年11月/[[バンダイ]]] * 機動戦士ガンダム00 マイスターワークス 1st Phase ** [バンダイ] * 機動戦士ガンダム00 マイスターワークス 2nd Phase ** (MeisterSPカード全3種描き下ろし)[バンダイ] * 機動戦士ガンダム00 マイスターワークス 3rd Phase ** (MeisterSPカード全3種描き下ろし)[バンダイ] * 機動戦士ガンダム00 マイスターワークス 4ever ** (MeisterSPカード全3種描き下ろし)[バンダイ] * 機動戦士ガンダム00 ビジュアルアートワークス Feat.Yun Kouga ** (全て高河ゆんのイラスト全16種)ジャンボ[[カードダス]][バンダイ] * OS:東方混沌符 2.00 ** [2011年3月26日/[[AXIA (グッズ会社)]]/[[上海アリス幻樂団]]/[[ブシロード]]] === その他(イラスト・挿し絵作品) === * [[プリントゴッコ]]人気コミックイラスト集([[理想科学工業]]) ** プリントゴッコ用カラーイラスト3点 * 小説Wings No.02(1989年9月/新書館) ** [[木根尚登]]との対談 * K'sMAGAZINE 2(1990年/[[ヤマハ|YAMAHA]]) ** [[小室哲哉]]との対談 * マンガ応用テクニック講座(デザインの現場No.40・3月号増刊/1990年3月15日/[[美術出版社]]) * PATi PATi(1992年/ソニー・マガジンズ) ** [[TM NETWORK|TMN]] EXPOのレポート * 同人漫画大百科(1992年10月15日/[[辰巳出版]]) * [[月刊コミックコンプ]](1992年12月号/角川書店) ** [[麻宮騎亜|菊池通隆]]との対談 * 別冊ぱふ[[活字倶楽部]]Special2(1995年) ** [[若木未生]]との対談 * [[LOGOUT]](1995年9月号/アスキー) ** ゲーム大会に参加 * 藤本ひとみ対談集[1995年9月10日/コバルト文庫] ** [[藤本ひとみ]]との対談 * 『[[PALM (漫画)|PALM]]』[[獸木野生]](月刊ウィングス1995年) ** 連載100回記念イラスト&コメント * 王国小屋(コミックバーガー1995年6月号-コミックバーズ1996年11月号/スコラ) ** ゲームコラム * [[Cobalt (雑誌)|Cobalt]](1996年10月号/集英社) ** 若木未生との対談 * [[Tech Saturn]] Vol2(1995年/アスキー) ** コラム * [[TECH PlayStation]](1997年4月号-6月号/アスキー) ** コラム([[ファイナルファンタジーVII]]、[[ブシドーブレード]]、[[ファイナルファンタジーIV]]) * Cobalt(1997年10月号) ** 若木未生との対談 * 色彩王国(1997年11月4日/美術出版社) ** カラーの描き方、ぬりえ下絵 * 『天使かもしれない』[[田村由美]][1998年6月10日/[[小学館文庫]]/[[小学館]]] ** エッセイを寄稿 * 小説NON(1999年4月号/[[祥伝社]]) ** 「魔王伝」イラスト&コメント * コピックワールド(1999年9月20日/美術手帖増刊/美術出版社) * テレビアニメ『[[まりあ†ほりっく]]』第10章(2009年) ** エンドカードイラスト * 月刊ニュータイプ(2009年6月号) ** [[水島精二]]との対談 * 『[[涼宮ハルヒシリーズ|涼宮ハルヒの憂鬱]]』キャラクターブック「[[涼宮ハルヒシリーズ#既刊一覧・収録作品|超月刊キョン&古泉]]」[2009年5月9日/角川グループパブリッシング] ** トリビュートイラスト * テレビアニメ『[[はなまる幼稚園]]』第10話(2010年) ** エンドカードイラスト * テレビアニメ『[[STAR DRIVER 輝きのタクト]]』[[TOKYO MX]]放送版 第10話(2010年) ** エンドカードイラスト * 総集編DVD『[[機動戦士ガンダム00#スペシャルエディション|機動戦士ガンダム00 スペシャルエディションIII リターン・ザ・ワールド]]』(2010年2月23日) ** 書き下ろしエンディングイラスト * 『[[コミック百合姫|百合姫]]カラーアートワークス CHRONICLE』[2010年7月17日/一迅社] ** イラスト収録 * コミック『[[少女ファイト]]』7巻特装版付録冊子「少年ファイト」[2010年7月/講談社] ** 寄稿 * 『劇場版 機動戦士ガンダム00』挿入歌「[[もう何も怖くない、怖くはない]]」[[石川智晶]][2010年10月6日/[[フライングドッグ|flying DOG]]] ** ジャケットイラスト * 「[[ファイブスター物語|FSS]] 25th Anniversary SPECIAL * ISSUE」月刊ニュータイプ4月号付録(2011年3月10日) ** [[海老川兼武]]との合作イラストを寄稿 * [[Key (ゲームブランド)|Key]]のゲーム『[[Rewrite (ゲーム)|Rewrite]]』公式サイト(2011年7月1日) ** 応援イラスト<ref>[http://key.visualarts.gr.jp/rewrite/special/ouen.html 『Rewrite』公式サイトspecialページ]</ref> * 「[[カプコン]]ヒーローズカレンダー 2012」[2011年9月15日/カプコン] ** 『[[逆転裁判]]』シリーズを担当 * 『[[学園アリス#ファンブック|学園アリス]] 25.5 公式ファンブック』[2011年9月20日/白泉社] ** イラストを寄稿 * 「[[ミラクルジャンプ]] 」N°07(2012年2月7日/集英社) ** カバーイラスト * テレビアニメ『[[BLAZBLUE|BLAZBLUE -ALTER MEMORY-]]』第9話(2013年) ** エンドカードイラスト * テレビアニメ『[[ストレンジ・プラス]]』第9話(2014年) ** エンドカードイラスト * テレビアニメ『[[うーさーのその日暮らし|うーさーのその日暮らし 覚醒編]]』第7話(2014年) ** エンドカードイラスト * テレビアニメ『[[紅殻のパンドラ]]』第12話(2016年) ** エンドカードイラスト * テレビアニメ『[[私の百合はお仕事です!]]』第10話(2023年) ** エンドカードイラスト == 参考 == * CYCLAND[1991年7月9日/BNN]ISBN 4-89369-122-8 * 別冊ぱふ'92 AUTUMN 高河ゆん完全特集[1992年12月1日/雑草社] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://kougayun.hatenablog.com/ まんが家高河ゆんのブログ] * {{Twitter|yunk99}} * {{Instagram|kougayun}} * {{Wayback |url=http://www.kokonoe.com/ |title=九重.com 高河ゆん公式ウェブサイト |date=20040329125521}} {{コミックマーケットカタログ表紙}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうか ゆん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:東京都立三田高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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桜玉吉
桜 玉吉(さくら たまきち、本名:野澤 朗、1961年3月2日 - )は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。東京都立芸術高等学校卒業、多摩美術大学中退。有限会社「玉屋」社長。実姉はイラストレーターの真野匡。 エンターブレイン(旧・アスキー出版)の雑誌を中心に、漫画日記やコンピュータゲームを題材とするギャグ漫画を発表している。代表作に『しあわせのかたち』『漫玉日記』シリーズ。『サンサーラ・ナーガ』シリーズなどのゲームのキャラクターデザインやイラストも手がける。 「MSXマガジン」「スコラ」「平凡パンチ」のカットなど、イラストレーターとしての仕事を経て、1986年よりアスキー発行の「ファミコン通信(現・ファミ通)」創刊号から連載された『し・あ・わ・せのかたち』(のちに『しあわせのかたち』に統一)で漫画家デビュー。ファミコンゲームを題材にしたパロディギャグ漫画で人気を博し、8年間の長期に渡り連載され、OVA化・ドラマCD化もされた。アスキーの漫画部門(現在のエンターブレイン)が設立されたのは、『しあわせのかたち』の人気がきっかけとされている。 1991年3月、作者の突然の体調不良で『しあわせのかたち』の連載が数か月中断される。 1991年7月、「ファミコン通信」が隔週刊から週刊に移行するのに伴い、『しあわせのかたち』の連載が(減ページで)再開されるが、それまでのキャラクター「例の3人組」を用いたパロディ路線から、いきなりエッセイ形式の漫画日記へ移行した。漫画日記には、竹熊健太郎、藤原カムイ、相原コージ、奥村勝彦、押井守、呉智英など、業界関係者も多数登場する。ゲームのパロディネタはたまに行われる程度になった。 さらにゲームパロディでも日記マンガでもない『ラブラブROUTE21』という暗黒舞踏漫画を連載内中編として掲載。ファミコンと全く関係ない内容にもかかわらず、アンケートで上位となった。2014年には劇団Patchの末満健一によって映画化されている。 同じく連載内中編作品の『しあわせのそねみ』は、桜玉吉のターニングポイントとなった。それまでの作風と大きく異なり、写実風の絵柄で暗くひねくれた作風の漫画を数回にわたり展開した。あまりに毒々しい内容であったため、誌上で『この作風が嫌なら、「嫌」と書いたハガキを送ってほしい。「嫌」ハガキが50通来たら考え直す』と告知したら「嫌」ハガキが153通も来たため、直後の回を必要以上にポップな作風で描いた。 『しあわせのそねみ』の作風は一回のみの予定ではあったが、後のエッセイ漫画の作風の実質的なプロトタイプとなり、ここで確立された日記形式の作風は、その後の作品にも受け継がれている。 『しあわせのかたち』は桜玉吉の病状悪化に伴い、作中では玉吉本人がカービィ星へ行くかたちで1994年3月に連載終了となる。 その後、アスキーが発行していた漫画雑誌「ファミコミ」にて、『トル玉の大冒険』を連載。『しあわせのかたち』後期と同形式の日常を描いた漫画日記へと移行する。 1995年に「ファミコミ」と「月刊アスキーコミック」が休刊となり、両誌を引き継ぐ形で創刊された「月刊コミックビーム」に移籍する。それを機に『トル玉の大冒険』から『防衛漫玉日記』にタイトルが変更された。桜玉吉が結成した地球防衛隊(釣りサークル)での活動を中心に描いていたが、私的事情の混乱もあってか次第に無気力になり、防衛隊を解散させて連載を突然終わらせる。 私生活では、『しあわせのかたち』の連載中の1989年にコピーライターの女性と結婚しており、娘をもうけていたが、すれ違いなどが原因で『防衛漫玉日記』終了後に離婚した。しかし、その後も絶縁したわけではなく、子供の親として頻繁にコミュニケーションはとっていた模様。 『防衛漫玉日記』の連載終了後、虚脱状態に陥り、病院で軽いうつ病と診断される。漫画家という孤独な仕事にその原因があると考えた玉吉はペンを置くことを決心する。しかし担当編集者の「何でも独力でやろうとし過ぎる。もっと組織的な活動をすべきである」とのまじめな説得に思いとどまり、漫画家活動のための有限会社設立を決め、有限会社「玉屋」を設立した。 『防衛漫玉日記』から1年の休筆を経て『幽玄漫玉日記』を「月刊コミックビーム」1998年1月号から連載する。『防衛漫玉日記』とほぼ同じ漫画日記の形式をとる内容で、当初「玉屋」の活動日記という体裁の通常のエッセイ漫画を企図していたが、この頃より鬱の症状及びそれに伴う前衛的な表現と、個人の独白のような内容が出始める。画風もデフォルメタッチの表現から、水彩画まで幅広くあり、終盤は後の『御緩漫玉日記』に繋がる現実と虚構が交錯する独特の内容となっており、自己の内面を私小説風に掘り下げつつそれ自体を自己模倣の対象としてユーモラスに描いた。 「月刊コミックビーム」2003年11月号から『御緩漫玉日記』連載。念願叶って手に入れた伊豆の一軒家での生活を描く。また、多摩川の近くに新しく仕事場を借りた頃の過去の回想的な物語も不定期に描かれるが、連載中に急性腹膜炎になり死線を彷徨う。連載再開後は、前々作、前作において見られた、鬱症状を描いた内容および現実と虚構が交錯するメタ表現が顕著に出ており、それに合わせて画風も濃い水墨画を用いた大胆な作風になる事が多くなった。鬱の影響もあって、作画作業が困難になることが多かったらしく、独白のみを描き殴ったような実験的作風も見られ、今まで以上に幻想的な展開となっていく。 「自分の知らない間に勝手に別人格が制作中の漫画を書き換える」など解離性同一性障害を思わせる症状が出始め、体力的・精神的な限界を感じ『御緩漫玉日記』の連載を終了(未完)した。 連載終了後は「コミックビーム」の宣伝4コマ『読もう! コミックビーム』や僅かなイラスト仕事のみで作品連載は行わず、ヤフーオークションに出品を行って金銭を得ているエピソードが4コマの作中で明かされていた。 東日本大震災を契機に徐々にうつ病が回復し、2012年4月、連載終了から約4年ぶりとなる新作「3・11金曜日」を「コミックビーム」に発表。後に近況と震災時のエピソードを描いた短編作品をまとめた『漫喫漫玉日記 深夜便』が2013年11月に発売。ネットカフェを仕事場代わりにしている近況が明らかにされた。 2013年9月、週刊文春にて漫画日記『日々我人間(ヒビワレニンゲン)』を連載開始。当初は隔週連載だったが現在は週刊連載になっている。 その後も不定期ながら「コミックビーム」などで漫画日記を連載するも、O村に「漫画喫茶にいると若手が真似するからいけない」と言われ『御緩漫玉日記』で購入した伊豆の一軒家に再び拠点を移し、伊豆での暮らしを描いた『伊豆漫玉日記』を「コミックビーム」で不定期連載している。 本名・素顔は非公表というのが建前であるが、初期の『MSXマガジン』では本名で(誌上インタビューで顔も出していた)、『ファミコン通信』では桜玉吉名義で活動していた。1987年、『MSXマガジン』がリニューアルしたのを機に「桜玉吉」へ統一。最近は自分の本名を再び作中に登場させ、ネタとして使っている。ペンネームの由来は桜上水に住んでいて、近くに玉川上水があって、めでたいので吉、とのこと。 『SUPER MARIO ADVENTURES マリオの大冒険(英語版)』執筆時に「チャーリー野沢」というペンネームを使っているが、これはこの作品がアメリカのテレビゲーム雑誌『Nintendo Power』へ掲載される際、糸井重里によって付けられたものであることを雑誌インタビューで桜玉吉本人が語っている。日本へ逆輸入する際に名前をそのまま残したようである。なお玉吉本人は、このペンネームについては気に入っていない旨を発言している。 一時期マンガのネタとして、編集長に本名を姓名判断でバカにされたあてつけからペンネームを編集長の本名である奥村勝彦へ改名した。実際に使用されたのは「コミックビーム」掲載時の一回のみだが、表紙や巻末でも奥村勝彦名義で記載された。 絵柄は『しあわせのかたち』に代表されるアニメ風のデフォルメ形、『幽玄漫玉日記』に代表される筆を使った水墨画形、緻密に書き込まれた写実形があり、巧みに使い分けられる。 実在する人物でも作品に登場する際にはキャラ付けされているため、必ずしもその人物本来の性格、容姿、行動等と一致しないことがある。 特に『しあわせのかたち』における終盤の担当者は本人の意向もあり、奇行、支離滅裂な発言、鼻提灯であることが多い等の過剰な演出で作品に登場していた。 日記形式の作風は本質的に自分や他人の私生活をダシにするというものであるため、「周囲の人間をいじくり倒し本当にロクな者ではない。こんな事でしかメシを食えぬ人間」と葛藤する様子も時折見せる。
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桜 玉吉は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。東京都立芸術高等学校卒業、多摩美術大学中退。有限会社「玉屋」社長。実姉はイラストレーターの真野匡。 エンターブレイン(旧・アスキー出版)の雑誌を中心に、漫画日記やコンピュータゲームを題材とするギャグ漫画を発表している。代表作に『しあわせのかたち』『漫玉日記』シリーズ。『サンサーラ・ナーガ』シリーズなどのゲームのキャラクターデザインやイラストも手がける。
{{複数の問題 | 存命人物の出典明記 = 2016年2月 | 一次資料 = 2016年2月 }} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 桜 玉吉 | ふりがな = さくら たまきち | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 野澤 朗 | 生地 = {{JPN}} [[東京都]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1961|3|2}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]]、[[イラストレーター]] | 活動期間 = [[1986年]] -<br />(イラストレーターとしては1986年以前から活動) | ジャンル = [[ギャグ漫画]]<br />[[エッセイ漫画|漫画日記]]<br />[[ゲーム漫画]] | 代表作 = 『[[しあわせのかたち]]』<br />『漫玉日記』シリーズ | 受賞 = }} '''桜 玉吉'''(さくら たまきち、本名:'''野澤 朗'''、[[1961年]][[3月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[東京都]]出身。[[東京都立芸術高等学校]]卒業、[[多摩美術大学]]中退。[[有限会社]]「玉屋」社長。実姉はイラストレーターの[[真野匡]]。 [[エンターブレイン]](旧・[[アスキー (企業)|アスキー]]出版)の雑誌を中心に、[[エッセイ漫画|漫画日記]]や[[コンピュータゲーム]]を題材とする[[ギャグ漫画]]を発表している。代表作に『[[しあわせのかたち]]』『漫玉日記』シリーズ。『[[サンサーラ・ナーガ]]』シリーズなどのゲームの[[キャラクターデザイン]]やイラストも手がける。 == 経歴 == ===『しあわせのかたち』初期・ゲームパロディ=== 「[[MSXマガジン]]」「[[スコラ]]」「[[平凡パンチ]]」のカットなど、イラストレーターとしての仕事を経て、[[1986年]]より[[アスキー (企業)|アスキー]]発行の「ファミコン通信(現・[[ファミ通]])」創刊号から連載された『し・あ・わ・せのかたち』(のちに『[[しあわせのかたち]]』に統一)で[[漫画家]]デビュー。[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ゲームを題材にしたパロディギャグ漫画で人気を博し、8年間の長期に渡り連載され、[[OVA]]化・ドラマCD化もされた。アスキーの漫画部門(現在の[[エンターブレイン]])が設立されたのは、『しあわせのかたち』の人気がきっかけとされている。 1991年3月、作者の突然の体調不良で『しあわせのかたち』の連載が数か月中断される。 ===『しあわせのかたち』後期・日記漫画=== 1991年7月、「ファミコン通信」が隔週刊から週刊に移行するのに伴い、『しあわせのかたち』の連載が(減ページで)再開されるが、それまでのキャラクター「例の3人組」を用いたパロディ路線から、いきなりエッセイ形式の漫画日記へ移行した。漫画日記には、[[竹熊健太郎]]、[[藤原カムイ]]、[[相原コージ]]、[[奥村勝彦]]、[[押井守]]、[[呉智英]]など、業界関係者も多数登場する。ゲームのパロディネタはたまに行われる程度になった。 さらにゲームパロディでも日記マンガでもない『ラブラブROUTE21』という[[暗黒舞踏]]漫画を連載内中編として掲載。ファミコンと全く関係ない内容にもかかわらず、アンケートで上位となった。2014年には[[劇団Patch]]の[[ピースピット|末満健一]]によって映画化されている。 同じく連載内中編作品の『しあわせのそねみ』は、桜玉吉のターニングポイントとなった。それまでの作風と大きく異なり、写実風の絵柄で暗くひねくれた作風の漫画を数回にわたり展開した。あまりに毒々しい内容であったため、誌上で『この作風が嫌なら、「嫌」と書いたハガキを送ってほしい。「嫌」ハガキが50通来たら考え直す』と告知したら「嫌」ハガキが153通も来たため、直後の回を必要以上にポップな作風で描いた。 『しあわせのそねみ』の作風は一回のみの予定ではあったが、後のエッセイ漫画の作風の実質的なプロトタイプとなり、ここで確立された日記形式の作風は、その後の作品にも受け継がれている。 『しあわせのかたち』は桜玉吉の病状悪化に伴い、作中では玉吉本人がカービィ星へ行くかたちで1994年3月に連載終了となる。 ===『漫玉日記』連載開始=== その後、アスキーが発行していた漫画雑誌「ファミコミ」にて、『トル玉の大冒険』を連載。『しあわせのかたち』後期と同形式の日常を描いた漫画日記へと移行する。 1995年に「ファミコミ」と「月刊アスキーコミック」が休刊となり、両誌を引き継ぐ形で創刊された「[[月刊コミックビーム]]」に移籍する。それを機に『トル玉の大冒険』から『[[防衛漫玉日記]]』にタイトルが変更された。桜玉吉が結成した地球防衛隊(釣りサークル)での活動を中心に描いていたが、私的事情の混乱もあってか次第に無気力になり、防衛隊を解散させて連載を突然終わらせる。 私生活では、『しあわせのかたち』の連載中の1989年にコピーライターの女性と結婚しており、娘をもうけていたが、すれ違いなどが原因で『防衛漫玉日記』終了後に離婚した。しかし、その後も絶縁したわけではなく、子供の親として頻繁にコミュニケーションはとっていた模様。 『防衛漫玉日記』の連載終了後、虚脱状態に陥り、病院で軽い[[うつ病]]と診断される。[[漫画家]]という孤独な仕事にその原因があると考えた玉吉はペンを置くことを決心する。しかし担当編集者の「何でも独力でやろうとし過ぎる。もっと組織的な活動をすべきである」とのまじめな説得に思いとどまり、漫画家活動のための[[有限会社]]設立を決め、有限会社「玉屋」を設立した。 『防衛漫玉日記』から1年の休筆を経て『[[幽玄漫玉日記]]』を「月刊コミックビーム」1998年1月号から連載する。『防衛漫玉日記』とほぼ同じ漫画日記の形式をとる内容で、当初「玉屋」の活動日記という体裁の通常のエッセイ漫画を企図していたが、この頃より鬱の症状及びそれに伴う前衛的な表現と、個人の独白のような内容が出始める。画風もデフォルメタッチの表現から、水彩画まで幅広くあり、終盤は後の『御緩漫玉日記』に繋がる現実と虚構が交錯する独特の内容となっており、自己の内面を私小説風に掘り下げつつそれ自体を自己模倣の対象としてユーモラスに描いた。 「月刊コミックビーム」2003年11月号から『[[御緩漫玉日記]]』連載。念願叶って手に入れた伊豆の一軒家での生活を描く。また、多摩川の近くに新しく仕事場を借りた頃の過去の回想的な物語も不定期に描かれるが、連載中に[[腹膜炎|急性腹膜炎]]になり死線を彷徨う。連載再開後は、前々作、前作において見られた、鬱症状を描いた内容および現実と虚構が交錯するメタ表現が顕著に出ており、それに合わせて画風も濃い水墨画を用いた大胆な作風になる事が多くなった。鬱の影響もあって、作画作業が困難になることが多かったらしく、独白のみを描き殴ったような実験的作風も見られ、今まで以上に幻想的な展開となっていく。 「自分の知らない間に勝手に別人格が制作中の漫画を書き換える」など[[解離性同一性障害]]を思わせる症状が出始め、体力的・精神的な限界を感じ『御緩漫玉日記』の連載を終了(未完)した。 ===『御緩漫玉日記』連載終了後、現在=== 連載終了後は「コミックビーム」の宣伝4コマ『読もう! コミックビーム』や僅かなイラスト仕事のみで作品連載は行わず、[[ヤフオク!|ヤフーオークション]]に出品を行って金銭を得ているエピソードが4コマの作中で明かされていた。 [[東日本大震災]]を契機に徐々にうつ病が回復し、2012年4月、連載終了から約4年ぶりとなる新作「3・11金曜日」を「コミックビーム」に発表。後に近況と震災時のエピソードを描いた短編作品をまとめた『[[漫喫漫玉日記 深夜便]]』が2013年11月に発売。[[インターネットカフェ|ネットカフェ]]を仕事場代わりにしている近況が明らかにされた。 2013年9月、[[週刊文春]]にて漫画日記『[[日々我人間]](ヒビワレニンゲン)』を連載開始。当初は隔週連載だったが現在は週刊連載になっている。 その後も不定期ながら「コミックビーム」などで漫画日記を連載するも、O村に「漫画喫茶にいると若手が真似するからいけない」と言われ『御緩漫玉日記』で購入した伊豆の一軒家に再び拠点を移し、伊豆での暮らしを描いた『[[伊豆漫玉日記]]』を「コミックビーム」で不定期連載している。 == ペンネーム == 本名・素顔は非公表というのが建前であるが、初期の『[[MSXマガジン]]』では本名で(誌上インタビューで顔も出していた)、『ファミコン通信』では桜玉吉名義で活動していた。[[1987年]]、『MSXマガジン』がリニューアルしたのを機に「桜玉吉」へ統一。最近は自分の本名を再び作中に登場させ、ネタとして使っている。ペンネームの由来は[[桜上水]]に住んでいて、近くに[[玉川上水]]があって、めでたいので吉、とのこと。 『{{仮リンク|SUPER MARIO ADVENTURES マリオの大冒険|en|Super Mario Adventures}}』執筆時に「チャーリー野沢」というペンネームを使っているが、これはこの作品がアメリカのテレビゲーム雑誌『[[:en:Nintendo Power|Nintendo Power]]』へ掲載される際、[[糸井重里]]によって付けられたものであることを雑誌インタビューで桜玉吉本人が語っている。日本へ逆輸入する際に名前をそのまま残したようである。なお玉吉本人は、このペンネームについては気に入っていない旨を発言している。 一時期マンガのネタとして、編集長に本名を姓名判断でバカにされたあてつけからペンネームを編集長の本名である[[奥村勝彦]]へ改名した。実際に使用されたのは「[[コミックビーム]]」掲載時の一回のみだが、表紙や巻末でも奥村勝彦名義で記載された。 == 作風 == 絵柄は『[[しあわせのかたち]]』に代表されるアニメ風のデフォルメ形、『[[幽玄漫玉日記]]』に代表される筆を使った[[水墨画]]形、緻密に書き込まれた写実形があり、巧みに使い分けられる。 実在する人物でも作品に登場する際にはキャラ付けされているため、必ずしもその人物本来の性格、容姿、行動等と一致しないことがある。 特に『しあわせのかたち』における終盤の担当者は本人の意向もあり、奇行、支離滅裂な発言、鼻提灯であることが多い等の過剰な演出で作品に登場していた。 日記形式の作風は本質的に自分や他人の私生活をダシにするというものであるため、「周囲の人間をいじくり倒し本当にロクな者ではない。こんな事でしかメシを食えぬ人間」と葛藤する様子も時折見せる<ref>{{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=幽玄漫玉日記 |date=2002-06-01 |publisher=エンターブレイン |series=ビームコミックス |volume=6 |isbn=978-4757709041 |page=113 |chapter=無縁仏に明日を見た |quote=実在の周囲の人達をいじくり倒し 傷つけているのだ。/本当にロクな者ではない。 こんな事でしかメシを食えぬ人間--/帰った途端に 自己否定の嵐だ。/でも死ねないんだよ/愛する人がいるからね。 |ref= }}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === * [[のんきな父さん (桜玉吉の漫画)|のんきな父さん]]([[MSXマガジン]]ほか) * [[しあわせのかたち]]([[ファミ通|ファミコン通信]]) ** [[しあわせのかたち|ラブラブROUTE21]](連載内中編) ** [[しあわせのかたち|しあわせのそねみ]](連載内中編) * [[渡る世間にメガトンパンチ]](ファミコミ) * [[甲殻大戦争]]([[コミックマスター]]) * [[防衛漫玉日記|トル玉の大冒険]](ファミコミ) * [[防衛漫玉日記]]([[コミックビーム]]) * [[幽玄漫玉日記]](コミックビーム) * [[御緩漫玉日記]](コミックビーム) * [[漫喫漫玉日記 深夜便]](コミックビーム) *漫喫漫玉日記 四コマ便(コミックビーム) * [[なぁゲームをやろうじゃないか!!]]([[月刊アフタヌーン]]) * [[おやじの惑星]]([[白夜書房]]、短編集) * [[ブロイラーおやじFX]]([[グランドチャンピオン (雑誌)|グランドチャンピオン]]) * [[ゲイツちゃん]]([[週刊アスキー]]) * [[読もう! コミックビーム]]([[ファミ通]]) * {{仮リンク|SUPER MARIO ADVENTURES マリオの大冒険|en|Super Mario Adventures}}([[竹熊健太郎]]原作、チャーリー野沢名義) * [[おやじ文庫]]([[ビームコミックス文庫]]、上記『おやじの惑星』の新装版) * [[ゲイツちゃんxp]](週刊アスキー) * [[日々我人間]]シリーズ([[週刊文春]]) ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=日々我人間 |date=2016-11-28 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-390564-8}} ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=日々我人間2 |date=2020-01-16 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-391155-7}} ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=日々我人間3 |date=2023-02-22 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4-16-391665-1}} * 伊豆漫玉シリーズ([[エンターブレイン]]) ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=伊豆漫玉日記 |date=2017-01-25 |publisher=KADOKAWA |series=ビームコミックス |isbn=978-4047344426}} ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=伊豆漫玉ブルース |date=2019-01-12 |publisher=KADOKAWA |series=ビームコミックス |isbn=978-4047354821}} ** {{Cite book|和書|author=桜玉吉 |title=伊豆漫玉エレジー |date=2021-04-12 |publisher=KADOKAWA |series=ビームコミックス |isbn=978-4047366039}} === キャラクターデザイン === * [[サンサーラ・ナーガ]]([[ファミリーコンピュータ|FC]] / [[ビクターエンタテインメント]]) * [[サンサーラ・ナーガ2]]([[スーパーファミコン|SFC]] / ビクターエンタテインメント) * [[サンサーラナーガ1×2]]([[ゲームボーイアドバンス|GBA]] / ビクターエンタテインメント) * [[ダンジョンランド]]([[ゲームボーイ|GB]] / [[エニックス]]) * [[タワードリーム]](SFC / アスキー) * [[タワードリーム2]]([[PlayStation (ゲーム機)|PS]] / [[アクセラ (企業)|アクセラ]]) * ピキーニャ!(SFC / [[アスキー (企業)|アスキー]]) * ピキーニャ!☆エクセレンテ☆(PS / アスキー) * ピキーニャ!ぽけっとランナー(携帯ゲーム機 / アスキー) === その他作品 === * [[アイコ十六歳|アイコ16歳]] イメージイラスト * MSX MAGAZINE 永久保存版 イラスト(アスキー) * MSX MAGAZINE 永久保存版2 イラスト(アスキー) * 桜玉吉のかたち([[エンターブレイン]]、2000年6月)ISBN 978-4757700451 : 彼の半生を知人・親族のインタビュー等でまとめた本 * しあわせ 桜玉吉開運画集(エンターブレイン) * ザ・コレクション サンサーラ・ナーガ2―メイキング・オブ・サンサーラ・ワールド([[メディアワークス]]) : 同名ゲームの設定画および書き下ろしイラストが大量に収録 * [[役満 (任天堂)|役満天国]]([[ファミリーコンピュータ]]用ソフト)説明書イラスト * [[まんがの森]]看板 - 上野店、旧・高田馬場店(現・[[コアマガジン|コアブックス]])、渋谷店、広告(JR[[吉祥寺駅]]構内) : 『しあわせのかたち』のキャラクターイラストが使われていた。まんがの森の全店閉店により現存せず。 *『犬の気持ちは、わからない 〜熱海バセット通信〜』(著者:[[押井守]]) イラスト == 関連人物 == * [[奥村勝彦]](O村) * [[牧野伸康]](チョリソのぶ)プロ[[モデラー]]、造形師、アシスタント * [[武井宏之]](カメさん)元アシスタント * [[肉柱ミゲル]](みげー君)元アシスタント * [[竹熊健太郎]](キー坊)[[予備校]]時代からの友人 * [[田中パンチ]](編集・プロデュース) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|PrTamakichi|【公式】桜玉吉}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:さくら たまきち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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2023-06-07T00:04:14Z
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手塚治虫
手塚 治虫(てづか おさむ、1928年11月3日 - 1989年2月9日)は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。本名は手塚 治(読み同じ)。 戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町。大阪帝国大学附属医学専門部卒業。 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。 1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。 藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。 手塚治虫(本名:治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日)と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。 1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。このころの寶塚(現・宝塚)は、小林一三が箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる。 父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていた。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路や淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている。 1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であった。しかし、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生のときに、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師のあいだでも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた。友人が家に来ると、紅茶と菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しがふるまわれた。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている。 この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味をもつようになる。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みをもたせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年ごろまでは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた。 1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。日本は日中戦争の真っただ中で軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。 第二次世界大戦末期の1944年夏には体の弱い者が集められる強制修練所に入れられた。9月からは学校に行くかわりに軍需工場に駆りだされ、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。 1945年3月、修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。 同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、したがって旧制中学校からの入学が可能であった。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。 終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を毎日新聞学芸部へ送った。これは音沙汰なしに終わったが、その後、手塚の家の並びに、花里いさ子という宝塚のスターがいて、その姪にあたる女性が毎日新聞社の秘書課に勤務しており、その紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと並行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近いかたちで終わっている。 本人の語るところによれば、漫画家としてのデビューは、戦時下の1944年(昭和19年)に描いた大政翼賛会の「桃太郎」であるという。しかしながら、現物はみつかっていない。 漫画家としてデビューする前の1945年ごろ、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。 1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くというかたちで200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開をもつ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている(後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。 ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本のかたちで長編作品を発表できるようになった。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編をもとに、学業のかたわら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行われた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、つづく『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。 漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも「医者になるよりも漫画家になるように」と忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている。 このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。 手塚は大阪で赤本漫画を描くかたわら、東京への持ち込みも行っている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。 月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と並行して付録冊子のかたちで描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、このかたちで単行本時代の作品も続々とリメイクされていった。 私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区のトキワ莊に入居した。その後トキワ荘には、手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという。 なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている。 『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。このほかにも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており、1958年には東映動画(現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受けもっている。 1958年ごろより、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。 当初は劇画の雑誌にも連載をもつなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる。 1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。このとき、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。 アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと並行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行われている。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。 1966年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊する。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった。1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった。 一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになった。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している。 1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、もともとは少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。しかし、長期間続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。さらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた。 1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった。 1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。 1985年にNHKから取材を受けた時点では1日にわずか1~2時間の睡眠で漫画の執筆やアニメーション制作をこなしていた。「丸が上手く描けないんだ」と身体能力の衰えを認めつつも、取材陣に対し「(体の老化を乗り越えられれば)あと40年(100歳)は描きますよ、僕は。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と創作活動への強い意欲を見せた。 しかし、それから3年後の1988年3月15日に、突然腹部の激痛にみまわれ、救急搬送される。検査の結果進行性のスキルス胃癌と判明し半蔵門病院に入院、胃の4分の3を切除する。5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りを見せたものの、入院前に比べ次第に身体は痩せ細り、時折休憩を挟まないと描き続けられないほど体力が低下していった。同年10月に再入院。11月、万全な体調とはいえない中で「参加しなければ国際問題です」と周囲の制止を振り切り、中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席するが、帰国と同時に体調が悪化。12月に再度手術を受けるが、この時点ではすでに末期の状態であり、肝臓にまでがんが転移していた。 翌1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征が見舞いに来たときには、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せた上で医師から聞いたことを話すと「そうか...」と一言だけ言ったという。手塚は病院のベッドでも、医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。 同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていた。息子の眞は、「(この頃の父は)昏睡が覚めると鉛筆を握らせるがすぐに意識がなくなりの繰り返しだった」と語っている。死に際の状態であるにもかかわらず「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心をなくさなかった。 1989年(平成元年)2月9日午前10時50分、半蔵門病院で死去。60歳没。手塚治虫の死に立ち会った松谷によると、手塚治虫の最期の言葉は、「頼むから、仕事をさせてくれ」。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬としてそれぞれ営まれた。墓所は豊島区摠禅寺。 手塚の死により、『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された。また、梅原猛の小説『ギルガメシュ』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、そのときの体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。 周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。 手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後ストーリー漫画の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄、石ノ森章太郎、ちばてつや、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治など。劇画を始めた辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあき も衝撃を語っている。 その一方で、「手塚が「新寶島」で映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ。これは一部正しいが全てが正しいというわけではない。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『スピード太郎』(宍戸左行)と比べても革新的なものとはいえないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」がみられるとしている。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする。 上記のような話題が生まれた背景には、1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の表現規制が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのようななかで『新寶島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄Aなど後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった。 夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、というかたちで読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などをはじめとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった。 上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の並行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では丸ペンの使用が一般的だった)、スクリーントーンの採用などがある(注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。 手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている。 手塚は、自身はマンガにおいて時代の流れに合わせ転向を繰り返す転向者であるとしたうえで、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語っている。 手塚は子供を「未来人」と呼び、以下のように語っている。 手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、異民族間、異文化間の対立や抗争などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後まもないころ、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている。もっとも、『ジャングル大帝』などにおける「分厚い唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には差別と受け取られる表現について弁明するただし書きが付けられるようになった。 また、漫画を描く際にプロ・アマ、さらには処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、"基本的人権を茶化さないこと"を挙げ、どんな痛烈かつどぎつい描写をしてもいいが、「戦争や災害の犠牲者をからかう」「特定の職業を見下す」「民族、国民、そして大衆を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている。 夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生のころによく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている。 夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという。 鳴海丈が書いた書籍『萌えの起源』(PHP新書 2009年)によると「萌え」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「ボクっ娘」「萌え擬人化(擬人化)」「ケモノ」「ロリ系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている。 手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。 『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい。』 関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた数え年ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の書籍に掲載された手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している。晩年においては生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった。 また、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実どおり「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実どおり帝国大学附属医学専門部の学生だったと振り返っている。しかし1980年代には「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部予科入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実どおり紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校であることが指摘されている。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。 一方、血液型もプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」と説明している。なお、息子の眞もA型である。 ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった。 手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。インクは開明墨汁を愛用し、『マンガの描き方』でも推薦している。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったともいわれている。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れることもたびたびであった。 上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。 漫画の技法を自ら開拓していくかたわらで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。 速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立ち寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。 漫画の製作に取りかかりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。 手塚は極度の激務家だったことで知られ、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったといわれる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。手塚の死後、93歳まで健在だったライバルの水木しげるはエッセイ漫画『睡眠のチカラ』の中で、自分は1日10時間の睡眠を実践することで長生きができたと語り、反対に手塚は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと指摘していた。 手塚は医師免許を持っていたが、大阪帝国大学附属医学専門部の時代からすでにプロの漫画家として活動しており、インターン時代に患者を診ていたのを除いて職業医師として活動したことはなく、編集者やアシスタントなど興味本位で診察を受けに来た人間の多くを追い返していた。ただし、岡部冬彦が手塚と海外に行き体調を崩した際は手塚が診察している。そのとき、岡部は手塚のことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査したが、手塚の言うとおりただの飲み過ぎであった。 手塚が医者になるのをやめ漫画家一本にした直接的な理由は、手塚の母にある。手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるかを相談した。母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心した。ちなみにそのときの映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになった。またこれは手塚が病室でコンテを切っていた遺作の一つ「青いブリンク」の原作でもある。 また手塚の学生時代の恩師からは授業中もずっと漫画を描いている手塚に対して「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と言われている。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで道を断念したという。大学は「絶対に医師として働かない」という条件付きで卒業させてもらったという。 なお専門は外科である。担当教授の紹介で奈良県立医科大学の研究生となり、論文「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)で1961年に医学博士を取得した。 医師免許は終身有効であり、手塚はプロの漫画家になった後も医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。没後の2003年11月20日から宝塚市立手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」に医師免許証の現物が公開陳列されたとき、ある識者から免許証は当人死亡後は政府に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があった。厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置がとられた。厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている。それにより現在遺され記念館に展示されている免許証には「抹消」の赤印が押されている。 手塚治虫はプロ野球と関係が深く、特に「アトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)」と「埼玉西武ライオンズ」に繋がりがある。 現在の東京ヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ加盟)は「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時のフジテレビ社長水野成夫の意向でフジサンケイグループに買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。 また、「埼玉西武ライオンズ」(パシフィック・リーグ加盟)も手塚と繋がりがある。1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の堤義明オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・ライナも1981年より登場している。 2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。日本生命セ・パ交流戦、西武ドームで開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。 また2013年4月には、「読売ジャイアンツ」(巨人)と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され東京ドーム内グッズ売店等で売りだされることになった。 なお、手塚自身は阪神タイガースのファンであった。1950年の年賀状では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム を着た虎が素振りをしているイラストに添えてコメントしており、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。1985年に阪神がセ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズで同年のパ・リーグ優勝チームである西武と対戦したときは「どちらも勝て」と大弱りだったという。 トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている。しかし、街中を歩くとき、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと横山隆一を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄(藤本弘)などもベレー帽をかぶっていた。また、トキワ荘のマンガ家のあいだでよく用いられた「~氏」という敬称はもともと手塚が使っていたもので、相手の年齢にかかわらず用いられて便利ということで広まったと水野英子は証言している。 身長は170センチメートルと、戦前生まれとしては大柄であった。視力は度の強い近視であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。特に「チョコがなければ仕事ができない」というほどのチョコレート好きであり、死後に施錠されていた仕事机の中からかじりかけの板チョコが見つかった。 人並み外れた仕事量をこなしたことで知られているが、決して家庭を蔑ろにすることはなく、誕生日とクリスマスには必ず家族でレストラン・ディナーをとる習慣があり、計画を立てて正月と夏休みには家族旅行に出かけていた。田中圭一には「マンガ家としてだけじゃなく父としても神」と評された。 アシスタント経験のある漫画家古谷三敏によると、手塚はアルコールがあまり飲めず、煙草も普段は吸わなかった。バーで煙草をふかしたときは上手く吸い込めていなかったという。 1962年に日本共産党への支持を表明後、日本共産党の選挙応援にたびたび駆け付け、赤旗にも掲載されていた。一方で、自由民主党の機関紙である「月刊自由民主」にも、1984年10月号に寄稿したことがある。 祖父・手塚太郎は司法官で、1886年(明治19年)に創立された関西法律学校(現・関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任した。曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現・東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉の自伝『福翁自伝』にも記録が残っている。遠祖は平安時代の武将・手塚光盛とされる。家系図 (なお作家活動時には多くの書籍で生年を大正15年(1926年)と紹介していた)。 父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの9.5mmフィルム映写機(パテベイビー)を所有しており、治は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという。また、のちに父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、治虫は「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという。粲は晩年はファンクラブの世話人として、手塚の元を訪れるファンを接待していた。 母・文子は、服部英男(陸軍中将。陸士11期・陸大23期、輜重兵将校、最終補職は輜重兵監。)の娘で、厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は、生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで務める働きぶりを示す一方で、幼少期の治に子守唄代わりに絵本や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて読み聞かせていた。母もまた漫画好きであり、のちに治虫の長男・眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見した。てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって文子が描いたものだったと判明したという。1983年1月4日、74歳で没。 治虫は初期の自伝などで父を悪く書き、母を持ち上げるというエディプスコンプレックス丸出し の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部はのちにエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹・美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている。このことは「ぼくの漫画期」にも載っている。 治は長子で、下には2歳下の弟・浩と4歳下の妹・美奈子(結婚後は宇都に改姓)がいる。浩は「子供のころ昆虫のことがもとでああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」と語っている。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに宝塚市の手塚治虫記念館に訪れている。美奈子は「戦争が始まって兄はどこか変わった。それまでは天国のような生活だったけど、戦争が始まって軍事教練などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・ヒョウタンツギの創作者でもある。 妻の悦子(旧姓・岡田)は、血の繋がらない親戚で幼馴染であった。結婚が第一次ベビーブームと重なっていたため、結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという。悦子は梅花高女(現・梅花中学校・高等学校)出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという。 子供は3人。長男は映像作家の手塚眞 (本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)。長女はプランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子(少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)。次女は女優の手塚千以子(ちいこ・『千夜一夜物語』にちなんで命名)。また、声優の松山薫は姪。 妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。 日本で漫画制作作業の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を最初に始めたのは手塚治虫であるといわれている。 なお以下のリストは完全なものではない。手塚治虫は、アシスタントは通例2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた。 以下のリストは完全なものではない。なお、虫プロダクションの最盛期には従業員が400人以上いたといわれる。 これはまだ不完全なリストである。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "手塚 治虫(てづか おさむ、1928年11月3日 - 1989年2月9日)は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。本名は手塚 治(読み同じ)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町。大阪帝国大学附属医学専門部卒業。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。デビューから1989年(平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "手塚治虫(本名:治)は1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近)に、父・手塚粲(てづかゆたか・1900年 - 1986年5月14日)と母・文子(1909年 - 1983年)の長男として生まれた。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩(1930年 - )、妹は宇都美奈子(1932年 - 2015年)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・宝塚市)川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。このころの寶塚(現・宝塚)は、小林一三が箕面有馬電気軌道の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した新興の住宅地が散在して、その中心に宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の本拠地である宝塚大劇場、宝塚ファミリーランドの前身である宝塚新温泉や宝塚ルナパークなどの行楽施設が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "父は宝塚ホテルの中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていた。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の男役トップスターである天津乙女(本名:鳥居榮子)と雲野かよ子(本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、宝塚音楽学校に入学したい娘が保護者とともにお百度を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、月丘夢路や淡島千景のような鉄火肌の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1935年、池田師範附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)に入学した。母が東京出身であったこともあり、近畿方言を話せず浮いた存在であった。しかし、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生のときに、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み、小学5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の教師のあいだでも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた。友人が家に来ると、紅茶と菓子でもてなされ、治の誕生日には五目寿司や茶碗蒸しがふるまわれた。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "この時期に、同級生の石原実(後に大阪淀屋橋石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて昆虫や科学、天文学に興味をもつようになる。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、昆虫採集には最適の環境だったことから、趣味に対し深みをもたせた。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、甲虫のオサムシの存在を知り、それにちなんで、この時期からペンネームとして「手塚治虫」を使い始めた。1950年ごろまでは、「治虫」はそのまま「おさむし」と読ませていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1941年、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)に入学。日本は日中戦争の真っただ中で軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦末期の1944年夏には体の弱い者が集められる強制修練所に入れられた。9月からは学校に行くかわりに軍需工場に駆りだされ、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1945年3月、修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。旧制浪速高等学校(現・大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、したがって旧制中学校からの入学が可能であった。大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。なお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を毎日新聞学芸部へ送った。これは音沙汰なしに終わったが、その後、手塚の家の並びに、花里いさ子という宝塚のスターがいて、その姪にあたる女性が毎日新聞社の秘書課に勤務しており、その紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている。『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと並行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近いかたちで終わっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "本人の語るところによれば、漫画家としてのデビューは、戦時下の1944年(昭和19年)に描いた大政翼賛会の「桃太郎」であるという。しかしながら、現物はみつかっていない。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "漫画家としてデビューする前の1945年ごろ、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くというかたちで200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開をもつ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている(後段#新寶島(新宝島)の革新性も参照)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本のかたちで長編作品を発表できるようになった。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編をもとに、学業のかたわら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行われた。同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、つづく『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている。1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く。1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。教授からも「医者になるよりも漫画家になるように」と忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "手塚は大阪で赤本漫画を描くかたわら、東京への持ち込みも行っている。当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった。同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された。1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで描き下ろし単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに郵便法の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と並行して付録冊子のかたちで描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、このかたちで単行本時代の作品も続々とリメイクされていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区のトキワ莊に入居した。その後トキワ荘には、手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "なお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "『鉄腕アトム』『ぼくのそんごくう』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『漫画読本』(文藝春秋新社)に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており、1956年にSF短編シリーズ『ライオンブックス』を始めたほか、学習誌に『漫画生物学』『漫画天文学』などの学習漫画を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。このほかにも幼年向け作品や絵物語、小説やエッセイなど漫画家の枠を超えた活動をするようになっており、1958年には東映動画(現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『西遊記』(『ぼくのそんごくう』が原作)の原案構成を受けもっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1958年ごろより、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新しく台頭してきた劇画の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "当初は劇画の雑誌にも連載をもつなどしていたが、手塚のアシスタントまでが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚はノイローゼに陥り、精神鑑定も受けたという。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『西日本新聞』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『少年マガジン』(講談社)および『少年サンデー』(小学館)が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。このとき、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代編集長の豊田亀市は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『快傑ハリマオ』の連載をさせている。同年、宝塚ホテルにて結婚式を挙げる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと並行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行われている。他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1966年、手塚は実験漫画雑誌『COM』を創刊する。先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『バンパイヤ』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時水木しげるによって引き起こされていた妖怪ブームを意識した作品であった。1968年には青年誌『ビッグコミック』(小学館)、『プレイコミック』(秋田書店)などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『地球を呑む』『奇子』『きりひと讃歌』、『プレイコミック』に『空気の底』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は安保闘争などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、永井豪『ハレンチ学園』のヒットを受け、「性教育マンガ」と銘打たれた『やけっぱちのマリア』(週刊少年チャンピオン)、『アポロの歌』(週刊少年キング)などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクションが倒産し、手塚も個人的に推定1億5000万円の借金を背負うことになった。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、もともとは少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。しかし、長期間続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。さらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1985年にNHKから取材を受けた時点では1日にわずか1~2時間の睡眠で漫画の執筆やアニメーション制作をこなしていた。「丸が上手く描けないんだ」と身体能力の衰えを認めつつも、取材陣に対し「(体の老化を乗り越えられれば)あと40年(100歳)は描きますよ、僕は。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ」と創作活動への強い意欲を見せた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "しかし、それから3年後の1988年3月15日に、突然腹部の激痛にみまわれ、救急搬送される。検査の結果進行性のスキルス胃癌と判明し半蔵門病院に入院、胃の4分の3を切除する。5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りを見せたものの、入院前に比べ次第に身体は痩せ細り、時折休憩を挟まないと描き続けられないほど体力が低下していった。同年10月に再入院。11月、万全な体調とはいえない中で「参加しなければ国際問題です」と周囲の制止を振り切り、中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席するが、帰国と同時に体調が悪化。12月に再度手術を受けるが、この時点ではすでに末期の状態であり、肝臓にまでがんが転移していた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "翌1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征が見舞いに来たときには、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せた上で医師から聞いたことを話すと「そうか...」と一言だけ言ったという。手塚は病院のベッドでも、医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "同年1月25日以降、昏睡状態に陥るが意識が回復すると「鉛筆をくれ」と言っていた。息子の眞は、「(この頃の父は)昏睡が覚めると鉛筆を握らせるがすぐに意識がなくなりの繰り返しだった」と語っている。死に際の状態であるにもかかわらず「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心をなくさなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1989年(平成元年)2月9日午前10時50分、半蔵門病院で死去。60歳没。手塚治虫の死に立ち会った松谷によると、手塚治虫の最期の言葉は、「頼むから、仕事をさせてくれ」。通夜は2月11日、東久留米市の自宅で、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬としてそれぞれ営まれた。墓所は豊島区摠禅寺。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "手塚の死により、『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された。また、梅原猛の小説『ギルガメシュ』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、そのときの体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後ストーリー漫画の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄、石ノ森章太郎、ちばてつや、望月三起也、楳図かずお、中沢啓治など。劇画を始めた辰巳ヨシヒロ、桜井昌一、佐藤まさあき も衝撃を語っている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "その一方で、「手塚が「新寶島」で映画から学んだ革命的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ。これは一部正しいが全てが正しいというわけではない。呉智英は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段のコマ割りはむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『スピード太郎』(宍戸左行)と比べても革新的なものとはいえないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」がみられるとしている。米澤嘉博も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている。また、中野晴行は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上記のような話題が生まれた背景には、1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の表現規制が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのようななかで『新寶島』に触れた衝撃や影響を、藤子不二雄Aなど後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、というかたちで読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などをはじめとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の並行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、Gペンの使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では丸ペンの使用が一般的だった)、スクリーントーンの採用などがある(注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「生命の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "手塚は、自身はマンガにおいて時代の流れに合わせ転向を繰り返す転向者であるとしたうえで、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語っている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "手塚は子供を「未来人」と呼び、以下のように語っている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、異民族間、異文化間の対立や抗争などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後まもないころ、酔っ払ったアメリカ兵にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている。もっとも、『ジャングル大帝』などにおける「分厚い唇、攻撃的なイメージ」といった類型的な黒人観は批判されており、手塚の死後の1990年には「黒人差別をなくす会」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には差別と受け取られる表現について弁明するただし書きが付けられるようになった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "また、漫画を描く際にプロ・アマ、さらには処女作であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない禁則として、\"基本的人権を茶化さないこと\"を挙げ、どんな痛烈かつどぎつい描写をしてもいいが、「戦争や災害の犠牲者をからかう」「特定の職業を見下す」「民族、国民、そして大衆を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生のころによく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、エロス、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "鳴海丈が書いた書籍『萌えの起源』(PHP新書 2009年)によると「萌え」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「ボクっ娘」「萌え擬人化(擬人化)」「ケモノ」「ロリ系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から\"意図的に\"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい。』", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた数え年ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の書籍に掲載された手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している。晩年においては生年月日は大正15年(1926年)で定着していた。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "また、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実どおり「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実どおり帝国大学附属医学専門部の学生だったと振り返っている。しかし1980年代には「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部予科入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実どおり紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校であることが指摘されている。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "一方、血液型もプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に精密検査を受けてA型と知らされた」と説明している。なお、息子の眞もA型である。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。飯沢匡がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "手塚のアシスタントであったわたべ淳は、手塚が鉛筆で下書きをせずにペン入れしていたことを証言している。フリーハンドでかなり正確な円や直線を描くことができ、揺れるタクシーや飛行機の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、乗り物の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。インクは開明墨汁を愛用し、『マンガの描き方』でも推薦している。死去の前年には林家木久蔵(現・木久扇)に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「絵ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚のデッサン力に対する負い目があったともいわれている。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れることもたびたびであった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "漫画の技法を自ら開拓していくかたわらで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "速読にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという。喫茶店などで打ち合わせの前に本屋に立ち寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "漫画の製作に取りかかりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "手塚は極度の激務家だったことで知られ、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったといわれる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。手塚の死後、93歳まで健在だったライバルの水木しげるはエッセイ漫画『睡眠のチカラ』の中で、自分は1日10時間の睡眠を実践することで長生きができたと語り、反対に手塚は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと指摘していた。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "手塚は医師免許を持っていたが、大阪帝国大学附属医学専門部の時代からすでにプロの漫画家として活動しており、インターン時代に患者を診ていたのを除いて職業医師として活動したことはなく、編集者やアシスタントなど興味本位で診察を受けに来た人間の多くを追い返していた。ただし、岡部冬彦が手塚と海外に行き体調を崩した際は手塚が診察している。そのとき、岡部は手塚のことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査したが、手塚の言うとおりただの飲み過ぎであった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "手塚が医者になるのをやめ漫画家一本にした直接的な理由は、手塚の母にある。手塚は「せむしの仔馬」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるかを相談した。母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心した。ちなみにそのときの映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになった。またこれは手塚が病室でコンテを切っていた遺作の一つ「青いブリンク」の原作でもある。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "また手塚の学生時代の恩師からは授業中もずっと漫画を描いている手塚に対して「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と言われている。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は血を見るのが嫌いで道を断念したという。大学は「絶対に医師として働かない」という条件付きで卒業させてもらったという。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "なお専門は外科である。担当教授の紹介で奈良県立医科大学の研究生となり、論文「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究」(タニシの異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)で1961年に医学博士を取得した。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "医師免許は終身有効であり、手塚はプロの漫画家になった後も医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。没後の2003年11月20日から宝塚市立手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」に医師免許証の現物が公開陳列されたとき、ある識者から免許証は当人死亡後は政府に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があった。厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置がとられた。厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている。それにより現在遺され記念館に展示されている免許証には「抹消」の赤印が押されている。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "手塚治虫はプロ野球と関係が深く、特に「アトムズ(現:東京ヤクルトスワローズ)」と「埼玉西武ライオンズ」に繋がりがある。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "現在の東京ヤクルトスワローズ(セントラル・リーグ加盟)は「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時のフジテレビ社長水野成夫の意向でフジサンケイグループに買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権がヤクルト本社に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また、「埼玉西武ライオンズ」(パシフィック・リーグ加盟)も手塚と繋がりがある。1978年、クラウンライターライオンズが西武グループに買収され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『ジャングル大帝』の主人公・レオがマスコットに採用され、2008年までユニフォームの帽子もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の堤義明オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・ライナも1981年より登場している。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。日本生命セ・パ交流戦、西武ドームで開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また2013年4月には、「読売ジャイアンツ」(巨人)と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され東京ドーム内グッズ売店等で売りだされることになった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "なお、手塚自身は阪神タイガースのファンであった。1950年の年賀状では、「野球ものも考えていますが近頃の阪神の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム を着た虎が素振りをしているイラストに添えてコメントしており、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。1985年に阪神がセ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズで同年のパ・リーグ優勝チームである西武と対戦したときは「どちらも勝て」と大弱りだったという。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "トレードマークは、ベレー帽と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている。しかし、街中を歩くとき、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと横山隆一を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄(藤本弘)などもベレー帽をかぶっていた。また、トキワ荘のマンガ家のあいだでよく用いられた「~氏」という敬称はもともと手塚が使っていたもので、相手の年齢にかかわらず用いられて便利ということで広まったと水野英子は証言している。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "身長は170センチメートルと、戦前生まれとしては大柄であった。視力は度の強い近視であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。特に「チョコがなければ仕事ができない」というほどのチョコレート好きであり、死後に施錠されていた仕事机の中からかじりかけの板チョコが見つかった。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "人並み外れた仕事量をこなしたことで知られているが、決して家庭を蔑ろにすることはなく、誕生日とクリスマスには必ず家族でレストラン・ディナーをとる習慣があり、計画を立てて正月と夏休みには家族旅行に出かけていた。田中圭一には「マンガ家としてだけじゃなく父としても神」と評された。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "アシスタント経験のある漫画家古谷三敏によると、手塚はアルコールがあまり飲めず、煙草も普段は吸わなかった。バーで煙草をふかしたときは上手く吸い込めていなかったという。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1962年に日本共産党への支持を表明後、日本共産党の選挙応援にたびたび駆け付け、赤旗にも掲載されていた。一方で、自由民主党の機関紙である「月刊自由民主」にも、1984年10月号に寄稿したことがある。", "title": "作風と功績" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "祖父・手塚太郎は司法官で、1886年(明治19年)に創立された関西法律学校(現・関西大学)の創立者の一人である。大阪地方裁判所検事正から名古屋控訴院検事長、長崎控訴院長などを歴任した。曽祖父・手塚良仙は適塾に学んだ蘭方医で、1858年(安政5年)に江戸の神田お玉ヶ池種痘所(現・東京大学医学部の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』でフィクションを交えつつ描かれており、福澤諭吉の自伝『福翁自伝』にも記録が残っている。遠祖は平安時代の武将・手塚光盛とされる。家系図 (なお作家活動時には多くの書籍で生年を大正15年(1926年)と紹介していた)。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "父・粲は住友金属に勤める会社員であり、カメラを愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの9.5mmフィルム映写機(パテベイビー)を所有しており、治は小学校2年生から中学にかけて、日曜日には家にいながらにしてチャップリンの喜劇映画、マックス・フライシャーやディズニーのアニメ映画を観ることができた。そのため治は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、家には田河水泡の『のらくろ』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという。また、のちに父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、治虫は「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという。粲は晩年はファンクラブの世話人として、手塚の元を訪れるファンを接待していた。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "母・文子は、服部英男(陸軍中将。陸士11期・陸大23期、輜重兵将校、最終補職は輜重兵監。)の娘で、厳しいしつけのもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が召集された際は、生活費の捻出や畑仕事から隣組の役員まで務める働きぶりを示す一方で、幼少期の治に子守唄代わりに絵本や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて読み聞かせていた。母もまた漫画好きであり、のちに治虫の長男・眞が治虫の書斎で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅にパラパラ漫画を発見した。てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって文子が描いたものだったと判明したという。1983年1月4日、74歳で没。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "治虫は初期の自伝などで父を悪く書き、母を持ち上げるというエディプスコンプレックス丸出し の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける亭主関白として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部はのちにエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹・美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている。このことは「ぼくの漫画期」にも載っている。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "治は長子で、下には2歳下の弟・浩と4歳下の妹・美奈子(結婚後は宇都に改姓)がいる。浩は「子供のころ昆虫のことがもとでああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」と語っている。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに宝塚市の手塚治虫記念館に訪れている。美奈子は「戦争が始まって兄はどこか変わった。それまでは天国のような生活だったけど、戦争が始まって軍事教練などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・ヒョウタンツギの創作者でもある。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "妻の悦子(旧姓・岡田)は、血の繋がらない親戚で幼馴染であった。結婚が第一次ベビーブームと重なっていたため、結婚前に2回しかデートができず、しかも結婚披露宴では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという。悦子は梅花高女(現・梅花中学校・高等学校)出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "子供は3人。長男は映像作家の手塚眞 (本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)。長女はプランニングプロデューサー・地球環境運動家の手塚るみ子(少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)。次女は女優の手塚千以子(ちいこ・『千夜一夜物語』にちなんで命名)。また、声優の松山薫は姪。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "日本で漫画制作作業の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を最初に始めたのは手塚治虫であるといわれている。 なお以下のリストは完全なものではない。手塚治虫は、アシスタントは通例2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "以下のリストは完全なものではない。なお、虫プロダクションの最盛期には従業員が400人以上いたといわれる。", "title": "関連人物" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "これはまだ不完全なリストである。", "title": "関連人物" } ]
手塚 治虫は、日本の漫画家、アニメ監督、医師。勲等は勲三等。学位は医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。本名は手塚 治(読み同じ)。 戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。兵庫県宝塚市出身で同市名誉市民。出生は大阪府豊能郡豊中町。大阪帝国大学附属医学専門部卒業。
{{redirect|マンガの神様|蘇之一行によるライトノベル|マンガの神様 (ライトノベル)}} {{別人|x1=[[東映]]6代目社長の|手塚治}} {{統合文字|&#xfa10;|[[Image:U+FA10.svg]](&#xfa10;)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 手塚 治虫 | ふりがな = てづか おさむ | 画像 = Osamu Tezuka 1951 Scan10008-2.JPG | 画像サイズ = 200px | 脚注 = [[1951年]] | 本名 = 手&#xfa10; 治(読み同じ) | 生年 = {{生年月日と年齢|1928|11|3|no}} | 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[豊能郡]][[豊中市|豊中町]] | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1928|11|3|1989|2|9}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[千代田区]][[麹町]]([[半蔵門病院]])<ref name="nenkan">{{Cite book|和書|author=時事通信|title=時事年鑑 1990年版|publisher=[[時事通信社]]|date=1989年|page=205}}</ref> | 国籍 = | 職業 = [[漫画家]]、[[アニメ監督]]、[[医師]] | 称号 = [[瑞宝章|勲三等瑞宝章]]<br />[[博士(医学)|医学博士]]<br />([[奈良県立医科大学]]・[[1961年]]) | 活動期間 = [[1946年]] - [[1988年]] | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[少女漫画]]<br />[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[新宝島|新寶島]]』<br>『[[ジャングル大帝]]』<br>『[[鉄腕アトム]]』<br>『[[リボンの騎士]]』<br>『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』<br>『[[どろろ]]』<br>『[[ブッダ (漫画) |ブッダ]]』<br>『[[ブラック・ジャック]]』<br>『[[三つ目がとおる]]』<br>『[[アドルフに告ぐ]]』 | 受賞 = * 第3回[[小学館漫画賞]](『漫画生物学』『びいこちゃん』) * 第1回[[講談社出版文化賞]]児童まんが部門(『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』) * 第28回[[ヴェネツィア国際映画祭]]サンマルコ銀獅子賞(劇場アニメ『[[ジャングル大帝]]』) * 第4回[[日本漫画家協会賞]]特別優秀賞(『[[ブラック・ジャック]]』) * 第1回[[広島国際アニメーションフェスティバル]]グランプリ(『おんぼろフィルム』) * 第21回[[文藝春秋漫画賞]](『[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]』『動物つれづれ草』) * 第1回[[講談社漫画賞]]少年部門(『[[ブラック・ジャック]]』『[[三つ目がとおる]]』) * 第29回[[小学館漫画賞]](『[[陽だまりの樹]]』) * 第10回[[講談社漫画賞]]一般部門(『[[アドルフに告ぐ]]』) * 第10回[[日本SF大賞]]特別賞受賞 * 第19回日本漫画家協会賞[[文部科学大臣賞|文部大臣賞]] * [[ウィンザー・マッケイ賞]] * [[アイズナー賞]](没後の受賞)他 | サイン = Tezuka signature.svg<!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [https://tezukaosamu.net/jp/ 手塚治虫公式web]<br />[https://www.facebook.com/tezukaosamu.net/ 手塚治虫公式facebook] }} {{ウィキポータルリンク|手&#xfa10;治虫}} '''手塚 治虫'''(てづか おさむ、[[1928年]]<ref group="注釈">生前は1926年生まれと自称していた(「現代漫画6巻 手&#x585A;治虫集」〈筑摩書房〉著者紹介など)。</ref>[[11月3日]] - [[1989年]][[2月9日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[アニメ監督]]、[[医師]]。[[勲等]]は[[瑞宝章|勲三等]]。[[学位]]は[[博士(医学)|医学博士]]([[奈良県立医科大学]]・[[1961年]])。本名は手塚 治(読み同じ)。 [[戦後#第二次世界大戦後|戦後]]日本において[[ストーリー漫画]]の第一人者として、漫画表現の開拓者的存在として活躍した。[[兵庫県]][[宝塚市]]出身で同市名誉市民<ref>{{Cite web|和書|title=宝塚市名誉市民など|website=宝塚市|url=https://www.city.takarazuka.hyogo.jp/about/profile/1018272.html |accessdate=2022-08-17}}</ref>。出生は[[大阪府]][[豊能郡]][[豊中市|豊中町]]。[[大阪大学|大阪帝国大学]]附属[[旧制医学専門学校|医学専門部]]卒業。 == 概要 == [[大阪大学|大阪帝国大学]]附属[[旧制専門学校#旧制医学専門学校|医学専門部]]在学中の1946年1月1日に[[4コマ漫画]]『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビュー。1947年、[[酒井七馬]]原案の[[書き下ろし|描き下ろし]][[単行本]]『[[新宝島|新寶島]]』が[[ベストセラー]]となり、大阪に[[赤本 (少年向け本)|赤本]]ブームを引き起こす。1950年より[[漫画雑誌]]に登場、『鉄腕アトム』『[[ジャングル大帝]]』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。 1963年、自作をもとに日本初となる30分枠の[[テレビアニメ]]シリーズ<ref group="注釈" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。[[1970年代]]には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。また晩年にも『火の鳥』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など[[青年漫画]]においても傑作を生み出す。デビューから[[1989年]](平成元年2月)に死去するまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された<ref group="注釈">初出は開高健「マンガの神様・手塚治虫」(週刊朝日1964年2月21日号)。ちなみに、生前の手塚は著書『ぼくはマンガ家』のように、漢字表記の「漫画」よりカタカナ表記の「マンガ」を好んで使っていた。</ref>。 [[藤子不二雄]]([[藤子・F・不二雄]]、[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]])、[[石ノ森章太郎]]、[[赤塚不二夫]]、[[横山光輝]]、[[水野英子]]、[[矢代まさこ]]、[[萩尾望都]]などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。 == 生涯 == === 幼少期 === 手塚治虫(本名:治)は[[1928年]][[11月3日]]、大阪府豊能郡豊中町<small>(現・[[豊中市]]本町付近)</small>に、父・[[手塚粲]](てづかゆたか・[[1900年]] - [[1986年]]5月14日<ref name="tezuka1980">{{Cite web|和書|url=https://tezukaosamu.net/jp/about/1980.html|title=1980年代 年譜 手塚治虫について|accessdate=2019-08-10|author=手塚プロダクション|website=手塚治虫公式サイト}}</ref>)と母・文子([[1909年]] - [[1983年]])の長男として生まれた。[[明治節]]に生まれたことから「[[明治]]」にちなんで「'''治'''」と名づけられた{{Sfn|桜井|p=22}}。3人兄弟の長男であり、弟は手塚浩([[1930年]] - )、妹は宇都美奈子([[1932年]] - [[2015年]])。 1933年、治が5歳の時に一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした兵庫県川辺郡小浜村(現・[[宝塚市]])川面(かわも)の邸宅に移り住んだ。このころの[[宝塚市|寶塚<small>(現・宝塚)</small>]]は、[[小林一三]]が[[箕面有馬電気軌道]]の乗客増加を狙って田園風景の中に開発した[[新興住宅地|新興の住宅地]]が散在して、その中心に[[宝塚歌劇団|宝塚少女歌劇団<small>(現・宝塚歌劇団)</small>]]の本拠地である[[宝塚大劇場]]、[[宝塚ファミリーランド]]の前身である[[宝塚温泉|宝塚新温泉]]や宝塚ルナパークなどの[[リゾート|行楽施設]]が立ち並んで、一種の異空間を形作っていた{{Sfn|桜井|pp=24-28}}。宝塚の人工的な近代都市の風景は手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる{{Sfn|夏目|pp=70-71}}。 父は[[宝塚ホテル]]の中に作られた宝塚倶楽部の会員であり、ときどき治は父に連れられて宝塚ホテルのレストランで食事をして、母には宝塚少女歌劇団に連れていってもらっていた{{Sfn|桜井|p=31}}。また手塚家の隣家は宝塚少女歌劇団の[[男役]]トップスターである[[天津乙女]](本名:鳥居榮子)と[[雲野かよ子]](本名:鳥居華子)と池邊鶴子(本名:鳥居久代)姉妹が住む鳥居家であり、[[宝塚音楽学校]]に入学したい娘が保護者とともに[[百度参り|お百度]]を踏む光景がよく見られるなど、宝塚少女歌劇団の女性と接する機会も多かった{{Sfn|手塚|1999|p=20}}。のちに手塚は、初恋の相手が宝塚少女歌劇団の生徒だったこと、宝塚の生徒を見たいがために宝塚大劇場に通ったこと、[[月丘夢路]]や[[淡島千景]]のような[[鉄火#鉄火肌|鉄火肌]]の女性が好みであること、月丘主演の大映映画『新雪』(1942年)を20数回観たことを語っている{{Sfn|北|p=20}}。 1935年、[[大阪教育大学附属池田小学校|池田師範附属小学校<small>(現・大阪教育大学附属池田小学校,ただし移転により当時とは場所が異なる)</small>]]に入学した。母が東京出身であったこともあり、[[近畿方言]]を話せず浮いた存在であった。しかし、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画絵が治を救うことになる。小学3年生のときに、最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させると、その後漫画の練習に取り組み{{Sfn|手塚|1997|p=20}}、小学5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成。同作品は、仲間内のみならず学校の[[教員|教師]]のあいだでも話題になるほどであり、以後教師からも漫画を描くことを黙認されるようになったという{{Sfn|手塚|1997|pp=20-22}}。漫画を描くことで同級生たちからも一目置かれ、また漫画目当てにいじめっ子も手塚の家に訪れるようになるなどして次第にいじめはなくなった。誕生日には家に20人もの友人が集まるほどになっていた{{Sfn|手塚|1997|p=13}}<ref group="注釈">ただし、後述の石原実は手塚没後のインタビューで「手塚がいじめっ子を自宅に呼んで漫画で懐柔・籠絡した」とされる点に疑問を呈している。石原によると、同窓会のたびに皆で「おかしいなー」と言っていたが、手塚本人に言うと「『すまん、すまん』とケロッとして」いたという。(池田啓晶他 『手塚治虫完全解体新書』 集英社、2002年、p238)</ref>。友人が家に来ると、[[紅茶]]と[[菓子]]でもてなされ、治の誕生日には[[ちらし寿司|五目寿司]]や[[茶碗蒸し]]がふるまわれた{{Sfn|手塚|1997|p=13}}。この当時に描いた漫画の一部は今でも記念館に保存されている{{Sfn|手塚|2009}}。 この時期に、同級生の石原実(後に大阪[[淀屋橋]]石原時計店社長)と親しくなり、彼の影響を受けて[[昆虫]]や[[自然科学|科学]]、[[天文学]]に興味をもつようになる{{Sfn|手塚|1997|pp=6-9}}。手塚家の邸宅の広い庭は昆虫の宝庫であり{{Sfn|桜井|p=32}}、また周囲の田園地帯にも虫が豊富にいて、[[昆虫採集]]には最適の環境だったことから、趣味に対し深みをもたせた{{Sfn|手&#xfa10;|1999|p=29}}。友人から借りた平山修次郎『原色千種昆蟲図譜』を読み、[[甲虫類|甲虫]]の[[オサムシ]]の存在を知り、それにちなんで、この時期から[[ペンネーム]]として「'''手塚治虫'''」を使い始めた。1950年ごろまでは、「'''治虫'''」はそのまま「'''おさむ<u>し</u>'''」と読ませていた{{Sfn|手塚|1999|p=274}}。 === 青年期=== 1941年、[[大阪府立北野高等学校|大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野'''高等'''学校)]]に入学。日本は[[日中戦争]]の真っただ中で[[軍事]]色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを[[学校教練]]の教官に見つかり殴られるなどしている{{Sfn|桜井|p=45}}。この時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。 [[第二次世界大戦]]末期の1944年夏には体の弱い者が集められる[[健民修錬所|強制修練所]]に入れられた。9月からは学校に行くかわりに[[工廠|軍需工場]]に駆りだされ{{Sfn|桜井|p=45}}、ここで[[格納庫]]の[[屋根]]にする[[粘板岩|スレート]]を作った{{Sfn|手塚|1997|p=52}}。 1945年3月、修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。[[浪速高等学校 (旧制)|旧制浪速高等学校]](現・[[大阪大学]])を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった{{Sfn|桜井|p=58}}。6月、[[学徒勤労動員|勤労奉仕]]で[[防空監視哨|監視哨]]をしていたときに[[大阪大空襲]]に遭遇、頭上で[[焼夷弾]]が投下されるも九死に一生を得る{{Sfn|手塚|1997|pp=52-59}}。この空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『[[どついたれ]]』(1979年 - 1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている{{Sfn|桜井|pp=48-50}}。この体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった{{Sfn|手塚|1997|p=62}}。 同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された<ref group="注釈">なお、[[1947年]]の大阪帝国大学から大阪大学への名称変更に伴い、医学専門部も大阪大学附属医学専門部と改称された。</ref>。医学専門部は、戦争の長期化に伴い、[[軍医]]速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、[[学制]]上は[[旧制医学専門学校]]であり{{Refnest|group="注釈"|旧制大学と旧制専門学校は明確に区別されており、旧制専門学校卒業生には[[学士号]]の授与も行われなかった。}}、したがって[[旧制中学校]]からの入学が可能であった{{Sfn|桜井|p=59}}。大阪大学(旧・大阪帝国大学)[[大学専門部 (旧制)|附属医学専門部]]は1951年に廃止されている。なお後述の通り[[医師国家試験]]についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。 === デビュー、赤本の世界へ === [[終戦の日|終戦]]後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]』の原型)という長編を[[毎日新聞]]学芸部へ送った{{Sfn|手塚|1999|pp=57-60}}。これは音沙汰なしに終わったが、その後、手塚の家の並びに、花里いさ子という宝塚のスターがいて、その姪にあたる女性が毎日新聞社の秘書課に勤務しており<ref>竹内 2008 p.88</ref>、その紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現・[[毎日小学生新聞]])学芸部の程野という人物に会い{{Sfn|手塚|1999|pp=61-65}}、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『[[マアチャンの日記帳]]』を連載(1946年1月1日 - 3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。この『マアチャン』はローカルながら人気があり、[[人形]]や[[駄菓子]]の[[キャラクター]]に使用されたという記録も残っている{{Sfn|米澤|p=13}}。『マアチャン』に続けて4月から『[[京都新聞|京都日日新聞]]』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと並行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近いかたちで終わっている{{Sfn|米澤|p=13}}。 本人の語るところによれば、漫画家としてのデビューは、戦時下の1944年(昭和19年)に描いた大政翼賛会の「桃太郎」であるという<ref>竹内 2008 p.74</ref>。しかしながら、現物はみつかっていない。 漫画家としてデビューする前の1945年ごろ、[[桂春団治 (2代目)|2代目桂春団治]]が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した<ref>{{Cite book |和書 |author=河本寿栄|editor=小佐田定雄|editor-link=小佐田定雄|date=2002-02 |title=二代目さん 二代目桂春団治の芸と人|edition= |publisher=[[青蛙房]] |volume= |pages=130-131 }}</ref>(現物は[[宝塚市立手塚治虫記念館]]に展示されている)。2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。 1946年、[[同人誌]]『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の[[コラボレーション|合作]]の話を持ちかけられる{{Sfn|手塚|1999|pp=89-90}}。これは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった{{Sfn|手塚|1999|p=90}}。こうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くというかたちで200ページの描き下ろし長編『[[新宝島|新寶島]]』が制作された{{Sfn|手塚|1999|p=91}}。1947年1月に出版されると、当時としては異例の[[ベストセラー]]となった。映画的な構成とスピーディな物語展開をもつ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている{{Sfn|米澤|p=82}}{{Sfn|呉|p=128}}(後段[[#新寶島(新宝島)の革新性]]も参照)。 ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に[[赤本 (少年向け本)|赤本]]ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本のかたちで長編作品を発表できるようになった{{Sfn|米澤|pp=14-15}}。手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編をもとに、学業のかたわら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった{{Sfn|手塚|1999|p=96}}。1947年に発表された『[[火星博士]]』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識した[[B級映画]]的な作品であったが、1948年の『[[地底国の怪人]]』からは[[悲劇]]的な展開も取り入れるようになり、[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[冒険]]などを題材に作品中でさまざまな試みが行われた。同年末に描かれた『[[ロストワールド (漫画)|ロストワールド]]』では様々な立場の人物が絡み合う[[地球]]規模の壮大な物語が描かれ、つづく『メトロポリス』(1949年)『[[来るべき世界 (漫画)|来るべき世界]]』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF[[三部作]]をなしている{{Sfn|米澤|pp=15-16}}。1949年の[[西部劇]]『拳銃天使』では[[幼年漫画|児童漫画]]で初の[[接吻|キスシーン]]を描く{{Sfn|米澤|p=16}}。1950年には文豪[[ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ|ゲーテ]]の『[[ファウスト (ゲーテ)|ファウスト]]』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。 === 医師合格 === 漫画執筆が忙しくなると大学の[[学年制と単位制|単位]]取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。[[教授]]からも「[[医師|医者]]になるよりも漫画家になるように」と忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める{{Sfn|手塚|1999|pp=98-99}}。もっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年[[原級留置|留年]]。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに[[大阪大学医学部附属病院]]で1年間[[インターン制度|インターン]]を務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている<ref>公表されている手塚治の医師免許による。</ref>。 このため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている{{Sfn|手塚|1999|p=100}}。 === 雑誌連載開始 === [[ファイル:Nerima Oizumi-animegate Chronological table Ribon no kishi 1.jpg|thumb|大泉アニメゲートに設置されている「ねりまアニメ年表」の一コマ。]] 手塚は大阪で赤本漫画を描くかたわら、東京への持ち込みも行っている。当初期待した[[講談社]]では断られたが、新生閣という[[出版社]]で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった{{Sfn|桜井|pp=72-73}}。同年11月より雑誌『[[漫画少年]]』([[学童社]])にて『[[ジャングル大帝]]』の連載を開始、1951年には『[[鉄腕アトム]]』(1952年 - )の前身となる『アトム大使』を『[[少年 (雑誌)|少年]]』([[光文社]])に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された{{Sfn|米澤|p=21}}。1953年には『[[少女クラブ]]』(講談社)にて『[[リボンの騎士]]』の連載を開始した。宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった{{Sfn|米澤|p=27}}。1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』の連載を開始した。『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。 [[ファイル:Tezuka Osamu.JPG|thumb|1953年]] 月刊の雑誌連載という形態は、手塚がそれまで[[書き下ろし|描き下ろし]]単行本で行ってきた複雑な物語構成の見直しを余儀なくさせ、読者を引っ張るための魅力的なキャラクター作りや単純な物語構成などの作劇方法へ手塚を向かわせることになった{{Sfn|米澤|p=23}}。一方、描き下ろし単行本の方は1952年の『バンビ』『罪と罰』の2冊で終わりを告げるが、代わりに[[郵便法]]の改正によってこの時期に雑誌の付録が急激に増加し、手塚は連載作品と並行して付録冊子のかたちで描き下ろし長編作品をいくつも手がけ、このかたちで単行本時代の作品も続々と[[リメイク]]されていった{{Sfn|米澤|pp=23-24}}。 私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で[[豊島区]]の[[トキワ荘|トキワ莊]]に入居{{Sfn|手塚|1999|p=183}}した。その後トキワ荘には、手塚に続いて[[寺田ヒロオ]]、[[藤子不二雄]]が入居。手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も[[石ノ森章太郎|石森章太郎]](後に石ノ森章太郎に改名)、[[赤塚不二夫]]など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。この時期、手塚はトキワ莊の漫画家に[[映画]]をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという<ref group="注釈">徹夜明けであっても映画館に駆け込んだという。『観たり撮ったり映したり』(手塚治虫著)</ref>。 なお、1953年に手塚は関西の[[高額納税者公示制度|長者番付]]の画家の部でトップとなったが、仕事場が[[木構造 (建築)|木造]]2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている{{Sfn|手塚|1999|pp=184-185}}。 『鉄腕アトム』『[[ぼくのそんごくう]]』など児童漫画の人気作品の連載をする一方で、手塚は1955年に大人向けの漫画雑誌『[[漫画読本]]』([[文藝春秋|文藝春秋新社]])に『第三帝国の崩壊』『昆虫少女の放浪記』を発表しており、ここでは子供向けの丸っこい絵柄とは違った大人向けのタッチを試みている{{Sfn|米澤|p=31}}。1955年から1958年にかけての手塚は知的興味を全面に出した作品を多く出しており{{Sfn|米澤|p=31}}、1956年にSF短編シリーズ『[[ライオンブックス]]』を始めたほか、学習誌に『漫画[[生物学]]』『漫画天文学』などの[[学習漫画]]を発表、後者は第3回小学館漫画賞(1957年)の対象作品となった。このほかにも幼年向け作品や[[絵物語]]、[[小説]]や[[エッセイ]]など漫画家の枠を超えた活動をするようになっており{{Sfn|米澤|pp=32-33}}、1958年には[[東映アニメーション|東映動画]](現・東映アニメーション)の演出家白川大作から請われて同社の嘱託となり劇場用長編漫画映画『[[西遊記 (1960年の映画)|西遊記]]』(『[[ぼくのそんごくう]]』が原作)の原案構成を受けもっている{{Sfn|桜井|p=118}}。 === 劇画との闘い === 1958年ごろより、各漫画誌で[[桑田二郎|桑田次郎]]、[[武内つなよし]]、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現しており、この時期の手塚は人気面ではそのような漫画家たちの一人に過ぎなくなっていた{{Sfn|米澤|pp=85-86}}。さらに手塚を脅かしたのは、この時期に新しく台頭してきた[[劇画]]の存在であった。社会の闇をストレートに描く劇画の人気は当時の手塚を大いに悩ませ、階段から転げ落ちたり、大阪の劇画作家の拠点に押しかけ、集会に参加したりした{{Sfn|桜井|p=119}}。 当初は劇画の雑誌にも連載をもつなどしていたが、手塚の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]までが貸本劇画を何十冊も借りてくるようになると、手塚は[[ノイローゼ]]に陥り、精神鑑定も受けたという{{Sfn|手塚|1999|pp=216-217}}。またすでに、1957年には『黄金のトランク』(『[[西日本新聞]]』連載)で劇画風のタッチを試みるなどしており、徐々に劇画の方法論を自作に取り入れていくようになる{{Sfn|桜井|p=121}}。 1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌『[[週刊少年マガジン|少年マガジン]]』(講談社)および『[[週刊少年サンデー|少年サンデー]]』([[小学館]])が創刊され、それ以後月刊の少年誌は次第に姿を消していくことになった。このとき、手塚は誘いを受けて小学館の専属作家となった(ただし、『少年サンデー』初代[[編集長]]の[[豊田亀市]]は、契約料200-300万円(当時)を提示して専属契約を持ちかけたが、断られたと証言している{{Sfn|豊田|pp=59-63}}。)が、講談社からも誘いを受けて困惑し、結局『少年サンデー』創刊号には自身の手による『スリル博士』を連載、『少年マガジン』の方には連載13回分の下描きだけをして石森章太郎に『[[快傑ハリマオ]]』の連載をさせている{{Sfn|桜井|p=118}}。同年、[[宝塚ホテル]]にて結婚式を挙げる。 === アニメーション === ; アニメーション制作に至るまで : 前述のとおり、幼少期から[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー映画]]を愛好していた手塚は、もともと[[アニメーション]](注:1960年代ぐらいまでは世間一般では漫画映画と呼ばれていた)に強い関心を持っており、アニメーションの制作は念願の仕事であった。特に影響を受けた作品はディズニーの『バンビ』(1942年[[アメリカ合衆国|米国]]公開)だが、これは日本では戦後の1951年になって公開された(ディズニーの『白雪姫』(米国公開1937年)や『ピノキオ』(米国公開1940年)も日本での公開は戦後になってのことである)。 : 日本は戦時中はディズニーや[[フライシャー・スタジオ|フライシャー兄弟]]など米国のアニメーションの公開を禁止していたが、1942年(昭和17年)に<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/255316|publisher=映画ナタリー|date=2017-11-03|accessdate=2018-03-08|title=アジア初の長編アニメ「西遊記 鉄扇公主の巻」新千歳空港で上映、岡田秀則の講演も}}</ref>戦時中の日本において初めて公開された動画作品であるアジア初の劇場用長編動画作品『[[西遊記 鉄扇公主の巻]]』([[中華民国|中国]]、1941年、73分、モノクロ)を観て感動した。戦後ずいぶん経った1980年に[[中華人民共和国|中国]]を訪れた際には[[上海美術映画製作所]]で監督の万籟鳴と対面を果たして[[孫悟空]]とアトムが握手するイラストを制作した<ref>{{cite web|url=https://www.163.com/ent/article/5M88C4TF00033RBG.html|publisher=网易娱乐|date=2009-10-22|accessdate=2017-11-06|title=纪念手冢治虫辞世20年 他曾让阿童木牵手孙悟空}}</ref>。 : プロの漫画家になる前の敗戦の年である1945年に手塚は、焼け残った大阪の[[松竹座]]において海軍省製作の長編漫画映画『[[桃太郎 海の神兵]]』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという{{Sfn|手塚|1999|pp=33-34}}。戦後の1946年(昭和21年)に上京した際にアニメータ募集の張り紙をみて漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。 : 漫画は手塚にとってアニメーション制作の資金を得るための手段だった{{Sfn|山本}}。[[評論家]]の[[大宅壮一]]から([[華僑]]のように出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味の揶揄として)「阪僑」<ref>大宅壮一は1958年に「文藝春秋」で連載した「日本の人物鉱脈」で「最近私は"阪僑"という妙な言葉をつくって、大阪人気質、東京その他における大阪系人物のありかたを、南方諸地域や日本における中国人のありかたになぞらえて」と書いている。 : 札埜和男『大阪弁「ほんまもん」講座』新潮社、2006年 ISBN 978-4106101601 p20</ref>と嘲評されるほど漫画を描いて稼ぎまくった。また自らを「ディズニー狂い」と称した。また前述のとおり、東映動画から請われて嘱託の仕事(長編劇場アニメーション映画「西遊記」(1960年)、原案は手塚治虫の連載漫画「ぼくのそんごくう」や北杜夫との共同の脚本による「アラビアンナイト・シンドバッドの冒険」(1962年))を受けている。 ; 虫プロダクション設立 : 1961年、手塚は自分のプロダクションである[[手塚プロダクション]]に動画部を設立。当初は6人のスタッフから始まった{{Sfn|手塚|1999|p=237}}。最初に制作した作品『ある街角の物語』はスタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品で、[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]や[[芸術祭 (文化庁)|文部省芸術祭]]奨励賞など数々の賞を受賞する{{Sfn|手塚|1999|p=237}}。その後1962年に動画部は「[[虫プロダクション]]」と改名した。虫プロダクションは最盛期には400人を超えた数の正社員を擁していたという。 ; 鉄腕アトム : 虫プロダクションへの改名後、日本初となる30分枠のテレビアニメーションシリーズ(当時はテレビ漫画と云われた)<ref group="注釈" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『鉄腕アトム』の制作に取りかかった。しかし当初は総勢10名にも満たないスタッフでは毎週テレビ放送用にディズニーのような絵の枚数を要するフルアニメーション番組を制作することは作業量の面からまったく不可能であり、毎週の放送を可能にするために絵の枚数を大幅に削減するためのさまざまな[[リミテッド・アニメーション|リミテッドアニメ]]の手法を工夫して編み出すに至った。毎週放送のアニメーション番組を実現するために(既にアメリカの[[ハンナ・バーベラ・プロダクション]]などでも工数を減らしたリミッテッド・アニメーションの制作は行われていたがそれらも参考にして)試行錯誤と創意工夫を積み重ねて作り出したさまざまなリミテッド・アニメの手法や様式は、その後の日本のアニメーション制作全般に大きな影響を与えることになる。虫プロの鉄腕アトムは、当時の日本のテレビアニメーションを代表する大人気作品になった。 [[ファイル:Nerima Oizumi-animegate Chronological table Jungle Emperor Leo 1.jpg|thumb|300px|大泉アニメゲートに設置されている「ねりまアニメ年表」の一コマ。]] ; ジャングル大帝 : 1967年には自身の漫画が原作である『[[ジャングル大帝]]』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞している。1969年から「アニメラマ三部作」(二作目『[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]』を監督)が制作される(注:アニメラマの第一作目「[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]」と第二作目のクレオパトラの企画と制作には手塚は強く関わっているが、三作目のアニメラマ「[[哀しみのベラドンナ]]」は手塚が虫プロダクションを辞した後に作られた作品で手塚は全く関与をしていない)。これは従来の子供向けアニメ映画とは逆の位置にあり、成人向けに作られた劇場用アニメーション映画であった。 : また、虫プロダクションはアニメーション監督としては[[杉井ギサブロー]]、[[りんたろう]]、[[山本暎一]]、[[出崎統]]、[[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]]、[[富野由悠季]]、[[吉川惣司]]など、[[アニメーター]]としては[[中村和子]]、[[月岡貞夫]]、[[川尻善昭]]、[[芦田豊雄]]、[[安彦良和]]、[[杉野昭夫]]、[[荒木伸吾]]、[[北野英明]]、[[村野守美]]、[[金山明博]]など、制作者としては[[丸山正雄]]、[[鈴木良武]]、岸本吉功、田代敦巳、[[清水達正]]、若尾博司、八田陽子、[[明田川進]]、酒井明雄、[[布川ゆうじ]]など後に日本を代表するアニメーション制作者となる人材を多く輩出した。 ; 低額なアニメ制作費の功罪 : たとえリミテッド・アニメの手法を用いるにしてもテレビ放送の30分枠用に(最低レベルで)1本あたり2,000枚分の動画を動画家(アニメーター)5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げる{{Sfn|桜井|p=136}}という苛酷な労働状況が作られることとなった。また作品を1本につき55万円<ref group="注釈">ただし、アニメーション『鉄腕アトム』関係者への聞き取りと資料の再調査を行った[[津堅信之]]は実際には「当初は1本155万円が代理店より制作費として支払われていた」としている。津堅によると、その後も制作料は少しずつ引き上げられており、「虫プロは確実に経営努力を実施して、かつ結果を得ている。『『アトム』を55万円で作ったから、その後のアニメ制作環境が悪くなった』という評価がいまだにあるとすれば、短絡的であると言わざるを得ない。」としている(津堅信之『アニメ作家としての手&#x585A;治虫―その軌跡と本質』NTT出版、2007年)。</ref> という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。 : 手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればスポンサーに受け入れられやすくなることや、他者の競争参入を阻める考えたからであったと語るが{{Sfn|手塚|1999|p=242}}、これはのちに手塚自身が「大失敗だった」{{Sfn|手塚|1999|p=242}}と認めたように、結果的に大誤算であった。『アトム』の大成功を見て他者がこの分野に次々と参入を開始して低予算で多くの番組が制作され放映されることになったのである{{Sfn|桜井|p=142}}。 : しかし当初は[[経営]]が苦しかった虫プロも『アトム』が大ヒットすると[[版権]](マーチャンダイジング)収入で莫大な利益が上がるようになり、また海外に向けて作品の放映権+派生商品を展開する権利を販売できたことなどにより、急速に規模が拡大してゆき(最盛期には社員総数が一時は400名から最大550名の規模となり)、『アトム』は虫プロダクションを黒字にさせた{{Sfn|手&#xfa10;|1999|p=249}}。放送が4年間続いた『鉄腕アトム』は放映開始から1年半で手塚の漫画原作をほぼ使い切ってしまい、その後に虫プロ文芸部のスタッフが独自に作ったエピソードは人気を得るための戦闘が描かれる傾向が強まり、「鉄腕アトム」から手塚の好んだアニメーションらしいユーモアが失われていった{{Sfn|手塚|1999|p=249}}<ref group="注釈">アニメーターの[[大塚康生]]は、手塚が一方で理想のアニメに憧れながらも、遂にそれを成し遂げられなかった原因を、[[商業主義]]のためではなくて、手塚がアニメの技術について無知だったからだとしている。「演技設計やアニメートに無関心では優れたアニメーションになるはずがなかったように思います。実際、手塚氏はフル・アニメーションの基礎技術をディズニーなどの先達に学んだ形跡がなく、ろくにアニメーターの養成もせずに漫画的なリミテッドから出発している点も実に不思議です」(大塚『作画汗まみれ 増補改訂版』P95「4章 テレビアニメーション時代の幕開け」)</ref>。 : また、手塚の存命中から「アニメーターの給料が安いのは手塚のせいである」と雑誌で非難されることがあったが、手塚はこう反論している「しかしね、ぼく個人我慢ならんのはね、こういう声があるんだよ。手塚があのアトムを売る時、べらぼうな安値できめてしまったから、現在までテレビアニメは制作費が安くて苦労するんだと。冗談じゃないよ。」「あの時点での制作費はあれが常識なんで、あの倍もふっかけようもんなら、まちがっても[[スポンサー]]はアトムを買わなかったね。そうしたら、テレビアニメ時代なんて夢物語だったろうね。」「たしか四十何万が制作費で、ぼくの持ち出しは二十万くらいでしたかね。ところがアトムがべらぼうにあたったんで、アニメ番組はあたるということで、それから半年ほどあとには、アニメものがたちまちバタバタとできたんだ。その制作費は、なんと百万ですよ!つまりそれだけ出してもモトがとれてお釣りがくると企業は踏んだんだ。それから先はご覧の通りですよ。現在制作費は五百万円が下限で、六、七百万円ぐらいはスポンサーが出しますよ」<ref>「話の特集」1979年7月号 瀕死のアニメーション</ref>。 : また[[杉井ギサブロー]]は、手塚治虫が独自のリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろうとも語っている。 ; アート・アニメーションへの功績 : 一方で、アート・アニメーション(手塚自身は商業アニメーションに対比して「実験アニメーション」と言っていた)の分野にも功績を残している。虫プロで「ある街角の物語」(1962年,38分)、「おす」(1962年)、「めもりい」(1964年)、「人魚」(1964年)、「タバコと灰」(1965年)、「しずく」(1965年)、「展覧会の絵」(1966年、33分)、「創世記」(1968年)、その後に手塚プロで「ジャンピング」(1984年)、「おんぼろフィルム」(1985年)、「プッシュ」(1987年)、「村正」(1987年)、「森の伝説」(1987年,29分20秒)、「自画像」(1988年)と長編、短編の非商業作品を制作した。第1回[[広島国際アニメーションフェスティバル]]グランプリに『おんぼろフィルム』が選ばれている([[名誉会長]][[ポール・グリモー]]、審査委員長は[[ラウル・セルヴェ]]、選考委員長アントワネット・モゼス)。虫プロ社内には社長であった手塚の発案により、実験作品の製作資金に対して20万円の助成制度まで設けられていた(手塚によると、虫プロを設立したのは本来は実験アニメーションの制作を行うためであったと語っている)。 === 低迷と復活 === アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと並行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『[[ジャングル大帝]]』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『[[マグマ大使]]』の連載などが1963年 - 1965年にかけて行われている{{Sfn|米澤|p=50}}。他のアニメ作品と関連して『[[W3]]』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。 1966年、手塚は実験漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』を創刊する。先行した[[白土三平]]の劇画作品『[[カムイ伝]]』を看板作品とする『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に対抗したもので{{Sfn|米澤|p=55}}、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や[[永島慎二]]などの意欲的な作品が掲載された。1967年には怪奇漫画『[[バンパイヤ]]』に続いて『どろろ』を『少年サンデー』に連載。これらは当時[[水木しげる]]によって引き起こされていた[[妖怪]]ブームを意識した作品であった{{Sfn|米澤|p=54}}<ref group="注釈">なお『どろろ』作中の妖怪は水木の影響を受けたと思われる[[点描]]が用いられている(夏目、151-152p)。</ref>。1968年には青年誌『[[ビッグコミック]]』(小学館)、『[[プレイコミック]]』([[秋田書店]])などが相次いで創刊し、青年漫画が本格的にスタートしており、手塚も『ビッグコミック』に『[[地球を呑む]]』『[[奇子]]』『[[きりひと讃歌]]』、『プレイコミック』に『[[空気の底]]』シリーズなど青年向けの作品を手がけている。この時期の手塚の青年向け作品は[[安保闘争]]などの社会的な背景もあり、暗く陰惨な内容のものが多かった{{Sfn|米澤|pp=56-57}}。 一方少年誌では『ファウスト』を日本を舞台に翻案した『百物語』、[[永井豪]]『[[ハレンチ学園]]』のヒットを受け{{Sfn|米澤|p=59}}、「[[性教育]]マンガ」と銘打たれた『[[やけっぱちのマリア]]』([[週刊少年チャンピオン]])、『[[アポロの歌]]』([[少年キング|週刊少年キング]])などを発表しているが、この時期には少年誌において手塚はすでに古いタイプの漫画家とみなされるようになっており、人気も思うように取れなくなってきていた{{Sfn|米澤|pp=59-62}}。さらにアニメーションの事業も経営不振が続いており、1973年に自らが経営者となっていた虫プロ商事、それに続いて虫プロダクション<ref group="注釈">手塚本人は1971年に経営者を退いていた。</ref>が[[倒産]]し、手塚も個人的に推定1億5000万円の[[借金]]を背負うことになった{{Sfn|桜井|pp=166-167}}。作家としての窮地に立たされていた1968年から1973年を、手塚は自ら「冬の時代」であったと回想している{{Sfn|夏目|pp=169-170}}。 1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、もともとは少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、[[壁村耐三]]編集長の厚意で始まったものであった{{Sfn|夏目|p=170}}。しかし、長期間続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった{{Sfn|米澤|p=65}}。さらに1974年、『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた{{Sfn|米澤|p=67}}。 1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『[[マンガ少年]]』([[朝日ソノラマ]])の創刊によって再開。1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『[[ユニコ]]』『[[MW (漫画)|MW]]』と6つの連載を抱えていた。また、同時期の漫画[[文庫本]]ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『[[手塚治虫漫画全集]]』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった{{Sfn|米澤|p=72}}。 === 晩年 === 1980年代になると、[[幕末]]から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、[[アドルフ・ヒトラー]]を題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』([[週刊文春]])など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる{{Sfn|米澤|p=93}}。「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞した。 1985年にNHKから取材を受けた時点{{Refnest|group="注釈"|1986年1月10日に[[NHK特集]]として『手塚治虫 創作の秘密』が放送された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www4.nhk.or.jp/P6882/x/2021-12-21/44/21988/2333074/ |title=NHK特集「手塚治虫 創作の秘密」 |date=2021-12-21 |publisher=NHK |archiveurl=https://archive.ph/ART8m |archivedate=2021-12-26 |accessdate=2021-12-26}}</ref>。}}では1日にわずか1~2時間の睡眠で漫画の執筆やアニメーション制作をこなしていた。「丸が上手く描けないんだ」と身体能力の衰えを認めつつも、取材陣に対し「(体の老化を乗り越えられれば)'''あと40年(100歳)は描きますよ、僕は。アイディアだけは、もうバーゲンセールしてもいいぐらいあるんだ'''」と創作活動への強い意欲を見せた。 === 死去 === しかし、それから3年後の1988年3月15日に、突然腹部の激痛にみまわれ、救急搬送される。検査の結果進行性のスキルス胃癌<ref group="注釈">当時の主治医によれば、この時点ですでにステージ4の段階であり、腹膜にまでがんが転移していたという。しかし、癌であること自体は当時の医療慣習により本人には最後まで告知されず、胃潰瘍と告げられていた。</ref>と判明し[[半蔵門病院]]に入院、胃の4分の3を切除する。5月に退院し、以前と全く変わらない多作振りを見せたものの、入院前に比べ次第に身体は痩せ細り、時折休憩を挟まないと描き続けられないほど体力が低下していった。同年10月に再入院。11月、万全な体調とはいえない中で「参加しなければ国際問題です」<ref>{{Cite book|和書|author=手塚治虫、松谷孝征|date=2014年10月|title=手塚治虫 壁を超える言葉|series=|publisher=かんき出版|location=|isbn=|quote=第25章}}</ref>と周囲の制止を振り切り、[[中華人民共和国]][[上海市]]でのアニメーションフェスティバルに出席するが、帰国と同時に体調が悪化。12月に再度手術を受けるが、この時点ではすでに末期の状態であり、肝臓にまでがんが転移していた。 翌1989年1月21日に手塚プロ社長の[[松谷孝征]]が見舞いに来たときには、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。胃癌ということは伏せた上で医師から聞いたことを話すと「そうか…」と一言だけ言ったという<ref>1989年2月10日放送『おはよう!ナイスデイ』</ref>。手塚は病院のベッドでも、医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。 同年1月25日以降、[[昏睡|昏睡状態]]に陥るが意識が回復すると「[[鉛筆]]をくれ」と言っていた。息子の眞は、「(この頃の父は)昏睡が覚めると鉛筆を握らせるがすぐに意識がなくなりの繰り返しだった」と語っている<ref name="SHIN">手塚眞「わが父 手塚治虫」朝日ジャーナル臨時増刊1989年4月20日号『手塚治虫の世界』所収</ref>。死に際の状態であるにもかかわらず「頼むから仕事をさせてくれ」と起き上がろうとし、妻は「もういいんです」と寝かせようとするなど最後まで仕事への執着心をなくさなかった<ref>NHK「手塚治虫 世紀末へのメッセージ」1999年1月15日 22:00 - 22:50放送</ref><ref>集英社新書「手塚先生、締め切り過ぎてます!」福元一義 2009年</ref>。 1989年(平成元年)2月9日午前10時50分、半蔵門病院で死去。60歳没<ref name="nenkan" />。手塚治虫の死に立ち会った松谷によると、手塚治虫の最期の言葉は、「頼むから、仕事をさせてくれ」。通夜は2月11日、[[東久留米市]]の自宅で<ref>東京読売新聞朝刊「いま永遠の"火の鳥"となる 手塚治虫さんの葬儀にファン1万人」(1989年3月3日)</ref>、葬儀は3月2日、東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[青山葬儀所]]で手塚プロダクションの社葬として<ref>東京読売新聞朝刊「手塚治虫さんの通夜 2000人がお別れ / 東京・東久留米」(1989年2月12日)</ref>それぞれ営まれた。墓所は豊島区[[摠禅寺]]。 手塚の死により、『[[グリンゴ]]』『[[ルードウィヒ・B]]』『[[ネオ・ファウスト]]』などの作品が未完のまま遺された{{Sfn|米澤|p=80}}<ref>[[NHKスペシャル]]「いのち〜わが父・手塚治虫」(1989年4月16日)</ref>。また、[[梅原猛]]の小説『[[梅原猛#著作|ギルガメシュ]]』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった<ref>宮﨑駿『折り返し点』(p.116、梅原の発言)</ref>。亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、そのときの体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。 周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる{{R|SHIN}}。しかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。 == 作風と功績 == === 手塚が影響を受けたもの === ; Milt Gross : 手塚の「映画のような」ページレイアウトは、[[:en:Milt_Gross|Milt Gross]]の初期のグラフィック小説[[:en:He_Done_Her_Wrong|He Done Her Wrong]]の影響を受けた<ref>{{cite web | title = A Yiddishe Manga: The Creative Roots of Japan's God of Comics | publisher = Wix | work = Innovative Research in Japanese Studies | url = http://media.wix.com/ugd/aa7d16_761fb1e8c44a48a6b42f22e3bb8d1b23.pdf | format = [[Portable document format|PDF]] | accessdate = 2014-07-17}}</ref>。 ; ディズニー : 手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、[[田河水泡]]『のらくろ』、[[横山隆一]]『[[フクちゃん]]』の[[模写]]をするようになったが、7歳のころに出た[[謝花凡太郎]]による[[ミッキーマウス]]の[[海賊版]]単行本に夢中になり、この本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年ごろまではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で、「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。ディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行われる「漫画映画大会」で上演されたものであった。父が家庭用映写機を購入したときには、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]』が封切られたときには映画館で50回、次の『[[バンビ (映画)|バンビ]]』は80回以上観たという。 ; チャールズ・チャップリン : 手塚は「尊敬する映画人」として、[[チャールズ・チャップリン]]と[[ウォルト・ディズニー]]を挙げている<ref>渡辺泰「アニメーションに魅せられた神様」、霜月たけなか編『誕生!「手塚治虫」』所収、朝日ソノラマ、1998年、101-102p</ref>。 : 暇があるとよく映画館に出かけた手塚は、チャップリンから多大な影響を受けていることを認めている。手塚はチャップリン映画のテーマが「食う」「寝る」「住む」の三要素に絞られていることが偉大である、と語っており、また「どうしたら後世に残る漫画が描けるのでしょうか」と質問を受けるたびに、「とにかくチャップリンの映画を見ろ。あれに全てがある」と答えている<ref>デアゴスティーニ『週刊100人』第20号「チャールズ・チャップリン」、2003年10月21日発行、27p</ref>。 ; フライシャー兄弟 : なお、[[竹熊健太郎]]は手塚が得意とした「[[落ち|楽屋落ち]]的なメタ・ギャグ」「キャラクターのメタモルファーゼ」から、[[フライシャー・スタジオ|フライシャー兄弟]]のアニメーションからも影響を受けていることを指摘している<ref>[http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-f5d4.html 「手塚治虫の引き裂かれた夢 (2)」]</ref>。 ; 万籟鳴 : また、手塚の担当編集者でマネージャーも務めた手塚プロ社長の松谷孝征は手塚が最も愛して尊敬したのは万籟鳴であり、手塚はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識するも実際は中国アニメ、特に万籟鳴の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早くて影響も深いと述べている<ref name="son171130">{{cite web|url=http://japanese.china.org.cn/jp/archive/zryhhj/node_2185493.htm|publisher=[[中国網]]|accessdate=2018-03-08|title=手&#xfa10;治虫氏と『孫悟空』}}</ref>。病で倒れる直前の1988年に第1回上海国際アニメフェスの審査員として中国を訪れた際も[[古希]]を迎えた万籟鳴と再会しており<ref name="son171130"/>、1989年8月27日に手塚プロが制作し、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]で放映された『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』でも中国で万籟鳴と会った場面が再現されており、病床の手塚が草案をしたためたものの完成を見ずに放送年の2月に手塚は死去したために遺作の1つとなった<ref>{{cite web|url=http://j.people.com.cn/n3/2017/0727/c94473-9247320-3.html|publisher=[[人民網]]|date=2017-07-27|accessdate=2018-03-08|title=手&#xfa10;治虫と孫悟空の「縁」 (3)}}</ref>。 ; 文学、演劇、宝塚文化 : 夏目房之介は、「手塚が漫画に持ち込んだ外部性・異質な文化」として、ディズニーとともに[[文学]]、[[演劇]]、[[宝塚歌劇団|宝塚]]文化を挙げている。幼少期の手塚の家には新潮社の「世界文学全集」があり、よく外国文学を読み漁っていたという。のちに漫画化した[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]『[[罪と罰]]』やゲーテの『ファウスト』は何十回も読み返しており、特に『ファウスト』は日本を舞台にした翻案作品『百物語』『ネオ・ファウスト』を含めると3度にわたり手塚によって漫画化されている。また宝塚演劇に惹かれたことで手塚は演劇青年となり、大学で演劇部に所属していたほか、在学中の1950年ごろには関西民衆劇場に所属し、ドストエフスキー『罪と罰』の公演にペンキ屋の役で出演するなどしている{{Sfn|手塚|1999|pp=21-22}}。夏目は初期の手塚作品の大げさな表情やポーズ、舞台セットのような背景に宝塚演劇の影響を見ており、また手塚漫画の特徴である牧歌的な風景と未来的な風景の同居を、当時の宝塚の人工的な風景に由来するものと見ている{{Sfn|夏目|pp=67-92}}。 ; その他 : 子供時代、家には「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」も揃っていたという<ref>「第一章 マンガとの出会い」内「あかぬけていた大阪文化」内の本人発言、手&#x585A;治虫+聞き手=石子順『手塚治虫漫画の奥義』、講談社、1992年</ref>。 : 1972年2月に発生した[[あさま山荘事件]]について、「わたしはこんな連中を『漫画世代』と読んでいるが、映像で育った若い人たちの間にこんな世代が広がっているのはものすごく危険だ。漫画家としても描き方を反省する時期に来ていると思う」と述べている<ref>{{Cite book|author=久能靖|title=浅間山荘事件の真実|date=|year=2002|accessdate=|publisher=河出書房新社|page=314|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}(1972年2月28日付『朝日新聞』から引用)</ref>。 === 新寶島(新宝島)の革新性 === 手塚治虫の最初期の作品である酒井七馬との共作による1946年の『新寶島』は戦後[[ストーリー漫画]]の原点とされ、本作を読んで影響を受けたり、漫画家を志した読者も多い。藤子不二雄<ref>『二人で少年漫画ばかり描いてきた』p.20</ref>、石ノ森章太郎<ref>石森章太郎『少年のためのマンガ家入門』秋田書店、1965年。</ref>、[[ちばてつや]]<ref>日本漫画学院(木村忠夫)編『漫画家名鑑1 漫画家訪問記』草の根出版会、1989年、p.84。ちばてつやインタビュー。</ref>、[[望月三起也]]<ref>瀬戸龍哉編『コミックを創った10人の男 巨星たちの春秋』ワニブックス、2002年、p.107。望月三起也インタビュー</ref>、[[楳図かずお]]、[[中沢啓治]]など。劇画を始めた[[辰巳ヨシヒロ]]{{Sfn|辰巳|p=18}}、[[桜井昌一]]<ref>桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版、1978年、p.32</ref>、[[佐藤まさあき]]<ref>佐藤まさあき『「劇画の星」をめざして 誰も書かなかった「劇画内幕史」』文藝春秋、1996年、p.11</ref> も衝撃を語っている。 その一方で、「手塚が「新寶島」で映画から学んだ[[革命]]的な技法を導入し、これまでのマンガのスタイルを一変させた」といったような話題も生んだ<ref>竹内オサム『手塚治虫論』平凡社、1992年、224-232p</ref>。これは一部正しいが全てが正しいというわけではない。[[呉智英]]は著書『現代マンガの全体像』(1986年)において、『新寶島』の1ページ3段の[[コマ (映画・漫画)|コマ割り]]はむしろ平凡なもので、構図なども戦前の作品である『[[スピード太郎]]』([[宍戸左行]])と比べても革新的なものとはいえないと指摘し、むしろ物語の展開の方に「手塚の天分」がみられるとしている{{Sfn|呉|p=128}}。[[米澤嘉博]]も「1ページ3段割を基本としており、アップやロングの使い分けもない」として同様の指摘を行い、それよりも戦前の絵物語やコミックストリップ、映画や少年小説などの冒険物語の要素を一つにしたところに新しさを見ている{{Sfn|米澤|p=97}}。また、[[中野晴行]]は著書『謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影』において、元アニメーターだった酒井の経歴に触れて、その後の手塚作品では「映画的表現」が後退していることから、『新寶島』の「映画的表現」には酒井の功績が大きかったのではないか、と推測している。一方、野口文雄は中野の説を批判し、『新寶島』の革新性は、それまで主に登場人物のセリフによる説明に頼っていた時間や状況の進行を、セリフによらずスピーディなアクションやコマ割り・構図による表現で行ったことであるとし(これこそが「映画的手法」)、こういった表現はそれ以前の『スピード太郎』などにも見られず、むしろそれ以降の酒井七馬の作品にも影響を与えたとする<ref>野口文雄『手塚治虫の「新宝島」』小学館、2007年</ref>。 上記のような話題が生まれた背景には、1938年に[[内務省 (日本)|内務省]]から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、児童図書の[[表現の自主規制|表現規制]]が10年近くなされていたため、戦前の漫画表現が忘れ去られていたこと、そのようななかで『新寶島』に触れた衝撃や影響を、[[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]など後の漫画界を支えたベテラン作家が語ったことなどがあった<ref>「霜月たかなか編『誕生!「手&#x585A;治虫」マンガの神様を育てたバックグラウンド』(1998年、朝日ソノラマ)</ref><ref>夏目房之介『手塚治虫はどこにいる』筑摩書房、1992年、48p</ref>。 [[夏目房之介]]は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。それまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、というかたちで読まれていた。しかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった{{Sfn|夏目|pp=44-46}}。これに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。流線や[[汗]]、[[擬音]]などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし{{Sfn|夏目|pp=47-66}}、また絵柄の[[記号]]化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった{{Sfn|米澤|pp=161-162}}。また物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などをはじめとする悲劇性の導入であり、[[死]]や[[エロティシズム]]を作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった{{Sfn|米澤|pp=162-163}}。 上記の絵柄の記号化、体系化は漫画制作の並行作業化分業化を容易とするもので、アシスタントを雇いプロダクション制を導入することを可能にした{{Sfn|米澤|p=181}}。漫画の制作に対して(アニメーション制作と類似の)アシスタント制、プロダクション制を導入したのは手塚が最初である。手塚が漫画制作に導入したものとしては他に、[[つけペン#Gペン|Gペン]]の使用(早く描けるという理由による。それまで漫画では[[つけペン#丸ペン|丸ペン]]の使用が一般的だった)、[[スクリーントーン]]の採用などがある{{Sfn|桜井|p=116}}(注:日本で漫画制作にスクリーントーンを導入したのは手塚治虫が最初ではない)。 === 手塚作品のテーマ === 手塚は自らの戦争体験によってもたらされた「[[生命]]の尊厳」を自身のテーマの一つとして挙げている{{Sfn|手塚|1997}}。 手塚は、自身はマンガにおいて時代の流れに合わせ転向を繰り返す転向者であるとしたうえで、「ただ一つ、これだけは断じて殺されても翻せない主義がある。それは戦争はご免だということだ。だから反戦テーマだけは描き続けたい。」と語っている<ref>手塚治虫エッセイ集(3)(手塚治虫漫画全集) P185-186 講談社 1997年</ref>。 手塚は子供を「未来人」と呼び、以下のように語っている。 {{quotation|私は、暗い時代といわれた昭和初期のなかでも、実に恵まれた環境で子ども時代をすごせたと思っています。しかしそれも、青春期には、空襲と窮乏生活によってほとんど失ってしまいました。父は戦争にとられるし、勉強はできず、腹をすかせ、大勢の友人を失いました。空襲に襲われて周囲が火と死体の山となったとき、絶望して、もう世界は終末だと思ったものです。だから戦争の終わった日、空襲の心配がなくなって、いっせいに町の灯(ひ)がパッとついたとき、私は思わずバンザイをし、涙をこぼしました。これは事実です。心の底からうれしかった。平和の幸福を満喫し、生きていてよかったと思いました。これは、当時の日本人のほとんどの感慨だと思います。 もう二度と、戦争なんか起こすまい、もう二度と、武器なんか持つまい、孫子(まごこ)の代までこの体験を伝えよう。あの日、あの時代、生き延びた人々は、だれだってそういう感慨をもったものです。ことに家や家族を失い、また戦争孤児になった子どもたちは、とりわけそう誓ったはずです。それがいつの間にか風化し形骸化して、またもや政府が、きな臭い方向に向かおうとしている。子どもたちのために、当然おとながそれを阻止しなければならないと同時に、子ども自身がそれを拒否するような人間にはぐくんでやらなければならないと思うのです。それは結局、先に述べたように、子どもに生きるということの喜びと、大切さ、そして生命の尊厳、これを教えるほかないと思うのです。人命だけでなく生命あるものすべてを戦争の破壊と悲惨から守るんだという信念を子どもにうえつける教育、そして子どもの文化はそのうえに成り立つものでなければならない。けっして反戦だの平和だのの政治的のみのお題目では、子どもはついてこない。率先して、生命の尊厳から教えていくという姿勢が大事なのではないでしょうか。<ref>思わずバンザイをし涙をこぼした:手塚治虫と戦争:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイトhttps://tezukaosamu.net/jp/war/entry/47.html 講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫講演集』「未来人へのメッセージ」講談社、1986年岩波書店刊『未来人へのメッセージ』</ref>}} 手塚は作品の中で天使と悪魔の二面性や、[[民族|異民族]]間、[[異文化]]間の対立や[[抗争事件|抗争]]などを繰り返しテーマにしている。手塚は戦後まもないころ、酔っ払った[[アメリカ軍|アメリカ兵]]にわけもわからず殴られ強いショックを受けたことがあり、これがこのテーマの原体験になっているのだとしている{{Sfn|手塚|1999|p=53}}。もっとも、『[[ジャングル大帝]]』などにおける「分厚い[[唇]]、攻撃的なイメージ」といった類型的な[[ネグロイド|黒人]]観は批判されており、手塚の死後の1990年には「[[黒人差別をなくす会]]」により糾弾を受けている。これ以後、手塚の単行本には[[差別]]と受け取られる表現について弁明するただし書きが付けられるようになった<ref>竹内オサム『戦後マンガ50年史』(1995年、筑摩書房)</ref>。 また、漫画を描く際に[[プロフェッショナル|プロ]]・[[アマチュア|アマ]]、さらには[[デビュー|処女作]]であろうがベテランであろうが描き手が絶対に遵守しなければならない[[タブー|禁則]]として、"[[人権|基本的人権]]を茶化さないこと"を挙げ、どんな痛烈かつどぎつい描写をしてもいいが、「[[戦争]]や[[災害]]の犠牲者をからかう」「特定の[[職業]]を見下す」「[[民族]]、[[国民]]、そして[[大衆]]を馬鹿にする」だけはしてはならない、「これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです」と述べている<ref>光文社刊『漫画の描き方』より</ref>。 夏目房之介は、手塚が追い求めたテーマを「生命」というキーワードに見出している。夏目は手塚が小中学生のころによく見たという以下のような夢を紹介し、この夢が生命、変身、不定形、[[エロス]]、世界との関わり方といった「手塚の作家の資質の核」をほとんど言い切ってしまっているとしている{{Sfn|夏目|pp=188-189}}。 {{Quote|子供のときの僕の夢は空飛ぶ夢とかそういうのはあまりなくて、やたらに見ているものがどんどん変わっていくような、また変わるものがセクシャルで僕の興奮につながるような……。[略]常に形が一定しないで、いろいろなものに変わる。たとえば僕と一緒に歩いている相手がいるんだけど、それは何かわからないが常に形が変わっている。僕に対して仕掛けることが常に違う。その恐怖感と同時にセックスアピールを感じる。[略]本当に異次元的なものですね。宇宙人なのか女どもなのかわからないが、僕の周りにとにかくそれがいるんです。それが常に変わる。<br /> 僕は宝塚に住んでいたんですが、学校の帰り道にちょっと寂しい沼があって、そこを通って家に帰るんです。小学生とか中学生のころそこを通る夢をよく見ました。沼地の横で得体の知れないものがブルブルふるえながら僕を待っている。それをつかまえて自分の家へ連れてくる。逃げ出すと困るから雨戸を閉めて、ふすまを閉めて絶対に出られないようにして、僕と物体が向かいあったところでたいてい夢がさめてしまう。その間も僕がそいつを見つけ、そいつが僕のところに寄ってきて、つかまえて家に帰るまでに、何だかわからないけどそいつがいつも変わるんです。[略]だから女にもなるし、男にもなるし、化け物にもなる。[略]つまり、常に動いている楽しさみたいなものがある。動いているのが生きているのだという実感があるわけです。つまり、しょっちゅう変化していることによって、変化しながら進化しているとか、何かに働きかけようとしているとか、つまり、一つのアクティブな感じを受けるんです。で自分はどうかというと常にパッシブでそれを見て感じるとか受け入れるとかいう形で、それを見ているだけなんですが、相手は何かの形で次々に流動しているんです。||「ヒゲオヤジ氏の生と性?」石上三登志『定本 手塚治虫の世界』所収、東京創元社、2003年}} 夏目によれば、1950年頃の手塚はこのような「不定形で変身をし続ける生命の原型」を、描線に込めて漫画の全世界に拡張したことで密度の高い作品を生んだ。しかし劇画の影響などから描線の自由度が失われると、描線では実現できなくなった生命観を理念として作品のテーマとしていき、『火の鳥』に現れるような汎生命思想が描かれることになったのだという{{Sfn|夏目|p=189}}。 [[鳴海丈]]が書いた書籍『萌えの起源』([[PHP新書]] 2009年)によると「[[萌え]]」文化が日本に誕生した理由を手塚によるものが大きいとし、その理由を「[[ボクっ娘]]」「[[萌え擬人化]](擬人化)」「[[ケモナー|ケモノ]]」「[[ロリータ・コンプレックス|ロリ]]系」等といったジャンルを日本漫画黎明期から"意図的に"漫画の中で多用してそれが広がったことを上げている<ref>鳴海丈『萌えの起源』PHP新書 2009年</ref>。 === 年齢と経歴と血液型 === 手塚治虫は、1928年生まれでデビュー時は1946年1月4日で17歳であったが、1946年1月1日付の少年国民新聞(現・毎日小学生新聞)にデビュー作の「マァチャンの日記帳」が紹介された際には、19歳として以下のように紹介されていた。 <blockquote>『新しく明日(原文ママ)から連載する漫画「マアチャンの日記帳」の作者手塚治蟲(原文ママ)さんはみなさんと同じクリクリ坊主で十九歳のお兄さんです。毎日、大阪帝大医学専門部に通学して、お医者さんになる勉強をしていられますが、小さい頃から漫画が大好きで国民学校2年生の時からいろいろの漫画をかいて、たのしんでいられました。あんまり上手なのでみなさんのために連載することにしました。ほがらかなマアチャンをかわいがって上げて下さい<ref>手塚治虫デビュー作品集 毎日新聞社 1991年</ref>。』 </blockquote> 関係の有無は不明だがこの時手塚は当時日常的に使われていた[[数え年]]ではこの記事が掲載された1946年元日で19歳になる。他に1989年の書籍に掲載された手塚と石ノ森章太郎との対談では「自分は20歳でデビューした」という体で話を進め、17歳でデビューした石ノ森を叱責している<ref name="石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)">石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)</ref>。晩年においては生年月日は大正15年(1926年)で定着していた<ref>{{Cite book|和書|author=杉山卓|title=アニメ・ハンドブック|date=1981-02|publisher=秋元書房||ncid=BA40504320||page=209}}</ref>。世間一般に本当の生年が明らかにされたのは死去直後のことであり、訃報を伝える新聞でも新聞の種類によって生年が異なるという不思議な事態が起きた。親しい立場にあった漫画家でさえ本当の年齢を知って驚いたほどであった<ref>1989年2月10日金曜日放送 テレビ朝日『こんにちは2時 マンガ界の神様手塚治虫さん逝く!!』「「若く見られてはいけない」ということで、先生公称は大正15年生まれとして手塚さんは通していらしていたということですね」</ref>。 また、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の卒業生であり、上記のようにデビュー当時の新聞には事実どおり「大阪帝大医学専門部(ママ)」と紹介されていた。1978年に手塚が書いた雑誌の寄稿文でも自分のことを事実どおり帝国大学附属医学専門部の学生だったと振り返っている<ref>1978年『20歳への提言』オーシャンプランニング所収</ref><ref>1992年『手塚治虫大全1』マガジンハウス社</ref>。しかし1980年代には<ref>「論集 手塚漫画のはじまり」(1980年名著刊行会)</ref><ref>「ユリイカ」手塚治虫特集号(1983年2月号)</ref>「1944年に旧制浪華高校理乙入学」「1945年に大阪大学医学部[[予科]]入学」と事実と異なった経歴が紹介されることもあった。(事実どおり紹介している書籍もある)手塚の没後、小野耕世『手塚治虫』(ブロンズ新社、1989年)によって「浪華高校」も「大阪大学予科」もそもそも存在しない学校であることが指摘されている{{Sfn|桜井|p=59}}。書籍によっては手塚の来歴が事実と異なった内容で紹介されるようになった理由については定かではない。 一方、血液型もプロフィールにおいてB型と紹介されることもあったが、現在ではA型ということで落ち着いている<ref>『漫画家・アニメ作家人名辞典』(日外アソーシエーツ)</ref>。これについては手塚本人の著書で「戦争中に検査を受けた際はB型と聞かされていたが、1980年代頃に[[人間ドック|精密検査]]を受けてA型と知らされた」と説明している<ref>手塚(1987)、pp.6-7。原文には精密検査を受けたのは「四年前」とあるが、もとは1982年から『[[キネマ旬報]]』に連載されたもので、この箇所の掲載号が明示されていないため、具体的に何年を指すのかは不明確である。手塚自身は自分がA型ということに納得がいかず「断じてぼくは(引用者注:[[血液型性格分類]]でいうところの)B型だと思う」とも書いている。</ref>。なお、息子の眞もA型である。 === 才能と作業の手法 === ベタ塗りを時折編集者などにやらせていたのが、後のアシスタント制度に繋がった。[[飯沢匡]]がそれを面白がり、「ベタマン」という小説にして発表したが、手塚に批判的な漫画評論家などから「手塚は一人で描いていない」という非難を浴びるようになり、第三回小学館漫画賞受賞(1957年)以降、長年漫画賞から遠ざかることになった<ref name="石ノ森章太郎『漫画超進化論』(河出書房新社、1989年)" />。 手塚のアシスタントであった[[わたべ淳]]は、手塚が鉛筆で下書きをせずに[[ペン入れ]]していたことを証言している<ref>『ブラックジャック創作秘話』第2巻 p9 秋田書店</ref>。フリーハンドでかなり正確な[[円 (数学)|円]]や[[直線]]を描くことができ、揺れる[[タクシー]]や[[飛行機]]の中でもかなり正確に描いたという(常に原稿の締め切りに追われていた手塚は、[[乗り物]]の中で作品を仕上げることも少なくなかった)。インクは開明墨汁を愛用し、『マンガの描き方』でも推薦している<ref>[https://www.nttcom.co.jp/comzine/no080/long_seller/index.html 開明墨汁 ニッポン・ロングセラー考 - COMZINE by nttコムウェア]</ref>。死去の前年には[[林家木久扇|林家木久蔵(現・木久扇)]]に「木久蔵さん、僕はね、丸が描けなくなった」と体の衰えを語っている。その一方で手塚は自分の漫画について「[[絵]]ではなくて記号」であること(漫画記号論)を繰り返し強調しており、その背景には手塚の[[デッサン]]力に対する負い目があったともいわれている<ref>大&#x585A;英志、ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』[[講談社現代新書]]、2001年、19p</ref>。作品の中で自身の画力を自虐的に扱うシーンを入れることもたびたびであった。 上記の通り常に原稿の締め切りに追われていた。これは、自身の漫画のネタとしてもたびたび登場している。理由は、来る仕事をほとんど拒まなかったためである。締め切りを守らず、編集者を待たせることから一部の編集者からはペンネームをもじって「ウソ虫」「遅虫」などと呼ばれていたという。 漫画の技法を自ら開拓していくかたわらで、劇画が流行すると自身の絵に劇画タッチを取り入れ、水木しげるの『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』が流行すると『どろろ』で妖怪マンガを繰り出し、『劇画』が主流の雑誌「ガロ」に対抗して、トキワ荘のメンバーである藤子不二雄や石ノ森章太郎といった『漫画』を主流にした雑誌「COM」を自ら立ち上げるなど対抗することも多かった。 [[速読術|速読]]にも長けており、500ページ程度の本を20分前後で読破したという<ref>TBS系「[[輝く日本の星!]] 手&#x585A;治虫を作る」</ref>。[[喫茶店]]などで打ち合わせの前に本屋に立ち寄り、立ち読みした本から得たアイデアを語り、「多忙なのに、先生はいつ勉強しているのか」と編集者を不思議がらせた(手塚眞講演)。 漫画の製作に取りかかりながら、別の雑誌の編集者とまったく別のテーマの漫画のアイデアについて電話で話していたこともあるという(手塚眞講演)。 手塚は極度の激務家だったことで知られ、睡眠時間は1日わずか4時間程度で、それ以上に眠ることはほとんどなかったといわれる。全盛期は月に数日程度しか眠らないこともしばしばであった。手塚の死後、93歳まで健在だったライバルの[[水木しげる]]はエッセイ漫画『睡眠のチカラ』の中で、自分は1日10時間の睡眠を実践することで長生きができたと語り、反対に手塚は徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと指摘していた。 === 医師免許取得者として === {{ external media | align=right | image1 = [https://natalie.mu/comic/gallery/news/14312/20471 手塚治虫の医師免許証]<br />コミックナタリー、2009年3月18日}} 手塚は医師免許を持っていたが、大阪帝国大学附属医学専門部の時代からすでにプロの漫画家として活動しており、インターン時代に[[患者]]を診ていたのを除いて職業医師として活動したことはなく、編集者やアシスタントなど興味本位で診察を受けに来た人間の多くを追い返していた<ref>テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.72</ref>。ただし、[[岡部冬彦]]が手塚と海外に行き体調を崩した際は手塚が診察している。そのとき、岡部は手塚のことを信じずに日本にトンボ返りして病院で検査したが、手塚の言うとおりただの飲み過ぎであった<ref>国際写真情報「異色対談 のらくろとアトム」1967年8月</ref>。 手塚が医者になるのをやめ漫画家一本にした直接的な理由は、手塚の母にある。手塚は「[[せむしの仔馬]]」というアニメ映画を見ることを口実に母親を連れ出し開演までの時間に映画館のロビーで漫画家になるか医師になるかを相談した。母親はためらうことなく自分の好きな方をやりなさいと答え漫画家一本で行くことを決心した<ref>角川文庫「火の鳥13 ギリシャ・ローマ編」あとがきの手塚治虫の妹である宇都美美奈子の寄稿より</ref>。ちなみにそのときの映画「せむしの仔馬」には火の鳥が登場し、これが手塚の「火の鳥」の着想の一つになった。またこれは手塚が病室でコンテを切っていた遺作の一つ「[[青いブリンク]]」の原作でもある。 また手塚の学生時代の恩師からは授業中もずっと漫画を描いている手塚に対して「手塚君、君は、このまま医者をつづけても、ろくな医者にはなれん。必ず患者を五、六人は殺すだろう。世の中のためにならんから医者をあきらめて漫画家になりたまえ」と言われている<ref>手塚治虫「ぼくはマンガ家」1979年</ref>。手塚はインターン時代に患者の顔を見るとどうしてもカルテに似顔絵を描いてしまうとも語っている。息子の眞によれば、手塚は[[血液|血]]を見るのが嫌いで道を断念したという。大学は「絶対に医師として働かない」という条件付きで卒業させてもらったという。 なお専門は[[外科学|外科]]である。担当教授の紹介で[[奈良県立医科大学]]の研究生となり、論文「[[異形成|異型]][[精子]][[細胞]]における[[膜]]構造の電子顕微鏡的研究」([[タニシ]]の異形精子細胞の研究。タニシの精子の研究を通じて人間の精子の発生のメカニズムを考えるというもの)で1961年に[[博士(医学)|医学博士]]を取得した<ref>{{Cite journal|和書|author=手塚治|title=異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究|date=1960-10-01|publisher=奈良医学会|journal=奈良医学雑誌|volume=11|issue=5|url= https://hdl.handle.net/10564/1075 |naid=120004973463|pages=719-735}}</ref>。 医師免許は終身有効であり、手塚はプロの漫画家になった後も医師免許(昭和28年9月18日医籍登録第150476号)を保持し続けていた。没後の2003年11月20日から宝塚市立手塚治虫記念館の企画展「『ブラック・ジャック』のDNA」に医師免許証の現物が公開陳列されたとき、ある識者から免許証は当人死亡後は政府に返納せねばならないと定めた法令に違反している、という指摘があった<ref>[https://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20031128000200 手塚さんの医師免許で波紋/「返納義務ある」と指摘]、[[四国新聞社]]、2003年11月28日。</ref>。厚生労働省と協議した結果、いったん規定どおりに返納手続きを行った後に同省が改めて遺族に譲渡するという特例の措置がとられた。厚生労働省医政局医事課試験免許室では「こういった例は過去にあまりない」としている。それにより現在遺され記念館に展示されている免許証には「抹消」の赤印が押されている<ref group="注釈">医師法第八条の規定に基づき内閣が制定した医師法施行令の第四条第二項には「医師が死亡し、又は失そうの宣告を受けたときは、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)による死亡又は失そうの届出義務者は、三十日以内に、医籍の登録のまつ消を申請しなければならない。」とあり、また同七条第一項には「医師は、医籍の登録のまつ消を申請するときは、住所地の都道府県知事を経由して、免許証を厚生労働大臣に返納しなければならない。第四条第二項の規定により医籍の登録のまつ消を申請する者についても、同様とする。」となっている。このため本来は死亡後三十日以内に遺族が医師の免許証の返納手続きをとるべきなのであったが、記念館内に展示保管されているため悪用されるおそれがないこと、医師免許証に文化財としての価値があるという理由で、法令の本来の規定を超えた特例の措置がなされた。</ref>。 === プロ野球との関わり === 手塚治虫は[[日本のプロ野球|プロ野球]]と関係が深く、特に「アトムズ(現:[[東京ヤクルトスワローズ]])」と「[[埼玉西武ライオンズ]]」に繋がりがある。 現在の東京ヤクルトスワローズ([[セントラル・リーグ]]加盟)は「国鉄スワローズ」という名前で誕生し、1965年に運営団体が当時の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]社長[[水野成夫]]の意向で[[フジサンケイグループ]]に買収され、「サンケイスワローズ」と変わった。1966年、『鉄腕アトム』がフジサンケイグループに属するフジテレビの看板番組となっていたことと、サンケイ新聞に鉄腕アトムを連載していたことから、名前を変え鉄腕アトムをマスコットキャラクターにした「サンケイアトムズ」が誕生した。「サンケイアトムズ」は1969年に「アトムズ」に変わり、経営権が[[ヤクルト本社]]に移ると「ヤクルトアトムズ」へと変わった。「ヤクルトアトムズ」は現在の「ヤクルトスワローズ」の直接の前身である。 また、「埼玉西武ライオンズ」([[パシフィック・リーグ]]加盟)も手塚と繋がりがある。1978年、[[福岡野球|クラウンライターライオンズ]]が[[西武グループ]]に[[M&A|買収]]され西武ライオンズ(2008年、埼玉西武ライオンズに改名)となった際には、『[[ジャングル大帝]]』の主人公・[[レオ (埼玉西武ライオンズ)|レオ]]がマスコットに採用され、2008年まで[[ユニフォーム]]の[[帽子]]もレオをデザインしたものが使われていた(それ以降も時折復刻ユニフォームでの試合で着用されている)。ただし、手塚は球団の[[堤義明]]オーナーから「大人になった姿のレオ」と指定されたことから父親の「パンジャ」がモデルであるとしている<ref>{{Cite news | title =1978年の10月12日、西武ライオンズが誕生。その経緯と豆知識 | newspaper = [[SUUMOマガジン|SUUMOジャーナル]]| date = 2012-10-12|url=https://suumo.jp/journal/2012/10/12/30668/|accessdate=2018-03-08}}</ref>。また、オリジナルキャラクターでレオの妹・[[ライナ (埼玉西武ライオンズ)|ライナ]]も1981年より登場している。 2008年、東京ヤクルトスワローズは『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』として、1969年のビジターユニフォームを復刻(手塚治虫生誕80周年記念事業として手塚プロダクションとの協賛)。[[日本生命セ・パ交流戦]]、[[西武ドーム]]で開催された西武戦では、奇しくもレオとの対決となり、手塚治虫ダービーと銘打たれた。 また2013年4月には、「[[読売ジャイアンツ]]」(巨人)と「鉄腕アトム」のコラボレーション企画「GIANTS×ATOM」が発表された。この企画では鉄腕アトムの登場人物達が読売巨人軍のユニフォームを着たキーホルダー、うちわ、タオルハンカチなどが商品化され[[東京ドーム]]内グッズ売店等で売りだされることになった。 なお、手塚自身は[[阪神ファン|阪神タイガースのファン]]であった。1950年の[[年賀状]]では、「野球ものも考えていますが近頃の[[阪神タイガース|阪神]]の不振に聊(いささ)かくさっているので書く気がありません」と1949年当時のユニフォーム<ref group="注釈">トレードマークの縦縞がなく、胸の部分に「OSAKA」と描かれているデザイン。</ref> を着た[[トラ|虎]]が素振りをしているイラストに添えてコメントしており<ref>[http://www.asahi.com/showbiz/manga/OSK200809250035.html 手塚治虫もトラファンだった 60年前の文通に素顔残す]([[朝日新聞]]・2008年9月25日)。なお、1950年当時の球団名は「大阪タイガース」であったが、この当時から通称としては「阪神」と呼ばれていた。</ref>、実際に野球を主題とする作品を描くことはなかった。ただし、年賀状を書いた1950年に連載した『タイガー博士の珍旅行』は「タイガース」という野球チームがあちこちを旅行する道中記(野球のプレーはしない)である。[[1985年の阪神タイガース|1985年に阪神がセ・リーグ優勝を果たし]]、[[1985年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で同年のパ・リーグ優勝チームである西武と対戦したときは「どちらも勝て」と大弱りだったという<ref>週刊少年マガジン1989年3月15日「思い出の手塚先生」</ref>。 === 関係の深い漫画家 === {{内容過剰|date=2023年7月|プロジェクト:漫画家/過剰な内容の整理|section=1}} ; [[藤子不二雄]] : 藤子不二雄([[藤子・F・不二雄|藤本弘]]と[[藤子不二雄A|安孫子素雄]])の二人は、手塚治虫の「[[新寶島]]」に衝撃を受け漫画家を志した。彼らは学生時代に手塚のファンとして手塚にハガキを出し、その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」との直筆のハガキを受け取った。そのハガキには手塚のキャラクターの絵と一緒に、文字の列が角度を変えながら中心に近づくように書かれており、ハガキをぐるぐる回しながら文字の列を読むという手塚らしい実に独特なものであった。このハガキが、ますます彼らの漫画家への志に拍車をかける。藤子不二雄は当初、手塚にちなみ、「手塚不二雄」のペンネームで漫画を投稿する。しかしあまりにも露骨なため、「手塚の足にも及ばない」という意味を込め「足塚不二雄」に変更した。 : 高校3年のときに、かつて手塚が「[[マァチャンの日記帳]]」を連載していた新聞に「今は手塚先生の漫画が載っていないのでかわりに僕たちの漫画を載せてください(要約)」との手紙を添えて漫画「[[天使の玉ちゃん]]」を投稿。それが採用されプロデビューを果たす。その3か月後、二人で手塚の実家を訪れている。藤子の単行本デビュー作「[[UTOPIA 最後の世界大戦]]」は、手塚の紹介で出版社が藤子に執筆を依頼し、世に出ることになった。 : その後上京した藤子不二雄は、手塚の住んでいた「トキワ莊14号室」に入れ替わりで入居して暮らすこととなる。手塚はお金のない二人のために敷金の肩代わり(藤子は2年後に返還)と、漫画を描くための机を残している。そのため、藤子不二雄の初期作品は手塚の机で描かれたものである<ref group="注釈">この机は[[藤子不二雄A|安孫子]]の生家である富山県氷見市の[[光禅寺 (氷見市)|光禅寺]]に保管されている。</ref>。憧れの手塚が住んでいた、トキワ莊14号室に住めたことについて[[藤子・F・不二雄|藤本]]は、「四畳半というものがこんなに広いものかと感動しました<ref>藤子不二雄「トキワ荘青春日記」光文社</ref>」と語る。[[藤子不二雄A|安孫子]]も自身の漫画でトキワ莊14号室を宇宙のような壮大な情景で描いている。その後、たびたび手塚治虫の緊急アシスタントとして手塚の仕事を手伝っていた。 : [[藤子・F・不二雄|藤本]]は、生涯にわたって手塚を「最大の漫画の神様」と尊敬し続け、自伝や漫画の書き方の本で手塚を絶賛していた。[[藤子不二雄A|安孫子]]も同様に手塚を尊敬し、自伝漫画「[[まんが道]]」では手塚を最大の師として登場させ、「手塚治虫はふたりにとって神であった」「いや、日本中の漫画少年にとっても神であった」と頻繁に手塚を「神」と表現した。現在手塚が「漫画の神様」と称されるのは彼らの影響が大きい(それ以前は漫画の王様といわれてもいたがドラえもんブームの際はコロコロコミック等で藤子が漫画の王様と呼ばれた)。藤子不二雄が漫画家25周年を迎えた際には手塚タッチの[[ドラえもん]]とドラえもん風のヒョウタンツギを描いた色紙をプレゼントしている。その25周年記念パーティーは手塚が仕切り、二人を二次会まで連れていっている<ref name="「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号">「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号</ref>。 : 手塚は藤子不二雄のスタジオに突然ひょっこり「ハハハ、来たよ」と特に用事もないのにふらっと現れることもあった<ref name="「手塚治虫は宇宙人だ」月刊文藝春秋1989年4月号" />。また[[藤子不二雄A|安孫子]]が新宿の焼き鳥屋で飲んでいると、そのことを聞きつけた手塚がやってくることもあったという。手塚は[[藤子・F・不二雄|藤本]]と二人で「[[惑星ソラリス]]」などの映画を見ることもあった。 : 手塚は藤子の本の寄稿で「[[オバケのQ太郎]]」のことを「おばけという概念をこれほどまでにキュートに、子どもの世界にひきずりおろして描いた作品は以前にないでしょう。アメリカには幽霊の子どもを主人公にした[[出てこいキャスパー|キャスパー]]という例がありますが、これよりもずっととぼけていて性格づけがみごとです。」「キャラクターの描きやすさの点でも、まず、オバQ君にかなうものはありますまい。(日本に現在のようなキャラクター漫画が流行する前の発言)」と語っている<ref>小学館「藤子不二雄自選集8」1981年 -藤子さんは凸凹コンビです 手塚治虫-</ref>。 : 手塚治虫の漫画「七色いんこ」では藤子のドラえもんが登場するコマがある。「黄金のトランク」では主人公の名前が不二雄である。「どろろ」と「バンパイヤ」には「オバケのQ太郎」が登場。「がちゃぼい一代記」では、藤本と安孫子が手塚のアシスタントをする様子を手塚自身が描いている。手塚治虫漫画全集の「ジャングル大帝」のあとがきには藤子不二雄の二人に向けて、アシスタントしてくれたことに対する感謝の言葉と激励が書かれている。藤子の二人の結婚式の仲人は手塚が務めた。藤本は、手塚が亡くなったときの追悼文で「高校生になっても先生のまんがを読み続け……、気がついてみると自分もまんが家になっていた」と語っている<ref>小学館「コロコロコミック」1989年2月27日号</ref>。 : 手塚、藤本、安孫子の3人が住んでいた「トキワ莊14号室」の天井は、トキワ莊解体時に手塚が持ち帰っている。その理由は「室内にこんろを持ち込んでご飯を炊いたり、煮炊きをした。あの時の煙は天井にしみ込んでいるはず。大家さんに頼んで天井板を記念に譲ってもらいます」とのこと<ref>朝日新聞「漫画家の梁山泊『トキワ荘』解体」1982年12月1日</ref>。 ; [[石ノ森章太郎]] : 石ノ森(旧:石森章太郎)も手塚治虫の「新寶島」に衝撃を受けた<ref name="名前なし-1">石ノ森章太郎のマンガ教室</ref>。中学生の頃、手塚に分厚いファンレターを出したところ、手塚からさらに分厚い封筒の返事が届き、ますます手塚のファンになったという<ref name="名前なし-1"/>。 : 石ノ森は[[高等学校|高校]]在学時、手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄に投稿をするようになる。手塚は漫画少年に送ってきた石ノ森のことを、「天才的な少年の絵」と褒めている{{Sfn|手塚|1999}}。そして「鉄腕アトム」執筆中の手塚に依頼され、石ノ森は学業を中断して手塚のアシスタントを務めた。手塚は回を追うごとに上手くなる石ノ森の絵を見て舌を巻き、仕事を手伝ってもらったと語る。アシスタント経験中は、手塚は激務だったはずが石ノ森を映画に連れ出している。そのときの様子を石ノ森は「ギリギリの仕事のなかで、ある日、夜になると編集者の目を盗んで、こっそりぼくを映画館に連れて行ってくれた。ぼくだって当時のご多分にもれぬ映画少年である。編集者には申しわけないが、ちゃっかり便乗していた」と語る。そして、手塚が編集者に紹介したことにより、石ノ森は漫画家としてデビューすることになった。その後石ノ森は手塚が住んでいたトキワ莊に住んだ。手塚は自身の漫画に石ノ森をたびたび登場させている。石ノ森章太郎の結婚式の仲人は、遅刻するも手塚が務めた。テレビ映画「[[快傑ハリマオ]]」の漫画版では手塚が原作、作画が石ノ森で共作をした。1959年、石ノ森は手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚治虫の身代わりとして東映動画の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。のちに、この体験が石ノ森が東映グループで[[ゴレンジャー]]([[スーパー戦隊シリーズ]])等を代表とする、特撮作品の原作を担当するきっかけに繋がる。 : また、石ノ森は手塚が亡くなる少し前にも対談をしており、石ノ森は手塚のことを「面白おかしく事象を表現するだけ、と思われていた漫画というメディアで、ペーソスのみならず悲劇や深い哲学的な思索まで持ち込んで、ドラマを描くという試みは前人未到のことだった。」と彼の業績を評価している<ref>石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132</ref>。手塚は対談で石ノ森の漫画「[[仮面ライダー (漫画)|仮面ライダー]]」のことを「繰り返し、繰り返し読まれてもちっとも見劣りしない作品」と褒めている<ref name="秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年">秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年</ref>。 : 石ノ森はデビュー後のお金のない19歳の頃、手塚に内緒で「火の鳥風太郎」という、手塚の代表作のアイデアを使った作品を描いている。本作で得られた原稿料は、全てオーディオ機器を購入するために当てられた。 ; [[赤塚不二夫]] : 赤塚不二夫も手塚治虫の漫画「新寶島」「ロストワールド」に出会ったことで、漫画家になることを決意した<ref name="gakuin">[http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html 日本漫画学院 赤塚不二夫インタビュー] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20080916194413/http://www.manga-g.co.jp/akatsuka.html |date=2008年9月16日 }} 参考。</ref>。彼が18歳の時は[[長谷邦夫]]、石ノ森章太郎と一緒に『[[墨汁一滴]]』を描く仲間として手塚の家を訪問した<ref>『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、44-46頁。</ref>。その時、手塚は締め切りに追われ忙しいにもかかわらず赤塚達の似顔絵を描いたり、ピアノを披露したりして彼らは感銘を受ける。赤塚が新人漫画家としてデビューしたころ、手塚は「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」と助言した。手塚の言葉に従い、赤塚はレコード店に行き、店員に「一流の音楽が聞きたいんです。一流のレコードをください」と言うが、店員は何を渡したらいいのか分からず困ったという<ref>古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.55</ref>。その後、赤塚も手塚が住んでいたトキワ莊で暮らした。手塚はトキワ莊のメンバーに同様に「マンガからマンガを勉強するんじゃないよ。」「一流の芝居を見なさい、一流の本を読みなさい」などと言っており、赤塚は「だから僕たち(トキワ莊メンバー)はあの頃、ほとんど酒なんて飲まなかった。そのかわり、映画を見に行こう、音楽を聴こう、ジャズのコンサートに行こう、小説を読もう。手塚先生がそうしろって言ったから。」「そのときはわからなかった。それで後になってからその意味がわかってくる。手塚先生のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽を聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」と語っている<ref>赤塚不二夫120% 小学館文庫 1999年</ref>。手塚は赤塚をたびたび自身の漫画に登場させている。それと同時に手塚は赤塚のギャグである「シェー」など気に入っていたのか「W3」「火の鳥」など複数の作品に使っている。手塚の「ブラック・ジャック」の『アヴィナの島』の回では赤塚の「[[天才バカボン]]」のパパが登場する。 : 赤塚はトキワ莊時代、手塚のアシスタントを務めたことがある。また赤塚は雑誌の企画で「赤塚不二虫」のペンネームで、『鉄腕アトムなのだ!』という手塚作品のパロディ漫画を描いている<ref>自由国民社「赤塚不二夫の特集」1997年</ref>。その中には火の鳥やヒョウタンツギなどが登場。その表紙には「わたしにこのマンガをかかせた手塚治虫先生にこの1編をささげます」と書かれている。 ; [[水野英子]] : 水野英子も、小学3年生の時に手塚治虫の漫画に衝撃を受けて漫画家を志す。水野は16歳の頃に手塚に会いたいと伝えて東京に行き手塚と出会った。数年後、水野は上京して手塚が住んでいたトキワ莊の住人となる。水野は女性少女漫画家の草分け的先駆けとなった(それまでの少女漫画はほとんどの場合男性が描いていた。) : 水野は手塚を振り返って次のように語っている。「私が初めて先生の漫画に出会ったときのショックをどう言い表したらよいでしょう。そこには絢爛たるファンタスティック・ワールドが広がっていたのです!SF・西部劇・ミステリー、おとぎ話…次々と繰り広げられる見も知らぬ魅惑的な世界!街中の本屋さんを駆け巡り、一冊とも見逃すまいとするのがあのころの私の日課でした。やっと買い求めた本を、家に持ち帰るのももどかしく、読みながら歩いているうちに夢中になって家の前を通りすぎてしまったこと。親が死んでも泣かなかった私がジャングル大帝のラストシーンではもう何も見えなくなるぐらいショックで泣いてしまったこと…」「私は、ついに自分も漫画を描こうと決心し、漫画家への道を歩み始めました。十七歳で上京し、とうとう本物の先生にお会いできた時の感激!銀座の喫茶店でにこやかに優しく私を迎えて下さった先生のまぶしさ!手塚先生が最初に入居なさったというアパートトキワ莊に、当時の新人実力者たちといっしょに住むことができた嬉しさ!<ref>秋田文庫「鉄の旋律」手&#x585A;治虫 水野による巻末のあとがきより</ref>」手塚は水野のことを自著で「天才児水野英子」と書いている<ref name="1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫">1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫-</ref>。 ; [[横山光輝]] : 横山光輝も、手塚治虫の「メトロポリス」に感銘を受け漫画家を志す。しかし、高校卒業後は一旦就職した。 : 手塚はある日、大阪東光堂の社長に連れられたスマートな青年と出会う。社長はその青年は[[神戸銀行]]に勤めていると言い、社長は「うちでデビューさせようと思いますが、どうでっしゃろ?」と聞いた。手塚は彼の作品を読み、「売れるかも知れませんな」と褒め、その青年は漫画家としてデビューすることになった。その青年こそが横山光輝である<ref name="boku">手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、175p</ref>。横山はその後、手塚を原作とし「[[黄金都市]]」「ターザンの洞窟」など作画した。手塚は横山を「かれほど"[[彗星]]のように"という形容のあてはまる男はいない」と絶賛している<ref name="boku" />。「[[鉄人28号]]」は『少年』誌上で手塚の「鉄腕アトム」と人気を二分する大ヒット作となった。サンケイ新聞記者として、工業関係の取材経験のあった横山は、「最初は大きくしかできず、それから小さくなる」と考え、手塚治虫の『鉄腕アトム』を意識して鉄人28号を大型ロボットにしたとも語っていた。プライベートでも手塚と横山は付き合いがあったようで、横山が東京に来たばかりのころには、手塚がいろいろアドバイスしていた<ref>福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社《集英社新書》、2009年 P.44</ref>。横山は手塚のアシスタントも経験している。 : 手塚が亡くなった際、横山は「いつも僕は手塚さんの作品を参考にしてものを考えてきましたから、すべての作品から影響は受けています。技法の点でいえばアングルの取り方がとても上手だった。影を後ろにのばしたり、壁に大きく写したり。若いころはよく食事をごちそうになったりしたものです。やさしくて、とても他人に気を使う人でしたよ。」と語った<ref>1989年2月23日 SPA!</ref>。 : 手塚は生前、「横山さんはいろんなジャンルの仕事をされましたが、この『鉄人28号』と『[[伊賀の影丸]]』それに『[[三国志 (横山光輝の漫画)|三国志]]』の三つは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽マンガの功労賞があれば、横山さんにぜひ一番にさし上げるべきではないかと思います」と発言している<ref>横山光輝さんのこと「復刻版鉄人28号」第三巻 大都社 1979年</ref>。 ; [[松本零士]] : 松本零士も、小学2・3年生の頃、学級文庫で手塚治虫の描いた本を読んで漫画家を志した<ref name="松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111">松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111</ref>。それは手塚の「新宝島」「キングコング」「火星博士」「月世界紳士」であった。 : 松本は、「手塚さんの漫画がそれまでのどんな漫画よりもスピーディでかっこよかった。おそらく、当時、全国の漫画少年たちが度肝を抜かれたのではないか」と語る<ref name="松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.111" />。松本は手塚が連載していた『漫画少年』の投稿欄の常連になる。そして高校生のとき、それを見た手塚から「テツタイコウ テツカ(手伝い請う。手塚)」の[[電報]]を受け取る。松本は最初はイタズラかと思ったが、それはイタズラではなく本当に手塚が緊急のアシスタントを求めた電報であった。そこで松本は緊急アシスタントとして出向いて手塚を手伝いながら、漫画家について根掘り葉掘り質問した。この出来事は、松本がプロ漫画家を目指す思いを強めた<ref>松本零士「未来創造-夢の発想法」2010年 p.129</ref>。松本がプロの漫画家になり、上京してからも手塚とは親交があり、手塚が一人で突然に松本の下宿先を訪れ、窓の外から「おーい松本君。メシ食わせるから、出てこーい。」と誘ったこともあったという。 : 松本が手塚と気が合ったのは、お互いがあけっぴろげだからと語っている<ref>松本零士『未来創造-夢の発想法』2010年 p.133</ref>。 : 手塚の漫画「[[ばるぼら]]」には松本零士をモデルにした「松本麗児」という登場人物が登場し、漫画家で本の収集家という設定で、物語に重要な場面で関わってくる。 : また松本は、日本初の30分テレビアニメシリーズ<ref group="注釈" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>となった「鉄腕アトム」にも縁がある。松本は「鉄腕アトムですが、実は私も関係しているんです。試写会前日の夜中に手塚さんから私の下宿に『助けてくれ!』と電話があり、『映写機が壊れて編集ができない』というので、私の映写機を持って行ったんです。アトム第一話の後半は私の映写機で編集して試写会を行っているんですよ{{Sfn|手塚プロダクション|p=136}}。」と語っている。「私と手塚さん、それと石ノ森章太郎氏の3人は自称アニメマニアという仲。将来はアニメ映画を作ろうという夢を持っていて、お互いにいろいろな機材や資料を貸合っていたんですがお二人とも亡くなってしまって。お二人から借りた機材もまだ持っているんですが、今では遺品になってしまいましたね。」とも語る。 : 松本は熱心な手塚治虫作品のコレクターでもあり、手塚自身も持っていなかった初期作品も全て所有し、1冊数百万の値段を付けた「新宝島」の初版本も持っている。2013年には、手塚治虫の未発表原稿を個人的に発見したことでニュースにもなった。 : 手塚治虫の没後に想い出を振り返って書かれた寄稿<ref>松本零士:「手塚治虫 逃亡先から呼び出し電報」、文藝春秋、2014年1月号、頁334 - 336(特別企画「世界が驚愕した日本人54人」の中の1つとして掲載)</ref>の中には手塚治虫との遭遇から手塚の最晩年に二人がある会場で出会った際に手塚が松本に対して自分が胃癌であると告げたという回想の記述がある。 ; [[永井豪]] : 永井豪も、手塚治虫に影響を受け漫画家を志したと語る<ref>アンソロジー『ブラック・ジャックALIVE』(2005年、秋田書店)</ref>。「僕の人生は手塚先生の作品から始まった。」<ref>産経ニュースwest 2012.10.26 『永井豪「手塚先生とコラボ、夢が実現」アトム〜マジンガーZ…特別展で系譜も披露』より</ref> とも言い彼は子供のころに手塚治虫の漫画をよく読みいつも衝撃を受けていた。永井は初め手塚治虫のアシスタントになるために手塚プロダクションに出向いたが、あいにく手塚と連絡が付かず、代わりに知人に紹介された石ノ森章太郎の下で仕事を手伝うことになった<ref>永井豪『漫画家』p。35(1992年、実業之日本社)</ref>。 : 永井は自身の半生を振り返り「私の少年時代、手塚作品と過ごす時間が最も幸せな時間だった。学校でイヤなことがあったときも、手塚漫画が私の心をいやしてくれた。自分も手塚先生のように漫画家になりたいと考えたのは自然の成り行き。そして私は漫画家になった。しかし手塚先生にはなれなかった・・・永井豪になってしまった」と語る{{Sfn|手塚プロダクション|p=140}}。またアンソロジーコミック『ブラック・ジャックALIVE』で永井豪がブラック・ジャックを描いたときには、ブラック・ジャックと永井豪自身と学生時代の手塚をいっしょに登場させ、ブラック・ジャックが学生時代の手塚に「お前は漫画家より医者に向いている」と発言すると、手塚治虫キャラ全員と永井豪も存在が消えかかった(もしも手塚治虫が漫画家になっていなかったら永井豪も漫画家になっていなかったという表現)。 : 永井のデビュー後は、手塚とプライベートでも親交があった。手塚と永井は複数回一緒に旅行しており、SF作家クラブのメンバーと旅行したり、[[サンディエゴ]]のコミックコンベンションに出かけたことがある。ロスでは二人っきりで映画「[[シャイニング (映画)|シャイニング]]」を見た。手塚は永井に対して「豪ちゃん、短編をたくさん描きなさい。短編は大事ですよ」といつもアドバイスを送っていた{{Sfn|手塚プロダクション|p=142}}。 : 永井の結婚式では手塚がスピーチをおこなっている(『コミックボックス』1989年5月号に当時の写真が掲載されている)。 ; [[古谷三敏]] : 古谷も、手塚の漫画『新宝島』を読んで漫画家を志した{{Sfn|手塚プロダクション|p=150}}。彼はそのときの様子を次のように語っている「ぼくも子供の頃に手塚先生の『新宝島』を読んで衝撃を受けたひとりです。それまでの漫画と比べてスピード感があって、ストーリーも絵も、今までの日本にない。ディズニー映画のようなアメリカナイズされた文化を垣間見た感じがしました。何百回読んだかわかりませんし、『新宝島』を読んで漫画家になろうと決めたんです。ぼくのデビュー作『みかんの花咲く丘』も手塚先生の漫画をずいぶんと参考にしています。」その後、古谷は手塚のアシスタントを経験した。手塚はアシスタントに給料を渡す際に「かならず映画を観るんだぞ」と言いながら笑顔で1000円を渡していた(その頃はレストラン定食が50円で食べられる時代であり、映画を見てもお釣りがくる)。古谷はいつも喜んで映画を見ていた<ref>古谷三敏「ボクの手塚せんせい」2010年 P.45</ref>。アシスタント中、徹夜明けで手塚とホテルから出てきたときに「おれは手塚治虫と一緒に歩いているんだ」と嬉しくなったという。 ; [[さいとう・たかを]] : さいとう・たかをも、手塚治虫に憧れて漫画家を目指した。手塚治虫の「新宝島」を読み、「紙で映画が作れる!」と興奮したという<ref name="bakumon130123">『[[探検バクモン]]』2013年1月23日付放送分</ref>。昭和30年ごろの学生時代には漫画家志望者として手塚治虫の自宅を訪ねた。しかし、運が悪く手塚はすでに東京に上京していたため、さいとうは手塚に会うことはできず、手塚の母と二言三言話しただけで帰ることになった<ref>株式会社金の星社「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」2009年、P.151</ref><ref group="注釈">別の対談では、このとき手塚は家にいたが、母親に「留守です」と帰されたとも語っている</ref>。このころのさいとうは、手塚のような丸っこい絵柄であった。 : その後、さいとうは「手塚に憧れて漫画家を目指したが、手塚調の丸っこいタッチの絵が描けず現在の絵になった」と証言している。さいとうは後に「劇画」と呼ばれる分野の開拓に貢献し、手塚の大きなライバルとして、彼の漫画家生命を大きく揺るがした。 : さいとうが辰巳ヨシヒロ達と工房を立ち上げ、「打倒手塚だ!」と言ったときは、実はさいとう以外は全員熱心な手塚ファンであったため、「お前なに身の程知らずなことを言っているんだ」と言われたという{{Sfn|手&#xfa10;プロダクション|p=148}}。 : さいとうは、のちに手塚と漫画「過去からの声」で共作をしており、そのときは原作が手塚で作画がさいとうであった。『[[ビッグコミック]]』では、四大作家競作として石ノ森章太郎、藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}、さいとう・たかを、手塚治虫の4人で競作をしている。 : さいとうは手塚が亡くなったときに「今まで目標とし、登っていた大きな山が突然なくなったような気がします」と語った<ref name="小学館「ビッグコミック」1989年3月10日">小学館「ビッグコミック」1989年3月10日</ref>。 ; [[辰巳ヨシヒロ]] : 手塚の「新宝島」に衝撃を受けて漫画家を志した{{Sfn|辰巳|p=18}}。辰巳は当時を振り返り「手塚治虫という初めて目にする作者の作品はこれまでの漫画の常識を根本から覆す画期的な世界を構築していた」、「ぼくにとって手塚治虫は神様にも匹敵する存在になっていた」と語っている{{Sfn|辰巳|p=11}}。少年時代辰巳は宝塚の手塚の家を訪問したこともある{{Sfn|辰巳|p=6}}。手塚は辰巳を優しく自室に招き入れ、辰巳が持参した4コマ漫画を読み「長編を描きませんか?これからは4コマを発表する場所がだんだんなくなります。ぜひ長編を描きなさい」と助言した。これは辰巳にとって大きな助言になる。またジャングル大帝の第一話連載前のカラーページを手塚に見せてもらい、身震いし度肝を抜かれたと語っている<ref>辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」青林工藝舎</ref>。その後、辰巳は漫画家としてデビューし、手塚の鉄腕アトムに影響を受けた「鉄腕げん太」という漫画も描いた。しかし、数年後、あえて手塚治虫とは別の「まんがではないまんが」を模索するようになる{{Sfn|辰巳|p=145}}。その結果、辰巳は劇画の開拓者になった。「劇画」という呼び名も辰巳が考案したものである。 : 辰巳は『劇画宣言』という内容の封書をいくつか書き手塚にも送った。しかし、手塚はその後に辰巳に対し、商業主義的になっていく劇画の風潮に対して忠告した{{Sfn|辰巳|p=292}}。また手塚が文藝春秋漫画賞を受賞したとき、さいとう・たかを、佐藤まさあきとともに辰巳を授賞式に招待し{{Sfn|辰巳|p=304}}、1982年には辰巳のフランス旅行に途中から同行したこともあった{{Sfn|辰巳|p=320}}。 ; [[つげ義春]] : 小学4年生のころに手塚治虫のマンガに熱中しはじめる。新刊が出ると本屋へ走る日々であった。貧しさのため母に買ってもらうことはできず、3か月に1度くらい帰ってくる泥棒の義祖父を待ちわび、買っていたが、その間に本が売切れてしまうのを案じ、手持ちのおもちゃをおもちゃ屋に売ってお金を工面した。それでも手に入らないときは、万引きをしようと本屋の前をうろうろするほどであった。16歳のとき、一人で部屋で空想したり、好きな絵を書いていられる職業として漫画家になることを志す。当時、トキワ荘に住んでいた手塚治虫を訪ね、原稿料の額などを聞き出し、プロになる決意を強める<ref>「つげ義春自分史」『つげ義春全集・別巻 苦節十年記/旅籠の思い出』筑摩書房 1994年 ISBN 4-480-70169-9</ref>。 ; [[白土三平]] : 貸本時代の白土は、手塚に似た絵の漫画を描いていた。白土の初期作品「嵐の忍者」では手塚のスターシステムのキャラクターが登場するなど、その影響を見ることができる<ref>白土三平「嵐の忍者」小学館クリエイティブ</ref>。白土は、「紙芝居をやっていたころ。いわゆるユーモアマンガで手塚さんを勉強した<ref>草森紳一「マンガ考」</ref>。」という。手塚もそのことに言及しており、「たとえば白土三平氏やつげ義春氏のかつての作品が、円熟した時代のものにくらべて、きわめて手塚的であるのは、おそらくはぼくの漫画を教科書として使ったのであった。イミテーションを望んでいたわけではないはずだ」と語っている<ref>漫画の教科書「思想の科学」1982年3月号</ref>。白土は徐々に手塚的な作風を止め、劇画作家へと転向し、手塚の最大のライバルとして立ちはだかった。劇画ブームが起きると、白土が率いる「ガロ」に対抗して手塚は「COM」を立ち上げた。手塚は「白土三平氏が登場してから、子供漫画には重厚なドラマ、リアリティ、イデオロギーが要求されるようになった」と語っている<ref>手塚治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、178p</ref>。手塚の漫画「ネオ・ファウスト」では、登場人物が白土の漫画を読み、内容から教訓を得ようとするシーンが登場する。白土は手塚が亡くなった際に、「気がついてみたら、私もいつかこの世界で飯を食っていたのだが、手塚さんは我々の偉大な先輩であると共に、多くの日本人にとっても忘れえぬ人でありつづけるだろう。人の運命とはいえ、実に残念である<ref name="小学館「ビッグコミック」1989年3月10日" />。」と発言している。 ; [[大友克洋]] : 大友は子供のころからの手塚ファンと語っており、特に少年時代は「鉄腕アトム」のアニメを見るため、放映時間になると決まって家に帰っていたという<ref>角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 123</ref>。また[[マーブルチョコ]]も、アトムのおまけのシール欲しさによく買っていた。「僕は手塚作品で最初に好きなのは鉄腕アトムなんだけどビッグXも好きだし、高校生のころは火の鳥を読んでいた」とも語り、手塚治虫漫画全集は全巻揃えている<ref>角川書店「大友克洋×メトロポリス」2001年7月1日 P. 121</ref>。大友克洋は、高校生のころに火の鳥が連載していた手塚治虫の雑誌「COM」に漫画を投稿している。デビュー初期の作品「FIRE BALL」では敵のコンピューターの名前に「アトム」を使っている。 : また大友の代表作「[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]」の最終巻の最後のページには、本作を手塚に捧げるとの一文がある。大友は、手塚の作品を原作とする劇場用アニメーション映画『メトロポリス』で脚本を担当している。2005年の監督作品『[[スチームボーイ]]』のタイトルも、「鉄腕アトム」の英語版タイトル「アストロボーイ」を意識したものである。舞台挨拶では「スチームボーイは手塚さんがやろうとしていた世界観を意識した」と語った。 : 雑誌『ユリイカ』の大友特集号で、手塚は「僕はデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」と大友の画力を賞賛している<ref>ユリイカ臨時増刊号『総特集大友克洋「カミソリ感覚」』1988年8月</ref>。 : また手塚は「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされてしまいました。少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画以上のリアリティが出せることが証明されてしまったのです」と述べ、劇画の衰退は大友に一因があるとし、その功績を高く評価している<ref>COMIX BOX「特集ぼくらの手塚治虫」1989年</ref>。 : 手塚が大友をパーティーに招待した際は「ボクはあなたの絵見ました。マンガをね、虫メガネで見たけど、それでもデッサンが狂っていませんね。スゴイですよ!」と大友のことを絶賛している<ref name="1oku">『1億人の手塚治虫』(1989年、JICC出版局)</ref>。大友はそれに対して「でも僕は手塚先生のようなデフォルメされた絵はかけないんですよね」と語ると手塚は「僕は描こうと思えば誰の絵でも描けるけど、諸星大二郎のような絵と星野之宣のような絵は描けない」ということも大友に洩らしている<ref>石坂啓のインタビューによる</ref>。 : 大友が一番好きな手塚キャラは、屈折して影のある[[ロック・ホーム]]と語り<ref>[https://web.archive.org/web/20141006083656/http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0104/01metro_in.html 映画メトロポリス公式サイト]</ref>、大友が脚本を手がけたメトロポリスには、原作では登場しないロック・ホームが、重要な役柄で映画全編に登場する。 : 大友が1993年のNHKラジオ「[[日曜喫茶室]] 鉄腕アトムの贈り物」に出演した際に、大友の作風が生まれたことについて以下のように語っている。「僕は高校のころから映画が好きで映画ばっかり見てましたけど、手塚さんが作った漫画っていうのは非常に映画的な漫画なんですよね、昔の漫画に比べると。のらくろだったり、その、昔の古い漫画がありますけど、それに比べると非常に映画的にカメラアングルをこったり、カット割りみたいなのが素晴らしい。それをやっぱり、もう一度やってみたいなっていうのが、昔みたいなイマジネーションで漫画を描いてみたり、映画のカット割りに非常に近い、まあ手塚さんがそう作ったから当たり前なんですけど、それはありましたね、それを自分でもやってみたくなっちゃう。」「僕は手塚さんみたいに枚数が描けないんで線の数で勝負している。」また手塚が大友のことを『降参する』と言ったことについては「俺なんかをそんな風に言っていいのかなと思った」という。大友が手塚から漫画のパーティーに誘われたときのことは、「女房が電話に出て『手塚治虫から電話が来たよ』って言われて非常にビックリした」と語っている<ref>NHK-FMラジオ 「日曜喫茶室 鉄腕アトムの贈り物」1993年5月30日</ref>。 : 大友は2014年のアニメビジエンスNo.3で大友タッチの鉄腕アトムを描いた。 ; [[萩尾望都]] : 萩尾は高校2年生のころに手塚の漫画「[[新選組 (手塚治虫の漫画)|新撰組]]」に出会い、強い衝撃を受け漫画家を志した。その強い衝撃の様子を彼女はこう語る「『新撰組』のクライマックスシーンは、言うまでもなく花火のあがる河原での決闘シーンだ。このシーンが重要なのは、それまで丘十郎を支え育んできた彼の正義の情けが、熱意が、信頼が、ガラガラと崩壊していく様が描かれているからだ。親友大作は実は長州のスパイだった。敵を斬れと土方歳三に命じられた丘十郎が苦しみつつ歩く大きなコマがある。そのコマには大きなふきだしが三、四個あり、新撰組という集団の利益、忠誠と、個人の意志友情との間に引き裂かれてゆく、まさにダブルバインドに落ちた丘十郎の苦しみがめんめんとつづられている'''ハズであった。しかしそれは私の思い込みであった。実際はセリフは二行しかない'''。"大作・・許してくれ"。この二行は私にとって二百行にも価した。このシーンはぐっさりと私の心にくいこみ、いまだにその衝撃を忘れることができない<ref>手塚治虫名作集11「新撰組」あとがきの萩尾による寄稿より。</ref>。」「実のところ、私はそのショックで、十七の時に漫画家になる決心をしてしまった。」萩尾はこれを読んだ後、1週間ぐらいボーっとしたという。 : その後、萩尾は漫画家になり手塚と雑誌で対談をしたことも何度かある。手塚は萩尾の作品「[[11人いる!]]」に対して「11人いる!なんてのはスペース・オペラとしての傑作だと思っているんです」と評価している<ref name="秋田文庫「ぜんぶ手塚治虫!」2007年" />。萩尾は手塚の全作品を所有しているほどの大の手塚ファンであり、手塚が亡くなったときには次のように語った。「私は手塚先生の写真を持っている。サイン本も持ってる。直筆の絵も持ってる。でももう何もいらないから手塚先生に長生きしてほしかった。悲しい。一体、どうしたらいいの。手塚先生、返事して下さい<ref>1989年「SFマガジン」4月号</ref>。」 ; [[里中満智子]] : 里中は、小学校入学直後に創刊されたばかりの『なかよし』で手塚作品に夢中になり、愛読していた。しかし、彼女はそれだけでは物足りず、貸本屋に通い詰め手塚作品をむさぼるように読んでいたという{{Sfn|手塚プロダクション|p=144}}。貸本に置いてないものは必死でお小遣いをためて買い、友人の兄から借りたりした。その中でも『鉄腕アトム』に特に夢中になった。悪いことをしようとしたときにも「アトムならこんなことをしない」と自分に言い聞かせた。里中は「グレたりしないで生きてきたのはアトムのおかげ。アトムを生み出した手塚先生のおかげ」と語る。しかし、彼女が小学5年生のころに悪書追放運動が起こり「鉄腕アトム」も悪書として批判されることがあった。里中は「こんなことでは漫画が滅ぼされてしまう!守りたい!」と思い漫画家を目指す。里中は16歳の若さで漫画家になった。1972年、里中はイベントの移動のため、手塚と二人きりで新幹線に乗ることとなり、大阪までの3時間、手塚と一緒に語り合った。そのときの様子を里中は「酸欠状態で心臓バクバクだったが、手塚先生は優しかった」と語る。その中で手塚は「今後何を描きたいか」という質問で「究極のエロティシズムを描きたい!エロティシズムって素晴らしいですよ!」などと語り、当時若い女性であった里中は、どう受け答えしていいかわからず困ったという。しかし「聞いているだけで幸せでした」とも語る。その他に手塚は、妻との新婚時代のことや、息子のことについてなどを語った。 ; [[南部正太郎]] : 手塚が「マァチャンの日記帳」などの新聞連載を始めたころ、同時期に[[長谷川町子]]の「[[サザエさん]]」(『夕刊フクニチ』)、南部正太郎の「[[ヤネウラ3ちゃん]]」(『[[大阪新聞]]』)などの新聞連載漫画が始まっていた。手塚は『大阪新聞』を介して南部と知り合い、もう一人武田将美を加えて「スリー・メンズ・クラブ」というグループを結成、たびたび3人で映画や漫画について話し合うなどしていた。当時は南部の『ヤネウラ3ちゃん』の人気が圧倒的で、3人組を意味する「スリー・メンズ・クラブ」の「スリー」を3ちゃんの3のことだと思う人も多かったという{{Sfn|手塚|1999|p=87}}。 ; [[馬場のぼる]] : 馬場のその穏やかな人柄もあり、手塚の親しい友人の一人として交際。手塚の葬儀では[[加藤芳郎]]とともに、[[弔辞]]を読んだ。手塚の作品の一つ「[[七色いんこ]]」では馬場のぼるの絵本作品「[[11ぴきのねこ]]」を馬場のぼるの作品として物語の鍵に使っている<ref group="注釈">ただし、作中で説明されるのは[[井上ひさし]]が1971年に執筆した戯曲版のストーリーである。</ref>。また、手塚は早くから馬場をキャラクターとして自作に登場させており、なかには「[[フィルムは生きている]]」の宍戸梅軒や「W3」の馬場先生のように重要な役柄で起用されるケースもある。「W3」で重要な役柄に抜擢された理由は馬場が手塚に対して「ねえ、たまにはルンペンよりいい役にしなさいよ」と言ったことによる。馬場は自分がモデルの馬場先生が「たいやきは しっぽの中のアンコで ねうちがわかるんだぞ」という場面に関心を寄せている。手塚が馬場と九州へ旅行に出かけた折、飛行機内で手塚が「[[鳥人大系]]」を描いていると「よくペンが走るなあ」と馬場が呆れたという<ref>手&#x585A;治虫漫画全集「鳥人体系」あとがきより</ref>。馬場は手塚のことを「手塚さんが現れて、どんどん人気が上がっていったんですね。そうして人気が上がるにつれ雑誌に手塚調の絵が氾濫するわけです。」と語り、手塚の訃報の際には「言うべき言葉も見つかりません。40年の付き合いでした。開拓者精神の旺盛な人で、鉄腕アトムのアニメをテレビで初めてやったのが手塚さんでした。今月の1日(手塚が亡くなったのは9日)にお見舞いに行きましたが、眠っておられてお話をすることはできませんでした。だいぶ痩せられて、危ないとは思っていましたが・・・。本当に偉大な方をなくしました」と語った<ref>報知新聞 1989年2月10日</ref>。 ; [[小島功]] : 手塚が昭和30年以降に「大人漫画」の世界に進んだ際に、大人漫画家の「若手」作家どうしとして交流が始まる<ref name="名前なし-2">峯島正行『回想 私の手&#x585A;治虫』(山川出版社)P.47</ref>。小島は、手塚のしらない「酒と女の世界」の指南役となり、手塚を銀座の夜の街に誘った<ref name="名前なし-2"/>。のちに二人とも「[[漫画集団]]」の一員となり、交流が深まる<ref name="名前なし-pZvF-1">峯島正行『回想 私の手塚治虫』(山川出版社)P.72</ref>。また、「大人の女が描けない」漫画家だった手塚は、小島漫画のグラマーな女性キャラクターを模して、大人の女性像を描くようになった。また、小島が主導した1963年の「[[日本漫画家協会]]」の設立にも、「児童漫画家の代表」として賛成して支援した<ref name="名前なし-pZvF-1"/>。 ; [[やなせたかし]] : 1960年代から晩年まで親交があった。手塚は劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に当時まだ大人漫画家として活動し現在ほど有名でなかったやなせを[[美術監督]]として起用し、キャラクターデザインもやなせに依頼している。そのお礼として手塚はポケットマネーを出して、やなせの原案によるアニメ映画『[[やさしいライオン]]』を制作した([[大藤信郎賞]]を受賞)。 : やなせは手塚のことを自著「[[アンパンマン]]の遺書」にて次のように記している「当時の小学生で漫画がうまいというのは、手塚治虫のマネがいかにうまくできるかということだった。」「手塚治虫という名前は、ぼくも風のたよりに聞いてはいたが、それはまったく別世界のできごとで、ぼくには無関係だった。」「ある日、電話が鳴った『もしもし、やなせさん、手塚治虫です』『あ、どうも』『実はね、今度虫プロで長篇アニメをつくることになったんですよ』『はあ、大変ですね』『それで、やなせさんにキャラクターデザインをお願いしたいんです。ひきうけていただけますか』『いいですよ』『それじゃね』だいたいこんな風な会話だった。手塚治虫はそのころはすでに漫画の神様に近く、名声も確立して収入は僕のX倍もあったが、ぼくとはまったく世界がちがったから、ほとんど関心はなかった。」「それなのに何故ぼくに電話してきたのか。わけが分からない。漫画家は冗談が多い。これは手塚治虫の冗談だと思って、すっかり忘れていた。ところがある日、また虫プロから電話がかかってきた。」「手塚治虫はもう遠くの国へ逝ってしまったが、ぼくは改めて聞きたい『手塚さん、なぜぼくに依頼したんですか?』」「ところが千夜一夜は興行的に大ヒットするのである。そして手塚さんはぼくに言った『ヒットのお礼に、何かアニメーションの短編を自由につくってください』『え、ほんとですか』『制作費はぼくのポケットマネーから出します。』ということで、ぼくは、はじめてアニメーションを手がけることになった。とにかく自分でつくれる作品ということで、すでにラジオでやっていて、脚本も音楽もできているやさしいライオンを選んだ。千夜一夜で[[山本暎一]]のやり方を見ていたので、大体のことは解ったし、絵コンテも手塚治虫と机を並べて描いたので要領はつかめていた」<ref>やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P146</ref>。 : やなせは「千夜一夜物語」前後を境に、子供向け作品を描いていた手塚が大人向け作品を作ることが増え、逆に大人向け作品を描いていたやなせが子供向け作品を作ることが増えたことを『運命の交錯』と表現している<ref>やなせたかし「アンパンマンの遺書」岩波書店 1995年 P154</ref>。 : 2009年に[[江戸東京博物館]]で開催された「手塚治虫展」では、「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」というやなせのコメントが紹介された(やなせは手塚より9歳年長である)。 ; [[寺田ヒロオ]] : 寺田と手塚はトキワ莊で一緒に暮らしていた。トキワ莊に漫画家が続々と集まってくるのは、手塚が藤子不二雄の二人に14号室を譲ってからであるため、手塚は寺田と二人で住んでいた期間を「トキワ荘前史」と表している<ref name="1987年「トキワ荘青春物語」蝸牛社 -トキワ荘前史 手塚治虫" />。寺田と手塚の部屋は向かい合わせだった。手塚と寺田は歳が3つほどしか違わず、手塚は寺田を「テラさん」と呼んでいた。<br />寺田は手塚のことをこう語る「今のようにアシスタントを使って漫画を描くというスタイルは、手塚治虫さんが最初でしょう。手塚さんの登場で少年漫画の世界は革命的に変わりました。それまでは、どちらかと言えば舞台的な作り方だったのが、彼以来、映画的なものに変わってしまったんです。背景も細かく書き込むようになったし。かなり複雑なストーリーのものが漫画の世界に現れたものも手塚さん以降でしょう<ref>平凡パンチ 1984年5月 私の少年漫画誌</ref>。」手塚は自著で寺田のことを「寺田ヒロオ氏は児童漫画にかける情熱はすさまじく、高邁な信念をもって作品を描き、『スポーツマン金太郎』や『背番号0』などの名作を出した。その信念は終始一貫変わらなかった。ぼくの尊敬する漫画家のタイプの人である」と語っている<ref>手&#x585A;治虫「ぼくはマンガ家」大和書房、1988年、144p</ref>。<br />手塚は劇画ブームの際、自身も劇画を描くなど対抗し乗り切ったが、寺田はそれができず児童漫画を貫くも、全く面識のない劇画作家(さいとう・たかを)に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭したこともあったという。寺田の漫画は打ち切られ、寺田は自宅に引きこもりがちになる。1981年の[[NHK特集]]『現代マンガ家立志伝』で、トキワ莊メンバーが同莊会を開くという内容の番組が放送されたが、寺田は来なかった。そのとき、手塚は「テラさんは?」と語り寺田が来ないことを知ると、「ああ、惜しい・・」と残念がる姿が放映された。寺田はその後、トキワ莊メンバーとはほとんど会わなかったものの、1990年に自宅に旧知の仲間を呼んで宴会をした後、自室に引きこもる生活を続け、1992年に死去している。 ; [[福井英一]] : 福井の[[柔道]]漫画『[[イガグリくん]]』(『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』1952年 - 1954年連載)<ref>{{マンガ図書館Z作品|47591|イガグリくん}}(外部リンク)</ref> は連載時絶大な人気を誇っており、当時手塚は福井を最大のライバルとみなしていた<ref name="mangakap133"/>。ライバルとしてだけではなく手塚の描いた「38度線上の怪物」には福井が登場し、福井が描いた『イガグリくん』には手塚が登場するコマがあるなど交流もあった。しかし、酔った福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけて口論となり、手塚の返答に「稼ぐばかりが能じゃねえ、子供だ、子供のことをちったァ考えてみろ」「金のために描いているしか思えねえ、この大阪人め!」と罵倒したこともある<ref name="mangakap133"/>{{Refnest|group="注釈"|[[うしおそうじ]]は伝聞としてほぼ同じ内容を著書に記している(ただし、最後の「大阪人め」の箇所が「贅六め」という関西人への侮蔑語になっている)<ref>うしおそうじ『手塚治虫とボク』[[草思社]]、2007年、pp.128 - 129</ref>。}}。1954年ごろ、手塚は『漫画少年』連載の「漫画教室」の中で、良くないストーリー漫画の例として『イガグリくん』を模した作品を登場させて福井の怒りを買い、福井の抗議を受けて馬場のぼるの仲裁で謝罪している<ref name="mangakap133"/>。手塚は翌月の「漫画教室」に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描いて謝罪の意を表した<ref name="mangakap133"/>。そのしばらく後に福井は[[過労死|過労で急逝]]しており、手塚は死去の報を受けて、競争相手がいなくなったことに「ホッとした」という感情を覚え、そのことで自己嫌悪に陥ったと記している{{Sfn|手塚|1999|pp=171-176}}{{Refnest|group="注釈"|手塚は『ぼくはマンガ家』において福井の死去が謝罪から「一カ月ほどたって」と記す一方、謝ったのは「綿のような雪の降る日」としており<ref name="mangakap133">手塚治虫『ぼくはマンガ家 手塚治虫自伝・1』大和書房、1979年、pp.133 - 137</ref>、6月下旬に福井が死去した事実とは食い違っている。}}。手塚は直後アシスタントしてもらっていた高校生時代の[[石ノ森章太郎]]にハガキを出している。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから…」その手紙を受け取った石ノ森は、手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている<ref>石ノ森章太郎のマンガ家入門 秋田文庫</ref>。その後手塚は漫画「世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ雲を福井の形にして、自身の追悼の気持ちを漫画の中であらわした<ref>「手塚治虫物語―漫画の夢1945〜1959」[[金の星社]]、2009年、p.183</ref>。その雲は穏やかな生前の福井の顔の形をしており、頭の上部には天使の輪の形をした雲が付いていた。手塚は福井が亡くなったことによるショックで、手塚と福井が連載していた「漫画少年」に『あと2年で漫画家を辞める』とまで発表し、漫画家を辞め医者を目指すつもりであった<ref>ヨシトミヤスオ「マンガ漫画の魅力」1978年。手塚とヨシトミとの対談による手塚本人談</ref>。 ; [[水木しげる]] : 水木しげるはデビュー当時、漫画は手塚治虫のような作風の漫画しか売れず、「私は(手塚治虫を)ライバルだと思ってやってきた。若い時から漫画界に君臨してきた彼に対して屈折した思いもあった」「手塚さんがコンクリート塗装の大きな道を闊歩してきたとすれば、私は細く曲がりくねった悪路をつまずきながら歩いてきたようなものだ」と自著『水木さんの幸福論』で語っている。 : 『週刊少年マガジン』の編集長だった[[内田勝]]によると、1965年から同紙で連載開始された水木の妖怪漫画「[[ゲゲゲの鬼太郎#メジャー化|墓場の鬼太郎]]」を目にした手塚は、その内容から受けたあまりの衝撃に、自宅で階段から転げ落ちたという<ref>[[大下英治]]「第五章 多様化するテレビアニメの世界 「悪魔くん」に先を越される」『<ruby>日本<rp>(</rp><rt>ジャパニーズ</rt><rp>)</rp></ruby>ヒーローは世界を制す』[[角川書店]]、1995年11月24日、ISBN 4-04-883416-9、110頁。</ref>。やがて「[[ゲゲゲの鬼太郎]]」と改題された同作品によって「妖怪ブーム」が起こると、手塚はこれを意識して「どろろ」を発表している{{Sfn|米澤|p=54}}。一方、水木の作品には[[棺桶]]職人を主人公にした短編「[[一番病]]」<ref>初出は小学館の『ビッグコミック』1969年10月25日号、角川文庫『畏悦録』収録</ref> があるが、これは手塚によく似た主人公が一番になろうとばかりして酷い目に会う、という物語である。また水木の作品を元にして、手塚の地元である宝塚ファミリーランドで「ゲゲゲの鬼太郎」の[[遊園地#施設|アトラクション]]が開催されていたことに対し、手塚は難癖と取られても仕方がない発言を行ったという<ref>足立倫行『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』(1994年、[[文藝春秋]])</ref>。 : 水木は雑誌のインタビューで手塚のことを直接名指ししたわけではないが、「水木サン(水木の一人称)はいつでも自分がオモチロイと思ったものだけを描くんです。誰かにウケるものを描こうなんて考えたこともない。そんなことを考えて描く人は三流ですよ」と語っている<ref>講談社「ゲゲゲの鬼太郎 TVアニメDVDマガジン」第一巻 水木へのインタビューより</ref>。 : 水木の長女の尚子は父・水木しげるの妖怪漫画よりも、かわいい絵を描く手塚の大ファンだった。水木の次女の悦子は「姉が手塚さんのマンガをかなり読んでいたことを水木は気にしていたようです」と話している。また水木の娘が水木に対して「お父ちゃんの漫画には未来がない。手塚漫画には未来がある」と言うと。水木は「これが現実なんだ!おれは現実を描いているんだ!」と激怒したという。水木の娘が手塚からサインを貰ったときは『お父ちゃんの雑なサインと違って、丁寧に描いてくれた!』と言い、水木をガッカリさせている。<br>一方、手塚の息子の眞は、幼少期は『ゲゲゲの鬼太郎』のファンで、父親の漫画よりも好んでおり、水木の娘と好対照であった。<br/>後に眞が制作した映画『妖怪天国』は水木の影響を受けており、手塚治虫・水木しげる両人ともゲスト出演している。手塚によると、この映画への出演は眞から「水木に[[特別出演]]してほしいが、個人的に知っているか?」という相談を受けたところから始まった{{Sfn|手塚|1987|p=17}}。手塚はこれに対して「ああ、いろいろつき合って貰ってるよ」と返答した、と記しており、手塚と水木は漫画家としての交友は持っていたことがうかがえる。 :手塚の漫画「[[I.L]]」には主人公のI.Lの顔がモンスターになるシーンで水木が登場する。そのとき、水木はI.Lに関心を寄せた台詞を語っている。同じく手塚の漫画「三つ目がとおる」の「ガイコツ・ショー」の話では、テレビ局に乗り込んだ写楽達の場面で水木が登場し、三つ目小僧に付いて語っている。受け手であるタレントは「水木センセイのお話はこわかったですねー」と返答。「火の鳥 鳳凰編」では茜丸が様々な生き物に生まれ変わった夢を見る場面で、夢から目覚めたときの吉備真備が水木の登場人物「[[ねずみ男]]」の姿に変わっている。手塚は水木を自分の漫画に登場させる時は水木に電話で許可を取るようにしていた。週刊少年マガジン1969年3月30日号の企画で、漫画家とその妻の集合写真を撮ったときは、手塚と水木は二人仲良く並んで撮影している。 : 上記のように「手塚と水木は不仲である」ということが語られることもあるが、水木本人も後年の書籍で手塚との不仲を否定している<ref>『水木サンの幸福論』174ページ</ref>。 ; [[諸星大二郎]] : [[手塚賞]]応募作である「[[生物都市]]」を手塚は[[筒井康隆]]とともに絶賛し、この作品は満場一致で手塚から手塚賞が送られた。諸星および[[星野之宣]]と鼎談した際、手塚は「僕は諸星さんの絵だけは描けない」と発言している。手塚の漫画「ルードウィヒ・B」では、諸星のことを[[みなもと太郎]]や[[坂口尚]]などとともに「天才」と評価し、「自分を大事にして自分の個性を出していく者が結局強いんですよ。どこでも通用するんすよ。こういうのが自分の個性で勝つんすよ」と主人公のルードウィヒに語らせている。 ; [[いしかわじゅん]] : イベントでいしかわが[[吾妻ひでお]]と一緒に手塚と同席した際、「この2人は若手の間では神様みたいな人」と手塚に紹介されたことがある。そのとき、いしかわは「神様に神様といわれるのは妙な気分であった」と語る<ref name="ReferenceA">いしかわじゅん「フロムK」([[双葉社]]『[[漫画アクション|週刊漫画アクション]]』1989年3月7日号掲載分)</ref>。またそのとき、手塚は「いしかわ氏はぼくの影響を全然うけてないからなー」と語り、いしかわは「(そんなことないですよ。あなたの影響を受けていない漫画家なんていませんよ)」と心の中で語った。またいしかわは「七色いんこ」中のキャラとして登場させたいとのことで手塚から電話をもらったことがある。「七色いんこ」に登場した際のいしかわは、吾妻ひでおとキスをするという役柄であった。手塚はいしかわの作品「憂国」に対して「いしかわ氏の憂国なんかおもしろいよね<ref name="ReferenceA" />」と発言もしている。 : いしかわは手塚が亡くなった際に「今朝起きたら手塚治虫が死んでいた」「歴史上の人は死なないと思っていた。生死を超越した存在だとばっかり思っていたのだ」とそのショックを語った<ref>まんが情報誌「ぱふ」1989年4月</ref>。 ; [[寺沢武一]] : 寺沢は特に手塚のファンという訳ではなかったが、たまたま週刊少年チャンピオンで連載していた「ブラック・ジャック」内のアシスタント募集の広告を見て、手塚プロダクションに作品を投稿する。そのときは手塚プロダクションの採用担当者の判断により不採用となったが、後日、手塚治虫が直々に寺沢の絵を見たところ寺沢の絵を気に入り、手塚のアシスタントに採用された<ref>秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話1」</ref>。ジャンプコミックスで寺沢の『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』第1巻には、手塚があとがきに寄稿している。手塚はその中で「じつは、助手を募集したとき、どういうわけか寺沢くんは選にこぼれてしまっていた。あとから気づいたぼくは、大慌てで彼を採用しなおした。こんなすごい絵がかける人をなんで見落とすんだ!こうして四人の採用者に彼が一人加わり、それが結果的に、彼がトップにプロの道へ進むきっかけをつくったのだった。」「彼の絵は緻密で、丹念で、しかも美しかった。ことに背景を描かせると抜群だった。」「ジャンプにプロ第一作を載せたということは、寺沢くんにとって大成功だと思う。」と寺沢のことを絶賛している。当時、寺沢は手塚の専属アシスタントをしていたにも拘らず、一人だけ残業をせず、「これから自分の創作活動するんで帰ります」と 早めに帰宅していたが、手塚は寛容に扱っていた。理由は「彼はとても才能のある子だから、一日でも早くアシスタントを卒業してデビューして欲しかった」 とのこと。寺沢は、手塚が火の鳥の原稿をカッターで切り、構図を変えているのを見て「うわっこんな風に発想するのか!」と驚いたという。また寺沢は手塚のことを「僕の思いつきを先生は面白がってくれた。きっとそういう新しい血が欲しかったんだと思う」「手とり足とり教えてくれたわけじゃないがすごくいい時間をもらった。僕にとって金に換算できない貴重な経験だった<ref>秋田書店「ブラック・ジャック創作秘話」1巻</ref>」と語っている。 ; [[あだち充]] : あだちは、高校在学中に手塚の雑誌『COM』に投稿していた。そしてCOMの新人賞において、「虫と少年」が手塚によって佳作2位に選ばれた。以後『COM』の読者コーナーにしばしば登場。あだちは手塚が死去した際に『週刊少年サンデー』上で次のような追悼文を寄せた。「亡くなられた2月9日は僕の誕生日でした。鉄腕アトムの誕生の年に生まれた僕としては、手塚先生の影響は計り知れません。虫プロ主催の雑誌『COM』がなかったら、漫画の作品めいたものも描かなかったでしょう。心からご冥福をお祈りいたします<ref>小学館『週刊少年サンデー』1989年3月1日「まんがの神様手塚治虫ご逝去を掉む」</ref>。」 ; [[夏目房之介]] : 夏目は小さな出版社に勤めながら、自分の漫画をいろんな人に送っていた。そうすることによって仕事がくるかと思っていたが、これは彼曰く全然当て外れであった。しかし、手塚治虫から夏目へと直筆のハガキが届き、その中には「24Pのものが一番面白かったと存じます」とわざわざ夏目の作品を褒めるものであった。このことに夏目は「信じられない」と語る<ref>1989年3月10日号「週刊朝日」夏目房之介のコラムより</ref>。1977年、夏目が実際に手塚と出会ったときには「ああ自費出版を送っていただいて。あの本ね、面白いから編集者に貸したらそれきり返してくれないんです。週刊朝日やヤングコミックの仕事も拝見してますよ」と手塚に言われ、夏目は感銘を受けている。同時に「怖い人だ」という感想も述べている。これは当時、無名の新人であった自分の作品にもチェックを入れてくる手塚のプロ意識に対して尊敬と畏怖をこめてそう評している。 : 手塚死去の際、夏目は次のように語っている。「亡くなったことを知ってから、あちこちの連載に片っ端から追悼文を書いた。書いているうちは比較的冷静なのに、書き終えてみると、みぞおちのあたりから痙攣が馳せのぼってきて泣く。『うぉっうぉっうぉっおっおっ』と、まるでオットセイである。幼いころからのいろんなことが、いちどに手塚さんにむかってほとばしったみたいな泣き方で、これを書くたんびにくりかえすのである」「手塚さんの死を知ってから、表層的には平静だった私が[[コミックトム|月刊コミックトム]](遺作ルードウィヒ・Bの掲載誌)に追悼文を書き、最後に『手塚さん、さようなら』と記した途端に泣いた」「手塚治虫さんは、私などにとって好きとか嫌いとか、影響を受けたとか受けないとか、そういう表層的な存在ではなかった。だから、作品ひとつだけあげろと言われると『そんなことができるもんか!』と、どなりかえしたくなる<ref>夏目房之介「手塚治虫はどこにいる」筑摩書房 1992年</ref>」 === 関係の深いアニメーション監督 === {{内容過剰|date=2023年7月|プロジェクト:漫画家/過剰な内容の整理|section=1}} ; [[富野由悠季]] : 富野は小学生のころ、1年先輩の友達の家で雑誌「少年」に連載されていた「アトム大使」で初めて手塚作品と触れ合う<ref name="NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季">NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季</ref>。そして小学5年生の4月から両親に「少年」を毎月買ってもらうようにお願いした。そのときのことを富野は「漫画が掲載されているような雑誌は買ってはいけないというのがうちのテーゼだったんです。それを拝み倒して4月から買ってもらったときに偶然『鉄腕アトム』の連載が始まった月だったんです。本当に衝撃的でした。それまではまだ・・・こんなタイトルあげても若い人は分からないかも知れませんが『のらくろ』の漫画がつまり戦前の漫画がちらちら残ってるんですよ。家の中に。そういうものを読んでお茶を濁していたという気分のところに、これが来ましたんで、要するに昔の軍隊話でないまったく新しい漫画が来た。ということで本当にびっくりしたし、何よりも物語を読まなければならない、つまり、絵だけを見ていたらすまないぞという物語を手塚先生がお描きになったというのが、やはり、いや、これは低俗な漫画ではないという断定を子供心にしてくれたという意味ではとてもすごい作品だったという風に思っています<ref name="NHK BS2「週刊手塚治虫」2009年4月17日 ゲスト富野由悠季" />。」また、富野は手塚の「来るべき世界」にさらにそれを超える衝撃を受けたということも語っている。富野は、小学6年生のときには「僕は漫画で初めて女の子を知った」と「来るべき世界」のポポーニャが覆面を外すコマを上げた。 : 富野は日本大卒業後の1964年(昭和39年)、手塚治虫が設立したアニメ制作会社の虫プロダクションに入社した。富野は手塚から直々に鉄腕アトムの演出に抜擢されアニメ後半の演出の多くは富野が手がけている。富野の初監督作品は手塚の漫画を原作とした「[[海のトリトン]]」である。富野は手塚治虫を振り返りこう語っている「アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/130623/ent13062318000017-n1.htm 産経新聞ニュース「ガンダムの富野監督の語った鉄腕アトムと手塚治虫」](2013年6月)</ref>。」「週ペースでものを作ることにすでに現場は慣れていましたが、とにかく忙しく、演出論などを議論をしている時間はなかった」「虫プロでマンガ家でアニメーターの真似事をしている人が社長であるわけがない。早く演出にならないと給料安くてやってられないと思っていた僕に「演出やらない?」と言ってきたとき、ああやはりこの人はマンガ家でありクリエイターであって社長ではなかった、と思った。オレの映画観と手塚先生の映画観が違ったから。手塚先生の映画観は甘いんじゃないかと思ってた。手塚先生が満足した作品はないと思う。」「映画は好きに作ってすむものではない。好きだけで作れるとは思わないで下さい。それでも作るなら、手塚先生と同じ手の速さと学識を持ってほしい。僕もその1億分の1くらいになれるように頑張ります。」「(「ジャングル大帝」のシナリオの社内募集にコンテを持ち込みした際)それが採用されるというのは、じつはハナからわかっていた。なぜなら、コンテを読める奴はいないのだから、ぼくのコンテだって採用される。虫プロのコンテの基準は、マンガ絵がはっきりしていればいいのであって、映像的な評価を意識したものはないから、りんちゃん(=りんたろう)的なコンテであればとおるとふんだのだ」「だからといって、手塚先生がコンテを読めないことをあげつらうつもりはない」「手塚先生だって、若い連中が描いたコンテはなおすし、短編アニメのコンテをきらせたら天下一品であるのだが、ストーリー・アニメのコンテは不得手でいらっしゃったというのが、ぼくの評価である。こんなエピソードを書いたからといって、TVアニメのパイオニアである事実を貶めることにはならないし、マンガ家として天才であることを汚すことにもならない<ref>富野由悠季「∀の癒し」</ref>」 : 手塚は富野の監督作品『[[機動戦士ガンダム]]』について「機動戦士ガンダム以降では子供向けアニメが受けにくくなった」と語っている。 : 手塚が死去したときのことを富野は次のように振り返っている「先生が亡くなられたと聞いた翌朝、失礼をかえりみず先生のお宅にあがりこんで、死に顔を拝見できなくとも近くにいたいと願った。その行為は今も恥じていない。師のエキスの一万分の一も真似することはできないだろうけど、ここに従うものがいると知ってほしいと思うのは、生きている者の欲である<ref>河出書房新社「文藝別冊 総特集 手塚治虫」1999年 P.18</ref>。」 ; [[りんたろう]](林重行) : りんたろうは1963年に東映動画から手塚治虫の虫プロダクションに移籍した。これは東映動画ではやりたかった演出ができなかったためである。りんたろうは念願がかなって「鉄腕アトム」の演出を務めた。彼は手塚のことを「偉大なマンガ家であり、寝食を忘れて一緒に仕事をしたチーフ。覚えているのは、動画机を並べて仕事をしていたときのこと。[[地震]]みたいにガタガタガタガタ揺れ出した。先生は調子に乗ってくると[[貧乏揺すり]]をするクセがあった。あとは音楽に造詣が深かったこと。朝からコンテをかきつつ[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーベン]]の第5(運命交響曲)をかけていた。商業主義でアニメがどんどん大きくなり、先生が本来やりたかったアニメとどんどんかけ離れていった。でも先生は悩みながらアニメを手放さなかった。プライベートなフィルムを作ってバランスを取っていたんだと思う。でも、最後までどの作品にも満足しなかったのではないか。」と語る。 ; [[杉井ギサブロー]](杉井儀三郎) : 杉井は幼少のころより手塚作品を読んで育った。彼はこう語る「手塚先生の『新宝島』に出会ったのは7歳のとき。その紙のザラザラした感触も覚えている。手塚先生のマンガはほかのマンガと違って、読むというより映画を見ているという印象だった。」「僕は手塚マンガから映画の作り方を教わった。」「手塚先生と初めて会ったのは20代初め。小学生のころからファンで雲の上の人だったけど、冷静に考えると先生もまだ30代。30代の若者が20代の若者を集めて作ったのが虫プロだった。一番教わったのは、[[エンターテインメント]]というのはチャレンジだということ。常にチャレンジしていないと古びてしまう。だから同じことを繰り返してはいけない。先生はホントにマンガが好きだったんだろうか、マンガではなく映画が好きで、映画を書いていたんじゃないかと思う。」 : 手塚は杉井のことを「ギッちゃん」と呼んでいた。 ; [[出崎統]] : 出崎は小学4・5年生のころより手塚治虫に憧れて漫画を描いて育った。その後、虫プロに入社する。彼は次のように語る「僕は手塚治虫にあこがれ、マンガ家を目指して挫折して、偶然虫プロに入ることができた。先生を目の前にしてもこちらからアクションを起こすことなんてできなくて。何か思い出を作っておけばよかったと後悔してる。一度、アトムのコンテを見せたとき『出崎君、[[エンターテインメント]]を忘れないで』と言われた。僕は暗い話が好きでそんなのばかりやっていたから。それからずっと、エンターテインメントって何だろう、と考えて、今日まで来てしまった。マンガでもアニメでも手塚作品の主人公はいつも悩んでる。そこにひかれたから、僕も『[[ロボット]]とは?』『[[人間]]とは?』とアトムをいつも悩ませた。それで『エンターテインメントを忘れないで』と言われちゃったけど、反権力で心の中に葛藤を抱えている、そういう主人公にあこがれ、僕もそういう作品を目指している。」 ; [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]] : 高橋も幼少のころより手塚治虫に憧れて育ち1964年に虫プロへ入社した。「私も手塚先生のファンで、別世界の人と思ってた。虫プロの試験でお会いして「ホンモノだーっ!」って思った。[[神様]]みたいな存在だったのが、一緒に働いているとどんどん「ちょっと年上のただのオジサン」になっていった。徹夜して机の下に寝ていると何か圧迫感があって、見たら隣で先生が寝ている。手塚先生と添い寝しちゃった。後になって自分のスタジオを[[高田馬場]]に持ったとき、手塚プロも高田馬場にあったので、たまに坂道なんかで会うと声をかけていただき、ますますオジサン度が強まった。亡くなってからは、今度は偉大さが強まってきた。自分が生きて出会った、いちばん偉大な人、という思いを強くしている。「アトム」の後、30分のテレビアニメが増え、手塚アニメの人気が一時下がった。すると先生は大人向けの長編を作って大ヒットさせた。業界がまたそういう方向を食いつぶしていると、2時間という枠のアニメを今度はテレビでやった。開拓者、挑戦者だった。その遺志を継いで何とか新しいものを作っていこうと頑張っている。」「今仕事してみると、『先生が生きていたらどういう風に言ってくれるのかな』とか、先生のチェックがないということがね、あらためて『先生が亡くなっちゃったんだなあ』と。そういう意識の仕方ですね。」 : ちなみに、高橋の監督作品「[[装甲騎兵ボトムズ]]」の主人公キリコは手塚の作品「ブラック・ジャック」の登場人物から取られている<ref>[https://tezukaosamu.net/jp/dir/mushi/200404/index02.html 虫ん坊「新作アニメーション火の鳥 高橋良輔監督インタビュー」](2004年4月号)</ref>。 ; [[宮崎駿]] : 宮崎は手塚の[[アニメーション]]制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における功績に敬意を表しつつも、手塚のアニメ作品を、店子を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じ旦那芸であると痛烈に批判し、手塚が[[リミテッド・アニメーション]]と[[フルアニメーション]]の違いもろくに理解せず喧伝していたことや、[[ロトスコープ]]を慌てて買い込んだことに触れ、「アニメーションに関しては(中略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない」と述べ、「趣味としてみればわかるんです。お金持ちが趣味でやったんだと思えば」と総括している<ref>宮崎駿『出発点 1979-1996』徳間書店、1996年、pp231-236。</ref>。 : 一方で、手塚が[[テレビアニメ]]黎明期に『[[鉄腕アトム]]』を安価な予算で作ったことが、日本におけるアニメの製作費が低くなる前例となってしまった件については、[[日本]]が経済成長を遂げていく過程では必然のことであり、「引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけ」とする立場を取っている<ref name="miya">宮崎駿「手塚治虫に「神の手」を見たとき、ぼくは彼と訣別した」『[[コミックボックス|COMIC BOX]]』([[ふゅーじょんぷろだくと]])1989年5月号</ref>。 : 漫画作品に関しては後の[[2009年]]のインタビューにおいて、7歳のときに読んだ『新宝島』に「言い難いほどの衝撃」を受けたことを明かし、「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」と語っている。また、その後のSF3部作(『[[ロストワールド (漫画)|ロストワールド]]』『[[メトロポリス (漫画)|メトロポリス]]』『[[来るべき世界 (漫画)|来るべき世界]]』)の虜になっていたことも認め、「モダニズムとは、繁栄や大量消費と同時に、破壊の発明でもある。そのことに、ひとりアジアの片隅で行き着いたのが手塚さんだった」と評している。当初、漫画家を目指していた宮崎がアニメーターに転じたのは、絵が手塚の亜流に見えてしまうことが理由のひとつにあったという。また、手塚のアニメについて、従来の評価は変わらないとした上で「僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20090419130306/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」](2009年4月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])YOMIURI ONLINE、2009年4月14日。</ref>。 : 雑誌の寄稿文では「十八歳を過ぎて自分でまんがを描かなくてはいけないと思ったときに、自分にしみこんでいる手塚さんの影響をどうやってこそぎ落とすか、ということが大変な重荷になりました。ぼくは全然真似した覚えはないし実際似てないんだけど、描いたものが手塚さんに似ていると言われました。それは非常に屈辱感があったんです。模写から入ればいいと言う人もいるけどぼくは、それではいけないと思い込んでいた。それに、手塚さんに似ていると自分でも認めざるをえなかったとき、箪笥の引き出しにいっぱいためてあったらくがきを全部燃やしたりした。全部燃やして、さあ新しく出発だと心に決めて、基礎的な勉強をしなくてはとスケッチやデッサンを始めました。でもそんなに簡単に抜けだせるはずもなくて…。」<ref name="miya" />と語り、その後のインタビューでは「僕は、手塚さんとはずっと格闘してきましたから。それは『恩義』だけれど、そんな言葉で語れるほど簡単なものじゃありません」とも語っている。 : 宮崎は東映動画に入社した年である[[1963年]]に手塚治虫が原案を務めた『[[わんわん忠臣蔵]]』にアニメーターの一人として参加している。[[1977年]]には同じく手塚治虫原案の『草原の子テングリ』でレイアウトを務めた。 : 手塚は宮崎の『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『[[ぱふ]]』のインタビューで語っている<ref>1980年5月 ぱふ</ref>。 : [[1981年]]には手塚と宮崎との合作『ロルフ』も予定されていた。手塚は[[アニメージュ]]の紙面上で次のように語っている。「『ロルフ』---この有名なアングラ・コミックを宮崎さんが長編アニメにしたいという執念をぼくにもらされたのは、もう半年くらい前のことです。『[[じゃりン子チエ#アニメ映画|じゃりン子チエ]]』の追い込みも終わった前後のことで、どうしてもこれだけは国際的アニメに作り上げたいという夢を、[[大塚康生]]氏とともに語られました。ぼくたちは、この夢の実現を目ざして、どんなに時間がかかっても成就したいと思っています。それにはT社の社長および原作者の強力なご援助がなければできないことです。コケの一念で実現させたいと思います。宮崎さんは、きっととてつもないもの凄い映画に作り上げられることでしょう」<ref>徳間書店「アニメージュ」1981年8月号</ref>。この合作は実現しなかったが、ロルフの企画は名前と形を変え『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』となった<ref>徳間書店「The art of Nausica」1984年6月20日</ref>。 : 手塚は『風の谷のナウシカ』が大ヒットしたのを見て、「凄く悔しがっていた」と元アシスタントの[[石坂啓]]が述懐している<ref>[https://togetter.com/li/1377686 宮崎駿の手塚批判に自分なりに思ったこと。]</ref>。また、手塚は晩年に[[アニメーター]]で元[[トキワ荘]]住人の[[鈴木伸一]]とともに『[[天空の城ラピュタ]]』を観たという<ref>2020年 CCCメディアハウス刊 『増版決定版 漫画の神様 手塚治虫の仕事(クリエイション)』</ref>。映画を観た後、手塚は鈴木に「面白かった?」と聞き、「は、はい。」と答えた鈴木に対し「そうかな?」と述べ、宮崎をライバル視していたという。 : 宮崎は[[2011年]]に刊行された著書『本へのとびら』の中で、これまでの手塚への発言について「手塚さんは今の僕より若くして亡くなった方ですから<ref group="注釈">2011年時点で宮崎は70歳、手塚は60歳没である。</ref>、僕より若い人なんだ、とこのごろは思っているんです。年寄りがとやかく言うことではありません。」と述べている<ref>宮崎駿「本へのとびら」岩波書店、2011年、pp137-138。</ref>。 === その他 === トレードマークは、[[ベレー帽]]と分厚い黒縁眼鏡。人前で帽子を外すことは滅多になく、「帽子を被ってないときは映さないで」と照れ笑いする様子が映像に残っている<ref>NHK特集『手塚治虫 創作の秘密』(1986年1月10日放送)</ref>。しかし、街中を歩くとき、仕事中、タクシーの中などはベレー帽を脱いでいることが多かった(これにはベレー帽を脱いでいると街中を歩いていても手塚治虫であると気づかれにくい利点もあったようである)。ベレー帽は、もともと[[横山隆一]]を模倣してかぶり始めたもので、横山はやがてベレー帽の使用をやめたが、手塚は自身の漫画の中でも自分自身をベレー帽と黒縁眼鏡と鼻が大きい人物として特徴付けており、生涯これを変えることをしなかった。このベレー帽をかぶる風習はトキワ荘のメンバーにも伝わり、石森章太郎や藤子不二雄(藤本弘)などもベレー帽をかぶっていた。また、トキワ荘のマンガ家のあいだでよく用いられた「~氏」という[[敬称]]はもともと手塚が使っていたもので、相手の年齢にかかわらず用いられて便利ということで広まったと水野英子は証言している<ref>{{Cite journal|和書|date=2019-10-28|title=『熱討スタジアム』「トキワ荘」の青春を語ろう|journal=[[週刊現代]]2019年11月2・9日合併号|page=143|publisher=講談社|url=https://gendai.media/list/books/wgendai/4910206421195|accessdate=2019-10-28}}</ref>。 身長は170センチメートルと、戦前生まれとしては大柄であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1302/05/news037.html|title=なぜ手塚治虫はヒット作を生み出し続けることができたのか|accessdate=2019-12-06|author=増田弘道|date=2013-02-05|website=ITmedia ビジネスオンライン|publisher=アイティメディア|page=2|archiveurl= |archivedate= }}</ref>。[[視力]]は度の強い[[近視]]であった。甘いものが好きであったために歯を悪くした。特に「チョコがなければ仕事ができない」というほどのチョコレート好きであり、死後に施錠されていた仕事机の中からかじりかけの板チョコが見つかった<ref name="gnavi">{{Cite web|和書|url=https://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/1380|title= 【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第二話:手塚治虫の「チョコレート」|work=ぐるなび みんなのごはん|accessdate=2015-05-30}}</ref>。 人並み外れた仕事量をこなしたことで知られているが、決して家庭を蔑ろにすることはなく、誕生日とクリスマスには必ず家族でレストラン・ディナーをとる習慣があり、計画を立てて正月と夏休みには家族旅行に出かけていた<ref name="gnavi" />。[[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]には「マンガ家としてだけじゃなく父としても神」と評された<ref name="gnavi" />。 アシスタント経験のある漫画家[[古谷三敏]]によると、手塚はアルコールがあまり飲めず、煙草も普段は吸わなかった。バーで煙草をふかしたときは上手く吸い込めていなかったという<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/160398/2 漫画家・古谷三敏が語る 手塚治虫と赤塚不二夫の酒の思い出]</ref>。 1962年に日本共産党への支持を表明後<ref>[https://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-04-07/15_01.html 「♪こころやさし アトムきょう誕生日」 しんぶん赤旗 2003年4月7日(月)]</ref>、日本共産党の選挙応援にたびたび駆け付け、赤旗にも掲載されていた<ref>{{Twitter status|JCPS_Official|1150971146809954305|accessdate=2023-03-09}}</ref>。一方で、自由民主党の機関紙である「月刊自由民主」にも、1984年10月号に寄稿したことがある<ref>{{Cite web|和書|url=https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2023/03/03/120000|title= 唐沢俊一氏がツイートしてた手塚治虫が共産党の応援演説後、同日に自民党の応援をしたという話の出典がわからない|work=電脳塵芥|accessdate=2023-03-09}}</ref>。 == 年表 == [[File:Kouseki chousho TEZUKA OSAMU 02.png|thumb|300px|叙勲の推薦の際に作成された功績調書(1989年(平成元年))]] [[File:Kouseki chousho TEZUKA OSAMU 03.png|thumb|300px|同上]] [[File:Kouseki chousho TEZUKA OSAMU 04.png|thumb|150px|同上]] [[File:Kouseki chousho TEZUKA OSAMU 01.png|thumb|150px|同上に付された表紙(文部省原議書)]] * 1928年11月3日 - 大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)に生まれる。※岡町相生通りに生誕から2歳まで、引っ越して岡町曽根(萩の寺の付近)に2歳から5歳まで。 * 1933年 - 5歳のとき兵庫県[[川辺郡]]小浜村(現・宝塚市)の川面(かわも)の高台のふもとの元祖父の屋敷に一家で引っ越す。このころから母とともに[[宝塚歌劇団|宝塚歌劇]]に親しむ。 * 1935年 - 池田師範学校附属小学校(現・大阪教育大学附属池田小学校)入学。 * 1939年 - 自分の名前「治」に虫を付けて「治虫」をペンネームとする。 * 1941年 - 大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)入学。 * 1945年3月 - 北野中学を卒業。[[学徒勤労動員|勤労動員]]中6月の大阪大空襲に遭遇。7月、大阪帝国大学附属医学専門部に入学。 * 1946年1月4日 - プロデビュー作の四コマ漫画『[[マァチャンの日記帳]]』(少國民新聞(後の毎日小学生新聞)大阪版)の連載開始。 * 1947年 - 酒井七馬がもちかけた企画による長編漫画単行本(赤本)『'''[[新宝島|新寳島]]'''』が刊行された(初版1月30日、4月20日、6月1日、7月25日と版を重ねて累積40万部が売れたとされる)。 * 1950年(22歳) - 上京中に学童社に立ち寄って加藤謙一と出会い、持っていた単行本用の原稿を見せたところ連載が決まり「漫画少年」誌で『'''[[ジャングル大帝]]'''』の連載開始。 * 1951年 - 1年留年し、大阪大学附属医学専門部(旧制)卒業。[[毎日放送]]開局時の[[アナウンサー]]採用試験に合格。偶然通りかかって受験してみたところ合格した、と後年同局の番組『[[あどりぶランド]]』で語っている。光文社の月刊誌「少年」に「アトム大使」(当初の予定はアトム大陸)を連載開始。 * 1952年 - 医師免許取得。『アトム大使』から路線変更した『'''[[鉄腕アトム]]'''』(連載予告では鉄人アトム)を『少年』 に引き続いて連載。東京都新宿区[[四谷]]に約1年半[[下宿]]する(四谷交差点(北西角。メトロ2番入り口前)「成木屋青物店」の2階。のちの漫画作品「四谷快談」の舞台。『鉄腕アトム』などの執筆場所)。 * 1953年(25歳) - 東京都豊島区椎名町5丁目(現:豊島区南長崎3丁目)のトキワ荘に入居。『'''[[リボンの騎士]]'''』を講談社の月刊誌少女クラブに連載開始。 * 1954年 - 週刊朝日の昭和29年(1954年)4月11日号、頁22-23で「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」として紹介される。 * 1954年 - 10月に豊島区雑司が谷の並木ハウスに下宿。 * 1957年 - 東京都渋谷区代々木初台に借家。 * 1958年(30歳) - 第3回小学館漫画賞受賞(『漫画生物学』『びいこちゃん』)。練馬区東大泉町(現:東大泉)の東映動画から漫画「ぼくのそんごくう」を元にした劇場用長編総天然色漫画映画「西遊記」の制作を持ちかけられて嘱託社員となる。 * 1959年 - [[松下井知夫]](まつしたいちお)が中心となって結成した「ストーリー漫画研究会」に参加(松下に結婚式の媒酌人を依頼)。 * 1959年 - 10月に岡田悦子と結婚。『[[週刊少年サンデー]]』創刊号から『スリル博士』を連載する。 * 1960年 - 練馬区谷原町(現・練馬区富士見台)に自らデザインした自宅を建てる。 * 1961年 - 奈良県立医科大学から医学博士の学位を授与される。主に東映動画から引き抜いた人材を中心とする6名で手塚治虫プロダクション動画部を設立し(12月には株式会社虫プロダクションとして登記)、自宅の庭の一角に作った建物で非商用アニメーション作品「ある街角の物語」の制作を開始。長男・[[手塚眞|眞]](本名:真)が誕生。 * 1963年(35歳) - 自ら創設して社長も務めた虫プロダクション制作の'''日本初'''毎週30分枠の[[テレビアニメ]]シリーズ<ref group="注釈" name="以前">テレビアニメとしてはそれ以前に『[[もぐらのアバンチュール]]』『[[新しい動画 3つのはなし]]』『[[インスタントヒストリー]]』『[[おとぎマンガカレンダー]]』などが放映されている。</ref>『鉄腕アトム』(モノクロ作品)がフジテレビにて1月1日から放送を開始する(丸4年間放送)。「ある街角の物語」が芸術祭奨励賞、第1回大藤信郎賞、ブルーリボン教育文化映画賞を受賞。 * 1964年 - 長女・[[手塚るみ子|るみ子]]が誕生。 * 1965年 - 日本初の1時間枠テレビアニメ「新宝島」を1月3日に放送(これは本来は手塚治虫原作の漫画を毎月1回1時間の枠で毎回完結の独立したアニメ番組化していく構想「虫プロ・ランド」の第1作目であったが、経営的な面から製作継続は無理と判断され、これ一作だけが作られて中止となった)。日本初のカラーテレビアニメシリーズ『[[ジャングル大帝]]』がフジテレビで10月6日から放送。[[毎日新聞社]]の[[特派員]]記者として[[ニューヨーク万国博覧会 (1964年)|ニューヨーク世界博覧会]]を取材するために渡[[アメリカ合衆国|米]]した際に偶然に同博覧会場のペプシコーラ館前において生涯で一度だけとなったウォルト・ディズニーとの対面を果たす。W3事件。虫プロの版権部門を独立させた会社「虫プロ商事」を発足する。 * 1967年 - 虫プロ商事は月刊誌『COM』を刊行開始し、同誌に「'''[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]'''」の連載を開始。 * 1968年(40歳) - 虫プロ商事制作のテレビ番組「バンパイヤ」がフジテレビ系で放送開始。漫画制作のための手塚プロダクションを設立。 * 1969年 - 大人のための劇場用長編アニメーション「千夜一夜物語」を公開。 * 1970年 - 『火の鳥』で第1回[[講談社出版文化賞]]の児童まんが部門で受賞。[[日本万国博覧会]](大阪万博)にて「フジパンロボット館<ref group="注釈">フジパンロボット館は閉幕後に愛知青少年公園(現・[[愛・地球博記念公園]])に移設され、2005年に[[2005年日本国際博覧会|愛・地球博]]でも展示された。</ref>」をプロデュース。少年画報社の「週刊少年キング」誌連載の『アポロの歌』に過度の性的描写があるとして、一部地域で青少年に対する[[発禁|発売禁止]]を受ける。 * 1971年 - 虫プロ社長を退任。(虫プロ商事の社長は継続)。手塚プロダクション動画部を作り、テレビアニメシリーズ「ふしぎなメルモ」を制作し、[[朝日放送テレビ|朝日放送]](現:[[朝日放送テレビ]]。[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]])で放送。 * 1972年 -『'''[[ブッダ (漫画)|ブッダ]]'''』を連載開始。 * 1973年(45歳) - 虫プロ商事とそれに続いて虫プロダクションが倒産。虫プロダクションの経営から手を退いた後も、手塚は個人で多額の[[保証|債務保証]]を行っていたため[[債権]]者に追われる身となるが、知人の[[葛西健蔵]](現・[[アップリカ・チルドレンズプロダクツ]][[会長]])が[[後見人]]となり、版権の散逸は免れた。11月19日、『週刊少年チャンピオン』にて『'''[[ブラック・ジャック]]'''』の連載開始。 * 1974年 - 練馬区から杉並区下井草に引っ越す。 * 1975年 - 漫画作品『ブッダ』、『動物つれづれ草』により第21回文藝春秋漫画賞を受賞。『ブラック・ジャック』により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞。 * 1977年 - 漫画作品『三つ目がとおる』、『ブラック・ジャック』により第1回講談社漫画賞少年部門受賞。講談社『[[手塚治虫漫画全集]]』(当初は第1 - 第3期の全300巻を予定)刊行開始。 * 1978年(50歳) - 日本アニメーション協会(Japan Animation Association = JAA)の初代会長となった。 * 1978年 - 日本テレビ系の夏の「24時間テレビ」の中で、日本初の単発2時間枠のスペシャルアニメ番組「100万年地球の旅 バンダーブック」を放送。 * 1979年 - 児童漫画の開拓と業績により[[巖谷小波文芸賞]]受賞。 * 1980年 - 東宝洋画系で劇場用長編アニメーション「火の鳥2772」を公開。サンディエゴ・コミック・コンベンション・[[インクポット賞]]受賞。国際交流基金のマンガ大使として国連本部、米国の大学で現代日本のマンガ文化について講演。映画『[[ヒポクラテスたち]]』に、大学病院の教授役でカメオ出演する。 * 1983年(55歳) - 漫画作品『陽だまりの樹』により第29回(昭和58年度)小学館漫画賞(青年・一般向け部門)受賞。 * 1984年 - 実験アニメーション『ジャンピング』が[[ザグレブ国際アニメーション映画祭]]グランプリおよびユネスコ賞を受賞。 * 1985年 - 実験アニメーション『おんぼろフィルム』が第1回国際アニメーション映画祭広島大会グランプリ受賞。東京都民文化栄誉章受章。漫画家生活40周年、『講談社 手塚治虫漫画全集』(当初予定した3期分全300冊)の完結により、講談社漫画賞特別賞受賞。同年7月にフランスで開催された「日仏文化サミット85」(朝日新聞社、フランス文化省、コミュニケーション国際広場CICOM主催、日仏両国外務省後援)に参加。 * 1986年 - 漫画作品『アドルフに告ぐ』により、第10回講談社漫画賞一般部門受賞。 * 1987年 - 愛知県岡崎市で開催の地方博覧会「葵博」の総合プロデューサーを務める。 * 1988年2月13日 - 朝日賞受賞記念講演(東京・有楽町朝日ホール)、講演題「アニメーションと私」。 * 1988年6月4日 - [[高橋健]]、[[矢島稔]]、田中栄治らと「日本昆虫倶楽部」を創設し初代会長に<ref>[http://chikyuza.net/wp-content/uploads/2016/07/0d9b0280360700200c189221c9d239e6.pdf 日本昆虫倶楽部ご案内]</ref>。 * 1988年(60歳) - 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞受賞<ref>{{Cite web|和書|title=朝日賞 1971-2000年度|website=朝日新聞社|url=https://www.asahi.com/corporate/award/asahi/12738070 |accessdate=2022-08-31}}</ref>。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞受賞。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞。体調悪化により急遽入院(スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず)。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行う。 * 1989年2月9日 - 胃癌により入院中の半蔵門病院にて午前10時50分に死去(60歳没)。[[戒名]]は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章[[叙勲]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ayumi/contents3_02/03/|publisher=[[国立公文書館]]|accessdate=2019-04-28|title=叙勲について(手塚治ペンネーム治虫)}}</ref>。[[日本SF作家クラブ]]主催第10回日本SF大賞特別賞受賞。 * 1990年 - [[東京国立近代美術館]]で回顧展。権威ある美術館で、没後1年足らずで回顧展が開かれた。国立美術館での漫画家の回顧展は空前のことであるという。同年、全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。 * 1993年 - 第4期講談社手塚治虫全集の刊行を開始(その後1997年12月に第4期の刊行は完了し、全部で400冊の全集が完結した)。 [[画像:Tezuka museum.jpg|thumb|right|[[宝塚市立手塚治虫記念館]]]] * 1994年 - 兵庫県宝塚市に、[[宝塚市立手塚治虫記念館]]が4月25日に開館した。これのメモリアル公演として宝塚歌劇団花組が第80期生初の[[舞台芸術|舞台公演]]として『[[ブラック・ジャック 危険な賭け]]』『火の鳥』を上演。 * 2002年 - 米[[アイズナー賞]]の「漫画家の殿堂」入り。同年に日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱。 * 2004年 - 漫画『ブッダ』の英訳版がアイズナー賞の最優秀国際作品部門を受賞。 * 2007年 - 2008年に生誕80周年を迎えることを記念して、手塚治虫作品を読者の手で選んで発行する『手塚治虫O(オンデマンド)マガジン』のサービスが開始される。 * 2008年 - 生誕80周年を記念して小学館から過去のコミックの特装版、[[金|純金]]製アトムなどの商品の発売、出身地宝塚でのイベント、[[アメリカ合衆国]][[サンフランシスコ]]での手塚治虫展、広島国際アニメーションフェスティバル、[[東京国際映画祭]]で過去に自身が手がけたアニメ作品が特集されて上映。 * 2009年 - [[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]で特別展「手塚治虫展」開催。 * 2009年10月 - 講談社『[[手塚治虫文庫全集]]』(全200巻)刊行開始。 * 2011年4月28日から6月30日 - 大阪大学総合学術博物館 侍兼山修学館で、大阪大学総合学術博物館第13回企画展「阪大生・手塚治虫 - 医師か?マンガ家か?-」開催 ※ url=https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P13/P13.html * 2012年 - [[世田谷文学館]]にて「地上最大の手塚治虫展」開催。 * 2013年 - 練馬区立石神井公園ふるさと文化館にて特別展「鉄腕アトム放送50周年記念 - 鉄腕アトムが飛んだ日」(開催期間:2013年1月19日-3月24日)。 * 2013年 - 愛知県岡崎市「おかざき世界子ども美術博物館」で「手塚治虫展」。原稿や愛用品など約170点を展示(開催期間:2013年4月27日-2013年7月15日)。 * 2013年 - [[東京都現代美術館]]で特別展「手塚治虫×石ノ森章太郎 マンガのちから」(2013年6月29日 - 9月8日)。以降、[[広島県立歴史博物館]](2013年11月15日 - 2014年1月5日)、[[大阪歴史博物館]](2014年1月15日 - 3月10日)、[[山梨県立博物館]](2014年3月21日 - 5月19日)、[[宮城県美術館]](2014年5月31日 - 7月27日)、[[長野県信濃美術館]](2014年10月4日-12月7日・予定)を巡回。 * 2014年 - [[大学入試センター試験]]二日目(1月19日、日曜日)の日本史Bの設問に手塚が取り上げられ、著書や漫画が使われた。※注:学校用教科書に手塚治虫の文章が掲載された例は在命中にも何度かある。 * 2014年4月7日 - 米グーグルのWebサイト「歴史アーカイブ(Google Cultural Institute)」に漫画やアニメ作品でたどる手塚治虫の生涯が公開。 * 2014年5月16日(?) - スペイン、バルセロナのコミックサロンで、手塚治虫作「人間昆虫記」が外国作品部門で受賞 ※日本漫画作品では初の受賞。 * 2014年7月12日から8月31日 - 滋賀県立近代美術館で「手塚治虫展」(2014年7月12日-8月31日)開催。 * 2014年7月25日 - 漫画『[[地底国の怪人]]』の英訳版(The Mysterious Underground Men, by Osamu Tezuka(PictureBox))がアイズナー賞の最優秀国際アジア作品部門を受賞。 * 2014年7月19日から10月5日 - 湯前まんが美術館(熊本県球磨郡湯前町中央公民館(那須良輔記念館))で「火の鳥連載60周年記念 阿蘇と手塚治虫」展(2014年7月19日 - 10月5日)開催。 * 2014年9月5日から9月14日 - 横浜みなとみらいのブリリアショートショートシアターで、手塚治虫の実験アニメーション特集(2014年9月5日 - 9月14日)。※「森の伝説 第二楽章」完成記念。初日に手塚眞のトークショウ。※2014年8月21日に第15回広島国際アニメーションフェスティバルでのワールドプレミア上映に続く一般向け公開。 * 2014年11月3日から11月9日 - 東京・吉祥寺の吉祥寺ギャラリー・カイ(GALLERY KAI)で「手塚治虫の美女画展」開催。 * 2015年2月28日から5月10日 - 京都国際マンガミュージアムで「医師たちのブラック・ジャック展」開催。 * 2015年12月17日から12月23日 - 吉祥寺リベストギャラリー創で「手塚治虫文化祭 〜キチムシ‘15〜」開催。 * 2016年7月30日から8月21日 - 会津若松市歴史資料センター「まなべこ」で特別企画展「手塚治虫と会津」開催。 * 2016年9月10日から11月13日 - さいたま市立漫画会館1階 企画展示室で「手塚治虫とっておきの漫画」展開催。 * 2018年1月25日から3月11日 - フランス・アングレーム美術館で展覧会「Osamu Tezuka, Manga no Kamisama」開催。 * 2018年7月13日から9月2日 - [[台湾]][[台北市]]の[[誠品書店]]敦南店で「漫畫之神-手塚治虫 生誕90年紀念展」開催。「[[手塚治虫書店]]」も出店。 * 2019年4月1日 - [[宝塚市立手塚治虫記念館]]がリニューアルオープン。 * 2019年1月TVアニメ「どろろ」が放送開始 * 2019年10月1日 - [[キオクシア]]の「#世界新記憶」第1弾として[[人工知能]]による手塚治虫新作漫画制作プロジェクト「TEZUKA2020」(テヅカニーゼロニーゼロ)が発表、タイトルは『[[ぱいどん]]』で2020年2月及び4月に[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]で前後編が掲載された<ref>{{Cite news |title=“手塚治虫の新作マンガ”をAIが執筆、プロジェクト「TEZUKA2020」始動 |newspaper=コミックナタリー |date=2019-10-01 |url=https://natalie.mu/comic/news/349814 |accessdate=2020-06-18 |publisher=ナターシャ }}</ref><ref>{{Cite news |title=手塚治虫さんの新作漫画、AI技術で30年ぶり“復活” 息子・手塚眞氏「まさに漫画の中のよう」 |newspaper=オリコンニュース |date=2020-02-26 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2156142/full/ |accessdate=2020-06-18 |publisher=オリコン }}</ref>。 * 2020年9月28日 - 米国の出版社ファンタグラフィックスが主催する漫画の賞ハーヴェイ賞(The Harvey Awards)の運営委員会は、2020年9月28日に手塚治虫に対して殿堂入りクリエイターとして"Harvey Awards Hall of Fame"を授与すると発表。 url=https://www.excite.co.jp/news/article/Atpress_228464/ * 2021年3月24日から4月5日 - 阪急うめだ本店 9階 阪急うめだギャラリーで「手塚治虫のクリエーション」開催。 == 出演番組 == * キャスター(文化放送) == 関連人物 == === 家族 === [[ファイル:手塚太郎.jpg|thumb|right|150px|[[手塚太郎]]]] 祖父・[[手塚太郎]]は[[裁判官|司法官]]で、1886年(明治19年)に創立された[[関西法律学校]](現・[[関西大学]])の創立者の一人である。[[大阪地方裁判所]][[検察官#検察官の職名|検事正]]から[[名古屋市|名古屋]][[控訴院]][[検察官#日本の検察官|検事長]]、[[長崎県|長崎]]控訴院長などを歴任した。曽祖父・[[手塚良仙]]は[[適塾]]に学んだ[[蘭方医学|蘭方医]]で、1858年([[安政]]5年)に江戸の[[神田 (千代田区)|神田]][[於玉ヶ池|お玉ヶ池]][[種痘所]](現・[[東京大学大学院医学系研究科・医学部|東京大学医学部]]の前身)を設立した人物の一人でもある。その生涯は治虫の晩年の作『陽だまりの樹』で[[フィクション]]を交えつつ描かれており、[[福澤諭吉]]の[[自伝]]『[[福翁自伝]]』にも記録が残っている。[[先祖|遠祖]]は[[平安時代]]の[[武将]]・[[手塚光盛]]とされる。家系図<ref>[https://kingendaikeizu.net/tezukaosamu.htm 手塚治虫の家系図(深瀬泰旦:「漫画の神様 手塚治虫とその一族」、歴史と旅、秋田書店、2000年2月号より)]</ref> (なお作家活動時には多くの書籍で生年を大正15年(1926年)と紹介していた)。 父・粲は[[住友金属工業|住友金属]]に勤める[[サラリーマン|会社員]]であり、[[カメラ]]を愛好するなどモダンな人物であった。当時非常に珍しかった手回しの9.5mmフィルム[[映写]]機(パテベイビー)を所有しており、治は[[小学校]]2年生から[[旧制中学校|中学]]にかけて、日曜日には家にいながらにして[[チャールズ・チャップリン|チャップリン]]の[[喜劇]]映画、[[フライシャー・スタジオ|マックス・フライシャー]]や[[ウォルト・ディズニー|ディズニー]]のアニメ映画を観ることができた{{Sfn|手塚|1997|pp=17-19}}。そのため治は幼少時から漫画家よりもむしろアニメ監督になることを夢見ていたという<ref>アニメ雑学おもしろ事典(1984年、白泉社)手塚インタビュー</ref>。なお、父はカメラにはまる前は漫画にも凝っていて、漫画への理解があり、家には[[田河水泡]]の『[[のらくろ]]』シリーズや、中村書店の「ナカムラ・マンガ・ライブラリー」、「ナカムラ・繪叢書」など、200冊を超える漫画本があったという{{Sfn|手塚|1997|pp=10-12}}。また、のちに父が母に向けて書いたラブレターを発見した際、ラブレターに漫画が描かれてあるのを発見し、治虫は「やっぱり自分は父の息子だ」と思ったという<ref>テヅカニアン博物館監修「手塚治虫の真実と謎と秘密と履歴書」p.12</ref>。粲は晩年はファンクラブの世話人として、手塚の元を訪れるファンを接待していた。 母・文子は、服部英男([[大日本帝国陸軍|陸軍]][[中将]]<ref name=":0">{{Harvnb|桜井|2015|p=61|pp=545-611|loc=}}</ref><ref name=":1">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生}}</ref>。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]][[陸軍士官学校卒業生一覧 (日本)#11期|11期]]<ref name=":0" /><ref name=":1" />・[[陸軍大学校|陸大]]23期<ref name=":1" />、[[輜重兵]][[将校]]<ref name=":1" />、最終補職は[[教育総監#輜重兵監部|輜重兵監]]<ref name=":1" />。)の娘で<ref name=":0" />、厳しい[[しつけ]]のもとに育ち、夫には絶対服従であったが、戦中に夫が[[召集]]された際は、[[生活費]]の捻出や[[農作業|畑仕事]]から[[隣組]]の役員まで務める働きぶりを示す{{Sfn|桜井|p=37}}一方で、幼少期の治に子守唄代わりに[[絵本]]や漫画を登場人物ごとに声音を使い分けて[[読み聞かせ]]ていた。母もまた漫画好きであり、のちに治虫の長男・眞が治虫の[[書斎]]で『のらくろ』を読んでいたところ、ページの隅に[[パラパラマンガ|パラパラ漫画]]を発見した。てっきり治虫によるものだと思っていたが、後になって文子が描いたものだったと判明したという{{Sfn|桜井|p=40}}。1983年1月4日、74歳で没<ref name="tezuka1980" />。 治虫は初期の[[自伝]]などで父を悪く書き、母を持ち上げるという[[エディプスコンプレックス]]丸出し<ref group="注釈">なお、治虫の作品に父親の存在が希薄であることはしばしば指摘されている。(桜井、34p)</ref> の行動を取っている。父を強権的で母に無理を押し付ける[[亭主関白]]として、あるいは治虫自身に害のある行動を取ったと回想しているものであり、そのうちの一部はのちにエッセイなどで事実上の撤回をしている(初期の自伝などで父は漫画を買ってくれず主に母が漫画を買ってくれたとしていたが、後年のエッセイではむしろ父親が買ってくれていたと変わっている)。実妹・美奈子は治虫没後のインタビューで、父親について決して強権的ではなく家庭サービスにも熱心であったと述べている<ref>『手塚治虫完全解体新書』所収</ref>。このことは「ぼくの漫画期」にも載っている。 治は長子で、下には2歳下の弟・浩と4歳下の妹・美奈子(結婚後は宇都に改姓)がいる。浩は「子供のころ昆虫のことがもとでああじゃね、こうじゃねと話していたら取っ組み合いのケンカになった。殴り合いでね、こっちは軽く勝つと思っていたら兄貴強かったですよ。だから、ヨワムシとかナキムシとか言ってたけどあれはまるで嘘ですよ。」と語っている。2009年2月9日放送の「BS20周年企画 手塚治虫2009」では手塚の同級生とともに[[宝塚市立手塚治虫記念館|宝塚市の手塚治虫記念館]]に訪れている。美奈子は「[[太平洋戦争|戦争]]が始まって兄はどこか変わった。それまでは[[天国]]のような生活だったけど、戦争が始まって[[学校教練|軍事教練]]などさせられて兄のプライドは傷付いた」と話している。美奈子は手塚のキャラクター・[[ヒョウタンツギ]]の創作者でもある<ref>2009年2月9日放送「BS20周年企画 手塚治虫2009」</ref>。 妻の悦子(旧姓・岡田)は、血の繋がらない親戚で幼馴染であった。結婚が[[ベビーブーム|第一次ベビーブーム]]と重なっていたため、[[結婚]]前に2回しか[[デート]]ができず{{Sfn|手塚|1999|p=217}}、しかも[[結婚披露宴]]では1時間前まで閉じ込められて原稿を描き遅刻してしまったという{{Sfn|桜井|p=122}}。悦子は梅花高女(現・[[梅花中学校・高等学校]])出身であり、この学校が当時「大阪のひどい方で一流の、つまりすごい学校」だったため、手塚は「鉄火肌のおもしろい子」を期待して悦子と結婚したが、実際に結婚してみるとそうではないことがわかったという{{Sfn|北|p=25}}。 子供は3人。長男は[[映像作家]]の[[手塚眞]] (本名は「真」、悦子夫人が真実一路という言葉を好んでいたので命名)。長女はプランニングプロデューサー・[[環境運動|地球環境運動]]家の[[手塚るみ子]](少女雑誌の懸賞の当選者に「るみ子」という名前があったので命名)。次女は[[俳優|女優]]の手塚千以子(ちいこ・『[[千夜一夜物語]]』にちなんで命名)。また、[[声優]]の[[松山薫]]は姪。 妻、長男、長女の3人が手塚治虫に関する本を刊行している。 === アシスタント経験者 === 日本で漫画制作作業の専業アシスタント制度(プロダクション制作システム)を最初に始めたのは手塚治虫であるといわれている。 なお以下のリストは完全なものではない。手塚治虫は、アシスタントは通例2-3年程度で独り立ちすることを良しと考えていた。 {{段組|width=18em|count=auto|1= * [[笹川ひろし]] - [[竜の子プロダクション]]の創業メンバーの一人で、アニメ演出家である。手塚治虫の専属アシスタント第一号。 * [[古谷三敏]] * [[月岡貞夫]] * [[しのだひでお]] * [[久松文雄]] * [[高須れいじ]] * [[小室孝太郎]](本名は小室保孝) * [[北野英明]] * [[三浦みつる]] * [[寺沢武一]] * [[成田アキラ]] * [[小谷憲一]] * [[岩田廉太郎]] * [[池原しげと]] * [[石坂啓]] * [[高見まこ]] * [[喜国雅彦]] * [[わたべ淳]] * [[吉住純]] * [[大和田夏希]] * [[みやぞえ郁雄]] * [[石川球太]] * [[井上智]] * [[光山勝治]] * [[馬場秀夫]] * [[林ひさお]] * [[井上大助]] * [[井上英沖]] * [[きりえれいこ]] * [[大野豊 (漫画家)|大野豊]] * [[堀田あきお]] * [[高井研一郎]] * [[宮腰義勝]](塚本光治、本名は宮腰) * [[鈴木光明]] * [[村野守美]] * はらだ蘭(原田千代子) * 浜口渉 - 虫プロ時代のアシスタントの後に手塚プロの資料室長 * 阿部高明 * 上野義幸 * きよみずあや * 小杉あきら * すみちあき * 坪田文太 * 杜町かなえ * [[七瀬カイ]] * [[成田マキホ]] * [[平田昭吾]] * [[ひらまつおさむ|平松修]] * [[広井てつお]] * [[やまだ三平]] * [[福元一義]] * [[斉藤あきら (漫画家)|斉藤あきら]] * [[はっとりかずお]] * [[甲斐謙二]] * 福永ヒロ * [[伴俊男 (漫画家)|伴俊男]] * あべこうじ * 星城朗二([[田中英二]]) * [[谷川一彦]] * 島崎朝子 * 野村正(1982年手塚プロ入社) * 山下雄平 * 出雲公三 * 山本広志 * 木本佳子 * 安藤正巳 }} ==== トキワ荘・初台時代 ==== * 安孫子素雄([[藤子不二雄A|藤子不二雄{{Unicode|Ⓐ}}]]) - 「漫画少年」連載の『ジャングル大帝』の最終回等をアシスト * 藤本弘([[藤子・F・不二雄]]) - トキワ荘メンバーと共に雑誌未掲載の「ぼくのそんごくう」をアシスト * 石森章太郎([[石ノ森章太郎]]) - 高校時代に光文社「少年」連載の『鉄腕アトム』「電光人間の巻」など複数をアシスト * [[赤塚不二夫]] - 石森とともに「少女クラブ」掲載の『火の鳥(ギリシャ編)』をアシスト(ペン入れ) * [[横山光輝]] - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト * [[桑田二郎]] - 「少年」連載の『鉄腕アトム』をアシスト * [[永島慎二]] - 『[[丹下左膳]]』をアシスト * [[松本零士]] - 『複眼魔人』をアシスト ==== アニメーション制作のスタッフ ==== 以下のリストは完全なものではない。なお、虫プロダクションの最盛期には従業員が400人以上いたといわれる。 {{段組|width=18em|count=auto|1= * [[中村和子]](穴見和子) - 虫プロ立ち上げ時から多くの商業・実験作品にアニメーターとして * [[杉井儀三郎]] * 坂本雄作 * [[紺野修司]] * [[杉山卓 (アニメ演出家)|杉山卓]] - 演出、チーフディレクター * [[北野英明]] * 勝井千賀雄 * [[出崎統]] - 虫プロ * [[出崎哲]] * [[山本暎一]] - 動画、演出、監督 * [[りんたろう|林重行(りんたろう)]] * [[坂口尚]] - アニメ関係で手&#xfa10;治虫の片腕として活躍 * [[伊藤叡]] (虫プロでフィルム編集) * [[西崎義展]](虫プロ商事に在籍していたことがある。また『海のトリトン』『ワンサくん』のプロデューサー) * [[富野由悠季]](『鉄腕アトム』で多数の脚本と演出。また『海のトリトン』の監督) * [[宮本貞雄]] * 赤堀幹治 * [[八田陽子]] - 彩色(杉山卓の実妹とあるので。おそらく虫プロ時代は杉山陽子{{要出典|date=2019年12月}}) * 石郷岡豪 * 柴山達雄 * [[高橋良輔 (アニメ監督)|高橋良輔]] * 安東穂夫 * 五味明 * [[永島慎二]] * [[平田敏夫]] * [[杉野昭夫]] * [[川尻善昭]] * [[正延宏三]] * 瀬山義文 * 瀬谷新二 - 手塚プロのアニメーター・作画監督 * 石井元明 * [[山本繁]] * 片岡忠三 * 渡辺恒光 * [[永樹凡人]] * [[香西隆男]] * 宇田八郎 * 青木茂 * [[岡迫亘弘]] * [[田中英二]] - 作画・原画 * [[大島やすいち]] * 河井竜 * 古川雅士 * 尾形治敏 * 小林準治 - 後期の実験アニメの作画を担当 * [[豊田有恒]](虫プロ文芸部) * [[石津嵐]](虫プロ文芸部)。[[磐紀一郎]]と同一人物 * [[下崎闊]](本名:下関闊(しもぜきひろし)、別名:下崎潤、真佐美ジュン、正佐美ジュン) * [[雪室俊一]] - 脚本 * [[鈴木伸一]] - テレビシリーズや劇場作品など * [[星新一]] - 文芸部 * [[辻真先]](桂真佐喜名義で多くのアニメ作品に脚本家として参加) * [[やなせたかし]] - 虫プロ「千夜一夜物語」の美術担当、自絵本作品の劇場アニメ化版「やさしいライオン」の製作。 * [[高井達雄]] - [[作曲家]](ある街角の物語、虫プロ鉄腕アトム) * [[冨田勲]] - 作曲家(東映動画『シンドバットの冒険』、虫プロ『新宝島』、虫プロ『[[ジャングル大帝]]』、『リボンの騎士』、『どろろ』、『千夜一夜物語』、『クレオパトラ』、『展覧会の絵』など) * [[宇野誠一郎]] - 作曲家(『W3』、『悟空の大冒険』、『不思議なメルモ』(オリジナル版)、虫プロ『アンデルセン物語』) * [[大野雄二]] - 作曲家(『バンダーブック』、『海底超特急マリン・エクスプレス』、『フウムーン』、『プライム・ローズ』) * [[大野松雄]] - 『虫プロアトム』の音響効果、音楽監督 * [[鈴木清司]] - 手塚プロ作品の選曲、音楽監督 * [[倉橋静男]] - 手塚プロ作品の音響効果 * 田代敦巳 - 音響ディレクター * [[明田川進]] - 音響ディレクター * 谷川一彦 - 作画 * 吉村昌輝 * [[横山菁児]] - 虫プロのアニメ「リボンの騎士」などの画の動きに合わせるオーケストラの演奏の指揮者(音楽団:フールサウンズ)。 }} ==== その他、手塚の創作活動を支えた人物 ==== * 島方道年(導年) - 明治製菓を経て、マネージャー兼社長室部長として旧虫プロに招かれる。手塚プロダクション初代社長。 * 清野正信 - 虫プロ商事勤務を経て文民社に移籍。 * 葛西健蔵 - 育児用品メーカー「アップリカ」の創業者。旧虫プロ倒産時に面識はなかったが恩人と慕う手塚の再建を支援。その縁で手塚プロダクションの取締役も務めた。2017年逝去。『どついたれ』のモデルとされる。 * [[森晴路]] - 手塚プロの社員となり講談社の手塚治虫全集を担当。のちに手塚プロダクション資料室長。2016年逝去。 * 古徳稔 - 晩年のマネージャー。手塚の没後はアニメ製作プロデューサーや出版局長を歴任。2020年逝去。 * 清水義裕 - アルバイトとして手塚プロに入り、手塚が指揮するテレビスペシャルの制作進行を務める。その後正式に入社。2020年現在取締役。 === 手塚治虫を演じた俳優 === * 手塚治虫(本人) - ドラマ『[[バンパイヤ]]』(1968年10月 - 1969年3月、フジテレビ)など、多数。 ;ドラマ * [[江守徹]] - [[銀河テレビ小説]]『[[まんが道]]』『まんが道 青春編』(1987年11月 - 12月・1988年7月 - 8月、NHK総合) * [[手塚眞]] - [[NHKスペシャル]] 『いのち わが父・手塚治虫』(1989年4月16日、NHK総合) * [[古谷一行]]・工藤彰吾 - [[水曜グランドロマン]] 『手塚治虫物語 いとしき生命のために』(1990年2月7日、日本テレビ系列)※<small>DVD(東映ビデオ、カラー、本編90分、品番:DSTD03488)発売。</small> * [[吉澤拓真]] - [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]]『天空に夢輝き 手塚治虫の夏休み』(1995年8月19日、NHK総合)※<small>DVD発売。</small> * [[奥田瑛二]] - テレビ東京開局35周年記念番組『永遠のアトム・手塚治虫物語』(1999年4月15日) * [[久野雅弘]]・[[立澤真明]] - 正月特別ドラマ『[[愛と青春の宝塚]]』(2002年1月3日・4日、フジテレビ) * [[藤原竜也]] - フジテレビ開局50周年特別企画 『[[わが家の歴史]]』(2010年4月9日 - 11日、3夜連続スペシャルドラマ、脚本:[[三谷幸喜]])※<small>BD-BOX(2010年10月20日)発売。</small> * [[草彅剛]] - 『[[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜|神様のベレー帽〜手塚治虫のブラック・ジャック創作秘話〜]]』(2013年9月24日、フジテレビ)※<small>DVD/BD発売。</small> * [[岡田斗司夫]] - 『[[アオイホノオ]]』(2014年、テレビ東京) ※[[カメオ出演]] * [[バカリズム]] - [[24時間テレビ 「愛は地球を救う」|24時間テレビ]]ドラマスペシャル『[[ヒーローを作った男 石ノ森章太郎物語]]』(2018年8月25日、日本テレビ系列) ;映画 * [[北村想]] - 『[[トキワ荘の青春]]』(1996年、[[カルチュア・パブリッシャーズ]])※<small>DVD(2009年10月28日、品番VPBT-15461)発売。</small> ;舞台 * [[中井貴一]] - 『[[陽だまりの樹#舞台劇|陽だまりの樹]]』(1992年、1995年、1998年) * [[田中れいな]] - 『[[リボーン〜命のオーディション〜]]』(2011年) ;ドキュメントバラエティ * [[春風亭昇太]] - 『[[超大型歴史アカデミー史上初!1億3000万人が選ぶニッポン人が好きな偉人ベスト100|超大型歴史アカデミー100人の 偉人・天才編]]』(2007年1月5日、日本テレビ系列) * [[上地雄輔]] - [[未来創造堂]]『シアター創造堂 日本漫画 [[加藤謙一]]』(2007年1月26日、日本テレビ系列) === 掲載誌の編集者 === これはまだ不完全なリストである。 * 新井善久(講談社「少女クラブ」担当編集者、『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * [[青木和夫]](秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者) * 阿久津信道(秋田書店「冒険王」と「漫画王」担当編集長で『冒険狂時代』『ぼくのそんごくう』。元秋田書店取締役編集局長、2007年9月12日死去) ※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * [[阿久津邦彦]](秋田書店「少年チャンピオン」編集者) * 井岡秀次(講談社「週刊少年マガジン」) * 伊藤嘉彦(秋田書店「週刊少年チャンピオン」担当編集者(ブラックジャック4代目担当編集者)、現・幻冬舎コミックス代表取締役社長) * [[内田勝]](講談社「週刊少年マガジン」)※ 少年マガジン編集長。[[W3事件]]参照。 * 大浦静雄(潮出版社、7年間『ブッダ』の連載を担当) * [[二階堂卓也|大塚公平]](秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長、映画評論家) * 大和田俊司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者) * 岡本三司(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者)※『ブラック・ジャック』初代担当 * [[加藤謙一]]([[学童社]]「漫画少年」)※ 戦前に小学校教師から講談社に転職して「少年倶楽部」編集長になる。敗戦で公職追放を受けて個人で学童社を興していた。偶然そこを訪問した手塚が携行していた赤本用原稿を見て掲載を決めた結果が長編連載漫画『ジャングル大帝』となった。 * [[壁村耐三]](秋田書店「少年チャンピオン」)※ 『ぼくのそんごくう』(秋田書店「冒険王」)連載時の編集部員で、のちに『ブラックジャック』連載開始時の少年チャンピオンの編集長。 * 刈谷政則(大和書房) * 河野安廣(秋田書店「週刊少年チャンピオン」編集者) * 熊藤男(秋田書店「週刊少年チャンピオン」副編集長) * 桑田裕(光文社「少年」担当編集者) * 栗原良幸(講談社週刊少年マガジン編集者「三つ目がとおる」) * 小林鉦明(かねあき)(少年画報社、秋田書店) * 志波秀宇(ひでたか)(小学館「ビッグコミック」)『地球を呑む』『きりひと賛歌』※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 篠田修一(大都社)※手塚治虫ファンクラブ顧問も務めた。 * 戸田利吉郎(少年画報社) * [[豊田きいち|豊田亀市]] (小学館「週刊少年サンデー」の初代編集長、小学館「少年サンデー」で『スリル博士』『0マン』『キャプテンKen』『白いパイロット』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 中村一彦 (小学館「少年サンデー」、どろろの担当手塚番) * [[長崎尚志]] ※「かつて手塚先生の担当だったわたしは…」という文章を「パイドン」の制作発表で寄稿していることから,何かの作品編集を担当したらしいが,詳細は不明。 * [[牧野武朗]](講談社「なかよし」初代編集長、「週刊少年マガジン」の初代編集長)※ 講談社「少女クラブ」担当編集者のとき手塚に連載を依頼(「リボンの騎士」)。 * 松岡博治(朝日ソノラマ単行本「サンコミックス」、雑誌「マンガ少年」担当編集者で、『鉄腕アトム』『火の鳥』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。※ 元メディアファクトリーコミック出版事業部エグゼクティブプロデューサー。2023年死去<ref>[https://ameblo.jp/shibuya1/entry-12787770000.html 松岡さんが亡くなった] - 鎌倉・十二所わくわく通信(伊藤淳子のブログ)、2023年2月5日</ref>。 * [[松谷孝征]](たかゆき)(実業之日本社「漫画サンデー」編集者)※その後1973年から16年間手塚治虫のマネージャーを務め、請われて1985年4月から手塚プロダクション代表取締役社長。※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * [[丸山昭]](講談社「少女クラブ」担当編集者で『リボンの騎士』『火の鳥』(共に少女クラブ版))※著書やインタビュー記事のほか、「神様の伴走者13+2」にも寄稿あり。 * [[峯島正行]](実業之日本社の編集者)- 『週刊漫画サンデー』の初代編集長 * [[宮原照夫]](講談社「週刊少年マガジン」編集長(4代目)、『W3(少年マガジン版)』『三つ目がとおる』『手塚治虫漫画全集』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * [[西村繁男]](集英社「週刊少年ジャンプ」) * 野口勲(虫プロ商事の編集者) * 橋本一郎(朝日ソノプレス社、朝日ソノラマの編集部、元少年画報社編集者、「サンコミックス」創刊編集長) * 福島健夫(編集長、実業之日本社「漫画サンデー」の編集者) * [[鈴木敏夫]](徳間書店「コミックアンドコミック」「アニメージュ」の編集) * 上野明雄(小学館「小学一年生」「小学三年生」の担当編集者を経て編集長) * 吉倉英雄(集英社「月刊少年ジャンプ」編集者) * [[長野規]](集英社の月刊「おもしろブック」編集員、のちに週刊少年ジャンプ初代編集長) * 黒川拓二(元少年キング編集長で『ノーマン』『鬼丸大将』『紙の砦』『アポロの歌』を担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 鈴木五郎(小学館「中学生の友」で『流星王子』『おお!われら三人』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 池田幹生(文藝春秋「週刊文春」で『アドルフに告ぐ』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 石井文男(虫プロ商事「COM」二代目編集長で『火の鳥』(COM版))※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 鈴木俊彦(小学館「ビッグコミック」創刊時の編集長『地球を呑む』)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 竹尾修(潮出版社「希望の友」「少年ワールド」「コミックトム」の編集者。『ブッダ』と絶筆『ルードウィヒ・B』の担当)※「神様の伴走者13+2」に寄稿あり。 * 山崎邦保(虫プロ商事「COM」創刊編集長(1969年3月号まで)で『火の鳥』(COM版)) * 山本順也(小学館) * 白井勝也(小学館) * 御木基宏(小学館) === 世界に手塚作品を紹介した人物 === ; フレデリック・L・ショット : 手塚治虫の作品を多数翻訳したほか、手塚治虫を含めて日本の漫画を海外に紹介する書籍を多数書いた。日本に留学で居住していたことがあり、火の鳥の翻訳作業を最初として手塚と親交関係にあった。 : 2017年に長年の漫画を通じた国際文化交流への功績により2017年度国際交流基金賞受賞者。 === 日本国外の作家 === ; [[マウリシオ・デ・ソウザ]] : [[ブラジル]]の漫画家。 : 1984年に手塚が[[国際交流基金]]の文化専門家派遣事業でブラジルを訪れて以来親交をもち、手塚がブラジルに行く際には必ず彼と会い、その逆もまた然りであった。ソウザによると、手塚は暴力を作品に導入したことを大変後悔していたらしく、比較的平和的なソウザの作風を「漫画はこうあるべきだ」と称していた<ref>[https://web.archive.org/web/20100907011749/http://henshin.uol.com.br/2010/09/03/e-o-projeto-continua/ E o projeto continua!:Henshin!](2010年9月7日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])(ポルトガル語)参照。</ref>。お互いのキャラを一つの作品に[[クロスオーバー作品|クロスオーバー]]として登場させようとの計画があったが、手塚の死で一時断念。しかし、ブラジルでも日本の漫画が出版され、ソウザのキャラも日本の漫画風にアレンジされた本も出されたことによって、計画が再度発動、そして実現する運びとなった<ref>[https://meujornal.com.br/panini/Jornal/materias/integra.aspx?id=1025503 Panini lança edição especial que reúne Turma da Mônica Jovem com personagens do japonês Osamu Tezuka、o pai do mangá、em aventura na Amazônia]{{リンク切れ|date=2015年6月}} (ポルトガル語)参照。</ref>。[[パロディ]]や[[オマージュ]]、リメイクなどではなく、手塚のキャラが公式として他人の作品に登場するのは史上初だといわれる。[[アマゾン熱帯雨林|アマゾン]]の保護を巡るストーリーは2012年2月、3月に上下巻で発行された。 : 手塚側のキャラは「リボンの騎士」のサファイア、「ジャングル大帝」のレオ、そして「鉄腕アトム」のアトムなどである。 :* {{cite book|title=Turma da Monica Jovem: Tesouro Verde|author=Mauricio de Sousa|publisher=Panini|year=2012|isbn=9788573518764}} * [https://www.asahi.com/articles/ASR77645CR6HUTIL055.html ブラジル漫画×アトム、日本でも 手塚治虫との約束、電子書籍で実現 (朝日新聞、2023年7月11日)] == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|手&#xfa10;治虫}} {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|Portal:漫画]]}} {{Commons&cat|Osamu Tezuka}} * [[手塚プロダクション]] * [[手塚治虫の作品一覧]] * [[宝塚市立手塚治虫記念館]] * [[手塚賞]] * [[手塚治虫文化賞]] * [[Earth Dreaming〜ガラスの地球を救え!]] * [[osamu moet moso]] * [[手塚 (小惑星)]] - 手塚治虫に因んで命名された。 * [[手塚光盛]] - [[源義仲|木曾義仲]]の[[家臣]]、[[信濃国]][[諏訪地域|諏訪]]手塚城主。光盛の後裔を自称している者に、手塚良仙や手塚治虫を始めとした手塚家の一族がいる<ref>[http://tzk.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_79fb.html Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:SUWA] 及び [http://tzk.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_80ee.html Tezka Macoto' 6D -手塚眞ブログ-:DALI] 参照。</ref>。 * 手塚良運 - 手塚良庵の従兄弟で、墓が曹洞宗興国山"清凉寺"(茨城県石岡市)にある(黒沢哲哉「虫ん坊」2014年2月号のコラム虫さんぽより)。 * [[山吹御前]] - 手塚光盛の兄・盛澄の娘であるという説がある。詳細は当該項目参照。 * Google Cultural Institute 「Osamu Tezuka」(米グーグル歴史アーカイブ「手塚治虫」)<ref>[https://artsandculture.google.com/search?q=Osamu%20Tezuka]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == <!--脚注と対応しているので追加の際は注意。--> === 手塚治虫の自著 === * {{Cite book|和書|author='''手&#xfa10;治虫'''|title=観たり撮ったり映したり|date=1987年|publisher=[[キネマ旬報社]]|ref={{SfnRef|手塚1987}}}} * {{Cite book|和書|author='''手&#xfa10;治虫'''|title=ぼくのマンガ人生|date=1997年5月20日|publisher=[[岩波新書]]|ref={{SfnRef|手塚1997}}}} * {{Cite book|和書|author='''手&#xfa10;治虫'''|title=ぼくはマンガ家|date=1999年2月25日|publisher=[[毎日新聞社]]|isbn=978-4820543466|ref={{SfnRef|手塚1999}}}} * {{Cite book|和書|author='''手&#xfa10;治虫'''|title=ぼくはマンガ家|date=2009年2月25日|publisher=[[毎日ワンズ]]|isbn=978-4-901622-37-0|ref={{SfnRef|手塚2009}}}} === それ以外 === * {{Cite book |和書 |author=石津嵐|authorlink=石津嵐 |title=秘密の手塚治虫 |date=1980年3月20日 |publisher=太陽企画出版 |ref={{SfnRef|石津}} }} * {{Cite book |和書 |author=北杜夫|authorlink=北杜夫 |title=マンボウぱじゃま対談:男性かいぼう編 |date=1978年 |publisher=[[集英社]] |ref={{SfnRef|北}} }} * {{Cite book |和書 |author=呉智英|authorlink=呉智英 |title=現代マンガの全体像 |date=1986年 |publisher=[[情報センター出版局]] |ref={{SfnRef|呉}} }} * {{Cite book |和書 |author=桜井哲夫|authorlink=桜井哲夫 (社会学者) |title=手&#xfa10;治虫―時代と切り結ぶ表現者 |date=1990年6月 |publisher=[[講談社現代新書]] |isbn=978-4-06-149004-8 |ref={{SfnRef|桜井}} }} * {{Citation|和書|last=桜井|first=哲夫|authorlink=桜井哲夫 (社会学者)|year=2015|title=廃墟の残響 - 戦後漫画の原像|edition=|publisher=[[NTT出版]]|isbn=|series=|ref=harv}} * 竹内オサム『手塚治虫-アーチストになるな-』ミネルヴァ書房 2008年 * {{Cite book |和書 |author=辰巳ヨシヒロ|authorlink=辰巳ヨシヒロ |title=劇画暮らし |date=2010年10月21日 |publisher=[[本の雑誌社]] |isbn=978-4860112103 |ref={{SfnRef|辰巳}} }} * {{Cite book|和書|author=手塚プロダクション|authorlink=手塚プロダクション|title=手塚治虫とキャラクターの世界|date=2013年6月14日|publisher=[[三栄書房]]|isbn=978-4779618376|ref={{SfnRef|手塚プロダクション}}}} * {{Cite book |和書 |author=豊田亀市|authorlink=豊田亀市 |editor=佐藤敏章 |title=神様の伴走者 手塚番13+2 |chapter=神様独占を志した男 |date=2010年9月30日 |publisher=[[小学館]] |isbn=978-4093881494 |ref={{SfnRef|豊田}} }} * {{Cite book |和書 |author=夏目房之介|authorlink=夏目房之介 |title=手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々 |date=1995年 |publisher=[[筑摩書房]] |isbn=978-4-480-81380-0 |ref={{SfnRef|夏目}} }} * {{Citation|和書|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|year=2005|title=日本陸海軍総合事典|edition=第2|publisher=[[東京大学出版会]]|series=|ref=harv}} * {{Cite book |和書 |author=山本暎一|authorlink=山本暎一 |title=虫プロ興亡記 安仁明太の青春 |date=1989年4月15日 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4-10-3733010 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永野護
永野 護(ながの まもる、1960年1月21日 - )は、日本のメカニックデザイナー・キャラクターデザイナー・漫画家。株式会社EDIT代表取締役。京都府舞鶴市出身。身長175cm。愛称(自称)は「クリス」。妻は声優・歌手・女優の川村万梨阿。 アニメ制作会社日本サンライズ(サンライズを経て、現・バンダイナムコフィルムワークス)に企画部のオールラウンド・デザイナーとして入社すると、すぐにテレビアニメ『重戦機エルガイム』のメインデザイナーに抜擢される。永野の生み出したロボット「ヘビーメタル」は、ロボットアニメ史上、初めて設定上齟齬なく動くデザインを提供し、アニメ業界に旋風を巻き起こした。以後、アニメのデザイナー、漫画家として活躍。 人間もメカ(ロボット)も両方ひっくるめて「キャラクター」として描ける人間が本来のデザイナーだと思っているので、「メカデザイン」という役職は存在しないというのがポリシー。 1982年、第2回SFアート大賞(月刊「スターログ」主催)で入選。拓殖大学を中退。永野も参加していた地元京都の『機動戦士ガンダム』ファンのグループに、サンライズの関係者が運営する『伝説巨神イデオン』の映画化記念イベントでコスプレパフォーマンスをしてくれないかという打診があった。そこで永野が絵を描けることを知っていた友人がサンライズの人間に彼を推薦してくれた。当時、『超時空要塞マクロス』の成功でサンライズでも若い人材を求めており、新人デザイナーを募集していた。その頃、永野はまだ巨大ロボットもアニメ的なキャラクターも描けなかったので、面接には一般的なアニメとは違う写実的なタッチの建造物や自分の考えた世界観の絵などを持ち込み、担当者からはっきりと「絵は使えないが経歴が面白いから雇う」と言われた。入社後、プロデューサーの植田益朗に自分の絵を見せた時も、「プロとしてやっていけるかどうかはわからないけど、いろいろやってみなさい」と言われた。 1983年、サンライズに入社。とりあえず3月に新設される第3スタジオに配属されることになり、企画部長の山浦栄二の下で仕事をすることになった。1月から3月までは試用期間で、練習として描くよう言われた神田武幸監督の『銀河漂流バイファム』用のメカのデザインが採用され、4月から正式に入社するよう言われた。デザイナーとして入社したものの、実際には「何でもやれ」と言われており、プロデューサーと一緒に企画を立て、プレゼンし、そして財政面も考えた。またスタッフを管理し、実質的にプロダクションマネージャーのような役割も担うことになった。4-6月に「銀河漂流バイファム」、7月からは『重戦機エルガイム』の制作に参加、その合間に『巨神ゴーグ』も手伝うというスケジュールだった。 第3スタジオでは、神田監督とキャラクターデザインの芦田豊雄に挟まれた席で絵コンテの描き方やキャラクターの描き方を教わり、そこに毎日数十枚上がってくるメカデザインの大河原邦男のデザイン画を見せられてレクチャーを受けるという英才教育のような仕事の叩きこまれ方をした。安彦良和監督のもとで『巨神ゴーグ』の作業が始まると安彦に兵器や機械の構造に詳しい人間として呼ばれ、会社側に「安彦さんはとても大切な人だから要望を無視するわけにはいかない」と言われて掛け持ちすることになった。その頃、第2スタジオに呼ばれて『機動戦士ガンダム』シリーズの富野由悠季監督の『聖戦士ダンバイン』の新主役機、ビルバインのコンペにデザインを提出することになった。富野監督はすでに永野が描いた小物の設定書を50枚ほど見たことがあり、彼を呼ぶよう頼んでいた。当時、富野には「永野のような才能を拾い上げなくては」という意識があったという。 6月頃、永野は上司の山浦から『バイファム』の後番組の企画を第3スタジオで作るように言われた。「これまでに誰も見たことのない新しいタイプのメカを考え出すように」と言われ、「メカだけでいいのか」と聞き返すと「企画もストーリーも全部だ」と言われたので、永野はもう一人の人物と一緒に『スターウォーズ』をベースにした誰も知らない惑星でのロードムービー風の話を考えた。6月末、大きなメカと少年少女が旅をするという設定で最初の企画デザインを提出した。7月、永野がバンダイにプレゼンテーションを行ったところ気に入られ、7月末にサンライズに対して『Explorer』という仮タイトルで企画にゴーサインが出た。8月に『ダンバイン』のスポンサーだったクローバーが倒産し、代わってバンダイがスポンサーになった。しかし、植田プロデューサーが探していたのは永野も所属する第3スタジオの『バイファム』の後番組で、バンダイがスポンサーの『ダンバイン』は第2スタジオの作品だった。そのため、山浦と植田はスタッフの再編を考えなければならなかった。彼らは監督も探し始め、第2スタジオに移った永野はバイファムやゴーグから手を引いてこの企画に専念することになり、企画を練り上げ、玩具用の図面を引き、企画案のリライトも行った。9月、富野が監督を務めることが決定し、それまでの企画を引き継いだ。これが『重戦機エルガイム』となった。 富野、安彦、神田がなぜか優しく接してくれたが、そのことについて、後に山浦が「当時のアニメ業界には会話や挨拶がきちんとできる人間がいなかったからだ」と説明してくれた。 1984年、『エルガイム』放映中に富野監督から『機動戦士Ζガンダム』のコンセプトデザインを依頼される。そしてメイン・デザイナーに指名され、MSや戦艦から衣装や小物類まで様々なデザインを手掛ける。しかし制作会社やスポンサーなどに最初に提出したMSのデザインを酷評され、代わりのスタッフが投入されたことから番組開始前に降板。その後、一時復帰するが、数点のデザインを残して番組を去った。 1985年、アニメ雑誌「月刊ニュータイプ」(角川書店)創刊号から「フール・フォー・ザ・シティ」の連載開始。漫画家としても活動を始める。同年、『Ζガンダム』の続編の『機動戦士ガンダムΖΖ』で監督の富野によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになった。主役のガンダムや敵MSなどのデザインを行なっていたが、年末に事態が急変し、数点を除いてΖΖだけでなくほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。 1986年、「月刊ニュータイプ」で「ファイブスター物語」連載開始。同年、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で、富野監督の指名により再度メイン・デザイナーに起用される。しかし、スタッフなどの制作サイドやスポンサーと衝突して降板。全てのデザインが没となる。 1989年、サンライズ退社。席がなくなる代わりに、原作を持ち込んだ時の版権が自分に帰属することになった。株式会社トイズプレス副社長に就任。 1994年頃、富野監督から『聖戦士ダンバイン』シリーズの劇場版デザイナーとしてオファーを受けるが、企画の頓挫により実現しなかった。 1998年、『ブレンパワード』で富野監督の指名でタッグを組み、久しぶりにアニメのデザインワークスを担当した。 1999年、幾原邦彦のヴィジュアルストーリー『シェルブリット』のビジュアルデザインを担当。 2012年11月1日、原作・監督・脚本・絵コンテ・レイアウト・原画・全デザインを永野護が担当した『花の詩女 ゴティックメード』が劇場公開される。 サンライズ入社直後に神田武幸監督の『銀河漂流バイファム』と安彦良和監督の『巨神ゴーグ』に登用され、それぞれメインのメカデザイナーの大河原邦男・安彦良和の両巨匠のかたわらでサブのメカデザインを任された。 『バイファム』では、大河原がデザインしなかった一部のゲストメカのデザインを担当した。中でも正式採用のきっかけとなったパペットファイターはメカデザイン初仕事だった。それ以外にも登場ロボットのラウンドバーニアン(RV)のラフデザインやディティールアップ、地球軍とククト軍両方の制服のデザイン(クリンナップはキャラクターデザイナーの芦田豊雄)、一部ゲストキャラクターのデザイン(芦田の不在時)なども行っている。RVのラフデザインは、監督の神田から説明を受けながらなんとか描いたラフを大河原がクリンナップしてバザムになった。永野は直された自分のデザインの全てのパーツとフォルムがきちんと形になっていて、かつ大河原デザインにもなっていることにショックを受けたと語っている。 『ゴーグ』では、大型重機ダイノソアとヘリコプターをデザインしたほか、水陸両用装甲車のキャリア・ビーグルや戦車(メルカバ93型)などの三面図と作画参考用の各部ディティールやコックピットや内部機構の設定などを描いている。また安彦が永野を呼んだのは、デザイナーというよりも自身があまり詳しくないミリタリー関係や機械類の作動方法のアドバイザーとしてだった。 キャラクターデザインとメカデザインの両方を一手に引き受けた。発端は当時の日本サンライズで新人デザイナーとして活動を始めた永野が「自分が描きたいロボット」として描いた画を富野由悠季監督が見たことだったという。しかも永野がロボットのイラストの端に描いていたキャラクター達も目に留まり、キャラクターデザインまで担当するという前代未聞の人事となった。結果的に、富野監督の意向で主人公メカを含むメカデザイナーとキャラクターデザイナーの両方を駆け出しの新人が務めるという異例の事態につながったが、反対意見も多かったという。ただし、当時の永野はまだ新人であり、印象的なメカデザインで注目されていたものの、その画力はアニメーションの設定画(誰もが同じ画を描けるようにする指示書)というレベルではなかったため、最初の内は実際のアニメ制作用の設定画の一部はアニメーションディレクターを務めた湖川友謙率いるビーボォーのスタッフが永野の絵から起こしていた。また永野も湖川らの設定画に直接解説文や注釈を書き込んだりしている。 デザインは単にキャラ表を起こすだけでなく、劇中で「ヘビーメタル」と呼ばれるロボットの内部構造や駆動系に関する科学的・技術的考証から人物の衣装・小道具に至るまで、いわゆるコンセプトデザインの領域に踏み込んだデザインを行なった。それまでのアニメロボットが現実的な可動をある程度無視していたのに対して、『エルガイム』において永野は、ムーバルフレームや二重関節などの導入により、フィルム上でロボットが合理的に動いているように見える機械的に矛盾の無い可動を視聴者にイメージさせることに成功した。 『エルガイム』ではデザインにとどまらず、ほとんどのセクションを手掛け、演出や脚本に口を出したり一部原画を描いたりもしている。 また以前から温めていた画面には登場しない「裏設定」を数多く盛り込み、積極的に各媒体で公表。「ファイブスター物語」のプロトタイプともいうべき独自の世界を構築するなど、アニメファンの間にセンセーションを巻き起こした。 富野監督により、メイン・デザイナーに指名された。富野監督からは「キャラクター以外のビジュアルイメージを出してデザインに専念して欲しい」と言われ、富野とSF設定考証担当の永瀬唯との3人でスペースコロニーや宇宙船などの作品の基本設定も考えた。 メカニックデザインではなく「デザインワークス」とクレジットされているのは、全天周囲モニターとリニアシート、ムーバブル・フレーム、多重関節といったΖガンダムとそれ以降の続編に出てくるメカニックの基本デザイン、あるいはノーマルスーツや制服などの衣装や拳銃などの小物類といった、メカニックの範疇を超えたデザインを行っているためである。またヤザン・ゲーブルのキャラクター設定画は、永野がオリジナルを描いている。 モビルスーツではΖガンダム(百式)とガンダムMk-IIのラフ、ガルバルディβ、リック・ディアス、キュベレイ、ハンブラビ、戦艦ではアーガマ、グワンバン、エンドラをデザインした。 Ζガンダムのラフは、『エルガイム』放映期間中、富野監督に「アメリカで行われるコンベンションに新しいガンダムに関するアイデアをいくつか持って行きたい」と言われて描いた新ガンダムのコンセプト案。富野監督にはまったく新しいMS像を作りたいという意識が強かったようで、好きに描いていいからとにかく永野バージョンのガンダムではなく新しいロボットを作るようにと言われて描いた。画稿には「ZETA」や「ZETA GUNDAM」と記されているが、あくまで『Ζガンダム』に登場する新しいMSのコンセプトをイメージしたもので、既存のMSのイメージを大きく変えるものとなっている。またこれらのラフについては、このコンセプトを基に永野自身がリック・ディアスとガルバルディβをデザインしたり、藤田一己がのちにクリンナップして百式とΖガンダム頭部の決定稿を描いたり、大河原邦男が参考にして自身のΖガンダムやガンダムMk-IIのラフデザインを描いたりしている。 一方で永野は、前作のデザインの流れも取り入れた保守的なMSのデザイン作業も進めており、それがリック・ディアスとガルバルディβだった。しかし、最初に提出されたその2つのデザインに対するサンライズ上層部やバンダイなどのスポンサーの評価は低く、「こんなのモビルスーツじゃない」などと酷評された。そこで作品に使えるメカデザイナーを探すことになり、36人の候補の中から藤田一己が選ばれた。また前回のガンダムのデザイナーの大河原邦男の復帰も決まった。 ガンダムMk-IIは、永野が描いたΖガンダムのラフを基に復帰した大河原がΖガンダムとガンダムMk-IIのラフを描き、それらを基に永野がガンダムMk-IIのラフを描き、大河原がまたそれに手を入れるというやり取りを繰り返した後、最終的に新人の藤田がクリンナップしてデザインを完成させた。 まだ若かった永野はΖガンダムのデザインから外されたことに反発して辞めることを宣言するが、他の仕事もあって多忙なキャラクター担当の安彦のデザイン数がまた十分ではなかったので、それをサポートしてから辞めることにした。そしてその仕事が終わると、一旦プロジェクトから外れた。 その後、富野から物語中盤から登場するMSをデザインして欲しいと声がかかって復帰する。今度は誰の意見も聞かず、子供が落書きでも描けるようにとシルエットを重視したハンブラビとキュベレイというキャラクター性の強いMSをデザインした後、完全に現場を離れた。 小説版「機動戦士Ζガンダム」(講談社)の表紙イラストや扉絵も描いており、こちらは最後まで担当している。またMSや戦艦、航空機などのデザインはほとんどがアニメ本編に登場するものとは別デザインとなっている。 富野監督によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになっていた。しかし番組開始前に降板することになり、ΖΖを含むほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。結局、作品に登場したのは、前作『Ζガンダム』から引き続き登場しているデザイン以外では、ガザDとゲゼ(ともにラフのみ)、プチ・モビルスーツ、ミドル・モビルスーツ、そしてずっと以前にデザインしていたシュツルム・ディアスだけだった。 永野は富野監督の「ロボットアニメの原点に戻って子供にもわかりやすい『明るいガンダム』にしよう」という意図をくみ、敵MSを作品初期のコミカルなムードに合わせた3-5頭身のSDガンダム風のデザインにした。富野監督の評価も「今回のZZといわれるガンダムは、いわゆる永野メカではありません。大河原マシンに近い線があります。それは彼が従来のデザインと、大河原デザインの二種を意識してそれぞれをデザインしているということなんです。(中略)だからこれからの彼のメカのバリエーションには期待できます。今描かせているヤラレメカに近いメカなどはかつての手塚治虫をほうふつさせる、漫画的なものまであります。それに加えてオーソドックスなデザインをすることで、彼のフィールドは良い方向に、一気に広がるかもしれません」と上々だった。しかし、「子供たちにひと目で敵ロボットの特徴をわからせるための巨大な一つ目に5頭身のガルスJ」「ハマーン・カーン専用MSとしてデザインされ、女性用ということで『おっぱいミサイル』を胸に2発搭載するハンマ・ハンマ」など、 ユニークではあるがあまりにも従来のMS像とはかけ離れたそのデザインは波紋を呼んだ。 一方、主役のΖΖガンダムに関しては、前作とは違ってサンライズとスポンサーの「とにかくガンダムに見えるように」「合体変形するように」という要望通りにデザインした(ただし、合体変形機構は永野の案ではない)。しかし、永野のデザインでは模型にした際に合体変形機構に問題があるとされるなどスポンサーサイドの了解が得られず、何度かのデザイン修正が行われ、一部媒体では永野案のデザインも公開されたものの、土壇場で没となった。 最終的にはΖΖのデザインだけでなくメイン・デザイナーの座からも外れることになり、一部のデザインを除いて永野のメカは番組から姿を消した。またハンマ・ハンマやガルスJは、名称だけ残して別のデザイナーによるデザインに差し替えられた。 富野監督によりメイン・デザイナーに指名された。富野監督からは「テレビシリーズではないから全てのデザインをお前に託す」と言われ、旧作(ファースト・ガンダム、Z、ZZ)に登場したメカは一切使用しないという条件で、敵味方のMSと艦艇、コックピットのシステム、サイコミュ用ヘルメットやノーマルスーツまで、劇中のほぼ全てのデザインを担当する予定だった。しかし、富野監督の要求を受けて提案したデザインラインにクライアントからのOKが出ず、また彼自身が周囲のスタッフと衝突したこともあり、またも途中降板することになった。全てのデザインが白紙に戻され、急遽メカニックデザインの発注やMSデザインのコンペが行われることになった。 MSは主役のアムロ・レイ用のHi-S(ハイエス)ガンダム(劇場版でのνガンダム)とΖガンダム(劇場版でのリ・ガズィ)、ネオ・ジオン側のシャア・アズナブル用のナイチンゲール(劇場版でのサザビー)、そしてギラ・ドーガやヤクト・ドーガにあたる機体などをデザインした。しかし、当時、永野が富野監督と考えていたMSのデザインラインは「ごつく怖い」というものだったため、ネオ・ジオン側のMSはすべて恐竜や怪獣をモチーフとしており、リック・ディアスのラインを推し進めた超重装甲の怪異なデザインとなっていた。その影響で再登場予定だったΖガンダムも同様に重武装・重装甲となっており、唯一、アムロ用の新ガンダムのみが細身でシンプルだった。その新ガンダムも、いわゆるガンダムの常識を覆すデザインで作業が進行していたが、途中降板となったために完成度7割程度のところでストップした。結局、超重装甲のコンセプトがバックウェポンシステムとして引き継がれたリ・ガズィを除き、全てのデザインが他のデザイナーたちによって一からやり直された。 『ブレンパワード』では人物を担当したいのまたむつみとともにメインデザインとクレジットされ、メカ関係の基本設定を担当。金属板の積層をモチーフにした斬新なロボットデザインを発表した。薄い装甲が何枚も重なった「積層」というアイデアと、必ずしも関節部が「関節」として可動する必要はないという発想から出て来た重ね板バネの力を取り入れるというアイデアとが合わさって出来たデザイン。ガンダムシリーズに登場するモビルスーツのように内燃機関と機械的な関節で動く兵器ではなく、積層構造の幾何学的な筋肉を持つ、軽くてデジタル的なロボットである。またそれ以外にも主役ロボットの出現するシーンのイメージボードやコックピット内部と駆動筋システムの図解、2種類のパイロットスーツ、近未来的なデザインの艦船や戦闘機なども描いている。 1986年よりアニメ誌『月刊ニュータイプ』で連載を開始。以後、20年以上にわたって断続的に連載が続いている。 『FSS』は、永野が『重戦機エルガイム』放映中に雑誌媒体などで発表した関連イラストや自身が考えた裏設定などがベースになり、発展して行った作品である。『エルガイム』の制作に参加していて自分の手でストーリーを作りたくなった永野が描き始めた漫画で、永野が最初に考えていた企画から監督の富野由悠季にバトンタッチして以降の部分を切り離して作った。富野が『エルガイム』では一切やらせなかった要素で『FSS』が出来たとも言える。 永野は『エルガイム』制作中に自身の考えた設定をメディアに積極的に公表していた。それは作品の公式の設定ではない部分も多かったが、どの媒体でも「裏設定」として普通に扱っていた。さらにムック本「ザ テレビジョン別冊 重戦機エルガイム2」では、この裏設定をベースにした永野自身によるイラスト10点と作品年表も掲載され、これらが漫画「FSS」の源流になって行く。 永野は驚異的な遅筆で知られ、本編単行本よりもイラスト集・設定集の冊数の方が遥かに多い。物語の進行が遅い上に、度々連載が(しかもいきなり読者に予告抜きで)休載となる。この遅筆の理由の一つには作画手段へのこだわりがある。作中でのメカの描写には相当な時間をかけており、一ページに大写しにモーターヘッドが出てくる場合などは2・3日も時間をかけて描き込むという。カラーイラストでは主にアクリルガッシュを用いているが、イラストボードに鉛筆で下絵を描いて彩色するという手法もあり、単行本の表紙画などには制作に1ヶ月以上かかると言われている(単行本第12巻の表紙イラストには1ヵ月半を費やしている(『F.S.S. DESIGNS2』によれば、アクリルガッシュを使い出したのは1991年頃からで、以前は透明水彩、のちにアクリル水彩を使用していた。アクリル水彩に変えたのは肌の色が確実に出せるのと着色後の安定感から、アクリルガッシュに移行したのは自分の絵に対する理想が固まる中でアクリル水彩の透明感が気に入らなくなったからだという)。 また、公式に設定画を公表したMHも気に入らなくなれば手を加えて直してしまうため、作中で登場するたびに微妙に細部のデザインが変わることもある。デザイン画の公表から年月が経ち古くなってしまったMHは、大幅にリファインがなされることもある。その場合、元のイメージを多少残した他は、デザインがまるっきり別物に変貌してしまうことも多い。MHのみならずキャラクターのファッションも同様で、こうしたデザインに対するこだわりの強さも遅筆の一つの要因であると考えられる。「デザイン画のために『FSS』本編が存在する」とまで発言したこともある。 一時期『FSS』の執筆には、Macintoshを用いた2次元コンピュータグラフィックスが多用されていた。しかし永野は、「やはり自分の求める表現はデジタルでは無理」と考え、以後基本的にマンガ制作ではコンピューターを使用していない。もっとも、アニメ製作におけるコンピュータを使った作業については否定的ではなく、『F.S.S. DESIGNS2』において「原画のベクタライズにかかるコストさえクリアされれば、2Dセルアニメーションでも高度なコンピュータでの作業が必須となってくる」と述べ、自身による劇場アニメ『花の詩女 ゴティックメード』の制作では、ベクター画像を用いた動画の導入を試みている。 ロックに通暁し、作品中の固有名詞などには、バンド名(主にプログレッシブ・ロック)やその作品名、メンバー名をオマージュとしてしばしば借用している。例えば、アモン・デュール、アトール、アシュ・ラ・テンペル、モーターヘッド等が挙げられる。また、楽器や機材にも精通しておりフォーカスライト、SSL、インタシティ、Neve Electronics等、楽器・機材メーカー名を借用する事もある。 学生時代、バンドを組んでおり、ベースを担当していた。米軍キャンプで演奏をしていた経験もあり、一時期は本気でミュージシャンになろうかと考えていたこともあるという。自身が執筆するマンガのイメージアルバム「THE FIVE STAR STORIES」を自ら手がけたこともある。 サンライズの面接にもベースを背負って靴底が15cmもあるロンドンブーツを履いていったが、長髪で靴のせいで身長が190cm近くある永野を見た担当者は、「使いものになりそうにないけどオモロイんで雇おうか」と言ったという。 ファッションデザインを学んでおり、登場キャラクターのファッションにも強いこだわりを持ってデザインをしている。『FSS』を始めとして、永野の作品に登場するキャラクターのコスチューム・デザインは、アニメ・マンガの世界を超えて高い評価を得ている。こうしたファッションへのこだわりについて、永野はデザイン集『F.S.S. DESIGNS1』において、実家が呉服関係の仕事をしていたため幼少時より布地に囲まれて育ったという原体験を語っている。「FSSのデザインは1980年代ファッションを引っ張ってきたという自負がある」とも語っている。 洋服を着ても、基本的に「服を着た俺を見て」ではなく「洋服を見て」というのが先に立っている。ちょっと変わった服を着ていて街で馬鹿にされたりからかわれたりすることもあるので、好きな服を着ることにはすごくパワーがいるが、それでも着る。 大のミリタリーファンであり、現実の兵器の造形・デザイン面の様々な分野に造詣が深く、永野のデザインはそれらより強い影響を受けている。サンライズの面接でも、戦車や戦闘機などを描いて提出した。実在の兵器の中では第二次世界大戦時のドイツ軍やソ連軍の戦車への愛好が強い。その嗜好は、『パンツァーフロント』でのオリジナル戦車デザインや、『ファイブスター物語』における戦車戦の描写に反映しているほか、「バストーニュ」「トブルク」「マエッセン」「ケーニヒ」など、『FSS』に登場する地名や人物名もその分野に因んだものが見られる。そのためミリタリー色の強いアニメ『装甲騎兵ボトムズ』のファンでもある。また、『ボトムズ』の作画監督の谷口守泰とは、実家が呉服関係の仕事をしていたという永野のプロフィールと谷口の西陣織図案デザイナー出身という異色の経歴とのつながりや、同じ京都人として、永野との親交が知られている。 航空自衛隊第204飛行隊が永野のイラストをノーズアートに採用した際、その御礼で、当時第204飛行隊が駐屯していた百里基地を訪問。その時の興奮を『Takes of Joker』13号に綴っている。 モデラーを自認しており、模型を趣味で制作している。腕前はかなりのもので、模型雑誌のプロモデラーと比較してもあまり遜色がないほどのもの。 ミリタリー模型ファンであり、田宮模型が主催する1/35ミリタリーフィギュアの改造コンテスト「タミヤ人形改造コンテスト」に18歳の時に入賞した経験があり、同社が発行する作品集にも掲載された。タミヤがMMタイガーIおよびキングタイガーをリリースした際は、『月刊ニュータイプ』誌の模型コーナーに作例を提供したり、『FSS』の連載のトビラで同キットを紹介した事がある。また、自らデザインしたモビルスーツ「リック・ディアス」の改造作品「シュツルム・ディアス」の作例が模型専門誌「モデルグラフィックス」に掲載された事がある。後にシュツルム・ディアスは明貴美加のクリンナップを経て『機動戦士ガンダムΖΖ』の劇中に登場した。また『FSS』のモーターヘッド造形やWTMの原型で知られる谷明は、ワンダーフェスティバルにて、永野に見い出され、海洋堂に入社した経緯がある。 学生時代から、「トミノコ族」の中心的存在として知られ、1981年2月22日に新宿アルタ前で行われた、富野由悠季主催の『機動戦士ガンダム』劇場版公開前のイベント「アニメ新世紀宣言」に、シャア・アズナブルのコスプレをして現れた。ちなみに同イベントでは、川村万梨阿もララァ・スンのコスプレで登場している。 2000年7月23日に幕張メッセで行われた、東京キャラクターショー2000・角川書店ブースでの『Schell Bullet』トークショーでは、著者である幾原邦彦とともに、「厄落とし」と称して、『セーラームーン』(講談社作品)に登場するキャラクターの女装コスプレでムーンライト伝説にあわせてダンスを披露し(永野はセーラーヴィーナス、幾原はセーラーマーズにそれぞれ扮した)、観客の度肝を抜いた。この時、川村が振り付けを担当した。 TVゲームに非常に熱中しやすく、スーパーファミコンのソフトが全盛期だった頃は、親交のある佐藤元とよくソフトを交換し合い、それが部屋中に散乱していたという。特にオンラインゲーム『ファンタシースターオンライン』には熱中し、著名人プレイヤーとしても知られている。続編『ファンタシースターユニバース』においてもファンサイトと自身専用ロビーを立ち上げてプレイしたとされる。また、彼がデザインした武器が同ゲーム内に登場する。『ファンタシースターオンライン2』においても彼がデザインした武器およびキャラクターが登場し、キャラクターの声優は妻である川村万梨阿が担当した。 『バーチャファイター』全盛期には、印税を投げ打って筐体を購入した事を、川村がラジオで語っている。 ドリームキャスト版『ソウルキャリバー』に熱中した際には、同ゲームの攻略本にて『アイヴィ』の攻略記事を執筆した事がある。 妻はアニメ『重戦機エルガイム』のガウ・ハ・レッシィ/リリス・ファウ役(二役)や、アニメ版『ファイブスター物語』でラキシス役を務めた声優・川村万梨阿である。互いに学生時代の頃から12年の交際を経て1991年に挙式し、富野由悠季夫妻が仲人を、ガンダムの登場人物であるギレン・ザビ役の声優・銀河万丈が披露宴の司会を務めた。川村以外の家族は非公開だが、夫婦仲は良好らしく、『Tales of Joker』8号のインタビューでロボットデザインの話題になった時、とある事で川村と夫婦喧嘩になった時、川村から「お前なんかロボットが描けなかったらただのクズ男だよ」と言われて「あったりまえじゃん。オレはロボットが描けるから今の地位があるんだぜ」と言い返した逸話を披露している。 親交のあるアニメーター兼漫画家・佐藤元の漫画『おやすみ!わたしのサイボーイ』(1985年)の作画に協力した。 『巨神ゴーグ』や『機動戦士Ζガンダム』などで親交のある安彦良和は、雑誌『ガンダムエース』での対談を経て、永野の考え方を堅実で合理的、「クールなおたく」であると評した。 ゲームデザイナーの遠藤雅伸とも交遊があり、『ファイブスター物語』の雑誌掲載版再録を行なっていた雑誌『Tales of Joker』に、遠藤が「Otaku of Chris」と題したエッセイを寄稿していた時期もある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "永野 護(ながの まもる、1960年1月21日 - )は、日本のメカニックデザイナー・キャラクターデザイナー・漫画家。株式会社EDIT代表取締役。京都府舞鶴市出身。身長175cm。愛称(自称)は「クリス」。妻は声優・歌手・女優の川村万梨阿。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アニメ制作会社日本サンライズ(サンライズを経て、現・バンダイナムコフィルムワークス)に企画部のオールラウンド・デザイナーとして入社すると、すぐにテレビアニメ『重戦機エルガイム』のメインデザイナーに抜擢される。永野の生み出したロボット「ヘビーメタル」は、ロボットアニメ史上、初めて設定上齟齬なく動くデザインを提供し、アニメ業界に旋風を巻き起こした。以後、アニメのデザイナー、漫画家として活躍。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "人間もメカ(ロボット)も両方ひっくるめて「キャラクター」として描ける人間が本来のデザイナーだと思っているので、「メカデザイン」という役職は存在しないというのがポリシー。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1982年、第2回SFアート大賞(月刊「スターログ」主催)で入選。拓殖大学を中退。永野も参加していた地元京都の『機動戦士ガンダム』ファンのグループに、サンライズの関係者が運営する『伝説巨神イデオン』の映画化記念イベントでコスプレパフォーマンスをしてくれないかという打診があった。そこで永野が絵を描けることを知っていた友人がサンライズの人間に彼を推薦してくれた。当時、『超時空要塞マクロス』の成功でサンライズでも若い人材を求めており、新人デザイナーを募集していた。その頃、永野はまだ巨大ロボットもアニメ的なキャラクターも描けなかったので、面接には一般的なアニメとは違う写実的なタッチの建造物や自分の考えた世界観の絵などを持ち込み、担当者からはっきりと「絵は使えないが経歴が面白いから雇う」と言われた。入社後、プロデューサーの植田益朗に自分の絵を見せた時も、「プロとしてやっていけるかどうかはわからないけど、いろいろやってみなさい」と言われた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1983年、サンライズに入社。とりあえず3月に新設される第3スタジオに配属されることになり、企画部長の山浦栄二の下で仕事をすることになった。1月から3月までは試用期間で、練習として描くよう言われた神田武幸監督の『銀河漂流バイファム』用のメカのデザインが採用され、4月から正式に入社するよう言われた。デザイナーとして入社したものの、実際には「何でもやれ」と言われており、プロデューサーと一緒に企画を立て、プレゼンし、そして財政面も考えた。またスタッフを管理し、実質的にプロダクションマネージャーのような役割も担うことになった。4-6月に「銀河漂流バイファム」、7月からは『重戦機エルガイム』の制作に参加、その合間に『巨神ゴーグ』も手伝うというスケジュールだった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "第3スタジオでは、神田監督とキャラクターデザインの芦田豊雄に挟まれた席で絵コンテの描き方やキャラクターの描き方を教わり、そこに毎日数十枚上がってくるメカデザインの大河原邦男のデザイン画を見せられてレクチャーを受けるという英才教育のような仕事の叩きこまれ方をした。安彦良和監督のもとで『巨神ゴーグ』の作業が始まると安彦に兵器や機械の構造に詳しい人間として呼ばれ、会社側に「安彦さんはとても大切な人だから要望を無視するわけにはいかない」と言われて掛け持ちすることになった。その頃、第2スタジオに呼ばれて『機動戦士ガンダム』シリーズの富野由悠季監督の『聖戦士ダンバイン』の新主役機、ビルバインのコンペにデザインを提出することになった。富野監督はすでに永野が描いた小物の設定書を50枚ほど見たことがあり、彼を呼ぶよう頼んでいた。当時、富野には「永野のような才能を拾い上げなくては」という意識があったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "6月頃、永野は上司の山浦から『バイファム』の後番組の企画を第3スタジオで作るように言われた。「これまでに誰も見たことのない新しいタイプのメカを考え出すように」と言われ、「メカだけでいいのか」と聞き返すと「企画もストーリーも全部だ」と言われたので、永野はもう一人の人物と一緒に『スターウォーズ』をベースにした誰も知らない惑星でのロードムービー風の話を考えた。6月末、大きなメカと少年少女が旅をするという設定で最初の企画デザインを提出した。7月、永野がバンダイにプレゼンテーションを行ったところ気に入られ、7月末にサンライズに対して『Explorer』という仮タイトルで企画にゴーサインが出た。8月に『ダンバイン』のスポンサーだったクローバーが倒産し、代わってバンダイがスポンサーになった。しかし、植田プロデューサーが探していたのは永野も所属する第3スタジオの『バイファム』の後番組で、バンダイがスポンサーの『ダンバイン』は第2スタジオの作品だった。そのため、山浦と植田はスタッフの再編を考えなければならなかった。彼らは監督も探し始め、第2スタジオに移った永野はバイファムやゴーグから手を引いてこの企画に専念することになり、企画を練り上げ、玩具用の図面を引き、企画案のリライトも行った。9月、富野が監督を務めることが決定し、それまでの企画を引き継いだ。これが『重戦機エルガイム』となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "富野、安彦、神田がなぜか優しく接してくれたが、そのことについて、後に山浦が「当時のアニメ業界には会話や挨拶がきちんとできる人間がいなかったからだ」と説明してくれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1984年、『エルガイム』放映中に富野監督から『機動戦士Ζガンダム』のコンセプトデザインを依頼される。そしてメイン・デザイナーに指名され、MSや戦艦から衣装や小物類まで様々なデザインを手掛ける。しかし制作会社やスポンサーなどに最初に提出したMSのデザインを酷評され、代わりのスタッフが投入されたことから番組開始前に降板。その後、一時復帰するが、数点のデザインを残して番組を去った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1985年、アニメ雑誌「月刊ニュータイプ」(角川書店)創刊号から「フール・フォー・ザ・シティ」の連載開始。漫画家としても活動を始める。同年、『Ζガンダム』の続編の『機動戦士ガンダムΖΖ』で監督の富野によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになった。主役のガンダムや敵MSなどのデザインを行なっていたが、年末に事態が急変し、数点を除いてΖΖだけでなくほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1986年、「月刊ニュータイプ」で「ファイブスター物語」連載開始。同年、映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』で、富野監督の指名により再度メイン・デザイナーに起用される。しかし、スタッフなどの制作サイドやスポンサーと衝突して降板。全てのデザインが没となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1989年、サンライズ退社。席がなくなる代わりに、原作を持ち込んだ時の版権が自分に帰属することになった。株式会社トイズプレス副社長に就任。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1994年頃、富野監督から『聖戦士ダンバイン』シリーズの劇場版デザイナーとしてオファーを受けるが、企画の頓挫により実現しなかった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1998年、『ブレンパワード』で富野監督の指名でタッグを組み、久しぶりにアニメのデザインワークスを担当した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1999年、幾原邦彦のヴィジュアルストーリー『シェルブリット』のビジュアルデザインを担当。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2012年11月1日、原作・監督・脚本・絵コンテ・レイアウト・原画・全デザインを永野護が担当した『花の詩女 ゴティックメード』が劇場公開される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "サンライズ入社直後に神田武幸監督の『銀河漂流バイファム』と安彦良和監督の『巨神ゴーグ』に登用され、それぞれメインのメカデザイナーの大河原邦男・安彦良和の両巨匠のかたわらでサブのメカデザインを任された。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "『バイファム』では、大河原がデザインしなかった一部のゲストメカのデザインを担当した。中でも正式採用のきっかけとなったパペットファイターはメカデザイン初仕事だった。それ以外にも登場ロボットのラウンドバーニアン(RV)のラフデザインやディティールアップ、地球軍とククト軍両方の制服のデザイン(クリンナップはキャラクターデザイナーの芦田豊雄)、一部ゲストキャラクターのデザイン(芦田の不在時)なども行っている。RVのラフデザインは、監督の神田から説明を受けながらなんとか描いたラフを大河原がクリンナップしてバザムになった。永野は直された自分のデザインの全てのパーツとフォルムがきちんと形になっていて、かつ大河原デザインにもなっていることにショックを受けたと語っている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "『ゴーグ』では、大型重機ダイノソアとヘリコプターをデザインしたほか、水陸両用装甲車のキャリア・ビーグルや戦車(メルカバ93型)などの三面図と作画参考用の各部ディティールやコックピットや内部機構の設定などを描いている。また安彦が永野を呼んだのは、デザイナーというよりも自身があまり詳しくないミリタリー関係や機械類の作動方法のアドバイザーとしてだった。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "キャラクターデザインとメカデザインの両方を一手に引き受けた。発端は当時の日本サンライズで新人デザイナーとして活動を始めた永野が「自分が描きたいロボット」として描いた画を富野由悠季監督が見たことだったという。しかも永野がロボットのイラストの端に描いていたキャラクター達も目に留まり、キャラクターデザインまで担当するという前代未聞の人事となった。結果的に、富野監督の意向で主人公メカを含むメカデザイナーとキャラクターデザイナーの両方を駆け出しの新人が務めるという異例の事態につながったが、反対意見も多かったという。ただし、当時の永野はまだ新人であり、印象的なメカデザインで注目されていたものの、その画力はアニメーションの設定画(誰もが同じ画を描けるようにする指示書)というレベルではなかったため、最初の内は実際のアニメ制作用の設定画の一部はアニメーションディレクターを務めた湖川友謙率いるビーボォーのスタッフが永野の絵から起こしていた。また永野も湖川らの設定画に直接解説文や注釈を書き込んだりしている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "デザインは単にキャラ表を起こすだけでなく、劇中で「ヘビーメタル」と呼ばれるロボットの内部構造や駆動系に関する科学的・技術的考証から人物の衣装・小道具に至るまで、いわゆるコンセプトデザインの領域に踏み込んだデザインを行なった。それまでのアニメロボットが現実的な可動をある程度無視していたのに対して、『エルガイム』において永野は、ムーバルフレームや二重関節などの導入により、フィルム上でロボットが合理的に動いているように見える機械的に矛盾の無い可動を視聴者にイメージさせることに成功した。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "『エルガイム』ではデザインにとどまらず、ほとんどのセクションを手掛け、演出や脚本に口を出したり一部原画を描いたりもしている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また以前から温めていた画面には登場しない「裏設定」を数多く盛り込み、積極的に各媒体で公表。「ファイブスター物語」のプロトタイプともいうべき独自の世界を構築するなど、アニメファンの間にセンセーションを巻き起こした。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "富野監督により、メイン・デザイナーに指名された。富野監督からは「キャラクター以外のビジュアルイメージを出してデザインに専念して欲しい」と言われ、富野とSF設定考証担当の永瀬唯との3人でスペースコロニーや宇宙船などの作品の基本設定も考えた。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "メカニックデザインではなく「デザインワークス」とクレジットされているのは、全天周囲モニターとリニアシート、ムーバブル・フレーム、多重関節といったΖガンダムとそれ以降の続編に出てくるメカニックの基本デザイン、あるいはノーマルスーツや制服などの衣装や拳銃などの小物類といった、メカニックの範疇を超えたデザインを行っているためである。またヤザン・ゲーブルのキャラクター設定画は、永野がオリジナルを描いている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "モビルスーツではΖガンダム(百式)とガンダムMk-IIのラフ、ガルバルディβ、リック・ディアス、キュベレイ、ハンブラビ、戦艦ではアーガマ、グワンバン、エンドラをデザインした。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Ζガンダムのラフは、『エルガイム』放映期間中、富野監督に「アメリカで行われるコンベンションに新しいガンダムに関するアイデアをいくつか持って行きたい」と言われて描いた新ガンダムのコンセプト案。富野監督にはまったく新しいMS像を作りたいという意識が強かったようで、好きに描いていいからとにかく永野バージョンのガンダムではなく新しいロボットを作るようにと言われて描いた。画稿には「ZETA」や「ZETA GUNDAM」と記されているが、あくまで『Ζガンダム』に登場する新しいMSのコンセプトをイメージしたもので、既存のMSのイメージを大きく変えるものとなっている。またこれらのラフについては、このコンセプトを基に永野自身がリック・ディアスとガルバルディβをデザインしたり、藤田一己がのちにクリンナップして百式とΖガンダム頭部の決定稿を描いたり、大河原邦男が参考にして自身のΖガンダムやガンダムMk-IIのラフデザインを描いたりしている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "一方で永野は、前作のデザインの流れも取り入れた保守的なMSのデザイン作業も進めており、それがリック・ディアスとガルバルディβだった。しかし、最初に提出されたその2つのデザインに対するサンライズ上層部やバンダイなどのスポンサーの評価は低く、「こんなのモビルスーツじゃない」などと酷評された。そこで作品に使えるメカデザイナーを探すことになり、36人の候補の中から藤田一己が選ばれた。また前回のガンダムのデザイナーの大河原邦男の復帰も決まった。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ガンダムMk-IIは、永野が描いたΖガンダムのラフを基に復帰した大河原がΖガンダムとガンダムMk-IIのラフを描き、それらを基に永野がガンダムMk-IIのラフを描き、大河原がまたそれに手を入れるというやり取りを繰り返した後、最終的に新人の藤田がクリンナップしてデザインを完成させた。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "まだ若かった永野はΖガンダムのデザインから外されたことに反発して辞めることを宣言するが、他の仕事もあって多忙なキャラクター担当の安彦のデザイン数がまた十分ではなかったので、それをサポートしてから辞めることにした。そしてその仕事が終わると、一旦プロジェクトから外れた。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "その後、富野から物語中盤から登場するMSをデザインして欲しいと声がかかって復帰する。今度は誰の意見も聞かず、子供が落書きでも描けるようにとシルエットを重視したハンブラビとキュベレイというキャラクター性の強いMSをデザインした後、完全に現場を離れた。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "小説版「機動戦士Ζガンダム」(講談社)の表紙イラストや扉絵も描いており、こちらは最後まで担当している。またMSや戦艦、航空機などのデザインはほとんどがアニメ本編に登場するものとは別デザインとなっている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "富野監督によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになっていた。しかし番組開始前に降板することになり、ΖΖを含むほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。結局、作品に登場したのは、前作『Ζガンダム』から引き続き登場しているデザイン以外では、ガザDとゲゼ(ともにラフのみ)、プチ・モビルスーツ、ミドル・モビルスーツ、そしてずっと以前にデザインしていたシュツルム・ディアスだけだった。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "永野は富野監督の「ロボットアニメの原点に戻って子供にもわかりやすい『明るいガンダム』にしよう」という意図をくみ、敵MSを作品初期のコミカルなムードに合わせた3-5頭身のSDガンダム風のデザインにした。富野監督の評価も「今回のZZといわれるガンダムは、いわゆる永野メカではありません。大河原マシンに近い線があります。それは彼が従来のデザインと、大河原デザインの二種を意識してそれぞれをデザインしているということなんです。(中略)だからこれからの彼のメカのバリエーションには期待できます。今描かせているヤラレメカに近いメカなどはかつての手塚治虫をほうふつさせる、漫画的なものまであります。それに加えてオーソドックスなデザインをすることで、彼のフィールドは良い方向に、一気に広がるかもしれません」と上々だった。しかし、「子供たちにひと目で敵ロボットの特徴をわからせるための巨大な一つ目に5頭身のガルスJ」「ハマーン・カーン専用MSとしてデザインされ、女性用ということで『おっぱいミサイル』を胸に2発搭載するハンマ・ハンマ」など、 ユニークではあるがあまりにも従来のMS像とはかけ離れたそのデザインは波紋を呼んだ。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "一方、主役のΖΖガンダムに関しては、前作とは違ってサンライズとスポンサーの「とにかくガンダムに見えるように」「合体変形するように」という要望通りにデザインした(ただし、合体変形機構は永野の案ではない)。しかし、永野のデザインでは模型にした際に合体変形機構に問題があるとされるなどスポンサーサイドの了解が得られず、何度かのデザイン修正が行われ、一部媒体では永野案のデザインも公開されたものの、土壇場で没となった。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最終的にはΖΖのデザインだけでなくメイン・デザイナーの座からも外れることになり、一部のデザインを除いて永野のメカは番組から姿を消した。またハンマ・ハンマやガルスJは、名称だけ残して別のデザイナーによるデザインに差し替えられた。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "富野監督によりメイン・デザイナーに指名された。富野監督からは「テレビシリーズではないから全てのデザインをお前に託す」と言われ、旧作(ファースト・ガンダム、Z、ZZ)に登場したメカは一切使用しないという条件で、敵味方のMSと艦艇、コックピットのシステム、サイコミュ用ヘルメットやノーマルスーツまで、劇中のほぼ全てのデザインを担当する予定だった。しかし、富野監督の要求を受けて提案したデザインラインにクライアントからのOKが出ず、また彼自身が周囲のスタッフと衝突したこともあり、またも途中降板することになった。全てのデザインが白紙に戻され、急遽メカニックデザインの発注やMSデザインのコンペが行われることになった。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "MSは主役のアムロ・レイ用のHi-S(ハイエス)ガンダム(劇場版でのνガンダム)とΖガンダム(劇場版でのリ・ガズィ)、ネオ・ジオン側のシャア・アズナブル用のナイチンゲール(劇場版でのサザビー)、そしてギラ・ドーガやヤクト・ドーガにあたる機体などをデザインした。しかし、当時、永野が富野監督と考えていたMSのデザインラインは「ごつく怖い」というものだったため、ネオ・ジオン側のMSはすべて恐竜や怪獣をモチーフとしており、リック・ディアスのラインを推し進めた超重装甲の怪異なデザインとなっていた。その影響で再登場予定だったΖガンダムも同様に重武装・重装甲となっており、唯一、アムロ用の新ガンダムのみが細身でシンプルだった。その新ガンダムも、いわゆるガンダムの常識を覆すデザインで作業が進行していたが、途中降板となったために完成度7割程度のところでストップした。結局、超重装甲のコンセプトがバックウェポンシステムとして引き継がれたリ・ガズィを除き、全てのデザインが他のデザイナーたちによって一からやり直された。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "『ブレンパワード』では人物を担当したいのまたむつみとともにメインデザインとクレジットされ、メカ関係の基本設定を担当。金属板の積層をモチーフにした斬新なロボットデザインを発表した。薄い装甲が何枚も重なった「積層」というアイデアと、必ずしも関節部が「関節」として可動する必要はないという発想から出て来た重ね板バネの力を取り入れるというアイデアとが合わさって出来たデザイン。ガンダムシリーズに登場するモビルスーツのように内燃機関と機械的な関節で動く兵器ではなく、積層構造の幾何学的な筋肉を持つ、軽くてデジタル的なロボットである。またそれ以外にも主役ロボットの出現するシーンのイメージボードやコックピット内部と駆動筋システムの図解、2種類のパイロットスーツ、近未来的なデザインの艦船や戦闘機なども描いている。", "title": "デザインワークス" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1986年よりアニメ誌『月刊ニュータイプ』で連載を開始。以後、20年以上にわたって断続的に連載が続いている。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『FSS』は、永野が『重戦機エルガイム』放映中に雑誌媒体などで発表した関連イラストや自身が考えた裏設定などがベースになり、発展して行った作品である。『エルガイム』の制作に参加していて自分の手でストーリーを作りたくなった永野が描き始めた漫画で、永野が最初に考えていた企画から監督の富野由悠季にバトンタッチして以降の部分を切り離して作った。富野が『エルガイム』では一切やらせなかった要素で『FSS』が出来たとも言える。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "永野は『エルガイム』制作中に自身の考えた設定をメディアに積極的に公表していた。それは作品の公式の設定ではない部分も多かったが、どの媒体でも「裏設定」として普通に扱っていた。さらにムック本「ザ テレビジョン別冊 重戦機エルガイム2」では、この裏設定をベースにした永野自身によるイラスト10点と作品年表も掲載され、これらが漫画「FSS」の源流になって行く。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "永野は驚異的な遅筆で知られ、本編単行本よりもイラスト集・設定集の冊数の方が遥かに多い。物語の進行が遅い上に、度々連載が(しかもいきなり読者に予告抜きで)休載となる。この遅筆の理由の一つには作画手段へのこだわりがある。作中でのメカの描写には相当な時間をかけており、一ページに大写しにモーターヘッドが出てくる場合などは2・3日も時間をかけて描き込むという。カラーイラストでは主にアクリルガッシュを用いているが、イラストボードに鉛筆で下絵を描いて彩色するという手法もあり、単行本の表紙画などには制作に1ヶ月以上かかると言われている(単行本第12巻の表紙イラストには1ヵ月半を費やしている(『F.S.S. DESIGNS2』によれば、アクリルガッシュを使い出したのは1991年頃からで、以前は透明水彩、のちにアクリル水彩を使用していた。アクリル水彩に変えたのは肌の色が確実に出せるのと着色後の安定感から、アクリルガッシュに移行したのは自分の絵に対する理想が固まる中でアクリル水彩の透明感が気に入らなくなったからだという)。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また、公式に設定画を公表したMHも気に入らなくなれば手を加えて直してしまうため、作中で登場するたびに微妙に細部のデザインが変わることもある。デザイン画の公表から年月が経ち古くなってしまったMHは、大幅にリファインがなされることもある。その場合、元のイメージを多少残した他は、デザインがまるっきり別物に変貌してしまうことも多い。MHのみならずキャラクターのファッションも同様で、こうしたデザインに対するこだわりの強さも遅筆の一つの要因であると考えられる。「デザイン画のために『FSS』本編が存在する」とまで発言したこともある。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "一時期『FSS』の執筆には、Macintoshを用いた2次元コンピュータグラフィックスが多用されていた。しかし永野は、「やはり自分の求める表現はデジタルでは無理」と考え、以後基本的にマンガ制作ではコンピューターを使用していない。もっとも、アニメ製作におけるコンピュータを使った作業については否定的ではなく、『F.S.S. DESIGNS2』において「原画のベクタライズにかかるコストさえクリアされれば、2Dセルアニメーションでも高度なコンピュータでの作業が必須となってくる」と述べ、自身による劇場アニメ『花の詩女 ゴティックメード』の制作では、ベクター画像を用いた動画の導入を試みている。", "title": "代表作「ファイブスター物語」" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ロックに通暁し、作品中の固有名詞などには、バンド名(主にプログレッシブ・ロック)やその作品名、メンバー名をオマージュとしてしばしば借用している。例えば、アモン・デュール、アトール、アシュ・ラ・テンペル、モーターヘッド等が挙げられる。また、楽器や機材にも精通しておりフォーカスライト、SSL、インタシティ、Neve Electronics等、楽器・機材メーカー名を借用する事もある。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "学生時代、バンドを組んでおり、ベースを担当していた。米軍キャンプで演奏をしていた経験もあり、一時期は本気でミュージシャンになろうかと考えていたこともあるという。自身が執筆するマンガのイメージアルバム「THE FIVE STAR STORIES」を自ら手がけたこともある。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "サンライズの面接にもベースを背負って靴底が15cmもあるロンドンブーツを履いていったが、長髪で靴のせいで身長が190cm近くある永野を見た担当者は、「使いものになりそうにないけどオモロイんで雇おうか」と言ったという。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ファッションデザインを学んでおり、登場キャラクターのファッションにも強いこだわりを持ってデザインをしている。『FSS』を始めとして、永野の作品に登場するキャラクターのコスチューム・デザインは、アニメ・マンガの世界を超えて高い評価を得ている。こうしたファッションへのこだわりについて、永野はデザイン集『F.S.S. DESIGNS1』において、実家が呉服関係の仕事をしていたため幼少時より布地に囲まれて育ったという原体験を語っている。「FSSのデザインは1980年代ファッションを引っ張ってきたという自負がある」とも語っている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "洋服を着ても、基本的に「服を着た俺を見て」ではなく「洋服を見て」というのが先に立っている。ちょっと変わった服を着ていて街で馬鹿にされたりからかわれたりすることもあるので、好きな服を着ることにはすごくパワーがいるが、それでも着る。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "大のミリタリーファンであり、現実の兵器の造形・デザイン面の様々な分野に造詣が深く、永野のデザインはそれらより強い影響を受けている。サンライズの面接でも、戦車や戦闘機などを描いて提出した。実在の兵器の中では第二次世界大戦時のドイツ軍やソ連軍の戦車への愛好が強い。その嗜好は、『パンツァーフロント』でのオリジナル戦車デザインや、『ファイブスター物語』における戦車戦の描写に反映しているほか、「バストーニュ」「トブルク」「マエッセン」「ケーニヒ」など、『FSS』に登場する地名や人物名もその分野に因んだものが見られる。そのためミリタリー色の強いアニメ『装甲騎兵ボトムズ』のファンでもある。また、『ボトムズ』の作画監督の谷口守泰とは、実家が呉服関係の仕事をしていたという永野のプロフィールと谷口の西陣織図案デザイナー出身という異色の経歴とのつながりや、同じ京都人として、永野との親交が知られている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "航空自衛隊第204飛行隊が永野のイラストをノーズアートに採用した際、その御礼で、当時第204飛行隊が駐屯していた百里基地を訪問。その時の興奮を『Takes of Joker』13号に綴っている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "モデラーを自認しており、模型を趣味で制作している。腕前はかなりのもので、模型雑誌のプロモデラーと比較してもあまり遜色がないほどのもの。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "ミリタリー模型ファンであり、田宮模型が主催する1/35ミリタリーフィギュアの改造コンテスト「タミヤ人形改造コンテスト」に18歳の時に入賞した経験があり、同社が発行する作品集にも掲載された。タミヤがMMタイガーIおよびキングタイガーをリリースした際は、『月刊ニュータイプ』誌の模型コーナーに作例を提供したり、『FSS』の連載のトビラで同キットを紹介した事がある。また、自らデザインしたモビルスーツ「リック・ディアス」の改造作品「シュツルム・ディアス」の作例が模型専門誌「モデルグラフィックス」に掲載された事がある。後にシュツルム・ディアスは明貴美加のクリンナップを経て『機動戦士ガンダムΖΖ』の劇中に登場した。また『FSS』のモーターヘッド造形やWTMの原型で知られる谷明は、ワンダーフェスティバルにて、永野に見い出され、海洋堂に入社した経緯がある。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "学生時代から、「トミノコ族」の中心的存在として知られ、1981年2月22日に新宿アルタ前で行われた、富野由悠季主催の『機動戦士ガンダム』劇場版公開前のイベント「アニメ新世紀宣言」に、シャア・アズナブルのコスプレをして現れた。ちなみに同イベントでは、川村万梨阿もララァ・スンのコスプレで登場している。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "2000年7月23日に幕張メッセで行われた、東京キャラクターショー2000・角川書店ブースでの『Schell Bullet』トークショーでは、著者である幾原邦彦とともに、「厄落とし」と称して、『セーラームーン』(講談社作品)に登場するキャラクターの女装コスプレでムーンライト伝説にあわせてダンスを披露し(永野はセーラーヴィーナス、幾原はセーラーマーズにそれぞれ扮した)、観客の度肝を抜いた。この時、川村が振り付けを担当した。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "TVゲームに非常に熱中しやすく、スーパーファミコンのソフトが全盛期だった頃は、親交のある佐藤元とよくソフトを交換し合い、それが部屋中に散乱していたという。特にオンラインゲーム『ファンタシースターオンライン』には熱中し、著名人プレイヤーとしても知られている。続編『ファンタシースターユニバース』においてもファンサイトと自身専用ロビーを立ち上げてプレイしたとされる。また、彼がデザインした武器が同ゲーム内に登場する。『ファンタシースターオンライン2』においても彼がデザインした武器およびキャラクターが登場し、キャラクターの声優は妻である川村万梨阿が担当した。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『バーチャファイター』全盛期には、印税を投げ打って筐体を購入した事を、川村がラジオで語っている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "ドリームキャスト版『ソウルキャリバー』に熱中した際には、同ゲームの攻略本にて『アイヴィ』の攻略記事を執筆した事がある。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "妻はアニメ『重戦機エルガイム』のガウ・ハ・レッシィ/リリス・ファウ役(二役)や、アニメ版『ファイブスター物語』でラキシス役を務めた声優・川村万梨阿である。互いに学生時代の頃から12年の交際を経て1991年に挙式し、富野由悠季夫妻が仲人を、ガンダムの登場人物であるギレン・ザビ役の声優・銀河万丈が披露宴の司会を務めた。川村以外の家族は非公開だが、夫婦仲は良好らしく、『Tales of Joker』8号のインタビューでロボットデザインの話題になった時、とある事で川村と夫婦喧嘩になった時、川村から「お前なんかロボットが描けなかったらただのクズ男だよ」と言われて「あったりまえじゃん。オレはロボットが描けるから今の地位があるんだぜ」と言い返した逸話を披露している。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "親交のあるアニメーター兼漫画家・佐藤元の漫画『おやすみ!わたしのサイボーイ』(1985年)の作画に協力した。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "『巨神ゴーグ』や『機動戦士Ζガンダム』などで親交のある安彦良和は、雑誌『ガンダムエース』での対談を経て、永野の考え方を堅実で合理的、「クールなおたく」であると評した。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "ゲームデザイナーの遠藤雅伸とも交遊があり、『ファイブスター物語』の雑誌掲載版再録を行なっていた雑誌『Tales of Joker』に、遠藤が「Otaku of Chris」と題したエッセイを寄稿していた時期もある。", "title": "私生活" } ]
永野 護は、日本のメカニックデザイナー・キャラクターデザイナー・漫画家。株式会社EDIT代表取締役。京都府舞鶴市出身。身長175cm。愛称(自称)は「クリス」。妻は声優・歌手・女優の川村万梨阿。
{{Otheruses||昭和時代の政治家|永野護 (政治家)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 永野 護 | ふりがな = ながの まもる | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|1|21}} | 生地 = {{JPN}}・[[京都府]][[舞鶴市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1960|1|21|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[メカニックデザイナー]]<br />[[キャラクターデザイナー]]<br />[[漫画家]]<br />[[アニメーション映画|アニメ]][[映画監督]]<br />[[実業家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1983年]]<ref name="forbes">{{cite web|url= https://www.forbes.com/sites/olliebarder/2019/04/04/mamoru-nagano-on-l-gaim-gundam-and-the-fractal-nature-of-the-five-star-stories/?sh=47511dd66733|title=Mamoru Nagano On 'L-Gaim', 'Gundam' And The Fractal Nature Of 'The Five Star Stories' |date= 2019-04-04|accessdate= 2021-5-14 |website= forbes.com |publisher= Forbes}}</ref><ref name="outline64-67">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 64-67 |isbn = 9784048534635}}</ref> - | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成年向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[重戦機エルガイム]]』<br />『[[ファイブスター物語]]』<br />『[[花の詩女 ゴティックメード]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|http://www.example.org}}や[http://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''永野 護'''(ながの まもる、[[1960年]][[1月21日]] - )は、[[日本]]の[[メカニックデザイナー]]・[[キャラクターデザイナー]]・[[漫画家]]。株式会社EDIT[[代表取締役]]。[[京都府]][[舞鶴市]]出身。身長175cm<ref group="注">かなりの痩身であり、『ファイブスター物語』単行本第1巻あとがきに掲載されているプロフィール([[1987年]]時点)によれば、身長175cmに対して体重46kg、ウエスト60cmとなっている。レディースの服でも問題なく着ることができるという。</ref>。愛称(自称)は「クリス」<ref group="注">これは、[[イエス (バンド)|イエス]]の[[ベーシスト]]である[[クリス・スクワイア]]に因んだもので、ベースを演奏するようになったのもスクワイアに影響を受けたものである。</ref>。妻は[[声優]]・[[歌手]]・[[女優]]の[[川村万梨阿]]。 == 人物 == [[アニメ制作会社]]日本サンライズ([[サンライズ (アニメ制作会社)|サンライズ]]を経て、現・[[バンダイナムコフィルムワークス]])に企画部のオールラウンド・デザイナーとして入社すると、すぐに[[テレビアニメ]]『[[重戦機エルガイム]]』のメインデザイナーに抜擢される<ref name="historica">{{Cite Book |和書 |author = |title = 機動戦士Zガンダムヒストリカ 第09巻 OFFICIAL FILE MAGAZINE |publisher = 講談社 |year = 2005 |month = 11 |page = 29 |isbn = 9784063671919}}</ref>。永野の生み出したロボット「[[重戦機エルガイム#ヘビーメタル|ヘビーメタル]]」は、ロボットアニメ史上、初めて設定上齟齬なく動くデザインを提供し、アニメ業界に旋風を巻き起こした<ref name="GMG2020W1">{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2020 WINTER |publisher = [[双葉社]] |year = 2020 |month = 12 |page = 30 |isbn = 978-4575465259}}</ref>。以後、[[アニメーション|アニメ]]のデザイナー、漫画家として活躍。 人間もメカ(ロボット)も両方ひっくるめて「キャラクター」として描ける人間が本来のデザイナーだと思っているので、「メカデザイン」という役職は存在しないというのがポリシー<ref name="outline35">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 35|isbn = 9784048534635}}</ref><ref name="episodeguide3">{{Cite Book |和書 |title = 機動戦士ガンダムエピソードガイド Vol.3 |publisher = 角川書店 |year = 1999 |month = 12 |page = 151|isbn = 978-4048530705}}</ref>。 == 経歴 == 1982年、第2回SFアート大賞(月刊「[[スターログ]]」主催)で入選。[[拓殖大学]]を中退<ref name="outline64-67"/>。永野も参加していた地元京都の『[[機動戦士ガンダム]]』ファンのグループに、サンライズの関係者が運営する『伝説巨神イデオン』の映画化記念[[イベント]]で[[コスプレ]][[パフォーマンス]]をしてくれないかという打診があった。そこで永野が絵を描けることを知っていた友人がサンライズの人間に彼を推薦してくれた<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 81-85|isbn = 9784048534635}}</ref><ref name="gundam.infointerview">{{Cite web|和書|url= https://www.gundam.info/news/event/news_event_20150911_13851p.html|title= 「メカニックデザイナー 大河原邦男展」開催記念『大河原邦男&永野護トークショー』レポート |date= 2015-09-11|accessdate= 2021-5-14 |website=GUNDAM.INFO |publisher= 株式会社サンライズ}}</ref>。当時、『[[超時空要塞マクロス]]』の成功でサンライズでも若い人材を求めており、新人デザイナーを募集していた<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/><ref name="gundam.infointerview"/>。その頃、永野はまだ巨大ロボットもアニメ的なキャラクターも描けなかったので、面接には一般的なアニメとは違う写実的なタッチの建造物や自分の考えた[[世界観]]の絵などを持ち込み、担当者からはっきりと「絵は使えないが経歴が面白いから雇う」と言われた<ref name="outline81-85"/>。入社後、プロデューサーの[[植田益朗]]に自分の絵を見せた時も、「プロとしてやっていけるかどうかはわからないけど、いろいろやってみなさい」と言われた<ref name="forbes"/>。 [[1983年]]、サンライズに入社。とりあえず3月に新設される第3スタジオに配属されることになり、企画部長の[[山浦栄二]]の下で仕事をすることになった<ref name="forbes"/><ref name="gundam.infointerview"/>。1月から3月までは試用期間で、練習として描くよう言われた[[神田武幸]]監督の『[[銀河漂流バイファム]]』用のメカのデザインが採用され、4月から正式に入社するよう言われた<ref name="forbes"/>。デザイナーとして入社したものの、実際には「何でもやれ」と言われており、プロデューサーと一緒に企画を立て、プレゼンし、そして財政面も考えた。またスタッフを管理し、実質的にプロダクションマネージャーのような役割も担うことになった<ref name="forbes"/>。4-6月に「銀河漂流バイファム」、7月からは『重戦機エルガイム』の制作に参加、その合間に『[[巨神ゴーグ]]』も手伝うというスケジュールだった<ref name="outline64-67"/>。 第3スタジオでは、神田監督とキャラクターデザインの[[芦田豊雄]]に挟まれた席で絵コンテの描き方やキャラクターの描き方を教わり、そこに毎日数十枚上がってくるメカデザインの[[大河原邦男]]のデザイン画を見せられてレクチャーを受けるという英才教育のような仕事の叩きこまれ方をした<ref name="gundam.infointerview"/><ref name="outline81-85"/><ref name="okawaraten">{{Cite Book |和書 |author = |title = メカニックデザイナー 大河原邦男展 展覧会図録 |publisher = 産経新聞社 |year = 2015 |month = |page = 176|isbn = }}</ref>。[[安彦良和]]監督のもとで『巨神ゴーグ』の作業が始まると安彦に兵器や機械の構造に詳しい人間として呼ばれ、会社側に「安彦さんはとても大切な人だから要望を無視するわけにはいかない」と言われて掛け持ちすることになった<ref name="forbes"/>。その頃、第2スタジオに呼ばれて『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズの[[富野由悠季]]監督の『[[聖戦士ダンバイン]]』の新主役機、[[ビルバイン]]のコンペにデザインを提出することになった。富野監督はすでに永野が描いた小物の設定書を50枚ほど見たことがあり、彼を呼ぶよう頼んでいた<ref group="注">実際にはビルバインのデザイナーはその時点ですでに[[湖川友謙]]に決まっていた。</ref><ref name="forbes"/><ref name="outline86-91">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 86-91|isbn = 9784048534635}}</ref>。当時、富野には「永野のような才能を拾い上げなくては」という意識があったという<ref name="outline86-91"/>。 6月頃、永野は上司の山浦から『バイファム』の後番組の企画を第3スタジオで作るように言われた<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/>。「これまでに誰も見たことのない新しいタイプのメカを考え出すように」と言われ、「メカだけでいいのか」と聞き返すと「企画もストーリーも全部だ」と言われたので、永野はもう一人の人物と一緒に『[[スターウォーズ]]』をベースにした誰も知らない惑星での[[ロードムービー]]風の話を考えた<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/>。6月末、大きなメカと少年少女が旅をするという設定で最初の企画デザインを提出した<ref group="注">提出したメカは[[バッシュ]]と[[オージェ]]とエルガイムの初期デザインだった。</ref><ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/>。7月、永野が[[バンダイ]]に[[プレゼンテーション]]を行ったところ気に入られ、7月末にサンライズに対して『Explorer』という仮タイトルで企画にゴーサインが出た<ref name="forbes"/>。8月に『ダンバイン』のスポンサーだった[[クローバー (玩具メーカー)|クローバー]]が倒産し、代わってバンダイがスポンサーになった<ref name="forbes"/>。しかし、植田プロデューサーが探していたのは永野も所属する第3スタジオの『バイファム』の後番組で、バンダイがスポンサーの『ダンバイン』は第2スタジオの作品だった<ref name="forbes"/>。そのため、山浦と植田はスタッフの再編を考えなければならなかった<ref name="forbes"/>。彼らは監督も探し始め、第2スタジオに移った永野はバイファムやゴーグから手を引いてこの企画に専念することになり、企画を練り上げ、玩具用の図面を引き、企画案のリライトも行った<ref name="forbes"/>。9月、富野が監督を務めることが決定し、それまでの企画を引き継いだ<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/>。これが『重戦機エルガイム』となった<ref name="forbes"/><ref name="outline81-85"/>。 富野、安彦、神田がなぜか優しく接してくれたが、そのことについて、後に山浦が「当時のアニメ業界には会話や挨拶がきちんとできる人間がいなかったからだ」と説明してくれた<ref name="forbes"/>。 1984年、『エルガイム』放映中に富野監督から『[[機動戦士Ζガンダム]]』のコンセプトデザインを依頼される。そしてメイン・デザイナーに指名され、MSや戦艦から衣装や小物類まで様々なデザインを手掛ける。しかし制作会社やスポンサーなどに最初に提出したMSのデザインを酷評され、代わりのスタッフが投入されたことから番組開始前に降板。その後、一時復帰するが、数点のデザインを残して番組を去った。 1985年、アニメ雑誌「[[月刊ニュータイプ]]」(角川書店)創刊号から「[[フール・フォー・ザ・シティ]]」の連載開始。漫画家としても活動を始める<ref name="outline64-67"/><ref name="historica"/>。同年、『Ζガンダム』の続編の『[[機動戦士ガンダムΖΖ]]』で監督の富野によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになった<ref name="outline7">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 7|isbn = 9784048534635}}</ref>。主役のガンダムや敵MSなどのデザインを行なっていたが、年末に事態が急変し、数点を除いてΖΖだけでなくほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。 1986年、「月刊ニュータイプ」で「[[ファイブスター物語]]」連載開始<ref name="outline64-67"/>。同年、映画『[[機動戦士ガンダム 逆襲のシャア]]』で、富野監督の指名により再度メイン・デザイナーに起用される<ref name="episodeguide3"/>。しかし、スタッフなどの制作サイドやスポンサーと衝突して降板。全てのデザインが没となる。 1989年、サンライズ退社<ref name="outline64-67"/>。席がなくなる代わりに、原作を持ち込んだ時の版権が自分に帰属することになった<ref name="outline81-85"/>。株式会社トイズプレス副社長に就任<ref name="outline64-67"/>。 [[1994年]]頃、富野監督から『聖戦士ダンバイン』シリーズの劇場版デザイナーとしてオファーを受けるが、企画の頓挫により実現しなかった<ref group="注">その時のメカデザインは、後に『ファイブスター物語』に登場するロボット兵器「[[モーターヘッド (ファイブスター物語)|モーターヘッド]]」(MH)の一つである「[[モーターヘッド_(ファイブスター物語)#ファントム|ファントム]]」に流用された。</ref>。 1998年、『[[ブレンパワード]]』で富野監督の指名でタッグを組み、久しぶりにアニメのデザインワークスを担当した<ref name="historica"/><ref name="outline116-118">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 116-118|isbn = 9784048534635}}</ref>。 1999年、[[幾原邦彦]]のヴィジュアルストーリー『シェルブリット』のビジュアルデザインを担当<ref>{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 36|isbn = 9784048534635}}</ref>。 2012年11月1日、原作・監督・脚本・絵コンテ・レイアウト・原画・全デザインを永野護が担当した『[[花の詩女 ゴティックメード]]』が劇場公開される。 == デザインワークス == === 銀河漂流バイファムと巨神ゴーグ === サンライズ入社直後に神田武幸監督の『銀河漂流バイファム』と安彦良和監督の『巨神ゴーグ』に登用され、それぞれメインのメカデザイナーの大河原邦男・安彦良和の両巨匠のかたわらでサブのメカデザインを任された<ref name="forbes"/>。 『バイファム』では、大河原がデザインしなかった一部のゲストメカのデザインを担当した<ref name="gundam.infointerview"/>。中でも正式採用のきっかけとなったパペットファイター<ref group="注">1980年代の[[フォーミュラ1カー|F1]]の[[ウイングカー]]が[[話題|モチーフ]]。</ref>はメカデザイン初仕事だった<ref name="forbes"/><ref name="outline102-109">{{Cite Book |和書 |title = The Five Star Stories OUTLINE |publisher = 角川書店 |year = 2001 |month = 12 |page = 102-109|isbn = 9784048534635}}</ref>。それ以外にも登場ロボットのラウンドバーニアン(RV)のラフデザインや[[ディティールアップ]]{{refnest|group=注|すでに大河原が原案を完成させていたバイファムとディルファムとネオファムのデザインを手伝って欲しいということだった<ref name="okawaraten"/>。}}、地球軍とククト軍両方の制服のデザイン([[クリンナップ]]はキャラクターデザイナーの芦田豊雄)、一部ゲストキャラクターのデザイン(芦田の不在時)なども行っている<ref name="outline102-109"/>。RVのラフデザインは、監督の神田から説明を受けながらなんとか描いたラフを大河原がクリンナップしてバザムになった<ref name="outline102-109"/>。永野は直された自分のデザインの全てのパーツとフォルムがきちんと形になっていて、かつ大河原デザインにもなっていることにショックを受けたと語っている<ref name="gundam.infointerview"/>。 『ゴーグ』では、大型[[重機]]ダイノソアと[[ヘリコプター]]をデザインしたほか、水陸両用装甲車のキャリア・ビーグルや[[戦車]](メルカバ93型)などの三面図と作画参考用の各部ディティールや[[操縦席|コックピット]]や内部機構の設定などを描いている<ref name="outline102-109"/><ref>{{Cite web|和書|url= http://www.giant-gorg.net/column/05.html|title= 設定クローズアップ キャリア・ビーグル|date= 2004-12-20|accessdate= 2021-5-18 |website=巨神ゴーグweb |publisher= 株式会社サンライズ}}</ref><ref name="GMG2021spring95">{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2021 SPRING |publisher = [[双葉社]] |year = 2021 |month = 3 |pages = 95 |isbn = 978-4575465273}}</ref>。また安彦が永野を呼んだのは、デザイナーというよりも自身があまり詳しくない[[ミリタリー]]関係や機械類の作動方法のアドバイザーとしてだった<ref name="forbes"/><ref name="GMG2021spring95"/>。 === 重戦機エルガイム === キャラクターデザインとメカデザインの両方を一手に引き受けた<ref name="outline116-118"/>。発端は当時の日本サンライズで新人デザイナーとして活動を始めた永野が「自分が描きたいロボット」として描いた画を富野由悠季監督が見たことだったという<ref name="GMG2020spring16-19">{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2020 SPRING |publisher = [[双葉社]] |year = 2020 |month = 3 |pages = 16-19 |isbn = 978-4575465204}}</ref>。しかも永野がロボットのイラストの端に描いていたキャラクター達も目に留まり、キャラクターデザインまで担当するという前代未聞の人事となった<ref name="GMG2020spring16-19"/>。結果的に、富野監督の意向で主人公メカを含むメカデザイナーとキャラクターデザイナーの両方を駆け出しの新人が務めるという異例の事態につながったが、反対意見も多かったという<ref name="GMG2020spring16-19"/>。ただし、当時の永野はまだ新人であり、印象的なメカデザインで注目されていたものの、その画力はアニメーションの設定画(誰もが同じ画を描けるようにする指示書)というレベルではなかったため、最初の内は実際のアニメ制作用の設定画の一部はアニメーションディレクターを務めた湖川友謙率いるビーボォーのスタッフが永野の絵から起こしていた<ref name="GMG2020spring16-19"/>。また永野も湖川らの設定画に直接解説文や注釈を書き込んだりしている<ref>{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2020 SPRING |publisher = [[双葉社]] |year = 2020 |month = 3 |pages = 26|isbn = 978-4575465204}}</ref>。 デザインは単にキャラ表を起こすだけでなく、劇中で「ヘビーメタル」と呼ばれるロボットの内部構造や駆動系に関する科学的・技術的考証から人物の衣装・小道具に至るまで、いわゆるコンセプトデザインの領域に踏み込んだデザインを行なった<ref name="outline116-118"/>。それまでのアニメロボットが現実的な可動をある程度無視していたのに対して、『エルガイム』において永野は、[[ムーバブルフレーム|ムーバルフレーム]]や二重関節などの導入により、フィルム上でロボットが合理的に動いているように見える機械的に矛盾の無い可動を視聴者にイメージさせることに成功した<ref name="outline102-109"/><ref>{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2020 SPRING |publisher = [[双葉社]] |year = 2020 |month = 3 |pages = 22 |isbn = 978-4575465204}}</ref>。 『エルガイム』ではデザインにとどまらず、ほとんどのセクションを手掛け、演出や脚本に口を出したり一部原画を描いたりもしている<ref name="outline35"/><ref name="gundam.infointerview"/>。 また以前から温めていた画面には登場しない「裏設定」を数多く盛り込み、積極的に各媒体で公表<ref name="GMG2020spring16-19"/><ref name="GMG2020spring31">{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2020 SPRING |publisher = [[双葉社]] |year = 2020 |month = 3 |pages = 31 |isbn = 978-4575465204}}</ref>。「[[ファイブスター物語]]」のプロトタイプともいうべき独自の世界を構築するなど、アニメファンの間にセンセーションを巻き起こした<ref name="outline116-118"/>。 === 機動戦士Ζガンダム === 富野監督により、メイン・デザイナーに指名された<ref name="zga">{{Cite Book |和書 |author = |title = ZGUNDAM A (ゼータガンダムエース) |publisher = 角川書店|year = 2005 |month = 7 |pages = 82-85|isbn = }}</ref>。富野監督からは「キャラクター以外のビジュアルイメージを出してデザインに専念して欲しい」と言われ、富野とSF設定考証担当の[[永瀬唯]]との3人で[[スペースコロニー]]や宇宙船などの作品の基本設定も考えた<ref name="historica"/>。 メカニックデザインではなく「デザインワークス」とクレジットされているのは、[[全天周囲モニター・リニアシート|全天周囲モニターとリニアシート]]{{refnest|group=注|コックピットには前作『重戦機エルガイム』で、それまでのボックス型コックピットに代わって富野のアイデアで永野がデザインした全天周囲モニターと、新たにデザインしたリニアシートを採用。以後、この組み合わせがほとんどの富野作品で採用されている<ref>{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2018 SUMMER |publisher = [[双葉社]] |year = 1988 |month = 6 |page = 14 |isbn = 9784575465099}}</ref><ref>{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2019 SUMMER |publisher = [[双葉社]] |year = 2019 |month = 6 |page = 23 |isbn = 978-4575465167}}</ref>。}}、ムーバブル・フレーム、多重関節といった[[Ζガンダム]]とそれ以降の続編に出てくるメカニックの基本デザイン、あるいは[[ノーマルスーツ]]や制服などの衣装や拳銃などの小物類といった、メカニックの範疇を超えたデザインを行っているためである<ref name="historica"/><ref name="outline116-118"/>。またヤザン・ゲーブルのキャラクター設定画は、永野がオリジナルを描いている{{refnest|group=注|ヤザン用の服をデザインしたところ、その絵を面白がった安彦が顔だけを描き直して決定稿とした。}}<ref name="historica"/>。 モビルスーツではΖガンダム([[百式 (ガンダムシリーズ)|百式]])と[[ガンダムMk-II]]のラフ、[[ガルバルディ#ガルバルディβ|ガルバルディβ]]、[[リック・ディアス]]、[[キュベレイ]]、[[ティターンズの機動兵器#ハンブラビ|ハンブラビ]]、戦艦では[[アーガマ (ガンダムシリーズ)|アーガマ]]、[[グワンバン]]<ref group="注">アーガマやエンドラと違って続編のΖΖも含めて作中にはほとんど登場しなかったが、『[[機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY]]』に登場しているのを見つけて驚いたと永野は語っている。</ref>、[[ムサイ#エンドラ|エンドラ]]をデザインした<ref name="outline102-109"/>。 Ζガンダムのラフは、『エルガイム』放映期間中、富野監督に「アメリカで行われるコンベンションに新しいガンダムに関するアイデアをいくつか持って行きたい」と言われて描いた新ガンダムのコンセプト案<ref name="forbes"/><ref name="zga"/>。富野監督にはまったく新しいMS像を作りたいという意識が強かったようで、好きに描いていいからとにかく永野バージョンのガンダムではなく新しいロボットを作るようにと言われて描いた<ref name="zga"/>。画稿には「ZETA」や「ZETA GUNDAM」と記されているが、あくまで『Ζガンダム』に登場する新しいMSのコンセプトをイメージしたもので、既存のMSのイメージを大きく変えるものとなっている<ref name="GMG2018summer20-25">{{Cite Book |和書 |title = グレートメカニックG 2018 SUMMER |publisher = [[双葉社]] |year = 1988 |month = 6 |pages = 20-25 |isbn = 9784575465099}}</ref><ref name="animec">{{Cite Book |和書 |title = 月刊アニメック |publisher = ラポート|year = 1985 |month = 10 |pages = 39-70|isbn = }}</ref>。またこれらのラフについては、このコンセプトを基に永野自身がリック・ディアスとガルバルディβをデザインしたり、[[藤田一己]]がのちにクリンナップして百式とΖガンダム頭部の決定稿を描いたり、大河原邦男が参考にして自身のΖガンダムやガンダムMk-IIのラフデザインを描いたりしている<ref name="outline116-118"/><ref name="GMG2018summer20-25"/><ref name="animec"/>。 一方で永野は、前作のデザインの流れも取り入れた保守的なMSのデザイン作業も進めており、それがリック・ディアスとガルバルディβだった。しかし、最初に提出されたその2つのデザインに対するサンライズ上層部やバンダイなどのスポンサーの評価は低く、「こんなのモビルスーツじゃない」などと酷評された<ref name="historica"/><ref name="zga"/>。そこで作品に使えるメカデザイナーを探すことになり、36人の候補の中から藤田一己が選ばれた<ref name="forbes"/>。また前回のガンダムのデザイナーの大河原邦男の復帰も決まった<ref name="forbes"/>。 ガンダムMk-IIは、永野が描いたΖガンダムのラフを基に復帰した大河原がΖガンダムとガンダムMk-IIのラフを描き、それらを基に永野がガンダムMk-IIのラフを描き、大河原がまたそれに手を入れるというやり取りを繰り返した後、最終的に新人の藤田がクリンナップしてデザインを完成させた<ref name="GMG2018summer20-25"/><ref name="animec"/>。 まだ若かった永野はΖガンダムのデザインから外されたことに反発して辞めることを宣言するが、他の仕事もあって多忙なキャラクター担当の安彦のデザイン数がまた十分ではなかったので、それをサポートしてから辞めることにした。そしてその仕事が終わると、一旦プロジェクトから外れた<ref name="forbes"/>。 その後、富野から物語中盤から登場するMSをデザインして欲しいと声がかかって復帰する。今度は誰の意見も聞かず、子供が落書きでも描けるようにとシルエットを重視したハンブラビとキュベレイというキャラクター性の強いMSをデザインした後、完全に現場を離れた<ref name="historica"/><ref name="episodeguide3"/><ref name="zga"/>。 小説版「機動戦士Ζガンダム」(講談社)の表紙イラストや扉絵も描いており、こちらは最後まで担当している。またMSや戦艦、航空機などのデザインはほとんどがアニメ本編に登場するものとは別デザインとなっている。 === 機動戦士ガンダムΖΖ === 富野監督によりメイン・デザイナーに指名され、メカデザインを一手に引き受けることになっていた<ref name="outline7"/><ref name="bclub3">{{Cite Book |和書 |author = |title = B-CLUB Vol.3 |publisher = [[バンダイ]] |year = 1985|month= 12|page = 11|isbn = 9784891893828}}</ref>。しかし番組開始前に降板することになり、ΖΖを含むほとんどの永野デザインのメカが画面から消えることになった。結局、作品に登場したのは、前作『Ζガンダム』から引き続き登場しているデザイン以外では、[[ガザD]]と[[ゲゼ]](ともにラフのみ)、プチ・モビルスーツ、ミドル・モビルスーツ、そしてずっと以前にデザインしていた[[リック・ディアス#シュツルム・ディアス|シュツルム・ディアス]]{{refnest|group=注|模型雑誌の企画のためにリック・ディアスをアレンジして描いたもの<ref>{{Cite Book |和書 |author = |title = GUNDAM WARS PROJECT Ζ |publisher = 大日本絵画 |year = 1986 |pages = 90-91|isbn = 978-4-499-20525-2}}</ref>。}}だけだった<ref name="outline7"/><ref name="itmedia104">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/1604/27/news104.html |title=本人降臨!「ゲゼ」立体化でメカデザイナー小林誠氏が当時を振り返る |date= 2016-04-27|accessdate= 2021-5-23 |website= ITmedia NEWS |publisher= ITmedia Inc. }}</ref>。 永野は富野監督の「ロボットアニメの原点に戻って子供にもわかりやすい『明るいガンダム』にしよう」という意図をくみ、敵MSを作品初期の[[コミカル]]なムードに合わせた3-5頭身の[[SDガンダム]]風のデザインにした<ref name="episodeguide3"/><ref name="itmedia104"/><ref name="newtype20071">{{Cite Book |和書 |title = Newtype2007年1月号 |publisher = 角川書店 |year = 2006 |month = 12 |pages = ポスター |isbn = }}</ref>。富野監督の評価も「今回のZZといわれるガンダムは、いわゆる永野メカではありません。大河原マシンに近い線があります。それは彼が従来のデザインと、大河原デザインの二種を意識してそれぞれをデザインしているということなんです。(中略)だからこれからの彼のメカのバリエーションには期待できます。今描かせているヤラレメカに近いメカなどはかつての[[手塚治虫]]をほうふつさせる、漫画的なものまであります。それに加えてオーソドックスなデザインをすることで、彼のフィールドは良い方向に、一気に広がるかもしれません」と上々だった<ref name="bclub3"/>。しかし、「子供たちにひと目で敵ロボットの特徴をわからせるための巨大な一つ目に5頭身の[[ガルスJ]]」「[[ハマーン・カーン]]専用MSとしてデザインされ、女性用ということで『おっぱいミサイル』を胸に2発搭載する[[ネオ・ジオンの機動兵器#ハンマ・ハンマ|ハンマ・ハンマ]]{{refnest|group=注|「[[鉢かづき姫]]」のイメージでデザインされたMS。ハマーン専用機ということから富野監督により命名された<ref name="newtype20071"/>。}}」など、 ユニークではあるがあまりにも従来のMS像とはかけ離れたそのデザインは波紋を呼んだ<ref>{{Cite Book |和書 |author = 永野護|title = ファイブスター物語リブート2巻 |publisher = [[角川書店]] |year = 2011|month=4 |page = 26 |isbn = 978-4048546225 }}</ref><ref name="newtype20114">{{Cite Book |和書 |title = Newtype2011年4月号 |publisher = 角川書店 |year = 2011 |month = 3 |page =22 |isbn = }}</ref>。 一方、主役のΖΖガンダム<ref group="注">新ガンダムのデザインは、まだΖガンダムの延長という話だった頃はコンペ形式で競われていたが、続編の新番組と決定するとともに永野がメイン・デザイナーに指名されたため、担当することになった。</ref>に関しては、前作とは違ってサンライズとスポンサーの「とにかくガンダムに見えるように」「合体変形するように」という要望通りにデザインした(ただし、合体変形機構は永野の案ではない)<ref name="outline7"/>。しかし、永野のデザインでは模型にした際に合体変形機構に問題があるとされるなどスポンサーサイドの了解が得られず、何度かのデザイン修正が行われ、一部媒体では永野案のデザインも公開されたものの、土壇場で没となった{{refnest|group=注|その時のデザインはその後『ファイブスター物語』にてモーターヘッドの一つ「ワイツ・ミラージュ」<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 21|pages=18-19、63|isbn=4-88775-121-4}}</ref>として設定に盛り込まれた<ref>『[[月刊ニュータイプ]]』[[1986年]]9月号付録「ファイブスター物語設定資料集」</ref><ref>『Tales of Joker』21号に復刻掲載</ref>。件の永野案は「設定資料集」にてパロディ広告という形をとってデザインが公開されている。ただし「設定資料集」の時点では「ゲリラの攻撃により40%組みあがったところで、3台分のパーツとともに行方不明になっている」という扱いであった。だが、『ファイブスター物語』自体の設定変更によって破棄された。}}<ref name="forbes"/><ref name="outline7"/>。 最終的にはΖΖのデザインだけでなくメイン・デザイナーの座からも外れることになり、一部のデザインを除いて永野のメカは番組から姿を消した<ref name="forbes"/><ref name="outline7"/>。またハンマ・ハンマやガルスJは、名称だけ残して別のデザイナーによるデザインに差し替えられた<ref group="注">決定がギリギリだったため、コミックでは永野版のデザインがガルスJとして登場している</ref>。 === 機動戦士ガンダム 逆襲のシャア === 富野監督によりメイン・デザイナーに指名された<ref name="episodeguide3"/>。富野監督からは「テレビシリーズではないから全てのデザインをお前に託す」と言われ、旧作(ファースト・ガンダム、Z、ZZ)に登場したメカは一切使用しないという条件で、敵味方のMSと艦艇、コックピットのシステム、サイコミュ用ヘルメットやノーマルスーツまで、劇中のほぼ全てのデザインを担当する予定だった<ref name="fssr">{{Cite Book |和書 |author = 永野護|title = ファイブスター物語リブート2巻 |publisher = [[角川書店]] |year = 2011|month=4 |page = 74 |isbn = 978-4048546225 }}</ref><ref name="ccanetinterview">{{Cite web|和書|url= http://www.gundam-cca.net/products/interview.html|title= 封入特典「逆襲のシャア ドキュメントコレクション」収録インタビュー冒頭公開|date= 2018-6-22|accessdate= 2021-5-24 |website=『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』公式サイト |publisher= 株式会社サンライズ}}</ref>。しかし、富野監督の要求を受けて提案したデザインラインにクライアントからのOKが出ず、また彼自身が周囲のスタッフと衝突したこともあり、またも途中降板することになった<ref name="zga"/>。全てのデザインが白紙に戻され、急遽メカニックデザインの発注やMSデザインのコンペが行われることになった<ref name="ccanetinterview"/>。 MSは主役の[[アムロ・レイ]]用のHi-S(ハイエス)ガンダム(劇場版での[[νガンダム]])とΖガンダム(劇場版での[[リ・ガズィ]])、[[ネオ・ジオン]]側の[[シャア・アズナブル]]用のナイチンゲール(劇場版での[[サザビー (ガンダムシリーズ)|サザビー]])、そして[[ギラ・ドーガ]]や[[ヤクト・ドーガ]]にあたる機体などをデザインした<ref name="episodeguide3"/><ref name="fssr"/>。しかし、当時、永野が富野監督と考えていたMSのデザインラインは「ごつく怖い」というものだったため、ネオ・ジオン側のMSはすべて[[恐竜]]や[[怪獣]]を[[話題|モチーフ]]としており、リック・ディアスのラインを推し進めた超重装甲の怪異なデザインとなっていた<ref name="newtype20071"/>。その影響で再登場予定だったΖガンダムも同様に重武装・重装甲となっており、唯一、アムロ用の新ガンダムのみが細身でシンプルだった<ref name="newtype20071"/>。その新ガンダムも、いわゆるガンダムの常識を覆すデザインで作業が進行していたが、途中降板となったために完成度7割程度のところでストップした<ref name="episodeguide3"/><ref name="outline7"/>。結局、超重装甲のコンセプトがバックウェポンシステムとして引き継がれた[[リ・ガズィ]]を除き、全てのデザインが他のデザイナーたちによって一からやり直された<ref>{{Cite Book |和書 |title = 出渕裕メカニカルデザインワークス (1) |author = 出渕裕 |publisher = ムービック |year = 2000 |month = 8 |pages =4-19 |isbn = 978-4896014907}}</ref><ref>{{Cite Book |和書 |author = |title = フィギュア王 no.41 |publisher = ワールドフォトプレス |year = 2001|month= 3 |pages = |isbn =978-4846523046 }}</ref>。 === ブレンパワード === 『ブレンパワード』では人物を担当した[[いのまたむつみ]]とともにメインデザインとクレジットされ、メカ関係の基本設定を担当<ref name="historica"/><ref name="outline116-118"/>。金属板の積層をモチーフにした斬新なロボットデザインを発表した。薄い装甲が何枚も重なった「積層」というアイデアと、必ずしも関節部が「関節」として可動する必要はないという発想から出て来た[[リーフ式サスペンション|重ね板バネ]]の力を取り入れるというアイデアとが合わさって出来たデザイン<ref name="outline102-109"/>。ガンダムシリーズに登場するモビルスーツのように内燃機関と機械的な関節で動く兵器ではなく、積層構造の幾何学的な筋肉を持つ、軽くてデジタル的なロボットである<ref>{{Cite web|和書|url= https://akiba-souken.com/article/42593/ |title= 敵味方のロボット・デザインの差異を無効化する「ブレンパワード」の革新的なメカ描写、君は気がついているか?【懐かしアニメ回顧録第60回】 |date= 2019-11-24 |accessdate= 2021-5-23 |website= アキバ総研 |publisher= 株式会社カカクコム}}</ref>。またそれ以外にも主役ロボットの出現するシーンのイメージボードやコックピット内部と駆動筋システムの図解、2種類のパイロットスーツ、近未来的なデザインの艦船や戦闘機なども描いている<ref name="outline116-118"/>。 == 代表作「ファイブスター物語」 == {{See also|ファイブスター物語}} [[1986年]]よりアニメ誌『月刊ニュータイプ』で連載を開始。以後、20年以上にわたって断続的に連載が続いている。 『FSS』は、永野が『重戦機エルガイム』放映中に雑誌媒体などで発表した関連イラストや自身が考えた裏設定などがベースになり、発展して行った作品である<ref name="GMG2020spring31"/>。『エルガイム』の制作に参加していて自分の手でストーリーを作りたくなった永野が描き始めた漫画で、永野が最初に考えていた企画から監督の富野由悠季にバトンタッチして以降の部分を切り離して作った<ref group="注">しかし、実際に出来上がった作品は当初の企画とも違っていた。</ref><ref name="outline81-85"/>。富野が『エルガイム』では一切やらせなかった要素で『FSS』が出来たとも言える<ref name="GMG2020spring16-19"/>。 永野は『エルガイム』制作中に自身の考えた設定をメディアに積極的に公表していた。それは作品の公式の設定ではない部分も多かったが、どの媒体でも「裏設定」として普通に扱っていた<ref name="GMG2020spring16-19"/>。さらにムック本「ザ テレビジョン別冊 重戦機エルガイム②」では、この裏設定をベースにした永野自身によるイラスト10点と作品年表も掲載され、これらが漫画「FSS」の源流になって行く<ref name="GMG2020spring16-19"/>。 永野は驚異的な遅筆で知られ、本編単行本よりもイラスト集・設定集の冊数の方が遥かに多い。物語の進行が遅い上に、度々連載が(しかもいきなり読者に予告抜きで)休載となる。この遅筆の理由の一つには作画手段へのこだわりがある。作中でのメカの描写には相当な時間をかけており、一ページに大写しにモーターヘッドが出てくる場合などは2・3日も時間をかけて描き込むという。カラーイラストでは主に[[アクリルガッシュ]]を用いているが、イラストボードに[[鉛筆]]で下絵を描いて彩色するという手法もあり、単行本の表紙画などには制作に1ヶ月以上かかると言われている(単行本第12巻の表紙イラストには1ヵ月半を費やしている(『F.S.S. DESIGNS2』によれば、アクリルガッシュを使い出したのは[[1991年]]頃からで、以前は透明水彩、のちにアクリル水彩を使用していた。アクリル水彩に変えたのは肌の色が確実に出せるのと着色後の安定感から、アクリルガッシュに移行したのは自分の絵に対する理想が固まる中でアクリル水彩の透明感が気に入らなくなったからだという)。 また、公式に設定画を公表したMHも気に入らなくなれば手を加えて直してしまうため、作中で登場するたびに微妙に細部のデザインが変わることもある。デザイン画の公表から年月が経ち古くなってしまったMHは、大幅にリファインがなされることもある。その場合、元のイメージを多少残した他は、デザインがまるっきり別物に変貌してしまうことも多い。MHのみならずキャラクターのファッションも同様で、こうしたデザインに対するこだわりの強さも遅筆の一つの要因であると考えられる。「デザイン画のために『FSS』本編が存在する」とまで発言したこともある。 一時期『FSS』の執筆には、[[Macintosh]]を用いた[[2次元コンピュータグラフィックス]]が多用されていた。しかし永野は、「やはり自分の求める表現はデジタルでは無理」と考え、以後基本的にマンガ制作ではコンピューターを使用していない。もっとも、アニメ製作におけるコンピュータを使った作業については否定的ではなく、『F.S.S. DESIGNS2』において「原画の[[ベクトル画像|ベクタライズ]]にかかるコストさえクリアされれば、2Dセルアニメーションでも高度なコンピュータでの作業が必須となってくる」と述べ、自身による劇場アニメ『[[花の詩女 ゴティックメード]]』の制作では、ベクター画像を用いた動画の導入を試みている。 == 主な作品 == === 漫画 === * [[フール・フォー・ザ・シティ]](1985年) * [[ファイブスター物語]](1986年 - 現在) === アニメ映画 === * [[花の詩女 ゴティックメード]](2012年、原作・脚本・監督・デザイン・原画・撮影) === デザイン === ==== アニメーション ==== * [[銀河漂流バイファム]](1983年、ゲストメカデザイン) * [[巨神ゴーグ]](1984年、ゲストメカデザイン) * [[重戦機エルガイム]](1984年、キャラクターデザイン・メカデザイン) * [[機動戦士Ζガンダム]](1985年、デザインワークス) * [[機動戦士ガンダムΖΖ]](1986年、メカデザイン<ref group="注">MS数体など一部のみ。</ref>) * [[デルパワーX 爆発みらくる元気!!]](1986年、キャラクターデザイン) * [[ブレンパワード]](1998年、メインデザイン<ref group="注">キャラクターデザインとメカニカルデザイン。</ref>) ==== ゲーム ==== * [[エアーズアドベンチャー]](1996年、キャラクターデザイン) * [[鉄拳3]]([[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]版) (1998年、アンナ・ウィリアムズのスペシャルコスチューム<ref group="注" name="ex01">このキャラクターはポール・フェニックスと共に『[[ファイブスター物語]]』第9巻で[[カメオ出演]]している。</ref>のデザイン) * [[パンツァーフロント]]シリーズ(Ausf.B 除く) (1999年 - 2001年、架空戦車デザイン、コンストラクションモードサンプルゲーム “最後の戦闘” 監修(bisのみ)) * [[ファンタシースターオンライン]]ver2(2001年、武器「ハート・オブ・ポウム」「アリス・クロー」デザイン) * [[鉄拳5]]([[PlayStation 2]]版)(2005年、アンナ・ウィリアムズ<ref group="注" name="ex01"/>のスペシャルコスチュームのデザイン) * [[鉄拳6]]([[PlayStation 3]]版、[[Xbox 360]]版、[[PlayStation Portable|PSP]]版)(2009年 - 2010年、風間飛鳥およびアンナ・ウィリアムズのスペシャルコスチュームのデザイン) * [[ファンタシースターオンライン2]](2014年、一部キャラクター、特典武器、および特典[[ファンタシースターオンラインのアイテム一覧#特殊防具「マグ」|マグ]]のデザイン) ==== テレビ番組 ==== * [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]子供向け教育番組『[[天才てれびくん]]』(1995年、[[コンピュータグラフィックス|CG]]キャラクター「玉三郎」デザイン<ref group="注">番組[[プロデューサー]]からのリクエストは、「いままで誰も見たことのないキャラを」であった。</ref>) === イラスト === ==== 小説 ==== * 富野由悠季『機動戦士Ζガンダム』全5巻(1985年 - 1986年、講談社、表紙カバー・扉絵など) * 幾原邦彦『Schell Bullet』全2巻(1999年 - 2000年、角川書店、ビジュアルイメージ・デザイン設定) ==== ムック ==== * 「[[地球防衛軍テラホークス|Gerry Anderson's THE MAKING OF TERRAHAWKS]] ザ・テレビジョン アニメシリーズ3」(1985年、角川書店ニュータイプ100%コレクション、表紙) ==== その他 ==== * [[航空自衛隊]][[第204飛行隊 (航空自衛隊)|第204飛行隊]][[1998年]]度[[戦技競技会]]特別塗装 - 同隊配備の[[F-15 (戦闘機)|F-15J]]戦闘機の[[ノーズアート]](航空機の機体に描かれる絵画)として、[[園田健一]]、[[貞本義行]]、[[出渕裕]]らのイラストとともに『ファイブスター物語』の[[ミラージュ騎士団#第2期 オレンジ・ライト|イマラ・ロウト・ジャジャス]]{{refnest|group=注|永野によればこのノーズアートでのイマラの出で立ちは、[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]『[[ニーベルングの指環]]』(文中では『[[ラインの黄金]]』と記している)に登場する[[ブリュンヒルデ]]をイメージしたという<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 13|page=7|isbn=4-924930-83-0}}</ref>。}}が採用された。なお、この時の第204飛行隊1998年度戦技競技会仕様モデルは[[ハセガワ]]から限定発売された。 === 音楽作品 === ==== CD ==== * SUPER NOVA(1987年11月21日) - 『[[FOOL for THE CITY]]』のイメージアルバム。 * The Five Star Stories Sound Version(1987年5月21日) - 『ファイブスター物語』のイメージアルバム第1弾。 * GREEN and GOLD(1988年6月21日) - 『ファイブスター物語』のイメージアルバム第2弾。 * THE FIVE STAR STORIES MAMORU NAGANO(1990年9月21日) - 『ファイブスター物語』のイメージアルバム第3弾。 * Mr.ROBOT/GEAR ROBOT(1990年9月) - ビデオ作品『Mr.ROBOT』ならびに『GEAR ROBOT』のサウンドトラック。 == 出演 == === テレビ === * 『重戦機エルガイムスペシャル』(1984年1月28日)…前番組『聖戦士ダンバイン』終了翌週に放送された放送直前[[特別番組|特番]]。永野は番組放送中、透明のアクリルボードにホワイトマーカーで特大イラストを完成させるという[[パフォーマンス]]を披露した。イラストは未完成のまま番組終了。 == 趣味 == === 音楽 === [[ロック (音楽)|ロック]]に通暁し、作品中の固有名詞などには、バンド名(主に[[プログレッシブ・ロック]])やその作品名、メンバー名を[[オマージュ]]としてしばしば借用している。例えば、[[アモン・デュール]]、[[アトール (バンド)|アトール]]、[[アシュ・ラ・テンペル]]、[[モーターヘッド]]等が挙げられる。また、楽器や機材にも精通しておりフォーカスライト、[[ソリッド・ステート・ロジック|SSL]]、インタシティ、[[Neve Electronics]]等、楽器・機材メーカー名を借用する事もある。 学生時代、[[バンド (音楽)|バンド]]を組んでおり、[[ベース (弦楽器)|ベース]]を担当していた。米軍キャンプで演奏をしていた経験もあり、一時期は本気でミュージシャンになろうかと考えていたこともあるという。自身が執筆するマンガのイメージアルバム「THE FIVE STAR STORIES」を自ら手がけたこともある。 サンライズの面接にもベースを背負って靴底が15cmもある[[ロンドンブーツ]]を履いていったが、長髪で靴のせいで身長が190cm近くある永野を見た担当者は、「使いものになりそうにないけどオモロイんで雇おうか」と言ったという<ref name="gundam.infointerview"/>。 === ファッション === [[ファッション]]デザインを学んでおり、登場キャラクターのファッションにも強いこだわりを持ってデザインをしている。『[[ファイブスター物語|FSS]]』を始めとして、永野の作品に登場するキャラクターのコスチューム・デザインは、アニメ・マンガの世界を超えて高い評価を得ている。こうしたファッションへのこだわりについて、永野はデザイン集『F.S.S. DESIGNS1』において、実家が[[呉服]]関係の仕事をしていたため幼少時より布地に囲まれて育ったという原体験を語っている。「FSSのデザインは[[1980年代]]ファッションを引っ張ってきたという自負がある」とも語っている。 洋服を着ても、基本的に「服を着た俺を見て」ではなく「洋服を見て」というのが先に立っている。ちょっと変わった服を着ていて街で馬鹿にされたりからかわれたりすることもあるので、好きな服を着ることにはすごくパワーがいるが、それでも着る<ref name="outline64-67"/>。 === ミリタリー === 大の[[ミリタリー]]ファンであり、現実の兵器の造形・デザイン面の様々な分野に造詣が深く、永野のデザインはそれらより強い影響を受けている。サンライズの面接でも、戦車や戦闘機などを描いて提出した<ref name="gundam.infointerview"/>。実在の兵器の中では[[第二次世界大戦]]時のドイツ軍やソ連軍の[[戦車]]への愛好が強い。その嗜好は、『[[パンツァーフロント]]』でのオリジナル戦車デザインや、『ファイブスター物語』における戦車戦の描写に反映しているほか、「バストーニュ」「トブルク」「マエッセン」「ケーニヒ」など、『FSS』に登場する地名や人物名もその分野に因んだものが見られる。そのため[[ミリタリー]]色の強いアニメ『[[装甲騎兵ボトムズ]]』のファンでもある。また、『ボトムズ』の作画監督の[[谷口守泰]]とは、実家が呉服関係の仕事をしていたという永野のプロフィールと谷口の[[西陣織]]図案デザイナー出身という異色の経歴とのつながりや、同じ京都人として、永野との親交が知られている。 [[第204飛行隊 (航空自衛隊)|航空自衛隊第204飛行隊]]が永野のイラストをノーズアートに採用した際、その御礼で、当時第204飛行隊が駐屯していた[[航空自衛隊百里基地|百里基地]]を訪問。その時の興奮を『Takes of Joker』13号に綴っている<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 13|pages=4-9|isbn=4-924930-83-0}}</ref>。 === 模型製作 === [[モデラー (模型)|モデラー]]を自認しており、模型を趣味で制作している。腕前はかなりのもので、模型雑誌のプロモデラーと比較してもあまり遜色がないほどのもの。 ミリタリー模型ファンであり、[[タミヤ|田宮模型]]が主催する1/35ミリタリー[[フィギュア]]の改造コンテスト「タミヤ人形改造コンテスト」に18歳の時に入賞した経験があり、同社が発行する作品集にも掲載された。タミヤが[[ミリタリーミニチュア|MM]]タイガーIおよびキングタイガーをリリースした際は、『月刊ニュータイプ』誌の模型コーナーに作例を提供したり、『FSS』の連載のトビラで同キットを紹介した事がある。また、自らデザインしたモビルスーツ「[[リック・ディアス]]」の改造作品「シュツルム・ディアス」の作例が模型専門誌「[[モデルグラフィックス]]」に掲載された事がある。後にシュツルム・ディアスは[[明貴美加]]のクリンナップを経て『機動戦士ガンダムΖΖ』の劇中に登場した。また『FSS』のモーターヘッド造形や[[ワールドタンクミュージアム|WTM]]の原型で知られる[[谷明]]は、[[ワンダーフェスティバル]]にて、永野に見い出され、[[海洋堂]]に入社した経緯がある。 === コスプレ === 学生時代から、「[[コスプレ#トミノコ族|トミノコ族]]」の中心的存在として知られ、[[1981年]][[2月22日]]に新宿アルタ前で行われた、富野由悠季主催の『[[機動戦士ガンダム]]』劇場版公開前のイベント「[[機動戦士ガンダム#劇場版三部作|アニメ新世紀宣言]]」に、[[シャア・アズナブル]]の[[コスプレ]]をして現れた。ちなみに同イベントでは、川村万梨阿も[[ララァ・スン]]のコスプレで登場している。 [[2000年]][[7月23日]]に[[幕張メッセ]]で行われた、[[東京キャラクターショー]]2000・[[角川書店]]ブースでの『Schell Bullet』トークショーでは、著者である[[幾原邦彦]]とともに、「厄落とし」と称して、『[[美少女戦士セーラームーン|セーラームーン]]』(講談社作品)に登場するキャラクターの女装コスプレでムーンライト伝説にあわせてダンスを披露し(永野はセーラーヴィーナス、幾原はセーラーマーズにそれぞれ扮した)、観客の度肝を抜いた<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 21|pages=14-19|isbn=4-88775-121-4}}</ref>。この時、川村が振り付けを担当した。 === ゲーム === [[TVゲーム]]に非常に熱中しやすく、[[スーパーファミコン]]のソフトが全盛期だった頃は、親交のある佐藤元とよくソフトを交換し合い、それが部屋中に散乱していたという。特にオンラインゲーム『[[ファンタシースターオンライン]]』には熱中し、著名人プレイヤーとしても知られている。続編『[[ファンタシースターユニバース]]』においてもファンサイトと自身専用ロビーを立ち上げてプレイしたとされる。また、彼がデザインした武器が同ゲーム内に登場する。『[[ファンタシースターオンライン2]]』においても彼がデザインした武器およびキャラクターが登場し<ref>{{Cite web|和書|url=http://pso2.jp/players/news/?charid=roadmap20130626 |title=お知らせ | 『ファンタシースターオンライン2』プレイヤーズサイト |publisher=[[セガゲームス]] |accessdate=2016-09-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://pso2.jp/products/ep2dx/ |title=「ファンタシースターオンライン2 エピソード2 デラックスパッケージ」発売! | 『ファンタシースターオンライン2』プレイヤーズサイト |publisher=[[セガゲームス]] |accessdate=2016-09-10}}</ref>、キャラクターの声優は妻である川村万梨阿が担当した。 『[[バーチャファイター]]』全盛期には、印税を投げ打って筐体を購入した事を、川村がラジオで語っている。 ドリームキャスト版『[[ソウルキャリバー]]』に熱中した際には、同ゲームの攻略本にて『アイヴィ』の攻略記事を執筆した事がある。 == 私生活 == === 家族 === 妻はアニメ『重戦機エルガイム』のガウ・ハ・レッシィ/リリス・ファウ役(二役)や、アニメ版『ファイブスター物語』でラキシス役を務めた声優・[[川村万梨阿]]である。互いに学生時代の頃から12年の交際を経て1991年に挙式し、富野由悠季夫妻が[[仲人]]を、ガンダムの登場人物である[[ザビ家#ギレン・ザビ|ギレン・ザビ]]役の声優・[[銀河万丈]]が披露宴の司会を務めた。川村以外の家族は非公開だが、夫婦仲は良好らしく、『Tales of Joker』8号のインタビューでロボットデザインの話題になった時、とある事で川村と夫婦喧嘩になった時、川村から「お前なんかロボットが描けなかったらただのクズ男だよ」と言われて「あったりまえじゃん。オレはロボットが描けるから今の地位があるんだぜ」と言い返した<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 8|page=50|isbn=4-924930-78-4}}</ref>逸話を披露している。 === 交友関係 === 親交のあるアニメーター兼漫画家・[[佐藤元]]の漫画『おやすみ!わたしのサイボーイ』([[1985年]])の作画に協力した<ref group="注">この作品は他に安彦良和らも作画している。</ref><ref>{{マンガ図書館Z作品|57531|おやすみ!わたしのサイボーイ}}(外部リンク)</ref>。 『巨神ゴーグ』や『機動戦士Ζガンダム』などで親交のある安彦良和は、雑誌『[[ガンダムエース]]』での対談を経て、永野の考え方を堅実で合理的、「クールなおたく」であると評した。 ゲームデザイナーの[[遠藤雅伸]]とも交遊があり、『ファイブスター物語』の雑誌掲載版再録を行なっていた雑誌『Tales of Joker』に、遠藤が「Otaku of Chris」と題したエッセイを寄稿していた時期もある<ref>{{Cite book|和書|title=Tales of Joker 21|pages=86-87|isbn=4-88775-121-4}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [http://www.automaticflowers.ne.jp/ オートマチック・フラワーズ] {{ja icon}} - (Edit / Automatic Flowers Studio) * {{facebook|naganomamoru|永野護作品}} * {{twitter|naganomamoru|永野護作品}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なかの まもる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:メカニックデザイナー]] [[Category:ガンダムのデザイナー]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:ゲームのグラフィッカー・原画家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:京都府出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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少年漫画
少年漫画(しょうねんまんが)は、日本における少年(小学校高学年から高校生まで)を対象読者と想定した漫画。厳密には、小学校低学年以下を読者に想定した幼年漫画と分類される。 具体的には少年漫画雑誌(少年雑誌)に掲載されていることで分類される。1960年代中頃までは男子小中学生向けの漫画であったが、1960年代末からは読者層を大きく広げ、高校生以上の高い年齢層向けの作品や女性を視野に入れた作品も多くなった。ストーリーは基本的に戦いやパワーゲームが好まれ、冒険やアクションなど、主人公の戦いと成長をテーマにしたものが多い。他にスポーツを題材にしたもの、ホビーを題材にしたもの(メディアミックス化した商業戦略的な作品も多い)、乗り物やロボット、未来的な発明道具などメカが多数登場するSF作品も少年漫画に好まれる題材である。他にもギャグ漫画も定番となっている。一方、少女漫画では屋台骨といってもいい恋愛要素は、メインストーリーに付随されるおまけとしての見方が強かったが、1980年代以降、少年漫画においてもラブコメディが定番化するようになった。『ONE PIECE』が歴代漫画売上日本一を記録するなど、少年漫画は漫画界において最も発行部数が大きい分野であるが故に批判対象になることも多い。1968年、永井豪の『ハレンチ学園』がヒットしてから少年漫画でも性描写が増加し、過激化した暴力表現とともに社会問題になった。また1980年代には、『北斗の拳』に代表される格闘漫画の流行で暴力表現が増加し、これも社会問題となった。 絵柄は、白と黒のコントラストが強く、描線の力強さ、物の重圧感や立体感、人物の俊敏な動き、背景の奥行きを強調した、少年の理想を追求したものが多い。激しいアクションのシーンではコマを斜めに割り、効果線やオノマトペを多様し、インパクトのために見開きや1ページ1コマの表現を使ったりもする。心理描写などの少女漫画と同様の技法も使うが、少女漫画と比較すると、柄トーンや点描の使用頻度が少なく、会話や共感や心理描写はおまけにとどめ、人物の動き、戦いの臨場感、お色気シーン、社会問題の解決に重点を置いている。女性キャラクターは、お色気要員、応援役、準主人公に徹させるなど、少女漫画との住み分けが見られる。2000年代以降は、女性向けの少年漫画、萌え絵を取り入れた少年漫画、日常のみを題材にした少年漫画も増えた。少女漫画、青年漫画(特に青年漫画)との境界線は曖昧になってきている。 雑誌によっては作家をデビューさせる漫画賞をストーリー部門とギャグ部門に分けているが、デビュー後はどちら出身でもアクション、ラブコメディを描くことがある。 商業漫画はアンケート葉書の結果を意識した展開が重視される。
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少年漫画(しょうねんまんが)は、日本における少年(小学校高学年から高校生まで)を対象読者と想定した漫画。厳密には、小学校低学年以下を読者に想定した幼年漫画と分類される。
{{出典の明記|date=2021年8月}} '''少年漫画'''(しょうねんまんが)は、[[日本]]における[[少年]]([[小学校]]高学年から[[高校生]]まで)を対象読者と想定した[[漫画]]。厳密には、小学校低学年以下を読者に想定した[[幼年漫画]]と分類される。 ==概要== {{独自研究|section=1|date=2008年6月}} 具体的には少年漫画雑誌([[少年雑誌]])に掲載されていることで分類される。1960年代中頃までは男子小中学生向けの漫画であったが、1960年代末からは読者層を大きく広げ、高校生以上の高い年齢層向けの作品や女性を視野に入れた作品も多くなった。ストーリーは基本的に戦いやパワーゲームが好まれ、冒険やアクションなど、主人公の戦いと成長をテーマにしたものが多い。他にスポーツを題材にしたもの、ホビーを題材にしたもの(メディアミックス化した商業戦略的な作品も多い)、乗り物やロボット、未来的な発明道具などメカが多数登場する[[サイエンス・フィクション|SF]]作品も少年漫画に好まれる題材である。他にも[[ギャグ漫画]]も定番となっている。一方、[[少女漫画]]では屋台骨といってもいい恋愛要素は、メインストーリーに付随されるおまけとしての見方が強かったが、1980年代以降、少年漫画においても[[ラブコメディ]]が定番化するようになった。『[[ONE PIECE]]』が歴代漫画売上日本一を記録するなど、少年漫画は漫画界において最も発行部数が大きい分野であるが故に批判対象になることも多い。[[1968年]]、[[永井豪]]の『[[ハレンチ学園]]』がヒットしてから少年漫画でも性描写が増加し、過激化した暴力表現とともに社会問題になった。また1980年代には、『[[北斗の拳]]』に代表される[[格闘漫画]]の流行で暴力表現が増加し、これも社会問題となった。 絵柄は、白と黒のコントラストが強く、描線の力強さ、物の重圧感や立体感、人物の俊敏な動き、背景の奥行きを強調した、少年の理想を追求したものが多い。激しいアクションのシーンではコマを斜めに割り、効果線やオノマトペを多様し、インパクトのために見開きや1ページ1コマの表現を使ったりもする。心理描写などの少女漫画と同様の技法も使うが、少女漫画と比較すると、柄トーンや点描の使用頻度が少なく、会話や共感や心理描写はおまけにとどめ、人物の動き、戦いの臨場感、お色気シーン、社会問題の解決に重点を置いている。女性キャラクターは、お色気要員、応援役、準主人公に徹させるなど、少女漫画との住み分けが見られる。2000年代以降は、女性向けの少年漫画、[[萌え絵]]を取り入れた少年漫画、日常のみを題材にした少年漫画も増えた。少女漫画、[[青年漫画]](特に青年漫画)との境界線は曖昧になってきている。 雑誌によっては作家をデビューさせる漫画賞をストーリー部門とギャグ部門に分けているが、デビュー後はどちら出身でもアクション、ラブコメディを描くことがある。 商業漫画はアンケート葉書の結果を意識した展開が重視される。 == 主な少年漫画雑誌 == *[[集英社]]発行 **[[週刊少年ジャンプ]] ***[[月刊少年ジャンプ]] **[[ジャンプスクエア]] ***(終了)[[ジャンプSQ.19]] ***(終了)[[ジャンプスクエアセカンド]] **(終了)[[少年ブック]] **(終了)[[日の丸 (漫画雑誌)|日の丸]] **(終了)[[フレッシュジャンプ]] *[[講談社]]発行 **[[週刊少年マガジン]] ***[[マガジンSPECIAL]] ***[[別冊少年マガジン]] ***(終了)[[マガジンドラゴン]] **[[月刊少年マガジン]] ***[[月刊少年マガジン+]] ***(終了)[[マガジンイーノ]] **[[月刊少年シリウス]] **[[月刊少年ライバル]] **(終了)[[少年倶楽部]] **(終了)[[ぼくら]] **(終了)[[週刊ぼくらマガジン]] **(終了)[[アブラカダブラ (漫画雑誌)|アブラカダブラ]] *[[小学館]]発行 **[[週刊少年サンデー]] ***[[週刊少年サンデーS]] ***[[少年サンデー特別増刊R]] **[[ゲッサン]] **(終了)[[別冊少年サンデー]] **(終了)[[ボーイズライフ]] **(終了)[[少年ビッグコミック]] **(終了)[[ハイパーコロコロ]] **(終了)[[コミックGOTTA]] *[[秋田書店]]発行 **[[週刊少年チャンピオン]] ***[[月刊少年チャンピオン]] ***[[別冊少年チャンピオン]] **(終了)[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]] **[[チャンピオンRED]] *[[徳間書店]]発行 **[[わんぱっくコミック]] **[[月刊マンガボーイズ]] **[[月刊少年キャプテン]] *[[少年画報社]]発行 **[[少年キング]] **[[月刊少年コミック]] *[[スクウェア・エニックス]]発行 **[[月刊少年ガンガン]] ***[[フレッシュガンガン]] **[[月刊ガンガンJOKER]] **(終了)[[月刊少年ギャグ王]] **(終了)[[ガンガンパワード]] **(終了)[[ガンガンWING]] *[[KADOKAWA]]発行 *:[[角川書店]]BC編集 **[[月刊少年エース]] ***[[月刊エースネクスト]] ***[[エースアサルト]] ***[[エース桃組]] ***[[4コマnanoエース]] ***[[ニュータイプエース]] ***[[月刊コンプエース]] **[[月刊コミックコンプ]] *:[[富士見書房]]BC編集 **[[月刊ドラゴンエイジ]] ***[[ドラゴンエイジピュア]] *:[[メディアファクトリー]]BC編集 **[[月刊コミックアライブ]] *:[[アスキー・メディアワークス]]BC編集 **[[月刊コミック電撃大王]] **[[月刊電撃コミックガオ!]] *[[マッグガーデン]]発行 **[[月刊コミックブレイド]] **[[コミックブレイドMASAMUNE]] *[[一迅社]]発行 **[[月刊ComicREX]] *[[アース・スター エンターテイメント]]発行 **[[コミック アース・スター]] *[[潮出版社]]発行 **[[コミックトム]] *[[朝日ソノラマ]]発行 **[[マンガ少年]] **[[DUO (マンガ雑誌)|DUO]] *[[白泉社]]発行 **[[少年ジェッツ]] **[[月刊コミコミ]] *[[宝島社]]発行 **[[週刊少年宝島]] *[[光文社]]発行 **[[少年王]] *[[ソフトバンククリエイティブ]]発行 **[[月刊少年ブラッド]] *[[リイド社]]発行 **[[月刊少年ファング]] *[[竹書房]]発行 **[[コミックガンマ]] *[[新声社]]発行 **[[コミックゲーメスト]] *[[ホビージャパン]]発行 **[[コミックジャパン (ホビージャパン)|コミックジャパン]] *[[双葉社]]発行 **[[スーパーロボットマガジン]] **[[週刊少年アクション]] *[[英知出版]]発行 **[[トラウママンガマガジン]] *[[ジャイブ]]発行 **[[月刊コミックラッシュ]] *休廃刊漫画雑誌 **[[漫画少年]] **[[少年画報]] **[[月刊コミックNORA]] **[[COM (雑誌)|COM]] ==関連項目== * [[幼年漫画]] * [[少年向けアニメ]] * [[青年漫画]] * [[萌え絵]] * [[萌え]] {{Manga-stub}} {{デフォルトソート:しようねんまんか}} [[Category:漫画のジャンル (対象読者別)]]
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少女漫画
少女漫画(しょうじょまんが)は、少女向け雑誌に掲載されるなど、主たる読者として未成年女性を想定した日本の漫画である。大人の女性向け漫画は女性漫画(レディースコミック)として区別される。 歴史的には海外にも発生し、海外女性向けコミックの一部として少女向けの作品も存在するであろう。しかし少女向けの出版分野としては途中消滅(1970年代フランス)するなどして、ジャンルとして20世紀に大きな発展を遂げたのは日本においてである。 少女漫画の絵柄は基本的に可愛らしく清潔な印象を与えるものが多いが、その絵柄はお転婆のように元気なもの、落ち着いた癒し系のもの、姫のように美しいもの、ブランド志向でセレブなもの、抒情画やイラストポエムのように抒情的なもの、耽美映画のように耽美的なもの、劇画や青年漫画のようにシリアスなものなど時代に合わせて様々となっている。昔の少女漫画は平面的と錯覚させる絵柄が多かったものの、現在はファンタジーブームや子供向けアイドルブームやダンス必修化などを経て少女漫画にも立体感のある絵柄が増えている。瞳がキラキラと輝いたヒロインや表情が現れる大きな目、ホラー漫画以外でもホラーに近い不安を感じさせる精神世界のような絵柄も特徴的。ヒロインの背丈はフイチンさんのような八頭身から小さな恋のものがたりのチッチような低身長まで存在している。ストーリー漫画では憧れや等身大が強調されるが、コメディやギャグ漫画ではその限りではなく奇人変人だらけのものも多い。 人体の描写は骨や筋肉の隆起が少なく、ファッションと表情の描写に重点が置かれている。現代物の少女漫画では少年漫画と異なりずっと同じ服やアクセサリーや髪型をすることは少なく、青年漫画と別の生々しい生活感を表現することもある。またファッションブック(ファッションプレート(英語版)をまとめたもの)の影響を受けて全身のファッションを扉絵やコマぶち抜きなどで魅せることも行われている。 漫画表現では作品世界の情趣を大切にして目の毒になるものをリアルに描き込むことは避け、モノローグの多用、心象を具象化した背景(咲き乱れる花など)、コマ割りなどを駆使し、感情の流れを重視した演出・画面技法に優れている。またストーリー漫画では少年漫画と比較して心理描写が多く、現実問題を扱った作品が多く、暴力や死の扱いが重い(少女漫画の主旨が共感であることに由来するともいう)。 そのほか、少女漫画は流行した少年漫画や青年漫画や映画やドラマの影響を大きく受けており、伝統的な少女漫画の系統によらない表現手法も含んでいる。逆にまた、少女漫画からは特有の記号的表現が過去に多く誕生していて、現在は少女漫画にとどまらずに全ての分野に拡散している。 なお、1990年代以降にインターネット上で人気となったアニメやゲーム風の「萌え絵」や「萌え漫画」の絵柄はそれらの少女漫画特有の絵柄や要素を原型としてパロディ漫画の登場や女性のゲームデザイナー進出などにより発展したものであり、一般の少女漫画の絵柄よりも属性化・記号化の強いものとなっている。 少女漫画は4コマ漫画から始まっており当初はお転婆なものが中心となっていたが、体験談漫画の登場で等身大へと近づいていき、ラブコメの登場でコメディ要素が強くなっていった。一方、ヒロインが不幸な運命に翻弄されるシリアスなものも登場して人気となった(母恋物、洋画翻案物など)。 2000年代以降は恋愛漫画及び恋愛要素のある作品が主流であり、運命や占いのようなスピリチュアル要素が取り入れられる一方、女性の自立などのメッセージを含ませた漫画も存在する。一方でギャグ漫画やホラー漫画、アイドル漫画など恋愛漫画以外のジャンルも存在する。ファンタジー漫画やスポーツ漫画も古くからジャンルとして確立しており、現在に至るまで人気が根強い。 子供向けの少女漫画誌は読者の購読を始めてから卒業までの期間が短いため、少女漫画作品は短期終了のものが多く、他のジャンルに比べストーリーの完結性の強く計算された物語が要求される(少女漫画以外でもアニメ化などを意識して完結性を計算したものは存在する)。また少女漫画では一般的に、キャラクターの萌え属性の不変性が重視される萌え漫画などよりも、キャラクターの成長が重視されている。 少女漫画家は当初男性作家が多かったものの、女性作家が増えて心情重視のストーリー漫画が一般化したことで男性作家はコメディやギャグへと転向していき(弓月光や魔夜峰央など)、現在はコメディやギャグもほとんどが女性作家により描かれるようになっている(例外もある)。少女漫画の女性作家は学生デビューも多く(ちゃおではやぶうち優やときわ藍、りぼんでは津山ちなみや森ゆきえや春田ななや半澤香織や佐和田米など)若い感覚が取り入れられている。また、かつての『ギャルコミ』編集長は同誌について「30歳を超えると絵が古くなり、若い世代が感覚的についていけない」と語っていた。 メジャー誌の少女漫画家は漫画スクールや新人漫画賞からのデビューが一般的となっている(「ちゃお」は「ちゃおまんがスクール」や「小学館新人コミック大賞」の少女・女性部門、「りぼん」は「りぼんまんがスクール+」、「なかよし」は「なかよしまんがスクール」や「なかよし新人まんが賞」など)。新人の漫画掲載は増刊を中心に行われており(「りぼん」では「りぼんスペシャル」、「ちゃお」では「ちゃおデラックス」、なかよしでは「なかよしラブリー」(休刊)など)、本誌の連載へと至るのは一部の作家のみとなっている。 なお、少女漫画家にも特定雑誌への専属契約は存在する(種村有菜など)が、専属契約せずにマルチに活躍する作家も存在している(双葉陽など)。1980年代以降は少女漫画家が青年漫画や少年漫画や4コマ漫画に転向したり兼業する例も多く見られる(#歴史節も参照)。 大正時代以前よりも少女誌では少女主人公の絵物語が存在していた。 一方、新聞漫画では1902年1月に東京五大新聞の一つ「時事新報」の日曜版が北澤楽天による漫画欄を設け、同年3月にそこから子供主人公の漫画が登場し、同年9月には北澤楽天が長期連載となる「凸坊」シリーズの連載を開始したものの、少女主人公の新聞漫画は長らく存在していなかった。大正デモクラシーと大正自由教育運動の中で、1921年には東京朝日新聞の漫画欄「漫画の国」でおしゃれ少女が主人公の片割れの8コマ漫画「リン子と金丸」(山田みのる)が登場し、次いで翌1922年には國民新聞でおしゃれ少女が単独主人公の4コマ漫画「みい子」(前川千帆)が登場したものの、どちらも短期間の連載となっていた。 前述の「時事新報」では1899年に創刊者の福沢諭吉が「婦人は静にして奥ゆかしきこそ頼母しけれ。所謂おてんばは我輩の最も賤しむ所なれども(後略)」としてお転婆を好ましくないものとしていたものの、人気となっていた西洋の翻訳少女小説では当時の西洋のジェンダー規範による物語の制約を回避するために「お転婆少女」(「少年のような少女」)を主人公とするのが定番となっていた。 前述の「凸坊」シリーズの連載を行っていた北澤楽天らは風刺新聞「團團珍聞」や「滑稽新聞」による風刺漫画ブームが起きると1905年に時事漫画誌「東京パック」を立ち上げて時事新報社を辞職したものの、1912年の東京パックの経営権問題とその後継として設立された楽天社の失敗により時事新報社へと戻って「凸坊」シリーズの連載を再開したが、その連載中の北澤楽天が1918年頃に立ち上げた漫画塾「漫画好楽会」からお転婆少女の漫画が登場することとなった。 1923年4月、前述の「漫画好楽会」出身の麻生豊が報知新聞において少女主人公の「ダダ子」の連載を開始し、次いで翌1924年3月には同じく「漫画好楽会」出身の長崎抜天が「時事新報」夕刊において女学校に通う少女を主人公とする漫画「ひとり娘のひね子さん」の連載を開始する。1928年8月、アムステルダムオリンピックで人見絹枝が日本人女性初のメダリストとなると、北澤楽天は同年11月に「時事新報」日曜版の別冊付録「時事漫画」においてお転婆少女が主人公の「とんだはね子嬢」の連載を開始し、翌1929年3月にその連載を前述の長崎抜天が引き継ぐ。 その後、少女誌に連載漫画が登場することとなる。1932年には良妻賢母の育成を編集方針とする『少女倶楽部』(大日本雄弁会講談社)に少年漫画「のらくろ」で有名な田河水泡の『スタコラサッチャン』が連載され始め、1935年には同誌に田河水泡の元内弟子である倉金章介の『どりちゃんバンザイ』が連載されはじめた。 少女漫画登場前、大正の抒情画ブームを受けて抒情画家を表紙や挿絵に採用する複数の少女誌が人気となっていた。抒情画は「眼が大きく、口が小さく、髪の豊か」な絵柄を特徴としていたが、この大きな眼は「社会に向って見開かれた眼」を意味していた。少女誌には抒情画と抒情詩を組み合わせた詩画集も掲載されていた。この詩画集は後の少女漫画誌における「イラストポエム」の前身に当たる。 また抒情画は元々センチメンタル(おセンチ)な作風が中心となっていたが、1928年に少女誌「少女世界」でデビューした抒情画家の松本かつぢは作風を差別化するためとして「明るくて可愛い抒情画」を確立した。1930年には少女誌「少女の友」(実業之日本社)の編集に内山基が加わり、内山基が同誌の編集方針に「ロマンチシズム・エキゾチズム・ヒューマニズム」を導入した(いわゆる「夢の世界」「憧れの世界」)。これらの方針には内山基が学生時代に関わった米国出身の慈善活動家 大森安仁子の影響があったとされる。「少女の友」の抒情画では前述の方針に従って「健康で、夢を持った、清純な少女」を求め、新世代の抒情画家である中原淳一や前述の松本かつぢを採用した。 この新世代の抒情画から抒情漫画が登場することとなる。1938年、『少女の友』において抒情画家の松本かつぢは抒情漫画『くるくるクルミちゃん』の連載を開始した。 1937年に大東亜戦争が勃発すると、1938年5月に社会主義的な革新官僚らが中心の企画院によって策定された国家総動員法が施行され雑誌浄化運動が始まり、同年10月には内務省警保局図書課が雑誌編集者に対して「児童読物改善に関する指示要綱」を提示し、1940年には出版社を糾合した日本出版文化協会が設立され1941年より出版統制を行うようになり、用紙の入手難や印刷所の労働力不足もあって「内容の粗悪なもの」「時局柄不適当なもの」などが規制されることとなった。 少女誌では漫画や抒情画などが「低調」や「主情的ニ偏スル」や「日本人でなく毛唐を描いている」や「全体として弱々しく、敗戦主義の絵だ」などとして注意を受けることとなった。 そんな現実主義の風潮の中で、1940年には『少女倶楽部』に田河水泡の弟子で女性作家の長谷川町子の『仲よし手帖』が登場した。 戦後初期には雑誌用紙の統制が継続していたものの、用紙の確保には多くの種類の雑誌を出版した方が有利な制度となっていたため、雑誌の復刊や創刊が相次いだとされる。少女誌では1945年秋に『少女倶楽部』が復刊して抒情画が復活し、少女漫画の絵柄は抒情画の影響を受けていった。また統制外の仙花紙を用いた大衆娯楽のカストリ雑誌や赤本の出版ブームも起き、その赤本から少女向けのものも登場した(後述)。 また戦後初期にはまだ見合い結婚が一般的であり、自由恋愛による結婚は少なく、少女誌でもそれが反映されていたとされる。 1945年には戦後初の映画「そよかぜ」が登場して主題歌「リンゴの唄」が人気となり、次いで翌1946年にはNHKラジオより童謡「みかんの花咲く丘」が登場してヒットした。少女漫画では1949年1月に前述の『仲よし手帖』の連載を引き継いだ新たな少女誌『少女』(光文社)が登場し、その『少女』がお転婆姫物の『あんみつ姫』(倉金章介)を連載して人気を博した。同1949年3月、映画『のど自慢狂時代』に子供歌手「美空ひばり」が出演して人気となっていき、赤本では美空ひばりとあんみつ姫を組み合わせた『ひばり姫歌合戦』(峠てっぺい)や『ひばり姫』シリーズ(伴久良)などが登場した。 また赤本では宝塚歌劇団の機関紙「歌劇」にルーツを持ち、ディズニーの影響も受けていると言われる手塚治虫が和製の西洋おとぎ漫画を開拓していった。1948年にはグリム童話「二人兄弟」の翻案児童漫画として姫救出物の「森の四剣士」が登場し、翌1949年6月には少女向けとして姫を主人公とする『奇跡の森のものがたり』も登場、この流れが後述する『リボンの騎士』へと繋がっていく。 また両性向けの少年少女誌では冒険物が登場した。戦前より米国の「ターザン・シリーズ」が映画として入ってきて人気となっており、紙芝居でもその影響を受けた山川惣治による「少年タイガー」などの冒険活劇が人気となっていたが、戦後の1946年には映画「鉄腕ターザン」が日本でも公開されてターザン映画の人気が復活した。1946年には漫画単行本「冒険ベンちゃん」が登場し、1948年にはその「冒険ベンちゃん」などの載る少年少女誌「少年少女漫画と読物」が登場し、また1948年2月には漫画単行本「冒險ターザン」が登場して人気となり、同年8月には少年誌「冒険活劇文庫」(後の「少年画報」、明々社)が登場、翌1949年2月にはそれらの対抗として少年少女誌「少年少女冐險王」(秋田書店)も登場した。また1947年には冒険物の紙芝居「少年王者」の翻案を初めとする絵物語本の「おもしろブック」シリーズ(集英社)が登場し、1949年8月にはその「少年王者」を看板とした少年少女誌「集英社の少年少女おもしろブック」が登場した。これら少年少女誌は少年誌寄りであったとされる。また、前述の『少女』の登場もあり、これら新興漫画誌の人気によって「赤とんぼ」「銀河」「少年少女の広場」(旧 「子供の広場」)などの少年少女誌が廃刊に追い込まれた。「少年少女の広場」の編集者の猪野省三はこれら新興漫画誌をカストリ雑誌の子ども版だと批判し、また「銀河」の創刊および編集に関わっていた滑川道夫も児童向け小説や漫画の悪書追放を訴え、これが後の悪書追放運動(マンガバッシング)へと繋がっていく。 1951年には前述の「おもしろブック」の姉妹誌として少女向けの『少女ブック』が登場した。少女ブックでは前述の『あんみつ姫』を踏襲して1951年より『てるてる姫』(早見利一)を、1953年より『もん子姫諸国漫遊記』(倉金章介・宮崎博史)を連載した。また少女ブックでは1951年に女性作家上田としこの『ボクちゃん』も連載したが、『ボクちゃん』は田河水泡のコマ割りと手塚治虫の「映画的なストーリー展開」を参考にして描かれていたとされる。一方、旧来の『少女クラブ』でも1953年に手塚治虫のストーリー漫画『リボンの騎士』を連載し、この頃から少女誌では従来の絵物語などを押しのけて少女漫画の比重が高まっていくこととなった。その後、水野英子がデビューして手塚治虫の住むトキワ荘に入居し台頭、後の少女漫画に影響を与えていくことになる また1947年には第一次ベビーブームが起きており、その子供が成長したことで低年齢向けの漫画雑誌も増加していった。1951年に「少年少女冐險王」の弟誌「漫画王」が、1953年に「少年ブック」と『少女ブック』の弟誌「幼年ブック」が登場した。少女漫画誌では1954年に「少年クラブ」の弟誌「ぼくら」と共に『少女クラブ』の妹誌『なかよし』が、1955年に『少女ブック』の妹誌『りぼん』が登場した。漫画中心の少女雑誌が流行することで、小説中心だった『少女の友』は同1955年に休刊へと追い込まれた(休刊は悪書追放運動の影響とする説もある)。また1958年には秋田書店も少女雑誌に参入したものの、新たに創刊された『ひとみ』は他との差別化が行われていなかったとされる。 朝鮮特需の恩恵などにより日本経済が復興し、1956年には経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されるまでに至った。漫画では1953年に名作の漫画化を中心とする貸本漫画が登場し、チープな赤本に代わって貸本屋が人気となることで名作以外の貸本漫画も登場した。少女向けの貸本漫画も登場した。 映画では三益愛子主演などの母もの映画が家庭婦人に人気となっており、少女漫画では女流作家を中心に娘視点の母恋物(母娘メロドラマ)が登場した。貸本漫画では1953年に「太平洋文庫」から「母恋物語」(帷子進)が、1957年より東光堂のレーベル「漫画光文庫」から『母恋シリーズ』(牧美也子)が出版されたほか、母恋と名の付くもの以外でも母子ものが一般的となっており、少女漫画誌では1957年の『少女』に『母さんふたり』(横山光輝)が登場し、次いで、少女漫画誌ではわたなべまさこによる多数の母娘離別物が登場した。『少女ブック』では1959年より『白馬の少女』(わたなべまさこ)、1962年より『ミミとナナ』(わたなべまさこ)が、『りぼん』でも1961年より『おかあさま』(わたなべまさこ)、1963年より『カメリア館』(わたなべまさこ)が連載された。また1957年には『少女ブック』で姉妹離別物の『山びこ少女』(わたなべまさこ)も登場している。 また白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器となり、各戸給水の拡大と噴流式洗濯機の登場が洗濯しながらの井戸端会議を無くしていった。1956年には白黒テレビの普及によって大手邦画会社がテレビへの提供を取りやめ(五社協定#テレビの台頭)、テレビ局はそれに代わってアメリカ製ホームドラマを放送して夢の郊外生活を広めていった。同1956年には住宅不足の解消のためとしてダイニングキッチンを採用する郊外団地が登場し、翌々年の1958年には団地族という言葉も生まれ、核家族化が進んでいった。 またテレビ番組では1956年4月より「カウボーイGメン(英語版)」を初めとするアメリカ製の西部劇が放送されており、少女漫画では同年6月に「少女クラブ」で西部劇モノの『赤っ毛小馬』(水野英子)が、1957年に『少女ブック』で『荒野に夕日が沈むとき』(赤塚不二夫)が登場した。 また前述の美空ひばりから続く少女スターの人気が続き、『少女ブック』では1955年より中村メイコを元にした『中村メイ子ちゃん』(上田トシコ)が、『少女』では1957年より小鳩くるみを元にした『小鳩くるみちゃん』(水谷武子)が連載された。翌1958年にはテレビドラマから女優の宮城まり子を当て書きした『まりっぺ先生』が登場し、翌1959年に『りぼん』で少女漫画化された(漫画は赤塚不二夫)。 また1946年には東京バレエ団が結成されて「白鳥の湖」のバレエ公演が行われ人気となり、1948年にはイギリスのバレエ映画「赤い靴」が登場してこちらも人気となった。その後、1953年にテレビ放送が開始されるとテレビにおいてもバレエ番組が放送されるようになった。少女漫画誌では1956年1月に『少女クラブ』で『白鳥の湖』(横山光輝)が、同年2月に『なかよし』で別冊付録として『赤いくつ』(原作:三谷晴美、漫画:相沢光朗)が、同年3月に同じく『なかよし』で別冊付録として『白鳥の湖 少女バレー物語』(大城のぼる)が登場した。1958年1月には『少女』でバレエ物の『あらしをこえて』(高橋真琴)が登場し、『少女』ではその後も高橋真琴がバレエ物を連載していった。またバレリーナの松島トモ子が少女スターとして活躍しており、1958年には『少女』の別冊付録として『松島トモ子ちゃんのバレエまんが』が登場した。また1958年10月にはバレエ専門の貸本漫画誌『バレエ』(中村書店)も登場している。 1950年代後半から1960年代前半にかけては、抒情画と宝塚歌劇団の影響を受けた前述の高橋真琴の影響を受け、少女漫画特有の装飾的な表現が発達した。この表現はスタイル画を取り入れたり、人物の背景に花を描き込んだり、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目などである。先行した少女小説の影響などもあって、美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーを展開した。1950年代から1960年代前半の少女漫画はちばてつやや松本零士など男性作家によって描かれていることが多く、この時期の古典的な少女漫画の様式や技法の追究は、主に前述の高橋真琴を始めとする男性作家や男性編集者によって築かれたものである。 また1950年9月に文部省特選としてディズニー映画「白雪姫」が、1952年にディズニー映画「シンデレラ姫」が日本でも公開され人気となっており、1954年に王女と新聞記者の身分違いの恋愛を描いたイタリア映画「ローマの休日」が公開され大ヒットしていた。1957年には女性週刊誌「週刊女性」(1957年)が、1958年には女性週刊誌「女性自身」が創刊されて人気となり、そこで継続的に取り上げられたこともあって、1958年には身分違いの自由恋愛で皇后となった美智子妃のブームが起き(ミッチー・ブーム)、プリンセス・ラインのドレスがブームとなった。 1953年には世界的なミス・コンテストの一つミス・ユニバースに昭和のシンデレラ姫と呼ばれた伊東絹子が入賞し、その体型であった「八頭身」が流行語となっており、それによって日本人ファッションモデルも八頭身が一般的となっていき、少女漫画でもその影響を受けていった。初期の例としては1957年の『フイチンさん』(上田トシコ)の主人公が八頭身スタイルとなっている。 一方、映画では1946年よりミステリー物の「多羅尾伴内」シリーズが放映され人気となり、次いで少年小説誌では1949年より「少年探偵団」の連載が再開されて「少年探偵ブーム」が起こり1954年にはそれがラジオドラマ化され同じく人気となるが、少女誌でも少女探偵小説が人気となっていった。少女漫画では探偵物として「少女クラブ」に『探偵タン子ちゃん』(小野寺秋風、1951年)、『少女ブック』に『探偵テイ子ちゃん』(小野寺秋風)、『なかよし』に『ボクちゃん探偵長』(小野寺秋風)及び『こけし探偵局』(手塚治虫、1957年)が登場した。また『少女クラブ』では1956年7月にシャーロック・ホームズシリーズ『まだらのひも』の少女漫画化を(漫画:石森章太郎)、次いで1957年に海外のスリラー推理小説の少女漫画化を行い(漫画:石森章太郎)、その後同誌では「こわいマンガ」「かなしいマンガ」が増えていって人気となった。 また1956年には短編貸本漫画誌の探偵ブック「影」も登場し、1957年には探偵物に限らず短編貸本漫画誌のブームが起きた。少女向けではわかば書房が『花』(1957年)を、若木書房が『泉』(1958年)『こだま』(1959年)『こけし』(1959年)『ゆめ』(1960年)『草ぶえ』(1961年)『風車』(1962年)『風船』を、東京漫画出版社が『さくらんぼ』『ジュニアフレンド』『星座』『忘れな草』『セレナーデ』『ボンジュール』などを、金竜出版社が『虹』(1959年)を、金園社が『すみれ』『こまどり』(1960年)『りぼん』を発行した。短編貸本漫画誌のブームは後も活躍する多くの少女漫画家を輩出することとなった(若木書房#おもな出身作家、矢代まさこなど)。 1951年には産業経済新聞で連載されていたジャングル冒険物の「少年ケニヤ」が人気となって1954年に映画化され、少女漫画でも1959年に『なかよし』でその少女版とも言える『マサ子の谷』(藤本章治)が登場している。テレビドラマにおいては1958年に覆面ヒーロー物の「月光仮面」が登場してブームとなり、次いで1959年には「七色仮面」が、1960年には『アラーの使者』が登場し、後者は『ひとみ』で少女漫画化された(漫画は水野英子)。その後、1961年に『ひとみ』は休刊となった。 また、少女誌『少女』では1955年より小説「私のグチ日記」(森いたる)が連載されるようになり、次いで1958年には読者の体験談を基にした最初の漫画である『クラスおてんば日記』(今村洋子)が登場した。この等身大の漫画は後の作品に大きな影響を与えたとされる。その後、『クラスおてんば日記』のスピンオフの『チャコちゃんの日記』(今村洋子、1959年-)、『おてんば天使』(横山光輝、1959年-)、『少女たち』(原作:西谷康二、漫画:牧美也子)などの作品が人気となっていった。『少女ブック』でも1961年に「クラスおてんば日記」と同様の『おセンチおてんば日記』(松浦重光)が登場した。また貸本漫画では1959年に若木書房が『ひまわりブック』シリーズを開始したが、そこでも日常的な生活マンガが一般的となっていき、1964年には若木書房より等身大の『ようこシリーズ』(矢代まさこ)も登場し、後の萩尾望都やや樹村みのりに影響を与えている。 世界の貿易自由化の波に合わせて日本も1960年に貿易為替自由化計画大綱を策定し、それによって国内製紙メーカーが国際競争力を付けるために設備投資を進めていったものの、過剰生産となって紙余りの状態となり、出版界では紙が使いやすくなった。漫画雑誌での紙の量の増大は作品の描写に用いるコマやページ数の増大でもあり、長ページ化とともに画面の展開手法がより流れるようなものへと変化していった。また1955年には「W3事件」によって週刊少年マガジンで滑稽性やかわいらしさを排除した劇画のブームが起き、少女漫画でも劇画の影響を受けたものが増えていった。 また国民車構想によって1958年に大衆車が登場したことでモータリゼーションが進み、スーパーマーケットや大型書店の支店が全国に広まった。 1960年代なかばごろから1970年代はじめごろには日本は慢性的な貿易赤字から一転した黒字化の定着など高度経済成長がより進展した。人手不足によって格差の大きな縮小が起きて一億総中流となり、三大都市圏への人口移動が続き、大企業での終身雇用の定着とサラリーマンの企業戦士化が進み、生活の向上と安定が強まることで更なる核家族化が進行し、血縁や地縁(ゲマインシャフト)よりも社縁(ゲゼルシャフト)が強くなっていき、恋愛結婚が見合い結婚を上回った。子供では競争社会から来る焦りで母親から過干渉される子供や、逆に放任されて自宅の鍵を学校へと持っていくカギっ子が増えていった。1960年代に第一次塾ブームが起き、1965年には高校進学が70%に達している。また1966年には文部省の留守家庭児童会育成事業補助要綱によって学童保育(放課後児童クラブ)が広まっていった。 そして少女漫画はビッグ・バン的な発展を生じた。量的には、以前には少女雑誌の一部分でしかなかった漫画が雑誌のほとんど全てを占めていくようになり、雑誌の数も、隔週刊が毎週刊化、週刊誌から月刊別冊が、さらにそれぞれが増刊誌を出したり、新創刊が次々と生まれた。需要の性質と量の急激な変化と相まって、10代で雑誌デビューする女性新人がとくに多かったのもこの時代である。デビューの仕方も、それまでの持込や人脈によるものから雑誌の中の漫画講座・コンクール・漫画新人賞からの率が増えていった。これらによって少女の職業選択に少女漫画家という選択が入ってきた。一方で、格段に増えた少女漫画雑誌と経済発展による貸本屋の退潮によって、貸本出版の少女漫画は衰退消滅していく。 この時期以降の特徴として、生産者(作者)と消費者(読者)の間の強い近さがある。例えばトキワ荘では石ノ森章太郎の女性ファンが集まって石ノ森章太郎の「東日本漫画研究会」に女子部が発足し、少女漫画同人誌の『墨汁二滴』が作られ、そこから西谷祥子、志賀公江、神奈幸子らが輩出されている。 テレビの毎週放送の番組や週刊誌が人気となったことで、漫画誌でも週刊化が進んでいった。1950年代後半には既に少年漫画誌で「週刊少年マガジン」や「週刊少年サンデー」が登場しており、少女漫画誌でも1962年に月刊誌「少女クラブ」の後継誌『週刊少女フレンド』が、1963年に月刊誌「少女ブック」の後継誌『週刊マーガレット』が登場した。一方、月刊誌『少女』は後継誌の無いまま休刊となった。この週刊誌化によって少女漫画では新たな方向の模索が行われた。 もともと映画においてロマンティック・コメディの洋画が人気となっており、少女漫画ではフィクション性の強い外国もののラブロマンス(無国籍漫画)が登場した。これには1963年に『りぼんカラーシリーズ』として『りぼん』へと別冊付録された同名の洋画の翻案漫画『ローマの休日』(水野英子)、同年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「麗しのサブリナ」が基の『すてきなコーラ』(水野英子)、1964年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「ジェニーの肖像」が基の『セシリア』(水野英子)などがある。なお1966年にはテレビのレギュラー番組として「土曜洋画劇場」が登場している。 1952年に長編小説「赤毛のアン」の邦訳が初めて登場し児童にも人気となったが、その後、1962年には学生の頃に「赤毛のアン」の影響を受けたみつはしちかこが少女誌『美しい十代』で4コマ漫画「小さな恋のものがたり」の連載を開始した(1972年にテレビドラマ化)。『小さな恋のものがたり』は4コマ漫画にイラストポエムを挟む構成となっていた。また水野英子のファンであった男性作家あすなひろしはジュニア文芸誌に漫画を掲載するようになり、その影響を受けてポエムコミックという作風を確立していった。あすなひろしの作風は男性作家立原あゆみにも影響を与えている。 また1962年には『りぼん』に変身魔法物の『ひみつのアッコちゃん』(赤塚不二夫)が、1964年には『週刊マーガレット』に超能力物の『おかしなおかしなおかしなあの子』(後の『さるとびエッちゃん』、石ノ森章太郎)が登場した。 また貸本漫画では太平洋文庫を中心に怪奇漫画が多数登場して他の出版社へも広がっていったが、少女向けでは蛇などへの変身譚が登場した。1961年には前述の『虹』に『口が耳までさける時』(楳図かずお)が、1964年には『花』に『ヘビおばさん』(楳図かずお)が登場し、1965年には『少女フレンド』でホラー漫画『ねこ目の少女』(楳図かずお)が、翌1966年には同誌で『へび女(英語版)』(楳図かずお)が、『週刊マーガレット』で『白ヘビ館』(古賀新一)が連載され人気となった。 ギャグ漫画では1960年代に赤塚不二夫が「りぼん」「少女フレンド」などの少女漫画誌に連載をもっており、その中から『キビママちゃん』(1965年)『ジャジャ子ちゃん』(1965年)『へんな子ちゃん』(1967年)などが登場した。 1955年、石原裕次郎による都会的な青年小説「太陽の季節」が登場して1956年に映画化され、次いで青年向け貸本漫画でも青年物が登場していき、1963年には青年向け短編貸本漫画誌「青春」がヒロ書房より出版され、少女向けでも1960年代後半に同ヒロ書房より少女向け短編貸本漫画誌『おーい青春』、『Oh! 青春』が登場した。しかしながらヤングコミック(1967年)やビッグコミック(1968年)などの青年漫画誌の登場によって青年向け貸本漫画が衰退し、貸本屋の閉店が続いていった。一方、1963年には歌謡曲でも青春を扱った「学園もの」が登場し、テレビからは「チャニング学園(英語版)」(1964年)などの学園もののアメリカドラマが登場、少女漫画でも1965年に『週刊マーガレット』でアメリカ風ハイスクール物の『マリイ・ルウ』(西谷祥子)が登場し、次いで1966年には同じく『週刊マーガレット』で「青春学園物の草分け」とも言われる『レモンとサクランボ』(西谷祥子)が登場した。また貸本青年漫画誌「17才」で「ロマンスあげます」シリーズを連載していた楳図かずおは、1966年8月より『なかよし』で「ラブコメの原点」とも言われる『ロマンスの薬』(楳図かずお)の連載を開始した。1969年には『週刊マーガレット』に米国舞台のラブコメディ『おくさまは18歳』(本村三四子)が登場し、1970年にはそれが舞台を日本に変更した上でドラマ化され人気となった。同1970年には同誌に米国舞台のラブコメディ『美人はいかが?』(忠津陽子)が登場し、1971年にはこちらも舞台を日本に変更した上でドラマ化されている。 海外ドラマの影響を受けて魔法少女物の流行も起きている。1965年に魔法使いが主役のディズニー実写アニメーション映画「メリー・ポピンズ」が日本でも公開され、1966年にはアメリカドラマ「奥さまは魔女」及び「かわいい魔女ジニー」が日本でも放送されてヒットし、『奥さまは魔女』は週刊マーガレットで少女漫画化されている(作者はわたなべまさこ)。また国内からも魔法少女物のTBSドラマ『コメットさん』(1967年-1979年)や東映アニメ『魔法使いサリー』(1966年-1968年)が登場したが、どちらも原作は横山光輝であり、前者は週刊マーガレットに、後者はりぼんに漫画が連載されることとなった。これらの国産魔法少女のヒットによって「東映魔女っ子シリーズ」は定番となっていき、前述の『ひみつのアッコちゃん』や前述の『さるとびエッちゃん』がそのシリーズとしてアニメ化されている。 なおストーリー漫画が中心になるにつれ少女漫画は少女の心を考えて描く必要が出てきて男性作家では難しくなっていったとされる。 アメリカのロックバンド「ザ・ベンチャーズ」や「ビートルズ」の来日公演と録画放送によって日本でもグループ・サウンズのブームが起きていった。女性向け週刊誌では少女週刊漫画誌『少女フレンド』『マーガレット』と女性週刊誌「女性自身」「ヤングレディ」の間に当たるティーン向け週刊誌がまだ無く、1968年にはグループサウンズの記事が中心のティーン向け週刊誌『週刊セブンティーン』と『ティーンルック』が登場した。また同1968年には多くの漫画雑誌の創刊が行われ、少女漫画誌では『少女コミック』(小学館)が創刊された。 少女漫画や少女向けテレビアニメではヨーロッパやアメリカを舞台した作品が増加していった。特に1960年代には日本人の海外渡航が自由化され、「裕福」で「おしゃれ」なイメージのフランスを舞台にする少女漫画が増えていったほか、留学エージェントの登場によりアメリカへの留学が簡単となり、少女漫画では「週刊少女フレンド」にアメリカ留学をテーマとした『ハリケーンむすめ』(杉本啓子、1969年)や『お蝶でござんす』(漫画:神奈幸子、原作:羽生敦子、1971年)が登場した。また素敵なレディを目指す作品も増えていき、『週刊マーガレット』では1965年に『マリイ♡ルウ』(西谷祥子)、1967年に『初恋さんこんにちは!』(本村三四子)、1968年に『Oh! ジニー』(本村三四子)、1970年に『クラス・リングは恋してる』(西谷祥子)が登場した。 また、少女の憧れの職業としてスチュワーデス(航空機の客室乗務員)が浮上した。1970年にはスチュワーデスをテーマとしたテレビドラマ「アテンションプリーズ」が登場し、1971年にはそれが「少女フレンド」で少女漫画化されている(作者は細川智栄子)。 そのほか、1964年に野球競技を含む「1964年東京オリンピック」が開催され、1966年より少年漫画において野球漫画「巨人の星」を始めとするスポ根が登場して人気を博しており、また、大日本紡績の女子バレーボールチームが「東洋の魔女」として人気となっていたこともあって、少女漫画ではバレーボールのスポ根ものが複数登場した。1968年には『週刊マーガレット』から『アタックNo.1』(浦野千賀子)が、『少女フレンド』から『サインはV』(原作:神保史郎・漫画:望月あきら)が、『りぼん』から『ビバ!バレーボール』(井出智香恵)が登場し、翌1969年には少女コミックでも『勝利にアタック!』(灘しげみ)が登場している。同1969年には『アタックNo.1』がアニメ化され、『サインはV』がテレビドラマ化された。 またボウリング人気が拡大しボウリングブームが起きた。1969年には女子プロボウラーが誕生し、その中の一人として和製ジャンヌ・ダルクこと「中山律子」が台頭した。1971年にはテレビドラマからボウリング物の「美しきチャレンジャー」が登場し、学年誌で漫画化された。少女漫画では同1971年の『別冊なかよし』に『中山律子物語』(原作:八木基克、漫画:いがらしゆみこ)が登場した。 1950年代後半のミッチー・ブームでは軽井沢のテニスコートが出会いの場であったことによりテニスブームが起きており、また、その後のスポ根ブームの影響も受けて、少女漫画ではテニス物も登場した。1969年には週刊マーガレットで『スマッシュをきめろ!』(志賀公江)が、また週刊少女フレンドで『ラケットに約束!』(原作:一ノ木アヤ、漫画:青池保子)が登場し、1973年には週刊マーガレットで『エースをねらえ!』(山本鈴美香)が登場した。『スマッシュをきめろ!』は「コートにかける青春」としてテレビドラマ化され、『エースをねらえ!』はテレビアニメ化された。 また水泳物もブームとなった。1968年には週刊マーガレットで『ただいまの記録2分20秒5』(藤原栄子)が、1969年には少女フレンドで『金メダルへのターン!』(原作:津田幸夫、漫画:細野みち子)が、りぼんで『若あゆのうた』(横山まさみち)が登場し、『金メダルへのターン!』は1970年にテレビドラマ化された。 その他、化粧品ブランド「キスミー」のCMソング「セクシーピンク」によって1959年より「セクシー」という俗語の使用が拡大した。1961年にはアメリカ映画の「ボーイハント」が日本でも公開されるなどして、「ボーイハント」も流行語となった。1960年代後半には「ミニの女王」と呼ばれたツイッギーの来日と共に日本でもミニスカートが流行し、その後「ハレンチ」が流行語となり、少年漫画では「ハレンチ学園」(永井豪)が人気となってドラマ化されたが、女性向けでも「小説ジュニア」(「Cobalt」前身)の「ハレンチくん」(土田よしこ、1968年)や、りぼんコミック連載の『赤塚不二夫先生のハレンチ名作』(赤塚不二夫、1969年)が登場している。その後、赤塚不二夫のアシスタントを務めた土田よしこは赤塚不二夫のギャグ路線を引き継ぎ1973年には『つる姫じゃ〜っ!』を連載したほか、1970年代には倉多江美の『ぼさつ日記』も登場している。 核戦争の脅威が高まったことで1960年代より米ソの緊張緩和(米ソデタント)が模索されており、1968年に核拡散防止条約が調印され、1969年より米ソ間で戦略兵器削減交渉(SALT)が行われるようになった。そんな中、ユネスコ会議において「地球と平和の概念を称える日」が提唱され、また、1969年サンタバーバラ沖油流出事故(英語版)も起き、1970年より米国においてアースデイが開始され、環境問題への注目が高まっていった。少女漫画では1971年に環境問題をテーマにした『日本列島一万年』(美内すずえ)が登場している。 またテレビでは1968年に少年漫画「サイボーグ009」がアニメ化され、1971年に改造人間モノの特撮ドラマ「仮面ライダー」が登場し、少年向けにおいてサイボーグが人気となっていった。少女向けでも1973年に東映魔女っ子シリーズで魔法に代わって超能力を使うサイボーグ少女の『ミラクル少女リミットちゃん』が登場し、『週刊少女コミック』(漫画:美紀かおり)や学年誌などで漫画化されている。 そのほか1970年代初頭、日本では第二次ベビーブームが起きたものの、第四次中東戦争によって1973年10月に第1次オイルショックが起こると人口抑制が叫ばれ、日本の出生数は減少していくこととなった。また1971年のニクソン・ショックによる米ドルの金本位制の終了により日本では経常収支黒字が続いており、当時固定相場制だったこともあって対策に金融緩和が行われ、それによって通貨供給量が増えていったことでインフレーションが起き、また1972年に登場した日本列島改造論によって地価高騰も起き、それらによって狂乱物価となっていった。そんなオイルショックとインフレーションの中で、1973年11月には16世紀の終末の預言書「ノストラダムスの大予言」が登場して大ヒットし、オカルトブームが始まった。また1970年にはイギリスドラマ「謎の円盤UFO」が日本でもテレビ放送され子供の間でUFOが話題となり、学研の学年誌「コースシリーズ」でも超能力やUFOなどの超常現象の記事が人気となっていった。少女漫画では考古学者が多く登場するようになったとされ、その代表的な作品には新興少女漫画誌『月刊プリンセス』に登場した『王家の紋章』(細川智栄子あんど芙〜みん)がある。 また手塚治虫作品のアニメ化を行っていた虫プロダクションが1966年に経営問題から虫プロ商事を分離し、その虫プロ商事によって1967年に「鉄腕アトムクラブ」の後継となるまんがエリート育成漫画誌「COM」が創刊され、1969年にはその妹誌の『月刊ファニー』も登場した。しかしながら月刊ファニーは1970年に、COMは1971年に休刊し、その雑誌の元投稿者が1970年代に少女漫画誌で活躍するようになった。これには萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子らがいる。彼女らなどは少女漫画に異風のSFやファンタジーをもたらしたが、その生まれが昭和24年前後であったことから花の24年組と呼ばれている。また、白泉社雑誌を場とした少女漫画デビューの男性作家柴田昌弘(サスペンス性・SF的要素・メカニック)、魔夜峰央(ミステリ・怪奇・耽美・ギャグ)、和田慎二(主にアクション)なども少女漫画の世界の拡大に貢献した。そのほか、主人公の成長を描く話(教養小説的作品傾向)が長編化と共に広がり、複数の成功作が生まれる。 一方1960年代後半にはベトナム戦争などの影響で米国において社会そのものを見直すカウンターカルチャーが生じてヒッピームーブメントが起きており、それに伴ってメッセージソングが流行していた。週刊セブンティーンではそんな米国を舞台にした作品として1969年に『ファイヤー!』(水野英子)が登場した。 同時期に日本でもフーテン族が登場したり、大学紛争の全共闘運動が起きている。また、この全共闘運動において日本でのウーマンリブ運動が起き、その上、1970年代に「かわい子ちゃん歌手」のブームが起きたこともあって「女性上位社会の到来」が予期されるようになり、同時期の少女漫画ではその反動として弓月光の『にくいあんちきしょう』(1970年) や津雲むつみの『おれは男だ!』(1971年-) のような硬派な男主人公の少女漫画が登場し、後者はテレビドラマ化された。また1972年には新左翼による「あさま山荘事件」が起き、少女漫画では1974年に樹村みのりの『贈り物』が登場している。 また三大都市圏への人口集中が問題となっており、1962年には全国総合開発計画が打ち立てられ、1960年代には高速道路や新幹線が開通された。また1963年には明るい未来を描いた少年漫画 鉄腕アトムがテレビアニメ化され、1969年には米国のアポロ11号によって人類が月面へと到達したほかスペースコロニー計画も提唱され、また、1970年には日本で大阪万博が開催され、明るい未来が予期されるようになっていった。この頃の少女漫画では「やさしいママと頼りがいのあるパパと誰からも好かれる良い子」という理想の家庭が描かれていたとされる。これよってノンポリなしらけ世代が生まれ、大学紛争は収束した。 海外映画ではイタリア映画作家ルキノ・ヴィスコンティが耽美へと傾倒していき、少女漫画でも耽美の影響が強くなっていった。耽美作品における芸術とは何かは、例えばヴィスコンティの耽美映画「ベニスに死す」(1971年)内のセリフに現れている。登場人物アッシェンバッハが『「美と純粋さの創造はスピリチュアルな行為」であり「(現実の)感覚を通して(知恵、真実、人間の尊厳の)スピリットに到達することは出来ない」』としたのに対して、登場人物アルフレッドは「(芸術に現実の)悪徳は必要であり、それは天才の糧である」と反論している(なお、ここでの翻訳はオリジナルの英語版の映画がベースであり、日本語版の映画には「背徳」などの超訳が含まれる)。 1970年に日本公開されたヴィスコンティの耽美映画「地獄に堕ちた勇者ども」では強姦描写や近親相姦が存在していた。少女漫画の強姦描写では1971年には「りぼん」増刊の『りぼんコミック』において強姦を描いた『しあわせという名の女』(もりたじゅん)や『彼...』(一条ゆかり)が掲載されており、その後、1973年にはりぼん本誌にも強姦描写のある『ラブ・ゲーム』(一条ゆかり)が登場している。また少女漫画の近親恋愛モノでは1970年には「りぼんコミック」に『うみどり』(もりたじゅん)が登場し、1972年には「りぼん」本誌に『おとうと』(一条ゆかり)が登場した。 また欧米では経口避妊薬の登場によって「性の開放」が起きていた。日本でも欧米の影響を受けて少女小説誌やジュニア小説誌でセックスものが流行していき、1974年には映画でもフランス製ソフトコア・ポルノの「エマニエル夫人」が若い女性にヒットし、1975年には邦画からも「東京エマニエル夫人」(日活)が登場した。一方で性教育も問題となり、テレビ番組ではNHKの「こんにちは奥さん」で性教育が取り上げられるようになった。少女漫画では1970年に初めて性が主題の『真由子の日記』(大和和紀)が『週刊少女フレンド』より登場し、その後も『週刊セブンティーン』掲載の『わたしは萌』(立原あゆみ)のようなセックスありきの漫画が登場している。また1970年には学生妊娠物の『誕生!』(大島弓子)も『週刊マーガレット』より登場している。変身物でも1970年に学年誌などで性教育を隠しテーマとした「ふしぎなメルモ」が登場し、1971年にアニメ化された。 またプレイガール物の漫画も登場した。1971年には『なかよし』に『ジェニファの恋のお相手は』(萩尾望都)が、『別冊少女コミック』に『精霊狩り』(萩尾望都)が登場し、1973年には『週刊少女コミック』に『オーマイ ケセィラ セラ』(萩尾望都)が、『りぼん』に『ハートに火をつけて』(一条ゆかり)が登場した。 女性同士の恋愛の漫画も登場している。1971年2月には『りぼんコミック』において『白い部屋のふたり(英語版)』(山岸凉子)が登場し、同年には週刊マーガレットにも池田理代子の『ふたりぽっち』が、1972年にはりぼん本誌にも『摩耶の葬列』(一条ゆかり)が登場した。 また1960年代後半には西洋においてカウンターカルチャーからゲイ解放運動が起きており、それがアングラブームと結びついていた。日本の実験映画でも1968年に個人映画作家の岡部道男が米実験映画「スコピオ・ライジング(英語版)」(監督:ケネス・アンガー)の影響を受けてゲイ映画「クレイジーラヴ」を、1969年に映画作家松本俊夫がゲイバーを舞台にした「薔薇の葬列」を製作していた(前述の一条ゆかりのレズビアン漫画『摩耶の葬列』のタイトルの元ネタ)。また一般映画では1969年に少年愛(少年同士の恋愛)を含むイギリス学園映画の「If もしも....」が日本でも公開され、1970年にフランス寄宿学校映画の「悲しみの天使」が日本でも公開された。少女漫画では1970年代に花の24年組を中心として耽美な少年愛モノが増えていった。男同士のベッドシーンが描かれる初期の少女漫画作品としては1972年に別冊セブンティーンで連載された『ゲッシング・ゲーム』(山岸凉子)がある。少年愛では1973年に一条ゆかりが「りぼん」で『アミ...男ともだち』を掲載し、1974年より映画「悲しみの天使」の影響を受けた萩尾望都が週刊少女コミックで『トーマの心臓』を連載し、また、1976年より映画「If もしも....」の影響を受けた竹宮恵子が週刊少女コミックで『風と木の詩』を連載した。 そのほか、当時は1960年代に起きたブルーボーイ事件によって男性から女性への性転換も注目されていた。少女漫画では1971年10月の『りぼん』に『さらばジャニス』(一条ゆかり)が登場している。また、性転換コメディも登場して人気となった。弓月光は少女漫画として男主人公の性転換コメディ『どろん』(1972年)、『笑って許して』(1973年)を『りぼん』に、『ボクの初体験』(1975年-)を『マーガレット』に連載し、このうち『笑って許して』は後の人気少年漫画「らんま1/2」(高橋留美子)にも影響を与えている。 1970年代初頭にはジャンボ機が登場して海外旅行が身近となり、また女性添乗員も登場し、それらに伴って女性出国者の数も急激に増加していった。そんな中で1972年に週刊マーガレットからフランスのベルサイユを舞台にした歴史フィクション漫画『ベルサイユのばら』(池田理代子)が登場し、その後、宝塚歌劇団でミュージカル化され、『ベルばらブーム』が起きることとなる。 また1960年代に司馬遼太郎の歴史小説「新選組血風録」及び「燃えよ剣」が登場してドラマ化され新選組ブームが起きており、少女漫画では『ベルサイユのばら』ブームの後の歴史フィクション物として新選組が注目されるようになった。1973年には「りぼん」に『恋よ剣』(弓月光)が掲載され、1975年には「週刊マーガレット」に『天まであがれ!』(木原敏江)が、1976年には「LaLa」に『あさぎ色の伝説』(和田慎二)が連載され始めた。しかしながら『天まであがれ!』は読者ウケが良くなく連載期間が短縮されたとされる。 また学園漫画では1965年に『りぼん』で『5年ひばり組』シリーズ(巴里夫)が、1972年に『りぼん』で『6年○組○○番』(巴里夫)が登場した。なお、その後、1974年以降、児童文学では「ミス3年2組のたんじょう会」(1974年)、「四年三組のはた」(1975年)を初めとする「○年○組もの」が多数登場するようになっていった。 そのほか、1960年代のエコノミックアニマル化への反省から1970年代には人間性回復が謳われるようになった。音楽では四畳半フォークなどの生活派や叙情派のフォークソングが人気となったほか、歌詞に「愛」を入れた歌が増加していった。また前述の少女アニメ『魔法少女サリー』でも「愛と希望」が強調されていたほか、1960年代後半には恋愛結婚が見合い結婚を上回った。少女漫画では『りぼん』に愛の力を強調する一条ゆかりの作品群が登場し、その中から1972年の『りぼん』別冊付録に結婚しても「心はいつも少女のようで」居たいとする『9月のポピィ』(一条ゆかり)が登場した。また『りぼん』では『乙女ちっくマンガ』と呼ばれる日常の微妙な少女的センスとしての少女趣味的な作品群も登場して支持されていった。乙女ちっくマンガの代表的な作家には陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子が居る。 1974年には高校進学が90%に達し、1970年代には高学歴社会の到来によってオーバードクターが話題となっていった。高学歴社会の到来により、若者は全能感を保ちながら新しい知識を吸収し、既存の社会に対する半人前意識を失って社会へと同化することを拒み、居心地の良い青年期の猶予期間(モラトリアム)に留まろうとするモラトリアム人間が多くなったとされる。また、かつては社会のために貢献して自己愛を満たすのが一般的となっていた(社会化された自己愛)が、マスメディアの発展による社会的英雄の失墜とそれによる既存社会への不信によって、自己のための自己愛(裸の自己愛)が一般的となっていったとも言われている。そんな中で社会性よりも時代の空気を重視する時代が到来し、「ナウな」「ナウい」が流行語となり、ギャルや新人類が台頭していく。 また、1970年代以前より子供向け番組の出演者「水森亜土」(あどタン)が人気となっており、あどタンの使う亜土文字や亜土言葉は少女の間で今風と評価されていた。1970年代の少女漫画では『別冊少女フレンド』に『UッK-UK-亜土ちゃん』や『あなたと亜土たんのおてまみ広場』が連載されていた。また「亜土ネコミータン」などの水森亜土イラストのキャラクターグッズを1960年代後半に発売していた山梨シルクセンターが1970年代にサンリオとなって台頭し、1971年にはサンリオが新宿でファンシーグッズのショップを構え、1974年にはオイルショックによる紙不足を見越して事前に紙を調達していたサンリオが安価にファンシーノートを提供してブームを起こした。これらの流れによって若い女性の間では「かわいい」「ファンシー」がブームとなっていった。一方、少女漫画誌『りぼん』でもたびたび水森亜土のイラストのグッズを付録にしており、1974年にはアイドルグッズの付録を減らして少女漫画絵のかわいいグッズを付録するようになった。また『なかよし』でもそれに対抗していき、ファンシーグッズの増加とおこづかいの制約によって少女漫画の輪番購入による回し読みと付録の交換文化が生まれ、またグッズの贈り合いのほか、お菓子や手紙などの贈り合いも一般化していった。このファンシーグッズの流れは80年代消費社会へと続いていくこととなる。 また『りぼん』の近況欄ではしらいしあいを皮切りに漫画家がかわいい変体少女文字(丸文字)を使い始め、1974年頃には少女の間でも変体少女文字が使われ始めるようになり、1978年にはそれが普及したとされる。「かわゆい」という語も『りぼん』の『キノコ♥キノコ』(みを・まこと)のキャッチコピーや『週刊少女フレンド』などで使われ始め、1980年代初頭には「ウッソー」「ホントー」「カワユーイ」の三語が流行していった(三語族)。 また上記の流れは男性にも波及し、少女漫画が男性読者にも注目されるようになり、少女漫画の影響を受けた絵柄や心理描写も少年漫画へと波及し始めた。また作家の環境として貸本出版が消滅した代わりに、学校において漫画研究会(漫研)部が増え、コミックマーケットなどの同人誌即売会が広がって作品発表とファン交流の場を与えた(後述)。作家の年齢層も上がっていった。また、漫画道具が多様になっている。昭和30年代にはカブラペンなどわずかだったが、1970年代には多様なペンとスクリーントーンが使われるようになっている。 また、新少女漫画誌のブームが起き『花とゆめ』(1974年)『りぼんデラックス』(1975年)『プチマーガレット』(1976年)『LaLa』(1976年)『リリカ』(1976年)『プチコミック』(1977年)『ちゃお』(1977年)『ぶ〜け』(1978年)『プリティプリティ』(1978年)などの雑誌が創刊されたほか、1978年には秋田書店の『ひとみ』も再創刊されている。そのうち『リリカ』はサンリオが海外も視野に入れて創刊したものであり、4コマ漫画の『HELLO KITTY』(清水侑子)ほか絵本的な漫画を連載していたものの、1979年に休刊となっている。 ペットでは1960年代に従来の番犬に代わって室内犬が人気となっていき、1970年代にはアニメシリーズの世界名作劇場より「フランダースの犬」(1975年)や「あらいぐまラスカル」(1977年)などの動物モノが登場して人気となった。少女漫画からは1977年に『ぼくの鈴ちゃん』(たかなししずえ)が、1978年に『おはよう!スパンク』(原作:雪室俊一、漫画:たかなししずえ)が登場し、後者は1981年にアニメ化されている。 またテレビアニメにおいては1970年に擬人化物である「みなしごハッチ」(1970年)が人気となって、その後も擬人化物のアニメが次々と製作されるようになり、少女漫画からも1975年に「なかよし」で擬人化犬ものの『わんころべえ』(あべゆりこ)が登場している。また、1978年には「LaLa」で猫耳ものの『綿の国星』(大島弓子)が登場し、1980年前後には若者の間で猫耳をファッションとして身に着けることが流行して社会現象となった。 また世界名作劇場以外でも西洋舞台の名作文学の雰囲気を持つ作品が登場した。1975年、『なかよし』に名作文学の雰囲気を持つ『キャンディ♡キャンディ』(原作:水木杏子、漫画:いがらしゆみこ)が登場し、1976年にアニメ化され人気となり、『なかよし』の部数を押し上げた。1978年には『りぼん』でもそれに対抗した『ハロー!マリアン』(佐伯かよの)が登場した。また、1979年には『キャンディ♡キャンディ』の後番組として東映魔女っ子シリーズからも西洋舞台の「花の子ルンルン」が登場し、その影響などによって「ルンルン気分」という言葉や「ルンルン」という擬音が広く流行した。一方、少年漫画では「ぶりっ子」という言葉が流行し、それに符合する女性アイドル松田聖子が人気となり、女学生にも聖子ちゃんカットが流行となった。松田聖子は1980年代における「少女期の拡大」の典型例とも言われている。少女漫画では例えば『りぼん』に『るんるんこりす姫』(みよし・らら、1981年-)が登場している。一方、ぶりっ子が増えることで反ぶりっ子感情も登場し、1981年には現役高校生作家による小説『1980アイコ十六歳』が登場してドラマ化および映画化され、1982年にはそれが週刊マーガレットで少女漫画化されている(漫画は飯塚修子)。 1970年代中盤よりファッション誌の旅行特集によって女性の個人旅行が人気となり (アンノン族)、1977年にはコンパクトな初のオートフォーカスカメラであるジャスピンコニカ(コニカC35AF)が登場して女性にも人気となった。また、1975年にファッション誌「JJ」が登場してニュートラを初めとするブランドブームが起き、1981年にはブランド小説「なんとなく、クリスタル」がヒットしてブランド志向の若者は「クリスタル族」と呼ばれるようになった。少女漫画では1970年代後半より外国を舞台とした作品が減少していき、代わりにセレブ物の『有閑倶楽部』が登場して人気となった。 また、1982年に西武百貨店のキャッチコピー「おいしい生活」がヒットすると、いかに日々の生活を満喫するかという価値観が広まり、フィクションよりも現実世界を追い求める風潮が強まった。女性はおいしい生活を求めて男を求めるようになり、「愛人バンク 夕ぐれ族」の登場によって援助交際が増加していった。この頃に青年漫画では「愛人」、ドラマでは「愛人バンク殺人事件」(土曜ワイド劇場内)が登場し、少女漫画でも『愛人志願落第生』(くさか里樹)が登場している。 また1980年には性豪ジャコモ・カサノヴァの伊米合作映画『カサノバ』が日本でも公開され、少女漫画では1983年にタラシヒーローの『東京のカサノバ』(くらもちふさこ)が登場して人気となった。「くらもちふさこ」はその後も三股ヒーローの『A-Girl』(1984年)などを出している。 またヤマハ音楽教室などによってピアノの普及が進んだことで、ピアノ物の少女漫画も登場し人気となった。これには1975年よりの『オルフェウスの窓』(池田理代子)や、1980年よりの『いつもポケットにショパン』(くらもちふさこ)がある。その後、1985年、バラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「お嬢さまを探せ」のコーナーによって若者の「お嬢さまブーム」が起きてすぐに、ソ連の天才ピアニストのスタニスラフ・ブーニンが来日して人気となり、ブーニンはその追っかけの対象となったとされる(ブーニン現象)。 不良ブームも起きている。1968年よりアメリカの暴走族映画の影響を受けて日本映画からも「不良番長」シリーズが登場し、1971年にはスケバン物の「女番長シリーズ」も登場し、1973年にはヤクザ映画まで仁義物ではない「実録シリーズ」(「仁義なき戦い」など)が登場した。1970年代には不良少年がオートバイを手に入れ暴走族となって広域で徒党を組むようになり、また、1970年代後半には中学校や高等学校において先生などに対する校内暴力が増えていき問題となった。1980年代にはロングスカートが流行し、「なめ猫」や尾崎豊も登場、不良に憧れる少女が増加していていった。そんな空気の中で、少女漫画では1977年に『プチコミック』で不良ヒーローを据えた『ハイティーン・ブギ』(原作:後藤ゆきお、漫画:牧野和子)が登場し、1982年に映画化された。また1981年には不良風キャラの登場する少年漫画「Dr.スランプ」がアニメ化が放送されて人気となり、『りぼん』でもそのアニメの付録が登場し、翌1982年には『りぼん』からも不良ヒーロー物のメディアミックス『ときめきトゥナイト』(池野恋)が登場して人気となった。1985年には『別冊マーガレット』からも暴走族物の『ホットロード』(紡木たく)が登場しヒットした。 また、原宿では1977年に歩行者天国(ホコ天)が設けられ、その後、派手な衣装を提供する「ブティック竹の子」やフィフティーズ・ルック(1950年代アメリカファッション)を提供する「ピンク・ドラゴン」(「クリームソーダ」ブランドなど)が開業されると、ホコ天にディスコを踊る竹の子族やロカビリーを踊るローラー族が登場した。その後、原宿のホコ天を巻き込んだバンドブームがあり、少女漫画では『愛してナイト』(多田かおる、1981年)、『愛の歌になりたい』(麻原いつみ、1981年)、『プラスティック・ドール』(高橋由佳利、1983年)、『ダイヤモンド・パラダイス』(槇村さとる、1984年)、『アンコールが3回』(くらもちふさこ、1985年)、『3-THREE-』(惣領冬実、1988年)などのバンド物が登場した。 そのほか、日本でもギャルが台頭した。1975年にアメリカ西海岸(ウェスト・コースト)のスポーツ文化(スキー、テニス、ドライブ、サーフィンなど)を特集する男性誌「POPEYE」が登場して少年に人気となり、1978年には少女向けでもアメリカ西海岸のギャル文化を特集をする「ギャルズライフ」(主婦の友社)が登場した。1980年にはその増刊として少女漫画誌の『ギャルズコミック』(後の『ギャルコミ』)も登場している。また、旧来の少女漫画誌でもアメリカ西海岸を舞台したものが多数登場して人気となっていった。これには1978年より「別冊少女コミック」で連載されたサンディエゴ舞台の『カリフォルニア物語』(吉田秋生)、1980年より「LaLa」で連載されたロサンゼルス舞台の『エイリアン通り』(成田美名子)、1981年より「別冊少女コミック」で連載されたロサンゼルス舞台の『ファミリー!』(渡辺多恵子)などがある。 しかしながらギャルズライフはだんだんヤンキー路線を取るようになっていき、1980年代初頭に新たなギャル雑誌「Popteen」「キャロットギャルズ」「まるまるギャルズ」などが登場すると、1984年にはギャル雑誌を標的とした図書規制法が立案され、法案が成立しなかったもののギャル雑誌の衰退するきっかけとなった。「ギャルズライフ」はリニューアルして「ギャルズシティ」となったものの約一年で休刊となり、その後、その増刊だった『ギャルコミ』も休刊した。 またスパイ・アクションも台頭している。前述の西部劇のテレビ放送によってガンブームが起きており、1964年にスパイ・アクション映画「007/危機一発」が日本でも上映されヒットし、1970年に「007 ロシアより愛をこめて」として再上映されていた。少女漫画では1976年よりスパイ・アクション漫画の『エロイカより愛をこめて』(青池保子)が登場して人気となったほか、1978年より連載の人気ナンセンスギャグ漫画『パタリロ!』(魔夜峰央)にもスパイのバンコラン少佐が登場している。 1974年には宇宙SFのテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」が登場し、1978年には宇宙SF映画「スター・ウォーズ」が日本でも上映され、宇宙SF物がブームとなった。この頃の少女漫画では『11人いる!』(萩尾望都、1975年-)、『最終戦争シリーズ』(山田ミネコ、1977年-)、『樹魔・伝説』(水樹和佳、1979年-)、『ブレーメン5』(佐々木淳子、1980年-)などのSF物が登場している。 また1970年代後半にはオカルトブームの中から欧米のニューエイジという思想が精神世界という名前で日本にも広まった。少女漫画では1983年に植物の精神世界へと入って戦う『ダークグリーン』(佐々木淳子)が登場している。 狼男のブームも起きている。1980年代初頭にアメリカ映画から「ハウリング」「ウルフェン」「狼男アメリカン」「狼の血族」などの狼男ものが登場し、少女漫画からも1984年に『ムーン・ライティング』(三原順)が登場した。 1972年に中学校での、1973年に高等学校でのクラブ活動が必修化され、学校では漫画研究会(漫研)部が増えていった。また1972年にはSF大会の流れを組んだ漫画イベント「日本漫画大会」も開始された。1976年にはSF雑誌「奇想天外」が登場し、1978年にはその雑誌の別冊として「SFマンガ大全集」が登場した。翌1979年にはSF漫画誌「リュウ」及び「少年少女SFマンガ競作大全集」が、1982年にはSF漫画誌『ウィングス』が、1983年にはSF漫画誌「月刊スーパーアクション」が登場したが、その後のSFの衰退によって『ウィングス』は少女漫画誌となっていった。 一方、1975年には前述の「日本漫画大会」を追い出された漫画批評集団「迷宮」によって「コミックマーケット」が立ち上げられた。コミックマーケットでは当初少女漫画の同人誌が流行していたものの、新漫画誌の創刊ブームが起きたことで第一世代の作家が『LaLa』などの新興商業誌に流れていったとされる。また少年愛でもコミケの流れを汲むニューウェーブとして「花の24年組」の少年愛路線を引き継いだ耽美派商業雑誌「JUNE」(1978年)や「ALLAN」(1980年)が登場した。1980年には『花とゆめ』に漫研および同人誌即売会を舞台にした少女漫画『コミック・フェスティバル』(佐々木倫子)が掲載された。一方、コミックマーケットでは作家の入れ替わりによってアニメのパロディ(アニパロ)漫画が台頭し、1982年にはアニパロ中心の商業漫画誌「アニパロコミックス」が登場した。アニパロでは少年アニメなどをパロディしたショタ物の「やおい漫画」だけでなく少女アニメなどをパロディしたロリ物の「ロリコン漫画」も登場しており、その流れで生まれた商業ロリコン漫画誌の一つ「プチ・パンドラ」(1984年)は後の少女漫画家武内直子にも影響を与えている。 また、1970年代には商業漫画でも国内作品のパロディ物が登場するようになった。少年漫画では「月光仮面」のパロディ漫画「けっこう仮面」(1974年-)などが登場して人気となり、少女漫画でも「伊賀の影丸」のパロディ漫画『伊賀野カバ丸』(亜月裕、1979年-)が登場して人気となった。 1970年代より宅配便が発展し、またマイコン技術による多品種小量生産も広がっていく。1976年には家庭用のVHSビデオデッキが登場して人気となっていき、1979年には音楽を持ち運ぶウォークマンという個人化的製品が登場してヒット、軽薄短小や分衆という言葉が誕生した。第一次バンドブームも起きて、音楽以外でもノリが重要となっていきノリの悪いネクラに対する差別が起きるようになった。そんな中で、1980年代中盤には正義感のあるスケバン物が登場した。ドラマでは『花とゆめ』に連載されていた『スケバン刑事』(和田慎二)が1985年にテレビドラマ化されて人気となり、翌1986年にはその対抗としてオリジナルテレビドラマ「セーラー服反逆同盟」が登場したものの、後者のコミカライズは少年誌となっていた。また1985年には不良少女物の『花のあすか組!』(高口里純)と共に新少女漫画誌『月刊ASUKA』が創刊され、その漫画が1988年にテレビドラマ化されている。 また1976年には翻訳小説「飛ぶのが怖い」が登場し、翌1977年には自由を謳歌する「翔んでる女」が流行語となった。またそれによってかよらずか離婚も増加していた。女性誌では1977年に「an・an」「non・no」「JUNON」の上位誌としてニューファミリーをメインターゲットに据えた「クロワッサン」「MORE」「ARURU」が登場したものの部数が伸びず、1978年には「ARURU」が休刊し、「クロワッサン」も「女の新聞」へとリニューアルされ、それにより「クロワッサン」は離婚を含めたシングル謳歌を広めていくこととなった。1979年には「キャリアウーマン」が流行語となり、また、同年にはハーレクイン小説の日本語版も登場している。1980年には女性向け就職情報誌とらばーゆが誕生し、「とらばーゆする」が流行語となった。1980年代には日本の貿易黒字が世界最高になり、1986年の男女雇用機会均等法の施行で女性の職業選択の幅も広がった。そんな中で1980年代半ばにはOL向け女性漫画誌の『オフィスユー』が登場した。 一方、1970年代後半には前述の校内暴力に合わせて子供から親への家庭内暴力も注目されるようになった。またテレビドラマでは1976年の嫁姑問題物の「となりの芝生」で「辛口ホームドラマ」が確立し、次いで1977年夏には家庭の崩壊を描く「岸辺のアルバム」が登場、その後の主婦向けのドラマでは「金曜日の妻たちへ」(1983年)や「くれない族の反乱」(1984年)のような不倫物が流行して「金妻症候群」や「金妻する」や「くれない族」が流行語となった。1984年には離婚家庭の増加によって離婚家庭が死別家庭を上回り、1985年には小説「家庭内離婚」が登場して翌1986年にそれがドラマ化され同語が流行語となり、同1986年には「タンスにゴン」のCMから「亭主元気で留守が良い」というキャッチコピーが登場して流行語となった。この頃に大人の女性向けの漫画が成長し、離婚や不倫などをテーマとしたレディースコミックがジャンルとして確立した。少女漫画でも1983年に『DUO』で家庭崩壊物の『夢虫・未草』(大島弓子)が登場している。またその後にはレディースコミックよりも下の世代向けのジャンルとしてヤング・レディースも登場した。 また、1983年にフジテレビのゴールデンタイムのドラマ枠「月曜ドラマランド」が登場し、その枠で4コマ漫画や少女漫画のドラマ化が行われるようになった。初期のドラマ化された少女漫画作品には『あんみつ姫』(倉金章介)と『うっふんレポート』(弓月光)が存在する。 その後、1985年4月にはフジテレビで高校生アイドルオーディション番組「夕やけニャンニャン」が始まり、その番組の中でアイドルグループ「おニャン子クラブ」が結成された。同年7月リリースのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」がヒットし、この頃にブルセラショップが誕生して90年代に掛けて増加していく。一方、同7月には「東京女子高制服図鑑」が出版されて学校選びに制服のデザインが注目されるようになり、またDCブランドブームもあって、学校ではブレザー型の制服へのモデルチェンジが進んでいった。なお前述のドラマ枠「月曜ドラマランド」では「おニャン子クラブ」を起用して『有閑倶楽部』(一条ゆかり)、『ピンクのラブソング』(飯塚修子)、『ないしょのハーフムーン』(赤石路代)などの少女漫画がドラマ化された。 1987年には「おニャン子クラブ」から工藤静香がソロデビューを果たして人気となり、少女漫画からは1989年に工藤静香似の主人公の『マリンブルーの風に抱かれて』(矢沢あい)が登場した。また同1989年にはアイドル歌手「田村英里子」がデビューしてそのタイアップテレビアニメ『アイドル伝説えり子』が放送され、そのアニメが『月刊ASUKA』で少女漫画化されている(漫画は河原歩)。 また、1981年にはニューハーフの六本木美人「松原留美子」がデビューして「ニューハーフ」という言葉が定着した。このニューハーフブーム受けて、少年漫画から同年に「ストップ!! ひばりくん!」が登場し人気となって1983年5月にテレビアニメ化された。少女漫画からは同1983年3月に『前略・ミルクハウス』(川原由美子)が、1986年に『ここはグリーン・ウッド』(那州雪絵)が登場している(男の娘#漫画)。 その他、1980年代には「少年隊」や「光GENJI」などのジャニーズ事務所所属の少年アイドルグループのブームもあり、少女漫画でも『別冊少女コミック』に少年アイドルグループ物の『はじめちゃんが一番!』(渡辺多恵子)が登場している。 『キャンディ♡キャンディ』のような西洋を舞台とした大河的な少女漫画およびそのアニメ化も続いていた。1982年には『週刊少女コミック』に同じく西洋舞台の『ジョージィ!』(原作:井沢満、漫画:いがらしゆみこ)が登場して1983年に「レディジョージィ」としてアニメ化され、1983年には『ちゃお』に西洋舞台の『アルペンローゼ』が登場して1985年に「炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ」としてアニメ化され、1986年には『ひとみ』に西洋舞台の『レディ!!』(英洋子)が登場して1987年に「レディレディ!!」としてアニメ化され、1988年にはその続編アニメの「ハロー!レディリン」も登場している。東映アニメーションは「レディレディ!!」を「純粋な少女漫画路線」と評している。 また、占いは昔から少女誌に存在したが、1980年代にはおまじないが人気となっていく。1970年前後、コンピュータ商法のブームからデパートにコンピュータ占いの機械が登場する。1978年12月、星占いの専門誌「星占い手帳」が登場し、翌1979年4月には少女向け星占い誌「My Birthday」が登場したが、「My Birthday」ではおまじない関連の投書を掲載しておまじないの投書がブームとなり、1982年にはおまじないをまとめた本「私の知ってるおまじない」も登場した。少女漫画誌では『りぼん』におまじないグッズの付録が登場するようになったほか、乙女チックラブコメから『ため息の行方』(陸奥A子)のようなアミニズム的な作品が登場した。また1986年2月には前述の「My Birthday」の増刊として漫画誌『おまじないコミック』が登場し、同年4月にはコミックの掲載のある少女誌『ピチレモン』も登場。おまじないブームが拡大していった。 また、1970年代のオカルトブームは、1980年代に前世ブーム(戦士症候群)となった。少女漫画では1986年に『花とゆめ』でそれをモチーフとした『ぼくの地球を守って』(日渡早紀) が登場して人気となり、その後そのフォロワーとして『ウィングス』に『シークエンス』(みずき健)が登場した。この『シークエンス』によって少女の自殺未遂事件が起きている。 1977年にはイタリアのホラー映画「サスペリア」が、1979年にはアメリカのホラー映画「ハロウィン」が、1981年にはカナダのホラー映画「プロムナイト」が日本でも上映され、また1977年には日本映画からホラーコメディ映画の「ハウス」が登場し、ホラービデオでは1986年にトロマ・エンターテインメントが「ホラー・パーティ」を出していた。少女漫画や女性漫画では1985年に朝日ソノラマが「ホラー・オカルト少女マンガ」誌『ハロウィン』を、1986年に大陸書房が「ホラー少女コミック」誌『ホラーハウス』を、1986年に近代映画社が「ファンタスティック&ホラーマンガ」誌『プロムナイト』を、1987年に秋田書店が「100%恐怖コミック」誌『サスペリア』を、1988年に主婦と生活社がホラー誌『ホラーパーティー』を創刊した。 また1980年代にはミステリー少女小説のブームも起きている。1982年に赤川次郎の一般小説「三姉妹探偵団」が登場して1986年にフジテレビでテレビドラマ化され、少女小説でも1987年に「赤い靴探偵団シリーズ」 が、1988年に「放課後シリーズ」が登場して人気となった。少女漫画誌や女性漫画誌ではミステリーと名前の付く漫画誌が多数創刊された。これには1985年創刊の『ミステリー La comic』(後のラ・コミック)、1986年創刊の『ミステリーJour Special』、1988年創刊の『ミステリーボニータ』と『セリエミステリー』と『Mystery I』、1989年創刊の『BE・LOVE ミステリー』と『Sakura mystery』(後のミステリーサラ)などがあった。 そのほか、1970年代後半に欧米でニュー・ウェイヴやパンク・ロック、インディー・ロック、オルタナティヴ・ロックなどのブームが起きており、1980年代には日本でもインディーズレーベルの「ナゴムレコード」(1983年)、「TRANS RECORDS」(1984年)、「キャプテンレコード」(1985年)などが登場してサブカル誌「宝島」がそれらを取り上げるようになった。1989年には「宝島」の派生として女性向けファッション誌の「CUTiE」が登場し、翌1990年にはそこでサブカル系に生きる少女をテーマとした漫画『東京ガールズブラボー』(岡崎京子)が登場した。また、少女漫画誌では1986年に『りぼん』でサブカル系漫画(ガロ系)の影響を受けたと言われるさくらももこがシュールさの残る『ちびまる子ちゃん』の連載を開始した。 また、少年漫画にも高橋留美子を皮切りに女性漫画家が進出、少女漫画の読者層であった少女たちも少年漫画や青年漫画を読むことが一般的になっていった。1986年には青年漫画誌「ビッグコミックスピリッツ」と「コミックモーニング」が週刊誌化され、青年漫画が大きく成長したことによって、くじらいいく子や山下和美や岡野玲子のように青年漫画を手がける女性少女漫画作家も登場した。これらによって少女漫画の手法や少女漫画的なテーマが少年漫画や青年漫画の世界にも広く普及することになった。 1980年代後半に不動産バブルによるバブル景気が起きたことで、その対策として1990年に土地関連融資の総量規制が行われたが、バブル崩壊が発生し、1990年代は平成不況が続くこととなった。節約ブームが起こり、100円ショップが成長し、のちに失われた10年といわれる低迷した過渡期に入る。会社ではリストラや非正規雇用が拡大し、社縁が薄くなっていく。世帯収入の減少と共に共働き世帯が増えて専業主婦世帯の数を上回り、カギっ子は一般的となった。1980年代に始まったゆとり教育では1989年の学習指導要領改訂によって「個性重視の原則」が導入され、また新聞では同じ頃より自分探し(英語版)という言葉が登場して、1994年頃よりその言葉の使用が増え始めたほか、マイブームという言葉も登場し、1997年にはその言葉が流行語となる。 また1990年代には「テトリス」や「ぷよぷよ」などの落ち物パズルのブームなどによって少女にもゲーム機が普及し、少女漫画のゲーム化や少女漫画誌でのゲームコミカライズが行われるようになり、少女漫画でもファンタジー物が流行していった。 1990年代後半にはWindows 95の登場によってインターネットが普及していき、2000年代にはe-Japan構想によって学校教育にインターネットが取り入れられるようになり、携帯電話のインターネット料金定額化(パケット定額制)が行われ、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が普及し、インターネット上での繋がりが増していった。 1990年代にはバトルヒロイン物の少女漫画が流行した。1980年代の美少女ブームの影響を受けて1989年より特撮の東映不思議コメディーシリーズでも美少女シリーズが開始され、その中の一つ「美少女仮面ポワトリン」の影響を受けて、少女漫画からも『美少女戦士セーラームーン』(武内直子)が登場し、アニメ化され大ヒットした。このヒットによって、ギャグ漫画の『赤ずきんチャチャ』(彩花みん)もバトルヒロイン物としてアニメ化されることとなったほか、1990年代後半の魔法少女物のメディアミックス『カードキャプターさくら』(CLAMP)や『スーパードール★リカちゃん』(漫画版は征海未亜)も魔法バトルが中心となっていた。その後の「プリキュアシリーズ」以降はアニメ原作のコミカライズが少女漫画誌に連載されるようになっている。 また中華モチーフの少女漫画も複数登場した。1970年代に日中国交正常化と香港映画のブームが起き、1980年代に赤い人民服風の衣装を着たイエロー・マジック・オーケストラ (YMO) が流行し、中国雑貨の人気が上昇していき、1987年には「週刊少年サンデー」から高橋留美子の「らんま1/2」が登場して1989年から1992年に渡りアニメ化され女性にも人気となっていたほか、1994年にはDr.コパが火付け役となってインテリアを中心に風水ブームが起きていた。そのため1990年代には少年漫画だけでなく少女漫画からも中華モチーフの『ふしぎ遊戯』(渡瀬悠宇、1992年-)や風水バトルの『Dr.リンにきいてみて!』(あらいきよこ、1999年-)が登場してアニメ化された。 1990年代中盤にヒーリングを含むスピリチュアル・ブームが起き、また同時期には癒し系アイドルも人気となり、1997年にはアロマなどの癒し商品も人気となり、1999年には癒し系キャラの「たれぱんだ」も人気となった。少女漫画では1998年に心の傷を癒やすことをテーマとした『フルーツバスケット』(高屋奈月)が登場して人気となり、2001年にアニメ化されている。またオウム真理教による地下鉄サリン事件で一度廃れた「守護霊」も2005年より江原啓之らが看板のテレビ番組「オーラの泉」によって再興され、少女漫画では2006年に『しゅごキャラ!』(PEACH-PIT)が登場して2007年にアニメ化されている。 その他、1990年代には小動物ブームも起きていた。児童漫画誌連載の「ハムスターの研究レポート」(大雪師走)によってハムスターブームが起き、1994年には『なかよし』にハムスターが人間となる『さくらんぼねむり姫』(片岡みちる)が登場し、1997年には学年誌から「とっとこハム太郎」(河井リツ子)が登場して『ちゃお』にも掲載され、2000年には『なかよし』にゲーム原作の『どこでもハムスター』(猫部ねこ)が登場した。また1996年には携帯型育成ゲーム機「たまごっち」シリーズが登場して人気となり、1997年より『なかよし』にて『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ)が連載されたほか、1997年にはゲーム「ポケットモンスター」のアニメ版が始まって大人気となり、同年より『ちゃお』にて『ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー』(月梨野ゆみ) が連載された。2000代前半には『ちゃお』に妖精が主役の『ミルモでポン!』(篠塚ひろむ)が連載されてアニメ化され低学年の人気を得たほか、宇宙人が主役の『ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット』(ひな。)も連載れていた。『なかよし』もこの頃に宇宙人が主役の『どーなつプリン』(猫部ねこ)や、ジンが主役の『よばれてとびでて!アクビちゃん』(上北ふたご)を連載している。2009年にはサンリオのジュエルペットがアニメ化されて人気となり、その後『ちゃお』や『ぷっちぐみ』や学年誌でコミカライズされた。 百合のブームも起きている。1990年代の『美少女戦士セーラームーン』の同人漫画では「やおい漫画」の延長として女性同士の同性愛ものが多く登場していた。1998年、少女小説誌「Cobalt」において現代のエス小説とでも言うべき「マリア様がみてる」が登場し人気となり、2003年より『マーガレット』で漫画化され(漫画:長沢智)、2004年にアニメ化された。2003年には「男子禁制」を謳う百合漫画誌『百合姉妹』(マガジン・マガジン)が登場し、2005年にはその実質的後継誌として『コミック百合姫』(一迅社)が誕生している。一方、百合要素のあるスポーツ物では1997年のアニメに「バトルアスリーテス大運動会」が存在していたが、少女漫画でも2004年に『ちゃお』でギャグ物の『スパーク!!ララナギはりけ〜ん』(もりちかこ)が登場している。 また1990年代の少女漫画の夕方アニメ化ブームではそれが男性にも影響を与えており、少女漫画では2005年に『ChuChu』でアニメオタクの義兄をテーマとした『アニコン』(やぶうち優)が登場している。また、2000年代にはバラエティ番組「学校へ行こう!」の「みのりかわ乙女団」に登場した「乙女系男子」という言葉も流行し、少女漫画では2006年に『別冊花とゆめ』で『オトメン(乙男)』(菅野文)が登場して2009年にドラマ化され、同年に「オトメン」が流行語となった。またメイド喫茶の流行と共に「萌え」が一般人へも広がって2005年に流行語となり、少女漫画では少年にメイド服を着せた作品が登場した。2006年には『LaLa』でメイド喫茶などを舞台とした『会長はメイド様!』(藤原ヒロ)が(2010年にアニメ化)、2008年には『B's-LOG COMIC』で擬似家族物の『少年メイド』(乙橘)が登場し(2016年にアニメ化)、同2008年には『なかよし』でも萌え少年をテーマとした『萌えキュン!』(桃雪琴梨)が、2009年には『ちゃお』でも『メイドじゃないもん!』(いわおかめめ)が登場している。 またゲーム会社「エニックス」によりファンタジー物を中心とする少年漫画誌「月刊少年ガンガン」(1991年)及びその派生誌「月刊Gファンタジー」(1993年)が登場し、1999年にはその派生として少女漫画誌『月刊ステンシル』が登場した。その後、2001年にエニックスお家騒動が起きるとエニックス社員の一部が独立して新会社「マッグガーデン」を立ち上げ、一部の連載漫画もマッグガーデンの新雑誌「月刊コミックブレイド」へと移籍されることとなった。少女漫画では『月刊ステンシル』に連載されていたヒーリング漫画『AQUA』(天野こずえ)が移籍されて『ARIA』となり、2005年にアニメ化されて人気となった。 平成のスイーツブームも起きている。80年代後半のバブル期のフランス料理疲れに次ぐイタ飯(イタリア料理)ブームからデザートのティラミスが登場し、平成のスイーツブームが始まった。また、1993年開始のフジテレビのバラエティ番組「料理の鉄人」によってパティシエが注目となっていた。少女漫画からは2008年に『夢色パティシエール』(松本夏実)が登場し、その後アニメ化されている。 1990年代にはローティーン向けファッションの流行も起きた。1980年代後半よりローティーン向けファッション雑誌「ピチレモン」が登場し、次いで登場したナルミヤ・インターナショナルの子供服ブランド「mezzo piano」や「エンジェルブルー」が人気となり、1990年代にはハナコジュニア世代を中心に幼い頃からファッションに興味を持つ少女が増えていった。この世代は状況に見合った格好をしつつもリボンやレースなどの女性的なものを好んでいるとされる。しかしながら少女漫画誌でこれら子供服ブランドとのタイアップ漫画が行われたのは2000年代に入ってからであった。ちゃおは2002年よりmezzo pianoとのタイアップ漫画『シンデレラコレクション』(今井康絵、2002年 - 2004年)を、なかよしは2007年よりエンジェルブルーとのタイアップ漫画『夢みるエンジェルブルー』(白沢まりも・2007年 - 2009年)を連載した。しかしながら、エンジェルブルーブランドは2010年に休止となった。 1977年より男児向け食玩シールの「ビックリマン」が登場してブームとなり男児の間で「シール交換」が人気となっていったが、ビックリマンは女児も収集を行っていたとされる。少女漫画では1991年より『ぴょんぴょん』でビックリマンを基にした『愛の戦士ヘッドロココ』(藤井みどり)が連載されている。また一般的なシールの交換も行われており、コレクションするためのシール帳も人気となっていった。 1995年に自撮りマシンのプリント倶楽部(プリクラ)が登場すると若者においてプリクラ交換をコミュニケーションに使うコギャルが登場し、コギャルを取り上げる新興ファッション誌「egg」も登場してコギャルの流行が拡大していった。一方、テレビ東京の番組「ボディボディ」では「不思議ちゃんの世界」のコーナーで不思議ちゃんを紹介しており、不思議ちゃんも話題となっていった。少女漫画では同年の『りぼん』にコギャルと不思議ちゃんの対比を行う『ご近所物語』(矢沢あい)が登場して人気となった。その後も現実の若者ファッションやカルチャーに連動した子供向け漫画として、1998年に『りぼん』で白ギャルモチーフの『GALS!』(藤井みほな)が、2009年に『ちゃお』で姫ギャルモチーフの『姫ギャル♥パラダイス』(和央明)が、2014年に『ちゃお』で原宿系モチーフの『てぃんくる☆コレクション』(和央明)が登場している。 また、1980年代後半から1990年代前半にかけて第3次ディスコブームが起こっており、便利屋男「アッシーくん」や彼氏候補「キープくん」と共にボディコンファッションが注目となっていた。女性漫画誌『Judy』では1990年代初頭に『ボディコン刑事』(井上恵美子)が登場し、少女漫画誌『りぼん』では1993年に『スパイシー☆ガール』(藤井みほな)が登場した。また1990年代にはスーパーモデルが世界的ブームとなり、1994年には『りぼん』でモデル物の『パッション♡ガールズ』(藤井みほな)が登場した。その後、ハイティーン向けファッションでは1990年代末から2000年代初頭にかけて「CUTiE」派生の『CUTiE Comic』、「Zipper」派生の『Zipper comic』などファッション誌派生の少女漫画誌が登場したもののこれらは短期間で終了し、連載されていた漫画はヤングレディース誌に吸収されている。また1990年代後半にはフジテレビの本社移転に伴ってお台場が有名となり、前述の『GALS!』でもお台場が登場し、また『なかよし』でも2001年に連載として『ODAIBAラブサバイバル』(原作:小林深雪、漫画:白沢まりも)が登場した。 アイドルでは、1990年代後半にバラエティ番組出身のユニット「ポケットビスケッツ」が小学生に人気となって社会現象となっていた。次いで2000年代には「ミニモニ。」「ピポ☆エンジェルズ」などの子供向けアイドルが登場し、女児向けアーケードゲームでは2000年代半ばに「オシャレ魔女♥ラブandベリー」を初めとするコーデバトルものが登場して流行となり、2001年よりe-karaなどのカラオケ玩具の登場およびタイアップもあって、女児向けの少女漫画では女性アイドルもののメディアミックスのオリジナル作品やコミカライズ作品が増えていった。これらの代表的なものには『ミニモニ。やるのだぴょん!』(もりちかこ)、『ぴちぴちピッチ』(花森ぴんく)、『きらりん☆レボリューション』(中原杏)、『プリティーシリーズ』、『アイカツ!』シリーズがある。 2000年代には那須博之が「モーニング娘。」起用による『美少女戦士セーラームーン』のドラマ化を構想し、その構想は実現しなかったものの2003年に美少女戦士セーラームーンのテレビドラマ化が行われ、それを皮切りに2005年には過去の名作に当たる『アタックNO.1』のテレビドラマ化および『花より男子』のテレビドラマ化が行われ、2007年には『ちびまる子ちゃん』のテレビドラマ化も行われている。 また2000年代には電撃文庫などのライトノベルブームが起きており、2005年には『LaLa』で『しにがみのバラッド。』のコミカライズが行われたほか、2006年には電撃文庫の女性向け作品『リリアとトレイズ』のコミカライズが中心のガールズコミック誌『comic SYLPH』(後の『シルフ』)も登場した。また2000年代後半には動画投稿サイト「ニコニコ動画」が人気となり、2006年にヒロインが「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶ」ことを目指すライトノベル「涼宮ハルヒの憂鬱」が深夜アニメ化された際は動画投稿サイト上でハルヒダンスが流行し、2007年にボーカロイド「初音ミク」が登場した際は動画投稿サイト上でボカロソングが流行となった。2010年代にはボカロソングを基にした商業ボカロ小説が登場し10代の少女に人気となっていった。少女漫画では2010年代にボーカロイド中心の少女コミック誌『ミルフィ』が創刊されたほか、女性向け少年漫画誌の「月刊コミックジーン」でもボカロ小説のコミカライズが行われていた。旧来の少女漫画誌でも『ミラクル♪ミク』(琴慈)や『ミライチューン』(染川ゆかり)などのボーカロイド漫画が登場している。しかしながら、その後ネット文化がPC中心からスマートフォン中心へと移行したことによってボカロ小説のブームは収束していった。 中高生向けの音楽では、ミュージック・ビデオの普及と共に、宝塚歌劇団を参考にした「昔の少女漫画」のような耽美派バンド「MALICE MIZER」などのヴィジュアル系バンドが登場し、それによりヴィジュアル系バンドのコスプレやヴィジュアル系バンドの同人「やおい」漫画が流行した。耽美派雑誌『JUNE』の発行元マガジン・マガジンも『JUNE』的なムック本である『MALICE MIZER 耽美実験革命』を出版している。また少女漫画でもヴィジュアル系の人気を受けて『快感・フレーズ』(新條まゆ)や『NANA』(矢沢あい)が登場し、どちらもテレビアニメ化されている。一方、インターネットでは中学2年生ごろに発生する思春期特有のひねくれを意味する「中二病」という言葉が広まっていき、ヴィジュアル系も一過性の中二病の一つとして解釈されるようになっていった。 その後、音楽物では少女漫画誌との関連の薄い部活学園物の深夜アニメが人気となっていった。2009年に部活ガールズバンド物の萌え4コマ「けいおん!」がアニメ化された際には女子高生にバンドブームや制服ブームが起こり、2013年に美少女スクールアイドルもののメディアミックス「ラブライブ!」がアニメ化された際もその女性人気が高まることとなった。少女漫画の中高生の音楽物では2013年に男女混合バンドの『覆面系ノイズ』(福山リョウコ)が登場した(2017年にアニメ化)。また、動画投稿サイトにおいて歌い手や踊り手の動画が流行し、2014年には踊り手漫画の『バディゴ!』(黒崎みのり)が登場した(2016年に一部がアニメ化)。 また、1990年前後にはOLのオジン化(オヤジギャル)が指摘されており、ドラマでもオヤジギャルが主役の「キモチいい恋したい!」が登場し、週刊誌「SPA!」連載の漫画にもオヤジギャルを題材とする「スイートスポット」(中尊寺ゆつこ)が登場した。この頃にはOL向け4コマ誌『まんがハイム』(徳間オリオン)および『まんがタイムスペシャル』(芳文社)が登場している。 一方、1994年前後には漫画をあまり取り扱わない出版社による漫画誌への参入も目立っており、これら漫画誌は上の世代の著名漫画家を揃えていたもののどれも失敗に終わっている。例えば少女漫画誌以外ではマガジンハウスの「COMICアレ!」や文芸春秋の「コミック'94」やNHK出版の「コミックムウ」が、少女漫画誌ではソニー・マガジンズの『きみとぼく』が登場した。 また1990年代には携帯電話が登場してそのマナーが問題となっていき、2000年には公共広告機構(現ACジャパン)のCMによってマナーを守らない人を意味する「ジコチュー」(自己中)が流行語となった。少女漫画では2002年に『デザート』で『自己chuラヴァーズ』(いしだ絵里)が登場した。2006年には乙女ゲームの『ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Kiss』で「セカンドキスシステム」(通称「事故チュー」)が搭載され、またいつからかより少女漫画でも事故的なキスに「事故チュー」という語が使われるようになっていった。 また1990年代には買い物依存症も話題となった。1992年には翻訳書「買い物しすぎる女たち」が登場し、1998年にはテレビドラマから「私の中の誰か~買い物依存症の女たち~」が登場、同1998年には週刊誌「週刊文春」にも中村うさぎのエッセイ「ショッピングの女王」が登場した(漫画化はファミリー4コマ誌「まんがライフ」)。また1995年にはコギャルのシャネル・グッチ・プラダ好きも話題となっていた。ヤング・レディース誌『Kiss』では2005年に買い物中毒OLを主人公とした『東京アリス』(稚野鳥子)が登場した。 また1999年代末からは「カリスマ美容師ブーム」が起きた。テレビからは1999年に美容師対決番組「シザーズリーグ」が、2000年に美容師との恋愛物のテレビドラマ「ビューティフルライフ」が登場し、同2000年には少年漫画から美容師物の「シザーズ」が登場し、少女漫画でも2003年に『ちゃお』で美容師物の『ビューティー・ポップ』(あらいきよこ)が登場した。また、「カリスマ美容師ブーム」に乗じて「カリスマ店員」や「カリスマホスト」も話題となっていき、同じく1999年代末にはホストクラブでの男買いも人気となった。女性漫画誌「YOU」に連載された「ごくせん」では文化祭でホストクラブをする話が登場し、少女漫画でも2002年に『LaLa』で『桜蘭高校ホスト部』(葉鳥ビスコ)が登場した(2006年にアニメ化)。 女性向けゲームでは1994年に「アンジェリークシリーズ」が、2000年に「遙かなる時空の中でシリーズ」が登場し、『月刊Asuka』や『LaLa』などのファンタジーに強い少女漫画誌でコミカライズされるようになった。2002年、女性向けゲーム誌「B's-LOG」が登場し、2005年にはその派生としてゲームコミカライズが中心のガールズコミック誌『B's-LOG COMIC』が誕生した。2006年、ケータイ小説提供会社の「ボルテージ」が女性向けモバイルゲームへと参入して「リアル系乙女ゲーム」として人気となり、少女漫画では『B's-LOG COMIC』でその中の一つ『恋人はNo.1ホスト』が漫画化されている(漫画はヤマダサクラコ)。2010年代には乙女ゲームから『うたの☆プリンスさまっ♪』などの男性アイドルを育成するものが登場し、また、女児向けの女性アイドル物からも派生として『KING OF PRISM by PrettyRhythm』などの男性アイドルものが登場し、それらは少女漫画誌でコミカライズされるようになっている。 また、1980年代後半にはレディースコミックに過激な性描写が増えて人気となり、その雑誌に広告を出す形でテレフォンクラブが広まっていった。その後、バブル崩壊による家計収入の減少と共に若年層にも援助交際が浸透し、1990年代半ばには10代向けの性漫画であるティーンズラブ (TL漫画) 雑誌が登場、「少女コミック」などの少女漫画誌でもそれらに引きずられる形で性描写が増加していった。2006年には歌手の倖田來未によって「エロカッコイイ」「エロカワイイ」が流行語となった。 また携帯電話の普及によって2000年代中盤にはケータイ小説がブームとなり、2007年には双葉社によってケータイ小説サイト「魔法のiらんど」のコミカライズ雑誌『COMIC魔法のiらんど』が創刊された。しかしながらケータイ小説サイトはスマートフォンの登場によって下火となっていったとされる。2011年、角川系のアスキー・メディアワークスは「魔法のiらんど」の運営会社を買収して吸収し、アスキー・メディアワークスは独自コミカライズレーベル『魔法のiらんどCOMICS』を立ち上げた。一方、旧来の少女小説レーベル「コバルト文庫」(集英社)も2010年に増刊としてコミカライズ雑誌『Comic Cobalt』を立ち上げたものの成功せずに終わっている。 一方、2000年代には純愛ブームも起きている。2000年代前半には恋愛小説およびその実写化で「世界の中心で、愛をさけぶ」(セカチュー)や「いま、会いにゆきます」(イマアイ)のような純愛物が流行し、前者は『プチコミック』で漫画化され(画は一井かずみ)、後者は女性誌「女性セブン」で漫画化された(画は川島彩)。少女漫画では2003年より『Betsucomi』に純愛物の『砂時計』(芦原妃名子)が登場し、セカチュー及びイマアイの実写化を行ったTBSテレビは2007年に昼帯のテレビドラマ(昼ドラ)でも「純愛で勝負する」としてその『砂時計』の昼ドラ化を行っている。 2000年代後半には別冊マーガレット連載の『君に届け』(椎名軽穂)や『ストロボ・エッジ』(咲坂伊緒)などのピュアストーリー物が人気となった(前者は2009年にアニメ化)。2010年代にはボーカロイド界隈から「スキキライ」や「告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜」などの青春系ソングの人気クリエイターユニット「HoneyWorks」が生まれ、人間のボーカルを迎い入れた後もその楽曲の小説化が続いていった(通称:ハニワ小説)。一方、別冊マーガレットでも「青春に乗る」を意味する『アオハライド』(咲坂伊緒)が登場して人気となり、アニメ化の際にはHoneyWorksがその主題歌を務めている。また、実写映画でも青春モノの「キラキラ映画」が流行し少女漫画の実写映画化が活発となったものの、2010年代末には過剰供給となって衰退していった。 また、1987年より始まった恋愛バラエティ番組「ねるとん紅鯨団」によって全国でお見合いパーティが開かれるようになっており、そのパーティーで多くのダメ男と遭遇した漫画家の倉田真由美は2000年よりその経験を活かして漫画「だめんず・うぉ〜か〜」を週刊誌「SPA!」に連載し、それが2002年と2006年にドラマ化された。『プチコミック』でも2015年よりダメンズ物の『深夜のダメ恋図鑑』(尾崎衣良)が連載された(2018年ドラマ化)。 オカルトでは2006年よりブログにおいて「都市伝説」の用語の使用が増加し、2007年にはテレビ番組から「やりすぎ都市伝説」が登場した。同2007年にはオリジナルテレビアニメから電脳空間と都市伝説をテーマにした『電脳コイル』も登場し、ちゃおで少女漫画化された(作者は久世みずき)。また、ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) の普及と共に社会的要素の強いソーシャルゲームが広まっていき、2009年には海外のマフィア抗争ソーシャルゲーム「Mafia Wars」を元にした国産ソーシャルゲーム「怪盗ロワイヤル」が登場して人気となり、『Cookie』で少女漫画化されている(作者は菅野紗由)。2011年には児童文庫にソーシャル型デスゲーム物の「オンライン!」が登場して人気となり、その後も児童文庫ではデスゲーム物が定番となっていったが、少女漫画でも2012年に『なかよし』でデスゲーム物の『出口ゼロ』(瀬田ハルヒ)が登場している。 テレビドラマでは、2014年にダブル不倫ものの「昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜」が注目され「昼顔妻」という言葉が流行した。一方、 ヤング・レディース漫画のダブル不倫物『あなたのことはそれほど』(いくえみ綾)も2017年にドラマ化されたものの、コンセプトの違いから昼顔ほどは人気とならなかったとされる。 また2004年〜2005年には男女雇用機会均等法の第一世代において自分一人だけで贅沢をするという「おひとりさまブーム」が起き、2005年には「おひとりさま」が「2005年ユーキャン新語・流行語大賞」の候補として選出された。しかしながらその後「おひとりさま」という言葉が広がっていく過程で、贅沢以外でも一人で過ごすことが人気となっていったとされる。少女漫画では2006年に『Kiss』の増刊として『Beth』が創刊され、そこで『おひとり様物語』(谷川史子)が登場した(『Beth』休刊後は『Kiss』へと移籍)ほか、『Sho-comi』の編集長によれば2012年〜2013年ごろより若い作家の手によって「ぼっち好き」のヒロインが増えていったとされる。 その他、生涯未婚率の上昇に伴い、結婚の是非を問うヤングレディース漫画も登場した。2011年にテレビドラマ「家政婦のミタ」がヒットして家政婦が注目されるようになり、2012年にはヤング・レディース誌『Kiss』において契約結婚により家政婦となる『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ)が登場して人気となった。2014年には同誌で行き遅れ物の『東京タラレバ娘』(東村アキコ)が登場して人気となり、両作品はドラマ化されていった。その他、家政夫物も人気となった。2016年にテレビドラマから女装家政夫物の「家政夫のミタゾノ」が登場し、同年に電子書籍サイト「コミックシーモア」の女性向けコミック誌『恋するソワレ』から家政夫物の『家政夫のナギサさん』が登場した(2020年にドラマ化)。 また、少女漫画や女性漫画のWebコミックサイトも登場した。ヤングレディース誌『FEEL YOUNG』の公式Webサイト(FC Web→フィーヤンネット)では多数のWeb連載が行われるようになり『ラブリー!』(桜沢エリカ)などがそのサイトに移籍されたほか、2006年に開始された講談社の無料Web漫画サイト「MiChao!」では女性向けコーナーが設けられ『最終戦争シリーズ』(山田ミネコ)の最新作が「MiChao!」で連載されるようになった。2009年には少女向け漫画誌『ウィングス』の派生としてWebコミックサイト『WEBウィングス』も開始された。2013年には集英社の電子少女漫画アプリ『マーガレットBOOKストア!』(後の『コミックりぼマガ』)が登場し、そのアプリ内では新作の提供を行う『マーガレットchannel』(後の『デジタルマーガレット』)も設けられた。その後も漫画誌派生のWebコミックサイトは多数登場している。 スクウェア・エニックスの少年ガンガン系列の少年漫画誌では元々女性作者が多く、女性作者で女主人公の恋愛要素のある少年漫画も存在していたが、Web漫画が商業化される時代になると女性作家のWeb恋愛漫画も少年漫画として商業化するようになった。この姿勢はWeb小説のコミカライズが流行した以降も継続している。 また集英社も2015年より『花より男子』(神尾葉子)の続編『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』(神尾葉子)を少年漫画誌派生のWebサイト「少年ジャンプ+」で連載するようになり(2018年ドラマ化)、小学館でも少年サンデー系列のWeb雑誌「裏サンデー」(アプリ版はマンガワン)の派生として2016年に『裏サンデー女子部』を登場させている。講談社も2017年より別冊少年マガジンに女性作家の女主人公の恋愛物である「荒ぶる季節の乙女どもよ。」(原作:岡田麿里、作画:絵本奈央)を載せたり、ガールズコミック誌『ARIA』廃刊後の2018年より乙女ゲームのコミカライズ作品『遙かなる時空の中で6』(水野十子)を少年マガジンエッジへと移籍させたりなど、少年漫画誌で男性向け女性向けにこだわらない姿勢を取るようになってきている。白泉社も2017年に少女漫画と青年漫画を同居させたアプリの「マンガPark」を配信した。 21世紀のインターネット普及時代に入って、雑誌や媒体のさらなる多様化と時代の思考の変化などもあり、かつて男性向けとは異なる媒体と手法を持ち、女性漫画の別名であり中心だった少女漫画は、2020年代現在では多くの隣接分野との境界の薄い、漫画界の連続的な一領域と化している。 2010年代後半より人に対するトリセツ本が多数出版されるようになり、女児向け教育本でも「女の子のトリセツ」「女の子のトリセツ トキメキdays」(ミラクルガールズ委員会)、「かわいいのルール」「こころのルール」(はぴふるガール編集部・漫画:双葉陽)などが登場し人気となっていった。少女漫画誌からも2020年に『JSのトリセツ』(雨玉さき)が登場している。 一方、動画サイトでは元々YouTuberが流行となっており、動画投稿者は小学生の憧れの職業となっていた。また子供YouTuberも「キッズライン♡Kids Line」のこうくんねみちゃんや「HIMAWARIちゃんねる」のまーちゃんおーちゃんなどが登場し人気となっていった。少女漫画では2018年にメディアミックスから動画配信をモチーフとした『キラッとプリ☆チャン』が登場し、『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズされている(ちゃお版は辻永ひつじ、ぷっちぐみ版は菊田みちよ)。 またダンスブームも起きている。2016年にはドラマ版「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングに使われた「恋ダンス」がYouTubeで流行し、2017年にはショートムービー投稿サイト「TikTok」が日本にも上陸してダンスのショートムービーがブームとなった。少女漫画では2020年に『ちゃお』でダンス物の『夜からはじまる私たち』(ときわ藍)が登場したほか、2022年には子供向け実写ドラマでも「ガールズ×戦士シリーズ」の後継としてダンス物の『リズスタ -Top of Artists!-』が登場し、『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズされた(ちゃお版はくろだまめた、ぷっちぐみ版は今井康絵・ハラミユウキ)。しかしながらリズスタは女児向け特撮枠と共に2023年に終了となった。 またTikTokによるダンス人気によって日本のギャル文化の影響を受けた女性K-POPアイドルが人気となり、2021年の『ちゃお』にはK-POPアイドルを目指す『カラフル!』(ときわ藍)が登場した。2022年にはその流れにある「ギャルピース」のポーズが日本でも逆輸入される形で人気となり、小学生にギャルブームが再興し、2023年には小学生ギャル誌「KOGYARU」が登場した。少女漫画では2022年に『ちゃお』でギャル物の『イイネ♥👍REIWAギャル★あみるん』(いわおかめめ)が登場した。 また2016年にはキズナアイを始めとするバーチャルYouTuber (VTuber) が誕生して人気となり、2018年にはサンリオからバーチャルタレント「となりの研究生マシマヒメコ」が、2019年にはちゃおから怪談VTuber「依ノ宮アリサ」が登場している。少女漫画では2020年に『ちゃお』でVTuber物の『青のアイリス』(やぶうち優)が登場して人気となり、2023年にも『ちゃお』でVTuber物の『恋するアバターちゃん』(相庭)が登場した。 一方、上の世代では「推し」文化の時代となった。「推し」という言葉は元々「ハロー!プロジェクト」(ハロプロ)の女性アイドルに対して使われていたが、その後、身近を売りにしたAKB48や地下アイドルのブームで他へと広まっていき、果てはホストにまで使われるようになった。また、推し活する女性の着ていたファッションが地雷系・量産型として流行した。そんな中で2019年に女性向け漫画として『明日、私は誰かのカノジョ』(をのひなお)が登場し人気となり、2022年に深夜ドラマ化された。また、2017年にYouTubeに投げ銭機能「スーパーチャット」が登場することで推しに直接貢ぐことが可能となり、オトナ女子向け漫画では2020年3月にそれをテーマにした『ガチ恋粘着獣〜ネット配信者の彼女になりたくて〜』(星来)が登場している(2023年深夜ドラマ化)。2020年7月には小説から「推し、燃ゆ」が登場して中学生以上に人気となっていき、2021年には『花とゆめ』で『多聞くん今どっち!?』(師走ゆき)が、2022年には『マーガレット』で『神推し! イケメンソウ』(川又宙子)、『りぼん』で『推しと青春しちゃっていーですか!?』(神田ちな)と『推しぴ症候群』(小林ユキ)、『なかよし』で『キミしか推せない!』(咲良香那)、『花とゆめ』で『推しに甘噛み』(鈴木ジュリエッタ)、『別冊マーガレット』で『推しにガチ恋しちゃったら』(春江ひかる)が登場している。 その他、2014年にはInstagramの日本語版が登場し、Instagramではキラキラ女子や港区女子が増えていった。少女漫画では2017年に『デラックスベツコミ』で『港区JK』(しばの結花)が登場した。また港区女子は飲み会への参加で謝礼金を貰うギャラ飲みを行っていたが、港区女子以外でも食事などの謝礼にお金を貰うパパ活がブームとなり、2017年6月にはフジテレビ系の配信ドラマ「パパ活」が登場して地上波でも放送され、少女漫画からは『堕欲~パパ活貧困女子~』(桜井美也)が登場した。また裏垢もブームとなり、少女漫画では『裏アカ破滅記念日』(桜井美也)が登場している。 また、サンリオではテレビアニメ「おねがいマイメロディ」の悪役として生み出されたクロミが継続的に人気となっていき、ディズニーでも2015年ごろよりヴィランズブームを起こしていった。2016年にサンリオと集英社系のWeb漫画サイト「イチゴミン」がリリースされ、そこでクロミを主人公とした「おかしなクロミちゃん」(かのえゆうし)が連載されるようになったものの、このサイトは2019年に更新停止となっている。その後、前述の地雷系コーデと共にクロミのアイテムが定番となっていき、2023年にはクロミのショートアニメ「KUROMI'S PRETTY JOURNEY」も登場した。ゲームではFortniteなどのバトルロワイヤルゲームやIdentityV 第五人格など非対称対戦ゲームが流行し、2022年にはサンリオからも非対称性対戦ゲームの「ミラクルマッチ」が登場して話題となった。一方、漫画では主人公が魔法少女の敵となって魔法少女と対立するものが数多く登場しており(魔法少女#2000年以降参照)、少女漫画からも2013年に『花とゆめ』で『ブラックハートスター』(中村世子)が、2017年に『りぼん』で『アクロトリップ』(佐和田米)が登場し、後者は2024年にアニメ化予定となっている。 またヤンキーブームの再興も起きている。2019年に少年漫画「鬼滅の刃」のアニメ化による少年漫画ブームが起き、2020年に少年漫画「呪術廻戦」がアニメ化されて人気となり、その後、2021年にヤンキー物の「東京卍リベンジャーズ」がアニメ化及び実写映画化されて人気となった。その後、ドラマでもWeb漫画原作の恋愛物「恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜」や少年漫画原作の青春物「ナンバMG5」などのヤンキー物が登場し、少女漫画からもヤンキーヒーローの『ひかえめに言っても、これは愛』(藤もも)が登場して人気となっている。 恋愛では少子化の進行により架空の強制結婚制度をテーマとしたものが多数登場した。2017年には架空の「超・少子化対策基本法」をテーマとした少年漫画「恋と嘘」が少女マンガのような設定に改変された上で実写映画化され、2018年には架空の「抽選見合い結婚法」をテーマとした長編小説「結婚相手は抽選で」がテレビドラマ化され、少女漫画からも2020年に架空の「ニート保護法」をテーマとしたLINEマンガ連載の少女漫画『マリーミー!』(夕希実久)がテレビドラマ化されている。また、強制夫婦物の学園物も登場している。2018年には青年漫画から「夫婦実習」をテーマとした「夫婦以上、恋人未満。」が登場し(2022年アニメ化)、 2019年には子供向け少女漫画でも「一攫千金婚校」をテーマとした『初×婚』(黒崎みのり)が登場して人気作となった。 一方で、実録を中心にマッチングアプリ物の流行も起きている。2017年にTwitterアカウント「暇な女子大生」が話題となってドラマ化され、2018年には青年漫画から「来世ではちゃんとします」が、2019年にエッセイ漫画から「38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記」が登場して、どちらも2020年にドラマ化された。Web漫画では2017年に「出会い系サイトで妹と出会う話」がTwitterで10万いいねを超える話題作となり、少女漫画でも2020年に『ラバーズハイ~親友の彼氏とマッチングしてしまった~』(原作:永塚未知流、漫画:安斎かりん)が登場している。 マンガアプリでは元々男性向けと女性向けを同居させたものが主流となっていたが、2018年より『Palcy』(講談社・2018年-)、『マンガMee』(集英社・2018年-)などの女性向けに特化したマンガアプリも配信されるようになった。また清涼飲料水のテレビCMでは昔より青春物が定番となっていたが、逆に青春もののコンテンツでも「炭酸感」のあるものが多数登場した。少女漫画では2016年に『りぼん』で『ハニーレモンソーダ』(村田真優)が登場して人気となって2018年には『マンガMee』でもそれが再掲連載されるようになり、2020年には競合の『Palcy』からも『微炭酸なぼくら』(フクシマハルカ)が登場している。2021年にはWeb漫画出身の“超微炭酸系”恋愛少年漫画「ホリミヤ」がアニメ化・ドラマ化・実写映画化され、同年にはオリジナルアニメ映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」も上映され、更に同年には前述の少女漫画『ハニーレモンソーダ』も実写映画化されている。 しかしその一方で、テレビドラマや日本映画では「恋愛離れ」が進んでいるとされる。少女漫画では長らく恋愛が中心となっていたが、2020年に『りぼん』の編集長はインタビューで「漫画家志望の若者が『自分が描きたいのは恋愛じゃないから、少年漫画に投稿しよう』と考えること。その先入観は払拭したいです。」と述べている。 なお人気の難病モノには恋愛要素が残っているとされるが、難病モノの中では特に盲聾物が人気となっていった。早くは2016年に少年漫画の「聲の形」がアニメ映画化されて話題となっており、2022年にはオリジナルドラマから「silent」が登場してコア視聴率(13~49歳の視聴率)で 5% 超え(20人に1人以上)を獲得し、2023年には同じくオリジナルドラマから「星降る夜に」も登場した。少女漫画では2019年に『デザート』から『ゆびさきと恋々』(森下suu)が登場して人気となり、2024年にアニメ化される予定となっている。 また、2018年には「マンガボックス」連載の不倫される側をテーマとしたヤングレディース漫画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜』(こやまゆかり)がテレビドラマ化されて「サレ妻」が流行語となり、『マンガMee』でも不倫の代償を描いた『サレタガワのブルー』(セモトちか)が人気となって2021年にテレビドラマ化された。また同2021年には『マンガMee』が「マンガMeeジャンル大賞」を創設し、「不倫・結婚生活」ジャンルの漫画の募集を開始した。 モデルものでは『ちゃお』において専属モデルのちゃおガールをテーマにした読み切りが登場しており、2020年に『ミラクルモデルデビュー』として単行本化されている。また子供向けアイドルでは2016年に『ちゃお』が「ちゃおガール」の中から「Ciào Smiles」を結成していたものの、メディアミックスは行われず2021年に活動終了となっている。一方、2017年に『ちゃお』や『ぷっちぐみ』から実写ドラマとのメディアミックスの『ガールズ×戦士シリーズ』が登場し、その俳優から2019年にアイドルユニット『Girls2』が、2021年にアイドルユニット『Lucky2』が結成され、『ちゃお』では2020年に「Girls2」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『ガル学。』(漫画はおりとかほり)が、2022年に「Lucky2」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『ガル学。II〜Lucky Stars〜』(漫画は同左)が登場した。 また2020年前後には夜好性ブームも起きている。「ヨルシカ」、「ずっと真夜中でいいのに。」、「YOASOBI」などの夜好性バンドが登場して人気となっていったほか、2019年にはヒップホップ・ユニットのCreepy Nutsもよふかしのうたをリリースした。少年漫画からは同2019年に「よふかしのうた」が登場して2022年にアニメ化され、少女漫画では前述の『夜からはじまる私たち』が登場したほか、2023年にちゃおで YOASOBI の幾田りらとのコラボまんが『ロマンスの約束』『サークル』(漫画:まいた菜穂)が掲載された。 その他、音楽ものでは歌劇ものが人気となった。2012年、青年漫画誌「ジャンプ改」に『かげきしょうじょ!』(斉木久美子)が登場し、同誌休刊後の2015年に少女漫画誌『MELODY』へと移籍して継続したほか、2016年には人気少女漫画『学園アリス』の続編として『花とゆめ』に『歌劇の国のアリス』(樋口橘)が登場していた。2018年、ブシロードよりメディアミックス「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が登場して人気となり、2021年には『かげきしょうじょ!!』もアニメ化された。2023年には『ちゃお』にも読み切りとして宝塚音楽学校を舞台とする『王子は舞台に恋をする ~七海ひろき物語~』(原作:小出真未、漫画:ときわ藍)が登場した。 ホラーでは児童文庫から「5分後に意外な結末」(学研、2013年-)や「5分シリーズ」(エブリスタ/出書房新社、2017年-)のような多数のどんでん返し小説群が登場して人気となっていき、2022年には前者が深夜ドラマ化されている。少女漫画では2021年より『ちゃおコミ』で「1話3分シリーズ」の『こわい家、あります。くらやみくんのブラックリスト』が漫画化され(漫画は姫野よしかず)、2022年には前述の『5分後に意外な結末』が『なかよし』の付録や『Palcy』でコミカライズされ、同年より『りぼん』でもオリジナルの『3分後に○○する話』(武内こずえ)が連載されるようになった。 また、サバサバを自称しながらネチネチしている自称サバサバ女(自サバ女)が注目されるようになった。早くは2011年より週刊誌「SPA!」で連載された「アラサーちゃん」に登場しており、2014年にドラマ化されている。またその後も2019年よりマンガワンで連載の『ブラックガールズトーク』(マキノマキ)、同じく2019年よりツイッター上で連載されたの『彼氏の周りに湧くウザい女たち』(染井ロキ)、2020年よりめちゃコミックで連載の『ワタシってサバサバしてるから』(原作:とらふぐ、漫画:江口心、2023年ドラマ化)などが登場した。 またマジョリティから外れたサブカルを好む若者を描いた物も再流行している。映画からは2021年に「花束みたいな恋をした」や「明け方の若者たち」が登場し、青年漫画からも同年に「まじめな会社員」が登場した。少女漫画では2015年には既に『Kiss』で読み切りとして『アレンとドラン』(麻生みこと)が登場し、2016年より連載化されている。 また青春とSFを組み合わせたものも再流行した。2012年より別冊マーガレットで連載され2014年に青年誌に移籍した『orange』(高野苺)が2015年に実写映画化された後2016年にテレビアニメ化およびアニメ映画化され、同2016年にはオリジナルアニメ映画から新海誠の「君の名は。」も登場し、どちらもヒットした。また百合SFもブームとなっており、2018年にはSF誌「SFマガジン」の百合特集が発売前に重版されるなどしていた。少女漫画誌からは2022年に超本格SF新連載として『ちゃお』で『2人はS×S』が登場した。 平成以降に始まった作品の本誌でのリバイバルも行われるようになった。早くは2015年に『りぼん』本誌で10年ぶりに「めだかの学校」の続編作『めだかの学校 2限目!』が登場した。2016年には『なかよし』本誌で「カードキャプターさくら」の続編作『カードキャプターさくらクリアカード編』が登場して2018年よりアニメ化されている。その後も『なかよし』では「東京ミュウミュウ」の男版『東京ミュウミュウ オーレ!』や「ぴちぴちピッチ」の次世代作『ぴちぴちピッチaqua』が本誌で連載されるようになった。 また2019年より始まるコロナ禍での休校およびGIGAスクール構想下でのオンライン授業によって2021年には小学生にもタブレットやパソコンが普及した。2020年には各社が休校への支援として一時的に有料コンテンツの無料公開を行い、少女漫画でも多くの雑誌の無料公開が行われたが、その後、子供向けのWeb漫画サイトが登場していった。例えば児童書ポータルサイト「ヨメルバ」では児童文庫レーベル「角川つばさ文庫」の小説「絶体絶命ゲーム」や「四つ子ぐらし」のコミカライズがWeb連載されるようになり、少女漫画誌からも2021年8月に『ちゃお』派生のWeb漫画サイト『ちゃおコミ』が登場してそこで『ウェディング・デスゲーム』(春瀬花香)が連載されるようになった。また2022年には『ちゃおコミ』に『ドリームゲーム』(にしむらともこ)も登場した。 Web漫画サイトの登場によって昔の作品が再掲載されるようになり、昔の作品の続編がWeb連載されることも増えていった。例えば『りぼん』では「GALS!」の続編作『GALS!!』がマンガMeeで連載されており、『ちゃお』では「ぷくぷく天然かいらんばん」の続編作『ぷくぷく天然かいらんばん おかわり』や『真代家こんぷれっくす!』の続編作『続・真代家こんぷれっくす!』、『チャームエンジェル』の続編作『チャームエンジェル -星天使編-』が前述のWeb漫画サイト『ちゃおコミ』で連載されている。 一方でアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスは縮小が続いっていった(ゲーム自体や付録は継続)。2020年6月には『アイカツ!シリーズ』の最新作「アイカツプラネット!」のアニメが終了し、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも2022年6月に終了となった。また『プリティーシリーズ』の最新作「ワッチャプリマジ!」のアニメも2022年10月に終了し、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも同時に終了した。新シリーズの「ワッチャプリマジ!スタジオ」ではアニメが放送されず、そのコミカライズも『ちゃお』では無く『ちゃお』増刊の「ワッチャプリマジ!FBスタジオ」での連載となっている。 マスコットではサンエックスの「すみっコぐらし」が流行となっており、キャラクター誌や少女漫画誌でもそれが広く展開されていた。2018年、「ちゃおサマーフェスティバル2018」において日本コロムビアとサンエックスは新コンテンツ『げっし〜ず』のゲーム化を発表し、同年に『ちゃお』はそのコミカライズを開始した(作者は鮎ヒナタ)。2020年にはコロナ禍の巣ごもり需要によってNintendo Switchのゲーム『あつまれ どうぶつの森』が人気となって流行語となり、少女漫画誌では「ちゃお」及び「ぷっちぐみ」がそのゲームの漫画化を行った(作者は前者が加藤みのり、後者がかなき詩織)。また任天堂のゲームシリーズ「星のカービィ」のコミカライズは長らく「月刊コロコロコミック」(女児の読者も多かった)やキャラクター誌「キャラぱふぇ」が中心となっていたが、2022年には少女誌『ぷっちぐみ』にも『星のカービィ プププなまいにち』(さくま良子)が、2023年には『ちゃお』にも『星のカービィ』(加藤みのり)が登場した。 またTwitterで連載する個人漫画からは2020年にマスコット漫画「ちいかわ」が登場して人気となり、2022年には「めざましテレビ」内でショートアニメ化されて更に人気が拡大していき、少女漫画誌の付録にも登場するようになった。また2022年には同作者ナガノのTwitter初出漫画『くまのむちゃうま日記』がKissレーベルより出版されている。 Web小説のコミカライズも多数行われるようになってきている。これには乙女ゲーム世界などへ異世界転生や異世界転移するという設定が多く、また悪役令嬢/悪役姫もの、聖女もの、スローライフもの、もふもふものなどが存在し、そのコミカライズは主に『コミックZERO-SUM』、『ゼロサムオンライン』、『B's-LOG COMIC』、『裏サンデー女子部』、『PASH UP!』、『コミックブリーゼ』などの女性向けの雑誌や、『FLOS COMIC』、『レジーナブックス』などの専門Web誌で行われている。また、似たような設定のオリジナル少女漫画も登場しており、ちゃおからは悪役姫ものの『恋して♥悪役プリンセス!』(辻永ひつじ)が、LaLaからは『転生悪女の黒歴史』(冬夏アキハル)や『帝国の恋嫁』(可歌まと)や『死に戻り令嬢のルチェッタ』(天乃忍)が、『花とゆめ』からは『転生したら姫だったので男装女子極めて最強魔法使い目指すわ。』(輝)や『人狼乙女ゲームに転生したので生き残りエンドを目指します』(サザメ漬け)や『乙女ゲーに転生したけど筋肉で解決します』(ダル子)が、『ザ花とゆめ』からは『ドラひよ〜異世界の竜は私のなでなでに弱いみたいです〜』(千歳四季)が登場している。2022年にはLaLa派生の電子コミック誌『異世界転生LaLa』が登場し、また同年にはデジタルマーガレット派生の漫画サイト『異世界マーガレット』(ニコニコ静画内)も登場した。 また、現実世界への転生物やループ物も登場した。テレビドラマでは2022年に転生物の青年漫画「妻、小学生になる。」がドラマ化されて特にネット配信において人気となり、翌2023年にはループ物のオリジナルドラマ「ブラッシュアップライフ」も登場して同じくネット配信で人気となった。また映画でも2022年に直木賞受賞の生まれ変わり物の小説「月の満ち欠け」が映画化され、テレビアニメでも2023年に女性人気の高い青年漫画「【推しの子】」がアニメ化され人気となった。少女漫画では早くは前述の『orange』がループ物として存在したが、2022年には『Sho-Comi』で転生物の『アイドル転生―推し死にたまふことなかれ―』(ひので淘汰)が登場している。 また異世界から現実世界への転生物も登場した。これには『Sho-Comi』の『異世界魔王は腐女子を絶対逃がさない』(池山田剛)、『りぼん』の『花火は醒めない夢をみる』(中島みるく)などがある。 また2010年代には懐古向けの名作の復刊が中心だったコンビニコミックからオリジナル漫画誌「思い出食堂」が登場してヒットし食漫画ブームが起きており、テレビでも2012年より「孤独のグルメ」がドラマ化されてヒットし食ドラマや食バラエティがブームとなっていった。女性漫画からも食漫画が続々とドラマ化されるようになり、少女漫画でも食要素の大きい『Kiss』連載の『わたしのお嫁くん』(柴なつみ)がドラマ化されている。 少女漫画界ではレディース誌やヤングレディース誌、ガールズコミック誌、オトナ女子向け雑誌など上の年齢向けの雑誌が増えることで対象世代による細分化の傾向にある。また女性向けWeb小説がコミカライズ及びアニメ化されて有名となり一般化したことで、人気Web小説のコミカライズを中心とした女性向け新興Web雑誌が増えつつある。一方、紙の少女漫画雑誌の部数は減少傾向にある。 かつての少女漫画ではタブー破りによるジャンルの拡大が行われていたものの、年々恋愛への特化が進んでいったことで恋愛以外のSFや部活物やラブコメ以外のコメディ物が減っていき、今や少女漫画は女性向け恋愛漫画の代名詞となっている。少女漫画として描けないものが増えたことで「描きたいものが少女漫画では無かった」などとして少女漫画から抜け出す女性作家も出てきている。 一方、女性読者側も1980年代ごろより女性漫画家の少年漫画・青年漫画進出や少女アニメのパロディ漫画の流行などに伴って少年漫画や青年漫画から女性の読みにくい絵柄が減ったことで少年漫画・青年漫画への流失が続いていったものの、Web漫画の時代になってからは少年漫画や青年漫画と少女漫画や女性漫画が同居するようになっており、読者から見たカテゴリーの分け隔ては減ってきている。 メディア化ではかつては少女漫画からドラマ化やアニメ化される作品が出てきていたものの、ドラマ向きのレディース漫画やヤングレディース漫画や芸人脚本家の台頭、アニメ向きのラノベや萌え漫画や女性向けWeb小説の台頭、恋愛映画における新海誠監督のアニメーション映画の台頭、実写映画におけるテレビドラマの劇場版の増加と実写邦画自体の市場の縮小などによって、少女漫画のメディア化ではYouTube上でのボイスコミック化が中心となっている。 少女漫画のテレビアニメ化は掲載誌の部数を増やすのに有効な手段であり、2000年代初頭の「ちゃお」は『ミルモでポン!』のアニメ版のヒットによって部数を伸ばし少女漫画誌の部数トップに躍り出ていたものの、後述の少女漫画に依らない少女向けオリジナルアニメ作品の増加や夕方アニメの衰退などによって少女漫画のテレビアニメ化がだんだんと行われなくなり、また、雑誌付録や誌上通販されていた少女漫画のOVAアニメ化も今やほぼ無くなっている。2022年代現在、連載中の少女漫画のテレビアニメ化が継続されているのは主に白泉社の作品となっている(『かげきしょうじょ!!』、『贄姫と獣の王』など)。また白泉社は2021年よりYouTubeの「はくせんアニメちゃんねる」上で新作短編アニメを提供するようにもなっている。 少女向けオリジナルアニメ作品のコミカライズではアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスのアニメがコロナ禍を経て終了し、2022年12月現在はバトルヒロイン物の『プリキュアシリーズ』(なかよし)が残るのみとなっている。またサンリオ作品のコミカライズは、かつては少女漫画誌で行われていたものの、『ミュークルドリーミー』では少女漫画誌よりも低年齢向けの幼児雑誌(おともだち及びたのしい幼稚園)でのみ行われるようになっている。一方、高年齢向けのメディアミックスではバトルヒロイン物やアイドル物を含め少女漫画以外で行われていることが多い状態となっており、その中には女性人気の高いものも登場している。 一方、コロナ禍によって Nintendo Switch およびそのゲームソフトが伸び、少女漫画では「ちゃお」や「ぷっちぐみ」を中心にそのコミカライズが拡大している。これには『どうぶつの森シリーズ』『星のカービィシリーズ』『ポケットモンスターシリーズ』などが存在する(#推しの時代を参照)。 少女漫画の実写映画化も未だ続いているものの、少女漫画原作のキラキラ映画のブーム衰退により、2021年現在では青春よりも俳優(推し)を意識した実写化が中心となっている。例えば、りぼんの『ハニーレモンソーダ』の実写映画化ではジャニーズのラウールをヒーロー役に起用していたが、りぼん本誌ではそれに先立って『ラウールと恋してみない?』を連載している。 また、『りぼん』では「ハニーレモンソーダ」の長期連載化に伴って読者層が上がっており、2021年のLINEの調査では『りぼん』が女子高校生の読む漫画雑誌2位(少女漫画誌では1位)にランクインしてる。同ランキングでは『ちゃお』も4位にランクインしている。 テレビドラマでは女性漫画のドラマ化が続いている一方で若者のドラマ離れが進んでおり、2022年現在、ドラマのコア視聴率(13~49歳の視聴率)は2%以上程度でも合格となっているとされる。 また昔の美容室は少女漫画誌の置いてあるところが多かったものの、今の美容室は電子書籍読み放題のタブレットの導入が進んでいる。少女漫画の入り口となる低年齢向けでは、2021年より『ぷっちぐみ』が様々な読み放題サービスで配信されるようになっている。 作品が掲載されている主な雑誌。現在はほぼ漫画のみの誌面であるが、創刊当初は絵物語や小説、ファッション、スターの情報などの少女向け総合誌として刊行されていたが、1960-1970年代以降に漫画雑誌として再編成されたものも多く、読者層の成長と共に高年齢層向けの雑誌が刊行されていった。 少女漫画雑誌の前身。以下の少女向け漫画雑誌も前述のように、創刊当初は少女漫画以外の絵物語などを多く掲載していた。 後述のハイティーン向けと同様に、比較的新しい時代に年齢の細分化に対応して刊行された。従来児童向けの雑誌か少女向けの下限が担っていた層である未就学児(4歳ごろ)から小学校中学年までの女の子向けで、『ぴょんぴょん』は現在の『ちゃお』が探る低年齢層向け路線の先駆けであったが、1992年に『ちゃお』に統合された。 創刊当初は少女向け雑誌として刊行されていた雑誌も多く、当初の読者層を小中学生としながらも高校生にまで読まれ、文字通り少女漫画の中心であったが、高年齢層向けの雑誌の刊行、メディアミックスへの特化などで、現在は対象年齢を下げ小中学生向けになっている。少女漫画誌の多様化した現在では、前身の少女雑誌と同様に小学生の少女向け総合誌としての役割がこのジャンルを支えているともされる。 創刊当初は少女漫画よりもファッションやスターの情報を多く載せ総合誌的な性質をもっていたが、少女向け同様に徐々に少女漫画誌として充実してきた。 年齢の細分化に対応して刊行された中学生から大学生(20代前半)向けの雑誌であり、その後も若者向けを謳い続けている。 1970年代から1980年代にかけて、ハイティーン向け雑誌として創刊された。 ヤング・レディース誌はレディースコミック誌よりも下の世代に向けて創刊された。当初は学生から社会人向けの雑誌であった。2020年時点では読者の約半数が35歳以上、読者の約7割が30代以上となっている。 ガールズ・コミック誌はヤング・レディース誌よりも下の世代に向けて創刊された。 元々ファッション誌にも漫画は連載されていたが、1990年代末よりファッション誌の派生漫画誌も発行されるようになった。しかしながらこれらは長続きせず、連載陣の一部はヤングレディース誌「FEEL YOUNG」や「ヤングユー」へと移籍している。 ページ数が多く、様々な世代向けのものを掲載していた。また出版社側からは新人作家の育成の場として扱われていた。 中華民国(台湾) 香港 韓国 アメリカ他
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "少女漫画(しょうじょまんが)は、少女向け雑誌に掲載されるなど、主たる読者として未成年女性を想定した日本の漫画である。大人の女性向け漫画は女性漫画(レディースコミック)として区別される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "歴史的には海外にも発生し、海外女性向けコミックの一部として少女向けの作品も存在するであろう。しかし少女向けの出版分野としては途中消滅(1970年代フランス)するなどして、ジャンルとして20世紀に大きな発展を遂げたのは日本においてである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "少女漫画の絵柄は基本的に可愛らしく清潔な印象を与えるものが多いが、その絵柄はお転婆のように元気なもの、落ち着いた癒し系のもの、姫のように美しいもの、ブランド志向でセレブなもの、抒情画やイラストポエムのように抒情的なもの、耽美映画のように耽美的なもの、劇画や青年漫画のようにシリアスなものなど時代に合わせて様々となっている。昔の少女漫画は平面的と錯覚させる絵柄が多かったものの、現在はファンタジーブームや子供向けアイドルブームやダンス必修化などを経て少女漫画にも立体感のある絵柄が増えている。瞳がキラキラと輝いたヒロインや表情が現れる大きな目、ホラー漫画以外でもホラーに近い不安を感じさせる精神世界のような絵柄も特徴的。ヒロインの背丈はフイチンさんのような八頭身から小さな恋のものがたりのチッチような低身長まで存在している。ストーリー漫画では憧れや等身大が強調されるが、コメディやギャグ漫画ではその限りではなく奇人変人だらけのものも多い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "人体の描写は骨や筋肉の隆起が少なく、ファッションと表情の描写に重点が置かれている。現代物の少女漫画では少年漫画と異なりずっと同じ服やアクセサリーや髪型をすることは少なく、青年漫画と別の生々しい生活感を表現することもある。またファッションブック(ファッションプレート(英語版)をまとめたもの)の影響を受けて全身のファッションを扉絵やコマぶち抜きなどで魅せることも行われている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "漫画表現では作品世界の情趣を大切にして目の毒になるものをリアルに描き込むことは避け、モノローグの多用、心象を具象化した背景(咲き乱れる花など)、コマ割りなどを駆使し、感情の流れを重視した演出・画面技法に優れている。またストーリー漫画では少年漫画と比較して心理描写が多く、現実問題を扱った作品が多く、暴力や死の扱いが重い(少女漫画の主旨が共感であることに由来するともいう)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "そのほか、少女漫画は流行した少年漫画や青年漫画や映画やドラマの影響を大きく受けており、伝統的な少女漫画の系統によらない表現手法も含んでいる。逆にまた、少女漫画からは特有の記号的表現が過去に多く誕生していて、現在は少女漫画にとどまらずに全ての分野に拡散している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、1990年代以降にインターネット上で人気となったアニメやゲーム風の「萌え絵」や「萌え漫画」の絵柄はそれらの少女漫画特有の絵柄や要素を原型としてパロディ漫画の登場や女性のゲームデザイナー進出などにより発展したものであり、一般の少女漫画の絵柄よりも属性化・記号化の強いものとなっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "少女漫画は4コマ漫画から始まっており当初はお転婆なものが中心となっていたが、体験談漫画の登場で等身大へと近づいていき、ラブコメの登場でコメディ要素が強くなっていった。一方、ヒロインが不幸な運命に翻弄されるシリアスなものも登場して人気となった(母恋物、洋画翻案物など)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2000年代以降は恋愛漫画及び恋愛要素のある作品が主流であり、運命や占いのようなスピリチュアル要素が取り入れられる一方、女性の自立などのメッセージを含ませた漫画も存在する。一方でギャグ漫画やホラー漫画、アイドル漫画など恋愛漫画以外のジャンルも存在する。ファンタジー漫画やスポーツ漫画も古くからジャンルとして確立しており、現在に至るまで人気が根強い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "子供向けの少女漫画誌は読者の購読を始めてから卒業までの期間が短いため、少女漫画作品は短期終了のものが多く、他のジャンルに比べストーリーの完結性の強く計算された物語が要求される(少女漫画以外でもアニメ化などを意識して完結性を計算したものは存在する)。また少女漫画では一般的に、キャラクターの萌え属性の不変性が重視される萌え漫画などよりも、キャラクターの成長が重視されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "少女漫画家は当初男性作家が多かったものの、女性作家が増えて心情重視のストーリー漫画が一般化したことで男性作家はコメディやギャグへと転向していき(弓月光や魔夜峰央など)、現在はコメディやギャグもほとんどが女性作家により描かれるようになっている(例外もある)。少女漫画の女性作家は学生デビューも多く(ちゃおではやぶうち優やときわ藍、りぼんでは津山ちなみや森ゆきえや春田ななや半澤香織や佐和田米など)若い感覚が取り入れられている。また、かつての『ギャルコミ』編集長は同誌について「30歳を超えると絵が古くなり、若い世代が感覚的についていけない」と語っていた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "メジャー誌の少女漫画家は漫画スクールや新人漫画賞からのデビューが一般的となっている(「ちゃお」は「ちゃおまんがスクール」や「小学館新人コミック大賞」の少女・女性部門、「りぼん」は「りぼんまんがスクール+」、「なかよし」は「なかよしまんがスクール」や「なかよし新人まんが賞」など)。新人の漫画掲載は増刊を中心に行われており(「りぼん」では「りぼんスペシャル」、「ちゃお」では「ちゃおデラックス」、なかよしでは「なかよしラブリー」(休刊)など)、本誌の連載へと至るのは一部の作家のみとなっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、少女漫画家にも特定雑誌への専属契約は存在する(種村有菜など)が、専属契約せずにマルチに活躍する作家も存在している(双葉陽など)。1980年代以降は少女漫画家が青年漫画や少年漫画や4コマ漫画に転向したり兼業する例も多く見られる(#歴史節も参照)。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "大正時代以前よりも少女誌では少女主人公の絵物語が存在していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "一方、新聞漫画では1902年1月に東京五大新聞の一つ「時事新報」の日曜版が北澤楽天による漫画欄を設け、同年3月にそこから子供主人公の漫画が登場し、同年9月には北澤楽天が長期連載となる「凸坊」シリーズの連載を開始したものの、少女主人公の新聞漫画は長らく存在していなかった。大正デモクラシーと大正自由教育運動の中で、1921年には東京朝日新聞の漫画欄「漫画の国」でおしゃれ少女が主人公の片割れの8コマ漫画「リン子と金丸」(山田みのる)が登場し、次いで翌1922年には國民新聞でおしゃれ少女が単独主人公の4コマ漫画「みい子」(前川千帆)が登場したものの、どちらも短期間の連載となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "前述の「時事新報」では1899年に創刊者の福沢諭吉が「婦人は静にして奥ゆかしきこそ頼母しけれ。所謂おてんばは我輩の最も賤しむ所なれども(後略)」としてお転婆を好ましくないものとしていたものの、人気となっていた西洋の翻訳少女小説では当時の西洋のジェンダー規範による物語の制約を回避するために「お転婆少女」(「少年のような少女」)を主人公とするのが定番となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "前述の「凸坊」シリーズの連載を行っていた北澤楽天らは風刺新聞「團團珍聞」や「滑稽新聞」による風刺漫画ブームが起きると1905年に時事漫画誌「東京パック」を立ち上げて時事新報社を辞職したものの、1912年の東京パックの経営権問題とその後継として設立された楽天社の失敗により時事新報社へと戻って「凸坊」シリーズの連載を再開したが、その連載中の北澤楽天が1918年頃に立ち上げた漫画塾「漫画好楽会」からお転婆少女の漫画が登場することとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1923年4月、前述の「漫画好楽会」出身の麻生豊が報知新聞において少女主人公の「ダダ子」の連載を開始し、次いで翌1924年3月には同じく「漫画好楽会」出身の長崎抜天が「時事新報」夕刊において女学校に通う少女を主人公とする漫画「ひとり娘のひね子さん」の連載を開始する。1928年8月、アムステルダムオリンピックで人見絹枝が日本人女性初のメダリストとなると、北澤楽天は同年11月に「時事新報」日曜版の別冊付録「時事漫画」においてお転婆少女が主人公の「とんだはね子嬢」の連載を開始し、翌1929年3月にその連載を前述の長崎抜天が引き継ぐ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その後、少女誌に連載漫画が登場することとなる。1932年には良妻賢母の育成を編集方針とする『少女倶楽部』(大日本雄弁会講談社)に少年漫画「のらくろ」で有名な田河水泡の『スタコラサッチャン』が連載され始め、1935年には同誌に田河水泡の元内弟子である倉金章介の『どりちゃんバンザイ』が連載されはじめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "少女漫画登場前、大正の抒情画ブームを受けて抒情画家を表紙や挿絵に採用する複数の少女誌が人気となっていた。抒情画は「眼が大きく、口が小さく、髪の豊か」な絵柄を特徴としていたが、この大きな眼は「社会に向って見開かれた眼」を意味していた。少女誌には抒情画と抒情詩を組み合わせた詩画集も掲載されていた。この詩画集は後の少女漫画誌における「イラストポエム」の前身に当たる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "また抒情画は元々センチメンタル(おセンチ)な作風が中心となっていたが、1928年に少女誌「少女世界」でデビューした抒情画家の松本かつぢは作風を差別化するためとして「明るくて可愛い抒情画」を確立した。1930年には少女誌「少女の友」(実業之日本社)の編集に内山基が加わり、内山基が同誌の編集方針に「ロマンチシズム・エキゾチズム・ヒューマニズム」を導入した(いわゆる「夢の世界」「憧れの世界」)。これらの方針には内山基が学生時代に関わった米国出身の慈善活動家 大森安仁子の影響があったとされる。「少女の友」の抒情画では前述の方針に従って「健康で、夢を持った、清純な少女」を求め、新世代の抒情画家である中原淳一や前述の松本かつぢを採用した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "この新世代の抒情画から抒情漫画が登場することとなる。1938年、『少女の友』において抒情画家の松本かつぢは抒情漫画『くるくるクルミちゃん』の連載を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1937年に大東亜戦争が勃発すると、1938年5月に社会主義的な革新官僚らが中心の企画院によって策定された国家総動員法が施行され雑誌浄化運動が始まり、同年10月には内務省警保局図書課が雑誌編集者に対して「児童読物改善に関する指示要綱」を提示し、1940年には出版社を糾合した日本出版文化協会が設立され1941年より出版統制を行うようになり、用紙の入手難や印刷所の労働力不足もあって「内容の粗悪なもの」「時局柄不適当なもの」などが規制されることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "少女誌では漫画や抒情画などが「低調」や「主情的ニ偏スル」や「日本人でなく毛唐を描いている」や「全体として弱々しく、敗戦主義の絵だ」などとして注意を受けることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "そんな現実主義の風潮の中で、1940年には『少女倶楽部』に田河水泡の弟子で女性作家の長谷川町子の『仲よし手帖』が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "戦後初期には雑誌用紙の統制が継続していたものの、用紙の確保には多くの種類の雑誌を出版した方が有利な制度となっていたため、雑誌の復刊や創刊が相次いだとされる。少女誌では1945年秋に『少女倶楽部』が復刊して抒情画が復活し、少女漫画の絵柄は抒情画の影響を受けていった。また統制外の仙花紙を用いた大衆娯楽のカストリ雑誌や赤本の出版ブームも起き、その赤本から少女向けのものも登場した(後述)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "また戦後初期にはまだ見合い結婚が一般的であり、自由恋愛による結婚は少なく、少女誌でもそれが反映されていたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1945年には戦後初の映画「そよかぜ」が登場して主題歌「リンゴの唄」が人気となり、次いで翌1946年にはNHKラジオより童謡「みかんの花咲く丘」が登場してヒットした。少女漫画では1949年1月に前述の『仲よし手帖』の連載を引き継いだ新たな少女誌『少女』(光文社)が登場し、その『少女』がお転婆姫物の『あんみつ姫』(倉金章介)を連載して人気を博した。同1949年3月、映画『のど自慢狂時代』に子供歌手「美空ひばり」が出演して人気となっていき、赤本では美空ひばりとあんみつ姫を組み合わせた『ひばり姫歌合戦』(峠てっぺい)や『ひばり姫』シリーズ(伴久良)などが登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また赤本では宝塚歌劇団の機関紙「歌劇」にルーツを持ち、ディズニーの影響も受けていると言われる手塚治虫が和製の西洋おとぎ漫画を開拓していった。1948年にはグリム童話「二人兄弟」の翻案児童漫画として姫救出物の「森の四剣士」が登場し、翌1949年6月には少女向けとして姫を主人公とする『奇跡の森のものがたり』も登場、この流れが後述する『リボンの騎士』へと繋がっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "また両性向けの少年少女誌では冒険物が登場した。戦前より米国の「ターザン・シリーズ」が映画として入ってきて人気となっており、紙芝居でもその影響を受けた山川惣治による「少年タイガー」などの冒険活劇が人気となっていたが、戦後の1946年には映画「鉄腕ターザン」が日本でも公開されてターザン映画の人気が復活した。1946年には漫画単行本「冒険ベンちゃん」が登場し、1948年にはその「冒険ベンちゃん」などの載る少年少女誌「少年少女漫画と読物」が登場し、また1948年2月には漫画単行本「冒險ターザン」が登場して人気となり、同年8月には少年誌「冒険活劇文庫」(後の「少年画報」、明々社)が登場、翌1949年2月にはそれらの対抗として少年少女誌「少年少女冐險王」(秋田書店)も登場した。また1947年には冒険物の紙芝居「少年王者」の翻案を初めとする絵物語本の「おもしろブック」シリーズ(集英社)が登場し、1949年8月にはその「少年王者」を看板とした少年少女誌「集英社の少年少女おもしろブック」が登場した。これら少年少女誌は少年誌寄りであったとされる。また、前述の『少女』の登場もあり、これら新興漫画誌の人気によって「赤とんぼ」「銀河」「少年少女の広場」(旧 「子供の広場」)などの少年少女誌が廃刊に追い込まれた。「少年少女の広場」の編集者の猪野省三はこれら新興漫画誌をカストリ雑誌の子ども版だと批判し、また「銀河」の創刊および編集に関わっていた滑川道夫も児童向け小説や漫画の悪書追放を訴え、これが後の悪書追放運動(マンガバッシング)へと繋がっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1951年には前述の「おもしろブック」の姉妹誌として少女向けの『少女ブック』が登場した。少女ブックでは前述の『あんみつ姫』を踏襲して1951年より『てるてる姫』(早見利一)を、1953年より『もん子姫諸国漫遊記』(倉金章介・宮崎博史)を連載した。また少女ブックでは1951年に女性作家上田としこの『ボクちゃん』も連載したが、『ボクちゃん』は田河水泡のコマ割りと手塚治虫の「映画的なストーリー展開」を参考にして描かれていたとされる。一方、旧来の『少女クラブ』でも1953年に手塚治虫のストーリー漫画『リボンの騎士』を連載し、この頃から少女誌では従来の絵物語などを押しのけて少女漫画の比重が高まっていくこととなった。その後、水野英子がデビューして手塚治虫の住むトキワ荘に入居し台頭、後の少女漫画に影響を与えていくことになる", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "また1947年には第一次ベビーブームが起きており、その子供が成長したことで低年齢向けの漫画雑誌も増加していった。1951年に「少年少女冐險王」の弟誌「漫画王」が、1953年に「少年ブック」と『少女ブック』の弟誌「幼年ブック」が登場した。少女漫画誌では1954年に「少年クラブ」の弟誌「ぼくら」と共に『少女クラブ』の妹誌『なかよし』が、1955年に『少女ブック』の妹誌『りぼん』が登場した。漫画中心の少女雑誌が流行することで、小説中心だった『少女の友』は同1955年に休刊へと追い込まれた(休刊は悪書追放運動の影響とする説もある)。また1958年には秋田書店も少女雑誌に参入したものの、新たに創刊された『ひとみ』は他との差別化が行われていなかったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "朝鮮特需の恩恵などにより日本経済が復興し、1956年には経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言されるまでに至った。漫画では1953年に名作の漫画化を中心とする貸本漫画が登場し、チープな赤本に代わって貸本屋が人気となることで名作以外の貸本漫画も登場した。少女向けの貸本漫画も登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "映画では三益愛子主演などの母もの映画が家庭婦人に人気となっており、少女漫画では女流作家を中心に娘視点の母恋物(母娘メロドラマ)が登場した。貸本漫画では1953年に「太平洋文庫」から「母恋物語」(帷子進)が、1957年より東光堂のレーベル「漫画光文庫」から『母恋シリーズ』(牧美也子)が出版されたほか、母恋と名の付くもの以外でも母子ものが一般的となっており、少女漫画誌では1957年の『少女』に『母さんふたり』(横山光輝)が登場し、次いで、少女漫画誌ではわたなべまさこによる多数の母娘離別物が登場した。『少女ブック』では1959年より『白馬の少女』(わたなべまさこ)、1962年より『ミミとナナ』(わたなべまさこ)が、『りぼん』でも1961年より『おかあさま』(わたなべまさこ)、1963年より『カメリア館』(わたなべまさこ)が連載された。また1957年には『少女ブック』で姉妹離別物の『山びこ少女』(わたなべまさこ)も登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器となり、各戸給水の拡大と噴流式洗濯機の登場が洗濯しながらの井戸端会議を無くしていった。1956年には白黒テレビの普及によって大手邦画会社がテレビへの提供を取りやめ(五社協定#テレビの台頭)、テレビ局はそれに代わってアメリカ製ホームドラマを放送して夢の郊外生活を広めていった。同1956年には住宅不足の解消のためとしてダイニングキッチンを採用する郊外団地が登場し、翌々年の1958年には団地族という言葉も生まれ、核家族化が進んでいった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "またテレビ番組では1956年4月より「カウボーイGメン(英語版)」を初めとするアメリカ製の西部劇が放送されており、少女漫画では同年6月に「少女クラブ」で西部劇モノの『赤っ毛小馬』(水野英子)が、1957年に『少女ブック』で『荒野に夕日が沈むとき』(赤塚不二夫)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また前述の美空ひばりから続く少女スターの人気が続き、『少女ブック』では1955年より中村メイコを元にした『中村メイ子ちゃん』(上田トシコ)が、『少女』では1957年より小鳩くるみを元にした『小鳩くるみちゃん』(水谷武子)が連載された。翌1958年にはテレビドラマから女優の宮城まり子を当て書きした『まりっぺ先生』が登場し、翌1959年に『りぼん』で少女漫画化された(漫画は赤塚不二夫)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "また1946年には東京バレエ団が結成されて「白鳥の湖」のバレエ公演が行われ人気となり、1948年にはイギリスのバレエ映画「赤い靴」が登場してこちらも人気となった。その後、1953年にテレビ放送が開始されるとテレビにおいてもバレエ番組が放送されるようになった。少女漫画誌では1956年1月に『少女クラブ』で『白鳥の湖』(横山光輝)が、同年2月に『なかよし』で別冊付録として『赤いくつ』(原作:三谷晴美、漫画:相沢光朗)が、同年3月に同じく『なかよし』で別冊付録として『白鳥の湖 少女バレー物語』(大城のぼる)が登場した。1958年1月には『少女』でバレエ物の『あらしをこえて』(高橋真琴)が登場し、『少女』ではその後も高橋真琴がバレエ物を連載していった。またバレリーナの松島トモ子が少女スターとして活躍しており、1958年には『少女』の別冊付録として『松島トモ子ちゃんのバレエまんが』が登場した。また1958年10月にはバレエ専門の貸本漫画誌『バレエ』(中村書店)も登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1950年代後半から1960年代前半にかけては、抒情画と宝塚歌劇団の影響を受けた前述の高橋真琴の影響を受け、少女漫画特有の装飾的な表現が発達した。この表現はスタイル画を取り入れたり、人物の背景に花を描き込んだり、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目などである。先行した少女小説の影響などもあって、美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーを展開した。1950年代から1960年代前半の少女漫画はちばてつやや松本零士など男性作家によって描かれていることが多く、この時期の古典的な少女漫画の様式や技法の追究は、主に前述の高橋真琴を始めとする男性作家や男性編集者によって築かれたものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また1950年9月に文部省特選としてディズニー映画「白雪姫」が、1952年にディズニー映画「シンデレラ姫」が日本でも公開され人気となっており、1954年に王女と新聞記者の身分違いの恋愛を描いたイタリア映画「ローマの休日」が公開され大ヒットしていた。1957年には女性週刊誌「週刊女性」(1957年)が、1958年には女性週刊誌「女性自身」が創刊されて人気となり、そこで継続的に取り上げられたこともあって、1958年には身分違いの自由恋愛で皇后となった美智子妃のブームが起き(ミッチー・ブーム)、プリンセス・ラインのドレスがブームとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1953年には世界的なミス・コンテストの一つミス・ユニバースに昭和のシンデレラ姫と呼ばれた伊東絹子が入賞し、その体型であった「八頭身」が流行語となっており、それによって日本人ファッションモデルも八頭身が一般的となっていき、少女漫画でもその影響を受けていった。初期の例としては1957年の『フイチンさん』(上田トシコ)の主人公が八頭身スタイルとなっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "一方、映画では1946年よりミステリー物の「多羅尾伴内」シリーズが放映され人気となり、次いで少年小説誌では1949年より「少年探偵団」の連載が再開されて「少年探偵ブーム」が起こり1954年にはそれがラジオドラマ化され同じく人気となるが、少女誌でも少女探偵小説が人気となっていった。少女漫画では探偵物として「少女クラブ」に『探偵タン子ちゃん』(小野寺秋風、1951年)、『少女ブック』に『探偵テイ子ちゃん』(小野寺秋風)、『なかよし』に『ボクちゃん探偵長』(小野寺秋風)及び『こけし探偵局』(手塚治虫、1957年)が登場した。また『少女クラブ』では1956年7月にシャーロック・ホームズシリーズ『まだらのひも』の少女漫画化を(漫画:石森章太郎)、次いで1957年に海外のスリラー推理小説の少女漫画化を行い(漫画:石森章太郎)、その後同誌では「こわいマンガ」「かなしいマンガ」が増えていって人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また1956年には短編貸本漫画誌の探偵ブック「影」も登場し、1957年には探偵物に限らず短編貸本漫画誌のブームが起きた。少女向けではわかば書房が『花』(1957年)を、若木書房が『泉』(1958年)『こだま』(1959年)『こけし』(1959年)『ゆめ』(1960年)『草ぶえ』(1961年)『風車』(1962年)『風船』を、東京漫画出版社が『さくらんぼ』『ジュニアフレンド』『星座』『忘れな草』『セレナーデ』『ボンジュール』などを、金竜出版社が『虹』(1959年)を、金園社が『すみれ』『こまどり』(1960年)『りぼん』を発行した。短編貸本漫画誌のブームは後も活躍する多くの少女漫画家を輩出することとなった(若木書房#おもな出身作家、矢代まさこなど)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1951年には産業経済新聞で連載されていたジャングル冒険物の「少年ケニヤ」が人気となって1954年に映画化され、少女漫画でも1959年に『なかよし』でその少女版とも言える『マサ子の谷』(藤本章治)が登場している。テレビドラマにおいては1958年に覆面ヒーロー物の「月光仮面」が登場してブームとなり、次いで1959年には「七色仮面」が、1960年には『アラーの使者』が登場し、後者は『ひとみ』で少女漫画化された(漫画は水野英子)。その後、1961年に『ひとみ』は休刊となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "また、少女誌『少女』では1955年より小説「私のグチ日記」(森いたる)が連載されるようになり、次いで1958年には読者の体験談を基にした最初の漫画である『クラスおてんば日記』(今村洋子)が登場した。この等身大の漫画は後の作品に大きな影響を与えたとされる。その後、『クラスおてんば日記』のスピンオフの『チャコちゃんの日記』(今村洋子、1959年-)、『おてんば天使』(横山光輝、1959年-)、『少女たち』(原作:西谷康二、漫画:牧美也子)などの作品が人気となっていった。『少女ブック』でも1961年に「クラスおてんば日記」と同様の『おセンチおてんば日記』(松浦重光)が登場した。また貸本漫画では1959年に若木書房が『ひまわりブック』シリーズを開始したが、そこでも日常的な生活マンガが一般的となっていき、1964年には若木書房より等身大の『ようこシリーズ』(矢代まさこ)も登場し、後の萩尾望都やや樹村みのりに影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "世界の貿易自由化の波に合わせて日本も1960年に貿易為替自由化計画大綱を策定し、それによって国内製紙メーカーが国際競争力を付けるために設備投資を進めていったものの、過剰生産となって紙余りの状態となり、出版界では紙が使いやすくなった。漫画雑誌での紙の量の増大は作品の描写に用いるコマやページ数の増大でもあり、長ページ化とともに画面の展開手法がより流れるようなものへと変化していった。また1955年には「W3事件」によって週刊少年マガジンで滑稽性やかわいらしさを排除した劇画のブームが起き、少女漫画でも劇画の影響を受けたものが増えていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また国民車構想によって1958年に大衆車が登場したことでモータリゼーションが進み、スーパーマーケットや大型書店の支店が全国に広まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1960年代なかばごろから1970年代はじめごろには日本は慢性的な貿易赤字から一転した黒字化の定着など高度経済成長がより進展した。人手不足によって格差の大きな縮小が起きて一億総中流となり、三大都市圏への人口移動が続き、大企業での終身雇用の定着とサラリーマンの企業戦士化が進み、生活の向上と安定が強まることで更なる核家族化が進行し、血縁や地縁(ゲマインシャフト)よりも社縁(ゲゼルシャフト)が強くなっていき、恋愛結婚が見合い結婚を上回った。子供では競争社会から来る焦りで母親から過干渉される子供や、逆に放任されて自宅の鍵を学校へと持っていくカギっ子が増えていった。1960年代に第一次塾ブームが起き、1965年には高校進学が70%に達している。また1966年には文部省の留守家庭児童会育成事業補助要綱によって学童保育(放課後児童クラブ)が広まっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "そして少女漫画はビッグ・バン的な発展を生じた。量的には、以前には少女雑誌の一部分でしかなかった漫画が雑誌のほとんど全てを占めていくようになり、雑誌の数も、隔週刊が毎週刊化、週刊誌から月刊別冊が、さらにそれぞれが増刊誌を出したり、新創刊が次々と生まれた。需要の性質と量の急激な変化と相まって、10代で雑誌デビューする女性新人がとくに多かったのもこの時代である。デビューの仕方も、それまでの持込や人脈によるものから雑誌の中の漫画講座・コンクール・漫画新人賞からの率が増えていった。これらによって少女の職業選択に少女漫画家という選択が入ってきた。一方で、格段に増えた少女漫画雑誌と経済発展による貸本屋の退潮によって、貸本出版の少女漫画は衰退消滅していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "この時期以降の特徴として、生産者(作者)と消費者(読者)の間の強い近さがある。例えばトキワ荘では石ノ森章太郎の女性ファンが集まって石ノ森章太郎の「東日本漫画研究会」に女子部が発足し、少女漫画同人誌の『墨汁二滴』が作られ、そこから西谷祥子、志賀公江、神奈幸子らが輩出されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "テレビの毎週放送の番組や週刊誌が人気となったことで、漫画誌でも週刊化が進んでいった。1950年代後半には既に少年漫画誌で「週刊少年マガジン」や「週刊少年サンデー」が登場しており、少女漫画誌でも1962年に月刊誌「少女クラブ」の後継誌『週刊少女フレンド』が、1963年に月刊誌「少女ブック」の後継誌『週刊マーガレット』が登場した。一方、月刊誌『少女』は後継誌の無いまま休刊となった。この週刊誌化によって少女漫画では新たな方向の模索が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "もともと映画においてロマンティック・コメディの洋画が人気となっており、少女漫画ではフィクション性の強い外国もののラブロマンス(無国籍漫画)が登場した。これには1963年に『りぼんカラーシリーズ』として『りぼん』へと別冊付録された同名の洋画の翻案漫画『ローマの休日』(水野英子)、同年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「麗しのサブリナ」が基の『すてきなコーラ』(水野英子)、1964年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「ジェニーの肖像」が基の『セシリア』(水野英子)などがある。なお1966年にはテレビのレギュラー番組として「土曜洋画劇場」が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1952年に長編小説「赤毛のアン」の邦訳が初めて登場し児童にも人気となったが、その後、1962年には学生の頃に「赤毛のアン」の影響を受けたみつはしちかこが少女誌『美しい十代』で4コマ漫画「小さな恋のものがたり」の連載を開始した(1972年にテレビドラマ化)。『小さな恋のものがたり』は4コマ漫画にイラストポエムを挟む構成となっていた。また水野英子のファンであった男性作家あすなひろしはジュニア文芸誌に漫画を掲載するようになり、その影響を受けてポエムコミックという作風を確立していった。あすなひろしの作風は男性作家立原あゆみにも影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "また1962年には『りぼん』に変身魔法物の『ひみつのアッコちゃん』(赤塚不二夫)が、1964年には『週刊マーガレット』に超能力物の『おかしなおかしなおかしなあの子』(後の『さるとびエッちゃん』、石ノ森章太郎)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また貸本漫画では太平洋文庫を中心に怪奇漫画が多数登場して他の出版社へも広がっていったが、少女向けでは蛇などへの変身譚が登場した。1961年には前述の『虹』に『口が耳までさける時』(楳図かずお)が、1964年には『花』に『ヘビおばさん』(楳図かずお)が登場し、1965年には『少女フレンド』でホラー漫画『ねこ目の少女』(楳図かずお)が、翌1966年には同誌で『へび女(英語版)』(楳図かずお)が、『週刊マーガレット』で『白ヘビ館』(古賀新一)が連載され人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ギャグ漫画では1960年代に赤塚不二夫が「りぼん」「少女フレンド」などの少女漫画誌に連載をもっており、その中から『キビママちゃん』(1965年)『ジャジャ子ちゃん』(1965年)『へんな子ちゃん』(1967年)などが登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1955年、石原裕次郎による都会的な青年小説「太陽の季節」が登場して1956年に映画化され、次いで青年向け貸本漫画でも青年物が登場していき、1963年には青年向け短編貸本漫画誌「青春」がヒロ書房より出版され、少女向けでも1960年代後半に同ヒロ書房より少女向け短編貸本漫画誌『おーい青春』、『Oh! 青春』が登場した。しかしながらヤングコミック(1967年)やビッグコミック(1968年)などの青年漫画誌の登場によって青年向け貸本漫画が衰退し、貸本屋の閉店が続いていった。一方、1963年には歌謡曲でも青春を扱った「学園もの」が登場し、テレビからは「チャニング学園(英語版)」(1964年)などの学園もののアメリカドラマが登場、少女漫画でも1965年に『週刊マーガレット』でアメリカ風ハイスクール物の『マリイ・ルウ』(西谷祥子)が登場し、次いで1966年には同じく『週刊マーガレット』で「青春学園物の草分け」とも言われる『レモンとサクランボ』(西谷祥子)が登場した。また貸本青年漫画誌「17才」で「ロマンスあげます」シリーズを連載していた楳図かずおは、1966年8月より『なかよし』で「ラブコメの原点」とも言われる『ロマンスの薬』(楳図かずお)の連載を開始した。1969年には『週刊マーガレット』に米国舞台のラブコメディ『おくさまは18歳』(本村三四子)が登場し、1970年にはそれが舞台を日本に変更した上でドラマ化され人気となった。同1970年には同誌に米国舞台のラブコメディ『美人はいかが?』(忠津陽子)が登場し、1971年にはこちらも舞台を日本に変更した上でドラマ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "海外ドラマの影響を受けて魔法少女物の流行も起きている。1965年に魔法使いが主役のディズニー実写アニメーション映画「メリー・ポピンズ」が日本でも公開され、1966年にはアメリカドラマ「奥さまは魔女」及び「かわいい魔女ジニー」が日本でも放送されてヒットし、『奥さまは魔女』は週刊マーガレットで少女漫画化されている(作者はわたなべまさこ)。また国内からも魔法少女物のTBSドラマ『コメットさん』(1967年-1979年)や東映アニメ『魔法使いサリー』(1966年-1968年)が登場したが、どちらも原作は横山光輝であり、前者は週刊マーガレットに、後者はりぼんに漫画が連載されることとなった。これらの国産魔法少女のヒットによって「東映魔女っ子シリーズ」は定番となっていき、前述の『ひみつのアッコちゃん』や前述の『さるとびエッちゃん』がそのシリーズとしてアニメ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "なおストーリー漫画が中心になるにつれ少女漫画は少女の心を考えて描く必要が出てきて男性作家では難しくなっていったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "アメリカのロックバンド「ザ・ベンチャーズ」や「ビートルズ」の来日公演と録画放送によって日本でもグループ・サウンズのブームが起きていった。女性向け週刊誌では少女週刊漫画誌『少女フレンド』『マーガレット』と女性週刊誌「女性自身」「ヤングレディ」の間に当たるティーン向け週刊誌がまだ無く、1968年にはグループサウンズの記事が中心のティーン向け週刊誌『週刊セブンティーン』と『ティーンルック』が登場した。また同1968年には多くの漫画雑誌の創刊が行われ、少女漫画誌では『少女コミック』(小学館)が創刊された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "少女漫画や少女向けテレビアニメではヨーロッパやアメリカを舞台した作品が増加していった。特に1960年代には日本人の海外渡航が自由化され、「裕福」で「おしゃれ」なイメージのフランスを舞台にする少女漫画が増えていったほか、留学エージェントの登場によりアメリカへの留学が簡単となり、少女漫画では「週刊少女フレンド」にアメリカ留学をテーマとした『ハリケーンむすめ』(杉本啓子、1969年)や『お蝶でござんす』(漫画:神奈幸子、原作:羽生敦子、1971年)が登場した。また素敵なレディを目指す作品も増えていき、『週刊マーガレット』では1965年に『マリイ♡ルウ』(西谷祥子)、1967年に『初恋さんこんにちは!』(本村三四子)、1968年に『Oh! ジニー』(本村三四子)、1970年に『クラス・リングは恋してる』(西谷祥子)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "また、少女の憧れの職業としてスチュワーデス(航空機の客室乗務員)が浮上した。1970年にはスチュワーデスをテーマとしたテレビドラマ「アテンションプリーズ」が登場し、1971年にはそれが「少女フレンド」で少女漫画化されている(作者は細川智栄子)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "そのほか、1964年に野球競技を含む「1964年東京オリンピック」が開催され、1966年より少年漫画において野球漫画「巨人の星」を始めとするスポ根が登場して人気を博しており、また、大日本紡績の女子バレーボールチームが「東洋の魔女」として人気となっていたこともあって、少女漫画ではバレーボールのスポ根ものが複数登場した。1968年には『週刊マーガレット』から『アタックNo.1』(浦野千賀子)が、『少女フレンド』から『サインはV』(原作:神保史郎・漫画:望月あきら)が、『りぼん』から『ビバ!バレーボール』(井出智香恵)が登場し、翌1969年には少女コミックでも『勝利にアタック!』(灘しげみ)が登場している。同1969年には『アタックNo.1』がアニメ化され、『サインはV』がテレビドラマ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "またボウリング人気が拡大しボウリングブームが起きた。1969年には女子プロボウラーが誕生し、その中の一人として和製ジャンヌ・ダルクこと「中山律子」が台頭した。1971年にはテレビドラマからボウリング物の「美しきチャレンジャー」が登場し、学年誌で漫画化された。少女漫画では同1971年の『別冊なかよし』に『中山律子物語』(原作:八木基克、漫画:いがらしゆみこ)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1950年代後半のミッチー・ブームでは軽井沢のテニスコートが出会いの場であったことによりテニスブームが起きており、また、その後のスポ根ブームの影響も受けて、少女漫画ではテニス物も登場した。1969年には週刊マーガレットで『スマッシュをきめろ!』(志賀公江)が、また週刊少女フレンドで『ラケットに約束!』(原作:一ノ木アヤ、漫画:青池保子)が登場し、1973年には週刊マーガレットで『エースをねらえ!』(山本鈴美香)が登場した。『スマッシュをきめろ!』は「コートにかける青春」としてテレビドラマ化され、『エースをねらえ!』はテレビアニメ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また水泳物もブームとなった。1968年には週刊マーガレットで『ただいまの記録2分20秒5』(藤原栄子)が、1969年には少女フレンドで『金メダルへのターン!』(原作:津田幸夫、漫画:細野みち子)が、りぼんで『若あゆのうた』(横山まさみち)が登場し、『金メダルへのターン!』は1970年にテレビドラマ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "その他、化粧品ブランド「キスミー」のCMソング「セクシーピンク」によって1959年より「セクシー」という俗語の使用が拡大した。1961年にはアメリカ映画の「ボーイハント」が日本でも公開されるなどして、「ボーイハント」も流行語となった。1960年代後半には「ミニの女王」と呼ばれたツイッギーの来日と共に日本でもミニスカートが流行し、その後「ハレンチ」が流行語となり、少年漫画では「ハレンチ学園」(永井豪)が人気となってドラマ化されたが、女性向けでも「小説ジュニア」(「Cobalt」前身)の「ハレンチくん」(土田よしこ、1968年)や、りぼんコミック連載の『赤塚不二夫先生のハレンチ名作』(赤塚不二夫、1969年)が登場している。その後、赤塚不二夫のアシスタントを務めた土田よしこは赤塚不二夫のギャグ路線を引き継ぎ1973年には『つる姫じゃ〜っ!』を連載したほか、1970年代には倉多江美の『ぼさつ日記』も登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "核戦争の脅威が高まったことで1960年代より米ソの緊張緩和(米ソデタント)が模索されており、1968年に核拡散防止条約が調印され、1969年より米ソ間で戦略兵器削減交渉(SALT)が行われるようになった。そんな中、ユネスコ会議において「地球と平和の概念を称える日」が提唱され、また、1969年サンタバーバラ沖油流出事故(英語版)も起き、1970年より米国においてアースデイが開始され、環境問題への注目が高まっていった。少女漫画では1971年に環境問題をテーマにした『日本列島一万年』(美内すずえ)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "またテレビでは1968年に少年漫画「サイボーグ009」がアニメ化され、1971年に改造人間モノの特撮ドラマ「仮面ライダー」が登場し、少年向けにおいてサイボーグが人気となっていった。少女向けでも1973年に東映魔女っ子シリーズで魔法に代わって超能力を使うサイボーグ少女の『ミラクル少女リミットちゃん』が登場し、『週刊少女コミック』(漫画:美紀かおり)や学年誌などで漫画化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "そのほか1970年代初頭、日本では第二次ベビーブームが起きたものの、第四次中東戦争によって1973年10月に第1次オイルショックが起こると人口抑制が叫ばれ、日本の出生数は減少していくこととなった。また1971年のニクソン・ショックによる米ドルの金本位制の終了により日本では経常収支黒字が続いており、当時固定相場制だったこともあって対策に金融緩和が行われ、それによって通貨供給量が増えていったことでインフレーションが起き、また1972年に登場した日本列島改造論によって地価高騰も起き、それらによって狂乱物価となっていった。そんなオイルショックとインフレーションの中で、1973年11月には16世紀の終末の預言書「ノストラダムスの大予言」が登場して大ヒットし、オカルトブームが始まった。また1970年にはイギリスドラマ「謎の円盤UFO」が日本でもテレビ放送され子供の間でUFOが話題となり、学研の学年誌「コースシリーズ」でも超能力やUFOなどの超常現象の記事が人気となっていった。少女漫画では考古学者が多く登場するようになったとされ、その代表的な作品には新興少女漫画誌『月刊プリンセス』に登場した『王家の紋章』(細川智栄子あんど芙〜みん)がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "また手塚治虫作品のアニメ化を行っていた虫プロダクションが1966年に経営問題から虫プロ商事を分離し、その虫プロ商事によって1967年に「鉄腕アトムクラブ」の後継となるまんがエリート育成漫画誌「COM」が創刊され、1969年にはその妹誌の『月刊ファニー』も登場した。しかしながら月刊ファニーは1970年に、COMは1971年に休刊し、その雑誌の元投稿者が1970年代に少女漫画誌で活躍するようになった。これには萩尾望都、竹宮惠子、山岸凉子らがいる。彼女らなどは少女漫画に異風のSFやファンタジーをもたらしたが、その生まれが昭和24年前後であったことから花の24年組と呼ばれている。また、白泉社雑誌を場とした少女漫画デビューの男性作家柴田昌弘(サスペンス性・SF的要素・メカニック)、魔夜峰央(ミステリ・怪奇・耽美・ギャグ)、和田慎二(主にアクション)なども少女漫画の世界の拡大に貢献した。そのほか、主人公の成長を描く話(教養小説的作品傾向)が長編化と共に広がり、複数の成功作が生まれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "一方1960年代後半にはベトナム戦争などの影響で米国において社会そのものを見直すカウンターカルチャーが生じてヒッピームーブメントが起きており、それに伴ってメッセージソングが流行していた。週刊セブンティーンではそんな米国を舞台にした作品として1969年に『ファイヤー!』(水野英子)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同時期に日本でもフーテン族が登場したり、大学紛争の全共闘運動が起きている。また、この全共闘運動において日本でのウーマンリブ運動が起き、その上、1970年代に「かわい子ちゃん歌手」のブームが起きたこともあって「女性上位社会の到来」が予期されるようになり、同時期の少女漫画ではその反動として弓月光の『にくいあんちきしょう』(1970年) や津雲むつみの『おれは男だ!』(1971年-) のような硬派な男主人公の少女漫画が登場し、後者はテレビドラマ化された。また1972年には新左翼による「あさま山荘事件」が起き、少女漫画では1974年に樹村みのりの『贈り物』が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "また三大都市圏への人口集中が問題となっており、1962年には全国総合開発計画が打ち立てられ、1960年代には高速道路や新幹線が開通された。また1963年には明るい未来を描いた少年漫画 鉄腕アトムがテレビアニメ化され、1969年には米国のアポロ11号によって人類が月面へと到達したほかスペースコロニー計画も提唱され、また、1970年には日本で大阪万博が開催され、明るい未来が予期されるようになっていった。この頃の少女漫画では「やさしいママと頼りがいのあるパパと誰からも好かれる良い子」という理想の家庭が描かれていたとされる。これよってノンポリなしらけ世代が生まれ、大学紛争は収束した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "海外映画ではイタリア映画作家ルキノ・ヴィスコンティが耽美へと傾倒していき、少女漫画でも耽美の影響が強くなっていった。耽美作品における芸術とは何かは、例えばヴィスコンティの耽美映画「ベニスに死す」(1971年)内のセリフに現れている。登場人物アッシェンバッハが『「美と純粋さの創造はスピリチュアルな行為」であり「(現実の)感覚を通して(知恵、真実、人間の尊厳の)スピリットに到達することは出来ない」』としたのに対して、登場人物アルフレッドは「(芸術に現実の)悪徳は必要であり、それは天才の糧である」と反論している(なお、ここでの翻訳はオリジナルの英語版の映画がベースであり、日本語版の映画には「背徳」などの超訳が含まれる)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "1970年に日本公開されたヴィスコンティの耽美映画「地獄に堕ちた勇者ども」では強姦描写や近親相姦が存在していた。少女漫画の強姦描写では1971年には「りぼん」増刊の『りぼんコミック』において強姦を描いた『しあわせという名の女』(もりたじゅん)や『彼...』(一条ゆかり)が掲載されており、その後、1973年にはりぼん本誌にも強姦描写のある『ラブ・ゲーム』(一条ゆかり)が登場している。また少女漫画の近親恋愛モノでは1970年には「りぼんコミック」に『うみどり』(もりたじゅん)が登場し、1972年には「りぼん」本誌に『おとうと』(一条ゆかり)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "また欧米では経口避妊薬の登場によって「性の開放」が起きていた。日本でも欧米の影響を受けて少女小説誌やジュニア小説誌でセックスものが流行していき、1974年には映画でもフランス製ソフトコア・ポルノの「エマニエル夫人」が若い女性にヒットし、1975年には邦画からも「東京エマニエル夫人」(日活)が登場した。一方で性教育も問題となり、テレビ番組ではNHKの「こんにちは奥さん」で性教育が取り上げられるようになった。少女漫画では1970年に初めて性が主題の『真由子の日記』(大和和紀)が『週刊少女フレンド』より登場し、その後も『週刊セブンティーン』掲載の『わたしは萌』(立原あゆみ)のようなセックスありきの漫画が登場している。また1970年には学生妊娠物の『誕生!』(大島弓子)も『週刊マーガレット』より登場している。変身物でも1970年に学年誌などで性教育を隠しテーマとした「ふしぎなメルモ」が登場し、1971年にアニメ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "またプレイガール物の漫画も登場した。1971年には『なかよし』に『ジェニファの恋のお相手は』(萩尾望都)が、『別冊少女コミック』に『精霊狩り』(萩尾望都)が登場し、1973年には『週刊少女コミック』に『オーマイ ケセィラ セラ』(萩尾望都)が、『りぼん』に『ハートに火をつけて』(一条ゆかり)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "女性同士の恋愛の漫画も登場している。1971年2月には『りぼんコミック』において『白い部屋のふたり(英語版)』(山岸凉子)が登場し、同年には週刊マーガレットにも池田理代子の『ふたりぽっち』が、1972年にはりぼん本誌にも『摩耶の葬列』(一条ゆかり)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "また1960年代後半には西洋においてカウンターカルチャーからゲイ解放運動が起きており、それがアングラブームと結びついていた。日本の実験映画でも1968年に個人映画作家の岡部道男が米実験映画「スコピオ・ライジング(英語版)」(監督:ケネス・アンガー)の影響を受けてゲイ映画「クレイジーラヴ」を、1969年に映画作家松本俊夫がゲイバーを舞台にした「薔薇の葬列」を製作していた(前述の一条ゆかりのレズビアン漫画『摩耶の葬列』のタイトルの元ネタ)。また一般映画では1969年に少年愛(少年同士の恋愛)を含むイギリス学園映画の「If もしも....」が日本でも公開され、1970年にフランス寄宿学校映画の「悲しみの天使」が日本でも公開された。少女漫画では1970年代に花の24年組を中心として耽美な少年愛モノが増えていった。男同士のベッドシーンが描かれる初期の少女漫画作品としては1972年に別冊セブンティーンで連載された『ゲッシング・ゲーム』(山岸凉子)がある。少年愛では1973年に一条ゆかりが「りぼん」で『アミ...男ともだち』を掲載し、1974年より映画「悲しみの天使」の影響を受けた萩尾望都が週刊少女コミックで『トーマの心臓』を連載し、また、1976年より映画「If もしも....」の影響を受けた竹宮恵子が週刊少女コミックで『風と木の詩』を連載した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "そのほか、当時は1960年代に起きたブルーボーイ事件によって男性から女性への性転換も注目されていた。少女漫画では1971年10月の『りぼん』に『さらばジャニス』(一条ゆかり)が登場している。また、性転換コメディも登場して人気となった。弓月光は少女漫画として男主人公の性転換コメディ『どろん』(1972年)、『笑って許して』(1973年)を『りぼん』に、『ボクの初体験』(1975年-)を『マーガレット』に連載し、このうち『笑って許して』は後の人気少年漫画「らんま1/2」(高橋留美子)にも影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1970年代初頭にはジャンボ機が登場して海外旅行が身近となり、また女性添乗員も登場し、それらに伴って女性出国者の数も急激に増加していった。そんな中で1972年に週刊マーガレットからフランスのベルサイユを舞台にした歴史フィクション漫画『ベルサイユのばら』(池田理代子)が登場し、その後、宝塚歌劇団でミュージカル化され、『ベルばらブーム』が起きることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "また1960年代に司馬遼太郎の歴史小説「新選組血風録」及び「燃えよ剣」が登場してドラマ化され新選組ブームが起きており、少女漫画では『ベルサイユのばら』ブームの後の歴史フィクション物として新選組が注目されるようになった。1973年には「りぼん」に『恋よ剣』(弓月光)が掲載され、1975年には「週刊マーガレット」に『天まであがれ!』(木原敏江)が、1976年には「LaLa」に『あさぎ色の伝説』(和田慎二)が連載され始めた。しかしながら『天まであがれ!』は読者ウケが良くなく連載期間が短縮されたとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "また学園漫画では1965年に『りぼん』で『5年ひばり組』シリーズ(巴里夫)が、1972年に『りぼん』で『6年○組○○番』(巴里夫)が登場した。なお、その後、1974年以降、児童文学では「ミス3年2組のたんじょう会」(1974年)、「四年三組のはた」(1975年)を初めとする「○年○組もの」が多数登場するようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "そのほか、1960年代のエコノミックアニマル化への反省から1970年代には人間性回復が謳われるようになった。音楽では四畳半フォークなどの生活派や叙情派のフォークソングが人気となったほか、歌詞に「愛」を入れた歌が増加していった。また前述の少女アニメ『魔法少女サリー』でも「愛と希望」が強調されていたほか、1960年代後半には恋愛結婚が見合い結婚を上回った。少女漫画では『りぼん』に愛の力を強調する一条ゆかりの作品群が登場し、その中から1972年の『りぼん』別冊付録に結婚しても「心はいつも少女のようで」居たいとする『9月のポピィ』(一条ゆかり)が登場した。また『りぼん』では『乙女ちっくマンガ』と呼ばれる日常の微妙な少女的センスとしての少女趣味的な作品群も登場して支持されていった。乙女ちっくマンガの代表的な作家には陸奥A子、田渕由美子、太刀掛秀子が居る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1974年には高校進学が90%に達し、1970年代には高学歴社会の到来によってオーバードクターが話題となっていった。高学歴社会の到来により、若者は全能感を保ちながら新しい知識を吸収し、既存の社会に対する半人前意識を失って社会へと同化することを拒み、居心地の良い青年期の猶予期間(モラトリアム)に留まろうとするモラトリアム人間が多くなったとされる。また、かつては社会のために貢献して自己愛を満たすのが一般的となっていた(社会化された自己愛)が、マスメディアの発展による社会的英雄の失墜とそれによる既存社会への不信によって、自己のための自己愛(裸の自己愛)が一般的となっていったとも言われている。そんな中で社会性よりも時代の空気を重視する時代が到来し、「ナウな」「ナウい」が流行語となり、ギャルや新人類が台頭していく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "また、1970年代以前より子供向け番組の出演者「水森亜土」(あどタン)が人気となっており、あどタンの使う亜土文字や亜土言葉は少女の間で今風と評価されていた。1970年代の少女漫画では『別冊少女フレンド』に『UッK-UK-亜土ちゃん』や『あなたと亜土たんのおてまみ広場』が連載されていた。また「亜土ネコミータン」などの水森亜土イラストのキャラクターグッズを1960年代後半に発売していた山梨シルクセンターが1970年代にサンリオとなって台頭し、1971年にはサンリオが新宿でファンシーグッズのショップを構え、1974年にはオイルショックによる紙不足を見越して事前に紙を調達していたサンリオが安価にファンシーノートを提供してブームを起こした。これらの流れによって若い女性の間では「かわいい」「ファンシー」がブームとなっていった。一方、少女漫画誌『りぼん』でもたびたび水森亜土のイラストのグッズを付録にしており、1974年にはアイドルグッズの付録を減らして少女漫画絵のかわいいグッズを付録するようになった。また『なかよし』でもそれに対抗していき、ファンシーグッズの増加とおこづかいの制約によって少女漫画の輪番購入による回し読みと付録の交換文化が生まれ、またグッズの贈り合いのほか、お菓子や手紙などの贈り合いも一般化していった。このファンシーグッズの流れは80年代消費社会へと続いていくこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "また『りぼん』の近況欄ではしらいしあいを皮切りに漫画家がかわいい変体少女文字(丸文字)を使い始め、1974年頃には少女の間でも変体少女文字が使われ始めるようになり、1978年にはそれが普及したとされる。「かわゆい」という語も『りぼん』の『キノコ♥キノコ』(みを・まこと)のキャッチコピーや『週刊少女フレンド』などで使われ始め、1980年代初頭には「ウッソー」「ホントー」「カワユーイ」の三語が流行していった(三語族)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "また上記の流れは男性にも波及し、少女漫画が男性読者にも注目されるようになり、少女漫画の影響を受けた絵柄や心理描写も少年漫画へと波及し始めた。また作家の環境として貸本出版が消滅した代わりに、学校において漫画研究会(漫研)部が増え、コミックマーケットなどの同人誌即売会が広がって作品発表とファン交流の場を与えた(後述)。作家の年齢層も上がっていった。また、漫画道具が多様になっている。昭和30年代にはカブラペンなどわずかだったが、1970年代には多様なペンとスクリーントーンが使われるようになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "また、新少女漫画誌のブームが起き『花とゆめ』(1974年)『りぼんデラックス』(1975年)『プチマーガレット』(1976年)『LaLa』(1976年)『リリカ』(1976年)『プチコミック』(1977年)『ちゃお』(1977年)『ぶ〜け』(1978年)『プリティプリティ』(1978年)などの雑誌が創刊されたほか、1978年には秋田書店の『ひとみ』も再創刊されている。そのうち『リリカ』はサンリオが海外も視野に入れて創刊したものであり、4コマ漫画の『HELLO KITTY』(清水侑子)ほか絵本的な漫画を連載していたものの、1979年に休刊となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "ペットでは1960年代に従来の番犬に代わって室内犬が人気となっていき、1970年代にはアニメシリーズの世界名作劇場より「フランダースの犬」(1975年)や「あらいぐまラスカル」(1977年)などの動物モノが登場して人気となった。少女漫画からは1977年に『ぼくの鈴ちゃん』(たかなししずえ)が、1978年に『おはよう!スパンク』(原作:雪室俊一、漫画:たかなししずえ)が登場し、後者は1981年にアニメ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "またテレビアニメにおいては1970年に擬人化物である「みなしごハッチ」(1970年)が人気となって、その後も擬人化物のアニメが次々と製作されるようになり、少女漫画からも1975年に「なかよし」で擬人化犬ものの『わんころべえ』(あべゆりこ)が登場している。また、1978年には「LaLa」で猫耳ものの『綿の国星』(大島弓子)が登場し、1980年前後には若者の間で猫耳をファッションとして身に着けることが流行して社会現象となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "また世界名作劇場以外でも西洋舞台の名作文学の雰囲気を持つ作品が登場した。1975年、『なかよし』に名作文学の雰囲気を持つ『キャンディ♡キャンディ』(原作:水木杏子、漫画:いがらしゆみこ)が登場し、1976年にアニメ化され人気となり、『なかよし』の部数を押し上げた。1978年には『りぼん』でもそれに対抗した『ハロー!マリアン』(佐伯かよの)が登場した。また、1979年には『キャンディ♡キャンディ』の後番組として東映魔女っ子シリーズからも西洋舞台の「花の子ルンルン」が登場し、その影響などによって「ルンルン気分」という言葉や「ルンルン」という擬音が広く流行した。一方、少年漫画では「ぶりっ子」という言葉が流行し、それに符合する女性アイドル松田聖子が人気となり、女学生にも聖子ちゃんカットが流行となった。松田聖子は1980年代における「少女期の拡大」の典型例とも言われている。少女漫画では例えば『りぼん』に『るんるんこりす姫』(みよし・らら、1981年-)が登場している。一方、ぶりっ子が増えることで反ぶりっ子感情も登場し、1981年には現役高校生作家による小説『1980アイコ十六歳』が登場してドラマ化および映画化され、1982年にはそれが週刊マーガレットで少女漫画化されている(漫画は飯塚修子)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1970年代中盤よりファッション誌の旅行特集によって女性の個人旅行が人気となり (アンノン族)、1977年にはコンパクトな初のオートフォーカスカメラであるジャスピンコニカ(コニカC35AF)が登場して女性にも人気となった。また、1975年にファッション誌「JJ」が登場してニュートラを初めとするブランドブームが起き、1981年にはブランド小説「なんとなく、クリスタル」がヒットしてブランド志向の若者は「クリスタル族」と呼ばれるようになった。少女漫画では1970年代後半より外国を舞台とした作品が減少していき、代わりにセレブ物の『有閑倶楽部』が登場して人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "また、1982年に西武百貨店のキャッチコピー「おいしい生活」がヒットすると、いかに日々の生活を満喫するかという価値観が広まり、フィクションよりも現実世界を追い求める風潮が強まった。女性はおいしい生活を求めて男を求めるようになり、「愛人バンク 夕ぐれ族」の登場によって援助交際が増加していった。この頃に青年漫画では「愛人」、ドラマでは「愛人バンク殺人事件」(土曜ワイド劇場内)が登場し、少女漫画でも『愛人志願落第生』(くさか里樹)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また1980年には性豪ジャコモ・カサノヴァの伊米合作映画『カサノバ』が日本でも公開され、少女漫画では1983年にタラシヒーローの『東京のカサノバ』(くらもちふさこ)が登場して人気となった。「くらもちふさこ」はその後も三股ヒーローの『A-Girl』(1984年)などを出している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "またヤマハ音楽教室などによってピアノの普及が進んだことで、ピアノ物の少女漫画も登場し人気となった。これには1975年よりの『オルフェウスの窓』(池田理代子)や、1980年よりの『いつもポケットにショパン』(くらもちふさこ)がある。その後、1985年、バラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「お嬢さまを探せ」のコーナーによって若者の「お嬢さまブーム」が起きてすぐに、ソ連の天才ピアニストのスタニスラフ・ブーニンが来日して人気となり、ブーニンはその追っかけの対象となったとされる(ブーニン現象)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "不良ブームも起きている。1968年よりアメリカの暴走族映画の影響を受けて日本映画からも「不良番長」シリーズが登場し、1971年にはスケバン物の「女番長シリーズ」も登場し、1973年にはヤクザ映画まで仁義物ではない「実録シリーズ」(「仁義なき戦い」など)が登場した。1970年代には不良少年がオートバイを手に入れ暴走族となって広域で徒党を組むようになり、また、1970年代後半には中学校や高等学校において先生などに対する校内暴力が増えていき問題となった。1980年代にはロングスカートが流行し、「なめ猫」や尾崎豊も登場、不良に憧れる少女が増加していていった。そんな空気の中で、少女漫画では1977年に『プチコミック』で不良ヒーローを据えた『ハイティーン・ブギ』(原作:後藤ゆきお、漫画:牧野和子)が登場し、1982年に映画化された。また1981年には不良風キャラの登場する少年漫画「Dr.スランプ」がアニメ化が放送されて人気となり、『りぼん』でもそのアニメの付録が登場し、翌1982年には『りぼん』からも不良ヒーロー物のメディアミックス『ときめきトゥナイト』(池野恋)が登場して人気となった。1985年には『別冊マーガレット』からも暴走族物の『ホットロード』(紡木たく)が登場しヒットした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "また、原宿では1977年に歩行者天国(ホコ天)が設けられ、その後、派手な衣装を提供する「ブティック竹の子」やフィフティーズ・ルック(1950年代アメリカファッション)を提供する「ピンク・ドラゴン」(「クリームソーダ」ブランドなど)が開業されると、ホコ天にディスコを踊る竹の子族やロカビリーを踊るローラー族が登場した。その後、原宿のホコ天を巻き込んだバンドブームがあり、少女漫画では『愛してナイト』(多田かおる、1981年)、『愛の歌になりたい』(麻原いつみ、1981年)、『プラスティック・ドール』(高橋由佳利、1983年)、『ダイヤモンド・パラダイス』(槇村さとる、1984年)、『アンコールが3回』(くらもちふさこ、1985年)、『3-THREE-』(惣領冬実、1988年)などのバンド物が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "そのほか、日本でもギャルが台頭した。1975年にアメリカ西海岸(ウェスト・コースト)のスポーツ文化(スキー、テニス、ドライブ、サーフィンなど)を特集する男性誌「POPEYE」が登場して少年に人気となり、1978年には少女向けでもアメリカ西海岸のギャル文化を特集をする「ギャルズライフ」(主婦の友社)が登場した。1980年にはその増刊として少女漫画誌の『ギャルズコミック』(後の『ギャルコミ』)も登場している。また、旧来の少女漫画誌でもアメリカ西海岸を舞台したものが多数登場して人気となっていった。これには1978年より「別冊少女コミック」で連載されたサンディエゴ舞台の『カリフォルニア物語』(吉田秋生)、1980年より「LaLa」で連載されたロサンゼルス舞台の『エイリアン通り』(成田美名子)、1981年より「別冊少女コミック」で連載されたロサンゼルス舞台の『ファミリー!』(渡辺多恵子)などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "しかしながらギャルズライフはだんだんヤンキー路線を取るようになっていき、1980年代初頭に新たなギャル雑誌「Popteen」「キャロットギャルズ」「まるまるギャルズ」などが登場すると、1984年にはギャル雑誌を標的とした図書規制法が立案され、法案が成立しなかったもののギャル雑誌の衰退するきっかけとなった。「ギャルズライフ」はリニューアルして「ギャルズシティ」となったものの約一年で休刊となり、その後、その増刊だった『ギャルコミ』も休刊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "またスパイ・アクションも台頭している。前述の西部劇のテレビ放送によってガンブームが起きており、1964年にスパイ・アクション映画「007/危機一発」が日本でも上映されヒットし、1970年に「007 ロシアより愛をこめて」として再上映されていた。少女漫画では1976年よりスパイ・アクション漫画の『エロイカより愛をこめて』(青池保子)が登場して人気となったほか、1978年より連載の人気ナンセンスギャグ漫画『パタリロ!』(魔夜峰央)にもスパイのバンコラン少佐が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "1974年には宇宙SFのテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」が登場し、1978年には宇宙SF映画「スター・ウォーズ」が日本でも上映され、宇宙SF物がブームとなった。この頃の少女漫画では『11人いる!』(萩尾望都、1975年-)、『最終戦争シリーズ』(山田ミネコ、1977年-)、『樹魔・伝説』(水樹和佳、1979年-)、『ブレーメン5』(佐々木淳子、1980年-)などのSF物が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "また1970年代後半にはオカルトブームの中から欧米のニューエイジという思想が精神世界という名前で日本にも広まった。少女漫画では1983年に植物の精神世界へと入って戦う『ダークグリーン』(佐々木淳子)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "狼男のブームも起きている。1980年代初頭にアメリカ映画から「ハウリング」「ウルフェン」「狼男アメリカン」「狼の血族」などの狼男ものが登場し、少女漫画からも1984年に『ムーン・ライティング』(三原順)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1972年に中学校での、1973年に高等学校でのクラブ活動が必修化され、学校では漫画研究会(漫研)部が増えていった。また1972年にはSF大会の流れを組んだ漫画イベント「日本漫画大会」も開始された。1976年にはSF雑誌「奇想天外」が登場し、1978年にはその雑誌の別冊として「SFマンガ大全集」が登場した。翌1979年にはSF漫画誌「リュウ」及び「少年少女SFマンガ競作大全集」が、1982年にはSF漫画誌『ウィングス』が、1983年にはSF漫画誌「月刊スーパーアクション」が登場したが、その後のSFの衰退によって『ウィングス』は少女漫画誌となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "一方、1975年には前述の「日本漫画大会」を追い出された漫画批評集団「迷宮」によって「コミックマーケット」が立ち上げられた。コミックマーケットでは当初少女漫画の同人誌が流行していたものの、新漫画誌の創刊ブームが起きたことで第一世代の作家が『LaLa』などの新興商業誌に流れていったとされる。また少年愛でもコミケの流れを汲むニューウェーブとして「花の24年組」の少年愛路線を引き継いだ耽美派商業雑誌「JUNE」(1978年)や「ALLAN」(1980年)が登場した。1980年には『花とゆめ』に漫研および同人誌即売会を舞台にした少女漫画『コミック・フェスティバル』(佐々木倫子)が掲載された。一方、コミックマーケットでは作家の入れ替わりによってアニメのパロディ(アニパロ)漫画が台頭し、1982年にはアニパロ中心の商業漫画誌「アニパロコミックス」が登場した。アニパロでは少年アニメなどをパロディしたショタ物の「やおい漫画」だけでなく少女アニメなどをパロディしたロリ物の「ロリコン漫画」も登場しており、その流れで生まれた商業ロリコン漫画誌の一つ「プチ・パンドラ」(1984年)は後の少女漫画家武内直子にも影響を与えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "また、1970年代には商業漫画でも国内作品のパロディ物が登場するようになった。少年漫画では「月光仮面」のパロディ漫画「けっこう仮面」(1974年-)などが登場して人気となり、少女漫画でも「伊賀の影丸」のパロディ漫画『伊賀野カバ丸』(亜月裕、1979年-)が登場して人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "1970年代より宅配便が発展し、またマイコン技術による多品種小量生産も広がっていく。1976年には家庭用のVHSビデオデッキが登場して人気となっていき、1979年には音楽を持ち運ぶウォークマンという個人化的製品が登場してヒット、軽薄短小や分衆という言葉が誕生した。第一次バンドブームも起きて、音楽以外でもノリが重要となっていきノリの悪いネクラに対する差別が起きるようになった。そんな中で、1980年代中盤には正義感のあるスケバン物が登場した。ドラマでは『花とゆめ』に連載されていた『スケバン刑事』(和田慎二)が1985年にテレビドラマ化されて人気となり、翌1986年にはその対抗としてオリジナルテレビドラマ「セーラー服反逆同盟」が登場したものの、後者のコミカライズは少年誌となっていた。また1985年には不良少女物の『花のあすか組!』(高口里純)と共に新少女漫画誌『月刊ASUKA』が創刊され、その漫画が1988年にテレビドラマ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "また1976年には翻訳小説「飛ぶのが怖い」が登場し、翌1977年には自由を謳歌する「翔んでる女」が流行語となった。またそれによってかよらずか離婚も増加していた。女性誌では1977年に「an・an」「non・no」「JUNON」の上位誌としてニューファミリーをメインターゲットに据えた「クロワッサン」「MORE」「ARURU」が登場したものの部数が伸びず、1978年には「ARURU」が休刊し、「クロワッサン」も「女の新聞」へとリニューアルされ、それにより「クロワッサン」は離婚を含めたシングル謳歌を広めていくこととなった。1979年には「キャリアウーマン」が流行語となり、また、同年にはハーレクイン小説の日本語版も登場している。1980年には女性向け就職情報誌とらばーゆが誕生し、「とらばーゆする」が流行語となった。1980年代には日本の貿易黒字が世界最高になり、1986年の男女雇用機会均等法の施行で女性の職業選択の幅も広がった。そんな中で1980年代半ばにはOL向け女性漫画誌の『オフィスユー』が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "一方、1970年代後半には前述の校内暴力に合わせて子供から親への家庭内暴力も注目されるようになった。またテレビドラマでは1976年の嫁姑問題物の「となりの芝生」で「辛口ホームドラマ」が確立し、次いで1977年夏には家庭の崩壊を描く「岸辺のアルバム」が登場、その後の主婦向けのドラマでは「金曜日の妻たちへ」(1983年)や「くれない族の反乱」(1984年)のような不倫物が流行して「金妻症候群」や「金妻する」や「くれない族」が流行語となった。1984年には離婚家庭の増加によって離婚家庭が死別家庭を上回り、1985年には小説「家庭内離婚」が登場して翌1986年にそれがドラマ化され同語が流行語となり、同1986年には「タンスにゴン」のCMから「亭主元気で留守が良い」というキャッチコピーが登場して流行語となった。この頃に大人の女性向けの漫画が成長し、離婚や不倫などをテーマとしたレディースコミックがジャンルとして確立した。少女漫画でも1983年に『DUO』で家庭崩壊物の『夢虫・未草』(大島弓子)が登場している。またその後にはレディースコミックよりも下の世代向けのジャンルとしてヤング・レディースも登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "また、1983年にフジテレビのゴールデンタイムのドラマ枠「月曜ドラマランド」が登場し、その枠で4コマ漫画や少女漫画のドラマ化が行われるようになった。初期のドラマ化された少女漫画作品には『あんみつ姫』(倉金章介)と『うっふんレポート』(弓月光)が存在する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "その後、1985年4月にはフジテレビで高校生アイドルオーディション番組「夕やけニャンニャン」が始まり、その番組の中でアイドルグループ「おニャン子クラブ」が結成された。同年7月リリースのデビュー曲「セーラー服を脱がさないで」がヒットし、この頃にブルセラショップが誕生して90年代に掛けて増加していく。一方、同7月には「東京女子高制服図鑑」が出版されて学校選びに制服のデザインが注目されるようになり、またDCブランドブームもあって、学校ではブレザー型の制服へのモデルチェンジが進んでいった。なお前述のドラマ枠「月曜ドラマランド」では「おニャン子クラブ」を起用して『有閑倶楽部』(一条ゆかり)、『ピンクのラブソング』(飯塚修子)、『ないしょのハーフムーン』(赤石路代)などの少女漫画がドラマ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "1987年には「おニャン子クラブ」から工藤静香がソロデビューを果たして人気となり、少女漫画からは1989年に工藤静香似の主人公の『マリンブルーの風に抱かれて』(矢沢あい)が登場した。また同1989年にはアイドル歌手「田村英里子」がデビューしてそのタイアップテレビアニメ『アイドル伝説えり子』が放送され、そのアニメが『月刊ASUKA』で少女漫画化されている(漫画は河原歩)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "また、1981年にはニューハーフの六本木美人「松原留美子」がデビューして「ニューハーフ」という言葉が定着した。このニューハーフブーム受けて、少年漫画から同年に「ストップ!! ひばりくん!」が登場し人気となって1983年5月にテレビアニメ化された。少女漫画からは同1983年3月に『前略・ミルクハウス』(川原由美子)が、1986年に『ここはグリーン・ウッド』(那州雪絵)が登場している(男の娘#漫画)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "その他、1980年代には「少年隊」や「光GENJI」などのジャニーズ事務所所属の少年アイドルグループのブームもあり、少女漫画でも『別冊少女コミック』に少年アイドルグループ物の『はじめちゃんが一番!』(渡辺多恵子)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "『キャンディ♡キャンディ』のような西洋を舞台とした大河的な少女漫画およびそのアニメ化も続いていた。1982年には『週刊少女コミック』に同じく西洋舞台の『ジョージィ!』(原作:井沢満、漫画:いがらしゆみこ)が登場して1983年に「レディジョージィ」としてアニメ化され、1983年には『ちゃお』に西洋舞台の『アルペンローゼ』が登場して1985年に「炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ」としてアニメ化され、1986年には『ひとみ』に西洋舞台の『レディ!!』(英洋子)が登場して1987年に「レディレディ!!」としてアニメ化され、1988年にはその続編アニメの「ハロー!レディリン」も登場している。東映アニメーションは「レディレディ!!」を「純粋な少女漫画路線」と評している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "また、占いは昔から少女誌に存在したが、1980年代にはおまじないが人気となっていく。1970年前後、コンピュータ商法のブームからデパートにコンピュータ占いの機械が登場する。1978年12月、星占いの専門誌「星占い手帳」が登場し、翌1979年4月には少女向け星占い誌「My Birthday」が登場したが、「My Birthday」ではおまじない関連の投書を掲載しておまじないの投書がブームとなり、1982年にはおまじないをまとめた本「私の知ってるおまじない」も登場した。少女漫画誌では『りぼん』におまじないグッズの付録が登場するようになったほか、乙女チックラブコメから『ため息の行方』(陸奥A子)のようなアミニズム的な作品が登場した。また1986年2月には前述の「My Birthday」の増刊として漫画誌『おまじないコミック』が登場し、同年4月にはコミックの掲載のある少女誌『ピチレモン』も登場。おまじないブームが拡大していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "また、1970年代のオカルトブームは、1980年代に前世ブーム(戦士症候群)となった。少女漫画では1986年に『花とゆめ』でそれをモチーフとした『ぼくの地球を守って』(日渡早紀) が登場して人気となり、その後そのフォロワーとして『ウィングス』に『シークエンス』(みずき健)が登場した。この『シークエンス』によって少女の自殺未遂事件が起きている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "1977年にはイタリアのホラー映画「サスペリア」が、1979年にはアメリカのホラー映画「ハロウィン」が、1981年にはカナダのホラー映画「プロムナイト」が日本でも上映され、また1977年には日本映画からホラーコメディ映画の「ハウス」が登場し、ホラービデオでは1986年にトロマ・エンターテインメントが「ホラー・パーティ」を出していた。少女漫画や女性漫画では1985年に朝日ソノラマが「ホラー・オカルト少女マンガ」誌『ハロウィン』を、1986年に大陸書房が「ホラー少女コミック」誌『ホラーハウス』を、1986年に近代映画社が「ファンタスティック&ホラーマンガ」誌『プロムナイト』を、1987年に秋田書店が「100%恐怖コミック」誌『サスペリア』を、1988年に主婦と生活社がホラー誌『ホラーパーティー』を創刊した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "また1980年代にはミステリー少女小説のブームも起きている。1982年に赤川次郎の一般小説「三姉妹探偵団」が登場して1986年にフジテレビでテレビドラマ化され、少女小説でも1987年に「赤い靴探偵団シリーズ」 が、1988年に「放課後シリーズ」が登場して人気となった。少女漫画誌や女性漫画誌ではミステリーと名前の付く漫画誌が多数創刊された。これには1985年創刊の『ミステリー La comic』(後のラ・コミック)、1986年創刊の『ミステリーJour Special』、1988年創刊の『ミステリーボニータ』と『セリエミステリー』と『Mystery I』、1989年創刊の『BE・LOVE ミステリー』と『Sakura mystery』(後のミステリーサラ)などがあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "そのほか、1970年代後半に欧米でニュー・ウェイヴやパンク・ロック、インディー・ロック、オルタナティヴ・ロックなどのブームが起きており、1980年代には日本でもインディーズレーベルの「ナゴムレコード」(1983年)、「TRANS RECORDS」(1984年)、「キャプテンレコード」(1985年)などが登場してサブカル誌「宝島」がそれらを取り上げるようになった。1989年には「宝島」の派生として女性向けファッション誌の「CUTiE」が登場し、翌1990年にはそこでサブカル系に生きる少女をテーマとした漫画『東京ガールズブラボー』(岡崎京子)が登場した。また、少女漫画誌では1986年に『りぼん』でサブカル系漫画(ガロ系)の影響を受けたと言われるさくらももこがシュールさの残る『ちびまる子ちゃん』の連載を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "また、少年漫画にも高橋留美子を皮切りに女性漫画家が進出、少女漫画の読者層であった少女たちも少年漫画や青年漫画を読むことが一般的になっていった。1986年には青年漫画誌「ビッグコミックスピリッツ」と「コミックモーニング」が週刊誌化され、青年漫画が大きく成長したことによって、くじらいいく子や山下和美や岡野玲子のように青年漫画を手がける女性少女漫画作家も登場した。これらによって少女漫画の手法や少女漫画的なテーマが少年漫画や青年漫画の世界にも広く普及することになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1980年代後半に不動産バブルによるバブル景気が起きたことで、その対策として1990年に土地関連融資の総量規制が行われたが、バブル崩壊が発生し、1990年代は平成不況が続くこととなった。節約ブームが起こり、100円ショップが成長し、のちに失われた10年といわれる低迷した過渡期に入る。会社ではリストラや非正規雇用が拡大し、社縁が薄くなっていく。世帯収入の減少と共に共働き世帯が増えて専業主婦世帯の数を上回り、カギっ子は一般的となった。1980年代に始まったゆとり教育では1989年の学習指導要領改訂によって「個性重視の原則」が導入され、また新聞では同じ頃より自分探し(英語版)という言葉が登場して、1994年頃よりその言葉の使用が増え始めたほか、マイブームという言葉も登場し、1997年にはその言葉が流行語となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "また1990年代には「テトリス」や「ぷよぷよ」などの落ち物パズルのブームなどによって少女にもゲーム機が普及し、少女漫画のゲーム化や少女漫画誌でのゲームコミカライズが行われるようになり、少女漫画でもファンタジー物が流行していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "1990年代後半にはWindows 95の登場によってインターネットが普及していき、2000年代にはe-Japan構想によって学校教育にインターネットが取り入れられるようになり、携帯電話のインターネット料金定額化(パケット定額制)が行われ、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)が普及し、インターネット上での繋がりが増していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "1990年代にはバトルヒロイン物の少女漫画が流行した。1980年代の美少女ブームの影響を受けて1989年より特撮の東映不思議コメディーシリーズでも美少女シリーズが開始され、その中の一つ「美少女仮面ポワトリン」の影響を受けて、少女漫画からも『美少女戦士セーラームーン』(武内直子)が登場し、アニメ化され大ヒットした。このヒットによって、ギャグ漫画の『赤ずきんチャチャ』(彩花みん)もバトルヒロイン物としてアニメ化されることとなったほか、1990年代後半の魔法少女物のメディアミックス『カードキャプターさくら』(CLAMP)や『スーパードール★リカちゃん』(漫画版は征海未亜)も魔法バトルが中心となっていた。その後の「プリキュアシリーズ」以降はアニメ原作のコミカライズが少女漫画誌に連載されるようになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "また中華モチーフの少女漫画も複数登場した。1970年代に日中国交正常化と香港映画のブームが起き、1980年代に赤い人民服風の衣装を着たイエロー・マジック・オーケストラ (YMO) が流行し、中国雑貨の人気が上昇していき、1987年には「週刊少年サンデー」から高橋留美子の「らんま1/2」が登場して1989年から1992年に渡りアニメ化され女性にも人気となっていたほか、1994年にはDr.コパが火付け役となってインテリアを中心に風水ブームが起きていた。そのため1990年代には少年漫画だけでなく少女漫画からも中華モチーフの『ふしぎ遊戯』(渡瀬悠宇、1992年-)や風水バトルの『Dr.リンにきいてみて!』(あらいきよこ、1999年-)が登場してアニメ化された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1990年代中盤にヒーリングを含むスピリチュアル・ブームが起き、また同時期には癒し系アイドルも人気となり、1997年にはアロマなどの癒し商品も人気となり、1999年には癒し系キャラの「たれぱんだ」も人気となった。少女漫画では1998年に心の傷を癒やすことをテーマとした『フルーツバスケット』(高屋奈月)が登場して人気となり、2001年にアニメ化されている。またオウム真理教による地下鉄サリン事件で一度廃れた「守護霊」も2005年より江原啓之らが看板のテレビ番組「オーラの泉」によって再興され、少女漫画では2006年に『しゅごキャラ!』(PEACH-PIT)が登場して2007年にアニメ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "その他、1990年代には小動物ブームも起きていた。児童漫画誌連載の「ハムスターの研究レポート」(大雪師走)によってハムスターブームが起き、1994年には『なかよし』にハムスターが人間となる『さくらんぼねむり姫』(片岡みちる)が登場し、1997年には学年誌から「とっとこハム太郎」(河井リツ子)が登場して『ちゃお』にも掲載され、2000年には『なかよし』にゲーム原作の『どこでもハムスター』(猫部ねこ)が登場した。また1996年には携帯型育成ゲーム機「たまごっち」シリーズが登場して人気となり、1997年より『なかよし』にて『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ)が連載されたほか、1997年にはゲーム「ポケットモンスター」のアニメ版が始まって大人気となり、同年より『ちゃお』にて『ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー』(月梨野ゆみ) が連載された。2000代前半には『ちゃお』に妖精が主役の『ミルモでポン!』(篠塚ひろむ)が連載されてアニメ化され低学年の人気を得たほか、宇宙人が主役の『ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット』(ひな。)も連載れていた。『なかよし』もこの頃に宇宙人が主役の『どーなつプリン』(猫部ねこ)や、ジンが主役の『よばれてとびでて!アクビちゃん』(上北ふたご)を連載している。2009年にはサンリオのジュエルペットがアニメ化されて人気となり、その後『ちゃお』や『ぷっちぐみ』や学年誌でコミカライズされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "百合のブームも起きている。1990年代の『美少女戦士セーラームーン』の同人漫画では「やおい漫画」の延長として女性同士の同性愛ものが多く登場していた。1998年、少女小説誌「Cobalt」において現代のエス小説とでも言うべき「マリア様がみてる」が登場し人気となり、2003年より『マーガレット』で漫画化され(漫画:長沢智)、2004年にアニメ化された。2003年には「男子禁制」を謳う百合漫画誌『百合姉妹』(マガジン・マガジン)が登場し、2005年にはその実質的後継誌として『コミック百合姫』(一迅社)が誕生している。一方、百合要素のあるスポーツ物では1997年のアニメに「バトルアスリーテス大運動会」が存在していたが、少女漫画でも2004年に『ちゃお』でギャグ物の『スパーク!!ララナギはりけ〜ん』(もりちかこ)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "また1990年代の少女漫画の夕方アニメ化ブームではそれが男性にも影響を与えており、少女漫画では2005年に『ChuChu』でアニメオタクの義兄をテーマとした『アニコン』(やぶうち優)が登場している。また、2000年代にはバラエティ番組「学校へ行こう!」の「みのりかわ乙女団」に登場した「乙女系男子」という言葉も流行し、少女漫画では2006年に『別冊花とゆめ』で『オトメン(乙男)』(菅野文)が登場して2009年にドラマ化され、同年に「オトメン」が流行語となった。またメイド喫茶の流行と共に「萌え」が一般人へも広がって2005年に流行語となり、少女漫画では少年にメイド服を着せた作品が登場した。2006年には『LaLa』でメイド喫茶などを舞台とした『会長はメイド様!』(藤原ヒロ)が(2010年にアニメ化)、2008年には『B's-LOG COMIC』で擬似家族物の『少年メイド』(乙橘)が登場し(2016年にアニメ化)、同2008年には『なかよし』でも萌え少年をテーマとした『萌えキュン!』(桃雪琴梨)が、2009年には『ちゃお』でも『メイドじゃないもん!』(いわおかめめ)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "またゲーム会社「エニックス」によりファンタジー物を中心とする少年漫画誌「月刊少年ガンガン」(1991年)及びその派生誌「月刊Gファンタジー」(1993年)が登場し、1999年にはその派生として少女漫画誌『月刊ステンシル』が登場した。その後、2001年にエニックスお家騒動が起きるとエニックス社員の一部が独立して新会社「マッグガーデン」を立ち上げ、一部の連載漫画もマッグガーデンの新雑誌「月刊コミックブレイド」へと移籍されることとなった。少女漫画では『月刊ステンシル』に連載されていたヒーリング漫画『AQUA』(天野こずえ)が移籍されて『ARIA』となり、2005年にアニメ化されて人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "平成のスイーツブームも起きている。80年代後半のバブル期のフランス料理疲れに次ぐイタ飯(イタリア料理)ブームからデザートのティラミスが登場し、平成のスイーツブームが始まった。また、1993年開始のフジテレビのバラエティ番組「料理の鉄人」によってパティシエが注目となっていた。少女漫画からは2008年に『夢色パティシエール』(松本夏実)が登場し、その後アニメ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "1990年代にはローティーン向けファッションの流行も起きた。1980年代後半よりローティーン向けファッション雑誌「ピチレモン」が登場し、次いで登場したナルミヤ・インターナショナルの子供服ブランド「mezzo piano」や「エンジェルブルー」が人気となり、1990年代にはハナコジュニア世代を中心に幼い頃からファッションに興味を持つ少女が増えていった。この世代は状況に見合った格好をしつつもリボンやレースなどの女性的なものを好んでいるとされる。しかしながら少女漫画誌でこれら子供服ブランドとのタイアップ漫画が行われたのは2000年代に入ってからであった。ちゃおは2002年よりmezzo pianoとのタイアップ漫画『シンデレラコレクション』(今井康絵、2002年 - 2004年)を、なかよしは2007年よりエンジェルブルーとのタイアップ漫画『夢みるエンジェルブルー』(白沢まりも・2007年 - 2009年)を連載した。しかしながら、エンジェルブルーブランドは2010年に休止となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "1977年より男児向け食玩シールの「ビックリマン」が登場してブームとなり男児の間で「シール交換」が人気となっていったが、ビックリマンは女児も収集を行っていたとされる。少女漫画では1991年より『ぴょんぴょん』でビックリマンを基にした『愛の戦士ヘッドロココ』(藤井みどり)が連載されている。また一般的なシールの交換も行われており、コレクションするためのシール帳も人気となっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "1995年に自撮りマシンのプリント倶楽部(プリクラ)が登場すると若者においてプリクラ交換をコミュニケーションに使うコギャルが登場し、コギャルを取り上げる新興ファッション誌「egg」も登場してコギャルの流行が拡大していった。一方、テレビ東京の番組「ボディボディ」では「不思議ちゃんの世界」のコーナーで不思議ちゃんを紹介しており、不思議ちゃんも話題となっていった。少女漫画では同年の『りぼん』にコギャルと不思議ちゃんの対比を行う『ご近所物語』(矢沢あい)が登場して人気となった。その後も現実の若者ファッションやカルチャーに連動した子供向け漫画として、1998年に『りぼん』で白ギャルモチーフの『GALS!』(藤井みほな)が、2009年に『ちゃお』で姫ギャルモチーフの『姫ギャル♥パラダイス』(和央明)が、2014年に『ちゃお』で原宿系モチーフの『てぃんくる☆コレクション』(和央明)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "また、1980年代後半から1990年代前半にかけて第3次ディスコブームが起こっており、便利屋男「アッシーくん」や彼氏候補「キープくん」と共にボディコンファッションが注目となっていた。女性漫画誌『Judy』では1990年代初頭に『ボディコン刑事』(井上恵美子)が登場し、少女漫画誌『りぼん』では1993年に『スパイシー☆ガール』(藤井みほな)が登場した。また1990年代にはスーパーモデルが世界的ブームとなり、1994年には『りぼん』でモデル物の『パッション♡ガールズ』(藤井みほな)が登場した。その後、ハイティーン向けファッションでは1990年代末から2000年代初頭にかけて「CUTiE」派生の『CUTiE Comic』、「Zipper」派生の『Zipper comic』などファッション誌派生の少女漫画誌が登場したもののこれらは短期間で終了し、連載されていた漫画はヤングレディース誌に吸収されている。また1990年代後半にはフジテレビの本社移転に伴ってお台場が有名となり、前述の『GALS!』でもお台場が登場し、また『なかよし』でも2001年に連載として『ODAIBAラブサバイバル』(原作:小林深雪、漫画:白沢まりも)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "アイドルでは、1990年代後半にバラエティ番組出身のユニット「ポケットビスケッツ」が小学生に人気となって社会現象となっていた。次いで2000年代には「ミニモニ。」「ピポ☆エンジェルズ」などの子供向けアイドルが登場し、女児向けアーケードゲームでは2000年代半ばに「オシャレ魔女♥ラブandベリー」を初めとするコーデバトルものが登場して流行となり、2001年よりe-karaなどのカラオケ玩具の登場およびタイアップもあって、女児向けの少女漫画では女性アイドルもののメディアミックスのオリジナル作品やコミカライズ作品が増えていった。これらの代表的なものには『ミニモニ。やるのだぴょん!』(もりちかこ)、『ぴちぴちピッチ』(花森ぴんく)、『きらりん☆レボリューション』(中原杏)、『プリティーシリーズ』、『アイカツ!』シリーズがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2000年代には那須博之が「モーニング娘。」起用による『美少女戦士セーラームーン』のドラマ化を構想し、その構想は実現しなかったものの2003年に美少女戦士セーラームーンのテレビドラマ化が行われ、それを皮切りに2005年には過去の名作に当たる『アタックNO.1』のテレビドラマ化および『花より男子』のテレビドラマ化が行われ、2007年には『ちびまる子ちゃん』のテレビドラマ化も行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "また2000年代には電撃文庫などのライトノベルブームが起きており、2005年には『LaLa』で『しにがみのバラッド。』のコミカライズが行われたほか、2006年には電撃文庫の女性向け作品『リリアとトレイズ』のコミカライズが中心のガールズコミック誌『comic SYLPH』(後の『シルフ』)も登場した。また2000年代後半には動画投稿サイト「ニコニコ動画」が人気となり、2006年にヒロインが「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶ」ことを目指すライトノベル「涼宮ハルヒの憂鬱」が深夜アニメ化された際は動画投稿サイト上でハルヒダンスが流行し、2007年にボーカロイド「初音ミク」が登場した際は動画投稿サイト上でボカロソングが流行となった。2010年代にはボカロソングを基にした商業ボカロ小説が登場し10代の少女に人気となっていった。少女漫画では2010年代にボーカロイド中心の少女コミック誌『ミルフィ』が創刊されたほか、女性向け少年漫画誌の「月刊コミックジーン」でもボカロ小説のコミカライズが行われていた。旧来の少女漫画誌でも『ミラクル♪ミク』(琴慈)や『ミライチューン』(染川ゆかり)などのボーカロイド漫画が登場している。しかしながら、その後ネット文化がPC中心からスマートフォン中心へと移行したことによってボカロ小説のブームは収束していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "中高生向けの音楽では、ミュージック・ビデオの普及と共に、宝塚歌劇団を参考にした「昔の少女漫画」のような耽美派バンド「MALICE MIZER」などのヴィジュアル系バンドが登場し、それによりヴィジュアル系バンドのコスプレやヴィジュアル系バンドの同人「やおい」漫画が流行した。耽美派雑誌『JUNE』の発行元マガジン・マガジンも『JUNE』的なムック本である『MALICE MIZER 耽美実験革命』を出版している。また少女漫画でもヴィジュアル系の人気を受けて『快感・フレーズ』(新條まゆ)や『NANA』(矢沢あい)が登場し、どちらもテレビアニメ化されている。一方、インターネットでは中学2年生ごろに発生する思春期特有のひねくれを意味する「中二病」という言葉が広まっていき、ヴィジュアル系も一過性の中二病の一つとして解釈されるようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "その後、音楽物では少女漫画誌との関連の薄い部活学園物の深夜アニメが人気となっていった。2009年に部活ガールズバンド物の萌え4コマ「けいおん!」がアニメ化された際には女子高生にバンドブームや制服ブームが起こり、2013年に美少女スクールアイドルもののメディアミックス「ラブライブ!」がアニメ化された際もその女性人気が高まることとなった。少女漫画の中高生の音楽物では2013年に男女混合バンドの『覆面系ノイズ』(福山リョウコ)が登場した(2017年にアニメ化)。また、動画投稿サイトにおいて歌い手や踊り手の動画が流行し、2014年には踊り手漫画の『バディゴ!』(黒崎みのり)が登場した(2016年に一部がアニメ化)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "また、1990年前後にはOLのオジン化(オヤジギャル)が指摘されており、ドラマでもオヤジギャルが主役の「キモチいい恋したい!」が登場し、週刊誌「SPA!」連載の漫画にもオヤジギャルを題材とする「スイートスポット」(中尊寺ゆつこ)が登場した。この頃にはOL向け4コマ誌『まんがハイム』(徳間オリオン)および『まんがタイムスペシャル』(芳文社)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "一方、1994年前後には漫画をあまり取り扱わない出版社による漫画誌への参入も目立っており、これら漫画誌は上の世代の著名漫画家を揃えていたもののどれも失敗に終わっている。例えば少女漫画誌以外ではマガジンハウスの「COMICアレ!」や文芸春秋の「コミック'94」やNHK出版の「コミックムウ」が、少女漫画誌ではソニー・マガジンズの『きみとぼく』が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "また1990年代には携帯電話が登場してそのマナーが問題となっていき、2000年には公共広告機構(現ACジャパン)のCMによってマナーを守らない人を意味する「ジコチュー」(自己中)が流行語となった。少女漫画では2002年に『デザート』で『自己chuラヴァーズ』(いしだ絵里)が登場した。2006年には乙女ゲームの『ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Kiss』で「セカンドキスシステム」(通称「事故チュー」)が搭載され、またいつからかより少女漫画でも事故的なキスに「事故チュー」という語が使われるようになっていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "また1990年代には買い物依存症も話題となった。1992年には翻訳書「買い物しすぎる女たち」が登場し、1998年にはテレビドラマから「私の中の誰か~買い物依存症の女たち~」が登場、同1998年には週刊誌「週刊文春」にも中村うさぎのエッセイ「ショッピングの女王」が登場した(漫画化はファミリー4コマ誌「まんがライフ」)。また1995年にはコギャルのシャネル・グッチ・プラダ好きも話題となっていた。ヤング・レディース誌『Kiss』では2005年に買い物中毒OLを主人公とした『東京アリス』(稚野鳥子)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "また1999年代末からは「カリスマ美容師ブーム」が起きた。テレビからは1999年に美容師対決番組「シザーズリーグ」が、2000年に美容師との恋愛物のテレビドラマ「ビューティフルライフ」が登場し、同2000年には少年漫画から美容師物の「シザーズ」が登場し、少女漫画でも2003年に『ちゃお』で美容師物の『ビューティー・ポップ』(あらいきよこ)が登場した。また、「カリスマ美容師ブーム」に乗じて「カリスマ店員」や「カリスマホスト」も話題となっていき、同じく1999年代末にはホストクラブでの男買いも人気となった。女性漫画誌「YOU」に連載された「ごくせん」では文化祭でホストクラブをする話が登場し、少女漫画でも2002年に『LaLa』で『桜蘭高校ホスト部』(葉鳥ビスコ)が登場した(2006年にアニメ化)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "女性向けゲームでは1994年に「アンジェリークシリーズ」が、2000年に「遙かなる時空の中でシリーズ」が登場し、『月刊Asuka』や『LaLa』などのファンタジーに強い少女漫画誌でコミカライズされるようになった。2002年、女性向けゲーム誌「B's-LOG」が登場し、2005年にはその派生としてゲームコミカライズが中心のガールズコミック誌『B's-LOG COMIC』が誕生した。2006年、ケータイ小説提供会社の「ボルテージ」が女性向けモバイルゲームへと参入して「リアル系乙女ゲーム」として人気となり、少女漫画では『B's-LOG COMIC』でその中の一つ『恋人はNo.1ホスト』が漫画化されている(漫画はヤマダサクラコ)。2010年代には乙女ゲームから『うたの☆プリンスさまっ♪』などの男性アイドルを育成するものが登場し、また、女児向けの女性アイドル物からも派生として『KING OF PRISM by PrettyRhythm』などの男性アイドルものが登場し、それらは少女漫画誌でコミカライズされるようになっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "また、1980年代後半にはレディースコミックに過激な性描写が増えて人気となり、その雑誌に広告を出す形でテレフォンクラブが広まっていった。その後、バブル崩壊による家計収入の減少と共に若年層にも援助交際が浸透し、1990年代半ばには10代向けの性漫画であるティーンズラブ (TL漫画) 雑誌が登場、「少女コミック」などの少女漫画誌でもそれらに引きずられる形で性描写が増加していった。2006年には歌手の倖田來未によって「エロカッコイイ」「エロカワイイ」が流行語となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "また携帯電話の普及によって2000年代中盤にはケータイ小説がブームとなり、2007年には双葉社によってケータイ小説サイト「魔法のiらんど」のコミカライズ雑誌『COMIC魔法のiらんど』が創刊された。しかしながらケータイ小説サイトはスマートフォンの登場によって下火となっていったとされる。2011年、角川系のアスキー・メディアワークスは「魔法のiらんど」の運営会社を買収して吸収し、アスキー・メディアワークスは独自コミカライズレーベル『魔法のiらんどCOMICS』を立ち上げた。一方、旧来の少女小説レーベル「コバルト文庫」(集英社)も2010年に増刊としてコミカライズ雑誌『Comic Cobalt』を立ち上げたものの成功せずに終わっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "一方、2000年代には純愛ブームも起きている。2000年代前半には恋愛小説およびその実写化で「世界の中心で、愛をさけぶ」(セカチュー)や「いま、会いにゆきます」(イマアイ)のような純愛物が流行し、前者は『プチコミック』で漫画化され(画は一井かずみ)、後者は女性誌「女性セブン」で漫画化された(画は川島彩)。少女漫画では2003年より『Betsucomi』に純愛物の『砂時計』(芦原妃名子)が登場し、セカチュー及びイマアイの実写化を行ったTBSテレビは2007年に昼帯のテレビドラマ(昼ドラ)でも「純愛で勝負する」としてその『砂時計』の昼ドラ化を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "2000年代後半には別冊マーガレット連載の『君に届け』(椎名軽穂)や『ストロボ・エッジ』(咲坂伊緒)などのピュアストーリー物が人気となった(前者は2009年にアニメ化)。2010年代にはボーカロイド界隈から「スキキライ」や「告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜」などの青春系ソングの人気クリエイターユニット「HoneyWorks」が生まれ、人間のボーカルを迎い入れた後もその楽曲の小説化が続いていった(通称:ハニワ小説)。一方、別冊マーガレットでも「青春に乗る」を意味する『アオハライド』(咲坂伊緒)が登場して人気となり、アニメ化の際にはHoneyWorksがその主題歌を務めている。また、実写映画でも青春モノの「キラキラ映画」が流行し少女漫画の実写映画化が活発となったものの、2010年代末には過剰供給となって衰退していった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "また、1987年より始まった恋愛バラエティ番組「ねるとん紅鯨団」によって全国でお見合いパーティが開かれるようになっており、そのパーティーで多くのダメ男と遭遇した漫画家の倉田真由美は2000年よりその経験を活かして漫画「だめんず・うぉ〜か〜」を週刊誌「SPA!」に連載し、それが2002年と2006年にドラマ化された。『プチコミック』でも2015年よりダメンズ物の『深夜のダメ恋図鑑』(尾崎衣良)が連載された(2018年ドラマ化)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "オカルトでは2006年よりブログにおいて「都市伝説」の用語の使用が増加し、2007年にはテレビ番組から「やりすぎ都市伝説」が登場した。同2007年にはオリジナルテレビアニメから電脳空間と都市伝説をテーマにした『電脳コイル』も登場し、ちゃおで少女漫画化された(作者は久世みずき)。また、ソーシャル・ネットワーキング・サービス (SNS) の普及と共に社会的要素の強いソーシャルゲームが広まっていき、2009年には海外のマフィア抗争ソーシャルゲーム「Mafia Wars」を元にした国産ソーシャルゲーム「怪盗ロワイヤル」が登場して人気となり、『Cookie』で少女漫画化されている(作者は菅野紗由)。2011年には児童文庫にソーシャル型デスゲーム物の「オンライン!」が登場して人気となり、その後も児童文庫ではデスゲーム物が定番となっていったが、少女漫画でも2012年に『なかよし』でデスゲーム物の『出口ゼロ』(瀬田ハルヒ)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "テレビドラマでは、2014年にダブル不倫ものの「昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜」が注目され「昼顔妻」という言葉が流行した。一方、 ヤング・レディース漫画のダブル不倫物『あなたのことはそれほど』(いくえみ綾)も2017年にドラマ化されたものの、コンセプトの違いから昼顔ほどは人気とならなかったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "また2004年〜2005年には男女雇用機会均等法の第一世代において自分一人だけで贅沢をするという「おひとりさまブーム」が起き、2005年には「おひとりさま」が「2005年ユーキャン新語・流行語大賞」の候補として選出された。しかしながらその後「おひとりさま」という言葉が広がっていく過程で、贅沢以外でも一人で過ごすことが人気となっていったとされる。少女漫画では2006年に『Kiss』の増刊として『Beth』が創刊され、そこで『おひとり様物語』(谷川史子)が登場した(『Beth』休刊後は『Kiss』へと移籍)ほか、『Sho-comi』の編集長によれば2012年〜2013年ごろより若い作家の手によって「ぼっち好き」のヒロインが増えていったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "その他、生涯未婚率の上昇に伴い、結婚の是非を問うヤングレディース漫画も登場した。2011年にテレビドラマ「家政婦のミタ」がヒットして家政婦が注目されるようになり、2012年にはヤング・レディース誌『Kiss』において契約結婚により家政婦となる『逃げるは恥だが役に立つ』(海野つなみ)が登場して人気となった。2014年には同誌で行き遅れ物の『東京タラレバ娘』(東村アキコ)が登場して人気となり、両作品はドラマ化されていった。その他、家政夫物も人気となった。2016年にテレビドラマから女装家政夫物の「家政夫のミタゾノ」が登場し、同年に電子書籍サイト「コミックシーモア」の女性向けコミック誌『恋するソワレ』から家政夫物の『家政夫のナギサさん』が登場した(2020年にドラマ化)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "また、少女漫画や女性漫画のWebコミックサイトも登場した。ヤングレディース誌『FEEL YOUNG』の公式Webサイト(FC Web→フィーヤンネット)では多数のWeb連載が行われるようになり『ラブリー!』(桜沢エリカ)などがそのサイトに移籍されたほか、2006年に開始された講談社の無料Web漫画サイト「MiChao!」では女性向けコーナーが設けられ『最終戦争シリーズ』(山田ミネコ)の最新作が「MiChao!」で連載されるようになった。2009年には少女向け漫画誌『ウィングス』の派生としてWebコミックサイト『WEBウィングス』も開始された。2013年には集英社の電子少女漫画アプリ『マーガレットBOOKストア!』(後の『コミックりぼマガ』)が登場し、そのアプリ内では新作の提供を行う『マーガレットchannel』(後の『デジタルマーガレット』)も設けられた。その後も漫画誌派生のWebコミックサイトは多数登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "スクウェア・エニックスの少年ガンガン系列の少年漫画誌では元々女性作者が多く、女性作者で女主人公の恋愛要素のある少年漫画も存在していたが、Web漫画が商業化される時代になると女性作家のWeb恋愛漫画も少年漫画として商業化するようになった。この姿勢はWeb小説のコミカライズが流行した以降も継続している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "また集英社も2015年より『花より男子』(神尾葉子)の続編『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』(神尾葉子)を少年漫画誌派生のWebサイト「少年ジャンプ+」で連載するようになり(2018年ドラマ化)、小学館でも少年サンデー系列のWeb雑誌「裏サンデー」(アプリ版はマンガワン)の派生として2016年に『裏サンデー女子部』を登場させている。講談社も2017年より別冊少年マガジンに女性作家の女主人公の恋愛物である「荒ぶる季節の乙女どもよ。」(原作:岡田麿里、作画:絵本奈央)を載せたり、ガールズコミック誌『ARIA』廃刊後の2018年より乙女ゲームのコミカライズ作品『遙かなる時空の中で6』(水野十子)を少年マガジンエッジへと移籍させたりなど、少年漫画誌で男性向け女性向けにこだわらない姿勢を取るようになってきている。白泉社も2017年に少女漫画と青年漫画を同居させたアプリの「マンガPark」を配信した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "21世紀のインターネット普及時代に入って、雑誌や媒体のさらなる多様化と時代の思考の変化などもあり、かつて男性向けとは異なる媒体と手法を持ち、女性漫画の別名であり中心だった少女漫画は、2020年代現在では多くの隣接分野との境界の薄い、漫画界の連続的な一領域と化している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "2010年代後半より人に対するトリセツ本が多数出版されるようになり、女児向け教育本でも「女の子のトリセツ」「女の子のトリセツ トキメキdays」(ミラクルガールズ委員会)、「かわいいのルール」「こころのルール」(はぴふるガール編集部・漫画:双葉陽)などが登場し人気となっていった。少女漫画誌からも2020年に『JSのトリセツ』(雨玉さき)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "一方、動画サイトでは元々YouTuberが流行となっており、動画投稿者は小学生の憧れの職業となっていた。また子供YouTuberも「キッズライン♡Kids Line」のこうくんねみちゃんや「HIMAWARIちゃんねる」のまーちゃんおーちゃんなどが登場し人気となっていった。少女漫画では2018年にメディアミックスから動画配信をモチーフとした『キラッとプリ☆チャン』が登場し、『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズされている(ちゃお版は辻永ひつじ、ぷっちぐみ版は菊田みちよ)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "またダンスブームも起きている。2016年にはドラマ版「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディングに使われた「恋ダンス」がYouTubeで流行し、2017年にはショートムービー投稿サイト「TikTok」が日本にも上陸してダンスのショートムービーがブームとなった。少女漫画では2020年に『ちゃお』でダンス物の『夜からはじまる私たち』(ときわ藍)が登場したほか、2022年には子供向け実写ドラマでも「ガールズ×戦士シリーズ」の後継としてダンス物の『リズスタ -Top of Artists!-』が登場し、『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズされた(ちゃお版はくろだまめた、ぷっちぐみ版は今井康絵・ハラミユウキ)。しかしながらリズスタは女児向け特撮枠と共に2023年に終了となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "またTikTokによるダンス人気によって日本のギャル文化の影響を受けた女性K-POPアイドルが人気となり、2021年の『ちゃお』にはK-POPアイドルを目指す『カラフル!』(ときわ藍)が登場した。2022年にはその流れにある「ギャルピース」のポーズが日本でも逆輸入される形で人気となり、小学生にギャルブームが再興し、2023年には小学生ギャル誌「KOGYARU」が登場した。少女漫画では2022年に『ちゃお』でギャル物の『イイネ♥👍REIWAギャル★あみるん』(いわおかめめ)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "また2016年にはキズナアイを始めとするバーチャルYouTuber (VTuber) が誕生して人気となり、2018年にはサンリオからバーチャルタレント「となりの研究生マシマヒメコ」が、2019年にはちゃおから怪談VTuber「依ノ宮アリサ」が登場している。少女漫画では2020年に『ちゃお』でVTuber物の『青のアイリス』(やぶうち優)が登場して人気となり、2023年にも『ちゃお』でVTuber物の『恋するアバターちゃん』(相庭)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "一方、上の世代では「推し」文化の時代となった。「推し」という言葉は元々「ハロー!プロジェクト」(ハロプロ)の女性アイドルに対して使われていたが、その後、身近を売りにしたAKB48や地下アイドルのブームで他へと広まっていき、果てはホストにまで使われるようになった。また、推し活する女性の着ていたファッションが地雷系・量産型として流行した。そんな中で2019年に女性向け漫画として『明日、私は誰かのカノジョ』(をのひなお)が登場し人気となり、2022年に深夜ドラマ化された。また、2017年にYouTubeに投げ銭機能「スーパーチャット」が登場することで推しに直接貢ぐことが可能となり、オトナ女子向け漫画では2020年3月にそれをテーマにした『ガチ恋粘着獣〜ネット配信者の彼女になりたくて〜』(星来)が登場している(2023年深夜ドラマ化)。2020年7月には小説から「推し、燃ゆ」が登場して中学生以上に人気となっていき、2021年には『花とゆめ』で『多聞くん今どっち!?』(師走ゆき)が、2022年には『マーガレット』で『神推し! イケメンソウ』(川又宙子)、『りぼん』で『推しと青春しちゃっていーですか!?』(神田ちな)と『推しぴ症候群』(小林ユキ)、『なかよし』で『キミしか推せない!』(咲良香那)、『花とゆめ』で『推しに甘噛み』(鈴木ジュリエッタ)、『別冊マーガレット』で『推しにガチ恋しちゃったら』(春江ひかる)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "その他、2014年にはInstagramの日本語版が登場し、Instagramではキラキラ女子や港区女子が増えていった。少女漫画では2017年に『デラックスベツコミ』で『港区JK』(しばの結花)が登場した。また港区女子は飲み会への参加で謝礼金を貰うギャラ飲みを行っていたが、港区女子以外でも食事などの謝礼にお金を貰うパパ活がブームとなり、2017年6月にはフジテレビ系の配信ドラマ「パパ活」が登場して地上波でも放送され、少女漫画からは『堕欲~パパ活貧困女子~』(桜井美也)が登場した。また裏垢もブームとなり、少女漫画では『裏アカ破滅記念日』(桜井美也)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "また、サンリオではテレビアニメ「おねがいマイメロディ」の悪役として生み出されたクロミが継続的に人気となっていき、ディズニーでも2015年ごろよりヴィランズブームを起こしていった。2016年にサンリオと集英社系のWeb漫画サイト「イチゴミン」がリリースされ、そこでクロミを主人公とした「おかしなクロミちゃん」(かのえゆうし)が連載されるようになったものの、このサイトは2019年に更新停止となっている。その後、前述の地雷系コーデと共にクロミのアイテムが定番となっていき、2023年にはクロミのショートアニメ「KUROMI'S PRETTY JOURNEY」も登場した。ゲームではFortniteなどのバトルロワイヤルゲームやIdentityV 第五人格など非対称対戦ゲームが流行し、2022年にはサンリオからも非対称性対戦ゲームの「ミラクルマッチ」が登場して話題となった。一方、漫画では主人公が魔法少女の敵となって魔法少女と対立するものが数多く登場しており(魔法少女#2000年以降参照)、少女漫画からも2013年に『花とゆめ』で『ブラックハートスター』(中村世子)が、2017年に『りぼん』で『アクロトリップ』(佐和田米)が登場し、後者は2024年にアニメ化予定となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "またヤンキーブームの再興も起きている。2019年に少年漫画「鬼滅の刃」のアニメ化による少年漫画ブームが起き、2020年に少年漫画「呪術廻戦」がアニメ化されて人気となり、その後、2021年にヤンキー物の「東京卍リベンジャーズ」がアニメ化及び実写映画化されて人気となった。その後、ドラマでもWeb漫画原作の恋愛物「恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜」や少年漫画原作の青春物「ナンバMG5」などのヤンキー物が登場し、少女漫画からもヤンキーヒーローの『ひかえめに言っても、これは愛』(藤もも)が登場して人気となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "恋愛では少子化の進行により架空の強制結婚制度をテーマとしたものが多数登場した。2017年には架空の「超・少子化対策基本法」をテーマとした少年漫画「恋と嘘」が少女マンガのような設定に改変された上で実写映画化され、2018年には架空の「抽選見合い結婚法」をテーマとした長編小説「結婚相手は抽選で」がテレビドラマ化され、少女漫画からも2020年に架空の「ニート保護法」をテーマとしたLINEマンガ連載の少女漫画『マリーミー!』(夕希実久)がテレビドラマ化されている。また、強制夫婦物の学園物も登場している。2018年には青年漫画から「夫婦実習」をテーマとした「夫婦以上、恋人未満。」が登場し(2022年アニメ化)、 2019年には子供向け少女漫画でも「一攫千金婚校」をテーマとした『初×婚』(黒崎みのり)が登場して人気作となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "一方で、実録を中心にマッチングアプリ物の流行も起きている。2017年にTwitterアカウント「暇な女子大生」が話題となってドラマ化され、2018年には青年漫画から「来世ではちゃんとします」が、2019年にエッセイ漫画から「38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記」が登場して、どちらも2020年にドラマ化された。Web漫画では2017年に「出会い系サイトで妹と出会う話」がTwitterで10万いいねを超える話題作となり、少女漫画でも2020年に『ラバーズハイ~親友の彼氏とマッチングしてしまった~』(原作:永塚未知流、漫画:安斎かりん)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "マンガアプリでは元々男性向けと女性向けを同居させたものが主流となっていたが、2018年より『Palcy』(講談社・2018年-)、『マンガMee』(集英社・2018年-)などの女性向けに特化したマンガアプリも配信されるようになった。また清涼飲料水のテレビCMでは昔より青春物が定番となっていたが、逆に青春もののコンテンツでも「炭酸感」のあるものが多数登場した。少女漫画では2016年に『りぼん』で『ハニーレモンソーダ』(村田真優)が登場して人気となって2018年には『マンガMee』でもそれが再掲連載されるようになり、2020年には競合の『Palcy』からも『微炭酸なぼくら』(フクシマハルカ)が登場している。2021年にはWeb漫画出身の“超微炭酸系”恋愛少年漫画「ホリミヤ」がアニメ化・ドラマ化・実写映画化され、同年にはオリジナルアニメ映画「サイダーのように言葉が湧き上がる」も上映され、更に同年には前述の少女漫画『ハニーレモンソーダ』も実写映画化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "しかしその一方で、テレビドラマや日本映画では「恋愛離れ」が進んでいるとされる。少女漫画では長らく恋愛が中心となっていたが、2020年に『りぼん』の編集長はインタビューで「漫画家志望の若者が『自分が描きたいのは恋愛じゃないから、少年漫画に投稿しよう』と考えること。その先入観は払拭したいです。」と述べている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "なお人気の難病モノには恋愛要素が残っているとされるが、難病モノの中では特に盲聾物が人気となっていった。早くは2016年に少年漫画の「聲の形」がアニメ映画化されて話題となっており、2022年にはオリジナルドラマから「silent」が登場してコア視聴率(13~49歳の視聴率)で 5% 超え(20人に1人以上)を獲得し、2023年には同じくオリジナルドラマから「星降る夜に」も登場した。少女漫画では2019年に『デザート』から『ゆびさきと恋々』(森下suu)が登場して人気となり、2024年にアニメ化される予定となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "また、2018年には「マンガボックス」連載の不倫される側をテーマとしたヤングレディース漫画『ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜』(こやまゆかり)がテレビドラマ化されて「サレ妻」が流行語となり、『マンガMee』でも不倫の代償を描いた『サレタガワのブルー』(セモトちか)が人気となって2021年にテレビドラマ化された。また同2021年には『マンガMee』が「マンガMeeジャンル大賞」を創設し、「不倫・結婚生活」ジャンルの漫画の募集を開始した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "モデルものでは『ちゃお』において専属モデルのちゃおガールをテーマにした読み切りが登場しており、2020年に『ミラクルモデルデビュー』として単行本化されている。また子供向けアイドルでは2016年に『ちゃお』が「ちゃおガール」の中から「Ciào Smiles」を結成していたものの、メディアミックスは行われず2021年に活動終了となっている。一方、2017年に『ちゃお』や『ぷっちぐみ』から実写ドラマとのメディアミックスの『ガールズ×戦士シリーズ』が登場し、その俳優から2019年にアイドルユニット『Girls2』が、2021年にアイドルユニット『Lucky2』が結成され、『ちゃお』では2020年に「Girls2」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『ガル学。』(漫画はおりとかほり)が、2022年に「Lucky2」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『ガル学。II〜Lucky Stars〜』(漫画は同左)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "また2020年前後には夜好性ブームも起きている。「ヨルシカ」、「ずっと真夜中でいいのに。」、「YOASOBI」などの夜好性バンドが登場して人気となっていったほか、2019年にはヒップホップ・ユニットのCreepy Nutsもよふかしのうたをリリースした。少年漫画からは同2019年に「よふかしのうた」が登場して2022年にアニメ化され、少女漫画では前述の『夜からはじまる私たち』が登場したほか、2023年にちゃおで YOASOBI の幾田りらとのコラボまんが『ロマンスの約束』『サークル』(漫画:まいた菜穂)が掲載された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "その他、音楽ものでは歌劇ものが人気となった。2012年、青年漫画誌「ジャンプ改」に『かげきしょうじょ!』(斉木久美子)が登場し、同誌休刊後の2015年に少女漫画誌『MELODY』へと移籍して継続したほか、2016年には人気少女漫画『学園アリス』の続編として『花とゆめ』に『歌劇の国のアリス』(樋口橘)が登場していた。2018年、ブシロードよりメディアミックス「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」が登場して人気となり、2021年には『かげきしょうじょ!!』もアニメ化された。2023年には『ちゃお』にも読み切りとして宝塚音楽学校を舞台とする『王子は舞台に恋をする ~七海ひろき物語~』(原作:小出真未、漫画:ときわ藍)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "ホラーでは児童文庫から「5分後に意外な結末」(学研、2013年-)や「5分シリーズ」(エブリスタ/出書房新社、2017年-)のような多数のどんでん返し小説群が登場して人気となっていき、2022年には前者が深夜ドラマ化されている。少女漫画では2021年より『ちゃおコミ』で「1話3分シリーズ」の『こわい家、あります。くらやみくんのブラックリスト』が漫画化され(漫画は姫野よしかず)、2022年には前述の『5分後に意外な結末』が『なかよし』の付録や『Palcy』でコミカライズされ、同年より『りぼん』でもオリジナルの『3分後に○○する話』(武内こずえ)が連載されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "また、サバサバを自称しながらネチネチしている自称サバサバ女(自サバ女)が注目されるようになった。早くは2011年より週刊誌「SPA!」で連載された「アラサーちゃん」に登場しており、2014年にドラマ化されている。またその後も2019年よりマンガワンで連載の『ブラックガールズトーク』(マキノマキ)、同じく2019年よりツイッター上で連載されたの『彼氏の周りに湧くウザい女たち』(染井ロキ)、2020年よりめちゃコミックで連載の『ワタシってサバサバしてるから』(原作:とらふぐ、漫画:江口心、2023年ドラマ化)などが登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "またマジョリティから外れたサブカルを好む若者を描いた物も再流行している。映画からは2021年に「花束みたいな恋をした」や「明け方の若者たち」が登場し、青年漫画からも同年に「まじめな会社員」が登場した。少女漫画では2015年には既に『Kiss』で読み切りとして『アレンとドラン』(麻生みこと)が登場し、2016年より連載化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "また青春とSFを組み合わせたものも再流行した。2012年より別冊マーガレットで連載され2014年に青年誌に移籍した『orange』(高野苺)が2015年に実写映画化された後2016年にテレビアニメ化およびアニメ映画化され、同2016年にはオリジナルアニメ映画から新海誠の「君の名は。」も登場し、どちらもヒットした。また百合SFもブームとなっており、2018年にはSF誌「SFマガジン」の百合特集が発売前に重版されるなどしていた。少女漫画誌からは2022年に超本格SF新連載として『ちゃお』で『2人はS×S』が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "平成以降に始まった作品の本誌でのリバイバルも行われるようになった。早くは2015年に『りぼん』本誌で10年ぶりに「めだかの学校」の続編作『めだかの学校 2限目!』が登場した。2016年には『なかよし』本誌で「カードキャプターさくら」の続編作『カードキャプターさくらクリアカード編』が登場して2018年よりアニメ化されている。その後も『なかよし』では「東京ミュウミュウ」の男版『東京ミュウミュウ オーレ!』や「ぴちぴちピッチ」の次世代作『ぴちぴちピッチaqua』が本誌で連載されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "また2019年より始まるコロナ禍での休校およびGIGAスクール構想下でのオンライン授業によって2021年には小学生にもタブレットやパソコンが普及した。2020年には各社が休校への支援として一時的に有料コンテンツの無料公開を行い、少女漫画でも多くの雑誌の無料公開が行われたが、その後、子供向けのWeb漫画サイトが登場していった。例えば児童書ポータルサイト「ヨメルバ」では児童文庫レーベル「角川つばさ文庫」の小説「絶体絶命ゲーム」や「四つ子ぐらし」のコミカライズがWeb連載されるようになり、少女漫画誌からも2021年8月に『ちゃお』派生のWeb漫画サイト『ちゃおコミ』が登場してそこで『ウェディング・デスゲーム』(春瀬花香)が連載されるようになった。また2022年には『ちゃおコミ』に『ドリームゲーム』(にしむらともこ)も登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "Web漫画サイトの登場によって昔の作品が再掲載されるようになり、昔の作品の続編がWeb連載されることも増えていった。例えば『りぼん』では「GALS!」の続編作『GALS!!』がマンガMeeで連載されており、『ちゃお』では「ぷくぷく天然かいらんばん」の続編作『ぷくぷく天然かいらんばん おかわり』や『真代家こんぷれっくす!』の続編作『続・真代家こんぷれっくす!』、『チャームエンジェル』の続編作『チャームエンジェル -星天使編-』が前述のWeb漫画サイト『ちゃおコミ』で連載されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "一方でアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスは縮小が続いっていった(ゲーム自体や付録は継続)。2020年6月には『アイカツ!シリーズ』の最新作「アイカツプラネット!」のアニメが終了し、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも2022年6月に終了となった。また『プリティーシリーズ』の最新作「ワッチャプリマジ!」のアニメも2022年10月に終了し、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも同時に終了した。新シリーズの「ワッチャプリマジ!スタジオ」ではアニメが放送されず、そのコミカライズも『ちゃお』では無く『ちゃお』増刊の「ワッチャプリマジ!FBスタジオ」での連載となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "マスコットではサンエックスの「すみっコぐらし」が流行となっており、キャラクター誌や少女漫画誌でもそれが広く展開されていた。2018年、「ちゃおサマーフェスティバル2018」において日本コロムビアとサンエックスは新コンテンツ『げっし〜ず』のゲーム化を発表し、同年に『ちゃお』はそのコミカライズを開始した(作者は鮎ヒナタ)。2020年にはコロナ禍の巣ごもり需要によってNintendo Switchのゲーム『あつまれ どうぶつの森』が人気となって流行語となり、少女漫画誌では「ちゃお」及び「ぷっちぐみ」がそのゲームの漫画化を行った(作者は前者が加藤みのり、後者がかなき詩織)。また任天堂のゲームシリーズ「星のカービィ」のコミカライズは長らく「月刊コロコロコミック」(女児の読者も多かった)やキャラクター誌「キャラぱふぇ」が中心となっていたが、2022年には少女誌『ぷっちぐみ』にも『星のカービィ プププなまいにち』(さくま良子)が、2023年には『ちゃお』にも『星のカービィ』(加藤みのり)が登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "またTwitterで連載する個人漫画からは2020年にマスコット漫画「ちいかわ」が登場して人気となり、2022年には「めざましテレビ」内でショートアニメ化されて更に人気が拡大していき、少女漫画誌の付録にも登場するようになった。また2022年には同作者ナガノのTwitter初出漫画『くまのむちゃうま日記』がKissレーベルより出版されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "Web小説のコミカライズも多数行われるようになってきている。これには乙女ゲーム世界などへ異世界転生や異世界転移するという設定が多く、また悪役令嬢/悪役姫もの、聖女もの、スローライフもの、もふもふものなどが存在し、そのコミカライズは主に『コミックZERO-SUM』、『ゼロサムオンライン』、『B's-LOG COMIC』、『裏サンデー女子部』、『PASH UP!』、『コミックブリーゼ』などの女性向けの雑誌や、『FLOS COMIC』、『レジーナブックス』などの専門Web誌で行われている。また、似たような設定のオリジナル少女漫画も登場しており、ちゃおからは悪役姫ものの『恋して♥悪役プリンセス!』(辻永ひつじ)が、LaLaからは『転生悪女の黒歴史』(冬夏アキハル)や『帝国の恋嫁』(可歌まと)や『死に戻り令嬢のルチェッタ』(天乃忍)が、『花とゆめ』からは『転生したら姫だったので男装女子極めて最強魔法使い目指すわ。』(輝)や『人狼乙女ゲームに転生したので生き残りエンドを目指します』(サザメ漬け)や『乙女ゲーに転生したけど筋肉で解決します』(ダル子)が、『ザ花とゆめ』からは『ドラひよ〜異世界の竜は私のなでなでに弱いみたいです〜』(千歳四季)が登場している。2022年にはLaLa派生の電子コミック誌『異世界転生LaLa』が登場し、また同年にはデジタルマーガレット派生の漫画サイト『異世界マーガレット』(ニコニコ静画内)も登場した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "また、現実世界への転生物やループ物も登場した。テレビドラマでは2022年に転生物の青年漫画「妻、小学生になる。」がドラマ化されて特にネット配信において人気となり、翌2023年にはループ物のオリジナルドラマ「ブラッシュアップライフ」も登場して同じくネット配信で人気となった。また映画でも2022年に直木賞受賞の生まれ変わり物の小説「月の満ち欠け」が映画化され、テレビアニメでも2023年に女性人気の高い青年漫画「【推しの子】」がアニメ化され人気となった。少女漫画では早くは前述の『orange』がループ物として存在したが、2022年には『Sho-Comi』で転生物の『アイドル転生―推し死にたまふことなかれ―』(ひので淘汰)が登場している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "また異世界から現実世界への転生物も登場した。これには『Sho-Comi』の『異世界魔王は腐女子を絶対逃がさない』(池山田剛)、『りぼん』の『花火は醒めない夢をみる』(中島みるく)などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "また2010年代には懐古向けの名作の復刊が中心だったコンビニコミックからオリジナル漫画誌「思い出食堂」が登場してヒットし食漫画ブームが起きており、テレビでも2012年より「孤独のグルメ」がドラマ化されてヒットし食ドラマや食バラエティがブームとなっていった。女性漫画からも食漫画が続々とドラマ化されるようになり、少女漫画でも食要素の大きい『Kiss』連載の『わたしのお嫁くん』(柴なつみ)がドラマ化されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "少女漫画界ではレディース誌やヤングレディース誌、ガールズコミック誌、オトナ女子向け雑誌など上の年齢向けの雑誌が増えることで対象世代による細分化の傾向にある。また女性向けWeb小説がコミカライズ及びアニメ化されて有名となり一般化したことで、人気Web小説のコミカライズを中心とした女性向け新興Web雑誌が増えつつある。一方、紙の少女漫画雑誌の部数は減少傾向にある。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "かつての少女漫画ではタブー破りによるジャンルの拡大が行われていたものの、年々恋愛への特化が進んでいったことで恋愛以外のSFや部活物やラブコメ以外のコメディ物が減っていき、今や少女漫画は女性向け恋愛漫画の代名詞となっている。少女漫画として描けないものが増えたことで「描きたいものが少女漫画では無かった」などとして少女漫画から抜け出す女性作家も出てきている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "一方、女性読者側も1980年代ごろより女性漫画家の少年漫画・青年漫画進出や少女アニメのパロディ漫画の流行などに伴って少年漫画や青年漫画から女性の読みにくい絵柄が減ったことで少年漫画・青年漫画への流失が続いていったものの、Web漫画の時代になってからは少年漫画や青年漫画と少女漫画や女性漫画が同居するようになっており、読者から見たカテゴリーの分け隔ては減ってきている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "メディア化ではかつては少女漫画からドラマ化やアニメ化される作品が出てきていたものの、ドラマ向きのレディース漫画やヤングレディース漫画や芸人脚本家の台頭、アニメ向きのラノベや萌え漫画や女性向けWeb小説の台頭、恋愛映画における新海誠監督のアニメーション映画の台頭、実写映画におけるテレビドラマの劇場版の増加と実写邦画自体の市場の縮小などによって、少女漫画のメディア化ではYouTube上でのボイスコミック化が中心となっている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "少女漫画のテレビアニメ化は掲載誌の部数を増やすのに有効な手段であり、2000年代初頭の「ちゃお」は『ミルモでポン!』のアニメ版のヒットによって部数を伸ばし少女漫画誌の部数トップに躍り出ていたものの、後述の少女漫画に依らない少女向けオリジナルアニメ作品の増加や夕方アニメの衰退などによって少女漫画のテレビアニメ化がだんだんと行われなくなり、また、雑誌付録や誌上通販されていた少女漫画のOVAアニメ化も今やほぼ無くなっている。2022年代現在、連載中の少女漫画のテレビアニメ化が継続されているのは主に白泉社の作品となっている(『かげきしょうじょ!!』、『贄姫と獣の王』など)。また白泉社は2021年よりYouTubeの「はくせんアニメちゃんねる」上で新作短編アニメを提供するようにもなっている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "少女向けオリジナルアニメ作品のコミカライズではアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスのアニメがコロナ禍を経て終了し、2022年12月現在はバトルヒロイン物の『プリキュアシリーズ』(なかよし)が残るのみとなっている。またサンリオ作品のコミカライズは、かつては少女漫画誌で行われていたものの、『ミュークルドリーミー』では少女漫画誌よりも低年齢向けの幼児雑誌(おともだち及びたのしい幼稚園)でのみ行われるようになっている。一方、高年齢向けのメディアミックスではバトルヒロイン物やアイドル物を含め少女漫画以外で行われていることが多い状態となっており、その中には女性人気の高いものも登場している。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "一方、コロナ禍によって Nintendo Switch およびそのゲームソフトが伸び、少女漫画では「ちゃお」や「ぷっちぐみ」を中心にそのコミカライズが拡大している。これには『どうぶつの森シリーズ』『星のカービィシリーズ』『ポケットモンスターシリーズ』などが存在する(#推しの時代を参照)。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "少女漫画の実写映画化も未だ続いているものの、少女漫画原作のキラキラ映画のブーム衰退により、2021年現在では青春よりも俳優(推し)を意識した実写化が中心となっている。例えば、りぼんの『ハニーレモンソーダ』の実写映画化ではジャニーズのラウールをヒーロー役に起用していたが、りぼん本誌ではそれに先立って『ラウールと恋してみない?』を連載している。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "また、『りぼん』では「ハニーレモンソーダ」の長期連載化に伴って読者層が上がっており、2021年のLINEの調査では『りぼん』が女子高校生の読む漫画雑誌2位(少女漫画誌では1位)にランクインしてる。同ランキングでは『ちゃお』も4位にランクインしている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "テレビドラマでは女性漫画のドラマ化が続いている一方で若者のドラマ離れが進んでおり、2022年現在、ドラマのコア視聴率(13~49歳の視聴率)は2%以上程度でも合格となっているとされる。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "また昔の美容室は少女漫画誌の置いてあるところが多かったものの、今の美容室は電子書籍読み放題のタブレットの導入が進んでいる。少女漫画の入り口となる低年齢向けでは、2021年より『ぷっちぐみ』が様々な読み放題サービスで配信されるようになっている。", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "", "title": "少女漫画の現状" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "作品が掲載されている主な雑誌。現在はほぼ漫画のみの誌面であるが、創刊当初は絵物語や小説、ファッション、スターの情報などの少女向け総合誌として刊行されていたが、1960-1970年代以降に漫画雑誌として再編成されたものも多く、読者層の成長と共に高年齢層向けの雑誌が刊行されていった。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "少女漫画雑誌の前身。以下の少女向け漫画雑誌も前述のように、創刊当初は少女漫画以外の絵物語などを多く掲載していた。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "後述のハイティーン向けと同様に、比較的新しい時代に年齢の細分化に対応して刊行された。従来児童向けの雑誌か少女向けの下限が担っていた層である未就学児(4歳ごろ)から小学校中学年までの女の子向けで、『ぴょんぴょん』は現在の『ちゃお』が探る低年齢層向け路線の先駆けであったが、1992年に『ちゃお』に統合された。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "創刊当初は少女向け雑誌として刊行されていた雑誌も多く、当初の読者層を小中学生としながらも高校生にまで読まれ、文字通り少女漫画の中心であったが、高年齢層向けの雑誌の刊行、メディアミックスへの特化などで、現在は対象年齢を下げ小中学生向けになっている。少女漫画誌の多様化した現在では、前身の少女雑誌と同様に小学生の少女向け総合誌としての役割がこのジャンルを支えているともされる。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "創刊当初は少女漫画よりもファッションやスターの情報を多く載せ総合誌的な性質をもっていたが、少女向け同様に徐々に少女漫画誌として充実してきた。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "年齢の細分化に対応して刊行された中学生から大学生(20代前半)向けの雑誌であり、その後も若者向けを謳い続けている。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代にかけて、ハイティーン向け雑誌として創刊された。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "ヤング・レディース誌はレディースコミック誌よりも下の世代に向けて創刊された。当初は学生から社会人向けの雑誌であった。2020年時点では読者の約半数が35歳以上、読者の約7割が30代以上となっている。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "ガールズ・コミック誌はヤング・レディース誌よりも下の世代に向けて創刊された。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "元々ファッション誌にも漫画は連載されていたが、1990年代末よりファッション誌の派生漫画誌も発行されるようになった。しかしながらこれらは長続きせず、連載陣の一部はヤングレディース誌「FEEL YOUNG」や「ヤングユー」へと移籍している。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "ページ数が多く、様々な世代向けのものを掲載していた。また出版社側からは新人作家の育成の場として扱われていた。", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "中華民国(台湾)", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "香港", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "韓国", "title": "少女漫画雑誌" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "アメリカ他", "title": "少女漫画雑誌" } ]
少女漫画(しょうじょまんが)は、少女向け雑誌に掲載されるなど、主たる読者として未成年女性を想定した日本の漫画である。大人の女性向け漫画は女性漫画(レディースコミック)として区別される。
{{otheruses|漫画のジャンル|[[松田奈緒子]]の漫画作品|少女漫画 (漫画)}} {{複数の問題 |脚注の不足=2017年5月 |独自研究=2017年5月 |国際化=2017年5月|領域=日本 }} '''少女漫画'''(しょうじょまんが)は、[[少女]]向け[[雑誌]]に掲載されるなど、主たる読者として[[未成年]][[女性]]を想定した[[日本の漫画]]である。[[大人]]の女性向け漫画は[[女性漫画]](レディースコミック)として区別される。 == 概説 == {{独自研究|date=2021年8月 |section=1}} 歴史的には海外にも発生し、海外女性向けコミックの一部として少女向けの作品も存在するであろう。しかし少女向けの出版分野としては途中消滅([[1970年代]][[フランス]])するなどして、ジャンルとして[[20世紀]]に大きな発展を遂げたのは[[日本]]においてである。 === 絵柄および表現の特徴 === 少女漫画の絵柄は基本的に可愛らしく清潔な印象を与えるものが多いが、その絵柄は[[お転婆]]のように元気なもの、落ち着いた癒し系のもの、姫のように美しいもの{{efn2|瞳の[[虹彩]]が強調された「キラキラお目々」など}}、ブランド志向でセレブなもの、[[叙情#叙情画|抒情画]]や[[イラスト]][[抒情詩|ポエム]]のように抒情的なもの、耽美映画のように[[耽美主義|耽美]]的なもの、[[劇画]]や[[青年漫画]]のようにシリアスなものなど時代に合わせて様々となっている。昔の少女漫画は平面的と錯覚させる絵柄が多かったものの、現在は[[ファンタジー]]ブームや子供向けアイドルブームやダンス必修化などを経て少女漫画にも立体感のある絵柄が増えている。瞳がキラキラと輝いたヒロインや表情が現れる大きな目、ホラー漫画以外でもホラーに近い不安を感じさせる精神世界のような絵柄も特徴的。ヒロインの背丈は[[フイチンさん]]のような八頭身<ref name="fuitin"/>から[[小さな恋のものがたり]]の[[小さな恋のものがたり#主な登場人物|チッチ]]ような低身長{{efn2|伸長132cm。}}まで存在している<ref name="hennyou">柳田邦男 編『同時代ノンフィクション選集 第11巻 日本人の変容』 [[文藝春秋]] 1993年 ISBN 416-5113107</ref>。ストーリー漫画では憧れや等身大が強調されるが、コメディやギャグ漫画ではその限りではなく奇人変人だらけのものも多い。 人体の描写は骨や筋肉の隆起が少なく、ファッションと表情の描写に重点が置かれている。現代物の少女漫画では[[少年漫画]]と異なりずっと同じ服やアクセサリーや髪型をすることは少なく、青年漫画と別の生々しい生活感を表現することもある。また[[ファッションブック]]({{仮リンク|ファッションプレート|en|Fashion plate}}をまとめたもの<ref>『手づくり手帖 Vol.20 早春号』 pp.61-62 日本ヴォーグ社 2019年2月16日 ISBN 978-4529058810</ref>)の影響を受けて全身のファッションを扉絵やコマぶち抜きなどで魅せることも行われている。 漫画表現では作品世界の情趣を大切にして目の毒になるものをリアルに描き込むことは避け、[[モノローグ]]の多用、心象を具象化した背景(咲き乱れる花など)、[[コマ (映画・漫画)|コマ]]割りなどを駆使し、感情の流れを重視した演出・画面技法に優れている<ref name="syoujo">アニメーションノートNo11(誠文堂新光社)2008年、ISBN 4-416-60833-0 p.88「それはマンガの変化に似て」田中桂</ref>。またストーリー漫画では少年漫画と比較して心理描写が多く、現実問題を扱った作品が多く、暴力や死の扱いが重い(少女漫画の主旨が[[共感]]であることに由来するともいう)。 そのほか、少女漫画は流行した少年漫画や青年漫画や映画やドラマの影響を大きく受けており、伝統的な少女漫画の系統によらない表現手法も含んでいる。逆にまた、少女漫画からは特有の記号的表現が過去に多く誕生していて、現在は少女漫画にとどまらずに全ての分野に拡散している。 なお、[[1990年代]]以降にインターネット上で人気となったアニメやゲーム風の「[[萌え絵]]」や「萌え漫画」の絵柄はそれらの少女漫画特有の絵柄や要素を原型としてパロディ漫画の登場や女性のゲームデザイナー進出などにより発展したものであり、一般の少女漫画の絵柄よりも属性化・記号化の強いものとなっている。 === 内容の特徴 === 少女漫画は[[4コマ漫画]]から始まっており当初はお転婆なものが中心となっていたが、体験談漫画の登場で等身大へと近づいていき、ラブコメの登場でコメディ要素が強くなっていった。一方、ヒロインが不幸な運命に翻弄されるシリアスなものも登場して人気となった(母恋物、洋画翻案物など)。 2000年代以降は[[恋愛漫画]]及び[[恋愛]]要素のある作品が主流であり、運命や占いのような[[心霊主義|スピリチュアル要素]]が取り入れられる一方、女性の自立などのメッセージを含ませた漫画も存在する。一方で[[ギャグ漫画]]や[[ホラー漫画]]、[[アイドル]]漫画など恋愛漫画以外のジャンルも存在する。[[ファンタジー漫画]]や[[スポーツ漫画]]も古くからジャンルとして確立しており、現在に至るまで人気が根強い。 子供向けの少女漫画誌は読者の購読を始めてから卒業までの期間が短いため、少女漫画作品は短期終了のものが多く、他のジャンルに比べストーリーの完結性の強く計算された物語が要求される(少女漫画以外でもアニメ化などを意識して完結性を計算したものは存在する)。また少女漫画では一般的に、キャラクターの萌え属性の不変性が重視される萌え漫画など{{efn2|女児アニメでも成長が「個性や魅力をスポイルするのではないか」としてキャラクターを成長させないケースがある<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20160426-pripara/ らぁらはなぜ年を取らない? - 『プリパラ』誕生秘話と今後の期待、タカラトミーアーツ・大庭晋一郎に聞く【後編】] マイナビ 2016年4月26日</ref>。}}よりも、キャラクターの成長が重視されている。<!--TODO: 成長して個性失って退場、みたいなケースの例を出典付きで書く。--><!--少女漫画はファンタジー・スポーツ・恋愛・ギャグ、各分野で大ヒットを飛ばした歴史がある。--> === 少女漫画家 === 少女漫画家は当初男性作家が多かったものの、女性作家が増えて心情重視のストーリー漫画が一般化したことで男性作家はコメディやギャグへと転向していき([[弓月光]]や[[魔夜峰央]]など)<ref name="yuzuki-wpb"/><ref name="hensen"/><ref name="syoujo"/>、現在はコメディやギャグもほとんどが女性作家により描かれるようになっている(例外もある)。少女漫画の女性作家は学生デビューも多く(ちゃおでは[[やぶうち優]]<ref name="ddnavi-itoko">[https://ddnavi.com/news/279935/a/ AKB48・木崎ゆりあのいとこが若干14歳で漫画家デビュー! 少女漫画ファンからエール続々] ダヴィンチ 2016年1月7日</ref>や[[ときわ藍]]<ref name="ddnavi-itoko"/>、りぼんでは[[津山ちなみ]]<ref name="rfes-sdebut">[https://natalie.mu/comic/news/146187 津山ちなみ×森ゆきえ、学生デビューした作家同士がりぼんフェスで共感対談] ナタリー 2015年5月3日</ref>や[[森ゆきえ]]<ref name="rfes-sdebut"/>や[[春田なな]]や[[はんざわかおり|半澤香織]]や[[佐和田米]]など)若い感覚が取り入れられている。また、かつての『ギャルコミ』編集長は同誌について「30歳を超えると絵が古くなり、若い世代が感覚的についていけない」と語っていた{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=70}}。<!--TODO: メジャー誌は?--> メジャー誌の少女漫画家は漫画スクールや新人漫画賞からのデビューが一般的となっている(「ちゃお」は「ちゃおまんがスクール」や「[[小学館新人コミック大賞]]」の少女・女性部門、「りぼん」は「りぼんまんがスクール+」、「なかよし」は「なかよしまんがスクール」や「[[なかよし新人まんが賞]]」{{efn2|[[少女フレンド・なかよし新人まんが賞]]の後継}}など{{efn2|受賞作のWeb公開も行われている<ref>[http://ribon.shueisha.co.jp/post/new-prize.html 今月の受賞作] 集英社</ref><ref>[https://ciao.shogakukan.co.jp/webwork/6648/ ちゃおまんがスクール入賞作品 - ちゃおランド] 小学館</ref>。}})。新人の漫画掲載は増刊を中心に行われており(「りぼん」では「[[りぼんスペシャル]]」、「ちゃお」では「[[ちゃおデラックス]]」、なかよしでは「[[なかよしラブリー]]」(休刊)など)、本誌の連載へと至るのは一部の作家のみとなっている<ref>[https://realsound.jp/book/2022/11/post-1194731.html 『ぼっち・ざ・ろっく!』「ちゃお」から「きらら」に作者が移籍し大ヒット! なぜ萌え系4コマ漫画誌から話題作が生まれる?] リアルサウンド 2022年11月29日</ref><!--TODO: もっと少女漫画寄りの出典?-->。 なお、少女漫画家にも特定雑誌への専属契約は存在する([[種村有菜]]など<ref>[https://natalie.mu/comic/news/59511 種村有菜、公式サイト設立。りぼん専属契約終了しフリーに] ナタリー 2011年11月11日</ref>)が、専属契約せずにマルチに活躍する作家も存在している([[双葉陽]]など)。[[1980年代]]以降は少女漫画家が[[青年漫画]]や[[少年漫画]]や[[4コマ漫画]]に転向したり兼業する例も多く見られる([[#歴史]]節も参照)。 == 歴史 == === 黎明期 === {{節スタブ}} 大正時代以前よりも少女誌では少女主人公の絵物語が存在していた。 <gallery> File:Shoujo November 1910 with translation.jpg|西木富士子著『ポンチ書 モデル』1910年 File:ミケ子ロマンス(三).jpg|小川治平著『ミケ子ロマンス』(「[[少女画報]]」1920年) </gallery> 一方、新聞漫画では1902年1月に[[東京五大新聞]]の一つ「[[時事新報]]」の日曜版が[[北澤楽天]]による漫画欄を設け<ref name="hakubutsukan-6-p157"/>、同年3月にそこから子供主人公の漫画が登場し{{sfn|徐園|2013|p=32}}、同年9月には北澤楽天が長期連載となる「凸坊」シリーズの連載を開始した{{sfn|徐園|2013|p=33, p.68}}ものの、少女主人公の新聞漫画は長らく存在していなかった{{sfn|徐園|2013|p=219}}。[[大正デモクラシー]]と[[大正自由教育運動]]の中で、1921年には[[東京朝日新聞]]の漫画欄「漫画の国」でおしゃれ少女が主人公の片割れの8コマ漫画「リン子と金丸」([[山田みのる]])が登場し、次いで翌1922年には[[國民新聞]]でおしゃれ少女が単独主人公の4コマ漫画「みい子」([[前川千帆]])が登場した{{sfn|徐園|2013|pp=221-222}}ものの、どちらも短期間の連載となっていた{{sfn|徐園|2013|p=220, 232}}。 === お転婆少女の漫画の登場 === 前述の「[[時事新報]]」では1899年に創刊者の[[福沢諭吉]]が「婦人は静にして奥ゆかしきこそ{{ruby|頼母|たのも}}しけれ。所謂おてんばは我輩の最も賤しむ所なれども(後略)」としてお転婆を好ましくないものとしていた<ref>[https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/43029_23560.html 女大学評論] 福沢諭吉 1899年</ref>ものの、人気となっていた西洋の翻訳少女小説では当時の西洋のジェンダー規範による物語の制約を回避するために「お転婆少女」(「少年のような少女」)を主人公とするのが定番となっていた{{sfn|菅聡子 編|2008|p=67}}。 前述の「凸坊」シリーズの連載を行っていた北澤楽天らは風刺新聞「[[團團珍聞]]」や「[[滑稽新聞]]」による風刺漫画ブームが起きると1905年に時事漫画誌「[[東京パック]]」を立ち上げて時事新報社を辞職した<ref name="hakubutsukan-6-p157"/><ref name="tansaku"/>ものの、1912年の東京パックの経営権問題とその後継として設立された[[楽天社]]の失敗{{efn2|漫画雑誌「[[楽天パック]]」と婦人向け雑誌「[[家庭パック]]」を創刊するも成功せず1913年に休刊となる}}<ref name="hakubutsukan-6-p157"/><ref name="tansaku">『近代出版史探索Ⅱ』 小田光雄 2020年 ISBN 978-4846019433</ref>により時事新報社へと戻って「凸坊」シリーズの連載を再開した{{sfn|徐園|2013|p=68}}が、その連載中の北澤楽天が1918年頃に立ち上げた漫画塾「[[漫画好楽会]]」<ref name="hakubutsukan-6-p157">『漫画雑誌博物館 6(大正時代篇) 時事漫画』 p.157 清水勲 1986年9月1日 ISBN 978-4336024213</ref>からお転婆少女の漫画が登場することとなった。 1923年4月、前述の「漫画好楽会」出身の[[麻生豊]]が報知新聞において少女主人公の「ダダ子」の連載を開始し{{sfn|徐園|2013|pp=222}}、次いで翌1924年3月には同じく「漫画好楽会」出身<!--1921年頃に加入-->の[[長崎抜天]]が「時事新報」夕刊において女学校に通う少女を主人公とする漫画「[[ひとり娘のひね子さん]]」の連載を開始する{{sfn|徐園|2013|p=93}}<ref name="hakubutsukan-11-p169">『漫画雑誌博物館 11(昭和時代篇) 時事漫画 2』 p.169 清水勲 1987年5月1日 ISBN 978-4336024268</ref><ref>『四コマ漫画: 北斎から「萌え」まで』 pp.44-46 清水勲 2009年 ISBN 978-4004312031</ref><ref>[https://www.kyotomm.jp/HP/2008/06/080812_hinekosan.php 漫画に見る大正社会ー『ひとり娘のひね子さん』が記録した世界展] 京都国際マンガミュージアム</ref>。<!--TODO: 1927年1月、同じく「漫画好楽会」出身の河盛久夫が「時事新報」日曜版の別冊付録「[[時事漫画]]」で「ハーさんフーさん」の連載を開始する<ref name="hakubutsukan-11-p167"/><ref name="hakubutsukan-11-p169"/>。→恋愛物?小母さん中心?要確認 {{Cite journal|和書 |author=阪本一郎 |date=1976-12 |url=http://id.nii.ac.jp/1351/00004199/ |title=昭和初期の子ども漫画 |journal=研究紀要 |ISSN=0385-5309 |publisher=文教大学女子短期大学部 |volume=20 |pages=17-27 |CRID=1050001338027092736}}-->1928年8月、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダムオリンピック]]で[[人見絹枝]]が日本人女性初のメダリストとなると、北澤楽天は同年11月に「時事新報」日曜版の別冊付録「[[時事漫画]]」においてお転婆少女が主人公の「[[北澤楽天#とんだはね子嬢|とんだはね子嬢]]」の連載を開始し{{sfn|清水勲|1999|p=61}}{{sfn|徐園|2013|p=97, 227}}<ref name="hakubutsukan-11-p167"/><ref>『漫画考現学―そこに知る子ども世界の理解と批評』 重松一義 1996年3月1日 ISBN 978-4773350500</ref><ref>[https://www.city.saitama.jp/004/005/002/003/001/002/p006816.html 北沢楽天の生んだ「キャラクター」たち] [[さいたま市]]</ref>、翌1929年3月にその連載を前述の[[長崎抜天]]が引き継ぐ<ref name="hakubutsukan-11-p167">『漫画雑誌博物館 11(昭和時代篇) 時事漫画 2』 p.167 清水勲 1987年5月1日 ISBN 978-4336024268</ref>。 その後、少女誌に連載漫画が登場することとなる。1932年には[[良妻賢母]]の育成を編集方針とする『[[少女倶楽部]]』<ref name="ryosaikenbo-and-gensou">{{Cite thesis|和書|author=松岡昌和 |title=日本占領下シンガポールにおける文化政策 |series=一橋大学 博士論文(学術)、 乙第562号 |date=2016-05 |naid=500001086897 |doi.org/10.15057/29688 |url=https://doi.org/10.15057/29688 |pages=174-175}}</ref>([[大日本雄弁会講談社]])に少年漫画「[[のらくろ]]」で有名な[[田河水泡]]の『[[スタコラサッチャン]]』が連載され始め、1935年には同誌に田河水泡の元内弟子である[[倉金章介]]の『[[どりこの|どりちゃんバンザイ]]』が連載されはじめた。 === 抒情漫画の登場 === 少女漫画登場前、大正の[[叙情#叙情画|抒情画]]ブームを受けて抒情画家を表紙や挿絵に採用する複数の少女誌が人気となっていた<ref>{{Cite book|和書|author=夏目房之介, 竹内オサム |title=マンガ学入門 |publisher=ミネルヴァ書房 |year=2009 |NCID=BA89926971 |ISBN=9784623053308 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010110443-00}}</ref>。抒情画は「眼が大きく、口が小さく、髪の豊か」な絵柄を特徴としていた{{sfn|上笙一郎|1974|p=176}}が、この大きな眼は「社会に向って見開かれた眼」を意味していた{{sfn|菅聡子 編|2008|p=107}}。少女誌には抒情画と[[抒情詩]]を組み合わせた詩画集も掲載されていた{{sfn|大塚英志 編|1991|p=26}}。この詩画集は後の少女漫画誌における「イラストポエム」の前身に当たる<ref>『日本の文学 第7集 特集:日本文学と絵画』 有精堂出版 1990年6月1日 ISBN 978-4640306074</ref>。 また抒情画は元々[[センチメンタル]](おセンチ)な作風が中心となっていたが、1928年に少女誌「[[少女世界]]」でデビューした抒情画家の[[松本かつぢ]]は作風を差別化するためとして「明るくて可愛い抒情画」を確立した{{sfn|上笙一郎|1974|p=158}}。1930年には少女誌「少女の友」([[実業之日本社]])の編集に[[内山基]]が加わり、内山基が同誌の編集方針に「ロマンチシズム・エキゾチズム・ヒューマニズム」を導入した{{sfn|上笙一郎|1974|pp=172-173}}(いわゆる「夢の世界」「憧れの世界」<ref name="ryosaikenbo-and-gensou"/>)。これらの方針には内山基が学生時代に関わった米国出身の慈善活動家 [[大森安仁子]]の影響があったとされる{{sfn|上笙一郎|1974|pp=173}}。「少女の友」の抒情画では前述の方針に従って「健康で、夢を持った、清純な少女」を求め、新世代の抒情画家である[[中原淳一]]や前述の[[松本かつぢ]]を採用した{{sfn|上笙一郎|1974|pp=173-174, p.176}}。 この新世代の抒情画から抒情漫画が登場することとなる{{sfn|上笙一郎|1974|p=158-159}}。1938年、『少女の友』において抒情画家の[[松本かつぢ]]は抒情漫画『くるくるクルミちゃん』の連載を開始した{{sfn|上笙一郎|1974|p=158-159}}<ref>[https://katsudi.com/ 松本かつぢ] 松本かつぢ資料館</ref>。 === 統制下 === 1937年に[[大東亜戦争]]が勃発すると、1938年5月に[[社会主義]]的な[[革新官僚]]らが中心の[[企画院]]によって策定された[[国家総動員法]]が施行され<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%BC%81%E7%94%BB%E9%99%A2-50022 企画院] コトバンク</ref>[[雑誌浄化運動]]が始まり、同年10月には[[内務省 (日本)|内務省]][[警保局]][[文化庁|図書課]]が雑誌編集者に対して「[[児童読物改善に関する指示要綱]]」を提示し<ref>『出版警察資料 (33)』 pp.93-96 内務省警保局 1938年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1479910/1/51]</ref>、1940年には出版社を糾合した[[日本出版協会|日本出版文化協会]]が設立され1941年より出版統制を行うようになり<ref name="senji-bunka-seisakuron">[[松本潤一郎]]『戦時文化政策論』 pp.182-186 文松堂出版 1945年 [https://dl.ndl.go.jp/pid/1273592/1/100]</ref>、用紙の入手難や印刷所の労働力不足もあって「内容の粗悪なもの」「時局柄不適当なもの」などが規制されることとなった<ref name="senji-bunka-seisakuron"/>。 少女誌では漫画や抒情画などが「低調」<ref name="a06030063800">{{アジア歴史資料センター|A06030063800|児童雑誌検閲簿(国立公文書館)}} p.3-4 1938年</ref>や「[[主情主義|主情的]]ニ偏スル」<ref name="a06030063800"/>や「日本人でなく[[毛唐]]を描いている」{{sfn|上笙一郎|1974|p=175}}や「全体として弱々しく、[[日支闘争計画#レーニンの敗戦革命論|敗戦主義]]の絵だ」{{sfn|上笙一郎|1974|p=175}}などとして注意を受けることとなった<ref>{{Cite journal|和書|author=今田絵里香 |title=少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から |journal=北海道大学大学院教育学研究科紀要 |ISSN=13457543 |publisher=北海道大学大学院 |year=2000 |volume=82 |pages=121-164 |naid=120000965978 |doi=10.14943/b.edu.82.121 |url=https://doi.org/10.14943/b.edu.82.121}}</ref>。 そんな現実主義の風潮の中で、1940年には『少女倶楽部』に田河水泡の弟子{{sfn|清水勲|1989|pp=18(233)}}で女性作家の[[長谷川町子]]の『[[仲よし手帖]]』が登場した。 === 戦後 ===<!--TODO: 学年誌方面(リイ子ちゃん/早見利一など)--> 戦後初期には雑誌用紙の統制が継続していたものの、用紙の確保には多くの種類の雑誌を出版した方が有利な制度となっていたため、雑誌の復刊や創刊が相次いだとされる<ref>『家の光の二十五年』 p.121 [[家の光協会]] 1949年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1160921/1/69]</ref>。少女誌では1945年秋<!--9月の昭和20年8・9合併号{{sfn|長谷邦夫|1995|p=128}}-->に『少女倶楽部』が復刊して<ref>『日本児童文学 18(1)(184)』 日本児童文学者協会 1972年1月</ref>抒情画が復活し<ref>『証言・私の昭和史〈1〉昭和初期』 p.299 テレビ東京編 1989年2月1日 ISBN 978-4167499013 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12229292/1/153]</ref>、少女漫画の絵柄は抒情画の影響を受けていった<ref>[https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/exh_shoujomanga/corner02.html 少女マンガはどこからきたの? web展 - 展示コーナー コーナー2 ◆ どこからきたの?①(ルーツ)] 明治大学</ref>。また統制外の[[カストリ雑誌#用紙|仙花紙]]を用いた大衆娯楽の[[カストリ雑誌]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E9%9B%91%E8%AA%8C-1154327 カストリ雑誌] コトバンク</ref>や[[赤本 (少年向け本)|赤本]]の出版ブームも起き<ref name="dokokara-webten"/>、その赤本から少女向けのものも登場した(後述)。<!--TODO: 返本問題から発売日統一? https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1160921/1/69 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1812292/1/23 --> また戦後初期にはまだ[[見合い結婚]]が一般的であり、[[恋愛結婚|自由恋愛による結婚]]は少なく、少女誌でもそれが反映されていたとされる<ref>『【新増補版】少女マンガ ジェンダー表象論: 〈男装の少女〉の造形とアイデンティティ』 p.124 押山美知子 2018年1月19日 ISBN 978-4865980509</ref>。 1945年には戦後初の映画「[[そよかぜ (映画)|そよかぜ]]」が登場して主題歌「[[リンゴの唄]]」が人気となり{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=52}}、次いで翌1946年には[[NHKラジオ]]より童謡「[[みかんの花咲く丘]]」が登場してヒットした{{sfn|堀江あき子 編|2003|pp=52-53}}。少女漫画では1949年1月に前述の『[[仲よし手帖]]』の連載を引き継いだ新たな少女誌『[[少女 (雑誌)|少女]]』([[光文社]])が登場し、その『少女』がお転婆姫物の『[[あんみつ姫]]』([[倉金章介]])を連載して人気を博した<ref name="dokokara-webten">[https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/exh_shoujomanga/corner01.html 少女マンガはどこからきたの? web展] 明治大学</ref>。同1949年3月、映画『[[のど自慢狂時代]]』に子供歌手「[[美空ひばり]]」が出演して人気となっていき{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=55}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A-170987 美空ひばり] コトバンク</ref>、赤本では美空ひばりとあんみつ姫を組み合わせた『ひばり姫歌合戦』(峠てっぺい){{sfn|清水勲|1989|pp=99-100}}や『ひばり姫』シリーズ(伴久良)<ref name="dokokara-webten"/>などが登場した{{sfn|清水勲|1989|pp=99-100}}{{efn2|なお、映画でも1952年に[[松竹京都撮影所|松竹京都]]製作の「[[ひばり姫初夢道中]]」が登場している(主演は美空ひばり)。}}。 また赤本では[[宝塚歌劇団]]の機関紙「[[歌劇 (雑誌)|歌劇]]」にルーツを持ち{{sfn|石子順|2002|pp=52-53}}、[[ディズニー]]の影響も受けていると言われる<ref>『占領期文化をひらく―雑誌の諸相』 早稲田大学出版部 2006年8月1日</ref><!--{{sfn|石子順|2002|p=40}}→うーん?-->[[手塚治虫]]が和製の西洋おとぎ漫画を開拓していった。1948年には[[グリム童話]]「[[グリム童話の一覧#KHM 51 - 100|二人兄弟]]」の翻案児童漫画として姫救出物の「森の四剣士」が登場し{{sfn|石子順|2002|pp=30-31}}、翌1949年6月には少女向けとして姫を主人公とする『奇跡の森のものがたり』も登場{{sfn|石子順|2002|pp=37-38}}<ref>[https://tezukaosamu.net/jp/manga/98.html 奇蹟の森のものがたり] [[手塚プロダクション]]</ref>、この流れが後述する『[[リボンの騎士]]』へと繋がっていく{{sfn|石子順|2002|pp=29}}。 また両性向けの少年少女誌では冒険物が登場した。戦前より米国の「[[ターザン・シリーズ]]」が映画として入ってきて人気となっており{{sfn|三省堂|1981|p=95}}、紙芝居でもその<!--ターザン映画の-->影響を受けた[[山川惣治]]<ref name="aida-pp32-33">『マンガと児童文学の〈あいだ〉』 pp.32-33 竹内オサム 1989年 ISBN 978-4477119250</ref>による「[[山川惣治|少年タイガー]]」などの[[冒険活劇]]が人気となっていた<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%83%A3%E6%B2%BB-167718 山川惣治] コトバンク</ref>が、戦後の1946年には映画「鉄腕ターザン」が日本でも公開されてターザン映画の人気が復活した<ref>清水勲、鈴木理夫(協力)『戦後漫画のトップランナー 横井福次郎―手塚治虫もひれ伏した天才漫画家の軌跡 (ビジュアル文化シリーズ) 』 p.51 臨川書店 2007年12月1日 ISBN 978-4653040156</ref>。1946年には漫画単行本「冒険ベンちゃん」が登場し<ref name="sugiura-nenpyo"/>、1948年にはその「冒険ベンちゃん」などの載る少年少女誌「少年少女漫画と読物」が登場し{{sfn|長谷邦夫|1995|p=26}}<ref name="sugiura-nenpyo">[https://www.sugiurashigeru-zenshigoto.com/timeline-page/html/timeline-page.html 杉浦茂 全仕事 - 年表] 杉浦茂全仕事編集委員会</ref>、また1948年2月には漫画単行本「冒險ターザン」が登場して人気となり{{sfn|三省堂|1981|p=96}}<ref>『昭和史全記録 : Chronicle 1926-1989』 毎日新聞社 1989年</ref>、同年8月には少年誌「[[少年画報|冒険活劇文庫]]」(後の「少年画報」、[[少年画報社|明々社]])が登場{{sfn|清水勲|1999|p=61}}、翌1949年2月にはそれらの対抗として少年少女誌「[[冒険王 (漫画雑誌)|少年少女冐險王]]」(秋田書店)も登場した{{sfn|清水勲|1999|p=61}}。また1947年には冒険物の紙芝居「[[山川惣治|少年王者]]」の翻案を初めとする絵物語本の「おもしろブック」シリーズ(集英社)が登場し{{sfn|清水勲|1989|p=84}}、1949年8月にはその「少年王者」を看板とした少年少女誌「[[少年ブック|集英社の少年少女おもしろブック]]」が登場した<ref>『集英社70年の歴史』 集英社 1997年8月</ref><ref name="aida-pp32-33"/>。これら少年少女誌は少年誌寄りであったとされる{{sfn|長谷邦夫|1995|p=27, p=29}}。また、前述の『少女』の登場もあり、これら新興漫画誌の人気によって「赤とんぼ」「銀河」<!--〜1949年-->「少年少女の広場」(旧 「子供の広場」)<!--〜1950年-->などの少年少女誌が廃刊に追い込まれた<ref name="seishonen-bunka-undou">『青少年文化運動』 p.9 菅忠道 1969年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12122813/1/8]</ref><ref name="taikei11-p8">『少年小説大系11 戦後少年小説集』 p.8 紀田順一郎 1991年 ISBN 978-4380915475</ref><ref name="seikatsushi">『昭和の子ども生活史』 深谷昌志 2007年 ISBN 978-4654090099</ref>。「少年少女の広場」の編集者の[[猪野省三]]<ref>『日本児童文学 26(7)(302)』 pp.150-156 日本児童文学者協会 1980年5月</ref>はこれら新興漫画誌をカストリ雑誌の子ども版だと批判し<ref name="seishonen-bunka-undou"/><ref name="taikei11-p8"/><ref name="seikatsushi"/>、また「銀河」の創刊および編集に関わっていた[[滑川道夫]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%BB%91%E5%B7%9D%E9%81%93%E5%A4%AB-1098364 滑川道夫] コトバンク</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=中村百合子 |year=2008 |url=https://doi.org/10.20651/jslis.54.3_204 |title=滑川道夫の読書指導論の形成 : 戦前から戦後へ |journal=日本図書館情報学会誌 |ISSN=13448668 |publisher=日本図書館情報学会 |volume=54 |issue=3 |pages=204-221 |doi=10.20651/jslis.54.3_204 |CRID=1390282679544061440}} p.208 より</ref>も児童向け小説や漫画の悪書追放を訴え<ref>青少年読書研究会 編『児童図書室 2(5)』 pp.11-12 森田屋書店 1949年9月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/1726188/1/7]</ref>、これが後の[[悪書追放運動]](マンガバッシング)へと繋がっていく。<!--TODO: 紙芝居バッシングとの関係{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=44-45}}--> 1951年には前述の「おもしろブック」の姉妹誌として少女向けの『[[少女ブック]]』が登場した。少女ブックでは前述の『あんみつ姫』を踏襲して1951年より『てるてる姫』(早見利一)を、1953年より『もん子姫諸国漫遊記』(倉金章介・[[宮崎博史]])を連載した{{sfn|長谷邦夫|1995|p=133}}<!--TODO: 開始年の出典-->。また少女ブックでは1951年に女性作家[[上田としこ]]の『ボクちゃん』も連載したが、『ボクちゃん』は[[田河水泡]]のコマ割りと[[手塚治虫]]の「映画的なストーリー展開」を参考にして描かれていたとされる<ref name="daihakubutsukan">『漫画大博物館』 松本零士、日高敏 p.335-338 2004年 ISBN 978-4778030070</ref>。一方、旧来の『少女クラブ』でも[[1953年]]に[[手塚治虫]]の[[ストーリー漫画]]『[[リボンの騎士]]』を連載し、この頃から少女誌では従来の絵物語などを押しのけて少女漫画の比重が高まっていくこととなった。その後、[[水野英子]]がデビューして手塚治虫の住む[[トキワ荘]]に入居し台頭、後の少女漫画に影響を与えていくことになる また1947年には[[ベビーブーム#第一次ベビーブーム|第一次ベビーブーム]]が起きており<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%99%E3%82%A4%E3%83%93%E3%82%A3%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0-625489 ベイビィブーム] コトバンク</ref>、その子供が成長したことで低年齢向けの漫画雑誌も増加していった{{sfn|米沢嘉博|2007b|p=30}}。1951年に「少年少女冐險王」の弟誌「[[まんが王|漫画王]]」が、1953年に「少年ブック」と『少女ブック』の弟誌「[[幼年ブック]]」{{efn2|1951年に創刊された「よいこ一年生」「よいこ二年生」「よいこ三年生」の後継誌}}<ref name="zasshi-daikenkyu"/>が登場した。少女漫画誌では1954年に「[[少年倶楽部|少年クラブ]]」の弟誌「[[ぼくら]]」と共に『少女クラブ』の妹誌『[[なかよし]]』が、1955年に『少女ブック』の妹誌『[[りぼん]]』が登場した。漫画中心の少女雑誌が流行することで、小説中心だった『[[少女の友]]』は同1955年に休刊へと追い込まれた{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=55, p.340}}{{sfn|米沢嘉博|2007b|p=30}}(休刊は[[悪書追放運動]]の影響とする説もある<ref>時事通信社 編『教育年鑑 1957年版』 p.320 [[時事通信社]] 1956年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3036476/1/176]</ref>)。また1958年には秋田書店も少女雑誌に参入したものの、新たに創刊された『[[ひとみ (雑誌)|ひとみ]]』は他との差別化が行われていなかったとされる<ref>『戦後マンガ史ノート』 石子順造 1994年 ISBN 978-4314006453</ref>。 === 復興後 ===<!--TODO: 難病物ブーム{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=154-159}}、スーパーヒロイン物(『スーパーローズ』([[石川球太]]))--> [[朝鮮特需]]の恩恵などにより日本経済が復興し、1956年には[[経済白書]]で「[[もはや戦後ではない]]」と宣言されるまでに至った<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%82%E3%81%AF%E3%82%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-159610 もはや戦後ではない] コトバンク</ref>。漫画では1953年に名作の漫画化を中心とする[[貸本漫画]]が登場し{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=42-43}}、チープな赤本に代わって貸本屋が人気となることで名作以外の貸本漫画も登場した{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=43}}{{sfn|清水勲|1989|p=169}}。少女向けの{{Anchors|貸本少女漫画}}貸本漫画も登場した。<!--TODO: 小島剛夕{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=72-82}}?、子役採用の童謡漫画{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=137}}--> 映画では[[三益愛子]]主演などの[[母もの映画]]が[[母親|家庭婦人]]に人気となっており<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E7%9B%8A%20%E6%84%9B%E5%AD%90-1656072 三益愛子] コトバンク</ref><ref>『[[映画評論 (雑誌)|映画評論]] 8(5)』内「日本母性愛映画の分析」 新映画 p.35 1951年5月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/2256165/1/18]</ref>{{sfn|長谷邦夫|1995|p=131}}、少女漫画では女流作家を中心に娘視点の母恋物(母娘[[メロドラマ]])が登場した<ref>『マンガ研究 vol.6』 日本マンガ学会 2004年12月20日</ref>{{sfn|米沢嘉博|2007b|p=37}}{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=141-143}}。貸本漫画では1953年に「太平洋文庫」から「母恋物語」(帷子進)が{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=289}}、1957年より東光堂のレーベル「漫画光文庫」から『母恋シリーズ』{{efn2|『母恋ワルツ』『母恋真珠』『母恋夕月』}}([[牧美也子]])が出版された{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=69}}<ref name="daihakubutsukan"/>ほか、母恋と名の付くもの以外でも母子ものが一般的となっており{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=136}}、少女漫画誌では1957年の『少女』に『母さんふたり』([[横山光輝]])が登場し{{sfn|長谷邦夫|1995|p=131}}、次いで、少女漫画誌では[[わたなべまさこ]]による多数の母娘離別物が登場した。『[[少女ブック]]』では1959年より『[[白馬の少女]]』([[わたなべまさこ]]){{sfn|米沢嘉博|2007a|p=103, pp.342-343}}、1962年より『[[ミミとナナ]]』(わたなべまさこ)が{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=103, pp.344ー345}}、『りぼん』でも1961年より『おかあさま』(わたなべまさこ){{sfn|米沢嘉博|2007a|p=103, p.344}}、1963年より『カメリア館』(わたなべまさこ){{sfn|米沢嘉博|2007|p=103, pp.345ー346}}が連載された。また1957年には『[[少女ブック]]』で姉妹離別物の『[[山びこ少女]]』(わたなべまさこ)も登場している{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=102}}。 また[[白黒テレビ]]、[[洗濯機]]、[[冷蔵庫]]が[[三種の神器 (電化製品)|三種の神器]]となり、[[上水道|各戸給水]]の拡大と[[洗濯機#パルセーター式(噴流式・渦巻き式)|噴流式洗濯機]]の登場が洗濯しながらの[[井戸端会議]]を無くしていった{{sfn|三省堂|1981|p=115}}<ref name="morning">島村恭則『みんなの民俗学 ヴァナキュラーってなんだ?』 平凡社 2020年11月16日</ref>{{efn2|一部地域では喫茶店の[[モーニングサービス]]が井戸端会議の代わりとなった<ref name="morning"/>。}}。1956年には白黒テレビの普及によって大手邦画会社がテレビへの提供を取りやめ([[五社協定#テレビの台頭]])、テレビ局はそれに代わってアメリカ製[[ホームドラマ]]を放送して夢の郊外生活を広めていった{{sfn|宮台真司|1997|p=136}}。同1956年には住宅不足の解消のためとして[[ダイニングキッチン]]を採用する郊外[[団地]]が登場し{{sfn|宮台真司|1997|pp=136-137}}<ref name="koukyousei"/>、翌々年の1958年には[[団地#団地を含む言葉|団地族]]という言葉も生まれ<ref name="koukyousei">{{Cite journal|和書|author=本多真隆 |date=2019-03 |url=https://meisei.repo.nii.ac.jp/records/2586 |title=団地家族論の問題構制 : 戦後日本における私領域の形成と公共性についての試論 |journal=明星大学社会学研究紀要 |ISSN=03898245 |publisher=明星大学人文学部人間社会学科 |issue=39 |pages=1-20 |CRID=1050848249831056256}}</ref>、[[核家族]]化が進んでいった。 またテレビ番組では1956年4月より「{{仮リンク|カウボーイGメン|en|Cowboy G-Men}}」を初めとするアメリカ製の[[西部劇]]が放送されており<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/47156 日本で初めて放送された海外ドラマは? 海外ドラマの日|4月28日] Forbes JAPAN 2022年4月28日</ref>、少女漫画では同年6月に「[[少女クラブ]]」で西部劇モノの『赤っ毛小馬』([[水野英子]])が<ref name="dokokara-7"/>{{sfn|長谷邦夫|1995|p=122}}、1957年に『少女ブック』で『荒野に夕日が沈むとき』([[赤塚不二夫]])が登場した。<!--Note: 西部劇映画はGHQ検閲中も放映されてた?(e.g. 西部の男/1951)--> また前述の美空ひばりから続く少女スターの人気が続き、『少女ブック』では1955年より[[中村メイコ]]を元にした『中村メイ子ちゃん』(上田トシコ)が、『少女』では1957年より[[鷲津名都江|小鳩くるみ]]を元にした『小鳩くるみちゃん』([[水谷武子]])が連載された{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=48, p.340}}。翌1958年にはテレビドラマから女優の[[宮城まり子]]を当て書きした『[[まりっぺ先生]]』が登場し、翌1959年に『りぼん』で少女漫画化された(漫画は赤塚不二夫)<!--{{sfn|長谷邦夫|1995|p=133}}-->。 また1946年には[[東京バレエ団 (第1期)|東京バレエ団]]が結成されて「[[白鳥の湖]]」のバレエ公演が行われ人気となり{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=46}}、1948年にはイギリスのバレエ映画「[[赤い靴 (映画)|赤い靴]]」が登場してこちらも人気となった{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=46}}。その後、1953年にテレビ放送が開始されるとテレビにおいてもバレエ番組が放送されるようになった。少女漫画誌では1956年1月に『少女クラブ』で『白鳥の湖』([[横山光輝]])が<ref name="ballet-1950s"/>、同年2月に『なかよし』で別冊付録として『赤いくつ』(原作:三谷晴美、漫画:相沢光朗)が{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=51}}、同年3月に同じく『なかよし』で別冊付録として『白鳥の湖 少女バレー物語』([[大城のぼる]])が登場した<ref name="ballet-1950s"/>。1958年1月には『少女』でバレエ物の『あらしをこえて』([[高橋真琴]])が登場し{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=49, 121}}、『少女』ではその後も高橋真琴がバレエ物を連載していった{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=49}}。また[[バレリーナ]]の[[松島トモ子]]が少女スターとして活躍しており{{sfn|堀江あき子 編|2003|pp=46-47}}、1958年には『少女』の別冊付録として『松島トモ子ちゃんのバレエまんが』が登場した<ref name="ballet-1950s"/>。また1958年10月にはバレエ専門の貸本漫画誌『バレエ』([[中村書店]])も登場している{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=148-149, p=296}}<ref name="ballet-1950s">[https://www.toshonoie.net/shojo/01_ballet/1950s.html バレエ漫画リスト - 1950年代 - 図書の家] 小西優里、卯月もよ</ref>。 [[1950年代]]後半から[[1960年代]]前半にかけては、抒情画と[[宝塚歌劇団]]の影響を受けた前述の[[高橋真琴]]{{sfn|清水勲|1989|p=133}}の影響を受け、少女漫画特有の装飾的な表現が発達した。この表現はスタイル画を取り入れたり{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=107}}、人物の背景に花を描き込んだり、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目などである。先行した[[少女小説]]の影響などもあって、美形の男性・[[男装]]の麗人などが登場し、華麗なストーリーを展開した。1950年代から1960年代前半の少女漫画は[[ちばてつや]]や[[松本零士]]など男性作家によって描かれていることが多く、この時期の古典的な少女漫画の様式や技法の追究は、主に前述の高橋真琴を始めとする男性作家や男性編集者によって築かれたものである。<!--TODO: 貸本漫画は女性作家多かったから要検証?バレエ漫画方面への影響{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=82}}--> また1950年9月に[[文部省特選]]としてディズニー映画「[[白雪姫 (1937年の映画)|白雪姫]]」が{{sfn|三省堂|1981|p=150}}、1952年にディズニー映画「[[シンデレラ (1950年の映画)|シンデレラ姫]]」が日本でも公開され人気となっており、1954年に王女と新聞記者の身分違いの恋愛を描いたイタリア映画「[[ローマの休日]]」が公開され大ヒットしていた。1957年には[[女性週刊誌]]「[[週刊女性]]」(1957年)が、1958年には女性週刊誌「[[女性自身]]」が創刊されて人気となり、そこで継続的に取り上げられたこともあって<ref name="michiko-sama"/>、1958年には身分違いの自由恋愛で皇后となった[[上皇后美智子|美智子妃]]のブームが起き([[ミッチー・ブーム]])<ref name="michiko-sama">[https://precious.jp/articles/-/11345 貴重な写真で振り返る!皇后美智子さまの「エレガンスの歴史」] Precious.jp 2019年4月27日</ref>、[[ウェディングドレス#ドレスライン|プリンセス・ライン]]のドレスがブームとなった<ref name="wagasedai-s6">『わが世代 昭和六年生まれ』 p.223 河出書房新社 1979年4月1日 ISBN 978-4309703534 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12125714/1/114]</ref>。 1953年には世界的な[[ミス・コンテスト]]の一つ[[ミス・ユニバース]]に昭和のシンデレラ姫と呼ばれた[[伊東絹子]]が入賞し<ref name="sengo-senchu">『日本発見 人物シリーズ No.15 戦中戦後の女性』 p.144 暁教育図書 1983年5月3日 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12145443/1/74]</ref>、その体型であった「八頭身」が流行語となっており<ref name="sengo-senchu"/>、それによって日本人[[ファッションモデル]]も八頭身が一般的となっていき、少女漫画でもその影響を受けていった。初期の例としては1957年の『[[フイチンさん]]』([[上田トシコ]])の主人公が八頭身スタイルとなっている<ref name="fuitin">『マンガ研究 vol.6』 日本マンガ学会 2004年12月20日</ref>。 一方、映画では1946年よりミステリー物の「[[多羅尾伴内]]」シリーズが放映され人気となり{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=85}}、次いで少年小説誌では1949年より「[[少年探偵団]]」の連載が再開されて「少年探偵ブーム」が起こり{{sfn|堀江あき子 編|2003|pp=58-59}}1954年にはそれが[[怪人二十面相#ラジオドラマ|ラジオドラマ化]]され同じく人気となる{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=85}}が、少女誌でも少女探偵小説が人気となっていった{{sfn|堀江あき子 編|2003|pp=58-59}}。少女漫画では探偵物として「少女クラブ」に『探偵タン子ちゃん』([[小野寺秋風]]、1951年{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=125}})、『少女ブック』に『探偵テイ子ちゃん』(小野寺秋風)、『なかよし』に『ボクちゃん探偵長』(小野寺秋風)及び『こけし探偵局』([[手塚治虫]]、1957年{{sfn|堀江あき子 編|2003|p=122}})が登場した{{sfn|堀江あき子 編|2003|pp=58-63}}。また『少女クラブ』では1956年7月に[[シャーロック・ホームズシリーズ]]『[[まだらの紐|まだらのひも]]』の少女漫画化を(漫画:石森章太郎){{sfn|長谷邦夫|1995|p=129}}、次いで1957年に海外のスリラー推理小説の少女漫画化を行い(漫画:石森章太郎)<!--TODO: 再確認-->、その後同誌では「こわいマンガ」「かなしいマンガ」が増えていって人気となった{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=62}}。 また1956年には短編貸本漫画誌の探偵ブック「影」も登場し{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=92}}、1957年には探偵物に限らず短編貸本漫画誌のブームが起きた{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=96, pp.292-293}}。少女向けではわかば書房が『花』(1957年<!--12月-->)を{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=293, p=332}}、[[若木書房]]が『泉』(1958年<!--6月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=295}})『こだま』(1959年<!--3月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=297}})『こけし』(1959年<!--7月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=297}})『ゆめ』(1960年<!--11月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=301-302}})『草ぶえ』(1961年<!--12月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=303-304}})『風車』(1962年<!--12月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=305}})『風船』を<ref>『つげ義春 漫画術〈上〉』 つげ義春、権藤晋 1993年8月1日 ISBN 978-4948735187</ref>{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=332}}、[[東京漫画出版社]]が『さくらんぼ』『ジュニアフレンド』『星座』『忘れな草』『セレナーデ』『ボンジュール』などを<ref>[http://www.kudan.jp/EC/kasihon-tanpen.html くだん書房:目録:マンガ:貸本] くだん書房</ref>{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=329}}、金竜出版社{{efn2|解散後は金園社に引き継ぎ。どちらも[[マツキ書店]]系列であり、金園社は東京に、金竜出版社は大阪に存在した<ref>楳図かずお『妄想の花園―単行本未収録作品集』「はじめの妄想」 小学館 2001年 ISBN 978-4091793812</ref><ref>『楳図かずお論 マンガ表現と想像力の恐怖』 高橋明彦 2015年 ISBN 978-4787292285</ref>}}が『虹』(1959年<!--6月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=296-297}}){{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=327}}を、[[金園社]]が『すみれ』『こまどり』(1960年<!--11月-->{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=301-302}})『りぼん』を発行した{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=327}}{{sfn|長谷邦夫|1995|p=257}}。短編貸本漫画誌のブームは後も活躍する多くの少女漫画家を輩出することとなった{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=71}}([[若木書房#おもな出身作家]]、[[矢代まさこ]]など)。 1951年には[[産経新聞|産業経済新聞]]で連載されていたジャングル冒険物の「[[少年ケニヤ]]」が人気となって1954年に[[少年ケニヤ#映画|映画化]]され<ref>[https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1504/28/news151.html 戦後の昭和日本を沸かせた話題作『少年ケニヤ』がeBookJapanで復活] ITmedia 2015年4月29日</ref>、少女漫画でも1959年に『なかよし』でその少女版とも言える『[[マサ子の谷]]』([[藤本章治]])が登場している{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=87}}。テレビドラマにおいては1958年に覆面ヒーロー物の「[[月光仮面]]」が登場してブームとなり、次いで1959年には「[[七色仮面]]」が、1960年には『[[アラーの使者]]』が登場し、後者は[[アラーの使者#漫画|『ひとみ』で少女漫画化]]された(漫画は[[水野英子]])。その後、1961年に『ひとみ』は休刊となった。 また、少女誌『少女』では1955年より小説「私のグチ日記」(森いたる)が連載されるようになり<!--登場自体は1954年-->、次いで1958年には読者の体験談を基にした最初の漫画である『クラスおてんば日記』([[今村洋子]])が登場した{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=91}}<ref name="gendai-josei-meikan">『改訂 現代日本女性人名録』 p.732 [[日外アソシエーツ]] 2001年7月1日 ISBN 978-4816916816</ref>。この等身大の漫画は後の作品に大きな影響を与えたとされる<ref name="gendai-josei-meikan"/>。その後、『クラスおてんば日記』のスピンオフ<ref name="dokokara-7">[https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/exh_shoujomanga/gallery.html 少女マンガはどこからきたの? web展 - 展示コーナー - コーナー7◆ギャラリー] 明治大学</ref>の『[[チャコちゃんの日記]]』([[今村洋子]]、1959年-)、『おてんば天使』([[横山光輝]]、1959年-)、『少女たち』(原作:西谷康二、漫画:[[牧美也子]])などの作品が人気となっていった<ref name="yoron-1961">『読書世論調査. 第15回(1961年度)』 p.139 毎日新聞社 1962年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2941661/1/74]</ref>。『少女ブック』でも1961年に「クラスおてんば日記」と同様の『おセンチおてんば日記』([[松浦重光]])が登場した{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=91, p.344}}。また貸本漫画では1959年に若木書房が『ひまわりブック』シリーズを開始したが、そこでも日常的な生活マンガが一般的となっていき{{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=72-75}}、1964年には若木書房より等身大の『ようこシリーズ』(矢代まさこ)も登場し{{sfn|すがやみつる|2011|p=198}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-745151 ようこシリーズ] コトバンク</ref>、後の[[萩尾望都]]や<ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/entertainment/entry/2020/021551.html みなもと太郎先生に聞いた! 貸本漫画のほんとのオススメは、これだ!] テレビ東京 2020年4月3日</ref>や[[樹村みのり]]に影響を与えている{{sfn|すがやみつる|2011|p=199}}。 === ラブロマンスと魔女の時代 ===<!--TODO: 不良出版物規制の影響{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=166-168}}--> 世界の貿易自由化の波に合わせて日本も1960年に[[貿易自由化#1960年代|貿易為替自由化計画大綱]]を策定し<ref>[https://kotobank.jp/word/%E8%B2%BF%E6%98%93%E3%83%BB%E7%82%BA%E6%9B%BF%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%8C%96-1593313 貿易・為替の自由化] コトバンク</ref>、それによって国内製紙メーカーが国際競争力を付けるために設備投資を進めていった<ref name="kami-hensen"/>ものの、過剰生産となって紙余りの状態となり<ref name="kami-hensen">[http://www.kantoforest.jp/papers/pdf/65-2-A31.pdf 戦後日本における紙・板紙原料の需給の変遷] 廣田明信、永田信、古井戸宏通、竹本太郎 2014年</ref>、出版界では紙が使いやすくなった。漫画雑誌での紙の量の増大は作品の描写に用いるコマやページ数の増大でもあり、長ページ化とともに画面の展開手法がより流れるようなものへと変化していった<!--出典?-->。また1955年には「[[W3事件]]」によって[[週刊少年マガジン]]で滑稽性やかわいらしさを排除した[[劇画#劇画ブーム|劇画のブーム]]が起き、少女漫画でも[[劇画]]の影響を受けたものが増えていった<ref>『国語教育研究大辞典』 p.244 国語教育研究所 1991年7月1日 ISBN 978-4183977007</ref>。 また[[大衆車#日本の「国民車構想」|国民車構想]]によって1958年に[[大衆車]]が登場したことで[[モータリゼーション]]が進み、[[スーパーマーケット]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88-84601 スーパーマーケット] コトバンク</ref>や大型書店の支店が全国に広まった<ref>『日本の出版流通における書誌情報・物流情報のデジタル化とその歴史的意義』 p.155 湯浅俊彦 2007年12月20日 ISBN 978-4780801118</ref>。<!--TODO: 1960年代の[[宴のあと#「宴のあと」裁判|「宴のあと」裁判]]で[[プライバシー]]権が確立されて<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B4%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%A8%E4%BA%8B%E4%BB%B6-34716 宴のあと事件] コトバンク</ref>プライバシーという言葉が広まっていった<ref name="koukyousei"/>(なお郊外団地には個室が不足していた<ref name="koukyousei"/>)。また地域共同体が崩壊して理想の家庭が求められるようになっていった{{sfn|宮台真司|1997|pp=137-138}}?過渡期で共同体の再構築<ref name="koukyousei">? 保留--> 1960年代なかばごろから[[1970年代]]はじめごろには日本は慢性的な[[貿易赤字]]から一転した黒字化の定着など[[高度経済成長]]がより進展した。人手不足によって格差の大きな縮小が起きて[[一億総中流]]となり、[[三大都市圏]]への人口移動が続き、大企業での[[終身雇用]]の定着とサラリーマンの[[企業戦士]]化が進み、生活の向上と安定が強まることで更なる[[核家族]]化が進行し、血縁や地縁([[共同体#ゲマインシャフトとゲゼルシャフト|ゲマインシャフト]])よりも社縁([[共同体#ゲマインシャフトとゲゼルシャフト|ゲゼルシャフト]])が強くなっていき<ref>『経済評論 28(8)』 日本評論社 1979年8月</ref>、[[恋愛結婚]]が[[見合い結婚]]を上回った<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/202863?page=3 100年前の日本人が「全員結婚」できた理由 p.3] 東洋経済 2018年1月2日</ref>。子供では競争社会から来る焦りで母親から過干渉される子供や<ref name="jidoushinrigaku-7"/>、逆に放任されて自宅の鍵を学校へと持っていく[[カギっ子]]が増えていった<ref name="jidoushinrigaku-7">『児童心理学講座〈第7巻〉社会的発達』 p.67 [[岡本夏木]] 1969年1月1日 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12041340/1/42]</ref>。1960年代に第一次塾ブームが起き、1965年には高校進学が70%に達している<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.24546/81009149 |title=学習塾の原点を見つめ直す : 学習塾の存在意義とは |author=笹山正信 |journal=教育科学論集 |year=2013 |volume=16 |pages=23-27 |doi=10.24546/81009149 |hdl=20.500.14094/81009149 |ISSN=13456350 |publisher=神戸大学大学院人間発達環境学研究科・神戸大学発達科学部教育科学論コース}}</ref>。また1966年には文部省の留守家庭児童会育成事業補助要綱によって[[学童保育]](放課後児童クラブ)が広まっていった。 そして少女漫画はビッグ・バン的な発展を生じた。量的には、以前には少女雑誌の一部分でしかなかった漫画が雑誌のほとんど全てを占めていくようになり、雑誌の数も、隔週刊が毎週刊化、週刊誌から月刊別冊が、さらにそれぞれが増刊誌を出したり、新創刊が次々と生まれた。需要の性質と量の急激な変化と相まって、10代で雑誌デビューする女性新人がとくに多かったのもこの時代である。デビューの仕方も、それまでの持込や人脈によるものから雑誌の中の漫画講座・[[コンクール]]・[[日本の漫画賞#新人賞|漫画新人賞]]からの率が増えていった。これらによって少女の職業選択に少女漫画家という選択が入ってきた。一方で、格段に増えた少女漫画雑誌と経済発展による貸本屋の退潮によって、貸本出版の少女漫画は衰退消滅していく{{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=141-142}}。 この時期以降の特徴として、生産者(作者)と消費者(読者)の間の強い近さがある。例えば[[トキワ荘]]では石ノ森章太郎の女性ファンが集まって[[石ノ森章太郎]]の「東日本漫画研究会」に女子部が発足し<!--いつ?-->、少女漫画同人誌の『[[墨汁一滴#派生誌|墨汁二滴]]』が作られ、そこから[[西谷祥子]]、[[志賀公江]]、[[神奈幸子]]らが輩出されている{{sfn|すがやみつる|2011|p=14}}<ref>『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』 石森章太郎 1986年6月1日 ISBN 978-4061837522</ref>。 テレビの毎週放送の番組や週刊誌が人気となったことで、漫画誌でも週刊化が進んでいった。1950年代後半には既に少年漫画誌で「[[週刊少年マガジン]]」や「[[週刊少年サンデー]]」{{efn2|なお、似た名前の『少女サンデー』(小学館)という少女誌も登場したが、こちらは週刊ではなく不定期刊であり短期に終了している。}}が登場しており、少女漫画誌でも1962年に月刊誌「[[少女クラブ]]」の後継誌『[[少女フレンド|週刊少女フレンド]]』が、1963年に月刊誌「[[少女ブック]]」の後継誌『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』が登場した。一方、月刊誌『[[少女 (雑誌)|少女]]』は後継誌の無いまま休刊となった。この[[週刊誌]]化によって少女漫画では新たな方向の模索が行われた<ref>[https://web.archive.org/web/20130627080445/http://www.ebookjapan.jp/ebj/special/manganavi/manganavi_07-2e.asp 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第7回 水野英子編 2-5]</ref>。 もともと映画において[[ロマンティック・コメディ]]の洋画が人気となっており、少女漫画では[[フィクション]]性の強い外国もののラブロマンス(無国籍漫画)が登場した。これには1963年に『りぼんカラーシリーズ』として『りぼん』へと別冊付録された[[ローマの休日|同名の洋画]]の翻案漫画『[[ローマの休日#『ローマの休日』を題材にした作品|ローマの休日]]』([[水野英子]]){{sfn|米沢嘉博|2007a|p=148}}、同年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「[[麗しのサブリナ]]」が基の『すてきなコーラ』(水野英子){{sfn|米沢嘉博|2007a|p=148, p.346}}、1964年に『週刊マーガレット』で連載された洋画「ジェニーの肖像」が基の『セシリア』(水野英子){{sfn|米沢嘉博|2007a|p=151}}<!--TODO: 年の出典-->などがある。なお1966年にはテレビのレギュラー番組として「[[日曜洋画劇場|土曜洋画劇場]]」が登場している。 1952年に長編小説「[[赤毛のアン]]」の[[赤毛のアン#主な日本語訳一覧|邦訳]]が初めて登場し<ref>[https://cocreco.kodansha.co.jp/cocreco/general/books/Tyrlo 『赤毛のアン』邦訳誕生70周年 村岡花子訳の魅力をあらためて考える] 講談社 2022年4月27日</ref>児童にも人気となったが、その後、1962年には学生の頃に「赤毛のアン」の影響を受けた[[みつはしちかこ]]<ref>『ひとりぼっちの幸せ チッチ、年をとるほど、片思いは深くなるね』 みつはしちかこ 2013年 ISBN 978-4781609690</ref>が少女誌『美しい十代』で4コマ漫画「[[小さな恋のものがたり]]」の連載を開始した<ref>[https://natalie.mu/comic/news/127215 52年におよぶ「小さな恋のものがたり」完結] ナタリー 2014年9月29日</ref>{{efn2|単行本化は1967年。}}(1972年に[[小さな恋のものがたり#テレビドラマ|テレビドラマ化]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E6%81%8B%E3%81%AE%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%8A-721504 小さな恋のものがたり] コトバンク</ref>)。『小さな恋のものがたり』<!--いつから?-->は4コマ漫画にイラストポエムを挟む構成となっていた<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Getnavi_313428/ まさかの続編でファン歓喜! 国民的抒情まんが『小さな恋のものがたり』で秋の夜長に初恋の人を想ふ] エキサイト 2018年10月29日</ref>。また水野英子のファンであった男性作家[[あすなひろし]]はジュニア文芸誌に漫画を掲載するようになり、その影響を受けてポエムコミックという作風を確立していった<ref>『マンガ研究 vol.2』 日本マンガ学会 2002年10月4日</ref>{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=181-182}}。あすなひろしの作風は男性作家[[立原あゆみ]]にも影響を与えている<ref>『ジャンプ SQ. 2008年7月号』 p.722 集英社 2008年6月4日</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/Otakuma_87215/ 【うちの本棚】219回 いけない草の町子/立原あゆみ] エキサイト 2014年6月28日</ref>。 また1962年には『りぼん』に変身魔法物の『[[ひみつのアッコちゃん]]』([[赤塚不二夫]])が、1964年には『週刊マーガレット』に超能力物の『[[さるとびエッちゃん|おかしなおかしなおかしなあの子]]』(後の『さるとびエッちゃん』、[[石ノ森章太郎]])が登場した。 また貸本漫画では太平洋文庫を中心に怪奇漫画が多数登場して他の出版社へも広がっていった{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=191-196}}が、少女向けでは蛇などへの[[変身#変身譚|変身譚]]が登場した{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=201}}。1961年には前述の『虹』に『口が耳までさける時』([[楳図かずお]])が{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=201}}、1964年には『花』に『ヘビおばさん』(楳図かずお)が登場し{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=201}}、1965年には『[[少女フレンド]]』でホラー漫画『ねこ目の少女』(楳図かずお)が、翌1966年には同誌で『{{仮リンク|へび女|en|Reptilia (manga)}}』(楳図かずお)が、『週刊マーガレット』で『白ヘビ館』([[古賀新一]])が連載され人気となった{{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=162-163, pp.347-348}}<!--TODO: 朝日新聞縮刷版/1996年5月?ママがこわい、まだらの少女による恐怖少女漫画ブーム{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=213}}?-->。 ギャグ漫画では1960年代に[[赤塚不二夫]]が「りぼん」「少女フレンド」などの少女漫画誌に連載をもっており、その中から『キビママちゃん』(1965年)『ジャジャ子ちゃん』(1965年)『[[へんな子ちゃん]]』(1967年)などが登場した<ref>{{Cite book|和書|title=少女漫画家 赤塚不二夫|year=2020|publisher=ギャンビット|author=赤塚不二夫}}</ref>。 1955年、石原裕次郎による都会的な青年小説「[[太陽の季節]]」が登場して1956年に[[太陽の季節#映画|映画化]]され、次いで青年向け貸本漫画でも青年物が登場していき{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=230-235}}、1963年には青年向け短編貸本漫画誌「青春」がヒロ書房より出版され{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=241-242}}、少女向けでも1960年代後半に同ヒロ書房より少女向け短編貸本漫画誌『おーい青春』、『Oh! 青春』が登場した{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=257-258}}。しかしながら[[ヤングコミック]](1967年)や[[ビッグコミック]](1968年)などの青年漫画誌の登場によって青年向け貸本漫画が衰退し、貸本屋の閉店が続いていった{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|pp=259-260}}{{sfn|すがやみつる|2011|p=83}}。一方、1963年には[[歌謡曲]]でも青春を扱った「学園もの」が登場し{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=242}}、テレビからは「{{仮リンク|チャニング学園|en|Channing (TV series)}}」(1964年)などの学園もののアメリカドラマが登場<ref> {{Cite journal|和書|editor=日本民間放送連盟|title=編成戦略としての外画番組 テレビ朝日,サンテレビ,東京12chの場合 / 高橋浩 ; 安井啓行 ; 上村喜孝|journal=月刊民放|volume=11|issue=2|publisher=日本民間放送連盟|date=1981-02-01|pages=16|id={{NDLJP|3470942/9}}}}</ref>、少女漫画でも1965年に『[[週刊マーガレット]]』でアメリカ風ハイスクール物の『マリイ・ルウ』([[西谷祥子]])が登場し{{sfn|米沢嘉博|2007a}}<!--TODO: ページ番号--><ref>『コミカライズ魂 『仮面ライダー』に始まる児童マンガ史』 すがやみつる 2022年10月27日 ISBN 978-4309631578</ref>、次いで1966年には同じく『週刊マーガレット』で「[[学園漫画|青春学園物]]の草分け」とも言われる『レモンとサクランボ』<ref>『BRUTUS 2021年5月1日号 No.937』 p.69 [[マガジンハウス]] 2021年4月15日</ref>{{sfn|大塚英志|1991|p=141}}([[西谷祥子]])が登場した。また貸本青年漫画誌「17才」で「ロマンスあげます」シリーズを連載していた楳図かずお{{sfn|貸本マンガ史研究会 編|2006|p=251}}は、1966年8月より『なかよし』で「[[ラブコメディ|ラブコメ]]の原点」とも言われる『ロマンスの薬』([[楳図かずお]])の連載を開始した<ref>[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042889 なかよしオリジナル版作品集(1) ロマンスの薬あげます!] 講談社</ref>。1969年には『週刊マーガレット』に米国舞台のラブコメディ『[[おくさまは18歳]]』([[本村三四子]])が登場し、1970年にはそれが[[おくさまは18歳#テレビドラマ(1970年版)|舞台を日本に変更した上でドラマ化]]され人気となった。同1970年には同誌に米国舞台のラブコメディ『[[美人はいかが?]]』([[忠津陽子]])が登場し、1971年にはこちらも[[美人はいかが?#テレビドラマ|舞台を日本に変更した上でドラマ化]]されている。 海外ドラマの影響を受けて魔法少女物の流行も起きている。1965年に魔法使いが主役のディズニー[[実写アニメーション映画]]「[[メリー・ポピンズ]]」が日本でも公開され、1966年にはアメリカドラマ「[[奥さまは魔女 (テレビドラマ)|奥さまは魔女]]」及び「[[かわいい魔女ジニー]]」が日本でも放送されてヒットし、『[[奥さまは魔女]]』は[[週刊マーガレット]]で少女漫画化されている(作者は[[わたなべまさこ]])。また国内からも魔法少女物のTBSドラマ『[[コメットさん]]』(1967年-1979年)や東映アニメ『[[魔法使いサリー]]』(1966年-1968年)が登場したが、どちらも原作は[[横山光輝]]であり、前者は週刊マーガレットに、後者はりぼんに漫画が連載されることとなった。これらの国産魔法少女のヒットによって「[[東映魔女っ子シリーズ]]」は定番となっていき、前述の『[[ひみつのアッコちゃん]]』や前述の『[[さるとびエッちゃん]]』がそのシリーズとしてアニメ化されている。 なおストーリー漫画が中心になるにつれ少女漫画は少女の心を考えて描く必要が出てきて男性作家では難しくなっていったとされる<ref name="hensen">{{harvnb|中川|2013|p=133-134}}</ref><ref name="yuzuki-wpb">[https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2019/05/23/108922/ エロティックコメディの元祖、漫画家・弓月 光インタビュー「50年間、自分の頭の中にあるかわいい女のコをひたすら描いてきただけなんです」] 週プレNEWS 2019年5月23日</ref>。 === ロックとスポ根の時代 === {{File clip|Television_penetration_rate_in_Japan_from_1957_to_2015.svg|width=230|0|50|5|5|w=640|h=480|align=right|テレビの家庭普及率(黒線は白黒テレビ、色線はカラーテレビ)}} アメリカのロックバンド「[[ザ・ベンチャーズ]]」や「[[ビートルズ]]」の来日公演と録画放送によって日本でも[[グループ・サウンズ]]のブームが起きていった。女性向け週刊誌では少女週刊漫画誌『少女フレンド』『マーガレット』と女性週刊誌「[[女性自身]]」「[[ヤングレディ]]」の間に当たるティーン向け週刊誌がまだ無く<ref name="taishuu-geinou"/>、1968年にはグループサウンズの記事が中心のティーン向け週刊誌『[[Seventeen (日本の雑誌)|週刊セブンティーン]]』と『[[ティーンルック]]』が登場した<ref name="taishuu-geinou">『伝統と現代〈第8〉大衆芸能』学芸書林 1969年</ref>{{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=190-191}}。また同1968年には多くの漫画雑誌の創刊が行われ<ref name="nenkan-1969">『出版年鑑 1969年版』 p.77-78 出版ニュース社 1969年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/3007348/1/51]</ref>、少女漫画誌では『[[少女コミック]]』([[小学館]])が創刊された<ref name="nenkan-1969"/>。 少女漫画や少女向けテレビアニメではヨーロッパやアメリカを舞台した作品が増加していった{{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=2}}。特に1960年代には日本人の海外渡航が自由化され、「裕福」で「おしゃれ」なイメージのフランスを舞台にする少女漫画が増えていった{{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=8}}ほか、[[留学エージェント]]の登場によりアメリカへの留学が簡単となり、少女漫画では「週刊少女フレンド」にアメリカ留学をテーマとした『ハリケーンむすめ』([[杉本啓子]]、1969年)や『お蝶でござんす』(漫画:[[神奈幸子]]、原作:羽生敦子、1971年)が登場した{{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=7}}。また素敵なレディを目指す作品も増えていき、『週刊マーガレット』では1965年に『マリイ♡ルウ』([[西谷祥子]])、1967年に『初恋さんこんにちは!』([[本村三四子]])、1968年に『Oh! ジニー』([[本村三四子]])、1970年に『クラス・リングは恋してる』([[西谷祥子]])が登場した{{sfn|藤本由香里|1998|p=19}}。 また、少女の憧れの職業として[[客室乗務員|スチュワーデス]](航空機の客室乗務員)が浮上した{{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=7}}。1970年にはスチュワーデスをテーマとしたテレビドラマ「[[アテンションプリーズ]]」が登場し、1971年にはそれが「少女フレンド」で[[アテンションプリーズ#漫画化|少女漫画化]]されている(作者は[[細川智栄子]]){{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=7}}。 そのほか、1964年に[[1964年東京オリンピックの野球競技|野球競技]]を含む「[[1964年東京オリンピック]]」が開催され、1966年より少年漫画において[[野球漫画]]「[[巨人の星]]」を始めとする[[スポ根]]が登場して人気を博しており、また、[[ユニチカ|大日本紡績]]の女子バレーボールチームが「[[東洋の魔女]]」として人気となっていたこともあって、少女漫画ではバレーボールのスポ根ものが複数登場した。1968年には『週刊マーガレット』から『[[アタックNo.1]]』([[浦野千賀子]])が{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=186, pp.350-351}}、『少女フレンド』から『[[サインはV]]』(原作:[[神保史郎]]・漫画:[[望月あきら]])が{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=186, pp.350-351}}、『りぼん』から『ビバ!バレーボール』([[井出智香恵]])が登場し<ref>『漫画家人名事典』pp.44-45 [[日外アソシエーツ]] 2003年2月 ISBN 978-4816917608</ref>、翌1969年には少女コミックでも『勝利にアタック!』([[灘しげみ]])が登場している{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=186, pp.352-353}}。同1969年には『アタックNo.1』がアニメ化され、『サインはV』がテレビドラマ化された。 また[[ボウリング]]人気が拡大し[[ボウリング#普及|ボウリングブーム]]が起きた。1969年には女子プロボウラーが誕生し<ref name="probowling-sportiva"/>、その中の一人として和製ジャンヌ・ダルクこと「[[中山律子]]」が台頭した<ref name="probowling-sportiva">[https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/othersports/other/2012/01/27/post_85/ 【今日は何の日?】日本プロボウリング協会設立] 集英社 2012年1月27日</ref><ref name="ultraman">『ウルトラマンがいた時代』 p.68 小谷野敦 2013年4月9日 ISBN 978-4584124031</ref>。1971年にはテレビドラマからボウリング物の「[[美しきチャレンジャー]]」が登場し<ref name="ultraman"/>、学年誌で漫画化された。少女漫画では同1971年の『別冊なかよし』に『中山律子物語』(原作:八木基克、漫画:いがらしゆみこ)が登場した<ref name="sekai-2"/>。 1950年代後半の[[ミッチー・ブーム]]では[[軽井沢]]の[[テニスコート]]が出会いの場であった<ref name="michiko-sama"/>ことによりテニスブームが起きており<ref name="wagasedai-s6"/>、また、その後のスポ根ブームの影響も受けて、少女漫画ではテニス物も登場した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/01/27/kiji/20200127s00041000271000c.html 元祖テニス少女漫画「スマッシュをきめろ!」志賀公江さん「スポ根は私の生涯のテーマ」] スポニチ 2020年1月27日</ref>。1969年には週刊マーガレットで『[[スマッシュをきめろ!]]』([[志賀公江]])が、また週刊少女フレンドで『[[ラケットに約束!]]』(原作:[[一ノ木アヤ]]、漫画:[[青池保子]])が登場し{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=187, p.352}}、1973年には週刊マーガレットで『[[エースをねらえ!]]』([[山本鈴美香]])が登場した{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=360}}。『スマッシュをきめろ!』は「[[コートにかける青春]]」としてテレビドラマ化され、『エースをねらえ!』はテレビアニメ化された。 また水泳物もブームとなった<!--TODO: 背景。-->。1968年には[[週刊マーガレット]]で『ただいまの記録2分20秒5』([[藤原栄子]])が、1969年には[[少女フレンド]]で『[[金メダルへのターン!]]』(原作:[[津田幸夫]]、漫画:[[細野みち子]])が、[[りぼん]]で『若あゆのうた』([[横山まさみち]])が登場し{{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=186-187, pp.350-352}}、『[[金メダルへのターン!]]』は1970年にテレビドラマ化された。 その他、化粧品ブランド「[[伊勢半|キスミー]]」のCMソング「セクシーピンク」によって1959年より「セクシー」という俗語の使用が拡大した<ref>『隠語小辞典』 p.73 現代流行語研究会 1966年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2508269/1/38]</ref><ref>[https://www.bpcj.or.jp/search/show_detail.php?program=151592 CMソング 「セクシーピンク」] 放送番組センター</ref>。1961年にはアメリカ映画の「[[ボーイハント (1960年の映画)|ボーイハント]]」が日本でも公開されるなどして、「ボーイハント」も流行語となった<ref>『現代の流行語』 p.180 現代語研究会 1963年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2501456/1/94]</ref><ref>『主婦とは何か 増補改訂版』 p.210 生活科学調査会 1969年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12150360/1/113]</ref>。<!--TODO: ボーイハントと少女漫画?-->1960年代後半には「ミニの女王」と呼ばれた[[ツイッギー]]の来日と共に日本でも[[ミニスカート]]が流行し<ref name="sengo-joso"/>{{sfn|樫原叔子|2007|p=48}}、その後「[[ハレンチ]]」が流行語となり<ref name="sengo-joso">『戦後日本女装・同性愛研究』 中央大学出版部 2006年4月1日 ISBN 978-4805713167</ref>、少年漫画では「[[ハレンチ学園]]」([[永井豪]])が人気となって[[ハレンチ学園 (テレビドラマ)|ドラマ化された]]が、女性向けでも「小説ジュニア」(「[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]」前身)の「ハレンチくん」([[土田よしこ]]、1968年){{sfn|米沢嘉博|2007a|pp=350-352}}や、[[りぼん#増刊号・派生誌|りぼんコミック]]連載の『赤塚不二夫先生のハレンチ名作』{{efn2|別名『ハレンチ名作シリーズ』}}([[赤塚不二夫]]、1969年)が登場している。その後、赤塚不二夫のアシスタントを務めた[[土田よしこ]]<!--TODO: いつからいつ?-->は赤塚不二夫のギャグ路線を引き継ぎ1973年には『[[つる姫じゃ〜っ!]]』を連載した<ref>『[[婦人公論]] 1979年7月号』</ref><ref name="otakuma-bosatsu">[https://otakei.otakuma.net/archives/2015011501.html 【うちの本棚】243回 ぼさつ日記/倉多江美] おたくま経済新聞 2015年1月15日</ref><ref name="gurentai-chi">『独立書評愚連隊 地の巻』 [[大月隆寛]] 2001年6月1日 ISBN 978-4336043238</ref>ほか、1970年代には<!--1975年の学年誌?-->[[倉多江美]]の『ぼさつ日記』も登場している<ref name="otakuma-bosatsu"/><ref name="gurentai-chi"/>。 === 終末思想と耽美の時代 === [[核戦争]]の脅威が高まったことで1960年代より米ソの緊張緩和([[米ソデタント]])が模索されており<ref name="detente">[https://kotobank.jp/word/%E3%83%87%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%88-576014 デタント] コトバンク</ref>、1968年に[[核拡散防止条約]]が調印され<ref name="detente"/>、1969年より米ソ間で戦略兵器削減交渉(SALT)が行われるようになった<ref>[https://kotobank.jp/word/SALT-512520 SALT] コトバンク</ref>。そんな中、[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]会議において「地球と平和の概念を称える日」が提唱され<ref name="unesco-earthday">[https://whc.unesco.org/en/news/2279 Earth Day 22 April 2021: Restore Our Earth] UNESCO 2021年4月21日</ref>、また、{{仮リンク|1969年サンタバーバラ沖油流出事故|en|1969 Santa Barbara oil spill}}も起き<ref name="noaa-earthday">[https://oceanservice.noaa.gov/facts/earth-day.html When Was the First Earth Day?] [[アメリカ海洋大気庁|アメリカ国立海洋局]]</ref>、1970年より米国において[[アースデイ]]が開始され<ref name="noaa-earthday"/><ref name="unesco-earthday"/>、環境問題への注目が高まっていった。少女漫画では1971年に環境問題をテーマにした『日本列島一万年』([[美内すずえ]])が登場している。 またテレビでは1968年に少年漫画「[[サイボーグ009]]」がアニメ化され、1971年に[[改造人間]]モノの特撮ドラマ「[[仮面ライダー]]」が登場し、少年向けにおいて[[サイボーグ]]が人気となっていった。少女向けでも1973年に[[東映魔女っ子シリーズ]]で魔法に代わって超能力を使うサイボーグ少女の『[[ミラクル少女リミットちゃん]]』が登場し<ref>[https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/limit/ ミラクル少女リミットちゃん - 作品ラインナップ] 東映アニメーション</ref><ref>[https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/limit/story/ ストーリー - ミラクル少女リミットちゃん - 作品ラインナップ] 東映アニメーション</ref><ref>[https://www.tc-ent.co.jp//products/detail/BFTD-0136 想い出のアニメライブラリー 第40集 ミラクル少女リミットちゃん DVD-BOX デジタルリマスター版] TCエンタテインメント</ref>、『週刊少女コミック』(漫画:[[美紀かおり]])や学年誌などで[[ミラクル少女リミットちゃん#漫画|漫画化されている]]。 そのほか[[1970年代]]初頭、日本では[[ベビーブーム#第二次ベビーブーム|第二次ベビーブーム]]が起きたものの、[[第四次中東戦争]]によって1973年10月に[[オイルショック#第1次|第1次オイルショック]]が起こると人口抑制が叫ばれ、日本の出生数は減少していくこととなった<ref>『人口戦略法案 人口減少を止める方策はあるのか』 山崎史郎 2021年11月26日 ISBN 978-4532177102</ref>。また1971年の[[ニクソン・ショック]]による米ドルの金本位制の終了により日本では経常収支黒字が続いており<ref name="canon-nixon-shock"/>、当時[[固定相場制]]だったこともあって対策に[[政策金利|金融緩和]]が行われ<ref name="canon-nixon-shock"/>、それによって[[マネーサプライ|通貨供給量]]が増えていったことで[[インフレーション]]が起き<ref name="canon-nixon-shock"/>、また1972年に登場した[[日本列島改造論]]によって[[地価高騰]]も起き<ref name="kotobank-kyoran">[https://kotobank.jp/word/%E7%8B%82%E4%B9%B1%E7%89%A9%E4%BE%A1-159792 狂乱物価] コトバンク</ref>{{sfn|大塚英志|1991|p=62}}、それらによって[[狂乱物価]]となっていった<ref name="canon-nixon-shock">[https://cigs.canon/article/20210902_6143.html ニクソンショック50年(下) 国民生活改善への転機に] キヤノングローバル経済研究所 2021年9月2日</ref><ref name="kotobank-kyoran"/>{{sfn|大塚英志|1991|p=62}}。そんなオイルショックとインフレーションの中で、1973年11月には16世紀の終末の預言書「[[ノストラダムスの大予言]]」が登場して大ヒットし、[[オカルトブーム]]が始まった。また1970年にはイギリスドラマ「[[謎の円盤UFO]]」が日本でもテレビ放送され子供の間でUFOが話題となり<ref>[https://web-mu.jp/column/381/ 空飛ぶ円盤からUFOへ…「未確認飛行物体」はどう呼ばれてきたか?/昭和こどもオカルト回顧録] ONE PUBLISHING 2022年7月23日</ref>、[[学研ホールディングス|学研]]の学年誌「[[学研ホールディングス#廃刊・休刊誌|コースシリーズ]]」でも超能力やUFOなどの超常現象の記事が人気となっていった<ref>[https://web.archive.org/web/20220107073529/https://www.news-postseven.com/archives/20180814_740878.html?DETAIL 雑誌『ムー』の表紙にはなぜ「目」のイラストが入っているのか] NEWSポストセブン 2018年8月14日</ref>。少女漫画では考古学者が多く登場するようになったとされ<ref name="koukogaku">『マンガと考古学 その親密な関係を探る』 櫻井準也 2021年2月12日 ISBN 978-4864451437</ref>、その代表的な作品には新興少女漫画誌『[[月刊プリンセス]]』に登場した『[[王家の紋章]]』([[細川智栄子]]あんど芙〜みん)がある<ref name="koukogaku"/>。<!--TODO: 米中接近--> また手塚治虫作品のアニメ化を行っていた[[虫プロダクション]]が1966年に経営問題から[[虫プロダクション#虫プロ商事|虫プロ商事]]を分離し<ref>『アニメ大国 建国紀 1963-1973 テレビアニメを築いた先駆者たち』 中川右介 2020年 ISBN 978-4781619125</ref>、その虫プロ商事によって1967年に「鉄腕アトムクラブ」の後継となるまんがエリート育成漫画誌「[[COM (雑誌)|COM]]」が創刊され<ref>[https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201307/column.html 虫ん坊 2013年7月号(136)] 手塚プロダクション</ref>{{sfn|長谷邦夫|1995|p=285}}、1969年にはその妹誌の『[[月刊ファニー]]』も登場した。しかしながら月刊ファニーは1970年に、COMは1971年に休刊し、その雑誌の元投稿者が1970年代に少女漫画誌で活躍するようになった<ref name="livedoor-com"/>。これには[[萩尾望都]]<ref name="livedoor-com"/>、[[竹宮惠子]]<ref name="livedoor-com"/>、[[山岸凉子]]<ref name="livedoor-com">[https://news.livedoor.com/article/detail/5910170/ 手塚治虫、石ノ森章太郎、萩尾望都……天才マンガ家たちがきらめいたあの時代『COM 40年目の終刊号』] ライブドア 2011年10月4日</ref>らがいる。彼女らなどは少女漫画に異風のSFやファンタジーをもたらしたが、その生まれが昭和24年前後であったことから[[花の24年組]]と呼ばれている。また、白泉社雑誌を場とした少女漫画デビューの男性作家[[柴田昌弘]]([[サスペンス]]性・SF的要素・[[メカ|メカニック]])、[[魔夜峰央]]([[ミステリ]]・怪奇・[[耽美]]・ギャグ)、[[和田慎二]](主にアクション)なども少女漫画の世界の拡大に貢献した。そのほか、主人公の成長を描く話([[教養小説]]的作品傾向)が長編化と共に広がり、複数の成功作が生まれる。<!--TODO: 具体例--> 一方1960年代後半には[[ベトナム戦争]]などの影響で米国において社会そのものを見直す[[カウンターカルチャー]]が生じて[[ヒッピー]]ムーブメントが起きており、それに伴ってメッセージソングが流行していた<ref name="nippondotcom-itanji">[https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02029/ 少女マンガのパイオニア・水野英子―82歳の「異端児」がどうしても伝えたいこと] ニッポンドットコム 2022年1月20日</ref>。週刊セブンティーンではそんな米国を舞台にした作品として1969年に『[[ファイヤー!]]』(水野英子)が登場した<ref>[https://www.sankei.com/article/20181206-2KDYIGYW75O6LPR2NGPCXFQCHY/ 漫画家・水野英子(79)(4)全力を振り絞った「ファイヤー!」] 産経新聞 2018年12月6日</ref><ref name="nippondotcom-itanji"/>。 同時期に日本でも[[ヒッピー#日本のヒッピー|フーテン族]]が登場したり、[[大学闘争|大学紛争]]の[[全学共闘会議|全共闘運動]]が起きている。また、この全共闘運動において[[ウーマン・リブ#日本|日本でのウーマンリブ運動]]が起き、その上、1970年代に「[[アイドル#女性アイドル史|かわい子ちゃん歌手]]」のブームが起きたこともあって「女性上位社会の到来」が予期されるようになり、同時期の少女漫画ではその反動として[[弓月光]]の『にくいあんちきしょう』(1970年) や[[津雲むつみ]]の『[[おれは男だ!]]』(1971年-) のような硬派な男主人公の少女漫画が登場し、後者はテレビドラマ化された。また1972年には[[日本の新左翼|新左翼]]による「[[あさま山荘事件]]」が起き、少女漫画では1974年に[[樹村みのり]]の『贈り物』が登場している<ref>[http://www.renseki.net/docs/bibliography1.pdf 連合赤軍関係文献リスト] 全体像を残す会 2012年5月10日</ref>。 また[[三大都市圏]]への人口集中が問題となっており、1962年には[[全国総合開発計画]]が打ち立てられ、1960年代には[[日本の高速道路|高速道路]]や[[新幹線]]が開通された。また1963年には明るい未来を描いた少年漫画 [[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]がテレビアニメ化され{{sfn|大塚英志|1991|pp=67-68}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%89%84%E8%85%95%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0-184616 鉄腕アトム] コトバンク</ref>、1969年には米国の[[アポロ11号]]によって人類が月面へと到達したほか[[スペースコロニー]]計画も提唱され、また、1970年には日本で[[国際博覧会|大阪万博]]が開催され{{sfn|宮台真司|1997|pp=254}}、明るい未来が予期されるようになっていった{{sfn|宮台真司|1997|pp=254}}。この頃の少女漫画では「やさしいママと頼りがいのあるパパと誰からも好かれる良い子」という理想の家庭が描かれていたとされる{{sfn|宮台真司|1997|pp=254}}。<!--TODO: 具体的作品-->これよってノンポリな[[しらけ世代]]が生まれ<ref>『終わりなき日常を生きろ―オウム完全克服マニュアル』 [[宮台真司]] 1995年7月1日 ISBN 978-4480857200</ref>、[[大学闘争|大学紛争]]は収束した。 海外映画ではイタリア映画作家[[ルキノ・ヴィスコンティ]]が[[耽美主義|耽美]]へと傾倒していき、少女漫画でも耽美の影響が強くなっていった。耽美作品における芸術とは何かは、例えばヴィスコンティの耽美映画「[[ベニスに死す (映画)|ベニスに死す]]」(1971年)内のセリフに現れている。登場人物アッシェンバッハが『「美と純粋さの創造はスピリチュアルな行為」であり「(現実の)感覚を通して(知恵、真実、人間の尊厳の)スピリットに到達することは出来ない」』とした<ref name="div-jml"/>のに対して、登場人物アルフレッドは「(芸術に現実の)悪徳は必要であり、それは天才の糧である」と反論している<ref name="div-jml">[https://diginole.lib.fsu.edu/islandora/object/fsu:181600/datastream/PDF/download Benjamin Britten and Luchino Visconti:Iterations of Thomas Mann's Death in Venice] p.96-97 James M. Larner 2006年</ref>(なお、ここでの翻訳はオリジナルの英語版の映画がベースであり、日本語版の映画には「背徳」などの超訳が含まれる{{要出典|date=2022年2月}})。<!--TODO: 一条ゆかりとヴィスコンティ--> 1970年に日本公開されたヴィスコンティの耽美映画「[[地獄に堕ちた勇者ども]]」では強姦描写や近親相姦が存在していた。少女漫画の強姦描写では1971年には「りぼん」増刊の『[[りぼん#増刊号・派生誌|りぼんコミック]]』において強姦を描いた『しあわせという名の女』([[もりたじゅん]])や『彼…』([[一条ゆかり]])が掲載されており<ref name="tinami-ichijo">[http://www.tinami.com/x/girlscomic/ichijyo-yukari/page1.html 青少年のための少女マンガ入門(4)一条ゆかり] TINAMI</ref>、その後、1973年にはりぼん本誌にも強姦描写のある『ラブ・ゲーム』([[一条ゆかり]])が登場している<ref name="tinami-ichijo"/>。また少女漫画の近親恋愛モノでは1970年には「りぼんコミック」に『うみどり』(もりたじゅん)が登場し<ref>『岩波講座 現代社会学〈21〉 デザイン・モード・ファッション』 井上俊 1996年1月12日 ISBN 978-4000107112</ref>、1972年には「りぼん」本誌に『おとうと』(一条ゆかり)が登場した。 また欧米では[[経口避妊薬]]の登場によって「[[性の革命|性の開放]]」が起きていた。日本でも欧米の影響を受けて少女小説誌やジュニア小説誌でセックスものが流行していき<ref>『いまやむかし「星よ、スミレよ」 少女小説 セックスがいっぱい』 朝日新聞 1970年</ref><ref>『アングラ昭和史 : 世相裏の裏の秘事初公開』 p.207 小野常徳 1981年 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12144259/1/106]</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=今田絵里香 |year=2017 |month=03 |title=ジュニア小説における性愛という問題 |journal=成蹊大学文学部紀要 |publisher=成蹊大学文学部学会 |volume=52 |pages=23-46 |doi=10.15018/00000516 |naid=120006242206 |url=https://hdl.handle.net/10928/906}}</ref><!--TODO: 小説ジュニアなどの連載漫画では?-->、1974年には映画でもフランス製[[ソフトコア]]・ポルノの「[[エマニエル夫人]]」が若い女性にヒットし、1975年には邦画からも「[[東京エマニエル夫人]]」([[日活]])が登場した。一方で[[性教育]]も問題となり、テレビ番組ではNHKの「[[こんにちは奥さん]]」で性教育が取り上げられるようになった<ref>『欲望の戦後史―社会心理学からのアプローチ』 p.185 石川弘義 1981年4月 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12227722/1/92]</ref>。少女漫画では1970年に初めて性が主題の『真由子の日記』([[大和和紀]])が『週刊少女フレンド』より登場し<ref>{{Cite book|和書|author=守如子 |title=女はポルノを読む : 女性の性欲とフェミニズム |publisher=青弓社 |year=2010 |series=青弓社ライブラリー 64 |page=143 |NCID=BB01247484 |ISBN=9784787233103}}</ref>、その後も『[[Seventeen (日本の雑誌)|週刊セブンティーン]]』掲載の『わたしは萌』([[立原あゆみ]])のような<!--TODO: 他-->[[セックス]]ありきの漫画が登場している。また1970年には学生妊娠物の『[[誕生!]]』([[大島弓子]])も『週刊マーガレット』より登場している。変身物でも1970年に学年誌などで性教育を隠しテーマとした「[[ふしぎなメルモ]]」が登場し、1971年にアニメ化された。<!--TODO: 『真由子の日記』が少女漫画の内面掘り下げの始まり説{{sfn|大塚英志|1991|p=136}}--> またプレイガール物の漫画も登場した{{sfn|藤本由香里|1998|pp=31-32}}。1971年には『なかよし』に『ジェニファの恋のお相手は』(萩尾望都)が、『別冊少女コミック』に『[[精霊狩り]]』(萩尾望都)が登場し、1973年には『週刊少女コミック』に『オーマイ ケセィラ セラ』(萩尾望都)が、『りぼん』に『ハートに火をつけて』(一条ゆかり)が登場した{{sfn|藤本由香里|1998|pp=31-32}}。 女性同士の恋愛の漫画も登場している。1971年2月には『[[りぼん#増刊号・派生誌|りぼんコミック]]』において『{{仮リンク|白い部屋のふたり|en|Shiroi Heya no Futari}}』(山岸凉子)が登場し<ref name="tinami-ichijo"/>、同年には[[週刊マーガレット]]にも[[池田理代子]]の『[[ふたりぽっち]]』が、1972年にはりぼん本誌にも『[[摩耶の葬列]]』([[一条ゆかり]])が登場した{{sfn|藤本由香里|1998|p=181}}。 また1960年代後半には西洋において[[カウンターカルチャー]]から[[ゲイ解放運動]]が起きており、それが[[アンダーグラウンド (文化)|アングラブーム]]と結びついていた。日本の実験映画でも1968年に個人映画作家の岡部道男が米実験映画「{{仮リンク|スコピオ・ライジング|en|Scorpio Rising (film)}}」(監督:[[ケネス・アンガー]])の影響を受けてゲイ映画「クレイジーラヴ」を<ref>『キネマ旬報 No.1329-1334』キネマ旬報社 2001年</ref>、1969年に映画作家[[松本俊夫]]がゲイバーを舞台にした「[[薔薇の葬列]]」を製作していた<ref name="sengo-joso"/>(前述の一条ゆかりのレ&#8203;ズビアン漫画『摩耶の葬列』のタイトルの元ネタ<ref>『一条ゆかり異色長編傑作選 摩耶の葬列』 一条ゆかり 2005年12月13日 ISBN 978-4086183932</ref>)。また一般映画では1969年に[[少年愛 (少女漫画)|少年愛]](少年同士の恋愛)を含むイギリス学園映画の「[[If もしも....]]」が日本でも公開され{{efn2|テレビ放送もその後行われている<!--TODO: テレビ放送は何年?-->。}}、1970年にフランス寄宿学校映画の「[[悲しみの天使 (映画)|悲しみの天使]]」が日本でも公開された。少女漫画では1970年代に[[花の24年組]]を中心として[[耽美]]な少年愛モノが増えていった{{sfn|菅聡子 編|2008|pp=158-159}}。男同士のベッドシーンが描かれる初期の少女漫画作品としては1972年に[[Seventeen (日本の雑誌)#月刊セブンティーン|別冊セブンティーン]]で連載された『ゲッシング・ゲーム』(山岸凉子)がある<ref name="yuriika-hujoshi">『ユリイカ 詩と批評 第39巻第7号6月臨時増刊号 総特集◎腐女子マンガ大系』 青土社 2007年6月 ISBN 978-4791701636</ref>。少年愛では1973年に一条ゆかりが「りぼん」で『[[アミ…男ともだち]]』を掲載し、1974年より映画「悲しみの天使」の影響を受けた[[萩尾望都]]が週刊少女コミックで『[[トーマの心臓]]』を連載し<ref name="inyu">『隠喩としての少年愛―女性の少年愛嗜好という現象』 水間碧 2005年2月1日 ISBN 978-4422320250</ref>、また、1976年より映画「If もしも....」の影響を受けた竹宮恵子が[[少女コミック|週刊少女コミック]]で『[[風と木の詩]]』を連載した<ref name="yuriika-hujoshi"/><ref>『ペーパームーン 少女漫画ファンタジイ 妖精国の住人たち』 竹宮恵子、山岸涼子、萩尾望都他 1978年</ref><ref>『竹と樹のマンガ文化論』 pp.83-84 竹宮惠子、内田樹 2014年12月6日</ref><ref name="inyu"/>。<!--名香智子『花の美女姫』の位置づけ、キャバレーとゲイボーイ--> そのほか、当時は1960年代に起きた[[ブルーボーイ事件]]によって男性から女性への[[性転換]]も注目されていた<ref name="sengo-joso"/>。少女漫画では1971年10月の『りぼん』に『[[さらばジャニス]]』(一条ゆかり)が登場している<ref>『國文學 : 解釈と教材の研究 26(6)(373)』 pp.80-85 [[學燈社]] 1981年4月</ref><ref>『りぼん 1971年10月号』</ref>。また、性転換コメディも登場して人気となった。[[弓月光]]は少女漫画として男主人公の性転換コメディ『どろん』(1972年)、『笑って許して』(1973年)を『りぼん』に、『[[ボクの初体験]]』(1975年-)を『マーガレット』に連載し、このうち『笑って許して』は後の人気少年漫画「[[らんま1/2]]」([[高橋留美子]])にも影響を与えている<ref>[https://ddnavi.com/interview/696257/a/ 高橋留美子インタビュー!『うる星やつら』『犬夜叉』から最新作『MAO』まで。「こえる」をキーワードに作品世界をひもとく!] ダ・ヴィンチニュース、2020年11月14日</ref>。 1970年代初頭には[[ジャンボ機]]が登場して海外旅行が身近となり<ref>[https://www.travelvoice.jp/20140310-17671 1970年代、ジャンボ機登場で始まった海外ブームー海外渡航自由化50周年の歴史を読み解く(2)] トラベルボイス 2014年3月10日</ref>、また女性添乗員も登場し<ref name="josei-tenjoin"/>、それらに伴って女性出国者の数も急激に増加していった<ref name="josei-tenjoin">[https://www.travelvoice.jp/20140501-20189 女性添乗員が登場した1970年代、訪日外国人は約70万人 ―海外渡航自由化50年の歴史を読み解く(3)] トラベルボイス 2014年5月1日</ref>。そんな中で1972年に週刊マーガレットからフランスの[[ヴェルサイユ宮殿|ベルサイユ]]を舞台にした歴史フィクション漫画『[[ベルサイユのばら]]』([[池田理代子]])が登場し、その後、[[宝塚歌劇団]]でミュージカル化され、『[[ベルサイユのばら (宝塚歌劇)#ベルばらブーム|ベルばらブーム]]』が起きることとなる。 また1960年代に司馬遼太郎の歴史小説「[[新選組血風録]]」及び「[[燃えよ剣]]」が登場してドラマ化され新選組ブームが起きており<ref>『時代劇映画の思想―ノスタルジーのゆくえ』 p.123 筒井清忠 2000年10月1日 ISBN 978-4569613383</ref>、少女漫画では『ベルサイユのばら』ブームの後の歴史フィクション物として新選組が注目されるようになった<ref name="tenmade-omake">『天まであがれ! (1)』内「♥DOZIさまのおまけのページ♥」 木原敏江 1999年3月1日 ISBN 978-4253174879</ref>。1973年には「りぼん」に『恋よ剣』{{efn2|『[[ボクの初体験]] (3)』に収録}}(弓月光)が掲載され、1975年には「週刊マーガレット」に『[[天まであがれ! (漫画)|天まであがれ!]]』([[木原敏江]])が、1976年には「[[LaLa]]」に『[[あさぎ色の伝説]]』([[和田慎二]])が連載され始めた。しかしながら『天まであがれ!』は読者ウケが良くなく連載期間が短縮されたとされる<ref name="tenmade-omake"/><!--TODO: あさぎ色の伝説の読者ウケは?-->。 また学園漫画では1965年に『りぼん』で『[[5年ひばり組]]』シリーズ([[巴里夫]])が<ref>[https://konomanga.jp/guide/86759-2 『5年ひばり組 傑作選』 巴里夫 【日刊マンガガイド】] 宝島社 2016年12月12日</ref>、1972年<!--11月-->に『りぼん』で『6年○組○○番』([[巴里夫]])が登場した<!--生活モノに近い{{sfn|大塚英志|1991|p=141}}?-->。なお、その後、1974年以降、児童文学では「ミス3年2組のたんじょう会」(1974年)、「[[四年三組のはた]]」(1975年)を初めとする「○年○組もの」が多数登場するようになっていった<ref>『マンガと児童文学の〈あいだ〉』 pp.94-95 竹内オサム 1989年 ISBN 978-4477119250</ref>。<!--TODO: テレビ側の学園ものの影響は?NHK道徳番組の「大きくなる子」1959、「明るいなかま」1962、「みんななかよし」1962など。出典を探す--> そのほか、1960年代の[[企業戦士|エコノミックアニマル]]化への反省から1970年代には[[企業戦士#その後|人間性回復]]が謳われるようになった。音楽では[[四畳半フォーク]]などの生活派や叙情派のフォークソングが人気となったほか、歌詞に「愛」を入れた歌が増加していった<ref>[https://withnews.jp/article/f0201231001qq000000000000000W06910501qq000022289A ヒットソング〝70年分の歌詞〟分析「恋→愛→夢→失う」まるで日本… - withnews] 朝日新聞社 2020年12月31日</ref>。また前述の少女アニメ『魔法少女サリー』でも「愛と希望」が強調されていた{{sfn|北川純子 編|1999|p=184}}ほか、1960年代後半には恋愛結婚が見合い結婚を上回った{{sfn|北川純子 編|1999|p=235}}。少女漫画では『りぼん』に愛の力を強調する[[一条ゆかり]]の作品群が登場し{{sfn|藤本由香里|1998|pp=19-21}}、その中から1972年の『りぼん』別冊付録に結婚しても「心はいつも少女のようで」居たいとする『[[9月のポピィ]]』(一条ゆかり)が登場した{{sfn|藤本由香里|1998|pp=23-24}}。また『りぼん』では『[[乙女ちっくマンガ]]』と呼ばれる日常の微妙な少女的センスとしての少女趣味的な作品群も登場して支持されていった。乙女ちっくマンガの代表的な作家には[[陸奥A子]]、[[田渕由美子]]、[[太刀掛秀子]]が居る。<!--TODO: 乙女ちっくマンガは恋愛の日常化に繋がったという説がある{{sfn|宮台真司|1997|pp=195-196}}→元ネタは『サブカルチャー神話解体』?赤毛のアンの影響{{sfn|大塚英志|1991|p=227}}、四畳半での空想{{sfn|大塚英志|1991|p=148}}--> === 生活満喫と家庭崩壊の時代 === <!--TODO: キャピキャピと少女漫画、胸キュンと少女漫画、『[[吉祥天女]]』([[吉田秋生]])<ref name="doujidai"/>、吉田まゆみ--> 1974年には高校進学が90%に達し<ref>[https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318327.htm 高等学校教育の改革] 文部科学省</ref>、1970年代には[[高学歴社会]]の到来によって[[オーバードクター]]が話題となっていった<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC-218327 オーバードクター] コトバンク</ref>。高学歴社会の到来により、若者は全能感を保ちながら新しい知識を吸収し、既存の社会に対する半人前意識を失って社会へと同化することを拒み、居心地の良い青年期の猶予期間([[モラトリアム]])に留まろうとする[[モラトリアム人間]]が多くなったとされる{{sfn|柳田邦男 編|1993|pp=34-35}}。また、かつては社会のために貢献して自己愛を満たすのが一般的となっていた(社会化された自己愛)が、[[マスメディア]]の発展による社会的英雄の失墜とそれによる既存社会への不信によって、自己のための自己愛(裸の自己愛)が一般的となっていったとも言われている{{sfn|柳田邦男 編|1993|pp=32-33}}。そんな中で社会性よりも時代の空気を重視する時代が到来し{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=12}}、[[ナウい|「ナウな」「ナウい」]]が流行語となり、[[ギャル]]や[[新人類]]が台頭していく。<!--{{sfn|柳田邦男 編|1993|pp=50}}、1981年[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が「[[フジテレビジョン#1980年代|楽しくなければテレビじゃない]]」という標語、[[軽チャー]]の時代--> また、1970年代以前より子供向け番組の出演者「[[水森亜土]]」(あどタン)が人気となっており、あどタンの使う亜土文字や亜土言葉は少女の間で今風と評価されていた{{sfn|柳田邦男 編|1993|pp=59-61}}。1970年代の少女漫画では『[[別冊フレンド|別冊少女フレンド]]』に『UッK-UK-亜土ちゃん』や『あなたと亜土たんのおてまみ広場』{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=61}}が連載されていた。また「亜土ネコミータン」などの水森亜土イラストのキャラクターグッズを1960年代後半に発売していた[[山梨シルクセンター]]が1970年代に[[サンリオ]]となって台頭し{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=137}}{{sfn|大塚英志 編|1991|p=93}}{{sfn|大塚英志|1991|pp=46-48}}<ref>『サンリオ物語』 西沢正史 1990年10月1日 ISBN 978-4387901983</ref>、1971年にはサンリオが新宿でファンシーグッズのショップを構え{{sfn|大塚英志 編|1991|p=94}}、1974年にはオイルショックによる紙不足を見越して事前に紙を調達していたサンリオが安価にファンシーノートを提供してブームを起こした{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=137-138}}。これらの流れによって若い女性の間では「かわいい」「ファンシー」がブームとなっていった{{sfn|柳田邦男 編|1993|pp=12-13}}。一方、少女漫画誌『りぼん』でもたびたび水森亜土のイラストのグッズを付録にしており{{sfn|大塚英志|1991|p=52-53}}、1974年にはアイドルグッズの付録を減らして少女漫画絵のかわいいグッズを付録するようになった{{sfn|大塚英志 編|1991|pp=87-88, p.94}}{{sfn|大塚英志|1991|pp=23-25, 34-37}}。また『なかよし』でもそれに対抗していき{{sfn|大塚英志|1991|pp=56}}、ファンシーグッズの増加とおこづかいの制約によって少女漫画の輪番購入による回し読みと付録の交換文化が生まれ{{sfn|大塚英志|1991|pp=56}}、またグッズの贈り合いのほか、お菓子や手紙などの贈り合いも一般化していった{{sfn|大塚英志 編|1991|pp=116-117}}。<!--TODO: 1973年には『りぼん』では全員プレゼントが登場し{{sfn|大塚英志|1991|pp=93-99}}→全プレはりぼんより週刊少女フレンドの方が先?-->このファンシーグッズの流れは80年代消費社会へと続いていくこととなる{{sfn|大塚英志|1991|pp=174-190}}。 また『りぼん』の近況欄では[[しらいしあい]]を皮切りに漫画家がかわいい[[丸文字|変体少女文字(丸文字)]]を使い始め{{sfn|大塚英志|1991|pp=152-153}}、1974年頃には少女の間でも変体少女文字が使われ始めるようになり{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=92, p.128}}、1978年にはそれが普及したとされる{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=165}}。「かわゆい」という語も『[[りぼん]]』の『[[キノコ♥キノコ]]』([[みを・まこと]])のキャッチコピー{{sfn|大塚英志|1991|pp=87-88}}や『週刊少女フレンド』<!--週刊少女フレンド 10(7)(495) / 10(50)(538)-->などで使われ始め、1980年代初頭には「ウッソー」「ホントー」「カワユーイ」{{efn2|「ヤダー」を入れることもある。}}の三語が流行していった([[三語族]])<ref>『'80年代世相語ガイド』 朝日新聞社 1983年10月1日</ref><ref>『朝日キーワード 1984』 朝日新聞社 1983年10月1日</ref><ref>『現代用語の基礎知識 '87』 p.1187 自由国民社 1987年1月</ref><ref name="karagenki">『カラ元気の時代―80年代文化論』 西島建男 1991年1月1日 ISBN 978-4022562517</ref>。 また上記の流れは男性にも波及し{{sfn|柳田邦男 編|1993|p=163}}、少女漫画が男性読者にも注目されるようになり{{sfn|大塚英志|1991|pp=221-222}}、少女漫画の影響を受けた絵柄や心理描写も少年漫画へと波及し始めた。また作家の環境として貸本出版が消滅した代わりに、学校において漫画研究会(漫研)部が増え、[[コミックマーケット]]などの[[同人誌]]即売会が広がって作品発表とファン交流の場を与えた(後述)。作家の年齢層も上がっていった。また、漫画道具が多様になっている。[[昭和30年代]]にはカブラペンなどわずかだったが、[[1970年代]]には多様なペンと[[スクリーントーン]]が使われるようになっている。 また、新少女漫画誌のブームが起き『[[花とゆめ]]』(1974年)『りぼんデラックス』(1975年)『[[プチマーガレット]]』(1976年)『[[LaLa]]』(1976年)『[[リリカ (雑誌)|リリカ]]』(1976年)『[[プチコミック]]』{{efn2|当初は[[少女コミック]]やJotomo([[女学生の友]])の漫画の再録が中心だった。}}(1977年)『[[ちゃお]]』(1977年)『[[ぶ〜け]]』(1978年)『[[プリティプリティ]]』(1978年)などの雑誌が創刊された<ref name="zasshi-daikenkyu">『雑誌大研究―出版戦国時代を探る』 p.238 斎藤精一 1979年2月1日 ISBN 978-4819107044 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12236305/1/123]</ref>ほか、1978年には秋田書店の『[[ひとみ (雑誌)|ひとみ]]』も再創刊されている。そのうち『リリカ』はサンリオが海外も視野に入れて創刊したものであり<ref name="zasshi-daikenkyu"/>{{sfn|長谷邦夫|1995|pp=152-153}}、4コマ漫画の『[[ハローキティ#出版物|HELLO KITTY]]』([[清水侑子]])ほか絵本的な漫画を連載していた{{sfn|長谷邦夫|1995|p=154}}ものの、1979年に休刊となっている。 ペットでは1960年代に従来の番犬に代わって室内犬が人気となっていき<ref>[https://sippo.asahi.com/article/10561632 飼うペットは、流行ではなくライフスタイルに合わせて] 朝日新聞 2016年5月27日</ref>、1970年代にはアニメシリーズの[[世界名作劇場]]より「[[フランダースの犬]]」(1975年)や「[[あらいぐまラスカル]]」(1977年)などの動物モノが登場して人気となった。少女漫画からは1977年に『[[ぼくの鈴ちゃん]]』([[たかなししずえ]])が、1978年に『[[おはよう!スパンク]]』(原作:雪室俊一、漫画:たかなししずえ)が登場し、後者は1981年にアニメ化されている。<!--TODO: 他の作品?--> またテレビアニメにおいては1970年に擬人化物である「[[昆虫物語 みなしごハッチ#昆虫物語 みなしごハッチ(1970年版)|みなしごハッチ]]」(1970年)が人気となって、その後も擬人化物のアニメが次々と製作されるようになり{{efn2|「[[ハゼドン]]」(1973年)「[[けろっこデメタン]]」(1973年)「[[山ねずみロッキーチャック]]」(1973年)「[[みつばちマーヤの冒険]]」(1975年)「[[ガンバの冒険]]」(1975年)など}}、少女漫画からも1975年に「なかよし」で擬人化犬ものの『[[わんころべえ]]』([[あべゆりこ]])が登場している。<!--TODO: 他の作品?-->また、1978年には「LaLa」で猫耳ものの『[[綿の国星]]』([[大島弓子]])が登場し、1980年前後には若者の間で猫耳をファッションとして身に着けることが流行して社会現象となった<ref name="wakamono_puls_showa-p49">『青年心理増刊 第54巻 「若者+昭和」ライフスタイル事典』 p.49 金子書房 1985年11月 {{NCID|BN14331136}}</ref>。 また世界名作劇場以外でも西洋舞台の名作文学の雰囲気を持つ作品が登場した。1975年、『なかよし』に名作文学の雰囲気を持つ『[[キャンディ♡キャンディ]]』(原作:[[水木杏子]]、漫画:[[いがらしゆみこ]])が登場し{{sfn|大塚英志|1991|p=114}}、1976年にアニメ化され人気となり、『なかよし』の部数を押し上げた{{sfn|米沢嘉博|2007a|p=325}}。1978年には『りぼん』でもそれに対抗した『ハロー!マリアン』([[佐伯かよの]])が登場した{{sfn|大塚英志|1991|p=116}}。また、1979年には『キャンディ♡キャンディ』の後番組として[[東映魔女っ子シリーズ]]からも西洋舞台の「[[花の子ルンルン]]」が登場し、その影響などによって「ルンルン気分」という言葉<ref name="karagenki"/>や「ルンルン」という擬音が広く流行した。一方、少年漫画では「[[ぶりっ子]]」という言葉が流行し、それに符合する女性アイドル[[松田聖子]]が人気となり、女学生にも[[聖子ちゃんカット]]が流行となった。松田聖子は1980年代における「少女期の拡大」の典型例とも言われている<ref>樋口恵子 編『エイジズム おばあさんの逆襲 ニュー・フェミニズム・レビュー4』 p.137 学陽書房 1992年 ISBN 978-4313840447</ref>{{sfn|藤本由香里|1998|p=120}}。少女漫画では例えば『りぼん』に『るんるんこりす姫』(みよし・らら、1981年-)が登場している。一方、ぶりっ子が増えることで反ぶりっ子感情も登場し、1981年には現役高校生作家による小説『[[1980アイコ十六歳]]』が登場してドラマ化および映画化され、1982年にはそれが[[週刊マーガレット]]で少女漫画化されている(漫画は[[飯塚修子]])。 1970年代中盤よりファッション誌の旅行特集によって女性の個人旅行が人気となり ([[アンノン族]])、1977年には[[コンパクトカメラ|コンパクト]]な初の[[オートフォーカス]]カメラである[[コニカのカメラ製品一覧#コニカC35シリーズ|ジャスピンコニカ]](コニカC35AF)が登場して女性にも人気となった。また、1975年にファッション誌「[[JJ (雑誌)|JJ]]」が登場して[[ニュートラ]]を初めとするブランドブームが起き、1981年にはブランド小説「[[なんとなく、クリスタル]]」がヒットしてブランド志向の若者は「クリスタル族」と呼ばれるようになった<ref>{{Cite journal|和書|author=難波功士 |title=戦後ユース・サブカルチャーズをめぐって(3):暴走族とクリスタル族 |journal=関西学院大学社会学部紀要 |ISSN=0452-9456 |year=2005 |month=mar |issue=98 |pages=43-67 |naid=120005702992 |url=https://hdl.handle.net/10236/14000}}</ref>。少女漫画では1970年代後半より外国を舞台とした作品が減少していき{{sfn|増田のぞみ・猪俣紀子|2015|p=2}}、代わりにセレブ物の『[[有閑倶楽部]]』が登場して人気となった。 また、1982年に[[西武百貨店]]のキャッチコピー「[[おいしい生活 (キャッチコピー)|おいしい生活]]」がヒットすると、いかに日々の生活を満喫するかという価値観が広まり、フィクションよりも現実世界を追い求める風潮が強まった<ref name="難波功士(2009)">{{Cite book|和書|author=難波功士 |title=創刊の社会史 |publisher=筑摩書房 |year=2009 |series=ちくま新書 |issue=763 |NCID=BA88483310 |ISBN=9784480064554 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009989306-00 |ref=harv}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=宮原浩二郎, 荻野昌弘 |title=マンガの社会学 |publisher=世界思想社 |year=2001 |NCID=BA54251278 |ISBN=978-4790709015 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003060542-00}}</ref>。女性はおいしい生活を求めて男を求めるようになり<ref name="難波功士(2009)"/>、「愛人バンク [[夕ぐれ族]]」の登場によって援助交際が増加していった<ref>[http://dot.asahi.com/wa/2016033100162.html 社会現象となった「愛人バンク」 背景に「おいしい生活」] 週刊朝日、2016年4月2日</ref>。この頃に青年漫画では「[[愛人 (漫画)|愛人]]」、ドラマでは「愛人バンク殺人事件」([[土曜ワイド劇場]]内)が登場し、少女漫画でも『愛人志願落第生』([[くさか里樹]])が登場している。<!--TODO: 太眉メイク肩パッド--> また1980年には性豪[[ジャコモ・カサノヴァ]]の伊米合作映画『[[カサノバ (1976年の映画)|カサノバ]]』が日本でも公開され<ref>[https://middle-edge.jp/articles/xnZLa 映画『カサノバ』1,000人の女性と肉体関係を持った男の生涯を映像の魔術師フェリーニが描く] Middle Edge 2018年7月4日</ref>、少女漫画では1983年にタラシヒーローの『[[東京のカサノバ]]』([[くらもちふさこ]])が登場して人気となった<ref name="doujidai">『同時代を読む〈1981-’85〉』 p.201 秋山駿ら 1986年4月1日 ISBN 978-4022554802 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12278058/1/104]</ref>。「くらもちふさこ」はその後も三股ヒーローの『A-Girl』(1984年)などを出している<ref>[https://manba.co.jp/manba_magazines/15985 DV男の次は二股男? 少女マンガの常識を覆した『A-Girl』] マンバ 2022年1月29日</ref>。 また[[ヤマハ音楽振興会#ヤマハ音楽教室|ヤマハ音楽教室]]などによってピアノの普及が進んだことで、ピアノ物の少女漫画も登場し人気となった。これには1975年よりの『[[オルフェウスの窓]]』([[池田理代子]])や、1980年よりの『[[いつもポケットにショパン]]』([[くらもちふさこ]])がある<ref>[https://nikkan-spa.jp/1693983 ブームを巻き起こす音楽漫画の系譜。ヒップホップ漫画『少年イン・ザ・フッド』は!?] 日刊SPA! 2020年9月7日</ref><!--TODO: [[虹のプレリュード]]は?-->。その後、1985年、バラエティ番組「[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]」の「[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!#元気が出るテレビ時代の主なコーナー|お嬢さまを探せ]]」のコーナーによって若者の「お嬢さまブーム」{{efn2|お嬢さまの格好をすることを意味する「お嬢さまする」が流行語となった<ref>『年表でみる日本経済広告』 三家英治 1995年11月1日 ISBN 978-4771008045</ref>}}が起きて{{sfn|成田康昭|1986|p=88}}<ref name="pianist-guide-p49">『ピアニストガイド』 p.49 吉澤ヴィルヘルム 2006年2月10日 ISBN 978-4787272089</ref>すぐに、ソ連の天才ピアニストの[[スタニスラフ・ブーニン]]が来日して人気となり、ブーニンはその追っかけの対象となったとされる(ブーニン現象)<ref name="pianist-guide-p49"/>。<!--TODO: [[「あると」の「あ」]]/[[金と銀のカノン]]あたりも書く?--> 不良ブームも起きている。1968年よりアメリカの暴走族映画の影響を受けて[[日本映画]]からも「[[不良番長]]」シリーズが登場し、1971年にはスケバン物の「[[女番長ブルース 牝蜂の逆襲|女番長シリーズ]]」も登場し、1973年には[[ヤクザ映画]]まで仁義物ではない「[[実録シリーズ]]」(「[[仁義なき戦い]]」など)が登場した。1970年代には不良少年が[[オートバイ]]を手に入れ[[暴走族]]となって広域で徒党を組むようになり、また、1970年代後半には[[中学校]]や[[高等学校]]において先生などに対する[[校内暴力]]が増えていき<ref>[https://kotobank.jp/word/%E6%A0%A1%E5%86%85%E6%9A%B4%E5%8A%9B-170763 校内暴力] コトバンク</ref>問題となった。1980年代には[[ロングスカート]]が流行し、「[[なめ猫]]」や[[尾崎豊]]も登場、[[不良行為少年|不良]]に憧れる少女が増加していていった。そんな空気の中で、少女漫画では1977年に『[[プチコミック]]』で不良ヒーローを据えた『ハイティーン・ブギ』(原作:後藤ゆきお、漫画:牧野和子)が登場し<ref>[https://wezz-y.com/archives/50211/3 ケータイ小説ユーザーは、地方在住、20~30代も多い 「空想ヤンキーもの」が女性の心をつかみ続ける理由。 p.3] サイゾー 2017年9月23日</ref>、1982年に[[ハイティーン・ブギ (映画)|映画化]]された。また1981年には[[Dr.スランプの登場人物#空豆家|不良風キャラ]]の登場する少年漫画「[[Dr.スランプ]]」が[[Dr.スランプ アラレちゃん|アニメ化]]が放送されて人気となり、『りぼん』でもそのアニメの付録が登場し{{sfn|大塚英志|1991|p=122}}、翌1982年には『りぼん』からも不良ヒーロー物のメディアミックス『[[ときめきトゥナイト]]』([[池野恋]])が登場して人気となった<ref>[https://web.archive.org/web/20210521140033/https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=54811/episodeID=1028849/ 「白熱ライブ ビビット」 2017年1月17日(火)放送内容] ワイヤーアクション/[[価格.com]]</ref>{{sfn|大塚英志|1991|p=122}}。1985年には『[[別冊マーガレット]]』からも暴走族物の『[[ホットロード]]』([[紡木たく]])が登場しヒットした{{efn2|その後、1989年にはレディース暴走族誌の「[[ティーンズロード]]」([[ミリオン出版]])が登場し、90年代にはその雑誌上で『少女暴走伝説 Fair』([[きらたかし]])が連載されている。}}。 また、原宿では1977年に[[歩行者天国]](ホコ天)が設けられ、その後、派手な衣装を提供する「[[ブティック竹の子]]」やフィフティーズ・ルック(1950年代アメリカファッション<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%95%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF-162610 フィフティーズ・ルック] コトバンク</ref>)を提供する「[[ピンク・ドラゴン]]」<!--1982年〜-->(「クリームソーダ」ブランド<ref>[https://omoharareal.com/navi/column/detail/80?p=3 キャットストリートの歴史。猫、そして寅が歩いたストリート!? キャットストリート p.3] OMOHARAREAL</ref>など)<!--TODO: 東京ペパーミント-->が開業されると、ホコ天にディスコを踊る[[竹の子族]]や[[ロカビリー]]を踊るローラー族が登場した。その後、原宿のホコ天を巻き込んだ[[バンドブーム]]があり、少女漫画では『[[愛してナイト]]』([[多田かおる]]、1981年)、『[[愛の歌になりたい]]』([[麻原いつみ]]、1981年)、『プラスティック・ドール』([[高橋由佳利]]、1983年)、『[[ダイヤモンド・パラダイス]]』<ref>[https://realsound.jp/book/2021/04/post-740554.html イケメンの“クサい台詞”が癖になる? 80年代少女漫画『ダイヤモンド・パラダイス』の時代性] Real Sound 2021年4月13日</ref>([[槇村さとる]]、1984年)、『アンコールが3回』([[くらもちふさこ]]、1985年)、『[[3-THREE-]]』([[惣領冬実]]、1988年)などのバンド物が登場した。<!--TODO: 『[[わずか1小節のラララ]]』(1978年、[[くらもちふさこ]])--><!--TODO: [[飯塚修子]]の『ホコテンDreamin'』など--> そのほか、日本でも[[ギャル]]が台頭した。1975年に[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]](ウェスト・コースト)のスポーツ文化(スキー、テニス、ドライブ、サーフィンなど)を特集する男性誌「[[POPEYE]]」が登場して少年に人気となり<ref>『地方都市青年層のライフスタイルと文化行動 (NRC-81-14)』 総合研究開発機構 p.233 1983年12月1日 ISBN 978-4795511408 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12131081/1/122]</ref>、1978年には少女向けでもアメリカ西海岸のギャル文化を特集をする「[[ギャルズライフ]]」([[主婦の友社]])が登場した{{efn2|漫画も掲載されていた}}<ref>『主婦の友社の八十年』 主婦の友社社史編纂委員会 1996年1月1日 ISBN 978-4072208656</ref>。1980年にはその増刊として少女漫画誌の『[[ギャルズコミック]]』(後の『ギャルコミ』)も登場している。また、旧来の少女漫画誌でもアメリカ西海岸を舞台したものが多数登場して人気となっていった。これには1978年より「別冊少女コミック」で連載された[[サンディエゴ]]舞台の『[[カリフォルニア物語]]』([[吉田秋生]])<ref name="tachidomaranai"/>、1980年より「LaLa」で連載された[[ロサンゼルス]]舞台の『[[エイリアン通り]]』([[成田美名子]])<ref name="tachidomaranai"/><ref name="doujidai"/>、1981年より「別冊少女コミック」で連載されたロサンゼルス舞台の『[[ファミリー!]]』([[渡辺多恵子]])などがある<ref name="tachidomaranai">『立ちどまらない少女たち: 〈少女マンガ〉的想像力のゆくえ』 [[大串尚代]] 2021年9月13日 ISBN 978-4775402825</ref><ref name="doujidai"/>。 しかしながらギャルズライフはだんだんヤンキー路線を取るようになっていき、1980年代初頭に新たなギャル雑誌「[[Popteen]]」「[[キャロットギャルズ]]」「[[まるまるギャルズ]]」などが登場する<ref>『週刊朝日 第88巻 53〜56号』 大坂朝日新聞社 1983年</ref>と、1984年にはギャル雑誌を標的とした[[図書規制法]]が立案され、法案が成立しなかったもののギャル雑誌の衰退するきっかけとなった。「ギャルズライフ」はリニューアルして「ギャルズシティ」となったものの約一年で休刊となり<ref>{{Cite journal|和書|author=難波功士 |title=族の系譜学 : ユース・サブカルチャーズの戦後史 |issue=関西学院大学 博士論文 (社会学)、乙第332号 |year=2008 |naid=500000440156 |ISBN=9784787232731 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008571672-00 |page=338}}</ref>、その後、その増刊だった『ギャルコミ』も休刊した。<!--TODO: エルティーン?--> またスパイ・アクションも台頭している。前述の[[西部劇]]のテレビ放送によって[[ガンブーム]]が起きており、1964年にスパイ・アクション映画「[[007/危機一発]]」が日本でも上映されヒットし、1970年に「007 ロシアより愛をこめて」として再上映されていた。少女漫画では1976年よりスパイ・アクション漫画の『[[エロイカより愛をこめて]]』([[青池保子]])が登場して人気となった<ref name="doujidai"/>ほか、1978年より連載の人気ナンセンスギャグ漫画『[[パタリロ!]]』<ref name="doujidai"/>([[魔夜峰央]])にもスパイの[[ジャック・バルバロッサ・バンコラン|バンコラン少佐]]が登場している。 1974年には宇宙SFのテレビアニメ「[[宇宙戦艦ヤマト]]」が登場し、1978年には宇宙SF映画「[[スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望|スター・ウォーズ]]」が日本でも上映され、宇宙SF物がブームとなった<ref name="sekai-2">『別冊太陽 子どもの昭和史 少女マンガの世界 2 昭和38年‐64年』 平凡社 1991年10月 ISBN 978-4582942408</ref>。この頃の少女漫画では『[[11人いる!]]』<ref name="sekai-2"/>(萩尾望都、1975年-)、『[[最終戦争シリーズ]]』<ref name="sekai-2"/>([[山田ミネコ]]、1977年-)、『[[樹魔・伝説]]』<ref name="sekai-2"/>([[水樹和佳子|水樹和佳]]、1979年-)、『[[ブレーメン5]]』<ref name="sekai-2"/>([[佐々木淳子]]、1980年-)などのSF物が登場している。 また1970年代後半にはオカルトブームの中から欧米の[[ニューエイジ]]という思想が[[精神世界]]という名前で日本にも広まった<ref>{{Cite journal|和書|author=伊藤耕一郎 |title=魂の探訪記(前編)精神世界研究に於ける質的現地調査の有効性 |journal=千里山文学論集 |ISSN=0286-1852 |publisher=関西大学大学院文学研究科 |year=2021 |month=mar |issue=101 |page=37 |naid=120006980715 |doi=10.32286/00022675 |url=https://doi.org/10.32286/00022675 |ref=harv}}</ref>。少女漫画では1983年に植物の精神世界へと入って戦う『[[ダークグリーン]]』([[佐々木淳子]])が登場している。 狼男のブームも起きている。1980年代初頭に[[アメリカ映画]]から「[[ハウリング (映画)|ハウリング]]」「[[ウルフェン (映画)|ウルフェン]]」「[[狼男アメリカン]]」「[[狼の血族]]」などの[[狼男]]ものが登場し、少女漫画からも1984年に『[[ムーン・ライティング]]』([[三原順]])が登場した。<!--TODO: 狼少女--> 1972年に中学校での、1973年に高等学校での[[クラブ活動]]が必修化され、学校では漫画研究会(漫研)部が増えていった。また1972年には[[SF大会]]の流れを組んだ漫画イベント「[[日本漫画大会]]」も開始された<ref>『おたくの起源』 吉本たいまつ 2009年2月9日 ISBN 978-4757142091</ref>。1976年にはSF雑誌「[[奇想天外 (SF雑誌)|奇想天外]]」が登場し、1978年にはその雑誌の別冊として「SFマンガ大全集」が登場した{{sfn|長谷邦夫|1995|p=295}}<ref>『別冊奇想天外 NO.5 SFマンガ大全集』 奇想天外社 1978年</ref>。翌1979年にはSF漫画誌「[[リュウ (雑誌)|リュウ]]」<ref name="sfnenkan-1985"/><!--TODO: 年の出典-->及び「少年少女SFマンガ競作大全集」{{sfn|長谷邦夫|1995|p=299}}<ref name="sfnenkan-1985"/>が、1982年にはSF漫画誌『[[ウィングス (雑誌)|ウィングス]]』{{sfn|長谷邦夫|1995|p=301}}<ref name="sfnenkan-1985"/>が、1983年にはSF漫画誌「[[月刊スーパーアクション]]」が登場した<ref name="sfnenkan-1985">『日本SF年鑑 1985年版』 日本SF年鑑編集委員会 1985年 ISBN 978-4787490278</ref><!--TODO: 年の出典-->が、その後のSFの衰退によって『ウィングス』は少女漫画誌となっていった{{sfn|長谷邦夫|1995|pp=302}}。 一方、1975年には前述の「日本漫画大会」を追い出された漫画批評集団「[[迷宮 (同人サークル)|迷宮]]」によって「[[コミックマーケット]]」が立ち上げられた。コミックマーケットでは当初少女漫画の同人誌が流行していた<ref name="comiket-30th"/>ものの、新漫画誌の創刊ブームが起きたことで第一世代の作家が『[[LaLa]]』などの新興商業誌に流れていったとされる<ref name="comiket-30th">[https://www2.comiket.co.jp/archives/30th/30th_Yonezawa.pdf 代表インタビュー Part1] コミケット</ref>。また[[少年愛 (少女漫画)|少年愛]]でもコミケの流れを汲む[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]として「花の24年組」の少年愛路線を引き継いだ耽美派商業雑誌「[[JUNE (雑誌)|JUNE]]」(1978年)<ref name="gendaiyougo-1999-p1128"/>や「[[月刊OUT#OUT増刊号・兄弟誌他|ALLAN]]」(1980年){{sfn|北川純子 編|1999|p=145}}が登場した。1980年には『花とゆめ』に漫研および同人誌即売会を舞台にした少女漫画『コミック・フェスティバル』([[佐々木倫子]])が掲載された{{efn2|後に『林檎でダイエット』(1988年、ISBN 978-4592114499 ) に収録}}。一方、コミックマーケットでは作家の入れ替わりによってアニメのパロディ(アニパロ)漫画が台頭し<ref name="comiket-30th"/><ref name="gendaiyougo-1999-p1128">『現代用語の基礎知識 1999』p.1128 自由國民社 1998年11月1日 ISBN 978-4426101176</ref>、1982年にはアニパロ中心の商業漫画誌「[[アニパロコミックス]]」が登場した。アニパロでは少年アニメなどをパロディしたショタ物の「[[やおい]]漫画」<ref name="gendaiyougo-1999-p1128"/>だけでなく少女アニメなどをパロディしたロリ物の「[[シベール (同人誌)|ロリコン漫画]]」も登場しており、その流れで生まれた商業ロリコン漫画誌の一つ「[[プチ・パンドラ]]」(1984年)は後の少女漫画家[[武内直子]]にも影響を与えている。 また、1970年代には商業漫画でも国内作品のパロディ物が登場するようになった<ref name="aida-p110"/>。少年漫画では「[[月光仮面]]」のパロディ漫画「[[けっこう仮面]]」(1974年-)などが登場して<ref name="aida-p110"/>人気となり、少女漫画でも「[[伊賀の影丸]]」のパロディ漫画『[[伊賀野カバ丸]]』(亜月裕、1979年-)が登場して<ref name="aida-p110">『マンガと児童文学の〈あいだ〉』 p.110 竹内オサム 1989年 ISBN 978-4477119250</ref>人気となった<ref name="doujidai"/>。 1970年代より[[宅配便]]が発展し、また[[マイコン]]技術による多品種小量生産も広がっていく。1976年には家庭用の[[VHS#ビデオデッキの発売|VHSビデオデッキ]]が登場して人気となっていき、1979年には音楽を持ち運ぶ[[ウォークマン]]という個人化的製品が登場してヒット、[[軽薄短小]]や[[分衆]]という言葉が誕生した。[[バンドブーム#バンドブーム前夜(第一次バンドブーム)|第一次バンドブーム]]も起きて、音楽以外でもノリが重要となっていき{{sfn|成田康昭|1986|pp=31-40}}ノリの悪い[[ネクラ#いじめ問題への波及|ネクラに対する差別]]が起きるようになった{{sfn|成田康昭|1986|pp=77-78}}。そんな中で、1980年代中盤には正義感のあるスケバン物が登場した。ドラマでは『花とゆめ』に連載されていた『[[スケバン刑事]]』([[和田慎二]])が1985年にテレビドラマ化されて人気となり、翌1986年にはその対抗としてオリジナルテレビドラマ「[[セーラー服反逆同盟]]」が登場したものの、[[セーラー服反逆同盟#漫画版|後者のコミカライズ]]は少年誌となっていた。また1985年には不良少女物の『[[花のあすか組!]]』([[高口里純]])と共に新少女漫画誌『[[ASUKA (雑誌)|月刊ASUKA]]』が創刊され、その漫画が[[花のあすか組!#テレビドラマ|1988年にテレビドラマ化]]されている。 また1976年には翻訳小説「[[柳瀬尚紀|飛ぶのが怖い]]」が登場し、翌1977年には自由を謳歌する「翔んでる女」が流行語となった{{sfn|樫原叔子|2007|p=88}}<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%B0-166162 ジョング] コトバンク</ref>。またそれによってかよらずか離婚も増加していた{{sfn|樫原叔子|2007|p=88}}。女性誌では1977年に「an・an」「non・no」「JUNON」の上位誌として[[ニューファミリー]]をメインターゲットに据えた「[[クロワッサン]]」「[[MORE (雑誌)|MORE]]」「[[ARURU]]」が登場したものの部数が伸びず<ref name="newfamily-nani-p68-p73">{{Cite journal|和書|author=橋本嘉代 |date=2023-01 |url=https://kyoritsu.repo.nii.ac.jp/records/3647 |title=「ニューファミリー」とは何だったか : “新しい家族”をめぐる1970年代の幻のブーム再考(1) |journal=共立女子大学文芸学部紀要 |volume=69 |pages=65-78 |CRID=1050014016717886976}}</ref>{{efn2|NHKの調査によればニューファミリーと言われているものは見つけることができなかったされる<ref>『現代日本人の意識構造』 p.68 NHK出版 1979年6月 ISBN 978-4140013441 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12107803/1/37]</ref><ref>『NHK世論調査資料集 〔昭和〕55年版』 p.800 NHKサービスセンター 1980年 ISBN 978-4186562026 [https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12108184/1/404]</ref>。}}、1978年には「ARURU」が休刊し<ref name="newfamily-nani-p68-p73"/>、「クロワッサン」も「女の新聞」へとリニューアルされ<ref name="croissant-jiritsu"/>、それにより「クロワッサン」は離婚を含めた[[クロワッサン症候群#雑誌『クロワッサン』が提案する新しい女性の生き方|シングル謳歌]]を広めていくこととなった<ref>[https://books.j-cast.com/2020/02/02010778.html 「婚活」という言葉を最初に使った雑誌は?] J-CAST 2020年2月2日</ref><ref name="croissant-jiritsu">[http://www.isgsjapan.org/journal/files/11_ikematsu_reiko.pdf 雑誌『クロワッサン』が描いた 〈女性の自立〉と読者の意識] 池松玲子</ref>。1979年には「[[キャリアウーマン]]」が流行語となり{{sfn|樫原叔子|2007|p=99}}、また、同年には[[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン]]小説の[[ハーレクイン (出版社)#日本のハーレクイン|日本語版]]も登場している{{sfn|樫原叔子|2007|p=99}}。1980年には女性向け就職情報誌[[とらばーゆ]]が誕生し、「とらばーゆする」が流行語となった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1807/20/news016.html アラサー女性は「そろそろ転職」症候群に、注意しなければいけない] ITmedia 2018年7月20日</ref>。1980年代には日本の[[貿易黒字]]が世界最高になり、1986年の[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]の施行で女性の職業選択の幅も広がった。そんな中で1980年代半ばには[[OL]]向け女性漫画誌の『[[オフィスユー]]』が登場した。 一方、1970年代後半には前述の[[校内暴力]]に合わせて子供から親への[[家庭内暴力]]も注目されるようになった{{efn2|ただし校内(家庭外)暴力と家庭内暴力は連動しない<ref>[https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E5%86%85%E6%9A%B4%E5%8A%9B-231995 家庭内暴力] コトバンク</ref>。}}。また[[テレビドラマ]]では1976年の嫁姑問題物の「[[となりの芝生]]」で「辛口ホームドラマ」が確立し<ref name="nttcard-vol43">[https://www.ntt-card.com/trace/vol43/special/index.shtml 特集 vol.43 テレビドラマに魅せられて] [[NTTファイナンス]]</ref>、次いで1977年夏には家庭の崩壊を描く「[[岸辺のアルバム]]」が登場{{sfn|宮台真司|1997|pp=138-139}}<ref name="nttcard-vol43"/>{{efn2|2000年代に「[[BE・LOVE]]」で女性漫画化されている。}}、その後の主婦向けのドラマでは「[[金曜日の妻たちへ]]」(1983年)や「[[くれない族の反乱]]」(1984年)のような不倫物が流行して「金妻症候群」や「金妻する」や「くれない族」が流行語となった<ref>『月刊言語 15巻』 大修館書店 1986年</ref>。1984年には離婚家庭の増加によって離婚家庭が死別家庭を上回り<ref>『日本人の生活―50年の軌跡と21世紀への展望』 日本家政学会 1998年7月1日 ISBN 978-4767965079</ref><ref>『昭和58年度全国母子世帯等調査結果の概要』 [[厚生省]]児童家庭局</ref>、1985年には小説「[[家庭内離婚]]」が登場して<ref name="hayashi-iku"/>翌1986年にそれがドラマ化され<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-23101 家庭内離婚]</ref>同語が流行語となり<ref name="hayashi-iku">[https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%83%81-1102094 林郁] コトバンク</ref>、同1986年には「タンスにゴン」のCMから「亭主元気で留守が良い」というキャッチコピーが登場して流行語となった<ref>[https://www.sankeibiz.jp/econome/news/150111/ecc1501110730006-n4.htm 妻に迷惑をかけたくない… 団塊オヤジが料理教室に“殺到” (4/4ページ)] 産経新聞 2015年1月11日</ref><ref>[https://www.weblio.jp/content/%E4%BA%AD%E4%B8%BB%E5%85%83%E6%B0%97%E3%81%A7%E7%95%99%E5%AE%88%E3%81%8C%E8%89%AF%E3%81%84 亭主元気で留守が良い] Weblio辞書</ref>。この頃に[[女性漫画|大人の女性向けの漫画]]が成長し、離婚や不倫などをテーマとした[[レディースコミック]]{{sfn|大塚英志 編|1991|p=259}}がジャンルとして確立した{{sfn|大塚英志 編|1991|p=257}}<ref name="jiji-s62-p261"/>。少女漫画でも1983年に『[[DUO (マンガ雑誌)|DUO]]』で家庭崩壊物の『[[水枕羽枕#夢虫・未草(ゆめむし_ひつじぐさ)|夢虫・未草]]』([[大島弓子]])が登場している{{sfn|大塚英志 編|1991|pp=208-209}}<ref>『月刊マンガデュオ(DuO) 1983年7月号(15号)』 [[朝日ソノラマ]]</ref>。またその後にはレディースコミックよりも下の世代向けのジャンルとして[[ヤング・レディース]]も登場した。<!--TODO: 1966年登場の『[[白ばら物語]]』([[西谷祥子]]){{sfn|藤本由香里|1998|p=15}}への言及?--> また、1983年に[[フジテレビ]]のゴールデンタイムのドラマ枠「[[月曜ドラマランド]]」が登場し、その枠で[[4コマ漫画]]や少女漫画のドラマ化が行われるようになった。初期のドラマ化された少女漫画作品には『[[あんみつ姫#小泉今日子版|あんみつ姫]]』([[倉金章介]])と『うっふんレポート』(弓月光)が存在する。 その後、1985年4月にはフジテレビで高校生アイドルオーディション番組「[[夕やけニャンニャン]]」が始まり、その番組の中でアイドルグループ「[[おニャン子クラブ]]」が結成された。同年7月リリースのデビュー曲「[[セーラー服を脱がさないで]]」がヒットし、この頃に[[ブルセラ]]ショップが誕生して90年代に掛けて増加していく。一方、同7月には「[[東京女子高制服図鑑]]」が出版されて学校選びに制服のデザインが注目されるようになり{{sfn|大塚英志 編|1991|pp=120-121}}、また[[DCブランド]]ブームもあって、学校では[[ブレザー]]型の制服へのモデルチェンジが進んでいった<ref>[https://kanko-gakuseifuku.co.jp/lab/contents/history/ 時代とともに変化する制服のシルエット。] カンコー学生服 2021年6月4日</ref>。なお前述のドラマ枠「[[月曜ドラマランド]]」では「おニャン子クラブ」を起用して『[[有閑倶楽部]]』([[一条ゆかり]])、『[[ピンクのラブソング]]』([[飯塚修子]])、『[[ないしょのハーフムーン]]』([[赤石路代]])などの少女漫画がドラマ化された。 1987年には「おニャン子クラブ」から[[工藤静香]]がソロデビューを果たして人気となり<ref>[https://gendai.media/articles/-/99130?page=2 工藤静香ソロデビューから35年…売れないB級アイドルが「おニャン子最大の成功者」に大化けできた理由 - 現代ビジネス p.2] 講談社 2022年8月31日</ref>、少女漫画からは1989年に工藤静香似の主人公の『[[マリンブルーの風に抱かれて]]』([[矢沢あい]])が登場した<ref>『キネマ旬報 NO MOVIE, NO GIRL 2005年 No.1437 臨時増刊9月7日号』 キネマ旬報社 2005年</ref>。また同1989年にはアイドル歌手「[[田村英里子]]」がデビューしてそのタイアップテレビアニメ『[[アイドル伝説えり子]]』が放送され、そのアニメが[[アイドル伝説えり子#漫画化作品|『月刊ASUKA』で少女漫画化]]されている(漫画は河原歩)。 また、1981年には[[ニューハーフ]]の六本木美人「[[松原留美子]]」がデビューして「ニューハーフ」という言葉が定着した<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geinox/144451 ヒロインに抜擢された元祖ニューハーフ松原留美子] 日刊ゲンダイ 2013年9月10日</ref>。このニューハーフブーム受けて、少年漫画から同年に「[[ストップ!! ひばりくん!]]」が登場し人気となって1983年5月に[[ストップ!! ひばりくん!#テレビアニメ|テレビアニメ化]]された<ref>『「男の娘」たち』 pp.136-137 川本直 2014年9月18日 ISBN 978-4309246741</ref>。少女漫画からは同1983年3月に『[[前略・ミルクハウス]]』([[川原由美子]])が、1986年に『[[ここはグリーン・ウッド]]』([[那州雪絵]])が登場している([[男の娘#漫画]])。<!--『玉三郎恋の狂想曲』/1972{{sfn|藤本由香里|1998|p=136}}--> その他、1980年代には「[[少年隊]]」や「[[光GENJI]]」などの[[ジャニーズ事務所]]所属の少年アイドルグループのブームもあり、少女漫画でも『[[別冊少女コミック]]』に少年アイドルグループ物の『[[はじめちゃんが一番!]]』([[渡辺多恵子]])が登場している。 『キャンディ♡キャンディ』のような西洋を舞台とした大河的な少女漫画およびそのアニメ化も続いていた。1982年には『[[週刊少女コミック]]』に同じく西洋舞台の『[[ジョージィ!]]』(原作:[[井沢満]]、漫画:いがらしゆみこ)が登場して1983年に「[[ジョージィ!#テレビアニメ版|レディジョージィ]]」としてアニメ化され、1983年には『ちゃお』に西洋舞台の『[[アルペンローゼ (漫画)|アルペンローゼ]]』が登場して1985年に「[[アルペンローゼ (漫画)#テレビアニメ|炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ]]」としてアニメ化され、1986年には『ひとみ』に西洋舞台の『[[レディ!!]]』([[英洋子]])が登場して1987年に「[[レディ!!#レディレディ!!|レディレディ!!]]」としてアニメ化され、1988年にはその続編アニメの「[[レディ!!#ハロー!レディリン|ハロー!レディリン]]」も登場している。東映アニメーションは「レディレディ!!」を「純粋な少女漫画路線」と評している<ref>[https://lineup.toei-anim.co.jp/ja/tv/ladylady/story/ レディレディ!! - ストーリー] 東映アニメーション</ref>。 また、占いは昔から少女誌に存在したが、1980年代にはおまじないが人気となっていく<ref name="shihyo-omajinai"/>。1970年前後、コンピュータ商法のブームからデパートにコンピュータ占いの機械が登場する<ref>『コンピュートピア 4(43)』 p.99 コンピュータ・エージ 1970年9月 [https://dl.ndl.go.jp/pid/3249912/1/59]</ref>。1978年12月、星占いの専門誌「星占い手帳」が登場し<ref name="wyomi-1592"/>、翌1979年4月には少女向け星占い誌「[[My Birthday]]」が登場した{{sfn|大塚英志 編|1991|p=126}}{{sfn|大塚英志|1991|p=200}}<ref name="wyomi-1592">『週刊読売 38(16)(1592);1979・4・15』 p.24-25 読売新聞社 1979年4月</ref>が、「My Birthday」ではおまじない関連の投書を掲載しておまじないの投書がブームとなり{{sfn|大塚英志|1991|pp=200-201}}、1982年にはおまじないをまとめた本「私の知ってるおまじない」も登場した{{sfn|大塚英志|1991|p=201}}。少女漫画誌では『りぼん』におまじないグッズの付録が登場するようになった{{sfn|大塚英志|1991|p=123}}ほか、乙女チックラブコメから『ため息の行方』([[陸奥A子]])のようなアミニズム的な作品が登場した{{sfn|大塚英志|1991|pp=215-216}}。また1986年2月には前述の「My Birthday」の増刊として漫画誌『[[おまじないコミック]]』が登場し、同年4月にはコミックの掲載のある少女誌『[[ピチレモン]]』も登場。おまじないブームが拡大していった<ref name="shihyo-omajinai">『出版指標年報 1988年』内「おまじないが大人気の少女誌」 全国出版協会出版科学研究所 1988年</ref>。<!--TODO: 占いブームと新新宗教ブームの関係:『占いをまとう少女たち』→My Birthdayの前が抜け落ちてる?--> また、1970年代の[[オカルトブーム]]は、1980年代に[[ぼくの地球を守って#前世ブームとの関係|前世ブーム]]([[戦士症候群]])となった。少女漫画では1986年に『[[花とゆめ]]』でそれをモチーフとした『[[ぼくの地球を守って]]』([[日渡早紀]]) が登場して人気となり、その後<!--TODO: 連載開始年-->そのフォロワーとして『ウィングス』に『シークエンス』([[みずき健]])が登場した<ref name="otaku-no-hon"/><ref name="imadoki-kamisama"/><ref name="sengo-hyogen"/>。この『シークエンス』によって少女の[[戦士症候群#余波|自殺未遂事件]]が起きている<ref name="otaku-no-hon">『おたくの本(別冊宝島104)』 pp.199-200 宝島社 1989年12月1日 ISBN 978-4796691048</ref><ref name="imadoki-kamisama">『いまどきの神サマ(別冊宝島114)』 pp.165-166 島田裕巳 1990年7月1日 ISBN 978-4796691147</ref><ref name="sengo-hyogen">『戦後まんがの表現空間: 記号的身体の呪縛』 大塚英志 1994年7月10日 ISBN 978-4831872050</ref>。 1977年にはイタリアのホラー映画「[[サスペリア]]」が、1979年にはアメリカのホラー映画「[[ハロウィン (1978年の映画)|ハロウィン]]」が、1981年にはカナダのホラー映画「[[プロムナイト]]」が日本でも上映され、また1977年には日本映画からホラーコメディ映画の「[[ハウス (映画)|ハウス]]」が登場し、ホラービデオでは1986年に[[トロマ・エンターテインメント]]が「[[トロマ・エンターテインメント#主な作品|ホラー・パーティ]]」を出していた。少女漫画や女性漫画では1985年に[[朝日ソノラマ]]が「ホラー・オカルト少女マンガ」誌『[[ハロウィン (雑誌)|ハロウィン]]』を、1986年に[[大陸書房]]が「ホラー少女コミック」誌『ホラーハウス』を<ref name="meiji-kaiki-manga"/>、1986年に[[近代映画社]]が「ファンタスティック&ホラーマンガ」誌『プロムナイト』を<ref name="meiji-kaiki-manga"/>、1987年に[[秋田書店]]が「100%恐怖コミック」誌『[[サスペリアミステリー|サスペリア]]』を<ref name="meiji-kaiki-manga"/>、1988年に[[主婦と生活社]]がホラー誌『ホラーパーティー』を<ref name="meiji-kaiki-manga"/>創刊した。 また1980年代にはミステリー少女小説のブームも起きている。1982年に[[赤川次郎]]の一般小説「[[三姉妹探偵団]]」が登場して1986年にフジテレビで[[三姉妹探偵団#テレビドラマ|テレビドラマ化]]され、少女小説でも1987年に「赤い靴探偵団シリーズ」 が、1988年に「[[放課後シリーズ]]」が登場して人気となった{{sfn|菅聡子 編|2008|pp=120-121}}。少女漫画誌や女性漫画誌ではミステリーと名前の付く漫画誌が多数創刊された<ref name="meiji-kaiki-manga"/>。これには1985年創刊の『ミステリー La comic』(後のラ・コミック)、1986年創刊の『[[JOUR (雑誌)#姉妹誌・増刊誌|ミステリーJour Special]]』、1988年創刊の『[[ミステリーボニータ]]』と『[[白泉社#かつて発行していた主な雑誌|セリエミステリー]]』と『Mystery I』、1989年創刊の『[[BE・LOVE#姉妹誌・増刊誌|BE・LOVE ミステリー]]』と『[[ミステリーサラ|Sakura mystery]]』(後のミステリーサラ)などがあった<ref name="meiji-kaiki-manga">[https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/archives/pdf/event_20180908.pdf 1980年代以降の主要怪奇マンガとその周辺] p.3 粟生こずえ 2018年</ref>。 そのほか、1970年代後半に欧米で[[ニュー・ウェイヴ (音楽)|ニュー・ウェイヴ]]や[[パンク・ロック]]、[[インディー・ロック]]、[[オルタナティヴ・ロック]]などのブームが起きており、1980年代には日本でもインディーズレーベルの「[[ナゴムレコード]]」(1983年)、「[[TRANS RECORDS]]」(1984年)、「[[キャプテンレコード]]」(1985年)などが登場してサブカル誌「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」がそれらを取り上げるようになった。1989年には「[[宝島 (雑誌)|宝島]]」の派生として女性向けファッション誌の「[[CUTiE]]」が登場し、翌1990年にはそこでサブカル系に生きる少女をテーマとした漫画『[[東京ガールズブラボー]]』([[岡崎京子]])が登場した。また、少女漫画誌では1986年に『りぼん』でサブカル系漫画([[ガロ系]])の影響を受けたと言われる[[さくらももこ]]がシュールさの残る『[[ちびまる子ちゃん]]』の連載を開始した<ref>[https://www.cyzo.com/2018/08/post_174044_entry.html さくらももこ、音楽好きで尊敬するマンガ家はガロ系……知られざる”サブカルクィーン”な素顔] サイゾー 2018年8月28日</ref><ref>[https://jp.ign.com/binge-it/44919/feature/ イッキ見しよう!優れた低年齢向けアニメにひそむ“毒”『アドベンチャー・タイム』はカルトなクリエイティビティに裏打ちされた作品だ] IGN Japan 2020年7月6日</ref><ref>[https://book.asahi.com/article/11782376 追悼・さくらももこさん ほのぼのした日常のシュールにくぎづけになった「ちびまる子ちゃん」] 朝日新聞 2018年9月1日</ref>。 また、少年漫画にも[[高橋留美子]]を皮切りに女性漫画家が進出、少女漫画の読者層であった少女たちも[[少年漫画]]や[[青年漫画]]を読むことが一般的になっていった。1986年には[[青年漫画]]誌「[[ビッグコミックスピリッツ]]」と「[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]」が週刊誌化され<ref name="jiji-s62-p261">『時事年鑑 昭和六十二年』 p.261 時事新報社 1987年</ref>、青年漫画が大きく成長したことによって、[[くじらいいく子]]や[[山下和美]]や[[岡野玲子]]のように青年漫画を手がける女性少女漫画作家<!--Note: 男性作家の立原あゆみや弓月光を除外-->も登場した。これらによって少女漫画の手法や少女漫画的なテーマが少年漫画や青年漫画の世界にも広く普及することになった。 === 個性と癒やしの時代 ===<!--TODO: 花より男子/ピーチガール、彼氏彼女の事情、おジャ魔女、リアリティ番組/あいのり、アンチエイジング(2006流行語候補)と[[美魔女]]--> 1980年代後半に不動産バブルによる[[バブル景気]]が起きたことで、その対策として1990年に土地関連融資の[[総量規制]]が行われたが、[[バブル崩壊]]が発生し、1990年代は[[平成不況]]が続くこととなった。節約ブームが起こり<ref name="setsuyaku"/>、[[100円ショップ]]が成長し<ref name="setsuyaku">[https://toyokeizai.net/articles/-/256110 平成30年間を「節約の歴史」で振り返ってみた 主婦雑誌に携わり続けてきた著者が分析] 東洋経済 2018年12月25日</ref>、のちに[[失われた10年]]といわれる低迷した過渡期に入る。会社ではリストラや[[非正規雇用]]が拡大し、社縁が薄くなっていく。世帯収入の減少と共に[[共働き]]世帯が増えて[[専業主婦]]世帯の数を上回り<ref>[https://www.cao.go.jp/zei-cho/content/20150806_27zen14kai3.pdf 説明資料 経済社会の構造変化 ~人口構造、家族の変化~] p.16 財務省 2015年7月17日</ref>、[[カギっ子]]は一般的となった。1980年代に始まった[[ゆとり教育]]では1989年の[[学習指導要領]]改訂によって「個性重視の原則」が導入され<ref>『「若者」とは誰か アイデンティティの30年【増補新版】』 浅野智彦 2015年12月14日 ISBN 978-4309624884</ref>、また[[新聞]]では同じ頃より{{仮リンク|自分探し|en|Self-discovery}}という言葉が登場して<ref name="withnews-jibun-sagashi">[https://withnews.jp/article/f0190325001qq000000000000000W06910801qq000018851A 「自分探し」増えるのは1994年頃から] 朝日新聞 2019年3月25日</ref>{{efn2|新聞以外ではそれ以前より使われていた。}}、1994年頃よりその言葉の使用が増え始めた<ref name="withnews-jibun-sagashi"/>ほか、[[マイブーム]]という言葉も登場し、1997年にはその言葉が流行語となる<ref>[https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00014 「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞 第14回 1997年 授賞語] 自由国民社</ref>。 また1990年代には「[[テトリス]]」や「[[ぷよぷよ]]」などの[[落ち物パズル]]のブームなどによって少女にもゲーム機が普及し、少女漫画のゲーム化や少女漫画誌でのゲームコミカライズが行われるようになり、少女漫画でもファンタジー物が流行していった。 1990年代後半には[[Windows 95]]の登場によって[[インターネット]]が普及していき、2000年代には[[e-Japan]]構想によって学校教育にインターネットが取り入れられるようになり、[[携帯電話]]のインターネット料金定額化([[パケット定額制]])が行われ、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]](SNS)が普及し、インターネット上での繋がりが増していった。<!--世界的にも、[[東欧革命]]に次ぐ[[ソビエト連邦|ソ連]]の崩壊、その後の金融市場の発展と、日本では歴史問題などの世界観の転換があり、後半は授業崩壊など青少年問題の質の変化が語られるようになる。少女漫画では心の問題を描く傾向がさらに顕著になり、また自ら行動を起こす主人公像が求められるようになった。1990年代後半以降は、若年層の人口減少と読者の嗜好の多様化に伴い、少女向けの枠で捉えにくい雑誌も増えたことで、少女漫画や少女漫画誌の発行部数は減少の傾向にある。--> 1990年代には[[戦闘美少女|バトルヒロイン]]物の少女漫画が流行した。1980年代の美少女ブームの影響を受けて1989年より特撮の[[東映不思議コメディーシリーズ]]でも[[東映不思議コメディーシリーズ#美少女シリーズ|美少女シリーズ]]が開始され、その中の一つ「[[美少女仮面ポワトリン]]」の影響を受けて、少女漫画からも『[[美少女戦士セーラームーン]]』([[武内直子]])が登場し、アニメ化され大ヒットした。このヒットによって、ギャグ漫画の『[[赤ずきんチャチャ]]』([[彩花みん]])もバトルヒロイン物としてアニメ化されることとなったほか、1990年代後半の魔法少女物のメディアミックス『[[カードキャプターさくら]]』([[CLAMP]])や『[[スーパードール★リカちゃん]]』(漫画版は[[征海未亜]])も魔法バトルが中心となっていた。その後の「[[プリキュアシリーズ]]」以降はアニメ原作のコミカライズが少女漫画誌に連載されるようになっている。 また中華モチーフの少女漫画も複数登場した。1970年代に[[日中国交正常化]]と[[香港映画]]のブームが起き、1980年代に赤い人民服風の衣装を着た[[イエロー・マジック・オーケストラ]] (YMO) が流行し<!--TODO: Dr.スランプの影響も?-->、中国雑貨の人気が上昇していき<ref>『朝日ジャーナル Vol.28 No.32-35』 朝日新聞社 1986年</ref><ref>[http://www.peopleschina.com/chinafocus/202102/t20210224_800237072.html PART2 心が和む中国のレトロ雑貨] 人民中国 2021年2月24日</ref>、1987年には「[[週刊少年サンデー]]」から高橋留美子の「[[らんま1/2]]」が登場して1989年から1992年に渡りアニメ化され女性にも人気となっていたほか、1994年には[[Dr.コパ]]が火付け役となってインテリアを中心に[[風水]]ブームが起きていた<ref>[https://kotobank.jp/word/Dr.%E3%82%B3%E3%83%91-1701993 Dr.コパ] コトバンク</ref><ref>『朝日年鑑〈1995〉』 p.340 朝日新聞社 1995年3月1日 ISBN 978-4022200952</ref>。そのため1990年代には少年漫画{{efn2|「[[中華一番!]]」([[小川悦司]])、「[[封神演義 (漫画)|封神演義]]」([[藤崎竜]])、「[[まもって守護月天!]]」([[桜野みねね]])など}}だけでなく少女漫画からも中華モチーフの『[[ふしぎ遊戯]]』([[渡瀬悠宇]]、1992年-)や風水バトルの『[[Dr.リンにきいてみて!]]』([[あらいきよこ]]、1999年-)が登場してアニメ化された。 1990年代中盤に[[ヒーリング]]を含む[[スピリチュアリティ#日本のスピリチュアル・ブーム|スピリチュアル・ブーム]]が起き、また同時期には[[癒し系アイドル]]も人気となり<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/21045/full/ “癒し系”から“なごみ系”へ―安めぐみ人気加速中] オリコン 2006年5月11日</ref>、1997年には[[アロマテラピー|アロマ]]などの癒し商品も人気となり{{sfn|樫原叔子|2007|p=168}}、1999年には癒し系キャラの「[[たれぱんだ]]」も人気となった{{sfn|樫原叔子|2007|p=176}}。少女漫画では1998年に心の傷を癒やすことをテーマとした『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』([[高屋奈月]])が登場して人気となり、2001年にアニメ化されている<ref>[https://www.pashplus.jp/anime/114075/ 『フルーツバスケット』新TVアニメ化を機に振り返ってみた。傷ついた心をほどく少女と”十二支の物の怪憑き”の一族の物語に涙] PASH! PLUS 2018年11月20日</ref>。また[[オウム真理教]]による[[地下鉄サリン事件]]で一度廃れた「[[守護霊]]」も2005年より[[江原啓之]]らが看板のテレビ番組「[[国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉|オーラの泉]]」によって再興され<ref>[https://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5077 「死後の世界」(1) 現代日本のトレンドと報道] 宗教情報センター 2014年8月9日</ref>、少女漫画では2006年に『[[しゅごキャラ!]]』([[PEACH-PIT]])が登場して2007年にアニメ化されている。<!--TODO: 癒し系とゆるふわ系?--> その他、1990年代には[[小動物]]ブームも起きていた。児童漫画誌連載の「[[ハムスターの研究レポート]]」([[大雪師走]]){{efn2|後に少女漫画誌に移籍}}によってハムスターブームが起き<ref>『新訂現代日本人名録2002 1 あ〜かと』 pp.1494-1495 日外アソシエーツ 2002年 ISBN 978-4816916953</ref>、1994年には『[[なかよし]]』にハムスターが人間となる『[[さくらんぼねむり姫]]』([[片岡みちる]])が登場し{{sfn|長谷邦夫|1995|p=135}}<ref>[https://mangapedia.com/%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%93%E3%81%BC%E3%81%AD%E3%82%80%E3%82%8A%E5%A7%AB-pijctxbng さくらんぼねむり姫] マンガペディア</ref>、1997年には学年誌から「[[とっとこハム太郎]]」([[河井リツ子]])が登場して『[[ちゃお]]』にも掲載され、2000年には『なかよし』にゲーム原作の『[[どこでもハムスター]]』([[猫部ねこ]])が登場した。また1996年には携帯型育成ゲーム機「[[たまごっち]]」シリーズが登場して人気となり、1997年より『なかよし』にて『てんしっちのたまごっち』(かなしろにゃんこ)が連載されたほか、1997年にはゲーム「[[ポケットモンスター]]」のアニメ版が始まって大人気となり、同年より『[[ちゃお]]』にて『[[ポケットモンスター PiPiPi★アドベンチャー]]』([[月梨野ゆみ]]) が連載された。2000代前半には『[[ちゃお]]』に妖精が主役の『[[ミルモでポン!]]』([[篠塚ひろむ]])が連載されてアニメ化され低学年の人気を得た<ref>『現代用語の基礎知識 2003』 自由国民社 2003年 ISBN 978-4426101213</ref>ほか、宇宙人が主役の『[[ぱにょぱにょデ・ジ・キャラット]]』([[紺野比奈子|ひな。]])も連載れていた。『なかよし』もこの頃に宇宙人が主役の『[[どーなつプリン]]』([[猫部ねこ]])や、[[ジン (アラブ)|ジン]]が主役の『[[よばれてとびでて!アクビちゃん]]』([[上北ふたご]])を連載している。2009年にはサンリオの[[ジュエルペット]]がアニメ化されて人気となり、その後[[ジュエルペット#雑誌連載|『ちゃお』や『ぷっちぐみ』や学年誌でコミカライズ]]された。 [[百合 (ジャンル)|百合]]のブームも起きている。1990年代の『美少女戦士セーラームーン』の同人漫画では「やおい漫画」の延長として女性同士の同性愛ものが多く登場していた<ref>『日本学報 29号』 大阪大学 2010年3月</ref>。1998年、少女小説誌「[[Cobalt (雑誌)|Cobalt]]」において現代の[[エス (文化)|エス]]小説とでも言うべき「[[マリア様がみてる]]」が登場し人気となり、2003年より『マーガレット』で漫画化され(漫画:長沢智)、2004年にアニメ化された。2003年には「男子禁制」を謳う百合漫画誌『[[百合姉妹]]』([[マガジン・マガジン]])が登場し、2005年にはその実質的後継誌として『[[コミック百合姫]]』([[一迅社]])が誕生している。一方、百合要素のあるスポーツ物では1997年のアニメに「[[バトルアスリーテス大運動会]]」が存在していたが、少女漫画でも2004年に『ちゃお』でギャグ物の『[[スパーク!!ララナギはりけ〜ん]]』([[もりちかこ]])が登場している。 また1990年代の少女漫画の夕方アニメ化ブームではそれが男性にも影響を与えており、少女漫画では2005年に『[[ChuChu]]』でアニメオタクの義兄をテーマとした『[[アニコン]]』([[やぶうち優]])が登場している。また、2000年代にはバラエティ番組「[[学校へ行こう! (バラエティー番組)|学校へ行こう!]]」の「みのりかわ乙女団」に登場した「乙女系男子」という言葉も流行し<ref>『[[創 (雑誌)|創]] 2005年6月号』 創出版 2005年</ref><ref name="asahi-otomen">『朝日新聞(夕刊) 2007年4月11日号』内「乙女チックな男」 朝日新聞社 2007年4月11日</ref>、少女漫画では2006年に『[[別冊花とゆめ]]』で『[[オトメン(乙男)]]』([[菅野文]])が登場して<ref name="asahi-otomen"/>2009年にドラマ化され、同年に「オトメン」が流行語となった<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0911/13/news033.html 「家電芸人」「草食男子」「カツマー」――流行語大賞候補語発表] ITmedia 2009年11月13日</ref>。また[[メイド喫茶]]の流行と共に「[[萌え]]」が一般人へも広がって2005年に流行語となり<ref>[https://web.archive.org/web/20060129101049fw_/http://www.jiyu.co.jp/singo/nendo/2005.html 「現代用語の基礎知識」 選 2005 ユーキャン新語・流行語大賞] 2005年</ref>、少女漫画では少年にメイド服を着せた作品が登場した。2006年には『[[LaLa]]』でメイド喫茶などを舞台とした『[[会長はメイド様!]]』([[藤原ヒロ]])が(2010年にアニメ化)、2008年には『[[B's-LOG COMIC]]』で擬似家族物の『[[少年メイド]]』([[乙橘]])が登場し(2016年にアニメ化)、同2008年には『なかよし』でも萌え少年をテーマとした『[[萌えキュン!]]』([[桃雪琴梨]])が、2009年には『ちゃお』でも『[[メイドじゃないもん!]]』([[いわおかめめ]])が登場している。 またゲーム会社「[[エニックス]]」によりファンタジー物を中心とする少年漫画誌「[[月刊少年ガンガン]]」(1991年)及びその派生誌「[[月刊Gファンタジー]]」(1993年)が登場し{{efn2|なお、同時期には集英社もゲーム中心の少年雑誌「[[Vジャンプ]]」(1993年)を開始している。}}、1999年にはその派生として少女漫画誌『[[月刊ステンシル]]』が登場した。その後、2001年に[[エニックスお家騒動]]が起きるとエニックス社員の一部が独立して新会社「[[マッグガーデン]]」を立ち上げ、一部の連載漫画もマッグガーデンの新雑誌「[[月刊コミックブレイド]]」へと移籍されることとなった。少女漫画では『月刊ステンシル』に連載されていたヒーリング漫画『[[ARIA (漫画)|AQUA]]』([[天野こずえ]])が移籍されて『[[ARIA (漫画)|ARIA]]』となり、2005年にアニメ化されて人気となった。 平成のスイーツブームも起きている。80年代後半のバブル期の[[フランス料理]]疲れに次ぐイタ飯([[イタリア料理]])ブームから[[デザート]]の[[ティラミス]]が登場し<ref>[https://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/yajirobe/4558 「イタめし」「ティラミスブーム」とは何だったのか?バブル時代に爆発的な流行を巻き起こした舞台裏] ぐるなび 2018年5月23日</ref>、平成のスイーツブームが始まった<ref>[https://nendai-ryuukou.com/article/121.html スイーツ(デザート)ブーム変遷/年代流行] 年代流行</ref><ref name="aa-sweets">[https://allabout.co.jp/gm/gc/479160/ 「平成」のスイーツブームから紐解く時代背景と今後] All About 2019年04月29日</ref>。また、1993年開始の[[フジテレビ]]のバラエティ番組「[[料理の鉄人]]」によって[[パティシエ]]が注目となっていた<ref name="aa-sweets"/>。少女漫画からは2008年に『[[夢色パティシエール]]』([[松本夏実]])が登場し、その後アニメ化されている。 1990年代には[[ローティーン]]向けファッションの流行も起きた。1980年代後半より[[ローティーン]]向け[[ファッション雑誌]]「[[ピチレモン]]」が登場し、次いで登場した[[ナルミヤ・インターナショナル]]の子供服ブランド「[[mezzo piano (ファッション)|mezzo piano]]」や「[[エンジェルブルー]]」が人気となり、1990年代にはハナコジュニア世代を中心に幼い頃からファッションに興味を持つ少女が増えていった<ref name="hanako-junior">[https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1544148586201/ アラサー、ハナコジュニア世代が「女子度が高い」理由は、不況が原因!?] Excite 2018年12月13日</ref>。この世代は状況に見合った格好をしつつもリボンやレースなどの女性的なものを好んでいるとされる<ref name="hanako-junior"/>。しかしながら少女漫画誌でこれら子供服ブランドとのタイアップ漫画が行われたのは[[2000年代]]に入ってからであった。[[ちゃお]]は2002年より[[mezzo piano (ファッション)|mezzo piano]]とのタイアップ漫画『[[シンデレラコレクション]]』([[今井康絵]]、2002年 - 2004年)を、[[なかよし]]は2007年より[[エンジェルブルー]]との[[タイアップ]]漫画『[[夢みるエンジェルブルー]]』([[白沢まりも]]・2007年 - 2009年)を連載した。しかしながら、[[エンジェルブルー]]ブランドは2010年に休止となった。 1977年より男児向け食玩シールの「[[ビックリマン]]」が登場してブームとなり男児の間で「シール交換」が人気となっていった<ref>『「くちコミ」の研究―個性化社会のヒット現象を解く』 森俊範 1987年10月1日 ISBN 978-4569221373</ref>が、ビックリマンは女児も収集を行っていたとされる<ref name="hisokaniatsume">[https://web.archive.org/web/20100723211540/http://career.cobs.jp/level1/yoko/2010/07/post_656.html 子どものころに、ひそかに集めていたものは? 女性編] マイコミ 2010年7月17日</ref>。少女漫画では1991年より『ぴょんぴょん』でビックリマンを基にした『[[愛の戦士ヘッドロココ]]』([[藤井みどり]])が連載されている{{efn2|同誌休刊後はちゃおに移籍}}。また一般的なシールの交換も行われており<ref name="hisokaniatsume"/>、コレクションするためのシール帳も人気となっていった<ref>『CHINTAI 2017年10月号』 p.46 [[CHINTAI]] 2017年</ref>。 1995年に[[自撮り]]マシンの[[プリント倶楽部]](プリクラ)が登場すると若者においてプリクラ交換をコミュニケーションに使う[[ギャル#コギャル・アムラー|コギャル]]が登場し、コギャルを取り上げる新興ファッション誌「[[egg (雑誌)|egg]]」も登場してコギャルの流行が拡大していった。一方、テレビ東京の番組「ボディボディ」では「不思議ちゃんの世界」のコーナーで[[天然ボケ#類義語|不思議ちゃん]]を紹介しており<ref>『週刊文春 37(26)(1839);1995・7・6』 p.153 文芸春秋 1995年7月</ref>、不思議ちゃんも話題となっていった。少女漫画では同年の『りぼん』にコギャルと不思議ちゃんの対比を行う『[[ご近所物語]]』([[矢沢あい]])が登場して<ref>{{Cite journal|和書|author=杉本章吾 |date=2014-03 |url=https://hdl.handle.net/2241/121214 |title=矢沢あい「ご近所物語」における若年女性のセグメント化と「少女」の再構築 |journal=文藝言語研究. 文藝篇 |ISSN=03877523 |publisher=筑波大学大学院人文社会科学研究科 文芸・言語専攻 |volume=65 |pages=37-66 |hdl=2241/121214 |naid=120005411489 |CRID=1050282677524629248}} p.54 より</ref>人気となった{{sfn|樫原叔子|2007|p=165}}。その後も現実の若者ファッションやカルチャーに連動した子供向け漫画として、1998年に『[[りぼん]]』で[[ギャル#白ギャル|白ギャル]]モチーフの『[[GALS!]]』([[藤井みほな]])が<ref>[https://wezz-y.com/archives/40992 全くブレない自己信頼感こそが、渋谷ギャルのカリスマたるゆえん/藤井みほな『GALS!』] サイゾー 2017年2月3日</ref>、2009年に『[[ちゃお]]』で[[ギャル#姫ロリ|姫ギャル]]モチーフの『[[姫ギャル♥パラダイス]]』([[和央明]])が、2014年に『[[ちゃお]]』で原宿系モチーフの『[[てぃんくるコレクション|てぃんくる☆コレクション]]』([[和央明]])が登場している。 また、1980年代後半から1990年代前半にかけて第3次[[ディスコ]]ブームが起こっており、便利屋男「[[アッシーくん]]」や彼氏候補「[[アッシーくん#キープくん|キープくん]]」と共に[[ボディコン]]ファッションが注目となっていた。女性漫画誌『[[Judy]]』では1990年代初頭<!--TODO: 1991年?-->に『ボディコン刑事』([[井上恵美子 (漫画家)|井上恵美子]])が登場し、少女漫画誌『りぼん』では1993年に『スパイシー☆ガール』([[藤井みほな]])が登場した。また1990年代には[[スーパーモデル]]が世界的ブームとなり<ref>[https://www.wwdjapan.com/s/506501/archive1990s.html 話題はスーパーモデルからクリエイティブ・ディレクターへ] WWD Japan</ref>、1994年には『りぼん』でモデル物の『[[パッション・ガールズ|パッション♡ガールズ]]』([[藤井みほな]])が登場した<ref>[https://more.hpplus.jp/entame/culture/42851/ イケてる女子から目が離せない☆『パッション・ガールズ』【本当はラブラブ!?ケンカップル❤︎オススメ少女マンガ】] 集英社 2018年11月2日</ref>。その後、[[ハイティーン]]向けファッションでは1990年代末から[[2000年代]]初頭にかけて「[[CUTiE]]」派生の『[[CUTiE Comic]]』、「[[Zipper]]」派生の『[[Zipper comic]]』など[[#ファッション誌派生漫画誌|ファッション誌派生の少女漫画誌]]が登場した<ref name="namba-fashion"/>もののこれらは短期間で終了し、連載されていた漫画は[[ヤング・レディース|ヤングレディース]]誌に吸収されている。また1990年代後半には[[フジテレビ]]の本社移転に伴って[[お台場]]が有名となり、前述の『GALS!』でもお台場が登場し、また『なかよし』でも2001年に連載として『[[ODAIBAラブサバイバル]]』(原作:[[小林深雪]]、漫画:[[白沢まりも]])が登場した。<!--TODO: 六本木の何か?--> [[アイドル]]では、1990年代後半に[[バラエティ番組]]出身のユニット「[[ポケットビスケッツ]]」が小学生に人気となって社会現象となっていた<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/research/articles/189061/ 【ポケットビスケッツ】人気No.1を決めよう! ポケビのシングルで一番好きなのは?【人気投票実施中】] [[ITmedia]]、2021年5月9日</ref><ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1469176773921/ 「企画モノ」として異例の人気を誇ったポケットビスケッツ 200万枚もの署名が集まったことも!] [[エキサイト]]、2016年7月24日</ref><!--TODO: 篠原ともえ、慎吾ママ?-->。次いで2000年代には「[[ミニモニ。]]」「[[ピポ☆エンジェルズ]]」などの子供向けアイドルが登場し、女児向け[[アーケードゲーム]]では2000年代半ばに「[[オシャレ魔女♥ラブandベリー]]」を初めとするコーデバトルものが登場して流行となり、2001年より[[e-kara]]などの[[カラオケ]]玩具の登場およびタイアップもあって<ref name="ekara-and-pitch">[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20030522/toy113.htm あの「e-kara」がゲーム機に進化!? タカラ 「e-pitch マイクスターターセット」] GAME Watch 2003年5月22日</ref>、女児向けの少女漫画では女性アイドルものの[[メディアミックス]]のオリジナル作品やコミカライズ作品が増えていった。これらの代表的なものには『[[ミニモニ。#コミック|ミニモニ。やるのだぴょん!]]』([[もりちかこ]])、『[[ぴちぴちピッチ]]』<ref name="ekara-and-pitch"/>([[花森ぴんく]])、『[[きらりん☆レボリューション]]』([[中原杏]])、『[[プリティーシリーズ#漫画|プリティーシリーズ]]』、『[[アイカツ!#漫画|アイカツ!]]』シリーズがある。 2000年代には[[那須博之]]が「モーニング娘。」起用による『[[美少女戦士セーラームーン]]』のドラマ化を構想し<ref>『特撮仕事人 : 特撮監督佛田洋の世界 : 仮面ライダー、スーパー戦隊シリーズの特撮監督が明かす、撮影の裏側』 2012年6月 佛田洋、鶯谷五郎 ISBN 978-4123903424</ref>、その構想は実現しなかったものの2003年に[[美少女戦士セーラームーン (テレビドラマ)|美少女戦士セーラームーンのテレビドラマ化]]が行われ、それを皮切りに2005年には過去の名作に当たる『[[アタックNO.1]]』の[[アタックNo.1#テレビドラマ|テレビドラマ化]]および『[[花より男子]]』の[[花より男子#テレビドラマ(日本版)|テレビドラマ化]]が行われ、2007年には『[[ちびまる子ちゃん]]』の[[まるまるちびまる子ちゃん|テレビドラマ化]]も行われている。<!--特にその中の『花より男子』は商業的に大ヒットし、ドラマ化で単行本の売り上げが急増したことで少女漫画では最も原作単行本が売れた漫画となった。このメディアミックス化の成功により、『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』・『[[Sho-Comi|Sho-comi]]』・『[[花とゆめ]]』・『[[LaLa]]』など従来は中高生以上の[[ティーンエイジャー|ティーンエイジャー層]]とされていた雑誌の年齢層が[[プレティーン|プレティーン層]]に当たる[[小学校]][[高学年]]まで低下し、『[[ちゃお]]』を読まなくなった読者を取り込むようになった。 TODO: 出典?雑誌は部数が減ってる--> また2000年代には[[電撃文庫]]などの[[ライトノベル]]ブームが起きており<ref name="shojoshosetsu-p2">[https://wezz-y.com/archives/51381/2 そろそろ、「少女小説」について語り始めよう/『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』著者・嵯峨景子インタビュー p.2] サイゾー 2018年1月5日</ref>、2005年には『LaLa』で『[[しにがみのバラッド。]]』のコミカライズが行われたほか、2006年には電撃文庫の女性向け作品『[[リリアとトレイズ]]』のコミカライズが中心のガールズコミック誌『[[シルフ (雑誌)|comic SYLPH]]』(後の『[[シルフ (雑誌)|シルフ]]』)も登場した。また2000年代後半には[[動画共有サービス|動画投稿サイト]]「[[ニコニコ動画]]」が人気となり、2006年にヒロインが「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶ」ことを目指す<ref>『ハルヒ in USA』 p.48 2010年7月9日 三原龍太郎 ISBN 978-4757142473</ref>ライトノベル「[[涼宮ハルヒの憂鬱]]」が深夜アニメ化された際は動画投稿サイト上でハルヒダンスが流行し<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20100219-nico_guide/ もう一度見ておきたい『涼宮ハルヒの憂鬱』の名作ニコニコ動画集!] マイナビ 2010年2月19日</ref>、2007年に[[ボーカロイド]]「[[初音ミク]]」が登場した際は動画投稿サイト上でボカロソングが流行となった。2010年代には[[VOCALOID|ボカロ]]ソングを基にした商業ボカロ小説が登場し10代の少女に人気となっていった<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20160229-00054909 女子中学生はなぜ修学旅行でPHP研究所を訪れるのか 映画『桜ノ雨』公開記念インタビュー] Yahoo Japan 2016年2月29日</ref>。少女漫画では2010年代にボーカロイド中心の少女コミック誌『[[ミルフィ]]』が創刊された<ref>[https://www.itmedia.co.jp/ebook/articles/1310/28/news053.html 新感覚デジタルコミック『ミルフィ』創刊号「VOL.1」、配信開始] ITmedia 2013年10月28日</ref>ほか、女性向け少年漫画誌の「[[月刊コミックジーン]]」でもボカロ小説のコミカライズが行われていた。旧来の少女漫画誌でも『ミラクル♪ミク』([[琴慈]])や『ミライチューン』(染川ゆかり)などのボーカロイド漫画が登場している。しかしながら、その後ネット文化がPC中心から[[スマートフォン]]中心へと移行したことによってボカロ小説のブームは収束していった<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/iidaichishi/20200929-00200640 ボカロ小説の第二の波 ヨルシカ、YOASOBI、カンザキイオリ] Yahoo Japan 2020年9月29日</ref>。 中高生向けの音楽では、[[ミュージック・ビデオ]]の普及と共に、[[宝塚歌劇団]]を参考にした「昔の少女漫画」のような耽美派バンド「[[MALICE MIZER]]」などの[[ヴィジュアル系]]バンドが登場し<ref>『ヴィジュアル系の時代ロック・化粧・ジェンダー』 p.189 井上貴子、森川卓夫、室田尚子、小泉恭子 2003年7月9日</ref>、それにより[[コスプレ#1990年代での発展|ヴィジュアル系バンドのコスプレ]]<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1457920168573/ 東京・原宿の「橋」といえば…ヴィジュアル系ファンの“聖地”だった] エキサイト 2016年3月19日</ref>やヴィジュアル系バンドの同人「やおい」漫画が流行した<ref>『ヴィジュアル系の時代ロック・化粧・ジェンダー』 p.164 井上貴子、森川卓夫、室田尚子、小泉恭子 2003年7月9日</ref>。耽美派雑誌『JUNE』の発行元[[マガジン・マガジン]]も『JUNE』的なムック本である『[[MALICE MIZER#BOOK|MALICE MIZER 耽美実験革命]]』を出版している<ref>『ヴィジュアル系の時代ロック・化粧・ジェンダー』 p.185 井上貴子、森川卓夫、室田尚子、小泉恭子 2003年7月9日</ref>。また少女漫画でもヴィジュアル系の人気を受けて『[[快感・フレーズ]]』([[新條まゆ]])や『[[NANA]]』([[矢沢あい]])が登場し、どちらもテレビアニメ化されている。一方、インターネットでは中学2年生ごろに発生する思春期特有のひねくれを意味する「[[中二病]]」という言葉が広まっていき<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85-689483 中二病] コトバンク</ref>、ヴィジュアル系も一過性の中二病の一つとして解釈されるようになっていった<ref>[https://withnews.jp/article/f0190411002qq000000000000000W08u10101qq000018978A 覚えてる?世紀末の「V系ブーム」思春期の「病み」に寄り添う世界観] 朝日新聞 2019年4月11日</ref>。 その後、音楽物では少女漫画誌との関連の薄い部活学園物の[[深夜アニメ]]が人気となっていった。2009年に部活ガールズバンド物の[[4コマ漫画#萌え4コマ|萌え4コマ]]「[[けいおん!]]」がアニメ化された際には女子高生にバンドブームや制服ブームが起こり<ref>[https://web.archive.org/web/20120215025257/https://kakaku.com/tv/channel=4/programID=25660/episodeID=543914/ 「ZIP!」 2012年2月10日(金)放送内容] ワイヤーアクション/価格.com</ref><ref>[https://www.j-cast.com/2009/05/26041872.html 高校生に「制服」ブーム 「けいおん!」の影響も?] J-CAST 2009年5月26日</ref>、2013年に美少女スクールアイドルもののメディアミックス「[[ラブライブ!]]」がアニメ化された際もその女性人気が高まることとなった<ref>[https://mantan-web.jp/article/20150501dog00m200012000c.html ラブライブ!:“仮想アイドル”人気の理由は?] まんたんウェブ 2015年5月5日</ref>。少女漫画の中高生の音楽物では2013年に男女混合バンドの『[[覆面系ノイズ]]』([[福山リョウコ]])が登場した(2017年にアニメ化)。また、動画投稿サイトにおいて歌い手や踊り手の動画が流行し、2014年には踊り手漫画の『バディゴ!』([[黒崎みのり]])が登場した(2016年に一部がアニメ化<ref>[https://natalie.mu/comic/news/182090 青春ダンスもの「バディゴ!」下田麻美と岡本信彦でアニメ化、おはスタで放送] ナタリー 2016年4月2日</ref>)。 また、1990年前後には[[OL]]のオジン化([[ギャル#1990年代 -|オヤジギャル]])が指摘されており{{efn2|またその逆のオジンのギャル化(ギャルオヤジ)も指摘されていた}}<ref>『日本民間放送年鑑 '90』 日本民間放送連盟 1990年11月</ref><ref>『90年代のニューオーダー―新しい価値とスタイルの提言』 ニューウェーブ研究会 1991年4月1日 ISBN 978-4885539176</ref><ref>『若者文化人類学―異人としての若者論』 中野収 1991年7月1日 ISBN 978-4487752768</ref>、ドラマでもオヤジギャルが主役の「[[キモチいい恋したい!]]」が登場し、[[週刊誌]]「[[SPA!]]」連載の漫画にもオヤジギャルを題材とする「スイートスポット」([[中尊寺ゆつこ]])が登場した。この頃には[[OL]]向け4コマ誌『[[まんがハイム]]』([[徳間書店|徳間オリオン]])および『[[まんがタイムスペシャル]]』([[芳文社]])が登場している<ref>『出版指標年報 1994』 全国出版協会 1994年4月</ref>{{efn2|専門誌以前も4コマ誌には「はりきりさよちゃん」([[窪田まり子]])や「ナオミだもん」([[こだま学]])などのOL主人公物は存在した。}}。<!--TODO: 少女漫画への影響--> 一方、1994年前後には漫画をあまり取り扱わない出版社による漫画誌への参入も目立っており<ref name="bungeinenkan-1995"/><ref name="asahinenkan-1995-p396"/>、これら漫画誌は上の世代の著名漫画家を揃えていたもののどれも失敗に終わっている<ref name="bungeinenkan-1995"/><ref name="asahinenkan-1995-p396"/>。例えば少女漫画誌以外では[[マガジンハウス]]の「COMICアレ!」や[[文芸春秋]]の「コミック'94」や[[NHK出版]]の「[[コミックムウ]]」が、少女漫画誌では[[ソニー・マガジンズ]]の『[[きみとぼく (雑誌)|きみとぼく]]』が登場した<ref name="bungeinenkan-1995">『文芸年鑑』 新潮社 1995年</ref><ref name="asahinenkan-1995-p396">『朝日年鑑〈1995〉』 p.396 朝日新聞社 1995年3月1日 ISBN 978-4022200952</ref>。 また1990年代には携帯電話が登場してそのマナーが問題となっていき<ref>[https://irdb.nii.ac.jp/00835/0002062888 携帯の考現学] 塚崎勇宜 2011年 {{ISSN|13457640}}</ref>、2000年には公共広告機構(現[[ACジャパン]])のCMによってマナーを守らない人を意味する「ジコチュー」([[自己中心性|自己中]])が流行語となった<ref>[https://www.jiyu.co.jp/singo/index.php?eid=00017 「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞 - 第17回 2000年 授賞語] 自由国民社</ref>。少女漫画では2002年に『デザート』で『自己chuラヴァーズ』(いしだ絵里)が登場した。2006年には乙女ゲームの『[[ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Kiss]]』で「セカンドキスシステム」(通称「事故チュー」)が搭載され<ref>[https://dengekionline.com/data/news/2006/5/12/eb5028cdb11f273198844d622a48a02c.html 「事故チュー」などドキドキの新要素も!8月3日に『ときめきGirl’sSide2ndKiss』発売] 電撃オンライン 2006年5月12日</ref><ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/20060512/gs2.htm コナミデジタルエンタテインメント、「ときめきメモリアル Girl's Side 2nd Kiss」 “事故チュー”システムなど搭載して8月3日発売] Impress 2006年5月12日</ref>、またいつからかより<!--TODO: 2010年にツイッター上で登場した[[診断メーカー]]で用語が広まった?出典を探す。-->少女漫画でも事故的なキスに「事故チュー」という語が使われるようになっていった{{efn2|『[[アオハライド]]』6巻(2012年)、『[[松本かおり|初恋ロリポップ]]』1巻(2014年)、『[[かるき春|さかさまクランベリー]]』2巻(2015年)など}}。<!--TODO: ジコチュー児と[[学級崩壊]]?「きみとぼく」を中心とした「[[世界系]]」?俺様男?--> また1990年代には[[買い物依存症]]も話題となった。1992年には翻訳書「[[斎藤学 (精神科医)#翻訳|買い物しすぎる女たち]]」が登場し、1998年にはテレビドラマから「[[私の中の誰か~買い物依存症の女たち~]]」が登場<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%A7%81%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E8%AA%B0%E3%81%8B%20%E8%B2%B7%E3%81%84%E7%89%A9%E4%BE%9D%E5%AD%98%E7%97%87%E3%81%AE%E5%A5%B3%E3%81%9F%E3%81%A1-748429 私の中の誰か 買い物依存症の女たち] コトバンク</ref>、同1998年には週刊誌「[[週刊文春]]」にも[[中村うさぎ]]のエッセイ「ショッピングの女王」が登場した<!--週刊文春 40(18)(1979);1998・5・14-->(漫画化はファミリー4コマ誌「[[まんがライフ]]」)。また1995年にはコギャルの[[シャネル]]・[[グッチ]]・[[プラダ]]好きも話題となっていた{{sfn|樫原叔子|2007|p=160}}。ヤング・レディース誌『Kiss』では2005年に買い物中毒OLを主人公とした『[[東京アリス (稚野鳥子の漫画)|東京アリス]]』([[稚野鳥子]])が登場した<ref>[https://www.tvlife.jp/entame/136452 山本美月、トリンドル玲奈らが恋愛相談にアドバイス『東京アリス』完成披露] TV LIFE 2017年8月25日</ref><ref>[https://eiga.com/news/20170722/2/ 山本美月「東京アリス」ドラマ化に主演!オタク気質な役で「共通点が多い」] 映画.com 2017年7月22日</ref>。 また1999年代末からは「カリスマ美容師ブーム」が起きた<ref name="charisma-oricon">[https://www.oricon.co.jp/special/53312/ 年間1億円を売り上げる美容師・MAYUMI 60歳を目前にしても日本一の理由とは?] ORICON 2019年7月14日</ref><ref name="charisma-shigo"/>。テレビからは1999年に美容師対決番組「[[シザーズリーグ]]」が<ref name="charisma-oricon"/><ref name="charisma-shigo"/>、2000年に美容師との恋愛物のテレビドラマ「[[ビューティフルライフ]]」が登場し<ref name="charisma-oricon"/>、同2000年には少年漫画から美容師物の「[[シザーズ (漫画)|シザーズ]]」が登場し、少女漫画でも2003年に『ちゃお』で美容師物の『[[ビューティー・ポップ]]』([[あらいきよこ]])が登場した。また、「カリスマ美容師ブーム」に乗じて「カリスマ店員」や「カリスマホスト」も話題となっていき<ref name="charisma-shigo">死語研究会『死語大辞典』 pp.184-185 [[彩図社]] 2008年12月24日 ISBN 978-4883926626</ref>、同じく1999年代末には[[ホストクラブ]]での男買いも人気となった<!--TODO: 出典:『夢幻の街 歌舞伎町ホストクラブの50年』?未確認-->。女性漫画誌「[[YOU (雑誌)|YOU]]」に連載された「[[ごくせん]]」では文化祭でホストクラブをする話が登場し、少女漫画でも2002年に『LaLa』で『[[桜蘭高校ホスト部]]』([[葉鳥ビスコ]])が登場した(2006年にアニメ化)。 女性向けゲームでは1994年に「[[アンジェリークシリーズ]]」が、2000年に「[[遙かなる時空の中でシリーズ]]」が登場し、『[[月刊Asuka]]』や『[[LaLa]]』などのファンタジーに強い少女漫画誌でコミカライズされるようになった。2002年、女性向けゲーム誌「[[B's-LOG]]」が登場し、2005年にはその派生としてゲームコミカライズが中心のガールズコミック誌『[[B's-LOG COMIC]]』が誕生した。2006年、ケータイ小説提供会社の「[[ボルテージ (企業)|ボルテージ]]」が女性向けモバイルゲームへと参入して「リアル系乙女ゲーム」として人気となり<ref>[https://japan.cnet.com/article/20386225/ ケータイで女性がハマる「リアル系乙女ゲーム」とは何か] CNET Japan 2009年1月14日</ref>、少女漫画では『B's-LOG COMIC』でその中の一つ『恋人はNo.1ホスト』が漫画化されている(漫画は[[ヤマダサクラコ]])。2010年代には乙女ゲームから『[[うたの☆プリンスさまっ♪]]』などの男性アイドルを育成するものが登場し、また、女児向けの女性アイドル物からも派生として『[[KING OF PRISM by PrettyRhythm]]』などの男性アイドルものが登場し、それらは少女漫画誌でコミカライズされるようになっている。 また、1980年代後半には[[レディースコミック]]に過激な性描写が増えて人気となり<ref name="youkai"/>、その雑誌に広告を出す形で{{sfn|大塚英志 編|1991|p=264}}[[テレフォンクラブ]]が広まっていった<ref name="youkai">山下悦子、森岡正博、中村桂子、平野恭子、河野信子、小林亜子、小玉美意子『女と男の時空―日本女性史再考〈6〉溶解する女と男21世紀の時代へ向けて 現代』 [[藤原書店]] 1996年7月1日 ISBN 978-4894340435</ref>。その後、[[バブル崩壊]]による家計収入の減少<ref>『Numero TOKYO 2020年10月号』 p.86 2020年8月27日 {{ASIN|B08FCJWSZB}}</ref>と共に若年層にも[[援助交際]]が浸透し、1990年代半ばには10代向けの性漫画である[[ティーンズラブ]] (TL漫画) 雑誌が登場、「[[少女コミック]]」などの少女漫画誌でもそれらに引きずられる形で性描写が増加していった。2006年には歌手の[[倖田來未]]によって「エロカッコイイ」「エロカワイイ」が流行語となった<ref>[https://web.archive.org/web/20061203045541/http://www.jiyu.co.jp/singo/nominate2006.html 現代用語の基礎知識 選 2006 ユーキャン新語・流行語大賞 候補語] ユーキャン</ref>。 また[[携帯電話]]の普及によって2000年代中盤には[[ケータイ小説]]がブームとなり<ref name="shojoshosetsu-p2"/>、2007年には[[双葉社]]によってケータイ小説サイト「[[魔法のiらんど]]」のコミカライズ雑誌『[[JOUR (雑誌)#姉妹誌・増刊誌|COMIC魔法のiらんど]]』が創刊された<ref>[https://hon.jp/news/1.0/0/870 魔法のiらんどと双葉社、「月刊COMIC 魔法のiらんど」を創刊] HON.jp 2007年1月11日</ref>。しかしながらケータイ小説サイトは[[スマートフォン]]の登場によって下火となっていったとされる<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1707/18/news029.html あれから10年、「ケータイ小説」が急速に廃れた理由とは? 現役女子高生に『恋空』を読んでもらった] ITmedia 2017年7月18日</ref>。2011年、角川系の[[アスキー・メディアワークス]]は「[[魔法のiらんど]]」の運営会社を買収して吸収し<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/558/558485/ 魔法のiらんどがアスキー・メディアワークスと合併] ASCII 2010年9月30日</ref>、アスキー・メディアワークスは独自コミカライズレーベル『魔法のiらんどCOMICS』を立ち上げた。一方、旧来の少女小説レーベル「[[コバルト文庫]]」([[集英社]])も2010年に増刊としてコミカライズ雑誌『Comic Cobalt』を立ち上げた<ref>[https://natalie.mu/comic/news/36905 コバルト文庫のマンガ増刊に、あさぎり夕×モンデンアキコ] ナタリー 2010年8月30日</ref>ものの成功せずに終わっている。 一方、2000年代には純愛ブームも起きている。2000年代前半には恋愛小説およびその実写化で「[[世界の中心で、愛をさけぶ]]」(セカチュー)や「[[いま、会いにゆきます]]」(イマアイ)のような純愛物が流行し<ref name="junai">[http://www2.scc.u-tokai.ac.jp/www3/kiyou/japanese/2006vol3_3/abstract/takahashi.html 純愛物語論 ─伊藤左千夫『野菊の墓』を中心に─] 高橋与四男 2006年</ref>、前者は『プチコミック』で[[世界の中心で、愛をさけぶ#漫画『世界の中心で、愛をさけぶ』|漫画化]]され(画は[[一井かずみ]])、後者は女性誌「[[女性セブン]]」で[[いま、会いにゆきます#漫画|漫画化]]された(画は[[川島彩]])。少女漫画では2003年より『Betsucomi』に純愛物の『[[砂時計 (漫画)|砂時計]]』([[芦原妃名子]])が登場し<ref>[https://natalie.mu/music/news/5150 いきものがかりが映画「砂時計」の主題歌を書き下ろし] ナタリー 2008年1月25日</ref>、セカチュー及びイマアイの実写化を行った[[TBSテレビ]]は2007年に昼帯のテレビドラマ(昼ドラ)でも「純愛で勝負する」としてその『[[砂時計 (漫画)|砂時計]]』の[[砂時計 (漫画)#テレビドラマ版|昼ドラ化]]を行っている<ref>[https://web.archive.org/web/20070627045543/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/television/42074/ TBS系「砂時計」 異例ずくめ、純愛ドラマ] IZA 2007年3月6月</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20070303152324/http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070221-159937.html 美山加恋ら主演でTBS純愛昼ドラ] 日刊スポーツ 2007年2月21日</ref>。 2000年代後半には別冊マーガレット連載の『[[君に届け]]』([[椎名軽穂]])や『[[ストロボ・エッジ]]』([[咲坂伊緒]])などのピュアストーリー物が人気となった(前者は[[君に届け#テレビアニメ|2009年にアニメ化]])。2010年代には[[ボーカロイド]]界隈から「スキキライ」や「[[告白実行委員会〜恋愛シリーズ〜]]」などの青春系ソングの人気クリエイターユニット「[[HoneyWorks]]」が生まれ<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/49821/ 「キュンキュンする」「可愛すぎ」 女子中高生に人気の“ハニワ”とは?] オリコン 2017年2月18日</ref>、人間のボーカルを迎い入れた後{{efn2|CHiCO with HoneyWorks}}もその楽曲の小説化が続いていった(通称:ハニワ小説)。一方、別冊マーガレットでも「青春に乗る」を意味する『[[アオハライド]]』([[咲坂伊緒]])が登場して人気となり、アニメ化の際にはHoneyWorksがその主題歌を務めている。また、実写映画でも青春モノの「キラキラ映画」が流行し少女漫画の実写映画化が活発となったものの、2010年代末には過剰供給となって衰退していった<ref>[https://news.yahoo.co.jp/byline/saitohiroaki/20190627-00129964 ブーム去り、ことごとく失敗の「キラキラ映画」 次に来る恋愛映画は?] Yahoo Japan 2019年6月27日</ref><ref>[https://realsound.jp/movie/2020/08/post-608181.html 『ふりふら』が示した、2020年代“キラキラ映画”の行方 青春はもはやファンタジー?] Real Sound 2020年8月27日</ref>。 また、1987年より始まった恋愛バラエティ番組「[[ねるとん紅鯨団]]」によって全国で[[カップリングパーティー|お見合いパーティ]]が開かれるようになっており<ref name="damens">[https://jisin.jp/entertainment/interview/1967551/ 倉田真由美『ねるとん』で恋愛テク磨くも“だめんず”に苦労] 女性自身 2021年4月4日</ref>、そのパーティーで多くのダメ男と遭遇した漫画家の[[倉田真由美]]は2000年よりその経験を活かして漫画「[[だめんず・うぉ〜か〜]]」を週刊誌「[[SPA!]]」に連載し<ref name="damens"/>、それが[[だめんず・うぉ〜か〜#テレビドラマ|2002年と2006年にドラマ化]]された。『[[プチコミック]]』でも2015年より[[ダメンズ]]物の『[[深夜のダメ恋図鑑]]』([[尾崎衣良]])が連載された([[深夜のダメ恋図鑑#テレビドラマ|2018年ドラマ化]])。 オカルトでは2006年よりブログにおいて「[[都市伝説]]」の用語の使用が増加し<ref>[https://atmarkit.itmedia.co.jp/news/200707/18/kizasi.html ブログで都市伝説が増加!?] ITmedia 2007年7月18日</ref>、2007年にはテレビ番組から「[[やりすぎ都市伝説]]」が登場した。同2007年にはオリジナルテレビアニメから電脳空間と都市伝説をテーマにした『[[電脳コイル]]』も登場し、ちゃおで少女漫画化された(作者は[[久世みずき]])。また、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス]] (SNS) の普及と共に社会的要素の強い[[ソーシャルゲーム]]が広まっていき、2009年には海外の[[マフィア]]抗争ソーシャルゲーム「Mafia Wars」を元にした国産ソーシャルゲーム「[[怪盗ロワイヤル]]」が登場して人気となり<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1202/08/news120.html 誰でも「なんとかロワイヤル」が作れちゃう? ソーシャルゲーム開発エンジン「ソクゲー」が話題に] ITmedia 2012年2月8日</ref>、[[怪盗ロワイヤル#漫画|『Cookie』で少女漫画化]]されている(作者は[[菅野紗由]])。2011年には児童文庫にソーシャル型デスゲーム物の「[[オンライン!]]」が登場して人気となり<ref name="davinci-deathgame">[https://ddnavi.com/review/964048/a/ 根強い人気を誇る児童文庫『オンライン!』がもたらす、「読書のジャンル的連続性」] ダ・ヴィンチ 2022年4月3日</ref>、その後も児童文庫ではデスゲーム物が定番となっていった<ref name="davinci-deathgame"/>が、少女漫画でも2012年に『なかよし』でデスゲーム物の『[[出口ゼロ]]』([[瀬田ハルヒ]])が登場している<ref>[https://natalie.mu/comic/news/119138 なかよしでデスゲーム!「出口ゼロ」に大人が注目する理由] ナタリー 2014年6月17日</ref><ref>[https://mediaarts-db.bunka.go.jp/id/C331781 出口ゼロ - メディア芸術データベース] [[文化庁]]</ref>。 テレビドラマでは、2014年にダブル[[不倫]]ものの「[[昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜]]」が注目され「昼顔妻」という言葉が流行した。一方、 ヤング・レディース漫画のダブル不倫物『[[あなたのことはそれほど]]』([[いくえみ綾]])も2017年にドラマ化されたものの、コンセプトの違いから昼顔ほどは人気とならなかったとされる<ref>[https://biz-journal.jp/2017/05/post_19192.html 『あなたのことはそれほど』が『昼顔』ほど支持されない理由…「心より体」の不倫に疑問] Business Journal 2017年5月23日</ref>。 また2004年〜2005年には男女雇用機会均等法の第一世代において自分一人だけで贅沢をするという「おひとりさまブーム」が起き<ref name="ohitorisama-3rd">[https://style.nikkei.com/article/DGXMZO91164810R30C15A8000000/ 第3次おひとりさまブーム 「私の時間が必要」は9割] 日経BP 2015年9月10日</ref>、2005年には「おひとりさま」が「2005年ユーキャン[[新語・流行語大賞]]」の候補として選出された<ref>[https://web.archive.org/web/20051229013150fw_/http://www.jiyu.co.jp/singo/nominate2005.html 現代用語の基礎知識 選 2005 ユーキャン新語・流行語大賞 候補語] ユーキャン 2005年</ref>。しかしながらその後「おひとりさま」という言葉が広がっていく過程で、贅沢以外でも一人で過ごすことが人気となっていったとされる<ref name="ohitorisama-3rd"/>。少女漫画では2006年に『Kiss』の増刊として『[[Beth]]』が創刊され、そこで『[[おひとり様物語]]』([[谷川史子]])が登場した(『Beth』休刊後は『Kiss』へと移籍)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E3%81%8A%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E6%A7%98%E7%89%A9%E8%AA%9E-699891 おひとり様物語] コトバンク</ref>ほか、『Sho-comi』の編集長によれば2012年〜2013年ごろより若い作家の手によって「ぼっち好き」のヒロインが増えていったとされる<ref>[https://alu.jp/article/xkvImx80AnBTtRaTvKAE 少女マンガのヒロインは尽くし系から、嫌われ者に? 主人公の変化──ヒット連発のマンガ編集者に聞く] アル 2020年10月1日</ref>。 その他、生涯未婚率の上昇に伴い、結婚の是非を問うヤングレディース漫画も登場した<ref name="mikon">[https://president.jp/articles/-/22778 「逃げ恥」族は本当に結婚を焦っていない「どうするのかは場合による」] プレシデント 2017年8月9日</ref>。2011年にテレビドラマ「[[家政婦のミタ]]」がヒットして家政婦が注目されるようになり、2012年にはヤング・レディース誌『[[Kiss (雑誌)|Kiss]]』において契約結婚により家政婦となる『[[逃げるは恥だが役に立つ]]』([[海野つなみ]])が登場して人気となった。2014年には同誌で行き遅れ物の『[[東京タラレバ娘]]』([[東村アキコ]])が登場して人気となり、両作品はドラマ化されていった<ref name="mikon"/>。その他、家政夫物も人気となった。2016年にテレビドラマから女装家政夫物の「[[家政夫のミタゾノ]]」が登場し、同年に電子書籍サイト「[[コミックシーモア]]」の女性向けコミック誌『[[コミックシーモア#オリジナルレーベル|恋するソワレ]]』から家政夫物の『[[家政夫のナギサさん]]』が登場した(2020年にドラマ化)。<!--TODO: サバサバ女とBLファン?: https://www.fnn.jp/articles/-/204758--> また、少女漫画や女性漫画のWebコミックサイトも登場した。ヤングレディース誌『FEEL YOUNG』の公式Webサイト(FC Web→フィーヤンネット)では多数の[[FEEL YOUNG#Web漫画|Web連載]]が行われるようになり『[[ラブリー!]]』([[桜沢エリカ]])などがそのサイトに移籍されたほか、2006年に開始された講談社の無料Web漫画サイト「[[MiChao!]]」<ref>[https://www.value-press.com/pressrelease/6288 講談社 無料Webコミック「MiChao!(ミチャオ!)http://michao.ne.jp/」 グランドオープンから2週間で、100万PVを突破!] valuepress 2006年5月23日</ref>では女性向けコーナー<!--「for WOMANS」-->が設けられ『[[最終戦争シリーズ]]』([[山田ミネコ]])の最新作が「MiChao!」で連載されるようになった。2009年には少女向け漫画誌『[[ウィングス (雑誌)|ウィングス]]』の派生としてWebコミックサイト『WEBウィングス』も開始された<ref>[https://natalie.mu/comic/news/20521 ウィングス、今度は隔月誌に。ウェブマガジンもスタート] コミックナタリー 2009年8月28日</ref>。2013年には集英社の電子少女漫画アプリ『マーガレットBOOKストア!』(後の『コミックりぼマガ』<ref>[https://web.archive.org/web/20220702201552/https://play.google.com/store/apps/details?id=com.access_company.android.shmg_store コミック りぼマガ 恋愛・少女マンガの漫画アプリ (2022年7月時点のキャッシュ)] Google</ref>)が登場し<ref name="mbookstore"/>、そのアプリ内では新作の提供を行う『マーガレットchannel』(後の『デジタルマーガレット』<ref>[https://natalie.mu/comic/news/271755 マーガレットchannelがリニューアルで“デジマ”に、筒井旭の新連載などスタート] ナタリー 2018年3月1日</ref>)も設けられた<ref name="mbookstore">[https://natalie.mu/comic/news/93599 「マーガレットBOOKストア!」開設、小村あゆみ新作も] ナタリー 2013年6月25日</ref>。その後も漫画誌派生のWebコミックサイトは多数登場している。 === 少年漫画誌の少女漫画受け入れ === [[スクウェア・エニックス]]の[[少年ガンガン]]系列の少年漫画誌では元々女性作者が多く、女性作者で女主人公の恋愛要素のある少年漫画も存在していた{{efn2|「[[里見☆八犬伝]]」([[よしむらなつき]]・1997年-)、「[[常習盗賊改め方 ひなぎく見参!]]」([[桜野みねね]]・1998年-)など}}が、Web漫画が商業化される時代になると女性作家のWeb恋愛漫画も少年漫画として商業化するようになった{{efn2|「[[ホリミヤ]]」([[HERO (漫画家)|HERO]]・ 2007年-)など}}。この姿勢はWeb小説のコミカライズが流行した以降も継続している{{efn2|「[[薬屋のひとりごと]]」([[ねこクラゲ]]・2017年-)など}}。 また集英社も2015年より『[[花より男子]]』([[神尾葉子]])の続編『[[花のち晴れ〜花男 Next Season〜]]』([[神尾葉子]])を少年漫画誌派生のWebサイト「[[少年ジャンプ+]]」で連載するようになり([[花のち晴れ〜花男 Next Season〜#テレビドラマ|2018年ドラマ化]])、小学館でも[[少年サンデー]]系列のWeb雑誌「[[裏サンデー]]」(アプリ版は[[マンガワン]])の派生として2016年に『裏サンデー女子部』を登場させている<ref>[https://comic.pixiv.net/magazines/179 裏サンデー女子部] pixiv</ref>。講談社も2017年より[[別冊少年マガジン]]に女性作家の女主人公の恋愛物である「[[荒ぶる季節の乙女どもよ。]]」(原作:[[岡田麿里]]、作画:絵本奈央)を載せたり、ガールズコミック誌『[[ARIA (雑誌)|ARIA]]』廃刊後の2018年より乙女ゲームのコミカライズ作品『[[遙かなる時空の中で6#漫画|遙かなる時空の中で6]]』([[水野十子]])を[[少年マガジンエッジ]]へと移籍させたり<ref>[https://natalie.mu/comic/news/291374 「遙かなる時空の中で6」&「架刑のアリス」マガジンエッジで移籍連載開始] ナタリー 2018年7月17日</ref>など、少年漫画誌で男性向け女性向けにこだわらない姿勢を取るようになってきている。白泉社も2017年に少女漫画と青年漫画を同居させたアプリの「[[マンガPark]]」を配信した。 [[21世紀]]の[[インターネット]]普及時代に入って、雑誌や媒体のさらなる多様化と時代の思考の変化などもあり、かつて男性向けとは異なる媒体と手法を持ち、女性漫画の別名であり中心だった少女漫画は、2020年代現在では多くの隣接分野との境界の薄い、漫画界の連続的な一領域と化している。 === 推しの時代 ===<!--TODO: ミステリと言う勿れ→ミステリーブームの一部として解釈する?メディア化が増えるの待つ。ケータイ小説系(noicomiとりぼんスペシャル)--> {{更新|date=2021年8月 |section=1}} 2010年代後半より[[マニュアル#人に対する取扱説明書|人に対するトリセツ本]]が多数出版されるようになり、女児向け教育本でも「女の子のトリセツ」「女の子のトリセツ トキメキdays」(ミラクルガールズ委員会)<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/53736/ 増える児童向け“トリセツ本”、現代の女子小学生が抱える1番の悩みは「人間関係」] オリコン 2019年10月16日</ref>、「かわいいのルール」「こころのルール」(はぴふるガール編集部・漫画:[[双葉陽]])などが登場し人気となっていった<ref>[https://gendai.media/articles/-/82193 ご飯のよそい方から自分を好きになる方法まで…“キラキラ系”子ども向け実用書『ハピかわ』が大人気のワケ] 現代ビジネス 2021年4月24日</ref><ref>[https://ddnavi.com/review/742394/a/ 小学生女子に教えたいマナー・おしゃれ・人間関係…今『ハピかわ』が小学生女子とその保護者に大人気のワケ] ダ・ヴィンチニュース 2021年2月25日</ref>。少女漫画誌からも2020年に『[[JSのトリセツ]]』(雨玉さき)が登場している。 一方、動画サイトでは元々[[YouTuber]]が流行となっており、動画投稿者は小学生の憧れの職業となっていた<ref name="postseven-youtuber">[https://www.news-postseven.com/archives/20180617_697987.html?DETAIL YouTubeで人気者になりたがる子供にどう対応すべきか?] NEWSポストセブン 2018年6月17日</ref>。また子供YouTuberも「[[キッズライン|キッズライン♡Kids Line]]」のこうくんねみちゃんや「[[HIMAWARIちゃんねる]]」のまーちゃんおーちゃんなどが登場し人気となっていった<ref>[https://biz-journal.jp/2020/08/post_173594.html キッズライン、登録者購入疑惑に「全て提訴」と怒り…本当に“ヒカキン以上”か、分析続々] ビジネスジャーナル 2020年8月12日</ref><ref>[https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20210501_5.pdf 調査研究ノート 幼児のコンテンツ視聴の実態を把握する新たな試み~ 2020年6月WEB幼児視聴率調査から~] NHK放送文化研究所 2021年5月1日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20210507041713/https://www.minpo.jp/news/moredetail/2021050586206 福島の家族ユーチューバー「HIMAWARIちゃんねる」チャンネル登録者数260万人] 福島民報 2021年5月5日</ref>。少女漫画では2018年にメディアミックスから動画配信をモチーフとした『[[キラッとプリ☆チャン]]』が登場し<ref name="postseven-youtuber"/>、[[キラッとプリ☆チャン#コミック|『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズ]]されている(ちゃお版は[[辻永ひつじ]]、ぷっちぐみ版は[[菊田みちよ]])。 またダンスブームも起きている。2016年にはドラマ版「[[逃げるは恥だが役に立つ]]」のエンディングに使われた「[[恋 (星野源の曲)|恋]]ダンス」がYouTubeで流行し<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/151447 「逃げ恥ロス」でも恋ダンスが残り続ける理由] 東洋経済 2016年12月27日</ref>、2017年にはショートムービー投稿サイト「[[TikTok]]」が日本にも上陸してダンスのショートムービーがブームとなった<ref>[https://signal.diamond.jp/articles/-/901 日本上陸から4年、TikTokに起きた変化──ユーザーの平均年齢が34歳に上がった背景を“中の人”に聞く] [[ダイヤモンド社]] 2021年10月15日</ref>。少女漫画では2020年に『ちゃお』でダンス物の『夜からはじまる私たち』(ときわ藍)が登場したほか、2022年には子供向け実写ドラマでも「ガールズ×戦士シリーズ」の後継としてダンス物の『[[リズスタ -Top of Artists!-]]』が登場し、[[リズスタ -Top of Artists!-#漫画|『ちゃお』や『ぷっちぐみ』でコミカライズ]]された(ちゃお版は[[くろだまめた]]、ぷっちぐみ版は[[今井康絵]]・ハラミユウキ)。しかしながらリズスタは[[児童向けドラマ|女児向け特撮]]枠と共に2023年に終了となった。 またTikTokによるダンス人気によって日本の[[ギャル]]文化の影響を受けた女性[[K-POP]]アイドルが人気となり、2021年の『[[ちゃお]]』にはK-POPアイドルを目指す『[[カラフル!]]』([[ときわ藍]])が登場した<ref>[https://natalie.mu/comic/news/430923 ときわ藍の新連載はK-POPアイドルに憧れる少女の物語、Cherry Bulletとのトークも] ナタリー 2021年6月3日</ref>。2022年にはその流れにある「[[ギャルピース]]」のポーズが日本でも逆輸入される形で人気となり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2212/04/news023.html 意外過ぎる小学生の流行語ランキング 3位「ギャルピース」、2位「それな」、1位は?] ITmedia 2022年12月4日</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2305/22/news101.html 「それってあなたの感想ですよね」女児の流行語に 「ちゃお」読者に聞くランキングで上位] ITmedia 2023年5月22日</ref>、小学生にギャルブームが再興し<ref>[https://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/20230185.html 令和ギャルは渋谷にいない!?ギャルブーム再来!平成×令和のギャルマインドを語りまくる!パラパラが逆輸入されて、あの国で大流行中!?] フジテレビ 2023年3月1日</ref>、2023年には小学生ギャル誌「KOGYARU」が登場した<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/61959 「令和の小学生ギャルは学業に力を入れている子が多い」モデルの平均年齢は9歳…“小学生ギャル“メディアのプロデューサーが語る、令和のギャル事情]</ref>。少女漫画では2022年に『[[ちゃお]]』でギャル物の『[[イイネ♥👍REIWAギャル★あみるん]]』([[いわおかめめ]])が登場した<ref>[https://natalie.mu/comic/news/507073 まいた菜穂、ちゃおに新作読み切りと「大人はわかってくれない。」の2本立てで登場] ナタリー 2022年12月28日</ref>。 また2016年には[[キズナアイ]]を始めとする[[バーチャルYouTuber]] (VTuber) が誕生して人気となり<ref>[https://www.j-cast.com/2017/12/14316660.html?p=all 「バーチャルYouTuber」ブームの兆し 人気キャラ「キズナアイ」は再生5900万超] J-CAST 2017年12月14日</ref>、2018年にはサンリオからバーチャルタレント「[[SHOW_BY_ROCK!!#Mashumairesh!!|となりの研究生マシマヒメコ]]」が<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000021.000037629.html <サンリオ史上初の“研究生”誕生>お魚抱えた美少女デビュー!バーチャルタレント「となりの研究生マシマヒメコ。」] PR TIMES 2018年12月20日</ref>、2019年にはちゃおから怪談VTuber「[[ちゃお#バーチャルYouTuber|依ノ宮アリサ]]」が登場している<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000502.000013640.html 「朗読系」美少女VTuber誕生! 「ちゃおチャンネル」で怖~いお話しをお届けします] PR TIMES 2019年12月26日</ref>。少女漫画では2020年に『ちゃお』でVTuber物の『[[やぶうち優#連載作品とその派生作品|青のアイリス]]』([[やぶうち優]])が登場して<ref>[https://natalie.mu/comic/news/410706 やぶうち優の新連載はとある秘密を抱えたイケメンJCの物語、ちゃおで開幕] コミックナタリー 2020年12月28日</ref>人気となり<ref>[https://www.fnn.jp/articles/-/357112 子ども向けまんが誌の戦略 ヒット付録にスマホ連携] FNN 2022年5月7日</ref>、2023年にも『ちゃお』でVTuber物の『[[恋するアバターちゃん]]』([[相庭]])が登場した。<!--TODO: ガールズバンドブームと少女漫画?--> 一方、上の世代では「[[推し]]」文化の時代となった<ref>[https://www.bcnretail.com/market/detail/20201201_201813.html Z世代で「恋人いる」は24%、推し文化が相手のハードル上げる?Z総研調べ] BCN+R 2020年12月1日</ref>。「推し」という言葉は元々「[[ハロー!プロジェクト]]」(ハロプロ)の女性アイドルに対して使われていた{{efn2|一方、[[ジャニーズ事務所|ジャニーズ]]の男性アイドルに対しては「担当」という言葉が使われていた。}}<ref>『現代用語の基礎知識2006』 自由国民社 2005年11月4日 ISBN 978-4426101244</ref><ref name="oricon-oshi">[https://www.oricon.co.jp/special/53586/ 現代用語として定着した「推し」 汎用性の高いパワーワードになったワケ] オリコン 2019年9月11日</ref>が、その後、身近を売りにした[[AKB48]]や[[地下アイドル]]のブームで他へと広まっていき<ref name="oricon-oshi"/><ref name="host-and-oshi">[https://withnews.jp/article/f0210601001qq000000000000000W00810701qq000023076A SNSに走るホスト「虚像より素」歌舞伎町から考える「推し」の未来] 朝日新聞社 2021年6月1日</ref>、果てはホストにまで使われるようになった<ref name="host-and-oshi"/>。また、推し活する女性の着ていたファッションが地雷系・量産型として流行した<ref>[https://realsound.jp/tech/2020/06/post-564939.html メイク動画の新潮流「量産型・地雷系」はなぜ人気? 藤田ニコルから峯岸みなみまで、ヒット動画とともに考察] Real Sound 2020年6月8日</ref><ref>[https://realsound.jp/book/2020/10/post-633868_2.html “ゆめかわいい”提示した雑誌「LARME」復刊号の狙いは? 人気インフルエンサー起用などの施策を考察] Real Sound 2020年10月11日</ref><ref>[https://urbanlife.tokyo/post/70615/ インスタ投稿数150万件超! 今なお増え続ける「量産型女子」ファッション、若者に支持される理由とは?] アーバン ライフ メトロ 2021年11月14日</ref>。そんな中で2019年に女性向け漫画として<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/44724?page=4 ホストにハマり、大学をやめ性産業へ…『明日カノ』作者が語った“ホス狂”がここまでリアルなワケ p.4] 文春オンライン 2021年4月23日</ref>『[[明日、私は誰かのカノジョ]]』(をのひなお)が登場し人気となり<ref>[https://web.archive.org/web/20210521202405/https://kakaku.com/tv/channel=4/programID=110561/episodeID=1456059/ 「ゼロイチ」 2021年4月3日(土)放送内容] ワイヤーアクション/価格.com</ref><ref>[https://futaman.futabanet.jp/articles/-/120512?page=1 『明日、私は誰かのカノジョ』に『凪のお暇』ホス狂い、モラハラ、毒親…“リアルな苦しみ”描く現代漫画2選] [[双葉社]] 2021年5月2日</ref>、2022年に深夜ドラマ化された。また、2017年にYouTubeに投げ銭機能「[[スーパーチャット]]」が登場することで推しに直接貢ぐことが可能となり<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20210523_1660431.html?DETAIL SNS「投げ銭で億万長者」も現実に ユーザーがはまる構造とは] NEWSポストセブン 2021年5月23日</ref>、オトナ女子向け漫画では2020年3月にそれをテーマにした『[[ガチ恋粘着獣〜ネット配信者の彼女になりたくて〜]]』(星来)が登場している(2023年[[ガチ恋粘着獣〜ネット配信者の彼女になりたくて〜#テレビドラマ|深夜ドラマ化]])。2020年7月には小説から「[[推し、燃ゆ]]」が登場して中学生以上に人気となっていき<ref name="dokusho-2021">[https://gendai.media/articles/-/90117?page=4 小中高生の間で「ミステリーブーム」が起こっていた…!? 学校読書調査から見える“10代に人気の本” p.4] 講談社 2021年12月12日</ref>、2021年には『花とゆめ』で『多聞くん今どっち!?』([[師走ゆき]])が、2022年には『[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]』で『神推し! イケメンソウ』(川又宙子)、『[[りぼん]]』で『推しと青春しちゃっていーですか!?』([[神田ちな]])と『推しぴ症候群』([[小林ユキ]])、『なかよし』で『キミしか推せない!』([[咲良香那]])、『花とゆめ』で『推しに甘噛み』([[鈴木ジュリエッタ]])、『別冊マーガレット』<!--BABY-->で『推しにガチ恋しちゃったら』([[春江ひかる]])が登場している。 その他、2014年には[[Instagram]]の日本語版が登場し、Instagramでは[[キラキラ女子]]や[[港区民#港区女子|港区女子]]が増えていった。少女漫画では2017年に『デラックスベツコミ』で『港区JK』([[しばの結花]])が登場した<ref>[https://mangapedia.com/%E6%B8%AF%E5%8C%BAJK-snmlhvlg6 港区JK] マンガペディア</ref><ref>[https://www.fujisan.co.jp/product/1281682825/b/1603674/ デラックス Betsucomi (ベツコミ) 2018年2月号 (発売日2017年12月21日)] [[富士山マガジンサービス]]</ref>。また港区女子は[[飲み会]]への参加で謝礼金を貰う[[ギャラ飲み]]を行っていた<ref>[https://joshi-spa.jp/664254 西麻布で小銭を稼ぐキラキラ女子の生態とは?アラサー“西麻布難民”も…] 女子SPA! 2017年3月1日</ref><ref>[https://www.jprime.jp/articles/-/11995 『ギャラ飲み港区女子』発祥はレースクイーン出身NやセレブタレントK] 週刊女性PRIME 2018年3月29日</ref>が、港区女子以外でも食事などの謝礼にお金を貰う[[援助交際#パパ活|パパ活]]がブームとなり<ref>『パパ活女子』 中村淳彦 2021年11月25日 ISBN 978-4344986398</ref>、2017年6月には[[フジテレビ]]系の配信ドラマ「[[パパ活]]」が登場して地上波でも放送され、少女漫画からは『堕欲~パパ活貧困女子~』(桜井美也)が登場した。また裏垢もブームとなり<ref>[https://webtan.impress.co.jp/n/2019/06/05/32874 小・中・高校生の“裏アカ”所有率は3割超、しかし危機意識が低くトラブルは「他人事」【デジタルアーツ調べ】] Impress 2019年6月5日</ref>、少女漫画では『裏アカ破滅記念日』(桜井美也)が登場している。 また、サンリオではテレビアニメ「[[おねがいマイメロディ]]」の悪役として生み出された[[クロミ]]が継続的に人気となっていき<ref>[https://news.prcm.jp/article/236429 テレビアニメ「おねがいマイメロディ」のクロミちゃんが魅力的だと思いませんか?] GMO Media 2020年7月27日</ref>、ディズニーでも2015年ごろよりヴィランズブームを起こしていった<ref>[https://mdpr.jp/disney/detail/1495006 ディズニー、ヴィランズブーム到来の予感 新ショーも開催] モデルプレス 2015年8月30日</ref>。2016年にサンリオと集英社系のWeb漫画サイト「イチゴミン」がリリースされ<ref>[https://news.infoseek.co.jp/article/dreamnews_0000128601/ -サンリオキャラクターのマンガが読める新Webサイト-『イチゴミン』3月15日コミック新連載スタート!!!] Infoseek 2016年3月15日</ref>、そこでクロミを主人公とした「おかしなクロミちゃん」(かのえゆうし)が連載されるようになった<ref>[https://www.facebook.com/sanriojp/posts/1041993252556048/?locale=ja_JP 【イチゴミン おかしなクロミちゃん連載スタート!】] サンリオ 2016年6月9日</ref>ものの、このサイトは2019年に更新停止となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20191230062629/https://comip.jp/15/ イチゴミン(2019年12月時点のキャッシュ)] ホーム社</ref>。その後、前述の地雷系コーデと共にクロミのアイテムが定番となっていき<ref>[https://www.lafary.net/culture/58811/ これであなたも地雷女!地雷女のメイクやコーデ・髪型を徹底研究👩‍🏫💕] Lafary 2021年3月19日</ref>、2023年にはクロミのショートアニメ「[[クロミ#ショートアニメ|KUROMI'S PRETTY JOURNEY]]」も登場した<ref>[https://www.famitsu.com/news/prtimes/202302/14292748.html 完全新作ショートアニメ「KUROMI’S PRETTY JOURNEY」2月17日(金)よりクロミ公式YouTubeチャンネル・TikTokで配信決定] ファミ通 2023年2月14日</ref>。ゲームでは[[Fortnite]]などのバトルロワイヤルゲームや[[IdentityV 第五人格]]など非対称対戦ゲームが流行し<ref>[https://www.gamer.ne.jp/press/1000000127/ 【男女のコロナ禍におけるゲームプレイ実態調査】プレイするジャンルにもジェンダーレスの兆し、女性でもシューティングゲームが人気 ゲームを通して6割が交友関係を構築、そのうち女性の6割が異性の友達ができたと回答] Gamer 2021年8月31日</ref><ref>[https://gamebiz.jp/news/351294 ゲームエイジ総研、『DbDモバイル』と『Identity V』の比較レポートを公開 男女比やDAUの違いが明らかに] gamebiz 2022年6月16日</ref>、2022年にはサンリオからも非対称性対戦ゲームの「ミラクルマッチ」が登場して話題となった<ref>[https://realsound.jp/tech/2022/07/post-1074304.html 話題となった“サンリオ版Dead by Daylight” カジュアル化×コンテンツの組み合わせは多くの人に届く秘訣か] Real Sound 2022年7月12日</ref>。一方、漫画では主人公が魔法少女の敵となって魔法少女と対立するものが数多く登場しており([[魔法少女#2000年以降]]参照)、少女漫画からも2013年に『[[花とゆめ]]』で『[[ブラックハートスター]]』([[中村世子]])が、2017年に『りぼん』で『[[アクロトリップ]]』(佐和田米)が登場し、後者は2024年に[[アクロトリップ#テレビアニメ|アニメ化]]予定となっている。 またヤンキーブームの再興も起きている。2019年に少年漫画「[[鬼滅の刃]]」のアニメ化による少年漫画ブームが起き、2020年に少年漫画「[[呪術廻戦]]」がアニメ化されて人気となり、その後、2021年にヤンキー物の「[[東京卍リベンジャーズ]]」がアニメ化及び実写映画化されて人気となった。その後、ドラマでもWeb漫画原作の恋愛物「[[ヤンキー君と白杖ガール#テレビドラマ|恋です!〜ヤンキー君と白杖ガール〜]]」や少年漫画原作の青春物「[[ナンバMG5#テレビドラマ|ナンバMG5]]」などのヤンキー物が登場し、少女漫画からもヤンキーヒーローの『ひかえめに言っても、これは愛』([[藤もも]])が登場して人気となっている<ref>[https://gendai.media/articles/-/94516 アラフォー男子も激ハマりする「令和の最強少女マンガ」はここがスゴかった…!] 現代ビジネス 2022年4月24日</ref>。 恋愛では少子化の進行により架空の強制結婚制度をテーマとしたものが多数登場した。2017年には架空の「超・少子化対策基本法」をテーマとした少年漫画「[[恋と嘘]]」が少女マンガのような設定に改変された上で[[恋と嘘#実写映画|実写映画化]]され<ref>[https://cinema.ne.jp/article/detail/40485 映画『恋と嘘』の“男女逆転”は成功していた!その理由とは?] cinema PLUS 2017年10月19日</ref>、2018年には架空の「抽選見合い結婚法」をテーマとした長編小説「[[結婚相手は抽選で]]」がテレビドラマ化され<ref>[https://biz-journal.jp/2018/10/post_25263.html フジ『結婚相手は抽選で』がおもしろい…「抽選見合い結婚法」で尊厳を傷つけられる男女の悲喜劇] ビジネスジャーナル 2018年10月27日</ref>、少女漫画からも2020年に架空の「ニート保護法」をテーマとした[[LINEマンガ]]連載の少女漫画『[[マリーミー!]]』([[夕希実久]])がテレビドラマ化されている<ref>[https://natalie.mu/comic/news/394259 法律で結婚させられたニートとエリートの恋物語「マリーミー!」ドラマ化、10月放送] コミックナタリー 2020年8月31日</ref>。また、強制夫婦物の学園物も登場している。2018年には青年漫画から「夫婦実習」をテーマとした「[[夫婦以上、恋人未満。]]」が登場し<ref>[https://natalie.mu/comic/news/305295 接点のない男女が学校の授業で急に疑似夫婦に!「夫婦以上、恋人未満。」1巻] ナタリー 2018年10月26日</ref>(2022年アニメ化)、 2019年には子供向け少女漫画でも「一攫千金婚校」をテーマとした『[[初×婚]]』([[黒崎みのり]])が登場して人気作となった<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2185393/full/ 入学時からカップル寮生活、結婚テーマの漫画『初×婚』5巻発売 りぼんの人気作] オリコン 2021年2月25日</ref>。 一方で、実録を中心にマッチングアプリ物の流行も起きている。2017年にTwitterアカウント「暇な女子大生」が話題となってドラマ化され<ref>[https://diamond.jp/articles/-/123483 エリート男喰い日記「暇な女子大生」がバカ受けする訳] ダイヤモンド・オンライン 2017年4月4日</ref><ref name="maching-batsuichi">[https://bunshun.jp/articles/-/41452 38歳バツイチ独身の私が、婚活目的ではなくマッチングアプリを始めてみた理由と“その結果”] 文春オンライン 2020年11月18日</ref>、2018年には青年漫画から「[[来世ではちゃんとします]]」が、2019年にエッセイ漫画から「[[38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記]]」が登場して、どちらも2020年にドラマ化された<ref>[https://www.excite.co.jp/news/article/E1579015868474/ 内田理央「来世ではちゃんとします」1話。セフレ5人いる女子に驚くか「私のことだ」と共感するか?] エキサイト 2020年1月15日</ref><ref name="maching-batsuichi"/><ref>[https://mdpr.jp/news/detail/2247304 山口紗弥加、マッチングアプリにハマる?“現代型”ラブコメドラマで主演<38歳バツイチ独身女がマッチングアプリをやってみた結果日記>] モデルプレス 2020年10月3日</ref>。Web漫画では2017年に「出会い系サイトで妹と出会う話」がTwitterで10万いいねを超える話題作となり<ref>[https://natalie.mu/comic/news/233782 「出会い系サイトで妹と出会う話」Twitterで反響呼んだ禁断の百合が連載化] ナタリー 2017年5月23日</ref>、少女漫画でも2020年に『ラバーズハイ~親友の彼氏とマッチングしてしまった~』(原作:[[永塚未知流]]、漫画:[[安斎かりん]])が登場している。 マンガアプリでは元々男性向けと女性向けを同居させたものが主流となっていたが、2018年より『[[Palcy]]』(講談社・2018年-)、『マンガMee』(集英社・2018年-)などの女性向けに特化したマンガアプリも配信されるようになった。また[[清涼飲料水]]のテレビCMでは昔より青春物が定番となっていた<ref>『まだある。大百科お菓子編: 今でも買える昭和のロングセラー図鑑』 p.187 初見健一 2008年</ref>が、逆に青春もののコンテンツでも「炭酸感」のあるものが多数登場した。少女漫画では2016年に『りぼん』で『[[ハニーレモンソーダ]]』([[村田真優]])が登場して人気となって2018年には『マンガMee』でもそれが再掲連載されるようになり<ref>[https://twitter.com/manga_mee/status/1060366418477232128 \眩しい彼と甘酸っぱい恋を🍋 #ハニーレモンソーダ /] 集英社 2018年11月8日</ref>、2020年には競合の『[[Palcy]]』からも『微炭酸なぼくら』([[フクシマハルカ]])が登場している<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002658.000001719.html イケメン水泳ボーイズ×️かなづちぼっち女子の青春ラブ!漫画アプリPalcyで新連載スタート!!] 講談社 2020年6月26日</ref>。2021年にはWeb漫画出身の“超微炭酸系”恋愛少年漫画「[[ホリミヤ]]」がアニメ化・ドラマ化・実写映画化され<ref>[https://natalie.mu/comic/news/405806 「ホリミヤ」来年2月に実写映画&TVドラマ化!宮村役は鈴鹿央士、堀役は久保田紗友] ナタリー 2020年11月23日</ref><ref>[https://ddnavi.com/interview/723237/a/ 青春が詰まった“超微炭酸系”コミックは、こうして生まれた──アニメ『ホリミヤ』HERO×萩原ダイスケ原作者対談] アニメ ダ・ヴィンチ 2021年1月9日</ref>、同年にはオリジナルアニメ映画「[[サイダーのように言葉が湧き上がる]]」も上映され、更に同年には前述の少女漫画『[[ハニーレモンソーダ]]』も実写映画化されている。 しかしその一方で、テレビドラマや日本映画では「恋愛離れ」が進んでいるとされる<ref>[https://withnews.jp/article/f0210222004qq000000000000000W0gd10501qq000022571A 「今の時代、恋愛ドラマは難しい」BSフジ亀山社長語る視聴者の変化] 朝日新聞/withnews 2021年2月22日</ref><ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/433095 月9で「戦隊モノ」のようなドラマが量産される訳 - 時代は恋愛よりもヒーロー群像劇を求めている] 東洋経済 2021年6月14日</ref><ref name="kirakira-update">[https://realsound.jp/movie/2022/08/post-1092215.html “キラキラ映画”をアップデート 『モエカレはオレンジ色』に詰まった映画的ダイナミズム] リアルサウンド 2022年8月3日</ref>。少女漫画では長らく恋愛が中心となっていたが、2020年に『りぼん』の編集長はインタビューで「漫画家志望の若者が『自分が描きたいのは恋愛じゃないから、少年漫画に投稿しよう』と考えること。その先入観は払拭したいです。」と述べている<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/19066217/ 恋愛の漫画も、恋愛じゃない漫画も、彩り豊かに。編集長・相田聡一が語る「りぼん」の未来] ライブドアニュース 2020年10月23日</ref>。 なお人気の難病モノには恋愛要素が残っているとされる<ref name="kirakira-update"/>が、難病モノの中では特に盲聾物が人気となっていった。早くは2016年に少年漫画の「[[聲の形]]」が[[映画 聲の形|アニメ映画化]]されて話題となっており、2022年にはオリジナルドラマから「[[silent (テレビドラマ)|silent]]」が登場してコア視聴率(13~49歳の視聴率)で 5% 超え(20人に1人以上)を獲得し<ref>[https://nikkan-spa.jp/1876563/2 秋ドラマ終盤「コア視聴率」BEST10。『silent』のホントの評価は p.2] 日刊SPA 2022年12月15日</ref>、2023年には同じくオリジナルドラマから「[[星降る夜に (テレビドラマ)|星降る夜に]]」も登場した。<!--TODO: 映画「桜色の風が咲く」も?保留-->少女漫画では2019年に『デザート』から『[[ゆびさきと恋々]]』([[森下suu]])が登場して人気となり、2024年にアニメ化される予定となっている<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2285867/ 漫画『ゆびさきと恋々』TVアニメ化、2024年1月放送 PV公開で出演は諸星すみれ・宮崎遊] オリコン 2023年7月5日</ref>。 また、2018年には「[[マンガボックス]]」連載の不倫される側をテーマとしたヤングレディース漫画『[[ホリデイラブ 〜夫婦間恋愛〜]]』([[こやまゆかり]])がテレビドラマ化されて「サレ妻」が流行語となり<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20210725_1677524.html?DETAIL 不倫ドラマ乱立 “してる側”から“される側”へ、テーマが変換] NEWSポストセブン 2021年7月25日</ref>、『マンガMee』でも不倫の代償を描いた『[[サレタガワのブルー]]』(セモトちか)が人気となって2021年にテレビドラマ化された<ref>[https://realsound.jp/book/2020/02/post-498525.html 不倫の代償はこんなに重い……証拠集め、弁護士、慰謝料までリアルに描く『サレタガワのブルー』] Real Sound 2020年2月5日</ref><ref>[https://www.oricon.co.jp/special/56052/ 「寂しくさせたアナタが悪い!」開き直った不倫妻の言い分に困惑 バカにされたサレ夫が怒りの復讐] Oricon ニュース 2021年3月19日</ref>。また同2021年には『マンガMee』が「マンガMeeジャンル大賞」を創設し、「不倫・結婚生活」ジャンルの漫画の募集を開始した<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000229.000011454.html 集英社の女性向けマンガアプリ「マンガMee」がジャンル特化のマンガ賞「マンガMeeジャンル大賞」を創設。今回の募集ジャンルは「ファンタジー」「不倫・結婚生活」「部活・青春」の3つ!] 集英社 2021年4月27日</ref>。 モデルものでは『ちゃお』において専属モデルの[[ちゃおガール]]をテーマにした読み切りが登場しており、2020年に『ミラクルモデルデビュー』として単行本化されている。また子供向けアイドルでは2016年に『ちゃお』が「[[ちゃおガール]]」の中から「[[Ciào Smiles]]」を結成していたものの、メディアミックスは行われず2021年に活動終了となっている。一方、2017年に『ちゃお』や『ぷっちぐみ』から実写ドラマとのメディアミックスの『[[ガールズ×戦士シリーズ]]』が登場し、その俳優から2019年にアイドルユニット『[[Girls²]]』が、2021年にアイドルユニット『[[Lucky²]]』が結成され、『ちゃお』では2020年に「Girls²」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『[[ガル学。]]』(漫画は[[おりとかほり]])が、2022年に「Lucky²」をモチーフとした実写ドラマとのメディアミックス『[[ガル学。#アニメ(第2期)|ガル学。Ⅱ〜Lucky Stars〜]]』(漫画は同左)が登場した。 また2020年前後には夜好性ブームも起きている。「[[ヨルシカ]]」、「[[ずっと真夜中でいいのに。]]」、「[[YOASOBI]]」などの夜好性バンドが登場して人気となっていった<ref>[https://www.billboard-japan.com/special/detail/2954 ヨルシカ、YOASOBI、ずっと真夜中でいいのに。~ネットカルチャー発の次世代型アーティストとは] ビルボードジャパン </ref>ほか、2019年には[[ヒップホップ]]・ユニットの[[Creepy Nuts]]も[[よふかしのうた (アルバム)|よふかしのうた]]をリリースした。少年漫画からは同2019年に「[[よふかしのうた (漫画)|よふかしのうた]]」が登場して2022年にアニメ化され、少女漫画では前述の『夜からはじまる私たち』が登場したほか、2023年にちゃおで YOASOBI の[[幾田りら]]とのコラボまんが『ロマンスの約束』『サークル』(漫画:[[まいた菜穂]])が掲載された<ref>[https://natalie.mu/music/news/515126 元ちゃおっ娘の幾田りら「夢のつかみ方」語る、まいた菜穂が歌の世界観をマンガ化] ナタリー 2023年3月3日</ref>。 その他、音楽ものでは歌劇ものが人気となった。2012年、青年漫画誌「[[ジャンプ改]]」に『[[かげきしょうじょ!!|かげきしょうじょ!]]』([[斉木久美子]])が登場し、同誌休刊後の2015年に少女漫画誌『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』へと移籍して継続したほか、2016年には人気少女漫画『[[学園アリス]]』の続編として『[[花とゆめ]]』に『歌劇の国のアリス』([[樋口橘]])が登場していた。2018年、ブシロードよりメディアミックス「[[少女☆歌劇 レヴュースタァライト]]」が登場して人気となり、2021年には『かげきしょうじょ!!』もアニメ化された。2023年には『[[ちゃお]]』にも読み切りとして[[宝塚音楽学校]]を舞台とする『[[王子は舞台に恋をする ~七海ひろき物語~]]』(原作:[[小出真未]]、漫画:[[ときわ藍]])が登場した。 ホラーでは児童文庫から「[[5分後に意外な結末]]」(学研、2013年-)や「[[5分シリーズ]]」(エブリスタ/[[出書房新社]]、2017年-)のような多数のどんでん返し小説群{{efn2|他にも「[[3分後にゾッとする話]]」(理論社、2018年-)や「ラストで君は「まさか!」と思う」シリーズ(PHP研究所、2017年-)などもある}}が登場して人気となっていき<ref name="dokusho-2021"/>、2022年には[[5分後に意外な結末#テレビドラマ|前者が深夜ドラマ化]]されている。少女漫画では2021年より『ちゃおコミ』で「1話3分シリーズ」の『こわい家、あります。くらやみくんのブラックリスト』が漫画化され(漫画は[[姫野よしかず]])<ref name="ciaocomi-start"/>、2022年には前述の『5分後に意外な結末』が『なかよし』の付録や『Palcy』でコミカライズされ<ref>『なかよし 2022年3月号』 講談社</ref><ref>[https://japan.zdnet.com/release/30662449/ だまされる快感から抜け出せない!コミカライズ版『5分後に意外な結末』がマンガアプリPalcyにて連載開始!] ZDNet Japan 2022年3月18日</ref>、同年より『りぼん』でもオリジナルの『3分後に○○する話』([[武内こずえ]])が連載されるようになった。<!--TODO: 若者がタイムパフォーマンス重視になっており云々--> また、サバサバを自称しながらネチネチしている自称サバサバ女(自サバ女)が注目されるようになった。早くは2011年より週刊誌「[[SPA!]]」で連載された「[[アラサーちゃん]]」に登場しており<ref name="arasa-chan">[https://www.excite.co.jp/news/article/Menscyzo_201405_post_7714/ 「1話に4回のセックスシーン!」 壇蜜主演の『アラサーちゃん 無修正』、放送コードギリギリは必至!?] エキサイト 2014年5月13日</ref>、[[アラサーちゃん#テレビドラマ|2014年にドラマ化]]されている<ref name="arasa-chan"/>。またその後も2019年よりマンガワンで連載の『ブラックガールズトーク』(マキノマキ)<ref>[https://ddnavi.com/review/573147/a/ 「自称サバサバ系女」の泥沼不倫にエリート彼氏の二股疑惑…迷惑人間をぶった斬る共感度抜群の「ブラックガールズトーク」] ダ・ヴィンチニュース 2019年10月18日</ref>、同じく2019年よりツイッター上で連載された<ref>[https://nikkan-spa.jp/1729821 Twitterで22万いいね、漫画「彼氏の周りに湧くウザい女たち」に共感の嵐] 日刊SPA 2021年1月24日</ref>の『彼氏の周りに湧くウザい女たち』(染井ロキ)<ref>[https://thetv.jp/news/detail/1036691/ 【漫画】自称“サバサバ女子”、でも本当はただ口と性格が悪いだけ… 「彼氏の周りに湧くウザい女たち」(2)] [[ザテレビジョン]] 2021年6月15日</ref>、2020年より[[めちゃコミック]]で連載の『[[ワタシってサバサバしてるから]]』(原作:[[とらふぐ]]、漫画:江口心、[[ワタシってサバサバしてるから#テレビドラマ|2023年ドラマ化]])<ref>[https://books.j-cast.com/topics/2021/06/18015377.html 自称サバサバ女のヤバすぎる行動 『ワタシってサバサバしてるから』] J-CAST 2021年6月18日</ref>などが登場した。 またマジョリティから外れたサブカルを好む若者を描いた物も再流行している<ref name="subcul-end"/>。映画からは2021年に「[[花束みたいな恋をした]]」<ref name="subcul-end">[https://www.businessinsider.jp/post-230901 映画『花束みたいな恋をした』26億円突破のヒット。サブカル終焉の時代にみる、20代の生きづらさと経済格差] メディアジーン 2021年3月10日</ref>や「[[明け方の若者たち]]」<ref>[https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/30634 原作者・カツセマサヒコに訊く映画「明け方の若者たち」] タワーレコード 2021年12月27日</ref>が登場し、青年漫画からも同年に「まじめな会社員」が登場した<ref>[https://news.biglobe.ne.jp/trend/0303/fdr_220303_5738770228.html サブカル好き、彼氏いない歴5年、30歳。キラキラした生き方はできないし報われなくても生きていくための「倫理」【冬野梅子『まじめな会社員』】] ビッグローブ 2022年3月3日</ref>。少女漫画では2015年には既に『Kiss』で読み切りとして『[[アレンとドラン]]』([[麻生みこと]])が登場し<ref>[https://natalie.mu/comic/news/158039 「東京アリス」完結!麻生みことがサブカル系女子描く読切も、Kissで] ナタリー 2015年8月25日</ref>、2016年より連載化されている。 また青春とSFを組み合わせたものも再流行した<ref name="anan-sf">『anan (アンアン) 2017年8月9日号 No.2064』 p.43 anan編集部 2017年8月9日</ref>。2012年より[[別冊マーガレット]]で連載され2014年に青年誌に移籍した『[[orange (高野苺の漫画)|orange]]』([[高野苺]])が2015年に実写映画化された後2016年にテレビアニメ化およびアニメ映画化され<ref>[https://mantan-web.jp/article/20220124dog00m200027000c.html orange:須和弘人視線で描く特別編が「月刊アクション」に 高野苺の人気マンガ連載10周年] MANTAN 2022年1月25日</ref>、同2016年にはオリジナルアニメ映画から[[新海誠]]の「[[君の名は。]]」も登場し、どちらもヒットした<ref name="anan-sf"/><ref>『最新コンテンツ業界の動向とカラクリがよくわかる本 第3版』 p.106 中野明 2017年7月29日 ISBN 978-4798051338</ref>。また百合SFもブームとなっており、2018年にはSF誌「SFマガジン」の百合特集が発売前に重版される<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1812/18/news111.html 『SFマガジン』の「百合特集」号 予約殺到で発売前に重版決定 「発送が遅れる場合がある」のアナウンスも] ITmedia 2018年12月18日</ref>などしていた。<!--TODO: 百合姫からは云々。女性向け小説からは云々。-->少女漫画誌からは2022年に超本格SF新連載として『ちゃお』で『2人はS×S』が登場した<ref>[https://web.archive.org/web/20221007004754/https://ciao.shogakukan.co.jp/ciao/new/ 今月のちゃお(2022年10月時点のキャッシュ)] ちゃお編集部</ref>。<!--TODO: 細田守の「時かけ」などにも言及する?「時かけ」とorangeの間を言及する出典を探す。--> [[平成]]以降に始まった作品の本誌でのリバイバルも行われるようになった。早くは2015年に『りぼん』本誌で10年ぶりに「[[めだかの学校 (漫画)|めだかの学校]]」の続編作『めだかの学校 2限目!』が登場した<ref>[https://web.archive.org/web/20141222153544/http://ribon.shueisha.co.jp/data/sensei/mori_intv01.html 森ゆきえ先生のインタビュー] 集英社 2014年12月1日</ref>。2016年には『なかよし』本誌で「[[カードキャプターさくら]]」の続編作『[[カードキャプターさくら#クリアカード編|カードキャプターさくらクリアカード編]]』が登場して2018年よりアニメ化されている。その後も『なかよし』では「[[東京ミュウミュウ]]」の男版『[[東京ミュウミュウ#東京ミュウミュウ オーレ!|東京ミュウミュウ オーレ!]]』や「[[ぴちぴちピッチ]]」の次世代作『ぴちぴちピッチaqua』<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2198844/full/ 漫画『ぴちぴちピッチ』16年ぶり復活 新章が次号『なかよし』で連載開始 アニメ化もされた人気作] オリコン 2021年7月2日</ref>が本誌で連載されるようになった。 また2019年より始まる[[コロナ禍]]での休校および[[GIGAスクール構想]]下でのオンライン授業によって2021年には小学生にもタブレットやパソコンが普及した<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20220511-2343454/ 小中学生のパソコン利用率が約9割に、1年で急増 - ドコモ調査] マイナビ 2022年5月11日</ref>。2020年には各社が休校への支援として一時的に有料コンテンツの無料公開を行い<ref name="corona-shien"/>、少女漫画でも多くの雑誌の無料公開が行われた<ref name="corona-shien">[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2003/01/news023.html 【まとめ】各社の新型コロナ関連支援サービスまとめ 漫画読み放題、学習支援、給食代替など] ITmedia 2020年3月18日</ref>が、その後、子供向けのWeb漫画サイトが登場していった。例えば児童書ポータルサイト「ヨメルバ」では児童文庫レーベル「[[角川つばさ文庫]]」の小説「[[絶体絶命ゲーム]]」や「[[四つ子ぐらし]]」のコミカライズがWeb連載されるようになり<ref>[https://tsubasabunko.jp/blog/editor/entry-9530.html 【コミックが先読みできる!】絶体絶命ゲームがヨメルバで公開中] KADOKAWA 2020年11月13日</ref><ref>[https://yomeruba.com/news/entry-11086.html マンガ「四つ子ぐらし」2月中旬連載スタート!] KADOKAWA 2021年1月10日</ref>、少女漫画誌からも2021年8月に『ちゃお』派生のWeb漫画サイト『[[ちゃお#ちゃおコミ|ちゃおコミ]]』が登場して<ref name="ciaocomi-start">[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001259.000013640.html 「ちゃお」の作品100話が無料で読めるオリジナルサイト 「ちゃおコミ」スタート!!] PR TIMES 2021年8月10日</ref>そこで『ウェディング・デスゲーム』([[春瀬花香]])が連載されるようになった<ref>[https://natalie.mu/comic/news/487028 大好きな人と“命をかけた結婚式”に強制参加「ウェディング・デスゲーム」1・2巻] ナタリー 2022年7月26日</ref><ref>[https://ciao.shogakukan.co.jp/webwork/1450/ ちゃおコミ > ウェディング・デスゲーム] 小学館</ref>。また2022年には『ちゃおコミ』に『ドリームゲーム』([[にしむらともこ]])も登場した。 Web漫画サイトの登場によって昔の作品が再掲載されるようになり、昔の作品の続編がWeb連載されることも増えていった。例えば『りぼん』では「[[GALS!]]」の続編作『[[GALS!!]]』が[[マンガMee]]で連載されており、『ちゃお』では「[[ぷくぷく天然かいらんばん]]」の続編作『ぷくぷく天然かいらんばん おかわり』<ref>[https://twitter.com/ciao_manga/status/1498191502182391813 💫📱#ちゃおコミ 📱💫 2/28(月)の更新作品はコチラ✍🏻②] ちゃお編集部 2022年2月28日</ref>や『真代家こんぷれっくす!』の続編作『続・真代家こんぷれっくす!』<ref>[https://twitter.com/ciao_manga/status/1554361879203643392 💫📱#ちゃおコミ 📱💫8/2(火)の更新作品はコチラ✍🏻③] ちゃお編集部 2022年8月2日</ref>、『[[チャームエンジェル]]』の続編作『チャームエンジェル -星天使編-』<ref>[https://twitter.com/ciao_manga/status/1560824743875739650 💫📱#ちゃおコミ 📱💫8/20(土)の更新作品はコチラ✍🏻④] ちゃお編集部 2022年8月20日</ref>が前述のWeb漫画サイト『ちゃおコミ』で連載されている。 一方でアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスは縮小が続いっていった(ゲーム自体や付録は継続)。2020年6月には『[[アイカツ!|アイカツ!シリーズ]]』の最新作「[[アイカツプラネット!]]」のアニメが終了し、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも2022年6月に終了となった。また『[[プリティーシリーズ]]』の最新作「[[ワッチャプリマジ!]]」のアニメも2022年10月に終了し<ref>[https://mantan-web.jp/article/20221009dog00m200006000c.html プリティーシリーズ:テレビアニメ連続放送 11年半で一旦終了 「ワッチャプリマジ!」最終回に感謝の声続々 ゲームは継続] MANTANWEB 2022年10月9日</ref>、ちゃおで連載されていたそのコミカライズも同時に終了した{{efn2|なおかつてのアイカツシリーズ及びプリティーシリーズは『ちゃお』や『ぷっちぐみ』の他、[[小学館の学年別学習雑誌]]『小学一年生』から『小学四年生』までにも掲載されていた(2017年度以降は『小学一年生』以外は全て休刊)。なおプリティーシリーズの一つ『プリパラ』では、玩具においてより広い、幼児から小学六年生までのターゲット層が設定されていた<ref>『月刊トイジャーナル 2016. 5月号』 トイジャーナル編集局</ref>。}}。新シリーズの「ワッチャプリマジ!スタジオ」ではアニメが放送されず、そのコミカライズも『ちゃお』では無く『ちゃお』増刊の「ワッチャプリマジ!FBスタジオ」での連載となっている。 マスコットでは[[サンエックス]]の「[[すみっコぐらし]]」が流行となっており、キャラクター誌や少女漫画誌でもそれが広く展開されていた。2018年、「ちゃおサマーフェスティバル2018」において[[日本コロムビア]]とサンエックスは新コンテンツ『[[げっし〜ず]]』のゲーム化を発表し<ref>[https://www.4gamer.net/games/431/G043116/20180824047/ ゆる~い癒し系キャラ「げっし~ず」がNintendo Switchでゲーム化。ちゃおサマーフェスティバル2018で早くもプレイアブル出展] 4Gamer.net 2018年8月24日</ref>、同年に『ちゃお』はそのコミカライズを開始した(作者は[[鮎ヒナタ]])。2020年には[[コロナ禍]]の巣ごもり需要によって[[Nintendo Switch]]のゲーム『[[あつまれ どうぶつの森]]』が人気となって流行語となり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2007/08/news131.html 「JC・JK流行語大賞2020年上半期」コトバ部門1位は「◯◯しか勝たん」 アーティストはSNS活用が鍵] ITmedia 2020年7月8日</ref><ref>[https://www.famitsu.com/news/202012/01210471.html 流行語大賞2020、トップテンに『あつ森(あつまれ どうぶつの森)』『鬼滅の刃』などが入選! 年間大賞は“3密”] ファミ通 2020年12月1日</ref>、少女漫画誌では[[あつまれ どうぶつの森#漫画作品|「ちゃお」及び「ぷっちぐみ」がそのゲームの漫画化]]を行った(作者は前者が[[加藤みのり]]、後者が[[かなき詩織]])。また任天堂のゲームシリーズ「[[星のカービィ]]」のコミカライズは長らく「[[月刊コロコロコミック]]」(女児の読者も多かった<ref>第65回学校読書調査 全国学校図書館協議会 2019年</ref>)やキャラクター誌「[[キャラぱふぇ]]」が中心となっていたが、2022年には少女誌『ぷっちぐみ』にも『[[星のカービィ (さくま良子の漫画)|星のカービィ プププなまいにち]]』([[さくま良子]])が、2023年には『ちゃお』にも『星のカービィ』([[加藤みのり]])が登場した。 また[[Twitter]]で連載する個人漫画からは2020年にマスコット漫画「[[ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ|ちいかわ]]」が登場して人気となり、2022年には「[[めざましテレビ]]」内でショートアニメ化されて<ref>[https://screenonline.jp/_ct/17515167 テレビアニメ「ちいかわ」「めざましテレビ」にて4月4日より放送開始] SCREEN ONLINE 2022年2月1日</ref>更に人気が拡大していき<ref name="2023-1h-aa"/>、少女漫画誌の付録にも登場するようになった<ref>[https://nakayosi.kodansha.co.jp/news/20161201329.html 「なかよし」12月号はクリスマススペシャル号!あの“ちいかわ”が付録に登場&特別グラビアも☆表紙は神ヒット中の新婚同居ラブ『新婚だけど片想い』] 講談社 2022年11月2日</ref><ref>[https://natalie.mu/comic/news/519311 「ちいかわ」ボード&ペンのセットがなかよしの付録に、ことわざ&慣用句ポスターも] ナタリー 2023年4月3日</ref><ref>[https://ciao.shogakukan.co.jp/77489/ ちいかわ好き必見! ちゃお編集部イチオシのちいかわグッズをプレゼント♪【ちゃお5月号】] 小学館 2023年4月12日</ref>。また2022年には同作者[[ナガノ (イラストレーター)|ナガノ]]のTwitter初出漫画『くまのむちゃうま日記』がKissレーベルより出版されている<ref>[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000365652 くまのむちゃうま日記(1)] 講談社 2022年</ref>。 Web小説のコミカライズも多数行われるようになってきている。これには[[乙女ゲーム]]世界などへ異世界転生や異世界転移するという設定が多く、また[[悪役令嬢]]/悪役姫もの、聖女もの、スローライフもの、もふもふものなどが存在し、そのコミカライズは主に『[[コミックZERO-SUM]]』、『[[ゼロサムオンライン]]』、『[[B's-LOG COMIC]]』、『[[裏サンデー]]女子部』、『PASH UP!』、『コミックブリーゼ』などの女性向けの雑誌や、『FLOS COMIC』、『[[レジーナブックス]]』などの専門Web誌で行われている。また、似たような設定のオリジナル少女漫画も登場しており、[[ちゃお]]からは悪役姫ものの『恋して♥悪役プリンセス!』([[辻永ひつじ]])が<ref>[https://natalie.mu/comic/news/430834 友達のいない私が、大好きな小説の悪役プリンセスに?ちゃお発異世界ファンタジー] ナタリー 2021年6月2日</ref>、[[LaLa]]からは『[[転生悪女の黒歴史]]』(冬夏アキハル)<ref>[https://natalie.mu/comic/column/424493 教えて!悪役令嬢 Vol.1 悪役令嬢とはいったい何…? めくるめく悪役令嬢の世界をご案内!] ナタリー 2021年5月2日</ref>や『帝国の恋嫁』([[可歌まと]])<ref>[https://natalie.mu/comic/news/470985 可歌まとの異世界転生もの「帝国の恋嫁」がLaLaで連載化、ニャンコ先生付録も] ナタリー 2022年3月24日</ref>や『死に戻り令嬢のルチェッタ』([[天乃忍]])が、『花とゆめ』からは『転生したら姫だったので男装女子極めて最強魔法使い目指すわ。』(輝)や『人狼乙女ゲームに転生したので生き残りエンドを目指します』(サザメ漬け)や『乙女ゲーに転生したけど筋肉で解決します』(ダル子)<ref>[https://natalie.mu/comic/news/466370 乙女ゲーの世界を筋肉で生きる!腕っぷし自慢ヒロインのラブコメが花とゆめで集中連載] ナタリー 2022年2月19日</ref>が、『[[ザ花とゆめ]]』からは『ドラひよ〜異世界の竜は私のなでなでに弱いみたいです〜』(千歳四季)が登場している。2022年にはLaLa派生の電子コミック誌『[[LaLa#関連誌|異世界転生LaLa]]』が登場し<ref>[https://natalie.mu/comic/news/472335 “異世界転生LaLa”が誕生、全部オリジナル作品!「転生悪女の黒歴史」特別編も] ナタリー 2022年4月1日</ref>、また同年にはデジタルマーガレット派生の漫画サイト『異世界マーガレット』([[ニコニコ静画]]内)も登場した<ref>[https://info.nicomanga.jp/entry/2022/12/05/110500 『異世界マーガレット』公式OPEN!!!] BOOKWALKER 2022年12月5日</ref><ref>[https://manga-meets.jp/contests/margaret_isekai/1 異世界マーガレット作画賞] 集英社</ref>。<!--TODO: ちゃおコミの『愛するあなたは推しで王様〜異世界恋愛記〜』、りぼんの『絶世の悪女は魔王子さまに寵愛される』--> また、現実世界への転生物やループ物も登場した。テレビドラマでは2022年に転生物の青年漫画「[[妻、小学生になる。]]」がドラマ化されて特にネット配信において人気となり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2205/14/news040.html TVerの番組再生数、1位はフジテレビ「ミステリと言う勿れ」] ITmedia 2022年5月23日</ref>、翌2023年にはループ物のオリジナルドラマ「[[ブラッシュアップライフ]]」も登場して同じくネット配信で人気となった<ref name="geinin-kyakuhonka">[https://friday.kodansha.co.jp/article/297008 『ブラッシュアップライフ』 好調!いまドラマで”芸人脚本家”が増えているのっぴきならないウラ事情] 講談社 2023年3月1日</ref><ref name="2023-1h-aa">[https://news.allabout.co.jp/articles/o/62348/?page=2 Z世代が選ぶ「上半期に流行ったコト/モノ」ランキング! 2位「推しの子」、1位は?【2023年】 p.2] All About 2023年6月16日</ref>。また映画でも2022年に直木賞受賞の生まれ変わり物の小説「[[月の満ち欠け (小説)|月の満ち欠け]]」が映画化され<ref>[https://forbesjapan.com/articles/detail/52417 2つの愛の物語を「生まれ変わり」でつなぐ 恋愛映画「月の満ち欠け」] フォーブス 2022年12月2日</ref>、テレビアニメでも2023年に女性人気の高い<ref>[https://www.nippan.co.jp/news/hikidashi_comic1st_20201014/ 今キテる漫画がわかる! 「コミックス第1巻売上ランキング」2020年7~9月 第1位は赤坂アカ×横槍メンゴ「【推しの子】」] 日本出版販売 2020年10月14日</ref>青年漫画「[[【推しの子】]]」がアニメ化され人気となった<ref name="2023-1h-aa"/>。少女漫画では早くは前述の『orange』がループ物として存在したが、2022年には『Sho-Comi』で転生物の『アイドル転生―推し死にたまふことなかれ―』(ひので淘汰)が登場している。 また異世界から現実世界への転生物も登場した。これには『Sho-Comi』の『[[異世界魔王は腐女子を絶対逃がさない]]』([[池山田剛]])、『りぼん』の『花火は醒めない夢をみる』(中島みるく)などがある。<!--TODO: 「エレノア王女は自由な青春を送りたい」--> また2010年代には懐古向けの名作の復刊が中心だった[[コンビニコミック]]からオリジナル漫画誌「[[思い出食堂]]」が登場してヒットし<ref>[https://www.yurindo-izumiblog.jp/archives/54594877.html 『思い出食堂 No.43』 残しておきたいことなど] 有隣堂 2018年12月29日</ref>[[料理・グルメ漫画|食漫画]]ブームが起きており、テレビでも2012年より「[[孤独のグルメ (テレビドラマ)|孤独のグルメ]]」がドラマ化されてヒットし食ドラマや食バラエティがブームとなっていった<ref name="meshitero-drama">[https://www.dailyshincho.jp/article/2023/04291103/?all=1 「孤独のグルメ」効果で今クールは4本 “飯テロ”ドラマが増殖中 バラエティ班が羨ましがる事情とは] デイリー新潮 2023年4月29日</ref>。女性漫画からも食漫画が続々とドラマ化されるようになり<ref name="meshitero-drama"/>、少女漫画でも食要素の大きい『Kiss』連載の『[[わたしのお嫁くん]]』([[柴なつみ]])がドラマ化されている<ref name="meshitero-drama"/>。 == 少女漫画の現状 == {{独自研究|date=2017年5月|section=1}} 少女漫画界ではレディース誌やヤングレディース誌、ガールズコミック誌、オトナ女子向け雑誌など上の年齢向けの雑誌が増えることで対象世代による細分化の傾向にある。また女性向けWeb小説がコミカライズ及びアニメ化されて有名となり一般化したことで、人気Web小説のコミカライズを中心とした女性向け新興Web雑誌が増えつつある。一方、紙の少女漫画雑誌の部数は減少傾向にある。 かつての少女漫画ではタブー破りによるジャンルの拡大が行われていたものの、年々恋愛への特化が進んでいったことで恋愛以外のSFや部活物やラブコメ以外のコメディ物が減っていき、今や少女漫画は女性向け恋愛漫画の代名詞となっている。少女漫画として描けないものが増えたことで「描きたいものが少女漫画では無かった」などとして少女漫画から抜け出す女性作家も出てきている<ref>[https://web.archive.org/web/20220830094703/https://comic-walker.com/news/detail/636/ 単行本①巻発売記念特別インタビュー「女子無駄」のかくかくしかじか] ComicWalker 2016年4月29日</ref><ref>[https://media.comicspace.jp/archives/9592 【インタビュー】『ぼっち・ざ・ろっく!』はまじあき「きららの女子高生だって、学校以外に居場所があっていい」] comicspace 2019年2月27日</ref>。 一方、女性読者側も1980年代ごろより女性漫画家の[[少年漫画]]・[[青年漫画]]進出や少女アニメのパロディ漫画の流行などに伴って少年漫画や青年漫画から女性の読みにくい絵柄が減ったことで[[少年漫画]]・[[青年漫画]]への流失が続いていったものの、Web漫画の時代になってからは少年漫画や青年漫画と少女漫画や女性漫画が同居するようになっており、読者から見たカテゴリーの分け隔ては減ってきている。 メディア化ではかつては少女漫画からドラマ化やアニメ化される作品が出てきていたものの、ドラマ向きのレディース漫画やヤングレディース漫画や芸人脚本家<ref name="geinin-kyakuhonka"/>の台頭、アニメ向きのラノベや萌え漫画や女性向けWeb小説の台頭、恋愛映画における[[新海誠]]監督のアニメーション映画{{efn2|『[[君の名は。]]』など。なお恋愛少女漫画でも2020年に『[[思い、思われ、ふり、ふられ]]』が実写映画化と同時にアニメーション映画化を展開した<ref>[https://thetv.jp/news/detail/243175/ 「恋愛は世界を広げる入り口になる」アニメ映画『思い、思われ、ふり、ふられ』原作者・咲坂伊緒&黒柳トシマサ監督対談] - Webザテレビジョン</ref>ものの、後が続かずに終わっている。}}の台頭、実写映画におけるテレビドラマの劇場版の増加<ref name="kirakira-update"/>と実写邦画自体の市場の縮小<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/637871?page=4 22年映画興収「100億超え4本」も喜べない複雑事情 p.4] 東洋経済オンライン 2022年12月7日</ref>などによって、少女漫画のメディア化では[[YouTube]]上でのボイスコミック化{{efn2|ちゃおは「ちゃおチャンネル」、りぼんは「りぼんチャンネル」、なかよしは「なかよしTV」などそれぞれYouTubeに独自のチャンネルを持っている}}が中心となっている。<!--TODO: 君に届け、墜落JKのドラマ化--> 少女漫画のテレビアニメ化は掲載誌の部数を増やすのに有効な手段であり、2000年代初頭の「ちゃお」は『[[ミルモでポン!]]』の[[わがまま☆フェアリー ミルモでポン!|アニメ版]]のヒットによって部数を伸ばし少女漫画誌の部数トップに躍り出ていたものの、後述の少女漫画に依らない少女向けオリジナルアニメ作品の増加や夕方アニメの衰退などによって少女漫画のテレビアニメ化がだんだんと行われなくなり、また、雑誌付録や誌上通販されていた少女漫画のOVAアニメ化も今やほぼ無くなっている。2022年代現在、連載中の少女漫画のテレビアニメ化が継続されているのは主に白泉社の作品となっている(『[[かげきしょうじょ!!]]』、『[[贄姫と獣の王]]』など)。また白泉社は2021年よりYouTubeの「はくせんアニメちゃんねる」上で新作短編アニメを提供するようにもなっている<ref>[https://natalie.mu/comic/news/458589 白泉社のYouTubeオリジナルアニメチャンネル開設、初回は「鬼の花嫁は喰べられたい」] コミックナタリー 2021年12月20日</ref>。 少女向けオリジナルアニメ作品のコミカライズではアーケードゲーム由来のアイドル物のメディアミックスのアニメがコロナ禍を経て終了し、2022年12月現在はバトルヒロイン物の『[[プリキュアシリーズ]]』(なかよし)が残るのみとなっている。またサンリオ作品のコミカライズは、かつては少女漫画誌で行われていた{{efn2|サンリオ作品『[[ジュエルペット]]』の初期までは小学一年生〜小学三年生向けの少女漫画誌「ぷっちぐみ」だけでなくその上の「ちゃお」でもコミカライズされていたが、その後と後継の『[[リルリルフェアリル]]』では「ぷっちぐみ」および小学館幼児誌・学習雑誌でのみコミカライズされていた。}}ものの、『[[ミュークルドリーミー]]』では少女漫画誌よりも低年齢向けの幼児雑誌([[おともだち]]及び[[たのしい幼稚園]])でのみ行われるようになっている。一方、高年齢向けのメディアミックスではバトルヒロイン物やアイドル物を含め少女漫画以外で行われていることが多い状態となっており、その中には女性人気の高いものも登場している{{efn2|「[[魔法少女まどか☆マギカ]]」や「[[ラブライブ!シリーズ]]」、「[[BanG Dream!]]」、「[[プロジェクトセカイ]]」など}}。 一方、コロナ禍によって [[Nintendo Switch]] およびそのゲームソフトが伸び、少女漫画では「ちゃお」や「ぷっちぐみ」を中心にそのコミカライズが拡大している。これには『どうぶつの森シリーズ』『星のカービィシリーズ』『ポケットモンスターシリーズ』などが存在する([[#推しの時代]]を参照)。 少女漫画の実写映画化も未だ続いているものの、少女漫画原作のキラキラ映画のブーム衰退により、2021年現在では青春よりも俳優(推し)を意識した実写化が中心となっている。例えば、りぼんの『[[ハニーレモンソーダ]]』の実写映画化ではジャニーズの[[ラウール (アイドル)|ラウール]]をヒーロー役に起用していたが、りぼん本誌ではそれに先立って『ラウールと恋してみない?』を連載している。<!--TODO: デザートのモエカレ--> また、『りぼん』では「ハニーレモンソーダ」の長期連載化に伴って読者層が上がっており、2021年の[[LINE (企業)|LINE]]の調査では『りぼん』が女子高校生の読む漫画雑誌2位(少女漫画誌では1位)にランクインしてる<ref name="line-koukou-ranking">[https://research-platform.line.me/archives/37928113.html 【2021年版】高校生がハマっているマンガランキング] LINE 2021年6月1日</ref>。同ランキングでは『ちゃお』も4位にランクインしている<ref name="line-koukou-ranking"/>。 テレビドラマでは女性漫画のドラマ化が続いている一方で若者のドラマ離れが進んでおり<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000038.000011405.html “ドラマよりもアニメ” 若者のテレビの好みが変わった!~若者のテレビ番組の好み 過去と現在を比較して~] PR TIMES 2016年12月15日</ref><ref>[https://smart-flash.jp/entame/182632/1/ 2022年春ドラマ「視聴率二桁超え」たったの2本の凋落ぶり…10年前と比べて半減が示す「若者のドラマ離れ」] 光文社 2022年5月20日</ref>、2022年現在、ドラマのコア視聴率(13~49歳の視聴率)は2%以上<!--約100万人以上-->程度でも合格となっているとされる<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2022/05191100/?all=1&page=2 「爆死」するドラマが減ってきたワケ 試聴スタイルに変化…視聴率の真実 p.2] デイリー新潮 2022年05月19日</ref>。 また昔の美容室は少女漫画誌の置いてあるところが多かったものの、今の美容室は電子書籍読み放題のタブレットの導入が進んでいる。少女漫画の入り口となる低年齢向けでは、2021年より『[[ぷっちぐみ]]』が様々な読み放題サービスで配信されるようになっている<ref>[https://shogakukan-comic.jp/news/34181 小学生向けエンタメ雑誌「ぷっちぐみ」がサブスク配信スタート!] 小学館 2021年12月27日</ref>。 <!--TODO: 古い。一部は歴史に還元する。一部は因果関係が怪しい。 『[[エロイカより愛をこめて]]』、『[[パタリロ!]]』、『[[花より男子]]』、『[[NANA]]』、『[[ハチミツとクローバー]]』、『[[のだめカンタービレ]]』、『[[桜蘭高校ホスト部]]』、『[[君に届け]]』、『[[夏目友人帳]]』、『[[ちはやふる]]』、『宗三郎シリーズ』、『[[紅い牙]]』など、成年読者や男性読者を掴んでいる少女漫画も存在する。特に[[矢沢あい]]の『NANA』は、読者層に男性読者や普段あまり漫画を読まない層を取り込み、2005年度オリコン1位(漫画部門男女)を獲得した。 2000年代以降はメディアミックスが多く、高年齢向けでは『NANA』や『のだめカンタービレ』が成功例とされる。2000年代から2010年代中盤にかけては『ちゃお』の擁する作品(後述)や『[[プリキュアシリーズ]]』など[[幼児]]・[[小学生]](主に小学校[[中学年]])以下を対象としたいわゆる「女児向けアニメ」とされる作品以外はアニメーションよりもテレビドラマやドラマ映画といった実写メディアの方が盛況であった。→TODO: 恋愛ドラマ衰退の影響 また、『[[ちゃお]]』に関しては1990年代後半以降は『[[女児向けアニメ]]』のメディア展開に特化することで一気に低年齢化、小学生(中学年)前後の女児をターゲットの中心層にしており{{efn2|"[http://www.j-magazine.or.jp/data_002/index.html 日本雑誌協会公式HP・JMPAマガジン<!- - ●2010? - ->データから]。 なお、"[[思春期]]ダイアリー"と銘し、連載当時は看板作であった『[[水色時代]]』やアニメ版が中高生以上の男女にヒットした『[[少女革命ウテナ]]』を掲載していた1990年代中盤以前は現在の『なかよし』や『りぼん』とほぼ同一の中間層をターゲットにしていた。}}、2000年代序盤から2010年代中盤にかけて『[[ミルモでポン!]]』、『[[きらりん☆レボリューション]]』、『[[12歳。]]』の漫画及び、『[[オシャレ魔女♥ラブandベリー]]』、『[[サンリオキャラクター|サンリオキャラクターシリーズ]]』の『[[ジュエルペット]]』、『[[プリティーシリーズ]]』、『[[アイカツ!|アイカツ!シリーズ]]』といった既存の子供向けキャラクターとの[[メディアミックス]]戦略の成功により市場を確立した。しかしながら2010年代後半までに『プリティーシリーズ』と『アイカツ!シリーズ』を除くメディア展開の終了もあり、部数も2005年の約120万部から2019年は約30万部にまで大幅に減少した。 一方で現状では中間層にあたる小学校[[中学年]] - [[中学校]]1・2年生の少女をターゲットにしている『[[りぼん]]』と『[[なかよし]]』は、少女漫画の創生期から存在する歴史の古い雑誌で2000年代初頭まで少女漫画界の中心に位置し、現在の高年齢層向けの雑誌が刊行する前の1970年代ごろは高校生もターゲットにし、特に1970年代から80年代の「[[乙女チックラブコメ|おとめちっく]]」ブームに乗った『りぼん』には大人の女性や男性読者も多数存在していた。1980年代以降は高年齢層向けの雑誌の刊行により、相対的にやや低い年齢層を引き受ける状況となり、1990年代には『[[ちびまる子ちゃん]]』・『[[美少女戦士セーラームーン]]』・『[[姫ちゃんのリボン]]』・『[[ママレード・ボーイ]]』・『[[こどものおもちゃ]]』・『[[赤ずきんチャチャ]]』・『[[カードキャプターさくら]]』などがアニメ化されて大ヒットした影響で、年齢層が小学校低学年から中学生の少女に低下しつつも最盛期を迎えた。しかし、それらが全て終了した[[2000年代]]以降はヒット作がまばらで話題性に欠ける状態が続き、少年漫画誌及び年齢層の下限が小学生([[高学年]])にまで低下した前述の高年齢層向けの雑誌と『[[ちゃお]]』などに押されて読者が流出し、2018年度の『[[なかよし]]』と『[[りぼん]]』の発行部数の合計は最盛期の1994年比で約1/20にまで激減している。 なお、近年{{いつ|date=2018年3月}}の、高年齢層向けの雑誌に掲載された作品は作品の人気と掲載誌の売上部数との関連性がほとんどなく、雑誌単位ではなくコミックス単位での購読を重視し、編集サイドにおいても単行本出版ペースを念頭に置いた掲載が成されており{{efn2|例えば単行本の最終ページに次巻のあらすじや発売時期が明記されていることなど。}}、2010年代以降は中間層に当たる『[[りぼん]]』や『[[なかよし]]』の作品もそれに倣っている。一方で低年齢層を対象とする『[[ちゃお]]』のみ、かつてのように雑誌ペースを念頭に置いた連載が成されている。→TODO: 出典 --> == 少女漫画雑誌 == 作品が掲載されている主な雑誌。現在はほぼ漫画のみの誌面であるが、創刊当初は絵物語や小説、ファッション、スターの情報などの少女向け総合誌として刊行されていたが、1960-1970年代以降に漫画雑誌として再編成されたものも多く、読者層の成長と共に高年齢層向けの雑誌が刊行されていった。 === 主な雑誌 === {{see also|日本の漫画雑誌#少女向けコミック誌|日本の漫画雑誌#女性向けコミック誌}} ==== 少女雑誌 ==== 少女漫画雑誌の前身。以下の少女向け漫画雑誌も前述のように、創刊当初は少女漫画以外の絵物語などを多く掲載していた。 * [[少女クラブ]]([[講談社]]、[[1923年]] - [[1962年]] 少女フレンドへ発展) * [[ひとみ (雑誌)|ひとみ]]([[秋田書店]]、[[1958年]] - [[1961年]] 後に漫画雑誌として再開) ==== 幼児・幼稚園児・低学年向け ==== 後述のハイティーン向けと同様に、比較的新しい時代に年齢の細分化に対応して刊行された。従来児童向けの雑誌か少女向けの下限が担っていた層である未就学児(4歳ごろ)から小学校中学年までの女の子向けで、『ぴょんぴょん』は現在の『ちゃお』が探る低年齢層向け路線の先駆けであったが、[[1992年]]に『ちゃお』に統合された。 * [[月刊キャロル]](講談社、[[1983年]] - [[1984年]]) * [[ぴょんぴょん]]([[小学館]]、[[1988年]] - [[1992年]]) * [[るんるん (講談社)|るんるん]](講談社、[[1991年]] - 1998年) * '''[[ぷっちぐみ]]'''(小学館、[[2006年]] - ) ==== 少女向け ==== 創刊当初は少女向け雑誌として刊行されていた雑誌も多く、当初の読者層を小中学生としながらも高校生にまで読まれ、文字通り少女漫画の中心であったが、高年齢層向けの雑誌の刊行、メディアミックスへの特化などで、現在は対象年齢を下げ小中学生向けになっている。少女漫画誌の多様化した現在では、前身の少女雑誌と同様に小学生の少女向け総合誌としての役割がこのジャンルを支えているともされる。 * '''[[なかよし]]'''(講談社、[[1954年]] - ) * '''[[りぼん]]'''([[集英社]]、[[1955年]] - ) * '''[[ちゃお]]'''(小学館、[[1977年]] - ) ** '''ちゃおコミ'''(小学館、[[2021年]] - )※Webのみ * [[ひとみ (雑誌)|ひとみ]](秋田書店、[[1978年]] - [[1991年]]) ==== 中高生向け ==== 創刊当初は少女漫画よりもファッションやスターの情報を多く載せ総合誌的な性質をもっていたが、少女向け同様に徐々に少女漫画誌として充実してきた。 * [[少女フレンド]](講談社、『[[少女クラブ]]』が[[1962年]]にリニューアル - [[1996年]]) ** '''[[別冊フレンド]]'''(講談社、[[1965年]] - 旧『別冊少女フレンド』) * '''[[Sho-Comi]]'''(小学館、[[1968年]] - 、旧『少女コミック』) * [[ChuChu]](小学館、[[2000年]] - [[2010年]]) * '''[[花とゆめ]]'''<ref>[https://www.hakusensha.co.jp/wp_hakusensha_common/images/ad_media/hanayume.jpg 白泉社 広告媒体資料 花とゆめ] 白泉社</ref>([[白泉社]]、[[1974年]] - ) ** [[別冊花とゆめ]](白泉社 [[1977年]]-[[2018年]]) * '''[[ケータイ小説サイト野いちご#noicomi|noicomi]]'''([[スターツ出版]]、2019年 - )※電子のみ ==== ハイティーン向け ==== 年齢の細分化に対応して刊行された中学生から大学生(20代前半)向けの雑誌であり、その後も若者向けを謳い続けている。 * '''[[デザート (雑誌)|デザート]]'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://ad.kodansha.net/detail/54/ |title=デザート - 講談社AD STATION |publisher=[[講談社]] |accessdate=2021-06-12}}</ref>(講談社、[[1996年]] - ) * '''[[マーガレット (雑誌)|マーガレット]]'''<ref>{{Cite web|和書|url=https://adnavi.shueisha.co.jp/wp-content/uploads/2020/05/mediaguide2020_PDF.pdf |title=集英社 MEDIA GUIDE 2020|format=PDF |page=55 |publisher=[[集英社]] |accessdate=2021-06-12}}</ref>(集英社、[[1963年]] - )※以前は中高生向けとされていた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/freshman/town/pdf/town_01.pdf |title=本の街発信!別冊マーガレットに迫る|format=PDF |page=1 |work=K-RITs Mar.2015 |publisher=[[共立女子短期大学]] |accessdate=2021-06-12}}</ref> ** '''[[別冊マーガレット]]'''<ref name="名前なし-1">[https://adnavi.shueisha.co.jp/wp-content/uploads/2020/05/mediaguide2020_PDF.pdf 集英社 MEDIA GUIDE 2020 広告媒体資料] p.29 集英社 2020年</ref> (集英社、1963年 -) ** マーガレットchannel→'''デジタルマーガレット'''(集英社、2013年 - )※電子のみ * Betsucomi→'''[[ベツコミ]]'''(小学館、2002年 - ) ※元「別冊少女コミック」 * '''[[LaLa]]'''<ref>[https://www.hakusensha.co.jp/wp_hakusensha_common/images/ad_media/lala.jpg 白泉社 広告媒体資料 LaLa]</ref>(白泉社、1976年 - ) ** '''[[LaLa DX]]'''(白泉社、1983年 - ) * [[ミルフィ]]([[富士見書房]]、2013年 - 2015年)※電子のみ ===== 1970 - 1980年代のハイティーン誌 ===== {{see also|女性漫画}} 1970年代から1980年代にかけて、ハイティーン向け雑誌として創刊された。 * [[Seventeen (日本の雑誌)|セブンティーン]](漫画を分離)→月刊ティアラ(集英社、1968年 - 1989年<ref>[http://manga-db.jugemu-tech.co.jp/Mags/Detail?db=DATA2&mag=Tiarmon 戦後日本 少年少女雑誌データベース : 月刊ティアラ(ゲッカンティアラ)] JuGeMu</ref>) * 別冊少女コミック(小学館、1970年 - 2002年)※従来路線は月刊フラワーズに移籍、雑誌自体はリニューアルしてBetsucomiに * '''[[月刊プリンセス]]'''(秋田書店、1974年 -) ** [[プリンセスGOLD]](秋田書店、1979年 - 2020年)※最後は電子のみ * [[mimi (雑誌)|mimi]](講談社、1975年 - 1996年) * プチマーガレット→[[ぶ〜け]](集英社、1976年 - 2000年) * [[My Birthday]]→[[おまじないコミック]]→[[パル (雑誌)|ティーンズコミックパル]]→少女パル([[実業之日本社]]、1979年 - 1997年) * ギャルズコミック→ギャルコミ([[主婦の友社]]、1980年 - 1985年)※ギャルズライフ増刊 * パレット→Missy→ミッシィ([[主婦の友社]]、1985年 - 1990年) * [[プチフラワー]]→'''[[月刊フラワーズ]]'''(小学館、1980年 - ) ** 凛花→'''[[増刊flowers]]'''(小学館、2007年 - ) * [[ボニータ (雑誌)|ボニータ]](秋田書店、1981年 - 1995年) * '''[[ミステリーボニータ]]'''(秋田書店、1988年 -) ==== オトナ女子向け ==== * '''[[プチコミック]]'''<ref>[https://www.shogakukan.co.jp/magazines/series/039000 プチコミック - 雑誌] 小学館</ref>(小学館、1977年 - ) * [[Amie]](講談社、1997年 - 1999年) * '''[[プチプリンセス]]'''([[秋田書店]]、2002年 - )※現在は電子のみ * AneLaLa(白泉社、2013年 - 2017年)<ref>[https://natalie.mu/comic/news/247378 白泉社の大人ガール向けマンガ誌・AneLaLa休刊、津田雅美「ヒノコ」は完結] ナタリー 2017年9月5日</ref> * '''COMIC it'''<ref>[https://dengekionline.com/elem/000/000/954/954503/ “it(それ)”こそが今、読みたいもの――本格派オトナ女子のためのコミック誌『COMIC it』が2015年初春に誕生!] KADOKAWA Game Linkage 2014年11月8日</ref>(KADOKAWA、2015年 - )※現在は電子のみ * '''[[別冊フレンド#姉フレンド|姉フレンド]]'''(講談社、2016年 - )※電子のみ * '''マンガJam'''<ref>[https://books.j-cast.com/book006/2017/12/19006676.html 無料で楽しめる祥伝社のコミックアプリ 「マンガJam」好評配信中!] J-CAST 2017年12月19日</ref>([[祥伝社]]、2017年 - )※アプリのみ * '''[[WEBコミックぜにょん#コミックタタン|コミックタタン]]'''([[コアミックス]]、2018年 - )※電子のみ * '''バニラブ'''([[リブレ (企業)|リブレ]]、2019年 - )※電子のみ<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1574912606 奥めぐ美先生の新連載がスタート! 大人女子のための電子マンガ誌「バニラブ」創刊号が本日11月28日に発売! 1話無料キャンペーンやプレゼント企画が開催!] アニメイト 2019年11月28日</ref> * '''ぼるコミ'''([[ボルテージ]]、2020年 - )※電子のみ<ref>[https://gamebiz.jp/news/273571 ボルテージ、電子コミックストア「ぼるコミ」をグランドオープン] gamebiz 2020年8月10日</ref> * '''コミックブリーゼ'''([[キルタイムコミュニケーション]]、2020年 - )※電子のみ<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000094.000049835.html 新創刊!オトナ女子向けWEBコミックレーベル「コミックブリーゼ」が本日より配信開始!注目の3作品の新連載がスタート!] PR TIMES 2020年12月4日</ref> ==== ヤング・レディース誌 ==== {{see|ヤング・レディース}} [[ヤング・レディース]]誌は[[レディースコミック]]誌よりも下の世代に向けて創刊された。当初は学生から社会人向けの雑誌であった。2020年時点では読者の約半数が35歳以上、読者の約7割が30代以上となっている<ref>[https://web.archive.org/web/20200609224505/https://ad.kodansha.net/detail/56/ Kiss|講談社AD STATION] (2020年時点のキャッシュ) 講談社</ref><ref>[https://adnavi.shueisha.co.jp/wp-content/uploads/2020/05/mediaguide2020_PDF.pdf 集英社 MEDIA GUIDE 2020 広告媒体資料] p.30 集英社 2020年</ref>。 * [[ヤングユー]](集英社、1986年 - 2005年)※一部執筆陣はコーラスが引き継ぎ * '''[[FEEL YOUNG]]'''([[祥伝社]]、1989年 - ) ** FC Web Free Comic & Column→フィーヤン・ネット WEBコミック & コラム(祥伝社、2004年-?年)※Webのみ ** FEEL FREE(祥伝社、2015年<ref>[https://twitter.com/MJ_FF_ed/status/669647616985067520 FEEL FREE取り急ぎスタート! ] 祥伝社 2015年11月26日</ref> - 2020年<ref>[https://twitter.com/MJ_FF_ed/status/1290090005520510977 【読者の皆さまへ】 「FEEL FREE」サービス終了のお知らせ。] 祥伝社 2020年8月3日</ref>)※Webのみ * '''[[kiss (雑誌)|kiss]]'''(講談社、1992年 - ) ** [[One more Kiss (雑誌)|One more Kiss]]→[[Kiss PLUS]]→[[ハツキス]]([[講談社]]、2001年 - 2021年<ref>[https://www.sakigake.jp/news/article/20210625OR0106/ 『Kiss』の姉妹誌『ハツキス』休刊 創刊から7年] 秋田魁新報社 2021年6月25日</ref>)※最後は電子のみ * コーラス→'''[[cocohana]]'''(集英社、1992年 - ) * '''[[Cheese!]]'''(小学館、1996年 - 、旧『少女コミックCheese!』) ==== ガールズ・コミック誌 ==== ガールズ・コミック誌はヤング・レディース誌よりも下の世代に向けて創刊された。 * '''[[MELODY (雑誌)|MELODY]]'''(白泉社、1997年 - ) * '''[[Cookie (雑誌)|Cookie]]'''(集英社、1999年 - ) * '''[[B's-LOG COMIC]]'''([[KADOKAWA]] [[エンターブレイン]]、2005年 - 、旧『comic B's-LOG』)※現在は電子のみ * [[シルフ (雑誌)|シルフ]]→'''pixivシルフ'''([[KADOKAWA]] [[アスキー・メディアワークス]]、[[2006年]] - )※現在は電子のみ * [[ARIA (雑誌)|ARIA]](講談社、2010年 - 2018年) ==== ファッション誌派生漫画誌 ==== 元々ファッション誌にも漫画は連載されていたが、1990年代末よりファッション誌の派生漫画誌も発行されるようになった<ref name="namba-fashion">難波功士『[https://www.kci.or.jp/research/dresstudy/pdf/C_FT04_NAMBA_Media%20and%20fashion_JP&EN.pdf メディアとファッション―1990年代の「カリスマ・クレイズ」を中心に]』 p.4-5 京都服飾文化研究財団 2016年</ref>。しかしながらこれらは長続きせず、連載陣の一部はヤングレディース誌「FEEL YOUNG」や「ヤングユー」へと移籍している。 * [[CUTiE Comic]]([[宝島社]]、1998年 - 2001年)※[[CUTiE]]派生 * コミックanan(マガジンハウス、1999年)※[[an・an]]臨時増刊号 * [[Zipper comic]]→[[FEEL YOUNG#FEEL YOUNG増刊SALADA|FEEL YOUNG増刊SALADA]](祥伝社、2000年 - 2003年)※[[Zipper]]派生 ==== 全年齢向け ==== ページ数が多く、様々な世代向けのものを掲載していた。また出版社側からは新人作家の育成の場として扱われていた<ref>[https://realsound.jp/book/2023/03/post-1289496.html 少女漫画誌「ザ マーガレット」休刊「一定の役割を終えた」の真意  新人発表の「場」として「雑誌」は終焉?] リアルサウンド 2023年3月27日</ref>。 *[[ザ マーガレット]]<ref name="名前なし-1"/>(集英社 1982年 - 2023年) ==== 男性向け ==== * [[月刊ステンシル]]([[エニックス]]、1999年-2003年) * [[コミックハイ!]]([[双葉社]]、2004年-2015年) * [[コミックエール!]]([[芳文社]]、2007年-2009年) ==== 海外少女漫画 ==== 中華民国(台湾) * 星少女 東立出版社 1992年創刊 台湾オリジナル作家少女漫画雜誌。月刊。2016年4月より電子化 * 夢夢少女漫畫月刊 尖端出版 2003年7月~2018年11月 集英社作品掲載 りぼんの繁体中文版 * Candy月刊 長鴻出版社 2004年3月~2016年6月 小学館作品掲載 Sho-Comi、Cheese!、flowers、プチコミックの繁体中文版 * 甜芯少女漫畫月刊 尖端出版 2007年8月~2015年6月休刊 小学館作品掲載 ちゃおの繁体中文版 香港 * 少女漫畫 自由人出版 1995年休刊 * COMIC FANS 天下出版社 1995年8月~2012年6月 * Comicフェス COMIC Festival 天下出版社 2012年7月~2013年6月 韓国 * Wink ソウル文化社 アメリカ他 * {{仮リンク|Wimmen's Comix|en|Wimmen's Comix}} {{仮リンク|Rip Off Press|en|Rip Off Press}}←{{仮リンク|Renegade Press|en|Renegade Press}}←{{仮リンク|Last Gasp|en|Last Gasp (publisher)}} 1972年〜1992年 * [[Shojo Beat]] Viz Media 2005年~2009年 == 少女漫画を多く所蔵する図書館 == * [[現代マンガ図書館]]([[東京都]][[千代田区]]) - [[内記稔夫]]の蔵書により開設された。 * [[米沢嘉博記念図書館]]([[東京都]][[千代田区]]) - [[漫画評論]]家の[[米沢嘉博]]および[[岩田次夫]]の蔵書が所蔵されている<ref>[https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/collection.html 蔵書・所蔵資料] 明治大学</ref>。 * [[菊陽町図書館]]([[熊本県]][[菊池郡]]) - 古い少女雑誌が所蔵されている(村崎コレクション)。 * [[少女まんが館]]([[東京都]][[あきる野市]]) * [[少女まんが館 TAKI 1735]]([[三重県]][[多気郡]]) * [[唐津ゲストハウス 少女まんが館Saga]]([[佐賀県]][[唐津市]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{notelist2|2}} ===出典=== {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=徐園 |title=日本における新聞連載子ども漫画の戦前史 |publisher=日本僑報社 |year=2013 |ISBN=978-4861851261 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024213787-00 |ref={{harvid|徐園|2013}}}} * {{Cite book|和書|author=清水勲 |title=図説漫画の歴史 |publisher=河出書房新社 |year=1999 |ISBN=978-4309726113 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002809729-00 |ref={{harvid|清水勲|1999}}}} * {{Cite book|和書|editor=上笙一郎 |author=上笙一郎 |title=聞き書・日本児童出版美術史 |publisher=太平出版社 |year=1974 |ISBN=9784480423580 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001279385-00 |ref={{harvid|上笙一郎|1974}}}} * {{Cite book|和書|editor=菅聡子 |title=「少女小説」ワンダーランド―明治から平成まで |publisher=明治書院 |year=2008 |ISBN=9784625684081 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009415947-00 |ref={{harvid|菅聡子 編|2008}}}} * {{Cite book|和書|editor=堀江あき子 |title=乙女のロマンス手帖 |publisher=河出書房新社 |year=2003 |ISBN=978-4309727325|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004230214-00 |ref={{harvid|堀江あき子 編|2003}}}} * {{Cite book|和書|editor=大塚英志 |title=少女雑誌論 |publisher=東京書籍 |year=1991 |ISBN=9784487752966|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009415947-00 |ref={{harvid|大塚英志 編|1991}}}} * {{Cite book|和書|title=アメリカンカルチャー 1 - 日本の戦後にとってアメリカとは '45ー50年代 (日本風俗じてん) |publisher=三省堂 |year=1981 |ISBN=9784385425511 |url=https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12284621 |ref={{harvid|三省堂|1981}}}} * {{Cite book|和書|author=樫原叔子 |title=ハヤリもの50年―昭和32年‐平成18年 あのころ夢中になった映画・音楽・商品・本など |publisher=こう書房 |year=2007 |ISBN=978-4769609315 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008501901-00 |ref={{harvid|樫原叔子|2007}}}} * {{Cite book|和書|editor=北川純子 |title=鳴り響く性―日本のポピュラー音楽とジェンダー |publisher= 勁草書房 |year=1999 |ISBN=978-4326851638 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002828213-00 |ref={{harvid|北川純子 編|1999}}}} * {{Cite book|和書|author=長谷邦夫 |title=ニッポン漫画雑誌名鑑 |publisher= データハウス |year=1995 |ISBN=978-4887182806 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002444138-00 |ref={{harvid|長谷邦夫|1995}}}} * {{Cite book|和書|author=清水勲 |title=「漫画少年」と赤本マンガ―戦後マンガの誕生 |publisher=刀水書房 |year=1989 |ISBN=9784887081475 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002054342-00 |ref={{harvid|清水勲|1989}}}} * {{Cite book|和書|editor=貸本マンガ史研究会 |title=貸本マンガRETURNS |publisher=ポプラ社 |year=2006 |ISBN=978-4591091913 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008135857-00 |ref={{harvid|貸本マンガ史研究会 編|2006}}}} * {{Cite book|和書|author=すがやみつる |title=仮面ライダー青春譜: もうひとつの昭和マンガ史 |publisher=ポット出版 |year=2011 |ISBN=978-4780801637 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011251555-00 |ref={{harvid|すがやみつる|2011}}}} * {{Cite book|和書|author=米沢嘉博 |title=戦後少女マンガ史 |publisher=ちくま文庫 |year=2007 |ISBN=9784480423580 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009086363-00 |ref={{harvid|米沢嘉博|2007a}}}} * {{Cite book|和書|author=米沢嘉博 |title=手塚治虫マンガ論 |publisher= |year=2007 |ISBN=978-4309269597 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008740103-00 |ref={{harvid|米沢嘉博|2007b}}}} * {{Cite book|和書|author=[[石子順]] |title=手塚治虫〈part3〉少女まんがの世界 |publisher=童心社 |year=2002 |ISBN=978-4494027644 |url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000132-I000033411-00 |ref={{harvid|石子順|2002}}}} * {{Cite book|和書|author=[[大塚英志]] |title=たそがれ時に見つけたもの : 『りぼん』のふろくとその時代 |publisher=太田出版 |year=1991 |ISBN=4-87233-021-8 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|url=https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003001770-00 |ref={{harvid|20世紀少女マンガ天国}}}} *{{Cite book ja-jp|author=中川裕美|year=2013|title=少女雑誌に見る「少女」像の変遷 - マンガは「少女」をどのように描いたのか|url=http://www.murapal.com/sangyodoko/141-2013-02-22-13-15-27.html|edition=第1版第1刷|volume=No.24|publisher=出版メディアパル|series=本の未来を考える=出版メディアパル|isbn=978-4902251241|ref={{sfnref|中川|2013}}}} * {{Cite journal|和書|author=増田のぞみ, 猪俣紀子 |title=少女マンガ雑誌における「外国」イメージ : 1960~1970年代の『週刊少女フレンド』分析より |journal=甲南女子大学研究紀要. 文学・文化編 |ISSN=1347-121X |publisher=甲南女子大学 |year=2016 |issue=53 |pages=89-98 |naid=120006310351 |url=http://id.nii.ac.jp/1061/00001619/ |ref={{harvid|増田のぞみ,猪俣紀子|2016}}}} == 外部リンク == * [https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/exh-syoudoko.html 「少女マンガはどこからきたの?web展~ジャンルの成立期に関する証言より~」] [[明治大学]]米沢嘉博記念図書館サイト内(公開2020年12月4日~) * [https://news.goo.ne.jp/article/dot/nation/dot-2021030200045.html 恋愛ロマンスはタブーだった 「少女マンガはどこからきたの?」展で知る少女マンガの歴史] [[AERA]]、2021年3月6日 == 関連項目 == * [[女性漫画]](レディースコミック) * [[少女向けアニメ]] * [[女性向けアニメ]] * [[ボーイズラブ]] * [[ティーンズラブ]] * [[少女文化]] / [[少女趣味]] / [[乙女系]] * [[少女漫画関連アニメ作品の年代別一覧]] * [[アニメ・漫画の実写映画化作品一覧]] * [[アニメ・漫画のテレビドラマ化作品一覧]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しようしよまんか}} [[Category:少女漫画|*]] [[Category:女性と漫画]] [[Category:漫画のジャンル (対象読者別)]] [[Category:少女]]
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魔夜峰央
魔夜 峰央(まや みねお、本名:山田 峰央〈やまだ みねお〉、1953年〈昭和28年〉 - )は、日本の男性漫画家。新潟県新潟市(現・同市中央区)出身。血液型はO型。通称(作品内での一人称)「ミーちゃん」。 新潟市立関屋中学校卒業後、新潟県立新潟南高等学校に入学。高校2年の夏休み中の8月28日より漫画を描き始め、以後毎日執筆を続けたとの事。大阪芸術大学に入学したが2年で退学。 1973年(昭和48年)、『デラックスマーガレット』(集英社)1973年秋の号に掲載の『見知らぬ訪問者』でデビュー。当初は本名での作品発表であったが、後に現在のペンネームに改名。 1978年(昭和53年)、『ラシャーヌ!』を連載開始。デビュー以来オカルト・ホラーもしくはミステリー調のシリアス路線が作品の主体であったが、同作からギャグ路線に変更。同年、『パタリロ!』の連載開始。 1980年(昭和55年)頃、バレエダンサーの山田芳実と出会い、後に結婚。二人が出会った時の年齢は、自身のキャラクターであるバンコランとマライヒの年齢と奇しくも同じであったという。その後、2児(一男一女)をもうける。娘は2017年(平成29年)に山田マリエ名義で漫画家としてデビューした。 1982年(昭和57年)には同作がフジテレビにてテレビアニメ化された。1983年(昭和58年)に劇場公開されたアニメ映画作品『パタリロ! スターダスト計画』では、魔夜が声優として特別出演した他、主題歌「RUN AWAY 美少年達(ローズボーイズ)!」の歌唱も担当した。 1984年(昭和59年)、フジテレビのクイズ番組『クイズ!お金が大好き』にレギュラー出演。 1988年(昭和63年)にトンキンハウス(東京書籍)から発売されたファミリーコンピュータ用ゲームソフト『エリュシオン』のキャラクターデザインを手がけている(元はPC-9800シリーズ用ゲームソフトの移植作で、1986年(昭和61年)にシステムソフトから発売された同名のアドベンチャーRPG)。また、『ラシャーヌ!』でこのゲームのキャラが脇役として登場した事がある。 1992年(平成4年)頃に突然倒れて意識不明になったことを、2011年『週刊文春』(文藝春秋)11月24日号にて妻の山田芳実が語っている。 1994年(平成6年)から数年間、ストーリー4コマ漫画の技法を作品に積極的に取り入れていた。一般的なストーリー漫画の途中で4コマ漫画が突如挿入されるという独特のスタイルで、魔夜はこれをストーリー4コマの略で「スト4」と呼称。 1999年(平成11年)「パタリロ!」で第28回日本漫画家協会賞優秀賞受賞 2007年(平成19年)には『パタリロ西遊記!』が舞台化。魔夜はキャストとして出演もし、ダンスと振り付けを妻の山田が担当した。 2008年(平成20年)時点で開始から30年を越えた『パタリロ!』は、その後も連載を継続中。『パタリロ!』シリーズは外伝も含めれば100冊を越え、少女漫画界では随一の長編作品である。 2015年(平成27年)、1986年(昭和61年)出版の短編集に収録されていた『翔んで埼玉』がネットで話題となり、約30年ぶりに復刻出版され、2015年(平成27年)12月25日時点でAmazonの本の売れ筋ランキングで1位となった。 2019年(平成31年)2月22日、『翔んで埼玉』が実写映画公開された。冒頭のシーンに本人役で出演している。 オーブリー・ビアズリーに影響を受けたという、ベタを印象的に使って、白黒の強い階調を感じさせる独特の画風が特徴。また、背景が極度に抽象化されて描かれることが多い。主人公名がそのままタイトルになっている作品が多い。その事について魔夜自身は「読者に早く主人公の名前を覚えて貰うため」と語っている。「頭にノコギリや傘を突き立て、流血させたまま平気でキャラクターに会話を続けさせる」というギャグを好んで使う。また、時折ほとんど意味のないコマが合間に登場する。 ネームを描かず最初から原稿を描き始めるので、結末近くのコマが台詞だらけになることもままあるとのこと。 大学を辞めたのち、漫画家になりたいから2年間食わせてくれと親を説得し、人生で一番読書を行った。各国のSFと推理小説をメインに半年で約750冊を読破、SFをはじめ多岐に渡る知識を得ており、それが作品に影響している。クトゥルー神話にも造詣が深く、複数の作品のコンセプトとなっている。また、服の皺はさいとう・たかを、草の描き方等は水木しげる、横顔は池田理代子、ふきだしは萩尾望都から影響を受けているとの事。ギャグ漫画の執筆は『がきデカ』を読んだことが一つのきっかけとなった。 過去には「まだ誰も手を付けていないジャンルを描こう」と考え、『パタリロ!』を中心とする作品群でいろいろ手を広げてみたが、いざ描いてみると「すでに手塚治虫さんがすべて開拓済みだったんだよ」として絶望したという。 「ミ~ちゃんち NO.9(『親バカの品格』収録)」によると、毎週月曜日から金曜日の5日間、1日8時間仕事をしており、締め切りを破るどころか「締め切りの2ヶ月前」に原稿を上げたこともある。だが、一度だけ30ページの予定を一本丸々忘れていたことがあり、まだ手を付けていなかった仕事のページ数を減らしてもらったことがある。
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魔夜 峰央は、日本の男性漫画家。新潟県新潟市(現・同市中央区)出身。血液型はO型。通称(作品内での一人称)「ミーちゃん」。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 魔夜 峰央 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 山田 峰央(やまだ みねお) | 生年 = {{生年と年齢|1953}} | 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[新潟市]](現・[[中央区 (新潟市)|中央区]]) | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1953|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1973年]] - | ジャンル = [[ギャグ漫画]]<br />[[少女漫画]] | 代表作 = 『[[パタリロ!]]』<br />『[[翔んで埼玉]]』 | 受賞 = 第28回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(『パタリロ!』)<!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''魔夜 峰央'''(まや みねお、本名:'''山田 峰央'''〈やまだ みねお〉、[[1953年]]〈[[昭和]]28年〉 - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[新潟県]][[新潟市]](現・同市[[中央区 (新潟市)|中央区]])出身。[[血液型]]は[[ABO式血液型|O型]]。通称(作品内での一人称)「'''ミーちゃん'''{{efn2|「親バカ日記」によれば幼少時から使われていた愛称で、親戚の目上の方々からは今でもそう呼ばれているとのこと。}}」。 == 来歴 == [[新潟市立関屋中学校]]卒業後、[[新潟県立新潟南高等学校]]に入学。高校2年の夏休み中の[[8月28日]]より漫画を描き始め、以後毎日執筆を続けたとの事<ref name="kyutou">[https://web.archive.org/web/20041010064515/http://realguide.jp.real.com/realonehome/097/from_editors.html リアルガイド給湯室 魔夜峰央スペシャルインタビュー](2004年10月10日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。[[大阪芸術大学]]に入学したが2年で退学。 [[1973年]]([[昭和]]48年)、『[[デラックスマーガレット]]』([[集英社]])1973年秋の号に掲載の『見知らぬ訪問者』で[[デビュー]]。当初は本名での作品発表であったが、後に現在の[[ペンネーム]]に改名。 [[1978年]](昭和53年)、『[[ラシャーヌ!]]』を連載開始。デビュー以来[[オカルト]]・[[ホラー漫画|ホラー]]もしくは[[ミステリー]]調のシリアス路線が作品の主体であったが、同作から[[ギャグ]]路線に変更。<br />同年、『[[パタリロ!]]』の連載開始。 [[1980年]](昭和55年)頃、[[バレエ]]ダンサーの[[山田芳実]]と出会い、後に[[結婚]]。二人が出会った時の年齢は、自身のキャラクターである[[ジャック・バルバロッサ・バンコラン|バンコラン]]と[[マライヒ]]の年齢と奇しくも同じであったという<ref name="kyutou"/>。その後、2児(一男一女)をもうける<ref name="comicate">[https://web.archive.org/web/20010128193300/http://www.hakusensha.co.jp/comicate/comi_no54/maya/mineo.html コミケイト No.54 魔夜峰央先生インタビュー](2001年1月28日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。娘は[[2017年]]([[平成]]29年)に[[山田マリエ]]名義で漫画家としてデビューした。 [[1982年]](昭和57年)には同作が[[フジテレビジョン|フジテレビ]]にて[[テレビアニメ]]化された。[[1983年]](昭和58年)に劇場公開されたアニメ映画作品『[[パタリロ!#実写映画|パタリロ! スターダスト計画]]』では、魔夜が[[声優]]として[[クレジットタイトル#特別出演|特別出演]]した他、主題歌「RUN AWAY 美少年達(ローズボーイズ)!」の歌唱も担当した<ref>[https://web.archive.org/web/20080204172926/http://shop.anime-bb.com/anime/_item/item024212_0000.htm 東映アニメBBプレミアム スターダスト計画](2008年2月4日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 [[1984年]](昭和59年)、フジテレビの[[クイズ番組]]『[[クイズ!お金が大好き]]』にレギュラー出演。 [[1988年]](昭和63年)に[[トンキンハウス]]([[東京書籍]])から発売された[[ファミリーコンピュータ]]用ゲームソフト『[[エリュシオン (ゲーム)|エリュシオン]]』のキャラクターデザインを手がけている(元は[[PC-9800シリーズ]]用ゲームソフトの移植作で、[[1986年]](昭和61年)に[[システムソフト]]から発売された同名のアドベンチャーRPG)。また、『ラシャーヌ!』でこのゲームのキャラが脇役として登場した事がある。 [[1992年]](平成4年)頃に突然倒れて意識不明になったことを、[[2011年]]『[[週刊文春]]』([[文藝春秋]])11月24日号にて妻の山田芳実が語っている。 [[1994年]](平成6年)から数年間、[[4コマ漫画#ストーリー4コマ|ストーリー4コマ漫画]]の技法を作品に積極的に取り入れていた。一般的なストーリー漫画の途中で4コマ漫画が突如挿入されるという独特のスタイルで、魔夜はこれをストーリー4コマの略で「スト4」と呼称。 [[1999年]](平成11年)「パタリロ!」で第28回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞受賞。 [[2007年]](平成19年)には『[[パタリロ!#番外作品|パタリロ西遊記!]]』が舞台化。魔夜はキャストとして出演もし、ダンスと振り付けを妻の山田が担当した<ref>[https://web.archive.org/web/20071017151031/http://www.hc-c.co.jp/kikaku/k-003.html HCC ACADEMY/ハリウッドチャンネル・カートゥーン株式会社 企画制作部](2007年10月17日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 [[2008年]](平成20年)時点で開始から30年を越えた『パタリロ!』は、その後も連載を継続中。『パタリロ!』シリーズは外伝も含めれば100冊を越え、少女漫画界では随一の長編作品である{{efn2|連載期間としては、[[1976年]](昭和51年)に開始された『[[ガラスの仮面]]』・『[[エロイカより愛をこめて]]』・『[[王家の紋章]]』等のほうが長い}}。 [[2015年]](平成27年)、[[1986年]](昭和61年)出版の短編集に収録されていた『[[翔んで埼玉]]』がネットで話題となり、約30年ぶりに復刻出版され、2015年(平成27年)12月25日時点で[[Amazon.co.jp|Amazon]]の本の売れ筋ランキングで1位となった<ref>[https://web.archive.org/web/20151225214538/http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books Amazon.co.jp 売れ筋ランキング](2015年12月25日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 [[2019年]](平成31年)2月22日、『翔んで埼玉』が実写映画公開された<ref>{{Cite web|和書|title=二階堂ふみが初の男役&GACKTが高校生役!「翔んで埼玉」にダブル主演 : 映画ニュース|url=https://eiga.com/news/20180409/1/|website=映画.com|accessdate=2019-02-19|language=ja}}</ref>。冒頭のシーンに本人役で出演している。 == 作風と影響 == [[オーブリー・ビアズリー]]に影響を受けたという、[[ベタ (漫画)|ベタ]]を印象的に使って、白黒の強い階調を感じさせる独特の画風が特徴。また、背景が極度に抽象化されて描かれることが多い。[[主人公]]名がそのままタイトルになっている作品が多い。その事について魔夜自身は「読者に早く[[主人公]]の名前を覚えて貰うため」と語っている。「頭にノコギリや傘を突き立て、流血させたまま平気でキャラクターに会話を続けさせる」というギャグを好んで使う。また、時折ほとんど意味のないコマが合間に登場する。 [[ネーム_(漫画)|ネーム]]を描かず最初から原稿を描き始めるので、結末近くのコマが台詞だらけになることもままあるとのこと。 大学を辞めたのち、漫画家になりたいから2年間食わせてくれと親を説得し、人生で一番読書を行った。各国の[[サイエンス・フィクション|SF]]と[[推理小説]]をメインに半年で約750冊を読破、SFをはじめ多岐に渡る知識を得ており、それが作品に影響している。[[クトゥルフ神話|クトゥルー神話]]にも造詣が深く、複数の作品のコンセプトとなっている<ref>トワイライト大禍刻</ref>。また、服の皺は[[さいとう・たかを]]、草の描き方等は[[水木しげる]]、横顔は[[池田理代子]]、[[ふきだし]]は[[萩尾望都]]から影響を受けているとの事<ref name="kyutou"/><ref name="BL">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma09|author=[[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]|title=田中圭一×『パタリロ!』魔夜峰央先生インタビュー|date=2015-11-27|accessdate=2016-08-06|publisher=[[BookLive]]}}</ref>。ギャグ漫画の執筆は『[[がきデカ]]』を読んだことが一つのきっかけとなった<ref>{{Cite web|和書|title=【インタビュー】『パタリロ!』生みの親・魔夜峰央はいかに“冬の時代”を過ごし、“春”を迎えたか |url=https://news.livedoor.com/article/detail/16528939/ |website=ライブドアニュース |access-date=2023-08-18 |language=ja |quote=『がきデカ』(作:山上たつひこ)という漫画が大変評判になっていると聞いて、本屋で立ち読みしたんですよ。 そのとき「自分も描けそうだな」と感じたのを覚えています。テンポ感でしょうかね? それまではギャグ漫画を描けるとも描こうとも思わなかったんですけど。}}</ref>。 過去には「まだ誰も手を付けていないジャンルを描こう」と考え、『パタリロ!』を中心とする作品群でいろいろ手を広げてみたが、いざ描いてみると「すでに[[手塚治虫]]さんがすべて開拓済みだったんだよ」として絶望したという<ref name=gnavi />。 「ミ~ちゃんち NO.9(『親バカの品格』収録)」によると、毎週月曜日から金曜日の5日間、1日8時間仕事をしており、締め切りを破るどころか「締め切りの2ヶ月前」に原稿を上げたこともある。だが、一度だけ30ページの予定を一本丸々忘れていたことがあり、まだ手を付けていなかった仕事のページ数を減らしてもらったことがある。 == 人物 == {{出典の明記|date=2011年11月3日 09:36 (UTC)|section=1|ソートキー=人}} * 『妖怪缶詰』によれば、名前の由来は[[大角岑生]]([[昭和]]期の[[海軍大将]])からとったと言われている。 * [[悪魔]]や[[妖怪]](存在するかという科学的考察でなく、[[田舎]]には何か潜んで欲しいという人文科学的興味)、そして[[宝石]](持ち運べる財産として調べ始めた趣味)の知識に長けていて、それらを生かした「[[オカルト]]」「[[ミステリー]]」「[[ギャグ]]」の作品が多い。 * 自身の好きなキャラクターは[[マライヒ]]。 * [[同性愛]]を題材にする作品を多く手がけているため、同性愛者からは作者自身が同性愛者と思われる事が多く、ファンレターや写真集が送られてきた事もあった<ref>[https://web.archive.org/web/20050529032309/http://www.kids-station.com/minisite/patalliro-saiyuki/int_maya/index.html 『パタリロ西遊記!』魔夜峰央先生スペシャルインタビュー](2005年5月29日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 * 尊敬する人物は、[[新潟県第3区 (中選挙区)|当時の区分けで同じ選挙区]]だった[[田中角栄]]。また、[[落語家]]では[[古今亭志ん生 (5代目)|古今亭志ん生]]と[[立川談志]]を挙げている<ref name="comicate"/>。作中にも落語ネタが随所に出てくる。 * [[ばんばひろふみ]]の「[[パックインミュージック]]」の「青春の激怒」に投書をして放送で読まれたことがある。内容は、ばんばが「パタリロ」を「パタリ口(ぐち)」と誤読したことに抗議するものだった。 * [[2010年]](平成22年)7月末から[[Twitter]]で発言している。薦めたのは『パタリロ!』文庫版で解説を書いた縁のある[[相川七瀬]]。妻の山田芳実も数週間先にTwitterを始めており、夫婦の会話が発言上で交わされる事もある。アカウントを"miichan28saipru"とするなど「永遠の28歳ネタ」は健在である。 * 過去に[[埼玉県]]に住んでいたことがある。 * 母親の実家が[[真言宗]]の寺で、自身も真言宗の信者であり、場合によっては[[僧侶]]になっていたかもしれないとTwitterにて告白している。ちなみに、彼の代表作『[[パタリロ!]]』の主人公・[[パタリロ・ド・マリネール8世]]も真言宗の信者という設定がある。 * 作者にとって最も愛着があるキャラクターは「竹中くん」<ref>[[集英社]]ホームコミックス『スーパーキャット』巻末インタビュー {{ISBN2|978-4-8342-3185-4}}</ref>。紐のように細い目と、歯をみせて笑っているような表情を常に崩さないのが特徴の少年キャラで、多くの魔夜作品でモブやゲストとして登場している。ただし、彼がレギュラーに採用された作品は一つもない。竹中くんは作品によって性格や役所は異なり、一種の[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]]として機能している。 * 『[[ガラスの仮面]]』の作者[[美内すずえ]]のアシスタント経験があり、後年『パタリロ!』で「ガラスのパタリロ仮面」(劇中でパタリロが『ガラスの仮面』の演劇を行う。単行本第37巻収録)というエピソードを描いている。美内も、『ガラスの仮面』で主人公[[北島マヤ]]にクックロビン音頭の手拍子「パパンがパン」を観客に求めさせている。 * 『少女まんが入門』で「こんな変な人も実際に生きてるのだから、面白いキャラクターを考える際の参考に」と魔夜から[[鈴木光明]]に届いた手紙が紹介され、「先生から電話が掛かってきた後、愛犬を連れて散歩に出たら[[百円硬貨|100円]]を拾いました。さすが先生からの電話には御利益があると思いましたが、よく考えたら、今時100円じゃ何も買えません。次から[[一万円紙幣|1万円]]拾えるように電話を掛けて下さい」との文面が公開されている<ref>鈴木光明『少女まんが入門』白泉社、初版発行S54年11月15日、P161。</ref>。また、魔夜の本名(山田 峰央)のことも取り上げられ、「[[山田ミネコ]]の旦那さんではありません」とも説明されている。 * 縄張り意識が強い一面があり、自宅でも自分の部屋には、たとえ家族であっても絶対に入らせないという<ref name=gnavi>[http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/2234 【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第11話: 『パタリロ!』魔夜峰央とブリの握り] - ぐるなび みんなのごはん。・2015年4月21日</ref>。 * 酒豪であり、娘曰く「[[ウイスキー]]をストレートで並々と注いであっという間に飲む」らしい<ref name=gnavi />。しかし暴飲が祟り、[[2016年]](平成28年)2月に肝臓を患い倒れ療養を余儀なくされた。倒れた時点で[[Γ-GTP]]の値が1,230(健康な状態であれば16から86)に達していたという<ref name="ajiichimonnme">[[小学館]]「[[味いちもんめ]] 食べて・描く!漫画家食紀行2」([[倉田よしみ]]){{ISBN2|978-4-09-189820-3}}</ref>。 * 一方、食事に対しては欲求がなく、現在{{いつ|date= 2020年8月}}は1日に夕食を1食摂るだけで食べることを面倒臭いと思うことすらあるという。<ref name=ajiichimonnme /> [[2019年]](平成31年)4月上旬に内視鏡検査で初期の[[食道癌|食道ガン]]が見つかる。 == 継続中の作品 == * 『パタリロ!』(正編/本編)<ref name="2018-12-02">{{Cite web|和書|date=2018-12-02|url=https://natalie.mu/comic/news/310437|title=魔夜峰央、パタリロ!100巻&40周年イベントで「目標は200巻。あと40年待って」(12月1日池袋コミュニティ・カレッジで開催のトークイベント。加藤諒)|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|accessdate=2018-12-14}}</ref> …[[白泉社]]『[[マンガPark]]』 * 『眠らないイヴ』 …[[竹書房]]『[[まんがライフ]]』毎年1回・1月号のみ掲載 * 『May探偵プリコロの○○』 …[[東京創元社]]『[[Webミステリーズ!]]』(毎月15日更新) == 作品リスト == <!-- 現状は順不同 --><!-- 継続作品が独立した節のため、作品リストの節でも同一作品を重複して列挙。 --> === パタリロ! 及びラシャーヌ! 関連 === * [[パタリロ!]] …『[[マンガPark]]』(1978年 - '''連載中'''){{efn2|過去の掲載雑誌については当該項を参照。}}<ref name="2018-12-02">{{Cite web|和書|date=2018-12-02|url=https://natalie.mu/comic/news/310437|title=魔夜峰央、パタリロ!100巻&40周年イベントで「目標は200巻。あと40年待って」(12月1日池袋コミュニティ・カレッジで開催のトークイベント。加藤諒)|website=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=株式会社ナターシャ|accessdate=2018-12-14}}</ref>- [[2022年]]6月時点で、[[花とゆめコミックス]]の正編のみで104巻まで刊行されている。[[スピンオフ作品]]まで含めればコミックスの巻数は120巻を超えている。 * [[パタリロ!]]99.9 [トリビュート・ファンブック] - 1~100巻ストーリーガイド * [[パタリロ!]] [アニメ全百科] - 花とゆめコミックススペシャル(1982年)。原作・魔夜峰央、白泉社・フジテレビ・東映動画による共著<ref>表紙カバー・巻末にはノンクレジットだが、[[白石冬美]](対談)・[[金春智子]](脚本のノヴェライズ)なども内容制作に参加している。</ref>。アニメ版のキャラクター設定デザイン集、アフレコ風景など。 ** [[パタリロ西遊記!]] - 『[[MELODY (雑誌)|月刊メロディ]]』 *** パタリロ西遊記!外伝 ** [[パタリロ源氏物語!]] - 『[[MELODY (雑誌)|MELODY]]』 ** [[家政夫パタリロ!シリーズ]] - 『[[Silky]]』 *** 家政夫パタリロ! *** 奥様はパタリロ! *** ビストロ温泉パタリロ! *** 出もどり家政夫パタリロ! *** 仁義なき家政夫パタリロ! ** パパ!?パタリロ! - Silkyに連載された本編の外伝。 ** 恋するマライヒ - 花とゆめコミックススペシャル(2018.11.20) * [[ラシャーヌ!]] - 『[[花とゆめ]]』『[[別冊花とゆめ]]』『[[LaLa]]』など(1978年 - 1989年) === アスタロト === * [[アスタロト (漫画)|アスタロト]] 【未完】 - 『別冊プリンセス』(1991年 - 1994年) ** [[アスタロト (漫画)|アスタロト外伝]] 【未完】 - 『ひとみCCミステリー』(1995年 - 1996年) ** [[アスタロト (漫画)|ファーイースト]] === トラウマ!! 及び関連作品 === * [[妖怪始末人トラウマ!!]] - 『[[月刊コミコミ]]』(1986年 - 1988年) ** 妖怪始末人トラ・貧!! - 『[[プリンセスGOLD]]』(1991年 - 1993年) ** 妖怪始末人トラウマ!!と貧乏神 - 『別冊[[YOU (雑誌)|YOU]]』(2007年 - 2009年) * 妖怪学園ザビエル === その他の連載・シリーズ === * [[妖怪盗賊マザリシャリフ]] - 『[[LCミステリー]]』(1994年 - 1995年) * 邪神ハンター ピーチドラゴン * [[ゼロ星]] - 『プリンセスGOLD』(1994年 - 1997年) * 毒師プワゾン * 破異スクール斬鬼郎 * [[美少年的大狂言]] * 魔ジャリ * [[翔んで埼玉]] * 横須賀ロビン * [[やおい君の日常的でない生活]] * ルル亀! - 『[[少年ジェッツ]]』(1981年 - 1982年) * おらが丸 * [[V.マドンナ大戦争|V.マドンナ]](原作・[[野沢尚]]) * 面白半分個 * 妖怪缶詰 * 親バカ日誌 ** 親バカの壁(親バカ日誌2) ** 親バカ輪舞(親バカ日誌3) ** 親バカの品格(親バカ日誌4) * シオン魔日記 * ミッドナイト・ディメンション * サプライズホテル * クレプスキュール -逢魔が刻- ** トワイライト -大禍刻- ** オーロラ -王魔が刻- * 魔夜峰央のまどろみ日記 本日も異常ナシ(『きのう今日ナス』改題) * 黄昏マンガ家ミーちゃんのSFですよ<!-- エッセイ漫画。『COMICリュウ』連載。全5回。単行本「トワイライト」「オーロラ」に併録。ただし第5回は未収録。 --> * [[May探偵プリコロ]] ** [[May探偵プリコロ|May探偵プリコロの○○]] * [[邪神ハンターピーチドラゴン]] * [[眠らないイヴ]] … 『[[まんがライフ]]』(2000年 - '''連載中''') - 1月号に毎年掲載される作品で、連載スタートから18年後に単行本1巻が出版。 * 2万光年翔んで新潟 - 「目玉のマッチャン」改題作を含む全5作から成るSF関連作品集<ref>新潟日報モア・webニュース『「翔んで新潟」16日発売 新潟市出身の魔夜さん新刊。』(2020/10/09 08:25)</ref>。 <!-- 単行本化されるなり、特筆性が見いだされるなりしたら復帰もあり得るので、コメントとしておきます。 * 『魔夜峰央のスーパーキャット』 …[[ホーム社]]『[[猫のweb漫画]]』- 現在は『ねこまんweb』。連載終了か?連載時期の誌名が『猫のweb漫画』だった可能性はあり。既刊単行本1冊(眉間のため詳細不明)。--> === 読み切り・短編など === * 怪奇生花店 * この世の果て * ヴァンコラン * ルル=ベル火星行 * タロット *パンドラキン *てれてんぽ *吸血のデアポリカ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist|2}} == 関連項目 == * [[PATA]] ([[X JAPAN]]) - 名前の由来は[[パタリロ・ド・マリネール8世|パタリロ]]に似ていることから。『パタリロ!』の単行本第44巻にてパロディとして題材になっている。<!-- PATA本人の記事に該当の内容がなく、出典の必要性が高い。文庫版に収録の西村知美による解説、また『ロッキンf』関係誌での対談に付いての補記をお願いします --> * [[クトゥルフ神話]] == 外部リンク == * {{twitter|miichan28saipru|魔夜峰央}}(2010年7月31日 - 2014年4月9日 03:02)'''※ [[協定世界時|UTC]]表記。''' * {{マンガ図書館Z作家|590}} * {{Wayback |url=http://manganohi.com/interview/21/14957.html |title=まんが☆天国 まんがのチカラ「魔夜峰央先生編 その1」インタビュー |date=20090907103647}} * [https://www.asahi.com/articles/ASM813HYMM81UCLV001.html 「翔んで埼玉」の魔夜峰央、映画ヒット中にがん見つかる(朝日新聞デジタル2019年8月12日記事) ] {{パタリロ!}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まや みねお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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梶原一騎
梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は高森 朝樹(たかもり あさき)。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。身長180cm、体重85kg。空手五段、柔道二段(1983年7月28日の自己申告)。 1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆる「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。 弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子(1945年3月5日 - 2015年4月6日)。1973年から1985年にかけて離婚期間があり、その間の1979年から81年にかけて台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。高森篤子との間に2人の娘と3人の息子がおり、白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。 東京市浅草区石浜(現 台東区橋場)の木賃アパートで知的でインテリな父・高森龍夫と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った。父方の祖父が熊本県阿蘇郡高森町周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市)の親戚の家へ預けられたという程度である。 弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。 幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の1943年に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、朝樹の持つ荒い気質と校風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。この頃すでに梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出されることになり、梶原はわずか1年生にして退学。家の近くの公立小学校に入れられた。その際に担任の教師に叱り付けられ「あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか」と罵られ、この言葉に朝樹は子供心にも傷ついた。 公立小学校時代は同級生に、雑誌『暮らしの手帖』編集長花森安治の長女葵がいる。梶原は取れたボタンを付けてもらった等の思い出があり、淡い思いを抱いていたというが、当の葵は「高森くん」という同級生がいたことは覚えていたものの、それ以上の詳しい記憶はないという。 その後、1945年に入ると東京が連合国軍機の空襲を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、ミカン山を営んでいた父の叔父である林進士が住む宮崎県東臼杵郡富島町(現在の日向市)に疎開。しかし、現在家督を継いでいる林晴夫の話によれば、富島町亀崎村の日向灘を見下ろす山の中腹にあった林家の裏手のミカン畑は当時開墾されて間もなく、まだ苗を植えたばかりだったから、さしたる収穫がなかった。それよりも自給自足の耕作が必要で当時八歳だった朝樹は、母と共に肥やしを担ぎ、苗の隙間で芋を育てては掘っていた。 戦後、川崎市に転居。このころ教護院「新日本学園」で1年を過ごしている。のち東京都大田区蒲田に移り、大田区立相生小学校に学ぶ。小学生時代、蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(真樹日佐夫)まで引き込むようになったため、両親の配慮で青梅市の教護院「東京都立誠明学園」に送られ中学相当の3年間を過ごす。 誠明学園在学中は寮から少なくとも二度脱走している(一度目は自宅に到着する前に連れ戻された)。なお「梶原」とは誠明学園時代に恋仲で結婚まで考えていた娘の苗字に由来する筆名である。のち真樹日佐夫は高校時代に空き巣狙いを繰り返して鑑別所に送られたが、担当刑事から共犯者の存在を示唆された母は梶原に疑いの目を向けた。 東京都立芝商業高等学校を半年ほどで中退(本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者となる。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという。 その一方、文学青年の一面を持ち小説家を志していた。1953年、17歳の時に「梶原一騎」のペンネームでボクシング小説「勝利のかげに」を雑誌『少年画報』に応募し、見事入選を果たす。17歳の少年小説家「梶原一騎」の誕生である。以来、スポーツ物の少年小説を多数執筆するようになるが、雑誌の中で少年小説に代わって漫画が誌面を占めるようになったため、梶原の活躍の場が狭まる事となった。 東京中日スポーツで『力道山物語』を連載し、好評を得て、力道山から直々に電話をもらい、力道山と親密な関係となる。その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『週刊少年マガジン』初代編集長・牧野武朗が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)の連載(原作)を依頼。1962年から連載開始した同作は人気を博し、テレビドラマ化され、その際、梶原本人が力道山に本人役の依頼を交渉。テレビも好評であった。 その後は生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていたが、自分の本意ではない漫画原作を続ける事に抵抗があり、やめようかと悩むようになる。 その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、1966年野球漫画『巨人の星』(画:川崎のぼる)の連載を開始。連載当初から人気が高く、1968年にはテレビアニメとなり、視聴率30%を超える空前の大ヒットとなった。 『巨人の星』を皮切りに『柔道一直線』『夕やけ番長』を連載。どちらもヒット作となり、特に『柔道一直線』は桜木健一主演でドラマ化され、大ヒットとなった。 1968年『週刊少年マガジン』誌上でボクシング漫画『あしたのジョー』(画:ちばてつや)を連載。『巨人の星』との差別化を図るためペンネームを梶原一騎ではなく、本名の末字を変えた「高森朝雄」とし、爆発的な人気を呼ぶ。主人公・矢吹丈のライバルである力石徹の死に講談社では葬儀が執り行われ、600名もの弔問客が集まった。また当時起こった「よど号ハイジャック事件」では実行犯グループのリーダー・田宮高麿が「我々は明日のジョーである」という声明文を発表するなど社会現象となった。 それ以降も『タイガーマスク』『赤き血のイレブン』『キックの鬼』『空手バカ一代』『侍ジャイアンツ』などヒット作を量産する。 1973年に『愛と誠』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったが、同作では梶原版「ロミオとジュリエット」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなる。1975年講談社漫画賞を受賞。 松竹で映画化されたことにより、芸能界のひのき舞台へ出る。1974年、同作のテレビドラマ化にあたり、オーディションで選ばれた池上季実子を池上の所属プロから引き抜き、梶原プロダクションを設立。映画界への進出を企て、梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と1975年「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。いくらヒットを飛ばそうと、独立プロのトップは、メジャー映画会社のトップと飲み食いすることはないが、梶原を原作とする、製作する映画がヒットを続けることで、松竹や娯楽性の豊かさに目をつけた東映が、梶原を大事にするようになった。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れる。この頃から、当時の映画界の四巨星といわれた東映の岡田茂、東宝の松岡功、大映の徳間康快、松竹の奥山融とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を効かせるようになった。 三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順が監督をした10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている。 自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。 1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は覚醒剤常習容疑だったという。警察は、梶原が萩原健一(当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていた。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版となり、名声は地に落ちた。 2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。 1985年3月14日、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける。1985年、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始。漫画原作者からの引退を宣言して、『漫画ゴラク』誌上にて「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院にて死去、50歳没。病室には辞世の句が残されていた。 【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】 『男の星座』は未完に終わった。 死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の気運が高まるのは、1990年代半ばになってからである。 2005年の東京アニメアワードにて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。 梶原の世界は、戦前の『少年倶楽部』等で人気を呼んだ佐藤紅緑らの熱血小説と教養小説の世界の系譜と戦後の福井英一『イガグリくん』などの流れを受け継いだものと指摘されている。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の手塚治虫には欠けた要素であり、事実手塚は生涯、梶原が得意としたスポーツ漫画と格闘漫画を手がけなかった(ただし手塚は「巨人の星対鉄腕アトム」の企画やアニメ「あしたのジョー」が虫プロダクションにより作られるなど積極的に梶原と関わっている)。逆に梶原は桑田次郎と組んだ唯一のSFアクション作品である『ゴッド・アーム』以外、SFやファンタスティックな作品は手がけていない。 梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品は少ないといわれている。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。 ストーリーの展開としては型破りで奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の大リーグボール養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『愛と誠』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。 若手時代、五味康祐の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。 主人公とライバルは片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。総じて「主人公を甘えさせてくれる母親がいない」というケースがすべての作品における普遍的なテーマとなっている。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「巨人の星」、「あしたのジョー」、「タイガーマスク」、「柔道一直線」、「柔道讃歌」の項目を参照)。大山倍達も、スピンアウト的作品『ボディガード牙』では、ある種の魔王的な存在として登場する。 『ボディガード牙』『新ボディガード牙』は暴力描写がSMの域に達して梶原の暗黒面がもっとも強調された作品群となっている。内乱に明け暮れる海外が舞台となったこともあって拷問場面が執拗に繰り返されるが、それまで支配者や悪の側にたっていたものが立場を失って壮絶な虐待を受けたり、虐げられていた者が一転して鞭をふるったりなどの価値転換、錯綜のカオスともなっている(こうした趣向は『愛と誠』にも見られる)。作中では「人間の性、悪なり!」という慨歎が繰り返されている。 1980年代に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などでパロディーの対象とされた。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめはギャグとして読んでいたと語り、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などが典型例である。 「原作の内容は一字一句変えてはならない」という不文律があり、絵を描く漫画家に強制していた。その代わりに、漫画家の絵のタッチやコマ割り等の内容に関しては一切文句を言わなかったといわれている。 昭和40年代(1965年から1974年)に入るとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。 漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。少女漫画の世界にも梶原の影響は及び、『サインはV』『アタックNo.1』といったスポ根ものが人気を博した。 一方では映画作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界ではアントニオ猪木の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。 だがその一方で「カポエイラはずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「ブルース・リーは極真空手を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『プロレススーパースター列伝』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。 1983年の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても自らの社会的地位が一向に上昇しないこと、小説家志望の自分に常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ち、鬱屈が引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、幼馴染、ホステスに向けたこともあった。 また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの竹熊健太郎は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している。 小林よしのりは自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し「怒りを招くのではないか」と危惧していたが、梶原は「自分にはギャグは書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。後に小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という花形満の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。 ギャグ漫画の巨匠・赤塚不二夫とは飲み仲間であり、赤塚に対し一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』1999年・集英社刊)。著書『劇画一代』の中でギャグ漫画は個人的には好きであると明かし、山上たつひこのギャグを評価しつつも、「赤塚は文化人を気取っているからそこまでやれぬ、やらぬだけで、もし赤塚が本気になってギャグ漫画を描けば山上ごときは消し飛んでしまう」と評している。小学館の赤塚担当編集者だった武居俊樹は著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、梶原が赤塚に直接「俺、ギャグは描けないんだ。だからあんたの漫画の原作は描けないな」と言ったことを記している。なお、梶原が言うところの「ギャグ」は初期の赤塚が得意としていたペーソス的なコメディに近く、晩年の作品『人間兇器』『SP長い顎』『男の星座』などでは、意図的にコメディ的な描写を行っていた。 1983年の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまで不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった。しかし、1990年代半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、1994年、劇作家・高取英・著『梶原一騎を読む』(1994年・ファラオ企画刊)である。夏目房之介、いしかわじゅん、呉智英といった論客たちが寄稿し、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、1994年8月15日付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走するビートたけしを対比させた論評が掲載された。そして、ジャーナリスト・斎藤貴男が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-』(1995年・新潮社刊)により、再評価の気運が高まった。本書は1995年3月19日付の朝日新聞書評欄で作家・沢木耕太郎による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまでタブーとされていたマスメディアでも『驚きももの木20世紀』(1997年4月25日オンエア)を皮切りに『二十世紀最強の秘蔵映像211連発!』(1997年12月31日オンエア)『BSマンガ夜話』『ブロードキャスター』(1999年4月3日オンエア)『ダウンタウンDX』などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた関口宏司会による人気番組『知ってるつもり?!』(1999年7月11日オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された。 今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』「あしたのジョーの、あの時代」(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。 アメリカでかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。 1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)の3年間、大山道場で空手修行もしていた。指導をした渡邊一久は「週に1, 2回は稽古に来ていた。左半身に構え、ワンツーの殴打技を主にし、蹴り技はあまりなかった。巨体と柔道経験を活かして組んで投げようとするが、足捌きが速い大山道場の強豪を捉えられなかった。相手の突きを身体で受け、前に出て突きで攻める熱闘型の組手スタイルだった。昭和33年(1958年)頃、昇級審査を受け、緑帯を允許された。大山倍達先生は、作家としてまだ無名だった梶原一騎氏を『将来、大山道場を宣伝してくれる人だから』と語り、空手の達人が活躍する主人公の小説を書いてほしかったようだが、その先見の明は10数年後に証明されることとなった。」と述べている。 1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。 1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。 しかし1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というのがその理由。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気は高かった。当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して連載終了の気配を示しにくい状況ではあったが、つのだ自身が以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定していた、などの要因が重なったことで最終的にはつのだの意見を容れ、降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れすることはなく、すぐに「うしろの百太郎」の連載が始まっている。 その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされた。苦肉の策として弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり盛り返したが、それが極真会館内部の人間関係や、大山との関係に大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも、大山は「(あの漫画は)大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは各エピソードが散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。 結果として、芦原英幸を中心にした新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。」と不満を持つ弟子もいたという。やがて空手家でもない梶原の勢力が、極真内部で拡大していくことに対する反発が起き、同時に彼を重用する大山への批判にも及んでいく。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。 そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している。事実、映画業界は徹底した配給会社優位のトップオフ方式であり、製作会社には相当なヒットでないと収益が出ない仕組みとなっている。1円も回収できないこともごく普通である)。 当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた。そんな時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることで、つのだが矢面に立たないよう配慮して再度お願いした。大山の熱心な申し出もあり、最終的にはつのだも引き受けることとなったが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、平岡正明の件は断り、一人で引き受けることとなった。 しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』は、内容について梶原の大きな不興を買うこととなった。タイトルにもなっている呼称「ゴッドハンド」は、確かに元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなかったのも一因である。この頃からつのだ本人及び編集サイドに梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、恐れたつのだは『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に、梶原一騎及び真樹日佐夫を中傷する内容のセリフをアナグラムで書いてしまう。それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。 その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1980年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。 その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。 1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。 没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた高木薫によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので」とだけ語ったという。もっとも墓参りはしていたという。 斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。 梶原一騎の原作において頻繁に他著からの引用が見られるが、その多くが梶原自身の創作であることが知られる。「水上で優雅に見える白鳥も水面の下では激しく足をばたつかせている」などのよく知られる知識なども事実とは異なる。 太字はテレビアニメ化した作品。斜線はテレビドラマ化した作品。 ○はアニメ映画化した作品。◎は実写映画化した作品。 ●はプログラムピクチャーとして公開された作品。△はラジオドラマ化した作品。 ▲は舞台化した作品。□はVシネマ及びOVA化した作品。×は未刊行作品。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は高森 朝樹(たかもり あさき)。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。身長180cm、体重85kg。空手五段、柔道二段(1983年7月28日の自己申告)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆる「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子(1945年3月5日 - 2015年4月6日)。1973年から1985年にかけて離婚期間があり、その間の1979年から81年にかけて台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。高森篤子との間に2人の娘と3人の息子がおり、白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京市浅草区石浜(現 台東区橋場)の木賃アパートで知的でインテリな父・高森龍夫と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った。父方の祖父が熊本県阿蘇郡高森町周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市)の親戚の家へ預けられたという程度である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の1943年に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、朝樹の持つ荒い気質と校風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。この頃すでに梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出されることになり、梶原はわずか1年生にして退学。家の近くの公立小学校に入れられた。その際に担任の教師に叱り付けられ「あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか」と罵られ、この言葉に朝樹は子供心にも傷ついた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "公立小学校時代は同級生に、雑誌『暮らしの手帖』編集長花森安治の長女葵がいる。梶原は取れたボタンを付けてもらった等の思い出があり、淡い思いを抱いていたというが、当の葵は「高森くん」という同級生がいたことは覚えていたものの、それ以上の詳しい記憶はないという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後、1945年に入ると東京が連合国軍機の空襲を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、ミカン山を営んでいた父の叔父である林進士が住む宮崎県東臼杵郡富島町(現在の日向市)に疎開。しかし、現在家督を継いでいる林晴夫の話によれば、富島町亀崎村の日向灘を見下ろす山の中腹にあった林家の裏手のミカン畑は当時開墾されて間もなく、まだ苗を植えたばかりだったから、さしたる収穫がなかった。それよりも自給自足の耕作が必要で当時八歳だった朝樹は、母と共に肥やしを担ぎ、苗の隙間で芋を育てては掘っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "戦後、川崎市に転居。このころ教護院「新日本学園」で1年を過ごしている。のち東京都大田区蒲田に移り、大田区立相生小学校に学ぶ。小学生時代、蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(真樹日佐夫)まで引き込むようになったため、両親の配慮で青梅市の教護院「東京都立誠明学園」に送られ中学相当の3年間を過ごす。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "誠明学園在学中は寮から少なくとも二度脱走している(一度目は自宅に到着する前に連れ戻された)。なお「梶原」とは誠明学園時代に恋仲で結婚まで考えていた娘の苗字に由来する筆名である。のち真樹日佐夫は高校時代に空き巣狙いを繰り返して鑑別所に送られたが、担当刑事から共犯者の存在を示唆された母は梶原に疑いの目を向けた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "東京都立芝商業高等学校を半年ほどで中退(本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者となる。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その一方、文学青年の一面を持ち小説家を志していた。1953年、17歳の時に「梶原一騎」のペンネームでボクシング小説「勝利のかげに」を雑誌『少年画報』に応募し、見事入選を果たす。17歳の少年小説家「梶原一騎」の誕生である。以来、スポーツ物の少年小説を多数執筆するようになるが、雑誌の中で少年小説に代わって漫画が誌面を占めるようになったため、梶原の活躍の場が狭まる事となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "東京中日スポーツで『力道山物語』を連載し、好評を得て、力道山から直々に電話をもらい、力道山と親密な関係となる。その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『週刊少年マガジン』初代編集長・牧野武朗が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)の連載(原作)を依頼。1962年から連載開始した同作は人気を博し、テレビドラマ化され、その際、梶原本人が力道山に本人役の依頼を交渉。テレビも好評であった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "その後は生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていたが、自分の本意ではない漫画原作を続ける事に抵抗があり、やめようかと悩むようになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、1966年野球漫画『巨人の星』(画:川崎のぼる)の連載を開始。連載当初から人気が高く、1968年にはテレビアニメとなり、視聴率30%を超える空前の大ヒットとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "『巨人の星』を皮切りに『柔道一直線』『夕やけ番長』を連載。どちらもヒット作となり、特に『柔道一直線』は桜木健一主演でドラマ化され、大ヒットとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1968年『週刊少年マガジン』誌上でボクシング漫画『あしたのジョー』(画:ちばてつや)を連載。『巨人の星』との差別化を図るためペンネームを梶原一騎ではなく、本名の末字を変えた「高森朝雄」とし、爆発的な人気を呼ぶ。主人公・矢吹丈のライバルである力石徹の死に講談社では葬儀が執り行われ、600名もの弔問客が集まった。また当時起こった「よど号ハイジャック事件」では実行犯グループのリーダー・田宮高麿が「我々は明日のジョーである」という声明文を発表するなど社会現象となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "それ以降も『タイガーマスク』『赤き血のイレブン』『キックの鬼』『空手バカ一代』『侍ジャイアンツ』などヒット作を量産する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1973年に『愛と誠』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったが、同作では梶原版「ロミオとジュリエット」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなる。1975年講談社漫画賞を受賞。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "松竹で映画化されたことにより、芸能界のひのき舞台へ出る。1974年、同作のテレビドラマ化にあたり、オーディションで選ばれた池上季実子を池上の所属プロから引き抜き、梶原プロダクションを設立。映画界への進出を企て、梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊、石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と1975年「三協映画」を設立した。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。いくらヒットを飛ばそうと、独立プロのトップは、メジャー映画会社のトップと飲み食いすることはないが、梶原を原作とする、製作する映画がヒットを続けることで、松竹や娯楽性の豊かさに目をつけた東映が、梶原を大事にするようになった。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れる。この頃から、当時の映画界の四巨星といわれた東映の岡田茂、東宝の松岡功、大映の徳間康快、松竹の奥山融とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を効かせるようになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順が監督をした10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1983年5月25日、講談社刊『月刊少年マガジン』副編集長・飯島利和への傷害事件で逮捕された。この逮捕により、過去に暴力団員とともに起こした「アントニオ猪木監禁事件」や、赤坂のクラブホステスに対する暴行未遂事件(1982年3月18日)、『プロレスを10倍楽しく見る方法』のゴーストライターのゴジン・カーンから10万円を脅し取った事件も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は覚醒剤常習容疑だったという。警察は、梶原が萩原健一(当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていた。その他にもさまざまなスキャンダルがマスメディアを賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版となり、名声は地に落ちた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2か月に及ぶ勾留後に保釈され、8月8日、山の上ホテルでステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症膵臓炎。死亡率が100%に近い病気であり、長年のアルコール依存や暴飲暴食が祟って胆石を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1985年3月14日、東京地裁刑事第二十八部で、懲役2年、執行猶予3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける。1985年、かねてからの念願だった小説家への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始。漫画原作者からの引退を宣言して、『漫画ゴラク』誌上にて「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『男の星座』(作画:原田久仁信)連載開始。力道山、大山倍達などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであったが、1987年(昭和62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、東京女子医科大学病院にて死去、50歳没。病室には辞世の句が残されていた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "『男の星座』は未完に終わった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の気運が高まるのは、1990年代半ばになってからである。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2005年の東京アニメアワードにて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "梶原の世界は、戦前の『少年倶楽部』等で人気を呼んだ佐藤紅緑らの熱血小説と教養小説の世界の系譜と戦後の福井英一『イガグリくん』などの流れを受け継いだものと指摘されている。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の手塚治虫には欠けた要素であり、事実手塚は生涯、梶原が得意としたスポーツ漫画と格闘漫画を手がけなかった(ただし手塚は「巨人の星対鉄腕アトム」の企画やアニメ「あしたのジョー」が虫プロダクションにより作られるなど積極的に梶原と関わっている)。逆に梶原は桑田次郎と組んだ唯一のSFアクション作品である『ゴッド・アーム』以外、SFやファンタスティックな作品は手がけていない。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品は少ないといわれている。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ストーリーの展開としては型破りで奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の大リーグボール養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『愛と誠』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "若手時代、五味康祐の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "主人公とライバルは片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。総じて「主人公を甘えさせてくれる母親がいない」というケースがすべての作品における普遍的なテーマとなっている。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「巨人の星」、「あしたのジョー」、「タイガーマスク」、「柔道一直線」、「柔道讃歌」の項目を参照)。大山倍達も、スピンアウト的作品『ボディガード牙』では、ある種の魔王的な存在として登場する。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "『ボディガード牙』『新ボディガード牙』は暴力描写がSMの域に達して梶原の暗黒面がもっとも強調された作品群となっている。内乱に明け暮れる海外が舞台となったこともあって拷問場面が執拗に繰り返されるが、それまで支配者や悪の側にたっていたものが立場を失って壮絶な虐待を受けたり、虐げられていた者が一転して鞭をふるったりなどの価値転換、錯綜のカオスともなっている(こうした趣向は『愛と誠』にも見られる)。作中では「人間の性、悪なり!」という慨歎が繰り返されている。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "1980年代に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などでパロディーの対象とされた。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめはギャグとして読んでいたと語り、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などが典型例である。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "「原作の内容は一字一句変えてはならない」という不文律があり、絵を描く漫画家に強制していた。その代わりに、漫画家の絵のタッチやコマ割り等の内容に関しては一切文句を言わなかったといわれている。", "title": "作品の特色" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "昭和40年代(1965年から1974年)に入るとテレビが一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、アニメ化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。少女漫画の世界にも梶原の影響は及び、『サインはV』『アタックNo.1』といったスポ根ものが人気を博した。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一方では映画作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界ではアントニオ猪木の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "だがその一方で「カポエイラはずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「ブルース・リーは極真空手を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『プロレススーパースター列伝』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1983年の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても自らの社会的地位が一向に上昇しないこと、小説家志望の自分に常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ち、鬱屈が引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、幼馴染、ホステスに向けたこともあった。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの竹熊健太郎は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "小林よしのりは自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し「怒りを招くのではないか」と危惧していたが、梶原は「自分にはギャグは書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。後に小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という花形満の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ギャグ漫画の巨匠・赤塚不二夫とは飲み仲間であり、赤塚に対し一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』1999年・集英社刊)。著書『劇画一代』の中でギャグ漫画は個人的には好きであると明かし、山上たつひこのギャグを評価しつつも、「赤塚は文化人を気取っているからそこまでやれぬ、やらぬだけで、もし赤塚が本気になってギャグ漫画を描けば山上ごときは消し飛んでしまう」と評している。小学館の赤塚担当編集者だった武居俊樹は著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、梶原が赤塚に直接「俺、ギャグは描けないんだ。だからあんたの漫画の原作は描けないな」と言ったことを記している。なお、梶原が言うところの「ギャグ」は初期の赤塚が得意としていたペーソス的なコメディに近く、晩年の作品『人間兇器』『SP長い顎』『男の星座』などでは、意図的にコメディ的な描写を行っていた。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1983年の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまで不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった。しかし、1990年代半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、1994年、劇作家・高取英・著『梶原一騎を読む』(1994年・ファラオ企画刊)である。夏目房之介、いしかわじゅん、呉智英といった論客たちが寄稿し、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、1994年8月15日付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走するビートたけしを対比させた論評が掲載された。そして、ジャーナリスト・斎藤貴男が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-』(1995年・新潮社刊)により、再評価の気運が高まった。本書は1995年3月19日付の朝日新聞書評欄で作家・沢木耕太郎による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまでタブーとされていたマスメディアでも『驚きももの木20世紀』(1997年4月25日オンエア)を皮切りに『二十世紀最強の秘蔵映像211連発!』(1997年12月31日オンエア)『BSマンガ夜話』『ブロードキャスター』(1999年4月3日オンエア)『ダウンタウンDX』などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた関口宏司会による人気番組『知ってるつもり?!』(1999年7月11日オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "今日でも『あしたのジョー』絡みなどで『NHK教育』「あしたのジョーの、あの時代」(2007年3月24日オンエア)や『報道ステーション』(2008年3月25日オンエア)などで取り上げられ、2007年3月2日には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『NHKニュース7』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。", "title": "評価と影響力" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アメリカでかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった大山倍達の元に1954年頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』1984年・ワニブックス刊)。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)の3年間、大山道場で空手修行もしていた。指導をした渡邊一久は「週に1, 2回は稽古に来ていた。左半身に構え、ワンツーの殴打技を主にし、蹴り技はあまりなかった。巨体と柔道経験を活かして組んで投げようとするが、足捌きが速い大山道場の強豪を捉えられなかった。相手の突きを身体で受け、前に出て突きで攻める熱闘型の組手スタイルだった。昭和33年(1958年)頃、昇級審査を受け、緑帯を允許された。大山倍達先生は、作家としてまだ無名だった梶原一騎氏を『将来、大山道場を宣伝してくれる人だから』と語り、空手の達人が活躍する主人公の小説を書いてほしかったようだが、その先見の明は10数年後に証明されることとなった。」と述べている。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1969年6月『冒険王』にて『虹を呼ぶ拳』(画・つのだじろう)の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『柔道一直線』(画・永島慎二)にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1970年11月『空手バカ一代』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、1971年6月『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『空手バカ一代』(画・つのだじろう)の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、極真会館には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "しかし1973年、作画担当のつのだじろうが「連載を降りたい」と言い出した。「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というのがその理由。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気は高かった。当時『あしたのジョー』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して連載終了の気配を示しにくい状況ではあったが、つのだ自身が以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『亡霊学級』がヒットしたことにより、『恐怖新聞』の連載が決定していた、などの要因が重なったことで最終的にはつのだの意見を容れ、降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れすることはなく、すぐに「うしろの百太郎」の連載が始まっている。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "その後、つのだの後を引き継ぐ形となった影丸譲也であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされた。苦肉の策として弟子の芦原英幸の挿話を描いたことで急に人気があがり盛り返したが、それが極真会館内部の人間関係や、大山との関係に大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも、大山は「(あの漫画は)大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは各エピソードが散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "結果として、芦原英幸を中心にした新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。」と不満を持つ弟子もいたという。やがて空手家でもない梶原の勢力が、極真内部で拡大していくことに対する反発が起き、同時に彼を重用する大山への批判にも及んでいく。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』(1976年)は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』(1977年)でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している。事実、映画業界は徹底した配給会社優位のトップオフ方式であり、製作会社には相当なヒットでないと収益が出ない仕組みとなっている。1円も回収できないこともごく普通である)。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "当時『空手バカ一代』の作画担当であった、つのだじろうはオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた。そんな時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・平岡正明を原作につけることで、つのだが矢面に立たないよう配慮して再度お願いした。大山の熱心な申し出もあり、最終的にはつのだも引き受けることとなったが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、平岡正明の件は断り、一人で引き受けることとなった。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『ゴッドハンド』は、内容について梶原の大きな不興を買うこととなった。タイトルにもなっている呼称「ゴッドハンド」は、確かに元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなかったのも一因である。この頃からつのだ本人及び編集サイドに梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、恐れたつのだは『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の最終回に、梶原一騎及び真樹日佐夫を中傷する内容のセリフをアナグラムで書いてしまう。それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の京王プラザホテルに軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、1980年蔵前国技館で開催されたウィリー・ウィリアムス VS アントニオ猪木との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、1983年に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年にジャーナリスト・斎藤貴男の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1985年5月、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『男の星座』(作画原田久仁信)を発表。力道山、木村政彦、ルー・テーズなど実在の人物が登場するなか、大山倍達との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の原田久仁信によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた高木薫によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので」とだけ語ったという。もっとも墓参りはしていたという。", "title": "大山倍達と『空手バカ一代』" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "斎藤貴男『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207(新潮社、1995年 ISBN 4104030015)によると、梶原は1970年初春、自民党と公明党から、1971年の第9回参議院議員通常選挙に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の根性論は当時、創価学会会長の池田大作から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて根性の大切さを説き、その根性を「広宣流布」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は荘司としおと組んで『公明新聞』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。", "title": "創価学会との関係" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "梶原一騎の原作において頻繁に他著からの引用が見られるが、その多くが梶原自身の創作であることが知られる。「水上で優雅に見える白鳥も水面の下では激しく足をばたつかせている」などのよく知られる知識なども事実とは異なる。", "title": "他著からの引用など" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "太字はテレビアニメ化した作品。斜線はテレビドラマ化した作品。 ○はアニメ映画化した作品。◎は実写映画化した作品。 ●はプログラムピクチャーとして公開された作品。△はラジオドラマ化した作品。 ▲は舞台化した作品。□はVシネマ及びOVA化した作品。×は未刊行作品。", "title": "主な作品" } ]
梶原 一騎は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は高森 朝樹。高森 朝雄の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。身長180cm、体重85kg。空手五段、柔道二段(1983年7月28日の自己申告)。 1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆる「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。 弟は漫画原作者、空手家の真樹日佐夫。妻は高森篤子(1945年3月5日 - 2015年4月6日)。1973年から1985年にかけて離婚期間があり、その間の1979年から81年にかけて台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。高森篤子との間に2人の娘と3人の息子がおり、白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。
{{画像提供依頼|顔写真|date=2021年11月|cat=人物}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = {{ruby|梶原 一騎|かじわら いっき}} | 画像 = {{画像募集中}} | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = {{ruby|高森 朝樹|たかもり あさき}} | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1936|9|4|no}} | 生地 = {{JPN}}・[[東京市]][[浅草区]]石浜(現・[[台東区]]) | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1936|9|4|1987|1|21}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[新宿区]][[河田町]]([[東京女子医科大学病院]])<ref name="nenkan">{{Cite book|和書|author=日本文藝協会|title=文藝年鑑 昭和63年版|publisher=[[文藝春秋]]|date=1988年|page=326}}</ref> | 活動期間 = [[1953年]] - [[1987年]] | 職業 = [[漫画原作者]]<br/>[[小説家]]<br/>[[映画プロデューサー]] | ジャンル = [[スポーツ漫画]]・[[劇画]] | 代表作 = 『[[巨人の星]]』(画:[[川崎のぼる]])<br />『[[あしたのジョー]]』(画:[[ちばてつや]])<br />『[[タイガーマスク]]』(画:[[辻なおき]])他多数 | 受賞 = 第8回:[[講談社児童まんが賞]](『巨人の星』)<br />2005年:[[東京アニメアワード]]特別功労賞(原作者部門) | 公式サイト = [http://www.kajiwara-ikki.com 梶原一騎 Official Site] }} '''梶原 一騎'''(かじわら いっき、[[1936年]][[9月4日]] - [[1987年]][[1月21日]])は、[[日本]]の[[漫画原作者]]、[[小説家]]、[[映画プロデューサー]]。本名は'''高森 朝樹'''(たかもり あさき)。'''高森 朝雄'''(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。身長180cm、体重85kg。空手五段、柔道二段([[1983年]][[7月28日]]の自己申告)<ref>{{cite journal |和書 |author = |title =保釈された梶原一騎が初めて告白! 『いま梶原一騎が池上季実子の"痴態写真"について語った』 |journal = [[週刊平凡]] |issue = 1983年9月1日号 |publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] |pages = 4–9頁 }}</ref>。 [[1966年]]から『[[週刊少年マガジン]]』に連載された[[漫画]]『[[巨人の星]]』の原作者として名声を上げ、以後『[[あしたのジョー]]』(高森朝雄名義)、『[[タイガーマスク]]』など、いわゆる「[[スポ根]]もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。 弟は漫画原作者、[[空手道|空手家]]の[[真樹日佐夫]]。妻は高森篤子([[1945年]][[3月5日]] - [[2015年]][[4月6日]])。[[1973年]]から[[1985年]]にかけて[[離婚]]期間があり、その間の[[1979年]]から[[1981年|81年]]にかけて[[台湾]]の有名タレント、[[白冰冰]](パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。高森篤子との間に2人の娘と3人の息子がおり、白との間に娘・[[白暁燕]](パイ・シャオイェン)がいた。 == 経歴 == ===生い立ち=== 東京市浅草区石浜(現 [[台東区]]橋場)の木賃アパートで知的でインテリ<ref>ただし、線の細い大人しい優等生然としたインテリではなく、権力的なものに上から押さえつけられるのを根っから嫌う反骨精神旺盛なインテリジェンスであった。</ref>な父・[[高森龍夫]]と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに[[渋谷区]]隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った<ref>高森日佐志『蝮の裔の我は身なれば』 飯倉書房、1996年、p.65、p.371。高森日佐志『昭和兄弟模様』 [[東邦出版]]、2010年、p.371</ref>。父方の祖父が[[熊本県]][[阿蘇郡]][[高森町 (熊本県)|高森町]]周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは[[宮崎県]]への1年の疎開と[[福岡県]][[小倉市]](現在の[[北九州市]])の親戚の家へ預けられたという程度である{{sfn|斎藤|p=71}}<ref>植地毅、勝畑聰「スーパー劇画王烈伝〜梶原一騎らぷそでぃ」『マンガ地獄変』[[水声社]]、[[1996年]]、p.17。</ref>。 弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。 幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の[[1943年]]に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の[[青山学院初等部]])に入学するものの、朝樹の持つ荒い気質と校風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。この頃すでに梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出されることになり、梶原はわずか1年生にして退学。家の近くの公立小学校に入れられた。その際に担任の教師に叱り付けられ「あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか」と罵られ、この言葉に朝樹は子供心にも傷ついた。 公立小学校時代は同級生に、雑誌『[[暮らしの手帖]]』編集長[[花森安治]]の長女葵がいる。梶原は取れたボタンを付けてもらった等の思い出があり、淡い思いを抱いていたというが、当の葵は「高森くん」という同級生がいたことは覚えていたものの、それ以上の詳しい記憶はないという{{sfn|斎藤|pp=}}。 その後、[[1945年]]に入ると東京が連合国軍機の[[空襲]]を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、ミカン山を営んでいた父の叔父である林進士が住む[[宮崎県]][[東臼杵郡]][[富島町]](現在の[[日向市]])に疎開。しかし、現在家督を継いでいる林晴夫の話によれば、富島町亀崎村の日向灘を見下ろす山の中腹にあった林家の裏手のミカン畑は当時開墾されて間もなく、まだ苗を植えたばかりだったから、さしたる収穫がなかった。それよりも自給自足の耕作が必要で当時八歳だった朝樹は、母と共に肥やしを担ぎ、苗の隙間で芋を育てては掘っていた。 戦後、[[川崎市]]に転居。このころ教護院「新日本学園」で1年を過ごしている<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』78頁</ref>。のち[[東京都]][[大田区]][[蒲田]]に移り、大田区立相生小学校に学ぶ<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』6-7頁</ref>。小学生時代、蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(真樹日佐夫)まで引き込むようになったため<ref name="名前なし-1">高森日佐志『昭和兄弟模様』67頁</ref>、両親の配慮で[[青梅市]]の[[教護院]]「[[誠明学園|東京都立誠明学園]]」に送られ中学相当の3年間を過ごす<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』8頁</ref>。 誠明学園在学中は寮から少なくとも二度脱走している(一度目は自宅に到着する前に連れ戻された)<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』15-16頁</ref>。なお「梶原」とは誠明学園時代に恋仲で結婚まで考えていた娘の苗字に由来する筆名である<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』92頁</ref>。のち真樹日佐夫は高校時代に空き巣狙いを繰り返して[[鑑別所]]に送られたが、担当刑事から共犯者の存在を示唆された母は梶原に疑いの目を向けた<ref name="名前なし-1"/>。 [[東京都立芝商業高等学校]]を半年ほどで中退<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』104頁</ref>(本人は長らく[[早稲田大学]]卒と詐称していた。例えば、[[ごま書房]]刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の[[高森龍夫]]は、梶原の出生当時、[[中央公論]]社で校正の仕事に従事していたが、のちに[[改造社]]へ移り、編集者となる。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという<ref>[[山田玲司]]「[[絶望に効くクスリ|絶望に効く薬 敗者復活編]]」第32錠・高森篤子/前編より [[光文社]]「FLASH」2010年12月21日号、p.97</ref><!--{{要出典|date=2010年1月}}-->。 ===小説家・漫画原作者として=== その一方、文学青年の一面を持ち[[小説家]]を志していた<ref>梶原の漫画原作は小説形式だった(梶原一騎『劇画一代』[[毎日新聞社]]、[[1979年]]、p.163。清水京武「川崎のぼるインタビュー 描かれなかった後編はどんな物語だったのか!?」『こんなマンガがあったのか! 名作マンガの知られざる続編・外伝』[[メディアファクトリー]]、[[1999年]]、p.48)。</ref>。1953年、17歳の時に「'''梶原一騎'''」のペンネームでボクシング小説「勝利のかげに」を雑誌『[[少年画報]]』に応募し、見事入選を果たす。17歳の少年小説家「'''梶原一騎'''」の誕生である。以来、スポーツ物の少年小説を多数執筆するようになるが、雑誌の中で少年小説に代わって漫画が誌面を占めるようになったため、梶原の活躍の場が狭まる事となった。 [[東京中日スポーツ]]で『力道山物語』を連載し、好評を得て、[[力道山]]から直々に電話をもらい、力道山と親密な関係となる。その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『[[週刊少年マガジン]]』初代編集長・[[牧野武朗]]が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『[[チャンピオン太]]』(画・[[吉田竜夫]])の連載(原作)を依頼。[[1962年]]から連載開始した同作は人気を博し、テレビドラマ化され、その際、梶原本人が力道山に本人役の依頼を交渉。テレビも好評であった。 その後は生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていたが、自分の本意ではない漫画原作を続ける事に抵抗があり、やめようかと悩むようになる。 その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・[[内田勝]]と副編集長・[[宮原照夫]]が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの[[佐藤紅緑]](少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、[[1966年]]、野球漫画『[[巨人の星]]』(画:[[川崎のぼる]])の連載を開始。連載当初から人気が高く、[[1968年]]にはテレビアニメとなり、視聴率30%を超える空前の大ヒットとなった。 『巨人の星』を皮切りに『[[柔道一直線]]』『[[夕やけ番長]]』を連載。どちらもヒット作となり、特に『柔道一直線』は[[桜木健一]]主演でドラマ化され、大ヒットとなった。 1968年に『週刊少年マガジン』誌上でボクシング漫画『[[あしたのジョー]]』(画:[[ちばてつや]])を連載。『巨人の星』との差別化を図るためペンネームを梶原一騎ではなく、本名の末字を変えた「'''高森朝雄'''」とし、爆発的な人気を呼ぶ。主人公・矢吹丈のライバルである力石徹の死に講談社では葬儀が執り行われ、600名もの弔問客が集まった。また当時起こった「[[よど号ハイジャック事件]]」では実行犯グループのリーダー・[[田宮高麿]]が「'''我々は明日のジョーである'''」という声明文を発表するなど社会現象となった。 それ以降も『[[タイガーマスク]]』『[[赤き血のイレブン]]』『[[キックの鬼]]』『[[空手バカ一代]]』『[[侍ジャイアンツ]]』などヒット作を量産する。 [[1973年]]に『[[愛と誠]]』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったが、同作では梶原版「[[ロミオとジュリエット]]」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなる。[[1975年]]に講談社漫画賞を受賞。 ===映画界への進出=== [[松竹]]で[[愛と誠#実写作品|映画化]]されたことにより、芸能界のひのき舞台へ出る{{sfn|蕪木|pp=102-103}}{{sfn|大塚|pp=13-15、132-133}}{{sfn|地獄変|pp=23-25、69-77}}。[[1974年]]、同作の[[愛と誠#テレビドラマ|テレビドラマ化]]にあたり、オーディションで選ばれた[[池上季実子]]を池上の所属プロから引き抜き{{sfn|大塚|pp=13-15、132-133}}{{sfn|地獄変|pp=23-25}}、梶原プロダクションを設立{{sfn|大塚|pp=13-15、132-133}}{{sfn|地獄変|pp=23-25}}。映画界への進出を企て{{sfn|地獄変|pp=23-25、69-77}}、梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった[[東京ムービー]]社長の[[藤岡豊]]、[[石原プロモーション]]で映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と1975年に「三協映画」を設立した{{sfn|地獄変|pp=23-25、69-77}}。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。いくらヒットを飛ばそうと、[[制作プロダクション|独立プロ]]のトップは、[[日本映画製作者連盟|メジャー映画会社]]のトップと飲み食いすることはないが{{sfn|蕪木|pp=102-103}}、梶原を原作とする、製作する映画がヒットを続けることで、松竹や娯楽性の豊かさに目をつけた[[東映]]が{{sfn|地獄変|pp=23-25、69-77}}、梶原を大事にするようになった{{sfn|蕪木|pp=102-103}}{{sfn|高取|pp=234-244}}。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れる{{sfn|大塚|pp=13-15}}。この頃から、当時の映画界の四巨星といわれた東映の[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]、[[東宝]]の[[松岡功]]、[[大映]]の[[徳間康快]]、松竹の[[奥山融]]とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を利かせるようになった{{sfn|蕪木|pp=102-103}}。 三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、[[1977年]]に自身の原案をもとに、[[鈴木清順]]が監督をした10年ぶりの作品『[[悲愁物語]]』を撮らせている{{sfn|地獄変|pp=23-25、69-77}}。 自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に[[新日本プロレス]]でデビューしたことが契機となって、梶原は[[1980年]]代から、かねてから縁のあった[[プロレス]]界にも深入りするようになる。 ===逮捕=== [[1983年]][[5月25日]]、[[講談社]]刊『[[月刊少年マガジン]]』副編集長・飯島利和への[[傷害罪|傷害事件]]で逮捕された。この逮捕により、過去に[[暴力団]]員とともに起こした「[[アントニオ猪木]][[逮捕・監禁罪|監禁事件]]」や、[[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]の[[クラブ (接待飲食店)|クラブ]][[ホステス]]に対する[[暴行罪|暴行未遂事件]]([[1982年]][[3月18日]])、『プロレスを10倍楽しく見る方法』の[[ゴーストライター]]のゴジン・カーンから10万円を[[恐喝罪|脅し取った事件]]も明るみに出ている。弟の高森日佐志によると、このとき警察が狙っていた本件は[[覚醒剤]]常習容疑だったという<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』324頁</ref>。警察は、梶原が[[萩原健一]](当時、大麻不法所持で逮捕留置中だった)に大麻を渡したのではないかと疑っていた<ref>高森日佐志『昭和兄弟模様』324-325頁</ref>。その他にもさまざまなスキャンダルが[[マスメディア]]を賑わせ、連載中の作品は打ち切り、単行本は絶版となり、名声は地に落ちた。<ref>[http://www.fujisan.co.jp/yomimono/articles/4784?page=2 第7回 「マガジンの軍神」梶原一騎]</ref> 2か月に及ぶ勾留後に保釈され、[[8月8日]]、[[山の上ホテル]]でステーキと鰻を一緒に食べた直後、倒れた。病院での診断名は壊死性劇症[[膵臓炎]]。死亡率が100%に近い病気であり、長年の[[アルコール依存]]や暴飲暴食が祟って[[胆石]]を長時間放置し続けたために周辺臓器がすべて病んでおり、わずかな期間に手術を4回重ね、4度目の時に医師団から「あと2時間の命」とまで宣告されていた。長年培ってきた体力等から生還を果たしたが、87キロあった体重も60キロを割っていた。 [[1985年]][[3月14日]]、[[東京地方裁判所|東京地裁]]刑事第二十八部で、[[懲役]]2年、[[執行猶予]]3年(求刑は懲役2年)の有罪判決を受ける{{sfn|斎藤|p=419}}。同年、かねてからの念願だった[[小説家]]への転身を決意して、真樹日佐夫との合作で正木亜都のペンネームで小説家としての活動を開始{{sfn|斎藤|p=381}}。漫画原作者からの[[引退]]を宣言して、『[[漫画ゴラク]]』誌上にて「梶原一騎引退記念作品」として自伝漫画『[[男の星座]]』(作画:[[原田久仁信]])連載開始。[[力道山]]、[[大山倍達]]などが実名で登場する中、著者自身実名ではなく「梶一太」と名をつけ、その青春遍歴のドラマを赤裸々に描き、同時にこれまで見られなかったほどの飄々たるユーモアも漂わせながらライフワーク的な作品となるはずであった。 ===死去=== [[1987年]]([[昭和]]62年)年明けに体調不良となって入院し、1月21日午後12時55分、[[東京女子医科大学病院]]にて死去、50歳没<ref name="nenkan" />。病室には辞世の句が残されていた。 <blockquote>【吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けん】</blockquote> 『男の星座』は未完に終わった。 ===その後=== 死後数年間は梶原について語ることをタブー視される風潮が見られたが、梶原の再評価の気運が高まるのは、[[1990年代]]半ばになってからである<ref>竹内オサム『戦後マンガ50年史』[[筑摩書房]]、[[1995年]]、p.172</ref>。 [[2005年]]の[[東京アニメアワード]]にて、特別功労賞(原作者部門)を受賞した。 == 作品の特色 == 梶原の世界は、戦前の『[[少年倶楽部]]』等で人気を呼んだ[[佐藤紅緑]]らの熱血小説と[[教養小説]]の世界の系譜と戦後の[[福井英一]]『[[イガグリくん]]』<ref>{{マンガ図書館Z作品|47591|イガグリくん}}(外部リンク)</ref>などの流れを受け継いだものと指摘されている<ref>米沢嘉博『戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景』[[平凡社新書]]、[[2002年]]、p.35。</ref><ref>[[西村繁男]]『まんが編集術』[[白夜書房]]、[[1999年]]、p.329。</ref><ref>串間努『少年ブーム 昭和レトロの流行もの』[[晶文社]]、2003年、p.101。</ref>。これは、マンガの神様と謳われたモダンな作風の[[手塚治虫]]には欠けた要素であり、事実手塚は生涯、梶原が得意とした[[スポーツ漫画]]と[[格闘漫画]]を手がけなかった<ref>[[米沢嘉博]]「現代マンガは手塚の呪縛を逃れ得るか」『手塚治虫マンガ論』[[河出書房新社]]、[[2007年]]、p.165。</ref><ref>夏目房之介『手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々』[[筑摩書房]]、[[1995年]]、pp.100-101。</ref>(ただし手塚は「巨人の星対鉄腕アトム」の企画やアニメ「あしたのジョー」が虫プロダクションにより作られるなど積極的に梶原と関わっている)。逆に梶原は[[桑田次郎]]と組んだ唯一のSFアクション作品である『[[ゴッド・アーム]]』以外、SFやファンタスティックな作品は手がけていない。 梶原作品の特色としては、最後に主人公が散り去っていく場合が多く、ハッピーエンドで完結する作品は少ないといわれている<ref>[[大塚英志]]「梶原一騎 未完のビルドゥングスロマン」『教養としての<まんが・アニメ>』[[講談社現代新書]]、[[2001年]]、pp.43-44。</ref>。時に自己破滅的であり直情型で己の道に突き進む主人公像が見られるが、真白になるまで燃え尽きる結末を好むのは、彼の作品の特徴ともいえる。 ストーリーの展開としては型破りで奇想天外、なおかつ劇的な内容で読者を飽きさせない巧みな作風が特徴である。『巨人の星』の[[大リーグボール]]養成ギプスや消える魔球に代表される奇抜なアイディア、『空手バカ一代』の劇的なストーリー展開、『[[愛と誠]]』にみられる奥深い心理描写などは、彼の特異な才能の一面を発揮したものと評価されている。 若手時代、[[五味康祐]]の成人向け小説『スポーツマン一刀斎』を少年向け雑誌に掲載するためのリライトの仕事をして、その作品に登場する「架空のキャラクターと実在のスポーツ選手との共演」という手法を学んだという。馬場、猪木、王、長嶋といった実在の選手と架空の選手をうまく融和させる手法を結実させ、最終的にタイガーマスクを現実化させるところまで行っている。 [[主人公]]と[[ライバル]]は片親を亡くしたか、両親ともいない、または捨てられた場合が多く、孤児の場合、師匠が親代わりという設定になる。総じて「'''主人公を甘えさせてくれる母親がいない'''」というケースがすべての作品における普遍的なテーマとなっている。「男を成長させるのは、味方との融和でなく、強敵との死闘だ」という人生哲学により、主人公がある程度強くなると、それまで師匠だった人物が敵にまわる展開が繰り返される(具体的には「[[巨人の星]]」、「[[あしたのジョー]]」、「[[タイガーマスク]]」、「[[柔道一直線]]」、「[[柔道讃歌]]」の項目を参照)。大山倍達も、スピンアウト的作品『ボディガード牙』では、ある種の魔王的な存在として登場する。 『ボディガード牙』『新ボディガード牙』は暴力描写がSMの域に達して梶原の暗黒面がもっとも強調された作品群となっている。内乱に明け暮れる海外が舞台となったこともあって拷問場面が執拗に繰り返されるが、それまで支配者や悪の側にたっていたものが立場を失って壮絶な虐待を受けたり、虐げられていた者が一転して鞭をふるったりなどの価値転換、錯綜のカオスともなっている(こうした趣向は『愛と誠』にも見られる)。作中では「人間の性、悪なり!」という慨歎が繰り返されている。 [[1980年代]]に入ると真面目に読まれていた梶原作品の生真面目さに、とりわけ『巨人の星』には逆説的にギャグの要素を感じ取る視点が生まれ、数多くの漫画などで[[パロディー]]の対象とされた<ref>[[いしかわじゅん]]『漫画の時間』[[晶文社]]、[[1995年]]、p.95。</ref><ref>夏目房之介「おおげさマンガは面白い」『[[毎日新聞]]』1994年2月2日号(『マンガの力 成熟する戦後マンガ』[[晶文社]]、[[1999年]]に所収)</ref>。『[[マカロニほうれん荘]]』の[[鴨川つばめ]]はギャグとして読んでいたと語り<ref>大泉実成『消えたマンガ家』[[太田出版]]、[[1996年]]、pp.150-151</ref>、[[江口寿史]]の『[[すすめ!!パイレーツ]]』などが典型例である。 「原作の内容は一字一句変えてはならない」という不文律があり、絵を描く漫画家に強制していた<ref>例外はちばてつや、ふくしま政美などごく一部のみだったという。</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=ジョー&飛雄馬: 闘争の時代のヒーロー達|author=五十嵐惠邦|journal=文化/批評|volume=1|pages=1-31|publisher=国際日本学研究会|date=2009|id={{Hdl|11094/75742}}}}</ref>。その代わりに、漫画家の絵のタッチやコマ割り等の内容に関しては一切文句を言わなかったといわれている。 == 評価と影響力 == 昭和40年代([[1965年]]から[[1974年]])に入ると[[テレビ]]が一家に1台は普及するようになり、テレビ文化は大衆化された。梶原作品の多くは、[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化または実写化されテレビ放映し人気を博した。またテレビによる宣伝効果で原作の売り上げも伸びた。 漫画界においては、手塚治虫が手がけずに傍流になっていた熱血とスポーツと格闘技の世界を復権させて、多くの模倣作を生み出したことで主流の地位まで引き上げた。[[少女漫画]]の世界にも梶原の影響は及び、『[[サインはV]]』『[[アタックNo.1]]』といった[[スポ根]]ものが人気を博した<ref>[[石子順造]]『戦後マンガ史ノート』[[紀伊國屋書店]]、[[1980年]]、p.147。</ref><ref>加納則章「熱血マンガ 馬鹿の時代!!」『別冊宝島288 70年代マンガ大百科』[[宝島社]]、[[1996年]]</ref>。 一方では[[映画]]作りにも注力しいくつかのヒット作を世に送り出した。格闘界では[[アントニオ猪木]]の異種格闘技シリーズに代表される試合にも、仕掛け人的な役割を演じ強い影響力をもたらした。 だがその一方で「[[カポエイラ]]はずっと逆立ちしたまま闘う格闘技」「[[ブルース・リー]]は[[極真会館|極真空手]]を習っていた」等の、誤った説を自著で発表したこともあり、今でもそれが定説となってしまっているものもある。梶原的ファンタジーの頂点とも言える『[[プロレススーパースター列伝]]』が、前記のような誤った説(というより意図的な創作)の集合体であるのは、多くのプロレスファンの知るところとなっている。 [[1983年]]の逮捕事件により、梶原個人は一時的にはマスコミ界から抹殺に近い状況まで追い込まれ、作品の評価も失墜した。梶原の暴力癖は傲岸不遜というより、収入が跳ね上がっても自らの社会的地位が一向に上昇しないこと<ref>[[銀座]]に繰り出しても、周りの人達の態度が小説家を迎える態度では無いと本人は感じていた。</ref>、小説家志望の自分に常にヒットを要求する漫画編集者などへの怒りや苛立ち、鬱屈が引き金になった物が多く、ひどい時には女性を巡るトラブルから、鉄拳を実弟の真樹、[[幼馴染]]、[[ホステス]]に向けたこともあった。 また、梶原がコワモテだった理由について、ライターの[[竹熊健太郎]]は、漫画制作において、原作は叩き台と思われており、そうでもしないと個性がなくなるからではないかと推測している<ref>[[安藤健二]]『封印作品の謎2』[[太田出版]]、[[2006年]]、p.60。</ref>。 [[小林よしのり]]は自分の漫画(格闘お遊戯)で梶原一騎をもじった登場人物を出して茶化したことに対し「怒りを招くのではないか」と危惧していたが、梶原は「自分には[[ギャグ]]は書けない」としてギャグ漫画家に敬意を持っており、事なきを得たという。後に小林よしのりは『新ゴーマニズム宣言』で「白鳥が美しく見えるのは水の中で必死に足で水を掻いているから」という[[花形満]]の台詞を引用し、「梶原一騎からはいっぱい学んだ」というコメントを書いている。 ギャグ漫画の巨匠・[[赤塚不二夫]]とは飲み仲間であり、赤塚に対し一目おくことがあった(『人生これでいいのだ!!』[[1999年]]・[[集英社]]刊)。著書『劇画一代』の中でギャグ漫画は個人的には好きであると明かし、[[山上たつひこ]]のギャグを評価しつつも、「赤塚は文化人を気取っているからそこまでやれぬ、やらぬだけで、もし赤塚が本気になってギャグ漫画を描けば山上ごときは消し飛んでしまう」と評している。[[小学館]]の赤塚担当編集者だった[[武居俊樹]]は著書『赤塚不二夫のことを書いたのだ』で、梶原が赤塚に直接「俺、ギャグは描けないんだ。だからあんたの漫画の原作は描けないな」と言ったことを記している。なお、梶原が言うところの「ギャグ」は初期の赤塚が得意としていたペーソス的なコメディに近く、晩年の作品『人間兇器』『SP長い顎』『男の星座』などでは、意図的にコメディ的な描写を行っていた。 [[1983年]]の事件による逮捕と、これによってようやく白日の下になったそれまで不問にされていた数々の出来事のために晩年や死後数年間は、出版界・マスコミでも梶原についてはタブーとされていた時期があった<ref>[[夏目房之介]]は「そろそろまとまった梶原一騎の再評価がでてきていいと思う」と記していた(「日本的大衆娯楽性の正統派 梶原一騎をもういちど」、『消えた魔球 <sub>熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか</sub>』[[双葉社]]、[[1991年]]、のち[[新潮文庫]]、[[1994年]]に所収)。</ref>。しかし、[[1990年代]]半ばに再評価の兆しが伺えた。その発端となったのは、[[1994年]]、劇作家・[[高取英]]・著『梶原一騎を読む』([[1994年]]・[[ファラオ企画]]刊)である。[[夏目房之介]]、[[いしかわじゅん]]、[[呉智英]]といった論客たちが寄稿し、死後初めて梶原一騎と梶原作品について取り上げられた最初の書物となった。その後、[[1994年]][[8月15日]]付の朝日新聞の連載コラム『新戦後がやってきた』の中で梶原一騎の不遇と当時「好感度調査」で4年連続一位の座を独走する[[ビートたけし]]を対比させた論評が掲載された。そして、ジャーナリスト・[[斎藤貴男]]が関係者への徹底した入念な取材を元に発表された労作『'''夕やけを見ていた男 -評伝・梶原一騎-'''』([[1995年]]・[[新潮社]]刊)により、再評価の気運が高まった<ref>加納則章「「馬鹿」の美しさを広めた梶原一騎」『[[別冊宝島]]288 70年代マンガ大百科』[[宝島社]]、[[1996年]]、p.38。</ref>。本書は[[1995年]][[3月19日]]付の朝日新聞書評欄で作家・[[沢木耕太郎]]による書評や数々のサブカル誌がとりあげられたことにより、それまで[[タブー]]とされていたマスメディアでも『[[驚きももの木20世紀]]』<ref>「あしたのジョー」伝説 〜梶原一騎・ちばてつや 男の闘い〜</ref>([[1997年]][[4月25日]]オンエア)を皮切りに『二十世紀最強の秘蔵映像211連発!』<ref>スターの秘蔵映像を紹介する番組で「日本が誇るアニメ界の三大巨匠」として[[手塚治虫]]、[[藤子・F・不二雄]]とともに紹介された。</ref>([[1997年]][[12月31日]]オンエア)『[[BSマンガ夜話]]』<ref>『[[巨人の星]]』〈1997年9月22日放送〉『[[あしたのジョー]]』〈2001年8月6日放送〉『[[空手バカ一代]]』〈2002年8月8日放送〉</ref>『[[ブロードキャスター]]』<ref>創刊40周年、発行部数410万部で日本一となった『[[週刊少年マガジン]]』のメモリアルが紹介されている。</ref>([[1999年]][[4月3日]]オンエア)『[[ダウンタウンDX]]』<ref>ゲストがアテレコを務める「ナキメンタリー3分間劇場」のコーナーで紹介。『[[タイガーマスク]]』(1999年5月20日放送)『[[夕やけ番長]]』(1999年6月3日放送)</ref>などでも梶原作品が取り上げられ、梶原一騎の名が再び世に出るようになった。また当時、数々の歴史上人物を取り上げていた[[関口宏]]司会による人気番組『[[知ってるつもり?!]]』([[1999年]][[7月11日]]オンエア)でも梶原一騎の生涯が紹介された<ref>視聴率は通常よりも高い17.6%であった。</ref>。 今日でも『[[あしたのジョー]]』絡みなどで『[[NHK教育]]』「あしたのジョーの、あの時代」([[2007年]][[3月24日]]オンエア)や『[[報道ステーション]]』<ref>「団塊世代に贈る(11)~『あしたのジョー』の時代」</ref>([[2008年]][[3月25日]]オンエア)などで取り上げられ、[[2007年]][[3月2日]]には、紛失されていた『あしたのジョー』の直筆原稿の一部発見が『[[NHKニュース7]]』で第一報として取り上げられ、話題を呼んだ。 == 大山倍達と『空手バカ一代』 == [[アメリカ合衆国|アメリカ]]でかつて敵国であった大男どもをなぎ倒し、凱旋帰国して国内でもかなりの有名人であった[[大山倍達]]の元に[[1954年]]頃、梶原が訪ねた時、石を抱えて大山に近づき、「この石を割ってみせてくれませんか?」とお願いしたことが二人の初めての出会いとなった。その時、大山の数々の武勇伝の挿話に若き日の梶原は大いに心を打たれた。最初はそれほど密接な関係ではなかったが、二人の親交は徐々に深まりつつあった。当時の梶原の大山に対する気持ちとして「大山倍達は巨大な不遇の碑に見えた。12歳も年が違う大山倍達に対して何というか父性本能のようなものを感じたのだ」と述懐している(『反逆世代への遺言』[[1984年]]・[[ワニブックス]]刊)。 1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)の3年間、[[大山道場]]で[[空手]]修行もしていた<ref name = 渡邊54>[[#渡邊|「梶原一騎氏に伝えた実戦談」、54頁。]]</ref>。指導をした[[渡辺一久 (極真)|渡邊一久]]は「週に1, 2回は稽古に来ていた<ref name = 渡邊54/>。左半身に構え、ワンツーの[[殴打技]]を主にし、[[蹴り技]]はあまりなかった<ref name = 渡邊54/>。巨体と[[柔道]]経験を活かして組んで投げようとするが、足捌きが速い大山道場の強豪を捉えられなかった<ref name = 渡邊54/>。相手の突きを身体で受け、前に出て突きで攻める熱闘型の組手スタイルだった<ref name = 渡邊55>[[#渡邊|「梶原一騎氏に伝えた実戦談」、55頁。]]</ref>。昭和33年(1958年)頃、昇級審査を受け、[[空手道#段級位・色帯・称号|緑帯]]を允許された<ref name = 渡邊55/>。大山倍達先生は、作家としてまだ無名だった梶原一騎氏を『将来、大山道場を宣伝してくれる人だから』と語り、空手の達人が活躍する主人公の小説を書いてほしかったようだが、その先見の明は10数年後に証明されることとなった<ref name = 渡邊55/>。」と述べている。 [[1969年]][[6月]]『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』にて『[[虹を呼ぶ拳]]』(画・[[つのだじろう]])の連載を開始。この作品の中で大山は協力者(アドバイザー)として名前を連ねている。この頃、同じく『[[柔道一直線]]』(画・[[永島慎二]])にも空手使い・鬼丸雄介の師匠として実名で作中に登場することが見られた。 [[1970年]][[11月]]『[[空手バカ一代]]』プロジェクトが発進する。武道の世界では反体制の立場にある一介の空手家を大講談社の少年雑誌が大きく取り上げていいものか社内でも議論はあったが、当時『少年マガジン』がノンフィクション作品を発表していたこと等により実現が可能となり、[[1971年]][[6月]]『少年マガジン』誌上で梶原にとって長年の念願であった『[[空手バカ一代]]』(画・[[つのだじろう]])の連載を開始。連載当初から反響の大きさにより、[[極真会館]]には連日50人、100人の入門志願者が押しよせ、大山自身も劇画によって知名度が上がり、極真会館館長の立場から一定の社会的地位を占めることとなった。 しかし[[1973年]]、作画担当の[[つのだじろう]]が「連載を降りたい」と言い出した。「原作が来るのがひどく遅く、締切りに追われて満足な仕事ができない」「待つ時間ばかりで、他に自分のやりたい仕事の時間が確保できない」というのがその理由。連載から二年が過ぎ、当初予定していた大山倍達一代記は描きあげていたが、まだまだ人気は高かった。当時『[[あしたのジョー]]』などの人気漫画の連載が終了していたことにより、『少年マガジン』の部数の影響も考慮して連載終了の気配を示しにくい状況ではあったが、つのだ自身が以前から独学でオカルトの世界を研究しており、この年『少年チャンピオン』の夏休み企画で描いた短編シリーズ『[[亡霊学級]]』がヒットしたことにより、『[[恐怖新聞]]』の連載が決定していた、などの要因が重なったことで最終的にはつのだの意見を容れ、降板することとなった。降板後もつのだとマガジン編集部は喧嘩別れすることはなく、すぐに「[[うしろの百太郎]]」の連載が始まっている。 その後、つのだの後を引き継ぐ形となった[[影丸譲也]]であるが、先程にもあるように大山倍達個人の挿話は描ききってしまったため、物語の展開の苦難を余儀なくされた。苦肉の策として弟子の[[芦原英幸]]の挿話を描いたことで急に人気があがり盛り返したが、それが極真会館内部の人間関係や、大山との関係に大きな亀裂を生むこととなった。ジャーナリスト斎藤貴男の取材でも、大山は「(あの漫画は)大山倍達物語でなく、芦原物語になってしまった。」と語っている。真樹日佐夫も大山没後に東京スポーツで連載していた大山の伝記で、「弟子を取り上げてくれるなとは言わないが、あまり持ち上げるのはいかがなものか? 長い目で見れば決して彼らの為にもならんと思うが...」という大山の言葉を紹介している。大山は、弟子を活躍させるなら満遍なく登場させて欲しいと望んだが、それでは各エピソードが散漫になってしまい、ドラマにならないため難しかった。 結果として、芦原英幸を中心にした新生『空手バカ一代』は極真会館内部での派閥抗争を招く結果となった。「あいつが漫画になって、俺がならないのはなぜだ。」と不満を持つ弟子もいたという。やがて空手家でもない梶原の勢力が、極真内部で拡大していくことに対する反発が起き、同時に彼を重用する大山への批判にも及んでいく。極真内部は次第に大きく大山派と梶原派の二大勢力と、マイペースの中間派に分裂していった。 そんな状況の中で制作された『地上最強のカラテ』([[1976年]])は興行として大ヒットを記録したが、さらにこの成功が梶原と大山の仲に決定的な亀裂をもたらした。当初、梶原サイドと大山サイドで半分ずつ出資していたが、配給収入の分配として梶原サイドから大山サイドに対して支払われることは一切なく続篇の『地上最強のカラテ・パート2』([[1977年]])でも同様のことが行なわれ、大山サイドの不信感を募らせることとなった(もっとも梶原サイドにしてみれば、利益を独り占めにした覚えはなく、大きな収益をもたらしても、大きな制作資金を投入しているので厳密には利益は微々たるものであることを主張している。事実、映画業界は徹底した配給会社優位のトップオフ方式であり、製作会社には相当なヒットでないと収益が出ない仕組みとなっている。1円も回収できないこともごく普通である)。 当時『[[空手バカ一代]]』の作画担当であった、[[つのだじろう]]はオカルト物の連載を終了させ、オカルトとは別の分野の作品を描こうとしていた。そんな時期に旧知の大山から梶原抜きの大山倍達伝の企画を諮られたが、当初つのだは梶原の報復を恐れて断った。すると大山は当時親しくしていた評論家・[[平岡正明]]を原作につけることで、つのだが矢面に立たないよう配慮して再度お願いした。大山の熱心な申し出もあり、最終的にはつのだも引き受けることとなったが、原作者をつけることに懲りていたつのだは、平岡正明の件は断り、一人で引き受けることとなった。 しかし、1978年4月『少年チャンピオン』から連載された『[[ゴッドハンド]]』は、内容について梶原の大きな不興を買うこととなった。タイトルにもなっている呼称「ゴッドハンド」は、確かに元々大山の代名詞のように使われていた言葉であるが、それは必ずしも事実でなかったのも一因である。この頃からつのだ本人及び編集サイドに梶原サイドからのクレイムがつき、結果、作品自体にも読者人気が及ばず、わずか9週で打ち切りとなった。しかしそれ以後も梶原サイドからのつのだ本人に対する脅迫まがいの行為は途絶えることがなく、恐れたつのだは『増刊ビッグコミックス』で連載していたオカルト漫画『魔子』の[[最終回]]に、梶原一騎及び真樹日佐夫を中傷する内容のセリフをアナグラムで書いてしまう。それを知った梶原は激怒し、つのだは新宿の[[京王プラザホテル]]に軟禁され、各出版社や漫画家仲間宛に詫び状を書かされる(業界では有名な「つのだじろう詫び状事件」である)。 その後も梶原と大山との“義兄弟”関係は公の場では維持され続けたが、[[1980年]]蔵前国技館で開催された[[ウィリー・ウィリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]] VS [[アントニオ猪木]]との世紀のイベントで梶原と大山との確執は頂点に達した。ウィリー VS 猪木戦における極真サイドから梶原襲撃“指令”などの怪情報が、試合前から関係者の間でまことしやかに流れており、結局は起こることはなかったもののそのことを信じた梶原サイドは大山に対して“誠意ある謝罪”を要求した。身に覚えのない大山としても謝罪する謂れはなく、大山との長年に及ぶ“義兄弟”の関係は途絶えた。 その後の梶原の逮捕やスキャンダル、闘病にも静観していた大山ではあるが、[[1983年]]に大病から奇跡的な生還を果たした療養中の梶原に対し、匿名で励ましの手紙を送った。それを読んだ梶原は「これは館長からだよ。俺にはわかるんだ」と話したという。大山はこの挿話を梶原の妻・篤子から後に知らされ、晩年に[[ジャーナリスト]]・[[斎藤貴男]]の取材に応じた時もこの挿話を嬉しそうに話したという。 [[1985年]][[5月]]、『漫画ゴラク』にて梶原一騎引退記念作品と銘打たれた自伝劇画『[[男の星座]]』(作画[[原田久仁信]])を発表。[[力道山]]、[[木村政彦]]、[[ルー・テーズ]]など実在の人物が登場するなか、[[大山倍達]]との話題が多く描かれており、その他にも極真会館のさまざまな挿話がちりばめられ、若き日の梶原の大山に対する熱い思いが込められていた。作画担当の[[原田久仁信]]によれば、『男の星座』を描いて(極真との)関係が修復に向かっているところがあったという<ref>木村修・編『格闘漫画で強くなる!』[[1997年]]・アスペクト刊</ref>。しかし梶原の死により、『男の星座』は絶筆となり、『漫画ゴラク』追悼号にも「もっと早く仲直りすべきだった。許すべきだった。後悔しています。(中略)。約20年間のつきあいでしたが仲直りできなかったのが、かえすがえすも残念でなりません。仏に申し訳ないと思っています。」と大山の一文が寄せられている。 没後、実弟の真樹日佐夫は大山に「せめて葬儀には出席してもらいたい」と依頼したが、大山は辞退している。大山の秘書を務めた[[高木薫]]によれば、大山は理由について「私は案外小心者なので」とだけ語ったという<ref>高木著『わが師大山倍達~1200万人への道』</ref>。もっとも墓参りはしていたという<ref>高森篤子『スタートは四畳半、卓袱台一つ』</ref>。 == 創価学会との関係 == [[斎藤貴男]]『夕やけを見ていた男 評伝梶原一騎』pp.205 - 207([[新潮社]]、[[1995年]] ISBN 4104030015)によると、梶原は[[1970年]]初春、[[自由民主党 (日本)|自民党]]と[[公明党]]から、[[1971年]]の[[第9回参議院議員通常選挙]]に立候補しないかと誘われたことがある(結局立候補はしなかった)。梶原の[[根性論]]は当時、[[創価学会]]会長の[[池田大作]]から大変気に入られていた。池田は演説に際して梶原作品を取り上げて[[根性]]の大切さを説き、その根性を「[[広宣流布]]」(広く仏法を流布すること)のために役立てよと述べた。このような縁から、梶原は[[荘司としお]]と組んで『[[公明新聞]]』に『熱血モーレツ記者』という作品を発表したこともあった。このことから創価学会員であるとの誤解をさせることがあるが、これは誤りである。 == 他著からの引用など == 梶原一騎の原作において頻繁に他著からの引用が見られるが、その多くが梶原自身の創作であることが知られる。「水上で優雅に見える白鳥も水面の下では激しく足をばたつかせている」などのよく知られる知識なども事実とは異なる。 * [[アーネスト・ヘミングウェイ]]「事実をありのまま伝えるという行為は いかなる面白い創作をするよりも困難な作業である」 * [[坂本龍馬]]「どんなときでも坂道を登っていく。男が死ぬときは、例えそこがドブの中であろうと前のめりに死んでいたい」 * [[アレクサンドル・デュマ・ペール|デュマ]]「復讐とは神が人間に与え給うた最も甘美かる快楽を得る行為である」 * [[ジャワハルラール・ネルー|ネルー首相]]「愛は平和ではない。愛は戦いである。武器のかわりが誠実(まこと)であるだけで。それは地上におけるもっとも激しい 厳しい自らを捨てて かからなければならない戦いである」 == 備考 == * [[モンキー・パンチ]]原作のアニメ『[[ルパン三世]]』の劇場映画第一作『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]』で、[[赤塚不二夫]]と共に[[声優]]を務めた。 * [[赤塚不二夫]]・著『人生これでいいのだ!!』([[1999年]]・[[集英社]]刊)の中で梶原一騎とのゴールデン街で飲み歩いた思い出を披露している。 * 『[[YAWARA!]]』『[[MONSTER (漫画)|MONSTER]]』『[[二十世紀少年]]』の著者である[[浦沢直樹]]は 放送作家・[[倉本美津留]]との漫画談義で「梶原さんは原作者ですが、その想像力は[[手塚治虫|手塚]]さんと双璧をなすと言ってもいい。[[シェイクスピア]]的な存在だと思います」と述べ、「梶原作品を外して、梶原以降のスポーツものを語ることはできません。[[水島新司]]さんの『[[ドカベン]]』も、[[あだち充]]さんの『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』も、僕の『[[YAWARA!]]』もシェイクスピア梶原に対して、どんな角度で攻めればいいかを考え抜いた結果なんです」と答えている。(『[[BRUTUS]]』[[2016年]][[2月15日]]号) * 『[[グラップラー刃牙]]』の著者・[[板垣恵介]]は、[[川原正敏]]、[[猿渡哲也]]との三大人気格闘漫画家の座談会で『[[柔道一直線]]』の地獄車や『[[あしたのジョー]]』の金竜飛の挿話を例に上げて「梶原一騎さんは、思い込みの天才」と評している。(『格闘技マンガ最強伝説』[[1996年]]・[[福昌堂]]刊より) * 『週刊少年マガジン』[[2008年]][[9月17日]]号の『[[青春少年マガジン1978〜1983|青春少年マガジン]]』の作品の中で若き日の著者・[[小林まこと]]が講談社のパーティーにて梶原との初対面のシーンが描かれている。 *『週刊少年ジャンプ』2008年9月29日(42)号の『[[バクマン。]]』(原作:[[大場つぐみ]]、作画:[[小畑健]])の中で『'''男の条件'''』(原作:梶原一騎、作画:[[川崎のぼる]])の作品が取り上げられ、主人公の真城最高が「'''日本一の少年マンガ原作者・梶原一騎先生原作による…'''」というセリフが掲載されている。 <br/>また、最高の1番好きな作品が『'''[[あしたのジョー]]'''』であり、相棒の高木秋人が原作(梶原)が週刊で同時に5本連載を持って描いていた事に驚く場面がある。 * 『週刊プレイボーイ』[[2008年]][[10月13日]]号の[[TAJIRI]]と[[キン肉マン]]の原作者・嶋田隆司([[ゆでたまご]])との対談の中で嶋田は、子供の頃、梶原作品に影響を受けていたことを披露。またTAJIRIも「梶原一騎は自分にとって神のような存在」であることを明かしていた。 * 『[[おれはキャプテン]]』の著者である[[コージィ城倉]]は「一番影響を受けた作家は梶原一騎である」と公言している。『[[グラゼニ]]』などでの原作者としての名義である「[[森高夕次]]」は、梶原の別名である「[[高森朝雄]]」に由来する。「高」と「森」を逆にして、「朝」を「夕」にして、「次」は梶原一騎を次ぐ者という意味である<ref>[http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html 「コージィ城倉スペシャルインタビュー 読みやすさの原点に立ち返る。それが『おれはキャプテン』](現在はリンク切れ)(同[https://web.archive.org/web/20040504074054/http://media.excite.co.jp/book/interview/200404/p05.html アーカイブ])</ref>。 * 『[[映画秘宝]]』[[2010年]][[5月]]号の[[萩原健一]]インタビューにて、萩原が大麻事件で勾留されていた時期に、同じ留置場の別の房に梶原も(副編集長への傷害事件で)勾留されていたことを披露しており、たまたま屋上で遭遇した時に梶原が小さく見えたと印象を伝えている。 * 『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』の「ご先祖様は有名人」のコーナーで梶原一騎が取り上げられ、司会の[[タモリ]]が「俺はこの人に3回会ったことがある」と述懐していた。また、ご先祖に縁のあるゲストとして復縁後に誕生した末っ子(三男)・誠樹が出演し、水曜レギュラーの[[柴田理恵]]から父親の印象について尋ねられ<!--昔から梶原一騎によく似ていると云われているが、-->「怖いです」と答えていた。 * 晩年の夫人、[[白冰冰]]は[[台湾]]の有名タレントで、現在でもファンの自動車に肖像画が描かれるほど敬愛されている。2人の間に生まれた娘・[[白暁燕]]は、梶原の没後の[[1997年]]に身代金目的で誘拐され、惨殺された(17歳没)。 *いわゆる、友達のような親子関係は嫌いで、子供たちへも自分への礼儀については厳しかったが、呼び方に関しては自分を「パパ」と呼ばせるという一面もあった。 *気性が荒いことで知られていたが、晩年は家庭で時折癇癪を起こすことこそあったものの、概ね穏やかに過ごしていたという。「夕焼けを見ていた男」で紹介され、2016年春に発売された週刊誌でも長男が改めて語ったエピソードとして、ある日遊びに夢中になって門限に遅れてしまった息子たちが帰宅すると玄関は既に施錠されて入ることができず呼び鈴を鳴らしたところ、家の中から梶原の「こんなに遅くまで遊んでいるような子はうちの子じゃありませーん」という'''嬉しそうな'''声が聞こえてきた、というものがある。 == 主な作品 == === 漫画原作 === '''太字'''は[[テレビアニメ]]化した作品。''斜線''は[[テレビドラマ]]化した作品。<br /> ○は[[アニメ映画]]化した作品。◎は[[実写映画]]化した作品。<br /> ●は[[プログラムピクチャー]]として公開された作品。△は[[ラジオドラマ]]化した作品。<br /> ▲は舞台化した作品。□は[[Vシネマ]]及び[[OVA]]化した作品。×は未刊行作品。 ==== 1960年代 ==== ; 1961年 * ハリケーンGメン(作画:[[九里一平]]) ; 1962年 * ''[[チャンピオン太]]''(作画:[[吉田竜夫]]) * 0戦チャンピオン(高森朝雄名義、作画:吉田竜夫) ; 1963年 * ×[[新戦艦大和]](作画:団鉄也) * ×忍者 宮本武蔵(作画:どやたかし) * ×忍者柴田(作画:[[古城武司]]) * 大空三四郎(作画:吉田竜夫) * ふりそで剣士(作画:東浦美津夫) * ハリス無段(作画:吉田竜夫) ; 1964年 * ×二刀流力道山(作画:水島朗) * ×空手にかけたちかい(作画:[[荘司としお]]) * ×潜艦豊登(高森朝雄名義、作画:水島朗) * ×未来人王(作画:古城武司) ; 1965年 * 魔犬ムサシ(作画:[[石川球太]]) ※『魔犬ムサシ号』改題 * ×まぼろし大将(作画:左馬一平) * ×忍法太平洋戦記 空母島(作画:[[辻なおき]]) * ×忍法太平洋戦記 姿なき英雄(作画:荘司としお) * ×大妖虫サソラ(作画:鹿野さとる) ; 1966年 * 偉大なる王(作画:古城武司) * ○△▲□'''[[巨人の星]]'''(作画:[[川崎のぼる]]) * 吹けよ!カミカゼ(作画:古城武司) * 大魔鯨(作画:川崎のぼる) * ×鉄人レーサー(作画:[[堀江卓]]) ; 1967年 * '''[[夕やけ番長]]'''(作画:荘司としお) * 挑戦者AAA(作画:[[永島慎二]]) * 白い魔神(作画:川崎のぼる) * ×[[キングコング]](高森朝雄名義、作画:[[一峰大二]]) ※テレビアニメ『キングコング』のコミカライズ版 * ×巨人の星 黒部猛巳編(作画:川崎のぼる) * ×キングコング(高森朝雄名義、作画:一峰大二) ※[[月刊少年マガジン|別冊少年マガジン]]連載、テレビアニメ『キングコング』のコミカライズ版 * ●''[[柔道一直線]]''(作画:永島慎二、[[斎藤ゆずる]]) * ×巨人の星 ポール矢吹編・前編(作画:川崎のぼる) ※なお後編は川崎のぼる氏の事故による入院のため発表されていない * 泣き笑い番長(作画:[[水島新司]]) ※『ファイティング番長』改題 * ×青春球場(作画:[[園田光慶]]) * ×[[キャプテン・スカーレット]](作画:園田光慶)※テレビSF人形劇『キャプテン・スカーレット』のコミカライズ版。 * ×火の玉レーサー カミカゼ(作画:園田光慶) ; 1968年 * ○◎△▲'''[[あしたのジョー]]'''(高森朝雄名義、作画:[[ちばてつや]]) * 特攻3万メートル(作画:[[横山まさみち]]) * ◎●'''[[タイガーマスク]]'''(作画:辻なおき) * [[甲子園の土]](作画:一峰大二) * ×鬼とオレたち(作画:石井いさみ) * 男の条件(作画:川崎のぼる) * 巨人の星 青島光彦編(作画:川崎のぼる) * ×レーサーの喪章は赤いバラの花(作画:[[宮谷一彦]]) * [[ジャイアント台風]](高森朝雄名義、作画:辻なおき) * [[白鯨]](作画:[[影丸譲也]]) ※[[ハーマン・メルヴィル]]の同名[[長編小説]]を元に構成 * ×キック魂 (だましい)(作画:古城武司) ; 1969年 * ×たいよう先生(作画:石井いさみ) * プロレス悪役シリーズ(作画:一峰大二) ※『プロレス悪役物語』改題 * 復讐記(作画:影丸譲也) ※[[アレクサンドル・デュマ・ペール]]の[[小説]]『[[モンテ・クリスト伯]]』を脚色、構成 * ●'''[[キックの鬼]]'''(高森朝雄名義〔ただし途中まで〕、作画:[[中城健|中城けんたろう]]) * ×ミュンヘンの虹(作画:[[峯岸ひろみ]]) * キック魂 (ガッツ)(作画:[[南波健二]]) * [[虹をよぶ拳]](作画:[[つのだじろう]]) * 友情山脈(作画:福原秀美) * ×ケンよ海で泣け(作画:[[小沢さとる]]) * 夕やけ番長(作画:荘司としお) ※[[週刊少年チャンピオン]]連載 * モーレツ!巨人(作画:石井いさみ) * 狼よ!なぜ走る(作画:つのだじろう) * 格闘王V(作画:[[みね武]]) ==== 1970年代 ==== ; 1970年 * '''[[赤き血のイレブン]]'''(作画:園田光慶、深大路昇介) * キリマンジャロの風(高森朝雄名義、作画:石川球太) * [[太陽の恋人|朝日の恋人]](作画:[[かざま鋭二]]) * 野獣の弟(作画:石井いさみ) * ×人生二勝一敗(作画:[[聖日出夫]]) * おとこ道(作画:[[矢口高雄]]) * ×城と太陽と名探偵(作画:[[横山光輝]]) * [[金田正一]]物語 どあほう一念!!400勝(作画:菅原卓也) ; 1971年 * ケンカの聖書(作画:石井いさみ) * 熱血モーレツ記者(作画:荘司としお) ※『猪突猛進記者』改題 * 柔道一直線 鬼車青春双六(作画:斎藤ゆずる) * ×[[ファイティング原田]]物語 挑戦!!連打する男(作画:菅原卓也) * 柔道一直線 鬼車の子守り歌(作画:斎藤ゆずる) * 柔道一直線 大完結編(作画:斎藤ゆずる) * ''太陽の恋人''(作画:かざま鋭二) * ◎'''[[空手バカ一代]]'''(作画:つのだじろう、影丸穣也) * 斬殺者(作画:[[小島剛夕]]) * ●'''[[侍ジャイアンツ]]'''(作画:[[井上コオ]]) * 陽気蝮 乱世の梟雄 斎藤道三伝(作画:[[小山春夫]]) ; 1972年 * ×夕日の恋人(作画:かざま鋭二) * 剣は道なり(作画:荘司としお) * '''[[柔道讃歌]]'''(作画:[[貝塚ひろし]]) * ◎□[[ボディガード牙]](作画:中城健) ; 1973年 * ◎△▲''[[愛と誠]]''(作画:[[ながやす巧]]) * 一騎名勝負劇場(作画:小山春夫、菅原卓也、左馬一平、中城健、武藤康也、水島健一朗) * [[おれとカネやん]](作画:古城武司) * ×プロレス地獄変 うそつき魔王(作画:[[宮谷一彦]]、いしだ晋一、朝香慶朗、下田文博) * [[紅の挑戦者]](高森朝雄名義、作画:中城健) ; 1974年 * 新 ボディガード牙 カラテ地獄変(中城健) * ×ウルフの調書(作画:南波健二) * ×[[長嶋茂雄]]物語 炎の讃歌(作画:貝塚ひろし) * ◎若い貴族たち(作画:[[佐藤まさあき]]) * 世界ケンカ旅行 空手戦争(共同原作:[[大山倍達]]、作画:守谷哲己) ; 1975年 * 花も嵐も(作画:川崎のぼる) * 朝焼けの祈り(作画:かざま鋭二) * 巨人の太陽(作画:古城武司) * ''天下一大物伝''(作画:[[大島やすいち]]) ; 1976年 * ×悪役天使(作画:一大寺鉄) * [[ゴッド・アーム]](作画:[[桑田二郎|桑田次郎]]) * マットの獅子王 [[アントニオ猪木]]伝(構成:[[真樹日佐夫]]、作画:[[小畑しゅんじ]]) * ×花と十字架(作画:古城武司) * 明日へキックオフ(作画:[[前田俊夫]]) * ●'''新巨人の星'''(作画:川崎のぼる) * [[格闘士ローマの星]](作画:[[ふくしま政美]]) * ◎[[恋人岬]](作画:[[牧美也子]]) ; 1977年 * 序章 火乃家の兄弟(作画:かざま鋭二)※後に『青春山脈』と改題 * 拳鬼奔る(作画:ふくしま政美、[[ケン月影]]) * 昭和一代女(作画:[[上村一夫]]) * 英雄失格(作画:[[やまさき拓味]]) * ×巨人の星 [[王貞治]](作画:[[関谷ひさし]]) ; 1978年 * 青春山脈(作画:かざま鋭二) * 熱球讃歌(作画:貝塚ひろし) * あゝ五高 武夫原頭に草萌えて(作画:影丸穣也) * ◎[[四角いジャングル]](作画:中城健) * 巨人の星外伝 それからの飛雄馬(作画:川崎のぼる) * おかあさん(作画:はしもとかつみ) * □[[新カラテ地獄変]](作画:中城健、影丸譲也) ; 1979年 * ×真説 柳生十兵衛(作画:小島剛夕) * □人間兇器(作画:中野喜雄) * 巨人のサムライ炎(作画:影丸穣也) * 哀愁荒野(作画:[[松久由宇]]) * ×最強・最後のカラテ(構成:真樹日佐夫、作画:岡本春助) * ×[[ウィリー・ウィリアムス (格闘家)|ウィリー・ウィリアムス]]物語 黒い必殺拳(作画:古城武司) * 雨の朝サブは…(作画:[[下條よしあき]]) ==== 1980年代 ==== ; 1980年 * 初恋物語(作画:[[小野新二]]) * [[プロレススーパースター列伝]](作画:[[原田久仁信]]) * 覆面プロレス王 タイガーマスク(作画:[[宮田淳一]]) ※後に『タイガーマスク二世』と改題 * ×さらばサザンクロス(作画:かざま鋭二) ; 1981年 * ×SP長い顎(作画:ほり善明) * ×[[タイガーマスク二世]](作画:[[つはらよしあき]]) ※コミックまるまる連載 * '''タイガーマスク二世'''(作画:宮田淳一) ※増刊少年マガジン連載 ; 1982年 * 悪役ブルース(作画:[[峰岸とおる]])<ref name="OS">梶原が暴行事件によって逮捕され連載中止。</ref> * ×ザ・レフェリー(作画:中城健) * ×おんなプロレス地獄変 女子プロレスラー紅子(作画:中城健)<ref name="OS" /> * 正編カラテ地獄変(作画:中城健→影丸譲也)<ref name="OS" /> ; 1985年 * [[男の星座|一騎人生劇場 男の星座]](作画:原田久仁信) ※連載中に梶原の死去により未完、遺作となった * 火子伝説(作画:古城武司、[[広岡球志]]) ※梶原没後に完結 ; 1986年 * ピストン堀口物語(作画:影丸穣也) ※『ピストン堀口血戦譜 SLボクサー』改題 === 小説、絵物語 === ==== 1950年代 ==== ; 1953年 * 勝利のかげに(絵:林唯一) ※懸賞入賞作 ; 1954年 * 白井の王座ゆるがず * 柔道日本一 * 空手鬼武勇伝(絵:富賀正俊) * 無敵鬼殺し * 全米にとどろく鬼六段前田 * 涙の柔道王 * リングの兄弟 * 勝利の鉄腕 * 少年プロレス王 鉄腕リキヤ(絵:[[吉田竜夫]]) * 空手王のいかり(絵:[[池田宏]]{{要曖昧さ回避|date=2017年10月}}) * 鉄腕嵐をこえて(絵:林唯一) * クリスマスの決斗(絵:池田浩晶) * 日本のマンモス力道山(絵:千葉浩) * ほまれの鉄腕(絵:岩井泰三) ; 1955年 * 荒野の快男児(絵:吉田竜夫) * 十六才の拳闘王 * 少年拳闘王(絵:岩井泰三) * 力道山対木村の大試合(絵:[[湯浅利八]]) * 世界一強い男 * 宙とぶ巨人 * 少年拳闘王 * あおげ大空 * 日本の虎(絵:白石太郎) * 柔道か!空手か!決戦両国橋(絵:田渕創生) * 友情のタッグチーム(絵:深尾徹哉) * 少年プロレス王(絵:吉田竜夫) * [[ルー・テーズ]]物語(絵:吉田竜夫) * うなる山嵐 * 日本柔道の虎(絵:豊田稔) * 木刀の快男児(絵:伊勢良夫) * 柔道王三船十段(絵:福田三郎) ; 1956年 * 黒帯小天狗(絵:湯浅利八) * 日本の虎(絵:湯浅利八) * リングの王者(絵:岩井泰三) * 白亞館の決闘(絵:岩井泰三) * 柔道王 * 花咲く決戦(絵:槙有為男) * 講道館四天王(絵:竹山のぼる) * リングの鬼 * 日本柔道のトラ(絵:岩井泰三) * 少年柔道王 * 柔道小僧(絵:豊田稔) * プロレス五郎(絵:吉田竜夫) * 風雲講道館(絵:湯浅利八、豊田稔) * 少年四天王(絵:[[永松健夫]]) * 竜虎二少年(絵:湯浅利八) * 拳闘絵物語 日本の虎(絵:湯浅利八) * 決戦ともえ投げ * 無敵の空気なげ * リングの二人組(絵:吉田郁也) ; 1957年 * 猛牛対空手王の決闘(絵:湯浅利八) * 巨人軍一刀斎(絵:霜野二一彦) * 変相魔人(絵:[[桑田次郎]]) * 一升マスのちかい(絵:[[武部本一郎]]) * 富士一平(絵:桜井はじめ) * 怪人よわむし男(絵:武部本一郎) * 竜巻三四郎(絵:吉田竜夫) * 大空行進曲(絵:吉田竜夫) * 柳生の虎 * 怪奇探偵小説 白バラ探偵局(絵:岩田浩晶) * 講道館の竜虎(絵:石井達治) * リングの悪魔(絵:逢瀬弘) ; 1958年 * 豪快前田六段 * 仮面の殺人者(絵:吉田郁也) * 白虎大助(絵:吉田竜夫) * 仮面の殺人鬼 * 虹を呼ぶ対決 * [[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]物語 花と嵐の土俵入り * 嵐を呼ぶ新大関 ; 1959年 * 火をはく左フック * 父と子の花道 * 新人王をかけて * [[宮本武蔵]](絵:佐藤広喜) * 朝汐太郎(絵:石井達二) * 誇り高き人々(絵:[[高荷義之]]) * 土俵の若武者 * おどり出たホープ * やったぞ米倉 * 打たせて撃つ ピストン堀口血戦譜 ==== 1960年代 ==== ; 1960年 * マウンドの王者 * 白銀に挑戦する男 * 第一回オリンピックへの道 * [[ガンファイター]](絵:[[小松崎茂]]) ※映画『ガン・ファイター』のコミカライズ版 ; 1961年 * 拳銃王子 * 千の銃口を持つ男 * スポーツびっくり話(絵:霜野二一彦) * おれは力道山(絵:水野良太郎) * 新戦艦大和(絵:吉田郁也) * 力道山光浩 * [[高山一夫]]物語 うなれ!!KOパンチ(絵:[[中村英夫 (洋画家)|中村英夫]]) * 早うち名保安官(絵:中村英夫) ; 1962年 * 零戦まぼろし隊(絵:吉田郁也) * プロレス悪役物語(絵:中村英夫、[[石原豪人]]) * [[力道山]]物語(絵:霜野ニ一彦) * プロレスの王者 力道山物語(絵:中村英夫) * 原田選手物語 とったぞ!!世界の王者(高森朝雄名義、絵:斉藤寿夫) * 白井選手物語 日本人初の世界チャンピオン誕生(高森朝雄名義、絵:斉藤寿夫) * 栄光!リングの鬼(高森朝雄名義、絵:中村英夫) ; 1963年 * 大あばれ日本ジュードー(絵:岩田浩昌) * 力道山をねらう怪人ころし屋たち(構成担当、絵:林朝路) * ああ東海に日は上る(絵:岩田浩昌) * プロレス世界選手権 力道山をねらう8人男(構成担当、絵:坂口太郎、中村猛男、南村喬、湯川久雄) * プロレス世界選手権 花形レスラー総まくり(構成担当、絵:坂口太郎、中村猛男、湯川久雄) * プロレス=ワールド戦特報(構成担、絵:中村猛男、湯川久雄) * 力道山のひみつ作戦2 ; 1964年 * あせとなみだのゴールイン(絵:林朝路) * ニュース速報 から手チョップはもう見られない! * 怪力[[豊登]] ちかいの必殺わざ * 王者はだれ?日本のプロレス5人男(構成担当、絵:中村猛男、南村喬之、湯川久雄) * 豊登にいどむ怪人レスラー これがミイラ男だ!(絵:中村猛男) * プロレス世界のチャンピオン力くらべ(構成担当、絵:石原豪人、中村猛男、南村喬、湯川久雄) * こうして生まれた 王の合気道打法(高森朝雄名義、絵:林朝路) * 世界のチャンピオン(絵:斉藤寿夫) * 後藤又兵衛(絵:伊藤幾久造) * 忍者と秘宝(絵:[[柳柊二]]) * 新プロレス悪役物語(絵:石原豪人) * 力道山のひみつ兵器(絵:石原豪人) * プロレス世界一物語(絵:石原豪人) * なぐりこみ!大宇宙(絵:前村教綱) * 無敵の忍法剣 柳生十兵衛(絵:柳柊ニ) * 快男児物語 少年ジンギスカン(絵:中村英夫) * 日本柔道はなぜ負けた!(絵:林朝路) * 長島・王の名勝負物語 三冠王への道(絵:石原豪人) * 七つボタンは桜に錨(絵:石原豪人) ; 1965年 * [[ルー・ゲーリッグ]]物語 愛と勇気の打げき王 * 力道山にちかった世界のチャンピオン 豊登 * 動物悪役物語(絵:中村英夫、石原豪人、小松崎茂) * 新しい巨人の英雄宮田投手のすべて(絵:岩田浩昌) * 世界の王者 原田選手物語(絵:上西康介) ; 1966年 * プロレス怪人物語(絵:中村英夫) * プロレス名勝負物語(絵:中村英夫) * プロレス世紀の恐怖試合(絵:石原豪人) * ナポレオン=ソロ危機いっぱつ(絵:[[南村喬之]]) * 空とぶ ろくろ首(絵:[[水木しげる]]) * プロレス速報 日本を襲撃!五人の悪魔 * 義賊と捕物十番勝負(絵:佐藤広喜) * [[悪魔くん]](構成担当、原作:若林一郎、絵:水木しげる) ※[[東映]]の[[特撮]][[テレビドラマ]]の絵物語 * 川崎のぼる名画劇場 命をかけた野獣との対決 人類大血闘画報(構成担当、絵:[[川崎のぼる]]) ; 1967年 * せむし怪人ののろい(絵:中村英夫) * プロレス世界の怪人ベストテン(絵:中村英夫) * [[馬場のぼる]]決戦録 ふみつぶし魔との死闘(絵:中村英夫) * ボクシング悪役物語(絵:石原豪人) * 野球王[[ベーブ・ルース]]物語 ちかいのホームラン(絵:中村英夫) * 世界へはばたく三羽がらす * さくれつしたちかいの殺人パンチ ; 1968年 * 涙のホームラン王(絵:中村英夫) * プロレス必殺技シリーズ 世紀の殺しわざコブラツイスト(高森朝雄名義、絵:石原豪人) * プロレス必殺技シリーズ 驚異の石頭1本足原爆頭突き(高森朝雄名義、絵:石原豪人) * プロレス名勝負物語 首つり魔をたおせ!!(高森朝雄名義、絵:石原豪人) * 青春に旋風をよべ(絵:[[依光隆]]) ; 1969年 * 朝焼けの悲しみ(絵:霜野二一彦) ※[[巨人の星]]誕生の秘密をあかす半自伝小説 ==== 1970年代 ==== ; 1970年 * 球魂の歌(絵:[[南波健二]]) ; 1972年 * 狼と来た夏(絵:[[貝原浩]]) ; 1974年 * 純愛山河「[[愛と誠]]」(絵:[[ながやす巧]]) ※余話 ; 1979年 * 父なる川([[川上哲治]]) ※小説 ==== その他 ==== * ふたりのジョー(原案:梶原一騎・真樹日佐夫、文:[[木村光一 (小説家)|木村光一]]) ※梶原の[[プロット (物語)|プロット]]に真樹が肉付けし2002年に小説として発表。翌年OVA化された。 ; 年代不明 * 朝の足音 ※佳作入賞作 == 著作 == * 地獄からの生還(自伝的エッセイ)ISBN 4877285075 * わが懺悔録 * [http://www.mandarake.co.jp/publish/hoshi/ 男たちの星] == 映画制作(三協映画) == * 愛のなぎさ(1976年) * 地上最強のカラテ(1976年) ドキュメンタリー * 地上最強の空手PART2(1976) ドキュメンタリー * 雨のめぐり逢い(三協映画=[[松竹]]、1977年) * [[悲愁物語]](三協映画=松竹、1977年) 監督:[[鈴木清順]]、脚本:[[大和屋竺]] * 世紀の真剣勝負 史上最強の空手 結集編(1977年) ドキュメンタリー * マッハ'78(松竹=三協映画、1978年) * カラテ大戦争(松竹=三協映画、1978年) * 格闘技世界一 四角いジャングル (1978年) ドキュメンタリー * 激突!格闘技 四角いジャングル(1979年) ドキュメンタリー * [[最強最後のカラテ]](1980年) ドキュメンタリー * あしたのジョー(三協映画=富士映画=ヘラルドエンタープライズ、1980年) * 格闘技オリンピック(1980年) ドキュメンタリー * リトルチャンピオン(松竹=三協映画、1981年) * あしたのジョー2 (三協映画=ヘラルドエンタープライズ=富士映画=ちば企画、1981年) * 巨人の星(1982年) * [[もどり川]](1983年)( 監督:[[神代辰巳]]、脚本:[[荒井晴彦]]、原作:[[連城三紀彦]]「戻り川心中」) == 原作の実写映画化 == * [[あしたのジョー]] ([[日活]]、1970年) * [[ボディガード牙]] ([[東映]]、[[1973年の日本公開映画|1973年]]) * ボディガード牙 必殺三角飛び (東映、1973年) * 愛と誠 ([[松竹]]、芸映プロ、[[1974年の日本公開映画|1974年]]) * [[けんか空手 極真拳]] (東映、[[1975年の日本公開映画|1975年]]) * けんか空手 極真無頼拳 (東映、1975年) ** 空手<ruby><rb>道</rb><rp>(</rp><rt>みち</rt><rp>)</rp></ruby>(歌:[[渥美二郎]]「渥美健」名義) * 若い貴族たち 13階段のマキ (東映、1975年) * 続 愛と誠 (松竹、1975年) * 愛と誠 完結篇 (三協映画、[[1976年の日本公開映画|1976年]]) * [[空手バカ一代 (映画)|空手バカ一代]] (東映、[[1977年の日本公開映画|1977年]]) * 恋人岬 (松竹、1977年) * カラテ大戦争 (松竹、三協映画、[[1978年の日本公開映画|1978年]]) * [[空手バカ一代|新・空手バカ一代 格闘者]](「新・空手バカ一代 格闘者」製作委員会、2003年) * あしたのジョー ([[東宝]]、2011年) * [[タイガーマスク]] (アークエンタテインメント、[[2013年の日本公開映画|2013年]]) == 梶原一騎の人生を描いた作品、映画 == * 『すてごろ 梶原三兄弟激動昭和史』(2003年)( 原作、脚本:[[真樹日佐夫]]) * 『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』 ※梶原一騎や真樹日佐夫が実名で登場する[[ノンフィクション]] == 大日本プロレス設立計画 == * [[昭和]]後期に梶原が設立を計画した[[プロレス]][[団体]]。結局不成立となった。 * [[1994年]][[12月21日]]に設立したプロレス団体「[[大日本プロレス]]」とは無関係である。 {|class="wikitable" |+証言 !出典!![[門茂男]]『馬場・猪木の真実』,角川文庫,[[1985年]](昭和60年)!![[ユセフ・トルコ]]『プロレスへの遺言状』,[[2002年]](平成14年) |- !証言者 |colspan="2" align="center"|ユセフ・トルコ |- !時期 |[[1978年]](昭和53年)9月 |[[1983年]](昭和58年) |- !出資者 |colspan="2" align="center"|'''梶原一騎''' |- !出資額 |colspan="2" align="center"|1億5千万円 |- !放映テレビ局 |colspan="2" align="center"|[[フジテレビジョン|フジテレビ]] |- !社長 |colspan="2" align="center"|[[豊田泰光]](当時・フジテレビ専属スポーツ解説者) |- !他の役員 | | *[[吉村道明]] *トルコ | |- !エース選手 |colspan="2" align="center"| *[[高見山大五郎|高見山]](当時大相撲現役。先々代[[東関]]親方) *[[千代の富士貢|千代の富士]](当時大相撲現役。先代[[九重 (相撲)|九重]]親方) |- !他の所属選手 | | *[[アントニオ猪木]] *[[ジャンボ鶴田]] *[[佐山聡|タイガーマスク]] *後の[[ジャパンプロレス]]のメンバー |- !崩壊の理由 |colspan="2" align="center"| 出資金を一時預かった関係者がほぼ全額私的流用した |- !その関係者とは | 役員の一人で、もともとは[[豊登道春|豊登]]の有力な[[タニマチ]] | 若いスタッフ |- !使い込みの詳細 |土地関係の仕事 |道場建設の時に騙されて、そこから雪だるま式に使い込み |} * なお[[サムソン・クツワダ]]が、同じく[[1977年]](昭和52年)近辺において、社長=岩田弘([[国際プロレス|TBSプロレス]]元社長)、エース=高見山・鶴田・[[渕正信]]・[[大仁田厚]]で新団体を作るという構想があったことを自ら暴露している。岩田と懇意にしていた[[笹川良一]]の庇護が期待できたという([[吉田豪]]『吉田豪のセメント!!スーパースター列伝 part1』[[kamipro]] books) == 出演 == ; 映画 * [[けんか空手 極真拳]] ([[1975年]]、[[東映]]) - 本人 * 愛と誠 完結篇 (三協映画、1976年) * 地上最強のカラテシリーズ - 本人 * [[ルパン三世 ルパンVS複製人間]](1978年) - 書記長<ref>{{Cite web|和書| url = https://web.archive.org/web/20140318010146/http://www.ntv.co.jp/kinro/lineup/20140328/index.html| title = ルパン三世 ルパンVS複製人間| publisher = 金曜ロードSHOW!| accessdate = 2016-06-05}}</ref>(声優として特別出演) * [[あしたのジョー]](1980年) - 解説者(声優として特別出演) ; テレビドラマ *[[柔道一直線]] 第7話「必殺二段車」(1969年、TBS / 東映) == 参考文献 == * 高森篤子『妻の道-梶原一騎と私の二十五年』、JICC出版局、[[1991年]][[11月]]。ISBN 4-7966-0219-4 * {{Cite book|和書 |author=蕪木和夫|title=劇画王 梶原一騎評伝|publisher=[[風塵社]]|date=1994年1月|ISBN=4-938733-07-2|ref={{SfnRef|蕪木}}}} * {{Cite book|和書 |editor=高取英|editor-link=高取英|title=「梶原一騎」をよむ|publisher=[[ファラオ企画]]|date=1994年4月|ISBN=4-89409-050-3|ref={{SfnRef|高取}}}} * {{Cite book|和書 |author1=植地毅|authorlink1=植地毅|author2=宇田川岳夫|authorlink2=宇田川岳夫|author3=吉田豪|authorlink3=吉田豪|title=マンガ地獄変|publisher=[[水声社]]|date=1996年10月|ISBN=978-4-89176-341-1|ref={{SfnRef|地獄変}}}} * {{Cite book|和書 |author=大塚祐哉|title=梶原一騎、そして梶原一騎|publisher=風塵社|date=1997年10月|ISBN=4-938733-37-4|ref={{SfnRef|大塚}}}} * [[真樹日佐夫]]『兄貴-梶原一騎の夢の残骸』(『ちくま文庫』)、[[筑摩書房]]、[[2000年]][[4月]]。ISBN 4-480-03553-2 ※原著は、[[真樹日佐夫]]『荒野に一騎咆ゆ-風靡し壮烈に散った劇画界巨星の慟哭の鎮魂譜』([[日本文芸社]]、[[1987年]][[10月]]。ISBN 4-537-02077-6)を改題改訂した『兄貴-梶原一騎の夢の残骸』([[飯倉書房]]、[[1997年]][[1月]]。ISBN 4-8422-0307-2)。 * [[斎藤貴男]]『梶原一騎伝』(『新潮文庫』)、[[新潮社]]、[[2001年]][[3月]]。ISBN 4-10-148731-6 ※原著は、{{Cite book|和書 |author=斎藤貴男|title=夕やけを見ていた男-評伝 梶原一騎|publisher=[[新潮社]]|date=1995年1月|ISBN=4-10-403001-5|ref={{SfnRef|斎藤}}}} * 山本鎭雄『劇画『巨人の星』を読む(第2部・第3部補遺)」 『社会学的世界 増補改訂版』([[恒星社厚生閣]]、[[2001年]]) * {{Cite book |和書 |author = 渡邊一久 |authorlink = 渡辺一久 (極真) |editor=フル・コム|editor-link=フル・コム |title = 幻の大山道場の組手 かつて地上最強の空手は実在した |origdate = 2013-5-6 |edition = 初版第1刷 |publisher = [[東邦出版]] |series = [[BUDO-RA BOOKS]] |id = C0075 |isbn = 978-4-8094-1118-2 |oclc = 841143377 |ref = 渡邊 }} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[士道館]] * [[添野義二]] * 大室山一騎道場 - [[静岡県]][[伊東市]]にある士道館の道場。梶原一騎の碑があり、士道館の門下生たちがよく掃除をしに訪れる * [[スポ根]] * [[日映 (1984年設立)|日映]] == 外部リンク == {{ウィキポータルリンク|漫画|[[画像:Logo serie manga.png|50px|Portal:漫画]]}} * [http://www.kajiwara-ikki.com 梶原一騎 Official Site] * {{マンガ図書館Z作家|943}} {{タイガーマスク}} {{巨人の星}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かしわら いつき}} [[Category:梶原一騎|*]] [[Category:日本の漫画原作者]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:20世紀日本の随筆家]] [[Category:プロレスの関係者]] [[Category:暴力団関係者]] [[Category:アントニオ猪木]] [[Category:ジャイアント馬場]] [[Category:力道山]] [[Category:極真会館の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:1987年没]]
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黒田硫黄
黒田 硫黄(くろだ いおう、男性、1971年1月5日 - )は、日本の漫画家。ペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から。愛称は「大王」。 男女の双子で誕生。東日本出身。一橋大学法学部・社会学部卒業。 1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。『月刊アフタヌーン』『月刊IKKI』『COMIC CUE』などに筆による作品を発表している。2002年、『セクシーボイスアンドロボ』により第6回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞文部科学大臣賞を受賞。 生まれは札幌市であるが、幼少期は10回を超える引越しで東日本を転々としたため、「東日本出身」としばしば表現している。麻布高校時代にアニメ研究会に所属、2分ほどの紙製アニメやリレーマンガを他の部員たちと制作していた。一橋大学では漫画研究会に所属。教養課程野崎歓ゼミナール(映画論)、法学部村井敏邦ゼミナール(刑事法)、社会学部湊博昭ゼミナール(精神医学)などに参加。大学の同じゼミナールに、後に漫画家となった倉田真由美がいた。出版社への数度の持ち込みを経て、在学中の1993年にアフタヌーン四季賞秋のコンテストにて「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」の4編により四季大賞を受賞し、漫画家としてデビューする。 翌年より『月刊アフタヌーン』にて『大日本天狗党絵詞』を連載。連載終了後の1998年、この作品に注目していたよしもとよしともから合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『COMIC CUE』に掲載。これを端緒として同誌に短編作品を発表していく。1999年に作品集『大王』を刊行、帯に大友克洋、寺田克也、よしもとよしとも3名からの推薦文が寄せられた。 2000年から2003年にかけて『月刊アフタヌーン』にて『茄子』を連載、平行して『月刊IKKI』に『セクシーボイスアンドロボ』を連載する。『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて宮崎駿に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に高坂希太郎監督により劇場アニメ化。また、2007年には続編である「スーツケースの渡り鳥」が同監督によりOVA化された。また『セクシーボイスアンドロボ』は2007年に日本テレビにてテレビドラマ化されている。 2003年以降しばらく目立った活動がなかったが、2005年より『月刊アフタヌーン』に復帰し、2006年より同誌で『あたらしい朝』の連載を開始。しかし急病により同誌2007年6月号より中断し、1年の長期休載を経て2008年9月号より再開したが、たびたび休載となっていた。最終的には、不定期な掲載を経て2010年12月号にて完結した。 上記のようにコマ割りのセンスが評価されている黒田だが、デビュー前の持ち込みの時には編集者からコマ割りを酷評されたことがあり、これをきっかけに1年ほどコマ割りの研究をしたのだと語っている。また大学の漫画研究会では、大島渚の『忍者武芸帳』を題材に「コマ割りと時間の関係」について分析し、コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例するのではないか、という仮説を立てたという。もっともその後のインタビューではキャラクターを中心に読まれる漫画への憧れも語り、「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」とのコメントも寄せている。 しばしば黒田の特徴とされる筆の使用は、もともとは早く描けるからという理由で使い始めたもの。石神井の職人によるものを愛用しており、墨は自分で磨って使っているが、忙しいときには筆ペンも使っている。また「筆で描く漫画家」のように間口を狭めるのが嫌で作品によってはペンも使用している。連載作品の中では『茄子』の大部分がペンによって描かれている。 黒田はデビュー時から作品にスター・システムを取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。なかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった。 黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。『Quick Japan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。南信長は、直系子孫たる作家のいない諸星大二郎の「遺伝子」を「そこはかとなく」感じさせる最たる一人として、黒田を挙げている。 ここでは「黒田硫黄キーワード事典」を参考に、黒田の作品に特徴的ないくつかのモチーフを解説する。
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黒田 硫黄は、日本の漫画家。ペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から。愛称は「大王」。 男女の双子で誕生。東日本出身。一橋大学法学部・社会学部卒業。 1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。『月刊アフタヌーン』『月刊IKKI』『COMIC CUE』などに筆による作品を発表している。2002年、『セクシーボイスアンドロボ』により第6回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞文部科学大臣賞を受賞。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 黒田 硫黄 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1971|1|5}} | 没年 = | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1993年]] - | 代表作 = 『[[大日本天狗党絵詞]]』<br />『[[セクシーボイスアンドロボ]]』<br />『[[茄子 (漫画)|茄子]]』 | 受賞 = [[アフタヌーン四季賞]]四季大賞<br />(「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」)<br />[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞[[文部科学大臣賞]]<br />(『セクシーボイスアンドロボ』) }} '''黒田 硫黄'''(くろだ いおう、男性、[[1971年]][[1月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。ペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から{{sfn|『QJ vol.42』|pp=80-83|loc=小林善美ほか「黒田硫黄キーワード事典」}}。愛称は「大王」{{efn2|『月刊アフタヌーン』のアオリなどで使われている。}}。 男女の[[双子]]で誕生。[[東日本]]出身。[[一橋大学]][[一橋大学大学院法学研究科・法学部|法学部]]・[[一橋大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]卒業{{要出典|date=2023年10月2日 (月) 13:29 (UTC)}}。 [[1993年]]『[[月刊アフタヌーン]]』にてデビュー。『月刊アフタヌーン』『[[月刊IKKI]]』『[[COMIC CUE]]』などに筆による作品を発表している。2002年、『[[セクシーボイスアンドロボ]]』により第6回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞[[文部科学大臣賞]]を受賞。 == 来歴 == 生まれは[[札幌市]]であるが、幼少期は10回を超える引越しで東日本を転々としたため、「東日本出身」としばしば表現している。[[麻布中学校・高等学校|麻布高校]]時代に[[アニメ研究会]]に所属、2分ほどの紙製アニメやリレーマンガを他の部員たちと制作していた。[[一橋大学]]では漫画研究会に所属。教養課程[[野崎歓]]ゼミナール(映画論)、[[一橋大学大学院法学研究科・法学部|法学部]][[村井敏邦]]ゼミナール([[刑事法]])、[[一橋大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]][[湊博昭]]ゼミナール([[精神医学]])などに参加。大学の同じゼミナールに、後に漫画家となった[[倉田真由美]]がいた<ref>倉田真由美『だめんず・うぉ〜か〜』(SPA! comics、扶桑社)</ref>。出版社への数度の持ち込みを経て、在学中の[[1993年]]に[[アフタヌーン四季賞]]秋のコンテストにて「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」の4編により四季大賞を受賞し、漫画家としてデビューする。 翌年より『[[月刊アフタヌーン]]』にて『[[大日本天狗党絵詞]]』を連載。連載終了後の1998年、この作品に注目していた[[よしもとよしとも]]から合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『[[COMIC CUE]]』に掲載。これを端緒として同誌に短編作品を発表していく。1999年に作品集『大王』を刊行、帯に[[大友克洋]]、[[寺田克也]]、よしもとよしとも3名からの推薦文が寄せられた。 2000年から2003年にかけて『月刊アフタヌーン』にて『[[茄子 (漫画)|茄子]]』を連載、平行して『[[月刊IKKI]]』に『[[セクシーボイスアンドロボ]]』を連載する。『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて[[宮崎駿]]に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に[[高坂希太郎]]監督により劇場アニメ化。また、2007年には続編である「[[茄子 スーツケースの渡り鳥|スーツケースの渡り鳥]]」が同監督により[[OVA]]化された。また『セクシーボイスアンドロボ』は2007年に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]にて[[テレビドラマ]]化されている。 2003年以降しばらく目立った活動がなかったが、2005年より『月刊アフタヌーン』に復帰し、2006年より同誌で『[[あたらしい朝]]』の連載を開始。しかし急病により同誌2007年6月号より中断し、1年の長期休載を経て2008年9月号より再開したが、たびたび休載となっていた。最終的には、不定期な掲載を経て2010年12月号にて完結した。 == 評価 == * [[毎日新聞]]で黒田を取り上げた宮本大人は、「線の引き方、コマの割り方、構図の取りかた、話の展開、キャラクターの造形、言葉の選択、それらの一つ一つが今目の前にある形になるまでに、どんな選択肢があり、どういう理由で他の選択肢が落とされたのかが、いちいち分かった(気がした)のである」とそのセンスを評価した<ref>宮本大人「黒田硫黄を甘やかさない」『毎日新聞』2002年3月29日掲載、『マンガの居場所』(NTT出版)所収、272頁-273頁</ref>。 * 文芸評論家の[[大庭萱朗]]は「黒田硫黄のマンガのすべてのコマ、すべてのページに、観ることと描くことの歓び、そして生きることの瑞々しさが横溢している」と評した上で、漫画の「観る体験を味わう媒体としての側面を捉えた」という点で、黒田を[[手塚治虫]]、[[大友克洋]]、[[高野文子]]の系譜に連なる作家と位置づけている{{sfn|『QJ vol.42』|pp=58-61|loc=大庭萱朗「これぞスペクタクル!」}} * 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』の特集号に評をよせた[[斎藤環]]は、「作品の端正なまでの倫理性」という点で「手塚治虫の正統的系譜」に位置づけられるとし、さらに「作家自身を戯画化し薀蓄を語るスタイル」や小綺麗さとは無縁な絵のスタイル、飛翔シーンの多さや「出立」を作品のモチーフとして繰り返し描いているなどの点で[[宮崎駿]]との類似性を見出している。また黒田が一部で女性であると誤解を受けていたことを取り上げ{{efn2|『大日本天狗党絵詞』4巻のカバー見返しに女装写真を載せたことや、『まるいもの』(『大王』描き下ろし)で自身を女性として描いていたことによる。}}、本来女性作家に特徴的な人物同士の関係性に注目する作風(「関係性への配慮」)がその誤解に一役買ったのではないかと分析している{{sfn|『ユリイカ』2003年8月号|pp=135-140|loc=斎藤環「アンダルシアの『空』」}}。 == 作家像 == === コマ割りへのこだわり === 上記のようにコマ割りのセンスが評価されている黒田だが、デビュー前の持ち込みの時には編集者からコマ割りを酷評されたことがあり、これをきっかけに1年ほどコマ割りの研究をしたのだと語っている<ref>{{Cite book|和書|author=中野渡淳一 |title=漫画家誕生 169人の漫画道 |date=2006-03-29 |publisher=新潮社 |isbn=978-4-1030-1351-8 |pages=254-255 |chapter=インタビュー}}初出は『信濃毎日新聞』。</ref>。また大学の漫画研究会では、[[大島渚]]の『[[忍者武芸帳]]』{{efn2|[[白土三平]]の同名の漫画が原作で、白土の原画をそのまま取り込んで制作した映画作品。}}を題材に「コマ割りと時間の関係」について分析し、コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例するのではないか、という仮説を立てたという{{sfn|『QJ vol.42』|pp=62-79|loc=斎藤宣彦、横井周子「マンガ家、黒田硫黄ロングインタビュー」}}。もっともその後のインタビューではキャラクターを中心に読まれる漫画への憧れも語り{{efn2|「例えば美内すずえ先生の漫画を読む人の中で、美内先生はどんな人だろうっていうのには興味がない方が、きわめてまっとうな読者なのではないかと思いますね。そういうのが正しいと思います。」「作家の名前よりもキャラクターの名前で語られるのが正しいマンガなのではないかと。マンガのキャラクターのほうが人の共通言語としてあるんです。」後掲『Comickers』vol21{{Full citation needed|date=2023年1月}}より。}}、「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」とのコメントも寄せている{{sfn|『QJ vol.42』|pp=80-83|loc=小林善美ほか「黒田硫黄キーワード事典」}}。 === 筆の使用 === しばしば黒田の特徴とされる筆の使用は、もともとは早く描けるからという理由で使い始めたもの。[[石神井]]の職人によるものを愛用しており、墨は自分で磨って使っているが、忙しいときには[[筆ペン]]も使っている。また「筆で描く漫画家」のように間口を狭めるのが嫌で作品によってはペンも使用している<ref name="CM">「黒田硫黄インタビュー」『Comickers』vol21{{Full citation needed|date=2023年1月}}(2001年)、美術出版社、46頁-49頁</ref>。連載作品の中では『[[茄子 (漫画)|茄子]]』の大部分がペンによって描かれている。 === スターシステム === 黒田はデビュー時から作品に[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スター・システム]]を取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。なかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった{{sfn|『ユリイカ』2003年8月号|pp=164-187|loc=斎藤宣彦、横井周子「黒田硫黄全著作解題」}}。 === 他の作家との影響関係など === 黒田は[[藤子・F・不二雄]]のファンであり、『Comickers』では藤子の『[[21エモン]]』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている<ref name="CM" />。『[[Quick Japan]]』では[[新沢基栄]]や[[徳弘正也]]などに言及、小説家では学生時代に[[筒井康隆]]を愛読していたと語っている{{sfn|『QJ vol.42』|pp=62-79|loc=斎藤宣彦、横井周子「マンガ家、黒田硫黄ロングインタビュー」}}。南信長は、直系子孫たる作家のいない[[諸星大二郎]]の「遺伝子」を「そこはかとなく」感じさせる最たる一人として、黒田を挙げている{{sfn|南|2013|pp=110-111}}。 == 作中のモチーフ == ここでは「黒田硫黄キーワード事典」を参考に{{sfn|『QJ vol.42』|pp=80-83|loc=小林善美ほか「黒田硫黄キーワード事典」}}、黒田の作品に特徴的ないくつかのモチーフを解説する。 ; 象([[ゾウ]]) : 「象の散歩」「象夏」(『大王』所収)「象の股旅」(『黒船』所収)など、黒田は象を好んで作品の題材に取り上げており、また象印の架空のビール「パオパオビール」を複数の作品で登場させている。黒田は象について「とくにアジア象だと人間との関係の文化があるので面白い話がいっぱい掘り出せます」とコメントしている{{sfn|『QJ vol.42』|pp=80-83|loc=小林善美ほか「黒田硫黄キーワード事典」}}。 : ; [[自転車]] : 自転車レースを描いた「アンダルシアの夏」で自転車レースファンである宮崎駿から賛辞を受けた黒田だが、このほかにも「わたしのせんせい」「自転車フランケン」など作中にしばしば自転車を登場させている。2003年には『Comickers』春号にて自転車レース漫画『[[シャカリキ!]]』の作者 [[曽田正人]]と対談した<ref>「自転車対談 曽田正人×黒田硫黄」、季刊『Comicers vol.36』2003 春号、美術出版社、pp. 113 -</ref>。また[[スタジオジブリ]]主催の[[ツール・ド・信州]]にも参加している<ref>{{Cite web|和書|author=依田謙一 |url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20031014d.htm |title=「ツール・ド・信州」アニメーション業界の自転車熱【前編】 : スタジオジブリ関連ニュース : ジブリをいっぱい : エンタメ |website=YOMIURI ONLINE(読売新聞) |publisher=読売新聞社 |date=2003-10-14 |accessdate=2006-10-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061022114525/https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20031014d.htm |archivedate=2006-10-22}}<br />{{Cite web|和書|author=依田謙一 |url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20031021d.htm |title=「ツール・ド・信州」アニメーション業界の自転車熱【中編】 : スタジオジブリ関連ニュース : ジブリをいっぱい : エンタメ |website=YOMIURI ONLINE(読売新聞) |publisher=読売新聞社 |date=2003-10-21 |accessdate=2006-09-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060910013501/https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20031021d.htm |archivedate=2006-09-10}}<br />{{Cite news |author=依田謙一 |url=https://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20031027d.htm |title=「ツール・ド・信州」アニメーション業界の自転車熱【後編】 : スタジオジブリ関連ニュース : ジブリをいっぱい |newspaper=YOMIURI ONLINE(読売新聞) |publisher=読売新聞社 |date=2003-10-27}}{{リンク切れ|date=2023年1月}}</ref>。『茄子』のアニメ化を記念してつくられた特集本では、[[すぎむらしんいち]]や[[あさりよしとお]]など自転車好きの漫画家からイラストを寄せられた。 : ; [[カメラ]] : 『[[大日本天狗党絵詞]]』などに小道具として登場。四季賞の賞金ではカメラを買い、大学の写真サークルで現像の方法などを一通り学んだという。そのとき「自分の外側のものをいかに取り込んでいくか」という点で写真の才能がないことがわかったが、[[ゾーンシステム]]{{efn2|白黒写真において、コントラストや画面の調子を整えるための方法のこと。}}や[[露出 (写真)|露出]]の感覚などが絵を描く上での勉強になったと語っている<ref name="CM" />。黒田自身の撮影した写真は『天狗党』カバー見返しや巻末付録などで見ることができる。 : ; [[ロボット]] : 幼少時に『[[鉄腕アトム]]』『[[マジンガーZ]]』を好んで観ていたという黒田は、古いタイプのロボットへの憧憬を語っており、今後ロボットものを描きたいとも語っている{{sfn|『QJ vol.42』|pp=62-79|loc=斎藤宣彦、横井周子「マンガ家、黒田硫黄ロングインタビュー」}}。「THE WORLD CUP 1962」(『大王』所収)では人類崩壊後に巨大ロボットが戦う光景を描き、『[[セクシーボイスアンドロボ]]』ではロボットオタクの青年「ロボ」を登場させた。 : ; [[料理]] : 『[[茄子 (漫画)|茄子]]』をはじめとする黒田の作品{{efn2|『CUTiE COMIC』(宝島社)では2ページの料理漫画を連載(『肉じゃがやめろ!』全5回、『黒船』収録)。}}において頻繁に描かれる食事や料理{{efn2|『茄子』の単行本では、作中に登場した料理のレシピも紹介している。}}は、キャラクターの「生き方や人間関係、過去の記憶と密接に結びつ」き、「演出上重要な役割を担」っている{{Sfn|南|2013|pp=115 & 118}}。2002年のインタビューでは「僕は登場人物が何を食っているのか分からないようなマンガはだめだと思ってるんです」と語っており<ref>{{Cite journal|和書|author=芝田隆広 |title=漫画家スペシャルインタビュー 黒田硫黄 |year=2001 |month=12 |publisher=メディアファクトリー |journal=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]] |issue=2002年1月号 |pages=136-137}}</ref>、南信長は、それ故に黒田の作品には生命感やリアリティが生じるのだとしている{{sfn|南|2013|p=118}}。 == 作品リスト == === 連載作品 === ; [[大日本天狗党絵詞]] : (講談社『月刊アフタヌーン』1994年10月号 - 1997年1月号) : 幼い頃から天狗とともに暮らし、自身も天狗になろうとする少女・シノブを描く現代劇。黒田の初連載作品であり、当時黒田が凝っていた[[能]]の影響が窺える。全28話、単行本全4巻。 :; 『大日本天狗党絵詞 1 新装版』 :: (アフタヌーンKC)(2008年10月) :: 短編「かみかくし」初出:『大日本天狗党絵詞』の世界 :: (『月刊アフタヌーン』1994年10月号)4ページカラー :; 『大日本天狗党絵詞 2 新装版』 :: (アフタヌーンKC)(2008年11月21日) : :; 『大日本天狗党絵詞 3 新装版』 :: (アフタヌーンKC)(2008年12月22日) : : ; [[茄子 (漫画)|茄子]] : (『月刊アフタヌーン』2000年11月号 - 2002年10月号) : [[ナス|茄子]]をテーマにしたオムニバス作品。晴耕雨読の生活を送る中年・高間(たかま)の話を中心に、現代劇・時代劇・近未来SFまでさまざまな人物・ジャンルの短編を描く。全24話、単行本全3巻。 : ; [[セクシーボイスアンドロボ]] : (小学館『スピリッツ増刊IKKI』第1号(2000年) - 第13号(2003年)) : 「スパイか占い師になりたい」という少女・ニコが携帯電話と声色を駆使し、相棒のロボとともに様々な事件を解決する都会劇。13話(未完)、単行本2巻。 : ; [[あたらしい朝]] : (『月刊アフタヌーン』2006年9月号 - 2010年12月号) : 1930年代のドイツ。ナチスの政治資金をうっかりネコババしてしまった2人の不良青年・マックスとエリックは、ほとぼりを冷ますために兵役に就く。しかし折りしも戦争が始まってしまい、2人の人生の歯車は大きく狂っていく。不定期に連載。全16話、単行本全2巻。<!--ストーリーのモチーフとして史実の[[横浜港ドイツ軍艦爆発事件]]が援用される。--><!--未検証--> : ; [[Appleseed Alpha|アップルシードα]] : ([[著作権表示|(c)]][[士郎正宗]]・[[ソニー・ピクチャーズ・ワールドワイド・アクジション|SPWA]]・[[ルーセント・ピクチャーズ・エンタテインメント|LPE]]、講談社『[[月刊モーニングtwo]]』2014年9月号 - 2016年2月号 ) : 士郎正宗のコミック「[[アップルシード]]」を原案とし、[[2014年]]に公開された映画「アップルシードα」のコミカライズとして連載された。映画の内容とは基本設定を共通とするがストーリーはオリジナルである。212X年、40年間の非核大戦の末に文明崩壊した後の世界。[[サイボーグ]]が政治とインフラを握り人間を下位に置く都市国家ニューヨークに、大戦を生き抜いた元[[SWAT]]のデュナンと戦闘サイボーグ・ブリアレオスが流れ着き、サイボーグと人間、『オリュンポス』それぞれの勢力間での争いに巻き込まれていく。全15話、単行本全2巻。 : ; ころぶところがる : ([[八重洲出版]]『サイクルスポーツ』2021年1月号 - 、小学館『[[ゲッサン]]』2023年7月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/528325|title=「ながたんと青と」の磯谷友紀がゲッサンで高学歴女子描く、黒田硫黄は3号連続で登場|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-12|accessdate=2023-06-12}}</ref> - 2023年9月号<ref>{{Cite journal|和書|author=黒田硫黄 |date=2023-08-12 |title=ころぶところがる 最終話 知らない町 |journal=ゲッサン |issue=2023年9月号 |page=555 |publisher=小学館 |asin=B0CCYZ7N78 |id={{JAN|4910035770938}} }}</ref>) === 短編作品 === ; 『[[大王 (漫画)|大王]]』 : (1999年刊、イーストプレス)収録作品(収録順) : ; 『[[黒船 (漫画)|黒船]]』 : (2001年刊、イーストプレス) : ; 『大金星』 : (2008年刊、アフタヌーンKC)収録作品 :* Schweitzer :: (初出掲載誌「アディダス・マンガフィーバー」2002年刊)8ページ :* ミシ :: (『月刊アフタヌーン』2005年4月号 - 同9月号連載) :* アンヘル :: (前後編)(「月刊アフタヌーン」2003年8、9月号初出)42ページ :* 居酒屋武装条例 :: (講談社『ヤングマガジンアッパーズ』Vol.7、2002年) :* ぶどうの丘 :: (『COMIC CUE』Vol.200、2002年) :* ねこねこ救助隊 :: (青土社『ユリイカ』2003年8月号) :* 多田博士 :: (講談社『エソラ』Vol.3、2006年)他 : ; 『きょうのカプセル』講談社 : (2018年11月22日) : ; 未収録作品 :* 遠浅(『月刊アフタヌーン』1993年11月号)26ページ :* このあいだスタジオジブリに行きました(『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド、2001年7月)1ページ :* 自転車のふく(スタジオジブリ『熱風』2003年2月号)2ページ :* まさかアニメになるとは思わなんだ。(『茄子 アンダルシアの夏』劇場パンフレット)1ページ :* 毎月映画を観てマンガ描いた(『熱風』2004年11月号)4ページ :** スタジオジブリの[[フリーペーパー]]『熱風』(GHIBLI〈ジブリ〉と読む)で発表した2作は共にその号の特集に沿った雑談的な作品。「毎月映画を-」は、『映画に毛が3本!』の『アッパーズ』連載時の思い出などを語った外伝でもある。 :* 固定ギアでモテモテの巻(飛鳥新社『季刊エス』13号、2005年)1ページ :* さらばユニヴァース([[スピッツ (バンド)|スピッツ]]「ハヤブサ」のツアーパンフレット) :* アンソロジー収録のものは[[#参加アンソロジーなど]]を参照 === 参加アンソロジーなど === ; [[ネオデビルマン]] : (2000年刊、講談社) :* ゼノンの立つ日(『モーニング新マグナム増刊』No.8(1999年)初出)54ページ : [[永井豪]]『[[デビルマン]]』を題材に様々な作家が自由に作品を描く企画単行本(作品の初出は『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』)。全3巻。[[寺田克也]]、[[岩明均]]などが参加しており、黒田の作品は3巻に収録。2001年には文庫版上下巻も刊行された。 : ; [[Adidas MANGA FEVER]] : (2002年刊、スタイル) :* Schweitzer(描き下ろし)8ページ : [[2002 FIFAワールドカップ]]開催を記念して作られた単行本。[[大友克洋]]、[[井上雄彦]]、[[松本大洋]]など、海外の作家を含め29人の漫画家が参加。黒田は8ページのオールカラーコミックを寄稿している。 : ; [[大合作]] : (2002年刊、講談社) : 『[[月刊アフタヌーン]]』創刊10周年を記念して制作された合作漫画『大合作』、14周年を記念して制作された『大合作2』を収録。黒田は両作品に参加し連載作品のキャラクターを登場させているほか、『[[ああっ女神さまっ]]』のキャラクターを多数の作家が描き合う企画にも参加している。 : ; [[茄子 アンダルシアの夏]] アニメ&漫画コラボブック : (2003年刊、講談社) :* アンヘル(前後編)(『月刊アフタヌーン』2003年8、9月号初出)42ページ : 『[[茄子 (漫画)|茄子]]』の劇場アニメ化を記念して作られた特集本。『茄子』から『アンダルシアの夏』および続編の『スーツケースの渡り鳥』が再録されているほか、単行本未収録の番外編『アンヘル』を収録(ただし、初出時にあった後編の扉ページを消し、前後編の区切りを無くしている)。そのほか黒田と[[高野文子]]との対談や[[高坂希太郎]]の対談、友人の漫画家の応援イラストなどが収録されている。 : ; [[短篇集 hi mi tsu ki chi]] : (2011年刊、小学館) :* 勉強部屋(書き下ろし) : 「[[秘密基地]]」をテーマに漫画家・[[作家]]によって描かれた作品を集めた単行本。大友克洋、[[いがらしみきお]]、[[業田良家]]、[[水道橋博士]]らが参加している。 === エッセイ === ; [[映画に毛が3本!]] : (講談社『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』1998年Vol.6 - 2004年21号/講談社『[[別冊ヤングマガジン]]』2006年18号 - ) : 『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』に創刊時から連載されていた漫画形式の映画コラム。毎回1作品を取り上げ見所を解説する。[[榎本俊二]]『映画でにぎりっ屁』との交代で掲載、2003年に講談社から単行本が刊行された。『アッパーズ』休刊後、2006年より『[[別冊ヤングマガジン]]』に移って連載が再開。現在のところ、単行本発売後に『アッパーズ』に発表した数回分と『[[スチームボーイ]]メカニカルブック』(講談社、2004年)で発表した特別編、そして『別冊ヤングマガジン』掲載分が単行本未収録である。 == 関連人物 == ; [[小原慎司]] : 黒田と同時期にデビューした漫画家。黒田からの呼びかけで2000年に『COMIC CUE』掲載の『課外授業』で合作を行なった(小原原作、黒田作画、『黒船』所収)。『ユリイカ』特集号にイラストとコメントを寄せており、「多分、ボクは日本で一番目か二番目に黒田硫黄の才能にシットした漫画家なのではないか」と書いている。一方黒田は『黒船』巻末の作品解説にて「氏はリリカルというかおたくというかおもろい漫画を描く人」で「私にはリリカルさが足りないなあと思った」とコメント。「リリカルさ」を意識してか『課外授業』は単行本収録時に描き足され、余韻をもった結末に変えられている{{sfn|『ユリイカ』2003年8月号|pp=164-187|loc=斎藤宣彦、横井周子「黒田硫黄全著作解題」}}。 : ; [[五十嵐大介]] : 黒田と同時期にデビューした漫画家で、漫画家の友人が少ない中では特に黒田と仲が良く、また尊敬していると語っている<ref>{{Cite book|和書|author=島田一志 |title=コミック・イズ・デッド |year=2005 |month=11 |publisher=Studio Cello |isbn=978-4-9030-8201-1 |pages=138-156 |chapter=五十嵐大介インタビュー}}</ref>。2001年の国際交流基金アジアセンター主催「アジアINコミック」展に黒田とともに参加。『茄子アンダルシアの夏 アニメ&漫画コラボブック』では茄子([[ナス]])をテーマにした短編作品を寄稿している(五十嵐『リトル・フォレスト』2巻に再録)。 : ; [[小田ひで次]] : 四季賞出身の漫画家。黒田の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていたことがあり、『ユリイカ』特集号にアシスタント体験マンガを寄稿した。小田の方が年長だが『[[四季賞クロニクル]]』付属ブックレットでは黒田にデビュー作を酷評されたことが書かれている。 : ; [[野崎歓]] : 黒田は大学の1、2年次に野崎の映画ゼミに所属しており、野崎は『ユリイカ』特集号に当時を回想するエッセイを寄せている。これによると当時の黒田は「20歳の男児とはとても思えぬ風格」で当時から「大王」のあだ名で呼ばれており、[[クリント・イーストウッド]]の『[[許されざる者 (1992年の映画)|許されざる者]]』を絶賛した野崎に対して、劇中のライフル銃の扱いの歴史的観点からみた誤りを指摘してみせ野崎を鼻白ませたという{{sfn|『ユリイカ』2003年8月号|pp=141-145|loc=野崎歓「昔あるときあるところに…」}}。 == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=Quick Japan vol.42 向井秀徳&黒田硫黄 |year=2002 |month=4 |publisher=[[太田出版]] |isbn=4-87233-667-4 |chapter=黒田硫黄 大全 |ref={{sfnref|『QJ vol.42』}} }}<ref>{{Cite web |url=http://www.ohtabooks.com/qj100/archives/042/ |title=QuickJapan vol.42 |website=QJ 100th ISSUE ANNIVERSARY |publisher=太田出版 |accessdate=2023-01-24}}</ref> * {{Cite journal|和書|title=特集 黒田硫黄 |year=2003 |month=8 |publisher=[[青土社]] |journal=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] |issue=2003年8月号 |isbn=978-4-7917-0108-7 |ref={{sfnref|『ユリイカ』2003年8月号}} }}<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2588 |title=青土社 ユリイカ:ユリイカ2003年8月号 特集=黒田硫黄 |website=青土社 |publisher=青土社 |accessdate=2023-01-24}}</ref> * {{Cite book|和書|date=2013-09-17|author=南信長|authorlink=新保信長|title=マンガの食卓|publisher=[[NHK出版]]|edition=初版 第1刷|isbn=978-4-7571-4316-6|ref={{sfnref|南|2013}} }}</div> '''出典''' {{Refbegin}} {{Reflist}} {{Refend}} == 外部リンク == * {{Official blog|http://kurodaiou.blog57.fc2.com/|黒田硫黄の仕事}}(公式ブログ) * [http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2002/manga/ 文化庁メディア芸術祭 受賞作品紹介ページ] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:くろた いおう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:二卵性双生児]] [[Category:一橋大学出身の人物]] [[Category:麻布中学校・高等学校出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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ウェブブラウザ
2021年12月時点のブラウザシェア- StatCounter ウェブブラウザ(インターネットブラウザ、web browser)とは、パソコンやスマートフォン等を利用してWebサーバに接続するためのソフトウェアであり、ウェブページを表示したり、ハイパーリンクをたどったりするなどの機能がある。単にブラウザ(ブラウザー)とも呼ばれる。 主なウェブブラウザとして、Google Chrome、Safari、Microsoft Edge、Mozilla Firefox、Opera、Internet Explorer、Vivaldi等がある。Windows 7など古いOSではサポートが終了しているものがある。 大まかに言うと、ウェブブラウザには3つの機能がある。 取得したHTMLは、ウェブブラウザのレイアウトエンジンに渡され、マークアップからインタラクティブな文書に変換される。Flashアプリケーションや Javaアプレットに対応するプラグインが用意されている場合は、それらを表示・実行することができる。未対応の種類のファイルに遭遇した場合は、ダウンロードして保存するか、他のプログラムを起動して開こうとする。 HTMLには、他のコンテンツへのハイパーリンクを記載することができる。リンクにはURIが含まれており、リンクをクリックすると、ウェブブラウザはそのURIで示されるコンテンツを取得する。 例えば、ブラウザのロケーションバーに http://en.wikipedia.org/ と入力したとする。Uniform Resource Locator (URL) のプレフィックスであるURIスキームによってURLをどう解釈するかは決まっている。古典的なURLは定義名 http: で始まり、Hypertext Transfer Protocol (HTTP) を使用してサーバに接続する。必須要件ではないが、多くのウェブブラウザは様々な定義名に対応しており、HTTPS用の https:、File Transfer Protocol 用の ftp:、内部ファイル用の file: などとも接続できる。 ウェブブラウザが直接扱えない定義名は、ブラウザ内部で定義された、他のアプリケーションにそのまま渡されることが多い。例えばmailto: で始まるURIは既定の電子メールクライアントに渡され、news:で始まるURIは既定のニュースグループリーダに渡される。OSのシェルがURIスキームを解釈しウェブブラウザなど適切なアプリケーションに渡される場合もある。 ウェブブラウザの機能は、最小限の文字を用いたユーザインタフェース (UI) から、多様なファイル形式やプロトコルに対応する高機能なものまで幅広い。電子メール、ネットニュース、Internet Relay Chat (IRC) 等に対応するコンポーネントを含むウェブブラウザは「インターネットスイート」と呼ばれることもある。 主要なウェブブラウザは同時に複数の情報リソースを扱うことができ、別窓で表示したり、タブを使って同じウィンドウ内に表示したりする(タブブラウザ)。また、表示したくないポップアップ広告を自動的にブロックする機能もある 。 ユーザがブックマークしたウェブページの一覧を表示する機能があり、素早くそれらのウェブページに戻ることができる。ブックマークはInternet Explorerでは「お気に入り」と呼ぶ。さらに、フィードリーダが組み込まれているウェブブラウザも多い。Firefoxではフィードは "live bookmarks" という形式で扱われ、フィードにおける最近の項目と対応するブックマークのフォルダのように機能する。Operaではフィードの内容を格納し表示する従来型のフィードリーダを採用している。 多くの主要ウェブブラウザのUIには、以下のような共通の要素がある。 主要なウェブブラウザはウェブページ内のインクリメンタル検索機能も持っている。 多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。 2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低いネットブックの普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。 初期のウェブブラウザが対応していたHTMLは非常に単純なものだった。ウェブブラウザの発展によりHTMLの標準でない方言が生まれ、互換性問題が大きくなっていった。最近のウェブブラウザは標準および事実上標準のHTMLとXHTML 、それらに高度な表現や機能を付加するCSS・JavaScriptなどに対応している。 表示したときの見た目はどのブラウザでも同じであるべきだが、そうでない場合もある。 ウェブブラウザが標準では持たない機能を追加するアドオン。 多くのウェブブラウザはHTTPSに対応しており、ウェブキャッシュやCookieや閲覧履歴を素早く簡単に消去する機能もある。しかしそれだけでは対処できないセキュリティのリスクに晒され、マルウェアに悪用されたり、(現在は死語になったが)ブラウザクラッシャーなどでブラウザのみならずオペレーティングシステムをフリーズさせられる場合がある。ブラウザ自体にもブラックリストで悪質なサイトへのアクセスを防止する・自動アップデートなどのセキュリティ向上機能が追加されているが、アンチウイルスソフトウェアなどでオペレーティングシステム (OS) 全体を保護するのが望ましい。 コンピュータセキュリティ、ネットワーク・セキュリティも参照。 ウェブブラウザの歴史は1980年代末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、WorldWideWebがティム・バーナーズ=リーによって1991年に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWebは後にNexusへと改称されている。 テッド・ネルソンとダグラス・エンゲルバートはバーナーズ=リーのずっと前にハイパーテキストの概念を開発していた。この核となる部分は World Wide Web に合うのではないか、というエンゲルバートの提案にバーナーズ=リーは賛同した。 1993年にNCSA Mosaicが登場した。Mosaic は画像が扱える最初のウェブブラウザの一つであり、これによってウェブの利用者が激増するきっかけとなった。米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA) の Mosaic チームのリーダーであったマーク・アンドリーセンはその後まもなくネットスケープを設立し、Mosaicを汲むNetscape Navigatorを1994年にリリースした。このブラウザは瞬く間に世界中のもっとも主流なウェブブラウザとなり、最盛期には全てのウェブにおいて9割もの利用率を占めた。 これにマイクロソフトが反応し、1995年にNCSAからMosaicのライセンスを引き継ぎInternet Explorerを開発した。このことが最初のブラウザ戦争の引き金にもなった。マイクロソフトはInternet ExplorerをWindowsに同梱させることでOS市場の優位性をウェブブラウザ市場にも引き継がせ、Internet Explorerにも力を持たせることができた。これによって2002年にはInternet Explorerの利用率はピーク時で95%を超えた。2011年2月現在ではNet Applicationsによると利用率が57%程度とされており、Internet Explorerのシェア減少が示されていた。 1996年にOperaが登場したが利用者を大きく獲得することはなく、2011年2月現在で2%と常にその前後の利用率となっていた。ただし携帯電話のウェブブラウザ市場では最も占有率を伸ばしており、4000万台を超える端末に導入されていた。また、いくつかの組み込みシステム向けにも登場しており任天堂の家庭用ゲーム機であるWiiやDSiなどがある。 1998年にNetscapeはMozilla Foundationを旗揚げし、オープンソースとして自由な競争力のあるブラウザを提供しようと計画した。このブラウザは最終的にMozilla Firefoxとして展開された。公開されたFirefoxはベータ版段階だったがそれなりの愛好者を獲得し、Firefox 1.0が2004年末期にリリースされてから間もなくFirefoxの全バージョン合計で7.4%の利用率を獲得した。2011年2月現在では22%の利用率となっていた。 2003年1月にAppleのSafariが登場した。Appleの製品での占有率は独占的で、2011年2月現在の利用率は6.3%となっており、緩やかな上昇傾向を見せていた。KDEプロジェクトのKHTMLを基に開発したWebKitと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。WebKitはAppleのiOS、GoogleのAndroid、ノキアのS60、Palm(2010年、ヒューレット・パッカードにより買収)のHP webOSなどいくつかの携帯電話のプラットフォームでも採用されていた。 2008年9月にGoogleのGoogle Chromeが登場した。これはWebKitを基に開発したBlinkと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。ウェブブラウザのシェアは1990年代後半以降のWindowsの普及に伴いInternet Explorerの占有が続いていたが、Google Chromeが2010年代に入って著しくシェアを伸ばし、2011年2月時点で11%の利用率に成長した。この増加傾向はInternet ExplorerやFirefoxの減少傾向と同期していた。そして2011年12月、Google ChromeはInternet Explorer 8を越えて最も広く使われているウェブブラウザとなった。ただし、Internet Explorerの全バージョンを合計すると、IEが最も広く使われているウェブブラウザであった。 2015年時点ではGoogle Chromeの世界シェアはInternet Explorerを抑えて1位となっており、過半数を占めるようになった。Internet ExplorerおよびFirefoxのシェア減少は著しく、それぞれ2位 (19.9%) および3位 (17.87%) となりGoogle Chromeとの差が急激に広がっていた。一方で日本国内に限ると、依然としてInternet Explorerのシェアは高く過半数を占めていた。 2015年7月にマイクロソフトのEdgeが登場した。EdgeHTMLと呼ばれるレンダリングエンジンを採用していたが、後にBlinkへ変更された。Windows 10に合わせてリリースされシェアを伸ばし、2020年には7.9%の利用率となりFirefox (7.2%) をやや上回ったが、Google Chrome (69.8%) には遠く及んでいない。 なお、成長著しいスマートフォンや非PCのタブレットの分野では、オペレーティングシステム (OS) 付属のウェブブラウザが利用されることがほとんどであり、AndroidではAndroidのAndroid標準ブラウザと後継のChrome、iOSのSafariがOSの占有率にほぼ比例して普及している。PCとのデータ同期も可能である。FirefoxやOperaなどはブラウザをスマートフォン・タブレット対応アプリとしてリリースして対抗している。 本来ウェブサイトは様々なOS環境・ウェブブラウザで見られるようにウェブ標準などに則し、アクセシビリティ等を考慮した形で作成される必要がある。しかしウェブサイトによっては種々の都合からサイトの閲覧に必要な環境として特定の推奨ブラウザを明記していることがあり、閲覧者は技術上の理由から推奨ブラウザに合わせたウェブブラウザの選択が必要となることもある。また、推奨ブラウザの記述内容によってはユーザが安全上の不利益を被る場合もある。
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"paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ユーザがブックマークしたウェブページの一覧を表示する機能があり、素早くそれらのウェブページに戻ることができる。ブックマークはInternet Explorerでは「お気に入り」と呼ぶ。さらに、フィードリーダが組み込まれているウェブブラウザも多い。Firefoxではフィードは \"live bookmarks\" という形式で扱われ、フィードにおける最近の項目と対応するブックマークのフォルダのように機能する。Operaではフィードの内容を格納し表示する従来型のフィードリーダを採用している。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "多くの主要ウェブブラウザのUIには、以下のような共通の要素がある。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "主要なウェブブラウザはウェブページ内のインクリメンタル検索機能も持っている。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低いネットブックの普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。", "title": "機能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "初期のウェブブラウザが対応していたHTMLは非常に単純なものだった。ウェブブラウザの発展によりHTMLの標準でない方言が生まれ、互換性問題が大きくなっていった。最近のウェブブラウザは標準および事実上標準のHTMLとXHTML 、それらに高度な表現や機能を付加するCSS・JavaScriptなどに対応している。", "title": "機能" 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"paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1998年にNetscapeはMozilla Foundationを旗揚げし、オープンソースとして自由な競争力のあるブラウザを提供しようと計画した。このブラウザは最終的にMozilla Firefoxとして展開された。公開されたFirefoxはベータ版段階だったがそれなりの愛好者を獲得し、Firefox 1.0が2004年末期にリリースされてから間もなくFirefoxの全バージョン合計で7.4%の利用率を獲得した。2011年2月現在では22%の利用率となっていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2003年1月にAppleのSafariが登場した。Appleの製品での占有率は独占的で、2011年2月現在の利用率は6.3%となっており、緩やかな上昇傾向を見せていた。KDEプロジェクトのKHTMLを基に開発したWebKitと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。WebKitはAppleのiOS、GoogleのAndroid、ノキアのS60、Palm(2010年、ヒューレット・パッカードにより買収)のHP webOSなどいくつかの携帯電話のプラットフォームでも採用されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2008年9月にGoogleのGoogle Chromeが登場した。これはWebKitを基に開発したBlinkと呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。ウェブブラウザのシェアは1990年代後半以降のWindowsの普及に伴いInternet Explorerの占有が続いていたが、Google Chromeが2010年代に入って著しくシェアを伸ばし、2011年2月時点で11%の利用率に成長した。この増加傾向はInternet ExplorerやFirefoxの減少傾向と同期していた。そして2011年12月、Google ChromeはInternet Explorer 8を越えて最も広く使われているウェブブラウザとなった。ただし、Internet 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"本来ウェブサイトは様々なOS環境・ウェブブラウザで見られるようにウェブ標準などに則し、アクセシビリティ等を考慮した形で作成される必要がある。しかしウェブサイトによっては種々の都合からサイトの閲覧に必要な環境として特定の推奨ブラウザを明記していることがあり、閲覧者は技術上の理由から推奨ブラウザに合わせたウェブブラウザの選択が必要となることもある。また、推奨ブラウザの記述内容によってはユーザが安全上の不利益を被る場合もある。", "title": "推奨ブラウザ" } ]
ウェブブラウザとは、パソコンやスマートフォン等を利用してWebサーバに接続するためのソフトウェアであり、ウェブページを表示したり、ハイパーリンクをたどったりするなどの機能がある。単にブラウザ(ブラウザー)とも呼ばれる。 主なウェブブラウザとして、Google Chrome、Safari、Microsoft Edge、Mozilla Firefox、Opera、Internet Explorer、Vivaldi等がある。Windows 7など古いOSではサポートが終了しているものがある。
{{Redirect|インターネットブラウザー|ニンテンドー3DSのブラウザ|インターネットブラウザー (ニンテンドー3DS)}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{Pie chart | caption=2021年12月時点のブラウザシェア- StatCounter<ref>https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220106-2242636/</ref> |other = yes |value1 = 66.60 |label1 = [[Google Chrome]] |color1 = royalblue |value2 = 9.56 |label2 = [[Safari]] |color2 = orangered |value3 = 9.22 |label3 = [[Microsoft Edge]] |color3 = gold |value4 = 8.49 |label4 = [[Mozilla Firefox]] |color4 = seagreen |value5 = 2.95 |label5 = [[Opera]] |color5 = darkorange }} {{HTML}} '''ウェブブラウザ'''('''インターネットブラウザ'''、web browser)とは、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]や[[スマートフォン]]等を利用して[[Webサーバ]]に接続するためのソフトウェアであり、[[ウェブページ]]を表示したり、[[ハイパーリンク]]をたどったりするなどの機能がある。単に'''ブラウザ'''(ブラウザー)とも呼ばれる。 主なウェブブラウザとして、[[Google Chrome]]、[[Safari]]、[[Microsoft Edge]]、[[Mozilla Firefox]]、[[Opera]]、[[Internet Explorer]]、[[Vivaldi (ウェブブラウザ)|Vivaldi]]等がある。[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]など古いOSではサポートが終了しているものがある。 == 構造と動作 == 大まかに言うと、ウェブブラウザには3つの機能がある。 # 主として[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]により[[Webサーバ|サーバ]]と[[通信]]し、コンテンツを取得する。接続先を指定する際には、[[Uniform Resource Identifier]] (URI) を使用する<ref>{{Cite web|url=http://www.w3.org/TR/webarch/#id-resources|title=URI/Resource Relationships|work=Architecture of the World Wide Web, Volume One|last=Jacobs|first=Ian|coauthors=Walsh, Norman|publisher=[[World Wide Web Consortium]]|date=15 December 2004|accessdate=2009-06-30}}</ref>。 # 取得したコンテンツに対して、その種類([[HyperText Markup Language|HTML]]/[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]]/[[Extensible Markup Language|XML]]、[[テキスト|文書]]、[[画像]]等)に応じた[[構文解析器|構文解析]]を行う。 # 構文解析の結果を基に文字や画像を適切に配置し、あるいは文字の大きさを調整したり色を付けるなどして描画する。 取得した[[HyperText Markup Language|HTML]]は、ウェブブラウザの[[HTMLレンダリングエンジン|レイアウトエンジン]]に渡され、[[マークアップ言語|マークアップ]]からインタラクティブな文書に変換される。[[Adobe Flash|Flash]]アプリケーションや [[Javaアプレット]]に対応する[[プラグイン]]が用意されている場合は、それらを表示・実行することができる。未対応の種類の[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]に遭遇した場合は、[[ダウンロード]]して保存するか、他のプログラムを起動して開こうとする。 HTMLには、他のコンテンツへの[[ハイパーリンク]]を記載することができる。リンクにはURIが含まれており、リンクをクリックすると、ウェブブラウザはそのURIで示されるコンテンツを取得する。 == サーバ等への接続方法 == 例えば、ブラウザのロケーションバーに ''<nowiki>http://en.wikipedia.org/</nowiki>'' と入力したとする。[[Uniform Resource Locator]] (URL) のプレフィックスである[[URIスキーム]]によってURLをどう解釈するかは決まっている。古典的なURLは定義名 ''http:'' で始まり、[[Hypertext Transfer Protocol]] (HTTP) を使用してサーバに接続する。必須要件ではないが、多くのウェブブラウザは様々な定義名に対応しており、[[HTTPS]]用の ''https:''、[[File Transfer Protocol]] 用の ''ftp:''、内部ファイル用の ''file:'' などとも接続できる。 ウェブブラウザが直接扱えない定義名は、ブラウザ内部で定義された、他のアプリケーションにそのまま渡されることが多い。例えば''mailto:'' で始まる[[Uniform Resource Identifier|URI]]は既定の[[電子メールクライアント]]に渡され、''news:''で始まるURIは既定の[[ニュースグループ]]リーダに渡される。OSのシェルがURIスキームを解釈しウェブブラウザなど適切なアプリケーションに渡される場合もある。 == 機能 == ウェブブラウザの機能は、最小限の文字を用いた[[ユーザインタフェース]] (UI) から、多様なファイル形式や[[通信プロトコル|プロトコル]]に対応する高機能なものまで幅広い。[[電子メール]]、[[ネットニュース]]、[[Internet Relay Chat]] (IRC) 等に対応するコンポーネントを含むウェブブラウザは「[[インターネットスイート]]」と呼ばれることもある<ref>{{Cite web |url= http://www.seamonkey-project.org/ |title=The SeaMonkey Project |publisher=[[Mozilla Foundation]] |date=7 November 2008 |accessdate=2009-06-30 }}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.cyberdog.org/ |title=Cyberdog: Welcome to the 'doghouse! |date=5 July 2009 |accessdate=2009-06-30}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.opus.co.tt/dave/internet.htm |title=Interesting DOS programs |author=Teelucksingh, Dev Anand |publisher=Opus Networkx |accessdate=2009-06-30}}</ref>。 主要なウェブブラウザは同時に複数の情報リソースを扱うことができ、別窓で表示したり、[[タブ (GUI)|タブ]]を使って同じウィンドウ内に表示したりする([[タブブラウザ]])。また、表示したくない[[ポップアップ広告]]を自動的にブロックする機能もある <ref>{{Cite web |url= http://technet.microsoft.com/en-us/library/bb457150.aspx#EEAA |title=Part 5: Enhanced Browsing Security |work=Changes to Functionality in Microsoft Windows XP Service Pack 2 |last=Andersen |first=Starr |coauthors=Abella, Vincent |publisher=[[マイクロソフト|Microsoft]] |date=15 September 2004 |accessdate=2009-06-30}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://support.mozilla.com/en-US/kb/Pop-up+blocker |title=Pop-up blocker |publisher=[[Mozilla Foundation]] |accessdate=2009-06-30 }}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.mactipsandtricks.com/tips/display.lasso?mactip=137 |title=Safari: Using The Pop-Up Blocker |work=Mac Tips and Tricks |publisher=WeHostMacs |year=2004 |accessdate= 2009-06-30}}</ref><ref>{{Cite web |url= http://www.opera.com/browser/tutorials/settings/#tabs |title=Simple settings |work=Opera Tutorials |publisher=[[オペラ・ソフトウェア|Opera Software]] |accessdate= 2009-06-30}}</ref>。 ユーザが[[ブックマーク]]したウェブページの一覧を表示する機能があり、素早くそれらのウェブページに戻ることができる。ブックマークは[[Internet Explorer]]では「お気に入り」と呼ぶ。さらに、[[フィードリーダー|フィードリーダ]]が組み込まれているウェブブラウザも多い。[[Mozilla Firefox|Firefox]]では[[フィード]]は "live bookmarks" という形式で扱われ、フィードにおける最近の項目と対応するブックマークのフォルダのように機能する<ref>{{Cite web |url= http://johnbokma.com/firefox/rss-and-live-bookmarks.html |title=Mozilla Firefox: RSS and Live Bookmarks |last=Bokma |first=John |accessdate=2009-06-30}}</ref>。[[Opera]]ではフィードの内容を格納し表示する従来型のフィードリーダを採用している<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.opera.com/mail/rss/ |title=Opera Mail で RSS ニュースフィードを扱う |publisher=[[オペラ・ソフトウェア]] |accessdate=2009-06-30}}</ref>。 === ユーザインタフェース (UI) === 多くの主要ウェブブラウザのUIには、以下のような共通の要素がある<ref>{{Cite web |url= http://www.about-the-web.com/shtml/browsers.shtml |title=About Browsers and their Features |publisher=SpiritWorks Software Development |accessdate=2009-05-05}}</ref>。 * 「前へ/次へ」のボタン。前のリソースに戻るボタンと次のリソースに進むボタンである。一部では一つに統合されているものもある。 * 「更新」のボタン。現在のリソースを再ロードする。 * 「中止」のボタン。リソースの読み込みを取り消す。一部では「更新」ボタンと統合されている。 * 「ホーム」のボタン。指定した[[ホームページ]]に戻る機能を提供する。 * [[アドレスバー]]は、[[Uniform Resource Identifier]] (URI) の入力のためにあり、入力された URI が指すリソースを表示する。検索バーと統合されている場合もある。 * 検索バーは[[検索エンジン]]への入力のためにある。アドレスバーと検索バーが統合されている場合もある。 * サイドバー - ブラウザによって名称は異なる。ウィンドウの左端・右端などにあり表示/非表示を切り替えられる。頻繁に使うが常に表示するほどではない要素(ブックマーク・履歴など)に簡単にアクセスできるようにしている。 * [[ステータスバー]]はリソースの読み込み状況を表示したり、カーソルの位置にあるリンクのURIを表示したり、ページの拡大機能を提供したりする。 * ブラウザによっては[[スキン (GUI)|スキン]]で外観を変更できる。 主要なウェブブラウザはウェブページ内の[[インクリメンタルサーチ|インクリメンタル検索]]機能も持っている。 多くのタブブラウザには以下のような共通の要素がある。 * タブバー - 複数開いているタブを切り替える。タブをピン留めする・グループ化するなどの管理機能を持つものもある。 * 新しいタブ - タブブラウザで新しいタブを開いた時、単にホームページや空白のページが表示される場合もあるが、Opera 9.2で導入された「スピードダイヤル」を皮切りに多くのブラウザで様々な機能が提供されるようになった。登録したページ(ブックマーク)や頻繁に表示したページの一覧など。 2000年代末期、Google Chromeの登場や画面解像度が低い[[ネットブック]]の普及などに伴い、UIを整理してページの表示領域を極力拡大する傾向が主流になった。アドレスバーに検索などの機能を統合、ステータスバーの廃止、ボタンの数を最小限にするなどである。 === 特殊なUIを備えたブラウザ === *'''[[テキストブラウザ|テキストベースブラウザ]]''':(テキストブラウザ) ウェブページのテキストのみをレンダリングするウェブブラウザ。[[キャラクタユーザインタフェース|CUI]]環境で動作させることができる。スタイルシートや画像、動画といったテキスト以外のコンテンツはほぼ無視されるが、その分必要リソースが少なく動作速度も速い傾向にある。 [[アクセシビリティ]]の観点から、音声ブラウザ等に対応させるためのテストにも利用される。 * 音声ブラウザ:コンテンツを音声として読み上げるブラウザ。原理はテキストブラウザと同じだが、読み上げ機能に特化している。 * '''[[ヘッドレスブラウザ]]''':通常のUIを備えず、レンダリング結果を画面に表示する代わりにファイル等で記録するウェブブラウザ。ウェブコンテンツの制作者がテストに利用することが多い。いわゆるウェブ[[クローラ|クローラー]]はそれ自身がヘッドレスブラウザとして動作している。 通常のブラウザと同じレンダリングエンジンを内蔵しており、単にHTMLを取得しただけではわからないスクリプトの動作結果やCSSによる装飾結果も確認できる。ヘッドレスブラウザはコマンドのパラメーターや、コンテンツ本体とは別に用意した[[スクリプト言語]]等を利用して制御する。 * '''[[専用ブラウザ]]''':特定ウェブサイトの閲覧に特化したブラウザ。ブラウザ独自の[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を内蔵しているものでは、汎用ブラウザよりも操作性が優れる。[[2ちゃんねるブラウザ]]のようにサーバから直接ローデータを取得してレンダリングするものや、HTTP以外の手段で通信しているものもある。 汎用ブラウザの拡張機能として実装されているケースもある。回線速度やハードウェアのリソースが潤沢ではなかった時代では有力な実装方法であったが、開発コストが大きい為廃れる傾向にある。 なお、スマートフォン用の「アプリ」は専用ブラウザ的な運用がなされているが、実態は特定サイトに接続を固定化された汎用ブラウザという事も珍しくない。 * '''[[最小主義のブラウザ]]''':[[UNIX哲学]]に基づいたブラウザ。ウェブページの解釈・表示のみを行ない、例えばタブやボタンを持たない。タイル型ウィンドウマネージャと併用されることが多い。UNIX哲学では、「一つのことを、うまくやれ」の精神が重要視される。{{仮リンク|Uzbl|en|Uzbl}}等一部の(特に[[X Window System|X]]向けの)ブラウザはこの教義をかなり厳密に守っていると言える。Uzblは2017現在も開発が続いている[[Webkit]]解釈によるウェブブラウザである。このブラウザは下部のステータスバーと呼ばれる一行の表示を除き、タブやその他一切のUIを持たない。操作は設定ファイル(多くの場合<code>~/.config/uzbl/config</code>というテキストファイルである)で定義され、標準では[[Vi]]風の鍵盤操作が定められている。最小主義と言ってもWebブラウザの本義は満たしており、Uzblは[[Acid3]]を満点で合格している。これらのブラウザはウィンドウマネージャ(親和性の高いものに[[awesome]]、[[i3 (ウィンドウマネージャ)|i3]]が挙げられる)によってタブブラウザのように操作できる。 === ウェブ標準への対応 === 初期のウェブブラウザが対応していたHTMLは非常に単純なものだった。ウェブブラウザの発展によりHTMLの標準でない方言が生まれ、互換性問題が大きくなっていった。最近のウェブブラウザは標準および'''事実上'''標準のHTMLと[[Extensible HyperText Markup Language|XHTML]] 、それらに高度な表現や機能を付加する[[Cascading Style Sheet|CSS]]・[[JavaScript]]などに対応している。 表示したときの見た目はどのブラウザでも同じであるべきだが、そうでない場合もある。 === 拡張機能 === ウェブブラウザが標準では持たない機能を追加するアドオン。 :Firefox・Google Chrome・Safari・Opera等には独自の拡張機能フォーマットがあり、ブラウザの開発元が用意したポータルサイトで配布される。多くは企業ではなくユーザーの有志が制作しており、UIの改善・広告ブロックなど様々な機能を提供する。 === プライバシーと安全性 === 多くのウェブブラウザは[[HTTPS]]に対応しており、ウェブキャッシュや[[HTTP cookie|Cookie]]や閲覧履歴を素早く簡単に消去する機能もある。しかしそれだけでは対処できないセキュリティのリスクに晒され、[[マルウェア]]に悪用されたり、(現在は死語になったが)[[ブラウザクラッシャー]]などでブラウザのみならず[[オペレーティングシステム]]を[[フリーズ]]させられる場合がある。ブラウザ自体にも[[ブラックリスト]]で悪質なサイトへのアクセスを防止する・自動アップデートなどのセキュリティ向上機能が追加されているが、[[アンチウイルスソフトウェア]]などで[[オペレーティングシステム]] (OS) 全体を保護するのが望ましい。 [[コンピュータセキュリティ]]、[[ネットワーク・セキュリティ]]も参照。 == 歴史 == ウェブブラウザの歴史は[[1980年代]]末に遡り、それから様々な技術の基礎を築きあげた最初のウェブブラウザ、[[WorldWideWeb]]が[[ティム・バーナーズ=リー]]によって[[1991年]]に公開された。このブラウザは既存および新たなソフトウェアとハードウェアの色々な技術とともに寄せ集められていた。なお、WorldWideWebは後にNexusへと改称されている<ref>{{Cite web|url= http://www.w3.org/People/Berners-Lee/WorldWideWeb.html |title=Tim Berners-Lee: WorldWideWeb, the first Web client |publisher=W3.org |date= |accessdate=2011-12-07}}</ref>。 [[テッド・ネルソン]]と[[ダグラス・エンゲルバート]]はバーナーズ=リーのずっと前に[[ハイパーテキスト]]の概念を開発していた。この核となる部分は World Wide Web に合うのではないか、というエンゲルバートの提案にバーナーズ=リーは賛同した。 [[File:Marc Andreessen.jpg|thumb|160px|マーク・アンドリーセン]] [[1993年]]に[[NCSA Mosaic]]が登場した。Mosaic は画像が扱える最初のウェブブラウザの一つであり、これによってウェブの利用者が激増するきっかけとなった<ref name="bloomberg">{{Cite web|url= http://www.bloomberg.com/video/67758394 |title=Bloomberg Game Changers: Marc Andreesen |publisher=Bloomberg.com |date=2011-03-17 |accessdate=2011-12-07}}</ref>。[[米国立スーパーコンピュータ応用研究所]] (NCSA) の Mosaic チームのリーダーであった[[マーク・アンドリーセン]]はその後まもなく[[ネットスケープコミュニケーションズ|ネットスケープ]]を設立し、Mosaicを汲む[[Netscape Navigator (ネットスケープコミュニケーションズ)|Netscape Navigator]]を[[1994年]]にリリースした。このブラウザは瞬く間に世界中のもっとも主流なウェブブラウザとなり、最盛期には全てのウェブにおいて9割もの利用率を占めた。 これに[[マイクロソフト]]が反応し、[[1995年]]にNCSAからMosaicのライセンスを引き継ぎ[[Internet Explorer]]を開発した。このことが最初の[[ブラウザ戦争]]の引き金にもなった。マイクロソフトはInternet Explorerを[[Microsoft Windows|Windows]]に同梱させることで[[オペレーティングシステム|OS]]市場の優位性をウェブブラウザ市場にも引き継がせ、Internet Explorerにも力を持たせることができた。これによって[[2002年]]にはInternet Explorerの利用率はピーク時で95%を超えた<ref name="searchenginejournal.com">{{Cite web|author=November 24, 2004 |url= http://www.searchenginejournal.com/mozilla-firefox-internet-browser-market-share-gains-to-74/1082/ |title=Mozilla Firefox Internet Browser Market Share Gains to 7.4% |publisher=Search Engine Journal |date=2004-11-24 |accessdate=2011-12-07}}</ref>。2011年2月時点ではNet Applicationsによると利用率が57%程度とされており、Internet Explorerのシェア減少が示されていた<ref name="browsershare">[http://marketshare.hitslink.com/browser-market-share.aspx?qprid=1 Hitslink.com]</ref>。 [[1996年]]に[[Opera]]が登場したが利用者を大きく獲得することはなく、2011年2月時点で2%と常にその前後の利用率となっていた<ref name="browsershare" />。ただし[[携帯電話]]のウェブブラウザ市場では最も占有率を伸ばしており、4000万台を超える端末に導入されていた。また、いくつかの[[組み込みシステム]]向けにも登場しており[[任天堂]]の[[家庭用ゲーム機]]である[[Wii]]や[[ニンテンドーDSi|DSi]]などがある。 [[1998年]]に[[Netscape]]は[[Mozilla Foundation]]を旗揚げし、[[オープンソース]]として自由な競争力のあるブラウザを提供しようと計画した。このブラウザは最終的に[[Mozilla Firefox]]として展開された。公開されたFirefoxは[[ベータ版]]段階だったがそれなりの愛好者を獲得し、Firefox 1.0が[[2004年]]末期にリリースされてから間もなくFirefoxの全バージョン合計で7.4%の利用率を獲得した<ref name="searchenginejournal.com" />。2011年2月時点では22%の利用率となっていた<ref name="browsershare" />。 [[2003年]]1月に[[Apple]]の[[Safari]]が登場した。Appleの製品での占有率は独占的で、2011年2月時点の利用率は6.3%となっており、緩やかな上昇傾向を見せていた<ref name="browsershare" />。[[KDE|KDEプロジェクト]]の[[KHTML]]を基に開発した[[WebKit]]と呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。WebKitはAppleの[[iOS]]、[[Google]]の[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]、[[ノキア]]の[[S60]]、[[パーム (企業)|Palm]](2010年、[[ヒューレット・パッカード]]により買収)の[[HP webOS]]などいくつかの携帯電話のプラットフォームでも採用されていた。 [[2008年]]9月にGoogleの[[Google Chrome]]が登場した。これはWebKitを基に開発した[[Blink (レンダリングエンジン)|Blink]]と呼ばれるレンダリングエンジンを採用している。ウェブブラウザのシェアは1990年代後半以降のWindowsの普及に伴いInternet Explorerの占有が続いていたが、Google Chromeが2010年代に入って著しくシェアを伸ばし、2011年2月時点で11%の利用率に成長した<ref name="browsershare" />。この増加傾向はInternet ExplorerやFirefoxの減少傾向と同期していた<ref>{{Cite web|url= http://www.digitaltrends.com/web/internet-explorer-usage-to-plummet-below-50-percent-by-mid-2012/attachment/net-applications-browser-market/ |title=Internet Explorer usage to plummet below 50 percent by mid-2012 |date=September 3, 2011 |accessdate=September 4, 2011}}</ref>。そして2011年12月、Google Chromeは[[Internet Explorer 8]]を越えて最も広く使われているウェブブラウザとなった。ただし、[[Internet Explorer]]の全バージョンを合計すると、IEが最も広く使われているウェブブラウザであった<ref>{{Cite web |url= http://money.cnn.com/2011/12/16/technology/chrome_internet_explorer/?source=cnn_bin |title=CNN Money claims that Chrome is more popular than IE8 |publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]] |accessdate=2011-12-19}}</ref>。 2015年時点ではGoogle Chromeの世界シェアはInternet Explorerを抑えて1位となっており、過半数を占めるようになった。Internet ExplorerおよびFirefoxのシェア減少は著しく、それぞれ2位 (19.9%) および3位 (17.87%) となりGoogle Chromeとの差が急激に広がっていた<ref>{{Cite web|和書|url= http://ascii.jp/elem/000/001/020/1020922/ |title=ついに日本でもIEが過半数割れに、世界はすでにChromeが寡占 |accessdate=2015-08-09}}</ref>。一方で日本国内に限ると、依然としてInternet Explorerのシェアは高く過半数を占めていた<ref>{{Cite web|和書|url= https://news.mynavi.jp/techplus/article/20150702-a307/ |title=シェアの下落続くIE - 6月ブラウザシェア |accessdate=2015-08-09 }}</ref>。 [[2015年]]7月にマイクロソフトの[[Microsoft Edge|Edge]]が登場した。[[EdgeHTML]]と呼ばれるレンダリングエンジンを採用していたが、後にBlinkへ変更された。[[Microsoft Windows 10|Windows 10]]に合わせてリリースされシェアを伸ばし、2020年には7.9%の利用率となり<ref>{{Cite web|和書|url = https://news.mynavi.jp/techplus/article/20200602-1046668/|title = Microsoft Edgeが6カ月連続増加 - 5月PCブラウザシェア|website = [[マイナビニュース]]|publisher = マイナビ|date = 2020-06-02 |accessdate = 2020-06-23}}</ref>Firefox (7.2%) をやや上回ったが、Google Chrome (69.8%) には遠く及んでいない。 なお、成長著しい[[スマートフォン]]や非PCの[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]の分野では、[[オペレーティングシステム]] (OS) 付属のウェブブラウザが利用されることがほとんどであり、Androidでは[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]の[[Androidブラウザ|Android標準ブラウザ]]と後継のChrome、[[iOS]]の[[Safari]]がOSの占有率にほぼ比例して普及している。PCとのデータ同期も可能である。FirefoxやOperaなどはブラウザをスマートフォン・タブレット対応アプリとしてリリースして対抗している。 {{Main|ブラウザ戦争}} == 推奨ブラウザ == 本来[[ウェブサイト]]は様々なOS環境・ウェブブラウザで見られるように[[ウェブ標準]]などに則し、[[アクセシビリティ]]等を考慮した形で作成される必要がある。しかしウェブサイトによっては種々の都合からサイトの閲覧に必要な環境として特定の[[推奨ブラウザ]]を明記していることがあり、閲覧者は技術上の理由から推奨ブラウザに合わせたウェブブラウザの選択が必要となることもある。また、推奨ブラウザの記述内容によってはユーザが安全上の不利益を被る場合もある。 {{Main|推奨ブラウザ}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commonscat|Web browsers}} * [[ウェブサイト]] * [[ウェブブラウザの一覧]] * [[ブラウザ戦争]] * [[HTMLレンダリングエンジン]](レイアウトエンジンとも) * [[タブブラウザ]] * [[ツリーブラウザ]] * [[ラインモードブラウザ]] * [[モバイルブラウザ]] * [[推奨ブラウザ]] * [[インターネットスイート]] ==外部リンク== *[https://www.w3.org/TR/webarch/ Architecture of the World Wide Web, Volume One] W3C *[https://www.w3.org/Proposal.html WorldWideWeb: Proposal for a HyperText Project] W3C {{ウェブブラウザ}} {{クラウドコンピューティング}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うえふふらうさ}} [[Category:ウェブブラウザ|*]] [[Category:World Wide Web]] [[Category:インターネットの歴史]] [[Category:ネットワークソフト]] [[Category:アプリケーションソフト]]
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Mozilla Application Suite
Mozilla Application Suite(モジラ・アプリケーション・スイート)またはMozilla Suite(モジラ・スイート)はMozilla Foundationによりプロジェクトを組んでオープンソースで開発されていたインターネットスイートであり、ウェブブラウザ、電子メールクライアント、ニュースクライアント、HTMLエディタおよびIRCクライアントの機能が含まれている。ウェブ標準とみなされるW3Cなどで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。 レンダリングエンジンはGeckoと呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、Mozilla FirefoxやCamino、Galeonなど幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。 2005年3月10日にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名をSeaMonkeyに変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。 タブブラウザ形式のウェブブラウザの他、電子メールクライアント、ニュースクライアント(ニュースリーダー)、WYSIWYG型HTMLエディタ、アドレス帳、IRCクライアントChatzillaも実装されている。XULというXMLをベースにした言語を使い、機能を拡張することができる。 また、標準機能としては利用できないが、拡張機能でカレンダー機能なども追加する事ができる。このカレンダーはvCal形式を採用しており、macOSのiCalとも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。 現在のオープンソースとなったMozillaは、Netscape 5.0としてリリース予定だった開発中のソースコードをベースにして機能改良を施していくという方向性で開発が始まった。しかし、既存のソースコードをそのまま使っていては問題が多かった為にレンダリングエンジンを全面的に書き直す事となった。こうして出来上がった全く新しいレンダリングエンジンがGeckoであり、それを用いてNetscape 6、7などがリリースされた。 以前、Mozilla自体は完成した製品/ソフトウェアというより、他のプロジェクト(主にNetscape)にリリースしてもらうための開発、デバッグのためのブラウザという位置づけであった。そのためサポート体制などは整っているとは言い難かった。 しかし、2003年5月末に起こったAOLとマイクロソフトの和解により、AOL傘下であったネットスケープ・コミュニケーションズとマイクロソフトの間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、マイクロソフトのウェブブラウザであるInternet Explorerを数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープ・コミュニケーションズの存在価値が危ういものとなった。これは、NetscapeのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体であるMozilla Foundationを設立した。ファウンデーションの設立により、ネットスケープ・コミュニケーションズが担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がファウンデーションにも覆い被さることとなった。これによりファウンデーションはMozillaの入ったCDの販売や、電話でのサポート等の業務も行うようになった。 「Mozilla」はNetscapeやInternet Explorerの「User-Agent:」フィールドのキーワードにもなっている。ネットスケープ・コミュニケーションズの初期の社名はMosaic Communicationsといい、Mozillaという名称は、同社がブラウザ「Mosaic」(NCSA Mosaicとは異なる)を開発中に、Mosaicと日本の怪獣映画ゴジラを合成してコードネームとしてつけられたのが起源である。NCSA Mosaicで知られる NCSA の圧力により、社名も製品名もMosaicからNetscapeに改名を迫られた経緯との関係なのか、Netscapeの初期のバージョンのREADMEには「N-e-t-s-c-a-p-eと書いてMozillaと読む」との記述があった。開発者などの間ではNetscapeをMozillaと呼ぶ場合もあり、User-Agent:フィールドやドキュメントの表記はそのまま残されているものもある。 Internet Explorerが User-Agent: フィールドでMozillaを名乗っている事情は、リリース当時Netscapeが普及しており、ウェブサイトもほとんどがNetscape用につくられていたことによる。後発でリリースされたInternet ExplorerはNetscape用につくられたウェブサイトのJavaScriptやCGIなどが動作するよう、類似のUser-Agent:フィールドを名乗るようにした。現在もInternet Explorerをはじめとする多くのグラフィカルなブラウザは「Mozilla」という名前を含んだUser-Agent:フィールドを利用したままであり、そのため、ブラウザ判定は別の部分で行わなければならない。 担当地域におけるMozillaの普及促進をおこなう支部として、2004年2月にMozilla Europeが設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内におけるMozilla製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国Mozilla Foundationの公式支部として設立された非営利法人(有限責任中間法人)「Mozilla Japan」が2004年8月19日から活動を開始した。 Mozillaは、国際化されたソフトウェアであり、日本語を含む多くの言語が利用可能である。ただし、mozilla.org自体はメニューなどのGUIを各国語に地域化したパッケージは作成しておらず、地域化モジュールおよびパッケージの作成は有志によって行われている。日本語圏では、1999年中盤(M9)頃から谷口悠太氏、2000年(M13)から2002年中盤頃迄「もじら組」にて日本語パック「JLP」がリリースされていたが、バージョン1.0.1で終了している。その後、有志による日本語化作業と配布が分散した形で行われたが、正式な日本語版が用意されない場合もあった。現在はMozilla Japanのローカライズセンターにて有志による作業とその成果物であるリソースの調整が行われ、正式な日本語版がリリースされている。 2005年3月10日、完全版であるMozilla Application Suiteの開発は 1.7 系列で打ち切られることが発表された。それに伴い、開発中だったバージョン1.8もα6で開発中止となった。今後は、Mozilla Application Suiteに含まれるブラウザ部分のMozilla Firefoxや電子メールソフト部分のMozilla Thunderbirdの開発に軸足を据える事となった。その後の2006年4月リリースのバージョン 1.7.13 をもっての開発・アップデート終了が発表された。 2006年6月以降、Mozilla 1.7系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、MozillaファウンデーションではFirefoxまたはThunderbirdの最新版へ移行するよう推奨している。 2005年7月2日、開発中止となっていたMozilla Application SuiteをSeaMonkeyとしてSeaMonkey Councilが引き継ぐ事が決定。SeaMonkey Projectで生まれた改良点はMozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdにフィードバックされることとなる。また、その後2006年1月30日には初の正式版となるSeaMonkey 1.0 がリリースされた。
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Mozilla Application Suite(モジラ・アプリケーション・スイート)またはMozilla Suite(モジラ・スイート)はMozilla Foundationによりプロジェクトを組んでオープンソースで開発されていたインターネットスイートであり、ウェブブラウザ、電子メールクライアント、ニュースクライアント、HTMLエディタおよびIRCクライアントの機能が含まれている。ウェブ標準とみなされるW3Cなどで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。 レンダリングエンジンはGeckoと呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、Mozilla FirefoxやCamino、Galeonなど幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。 2005年3月10日にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名をSeaMonkeyに変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。
{{Infobox Software | 名称 = Mozilla Application Suite | ロゴ = | スクリーンショット = [[ファイル:Mozilla 1.7.8-ja.png|200px|center]] | 説明文 = [[GNOME]]上で動作しているMozilla 1.7.8で表示している、ウィキペディア日本語版の「[[Mozilla]]」の記事。 | 開発元 = Mozilla Foundation、Mozilla Corporation | 最新版 = 1.7.13 | 最新版発表日 = [[2006年]][[4月13日]] | 最新評価版 = | 最新評価版発表日 = | 対応OS = [[macOS|Mac OS X]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[Linux]]、[[OS/2]]、[[Solaris]]、[[JDS (OS)|JDS]] | 対応プラットフォーム = [[クロスプラットフォーム]] | 種別 = [[インターネットスイート]] | サポート状況 = サポート終了 | ライセンス = [[Mozilla Public License|MPL]]、[[GNU General Public License|GPL]]、[[LGPL]] | 公式サイト = [http://www.mozilla-japan.org/download.html Mozilla Japan] }} '''Mozilla Application Suite'''(モジラ・アプリケーション・スイート)または'''Mozilla Suite'''(モジラ・スイート)は[[Mozilla Foundation]]によりプロジェクトを組んで[[オープンソース]]で開発されていた[[インターネットスイート]]であり、[[ウェブブラウザ]]、[[電子メールクライアント]]、[[ニュースクライアント]]、[[Webオーサリングツール|HTMLエディタ]]および[[IRCクライアント]]の機能が含まれている。ウェブ標準とみなされる[[World Wide Web Consortium|W3C]]などで決められた勧告や規格にできる限り準拠していくという方針で開発されていた。 [[レンダリングエンジン]]は[[Gecko]]と呼ばれ、Mozilla以外でも利用できるようになっており、[[Mozilla Firefox]]や[[Camino]]、[[Galeon]]など幾つかのGeckoを利用したブラウザが存在する。 [[2005年]][[3月10日]]にMozillaの開発の終了が宣言され、以後Mozillaはブラウザとメールクライアントを分離したMozilla FirefoxとMozilla Thunderbirdの開発に重点を置いた。Mozilla Application Suiteについては外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名を[[SeaMonkey]]に変更したうえでインターネットスイートとして開発を継続することとなった。 ==概要== [[タブブラウザ]]形式のウェブブラウザの他、[[電子メールクライアント]]、[[ネットニュース|ニュースクライアント]](ニュースリーダー)、[[WYSIWYG]]型[[HTMLエディタ]]、アドレス帳、[[インターネット・リレー・チャット|IRC]]クライアント[[Chatzilla]]も実装されている。[[XUL]]という[[Extensible Markup Language|XML]]をベースにした言語を使い、機能を拡張することができる。 また、標準機能としては利用できないが、[[拡張機能 (Mozilla)|拡張機能]]でカレンダー機能<ref>https://www.thunderbird.net/ja/calendar/</ref>なども追加する事ができる。このカレンダーは[[vCal]]形式を採用しており、[[macOS]]の[[カレンダー (Apple)|iCal]]とも互換性がある。このようにプラグインにより、さまざまなアプリケーションを追加可能である。これらはXULによって開発されている。 現在のオープンソースとなったMozillaは、[[Netscapeシリーズ|Netscape]] 5.0としてリリース予定だった開発中のソースコードをベースにして機能改良を施していくという方向性で開発が始まった。しかし、既存のソースコードをそのまま使っていては問題が多かった為にレンダリングエンジンを全面的に書き直す事となった。こうして出来上がった全く新しいレンダリングエンジンがGeckoであり、それを用いてNetscape 6、7などがリリースされた。 以前、Mozilla自体は完成した製品/ソフトウェアというより、他のプロジェクト(主にNetscape)にリリースしてもらうための開発、デバッグのためのブラウザという位置づけであった。そのためサポート体制などは整っているとは言い難かった。 しかし、2003年5月末に起こったAOLと[[マイクロソフト]]の和解により、AOL傘下であったネットスケープ・コミュニケーションズとマイクロソフトの間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。また同時に、マイクロソフトのウェブブラウザである[[Internet Explorer]]を数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、ブラウザを提供するネットスケープ・コミュニケーションズの存在価値が危ういものとなった。これは、NetscapeのコードベースにもなっているMozillaの存在価値をも揺るがす問題であった。こうした事態を受けて2003年7月、Mozilla OrganizationはAOLから資金提供を受け、Mozillaの開発を支援する団体である[[Mozilla Foundation]]を設立した。ファウンデーションの設立により、ネットスケープ・コミュニケーションズが担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標がファウンデーションにも覆い被さることとなった。これによりファウンデーションはMozillaの入ったCDの販売や、電話でのサポート等の業務も行うようになった。 ==歴史== *1998年3月31日 - <code>mozilla.org</code> がMozillaのソースコードを公開する。 *2000年11月 - 未完成のMozilla M18 を元にして、Netscape 6.0がリリースされる。 *2001年10月 -Mozilla 0.9.4を基にして、Netscape 6.2がリリースされる。 *2002年6月5日 -Mozilla 1.0がリリースされる。 *2002年8月29日 -Mozillaの安定版を元に、Netscape 7.0がリリースされる。 *2003年4月2日 - ロードマップの大規模な変更があり、今後の安定版にMozilla Firebird<ref>現Mozilla Firefox</ref>とMozilla Thunderbirdの成果が取り込まれる事となった。 *2003年6月30日 - 1.0系に代わる安定版として、1.4がリリースされる。 *2003年7月15日 - Mozillaの開発、配布、導入を推進する財団としてMozillaファウンデーションが設立される。 *2004年6月17日 - 1.4系に代わる安定版として、1.7がリリースされる。 *2005年3月10日 - Mozilla Application Suiteの開発を1.7系列で打ち止めとすることが発表される。 *2005年7月2日 - 開発打ち切りとなっていたMozilla Application Suiteを外部団体のThe SeaMonkey Councilが引き継ぎ、ソフト名も[[SeaMonkey]]に変更 *2006年1月30日 - 開発が引き継がれてから初の正式リリースとなる、SeaMonkey 1.0 がリリースされる。 *2006年4月18日 - Suiteの最終セキュリティアップデートである1.7.13がリリースされる。 ==ユーザーエージェント== 「Mozilla」はNetscapeやInternet Explorerの「<code>User-Agent:</code>」フィールドのキーワードにもなっている。ネットスケープ・コミュニケーションズの初期の社名はMosaic Communicationsといい、Mozillaという名称は、同社がブラウザ「Mosaic」([[NCSA Mosaic]]とは異なる)を開発中に、Mosaicと日本の怪獣映画[[ゴジラ]]<ref>Godzilla、アメリカでも上映されていた</ref>を合成して[[コードネーム]]としてつけられたのが起源である<ref>[http://www.mozilla.gr.jp/docs/words-en.html#Application-Mozilla-Mozilla もじら組 用語集 『Mozilla』]{{リンク切れ|date=2019年2月}}</ref>。NCSA Mosaicで知られる NCSA の圧力により、社名も製品名もMosaicからNetscapeに改名を迫られた経緯との関係なのか、Netscapeの初期のバージョンの[[リードミー|README]]には「N-e-t-s-c-a-p-eと書いてMozillaと読む」との記述があった。開発者などの間ではNetscapeをMozillaと呼ぶ場合もあり、<code>User-Agent:</code>フィールドやドキュメントの表記はそのまま残されているものもある。 Internet Explorerが <code>User-Agent:</code> フィールドでMozillaを名乗っている事情は、リリース当時Netscapeが普及しており、ウェブサイトもほとんどがNetscape用につくられていたことによる。後発でリリースされたInternet ExplorerはNetscape用につくられたウェブサイトの[[JavaScript]]やCGIなどが動作するよう、類似の<code>User-Agent:</code>フィールドを名乗るようにした。{{いつ範囲|現在|date=2013年9月}}もInternet Explorerをはじめとする多くのグラフィカルなブラウザは「Mozilla」という名前を含んだ<code>User-Agent:</code>フィールドを利用したままであり、そのため、ブラウザ判定は別の部分で行わなければならない。 ==支部== 担当地域におけるMozillaの普及促進をおこなう支部として、2004年2月にMozilla Europeが設立されて活動を開始し、2番目の支部として日本国内におけるMozilla製品および関連技術の普及促進を目的とする、米国Mozilla Foundationの公式支部として設立された非営利法人([[有限責任中間法人]])「[[Mozilla Japan]]」が2004年8月19日から活動を開始した。 ==日本語化に際して== Mozillaは、国際化されたソフトウェアであり、日本語を含む多くの言語が利用可能である。ただし、<code>mozilla.org</code>自体はメニューなどのGUIを各国語に地域化したパッケージは作成しておらず、地域化モジュールおよびパッケージの作成は有志によって行われている。日本語圏では、1999年中盤(M9)頃から谷口悠太氏、2000年(M13)から2002年中盤頃迄「もじら組」にて日本語パック「JLP<ref>Japanese Language Pack.</ref>」がリリースされていたが、バージョン1.0.1で終了している。その後、有志による日本語化作業と配布が分散した形で行われたが、正式な日本語版が用意されない場合もあった。現在はMozilla Japanのローカライズセンターにて有志による作業とその成果物であるリソースの調整が行われ、正式な日本語版がリリースされている。 ==開発の終焉== [[2005年]][[3月10日]]、完全版であるMozilla Application Suiteの開発は 1.7 系列で打ち切られることが発表された。それに伴い、開発中だったバージョン1.8もα6で開発中止となった。今後は、Mozilla Application Suiteに含まれるブラウザ部分の[[Mozilla Firefox]]や電子メールソフト部分の[[Mozilla Thunderbird]]の開発に軸足を据える事となった。その後の[[2006年]]4月リリースのバージョン 1.7.13 をもっての開発・アップデート終了が発表された<ref>[http://developer.mozilla.org/devnews/index.php/2006/04/12/sunset-announcement-for-fxtb-10x-and-mozilla-suite-17x/]{{リンク切れ|date=2019年2月}}</ref>。 2006年6月以降、Mozilla 1.7系列も対象となる新たな脆弱性が発見されており、MozillaファウンデーションではFirefoxまたはThunderbirdの最新版へ移行するよう推奨している。 ==SeaMonkeyへ== [[2005年]][[7月2日]]、開発中止となっていたMozilla Application SuiteをSeaMonkeyとしてSeaMonkey Councilが引き継ぐ事が決定。SeaMonkey Projectで生まれた改良点はMozilla FirefoxやMozilla Thunderbirdにフィードバックされることとなる。また、その後[[2006年]][[1月30日]]には初の正式版となるSeaMonkey 1.0 がリリースされた。 ==脚注== <references/> ==関連項目== {{Portal|FLOSS|}} {{commons|Mozilla}} *[[Mozilla Foundation]] *[[Mozilla Japan]] *[[もじら組]] *[[MozillaZine]] *[[Mozilla Firefox]] - 旧・Mozilla Firebird。Mozillaウェブブラウザ部分のみの単体ソフト。 *[[Camino]] - 旧Chimera。Geckoベース、macOSネィティブのウェブブラウザ。 *[[K-Meleon]] - WindowsネイティブのGeckoブラウザ。 *[[Mozilla Thunderbird]] - Mozillaメールソフト(電子メールクライアント)のみの単体ソフト。 *[[Mozilla Sunbird]] - Mozillaのカレンダーのみの単体ソフト。 *[[Mozilla Composer]] - Mozilla付属のHTML編集ソフト。 *[[Nvu]] - MozillaのHTML編集単体ソフト。 *[[SeaMonkey]] - Mozilla Application Suiteの後継となる統合ソフト。 *[[Gnuzilla]] - フリーソフトウェア版Mozilla。 *[[Open Directory Project]] *{{仮リンク|NPRuntime|en|NPRuntime|label=NPRuntime}} *[[XULRunner]] *[[Minimo]] *[[Bugzilla]] - [[バグ]]の追跡・管理(トラッキング)ソフト。 ==外部リンク== *[http://www.mozilla-japan.org/products/mozilla1.x/ Mozilla Japan 開発打ち切りのアナウンス]{{リンク切れ|date=2018年12月}} *[https://www.mozilla.org/ <code>mozilla.org</code>] **[https://www-archive.mozilla.org/seamonkey-transition.html 1.7系列での開発打ち切りの発表]{{en icon}} **[http://developer.mozilla.org/devnews/index.php/2006/04/12/sunset-announcement-for-fxtb-10x-and-mozilla-suite-17x/ Suiteのセキュリティアップデート打ち切りの発表]{{リンク切れ|date=2019年2月}}{{en icon}} *[http://www.mozilla-japan.org/ Mozilla Japan]{{リンク切れ|date=2019年2月}} *[http://www.mozilla.gr.jp/ もじら組] *[https://www.seamonkey-project.org/ The SeaMonkey Project] *[http://level.s69.xrea.com/mozilla/jp.html えむもじらMozilla日本語ローカライズ版リンク集] {{Mozilla プロジェクト}} {{ウェブブラウザ}} {{電子メールクライアント}} {{FOSS}} {{DEFAULTSORT:Mozilla Application Suite}} [[Category:インターネットスイート]] [[Category:Geckoを用いたウェブブラウザ]] [[Category:オープンソースソフトウェア]] [[Category:Mozilla|Application Suite]] [[Category:1998年のソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Mozilla_Application_Suite
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相原コージ
相原 コージ(あいはら コージ、本名:相原 弘治、1963年(昭和38年)5月3日 - )は、日本の漫画家。北海道登別市出身。 妻の両角ともえも漫画家で、現在は相原のアシスタント(元・いしかわじゅんのアシスタント)。兄はミュージシャンの相原ピリカ。 北海道室蘭東高等学校(現・北海道室蘭東翔高等学校)を卒業後、日本デザイナー学院に入学。まんが専攻科卒業だが、相原自身は「専門学校の漫画コースは、行っても役に立ちません」と、この最終学歴を拒絶している(『サルでもやれる編集者教室』などで言及)。また『文化人類ぎゃぐ』の著者紹介でも同校に関して記載し、「恥ずかしい経歴」と書いている。 ほどなく『ガロ』に作品を投稿するも落選。その後『Weekly漫画アクション』(現・漫画アクション)に持ち込み掲載された『8月の濡れたパンツ』で1983年(昭和58年)にデビュー。この作品は上記学校の授業で描いたものだったため、持ち込みであるにもかかわらずカラー原稿が入っており、編集部を驚か(笑わ)せた。 いがらしみきおに強い影響を受け、ギャグ漫画を多く執筆。出世作・初単行本作品『ぎゃぐまげどん』では枠にとらわれない先鋭的・実験的なギャグ漫画を描き、漫画情報誌「ぱふ」における編集部のレビューでは「邪道まんが家」という誉め言葉を貰った。 その後は代表作として『コージ苑』、『かってにシロクマ』など。また、竹熊健太郎との合作『サルでも描けるまんが教室』は、漫画家の人生および漫画創作法自体をパロディ化した傑作となった。その後も、ギャグ漫画・ストーリー漫画で、従来の漫画家が描かなかった「極端な描写・物語」を追求し続けている。 『コージ苑』絶頂期に東京電力から広告依頼を受けるが、原発の広告は描けないと断った。 格闘技・プロレスに造詣が深く、自身もブラジリアン柔術を習っている。この経験はその後の彼の作品「真・異種格闘大戦」にて「ブラジリアン柔術を習得したゴリラ」が登場するシーンに生かされている。 大変な遅筆である(by『フロムK』いしかわじゅん) 1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて、『週刊ビッグコミックスピリッツ』誌上で全5回開催された、新人漫画家の賞(ただし、プロ作家でも参加可能)。 審査員は竹熊健太郎と相原コージ。「グランプリ」「金のアイハラ賞」「銀のアイハラ賞」「残念賞(佳作)」があった。 元来はある作家が原稿を落としてしまい、スピリッツのページが空いてしまった事により穴埋め企画として「従来の漫画賞のパロディ」として始まったが、予想を超えた多数の応募があり、多くの人気作家を生んだ。2001年(平成13年)から掲載雑誌の『週刊ビッグコミックスピリッツ』で「スピリッツ賞」が始まったため、消滅した。
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相原 コージは、日本の漫画家。北海道登別市出身。 妻の両角ともえも漫画家で、現在は相原のアシスタント(元・いしかわじゅんのアシスタント)。兄はミュージシャンの相原ピリカ。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 相原 コージ | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 相原 弘治<ref name="aihara">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月、ISBN 9784816917608)P4</ref> | 生年 = <!-- {{生年月日と年齢|1963|05|03}} --> | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[登別市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1963|05|03|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1983年]] - | ジャンル = [[ギャグ漫画]]<br/>[[ストーリー漫画]] | 代表作 = 『[[コージ苑]]』<br/>『[[かってにシロクマ]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''相原 コージ'''(あいはら コージ、本名:'''相原 弘治'''<ref name="aihara">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月、ISBN 9784816917608)P4</ref>、[[1963年]]([[昭和]]38年)[[5月3日]]<ref name="aihara" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[登別市]]出身<ref name="aihara" />。 妻の両角ともえも[[漫画家]]で、現在は相原の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]](元・[[いしかわじゅん]]のアシスタント)。[[兄]]は[[音楽家|ミュージシャン]]の相原ピリカ。 __TOC__{{-}} == 経歴・人物 == [[北海道室蘭東高等学校]](現・[[北海道室蘭東翔高等学校]])を[[卒業]]後、[[日本デザイナー学院]]に入学。まんが専攻科卒業だが、相原自身は「専門学校の漫画コースは、行っても役に立ちません」と、この最終学歴を拒絶している(『サルでもやれる編集者教室』などで言及)。また『文化人類ぎゃぐ』の著者紹介でも同校に関して記載し、「恥ずかしい経歴」と書いている。 ほどなく『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に作品を投稿するも落選。その後『Weekly漫画アクション』(現・[[漫画アクション]])に持ち込み掲載された『8月の濡れたパンツ』で[[1983年]](昭和58年)にデビュー。この作品は上記学校の授業で描いたものだったため、持ち込みであるにもかかわらずカラー原稿が入っており、編集部を驚か(笑わ)せた。 [[いがらしみきお]]に強い影響を受け、[[ギャグ漫画]]を多く執筆。出世作・初単行本作品『ぎゃぐまげどん』では枠にとらわれない先鋭的・実験的なギャグ漫画を描き、漫画情報誌「[[ぱふ]]」における編集部のレビューでは「邪道まんが家」という誉め言葉を貰った。 その後は代表作として『[[コージ苑]]』、『[[かってにシロクマ]]』など。また、[[竹熊健太郎]]との合作『[[サルでも描けるまんが教室]]』は、漫画家の人生および漫画創作法自体をパロディ化した傑作となった。その後も、ギャグ漫画・ストーリー漫画で、従来の漫画家が描かなかった「極端な描写・物語」を追求し続けている。 『[[コージ苑]]』絶頂期に[[東京電力]]から広告依頼を受けるが、[[原子力発電所|原発]]の広告は描けないと断った<ref>後に「サルでも描けるまんが教室」において、自ら電力会社に原発啓発まんがを描いて持ち込むが、あまりに露骨すぎる描写のため断られるという、ギャグを描いている。</ref>。 [[格闘技]]・[[プロレス]]に造詣が深く、自身も[[ブラジリアン柔術]]を習っている。この経験はその後の彼の作品「真・異種格闘大戦」にて「ブラジリアン柔術を習得したゴリラ」が登場するシーンに生かされている。 大変な遅筆である(by『フロムK』いしかわじゅん)<ref>『Z~ゼット~』特設サイトではこの記述を否定している。</ref> == 相原賞 == [[1988年]](昭和63年)から[[1990年]]([[平成]]2年)にかけて、『週刊[[ビッグコミックスピリッツ]]』誌上で全5回開催された、新人漫画家の賞(ただし、プロ作家でも参加可能)。 審査員は[[竹熊健太郎]]と相原コージ。「グランプリ」「金のアイハラ賞」「銀のアイハラ賞」「残念賞(佳作)」があった。 元来はある作家が原稿を落としてしまい、スピリッツのページが空いてしまった事により穴埋め企画として「従来の漫画賞のパロディ」として始まったが、予想を超えた多数の応募があり、多くの人気作家を生んだ。[[2001年]](平成13年)から掲載雑誌の『週刊ビッグコミックスピリッツ』で「スピリッツ賞」が始まったため、消滅した<ref>『COMIC GON!』4号([[ミリオン出版]])68 - 71ページ「栄光の相原コージ賞」</ref>。 === 相原賞を受賞後デビューした漫画家 === * [[ほりのぶゆき]] (第1回金のアイハラ賞) * [[藤野美奈子]] (第2回佳作、第3回銀のアイハラ賞) * [[榎本俊二]] (第3回特別賞) * [[三好銀]] (第3回銀のアイハラ賞) ※ 伊東ジュラ紀名義 * [[本秀康]] (第4回佳作) ※ 安藤アイラブハー名義 === 受賞したデビュー済の漫画家 === * [[うのせけんいち]] (第1回佳作) * [[中尊寺ゆつこ]] (第2回特別賞) == 作品リスト == === 漫画 === * ぎゃぐまげどん(1984 - 1985年、アクションHERO、双葉社)- 1986年発行の再版にデビュー作『8月の濡れたパンツ』収録 * 文化人類ぎゃぐ(1985年、Weekly[[漫画アクション]]、双葉社)- コミックエッセイ作品 * [[コージ苑]](1985年 - 1988年、週刊[[ビッグコミックスピリッツ]]、[[小学館]]) * 神の見えざる金玉(1986年 - 1989年、COMICアクションキャラクター、[[双葉社]]) * [[かってにシロクマ]](1986年 - 1989年、Weekly[[漫画アクション]]、双葉社) * [[サルでも描けるまんが教室]](共著:[[竹熊健太郎]]、1989年 - 1992年、週刊ビッグコミックスピリッツ、小学館) ** [[サルでも描けるまんが教室#とんち番長|とんち番長]]([[劇中劇]]) * [[ムジナ (漫画)|ムジナ]](1993年 - 1997年、[[週刊ヤングサンデー]]、小学館) * 一齣漫画宣言(1994年 - 1996年、週刊ビッグコミックスピリッツ、小学館) * 漫歌(1998年 - 2010年、Weekly漫画アクション → 移籍後[[ビッグコミックスペリオール]]、小学館) * 相原コージのなにがオモロイの?(1999年 - 2000年、週刊ビッグコミックスピリッツ、小学館) * もにもに(2001年 - 2002年、週刊ビッグコミックスピリッツ、小学館) * [[真・異種格闘大戦]](2004年 - 2011年、漫画アクション → 移籍後[[双葉社Webマガジン]]、双葉社) * [[サルでも描けるまんが教室|サルまん2.0]](2007年、[[月刊IKKI]]、小学館)- 『サルでも描けるまんが教室』の続篇 * [[Z 〜ゼット〜]](2012年 - 2015年、[[別冊漫画ゴラク]] → 移籍後ゴラクエッグ、[[日本文芸社]]) * 下ネタで考える学問(2012年 - 2013年、漫画アクション、双葉社) * コージジ苑(2015年 - 、[[アサヒ芸能]]、[[徳間書店]]) * 愛のバビロン(漫画:藤田かくじ、2016年 - 2018年、ゴラクエッグ、日本文芸社) * こびとねこ(2017年 - 2019年、[[WEBコミックアクション]]、双葉社) * 翻車魚奇譚(2020年 - 、[[Webアクション]]、双葉社) * うつ病になってマンガが描けなくなりました(2021年 - 、Webアクション、双葉社) === コンピュータゲーム === * かってにシロクマ([[キャラクターデザイン]]) * たんば([[キャラクターデザイン]]) * [[摩訶摩訶]]([[キャラクターデザイン]]) * [[イデアの日]](原案・[[シナリオ]]・キャラクターデザイン) === その他 === * たんば(カードゲーム、イラスト等) * 地上げの王様(ボードゲーム、イラスト等) === OVA === * かってにシロクマ([[脚本]]・[[絵コンテ]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|kojiaihara|相原コージ}}(2011年3月11日 17:07:33 - ) * {{マンガ図書館Z作家|129}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あいはら こおし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ゲームのグラフィッカー・原画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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あおきてつお
あおき てつおは、日本の漫画家。日本古代史研究者。東京都出身、千葉県千葉市在住。 1980年に『少年ビッグコミック』(小学館)掲載の「10月のメモリー」でデビュー。代表作に『緋が走る』『島根の弁護士』『赤い靴はいた』などがある。近年は主に集英社やリイド社、小学館の青年誌などで執筆活動をしながら、日本古代史をテーマにしたエッセイ作品も残している。 18歳の頃より同人漫画家としてマンガ研究会を設立して同人活動を行っており、1980年、小学館の『少年ビッグコミック』にて「10月のメモリー」でデビューした。 少年誌や少女誌などでの短編読み切り作品やオムニバス形式での短期シリーズ連載などを経て、1982年から『少年ビッグコミック』で連載された『気ままにウルフ』が初の長期連載作品(単行本全8巻)となる。以降、1990年頃までは少年誌を中心に、1992年以降は主に青年誌などで執筆活動をしている。また、企業や組合・業界誌コミックの企画制作する有限会社「ピエゾコミックコーポレーション」を設立し、『法律の抜け穴』シリーズなどを始め、企業コミックやイラスト・挿絵などを執筆した。1993年からは三省堂の中学英語教科書「New Crown」の編集委員として10年間イラストを担当し、漫画形式の教科書の先駆けとして話題になる。 代表作の1つである『緋が走る』は、1999年にNHKにて田中美里主演でテレビドラマ化され、全6回放映された。また、『島根の弁護士』は2007年にフジテレビ系列の「土曜プレミアム」枠にて、仲間由紀恵主演の2時間ドラマが放映された。2019年には『赤い靴はいた』より短編「アゲハがとんだ」が東映にて教育アニメ化された。 2022年より日本大学芸術学部文芸学科の非常勤講師に着任。
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あおき てつおは、日本の漫画家。日本古代史研究者。東京都出身、千葉県千葉市在住。 1980年に『少年ビッグコミック』(小学館)掲載の「10月のメモリー」でデビュー。代表作に『緋が走る』『島根の弁護士』『赤い靴はいた』などがある。近年は主に集英社やリイド社、小学館の青年誌などで執筆活動をしながら、日本古代史をテーマにしたエッセイ作品も残している。
{{存命人物の出典明記|date=2018年4月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = あおき てつお | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- {{JPN}} --> | 職業 = [[漫画家]]、古代史研究者 | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1980年]] - | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[緋が走る]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [https://note.com/susa404 あおきてつおGALLERY] }} '''あおき てつお'''は、[[日本]]の[[漫画家]]。日本古代史研究者。[[東京都]]出身、[[千葉県]][[千葉市]]在住。 [[1980年]]に『[[少年ビッグコミック]]』([[小学館]])掲載の「10月のメモリー」でデビュー。代表作に『[[緋が走る]]』『島根の弁護士』『赤い靴はいた』などがある。近年は主に[[集英社]]や[[リイド社]]、[[小学館]]の青年誌などで執筆活動をしながら、日本古代史をテーマにしたエッセイ作品も残している。 == 来歴 == 18歳の頃より同人漫画家としてマンガ研究会を設立して[[同人]]活動を行っており、[[1980年]]、[[小学館]]の『[[少年ビッグコミック]]』にて「10月のメモリー」でデビューした<ref>単行本『あおきてつお選集』に収録。ただし本人HPには、それ以前に同社の『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』で少女漫画家としてデビューしたという記述もある。</ref>。 [[少年誌]]や少女誌などでの短編読み切り作品や[[オムニバス]]形式での短期シリーズ連載などを経て、[[1982年]]から『[[少年ビッグコミック]]』で連載された『気ままにウルフ』が初の長期連載作品(単行本全8巻)となる。以降、[[1990年]]頃までは少年誌を中心に、[[1992年]]以降は主に青年誌などで執筆活動をしている。また、企業や組合・業界誌コミックの企画制作する有限会社「ピエゾコミックコーポレーション」を設立し、『法律の抜け穴』シリーズなどを始め、企業コミックやイラスト・挿絵などを執筆した。1993年からは[[三省堂]]の中学英語教科書「New Crown」の編集委員として10年間イラストを担当し、漫画形式の教科書の先駆けとして話題になる。 代表作の1つである『[[緋が走る]]』は、[[1999年]]に[[日本放送協会|NHK]]にて[[田中美里]]主演でテレビドラマ化され、全6回放映された。また、『[[島根の弁護士]]』は[[2007年]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列の「[[土曜プレミアム]]」枠にて、[[仲間由紀恵]]主演の2時間ドラマが放映された。2019年には『赤い靴はいた』より短編「アゲハがとんだ」が東映にて教育アニメ化された。 2022年より日本大学芸術学部文芸学科の非常勤講師に着任。 == 作品リスト == === 単行本 === * あおきてつお選集([[少年ビッグコミック]]([[小学館]]))全2巻 * 気ままにウルフ(少年ビッグコミック(小学館))全8巻 * Vボーイ([[少年キャプテン]]([[徳間書店]]))全2巻 * こっとん鉄丸([[週刊少年サンデー]](小学館))全5巻 * THE WINNER([[週刊少年チャンピオン]]([[秋田書店]]))全3巻 * 赤い靴はいた(草土文化)全1巻 ※1995年に同社より新装版発行 * [[緋が走る]]シリーズ ** 緋が走る([[スーパージャンプ]](集英社))全15巻 ※原作:[[ジョー指月]] ** 美咲の器-それからの緋が走る-([[オースーパージャンプ]](集英社))全9巻 ※原作:ジョー指月 * 奥州藤原4代 秀衡(草土文化)3巻<!--おそらく3巻で終了ですが確認できませんでした--> * [[口福の人]]([[MANGAオールマン]](集英社))全3巻 * ラッシュアワーズ(スーパージャンプ(集英社))全1巻   のちに「秘密のピュアラブ」として改訂 全2巻 * [[深川澪通り木戸番小屋]] (集英社)全2巻 ※原作:[[北原亞以子]] * [[島根の弁護士]]([[ビジネスジャンプ]](集英社))全13巻 ※原作:[[香川まさひと]](1話 - 66話まで) * 水の剣 火の刀([[コミック乱]](リイド社))全2巻 ※原作その他:麻木遼、桜小路むつみ * [[クースー! 〜さくらと秋奈 夢の酒〜]]([[ヤングジャンプ]](集英社))全2巻 * 拓馬の風(コミック乱(リイド社))全1巻<ref>1巻の巻数表示あり。電子書籍限定で最終話まで収録されている全3巻が刊行された。</ref> ※原作:神鷹 * 真夜中のこじか(ビッグコミックオリジナル(小学館)) (2011年〜2013年)全5巻 ※原作:[[北原雅紀]] * こんぺいとう〜おいね診療譚〜([[コミック乱]]([[リイド社]])にて不定期連載([[2011年]] - 2014年)) 既刊1巻 ※シナリオ:神鷹史 * エントツの下で(昭和人情食堂(ぶんか社))全5話 * ショパンの事件譜([[ビッグコミック増刊号]](小学館)) (2014年〜2020年)既刊4巻 ※原作:北原雅紀 * [[学習漫画 日本の歴史|新版 学習まんが 日本の歴史]]([[集英社]]) 本編まんが制作 <ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/193537|title=岸本斉史、荒木飛呂彦らが偉人描く「学習まんが 日本の歴史」表紙イラスト公開|newspaper=コミックナタリー|date=2016-07-06|accessdate=2016-07-06}}</ref> ** 1巻「日本のあけぼの  旧石器・縄文・弥生・古墳時代」 ※ 監修:[[設楽博己]] ** 2巻「律令国家をめざして  飛鳥時代」 ※ 監修:[[仁藤敦史]] ** 3巻「仏教の都 平城京  奈良時代」 ※ 監修:仁藤敦史 *ママ友は静かに笑う(まんが王国(ビーグリー))(2018年〜2020年)※原作:北原雅紀 *マンガ家が解く古代史ミステリーシリーズ(2014年〜) *新版 学習まんが 日本の歴史(小学館)(2022年)本編まんが制作     * 4巻「平安王朝と貴族政治: 平安時代Ⅰ」※ 編集:山川出版社 シナリオ:三条和都     * 5巻「院政と武士の台頭:平安時代II 」※ 編集:山川出版社 シナリオ:三条和都 === 教科書コミック/イラスト === *NEW CROWN(三省堂)中学英語教科書1〜3年生用 (1993年〜2003年)  === 組合コミック === *ドクターMELON(三菱電機労働組合)月刊MELON連載(1995年〜 ) === 書籍(文説) === *邪馬台国は隠された 全1巻(三冬社)(2022年) === 実用書コミック・企業コミック 他 === * 英会話コミック([[アルク]])全2巻 * 高脂血症のアプローチ(ライフ・サイエンス出版)全1巻 * 透析療法とエリスロポエチン(ライフ・サイエンス出版)全1巻 * クロスロード 青春の交差点([[中日新聞社]])全1巻 * マンガから考える法と社会([[新日本出版社]])全1巻 ※原作:[[矢野達雄]] * マンガでわかる刑法と裁判([[自由国民社]])全1巻 * 法律の抜け穴シリーズ(自由国民社) 9・14・15・スペシャル版・新版など * 定年まで10年ですよ(集英社)全1巻 ※原作:日経ヴェリタス * 小泉ですが何か?((株)小泉)1〜2巻 ※原作:門脇正法 * 「医療経営士」になって働こう! 全1巻(日本医療企画) * 「介護福祉経営士」が日本の未来を創る 全1巻(日本医療企画) * 会報誌『[[MAMOR]]』([[扶桑社]])2014年11月号の特集「私たち、自衛隊に住んでます」内で 「これが自衛官・営内居住の効力!」という4ページの漫画を執筆。 * その他 生命保険コミックシリーズ/クルマ開発秘話コミックなど。 == 関連人物 == * [[隅田かずあさ]] : アシスタント。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Note.com|susa404|あおきてつおGALLERY}} * {{twitter}} * {{pixiv|name=A-dash(あおきてつお)}} * {{Mediaarts-db|name=あおきてつお}} * {{マンガ図書館Z作家|910}} * [http://pokeman.jp/archives/53 ぽけまん 作者プロフィール] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あおき てつお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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青沼貴子
青沼 貴子(あおぬま たかこ、1960年(昭和35年)1月1日 - )は、日本の漫画家。北海道函館市出身。函館東高等学校卒業。本名は鈴木 貴子(旧姓:青沼)。東京都板橋区在住。 高校卒業後上京し、1981年に集英社『週刊マーガレット』の増刊号にて『ブルース・ブルース』でデビュー。 1984年、『週刊マーガレット』にて連載されていた『ペルシャがすき!』を原案としたスタジオぴえろ製作のテレビアニメ、『魔法の妖精ペルシャ』の放映が日本テレビ系にて開始された(全48話)。 1995年、婦人生活社の育児雑誌に連載されていた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』がTBS系列(毎日放送制作)にてアニメ化され、全52話放映された。また1999年にはそのスピンオフ作品の『板橋マダムス』がフジテレビ系列にて櫻井淳子の主演でドラマ化されている。 2011年5月、芳文社や竹書房のいくつかの4コマ漫画誌にてエッセー漫画を中心とした連載をしているほか、2006年に『北海道新聞』の金曜日夕刊にて『たんぽぽちゃん 昭和ダイアリー』(『たんぽぽちゃん』のスピンオフ作品。 2010年に終了)をはじめ、2017年4月より『中日新聞』など各ブロック紙に『ねえ、ぴよちゃん』などを連載している。また、実録系の4コマ漫画雑誌などにも読み切りとしてゲスト掲載されることもある。 初期は『ペルシャがすき!』や『おどろんエンジェル』などに代表されるように、ほのぼのとしながら多少ユーモアを交えた作品がメインであった。 結婚し出産後、主な執筆の場を育児向けの雑誌に移し、テレビアニメ化もされた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』に代表されるように自身の子育て体験などを元にしたエッセイ風の作品を得意としている。『ママはぽよぽよザウルスがお好き』のモデルキャラクターとなった自身の息子と娘の現在を描いたエッセイ漫画作品として『かわいいころを過ぎたら』シリーズなどがある。
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青沼 貴子は、日本の漫画家。北海道函館市出身。函館東高等学校卒業。本名は鈴木 貴子。東京都板橋区在住。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 青沼 貴子 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |生年 = {{生年月日と年齢|1960|1|1}} |生地 = {{JPN}} [[北海道]][[函館市]] |没年 = |没地 = |血液型 = |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1981年]] - |ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[エッセイ漫画]]<br />[[4コマ漫画]] |代表作 = 『[[ママはぽよぽよザウルスがお好き]]』<br />『[[魔法の妖精ペルシャ|ペルシャがすき!]]』<br />『[[ねえ、ぴよちゃん]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''青沼 貴子'''(あおぬま たかこ、[[1960年]]([[昭和]]35年)[[1月1日]]<ref name="jiten">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P7</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[函館市]]出身<ref name="hokkaido">[http://www5.hokkaido-np.co.jp/kyouiku/fumfum/main-2005/0219/ 北海道新聞]2005年2月19日付記事</ref>。[[市立函館高等学校|函館東高等学校]]卒業<ref name="jiten" />。本名は'''鈴木 貴子'''(旧姓:青沼)<ref>『はみ出し育児日記』より。</ref>。[[東京都]][[板橋区]]在住。 == 来歴 == 高校卒業後上京し<ref name="jiten" />、[[1981年]]に[[集英社]]『[[マーガレット (雑誌)|週刊マーガレット]]』の増刊号にて『ブルース・ブルース』でデビュー<ref name="jiten" /><ref name="hokkaido" />。 [[1984年]]、『週刊マーガレット』にて連載されていた『ペルシャがすき!』を原案とした[[スタジオぴえろ]]製作の[[テレビアニメ]]、『[[魔法の妖精ペルシャ]]』の放映が[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系にて開始された(全48話)。 [[1995年]]、[[婦人生活社]]の育児雑誌に連載されていた『[[ママはぽよぽよザウルスがお好き]]』が[[TBSテレビ|TBS]]系列([[毎日放送]]制作)にて[[アニメ化]]され、全52話放映された。また[[1999年]]にはその[[スピンオフ]]作品の『[[板橋マダムス]]』が[[フジテレビ系列]]にて[[櫻井淳子]]の主演でドラマ化されている。 [[2011年]]5月、[[芳文社]]や[[竹書房]]のいくつかの[[4コマ漫画]]誌にてエッセー漫画を中心とした連載をしているほか、[[2006年]]に『[[北海道新聞]]』の金曜日夕刊にて『たんぽぽちゃん 昭和ダイアリー』(『たんぽぽちゃん』のスピンオフ作品。 2010年に終了)をはじめ、[[2017年]]4月より『[[中日新聞]]』など各[[ブロック紙]]に『[[ねえ、ぴよちゃん]]』などを連載している。また、実録系の4コマ漫画雑誌などにも読み切りとしてゲスト掲載されることもある。 == 概要 == 初期は『ペルシャがすき!』や『おどろんエンジェル』などに代表されるように、ほのぼのとしながら多少ユーモアを交えた作品がメインであった。 結婚し出産後、主な執筆の場を育児向けの雑誌に移し、テレビアニメ化もされた『ママはぽよぽよザウルスがお好き』に代表されるように自身の子育て体験などを元にしたエッセイ風の作品を得意としている。『ママはぽよぽよザウルスがお好き』のモデルキャラクターとなった自身の息子と娘の現在を描いた[[エッセイ漫画]]作品として『かわいいころを過ぎたら』シリーズなどがある。 == 主な作品リスト == === 連載中の作品 === * [[ねえ、ぴよちゃん]]([[中日新聞]]、[[東京新聞]]、[[北陸中日新聞]]、[[日刊県民福井]]、[[北海道新聞]]、[[西日本新聞]]の[[ブロック紙3社連合]]に属する新聞及び[[河北新報]]、[[新潟日報]]、[[神戸新聞]]、[[中国新聞]]、[[徳島新聞]]、[[愛媛新聞]]に掲載)2017年4月1日から連載開始。2022年1月1日から[[南日本新聞]]にも連載開始。 === 連載終了の作品 === * たんぽぽちゃん 昭和ダイアリー(北海道新聞、[[2006年]] - [[2010年]]4月30日)木曜日夕刊 - 『たんぽぽちゃん』の[[スピンオフ]]作品。 === 単行本リスト === <!-- 基本的に初巻の発売日時順にソートしております --> * [[魔法の妖精ペルシャ|ペルシャがすき!]]([[集英社]])全9巻 新装版として2000年から2001年にかけて全6巻発行。 * おいら空丸(集英社)全3巻 * ピタパットキャット(集英社)全1巻 * とってもカミカミ(集英社)全1巻 * おどろんエンジェル(集英社)全6巻 * アイドルがいっぱい([[角川書店]])全1巻 * [[ママはぽよぽよザウルスがお好き]]([[婦人生活社]])全4巻 、廉価版コミックとして同社より1996年に2冊発行、また幻冬舎より2004年に新装版として全4巻発行、また2010年にメディアファクトリーに新装版として全3巻発行。 ** ママぽよえほん(婦人生活社)全12巻 ** 青沼さんちのぽよぽよ日記(イースト・プレス)全1巻 ** アン2歳、おむつはずし大作戦―ママぽよスペシャル あこがれの「綿パンツ」へ4つのステップ(婦人生活社)全1巻 ** かわいいころを過ぎたら~『ママはぽよぽよザウルスがお好き』リュウの思春期ルポ~([[メディアファクトリー]])全1巻 ** かわいいころを過ぎたら アン18歳~『ママはぽよぽよザウルスがお好き』アンの思春期ルポ~(メディアファクトリー)全1巻 ** 夫とふたりでもうまく暮らすコツ 『ママはぽよぽよザウルスがお好き』ダーリンとのその後(メディアファクトリー)全1巻 ** 20歳は過ぎたけれど 『ママはぽよぽよザウルスがお好き』リュウ&アン成人編(メディアファクトリー)全1巻 ** いつか大人になるのかな 『ママはぽよぽよザウルスがお好き』リュウ&アン人生道草編(メディアファクトリー)全1巻 * 青沼貴子のマダム花子([[竹書房]])全1巻 * 幼稚園なんてコワくない97([[ダイヤモンド社]])全1巻 ** 小学校なんてコワくない97(ダイヤモンド社)全1巻 ** 幼稚園なんてコワくない98(ダイヤモンド社)全1巻 ** 小学校なんてコワくない98(ダイヤモンド社)全1巻 ** 御入学!小学校なんてコワくない お母さんのための小学校準備マニュアル 初めて小学生のママになる人のための不安解消ブック(ダイヤモンド社)全1巻 * たんぽぽちゃん(婦人生活社)全2巻、2004年に幻冬舎より新装版発行。 ** なまらうまい!たんぽぽちゃんの昭和ごはん([[ぶんか社]])全3巻 * きらり花枕([[全日出版]])全1巻 * ぷかり夢枕(全日出版)全1巻 * 青沼さん、BL漫画家をこっそりめざす。(イースト・プレス)全1巻 *: 『[[まんがホーム]]』連載の「腐女子主婦がゆく! BL作家への道」を単行本化 * こんな私がマンガ家に!?(イースト・プレス)全1巻 * かあさんはテヌキスト([[芳文社]])既刊1巻 *: フィクションの4コマ漫画である本編(初出時題名『ぐ~すかうめ実さん』)に、エッセイ漫画『貴子のお茶の子サイサイ』を併録 * 子育テーゼに乾杯([[竹書房]])全1巻 *: 初出時(『[[すくすくパラダイス]]』連載→『すくすくパラダイスぷらす』配信)の題名表記は『コソダテーゼに乾杯』 * 青沼さんちの犬は腹黒だ(竹書房)全1巻 * 空気でも太るお年頃の私が15キロ痩せるまで(メディアファクトリー)全1巻 === イラストなど担当作品 === * 鷲沢玲子と服部まゆみのシンプルキルト(婦人生活社) * まるごと体験BOOK中学受験!([[飛鳥新社]]) * [[メイドインアビス 烈日の黄金郷]](2022年)第4話のエンドカードを描く。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:あおぬま たかこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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秋月りす
秋月 りす(あきづき りす、1957年9月16日 - )は、日本の女性漫画家。福岡県生まれ、大阪府育ち。「秋月りす」はペンネームで本名は非公開(「秋月」は福岡県朝倉市に実在する地域名である)。血液型A型。 小学生の頃に家族と大阪府に移住した。妹がいる。 関西大学文学部国文学科卒。現在はインテリアコーディネータの夫と奈良県奈良市に在住する。ただし、秋月には子供はいない。下戸であり、ペットに猫の「みりん」(♀)と「ちび」(♂)がいて、エッセイ漫画に頻繁に登場していたが、「みりん」は21歳、「ちび」は18歳で他界。現在は「とらぴー」(♀)を飼っている。 1988年にアフタヌーン四季賞にて『奥さま進化論』でデビュー。この時は既に30歳で既婚だった。OL、主婦を題材にした4コマ漫画を多く執筆。素朴で穏やかな作風だが、デビュー当初の彼女の作風は現在と多少異なっていた。当時、流行していた不条理系(いわゆる“毒”のある作品)の4コマを描こうと担当編集に相談した際に反対されたというエピソードもある。 それまで男性の多かった4コマ漫画に女性作家が増えた発端となった作家であり、日本の4コマ漫画シーンにおいて重要な存在で、2004年第8回手塚治虫文化賞短編賞を受賞した。
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秋月 りすは、日本の女性漫画家。福岡県生まれ、大阪府育ち。「秋月りす」はペンネームで本名は非公開(「秋月」は福岡県朝倉市に実在する地域名である)。血液型A型。
{{存命人物の出典明記|date=2012年1月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 秋月 りす | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 非公開<ref name="risu">『OL進化論』単行本3巻の作者近況より。</ref> | 生地 = {{JPN}} [[福岡県]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、11頁</ref> | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1957|9|16}}<ref name="mangaseek" /><ref name="riss">『どーでもいけど』の著者略歴より。</ref> | 没年 = | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 活動時期 = [[1988年]] - | 職業 = [[漫画家]] | 公式サイト = <!--* [http://www.asahi-net.or.jp/~si8m-oot/risu/ 秋月りす紹介] - ファンサイト。--> | 代表作 = 『[[OL進化論]]』 | 受賞 = 第8回[[手塚治虫文化賞]]<ref name="虫ん坊">[https://tezukaosamu.net/jp/dir/mushi/200407/topics02.html 虫ん坊2004年7月号]</ref> }} '''秋月 りす'''(あきづき りす、[[1957年]]<ref name="mangaseek" />[[9月16日]]<ref name="riss"/> - )は、[[日本]]の[[女性]]<ref name="mangaseek" />[[漫画家]]。[[福岡県]]生まれ<ref name="mangaseek" />、[[大阪府]]育ち<ref name="aa">『りすとカツ代のきょうびの料理』の著者プロフィールより。</ref>。「秋月りす」はペンネームで本名は非公開<ref name="risu"/>(「秋月」は福岡県[[朝倉市]]に実在する地域名である)。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|A型]]<ref name="aa" />。 == 概要 == 小学生の頃に家族と大阪府に移住した。妹がいる<ref>『かしましハウス』単行本7巻の秋月の「あとがき」より。</ref>。 [[関西大学]][[文学部]]<ref>『クリティカル進化論 OL進化論で学ぶ思考の技法』著者紹介より。</ref>国文学科卒<ref>『奥さま進化論』付『そらまめ日記』より。</ref>。現在は[[インテリアデザイナー|インテリアコーディネータ]]の夫と[[奈良県]][[奈良市]]に在住する<ref name="aa" />。ただし、秋月には[[子供]]はいない<ref>『おうちがいちばん』単行本3巻の秋月の「あとがき」より。</ref>。[[下戸]]であり<ref>『週刊モーニング』2020年34号の欄外近況より。</ref>、ペットに猫の「みりん」(♀)と「ちび」(♂)がいて、エッセイ漫画に頻繁に登場していたが、「みりん」は21歳、「ちび」は18歳で他界。現在は「とらぴー」(♀)を飼っている。 [[1988年]]に[[アフタヌーン四季賞]]にて『奥さま進化論』でデビュー。この時は既に30歳で既婚だった。OL、主婦を題材にした[[4コマ漫画]]を多く執筆。素朴で穏やかな作風だが、デビュー当初の彼女の作風は現在と多少異なっていた。当時、流行していた不条理系(いわゆる“毒”のある作品)の[[4コマ漫画|4コマ]]を描こうと担当編集に相談した際に反対されたというエピソードもある。 それまで男性の多かった4コマ漫画に女性作家が増えた発端となった作家であり、日本の4コマ漫画シーンにおいて重要な存在で、[[2004年]]第8回[[手塚治虫文化賞]]短編賞を受賞した<ref name="虫ん坊"/>。 == 作品リスト == * [[OL進化論]]:『[[モーニング (漫画雑誌)|週刊モーニング]]』に[[1989年]]第50号から連載中、[[2021年]]第30号から休載中。 ** OL進化論出張版 中年ポルカ(上記のスピンオフ作品。[[2001年]]から[[2002年]]に『[[イブニング]]』に掲載) ** 中間管理職刑事(同じくスピンオフ作品。[[2004年]]から[[2008年]]に『[[まんがライフオリジナル]]』([[竹書房]])などに掲載) ** クリティカル進化論 OL進化論で学ぶ思考の技法([[北大路書房]]) * [[かしましハウス]] * [[ミドリさん あねさんBeat!!]]:『[[まんがライフオリジナル]]』『[[まんがライフオリジナル|まんがライフ]]』([[竹書房]])の両誌に掲載された、竹書房での初の連載作品。連載時のタイトルは『あねさんBeat!!』。28歳のOLミドリと22歳の夫・達也、達也の母が織りなす日常4コマ漫画。連載終了後も『しゅーとめヘブン』のタイトルで読み切りが描かれた。単行本全2巻 * [[奥様はインテリアデザイナー]]:『まんがアクションランド』([[双葉社]])に連載されていた、インテリアデザイン事務所勤めの妻とサラリーマンの夫(いずれも名無し)の夫婦4コマ漫画。連載極初期のタイトルは『お似合いBeat』だった。単行本全1巻 * [[OLちんたらポンちゃん]]:[[光文社|『女性自身』]]([[光文社]])に毎号1ページずつ連載されていた、『OL進化論』のジュンそっくりのOL・ポンちゃんが主人公の4コマ漫画。単行本全1巻 * [[凸凹ガールズ]]:『サラダまんが』([[竹書房]])に連載されていた、一見中学生と一見水商売のお隣さん同士が実は同じ女子大に入学した同級生だった…という4コマ漫画。掲載誌が4号で休刊したため、連載は3回で終わっている。 * お茶くみエンジェルス:([[竹書房]])掲載誌不明。係長と部下のOLたちが織りなす、『OL進化論』連載開始前のパイロット版的な4コマ漫画。 * [[奥さま進化論]]:『モーニングパーティー増刊』([[講談社]])[[1988年]] - [[1990年]]、『モーニング』(同)1989年に掲載されたデビュー作。OLで新婚の妻・春山のぶ子と夫を取り巻く4コマ漫画で秋月ワールドの原点。単行本には描き下ろし作品が加えられると共に、作者自身をネタにした4コマではないショートエッセイ漫画『そらまめ日記』が収録されている。単行本全1巻 * [[おうちがいちばん]]:『[[まんがライフオリジナル]]』([[竹書房]])など、4コマ漫画雑誌に連載中([[2016年]]2月号から休載中)。夫婦と2人の子供、会社の上司・同僚、祖父・祖母などが中心の漫画。家庭の話題の中で、日常の出来事を漫画にしている作品。 * [[どーでもいいけど]]【不景気な暮らしの手帖】:『[[朝日新聞]]』木曜特集「ウィークエンド経済」に[[1992年]]4月から[[2001年]]3月まで連載。4コマ漫画。その時々の経済問題や話題をテーマにしていた。単行本全1巻 * [[おね〜ちゃんといっしょ]] 同居するOL姉妹を描いた作品。『かしましハウス』の最初の単行本に収録されている。 * [[きょうびの料理]]:『[[きょうの料理#テキスト|きょうの料理]]』([[日本放送出版協会|NHK出版]])に[[1995年]]4月号から[[1999年]]3月号まで連載。後に料理研究家・[[小林カツ代]]との共著『りすとカツ代のきょうびの料理』として[[角川書店]]より刊行された。内容は連載分に描き下ろしを追加した上で、漫画内容に合わせて小林がレシピを書き下ろしたもの。巻末に[[大島弓子]]による解説漫画が収録されている。[[2006年]]発行 ISBN 4048539582 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あきつき りす}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:関西大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:福岡県出身の人物]] [[Category:本名非公開の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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朝基まさし
朝基 まさし(あさき まさし、1970年3月2日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。旧ペンネームに越智辺昌義(おちべ まさよし)がある。 主に講談社の少年漫画誌で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『サイコメトラーEIJI』『クニミツの政』『シバトラ』『でぶせん』(4作品ともに安童夕馬原作)などがある。 『クニミツの政』で2003年(平成15年度第27回)講談社漫画賞少年部門受賞。 以前、大島司のもとでアシスタントをしていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "朝基 まさし(あさき まさし、1970年3月2日 - )は、日本の漫画家。大阪府出身。旧ペンネームに越智辺昌義(おちべ まさよし)がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "主に講談社の少年漫画誌で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『サイコメトラーEIJI』『クニミツの政』『シバトラ』『でぶせん』(4作品ともに安童夕馬原作)などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "『クニミツの政』で2003年(平成15年度第27回)講談社漫画賞少年部門受賞。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "以前、大島司のもとでアシスタントをしていた。", "title": null } ]
朝基 まさしは、日本の漫画家。大阪府出身。旧ペンネームに越智辺昌義がある。 主に講談社の少年漫画誌で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『サイコメトラーEIJI』『クニミツの政』『シバトラ』『でぶせん』(4作品ともに安童夕馬原作)などがある。 『クニミツの政』で2003年(平成15年度第27回)講談社漫画賞少年部門受賞。 以前、大島司のもとでアシスタントをしていた。
{{存命人物の出典明記|date=2016-01-18}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 朝基 まさし | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1970|3|2}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1989年]] - | ジャンル = [[少年漫画]] | 代表作 = 『[[サイコメトラーEIJI]]』<br />『[[クニミツの政]]』<br />『[[シバトラ]]』<br />『[[でぶせん]]』<br />『[[マイホームヒーロー]]』 | 受賞 = 第27回[[講談社漫画賞]]少年部門<br /> (『クニミツの政』) | 公式サイト = }} '''朝基 まさし'''(あさき まさし、[[1970年]][[3月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]]出身。旧ペンネームに'''越智辺昌義'''(おちべ まさよし)がある。 主に[[講談社]]の[[少年漫画|少年漫画誌]]で活動しており、サスペンス漫画、社会派漫画を中心に発表している。原作付きの作品が多い。代表作に、『[[サイコメトラーEIJI]]』『[[クニミツの政]]』『[[シバトラ]]』『[[でぶせん]]』(4作品ともに[[樹林伸|安童夕馬]]原作)などがある。 『クニミツの政』で[[2003年]](平成15年度第27回)[[講談社漫画賞]]少年部門受賞<ref>{{Cite web|和書|date=2003-05-15 |url=http://www.47news.jp/CN/200305/CN2003051501000365.html |title=講談社漫画賞に5作品 天才 柳沢教授の生活など |publisher=47NEWS |accessdate=2012-09-06}}</ref>。 以前、[[大島司]]のもとで[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた。 == 略歴 == * [[1989年]] -「最後の地球人」で第18回[[小学館新人コミック大賞]][[藤子不二雄賞|児童部門]]佳作。 * [[1991年]] - 越智辺昌義名義で『マガジンスペシャル』にて『[[超頭脳シルバーウルフ]]』の連載を開始。( - [[1992年]]) *[[1994年]] - 『マガジンスペシャル』にて『大樹のマウンド』の連載を開始。( - [[1996年]])※連載開始時にペンネームを'''朝基まさし'''に改名。 * [[1996年]] - 『[[週刊少年マガジン]]』で『[[サイコメトラーEIJI]]』の連載を開始。( - [[2000年]]) * 1996年 - 『[[銀狼怪奇ファイル]] 二つの頭脳を持つ少年』のタイトルで『超頭脳シルバーウルフ』がドラマ化される。([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系) * [[1997年]] - 『サイコメトラーEIJI』がドラマ化される。(日本テレビ系) * [[1999年]] - ドラマの続編『サイコメトラーEIJI2』が放送される。(日本テレビ系) * 1999年 - [[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]で『サイコメトラーEIJI』がゲーム化される。(講談社) * [[2000年]] - ドラマ『サイコメトラーEIJIスペシャル』が放送される。(日本テレビ系) * [[2001年]] - 『週刊少年マガジン』で『[[クニミツの政]]』の連載を開始。( - [[2005年]]) * [[2003年]] - 第27回講談社漫画賞少年部門受賞。(『クニミツの政』) * 2003年 - 『クニミツの政』がドラマ化される。([[関西テレビ放送|関西テレビ]]系) * [[2006年]] - 『週刊少年マガジン』で[[石田衣良]]原作『[[池袋ウエストゲートパーク#漫画|IWGP 電子の星]]』の期間限定連載(全8回)。 * 2006年 - 『週刊少年マガジン』2007年2・3合併号で『[[シバトラ]]』の連載を開始。( - [[2009年]]) * 2008年 - 『シバトラ』がドラマ化される。([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系) * 2010年 - 『週刊少年マガジン』2010年14号より[[キサラギリュウ]]原作『[[BLACK OUT (漫画)|BLACK OUT]]』を連載開始。( - [[2010年]]) * 2011年 - 『[[週刊ヤングマガジン]]』2011年21・22合併号より『サイコメトラーEIJI』の続編『サイコメトラー』の連載を開始。 * 2014年 - 『週刊ヤングマガジン』で『[[でぶせん]]』の連載を開始。 * 2017年 - 『週刊ヤングマガジン』で『[[マイホームヒーロー]]』の連載を開始。 == 作品リスト == === 単行本 === * [[超頭脳シルバーウルフ]]([[金成陽三郎]]原作、越智辺昌義名義。1991 - 1992年不定期連載、マガジンスペシャル、1992年、マガジンKC(講談社)全3巻) * 大樹のマウンド(マガジンスペシャル、1994 - 1996年、マガジンKC全5巻) * [[サイコメトラーEIJI]](安童夕馬原作。1996 - 2000年連載、週刊少年マガジン、1996 - 2000年、マガジンKC全25巻) * [[クニミツの政]](安童夕馬原作、2001 - 2005年連載、週刊少年マガジン、2001 - 2005年、マガジンKC全27巻) * クニミツの政 立志編(安童夕馬原作、2003年、KCDX(講談社)全1巻、{{ISBN2|4-06-334753-2}}) * [[池袋ウエストゲートパーク#漫画|IWGP 電子の星]]([[石田衣良]]原作、2006年連載、週刊少年マガジン、2006年、マガジンKC全1巻、{{ISBN2|4-06-363699-2}}) * [[シバトラ]](安童夕馬原作、2006 - 2009年連載、週刊少年マガジン、2007 - 2009年、マガジンKC全15巻) * [[BLACK OUT (漫画)|BLACK OUT]](キサラギリュウ原作、2010年連載、週刊少年マガジン、マガジンKC全4巻) * 雑草女(山田隆道原作、2010年 - 2011年連載、月刊アフタヌーン、アフタヌーンKC全1巻) * サイコメトラー(安童夕馬原作、2011年 - 休載中、週刊ヤングマガジン)※サイコメトラーEIJIの直接の続編 * [[でぶせん]](安童夕馬原作、2014年 - 2016年連載、週刊ヤングマガジン) * [[マイホームヒーロー]](山川直輝原作、2017年 - 連載中、週刊ヤングマガジン) === ガイドブック・その他 === * マニア図鑑 サイコメトラーEIJIブレイクコレクション([[安童夕馬]]原作。1998年、KCDX。{{ISBN2|4-06-333952-1}}) * クニミツの政 クニミツの納得いかねぇ!(武藤国光名義。2003年、KCDX。{{ISBN2|4-06-334806-7}}) * クニミツの政 クニミツの日本国憲法(武藤国光名義。2004年、KCDX。{{ISBN2|4-06-334887-3}}) == 関連人物 == === 師匠 === * [[大島司]] === アシスタント === * [[日向武史]] * [[菅野文]] * [[宗田豪]] * [[亜桜まる]] * [[オジロマコト]] * [[奈央晃徳]] * [[岡田有希]] * [[真右衛門]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あさき まさし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:大阪府出身の人物]]
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あしべゆうほ
あしべ ゆうほ(1949年7月12日 - )は、日本の漫画家。女性。青森県三沢市出身。 1970年、『別冊少女コミック』(小学館)に掲載された「マドモアゼルにご用心」にてデビュー。 以後『月刊プリンセス』や、『ボニータ』・『ミステリーボニータ』(いずれも秋田書店)を中心に活躍。 代表作は『悪魔の花嫁』(原作:池田悦子)、『クリスタル☆ドラゴン』、『ダークサイド・ブルース』(原作:菊地秀行)など。 『ダークサイド・ブルース』は1994年に劇場版アニメとなり、『悪魔の花嫁』は、1988年にOVA化されている。 『月刊プリンセス』創刊期において大きく貢献し、1975年創刊号から連載開始した『悪魔の花嫁』は累計発行部数は1000万部突破の大ヒット作となった。 その後の1970年代から1980年代「月刊プリンセス黄金期」においても『悪魔の花嫁』は『王家の紋章』(細川智栄子あんど芙〜みん))、『エロイカより愛をこめて』、『イブの息子たち』(青池保子)、『妖精国の騎士』(中山星香)、『オリンポスのポロン』(吾妻ひでお)、『アンジェリク』(原作:セルジュ・ゴロン&アン・ゴロン、作画:木原敏江)などの作品と共に同誌においてなくてはならない存在であった。 2021年9月1日から10月31日まで、あしべの画業50周年を記念して京都にあるガーデンミュージアム比叡のギャラリーsoRaとロテルド比叡の2会場で、原画展「夢の世界 幻想の軌跡」を開催。
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あしべ ゆうほは、日本の漫画家。女性。青森県三沢市出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = あしべ ゆうほ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = <!-- 本名非公開の漫画家 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1949|7|12}} | 生地 = {{JPN}}・[[青森県]][[三沢市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1970年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[ファンタジー漫画]] | 代表作 = 『[[悪魔の花嫁]]』<br />『[[クリスタル☆ドラゴン]]』ほか{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=60-61}} | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''あしべ ゆうほ'''([[1949年]][[7月12日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、15-16頁</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。女性<ref name="mangaseek" />。[[青森県]][[三沢市]]出身<ref name="mangaseek" />、血液型は[[ABO式血液型|A型]]{{Efn2|p.60より:②出身地・③生年月日のうち月日のみ・⑥血液型を記載。①本名の項目が未記入である事を確認した{{Sfn|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992|p=60-61}}。}}。 == 経歴 == {{大言壮語|section=1|date=2021年7月}} [[1970年]]、『[[別冊少女コミック]]』([[小学館]])に掲載された「マドモアゼルにご用心」にてデビュー<ref name="mangaseek" />。 以後『[[月刊プリンセス]]』や、『[[ボニータ (雑誌)|ボニータ]]』・『[[ミステリーボニータ]]』(いずれも[[秋田書店]])を中心に活躍。 代表作は『[[悪魔の花嫁]]』(原作:[[池田悦子]])、『[[クリスタル☆ドラゴン]]』、『[[ダークサイド・ブルース]]』(原作:[[菊地秀行]])など。 『[[ダークサイド・ブルース]]』は1994年に[[映画|劇場版]][[アニメーション映画|アニメ]]となり、『[[悪魔の花嫁]]』は、1988年に[[OVA]]化されている。 『[[月刊プリンセス]]』創刊期において大きく貢献し、1975年創刊号から連載開始した『[[悪魔の花嫁]]』は累計発行部数は1000万部突破<ref>2012年3月発売のボニータコミックスα『[[ダークサイド・ブルース ]] 』(秋田書店)巻末広告より</ref>の大ヒット作となった。 その後の1970年代から1980年代「月刊プリンセス黄金期」においても『[[悪魔の花嫁]]』は『[[王家の紋章]]』([[細川智栄子]]<small>あんど</small>芙〜みん))、『[[エロイカより愛をこめて]]』、『[[イブの息子たち]]』([[青池保子]])、『[[妖精国の騎士]]』([[中山星香]])、『[[オリンポスのポロン]]』([[吾妻ひでお]])、『アンジェリク』(原作:セルジュ・ゴロン&アン・ゴロン、作画:[[木原敏江]])などの作品と共に同誌においてなくてはならない存在であった。 2021年9月1日から10月31日まで、あしべの画業50周年を記念して京都にあるガーデンミュージアム比叡のギャラリーsoRaとロテルド比叡の2会場で、原画展「夢の世界 幻想の軌跡」を開催<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/436260|title=あしべゆうほ画業50周年記念の原画展が京都で、宿泊プランやハーブティーセットも用意|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-07-11|accessdate=2021-07-11}}</ref>。 == 作品リスト == * [[悪魔の花嫁]](原作:[[池田悦子]]、『[[月刊プリンセス]]』・『[[ミステリーボニータ]]』、 1975年 - 連載中<ref>『クリスタル☆ドラゴン』完結のため、『ミステリーボニータ』2014年5月号に掲載して以降は休載している。</ref> 、[[秋田書店]]) * [[クリスタル☆ドラゴン]](『[[ボニータ (雑誌)|ボニータ]]』・『ミステリーボニータ』1981年 - 連載中 、秋田書店) * [[ダークサイド・ブルース]](原作:[[菊地秀行]]) * 風の呪歌〜射干玉の髪の姫君 * テディ・ベア * 魔・ちがいの呪文 * 雷鳴の符 * うしろの正面だあれ? * 魔獣の棲む森 * マドモアゼルにご用心(『[[別冊少女コミック]]』 1970年12月号 - 、[[小学館]]) * セシルがぬいだ…(『別冊少女コミック』1971年7月号 - 、小学館) * おとなへの出発―十代-心とからだの変化(原作:[[奈良林祥]]、作画:あしべゆうほ、学習研究社発行の性教育漫画(昭和49年)) == 画集 == * 悪魔の花嫁 ― 幻の未収録作品&秘蔵原画集 ([[秋田書店]]、2009年12月発売、{{ISBN2|978-4-253-10207-0}}) == 参考文献 == * まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』[[日外アソシエーツ]]、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}} * [[小学館漫画賞]]事務局、[[竹内オサム]]『現代漫画博物館』2006年、[[小学館]]、{{ISBN2|978-4-09-179003-3}} * {{Citation|和書|author=「日本漫画家名鑑500」編集委員会(委員長:[[石ノ森章太郎]])・[[加藤昇]] 編|date=1992-12-18 |title=日本漫画家名鑑500:[[1945年|1945]]-[[1992年|1992]] |pages=1069 |publisher=アクア・プランニング|id={{全国書誌番号|93037702}} |ref={{SfnRef|日本漫画家名鑑500編集委員会|1992}} }}<!--奥付及び編集後記より:1991年夏・東京池袋にて開催『まんが大博覧会:作家500人展』の一環で編纂された名鑑。限定5千部印刷し、協賛した漫画家・図書館・マスコミ各社等に無料配布/非売品との事。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20010504023629/http://www.air-castle.com/suishoukyu/ 水晶宮] - 公式サイト。 {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あしへ ゆうほ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:青森県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:本名非公開の人物]]<!--典拠として参考にした非売品「名鑑500」は、どの漫画家も等しく『公称ペンネーム』とは別枠で「①本名・②出身地・③生年月日・④現住所・⑤電話番号・⑥血液型」を個人データとしてまとめて掲載する様式である。④⑤が空白=未記入の作家は多いものの、①を未記入にしている場合は、1992年出版当時でも作者本人の意思により『本名非公開』である可能性が高いと考えます。 ★本項のあしべゆうほp.60-61の場合、①④⑤が未記入です。-->
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あだちつよし
あだち つよし(1964年 - )は、日本の漫画家。新潟県上越市有間川出身、東京都西東京市在住。
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あだち つよしは、日本の漫画家。新潟県上越市有間川出身、東京都西東京市在住。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = あだち つよし | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1964||}} | 生地 = {{JPN}}・[[新潟県]][[上越市]][[有間川]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = | ジャンル = | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''あだち つよし'''([[1964年]] - )は、日本の[[漫画家]]{{R|joetsutj}}。[[新潟県]][[上越市]][[有間川]]出身<ref name="joetsutj">{{Cite web|和書|url=https://www.joetsutj.com/articles/29581863|title=異色作「怪奇まんが道」発刊 上越市出身の原作者と漫画家がタッグ|website=上越タウンジャーナル|publisher=デジコロ|date=2015-11-28|accessdate=2021-11-17}}</ref>、[[東京都]][[西東京市]]在住{{R|joetsutj}}。 == 作品リスト == === 連載 === * 鉄拳児耕助(『[[フレッシュジャンプ]]』1985年4月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1831389|title=フレッシュジャンプ. 3(4)(19)|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-11-17}}</ref> - 1989年1月号<ref>{{Cite web|和書|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1831435|title=フレッシュジャンプ. 7(1)(65)|website=国立国会図書館デジタルコレクション|accessdate=2021-11-17}}</ref>(最終号)→『[[月刊少年ジャンプ]]』1989年3月号 - 1989年7月号、[[集英社]]、全12巻) * FIGHTING COCK(『[[スーパージャンプ]]』1990年9月号 - 1992年17号、集英社、全5巻) * むしむしころころ(原作:[[武論尊]]、『スーパージャンプ』1993年4号 - 1996年18号、全11巻) * GO FOR ぶれいく(原作:武論尊、『スーパージャンプ』1999年21号 - 2000年20号、全3巻) * 殴人K(原作:[[宮崎克]]、『[[ビジネスジャンプ]]』2006年2号 - 2006年12号、集英社、全1巻) * スパイハンドラー 怜とミレイ(原作:[[真刈信二]]、『週刊現代』2004年6月26日号 - 2005年3月12日号<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000222743|title=『スパイハンドラー 怜とミレイ』(あだち つよし、真刈 信二)|website=講談社コミックプラス|publisher=講談社|accessdate=2021-11-17}}</ref>、講談社、全1巻) * 震災列島(原作:[[石黒耀]]、『[[週刊現代]]』2005年4月9日号 - 、[[講談社]]) * 赤と鉄(原作:[[鍋島雅治]]、『[[週刊漫画ゴラク]]』2007年 - 2008年連載、[[日本文芸社]]、全2巻) * 女帝NEO・美姫(原作:[[倉科遼]]、『[[ケータイ★まんが王国]]』、全3巻) * 怪奇まんが道(原作:[[宮崎克]]、『[[コミック特盛]]』夏号新耳袋アトモス<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/121449|title=ホラーゲームSIREN、コミック特盛でマンガ化|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-07-13|accessdate=2021-11-17}}</ref> - 連載、[[ホーム社]]、全1巻) ** 怪奇まんが道 奇想天外篇(原作:宮崎克、Webマンガサイト・Z連載<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/261707|title=近藤ようこ、諸星大二郎ら怪奇・ホラーもの描く4作家の「怪奇まんが道」第2弾|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-12-19|accessdate=2021-11-17}}</ref>、ホーム社、全1巻) * 戦車でホイホイ(監修:[[外薗昌也]]、原作:あかめありす、『コミクリ!』2018年3月9日<ref>{{Twitter status2|1=comic_create|2=971984453688938496|4=コミクリ! 2018年3月9日のツイート|5=2021-11-17}}</ref> - 、講談社、既刊1巻) * マインドハック(原作:宮崎克、『[[週刊漫画ゴラク]]』2021年10月22日号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/448588|title=宮崎克×あだちつよしのタッグで描く、心療内科医の心理サスペンスがゴラクで|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-08|accessdate=2021-11-17}}</ref> - 2021年12月24日号、日本文芸社、全1巻) === その他 === * キン肉マン創作秘話(シナリオ協力:篁光太郎、『キン肉マン 大解剖』収録<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/196344|title=キン肉マンを解剖するムック、ウォーズマン戦の原画や「ゆで理論」の記事も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2016-07-29|accessdate=2021-11-17}}</ref>、[[三栄書房]]) == 出典 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|@akatetsu39|あだちつよし}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あたち つよし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新潟県出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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520
安達哲
安達 哲(あだち てつ、昭和43年、1968年2月10日 - )は、日本の男性漫画家。東京都出身。 画塾に通い、高校卒業後は美術専門学校に顔を出すもすぐに行かなくなった。1986年、『卒業アルバム』が、第39回少年マガジン新人漫画賞にて特別入選。2003年、『バカ姉弟』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞受賞。 代表作に『お天気お姉さん』など。車はアウディ、趣味は相撲錦絵鑑賞(1992年当時)。
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安達 哲は、日本の男性漫画家。東京都出身。
{{存命人物の出典明記|date=2012年1月}} '''安達 哲'''(あだち てつ、昭和43年、[[1968年]][[2月10日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、18頁</ref> - )は、日本の男性<ref name="mangaseek" />[[漫画家]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/安達哲-b7kb06st9|title=安達 哲(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2022-08-28}}</ref>。[[東京都]]出身<ref>[https://natalie.mu/comic/artist/1777 安達哲プロフィール] - コミックナタリー</ref>。 == 来歴 == {{要出典範囲|date=2023-08-28|画塾に通い、高校卒業後は美術専門学校に顔を出すもすぐに行かなくなった。}}1986年、『卒業アルバム』が、第39回少年マガジン新人漫画賞にて特別入選{{R|mangapedia}}。2003年、『[[バカ姉弟]]』で[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞受賞{{R|mangapedia}}。 代表作に『[[お天気お姉さん (漫画)|お天気お姉さん]]』など{{R|mangapedia}}。{{要出典範囲|date=2023-08-28|車はアウディ、趣味は相撲錦絵鑑賞(1992年当時)。}} == 作品リスト == * [[ホワイトアルバム (漫画)|ホワイトアルバム]](『[[週刊少年マガジン]]』、1988年21号‐1988年34号、全2巻) * [[キラキラ!]](『週刊少年マガジン』、1989年1・2合併号‐1990年25号、全8巻) * [[さくらの唄 (漫画)|さくらの唄]](『週刊ヤングマガジン』、1991年1・2合併号‐1991年41号、全3巻) * [[お天気お姉さん (漫画)|お天気お姉さん]](『週刊ヤングマガジン』、1992年17号‐1994年29号、全8巻) - 実写作品として映画、オリジナルビデオ、テレビドラマ化されたほか、OVA化もされた。 * 幸せのひこうき雲(『[[増刊エグザクタ|ヤングマガジン増刊エグザクタ]]』、1997年第7号 - 第12号、全1巻) * [[バカ姉弟]](『週刊ヤングマガジン』、1999年29号‐不定期連載、『[[月刊ヤングマガジン]]』2016年3号(2016年2月20日発売)- 連載、既刊5巻。続編の「総天然色 バカ姉弟」既刊5巻) - 第7回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞受賞 ** [[キング姉弟]](『[[ヤングキング]]』2023年18号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/538680|title=「バカ姉弟」がヤングキングにやってきた!安達哲のフルカラー新連載「キング姉弟」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-28|accessdate=2023-08-28}}</ref> - 連載中) * トンビ(原作:史村翔洋、講談社、1996年、『ヤングマガジン15周年記念作品集 米「コメ」』掲載、モノクロ前後編、計77P) * シュセンドー(原作:[[金成陽三郎]]、『[[ビジネスジャンプ]]』、2010年2号‐2010年11号、全1巻) === 単行本未収録 === * 子供たちをよろしく(『週刊ヤングマガジン』、1995年8月21・28合併号 No.35・36、頭3ページカラー以降モノクロ、41P)  * 安達 哲のヘイ!チャウチャウドッグ(『rockin'on』1995年8月号 - 1996年5月号掲載、1号につき2ページ掲載、モノクロ)  * 山内一清の妻(江口寿史 責任編集 『コミックキュー』掲載、1997vol.3、イーストプレス モノクロ24P 読切) * E-Oppersと企画でカラーポスター作品を掲載(『ヤングマガジンUppers』、1998.8.5号通巻8号)  * 女だらけ雀(原作:北海塩蔵、[[竹書房]]、『近代麻雀ゴールド』2000年7月 読切掲載 センターカラー30P) * ギャル雀(原作:有元美保、[[竹書房]]、『近代麻雀ゴールド』2000年11月号 - 2001年11月号連載) * シュー・マイスター柊圭吾(原作:大塚洋史、『[[ビジネスジャンプ]]』、2007年18号通巻620号 読切掲載 センターカラー52P) * カメコとマダム(原作:樫田正剛、『[[ビジネスジャンプ]]』、2008年4号通巻632号 読切掲載 センターカラー35P) * [[コドモ警察]](『月刊ヒーローズ』、2013年4号 読切掲載 センターカラー22P 「case1.ガスパニック」「case2.男・ブル刑事」の2話を掲載) === 対談  === * PATI-PATI SPECIAL ISSUE 電気グルーヴマガジン(ピエール瀧との対談掲載、カラー2P、貴重な安達哲の写真2点も掲載、1992年ソニーマガジンズ) == 関連項目 == * {{要出典範囲|date=2023-08-28|[[流星光]]:過去に安達の元で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めていた経験を持つ。}} * [[ゴトウユキコ]]:OLラッパー・ノセレーナとの対談「人の話が聞こえない。vol1」の中で影響を受けた漫画家として安達哲の名を挙げている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あたち てつ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1968年生]] [[Category:存命人物]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%81%94%E5%93%B2
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あだち充
あだち 充(あだち みつる、本名:安達 充、1951年2月9日 - )は、日本の漫画家。群馬県伊勢崎市出身。男性。群馬県立前橋商業高等学校卒。血液型はAB型。 群馬県伊勢崎市に生まれる。三男一女の末っ子であり、直近の兄で3歳半年上のあだち勉から甚だしい影響を受ける。少年時代はあだち勉とともに貸本漫画の読者投稿コーナーの常連だった。また、勉は高校在学中から貸本漫画で原稿料を得ており、充はその手伝いをしていたことから、貸本漫画業界で「群馬の天才兄弟」として知られる存在となる。 絵を仕事にする希望を持ち、地元では一番商業美術に力を入れていた群馬県立前橋商業高等学校の商業美術部に入部する。しかし、明確な展望はなく、両親の勧める通りに安定した職業へ就く可能性もあったという。在学中に『COM』の新人賞で「虫と少年」が佳作2位に選ばれ、以後『COM』の新人投稿ページにしばしば掲載されるようになる。当時は『COM』や『週刊少年マガジン』、貸本漫画などを愛読しており、永島慎二、樹村みのり、さいとう・たかをらのファンだった。 野球にはまだ人並みの関心しか持っておらず、スポーツ経験も中学時代の体操部としての活動程度しかなかった。野球に深く関わるようになったのは、『週刊少年サンデー』で水島新司と『男どアホウ甲子園』を連載していた佐々木守と組んで、商業漫画家として野球漫画を手掛けてからである。後に熱心な野球ファンとなり、勉とともにビタミンAという草野球チームを主宰するが、多忙のためあまり試合に参加できなかった。 プロの漫画家を目指す踏ん切りをつけられたのは、勉が永島慎二に会い、充をアシスタントに採用してもらう内定を取り付けてくれたことによる。東京のデザイン会社に就職していた勉は、自身が会社員を続けているのだから、弟が漫画家となることは認めるように両親を説得する(しかし、ほどなく会社を辞めて漫画家へ復帰。フジオ・プロ在籍を経て、後年は充のマネージャーとなる)。ところが、充が高校3年生の1968年に、永島慎二が突然の渡米。1969年初春、どうにか『COM』のツテで同誌にイラストを連載していた石井いさみのアシスタントに就職する。 上京しての面接当日、石井いさみが『くたばれ!!涙くん』を『週刊少年サンデー』で連載していることを知って読み、これが『週刊少年サンデー』との出会いとなった。同年に一時帰郷して高校を卒業。1970年に『デラックス少年サンデー』で、原作付きの『消えた爆音』でデビュー。以降しばらくは佐々木守、やまさき十三などの漫画原作者と組んだ作品を中心に発表し、当時のブームであった劇画調の少年漫画を執筆。石井と石井の担当編集者だった武居俊樹の薦めもあり、2年間勤務した石井プロから独立するも、ヒットには恵まれず、幼年誌でのコミカライズや少女誌などに活躍の場を移していく。このこともあって、1975年の『牙戦』を最後に劇画調の作風には見切りをつけ、ソフトタッチな作風へ変化していく。少女誌では花の24年組の影響を受ける。 1978年、再び少年誌へ戻り、高校野球を題材とした『ナイン』を発表。初の原作無しでの本格連載であり、少女漫画の雰囲気を少年漫画に持ち込んだこの作品が高い評価を得る。続く『みゆき』『タッチ』が大ヒット。ラブコメ漫画の代表的作家として高橋留美子とともに『週刊少年サンデー』を牽引し、人気漫画家としての地位を確立する。1982年、上記2作で第28回小学館漫画賞少年少女部門を受賞<。80年代は『ナイン』『みゆき』『タッチ』に加え、少女漫画誌連載の『陽あたり良好!』もテレビアニメ化された。 以降も『週刊少年サンデー』で野球漫画を中心に執筆。コミックスの発行部数は、1990年4月に『スローステップ』第5巻にて、累計1億部を達成しており、2008年5月『クロスゲーム』第12巻にて、単行本のみの累計で小学館連載作家として初めて2億部を突破した。2009年、『クロスゲーム』で第54回(平成20年度)小学館漫画賞少年向け部門を受賞。前後して、長い間主戦場だった『週刊少年サンデー』を離れ、2009年に創刊した月刊誌『ゲッサン』へ活躍の場を移している。 スポーツ漫画を多く描いているが、デビュー当初の経験から、熱血スポ根ものではなく、青春ラブコメディを得意としている。その一方で人間ドラマ志向が強く、劇画的な過剰さを避けつつも、シリアスな展開も多い。 高校野球をよく題材に取り上げており、『いつも美空』連載時のインタビューによると「原作のあるもの以外、ほぼ全作品が同じ世界観を持ち合わせている」という。南 (2013, p. 96) は、あだちの描くキャラクターは「何事にもガツガツしない」ことが特徴であるとし、『タッチ』の野球部員らを指し「元祖草食系男子」と形容している。 しばしば用いる技法としては、場面転換や時間経過を現すシーンで擬音も何もないサイレント映画のような風景で繋げていく、というものが挙げられる。また作中にはしばしばあだち自身が登場し、平然と作品に対する弁解や宣伝を行なう(メタフィクション)のも作品の特徴の一つである。 直前まで元気であった登場人物が突然死ぬような「死ネタ」を多用するのも特徴。 設定変更を何事もなかったかのように行うのではなく、連載途中に堂々とそれを明示する形で行う割り切りの良さもあだちの作風であり、作中でメタ表現として設定変更を公表する方針を取っている。『ラフ』のライバルキャラである仲西弘樹の家族構成の変更、『H2』の主要キャラである木根竜太郎の右打ちから両打ちへの変更(作者の作画ミスの辻褄合わせのギャグを契機に設定変更)などが主な例である。 2017年8月15日のフジテレビ系列『めざましテレビ』において、絵は生き物ゆえ何十年も同一人物を描いていることで微妙に顔は変わろうとも、作品に登場するキャラクターの絵のデザインの特徴が似ているのにも(そっくりなことにも)こだわりがあり、「あだち劇団」の劇団員がいろいろな役をしている考えがあるという内容が、11年半あだちを担当していた当時の「週刊少年サンデー」編集長・市原武法のコメントとして放送された。本人曰く「あだち一座」ともされる。 2017年にweb漫画サービス「サンデーうぇぶり」にて公開された「前代未聞の超難問・あだち充キャラクタークイズ」をあだち本人が挑戦したところ、100点満点中の76点だった。コメントでは、「これは76点満点の問題です。(※本当は100点満点です)それ以上の点数を取ってしまった人は再検査の必要があります。」と語っている。 幼少期から大の落語好きで、人間描写やコメディ描写に色濃く影響を受けている。そのため、スポーツ漫画以外では落語風SF時代劇『虹色とうがらし』なども描いている。 1975年の『牙戦』までの初期作品で用いていた劇画調の画風は、アシスタントを務めていた石井いさみの『くたばれ!!涙くん』の絵柄に近いが、石井もインタビューで「最後のほうは彼(あだち充)にほとんど描かせたくらい、それくらいキャラクターもそっくりに描いてくれました」と述べていた。また、石井も1975年連載開始の『750ライダー』以降、それまでの劇画調の絵柄からソフトタッチな作風へ変化しており、師匠と弟子が同時期に作風を大きく変えている。
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あだち 充は、日本の漫画家。群馬県伊勢崎市出身。男性。群馬県立前橋商業高等学校卒。血液型はAB型。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = あだち 充 | ふりがな =あだち みつる | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 安達 充 | 生地 = {{JPN}}・[[群馬県]][[伊勢崎市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1951|2|9}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1951|2|9|****|**|**}} --> |職業 = [[漫画家]] | ジャンル = [[少年漫画]]<br/>[[幼年漫画|児童漫画]]<br/>[[少女漫画]] | 活動期間 = [[1970年]] - | 代表作 = 『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』<br/>『[[みゆき (漫画)|みゆき]]』<br/>『[[ナイン (漫画)|ナイン]]』<br/>『[[陽あたり良好!]]』<br/>『[[H2 (漫画)|H2]]』<br/>『[[クロスゲーム]]』<br/>『[[MIX (漫画)|MIX]]』 | 受賞 = * 第28回:[[小学館漫画賞]]少年少女部門(『みゆき』『タッチ』) * 第54回:小学館漫画賞少年向け部門(『クロスゲーム』) }} {{+float}} '''あだち 充'''(あだち みつる、本名:'''安達 充'''、[[1951年]][[2月9日]]{{sfn|日外アソシエーツ|2003|p=18}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[群馬県]][[伊勢崎市]]出身{{sfn|日外アソシエーツ|2003|p=18}}。[[男性]]。[[群馬県立前橋商業高等学校]]卒{{sfn|日外アソシエーツ|2003|p=18}}。[[ABO式血液型|血液型]]はAB型{{efn2|自身の作中にもAB型の登場人物が数多く登場する。}}。 == 来歴 == [[群馬県]][[伊勢崎市]]に生まれる。三男一女の末っ子であり、直近の兄で3歳半年上の[[あだち勉]]から甚だしい影響を受ける。少年時代はあだち勉とともに[[貸本漫画]]の読者投稿コーナーの常連だった。また、勉は高校在学中から貸本漫画で原稿料を得ており、充はその手伝いをしていたことから、貸本漫画業界で「群馬の天才兄弟」として知られる存在となる{{r|小学館2018|QJ 2005}}<ref name="oato">{{Cite |和書 |author = あだち充 |title = おあとがよろしいようで |publisher = 小学館 |isbn = 9784091227164}}</ref>{{r|ダ・ヴィンチ2012}}。 絵を仕事にする希望を持ち、地元では一番商業美術に力を入れていた[[群馬県立前橋商業高等学校]]の商業美術部に入部する。しかし、明確な展望はなく、両親の勧める通りに安定した職業へ就く可能性もあったという。在学中に『[[COM (雑誌)|COM]]』の新人賞で「虫と少年」が佳作2位に選ばれ、以後『COM』の新人投稿ページにしばしば掲載されるようになる。当時は『COM』や『[[週刊少年マガジン]]』、貸本漫画などを愛読しており、[[永島慎二]]、[[樹村みのり]]、[[さいとう・たかを]]らのファンだった。 野球にはまだ人並みの関心しか持っておらず、スポーツ経験も中学時代の体操部としての活動程度しかなかった。野球に深く関わるようになったのは、『[[週刊少年サンデー]]』で[[水島新司]]と『[[男どアホウ甲子園]]』を連載していた[[佐々木守]]と組んで、商業漫画家として野球漫画を手掛けてからである<ref>野球漫画の原作を多く手掛けていた佐々木だが、基本的に人間ドラマ部分のストーリー担当であり、野球の知識は乏しかった。そのため、野球描写に関しては、充が独自に研鑽を積んでいくことになった。</ref>。後に熱心な野球ファンとなり、勉とともにビタミンA{{efn2|ビタミンAというチーム名の由来はあだちの「A」から。}}という草野球チームを主宰するが、多忙のためあまり試合に参加できなかった{{r|小学館2018}}<ref name="oato" />{{r|ダ・ヴィンチ2012}}<ref>{{Cite journal|和書|journal = [[週刊少年サンデー]] 2005年14号|publisher = [[小学館]]}}</ref><ref name="idolA">{{Cite |和書 |author = あだち充 |title = アイドルA |publisher = 小学館 |date=2011-8-12 |isbn = 4091232752}}</ref>。 プロの漫画家を目指す踏ん切りをつけられたのは、勉が永島慎二に会い、充を[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]に採用してもらう内定を取り付けてくれたことによる。東京のデザイン会社に就職していた勉は、自身が会社員を続けているのだから、弟が漫画家となることは認めるように両親を説得する(しかし、ほどなく会社を辞めて漫画家へ復帰。[[フジオ・プロダクション|フジオ・プロ]]在籍を経て、後年は充のマネージャーとなる)。ところが、充が高校3年生の[[1968年]]に、永島慎二が突然の渡米。[[1969年]]初春、どうにか『COM』のツテで同誌にイラストを連載していた[[石井いさみ]]のアシスタントに就職する。 上京しての面接当日、石井いさみが『くたばれ!!涙くん』を『[[週刊少年サンデー]]』で連載していることを知って読み、これが『[[週刊少年サンデー]]』との出会いとなった。同年に一時帰郷して高校を卒業。[[1970年]]に『デラックス少年サンデー』で、原作付きの『消えた爆音』でデビュー。以降しばらくは[[佐々木守]]、[[やまさき十三]]などの[[漫画原作者]]と組んだ作品を中心に発表し、当時のブームであった[[劇画]]調の少年漫画を執筆。石井と石井の担当編集者だった[[武居俊樹]]の薦めもあり、2年間勤務した石井プロから独立するも、ヒットには恵まれず、幼年誌での[[漫画|コミカライズ]]や少女誌などに活躍の場を移していく。このこともあって、[[1975年]]の『牙戦』を最後に劇画調の作風には見切りをつけ、ソフトタッチな作風へ変化していく<ref>この頃の様子は、勉の弟子である[[ありま猛]]の[https://www.shogakukan.co.jp/books/09850652 『あだち勉物語 〜あだち充を漫画家にした男〜』]に詳しい。</ref>。少女誌では[[花の24年組]]の影響を受ける{{r|小学館2018}}<ref name="oato" />{{r|ダ・ヴィンチ2012}}<ref name="idolA" /><ref name="SG3">{{Cite |和書 |author = あだち充 |title = [[ショートプログラム (漫画)|ショートプログラム3]]|publisher = 小学館 |date=2007-7-18 |isbn = 4091278736}}</ref>。 [[1978年]]、再び少年誌へ戻り、高校野球を題材とした『[[ナイン (漫画)|ナイン]]』を発表。初の原作無しでの本格連載であり{{efn2|これ以前にも読切の連作や学年誌での中編などは原作無しで執筆していたが、通常は『ナイン』を初の原作無しでの連載として扱う。また『ナイン』の第1話は読切として描かれたが編集長に気に入られてそのまま連載化した。}}、少女漫画の雰囲気を少年漫画に持ち込んだこの作品が高い評価を得る。続く『[[みゆき (漫画)|みゆき]]』『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』が大ヒット。ラブコメ漫画の代表的作家として[[高橋留美子]]とともに{{sfn|南|2013|p=93}}『[[週刊少年サンデー]]』を牽引し、人気漫画家としての地位を確立する。1982年、上記2作で第28回[[小学館漫画賞]]少年少女部門を受賞<{{r|小学館2018|QJ 2005}}<ref name="oato" />{{r|ダ・ヴィンチ2012}}。80年代は『ナイン』『みゆき』『タッチ』に加え、少女漫画誌連載の『[[陽あたり良好!]]』も[[テレビアニメ]]化された<ref>この頃の様子は、マネージャーになっていた勉が『[[少年ビッグコミック]]』に連載した[https://csbs.shogakukan.co.jp/book?comic_id=41637 『実録あだち充物語』]に詳しい。</ref>。 以降も『週刊少年サンデー』で野球漫画を中心に執筆。[[漫画|コミックス]]の発行部数は、[[1990年]][[4月]]に『スローステップ』第5巻にて、累計1億部を達成しており、[[2008年]][[5月]]『クロスゲーム』第12巻にて、[[単行本]]のみの累計で小学館連載作家として初めて2億部を突破した<ref>『[[週刊少年サンデー]]26号』[[2008年]][[6月11日]]号</ref><ref>小学館HPより。</ref>。[[2009年]]、『クロスゲーム』で第54回(平成20年度)小学館漫画賞少年向け部門を受賞。前後して、長い間主戦場だった『週刊少年サンデー』を離れ、2009年に創刊した月刊誌『[[ゲッサン]]』へ活躍の場を移している。 == 作風 == スポーツ漫画を多く描いているが、デビュー当初の経験から、熱血[[スポ根]]ものではなく、[[青春]][[ラブコメディ]]を得意としている。その一方で人間ドラマ志向が強く、劇画的な過剰さを避けつつも、シリアスな展開も多い。 [[高校野球]]をよく題材に取り上げており、『[[いつも美空]]』連載時のインタビューによると「原作のあるもの以外、ほぼ全作品が[[クロスオーバー作品|同じ世界観を持ち合わせている]]」という。{{Harvtxt|南|2013|p=96}} は、あだちの描くキャラクターは「何事にもガツガツしない」ことが特徴であるとし、『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』の野球部員らを指し「元祖[[草食系男子]]」と形容している。 しばしば用いる技法としては、場面転換や時間経過を現すシーンで擬音も何もない[[サイレント映画]]のような風景で繋げていく、というものが挙げられる。また作中にはしばしばあだち自身が登場し、平然と作品に対する弁解や宣伝を行なう([[メタフィクション]])のも作品の特徴の一つである{{efn2|作中に登場する際は[[サンバイザー]]がトレードマークだが、現実には一時期使っていたことがあるだけだという。ほかに咥え煙草で眼鏡を掛け、身の丈程のペンを背負っているのも特徴である。}}。 直前まで元気であった登場人物が突然死ぬような「死ネタ」を多用するのも特徴。 設定変更を何事もなかったかのように行うのではなく、連載途中に堂々とそれを明示する形で行う割り切りの良さもあだちの作風であり、作中でメタ表現として設定変更を公表する方針を取っている。『[[ラフ (漫画)|ラフ]]』のライバルキャラである仲西弘樹の家族構成の変更、『[[H2 (漫画)|H2]]』の主要キャラである木根竜太郎の右打ちから両打ちへの変更(作者の作画ミスの辻褄合わせのギャグを契機に設定変更)などが主な例である。 [[2017年]][[8月15日]]の[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列『[[めざましテレビ]]』において、絵は生き物ゆえ何十年も同一人物を描いていることで微妙に顔は変わろうとも、作品に登場するキャラクターの絵のデザインの特徴が似ているのにも(そっくりなことにも)こだわりがあり、「あだち劇団」の劇団員がいろいろな役をしている考えがあるという内容が、11年半あだちを担当していた当時の「週刊少年サンデー」編集長・[[市原武法]]のコメントとして放送された<ref>[https://kakaku.com/tv/channel=8/programID=400/page=29430/ 「めざましテレビ」2017年8月15日(火)放送内容]</ref><!--引用原文:ネットでアニメキャラなどの見分けがつかない難問が話題になっていることを紹介。スタジオでは人気漫画「タッチ」の登場人物の上杉達也とみられる絵を2枚提出したが両方とも上杉達也に見えるが本人ではないという。タッチは売れっ子作家のあだち充作品なのだが「H2」などあだち作品に登場するキャラクターの絵のデザインは特徴が似ているためかこうしたクイズが小学館から作られていた。こうしたことから街でファンの女性に挑戦してもらったがやはり手こずっていて、実際同じような表情をしている4問を例として紹介したがやはりまったく区別がつかなかった。だがこうしたそっくりなことも作者のこだわりがあるといい、漫画を出版している週刊少年サンデーの市原武法編集長に取材したがあだち先生が「あだち劇団」と呼んでいると説明し、あだち先生は劇団員がいろいろな役をしている考えがあることということを話していた。そしてヒロインも同じようなことになっていることから「みゆき」の「若松みゆき」を選ぶ問題を出題した。又、このクイズをあだち充も挑戦したというが76点だったといい、あだちもわかるわけないと話したことを説明していた。--><ref>[https://kakaku.com/tv/channel=8/programID=401/page=5075/ 「めざましどようび」2017年8月19日(土)放送内容]</ref>。本人曰く「あだち一座」ともされる。 [[2017年]]にweb漫画サービス「サンデーうぇぶり」にて公開された「前代未聞の超難問・あだち充キャラクタークイズ」をあだち本人が挑戦したところ、100点満点中の76点だった。コメントでは、「これは76点満点の問題です。(※本当は100点満点です)それ以上の点数を取ってしまった人は再検査の必要があります。」と語っている<ref>[http://hon-hikidashi.jp/enjoy/33658/ これは超難問!あだち充ですら76点の「あだち充キャラクタークイズ」が公開 WEBメディア「ほんのひきだし」 2017年8月11日付]</ref>。 幼少期から大の[[落語]]好きで、人間描写やコメディ描写に色濃く影響を受けている。そのため、スポーツ漫画以外では落語風[[サイエンス・フィクション|SF]][[時代劇]]『[[虹色とうがらし]]』なども描いている。 [[1975年]]の『牙戦』までの初期作品で用いていた劇画調の画風は、アシスタントを務めていた[[石井いさみ]]の『くたばれ!!涙くん』の絵柄に近いが、石井もインタビューで「最後のほうは彼(あだち充)にほとんど描かせたくらい、それくらいキャラクターもそっくりに描いてくれました」と述べていた<ref>{{Cite web|和書|title=“750ライダー”石井いさみ先生レジェンドインタビュー|url=https://content.weeklychamp.com/interview/page1.html|website=週刊少年チャンピオン|accessdate=2021-09-22|language=ja}}</ref>。また、石井も1975年連載開始の『[[750ライダー]]』以降、それまでの劇画調の絵柄からソフトタッチな作風へ変化しており、師匠と弟子が同時期に作風を大きく変えている。 == 人物 == === 野球との関わり === *[[東京ヤクルトスワローズ]]のファンであり、ファンクラブのポストカードや、球団の宣伝ポスターを執筆している。少年時代は“[[三原脩]]信者”であったため、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]、つづいて[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]のファンとなり、後に好みの選手が多く所属していたため、[[中日ドラゴンズ]]のファンとなった。そして、[[広岡達朗]]監督時代(1976 - 79)のスワローズの連日のサヨナラ勝ちを生で目にしたためにスワローズファンとなり現在に至る<ref>『[[QあんどA]]』5巻巻末のエッセイより。</ref>。<!--(幼少期に父親から[[水原茂]]の“悪口”を聞かされ続けたために一貫して[[アンチ巨人|アンチジャイアンツ]]である。ただし、[[江川卓 (野球)|江川卓]]・[[清原和博]]・[[桑田真澄]]ら選手個人のファンでもある)。-->2003年からはスワローズのファンクラブのポストカードのおまけを描いていたが、2007年度からは会員カードにも起用されている。 * 地元球団である[[群馬ダイヤモンドペガサス]]の選手が移動するときに使用するチームバスのイラストを執筆している。また、ダイヤモンドペガサスの後援会会員証のイラストも描いている。 * あだちの母校である[[群馬県立前橋商業高等学校|前橋商業高等学校]]が[[全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]に出場したときには応援に駆けつけたり、夏の群馬予選時の選手名鑑の広告欄、『前商健児』にイラストを描いた。 * 2013年7月、長らく[[全国高等学校野球選手権大会|高校野球]]を題材に漫画を描いてきた実績を認められ、大会期間中に[[All-nippon News Network|テレビ朝日系列局]]で放送される『[[熱闘甲子園]]』のキービジュアルイラストを担うことになった<ref>[http://www.asahi.co.jp/netto/index.html 朝日放送『熱闘甲子園』公式HP]</ref><ref>『熱闘甲子園』ポスタービジュアルはあだち充! ORICON STYLE [[2013年]][[7月1日]]付。</ref>。 === その他 === *デビュー当時を除き、小学館をメインに活動しているが、過去([[1973年]] - [[1983年]])に[[週刊少年ジャンプ]]で開催されていた愛読者賞に、1982年と1983年の二度読者投票により選ばれている{{efn2|「スケジュールの都合がつかない」という理由から辞退しているが、辞退した事へのお詫びに自身の自画像とコメントを週刊少年ジャンプに寄せている。}}。 * 前述の通り、小学生の頃から[[落語]]ファンで、中学の時には『落語大全集』を購入していた。好きな落語家は[[立川談志]]、[[三遊亭圓生 (6代目)|三遊亭圓生]]、[[古今亭志ん生 (5代目)|古今亭志ん生]]。作品にも時折落語のネタが現れる<ref name="oato" />。その影響からか、落語家出身タレントである[[伊集院光]]のファンであり、伊集院のラジオ番組『[[伊集院光 深夜の馬鹿力]]』([[TBSラジオ]])のヘビーリスナーでもある<ref>「[[JUNK]]」枠においての「[[ゲッサン]]」ラジオCMなど。</ref>。朝から昼にかけては[[文化放送]]で『[[くにまるジャパン]]』などを愛聴している。 * [[岩崎良美]]のファンであり(「憧れの人」とも表現)、岩崎がアニメ『タッチ』の主題歌を担当する以前よりアルバムを聴いたり、また岩崎がパーソナリティーを務めるラジオ番組を毎週録音したりしていた<ref>「あだち充の美女対談」『[[少女コミック|週刊少女コミック増刊号]]』9月16日号、[[小学館]]、1982年、10-13頁</ref>。 * 『タッチ』『ラフ』の実写化に関しては、[[長澤まさみ]]の衣装に期待してオファーを受けたと冗談交じりに語った{{sfn|週刊ファミ通|2006|p=41}}。 *作風にはまったく影響していないが、父や兄の影響から、[[麻雀]]好きでもあり、腕も立つ。 == 作品 == === 連載 === * レインボーマン - [[講談社]]『[[テレビマガジン]]』(1972年10月号 - 1973年10月号)、『[[おともだち]]』(1972年11月号 - 1973年1月号) - 原作:[[川内康範]]、同名特撮ドラマのコミカライズ。 * リトル・ボーイ - 『[[週刊少年サンデー超|少年サンデー増刊号]]』(1974年春、夏休み増刊号)、『[[週刊少年サンデー]]』(1974年28号 - 47号) - 原作:[[佐々木守]] * [[おらあガン太だ]] - [[徳間書店]]『[[テレビランド]]』(1974年9月号 - 1975年3月号) - 原作:才賀明、同名ドラマのコミカライズ * 牙戦(きばせん) - 『週刊少年サンデー』(1975年2号 - 34号) - 原作:[[滝沢解]] * ヒラヒラくん青春仁義 - [[学研ホールディングス|学習研究社]]『中学コース・中一コース』(1975年4月号 - 1976年3月号) - 原作:佐々木守、単行本未収録回あり<ref>GKコミックス(学研)収録に際し、3話分が割愛され、更に第7回が第3話になるなど話の並べ替えが行われている。「国際子ども図書館」で確認可能。</ref> ** ヒラヒラくん青春音頭 - 『中一コース』(1976年4月号 - 1977年3月号) - 原作:佐々木守、単行本未収録<ref>「国際子ども図書館」にも資料がない。</ref> ** ヒラヒラくん青春太鼓(ヒラヒラくん青春日記) - 『中一コース』(1977年4月号 - 1978年3月号) - 原作:佐々木守。単行本化に伴い『青春日記』に改題、未収録回あり。出版:ECコミックス(こだま出版)<ref>QuickJapan Vol.62 101ページ記載。コミックス200ページ下覧に「昭和52年4月号~昭和53年3月号に連載。」ともある。また第9話の表紙に By Mitsuru Adachi Presents 1978.1 との筆記あり。単行本は「第4回ピクニック騒動の巻」が割愛され計3話分が未掲載の模様。話の並べ替えについては不明。「国際子ども図書館」にも資料はない。</ref> * がむしゃら - 『週刊少年サンデー』(1976年5・6合併号 - 18号) - 原作:[[やまさき十三]] * 甲子園魂 - [[双葉社]]『週刊パワァコミック』(1976年15号 - 1977年6号) - 原作:佐々木守 * ああ!青春の甲子園 - 『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』 - 原作:やまさき十三 ** 初恋甲子園 - (1976年34号 - 51号) ** 泣き虫甲子園 - (1977年15号 - 46号) * おひけェなすって!野球仁義 - 『中一コース』(1978年4月号 - 1979年3月号) - 原作:佐々木守 * [[ナイン (漫画)|ナイン]] - 『少年サンデー増刊号』(1978年10月号 - 1980年11月号) * 夕陽よ昇れ!! - 『週刊少女コミック』(1979年8号 - 19号) - 原作:やまさき十三 * おいら放課後若大将 - 『中一コース』(1979年4月号 - 1980年3月号) * [[陽あたり良好!]] - 『週刊少女コミック』(1980年2号 - 1981年15号) * [[みゆき (漫画)|みゆき]] - 『[[少年ビッグコミック]]』(1980年17号 - 1984年18号) * [[タッチ (漫画)|タッチ]] - 『週刊少年サンデー』(1981年36号 - 1986年50号) * [[スローステップ]] - 『[[ちゃお]]』(1986年9月号 - 1991年3月号) * [[ラフ (漫画)|ラフ]] - 『週刊少年サンデー』(1987年17号 - 1989年40号) * [[虹色とうがらし]] - 『週刊少年サンデー』(1990年4・5合併号 - 1992年19号) * [[H2 (漫画)|H2]] - 『週刊少年サンデー』(1992年32号 - 1999年50号) * [[じんべえ]] - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(1992年6月20日号 - 1997年3月20日号、不定期連載) * [[冒険少年]] - 『ビッグコミックオリジナル』(1998年10月20日号 - 2005年4月20日号、不定期連載) * [[いつも美空]] - 『週刊少年サンデー』(2000年22・23合併号 - 2001年24号) * [[KATSU!]] - 『週刊少年サンデー』(2001年36・37合併号 - 2005年12号) * [[クロスゲーム]] - 『週刊少年サンデー』(2005年22・23合併号 - 2010年12号) * [[アイドルA]] - 『[[週刊ヤングサンデー]]』(2005年36・37合併号 - 2007年36・37合併号)、『[[ゲッサン]]』(2010年11月号 - 2011年8月号、不定期連載中) * [[QあんどA]] - 『ゲッサン』(2009年創刊号 - 2012年4月号) * [[MIX (漫画)|MIX]] - 『ゲッサン』(2012年6月号 - 連載中) === 短編集 === {{col-list|45em| * [[ショートプログラム (漫画)|ショートプログラム]] ** 近況 - 『少年ビッグコミック』(1987年1号) ** 交差点前 - 『少年ビッグコミック』(1986年4号) ** ショートプログラム - 『ヤングサンデー』(1987年創刊号) ** テイク・オフ - 『ヤングサンデー』(1988年7号) ** チェンジ - 『少年サンデー増刊号』(1985年10月号) ** プラス1(ワン) - 『ちゃお』(1986年6月号) ** むらさき - 『ちゃお』(1985年6月号) ** なにがなんだか - 『少年ビッグコミック』(1985年1号 - 2号) * [[ショートプログラム (漫画)|ショートプログラム2]] ** 春が来る前に・・・ - 『プチコミック』(1992年4月号) ** 若葉マーク - 『週刊ヤングサンデー』(1995年1号) ** 途中下車 - 『週刊少年サンデー』(1994年36号) ** [5×4P] - 『ビッグコミックスペリオール』(1992年14号 - 18号) **# お茶をにごす **# おかわりいかがですか? **# ちょっとお客さん **# クリームソーダ **# 立つ鳥 お茶をにごす ** 震度4 - 『週刊少年サンデー』(1988年27号) ** エースをつぶせ! - 『小学四年生』(1992年10月号 - 11月号) ** スプリング・コール - 『週刊少年サンデー』(1993年15号) ** ゆく春 - 『ビッグコミックスピリッツ』(1993年17号) ** 帰り道 - 『ヤングサンデー』(1989年20号 - 21号) ** サヨナラゲーム - 『ビッグコミック』(1991年夏の増刊号) * [[ショートプログラム (漫画)|ショートプログラム3]] ** 下駄とダイヤモンド - 『週刊ヤングサンデー』(1998年17号) ** どこ吹く風 - 『ビッグコミックスピリッツ』(1992年8号) ** 天使のハンマー - 『ビッグコミック』(1998年6号) ** メモリーオフ - 『週刊少年サンデー』(1999年6号 - 7号) ** 白い夏 - 『週刊少年サンデー』(2002年36・37合併号) - 原作:[[武論尊]] ** 四角い海 - 『少年サンデー30周年記念増刊号』(1989年) ** [[アイドルA]] - 『週刊ヤングサンデー』(2005年36・37合併号、2006年17号、2007年5・6合併号) ** 逃げた神様 - 『ビッグコミックオリジナルONE』(2005年10月16日号) ** ショートメール - 『サンデー超WINTER増刊号』(2006年) * [[ショートプログラム (漫画)|ショートプログラム ガールズタイプ]] ** 居候よりひとこと - 『週刊少女コミック』(1978年11号) ** 続・居候よりひとこと - 『週刊少女コミック』(1978年24号) ** 居候はつらいよ - 『週刊少女コミック』(1979年2号) ** 恋人宣言 - 『少年ビッグコミック』(1979年22号) ** SEASON - 『別冊少女コミック』(1983年8月号) ** エースふたり - 『週刊少女コミック』(1978年16号) ** 気まぐれパンチ - 『週刊少女コミック』(1977年34号) * SHORT GAME 〜あだち充が短編で紡ぐ高校野球〜 ** リリーフ - 『[[ビッグコミックスペリオール]]』(2013年13号) ** 同球生 - 『週刊[[ビッグコミックスピリッツ]]』(2010年47号) ** フルカウント - 『ビッグコミックスペリオール』(2014年16号) ** [[-浅丘高校野球部日誌- オーバーフェンス]] - 『週刊少年サンデー』(2011年22・23合併号){{efn2|不定期連載として発表されていたが、『あだち充本』p.197の作者による解説で「読切」とされる。}} ** ゆく年くる年 - 『ビッグコミックスペリオール』(2012年2号 }} === 読切・短編(他作品の単行本に収録)=== * なかよしの詩 - [[虫プロダクション|虫プロ商事]] 『COM』(1971年9月号) - 『夕陽よ昇れ!!』第2巻(フラワーコミックス・小学館) * 命のマウンド - 『週刊少年サンデー』(1975年初夏増刊号) - 原作:やまさき十三、『あだち充初期傑作集』第1巻(こだま出版) * もうひとつの甲子園 - 『週刊少年サンデー』(1975年夏休み増刊号) - 原作:やまさき十三、『あだち充初期傑作集』第1巻(こだま出版) * ハートのA - 『週刊少女コミック』(1975年33号 - 38号) - 原作:才賀明、『あだち充初期傑作集』第3巻(こだま出版) * 北風からから - 『週刊少女コミック』(1977年12月21日増刊号) - 『ああ!青春の甲子園』第7巻(フラワーコミックス・小学館) * 青空つれてテルテルぼうず - 『週刊少女コミック』(1978年7号) - 『ああ!青春の甲子園』第7巻(フラワーコミックス・小学館) * 青葉に風 - 『週刊少女コミック』(1978年20号) - 『あだち充初期傑作集』第3巻(こだま出版) * ケン - 『週刊少女コミック』(1978年28号 - 『ああ!青春の甲子園』第6巻(フラワーコミックス・小学館) * 青春一直線(ストレート) - 『週刊少女コミック』(1978年37号) - 『ああ!青春の甲子園』第7巻(フラワーコミックス・小学館) * ティーンズ - 『週刊少女コミック』(1978年42号) - 『あだち充初期傑作集』第3巻(こだま出版) * MY SWEET SUNDAY - 『週刊少年サンデー』(2009年16号) - 合作:[[高橋留美子]]、『アイドルA』(少年サンデーコミックススペシャル・小学館){{efn2|電子書籍では『鏡が来た』(高橋留美子短編集・ビッグコミックススペシャル)に収録。}} * 足つりバカ日誌 - 『ゲッサン』(2020年9月号) - 『MIX』第17巻(少年サンデーコミックス・小学館) === 読切・短編(単行本未収録)=== {{col-list|45em| * 消えた爆音 - 『デラックス少年サンデー』(1970年12月号) - 原作:[[小澤さとる|北沢力]] * 学園Gメン - 『小学六年生』(1971年2月号 - 3月号) * 無常の罠 - 『デラックス少年サンデー』(1971年3月号) * 裂けた霧笛 - 『週刊少年サンデー』(1971年春休み増刊号) - 原作:[[真樹日佐夫]] * ワン・ダウン - 『週刊少年サンデー』(1971年夏休み増刊号) * 劣等生しょくん!! - 『小学六年生』(1971年12月号 - 1972年1月号) - 原作:夏木信夫 * リングに帰れ - [[少年画報社]] 『[[少年キング|週刊少年キング]]』(1971年51号) * ゴングは鳴った - 『週刊少年キング』(1972年19号) * どつかれ仁義 - 『週刊少年サンデー』(1972年40号 - 44号) - 原作:井上知士 * みなしご仁義 - 『週刊少年サンデー』(1973年28号 - 37号) - 原作:井上知士 * 鮮血の最終ラウンド - 『別冊少年サンデー』(1973年11月号) - 原作:井上知士 * 補欠振太郎 - 『週刊少年サンデー』(1974年お正月増刊号) * まぼろしの強打者 - 『別冊少年サンデー』(1974年2月号) - 原作:関耕太 * あの娘に一本! - 『週刊少女コミック』(1975年4・5合併号) * 甲子園の土に・・・ - 『週刊少女コミック』(1976年3号) - 原作:井上知士 * ふたりの甲子園 - 『週刊少女コミック』(1976年18号) - 原作:剣崎慎一郎 * 青空甲子園 - 『小学六年生』(1978年8月号 - 11月号) * 夏のらくがき - 『週刊少年サンデー』(2017年35号) }} === その他 === *'''[[随筆|エッセイ集]]''' ** がんばれ女のコ!(1984年12月18日、学習研究社)-(雑誌『SanSun』1983年5月号 - 1987年12月号連載時のタイトルは『真夜中のひとりごと』であった) ** 続・がんばれ女のコ!(1986年4月7日、学習研究社) ** 完結編・がんばれ女のコ!(1988年1月12日、学習研究社) *'''ムック''' ** 少年サンデーグラフィック タッチ(1985年8月30日、小学館) ** 少年サンデーグラフィック タッチ 2(1985年12月26日、小学館) ** 少年サンデーグラフィック 劇場用アニメ タッチ 3 背番号のないエース(1986年5月7日、小学館) ** 少年サンデーグラフィック タッチ 4(1986年10月9日、小学館) ** 少年サンデーグラフィック 劇場用アニメ タッチ 5 さよならの贈り物(1987年1月5日、小学館) ** 少年サンデーグラフィック 劇場用アニメ タッチ 6 君が通り過ぎたあとに(1987年5月1日、小学館) ** 陽あたり良好! グラフィック(1987年12月4日、小学館)<!-- 『少年サンデーグラフィック タッチ』への描き下ろし5作品あり(以下アイウエオ順)・雨にも負けズ・ギャグタッチ・とりの市・名探偵ゴーページ・有限会社あだちプロ--> *'''カレンダー''' ** プチコミック編集カレンダー 1993 少女伝説(1992年11月、小学館) *'''画業30周年記念企画BOX''' ** TIME CAPSULE(2001年6月、小学館 - 3333部、シリアルナンバー入り完全限定販売)<!--描き下ろし1作品あり・ヨンペイジの未来--> *'''イラスト集''' ** Season's Album(2002年8月1日、小学館、『TIME CAPSULE』に収録された同名の画集の増補改訂版) *'''画業40周年記念本''' ** おあとがよろしいようで(2010年12月17日、小学館)- タイトルの通り『ナイン』から『クロスゲーム』までの連載作品の最終回のみを収録・解説した一冊。巻末付録として『QuickJapan Vol.62』に掲載された内容を増補改訂した「あだち充大辞典」が収められている。 *'''装画''' ** 大泉エッセイ 〜僕が綴った16年 (2013年4月19日、[[メディアファクトリー]]) - [[大泉洋]]のエッセイ集の表紙装画。装画は初めての仕事。大泉があだちの<!--「タッチ」や「ラフ」-->大ファンだということで叶ったもの。16年前の大泉を模したイラストになっている。 *'''イメージイラスト''' ** [[熱闘甲子園]](2013年、朝日放送) ** [[週刊朝日]]増刊『甲子園2015』(2015年8月3日、朝日新聞出版) - 小学館の媒体以外で「浅倉南」が表紙を飾る初の試みであった。さらに同年9月1日発売の「週刊朝日」本誌でも「上杉達也」が表紙に起用された。 ** ミックスグリル弁当(2018年、阪神甲子園球場) - 「第90回記念選抜高等学校野球大会」の開催期間にあわせて販売された『MIX』とのコラボ弁当。 ** 小説丸(2017年、小学館) - [[小学館文庫]]の20周年にウェブサイトをリニューアルした際、『虹色とうがらし』に登場する七味と山椒をイメージキャラクターにした<ref>[https://www.shosetsu-maru.com/news/20170920_229 「小説丸」のイメージキャラクターが、 あだち充先生の『虹色とうがらし』七味と山椒に決定!!]</ref>。 *'''ジャケット''' ** [[日髙のり子|Noriko Hidaka]] All Time Best〜40 Dramatic Songs〜(2020年12月2日、[[ポニーキャニオン]]) - 日高のり子歌手デビュー40周年記念ベストアルバムのジャケット描きおろし<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2020/10/02/56656.html|title=「タッチ」南ちゃん声優・日高のり子、歌手40周年記念ベストアルバム発売! あだち充がジャケット描き下ろし|publisher=アニメ!アニメ!|date=2020-10-02|accessdate=2020-10-05}}</ref> *'''『毎月あだち充』''' ** あだちの過去の作品のみをとりまぜて掲載している月刊誌。2011年4月28日より毎月刊行。 *'''漫画家本シリーズ''' ** 漫画家本 vol.6 あだち充本(少年サンデーコミックススペシャル)<!--描き下ろし1作品あり・いいわけタラタラ-->[[2018年]][[8月8日]]、[[小学館]] *'''協力''' ** [[あだち勉物語 〜あだち充を漫画家にした男〜]](2020年9月12日 - 、[[サンデーうぇぶり]]) - [[ありま猛]]の連載漫画。題字の提供および[[ネーム (漫画)|ネーム]]を監修。兄・あだち勉の破天荒なエピソードを描いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2108/12/news013.html|title=『連ちゃんパパ』作者が描く「あだち充を漫画家にした男」の豪快エピソード! 『あだち勉物語』ありま猛インタビュー|publisher=ねとらぼ|date=2021-08-12|accessdate=2021-08-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09850652|title=あだち勉物語 &#x301C;あだち充を漫画家にした男&#x301C;1|publisher=小学館|accessdate=2021-08-13}}</ref>。 == 映像化作品 == === アニメ === {{col-list|35em| * 連続テレビアニメ ** みゆき(1983 - 1984年) - 全37話 ** タッチ(1985 - 1987年) - 全101話 ** 陽あたり良好!(1987 - 1988年) - 全48話 ** H2(1995 - 1996年) - 全41話 ** クロスゲーム(2009 - 2010年) - 全50話 ** MIX(2019年) - 全24話 ** MIX(2023年) - *''' 単発テレビアニメ''' ** ナイン(1983年<!--5月4日放映-->) *** ナイン2 恋人宣言(1983年<!--12月18日放映-->) *** ナイン 完結編(1984年<!--9月5日放映-->) ** タッチ Miss Lonely Yesterday あれから、君は…(1998年<!--12月11日放映-->) *** タッチ CROSS ROAD 風のゆくえ(2001年<!--2月9日放映-->) *''' 劇場版アニメ''' ** ナイン オリジナル版(1983年<!--9月16日公開-->) ** タッチ 背番号のないエース(1986年<!--4月12日公開-->) *** タッチ2 さよならの贈り物(1986年<!--12月13日公開-->) *** タッチ3 君が通り過ぎたあとに -DON'T PASS ME BY-(1987年<!--4月11日公開-->) ** 陽あたり良好! KA・SU・MI 夢の中に君がいた(1988年<!--10月1日公開-->) *''' オリジナルビデオアニメ''' ** スローステップ(1991年) - 全5話 }} === 実写 === {{col-list|35em| *''' 連続テレビドラマ''' ** 陽あたり良好!(1982年) - 全19話 ** [[だから青春 泣き虫甲子園]](1983年) - 全13話 ** [[じんべえ]](1998年) - 全11話 ** [[H2〜君といた日々]](2005年) - 全11話 *''' 単発テレビドラマ''' ** みゆき(1986年<!--8月4日放映-->) ** ナイン(1987年<!--1月5日放映-->) ** タッチ(1987年<!--6月1日放映-->) *''' 実写映画''' ** みゆき(1983年<!--9月16日公開/監督:井筒和幸-->) ** タッチ(2005年<!--9月10日公開/監督:犬童一心-->) ** ラフ ROUGH(2006年<!--8月26日公開/監督:大谷健太郎-->) }} *'''配信ドラマ''' ** [[ショート・プログラム]] (2022年3月1日より順次配信) == 関連人物 == * [[あだち勉]] - あだちの実兄であり漫画家。故人。[[赤塚不二夫]]のチーフアシスタントを経てあだちプロの専務取締役に就任、アシスタントやマネージャーの仕事をしていた。マネージャーを務めていた1982年から84年にかけて、弟をモデルにしたギャグ漫画『実録あだち充物語』を発表している{{efn2|『虫と少年』、『わかれのきせつ』、『実録あだち勉物語』を収録。前者2作はあだち充が16歳時の、後者は同作者の書き下ろし作品。}}。弟からは親しみをこめて「バカあんちゃん」と呼ばれていた。 * [[ありま猛]] - 兄・勉の弟子で漫画家。兄弟で同居していた時代から交友があり、毎年正月にはありまを実家に招き、あだちの地元の同級生を交えた泊まりがけの麻雀を40年以上続けてきた<ref>{{Cite web|和書|url=https://manba.co.jp/manba_magazines/11913|title=『御意見無用』復刊記念・ありま猛氏インタビュー あだち兄弟にギャンブル漬けにされたお陰で『連ちゃんパパ』は生まれた!?|date=2020-12-04|author=V林田|website=マンバ|accessdate=2021-12-15}}</ref>。ありまの連載『あだち勉物語』では題字を手がけたほか、あだちが「協力」としてクレジットされている。 * [[石井いさみ]] - 師匠。[[週刊少年チャンピオン]]50周年記念サイトのインタビューでは「忙しいときは[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]が5人いました、その中に、あだち(充)くんもいて、彼が入ったときなんか、『おい、俺より上手いやつが入ってきたぞ』と女房に言ってねぇ(笑)、本当に絵が上手かった。最後のほうは彼にほとんど描かせたくらい、それくらいキャラクターもそっくりに描いてくれました」と、あだちの画力を絶賛している<ref>{{Cite web|和書|url=https://content.weeklychamp.com/interview/page1.html|title=“750ライダー” 石井いさみ先生レジェンドインタビュー|accessdate=2019-01-17|publisher=秋田書店}}</ref>。 * [[永島慎二]] - あだちは10代の頃、永島のファンであり、よく絵の模写をしていた。あだちは高校卒業後は永島のアシスタントに就くことになっていたが、永島が仕事を放ってアメリカに逃亡したため[[石井いさみ]]に拾われることになった。『ビッグコミックオリジナルONE』2005年10月16日号の「追悼・永島慎二」では永島との思い出を描いた作品『逃げた神様』を執筆している。なお、この追悼企画はあだちが旧知の編集者に電話をかけたことが発端となったもの<ref name="oato" />。 * [[高橋留美子]] - 1980年代以降、あだちとともに『[[週刊少年サンデー]]』の看板作家を務める友人でありライバル。あだちは少年誌にこだわる理由について「高橋先生の存在が大きい」と述べている。年に数回会い、互いの作品の感想を述べ合うことがあるという{{r|QJ 2005}}。週刊少年サンデー2006年43号巻末コメントにて「1作だけ違うペンネームをつけるとしたら、どんな名前にしますか?」という質問に対しての高橋は「あだち充。」と回答している。『[[タッチ (漫画)|タッチ]]』作中には高橋のサイン色紙が登場。2009年16号の[[週刊少年サンデー|少年サンデー]]創刊50周年記念の際には合作漫画『MY SWEET SUNDAY』を掲載し、これは『[[アイドルA]]』単行本に収録されている。あだちが一番好きな高橋の作品は『[[境界のRINNE]]』であり、また、一番好きな主人公とヒロインそれぞれにも、同作品の六道りんねと真宮桜を挙げている。普通の人柄であることがその理由だという{{sfn|ダ・ヴィンチ|2013}}。 * [[島本和彦]] - あだちとは互いにファン同士である。『タッチ』に島本の『[[炎の転校生]]』の主人公、滝沢昇が3ページほどゲスト出演する回があるが、これは島本が『[[炎の転校生]]』連載終了後、他の漫画家の制作現場を経験してアシスタントの使い方を勉強する目的で、1話だけアシスタントに入った日にその場で島本が描いたもの<ref name="oato" />。なお、島本和彦と[[藤田和日郎]]の合作『[[からくりサーカス#オマージュ作品|からくり逆境サーカスナイン]]』では、あだちにより1コマのみ『タッチ』の主要人物3人が登場している。 * [[ミスター・ポーゴ]] - プロレスラー。あだちとは中学時代の同級生であり、『週刊ゴング』に対談が掲載された事もある。その対談によると、『タッチ』の登場人物・[[タッチの登場人物#明青学園|松平孝太郎]]はポーゴがモデルだと言うことである。 * [[三ツ矢雄二]] - 『タッチ』のアニメ版で[[上杉達也]]を演じる声優。2018年の連続テレビアニメ『[[深夜!天才バカボン]]』第5話ではゲストキャラとして、あだち充を演じた(クレジットでは「あだち充先生」表記)。 === アシスタント === * [[小野新二]] * 服部かずみ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2|45em}} === 出典 === {{Reflist|35em|refs= <ref name="QJ 2005">{{harvnb|Quick Japan|2005}}{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref> <ref name="小学館2018">{{harvnb|小学館|2018}}{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref> <ref name="ダ・ヴィンチ2012">{{harvnb|ダ・ヴィンチ|2012}}{{要ページ番号|date=2021年4月}}</ref> }} ==参考文献== *書籍 ** {{cite book|和書|date=2003-02|title=漫画家人名事典|editor=まんがseek、日外アソシエーツ編集部|publisher=[[日外アソシエーツ]]|isbn=4-8169-1760-8|ref={{sfnref|日外アソシエーツ|2003}}}} ** {{cite book|和書|date=2013-09-17|last=南|first=信長|authorlink=新保信長|title=マンガの食卓|publisher=[[NHK出版]]|edition=初版第1刷|isbn=978-4-7571-4316-6|ref=harv}} ** {{cite book|和書|date=2018-08|title=あだち充本|publisher=[[小学館]]|series=SHONEN SUNDAY COMICS SPECIAL. 漫画家本|isbn=978-4-09-128449-5|ref={{sfnref|小学館|2018}}}} *雑誌 ** {{cite magazine|和書|date=2005-10-12|magazine=[[Quick Japan]]|publisher=[[太田出版]]|volume=Vol. 62|isbn=978-4872339864|ncid=BB01489847|ref={{sfnref|Quick Japan|2005}}}} ** {{cite magazine|和書|date=2006-08-25|title=原作者あだち充先生インタビュー|magazine=[[週刊ファミ通]]|issue=925|publisher=[[エンターブレイン]]|ncid=AA12164689|ref={{sfnref|週刊ファミ通|2006}}}} ** {{Cite magazine|和書|date=2012-11|magazine=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]|volume=19|issue=12|publisher=[[メディアファクトリー]]|ncid=AN10477608|ref={{sfnref|ダ・ヴィンチ|2012}}}} ** {{cite magazine|和書|date=2013-11-06|title=高橋留美子×あだち充対談|magazine=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]|volume=20|issue=12|publisher=[[メディアファクトリー]]|ncid=AN10477608|ref={{sfnref|ダ・ヴィンチ|2013}}}} == 外部リンク == *{{Twitter|mitsuru_mix|あだち充情報【公式】}} * [https://natalie.mu/comic/artist/1633 あだち充作品情報] {{あだち充}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あたち みつる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:群馬県立前橋商業高等学校出身の人物]] [[Category:群馬県出身の人物]] [[Category:あだち充|*]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本の野球に関する人物]]
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新井理恵
新井 理恵(あらい りえ、1971年9月14日 - )は、日本の漫画家。栃木県宇都宮市出身。栃木県立宇都宮南高等学校卒業。血液型はO型。 1990年、『別冊少女コミック』(小学館)11月号増刊に掲載の『ご笑覧ください』でデビュー。 作品中に登場するキャラクターが、しばしばシュールな長台詞でツッコミを入れるのが特徴的。 アマチュア時代、東田正美の名で投稿するほどの車田正美のファンで、それ故か一時期少年誌で作品を発表していた時期もあったが、型にはまった女性キャラを描かないといけないのが嫌で少女向けの雑誌へ戻ったとコメントしている。 オムニバスの4コマ漫画
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新井 理恵は、日本の漫画家。栃木県宇都宮市出身。栃木県立宇都宮南高等学校卒業。血液型はO型。 1990年、『別冊少女コミック』(小学館)11月号増刊に掲載の『ご笑覧ください』でデビュー。 作品中に登場するキャラクターが、しばしばシュールな長台詞でツッコミを入れるのが特徴的。 アマチュア時代、東田正美の名で投稿するほどの車田正美のファンで、それ故か一時期少年誌で作品を発表していた時期もあったが、型にはまった女性キャラを描かないといけないのが嫌で少女向けの雑誌へ戻ったとコメントしている。
{{別人|x1=元モデルの|新井梨絵}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 新井 理恵 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1971|9|14}} |生地 = [[栃木県]][[宇都宮市]] |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1990年]] - |ジャンル = [[少女漫画]]、[[4コマ漫画]] |代表作 = 『[[× ―ペケ―]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''新井 理恵'''(あらい りえ、[[1971年]][[9月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[栃木県]][[宇都宮市]]出身。[[栃木県立宇都宮南高等学校]]卒業。[[ABO式血液型|血液型]]はO型。 [[1990年]]、『[[ベツコミ|別冊少女コミック]]』([[小学館]])11月号増刊に掲載の『ご笑覧ください』でデビュー。 作品中に登場するキャラクターが、しばしば[[シュール]]な長台詞で[[漫才#ボケとツッコミ|ツッコミ]]を入れるのが特徴的。 アマチュア時代、'''東田正美'''の名で投稿するほどの[[車田正美]]のファンで、それ故か一時期[[少年誌]]で作品を発表していた時期もあったが、型にはまった女性キャラを描かないといけないのが嫌で少女向けの雑誌へ戻ったとコメントしている。 == 作品リスト == === 4コマ漫画 === [[オムニバス]]の[[4コマ漫画]] * [[× ―ペケ―]]([[1990年]]12月号 - [[1999年]]1月号、別冊少女コミック、[[小学館]]) * 日常茶番事([[キャンバス文庫|小学館キャンバス文庫]]のしおり、小学館) * 豆しばばばっ!([[2010年]]5月号 - [[2012年]]3月号、ちゃお、小学館) **[[豆しば]]のコミカライズであるが限りなく新井の作風に支配されている、未単行本化、ただしウェブコミックはある。 ===ストーリー漫画=== * 脳髄ジャングル([[1992年]]8月号 - [[1994年]]7月30日号、デラックス別冊少女コミック、[[小学館]]) ** 第1巻は、「夢の中でぐらいは幸せでいたい」と願う、永井真理(ながい まさみち、通称「'''まり坊'''」)が、誤った[[呪術]]によって創り出した悪夢枕である「'''まくらん'''」と日常を過ごす、[[エブリデイ・マジック]]の[[ファンタジー漫画]]。 ** Vol.2では、夢・希望・感情などが具現化された状態である人型の「'''夢魔'''」が、彼の住む森に迷い込んだ「'''まくらん'''」と共同生活をする。 * [[子供達をせめないで]]([[1996年]]7月号 - 11月号、[[きみとぼく (漫画)|きみとぼく]]、[[ソニー・マガジンズ]])([[2001年]]1月号 - [[2002年]]6月号、WALLFLOWER、[[幻冬舎コミックス]]) ** 裕福な家庭に生まれながらも家族から疎まれ、荒れた生活を送っていた男子高校生'''睦月'''が、無垢な女子小学生'''菜摘'''と出会う。心に孤独を抱えた2人は互いに惹かれ合うようになるが…。 * 女類男族(おんなるいおとこぞく)([[1997年]]42号 - [[1998年]]11号、[[週刊ヤングサンデー]]、小学館) * タカハシくん優柔不断([[2000年]]5月号 - [[2001年]]3月号、[[月刊コミックドラゴン]]、[[富士見書房]] 全2巻) * LOVELESS([[2000年]]6月5日号 - [[2002年]]4月5日号、デラックス別冊少女コミック、小学館) ** 惚れっぽい'''渡辺薫香'''(わたなべ くにか)、無愛想な'''和田涼子'''(わだ りょうこ)、幼い容姿の'''武田優希'''(たけだ ゆき)の女子高校生3人と、薫香の[[ストーカー]]である'''後藤浩之'''(ごとう ひろゆき)が織り成す[[学園漫画]]。 * 甘辛ベビーフード(<!-- 開始年・号数、 -->スーパークロスワード、マガジン・マガジン) - 新井の息子が主人公の[[実録漫画]]。 * [[うまんが]]([[2000年]]10月号 - [[2002年]]4月号、別冊少女コミック、小学館)(2002年6月号 - [[2003年]]5月号、[[月刊フラワーズ|flowers]]、小学館) ** [[小学校]]5年生の少女'''有馬皐月'''(ありま さつき)が、同じクラスの'''安田優駿'''(やすだ ゆうしゅん)に恋するあまり、馬の姿をした自称[[フェアリー|妖精]]の「'''まくまく'''」を呼び出したことから始まる、[[エブリデイ・マジック]]な[[ファンタジー漫画]]。著者である新井の趣味が[[競馬]]であるので、それに関連したものが多数登場する。 * [[ろまんが]]([[2003年]]6月号 - [[2008年]]1月号 、flowers、小学館) - 『うまんが』の[[スピンオフ]]で、正統な[[続編]]。'''コンチキチ'''が主人公。 * M -エム-([[2004年]]11月号 - [[2009年]]7月号、[[スピカ (雑誌)|スピカ]]、[[幻冬舎コミックス]]) * 机上意思(デスクトップ)マスター([[2009年]]9月号 - [[2011年]]3月号、[[スピカ (雑誌)|スピカ]]、[[幻冬舎コミックス]]) * ヨタ話([[2012年]]9月 - [[小学館]]、[[ベツコミ|デラックスベツコミ]]、Betsucomiフラワーコミックス)既刊6巻 * 新井理恵劇場 猫山さん(2016年8月 - 小学館、[[月刊フラワーズ]]、フラワーコミックスα)既刊3巻 * 日常の秘め事 (デジタルマーガレット、2016年9月23日 - 2019年5月10日) === 原作付きの漫画化作品 === * [[ケイゾク|ケイゾク/漫画]]([[西荻弓絵]]原作、[[1999年]]10月号 - [[2000年]]1月号、[[月刊少年エース]]、[[角川書店]]) * [[青の炎]]([[貴志祐介]]原作、[[2003年]]、あすかコミックスDX、角川書店) == 関連項目 == * [[ジャンプ放送局]] - 「'''くれいじぃ☆がーる'''」の名で投稿していた。 * [[うすた京介]] - 新井から影響を受けたという[[ギャグ漫画#歴史|ギャグ漫画家]]。 * [[ファンロード]] - 「'''東田正美'''」の名で投稿していた。 == 外部リンク == * [https://flowers.shogakukan.co.jp/ 小学館コミック -flowers-] * [http://www.gentosha-comics.net/genzo/index.php Webコミック GENZO 幻冬舎コミックス] * [http://margaretbookstore.com/ext/ch/comic28/index.html 日常の秘め事] マーガレットBOOKストア! * {{Twitter|arairie_manga}} * {{マンガ図書館Z作家|4614|新井理恵}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:あらい りえ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:栃木県立宇都宮南高等学校出身の人物]] [[Category:栃木県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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荒木飛呂彦
荒木 飛呂彦(あらき ひろひこ、本名:荒木利之、1960年〈昭和35年〉6月7日 - )は、日本の漫画家。宮城県仙台市宮城野区出身。仙台市立小松島小学校卒業、仙台市立台原中学校卒業、東北学院榴ケ岡高等学校卒業、仙台デザイン専門学校卒業。宮城教育大学中退。既婚者で二女の父。 1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」でデビュー(荒木利之名義)。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2合併号から連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』。同作はシリーズごとに主人公や舞台を変えながら長年にわたって連載されており、全世界のシリーズ累計発行部数は1億2000万部を突破している。 幼少期から「ひとりの世界」に浸るのが好きで、早くから漫画も描いていた。 中学時代には剣道部に所属。この頃には、漠然と漫画家になりたいと思っていたという。当時は梶原一騎の漫画作品『巨人の星』(川崎のぼる画)、『あしたのジョー』(ちばてつや画)などを愛読、また白土三平の忍者・歴史漫画『サスケ』と『カムイ伝』の理論的な作風に影響を受けた。小説では江戸川乱歩や『シャーロック・ホームズ』シリーズをよく読んでいたという。 なお、荒木には4つ下に双子の妹がおり、この2人の仲が良かったことから、「家族の中で疎外感を抱いたため、ひとりで何かを楽しむことが余計に好きになったのだと思う」とインタビューで語っている。 高校時代はロードレース部に所属。この頃に横山光輝のサスペンス作品を愛読する。 荒木曰く、子供の頃に流行した漫画作品はほとんど読んでおり、「ジャンプ」は週刊も月刊も隅から隅まで読んでいた。当時好きだった作品は『リングにかけろ』、『コブラ』、『サーキットの狼』、『荒野の少年イサム』、『包丁人味平』など。 16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことで、「同い年なのにプロでやっている人がいるのか、これはのんびりしていられないな」と焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。 初めて『週刊少年ジャンプ』編集部を訪れたのは高校卒業の直前頃である。当時荒木は手塚賞に投稿しており選外佳作は受賞していたものの、佳作では一行ほどの選評しか得られず自らの作品の欠点が分からずにいたという。そのため、そこを直接はっきり聞きたいと考え上京した。当時はまだ東京・仙台間に新幹線が開通しておらず、片道4、5時間かけて通っていた。 その際のことについて、当時荒木は原稿をホワイトで修正するということを知らなかったために描いた線がはみ出ており、いきなり「おい、ホワイトしてないだろ」と怒られたと語っている。また、編集者が扉絵だけ見て「読みたくない」と言い出すこともあったという。 デビュー後は仙台在住のまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。『魔少年ビーティー』は連載候補に挙がってから実際に連載開始するまで1年半ほど間が空いたが、その間にも様々な作品を描き溜めており不安はなかったという。しかし、当時は一人で描いていたため技術的に週間連載ができるか自信がなく、その方が不安だったとのこと。 当時の担当編集者であった椛島良介とは、よく映画や漫画以外の本についての話をしていた。当時の荒木はそういうことを全く知らず、「えっ、それって何ですか?」と聞くと、「なんだよ、あの本読んでないの?今日、買って読みなさいよ。読まなきゃプロになれないよ?」とプレッシャーをかけられ、とにかく本を読まなければだめだ、という雰囲気があったという。すすめられた本を読んだ後、それを椛島と批評し合っていた。 また、荒木は当時の状況について、「ぼくの作品はかならずしも健全な内容じゃないので、ひどく否定されることもありました。たとえば『魔少年ビーティー』のときは、タイトルに「魔少年」と付いているだけでダメだと言われました」と語っている他、後に連載する『ジョジョの奇妙な冒険』についても「少年マンガで外国の主人公はありえない」と言われたという。一方で、「やったことないんだから、ひとまずやってみようじゃないか」と考えてくれる人もいたという。 上京後は『バオー来訪者』を短期連載。この頃から、多種多様なキャラクターが互いの強さを競い合う、バトル系の作品を中心に描くようになる。荒木は「筋肉ムキムキのヒーローだけが強いわけではないだろう」「貧弱な肉体の持ち主でも、自身の弱さを突きぬければ、ヒーローに勝てるかも知れない」と思っていたという。現実的な理由としては、先輩漫画家たちが描いていた表現の隙間を狙わなければ生き残れないという状況も影響していた。 1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。この期に確立した能力バトルという作風は、その後の『週刊少年ジャンプ』の主流となっている他、「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されるなど、その後の漫画界に多大な影響を及ぼすことになる。 2003年には自身初となる個展「JOJO IN PARIS」をフランス・パリで開催した。 2004年(平成16年)からは『ジョジョの奇妙な冒険』Part7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。 荒木は月刊ペースでの連載について、ページ数の制限によるストレスが無くなり物語のリズムも良くなったと語っている。1話当たりのページ数を増やした理由は「ダイナミックな画面表現と、繊細な心理描写をかねそなえた作品を描こう、と思ったから」であり、週刊連載ペースのコンパクトな起承転結の繰り返しではなく、もっと大きな物語を描きたくなったという。 また移籍により倫理性に関わる描写も変化した。荒木は「40歳をこえて、倫理性にまつわる表現も描かなくちゃダメだろう」「ターゲットを若い読者だけに限定していたら、作品が窮屈になるんじゃないかな」と思ったと述べている。 2007年、日本人漫画家として初めてアメリカの生物科学誌『Cell』の表紙を飾った。 2009年、フランス・ルーヴル美術館「模型の展示室」で開催された企画展「小さなデッサン展 漫画の世界でルーブルを」に、荒木の原画が展示された。本展を記念して、「Rohan au Louvre(岸辺露伴 ルーヴルへ行く)」が発表され、2010年3月19日発売の『ウルトラジャンプ』4月号より3号連続で連載された。 また、『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)3月4日発売の『スティール・ボール・ラン』20巻にて、通算100巻を達成した。同年11月15日より京都国際マンガミュージアムで開催された「マンガ・ミーツ・ルーヴル――美術館に迷い込んだ5人の作家たち」にて、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』のカラー原画約20枚が展示され、好評により横浜・BankART Studio NYKでの巡回展も行われた。 2011年(平成22年)、荒木は画業30周年を迎えた。また翌2012年に『ジョジョ』シリーズが連載開始25周年を迎えることもあり、4月1日に荒木の公式サイト「JOJO.com」がオープンした。 4月19日発売の『ウルトラジャンプ』5月号にて『スティール・ボール・ラン』が完結した。5月19日発売の同誌6月号より、『ジョジョ』シリーズのPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始した。 8月23日発売の『SPUR』10月号にて、グッチとコラボした漫画『岸辺露伴 グッチへ行く』が掲載された。荒木が女性ファッション誌で作品を発表するのはこれが初であり、同誌には荒木のスペシャルインタビューも収録された。また9月17日よりグッチ新宿で、『岸辺露伴 グッチへ行く』の原画展「岸辺露伴 新宿へ行く」が開催された。 2012年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より25周年を迎えた。 シリーズ25周年を記念して、せんだいメディアテーク6階にて7月28日から8月14日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」が、六本木・森アーツセンターギャラリーにて10月6日から11月4日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 東京」がそれぞれ開催された。また、7月5日に行われた「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会では、『ジョジョの奇妙な冒険』のテレビアニメ化が発表されるなど、25周年を記念した企画が続々と実施された。 同年、荒木が表紙を描き下ろしたモードファッション誌『SPUR』2011年10月号が第3回雑誌大賞グランプリを獲得した。また12月22日発売の『SPUR』2013年2月号にて、『岸辺露伴 グッチへ行く』に続くグッチとのコラボ漫画第2弾となる『徐倫、GUCCIで飛ぶ』が別冊付録として封入された。 また10月15日に発売されたAERA10月22日号の表紙を荒木が飾った他、フェリシモが主催する「サンタクロース大賞 2012」にノミネートされた。 2013年、1月初旬から2月中旬にかけて、グッチのクリエイティブディレクターであるフリーダ・ジャンニーニとのコラボが全世界70店舗を超えるGUCCI直営ショップのウィンドウにて展開された。また6月28日から7月14日の日程で、イタリア・フィレンツェのGUCCI Show roomにて「荒木飛呂彦原画展 in フィレンツェ」が開催された。 10月12日に東北大学で行われた交流イベント「ホームカミングデー」の仙台セミナーで講演を行った他、11月2日に東京大学本郷キャンパスにて「漫画のセリフについて」の公開講座を実施した。 12月5日、第17回文化庁メディア芸術祭のマンガ部門大賞に『ジョジョリオン』が選出された。 2014年、9月19日発売の『ウルトラジャンプ』10月号に『魔少年ビーティー』の復刻版が付属された。刊行30周年を記念し、絶版となっていたジャンプコミックス版が再現された。 2015年、4月17日には荒木による『荒木飛呂彦の漫画術』が発売された。絵を描く際に必要な「美の黄金比」やヘミングウェイに学んだストーリー作りなど、具体的な方法論を交えながら創作術を解説した作品となっている。また同年には短編『死刑執行中脱獄進行中』が森山未來主演で舞台化された。 2016年、7月22日から9月25日の日程で六本木にて開催された「ルーヴル美術館総監修 特別展」に参加した他、10月より岩手各地で開催された「希望郷いわて国体(第71回国民体育大会)」と「希望郷いわて大会(第16回全国障害者スポーツ大会)」を記念したイラスト「いわて人間讃歌」を描き下ろした。同年には、ジョジョシリーズ第4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化も決定し、翌2017年に公開された。 また、同年12月19日発売の『ジョジョリオン』14巻をもって『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの累計発行部数が1億部を突破した。荒木は「『ジョジョ』の連載が始まったのが1987年。それから30年をまさに迎えようかというタイミングで1億冊を突破したということは誠に嬉しい事です。そして、30年の間にこの作品とキャラクターたちを、手にとってきてくれた読者の方々には感謝しかありません。けど、これがゴールではなく、30周年となる2017年も様々な企画が盛り沢山なので、これから先も『ジョジョ』を楽しんでもらえればと願っています。」とのコメントを発表した。 2017年、8月12日から9月10日までの30日間にわたり、『ジョジョ』シリーズ30周年を記念して「ジョジョフェス in S市杜王町」が宮城県仙台市で開催された。イベントのメインコンテンツとして「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017」が実施され、第1部から第8部まで200枚以上のカラー原画と180枚以上のモノクロ原稿などが展示された。 2018年、『ジョジョ』シリーズ30周年の集大成として、8月24日から10月1日の日程で東京・国立新美術館にて展覧会「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」が開催された。 国立美術館で漫画家の個展が開催されるのは手塚治虫以来28年ぶり2人目であり、現役の漫画家としては史上初の快挙であった。同館の主任研究員・教育普及室長の真住貴子は、「国立の美術館で展覧会をやるにふさわしい実力をお持ちだということは申し上げる必要もないと思うが、これまでの荒木先生の展覧会とは違った切り口で漫画の新しい可能性をお見せできる展覧会になるというのが最終的な開催の決め手」とコメントした他、当時の館長・青木保は「日本のアニメやゲーム、漫画というと世界から引きがあり、ヨーロッパやアジア、南米、ロシアなどからも来てほしいと要望があり、大変ありがたいことだと思っています。そういう状況の中で『荒木飛呂彦原画展』を催すことができて本当に嬉しく、光栄に感じております」と述べた。 6月21日には国立新美術館にて記者発表会が行われ、荒木も登壇した。舞台上では「『ジョジョ』の原画展については、漫画界に感謝をしたいと思います。手塚(治虫)先生をはじめ、先輩方の作品や助言がなければ『ジョジョの奇妙な冒険』は影も形もなかったと思います。また私より年下の漫画家のみなさんが盛り上げていただいているので、今回の国立新美術館での開催があると思います。みなさまありがとうございます」と感謝を述べた他、自らの口で『ジョジョ』シリーズPart5にあたる『黄金の風』のテレビアニメ化を発表した。 また、11月25日から2019年1月14日までの日程で大阪文化館・天保山にて、2020年1月25日から3月29日の日程で長崎・長崎県美術館にて、2020年4月25日から5月23日の日程で石川県・金沢21世紀美術館にて巡回展がそれぞれ開催された。 2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピック競技大会では、公式アートポスターの制作を担当。荒木はパラリンピックをテーマとした「神奈川沖浪裏上空」という作品を発表した。 同年、「荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!」と銘打たれた、荒木自らが審査員を務める『ウルトラジャンプ』(集英社)のマンガ賞「荒木飛呂彦漫画賞」が開催された。 8月19日発売の『ウルトラジャンプ』9月号にて『ジョジョ』シリーズPart8の『ジョジョリオン』が完結した。 2022年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より35周年を迎えた。 3月19日には、35周年を記念して1冊全てが『ジョジョ』で構成された「JOJO magazine(ジョジョマガジン)」が刊行。荒木が自らカバーを書き下ろした他、「岸辺露伴は動かない」の71ページにおよぶ新作読切、新作小説、最新作までを網羅したアニメ特集、スピンオフドラマ「岸辺露伴は動かない」シリーズで岸辺露伴役を務めた高橋一生のインタビューなどが収録された。12月19日には2号目となる「JOJO magazine 2022 WINTER」が発売された他、『ジョジョ』シリーズのテレビアニメが10周年を迎えたこともあり、様々な記念企画が実施された。 同年、朝日新聞社主催の第26回手塚治虫文化賞・マンガ大賞最終候補9作品に『ジョジョリオン』がノミネートされた。 また12月19日に発売された『ウルトラジャンプ』2023年1月号にて、『ジョジョ』シリーズPart9にあたる『The JOJOLands』が発表された。翌2023年2月17日発売の同誌3月号より連載開始。 荒木は白土三平、横山光輝、梶原一騎を自身の選ぶ3大漫画家として挙げている。中でも横山については、特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。 同世代であり、自身が漫画家を本気で目指すきっかけにもなったゆでたまごについて、バトルの作り方や世界観、戦っていく構図などで影響を受けているという。また、「同世代ということで、すごく目標というか励みになっている。それって漫画家として幸運だなって。目標がないまま漫画を描いていないという意味で、幸せなことだと思います」と感謝の気持ちも述べている。 他には手塚治虫、藤子不二雄、ちばてつや、大友克洋などの作品を読んでいる。自身の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズについて、荒木は「彼らと似ていないもの」を描くという発想で生まれたものだと語っており、「今思えば、70〜80年代の漫画家は天才たちだらけ。また、音楽やファッションでも新しいものがどんどん生まれて、刺激的でした。あの時代にデビューし『ジョジョ』を描き始めることができたのは、よかったかもしれない」と振り返っている。 「良い作品には順位はつけられないが」と前置きしつつ、「とにかく次が読みたくて本屋に走った(または何があろうと家に帰り、テレビの前に座った)作品ベスト10」として、『ゴルゴ13 芹沢家殺人事件』、『虹をよぶ拳』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ドラゴンボール』、『荒野の少年イサム』、『どろろ(アニメ)』、『賭博黙示録カイジ』、『バビル2世』、『ナニワ金融道』、『北斗の拳』を挙げている。 サスペンスの教科書として、ロアルド・ダール作『チョコレート工場の秘密』を挙げている。荒木は「ワクワク感とスリルと語り口が大好きで、マンガ家になる時は“こういうマンガを描きたい”と思ってましたね。とにかく読んでいる最中ドキドキしっぱなしで、“次どうなるんだよ!”っていう」と語り、デビュー前の荒木にとっての目標であり基本だったとしている。 スティーヴン・キング作『ミザリー』も同じくサスペンスの教科書だとしている。荒木は「作家が熱狂的なファンに監禁され、小説を書かされるという話なんですけど、主人公がどんどんどんどん追いつめられていく過程が本当に面白い。こういうパターンの場合、“逃げればいいじゃん”って読者に思わせちゃダメなんですよね。そう思わせないための演出というか手続きが、絶妙なんですよ」と語っており、「僕が思うサスペンスの、完璧な形ですね。好きだからというより、勉強のために今でも読み返しています」と絶賛している。 また、アーサー・コナン・ドイル作『シャーロック・ホームズ』シリーズからの影響も大きい。荒木も少年時代に読んでいなければ漫画家になっていたか分からないし、『ジョジョの奇妙な冒険』は描けていなかったと思うと語っており、「魅力的なキャラクターを作り上げることの重要性」「物語の作り方」などを学んだとしている。 特にホラー映画から影響を受け、2011年には自身初となる映画評論集『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を、2013年には『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』を刊行している。 映画俳優で監督であるクリント・イーストウッドの大ファンを公言し、自身の作品に多大な影響を与えたと明かしている。具体的は、『ジョジョ』シリーズに登場する空条承太郎のモデルとなっており、「イーストウッドのように立っているだけで絵になることを目指したキャラクターなんです」と語っている。イーストウッド作品の特徴については「社会からはみだす男の美学」があることだとしており、「はみだし者が孤独を抱えながら戦う」というのは『ジョジョ』シリーズ全体を通じた要素になっている。2012年には対談を果たした。 また『ジョジョ』シリーズに登場するディオ・ブランドーを生み出す際に、『ブレードランナー』に登場するレプリカントのロイ・バッティ(演:ルトガー・ハウアー)から影響を受けたとしている。 荒木は自身の絵柄についてルネッサンス美術、特にミケランジェロに影響を受けたと公言しており、「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。また『ヴォーグ』などのファッション雑誌が好きで、1980年代のベルサーチやフランコ・モスキーノ(英語版)などが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている。色は紫を好み、カラーイラストでも多用される。絵柄についてはファッション・イラストレーターのアントニオ・ロペス (イラストレーター)(例)やSF・ファンタジー画家のフランク・フラゼッタ、ヨーロッパの漫画家エンキ・ビラルやユーゴ・プラット(英語版)などからの影響も指摘されている。また、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、車田正美のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている。 また、独特のカラーリングについては「ポール・ゴーギャンが砂浜の色をピンクに塗っていたのが、子供のころから魅力的だと思っていた。何色で塗ってもいいんだ、と」と語っている。 荒木はいつも仕事中に洋楽を聴いているという大の洋楽好きとして知られ、洋楽ならばジャンルを問わず何でも聴くと発言している。また、代表作『ジョジョの奇妙な冒険』内ではキャラクター名やスタンド名などの大半を洋楽の楽曲名から引用している。音楽を聴きながら作品を描く理由としては「音楽をかけるのはミュージシャンの考えやファッション、時代に対する姿勢だとかを隣において、感じるためでもあるんです」「ミュージシャンやアーティストたちが、苦しさとかトラブルを抱えながら創作した音楽を届けてくれているんだと思うと、励みになるんですよ」と述べている。 なお、生涯のベストアルバム5選には『危機(イエス)』『レイト・フォー・ザ・スカイ(ジャクソン・ブラウン)』『ヒステリア(デフ・レパード)』『フィジカル・グラフィティ(レッド・ツェッペリン)』『ビヨンド・ザ・ミズーリ・スカイ(チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー)』を、好きなジャケットデザイン5選には『危機(イエス)』『不死蝶(サンタナ)』『ブラインド・フェイス(ブラインド・フェイス)』『ブレックファスト・イン・アメリカ(スーパートランプ)』『アンダーカレント(ビル・エヴァンス&ジム・ホール)』をそれぞれ挙げている。 荒木は洋楽アーティストの中でも特にプリンスのファンであることを公言しており、好きな理由として、「動かせない運命の流れみたいなものがアルバムの中にあり、聴いていて完璧な世界に浸れる」という点を挙げている。他にも「プリンスにはセクシーさを出している曲がありますけど、『前向きに生きていこう』っていう生命力のメッセージがあるんですよね。ちょっとしたゲスさも入ったりもするけど、それがまたいいんです」、「いつも創作に勇気を与えてくれる人です。心強いですよ。過去の作品を聞くと、いつも迷った時に『プリンスだったら、つまんないことにこだわらないだろうな』とか『そこを突破していくだろうな』っていうことを思い出すんです」とも語る。 荒木の作風は、哲学や経済そして自然科学などを上手い具合に取り入れながら、今われわれが生きる世界に通じる“同時代性”や“現実感”を加えてきた、とも評される。荒木自身も「絵を描くことは、ある種、化学実験。絵を描きながら学んでいる部分もあると思います。自然科学や物理学、そして哲学や経済、そういったものが全部一体化した思想や理論の中で『ジョジョ』の世界を描いていくことが理想です」と語っている。 評論家の加藤幹郎は、高度な技術で過去の作品の引用を行うその作風から荒木をマニエリスムの作家と評している。美術史学者の辻惟雄は荒木の画風について、「マンガ特有の誇張というものは、日本の絵巻物の頃からあって、今も変わらない傾向があります。その中でも『ジョジョの奇妙な冒険』は極点まで行った観があるね。最初はマッチョな肉体を描くアメコミの影響が強いように見えたけど、巻を追うごとに奇想になってきますね。空想力が豊かで、密度が凄い」と評している他、「バラエティの豊富さは北斎を思わせますが、それだけともちょっと違う。『ジョジョの奇妙な冒険』は形を極端に歪めたり、誇張したり、マニエリスムのようでもある。立体的で幻想的な描き方は、曾我蕭白に近いものを感じますね」とも指摘している。 一方で連載開始時から「人間讃歌」をメインテーマとして掲げる『ジョジョの奇妙な冒険』は「ある意味で少年漫画の王道」と評されており、荒木自身「昔からある少年漫画の伝統を受け継いでいるつもり」と話している。しかし、荒木は「子ども向けに描いたつもりはない」とも発言している。 また荒木が影響を受けた横山光輝と梶原一騎から、梶原的なマッチョイズムと、横山の歴史マンガなどにみられる盤上の駒を淡々と眺めているような冷めた視線という、相反する成分が共存した作風であると指摘する意見もある。 荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない。この変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている。 台詞回しはしばしば翻訳調と言われており、荒木も「本を読んだ影響が残っているんじゃあないか」と話している。また、この「じゃあないか」という口調も「じゃないか」に「あ」を加えた荒木独特のものであり、「じゃあない」、「じゃあないぜ」、「じゃあないのォ?」といったパターンも確認されており、作中の人物の特徴的な言い回しはネット上で改変されて使われることも多い。また、緊迫シーンなどで「ゴゴゴゴゴゴ・・・」「ドドドドドド・・・」や「ドォーン」といった(物理的ではなく)心理的な状態を表現する独特の擬音が使われており、これらはサスペンス映画で使われるような効果音を漫画にも欲しいと思ったことが発想の元になったと述べている。荒木の音楽好きは広く知られており、「ズギュウン」や「ズッギャーン」など、楽器の音をイメージした擬音が多い。なお、登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは車田正美の影響である。 荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書 」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。また、悪役は「前向きな性格にする」と決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている。 『ジョジョの奇妙な冒険』には登場人物に腰の極端なひねりや捻転、奇矯な手足の動きなどを加えた独特のポージングが頻出する。これらのポーズは、荒木が20代のときに『北斗の拳』『リングにかけろ』『キャプテン翼』などの強い個性を持つ当時の『ジャンプ』連載陣の中で自分の独創性を模索していた頃、イタリアの彫刻芸術からヒントを得て作り上げられたものだという。2013年に行われた第88回箱根駅伝では、順天堂大学アンカーの選手が、ゴールの際ジョジョ立ちをして話題になった。エゴン・シーレやグスタフ・クリムトなどの、敬愛する画家が描いた人物そのままのポーズや顔を描くことも少なくない。 作中の「波紋」(呼吸を中心とする特殊な身体技法)や「スタンド」の能力表現は、同郷の先輩である大友克洋が超能力の表現に使っていた「歪む背景」が、不可視であることに不満を持ったことが発想の元となったという(また「スタンド」に関してはつのだじろう『うしろの百太郎』にも言及している)。なお大友の作品に関しては、空間表現や緻密な描写などが大いに作画の勉強になったとも語っている。 荒木は漫画家を始めた当初は、若さゆえほかの漫画家に闘争心を燃やすあまり徹夜することも多かったというが、「結局最後は自分との闘いになる」との理由で考えを変え、『ジョジョ』連載くらいからは、基本的に徹夜をせずに毎朝10時に起床して23時まで執筆する生活とし、日曜日はネーム、月から木まで作画、金、土は休養(取材)というサイクルの執筆を続けている。荒木のこのような規則正しい生活は『週刊少年ジャンプ』で『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を長寿連載していた秋本治を見習ってのことで、締め切りも今まで破ったことがないという。 愛用している画材はカートリッジ式の筆ペン。仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという。 2012年時点でも荒木は手書きにこだわっており、机の上にはパソコンやモニタなどは置いていないが、画材には強いこだわりはなく、ぺんてるの筆ペンとゼブラのGペン、シャープペンシル、下書き用に青鉛筆(キャラクターを描く際のアタリを描くことに用いる)があれば十分だという。またペン入れには開明書液を使っているほか、30年前に父親が製作した卓上製図板を現在でも使い続けている。下書き前には、青鉛筆をカッターナイフで削ることから始める。これは漫画家デビューの時から行なっている行為らしく、「儀式」のようなものであると語る。この行為から、執筆作業に対しての気持ちが入っていく面もあるという。 手書きについては、「例えば料理をしているときに『この味なんだろう』っていう、驚きがあったりするじゃないですか。あれが絵の中にあるんですよ。手で描いてるとね、『おお〜!』って思う時があって、あれが好きなんですよ。その連続というのが手描きの魅力で」と語っている。デジタルツールを用いたこともあるが、下手なせいか時間がかかってしまい手で描いた方が速いという。 荒木は月刊連載に移行した理由について、「週刊連載が量的にきつくなった」と語っており、「若いころは一晩寝れば治っていたんですけど、治らなくなったりしていますし。関節とかを悪くして、それを我慢してやっていると、どんどん悪化していくんですよ」と身体が衰えてきていることを明かしている。 単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『ユリイカ』で10年越しにインタビューを行った斎藤環は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか......」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている。 体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。 太字は連載作品。●:『ゴージャス☆アイリン』収録、○:『死刑執行中脱獄進行中』収録、◎:『岸辺露伴は動かない』収録、☆:単行本未収録。 発行は注記のない限り全て集英社。
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{ "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "荒木曰く、子供の頃に流行した漫画作品はほとんど読んでおり、「ジャンプ」は週刊も月刊も隅から隅まで読んでいた。当時好きだった作品は『リングにかけろ』、『コブラ』、『サーキットの狼』、『荒野の少年イサム』、『包丁人味平』など。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことで、「同い年なのにプロでやっている人がいるのか、これはのんびりしていられないな」と焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "初めて『週刊少年ジャンプ』編集部を訪れたのは高校卒業の直前頃である。当時荒木は手塚賞に投稿しており選外佳作は受賞していたものの、佳作では一行ほどの選評しか得られず自らの作品の欠点が分からずにいたという。そのため、そこを直接はっきり聞きたいと考え上京した。当時はまだ東京・仙台間に新幹線が開通しておらず、片道4、5時間かけて通っていた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その際のことについて、当時荒木は原稿をホワイトで修正するということを知らなかったために描いた線がはみ出ており、いきなり「おい、ホワイトしてないだろ」と怒られたと語っている。また、編集者が扉絵だけ見て「読みたくない」と言い出すこともあったという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "デビュー後は仙台在住のまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。『魔少年ビーティー』は連載候補に挙がってから実際に連載開始するまで1年半ほど間が空いたが、その間にも様々な作品を描き溜めており不安はなかったという。しかし、当時は一人で描いていたため技術的に週間連載ができるか自信がなく、その方が不安だったとのこと。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当時の担当編集者であった椛島良介とは、よく映画や漫画以外の本についての話をしていた。当時の荒木はそういうことを全く知らず、「えっ、それって何ですか?」と聞くと、「なんだよ、あの本読んでないの?今日、買って読みなさいよ。読まなきゃプロになれないよ?」とプレッシャーをかけられ、とにかく本を読まなければだめだ、という雰囲気があったという。すすめられた本を読んだ後、それを椛島と批評し合っていた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "また、荒木は当時の状況について、「ぼくの作品はかならずしも健全な内容じゃないので、ひどく否定されることもありました。たとえば『魔少年ビーティー』のときは、タイトルに「魔少年」と付いているだけでダメだと言われました」と語っている他、後に連載する『ジョジョの奇妙な冒険』についても「少年マンガで外国の主人公はありえない」と言われたという。一方で、「やったことないんだから、ひとまずやってみようじゃないか」と考えてくれる人もいたという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "上京後は『バオー来訪者』を短期連載。この頃から、多種多様なキャラクターが互いの強さを競い合う、バトル系の作品を中心に描くようになる。荒木は「筋肉ムキムキのヒーローだけが強いわけではないだろう」「貧弱な肉体の持ち主でも、自身の弱さを突きぬければ、ヒーローに勝てるかも知れない」と思っていたという。現実的な理由としては、先輩漫画家たちが描いていた表現の隙間を狙わなければ生き残れないという状況も影響していた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。この期に確立した能力バトルという作風は、その後の『週刊少年ジャンプ』の主流となっている他、「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されるなど、その後の漫画界に多大な影響を及ぼすことになる。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2003年には自身初となる個展「JOJO IN PARIS」をフランス・パリで開催した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)からは『ジョジョの奇妙な冒険』Part7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "荒木は月刊ペースでの連載について、ページ数の制限によるストレスが無くなり物語のリズムも良くなったと語っている。1話当たりのページ数を増やした理由は「ダイナミックな画面表現と、繊細な心理描写をかねそなえた作品を描こう、と思ったから」であり、週刊連載ペースのコンパクトな起承転結の繰り返しではなく、もっと大きな物語を描きたくなったという。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また移籍により倫理性に関わる描写も変化した。荒木は「40歳をこえて、倫理性にまつわる表現も描かなくちゃダメだろう」「ターゲットを若い読者だけに限定していたら、作品が窮屈になるんじゃないかな」と思ったと述べている。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2007年、日本人漫画家として初めてアメリカの生物科学誌『Cell』の表紙を飾った。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "2009年、フランス・ルーヴル美術館「模型の展示室」で開催された企画展「小さなデッサン展 漫画の世界でルーブルを」に、荒木の原画が展示された。本展を記念して、「Rohan au Louvre(岸辺露伴 ルーヴルへ行く)」が発表され、2010年3月19日発売の『ウルトラジャンプ』4月号より3号連続で連載された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "また、『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)3月4日発売の『スティール・ボール・ラン』20巻にて、通算100巻を達成した。同年11月15日より京都国際マンガミュージアムで開催された「マンガ・ミーツ・ルーヴル――美術館に迷い込んだ5人の作家たち」にて、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』のカラー原画約20枚が展示され、好評により横浜・BankART Studio NYKでの巡回展も行われた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2011年(平成22年)、荒木は画業30周年を迎えた。また翌2012年に『ジョジョ』シリーズが連載開始25周年を迎えることもあり、4月1日に荒木の公式サイト「JOJO.com」がオープンした。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "4月19日発売の『ウルトラジャンプ』5月号にて『スティール・ボール・ラン』が完結した。5月19日発売の同誌6月号より、『ジョジョ』シリーズのPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "8月23日発売の『SPUR』10月号にて、グッチとコラボした漫画『岸辺露伴 グッチへ行く』が掲載された。荒木が女性ファッション誌で作品を発表するのはこれが初であり、同誌には荒木のスペシャルインタビューも収録された。また9月17日よりグッチ新宿で、『岸辺露伴 グッチへ行く』の原画展「岸辺露伴 新宿へ行く」が開催された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2012年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より25周年を迎えた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "シリーズ25周年を記念して、せんだいメディアテーク6階にて7月28日から8月14日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」が、六本木・森アーツセンターギャラリーにて10月6日から11月4日までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 東京」がそれぞれ開催された。また、7月5日に行われた「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会では、『ジョジョの奇妙な冒険』のテレビアニメ化が発表されるなど、25周年を記念した企画が続々と実施された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "同年、荒木が表紙を描き下ろしたモードファッション誌『SPUR』2011年10月号が第3回雑誌大賞グランプリを獲得した。また12月22日発売の『SPUR』2013年2月号にて、『岸辺露伴 グッチへ行く』に続くグッチとのコラボ漫画第2弾となる『徐倫、GUCCIで飛ぶ』が別冊付録として封入された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "また10月15日に発売されたAERA10月22日号の表紙を荒木が飾った他、フェリシモが主催する「サンタクロース大賞 2012」にノミネートされた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2013年、1月初旬から2月中旬にかけて、グッチのクリエイティブディレクターであるフリーダ・ジャンニーニとのコラボが全世界70店舗を超えるGUCCI直営ショップのウィンドウにて展開された。また6月28日から7月14日の日程で、イタリア・フィレンツェのGUCCI Show roomにて「荒木飛呂彦原画展 in フィレンツェ」が開催された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "10月12日に東北大学で行われた交流イベント「ホームカミングデー」の仙台セミナーで講演を行った他、11月2日に東京大学本郷キャンパスにて「漫画のセリフについて」の公開講座を実施した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "12月5日、第17回文化庁メディア芸術祭のマンガ部門大賞に『ジョジョリオン』が選出された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "2014年、9月19日発売の『ウルトラジャンプ』10月号に『魔少年ビーティー』の復刻版が付属された。刊行30周年を記念し、絶版となっていたジャンプコミックス版が再現された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2015年、4月17日には荒木による『荒木飛呂彦の漫画術』が発売された。絵を描く際に必要な「美の黄金比」やヘミングウェイに学んだストーリー作りなど、具体的な方法論を交えながら創作術を解説した作品となっている。また同年には短編『死刑執行中脱獄進行中』が森山未來主演で舞台化された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2016年、7月22日から9月25日の日程で六本木にて開催された「ルーヴル美術館総監修 特別展」に参加した他、10月より岩手各地で開催された「希望郷いわて国体(第71回国民体育大会)」と「希望郷いわて大会(第16回全国障害者スポーツ大会)」を記念したイラスト「いわて人間讃歌」を描き下ろした。同年には、ジョジョシリーズ第4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化も決定し、翌2017年に公開された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "また、同年12月19日発売の『ジョジョリオン』14巻をもって『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの累計発行部数が1億部を突破した。荒木は「『ジョジョ』の連載が始まったのが1987年。それから30年をまさに迎えようかというタイミングで1億冊を突破したということは誠に嬉しい事です。そして、30年の間にこの作品とキャラクターたちを、手にとってきてくれた読者の方々には感謝しかありません。けど、これがゴールではなく、30周年となる2017年も様々な企画が盛り沢山なので、これから先も『ジョジョ』を楽しんでもらえればと願っています。」とのコメントを発表した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2017年、8月12日から9月10日までの30日間にわたり、『ジョジョ』シリーズ30周年を記念して「ジョジョフェス in S市杜王町」が宮城県仙台市で開催された。イベントのメインコンテンツとして「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017」が実施され、第1部から第8部まで200枚以上のカラー原画と180枚以上のモノクロ原稿などが展示された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2018年、『ジョジョ』シリーズ30周年の集大成として、8月24日から10月1日の日程で東京・国立新美術館にて展覧会「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」が開催された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "国立美術館で漫画家の個展が開催されるのは手塚治虫以来28年ぶり2人目であり、現役の漫画家としては史上初の快挙であった。同館の主任研究員・教育普及室長の真住貴子は、「国立の美術館で展覧会をやるにふさわしい実力をお持ちだということは申し上げる必要もないと思うが、これまでの荒木先生の展覧会とは違った切り口で漫画の新しい可能性をお見せできる展覧会になるというのが最終的な開催の決め手」とコメントした他、当時の館長・青木保は「日本のアニメやゲーム、漫画というと世界から引きがあり、ヨーロッパやアジア、南米、ロシアなどからも来てほしいと要望があり、大変ありがたいことだと思っています。そういう状況の中で『荒木飛呂彦原画展』を催すことができて本当に嬉しく、光栄に感じております」と述べた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "6月21日には国立新美術館にて記者発表会が行われ、荒木も登壇した。舞台上では「『ジョジョ』の原画展については、漫画界に感謝をしたいと思います。手塚(治虫)先生をはじめ、先輩方の作品や助言がなければ『ジョジョの奇妙な冒険』は影も形もなかったと思います。また私より年下の漫画家のみなさんが盛り上げていただいているので、今回の国立新美術館での開催があると思います。みなさまありがとうございます」と感謝を述べた他、自らの口で『ジョジョ』シリーズPart5にあたる『黄金の風』のテレビアニメ化を発表した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、11月25日から2019年1月14日までの日程で大阪文化館・天保山にて、2020年1月25日から3月29日の日程で長崎・長崎県美術館にて、2020年4月25日から5月23日の日程で石川県・金沢21世紀美術館にて巡回展がそれぞれ開催された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2021年に開催された東京オリンピック・パラリンピック競技大会では、公式アートポスターの制作を担当。荒木はパラリンピックをテーマとした「神奈川沖浪裏上空」という作品を発表した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同年、「荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!」と銘打たれた、荒木自らが審査員を務める『ウルトラジャンプ』(集英社)のマンガ賞「荒木飛呂彦漫画賞」が開催された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "8月19日発売の『ウルトラジャンプ』9月号にて『ジョジョ』シリーズPart8の『ジョジョリオン』が完結した。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2022年、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より35周年を迎えた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "3月19日には、35周年を記念して1冊全てが『ジョジョ』で構成された「JOJO magazine(ジョジョマガジン)」が刊行。荒木が自らカバーを書き下ろした他、「岸辺露伴は動かない」の71ページにおよぶ新作読切、新作小説、最新作までを網羅したアニメ特集、スピンオフドラマ「岸辺露伴は動かない」シリーズで岸辺露伴役を務めた高橋一生のインタビューなどが収録された。12月19日には2号目となる「JOJO magazine 2022 WINTER」が発売された他、『ジョジョ』シリーズのテレビアニメが10周年を迎えたこともあり、様々な記念企画が実施された。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "同年、朝日新聞社主催の第26回手塚治虫文化賞・マンガ大賞最終候補9作品に『ジョジョリオン』がノミネートされた。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "また12月19日に発売された『ウルトラジャンプ』2023年1月号にて、『ジョジョ』シリーズPart9にあたる『The JOJOLands』が発表された。翌2023年2月17日発売の同誌3月号より連載開始。", "title": "略歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "荒木は白土三平、横山光輝、梶原一騎を自身の選ぶ3大漫画家として挙げている。中でも横山については、特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "同世代であり、自身が漫画家を本気で目指すきっかけにもなったゆでたまごについて、バトルの作り方や世界観、戦っていく構図などで影響を受けているという。また、「同世代ということで、すごく目標というか励みになっている。それって漫画家として幸運だなって。目標がないまま漫画を描いていないという意味で、幸せなことだと思います」と感謝の気持ちも述べている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "他には手塚治虫、藤子不二雄、ちばてつや、大友克洋などの作品を読んでいる。自身の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズについて、荒木は「彼らと似ていないもの」を描くという発想で生まれたものだと語っており、「今思えば、70〜80年代の漫画家は天才たちだらけ。また、音楽やファッションでも新しいものがどんどん生まれて、刺激的でした。あの時代にデビューし『ジョジョ』を描き始めることができたのは、よかったかもしれない」と振り返っている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「良い作品には順位はつけられないが」と前置きしつつ、「とにかく次が読みたくて本屋に走った(または何があろうと家に帰り、テレビの前に座った)作品ベスト10」として、『ゴルゴ13 芹沢家殺人事件』、『虹をよぶ拳』、『宇宙戦艦ヤマト』、『ドラゴンボール』、『荒野の少年イサム』、『どろろ(アニメ)』、『賭博黙示録カイジ』、『バビル2世』、『ナニワ金融道』、『北斗の拳』を挙げている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "サスペンスの教科書として、ロアルド・ダール作『チョコレート工場の秘密』を挙げている。荒木は「ワクワク感とスリルと語り口が大好きで、マンガ家になる時は“こういうマンガを描きたい”と思ってましたね。とにかく読んでいる最中ドキドキしっぱなしで、“次どうなるんだよ!”っていう」と語り、デビュー前の荒木にとっての目標であり基本だったとしている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "スティーヴン・キング作『ミザリー』も同じくサスペンスの教科書だとしている。荒木は「作家が熱狂的なファンに監禁され、小説を書かされるという話なんですけど、主人公がどんどんどんどん追いつめられていく過程が本当に面白い。こういうパターンの場合、“逃げればいいじゃん”って読者に思わせちゃダメなんですよね。そう思わせないための演出というか手続きが、絶妙なんですよ」と語っており、「僕が思うサスペンスの、完璧な形ですね。好きだからというより、勉強のために今でも読み返しています」と絶賛している。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、アーサー・コナン・ドイル作『シャーロック・ホームズ』シリーズからの影響も大きい。荒木も少年時代に読んでいなければ漫画家になっていたか分からないし、『ジョジョの奇妙な冒険』は描けていなかったと思うと語っており、「魅力的なキャラクターを作り上げることの重要性」「物語の作り方」などを学んだとしている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "特にホラー映画から影響を受け、2011年には自身初となる映画評論集『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を、2013年には『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』を刊行している。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "映画俳優で監督であるクリント・イーストウッドの大ファンを公言し、自身の作品に多大な影響を与えたと明かしている。具体的は、『ジョジョ』シリーズに登場する空条承太郎のモデルとなっており、「イーストウッドのように立っているだけで絵になることを目指したキャラクターなんです」と語っている。イーストウッド作品の特徴については「社会からはみだす男の美学」があることだとしており、「はみだし者が孤独を抱えながら戦う」というのは『ジョジョ』シリーズ全体を通じた要素になっている。2012年には対談を果たした。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "また『ジョジョ』シリーズに登場するディオ・ブランドーを生み出す際に、『ブレードランナー』に登場するレプリカントのロイ・バッティ(演:ルトガー・ハウアー)から影響を受けたとしている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "荒木は自身の絵柄についてルネッサンス美術、特にミケランジェロに影響を受けたと公言しており、「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。また『ヴォーグ』などのファッション雑誌が好きで、1980年代のベルサーチやフランコ・モスキーノ(英語版)などが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている。色は紫を好み、カラーイラストでも多用される。絵柄についてはファッション・イラストレーターのアントニオ・ロペス (イラストレーター)(例)やSF・ファンタジー画家のフランク・フラゼッタ、ヨーロッパの漫画家エンキ・ビラルやユーゴ・プラット(英語版)などからの影響も指摘されている。また、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、車田正美のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "また、独特のカラーリングについては「ポール・ゴーギャンが砂浜の色をピンクに塗っていたのが、子供のころから魅力的だと思っていた。何色で塗ってもいいんだ、と」と語っている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "荒木はいつも仕事中に洋楽を聴いているという大の洋楽好きとして知られ、洋楽ならばジャンルを問わず何でも聴くと発言している。また、代表作『ジョジョの奇妙な冒険』内ではキャラクター名やスタンド名などの大半を洋楽の楽曲名から引用している。音楽を聴きながら作品を描く理由としては「音楽をかけるのはミュージシャンの考えやファッション、時代に対する姿勢だとかを隣において、感じるためでもあるんです」「ミュージシャンやアーティストたちが、苦しさとかトラブルを抱えながら創作した音楽を届けてくれているんだと思うと、励みになるんですよ」と述べている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "なお、生涯のベストアルバム5選には『危機(イエス)』『レイト・フォー・ザ・スカイ(ジャクソン・ブラウン)』『ヒステリア(デフ・レパード)』『フィジカル・グラフィティ(レッド・ツェッペリン)』『ビヨンド・ザ・ミズーリ・スカイ(チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー)』を、好きなジャケットデザイン5選には『危機(イエス)』『不死蝶(サンタナ)』『ブラインド・フェイス(ブラインド・フェイス)』『ブレックファスト・イン・アメリカ(スーパートランプ)』『アンダーカレント(ビル・エヴァンス&ジム・ホール)』をそれぞれ挙げている。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "荒木は洋楽アーティストの中でも特にプリンスのファンであることを公言しており、好きな理由として、「動かせない運命の流れみたいなものがアルバムの中にあり、聴いていて完璧な世界に浸れる」という点を挙げている。他にも「プリンスにはセクシーさを出している曲がありますけど、『前向きに生きていこう』っていう生命力のメッセージがあるんですよね。ちょっとしたゲスさも入ったりもするけど、それがまたいいんです」、「いつも創作に勇気を与えてくれる人です。心強いですよ。過去の作品を聞くと、いつも迷った時に『プリンスだったら、つまんないことにこだわらないだろうな』とか『そこを突破していくだろうな』っていうことを思い出すんです」とも語る。", "title": "趣味趣向・影響" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "荒木の作風は、哲学や経済そして自然科学などを上手い具合に取り入れながら、今われわれが生きる世界に通じる“同時代性”や“現実感”を加えてきた、とも評される。荒木自身も「絵を描くことは、ある種、化学実験。絵を描きながら学んでいる部分もあると思います。自然科学や物理学、そして哲学や経済、そういったものが全部一体化した思想や理論の中で『ジョジョ』の世界を描いていくことが理想です」と語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "評論家の加藤幹郎は、高度な技術で過去の作品の引用を行うその作風から荒木をマニエリスムの作家と評している。美術史学者の辻惟雄は荒木の画風について、「マンガ特有の誇張というものは、日本の絵巻物の頃からあって、今も変わらない傾向があります。その中でも『ジョジョの奇妙な冒険』は極点まで行った観があるね。最初はマッチョな肉体を描くアメコミの影響が強いように見えたけど、巻を追うごとに奇想になってきますね。空想力が豊かで、密度が凄い」と評している他、「バラエティの豊富さは北斎を思わせますが、それだけともちょっと違う。『ジョジョの奇妙な冒険』は形を極端に歪めたり、誇張したり、マニエリスムのようでもある。立体的で幻想的な描き方は、曾我蕭白に近いものを感じますね」とも指摘している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "一方で連載開始時から「人間讃歌」をメインテーマとして掲げる『ジョジョの奇妙な冒険』は「ある意味で少年漫画の王道」と評されており、荒木自身「昔からある少年漫画の伝統を受け継いでいるつもり」と話している。しかし、荒木は「子ども向けに描いたつもりはない」とも発言している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "また荒木が影響を受けた横山光輝と梶原一騎から、梶原的なマッチョイズムと、横山の歴史マンガなどにみられる盤上の駒を淡々と眺めているような冷めた視線という、相反する成分が共存した作風であると指摘する意見もある。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない。この変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "台詞回しはしばしば翻訳調と言われており、荒木も「本を読んだ影響が残っているんじゃあないか」と話している。また、この「じゃあないか」という口調も「じゃないか」に「あ」を加えた荒木独特のものであり、「じゃあない」、「じゃあないぜ」、「じゃあないのォ?」といったパターンも確認されており、作中の人物の特徴的な言い回しはネット上で改変されて使われることも多い。また、緊迫シーンなどで「ゴゴゴゴゴゴ・・・」「ドドドドドド・・・」や「ドォーン」といった(物理的ではなく)心理的な状態を表現する独特の擬音が使われており、これらはサスペンス映画で使われるような効果音を漫画にも欲しいと思ったことが発想の元になったと述べている。荒木の音楽好きは広く知られており、「ズギュウン」や「ズッギャーン」など、楽器の音をイメージした擬音が多い。なお、登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは車田正美の影響である。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書 」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。また、悪役は「前向きな性格にする」と決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "『ジョジョの奇妙な冒険』には登場人物に腰の極端なひねりや捻転、奇矯な手足の動きなどを加えた独特のポージングが頻出する。これらのポーズは、荒木が20代のときに『北斗の拳』『リングにかけろ』『キャプテン翼』などの強い個性を持つ当時の『ジャンプ』連載陣の中で自分の独創性を模索していた頃、イタリアの彫刻芸術からヒントを得て作り上げられたものだという。2013年に行われた第88回箱根駅伝では、順天堂大学アンカーの選手が、ゴールの際ジョジョ立ちをして話題になった。エゴン・シーレやグスタフ・クリムトなどの、敬愛する画家が描いた人物そのままのポーズや顔を描くことも少なくない。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "作中の「波紋」(呼吸を中心とする特殊な身体技法)や「スタンド」の能力表現は、同郷の先輩である大友克洋が超能力の表現に使っていた「歪む背景」が、不可視であることに不満を持ったことが発想の元となったという(また「スタンド」に関してはつのだじろう『うしろの百太郎』にも言及している)。なお大友の作品に関しては、空間表現や緻密な描写などが大いに作画の勉強になったとも語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "荒木は漫画家を始めた当初は、若さゆえほかの漫画家に闘争心を燃やすあまり徹夜することも多かったというが、「結局最後は自分との闘いになる」との理由で考えを変え、『ジョジョ』連載くらいからは、基本的に徹夜をせずに毎朝10時に起床して23時まで執筆する生活とし、日曜日はネーム、月から木まで作画、金、土は休養(取材)というサイクルの執筆を続けている。荒木のこのような規則正しい生活は『週刊少年ジャンプ』で『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を長寿連載していた秋本治を見習ってのことで、締め切りも今まで破ったことがないという。", "title": "執筆スタイル" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "愛用している画材はカートリッジ式の筆ペン。仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという。", "title": "執筆スタイル" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "2012年時点でも荒木は手書きにこだわっており、机の上にはパソコンやモニタなどは置いていないが、画材には強いこだわりはなく、ぺんてるの筆ペンとゼブラのGペン、シャープペンシル、下書き用に青鉛筆(キャラクターを描く際のアタリを描くことに用いる)があれば十分だという。またペン入れには開明書液を使っているほか、30年前に父親が製作した卓上製図板を現在でも使い続けている。下書き前には、青鉛筆をカッターナイフで削ることから始める。これは漫画家デビューの時から行なっている行為らしく、「儀式」のようなものであると語る。この行為から、執筆作業に対しての気持ちが入っていく面もあるという。", "title": "執筆スタイル" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "手書きについては、「例えば料理をしているときに『この味なんだろう』っていう、驚きがあったりするじゃないですか。あれが絵の中にあるんですよ。手で描いてるとね、『おお〜!』って思う時があって、あれが好きなんですよ。その連続というのが手描きの魅力で」と語っている。デジタルツールを用いたこともあるが、下手なせいか時間がかかってしまい手で描いた方が速いという。", "title": "執筆スタイル" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "荒木は月刊連載に移行した理由について、「週刊連載が量的にきつくなった」と語っており、「若いころは一晩寝れば治っていたんですけど、治らなくなったりしていますし。関節とかを悪くして、それを我慢してやっていると、どんどん悪化していくんですよ」と身体が衰えてきていることを明かしている。", "title": "執筆スタイル" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『ユリイカ』で10年越しにインタビューを行った斎藤環は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか......」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている。", "title": "健康" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。", "title": "健康" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "太字は連載作品。●:『ゴージャス☆アイリン』収録、○:『死刑執行中脱獄進行中』収録、◎:『岸辺露伴は動かない』収録、☆:単行本未収録。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "発行は注記のない限り全て集英社。", "title": "作品リスト" } ]
荒木 飛呂彦は、日本の漫画家。宮城県仙台市宮城野区出身。仙台市立小松島小学校卒業、仙台市立台原中学校卒業、東北学院榴ケ岡高等学校卒業、仙台デザイン専門学校卒業。宮城教育大学中退。既婚者で二女の父。 1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」でデビュー(荒木利之名義)。代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2合併号から連載を開始した『ジョジョの奇妙な冒険』。同作はシリーズごとに主人公や舞台を変えながら長年にわたって連載されており、全世界のシリーズ累計発行部数は1億2000万部を突破している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 荒木 飛呂彦 | ふりがな = あらき ひろひこ | 画像 = Hirohiko Araki 2013 - cropped.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[宮城県]][[仙台市]] | 国籍 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|6|7}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1960|6|7|****|**|**}} --> | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1980年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]]<!-- 『ウルトラジャンプ』は青年誌であるため。 --><br />[[格闘漫画|バトル漫画]] | 代表作 = 『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』シリーズ{{R|iwate|cinematoday20230119}} | 受賞 = [[1980年]]:第20回[[手塚賞]]準入選 ※荒木利之名義<br />[[2006年]]:[[日本のメディア芸術100選]]マンガ部門(『ジョジョの奇妙な冒険』)<br />[[2013年]]:第17回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]大賞(『[[ジョジョリオン|ジョジョの奇妙な冒険 Part8 ジョジョリオン]]』)<br />[[2019年]]:[[芸術選奨文部科学大臣賞]]メディア芸術部門(『荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋』) | 公式サイト = [http://www.araki-jojo.com/ 荒木飛呂彦公式サイト<br/>『JOJO.com』] }} '''荒木 飛呂彦'''(あらき ひろひこ、本名:荒木利之<ref>{{Cite news |url=http://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/519/jiho_519_02.pdf |title=今年もにぎやかに榴祭 漫画家荒木飛呂彦氏も参加 |newspaper=東北学院時報 |date=1994-07-25 |access-date=2023-03-06 |format=PDF |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170905232212/http://jihou.tohoku-gakuin.jp/archive/519/jiho_519_02.pdf |archivedate=2017-09-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョの奇妙な冒険」作者・荒木飛呂彦先生を解説!作品や年齢など |url=https://times.abema.tv/articles/-/10030588 |website=ABEMA TIMES |publisher=AbemaTV |date=2022-09-06 |access-date=2023-09-08}}</ref>、[[1960年]]〈[[昭和]]35年〉[[6月7日]] - )は、日本の[[漫画家]]。[[宮城県]][[仙台市]]<ref name="iwate">{{Cite web|和書|url=http://www2.pref.iwate.jp/~sekaiisan/illust.html |title=知事メッセージ 荒木飛呂彦氏によるイラスト |website=世界遺産平泉の総合案内 いわて平泉 世界遺産情報局 |publisher=岩手県政策地域部政策推進室 | |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111220113342/https://www2.pref.iwate.jp/~sekaiisan/illust.html |archivedate=2011-12-20 |deadlinkdate=2023-09-08}}</ref>[[宮城野区]]<ref name="moriou">杜王新報</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hirosegawa-net.com/?p=3447&page=2 |title=vol.18 マンガ家 荒木飛呂彦さん(ページ2) |website=広瀬川ホームページ |publisher=仙台市 |date=2011-02-14 |accessdate=2023-09-16}}</ref>出身。[[仙台市立小松島小学校]]卒業、[[仙台市立台原中学校]]卒業、[[東北学院榴ケ岡高等学校]]卒業、[[仙台デザイン専門学校]]卒業。[[宮城教育大学]]中退。既婚者で二女の父。 [[1980年]]([[昭和]]55年)に「武装ポーカー」でデビュー('''荒木利之'''名義<ref>「次号予告」『週刊少年ジャンプ』1980年52号、331頁<!-- 可能であれば、次号1981年1号を確認し出典を差し替えてください。 --></ref>)。代表作は『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])1987年1・2合併号から連載を開始した『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』{{R|iwate}}<ref name="cinematoday20230119">{{Cite news |author=入倉功一 |url=https://www.cinematoday.jp/news/N0134668 |title=ジョジョ第9部「ジョジョランズ」内容の一部が明らかに 舞台は南国? |website=[[シネマトゥデイ]] |publisher=[[シネマトゥデイ (企業)|シネマトゥデイ]] |date=2023-01-19 |access-date=2023-09-08}}</ref>。同作はシリーズごとに主人公や舞台を変えながら長年にわたって連載されており、全世界のシリーズ累計発行部数は'''1億2000万部'''を突破している{{R|cinematoday20230119}}<ref>{{Cite news |author=大山元 |url=https://futaman.futabanet.jp/articles/-/122550?page=1 |title=『ジョジョの奇妙な冒険』花京院、川尻早人、リゾットも!脳みその回転スピードに痺れる…頭脳派キャラが見せた“神機転”名シーン3選 |newspaper=ふたまん+ |publisher=[[双葉社]] |date=2022-09-22 |access-date=2023-09-08}}</ref>。 == 略歴 == === 生い立ち === 幼少期から「ひとりの世界」に浸るのが好きで、早くから漫画も描いていた。 中学時代には[[剣道]]部に所属<ref name="NON2">石井洋「人物研究 荒木飛呂彦」『Men's Non-no』2002年7月号、160頁-163頁</ref>。この頃には、漠然と漫画家になりたいと思っていたという<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=2008年 荒木 飛呂彦 {{!}} インタビュー |url=http://archive.j-mediaarts.jp/interview/2008/araki_hirohiko/ |website=文化庁メディア芸術祭 歴代受賞作品 |access-date=2022-12-23 |language=ja |first=文化庁メディア芸術祭 |last=歴代受賞作品}}</ref>。当時は[[梶原一騎]]の漫画作品『[[巨人の星]]』([[川崎のぼる]]画)、『[[あしたのジョー]]』([[ちばてつや]]画)などを愛読<ref name="NON2" />、また[[白土三平]]の[[忍者]]・[[歴史漫画]]『[[サスケ (漫画)|サスケ]]』と『[[カムイ伝]]』の理論的な作風に影響を受けた<ref name="QJI2">吉田大助「荒木飛呂彦 12000字インタビュー」『QuickJapan』Vol.75、90頁-98頁</ref>。小説では[[江戸川乱歩]]や『[[シャーロック・ホームズ]]』シリーズをよく読んでいたという<ref name="NON2" />。 なお、荒木には4つ下に双子の妹がおり、この2人の仲が良かったことから、「家族の中で疎外感を抱いたため、ひとりで何かを楽しむことが余計に好きになったのだと思う」とインタビューで語っている<ref name="NON2" /><ref name="QJI2" />。 高校時代は[[ロードレース (自転車競技)|ロードレース]]部に所属<ref name="NON2" />。この頃に[[横山光輝]]の[[サスペンス]]作品を愛読する。 荒木曰く、子供の頃に流行した漫画作品はほとんど読んでおり、「ジャンプ」は週刊も月刊も隅から隅まで読んでいた。当時好きだった作品は『[[リングにかけろ]]』、『[[コブラ (漫画)|コブラ]]』、『[[サーキットの狼]]』、『[[荒野の少年イサム]]』、『[[包丁人味平]]』など<ref name=":1" />。 === 漫画家デビュー === 16歳の時に同い年の[[ゆでたまご]]が『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことで、「同い年なのにプロでやっている人がいるのか、これはのんびりしていられないな<ref name=":1" />」と焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回[[手塚賞]]{{efn|授賞式の際の映像が[[1981年]](昭和56年)[[5月25日]]の[[NHKスペシャル|NHK特集]]『わが青春の[[トキワ荘]]〜現代マンガ家立志伝〜』にて放送された。この中で[[手塚治虫]]は荒木の作品について「大変興味がある」「早く上京して来て下さい。東北出身は少ないから」というコメントを残している。}}に準入選しデビュー。 初めて『週刊少年ジャンプ』編集部を訪れたのは高校卒業の直前頃である。当時荒木は手塚賞に投稿しており選外佳作は受賞していたものの、佳作では一行ほどの選評しか得られず自らの作品の欠点が分からずにいたという。そのため、そこを直接はっきり聞きたいと考え上京した。当時はまだ[[東京]]・仙台間に新幹線が開通しておらず、片道4、5時間かけて通っていた<ref name=":1" />。 その際のことについて、当時荒木は原稿をホワイトで修正するということを知らなかったために描いた線がはみ出ており、いきなり「おい、ホワイトしてないだろ」と怒られたと語っている。また、編集者が扉絵だけ見て「読みたくない」と言い出すこともあったという<ref name=":1" />。 === 『魔少年ビーティー』『バオー来訪者』 === デビュー後は仙台在住のまま『週刊少年ジャンプ』で『[[魔少年ビーティー]]』を執筆していた。『魔少年ビーティー』は連載候補に挙がってから実際に連載開始するまで1年半ほど間が空いたが、その間にも様々な作品を描き溜めており不安はなかったという。しかし、当時は一人で描いていたため技術的に週間連載ができるか自信がなく、その方が不安だったとのこと<ref name=":1" />。 当時の担当編集者であった[[椛島良介]]とは、よく映画や漫画以外の本についての話をしていた。当時の荒木はそういうことを全く知らず、「えっ、それって何ですか?」と聞くと、「なんだよ、あの本読んでないの?今日、買って読みなさいよ。読まなきゃプロになれないよ?」とプレッシャーをかけられ、とにかく本を読まなければだめだ、という雰囲気があったという。すすめられた本を読んだ後、それを椛島と批評し合っていた<ref name=":1" />。 また、荒木は当時の状況について、「ぼくの作品はかならずしも健全な内容じゃないので、ひどく否定されることもありました。たとえば『魔少年ビーティー』のときは、タイトルに「魔少年」と付いているだけでダメだと言われました」と語っている他、後に連載する『ジョジョの奇妙な冒険』についても「少年マンガで外国の主人公はありえない」と言われたという。一方で、「やったことないんだから、ひとまずやってみようじゃないか」と考えてくれる人もいたという<ref name=":1" />。 上京後は『[[バオー来訪者]]』を短期連載。この頃から、多種多様なキャラクターが互いの強さを競い合う、バトル系の作品を中心に描くようになる。荒木は「筋肉ムキムキのヒーローだけが強いわけではないだろう」「貧弱な肉体の持ち主でも、自身の弱さを突きぬければ、ヒーローに勝てるかも知れない」と思っていたという。現実的な理由としては、先輩漫画家たちが描いていた表現の隙間を狙わなければ生き残れないという状況も影響していた<ref name=":1" />。 === 『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの連載開始 === [[1987年]](昭和62年)より『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の連載を開始し、[[2003年]]([[平成]]15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。この期に確立した能力バトルという作風は、その後の『週刊少年ジャンプ』の主流となっている他<ref name=":1" />、「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されるなど<ref>更科修一郎ほか「JUMP CHRONICLE」前掲『STUDIO VOICE』2008年2月号、36頁-39頁</ref>、その後の漫画界に多大な影響を及ぼすことになる。{{Main|ジョジョの奇妙な冒険}}2003年には自身初となる個展「JOJO IN PARIS」を[[フランス]]・[[パリ]]で開催した<ref name=":1" />。 === ウルトラジャンプへの移籍 === [[2004年]](平成16年)からは『ジョジョの奇妙な冒険』Part7にあたる『[[スティール・ボール・ラン]]』の連載を開始し、連載途中の[[2005年]](平成17年)より月刊誌『[[ウルトラジャンプ]]』に移籍。 荒木は月刊ペースでの連載について、ページ数の制限によるストレスが無くなり物語のリズムも良くなったと語っている。1話当たりのページ数を増やした理由は「ダイナミックな画面表現と、繊細な心理描写をかねそなえた作品を描こう、と思ったから」であり、週刊連載ペースのコンパクトな起承転結の繰り返しではなく、もっと大きな物語を描きたくなったという<ref name=":1" />。 また移籍により倫理性に関わる描写も変化した。荒木は「40歳をこえて、倫理性にまつわる表現も描かなくちゃダメだろう」「ターゲットを若い読者だけに限定していたら、作品が窮屈になるんじゃないかな」と思ったと述べている<ref name=":1" />。 [[2007年]]、日本人漫画家として初めてアメリカの生物科学誌『[[セル (雑誌)|Cell]]』の表紙を飾った<ref name=":1" />。 [[2009年]]、[[フランス]]・[[ルーヴル美術館]]「模型の展示室」で開催された企画展「小さなデッサン展 漫画の世界でルーブルを」に、荒木の原画が展示された<ref>{{Cite web|和書|title=岸辺露伴、ルーヴル美術館に降り立つッッッ |url=https://natalie.mu/comic/news/12919 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。本展を記念して、「Rohan au Louvre([[岸辺露伴 ルーヴルへ行く]])」が発表され、[[2010年]]3月19日発売の『ウルトラジャンプ』4月号より3号連続で連載された<ref>{{Cite web|和書|title=待ってたぜ!ルーヴル露伴、ウルジャン次号から3号連載 |url=https://natalie.mu/comic/news/27973 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 また、『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)[[3月4日]]発売の『スティール・ボール・ラン』20巻にて、通算100巻を達成した<ref>{{Cite web|和書|title=ジョジョ通算100巻目!STEEL BALL RUN20巻、本日発売 |url=https://natalie.mu/comic/news/28589 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。同年[[11月15日]]より京都国際マンガミュージアムで開催された「マンガ・ミーツ・ルーヴル――美術館に迷い込んだ5人の作家たち」にて、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』のカラー原画約20枚が展示され<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」原画展示が京都で |url=https://natalie.mu/comic/news/40144 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>、好評により[[横浜市|横浜]]・BankART Studio NYKでの巡回展も行われた<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦、ルーヴル露伴の原画展示が横浜に巡回 |url=https://natalie.mu/comic/news/41368 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2011年]](平成22年)、荒木は画業30周年を迎えた。また翌2012年に『ジョジョ』シリーズが連載開始25周年を迎えることもあり、[[4月1日]]に荒木の公式サイト「JOJO.com」がオープンした<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦画業30周年&ジョジョ25周年で公式サイト開設 |url=https://natalie.mu/comic/news/47161 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[4月19日]]発売の『ウルトラジャンプ』5月号にて『スティール・ボール・ラン』が完結した<ref name=":2" />。[[5月19日]]発売の同誌6月号より、『ジョジョ』シリーズのPart8である『[[ジョジョリオン]]』の連載を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=杜王町が舞台のジョジョ第8部「ジョジョリオン」連載開始 |url=https://natalie.mu/comic/news/49664 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[8月23日]]発売の『[[SPUR (雑誌)|SPUR]]』10月号にて、[[グッチ]]とコラボした漫画『岸辺露伴 グッチへ行く』が掲載された。荒木が女性ファッション誌で作品を発表するのはこれが初であり、同誌には荒木のスペシャルインタビューも収録された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦「岸辺露伴 グッチへ行く」モード誌SPURに登場 |url=https://natalie.mu/comic/news/53558 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。また9月17日よりグッチ新宿で、『岸辺露伴 グッチへ行く』の原画展「岸辺露伴 新宿へ行く」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦の原画展「岸辺露伴 新宿へ行く」がグッチ新宿で |url=https://natalie.mu/comic/news/55263 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 『ジョジョ』シリーズ連載25周年 === [[2012年]]、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より25周年を迎えた。 シリーズ25周年を記念して、せんだいメディアテーク6階にて[[7月28日]]から[[8月14日]]までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」が<ref>{{Cite web|和書|title=「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」開催日が決定 |url=https://natalie.mu/comic/news/67497 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>、[[六本木]]・森アーツセンターギャラリーにて[[10月6日]]から[[11月4日]]までの日程で「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 東京」がそれぞれ開催された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦がジョジョ展会見「原画にはライブ感がある」 |url=https://natalie.mu/comic/news/72423 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。また、[[7月5日]]に行われた「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展」の記者発表会では、『[[ジョジョの奇妙な冒険 (テレビアニメ)|ジョジョの奇妙な冒険]]』のテレビアニメ化が発表されるなど<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョの奇妙な冒険」TVアニメ化決定、新作ゲームも |url=https://natalie.mu/comic/news/72380 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>、25周年を記念した企画が続々と実施された。{{Main|ジョジョの奇妙な冒険#連載25周年}}同年、荒木が表紙を描き下ろしたモードファッション誌『SPUR』2011年10月号が第3回雑誌大賞グランプリを獲得した<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が表紙描いたSPUR、雑誌大賞グランプリを受賞 |url=https://natalie.mu/comic/news/66772 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。また[[12月22日]]発売の『SPUR』2013年2月号にて、『岸辺露伴 グッチへ行く』に続くグッチとのコラボ漫画第2弾となる『[[徐倫、GUCCIで飛ぶ]]』が別冊付録として封入された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦×GUCCI再び!SPURで徐倫やブチャラティら共演 |url=https://natalie.mu/comic/news/82061 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 また[[10月15日]]に発売された[[AERA]]10月22日号の表紙を荒木が飾った<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦、AERAの表紙に登場ッ!「ジョジョ」特集も |url=https://natalie.mu/comic/news/78248 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>他、[[フェリシモ]]が主催する「サンタクロース大賞 2012」にノミネートされた<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦がサンタクロース大賞にノミネート、投票受付中 |url=https://natalie.mu/comic/news/80640 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2013年]]、1月初旬から2月中旬にかけて、グッチのクリエイティブディレクターであるフリーダ・ジャンニーニとのコラボが全世界70店舗を超えるGUCCI直営ショップのウィンドウにて展開された<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョ」が全世界70店舗超のGUCCI直営店ウィンドウに |url=https://natalie.mu/comic/news/82822 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。また[[6月28日]]から[[7月14日]]の日程で、[[イタリア]]・[[フィレンツェ]]のGUCCI Show roomにて「荒木飛呂彦原画展 in フィレンツェ」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦の原画展、次はフィレンツェ!6月28日より開催 |url=https://natalie.mu/comic/news/90871 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[10月12日]]に[[東北大学]]で行われた交流イベント「ホームカミングデー」の仙台セミナーで講演を行った<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が東北大学で講演、脳科学的にジョジョを分析 |url=https://natalie.mu/comic/news/98118 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>他、[[11月2日]]に[[東京大学本郷地区キャンパス|東京大学本郷キャンパス]]にて「漫画のセリフについて」の公開講座を実施した<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が東大にて「漫画のセリフについて」公開講座 |url=https://natalie.mu/comic/news/95662 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[12月5日]]、第17回[[文化庁メディア芸術祭]]のマンガ部門大賞に『ジョジョリオン』が選出された<ref>{{Cite web|和書|title=第17回メディア芸術祭マンガ部門大賞は「ジョジョリオン」 |url=https://natalie.mu/comic/news/105073 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2014年]]、[[9月19日]]発売の『ウルトラジャンプ』10月号に『魔少年ビーティー』の復刻版が付属された。刊行30周年を記念し、絶版となっていたジャンプコミックス版が再現された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦「魔少年ビーティー」復刻版、UJに |url=https://natalie.mu/comic/news/126492 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2015年]]、[[4月17日]]には荒木による『荒木飛呂彦の漫画術』が発売された。絵を描く際に必要な「美の黄金比」や[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]に学んだストーリー作りなど、具体的な方法論を交えながら創作術を解説した作品となっている<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が“企業秘密”と語るマンガの描き方、新書で明らかに |url=https://natalie.mu/comic/news/141084 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。また同年には短編『死刑執行中脱獄進行中』が[[森山未來]]主演で舞台化された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦のサスペンス短編「死刑執行中脱獄進行中」森山未來主演で舞台化 |url=https://natalie.mu/comic/news/147528 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 『ジョジョ』シリーズ累計発行部数1億部突破、連載30周年 === [[2016年]]、[[7月22日]]から[[9月25日]]の日程で六本木にて開催された「ルーヴル美術館総監修 特別展」に参加した<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦、谷口ジローらも参加!ルーヴル美術館監修の特別展 |url=https://natalie.mu/comic/news/165945 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>他、10月より岩手各地で開催された「希望郷いわて国体(第71回国民体育大会)」と「希望郷いわて大会(第16回全国障害者スポーツ大会)」を記念したイラスト「いわて人間讃歌」を描き下ろした<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が「いわて人間讃歌」を描き下ろし、岩手のスポーツ大会開催で |url=https://natalie.mu/comic/news/202504 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。同年には、ジョジョシリーズ第4部『ダイヤモンドは砕けない』の実写映画化も決定し、翌[[2017年]]に公開された<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョの奇妙な冒険」第4部が実写映画化ァァー!!! |url=https://natalie.mu/comic/news/203424 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=映画ジョジョは来年8月4日公開!三池崇史「シッチェスは撮影するごとに馴染む」 |url=https://natalie.mu/comic/news/213354 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 また、同年[[12月19日]]発売の『ジョジョリオン』14巻をもって『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズの累計発行部数が1億部を突破した。荒木は「『ジョジョ』の連載が始まったのが1987年。それから30年をまさに迎えようかというタイミングで1億冊を突破したということは誠に嬉しい事です。そして、30年の間にこの作品とキャラクターたちを、手にとってきてくれた読者の方々には感謝しかありません。けど、これがゴールではなく、30周年となる2017年も様々な企画が盛り沢山なので、これから先も『ジョジョ』を楽しんでもらえればと願っています。」とのコメントを発表した<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョ」シリーズ、累計発行部数1億冊突破!第7部の文庫化も決定 |url=https://natalie.mu/comic/news/213428 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-05 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2017年]]、[[8月12日]]から[[9月10日]]までの30日間にわたり、『ジョジョ』シリーズ30周年を記念して「ジョジョフェス in S市杜王町」が宮城県仙台市で開催された。イベントのメインコンテンツとして「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017」が実施され、第1部から第8部まで200枚以上のカラー原画と180枚以上のモノクロ原稿などが展示された<ref>{{Cite web|和書|title=【イベントレポート】ジョジョ展、仙台で本日開幕!荒木飛呂彦「パワーアップしてまた開催できて名誉」 |url=https://natalie.mu/comic/news/244551 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 国立新美術館で原画展「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」開催 === [[2018年]]、『ジョジョ』シリーズ30周年の集大成として、[[8月24日]]から[[10月1日]]の日程で東京・[[国立新美術館]]にて展覧会「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョ」30周年の集大成となる原画展の会期発表、イメージビジュアルも |url=https://natalie.mu/comic/news/274064 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 国立美術館で漫画家の個展が開催されるのは[[手塚治虫]]以来28年ぶり2人目であり、現役の漫画家としては史上初の快挙であった。同館の主任研究員・教育普及室長の真住貴子は、「国立の美術館で展覧会をやるにふさわしい実力をお持ちだということは申し上げる必要もないと思うが、これまでの荒木先生の展覧会とは違った切り口で漫画の新しい可能性をお見せできる展覧会になるというのが最終的な開催の決め手」とコメントした他、当時の館長・[[青木保 (文化人類学者)|青木保]]は「日本のアニメやゲーム、漫画というと世界から引きがあり、ヨーロッパやアジア、南米、ロシアなどからも来てほしいと要望があり、大変ありがたいことだと思っています。そういう状況の中で『荒木飛呂彦原画展』を催すことができて本当に嬉しく、光栄に感じております」と述べた<ref name=":02">{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が国立新美術館で「漫画界に感謝」 原画展の記者発表会に登場 {{!}} CINRA |url=https://www.cinra.net/article/report-201806-arakihirohiko |website=www.cinra.net |access-date=2023-01-06 |language=ja}}</ref>。 [[6月21日]]には国立新美術館にて記者発表会が行われ、荒木も登壇した。舞台上では「『ジョジョ』の原画展については、漫画界に感謝をしたいと思います。手塚(治虫)先生をはじめ、先輩方の作品や助言がなければ『ジョジョの奇妙な冒険』は影も形もなかったと思います。また私より年下の漫画家のみなさんが盛り上げていただいているので、今回の国立新美術館での開催があると思います。みなさまありがとうございます」と感謝を述べた他、自らの口で『ジョジョ』シリーズPart5にあたる『黄金の風』のテレビアニメ化を発表した<ref name=":02" /><ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョの奇妙な冒険」第5部「黄金の風」TVアニメ化!10月に放送開始 |url=https://natalie.mu/comic/news/287695 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 また、[[11月25日]]から[[2019年]][[1月14日]]までの日程で[[大阪文化館・天保山]]にて<ref>{{Cite web|和書|title=「荒木飛呂彦原画展」描き下ろしキービジュ公開、新作大型原画12枚の展示も決定 |url=https://natalie.mu/comic/news/287728 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>、[[2020年]][[1月25日]]から[[3月29日]]の日程で[[長崎県|長崎]]・[[長崎県美術館]]にて<ref>{{Cite web|和書|title=「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」2020年に長崎での巡回展が決定 |url=https://natalie.mu/comic/news/324580 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>、2020年[[4月25日]]から[[5月23日]]の日程で[[石川県]]・[[金沢21世紀美術館]]にて巡回展がそれぞれ開催された<ref>{{Cite web|和書|title=「荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋」2020年に金沢21世紀美術館で巡回展 |url=https://natalie.mu/comic/news/340297 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[2021年]]に開催された[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック・パラリンピック競技大会]]では、公式アートポスターの制作を担当。荒木はパラリンピックをテーマとした「神奈川沖浪裏上空」という作品を発表した<ref>{{Cite web|和書|title=浦沢直樹と荒木飛呂彦が東京2020オリンピック・パラリンピックのポスター制作 |url=https://natalie.mu/comic/news/341777 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=浦沢直樹がオリンピック、荒木飛呂彦がパラリンピックをテーマに描いたアートポスター |url=https://natalie.mu/comic/news/362138 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 同年、「荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!」と銘打たれた、荒木自らが審査員を務める『ウルトラジャンプ』(集英社)のマンガ賞「荒木飛呂彦漫画賞」が開催された<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦に続く王道にして異端なる才能を求むッ!!「荒木飛呂彦漫画賞」開催 |url=https://natalie.mu/comic/news/423294 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[8月19日]]発売の『ウルトラジャンプ』9月号にて『ジョジョ』シリーズPart8の『ジョジョリオン』が完結した<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョリオン」完結!荒木飛呂彦「新『JOJOLANDS(仮)』でお会いしましょう」 |url=https://natalie.mu/comic/news/441455 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 『ジョジョ』シリーズ連載35周年 === [[2022年]]、『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズは連載開始より35周年を迎えた。 [[3月19日]]には、35周年を記念して1冊全てが『ジョジョ』で構成された「JOJO magazine(ジョジョマガジン)」が刊行。荒木が自らカバーを書き下ろした他、「岸辺露伴は動かない」の71ページにおよぶ新作読切、新作小説、最新作までを網羅したアニメ特集、スピンオフドラマ「[[岸辺露伴は動かない]]」シリーズで岸辺露伴役を務めた[[高橋一生]]のインタビューなどが収録された<ref>{{Cite web|和書|title=「ジョジョの奇妙な冒険」35周年記念、新作読切など収録したJOJO magazine発売 |url=https://natalie.mu/comic/news/459691 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。12月19日には2号目となる「JOJO magazine 2022 WINTER」が発売された<ref>{{Cite web|和書|title=「JOJO magazine」2号目の表紙に歴代主人公が集合、クイズ本など関連書籍も同時発売 |url=https://natalie.mu/comic/news/505665 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>他、『ジョジョ』シリーズのテレビアニメが10周年を迎えたこともあり、様々な記念企画が実施された。{{Main|ジョジョの奇妙な冒険#連載35周年}}同年、[[朝日新聞社]]主催の第26回[[手塚治虫文化賞]]・マンガ大賞最終候補9作品に『ジョジョリオン』がノミネートされた<ref>{{Cite web|和書|title=第26回手塚治虫文化賞、マンガ大賞最終候補の9作品発表 |url=https://natalie.mu/comic/news/466509 |website=コミックナタリー |access-date=2023-01-06 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 また12月19日に発売された『ウルトラジャンプ』[[2023年]]1月号にて、『ジョジョ』シリーズPart9にあたる『[[The JOJOLands]]』が発表された。翌2023年[[2月17日]]発売の同誌3月号より連載開始<ref>{{Cite web|和書|title=ジョジョ9部「The JOJOLands」舞台はハワイ、主人公はジョディオ・ジョースター |url=https://natalie.mu/comic/news/513170 |website=コミックナタリー |date=2023-02-17 |access-date=2023-02-17 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 == 趣味趣向・影響 == === 漫画家 === 荒木は白土三平、横山光輝、梶原一騎を自身の選ぶ3大漫画家として挙げている。中でも横山については、特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『[[バビル2世]]』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており<ref name="NON2" />、インタビューでは「自分の原点」とも述べている<ref name="MAT1-22">[https://web.archive.org/web/20090411190806/http://manganohi.com/interview/4/4954.html まんが天国 マンガのチカラ「荒木飛呂彦先生インタビュー その2」](2009年4月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。 同世代であり、自身が漫画家を本気で目指すきっかけにもなったゆでたまごについて、バトルの作り方や世界観、戦っていく構図などで影響を受けているという。また、「同世代ということで、すごく目標というか励みになっている。それって漫画家として幸運だなって。目標がないまま漫画を描いていないという意味で、幸せなことだと思います」と感謝の気持ちも述べている<ref>{{Cite web |title=漫画家・荒木飛呂彦氏が考える「紙とデジタルの違い」--一問一答インタビュー |url=https://japan.cnet.com/article/35129132/ |website=CNET Japan |date=2018-11-24 |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 他には[[手塚治虫]]、[[藤子不二雄]]、[[ちばてつや]]、[[大友克洋]]などの作品を読んでいる。自身の代表作『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズについて、荒木は「彼らと似ていないもの」を描くという発想で生まれたものだと語っており、「今思えば、70〜80年代の漫画家は天才たちだらけ。また、音楽やファッションでも新しいものがどんどん生まれて、刺激的でした。あの時代にデビューし『ジョジョ』を描き始めることができたのは、よかったかもしれない」と振り返っている<ref name=":12">{{Cite web|和書|title=スペシャル インタビュー 漫画家・荒木飛呂彦の化学反応 - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト |url=https://www.tjapan.jp/entertainment/17224457/p3?page=1 |website=www.tjapan.jp |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 「良い作品には順位はつけられないが」と前置きしつつ、「とにかく次が読みたくて本屋に走った(または何があろうと家に帰り、テレビの前に座った)作品ベスト10」として、『[[ゴルゴ13]] 芹沢家殺人事件』、『[[虹をよぶ拳]]』、『[[宇宙戦艦ヤマト]]』、『[[ドラゴンボール]]』、『[[荒野の少年イサム]]』、『[[どろろ (アニメ)|どろろ(アニメ)]]』、『[[賭博黙示録カイジ]]』、『[[バビル2世]]』、『[[ナニワ金融道]]』、『[[北斗の拳]]』を挙げている<ref>{{Cite book|和書|date=2000-03-01|title=『JOJO-A-GO!GO!』 DISC.3 ARAKI HIROHIKO|publisher=集英社|page=74}}</ref>。 === 小説 === サスペンスの教科書として、[[ロアルド・ダール]]作『[[チョコレート工場の秘密]]』を挙げている。荒木は「ワクワク感とスリルと語り口が大好きで、マンガ家になる時は“こういうマンガを描きたい”と思ってましたね。とにかく読んでいる最中ドキドキしっぱなしで、“次どうなるんだよ!”っていう」と語り、デビュー前の荒木にとっての目標であり基本だったとしている<ref name=":22">{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦が語る、JOJOのルーツと知られざる秘密 |url=https://ddnavi.com/news/70046/ |website=ダ・ヴィンチWeb |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 [[スティーヴン・キング]]作『[[ミザリー (小説)|ミザリー]]』も同じくサスペンスの教科書だとしている。荒木は「作家が熱狂的なファンに監禁され、小説を書かされるという話なんですけど、主人公がどんどんどんどん追いつめられていく過程が本当に面白い。こういうパターンの場合、“逃げればいいじゃん”って読者に思わせちゃダメなんですよね。そう思わせないための演出というか手続きが、絶妙なんですよ」と語っており、「僕が思うサスペンスの、完璧な形ですね。好きだからというより、勉強のために今でも読み返しています」と絶賛している<ref name=":22" />。 また、[[アーサー・コナン・ドイル]]作『シャーロック・ホームズ』シリーズからの影響も大きい。荒木も少年時代に読んでいなければ漫画家になっていたか分からないし、『ジョジョの奇妙な冒険』は描けていなかったと思うと語っており、「魅力的なキャラクターを作り上げることの重要性」「物語の作り方」などを学んだとしている<ref>{{Cite web|和書|title=ホームズを読まなければジョジョは描けなかった?荒木飛呂彦がkotobaで語る |url=https://natalie.mu/comic/news/334716 |website=コミックナタリー |access-date=2023-02-02 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 映画 === 特にホラー映画から影響を受け<ref name=":12" />、2011年には自身初となる[[映画評論|映画評論集]]『[[荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論]]』を、2013年には『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』を刊行している。 映画俳優で監督である[[クリント・イーストウッド]]の大ファンを公言し、自身の作品に多大な影響を与えたと明かしている。具体的は、『ジョジョ』シリーズに登場する[[空条承太郎]]のモデルとなっており、「イーストウッドのように立っているだけで絵になることを目指したキャラクターなんです」と語っている。イーストウッド作品の特徴については「社会からはみだす男の美学」があることだとしており、「はみだし者が孤独を抱えながら戦う」というのは『ジョジョ』シリーズ全体を通じた要素になっている<ref>{{Cite web|和書|title=「はみだし者が孤独を抱えながら戦う」空条承太郎のモデルはあの名優 『荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟』 {{!}} BANGER!!!(バンガー) 映画愛、爆発!!! |url=https://www.banger.jp/news/90103/ |website=BANGER!!!(バンガー) 映画愛、爆発!!! |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。2012年には対談を果たした。 また『ジョジョ』シリーズに登場する[[ディオ・ブランドー]]を生み出す際に、『[[ブレードランナー]]』に登場するレプリカントのロイ・バッティ(演:[[ルトガー・ハウアー]])から影響を受けたとしている<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦がkotobaの「ブレードランナー」特集でDIO描く際に受けた影響語る |url=https://natalie.mu/comic/news/271183 |website=コミックナタリー |access-date=2023-02-02 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 === 絵画・美術品・ファッションなど === 荒木は自身の絵柄について[[ルネサンス美術|ルネッサンス美術]]、特に[[ミケランジェロ・ブオナローティ|ミケランジェロ]]に影響を受けたと公言しており<ref name="EU12">[[暮沢剛巳]]「Stand and Distortion」『ユリイカ』2007年11月臨時増刊号、97頁-103頁</ref>、「[[荒木飛呂彦#ジョジョ立ち|ジョジョ立ち]]」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。また『[[ヴォーグ (雑誌)|ヴォーグ]]』などのファッション雑誌が好きで<ref name="MAT2-12">[https://web.archive.org/web/20090519201917/http://manganohi.com/interview/4/4955.html まんが天国 マンガのチカラ「荒木飛呂彦先生インタビュー その3」](2009年5月19日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、[[1980年代]]の[[ジャンニ・ヴェルサーチ|ベルサーチ]]や{{仮リンク|フランコ・モスキーノ|en|Franco Moschino}}などが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている<ref name="NON3">石井洋「人物研究 荒木飛呂彦」『Men's Non-no』2002年7月号、160頁-163頁</ref>。色は紫を好み<ref name="QJI3">吉田大助「荒木飛呂彦 12000字インタビュー」『QuickJapan』Vol.75、90頁-98頁</ref>、カラーイラストでも多用される。絵柄についてはファッション・イラストレーターの[[アントニオ・ロペス (イラストレーター)]]([http://latino.si.edu/virtualgallery/antonio/ny_imagelist.htm 例])や[[サイエンス・フィクション|SF]]・[[ファンタジー]]画家の[[フランク・フラゼッタ]]、ヨーロッパの漫画家[[エンキ・ビラル]]や{{仮リンク|ユーゴ・プラット|en|Hugo Pratt}}などからの影響も指摘されている<ref name="EU12" />。また、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、[[車田正美]]のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている<ref name="yuriika2007_0012">{{Cite book|和書 |chapter=男たちの奇妙な愛情!?『ジョジョの奇妙な冒険の平行世界』 |title=ユリイカ 11月臨時増刊号 総特集☆荒木飛呂彦 -- 鋼鉄の魂は走りつづける |publisher=青土社 |date=2007-11-25 |page=11 |isbn=978-4-7917-0170-4}}</ref>。 また、独特のカラーリングについては「[[ポール・ゴーギャン]]が砂浜の色を[[ピンク]]に塗っていたのが、子供のころから魅力的だと思っていた。何色で塗ってもいいんだ、と」と語っている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦さんに高校生が質問ッ!「魅力的な悪役、描ける理由は?」|高校生新聞オンライン|高校生活と進路選択を応援するお役立ちメディア |url=https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/2421 |website=高校生新聞オンライン |access-date=2023-02-02}}</ref>。 === 洋楽 === 荒木はいつも仕事中に洋楽を聴いているという大の洋楽好きとして知られ、洋楽ならばジャンルを問わず何でも聴くと発言している。また、代表作『ジョジョの奇妙な冒険』内ではキャラクター名や[[スタンド (ジョジョの奇妙な冒険)|スタンド]]名などの大半を洋楽の楽曲名から引用している。音楽を聴きながら作品を描く理由としては「音楽をかけるのはミュージシャンの考えやファッション、時代に対する姿勢だとかを隣において、感じるためでもあるんです」「ミュージシャンやアーティストたちが、苦しさとかトラブルを抱えながら創作した音楽を届けてくれているんだと思うと、励みになるんですよ」と述べている<ref name=":03">{{Cite web|和書|url=https://www.billboard-japan.com/special/detail/3283 |title=<インタビュー>荒木飛呂彦『ジョジョ』シリーズでともに歩んできたプリンスを語る |accessdate=2022-1-4}}</ref>。 なお、生涯のベストアルバム5選には『[[危機 (イエスのアルバム)|危機]]([[イエス (バンド)|イエス]])』『[[レイト・フォー・ザ・スカイ]]([[ジャクソン・ブラウン]])』『[[ヒステリア (デフ・レパードのアルバム)|ヒステリア]]([[デフ・レパード]])』『[[フィジカル・グラフィティ]]([[レッド・ツェッペリン]])』『ビヨンド・ザ・ミズーリ・スカイ(チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー)』を、好きなジャケットデザイン5選には『危機(イエス)』『[[不死蝶 (アルバム)|不死蝶]]([[サンタナ (バンド)|サンタナ]])』『ブラインド・フェイス([[ブラインド・フェイス]])』『[[ブレックファスト・イン・アメリカ]]([[スーパートランプ]])』『アンダーカレント(ビル・エヴァンス&ジム・ホール)』をそれぞれ挙げている<ref>{{Cite web|和書|title=荒木飛呂彦、ロックフェスをするなら誰を呼ぶ? |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000072346 |website=BARKS |accessdate=2022-01-04 |language=ja}}</ref>。 ==== プリンス ==== 荒木は洋楽アーティストの中でも特に[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]のファンであることを公言しており、好きな理由として、「動かせない運命の流れみたいなものがアルバムの中にあり、聴いていて完璧な世界に浸れる」という点を挙げている。他にも「プリンスにはセクシーさを出している曲がありますけど、『前向きに生きていこう』っていう生命力のメッセージがあるんですよね。ちょっとしたゲスさも入ったりもするけど、それがまたいいんです」、「いつも創作に勇気を与えてくれる人です。心強いですよ。過去の作品を聞くと、いつも迷った時に『プリンスだったら、つまんないことにこだわらないだろうな』とか『そこを突破していくだろうな』っていうことを思い出すんです」とも語る<ref name=":03" />。 == 作風 == 荒木の作風は、哲学や経済そして自然科学などを上手い具合に取り入れながら、今われわれが生きる世界に通じる“同時代性”や“現実感”を加えてきた、とも評される。荒木自身も「絵を描くことは、ある種、化学実験。絵を描きながら学んでいる部分もあると思います。自然科学や物理学、そして哲学や経済、そういったものが全部一体化した思想や理論の中で『ジョジョ』の世界を描いていくことが理想です」と語っている<ref name=":12" />。{{See also|ジョジョの奇妙な冒険#作風}} === 画風 === 評論家の[[加藤幹郎]]は、高度な技術で過去の作品の引用を行うその作風から荒木を[[マニエリスム]]の作家と評している<ref>加藤幹郎「法外なもの、不均衡なもの、否定的なもの」『ユリイカ』2007年11月臨時増刊号、84頁-96頁</ref>。美術史学者の[[辻惟雄]]は荒木の画風について、「マンガ特有の誇張というものは、日本の[[絵巻物]]の頃からあって、今も変わらない傾向があります。その中でも『'''ジョジョの奇妙な冒険'''』は極点まで行った観があるね。最初はマッチョな肉体を描く[[アメリカン・コミックス|アメコミ]]の影響が強いように見えたけど、巻を追うごとに奇想になってきますね。空想力が豊かで、密度が凄い」と評している他、「バラエティの豊富さは[[葛飾北斎|北斎]]を思わせますが、それだけともちょっと違う。『ジョジョの奇妙な冒険』は形を極端に歪めたり、誇張したり、[[マニエリスム]]のようでもある。立体的で幻想的な描き方は、[[曾我蕭白]]に近いものを感じますね」とも指摘している<ref>{{Cite web|和書|title=『ジョジョ』のルーツは日本の近世絵画にあった |url=https://ddnavi.com/news/71680/ |website=ダ・ヴィンチWeb |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 一方で連載開始時から「人間讃歌」をメインテーマとして掲げる『ジョジョの奇妙な冒険』は「ある意味で[[少年漫画]]の王道」と評されており<ref name="EUI12">斎藤環「書き続ける勇気 荒木飛呂彦インタビュー」『ユリイカ』[[1997年]][[4月]]号、135頁-143頁</ref><ref>『QuickJapan』Vol.75、巻頭ページ(文・吉田大助)</ref>、荒木自身「昔からある少年漫画の伝統を受け継いでいるつもり」と話している<ref name="EUI12" />。しかし、荒木は「子ども向けに描いたつもりはない」とも発言している。 また荒木が影響を受けた横山光輝と梶原一騎から、梶原的なマッチョイズムと、横山の歴史マンガなどにみられる盤上の駒を淡々と眺めているような冷めた視線という、相反する成分が共存した作風であると指摘する意見もある<ref>{{Cite web|和書|title=マンガのスコア LEGEND42荒木飛呂彦 どこまでも読者ファースト {{!}} 遊刊エディスト:松岡正剛、編集工学、イシス編集学校に関するニューメディア |url=https://edist.isis.ne.jp/dust/manga42_araki/ |website=遊刊エディスト:EDITREALなニューメディア |date=2021-12-15 |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 === コマ割り === 荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない<ref name=EU2>イズミノウユキ「ヘヴン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ」『ユリイカ』2007年11月臨時増刊号、146頁-172頁。ただし、「斜めになったコマ」の分析自体は [http://moebius.exblog.jp/6209565/ 「メビウス・ラビリンス」] を元にしたもの。</ref>。この変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。このタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている<ref name=EU2/>。 === 台詞回し・擬音 === 台詞回しはしばしば翻訳調と言われており、荒木も「本を読んだ影響が残っているんじゃあないか」と話している<ref name="EUI12" />。また、この「じゃあないか」という口調も「じゃないか」に「あ」を加えた荒木独特のものであり、「じゃあない」、「じゃあないぜ」、「じゃあないのォ?」といったパターンも確認されており、作中の人物の特徴的な言い回しはネット上で改変されて使われることも多い<ref name=EUI2>斎藤環ほか「徹底討議 男たちの奇妙な愛情!?」『ユリイカ』2007年11月臨時増刊号、8頁-34頁</ref>。また、緊迫シーンなどで「ゴゴゴゴゴゴ・・・」「ドドドドドド・・・」や「ドォーン」といった(物理的ではなく)心理的な状態を表現する独特の擬音が使われており、これらは[[サスペンス映画]]で使われるような[[効果音]]を漫画にも欲しいと思ったことが発想の元になったと述べている<ref name="EUI12" />。荒木の音楽好きは広く知られており、「ズギュウン」や「ズッギャーン」など、楽器の音をイメージした擬音が多い。なお、登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは車田正美の影響である<ref name="EUI12" />。 === キャラクター設定 === 荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており<ref>『NHK高校講座』2012年7月26日放送『第15回 美術(8) 漫画はやっぱりおもしろい 〜人物〜』</ref>、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書 [https://web.archive.org/web/20121013222108/http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/art/chousahyou.pdf]」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。また、悪役は「前向きな性格にする」と決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている<ref name="yuriika2007_002">{{Cite book|和書 |chapter = 男たちの奇妙な愛情!?『ジョジョの奇妙な冒険の平行世界』 |title = ユリイカ 11月臨時増刊号 総特集☆荒木飛呂彦 -- 鋼鉄の魂は走りつづける |publisher = 青土社 |date = 2007-11-25 |page = 15 |isbn = 978-4-7917-0170-4 }}</ref>。 === ジョジョ立ち === [[File:Jojo-dachi 2017-01-03.jpg|thumb|right|ジョジョ立ちの例]] 『ジョジョの奇妙な冒険』には登場人物に腰の極端なひねりや捻転、奇矯な手足の動きなどを加えた独特のポージングが頻出する。これらのポーズは、荒木が20代のときに『[[北斗の拳]]』『[[リングにかけろ]]』『[[キャプテン翼]]』などの強い個性を持つ当時の『ジャンプ』連載陣の中で自分の独創性を模索していた頃、イタリアの彫刻芸術からヒントを得て作り上げられたものだという<ref name="MAT1-2">[https://web.archive.org/web/20090411190806/http://manganohi.com/interview/4/4954.html まんが天国 マンガのチカラ「荒木飛呂彦先生インタビュー その2」](2009年4月11日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref name=EUI2/>。2013年に行われた[[第88回東京箱根間往復大学駅伝競走|第88回箱根駅伝]]では、[[順天堂大学]]アンカーの選手が、ゴールの際ジョジョ立ちをして話題になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2013/01/04160242.html|title=箱根駅伝、順大アンカーの「ジョジョ立ち」ゴールが話題に|publisher=[[ジェイ・キャスト|J-CAST]]ニュース|accessdate=2020-03-19|}}</ref>。[[エゴン・シーレ]]や[[グスタフ・クリムト]]などの、敬愛する画家が描いた人物そのままのポーズや顔を描くことも少なくない。 === 超能力の表現 === 作中の「[[ファントムブラッド#hamon|波紋]]」(呼吸を中心とする特殊な身体技法)や「スタンド」の能力表現は、同郷の先輩である大友克洋が超能力の表現に使っていた「歪む背景」が、不可視であることに不満を持ったことが発想の元となったという<ref name="QJI3" /><ref name="EUI12" />(また「スタンド」に関しては[[つのだじろう]]『[[うしろの百太郎]]』にも言及している<ref name=EUI2/>)。なお大友の作品に関しては、空間表現や緻密な描写などが大いに作画の勉強になったとも語っている<ref name="EUI12" />。 == 執筆スタイル == 荒木は漫画家を始めた当初は、若さゆえほかの漫画家に闘争心を燃やすあまり徹夜することも多かったというが、「結局最後は自分との闘いになる」との理由で考えを変え、『ジョジョ』連載くらいからは、基本的に徹夜をせずに毎朝10時に起床して23時まで執筆する生活とし、日曜日は[[ネーム (漫画)|ネーム]]、月から木まで作画、金、土は休養(取材)というサイクルの執筆を続けている<ref name="EUI12" /><ref name="MAT1-12">[https://web.archive.org/web/20090326101840/http://manganohi.com/interview/4/4953.html まんが天国 マンガのチカラ「荒木飛呂彦先生インタビュー その1」](2009年3月26日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。荒木のこのような規則正しい生活は『週刊少年ジャンプ』で『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』を長寿連載していた[[秋本治]]を見習ってのことで、締め切りも今まで破ったことがないという<ref name="MAT1-12" />。 愛用している画材はカートリッジ式の筆ペン<ref name=":0" />。仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという<ref name="moriou" />。 === 手書き === 2012年時点でも荒木は手書きにこだわっており、机の上にはパソコンやモニタなどは置いていない{{efn|2012年の原画展で荒木の仕事机が再現されており、杜王新報にも写真が載っている。}}が、画材には強いこだわりはなく、[[ぺんてる]]の[[筆ペン]]と[[ゼブラ (文具メーカー)|ゼブラ]]の[[Gペン]]、シャープペンシル、下書き用に青鉛筆(キャラクターを描く際のアタリを描くことに用いる)があれば十分だという。またペン入れには開明書液を使っているほか、30年前に父親が製作した卓上製図板を現在でも使い続けている<ref name="moriouP72">杜王新報 p7</ref>。下書き前には、青鉛筆をカッターナイフで削ることから始める。これは漫画家デビューの時から行なっている行為らしく、「儀式」のようなものであると語る。この行為から、執筆作業に対しての気持ちが入っていく面もあるという{{要出典|date=2018年6月}}。 手書きについては、「例えば料理をしているときに『この味なんだろう』っていう、驚きがあったりするじゃないですか。あれが絵の中にあるんですよ。手で描いてるとね、『おお〜!』って思う時があって、あれが好きなんですよ。その連続というのが手描きの魅力で」と語っている。デジタルツールを用いたこともあるが、下手なせいか時間がかかってしまい手で描いた方が速いという<ref>{{Cite web |title=漫画家・荒木飛呂彦氏が考える「紙とデジタルの違い」--一問一答インタビュー |url=https://japan.cnet.com/article/35129132/2/ |website=CNET Japan |date=2018-11-24 |access-date=2023-02-02 |language=ja}}</ref>。 === 月刊連載への移籍 === 荒木は月刊連載に移行した理由について、「週刊連載が量的にきつくなった」と語っており<ref name="yuriika2007_0032">{{Cite book|和書 |chapter=男たちの奇妙な愛情!? 『ジョジョの奇妙な冒険の平行世界』 |title=ユリイカ 11月臨時増刊号 総特集☆荒木飛呂彦 -- 鋼鉄の魂は走りつづける |publisher=青土社 |date=2007-11-25 |page=9 |isbn=978-4-7917-0170-4}}</ref>、「若いころは一晩寝れば治っていたんですけど、治らなくなったりしていますし。関節とかを悪くして、それを我慢してやっていると、どんどん悪化していくんですよ」と身体が衰えてきていることを明かしている<ref name=":1" />。 == 健康 == 単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』で10年越しにインタビューを行った[[斎藤環]]は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか……」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている<ref name="yuriika2007_0032" />。 体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯は[[ひとめぼれ]]を食べる。また独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるという<ref name="moriouP11">杜王新報 p11</ref>ものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている<ref>朝日新聞「Be」2013年9月14日</ref>。 == 年譜 == * [[1960年]]([[昭和]]35年) - [[宮城県]][[仙台市]]に出生。 * [[1980年]](昭和55年) - 専門学校在学中に第20回[[手塚賞]]に本名で応募した「武装ポーカー」が準入選。 * [[1981年]](昭和56年) - 『[[週刊少年ジャンプ]]』に同作品が掲載されプロデビュー。 * [[1982年]](昭和57年) - 『[[魔少年ビーティー]]』で初連載。([[1983年]]まで) * [[1984年]](昭和59年) - 東京へ拠点を移し『[[バオー来訪者]]』連載開始。([[1985年]]まで) * 1985年(昭和60年) - 『[[荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン|ゴージャス☆アイリン]]』連載開始。([[1986年]]まで) * [[1987年]](昭和62年) - 『週刊少年ジャンプ』にて『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』連載開始。[[1999年]]([[平成]]11年)までに5部の物語を執筆。 * [[2000年]](平成12年) - 『ジョジョの奇妙な冒険Part6 [[ストーンオーシャン]]」を連載開始。この頃より[[コンパクトディスク|CD]]のジャケットや[[Tシャツ]]のデザインなど、イラストレーションの仕事も増える。 * [[2003年]](平成15年) - 4月、[[フランス]]の[[パリ]]で自身初<ref name="JOJONICLE">『JOJOnicle』より</ref>の個展「'''JOJO IN PARIS'''」開催。 * [[2004年]](平成16年) - 『週刊少年ジャンプ』にて『ジョジョの奇妙な冒険』のPart7にあたる『[[スティール・ボール・ラン]]』を連載開始。 * [[2005年]](平成17年) - 『スティール・ボール・ラン』が『[[ウルトラジャンプ]]』へ移籍。 * [[2007年]](平成19年) - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[科学雑誌]]『[[セル (雑誌)|セル]]』9月7日号の表紙絵を描き下ろす<ref>[http://www.cell.com/archive?year=2007# Cell - Archive]</ref>。同誌に論文を掲載した[[瀬藤光利]]の依頼によるもので、研究グループが発見した[[プロテアーゼ|タンパク質分解酵素]]「スクラッパー」をスタンド風に擬人化したイラストが掲載された。 * [[2008年]](平成20年) - [[川端康成]]の小説『[[伊豆の踊子]]』([[集英社文庫]])の表紙画を手がける。 * [[2009年]](平成21年) - [[フランス]]の出版社・フュチュロポリスと[[ルーヴル美術館]]との共同企画『BD([[バンド・デシネ]])プロジェクト』の一環として、自身初のフルカラー漫画作品『Rohan au Louvre(邦題:[[岸辺露伴 ルーヴルへ行く]])』を執筆。本編公開に先駆け、フランス・[[ルーヴル美術館]]テーマ企画展:『小さなデッサン展-漫画の世界でルーヴルを』にて表紙案とイメージボードを展示<ref>[https://web.archive.org/web/20090131190146/http://www.louvre.fr/llv/exposition/detail_exposition.jsp?CONTENT%3C%3Ecnt_id=10134198674118667&CURRENT_LLV_EXPO%3C%3Ecnt_id=10134198674118667&bmLocale=ja_JP 小さなデッサン展-漫画の世界でルーヴルを](2009年1月31日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>し、[[2010年]](平成22年)に[[フランス語|仏語]]版単行本を発売。[[日本]]では2010年(平成22年)に『ウルトラジャンプ』にて日本語版をモノクロ掲載、[[2011年]](平成23年)に[[日本語]]版単行本化。 * [[2011年]](平成23年) - [[3月11日]]、故郷の仙台市が[[東日本大震災]]で被災。4月、初の荒木飛呂彦オフィシャルサイトである公式サイト「JOJO.com」をオープン。『ウルトラジャンプ』にて『ジョジョの奇妙な冒険Part8 [[ジョジョリオン]]』を連載開始。ファッションブランド『GUCCI』のブランド設立90周年と自身の執筆30周年を記念して短編のSpur×Gucci×荒木飛呂彦コラボ作品『[[岸辺露伴は動かない#岸辺露伴 グッチへ行く|岸辺露伴 グッチへ行く]]』をファッション雑誌『SPUR』に掲載、グッチ店舗のウィンドディスプレイも手掛けた。9月には[[新宿]]で「'''岸辺露伴 新宿へ行く展'''<ref name="JOJONICLE" />」が開催され、『岸辺露伴 グッチへ行く』の原画などが展示された。[[達増拓也]][[岩手県知事]]の発表した『[[平泉|東北復興平泉宣言]]』のイメージイラストを手がけた。 * [[2012年]](平成24年) - 『ジョジョの奇妙な冒険』の連載25周年を記念し、7月に国内初となる原画展「'''荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町<ref name="JOJONICLE" />'''」を[[せんだいメディアテーク]]で、また10月には「'''荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展'''<ref name="JOJONICLE" />」を[[森美術館|森アーツセンターギャラリー]]で開催。前年の『SPUR』表紙イラストが第3回雑誌大賞グランプリに選ばれた<ref>[http://zasshitaisho.com/award/2011-2nd-half/ 雑誌大賞 第3回受賞作品]</ref>。『[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]』8月号、『[[AERA]]』10月22日号の表紙を自らのポートレイトで飾った。宮城県芸術選奨(メディア芸術部門)受賞。 * [[2013年]](平成25年) - 6月、[[イタリア]]の[[フィレンツェ]]にあるGUCCIショールームにて原画展『'''HIROHIKO ARAKI AN EXCLUSIVE MANGA EXHIBITION IN FLORENCE<ref name="JOJONICLE" />』'''を開催。 * [[2016年]](平成28年) - 第45回[[ベストドレッサー賞]](学術・文化部門)受賞<ref>{{cite news|url=https://www.oricon.co.jp/news/2082236/full/|title=『ベストドレッサー賞』に菅田将暉、松下奈緒、『ジョジョ』荒木氏ら|newspaper=ORICON STYLE|date=2016-12-01|accessdate=2016-12-01}}</ref>。「いわて人間賛歌」のイラストを手がける<ref>{{cite news|url=https://www.pref.iwate.jp/kensei/seisaku/1011956/1011957.html|title=「いわて人間讃歌」イラストについて(岩手県)}}</ref>。 * [[2017年]](平成29年) - 8月、[[せんだいメディアテーク]]で原画展「'''荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町 2017'''<ref name="JOJONICLE" />」を開催。 * [[2018年]](平成30年) - [[国立新美術館]]と[[大阪文化館・天保山]]で原画展「'''荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋'''<ref name="JOJONICLE" />」を開催<ref>[http://jojoex-2018.com/ 同展公式サイト]([[国立美術館]]で漫画家の個展を開催するのは[[手塚治虫]]が[[東京国立近代美術館]]で回顧展を開催して以来28年ぶり2人目。かつ存命中の漫画家の展覧会の開催は初めてのことである。)</ref> * [[2020年]]([[令和]]2年) - [[2020年東京パラリンピック]]の公式アートポスターを手がける<ref>[https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21142 東京2020公式アートポスターに注目。山口晃、浦沢直樹、荒木飛呂彦らが制作] 美術手帖</ref>。[[長崎県美術館]]と[[金沢21世紀美術館]]で原画展「'''荒木飛呂彦原画展 JOJO 冒険の波紋'''<ref name="JOJONICLE" />」を巡回開催。[[2025年日本国際博覧会]](大阪・関西万博)の[[ロゴタイプ|ロゴマーク]]選考委員を担当<ref>{{cite news|url=https://www.expo2025.or.jp/news/news-20200825/|title=2025年日本国際博覧会 ロゴマーク最優秀作品 決定|publisher=公益社団法人2025年日本国際博覧会協会|date=2020-8-25|accessdate=2020-8-30}}</ref>。 * [[2021年]](令和3年) - 第6回マンガ郷いわて特別賞受賞<ref>{{cite news|url=https://morioka.keizai.biz/headline/3455/|title=「マンガ郷いわて特別賞」に荒木飛呂彦さん 岩手との縁が「新たな冒険」に|newspaper=盛岡経済新聞|date=|accessdate=2022-2-11}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === '''太字'''は連載作品。●:『[[荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン|ゴージャス☆アイリン]]』収録、○:『[[死刑執行中脱獄進行中 荒木飛呂彦短編集|死刑執行中脱獄進行中]]』収録、◎:『岸辺露伴は動かない』収録、☆:単行本未収録。 * 武装ポーカー(●1980年、[[週刊少年ジャンプ]] (WJ) ) - 第20回[[手塚賞]]準入選作。 * アウトロー・マン(●1981年、WJ増刊) * バージニアによろしく(●1981年、WJ増刊) * [[魔少年ビーティー]]【読切版】(●1982年、[[フレッシュジャンプ]]) * '''[[魔少年ビーティー]]'''(1983年、WJ) * '''[[バオー来訪者]]'''(1984年 - 1985年、WJ) * [[荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン|ゴージャス☆アイリン]](●1985年 - 1986年、WJ増刊) * '''[[ジョジョの奇妙な冒険]]'''(1987年 - 2004年、WJ、2005年 - '''連載中'''、UJ) ** Part 1 [[ファントムブラッド]](1987年) ** Part 2 [[戦闘潮流]](1987年 - 1989年) ** Part 3 [[スターダストクルセイダース]](1989年 - 1992年) ** Part 4 [[ダイヤモンドは砕けない]](1992年 - 1995年) ** Part 5 [[黄金の風]](1995年 - 1999年) ** Part 6 [[ストーンオーシャン]](2000年 - 2003年) ** Part 7 [[スティール・ボール・ラン]](2004年 - 2011年、WJ→[[ウルトラジャンプ]] (UJ) ) ** Part 8 [[ジョジョリオン]](2011年 - 2021年、UJ) ** Part 9 [[The JOJOLands]](2023年 - 連載中、UJ) * [[変人偏屈列伝]](初期作画:[[鬼窪浩久]]、1989年 - 2003年、[[スーパージャンプ]] (SJ)・[[MANGAオールマン]] (MA)・UJ) * 死刑執行中 脱獄進行中(○1994年・2008年(再録)、SJ) * ドルチ 〜ダイ・ハード・ザ・キャット〜(○1996年、MA) * [[岸辺露伴は動かない]]シリーズ ** 岸辺露伴は動かない〜エピソード16:懺悔室〜(○・◎1997年、WJ) ** 岸辺露伴は動かない 〜エピソード2:六壁坂〜(◎2007年、[[ジャンプスクエア]]・2009年、ジャンプスクエア マスターピース〈再録〉) ** 岸辺露伴 グッチへ行く(◎2011年8月23日発売、集英社『SPUR』10月号・2012年『JOJOmenon』〈再録〉) - 岸辺露伴のアナザーストーリー・シリーズ。オールカラー読み切り短編作品。 ** 岸辺露伴は動かない 〜エピソード5:富豪村〜(◎2012年、WJ) ** 岸辺露伴は動かない 〜エピソード6:密漁海岸〜(◎2013年、WJ) ** 望月家のお月見 岸辺露伴は動かない エピソード4(◎2014年、少年ジャンプ+) ** 岸辺露伴は動かない エピソード7 月曜日-天気雨(◎2015年、ジャンプスクエア) ** 岸辺露伴は動かない エピソード#8 D・N・A(◎2017年、[[別冊マーガレット]]) ** 岸辺露伴は動かない エピソード09 ザ・ラン (◎2018年、WJ) ** 岸辺露伴は動かない エピソード10 ホットサマー・マーサ(◎JOJO magazine 2022 SPRING) ** 岸辺露伴は動かない ドリッピング画法(◎2022年、UJ) * デッドマンズQ(○1999年、MA) * [[岸辺露伴 ルーヴルへ行く]](2010年、UJ) - 『小さなデッサン展-漫画の世界でルーヴルを』に展示された漫画の再録。 * [[徐倫、GUCCIで飛ぶ]](☆2012年12月22日発売、集英社『SPUR』2月号) - GUCCI×JOJO 第二弾。オールカラー読み切り短編作品。 === 単行本 === 発行は注記のない限り全て[[集英社]]。 * [[ジャンプ・コミックス]] ** [[魔少年ビーティー]](全1巻、1984年) ** [[バオー来訪者]](全2巻、1985年) ** [[ジョジョの奇妙な冒険]](全63巻、1987年 - 1999年) ** ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 [[ストーンオーシャン]](全17巻、2000年 - 2003年) ** [[スティール・ボール・ラン]](全24巻、2004年 - 2011年) ** [[ジョジョリオン]](全27巻、2011年 - 2021年) ** [[岸辺露伴は動かない]](既刊2巻、2013年 - ) ** [[The JOJOLands]](既刊2巻、2023年 - ) * ジャンプ スーパー コミックス(創美社発行、集英社発売) ** [[荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン]](全1巻、1987年) * SCオールマン愛蔵版→[[ヤングジャンプ・コミックス|YJC-UJ]]愛蔵版 ** [[死刑執行中脱獄進行中 荒木飛呂彦短編集|死刑執行中脱獄進行中]](全1巻、1999年) * YJC-UJ愛蔵版 ** ゴージャス☆アイリン(全1巻、2004年) ** [[変人偏屈列伝]]([[鬼窪浩久]]との共著、全1巻、2004年) * UJ愛蔵版 ** [[岸辺露伴 ルーヴルへ行く]](全1巻、2011年) * [[完全版コミックス|集英社コミックス愛蔵版]] ** 函装版ジョジョの奇妙な冒険・JoJonium(第1期・全17巻、2013年 - 2015年) * [[集英社文庫]] ** 魔少年ビーティー(全1巻、2000年) ** バオー来訪者(全1巻、2000年) ** ジョジョの奇妙な冒険(既刊66巻、2002年 - ) ** オインゴとボインゴ兄弟 大冒険(全1巻、2002年) ** 死刑執行中脱獄進行中(全1巻、2011年) ** ゴージャス☆アイリン(全1巻、2011年) **変人偏屈列伝(鬼窪浩久との共著、全1巻、2012年) * [[コンビニコミック#集英社ジャンプリミックス|SHUEISHA JUMP REMIX]] ** ジョジョの奇妙な冒険(既刊64巻、2001年 - ) ** 魔少年ビーティー対バオー来訪者(全1巻、2004年) ** ゴージャス☆アイリン(全1巻、2007年) ** ジョジョの奇妙な冒険 Part 6 ストーンオーシャン(全10巻、2009年) ** 死刑執行中脱獄進行中(全1巻、2012年) * [[集英社新書]] ** [[荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論]](全1巻、2011年) ** ジョジョの奇妙な名言集 Part1-3(解説 [[中条省平]]、2012年) ** ジョジョの奇妙な名言集 Part4-8(2012年) ** 荒木飛呂彦の超偏愛! 映画の掟(全1巻、2013年) ** 荒木飛呂彦の漫画術(全1巻、2015年) === 画集 === * JoJo6251 荒木飛呂彦の世界(1993年) * JOJO A-GO!GO!(2000年) * JOJOVELLER(2013年) * JOJOnicle(2018年) === その他 === * 『[[県立海空高校野球部員山下たろーくん]]』 寄稿文・イラスト(1988年) * 『[[世界デザイン博覧会]]』 新聞広告 イラスト寄稿(1988年) * 『[[ファミコンジャンプII 最強の7人]]』 モンスター・7大ボスデザイン(1991年) * 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]] Kamedas』 イラスト寄贈(1993年) * [[SUGIURUMN]] アルバム『MUSIC IS THE KEY OF LIFE』 ジャケットイラスト(2000年) * 大塚ギチ、宮昌太朗 『[[ジョジョの奇妙な冒険II ゴールデンハート/ゴールデンリング]]』 挿絵(2001年) * [[SUGIURUMN]] アルバム『LIFE GROUND MUSIC』 ジャケットイラスト(2002年) * 『女王陛下の少年スパイ!アレックスシリーズ』 表紙・挿絵(2002年) * 『[[アディダス]] マンガフィーバー』イラスト(2002年) * 『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]] 超こち亀』 連載30周年特別寄稿 こち亀キャラinアナザーワールド 1ページコラボ(2006年) * [[SOUL'd OUT]] シングル『[[Catwalk]]』 ジャケットイラスト(2006年) * 『[[UNIQLO]] CREATIVE AWARD 2006』 Tシャツデザイン(2006年) * [[大亜門]] 『[[太臓もて王サーガ]]』 外伝 1ページコラボ(2006年) * [[週刊コミックバンチ|コミックバンチ]]増刊号 『[[北斗の拳]]』トリビュート・ピンナップイラスト(2006年) * 『[[プレステージ (映画)|プレステージ]]』 公開初日プレゼント用ステッカー描き下ろし(2007年) * 米科学誌『[[セル (雑誌)|セル]]』 Volume 130 表紙 (2007年) * [[乙一]] 『[[The Book (小説)|“The Book” jojo's bizarre adventure 4th another day]]』 挿絵(2007年) * 集英社文庫『[[伊豆の踊子|伊豆の踊り子]]』 表紙(2008年) * 『[[NARUTO -ナルト-|NARUTO]]-ナルト-秘伝・皆の書』 イラスト寄贈 (2009年) * 『ハイパーアングルポーズ集』 Introduction(2010年) * 『ハイパーアングルポーズ集 vol.2 shape of men』 Introduction(2010年) * 『SPUR』2011年10月号 表紙(2011年) * [[上遠野浩平]] 『[[恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-]]』 表紙・挿絵(2011年) * 『[[平泉|東北復興平泉宣言]]』 イメージイラスト(2011年)<ref name="iwate"/> * [[西尾維新]] 『[[JOJO'S BIZARRE ADVENTURE OVER HEAVEN]]』 表紙(2011年) * [[石川さゆり]] アルバム『X -Cross-』 ジャケットイラスト(2012年) * [[斎藤環]]『生き延びるためのラカン』文庫版 カバーイラスト(2012年) * [[美術手帖]] 2012年 11月号 表紙(2012年) * [[第63回NHK紅白歌合戦]] 石川さゆり 背景イラスト(2012年) * JOJO's Kitchen 荒木飛呂彦 [[パスタ]]を作る - [[ジャンプLIVE]]1号(2013年)企画 * JOJO's Kitchen 「[[シュールストレミング]]を食べてみた!」 - ジャンプLIVE2号(2014年)企画 * [[ダーティ・ループス]] アルバム『ダーティ・ループス〜コンプリート・エディション〜』ジャケットイラスト(2014年) * [[千住明]] アルバム『メインテーマ』 ジャケットイラスト(2015年) * [[熊野本宮大社]] [[お守り]]「和の守り」デザイン(2016年9月22日より授与開始)<ref>{{cite news|url=http://www.hongutaisha.jp/%E6%BC%AB%E7%94%BB%E5%AE%B6-%E8%8D%92%E6%9C%A8%E9%A3%9B%E5%91%82%E5%BD%A6%E5%85%88%E7%94%9F%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%80%80%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%AE%88%EF%BC%88%E3%82%8F%E3%81%AE%E3%81%BE/|title=漫画家 荒木飛呂彦先生デザイン 和の守(わのおまもり)奉告祭|newspaper=熊野本宮大社公式サイト|date=|accessdate=2019-9-19}}</ref> * [[ドラゴンボール|DRAGON BALL]] SUPER GALLERY - 『[[最強ジャンプ]]』2022年 8月号 裏表紙(2022年) * 『[[冨樫義博]]展 -PUZZLE-』 コメント・イラスト色紙寄贈(2022年) == テレビ出演 == * [[日本放送協会|NHK]] 『[[トキワ荘|わが青春のトキワ荘〜現代マンガ家立志伝〜]]』1981年5月25日 * [[フジテレビTWO|フジテレビ721]] 『[[週刊少年「」]]』2003年4月15日 * [[スカパー!プレミアムサービス|スカパー!]] 『[[MTV]] [[SOUL'd OUT]] スペシャル』2005年2月3日、5日、6日、11日 * [[NHK衛星第2テレビジョン|NHK BS2]] 『[[マンガノゲンバ]]』 2006年7月4日 * [[GYAO!|GyaO]] 『[[溜池Now]]』(第37回 世界一受けたい!!「ジョジョの奇妙な…」授業) 2007年8月6日配信 * [[NHK教育テレビジョン]] 『[[日曜美術館]]』「命輝く家族の肖像 〜[[モーリス・ドニ]]〜」2011年10月2日 * NHK教育テレビジョン 『[[NHK高校講座]](芸術・美術)』2012年7月26日 * [[TBSテレビ|TBS]] 『[[王様のブランチ]]』2012年10月13日 * [[フジテレビジョン|フジテレビ]] 『[[めざましテレビ]]』2012年10月16日 * [[テレビ東京]] 『[[サキよみ ジャンBANG!]]』2012年10月19日 * [[NHK Eテレ]] 『[[SWITCHインタビュー 達人達]]』「荒木飛呂彦×[[千住明]]」2013年4月20日 * NHK『探検バクモン 国立西洋美術館 [[ジョジョの奇妙な冒険|奇妙な冒険]]』2018年8月29日 * [[MBSテレビ|MBS]]『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』2018年11月30日 * NHK Eテレ『[[日曜美術館]]』2019年5月19日 * NHK『謎の国宝 鳥獣戯画 “楽しい”はどこまで続く?』2020年5月17日 * NHK Eテレ『日曜美術館』新春SP「#アートシェア2022」2022年1月1日 * NHK Eテレ『日曜美術館』「まなざしのヒント メトロポリタン美術館展」2022年5月8日 == 関連人物 == ;[[椛島良介]] : 初期の荒木の編集担当者。持込の際に荒木を担当したことから、以降、デビュー作『[[魔少年ビーティー]]』から『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』の第三部「[[スターダストクルセイダース]]」まで担当した。セミプロ時代から我流だった荒木に漫画の描き方の基礎を教え、『魔少年ビーティー』の連載時は、編集部を2年越しで説得するなどプロデビューの足掛かりを作っただけでなく、波紋の誕生など『ジョジョの奇妙な冒険』の創作にも大きな貢献を果たした。荒木が恩人として公私共に信頼を置く人物。 ; [[こせきこうじ]] : 荒木が生まれて初めて肉眼で目撃した漫画家はこせきこうじで、[[手塚賞]]・[[赤塚賞]]授賞式の場であった。荒木はこせきの『[[県立海空高校野球部員山下たろーくん]]』第5巻に文章を寄稿しており、同作品について「『ジョジョ』を描く上でどの作品よりも影響を受け、最も尊敬している作品である」「漫画のヒーローは心の底に誰よりも熱い気持ちを持ち、目的を持って成長すればいい、という事を教えられた」と書いている。 ; [[高橋和希]] : 『[[遊☆戯☆王]]』の原作者で荒木のファン。『ジョジョ』を見たことが漫画家を目指すきっかけになっており、『遊☆戯☆王』の劇中カードゲーム『マジック&ウィザーズ』の原型は実在するカードゲームと『ジョジョ』の世界観である「スタンド」に由来し、メインキャラのメインカードはスタンドに近い設定で「精霊」と呼ばれている他、世界観は『ジョジョ』のPart3以降を基に製作している(コマ割りや舞台など)。高橋曰くPart3から『ジョジョ』に嵌ったとコメントしている。 ;[[武論尊]]、[[原哲夫]] :『[[北斗の拳]]』の原作者と作画担当者。『ジャンプ』時代の同期で交流も深い。そのため『北斗の拳』関連の企画に積極的に参加している。 ;[[宅八郎]] : 友人。過去に何度か雑誌で対談している。 ; アシスタント :* [[鬼窪浩久]] :* [[中祥人]] :* [[三部敬]] :* [[田中靖規]] :* [[椎橋寛]] :* [[蒔野靖弘]] :* [[神海英雄]] :* 滝れーき<ref>{{Twitter status|xs1100T|1136832512242491393}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[青土社]]『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』[[2007年]][[11月]]臨時増刊号 第39巻第14号 総特集・荒木飛呂彦 {{ISBN2|978-4-7917-0170-4}} * [[太田出版]]『[[QuickJapan]]』Vol.75 2007年[[12月]] 特集・ジョジョの奇妙な冒険 {{ISBN2|978-4-7783-1103-2}} * 『杜王新報 特別版』[[2012年]] - 仙台での「ジョジョ展」で販売された新聞形式の冊子。[[河北新報]]が紙面作成を担当している。 == 外部リンク == * [http://www.araki-jojo.com/ 荒木飛呂彦公式サイト 『JOJO.com』] * [http://annex.s-manga.net/jojo/ ジョジョの奇妙な冒険 公式サイト] * [http://annex.s-manga.net/sbr/ スティール・ボール・ラン 公式サイト] * {{Mediaarts-db|name=荒木飛呂彦}} * {{YouTube|EKU6z8TpwY8|[漫画家・荒木飛呂彦氏を表彰!]第6回マンガ郷いわて特別賞表彰式}} - [[岩手県|岩手県公式動画チャンネル]]が2021年12月24日にアップロード {{Jojo}} {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:あらき ひろひこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:仙台市出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
2003-02-06T14:14:30Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E6%9C%A8%E9%A3%9B%E5%91%82%E5%BD%A6
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あろひろし
あろ ひろし(1959年5月15日 - )は、東京都出身の日本の漫画家、同人活動家。 東京都立小岩高等学校およびデザイン学校を卒業、自画像は眼鏡をかけたワニで、初期の作品群『アリゲーター』シリーズの主人公としても使用されている。 20歳の時に初めて漫画家を志し、絵を描き始める。1980年、『スタートラブルスペコマE-1』で第13回赤塚賞に準入選する。デビュー後、秋本治のアシスタントを1年半務める。 独立後は人気が伸び悩み、加藤唯史のアシスタントとなる。桂正和の代原として『とっても少年探検隊』でタッチを変えて復活し、『月刊少年ジャンプ』に移行して『優&魅衣』の連載を開始。「スタヂオぱらのい屋」開設後は、集英社を含む複数の出版社で作品を発表しつつ、今日に至る。 1995-1996年頃、『ヤングアニマル』(白泉社)での代理原稿掲載時にばたぁ健(ばたぁけん)、片今羅人(かたいまらひと)といった別名義を使用したことがある。 上記以外の代表作として『ふたば君チェンジ♡』『ハンター・キャッツ』などが挙げられる。また、ライトノベル『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』(秋津透著)の挿絵も第9巻まで担当している。 作風としてはSF色の強いギャグ漫画が持ち味だが、シニカルでブラックな笑いや、ほのぼのとしたユーモアなどバラエティに富む作品が多い。『優&魅衣』の完結と共に「ギャグ漫画家」を卒業し「ギャグも描く漫画家」となったと宣言し、以降はシリアスなSFやホラーなども積極的に手がけるようになる。強い影響を受けた作家として、星新一の名を挙げている。 自らを「比較的短い作品」向きのタイプと評し、それを裏付けるように読み切り作品の発表が多く、連載も長く続くことは比較的少ない。連載期間の最長記録は、長らく『ふたば君チェンジ♡』の6年4ヶ月であったが、『ボクの社長サマ』の連載が8年10ヶ月続いた事によって更新された。 執筆の際は、ネームを作らずに白紙に直接描き進めていくため、物語の流れや新登場するキャラクターの設定が当初の予定から大きく変化することがあるという。作者自身が単行本などで直接言及した例として、『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』の「加世」、『ソリャナイゼみるきぃライフ』の下着ドロボウ、『桃色物件』の「実輪音子」などが挙げられる。 巨漢として知られ、各方面でしばしばネタにされる(自らネタにすることもある)。また師匠の秋本曰く、本名は珍しい名前とのこと。 デビュー当時からコミックマーケットにも積極的に参加しており、第28回コミックマーケットにおいてはカタログの表紙イラストを手がけている。本業の漫画作品に見られる独創的な発想力は、同人活動においても、同人誌の内容はもちろんグッズや販売形態にまでも遺憾なく発揮されている。 現在は、デジタルアーツ東京で講師を務めている。2006年頃に眼の病気を患い、それ以来は片眼に近い状態で漫画を描いている。長らく独身であったが、2007年ごろに結婚した。 日付は初版発行日。 なお、芳文社発行の『ボクの社長サマ』『よめヨメかなたさん』『妖こそ!うつつの分校』以外の単行本はすべて既に絶版となっているが、Amazon Kindle、クリーク・アンド・リバー、ビーグリーより電子書籍が再版されているものもある。
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あろ ひろしは、東京都出身の日本の漫画家、同人活動家。 東京都立小岩高等学校およびデザイン学校を卒業、自画像は眼鏡をかけたワニで、初期の作品群『アリゲーター』シリーズの主人公としても使用されている。
'''あろ ひろし'''([[1959年]][[5月15日]] - )は、[[東京都]]出身の[[日本]]の[[漫画家]]、同人活動家。<!--本名の掲載は避けてください。プライバシーの侵害に当たります。--> [[東京都立小岩高等学校]]およびデザイン学校を卒業、自画像は[[眼鏡]]をかけた[[ワニ]]<ref>高校生時代、あろの友人が描いた「あろの似顔絵をワニにしたもの」が原型になっている。アンソロジー本『[[4Spiritsプラス2]]』([[ラポート]])6巻より。</ref><ref>2010年春頃に、自身のブログにて「眼鏡を新調した」と公表しており、それ以降に描かれる自画像では眼鏡のデザインが若干異なっている。</ref>で、初期の作品群『アリゲーター』シリーズの主人公としても使用されている。 == 経歴 == 20歳の時に初めて漫画家を志し、絵を描き始める。[[1980年]]<ref>デビュー作が掲載された『[[週刊少年ジャンプ]]』の号数が[[1981年]]2.3合併号だったため、1981年デビューとして扱われる場合もある。</ref>、『スタートラブルスペコマE-1』で第13回[[赤塚賞]]に準入選する。デビュー後、[[秋本治]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を1年半務める<ref>『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』単行本22巻から28巻あたりまでを手伝っていたことが、同単行本56巻のゲストページにて明かされている。また『4Spiritsプラス2』6巻によれば、『こち亀』の前に一度だけ[[小谷憲一]]のアシスタントをしたことがあるという。</ref>。 独立後は人気が伸び悩み、[[加藤唯史]]のアシスタントとなる。[[桂正和]]の代原として『[[とっても少年探検隊]]』でタッチを変えて復活し、『[[月刊少年ジャンプ]]』に移行して『[[優&魅衣]]』の連載を開始。「スタヂオぱらのい屋」開設後は、[[集英社]]を含む複数の出版社で作品を発表しつつ、今日に至る。 1995-1996年頃、『[[ヤングアニマル]]』([[白泉社]])での[[代理原稿]]掲載時に'''ばたぁ健'''(ばたぁけん)、'''片今羅人'''(かたいまらひと)といった別名義を使用したことがある<ref>これらの作品は『マジカル☆ヤンキー』に再録されている</ref>。 == 作風 == 上記以外の代表作として『[[ふたば君チェンジ♡]]』『[[ハンター・キャッツ]]』などが挙げられる。また、[[ライトノベル]]『[[魔獣戦士ルナ・ヴァルガー]]』([[秋津透]]著)の[[挿絵]]も第9巻まで担当している。 作風としては[[サイエンス・フィクション|SF]]色の強い[[ギャグ漫画]]が持ち味だが、シニカルでブラックな笑いや、ほのぼのとしたユーモアなどバラエティに富む作品が多い。『優&魅衣』の完結と共に「ギャグ漫画家」を卒業し「ギャグも描く漫画家」となったと宣言し、以降はシリアスなSFやホラーなども積極的に手がけるようになる<ref>但し、それ以前にもギャグやコメディ要素の少ない作品を描くことはあった。</ref>。強い影響を受けた作家として、[[星新一]]の名を挙げている。 自らを「比較的短い作品」向きのタイプと評し、それを裏付けるように[[読み切り]]作品の発表が多く、連載も長く続くことは比較的少ない<ref>自身曰く「いつも思いつくアイディアに脈絡がないため、一つの作品で使い続けることが難しい」とのこと。[[1998年]]頃から[[2003年]]頃まで[[成人向け漫画]]雑誌を中心に活動していたのも、読み切り作品を定期的に発表できる媒体が他になかったため。単行本『おっきくなぁれ』あとがきより。</ref>。連載期間の最長記録は、長らく『ふたば君チェンジ♡』の6年4ヶ月であったが、『[[ボクの社長サマ]]』の連載が8年10ヶ月続いた事によって更新された<ref>もっとも[[4コマ漫画]]連載ゆえに一話あたりのページ数が少なく、単行本の刊行ペースが遅かったため、単行本の冊数で言えば『[[ふたば君チェンジ♡]]』のほうが多い。また、「ページ数」としての最長記録は『[[優&魅衣]]』である</ref>。 執筆の際は、[[ネーム (漫画)|ネーム]]を作らずに白紙に直接描き進めていくため、物語の流れや新登場するキャラクターの設定が当初の予定から大きく変化することがあるという。作者自身が単行本などで直接言及した例として、『若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味』の「加世」、『ソリャナイゼみるきぃライフ』の下着ドロボウ、『桃色物件』の「実輪音子」などが挙げられる。 == 人物 == 巨漢として知られ<ref>[[1998年]]8月の時点で[[身長]]181[[センチメートル|cm]]、[[体重]]101[[キログラム|kg]]。単行本『[[ぱらのい屋劇場]][弐]』より。</ref>、各方面でしばしばネタにされる(自らネタにすることもある)。また師匠の秋本曰く、本名は珍しい名前とのこと<ref>単行本『[[ボクの社長サマ]]』1巻裏表紙より。</ref>。 デビュー当時から[[コミックマーケット]]にも積極的に参加しており、第28回コミックマーケットにおいてはカタログの表紙イラストを手がけている。本業の漫画作品に見られる独創的な発想力は、同人活動においても、同人誌の内容はもちろんグッズや販売形態にまでも遺憾なく発揮されている。 現在は、[[デジタルアーツ東京]]で講師を務めている。2006年頃に眼の病気を患い<ref>単行本『ボクの社長サマ』2巻あとがきより。</ref>、それ以来は片眼に近い状態で漫画を描いている。長らく独身であったが、2007年ごろに結婚した<ref>2008年の正月に、夫婦揃って初めての[[初詣]]に行っている。『[[まんがタイムジャンボ]]』2009年1月号および単行本『ボクの社長サマ』4巻より。</ref>。 == 作品リスト == === 連載中の作品 === === 単行本 === 日付は初版発行日。 なお、芳文社発行の『[[ボクの社長サマ]]』『[[よめヨメかなたさん]]』『[[妖こそ!うつつの分校]]』以外の単行本はすべて既に絶版となっているが、[[Amazon Kindle]]、[[クリーク・アンド・リバー]]、[[ビーグリー]]より[[電子書籍]]が再版されているものもある。 * ぶぎ♡うぎアリゲーター(集英社漫画文庫:[[集英社]])1983年12月25日 ** ぶぎ♡うぎアリゲーター(ジャンプコミックスセレクションワイド判:ホーム社・集英社)1990年4月21日(「アリゲーター・シリーズ」7話と短編「おいでませテーラー虻脳丸」「虻脳丸の日び」「ストアー・ウオーズ」収録) * おみそれ! トラぶりっ娘([[ジャンプスーパーコミックス]]:創美社・集英社)1984年8月15日 ** おみそれ! トラぶりっ娘DX(デラックス)(ジャンプスーパーエース:創美社・集英社)1992年4月15日(表題作全10話と短編「あの娘(こ)は氷点下」「トラブル・セパレーション」「スタートラブル スペコマE-1」「百物語の夜」「小さな行為の物語」「あの霊(こ)とフルタイム」収録) * [[とっても少年探検隊]](ジャンプスーパーコミックス:創美社・集英社)1985年10月15日(表題作と短編「岡科寮奇談」収録) ** とっても少年探検隊II<ref>事実上の第2巻だが、出版目録上は別タイトルとして扱われている。</ref>(ジャンプスーパーコミックス:創美社・集英社)1993年3月9日 * [[優&魅衣]]([[ジャンプ・コミックス]]:集英社)1986年3月15日 - 1989年2月15日・全8巻 ** 優&魅衣(ジャンプコミックスセレクション:ホーム社・集英社)1995年8月26日 - 1995年12月13日・全5巻 * [[MORUMO 1/10]](少年キャプテンコミックス:[[徳間書店]])1986年9月20日 - 1987年7月20日・全2巻 ** MORUMO 1/10(少年キャプテンコミックススペシャル:徳間書店)1994年10月5日 - 1994年11月10日・全2巻 * [[トリックスター (あろひろし) |TRICK STER]](富士見ファンタジアコミックス:[[富士見書房]])1988年10月31日 ** TRICK STER(ドラゴンコミックス:[[角川書店]])1995年3月1日 * [[雲界の旅人]](アニメージュコミックススペシャル:徳間書店)1989年5月1日 ** 雲界の旅人(少年キャプテンコミックススペシャル:徳間書店)1994年12月20日 - 1995年2月20日・全2巻 ** 雲界の旅人~島の花嫁~(同人誌)2017年10月1日([[クラウドファンディング]]支援で描かれた続編エピソード) * [[シェリフ (あろひろしの漫画)|シェリフ]](ジャンプ・コミックス:集英社)1989年10月15日 - 1990年4月15日・全2巻 * [[ぱらのい屋劇場]]([[ジャンプコミックスデラックス]]:集英社)1989年11月15日 - 1991年3月15日・全2巻 * [[若奥さまのア・ブ・ナ・イ趣味]](少年キャプテンコミックススペシャル:徳間書店)1990年6月20日(表題作全5話と「それいけ!奥秩父研究所(全4話)」「マッドサイエンティスト自己採点用紙」収録) * [[ふたば君チェンジ♡]](ジャンプ・コミックス:集英社)1991年6月15日 - 1997年4月9日・全8巻 * あろひろし作品集(ラポートコミックス:[[ラポート]]) *# 封印 1991年8月1日(表題作ほか「任侠 妖精伝」「CALLING」、アニメ『[[プロジェクトA子]]』の[[アンソロジーコミック]]として発表された作品「女王陛下のA子」「スパルタンB子」「赤ちゃんはC子(トッピ・レディ)がお好き」収録) *# たからもの 1993年3月15日(表題作ほか「三獲関係」「まちあわせ」「カーゴシップ・クライシス」「こ・う・そ・く エスパー」「サパータイム」収録) *# 恋は芙蘭 1996年1月10日(表題作ほか「モンスター ハンター」「ふぁいなる ふぁんたじぃ」「炎のダルマー」収録) *# ぱらのい屋劇場[壱] 1998年8月25日(表題作1-14話と「ようこそP.E.Tへ!(全18話+1)」収録) *# ぱらのい屋劇場[弐] 1998年10月10日(表題作15-30ほか「漂流会社」「お笑いクエスト 春の陣・冬の陣」「愛のムチ」「ザ・復讐」「わるあ描き」、アニメ「[[機動戦士ガンダム]]」のアンソロジーコミックとして発表された作品「整備しちゃうぞ!」収録) *# ちょっち お・と・な 1999年2月10日(「なりゆきパフォーマー」「大脱衣」「秘(丸に秘)恋女房」「ハンコください」「下ジモの事情!?」「それぬけ! 星間マッサージ」「ESP少女隊ハイパー3」「硝子の日々」「ぱぁとたいむCHASER」収録) *# マジカル☆ヤンキー 2002年12月10日(表題作1-4話ほか「声がでちゃうの」「破局の選択」「握ッテル!?」「年賀嬢」「卒業」「せんぷうき」「超ついてねぇ」「秘(丸に秘)湯~まるひのゆ」収録) * [[ハンター・キャッツ]](少年キャプテンコミックススペシャル:徳間書店)1993年10月10日 - 1996年11月25日・全5巻 * 無敵英雄エスガイヤー(JETS COMICS:[[白泉社]])1994年9月30日(表題作1話-7話+予告と「恋はちょもらんま」収録) * ソリャナイゼみるきぃライフ(ノーラコミックス:[[学研パブリッシング|学習研究社]])1997年11月6日 * [[みがわりアクシデンツ]]([[ヤングジャンプ・コミックス|ヤングジャンプ・コミックス・ウルトラ]]:集英社)1999年3月24日 * 桃色物件(ピンクハウス)(Kyun Comics:[[コスミック出版|コスミックインターナショナル]])2000年1月18日 - 2002年4月1日・全3巻(第1巻のみ表題作第1話-4話ほか「Mr.味一番!」「BOTOMシスター」「保護します♡」「保健の砦」「夜のお惣菜」「天国に一番近いBARBAR」「家庭教師・生徒の実情」収録) * おっきくなぁれ(Kyun Comics:コスミックインターナショナル)2000年11月1日(「放浪のタン」「大っきくなぁれ!」「ジャイアントチェリー」「爆裂!白雪姫」「ペロペロちょこれいと」「エデンの選択」「強くなれ。」「きしりの館」「うかつの朝」収録) * みこと日記(ダイアリー)(ジャンプ・コミックス:集英社)2002年3月9日 * 科学の女体盛り(ぶんか社コミックス:[[ぶんか社]])2002年12月10日(表題作全13話ほか「私立コーポぶんか学園 全2話」収録) * めい探偵網笠栗須!!(まぁるまんコミックス:ぶんか社)2004年5月10日 * [[ボクの社長サマ]]([[まんがタイムコミックス]]:芳文社)2006年7月22日 - 2013年2月22日・全6巻 * [[よめヨメかなたさん]](まんがタイムコミックス:芳文社)2010年9月22日 - 2013年1月22日・全3巻 * [[妖こそ!うつつの分校]](まんがタイムコミックス:芳文社)2013年12月22日 - 2015年9月22日・全3巻 * [[いにしえや浪漫堂]]([[まんがタイムファミリー]](芳文社))2014年? - 2018年5月号(3月17日発売)・全2巻(ナンバーナインより電子書籍のみ) === 小説挿絵 === * [[魔獣戦士ルナ・ヴァルガー]]([[秋津透]]著。[[角川スニーカー文庫]]([[角川書店]])。全12巻のうち第9巻まで担当) * [[ハイパータイマー・ネーナ]]シリーズ([[岬兄悟]]著。[[富士見ファンタジア文庫]]([[富士見書房]])。全2巻のうち第1巻「あやうしDNA」のみ担当) <!-- == 『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』挿絵の途中降板 == あろが手掛けてきた仕事を代表するものの一つとして、秋津透著・小説『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』の[[挿絵]]が知られる。 この作品ではあろは挿絵以外に[[設定 (物語)|設定]]も担当したが、秋津による小説本文・あろによる挿絵いずれもかなりの好評を博し、カセットドラマや[[OVA]]化された他、[[フィギュア]]キットも発売された。また、あろ自身もかなりノッていて、『ルナ・ヴァルガー』の[[カセットブック]]に[[声優]]として特別出演するほどであった。 しかし、あろは1990年11月の9巻をもって中途降板。『ルナ・ヴァルガー』には1年以上の中断期間が発生した<ref>その後、『魔獣戦士ルナ・ヴァルガー』は別の挿絵画家を確保した上で1992年3月に10巻を刊行しシリーズ再開となるもかつての勢いは戻らず、『ルナ・ヴァルガー』完結と続編『魔獣戦記ネオ・ヴァルガー』による仕切り直しへと繋がっていく。</ref><ref>この中断期間の間には、[[OVA]]作品の発売延期なども起きている。</ref>。このあろの降板については、「秋津透の執筆及び脱稿が遅くて予定が狂いがちで、当時、連載を抱えていたあろの側から、これ以上の遅延は他の仕事に差し障りが出る為、辞退させて欲しいと申し出があり、9巻で降板となった」というのが、当時の出版社や秋津による公式な事情説明の概要である。 なお、この件については、秋津自身から[[謝罪]]混じりの[[コメント]]があとがきに記されており、また、後の秋津のコメントによる限りでは、秋津とあろの関係が悪化しての降板では無いとしているが、その真相についてはいまだ不明な部分が多い。 ちなみに、1990年に同じ秋津作の小説『[[星間特捜エンジェルバーズ]]』で第1巻のみ挿絵を描き降板した[[真鍋譲治]]は、後に自身のホームページ[http://www.katsudon.com/white04.htm]内で、『エンジェルバーズ』の挿絵降板について、「秋津透の担当編集者<ref>真鍋によると、この編集者は秋津透とは友人関係にもあった。</ref>による、挿絵画家の原稿料を巡る不正な取り扱い([[ピンハネ]]行為)が発覚した事からトラブルとなり、'''同じく秋津の小説作品の挿絵を担当していた他の漫画家と共に、秋津関連の作品の仕事から一斉に手を引いた'''」という旨の内幕話を書き記している。あろの降板についても時期的には近く、この金銭トラブルが降板の真相であった可能性は多分に考えられるものである<ref>なお、この時期の秋津透の小説シリーズ作品については、『星間特捜エンジェルバーズ』では1巻から2巻まで10ヶ月、『[[閃光戦隊ジュエルスターズ]]』(挿絵・[[新田真子]])でも3巻から4巻までに丸2年、『魔獣戦記ルナ・ヴァルガー』とほぼ重複する形で空白期間が発生している。</ref>。 なお、『ルナ・ヴァルガー』は挿絵画家が交替した10巻以降も、[[キャラクターデザイン]]自体はあろひろしデザインのものが踏襲されている。 --> == 出演 == * テレビドラマ『[[MORUMO 1/10#テレビドラマ|宇宙少女モルモ10分の1]]』 - 教師 * カセットブック『[[魔獣戦士ルナ・ヴァルガー#カセットブック|魔獣戦士ルナ・ヴァルガー2 襲来!海帝鯨(シーカイザー)]]』 - 海蛮人A * イメージアルバム『[[優&魅衣#イメージアルバム|優&魅衣]]』 - 大家(父) * イメージアルバム『[[究極超人あ〜る]]』収録曲「春風高校校歌」より - 「山本正之&ゆうきまさみと仲間たち」の中の一人として == 関連人物 == === 師匠 === * [[小谷憲一]] * [[秋本治]] * [[加藤唯史]] === アシスタント === * [[落合ひさお]] * [[猫島礼]] * [[すぎたにコージ]] === 知人作家 === * [[沖由佳雄]]、[[毛羽毛現 (漫画家)|毛羽毛現]] - 3人でグループを形成している。あろは2人の単行本のゲストページに寄稿している他、『[[優&魅衣]]』において沖は一コマだけ出演しており、毛羽毛に至っては主要キャラクターのモデルとなっている。 * [[矢野健太郎 (漫画家)|矢野健太郎]]、[[サトウ・ユウ]](サーガ・ミオノ)、[[佐藤元]] - 上記とは別に4人でグループを形成している。[[アンソロジーコミック]]『[[4Spiritsプラス2]]』([[ラポート]])で共筆している他、3人とも『優&魅衣』の単行本のゲストページに寄稿している。 * [[帯ひろ志]]、[[宮原ナオ]]、[[永野護]] - 上記の3人同様、『優&魅衣』の単行本のゲストページに寄稿している。また、宮原は『4Spiritsプラス2』にもゲスト参加している。 * [[とみさわ千夏]]、[[うすね正俊]] - 2人とも秋本のアシスタント時代の同期である。 * [[一本木蛮]] - 『優&魅衣』のイメージアルバムに、無頼出真理役として出演している他、『優&魅衣』本編にも一コマだけ登場している。 * [[みやさかたかし]] - あろが芳文社の雑誌での仕事をするようになったきっかけを作った<ref>『[[ななみまっしぐら]]』単行本6巻より。</ref>。 == 関連項目 == * [[日本の漫画家一覧]] * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * {{Ameba ブログ|arohiroshi|あろひろしの本認ぶぎうぎブログ}} * {{Wayback|url=http://1st.geocities.jp/paranoiya_arohiroshi/ |title=あろひろしの本認ぶぎうぎサイト |date=20101020055447}} あろひろしの妻による公式ページ * {{twitter|arohiroshi}} * [https://web.archive.org/web/20160304072836/http://paranoia.s5.xrea.com/arowiki/ AroWiki]{{リンク切れ|date=2018年4月}} ファンページ * {{マンガ図書館Z作家|262}} {{Manga-artist-stub}} {{コミックマーケットカタログ表紙}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あろ ひろし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:同人作家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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飯森広一
飯森 広一(いいもり こういち、1949年7月4日 - 2008年5月14日)は、日本の漫画家。鎌倉学園高等学校、専修大学卒業。 宮崎県児湯郡西米良村生まれ。都城市育ち。動物漫画を主に描く漫画家で、代表作は『レース鳩0777』など。晩年は活動をほぼ休止していた。 2008年5月14日、脳血栓のため58歳で死去。
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飯森 広一は、日本の漫画家。鎌倉学園高等学校、専修大学卒業。 宮崎県児湯郡西米良村生まれ。都城市育ち。動物漫画を主に描く漫画家で、代表作は『レース鳩0777』など。晩年は活動をほぼ休止していた。 2008年5月14日、脳血栓のため58歳で死去。
'''飯森 広一'''(いいもり こういち、[[1949年]][[7月4日]] - [[2008年]][[5月14日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[鎌倉学園中学校・高等学校|鎌倉学園高等学校]]、[[専修大学]]卒業。 [[宮崎県]][[児湯郡]][[西米良村]]生まれ。[[都城市]]育ち。[[動物漫画]]を主に描く漫画家で、代表作は『[[レース鳩0777]]』など。晩年は活動をほぼ休止していた。 2008年5月14日、[[脳血栓]]のため58歳で死去。 == 作品 == * 盲導犬プロメテウス(全3巻) - [[小学館]] [[少年ビッグコミック]] *:[[盲導犬]]としての訓練を受けるプロメテウスの成長と、見習い訓練士、盲人の少年が犬を通じて成長を描く。 * アイン(全6巻) - [[小学館]] [[少年ビッグコミック]] *:「合成[[γ-アミノ酪酸|GABA]]」の投薬実験で驚異的な頭脳を得た[[チンパンジー]]、アイン。アインを取り巻く薬品開発者たちや、アインを政治的に利用しようとする者たち。アインという存在を通して、人類や科学の矛盾、問題点を描く。石油エネルギーに替わるエネルギーを検討する会議で安易に原子力に頼ろうとする有識者に、[[バイオ燃料]]の可能性を提示し、もっと検討を行うよう警鐘を述べるシーンがある。 * これから動物園 - 小学館 [[コロコロコミック]] *:山奥に新規建設される予定の動物園に新人飼育員として採用された若者の成長を描く。 * [[レース鳩0777]](全14巻) - [[秋田書店]] [[少年チャンピオンコミックス]] * 60億のシラミ(全5巻) - 秋田書店 少年チャンピオンコミックス *:地球が氷河期に入るという予測に対応する人類を描く。「第一部」のみで終了(事実上の[[打ち切り]])。飯森作品としてはハードな内容で、特殊警備組織NSP(New Super Police=“新撰組”。明言はされないが、おそらく国家警察)が日本政府により設置されている。またこれもおそらく政府により、北海道で強制労働が行なわれていることを示唆する描写もある。拳銃を始めとする武器・兵器の解説も度々行なわれる。因みにシラミとは「地球に寄生する人間」という比喩表現である。 * 家族動物園(全1巻) - [[朝日ソノラマ]] サンコミックス * ぼくの動物園日記(全10巻) - [[集英社]] [[ジャンプ・コミックス]] *:[[西山登志雄]]が、[[恩賜上野動物園|上野動物園]]で飼育係をしていた頃をモデルとして描く。巻末の解説は西山が執筆。 * [[トンキー物語]]-ぽるぷ出版 [[ほるぷ平和漫画シリーズ]] *:表題作のほかに、ぼくの動物園日記より抜粋して収録。 * [[日本動物記 (漫画)|日本動物記]] (全2巻)- 小学館 てんとう虫コミックス * 希望の伝説(全3巻) - 秋田書店 少年チャンピオンコミックス * 動物漫画シリーズ傑作選(全3巻) - 集英社 ジャンプ・コミックス *:巻末の解説を西山登志雄が執筆している。 *#ああ北極の犬たちよ *#:表題作は、[[植村直己]]の犬ぞりを操った人類史上初の北極点単独行を描く。 *#ぼくのシマイヌ *#天塩の人食い *おれのブー - [[集英社]] [[別冊少年ジャンプ]] 1973年4月号読切<ref>{{Cite web |title=別冊少年ジャンプ 1973年(昭和48年)4月号 マジン... |url=https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/l1097936233 |website=Yahoo!オークション |access-date=2023-12-13 |language=ja}}</ref> *町に来た犬 - 小学館 [[小学二年生]] 1977年12月号ふろくに掲載 *超星人ダイダル - 小学館 [[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]] 1978年12月号から1979年2月号連載 *走れ!ゴロー - 小学館 小学五年生 1984年6月号から1985年2月号連載 *荒野にほえろ!! - 小学館 小学五年生 1985年6月号から8月号連載 *シルクロードの竜 - 集英社 月刊少年ジャンプ 1980年5月号読切 == アシスタント == * [[まつなが陽一]]<ref>[http://yosegakiten.wordpress.com/2012/02/10/%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%8C%E9%99%BD%E4%B8%80/ まつなが陽一 « 寄席描き展]</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://good-forest.hp.infoseek.co.jp/ A World of Good Forest] ※自身のホームページ、閉鎖 [https://web.archive.org/web/20080807124852/http://good-forest.hp.infoseek.co.jp/ web archive] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:いいもり こういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:鎌倉学園高等学校出身の人物]] [[Category:専修大学出身の人物]] [[Category:宮崎県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:2008年没]]
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五十嵐浩一
五十嵐 浩一(いがらし こういち、1956年8月9日 - )は、日本の漫画家。石川県金沢市出身。明治大学卒業。代表作として『ペリカンロード』や『めいわく荘の人々』などがある。
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五十嵐 浩一は、日本の漫画家。石川県金沢市出身。明治大学卒業。代表作として『ペリカンロード』や『めいわく荘の人々』などがある。
{{存命人物の出典明記|date=2015年3月5日 (木) 03:40 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 |名前 = 五十嵐 浩一 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1956|8|9}} |生地 = {{JPN}}・[[石川県]][[金沢市]]<ref name="HC-PelicanRoad#01-14">単行本『ペリカンロード』第1巻 - 第14巻(ヒットコミックス版)カバー折り返し参照。</ref> |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1979年]] - |ジャンル = |代表作 = 『[[ペリカンロード]]』<br />『めいわく荘の人々』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''五十嵐 浩一'''(いがらし こういち、[[1956年]][[8月9日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[石川県]][[金沢市]]出身<ref name="HC-PelicanRoad#01-14"/>。[[明治大学]]卒業。代表作として『[[ペリカンロード]]』や『めいわく荘の人々』などがある。 == 経歴 == * デビュー前は明治大学漫画研究会にて活動していた。在学中には、[[神戸さくみ]]<ref>日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P30</ref>、[[ももなり高]]らの[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務めていた。 * [[1979年]]、[[清山社]]より短編集「吸血鬼」でデビュー。当時のペンネームは'''今西亜麗'''。 * [[1981年]]、[[少年画報社]]『[[少年キング]]』新人賞受賞作「ワンスーパーないと」が同誌7月3日号に掲載され、'''五十嵐浩一'''名義で商業誌デビュー<ref name="HC-PelicanRoad#07-14">単行本『ペリカンロード』第7巻 - 第14巻(ヒットコミックス版)カバー折り返し参照。</ref>。 * [[1982年]]、『[[少年キング|少年KING]]』連載の「[[ペリカンロード]]」がヒット。1987年に完結、代表作となる。 * [[1988年]]、少年画報社『[[ヤングキング]]』にて「めいわく荘の人々」を連載。長期人気作品となる。 * [[1998年]]、少年画報社『[[ヤングキング別冊キングダム]]』にて「Home Sweet Home」を連載、2001年に完結。 * [[2001年]]、『ヤングキング別冊キングダム』にて「[[ペリカンロードII]]」を連載、2004年に完結。 * [[2006年]]、[[徳間書店]]『[[月刊COMICリュウ|COMICリュウ]]』にて「REVIVE!」を連載。 * [[2007年]]、[[双葉社]]『[[漫画アクション]]』にて「アリエテ2057」を連載。 == 作品リスト == * ワンスーパーないと(少年キング、少年画報社、ヒットコミックス版単行本『ペリカンロード』第3巻収録) * ピーター葉゜夢(少年キング、少年画報社) * [[ペリカンロード]](少年KING、少年画報社) * スクラッチタイム(ヤングキング、少年画報社) * めいわく荘の人々(ヤングキング、少年画報社) * KIDS!-五十嵐浩一作品集([[メディアリーヴス|アスキー]]) * Home Sweet Home(ヤングキング別冊キングダム、少年画報社) * [[ペリカンロードII]](ヤングキング別冊キングダム、少年画報社) * 迷惑の人([[ジャイブ]]) * I.B.S.S ice blue silver sky(ジャイブ) * REVIVE!(COMICリュウ、[[徳間書店]]) * [[アリエテ2057]](漫画アクション、[[双葉社]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references/></div> == 外部リンク == * {{Twitter|nulhati2057}} * [http://nulhati.blog.fc2.com/ 迷惑の猫] - ブログ {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いからし こういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:石川県出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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池上遼一
池上 遼一(いけがみ りょういち、男性、1944年5月29日 - )は、日本の漫画家。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務めており、劇画家と紹介される事もある。 福井県越前市(旧:武生市)出身。小学生の頃から貸本漫画に慣れ親しむ。中学卒業後、大阪に移り看板屋の仕事をしながら漫画を描き始める。1962年、漫画短編誌『魔像』(日の丸文庫)に掲載された「魔剣小太刀」で貸本漫画家デビュー。岩井しげおらのアシスタントをしながら漫画を描くが生活苦で断念、看板屋の仕事に戻る。1966年、投稿した読切作品「罪の意識」が『ガロ』に掲載され、これを読んだ水木しげるが青林堂の長井勝一にスカウトを依頼。水木のアシスタントになるべく上京する。一年半ほど水木のアシスタントとして働いた後メジャーデビューし、以降、劇画漫画の第一線で活躍中。 代表作に『男組』など。貸本時代や『ガロ』に寄稿していた頃はオリジナル作品を描いていたが、メジャーデビュー後は作品のほとんどが原作者付きである。『HEAT -灼熱-』で2001年度、第47回小学館漫画賞受賞。 2023年、第50回アングレーム国際漫画祭で、特別栄誉賞を受賞。 ※ 武論尊と史村翔は同一人物のペンネーム
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "池上 遼一(いけがみ りょういち、男性、1944年5月29日 - )は、日本の漫画家。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務めており、劇画家と紹介される事もある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "福井県越前市(旧:武生市)出身。小学生の頃から貸本漫画に慣れ親しむ。中学卒業後、大阪に移り看板屋の仕事をしながら漫画を描き始める。1962年、漫画短編誌『魔像』(日の丸文庫)に掲載された「魔剣小太刀」で貸本漫画家デビュー。岩井しげおらのアシスタントをしながら漫画を描くが生活苦で断念、看板屋の仕事に戻る。1966年、投稿した読切作品「罪の意識」が『ガロ』に掲載され、これを読んだ水木しげるが青林堂の長井勝一にスカウトを依頼。水木のアシスタントになるべく上京する。一年半ほど水木のアシスタントとして働いた後メジャーデビューし、以降、劇画漫画の第一線で活躍中。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "代表作に『男組』など。貸本時代や『ガロ』に寄稿していた頃はオリジナル作品を描いていたが、メジャーデビュー後は作品のほとんどが原作者付きである。『HEAT -灼熱-』で2001年度、第47回小学館漫画賞受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2023年、第50回アングレーム国際漫画祭で、特別栄誉賞を受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "※ 武論尊と史村翔は同一人物のペンネーム", "title": "作品リスト" } ]
池上 遼一は、日本の漫画家。大阪芸術大学キャラクター造形学科教授を務めており、劇画家と紹介される事もある。
{{Infobox 漫画家 |名前=池上 遼一 |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名= |生年={{生年月日と年齢|1944|5|29}} |生地={{JPN}}・[[福井県]][[越前市]]<br />(旧:福井県[[武生市]]) |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]]、[[大学教授]] |活動期間=[[1961年]] - |ジャンル=[[劇画]] |代表作=『[[男組]]』<br /> 『[[クライング フリーマン]]』<br />『[[サンクチュアリ (漫画)|サンクチュアリ]]』<br />『[[HEAT -灼熱-]]』他 |受賞=第47回[[小学館漫画賞]]<br />([[2001年]]、『HEAT-灼熱-』)<br />[[インクポット賞]] |サイン= |公式サイト= }} '''池上 遼一'''(いけがみ りょういち、男性、[[1944年]][[5月29日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪芸術大学]]キャラクター造形学科教授を務めており、[[劇画]]家と紹介される事もある。 == 来歴 == [[福井県]][[越前市]](旧:[[武生市]])出身。小学生の頃から貸本漫画に慣れ親しむ。中学卒業後、大阪に移り[[看板]]屋の仕事をしながら漫画を描き始める。[[1962年]]、漫画短編誌『魔像』([[日の丸文庫]])に掲載された「魔剣小太刀」で貸本漫画家デビュー。岩井しげおらのアシスタントをしながら漫画を描くが生活苦で断念、看板屋の仕事に戻る。[[1966年]]、投稿した読切作品「罪の意識」が『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』に掲載され、これを読んだ[[水木しげる]]が[[青林堂]]の[[長井勝一]]にスカウトを依頼。水木の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]になるべく上京する。一年半ほど水木のアシスタントとして働いた後メジャーデビューし、以降、劇画漫画の第一線で活躍中。 代表作に『[[男組]]』など。貸本時代や『ガロ』に寄稿していた頃はオリジナル作品を描いていたが、メジャーデビュー後は作品のほとんどが[[原作者]]付きである。『[[HEAT -灼熱-]]』で[[2001年]]度、第47回[[小学館漫画賞]]受賞。 [[2023年]]、第50回[[アングレーム国際漫画祭]]で、特別栄誉賞を受賞<ref>{{Cite news|url=https://www.47news.jp/8872304.html|title=仏漫画祭、諫山さんに特別賞 池上さんらに栄誉賞も|newspaper=共同通信社|date=2023/1/29|accessdate=2023/1/29}}</ref>。 == 人物 == * 水木しげるのアシスタントになるまで水木の漫画を読んだことはなかった。劇画風な絵を描く[[さいとう・たかを]]や[[佐藤まさあき]]のアシスタントになりたかったが人手は足りているとのことで断わられた。 * [[つげ義春]]の熱烈なファンで、水木のアシスタントに入った時、その場につげもいて驚愕したという<ref>NHK「漫勉 池上遼一」本人出演時の解説</ref>。また、水木も「私よりつげさんの方を「先生」と仰いで尊敬していた」と述べ、若いアシスタントがつげを揶揄するような発言をした際には「おどりゃ、つげ先生に何をぬかすかあ」と食ってかかったりしていたという<ref>水木しげる「水木サンの幸福論」(角川文庫)</ref>。 * 若い頃は[[日本民主青年同盟]]に所属していた。水木の職場で共産主義をバカにした同僚アシスタントと口論になったこともあったという。民青では同盟員に漫画を馬鹿にされて民青を辞めた{{要出典|date=2019年9月}}。 * 劇画以外の作品にも関心があり、特に[[高橋留美子]]を高く評価している。高橋自身も『ガロ』に掲載された池上の漫画に衝撃を受けたことを後に明かしている。 * 『[[週刊少年サンデー]]』や『[[ビッグコミックスピリッツ]]』への執筆を経て、1990年代に入ってからは、『[[ビッグコミックスペリオール]]』のレギュラー漫画家として定着し、眉目秀麗な主人公、[[アウトロー]]の世界、裏切りと同盟を繰り返す複雑な人物関係の劇画を確立している。 * [[1990年]]、『[[信長 (漫画)|信長]]』の執筆に際して[[新府城]]の復元図を剽窃し、復元図の作者である工業デザイナーに抗議された<ref name="fuuin">坂茂樹「封印漫画大全」(三才ブックス)</ref>。『信長』の[[小学館]]からの単行本は最終巻が出版されないまま絶版となったが、引用箇所を描き替えた上で[[2003年]]に[[メディアファクトリー]]から復刊されている<ref name="fuuin"></ref>。 * 漫画家の[[野中英次]]が『[[課長バカ一代]]』や『[[魁!!クロマティ高校]]』など池上の絵柄をパロディ化していると知人やスタッフから聞かされた時は、「自分の亜流が出てくるということは、それだけ自分の作品が認知されて有名になったということなので嬉しかった」と雑誌のインタビューで語って、野中を公認しており、『魁!!クロマティ高校』に登場するメカ沢新一と北斗武士を自ら描いたパネルを野中に贈っている。また、野中ファンが池上と野中を同一人物と思って「野中さんって、マトモな漫画も描けるんですね」と勘違いされた事があったという。 * 2010年の連続テレビ小説『[[ゲゲゲの女房]]』の倉田圭一(演:[[窪田正孝]])は、池上をモデルとしている。 * [[2014年]]には自身が戦車好きである事を明かし、「年甲斐もなく『[[ガールズ&パンツァー|ガルパン]]』にハマってしまいました」と語っており、弟子と同人誌も発行している。『ガールズ&パンツァー もっとらぶらぶ作戦です! 3』の帯には推薦コメントと池上自身が描いた[[萌え絵]]での応援イラストが掲載されている<ref>[https://twitter.com/comic_alive/status/524857890431983618 アライブ編集部 twitter] 2014年10月21日付</ref>。 * 多くの美形キャラクターがアジア人の顔であり、香港や台湾を中心にアジアにファンが多い<ref name="penandhasi"></ref>。 * 娘の夫は『[[コミックフラッパー]]』と『[[コミックジーン]]』の編集長の池上昌平である<ref name="penandhasi">[http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/2066 田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-第九話:池上遼一と福井の越前ガニ]</ref>。 * 妹は越前市で[[ボルガライス]]で有名な喫茶店を営んでおり、店内には原画が多数飾られている<ref>[http://volga-rice.jimdo.com/2010/07/21/%E6%B1%A0%E4%B8%8A%E9%81%BC%E4%B8%80%E6%A7%98%E3%81%B8/ 池上遼一様へ] 日本ボルガラー協会 2010年7月21日付</ref>。またボルガライスの販促ポスターも描いており、ボルガライスが日本全国に知られる一因となった<ref name="レポ">{{Cite web|和書|url=http://www.jichiro.gr.jp/jichiken_kako/report/rep_hyogo34/01/0127_jre/index.htm|title=自治労 自治研 自主レポート「武生に来たらボルガライス ~やりたいことをやりたいときに~」|accessdate=2015-11-13}}</ref>。 == 作品リスト == * [[怪奇大作戦]](1968 - 1969年連載、『[[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]]』、全7話、小学館) * [[:スパイダーマン (池上遼一の漫画)| スパイダーマン]](1970 - 1971年連載、『[[月刊少年マガジン|月刊別冊少年マガジン]]』、全8巻、[[講談社]]。初期は[[小野耕世]]が参加している、第7話(1970年9月号)からは、[[平井和正]]が原作としてクレジットされている) * おえんの恋(1972年連載、『[[月刊漫画ガロ]]』、全1巻、[[青林堂]]) * ひとりぼっちのリン(1972 - 1973年連載、『[[週刊少年マガジン]]』、全4巻、講談社、原作:[[雁屋哲|阿月田伸也]]) * I・餓男(アイウエオボーイ)(1973 – 1977年連載、『劇画 KING SERIES』、全8巻、[[小池書院#オリオン出版|オリオン]]出版、原作:[[小池一夫]]) * [[男組]](1974 - 1979年連載、『[[週刊少年サンデー]]』、全25巻、[[小学館]]、原作:[[雁屋哲]]) * [[男大空]](1980 - 1982年連載、『週刊少年サンデー』、全15巻、小学館、原作:雁屋哲) * [[傷追い人]](1982 - 1986年連載、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、全11巻、小学館、原作:小池一夫) * [[星雲児|星雲児-聖・少年戦士伝]](1982 - 1984年連載、『週刊少年サンデー』、全6巻、小学館、あかねこか・[[出渕裕]]・[[かがみあきら]]が制作に参加、池上は製作総指揮も兼任) * 青拳狼(せいけんウルフ)(1984年連載、『週刊少年サンデー』、全3巻、小学館、原作:[[勝鹿北星|きむらはじめ]]) * 殺愛(1984年7月20日発売、上下巻、[[小池書院#スタジオシップ時代(初期)|スタジオ・シップ]]出版、原作:小池一夫) * [[舞 (漫画)|舞]](1985 - 1986年連載、『週刊少年サンデー』、全6巻、小学館、原作:[[工藤かずや]]) * [[クライングフリーマン]](1986 - 1988年連載、『ビッグコミックスピリッツ』、全9巻、小学館、原作:小池一夫) * [[信長 (漫画)|信長]](1986 - 1987年連載、『[[ビッグコミックオリジナル増刊]]』→『[[ビッグコミックスペリオール]]』、1987年 - 1990年、全7巻、小学館、原作:工藤かずや) * 人面蝶 幻想ロマン作品集(1987年8月発売、KCスペシャル、[[講談社]]) * [[赤い鳩|赤い鳩(アピル)]](1988 - 1989年連載、『ビッグコミックスピリッツ』、全6巻、小学館、原作:小池一夫) * OFFERED(1989 - 1990年連載、『ビッグコミックスピリッツ』、全4巻、小学館、原作:小池一夫) * [[サンクチュアリ (漫画)|サンクチュアリ]](1990 - 1995年連載、『[[ビッグコミックスペリオール]]』、全12巻、小学館、原作:[[武論尊|史村翔]]) * [[BOX (漫画)|BOX]](1991年連載、『[[ビッグコミック]]』、全1巻、小学館、原作:[[狩撫麻礼]]) * 王立院雲丸の生涯(1991 - 1992年連載、『週刊少年サンデー』、全3巻、小学館、原作:[[広井王子]]) * 今日子(1993 - 1995年連載、『ビッグコミックスピリッツ増刊号/スピリッツ21』、全2巻、小学館、原作:[[家田荘子]]) * オデッセイ(1995 - 1996年連載、『[[ビッグコミックスペリオール]]』、全3巻、小学館、原作:史村翔) * strain(1996 - 1998年連載、『ビッグコミックスペリオール』、全5巻、小学館、原作:[[武論尊]]) * 池上遼一近代日本文学名作選 (1997年10月発売、『[[ビッグコミックススペシャル]]』、小学館) * [[HEAT -灼熱-]](1998 - 2004年連載、『ビッグコミックスペリオール』、全17巻、小学館、原作:武論尊) * 池上遼一幻のコミック傑作選「ジム」 (小学館、『ビッグコミックススペシャル』、2000年10月) * [[覇-LORD-]](『ビッグコミックスペリオール』、2004年 - 2011年連載、全22巻、小学館、原作:武論尊) ** SOUL 覇 第2章(2011年 - 2013年連載、『ビッグコミックスペリオール』、全3巻、小学館、原作:武論尊)<!--続編なので五十音順に拘束せず段替えで配置--> * [[修羅雪姫|修羅雪姫 外伝]](作画担当。2009年1月28日発売、『[[週刊プレイボーイ]]』連載、[[小池書院]]出版、原案:[[上村一夫]]、原作:小池一夫) * 池上遼一自選集「YUKO」(2010年9月30日発売、『ビッグコミックススペシャル』、小学館) * 池上遼一自選集「OEN」(2010年10月29日発売、『ビッグコミックススペシャル』、小学館) * 六文銭ロック(2013年 - 2015年、『ビッグコミックスペリオール』、全4巻、小学館、原作:武論尊) * アダムとイブ(2015年 - 2016年、『ビッグコミックスペリオール』、全2巻、小学館、原作:[[山本英夫]]) * [[BEGIN (漫画)|BEGIN]](2016年 - 2020年、『ビッグコミックスペリオール』、全9巻、小学館、原作:[[武論尊|史村翔]]) * Mの首級 マッカーサー暗殺計画(2020年、『ビッグコミックスペリオール』、小学館、原作:[[リチャード・ウー]]) * [[トリリオンゲーム]](2020年 - 、『ビッグコミックスペリオール』、小学館、原作:[[稲垣理一郎]]) * 陰獣トリステサ(原作:[[橘外男]]) * ウニデス潮流の彼方に * 罪の意識 * 天使は舞いおりた くノ一異聞 * 肌の記憶 * ベスティア * モッブ〜死神〜(原作:[[滝沢解]]) * 流月抄 * [[週刊新マンガ日本史]] 第25号「[[黒田孝高|黒田官兵衛]]」(2011年、[[朝日新聞出版]]) ※ 武論尊と史村翔は同一人物のペンネーム === 画集 === * 池上遼一 Art Works 男編&女編(2019年) * 阿羅紫〜ARASHI〜 池上遼一画集(2012年) * 池上遼一キャラクター劇画集―絵師池上遼一全仕事 –([[大阪芸術大学]]出版、2005年4月発売) == アシスタント == * [[藤原芳秀]] * [[松久由宇]] * [[佐多みさき]]<ref>『劇画・マンガ家 オール名鑑』徳間書店〈TOWN MOOK〉、1979年、229頁。</ref> * [[あきは@]] == 関連番組 == * [[BSマンガ夜話]]「男組」(2008年6月18日 [[NHK BS2]]) - 本人出演なし。ゲストは[[大槻ケンヂ]]、[[角田信朗]]。 * [[浦沢直樹の漫勉]](2016年9月15日 [[NHK Eテレ]]) - 『BEGIN』の製作過程を収録した画像を見ながら[[浦沢直樹|浦沢]]と対談。 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://www.ne.jp/asahi/ocl/irdb/ 池上遼一・データベース](公認サイト) * [http://dokuha.jp/comicweb/author/175 池上遼一作品が読めるサイト] - マンガ読破!EX {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いけかみ りよういち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のマンガ・アニメ教育者]] [[Category:福井県出身の人物]] [[Category:大阪芸術大学の教員]] [[Category:1944年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]]
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池田理代子
池田 理代子(いけだ りよこ、1947年12月18日 - )は、日本の漫画家・劇画家、声楽家・オペラ歌手、歌人。大阪府出身、千葉県柏市育ち、東京都渋谷区在住を経て現在は静岡県熱海市在住。血液型はAB型。 大阪府大阪市東淀川区上新庄生まれ。大阪市立新庄小学校、柏市立柏第二中学校、都立白鷗高校卒。東京教育大学文学部哲学科中退。 武家の出身で職業軍人の娘だった母と、離婚歴のある父との間に長女として生まれた。教師になりたかった母の教育熱のお陰で、多くの習い事(歌、書道、琴、ピアノ、声楽、茶道、絵画、そろばん、華道、英語など)をさせてもらった。一方で、空想癖と動作の緩慢、加えて容貌へのコンプレックスもあって自分独りの世界にこもった。自己主張に目覚めるのは、言葉も気候も景色も違う関東に転居してからという。中学生になって日記を書き始めると「物語」を書くことにのめり込み、創作民話、童話、恋愛小説などを節操なく書いた。大学は哲学科に進んだが、物語をかくことは終生やめられそうになかった。 学者を志し勉強していたが、1年で父親からの金銭的援助が打ち切られてしまうために、生活の糧として漫画を描き始める。この間、日本共産党系の日本民主青年同盟(民青同盟)に加盟して学生運動も経験する。出版社へ持ち込むが、技術の未熟さを指摘され、貸本屋向けの出版社で執筆を始めた。この下積み時代に、原稿料をもらうまで1個5円の麩(圧縮麩)を2つ買って3日間過ごした事もあった。2〜3年の下積み生活の後、出版社からスカウトがかかり、1967年に『バラ屋敷の少女』でデビュー。 1972年に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』が空前のヒット。石膏デッサンや油絵など本格的な絵の勉強をしながら連載を続けた。執筆のきっかけとなったのは、高校2年生の夏に読んだツヴァイクの『マリー・アントワネット』で彼女の魅力を知り、書きたいと思っていたことにある。多忙のため大学に戻れず、入学から7年で中退を余儀なくされたが、2年間連載された同作品で少女漫画家としての人気は不動のものとなった。1975年からは『オルフェウスの窓』の連載を開始。1980年、同作品で第9回日本漫画家協会賞優秀賞受賞。 1984年に、不倫相手の松谷蒼一郎との会話のテープを報道社に送り付け、スキャンダルに。この不倫スキャンダルは当時、週刊誌やテレビで大々的に取り上げられる。 40歳から更年期障害に悩まされ、残りの人生について考える機会が増えた池田は、音楽への道に進むかどうか5年間の思案の後、45歳で音大受験を決意。1995年、東京音楽大学声楽科に入学。ピアニスターHIROSHIとコンサートを開くなど活動した。同年、当時は日本銀行考査局長で後に大和総研副理事長になった賀来景英と再々婚して話題となった。1998年にはNHK「課外授業 ようこそ先輩」に出演し、母校の大阪市立新庄小学校にて聖徳太子をテーマに授業を行った。1999年に大学卒業。 以降、コンサート出演や講演などの活動を行う。2005年には、世界初録音9曲を含むマリー・アントワネット作曲の歌曲12曲を歌ったCDを発売した。また、同年より『朝日新聞』土曜日朝刊別冊「be on sunday・エンターテインメント」4コマ漫画と、コラム『ベルばらKids』を連載する。 2009年3月11日、フランス政府から、多くの日本人が『ベルサイユのばら』を通じてフランスの歴史、言葉、食文化などに関心を持ったとし、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章が授与された。 2009年からオペラ歌手の村田孝高と同居。2013年から共同でブログを運営している。 短歌にも親しんでおり、2016年8月20日、岡山市で開催された塔短歌会全国大会にゲストとして参加した際、同会への入会を表明した。2020年には第一歌集『寂しき骨』を出版。太平洋戦争に出征して奇跡的な生還を果たした父が大きなテーマとなっている。 20代の頃に自身の著作権管理会社を設立。実妹が社長を務め、自身は社員として給与を受け取っていた。音大に入学する際も、在学中の4年間は執筆活動が出来ないにもかかわらず、実妹が後押ししたために実現し、東敦子に師事した。その後、東京で借りていた自宅兼アトリエのマンションの家賃が大幅に値上がりするのを機に、先述の管理会社の退職金を用いて2017年に熱海のマンションに移住した。 2007年、池田は「ある漫画家」の作品で聖徳太子と蘇我毛人の「霊的恋愛」が描かれていることに違和感を覚えたと発言した。一方で自分は〔1991年 - 1994年連載の作品で〕「史実に忠実な聖徳太子を描いた」とも述べており、テーマも四天王寺から依頼されたもので、正史に沿うよう努めたという。この記事に対してインターネットを中心に反応があり、それがマスコミにも取りあげられた。『週刊新潮』は山岸凉子の『日出処の天子』(1980年 - 1984年連載)と比較し、類似点を確認する論者として唐沢俊一を挙げている。
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池田 理代子は、日本の漫画家・劇画家、声楽家・オペラ歌手、歌人。大阪府出身、千葉県柏市育ち、東京都渋谷区在住を経て現在は静岡県熱海市在住。血液型はAB型。
{{存命人物の出典明記|date=2017年5月31日 (水) 19:16 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 池田 理代子 | 画像 = 2008TIBE Hall2 ComicPavilion Opening RiyokoIkeda.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]][[上新庄]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1947|12|18}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1967年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[ベルサイユのばら]]』<br />『[[おにいさまへ…]]』 | 受賞 = 第9回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞<br />(『[[オルフェウスの窓]]』)<br />[[レジオンドヌール勲章]] | 公式サイト = [http://www.ikeda-riyoko-pro.com/ 池田理代子 オフィシャルサイト] }} '''池田 理代子'''(いけだ りよこ、[[1947年]][[12月18日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[劇画]]家、[[声楽家]]・[[オペラ歌手]]、[[歌人]]<ref name="毎日20210116">[[川本三郎]](評論家)[https://mainichi.jp/articles/20210116/ddm/015/070/004000c 池田理代子第一歌集 寂しき骨:父母を詠み、自らを歌う]『[[毎日新聞]]』朝刊2021年1月16日(今週の本棚面)2021年1月28日閲覧</ref>。[[大阪府]]出身、[[千葉県]][[柏市]]育ち<ref>柏市立柏第2中学校の国語の亀井順子先生により創作する楽しさを知る。「私の先生 目覚めた創作意欲 後押し」『[[読売新聞]]』2013年9月26日29面</ref><ref name="iwanami1980"/>、[[東京都]][[渋谷区]]在住<ref name="wendy">[https://web.archive.org/web/20200918062732/https://www.wendy-net.com/nw/person/178.html Wendy Net News&Views|Ms Wendy バックナンバー 劇画家・声楽家 池田理代子さん](2004年3月)参考。[https://wendy-net.com/mswendy/backnumber/ms200403/]</ref>を経て現在は[[静岡県]][[熱海市]]在住<ref>[https://web.archive.org/web/20190425111914/https://blogs.yahoo.co.jp/baramyu_manatsu/36916962.html 村田孝高と池田理代子のブログ - 2017年11月の日記]</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|AB型]]。 == 来歴 == ===生い立ち=== [[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]][[上新庄]]生まれ<ref name="iwanami1980">'''池田理代子'''・[[宮城まり子]]・[[石垣綾子]]ほか『わたしの少女時代』[[岩波書店]]〈[[岩波ジュニア新書]] 3〉1980年、2-16頁。</ref>。[[大阪市立新庄小学校]]、[[柏市立柏第二中学校]]、[[東京都立白鷗高等学校・附属中学校|都立白鷗高校]]卒。[[東京教育大学]]文学部哲学科中退。 [[武家]]の出身で[[職業軍人]]の娘だった母と、離婚歴のある父との間に長女として生まれた<ref name="iwanami1980"/>。教師になりたかった母の教育熱のお陰で、多くの習い事(歌、[[書道]]、[[琴]]、[[ピアノ]]、[[声楽]]、[[茶道]]、[[絵画]]、[[そろばん]]、[[華道]]、[[英語]]など)をさせてもらった<ref name="iwanami1980"/>。一方で、空想癖と動作の緩慢、加えて容貌へのコンプレックスもあって自分独りの世界にこもった<ref name="iwanami1980"/>。自己主張に目覚めるのは、言葉も気候も景色も違う関東に転居してから<ref name="iwanami1980"/>という。 中学生になって日記を書き始めると「物語」を書くことにのめり込み、創作[[民話]]、[[童話]]、[[恋愛小説]]などを節操なく書いた<ref name="iwanami1980"/>。大学は哲学科に進んだが、物語をかくことは終生やめられそうになかった<ref name="iwanami1980"/>。 === 漫画執筆を開始 === 学者を志し勉強していたが、1年で父親からの金銭的援助が打ち切られてしまうために、生活の糧として漫画を描き始める。この間、[[日本共産党]]系の[[日本民主青年同盟]](民青同盟)に加盟して[[日本の学生運動|学生運動]]も経験する<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO49580760Z00C19A9000000|title=池田理代子さん 「ベルばら」オスカルはなぜ女性に|accessdate=2019-09-15|author=小林明|date=2019-09-13|websiteNIKKEI STYLE|publisher=[[日本経済新聞社]]・[[日経BP]]|pages=2-3}}</ref>。 出版社へ持ち込むが、技術の未熟さを指摘され、[[貸本]]屋向けの出版社で執筆を始めた。この下積み時代に、原稿料をもらうまで1個5円の[[麩]](圧縮麩)を2つ買って3日間過ごした事もあった。2〜3年の下積み生活の後、出版社からスカウトがかかり、[[1967年]]に『バラ屋敷の少女』でデビュー。 ===デビュー後=== [[1972年]]に『[[マーガレット (雑誌) |週刊マーガレット]]』にて連載を開始した『[[ベルサイユのばら]]』が空前のヒット。[[石膏]]デッサンや[[油絵]]など本格的な絵の勉強をしながら連載を続けた。執筆のきっかけとなったのは、高校2年生の夏に読んだ[[シュテファン・ツヴァイク|ツヴァイク]]の『[[マリー・アントワネット]]』で彼女の魅力を知り、書きたいと思っていたことにある<ref>[[日本放送協会|NHK]]『[[ザ・プロファイラー 〜夢と野望の人生〜|追跡者 ザ・プロファイラー]]』の「マリー・アントワネット "ストレス王妃は断頭台に消えた"」(2012年10月24日放映)による。</ref>。多忙のため大学に戻れず、入学から7年で中退を余儀なくされたが、2年間連載された同作品で少女漫画家としての人気は不動のものとなった。 1974年から『[[おにいさまへ…]]』を連載した。さらに[[1975年]]からは『[[オルフェウスの窓]]』の連載を開始。[[1980年]]、同作品で第9回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞受賞。 [[1984年]]に、[[不倫]]相手の[[松谷蒼一郎]]との会話のテープを報道社に送り付け、スキャンダルに。この不倫スキャンダルは当時、週刊誌やテレビで大々的に取り上げられる<ref>一例:1984年9月3日テレビ番組欄『[[おはよう!ナイスデイ]]』[http://tvdate1953.wiki.fc2.com/wiki/1984%E5%B9%B49%E6%9C%883%E6%97%A5%EF%BC%88%E6%9C%88%EF%BC%89 「独占速報!!池田理代子さんをついに発見!涙で語る不倫・破局・失踪の全て!」](2021年1月27日閲覧)</ref>。 ===40代で音大入学=== 40歳から[[更年期障害]]に悩まされ<ref>[https://web.archive.org/web/20081005061532/http://www.nhk.or.jp/shiruraku/200702/wednesday.html NHK知るを楽しむ 池田理代子]参考。</ref>、残りの人生について考える機会が増えた池田は、音楽への道に進むかどうか5年間の思案の後、45歳で音大受験を決意。[[1995年]]、[[東京音楽大学]]声楽科に入学。[[HIROSHI (ピアニスト)|ピアニスターHIROSHI]]とコンサートを開くなど活動した。同年、当時は[[日本銀行]][[日銀考査|考査]]局長で後に[[大和総研]]副理事長になった[[賀来景英]]と再々婚して話題となった<ref name="wendy"/><ref>[https://web.archive.org/web/20070518032302/http://www.menard.co.jp/pr/061208profile.html 日本メナード化粧品株式会社 PR情報 朝日新聞主催 人生をさらに楽しく美しく!女性のいきいきセミナー トークショー出演者プロフィール]参考。</ref>。[[1998年]]には[[日本放送協会|NHK]]「[[課外授業 ようこそ先輩]]」に出演し、母校の[[大阪市立新庄小学校]]<ref name="shinjo">[http://www.city.osaka.jp/higashiyodo/grow/school/ele_08.html 東淀川区ホームページ 新庄小学校]</ref>にて[[聖徳太子]]をテーマに授業を行った<ref name="shinjo"/>。[[1999年]]に大学卒業。 以降、コンサート出演や講演などの活動を行う。[[2005年]]には、世界初録音9曲を含む[[マリー・アントワネット]]作曲の歌曲12曲を歌ったCDを発売した。また、同年より『[[朝日新聞]]』土曜日朝刊別冊「[[be (朝日新聞)|be on sunday・エンターテインメント]]」[[4コマ漫画]]と、コラム『ベルばらKids』を連載する。 ===近年の活動=== [[2009年]][[3月11日]]、フランス政府から、多くの日本人が『ベルサイユのばら』を通じてフランスの歴史、言葉、食文化などに関心を持ったとし、[[レジオンドヌール勲章|レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章]]が授与された<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article3406 |title=池田理代子氏がレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2019-01-17|accessdate=2021-07-04}}</ref>。 2009年からオペラ歌手の[[村田孝高]]と同居<ref name= asahi2021>{{Cite web|和書| url = https://digital.asahi.com/articles/DA3S14800104.html?iref=pc_ss_date_article/ | title = 「ベルばら」作者、詠み続けた胸中 池田理代子さん、第1歌集 | publisher = 朝日新聞デジタル | date = 2021-02-14 | accessdate = 2021-02-14 }}</ref>。2013年から共同でブログを運営している<ref>{{Cite web|和書| url =http://baramyu-manatsu.sblo.jp/index-100.html | title = 2013年03月12日 皆さん、こんにちは!このブログにようこそ!! | publisher = 村田孝高(よしたか)と池田理代子のブログ~オペラと人生  | date = 2013-03-12 | accessdate = 2021-02-14 }}</ref>。 [[短歌]]にも親しんでおり、[[2016年]][[8月20日]]、[[岡山市]]で開催された[[塔 (短歌結社)|塔短歌会]]全国大会にゲストとして参加した際、同会への入会を表明した。[[2020年]]には第一歌集『寂しき骨』を出版。[[太平洋戦争]]に出征して奇跡的な生還を果たした父が大きなテーマとなっている<ref name="毎日20210116"/><ref>{{Cite web|和書|title=川本三郎「私が選んだベスト5」(レビュー)(Book Bang)|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/3311fe90a251e1c7c5e39bdc2faffbb33fd1c986|website=[[Yahoo!ニュース]]|accessdate=2021-01-06|language=ja}}</ref>。 20代の頃に自身の[[著作権]]管理会社を設立。実妹が社長を務め、自身は社員として給与を受け取っていた。音大に入学する際も、在学中の4年間は執筆活動が出来ないにもかかわらず、実妹が後押ししたために実現し、[[東敦子]]に師事した。その後、東京で借りていた自宅兼アトリエのマンションの家賃が大幅に値上がりするのを機に、先述の管理会社の退職金を用いて<ref>{{Cite web|和書|url=https://style.nikkei.com/article/DGXMZO49297190S9A900C1000000|title=オペラ歌手飛び立て 池田理代子さんが貯金ゼロの理由|accessdate=2019-09-15|author=小林明|date=2019-09-06|websiteNIKKEI STYLE|publisher=日本経済新聞社・日経BP|pages=1-3}}</ref>[[2017年]]に熱海のマンションに移住した<ref name= asahi2021></ref>。 ==「聖徳太子」と「日出処の天子」== [[2007年]]、池田は「ある漫画家」の作品で[[聖徳太子]]と[[蘇我蝦夷|蘇我毛人]]の「霊的恋愛」が描かれていることに違和感を覚えたと発言した。一方で自分は〔[[1991年]] - [[1994年]]連載の作品で〕「史実に忠実な聖徳太子を描いた」とも述べており<ref>2007年5月14日『朝日新聞』夕刊の特集「風薫る飛鳥6 進取のスター 聖徳太子」より。</ref>、テーマも[[四天王寺]]から依頼されたもので、正史に沿うよう努めたという<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20131005010024/http://www.acc-arakawa.jp/arakawa/049 |title=No.49 池田 理代子(いけだ りよこ) ― 劇画家・作家 |publisher=荒川区芸術文化振興財団 |accessdate=2012-04-19}}</ref>。この記事に対してインターネットを中心に反応があり、それがマスコミにも取りあげられた。『[[週刊新潮]]』は[[山岸凉子]]の『[[日出処の天子]]』([[1980年]] - [[1984年]]連載)と比較し、類似点を確認する論者として[[唐沢俊一]]を挙げている<ref>『週刊新潮』2008年1月24日号「ベルばら『池田理代子』の聖徳太子マンガに『盗作疑惑』」より{{要ページ番号|date=2012年4月}}。</ref>。 == 漫画作品 == * [[ベルサイユのばら]] *: 1972年 - 1973年。[[ベルサイユのばら (宝塚歌劇)|宝塚歌劇団による舞台化]]が大成功。[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化・映画化もされ、一種の社会現象を巻き起こした。 * [[おにいさまへ…]] *: 1974年。[[日本放送協会|NHK]] [[NHK衛星第2テレビジョン|BS2]]でアニメ化され、1991年7月14日から1992年5月31日まで放送。 * [[オルフェウスの窓]] *: 1975年 - 1981年。[[宝塚歌劇団]]で舞台化され、[[瀬戸内美八]]のさよなら公演となった。 * [[栄光のナポレオン-エロイカ]] *: 1986年 - 1995年。[[ナポレオン・ボナパルト]]の栄光と没落を描いた大作。ロザリー、ベルナール、アランなど『ベルサイユのばら』の登場人物達も再登場し、続編的要素を持つ。 * クローディーヌ…! *: 1978年。 * [[蒼い柘榴]] * 祖国に愛を * 沈丁花 * [[妖子]] * ふたりぽっち * エピタラム * ウェディング・ドレス * 桜京 * 雨あがり * 真理子 * 私漫画 * 白いエグモント * 章子のエチュード * パラノイア・ズライカ * マイ・ダイヤモンド * 大人の恋愛時間 * 聞かなかった言葉 * 秋の華 * 風の記憶 * 魅女物語 * ガラスの闇 * フリージアの朝 * シジフォスは憩う * エピタラム-祝婚歌 * 池田理代子短篇集 * 風を摘むプシケ(池田理代子&[[矢島正雄]]) * [[春の雪 (小説)|春の雪]]([[三島由紀夫]]&池田理代子&[[宮本えりか]]) *: 2006年。 * ファルコンの名騎手(池田理代子&[[バーバラ・カートランド]]) * 愛はワルツにのせて(池田理代子&バーバラ・カートランド) * 華麗なるロンドンの夜会(池田理代子&バーバラ・カートランド) * 謎の貴婦人(池田理代子&バーバラ・カートランド) * 国王とじゃじゃ馬娘(池田理代子&バーバラ・カートランド) * 女王エリザベス(池田理代子&宮本えりか) *: 1999年。[[イングランド]]女王[[エリザベス1世]]の伝記を漫画化。元題は『エリザベス 国と結婚した女王』だった。 * 愛は永遠に(池田理代子&珠玉傑) * ゆれる早春(池田理代子&珠玉傑) * 生きててよかった!(池田理代子&珠玉傑) * 女帝エカテリーナ *: 1982年 - 1984年。[[アンリ・トロワイヤ]]原作の[[エカテリーナ2世]]の[[伝記]]の漫画化。 * [[春日局]] けふぞ火宅を *: 1989年。 * [[聖徳太子#聖徳太子を題材とした作品|聖徳太子]] *: 1992年 - 1994年。 * [[天の涯まで]] *: 1999年。[[ポーランド分割]]の悲劇を描いた作品であり、主人公はナポレオンの[[元帥]]でもあった[[ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ|ユーゼフ・ポニャトフスキ]]。『女帝エカテリーナ』『ベルサイユのばら』『栄光のナポレオン-エロイカ』の3作品の外伝的要素もある。 * [[ニーベルングの指環|ニーベルンクの指輪]] *: 2000年 - 2001年。[[リヒャルト・ワーグナー]]作の同名の楽劇を元にした作品。 * [[太王四神記]] *: 2007年9月25日から漫画化した韓国ドラマ『太王四神記』を連載する。 * [[ベルサイユのばら#ベルばらKids|ベルばらKids]] *: 2005年10月より2013年3月まで『朝日新聞』土曜日朝刊別冊「be」に連載された、『ベルばら』のキャラクター達によるコミカルな四コマ漫画。 == 漫画以外の著書 == *『愛と苦悩[[ブラームス]]』([[音楽之友社]]ジュニア音楽図書館作曲家シリーズ、1981年) *『ワイン色のつぶやき』([[国土社]]、1983年) *『フランス革命の女たち』([[新潮社]]・とんぼの本、1985年)ISBN 410601923X *『なぜ愛に賭けるのか 女として生きるということ』([[PHP研究所]] 1985年) *『男と女・ロマンティック街道』([[祥伝社]]、1989年) *『せめて一度の人生ならば』([[海竜社]]、1991年) *『花も嵐も結婚も』([[集英社]]、1994年) *『文化としての漫画と歴史』(アドバンテージサーバー「ブックレット生きる」、1994年) *『名作を書いた女たち 自分を生きた13人の人生』[[講談社]]、1995年)のち[[中公文庫]]  *『歴史の影の男たち』([[宇野亜喜良]]共著)([[小学館]]、1996年) *『どうすりゃいいのっ!? 池田理代子の超身の上相談』([[白泉社]]、1999年) *『ぶってよ、マゼット―47歳の音大生日記』([[中央公論新社]]、1999年)のち文庫 *『寝てもさめても猫三昧』([[主婦と生活社]]、2002年)  *『あきらめない人生 ゆめをかなえる四〇からの生きかた・考えかた』(海竜社、2005年) *『知識ゼロからのオペラ入門』([[幻冬舎]]、2010年) *『池田理代子の世界』([[朝日新聞出版]]、2012年)ISBN 9784022724243 *『「ベルサイユのばら」で読み解く[[フランス革命]]』([[ベスト新書]]、2016年)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/192594|title=「ベルばら」の池田理代子、フランス革命を読み解く歴史エッセイを刊行|newspaper=コミックナタリー|date=2016-06-29|accessdate=2016-06-29}}</ref> *『池田理代子第一歌集 寂しき骨』([[集英社]]、2020年) === 共著 === *『セリ・シャンブル 2 [[三石由起子]]・池田理代子の部屋』([[旺文社]]、1985年) *『続・僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』[[平田オリザ]],[[彬子女王]],[[大隅良典]],[[永田和宏]]共著([[文春新書]]、2018年) === 翻訳 === *『星をつかんだ女 世界一のベストセラー作家[[バーバラ・カートランド]]自伝』([[サンリオ]]、1996年) *シュガー・ロートボード『スウィート・リヴェンジ 甘美なる復讐』([[日本文芸社]]、1996年) *ダフニ・ローズ・キングマ『「愛の別れ」を癒す本 新しい人生と向き合うためのこころの処方箋』([[大和書房]]、1996年) *ダフニ・ローズ・キングマ『さよならの処方箋 別れを乗り越え、たしかな愛をつかむ方法』(大和書房、2000年) == 画集ほか == *『ベルサイユのばら オールカラーイラスト全集』(集英社〈週刊マーガレット特別編集〉、1976年4月30日発行)雜誌コード:0429-4/30 *『自選複製原画集 池田理代子 ベルサイユのばら』(集英社、1979年3月20日発売) *『池田理代子 ファンタジーイラスト集』([[実業之日本社]]、1980年12月25日発行)0071-156190-3214 *『複製原画集 オルフェウスの窓 オリジナル・イラスト・セレクション 池田理代子』(集英社〈[[月刊セブンティーン]]特別編集〉、1981年9月30日発行) *『中公コミックス 複製原画集 女帝エカテリーナ 池田理代子』([[中央公論社]]、1984年8月10日発売)ISBN 4-12-001311-1 *『オスカル 白き薔薇の肖像』(斎藤良一編、[[徳間書店]]〈[[アニメージュ]]文庫〉、1988年1月31日発売)ISBN 4-19-669573-6 *『池田理代子画集』([[アールビバン]]株式会社、1999年2月24日発行) *『ベルサイユのばら大事典』(集英社、2002年10月13日発売)ISBN 4-08-782052-1 *『「ベルサイユのばら」の街歩き パリ・ベルサイユ』([[JTBパブリッシング]]、2002年12月25日発売)ISBN 4-533-04571-5 *『「ベルサイユのばら」その謎と真実 永久保存版』(JTBパブリッシング、2003年1月1日発売)ISBN 4-533-04570-7 *『別冊宝島(756) 私たちの好きなベルサイユのばら 完全保存版』([[宝島社]]、2003年4月27日発売)ISBN 4-7966-3184-4 *『ベルサイユのばら オールカラーイラスト集』(JTBパブリッシング、2003年11月1日発売)ISBN 4-533-05012-3 *『[[ファンタジア (イラスト集)|池田理代子イラスト集 FANTASIA]]』(実業之日本社、2004年10月20日発売)ISBN 4-408-61241-3 *『集英社DVDコミックス ベルサイユのばら 特別編集版』([[エー・アイ・アイ]]、2005年3月1日発売)ISBN 4-08-900515-9 DVD:SHDV-11015 *『オルフェウスの窓大事典』(集英社、2005年6月25日発売)ISBN 4-08-782095-5 *『永遠の少女マンガぬりえ1 ベルサイユのばら』(株式会社[[セイカ]])CN-8122507-A *『永遠の少女マンガぬりえ2 オルフェウスの窓』(株式会社セイカ)CN-8120433-A *『ぬり絵で楽しむ「ベルサイユのばら」』([[ソニー・マガジンズ]]、2006年7月26日発売)ISBN 4-7897-2927-3 *『大人のぬりえ ベルサイユのばら ビギナー編』(集英社、2006年7月31日発売)ISBN 4-08-781354-1 *『大人のぬりえ ベルサイユのばら アドバンス編』(集英社、2006年7月31日発売)ISBN 4-08-781355-X *『永遠の「ベルサイユのばら」』(JTBパブリッシング、2008年1月1日発売)ISBN 4-533-06994-0 *『ベルばらミュージアム 40周年記念 ベルサイユのばら展 ビジュアルガイドブック』(集英社、2012年9月13日発売)ISBN 978-4-08-780654-0 *『ベルサイユのばら [[塗り絵]] Coloriage』([[扶桑社]]、2017年2月2日発売)ISBN 978-4-594-07647-4 *『池田理代子 麗しの世界』(宝島社、2017年3月6日発売)ISBN 978-4-8002-6868-6 *『デビュー50周年記念展 池田理代子 —「ベルばら」とともに— オフィシャルブック』(展覧会場および朝日新聞SHOPで限定販売) *『大人のぬりえ ベルサイユのばら なぞり描き編』(集英社、2018年11月26日発売)ISBN 978-4-08-781665-5 == 音楽CD == *『思い出の絵ぼんぼり〜歌は美しかった』(2003年7月23日発売、[[日本コロムビア|コロムビアミュージックエンタテインメント]]・DENONレコード)COCQ-83676 *『ヴェルサイユの調べ〜マリー・アントワネットが書いた12の歌』(2005年11月2日発売、[[キングレコード]]〈[[キングインターナショナル]]〉、マリー・アントワネット生誕250周年記念作品)KKCC-3010 == 出演・プロデュース作品 == * [[クリス・マルケル]]監督の映画、サン・ソレイユ Sans Soleil (1983年)日本語版ナレーション * 『池田理代子インハワイ ハワイの休日』(クリスタル映像、1984年)、イメージビデオ、撮影は[[村西とおる]] * 東京レディースオーケストラ公演(1995年) * 日中青年文化交流の集い・[[北京市|北京]]での公演(1996年) * オペラ『[[愛の妙薬]]』(2002年、主演:アディーナ役、並びにプロデュース) * オペラ『[[フィガロの結婚]]』(2004年、伯爵夫人役、並びにプロデュース) * [[小林研一郎]]指揮・[[日本フィルハーモニー交響楽団]]公演「第九」にてソロソプラノ(2004年) * [[ミュージカル]]『[[赤毛のアン]]』(2004年、ステラ夫人役) * [[荒川区]]民オペラ公演オペレッタ『[[こうもり (オペレッタ)|こうもり]]』(2008年、ヒロインのロザリンデ役) * [[阪急宝塚本線]] [[ラッピング車両|ラッピング電車]]「宝夢」(ゆめ)(2018年3月17日(2018年11月17日一部リニューアル) - 2019年10月31日の間運行、イラストを担当)<ref>{{PDFlink|[http://www.hankyu-hanshin.co.jp/file_sys/news/5800.pdf 神戸線・宝塚線・京都線に沿線の観光スポットなどを新たにデザインしたラッピング列車が登場します!]}} - 阪急電鉄、2018年3月15日</ref> == CM == * [[資生堂]]『[[Actea Heart]]』 == 音声ガイド == * [[兵庫県立美術館]]「マリー・アントワネット物語展」(2013年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[行列のできる法律相談所#有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト|有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト]] * [[THE ALFEE 30th ANNIVERSARY HIT SINGLE COLLECTION 37]] * [[少女漫画 (漫画)|少女漫画]] * [[東京教育大学の人物一覧]] * [[東京音楽大学の人物一覧]] == 外部リンク == * [http://www.ikeda-riyoko-pro.com/ 池田理代子 オフィシャルサイト] * [http://baramyu-manatsu.sblo.jp/ 村田孝高と池田理代子のブログ〜オペラと人生] * [https://style.nikkei.com/article/DGXMZO49580760Z00C19A9000000 池田理代子さん 「ベルばら」オスカルはなぜ女性に (日経電子版2019年9月13日掲載)] * {{NHK人物録|D0009071997_00000}} {{ベルサイユのばら}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いけた りよこ}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:20世紀日本の女性画家]] [[Category:21世紀日本の女性画家]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:20世紀日本の音楽家]] [[Category:21世紀日本の音楽家]] [[Category:日本の声楽家]] [[Category:日本ペンクラブ会員]] [[Category:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者]] [[Category:東京音楽大学出身の人物]] [[Category:アマチュア無線関連の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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池野恋
池野 恋(いけの こい、本名:玉山智恵美 1959年4月16日 - )は、日本の漫画家。岩手県稗貫郡石鳥谷町(現:花巻市石鳥谷町)出身・在住。代表作の『ときめきトゥナイト』はシリーズ累計で3000万部を超えるヒット作、他に『ナースエンジェルりりかSOS』など。1980年代から90年代にかけて少女漫画雑誌『りぼん』を代表する漫画家の一人として活躍、2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。血液型はB型。 祖父の影響で絵を描くことが好きになり、小学校1年生のときに手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んで漫画の面白さに衝撃を受ける。1972年、町立石鳥谷中学校に進学、2年生のときにコックリさんに似た大明神様という占いで「十九歳で漫画家デビューする」という答えが出たことを友達から聞き、意識する。1975年、県立花巻南高校に進学。高校2年のとき、漫画仲間の従姉妹が使っていた「樋口愛」というペンネームをもじってダジャレで「池野恋」というペンネームを決める。高校を卒業後は盛岡にある専門学校に1年間通い、簿記や和文タイプを習得する。専門学校の夏休みのときに8月31日締め切りの『りぼん』新人賞の募集要項をみて、はじめて漫画の投稿をしたところ準入選となり、1978年12月刊の『りぼん お正月大増刊』に掲載された「HAPPY END ものがたり」で19歳で漫画家としてデビューする。受賞の知らせを受けたときには既に就職が内定しており、1979年4月に岩手県連共済にタイピストとして就職、漫画家と兼業することを決める。しかし漫画のほうが忙しくなり、県連共済は3年勤めたところで辞めて漫画専業となる。 1982年、初の長編『ときめきトゥナイト』の連載を開始、ほぼ同時にテレビアニメ化もされ大ヒットとなる。1986年にお見合い結婚をし、翌年に子供が生まれたことを機に『ときめきトゥナイト』第1部の連載を終了する。その後、第2部、第3部と続き、1994年まで続く長期連載となった。 1995年からは秋元康原作による『ナースエンジェルりりかSOS』の連載を開始、テレビアニメ化もされた。 2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。2002年からは『ときめきトゥナイト』のセルフカバー作品『ときめきミッドナイト』の連載を開始、2009年に完結した。 2022年には『ときめきトゥナイト』の連載開始から40周年を迎え、2023年夏に新宿高島屋で「ときめきトゥナイト展」の開催が決定した。 漫画以外では、エフエム岩手のキャラクター「けんたくん」、岩手県警察で使用されていた雉の「ケイ太郎君」、地域安全イメージキャラクターの「安全のぞみちゃん」のデザインを担当した。 注記がないものはすべて集英社刊
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "池野 恋(いけの こい、本名:玉山智恵美 1959年4月16日 - )は、日本の漫画家。岩手県稗貫郡石鳥谷町(現:花巻市石鳥谷町)出身・在住。代表作の『ときめきトゥナイト』はシリーズ累計で3000万部を超えるヒット作、他に『ナースエンジェルりりかSOS』など。1980年代から90年代にかけて少女漫画雑誌『りぼん』を代表する漫画家の一人として活躍、2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。血液型はB型。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "祖父の影響で絵を描くことが好きになり、小学校1年生のときに手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んで漫画の面白さに衝撃を受ける。1972年、町立石鳥谷中学校に進学、2年生のときにコックリさんに似た大明神様という占いで「十九歳で漫画家デビューする」という答えが出たことを友達から聞き、意識する。1975年、県立花巻南高校に進学。高校2年のとき、漫画仲間の従姉妹が使っていた「樋口愛」というペンネームをもじってダジャレで「池野恋」というペンネームを決める。高校を卒業後は盛岡にある専門学校に1年間通い、簿記や和文タイプを習得する。専門学校の夏休みのときに8月31日締め切りの『りぼん』新人賞の募集要項をみて、はじめて漫画の投稿をしたところ準入選となり、1978年12月刊の『りぼん お正月大増刊』に掲載された「HAPPY END ものがたり」で19歳で漫画家としてデビューする。受賞の知らせを受けたときには既に就職が内定しており、1979年4月に岩手県連共済にタイピストとして就職、漫画家と兼業することを決める。しかし漫画のほうが忙しくなり、県連共済は3年勤めたところで辞めて漫画専業となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1982年、初の長編『ときめきトゥナイト』の連載を開始、ほぼ同時にテレビアニメ化もされ大ヒットとなる。1986年にお見合い結婚をし、翌年に子供が生まれたことを機に『ときめきトゥナイト』第1部の連載を終了する。その後、第2部、第3部と続き、1994年まで続く長期連載となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1995年からは秋元康原作による『ナースエンジェルりりかSOS』の連載を開始、テレビアニメ化もされた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。2002年からは『ときめきトゥナイト』のセルフカバー作品『ときめきミッドナイト』の連載を開始、2009年に完結した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2022年には『ときめきトゥナイト』の連載開始から40周年を迎え、2023年夏に新宿高島屋で「ときめきトゥナイト展」の開催が決定した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "漫画以外では、エフエム岩手のキャラクター「けんたくん」、岩手県警察で使用されていた雉の「ケイ太郎君」、地域安全イメージキャラクターの「安全のぞみちゃん」のデザインを担当した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "注記がないものはすべて集英社刊", "title": "単行本" } ]
池野 恋は、日本の漫画家。岩手県稗貫郡石鳥谷町出身・在住。代表作の『ときめきトゥナイト』はシリーズ累計で3000万部を超えるヒット作、他に『ナースエンジェルりりかSOS』など。1980年代から90年代にかけて少女漫画雑誌『りぼん』を代表する漫画家の一人として活躍、2000年代からは作品発表の場を主に『Cookie』に移して活動している。血液型はB型。
{{存命人物の出典明記|date=2013年10月27日 (日) 03:02 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 |名前=池野 恋 |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名= |生地={{JPN}}・[[岩手県]][[石鳥谷町]](現:[[花巻市]]) |国籍={{JPN}} |生年={{生年月日と年齢|1959|4|16}} |没年= |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1979年]]- |ジャンル=[[少女漫画]] |代表作=『[[ときめきトゥナイト]]』<br />『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』 |受賞= |公式サイト= }} '''池野 恋'''(いけの こい、本名:玉山智恵美{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=180}} [[1959年]][[4月16日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[岩手県]][[稗貫郡]][[石鳥谷町]](現:[[花巻市]]石鳥谷町)出身・在住{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=180}}。代表作の『[[ときめきトゥナイト]]』はシリーズ累計で3000万部を超えるヒット作<ref>{{Cite web|和書|url=https://bungeishunju.com/n/n00a061b6786f|title=池野恋×有働由美子「『ときめきトゥナイト』のモデルは?」|website=文藝春秋digital|date=2022-09-21|accessdate=2023-01-10}}</ref>、他に『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』など。1980年代から90年代にかけて少女漫画雑誌『[[りぼん]]』を代表する漫画家の一人として活躍<ref>{{Cite web|和書|url=https://ddnavi.com/news/204070/a/|title=一条ゆかり、池野恋、柊あおい…、250万人の乙女が熱狂した、『りぼん』黄金時代|website=ダ・ヴィンチweb|publisher=KADOKAWA CORPORATION|date=2014-08-15|accessdate=2023-01-09}}</ref>、2000年代からは作品発表の場を主に『[[Cookie (雑誌)|Cookie]]』に移して活動している<ref name="日経xwoman20220610">{{Cite web|和書|url=https://woman.nikkei.com/atcl/aria/column/19/041400254/060700003/|title=池野恋 63歳の漫画家は岩手で5時起き、4世代で同居|website=日経xwoman|date=2022-06-10|accessdate=2023-01-09}}</ref>。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|B型]]。 == 来歴 == 祖父の影響で絵を描くことが好きになり、小学校1年生のときに[[手塚治虫]]の『[[ジャングル大帝]]』を読んで漫画の面白さに衝撃を受ける{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=183-185}}。[[1972年]]、町立石鳥谷中学校に進学、2年生のときに[[コックリさん]]に似た大明神様という占いで「十九歳で漫画家デビューする」という答えが出たことを友達から聞き、意識する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=186-187}}。[[1975年]]、[[岩手県立花巻南高等学校|県立花巻南高校]]に進学{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=187}}。高校2年のとき、漫画仲間の従姉妹が使っていた「樋口愛」というペンネームをもじってダジャレで「池野恋」というペンネームを決める{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=187}}。高校を卒業後は[[盛岡市|盛岡]]にある[[専門学校]]に1年間通い、[[簿記]]や[[和文タイプ]]を習得する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=187-189}}。専門学校の夏休みのときに8月31日締め切りの『[[りぼん]]』新人賞の募集要項をみて、はじめて漫画の投稿をしたところ準入選となり、[[1978年]]12月刊の『りぼん お正月大増刊』に掲載された「HAPPY END ものがたり」で19歳で漫画家としてデビューする{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=188}}。受賞の知らせを受けたときには既に就職が内定しており、1979年4月に岩手県連共済に[[タイピスト]]として就職、漫画家と兼業することを決める{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=189}}。しかし漫画のほうが忙しくなり、県連共済は3年勤めたところで辞めて漫画専業となる{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=189-190}}。 [[1982年]]、初の長編『[[ときめきトゥナイト]]』の連載を開始、ほぼ同時に[[テレビアニメ]]化もされ大ヒットとなる{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=190}}。[[1986年]]に[[見合い|お見合い]]結婚をし、翌年に子供が生まれたことを機に『ときめきトゥナイト』第1部の連載を終了する{{Sfn|「家」の履歴書|2022|p=191}}。その後、第2部、第3部と続き、[[1994年]]まで続く長期連載となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2188492/full/|title=漫画『ときめきトゥナイト』続編、5月開始 第3部後の世界描くストーリー|website=ORICON NEWS|date=2021-03-26|accessdate=2023-01-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=中川真知子|url=https://realsound.jp/book/2021/10/post-885181.html|title=『ときめきトゥナイト』市橋なるみはなぜ第2部のヒロインに? その重要な役割を考察|website=Real Sound|date=2021-10-21|accessdate=2023-01-09}}</ref>。 [[1995年]]からは[[秋元康]]原作による『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』の連載を開始、テレビアニメ化もされた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1475803158871/?p=2|title=アイドルプロデュースだけじゃない! 少女漫画の原作も担当していた秋元康|website=エキサイトニュース|date=2016-10-09|accessdate=2023-01-09}}</ref>。 2000年代からは作品発表の場を主に『[[Cookie (雑誌)|Cookie]]』に移して活動している<ref name="日経xwoman20220610" />。[[2002年]]からは『ときめきトゥナイト』のセルフカバー作品『[[ときめきミッドナイト]]』の連載を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cyzowoman.com/2011/08/post_3872_1.html|title=『ときめきミッドナイト』から考える、ヒット作続編商法という難しさ|website=サイゾーウーマン|date=2011-08-13|accessdate=2023-01-10}}</ref>、[[2009年]]に完結した<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/14395|title=池野恋「ときめきミッドナイト」完結記念インタビュー|website=ナタリー|date=2009-03-16|accessdate=2023-01-10}}</ref>。 [[2022年]]には『ときめきトゥナイト』の連載開始から40周年を迎え、[[2023]]年夏に[[新宿高島屋]]で「ときめきトゥナイト展」の開催が決定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.fashionsnap.com/article/2022-12-20/tokimekitonight-exhibition/|title=池野恋による名作漫画「ときめきトゥナイト」初の展覧会が開催、直筆原画を公開|website=fashionsnap.com|date=2022-12-20|accessdate=2023-01-09}}</ref>。 漫画以外では、[[エフエム岩手]]のキャラクター「けんたくん」、[[岩手県警察]]で使用されていた雉の「ケイ太郎君」、地域安全イメージキャラクターの「安全のぞみちゃん」のデザインを担当した<ref>{{Cite web|和書|url=https://tower.jp/artist/842466/%E6%B1%A0%E9%87%8E%E6%81%8B|title=池野恋|website=TOWER RECORDS ONLINE|date=2014-04-04|accessdate=2023-01-09}}</ref>。 == 略歴 == * 1979年 - 「HAPPY END ものがたり」によりデビュー。 * [[1982年]] - 『りぼん』で、「[[ときめきトゥナイト]]」の連載を開始( - [[1994年]])。 * 1982年 - 『ときめきトゥナイト』がアニメ化される([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系)。 * [[1995年]] - 『りぼん』で、「[[ナースエンジェルりりかSOS]]」の連載を開始( - [[1996年]])。 * 1995年 - 『ナースエンジェルりりかSOS』がアニメ化される([[テレビ東京]]系)。 == 作品リスト == * HAPPY ENDものがたり(『りぼんお正月大増刊号』1979年) * 土曜の午後は頬づえついて * テレパシーにご用心!(『りぼん』1979年11月号) * となりのワン・パターン(『りぼん』1980年3月号) * ちょっとおとぎ話(『りぼん』1980年7月号) * 舞ちゃんノン・ストップ(『りぼん』1981年1月号 - 1981年3月号) * おじゃま虫1/2(『りぼん』1981年6月号) * めちゃんこ教室(1982年) * [[ときめきトゥナイト]] (『りぼん』1982年7月号 - 1994年10月号) * オ・サ・ムING(1985年) * リング・リング * ヒロインになりたい(『りぼん』1991年1月号 - 1991年3月号) * きまぐれタイム・マシン * 夢見るタマゴ(『りぼんオリジナル』1993年8月号) * [[ナースエンジェルりりかSOS]](原作:[[秋元康]]、『りぼん』1995年1月号 - 1996年6月号) * おしえて菜花(『りぼん』1996年12月号 - 1998年3月号) * うそつきなシーズン(『りぼんオリジナル』1998年 - 1999年) * 真夏のドア(『りぼん夏休みおたのしみ増刊号』1998年) * [[ときめきトゥナイト]]―星のゆくえ―(2000年) * レディ・エンジェル(『りぼんオリジナル』2000年2月号) * 真冬のチャイム * ミスティボーイ 2001年、{{ISBN2|4088563239}} * [[ときめきミッドナイト]](『[[Cookie (雑誌)|Cookie]]』『[[Cookie (雑誌)|Cookie BOX]]』2002年 - 2009年) * ifの額縁(『Cookie』2010年9月号 - ?) * いつもときめいて〜ときめきトゥナイト番外編〜(『Cookie』2009年9月号) * いつもときめいて〜ときめきミッドナイト番外編〜(『Cookie』2009年10月号) * 風のおくりもの(『[[コミックいわて]]』2011年) * わかむらさき(原作:黒方薫、『Cookie』) * ときめきトゥナイト 真壁俊の事情(描き下ろし、2013年8月9日) * ときめきトゥナイト 江藤望里の駆け落ち(描き下ろし、2015年4月24日) * ときめきトゥナイト 江藤蘭世の宝箱(描き下ろし、2019年7月18日) * ときめきまんが道 池野恋40周年本(2019年、上下巻、エッセイコミック) * ブラッディ・ブライド-吸血鬼の婚活-(『Cookie』2020年5月号<ref>{{Cite web|和書|date=2020-03-26 |url=https://natalie.mu/comic/news/372909 |title=池野恋の新作は吸血鬼もの、運命の花嫁探すコンビが恋に疲れたOLと出会う|work=コミックナタリー |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |accessdate=2020-03-28}}</ref> - 2021年1月号{{Efn|「第1部完」となっている。}}) * ときめきトゥナイト それから(『Cookie』2021年7月号<ref>{{Cite web|和書|date=2021-05-26 |url=https://natalie.mu/comic/news/429735 |title=「ときめきトゥナイト」アラフォー蘭世がヒロインの新シリーズ開幕、全話無料公開も|work=コミックナタリー |publisher=株式会社ナターシャ |accessdate=2021-05-29}}</ref> - '''連載中''') === 画集 === * 『ときめきトゥナイトロマンチックアルバム』 2000年10月、集英社・愛蔵版コミックス、{{ISBN2|4-08-782128-5}} === その他 === * けもの (青羊)2ndアルバム『めたもるシティ』(2017年7月19日、ヴィレッジレコーズ) - ジャケットイラスト == 単行本 == 注記がないものはすべて集英社刊 * 『ちょっとおとぎ話』 1980年、{{ISBN2|4088531922}} ** 「ちょっとおとぎ話」「HAPPY ENDものがたり」「土曜の午後は頬づえついて」「テレパシーにご用心!」「となりのワン・パターン」を収録 * 『舞ちゃんノン・ストップ』 1981年、{{ISBN2|4088532155}} ** 「舞ちゃんノン・ストップ」「おじゃま虫1/2」を収録 * 『めちゃんこ教室』 1982年、{{ISBN2|4088532317}} * 『[[ときめきトゥナイト]]』 全30巻 *# 1982年、{{ISBN2|4-08-853247-3}} *# 1983年、{{ISBN2|4-08-853257-0}} *# 1983年、{{ISBN2|4-08-853271-6}} *# 1983年、{{ISBN2|4-08-853281-3}} *# 1984年、{{ISBN2|4-08-853292-9}} *# 1984年、{{ISBN2|4-08-853304-6}} *# 1984年、{{ISBN2|4-08-853313-5}} *# 1985年、{{ISBN2|4-08-853325-9}} *# 1985年、{{ISBN2|4-08-853337-2}} *# 1985年、{{ISBN2|4-08-853352-6}} *# 1986年、{{ISBN2|4-08-853364-X}} *# 1986年、{{ISBN2|4-08-853376-3}} *# 1986年、{{ISBN2|4-08-853388-7}} *# 1987年、{{ISBN2|4-08-853400-X}} *# 1987年、{{ISBN2|4-08-853410-7}} *# 1988年、{{ISBN2|4-08-853436-0}} *# 1988年、{{ISBN2|4-08-853453-0}} *# 1989年、{{ISBN2|4-08-853474-3}} *# 1989年、{{ISBN2|4-08-853489-1}} *# 1989年、{{ISBN2|4-08-853506-5}} *# 1990年、{{ISBN2|4-08-853523-5}} *# 1990年、{{ISBN2|4-08-853540-5}} *# 1992年、{{ISBN2|4-08-853598-7}} *# 1992年、{{ISBN2|4-08-853618-5}} *# 1992年、{{ISBN2|4-08-853632-0}} *# 1993年、{{ISBN2|4-08-853654-1}} *# 1993年、{{ISBN2|4-08-853686-X}} *# 1994年、{{ISBN2|4-08-853720-3}} *# 1994年、{{ISBN2|4-08-853747-5}} *# 1995年、{{ISBN2|4-08-853775-0}} * 『ヒロインになりたい』 1991年、{{ISBN2|4088535723}} ** 「ヒロインになりたい」「きまぐれタイム・マシン」を収録 * 『[[ナースエンジェルりりかSOS]]』 原作:[[秋元康]]、全4巻 *# 1995年9月、{{ISBN2|4088538153}} *# 1996年1月、{{ISBN2|4088538358}} *# 1996年6月、{{ISBN2|4088538625}} *# 1996年9月、{{ISBN2|4088538781}} * 『おしえて菜花』 全4巻 *# 1997年、{{ISBN2|4088560329}} *# 1998年、{{ISBN2|4088560604}} *# 1998年、{{ISBN2|408856085X}} *# 1998年、{{ISBN2|4088561112}} * 『うそつきなシーズン』 1999年、{{ISBN2|4088561643}} ** 「うそつきなシーズン」「真夏のドア」を収録 * 『ときめきトゥナイト―星のゆくえ―』 2000年、{{ISBN2|4088562011}} * 『ミスティボーイ』 2001年、{{ISBN2|4088563239}} * 『[[ときめきミッドナイト]]』 *# 2002年、{{ISBN2|4-08-856429-4}} *# 2003年、{{ISBN2|4-08-856494-4}} *# 2004年、{{ISBN2|4-08-856533-9}} *# 2005年、{{ISBN2|4-08-856615-7}} *# 2005年、{{ISBN2|4-08-856647-5}} *# 2006年、{{ISBN2|4-08-856708-0}} *# 2007年、{{ISBN2|978-4-08-856782-2}} *# 2008年、{{ISBN2|978-4-08-856831-7}} *# 2009年、{{ISBN2|978-4-08-867009-6}} * 『池野恋 ときめき短編集』 2009年、{{ISBN2|4088670051}} ** 「リング・リング」「オ・サ・ムING」「夢みるタマゴ」「レディ・エンジェル」「真冬のチャイム」を収録 * 『ifの額縁』 2011年、{{ISBN2|978-4088671055}} ** 「ifの額縁」「いつもときめいて〜ときめきトゥナイト番外編〜」「いつもときめいて〜ときめきミッドナイト番外編〜」を収録 * 『入門! 池野恋』 2013年 ※電子書籍 * 『わかむらさき』 原作:黒方薫、2013年8月、{{ISBN2|4088672895}} * 『ときめきトゥナイト 真壁俊の事情』 2013年8月9日、{{ISBN2|4088672909}} * 『ときめきトゥナイト 江藤望里の駆け落ち』 2015年4月24日、{{ISBN2|4088673700}} * 『ときめきトゥナイト 江藤蘭世の宝箱』 2019年7月18日、{{ISBN2|4088675576}} * 『ときめきまんが道 池野恋40周年本』 *# 上、2019年7月18日、{{ISBN2|4087920526}} *# 下、2019年7月18日、{{ISBN2|4087920534}} * 『ブラッディ・ブライド-吸血鬼の婚活-』 *# 2022年、{{ISBN2|408867670X}} * 『ときめきトゥナイト それから』 連載中 *# 2022年3月、{{ISBN2|4088676696}} *# 2023年1月、{{ISBN2|4088677153}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|editor=週刊文春|date=2022-02-20|title=少女漫画家「家」の履歴書|publisher=文藝春秋|series=文春新書|ref={{SfnRef|「家」の履歴書|2022}} }} == 関連項目 == * [[岩手県出身の人物一覧]] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いけの こい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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日本の交通
旅客輸送シェア(2008年, 人キロ別) 貨物輸送シェア(2008年, トンキロ) 日本の交通(にほんのこうつう)では、日本の交通の歴史や状況などを述べる。現代日本は鉄道旅客輸送の比率が高く、旅客輸送キロ数は中国に次いで世界2位である。 蒸気機関や内燃機関が導入される以前において、日本の支配層は伝統・秩序の保持や、軍事的な理由などから交通を活発にすることにあまり好意的ではなかった。『日本書紀』においても、人々の往来を妨害する神(「荒神」)や地元の人々の存在が多数登場しており、大化の改新直後においても旅人がその地域の慣習を知らずに禁忌を犯したために地元の人々に処罰されていることが問題視されているなどの記載がある。 国家としての形態を成すために、日本においても都と諸国の国府を結ぶ主要道路は整備された。しかし、地方間の交通は農民の逃亡を助けることになるとして、主要官道を除いてほとんど整備されず、地方の川には年貢を都へ運ぶときだけ舟橋で渡せばよいと考えられていた(『日本紀略』の延暦20年5月甲戌条)。 江戸時代においても軍事的・政治的理由から、大きな河川には橋が架けられず、鎖国(海禁政策)や大船建造の禁(武家諸法度の一部)が出されたほか、江戸防衛を理由に街道筋で牛馬車など車両を使用した物流を禁じる方針を採った。このため日本の道路は鋪装されることがほとんどなく、車輪を用いた車は大八車といった荷物運搬用以外に用いられることは、牛車などしかなかった。馬の使用についても制限が加えられていた。物資の輸送には川舟や小型の商船が用いられており、大都市では水路が発達していた。 明治維新を経て、近代国家へと変貌していくにあたり、鉄道網を構築することが優先された。道路については後回しとなったが、第二次世界大戦後に本格的な整備が始まった。高度経済成長期には本格的な自動車専用道路である高速道路が、日本で初めて登場した(名神高速道路)。その後は1964年東京オリンピックや1970年大阪万博などを契機に新幹線や都市高速道路の整備がはじまり、現在では総延長14000kmの高速道路網が整備されており、新幹線についても整備が進んだ。しかしモータリゼーションの進展による中心市街地の衰退、老朽化など、さまざまな面でひずみも抱えている。 高度成長期までは日本の道路は劣悪であったが、1960年代以降盛んに道路建設が行われ、全国に高水準の道路整備が行き渡っている。高速道路の建設も進み、ほぼ全国に高速道路網が整備されている。安全対策の進展により交通事故による死者数は減少しているが、大都市圏を除けば一人一台の時代となり交通量が増え、高齢化や道路の老朽化も進み、新たな問題も生まれている。 バブル崩壊後の財政状況から道路整備予算は圧縮される傾向にあり、道路公団民営化や道路特定財源の一般財源化など制度面での変化が起こっている。 日本では都市部を中心に鉄道の需要が非常に大きく、大都市では地下鉄や通勤鉄道路線の整備が続いているが、地方では高度経済成長とモータリゼーションの進展以降、鉄道の利用割合は減少を続けており、廃止される路線が多い。一方で、地方部でも新幹線が整備されていない地域を中心に、新幹線を求める声は依然として大きい。 JR東海はリニアモーターカー方式である中央新幹線の整備を行うことを決定しており、日本の鉄道網の高速化はさらに進むことになる。 全国に空港の建設が行われ、空港の無い府県のほうが少数となっている。しかし地方の中小規模空港では多額の建設費をかけて開港にはこぎつけたものの需要不足に苦しむ空港も少なくない。21世紀になると成田国際空港は着陸料が高いために旅客需要を香港国際空港や仁川国際空港(韓国)などに奪われ、ハブ空港としての地位が低下した。 四方を海に囲まれ、日本には欠かせない運送手段であり、沿岸部に工業地域・工業地帯や人口が集中する理由でもある。2020年現在、日本には994の港湾があり、中でも重要度の高い港湾は国際戦略港湾(5港)国際拠点港湾(18港)に指定されている。また漁港は2790あり、中でも漁業の中心地かつ漁業の振興に欠かすことの出来ない漁港13港は特定第3種漁港に指定されている。日本郵船や商船三井などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に貨物船や旅客船を運航してきた。現在、中東や東南アジアから石油や天然ガスなどの資源が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の貨客フェリーや高速船が運航される。また、造船分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。 古代は律令制の整備に伴い、駅制が敷かれて都(畿内)と地方の間に道路が整備され、駅家が置かれた。これを古代官道というが、古代官道は地方広域区分である五畿七道に沿って整備された。 中世には都市の発達に伴い、年貢や物資の輸送の必要性から陸上交通が整備され、定期市なども開かれた。これに伴い、港や廻船も整備され、海上交通や海上輸送も行われるようになる。交通の要所には、幕府や戦国大名や有力寺社などが関を設置して、関銭が徴収された。 江戸を新たな中心として、日本各地で街道の整備が進められた。経済発展に伴って水上交通が盛んになり、海上航路の開発や運河の整備が行われた。 明治に入ると近代国家になるために交通網を整備する必要があった。整備を進めやすいために道路よりも鉄道を優先して建設された。鉄道の建設には多くの問題や妨害があったが、品川・横浜間で仮営業が始められた後、新橋・横浜間の営業が始められた。これを契機として、官民による鉄道の建設が進められた。都市内においては路面電車や地下鉄が整備され、馬車の走行のためにガス灯の設置や舗装が進められた。しかし、地方の道路整備は遅々として進まず、幹線道路でも自動車の通行に適さない区間が大量にあった。 第二次世界大戦中まで自動車用の道路の整備があまり進まず、国道にあっても舗装率は非常に低かった。経済復興のため、名古屋と神戸を結ぶ名古屋・神戸高速道路(現在の名神高速道路)が計画されたが、高速道路の計画をたてられる交通工学の技術者が日本にはいなかったために国際連合に要請して計画書が策定された。それが1956年に出されたワトキンス・レポートである。その中で「日本の道路は信じがたいほどに悪い。工業国にして、これほど道路を無視してきた国は日本の他にない」と述べられた。この報告書も後押しとなり、日本の道路整備は飛躍的に進んでいく。 鉄道においては高速化のために蒸気機関車から気動車(ディーゼルカー)への転換や電化が進められていった。 敗戦の影響で、航空機の開発を制限された日本では航空機製造の分野では振るわなかったが、戦前に活躍した技術者の多くが鞍替えすることで日本の自動車産業の成長を支えることとなった。 1964年の東京オリンピックに合わせて、東名高速道路の建設や東海道新幹線の開通などが相次いだ。東京の首都高速道路も1962年に一部開通し、これは日本初の都市高速道路でもあった。1960年代後半頃からマイカーの普及が本格化し、自動車の台数が大幅に増加した(モータリゼーション)。その一方で、道路や自動車の利用環境の整備の遅れなどから交通事故も激増し、交通戦争と称された。暴走族の出現も問題となった。交通事故防止の対策として、横断歩道橋などの設置による歩車分離を実施していった。乗用車の保有台数は1971年(昭和46年)には1000万台に達した。 在来鉄道がモータリゼーション進展の波に押されて停滞する一方で、高速旅客鉄道である新幹線は日本の大動脈へと成長していく。自動車と航空旅客輸送の間を埋める日本の新幹線の成功により、停滞傾向にあった鉄道を見直す機運が高まり、ヨーロッパやアジアの国々にも高速旅客鉄道を登場させる動機となった。 資源の多くを海外に頼る日本では、戦前から造船技術が発達し、戦後も大型タンカーなどの建造が活発に行われ、鉄鋼業とともに日本の経済と物流の一翼を担った。空港の整備が進められ、航空輸送が徐々に拡大した。円の価値が一段と上昇した1980年代以降は、海外へのビジネスや旅行の渡航も活発になった。 交通体系や道路地図などでは地形的条件に則り、律令時代の五畿七道や、江戸時代の五街道などを目安として、地方を区分することが多い。
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日本の交通(にほんのこうつう)では、日本の交通の歴史や状況などを述べる。現代日本は鉄道旅客輸送の比率が高く、旅客輸送キロ数は中国に次いで世界2位である。 蒸気機関や内燃機関が導入される以前において、日本の支配層は伝統・秩序の保持や、軍事的な理由などから交通を活発にすることにあまり好意的ではなかった。『日本書紀』においても、人々の往来を妨害する神(「荒神」)や地元の人々の存在が多数登場しており、大化の改新直後においても旅人がその地域の慣習を知らずに禁忌を犯したために地元の人々に処罰されていることが問題視されているなどの記載がある。 国家としての形態を成すために、日本においても都と諸国の国府を結ぶ主要道路は整備された。しかし、地方間の交通は農民の逃亡を助けることになるとして、主要官道を除いてほとんど整備されず、地方の川には年貢を都へ運ぶときだけ舟橋で渡せばよいと考えられていた(『日本紀略』の延暦20年5月甲戌条)。 江戸時代においても軍事的・政治的理由から、大きな河川には橋が架けられず、鎖国(海禁政策)や大船建造の禁(武家諸法度の一部)が出されたほか、江戸防衛を理由に街道筋で牛馬車など車両を使用した物流を禁じる方針を採った。このため日本の道路は鋪装されることがほとんどなく、車輪を用いた車は大八車といった荷物運搬用以外に用いられることは、牛車などしかなかった。馬の使用についても制限が加えられていた。物資の輸送には川舟や小型の商船が用いられており、大都市では水路が発達していた。 明治維新を経て、近代国家へと変貌していくにあたり、鉄道網を構築することが優先された。道路については後回しとなったが、第二次世界大戦後に本格的な整備が始まった。高度経済成長期には本格的な自動車専用道路である高速道路が、日本で初めて登場した(名神高速道路)。その後は1964年東京オリンピックや1970年大阪万博などを契機に新幹線や都市高速道路の整備がはじまり、現在では総延長14000kmの高速道路網が整備されており、新幹線についても整備が進んだ。しかしモータリゼーションの進展による中心市街地の衰退、老朽化など、さまざまな面でひずみも抱えている。
{{出典の明記|date=2022年5月}} {{Pie chart | caption = [[旅客輸送]]シェア(2020年, 人キロ別)<ref name=share_p /> | label1 =[[日本の鉄道|鉄道]] | value1 =81.8 | label2 =自動車(自家用除く) | value2 =8.0 | label3 =旅客船 | value3 =0.5 | label4 = 航空 | value4 = 9.8 }} {{Pie chart | caption = 貨物輸送シェア(2020年, トンキロ)<ref name=share_f /> | label1 =鉄道 | value1 =4.9 | label2 =自動車 | value2 =52.9 | label3 =海運 | value3 = 42.0 | label4 = 航空 | value4 = 0.2 }} '''日本の交通'''(にほんのこうつう)では、[[日本]]の[[交通]]の歴史や状況などを述べる。公共交通において現代日本は[[日本の鉄道|鉄道旅客輸送]]の比率が高く<ref name=share_p />、鉄道旅客輸送キロ数は中国に次いで[[世界]]2位である<ref>{{Cite web|publisher=世界銀行 |title=Railways, passengers carried (million passenger-km) |url=https://data.worldbank.org/indicator/IS.RRS.PASG.KM?most_recent_value_desc=true |accessdate=2023-10}}</ref>。 [[蒸気機関]]や[[内燃機関]]が導入される以前において、日本の支配層は伝統・秩序の保持や、軍事的な理由などから交通を活発にすることにあまり好意的ではなかった。『[[日本書紀]]』においても、人々の往来を妨害する神(「荒神」)や地元の人々の存在が多数登場しており、[[大化の改新]]直後においても旅人がその地域の慣習を知らずに禁忌を犯したために地元の人々に処罰されていることが問題視されているなどの記載がある。 国家としての形態を成すために、日本においても都と[[令制国|諸国]]の[[国府]]を結ぶ主要道路は整備された。しかし、地方間の交通は農民の逃亡を助けることになるとして、主要[[官道]]を除いてほとんど整備されず、地方の川には[[年貢]]を都へ運ぶときだけ[[舟橋]]で渡せばよいと考えられていた(『[[日本紀略]]』の[[延暦]]20年5月甲戌条)。 江戸時代においても軍事的・政治的理由から、大きな河川には橋が架けられず、[[鎖国]]([[海禁政策]])や[[大船建造の禁]]([[武家諸法度]]の一部)が出されたほか、江戸防衛を理由に街道筋で牛馬車など車両を使用した物流を禁じる方針を採った。このため日本の道路は鋪装されることがほとんどなく、車輪を用いた車は[[大八車]]といった荷物運搬用以外に用いられることは、[[牛車]]などしかなかった。[[ウマ|馬]]の使用についても制限が加えられていた。物資の輸送には[[川舟]]や小型の商船が用いられており、大都市では水路が発達していた。 [[明治維新]]を経て、近代国家へと変貌していくにあたり、鉄道網を構築することが優先された。道路については後回しとなったが、第二次世界大戦後に本格的な整備が始まった。[[高度経済成長]]期には本格的な自動車専用道路である[[高速道路]]が、日本で初めて登場した([[名神高速道路]])。その後は[[1964年東京オリンピック]]や1970年[[日本万国博覧会|大阪万博]]などを契機に[[新幹線]]や[[都市高速道路]]の整備がはじまり、現在では総延長14000kmの高速道路網が整備されており、新幹線についても整備が進んだ。しかし[[モータリゼーション]]の進展による中心市街地の衰退、老朽化など、さまざまな面でひずみも抱えている。 == 現在 == {{See also|日本の企業一覧 (空運)|日本の企業一覧 (陸運)|日本の企業一覧 (海運)}} <gallery widths=450px heights=380px> Passenger transport share timeline of Japan.svg|旅客輸送推移(百万[[人キロ]])<ref name=share_p>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=外国輸送機関別輸送量の推移(旅客 輸送人キロ))|date=2012 |url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html }}</ref> Freight transport share timeline of Japan.svg|貨物輸送推移(百万[[トンキロ]])<ref name=share_f>{{Cite report|和書|publisher=国土交通省 |title=外国輸送機関別輸送量の推移(貨物 輸送トンキロ)|date=2012 |url=https://www.mlit.go.jp/statistics/details/tetsudo_list.html }}</ref> </gallery> : ※2010年に自動車輸送統計の基準を変更したため、その前後で数値は一致しない<ref name=share_p /><ref name=share_f />。 === 道路 === {{main|日本の道路}} 高度成長期までは日本の道路は劣悪であったが、1960年代以降盛んに道路建設が行われ、全国に高水準の道路整備が行き渡っている。高速道路の建設も進み、ほぼ全国に高速道路網が整備されている。安全対策の進展により交通事故による死者数は減少しているが、大都市圏を除けば一人一台の時代となり交通量が増え、高齢化や道路の老朽化も進み、新たな問題も生まれている。 バブル崩壊後の財政状況から道路整備予算は圧縮される傾向にあり、[[道路公団民営化]]や[[道路特定財源]]の一般財源化など制度面での変化が起こっている。 === 鉄道 === {{main|日本の鉄道}} 日本では都市部を中心に鉄道の需要が非常に大きく、大都市では地下鉄や通勤鉄道路線の整備が続いているが、地方では高度経済成長とモータリゼーションの進展以降、鉄道の利用割合は減少を続けており、廃止される路線が多い。一方で、地方部でも新幹線が整備されていない地域を中心に、新幹線を求める声は依然として大きい。 [[東海旅客鉄道|JR東海]]は[[リニアモーターカー]]方式である[[中央新幹線]]の整備を行うことを決定しており、日本の鉄道網の高速化はさらに進むことになる。 === 航空 === {{main|日本の空港}} 全国に空港の建設が行われ、空港の無い府県のほうが少数となっている。しかし地方の中小規模空港では多額の建設費をかけて開港にはこぎつけたものの需要不足に苦しむ空港も少なくない。21世紀になると[[成田国際空港]]は着陸料が高いために旅客需要を[[香港国際空港]]や[[仁川国際空港]]([[大韓民国|韓国]])などに奪われ、[[ハブ空港]]としての地位が低下した。 === 海運・水運 === {{Main|海運#日本|水運}} {{See also|日本の港湾一覧|造船#日本|造船#日本の造船産業}} 四方を[[海]]に囲まれ、日本には欠かせない[[運送]]手段であり、沿岸部に[[工業地域]]・[[工業地帯]]や[[人口]]が集中する理由でもある。[[2020年]]現在、日本には994の港湾があり、中でも重要度の高い港湾は[[国際戦略港湾]](5港)[[国際拠点港湾]](18港)に指定されている<ref>[https://www.phaj.or.jp/distribution/data/lanking.html ランキング] 日本港湾協会 2022年5月25日閲覧。</ref>。また漁港は2790あり、中でも漁業の中心地かつ漁業の振興に欠かすことの出来ない漁港13港は[[特定第3種漁港]]に指定されている<ref>[https://www.jfa.maff.go.jp/j/gyoko_gyozyo/g_zyoho_bako/gyoko_itiran/sub81.html 漁港一覧] 水産庁 2022年5月25日閲覧。</ref>。[[日本郵船]]や[[商船三井]]などの世界有数の規模を持つ船会社が19世紀の後半から各国との間に[[貨物船]]や[[旅客船]]を運航してきた。現在、[[中東]]や東南アジアから[[石油]]や天然ガスなどの[[資源]]が輸入され、ヨーロッパやアメリカ合衆国へ電化製品や自動車などが輸出される。さらに、大小の船会社によって多数の[[貨客船|貨客]][[フェリー]]や[[高速船]]が運航される。また、[[造船]]分野においても、その技術力の高さから世界有数の規模を保つ。 == 歴史 == [[ファイル:Kuruma zukushi.jpg|thumb|right|明治期の日本の様々な交通機関]] === 律令時代 === [[古代]]は[[律令制]]の整備に伴い、[[駅制]]が敷かれて都([[畿内]])と地方の間に道路が整備され、[[駅家]]が置かれた。これを[[日本の古代道路|古代官道]]というが、古代官道は地方広域区分である[[五畿七道]]に沿って整備された。 * 五畿七道:'''[[畿内]]、[[西海道]]、[[南海道]]、[[山陽道]]、[[山陰道]]、[[東海道]]、[[東山道]]、[[北陸道]]''' === 戦国時代まで === [[中世]]には[[都市]]の発達に伴い、年貢や物資の輸送の必要性から陸上交通が整備され、[[定期市]]なども開かれた。これに伴い、[[港]]や[[廻船]]も整備され、海上交通や海上輸送も行われるようになる。交通の要所には、[[幕府]]や[[戦国大名]]や有力寺社などが[[関所|関]]を設置して、[[関銭]]が徴収された。 === 江戸時代 === [[ファイル:Ryūkō kuruma zukushi LCCN2002700131.jpg|thumbnail]] [[江戸]]を新たな中心として、日本各地で街道の整備が進められた。経済発展に伴って水上交通が盛んになり、海上航路の開発や運河の整備が行われた。 * [[街道]] ** [[宿場町]]の発展 ** [[五街道]](始点:[[日本橋 (東京都中央区の橋)|日本橋]]):'''[[東海道]]、[[中山道]]、[[甲州街道]]、[[奥州街道]]、[[日光街道]]''' * [[樽廻船]]、[[菱垣廻船]] * [[駕籠]]、馬([[馬子]])、[[北前船]]、[[車石|車道]](くるまみち)など。 === 明治から第二次大戦まで === [[ファイル:Tōkyō Takanawa ōrai kuruma zukushi yukiai no zu LCCN2002700201.jpg|thumbnail]] [[明治]]に入ると近代国家になるために交通網を整備する必要があった。整備を進めやすいために道路よりも[[鉄道]]を優先して建設された。鉄道の建設には多くの問題や妨害があったが、品川・横浜間で仮営業が始められた後、新橋・横浜間の営業が始められた。これを契機として、官民による鉄道の建設が進められた。都市内においては[[路面電車]]や[[地下鉄]]が整備され、馬車の走行のために[[ガス灯]]の設置や[[舗装]]が進められた。しかし、地方の道路整備は遅々として進まず、幹線道路でも自動車の通行に適さない区間が大量にあった。 * [[人力車]]、[[馬車鉄道]]、[[人車軌道|人車鉄道]]など:明治初期 * 平地が少なく険しい[[山地]]が多い国土→[[トンネル]] === 第二次大戦後 === [[ファイル:Directional Marker of Kusatsu PA and Kusatsu JCT 2010.jpg|thumb|300px|名神高速道路 [[草津ジャンクション|草津JCT]]]] [[第二次世界大戦]]中まで[[自動車]]用の道路の整備があまり進まず、[[国道]]にあっても舗装率は非常に低かった。経済復興のため、名古屋と神戸を結ぶ名古屋・神戸高速道路(現在の[[名神高速道路]])が計画されたが、高速道路の計画をたてられる[[交通工学]]の技術者が日本にはいなかったために[[国際連合]]に要請して計画書が策定された。それが[[1956年]]に出された[[ワトキンス・レポート]]である。その中で「日本の道路は信じがたいほどに悪い。工業国にして、これほど道路を無視してきた国は日本の他にない」と述べられた。この報告書も後押しとなり、日本の道路整備は飛躍的に進んでいく。 鉄道においては高速化のために[[蒸気機関車]]から[[気動車]](ディーゼルカー)への転換や[[鉄道の電化|電化]]が進められていった。 敗戦の影響で、航空機の開発を制限された日本では航空機製造の分野では振るわなかったが、戦前に活躍した技術者の多くが鞍替えすることで日本の自動車産業の成長を支えることとなった。 [[1964年]]の東京オリンピックに合わせて、[[東名高速道路]]の建設や[[東海道新幹線]]の開通などが相次いだ。[[東京都区部|東京]]の[[首都高速道路]]も[[1962年]]に一部開通し、これは日本初の[[都市高速道路]]でもあった。[[1960年代]]後半頃からマイカーの普及が本格化し、自動車の台数が大幅に増加した([[モータリゼーション]])。その一方で、道路や自動車の利用環境の整備の遅れなどから交通事故も激増し、[[交通戦争]]と称された。[[暴走族]]の出現も問題となった。交通事故防止の対策として、[[横断歩道橋]]などの設置による[[歩車分離]]を実施していった。乗用車の保有台数は[[1971年]](昭和46年)には1000万台に達した。 在来鉄道が[[モータリゼーション]]進展の波に押されて停滞する一方で、高速旅客鉄道である[[新幹線]]は日本の大動脈へと成長していく。自動車と航空旅客輸送の間を埋める日本の新幹線の成功により、停滞傾向にあった鉄道を見直す機運が高まり、[[ヨーロッパ]]や[[アジア]]の国々にも高速旅客鉄道を登場させる動機となった。 資源の多くを海外に頼る日本では、戦前から造船技術が発達し、戦後も大型[[タンカー]]などの建造が活発に行われ、鉄鋼業とともに日本の経済と物流の一翼を担った。空港の整備が進められ、航空輸送が徐々に拡大した。[[円 (通貨)|円]]の価値が一段と上昇した1980年代以降は、海外へのビジネスや旅行の渡航も活発になった。 == 交通体系を基準にした地方区分 == 交通体系や[[道路]][[地図]]などでは[[地形]]的条件に則り、律令時代の[[五畿七道]]や、江戸時代の[[五街道]]などを目安として、地方を区分することが多い。 {| class="wikitable" style="font-size:90%; margin:1em 2em" ! colspan="2" | ! [[日本海]]側 !! [[内陸]] !! [[瀬戸内海]]側 !! [[太平洋]]側 |- !|[[北海道 (島)|北海道]] ! [[北海道地方]] | 西岸([[函館本線]]) || 北岸([[宗谷本線]]) || || 東岸([[根室本線]]) |- ! rowspan="5" | [[本州]]・[[四国]] ! [[東北地方]] | [[出羽国]] || || || [[陸奥国]] |- ! [[関東地方]] | || [[中山道]]([[上信越|上信]])<br />[[甲信地方|甲信]]([[甲州街道]])|| || [[陸奥国]]<br />[[東海道]] |- ! [[中部地方]] | [[北陸道]]<br />[[上信越|上信]] || [[中山道]]([[甲信地方|甲信]]) || || [[東海道]] |- ! [[近畿地方]] | [[北陸道]]<br />[[山陰道]] || [[中山道]](甲信)|| [[山陽道]]<br />四国北岸 || [[東海道]]<br />[[南紀]] |- ! [[中国・四国地方]] | [[山陰道]] || || [[山陽道]]<br />四国北岸 || 四国南岸 |- ! rowspan="2" | [[南日本]] ! [[九州|九州地方]] | 筑肥([[鹿児島本線]]) || || [[日豊]]([[日豊本線]]) || |- ! [[南西諸島]] | || || || |} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist}}--> === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commonscat|Transport in Japan}} * [[日本の道路年表]]、[[日本の高速道路一覧]] * [[日本のバス]] * [[日本の自転車]] * [[橋]](日本と世界の橋が一括して書かれている) {{日本関連の項目}} {{アジアの題材|交通|mode=4}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんのこうつう}} [[Category:日本の交通|*]] [[Category:交通史|*にほんのこうつう]]
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オペレーティングシステム
オペレーティングシステム(英: operating system、略称:OS、オーエス)とは、コンピュータのオペレーション(操作・運用・運転)を司るシステムソフトウェアである。 オペレーティングシステムは通常、ユーザーやアプリケーションプログラムとハードウェアの中間に位置し、ユーザーやアプリケーションプログラムに対して標準的なインタフェースを提供すると同時に、ハードウェアなどの各リソースに対して効率的な管理を行う。現代のOSの主な機能は、ファイルシステムなどの補助記憶装置管理、仮想記憶などのメモリ管理、マルチタスクなどのプロセス管理、更にはGUIなどのユーザインタフェース、TCP/IPなどのネットワーク、などがある。パーソナルコンピュータからスーパーコンピュータまでの各種のコンピュータや、スマートフォンやゲーム機などを含む各種の組み込みシステムで、内部的に使用されている。 商品として(ないし製品として)のOSには、デスクトップ環境やウィンドウシステムなど、あるいはデータベース管理システム (DBMS) などのミドルウェア、ファイル管理ソフトウェアやエディタや各種設定ツールなどのユーティリティ、ウェブブラウザや時計などのアクセサリが、マーケティング上の理由などから一緒に含められていることもある。 スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点でAndroidが約72%、iOSが約27%である。Androidは広い意味でのLinuxの一種であり、Linuxのカーネルを一部改編し他のオープンソース・ソフトウェアを組み合わせたものである。 ノートPCやデスクトップPCのOSおよびそのシェアは、2021年時点でWindows 75.4%、macOS 15.93%、ChromeOS 2.59%、Linux 2.33%となっている。macOSはFreeBSDを基にしたUnix系のOSである。 スーパーコンピュータのOSは、2000年ころはUNIXが9割ほどを占めていたが、その後の10年間でそのほぼ全てがLinuxに置き換わり、2021年現在では世界のスーパーコンピュータのTOP500のほぼ100%がLinuxである。 組み込みシステムでは組み込みオペレーティングシステムと呼ばれるOSを用いる。小規模な組み込みシステムのなかには明確なOSを内蔵していないものもあるので曖昧な面もあるが、組み込みOSを搭載しているものに関しては2019年時点でのシェアでTRON(トロン)系がおよそ60%であり、24年連続トップを占める。TRON系のなかでもITRON(アイトロン)が最も普及している。TRON以外では、次いでPOSIX系つまりUNIX系、Linux類などである。米リナックスワークスのLynxOS(リンクスオーエス)、米ウィンドリバーのVxWorks(ヴイエックスワークスト)、米シンビアンのSymbian OS(シンビアン・オーエス)など。 オペレーティングシステムの主な目的は、ハードウェアの抽象化、リソースの管理、そしてコンピュータ利用効率の向上である。 オペレーティングシステムはアプリケーションソフトウェアを動作させるのが第一の目的である。このためのインタフェースがアプリケーションプログラミングインタフェース (API) とアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) である。カーネルはシステムコールによってアプリケーションにサービスを提供する。さらに基本ライブラリも含めた形でアプリケーションに対してAPI/ABIを提供する。アプリケーションによってはオペレーティングシステム上のミドルウェアやアプリケーションフレームワークなどをAPIとして使用する場合もある。 APIはプログラミングのためのインタフェースであり、プログラムを作成する際の規則を構成する。例えば、C言語での関数やFORTRAN/Pascalなどのライブラリ呼び出しの仕様といったものがそれにあたる。 一方、ABIはコンパイルされたソフトウェアがオペレーティングシステムの機能を呼び出す際のインタフェースであり、プロセスが動作する際の規則を構成する。例えば、Unix系のオペレーティングシステムはAPIがほとんど共通だが、ABIはオペレーティングシステムによって異なる。したがって、同じCPUを使ったシステムであっても、ABIが異なれば実行ファイルが異なる。ABIには、呼出規約、システムコールの方法などが含まれる。 なお、オペレーティングシステムの垣根を越えたABIもいくつか存在する。例えば、OCMP (Open Computing Environment for MIPS Platform) というMIPS系チップを使用したUNIX機によるバイナリ共通インタフェースが日本電気やソニー、住友電気工業、日本タンデムコンピューターズなどにより定義され、その定義に沿ったUNIXオペレーティングシステムが複数販売された。 ファームウェアとデバイスドライバの助けを借り、カーネルはコンピュータの全ハードウェアデバイスの基本的制御を提供する。RAM上のプログラムのメモリアクセスを管理し、どのプログラムがどのハードウェア資源へのアクセスを得るかを決定し、常に運用が最適化されるようCPUの状態を設定し、ファイルシステムと共にディスク、磁気テープ、フラッシュメモリといった長期的不揮発性記憶装置でのデータの編成を行う。 オペレーティングシステムはアプリケーションプログラムとコンピュータハードウェアの間のインタフェースを提供し、オペレーティングシステムに組み込まれた規則や手続きに従うことによってアプリケーションプログラムはハードウェアとやりとりできる。オペレーティングシステムはまた、アプリケーションプログラムの開発と実行を簡素化するサービス群も提供する。アプリケーションプログラムの実行にあたって、オペレーティングシステムのカーネルがプロセスを生成する。プロセスの生成には、メモリ空間などの資源の割り当て、マルチタスクシステムでのプロセスへの優先度の割り当て、プログラムのバイナリコードのメモリへのロード、アプリケーションプログラムの実行開始といった仕事が含まれる。そうして初めてユーザーやハードウェアデバイスとやりとりを開始できる。 割り込みはオペレーティングシステムの要であり、オペレーティングシステムが周囲の環境と相互作用し反応するための効率的手段となっている。非常に小さなスタック(50バイトや60バイト)しか持たない古いシステムでは、オペレーティングシステムが対応しなければならないイベントの発生源を「監視」するポーリング方式を採用していたが、現代の大きなスタックを持つシステムでは一般的ではない。現代の多くのCPUは、割り込みをベースとしたプログラミングを直接サポートしている。割り込みが発生すると、その時点のレジスタコンテキストを退避し、そのイベントに対応した特定のコードを実行する。非常に基本的なコンピュータにもハードウェア割り込み機能があり、プログラマは特定の割り込みが発生したときに実行すべきコードを設定することができる。 割り込みを受信すると、コンピュータのハードウェアは実行中のプログラムを自動的に一時停止させ、状態を退避させ、その割り込みに事前に割り当てられているコードを実行する。これは例えば読書中に電話が鳴ったとき、本にしおりを挟み、電話に出るのに似ている。現代的なオペレーティングシステムでは、割り込みはオペレーティングシステムのカーネルが扱う。割り込みはコンピュータのハードウェアが発生させる場合もあるし、実行中のプログラムが発生させる場合もある。 ハードウェアから割り込みが発生した場合、オペレーティングシステムのカーネルがそのイベントにどう対応するかを一般に何らかの処理コードを実行して決定する。割り込みには優先順位があり、それに従って実行するコードが決定される。再び人間にたとえれば、電話が鳴ると同時に火災を知らせる火災報知器の非常ベルも鳴ったら、電話には出ずに避難するだろう。ハードウェア割り込みの処理は通常、デバイスドライバと呼ばれるソフトウェアに委任される。デバイスドライバはオペレーティングシステムのカーネルの一部という場合もあるし、別のプログラムという場合もあるし、混在する場合もある。デバイスドライバは割り込みによって得た情報を各種手段を通じて動作中のプログラムに中継する。 実行中のプログラムがオペレーティングシステムに対して割り込みを発生させる場合もある。例えば、あるプログラムがハードウェアにアクセスしたい場合、オペレーティングシステムのカーネルに対して割り込みを発生させ、結果として制御をカーネルに移す。するとカーネルは必要な処理を行う。また、プログラムがメモリなどの資源を追加で要求する場合、割り込みを発生させてカーネルに知らせる。ただし、それらは一般にシステムコールと呼ばれ、ハードウェア割り込みとは実装が異なることもある。 現代的CPUには複数の運用モードがある。その場合、少なくともユーザーモードとスーパーバイザモードの2つが存在する。スーパーバイザモードはオペレーティングシステムのカーネルが使用するモードで、ハードウェアに無制限にアクセスでき、メモリの読み書きの方法を制御したり、グラフィックスカードなどのデバイスとやりとりしたりできる。一方ユーザーモードはカーネル以外のほぼ全てが使用する。アプリケーションはユーザーモードで動作し、ハードウェアとのやりとりはカーネルを通す必要がある。CPUは2つ以上のモードを持つこともあり、古いプロセッサをエミュレートするのに使ったりする。 コンピュータが起動した際は、自動的にスーパーバイザモードで動作する。BIOSやEFI、ブートローダー、オペレーティングシステムのカーネルといったごく一部のプログラムがスーパーバイザモードで動作する。このようになっているのは、ユーザーモードの環境の初期化はその外側にあるプログラムでないと行えないためである。しかし、オペレーティングシステムが他のプログラムに制御を渡す際には、CPUをユーザーモードに設定できる。 ユーザーモードでは、プログラムが使用できるCPUの命令セットが制限されている。ユーザープログラムでユーザーモードを抜け出すには、割り込みを発生させ、カーネルに制御を戻す。そのようにしてハードウェアやメモリへのアクセスといったことへの独占的制御をオペレーティングシステムが保持している。 パーキンソンの法則によると、「メモリを拡張するとプログラムはそれに伴って拡大する」という。プログラマーは無限の容量と無限の速度のメモリを理想としている。コンピュータのメモリは階層構造になっていて、最も高速なレジスタから、キャッシュメモリ、RAM、最も低速なディスク装置がある。オペレーティングシステム内のメモリ管理部はこのようなメモリを管理するもので、利用可能な部分、割り当てと解放、主記憶と二次記憶との間でのスワップなどを制御する。 マルチプログラミング・オペレーティングシステムのカーネルはプログラムが使用中の全システムメモリの管理責任を負っている。それによってあるプログラムが既に別のプログラムが使用しているメモリを誤って使用しないようにしている。プログラム群は時分割で動作するので、それぞれのプログラムの独立したメモリアクセスが可能となっている。 協調的メモリ管理は初期のオペレーティングシステムでよく使われた方式で、全プログラムが自発的にカーネルのメモリ管理機構を使い、割り当てられたメモリをはみ出さないように動作することを前提としている。プログラムにはバグがつきもので、そのために割り当てられたメモリからはみ出すこともあるため、このようなメモリ管理は今では見られない。プログラムが異常動作すると、他のプログラムが使用中のメモリを書き換えることもあった。悪意あるプログラムやウイルスが意図的に他のプログラムのメモリを書き換えたり、オペレーティングシステム自体の動作を妨げたりすることも可能である。協調的メモリ管理では、たった1つのプログラムがおかしな動作をするだけでシステム全体がクラッシュする。 カーネルによるメモリ保護により、プロセスのメモリへのアクセスが制限される。メモリ保護には様々な技法があり、セグメント方式とページング方式が代表的である。どの技法でも何らかのハードウェアサポートが必要であり(例えば、80286のMMUなど)、あらゆるコンピュータがそのようなハードウェア機構を備えているわけではない。 セグメント方式でもページング方式でも、CPU内のユーザーがアクセスできないレジスタ群でユーザープログラムがアクセス可能なメモリアドレスの範囲を設定している。その範囲外のアドレスにアクセスしようとすると割り込みが発生してCPUがスーパーバイザモードに遷移し、カーネルがその状況に対処する。これをセグメンテーション違反と呼ぶ。セグメンテーション違反は一般にプログラムの間違いから発生するので、実行を継続するような対処は困難であり、カーネルは問題のプログラムを強制終了させ、エラーを報告するのが一般的である。 Windows 3.1からWindows Meまでは何らかのメモリ保護機構を備えていたものの、それを回避するのも容易だった。そのためセグメンテーション違反の発生を知らせる一般保護違反(英語版)が考案されたが、それでもシステムがクラッシュすることが多かった。 ページングやセグメントによる仮想記憶を使用することで、カーネルは任意の時点で各プログラムが使用するメモリを選択でき、同じメモリ位置を複数タスクで使用させることも可能となる。 あるプログラムが使用可能な現在のメモリ範囲だが物理メモリが割り当てられていない位置にアクセスしようとしたとき、セグメンテーション違反のように割り込みによってカーネルに遷移する。このような割り込みをUnix系ではページフォールトと呼ぶ。 カーネルがページフォールトを受け付けると、そのプログラムに割り当てられた仮想メモリ空間の調整を行い、要求されたメモリアクセスが可能になるよう物理メモリを割り当てる。これにより、カーネルはそれぞれのアプリケーションへのメモリ割り当てを自由に決定でき、さらには実際には割り当てないでおくことも可能となる。 現代的オペレーティングシステムでは、相対的にアクセス頻度が低いメモリを一時的にディスクなどの二次記憶装置に退避させ、主記憶を他のプログラムのために空けることができる。これをスワッピングと呼び、限られたメモリを複数のプログラムで使用可能にし、メモリの内容を必要に応じて退避させたり復帰させたりできる。 仮想記憶により、実際に搭載しているよりも多くのRAMを使用しているかのような感覚でコンピュータを使用することができる。 コンピュータ上の各動作はバックグラウンドであっても一般のアプリケーションであっても、内部的にはプロセスとして動作する。DOSのような機能の限定されたオペレーティングシステムは一度に1つのプロセスしか実行できない。近代的なオペレーティングシステムは一度に複数のプロセスを動作させることができる(マルチタスク)。プロセス管理は複数のプロセスを実行するためにオペレーティングシステムが行う処理である。プロセッサを1つだけ持つ一般的なコンピュータでは、マルチタスクは高速にプロセスからプロセスへ切り替えを行うことで実現される。ユーザーがより多くのプロセスを実行すれば、個々のプロセスに割り当てられる時間は少なくなっていく。多くのシステムでは、これが音声の途切れやマウスカーソルの奇妙な動作などを引き起こす。一般的なプロセス管理は、プロセスごとに優先度を与え、それによって配分される時間を決めている。 オペレーティングシステムのカーネルにはスケジューラと呼ばれるソフトウェアが含まれており、プロセッサが実行すべきプロセスの順序と一度に実行する期間を決定している。スケジューラが選択したプロセスにカーネルが制御を渡し、それによってそのプログラムがCPUとメモリにアクセス可能になる。その後何らかの機構で制御がカーネルに戻され、スケジューラが再び新たなプロセスを選択する。このようなカーネルとアプリケーション間の制御の切り替えをコンテキストスイッチと呼ぶ。 プログラム群へのCPU時間の割当方法の初期のモデルとして協調的マルチタスクがある。このモデルでは、カーネルがあるプログラムに制御を渡すと、そのプログラムは時間を制限されることなく処理を行え、カーネルには自発的に制御を戻すことになっている。したがって、悪意あるプログラムやバグのあるプログラムがあると他のプログラムにCPU時間が割り当てられなくなり、無限ループに陥っている場合はシステム全体がハングアップする。 プリエンプティブ・マルチタスクでは、動作中のプロセスから任意の時点で制御を奪うことができ、全プログラムに所定のCPU時間を割り当てることが可能である。これを実現するためオペレーティングシステムはタイマ割り込みを使用し、所定の時間が経過したら割り込みを発生させてスーパーバイザモードに制御を戻させ、カーネルがスケジューラを呼び出す。 現代的オペレーティングシステムでは、プリエンプションの考え方をユーザーモード(アプリケーション)だけでなくデバイスドライバやカーネルコードに対しても適用し、リアルタイム性を向上させている。 ホームコンピュータなどのシングルユーザー・オペレーティングシステムでは、少数のよく評価されたプログラムしか使わないことが多く、協調的マルチタスクで全く問題ない。例外として AmigaOS は初期のバージョンからプリエンプティブ・マルチタスクを実現していた。Microsoft Windows で初めてプリエンプティブ・マルチタスクを実装したのは Windows NT だが、それが一般家庭向けに発売されるのは Windows XP からだった。 ディスクに格納したデータへのアクセスは、あらゆるオペレーティングシステムの中心的機能である。コンピュータはファイルという形でディスクにデータを格納する。ディスクの内容は高速アクセス、高信頼性、ディスク領域の利用効率などを考慮して編成される。このファイルをディスクに格納する方式をファイルシステムと呼び、それによってファイルに名前と属性が付与される。また、ディレクトリあるいはフォルダと呼ばれる構造を使い、ファイル群を階層構造(木構造)内に格納できる。 初期のオペレーティングシステムは一種類のディスク装置しかサポートしておらず、ファイルシステムも一種類ということが多かった。初期のファイルシステムは容量や性能が低く、ファイル名やディレクトリ構造の面で制約が多かった。そういった制約はオペレーティングシステム自体の設計上の制約を反映していることが多く、複数のファイルシステムをサポートするのもオペレーティングシステムの制約の観点から非常に困難だった。 より単純なオペレーティングシステムではストレージへのアクセス手段が限られているが、UNIXやLinuxなどのオペレーティングシステムでは仮想ファイルシステム (VFS) という機構をサポートしている。UNIXなどのオペレーティングシステムは様々なストレージデバイスをサポートしており、それらの仕様やファイルシステムとは独立した共通のアプリケーションプログラミングインタフェース (API) でアクセスできるようにしている。そのためプログラムはアクセスしようとしているデバイスに関する知識を持つ必要がない。VFS機構により、プログラムはデバイスドライバとファイルシステムドライバを経由してシステム上のあらゆるデバイスと様々なファイルシステムにアクセス可能となる。 ハードディスクドライブなどの補助記憶装置には、デバイスドライバを通してアクセスする。デバイスドライバは担当するデバイスのインタフェースをよく理解しており、それをオペレーティングシステムが全ディスクドライブに共通で用意しているインタフェースに変換する。UNIXでは、それがブロックデバイスのインタフェースである。 Linuxを元プラットフォームとして開発されたものにはext2、ext3、ReiserFSなどがある。また、他のプラットフォームからXFS、JFS、FATファイルシステムなどが移植され、NTFSも不十分ながら読み書きが可能である。 Macintoshではまず最初にMacintosh File System (MFS) が実装されたが、ディレクトリ機能を備えていなかったためファイルブラウザFinderでフォルダをエミュレーションしていた。その後Hierarchical File System (HFS) でディレクトリ機能を実装し、現在は改良を加えたHFS+が採用されている。現在macOSで読み書きが可能なものはHFS、HFS+、UNIX File System (UFS)、FATとなる。なおUFSの使用は一般でなく、FATへの対応は他プラットフォームとのデータ交換に用いられる。NTFSは読み込みのみが可能であり、書き込みについてはCommon Internet File System (CIFS) によるネットワークを介したものに限られる。 Windowsが標準で扱えるファイルシステムは、FAT、FAT32、NTFSである。NT系のWindowsではNT3.51まではOS/2標準のHPFSにアクセス可能だった。現在Windows上ではNTFSが最も信頼性と効率が高いものとして一般的に利用される。FATはMS-DOSから採用される古いファイルシステムであるが、パーティションやファイルサイズに制限があり、大容量化したハードディスクではあまり用いられない。このためファイルサイズの制限をなくしたexFATが新たに開発された。なお、exFATはVistaや7では標準で使えるが、XPでexFATを使うためには専用のプログラムを新たにインストールする必要がある。 FATはその仕様の制限から大容量のハードディスクには向かないが、その一方構造が単純でデジタルカメラや携帯電話などの組み込みシステム向けを含むさまざまなオペレーティングシステムで読み書き可能なことから、各種メモリカードやUSBメモリなどプラットフォームを跨ぐ用途においては主流である。なお、それらフラッシュディスクの大容量化に対応するため、マイクロソフトはFATを拡張したexFATというファイルシステムを発表している。 MacintoshからWindows等へファイルを転送すると、転送先のWindows側に本体とは別のファイルが出現することがある。これはHFSやHFS+のみがサポートするリソースフォークと呼ばれるデータ構造によるもので、Macintoshではそれらを一元的に管理を行うため一つの書類に見える。このように幾つものフォークを一つのデータに格納することをマルチフォークと呼び、もとのデータを改変することなくオペレーティングシステム独自の管理情報を容易に付与できる機能だが、実質的にMacintoshでしか利用できない。 ファイルシステムには、急な電源切断などによる障害へ対応する機構を持つものがある。 ジャーナルファイルシステムが最もよく採用される機構であり、その他にもZFSのように書き込み操作をトランザクションとして扱うものもある。これらを用いることで、障害復旧時のチェックを大幅に短縮する、または完全に不要にする。一方これらの機構を持たないファイルシステムでは、ファイルシステムの整合性を保つためストレージ全体を検査する必要がある。 デバイスドライバはハードウェアとのやり取りをするためのソフトウェアである。一般にハードウェアとの通信を行うインタフェースを持ち、ハードウェアの接続される何らかの通信サブシステムやバスを経由して通信を行う。コマンドをハードウェアに送り、データの送受信を行う。また、一方でオペレーティングシステムやアプリケーションに対するインタフェースも提供する。ハードウェアに強く依存するプログラムであり、オペレーティングシステムにも依存している。これによって、オペレーティングシステムやアプリケーションがハードウェアを使って動作することが容易になっている。ハードウェアの非同期的な割り込みの処理もデバイスドライバの役割である。 デバイスドライバの主たる設計目標は抽象化である。ハードウェアは用途が同種のものであっても、機種によって動作や性能などがそれぞれ異なる。新たな機能や性能を提供するハードウェアが登場したとき、それらは従来とは異なった制御方式を採用していることが多い。オペレーティングシステムを将来にわたってあらゆるハードウェアを制御できるように設計するのは困難である。従って、個別のハードウェアの制御をオペレーティングシステムから切り離す必要がある。デバイスドライバはオペレーティングシステムとのインタフェース(関数呼び出し)をデバイス固有の処理に変換することが主たる機能となる。理論的には、新たな制御方法の新しいハードウェアが登場しても、そのハードウェア用のドライバが古いオペレーティングシステムに対応していれば、古いオペレーティングシステムでもドライバだけ置き換えればハードウェアを制御可能となる。 Vista以前のWindowsやバージョン2.6より以前のLinuxカーネルでは、ドライバ実行は協調的だった。すなわち、あるドライバが無限ループに陥ると、システム全体がフリーズした。その後のバージョンではプリエンプションが可能となり、カーネルがドライバを中断させることができるようになった。 多くのオペレーティングシステムはTCP/IPプロトコルをサポートしている。歴史的に見れば、初期のコンピュータネットワークはモデムを使って電話回線で行われていた(BSC手順など)。その後、パケット通信が使われるようになり、IBMのSNAなどの各社独自のネットワークアーキテクチャが登場した。現在では、TCP/IPを中心とした通信が主流となっている。 通信プロトコルは、トランスポート層まではカーネル内モジュールとして実装し、プレゼンテーション層より上はシステムプロセスとして実装されるのが一般的である。セッション層の実装はシステムによって異なる。 このようなネットワーク機能により、異なるオペレーティングシステム間でネットワークを形成し、計算能力 (RPC)、ファイル、プリンター、スキャナーなどのリソースを共有できる。ネットワークにより、あるコンピュータのオペレーティングシステムが遠隔のコンピュータにあるリソースをあたかも自身に直接接続されているかのように透過的に利用できる。単純な通信に始まり、分散ファイルシステム、グラフィックスやサウンドといった機能の共有まで様々な応用がある。透過的アクセスの例としては、SSHによるコマンドラインの直接使用などもある。 オペレーティングシステムが関係するセキュリティ機能は、ユーザーがリソースへの何らかのアクセスを行う際に前もって認証し、そのユーザーのアクセスレベルを決定し、管理者の方針に基づいてアクセスを制限することである。 オペレーティングシステムは、処理を許可すべき要求と処理すべきでない要求を識別できなければならない。一部のシステムは単にユーザー名などで要求者を識別し、それによって特権の有無を判断する。要求者を識別する過程を「認証」(authentication) と呼ぶ。ユーザー名を示さなければならないことが多く、ユーザー名に続いてパスワードも必要な場合がある。別の認証方法として、磁気カードや生体データを使った「認証」(certification) を行うこともある。ネットワーク経由に接続などの場合、認証を全く行わずにリソースにアクセスさせることもある(ネットワーク上で共有されたファイルを読む場合など)。 さらに高度なセキュリティを備えたシステムでは、監査証跡 (auditing) オプションも提供している。これは、リソースへのアクセス要求を監視し記録するものである(「このファイルは誰が読もうとしたか?」など)。プログラムが何らかのリソースを要求すれば割り込みによってカーネルに制御が渡るので、そこでセキュリティの確認が可能である。プログラムがハードウェアやリソースに直接アクセスできる場合、セキュリティは確保されない。 何者かがコンソールやネットワーク接続経由でログインしようとする際にもセキュリティの確保が必要である。このような要求は一般にデバイスドライバ経由でカーネルに渡され、それから必要ならアプリケーションに渡される。ログインにまつわるセキュリティは、企業や軍などで機密情報を保持しているコンピュータでは長年の課題だった。アメリカ国防総省 (DoD) はセキュリティ評価に関する基本要件を定めた標準 Trusted Computer System Evaluation Criteria (TCSEC) を策定した。TCSECはセキュリティを要求されるシステムの調達条件とされるようになったため、オペレーティングシステムのメーカーはこれを重視するようになった。 個人が使用するコンピュータにはユーザインタフェースが必要とされる。ユーザインタフェースは必ずしもオペレーティングシステムの一部とは限らない。通常はシェルなどのプログラムが実装しているが、人間とのやりとりが必要なプログラムは基本的にユーザインタフェースを備えている。ユーザインタフェースは、キーボードやマウスやクレジットカード読み取り機といった入力デバイスからのデータを取得するのにオペレーティングシステムを介する必要があり、モニターやプリンターといった出力機器にプロンプトやメッセージを出力するのにもオペレーティングシステムを介する必要がある。主なユーザインタフェースは、古くからあるキャラクタユーザインタフェース(コマンドラインインタフェース)と視覚的なグラフィカルユーザインタフェースに大別される。 最近のオペレーティングシステムは一般にGUIを持っている。多くのプロプライエタリなシステム(WindowsやMac OS)はカーネルとGUIが密接に関係している。他のオペレーティングシステムではユーザインタフェースはモジュール化されていて、任意のGUIをインストールしたり、新たなGUIを作成したりできる(Linux、FreeBSD、OpenSolaris)。 Windowsでは新たなバージョンが登場するたびにGUIを変更してきた。初期のWindowsからWindows Vistaまでを比べてみると、その変化は大きいし、MacintoshのGUIは1999年のMac OS Xの登場で劇的に変化した。 Macでは初期からSystem 6.0.xまでが白黒のGUIで、System 7以降もカラー化されたのみで、Mac OS 8でプラチナアピアランスが採用されても、Mac OS 9.2.2までは基本要素はほぼ変わらなかった。しかしMac OS Xになって完全に刷新され、AquaベースのGUIになった。Mac OS X v10.3以降ではメタルアピアランスが導入され、その後もバージョンアップのたびに少しずつ手が加えられている。また、Aquaとは別にX11も用意されている。 Mac OS Xの前身のNEXTSTEPは様々な独創的なGUI要素で知られ、他のオペレーティングシステムやデスクトップ環境に大きな影響を与えた。グレースケールのシステムだったころよりアルファチャンネルを備えていたのは特筆すべき点である。 LinuxではGUIを提供するデスクトップ環境がいくつか存在する。Linuxで使えるGUIとして有名なものは、GNOMEとKDEがある。 1950年代、オペレーティングシステムという概念が登場し始めた。初期のコンピュータはオペレーティングシステムを持たなかった。しかし、システム管理用ソフトウェアツールやハードウェアの使用を簡素化するツールはすぐに出現し、徐々にその利用範囲を拡大していった。最初のオペレーティングシステムは、IBM 701用にゼネラルモーターズが開発したもの、IBM 704用にゼネラルモーターズとノースアメリカン航空が共同開発したもの等、多くの候補があるが、どういった機能が搭載された時点でオペレーティングシステムと呼ぶかによる。この時代のものをオペレーティングシステムとは呼ばない場合もある。 当時は、パンチカード等から入力されたプログラムを磁気テープに一旦保存し、その磁気テープを大型コンピュータに接続後、プログラムをロードして実行していた。そのため、入出力装置のドライバに当たるものが作成されていた。また、アセンブラやコンパイラが登場し始めた時代なので、まずコンパイラをロードしてからプログラム(ソースコード)をロードし、コンパイル結果として出力されたアセンブリ言語をアセンブルするために、さらにアセンブラをロードするといった手続きが必要だった。こうした作業を自動化するバッチ処理がオペレーティングシステムの機能として実現されていた。また、プロセスの状態を監視するモニタも実装されていた。 1960年代前半には、オペレーティングシステム機能の増強が進められた。スプール、ジョブ管理、記憶保護、マルチプログラミング、タイムシェアリングシステム、そして、仮想記憶の概念が登場し始めた。これらの概念を複数搭載するオペレーティングシステムも登場していた。また、マルチプロセッシングシステムに対応するオペレーティングシステムもあった。 1960年代後半には、オペレーティングシステムは著しい進化を遂げた。現在のオペレーティングシステムの概念や基本部分(カーネル)の技術の大半は、この時期に完成された。 1962年、ゼネラル・エレクトリックがGECOS(後のGCOS)の開発を開始した。 1964年発表のIBM System/360シリーズに搭載されたOS/360およびDOS/360は世界初の商用オペレーティングシステムとされ、単一のOSシリーズで幅広いモデル(性能、容量、価格帯)と周辺機器を稼働させ、更にハードディスクドライブをサポートし、本格的な(プリエンプティブな)マルチタスクを実現した。「オペレーティングシステム」という用語が一般化したのもOS/360からである。従来は機種ごとに専用の制御ソフトが付属し「機種が変わればプログラムは書き直し、周辺機器は買い直し」が常識だったが、オペレーティングシステムがアプリケーションに一貫した上位互換のAPIを提供する事で、OS/360用に書かれたプログラムは、40年以上経過した現在のz/OS上でもバイナリ互換で動作する。このOS/360はNASAが使っていた この頃のもう1つの重要な進歩としてタイムシェアリングシステムの本格的な実用化がある。コンピュータの資源を複数のユーザーが並行的に使えるようにすることで、システムを有効利用するものである。タイムシェアリングは、各ユーザーに高価なマシンを独占しているかのような幻想を抱かせた。1965年のMulticsのタイムシェアリングシステムは特に有名である。更に1967年にはSystem/360用に、商用初の仮想化オペレーティングシステム(仮想機械)であるCP-40とCP-67が登場し、1台のコンピュータで同時に複数のオペレーティングシステムを稼働できるようになったが、これもタイムシェアリングの応用である。 また仮想記憶は1961年のバロース B5000が商用初とされ、1970年のIBM System/370シリーズ用のOS/VSで広く普及した。コンピュータの利用形態としてオンライントランザクション処理やデータベース処理が普及したのもこの頃である。 1970年代 - 1980年代前半は、多種多様な分散システムが普及した。ミニコンピュータ用オペレーティングシステムとしては、VMSが有名である。Multicsは1970年代の様々なオペレーティングシステム、UNIXなどに影響を与えた。UNIXはオープンシステムと呼ばれ、ミニコンピュータからメインフレームまで広く普及した。 また1970年代には低価格なマイクロプロセッサが登場したが、初期のマイクロコンピュータは、メインフレームやミニコンピュータのような大規模なオペレーティングシステムを搭載する容量もなかったため、ディスク管理程度の必要最低限の機能しか持たないオペレーティングシステムが開発された。初期の特筆すべきオペレーティングシステムとしてCP/Mがあり、8ビットのマイクロコンピュータで良く使われた。その大雑把なクローン(複製)として16ビットのIBM PC用にPC DOSが生まれ、そのOEM版であるMS-DOSが普及した。これらはオペレーティングシステムの提供する機能が少なく、画面制御など多くの機能は、アプリケーションが直接ハードウェアを操作する必要があったため、同じCPUを使用していても、ハードウェア(機種)が異なると互換性も失われた。このMS-DOSと後継のMicrosoft Windowsによって、マイクロソフトは世界有数のソフトウェア企業となった。 なお、1980年代の別の特筆すべき流れとして、GUIを標準装備したApple Computer(現:Apple)のMacintoshがある。Macintoshのオペレーティングシステム (Mac OS) は、当時の性能的制約から、多くの部分がファームウェアの状態でハードウェアに組み込まれてはいたが、現在でいうウィジェット・ツールキットを含むToolboxと呼ばれるAPI群を持ち、アプリケーションにおけるGUIのデザイン開発をある程度まで標準化した。 マイクロプロセッサの高性能化と低価格化が進むと、業務用途のシステムでは、高機能な端末を大量に用意することが可能になり、UNIXをベースとしたクライアントサーバモデルが普及した。クライアント機であるワークステーションのオペレーティングシステムとしてSunOS、IBM AIX、IRIXなどのUnix系オペレーティングシステムが用いられた。この時期には肥大化したUNIXの再設計の機運が高まり、マイクロカーネルという新しい設計手法が生まれ、成果としてMachなどのカーネルが作られた。しかし、UNIXの権利を持つAT&Tがライセンスに厳しい条件をつけるようになり、UNIXを自由に改変したり、改変した機能を外部に公開することができなくなった。このため、オープンシステムとしてのUNIXのオープンな文化は一時衰退に追い込まれた。さらにUNIXの標準規格を巡ってUNIX戦争が勃発し、UNIX市場は大きなダメージを受けた。 1980年代後半には、パソコンにも32ビット時代が到来し、1990年代に入ると、低価格なAT互換機でもメモリを十分に搭載すればPC-UNIXの利用が可能になりはじめた。当時のパソコンでは、オペレーティングシステムとして最低限の機能しか持たないDOSが依然として使われており、GUIやネットワーク、マルチメディアに対応させるため、ベンダがDOSを様々な形で拡張したシステムソフトウェアや、ウィンドウシステムを搭載するようにもなったが、これは互換性や信頼性など様々な点で問題を発生させていた。こうした問題を解決するため、堅牢な(プリエンプティブな)マルチタスク機能、高度なネットワーク機能など、従来のUNIX(互換)ワークステーション並みの機能がパソコンにも求められるようになってきた。さらに、肥大化したソフトウェア開発の効率を改善するためにオブジェクト指向APIを導入し、Macintoshのように標準化されたGUIを備えることも求められた。これらの機能を備えたオペレーティングシステムは「次世代オペレーティングシステム」、「モダン・オペレーティングシステム」などと呼ばれた。 1987年にはIBMとマイクロソフトが、パーソナルコンピュータ用に堅牢なマルチタスク機能・GUI(同年末の1.1より)・ネットワーク機能(拡張版)を装備したOS/2を発表した。1988年に登場したNEXTSTEPは、業務用途に耐える堅牢性・全面的なオブジェクト指向導入による柔軟性・高度なグラフィック機能・一貫したGUIといった、新世代のデスクトップオペレーティングシステムで求められる機能を全て実現した。しかしこれらは当時のハードウェア性能では負荷が大きかったため広くは普及せず、代わりに、軽量だが堅牢なメモリ管理やマルチタスク機能は持たないMac OSや、Windows 3.x などのGUI環境が徐々に普及していった。これらは当時の限られたハードウェアでも快適に動作したが、安定性や機能では劣っていた。 UNIX(互換)系オペレーティングシステムの流れでは、UNIXの権利を持つAT&T(1992年からはノベル)がソースコードの自由な改変を禁じていたことから、オープンソースのUNIX互換オペレーティングシステムが開発されはじめる。1990年にHurdの開発が開始され、1991年に、Linuxがフリーソフトウェアとして公開された。マイクロカーネルなどの新しい設計手法を採用し、トレンドに合わせたびたび設計が変更されたHurdの開発が停滞する一方、Linuxは保守的な設計とバザール方式という不特定多数の担い手による開発手法を採用し、迅速な開発が進められ、PC-UNIXのデファクトスタンダードとなった。ただしLinuxはオペレーティングシステムの心臓部であるカーネルのみのため、カーネル以外のオペレーティングシステムを構成するソフトウェアを揃えて自ら環境を整える必要があり、初期段階においては技術者などのごく一部の人たちにのみ使われていた。386BSDを皮切りにフリーのBSD系UNIXも登場したが、UNIXの権利者だったノベルとBSDを開発したカリフォルニア大学バークレー校との訴訟に巻き込まれ、開発中止を余儀なくされた(1994年からFreeBSDとNetBSDの開発が再開される)。 1994年には、Windowsとしては初めて、32ビットに本格対応(カーネルの32ビット化)し、堅牢なマルチタスク機能を備えたWindows NTが登場した。ただこれも負荷や互換性の問題などから個人用途にはあまり普及せず、かわって急速に普及したのはWindows 3.xを拡張しつつ、Windows NTの機能を限定的に取り入れたWindows 95であった。以降、Windows NT系とWindows 9x系との並存が続き、WindowsがWindows NTベースに一本化されたのは2001年のWindows XPからである。 また、Appleも同年、NEXTSTEPを発展させたMac OS Xを新たにリリース、従来の Mac OS の後継となった。このころには低価格なパーソナルコンピュータでも、これらのオペレーティングシステムの負荷を問題としないほどに高性能化しており、オープンで低価格な分散コンピューティングを広めた(ダウンサイジング)。 2003年にはパソコンにも64ビット時代が到来し、オペレーティングシステムも64ビット化が進んだが、16ビット化や32ビット化の際と比較するとオペレーティングシステムの機能や役割に大きな変化はなかった。商用のパソコン用オペレーティングシステムのWindowsとMac OS Xのいずれもが64ビットへの移行を徐々に進めていった。Windowsは同一バージョンのオペレーティングシステムで32ビット版と64ビット版の双方を提供して、Mac OS Xは32ビットカーネルを維持したまま、一般プロセスに64ビット機能を持たせる道を選んだ。2000年代中頃まではパソコンの性能向上が著しかったため、デスクトップ用途の新しいオペレーティングシステムは同時代における高性能なパソコンを必要としていたが、2006年を境にしてCPUの性能向上の限界が顕著に現れ始めると、高効率化を目指した開発にシフト。Windows Vista・Windows 7やmacOSなどの新しいオペレーティングシステムにおいて、高機能のマルチコアCPUやプログラマブルシェーダを搭載したビデオチップへの対応が進められた。 オープンソースの流れでは、従来よりGNUがUNIX向けのツール群を開発していたが、これらをLinuxカーネルと組み合わせたGNU/Linuxが、2000年頃よりUnix系オペレーティングシステムの主流となった。またBSD系オペレーティングシステムもUnix系オペレーティングシステムのシェアの大きな部分を占めている。 一方、組み込みシステムにもより複雑な機能が求められるようになり、NetBSD、VxWorks、LynxOS、QNX、Enea OSE、Symbian OSなど汎用オペレーティングシステムをベースとしリアルタイム性能を持たせた組み込みオペレーティングシステムが幅広い用途に使われている、中でもオープンソースのTOPPERSのITRONを含むTRON系オペレーティングシステム・APIが、2020年現在、組み込みオペレーティングシステムの60%のシェアを持っている。 1990年代以降はダウンサイジングの流れにより、業務用途でもオープンシステムやWindowsへと主流が移行している中、信頼性・可用性を重視する用途には、現在でも専用オペレーティングシステム(z/OS、MSP/XSP、VOS3、ACOSなど)を搭載したメインフレームが採用され、使い分けられている。 2000年代末以降、パーソナルコンピュータ市場が成熟化する一方で、スマートフォンやタブレットに代表される、デスクトップ・オペレーティングシステムから派生した組み込みプラットフォームが普及し、モバイルコンピューティングが一般化した。 これらはカメラ、GPS、加速度センサー、ジャイロスコープ、無線LAN、Bluetooth、狭い画面に最適化されたタッチパネルなどのインタフェースを組み込み、携帯機器の低消費電力の要求に応えたiOS、Androidなどのモバイルプラットフォームを採用している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステム(英: operating system、略称:OS、オーエス)とは、コンピュータのオペレーション(操作・運用・運転)を司るシステムソフトウェアである。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムは通常、ユーザーやアプリケーションプログラムとハードウェアの中間に位置し、ユーザーやアプリケーションプログラムに対して標準的なインタフェースを提供すると同時に、ハードウェアなどの各リソースに対して効率的な管理を行う。現代のOSの主な機能は、ファイルシステムなどの補助記憶装置管理、仮想記憶などのメモリ管理、マルチタスクなどのプロセス管理、更にはGUIなどのユーザインタフェース、TCP/IPなどのネットワーク、などがある。パーソナルコンピュータからスーパーコンピュータまでの各種のコンピュータや、スマートフォンやゲーム機などを含む各種の組み込みシステムで、内部的に使用されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "商品として(ないし製品として)のOSには、デスクトップ環境やウィンドウシステムなど、あるいはデータベース管理システム (DBMS) などのミドルウェア、ファイル管理ソフトウェアやエディタや各種設定ツールなどのユーティリティ、ウェブブラウザや時計などのアクセサリが、マーケティング上の理由などから一緒に含められていることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点でAndroidが約72%、iOSが約27%である。Androidは広い意味でのLinuxの一種であり、Linuxのカーネルを一部改編し他のオープンソース・ソフトウェアを組み合わせたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ノートPCやデスクトップPCのOSおよびそのシェアは、2021年時点でWindows 75.4%、macOS 15.93%、ChromeOS 2.59%、Linux 2.33%となっている。macOSはFreeBSDを基にしたUnix系のOSである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "スーパーコンピュータのOSは、2000年ころはUNIXが9割ほどを占めていたが、その後の10年間でそのほぼ全てがLinuxに置き換わり、2021年現在では世界のスーパーコンピュータのTOP500のほぼ100%がLinuxである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "組み込みシステムでは組み込みオペレーティングシステムと呼ばれるOSを用いる。小規模な組み込みシステムのなかには明確なOSを内蔵していないものもあるので曖昧な面もあるが、組み込みOSを搭載しているものに関しては2019年時点でのシェアでTRON(トロン)系がおよそ60%であり、24年連続トップを占める。TRON系のなかでもITRON(アイトロン)が最も普及している。TRON以外では、次いでPOSIX系つまりUNIX系、Linux類などである。米リナックスワークスのLynxOS(リンクスオーエス)、米ウィンドリバーのVxWorks(ヴイエックスワークスト)、米シンビアンのSymbian OS(シンビアン・オーエス)など。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムの主な目的は、ハードウェアの抽象化、リソースの管理、そしてコンピュータ利用効率の向上である。", "title": "オペレーティングシステムの目的" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムはアプリケーションソフトウェアを動作させるのが第一の目的である。このためのインタフェースがアプリケーションプログラミングインタフェース (API) とアプリケーションバイナリインタフェース (ABI) である。カーネルはシステムコールによってアプリケーションにサービスを提供する。さらに基本ライブラリも含めた形でアプリケーションに対してAPI/ABIを提供する。アプリケーションによってはオペレーティングシステム上のミドルウェアやアプリケーションフレームワークなどをAPIとして使用する場合もある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "APIはプログラミングのためのインタフェースであり、プログラムを作成する際の規則を構成する。例えば、C言語での関数やFORTRAN/Pascalなどのライブラリ呼び出しの仕様といったものがそれにあたる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "一方、ABIはコンパイルされたソフトウェアがオペレーティングシステムの機能を呼び出す際のインタフェースであり、プロセスが動作する際の規則を構成する。例えば、Unix系のオペレーティングシステムはAPIがほとんど共通だが、ABIはオペレーティングシステムによって異なる。したがって、同じCPUを使ったシステムであっても、ABIが異なれば実行ファイルが異なる。ABIには、呼出規約、システムコールの方法などが含まれる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "なお、オペレーティングシステムの垣根を越えたABIもいくつか存在する。例えば、OCMP (Open Computing Environment for MIPS Platform) というMIPS系チップを使用したUNIX機によるバイナリ共通インタフェースが日本電気やソニー、住友電気工業、日本タンデムコンピューターズなどにより定義され、その定義に沿ったUNIXオペレーティングシステムが複数販売された。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ファームウェアとデバイスドライバの助けを借り、カーネルはコンピュータの全ハードウェアデバイスの基本的制御を提供する。RAM上のプログラムのメモリアクセスを管理し、どのプログラムがどのハードウェア資源へのアクセスを得るかを決定し、常に運用が最適化されるようCPUの状態を設定し、ファイルシステムと共にディスク、磁気テープ、フラッシュメモリといった長期的不揮発性記憶装置でのデータの編成を行う。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムはアプリケーションプログラムとコンピュータハードウェアの間のインタフェースを提供し、オペレーティングシステムに組み込まれた規則や手続きに従うことによってアプリケーションプログラムはハードウェアとやりとりできる。オペレーティングシステムはまた、アプリケーションプログラムの開発と実行を簡素化するサービス群も提供する。アプリケーションプログラムの実行にあたって、オペレーティングシステムのカーネルがプロセスを生成する。プロセスの生成には、メモリ空間などの資源の割り当て、マルチタスクシステムでのプロセスへの優先度の割り当て、プログラムのバイナリコードのメモリへのロード、アプリケーションプログラムの実行開始といった仕事が含まれる。そうして初めてユーザーやハードウェアデバイスとやりとりを開始できる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "割り込みはオペレーティングシステムの要であり、オペレーティングシステムが周囲の環境と相互作用し反応するための効率的手段となっている。非常に小さなスタック(50バイトや60バイト)しか持たない古いシステムでは、オペレーティングシステムが対応しなければならないイベントの発生源を「監視」するポーリング方式を採用していたが、現代の大きなスタックを持つシステムでは一般的ではない。現代の多くのCPUは、割り込みをベースとしたプログラミングを直接サポートしている。割り込みが発生すると、その時点のレジスタコンテキストを退避し、そのイベントに対応した特定のコードを実行する。非常に基本的なコンピュータにもハードウェア割り込み機能があり、プログラマは特定の割り込みが発生したときに実行すべきコードを設定することができる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "割り込みを受信すると、コンピュータのハードウェアは実行中のプログラムを自動的に一時停止させ、状態を退避させ、その割り込みに事前に割り当てられているコードを実行する。これは例えば読書中に電話が鳴ったとき、本にしおりを挟み、電話に出るのに似ている。現代的なオペレーティングシステムでは、割り込みはオペレーティングシステムのカーネルが扱う。割り込みはコンピュータのハードウェアが発生させる場合もあるし、実行中のプログラムが発生させる場合もある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ハードウェアから割り込みが発生した場合、オペレーティングシステムのカーネルがそのイベントにどう対応するかを一般に何らかの処理コードを実行して決定する。割り込みには優先順位があり、それに従って実行するコードが決定される。再び人間にたとえれば、電話が鳴ると同時に火災を知らせる火災報知器の非常ベルも鳴ったら、電話には出ずに避難するだろう。ハードウェア割り込みの処理は通常、デバイスドライバと呼ばれるソフトウェアに委任される。デバイスドライバはオペレーティングシステムのカーネルの一部という場合もあるし、別のプログラムという場合もあるし、混在する場合もある。デバイスドライバは割り込みによって得た情報を各種手段を通じて動作中のプログラムに中継する。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "実行中のプログラムがオペレーティングシステムに対して割り込みを発生させる場合もある。例えば、あるプログラムがハードウェアにアクセスしたい場合、オペレーティングシステムのカーネルに対して割り込みを発生させ、結果として制御をカーネルに移す。するとカーネルは必要な処理を行う。また、プログラムがメモリなどの資源を追加で要求する場合、割り込みを発生させてカーネルに知らせる。ただし、それらは一般にシステムコールと呼ばれ、ハードウェア割り込みとは実装が異なることもある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "現代的CPUには複数の運用モードがある。その場合、少なくともユーザーモードとスーパーバイザモードの2つが存在する。スーパーバイザモードはオペレーティングシステムのカーネルが使用するモードで、ハードウェアに無制限にアクセスでき、メモリの読み書きの方法を制御したり、グラフィックスカードなどのデバイスとやりとりしたりできる。一方ユーザーモードはカーネル以外のほぼ全てが使用する。アプリケーションはユーザーモードで動作し、ハードウェアとのやりとりはカーネルを通す必要がある。CPUは2つ以上のモードを持つこともあり、古いプロセッサをエミュレートするのに使ったりする。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "コンピュータが起動した際は、自動的にスーパーバイザモードで動作する。BIOSやEFI、ブートローダー、オペレーティングシステムのカーネルといったごく一部のプログラムがスーパーバイザモードで動作する。このようになっているのは、ユーザーモードの環境の初期化はその外側にあるプログラムでないと行えないためである。しかし、オペレーティングシステムが他のプログラムに制御を渡す際には、CPUをユーザーモードに設定できる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ユーザーモードでは、プログラムが使用できるCPUの命令セットが制限されている。ユーザープログラムでユーザーモードを抜け出すには、割り込みを発生させ、カーネルに制御を戻す。そのようにしてハードウェアやメモリへのアクセスといったことへの独占的制御をオペレーティングシステムが保持している。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "パーキンソンの法則によると、「メモリを拡張するとプログラムはそれに伴って拡大する」という。プログラマーは無限の容量と無限の速度のメモリを理想としている。コンピュータのメモリは階層構造になっていて、最も高速なレジスタから、キャッシュメモリ、RAM、最も低速なディスク装置がある。オペレーティングシステム内のメモリ管理部はこのようなメモリを管理するもので、利用可能な部分、割り当てと解放、主記憶と二次記憶との間でのスワップなどを制御する。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "マルチプログラミング・オペレーティングシステムのカーネルはプログラムが使用中の全システムメモリの管理責任を負っている。それによってあるプログラムが既に別のプログラムが使用しているメモリを誤って使用しないようにしている。プログラム群は時分割で動作するので、それぞれのプログラムの独立したメモリアクセスが可能となっている。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "協調的メモリ管理は初期のオペレーティングシステムでよく使われた方式で、全プログラムが自発的にカーネルのメモリ管理機構を使い、割り当てられたメモリをはみ出さないように動作することを前提としている。プログラムにはバグがつきもので、そのために割り当てられたメモリからはみ出すこともあるため、このようなメモリ管理は今では見られない。プログラムが異常動作すると、他のプログラムが使用中のメモリを書き換えることもあった。悪意あるプログラムやウイルスが意図的に他のプログラムのメモリを書き換えたり、オペレーティングシステム自体の動作を妨げたりすることも可能である。協調的メモリ管理では、たった1つのプログラムがおかしな動作をするだけでシステム全体がクラッシュする。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "カーネルによるメモリ保護により、プロセスのメモリへのアクセスが制限される。メモリ保護には様々な技法があり、セグメント方式とページング方式が代表的である。どの技法でも何らかのハードウェアサポートが必要であり(例えば、80286のMMUなど)、あらゆるコンピュータがそのようなハードウェア機構を備えているわけではない。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "セグメント方式でもページング方式でも、CPU内のユーザーがアクセスできないレジスタ群でユーザープログラムがアクセス可能なメモリアドレスの範囲を設定している。その範囲外のアドレスにアクセスしようとすると割り込みが発生してCPUがスーパーバイザモードに遷移し、カーネルがその状況に対処する。これをセグメンテーション違反と呼ぶ。セグメンテーション違反は一般にプログラムの間違いから発生するので、実行を継続するような対処は困難であり、カーネルは問題のプログラムを強制終了させ、エラーを報告するのが一般的である。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Windows 3.1からWindows Meまでは何らかのメモリ保護機構を備えていたものの、それを回避するのも容易だった。そのためセグメンテーション違反の発生を知らせる一般保護違反(英語版)が考案されたが、それでもシステムがクラッシュすることが多かった。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "ページングやセグメントによる仮想記憶を使用することで、カーネルは任意の時点で各プログラムが使用するメモリを選択でき、同じメモリ位置を複数タスクで使用させることも可能となる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "あるプログラムが使用可能な現在のメモリ範囲だが物理メモリが割り当てられていない位置にアクセスしようとしたとき、セグメンテーション違反のように割り込みによってカーネルに遷移する。このような割り込みをUnix系ではページフォールトと呼ぶ。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カーネルがページフォールトを受け付けると、そのプログラムに割り当てられた仮想メモリ空間の調整を行い、要求されたメモリアクセスが可能になるよう物理メモリを割り当てる。これにより、カーネルはそれぞれのアプリケーションへのメモリ割り当てを自由に決定でき、さらには実際には割り当てないでおくことも可能となる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "現代的オペレーティングシステムでは、相対的にアクセス頻度が低いメモリを一時的にディスクなどの二次記憶装置に退避させ、主記憶を他のプログラムのために空けることができる。これをスワッピングと呼び、限られたメモリを複数のプログラムで使用可能にし、メモリの内容を必要に応じて退避させたり復帰させたりできる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "仮想記憶により、実際に搭載しているよりも多くのRAMを使用しているかのような感覚でコンピュータを使用することができる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "コンピュータ上の各動作はバックグラウンドであっても一般のアプリケーションであっても、内部的にはプロセスとして動作する。DOSのような機能の限定されたオペレーティングシステムは一度に1つのプロセスしか実行できない。近代的なオペレーティングシステムは一度に複数のプロセスを動作させることができる(マルチタスク)。プロセス管理は複数のプロセスを実行するためにオペレーティングシステムが行う処理である。プロセッサを1つだけ持つ一般的なコンピュータでは、マルチタスクは高速にプロセスからプロセスへ切り替えを行うことで実現される。ユーザーがより多くのプロセスを実行すれば、個々のプロセスに割り当てられる時間は少なくなっていく。多くのシステムでは、これが音声の途切れやマウスカーソルの奇妙な動作などを引き起こす。一般的なプロセス管理は、プロセスごとに優先度を与え、それによって配分される時間を決めている。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムのカーネルにはスケジューラと呼ばれるソフトウェアが含まれており、プロセッサが実行すべきプロセスの順序と一度に実行する期間を決定している。スケジューラが選択したプロセスにカーネルが制御を渡し、それによってそのプログラムがCPUとメモリにアクセス可能になる。その後何らかの機構で制御がカーネルに戻され、スケジューラが再び新たなプロセスを選択する。このようなカーネルとアプリケーション間の制御の切り替えをコンテキストスイッチと呼ぶ。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "プログラム群へのCPU時間の割当方法の初期のモデルとして協調的マルチタスクがある。このモデルでは、カーネルがあるプログラムに制御を渡すと、そのプログラムは時間を制限されることなく処理を行え、カーネルには自発的に制御を戻すことになっている。したがって、悪意あるプログラムやバグのあるプログラムがあると他のプログラムにCPU時間が割り当てられなくなり、無限ループに陥っている場合はシステム全体がハングアップする。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "プリエンプティブ・マルチタスクでは、動作中のプロセスから任意の時点で制御を奪うことができ、全プログラムに所定のCPU時間を割り当てることが可能である。これを実現するためオペレーティングシステムはタイマ割り込みを使用し、所定の時間が経過したら割り込みを発生させてスーパーバイザモードに制御を戻させ、カーネルがスケジューラを呼び出す。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "現代的オペレーティングシステムでは、プリエンプションの考え方をユーザーモード(アプリケーション)だけでなくデバイスドライバやカーネルコードに対しても適用し、リアルタイム性を向上させている。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ホームコンピュータなどのシングルユーザー・オペレーティングシステムでは、少数のよく評価されたプログラムしか使わないことが多く、協調的マルチタスクで全く問題ない。例外として AmigaOS は初期のバージョンからプリエンプティブ・マルチタスクを実現していた。Microsoft Windows で初めてプリエンプティブ・マルチタスクを実装したのは Windows NT だが、それが一般家庭向けに発売されるのは Windows XP からだった。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ディスクに格納したデータへのアクセスは、あらゆるオペレーティングシステムの中心的機能である。コンピュータはファイルという形でディスクにデータを格納する。ディスクの内容は高速アクセス、高信頼性、ディスク領域の利用効率などを考慮して編成される。このファイルをディスクに格納する方式をファイルシステムと呼び、それによってファイルに名前と属性が付与される。また、ディレクトリあるいはフォルダと呼ばれる構造を使い、ファイル群を階層構造(木構造)内に格納できる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初期のオペレーティングシステムは一種類のディスク装置しかサポートしておらず、ファイルシステムも一種類ということが多かった。初期のファイルシステムは容量や性能が低く、ファイル名やディレクトリ構造の面で制約が多かった。そういった制約はオペレーティングシステム自体の設計上の制約を反映していることが多く、複数のファイルシステムをサポートするのもオペレーティングシステムの制約の観点から非常に困難だった。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "より単純なオペレーティングシステムではストレージへのアクセス手段が限られているが、UNIXやLinuxなどのオペレーティングシステムでは仮想ファイルシステム (VFS) という機構をサポートしている。UNIXなどのオペレーティングシステムは様々なストレージデバイスをサポートしており、それらの仕様やファイルシステムとは独立した共通のアプリケーションプログラミングインタフェース (API) でアクセスできるようにしている。そのためプログラムはアクセスしようとしているデバイスに関する知識を持つ必要がない。VFS機構により、プログラムはデバイスドライバとファイルシステムドライバを経由してシステム上のあらゆるデバイスと様々なファイルシステムにアクセス可能となる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ハードディスクドライブなどの補助記憶装置には、デバイスドライバを通してアクセスする。デバイスドライバは担当するデバイスのインタフェースをよく理解しており、それをオペレーティングシステムが全ディスクドライブに共通で用意しているインタフェースに変換する。UNIXでは、それがブロックデバイスのインタフェースである。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "Linuxを元プラットフォームとして開発されたものにはext2、ext3、ReiserFSなどがある。また、他のプラットフォームからXFS、JFS、FATファイルシステムなどが移植され、NTFSも不十分ながら読み書きが可能である。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Macintoshではまず最初にMacintosh File System (MFS) が実装されたが、ディレクトリ機能を備えていなかったためファイルブラウザFinderでフォルダをエミュレーションしていた。その後Hierarchical File System (HFS) でディレクトリ機能を実装し、現在は改良を加えたHFS+が採用されている。現在macOSで読み書きが可能なものはHFS、HFS+、UNIX File System (UFS)、FATとなる。なおUFSの使用は一般でなく、FATへの対応は他プラットフォームとのデータ交換に用いられる。NTFSは読み込みのみが可能であり、書き込みについてはCommon Internet File System (CIFS) によるネットワークを介したものに限られる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "Windowsが標準で扱えるファイルシステムは、FAT、FAT32、NTFSである。NT系のWindowsではNT3.51まではOS/2標準のHPFSにアクセス可能だった。現在Windows上ではNTFSが最も信頼性と効率が高いものとして一般的に利用される。FATはMS-DOSから採用される古いファイルシステムであるが、パーティションやファイルサイズに制限があり、大容量化したハードディスクではあまり用いられない。このためファイルサイズの制限をなくしたexFATが新たに開発された。なお、exFATはVistaや7では標準で使えるが、XPでexFATを使うためには専用のプログラムを新たにインストールする必要がある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "FATはその仕様の制限から大容量のハードディスクには向かないが、その一方構造が単純でデジタルカメラや携帯電話などの組み込みシステム向けを含むさまざまなオペレーティングシステムで読み書き可能なことから、各種メモリカードやUSBメモリなどプラットフォームを跨ぐ用途においては主流である。なお、それらフラッシュディスクの大容量化に対応するため、マイクロソフトはFATを拡張したexFATというファイルシステムを発表している。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "MacintoshからWindows等へファイルを転送すると、転送先のWindows側に本体とは別のファイルが出現することがある。これはHFSやHFS+のみがサポートするリソースフォークと呼ばれるデータ構造によるもので、Macintoshではそれらを一元的に管理を行うため一つの書類に見える。このように幾つものフォークを一つのデータに格納することをマルチフォークと呼び、もとのデータを改変することなくオペレーティングシステム独自の管理情報を容易に付与できる機能だが、実質的にMacintoshでしか利用できない。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "ファイルシステムには、急な電源切断などによる障害へ対応する機構を持つものがある。 ジャーナルファイルシステムが最もよく採用される機構であり、その他にもZFSのように書き込み操作をトランザクションとして扱うものもある。これらを用いることで、障害復旧時のチェックを大幅に短縮する、または完全に不要にする。一方これらの機構を持たないファイルシステムでは、ファイルシステムの整合性を保つためストレージ全体を検査する必要がある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "デバイスドライバはハードウェアとのやり取りをするためのソフトウェアである。一般にハードウェアとの通信を行うインタフェースを持ち、ハードウェアの接続される何らかの通信サブシステムやバスを経由して通信を行う。コマンドをハードウェアに送り、データの送受信を行う。また、一方でオペレーティングシステムやアプリケーションに対するインタフェースも提供する。ハードウェアに強く依存するプログラムであり、オペレーティングシステムにも依存している。これによって、オペレーティングシステムやアプリケーションがハードウェアを使って動作することが容易になっている。ハードウェアの非同期的な割り込みの処理もデバイスドライバの役割である。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "デバイスドライバの主たる設計目標は抽象化である。ハードウェアは用途が同種のものであっても、機種によって動作や性能などがそれぞれ異なる。新たな機能や性能を提供するハードウェアが登場したとき、それらは従来とは異なった制御方式を採用していることが多い。オペレーティングシステムを将来にわたってあらゆるハードウェアを制御できるように設計するのは困難である。従って、個別のハードウェアの制御をオペレーティングシステムから切り離す必要がある。デバイスドライバはオペレーティングシステムとのインタフェース(関数呼び出し)をデバイス固有の処理に変換することが主たる機能となる。理論的には、新たな制御方法の新しいハードウェアが登場しても、そのハードウェア用のドライバが古いオペレーティングシステムに対応していれば、古いオペレーティングシステムでもドライバだけ置き換えればハードウェアを制御可能となる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Vista以前のWindowsやバージョン2.6より以前のLinuxカーネルでは、ドライバ実行は協調的だった。すなわち、あるドライバが無限ループに陥ると、システム全体がフリーズした。その後のバージョンではプリエンプションが可能となり、カーネルがドライバを中断させることができるようになった。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "多くのオペレーティングシステムはTCP/IPプロトコルをサポートしている。歴史的に見れば、初期のコンピュータネットワークはモデムを使って電話回線で行われていた(BSC手順など)。その後、パケット通信が使われるようになり、IBMのSNAなどの各社独自のネットワークアーキテクチャが登場した。現在では、TCP/IPを中心とした通信が主流となっている。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "通信プロトコルは、トランスポート層まではカーネル内モジュールとして実装し、プレゼンテーション層より上はシステムプロセスとして実装されるのが一般的である。セッション層の実装はシステムによって異なる。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このようなネットワーク機能により、異なるオペレーティングシステム間でネットワークを形成し、計算能力 (RPC)、ファイル、プリンター、スキャナーなどのリソースを共有できる。ネットワークにより、あるコンピュータのオペレーティングシステムが遠隔のコンピュータにあるリソースをあたかも自身に直接接続されているかのように透過的に利用できる。単純な通信に始まり、分散ファイルシステム、グラフィックスやサウンドといった機能の共有まで様々な応用がある。透過的アクセスの例としては、SSHによるコマンドラインの直接使用などもある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムが関係するセキュリティ機能は、ユーザーがリソースへの何らかのアクセスを行う際に前もって認証し、そのユーザーのアクセスレベルを決定し、管理者の方針に基づいてアクセスを制限することである。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムは、処理を許可すべき要求と処理すべきでない要求を識別できなければならない。一部のシステムは単にユーザー名などで要求者を識別し、それによって特権の有無を判断する。要求者を識別する過程を「認証」(authentication) と呼ぶ。ユーザー名を示さなければならないことが多く、ユーザー名に続いてパスワードも必要な場合がある。別の認証方法として、磁気カードや生体データを使った「認証」(certification) を行うこともある。ネットワーク経由に接続などの場合、認証を全く行わずにリソースにアクセスさせることもある(ネットワーク上で共有されたファイルを読む場合など)。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "さらに高度なセキュリティを備えたシステムでは、監査証跡 (auditing) オプションも提供している。これは、リソースへのアクセス要求を監視し記録するものである(「このファイルは誰が読もうとしたか?」など)。プログラムが何らかのリソースを要求すれば割り込みによってカーネルに制御が渡るので、そこでセキュリティの確認が可能である。プログラムがハードウェアやリソースに直接アクセスできる場合、セキュリティは確保されない。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "何者かがコンソールやネットワーク接続経由でログインしようとする際にもセキュリティの確保が必要である。このような要求は一般にデバイスドライバ経由でカーネルに渡され、それから必要ならアプリケーションに渡される。ログインにまつわるセキュリティは、企業や軍などで機密情報を保持しているコンピュータでは長年の課題だった。アメリカ国防総省 (DoD) はセキュリティ評価に関する基本要件を定めた標準 Trusted Computer System Evaluation Criteria (TCSEC) を策定した。TCSECはセキュリティを要求されるシステムの調達条件とされるようになったため、オペレーティングシステムのメーカーはこれを重視するようになった。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "個人が使用するコンピュータにはユーザインタフェースが必要とされる。ユーザインタフェースは必ずしもオペレーティングシステムの一部とは限らない。通常はシェルなどのプログラムが実装しているが、人間とのやりとりが必要なプログラムは基本的にユーザインタフェースを備えている。ユーザインタフェースは、キーボードやマウスやクレジットカード読み取り機といった入力デバイスからのデータを取得するのにオペレーティングシステムを介する必要があり、モニターやプリンターといった出力機器にプロンプトやメッセージを出力するのにもオペレーティングシステムを介する必要がある。主なユーザインタフェースは、古くからあるキャラクタユーザインタフェース(コマンドラインインタフェース)と視覚的なグラフィカルユーザインタフェースに大別される。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "最近のオペレーティングシステムは一般にGUIを持っている。多くのプロプライエタリなシステム(WindowsやMac OS)はカーネルとGUIが密接に関係している。他のオペレーティングシステムではユーザインタフェースはモジュール化されていて、任意のGUIをインストールしたり、新たなGUIを作成したりできる(Linux、FreeBSD、OpenSolaris)。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "Windowsでは新たなバージョンが登場するたびにGUIを変更してきた。初期のWindowsからWindows Vistaまでを比べてみると、その変化は大きいし、MacintoshのGUIは1999年のMac OS Xの登場で劇的に変化した。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "Macでは初期からSystem 6.0.xまでが白黒のGUIで、System 7以降もカラー化されたのみで、Mac OS 8でプラチナアピアランスが採用されても、Mac OS 9.2.2までは基本要素はほぼ変わらなかった。しかしMac OS Xになって完全に刷新され、AquaベースのGUIになった。Mac OS X v10.3以降ではメタルアピアランスが導入され、その後もバージョンアップのたびに少しずつ手が加えられている。また、Aquaとは別にX11も用意されている。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "Mac OS Xの前身のNEXTSTEPは様々な独創的なGUI要素で知られ、他のオペレーティングシステムやデスクトップ環境に大きな影響を与えた。グレースケールのシステムだったころよりアルファチャンネルを備えていたのは特筆すべき点である。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "LinuxではGUIを提供するデスクトップ環境がいくつか存在する。Linuxで使えるGUIとして有名なものは、GNOMEとKDEがある。", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "", "title": "オペレーティングシステムの機能とコンポーネント" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "1950年代、オペレーティングシステムという概念が登場し始めた。初期のコンピュータはオペレーティングシステムを持たなかった。しかし、システム管理用ソフトウェアツールやハードウェアの使用を簡素化するツールはすぐに出現し、徐々にその利用範囲を拡大していった。最初のオペレーティングシステムは、IBM 701用にゼネラルモーターズが開発したもの、IBM 704用にゼネラルモーターズとノースアメリカン航空が共同開発したもの等、多くの候補があるが、どういった機能が搭載された時点でオペレーティングシステムと呼ぶかによる。この時代のものをオペレーティングシステムとは呼ばない場合もある。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "当時は、パンチカード等から入力されたプログラムを磁気テープに一旦保存し、その磁気テープを大型コンピュータに接続後、プログラムをロードして実行していた。そのため、入出力装置のドライバに当たるものが作成されていた。また、アセンブラやコンパイラが登場し始めた時代なので、まずコンパイラをロードしてからプログラム(ソースコード)をロードし、コンパイル結果として出力されたアセンブリ言語をアセンブルするために、さらにアセンブラをロードするといった手続きが必要だった。こうした作業を自動化するバッチ処理がオペレーティングシステムの機能として実現されていた。また、プロセスの状態を監視するモニタも実装されていた。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "1960年代前半には、オペレーティングシステム機能の増強が進められた。スプール、ジョブ管理、記憶保護、マルチプログラミング、タイムシェアリングシステム、そして、仮想記憶の概念が登場し始めた。これらの概念を複数搭載するオペレーティングシステムも登場していた。また、マルチプロセッシングシステムに対応するオペレーティングシステムもあった。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1960年代後半には、オペレーティングシステムは著しい進化を遂げた。現在のオペレーティングシステムの概念や基本部分(カーネル)の技術の大半は、この時期に完成された。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "1962年、ゼネラル・エレクトリックがGECOS(後のGCOS)の開発を開始した。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "1964年発表のIBM System/360シリーズに搭載されたOS/360およびDOS/360は世界初の商用オペレーティングシステムとされ、単一のOSシリーズで幅広いモデル(性能、容量、価格帯)と周辺機器を稼働させ、更にハードディスクドライブをサポートし、本格的な(プリエンプティブな)マルチタスクを実現した。「オペレーティングシステム」という用語が一般化したのもOS/360からである。従来は機種ごとに専用の制御ソフトが付属し「機種が変わればプログラムは書き直し、周辺機器は買い直し」が常識だったが、オペレーティングシステムがアプリケーションに一貫した上位互換のAPIを提供する事で、OS/360用に書かれたプログラムは、40年以上経過した現在のz/OS上でもバイナリ互換で動作する。このOS/360はNASAが使っていた", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この頃のもう1つの重要な進歩としてタイムシェアリングシステムの本格的な実用化がある。コンピュータの資源を複数のユーザーが並行的に使えるようにすることで、システムを有効利用するものである。タイムシェアリングは、各ユーザーに高価なマシンを独占しているかのような幻想を抱かせた。1965年のMulticsのタイムシェアリングシステムは特に有名である。更に1967年にはSystem/360用に、商用初の仮想化オペレーティングシステム(仮想機械)であるCP-40とCP-67が登場し、1台のコンピュータで同時に複数のオペレーティングシステムを稼働できるようになったが、これもタイムシェアリングの応用である。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "また仮想記憶は1961年のバロース B5000が商用初とされ、1970年のIBM System/370シリーズ用のOS/VSで広く普及した。コンピュータの利用形態としてオンライントランザクション処理やデータベース処理が普及したのもこの頃である。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "1970年代 - 1980年代前半は、多種多様な分散システムが普及した。ミニコンピュータ用オペレーティングシステムとしては、VMSが有名である。Multicsは1970年代の様々なオペレーティングシステム、UNIXなどに影響を与えた。UNIXはオープンシステムと呼ばれ、ミニコンピュータからメインフレームまで広く普及した。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "また1970年代には低価格なマイクロプロセッサが登場したが、初期のマイクロコンピュータは、メインフレームやミニコンピュータのような大規模なオペレーティングシステムを搭載する容量もなかったため、ディスク管理程度の必要最低限の機能しか持たないオペレーティングシステムが開発された。初期の特筆すべきオペレーティングシステムとしてCP/Mがあり、8ビットのマイクロコンピュータで良く使われた。その大雑把なクローン(複製)として16ビットのIBM PC用にPC DOSが生まれ、そのOEM版であるMS-DOSが普及した。これらはオペレーティングシステムの提供する機能が少なく、画面制御など多くの機能は、アプリケーションが直接ハードウェアを操作する必要があったため、同じCPUを使用していても、ハードウェア(機種)が異なると互換性も失われた。このMS-DOSと後継のMicrosoft Windowsによって、マイクロソフトは世界有数のソフトウェア企業となった。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "なお、1980年代の別の特筆すべき流れとして、GUIを標準装備したApple Computer(現:Apple)のMacintoshがある。Macintoshのオペレーティングシステム (Mac OS) は、当時の性能的制約から、多くの部分がファームウェアの状態でハードウェアに組み込まれてはいたが、現在でいうウィジェット・ツールキットを含むToolboxと呼ばれるAPI群を持ち、アプリケーションにおけるGUIのデザイン開発をある程度まで標準化した。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "マイクロプロセッサの高性能化と低価格化が進むと、業務用途のシステムでは、高機能な端末を大量に用意することが可能になり、UNIXをベースとしたクライアントサーバモデルが普及した。クライアント機であるワークステーションのオペレーティングシステムとしてSunOS、IBM AIX、IRIXなどのUnix系オペレーティングシステムが用いられた。この時期には肥大化したUNIXの再設計の機運が高まり、マイクロカーネルという新しい設計手法が生まれ、成果としてMachなどのカーネルが作られた。しかし、UNIXの権利を持つAT&Tがライセンスに厳しい条件をつけるようになり、UNIXを自由に改変したり、改変した機能を外部に公開することができなくなった。このため、オープンシステムとしてのUNIXのオープンな文化は一時衰退に追い込まれた。さらにUNIXの標準規格を巡ってUNIX戦争が勃発し、UNIX市場は大きなダメージを受けた。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1980年代後半には、パソコンにも32ビット時代が到来し、1990年代に入ると、低価格なAT互換機でもメモリを十分に搭載すればPC-UNIXの利用が可能になりはじめた。当時のパソコンでは、オペレーティングシステムとして最低限の機能しか持たないDOSが依然として使われており、GUIやネットワーク、マルチメディアに対応させるため、ベンダがDOSを様々な形で拡張したシステムソフトウェアや、ウィンドウシステムを搭載するようにもなったが、これは互換性や信頼性など様々な点で問題を発生させていた。こうした問題を解決するため、堅牢な(プリエンプティブな)マルチタスク機能、高度なネットワーク機能など、従来のUNIX(互換)ワークステーション並みの機能がパソコンにも求められるようになってきた。さらに、肥大化したソフトウェア開発の効率を改善するためにオブジェクト指向APIを導入し、Macintoshのように標準化されたGUIを備えることも求められた。これらの機能を備えたオペレーティングシステムは「次世代オペレーティングシステム」、「モダン・オペレーティングシステム」などと呼ばれた。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1987年にはIBMとマイクロソフトが、パーソナルコンピュータ用に堅牢なマルチタスク機能・GUI(同年末の1.1より)・ネットワーク機能(拡張版)を装備したOS/2を発表した。1988年に登場したNEXTSTEPは、業務用途に耐える堅牢性・全面的なオブジェクト指向導入による柔軟性・高度なグラフィック機能・一貫したGUIといった、新世代のデスクトップオペレーティングシステムで求められる機能を全て実現した。しかしこれらは当時のハードウェア性能では負荷が大きかったため広くは普及せず、代わりに、軽量だが堅牢なメモリ管理やマルチタスク機能は持たないMac OSや、Windows 3.x などのGUI環境が徐々に普及していった。これらは当時の限られたハードウェアでも快適に動作したが、安定性や機能では劣っていた。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "UNIX(互換)系オペレーティングシステムの流れでは、UNIXの権利を持つAT&T(1992年からはノベル)がソースコードの自由な改変を禁じていたことから、オープンソースのUNIX互換オペレーティングシステムが開発されはじめる。1990年にHurdの開発が開始され、1991年に、Linuxがフリーソフトウェアとして公開された。マイクロカーネルなどの新しい設計手法を採用し、トレンドに合わせたびたび設計が変更されたHurdの開発が停滞する一方、Linuxは保守的な設計とバザール方式という不特定多数の担い手による開発手法を採用し、迅速な開発が進められ、PC-UNIXのデファクトスタンダードとなった。ただしLinuxはオペレーティングシステムの心臓部であるカーネルのみのため、カーネル以外のオペレーティングシステムを構成するソフトウェアを揃えて自ら環境を整える必要があり、初期段階においては技術者などのごく一部の人たちにのみ使われていた。386BSDを皮切りにフリーのBSD系UNIXも登場したが、UNIXの権利者だったノベルとBSDを開発したカリフォルニア大学バークレー校との訴訟に巻き込まれ、開発中止を余儀なくされた(1994年からFreeBSDとNetBSDの開発が再開される)。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "1994年には、Windowsとしては初めて、32ビットに本格対応(カーネルの32ビット化)し、堅牢なマルチタスク機能を備えたWindows NTが登場した。ただこれも負荷や互換性の問題などから個人用途にはあまり普及せず、かわって急速に普及したのはWindows 3.xを拡張しつつ、Windows NTの機能を限定的に取り入れたWindows 95であった。以降、Windows NT系とWindows 9x系との並存が続き、WindowsがWindows NTベースに一本化されたのは2001年のWindows XPからである。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "また、Appleも同年、NEXTSTEPを発展させたMac OS Xを新たにリリース、従来の Mac OS の後継となった。このころには低価格なパーソナルコンピュータでも、これらのオペレーティングシステムの負荷を問題としないほどに高性能化しており、オープンで低価格な分散コンピューティングを広めた(ダウンサイジング)。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2003年にはパソコンにも64ビット時代が到来し、オペレーティングシステムも64ビット化が進んだが、16ビット化や32ビット化の際と比較するとオペレーティングシステムの機能や役割に大きな変化はなかった。商用のパソコン用オペレーティングシステムのWindowsとMac OS Xのいずれもが64ビットへの移行を徐々に進めていった。Windowsは同一バージョンのオペレーティングシステムで32ビット版と64ビット版の双方を提供して、Mac OS Xは32ビットカーネルを維持したまま、一般プロセスに64ビット機能を持たせる道を選んだ。2000年代中頃まではパソコンの性能向上が著しかったため、デスクトップ用途の新しいオペレーティングシステムは同時代における高性能なパソコンを必要としていたが、2006年を境にしてCPUの性能向上の限界が顕著に現れ始めると、高効率化を目指した開発にシフト。Windows Vista・Windows 7やmacOSなどの新しいオペレーティングシステムにおいて、高機能のマルチコアCPUやプログラマブルシェーダを搭載したビデオチップへの対応が進められた。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "オープンソースの流れでは、従来よりGNUがUNIX向けのツール群を開発していたが、これらをLinuxカーネルと組み合わせたGNU/Linuxが、2000年頃よりUnix系オペレーティングシステムの主流となった。またBSD系オペレーティングシステムもUnix系オペレーティングシステムのシェアの大きな部分を占めている。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "一方、組み込みシステムにもより複雑な機能が求められるようになり、NetBSD、VxWorks、LynxOS、QNX、Enea OSE、Symbian OSなど汎用オペレーティングシステムをベースとしリアルタイム性能を持たせた組み込みオペレーティングシステムが幅広い用途に使われている、中でもオープンソースのTOPPERSのITRONを含むTRON系オペレーティングシステム・APIが、2020年現在、組み込みオペレーティングシステムの60%のシェアを持っている。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "1990年代以降はダウンサイジングの流れにより、業務用途でもオープンシステムやWindowsへと主流が移行している中、信頼性・可用性を重視する用途には、現在でも専用オペレーティングシステム(z/OS、MSP/XSP、VOS3、ACOSなど)を搭載したメインフレームが採用され、使い分けられている。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2000年代末以降、パーソナルコンピュータ市場が成熟化する一方で、スマートフォンやタブレットに代表される、デスクトップ・オペレーティングシステムから派生した組み込みプラットフォームが普及し、モバイルコンピューティングが一般化した。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "これらはカメラ、GPS、加速度センサー、ジャイロスコープ、無線LAN、Bluetooth、狭い画面に最適化されたタッチパネルなどのインタフェースを組み込み、携帯機器の低消費電力の要求に応えたiOS、Androidなどのモバイルプラットフォームを採用している。", "title": "オペレーティングシステムの歴史" } ]
オペレーティングシステムとは、コンピュータのオペレーション(操作・運用・運転)を司るシステムソフトウェアである。
{{複数の問題 |出典の明記=2021年5月 |更新=2021年5月 }} {{OS}} '''オペレーティングシステム'''({{lang-en-short|operating system}}、略称:'''OS'''、オーエス)とは、[[コンピュータ]]のオペレーション(操作・運用・運転)を司る[[システムソフトウェア]]である。<!--通常、OSメーカーが組み上げた[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]の集合として、作成され提供されている。--><!--純粋な「OSメーカー」ってかなり少なくないですか? リアルタイムOS系には以前はいくつかありましたが、たいていはどこかに買収されていますし--> == 概要 == オペレーティングシステムは通常、ユーザーや[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]][[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]と[[ハードウェア]]の中間に位置し、ユーザーやアプリケーションプログラムに対して標準的な[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]を提供すると同時に、[[ハードウェア]]などの各リソースに対して効率的な管理を行う。現代のOSの主な機能は、[[ファイルシステム]]などの[[補助記憶装置]]管理、[[仮想記憶]]などの[[メモリ管理]]、[[マルチタスク]]などの[[プロセス管理]]、更には[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]などの[[ユーザインタフェース]]、[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]などの[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]、などがある。[[パーソナルコンピュータ]]から[[スーパーコンピュータ]]までの各種のコンピュータや、[[スマートフォン]]や[[ゲーム機]]などを含む各種の[[組み込みシステム]]で、内部的に使用されている。 商品として(ないし製品として)のOSには、[[デスクトップ環境]]や[[ウィンドウシステム]]など、あるいは[[データベース管理システム]] (DBMS) などの[[ミドルウェア]]、ファイル管理ソフトウェアや[[エディタ]]や各種設定ツールなどのユーティリティ、[[ウェブブラウザ]]や時計などのアクセサリが、マーケティング上の理由などから一緒に含められていることもある。 ;コンピュータのタイプごとの主なオペレーティングシステム スマートフォンのOSおよびそのシェアは、2021年9月時点で[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]が約72%、[[iOS]]が約27%である<ref>[https://gs.statcounter.com/os-market-share/mobile/worldwide]</ref>。Androidは広い意味での[[Linux]]の一種であり、Linuxの[[カーネル]]を一部改編し他の[[オープンソースソフトウェア]]を組み合わせたものである。 [[ノートPC]]や[[デスクトップPC]]のOSおよびそのシェアは、2021年時点で[[Windows]] 75.4%、[[macOS]] 15.93%、[[ChromeOS]] 2.59%、[[Linux]] 2.33%となっている<ref>[https://gs.statcounter.com/os-market-share/desktop/worldwide/#monthly-202012-202012-bar]</ref>。macOSは[[FreeBSD]]を基にした[[Unix系]]のOSである。 [[スーパーコンピュータ]]のOSは、2000年ころは[[UNIX]]が9割ほどを占めていたが、その後の10年間でそのほぼ全てがLinuxに置き換わり、2021年現在では世界のスーパーコンピュータのTOP500のほぼ100%が[[Linux]]である<ref group="注">英語版の記事 [[:en:Usage share of operating systems#Supercomputers]] にUNIXとLinuxのシェア入れ替わりのグラフが掲載されている。</ref>。 [[組み込みシステム]]では[[組み込みオペレーティングシステム]]と呼ばれるOSを用いる。小規模な組み込みシステムのなかには明確なOSを内蔵していないものもあるので[[曖昧]]な面もあるが、組み込みOSを搭載しているものに関しては2019年時点でのシェアでTRON(トロン)系がおよそ60%であり、24年連続トップを占める<ref name="monoist">[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/2005/01/news072.html 組み込みOSのAPIはTRON系OSがシェア60%、24年連続トップ]</ref>。TRON系のなかでも[[ITRON]](アイトロン)が最も普及している<ref name="monoist" />。TRON以外では、次いで[[POSIX]]系つまり[[UNIX系]]、[[Linux]]類などである<ref name="monoist" />。米リナックスワークスの[[LynxOS]](リンクスオーエス)、米ウィンドリバーの[[VxWorks]](ヴイエックスワークスト)、米シンビアンの[[Symbian OS]](シンビアン・オーエス)など。 {{See also|オペレーティングシステムの一覧|:en:Usage share of operating systems}} == オペレーティングシステムの目的 == オペレーティングシステムの主な目的は、ハードウェアの抽象化、[[計算資源|リソース]]の管理、そしてコンピュータ利用効率の向上である<ref>{{Cite book| last = Stallings | title = Operating Systems, Internals and Design Principles | publisher = Prentice Hall | year = 2005 | location = Pearson |page=6}}</ref><ref>{{Cite book| last = Dhotre| first = I.A.| title = Operating Systems. | publisher = Technical Publications | year = 2009 |page=1}}</ref>。 ; ハードウェアの抽象化 : コンピュータごとに、製造元が異なるなどで、実現する機能は同じでも詳細な仕様に差異があるハードウェアが搭載されていることが多い。そのようなハードウェアの統一的で抽象化された利用方法を提供することで、[[アプリケーションソフトウェア]]の開発を容易にする。 ; リソースの管理 : 複数のアプリケーションソフトウェアを同時に利用する際に、互いに独立して動作できるように資源を管理する。[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]からの資源要求に競合が起きた場合には、待たせる、エラーを返すなど、適切に対処する。 ; コンピュータの利用効率の向上 : 複数の[[タスク]]を同時に実行する際に、資源割り当ての順番や処理の割り当て時間を工夫することで、全体の[[スループット]]を向上させる。これは[[デスクトップ環境]]ではあまり恩恵を感じることはないが、[[Webサーバ|ウェブサーバ]]や[[データベース]]など大量のアクセスをこなす用途などでは重要になる。 == オペレーティングシステムの機能とコンポーネント == === APIとABI === {{Main|アプリケーションプログラミングインタフェース|アプリケーションバイナリインタフェース}} オペレーティングシステムは[[アプリケーションソフトウェア]]を動作させるのが第一の目的である。このためのインタフェースが[[アプリケーションプログラミングインタフェース]] (API) と[[アプリケーションバイナリインタフェース]] (ABI) である。[[カーネル]]は[[システムコール]]によってアプリケーションにサービスを提供する。さらに基本[[ライブラリ]]も含めた形でアプリケーションに対してAPI/ABIを提供する。アプリケーションによってはオペレーティングシステム上の[[ミドルウェア]]や[[アプリケーションフレームワーク]]などをAPIとして使用する場合もある。 APIはプログラミングのためのインタフェースであり、プログラムを作成する際の規則を構成する。例えば、[[C言語]]での[[サブルーチン|関数]]や[[FORTRAN]]/[[Pascal]]などのライブラリ呼び出しの仕様といったものがそれにあたる。 一方、ABIは[[コンパイラ|コンパイル]]されたソフトウェアがオペレーティングシステムの機能を呼び出す際のインタフェースであり、プロセスが動作する際の規則を構成する。例えば、[[Unix系]]のオペレーティングシステムはAPIがほとんど共通だが、ABIはオペレーティングシステムによって異なる。したがって、同じ[[CPU]]を使ったシステムであっても、ABIが異なれば[[実行ファイル]]が異なる。ABIには、[[呼出規約]]、[[システムコール]]の方法などが含まれる。 なお、オペレーティングシステムの垣根を越えたABIもいくつか存在する。例えば、[[OCMP]] (Open Computing Environment for MIPS Platform) という[[MIPSアーキテクチャ|MIPS系]]チップを使用したUNIX機によるバイナリ共通インタフェースが[[日本電気]]や[[ソニー]]、[[住友電気工業]]、[[タンデムコンピューターズ|日本タンデムコンピューターズ]]などにより定義され、その定義に沿ったUNIXオペレーティングシステムが複数販売された。 === カーネル === [[ファイル:Kernel Layout.svg|thumb|カーネルは、コンピュータのハードウェアとアプリケーションを結び付ける役目を担っている。]] {{Main|カーネル}} [[ファームウェア]]と[[デバイスドライバ]]の助けを借り、カーネルはコンピュータの全ハードウェアデバイスの基本的制御を提供する。[[Random Access Memory|RAM]]上のプログラムのメモリアクセスを管理し、どのプログラムがどのハードウェア資源へのアクセスを得るかを決定し、常に運用が[[最適化 (情報工学)|最適化]]されるよう[[CPU]]の状態を設定し、[[ファイルシステム]]と共に[[ディスク]]、[[磁気テープ]]、[[フラッシュメモリ]]といった長期的[[不揮発性メモリ|不揮発性記憶装置]]でのデータの編成を行う。 ==== プログラム実行 ==== {{Main|プロセス}} オペレーティングシステムはアプリケーションプログラムとコンピュータハードウェアの間のインタフェースを提供し、オペレーティングシステムに組み込まれた規則や手続きに従うことによってアプリケーションプログラムはハードウェアとやりとりできる。オペレーティングシステムはまた、アプリケーションプログラムの開発と実行を簡素化するサービス群も提供する。アプリケーションプログラムの実行にあたって、オペレーティングシステムの[[カーネル]]が[[プロセス]]を生成する。プロセスの生成には、メモリ([[記憶装置]])空間などの資源の割り当て、[[マルチタスク]]システムでのプロセスへの優先度の割り当て、プログラムのバイナリコードのメモリへのロード、アプリケーションプログラムの実行開始といった仕事が含まれる。そうして初めてユーザーやハードウェアデバイスとやりとりを開始できる。 ==== 割り込み ==== {{Main|割り込み (コンピュータ)}} [[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]はオペレーティングシステムの要であり、オペレーティングシステムが周囲の環境と相互作用し反応するための効率的手段となっている。非常に小さな[[コールスタック|スタック]](50バイトや60バイト)しか持たない古いシステムでは、オペレーティングシステムが対応しなければならないイベントの発生源を「監視」するポーリング方式を採用していたが、現代の大きなスタックを持つシステムでは一般的ではない。現代の多くのCPUは、[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]をベースとしたプログラミングを直接サポートしている。割り込みが発生すると、その時点の[[コンテキストスイッチ|レジスタコンテキスト]]を退避し、そのイベントに対応した特定のコードを実行する。非常に基本的なコンピュータにもハードウェア割り込み機能があり、[[プログラマ]]は特定の割り込みが発生したときに実行すべきコードを設定することができる。 割り込みを受信すると、コンピュータのハードウェアは実行中のプログラムを自動的に一時停止させ、状態を退避させ、その割り込みに事前に割り当てられているコードを実行する。これは例えば読書中に電話が鳴ったとき、本にしおりを挟み、電話に出るのに似ている。現代的なオペレーティングシステムでは、割り込みはオペレーティングシステムの[[カーネル]]が扱う。割り込みはコンピュータのハードウェアが発生させる場合もあるし、実行中のプログラムが発生させる場合もある。 ハードウェアから割り込みが発生した場合、オペレーティングシステムのカーネルがそのイベントにどう対応するかを一般に何らかの処理コードを実行して決定する。割り込みには優先順位があり、それに従って実行するコードが決定される。再び人間にたとえれば、電話が鳴ると同時に[[火災]]を知らせる[[火災報知器]]の[[非常ベル]]も鳴ったら、電話には出ずに避難するだろう。ハードウェア割り込みの処理は通常、[[デバイスドライバ]]と呼ばれるソフトウェアに委任される。デバイスドライバはオペレーティングシステムのカーネルの一部という場合もあるし、別のプログラムという場合もあるし、混在する場合もある。デバイスドライバは割り込みによって得た情報を各種手段を通じて動作中のプログラムに中継する。 実行中のプログラムがオペレーティングシステムに対して割り込みを発生させる場合もある。例えば、あるプログラムがハードウェアにアクセスしたい場合、オペレーティングシステムのカーネルに対して割り込みを発生させ、結果として制御をカーネルに移す。するとカーネルは必要な処理を行う。また、プログラムがメモリなどの資源を追加で要求する場合、割り込みを発生させてカーネルに知らせる。ただし、それらは一般に[[システムコール]]と呼ばれ、ハードウェア割り込みとは実装が異なることもある。 ==== モード ==== {{Main|プロテクトモード|CPUモード|リングプロテクション}} [[ファイル:Priv rings.svg|300px|thumb|right|[[x86]]の[[プロテクトモード]]では特権リングが利用可能である。オペレーティングシステムが各プロセスをどのモードで動作させるかを決定する。]] 現代的CPUには複数の運用モードがある。その場合、少なくともユーザーモードとスーパーバイザモードの2つが存在する。スーパーバイザモードはオペレーティングシステムのカーネルが使用するモードで、ハードウェアに無制限にアクセスでき、メモリの読み書きの方法を制御したり、グラフィックスカードなどのデバイスとやりとりしたりできる。一方ユーザーモードはカーネル以外のほぼ全てが使用する。アプリケーションはユーザーモードで動作し、ハードウェアとのやりとりはカーネルを通す必要がある。[[CPU]]は2つ以上のモードを持つこともあり、古い[[プロセッサ]]をエミュレートするのに使ったりする。 コンピュータが起動した際は、自動的にスーパーバイザモードで動作する。[[Basic Input/Output System|BIOS]]や[[Unified Extensible Firmware Interface|EFI]]、[[ブート|ブートローダー]]、オペレーティングシステムのカーネルといったごく一部のプログラムがスーパーバイザモードで動作する。このようになっているのは、ユーザーモードの環境の初期化はその外側にあるプログラムでないと行えないためである。しかし、オペレーティングシステムが他のプログラムに制御を渡す際には、CPUをユーザーモードに設定できる。 ユーザーモードでは、プログラムが使用できるCPUの[[命令セット]]が制限されている。ユーザープログラムでユーザーモードを抜け出すには、割り込みを発生させ、[[カーネル]]に制御を戻す。そのようにしてハードウェアやメモリへのアクセスといったことへの独占的制御をオペレーティングシステムが保持している。 ==== メモリ管理 ==== {{Main|メモリ管理}} [[パーキンソンの法則]]によると、「メモリを拡張するとプログラムはそれに伴って拡大する」という。プログラマーは無限の容量と無限の速度のメモリを理想としている。コンピュータのメモリは[[階層構造]]になっていて、最も高速な[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]から、[[キャッシュメモリ]]、[[Random Access Memory|RAM]]、最も低速なディスク装置がある。オペレーティングシステム内のメモリ管理部はこのようなメモリを管理するもので、利用可能な部分、割り当てと解放、主記憶と二次記憶との間での[[仮想記憶|スワップ]]などを制御する。 マルチプログラミング・オペレーティングシステムの[[カーネル]]はプログラムが使用中の全システムメモリの管理責任を負っている。それによってあるプログラムが既に別のプログラムが使用しているメモリを誤って使用しないようにしている。プログラム群は時分割で動作するので、それぞれのプログラムの独立したメモリアクセスが可能となっている。 協調的メモリ管理は初期のオペレーティングシステムでよく使われた方式で、全プログラムが自発的に[[カーネル]]のメモリ管理機構を使い、割り当てられたメモリをはみ出さないように動作することを前提としている。プログラムにはバグがつきもので、そのために割り当てられたメモリからはみ出すこともあるため、このようなメモリ管理は今では見られない。プログラムが異常動作すると、他のプログラムが使用中のメモリを書き換えることもあった。悪意あるプログラムや[[コンピュータウイルス]]が意図的に他のプログラムのメモリを書き換えたり、オペレーティングシステム自体の動作を妨げたりすることも可能である。協調的メモリ管理では、たった1つのプログラムがおかしな動作をするだけでシステム全体が[[クラッシュ]]する。 [[カーネル]]による[[メモリ保護]]により、プロセスのメモリへのアクセスが制限される。メモリ保護には様々な技法があり、[[セグメント方式]]と[[ページング方式]]が代表的である。どの技法でも何らかのハードウェアサポートが必要であり(例えば、[[Intel 80286|80286]]の[[メモリ管理ユニット|MMU]]など)、あらゆるコンピュータがそのようなハードウェア機構を備えているわけではない。 セグメント方式でもページング方式でも、CPU内のユーザーがアクセスできない[[レジスタ (コンピュータ)|レジスタ]]群でユーザープログラムがアクセス可能なメモリアドレスの範囲を設定している。その範囲外のアドレスにアクセスしようとすると割り込みが発生してCPUがスーパーバイザモードに遷移し、[[カーネル]]がその状況に対処する。これを[[セグメンテーション違反]]と呼ぶ。セグメンテーション違反は一般にプログラムの間違いから発生するので、実行を継続するような対処は困難であり、[[カーネル]]は問題のプログラムを強制終了させ、エラーを報告するのが一般的である。 [[Windows 3.1]]から[[Windows Me]]までは何らかのメモリ保護機構を備えていたものの、それを回避するのも容易だった。そのためセグメンテーション違反の発生を知らせる{{仮リンク|一般保護違反|en|general protection fault}}が考案されたが、それでもシステムがクラッシュすることが多かった。 ==== 仮想記憶 ==== {{See also|ページフォールト}} [[ファイル:Virtual memory.svg|thumb|250px|多くのオペレーティングシステムは、メモリ空間をハードディスクおよびRAM上にばらばらな形で確保してプログラムに対して連続にみせる「トリック」を使っている。これを「仮想記憶」と呼ぶ。]] ページングやセグメントによる[[仮想記憶]]を使用することで、カーネルは任意の時点で各プログラムが使用するメモリを選択でき、同じメモリ位置を複数タスクで使用させることも可能となる。 あるプログラムが使用可能な現在のメモリ範囲だが物理メモリが割り当てられていない位置にアクセスしようとしたとき、セグメンテーション違反のように割り込みによってカーネルに遷移する。このような割り込みを[[Unix系]]では[[ページフォールト]]と呼ぶ。 カーネルがページフォールトを受け付けると、そのプログラムに割り当てられた仮想メモリ空間の調整を行い、要求されたメモリアクセスが可能になるよう物理メモリを割り当てる。これにより、カーネルはそれぞれのアプリケーションへのメモリ割り当てを自由に決定でき、さらには実際には割り当てないでおくことも可能となる。 現代的オペレーティングシステムでは、相対的にアクセス頻度が低いメモリを一時的にディスクなどの二次記憶装置に退避させ、主記憶を他のプログラムのために空けることができる。これを[[ページング方式|スワッピング]]と呼び、限られたメモリを複数のプログラムで使用可能にし、メモリの内容を必要に応じて退避させたり復帰させたりできる。 仮想記憶により、実際に搭載しているよりも多くのRAMを使用しているかのような感覚でコンピュータを使用することができる<ref name="Operating System">{{Cite book|last=Stallings|first=William|title=Computer Organization & Architecture|year=2008|publisher=Prentice-Hall of India Private Limited|location=New Delhi|isbn=978-81-203-2962-1|page=267}}</ref>。 ==== マルチタスク ==== {{Main|マルチタスク|プロセス管理}} {{See also|コンテキストスイッチ|プリエンプション}} コンピュータ上の各動作はバックグラウンドであっても一般の[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]であっても、内部的には[[プロセス]]として動作する。[[DOS/V]]のような機能の限定されたオペレーティングシステムは一度に1つのプロセスしか実行できない。近代的なオペレーティングシステムは一度に複数のプロセスを動作させることができる([[マルチタスク]])。プロセス管理は複数のプロセスを実行するためにオペレーティングシステムが行う処理である。プロセッサを1つだけ持つ一般的なコンピュータでは、マルチタスクは高速にプロセスからプロセスへ切り替えを行うことで実現される。ユーザーがより多くのプロセスを実行すれば、個々のプロセスに割り当てられる時間は少なくなっていく。多くのシステムでは、これが音声の途切れや[[マウス (コンピュータ)|マウス]]カーソルの奇妙な動作などを引き起こす。一般的なプロセス管理は、プロセスごとに優先度を与え、それによって配分される時間を決めている。 オペレーティングシステムの[[カーネル]]には[[スケジューリング|スケジューラ]]と呼ばれるソフトウェアが含まれており、プロセッサが実行すべきプロセスの順序と一度に実行する期間を決定している。スケジューラが選択したプロセスにカーネルが制御を渡し、それによってそのプログラムが[[CPU]]とメモリにアクセス可能になる。その後何らかの機構で制御がカーネルに戻され、スケジューラが再び新たなプロセスを選択する。このようなカーネルとアプリケーション間の制御の切り替えを[[コンテキストスイッチ]]と呼ぶ。 プログラム群へのCPU時間の割当方法の初期のモデルとして[[マルチタスク|協調的マルチタスク]]がある。このモデルでは、カーネルがあるプログラムに制御を渡すと、そのプログラムは時間を制限されることなく処理を行え、カーネルには自発的に制御を戻すことになっている。したがって、悪意あるプログラムや[[バグ]]のあるプログラムがあると他のプログラムにCPU時間が割り当てられなくなり、[[無限ループ]]に陥っている場合はシステム全体が[[フリーズ]]する。 [[プリエンプション|プリエンプティブ・マルチタスク]]では、動作中のプロセスから任意の時点で制御を奪うことができ、全プログラムに所定のCPU時間を割り当てることが可能である。これを実現するためオペレーティングシステムはタイマ割り込みを使用し、所定の時間が経過したら割り込みを発生させてスーパーバイザモードに制御を戻させ、カーネルがスケジューラを呼び出す。 現代的オペレーティングシステムでは、プリエンプションの考え方をユーザーモード(アプリケーション)だけでなくデバイスドライバやカーネルコードに対しても適用し、リアルタイム性を向上させている。 [[ホビーパソコン]]などのシングルユーザー・オペレーティングシステムでは、少数のよく評価されたプログラムしか使わないことが多く、協調的マルチタスクで全く問題ない。例外として [[AmigaOS]] は初期のバージョンからプリエンプティブ・マルチタスクを実現していた。[[Microsoft Windows]] で初めてプリエンプティブ・マルチタスクを実装したのは [[Microsoft Windows NT|Windows NT]] だが、それが一般家庭向けに発売されるのは [[Microsoft Windows XP|Windows XP]] からだった。 ==== ディスクアクセスとファイルシステム ==== {{Main|仮想ファイルシステム}} [[ファイル:Dolphin FileManager.png|thumb|256px|ファイルシステムは、多くの場合ディレクトリ(フォルダ)を使ってファイル群を編成したり分類したりできる。]] ディスクに格納したデータへのアクセスは、あらゆるオペレーティングシステムの中心的機能である。コンピュータは[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]という形で[[ハードディスクドライブ|ディスク]]にデータを格納する。ディスクの内容は高速アクセス、高信頼性、ディスク領域の利用効率などを考慮して編成される。このファイルをディスクに格納する方式を[[ファイルシステム]]と呼び、それによってファイルに名前と属性が付与される。また、[[ディレクトリ]]あるいはフォルダと呼ばれる構造を使い、ファイル群を階層構造([[木構造 (データ構造)|木構造]])内に格納できる。 初期のオペレーティングシステムは一種類のディスク装置しかサポートしておらず、ファイルシステムも一種類ということが多かった。初期のファイルシステムは容量や性能が低く、ファイル名やディレクトリ構造の面で制約が多かった。そういった制約はオペレーティングシステム自体の設計上の制約を反映していることが多く、複数のファイルシステムをサポートするのもオペレーティングシステムの制約の観点から非常に困難だった。 より単純なオペレーティングシステムではストレージへのアクセス手段が限られているが、[[UNIX]]や[[Linux]]などのオペレーティングシステムでは[[仮想ファイルシステム]] (VFS) という機構をサポートしている。UNIXなどのオペレーティングシステムは様々なストレージ([[補助記憶装置]])デバイスをサポートしており、それらの仕様や[[ファイルシステム]]とは独立した共通のアプリケーションプログラミングインタフェース (API) でアクセスできるようにしている。そのためプログラムはアクセスしようとしているデバイスに関する知識を持つ必要がない。VFS機構により、プログラムは[[デバイスドライバ]]とファイルシステムドライバを経由してシステム上のあらゆるデバイスと様々なファイルシステムにアクセス可能となる。 [[ハードディスクドライブ]]などの[[補助記憶装置]]には、[[デバイスドライバ]]を通してアクセスする。デバイスドライバは担当するデバイスのインタフェースをよく理解しており、それをオペレーティングシステムが全ディスクドライブに共通で用意しているインタフェースに変換する。UNIXでは、それが[[ブロックデバイス]]のインタフェースである。 ===== 代表例 ===== Linuxを元[[プラットフォーム (コンピューティング)|プラットフォーム(コンピューティング)]]として開発されたものには[[ext2]]、[[ext3]]、[[ReiserFS]]などがある。また、他のプラットフォームから[[XFS]]、[[Journaled File System|JFS]]、[[File Allocation Table|FAT]]ファイルシステムなどが[[移植 (ソフトウェア)|移植]]され、[[NT File System|NTFS]]も不十分ながら読み書きが可能である。 [[Macintosh]]ではまず最初にMacintosh File System (MFS) が実装されたが、ディレクトリ機能を備えていなかったためファイルブラウザ[[Finder]]でフォルダをエミュレーションしていた。その後[[Hierarchical File System]] (HFS) でディレクトリ機能を実装し、現在は改良を加えたHFS+が採用されている。現在[[macOS]]で読み書きが可能なものはHFS、HFS+、[[UNIX File System]] (UFS)、FATとなる。なおUFSの使用は一般でなく、FATへの対応は他プラットフォームとのデータ交換に用いられる。NTFSは読み込みのみが可能であり、書き込みについては[[Common Internet File System]] (CIFS) によるネットワークを介したものに限られる。 Windowsが標準で扱えるファイルシステムは、FAT、FAT32、NTFSである。[[Microsoft Windows NT|NT系のWindows]]ではNT3.51までは[[OS/2]]標準の[[HPFS]]にアクセス可能だった。現在Windows上ではNTFSが最も信頼性と効率が高いものとして一般的に利用される。FATは[[MS-DOS]]から採用される古いファイルシステムであるが、パーティションやファイルサイズに制限があり、大容量化したハードディスクではあまり用いられない。このためファイルサイズの制限をなくしたexFATが新たに開発された。なお、exFATはVistaや7では標準で使えるが、XPでexFATを使うためには専用のプログラムを新たにインストールする必要がある。 ===== プラットフォーム間の差異 ===== FATはその仕様の制限から大容量のハードディスクには向かないが、その一方構造が単純で[[デジタルカメラ]]や[[携帯電話]]などの[[組み込みシステム]]向けを含むさまざまなオペレーティングシステムで読み書き可能なことから、各種[[メモリカード]]や[[USBフラッシュドライブ|USBメモリ]]などプラットフォームを跨ぐ用途においては主流である。なお、それら[[ソリッドステートドライブ|フラッシュディスク]]の大容量化に対応するため、マイクロソフトはFATを拡張した[[exFAT]]というファイルシステムを発表している<ref>{{Cite web|author=Microsoft Corporation|title=Extended FAT File System|url=http://msdn2.microsoft.com/en-us/library/aa914353.aspx|accessdate=2007年10月20日}}</ref>。 MacintoshからWindows等へファイルを[[転送]]すると、転送先のWindows側に本体とは別のファイルが出現することがある。これはHFSやHFS+のみがサポートする[[リソースフォーク]]と呼ばれるデータ構造によるもので、Macintoshではそれらを一元的に管理を行うため一つの書類に見える。このように幾つものフォークを一つのデータに格納することをマルチフォークと呼び、もとのデータを改変することなくオペレーティングシステム独自の管理情報を容易に付与できる機能だが、実質的にMacintoshでしか利用できない。 ===== 障害への対応 ===== ファイルシステムには、急な電源切断などによる障害へ対応する機構を持つものがある。 [[ジャーナルファイルシステム]]が最もよく採用される機構であり、その他にも[[ZFS]]のように書き込み操作を[[トランザクション]]として扱うものもある。これらを用いることで、障害復旧時のチェックを大幅に短縮する、または完全に不要にする。一方これらの機構を持たないファイルシステムでは、ファイルシステムの整合性を保つためストレージ全体を検査する必要がある。 ==== デバイスドライバ ==== {{Main|デバイスドライバ}} [[デバイスドライバ]]はハードウェアとのやり取りをするためのソフトウェアである。一般にハードウェアとの通信を行うインタフェースを持ち、ハードウェアの[[接続]]される何らかの通信サブシステムや[[バス (コンピュータ)|バス]]を経由して通信を行う。コマンドをハードウェアに送り、データの送受信を行う。また、一方でオペレーティングシステムやアプリケーションに対するインタフェースも提供する。ハードウェアに強く依存するプログラムであり、オペレーティングシステムにも依存している。これによって、オペレーティングシステムやアプリケーションがハードウェアを使って動作することが容易になっている。ハードウェアの非同期的な割り込みの処理もデバイスドライバの役割である。 デバイスドライバの主たる設計目標は[[抽象化]]である。ハードウェアは用途が同種のものであっても、機種によって動作や性能などがそれぞれ異なる。新たな機能や性能を提供するハードウェアが登場したとき、それらは従来とは異なった制御方式を採用していることが多い。オペレーティングシステムを将来にわたってあらゆるハードウェアを制御できるように設計するのは困難である。従って、個別のハードウェアの制御をオペレーティングシステムから切り離す必要がある。デバイスドライバはオペレーティングシステムとのインタフェース(関数呼び出し)をデバイス固有の処理に変換することが主たる機能となる。理論的には、新たな制御方法の新しいハードウェアが登場しても、そのハードウェア用のドライバが古いオペレーティングシステムに対応していれば、古いオペレーティングシステムでもドライバだけ置き換えればハードウェアを制御可能となる。 [[Microsoft Windows Vista]]以前のWindowsやバージョン2.6より以前のLinuxカーネルでは、ドライバ実行は協調的だった。すなわち、あるドライバが[[無限ループ]]に陥ると、システム全体がフリーズした。その後のバージョンでは[[プリエンプション]]が可能となり、カーネルがドライバを中断させることができるようになった。 === ネットワーク === 多くのオペレーティングシステムは[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP('''Transmission Control Protocol/Internet Protocol''']])をサポートしている。歴史的に見れば、初期の[[コンピュータネットワーク]]は[[モデム]]を使って[[電話回線]]で行われていた([[BSC手順]]など)。その後、[[パケット通信]]が使われるようになり、[[IBM]]の[[Systems Network Architecture|SNA]]などの各社独自の[[ネットワークアーキテクチャ]]が登場した。現在では、TCP/IPを中心とした通信が主流となっている。 [[通信プロトコル]]は、[[トランスポート層]]までは[[カーネル]]内モジュールとして実装し、[[プレゼンテーション層]]より上はシステムプロセスとして実装されるのが一般的である。[[セッション層]]の実装はシステムによって異なる。 このようなネットワーク機能により、異なるオペレーティングシステム間で[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]を形成し、計算能力 ([[遠隔手続き呼出し|RPC]])、ファイル、[[プリンター]]、[[スキャナ]]などのリソースを共有できる。ネットワークにより、あるコンピュータのオペレーティングシステムが遠隔のコンピュータにあるリソースをあたかも自身に直接接続されているかのように透過的に利用できる。単純な通信に始まり、[[分散ファイルシステム]]、グラフィックスやサウンドといった機能の共有まで様々な応用がある。透過的アクセスの例としては、[[Secure Shell|SSH]]によるコマンドラインの直接使用などもある。 === セキュリティ === {{Main|コンピュータセキュリティ}} オペレーティングシステムが関係するセキュリティ機能は、ユーザーがリソースへの何らかのアクセスを行う際に前もって認証し、そのユーザーのアクセスレベルを決定し、管理者の方針に基づいてアクセスを制限することである。 オペレーティングシステムは、処理を許可すべき要求と処理すべきでない要求を識別できなければならない。一部のシステムは単にユーザー名などで要求者を識別し、それによって特権の有無を判断する。要求者を識別する過程を「[[認証]]」(authentication) と呼ぶ。ユーザー名を示さなければならないことが多く、ユーザー名に続いてパスワードも必要な場合がある。別の認証方法として、[[磁気ストライプカード]]や生体データ(指紋)を使った「認証」(certification) を行うこともある。ネットワーク経由に接続などの場合、認証を全く行わずにリソースにアクセスさせることもある(ネットワーク上で共有されたファイルを読む場合など)。 さらに高度なセキュリティを備えたシステムでは、監査証跡 (auditing) オプションも提供している。これは、リソースへのアクセス要求を監視し記録するものである(「このファイルは誰が読もうとしたか?」など)。プログラムが何らかのリソースを要求すれば割り込みによってカーネルに制御が渡るので、そこでセキュリティの確認が可能である。プログラムがハードウェアやリソースに直接アクセスできる場合、セキュリティは確保されない。 何者かがコンソールやネットワーク接続経由で[[ログイン]]しようとする際にもセキュリティの確保が必要である。このような要求は一般にデバイスドライバ経由でカーネルに渡され、それから必要ならアプリケーションに渡される。ログインにまつわるセキュリティは、企業や軍などで機密情報を保持しているコンピュータでは長年の課題だった。[[アメリカ国防総省]] (DoD) はセキュリティ評価に関する基本要件を定めた標準 ''[[オレンジブック (セキュリティ)|Trusted Computer System Evaluation Criteria]]'' (TCSEC) を策定した。TCSECはセキュリティを要求されるシステムの調達条件とされるようになったため、オペレーティングシステムのメーカーはこれを重視するようになった。 === ユーザインタフェース === [[ファイル:Command line.png|thumb|256px|[[Bash|Bourne Again Shell]] のスクリーンショット。各コマンドは「プロンプト」の後に打ち込み、その下に結果が出力される。現在のプロンプトは画面最下端にある。]] 個人が使用するコンピュータには[[ユーザインタフェース]]が必要とされる。ユーザインタフェースは必ずしもオペレーティングシステムの一部とは限らない。通常は[[シェル]]などのプログラムが実装しているが、人間とのやりとりが必要なプログラムは基本的にユーザインタフェースを備えている。ユーザインタフェースは、[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]や[[マウス (コンピュータ)|マウス]]や[[クレジットカード]]読み取り機といった入力デバイスからのデータを取得するのにオペレーティングシステムを介する必要があり、[[ディスプレイ (コンピュータ)|モニター]]や[[プリンター]]といった出力機器にプロンプトやメッセージを出力するのにもオペレーティングシステムを介する必要がある。主なユーザインタフェースは、古くからある[[キャラクタユーザインタフェース]](コマンドラインインタフェース)と視覚的な[[グラフィカルユーザインタフェース]]に大別される。 ==== グラフィカルユーザインタフェース (''GUI'') ==== {{Main|グラフィカルユーザインタフェース}} [[ファイル:KDE 4.png|thumb|left|256px|[[Plasma (KDE)|KDE Plasma Desktop]] というGUIのスクリーンショット。プログラムは画面上にグラフィカルに結果を表示し、ファイルやフォルダ(ディレクトリ)やアプリケーションはアイコンなどの形で表される。操作にはキーボードのほかにマウスも使われる。]] 最近のオペレーティングシステムは一般にGUIを持っている。多くの[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なシステム([[Microsoft Windows|Windows]]や[[Mac OS]])は[[カーネル]]とGUIが密接に関係している。他のオペレーティングシステムではユーザインタフェースはモジュール化されていて、任意のGUIをインストールしたり、新たなGUIを作成したりできる([[Linux]]、[[FreeBSD]]、[[OpenSolaris]])。 Windowsでは新たなバージョンが登場するたびにGUIを変更してきた。初期のWindowsから[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]までを比べてみると、その変化は大きいし、MacintoshのGUIは1999年のMac OS Xの登場で劇的に変化した<ref name="intro-date">Poisson, Ken. [http://www.islandnet.com/~kpolsson/compsoft/soft1998.htm "Chronology of Personal Computer Software"]. Retrieved on 2008-05-07. Last checked on 2009-03-30.</ref>。 Macでは初期からSystem 6.0.xまでが[[モノクローム|白黒]]のGUIで、System 7以降も[[カラー]]化されたのみで、Mac OS 8でプラチナアピアランスが採用されても、Mac OS 9.2.2までは基本要素はほぼ変わらなかった。しかしMac OS Xになって完全に刷新され、[[Aqua (コンピュータ)|Aqua]]ベースのGUIになった。[[Mac OS X v10.3]]以降ではメタルアピアランスが導入され、その後もバージョンアップのたびに少しずつ手が加えられている。また、Aquaとは別に[[X11]]も用意されている。 Mac OS Xの前身の[[NEXTSTEP]]は様々な独創的なGUI要素で知られ、他のオペレーティングシステムや[[デスクトップ環境]]に大きな影響を与えた。[[グレースケール]]のシステムだったころより[[アルファチャンネル]]を備えていたのは特筆すべき点である。 LinuxではGUIを提供するデスクトップ環境がいくつか存在する。Linuxで使えるGUIとして有名なものは、[[GNOME]]と[[KDE]]がある。 == オペレーティングシステムの歴史 == {{Main|オペレーティングシステムの歴史|en:Timeline of operating systems}} === 1950年代 オペレーティングシステム前史=== [[1950年代]]、オペレーティングシステムという概念が登場し始めた。初期のコンピュータはオペレーティングシステムを持たなかった。しかし、システム管理用ソフトウェアツールやハードウェアの使用を簡素化するツールはすぐに出現し、徐々にその利用範囲を拡大していった。最初のオペレーティングシステムは、[[IBM 701]]用に[[ゼネラルモーターズ]]が開発したもの、[[IBM 704]]用にゼネラルモーターズと[[ノースアメリカン航空]]が共同開発したもの等、多くの候補があるが、どういった機能が搭載された時点でオペレーティングシステムと呼ぶかによる。この時代のものをオペレーティングシステムとは呼ばない場合もある<ref name="google4">{{Cite book|title= Classic Operating Systems|editor1-first= Per Brinch|editor1-last= Hansen|year= 2001|publisher= Springer|location= |isbn= 0-387-95113-X|pages=4–7|url= https://books.google.co.jp/books?id=-PDPBvIPYBkC&lpg=PP1&pg=PP1&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q}}</ref>。 当時は、[[パンチカード]]等から入力された[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を[[磁気テープ]]に一旦保存し、その磁気テープを大型コンピュータに接続後、プログラムを[[ロード]]して実行していた。そのため、入出力装置のドライバに当たるものが作成されていた。また、[[アセンブリ言語|アセンブラ]]や[[コンパイラ]]が登場し始めた時代なので、まずコンパイラをロードしてからプログラム(ソースコード)をロードし、コンパイル結果として出力された[[アセンブリ言語]]をアセンブルするために、さらにアセンブラをロードするといった手続きが必要だった。こうした作業を自動化する'''[[バッチ処理]]'''がオペレーティングシステムの機能として実現されていた。また、プロセスの状態を監視するモニタも実装されていた。 === 1960年代 オペレーティングシステムの確立 === [[1960年代]]前半には、オペレーティングシステム機能の増強が進められた。[[スプーリング|スプール]]、[[ジョブ]]管理、[[メモリ保護|記憶保護]]、[[マルチプログラミング]]、[[タイムシェアリングシステム]]、そして、[[仮想記憶]]の概念が登場し始めた。これらの概念を複数搭載するオペレーティングシステムも登場していた。また、[[マルチプロセッシング]]システムに対応するオペレーティングシステムもあった。 1960年代後半には、オペレーティングシステムは著しい進化を遂げた。現在のオペレーティングシステムの概念や基本部分(カーネル)の技術の大半は、この時期に完成された。 1962年、[[ゼネラル・エレクトリック]]がGECOS(後の[[GCOS]])の開発を開始した。 [[ファイル:IBM360-65-1.corestore.jpg|thumb|[[OS/360]]は1966年からIBMの[[メインフレーム]]で使われ始め、NASAが月に人間を送り込むことにも使われた。]] [[1964年]]発表のIBM [[System/360]]シリーズに搭載された[[OS/360]]および[[DOS/360]]は世界初の商用オペレーティングシステムとされ、単一の'''OSシリーズ'''で幅広いモデル(性能、容量、価格帯)と周辺機器を稼働させ、更に[[ハードディスクドライブ]]をサポートし、本格的な([[プリエンプション|プリエンプティブ]]な)'''[[マルチタスク]]'''を実現した。「オペレーティングシステム」という用語が一般化したのもOS/360からである。従来は機種ごとに専用の制御ソフトが付属し「機種が変わればプログラムは書き直し、周辺機器は買い直し」が常識だったが、オペレーティングシステムがアプリケーションに一貫した上位互換の[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を提供する事で、OS/360用に書かれたプログラムは、40年以上経過した現在の[[z/OS]]上でもバイナリ互換で動作する。このOS/360はNASAが使っていた この頃のもう1つの重要な進歩として'''[[タイムシェアリングシステム]]'''の本格的な実用化がある。コンピュータの資源を複数のユーザーが並行的に使えるようにすることで、システムを有効利用するものである。タイムシェアリングは、各ユーザーに高価なマシンを独占しているかのような幻想を抱かせた。[[1965年]]の[[Multics]]のタイムシェアリングシステムは特に有名である。更に[[1967年]]にはSystem/360用に、商用初の'''[[仮想機械|仮想化オペレーティングシステム(仮想機械)]]'''である[[z/VM|CP-40とCP-67]]が登場し、1台のコンピュータで同時に複数のオペレーティングシステムを稼働できるようになったが、これもタイムシェアリングの応用である。 また'''[[仮想記憶]]'''は[[1961年]]の[[バロース B5000]]が商用初とされ、[[1970年]]のIBM [[System/370]]シリーズ用の[[OS/VS]]で広く普及した。コンピュータの利用形態として[[オンライントランザクション処理]]や[[データベース]]処理が普及したのもこの頃である。 === 1970年代 - 1980年代前半 分散システムの台頭 === [[1970年代]] - [[1980年代]]前半は、多種多様な[[分散システム]]が普及した。[[ミニコンピュータ]]用オペレーティングシステムとしては、[[OpenVMS|VMS]]が有名である。Multicsは1970年代の様々なオペレーティングシステム、[[UNIX]]などに影響を与えた。UNIXは[[オープンシステム (コンピュータ)|オープンシステム]]と呼ばれ、ミニコンピュータからメインフレームまで広く普及した。 [[ファイル:PC DOS 1.10 screenshot.png|thumb|256px|[[IBM PC DOS|PC-DOS]] は、初期のコマンドラインインタフェースを持つパーソナルコンピュータ用オペレーティングシステムである。]] また1970年代には低価格な[[マイクロプロセッサ]]が登場したが、初期の[[パーソナルコンピュータ|マイクロコンピュータ]]は、メインフレームやミニコンピュータのような大規模なオペレーティングシステムを搭載する容量もなかったため、ディスク管理程度の必要最低限の機能しか持たないオペレーティングシステムが開発された。初期の特筆すべきオペレーティングシステムとして[[CP/M]]があり、[[8ビット]]のマイクロコンピュータで良く使われた。その大雑把なクローン(複製)として[[16ビット]]の[[IBM PC]]用にPC DOSが生まれ、そのOEM版である[[MS-DOS]]が普及した。これらはオペレーティングシステムの提供する機能が少なく、画面制御など多くの機能は、アプリケーションが直接ハードウェアを操作する必要があったため、同じ[[CPU]]を使用していても、[[ハードウェア]](機種)が異なると[[互換性]]も失われた。このMS-DOSと後継の[[Microsoft Windows]]によって、[[マイクロソフト]]は世界有数のソフトウェア企業となった。 なお、1980年代の別の特筆すべき流れとして、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]を標準装備したApple Computer(現:[[Apple]])のMacintoshがある。Macintoshのオペレーティングシステム (Mac OS) は、当時の性能的制約から、多くの部分が[[ファームウェア]]の状態でハードウェアに組み込まれてはいたが、現在でいう[[ウィジェット・ツールキット]]を含むToolboxと呼ばれるAPI群を持ち、アプリケーションにおけるGUIのデザイン開発をある程度まで標準化した。 マイクロプロセッサの高性能化と低価格化が進むと、業務用途のシステムでは、高機能な[[端末]]を大量に用意することが可能になり、UNIXをベースとした[[クライアントサーバモデル]]が普及した。クライアント機である[[ワークステーション]]のオペレーティングシステムとして[[SunOS]]、[[IBM AIX]]、[[IRIX]]などのUnix系オペレーティングシステムが用いられた。この時期には[[ソフトウェアの肥大化|肥大化]]したUNIXの再設計の機運が高まり、[[マイクロカーネル]]という新しい設計手法が生まれ、成果として[[Mach]]などのカーネルが作られた。しかし、UNIXの権利を持つAT&Tがライセンスに厳しい条件をつけるようになり、UNIXを自由に改変したり、改変した機能を外部に公開することができなくなった。このため、オープンシステムとしてのUNIXのオープンな文化は一時衰退に追い込まれた。さらにUNIXの標準規格を巡って[[UNIX戦争]]が勃発し、UNIX市場は大きなダメージを受けた。 === 1980年代後半-2000年代初頭 次世代オペレーティングシステムへの流れ === 1980年代後半には、[[パソコン]]にも[[32ビット]]時代が到来し、[[1990年代]]に入ると、低価格なAT互換機でも[[記憶装置|メモリ]]を十分に搭載すれば[[PC-UNIX]]の利用が可能になりはじめた。当時のパソコンでは、オペレーティングシステムとして最低限の機能しか持たないDOSが依然として使われており、GUIやネットワーク、[[マルチメディア]]に対応させるため、[[ベンダー|ベンダ]]がDOSを様々な形で拡張した[[システムソフトウェア]]や、[[ウィンドウシステム]]を搭載するようにもなったが、これは互換性や信頼性など様々な点で問題を発生させていた。こうした問題を解決するため、堅牢な([[プリエンプション|プリエンプティブ]]な)[[マルチタスク]]機能、高度なネットワーク機能など、従来のUNIX(互換)[[ワークステーション]]並みの機能がパソコンにも求められるようになってきた。さらに、肥大化したソフトウェア開発の効率を改善するために[[オブジェクト指向]]APIを導入し、Macintoshのように標準化されたGUIを備えることも求められた。これらの機能を備えたオペレーティングシステムは「次世代オペレーティングシステム」、「モダン・オペレーティングシステム」などと呼ばれた。 [[1987年]]には[[IBM]]と[[マイクロソフト]]が、[[パーソナルコンピュータ]]用に堅牢なマルチタスク機能・GUI(同年末の1.1より)・ネットワーク機能(拡張版)を装備した[[OS/2]]を発表した。[[1988年]]に登場した[[NEXTSTEP]]は、業務用途に耐える堅牢性・全面的なオブジェクト指向導入による柔軟性・高度な[[グラフィック]]機能・一貫したGUIといった、新世代の[[デスクトップ環境|デスクトップ]]オペレーティングシステムで求められる機能を全て実現した。しかしこれらは当時の[[ハードウェア]]性能では[[負荷]]が大きかったため広くは普及せず、代わりに、軽量だが堅牢なメモリ管理やマルチタスク機能は持たないMac OSや、[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]] などのGUI環境が徐々に普及していった。これらは当時の限られたハードウェアでも快適に動作したが、安定性や機能では劣っていた。 UNIX(互換)系オペレーティングシステムの流れでは、UNIXの権利を持つAT&T(1992年からはノベル)がソースコードの自由な改変を禁じていたことから、オープンソースのUNIX互換オペレーティングシステムが開発されはじめる。[[1990年]]に[[GNU Hurd|Hurd]]の開発が開始され、[[1991年]]に、[[Linux]]が[[フリーソフトウェア]]として公開された。マイクロカーネルなどの新しい設計手法を採用し、トレンドに合わせたびたび設計が変更されたHurdの開発が停滞する一方、Linuxは保守的な設計と[[バザール方式]]という不特定多数の担い手による開発手法を採用し、迅速な開発が進められ、PC-UNIXのデファクトスタンダードとなった。ただしLinuxはオペレーティングシステムの心臓部であるカーネルのみのため、カーネル以外のオペレーティングシステムを構成するソフトウェアを揃えて自ら環境を整える必要があり、初期段階においては技術者などのごく一部の人たちにのみ使われていた。[[386BSD]]を皮切りにフリーの[[BSDの子孫|BSD系]]UNIXも登場したが、UNIXの権利者だったノベルと[[Berkeley Software Distribution|BSD]]を開発した[[カリフォルニア大学バークレー校]]との訴訟に巻き込まれ、開発中止を余儀なくされた(1994年から[[FreeBSD]]と[[NetBSD]]の開発が再開される)。 [[1994年]]には、[[Microsoft Windows|Windows]]としては初めて、[[32ビット]]に本格対応(カーネルの32ビット化)し、堅牢なマルチタスク機能を備えた[[Microsoft Windows NT|Windows NT]]が登場した。ただこれも負荷や[[互換性]]の問題などから個人用途にはあまり普及せず、かわって急速に普及したのは[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.x]]を拡張しつつ、Windows NTの機能を限定的に取り入れた[[Windows 95]]であった。以降、Windows NT系と[[Windows 9x系]]との並存が続き、WindowsがWindows NTベースに一本化されたのは[[2001年]]の[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]からである。 また、Appleも同年、NEXTSTEPを発展させたMac OS Xを新たにリリース、従来の Mac OS の後継となった。このころには低価格なパーソナルコンピュータでも、これらのオペレーティングシステムの負荷を問題としないほどに高性能化しており、オープンで低価格な[[分散コンピューティング]]を広めた([[ダウンサイジング]])。 === 2000年代中盤 オペレーティングシステムの多様化 === [[2003年]]にはパソコンにも[[64ビット]]時代が到来し、オペレーティングシステムも64ビット化が進んだが、16ビット化や32ビット化の際と比較するとオペレーティングシステムの機能や役割に大きな変化はなかった。商用のパソコン用オペレーティングシステムのWindowsとMac OS Xのいずれもが64ビットへの移行を徐々に進めていった。Windowsは同一バージョンのオペレーティングシステムで32ビット版と64ビット版の双方を提供して、Mac OS Xは32ビット[[カーネル]]を維持したまま、一般プロセスに64ビット機能を持たせる道を選んだ。2000年代中頃まではパソコンの性能向上が著しかったため、デスクトップ用途の新しいオペレーティングシステムは同時代における高性能なパソコンを必要としていたが、[[2006年]]を境にしてCPUの性能向上の限界が顕著に現れ始めると、高効率化を目指した開発にシフト。[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]・[[Microsoft Windows 7|Windows 7]]やmacOSなどの新しいオペレーティングシステムにおいて、高機能の[[マルチコア]]CPUや[[プログラマブルシェーダ]]を搭載した[[Graphics Processing Unit|ビデオチップ]]への対応が進められた。 [[オープンソース]]の流れでは、従来より[[GNU]]が[[UNIX]]向けのツール群を開発していたが、これらを[[Linuxカーネル]]と組み合わせた[[GNU/Linux]]が、[[2000年]]頃より[[Unix系]]オペレーティングシステムの主流となった。またBSD系オペレーティングシステムもUnix系オペレーティングシステムの[[市場占有率|シェア]]の大きな部分を占めている。 一方、[[組み込みシステム]]にもより複雑な機能が求められるようになり、[[NetBSD]]、[[VxWorks]]、[[LynxOS]]、[[QNX]]、[[Enea OSE]]、[[Symbian OS]]など汎用オペレーティングシステムをベースとし[[リアルタイムオペレーティングシステム|リアルタイム性能]]を持たせた[[組み込みオペレーティングシステム]]が幅広い用途に使われている、中でもオープンソースの[[TOPPERS]]の[[ITRON]]を含むTRON系オペレーティングシステム・APIが、2020年現在、組み込みオペレーティングシステムの60%のシェアを持っている<ref name="tron_forum">{{Cite web|和書| url=https://www.tron.org/ja/2020/04/post-5172/ |title=組込みシステムに組み込んだOSのAPIで TRON系OSが60%のシェアを達成し24年連続の利用実績トップ 2020年4月2日 | publisher=トロンフォーラム |accessdate=2020-09-22}}</ref>。 [[1990年代]]以降は[[ダウンサイジング]]の流れにより、業務用途でもオープンシステムやWindowsへと主流が移行している中、信頼性・[[可用性]]を重視する用途には、現在でも専用オペレーティングシステム([[z/OS]]、[[OSIV/MSP|MSP]]/[[OSIV/XSP|XSP]]、[[VOS3]]、[[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]]など)を搭載したメインフレームが採用され、使い分けられている。 === 2010年代 ユビキタス時代へ === [[2000年]]代末以降、パーソナルコンピュータ市場が成熟化する一方で、[[スマートフォン]]や[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]に代表される、デスクトップ・オペレーティングシステムから派生した組み込みプラットフォームが普及し、[[ユビキタスコンピューティング|モバイルコンピューティング]]が一般化した。 これらは[[カメラ]]、[[グローバル・ポジショニング・システム|GPS]]、[[加速度センサー]]、[[ジャイロスコープ]]、[[無線LAN]]、[[Bluetooth]]、狭い画面に最適化された[[タッチパネル]]などのインタフェースを組み込み、[[携帯機器]]の低消費電力の要求に応えた[[iOS]]、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]などの[[モバイルオペレーティングシステム|モバイルプラットフォーム]]を採用している。 <!--古いデータ *2016年12月デスクトップOSシェア:Windows系 91.7%、Mac 6.1%、Linux 2.2% (NetApplications調査)<ref>[https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170103-a043/ Windows 7/10/XPが増加 - 12月OSシェア - マイナビニュース]</ref>。 *2015年タブレットOS別国内シェア:iOS 39.2%、Android 35.7%、Windows 25.1% (IDC Japan調査)<ref>[http://www.idcjapan.co.jp/Press/Current/20160405Apr.html 2015年 国内法人向けタブレット市場 OS別シェアを発表 - IDC Japan]</ref> *2015年スマートフォンOS別国内シェア:iOS が 52.4% (IDC Japan調査)<ref>[https://corriente.top/ios-share-japan/ 国内のスマホのOSシェアを調査!iOSのシェアは6.3ポイント低下 - corriente.top]</ref> *2011年サーバーOS国内シェア(金額ベース):Windows 47%、[[メインフレーム]] 20%、Linux 17%、UNIX 13% (IDC Japan調査)<ref>[http://www.keyman.or.jp/at/30005136/ 国内サーバオペレーティングシステム市場 稼働環境別売上額実績 - IDC Japan]</ref>, 2018年 Windows 52%, Linux 24.8%, <ref>[https://www.idcjapan.co.jp/Press/Current/20180821Apr.html 国内サーバーオペレーティングシステム市場予測を発表,2018年8月21日, IDC Japan株式会社]</ref> --> == オペレーティングシステムの分類 == === タスク管理の特徴 === * [[マルチタスク]] * [[シングルタスク]] * [[リアルタイムオペレーティングシステム]] === 応用分野 === * [[サーバオペレーティングシステム|サーバ]](サーバ向け) * [[デスクトップオペレーティングシステム|デスクトップ]](パソコン、ワークステーション向け) * [[モバイルオペレーティングシステム|モバイル]](PDA、スマートフォン向け) * [[組み込みオペレーティングシステム|組み込み]](組み込みシステム向け) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em}} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite journal| last =Auslander | first =Marc A.| coauthors = Larkin, David C.; Scherr, Allan L.| title = The evolution of the MVS Operating System | publisher = IBM J. 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鉄道
鉄道(てつどう、英: railway 米: railroad 独: Eisenbahn)とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関である。 鉄道とは平行に2本のレールを敷き、その上で列車などを走らせ、人や貨物を運ぶ交通機関、交通システムである。線路、旅客や貨物を載せて走る列車、停車場、駅などの施設、運行管理や信号保安まで様々な要素で構成される一連の体系である。 「鉄道」は狭義には(その交通システム全体ではなく)レールを敷いた道「線路」(鉄路)だけを指すことがある。 鉄道は歴史的に見て、まずイギリスやヨーロッパで発展した。フランス語では「chemin de fer(シュマン・ドゥ・フェール)」と言い、これは直訳すると「鉄の道」である。日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」と言う。なお鉄製のレールだけでなく、例えばコンクリート製の案内軌道などを用いるものもある。また、鋼索(鋼でできた太いロープ)で車両を支持し運転するもの(索道。ロープウェイ)も鉄道の一種としている。広い意味では、懸垂式・跨座式のモノレール、案内軌条式のAGT(新交通システム)、浮上式鉄道を含む。 なお、『日本大百科全書』は定義文の冒頭部「専用の用地にレールを敷設した線路上を動力を用いた車両を運転し」としている。専用の用地でなく道路に敷設された路面電車は、日本の法制上は「軌道」とよんで「鉄道」とは区別している。つまり、用地のありかたにも着目して線引きしている。 次にレールの素材に着目して線引きができるかについて検討してみると、英語では railroad(アメリカ)または railway(イギリス)と呼び、これは単に「レールの道」という意味で、語自体には「レールの材質」に関する意味が含まれていない語で造語して呼ぶようになった。だがイギリス同様に鉄道が早期から発展した欧州の大陸側のフランスでは chemin de fer(訳:鉄の道)、ドイツでも「Eisenbahn」(訳:鉄の道)と呼び、日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」 等々、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をする。鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであったので、レールの素材(材質)に焦点を当てて造語した。 なお、素材ばかりに着目しても、先に説明したようにコンクリートのレール(案内路)を用いたシステム(素材以外は駅や列車などシステム全体が同じようなシステム)を含められなくなってしまうので、レールの素材にこだわりすぎて線引きするのにも無理がある。このように交通システムはさまざまな変則的なものを開発することができる、という面もあり、また各国で法制度が異なっており、さらにトロリーバスまで含めるのか含めないのかなど、どこまでを法制上「鉄道」に含めて扱うかについても国ごとにかなりの差異があり、「鉄道」と「鉄道でないもの」の線引きのしかたはさまざまあり、世界的に見てかなり曖昧である。 よって本項では(焦点がぼけてしまわぬよう、周辺あたりの曖昧な領域は避け)できるだけ、この記事の意味の中心部、つまり専用の用地に敷いた鉄製レールを有するものについて解説することにし、鉄道に含めてよいかどうか曖昧な形態のものについては脚注などで軽く触れるにとどめる。 技術、経済、法制などの観点から分類可能である。 鉄道は、技術的には、軌道・車両の構造、軌道の敷設面、軌間、車両の動力源などに基づいて分類できる。 経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。 世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)株式会社の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い国有・国営の形態をとるものが多くなっていった。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。 欧州を見てみると、イギリスの鉄道は1947年の法律によって国有化され、その後、1963年から公共企業体として運営されていたが、1994年に分割・民営化された。フランスの鉄道は、1937年の「公私混合株式会社」の発足以来、国有化の道を歩み始め、1983年からは全額政府出資の事業体として運営されていたが、1997年1月フランス国鉄 (SNCF) は、鉄道線路の建設と維持管理とを行うフランス鉄道線路事業公社 (RFF) を分離独立させ、フランス国鉄 (SNCF) 自体は鉄道輸送に専念する事業体となった。ドイツの鉄道は、1920年のドイツ国有鉄道の設立により国有化されたが、第二次世界大戦後の1951年の東西ドイツの分裂により、西ドイツは「ドイツ連邦鉄道」、東ドイツは「東ドイツ国鉄」として国有国営の事業体となった。1990年の東西ドイツ統一以降、1994年に東西両国鉄が「連邦鉄道財産機構」として統合され、その後業務別に三つの組織に分割されていった。 アメリカの鉄道は、第一次世界大戦中に一時期、国の管理下に置かれたことがあるが、基本的には民間の運営であった。しかし、自動車や航空機に比べ鉄道による旅客・貨物輸送の需要は伸びず、1971年には国が管理・運営する鉄道として都市間の旅客輸送を行うアムトラック (Amtrak)(正式名:全米鉄道旅客輸送公社National Railroad PassengerCorporation。その通称である「Americantrack」の略称がAmtrak)が、1976年には連邦政府の援助・監督下に経営される株式会社形態の貨物輸送鉄道コンレール (Conrail)(統合鉄道会社Consolidated Rail Corporationの略称)が設立された。その後、アメリカでは1980 - 1990年代に規制緩和政策が推進されるとともに鉄道会社の統廃合が進み、コンレールも「ノーフォーク・サザン鉄道」と「CSX鉄道」に分割・買収される形で1999年に姿を消した。 日本の鉄道は、1906年(明治39年)に(特定地方限定の地方鉄道を除いて)国有化され、第二次世界大戦後、1949年(昭和24年)に公社(公共企業体)「日本国有鉄道」として新たに発足したが、1987年(昭和62年)4月分割・民営化が行われ、「国鉄」は「JR」となり、6つの旅客鉄道会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)の合計7つの会社として再出発した。日本の鉄道体系は、株式会社形態をとる私鉄(民鉄)の役割が比較的大きいことが、世界的に見て特徴となっている。特に旅客に関しては大きな割合を分担し、1984年(昭和59年)時点での年間輸送量は、国鉄68億人、私鉄118億人で、私鉄が国鉄を上回っていた(その後国鉄もJRとなりすべて国有ではなくなったが、1997年(平成9年)の年間輸送量は、JR旅客会社88億5919万人、私鉄133億8582万人で、やはり旅客では私鉄の役割が大きい)。なお貨物に関しては、さほどではなく、1997年の貨物輸送量がJR貨物が4729万トン、私鉄2194万トンであった。 業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある。 軌道に関しては、16世紀ごろにドイツのハルツ鉱山で板の上にレール状の木材を取り付けて、その上に石炭運搬の車両を通したのが始まり、ともされる。木製のレールは激しく摩耗するのでその後に鉄製にかえられた。(ここで「鉄道」になった)。初期の鉄製レールはL字型で、底辺(水平面)が外側になるように敷設し、外側の底辺の上を車輪が転がるようになっていた。その後、車輪外周の内側につば状の輪縁(フランジ)をつけることでレールのほうのL字型は止め、レールの頭部の内側を走る、現在と同様の方式となった。この段階で、車両の動力源は人力や馬の力(馬力)であったが、18世紀の後半にワットが改良した蒸気機関をさらに改良利用する方法が多くの人によって研究され、1804年にイギリスのリチャード・トレビシック(1771―1833)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作し、馬にかわって、石炭の運搬車を引かせることに一応は成功した。そして、1825年にイギリスダラム州にストックトン&ダーリントン鉄道が開業し、鉄道会社が予め作成した運行スケジュールに従って列車が運行される、現代の鉄道とほぼ同様の形態が採用された。 線路は地上に敷設されていることが多いが、都市部や地形に制約のある場所、また高速走行を行うための路線では地下や高架に線路を敷設している。特に地下に敷設される路線は地下鉄と呼ぶ。 軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。 2本のレールの間隔を軌間(ゲージ)という。軌間は世界で規格が異なる。三線軌条などの混合軌間、軌間可変車両、ロールボックなどのテクノロジーで異なる軌間の路線でも車両の直通が可能だが、通常の車両では直通で旅客や貨物が輸送できない問題がある。規格が異なる理由は、戦争時に自国内の鉄道インフラをそのまま使わせない、もしくは初期の鉄道関連会社の慣習上の理由による。ただ利便性が悪いのも確かで国ごとに規格争い(鉄道ゲージ戦争)も発生する(日本の改軌論争、ブリティッシュの改軌論争(英語版)、エリーの改軌論争(英語版))。 鉄道の車両を動力源によって分類した場合、蒸気機関を動力として用いる蒸気機関車、その他の内燃機関を動力とする気動車・ディーゼル機関車、電気モーターを動力とする電車・電気機関車がある。鉄道車両は1両でも用いることができるが、多数の車両を連結でき、その利点を活用して旅客や貨物を一編成(ひとつらなりの形)で大量に輸送することが可能である。 鉄道車両は、異なる軌間の区間に乗り入れることが困難である。軌間を切り替える手法としては、まず境界駅で台車を交換する方法がある。この方法は、広軌の旧ソ連圏と、これに接する標準軌の中国や東ヨーロッパを直通する列車などで採用されている。しかし、この方法では、電車や機関車など、モーターを持つ台車の取替はできず、また作業のため、国境駅で3時間以上待たなくてはいけないなどの問題がある。また、スペインの「タルゴ」「Alvia」で特殊な設備を用いて乗客を乗せたまま自国の1668 mmと周辺他国の1435 mmを切り替える方法が実用化されている。また、日本では、乗客を乗せたまま軌間切り替え可能なフリーゲージトレインの実用化試験が行われている。 他にも、異なる路線の鉄道車両の乗り入れが困難である場合が存在する。建築限界や車両限界が路線によって異なる場合も、乗り入れの障害となる。例としては車両限界の大きい新幹線と、車両限界の小さい在来線を改軌した区間を直通するミニ新幹線のように、在来線の車両サイズで作らざるを得なくなる。直流、交流といった電気方式が区間によって異なる場合には、直通するためには製作コストの高い双方の電気方式に対応した車両を使用するか、機関車を付け替えるなどの必要が生じるが、電気方式が同じでも、電圧が区間によって異なる場合は、複電圧方式の車両が必要となる。 鉄道駅は、列車が止まり、人が列車に乗り降りしたり、貨物を積み降ろしする場所である。基本的には線路とプラットホームから構成され、中程度以上であれば駅舎やさまざまな関連施設がある。貨物駅であればさらに貨物ターミナルから構成される。さまざまな分類法がある。 鉄道と道路が平面的に交差する場所には踏切が設置される。 日本では、踏切の通行は鉄道に優先権があり、道路交通を遮断することとなる。列車運行本数が多い場合は遮断時間が長くなり、交通渋滞の原因となり、甚だしい場合には「開かずの踏切」が生まれる。踏切を解消するため連続立体交差事業が進められている。 鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所 や指令所 などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して電線路が敷設され、それに伴い、鉄道変電所や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密なダイヤや突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。 鉄道の運営を行う鉄道事業者は、民間企業によるものと、国や特殊法人・地方公共団体が行うものなどがある。なお、日本においては日本国有鉄道の分割民営化と、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の特殊会社化に伴い、いわゆる「国営の鉄道事業者」は現存しない。ただし、日本国有鉄道の事業を継承したJRグループのうち、北海道旅客鉄道(JR北海道)、四国旅客鉄道(JR四国)、日本貨物鉄道(JR貨物)、および帝都高速度交通営団の事業を継承した東京地下鉄(東京メトロ)については、国や独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が一部または全部の株式を保有している。したがって、現在の日本国政府が、鉄道事業の経営にまったく関与していないわけではない。 鉄道は、線路・駅などのインフラストラクチャーに対する投資コストが大きく、固定費率が大きいことから損益分岐点が高く、黒字となるには一定以上の輸送量、利用客数が必要となる。このため、欧米では「鉄道は公共財であり、また一度無くなると元に戻すことは難しいことから、赤字は基本である」(日本政策投資銀行 浅井康次)という認識であるとの紹介がある。また、相当な利益を上げないと既存路線の高速化や自動列車保安装置設置、駅のバリアフリー化やホームドア設置、パークアンドライド用駐車場設置などの鉄道サービスや安全性向上も困難である。 日本では、1990年代から鉄道の利用者数が減少している。減少の背景には、日本の人口構成が関わっている。鉄道利用者の中心は通学利用者と、通勤利用者であるが、人口構成上、学生は卒業する年代の人口よりも入学する年代の人口が少なく、社会人も退職する年代の人口よりも新規に就職する世代の人口が少ない状況にあるため、両者は今後長期間にわたり減少する仕組みになっている。減少の要因として他には、鉄道事業者の経営努力不足、モータリゼーション(列車から自動車へのシフト)や、変わったところでは、地球温暖化(冬の気温が上がることで降雪が少なくなり、車が使用しやすくなる)といったものもある。 上述した内容は日本全体の話であるが、ローカル線の利用者数を巡る環境は特に厳しい。採算が取れない場合、路線や駅の存続問題が発生する。対応策として、赤字が続く鉄道を廃止したり、第三セクター鉄道に転換することがある。しかし、第三セクター鉄道にしても赤字が解消されるとは限らず、赤字の第三セクター鉄道は、地方公共団体の不良債権として問題になっている。 鉄道の乗車には切符などの乗車券、または乗車カードを必要とする。運賃を支払うことでこれらを入手することができ、乗車権を得られるが、車内で精算する仕組みを取っている鉄道もある。 鉄道車両や鉄道施設に関しての学問として、鉄道工学がある。 新たな技術として、デュアル・モード・ビークル (DMV) などがある。 鉄道は、レールの上しか通行できない半面、他の陸上輸送機関に比べて自然環境への負荷が比較的少なく、大量輸送に向き、定時性や安全性に優れるという特徴を有する。 鉄道は、専用の鉄軌道上で案内されて運転される特性上、多数の車両を連結して一括運転できる。このため、一度に大量の旅客や貨物を運送できる。 軌道や車輪に鉄を使用しているため、走行時に鉄同士が触れ合うことになるが、この際の走行抵抗は、きわめて小さい。鉄製の車輪は、自動車に用いられるゴムタイヤと比べると変形量が小さいためである。また、一般的な自動車と比べ細長く体積の割りに前面投影面積が小さいため、空気抵抗も小さい。車列が長いほど体積当たりの空気抵抗は少なくなる。 結果、必要な動力も重さの割には小さくできる。例えば日本の国鉄115系電車10両編成(質量は400トン、出力は2880 kW)では1トンあたり7 kW であるが、乗用車のカローラ(質量は1400 kg、出力は82 kW)では1トンあたり58 kWであり、国鉄115系電車が1トンあたりで要する出力はカローラの8分の1以下である。そのため、鉄道は船と並んで、エネルギー効率のよい大量輸送システムといえる。 鉄道は、その走行抵抗の少なさなどのため、単位輸送量当たりのエネルギー消費は自動車や航空機よりはるかに少ない。環境省の調査によれば、一定の距離で、一定の人数を輸送するために要するエネルギーの量は、日本の国鉄の鉄道を基準にすると、バスはその1.8倍、乗用車は5.3倍、航空機は8.8倍であった。また、貨物の場合、船は0.8倍、トラックは2.8倍であった。さらに、電車や電気機関車の場合、発電機や電動機のエネルギー変換効率が内燃機関よりはるかに高いので、電化鉄道は鉄道システム全体としてもエネルギー効率は非常に高い。したがって、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の単位輸送量当たりの排出量が少ない 交通機関である。 鉄道は専用の軌道を有しているため、定時性に優れる。路面電車のように道路上を走行する併用軌道を除けば、基本的に専用の走行路を使用するので、定時運行を確保しやすい。定められた時刻通りに列車を運行することは鉄道事業の出発点である。特に、自動車や飛行機などの代替輸送機関が発達した先進国地域では、遅れのひどい鉄道からは利用者が去っていってしまう。ちなみに1999年度(平成11年度)のJR東日本の数字によれば、新幹線の95 %と、在来線の87 %が定刻(遅延1分未満)に発着している。 ただし、故障や災害等で事故が発生すると、事故現場の回避や追い越しができないため、長時間に渡って不通になる場合がある。台風・地震など、自然災害により不通になると、その影響が広範囲に渡るなど、脆弱な面もある。自動車が事故車線や現場を回避できたり、途中経路の天候が悪くても離陸・着陸地点の天候に問題がなければ航行が可能な飛行機とは対照的である。また、踏切事故や人身事故、強風などの影響で長時間運行が停止することも多い。 鉄道は安全性が高い交通手段であるといえる。鉄道事故の発生する確率は他の交通機関よりも低い。ある統計によれば、鉄道事故による利用客の死亡率は自動車の545分の1、航空機の104分の1であるという。 鉄道が自動車より安全であることの理由として、次のようなことが挙げられる。 鉄道事故の多くは道路交通と平面交差する踏切や、利用客と鉄道との接点である駅のホーム、急カーブ、単線、地上の線路で発生している。これらの事故に対して、踏切では立体交差化、駅のプラットホームではホームドアの設置、カーブではカントの設置及びカント量の上限を超えない範囲内での引き上げや脱線防止ガード設置、鉄道路線全般では自動列車保安装置の装備といった防止措置がとられる。 鉄道は、飛行機・船と同様、一度に大量の人員を輸送できる故に、一度事故になると大惨事になり得る。ただし、鉄道での死亡事故の大半は駅構内や踏切で起こる接触・衝突事故で、大量死亡事故は非常に少ない。 鉄車輪と鉄軌道との摩擦力が小さいという理由により、自動車ほど急勾配を上り下りすることができない。自動車の勾配は立体駐車場などの1/6(水平に6 m進むと1 m高くなる)が最急だと言われているが、鉄道では25 ‰程度が常用の限度とされている。より急な線区も存在する(例えば箱根登山鉄道には80 ‰勾配が存在する)が、その場合建設や運転に不利になる。そのため、山岳などの障害物を迂回したり、トンネル掘削による障害物回避、あるいはループ線やスイッチバックを設置するなどを行う必要がある。また、これらの対策でもどうにもならない急勾配は、ラックレール等を用いることで対処する場合もある。ただし最近では、ICE 3など、一部の高性能車両は連続40 ‰勾配路線を300 km/hにて走行可能であり、高性能車両を用いることで、トンネル掘削などの投資を抑えることが可能となりつつある。 また摩擦力・粘着力によって加速度を得ることが、自動車に比べて難しく、急加速・急減速が困難である。普通鉄道の最高速度は574.8 km/hだが、営業上の最高速度は320 km/hにとどまっている(「高速鉄道の最高速度記録の歴史」を参照)。この限界を突破するために浮上走行が考案されたが、その一つがリニアモーターカーである。 急減速が利かない欠点に対しては線路を一定区間に区切り、1つの区間に同時に2本以上の列車を入れない閉塞という概念・設備を導入して列車同士の衝突事故を防いでいる。ブレーキの改良も進められている。 また、鉄道は曲線にも弱い。曲線では遠心力が働くが、遠心力による横からの力に対して鉄道は自動車より弱い。よって、鉄道と自動車が同じ半径の曲線を通過する際には、鉄道の通過速度を自動車よりずっと小さくする必要が生じる。この欠点を小さくしようとすれば曲線を緩くする以外に方法はない。 路上を自由自在に走行できる道路交通とは違い、レールの上しか走行できないという制約があるため、わずかな障害によって広範囲で正常運転ができなくなることが多い。人身事故が発生すると、多くの列車に影響が出る。また土砂災害や地震など、自然災害を受けると復旧までにかなりの時間を要し、迂回路がない場合、バスなどの代替輸送に頼らざるを得ない。強風にも弱く、強風のため長時間運行が停止されることもしばしば発生する。ただし積雪の際に自動車よりも安全に運行できる鉄道は、地域によっては冬場の市民の貴重な足となりうる。 鉄道は建設と維持に莫大な費用を必要とし、特に地方の閑散線区では採算性が低くなりやすい。それでも鉄道の維持を選択する場合は、公的資金の投入が必要となることがある。一例を挙げると、2011年(平成23年)7月の豪雨災害で不通となったJR東日本只見線会津川口 - 只見間は、線路などを地元自治体が所有する「上下分離方式」を採用して復旧することが決定した。復旧に際し沿線市町村と福島県は復旧費を約54億円負担し、復旧後は沿線市町村と福島県が年間運営費として約2億1000万円負担することになると見積もられている。 鉄道はエネルギーあたりの輸送効率が良く、自動車交通や航空交通などと比較して排出される二酸化炭素 (CO2) が少ない。東京-大阪の旅客輸送について、鉄道と自動車一人あたりの二酸化炭素排出量を試算すると、鉄道は自動車の6分の1であると報告されている。 かつては蒸気機関車の煤煙が大きな問題であったが、日本国内の鉄道は電化が進み、ディーゼル機関を利用した非電化鉄道が残っているものの、排気中の汚染物質が問題になることは少ない。 一方、国外(主に発展途上国)においては電化されていない鉄道が現在も大量に走っており、そうした地域では大気汚染の大きな原因の一つとなっている。 新規開発は地域の利便性が大きく向上し経済発展に繋がるが、森林等自然が残るエリアを開拓する形で行われるため自然破壊(森林破壊)に直結している。ブラジル・アマゾン熱帯雨林の鉄道を含む開発事業は国際的に大きな非難を浴びている。また日本国内ではリニア新幹線の開発が現地住民やNGOなどから批判され、抗議運動を起こされている。 (著者・編者の五十音順)
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "鉄道(てつどう、英: railway 米: railroad 独: Eisenbahn)とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "鉄道とは平行に2本のレールを敷き、その上で列車などを走らせ、人や貨物を運ぶ交通機関、交通システムである。線路、旅客や貨物を載せて走る列車、停車場、駅などの施設、運行管理や信号保安まで様々な要素で構成される一連の体系である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「鉄道」は狭義には(その交通システム全体ではなく)レールを敷いた道「線路」(鉄路)だけを指すことがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "鉄道は歴史的に見て、まずイギリスやヨーロッパで発展した。フランス語では「chemin de fer(シュマン・ドゥ・フェール)」と言い、これは直訳すると「鉄の道」である。日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」と言う。なお鉄製のレールだけでなく、例えばコンクリート製の案内軌道などを用いるものもある。また、鋼索(鋼でできた太いロープ)で車両を支持し運転するもの(索道。ロープウェイ)も鉄道の一種としている。広い意味では、懸垂式・跨座式のモノレール、案内軌条式のAGT(新交通システム)、浮上式鉄道を含む。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、『日本大百科全書』は定義文の冒頭部「専用の用地にレールを敷設した線路上を動力を用いた車両を運転し」としている。専用の用地でなく道路に敷設された路面電車は、日本の法制上は「軌道」とよんで「鉄道」とは区別している。つまり、用地のありかたにも着目して線引きしている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "次にレールの素材に着目して線引きができるかについて検討してみると、英語では railroad(アメリカ)または railway(イギリス)と呼び、これは単に「レールの道」という意味で、語自体には「レールの材質」に関する意味が含まれていない語で造語して呼ぶようになった。だがイギリス同様に鉄道が早期から発展した欧州の大陸側のフランスでは chemin de fer(訳:鉄の道)、ドイツでも「Eisenbahn」(訳:鉄の道)と呼び、日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」 等々、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をする。鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであったので、レールの素材(材質)に焦点を当てて造語した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "なお、素材ばかりに着目しても、先に説明したようにコンクリートのレール(案内路)を用いたシステム(素材以外は駅や列車などシステム全体が同じようなシステム)を含められなくなってしまうので、レールの素材にこだわりすぎて線引きするのにも無理がある。このように交通システムはさまざまな変則的なものを開発することができる、という面もあり、また各国で法制度が異なっており、さらにトロリーバスまで含めるのか含めないのかなど、どこまでを法制上「鉄道」に含めて扱うかについても国ごとにかなりの差異があり、「鉄道」と「鉄道でないもの」の線引きのしかたはさまざまあり、世界的に見てかなり曖昧である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "よって本項では(焦点がぼけてしまわぬよう、周辺あたりの曖昧な領域は避け)できるだけ、この記事の意味の中心部、つまり専用の用地に敷いた鉄製レールを有するものについて解説することにし、鉄道に含めてよいかどうか曖昧な形態のものについては脚注などで軽く触れるにとどめる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "技術、経済、法制などの観点から分類可能である。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "鉄道は、技術的には、軌道・車両の構造、軌道の敷設面、軌間、車両の動力源などに基づいて分類できる。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)株式会社の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い国有・国営の形態をとるものが多くなっていった。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "欧州を見てみると、イギリスの鉄道は1947年の法律によって国有化され、その後、1963年から公共企業体として運営されていたが、1994年に分割・民営化された。フランスの鉄道は、1937年の「公私混合株式会社」の発足以来、国有化の道を歩み始め、1983年からは全額政府出資の事業体として運営されていたが、1997年1月フランス国鉄 (SNCF) は、鉄道線路の建設と維持管理とを行うフランス鉄道線路事業公社 (RFF) を分離独立させ、フランス国鉄 (SNCF) 自体は鉄道輸送に専念する事業体となった。ドイツの鉄道は、1920年のドイツ国有鉄道の設立により国有化されたが、第二次世界大戦後の1951年の東西ドイツの分裂により、西ドイツは「ドイツ連邦鉄道」、東ドイツは「東ドイツ国鉄」として国有国営の事業体となった。1990年の東西ドイツ統一以降、1994年に東西両国鉄が「連邦鉄道財産機構」として統合され、その後業務別に三つの組織に分割されていった。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アメリカの鉄道は、第一次世界大戦中に一時期、国の管理下に置かれたことがあるが、基本的には民間の運営であった。しかし、自動車や航空機に比べ鉄道による旅客・貨物輸送の需要は伸びず、1971年には国が管理・運営する鉄道として都市間の旅客輸送を行うアムトラック (Amtrak)(正式名:全米鉄道旅客輸送公社National Railroad PassengerCorporation。その通称である「Americantrack」の略称がAmtrak)が、1976年には連邦政府の援助・監督下に経営される株式会社形態の貨物輸送鉄道コンレール (Conrail)(統合鉄道会社Consolidated Rail Corporationの略称)が設立された。その後、アメリカでは1980 - 1990年代に規制緩和政策が推進されるとともに鉄道会社の統廃合が進み、コンレールも「ノーフォーク・サザン鉄道」と「CSX鉄道」に分割・買収される形で1999年に姿を消した。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "日本の鉄道は、1906年(明治39年)に(特定地方限定の地方鉄道を除いて)国有化され、第二次世界大戦後、1949年(昭和24年)に公社(公共企業体)「日本国有鉄道」として新たに発足したが、1987年(昭和62年)4月分割・民営化が行われ、「国鉄」は「JR」となり、6つの旅客鉄道会社(JR北海道、JR東日本、JR東海、JR西日本、JR四国、JR九州)と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)の合計7つの会社として再出発した。日本の鉄道体系は、株式会社形態をとる私鉄(民鉄)の役割が比較的大きいことが、世界的に見て特徴となっている。特に旅客に関しては大きな割合を分担し、1984年(昭和59年)時点での年間輸送量は、国鉄68億人、私鉄118億人で、私鉄が国鉄を上回っていた(その後国鉄もJRとなりすべて国有ではなくなったが、1997年(平成9年)の年間輸送量は、JR旅客会社88億5919万人、私鉄133億8582万人で、やはり旅客では私鉄の役割が大きい)。なお貨物に関しては、さほどではなく、1997年の貨物輸送量がJR貨物が4729万トン、私鉄2194万トンであった。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある。", "title": "分類、種類" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "軌道に関しては、16世紀ごろにドイツのハルツ鉱山で板の上にレール状の木材を取り付けて、その上に石炭運搬の車両を通したのが始まり、ともされる。木製のレールは激しく摩耗するのでその後に鉄製にかえられた。(ここで「鉄道」になった)。初期の鉄製レールはL字型で、底辺(水平面)が外側になるように敷設し、外側の底辺の上を車輪が転がるようになっていた。その後、車輪外周の内側につば状の輪縁(フランジ)をつけることでレールのほうのL字型は止め、レールの頭部の内側を走る、現在と同様の方式となった。この段階で、車両の動力源は人力や馬の力(馬力)であったが、18世紀の後半にワットが改良した蒸気機関をさらに改良利用する方法が多くの人によって研究され、1804年にイギリスのリチャード・トレビシック(1771―1833)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作し、馬にかわって、石炭の運搬車を引かせることに一応は成功した。そして、1825年にイギリスダラム州にストックトン&ダーリントン鉄道が開業し、鉄道会社が予め作成した運行スケジュールに従って列車が運行される、現代の鉄道とほぼ同様の形態が採用された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "線路は地上に敷設されていることが多いが、都市部や地形に制約のある場所、また高速走行を行うための路線では地下や高架に線路を敷設している。特に地下に敷設される路線は地下鉄と呼ぶ。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "軌道は2本のレールを枕木の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる砂利やコンクリート製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものをバラスト軌道と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化したスラブ軌道や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2本のレールの間隔を軌間(ゲージ)という。軌間は世界で規格が異なる。三線軌条などの混合軌間、軌間可変車両、ロールボックなどのテクノロジーで異なる軌間の路線でも車両の直通が可能だが、通常の車両では直通で旅客や貨物が輸送できない問題がある。規格が異なる理由は、戦争時に自国内の鉄道インフラをそのまま使わせない、もしくは初期の鉄道関連会社の慣習上の理由による。ただ利便性が悪いのも確かで国ごとに規格争い(鉄道ゲージ戦争)も発生する(日本の改軌論争、ブリティッシュの改軌論争(英語版)、エリーの改軌論争(英語版))。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "鉄道の車両を動力源によって分類した場合、蒸気機関を動力として用いる蒸気機関車、その他の内燃機関を動力とする気動車・ディーゼル機関車、電気モーターを動力とする電車・電気機関車がある。鉄道車両は1両でも用いることができるが、多数の車両を連結でき、その利点を活用して旅客や貨物を一編成(ひとつらなりの形)で大量に輸送することが可能である。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "鉄道車両は、異なる軌間の区間に乗り入れることが困難である。軌間を切り替える手法としては、まず境界駅で台車を交換する方法がある。この方法は、広軌の旧ソ連圏と、これに接する標準軌の中国や東ヨーロッパを直通する列車などで採用されている。しかし、この方法では、電車や機関車など、モーターを持つ台車の取替はできず、また作業のため、国境駅で3時間以上待たなくてはいけないなどの問題がある。また、スペインの「タルゴ」「Alvia」で特殊な設備を用いて乗客を乗せたまま自国の1668 mmと周辺他国の1435 mmを切り替える方法が実用化されている。また、日本では、乗客を乗せたまま軌間切り替え可能なフリーゲージトレインの実用化試験が行われている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "他にも、異なる路線の鉄道車両の乗り入れが困難である場合が存在する。建築限界や車両限界が路線によって異なる場合も、乗り入れの障害となる。例としては車両限界の大きい新幹線と、車両限界の小さい在来線を改軌した区間を直通するミニ新幹線のように、在来線の車両サイズで作らざるを得なくなる。直流、交流といった電気方式が区間によって異なる場合には、直通するためには製作コストの高い双方の電気方式に対応した車両を使用するか、機関車を付け替えるなどの必要が生じるが、電気方式が同じでも、電圧が区間によって異なる場合は、複電圧方式の車両が必要となる。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "鉄道駅は、列車が止まり、人が列車に乗り降りしたり、貨物を積み降ろしする場所である。基本的には線路とプラットホームから構成され、中程度以上であれば駅舎やさまざまな関連施設がある。貨物駅であればさらに貨物ターミナルから構成される。さまざまな分類法がある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "鉄道と道路が平面的に交差する場所には踏切が設置される。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "日本では、踏切の通行は鉄道に優先権があり、道路交通を遮断することとなる。列車運行本数が多い場合は遮断時間が長くなり、交通渋滞の原因となり、甚だしい場合には「開かずの踏切」が生まれる。踏切を解消するため連続立体交差事業が進められている。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所 や指令所 などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して電線路が敷設され、それに伴い、鉄道変電所や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密なダイヤや突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。", "title": "構造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "鉄道の運営を行う鉄道事業者は、民間企業によるものと、国や特殊法人・地方公共団体が行うものなどがある。なお、日本においては日本国有鉄道の分割民営化と、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)の特殊会社化に伴い、いわゆる「国営の鉄道事業者」は現存しない。ただし、日本国有鉄道の事業を継承したJRグループのうち、北海道旅客鉄道(JR北海道)、四国旅客鉄道(JR四国)、日本貨物鉄道(JR貨物)、および帝都高速度交通営団の事業を継承した東京地下鉄(東京メトロ)については、国や独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構が一部または全部の株式を保有している。したがって、現在の日本国政府が、鉄道事業の経営にまったく関与していないわけではない。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "鉄道は、線路・駅などのインフラストラクチャーに対する投資コストが大きく、固定費率が大きいことから損益分岐点が高く、黒字となるには一定以上の輸送量、利用客数が必要となる。このため、欧米では「鉄道は公共財であり、また一度無くなると元に戻すことは難しいことから、赤字は基本である」(日本政策投資銀行 浅井康次)という認識であるとの紹介がある。また、相当な利益を上げないと既存路線の高速化や自動列車保安装置設置、駅のバリアフリー化やホームドア設置、パークアンドライド用駐車場設置などの鉄道サービスや安全性向上も困難である。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "日本では、1990年代から鉄道の利用者数が減少している。減少の背景には、日本の人口構成が関わっている。鉄道利用者の中心は通学利用者と、通勤利用者であるが、人口構成上、学生は卒業する年代の人口よりも入学する年代の人口が少なく、社会人も退職する年代の人口よりも新規に就職する世代の人口が少ない状況にあるため、両者は今後長期間にわたり減少する仕組みになっている。減少の要因として他には、鉄道事業者の経営努力不足、モータリゼーション(列車から自動車へのシフト)や、変わったところでは、地球温暖化(冬の気温が上がることで降雪が少なくなり、車が使用しやすくなる)といったものもある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "上述した内容は日本全体の話であるが、ローカル線の利用者数を巡る環境は特に厳しい。採算が取れない場合、路線や駅の存続問題が発生する。対応策として、赤字が続く鉄道を廃止したり、第三セクター鉄道に転換することがある。しかし、第三セクター鉄道にしても赤字が解消されるとは限らず、赤字の第三セクター鉄道は、地方公共団体の不良債権として問題になっている。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "鉄道の乗車には切符などの乗車券、または乗車カードを必要とする。運賃を支払うことでこれらを入手することができ、乗車権を得られるが、車内で精算する仕組みを取っている鉄道もある。", "title": "運営" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "鉄道車両や鉄道施設に関しての学問として、鉄道工学がある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "新たな技術として、デュアル・モード・ビークル (DMV) などがある。", "title": "技術" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "鉄道は、レールの上しか通行できない半面、他の陸上輸送機関に比べて自然環境への負荷が比較的少なく、大量輸送に向き、定時性や安全性に優れるという特徴を有する。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "鉄道は、専用の鉄軌道上で案内されて運転される特性上、多数の車両を連結して一括運転できる。このため、一度に大量の旅客や貨物を運送できる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "軌道や車輪に鉄を使用しているため、走行時に鉄同士が触れ合うことになるが、この際の走行抵抗は、きわめて小さい。鉄製の車輪は、自動車に用いられるゴムタイヤと比べると変形量が小さいためである。また、一般的な自動車と比べ細長く体積の割りに前面投影面積が小さいため、空気抵抗も小さい。車列が長いほど体積当たりの空気抵抗は少なくなる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "結果、必要な動力も重さの割には小さくできる。例えば日本の国鉄115系電車10両編成(質量は400トン、出力は2880 kW)では1トンあたり7 kW であるが、乗用車のカローラ(質量は1400 kg、出力は82 kW)では1トンあたり58 kWであり、国鉄115系電車が1トンあたりで要する出力はカローラの8分の1以下である。そのため、鉄道は船と並んで、エネルギー効率のよい大量輸送システムといえる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "鉄道は、その走行抵抗の少なさなどのため、単位輸送量当たりのエネルギー消費は自動車や航空機よりはるかに少ない。環境省の調査によれば、一定の距離で、一定の人数を輸送するために要するエネルギーの量は、日本の国鉄の鉄道を基準にすると、バスはその1.8倍、乗用車は5.3倍、航空機は8.8倍であった。また、貨物の場合、船は0.8倍、トラックは2.8倍であった。さらに、電車や電気機関車の場合、発電機や電動機のエネルギー変換効率が内燃機関よりはるかに高いので、電化鉄道は鉄道システム全体としてもエネルギー効率は非常に高い。したがって、地球温暖化の原因となる二酸化炭素の単位輸送量当たりの排出量が少ない 交通機関である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "鉄道は専用の軌道を有しているため、定時性に優れる。路面電車のように道路上を走行する併用軌道を除けば、基本的に専用の走行路を使用するので、定時運行を確保しやすい。定められた時刻通りに列車を運行することは鉄道事業の出発点である。特に、自動車や飛行機などの代替輸送機関が発達した先進国地域では、遅れのひどい鉄道からは利用者が去っていってしまう。ちなみに1999年度(平成11年度)のJR東日本の数字によれば、新幹線の95 %と、在来線の87 %が定刻(遅延1分未満)に発着している。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ただし、故障や災害等で事故が発生すると、事故現場の回避や追い越しができないため、長時間に渡って不通になる場合がある。台風・地震など、自然災害により不通になると、その影響が広範囲に渡るなど、脆弱な面もある。自動車が事故車線や現場を回避できたり、途中経路の天候が悪くても離陸・着陸地点の天候に問題がなければ航行が可能な飛行機とは対照的である。また、踏切事故や人身事故、強風などの影響で長時間運行が停止することも多い。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "鉄道は安全性が高い交通手段であるといえる。鉄道事故の発生する確率は他の交通機関よりも低い。ある統計によれば、鉄道事故による利用客の死亡率は自動車の545分の1、航空機の104分の1であるという。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "鉄道が自動車より安全であることの理由として、次のようなことが挙げられる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "鉄道事故の多くは道路交通と平面交差する踏切や、利用客と鉄道との接点である駅のホーム、急カーブ、単線、地上の線路で発生している。これらの事故に対して、踏切では立体交差化、駅のプラットホームではホームドアの設置、カーブではカントの設置及びカント量の上限を超えない範囲内での引き上げや脱線防止ガード設置、鉄道路線全般では自動列車保安装置の装備といった防止措置がとられる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "鉄道は、飛行機・船と同様、一度に大量の人員を輸送できる故に、一度事故になると大惨事になり得る。ただし、鉄道での死亡事故の大半は駅構内や踏切で起こる接触・衝突事故で、大量死亡事故は非常に少ない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "鉄車輪と鉄軌道との摩擦力が小さいという理由により、自動車ほど急勾配を上り下りすることができない。自動車の勾配は立体駐車場などの1/6(水平に6 m進むと1 m高くなる)が最急だと言われているが、鉄道では25 ‰程度が常用の限度とされている。より急な線区も存在する(例えば箱根登山鉄道には80 ‰勾配が存在する)が、その場合建設や運転に不利になる。そのため、山岳などの障害物を迂回したり、トンネル掘削による障害物回避、あるいはループ線やスイッチバックを設置するなどを行う必要がある。また、これらの対策でもどうにもならない急勾配は、ラックレール等を用いることで対処する場合もある。ただし最近では、ICE 3など、一部の高性能車両は連続40 ‰勾配路線を300 km/hにて走行可能であり、高性能車両を用いることで、トンネル掘削などの投資を抑えることが可能となりつつある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "また摩擦力・粘着力によって加速度を得ることが、自動車に比べて難しく、急加速・急減速が困難である。普通鉄道の最高速度は574.8 km/hだが、営業上の最高速度は320 km/hにとどまっている(「高速鉄道の最高速度記録の歴史」を参照)。この限界を突破するために浮上走行が考案されたが、その一つがリニアモーターカーである。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "急減速が利かない欠点に対しては線路を一定区間に区切り、1つの区間に同時に2本以上の列車を入れない閉塞という概念・設備を導入して列車同士の衝突事故を防いでいる。ブレーキの改良も進められている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "また、鉄道は曲線にも弱い。曲線では遠心力が働くが、遠心力による横からの力に対して鉄道は自動車より弱い。よって、鉄道と自動車が同じ半径の曲線を通過する際には、鉄道の通過速度を自動車よりずっと小さくする必要が生じる。この欠点を小さくしようとすれば曲線を緩くする以外に方法はない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "路上を自由自在に走行できる道路交通とは違い、レールの上しか走行できないという制約があるため、わずかな障害によって広範囲で正常運転ができなくなることが多い。人身事故が発生すると、多くの列車に影響が出る。また土砂災害や地震など、自然災害を受けると復旧までにかなりの時間を要し、迂回路がない場合、バスなどの代替輸送に頼らざるを得ない。強風にも弱く、強風のため長時間運行が停止されることもしばしば発生する。ただし積雪の際に自動車よりも安全に運行できる鉄道は、地域によっては冬場の市民の貴重な足となりうる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "鉄道は建設と維持に莫大な費用を必要とし、特に地方の閑散線区では採算性が低くなりやすい。それでも鉄道の維持を選択する場合は、公的資金の投入が必要となることがある。一例を挙げると、2011年(平成23年)7月の豪雨災害で不通となったJR東日本只見線会津川口 - 只見間は、線路などを地元自治体が所有する「上下分離方式」を採用して復旧することが決定した。復旧に際し沿線市町村と福島県は復旧費を約54億円負担し、復旧後は沿線市町村と福島県が年間運営費として約2億1000万円負担することになると見積もられている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "鉄道はエネルギーあたりの輸送効率が良く、自動車交通や航空交通などと比較して排出される二酸化炭素 (CO2) が少ない。東京-大阪の旅客輸送について、鉄道と自動車一人あたりの二酸化炭素排出量を試算すると、鉄道は自動車の6分の1であると報告されている。", "title": "環境負荷" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "かつては蒸気機関車の煤煙が大きな問題であったが、日本国内の鉄道は電化が進み、ディーゼル機関を利用した非電化鉄道が残っているものの、排気中の汚染物質が問題になることは少ない。", "title": "環境負荷" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "一方、国外(主に発展途上国)においては電化されていない鉄道が現在も大量に走っており、そうした地域では大気汚染の大きな原因の一つとなっている。", "title": "環境負荷" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "新規開発は地域の利便性が大きく向上し経済発展に繋がるが、森林等自然が残るエリアを開拓する形で行われるため自然破壊(森林破壊)に直結している。ブラジル・アマゾン熱帯雨林の鉄道を含む開発事業は国際的に大きな非難を浴びている。また日本国内ではリニア新幹線の開発が現地住民やNGOなどから批判され、抗議運動を起こされている。", "title": "環境負荷" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "(著者・編者の五十音順)", "title": "関連文献" } ]
鉄道とは、レールを敷いて、その上に列車を走らせ、人や貨物を運ぶ陸上交通機関である。
{{Otheruses}} {{複数の問題|ソートキー=鉄* |出典の明記=2012年8月 |独自研究=2012年8月 }} [[File:StocktonDarlingtonOpening.jpg|thumb|300px|世界最初の鉄道である、[[ダラム州]]の''[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道]]の開業''、1825年]][[File:802201_on_daytime_testing_at_Northallerton_on_the_ECML.jpg|thumb|right|300px|現代のイギリスの[[ロンドン]]-[[エディンバラ]]を結ぶ路線と、途中の[[鉄道駅|駅]]と、そこを通過する[[イギリス鉄道802形]]]] [[File:TGV_Sud-Est_Postal_-_Bifurcation_de_Crisenoy.JPG|thumb|right|300px|フランスの[[:fr:Crisenoy]]あたりを[[南フランス]]方面に向かって走る[[TGV]]。車体側面に「LA POSTE」と表示しており、[[郵便物]]輸送専門の編成の例。]] [[File:Tirumailai_MRTS_station_Chennai_(Madras).jpg|thumb|right|300px|インドのMRTSの駅と列車]] [[ファイル:Lancaster_Gate_tube.jpg|thumb|right|300px|地下に敷設されたレールを走る[[地下鉄]](写真は最古の地下鉄、[[ロンドン地下鉄]])]] '''鉄道'''(てつどう、{{Lang-en-gb-short|railway}} {{Lang-en-us-short|railroad}} {{Lang-de-short|Eisenbahn}})とは、[[軌条|レール]]を敷いて、その上に[[列車]]を走らせ、人や[[貨物]]を運ぶ陸上[[交通機関]]である<ref name="daijisen">デジタル大辞泉「鉄道」</ref>。 == 概説 == {{Train topics}} 鉄道とは[[平行]]に2本のレールを敷き、その上で列車などを走らせ、人や貨物を運ぶ[[交通機関]]、交通システムである。[[線路 (鉄道)|線路]]、旅客や貨物を載せて走る[[列車]]、[[停車場]]、[[鉄道駅|駅]]などの施設、[[列車運行管理システム|運行管理]]や[[信号保安]]まで様々な要素で構成される一連の体系である。 「鉄道」は狭義には(その交通システム全体ではなく)レールを敷いた道「線路」(鉄路)だけを指すことがある<ref name="nipponica">小学館『日本大百科全書』(ニッポニカ)「鉄道」西尾源太郎</ref>。 鉄道は歴史的に見て、まずイギリスやヨーロッパで発展した。フランス語では「{{lang|fr|chemin de fer}}(シュマン・ドゥ・フェール)」と言い<ref name="nipponica" />、これは直訳すると「鉄の道」である。日本語でも「鉄道」、中国語でも「鉄道」または「鉄路」と言う。なお[[鉄]]製のレールだけでなく、例えば[[コンクリート]]製の案内軌道などを用いるものもある<ref name="nipponica" />。また、鋼索([[鋼]]でできた太いロープ)で車両を支持し運転するもの([[索道]]。ロープウェイ)も鉄道の一種としている<ref name="nipponica" />。広い意味では、懸垂式・跨座式の[[モノレール]]、案内軌条式のAGT([[新交通システム]])、[[磁気浮上式鉄道|浮上式鉄道]]を含む。 なお、『日本大百科全書』は定義文の冒頭部「'''専用の用地'''にレールを敷設した線路上を動力を用いた車両を運転し」としている。専用の用地でなく道路に敷設された[[路面電車]]は、日本の法制上は「軌道」とよんで「鉄道」とは区別している<ref name="nipponica" />。つまり、用地のありかたにも着目して線引きしている。 次にレールの素材に着目して線引きができるかについて検討してみると、英語では {{lang|en|railroad}}(アメリカ)または {{lang|en|railway}}(イギリス)と呼び、これは単に「[[軌条|レール]]の道」という意味で、語自体には「レールの材質」に関する意味が含まれていない語で造語して呼ぶようになった。だがイギリス同様に鉄道が早期から発展した欧州の大陸側のフランスでは {{lang|fr|chemin de fer}}(訳:鉄の道)、ドイツでも「{{lang|de|Eisenbahn}}」(訳:鉄の道)と呼び、日本語でも「鉄道」、中国語でも「{{lang|zh|鉄道}}」または「{{lang|zh|鉄路}}」 等々、数多くの言語で「鉄の道(路)」という表現をする。鉄道はもともと鉄製レールの案内路を有するシステムであったので、レールの素材(材質)に焦点を当てて造語した<ref group="注">鉄製のレールによる方式は、鉄道事業法に基く[[国土交通省]]令である「鉄道事業法施行規則」において、[[普通鉄道]]と分類され、在来線、[[新幹線]]、[[地下鉄]]等を含む多くの鉄道がこの形態である。英語でtramwayと呼ばれる路面電車も同じ形態であるが、日本の法律では[[軌道法]]により管轄され、「鉄道」ではなく「軌道」と区分される。ただし、例外も多く、鉄道と軌道の境界は曖昧と言えば曖昧である。</ref>。 なお、素材ばかりに着目しても、先に説明したようにコンクリートのレール(案内路)を用いたシステム(素材以外は駅や列車などシステム全体が同じようなシステム)を含められなくなってしまうので、レールの素材にこだわりすぎて線引きするのにも無理がある。このように交通システムはさまざまな変則的なものを開発することができる、という面もあり、また各国で法制度が異なっており、さらに[[トロリーバス]]まで含めるのか含めないのかなど、どこまでを法制上「鉄道」に含めて扱うかについても国ごとにかなりの差異があり、「鉄道」と「鉄道でないもの」の線引きのしかたはさまざまあり、世界的に見てかなり曖昧である。 よって本項では(焦点がぼけてしまわぬよう、周辺あたりの曖昧な領域は避け)できるだけ、この記事の意味の中心部、つまり専用の用地に敷いた鉄製レールを有するものについて解説することにし、鉄道に含めてよいかどうか曖昧な形態のものについては脚注などで軽く触れるにとどめる。 ; 特徴 : {{Main2|詳細は「[[#特徴|特徴]]」の節を}} : 鉄道の(他の交通機関と比較しての)特徴としては、安全であること、(運行の)時間・時刻が正確であること、省エネであることなどが挙げられる<ref name="nipponica" />。 ; 分類・種類 : {{Main2|詳細は「[[#分類、種類|分類、種類]]」の節を}} : 鉄道はさまざまに分類することが可能で、たとえば技術的観点、経済的観点、法制的観点などに基づいて分類することができる<ref name="nipponica" />。 ; 他のさまざまな交通機関も含めた中での鉄道の役割・位置づけ : 鉄道は、19世紀まで各国の主たる陸上交通機関であった<ref name="nipponica" />。だが20世紀前半から[[モータリゼーション]]が進展したり(20世紀半ばころから)航空交通が発達したので、鉄道はその役割を年々縮小してきている<ref name="nipponica" />。1980年代の欧米の(全交通機関輸送量に占める)鉄道輸送の[[市場占有率|シェア]]を見てみると、旅客輸送では、イギリス、フランス、旧[[西ドイツ]]が7 - 11 %、アメリカが1 %、貨物輸送では12 - 38 %となっていた<ref name="nipponica" />。1997年の鉄道旅客輸送は、イギリス、フランス、ドイツが6 - 7 %、アメリカ1 %となっていた<ref name="nipponica" />(つまり、さらにシェアが減少した)。1997年の貨物輸送を見てみると、イギリス7 %、フランス、ドイツが20 - 22 %、アメリカ40 %である。よって、欧米の鉄道ではそれぞれの国の交通体系のなかでの「鉄道の役割」というのは、旅客輸送より貨物輸送のほうが大きい<ref name="nipponica" />。なお日本の鉄道での諸交通体系に占めるシェアも、モータリゼーションの進展とともに低下してきており、1955年(昭和30年)時点で日本の鉄道のシェアは、旅客輸送が82 %、貨物輸送が53 %であったが、1984年(昭和59年)には、旅客輸送が39 %、貨物輸送が5 %にまで減少し、1997年(平成9年)時点で旅客輸送は22 %、貨物輸送は5 %となっていた<ref name="nipponica" />。欧米のデータと比較すれば一目了然であるが、日本の鉄道では、貨物輸送より旅客輸送の役割が大きいことが特徴となっている<ref name="nipponica" />。 : こうした状況下で世界的に鉄道に期待されている機能と役割は、高速鉄道に象徴されるような「スピード」(移動の速さ)と、都市圏での[[通勤]]・[[通学]]輸送にみられるような「輸送密度の高い大量輸送」である<ref name="nipponica" />。 == 分類、種類 == 技術、経済、法制などの観点から分類可能である。 === 技術的分類 === 鉄道は、技術的には、軌道・車両の構造、軌道の敷設面、軌間、車両の動力源などに基づいて分類できる<ref name="nipponica" />。 ; 軌道・車両の構造による分類 : '''普通鉄道'''と'''特殊鉄道'''に分類できる。 : 普通鉄道は、2本のレールの上に自走する車両を運行させる一般的な鉄道である<ref name="nipponica" />。対して特殊鉄道は、普通鉄道とは異なるものをまとめて呼ぶ総称であり、たとえば普通鉄道に特別な装備を付加した歯車式鉄道([[ラック式鉄道|ラックレール式鉄道]]。[[アプト式]]、シュトループ式など)と、全然別の構造の単軌条式鉄道([[モノレール]])、[[案内軌条式鉄道]]([[新交通システム]]を含む)、鋼索鉄道([[ケーブルカー]])などがあり<ref name="nipponica" />、さらに言うと「特殊鉄道」には(次第に「鉄道」なのかあいまいな領域になるが)索道([[索道|ロープウェー]])、無軌条電車([[トロリーバス]])、[[磁気浮上式鉄道]]([[リニアモーターカー]]、マグレブトレイン 等)なども含められることになる。 ; 軌道の敷設面による分類 : 大まかには、「地表に敷設する鉄道」「高架鉄道」「地下鉄道(地下鉄)」の3種にわけられる。 :* 地表に敷設する鉄道には、専用の用地に敷設する一般の鉄道と、道路上に敷設する路面電車がある。 :* [[高架鉄道]]は、交通の頻繁な道路や他の鉄道との平面交差を避けるために、高架構造上にレールを敷設するものである。 :* [[地下鉄|地下鉄道]]は、都市の地下のトンネル内に敷設する。 ; [[軌間]](ゲージ)による分類 : 大まかには、「標準軌鉄道」「広軌鉄道」「狭軌鉄道」の3種にわけられる。 :* '''[[標準軌]]鉄道'''は、ヨーロッパ・アメリカなど世界の70 - 75 %が採用しており、日本の新幹線や一部の私鉄も採用している、'''1435ミリメートル'''ゲージである<ref name="nipponica" />。 :* '''[[広軌]]鉄道'''は、標準軌間より広いゲージで、[[スペイン]]や[[インド]]の'''1672ミリメートル'''ゲージ、[[ソビエト連邦|旧ソ連]]地域の'''1525ミリメートル'''ゲージがある<ref name="nipponica" />。 :* '''[[狭軌]]鉄道'''には、ニュージーランド、南アフリカ共和国、日本の旧国鉄在来線や多くの私鉄などの'''1067ミリメートル'''ゲージ、また[[タイ王国|タイ]]、[[ミャンマー]]、スイスの私鉄などの'''1000ミリメートル'''ゲージなどがある<ref name="nipponica" />。 : 日本の新幹線は「標準軌」で、在来線が「狭軌」である<ref name="nipponica" />。 === 経済的分類 === ==== 経営形態による分類 ==== 経営形態による分類がある。たとえば私企業による経営や、国による所有「国有」、国による経営「国営」などである。 世界の鉄道は、初期の段階においては(規模がまだ限られていたので)[[株式会社]]の形態が多かったが、やがて全国的な鉄道網の形成に伴い[[国有]]・[[国営]]の形態をとるものが多くなっていった<ref name="nipponica" />。その後多くが、分割されたり、一部を分離独立させたり、民営化するなど多様な道を進むことになった。 欧州を見てみると、[[イギリスの鉄道]]は[[1947年]]の法律によって国有化され、その後、1963年から[[公共企業体]]として運営されていたが、1994年に分割・[[民営化]]された。[[フランスの鉄道]]は、1937年の「公私混合株式会社」の発足以来、国有化の道を歩み始め、1983年からは全額政府出資の事業体として運営されていたが、1997年1月[[フランス国鉄]] (SNCF) は、鉄道線路の建設と維持管理とを行う[[フランス鉄道線路事業公社]] (RFF) を分離独立させ、フランス国鉄 (SNCF) 自体は鉄道輸送に専念する事業体となった。[[ドイツの鉄道]]は、1920年の[[ドイツ国営鉄道|ドイツ国有鉄道]]の設立により国有化されたが、[[第二次世界大戦後]]の[[1951年]]の東西ドイツの分裂により、西ドイツは「[[ドイツ連邦鉄道]]」、東ドイツは「[[ドイツ国営鉄道 (東ドイツ)|東ドイツ国鉄]]」として国有国営の事業体となった。1990年の[[東西ドイツ統一]]以降、1994年に東西両国鉄が「連邦鉄道財産機構」として統合され、その後業務別に三つの組織に分割されていった。 [[アメリカの鉄道]]は、第一次世界大戦中に一時期、国の管理下に置かれたことがあるが、基本的には民間の運営であった。しかし、自動車や航空機に比べ鉄道による旅客・貨物輸送の需要は伸びず、1971年には国が管理・運営する鉄道として都市間の旅客輸送を行う[[アムトラック]] (Amtrak)(正式名:全米鉄道旅客輸送公社National Railroad PassengerCorporation。その通称である「Americantrack」の略称がAmtrak)が、1976年には連邦政府の援助・監督下に経営される株式会社形態の貨物輸送鉄道[[コンレール]] (Conrail)(統合鉄道会社Consolidated Rail Corporationの略称)が設立された<ref name="nipponica" />。その後、アメリカでは1980 - 1990年代に規制緩和政策が推進されるとともに鉄道会社の統廃合が進み、コンレールも「[[ノーフォーク・サザン鉄道]]」と「[[CSXトランスポーテーション|CSX鉄道]]」に分割・買収される形で1999年に姿を消した。 [[日本の鉄道]]は、1906年(明治39年)に(特定地方限定の地方鉄道を除いて)国有化され、第二次世界大戦後、1949年(昭和24年)に[[公社]](公共企業体)「[[日本国有鉄道]]」として新たに発足したが、1987年(昭和62年)4月[[国鉄分割民営化|分割・民営化]]が行われ、「国鉄」は「JR」となり、6つの旅客鉄道会社([[北海道旅客鉄道|JR北海道]]、[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]、[[東海旅客鉄道|JR東海]]、[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]、[[四国旅客鉄道|JR四国]]、[[九州旅客鉄道|JR九州]])と1つの貨物鉄道会社([[日本貨物鉄道|JR貨物]])の合計7つの会社として再出発した。日本の鉄道体系は、株式会社形態をとる私鉄(民鉄)の役割が比較的大きいことが、世界的に見て特徴となっている<ref name="nipponica" />。特に旅客に関しては大きな割合を分担し<ref name="nipponica" />、1984年(昭和59年)時点での年間輸送量は、国鉄68億人、私鉄118億人で、私鉄が国鉄を上回っていた<ref name="nipponica" />(その後国鉄もJRとなりすべて国有ではなくなったが、1997年(平成9年)の年間輸送量は、JR旅客会社88億5919万人、私鉄133億8582万人で、やはり旅客では私鉄の役割が大きい<ref name="nipponica" />)。なお貨物に関しては、さほどではなく、1997年の貨物輸送量がJR貨物が4729万トン、私鉄2194万トンであった<ref name="nipponica" />。 ==== 業務地域の広さによる分類 ==== 業務を行う地域によって、「全国鉄道」「地域鉄道」「地方鉄道」に分ける方法がある<ref name="nipponica" />。 * '''全国鉄道'''は全国的規模の幹線鉄道<ref name="nipponica" />。主要都市間の長距離輸送を担う。フランスのSNCFや、日本の旧国鉄のようなもの。 * '''地域鉄道'''は、ひとつの国をいくつかのブロックに分割した程度の規模で、(次に説明する)地方鉄道より広範囲に、相互の主要都市を結ぶ直通運転も行う<ref name="nipponica" />。日本のJR北海道、JR東日本…等もこの「地域鉄道」に分類される。 * '''地方鉄道'''は、限られた地域内の局地的な短距離輸送が主で、大都市圏の地下鉄や郊外電車、路面電車などである<ref name="nipponica" />。経営形態としては民営鉄道や公営鉄道などがある<ref name="nipponica" />。 == 歴史 == {{Main|1=鉄道の歴史|2=交通#鉄道}} 軌道に関しては、16世紀ごろにドイツのハルツ鉱山で板の上にレール状の木材を取り付けて、その上に石炭運搬の車両を通したのが始まり<ref name="nipponica" />、ともされる。木製のレールは激しく摩耗するのでその後に鉄製にかえられた<ref name="nipponica" />。(ここで「鉄道」になった)。初期の鉄製レールはL字型で、底辺(水平面)が外側になるように敷設し、外側の底辺の上を[[車輪]]が転がるようになっていた<ref name="nipponica" />。その後、車輪外周の内側につば状の輪縁([[フランジ]])をつけることでレールのほうのL字型は止め、レールの頭部の内側を走る、現在と同様の方式となった<ref name="nipponica" />。この段階で、車両の動力源は[[人力]]や[[馬]]の力(馬力)であったが、[[18世紀]]の後半に[[ジェームズ・ワット|ワット]]が改良した蒸気機関をさらに改良利用する方法が多くの人によって研究され、1804年にイギリスの[[リチャード・トレビシック]](1771―1833)が、初めてレールの上を走る蒸気機関車を製作し、馬にかわって、石炭の運搬車を引かせることに一応は成功した<ref name="nipponica" />。そして、1825年にイギリス[[ダラム州]]に[[ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道|ストックトン&ダーリントン鉄道]]が開業し、鉄道会社が予め作成した運行スケジュールに従って列車が運行される、現代の鉄道とほぼ同様の形態が採用された。 <gallery> ファイル:0-4-0ST locomotive 'Pixie'.jpg|[[イギリス国立鉄道博物館]]にも展示されている写真(1920年9月)。狭軌の鉄道と、そこを走る蒸気機関車Pixie。おそらく露天掘り採石場で、蒸気を動力として動く機械で石を積み込んでいる。 ファイル:Railway construction circa 1926, Western Australia.jpg|鉄道の敷設工事(1926年頃、[[オーストラリア]]の西部)。鉄道という交通システムを構築するには、用地を確保して土地を平らにして鉄道(鉄のレール)を敷設しなければならない。土地の権利取得も大変であるし、工事も時に難工事の連続となる。 ファイル:Westerbork, Holland, Construction of railway tracks leading to the camp 6.jpg|鉄道の敷設や保守(1942年、オランダ) </gallery> == 構造 == [[File:田んぼの中を走る.jpg|thumb|250px|[[高架橋|高架]]に敷設された[[単線]]の線路]] 線路は地上に敷設されていることが多いが、都市部や地形に制約のある場所、また高速走行を行うための路線では[[地下]]や[[高架橋|高架]]に線路を敷設している。特に地下に敷設される路線は[[地下鉄]]と呼ぶ。 === 軌道 === {{See also|軌道 (鉄道)}} 軌道は2本の[[軌条|レール]]を[[枕木]]の上に平行に敷設したものであり、システムによっては3本以上のレールを用いる。レールと枕木はバラストと呼ばれる[[砂利]]や[[コンクリート]]製の道床によって支えられる。特に、道床に砂利を用いたものを[[バラスト軌道]]と呼ぶ。コンクリート製のものでは、道床と枕木の機能が一体化した[[スラブ軌道]]や、コンクリート製の基礎にレールを直結し枕木を省略した形態も存在する。 === 軌間 === {{Main|軌間}} 2本のレールの間隔を[[軌間]](ゲージ)という。軌間は世界で規格が異なる。[[三線軌条]]などの混合軌間、[[軌間可変車両]]、[[ロールボック]]などのテクノロジーで異なる軌間の路線でも車両の直通が可能だが、通常の車両では直通で旅客や貨物が輸送できない問題がある。規格が異なる理由は、戦争時に自国内の鉄道インフラをそのまま使わせない、もしくは初期の鉄道関連会社の慣習上の理由による<ref>{{Cite web |url=https://www.cargo-partner.com/de/trendletter/issue-21/spurbreiten |title=Spurbreiten - Im Spurbreitengewirr: cargo-partner |access-date=2023-09-25 |website=www.cargo-partner.com}}</ref><ref name=matuyama7/>。ただ利便性が悪いのも確かで国ごとに[[規格争い]](鉄道ゲージ戦争)も発生する([[日本の改軌論争]]、{{ill2|ブリティッシュの改軌論争|en|British Gauge War}}、{{ill2|エリーの改軌論争|en|Erie Gauge War}})<ref name=matuyama7>{{Cite web |url=http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~kwatanab/Ztaikai/2015/chap-7.html |title=7 |access-date=2023-09-25 |website=www.cc.matsuyama-u.ac.jp |publisher=[[松山大学]]}}</ref>。 === 車両 === {{Main|鉄道車両}} [[鉄道車両|鉄道の車両]]を動力源によって分類した場合、[[蒸気機関]]を動力として用いる[[蒸気機関車]]、その他の[[内燃機関]]を動力とする[[気動車]]・[[ディーゼル機関車]]、[[電動機|電気モーター]]を動力とする[[電車]]・[[電気機関車]]がある。鉄道車両は1両でも用いることができるが、多数の車両を連結でき、その利点を活用して旅客や貨物を一編成(ひとつらなりの形)で大量に輸送することが可能である。 鉄道車両は、異なる[[軌間]]の区間に乗り入れることが困難である。軌間を切り替える手法としては、まず境界駅で[[鉄道車両の台車|台車]]を交換する方法がある。この方法は、広軌の旧ソ連圏と、これに接する標準軌の中国や東ヨーロッパを直通する列車などで採用されている。しかし、この方法では、電車や機関車など、モーターを持つ台車の取替はできず、また作業のため、国境駅で3時間以上待たなくてはいけないなどの問題がある<ref>鉄道なぜなぜおもしろ読本 2003/10 新鉄道システム研究会 (著) P242</ref>。また、[[スペイン]]の「[[タルゴ]]」「[[アルビア (列車)|Alvia]]」で特殊な設備を用いて乗客を乗せたまま自国の1668 mmと周辺他国の1435 mmを切り替える方法が実用化されている。また、日本では、乗客を乗せたまま軌間切り替え可能な[[軌間可変電車|フリーゲージトレイン]]の実用化試験が行われている。 他にも、異なる路線の鉄道車両の乗り入れが困難である場合が存在する。[[建築限界]]や[[車両限界]]が路線によって異なる場合も、乗り入れの障害となる。例としては車両限界の大きい新幹線と、車両限界の小さい[[在来線]]を改軌した区間を直通する[[ミニ新幹線]]のように、在来線の車両サイズで作らざるを得なくなる。[[直流電化|直流]]、[[交流電化|交流]]といった電気方式が区間によって異なる場合には、直通するためには製作コストの高い双方の電気方式に対応した車両を使用するか、機関車を付け替えるなどの必要が生じるが、電気方式が同じでも、[[電圧]]が区間によって異なる場合は、[[複電圧車|複電圧方式の車両]]が必要となる。 === 駅 === {{See also|鉄道駅}} [[鉄道駅]]は、列車が止まり、人が[[列車]]に乗り降りしたり、貨物を積み降ろしする場所である。基本的には線路と[[プラットホーム]]から構成され、中程度以上であれば[[駅舎]]やさまざまな関連施設がある。貨物駅であればさらに貨物ターミナルから構成される。さまざまな分類法がある。 === 踏切 === {{See also|踏切}} 鉄道と道路が平面的に交差する場所には[[踏切]]が設置される。 日本では、踏切の通行は鉄道に優先権があり、道路交通を遮断することとなる。列車運行本数が多い場合は遮断時間が長くなり、[[渋滞|交通渋滞]]の原因となり、甚だしい場合には「[[開かずの踏切]]」が生まれる。踏切を解消するため[[連続立体交差事業]]が進められている。 === 周辺設備 === 鉄道の中には、単に線路と列車と駅により構成されているだけに留まらず、変電所<ref>『電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ』宇田賢吉 中公新書1948 P168</ref> や指令所<ref>『定刻発車』三戸祐子 新潮文庫 P280</ref> などを備えるものがある。電車は電力で走ることから、線路と平行して[[電線路]]が敷設され、それに伴い、鉄道[[変電所]]や電源の管理する施設が備えられている。また、複雑化した鉄道ネットワークにおいては、過密な[[ダイヤグラム|ダイヤ]]や突発的な事故に対応するため、一箇所で集中的に列車の管理を行うこともある。 == 運営 == {{独自研究|date=2017年3月|section=1}} 鉄道の運営を行う[[鉄道事業者]]は、民間企業によるものと、[[国家|国]]や[[特殊法人]]・[[地方公共団体]]が行うものなどがある。なお、日本においては[[日本国有鉄道]]の[[国鉄分割民営化|分割民営化]]と、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)の[[特殊会社]]化に伴い、いわゆる「国営の鉄道事業者」は現存しない。ただし、日本国有鉄道の事業を継承した[[JR|JRグループ]]のうち、[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)、[[四国旅客鉄道]](JR四国)、[[日本貨物鉄道]](JR貨物)、および帝都高速度交通営団の事業を継承した[[東京地下鉄]](東京メトロ)については、国や[[独立行政法人]][[鉄道建設・運輸施設整備支援機構]]が一部または全部の株式を保有している<ref>[https://web.archive.org/web/20170407210144/http://www.jrtt.go.jp/02Business/Settlement/settle-kabu.html 鉄道建設・運輸施設整備支援機構 JR株式の処分]([[インターネットアーカイブ]])</ref><ref>[http://www.tokyometro.jp/corporate/profile/outline/index.html 東京メトロ 会社概要]</ref>。したがって、現在の日本国政府が、鉄道事業の経営にまったく関与していないわけではない。 鉄道は、線路・駅などの[[インフラストラクチャー]]に対する[[投資]]コストが大きく、[[固定費]]率が大きいことから[[損益分岐点]]が高く、黒字となるには一定以上の輸送量、利用客数が必要となる。このため、{{要出典範囲|[[欧米]]では「鉄道は[[公共財]]であり、また一度無くなると元に戻すことは難しいことから、赤字は基本である」([[日本政策投資銀行]] 浅井康次)という認識であるとの紹介がある|date=2012年8月}}。また、相当な利益を上げないと既存路線の[[高速化 (鉄道)|高速化]]や[[自動列車保安装置]]設置、駅の[[バリアフリー]]化やホームドア設置、[[パークアンドライド]]用[[駐車場]]設置などの鉄道サービスや安全性向上も困難である。 {{要出典範囲|日本では、[[1990年代]]から鉄道の利用者数が減少している|date=2012年8月}}。減少の背景には、日本の[[人口]]構成が関わっている。鉄道利用者の中心は[[通学]]利用者と、[[通勤]]利用者であるが、人口構成上、[[在籍者 (学習者)|学生]]は卒業する年代の人口よりも入学する年代の人口が少なく、[[社会人]]も退職する年代の人口よりも新規に就職する世代の人口が少ない状況にあるため、両者は今後長期間にわたり減少する仕組みになっている<ref name="nipponnochiikiryoku">『実測!ニッポンの地域力』[[藻谷浩介]] [[日本経済新聞出版社]] 2007年9月 ISBN 9784532352622</ref>。減少の要因として他には、鉄道事業者の経営努力不足、{{要出典範囲|[[モータリゼーション]](列車から[[自動車]]へのシフト)|date=2012年8月}}や、変わったところでは、{{要出典範囲|[[地球温暖化]]([[冬]]の気温が上がることで降雪が少なくなり、車が使用しやすくなる)といったものもある|date=2012年8月}}。 上述した内容は日本全体の話であるが、[[ローカル線]]の利用者数を巡る環境は特に厳しい。採算が取れない場合、路線や駅の存続問題が発生する。対応策として、赤字が続く鉄道を廃止したり、[[第三セクター鉄道]]に転換することがある。{{要出典範囲|しかし、第三セクター鉄道にしても赤字が解消されるとは限らず、赤字の第三セクター鉄道は、地方公共団体の[[不良債権]]として問題になっている|date=2012年8月}}。 === 乗車 === 鉄道の乗車には切符などの[[乗車券]]、または[[乗車カード]]を必要とする。[[運賃]]を支払うことでこれらを入手することができ、乗車権を得られるが、車内で精算する仕組みを取っている鉄道もある。 == 技術 == [[鉄道車両]]や[[鉄道施設]]に関しての学問として、[[鉄道工学]]がある。 新たな技術として、[[デュアル・モード・ビークル]] (DMV) などがある。 == 特徴 == [[File:Overall GHG from Transport.png|thumb|right|350px|EU28か国における輸送セクターの[[温室効果ガス]]排出割合。鉄道は[[持続可能な交通]]である。]] 鉄道は、レールの上しか通行できない半面、他の陸上輸送機関に比べて[[自然環境]]への負荷が比較的少なく、大量輸送に向き、定時性や安全性に優れるという特徴を有する。 === 長所 === 鉄道は、専用の鉄軌道上で案内されて運転される特性上、多数の車両を連結して一括運転できる。このため、一度に大量の旅客や貨物を運送できる。 軌道や車輪に鉄を使用しているため、走行時に鉄同士が触れ合うことになるが、この際の走行抵抗は、きわめて小さい。鉄製の車輪は、自動車に用いられるゴムタイヤと比べると変形量が小さいためである。また、一般的な自動車と比べ細長く体積の割りに前面投影面積が小さいため、空気抵抗も小さい。車列が長いほど体積当たりの空気抵抗は少なくなる。 結果、必要な動力も重さの割には小さくできる。例えば日本の[[国鉄115系電車]]10両編成(質量は400[[トン]]、出力は2880 [[キロワット|kW]])では1トンあたり7 kW であるが、乗用車の[[トヨタ・カローラ|カローラ]](質量は1400 kg、出力は82 kW)では1トンあたり58 kWであり、国鉄115系電車が1トンあたりで要する出力はカローラの8分の1以下である<ref>『電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ』宇田賢吉 [[中公新書]]1948 P4-7</ref>。そのため、鉄道は[[船]]と並んで、[[エネルギー効率]]のよい大量輸送システムといえる。 鉄道は、その走行抵抗の少なさなどのため、単位輸送量当たりのエネルギー消費は自動車や航空機よりはるかに少ない。{{要出典範囲|[[環境省]]の調査|date=2016年1月}}によれば、一定の距離で、一定の人数を輸送するために要するエネルギーの量は、日本の国鉄の鉄道を基準にすると、バスはその1.8倍、乗用車は5.3倍、航空機は8.8倍であった。また、貨物の場合、船は0.8倍、トラックは2.8倍であった<ref>『鉄道の科学 旅が楽しくなる本』[[丸山弘志]] [[講談社]] ブルーバックスB-431 1980年 P100</ref>。さらに、[[電車]]や[[電気機関車]]の場合、[[発電機]]や[[電動機]]のエネルギー変換効率が内燃機関よりはるかに高いので、{{要出典範囲|電化鉄道は鉄道システム全体としてもエネルギー効率は非常に高い|date=2012年8月}}。したがって、[[地球温暖化]]の原因となる[[二酸化炭素]]の単位輸送量当たりの排出量が少ない<ref group="注">国土交通省[https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/kankyou/ondanka1.htm 運輸部門の地球温暖化対策について] によると旅客輸送では営業用乗用車・自家用乗用車・[[航空]]・バス、貨物輸送では自家用貨物車・営業用貨物車・船舶に比べて輸送量あたりの排出量が少ない。</ref> 交通機関である。 ==== 定時性 ==== 鉄道は専用の軌道を有しているため、定時性に優れる。[[路面電車]]のように道路上を走行する[[併用軌道]]を除けば、基本的に専用の走行路を使用するので、定時運行を確保しやすい。定められた時刻通りに列車を運行することは鉄道事業の出発点である。特に、自動車や飛行機などの代替輸送機関が発達した先進国地域では、遅れのひどい鉄道からは利用者が去っていってしまう<ref>『定刻発車』三戸祐子 新潮文庫 P17</ref>。ちなみに1999年度(平成11年度)のJR東日本の数字によれば、新幹線の95 %と、在来線の87 %が定刻(遅延1分未満)に発着している<ref>『定刻発車』三戸祐子 新潮文庫 P14</ref>。 ただし、故障や災害等で事故が発生すると、事故現場の回避や追い越しができないため、長時間に渡って不通になる場合がある。[[台風]]・地震など、自然災害により不通になると、その影響が広範囲に渡るなど、脆弱な面もある。自動車が事故車線や現場を回避できたり、途中経路の天候が悪くても離陸・着陸地点の天候に問題がなければ航行が可能な[[飛行機]]とは対照的である。また、踏切事故や人身事故、強風などの影響で長時間運行が停止することも多い。 ==== 安全性 ==== 鉄道は安全性が高い交通手段であるといえる<ref>鉄道なぜなぜおもしろ読本 2003/10 新鉄道システム研究会 (著) P90</ref>。鉄道事故の発生する確率は他の交通機関よりも低い。ある統計によれば、鉄道事故による利用客の死亡率は自動車の545分の1、航空機の104分の1であるという<ref>鉄道重大事故の歴史 2000/6 [[久保田博]] (著) P3</ref>。 鉄道が自動車より安全であることの理由として、次のようなことが挙げられる<ref name="ReferenceA">鉄道なぜなぜおもしろ読本 2003/10 新鉄道システム研究会 (著) P91</ref>。 * 専用軌道を走行するため、自動車と違いハンドル操作が不要である。自動車の場合、少々のハンドルの動きで車体が左右へぶれてしまう。特に高速の場合、わずかなハンドルのぶれでも瞬時に本来進むべき道から逸れてしまい、事故の原因にもなり得る。それに対して鉄道は、線路さえしっかりしていれば、高速走行しても支障がない。 * 鉄道には運転士が信号を見落としても、自動で列車を停止させるシステム(運転保安装置や運行制御システム)が備わっている。自動車にはこのようなものがないため、信号を無視すれば他の自動車や歩行者と衝突してしまう可能性がある。 [[鉄道事故]]の多くは道路交通と[[平面交差]]する[[踏切]]や、利用客と鉄道との接点である[[鉄道駅|駅]]の[[プラットホーム|ホーム]]、急[[線形 (路線)#平面線形|カーブ]]、[[単線]]、地上の線路で発生している。これらの事故に対して、踏切では[[立体交差]]化、駅のプラットホームでは[[ホームドア]]の設置、カーブでは[[カント (路線)|カント]]の設置及びカント量の上限を超えない範囲内での引き上げや[[脱線防止ガード]]設置、鉄道路線全般では[[自動列車保安装置]]の装備といった防止措置がとられる。 鉄道は、飛行機・船と同様、一度に大量の人員を輸送できる故に、一度事故になると大惨事になり得る。{{要出典範囲|ただし、鉄道での死亡事故の大半は駅構内や踏切で起こる接触・衝突事故で、大量死亡事故は非常に少ない|date=2018年2月}}。 === 短所 === 鉄車輪と鉄軌道との摩擦力が小さいという理由により、自動車ほど急[[線形 (路線)#勾配|勾配]]を上り下りすることができない。自動車の勾配は立体駐車場などの1/6(水平に6 m進むと1 m高くなる)が最急だと言われているが、鉄道では25 ‰程度が常用の限度とされている。より急な線区も存在する(例えば[[箱根登山鉄道]]には80 [[パーミル|‰]]勾配が存在する)が、その場合建設や運転に不利になる<ref>『電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ』宇田賢吉 中公新書1948 P9</ref>。そのため、[[山|山岳]]などの障害物を迂回したり、[[トンネル]]掘削による障害物回避、あるいは[[ループ線]]や[[スイッチバック]]を設置するなどを行う必要がある。また、これらの対策でもどうにもならない急勾配は、[[ラック式鉄道|ラックレール]]等を用いることで対処する場合もある。ただし最近では、[[ICE 3]]など、一部の高性能車両は連続40 ‰勾配路線を300 km/hにて走行可能であり、高性能車両を用いることで、トンネル掘削などの投資を抑えることが可能となりつつある。 また摩擦力・粘着力によって加速度を得ることが、自動車に比べて難しく、急加速・急減速が困難である。普通鉄道の最高速度は574.8 km/hだが、営業上の最高速度は320 km/hにとどまっている(「[[高速鉄道の最高速度記録の歴史]]」を参照)。この限界を突破するために浮上走行が考案されたが、その一つが[[リニアモーターカー]]である。 急減速が利かない欠点に対しては線路を一定区間に区切り、1つの区間に同時に2本以上の列車を入れない[[閉塞 (鉄道)|閉塞]]という概念・設備を導入して列車同士の衝突事故を防いでいる。[[鉄道のブレーキ|ブレーキ]]の改良も進められている。 また、鉄道は曲線にも弱い。曲線では遠心力が働くが、遠心力による横からの力に対して鉄道は自動車より弱い。よって、鉄道と自動車が同じ半径の曲線を通過する際には、鉄道の通過速度を自動車よりずっと小さくする必要が生じる。この欠点を小さくしようとすれば曲線を緩くする以外に方法はない<ref>『電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ』宇田賢吉 中公新書1948 P10-11</ref>。 路上を自由自在に走行できる道路交通とは違い、レールの上しか走行できないという制約があるため、わずかな障害によって広範囲で正常運転ができなくなることが多い<ref>『電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ』宇田賢吉 中公新書1948 P3</ref>。[[鉄道人身障害事故|人身事故]]が発生すると、多くの列車に影響が出る<ref>『定刻発車』三戸祐子 [[新潮文庫]] P176</ref>。また[[土砂災害]]や[[地震]]など、自然災害を受けると復旧までにかなりの時間を要し、迂回路がない場合、バスなどの[[振替輸送|代替輸送]]に頼らざるを得ない。強風にも弱く、強風のため長時間運行が停止されることもしばしば発生する<ref>なぜ風が吹くと電車は止まるのか 鉄道と自然災害 ([[PHP新書]])</ref>。ただし積雪の際に自動車よりも安全に運行できる鉄道は、地域によっては冬場の市民の貴重な足となりうる。 鉄道は建設と維持に莫大な費用を必要とし、特に地方の閑散線区では採算性が低くなりやすい<ref> 『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2017年3月号、[[交友社]]、2017年、p.124</ref>。それでも鉄道の維持を選択する場合は、[[公的資金]]の投入が必要となることがある。一例を挙げると、2011年(平成23年)7月の豪雨災害で不通となったJR東日本[[只見線]]会津川口 - 只見間は、線路などを地元自治体が所有する「[[上下分離方式]]」を採用して復旧することが決定した。復旧に際し沿線市町村と福島県は復旧費を約54億円負担し、復旧後は沿線市町村と福島県が年間運営費として約2億1000万円負担することになると見積もられている<ref>{{Cite news|url=http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201612/20161227_63006.html|title=<只見線>鉄路20年度にも復旧 上下分離式|work=河北新報オンライン|newspaper=[[河北新報]]|date=2016-12-27|accessdate=2016-12-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20171206101545/http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201612/20161227_63006.html|archivedate=2017-12-06}}</ref>。 == 環境負荷 == === CO2 === 鉄道はエネルギーあたりの輸送効率が良く、[[自動車]]交通や[[航空]]交通などと比較して排出される[[二酸化炭素]] (CO2) が少ない。東京-大阪の旅客輸送について、鉄道と自動車一人あたりの二酸化炭素排出量を試算すると、鉄道は自動車の6分の1であると報告されている<ref>『新交通システムをつくる』斎間亭 [[筑摩書房]] p.213</ref>。 === 排気中の汚染物質 === かつては蒸気機関車の[[煤煙]]が大きな問題であったが、日本国内の鉄道は[[鉄道の電化|電化]]が進み、[[ディーゼルエンジン|ディーゼル機関]]を利用した[[非電化]]鉄道が残っているものの、排気中の汚染物質が問題になることは少ない。 一方、国外(主に[[発展途上国]])においては電化されていない鉄道が現在も大量に走っており、そうした地域では大気汚染の大きな原因の一つとなっている<ref>[https://europe.nna.jp/news/show/1725288 2040年にディーゼル列車廃止 英政府、大気汚染の軽減に向け - NNA EUROPE・英国・運輸 ]</ref><ref>[https://www.eic.or.jp/news/?act=view&serial=15536&oversea=0// EPA ディーゼル機関車・船舶から排出される大気汚染物質を規制へ|環境ニュース[海外]|EICネット ]</ref><ref>[https://www.outlookindia.com/website/story/india-news-opinion-pandemic-may-have-to-wait-for-vaccine-but-technology-to-deal-with-air-pollution-is-ready/357128 Pandemic May Have To Wait For Vaccine, But Technology To Deal With Air Pollution Is Ready ]</ref>。 === 開発に伴う自然破壊 === 新規開発は地域の利便性が大きく向上し経済発展に繋がるが、[[森林]]等自然が残るエリアを開拓する形で行われるため[[自然破壊]]([[森林破壊]])に直結している。[[ブラジル]]・[[アマゾン熱帯雨林]]の鉄道を含む開発事業は国際的に大きな非難を浴びている。また日本国内では[[中央新幹線|リニア新幹線]]の開発が現地住民や[[非政府組織|NGO]]などから批判され、抗議運動を起こされている<ref>[https://www.foejapan.org/siberia/issue/08.html FoE Japan | シベリアタイガプロジェクト ]</ref><ref>[https://www.afpbb.com/articles/-/3250821 アマゾン熱帯雨林、幹線道路がもたらす開発と破壊 ブラジル 写真14枚 国際ニュース:AFPBB News ](2019年12月21日)</ref><ref>[https://www.nacsj.or.jp/linear_motor/2019/06/16221/ "地中の環境改変"だけでは済まないリニア工事の実態 〜トンネル残土があちこちに山積み、大鹿村の現状を視察しました - 日本自然保護協会オフィシャルサイト ]</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/ASN8K730FN8KUOOB002.html 長野)リニア工事に「ブナ伐採しないで」 住民が抗議:朝日新聞デジタル ] (2020年8月18日)</ref>。 == 世界の鉄道 == [[ファイル:World railway network.svg|thumb|right|400px|現在の世界の鉄道のネットワーク(2022年)]] [[ファイル:Rail gauge world.png|thumb|世界の[[軌間]]規格の違い。]] === 国際鉄道輸送 === {{See also|:en:Category:International rail transport}} === 各地域、各国の鉄道 === {{Main|世界の鉄道一覧}} {{Main2|各国の路線長の一覧|国の鉄道路線長順リスト}} {{Main2|輸送量ランキング|国の鉄道利用順リスト}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | author= 久保田博|authorlink=久保田博 | title = 鉄道工学ハンドブック | publisher = [[グランプリ出版]] | date = 1995-09-15 | edition = 初版 | isbn = 978-4876871636}} == 関連文献 == (著者・編者の五十音順) * {{Cite book | 和書 | author= 老川慶喜|authorlink=老川慶喜 | title = 鉄道 | series = 日本史小百科 - 近代 | publisher = [[東京堂出版]] | date = 1996-09-17 | edition = 初版 | isbn = 978-4490202908}} * {{Cite book | 和書 | author= 久保田博|authorlink=久保田博 | title = 日本の鉄道史セミナー | publisher = [[グランプリ出版]] | date = 2005-05-18 | edition = 初版 | isbn = 978-4876872718}} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|鉄道}} {{ウィキプロジェクトリンク|鉄道}} {{Multimedia|鉄道画像}} {{Sisterlinks|commons=Railroad}} * [[w:Environmental design in rail transportation|Environmental design in rail transportation]] * [[国際鉄道連合]] * [[国鉄]]・[[私鉄]] * [[w:Outline of rail transport|List of rail transport topics]] * [[運輸業]] * [[鉄道運営組織一覧]] * [[w:List of railway industry occupations|List of railway industry occupations]] * [[メガプロジェクト]] * [[鉱山鉄道]] * 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赤星たみこ
赤星たみこ(あかぼし たみこ、1957年5月6日 - )は、日本の漫画家、エッセイスト。宮崎県日之影町出身。夫にイラストレーターの新野啓一がいる。 東京デザイナー学院在学中から森永真理のアシスタントを務める。1979年に講談社の少女漫画雑誌『mimi』でギャグ漫画家としてデビュー。1987年より「漫画アクション」で連載した「恋はいつもアマンドピンク」は映画化・ドラマ化された。 エッセイ漫画も多く手がけており、1997年に子宮がんを患い子宮と卵巣を手術で摘出した経験から子宮がんの闘病記やエコロジーをテーマとした作品も発表している。 地元の宮崎県への愛郷心が強く、高千穂あまてらす鉄道の取締役を務めていたことがあった。 巻数表示のないものは単巻
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赤星たみこは、日本の漫画家、エッセイスト。宮崎県日之影町出身。夫にイラストレーターの新野啓一がいる。
{{存命人物の出典明記|date=2019年8月}} '''赤星たみこ'''(あかぼし たみこ、[[1957年]][[5月6日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[エッセイスト]]。[[宮崎県]][[日之影町]]出身。夫に[[イラストレーター]]の[[新野啓一]]がいる。 == 経歴 == [[東京デザイナー学院]]在学中から[[森永真理]]のアシスタントを務める。[[1979年]]に[[講談社]]の[[少女漫画]]雑誌『[[mimi (雑誌)|mimi]]』で[[ギャグ漫画]]家としてデビュー<ref>プロフィールより{{Cite web|和書|url=https://www.dinos.co.jp/hotdinos/antenna/interview/100511/ |title=漫画家・赤星たみこさん インタビュー |website=HOT dinos |accessdate=2022-11-24}}</ref>。[[1987年]]より「[[漫画アクション]]」で連載した「恋はいつもアマンドピンク」は映画化・ドラマ化された。 [[エッセイ漫画]]も多く手がけており、[[1997年]]に[[子宮癌|子宮がん]]を患い子宮と卵巣を手術で摘出した経験から子宮がんの闘病記や[[エコロジー]]をテーマとした作品も発表している。 地元の宮崎県への愛郷心が強く、[[高千穂あまてらす鉄道]]の[[取締役]]を務めていたことがあった。 == 作品リスト == === 漫画 === 巻数表示のないものは単巻 <!-- 関連の深い作品を除いて基本的に分類ごとに発行日時の古い順にソートしています --> * タラッタ☆ポン(<!-- mimi自体は不明、画像でアップされていた創刊mimidx1979冬の号の目次に表記あり -->[[講談社]]) - デビュー作 * えぐりのあなたのナニをえぐっちゃう<!-- 掲載雑誌不明 --> ** 続・えぐりのあなたのナニをえぐっちゃう<!-- 掲載雑誌不明、セブンティーンコミックス? --> * コロッケ通信(講談社) * エリコ(講談社) * 恋はいつもアマンドピンク([[双葉社]])全5巻([[1988年]]に[https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/04238/ 映画]化<!-- 樋口可南子主演 -->・[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-24485 テレビドラマ]化、[[2001年]]に新装版3冊および番外編として1冊発行) * エクレア気分([[光文社]])全4巻(新装愛蔵版:上下巻) : [[1995年]]、『[[我慢できない!]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]]制作)というタイトルでドラマ化 * [[恋の街東京]](双葉社)全2巻([[1989年]]、[[双葉社]]) : 1989年にテレビドラマ化(TBS制作、[[ドラマチック22]])<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-25775 恋の街 東京 テレビドラマデータベース]</ref> * なかよし(双葉社)全2巻 : 1990年に単発ドラマとしてテレビドラマ化(TBS制作、ドラマチック22内。1990年3月『なかよし<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-26089 なかよし テレビドラマデータベース]</ref>』、1990年12月『なかよし2 恋の手ほどき<ref>[http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-26902 なかよし2 恋の手ほどき テレビドラマデータベース]</ref>』)、1995年に『[[とっても母娘]]』(TBS制作、[[愛の劇場|花王 愛の劇場]])のタイトルでテレビドラマ化。 * キス・ミー(双葉社)全3巻 ** NEW キス・ミー(双葉社)全2巻 : 1998年に『[[パパ・レンタル中]]』(TBS制作、花王 愛の劇場)のタイトルでテレビドラマ化 * MADE IN 桜新町(双葉社) * 花束(双葉社) * 愛の奇跡(講談社) * あなたにあげる([[ぶんか社]]) * くるくるピッ([[祥伝社]]) * [[別れたら好きな人 (漫画)|別れたら好きな人]](双葉社)全2巻 : 1999年に[[テレビ東京]]でテレビドラマ化。 === エッセイ関連作品 === <!-- 伏せている部分は発売日または発行日、暫定的に --> * でがらしTV(ヒット出版) * 赤星たみこ、わたしは趣味のエコロジスト([[メディアファクトリー]])※共著:室田武 * ねこのはなし([[朝日ソノラマ]]) * はいッガンの赤星です([[扶桑社]]) ** はいッガンを治した赤星です(扶桑社) * ゴミを出さない暮らしのコツ([[大和書房]]) * 赤星たみこの美人道([[白泉社]]) * 美人になるツボ教えます([[秋田書店]])<!-- 2000/9 --> * 気持ちよく暮らす簡単家事生活([[青春出版社]]) * エコロなココロ(大和書房) * きれいに暮らす簡単石けん生活(青春出版社) * ミネラル豆乳ダイエット([[小学館]]) * グランマ!もっと身体美人([[集英社クリエイティブ|創美社]])<!-- 2004年5月20日 --> ** グランマ!女を上げる節約術(創美社)<!-- 2009/6/19 --> ** グランマ! まんがで読めるおばあちゃんの知恵袋([[集英社クリエイティブ]])<!-- 2012/11/22 --> * 赤星たみこの石けん達人(創美社) * ダメ犬ちゃん夫のしつけ37のルール([[すばる舎]]) * もったいない事典(小学館) * 美女の壺(創美社) * もったいないぞ!([[毎日新聞社]]) * 赤星たみこのがん安心講座(エビデンス社) * 赤星生活(講談社) === イラスト等担当作品 === * 世紀末男女コレクション([[二見書房]])※文章:[[麻生香太郎]] * ハナマル8分中華([[角川・エス・エス・コミュニケーションズ]]) * メチャウマ200円中華(角川・エス・エス・コミュニケーションズ) * ひと味かえて本格家庭中華(ヒット出版)上下巻 ※監修:[[周富徳]] * 平成夫婦茶腕ビックリ節約マニュアル50([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * 思わずニヤリ。「チョット知的な」ことわざ学([[技術評論社]])※監修:[[塩田丸男]] * 服部幸應の食育アドバイスQ&A([[家の光協会]])※監修:[[服部幸應]] * 朝のヨガ([[ビジネス社]])※監修:森川那智子 * 夜のヨガ(ビジネス社)※監修:森川那智子 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の漫画家一覧]] * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20150307190020/http://www.akaboshi.com/ 赤星コム] * [https://akaboshi.exblog.jp/ 赤星たみこの戯言・放言・虚言日記♪] * {{Twitter|tamikong}} {{Normdaten}} {{manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:あかほし たみこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:宮崎県出身の人物]] [[Category:日本の闘病記著者]]
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ジャズ
ジャズ(英: jazz)は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズの黒人コミュニティで生まれた音楽ジャンルで、ブルースやラグタイムをルーツとしている。1920年代のジャズ・エイジ以降、伝統音楽やポピュラー音楽における主要な表現として認識されるようになった。 ジャズの特徴は、スウィングするリズムや、裏の音符の多いシンコペーションのあるリズム、初期にブルースの影響を受けた(ブルーノートもあったが、これは基本的にはブルースである)複雑なコード、複雑なスケール、コールアンドレスポンス・ボーカル、ポリリズム、即興演奏などである。ジャズのルーツは、西アフリカの文化と音楽的表現、そして黒人の伝統にある。 ジャズが世界中に広まるにつれ、国や地域、地元の音楽文化が取り入れられ、さまざまなスタイルが生まれた。ニューオリンズのジャズは1910年代初頭に始まり、それまでのブラスバンドのマーチ、フランスのカドリーユ、ラグタイム、ブルースに、ポリフォニックな即興演奏を組み合わせたものであった。ただ、ジャズの淵源は、ニューオリンズといった一地域のみに求められるものではない。アメリカ各地では、様々な形式のポピュラー音楽が現れており、そしてそれらは、共通の起源や音楽的方向性を持ちながらも、個々の状況に応じて発展していった。1930年代には、アレンジされたダンス志向のスウィング・ビッグバンド、カンザス・シティ・ジャズ、ジプシー・ジャズ(ミュゼットワルツを強調したスタイル)などのスタイルが知られるようになった。初期のジャズの代表的なミュージシャンには、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンらがいた。白人のポール・ホワイトマンを”キング・オブ・ジャズ”と呼んだ評論家たちは、後にその誤りを自嘲的に語ることになった。1940年代に登場したチャーリー・パーカーらによるビバップは、ジャズをスウィングのようなダンサブルな娯楽音楽から、速いテンポで演奏され、複雑な即興演奏を多用する、ミュージシャン主導の音楽へと変化させた。1940年代末には、白人寄りのクール・ジャズが登場した。 1950年代半ばには黒人主体のハード・バップが登場し、同ジャンルはサックスやピアノの演奏にリズム&ブルース、ゴスペル、ブルースなどの影響を取り入れた。1950年代後半には、モードを音楽構造の基礎とするモードジャズ(モーダル・ジャズ)が発展し、即興・アドリヴが重視された。フリー・ジャズは、西洋音楽の規則的な音階や拍子、形式的な音楽構造にとらわれない自由な演奏を追求したが、それはそれまで長年構築されてきた西洋音楽の秩序を崩壊させるものであった。1960年代末から1970年代前半にかけては、ジャズとロックのリズム、電気楽器を組み合わせたクロスオーバーが登場し、70年代後半にはジャズ・ロック・フュージョンへと変化した。1980年代には、スムーズジャズと呼ばれるジャズ・フュージョンの後継である商業的なジャズが成功を収め、ラジオで放送された。1990年代に入ると、ジャズ・ラップやニュー・ジャズなど、さまざまなスタイルやジャンルが登場した。 卑猥な意味をもつという"jass(ジャス)"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングのjazz(ジャズ)によるとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、上記のような特徴をもつ黒人音楽を、ジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、ラグタイム時代からスウィングジャズ時代まで活動した。 1916年にシカゴで活動していたジョニー・ステイン(英語版)をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷されていた。 ビバップやフリー・ジャズのような革新性、スウィング・ジャズやヴォーカル・ジャズのような保守性、大衆性、商業主義が混在しながらジャズ音楽は存続してきた。革新性は主に黒人ミュージシャンによって推し進められた芸術音楽としての一面、保守性は白人富裕層・中流階級向けの音楽としての一面、また大衆性や商業主義は大衆音楽やポピュラー音楽として発展した一面を表していた。なお、ジャズは60年代の公民権運動やヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは、方向性が異なっていたが、ときに交わることもあった。 ジャズは、欧州をルーツとするクラシック音楽への対抗や人種差別への抵抗、そして自由な音楽性を探求する音楽だった。それが60年代初頭までは時代の先端として存在し、新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させた。1940年代後半におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950年代におけるビートニクに共感する若者からの支持を獲得した(ビートニクやジャズ喫茶を参照)。革新的ビバップ、西洋音楽からの分離を志向したフリー・ジャズ、ロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、新たな音楽ジャンルが模索されていった。「多様性」は、ジャズの特徴でもあり、演奏スタイルは多様である。白人・黒人の混合文化はジャズの初期からの傾向でもあるが、1970年代半ばのフュージョン以降は停滞し、保守的なものになった。なお黒人主導の反抗的で自由な音楽性は、ヒップホップ・ミュージックに受け継がれたという意見がある。 また一部ビバップやフリー・ジャズなどのより革新的な演奏スタイルは、即興的で混沌としており、大衆性・商業性には結びつかず、現在でもジャズの中では前衛的ジャンルと認識されている。一方で、ビバップ、フリージャズなどの革新を追い求める姿勢は、ジャズを芸術性も含む音楽ジャンルであると認識させ、ジャズを長く嫌いであった人間にも魅力的に感じさせる場合がある。 1910年代にクラシック音楽に倣った編成であるビッグバンド(後のスウィング・ジャズ)が誕生すると、それを機にハーレム・ルネサンスの後押しもあってジャズクラブやジャズバーがニューヨークの各所で開店されていった。しかしコットン・クラブをはじめとしたナイトクラブでは、演奏者は黒人でありながらも、顧客は白人の富裕層・中流層が多かった。それはジャズを、サロン音楽的ジャンルとしても定着させた。ジャズの世界では、ジョージ・ガーシュウィン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、スタン・ケントン、ギル・エヴァンスらの白人音楽家による白人ジャズも、常に存在した。 ジャズは、白人のメインカルチャーとは異なる、都市の黒人による洗練された音楽として登場したが、ラグタイムからの音楽性を受け継いだ当初から、大衆音楽としての側面があった。大衆文化に寄り添い、また商業性を意識した音楽性は、1940年代の芸術音楽であるビバップの誕生までは、ジャズの主要な特徴として認識された。ビッグバンドやスウィング・ジャズは、クラブやバーで演奏されるだけでなく、ダンスホールで演奏される、大衆のためのダンス・ミュージックとしての役割も担い、狂騒の20年代を文化的側面から支えた(ジャズ・エイジ)。あるいはヴォーカル・ジャズも同様に大衆からの人気を博し、ポピュラー音楽の一翼を担っていた。代表的なジャズ・ヴォーカリストとしては、アフロアメリカンのビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン 、エラ・フィッツジェラルド、ナット・キング・コール、白人のビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ペギー・リー、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジなどがいた。彼らの中には稀代のエンターテイナーとして歴史に名を残した者もいる。またルイ・アームストロングやチェット・ベイカーのように、演奏・ヴォーカルともに活躍した者もいた。 ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルースの要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。なお、ジャズより古い時代に誕生したラグタイムはスウィングしておらずジャズとは関係ないが初期のジャズ・ピアノ奏法に影響を与えた。 ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」であるバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。 1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。 初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンス・ミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。 1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、カウント・ベイシー、トミー・ドーシー、スタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとボーカルとの融合において重要な役割を果たした。 その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない。戦前に設立されたアルフレッド・ライオンのブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。 1950年代にはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。 最も影響力のある、ビバップ・アーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー。テナーサックス奏者のデクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ。クラリネット奏者バディ・デフランコ、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロ、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリー・クリスチャン、ジョー・パス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチ、ケニー・クラーク、マックス・ローチ、アート・ブレイキー。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、ペギー・リーらの歌手も、この時期活躍した。 1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。 1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」という言葉が広まっていった。また、ジャズ・ボーカルではビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オデイらも活躍した。白人歌手のヘレン・メリル、クリス・コナーらも人気を集めた。 1960年には、ジョン・コルトレーンによるアルバム『ジャイアント・ステップス』が発売された。コルトレーンは翌1961年にも『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を発表した。また1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)を『ビルボード』誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルヴァー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、1950年代後半から1960年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルーノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。 1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。 1970年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには1970年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、ザ・クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローヴァー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。 1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのではなく多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロック・ミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。1990年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。ハリー・コニック・ジュニア、ダイアナ・クラール、カサンドラ・ウィルソン、ミシェル・ンデゲオチェロらはこの時期に活動した。2000年代から2010年代には、ノラ・ジョーンズ、ホセ・ジェイムズ、ジェイミー・カラム、ロバート・グラスパー、エスペランサ・スポルディング、カマシ・ワシントン、グレゴリー・ポーター等がジャズ・シーンを牽引している。グレゴリー・ポーターはジャズだけでなく、ソウルやR&Bの要素も持っている。また、2010年代に、ヒップホップやファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーとサンダーキャットのコラボなどジャズラップなどが人気となった。 NHK『タモリのジャズスタジオ』においてピーター・バラカン・ブロードキャスターが「ヨーロッパと日本がなければ、アメリカのジャズ・ミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズ・プレイヤーにとって日本は重要なマーケットで、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズ・ミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソン、ベニー・カーター、エラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。 ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのジャズメンでは、ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメンの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などがよく知られている。フランスではアメリカから移住した、「小さな花」のシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを広めた。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「退廃音楽」「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた。 アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。 ダラー・ブランドらがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。 戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した。 ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの「ダイナ」がヒット。「ダイナ」はよくカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。 最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースティン(英語版)の"My Blue Heaven"をカバーした「青空」で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。 1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。 行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は、各種の慰問団などに変わっていった。 戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一、服部良一、淡谷のり子、ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子、ベティ稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、水島早苗、あきれたぼういずらがいた。 戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子、伊東ゆかり、しばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。 戦後は、服部良一が作曲したブギウギを笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。 鈴木章治とリズムエース、北村英治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。 1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる。 1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した。 21世紀に入ってからも、H ZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真、石若駿らが活躍した。 ジャズ、ロックの評論家で、若者に人気だった植草甚一の約4000枚のジャズ・レコード・コレクションは、タモリが引き取ることになったという。 セクシーな女性歌手の系譜は、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、高木里代子らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が映画のサウンドトラックとして使用される現象も見られた。 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、歌謡曲など、異なるジャンルでも使用される。またジャズは聴衆に、大人向け、自由といったイメージを抱かせ、BGM業界にも一定の役割を果たした。 過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。 ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。
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"ジャズが世界中に広まるにつれ、国や地域、地元の音楽文化が取り入れられ、さまざまなスタイルが生まれた。ニューオリンズのジャズは1910年代初頭に始まり、それまでのブラスバンドのマーチ、フランスのカドリーユ、ラグタイム、ブルースに、ポリフォニックな即興演奏を組み合わせたものであった。ただ、ジャズの淵源は、ニューオリンズといった一地域のみに求められるものではない。アメリカ各地では、様々な形式のポピュラー音楽が現れており、そしてそれらは、共通の起源や音楽的方向性を持ちながらも、個々の状況に応じて発展していった。1930年代には、アレンジされたダンス志向のスウィング・ビッグバンド、カンザス・シティ・ジャズ、ジプシー・ジャズ(ミュゼットワルツを強調したスタイル)などのスタイルが知られるようになった。初期のジャズの代表的なミュージシャンには、ルイ・アームストロング、デューク・エリントンらがいた。白人のポール・ホワイトマンを”キング・オブ・ジャズ”と呼んだ評論家たちは、後にその誤りを自嘲的に語ることになった。1940年代に登場したチャーリー・パーカーらによるビバップは、ジャズをスウィングのようなダンサブルな娯楽音楽から、速いテンポで演奏され、複雑な即興演奏を多用する、ミュージシャン主導の音楽へと変化させた。1940年代末には、白人寄りのクール・ジャズが登場した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1950年代半ばには黒人主体のハード・バップが登場し、同ジャンルはサックスやピアノの演奏にリズム&ブルース、ゴスペル、ブルースなどの影響を取り入れた。1950年代後半には、モードを音楽構造の基礎とするモードジャズ(モーダル・ジャズ)が発展し、即興・アドリヴが重視された。フリー・ジャズは、西洋音楽の規則的な音階や拍子、形式的な音楽構造にとらわれない自由な演奏を追求したが、それはそれまで長年構築されてきた西洋音楽の秩序を崩壊させるものであった。1960年代末から1970年代前半にかけては、ジャズとロックのリズム、電気楽器を組み合わせたクロスオーバーが登場し、70年代後半にはジャズ・ロック・フュージョンへと変化した。1980年代には、スムーズジャズと呼ばれるジャズ・フュージョンの後継である商業的なジャズが成功を収め、ラジオで放送された。1990年代に入ると、ジャズ・ラップやニュー・ジャズなど、さまざまなスタイルやジャンルが登場した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "卑猥な意味をもつという\"jass(ジャス)\"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた性行為などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味するスラングのjazz(ジャズ)によるとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、上記のような特徴をもつ黒人音楽を、ジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家のジェリー・ロール・モートンは、ラグタイム時代からスウィングジャズ時代まで活動した。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1916年にシカゴで活動していたジョニー・ステイン(英語版)をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を\"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)\"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに\"Original Dixieland Jass Band(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)\"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには\"jass band\"と印刷されていた。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ビバップやフリー・ジャズのような革新性、スウィング・ジャズやヴォーカル・ジャズのような保守性、大衆性、商業主義が混在しながらジャズ音楽は存続してきた。革新性は主に黒人ミュージシャンによって推し進められた芸術音楽としての一面、保守性は白人富裕層・中流階級向けの音楽としての一面、また大衆性や商業主義は大衆音楽やポピュラー音楽として発展した一面を表していた。なお、ジャズは60年代の公民権運動やヒッピー文化などのカウンターカルチャーとは、方向性が異なっていたが、ときに交わることもあった。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ジャズは、欧州をルーツとするクラシック音楽への対抗や人種差別への抵抗、そして自由な音楽性を探求する音楽だった。それが60年代初頭までは時代の先端として存在し、新たな演奏スタイルが誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させた。1940年代後半におけるビバップの誕生は即興演奏の飛躍的発展として、また1950年代におけるビートニクに共感する若者からの支持を獲得した(ビートニクやジャズ喫茶を参照)。革新的ビバップ、西洋音楽からの分離を志向したフリー・ジャズ、ロックとの融合を目指したジャズ・ロックなど、新たな音楽ジャンルが模索されていった。「多様性」は、ジャズの特徴でもあり、演奏スタイルは多様である。白人・黒人の混合文化はジャズの初期からの傾向でもあるが、1970年代半ばのフュージョン以降は停滞し、保守的なものになった。なお黒人主導の反抗的で自由な音楽性は、ヒップホップ・ミュージックに受け継がれたという意見がある。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また一部ビバップやフリー・ジャズなどのより革新的な演奏スタイルは、即興的で混沌としており、大衆性・商業性には結びつかず、現在でもジャズの中では前衛的ジャンルと認識されている。一方で、ビバップ、フリージャズなどの革新を追い求める姿勢は、ジャズを芸術性も含む音楽ジャンルであると認識させ、ジャズを長く嫌いであった人間にも魅力的に感じさせる場合がある。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1910年代にクラシック音楽に倣った編成であるビッグバンド(後のスウィング・ジャズ)が誕生すると、それを機にハーレム・ルネサンスの後押しもあってジャズクラブやジャズバーがニューヨークの各所で開店されていった。しかしコットン・クラブをはじめとしたナイトクラブでは、演奏者は黒人でありながらも、顧客は白人の富裕層・中流層が多かった。それはジャズを、サロン音楽的ジャンルとしても定着させた。ジャズの世界では、ジョージ・ガーシュウィン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、スタン・ケントン、ギル・エヴァンスらの白人音楽家による白人ジャズも、常に存在した。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ジャズは、白人のメインカルチャーとは異なる、都市の黒人による洗練された音楽として登場したが、ラグタイムからの音楽性を受け継いだ当初から、大衆音楽としての側面があった。大衆文化に寄り添い、また商業性を意識した音楽性は、1940年代の芸術音楽であるビバップの誕生までは、ジャズの主要な特徴として認識された。ビッグバンドやスウィング・ジャズは、クラブやバーで演奏されるだけでなく、ダンスホールで演奏される、大衆のためのダンス・ミュージックとしての役割も担い、狂騒の20年代を文化的側面から支えた(ジャズ・エイジ)。あるいはヴォーカル・ジャズも同様に大衆からの人気を博し、ポピュラー音楽の一翼を担っていた。代表的なジャズ・ヴォーカリストとしては、アフロアメリカンのビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン 、エラ・フィッツジェラルド、ナット・キング・コール、白人のビング・クロスビー、フランク・シナトラ、ペギー・リー、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジなどがいた。彼らの中には稀代のエンターテイナーとして歴史に名を残した者もいる。またルイ・アームストロングやチェット・ベイカーのように、演奏・ヴォーカルともに活躍した者もいた。", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "", "title": "詳細" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせにより発展した音楽である。スピリチュアル、ブルースの要素を含み、ルーツは西アフリカ、西サヘル(サハラ砂漠南縁に東西に延びる帯状の地域)、ニューイングランドの宗教的な賛美歌やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカからアメリカ南部に連れてこられたアフリカからの移民(多くは奴隷として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。なお、ジャズより古い時代に誕生したラグタイムはスウィングしておらずジャズとは関係ないが初期のジャズ・ピアノ奏法に影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ニューオーリンズが発祥の地とされており、現在でもその語源ははっきりしない。20世紀初頭には、コルネット奏者の「アフロアメリカン」であるバディ・ボールデンがニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1917年、ニューオーリンズ出身の白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、ジャズでは初のレコードとなる「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」の2曲入りシングルをビクタートーキングマシンから発表。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "初期のジャズは、マーチングバンドと20世紀初頭に流行したダンス音楽に影響を受けており、ブラス(金管楽器)・リード(木管楽器)・ドラムスによる組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きなスウィング・ジャズへと交代していく。アメリカの禁酒法時代(1920-1933年)に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンス・ミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大してビッグ・バンドスタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、カウント・ベイシー、トミー・ドーシー、スタン・ケントンらのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たしたクレオールも媒介役になった。スウィング・ジャズはアレンジャーとバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。ルイ・アームストロングは、ジャズとボーカルとの融合において重要な役割を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、即興演奏を主体としたビバップ等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・ストライキがあったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない。戦前に設立されたアルフレッド・ライオンのブルーノート・レコードは弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1950年代にはチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピー、セロニアス・モンクらによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "最も影響力のある、ビバップ・アーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー。テナーサックス奏者のデクスター・ゴードン、ソニー・ロリンズ。クラリネット奏者バディ・デフランコ、トランペット奏者のファッツ・ナヴァロ、クリフォード・ブラウン、マイルス・デイヴィス、ディジー・ガレスピー。ピアニストのバド・パウエル、セロニアス・モンク。ギタリスト、 チャーリー・クリスチャン、ジョー・パス、ベーシストのカーリー・ラッセル、ドラマーのバディ・リッチ、ケニー・クラーク、マックス・ローチ、アート・ブレイキー。ジャズの全盛期であった1950年代には、クール・ジャズ、ウエストコースト・ジャズ、ハード・バップ等の新たなスタイルが登場し、モダン・ジャズの流れを作り出すことになる。ナット・キング・コール、メル・トーメ、ペギー・リーらの歌手も、この時期活躍した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1957年、フランス映画『大運河』(監督:ロジェ・ヴァディム)でジョン・ルイスが音楽を担当し、サウンドトラックはジョンが在籍するモダン・ジャズ・カルテット名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィスが『死刑台のエレベーター』(監督:ルイ・マル)に、セロニアス・モンクが『危険な関係』(監督:ロジェ・ヴァディム)に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、アメリカ映画『私は死にたくない』(監督:ロバート・ワイズ)にジェリー・マリガンやアート・ファーマー等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に映画音楽として使用されるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『マイルストーンズ』『カインド・オブ・ブルー』といった作品で、モード・ジャズという手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、オーネット・コールマンやアルバート・アイラー、サン・ラらは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットのアルバム名から「フリー・ジャズ」という言葉が広まっていった。また、ジャズ・ボーカルではビリー・ホリデイ、サラ・ヴォーン、カーメン・マクレエ、エラ・フィッツジェラルド、ニーナ・シモン、アニタ・オデイらも活躍した。白人歌手のヘレン・メリル、クリス・コナーらも人気を集めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1960年には、ジョン・コルトレーンによるアルバム『ジャイアント・ステップス』が発売された。コルトレーンは翌1961年にも『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を発表した。また1960年代前半には、ブラジル音楽のボサノヴァに注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。スタン・ゲッツは『ジャズ・サンバ』(1962年)を『ビルボード』誌のポップ・チャート1位に送り込み、翌年にはボサノヴァの重要人物(ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン等)との共演盤『ゲッツ/ジルベルト』を制作、グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。1965年には、ハンク・モブレーのカバーによる「リカード・ボサノヴァ」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。カーティス・フラー、キャノンボール・アダレイやホレス・シルヴァー、ナット・アダレイ、ラムゼイ・ルイスらを中心としたソウル・ジャズ(ファンキー・ジャズ)も、1950年代後半から1960年代に人気となった。またリー・モーガンの「ザ・サイドワインダー」は大ヒットしすぎたために、ブルーノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1960年代までのジャズは、一部の楽器(エレクトリックギター、ハモンドオルガン等)を除けば、アコースティック楽器が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『ビッチェズ・ブリュー』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1970年代に入るとエレクトリック・ジャズは、クロスオーバーと呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、デオダートの「ツアラトゥストラはかく語りき」である。さらには1970年代半ばには、フュージョンと呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンのリー・リトナー、ラリー・カールトン、アル・ディ・メオラらは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。スタッフ、ザ・クルセイダーズ、スパイロ・ジャイラ、ジョージ・ベンソン、チャック・マンジョーネ、グローヴァー・ワシントン・ジュニアらも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのではなく多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言えるスムーズ・ジャズがその1つである。ブラッド・メルドーはザ・バッド・プラスと共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロック・ミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。1990年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。ハリー・コニック・ジュニア、ダイアナ・クラール、カサンドラ・ウィルソン、ミシェル・ンデゲオチェロらはこの時期に活動した。2000年代から2010年代には、ノラ・ジョーンズ、ホセ・ジェイムズ、ジェイミー・カラム、ロバート・グラスパー、エスペランサ・スポルディング、カマシ・ワシントン、グレゴリー・ポーター等がジャズ・シーンを牽引している。グレゴリー・ポーターはジャズだけでなく、ソウルやR&Bの要素も持っている。また、2010年代に、ヒップホップやファンクの要素が加わったケンドリック・ラマーとサンダーキャットのコラボなどジャズラップなどが人気となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "NHK『タモリのジャズスタジオ』においてピーター・バラカン・ブロードキャスターが「ヨーロッパと日本がなければ、アメリカのジャズ・ミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズ・プレイヤーにとって日本は重要なマーケットで、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズ・ミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーのジーン・クルーパである。翌年には、オスカー・ピーターソン、ベニー・カーター、エラ・フィッツジェラルドなどと共にジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのジャズメンでは、ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメンの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などがよく知られている。フランスではアメリカから移住した、「小さな花」のシドニー・ベシェや、後のデクスター・ゴードンらがジャズを広めた。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層やファシズム政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。ナチ党に支配されたナチス・ドイツでは、反ジャズが政府の公式な見解となり、「退廃音楽」「斜めの音楽」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "アフロキューバン・ジャズと呼ばれ、ラロ・シフリンらが活躍した。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "ダラー・ブランドらがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズとタンゴがあった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は1923年に日本で初めてのプロのジャズバンドを神戸で結成した。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。当時のレコード業界はポリドール(1927)、ビクター (1927)、コロムビア(1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。テイチクは、異業種参入組のキング(大日本雄弁会講談社のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売したディック・ミネの「ダイナ」がヒット。「ダイナ」はよくカバーされた日本のジャズソングであり、榎本健一はパロディとしてカバーした。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "最初のジャズソングとされるのが二村定一がジーン・オースティン(英語版)の\"My Blue Heaven\"をカバーした「青空」で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「アラビヤの唄」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり堀内敬三が登場した。初期のジャズ演奏家である紙恭輔がコロムビアに関わった。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの流線型を題材にした「流線型ジャズ」(志村道夫)を世に出した。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は、各種の慰問団などに変わっていった。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、二村定一、服部良一、淡谷のり子、ディック・ミネ、志村道夫、南里文雄、堀内敬三、川畑文子、ベティ稲田、井田一郎、レイモンド・コンデ、水島早苗、あきれたぼういずらがいた。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。弘田三枝子、伊東ゆかり、しばたはつみは少女歌手として、米軍キャンプで歌った。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "戦後は、服部良一が作曲したブギウギを笠置シヅ子に歌わせたことから始まる。江利チエミ、ジョージ川口、ティーブ釜萢(ムッシュかまやつの父)、ナンシー・梅木、世良譲などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国のポピュラー音楽をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "鈴木章治とリズムエース、北村英治らも音楽活動を始めた。宮沢昭、守安祥太郎らも活躍した。1956年に穐吉敏子が、1962年に渡辺貞夫がバークリー音楽院(現バークリー音楽大学)に留学。1963年には松本英彦がモントレー・ジャズ・フェスティバルに出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1960年頃、アート・ブレイキーのモーニン(1958年発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった。1961年に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った高柳昌行、富樫雅彦、日野皓正、菊地雅章、山下洋輔らが、毎週金曜日に銀巴里でジャムセッションを行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、阿部薫、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。中央線沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、新星堂のプロデューサーが続に中央線ジャズという言葉を提唱した。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "21世紀に入ってからも、H ZETTRIO、山中千尋、矢野沙織、寺久保エレナ、上原ひろみ、国府弘子、西山瞳、菊地成孔、小曽根真、石若駿らが活躍した。", "title": "各地域のジャズ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ジャズ、ロックの評論家で、若者に人気だった植草甚一の約4000枚のジャズ・レコード・コレクションは、タモリが引き取ることになったという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "セクシーな女性歌手の系譜は、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、高木里代子らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が映画のサウンドトラックとして使用される現象も見られた。 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、歌謡曲など、異なるジャンルでも使用される。またジャズは聴衆に、大人向け、自由といったイメージを抱かせ、BGM業界にも一定の役割を果たした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。", "title": "主なスタイル/ジャンル" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ジャズを聴きながら楽しむ喫茶店。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。", "title": "著名な演奏場所" } ]
ジャズは、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズの黒人コミュニティで生まれた音楽ジャンルで、ブルースやラグタイムをルーツとしている。1920年代のジャズ・エイジ以降、伝統音楽やポピュラー音楽における主要な表現として認識されるようになった。
{{Otheruses}} {{Infobox music genre | name = ジャズ | image = File:Jas Messengers01.JPG | color = black | bgcolor = pink | stylistic_origins = [[ブルース]]<ref>[https://cincyblues.org/education/difference-between-blues-and-jazz/ blues and jazz] cincyblues 2023年4月1日閲覧</ref>、[[ラグタイム]]<ref> [https://www.jazzhistorytree.com/ragtime/ ラグタイム]  Jazzhistorytree.com 2023年4月1日閲覧</ref> | cultural_origins = [[19世紀]]、アメリカ南部(諸説あり) | instruments = [[ピアノ]]、[[トランペット]]、[[トロンボーン]]、[[サクソフォン]]、[[クラリネット]]、[[フルート]]、[[鍵盤楽器]]、[[コントラバス]]、[[ドラムセット|ドラム]]、[[ギター]]、[[歌唱|声]] | derivatives = * [[フュージョン (音楽)|フュージョン]] * [[ジャンプ・ブルース|ジャンプブルース]] * ジャイヴ * [[ジャズ・ファンク]] * [[スカ]] | subgenrelist = | subgenres = * [[アヴァンギャルド・ジャズ]] * [[ビッグバンド]] * [[ビバップ]] * [[チェンバー・ジャズ]] * [[クール・ジャズ]] * [[フリー・ジャズ]] * [[ジプシー・ジャズ]] * [[ハード・バップ]] * [[ラテン・ジャズ]] * [[コンテンポラリー・ジャズ]] * [[モード・ジャズ]] * {{仮リンク|ネオバップ・ジャズ|label=ネオバップ|en|Neo-bop jazz}} * [[ポスト・バップ]] * {{仮リンク|プログレッシブ・ミュージック|label=プログレッシブ・ジャズ|en|Progressive music}} * [[ソウル・ジャズ]] * [[スウィング・ジャズ]] * [[トラッド・ジャズ]] | fusiongenres = * [[アシッドジャズ]] * [[アフロビート]] * [[ボサノヴァ]] * {{仮リンク|クロスオーバー・ジャズ|en|crossover jazz}} * {{仮リンク|ダンスバンド|en|Dansband}} * [[フリー・ファンク]] * {{仮リンク|インド・ジャズ|en|Indo jazz}} * [[ジャム・バンド]] * [[パンク・ジャズ]] * [[ジャズ・ロック]] * [[ジャズ・ラップ]] * {{仮リンク|マンボ (音楽)|label=マンボ|en|Mambo (music)}} * [[ニュージャズ]] * [[スカ・ジャズ]] * [[スムーズジャズ]] * [[スウィング・リバイバル]] | regional_scenes = | other_topics = * [[スタンダード・ナンバー]] }} '''ジャズ'''({{lang-en-short|''jazz''}})は、[[19世紀]]末から[[20世紀]]初頭にかけて[[アメリカ合衆国]][[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]]の[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]コミュニティで生まれた音楽ジャンルで、[[ブルース]]や[[ラグタイム]]をルーツとしている<ref>{{Cite web|url=https://www.nps.gov/jazz/learn/historyculture/history_early.htm|title=Jazz Origins in New Orleans – New Orleans Jazz National Historical Park|publisher=National Park Service|accessdate=March 19, 2017}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.sbg.ac.at/ges/people/wagnleitner/usa3/nov26frame.htm|title="The Jazz Book": A Map of Jazz Styles|author=Germuska|first=Joe|publisher=WNUR-FM, Northwestern University|accessdate=March 19, 2017}}</ref><ref name=":0">{{Cite journal|last=Roth|first=Russell|date=1952|title=On the Instrumental Origins of Jazz|journal=[[American Quarterly]]|volume=4|issue=4|pages=305–16|DOI=10.2307/3031415|ISSN=0003-0678|JSTOR=3031415}}</ref>。1920年代の[[ジャズ・エイジ]]以降、[[フォークソング|伝統音楽]]や[[ポピュラー音楽]]における主要な表現として認識されるようになった。 == 概要 == ジャズの特徴は、[[スウィング (音楽)|スウィング]]するリズムや、裏の音符の多いシンコペーションのあるリズム、初期にブルースの影響を受けた([[ブルー・ノート・スケール|ブルーノート]]もあったが、これは基本的にはブルースである)複雑な[[和音|コード]]、複雑なスケール、[[コールアンドレスポンス]]・ボーカル、[[ポリリズム]]、[[即興|即興演奏]]などである。ジャズのルーツは、西アフリカの文化と音楽的表現、そして[[ブラックミュージック|黒人]]の伝統にある<ref>Ferris, Jean (1993) ''America's Musical Landscape''. Brown and Benchmark. {{ISBN2|0-697-12516-5}}. pp. 228, 233.</ref><ref>Starr, Larry, and Christopher Waterman. [http://iipdigital.usembassy.gov/st/english/publication/2008/08/20080812212457eaifas0.7410852.html#axzz3QeZKNVtc "Popular Jazz and Swing: America's Original Art Form."] IIP Digital. Oxford University Press, 26 July 2008.</ref>。 ジャズが世界中に広まるにつれ、国や地域、地元の音楽文化が取り入れられ、さまざまなスタイルが生まれた。[[ディキシーランド・ジャズ|ニューオリンズのジャズ]]は1910年代初頭に始まり、それまでのブラスバンドのマーチ、フランスの[[カドリーユ]]、ラグタイム、[[ブルース]]に、[[ポリフォニー|ポリフォニック]]な即興演奏を組み合わせたものであった。ただ、ジャズの淵源は、ニューオリンズといった一地域のみに求められるものではない<ref name="Hennessey">{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=nvskngEACAAJ|last=Hennessey|first=Thomas|title=From Jazz to Swing: Black Jazz Musicians and Their Music, 1917–1935|type=Ph.D. dissertation|publisher=[[Northwestern University]]|year=1973|pages=470–473}}</ref>。アメリカ各地では、様々な形式のポピュラー音楽が現れており、そしてそれらは、共通の起源<ref>{{Harvnb|Hennessey|1973}}は、いずれの形式もヨーロッパ系アメリカ人の音楽とアフリカ系アメリカ人の音楽を起源に持つと説明している。</ref>や音楽的方向性を持ちながらも、個々の状況に応じて発展していった<ref name="Hennessey"/>。1930年代には、アレンジされたダンス志向の[[スウィング・ジャズ|スウィング]]・[[ビッグバンド]]、カンザス・シティ・ジャズ、[[ジプシー・スウィング|ジプシー・ジャズ]](ミュゼットワルツを強調したスタイル)などのスタイルが知られるようになった。初期のジャズの代表的なミュージシャンには、[[ルイ・アームストロング]]<ref>[https://www.history.com/news/9-things-you-may-not-know-about-louis-armstrong 9シングズ・ユー・メイ・ノット・ノウ・アバウト・ルイ] 2021年9月3日閲覧</ref>、[[デューク・エリントン]]らがいた<ref>{{cite web| url=http://www.DukeEllington.com/ellingtonbio.html| title=Biography| publisher=DukeEllington.com (Official site)| accessdate=8 July 2021}}</ref>。[[白人]]のポール・ホワイトマンを”キング・オブ・ジャズ”と呼んだ評論家たちは、後にその誤りを自嘲的に語ることになった<ref>「リズム&ブルースの死」p.45 著者 ネルソン・ジョージ</ref>。1940年代に登場したチャーリー・パーカーらによる[[ビバップ]]は、ジャズをスウィングのようなダンサブルな娯楽音楽から、速いテンポで演奏され、複雑な即興演奏を多用する、ミュージシャン主導の音楽へと変化させた。1940年代末には、白人寄りの[[クール・ジャズ]]が登場した。 1950年代半ばには黒人主体の[[ハード・バップ]]が登場し、同ジャンルはサックスやピアノの演奏に[[リズム・アンド・ブルース|リズム&ブルース]]、[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]、ブルースなどの影響を取り入れた。1950年代後半には、[[旋法|モード]]を音楽構造の基礎とするモードジャズ([[モード・ジャズ|モーダル・ジャズ]])が発展し、即興・アドリヴが重視された。[[フリー・ジャズ]]は、西洋音楽の規則的な音階や拍子、形式的な音楽構造にとらわれない自由な演奏を追求したが、それはそれまで長年構築されてきた西洋音楽の秩序を崩壊させるものであった。1960年代末から1970年代前半にかけては、ジャズと[[ロック (音楽)|ロック]]のリズム、電気楽器を組み合わせたクロスオーバーが登場し、70年代後半には[[フュージョン (音楽)|ジャズ・ロック・フュージョン]]へと変化した。1980年代には、[[スムーズジャズ]]と呼ばれるジャズ・フュージョンの後継である商業的なジャズが成功を収め、ラジオで放送された。1990年代に入ると、ジャズ・ラップやニュー・ジャズなど、さまざまなスタイルやジャンルが登場した。 == 詳細 == [[File:150913 Blue Note Jazz Club Tokyo Japan01s3.jpg|thumb|right|200px|ジャズクラブ、[[ブルーノート (ジャズ・クラブ)|ブルーノート東京]]]] 卑猥な意味をもつという"jass(ジャス)"によるとする説や、19世紀からアメリカ南部の黒人が使っていた[[性行為]]などの性的意味、熱狂や急速なテンポ・リズムを意味する[[スラング]]のjazz(ジャズ)によるとする説などがある。jassという言葉の意味は様々に変化し、上記のような特徴をもつ黒人音楽を、ジャズと称するようになった時期も明らかではない。作曲家の[[ジェリー・ロール・モートン]]は、ラグタイム時代からスウィングジャズ時代まで活動した<ref>{{cite news |url=http://www.cbc.ca/radio2/programs/2010/03/jelly-rolled-into-vancouver.html |title=Jelly Rolled into Vancouver |publisher=CBC Radio 2 | access-date=01 February 2022}}</ref>。 1916年に[[シカゴ]]で活動していた{{仮リンク|ジョニー・ステイン|en|Johnny Stein}}をリーダーとする白人バンドが、jassということばにヒントを得てバンド名を"Stein's Dixieland Jass Band(ステインのディキシーjassバンド)"とし、これからジャズと称されるようになった、という記録がある。このグループはさらに"Original Dixieland Jass Band([[オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド]])"と改名、1917年1月に史上最初のジャズ・レコードを録音したが、そのレコードのラベルには"jass band"と印刷されていた<ref>参考文献:[[小学館]]『[[日本大百科全書]](ニッポニカ)』「ジャズ<語源>」(著・[[青木啓]]、2018年11月19日)</ref>。 ビバップ<ref>[http://www.biography.com/people/charlie-parker-9433413  チャーリー・パーカー バイオグラフィ]Biography.com 2021年1月14日閲覧</ref>やフリー・ジャズのような[[革新]]性、スウィング・ジャズやヴォーカル・ジャズのような[[保守]]性、大衆性、[[商業]]主義が混在しながらジャズ音楽は存続してきた。革新性は主に黒人ミュージシャンによって推し進められた[[芸術]]音楽としての一面、保守性は白人[[富裕層]]・[[中流階級]]向けの音楽としての一面、また大衆性や商業主義は[[大衆音楽]]や[[ポピュラー音楽]]として発展した一面を表していた。なお、ジャズは60年代の[[公民権運動]]や[[ヒッピー]]文化などの[[カウンターカルチャー]]とは、方向性が異なっていたが、ときに交わることもあった。 === 革新性 === [[File:Modern art wall splashed handyman dripped free-form painting.jpg|right|200px|thumb|[[ジャクソン・ポロック]]の[[アクション・ペインティング]]を模した絵画。ジャクソン・ポロックの絵画は、[[オーネット・コールマン]]のアルバム『[[フリー・ジャズ (アルバム) |Free Jazz]]』のジャケットデザインに使用された]] ジャズは、欧州をルーツとするクラシック音楽への対抗や[[人種差別]]への抵抗、そして自由な[[音楽性]]を探求する音楽だった。それが60年代初頭までは時代の先端として存在し、新たな[[#主なスタイル/ジャンル|演奏スタイル]]が誕生し、ジャズをより幅広い音楽ジャンルへと変化させた。1940年代後半における[[ビバップ]]の誕生は[[即興演奏]]の飛躍的発展として、また1950年代におけるビートニク<ref>[http://www.online-literature.com/periods/beat.php The Beat Generation – Literature Periods & Movements. ビート・ジェネレーション]2021年2月1日閲覧</ref><ref>Beat Down to Your Soul: What was the Beat Generation?| Charters Ann Penguin Books | isbn = 0141001518</ref>に共感する[[若者]]からの支持を獲得した([[ビート・ジェネレーション|ビートニク]]や[[ジャズ喫茶]]を参照)。革新的ビバップ、[[西洋音楽]]からの分離を志向した[[フリー・ジャズ]]、[[ロック (音楽)|ロック]]との融合を目指した[[ジャズ・ロック]]など、新たな音楽ジャンルが模索されていった。「[[多様性]]」は、ジャズの特徴でもあり、演奏スタイルは多様である。白人・黒人の混合文化はジャズの初期からの傾向でもあるが、1970年代半ばのフュージョン以降は停滞し、保守的なものになった。なお黒人主導の反抗的で自由な音楽性は、[[ヒップホップ・ミュージック]]に受け継がれたという意見がある<ref>ドキュメンタリー映画『ブルーノート・レコード ジャズを超えて』より</ref>。 また一部ビバップやフリー・ジャズなどのより革新的な演奏スタイルは、即興的で混沌としており、大衆性・商業性には結びつかず、現在でもジャズの中では前衛的ジャンルと認識されている<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.udiscovermusic.jp/stories/free-jazz-explained/amp |title= 「フリー・ジャズ」の誕生と存在意義 |publisher=uDiscoverMusic|accessdate=2020-09-17}}</ref>。一方で、ビバップ、フリージャズなどの革新を追い求める姿勢は、ジャズを芸術性も含む音楽ジャンル<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keiomcc.com/magazine/sekigaku154/ |title=山下洋輔「魂の音楽 ジャズの魅力」 |publisher=KEIO MCC|accessdate=2020-09-13}}</ref>であると認識させ、ジャズを長く嫌いであった人間にも魅力的に感じさせる場合がある<ref>{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20200526001038/https://tokyo.whatsin.jp/28639?mode=amp |title= 坂本龍一インタビュー後篇 「音楽に力はあるか」 |publisher=WHAT’s IN? tokyo|accessdate=2020-09-17}}</ref>。 === 保守性 === [[File:Cotton Club December 2013.jpg|thumb|left|200px|[[禁酒法時代]]を代表する高級[[ナイトクラブ]]、「コットン・クラブ」。[[デューク・エリントン]]楽団のジャズライブは、白人富裕層から人気を博した。]] 1910年代にクラシック音楽に倣った編成である[[ビッグバンド]](後の[[スウィング・ジャズ]])が誕生すると、それを機に[[ハーレム・ルネサンス]]の後押しもあって[[ジャズクラブ]]や[[ジャズバー]]が[[ニューヨーク]]の各所で開店されていった。しかし[[コットン・クラブ]]をはじめとしたナイトクラブでは、演奏者は黒人でありながらも、顧客は白人の富裕層・中流層が多かった。それはジャズを、[[サロン音楽]]的ジャンルとしても定着させた。ジャズの世界では、[[ジョージ・ガーシュウィン]]、[[ベニー・グッドマン]]、[[グレン・ミラー]]、[[スタン・ケントン]]、[[ギル・エヴァンス]]らの白人音楽家による白人ジャズも、常に存在した。 <!-- エッセイ的、個人ブログ的文章は不可です。裏勝りなどで読者を混乱の可能性 →この手法は、かつての[[黒人霊歌]]や後の[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]といった音楽、また「[[いき|粋]]」「[[洒落]]」「[[ダンディズム]]」といった思想にも通じる([裏地|裏勝りの美学)。クラシック音楽とジャズは対立する音楽ジャンルとしてみなされることも多い。--> === 大衆性・商業主義 === [[File:Frank Sinatra (circa 1955 in Capitol Studios).jpg|thumb|200px|left|保守主義・商業主義の象徴であったエンターテイナー、フランク・シナトラ。]] ジャズは、白人の[[メインカルチャー]]とは異なる、都市の黒人による洗練された音楽として登場したが、[[ラグタイム]]からの音楽性を受け継いだ当初から、大衆音楽としての側面があった。大衆文化に寄り添い、また商業性を意識した音楽性は、1940年代の芸術音楽であるビバップの誕生までは、ジャズの主要な特徴として認識された。ビッグバンドやスウィング・ジャズは、クラブやバーで演奏されるだけでなく、[[ダンスホール]]で演奏される、[[大衆]]のための[[ダンス・ミュージック]]としての役割も担い、[[狂騒の20年代]]を文化的側面から支えた([[ジャズ・エイジ]])。あるいは[[ヴォーカル・ジャズ]]も同様に大衆からの人気を博し、ポピュラー音楽の一翼を担っていた。代表的な[[ジャズ・ボーカリスト一覧|ジャズ・ヴォーカリスト]]としては、アフロアメリカンの[[ビリー・ホリデイ]]、[[サラ・ヴォーン]] 、[[エラ・フィッツジェラルド]]、[[ナット・キング・コール]]、白人の[[ビング・クロスビー]]、[[フランク・シナトラ]]、[[ペギー・リー]]、[[トニー・ベネット]]、[[ペリー・コモ]]、[[ローズマリー・クルーニー]]、[[パティ・ペイジ]]などがいた。彼らの中には稀代の[[エンターテイナー]]として歴史に名を残した者もいる。また[[ルイ・アームストロング]]や[[チェット・ベイカー]]のように、演奏・ヴォーカルともに活躍した者もいた。 <!-- エッセイ的、個人ブログ的文章は不可です→ またそれは大衆的側面との不可分な関係からカフェやレストランなど様々な場面で前述した雰囲気を与えるための[[BGM]]として利用されている。ジャズに対する一般的な音楽イメージについても、同じく保守性と大衆性の相互浸透から生まれたものである。いわば"高級な大衆音楽"とも言えるイメージを有し、ニューヨークや[[東京]]などの[[高層建築物]]([[摩天楼]])が立ち並ぶ、[[無機質]]で[[人工]]的な、またアーバン(都会的)な雰囲気の演出にしばしば利用される([[ムード歌謡]]、フュージョン(1970年代 - 1980年代]])、[[AOR]]([[アダルト・コンテンポラリー・ミュージック|AC]])などの誕生にも寄与した)。あるいは、ジャズの既述した都会的で洗練されたイメージに影響された叙情・哀愁・孤独といったイメージが融合しクール、ハードボイルドといった人物像を連想させた --> <!-- エッセイ的、個人ブログ的文章は不可です→ 因みにこの国外へのシフトは勿論[[人種差別]]の影響が前提として大きくあったが、また[[政治思想]]や[[プロパガンダ]]の関与もあったことには留意である齋藤嘉臣『ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史』(2017年、講談社選書メチエ)。しかしその芸術性の獲得と引き換えにして、ミュージシャンらは"様式化による「前衛」の消失"(= 形骸化)という「モダニズム」のジレンマにも悩まされていくことになる。ただしその音楽性はしばらくは大幅な方向転換に至るということはなく、むしろ革新性と保守性、大衆性が見事にブレンドされたことでクール・ジャズや[[ハード・バップ]]などの演奏スタイルを通じて順調に発展していき、そして[[モード・ジャズ]]において芸術性と商業性の総合的な最大到達点に達した(名盤の誕生)。これら一連のモダン・ジャズの演奏スタイルが全盛期となった1950 - 1960年代は"ジャズの黄金時代"として現在では認識されている(具体的な内容については[[#1950年代 - 1960年代]]を参照)。あるいはその「モダニズム」の確立が特定の時代区分としての「[[近代]]」を標榜する[[建築]]・[[美術]]様式への積極的なアプローチを促し、それによって[[アルバムジャケット]]や{{仮リンに影響を受けたデザインが起用された(BGMの例としては[[ラウンジ]]などがある)。しかしながら方向性を大幅に変えることなくその「モダニズム」のジレンマを「モダニズム」という概念の中で上手く回避してきた音楽性にもやがて限界が近づき、1960年代らがモダン・ジャズを牽引した。マイルスは、60年代後半には生楽器演奏によるジャズの行き詰りを感じ、派手な衣装を身につけエレクトリック・ジャズのアルバムを発表した。これら他のポピュラー音楽やマニアックな音楽ジャンルとは異なった魅力、[[趣味]]性や幅広い音楽性・芸術性を持ちながらも大人らしく洗練された側面も持ち([[ハイカルチャー]]的)、また程よくポピュラーで空気感との親和性も高い"音楽ジャンルとして、時代を問わず一定の人気・需要を得ている。 --> == 歴史 == === 1920年代 - 1940年代 === [[ファイル:Duke Ellington - Hurricane Ballroom - Duke directing 2.jpg|thumb|right|デューク・エリントン(1943年)]] [[ファイル:Bolden band.gif|thumb|right|バディ・ボールデン(後列左から2人目、1905年頃)]] [[ファイル:Art Blakey08.JPG|thumb|right|アート・ブレイキー(1985年)]] ジャズは[[西洋音楽]]と[[アフリカ音楽]]の組み合わせにより発展した音楽である。[[霊歌|スピリチュアル]]、[[ブルース]]<ref group="注釈">戦前のブルース・マンにはロバート・ジョンソン、チャーリー・パットンらがいた。</ref>の要素を含み、ルーツは[[西アフリカ]]、西[[サヘル]]([[サハラ砂漠]]南縁に東西に延びる帯状の地域)、[[ニューイングランド]]の宗教的な[[賛美歌]]やヨーロッパの軍隊音楽にある。アフリカ音楽を起源とするものについては、アフリカから[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]に連れてこられたアフリカからの[[移民]](多くは[[奴隷]]として扱われた)とその子孫の人種音楽としてもたらされたとされており、都市部に移住した黒人ミュージシャンによってジャズとしての進化を遂げたといわれている。なお、ジャズより古い時代に誕生したラグタイムはスウィングしておらずジャズとは関係ないが初期のジャズ・ピアノ奏法に影響を与えた<ref group="注釈">1920年の「メイプルリーフ・ラグ」を作曲。彼の友人が紹介した。</ref>。 [[ニューオーリンズ]]が発祥の地<ref name="saito">[[斎藤眞]] 他(監修)『アメリカを知る事典』([[平凡社]]、1986年)pp. 210-217</ref>とされており、現在でもその[[語源]]ははっきりしない。20世紀初頭には、[[コルネット]]奏者の「アフロアメリカン」である[[バディ・ボールデン]]<ref>http://www.nps.gov/jazz/learn/historyculture/bolden.htm</ref>がニューオーリンズで人気を博したが、ボールデンは1907年に活動停止し、本人による録音は残されていない<ref name="iwanami">岩浪洋三『これがジャズ史だ〜その嘘と真実〜』([[朔北社]]、2008年)pp.65-68、291-292</ref>。 [[1917年]]、ニューオーリンズ出身の白人バンドである[[オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド]]が、ジャズでは初のレコードとなる「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」の2曲入りシングルを[[ビクタートーキングマシン]]から発表。 初期のジャズは、[[マーチングバンド]]と20世紀初頭に流行した[[ダンス]]音楽に影響を受けており、ブラス([[金管楽器]])・リード([[木管楽器]])・[[ドラムス]]による組み合わせの形態はこれらの影響に基づく可能性もある。初期は黒人が楽器を買う金がなく、白人が捨てた楽器を拾って演奏することもあった。ジャズが普及していった理由は、ラジオが1920年代末には、かなり多くの家庭に普及し、楽譜を売っていた音楽業界も、蓄音機の発明により、レコード産業へと発展していったことが大きかった。ラグタイムは、後のダンス向きな[[スウィング・ジャズ]]へと交代していく。アメリカの[[アメリカ合衆国憲法修正第十八条|禁酒法]]時代(1920-1933年)に[[アンダーグラウンド (文化)|地下]]化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいは[[レコード]]や[[ラジオ]]の普及によって、[[ダンス・ミュージック]]などのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まった<ref name="saito"/>。[[第一次世界大戦]]から[[世界恐慌|大恐慌]]までのアメリカの隆盛期が「[[ジャズ・エイジ]]」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード8世]]も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた<ref name="saito"/>。 1930年代には、ソロ演奏がそれまで以上に重要視されるようになり、ソロを際だたせる手法の一つとして小編成バンドが規模拡大して[[ビッグ・バンド]]スタイルによるスウィング・ジャズが確立されるようになり、人気を博す。人気の中心となったのは、[[デューク・エリントン]]、[[ベニー・グッドマン]]、[[グレン・ミラー]]、[[カウント・ベイシー]]<ref>https://www.allmusic.com/artist/count-basie-mn0000127044</ref>、[[トミー・ドーシー]]、[[スタン・ケントン]]らのスウィング・バンドだった。人種的障壁で隔てられていた黒人ミュージシャンと白人ミュージシャンの媒介としての役割を果たした[[クレオール (ルイジアナ)|クレオール]]も媒介役になった<ref name="saito"/>。スウィング・ジャズは[[編曲家|アレンジャー]]とバンドリーダーの立場がより重要視されるようになった。[[ルイ・アームストロング]]は、ジャズとボーカルとの融合において重要な役割を果たした。 その一方で、ソロを際だたせる別の手法として、アレンジを追求したスウィング・ジャズとは異なる方向性を求めたり、スウィング・ジャズに反発するミュージシャンにより、[[即興演奏]]を主体とした[[ビバップ]]<ref>http://www.jazzradio.com/bebop</ref>等の新たなスタイルが模索されるようになる。1940年代初頭には、ビバップに傾倒するミュージシャンも増えていくが、1942年8月から1943年秋にかけて、アメリカで大規模なレコーディング・[[ストライキ]]があったため、初期ビバップの録音はわずかしか残されていない<ref name="iwanami"/>。戦前に設立された[[アルフレッド・ライオン]]<ref group="注釈">ドイツ人。相棒はフランシス・ウルフ。</ref>の[[ブルーノート・レコード]]は弱小レーベルながら、ジャズの発展に大きく貢献した。 === 1950年代 - 1960年代 === 1950年代には[[チャーリー・パーカー]]<ref>http://www.allmusic.com/artist/charlie-parker-mn0000211758</ref>や[[ディジー・ガレスピー]]、[[セロニアス・モンク]]らによる「ビバップ」が誕生し、多くの録音を残した。ビバップのコンボは、サックス、トランペット、ピアノ、ドラムス、コントラバスで構成される小さなコンボだった。ビバップ・ミュージシャンは、編曲された音楽を演奏するのではなく、通常、リズムセクションの伴奏で作曲のメロディー(ヘッドと呼ばれる)を演奏し、その後、各演奏者がソロを即興で演奏し、最後にメロディーに戻る。 最も影響力のある、ビバップ・アーティストの作曲家や演奏家は次のとおり。アルトサックス奏者のチャーリー・パーカー。テナーサックス奏者の[[デクスター・ゴードン]]、[[ソニー・ロリンズ]]。クラリネット奏者[[バディ・デフランコ]]、トランペット奏者の[[ファッツ・ナヴァロ]]、[[クリフォード・ブラウン]]、[[マイルス・デイヴィス]]、ディジー・ガレスピー。ピアニストの[[バド・パウエル]]、セロニアス・モンク。ギタリスト、 [[チャーリー・クリスチャン]]、[[ジョー・パス]]、ベーシストの[[カーリー・ラッセル]]、ドラマーの[[バディ・リッチ]]、[[ケニー・クラーク]]、[[マックス・ローチ]]、[[アート・ブレイキー]]。ジャズの全盛期であった1950年代には、[[クール・ジャズ]]、[[ウエストコースト・ジャズ]]、[[ハード・バップ]]等の新たなスタイルが登場し、[[モダン・ジャズ]]の流れを作り出すことになる。[[ナット・キング・コール]]、[[メル・トーメ]]、[[ペギー・リー]]<ref>http://www.npr.org/nat-king-cole-the-singer</ref>らの歌手も、この時期活躍した。 1957年、[[フランスの映画|フランス映画]]『大運河』(監督:[[ロジェ・ヴァディム]])で[[ジョン・ルイス (ジャズ演奏者)|ジョン・ルイス]]が音楽を担当し、[[サウンドトラック]]はジョンが在籍する[[モダン・ジャズ・カルテット]]名義の『たそがれのヴェニス』として発表。サウンドトラックをジャズにゆだねたのは、伝記映画を除けば初のことであった。以後、フランスで「シネ・ジャズ」と呼ばれる動きが起こり、マイルス・デイヴィス<ref group="注釈">表題曲でマイルスはブルージーな即興演奏を披露している。</ref>が『[[死刑台のエレベーター]]』<ref group="注釈">ジャンヌ・モローが出演したサスペンス映画。</ref>(監督:[[ルイ・マル]])に、セロニアス・モンクが『[[危険な関係 (1959年の映画)|危険な関係]]』(監督:[[ロジェ・ヴァディム]])に、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが『殺られる』の映画音楽を担当した。1958年には、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『[[私は死にたくない]]』(監督:[[ロバート・ワイズ]])に[[ジェリー・マリガン]]や[[アート・ファーマー]]等が参加し、以後アメリカでも、ジャズが本格的に[[映画音楽]]として使用されるようになった<ref>[[相倉久人]]『新書で入門 ジャズの歴史』([[新潮社]]、2007年)pp.116-127</ref>。 1950年代末期には、マイルス・デイヴィスの『[[マイルストーンズ (マイルス・デイヴィスのアルバム)|マイルストーンズ]]』『[[カインド・オブ・ブルー]]』といった作品で、[[モード・ジャズ]]という手法が試みられ、それまではある程度調性に従って演奏するスケールを緻密に変化させる必要があったところに、ドリアンなどの聴き馴染みのないモードに長居することで、演奏は楽になる割にファンシーなサウンドを得ることが可能になった。一方、[[オーネット・コールマン]]や[[アルバート・アイラー]]、[[サン・ラ]]らは、より前衛的で自由度の高いジャズを演奏し、1960年代になると、オーネットの[[フリー・ジャズ (アルバム)|アルバム名]]から「[[フリー・ジャズ]]」<ref>http://www.allmusic.com/subgenre/free-jazz-ma0000002598</ref>という言葉が広まっていった<ref>[http://www.allmusic.com/album/free-jazz-mw0000256161 『フリー・ジャズ』レビュー(All Music Guide)]</ref>。また、ジャズ・ボーカルでは[[ビリー・ホリデイ]]、[[サラ・ヴォーン]]、[[カーメン・マクレエ]]、[[エラ・フィッツジェラルド]]、[[ニーナ・シモン]]、[[アニタ・オデイ]]らも活躍した<ref>http://www.discogs.com/Billie-Holiday-Ella-Fitzgerald</ref>。白人歌手の[[ヘレン・メリル]]、[[クリス・コナー]]らも人気を集めた。 <!-- 3つの全く異なる調性の間を一瞬一瞬で転調する中で縦横無尽に緻密なアドリブを取る離れ技をやってのけた。そしてそのアルバムの3曲目のCountdownにおいては6トニックシステムを使い、更に速いテンポの中で6つの全く異なる調性の中を、驚異的な緻密さを以て演奏し、ジャズの技術の限界を提示した。--> 1960年には、[[ジョン・コルトレーン]]によるアルバム『ジャイアント・ステップス』が発売された。コルトレーンは翌1961年にも『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を発表した<ref>「ブラックミュージック」p.199。学研</ref>。また1960年代前半には、[[ブラジル音楽]]の[[ボサノヴァ]]に注目するジャズ・ミュージシャンも多くなった。[[スタン・ゲッツ]]は『ジャズ・サンバ』(1962年)を『[[ビルボード]]』誌のポップ・チャート1位に送り込み<ref name="kentei">『音楽CD検定公式ガイドブック上巻』([[音楽出版社]]、2007年)p.131, 220</ref>、翌年にはボサノヴァの重要人物([[ジョアン・ジルベルト]]、[[アントニオ・カルロス・ジョビン]]等)との共演盤『[[ゲッツ/ジルベルト]]』を制作、[[グラミー賞]]の[[グラミー賞受賞者一覧|アルバム・オブ・ザ・イヤー]]を受賞。1965年には、[[ハンク・モブレー]]のカバーによる「[[リカード・ボサノヴァ]]」が、ジャズの曲として大ヒットし、スタンダード・ナンバーとして認知されるまでになる。[[カーティス・フラー]]、[[キャノンボール・アダレイ]]や[[ホレス・シルヴァー]]、[[ナット・アダレイ]]、[[ラムゼイ・ルイス]]らを中心としたソウル・ジャズ([[ファンキー・ジャズ]])も、1950年代後半から1960年代に人気となった。また[[リー・モーガン]]の「[[ザ・サイドワインダー (曲)|ザ・サイドワインダー]]」は大ヒットしすぎたために、ブルーノート・レコードが一度倒産状態になるという珍現象も見られた。 1960年代までのジャズは、一部の楽器([[エレクトリックギター]]、[[ハモンドオルガン]]等)を除けば、[[アコースティック楽器]]が主体だった。しかし、1960年代末期、マイルス・デイヴィスはより多くのエレクトリック楽器を導入し、エレクトリック・ジャズ・アルバム『[[ビッチェズ・ブリュー]]』をヒットさせた。同作に参加した多くのミュージシャンも、独立してエレクトリック楽器を導入したバンドを次々と結成した。 === 1970年代 - 1980年代 === 1970年代に入るとエレクトリック・ジャズは、[[クロスオーバー (音楽)|クロスオーバー]]と呼ばれるスタイルに変容していく。この時期に大ヒットしたのが、[[デオダート]]の「[[ツァラトゥストラはこう語った|ツアラトゥストラはかく語りき]]」である。さらには1970年代半ばには、[[フュージョン (音楽)|フュージョン]]<ref>http://www.allmusic.com/subgenre/fusion-ma0000002607</ref>と呼ばれるスタイルに発展していく。フュージョンの[[リー・リトナー]]、[[ラリー・カールトン]]、[[アル・ディ・メオラ]]らは、FMラジオなどでさかんにオンエアされた。[[スタッフ (バンド)|スタッフ]]、[[ザ・クルセイダーズ]]、[[スパイロ・ジャイラ]]、[[ジョージ・ベンソン]]、[[チャック・マンジョーネ]]、[[グローヴァー・ワシントン・ジュニア]]らも活躍した。だが、フュージョンはそのポップ性、商業性、娯楽性からフリー・ジャズ、ビバップのアーティストやジャズ評論家、ジャズ・ファンの一部から強い拒否反応を受けた。これは商業か芸術かといった、普遍的な問題の表れでもあった。 === 1990年代 - 現在 === 1990年代のジャズは特定のスタイルが主流になるのではなく多様化が進んでいる。フュージョンの後継とも言える[[スムーズ・ジャズ]]がその1つである。[[ブラッド・メルドー]]は[[ザ・バッド・プラス]]と共にロックを伝統的なジャズの文脈で演奏したり、ロック・ミュージシャンによるジャズ・バージョンの演奏を行なったりしている。1990年代に入ってからも前衛的なジャズも伝統的なジャズも継承され演奏されている。[[ハリー・コニック・ジュニア]]<ref>[http://www.billboard.com/bbcom/chart_beat/bonus.jsp?JSESSIONID=jzkMJpxpRycnhnGmRDzvs4HCQnRB3ScTlysfnkLYKQxnwRNJvGSx!572034887 Chart Beat], ''[[Billboard (magazine)|Billboard]]'', April 9, 2009</ref>、[[ダイアナ・クラール]]、[[カサンドラ・ウィルソン]]、[[ミシェル・ンデゲオチェロ]]らはこの時期に活動した。2000年代から2010年代には、[[ノラ・ジョーンズ]]、[[ホセ・ジェイムズ]]、[[ジェイミー・カラム]]、[[ロバート・グラスパー]]、[[エスペランサ・スポルディング]]、[[カマシ・ワシントン]]、[[グレゴリー・ポーター]]等がジャズ・シーンを牽引している<ref>{{cite web|url=http://www.novinky.cz/kultura/280973-gregory-porter-prohibice-by-mi-nevadila.html|title=Gregory Porter: Prohibice by mi nevadila|publisher=Novinky.cz| access-date=28 May 2022}}</ref>。グレゴリー・ポーターはジャズだけでなく、ソウルやR&Bの要素も持っている。また、2010年代に、[[ヒップホップ・ミュージック|ヒップホップ]]や[[ファンク]]の要素が加わった[[ケンドリック・ラマー]]と[[サンダーキャット]]のコラボなどジャズラップなどが人気となった。 === ジャズメンの来日 === NHK『タモリのジャズスタジオ』において[[ピーター・バラカン]]・ブロードキャスターが「[[ヨーロッパ]]と[[日本]]がなければ、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]のジャズ・ミュージシャンは生計が立たなかった」と述べた様に、ジャズ・プレイヤーにとって日本は重要なマーケットで、多くのミュージシャンが来日公演を行なっている。日本にジャズ・ミュージシャンとして初めて来日したアメリカ人は1952年、ベニー・グッドマン楽団で活躍したドラマーの[[ジーン・クルーパ]]である。翌年には、[[オスカー・ピーターソン]]、[[ベニー・カーター]]、エラ・フィッツジェラルドなどと共に[[ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック]](JATP)として再来日した(この一座にチャーリー・パーカーが参加し来日する予定もあったが結果的に実現しなかった)。その翌月にはルイ・アームストロングが初来日し公演を行っている。 == 各地域のジャズ == === ヨーロッパ === ヨーロッパではイギリス、フランス、ドイツ、北欧などでもジャズが発展した。イギリスのジャズメンでは、ケニー・ボール&ヒズ・ジャズメンの「遥かなるアラモ」、クリス・バーバーの「可愛い花」などがよく知られている。フランスではアメリカから移住した、「小さな花」の[[シドニー・ベシェ]]や、後の[[デクスター・ゴードン]]らがジャズを広めた。北欧でもジャズが、盛んに演奏された。しかし、ヨーロッパの一部では、保守層や[[ファシズム]]政権等で、「黒人音楽」「軽佻浮薄」な「非音楽」であるとしてジャズを排斥する動きも起こった。[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]に支配された[[ナチス・ドイツ]]では、反ジャズが政府の公式な見解となり、「[[退廃音楽]]」「[[シュレーゲムジーク|斜めの音楽]]」(比喩:「変な音楽」)と呼ばれ1935年に黒人が演奏するジャズの放送が禁止されるなど、様々な条例が作られた。しかし当局によるジャズの定義があいまいであったため、ドイツ人演奏家によるジャズ演奏自体は行われていた。ナチスは、すでに大衆音楽として普及していたジャズを禁止することは得策ではないとして、娯楽放送や宣伝放送にジャズを紛れ込ませた<ref>[[田中まり]] [https://ci.nii.ac.jp/naid/110001021156 「第三帝国とジャズ」]北陸学院短期大学紀要 32, 237-248, 2000-12-28 </ref>。 === ラテン・アメリカ === [[アフロ・キューバン・ジャズ|アフロキューバン・ジャズ]]と呼ばれ、[[ラロ・シフリン]]らが活躍した。 === アフリカ === [[アブドゥーラ・イブラヒム|ダラー・ブランド]]らがいたが、彼のジャズはアメリカのジャズとほぼ同じ音楽性だった。アフロ・ジャズ、アフロ・ディスコは、欧米や日本で考えられている、ジャズ、ディスコとは、サウンドが異なる。 === 戦前日本のジャズ === {{See also|日本のジャズ}} 戦前の日本にすでに渡ってきていた舶来音楽、西洋音楽には、ジャズと[[タンゴ]]があった。初期のジャズ演奏家には、紙恭輔、南里文雄、井田一郎らがいた。井田は[[1923年]]に日本で初めてのプロのジャズバンドを[[神戸市|神戸]]で結成した<ref>[https://www.nhk.or.jp/kobe/jazzLiveKobe/kobeAndJazz.html ジャズライブKOBE神戸とJAZZ|NHK神戸放送局](2015年8月24日閲覧)</ref><ref>[http://web.pref.hyogo.lg.jp/area/kobe/2407.html 兵庫県/神戸県民局7月のメッセージ(神戸県民局長平野正幸)](2015年8月24日閲覧)</ref>。 ジャズの聴き手や演奏家には、都会人やブルジョワ階級の子弟が多かった。当時のレコード業界は[[ポリドール・レコード|ポリドール]](1927)、[[日本ビクター|ビクター]] (1927)、[[日本コロムビア|コロムビア]](1928)と外資系の大手レコード会社が設立された。[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]は、異業種参入組の[[キングレコード|キング]](大日本雄弁会[[講談社]]のレコード会社)より更に遅い1934年だが、その年の12月に発売した[[ディック・ミネ]]の「[[ダイナ (曲)|ダイナ]]」がヒット。「ダイナ」はよくカバーされた日本のジャズソングであり、[[榎本健一]]はパロディとしてカバーした。 最初のジャズソングとされるのが[[二村定一]]が{{仮リンク|ジーン・オースティン|en|Gene Austin}}の"My Blue Heaven"をカバーした「[[私の青空 (歌)|青空]]」で、1927年にラジオ放送された。レコードが発売されたのは翌年の1928年。A面が「青空」、B面が「[[アラビヤの唄]]」だった。また、ラジオ、レコードで企画を立ち上げる人間も必要になり[[堀内敬三]]が登場した。初期のジャズ演奏家である[[紙恭輔]]がコロムビアに関わった。 1930年代のスウィングジャズは、時代の最先端であり、服部良一は1935年当時のデザインの[[流線#流線型|流線型]]を題材にした「流線型ジャズ」([[志村道夫]])を世に出した<ref>{{Cite web|和書|title=流線型ジャズ~特別企画!作曲家・服部良一の世界~第七夜|url=http://meikyoku-pei.jugem.jp/?eid=446|website=たけ平の名曲への招待・昭和編|accessdate=2020-12-31|language=ja}}</ref>。しかし、1940年10月31日限りで日本全国のダンスホールは一斉閉鎖された。 行政警察を管掌する内務省、映画や音楽を監督指導する情報局はジャズを「敵性音楽」として禁令{{efn|以下の3つの基準で禁止された。「1).旋律の美しさを失った騒擾的なるリズム音楽。2).余りに扇情的淫蕩的感情を抱かしめる音楽。3).怠惰感を抱かしめる様な退廃的或は亡国的なる音楽」<ref>情報局・内務省共編「出版警察報」138号、1941年7月p64</ref>。}}を出したが、抽象的過ぎて何の曲がジャズに含まれるか、音楽の素人である役人に判別は難しかった。また1943年1月にはジャズレコードの演奏禁止、更にレコードの自発的提出、「治安警察法第十六条」の適用による強制的回収などにより米英音楽の一掃を図ったが、北村栄治のように自宅でこっそり聴いていた者もいた。最終的には役人に協力する音楽業界の人間が、日本音楽文化協会、いわゆる「音文」(音楽界の統制団体)の小委員会の決定により、「ジャズの演奏は禁止」となった。こののちジャズメンの活動は、各種の慰問団などに変わっていった。 戦前に活躍したジャズ・ミュージシャン、ジャズ歌手としては、[[二村定一]]、[[服部良一]]、[[淡谷のり子]]、[[ディック・ミネ]]、[[志村道夫]]、[[南里文雄]]、[[堀内敬三]]、[[川畑文子]]、[[ベティ稲田]]、井田一郎、[[レイモンド・コンデ]]、[[水島早苗]]、[[あきれたぼういず]]らがいた。 === 戦後日本のジャズ === {{Anchors|戦後日本のジャズ}} 戦後、ジャズ、カントリー、ハワイアンなどのアメリカ音楽が、日本に入ってきた。進駐軍の音楽は、「ベース」で演奏された。戦後の日本のジャズの早い例には、ニュー・パシフィック・ジャズバンドがあげられる。[[弘田三枝子]]、[[伊東ゆかり]]、[[しばたはつみ]]は少女歌手として、米軍キャンプで歌った。 戦後は、服部良一が作曲した[[ブギウギ]]を[[笠置シヅ子]]に歌わせたことから始まる。[[江利チエミ]]、[[ジョージ川口]]、[[ティーブ・釜萢|ティーブ釜萢]]([[ムッシュかまやつ]]の父)、[[ミヨシ・ウメキ|ナンシー・梅木]]、[[世良譲]]などのすぐれた歌手、演奏家などが出、ジャズが大衆化した。一時期は、外国の[[ポピュラー音楽]]をすべて「ジャズ」と呼ぶ風潮が広がったほどである<ref>みつとみ俊郎 『音楽ジャンルって何だろう』 新潮社〈[[新潮選書]]〉、1999年12月25日、p.40</ref>。また、ディキシーランドジャズ・バンドが数多く生まれている。 鈴木章治とリズムエース、北村英治らも音楽活動を始めた。[[宮沢昭]]、守安祥太郎らも活躍した。[[1956年]]に[[穐吉敏子]]が、[[1962年]]に[[渡辺貞夫]]がバークリー音楽院(現[[バークリー音楽大学]])に留学<ref>『jazzLife』(2010年7月号)p.57</ref>。[[1963年]]には[[松本英彦]]が[[モントレー・ジャズ・フェスティバル]]に出演する等、国際的に活動するミュージシャンも増えていった。八木正生、猪俣猛らも活躍した。 [[1960年]]頃、アート・ブレイキーの[[モーニン]]([[1958年]]発表)のヒットにより、ファンキー・ブームが起こった<ref>『jazzLife』(2010年7月号)p.55 ファンキー・ブームは世界のいくつかの国で起こり、フランスでのブームが最初。</ref>。[[1961年]]に発足、翌年改名したミュージシャンたちの勉強会 新世紀音楽研究所(改名前はジャズ・アカデミー)に集った[[高柳昌行]]、[[富樫雅彦]]、[[日野皓正]]、[[菊地雅章]]、[[山下洋輔]]らが、毎週金曜日に[[銀巴里]]で[[ジャム (音楽)|ジャムセッション]]を行った。日野皓正は、そこが自身の原点だと述べる<ref>『jazzLife』(2010年7月号)p.56, 57 日本の[[w:Minton's Playhouse|ミントンズ・プレイハウス]]といえるのだという。</ref>。 1965年、ニューポートジャズフェスティバルに日本人ジャズシンガーとして初めて出演したのは、3日目のトリをビリーテイラートリオと一緒に出演した弘田三枝子だった。1960年代、70年代から日本でもフリー・ジャズが盛んになってくる。日本のフリー・ジャズの先駆者となったのは、[[阿部薫 (サックス奏者)|阿部薫]]、高柳昌行らである。1970年代後半になるとフュージョン・ブームとなり、渡辺貞夫らもフュージョン・アルバムを出すほどだった。[[中央線快速|中央線]]沿線を拠点とするミュージシャンも多く登場し、1980年代後半、[[新星堂]]の[[音楽プロデューサー|プロデューサー]]が続に中央線ジャズという言葉を提唱した<ref name="kentei"/>。 [[21世紀]]に入ってからも、[[H ZETTRIO]]、[[山中千尋]]、[[矢野沙織]]、[[寺久保エレナ]]、[[上原ひろみ]]、[[国府弘子]]、西山瞳、[[菊地成孔]]、[[小曽根真]]、[[石若駿]]らが活躍した。 == エピソード == ジャズ、ロックの評論家で、若者に人気だった[[植草甚一]]の約4000枚のジャズ・レコード・コレクションは、タモリが引き取ることになったという<ref>{{Cite web|和書|url= https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:O9KFtl1fAnoJ:https://www.news-postseven.com/archives/20120831_139682.html%3FDETAIL+&cd=2&hl=ja&ct=clnk&gl=jp  |title= 植草甚一のレコード、タモリが買い取る |accessdate=2020-09-17}}</ref>。 セクシーな女性歌手の系譜は、ヘレン・メリルらがルーツとも見られているが、21世紀の日本のジャズでも、[[高木里代子]]らがそれを引き継ぎ、山下毅雄の音楽が映画のサウンドトラックとして使用される現象も見られた<ref>{{Cite web|和書|url= https://style.nikkei.com/article/DGXKZO44714670T10C19A5BE0P00/ |title= ルパン三世×ジャズの魅力 ハードボイルドな世界構築 |publisher=NIKKEI STYLE|accessdate=2020-09-15}}</ref><ref>https://news-postseven.com 高木里代子</ref>。 他の音楽ジャンルにおけるジャズ要素を取り入れた楽曲は、ジャジーと表現されることがある。ジャジーという表現は、ロックやポップス、[[歌謡曲]]など、異なるジャンルでも使用される<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.ymm.co.jp/word/data.php?key=ジャジー[jazzy] |title= ジャジー[jazzy](音楽用語辞典) |publisher= ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス |accessdate=2020-09-17}}</ref>。またジャズは聴衆に、大人向け、自由といったイメージを抱かせ、[[BGM]]業界にも一定の役割を果たした<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.hmv.co.jp/news/article/1008250051/ |title= ジャズに関する意識調査① |publisher=ローソンエンタテインメント|accessdate=2020-09-12}}</ref>。 == 主なスタイル/ジャンル == 過去に演奏されたスタイルと、現在も演奏されているスタイルの双方を掲載している。 * [[ニューオーリンズ・ジャズ]] / [[ディキシーランド・ジャズ]] * [[スウィング・ジャズ]] * [[シンフォニック・ジャズ]] * [[モダン・ジャズ]] ** [[ビバップ]] ** [[クール・ジャズ]] ** [[ウエストコースト・ジャズ]] ** [[ハード・バップ]] ** [[ファンキー・ジャズ]] ** [[ソウル・ジャズ]] ** [[モード・ジャズ]]([[新主流派]]を含む) * [[フリー・ジャズ]]([[アヴァンギャルド・ジャズ]]) * [[ラテン・ジャズ]] (モダン・ジャズに含まれる場合もある) ** [[アフロ・キューバン・ジャズ]] ** [[ブラジリアン・ジャズ]] ** ボサノヴァ・ジャズ(スタン・ゲッツなど) * [[ジャズ・ファンク]](ファンキー・ジャズとは異なる) * [[ジャズ・ロック]] * エレクトリック・ジャズ(マイルス・デイヴィスなど) * オルガン・ジャズ(ジミー・スミスなど) * [[クロスオーバー (音楽)|クロスオーヴァー]](デオダートなど) * [[フュージョン (音楽)|フュージョン]] * ロフト・ジャズ(英語版による) * エスノ・ジャズ(英語版による) * [[パンク・ジャズ]] * [[ジャズ・ラップ]] * クラブ・ジャズ * [[スムーズジャズ]] * [[アシッド・ジャズ]] * [[トラッド・ジャズ]] * [[コンテンポラリー・ジャズ]] * [[ニュージャズ]] == 主なアーティスト == {{see|ジャズ音楽家の一覧}} == 著名な評論家 == * リロイ・ジョーンズ([[アミリ・バラカ]]) * [[岩浪洋三]] * [[植草甚一]] * [[大橋巨泉]] * [[野口久光]] * [[油井正一]] * 原田和典 == 著名な演奏場所 == === 著名なジャズクラブ === {{main|ジャズ・クラブ}} * [[ヴィレッジ・ヴァンガード]](1935年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、モダンジャズを牽引した名店。 * [[ミントンズ・プレイハウス]](1938年 - 1974年、ニューヨーク)テナーサックス奏者ヘンリー・ミントンが開店。ビバップの発祥の証しとなる「ミントンハウスの[[チャーリー・クリスチャン]]」1941年でのセッションレコードで有名。2006年再開店。 * [[バードランド]](1949年 - 1965年、ニューヨーク)マンハッタン地区にあったビバップ・モダンジャズの黄金時代を牽引した名店。1986年再開店。 * [[プリザベーション・ホール]](1960年代 - 、ニューオーリンズ)ディキシーランド・ニューオーリンズジャズ主体の名店。 * [[ブルーノート (ジャズ・クラブ)|ブルーノート]](1981年 - 、ニューヨーク)グリニッジ・ヴィレッジ地区にあり、世界各国にレストランをチェーン展開。ブルーノート・レコードとは無関係。 === ジャズクラブ以外 === * [[コットン・クラブ]](1923年 - 1940年、ニューヨーク)ハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。 * [[カーネギー・ホール]](1891年 - 、ニューヨーク)マンハッタン地区にあるコンサートホール。1938年[[ベニー・グッドマン]]により史上初のジャズ・コンサートが開催された。 * [[アポロ・シアター]] (1860年 - 、ニューヨーク) マンハッタン地区にあるコンサートホール、クラブ。 === ジャズ喫茶 === {{main|ジャズ喫茶}} ジャズを聴きながら楽しむ[[喫茶店]]。日本で1950年代後半から流行り、1970年代から下火となる。 == 著名なフェスティバル == === 三大ジャズ・フェスティバル === * [[ニューポート・ジャズ・フェスティバル]](アメリカ、1954年 - [[ロードアイランド州]]・[[ニューポート (ロードアイランド州)|ニューポート]])<br/>1984年に[[日本ビクター]]がスポンサーに付いて以降の[[ジョージ・ウェイン|フェスティバル・プロダクション]]主催の同フェスティバルは JVC Jazz Festival Newport, R.I. が正式名称。世界の複数の都市で姉妹フェスティバルが催されている) * [[モントレー・ジャズ・フェスティバル]](アメリカ・[[カリフォルニア州]]・[[モントレー]]) * [[モントルー・ジャズ・フェスティバル]](スイス・[[モントルー]]、毎年7月開催) === 北アメリカ === * ニューポート・ジャズ・フェスティバル * モントレー・ジャズ・フェスティバル * [[サッチモ・サマーフェスト]](アメリカ・[[ニューオーリンズ]]): 毎年、ルイ・アームストロングの誕生日[[8月4日]]を含む日程で開催される。[http://www.satchmosummerfest.com/ French Quarter Festivals, Inc.]主催。 * [[ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル]](アメリカ・ニューオーリンズ)(アメリカ、1970年 - ) * [[バンクーバー・ジャズ・フェスティバル]](カナダ・[[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]]、毎年6月開催) * [[モントリオール国際ジャズフェスティバル]](カナダ・[[モントリオール]])世界最大規模。 * シカゴ・ジャズ・フェスティバル - アメリカ・[[シカゴ]]の[[グラント・パーク (シカゴ)|グラント・パーク]]で毎年9月開催。 *[[ビーチズ・インターナショナル・ジャズ・フェスティバル]](カナダ・[[トロント]]) === ヨーロッパ === * モントルー・ジャズ・フェスティバル * [[ノース・シー・ジャズ・フェスティバル]](オランダ・[[ロッテルダム]]) * [[メールス・ニュー・ジャズ・フェスティバル]](ドイツ・[[メールス]]) * [[四月ジャズ祭]](フィンランド) * [[ジャズ・ジャンボリー祭]](ポーランド) * [[アンティーブ・ジャズ祭]](フランス) * [[レニングラード・ジャズ祭]](ロシア) === アフリカ === * [[ケープタウン・インターナショナル・ジャズ・フェスティバル]](南アフリカ共和国) === アジア === *[[バクー国際ジャズフェスティバル|バクー・ジャズ・フェスティバル]]([[アゼルバイジャン]]・[[バクー]]) *[[ジャカルタ国際ジャワ・ジャズ・フェスティバル]]([[インドネシア]]・[[ジャカルタ]]) *[[ソウル・ジャズ・フェスティバル]]([[韓国]]・[[ソウル]]) *[[台中ジャズ・フェスティバル]]([[台湾]]・[[台中]]) ==== 日本 ==== <!-- 開催年順にしてます。 --> * [[MIYA JAZZ INN]](1974年 -、栃木県)(無料) * [[神戸ジャズストリート]](1981年 -、兵庫県)(有料) * [[サッチモ祭]](1981年 -、東京都 )(無料) * [[富士通コンコード・ジャズ・フェスティバル]][https://web.archive.org/web/20080802063012/http://jad.fujitsu.com/event/2008/concord/](1986年 -、開催地は変動 )(有料) * [[徳島ジャズストリート]](1988年 -、徳島県)(有料) * [[モントレー・ジャズフェスティバル・イン・能登]](1989年 - 、石川県)世界で唯一、モントレー以外の地で「MJF」の名称使用許諾を得ている。(有料) * [[なかのぶジャズフェスティバル]][http://nakanobujazz.com/](1989年 - 、東京都)第3回(2009年)より毎年の開催。(有料・無料) * [[Jazz Picnic in 猪名川]](1989年 - 、大阪府 有料。但し一時期は[[ロックフェスティバル]]だった年もある) * [http://asahijazz.net/ 横浜旭ジャズまつり](1990年 -、神奈川県 )毎年7月の最終日曜日に開催。(有料) * [[南郷サマージャズフェスティバル]](1990年 - 、青森県)行政主催のジャズフェスティバルとしてスタート(有料) * [[定禅寺ストリートジャズフェスティバル in 仙台]](1991年 -、宮城県)2日間合計で70万人以上の観客数となる日本最大の街角音楽祭。(無料) * [[ハママツ・ジャズ・ウィーク]](1992年 -、静岡県 )(有料) ** [[ヤマハ・ジャズ・フェスティバル・イン・浜松]] * [[横濱ジャズプロムナード]](1993年 -、神奈川県 )(有料・無料) * [[阿佐ヶ谷ジャズストリート]][http://www.asagayajazzst.com/](1995年 -、東京都 )(有料) * [[高槻ジャズストリート]](1999年-、大阪府)(無料) * [[新宿トラッド・ジャズ・フェスティバル]](2000年-、東京都) * [[JAZZ PROMENADE in SENDAI]](2001年 - 、宮城県)(無料) * [[守口・門真ジャズフェスティバル]][http://www.morikadojazz.com/](2001年 - 、大阪府)(有料・無料) * [[東京JAZZ]](2002年 -、東京都 )(有料) * [[新潟ジャズストリート]][http://www.niigata-jazzstreet.com/](2003年 -、新潟県 )(有料) * [[十三ジャズ]][http://www.gdx.co.jp/13jazz/](2003年 -、大阪府)(無料) * [[岡崎ジャズストリート]][http://okazakijazzstreet.com/](2006年 -、愛知県)(有料・無料) * [[法善寺ジャズストリート]][http://www.houzenji.com/](大阪府)(無料) * [[お茶の水JAZZ祭]][http://www.jazzsai.com/](2007 -、東京都)(有料) * [[SAPPORO CITY JAZZ]][http://sapporocityjazz.jp/](2007年 -、北海道) * [[新宿春の楽しいジャズ祭り]][http://www.jazz-nagaya.com/](? -、東京都)(有料) * [[びわこジャズ東近江]] (2009年-、滋賀県東近江市)(無料)毎年4月の土・日曜日に開催。2011年は市内25箇所150組が参加した。2016年度より現在の名称に変更。旧名びわこJAZZフェスティバル。 * [[大津ジャズフェスティバル]] (2009年-、滋賀県大津市)(無料)琵琶湖岸大津港周辺を舞台に世界一美しいジャズフェスティバルとして毎年10月の土・日曜日に行われる。2009年は26箇所234組が参加。 * [[中洲ジャズ]] (2009年-、福岡県) (無料) * [[金沢JAZZ STREET]] [http://kanazawa-jazzstreet.jp/index.html#/](2009年-、石川県金沢市)(有料・無料) * [[すみだストリートジャズフェスティバル]] (2010年-、東京都) (無料) * [[小金井ジャズフェスティバル]] [http://koganeijazz.jimdo.com/](2011年-、東京都) (無料) * [[赤れんがSummerJazz+]] [http://www.akarengajazz.com/summerplus/](2011年-、京都府舞鶴市) (有料) * 神戸ジャズウィーク * ジャズアート仙川 * ライブ・マジック * 川崎ジャズ * 横浜ジャズプロムナード * JAZZ in FUCHU * 湯河原ジャズ・フェスティバル * 高崎ジャズ・フェスティバル * JAZZ ART FESTIVAL ===== 開催終了 ===== * [[びわ湖バレイ・ジャズ・フェスティバル]](1965年 - 1993年、滋賀)(有料) * [[ライブ・アンダー・ザ・スカイ]](1977年 - 1992年、東京都)(有料) * [[オーレックス・ジャズ・フェスティバル]](1980年 - 1983年)<!--日本のジャズフェスティバルの草分け的存在。--> * [[ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾]](1982年 - 2003年、新潟・長野県)初期~中期は、ジョージ・ウェインがプロデュースした(有料) * [[マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル]](1986年 - 1996年、2002年、山梨県)(有料) == 著名な教育機関 == * [[バークリー音楽大学]](アメリカ) * [[ジュリアード音楽院]](アメリカ) * [[ジェイコブズ音楽院]](アメリカ) * [[リーズ音楽大学]](イギリス) == 関連作品・関連メディア == <!--この節にはノートでの議論に基づく合意事項があります。--> === TV・ラジオ番組 === ==== ジャズ専門衛星放送 ==== * [[ミュージックバード]](SPACE DiVA)内[https://musicbird.jp/channel/122ch-the-jazz/ THE JAZZ]、[[CSデジタル音声放送]]。かつては[[CS-PCM音声放送]]でも放送。<br/>ジャズに関する総合チャンネル。レギュラー番組ほか、ライブ、アーチスト特集、新譜・ビンテージ音源の紹介など。 ==== ジャズ専門ネットラジオ局(無償配信) ==== * [http://www.1.fm/ 1.FM] - アメリカ。多くのチャンネルをもつ。128kbpsの[[スムースジャズ]]チャンネルがある。 * [http://www.bluenote.com/BlueNoteRadio.aspx BlueNoteRadio] - アメリカ。ジャズ名門レーベル直営。 * [http://www.classicjazzcorner.com/listen.htm Dr. Horner's Classic Jazz Corner] * [http://www.sky.fm/ SKY.fm] - アメリカ。多くのチャンネルを持つ。96kbpsの[[スムースジャズ]]、[[モダンジャズ]]チャンネルがある。 ** チャンネル別ページ : [http://www.sky.fm/smoothjazz/ Smooth Jazz], [http://www.sky.fm/uptemposmoothjazz/ Uptempo Smooth Jazz], [http://www.sky.fm/pianojazz/ Piano Jazz], [http://www.sky.fm/bossanova/ Bossa Nova Jazz], * * * *[http://www.sky.fm/jazz/ Modern Jazz], [http://www.sky.fm/bebop/ Bebop Jazz] * [http://smoothjazz.com/ SmoothJazz.com] -アメリカ。128kbpsの[[スムースジャズ]]。 * [http://mars-fm.blogspot.com/p/jazz.html Mars FM - Jazz Radio] ==== ラジオ放送 ==== * [[セッション (NHK番組)|セッションxxxx]] ([[NHK-FM放送|NHK-FM]]) * [[ラジオ深夜便のコーナー一覧#ロマンチックコンサート|ロマンチックコンサート]]『エンジョイ・ジャズ』([[ラジオ深夜便]]内、[[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]・NHK-FM) * ジャズ・トゥナイト (NHK-FM) * テイスト・オブ・ジャズ([[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]]) * [[オトナのJAZZTIME]]([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]) * [[Legacy Of Jazz]] ([[全国FM放送協議会|JFN系各局]])- エフエム東京系 * [[ASAHI BEER OZ MEETS JAZZ]]([[JAPAN FM LEAGUE|JFL系各局]])- 幹事局はJ-WAVE *; 地方局 ** おばん de JAZZ([[STVラジオ]]) ** [[インビテーション・トゥ・ジャズ]] ([[静岡放送#ラジオ|SBSラジオ]]) ** [[渡辺美香のWhat a Wonderful World]]([[CBCラジオ]]) ** ジャズ・シティ([[富山シティエフエム]]ほか) ** ワンダフル・ジャズ・タウン([[エフエム愛媛|FM愛媛]]) ** 酒とJAZZの日々([[エフエム徳島|FM徳島]]) ** [[黒木研三の“ジャズライブラリー”]]([[ラジオ関西]]) **[[JAZZ STRUTTIN']]([[エフエム仙台|Date fm]]) *;ラジオ放送終了番組 ** [[WANTED!|水曜WANTED!]]([[エフエム東京|TOKYO FM]]) - パーソナリティが[[菊地成孔]]・[[大谷能生]]の時代にジャズを主体とした放送がされた。 ** [[渡辺美香のMy Favorite Things]] (CBCラジオ) ** 後藤浩二 ジャズ魂~あなたと夜と音楽と~(CBCラジオ) ** [[朝のなつメロ]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]) - 歌謡曲・演歌中心の内容だったがパーソナリティが[[村上和宏]]アナウンサー担当時のみ「ドーナツアワー」のサブタイトルが付き洋楽・ジャズ中心に放送されていた。 ** [[ホットジャズライン]]([[ラジオ関西]]) - 主にディキシーランド・ジャズやスウィングを放送していた。 ** [[ときめきJAZZ喫茶]](NHKラジオ第1) ** [[ジャズトレイン]]([[RKBラジオ]]) ** [[巨泉のジャズABC]]([[TBSラジオ]]) *;テレビ放送終了番組 ** [[純情きらり]](NHK・[[連続テレビ小説|朝の連続テレビ小説]]) - ヒロインがジャズピアニストを目指すストーリーであり、ジャズのスタンダードナンバーやジャズ風にアレンジされた唱歌などが劇中で頻繁に演じられていた。 ** [[カムカムエヴリバディ]](NHK・朝の連続テレビ小説) - ルイ・アームストロングの『[[明るい表通りで|オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート]]』が物語の重要なキーワードとして描かれている。 === 映画 === : アーティスト伝記物、もしくはストーリー・音楽ともにジャズと関わりの深い作品 ==== 洋画 ==== ; 伝記物 * [[グレン・ミラー物語]] (1953年) - [[アンソニー・マン]][[映画監督|監督]] [[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・ステュアート]]出演 * [[ベニイ・グッドマン物語]] (1955年) - [[バレンタイン・デイビス]]監督、[[テディ・ウィルソン]]、[[ライオネル・ハンプトン]]、[[ジーン・クルーパ]]、[[スタン・ゲッツ]]、[[ハリー・ジェイムス]]、[[ジギー・エルマン]]出演 * [[五つの銅貨]] (1959年) - [[メルヴィル・シェイヴルソン]]監督、[[ダニー・ケイ]]、[[ルイ・アームストロング]]、[[ボブ・クロスビー]]出演。[[レッド・ニコルズ]]([[コルネット]]奏者)の半生を描く。 * [[ビリー・ホリデイ物語/奇妙な果実]] (1972年) - [[ダイアナ・ロス]]主演、[[ビリー・ホリデイ]]の生涯を描いた伝記映画。 * [[コットン・クラブ]] (1984年) * [[ラウンド・ミッドナイト (映画)|ラウンド・ミッドナイト]] (1986年) - [[デクスター・ゴードン]]出演、[[ハービー・ハンコック]]音楽、ベルトラン・ダベルニエ監督。[[バド・パウエル]]と[[レスター・ヤング]]の挿話に基づいて描いている。 * [[バード (映画)|バード]] (1988年) - [[クリント・イーストウッド]]監督、[[チャーリー・パーカー]]の生涯を描いた伝記映画。 * [[ストレート・ノー・チェイサー]] (1988年) - [[セロニアス・モンク]]出演、クリント・イーストウッド製作総指揮 * [[レッツ・ゲット・ロスト]] (1988年) - [[チェット・ベイカー]]出演、[[ブルース・ウェーバー]]製作・監督 * [[MILES AHEAD/マイルス・デイヴィス 空白の5年間]] (2015年) - マイルス・デイヴィスの伝記映画 * [[ブルーに生まれついて]] (2015年) - チェット・ベイカーの伝記映画 * [[私が殺したリー・モーガン]] (2016年) - [[リー・モーガン]]の伝記映画 ; 記録映画 * [[真夏の夜のジャズ]] (1960年) ; フィクション <!-- お願い:あらすじ自体もジャズとの関わりが強い作品でお願いいたします --> * [[ジャズ・シンガー]] (1927年) - 世界初のトーキー映画。 * [[黄金の雨]] (1936年) - [[ノーマン・Z・マクロード]]監督、[[ビング・クロスビー]]、[[ルイ・アームストロング]]ら出演。 * [[画家とモデル]] (1937年) - [[ラオール・ウォルシュ]]監督、[[ジャック・ベニー]]主演、[[ルイ・アームストロング]]ら出演。 * [[ニューオーリンズ (1947年の映画)|ニューオーリンズ]] (1947年) - [[アーサー・ルービン]]監督、[[ルイ・アームストロング]]や[[ビリー・ホリデイ]]が脇役として出演 * [[情熱の狂想曲]] (1950年) * [[上流社会]] (1956年) - [[チャールズ・ウォルターズ]]監督、[[ビング・クロスビー]]、[[フランク・シナトラ]]、[[ルイ・アームストロング]]出演 * [[酒とバラの日々]] (1962年) * [[おしゃれキャット]] (1970年) - [[ディズニー]]制作[[アニメーション]]。貴族と放浪者の対比を「クラシック音楽」と「ジャズ」という音楽性の違いによって描写している。 * [[ニューヨーク・ニューヨーク]] (1977年) * [[ラグタイム]] (1981年) * {{仮リンク|label=ジャズメン|ジャズメン (映画)|en|We Are from Jazz}} (1984年) - [[ソビエト連邦|ソ連]]製作 * [[ハーレム・ナイト]] (1989年) * [[モ'・ベター・ブルース]] (1990年) - [[デンゼル・ワシントン]]出演、[[スパイク・リー]]監督・出演 * [[ディンゴ]] (1991年) - 音楽を担当した[[マイルス・デイヴィス]]自身も俳優として出演 * [[スウィング・キッズ (1993年の映画)|スウィング・キッズ]] (1993年) - ナチス政権下の[[ハンブルク]]でスウィング・ジャズを愛する青年達の悲劇を描いている。 * [[セッション]] (2014年) * [[ラ・ラ・ランド]] (2016年) ==== 邦画 ==== ; 伝記物 * [[エンドレス・ワルツ (映画)|エンドレス・ワルツ]] (1995年) - [[若松孝二]]監督。[[阿部薫 (サックス奏者)|阿部薫]]を描く ; フィクション <!-- あらすじ自体もジャズとの関わりが強い作品のみ --> * [[さらばモスクワ愚連隊]] (1968年) - [[五木寛之]]原作、[[堀川弘通]]監督 * [[上海バンスキング]] - 1984年版(監督 : [[深作欣二]])と1988年版(監督 : [[串田和美]])の二作品がある。いずれも原作は[[斎藤憐]] * [[ジャズ大名]] (1986年) - [[筒井康隆]]原作、[[岡本喜八]]監督 * [[キャバレー (小説)|キャバレー]] (1986年) - [[栗本薫]]原作、[[角川春樹]]監督 * [[この世の外へ クラブ進駐軍]] (2004年) - [[阪本順治]]監督・脚本 * [[スウィングガールズ]] (2004年) - [[矢口史靖]]監督・脚本 * [[大停電の夜に]] (2005年) - [[源孝志]]監督 ; ジャズの映画音楽/サウンドトラック * [[ファンキーハットの快男児]] (1961年) - 音楽:[[三保啓太郎]]<ref group="注釈">『[[11PM]]』オープニング・テーマ曲の作曲者。</ref>、監督: 深作欣二、主演[[千葉真一]] * [[ファンキーハットの快男児 二千万円の腕]] (1961年) - 音楽:[[三保啓太郎]]、 監督 : 深作欣二 * 裸の銃弾(1969年) - 音楽:[[山下洋輔]]トリオ、 監督:若松孝二 * 天使の恍惚(1972年) - 音楽:[[山下洋輔]]トリオ、 監督:若松孝二 * [[脱走遊戯]] (1976年) - 音楽:[[八木正生]]、 監督 :[[山下耕作]] * 十三人連続暴行魔(1978年) - 音楽:[[阿部薫 (サックス奏者)|阿部薫]]、監督:若松孝二 == その他 == * ジャズをモチーフとした小説を多く発表している作家 ** [[五木寛之]] - 「さらばモスクワ愚連隊」「青年は荒野をめざす」等 ** [[筒井康隆]] - 「ジャズ大名」「男たちのかいた絵」「ジャズ小説」等 ** [[村上春樹]] - 「[[国境の南、太陽の西]]」「[[アフターダーク]]」等。ジャズに特化したエッセイ集「ポートレイト・イン・ジャズ」も発表 * [[川柳川柳]] - ジャズを取り入れた[[新作落語]]「ジャズ息子」「ガーコン」を作る * [[ナチス]]ではジャズを [[シュレーゲムジーク]](ドイツ語で「変な音楽」の意)と呼び、アメリカ人の退廃的な文化であるという[[プロパガンダ]]を流していた。 * ジャズをモチーフとした絵画を多く発表している画家 ** [[立川広己]] - 「ジャズ」「JAZZ」「JAZZの流れる卓上」「ジャズの流れる街」等『[[JAZZシリーズ]]』作品群、「JAZZの中の裸婦」『[[花シリーズ]][[立川広己画伯 薔薇図|薔薇図]]』との融合作「ジャズと赤バラ」等[[立川広己画伯個展・出展 令和2年 (2020年)|創作]]。主に[[抽象画]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Commons|Category:Jazz}} {{Wiktionary|ジャズ}} * [[ブラックミュージック]] * [[ブルース]] * [[R&B]] * [[ソウルミュージック|ソウル]] * [[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]] * [[ストレイン (音楽)|ストレイン]] * [[マルチストレイン形式]] == More Reading == *『ハーレムの黒人たち』植草甚一、晶文社(2005/5) *『コーヒー一杯のジャズ』植草甚一、 晶文社(2004/12) *『ファンキー・ジャズの勉強』植草甚一、晶文社(2005/6) *『ジャズの十月革命』植草甚一、晶文社(2005/4) *『ジャズは海をわたる』植草甚一、晶文社(2005/7) *『ジャズマガジンを読みながら』植草甚一、晶文社(2005/7) *『ビリー・ホリディ物語』油井正一、大橋巨泉 <!-- *『ジャズ 進化・解体・再生の歴史』悠雅彦、音楽之友社、1998年。ISBN 4276370787。 *『新版 ジャズを放つ』細川周平、後藤雅洋、村井康司、寺島靖国、小川隆夫、西島多恵子、山下泰司、黒田京子ほか多数、洋泉社、1997年。ISBN 4896912500。 *『知ってるようで知らない ジャズおもしろ雑学事典 ~ジャズ100年のこぼれ話~』小川 隆夫、ヤマハミュージックメディア、2001年。ISBN 4636207505。 *『ニューヨークJazz』小川隆夫、東京キララ社、2002年。ISBN 4380022005。 *『東アジア流行歌アワー―越境する音 交錯する音楽人』(岩波現代全書15)、[[貴志俊彦]]、岩波書店、2013年10月。ISBN 4000291157。 --> == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20140414120045/http://listen.jp/store/genre_336.htm ListenJapan] * [https://web.archive.org/web/19991001120649/http://www1.odn.ne.jp/~cab10620/jazztbpage/aa/what.html ジャズトロンボーンの歴史] * {{Kotobank}} <!-- {{複数の問題|独自研究=2017年12月 (UTC)|正確性=2017年12月 (UTC)|雑多な内容の箇条書き=2017年12月|section=1}} --> {{音楽}} {{ポップ・ミュージック}} {{ジャズ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやす}} [[Category:ジャズ|*]] [[Category:アメリカ合衆国の音楽]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の歴史]]
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藤沢とおる
藤沢 とおる(ふじさわ とおる、1967年1月21日 - )は、日本の漫画家・漫画原作者。北海道出身、東京都在住。代表作に『湘南純愛組!』『GTO』『TOKKO 特公』などがある。主に不良漫画やアクション漫画を手がける。妻は女優の藤沢あやの。
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藤沢 とおるは、日本の漫画家・漫画原作者。北海道出身、東京都在住。代表作に『湘南純愛組!』『GTO』『TOKKO 特公』などがある。主に不良漫画やアクション漫画を手がける。妻は女優の藤沢あやの。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 藤沢 とおる | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1967|1|21}} | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]・[[漫画原作者]] | 活動期間 = [[1989年]] - | ジャンル = [[少年漫画]]・[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[湘南純愛組!]]』<br />『[[GTO (漫画)|GTO]]』<br />『[[TOKKO 特公]]』 | 受賞 = [[1998年]]:第22回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞(『GTO』) | サイン = | 公式サイト = }} '''藤沢 とおる'''(ふじさわ とおる、[[1967年]][[1月21日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[漫画原作者]]。[[北海道]]出身、[[東京都]]在住。代表作に『[[湘南純愛組!]]』『[[GTO (漫画)|GTO]]』『[[TOKKO 特公]]』などがある。主に[[ヤンキー漫画|不良漫画]]やアクション漫画を手がける。妻は[[俳優|女優]]の[[藤沢あやの]]。 == 略歴 == * 少年誌デビュー以前は、'''相沢真理'''名義にて[[成人向け漫画|18禁]]のエロ漫画<ref>「成年というよりも青年マンガにエロがある・・・くらいのもの」 [http://mandarake.co.jp/information/column/iwai/report/cmp001/index.html コンプレックス第1回 岩井の本棚 「本店レポート」](まんだらけ)</ref>などを執筆(1987年、東京三世社より単行本『東京SEX-Y倶楽部』を発売)。また、漫画家の[[江川達也]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をしていた。 * [[1989年]]、『マガジンフレッシュ』掲載の『LOVE YOU』でデビュー。 * [[1998年]]、第22回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞(『GTO』)。アニメ版『GTO』に、受験者役(第2話)で声優として出演したことがある<ref>[http://www.aniplex.co.jp/GTO/interview.html アニプレックス公式サイトのインタビュー]</ref>。 * [[2010年]]10月12日、ブログであやの(現:[[藤沢あやの]])との結婚を発表。 * [[2011年]]2月20日、第一子となる女児が誕生。 * チャリティ活動にも積極的に取り組み、[[東日本大震災]]の被災者を支援するために他の漫画家と共同で東日本大震災チャリティ同人誌「pray for Japan」で執筆する<ref>{{Wayback|url=http://koge.kokage.cc/earthquake/|title=東日本大震災チャリティ同人誌(仮)ページ|date=20180227010954}}</ref>。 == 人物 == * 作中において、登場人物が意外な行動を見せる場面で、[[漫符]]「'''!?'''」の字が表示される演出を好む。 * 影響を受けたマンガ家は、[[大友克洋]]、[[上條淳士]]、[[藤原カムイ]]、[[柴田昌弘]]、[[たがみよしひさ]]など<ref>『[[川島・山内のマンガ沼]]』2021年6月6日放送分より。</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === * P-BOYS(1987年、『[[週刊少年宝島]]』、[[宝島社|JICC出版局]]) - 相沢真理名義。 * LOVE YOU(1989年、『マガジンFRESH!』、[[講談社]]) - 読み切り作品。 * [[艶姿純情BOY]](1989年 - 1990年、『[[週刊少年マガジン]]』、講談社、全4巻) * [[湘南純愛組!]](1990年 - 1996年、『週刊少年マガジン』、全31巻) * [[BAD COMPANY]](1996年、『週刊少年マガジン』、全1巻) ** BAD COMPANY 2(1996年、『週刊少年マガジン』) * [[GTO (漫画)|GTO]](1997年 - 2002年、『週刊少年マガジン』、全25巻) ** GTO映画化記念!?「大トロでGOー!!」(2000年、『週刊少年マガジン』臨時増刊) ** GTOマガジン万歳記念「おフランスでGOー!!」(2000年、『週刊少年マガジン』臨時増刊) ** こんなモン食ってきたスペシャル「藤沢とおるのまんが道〜爆裂やしがに旅情編〜」(2002年、『マガジンFRESH!』増刊) ** GTO SHONAN 14DAYS(2009年 - 2011年、『週刊少年マガジン』、全9巻) - 「GTO」の外伝作品。 *** BLACK DIAMOND (2011年、『週刊少年マガジン』、GTO SHONAN 14DAYS 9巻に収録) - 「GTO SHONAN 14DAYS」番外編。 ** 井の頭ガーゴイル(2012年 - 、『[[週刊ヤングマガジン]]』、講談社、既刊5巻) - 「GTO」のスピンアウト作品。休載中(第2シリーズ完の状態)。 ** GT-R(2012年、『週刊少年マガジン』、既刊1巻) - 「GTO」の外伝作品。休載中(第1シリーズ完の状態)。 ** GTO パラダイス・ロスト(2014年 - 、『週刊ヤングマガジン』、講談社、既刊19巻) - 「GTO」の外伝作品。 * 昭和バンカラ派(2012年 - 、『[[週刊漫画ゴラク]]』、日本文藝社) * ROSE HIP ROSE(2002年 - 2003年、『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』、講談社、全2巻) - 後に復刻版(全4巻)が発売。[[警察庁]]・[[警視庁]]合同の特殊部隊「ASALLT」のローズヒップ(朝倉かすみ・17歳・女子高生)を主役にした警察アクションもの。 ** MAGNUM ROSE HIP(2006年、『週刊少年マガジン』) - Rose Hip Rose復刻版3、4巻収録。 ** ROSE HIP ZERO(2005年 - 2006年、『週刊少年マガジン』、全5巻) - 14歳・女子中学生の朝倉かすみとテロ対策4課のエースだった鬼道のコンビによる「ROSE HIP ROSE」の[[前日譚]]。 * [[TOKKO 特公]](2003年 - 、『[[月刊アフタヌーン]]』、講談社、全3巻、未完) ** 特公 零(ゼロ)(2013年 - 2016年 、『[[月刊ヒーローズ]]』、[[ヒーローズ (企業)|ヒーローズ]]、全4巻) - 「TOKKO 特公」の派生作品でありエピソードゼロとされる。原作・構成を担当。作画は浅田有皆。 * WILD BASE BALLERS(2003年 - 2004年、『週刊少年マガジン』、全6巻) - 原作を担当。作画は[[関口太郎 (漫画家)|関口太郎]]。 * [[ひみつ戦隊モモイダー]](2003年・2006年 - 2007年、『[[週刊ヤングジャンプ]]』/『[[漫革|週刊ヤングジャンプ増刊『漫革』]]』、[[集英社]]、全1巻) * [[仮面ティーチャー]](2006年 - 2007年、『週刊ヤングジャンプ』、全4巻) ** 仮面ティーチャーBLACK(2013年 - 2014年、『週刊ヤングジャンプ』、全5巻) ** 仮面ティーチャー VS POLICE(2013年、『週刊ヤングジャンプ』・『週刊ヤングマガジン』) - 「仮面ティーチャー」と「井の頭ガーゴイル」のコラボ読み切り。 * REVEREND D(2006年 - 2007年、『[[月刊ComicREX]]』、[[一迅社]]、全2巻、未完) - 第一部完。D級レヴェレンド(黒神父)と[[幻視]]能力を持つ少女・泉結衣が、謎の事件を起こす[[結社]]・ソロモンズ・チャイルドの目的を探る。 * アニマルJOE(2007年 - 2008年、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、[[小学館]]、全1巻、未完) - 第一部完。 <!--** Re:ANIMAL JOE(2019年 - 、『[[週刊ヤングマガジン]]』、講談社)--> * あんハピっ!(2008年 - 2009年、『[[コミックチャージ]]』、[[角川書店]]、未完) - 連載雑誌の休刊に伴い、未完のまま終了。 * 遠い星から来たALICE(2008年 - 2009年、『ビッグコミックスピリッツ』、小学館、全2巻) * ソウルメッセンジャー(2011年、『[[スーパージャンプ]]』、集英社、全2巻) - 原作を担当。作画は[[きたがわ翔]]。 * 渋谷ハチ公前 -another side-(2011年 - 2012年、『[[電撃コミック ジャパン]]』、[[アスキー・メディアワークス]]、全1巻) - 原作を担当。原案は青木良。作画は水元あきつぐ。 * [[ソウルリヴァイヴァー]](2011年 - 2014年、『月刊ヒーローズ』、ヒーローズ、全6巻) - 原作・構成・キャラクターデザインを担当。作画は[[秋重学]]。 ** ソウルリヴァイヴァー SOUTH(2015年 - 2016年、『月刊ヒーローズ』、全3巻) - 続編的作品。本作では作画も手掛ける。 * 愛しのDUTCHOVENガール(2012年 - 2013年、『[[漫画アクション]]』、[[双葉社]]、未完) - 料理監修は[[影山のぞみ]]。 * [[宇宙刑事ギャバン 黒き英雄]](2012年 - WEBコミックス、2013年に『[[月刊少年チャンピオン]]』([[秋田書店]])に移籍、全1巻) - 構成・演出を担当。脚本は[[小林雄次]]、作画は太田正樹。 * 別に放り出した訳ぢゃないんだけど...。〜未完の漫画が或る理由〜(2013年、[[一迅社]]) - 作品集。「ひみつ戦隊モモイダー」(単行本未収録分)・「あんハピっ!」・「◯◯ラーのクッキングエレジー」・「愛しのDUTCHOVENガール」・「アンチャーテッド エルドラドの秘宝」を収録。 * SHONANセブン(2014年 - 2019年 、『月刊少年チャンピオン』、秋田書店、全17巻) - 原作を担当。作画は高橋伸輔。 * えやみのかみ(2014年 - 2016年、『[[マンガボックス]]』、全3巻) - 原作を担当。作画は落合ヒロカズ。 * [[おいしい神しゃま]](2014年 - 2015年、『[[週刊少年サンデー]]』、小学館、全3巻) * RED DATA PLANET(2019年 - 2021年、『[[別冊少年チャンピオン]]』、秋田書店、全18話、全4巻) - 原作を担当。作画は伊臣麿。 === 小説 === * [[GTO Live in 北海道]](1998年、講談社) - 相沢春吉と共著。 == キャラクターデザイン == * [[ヒーロークロスライン#サンデー×マガジン クロスライン|サンデー×マガジン クロスライン]] * 列島最強伝説<ref>{{Cite web|和書|url=https://gamebiz.jp/news/23823|title=アナハイムソフト、GREE『列島最強伝説』の提供開始-「GTO」の藤沢とおるさんがデザイン|publisher=ソーシャルゲームインフォ|date=2011-08-29|accessdate=2020-08-11}}</ref> == エンドカード == * [[聖痕のクェイサー]] テレビアニメ第23話 == 関連人物 == === 師匠 === * [[江川達也]] === アシスタント === * [[綾峰欄人]] * 葵ろむ * [[ダイナミック太郎]] * [[みずもとあきつぐ]] == 関連項目 == * [[日本の漫画家一覧]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=https://ameblo.jp/toofu001/|title=藤ブロ|date=20140602023220}} * {{Twitter|fujifuji0001}} * {{マンガ図書館Z作家|164}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ふしさわ とおる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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ヒップホップ
ヒップホップは、1年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれたブロック・パーティーにルーツのある、音楽・ダンス・ファッションを中心とする黒人文化である。80年代には、ヒップホップには三大要素があると言われていた。DJ、ブレイクダンス、グラフィティがその構成要素である。しかし現在では、ミュージシャンとしてのMCを加えた四大要素と言われている。ヒップは、とんでいる、ホップは跳躍するなどの意味がある。 ライターのスティーヴ・ヘイガーは、アフリカ・バンバータの、ラップ音楽やブレイクダンス、グラフィティ・アートを含めた黒人文化をヒップホップとした発言は、ヴィレッジ・ヴォイスで最初に活字になったものであると主張している。 単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、サンプリングや打ち込みのバックトラックに、MCによるラップを乗せた音楽を指すことがあるが、これらはヒップホップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ(MC)、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれる。 これらはアメリカのストリートギャング文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりとしてブレイクダンスやラップの優劣が争われた。ラップ、DJプレイ、ブレイクダンスには、フリースタイル・バトルと呼ばれる対決方式も存在する。その後、発祥地アメリカだけにとどまらず、ブレイクダンスを踊ったり、グラフィティをアートとしてとらえたり、ファッションにも影響を及ぼすなど、ヒップホップ文化は、欧米、日本をはじめ世界各国に広まった。 これにアフリカ・バンバータが加えた「知識」までを五大要素、さらにKRS・ワンが提唱した「ビートボックス」とストリート文化「言語」、「服装」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ばれる。 起源については諸説有るが、一般的に1970年代に生まれ、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術を普及)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親)らのDJたちの活躍によって、それまでのブロック・パーティを超えた音楽として広がり始めた。 曲調やダンス、ファッションなどのスタイルを、それぞれオールド・スクール(Old School、1970年代末 - 1980年代初頭)、ニュー・スクール(New School, 1990年代以降)と呼ぶ。オールド・スクールのラッパーにはグランドマスター・フラッシュ、トリーチャラス・スリー、スーパー・ウルフ らがいた。1980年代後期 - 1990年代前期はラップの全盛期だったことから、特にゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ばれる場合もある。日本では80年代半ばのラップをミドル・スクール(Middle School)と表現することがある。ミドル・スクールのラッパーには、Run-D.M.C.、LLクールJ、UTFO、フーディニらがいた。 パブリック・エナミーやBDPのアルバムは、社会的意識の萌芽を予感させた。1980年代、ヒップホップは、ビートボックスのボーカルパーカッションテクニックを介して、人体を使用したリズムの作成も受け入れた。先駆者はダグ・E・フレッシュだった。ダグ・E・フレッシュやビズ・マーキーは、自身の口と声、他の身体の部分を使用してビート、リズムを創造した。これらは「ヒューマンビートボックス」と呼ばれ、このジャンルのアーティストは、ターンテーブリズムのスクラッチやその他の楽器の音を歌ったり楽器の音を模倣したりした。 ミュージックビデオの登場はエンターテインメントを変えた。「プラネットロック」のミュージックビデオは、ヒップホップミュージシャン、グラフィティアーティスト、およびB-boyのサブカルチャーを紹介した。1982年から1985年の間に「ワイルドスタイル」、「ビートストリート」、「クラッシュグルーブ」、ブレイクダンス、「ドキュメンタリー・スタイル・ウォーズ」など、多くのヒップホップ関連の映画が上映された。1980年には、世界の若者の一部がヒップホップ文化を受け入れた。アメリカの都市コミュニティでは、ヒップホップのファッションが流行した。Run-D.M.C.だけでなく、アイスT、ビッグ・ダディ・ケイン、ドクター・ドレイらも愛用した ゴールドのチェーン・アクセサリーや、ジャージとスニーカーなどが見られた。その後パブリック・エネミーやKRS1のブギー・ダウン・プロダクションなどが登場した。 ニュー・スクール・ラップは、80年代末から90年代初頭まで流行した。ニュー・スクールのラッパーには、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、リーダーズ・オブ・ザ・ニュースクールらがいた。ファッションは、シルバーが流行した。またサイズの大きな衣服や、バギースタイルのパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着るアーティストも見られた。大きい服を着るようになったのは、大きめのサイズの服を子供に提供しておけば、成長しても買い換える必要がないことなどが原因とされている。 別なカテゴライズとして、アーティストの出身地などから、ヒップホップ発祥の地であるニューヨークなどのアメリカ東海岸におけるイースト・コースト・サウンド、ロサンゼルスなどのアメリカ西海岸におけるウエスト・コースト・サウンド(ウエスト・サイド)といった、地域による分け方がある。ニューヨークのラップは、ジャズトラックを使用した楽曲もあり、対して初期のウエスト・コースト・サウンドは、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらを中心としたGファンクと呼ばれる、Pファンクなどをサンプリングし、シンセサイザーなどの電子音を取り入れたトラックに、ギャングスタ・ラップをのせた。近年はサウス(南部)やミッドウエスト(中西部)と呼ばれるローカルサウンドも登場している。サウスのトラックは、バウンスビートが特徴である。ヒップホップのポピュラー化により、東海岸でギャングスタ・ラップをするものが現れた。 1990年代頃から東海岸を代表するディディ(パフ・ダディ)、ノトーリアス・B.I.G.擁するバッド・ボーイ・エンターテインメント(Bad Boy Entertainment)と、西海岸を代表するドクター・ドレー、 スヌープ・ドッグ、2パック(出身はイースト・コーストではあるが、最盛期の活動場所はウエスト)らが所属するデス・ロウ・レーベルとの対立が象徴的であるように、両海岸のアーティストたちはお互いを威嚇、中傷し合った。それらの内容はラップの歌詞にも現れ、ギャングを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展した。この東西抗争は、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失う悲惨な結末を招いた。抗争はその後、個人間のビーフ(中傷合戦)を除いて、沈静化している。 ※五十音順 70年代後半から80年代の黎明期のヒップホップを統括したジャンル。代表的なアーティストにシュガーヒル・ギャング、グランドマスター・フラッシュ、クール・ハークなど。 1980年代半ばのヒップホップを表す日本独自表現。アメリカではゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ぶ場合もある。 デラソウル、リーダーズ・オブ・ニュースクールなど。 エドOG&ダ・ブルドッグズやメイン・ソースなど。 ギャング活動や犯罪行為について言及したジャンルで、歌詞の過激な内容が度々論争を引き起こす。ハードコア・ヒップホップとほぼ同義。 上記のギャングスタ・ラップから派生したジャンル。代表的なアーティストにドクター・ドレー、スヌープ・ドッグ、ウォーレンGなど。 南部ラップともいう。マスターP、スリー6マフイアなど。 ヒップホップのトラックの上に、新しいR&Bのメロディーを乗せたジャンル。代表的なアーティストにメアリー・j・ブライジらがいた。日本の宇多田ヒカルのサウンドも、このジャンルに属する。」 メキシコ系移民たちが中心になり勃興したジャンル。キッド・フロスト、メローマン・エイスなど。 ルークや2ライブ・クルーなど。 シャバ・ランクス、ビーニー・マン、シャギー、ショーン・ポールらが活躍した。 ヘヴィメタルとヒップホップを融合したジャンルで、コーン、スリップノットなどがいる。 90年代のシンセサイザーや重低音のベースを特徴のラップ。代表者はリル・ジョン、マシン・ガン・ケリーらがいる。 90年代にクランクから派生したジャンル。代表者はドレイク、カーディーB、XXXテンタシオン、トラヴィス・スコットなど。 2010年代にエモとラップを融合させたジャンル。代表者はXXXテンタシオンなど。 ※印は日本劇場未公開作品
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ヒップホップは、1年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれたブロック・パーティーにルーツのある、音楽・ダンス・ファッションを中心とする黒人文化である。80年代には、ヒップホップには三大要素があると言われていた。DJ、ブレイクダンス、グラフィティがその構成要素である。しかし現在では、ミュージシャンとしてのMCを加えた四大要素と言われている。ヒップは、とんでいる、ホップは跳躍するなどの意味がある。 ライターのスティーヴ・ヘイガーは、アフリカ・バンバータの、ラップ音楽やブレイクダンス、グラフィティ・アートを含めた黒人文化をヒップホップとした発言は、ヴィレッジ・ヴォイスで最初に活字になったものであると主張している。
{{otheruseslist|ニューヨーク発祥の文化|音楽ジャンル|ヒップホップ・ミュージック|ダンス|ヒップホップ (ダンス)|PHP処理系|HipHop Virtual Machine}} '''ヒップホップ'''は、1970年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれた[[ブロックパーティ|ブロック・パーティー]]にルーツのある、音楽・ダンス・ファッションを中心とする黒人文化である。80年代には、ヒップホップには三大要素があると言われていた。[[DJ]]、[[ブレイクダンス]]、[[グラフィティ]]がその構成要素である。しかし現在では、ミュージシャンとしての[[MC (ヒップホップ)|MC]]を加えた四大要素と言われている。ヒップは、とんでいる、ホップは跳躍するなどの意味がある。 ライターのスティーヴ・ヘイガーは、[[アフリカ・バンバータ]]<ref>http://www.discogs.com/ja/artist/17531-Afrika-Bambaataa</ref>の、ラップ音楽やブレイクダンス、グラフィティ・アートを含めた黒人文化をヒップホップとした発言は、[[ヴィレッジ・ヴォイス]]で最初に活字になったものであると主張している。 [[File:Hiphop.h.kurosawa.jpg|thumb|ヒップホップなどのCDの一例、左上から[[エミネム]]、[[N.W.A (ヒップホップグループ)|N.W.A]]、[[サウス・セントラル・カーテル]]、[[マシン・ガン・ケリー|マシンガンケリー]]、[[モブ・ディープ]]、[[6ix9ine]]、[[アヴリル・ラヴィーン]]、[[ラキム]]、[[テイラー・スウィフト]]、ナズ、[[ギャング・スター]]、[[ドクター・ドレー]]]] == 概要 == [[ファイル:KRESS.jpg|thumb|right|250px|[[スプレー|スプレー缶]](エアロゾル)による[[グラフィティ]]]] 単に「ヒップホップ」と呼んだ場合、[[サンプリング]]や[[打ち込み]]のバックトラックに、[[MC (ヒップホップ)|MC]]による[[ラップ]]を乗せた音楽を指すことがあるが、これらはヒップホップ・ミュージックと呼ぶのが正しい。これに「ブレイクダンス」と「グラフィティ」などを加えたものが本来のヒップホップである。ヒップホップにおいて、ラップ([[MC (ヒップホップ)|MC]])、DJプレイ、ブレイクダンス、グラフィティは四大要素と呼ばれる。 これらはアメリカの[[ストリートギャング]]文化とも関係があるといわれ、抗争を無血に終わらせるために、銃や暴力の代わりとしてブレイクダンスやラップの優劣が争われた。ラップ、DJプレイ、ブレイクダンスには、フリースタイル・バトルと呼ばれる対決方式も存在する。その後、発祥地アメリカだけにとどまらず、ブレイクダンスを踊ったり、グラフィティをアートとしてとらえたり、ファッションにも影響を及ぼすなど、ヒップホップ文化は、欧米、日本をはじめ世界各国に広まった。 これに[[アフリカ・バンバータ]]が加えた「知識」までを五大要素、さらに[[KRS・ワン]]が提唱した「[[ヒューマンビートボックス|ビートボックス]]」とストリート文化「言語」、「[[ヒップホップ系ファッション|服装]]」、「起業精神」を含むと九大要素と呼ばれる<ref>{{Cite book | title = Hip Hop America | author = Nelson George | isbn = 978-0143035152 }}</ref>。 == 詳細 == [[ファイル:Nas 2007.jpg|thumb|right|250px|ラップする[[ナズ]]]] [[ファイル:Herc on the Wheels of Steel.JPG|thumb|right|250px|DJクール・ハーク]] {{Main|ヒップホップミュージック}} 起源については諸説有るが、一般的に[[1970年代]]に生まれ、[[クール・ハーク]]<ref>Chang, Jeff; DJ Kool Herc (2005). Can't Stop Won't Stop: A History of the Hip-Hop Generation. Macmillan. ISBN 978-0-312-30143-9.</ref>([[ブレイクビーツ]]の発明者)、[[グランドマスター・フラッシュ]]<ref group="注">79年にはエンジョイ・レコードから作品を発表し、82年の「ザ・メッセージ」はニューヨーク周辺だけで50万枚以上のヒットになった。</ref>([[ディスクジョッキー#スクラッチ|スクラッチ]]技術を普及)、[[アフリカ・バンバータ]](ヒップホップという言葉の生みの親)らのDJたちの活躍によって、それまでのブロック・パーティを超えた音楽として広がり始めた。 曲調やダンス、[[ファッション]]などのスタイルを、それぞれ''[[オールドスクール・ヒップホップ|オールド・スクール]]''(Old School、1970年代末 - 1980年代初頭)、''[[ニュースクール・ヒップホップ|ニュー・スクール]]''(New School, 1990年代以降)と呼ぶ。オールド・スクールのラッパーにはグランドマスター・フラッシュ、トリーチャラス・スリー、スーパー・ウルフ<ref>https://www.allmusic.com/artist/super-wolf-mn0000751273 | title=Super Wolf </ref> らがいた。1980年代後期 - 1990年代前期はラップの全盛期だったことから、特に[[ゴールデンエイジ・ヒップホップ]]と呼ばれる場合もある。日本では80年代半ばのラップを''[[ミドルスクール・ヒップホップ|ミドル・スクール]]''(Middle School)と表現することがある。ミドル・スクールのラッパーには、[[Run-D.M.C.]]<ref>{{cite web|title=Run-D.M.C. Call It Quits|url=https://www.rollingstone.com/music/news/run-d-m-c-call-it-quits-20021106|date=November 6, 2002|publisher=RollingStone|author=Augustin K. Sedgewick|accessdate=April 9, 2015}}</ref>、LLクールJ、UTFO、フーディニらがいた。 パブリック・エナミーやBDPのアルバムは、社会的意識の萌芽を予感させた。1980年代、ヒップホップは、ビートボックスのボーカルパーカッションテクニックを介して、人体を使用したリズムの作成も受け入れた。先駆者はダグ・E・フレッシュだった。ダグ・E・フレッシュやビズ・マーキーは、自身の口と声、他の身体の部分を使用してビート、リズムを創造した。これらは「ヒューマンビートボックス」と呼ばれ、このジャンルのアーティストは、ターンテーブリズムのスクラッチやその他の楽器の音を歌ったり楽器の音を模倣したりした。 ミュージックビデオの登場はエンターテインメントを変えた。「プラネットロック」のミュージックビデオは、ヒップホップミュージシャン、グラフィティアーティスト、およびB-boyのサブカルチャーを紹介した。1982年から1985年の間に「ワイルドスタイル」、「ビートストリート」、「クラッシュグルーブ」、ブレイクダンス、「ドキュメンタリー・スタイル・ウォーズ」など、多くのヒップホップ関連の映画が上映された。1980年には、世界の若者の一部がヒップホップ文化を受け入れた。アメリカの都市コミュニティでは、ヒップホップのファッションが流行した。[[Run-D.M.C.]]<ref group="注">「ウォーク・ジズ・ウェイ」が大ヒットした。</ref>だけでなく、アイスT、ビッグ・ダディ・ケイン、ドクター・ドレイらも愛用した [[金|ゴールド]]のチェーン・[[装身具|アクセサリー]]や、[[ジャージ]]と[[スニーカー]]などが見られた。その後パブリック・エネミーやKRS1<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1989/11/17/arts/pop-jazz-rap-leads-to-respectability-and-academia-for-krs-one.html|title= Pop/Jazz; Rap Leads to Respectability and Academia for KRS-One(Nov. 17, 1989)|newspaper=[[The New York Times]]|accessdate=20 May 2019}}</ref>のブギー・ダウン・プロダクションなどが登場した。 ニュー・スクール・ラップは、80年代末から90年代初頭まで流行した。ニュー・スクールのラッパーには、[[デ・ラ・ソウル]]<ref group="注">89年に「ミー、マイセルフ&アイ」がR&Bヒットとなった。</ref>、[[ア・トライブ・コールド・クエスト]]、リーダーズ・オブ・ザ・ニュースクールらがいた。ファッションは、[[銀|シルバー]]が流行した。またサイズの大きな衣服や、バギースタイルのパンツ(大きいサイズのダブついたズボン)を選び、腰履きで着るアーティストも見られた。大きい服を着るようになったのは、大きめのサイズの服を子供に提供しておけば、成長しても買い換える必要がないことなどが原因とされている。 別なカテゴライズとして、アーティストの出身地などから、ヒップホップ発祥の地である[[ニューヨーク]]などの[[アメリカ合衆国東海岸|アメリカ東海岸]]におけるイースト・コースト・サウンド、[[ロサンゼルス]]などの[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]におけるウエスト・コースト・サウンド(ウエスト・サイド)といった、地域による分け方がある。ニューヨークのラップは、[[ジャズ]]トラックを使用した楽曲もあり、対して初期のウエスト・コースト・サウンドは、ドクター・ドレー、スヌープ・ドッグらを中心とした[[Gファンク]]と呼ばれる、[[Pファンク]]などをサンプリングし、[[シンセサイザー]]などの電子音を取り入れたトラックに、ギャングスタ・ラップをのせた。近年はサウス(南部)やミッドウエスト(中西部)と呼ばれるローカルサウンドも登場している。サウスのトラックは、バウンスビートが特徴である。ヒップホップのポピュラー化により、東海岸でギャングスタ・ラップをするものが現れた。 [[1990年代]]頃から東海岸を代表する[[ショーン・コムズ|ディディ]](パフ・ダディ)、[[ノトーリアス・B.I.G.]]擁するバッド・ボーイ・エンターテインメント(Bad Boy Entertainment)と、西海岸を代表する[[Dr.Dre|ドクター・ドレー]]<ref group="注">92年の「ナッシン・バット・ア・Gサング」が93年にヒットした。</ref>、 [[Snoop dogg|スヌープ・ドッグ]]、[[2パック]](出身はイースト・コーストではあるが、最盛期の活動場所はウエスト)らが所属するデス・ロウ・レーベルとの対立が象徴的であるように、両海岸のアーティストたちはお互いを威嚇、中傷し合った。それらの内容はラップの歌詞にも現れ、ギャングを巻き込んだ暴行、襲撃、発砲事件などに発展した。この東西抗争は、2パック、ノトーリアス・B.I.G.という両海岸を代表する有名ラッパーを、ともに銃撃事件で失う悲惨な結末を招いた。抗争はその後、個人間のビーフ(中傷合戦)を除いて、沈静化している。 == 歴史 == {{Main|ヒップホップ音楽の歴史}} == 代表的なレコードレーベル == ''※[[五十音順]]'' {{columns-list|colwidth=30em| * [[アフターマス・エンターテインメント]] * エンジョイ・レコーズ * キャッシュ・マネー・レコーズ * [[コールドチリン・レコード]] * [[ザ・インク・レコーズ]] * サンプ・レコーズ * ジャイブ・レコーズ * シュガー・ヒル・レコーズ * [[ソー・ソー・デフ・レコーディングス]] * [[デス・ロウ・レコード]] * [[デフ・ジャム・レコード]] * [[デリシャス・ヴァイナル・レコード]] * [[トミー・ボーイ・レコード]] * ノー・リミット・レコーズ * [[バッド・ボーイ・レコーズ]] * [[プライオリティ・レコーズ]] * [[プロファイル・レコード]] * ラウド・レコーズ * [[ロッカフェラ・レコード]] * [[ルースレス・レコード]] * [[ワイルド・ピッチ・レコード]] }} == サブジャンル == === [[オールドスクール・ヒップホップ]] === 70年代後半から80年代の黎明期のヒップホップを統括したジャンル。代表的なアーティストに[[シュガーヒル・ギャング]]、[[グランドマスター・フラッシュ]]<ref group="注">82年に「ザ・メセージ」がNY周辺で50万枚売れたとされる。</ref>、[[クール・ハーク]]など。 === ミドル・スクール === 1980年代半ばのヒップホップを表す日本独自表現。アメリカではゴールデンエイジ・ヒップホップと呼ぶ場合もある。 === ニュー・スクール === デラソウル、リーダーズ・オブ・ニュースクールなど。 === ネクスト・スクール === エドOG&ダ・ブルドッグズやメイン・ソースなど。 === [[ギャングスタ・ラップ]] === ギャング活動や犯罪行為について言及したジャンルで、歌詞の過激な内容が度々論争を引き起こす。[[ハードコアヒップホップ|ハードコア・ヒップホップ]]とほぼ同義。 === [[Gファンク]] === 上記のギャングスタ・ラップから派生したジャンル。代表的なアーティストに[[ドクター・ドレー]]、[[スヌープ・ドッグ]]、[[ウォーレン・G|ウォーレンG]]など。 === [[サザン・ヒップホップ]] === 南部ラップともいう。マスターP<ref group="注">97年に「アイ・ミス・マイ・ホーミーズ」がポップでもクロスオーバー・ヒットとなった。</ref>、スリー6マフイアなど。 === [[ヒップホップ・ソウル]] === ヒップホップのトラックの上に、新しい[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]のメロディーを乗せたジャンル。代表的なアーティストに[[メアリー・J. ブライジ|メアリー・j・ブライジ]]らがいた。日本の宇多田ヒカルのサウンドも、このジャンルに属する。」 === [[チカーノラップ]] === メキシコ系移民たちが中心になり勃興したジャンル。キッド・フロスト<ref group="注">90年に「ラ・ラーサ」がヒトした。</ref>、メローマン・エイスなど。 === マイアミ・ベース === ルーク<ref group="注">もともとはルーク・スカイウォーカーを名乗っていたが、苦情が入りルークに改名した。</ref>や2ライブ・クルー<ref group="注">曲が放送禁止になったことあり。</ref>など。 === [[ラガマフィン#歴史|ラガ・ヒップホップ]]/ダンスホール === シャバ・ランクス、ビーニー・マン、シャギー、ショーン・ポールらが活躍した。 === [[ニューメタル]] === '''ヘヴィメタル'''と'''ヒップホップ'''を融合したジャンルで、[[コーン]]、[[スリップノット]]などがいる。 === その他のジャンル === *[[クランク (音楽)|クランク]] 90年代のシンセサイザーや重低音のベースを特徴のラップ。代表者は[[リル・ジョン]]、[[マシン・ガン・ケリー]]らがいる。 *[[トラップ (音楽のジャンル)|トラップ]] 90年代にクランクから派生したジャンル。代表者はドレイク、カーディーB、[[XXXテンタシオン]]、[[トラビス・スコット|トラヴィス・スコット]]など。 *[[エモ・ラップ]] 2010年代に[[エモ]]とラップを融合させたジャンル。代表者は[[XXXテンタシオン]]<ref group="注">2018年に射殺された。享年20歳。</ref>など。 == 音楽用語 == ; Bボーイ : 「Bボーイ (B-Boy)」はブレイクする者、突破していく少年の意味。[[ブレイクダンス|ブレイクダンサー]]の事も指す。この言葉は、クール・ハークが作り出したとされ、ブロックパーティなどで[[ブレイクビーツ]]を流すと踊りだすダンサーの事を、「ブレイク・ボーイ (Break-Boy)」あるいは「Bボーイング (B-Boying)」と呼んだ事に由来する。詳細は[[Bボーイ]]を参照。 ; ヒップホッパー : 日本では「ヒップホッパー (hip hopper)」という言葉は「ヒップホップ文化に没頭する人」と解釈される。しかし、[[KRS・ワン]]などによると、本来は「ヒップホップの四大要素全てが優れていて、筋金入りのヒップホップ育ちのような人」を指す。 {{See also|日本のヒップホップ}} == 代表的なアーティスト == === MC === {{See|Category:アメリカ合衆国のラッパー|日本のヒップホップMC一覧}} === DJ === * [[クール・ハーク]] * [[グランドマスター・フラッシュ]] * [[アフリカ・バンバータ]] * [[マーリー・マール]] * [[ピート・ロック]] * [[DJキューバート|Q-Bert]] * [[DJプレミア]] === グラフィティ・アーティスト === * [[ジャン=ミシェル・バスキア]] * [[キース・ヘリング]] * PHASE 2 == 関連映画 == ''※印は日本劇場未公開作品'' * [[ワイルド・スタイル]](1982年) * [[ビート・ストリート]]<ref group="注">アフリカ・バンバータらが出演。</ref>(1984年)※ * スタイル・ウォーズ(1984年)※ * [[ブレイクダンス (映画)|ブレイクダンス]] - ''Breakin''' (1984年) * ブレイクダンス2/ブーガルビートでT.K.O! - ''Electric-Boogaloo Is Breakin' 2'' (1984年) * [[クラッシュ・グルーブ]] (1985年)※ * タファー・ザン・レザー (1988年)※ * [[ドゥ・ザ・ライト・シング (映画) |ドゥ・ザ・ライト・シング]](1989年) * ハウス・パーティー (1990年) * ハウス・パーティー2 (1991年) * ニュー・ジャック・シティ (1991年) * ボーイズン・ザ・フッド (1991年) * [[ジュース (映画)|ジュース]](1992年) * ポエティック・ジャスティス (1993年) * [[ポケットいっぱいの涙]] - ''メナスIIソサエティ''(1993年) * ビート・オブ・ダンク - ''アバーブ・ザ・リム'' (1994年)※ * ジェイソンズ・リリック(1994年)<ref>[https://www.allcinema.net/cinema/357794 ジェイソンズ・リリック] 2022年2月28日閲覧</ref> * マーダー・ワズ・ザ・ケイス(1994年) * ハウス・パーティー3 - (1994年) * クルックリン - (1994年) * パンサー - (1995年) * [[クロッカーズ]] - ''Clockers'' (1995年) * フライディ (1996年) * スラム - ''Slam'' (1998年) * [[ロミオ・マスト・ダイ]] - ''Romeo Must Die'' (2000年) * [[トレーニング デイ]] - ''Training Day'' (2001年) * セイブ・ザ・ラスト・ダンス - ''Save The Last Dance'' (2001年) * サウスセントラルLA - ''BABY BOY''(2002年) * ブラウン・シュガー - ''Brown Sugar'' (2002年)※ * [[8 Mile]] - ''8 Mile'' (2002年) * ユー・ガット・サーブド - ''You Got Served'' (2003年)※ * ブラック・ダイヤモンド - ''Cradle 2 The Grave'' (2003年) * ダンス・レボリューション - ''Hunny'' (2003年) * クリップス - ''Redemption: The Stan Tookie Williams Story'' (2004年)※ * ハッスル&フロウ “Hustle & Flow” (2005年) * スピリット・ボクシング - ''Shackles'' (2005年)※ * [[コーチ・カーター]] - ''Coach Carter'' (2005年) * [[ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン (映画)|ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン]] - ''Get Rich or Die Tryin''' (2005年) * ATL - ''ATL'' (2006年)※ * [[ストレイト・アウタ・コンプトン (映画)|ストレイト・アウタ・コンプトン]] ''Straight Outta Compton'' (2015年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 書籍 == * ヒップホップ・ジェネレーション[新装版]:ジェフ・チャン、 DJクール・ハーク著:リットー・ミュージック * HIP HOP:ダースレイダー著、シンコー・ミュージック * ラップ・イヤー・ブック:アイスT == 関連項目 == *[[R&B]] *[[ソウル・ミュージック]] *[[ヒップホップ音楽の歴史]] *[[ファンク]] *[[レゲエ]] *[[ブレイクダンス]] *[[ニュージャックスウィング]] *[[ゴールデンエイジ・ヒップホップ]] *[[ヒップホップミュージック]] {{音楽}} {{ヒップホップ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ひつふほつふ}} [[Category:ヒップホップ|*]] [[Category:ヒップホップ用語]] [[Category:アメリカ合衆国の音楽]] [[Category:サブカルチャー]] [[Category:風俗]] [[Category:アフリカ系アメリカ人の文化]] [[Category:ニューヨーク市の文化]]
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経営学
経営学(けいえいがく)は、経営に関する学問。経営管理も参照。 経営学とは「常に変化する内外の環境において組織をいかに効率的に運営するか」を解明する学問である。その対象は今日では広く、企業だけでなく、官庁組織、学校その他一般に組織といわれるものすべてを含むと考えられる。 経営学とは、「企業」という特定の領域を対象とする領域学のことである。「領域学」とは、経済学・社会学・心理学などのように、特定の限られた変数群と一定の理論的枠組みとを用いて、対象世界に接近する「ディシプリン」の学問ではなく、教育学や宗教学と同じように、変数群や理論的枠組みを特定化するのではなく、むしろ対象世界を特定化して、それに対して多面的に接近する学問であることをいう。その領域学としての経営学の対象は、企業である。企業は形式的には生産の担い手であるといわれるが、生産という言葉のなかには、財・サービスをつくるという意味はもとより、新しい知識を生み出す、イノベーション(経営革新)といった意味合いもまた含まれている。 狭義の経営学としては組織体の効率効果的な運営のための長期的視野に立った理論の構築を目的とする学問と捉えられるため、その際は会計学やマーケティングなどの分野は除外される。 経営学の問題意識を明白にするためには、次の2つのことが必要となる。 日本では、マクロ組織論、経営戦略論の2つをまとめて経営学と呼ぶ学問体系が確立している。日本で初めて経営学の概念を提唱したのは、商工経営学と名付けた上田貞次郎東京高等商業学校(現・一橋大学)教授とされる。 経済学では、各主体(個人・企業、およびそのほかの組織体)の行動が市場原理にゆだねられた場合の帰結(均衡)と、そこでの資源配分の効率性や社会的総余剰の適切さについて分析したり、社会システムの構造を物象化の機序を明らかにしつつそこに生起する論理と動態を明らかにすることに重点が置かる。 それに対し、経営学は、いかにすれば企業(およびそのほかの組織体)がその業績や効率性を向上させることが出来るかを明らかにしようとする。つまり、社会全体を見るか・一組織を見るかの違いであり経済学的アプローチではミクロ経済学の範疇であると、かつては考えられていた。 また、同じ「企業」を観察する場合でも、経済学では各企業が合理的な行動をとった場合にどのような状態が現出するかを考察することが多く、経営学では企業がどのような行動をとることが合理的かを考察する、などの違いがある。 以上のような学問的出発点の違いから、経営学では個々の企業間の差異が注目されるのに対し、(特に新古典派の)経済学ではその差異にはあまり注意が払われない場合が多い。 ただし、1980年代以降、経営学分野で経済学理論を基礎とした領域が発達したり(マイケル・ポーター、伊丹敬之等)、経済学でも企業・組織のメカニズムや効率性を分析する領域(企業経済学・組織の経済学など)が発達していることから、両者の違いは以前ほど明確ではなくなってきている(事実、アメリカのビジネススクールには経営学者と経済学者が混在している)。 とは言え、経営学は「領域」の学問と言われるように、社会学的手法を用いた分野(マーケティングなど)や、社会心理学的手法を用いた分野(労務管理論など)など手法横断的・学際的な発展をしており、数学を用いた社会分析に特化し続けている(「ディシプリン」としての学問)経済学とは一線を画している。最近の経営学者・経済学者には、この点を両者の相違としている者も多い。 25期 経営学委員会 (3名) 令和2年10月現在 24期 経営学委員会 (3名) 平成30年4月25日現在 1947年、日本学術振興会が経営問題108委員会を設立した。学界委員と産業界委員が連携して活動している。 下記に事例として、2012年における日本学術振興会産学協力研究員会 経営問題108委員会委員構成を取り上げる。 日本学術振興会は産学協力研究委員会として産業構造・中小企業第118委員会を擁している。日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会は日本における中小企業研究の中核的な組織である。戦前から活動してきた日本学術振興会第23(中小工業)小委員会に端を発している。日本学術振興会第三常置委員会に中小工業に関する研究を行う第二三小委員会を設置することとなる。昭和13年11月4日、第一回会議(如水会)で招集され、上田貞次郎委員長、 山中篤太郎幹事体制となる。 第23小委員会 第二三委員会は、国民経済構造第七七小委員会(昭和20年~22年)、中小産業復興第九〇小委員会(昭和21年~23年)を経て、昭和23年4月に現在の第118委員会として発足した。委員16名構成とした。 その他委員 磯部喜一、大塚一朗、小田橋貞寿、末松玄六、高宮晋、田杉競、豊崎稔、中西寅雄、中山素平、藤井茂、細野孝一、松井辰之助、美濃口時次郎、村本福松。 委員の構成(平成31年4月現在) 委員構成については、時代によって社会経済環境の変化に応じて編成が異なる。下記に事例として、平成10年代、平成20年代と10年単位で遡り記載する。 委員の構成(平成18年) 委員の構成(平成24年) 経営学は多くの資格試験や公務員採用試験の受験科目となっている。下記に代表的な事例を記載する。 公共経営学は公共経営(英: public management)を研究する学問である。すなわち、行政組織や非営利組織の効率的運営を研究する学問である。経営学の一種であり、同時に行政学の一種でもある。
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経営学(けいえいがく)は、経営に関する学問。経営管理も参照。
'''経営学'''(けいえいがく)は、経営に関する学問。[[経営管理]]も参照。 == 定義 == === 効率的な組織運営を考える学問 === '''経営学'''とは「常に変化する内外の環境において組織をいかに効率的に運営するか」を解明する[[学問]]である。その対象は今日では広く、[[企業]]だけでなく、官庁組織、[[学校]]その他一般に[[組織 (社会科学)|組織]]といわれるものすべてを含むと考えられる。 === 企業を対象とする領域学 === '''経営学'''とは、「企業」という特定の[[領域 (国家)|領域]]を対象とする領域学のことである。「領域学」とは、[[経済学]]・[[社会学]]・[[心理学]]などのように、特定の限られた変数群と一定の理論的枠組みとを用いて、対象[[世界]]に接近する「[[ディシプリン]]{{要曖昧さ回避|date= 2020年12月24日 (木) 23:01 (UTC)}}」の学問ではなく、[[教育学]]や[[宗教学]]と同じように、変数群や理論的枠組みを特定化するのではなく、むしろ対象世界を特定化して、それに対して多面的に接近する学問であることをいう。その領域学としての経営学の対象は、企業である。企業は形式的には生産の担い手であるといわれるが、[[生産]]という言葉のなかには、[[財]]・[[サービス]]をつくるという[[意味]]はもとより、新しい知識を生み出す、[[イノベーション]](経営革新)といった意味合いもまた含まれている。 == 狭義の経営学に内包される2領域 == 狭義の経営学としては組織体の効率効果的な運営のための長期的視野に立った理論の構築を目的とする学問と捉えられるため、その際は[[会計学]]や[[マーケティング]]などの分野は除外される。 {{要出典|範囲= 経営学の問題意識を明白にするためには、次の2つのことが必要となる。|date= 2020年12月24日 (木) 23:01 (UTC)}} *[[ビジョン]]達成に向けて、企業(およびそのほかの組織体)の組織構造とその機能をどのように設計すればよいか、その方法論や根拠などを明らかにすること。…'''マクロ組織論'''は、こういった目的意識を[[共有]]する経営理論の分野である。古くは[[プリンシパル=エージェント理論|エージェンシー理論]]、近年では[[スチュワードシップ理論]]などがこの領域では有名。[[コーポレート・ガバナンス]]などへの応用が進んでいる。 * ビジョン達成を目的とした、持続的な競争優位を確立するためのアクション・プラン設計方法やその根拠などを明らかにすること。…'''経営戦略論'''が、こういった目的意識を共通のメインテーマとしている。経営戦略論には、全社戦略論と競争戦略論の2つの領域がある。前者の全社戦略論では、[[オリバー・ウィリアムソン]]や[[ロナルド・コース]]らが理論化に尽力した[[取引費用理論]]、[[金融工学]]のオプション価格理論にルーツを持つ[[リアル・オプション理論]]といった理論などが有名。後者の競争戦略論では[[マイケル・ポーター]]が理論化したポジショニング理論や[[ジェイ・B・バーニー]]のリソース・ベースド・ビューなどが実務でしばしば用いられている。 {{要出典|範囲= [[日本]]では、マクロ組織論、経営戦略論の2つをまとめて経営学と呼ぶ学問体系が確立している。|date= 2020年12月24日 (木) 23:01 (UTC)}}日本で初めて経営学の概念を提唱したのは、商工経営学と名付けた[[上田貞次郎]][[東京商科大学 (旧制)#高商・東京高商時代|東京高等商業学校]](現・[[一橋大学]])教授とされる<ref>[https://www.b.kobe-u.ac.jp/coe/images/kagono.pdf] - [[神戸大学]]</ref>。 == 学際的な学問としての経営学 == [[経済学]]では、各主体([[個人]]・[[企業]]、およびそのほかの組織体)の行動が[[市場経済|市場原理]]にゆだねられた場合の帰結(均衡)と、そこでの資源配分の効率性や社会的総余剰の適切さについて分析したり、社会システムの構造を物象化の機序を明らかにしつつそこに生起する論理と動態を明らかにすることに重点が置かる。 それに対し、経営学は、いかにすれば企業(およびそのほかの組織体)がその業績や効率性を向上させることが出来るかを明らかにしようとする<ref>Caves, 1984</ref>。つまり、社会全体を見るか・一組織を見るかの違いであり経済学的アプローチではミクロ経済学の範疇であると、かつては考えられていた。 また、同じ「企業」を観察する場合でも、経済学では各企業が合理的な行動をとった場合にどのような状態が現出するかを考察することが多く、経営学では企業がどのような行動をとることが合理的かを考察する、などの違いがある<ref>高崎、1986{{full|date=2016-6-2}}</ref>。 以上のような学問的出発点の違いから、経営学では個々の企業間の差異が注目されるのに対し、(特に新古典派の)経済学ではその差異にはあまり注意が払われない場合が多い<ref>Nelson, 1994</ref>。 ただし、[[1980年]]代以降、経営学分野で経済学理論を基礎とした領域が発達したり([[マイケル・ポーター]]、[[伊丹敬之]]等)、経済学でも企業・組織のメカニズムや効率性を分析する領域([[産業組織論|企業経済学]]・組織の経済学など)が発達していることから、両者の違いは以前ほど明確ではなくなってきている(事実、アメリカの[[ビジネススクール]]には経営学者と経済学者が混在している)。 とは言え、経営学は「'''領域'''」の学問と言われるように、社会学的手法を用いた分野([[マーケティング]]など)や、[[社会心理学]]的手法を用いた分野([[労務管理論]]など)など手法横断的・学際的な発展をしており、数学を用いた社会分析に特化し続けている(「[[ディシプリン]]」としての学問)経済学とは一線を画している。最近の[[経営学者]]・[[経済学者]]には、この点を両者の相違としている者も多い。 == 学術の動向 == * 1926年、[[神戸商業大学 (旧制)|神戸高等商業学校]](現在の[[神戸大学]])で「經營学」という名称の授業科目が開講した。 * 1926年、[[日本経営学会]]が創設された。 * 1951年、日本で初めて経営学博士が授与されたのは[[平井泰太郎]](授与機関は[[神戸大学]])である。 * 1962年、我が国最古のビジネススクールである慶應義塾大学ビジネススクールが慶應義塾大学産業研究所 (KEO) より分離独立した。 == 日本学術会議 == 25期 経営学委員会 (3名) 令和2年10月現在 {| class="wikitable" ! 構成員 ! 所属・職名 ! 備考 ! 主な経歴等 |- | 委員長 [[西尾チヅル]] | 筑波大学ビジネスサイエンス系教授 | 第一部会員 | 東海大学大学院修了 |- | 副委員長 [[野口晃弘]] | 名古屋大学大学院経済学研究科教授 | 第一部会員 | 一橋大学大学院修了 |- | 幹事 [[原拓志]] | 関西大学商学部教授 | 第一部会員 | 神戸大学大学院修了 |} 24期 経営学委員会 (3名) 平成30年4月25日現在 {| class="wikitable" ! 構成員 ! 所属・職名 ! 備考 ! 主な経歴等 |- | 委員長 [[徳賀芳弘]] | 京都大学経営管理研究部教授・京都大学大学院経済学研究科教授、京都大学副学長 | 第一部会員 | 九州大学大学院修了 |- | 副委員長 [[上林憲雄]] | 神戸大学大学院経営学研究科長・経営学部長・教授 | 第一部会員 | 神戸大学大学院修了 |- | 幹事 西尾チヅル | 筑波大学ビジネスサイエンス系教授 | 第一部会員 | 東海大学大学院修了 |} == 日本学術振興会産学協力研究委員会 == === 経営問題108委員会 === 1947年、[[日本学術振興会]]が経営問題108委員会を設立した。学界委員と産業界委員が連携して活動している。 下記に事例として、2012年における日本学術振興会産学協力研究員会 経営問題108委員会委員構成を取り上げる。 {| class="wikitable" ! 委員長 ! 所属機関 ! 備考(主な経歴等) |- ! [[小松章]] ! 武蔵野大学政治経済学部教授 ! 一橋大学教授、一橋大学大学院修了 |- |} {| class="wikitable" ! 運営幹事 ! 所属機関 ! 備考(主な経歴等) |- ! [[上林憲雄]] ! 神戸大学大学院経営学研究科教授 ! 日本経営学会理事長、神戸大学大学院修了 |- |} {| class="wikitable" ! 顧問 ! 所属機関 ! 備考(主な経歴等) |- ! [[柴川林也]] ! 一橋大学名誉教授 ! 一橋大学教授、日本経営財務研究学会会長、一橋大学大学院修了 |- ! 増地昭男 ! [[成蹊大学]]名誉教授 ! 一橋大学大学院修了 |- ! 村松司淑 ! 成蹊大学名誉教授 ! 一橋大学大学院修了 |- |} {| class="wikitable" ! 産業界委員 ! 所属機関 |- ! [[大原謙一郎]] ! 公益財団法人[[大原美術館]]理事長 |- ! 岡本隆明 ! 株式会社山方永寿堂代表取締役社長 |- ! 正田繁 ! ファイナンシャルブリッジ株式会社取締役 |- ! 杉本守孝 ! 一般社団法人[[日本能率協会]]経営研究主幹 |- ! 高橋弘行 ! 一般社団法人[[日本経済団体連合会]]労働政策本部長 |- ! [[楢原誠慈]] ! [[東洋紡株式会社]]取締役・執行役員 |- ! 成瀬健生 ! [[東京経営者協会]]理事 |- ! 古山徹 ! 日経メディアマーケティング株式会社 |- ! 牧貞夫 ! NTT都市開発株式会社代表取締役副社長 |- ! 村上賢治 ! 株式会社日本経済新聞デジタルメディア |- |} {| class="wikitable" ! 学界委員 ! 所属機関 ! 備考(主な経歴等) |- ! [[赤岡功]] ! [[県立広島大学]]理事長・学長 ! [[京都大学]]副学長、京都大学大学院修了 |- ! 浅井澄子 ! [[大妻女子大学]]社会情報学部教授 ! |- ! 市村誠 ! [[中央大学]]商学部准教授 ! |- ! [[岩城秀樹]] ! [[京都産業大学]]経営学部教授 ! 京都大学教授、一橋大学大学院商学研究科博士課程 |- ! 岡崎利美 ! [[追手門学院大学]]経営学部准教授 ! 神戸大学大学院修了 |- ! 柿崎洋一 ! [[東洋大学]]常務理事・経営学部教授 ! |- ! 上林憲雄 ! 神戸大学大学院経営学研究科教授 ! 日本経営学会理事長、神戸大学大学院修了 |- ! 岸田民樹 ! [[名古屋大学]]大学院経済学研究科教授 ! 一橋大学大学院修了 |- ! 河野大機 ! 東洋大学経営学部教授 ! 一橋大学大学院修了 |- ! 小松章 ! 武蔵野大学政治経済学部教授 ! 一橋大学教授、一橋大学大学院修了 |- ! 佐藤善信 ! [[関西学院大学]]専門職大学院経営戦略研究科教授 ! |- ! 高浦康有 ! [[東北大学]]大学院経済学研究科准教授 ! 一橋大学大学院修了 |- ! [[田中一弘_(経営学者)]] ! 一橋大学大学院商学研究科教授 ! 神戸大学大学院経営学研究科助教授、一橋大学大学院修了 |- ! [[中井透]] ! 京都産業大学経営学部教授 ! 京都産業大学副学長、慶應義塾大学大学院修了 |- ! 平野光俊 ! 神戸大学大学院経営学研究科教授 ! 神戸大学大学院修了 |- ! 福井直人 ! [[北九州市立大学]]経済学部准教授 ! 神戸大学大学院修了 |- ! 松尾睦 ! 神戸大学大学院経営学研究科教授 ! |- ! 三輪晋也 ! [[国士舘大学]]政経学部教授 ! 一橋大学大学院修了 |- ! [[吉原英樹]] ! 神戸大学名誉教授 ! 神戸大学大学院修了 |- |} === 産業構造・中小企業第118委員会 === [[日本学術振興会]]は産学協力研究委員会として産業構造・中小企業第118委員会を擁している。日本学術振興会産業構造・中小企業第118委員会は日本における中小企業研究の中核的な組織である。戦前から活動してきた日本学術振興会第23(中小工業)小委員会に端を発している。日本学術振興会第三常置委員会に中小工業に関する研究を行う第二三小委員会を設置することとなる。昭和13年11月4日、第一回会議(如水会)で招集され、上田貞次郎委員長、 [[山中篤太郎]]幹事体制となる。 第23小委員会 {| class="wikitable" ! 期間 ! 委員長 ! 備考(主な経歴等) |- | 昭和13年~15年 | 上田貞次郎 | 東京商科大学(現一橋大学)学長 |- | 昭和15年~18年 | [[滝谷善一]] | 神戸商業大学(現神戸大学)教授、日本経営学会初代理事長 |} 第二三委員会は、国民経済構造第七七小委員会(昭和20年~22年)、中小産業復興第九〇小委員会(昭和21年~23年)を経て、昭和23年4月に現在の第118委員会として発足した。委員16名構成とした。 {| class="wikitable" ! 氏名 ! 備考(主な経歴等) |- | 初代委員長 山中篤太郎 | 東京商科大学(現一橋大学)卒業、第3代一橋大学学長、日本中小企業学会初代会長 |- | 副委員長 [[藤田敬三]] | 京都帝国大学経済学部卒業、大阪経済大学第3代学長 |} その他委員 [[磯部喜一]]、大塚一朗、小田橋貞寿、[[末松玄六]]、[[高宮晋]]、[[田杉競]]、[[豊崎稔]]、[[中西寅雄]]、[[中山素平]]、[[藤井茂]]、細野孝一、松井辰之助、[[美濃口時次郎]]、[[村本福松]]。 {{Quotation|中小企業の本質を政策、経営の両面から多角的に分析することを目的としている。|産業構造・中小企業第118委員会 趣旨・目的<ref>[https://www.jsps.go.jp/j-soc/list/118.html 日本学術振興会産学協力研究委員会産業構造・中小企業第118委員会](参照2022.2.27)</ref>}} {| class="wikitable" ! 期間 ! 委員長 ! 備考(主な経歴等) |- | 平成29年4月1日~令和4年3月31日(5年間) | 堀潔 | [[日本中小企業学会]]副会長、桜美林大学教授、慶應義塾大学大学院修了 |} 委員の構成(平成31年4月現在) {| class="wikitable" ! 出身母体 ! 人数 |- | 学界 | 32名 |- | 産業界 | 4名 |- | 委員総数 | 36名 |} 委員構成については、時代によって社会経済環境の変化に応じて編成が異なる。下記に事例として、平成10年代、平成20年代と10年単位で遡り記載する。 委員の構成(平成18年) {| class="wikitable" ! 委員長 ! 備考(主な経歴等) |- | [[古川浩一]] | 岩手県立大学総合政策部教授、一橋大学大学院修了、元東京工業大学教授 |} {| class="wikitable" ! 出身母体 ! 人数 |- | 学界 | 23名 |- | 産業界 | 6名 |- | 委員総数 | 29名 |} 委員の構成(平成24年) {| class="wikitable" ! 委員長 ! 備考(主な経歴等) |- | [[港徹雄]] | 青山学院大学国際政治経済学部教授、大阪府立大学大学院修了、元日本中小企業学会会長 |} {| class="wikitable" ! 出身母体 ! 人数 |- | 学界 | 23名 |- | 産業界 | 7名 |- | 委員総数 | 30名 |} == 日本経営学会 == {{familytree/start}} {{familytree | | | | | | | | | | | 0A | 0A=<span style="font-size:smaller;">理事長}} {{familytree | | | | | | | |,|-|-|-|^|-|-|-|.| | | | | | | | }} {{familytree | | | | | | | 1A | | | | | |2B | | 1A=<span style="font-size:smaller;">西日本<br />主な大学:神戸大学、慶應義塾大学等</span>|2B=<span style="font-size:smaller;">東日本<br />主な大学:一橋大学、慶應義塾大学等</span>}} {{familytree/end}} * 日本経営学会理事長は平成初期まで一橋大学出身者と神戸大学出身者であった。 * 21世紀を迎える頃、慶應義塾大学出身者が一橋大学と神戸大学以外で初の理事長となる。 * 神戸大学経営学研究科・経営学部は公式サイトにて“地域別比較(神戸大学経営学研究科と一橋商学研究科の比較)<ref>[https://web.archive.org/web/20220331173528/https://b.kobe-u.ac.jp/about/factbook/ 研究者養成の実績](参照2022.3.31)</ref>”を掲示している。 == 進路 == 経営学は多くの資格試験や公務員採用試験の受験科目となっている。下記に代表的な事例を記載する。 === 資格試験 === * [[公認会計士・監査審査会]]が行う国家試験である[[公認会計士試験]]の受験科目である。 === 公務員採用試験 === * [[準キャリア]]と位置付けられている財務専門官採用試験の受験科目である。 * [[国税専門官]]採用試験の受験科目である。[[税務大学校]]での研修を経て国税専門官となる。国税専門官は勤務年数等の条件を充足すると税理士資格が付与される。 == 下位分野 == * [[経営戦略論]] * [[経営管理]] * [[M&A]] * [[資金調達]] * [[プライベート・エクイティ・ファンド]] * [[ベンチャーキャピタル]] * [[コーポレート・ガバナンス]] * [[キャッシュ・フロー経営]] * [[倫理学]] * [[ミクロ経済学]] * [[マクロ経済学]] * [[産業組織論]] * [[交渉|交渉術]] * [[マーケティング]] * [[組織論]] * [[人事労務管理|人的資源論]] * [[財務会計|財務会計論]] * [[管理会計論]] * [[原価計算]] * [[監査論]] * [[会社法]] * [[租税法]] * [[民法]] * [[経営史]] * [[技術経営|技術経営論]] * [[プロジェクトマネジメント]] * [[生産技術]] * [[品質工学]] * [[人間工学]] * [[ロジスティクス]] * [[金融工学]] * [[金融商品取引法]] * [[保険数理]] * [[計量経済学]] === 公共経営学 === '''公共経営学'''は公共経営({{lang-en-short|public management}}<ref>"公共経営(パブリック・マネジメント)" 明治大学. ''[https://www.meiji.ac.jp/keiei/department/public.html 公共経営学科]''. 公式HP. 2023-01-23閲覧.</ref>)を研究する学問である。すなわち、[[行政組織]]や[[非営利組織]]の効率的運営を研究する学問である<ref>"「公共経営(パブリック・マネジメント)」とは、非営利組織や行政組織に「経営」の発想を導入することでより戦略的かつ持続可能な運営を行っていくことです。" 明治大学. ''[https://www.meiji.ac.jp/keiei/department/public.html 公共経営学科]''. 公式HP. 2023-01-23閲覧.</ref>。経営学の一種であり、同時に[[行政学]]の一種でもある。 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * R.Caves著「Economic Analysis and the Quest for Competitive Advantage」(『[[American Economic Review]]』74号、1984年) * R.R.Nelson著「Why Do Firms Differ, and How does It Matter?」(R.P.Rumelt,D.Schendel,D.J.Teece編『Fundamental Issues in Strategy』Harvard Business School Press、1994年) * 神戸大学経済経営学会編著『ハンドブック経営学[改訂版]』、[[ミネルヴァ書房]]、2016/4/11。ISBN 978-4623076734。 * 上林憲雄編著『経営学の開拓者たち: 神戸大学経営学部の軌跡と挑戦』中央経済社 (2021年)。ISBN 978-4502377518 == 関連項目 == {{Wikibooks}} * [[アンリ・ファヨール]] -「管理原則の父」と称される。 * [[フレデリック・テイラー]] - 経営管理論の古典の一つである[[科学的管理法]]を提唱。 * [[ハーバート・サイモン]] *[[日本経営学会]](経営学領域における日本最古の学術団体であり、世界で2番目の学術団体) *[[組織学会]](組織科学領域における日本最大の学術団体) *[[日本中小企業学会]](日本の中小企業研究を代表する学術研究団体) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:けいえいかく}} [[Category:経営学|*]] [[Category:社会科学]] [[Category:企業]] [[Category:行政学]] [[Category:ビジネス]]
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池原しげと
池原 しげと(いけはら しげと、1952年2月26日 - )は、日本の男性漫画家。富山県入善町出身。 本名、池原成利(いけはら しげとし)。本名の他、池あや子(いけ あやこ)、原成(はら しげる)名義でも執筆している。血液型AB型。 中学の時に手塚治虫の『鉄腕アトム』に感動したのがきっかけで漫画を描き始める。 少年画報社に入社して営業職を2ヶ月務めた後、友人の誘いで1970年に手塚プロダクションに入社、手塚治虫のアシスタントを1年半ほど行う。その後、手塚プロでは『海のトリトン』『ふしぎなメルモ』で絵コンテの補佐としてアニメ制作にも携わる。その際、富野由悠季に絵コンテの描き方などを教わった。 手塚治虫と絵柄が似ているという理由で起用された手塚原作の『ふしぎなメルモ』(小学館学年誌)の代筆で、1971年に漫画家デビュー。1970年代前半には、学年誌で数々の特撮&アニメ作品のコミカライズを執筆しながら手塚治虫のアシスタントなど関係者で設立した企画者集団のひろみプロに参加して、『ミラクル少女リミットちゃん』『魔女っ子メグちゃん』といったテレビアニメの企画に関与した。 80年代以後、『冒険王』→『コミックボンボン』などにて執筆。主にロボットアニメなどテレビアニメのコミカライズものやファミコン等のテレビゲーム関連の作品を多く描く。『コミックボンボン』のマスコットキャラクターの爆弾マークは、池原がデザインしたものである。 特にロックマンシリーズを多数執筆しており、作品を重ねるごとに池原なりのキャラクターの掘り下げを行ったり、オリジナルストーリー(「甦るブルース」)を執筆したこともある。池原が描くロックマンのデザインは、初期は鉄腕アトムに似せていたが、カプコンのキャラクターイメージの共通化の意向により、シリーズ第7作『ロックマン Dr.ワイリーの陰謀』以降は元のゲームと同じ意匠に変更された。ロックマンシリーズを執筆する際は、必ずプレイして攻略法を確認している。単行本の巻末によれば、ゲーム自体は得意ではないらしく、先に自身の息子が攻略していることがあるという。また、『ロックマン3 Dr.ワイリーの最期!?』のボスキャラ公募の際、“ナパームマン”という名のボス(『ロックマン5 ブルースの罠!?』に登場する同名のボスとは別)を投稿したが、採用はされなかった。なおロックマンは企画段階では鉄腕アトムの版権を購入してゲームにする予定であった。
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池原 しげとは、日本の男性漫画家。富山県入善町出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 池原しげと | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 池原成利 | 生地 = {{JPN}} [[富山県]][[入善町]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1952|02|26}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1971年]] - | ジャンル = [[幼年漫画]]、[[スポーツ漫画]]([[ゴルフ]]) | 公式サイト = | 代表作 = 『[[魔女っ子メグちゃん]]』<br />『[[ファミコン風雲児]]』<br />『[[ロックマン (漫画)|ロックマンシリーズ]]』 }} '''池原 しげと'''(いけはら しげと、[[1952年]][[2月26日]] - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[富山県]][[入善町]]出身。 == 略歴 == 本名、'''池原成利'''(いけはら しげとし)。本名の他、'''池あや子'''(いけ あやこ)、'''原成'''(はら しげる)名義でも執筆している。血液型[[ABO式血液型|AB型]]。 中学の時に[[手塚治虫]]の『[[鉄腕アトム]]』に感動したのがきっかけで漫画を描き始める<ref>{{Cite web|和書|url=https://tezukaosamu.net/jp/mushi/entry/25167.html |title=私と手塚治虫 第1回 『鉄腕アトム』にあこがれて、手塚治虫を目指した少年 |access-date=2023-07-06 |publisher=手塚プロダクション}}</ref>。 [[少年画報社]]に入社して営業職を2ヶ月務めた後、友人の誘いで[[1970年]]に[[手塚プロダクション]]に入社、手塚治虫の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を1年半ほど行う。その後、手塚プロでは『[[海のトリトン]]』『[[ふしぎなメルモ]]』で[[絵コンテ]]の補佐としてアニメ制作にも携わる<ref name="megu">池原しげと『魔女っ子メグちゃん』[[イースト・プレス]]、2001年。巻末の池原しげとインタビューより</ref>。その際、[[富野由悠季]]に絵コンテの描き方などを教わった<ref name="CONTINUE"/>。 手塚治虫と絵柄が似ているという理由で起用された手塚原作の『ふしぎなメルモ』([[小学館の学年別学習雑誌|小学館学年誌]])の代筆で、[[1971年]]に漫画家デビュー<ref name="megu" />。[[1970年代]]前半には、学年誌で数々の特撮&アニメ作品のコミカライズを執筆しながら手塚治虫のアシスタントなど関係者で設立した企画者集団のひろみプロに参加して、『[[ミラクル少女リミットちゃん]]』『[[魔女っ子メグちゃん]]』といったテレビアニメの企画に関与した<ref>『魔女っ子大全集』p.68。</ref>。 80年代以後、『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』→『[[コミックボンボン]]』などにて執筆。主に[[ロボットアニメ]]など[[テレビアニメ]]のコミカライズものやファミコン等の[[テレビゲーム]]関連の作品を多く描く。『コミックボンボン』のマスコットキャラクターの爆弾マークは、池原がデザインしたものである<ref name="CONTINUE">『CONTINUE Vol.46』池原しげとインタビュー133-140ページ。</ref>。 特に[[ロックマンシリーズ]]を多数執筆しており、作品を重ねるごとに池原なりのキャラクターの掘り下げを行ったり、オリジナルストーリー(「甦るブルース」)を執筆したこともある。池原が描くロックマンのデザインは、初期は鉄腕アトムに似せていたが、[[カプコン]]のキャラクターイメージの共通化の意向により、シリーズ第7作『ロックマン Dr.ワイリーの陰謀』以降は元のゲームと同じ意匠に変更された<ref name="CONTINUE"/>。ロックマンシリーズを執筆する際は、必ずプレイして攻略法を確認している。単行本の巻末によれば、ゲーム自体は得意ではないらしく、先に自身の息子が攻略していることがあるという。また、『[[ロックマン3 Dr.ワイリーの最期!?]]』のボスキャラ公募の際、“ナパームマン”という名のボス(『[[ロックマン5 ブルースの罠!?]]』に登場する同名のボスとは別)を投稿したが、採用はされなかった。なおロックマンは企画段階では[[鉄腕アトム]]の版権を購入してゲームにする予定であった。 == 作品リスト == === 漫画 === * 氷上のプリンセス(子供の光 1972年) * ちぎれ雲の詩(中二時代) * [[ふしぎなメルモ]](小学一年生 1972年1月号-1973年3月号連載)、(虫プロ商事「月刊れお」での「ふしぎなメルモ」の代筆も)。 * [[鉄腕アトム]](小学三年生 1972年7月号) * [[サンダーマスク]](小学館BOOK、小学一年生 1972年11月号-1973年3月号〈原成 名義〉、小学三年生 1972年11月号-1973年3月号、小学四年生 1972年11月号-1973年3月号連載) * [[快傑ライオン丸]](小学六年生 1972年5月号 - 1973年3月号連載〈原成 名義〉) * [[行け!ゴッドマン]](おともだち 1972年 - 1973年) * [[ミラクル少女リミットちゃん]](小学一年生、小学三年生 1973年連載)<ref>ひろみプロ原作のテレビアニメのコミカライズ作品。テレビアニメ版の企画書には、原作が「池原成利とひろみプロ」と記されていた(『魔女っ子大全集』p.68)。</ref> * [[ファイヤーマン]](小学二年生 1973年1月号-8月号連載) * [[ジャンボーグA]](小学四年生 1973年4月号-12月号連載〈4月号のみ原成 名義〉) * [[ウルトラマンタロウ]](小学館BOOK 1973年連載) * わんぱくミューたん(小学一年生1973年連載) * [[ワンサくん]](小学二年生1973年5月号-9月号連載、小学三年生1973年5月号-9月号連載) * [[プルルくん]](よいこ ) * [[宇宙戦艦ヤマト]](小学四年生 1974年10月号-1975年3月号連載) * [[魔女っ子メグちゃん]]([[希望の友]]、小学館学年誌 1975年連載) * [[ザ・カゲスター]](小学二年生 1976年4月号-8月号連載) * [[ジェッターマルス]](原作:手塚治虫、[[テレビランド]] 1976年連載) * [[超人戦隊バラタック]]([[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]連載) * [[SF西遊記スタージンガー]](冒険王 1979年連載) * [[フルーツケンちゃん]](小学三年生 1976年4月号-1977年3月号連載) * [[パン屋のケンちゃん]](小学三年生 1977年4月号-1978年3月号連載) * [[スポーツケンちゃん]](小学三年生 1978年4月号-1979年3月号連載) * [[カレー屋ケンちゃん]](小学三年生 1979年4月号-1980年3月号連載) * [[ザ☆ウルトラマン]]([[テレビマガジン]] 1979年4月号-1980年3月号連載) * [[宇宙空母ブルーノア]](テレビランド 1979年11月号-1980年4月号連載) * [[ウルトラマン80]](テレビマガジン 1980年4月号-1981年4月号連載) * [[燃えろアーサー]]白馬の王子(テレビランド 1980年6月号-9月号連載) * [[帝国の逆襲|スター・ウォーズ 帝国の逆襲]]([[テレビランド]] 1980年9月号-11月号連載) * ねこのちっぽくん(1970年代前半の「[[科学と学習|1・2年の学習]]」連載) * [[ミクロマン]](冒険王連載) * [[ファミコン風雲児]] ** ファミコン風雲児 対 ファミ拳リュウ - [[ほしの竜一]]との合作、『[[ファミ拳リュウ]]』との[[クロスオーバー作品]] * [[ロックンゲームボーイ]] * [[機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争]] * [[重戦機エルガイム]] * [[聖戦士ダンバイン]] * [[伝説巨神イデオン]] * プロゴルファー一条一也 * [[ロックマン (漫画)|ロックマンシリーズ]] ** [[ロックマン (ゲーム)|ロックマン]] ** ロックマン Dr.ワイリーの陰謀([[ロックマン2 Dr.ワイリーの謎]]の漫画化) ** [[ロックマン4 新たなる野望!!|ロックマン4]] ** [[ロックマン5 ブルースの罠!?|ロックマン5]] ** [[ロックマン6 史上最大の戦い!!|ロックマン6]] ** [[ロックマン7 宿命の対決!|ロックマン7]] ** [[ロックマンワールド]] ** [[ロックマンワールド2]] ** [[ロックマンワールド3]] ** [[ロックマン 甦るブルース]] * [[ロックマンXシリーズ]] ** [[イレギュラーハンターロックマンX]] *君がいた夏 〜沖縄高校野球物語〜(2001年 [[沖縄タイムス]] 原作:[[高屋敷英夫]]) * コミック版 [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] 液晶 執念の対決〈瀬戸際のリーダー〉大勝負 * コミック版 [[その時歴史が動いた]] ミステリー大化改新 *ハンノッキの冒険 (2003年 [[入善町]])  * 武藤俊憲のシンキングゴルフ(構:坂本静児) * コミカライズ版『[[海底超特急マリンエクスプレス|マリン・エクスプレス]]』全3巻 ※ 原作:手塚治虫の長編TVアニメの漫画化。 * なんにもするな([[ゴルフレッスンコミック]]) * [[ぱいどん]](背景担当、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]2020年13、20号)<ref>{{Cite news |title=AIにマンガは作れるのか?「TEZUKA2020」から生まれた読み切り「ぱいどん」 |newspaper=コミックナタリー |date=2020-02.-27 |url=https://natalie.mu/comic/news/368891 |accessdate=2020-06-18 |publisher=ナターシャ }}</ref> === Webコミック === *ムッシュAKASHI(原案:森田清) === アニメ === *[[ふしぎなメルモ]](絵コンテ、演出) *[[海のトリトン]](絵コンテ) *[[超人戦隊バラタック]](原作、キャラクター原案) ===広告=== *[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]グループ「150 YEARS」(1960年代パートイラスト) == 参考文献 == *『魔女っ子大全集 東映動画篇』[[バンダイ]]、1993年 == 外部リンク == * [https://tezukaosamu.net/jp/mushi/tag.html?tag=池原しげと 池原しげと|虫ん坊|手塚治虫TEZUKA OSAMU OFFICIAL] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:いけはら しけと}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:手塚プロダクションの人物]] [[Category:富山県出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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いしいひさいち
いしい ひさいち(本名:石井 壽一(読み同じ)、男性、1951年〈昭和26年〉9月2日 - )は、日本の漫画家である。最長期作品は『ののちゃん』、代表作は『がんばれ!!タブチくん!!』である。編集プロダクション「チャンネルゼロ」監査役。 新聞連載や4コマ漫画を中心として活動。一方でいわゆる「新聞漫画」「風刺画」を基調とせず、プロ野球、政治、経済、時事問題、推理小説、哲学、時代劇、学生の貧乏生活、庶民の家庭生活など多岐に渡るテーマを扱い、極度にデフォルメされたキャラクターと過激な皮肉、ナンセンスや解読困難な展開など独特な世界観を提供する。 第31回文藝春秋漫画賞、第7回手塚治虫文化賞短編賞、第32回日本漫画家協会賞大賞、第54回菊池寛賞を受賞。「タブチくん!!」を始めアニメ化もされている。 岡山県玉野市(宇野)築港出身。岡山県立玉野高等学校2年生の時、漫画研究会発足時に誘われて会員となる。高校時代には虫プロ商事の漫画雑誌『COM』の読者投稿コーナー「ぐら・こん 基礎コース」に応募し、2度にわたって入選している。 1970年(昭和45年)に関西大学に進学し、漫画同好会に入会。当時は大阪府大阪市東淀川区下新庄に下宿した。1972年(昭和47年)、大学在学中に関西ローカルのアルバイト情報誌『日刊アルバイト情報』にて「oh!バイトくん」でデビュー。戦旗派から新右翼に移行した小説家の見沢知廉『背徳の方程式』によると、元解放派であったという。 1975年(昭和50年)には、大学時代の仲間の峯正澄、レオナルド・いもらと「チャンネルゼロ工房」を結成し、同人誌「チャンネルゼロ」を刊行する。同年3月、5年かかって関西大学社会学部を卒業、漫画家となる道を選ぶ。「チャンネルゼロ工房」で発行した自費出版単行本『Oh!バイトくん』が評判となり、1977年(昭和52年)にプレイガイドジャーナル社から初の単行本『バイトくん』が発売。その後、高信太郎の紹介で三流劇画誌『漫画大快楽』(檸檬社)1978年7月号に掲載した「おじゃ漫むし」で商業誌デビューする。また『漫画アクション』(双葉社)に連載していた「くるくるパーティー」からのセレクト版として、1979年(昭和54年)に代表作で、当時プロ野球選手だった田淵幸一をモデルとした『がんばれ!!タブチくん!!』が刊行され、アニメ映画化された。 いしいひさいち作品のヒットによりチャンネルゼロは1980年から1981年にかけて季刊漫画誌の『漫金超』(まんがゴールデンスーパーデラックス)を刊行。本誌は強い個性を持つ既成作家や同人作家を集めて紙面を構成されており、ニューウェーブ漫画家を多数起用した。 1980年(昭和55年)には、いしいの初期の多数の4コマ漫画作品が原作の『おじゃまんが山田くん』がテレビアニメ化。1981年(昭和56年)にはアニメ映画化もされ、1984年(昭和59年)には『元祖おじゃまんが山田くん』として実写ドラマ化もされた。 1999年(平成11年)には朝日新聞朝刊に掲載されている『となりのやまだ君』が『ホーホケキョ となりの山田くん』としてスタジオジブリで映画化。 1985年(昭和60年)、文藝春秋漫画賞を受賞。2003年(平成15年)、『現代思想の遭難者たち』(講談社)、『ののちゃん』(朝日新聞朝刊連載)など一連の作品に対して、第7回手塚治虫文化賞 短編賞を受賞。第32回(2003年(平成15年)度)日本漫画家協会賞大賞を受賞。2006年(平成18年)、菊池寛賞を受賞。 2009年(平成21年)11月21日より病気療養に入り、全ての連載が休載となった。その後体調が回復したため、2010年(平成22年)3月1日より朝日新聞の連載を再開させるなど、一部の仕事について復帰した。それ以後、連載は『ののちゃん』のみとなっていたが、2020年(令和2年)6月より『小説新潮』にて新連載『剽窃新潮』を開始した。 2022年(令和4年)8月、公式サイトや『ののちゃん』内で掲載していた「吉川ロカ」というキャラクターのエピソードをまとめた単行本『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を刊行。自費出版ながら同年の「このマンガを読め!」で1位となり、各メディアでも好意的に取り上げられるなど話題作となった。 極端なマスコミ嫌い・人嫌いで、顔写真が公開されたのは『週刊明星』1979年9/30・10/7合併号と、文藝春秋漫画賞を受賞した1985年(昭和60年)に『夕刊フジ』(同年5月30日付)・『週刊文春』6月6日号に三度だけ露出したのみ。『となりの山田くん』映画化時は記者会見に出ないということが映画化を許諾する際の条件だったため代わりに『ホットケヨとりなしの山田くん 山田くんガイドブック』という小冊子を配った。漫画賞を受賞しても授賞式にも登場することはなく、代理人が出席している。サイン会も1985年(昭和60年)、『鏡の国の戦争』刊行時に2度おこなっただけである。 また、漫画家とのつきあいも少なく、漫画家になってから実際に会ったことのある漫画家は大友克洋・西村宗・高橋春男の3人だけであると記している。 デビューからしばらくの間は、自宅の電話機を常に冷蔵庫の中に入れていたという逸話もある。マスコミにほとんど露出しないため、奇人・偏屈イメージがあるが、実像は社交家でこそないものの、穏やかな物腰で人と接することのできる普通の人物である。寡黙ではあり、大友克洋は、大阪のチャンネルゼロまで赴いて面会した折に本人より周囲のチャンネルゼロの人間とばかり会話したような気がすると証言している。 かつては、自身の単行本に「解説」をつけられるのを嫌っており、デビュー単行本『バイトくん』(村上知彦と高信太郎が解説)以外には、解説がなかった。だが、近年刊行されている「ひさいち文庫」には解説がつけられるようになり、各界のいしいファンが寄稿している。 『がんばれ!!タブチくん!!』がヒットしていた頃、「いしい作品のモデルになった者は、皆不幸になる」という話が、学生時代を中心とした作者の交友関係者の周辺で、まことしやかに語られたこともあった。人前に出ないのは皮肉の対象人物からの報復を恐れているからだとする噂もあり、実際単行本の作者紹介欄には、「敵が多く、引越しを繰り返している」と書かれているものがある。ただし、モデルになった田淵幸一は大らかな性格で、『タブチくん!!』の愛読者だったと伝えられている。なお、いしい本人の『タブチくん!!』に対しての意識は、2003年(平成15年)のタイガースの優勝に際し「アンチ阪神を続けるあまりファンかアンチかわからなくなってきた」というコメントを寄せている。 漫画家デビュー以来現在までに大阪府大阪市東淀川区(既述)、兵庫県神戸市東灘区渦森台、神奈川県鎌倉市などに在住。自分で本を購入する習慣がなく、引越しをする際の条件に「図書館が近所にあるか」を盛り込むほどの「図書館ヘビーユーザー」を自称している。 ヴィジュアル系ロックバンドcali≠gariが好きと自身のコラムで語っており、『ののちゃん』第2492回でものぼるが「君が咲く山」を聴いて“壊れる”場面がある。他にGARNET CROWなども挙げる。「ののちゃん」連載内連載「ROCA」で主題となっているファドは、自身の音楽的嗜好である。 2012年(平成24年)に出版された書籍に収録した自筆の文章によれば、これまで出会った漫画作品のベスト3に安部慎一の『無頼の面影』、鈴木翁二の『夢は方南に在り』、楠勝平の『てっぺんかけたか』を挙げており、すべて『ガロ』の作家となっている(生涯ベスト単行本には楠勝平の『おせん』をあげている)。また現役の4コマ漫画では植田まさしの『コボちゃん』と、小坂俊史の作品に注目しているという。 古本の売買については、自作品に自身のキャラクターを登場させ「いろんな人によんでもらえる方が、まんが家としてはすてられるよりは良いですが」と語らせている。 妻はヤクルト本社のノンキャリアOLであった女性で、1985年(昭和60年)に結婚。作中において自身の妻は「ののちゃん」の猫久保さんに似ているキャラクターで描かれる。 実在の政治家を始めとする人物、流行、事象、組織社会、地域社会、家族、地域差、生活習慣などの幅広いジャンルを読者が持つ多様な共通理解と巧みに掛け合わせて風刺し、シニカルに笑わせる作品が多い。同時に「何でも噛み付く」とまでいわれるほどあらゆる事象に対し批判精神を忘れない。 ビル・クリントンは「ビル・フリチントン」と書かれ、高橋由伸の顔はへのへのもへじとして描かれる。また、石原伸晃の顔はひょっとことして描かれる。 政治風刺漫画では、志位和夫が一度登場している。 実在する人物を描く際、わかりやすい特徴をとらえて前面に押し出す。例として宮澤喜一が挙げられる。いしいは宮澤を、背もたれに腕を乗せて体を斜めにして座った姿で描くが、これは宮澤自身の癖がそのまま出ている。 いしいの作品は台詞もすべて描き文字となっているが、「やむを得ない」を「やもうえない」と表現する、「しつこい」を「ひつこい」と表記するという特徴がある。 「いしいひさいちの登場以前、4コマ漫画は『起承転結』が基本であったが、いしいは自作でその既成概念を破壊した」という評論に対し、いしいは自著で「誤解です」と答えている。いしいによれば、そもそも4コマ漫画に起承転結というセオリーはなく、あるとすれば観念的な読者の認識のフレームではないかとしている。同様の理由で、いわゆる萌え4コマ(日常系4コマ)を「オチが弱い」という理由で批判するのはおかしいと指摘している。 いしいが実在の人物をもとに創作した「タブチくん」などのキャラクターは、しばしばモデルとなった人物の枠を越えて自律し、モデルの人物とは直接関係のないキャラクターとして他の作品に登場するスターシステムとして使われている。 広岡達朗を例にあげると、「わたしはネコである」ではバイトくんのキャラクターの何人かとともに、安田猛を編集者とする高慢な作家「広岡達三」として、時代劇ものでは「大山田藩(10万石)の筆頭家老、広岡刑部」として登場し、江戸屋敷の家老である野村(野村克也)とは勢力争いを展開している。 また読売新聞主筆渡邊恒雄は、町内会長ナベツネツネオ(その実体は超人ワンマンマン)として「ののちゃん」に登場し、読売トップが朝日連載マンガの準レギュラー化するという事態に至った。この渡邊、広岡以外にも中曽根康弘、金正日など当初は悪意をこめて描かれていた人間が長期化するうちに不思議な愛嬌をおびてくるという現象も顕著である。 また、ののちゃんの同級生の少年探偵ミヤベくん(推理作家の宮部みゆきがモデル)のように、似顔絵キャラクター(この場合だと女流推理作家役など)を経ずに起用することもある。ただし、ミヤベくんは後から別の作品で(まったく同じ顔で)女流作家役としても起用された。 さらに著名人に留まらず、ヤクルトスワローズ私設応援団長をしていた岡田正泰まで登場させている。 別の作品に同一キャラクターを登場させることが多い。前述の実在人の他、キクチくん、三宅さん、クボくん、スズキくん、藤原センセ、猫久保さん(広岡の家政婦など)など多数の例がある。自身をモデルにしたキャラクターを作品に登場させる場合は、「バイトくん」の主人公であるキクチくんの絵柄でほぼ一貫している。東日本大震災の前は、いしい被災地というネーミングで登場したことも多かった。 また、作品には意味の分からない・分かりにくいオチの作品も多いが、筆者であるいしい自身も下書きや作品を何度読んでも意味が分からない作品も多数あるらしい。『となりのやまだ君』では『となりのののちゃん』(東京創元社)巻末にて自身も意味の分からなくなった一作品のオチの意味を読者に尋ねたり、『ののちゃん』の一作品では公式ホームページ上で自ら解説を行ったこともある。また単行本を出す際には、作者本人が作品を厳選、時に訂正や加筆を行っていることがひさいち文庫内において明らかにされている。ただし、徳間書店の単行本『山田くん全集』と『ののちゃん全集』においては、作品セレクトをやめて連載完全収録に踏み切り、長年の友人である村上知彦に心境の変化を指摘された。
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いしい ひさいちは、日本の漫画家である。最長期作品は『ののちゃん』、代表作は『がんばれ!!タブチくん!!』である。編集プロダクション「チャンネルゼロ」監査役。
{{複数の問題 |出典の明記 = 2021年1月11日 (月) 20:00 (UTC) |参照方法 = 2021年1月11日 (月) 20:00 (UTC) |独自研究 = 2021年1月11日 (月) 20:00 (UTC) }} {{Infobox 漫画家 | 名前 = いしい ひさいち | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 石井 壽一(読み同じ) | 生地 = {{JPN}}・[[岡山県]][[玉野市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1951|09|02}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1951|09|02|xxxx|yy|bb}} --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1972年]] - | ジャンル = [[4コマ漫画]] | 代表作 = 『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』<br/>『[[ののちゃん]]』 | 受賞 = 第31回[[文藝春秋漫画賞]]<br/>第7回[[手塚治虫文化賞]]短編賞<br/>第32回[[日本漫画家協会賞]]大賞<br/>第54回[[菊池寛賞]] | 公式サイト = [http://www.ishii-shoten.com/ (笑)いしい商店 公式サイト] {{ja icon}} }} '''いしい ひさいち'''(本名:'''石井 壽一'''(読み同じ)、男性、[[1951年]]〈[[昭和]]26年〉[[9月2日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]である。最長期作品は『[[ののちゃん]]』、代表作は『[[がんばれ!!タブチくん!!]]』である。編集プロダクション「チャンネルゼロ」監査役。 == 概説 == 新聞連載や[[4コマ漫画]]を中心として活動。一方でいわゆる「新聞漫画」「風刺画」を基調とせず、[[日本プロ野球|プロ野球]]、[[政治]]、[[経済]]、[[時事問題]]、[[推理小説]]、[[哲学]]、[[時代劇]]、学生の貧乏生活、庶民の[[家庭]]生活など多岐に渡るテーマを扱い、極度にデフォルメされたキャラクターと過激な皮肉、[[ナンセンス]]や解読困難な展開など独特な世界観を提供する。 第31回[[文藝春秋漫画賞]]、第7回[[手塚治虫文化賞]]短編賞、第32回[[日本漫画家協会賞]]大賞、第54回[[菊池寛賞]]を受賞。「タブチくん!!」を始めアニメ化もされている。 == 来歴 == [[File:UnoPort is looked at east.JPG|thumb|right|320px|出身地宇野は「ののちゃん」の舞台によく似ている。自身の博物館ともいえる「ののちゃんち」があり、いしいは市の広報にも連載している。]] [[岡山県]][[玉野市]](宇野)築港<ref>[http://nonochan.net/ ののちゃんち]</ref><ref>『朝日新聞』朝刊2017年11月14日に掲載された、[[三井造船]]の100周年と持ち株会社移行見開き広告に、「ののちゃん」キャラクターが登場する4コマ漫画を特別寄稿した。三井造船玉野事業所に父、伯父、叔父、従兄弟など親族が勤めていたとの回想を付記している。</ref>出身。[[岡山県立玉野高等学校]]2年生の時、漫画研究会発足時に誘われて会員となる<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.11、184。いしいによると「絵がうまい」という理由で誘われたとのこと。</ref>。高校時代には虫プロ商事の漫画雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』の読者投稿コーナー「[[COM (雑誌)#ぐら・こん|ぐら・こん 基礎コース]]」に応募し、2度にわたって入選している<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.12、185。いしいによると「まわりにおだてられて」投稿したとのこと。また、当時の担当だった[[大野豊 (漫画家)|大野豊]]による選出だったが、[[やなせたかし]]に担当が変わってからは選出されなかったという。</ref>。 1970年(昭和45年)に[[関西大学]]に進学し、漫画同好会に入会。当時は[[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]][[下新庄]]に下宿した<ref>[https://www.oml.city.osaka.lg.jp/index.php?key=jo3e12a4j-510 【東淀川】「いしいひさいち」展 9月1日から10月31日まで] - [[大阪市立図書館]](2015年8月31日)</ref><ref>当時居住したアパートは、『バイトくん』に登場する「仲野荘」のモデルとなり、[[2012年]](平成24年)[[現在]]も現存していた(『[総特集]いしいひさいち』p.4)。同書にはその後仕事場として借りていた別のアパートも紹介されている。</ref>。1972年(昭和47年)、大学在学中に[[関西]]ローカルのアルバイト情報誌『日刊アルバイト情報』にて「[[バイトくん|oh!バイトくん]]」でデビュー。戦旗派から新右翼に移行した小説家の見沢知廉『背徳の方程式』によると、元解放派であったという。 1975年(昭和50年)には、大学時代の仲間の[[峯正澄]]、[[レオナルド・いも]]らと「'''チャンネルゼロ工房'''」<ref>のち、1980年(昭和55年)に[[村上知彦]]等が参加し、編集プロダクション・株式会社「チャンネルゼロ」となり、いしいの漫画単行本の編集作業を一手に引き受けている。いしい自身はメンバーで監査役となっている。</ref>を結成し、同人誌「チャンネルゼロ」を刊行する。同年3月、5年かかって関西大学社会学部を卒業、漫画家となる道を選ぶ<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.187。同書には「6年かかって」とあるが、1970年(昭和45年)入学であれば6年在籍の場合1976年(昭和51年)となる。ここでは記載された年の方を採用した。また、同ページに引用されている1970年代のインタビュー記事によると、岡山県下の自治体の試験を受ける予定があったが、すでに初任給と変わらない稿料を得ていたため、好きな漫画を描く道を選んだと述べている。</ref>。「チャンネルゼロ工房」で発行した自費出版単行本『Oh!バイトくん』が評判となり、1977年(昭和52年)に[[プレイガイドジャーナル]]社から初の単行本『バイトくん』が発売。その後、[[高信太郎]]の紹介で[[エロ劇画誌|三流劇画誌]]『[[漫画大快楽]]』([[檸檬社]])1978年7月号に掲載した「おじゃ漫むし」で商業誌デビューする<ref>対談『[[漫画大快楽]]』[[小谷哲]]VS『[[漫画ピラニア]]』[[菅野邦明]]「スケベはエネルギーの源だ!」[[青林堂]]『[[ガロ (雑誌)|月刊漫画ガロ]]』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」</ref>。また『[[漫画アクション]]』([[双葉社]])に連載していた「くるくるパーティー」からのセレクト版として、1979年(昭和54年)に代表作で、当時[[プロ野球選手]]だった[[田淵幸一]]をモデルとした『がんばれ!!タブチくん!!』が刊行され、アニメ映画化された。 いしいひさいち作品のヒットによりチャンネルゼロは1980年から1981年にかけて季刊漫画誌の『[[漫金超]]』(まんがゴールデンスーパーデラックス)を刊行。本誌は強い個性を持つ既成作家や同人作家を集めて紙面を構成されており、[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]漫画家を多数起用した。 1980年(昭和55年)には、いしいの初期の多数の4コマ漫画作品が原作の『[[おじゃまんが山田くん]]』が[[テレビアニメ]]化。1981年(昭和56年)にはアニメ映画化もされ、1984年(昭和59年)には『元祖おじゃまんが山田くん』として実写ドラマ化もされた。 [[1999年]]([[平成]]11年)には[[朝日新聞]]朝刊に掲載されている『[[ののちゃん|となりのやまだ君]]』が『[[ののちゃん#ホーホケキョ となりの山田くん|ホーホケキョ となりの山田くん]]』として[[スタジオジブリ]]で映画化。 1985年(昭和60年)、[[文藝春秋漫画賞]]を受賞。2003年(平成15年)、『[[現代思想]]の遭難者たち』([[講談社]])、『ののちゃん』([[朝日新聞]]朝刊連載)など一連の作品に対して、第7回[[手塚治虫文化賞]] 短編賞を受賞。第32回(2003年(平成15年)度)[[日本漫画家協会賞]]大賞を受賞。2006年(平成18年)、[[菊池寛賞]]を受賞。 2009年(平成21年)11月21日より病気療養に入り、全ての連載が休載となった。その後体調が回復したため、2010年(平成22年)3月1日より朝日新聞の連載を再開させるなど、一部の仕事について復帰した。それ以後、連載は『ののちゃん』のみとなっていたが、[[2020年]]([[令和]]2年)6月より『[[小説新潮]]』にて新連載『剽窃新潮』を開始した<ref>{{Cite web|和書|title=「小説新潮」7月号 発売!|url=https://twitter.com/shoushineditor/status/1274877312886927361|website=『小説新潮』編集部Twitter|date=2020-06-22|accessdate=2020-10-19}}</ref>。 2022年(令和4年)8月、公式サイトや『ののちゃん』内で掲載していた「吉川ロカ」というキャラクターのエピソードをまとめた単行本『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を刊行。自費出版ながら同年の「[[このマンガを読め!]]」で1位となり、各メディアでも好意的に取り上げられるなど話題作となった。 == 人物 == === 顔出し・解説を嫌う === 極端なマスコミ嫌い・人嫌いで、顔写真が公開されたのは『[[週刊明星]]』1979年9/30・10/7合併号と、文藝春秋漫画賞を受賞した1985年(昭和60年)に『[[夕刊フジ]]』(同年5月30日付)・『[[週刊文春]]』6月6日号に三度だけ露出したのみ。『となりの山田くん』映画化時は記者会見に出ないということが映画化を許諾する際の条件だったため代わりに『ホットケヨとりなしの山田くん 山田くんガイドブック』という小冊子を配った<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.197</ref>。漫画賞を受賞しても授賞式にも登場することはなく、代理人が出席している。サイン会も1985年(昭和60年)、『鏡の国の戦争』刊行時に2度おこなっただけである。 また、漫画家とのつきあいも少なく、漫画家になってから実際に会ったことのある漫画家は[[大友克洋]]・[[西村宗]]・[[高橋春男]]の3人だけであると記している<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.11</ref>。 デビューからしばらくの間は、自宅の電話機を常に[[冷蔵庫]]の中に入れていたという逸話もある。マスコミにほとんど露出しないため、奇人・偏屈イメージがあるが、実像は社交家でこそないものの、穏やかな物腰で人と接することのできる普通の人物である。寡黙ではあり、大友克洋は、大阪のチャンネルゼロまで赴いて面会した折に本人より周囲のチャンネルゼロの人間とばかり会話したような気がすると証言している<ref>大友克洋「バイトくんは俺たち自身の姿だった。」『[総特集]いしいひさいち』p.149</ref>。 かつては、自身の単行本に「解説」をつけられるのを嫌っており、デビュー単行本『バイトくん』([[村上知彦]]と[[高信太郎]]が解説)以外には、解説がなかった。だが、近年刊行されている「ひさいち文庫」には解説がつけられるようになり、各界のいしいファンが寄稿している。 === 引越し === 『がんばれ!!タブチくん!!』がヒットしていた頃、「いしい作品のモデルになった者は、皆不幸になる」という話が、学生時代を中心とした作者の交友関係者の周辺で、まことしやかに語られたこともあった。人前に出ないのは皮肉の対象人物からの報復を恐れているからだとする噂もあり、実際単行本の作者紹介欄には、「敵が多く、引越しを繰り返している」と書かれているものがある。ただし、モデルになった[[田淵幸一]]は大らかな性格で、『タブチくん!!』の愛読者だったと伝えられている。なお、いしい本人の『タブチくん!!』に対しての意識は、2003年(平成15年)のタイガースの優勝に際し「アンチ[[阪神タイガース|阪神]]を続けるあまりファンかアンチかわからなくなってきた」というコメントを寄せている。 漫画家デビュー以来現在までに[[大阪府]][[大阪市]][[東淀川区]](既述)、[[兵庫県]][[神戸市]][[東灘区]][[渦森台]]<ref>ののちゃん全集第1巻『阪急電車とわたし』{{要ページ番号|date= 2021年1月}}</ref>、[[神奈川県]][[鎌倉市]]などに在住。自分で本を購入する習慣がなく、引越しをする際の条件に「図書館が近所にあるか」を盛り込むほどの「[[図書館]][[ヘビーユーザー]]」を自称している。 === 音楽 === ヴィジュアル系ロックバンド[[cali≠gari]]が好きと自身のコラムで語っており、『ののちゃん』第2492回でものぼるが「君が咲く山」を聴いて“壊れる”場面がある。他に[[GARNET CROW]]なども挙げる。「ののちゃん」連載内連載「ROCA」で主題となっている[[ファド]]は、自身の音楽的嗜好である。 === 漫画 === 2012年(平成24年)に出版された書籍に収録した自筆の文章<ref>いしいひさいち「でっちあげインタビュー いしいひさいちに聞く」『[総特集]いしいひさいち』p.16、20</ref>によれば、これまで出会った漫画作品のベスト3に[[安部慎一]]の『無頼の面影』、[[鈴木翁二]]の『夢は方南に在り』、[[楠勝平]]の『てっぺんかけたか』を挙げており、すべて『[[ガロ (雑誌)|ガロ]]』の作家となっている(生涯ベスト単行本には[[楠勝平]]の『おせん』をあげている)。また現役の4コマ漫画では[[植田まさし]]の『[[コボちゃん]]』と、[[小坂俊史]]の作品に注目しているという。 古本の売買については、自作品に自身のキャラクターを登場させ「いろんな人によんでもらえる方が、まんが家としてはすてられるよりは良いですが」と語らせている<ref>いしいひさいち 『ほんの本棚』 [[東京創元社|創元ライブラリ]] [L-い-1-7] ISBN 4488070469、172p</ref>。 === 親族 === [[妻]]は[[ヤクルト本社]]のノンキャリア[[OL]]であった[[女性]]で<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.28</ref>、1985年(昭和60年)に[[結婚]]。作中において自身の妻は「ののちゃん」の猫久保さんに似ているキャラクターで描かれる<ref>いしいひさいち 『いしいひさいちの経済外論 ハイパー・エディション』 [[朝日文庫]] [い-42-1] {{ISBN2|4022610875}}、190p。なお同書では自身を「人の悪口を描いてよろこぶやなやつ」と描いている。145p。</ref>。 == 作品の特徴 == [[File:TsurugaokaHachiman-M8867.jpg|thumb|right|320px|批判は権力者や政治に留まらない。観光客で賑わう[[鎌倉]]の高い物価でさえ在住者の視点を作中のキャラクターに語らせている。]] === 幅広いテーマ === 実在の[[政治家]]を始めとする人物、流行、事象、組織社会、地域社会、[[家族]]、地域差、生活習慣などの幅広いジャンルを読者が持つ多様な共通理解と巧みに掛け合わせて[[風刺]]し、シニカルに笑わせる作品が多い。同時に「何でも噛み付く」とまでいわれるほどあらゆる事象に対し批判精神を忘れない。 [[ビル・クリントン]]は「ビル・フリチントン」と書かれ<ref>いしいひさいち・峯正澄 『大問題 ’05』 創元ライブラリ [L-い-1-38] {{ISBN2|448807054X}}、112p・118p</ref>、[[高橋由伸]]の顔は[[へのへのもへじ]]として描かれる<ref>いしいひさいち・峯正澄 『大問題2000』 創元ライブラリ [L-い-1-6] {{ISBN2|448807037X}}、194p</ref>。また、[[石原伸晃]]の顔は[[ひょっとこ]]として描かれる<ref>いしいひさいち 『<small>ツーショットワールド</small> 日本顔面崩壊』 [[講談社文庫|講談社漫画文庫]] [い-15-1] {{ISBN2|978-4063706468}}、22p</ref>。 政治風刺漫画では、<!--[[日本共産党]]の人物が描かれることが少ない。←独自研究?-->[[志位和夫]]が一度登場している<ref>『日本顔面崩壊』、60p</ref>。 === 観察眼 === 実在する人物を描く際、わかりやすい特徴をとらえて前面に押し出す。例として[[宮澤喜一]]が挙げられる。いしいは宮澤を、背もたれに腕を乗せて体を斜めにして座った姿で描くが、これは宮澤自身の癖がそのまま出ている<ref>[[田勢康弘]] 『総理の座』 [[文春文庫]] [た-46-1] {{ISBN2|4167489023}}、50p</ref>。 === 言葉遣い === いしいの作品は台詞もすべて描き文字となっているが、「やむを得ない」を「やもうえない」と表現する<ref>いしいひさいち・峯正澄 『帰ってきた『大問題』’01~’03』 創元ライブラリ [L-い-1-9] {{ISBN2|4488070493}}、93p・104p</ref>、「しつこい」を「ひつこい」と表記する<ref>いしいひさいち 『わたしはネコである』 [[講談社文庫]] [い-60-1] {{ISBN2|4061851438}}、69 - 71p</ref>という特徴がある。 === 4コマへのこだわり === 「いしいひさいちの登場以前、4コマ漫画は『起承転結』が基本であったが、いしいは自作でその既成概念を破壊した」という評論に対し、いしいは自著で「誤解です」と答えている。いしいによれば、そもそも4コマ漫画に起承転結というセオリーはなく、あるとすれば観念的な読者の認識のフレームではないかとしている<ref>『[総特集]いしいひさいち』p.17</ref>。同様の理由で、いわゆる萌え4コマ([[日常系]]4コマ)を「オチが弱い」という理由で批判するのはおかしい<ref>『[総特集]いしいひさいち』pp.18 - 19。いしいは「4コマのオチは落語のサゲやお話のシメとはちがい4つのコマ全体で腑に落ちればよいわけで4コマ目である必要はありません」とも述べている。</ref>と指摘している。 === 実在人のパロディ === いしいが実在の人物をもとに創作した「タブチくん」などのキャラクターは、しばしばモデルとなった人物の枠を越えて自律し、モデルの人物とは直接関係のないキャラクターとして他の作品に登場する[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]]として使われている。 [[広岡達朗]]を例にあげると、「わたしはネコである」では[[バイトくん]]のキャラクターの何人かとともに、[[安田猛 (野球)|安田猛]]を編集者とする高慢な作家「広岡達三」として、時代劇ものでは「大山田藩(10万石)の筆頭家老、広岡刑部」として登場し、江戸屋敷の家老である野村([[野村克也]])とは勢力争いを展開している<ref>いしいひさいち 『<small>ひさいち文庫</small> 大江戸頓馬無芸帖』 [[双葉社|双葉文庫]] [い-17-46] {{ISBN2|978-4575713633}}、32 - 49p・103p</ref>。 また読売新聞主筆[[渡邊恒雄]]は、町内会長ナベツネツネオ(その実体は超人ワンマンマン)として「ののちゃん」に登場し、読売トップが朝日連載マンガの準レギュラー化するという事態に至った。この渡邊、広岡以外にも[[中曽根康弘]]、[[金正日]]など当初は悪意をこめて描かれていた人間が長期化するうちに不思議な愛嬌をおびてくるという現象も顕著である。 また、ののちゃんの同級生の少年探偵ミヤベくん(推理作家の[[宮部みゆき]]がモデル)<ref>モデルとされた宮部は事務所ホームページ[http://www.osawa-office.co.jp/old/qa/qa_miyabe-04.html/ 大極宮]において「もう嬉しくって嬉しくって! ミステリー作家にはいしいさんのファンが多いですから、自慢しまくっています。仕事場に、いしいさんにいただいた直筆の「ミヤベ君」を飾ってあるんですよ」と記している。</ref>のように、似顔絵キャラクター(この場合だと女流推理作家役など)を経ずに起用することもある。ただし、ミヤベくんは後から別の作品で(まったく同じ顔で)女流作家役としても起用された。 さらに著名人に留まらず、ヤクルトスワローズ私設応援団長をしていた[[岡田正泰]]まで登場させている。 === スター・システム === 別の作品に同一キャラクターを登場させることが多い。前述の実在人の他、キクチくん、三宅さん、クボくん、スズキくん、藤原センセ、猫久保さん(広岡の家政婦など)など多数の例がある。自身をモデルにしたキャラクターを作品に登場させる場合は、「バイトくん」の主人公であるキクチくんの絵柄でほぼ一貫している。東日本大震災の前は、いしい被災地というネーミングで登場したことも多かった。 === 難解 === また、作品には意味の分からない・分かりにくい[[落ち|オチ]]の作品も多いが、筆者であるいしい自身も下書きや作品を何度読んでも意味が分からない作品も多数あるらしい。『となりのやまだ君』では『となりのののちゃん』([[東京創元社]])巻末にて自身も意味の分からなくなった一作品のオチの意味を読者に尋ねたり、『ののちゃん』の一作品では公式ホームページ上で自ら解説を行ったこともある。また単行本を出す際には、作者本人が作品を厳選、時に訂正や加筆を行っていることがひさいち文庫内において明らかにされている。ただし、[[徳間書店]]の単行本『山田くん全集』と『ののちゃん全集』においては、作品セレクトをやめて連載完全収録に踏み切り、長年の友人である村上知彦に心境の変化を指摘された。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[バイトくん]] * [[がんばれ!!タブチくん!!]] * 『おじゃまんが』奇想天外社、1979年 * [[鏡の国の戦争 (漫画)|鏡の国の戦争]] * 『いしいひさいちの経済外論』[[朝日新聞社]]共著 朝日新聞社、1987年 - 1991年 * 『スクラップスチック』[[少年画報社]]、1990年 * なんのマネカネ([[週刊ポスト]]、1990年4月-1991年7月連載) * [[わたしはネコである]] * 『いしいひさいちの英語で覚えるニッポン入門 経済外論編』ケリー伊藤英訳 SSコミュニケーションズ 1992年 * 元祖[[おじゃまんが山田くん]] * 『[[いしいひさいちの問題外論]]』チャンネルゼロ、1992-99年 * [[ワイはアサシオや]] * 『コミカル・ヒストリー・ツアー』週刊朝日百科 世界の歴史 * 『コミカル・ミステリー・ツアー 赤禿連盟』創元推理文庫、1992-98年 * 『[[いしいひさいちの大政界]]』チャンネルゼロ、1993-94年 * 『忍者無芸帖』文春文庫、1993年 * パッパラ天国([[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]、1994年3月号<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000025988-00 小学四年生 (小学館): 1994-03|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]</ref>-8月号連載) * 4年B組ヤンパチ先生(小学四年生、1996年4月号<ref>[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000670250-00 小学四年生 (小学館): 1996-04|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]</ref>-8月号連載) * [[いしいひさいちのCNN]] * 『わたしはネコである殺人事件』講談社、1996年 * 『ノンキャリウーマン』 * ドタバタぱぁティー * まかまか漫マン * ゴキブリ新聞 * [[地底人 (漫画)|地底人]] * 困ったもんだ([[夕刊フジ]]) * 『大問題』創元ライブラリ 95年から毎年刊行、[[峯正澄]]文 * DOUGHNUTS BOOKS * 踊る大政界 * [[ののちゃん]](旧・となりのやまだ君) * 『女(わたし)には向かない職業』東京創元社、1997年 のち文庫(タイトルは[[P・D・ジェイムズ]]の同名小説をひねったもの) * 『新忍者無芸帖』文藝春秋、1998年 * 『となりのののちゃん』東京創元社、2001年 * 『ほんの一冊』朝日新聞社、1999年 * 『ほんの本棚』創元ライブラリ、2001年 * [[B型平次捕物帳]] * 『現代思想の遭難者たち』講談社、2002年 * 『文豪春秋』創元ライブラリ、2002年 * 『眼前の敵』河出書房新社、2003年 * 『フン!』徳間書店スタジオジブリ、2004年 * 『大阪100円生活バイトくん通信』講談社、2005年 * スコン!(夕刊フジ) * 『チャンチャンバラエティ 武士は死んでもなおらない』講談社、2009年 * いしい商店紀尾井町店([[週刊文春]]連載) * 剽窃新潮(小説新潮、2020年7月号- 連載中) * 『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』2022年、自費出版<ref>[https://www.ishii-shoten.com/honnmaru/rocaw09.html 単行本『ROCA』販売特設サイト] - いしい商店(2022年11月14日閲覧)。『ののちゃん』に登場していたキャラクターのスピンオフ作品である。</ref> === 文章 === * [[大阪呑気大事典]](大阪オールスターズ編)(JICC出版局) ** 本文ならびに挿絵を執筆。 === その他 === * [[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]『{{仮リンク|Go!Go!タイガース|en|Here Come the Tigers}}』([[1978年]]、[[ショーン・S・カニンガム]]監督) - 日本公開時の[[ポスター]]の[[イラスト]](担当)制作。 * 『さらば国分寺書店のオババ』 (1979年、[[情報センター出版局]]、著作:[[椎名誠]]) - 本文挿絵。 *『[[クラッシャージョウ#アニメ|クラッシャージョウ]]』(1983年、[[松竹富士]]系)※劇場版アニメ映画 - スペシャル・デザイン(最低人)。 * 『大阪学』([[新潮文庫]]、著作:[[大谷晃一]]) - カバーイラスト。 * 『名古屋学』 (新潮文庫、著作:[[岩中祥史]]) - カバーイラスト。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * 『[[文藝]]別冊 [総特集]いしいひさいち』([[河出書房新社]]、2012年) == 外部リンク == * [http://www.ishii-shoten.com/ (笑)いしい商店 公式サイト] {{ja icon}}(長く休んでいたが2012年(平成24年)3月に新しいサイトで再開) * [http://mindypower.com/nakanoso/ いしいひさいちFC仲野荘] {{ja icon}}(かつてファンクラブを主宰した[[眠田直]]による資料サイト) * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/bbtugeken/hm00.html#2ishiko |title=北冬名鑑 |date=20160304110342}} * {{Wayback|url=http://blog.manga.moura.jp/ishii/ |title=いしいひさいちワールド |date=20061212220409}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いしい ひさいち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:関西大学出身の人物]] [[Category:岡山県出身の人物]] [[Category:1951年生]] 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石垣ゆうき
石垣 ゆうき(いしがき ゆうき、1965年11月26日 - )は、日本の漫画家。 本名、石垣 雄規。三重県四日市市出身。大阪芸術大学出身。 趣味はフルスクラッチビルドのフィギュア造り。猫を飼っている。 一般には、『週刊少年マガジン』に1990年から1999年まで不定期連載された『MMR マガジンミステリー調査班』の作画担当として有名。すっきりした絵柄ながら写実的な画も描き、ギャンブル、オカルト、探偵物など幅広い分野の作品を手がける。 代表作には先述の『MMR』の他、文庫版も発売されたギャンブル漫画『100万$キッド』などがある。 2014年時点、携帯電話は所持していない。父方の家系が年を取ると禿げやすくなる傾向にあり、その頃に敢えて坊主頭にしたが、母方の家系が禿げない血筋であることを知らず、自身は禿げるどころか生えていると語っている。 2014年時点では老眼が進行したためにデジタル作画へと移行。しかし、長時間画面を見て原稿を作成しているため、目を痛めやすい体質であることから、時折目薬を差している。
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石垣 ゆうきは、日本の漫画家。 本名、石垣 雄規。三重県四日市市出身。大阪芸術大学出身。 趣味はフルスクラッチビルドのフィギュア造り。猫を飼っている。 一般には、『週刊少年マガジン』に1990年から1999年まで不定期連載された『MMR マガジンミステリー調査班』の作画担当として有名。すっきりした絵柄ながら写実的な画も描き、ギャンブル、オカルト、探偵物など幅広い分野の作品を手がける。 代表作には先述の『MMR』の他、文庫版も発売されたギャンブル漫画『100万$キッド』などがある。 2014年時点、携帯電話は所持していない。父方の家系が年を取ると禿げやすくなる傾向にあり、その頃に敢えて坊主頭にしたが、母方の家系が禿げない血筋であることを知らず、自身は禿げるどころか生えていると語っている。 2014年時点では老眼が進行したためにデジタル作画へと移行。しかし、長時間画面を見て原稿を作成しているため、目を痛めやすい体質であることから、時折目薬を差している。
'''石垣 ゆうき'''(いしがき ゆうき、[[1965年]][[11月26日]] - )は、日本の[[漫画家]]。 本名、'''石垣 雄規'''。[[三重県]][[四日市市]]出身。[[大阪芸術大学]]出身<ref>[https://live.nicovideo.jp/watch/lv195232830 MANGA姉っくす! Vol.22【ゲスト:克・亜樹先生】 - 2014/10/15 20:00開始 - ニコニコ生放送]</ref>。 趣味は[[スクラッチビルド|フルスクラッチビルド]]の[[フィギュア]]造り。猫を飼っている<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1603/10/news001_3.html 伝説の漫画「MMR マガジンミステリー調査班」はこうして作られていた タナカ・イケダ・トマル隊員が語る「MMR」制作の裏側(前編) (3/3) - ねとらぼ]</ref>。 一般には、『[[週刊少年マガジン]]』に1990年から1999年まで不定期連載された『[[MMR マガジンミステリー調査班]]』の作画担当として有名。すっきりした絵柄ながら写実的な画も描き、ギャンブル、オカルト、探偵物など幅広い分野の作品を手がける。 代表作には先述の『MMR』の他、文庫版も発売されたギャンブル漫画『[[100万$キッド]]』などがある。 2014年時点、携帯電話は所持していない<ref name="名前なし-1">『新世紀黙示録MMR Resurrection』カバー扉より。</ref>。父方の家系が年を取ると禿げやすくなる傾向にあり、その頃に敢えて坊主頭にしたが、母方の家系が禿げない血筋であることを知らず、自身は禿げるどころか生えていると語っている<ref name="名前なし-1"/>。 2014年時点では老眼が進行したためにデジタル作画へと移行。しかし、長時間画面を見て原稿を作成しているため、目を痛めやすい体質であることから、時折目薬を差している<ref>『新世紀黙示録MMR Resurrection』巻末『あとがきというか近況というか』より</ref>。 == 経歴 == *1985年、『[[月刊少年マガジン]]』5月号にて読切漫画「[[100万$キッド]]」でデビュー。 *その後、1986年41号から1988年19号にかけて『週刊少年マガジン』にて「100万$キッド」(原案協力:[[宮崎まさる]])<ref name="miyazaki">読切版「[[100万$キッド]]」は石垣ゆうきの単独作品。同作の連載作品化が決まってから、編集部が漫画原作者の宮崎まさるに声を掛け、宮崎が「原案協力」として参加するようになった。宮崎は毎週3本の原案を提出し、そのうちの1本が採用されていた。(『100万$キッド』講談社漫画文庫版 第1巻[講談社、2001年]巻末エッセイ 宮崎まさる「100万$の苦悩の日々」参照)</ref>を連載。 *1988年、『週刊少年マガジン』40号にて「[[あいつはアインシュタイン]]」(原作:宮崎まさる)の読切を掲載。 *1989年、同誌の5号から23号にかけて「あいつはアインシュタイン」(原作:宮崎まさる)を短期連載。 *1990年から1999年まで、『週刊少年マガジン』にて代表作「[[MMR マガジンミステリー調査班]]」を不定期連載。 *1996年から1997年まで、『[[マガジンSPECIAL]]』にて「[[スクープハンター多聞]]」を不定期連載。全4話。 *2003年6月号から2006年3月号まで、『[[コミックボンボン]]』にて「[[マジシャン探偵A]]」を連載。 *2008年、『週刊少年マガジン』21・22号、23号にてMMRの新たな読切(前後編)を掲載。メンバーは一新されている。 == 作品一覧 == === 漫画 === * [[100万$キッド]](1985、月刊少年マガジン)※読切、デビュー作 * 100万$キッド(原案協力:[[宮崎まさる]])<ref name="miyazaki"/>(1986-1988、週刊少年マガジン、全9巻、KCデラックス版全7巻、文庫版全5巻) * [[あいつはアインシュタイン]](原作:宮崎まさる)(1989、週刊少年マガジン、全3巻) * [[コシヒカリ劇場]](1989、週刊少年マガジン)※読切 * [[くるぶしくん]](1990、週刊少年マガジン)※読切 * [[MMR マガジンミステリー調査班]](1990-1999、2008、2012-2015、週刊少年マガジンならびに[[プロジェクト・アマテラス]]、全13巻の後に続刊2巻)※不定期掲載 * 怨声『もっと苦しめ…』(マガジンSPECIAL 1994年4号)※読切。MMR マガジンミステリー調査班第5巻収録。 * [[スクープハンター多聞]](1997、マガジンSPECIAL、全1巻) * [[マジシャン探偵A]](2003-2006、コミックボンボン、全8巻) * [[三国志大戦]] 2005年『No.155 R李典』、2010年『魏082 R楽進』 * 講談社 学習まんが 日本の歴史(10) 戦国大名の争い(2020年) === ドラマ === * [[MMR未確認飛行物体]](1996年4月-9月)※原案者としてクレジット == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Mediaarts-db|id=C58277|name=石垣ゆうき}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いしかき ゆうき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪芸術大学出身の人物]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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石川サブロウ
石川 サブロウ(いしかわ サブロウ、 (1953-01-18) 1953年1月18日(70歳)- )は、日本の漫画家。北海道岩内郡岩内町出身。 1974年、『立ち読み厳禁』が第7回手塚賞で佳作となり、同作品でデビュー(『週刊少年ジャンプ』)。 以後、『警察犬物語』『北の土龍』『蒼き炎』などの作品を次々に発表し、骨太な中にも暖かみのある作風で多くの読者の支持を集める。
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石川 サブロウは、日本の漫画家。北海道岩内郡岩内町出身。
'''石川 サブロウ'''(いしかわ サブロウ、{{生年月日と年齢|1953|1|18}}- )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[岩内郡]][[岩内町]]出身。 == 略歴 == [[1974年]]、『立ち読み厳禁』が第7回[[手塚賞]]で佳作となり、同作品でデビュー(『[[週刊少年ジャンプ]]』)。 以後、『警察犬物語』『北の土龍』『蒼き炎』などの作品を次々に発表し、骨太な中にも暖かみのある作風で多くの読者の支持を集める。 == 作品リスト == === 連載作品 === * 友だち学園(1974年/[[週刊少年ジャンプ]]掲載) * 警察犬物語(1978年-1979年/原作:三木孝祐/[[週刊少年ジャンプ]]掲載) * はっちゃき先生(1980年/[[週刊ヤングジャンプ]]掲載) * 北の土竜(1981年-1985年/[[週刊ヤングジャンプ]]掲載) * オレの瞬間(1986年-1987年、1988年、1989年/週刊ヤングジャンプ増刊号掲載) * 風が舞う(1987年/[[ビジネスジャンプ]]掲載) * なにくそ一歩{{efn|短期集中連載。}}(1988年/[[週刊少年サンデー]]掲載) * あした翔ける!(1988年-1989年/原作:[[布施博一]]/[[スーパージャンプ]]掲載) * 蒼き炎(1989年-1994年/[[週刊ヤングジャンプ]]/ヤングジャンプサーティー/ヤングジャンプDX掲載) * へのカッパ(1994年/[[ビッグコミックオリジナル]]掲載) * 母の曠野(1995年/原案:江沢光/脚本:[[久保田千太郎]]/[[ビッグコミック]]掲載) * 天より高く{{efn|電子書籍版、コンビニコミック版では「晴れた空」と改題されている}}(1995年-1997年/原作:[[半村良]]/[[コミックトム]]掲載) * 煩悩三昧(1997年-1998年/[[ビッグコミックオリジナル増刊]]号掲載) * 本日も休診 (1995年-1999年/原案:[[見川鯛山]]/[[ビッグコミック]]/[[ビッグコミック増刊号]]掲載) * ファイター伝説 金と銀(1998年-1999年/原作:[[やまさき十三]]/[[ビッグコミックスペリオール]]掲載) * 海峡ものがたり(1999年-2001年/原作:[[遠崎史朗|ジョー指月]]/[[MANGAオールマン]]掲載) * ゆきのいろ(2001年-2003年/スーパージャンプ/[[オースーパージャンプ]]掲載) * 還暦ルーキー・逃げたらあかん(2002年/原作:[[平山譲]]/[[ビジネスジャンプ]]掲載) * 月と日と(2003年/原案協力・監修:明鹿人丸/スーパージャンプ掲載) * ひょぼくれ文左〜[[鸚鵡籠中記]]より〜(2004年-2007年/原作:土岐正造/[[コミック乱]]掲載) * ベスポジ(2004年/原作:中原まこと/コミックBG掲載) * 彩の四季(2004年-2005年/原作:青内彰生/[[週刊漫画TIMES]]掲載) * [[佐賀のがばいばあちゃん|がばい -佐賀のがばいばあちゃん-]](2005年-2010年/原作:[[島田洋七]]/[[ビジネスジャンプ]]掲載) * オシムの言葉 マンガ編(2006年/原作:[[木村元彦]]/[[Sportiva]]掲載) * [[神様のカルテ]](2010年-2011年/原作:[[夏川草介]]/ビッグコミック掲載) * [[どらコーボク]](2011年-2012年/原作:[[小路谷純平]]/ビッグコミック掲載) * 本日は休診(2012年-2013年/[[漫画サンデー]]掲載) * ゆいっこ(2014年-2018年/[[家の光協会|家の光]]掲載) === 読み切り作品 === * 立ち読み厳禁(1974年/週刊少年ジャンプ掲載) * 漫画エレジー(1974年/少年ジャンプ増刊号掲載) * ふたりぼっち(1975年/週刊少年ジャンプ掲載) * 北の土龍(1981年/週刊ヤングジャンプ掲載) * 天と大地と(1986年/週刊ヤングジャンプ増刊号掲載) * 遠い路(1986年/週刊ヤングジャンプ掲載) * ポチの伝説(1987年/週刊ヤングジャンプ掲載) * WANTED(1989年/ビッグコミック掲載) * RUNNER(1989年/週刊少年サンデー掲載) * 夢の礎 横浜ベイブリッジストーリー(1991年/脚本:浅野崇/週刊ヤングジャンプ増刊ワーキング・デビュー掲載) * コートのブタ(1994年/ベアーズクラブ掲載) * 鉄心の弟子(1994年/ヤングジャンプDX掲載) * 鬼平(1998年/スーパージャンプ掲載) * たまごっち物語(1998年/原作:[[源内薫]]/週刊ヤングジャンプ掲載) * 龍馬の手紙(2010年/BJ魂掲載) * 友よ!龍馬よ!(2010年/BJ魂掲載) * いしころりん(2011年/ビッグコミック増刊号掲載) * 通訳フジヤマ(2012年/原作:香川まさひと/ビッグコミック増刊号掲載) * 通訳フジヤマ(ビッグコミック本誌版)(2013年/原作:香川まさひと/ビッグコミック掲載) == アシスタント == * [[本庄敬]] * [[金平守人]] == 注釈 == {{Notelist}} == 外部リンク == * {{twitter|saburou_3265}} * [http://pokeman.jp/archives/234 ぽけまん 作者プロフィール] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いしかわ さふろう}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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石川優吾
石川 優吾(いしかわ ゆうご、1960年2月9日 - )は、日本の漫画家。大阪府四條畷市出身。 農家の次男として生まれる。高校卒業後にいったん大学に入学するが、パチンコに明け暮れて、1年で中退。大学にはトランポリン(体育の授業)だけ参加した。 大学中退後、大阪デザイナー学院に入学する。デザイン会社に就職するも半年ほどで辞め、以前からの夢であった漫画を志す。新人賞に出し、うまく賞に引っかかったことがきっかけで漫画家になることができた。1982年、22歳の時に「革命ルート163」(『週刊ヤングジャンプ』新人増刊号)でデビュー。
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石川 優吾は、日本の漫画家。大阪府四條畷市出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 石川 優吾 | ふりがな = いしかわ ゆうご | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[大阪府]][[四條畷市]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|2|9}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1982年]] - | ジャンル = | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | 公式サイト = [http://www.you-go.net/ 公式サイト] }} '''石川 優吾'''(いしかわ ゆうご、[[1960年]][[2月9日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[大阪府]][[四條畷市]]出身。 == 概要 == 農家の次男として生まれる。高校卒業後にいったん大学に入学するが、パチンコに明け暮れて、1年で中退。大学にはトランポリン(体育の授業)だけ参加した。 大学中退後、[[大阪デザイナー専門学校|大阪デザイナー学院]]に入学する。デザイン会社に就職するも半年ほどで辞め、以前からの夢であった漫画を志す。新人賞に出し、うまく賞に引っかかったことがきっかけで漫画家になることができた。[[1982年]]、22歳{{Efn|[[2012年]]11月14日放送の『[[せのぶら!]]』内での石川優吾本人談による<ref>{{Cite web|url=http://asahi.co.jp/senobura/detail/date_121112.html|title= 四條畷駅前とその周辺をぶらぶら!|publisher=朝日放送|date=2012-11-12|accessdate=2023-11-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306015945/http://asahi.co.jp/senobura/detail/date_121112.html|archivedate=2016-03-06}}</ref>。}}の時に「'''革命ルート163'''」(『[[週刊ヤングジャンプ]]』新人増刊号)でデビュー。 == 特徴 == {{独自研究|section=1|date=2022年9月}} *作品には[[大阪弁]]を話すキャラがよく登場し、また大阪が舞台となっているものも多い。 *石川優吾という名はペンネーム。由来は、歌手の'''[[石川優子]]'''のファンであることから。 *[[SMAP]]の[[木村拓哉]]と同身長であることを、自身のtwitterにて明かしている。また、アシスタントは女性のみ採用するとも発言している(職場の人間関係が円滑になりやすいためとのこと)。 *猫を飼っている。アメリカンショートヘアで、名前はミーくん。時折twitterに画像をupしている。 == 作品リスト == * 春ウララ(『週刊ヤングジャンプ』1984年 - 1986年、全7巻) * 童乩〈タンキー〉(原作:荒井涼助、『[[ビジネスジャンプ]]』1990年 - 1992年) * キーパー(『ビジネスジャンプ』1992年 - 1993年、全1巻) * [[お礼は見てのお帰り]](『[[ビッグコミックスペリオール]]』1994年 - 1998年、全10巻) - [[関西テレビ放送|KTV]]・[[フジテレビジョン|CX]]系にてドラマ化 * [[よいこ (漫画)|よいこ]](『[[ビッグコミックスピリッツ]]』1998年 - 2001年、全15巻) - [[TBSテレビ|TBS]]系にてアニメ化 * [[ソーダむらの村長さん]](『ビッグコミックスペリオール』1999年 - 2001年、全2巻) * [[どりる]](『[[週刊少年サンデー]]』2001年 - 2002年、全4巻) * [[格闘美神 武龍]](『[[週刊ヤングサンデー]]』2002年 - 2007年、全18巻) - [[テレビ東京|TX]]系にてアニメ化 * [[カッパの飼い方]](『週刊ヤングジャンプ』2003年 - 2010年、全15巻) - [[アニマックス]]にてアニメ化 * [[子泣きじじいの飼い方]](『[[月刊ヤングジャンプ]]』2008年 - 2010年、全2巻) * [[スプライト (漫画)|スプライト]](『ビッグコミックスペリオール』2009年 - 2015年、全15巻) * ほっとDog(『[[オースーパージャンプ]]』2010年、全1巻) * [[イヌナキ]](『[[ジャンプ改]]』2011年 - 2013年、不定期連載、全2巻) * ワンダーランド(『ビッグコミックスペリオール』2015年 - 2017年、全6巻) * 今日からゾンビ!(原作担当、作画:[[荒木宰]]、『ビッグコミックスペリオール』2016年 - 2017年、全2巻) * BABEL(『ビッグコミックスペリオール』2017年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/262301|title=「ワンダーランド」の石川優吾、「八犬伝」をアレンジして描く新連載「BABEL」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2017-12-22|accessdate=2021-09-30}}</ref> - 2021年、全10巻) * ぬりかべ(『ビッグコミックスペリオール』2022年13号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/481085|title=「BABEL」石川優吾が1人の男とぬりかべの思い出描く読み切り、スペリオールに掲載|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-06-10|accessdate=2022-06-10}}</ref>) - 読み切り * 湖底のひまわり(『[[ビッグコミック]]』2022年18号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/493097|title=ダムに沈んだ村で過去の記憶が蘇る、「BABEL」石川優吾のファンタジーがBCで開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-09|accessdate=2022-09-10}}</ref> - 、既刊3巻) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.you-go.net/ 公式サイト] * {{twitter|ishikawa_yougo}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いしかわ ゆうこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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石坂啓
石坂 啓(いしざか けい、1956年3月28日 - )は、日本の漫画家、作家。女性。雑誌『週刊金曜日』編集委員(547号(2005年3月4日号)〜1226号(2019年3月29日号))や、ピースボート水先案内人を務めるほか、テレビコメンテーターとしても出演している。愛知県名古屋市出身。 既婚で一児の母。本名、立川啓子。旧姓、福田。堀田あきおと1983年に結婚するが、数年で離婚した。現在の夫は、『コージ苑』(相原コージ)にも登場する担当編集者の立川義剛であり二人の間に一人息子がいる。 愛知県名古屋市生まれ。父親は日本人、母親は華僑であるため、日中ハーフである。1976年、父の経営する会社が倒産。名古屋芸術大学卒業。 1978年に上京、手塚プロダクションにて手塚治虫のアシスタントを1年ほどつとめる。同期に高見まこ、わたべ淳、堀田あきおらがいた。『ブラック・ジャック』の作画などを担当した。 デビュー作は第2回マンガ少年新人賞佳作入選の『とろりんなんぼく』(1979年)。青年漫画作品を中心に執筆し、『ビッグコミックスピリッツ』で連載した『キスより簡単』はテレビドラマ化・映画化もされた。 1987年〜1988年にはTBSラジオの深夜放送『石坂啓のスーパーギャング』のパーソナリティをつとめるなど多彩な活動を行っていたが、出産を機に漫画家を休業し、以降はエッセイストやコメンテーターとしての活動が主となる。第3回文化庁メディア芸術祭大賞を受賞。 1990年の湾岸戦争時には都内の寺で抗議のパフォーマンスとしてハンガーストライキ(白米とパンと肉を抜いた食生活)を行った。 2003年6月8日、小田実・姜尚中・和田春樹らと「東北アジアの平和を求める日韓市民共同声明」を発表し、「日本政府は、核危機の克服のためにも、また、日本の植民地支配の清算と拉致問題の解決のためにも、北朝鮮政府との中断した国交交渉をただちに、無条件で再開しなければなりません」と訴えた。 2006年9月、加藤紘一宅放火事件に対し、「民主主義にとってテロは敵だ。言論封じのあらゆるテロを許さない」と非難する共同宣言を上原公子らと共に発表した。しかし、一方では前述および後述のように安倍晋三銃撃事件の容疑者を礼賛している。(なお国内法の定義ではテロではないとする見解もある。) 2009年10月、フリーター全般労働組合などが主催した「リアリティツアー 62億ってどんなんだよ。麻生首相のお宅拝見」で、無許可デモ及び公務執行妨害の容疑で3人が逮捕されると、これを不法逮捕とする糾弾運動に上原公子らと参加した。 政治家の辻元清美とは個人的にも親交が深く、お互いの著書に推薦文や後書きを寄せあったりしている。辻元の秘書給与詐欺事件に際しては灰谷健次郎と共に、「裁判を支える会」の呼びかけ人を務めた。 狛江市の市長選挙では河西信美、2007年東京都知事選では、浅野史郎を応援する組織「アサノと勝とう!女性勝手連」の呼びかけ人となるなどの活動をしたが、両名とも落選している。 2017年には寺脇研と共に、武蔵野市長選挙に出馬した松下玲子の応援に行っている。松下の街宣中には「ブレません!」との支持パネルを掲げた。 2022年の安倍晋三銃撃事件を容疑者の視点から描いた映画であるREVOLUTION+1(連合赤軍に自ら所属していた足立正生が監督)の上映後トークイベントに参加し、マイクを向けられた際、「(事件を)知ったときは思わずでかした! と叫びました」「夫(小学館の編集者であり、取締役である立川義剛)は容疑者を(容疑者名)様と呼んでいます」と発言し、但馬オサムによって「唖然となるようなことを嬉々として口にしていた」と報じられた。 日本漫画家協会会長のやなせたかしや里中満智子が「劣化が進む貴重なマンガ原画を保存・修復する拠点」として政府に働きかけていた国立メディア芸術総合センターについて、「国費で額縁に原画を飾っても、ありがたがって見に来るマンガ好きはいない。恥ずかしいから私の作品は並べないで」「大家の先生方はマンガが不遇だった時代の人が多いから、国が歩み寄ってくるとうれしく思う人がいるだろう。しかし、お上にほめられて喜ぶ漫画家はいない。むしろ、お上をちゃかすのがマンガの精神。」と批判した。民主党が開催した2009年度補正予算案を検証する勉強会では「世界の若者に我が国のメディア芸術の魅力を発信する拠点となる」と説明する文化庁職員に対して、「お上に『よろしい』と言われて喜ぶより、そういうものをちゃかしたり風刺した作品を見せるのがマンガの精神」と述べ、「漫画家の仲間で好意的な反応をした人はいない」「ものすごくつまらないものになる」と計画の撤廃を訴えた。
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石坂 啓は、日本の漫画家、作家。女性。雑誌『週刊金曜日』編集委員(547号〜1226号)や、ピースボート水先案内人を務めるほか、テレビコメンテーターとしても出演している。愛知県名古屋市出身。 既婚で一児の母。本名、立川啓子。旧姓、福田。堀田あきおと1983年に結婚するが、数年で離婚した。現在の夫は、『コージ苑』(相原コージ)にも登場する担当編集者の立川義剛であり二人の間に一人息子がいる。
'''石坂 啓'''(いしざか けい、[[1956年]][[3月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[作家]]。女性。[[雑誌]]『[[週刊金曜日]]』編集委員(547号(2005年3月4日号)〜1226号(2019年3月29日号))や、[[ピースボート]]水先案内人を務めるほか、[[テレビコメンテーター]]としても出演している。[[愛知県]][[名古屋市]]出身。 既婚で一児の母。本名、立川啓子。旧姓、福田<ref>『ブラック・ジャック創作秘話~手塚治虫の仕事場から~』第3巻。</ref>。[[堀田あきお]]と1983年に結婚するが、数年で離婚した。現在の夫は、『[[コージ苑]]』([[相原コージ]])にも登場する担当編集者<ref name="田中">{{cite book|和書|author=田中圭一|authorlink=田中圭一 (漫画家)|title=田中圭一の「ペンと箸」-漫画家の好物-||chapter=第18話:『キスより簡単』石坂啓と吉祥寺の居酒屋|chapterurl=http://r.gnavi.co.jp/g-interview/entry/penhashi/2934|isbn=9784091893116|year=2017}}</ref>の[[立川義剛]]であり二人の間に一人息子がいる。 == 来歴== [[愛知県]][[名古屋市]]生まれ。父親は日本人、母親は[[華僑]]であるため、日中ハーフである。[[1976年]]、父の経営する会社が倒産。[[名古屋芸術大学]]卒業。 [[1978年]]に上京、[[手塚プロダクション]]にて[[手塚治虫]]のアシスタントを1年ほどつとめる。同期に[[高見まこ]]、[[わたべ淳]]、[[堀田あきお]]らがいた。『[[ブラック・ジャック]]』の作画などを[[アシスタント (漫画)|担当]]した<ref>[https://tezukaosamu.net/jp/mushi/entry/33976.html インタビュー「私と手塚治虫 石坂 啓編,第1回」、(虫ん坊、手塚治虫公式、2023年12月1日)]</ref>。 デビュー作は第2回[[マンガ少年]]新人賞佳作入選の『とろりんなんぼく』([[1979年]])。[[青年漫画]]作品を中心に執筆し、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』で連載した『[[キスより簡単]]』は[[テレビドラマ]]化・[[映画]]化もされた。 [[1987年]]〜[[1988年]]には[[TBSラジオ]]の[[深夜放送]]『[[石坂啓のスーパーギャング]]』のパーソナリティをつとめるなど多彩な活動を行っていたが、出産を機に漫画家を休業し、以降は[[エッセイスト]]やコメンテーターとしての活動が主となる。第3回[[文化庁メディア芸術祭]]大賞を受賞。 == 人物・発言 == *2005年時点で14歳の息子も日本国籍である。しかし、彼が成人となる前には「平和憲法」が憲法改正されて自衛隊から「正規の軍隊」になるだろうとし、イタリア人と結婚した妹夫婦に一家で養子縁組し、「子供を守る」ために日本から逃げると述べている<ref>{{Cite web|和書|title=みんなでイタリア人に?(石坂 啓) |url=https://web.archive.org/web/20051126013953/http://www.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt |website=web.archive.org |date=2005-11-26 |access-date=2022-11-04}}</ref>。 *『[[週刊金曜日]]』の編集委員<ref>{{Cite web|和書|date=|url=http://www.kinyobi.co.jp/intro/intro_ishizaka.php|title=石坂啓 編集委員紹介|週刊金曜日公式サイト|publisher=週刊金曜日|accessdate=2010-12-25}}</ref>や『[[マガジン9]]条』発起人<ref>{{Cite web|和書|date=2005-03-01|url=http://www.magazine9.jp/about.php|title=マガジン9とは?|publisher=マガジン9|accessdate=2010-12-25}}</ref>、「[[九条の会]]」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人<ref>[http://www.masrescue9.jp/about_us/yobikake.html マスコミ九条の会(よびかけ人はだれですか)]</ref>などを務める。 *基本的に[[権威]]に当たるものが大嫌いで、息子が「小学校で[[体罰]]を受けた」と聞くと、早速学校に乗り込んでその疑惑の教師を糾弾した。そのために[[モンスターペアレント]]扱いされたこともある<ref name="田中" />。仕事柄、時間に融通がきいたので、息子の登下校にはほぼ毎日、付き添っていた<ref>2005年12月24日『朝日新聞』夕刊「子供を守る なにが必要か」</ref>。 *選択的[[夫婦別姓]]制度実現をめざす[[民法]]改正運動を行っているmネットの呼びかけ人でもある<ref>[https://www.ne.jp/asahi/m/net/ mネット]</ref>。 *いちばんの好物は、[[焼きそば]]<ref>朝日新聞1996年4月5日付「わたしの満漢全席」</ref>。 *[[松下玲子]]を支持し、[[武蔵野市|武蔵野市長]]選挙応援に駆けつけている<ref name=":0" />。 *[[安倍晋三銃撃事件|安倍晋三元首相暗殺事件]]の犯人を称賛しており、[[足立正生]]監督作品の「REVOLUTION+1」上映後のトークイベントにて、事件に関して夫である編集者の[[立川義剛]]と共に「でかした」と声を上げたことや実行犯を「(容疑者名)様」と呼んでいることを語った(詳細は政治活動の項目で後述)<ref>「2022.9.26_安倍元総理銃撃事件の映画 を「国葬」前日に公開! 足立正生監 督作品「REVOLUTION+1」 上映後の トークイベント」</ref>。 ==論評・活動等== ===戦争や北朝鮮に関する活動=== 1990年の[[湾岸戦争]]時には都内の寺で抗議のパフォーマンスとして[[ハンガーストライキ]]([[白米]]と[[パン]]と[[食肉|肉]]を抜いた食生活)を行った<ref>2003年4月28日 毎日新聞</ref>。 [[2003年]][[6月8日]]、[[小田実]]・[[姜尚中]]・[[和田春樹]]らと「東北アジアの平和を求める日韓市民共同声明」を発表し、「[[日本国政府|日本政府]]は、核危機の克服のためにも、また、日本の[[植民地]]支配の清算と[[北朝鮮による日本人拉致問題|拉致問題]]の解決のためにも、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]政府との中断した[[国交]]交渉をただちに、無条件で再開しなければなりません」と訴えた<ref>{{Cite web|和書|date=2003-06-08|url=http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/api33.html|title=東北アジアの平和を求める日韓市民共同声明|publisher=|accessdate=2010-12-25}}</ref>。 === 政治的活動 === 2006年9月、[[加藤紘一宅放火事件]]に対し、「[[民主主義]]にとって[[テロリズム|テロ]]は敵だ。言論封じのあらゆるテロを許さない」と非難する共同宣言を[[上原公子]]らと共に発表した<ref>{{Cite web|和書|date=2006-09-05|url=http://www.labornetjp.org/news/2006/1157446771230staff01|title=加藤宅放火事件~「言論封じ」のテロを許さない共同アピールに802人が賛同|publisher=レイバーネット日本|accessdate=2010-12-25}}</ref>。しかし、一方では前述および後述のように[[安倍晋三銃撃事件]]の容疑者を礼賛している。(なお国内法の定義ではテロではないとする見解もある<ref>https://forbesjapan.com/articles/detail/48953</ref>。) 2009年10月、[[フリーター全般労働組合]]などが主催した[[麻生邸見学ツアー逮捕事件|「リアリティツアー 62億ってどんなんだよ。麻生首相のお宅拝見」]]で、無許可[[デモ活動|デモ]]及び[[公務執行妨害]]の容疑で3人が[[逮捕]]されると、これを不法逮捕とする糾弾運動に[[上原公子]]らと参加した。 [[政治家]]の[[辻元清美]]とは個人的にも親交が深く、お互いの著書に推薦文や後書きを寄せあったりしている。[[辻元清美秘書給与流用事件|辻元の秘書給与詐欺事件]]に際しては[[灰谷健次郎]]と共に、「裁判を支える会」の呼びかけ人を務めた。 [[狛江市]]の市長選挙では[[河西信美]]、[[2007年]][[2007年東京都知事選挙|東京都知事選]]では、[[浅野史郎]]を応援する組織「アサノと勝とう!女性勝手連」の呼びかけ人となるなどの活動をしたが、両名とも落選している。 2017年には[[寺脇研]]と共に、武蔵野市長選挙に出馬した[[松下玲子]]の応援に行っている。松下の街宣中には「ブレません!」との支持パネルを掲げた<ref name=":0">{{Cite web|和書|title= [[松下玲子]] |url=https://twitter.com/matsushitareiko/status/878586101438361601 |website=Twitter |access-date=2022-11-04 |language=ja}}</ref>。 [[2022年]]の[[安倍晋三銃撃事件]]を容疑者の視点から描いた映画である[[REVOLUTION+1]]([[連合赤軍]]に自ら所属していた[[足立正生]]が監督)の上映後トークイベントに参加し、マイクを向けられた際、「(事件を)知ったときは思わずでかした! と叫びました」「夫([[小学館]]の[[編集者]]であり、取締役である<ref>{{Cite web|和書|title=小学館、4期ぶりの黒字決算に |url=https://www.shinbunka.co.jp/news2019/05/190524-01.htm |website=www.shinbunka.co.jp |access-date=2022-11-02 |archive-url=https://archive.ph/uS9nH |archive-date=2022/11/03}}</ref>[[立川義剛]])は容疑者を(容疑者名)様と呼んでいます」と発言し、但馬オサムによって「唖然となるようなことを嬉々として口にしていた」と報じられた<ref>{{Cite journal|author=但馬オサム|title=「目からビーム」124回|journal=八重山日報}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.youtube.com/watch?v=p0oMt3bsDCc&t=2694s&ab_channel=MovieIwj |title=2022.9.26_安倍元総理銃撃事件の映画を「国葬」前日に公開!足立正生監督作品「REVOLUTION+1」上映後のトークイベント |access-date=2022/11/02 |publisher=Movie Iwj}}</ref>。 ===国立メディア芸術総合センターについて=== [[日本漫画家協会]]会長の[[やなせたかし]]や[[里中満智子]]が「劣化が進む貴重なマンガ原画を保存・修復する拠点」として政府に働きかけていた[[国立メディア芸術総合センター]]について、「国費で額縁に原画を飾っても、ありがたがって見に来るマンガ好きはいない。恥ずかしいから私の作品は並べないで」<ref>毎日新聞 2009年6月4日</ref>「大家の先生方はマンガが不遇だった時代の人が多いから、国が歩み寄ってくるとうれしく思う人がいるだろう。しかし、お上にほめられて喜ぶ漫画家はいない。むしろ、お上をちゃかすのがマンガの精神。」と批判した<ref>【日本の議論】建設費なんと117億円「アニメの殿堂」は必要か? 衆院選の結果次第では… (3/5ページ) - MSN産経ニュース [http://sankei.jp.msn.com/entertainments/game/090628/gam0906281801001-n3.htm]</ref>。民主党が開催した2009年度補正予算案を検証する勉強会では「世界の若者に我が国のメディア芸術の魅力を発信する拠点となる」と説明する[[文化庁]]職員に対して、「お上に『よろしい』と言われて喜ぶより、そういうものをちゃかしたり風刺した作品を見せるのがマンガの精神」と述べ<ref>5月26日20時41分配信 毎日新聞 <石坂啓さん>国の施設批判「額縁にマンガ、恥ずかしい」 </ref>、「漫画家の仲間で好意的な反応をした人はいない」「ものすごくつまらないものになる」と計画の撤廃を訴えた<ref>『[https://megalodon.jp/2009-0527-2143-05/www.asahi.com/politics/update/0527/TKY200905270038.html 石坂啓さん、アニメの殿堂「つまらぬ」 民主会合で酷評]』([[朝日新聞]]、[[2009年]][[5月27日]])参照</ref>。 === その他の活動 === * [[楠瀬誠志郎]]らと共に「さくらちゃんを救う会」の呼びかけ人を務めた。 * [[テレビ朝日]]放送番組審議会副委員長を務めている。 == 漫画作品リスト == *下北なぁなぁイズム 朝日ソノラマ 1980 *茶番劇 朝日ソノラマ 1981 *エルフ 朝日ソノラマ 1982 *マンチャラ小日向くん 小学館 1983-84 *安穏族 集英社漫画文庫 1984 *[[キスより簡単]] 小学館 1986-87 - 1987年にフジテレビ系でテレビドラマ化。1989年と1991年(タイトル『キスより簡単2 漂流編』)に映画化。 *ハートパートナー 双葉社 1987 - 1987年に[[テレビ朝日]]「気ままな女シリーズ」の枠で『私のハートパートナー』のタイトルで前後編の2回に分けてドラマ化された。 *夢みるトマト 小学館 1988―89 *キャリング [[堀田あきお]]共著 小学館 1988―89 *アレルギー戦士 小学館 1988 *マネームーン 小学館 1990―91 *ムスコン 小学館 1990 *パパイラズ Men's子育て記 堀田あきお共著 小学館 1990.4 *正しい戦争―石坂啓反戦マンガ傑作集 集英社 1991 *私はカラス 小学館 1992 *[[ハルコロ]] 1,2(潮出版社1992,1993) ISBN 978-4267902420, ISBN 978-4267902482 (岩波現代文庫、2021)ISBN9784006023386、ISBN9784006023393- [[本多勝一]]の『アイヌ民族』(朝日新聞社,1992)に登場する「15世紀前半を舞台とする架空のアイヌ女性の生涯」をコミック化。 *新友録 集英社 1993 *さよなら家族 イースト・プレス 1994.6 *[[アイ'ム ホーム]] 小学館 1999 - 第3回[[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門大賞受賞。2004年に[[NHK夜の連続ドラマ]]で『アイ'ム ホーム 遥かなる家路』のタイトルで、2015年にテレビ朝日系で『アイムホーム』のタイトルでそれぞれテレビドラマ化。 *俺になりたい男 小学館 2000.7 *セカンドベスト 小学館 2002.1 *ひみつの箱 堀田あきお共著 小学館、2006 *悪(絵本)大月書店 2009.9 *竜宮家族 小学館 2015.3 *ねこミンミ - 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学一年生]]』で連載していた。 *ピョンタくんの楽しい戦争 - 編集委員をつとめた『[[週刊金曜日]]』誌上で月イチ連載。伏字シーンを登場させて不自由な世の中を表現しているのが特徴。 === イラスト提供作品 === * ボーイフレンドはエッチなゆうれい([[山中恒]] 作)偕成社 1986 * 背後霊倶楽部(山中恒 作)旺文社 1988 * 背後霊仕掛人(山中恒 作)旺文社 1990 * 背後霊内申書(山中恒 作)旺文社 1991 * あわてんぼ!めたねこムーニャン(山中恒 作)小学館 1991 * くいしんぼ!めたねこムーニャン(山中恒 作)小学館 1991 * 大変身!めたねこムーニャン(山中恒 作)小学館 1992 * 福引きはネコの手をかりて(山中恒 作)理論社 1994 * あつがりネコ海へいく(山中恒 作)理論社 1994 * いじわるネコのひとめぼれ(山中恒 作)理論社 1994 * いすわりネコはくいしんぼ(山中恒 作)理論社 1994 * おばぺのヒュータン(山中恒 作)小学館 1996 == 随筆単行本リスト == *『男嫌い』[[第三書館]] 1991 のち[[新潮文庫]] *『家ねこ外ねこみんなのねこ』[[小学館]] 1993 *『[[赤ちゃんが来た]]』[[朝日新聞社]] 1993 のち文庫- [[1994年]]に[[日本放送協会|NHK]][[ドラマ新銀河]]でテレビドラマ化。 *『私は恥ずかしい』文春[[ネスコ]]、1994 *『こんなのはじめて』ネスコ 1995 *『お金の思い出』[[新潮社]] 1996 のち文庫 *『コドモ界の人』朝日新聞社、1996 のち文庫 :上記の「赤ちゃんが来た」の続編的エッセイ。 *『ちょっとコハレタひと』[[読売新聞社]] 1998 *『学校に行かなければ死なずにすんだ子ども』[[幻冬舎]]、2001 のち文庫 :共著 *『尾木ママと考える大震災後を生きる希望のヒント』[[尾木直樹]]共著 金曜日 2012 == 出演 == === テレビ === * [[スーパーモーニング]](東京・[[テレビ朝日]](全国ネット))臨時コメンテーター ※ かつては火曜のレギュラー * [[ムーブ!]](大阪・朝日放送([[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]))水曜レギュラー(2007.12.12現在終了) === ラジオ === * [[石坂啓のスーパーギャング]]([[TBSラジオ]])- 1987年4月10日〜1988年4月8日 金曜深夜パーソナリティ == 関連作品 == * [[ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜]](2009年、秋田書店) - アシスタント時代の石坂が登場。 * ブラック・ジャックREAL~感動の医療体験談~(2013年、秋田書店) - 実話を元にしたストーリーに、手塚治虫のアシスタント経験者らが絵を描いた作品集。石坂も1編を担当。 * 堀田あきお、堀田かよ共著:『手塚治虫アシスタントの食卓』既刊2巻(ぶんか社 2019年)- 作中にアシスタント時代の石坂が登場。 == 関連項目 == * [[日本の漫画家]] == 脚注 == {{reflist}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20030608040738/www.mainichi.co.jp/women/action/leader/2003/0428.html Mainichi INTERACTIVE カモミール: 社会に一石を投じる作品を]【写真·文: 細田尚子】 * [http://www.kinyobi.co.jp/Recent 週刊金曜日] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いしさか けい}} [[Category:政治漫画]] [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:日本の女性評論家]] [[Category:日本のフェミニスト]] [[Category:フェミニストアーティスト]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:週刊金曜日|人いしさかけい]] [[Category:九条の会の人物]] [[Category:名古屋芸術大学出身の人物]] [[Category:名古屋市出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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石渡治
石渡 治(いしわた おさむ、1959年5月16日 - )は、日本の漫画家。男性。神奈川県出身。妻は漫画家の高梨くみ。漫画家のよしもとよしともは実弟である。 『B・B』で第34回(昭和63年度)小学館漫画賞を受賞した。
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'''石渡 治'''(いしわた おさむ、[[1959年]][[5月16日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[男性]]。[[神奈川県]]出身。妻は漫画家の高梨くみ<ref>『"LOVe"』第12巻 p.186</ref>。漫画家の[[よしもとよしとも]]は実弟である。 『[[B・B]]』で第34回(昭和63年度)[[小学館漫画賞]]を受賞した。 == 作品リスト == === 連載 === * タケル(『[[週刊少年サンデーS|週刊少年サンデー増刊号]]』、全1巻) * ラグタイムブルース(全6巻、ワイド版全3巻) * スーパーライダー(『[[週刊少年サンデー]]』、全10巻) * 石渡治傑作集(『[[少年ビッグコミック]]』、全1巻) * 火の玉ボーイ(『週刊少年サンデー』、全14巻、ワイド版全7巻) * [[B・B]](『週刊少年サンデー』、全31巻、ワイド版全16巻、文庫版全17巻) * ゴンベ(『[[漫画アクション]]』、全1巻) * [[HAPPY MAN]](原作:[[マキノノゾミ]]、『漫画アクション』、全9巻、ワイド版全4巻) * 10月の満月に一番近い土曜日(全1巻) * [["LOVe"]](『週刊少年サンデー』、全30巻) * 風神(『[[週刊少年サンデー超]]』、単行本未収録) * [[パスポート・ブルー]](『週刊少年サンデー』、全12巻) * II -ツヴァイ-(『週刊少年サンデー超』、全3巻) * [[白兵武者]](『[[週刊ヤングサンデー]]』、全12巻) * [[Odds -オッズ-]](『週刊ヤングサンデー』2006年14号 - →『[[週刊ヤングサンデー|スピリッツ増刊 YSスペシャル]]』Vol.1、全10巻) * [[Odds -オッズ-|Odds +1]](『スピリッツ増刊 YSスペシャル』Vol.2 - Vol.5、全1巻) * [[Odds -オッズ-|Odds GP!]](『漫画アクション』2009年4号<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/12824|title=石渡治「Odds」が移籍、攻勢止まらぬ漫画アクション|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2009-01-28|accessdate=2021-12-29}}</ref> - 2013年24号、全14巻) * [[Odds -オッズ-|Odds VERSUS!]](『漫画アクション』<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/119971|title=石渡治「Odds GP!」最終巻とシリーズ新作1巻が同時発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2014-06-27|accessdate=2021-12-29}}</ref>2014年2号 - 2023年22号、全107話、既刊30巻) === その他 === * [[デーモン閣下|デーモン小暮閣下]]の 悪夢へようこそ(1991年、カジマビジョン・自動車工業振興会) - アニメパートのキャラクターデザイン * [[HUMANE SOCIETY 〜人類愛に満ちた社会〜]](1992年、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|ソニー・ミュージックエンタテインメント]]、[[ムービック]]) - スーパーバイザー・キャラクター原案 * [[ライブ・ア・ライブ]] (1994年、[[スクウェア (ゲーム会社)|スクウェア]]) - 西部編のキャラクターデザイン * [[第35回読売新聞社杯全日本選抜競輪]]([[豊橋競輪場]])<ref>[http://keirin.jp/pc/dfw/portal/guest/report/graderace/zennihon/2019/winner_data/winner.html 第35回全日本選抜競輪] - KEIRIN.JP</ref> - ポスターデザイン == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} == 外部リンク == * [https://twitter.com/chaamuusan 石渡治](@chaamuusan)- [[Twitter]] {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いしわた おさむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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板垣恵介
板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家、元陸上自衛隊第一空挺団所属。北海道釧路市出身。本名は板垣 博之(いたがき ひろゆき)。主に格闘技を題材とした作品を得意としている。既婚者で三女の父親であり、三女は、同じく漫画家の板垣巴留。 少年時代から格闘家に対する憧れが強く、阿寒高校時代には少林寺拳法に励み、二段位を取得した。高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊である第1空挺団に約5年間所属した。その間、アマチュアボクシングで国民体育大会に出場したこともある。この時に小銃など総重量30kgの荷物を背負いながら真夏の富士山麓を100キロ歩き続ける訓練を完遂し、「この訓練が人生で一番きつかった。これに比べればたいしたことはない」と人生の糧になったことを語っている。後に板垣の強い希望でこの訓練は自伝として漫画化された(後述)。 その後、B型肝炎を患って自衛隊を除隊し1年近い入院生活を送った後、職を転々としながらの生活を送っていた。1987年、格闘技と並ぶ少年時代からの趣味だったイラストの腕を生かし漫画家として身を立てようと、小池一夫主催の「劇画村塾」に入塾(東京第6期生)。小池原作の漫画『傷追い人』の主人公・茨城圭介と自身の妻・惠子の名前からペンネームを取って「板垣恵介」とし、1989年『メイキャッパー』でデビュー。1991年、『週刊少年チャンピオン』に『グラップラー刃牙』の連載を開始。その後シリーズ第2部『バキ』、第3部『範馬刃牙』、第4部『刃牙道』、第5部『バキ道』を経て、『週刊少年チャンピオン』2023年39号より第6部『刃牙らへん』を連載している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "板垣 恵介(いたがき けいすけ、1957年4月4日 - )は、日本の漫画家、元陸上自衛隊第一空挺団所属。北海道釧路市出身。本名は板垣 博之(いたがき ひろゆき)。主に格闘技を題材とした作品を得意としている。既婚者で三女の父親であり、三女は、同じく漫画家の板垣巴留。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "少年時代から格闘家に対する憧れが強く、阿寒高校時代には少林寺拳法に励み、二段位を取得した。高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに陸上自衛隊に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊である第1空挺団に約5年間所属した。その間、アマチュアボクシングで国民体育大会に出場したこともある。この時に小銃など総重量30kgの荷物を背負いながら真夏の富士山麓を100キロ歩き続ける訓練を完遂し、「この訓練が人生で一番きつかった。これに比べればたいしたことはない」と人生の糧になったことを語っている。後に板垣の強い希望でこの訓練は自伝として漫画化された(後述)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "その後、B型肝炎を患って自衛隊を除隊し1年近い入院生活を送った後、職を転々としながらの生活を送っていた。1987年、格闘技と並ぶ少年時代からの趣味だったイラストの腕を生かし漫画家として身を立てようと、小池一夫主催の「劇画村塾」に入塾(東京第6期生)。小池原作の漫画『傷追い人』の主人公・茨城圭介と自身の妻・惠子の名前からペンネームを取って「板垣恵介」とし、1989年『メイキャッパー』でデビュー。1991年、『週刊少年チャンピオン』に『グラップラー刃牙』の連載を開始。その後シリーズ第2部『バキ』、第3部『範馬刃牙』、第4部『刃牙道』、第5部『バキ道』を経て、『週刊少年チャンピオン』2023年39号より第6部『刃牙らへん』を連載している。", "title": "来歴" } ]
板垣 恵介は、日本の漫画家、元陸上自衛隊第一空挺団所属。北海道釧路市出身。本名は板垣 博之。主に格闘技を題材とした作品を得意としている。既婚者で三女の父親であり、三女は、同じく漫画家の板垣巴留。
{{存命人物の出典明記|date=2013年4月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 板垣 恵介 | ふりがな = いたがき けいすけ | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 板垣 博之(いたがき ひろゆき){{R|mangapedia}} | 生地 = [[日本]]・[[北海道]][[釧路市]]{{R|mangapedia}} | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1957|4|4}}{{R|mangapedia}} | 没年 = | ジャンル = [[格闘漫画]] | 活動期間 = [[1989年]] - | 代表作 = 『[[グラップラー刃牙]]』シリーズ{{R|mangapedia}} | 受賞 = | 公式サイト = [http://www.itgm.jp/ 有限会社いたがきぐみ] }} '''板垣 恵介'''(いたがき けいすけ、[[1957年]][[4月4日]]<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=漫画家・板垣恵介さんから20代のキミへ。自分の才能がわからないなら「他人の褒め言葉をキャッチする」。 |url=https://www.mensnonno.jp/lifestyle/worries/102719/ |website=MEN'S NON-NO WEB |date=2021-06-30 |access-date=2022-12-27 |language=ja |publisher=[[集英社]]}}</ref> - )は、日本の[[漫画家]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/板垣恵介-aix1j4stq|title=板垣 恵介(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2023-08-24}}</ref>、元[[陸上自衛隊]][[第1空挺団 (陸上自衛隊)|第一空挺団]]所属。[[北海道]][[釧路市]]出身{{R|mangapedia}}。本名は'''板垣 博之'''(いたがき ひろゆき){{R|mangapedia}}。{{独自研究範囲|date=2023-08-24|主に[[格闘技]]を題材とした作品を得意としている。}}既婚者で三女の父親であり、三女は、同じく漫画家の[[板垣巴留]]。 == 来歴 == 少年時代から[[格闘家]]に対する憧れが強く<ref name=":0" />、[[北海道阿寒高等学校|阿寒高校]]時代には[[少林寺拳法]]に励み、二段位を取得した。高校卒業後、一旦地元企業に就職するも間もなく退職、20歳のときに[[陸上自衛隊]]に入隊し、陸自屈指の精鋭部隊である[[第1空挺団 (陸上自衛隊)|第1空挺団]]に約5年間所属した<ref name=":0" />。その間、アマチュア[[ボクシング]]で[[国民体育大会]]に出場したこともある<ref name=":0" />。この時に小銃など総重量30kgの荷物を背負いながら真夏の富士山麓を100キロ歩き続ける訓練を完遂し<ref name=":0" />、「この訓練が人生で一番きつかった。これに比べればたいしたことはない」と人生の糧になったことを語っている。後に板垣の強い希望でこの訓練は自伝として漫画化された(後述)。 その後、[[B型肝炎]]を患って自衛隊を除隊し1年近い入院生活を送った後、職を転々としながらの生活を送っていた。1987年、格闘技と並ぶ少年時代からの趣味だったイラストの腕を生かし漫画家として身を立てようと、[[小池一夫]]主催の「[[劇画村塾]]」に入塾(東京第6期生)<ref name=":0" />。小池原作の漫画『[[傷追い人]]』の主人公・茨城圭介と自身の妻・惠子の名前からペンネームを取って「板垣恵介」とし<ref name="koike">{{Cite web|和書|date=2004-09-24|url=http://www.koikekazuo.jp/2004/09/post-7530.html|title=■スペシャルインタビュー■板垣恵介: 小池一夫のキャラクターマンブログ|accessdate=2014年2月14日 }}</ref>、1989年『[[メイキャッパー]]』でデビュー<ref name=":0" />。[[1991年]]、『[[週刊少年チャンピオン]]』に『[[グラップラー刃牙]]』の連載を開始<ref name=":0" />。その後シリーズ第2部『バキ』、第3部『範馬刃牙』、第4部『刃牙道』、第5部『バキ道』を経て、『週刊少年チャンピオン』2023年39号より第6部『刃牙らへん』を連載している<ref name=":0" />{{R|natalie20230824}}。 == 作風 == {{雑多|section=1|date=2022-12}} * 代表作である『グラップラー刃牙』シリーズや『[[餓狼伝]]』のような、[[格闘漫画]]の分野において高い人気を誇っている。 * 絵柄に関しては[[池上遼一]]、[[谷口ジロー]]、[[鳥山明]]の影響を受けていると語っている<ref>谷口ジロー版『餓狼伝』文庫版あとがきより</ref>。また、女性の描き方は[[おおた慶文]]の影響が強いとのこと<ref>『小池一夫のニコニコキャラクター塾! 〜第3講:板垣恵介〜』より</ref>。 * 作画時に[[ボディビル]]の雑誌を参考にしているため、[[筋肉]]を緻密にかつ誇張して描く傾向が強い。これについては「ボディビルダーがあれだけ肉体美を持ちながら鑑賞のみにとどまっているのがもったいなく、自身の漫画の中では願望として格闘家の肉体もボディビルダー的に描いている」という旨の発言をしている<ref>太田出版『QuickJapan』vol.44 97ページ</ref>。また、板垣の作業机最下段の資料棚には、人体[[解剖学]]や医学の専門書が常備されているという。 * キャラクターは手を肘より先、足は脛より先を長く描くことを意識している。そうすることにより動きが速そうに見え、立ってるだけでスピード感のある絵になるという<ref>『週刊少年チャンピオン』1月25日増刊号『グラップラー刃牙SPECAL』</ref>。また、キャラクター同士が対峙し、にらみ合うなどの緊迫した場面で、背景が歪む描写は自分が初めて行ったと主張している<ref>講談社『餓狼伝 格闘士真剣伝説』12ページ。</ref>。 * まず原稿用紙のコマ割りを決めた後、コマを個別に切り離して一コマ単位で描き上げ、作業終了後それらを貼り合わせてページを作るという独特の手法で作品を制作している。これは、大勢のスタッフが手分けして作業できるよう編み出された工夫であるという。緊急時には一コマを複数に切り分けて作業分担する。 * 登場するサブキャラクターに多くの尺を割き、丁寧に(主に格闘技の試合などを)描写しているのも特徴である。これは自身が読んでいた作品が、主人公以外の闘いは大幅に省略されていることに不満を持ったのが発端で、「『[[あしたのジョー]]』で力石とカーロス・リベラが闘ったらどうなるのか?」といったものを表現したかったと語る<ref>太田出版『QuickJapan』vol.44 96ページ</ref>。その影響で主人公が長い間登場しなかったり、[[狂言回し]]的な役割に徹することも少なくない。 * [[ムエタイ]]、[[柔道]]といった一般的に「強い」といわれる格闘技の選手を[[かませ犬]]的に描写することが多い。これについて「強いとされている格闘技をあえて重要な斬られ役にすることで、キャラクターの強さを印象付けるため」と語っている<ref>徳間書店『板垣恵介の格闘士列伝』181ページ。</ref>。 * 多くの格闘家、武道家と親交があり、自身の作品の中にもそれらが原型となった登場人物が多数登場している。[[島田道男]]の項目も参照。 * 勢いに任せた作風に見えるが、勝敗などの部分はあらかじめ決めているとのこと。『グラップラー刃牙』の最大トーナメント編も、全試合の勝敗は決めていたが、「花山対克巳戦は、描いている途中で勝敗が変わりそうになった」と語っている。 * 時おり描写される極端な強さの表現などが、ギャグと捉えられることがある。板垣自身も「[[漫☆画太郎]]から同業者と呼ばれた」「ネットでは『刃牙は格闘技漫画の名を借りたギャグ漫画』と書かれている」と認めている。あまりに凄すぎる事柄に対しては「笑っちゃう様な」と言われる場合があるため、板垣自身もそうした表現を目指してるという<ref>株式会社ワールドフォトプレス 『[[フィギュア王]]』No.176 16-17頁。</ref>。 * 週刊少年チャンピオン連載の『[[浦安鉄筋家族]]』では、刃牙のパロディキャラクターが登場したりと、刃牙のネタが多用されている。板垣は『あっぱれ!浦安鉄筋家族』2巻にて「[[浜岡賢次]]さんほど板垣恵介とバキシリーズを理解してくれている人はいない」とコメントしている。 * 現在は東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]在住で、2014年に市制60周年を迎えた府中市のオリジナルナンバープレートのデザインに『刃牙道』が採用された<ref>[http://www.city.fuchu.tokyo.jp/closeup/original_numberplate.html 府中市ホームページ]</ref>。 == 作品リスト == === 連載作品 === * [[メイキャッパー]] **『ヤング・シュート』(1989年7月号 - 1991年3月号) **『コミック・シュート』(1991年4月号 - 1991年9月号) *: デビュー作。1989年7月号掲載分は読切。 * [[グラップラー刃牙]] - 『[[週刊少年チャンピオン]]』(1991年43号 - 1999年29号) * グラップラー刃牙外伝 - 『週刊少年チャンピオン』(1999年30号 - 1999年42号) * バキ - 『週刊少年チャンピオン』(1999年43号 - 2005年52号) * バキ特別編 SAGA[性] - 『[[ヤングチャンピオン]]』(2002年12号 - 2002年15号) * バキ外伝 疵面、作画:山内雪奈生 ** 『[[チャンピオンRED]]』(2005年3月号 - 2007年12月号) ** 『週刊少年チャンピオン』(2009年7号 - 2009年15号) ** 『[[別冊少年チャンピオン]]』(2014年11月号 - ) * バキ外伝 創面 - 『別冊少年チャンピオン』(2012年7月号 - )、作画:山内雪奈生 * バキ外伝 拳刃 - 『チャンピオンRED』(2013年8月号 - )(原作・構成。原作協力:浦秀光、作画:宮谷拳豪) * 範馬刃牙 - 『週刊少年チャンピオン』(2006年1号 - 2012年38号) * [[ピクル]] - 『週刊少年チャンピオン』(2007年35号 - 2007年42号) * [[餓狼伝]]【未完】、原作:[[夢枕獏]] ** 『[[コミックバーズ]]』(1996年8月号 - 1999年5月号) ** 『[[ヤングマガジンアッパーズ]]』(1999年15号 - 2003年24号、2004年17号 - 2004年21号) ** 『[[イブニング]]』(2005年5号 - 2010年21号) * 餓狼伝BOY - 『[[週刊少年マガジン]]』(2004年7号 - 2004年32号)、原作:夢枕獏 * オルビム - 『チャンピオンRED』(2007年3月号 - 2007年7月号)(第2話まで監修。原作:かさはら倫尚、漫画:井上元伸) * [[どげせん]] - 『[[週刊漫画ゴラク]]』(2010年11月19日号 - 2011年10月21日号)(企画、全面協力。作・画:RIN) * 濁ジョータロー - 『[[プレイコミック]]』(2011年10月号 - <ref>2011年11月号掲載の第2話の最終ページに「2012年1月号に続く」と書かれていたが、実際のその号では叶精作の新連載『地獄の葬儀屋 デーモン豊作』(原作:三田武詩)が始まり、濁ジョータローは『[[ヤングチャンピオン]]』へ移籍することが巻末コメントで告知された。しかし現在も連載は再開されていない。</ref>)、作画:[[叶精作]] * [[謝男|謝男 シャーマン]] - 『週刊漫画ゴラク』(2011年12月30日号 - '''不定期連載中''') * 刃牙道 - 『週刊少年チャンピオン』(2014年16号 - 2018年19号) * バキ道 - 『週刊少年チャンピオン』(2018年45号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/302318|title=今度の相手は相撲の神!「刃牙」新シリーズ「バキ道」、一挙5話掲載で開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2018-10-04|accessdate=2023-06-15}}</ref> - 2023年29号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/528817|title=宇宙人少女ヒーロー描くラブコメ新連載が週チャンで、「バキ道」は完結&新シリーズ始動|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-06-15|accessdate=2023-06-15}}</ref>) * 刃牙らへん - 『週刊少年チャンピオン』(2023年39号<ref name="natalie20230824">{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/538089|title=刃牙シリーズ最新作「刃牙らへん」始動、佐部京一郎VSジャック範馬の“刃と牙”の戦い|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-08-24|accessdate=2023-08-24}}</ref> - '''連載中''') === 読切作品 === * グラップラーアギトー ※デビュー前の習作。スタジオシップ版『メイキャッパー』3巻に収録。 * 化粧師-メイカー- - 『週刊少年チャンピオン』(1994年3+4号)※『グラップラー刃牙』13巻に収録 * 蹴人シュート - 『コミック格闘王』vol.1(1994年10月25日号)※ 闘人烈伝(編集:夢枕獏)に収録 * マリア - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』(1996年25号) * メイカー ** 『[[ヤングサンデー]]』(1997年1号、1997年2+3号)※ 秋田書店版『メイキャッパー』3巻に収録 ** 『ヤングサンデー』(1997年35号、1997年36+37号) ** 『ヤングサンデー』(1998年38号) * 習志野第一空挺団シリーズ ** 200000歩2夜3日 - 『ヤングチャンピオン』(1998年8号) ** 340メートル60秒 - 『ヤングチャンピオン』(1999年1号) ** 210日900m/m以上? - 『週刊少年チャンピオン』(2022年40号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/491896|title=板垣恵介による自伝シリーズ「習志野第一空挺団」新作が23年ぶりに週チャンに登場|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-09-01|accessdate=2022-09-01}}</ref>、41号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/w-champion/2022/41|title=週刊少年チャンピオン 2022年No.41|publisher=秋田書店|accessdate=2022-09-08}}</ref>) ** 70分600cc以上? - 『週刊少年チャンピオン』(2022年47号<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.akitashoten.co.jp/w-champion/2022/47|title=週刊少年チャンピオン 2022年No.47|publisher=秋田書店|accessdate=2022-10-20}}</ref>) == メディア出演 == ;テレビ * [[堂本剛の正直しんどい]](新OP制作コラボ) * [[週刊少年「」|週刊少年「板垣恵介」]]( 2003年8月5日、[[フジテレビTWO|フジテレビ721]])<ref name="kagikakko">太田出版『週刊少年「」』2003年12月12日第1刷発行。</ref> * 脳内ドキュメンタリー 考える人(2013年9月9日、[[NHK札幌放送局]]) * [[明石家さんまの転職DE天職|さんまの転職DE天職2]](2014年4月21日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref>{{Cite web|和書|date=2014年4月21日|url=https://natalie.mu/comic/news/114900|title=コミックナタリー - 板垣恵介が自衛隊からの転職を語る、今夜さんまMC番組で|accessdate=2014年4月21日 }}</ref> * [[漫道コバヤシ]](2015年10月30日<ref>{{Cite web|和書|date=2015年10月29日|url=https://natalie.mu/comic/news/164456|title=「漫道コバヤシ」に板垣恵介登場!アライJr.や夜叉猿らキャラへの思いを語る|accessdate=2015年11月23日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2015年10月20日|url=http://blog.fujitv.co.jp/man-koba/E20151020001.html|title=板垣恵介先生回は二部作!|accessdate=2015年11月23日}}</ref>・11月16日<ref>{{Cite web|和書|date=2015年11月9日|url=http://blog.fujitv.co.jp/man-koba/E20151109002.html|title=#21板垣恵介先生 青竜編は11月16日!|accessdate=2015年11月23日}}</ref>、[[フジテレビONE]]) * [[ナカイの窓]](2016年10月19日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])<ref>{{Cite web|和書|date=2016年10月17日|url=https://natalie.mu/comic/news/205712|title=板垣恵介、福本伸行ら「ナカイの窓」マンガ家SPに出演、中居の似顔絵も描く - コミックナタリー|accessdate=2016年10月20日 }}</ref> * 板垣恵介が行く!最強道場(2021年3月21日、[[BS-TBS]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bs-tbs.co.jp/entertainment/saikyodojo/|title=板垣恵介が行く!最強道場|publisher=BS-TBS|accessdate=2021-10-01}}</ref> * [[川島・山内のマンガ沼]](2021年9月25日・10月2日、[[読売テレビ]](10月1日・7日、日本テレビ)) * [[お笑いの日#お笑いの日2021|お笑いの日2021]]「お笑いミクスチャーフェス」(2021年10月2日、[[TBSテレビ]]) - [[バカリズム]]とコラボ<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/owarai/news/447340|title=かまいたち×プリンセス天功、マヂラブ×高橋名人、バカリ×板垣恵介などコラボ続々|publisher=お笑いナタリー|data=2021-09-30|accessdate=2021-10-01}}</ref> * [[超人女子戦士 ガリベンガーV|謎解き戦士!ガリベンガーV]](2023年11月9日・16日、[[テレビ朝日]]) ;ラジオ * [[キャイ〜ンのおのれっ、この・・・傾奇者がぁ〜!!]](2014年1月20日、[[TBSラジオ]]) ;webテレビ * [[宇宙一せまい授業!]](2007年11月18日・25日、[[あっ!とおどろく放送局]]) ;その他 * [[グラップラー刃牙]](原作者ナレーターで特別出演) * OVA版グラップラー刃牙(選手A) * [[読売ジャイアンツ]]対[[千葉ロッテマリーンズ]]のオープン戦始球式(2022年3月18日、[[東京ドーム]]<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/470246|title=板垣恵介がジャイアンツ×ロッテの始球式に!33番ユニフォームでノーバウンド投球|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-18|accessdate=2022-03-18}}</ref>) == 著書 == * 板垣恵介の格闘士[グラップラー]列伝([[徳間書店]]、1999年12月31日、ISBN 4-19-861112-2 ) * 板垣恵介の激闘達人烈伝(徳間書店、2005年12月、ISBN 978-4198923457) * [[宇宙一せまい授業!]]([[北本かつら]]と共著)(東邦出版、2008年5月16日) * 檄!([[マガジンハウス]]、2013年5月23日、ISBN 978-4838724727) * 裏最強土下座([[幻冬舎]]、2013年9月26日、ISBN 978-4344024564) == イラスト == * 新説 ストリートファイター列伝([[ゲーメスト|月刊ゲーメスト9月号増刊]]『[[ストリートファイターII|ストリートファイターIIダッシュ]]』、[[新声社]]、1992年9月30日発行。) [[マイク・バイソン|バイソン]]、[[リュウ (ストリートファイター)|リュウ]] * [[獅子の門]]シリーズ([[夢枕獏]]、[[光文社]])表紙・本文イラスト * [[餓鬼レンジャー]]「[[ラップ・グラップラー餓鬼]]」(2002年5月22日)ジャケットイラスト * 史上最強の哲学入門 ([[飲茶 (作家)|飲茶]]著、[[マガジン・マガジン]]、2010年4月 ISBN 978-4896447323) 表紙イラスト * [[ソニー・コンピュータエンタテインメント]]年の瀬の[[PlayStation]]祭り [[アントニオ猪木]]・[[橋本真也]]イラスト * [[賭博黙示録カイジ|カイジ]]500回記念 祝福イラスト&コメント(『[[週刊ヤングマガジン]]』2011年35号、36頁。) * [[SHOW-YA]]「[[GENUINE DIAMOND]]」(2012年3月7日)特典イラストポスター<ref>{{Cite web|和書|date=2012年3月4日|url=https://natalie.mu/comic/news/65441|title=熱い異種コラボが実現ッッ!SHOW-YA×板垣恵介ポスター - コミックナタリー|accessdate=2015年11月23日}}</ref> * 『罪と罰』第3巻 ([[漫☆画太郎|漫F画太郎]]、原作[[フョードル・ドストエフスキー|ドストエフスキー]]、[[新潮社]]、2012年10月 ISBN 978-4107716828) 表紙イラスト<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/77017|title=コミックナタリー - 画太郎「罪と罰」3巻カバーイラストは、刃牙の板垣恵介|accessdate=2013年10月24日 }}</ref> * 「[[スポーツ祭東京2013]]」[[国民体育大会卓球競技|国体卓球競技]]イラスト<ref>{{Cite web|和書|date=2013年9月21日|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/kohoshi/koho/h25kouho.files/130921kouho.pdf|title=『広報ふちゅう』第1679号|accessdate=2014年5月11日 }} 1頁右下のガイドブック表紙の下部に小さく「強烈なスマッシュを放つ[[ゆりーと]]」画/板垣恵介氏(「グラップラー刃牙」シリーズ作者/府中市在住)とある</ref><ref name="fuchu_number">{{Cite web|和書|date=2014年5月9日|url=http://www.yomiuri.co.jp/national/20140508-OYT1T50218.html|title=人気漫画「刃牙」ご当地ナンバー、府中が交付へ : 社会 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)|accessdate=2014年5月11日 }}</ref> * 「献血しよう!2013 in TOKYO」キャンペーン用カレンダー<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/102402|title=コミックナタリー - 中川翔子も参加!献血協力で板垣らのカレンダーもらえる|accessdate=2013年11月4日 }}</ref> * [[ビッグコミック]]創刊45周年&[[ゴルゴ13]]生誕45周年記念企画 私が描くデューク東郷(『ビッグコミック』2013年11月25日号、3頁。) * 大戦乱!!三国志バトル(五虎大将軍 趙雲<ref>{{Cite web|和書|date=2013年12月2日|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000033.000007342.html|title=『大戦乱!!三国志バトル』に板垣恵介氏描き下ろしカードが登場!|株式会社gloopsのプレスリリース|accessdate=2013年12月2日 }}</ref>、呂布) * [[チェインクロニクル|チェインクロニクル ~絆の新大陸~]](範馬刃牙<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社セガゲームス -【SEGA Games Co., Ltd.】|date=2014年9月2日|url=http://sega-net.com/release/140902_6484.html|title=『チェインクロニクル ~絆の新大陸~』と「刃牙道」のコラボいよいよ開始ッ!!強敵を倒して「"地下闘技場最年少王者" 範馬刃牙(SSR)」を手に入れろ!|accessdate=2017年12月19日}}</ref>)※期間限定コラボ * 語!白浜の昇竜伝。~ぼくの覚えた太極そのイチ~(2014年11月23 - 24日、座・高円寺2)チラシ・ポスター作画<ref>{{Cite web |date=2014年11月7日|url=https://web.archive.org/web/20141107182508/http://www.teamhanaji.com/hanajitsuusihin.html|title=TEAM花時 花時通信|accessdate=2015年12月4日 }}</ref> * [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカサッポロ]] がぶ飲み『パネェ日本昔話』キャンペーン用イラスト<ref>{{Cite web|和書|date=2017年7月3日|url=https://www.atpress.ne.jp/news/130535|title=がぶ飲み×板垣恵介 コラボレーション開始のお知らせ 7月1日開始の“「がぶ飲み」強化月間”を記念して、がぶ飲み「パネェ日本昔話」に、史上最もパネェ桃太郎が参戦!「刃牙」シリーズの板垣恵介が、がぶ飲みと初のコラボ!|プレスリリース配信サービス【@Press:アットプレス】|accessdate=2017年7月10日}}</ref> * プリズナートレーニング 圧倒的な強さを手に入れる究極の自重筋トレ(ポール・ウェイド著、山田雅久訳、CCCメディアハウス、2017年7月 ISBN 978-4-484-17106-7) 表紙イラスト * [[RIZIN_FIGHTING_FEDERATION|RIZIN]] FIGHTING WORLD GRAND-PRIX 2017 バンタム級トーナメント&女子スーパーアトム級トーナメント 2nd ROUND/Final ROUND(2017年12月29日・31日、[[さいたまスーパーアリーナ]]) ポスター用イラスト<ref>[https://twitter.com/nobu_sakakibara/status/939062686184177665 Twitter/NOBUYUKI SAKAKIBARA:… 格闘漫画「刃牙シリーズ」の作者である板垣恵介先生がRIZINの為に書き下ろしてくれました!!…]</ref> * プリズナートレーニング 超絶!! グリップ&関節編 永遠の強さを手に入れる最凶の自重筋トレ(ポール・ウェイド著、山田雅久訳、CCCメディアハウス、2018年3月27日 {{ISBN2|978-4-484-18105-9}}) 表紙イラスト * [[ダウンタウンDX]] 放送開始25周年記念(2018年11月)コラボイラスト<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/306838|title=まだDX続くんかい!板垣恵介、地獄のミサワと「ダウンタウンDX」がコラボ|publisher=コミックナタリー|accessdate=2018年11月7日 }}</ref> * [[ピップ]]マグネループMAX『刃牙』プロモーション(2021年3月、ピップ) - プロモーション用オリジナルキャラクターイラスト<ref>{{Cite news|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000153.000034803.html|title=新商品ピップマグネループ®MAXと『刃牙』のスペシャルコラボレーション あの範馬刃牙が現代社会に登場?!「バキバキ最凶肩凝編」始動!|newspaper=PR TIMES|date=2021-03-08|accessdate=2022-01-10}}</ref> * [[東京2020パラリンピック]]公式プログラム(2021年8月、[[KADOKAWA]]) - [[テコンドー]]のイラストを描きおろし<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/439829|title=東京2020パラリンピック公式本で里中満智子がバドミントン、板垣恵介がテコンドー描く|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-08-06|accessdate=2021-08-06}}</ref> == コラム == * 読書日記(『[[日本経済新聞|日本経済新聞夕刊]]』、2013年12月4日、11日、18日、25日) == デザイン == * [[原動機付自転車|原付きバイク]]用[[デザインナンバープレート|ナンバープレート]]([[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]]) 2014年7月28日から限定600枚で交付開始予定。<ref name="fuchu_number"/><ref name="fuchu_number_official">{{Cite web|和書|date=2014年5月28日|url=http://www.city.fuchu.tokyo.jp/closeup/original_numberplate.html|title=オリジナルナンバープレート製作発表会が行われました 東京都府中市ホームページ|accessdate=2014年5月29日 }}</ref><ref name="fuchu_1705">{{Cite web|和書|date=2014年6月11日|url=https://www.city.fuchu.tokyo.jp/gyosei/johokokai/koho/kohoshi/koho/heisei26nenhakkou.files/fuchu_0611_HPall.pdf|title=『広報ふちゅう』第1705号|accessdate=2014年6月14日 }} </ref> == 関連人物 == * [[富沢ひとし]](元[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]) * [[井上元伸]](元アシスタント) * [[三枝誠]](自衛隊時代の同期) * [[笠原倫]](少年チャンピオンの同期) * [[塩田剛三]] * [[マッスル北村]] * [[島袋光年]] * [[板垣巴留]](実娘<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/348016|title=「バキ道」板垣恵介×「BEASTARS」板垣巴留の親子対談が週チャンに掲載|date=2019-09-19|work=コミックナタリー|accessdate=2019-09-19}}</ref>) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.itgm.jp/ 公式サイト(有限会社いたがきぐみ)] {{Normdaten}} {{グラップラー刃牙}} {{デフォルトソート:いたかき けいすけ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:自衛隊出身の人物]] [[Category:陸上自衛官]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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562
樹なつみ
樹 なつみ(いつき なつみ、1960年2月5日 - )は、日本の漫画家。兵庫県出身。代表作に『八雲立つ』など。 「緑の館の住人たち」(未収録)で第3回LMS6位初入選。「フェアリー★ガゼール」(『マルチェロ物語』3巻収録)で第11回LMSトップ賞を受賞し、1979年『LaLa』4月号「めぐみちゃんに捧げるコメディ」(『男と女に捧げるコメディ』収録)でデビュー。1981年に初連載『マルチェロ物語』で人気を得る。
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樹 なつみは、日本の漫画家。兵庫県出身。代表作に『八雲立つ』など。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 樹 なつみ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[兵庫県]] | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|2|5}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1979年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[八雲立つ]]』 | 受賞 = 第24回[[星雲賞]]([[1993年]])<br/>第21回[[講談社漫画賞]]([[1997年]]) | 公式サイト = [http://plaza.rakuten.co.jp/ceiroro/ なつみ缶-樹なつみオフィシャルブログ-] }} '''樹 なつみ'''(いつき なつみ、[[1960年]]{{sfn|ダ・ヴィンチ|2018|p=27}}[[2月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[兵庫県]]出身。代表作に『[[八雲立つ]]』など。 == プロフィール == 「緑の館の住人たち」(未収録)で第3回LMS6位初入選。「フェアリー★ガゼール」(『マルチェロ物語』3巻収録)で第11回LMSトップ賞を受賞し、[[1979年]]『[[LaLa]]』4月号「めぐみちゃんに捧げるコメディ」(『男と女に捧げるコメディ』収録)でデビュー{{sfn|ダ・ヴィンチ|2018|pp=22-34}}。1981年に初連載『マルチェロ物語』で人気を得る{{sfn|ダ・ヴィンチ|2018|pp=22-23}}。 === 受賞歴 === *『[[OZ (樹なつみの漫画)|OZ]]』で[[1993年]]、第24回[[星雲賞]]を受賞。 *『[[八雲立つ]]』で[[1997年]]度第21回[[講談社漫画賞]]を受賞。 == 作品リスト == * 男と女に捧げるコメディ(1981年) * トランシルヴァニア・アップル(1983年) * [[マルチェロ物語]](全8巻、1982年 - 1985年) * [[朱鷺色三角]](全5巻、1985年 - 1987年) ** パッション・パレード―朱鷺色三角 2(全6巻、1987年 - 1989年) * エキセントリック・シティ(1989年) * [[花咲ける青少年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://anime.eiga.com/program/101565/|title=花咲ける青少年 : 作品情報|publisher=アニメハック|accessdate=2020-04-23}}</ref>(全12巻、1990年 - 1994年) ** 花咲ける青少年特別編(全5巻、2011年 - 2014年) ** 花咲ける青少年プレミアムファンブック(2011年) * [[OZ (樹なつみの漫画)|OZ]](全4巻、1990年 - 1992年) * [[八雲立つ]](全19巻、1992年 - 2002年) ** 八雲立つ 灼(既刊7巻、2018年 - ) * [[獣王星]](全3巻、1994年 - 2006年) * [[暁の息子]](2000年) * [[デーモン聖典]](全11巻、2003年 - 2007年) * [[ヴァムピール]](全5巻、2008年 - 2013年) ** ヴァムピール特別編 KING AND BARON+(全2巻、2013年 - 2014年) * [[一の食卓]](既刊6巻、2015年 - ) 元[[新撰組]]の[[斎藤一]]を題材としている == 出典 == {{reflist}} == 参考文献 == * {{Cite journal|和書|journal=[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]|year=2018|issue=4|publisher=KADOKAWA|asin=B079N1S9LG|ref={{sfnref|ダ・ヴィンチ|2018}}}} == 外部リンク == * {{twitter|nattuunn|樹なつみ}} * [https://web.archive.org/web/20001109101700/http://www.ny.airnet.ne.jp/itsuki/ なつみ缶] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いつき なつみ}} [[Category:20世紀日本の女性著作家]] [[Category:21世紀日本の女性著作家]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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563
伊東岳彦
伊東 岳彦(いとう たけひこ)は、日本の漫画家、イラストレーター、アニメーション作家。男性。 本名や生年月日は公表されていない。代表作は『宇宙英雄物語』『星方武侠アウトロースター』『覇王大系リューナイト』。愛称は「老師」。 北海道北見市出身。高校卒業後、東京のデザイン専門学校へ進み、同時期に様々な雑誌の仕事や設定協力などを手掛ける。その後おもちゃのデザインの仕事に就いた後、漫画編集者に。しかし担当した作品がどれも面白くないと思いそれなら自分で描いたほうがいいと考えて転職、「Good Morning アルテア」をアンソロジーコミック『C-LIVE 1』(夢元社発行、東京創元社発売)に掲載。 デビュー当初はBLACK POINTというペンネームを使用しており、自画像(顔に「BP」と書かれている)や初期の作品で確認できる。イラスト・アニメ関連の仕事では幡池裕行名義で活動している。このことについて伊東自身が「別人だ」と語った事があるが、『Vジャンプ』連載「覇王大系リューナイト」第1回の画稿の名義は幡池裕行になっている。 作品制作の際にはスタジオ形式を採用しており、クリエイタースタジオモーニングスターで活動している。モーニングスターには幡池裕行も所属していることになっている。 闇の魔法陣というサークル名で、オリジナル作品の番外編やパイロット版、設定集、ラフ画などを収録した同人誌を発表している。 オリジナルのスペースオペラ作品に共通する世界観としてToward Star Worldsがある。
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伊東 岳彦は、日本の漫画家、イラストレーター、アニメーション作家。男性。 本名や生年月日は公表されていない。代表作は『宇宙英雄物語』『星方武侠アウトロースター』『覇王大系リューナイト』。愛称は「老師」。
{{存命人物の出典皆無|date=2012年6月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 伊東 岳彦 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[北見市]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|||}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]]<br/>[[イラストレーター]]<br/>[[アニメーション]] | 活動期間 = ? - | ジャンル = | 代表作 = 『[[宇宙英雄物語]]』<br/>『[[覇王大系リューナイト]]』 | 受賞 = | 公式サイト = }} {{と学会}} '''伊東 岳彦'''(いとう たけひこ)は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、[[アニメーション]]作家。男性。 本名や生年月日は公表されていない。代表作は『[[宇宙英雄物語]]』『[[星方武侠アウトロースター]]』『[[覇王大系リューナイト]]』。愛称は「老師」。 == 来歴 == [[北海道]][[北見市]]出身。高校卒業後、東京のデザイン専門学校へ進み、同時期に様々な雑誌の仕事や設定協力などを手掛ける。その後おもちゃのデザインの仕事に就いた後、漫画編集者に。しかし担当した作品がどれも面白くないと思いそれなら自分で描いたほうがいいと考えて転職、「Good Morning アルテア」をアンソロジーコミック『C-LIVE 1』(夢元社発行、[[東京創元社]]発売)に掲載。 デビュー当初は'''BLACK POINT'''というペンネームを使用しており、自画像(顔に「BP」と書かれている)や初期の作品で確認できる。イラスト・アニメ関連の仕事では'''幡池裕行'''名義で活動している。このことについて伊東自身が「別人だ」と語った事があるが、『[[Vジャンプ]]』連載「[[覇王大系リューナイト]]」第1回の画稿の名義は幡池裕行になっている。 作品制作の際には[[スタジオ]]形式を採用しており、クリエイタースタジオ'''モーニングスター'''で活動している。モーニングスターには幡池裕行も所属していることになっている。 '''闇の魔法陣'''というサークル名で、オリジナル作品の番外編やパイロット版、設定集、ラフ画などを収録した同人誌を発表している。 オリジナルのスペースオペラ作品に共通する世界観として{{Visible anchor|'''Toward Star Worlds'''}}がある。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[Good Morningアルテア]](BlackPoint名義) * [[宇宙英雄物語|数多の星より大切な…]](BlackPoint名義) * [[宇宙英雄物語]] * [[覇王大系リューナイト]] * [[星方武侠アウトロースター|OUTLAW STAR]] * [[KO世紀ビースト三獣士|KO世紀ビースト三獣士―外伝BIRTH of the V-美-DARN]] * [[逢魔にドキドキ!]] === 画集 === * 『TAKE OUT ~伊東岳彦「宇宙英雄物語」の世界~』 (集英社 1997) == 設定 参加作品 == === アニメ === * [[Good Morningアルテア]](原作) * [[トップをねらえ!]](設定) * [[New Story of Aura Battler DUNBINE]](キャラクターデザイン:幡池裕行名義) * [[機動警察パトレイバー|機動警察パトレイバー THE MOVIE]](メカニックデザイン協力:幡池裕行名義) * [[NG騎士ラムネ&40]](キャラクター原案) * [[デトネイター・オーガン]](メカニックデザイン:幡池裕行名義) * [[KO世紀ビースト三獣士|KO世紀ビースト三獣士II]](原作/キャラクター原案) * [[D-1 DEVASTATOR]](メカニックデザイン:幡池裕行名義) * [[覇王大系リューナイト]](原作/キャラクター原案) * [[天空のエスカフローネ]](デザイン協力:幡池裕行名義) * [[星方武侠アウトロースター]](原作)(キャラクター原案:幡池裕行名義) * [[AIKa]](ゲストキャラクターデザイン) * [[星方天使エンジェルリンクス]](原作)(キャラクター原案:幡池裕行名義) * [[ゼーガペイン]](原作)(キャラクター原案/デザインディレクター:幡池裕行名義) * [[遊☆戯☆王5D's]](デザイン協力) === ゲーム === * [[アリシア ドラグーン]](キャラクターデザイン) * [[銀河お嬢様伝説ユナ]](機械化兵士デザイン) * [[サウザンドアームズ]](キャラクターデザイン) * [[SFアドベンチャー ZERO ONE SP]](キャラクターデザイン) * [[Zwei Worter]](中野訓練校制服デザイン) === その他 === * [[Android (オペレーティングシステム)|Android]]専用[[アプリケーションソフトウェア]]『お天気キャス子ウェザーデス。』(キャラクターデザイン:幡池裕行名義) == イラスト系 == === 小説挿絵 === * [[青の騎士ベルゼルガ物語]](幡池裕行名義) * [[聖エルザクルセイダーズ]](BlackPoint名義) * [[南国戦隊シュレイオー]] * [[とまとあき#作品リスト|宇宙豪快ダイザッパー]] * [[とまとあき#作品リスト|わたしの勇者さま]](シリーズ途中より幡池裕行名義) * [[富野由悠季#小説|アベニールをさがして]](幡池裕行名義) * [[ウルフゾーン]] * [[A君(17)の戦争]](表紙のみ) * [[聖刻1092]](幡池裕行名義) * [[ソード・ワールドRPGリプレイ第2部]](幡池裕行名義) * [[ファミコン必勝本]](表紙のみ・BlackPoint名義) * [[メルヴィ&カシム]](幡池裕行名義) === CDジャケット === * 『銀河乞食軍団ハイパー CD BOOK』ブックレット内挿絵・文章 (1992) * [[機動戦士Vガンダム]]サウンドトラック『機動戦士Vガンダム SCORE I』CDジャケットイラスト(幡池裕行名義)(1993) * とうきょうデンキKIRAKIRA合唱団 『THE COVERS』CDジャケットイラスト (1995) === ムック === * 『完全保存版 NG騎士ラムネ&40』 (コミックボンボンスペシャル76 講談社) ラフイラスト,インタビュー * 『NG騎士ラムネ&40 熱血必勝英雄伝異聞』 (みのり書房) 小説「さすらいの勇者ダ・サイダー」挿絵 * 『NG騎士ラムネ&40 DX』 (ケイブンシャの大百科別冊) ラフイラスト * 『NG騎士ラムネ&40 ILLUSTRATIONS』 (GAKKEN MOOK) カラーイラスト === 雑誌 === * 『月刊アウト 1992年5月号』 伊東岳彦特集 * 『月刊アウト 1993年6月号~1994年4月号』 小説「NG騎士ラムネ&40XX」挿絵 * 『月刊アウト 1995年5月号』 嘘企画「ラムネス7」イラスト * 『月刊AX』 vol.23(2000/2)より数回 連載コラム「ぶるったす」 * 『Comickers 1997年8月号』 カラーイラスト、インタビュー * 『Comickers 1999年冬号』カラーテクニック * 『I・C SCREEN TECHNICAL GALLERY』 (アイシー 1998) スクリーントーン技術教本 === その他 === * TCG [[アクエリアンエイジ]] 『蒼月の魔道師 ”ソニア・ホノリウス”』カードイラスト * 『[[マイコンBASICマガジン]]1988年3月号)』NECパソコンインフォメーションセンター「このごろの斉藤さんのPC-88 MA/FA プライベートライフ!!」(BlackPoint名義) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いとう たけひこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の男性イラストレーター]] [[Category:日本のアニメーション作家]] [[Category:サンライズ]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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伊藤理佐
伊藤 理佐(いとう りさ、1969年9月6日 - )は、日本の漫画家。長野県諏訪郡原村出身。代表作に『おいピータン!!』『ヒゲぴよ』『幸福のススメ』『おるちゅばんエビちゅ』『やっちまったよ一戸建て!!』など。 板金塗装店を経営する両親の元に三姉妹の長女として生まれる。小学生の頃に鈴木光明の「少女まんが入門」を読み漫画を書き始める。1987年、長野県諏訪二葉高等学校の在学中に『月刊ASUKA』へ投稿した短編ギャグ漫画「おとうさんの休日」が掲載されデビュー。高校卒業後は上京し、女子美術大学短期大学部彫塑科に入る。アシスタントをしながら自分の作品も描いた。 猫好きであり、作品内にも猫が描かれることが多い。 一度の離婚歴があるが、2007年に漫画家の吉田戦車と再婚した。吉田とは若い頃からの飲み仲間だったが、お互いの初婚後は疎遠になるも、離婚後に二ノ宮知子の『のだめカンタービレ』が講談社漫画賞を受賞した際の記念パーティーで再会し、その後交際に発展して結婚した。その後妊娠し、2010年1月14日に女児を出産した。この際、『おんなの窓』は吉田戦車が『おとこの窓』として4回にわたりピンチヒッターを務めた。 『やっちまったよ一戸建て!!』で書かれた新築の一戸建ては吉田との再婚時に売却し(その数ヵ月前に賃貸マンションに転居している)、現在は別の中古物件を住居兼仕事場にしている。また『ダ・ヴィンチ』2006年12月号にて、本人は自分を「酒ラン(酒乱)」と考えていることを告白するなど、酒豪である。 『おいピータン!!』で第29回講談社漫画賞少女部門受賞。『女いっぴき猫ふたり』など一連の作品で第10回手塚治虫文化賞短編部門受賞。
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伊藤 理佐は、日本の漫画家。長野県諏訪郡原村出身。代表作に『おいピータン!!』『ヒゲぴよ』『幸福のススメ』『おるちゅばんエビちゅ』『やっちまったよ一戸建て!!』など。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 伊藤 理佐 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[長野県]][[諏訪郡]][[原村]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1969|9|6}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1987年]] - | ジャンル = | 代表作 = 『[[おるちゅばんエビちゅ]]』<br />『[[ヒゲぴよ]]』など | 受賞 = 第29回[[講談社漫画賞]]少女部門受賞<br />第10回[[手塚治虫文化賞]]短編部門受賞 | 公式サイト = }} '''伊藤 理佐'''(いとう りさ、[[1969年]]{{要出典範囲|date=2022-01-02|[[9月6日]]}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[長野県]][[諏訪郡]][[原村]]出身。代表作に『[[おいピータン!!]]』『[[ヒゲぴよ]]』『幸福のススメ』『[[おるちゅばんエビちゅ]]』『やっちまったよ一戸建て!!』など。 == 経歴・人物 == 板金塗装店を経営する両親の元に三姉妹の長女として生まれる。小学生の頃に[[鈴木光明]]の「少女まんが入門」を読み漫画を書き始める<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15217582.html|title=(10代の君へ)好きって最強、人生が楽しく 伊藤理佐さん|website=朝日新聞 10代の君へ|date=2022-02-28|accessdate=2022-04-16}}</ref>。[[1987年]]、[[長野県諏訪二葉高等学校]]の在学中に『[[月刊Asuka|月刊ASUKA]]』へ投稿した短編ギャグ漫画「おとうさんの休日」が掲載されデビュー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/edua/article/12862113|title=ハイスクールラプソディー 伊藤理佐さん、「吉祥天女」にあこがれ描いた漫画 諏訪二葉高時代に17歳でデビュー|website=朝日新聞 EduA|date=2019-11-14|accessdate=2022-04-16}}</ref>。高校卒業後は上京し、[[女子美術大学短期大学部]]彫塑科に入る。アシスタントをしながら自分の作品も描いた。 猫好きであり、作品内にも猫が描かれることが多い。 一度の離婚歴があるが、[[2007年]]に漫画家の[[吉田戦車]]と再婚した<ref>{{Cite web|和書|url=http://spi-net.jp/cgi-bin/inspi_diary/View.cgi?CT=sen&RN=00426&LP=7 |title=「おかゆネコ」の吉田戦車 日記 |website=スピリッツ連載作家DIARY |publisher=SPINET-INSIDE SPIRITS |date=2007-09-27 |accessdate=2009-12-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131018002716/http://spi-net.jp/cgi-bin/inspi_diary/View.cgi?CT=sen&RN=00426&LP=7 |archivedate=2013-10-18}}</ref><ref>雑誌『[[週刊文春]]』2007年9月27日号掲載の連載『[[おんなの窓]]』</ref>。吉田とは若い頃からの飲み仲間だったが、お互いの初婚後は疎遠になるも、離婚後に[[二ノ宮知子]]の『[[のだめカンタービレ]]』が[[講談社漫画賞]]を受賞した際の記念パーティーで再会し、その後交際に発展して結婚した<ref>{{Cite web|和書|url=https://dot.asahi.com/articles/-/112224|title=まるでギャグ漫画! 伊藤理佐が吉田戦車に放った“戦略的”口説き文句|website=AERA dot.|date=2017-07-10|accessdate=2022-04-16}}</ref>。その後妊娠し<ref>『週刊文春』2009年6月25日号掲載作品</ref>、2010年1月14日に女児を出産した。この際、『おんなの窓』は吉田戦車が『おとこの窓』として4回にわたりピンチヒッターを務めた。 『やっちまったよ一戸建て!!』で書かれた新築の一戸建ては吉田との再婚時に売却し(その数ヵ月前に賃貸マンションに転居している<ref>『女いっぴき猫ふたり』第2巻111頁(2007年8月17日双葉社刊)</ref>)、現在は別の中古物件を住居兼仕事場にしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/73148|title=ようこそ!マイホームタウン 伊藤理佐×新中野|website=[[東京新聞]]ほっとWeb|date=2020-12-23|accessdate=2022-04-16}}</ref>。また『[[ダ・ヴィンチ (雑誌)|ダ・ヴィンチ]]』2006年12月号にて、本人は自分を「酒ラン(酒乱)」と考えていることを告白するなど、酒豪である。 『おいピータン!!』で第29回[[講談社漫画賞]]少女部門受賞。『女いっぴき猫ふたり』など一連の作品で第10回[[手塚治虫文化賞]]短編部門受賞。 == 作品リスト == * [[悪魔の楽園]] * [[あさって朝子さん]] * [[あたって砕けろ]] * [[いいようにはしないから]] * [[いとうりさ丼]] * [[えみちゃんでポン]] * [[おかあさんの扉]](『[[オレンジページ]]』で連載中) * [[おいクロタン!!]](『おいピータン!!』の[[スピンオフ#作品制作におけるスピンオフ|スピンオフ]]作品) * [[おいピータン!!]] * [[OL様のつけどころ]] * [[お父さんの休日]] * [[おるちゅばんエビちゅ]]([[主婦と生活社]]『[[ギガ/Shan]]』→[[双葉社]]『[[アクションピザッツ]]』) * おるちゅばんエビちゅ ちゅ〜(双葉社『[[漫画アクション]]』) * [[おんなの窓]](『[[週刊文春]]』で連載中) * [[今日もいい天気 (伊藤理佐)|今日もいい天気]] * [[ぐるぐるッと!]] * [[結婚泥棒 (伊藤理佐の漫画)|結婚泥棒]] * [[恋のウフフ話]] * [[恋のナイショ話]] * [[幸福のススメ]] * [[ご指名ねがいます]] * [[こんなんで一家]] * [[チューネン娘。]] * [[微熱なバナナ]] * [[逆立ち幽霊]] * [[ハチの子リサちゃん]] * [[は行でいこう]] * [[はらはちぶう]] * [[ヒゲぴよ]](『[[Cocohana|コーラス]]』で連載、NHKにてアニメ化) * [[必殺!OL非事人]] * [[ヒロミとジュリエット]] * [[ミックスリサ]] * [[妙齢おねいさん道]](『[[オール讀物]]』で連載中) * [[モモちん]] * [[やっちまったよ一戸建て!!]] * [[りさちゃん大集合]] * ひとり上手な結婚(2010年8月 講談社 / 2014年2月 講談社文庫)-山本文緒との共著 * ティーンズボディーブック新装改訂版(イラスト、中央公論新社) * 今日は[[笑点]]びより(50周年記念 完全保存版 『笑点』大研究(2016年8月19日、電子書籍)に収録)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/owarai/news/198721|title=「笑点」研究本に桂歌丸×阿川佐和子の対談、毒蝮三太夫や伊東四朗の証言|newspaper=お笑いナタリー|date=2016-08-19|accessdate=2016-08-19}}</ref> *「ステキな奥さん」シリーズ(『[[朝日新聞]]』で連載中の「オトナになった女子たちへ」に加筆した物) #ステキな奥さん ぶはっ #ステキな奥さん あはっ #ステキな奥さん うぷぷっ === コラム === * オトナになった女子たちへ(朝日新聞 朝刊 金曜 生活面) - 同じ1969年生まれの[[益田ミリ]]と交互に掲載。イラストも描く。 === 文献 === * 『伊藤理佐 総特集 おんなの人生、濃縮還元。』[[河出書房新社]]「KAWADEムック」、2022年。多くの知人が寄稿 == テレビ出演 == *[[ボクらの時代]] (2022年4月17日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - [[二ノ宮知子]]、[[安野モヨコ]]と対談<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nihon-eiga.com/program/detail/nh00016001_0001.html|title=ボクらの時代 (伊藤理佐×二ノ宮知子×安野モヨコ)|publisher=日本映画専門チャンネル|accessdate=2022-7-14}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == <!-- * [http://itorisa.com/web/ 伊藤理佐応援団] - ファンページ * [http://itorisa.info/ 伊藤理佐 Encyclopedia] - ファンページ https://web.archive.org/web/20090214205641/http://tokyo.cool.ne.jp/nakazono/index.html --> * [https://web.archive.org/web/20050722023449/http://www.futabasha.co.jp/web_mag/wm_onna.html 女いっぴき猫ふたり] - web上の連載(archive) {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いとう りさ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:女子美術短期大学出身の人物]] [[Category:1969年生]] [[Category:存命人物]]
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稲田浩司
稲田 浩司(いなだ こうじ、1964年3月14日 - )は、日本の漫画家。男性。東京都の日暮里出身。 主に集英社の『週刊少年ジャンプ』、『月刊少年ジャンプ』(現在は月刊少年ジャンプの後継誌の『ジャンプSQ』)で執筆している。代表作は漫画原作者の三条陸とのコンビによる『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』、『冒険王ビィト』。 1985年、「ルージュ・マジック」でデビュー。1987年、「クソッタレだぜェ!!」(『週刊少年ジャンプ』52号掲載)で本誌デビュー。1989年45号より『週刊少年ジャンプ』にて「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を連載、1996年52号で終了。1998年、『赤マルジャンプ』で「イルカ岩で...」を掲載。 2001年に『月刊少年ジャンプ』誌上にて「DRAGON QUEST IV外伝 -地獄の迷宮-」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を掲載。2002年4月号より『月刊少年ジャンプ』にて三条陸とのコンビで「冒険王ビィト」を連載。これもメディアミックスが行われ単行本も10巻を越えるが、稲田の体調不良のため2006年8月号を最後に休載、同誌も翌年に休刊していた。 2015年12月21日発売の『週刊少年ジャンプ』誌上にて、「冒険王ビィト」の連載再開の告知が行われ、2016年4月15日発売の『ジャンプSQ.CROWN 2016 SPRING』より連載が再開した。
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稲田 浩司は、日本の漫画家。男性。東京都の日暮里出身。 主に集英社の『週刊少年ジャンプ』、『月刊少年ジャンプ』(現在は月刊少年ジャンプの後継誌の『ジャンプSQ』)で執筆している。代表作は漫画原作者の三条陸とのコンビによる『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』、『冒険王ビィト』。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 稲田 浩司 |ふりがな = いなだ こうじ |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{JPN}} [[東京都]][[荒川区]]日暮里 |生地 = {{生年月日と年齢|1964|3|14}} |没年 = |没地 = |国籍 = [[日本]] |職業 = |活動期間 = [[1985年]] - |ジャンル = [[少年漫画]] |代表作 = 『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]』<br />『[[冒険王ビィト]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''稲田 浩司'''(いなだ こうじ、[[1964年]][[3月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[東京都]]の[[日暮里]]出身<ref name="manga">「漫画家リレー訪問記・稲田浩司先生」『漫画新聞』日本漫画学院、1993年8月、5頁</ref>。 主に[[集英社]]の『[[週刊少年ジャンプ]]』、『[[月刊少年ジャンプ]]』(現在は月刊少年ジャンプの後継誌の『[[ジャンプSQ]]』)で執筆している。代表作は[[漫画原作者]]の[[三条陸]]とのコンビによる『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]』、『[[冒険王ビィト]]』。 == 略歴 == 1985年、「ルージュ・マジック」でデビュー。1987年、「クソッタレだぜェ!!」(『週刊少年ジャンプ』52号掲載)で本誌デビュー。1989年45号より『週刊少年ジャンプ』にて「[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]]」(原作:[[三条陸]]、監修:[[堀井雄二]])を連載、1996年52号で終了。1998年、『[[週刊少年ジャンプの増刊号|赤マルジャンプ]]』で「イルカ岩で…」を掲載。 2001年に『月刊少年ジャンプ』誌上にて「[[DRAGON QUEST IV外伝 -地獄の迷宮-]]」(原作:三条陸、監修:堀井雄二)を掲載。2002年4月号より『月刊少年ジャンプ』にて三条陸とのコンビで「[[冒険王ビィト]]」を連載。これもメディアミックスが行われ単行本も10巻を越えるが、稲田の体調不良<!--【注意】病状については必ず出典の明記をお願いします。ネット上の書き込みや個人による本人・編集部などへの直接確認は出典になりません。--><ref>“[https://web.archive.org/web/20120818140457/http://www.vandelbuster.net/kyusai.html 月刊少年ジャンプ休刊のお知らせおよび『冒険王ビィト』の今後の掲載予定について]”(2012年8月18日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) </ref>のため2006年8月号を最後に休載、同誌も翌年に休刊していた。 2015年12月21日発売の『週刊少年ジャンプ』誌上にて、「冒険王ビィト」の連載再開の告知が行われ、2016年4月15日発売の『[[ジャンプスクエア#増刊号|ジャンプSQ.CROWN]] 2016 SPRING』より連載が再開した。 == 作品 == === 漫画 === * クソッタレだぜェ!!(1988年、[[週刊少年ジャンプ]]、[[集英社]]、全1巻) - 短編集 * [[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-]](1989年、週刊少年ジャンプ、集英社、全37巻、文庫版全22巻) * [[イルカ岩で…]] (1998年、赤マルジャンプ週刊少年ジャンプ特別編集増刊’98SUMMER ) * [[DRAGON QUEST IV外伝 -地獄の迷宮-]](2001年、[[月刊少年ジャンプ]]、集英社、全1巻) * [[冒険王ビィト]](2002年、月刊少年ジャンプ、集英社、既刊17巻) - 2016年よりジャンプSQ.CROWNで連載→2018年よりSQ.RISEに移籍 === ゲーム === * [[ドラゴンクエスト ダイの大冒険 クロスブレイド]](メイロ&ダムドのキャラクターデザイン)<ref>{{Cite web|和書|title=『DQダイの大冒険 クロスブレイド』2弾の登場キャラは? 2人対戦モードの情報も|電撃オンライン|url=https://dengekionline.com/articles/60927/|website=dengekionline|accessdate=2021-02-04|language=ja}}</ref> === メディア出演 === === ラジオ === * [[TOKYO M.A.A.D SPIN]]「ゆう坊&マシリトのKosoKoso放送局」(2023年11月27日深夜、[[J-WAVE]]) - 三条陸と共にゲスト。MCは[[鳥嶋和彦]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.denfaminicogamer.jp/news/231127b|title=『ダイの大冒険』三条陸&稲田浩司が集まる奇跡の座談会が実現! 「アバン」「マトリフ」「バラン」の誕生秘話など貴重すぎる制作秘話てんこ盛り|website=電ファミニコゲーマー|publisher=株式会社マレ|data=2023-11-27|accessdate=2023-11-27}}</ref> == 関連人物 == ; 師匠 * [[うすね正俊]]<ref name="manga"/> * [[桂正和]]<ref name="manga"/><ref> 『[[ファンロード]]』1985年6月号、[[ラポート]]</ref> * [[黒岩よしひろ]]<ref>『[[変幻戦忍アスカ]]』最終話参照 </ref> ; アシスタント * [[有賀照人]]<ref>『[[DRAGON QUEST -ダイの大冒険-|ダイの大冒険]]』最終話参照 </ref> * [[うすた京介]]<ref>[http://converse100th.jp/100stars_100dreams/009/ CONVERSE100th 100stars×100dreams 西田茜meetsうすた京介]</ref> == 脚注 == {{reflist}} {{DRAGON QUEST -ダイの大冒険-}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いなた こうし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1964年生]] [[Category:存命人物]]
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井上紀良
井上 紀良(いのうえ のりよし、本名:井上典義、1959年2月11日 - )は、日本の漫画家。滋賀県高島郡(現・高島市)出身。血液型はO型。 1959年、滋賀県の高島郡に生まれる。小学生の頃に望月三起也や松本零士、モンキー・パンチの作品を読み、影響を受ける。中学を卒業後、京都の友禅会社に入ったが、伝統工芸にありがちな徒弟制度で10年経たないと一人前にはなれないというのを聞き、友禅の仕事に魅力が無くなり退職、漫画家を目指す。高知県に渡り、青柳裕介、間宮聖士のアシスタントをして修業したのち、1978年に『少年キング』(少年画報社)「パイナップル・ジョー」で漫画家デビュー。その後、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)・第4回青年漫画大賞にて「エンジェルス」が入選。以降、30年以上に渡り『週刊ヤングジャンプ』で執筆する。ROLAND監修による『ローランド・ゼロ』(宝島社、2020年12月18日) 及び『ローランド・ゼロ 逆襲篇』(宝島社、2021年5月7日) で漫画部分の作画を担当した。
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井上 紀良は、日本の漫画家。滋賀県高島郡(現・高島市)出身。血液型はO型。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 井上 紀良 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[滋賀県]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]](現・[[高島市]]) | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|2|11}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1978年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[マッド★ブル34]]』(原作:[[小池一夫]])<br />『[[黄龍の耳]]』(原作:[[大沢在昌]])<br />『[[夜王]]』(原作:[[倉科遼]])など | 受賞 = ヤングジャンプ・第4回青年漫画大賞 | 公式サイト = }} '''井上 紀良'''(いのうえ のりよし、本名:井上典義、[[1959年]]<ref name="manga">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P50</ref>[[2月11日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[滋賀県]][[高島郡 (滋賀県)|高島郡]](現・[[高島市]])出身。血液型はO型。 == 略歴 == [[1959年]]、滋賀県の高島郡に生まれる<ref name="manga" />。小学生の頃に[[望月三起也]]や[[松本零士]]、[[モンキー・パンチ]]の作品を読み、影響を受ける。中学を卒業後、京都の友禅会社に入ったが、伝統工芸にありがちな徒弟制度で10年経たないと一人前にはなれないというのを聞き、友禅の仕事に魅力が無くなり退職、漫画家を目指す。高知県に渡り、[[青柳裕介]]、[[間宮聖士]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]をして修業したのち、[[1978年]]に『[[少年キング]]』([[少年画報社]])「パイナップル・ジョー」で漫画家デビュー。その後、『[[週刊ヤングジャンプ]]』([[集英社]])・第4回青年漫画大賞にて「エンジェルス」が入選。以降、30年以上に渡り『週刊ヤングジャンプ』で執筆する。[[ROLAND (ホスト)|ROLAND]]監修による『ローランド・ゼロ』(宝島社、2020年12月18日) 及び『ローランド・ゼロ 逆襲篇』(宝島社、2021年5月7日) で漫画部分の作画を担当した。 == 人物 == * 愛車はピンクの[[ポルシェ・ボクスター]]。 == 作品リスト == === 漫画 === ; 連載 * 男は天兵(原作:[[雁屋哲]]、1982年、全11巻) * デュエット(原作:[[小池一夫]]、1984年、全9巻) * [[マッド★ブル34]](原作:小池一夫、1985年 - 1991年、全27巻) * マイク・タイソン物語(監修:[[ジョー小泉]]、1988年、全1巻) * THE MISSION(原作:[[樫原一郎]]、1991年、全1巻) * ガルフの鷹(原作:[[八城正幸]]、1991年、全3巻) * 連環日本書紀(原作:小池一夫、1992年、全4巻) * W・WOLF(原作:[[東板前二]]、1992年、全2巻) * [[黄龍の耳]](原作:[[大沢在昌]]、脚本:M・A・T(1~8巻)→東板前二(9~15巻)、1992年 - 1996年、全15巻) * X(クロス)(原作:[[梶研吾]]、1992年、全8巻) * [[私立探偵 濱マイク]](原作:[[林海象]]、1998年、全2巻) * [["殺医"ドクター蘭丸]](原作:梶研吾、1998年 - 2001年、全14巻) * マッド・ブル2000(原作:小池一夫、1999年 - 2001年、全7巻) * 未成年J(原作:[[伊東順]]、[[夏一青]]、2001年、全2巻) * 星の艦 あきらめなければいつかは乗れる(原作:小池一夫、2002年、全2巻) * [[水滸伝 (北方謙三)|水滸伝]](原作:[[北方謙三]]、2003年、全3巻) * [[夜王]](原作:[[倉科遼]]、2003年 - 2010年、全29巻) * エターナル・ストーン(原作:東板前二、2009年) * ログ・イン(原作:東板前二、2010年 - 2011年 全2巻) * [[華と修羅]](原作:[[谷本和弘]]、2010年 - 2011年、全5巻) * 憑鬼の剣(原作:[[かわさき健]]、2011年 - 2012年、全1巻) * 海傑エルマロ(原案:[[伊藤福八]]、脚本:[[森橋ビンゴ|中川トシヒロ]]、2011年 - 2014年、全8巻) * 第46代 棗希朗衛門(原作:大沢在昌、脚本:[[鍋島雅治]]、2012年、全1巻) * BABEL(原作:[[木下半太]]、2015年 - 2017年、全8巻) * BABEL THE 2ND 黄金少年GOLDEN BOY(原作:[[木下半太]]、2017年 - 2018年、全2巻) * ポルノダイヤモンド~AVフィクサー砥上大夜~(原作:サンレイン、2019年 - 2020年、[[まんが王国]]) * フォックスの威(原作:[[木下半太]]、2021年 - 、マンガBANG!) * モデル~快楽殺人者たちのアトリエ~(原作:井深みつ、2022年、[[まんが王国]]) ; 短編集 * エンジェルス 井上紀良傑作集(1991年) * ダイヤモンドエルフィン 井上紀良傑作集 2(1991年) * ロシアン・ルーレット 井上紀良傑作集 3(1999年) == 師匠 == * [[青柳裕介]] * [[間宮聖士]] == 弟子 == * [[林晃]]<ref>[http://www.go-office.jp/profile.html プロフィール]</ref> * [[架空まさる]] * 吉勝太(峯松考佳) == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [https://xn--nckg3oobb0816d2bri62bhg0c.com/interview29_inoue/ 「常に更新しつづけていきたい」。マンガ家・井上紀良先生のマンガへの飽くなき挑戦] 電子書籍ランキング.com(2016年11月7日付) * {{Cite web|和書| url = http://www.manga-g.co.jp/interview/2009/int09-06.html | title = 漫画家リレー訪問記 井上紀良先生インタビュー (2009年6月号) | publisher = 日本漫画学院 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20121022142035/http://www.manga-g.co.jp/interview/2009/int09-06.html | archivedate = 2012年10月22日 | accessdate = 2014-9-8 | deadlinkdate = 2017年9月 }} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いのうえ のりよし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:滋賀県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:存命人物]]
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いまいかおる
いまい かおる(1951年9月22日 - )は、日本の漫画家。東京都荒川区出身。出身校は第二瑞光小学校。女性。本名は今井薫。兄弟は、兄、弟。 もともと漫画を描くことが大好きな少女で、漫画好きの兄愛読書の「少年サンデー」「少年マガジン」などを見ているうちに漫画が好きになった。 「物心ついたときから、女の子やお姫さまのいたずら描きをしていました。小学校入学時には、生活の一部になっていました。ノート、本の余白なんかに描きましたね」 中学生時代より、鈴木光明が主催し顧問をしていた漫画同人誌に参加をしていた。高校卒業後三越の紳士靴売り場に就職し、その在職中に新人発掘用単行本に採用掲載された「アニキの初恋」が漫画家としてのデビュー作となった。 1971年、集英社の少女漫画誌『別冊マーガレット』に掲載された「ぼくんちにきた赤ちゃん」にて本格的に漫画家としてのデビューを果たした。以降、集英社、白泉社、講談社などの少女漫画誌などを中心とした執筆活動をしていた。デビュー作である「ぼくんちにきた赤ちゃん」はその後『フーちゃん』と改題され、『別冊マーガレット』にて約10年連載され単行本も全6巻発行される長寿連載作品となった。 また漫画家としての活動のかたわら、教育副読本や歌舞伎関連本のイラスト、コラム等も手がけており、近年では歌舞伎解説本などのイラストを担当するイラストレーターとしての活動が中心となっている。 歌舞伎に詳しくなったのは、子供の頃に母親のお伴をしていたことによると答えている。
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いまい かおるは、日本の漫画家。東京都荒川区出身。出身校は第二瑞光小学校。女性。本名は今井薫。兄弟は、兄、弟。
{{Infobox 漫画家 |名前 = いまい かおる |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = 今井 薫 |生年 = {{生年月日と年齢|1951|9|22}} |生地 = {{JPN}}[[東京都]][[荒川区]][[南千住]] |没年 = |没地 = |血液型 = |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]]・[[イラストレーター]] |活動期間 = [[1971年]] - |ジャンル = [[少女漫画]]他 |代表作 = フーちゃん(全6巻) |受賞 = |サイン = |公式サイト = }} '''いまい かおる'''([[1951年]][[9月22日]]<ref name="imaia">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月) ISBN 9784816917608、P51-52</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[荒川区]]出身<ref name="imaia" />。出身校は'''第二瑞光小学校'''<ref name="imaib" />。女性<ref name="imaib" />。本名は'''今井薫'''<ref name="imaia" />。兄弟は、兄、弟<ref name="imaib" />。 == 来歴・概要 == もともと漫画を描くことが大好きな少女で、漫画好きの兄愛読書の「少年サンデー」「少年マガジン」などを見ているうちに漫画が好きになった。 「物心ついたときから、女の子やお姫さまのいたずら描きをしていました。小学校入学時には、生活の一部になっていました。ノート、本の余白なんかに描きましたね」<ref name="imaib" /> 中学生時代より、[[鈴木光明]]が主催し顧問をしていた漫画同人誌に参加をしていた<ref name="imaia" />。高校卒業後[[三越]]の紳士靴売り場に就職し、その在職中に新人発掘用単行本に採用掲載された「アニキの初恋」が漫画家としてのデビュー作となった<ref name="imaib">財団法人荒川区地域振興公社発行「ほっとたうん」59号参考</ref>。 [[1971年]]、[[集英社]]の[[少女漫画]]誌『[[別冊マーガレット]]』に掲載された「ぼくんちにきた赤ちゃん」にて本格的に漫画家としてのデビューを果たした<ref name="imaia" />。以降、集英社、[[白泉社]]、[[講談社]]などの少女漫画誌などを中心とした執筆活動をしていた。デビュー作である「ぼくんちにきた赤ちゃん」はその後『[[フーちゃん]]』と改題され、『別冊マーガレット』にて約10年連載され単行本も全6巻発行される長寿連載作品となった。 また漫画家としての活動のかたわら、教育副読本や[[歌舞伎]]関連本の[[イラスト]]、コラム等も手がけており、近年では歌舞伎解説本などのイラストを担当するイラストレーターとしての活動が中心となっている。 歌舞伎に詳しくなったのは、子供の頃に母親のお伴をしていたことによると答えている<ref name="imaib" />。 == 主な作品リスト == === 漫画作品 === * フーちゃん(別冊マーガレット、集英社) * おはよう!レミちゃん([[花とゆめ]]、白泉社) * 100ブンの1物語(花とゆめ、白泉社) * 台風ベビー([[LaLa]]、白泉社) * てんまり子ダヌキ(リリカ、[[サンリオ]]) * ねこねこ・こねこ([[なかよし]]、講談社) * とびだせ!マオ(なかよし、講談社) * [[とんでモン・ペ]] (なかよし、講談社)※同名アニメのコミカライズ作品 * 二階のイソロー([[ビッグコミックフォアレディ]]、小学館) === イラスト担当作品 === * 歌舞伎キャラクター事典(新書館、[[1987年]]) * コミックストーリーわたしたちの古典シリーズ([[学校図書]]) ** [[万葉集]]([[1990年]]) ** [[雨月物語]]([[1991年]]) * 若い女性のための歌舞伎入門(宙出版、1991年) * 光栄まんがパック(コーエーテクモゲームス、1991年) * イラストガイド歌舞伎入門([[KKロングセラーズ|ロングセラーズ]]、[[1993年]]) * まんがde歌舞伎(新書館、[[2003年]]) * 歌舞伎ざんまい([[朝日ソノラマ]]、[[2005年]]) * 歌舞伎筋立て・見せ場がひと目でわかる本(ロングセラーズ、[[2009年]]) * 歌舞伎キャラクター事典([[PHP研究所]]、2009年) === コラム作品 === * 歌舞伎万華鏡([[中日新聞]]、<!-- 開始年不詳 --> - 2005年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いまい かおる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:三越の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1951年生]] [[Category:存命人物]]
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入江喜和
入江 喜和(いりえ きわ、1966年4月27日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。夫は同じく漫画家の新井英樹。1989年より短中編の群像劇を青年誌を中心に発表、2006年より主な活動の場を女性誌に移す。 東京都板橋区で生まれる。11歳で千葉県銚子市に移住。居酒屋を経営する家庭で育つ。母親が東京下町で生まれ育ち、入江自身も21歳から墨田区・江東区に住んでいる。中学・高校時代、山岸凉子から多大な影響を受ける。 1988年より劇画村塾(小池一夫劇画村塾)に通い、マンガを描き始める。デビュー前から小池一夫から「天才」と称賛されていた。 1998年、『月刊アフタヌーン』(講談社)の「四季賞・1989年冬のコンテスト」で、「杯気分! 肴姫」が四季賞を受賞。 1991年に『杯気分! 肴姫』で連載デビュー。以降は『モーニング』(講談社)、『コミックビーム』(エンターブレイン)を中心に作品を発表していく。 シングルマザーを主人公にした『のんちゃんのり弁』は、1997年に中部日本放送制作TBS系のドラマ30枠でTVドラマ化。翌年に同じ枠でドラマの続編も放送され、2009年には映画化された。 2000年ごろから一時休筆した後、2004年5月、『モーニング』での『昭和の男』連載で復帰。 その後、2006年より女性誌である講談社『BE・LOVE』を主な執筆の場とする。 デビューから青年誌を中心に作品を発表してきた入江は、2006年より30〜40代女性が読者ターゲットの『BE・LOVE』に作品を掲載しはじめる。 『おかめ日和』(2006年 - 2013年)を『BE・LOVE』誌上にて、足かけ8年連載した。最終的に全17巻の大作となる。 『たそがれたかこ』(2013年 - 2017年)は、「このマンガがすごい!2018【オンナ編】」第4位。最終10巻と第1巻にはCD付き特装版があり、「クリープハイプ」の尾崎世界観が、同作のために書き下ろした完全オリジナル曲(「漫画」)を収録したことでも大きな話題となった。最終話は例外的に2号連続で1話扱いとなり、そのタイトルは「風にふかれて」であり、クリープハイプの曲名からつけられた。なお、同作の登場人物、谷在家光一は、尾崎世界観がモデルである。 『東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜』(2014年 - )を『おとなの週末』にて連載。この作品は、『たそがれたかこ』連載中の執筆となり、入江、初の並行連載となる。東京の名店の名物料理を数ページの食レポ形式のマンガで紹介し、家庭の普通の食材でつくれる関連したアレンジ料理を1〜2品、登場人物・いさくのクッキングレシピという趣向で各話の最終ページに描いた。2017年9月には『モーニング』2017年41号にて読切作『シダ&ナンシー』が掲載。 2018年、『ゆりあ先生の赤い糸』を『BE・LOVE』2018年3月1日号より連載開始。入江は、「今回は思いっきり「少女漫画」をやりたかった。昔、自分が毎日中毒になるくらい浸かっていた、次回が楽しみすぎて最新号を読んだ時からもどかしいくらいの、少女マンガ。それって「共感」だけじゃなかったハズなんですよね。何だか知らんけどやたらその世界に引き込まれてしまう「勢い」があった。それを目指して描いてみたいー」としている。読者の評価も高く、「このマンガがすごい!2020」オンナ編・第8位となった。 2019年9月から10月には、「新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展」を、イオンモールkyoto、丸井錦糸町店、丸井有楽町店にて同時開催。 2021年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第45回講談社漫画賞総合部門を受賞。 2023年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第27回手塚治虫文化賞を受賞。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "入江 喜和(いりえ きわ、1966年4月27日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。夫は同じく漫画家の新井英樹。1989年より短中編の群像劇を青年誌を中心に発表、2006年より主な活動の場を女性誌に移す。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "東京都板橋区で生まれる。11歳で千葉県銚子市に移住。居酒屋を経営する家庭で育つ。母親が東京下町で生まれ育ち、入江自身も21歳から墨田区・江東区に住んでいる。中学・高校時代、山岸凉子から多大な影響を受ける。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1988年より劇画村塾(小池一夫劇画村塾)に通い、マンガを描き始める。デビュー前から小池一夫から「天才」と称賛されていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1998年、『月刊アフタヌーン』(講談社)の「四季賞・1989年冬のコンテスト」で、「杯気分! 肴姫」が四季賞を受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1991年に『杯気分! 肴姫』で連載デビュー。以降は『モーニング』(講談社)、『コミックビーム』(エンターブレイン)を中心に作品を発表していく。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "シングルマザーを主人公にした『のんちゃんのり弁』は、1997年に中部日本放送制作TBS系のドラマ30枠でTVドラマ化。翌年に同じ枠でドラマの続編も放送され、2009年には映画化された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "2000年ごろから一時休筆した後、2004年5月、『モーニング』での『昭和の男』連載で復帰。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その後、2006年より女性誌である講談社『BE・LOVE』を主な執筆の場とする。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "デビューから青年誌を中心に作品を発表してきた入江は、2006年より30〜40代女性が読者ターゲットの『BE・LOVE』に作品を掲載しはじめる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "『おかめ日和』(2006年 - 2013年)を『BE・LOVE』誌上にて、足かけ8年連載した。最終的に全17巻の大作となる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "『たそがれたかこ』(2013年 - 2017年)は、「このマンガがすごい!2018【オンナ編】」第4位。最終10巻と第1巻にはCD付き特装版があり、「クリープハイプ」の尾崎世界観が、同作のために書き下ろした完全オリジナル曲(「漫画」)を収録したことでも大きな話題となった。最終話は例外的に2号連続で1話扱いとなり、そのタイトルは「風にふかれて」であり、クリープハイプの曲名からつけられた。なお、同作の登場人物、谷在家光一は、尾崎世界観がモデルである。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "『東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜』(2014年 - )を『おとなの週末』にて連載。この作品は、『たそがれたかこ』連載中の執筆となり、入江、初の並行連載となる。東京の名店の名物料理を数ページの食レポ形式のマンガで紹介し、家庭の普通の食材でつくれる関連したアレンジ料理を1〜2品、登場人物・いさくのクッキングレシピという趣向で各話の最終ページに描いた。2017年9月には『モーニング』2017年41号にて読切作『シダ&ナンシー』が掲載。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2018年、『ゆりあ先生の赤い糸』を『BE・LOVE』2018年3月1日号より連載開始。入江は、「今回は思いっきり「少女漫画」をやりたかった。昔、自分が毎日中毒になるくらい浸かっていた、次回が楽しみすぎて最新号を読んだ時からもどかしいくらいの、少女マンガ。それって「共感」だけじゃなかったハズなんですよね。何だか知らんけどやたらその世界に引き込まれてしまう「勢い」があった。それを目指して描いてみたいー」としている。読者の評価も高く、「このマンガがすごい!2020」オンナ編・第8位となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2019年9月から10月には、「新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展」を、イオンモールkyoto、丸井錦糸町店、丸井有楽町店にて同時開催。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2021年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第45回講談社漫画賞総合部門を受賞。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2023年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第27回手塚治虫文化賞を受賞。", "title": "来歴" } ]
入江 喜和は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。夫は同じく漫画家の新井英樹。1989年より短中編の群像劇を青年誌を中心に発表、2006年より主な活動の場を女性誌に移す。
{{複数の問題 |独自研究=2021年4月 |内容過剰=2021年4月 }} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 入江 喜和 | ふりがな = いりえ きわ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[東京都]][[板橋区]]<ref name="kiwabon">入江喜和『入江喜和 画業30周年記念 キワ本』2019年9月15日発行、58頁</ref> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1966|4|27}}<ref name="kiwabon" /> | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1989年]] - | ジャンル = [[青年漫画]]、[[女性漫画]] | 代表作 = 『[[のんちゃんのり弁]]』<ref name="natalie4647">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/4647|title=入江喜和|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2023-05-01}}</ref><br />『昭和の男』{{R|natalie4647}}<br />『[[おかめ日和]]』{{R|natalie4647}}<br />『[[たそがれたかこ]]』{{R|natalie4647}} | 受賞 = [[アフタヌーン四季賞]]1989年冬・四季賞「杯気分!肴姫」<br />第45回[[講談社漫画賞]]総合部門『ゆりあ先生の赤い糸』<br />第27回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞『ゆりあ先生の赤い糸』}} '''入江 喜和'''(いりえ きわ、[[1966年]][[4月27日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身。[[ABO式血液型|血液型]]はA型。夫は同じく漫画家の[[新井英樹]]。{{独自研究範囲|date=2023-05-01|1989年より短中編の群像劇を青年誌を中心に発表、2006年より主な活動の場を女性誌に移す。}} == 来歴 == 東京都板橋区で生まれる。11歳で千葉県銚子市に移住<ref name="kiwabon"/>。[[居酒屋]]を経営する家庭で育つ。母親が東京下町で生まれ育ち、入江自身も21歳から墨田区・江東区に住んでいる<ref>入江喜和『なんやかんやで四半世紀』2014年</ref>。中学・高校時代、[[山岸凉子]]から多大な影響を受ける<ref>[https://ameblo.jp/irie-kiwa/entry-12207815285.html キワ者便り 2016年10月08日 必見!山岸凉子展「光」]</ref>。 [[1988年]]より[[劇画村塾]](小池一夫劇画村塾)に通い、マンガを描き始める<ref>[https://ameblo.jp/irie-kiwa/entry-12455471158.html キワ者便り 2019年04月19日 ありがとうございました]</ref><ref>{{Cite web|和書|title=原点は「夫に浮気相手がいたら…」 大賞「ゆりあ先生」入江喜和さん:朝日新聞デジタル |url=https://www.asahi.com/articles/ASR4N74X9R4KUCVL031.html?iref=ogimage_rek |website=朝日新聞デジタル |date=2023-04-23 |access-date=2023-04-25 |language=ja}}</ref>。デビュー前から小池一夫から「天才」と称賛されていた<ref>エンターブレイン刊ビームコミックス新装版 『杯気分! 肴姫』 三杯目(第3巻) あとがき</ref>。 1998年、『[[月刊アフタヌーン]]』([[講談社]])の「[[アフタヌーン四季賞|四季賞]]・[[1989年]]冬のコンテスト」で、「杯気分! 肴姫」が四季賞を受賞。 === 青年誌時代 === [[1991年]]に『杯気分! 肴姫』で連載デビュー。以降は『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』(講談社)、『[[コミックビーム]]』([[エンターブレイン]])を中心に作品を発表していく。 シングルマザーを主人公にした『[[のんちゃんのり弁]]』は、[[1997年]]に[[CBCテレビ|中部日本放送]]制作[[TBSテレビ|TBS]]系の[[ドラマ30]]枠でTVドラマ化。翌年に同じ枠でドラマの続編も放送され、[[2009年]]には映画化された。 [[2000年]]ごろから一時休筆した後、[[2004年]]5月、『モーニング』での『昭和の男』連載で復帰。 その後、2006年より女性誌である[[講談社]]『[[BE・LOVE]]』を主な執筆の場とする。 === 講談社『BE・LOVE』時代 === デビューから青年誌を中心に作品を発表してきた入江は、2006年より30〜40代女性が読者ターゲットの『[[BE・LOVE]]』に作品を掲載しはじめる。 『[[おかめ日和]]』([[2006年]] - [[2013年]])を『[[BE・LOVE]]』誌上にて、足かけ8年連載した。最終的に全17巻の大作となる。 『[[たそがれたかこ]]』([[2013年]] - [[2017年]])は、「このマンガがすごい!2018【オンナ編】」第4位<ref>[http://sasa-comic.hatenablog.com/entry/konomanga-onna-2018 よみコミ!・このマンガがすごい!2018【オンナ編】 ランキングベスト50]</ref>。最終10巻と第1巻にはCD付き特装版があり、「[[クリープハイプ]]」の[[尾崎世界観]]が、同作のために書き下ろした完全オリジナル曲(「漫画」)を収録したことでも大きな話題となった<ref>[https://natalie.mu/music/news/236944 音楽ナタリー 尾崎世界観書き下ろし新曲付き、マンガ「たそがれたかこ」最終巻発売]</ref>。最終話は例外的に2号連続で1話扱いとなり、そのタイトルは「風にふかれて」であり、[[クリープハイプ]]の曲名からつけられた<ref name="konomanga2018_1"/>。なお、同作の登場人物、谷在家光一は、尾崎世界観がモデルである<ref>[http://comic-sp.kodansha.co.jp/topics/takako/ 講談社 入江喜和×尾崎世界観 スペシャル対談]</ref>。 『東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜』([[2014年]] - )を『おとなの週末』にて連載。この作品は、『[[たそがれたかこ]]』連載中の執筆となり、入江、初の並行連載となる。東京の名店の名物料理を数ページの食レポ形式のマンガで紹介し、家庭の普通の食材でつくれる関連したアレンジ料理を1〜2品、登場人物・いさくのクッキングレシピという趣向で各話の最終ページに描いた。2017年9月には『モーニング』2017年41号にて読切作『[[シダ&ナンシー]]』が掲載<ref>[https://ameblo.jp/irie-kiwa/entry-12308584137.html キワ者便り 2017年09月07日 シダ&ナンシー]</ref>。 [[2018年]]、『ゆりあ先生の赤い糸』を『[[BE・LOVE]]』2018年3月1日号より連載開始<ref>[https://natalie.mu/comic/news/269673 コミックナタリー 「たそがれたかこ」の入江喜和、50歳のヒロイン描く新作「ゆりあ先生の赤い糸」]</ref>。入江は、「今回は思いっきり「少女漫画」をやりたかった。昔、自分が毎日中毒になるくらい浸かっていた、次回が楽しみすぎて最新号を読んだ時からもどかしいくらいの、少女マンガ。それって「共感」だけじゃなかったハズなんですよね。何だか知らんけどやたらその世界に引き込まれてしまう「勢い」があった。それを目指して描いてみたいー」としている<ref name="sugoi_2020_08"/>。読者の評価も高く、「このマンガがすごい!2020」オンナ編・第8位<ref>[https://konomanga.jp/special/konoman2020 『このマンガがすごい!2020』令和初のランキングトップ20公開!!【公式発表】]</ref><ref name="sugoi_2020_08">[https://ameblo.jp/irie-kiwa/entry-12557137216.html キワ者便り 2019年12月13日 ここにきて8位!]</ref>となった。 2019年9月から10月には、「新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展」を、イオンモールkyoto、[[丸井]]錦糸町店、[[丸井]]有楽町店にて同時開催<ref>[https://ameblo.jp/irie-kiwa/entry-12517827126.html キワ者便り 2019年09月1日 新井英樹・入江喜和 画業30周年原画展のお知らせ]</ref>。 2021年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第45回[[講談社漫画賞]]総合部門を受賞<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/428099|title=第45回講談社漫画賞は「ブルーロック」「花野井くんと恋の病」「ゆりあ先生の赤い糸」|date=2021-05-13|accessdate=2021-05-14}}</ref>。 2023年、『ゆりあ先生の赤い糸』が第27回[[手塚治虫文化賞]]を受賞<ref>{{Cite web|和書|title=第27回 手塚治虫文化賞 受賞作・受賞者が決定 {{!}} 朝日新聞社の会社案内 |url=https://www.asahi.com/corporate/award/tezuka/14889135 |website=朝日新聞社インフォメーション |access-date=2023-04-25 |language=ja}}</ref>。 == 人物 == *様々な登場人物を細かく描き分ける[[群像劇]]が中心で、舞台となる店や施設、街の取材を怠らず、設定は入江が暮らす東京の下町や山手線圏内であることが多い。その際、実在する街角や、ライヴハウス、バーなどがリアルに丹念に描かれるのが特徴のひとつ。物語は、登場人物が勝手に動く方法でつくっていくと入江も言う。例えば『[[たそがれたかこ]]』の9巻の場合は、「たかこさんが急に立ちあがって歌いだしたっていうのはうれしかったです。(…)「そうか、バンドやりたいのか、たかこさん!」と! 胸に迫るものがありました」と語っている<ref name="konomanga2018_1">[https://konomanga.jp/interview/136209-2 このマンガがすごい!WEB【インタビュー】 『たそがれたかこ』入江喜和先生が、連載丸4年をふりかえる! 物語のラストに関わる重要なシーンとは? そして、尾崎世界観とのコラボ曲の制作秘話も!?]</ref>。 *[[エレファントカシマシ]]ファンで、[[宮本浩次_(エレファントカシマシ)|宮本浩次]]に関しても多々発言している。 *バレエ好き。 == 作品リスト == * 杯気分! 肴姫(1991年 - 1993年、講談社モーニングKC、全7巻) ** 杯気分! 肴姫(2010年、エンターブレイン刊ビームコミックス新装版、全3巻) * [[のんちゃんのり弁]](1995年 - 1998年、講談社モーニングKC、全4巻) ** のんちゃんのり弁 新装版(2009年、講談社モーニングKCDX、上・下巻) * ちゃらっぽこ幽霊(『コミックビーム』1999年4月号 - 5月号掲載、前後編38ページ、2008年エンターブレイン刊ビームコミックス『ビーム短編傑作選 奥村編集長セレクション マンゴー編』に収録)(一読すると、読んだことが忘れらなくなる傑作) * ざしき(『コミックビーム』1999年8月号掲載。「ちゃらっぽこ幽霊」の続編) * あこがれ(『コミックビーム』2000年1月号掲載) * 昭和の男(2004年 - 2005年、講談社モーニングKC、全2巻) * [[おかめ日和]](2006年 - 2013年、講談社『[[BE・LOVE]]』連載、講談社 BE・LOVE KCDX、全17巻) * あこがれの山岸凉子先生にお会いしました(2013年、講談社『[[BE・LOVE]]』6号 2ページ小品)(山岸凉子『言霊』 収録 KCデラックス BE LOVE) * [[たそがれたかこ]](2013年 - 2017年、講談社『BE・LOVE』、全10巻) * 今日もウチで呑んでます(2013年 、日本文芸社 [[別冊漫画ゴラク]] 酒楽 2013年9月第1号 - 2014年1月 第2号 連載)(おつまみレシピのあるエッセイマンガ)(「東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜」収録) * なんやかんやで四半世紀 画業25周年記念プレゼント小冊子(2014年、講談社 非売品 『たそがれたかこ』1・2巻購読者へのキャンペーン景品 12ページ小冊子 入江の様々な登場人物が入り乱れるファンブック) * 東京BONごはん〜おウチで作る名店の味〜(日本文芸社ニチブンコミックス 全1巻)(初出タイトル「こまどり夫婦の東京BONごはん」 講談社 『[[おとなの週末]]』2014年4月 - 2015年7月) * たそがれたかこ 番外編 公平くん男道(2017年8月、講談社『BE・LOVE』15号、8ページ小品)(「キワ本」に収録) * シダ&ナンシー(2017年、講談社 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』41号 1話読み切り) * たそがれたかこ 特別描き下ろし うわがき たかこ(2018年5月、KADOKAWA『ダ・ヴィンチ』6月号、2ページカラー作品)(「キワ本」に収録) * [[ゆりあ先生の赤い糸]](2018年 - 2022年<ref>{{Cite journal|和書|date = 2022-09-01|journal =BE・LOVE|volume=2022年10月号|publisher = 講談社|asin = B0B9QS48FF}}表紙より。</ref>、講談社『BE・LOVE』連載、講談社 BE・LOVEコミックス、全11巻) * みっしょん!!(2023年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/523100|title=「ゆりあ先生の赤い糸」入江喜和の新連載、下町オバちゃん冒険譚「みっしょん!!」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-01|accessdate=2023-05-01}}</ref> - 、講談社『BE・LOVE』連載) ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} ==関連項目== * [[新井英樹]] * [[山岸凉子]] * [[小池一夫]] * [[劇画村塾]] ==外部リンク== * [https://kiwa-irie.hatenadiary.org/ 手前味噌だったらゴメンナサイ] - 公式ブログ1 * [https://ameblo.jp/irie-kiwa/ キワ者便り] - 公式ブログ2 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いりえ きわ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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岩明均
岩明 均(いわあき ひとし、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。和光大学中退。本名:岩城 均(いわき ひとし)。父は和光大学名誉教授の原始技術史・技術論研究者の岩城正夫(1930年 - )。 『寄生獣』で1993年に第17回講談社漫画賞一般部門、1996年に第27回星雲賞コミック部門、『ヒストリエ』で2010年に第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、2012年に第16回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。 高校3年生まで漫画を読まずに育つ。漫画に夢中になった当初は漫画を買うことすら恥ずかしく、やっと買ったのは小さな文庫サイズの手塚治虫の漫画だったという。学生時代には父の著書に挿絵を提供していた。1984年、上村一夫のアシスタントを始める。1985年、ちばてつや賞に入選した「ゴミの海」が『モーニングオープン増刊』(講談社)に掲載され、デビュー。以後は主に『月刊アフタヌーン』などの講談社の雑誌で活動している。 漫画家の須賀原洋行とは親交がある。ともに『月刊アフタヌーン』に連載していたこともあり、『よしえサン』の単行本巻末に特別寄稿として、須賀原をモチーフにした読切作品を掲載したこともある。一方の須賀原も『寄生獣』単行本巻末に岩明を主人公にしたフィクション読切漫画「寄生OL」を特別寄稿している。 残虐描写を特徴とするが、ストーリーは哲学的かつドラマティックな展開を両立させている。2000年代以降は歴史に題材を取った作品が多い。休載になることもしばしばで作品の量は多くなく、本人も自覚している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "岩明 均(いわあき ひとし、1960年7月28日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。男性。和光大学中退。本名:岩城 均(いわき ひとし)。父は和光大学名誉教授の原始技術史・技術論研究者の岩城正夫(1930年 - )。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『寄生獣』で1993年に第17回講談社漫画賞一般部門、1996年に第27回星雲賞コミック部門、『ヒストリエ』で2010年に第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、2012年に第16回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "高校3年生まで漫画を読まずに育つ。漫画に夢中になった当初は漫画を買うことすら恥ずかしく、やっと買ったのは小さな文庫サイズの手塚治虫の漫画だったという。学生時代には父の著書に挿絵を提供していた。1984年、上村一夫のアシスタントを始める。1985年、ちばてつや賞に入選した「ゴミの海」が『モーニングオープン増刊』(講談社)に掲載され、デビュー。以後は主に『月刊アフタヌーン』などの講談社の雑誌で活動している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "漫画家の須賀原洋行とは親交がある。ともに『月刊アフタヌーン』に連載していたこともあり、『よしえサン』の単行本巻末に特別寄稿として、須賀原をモチーフにした読切作品を掲載したこともある。一方の須賀原も『寄生獣』単行本巻末に岩明を主人公にしたフィクション読切漫画「寄生OL」を特別寄稿している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "残虐描写を特徴とするが、ストーリーは哲学的かつドラマティックな展開を両立させている。2000年代以降は歴史に題材を取った作品が多い。休載になることもしばしばで作品の量は多くなく、本人も自覚している。", "title": "作風" } ]
岩明 均は、日本の漫画家。東京都出身。男性。和光大学中退。本名:岩城 均。父は和光大学名誉教授の原始技術史・技術論研究者の岩城正夫。 『寄生獣』で1993年に第17回講談社漫画賞一般部門、1996年に第27回星雲賞コミック部門、『ヒストリエ』で2010年に第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、2012年に第16回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 岩明 均 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 岩城 均(いわき ひとし) | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|7|28}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1985年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[寄生獣]]』 <br>『[[ヒストリエ]]』 | 受賞 =第17回[[講談社漫画賞]]一般部門<br>(『寄生獣』)<br> 第27回[[星雲賞]]コミック部門<br>(『寄生獣』)<br> 第14回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]大賞<br>(『ヒストリエ』)<br> 第16回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞<br>(『ヒストリエ』) }} [[File:Hitoshi Iwaaki, manga style.png|thumb|岩明均]] '''岩明 均'''(いわあき ひとし、[[1960年]][[7月28日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身。男性。[[和光大学]]中退。本名:岩城 均(いわき ひとし)<ref name=骨の音>『骨の音』あとがきより</ref>。父は[[和光大学]][[名誉教授]]の原始技術史・技術論研究者の岩城正夫(1930年 - )<ref>[[鶴見俊輔]]『鶴見俊輔全漫画論2』(ちくま学芸文庫)P.372</ref>。 『[[寄生獣]]』で1993年に第17回[[講談社漫画賞]]一般部門、1996年に第27回[[星雲賞]]コミック部門、『[[ヒストリエ]]』で2010年に第14回[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]大賞、2012年に第16回[[手塚治虫文化賞]]マンガ大賞を受賞している。 == 人物 == 高校3年生まで漫画を読まずに育つ<ref name="huko">『風子のいる店』第1巻より</ref>。漫画に夢中になった当初は漫画を買うことすら恥ずかしく、やっと買ったのは小さな文庫サイズの[[手塚治虫]]の漫画だったという<ref name="huko" />。学生時代には父の著書に挿絵を提供していた。1984年、[[上村一夫]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を始める。1985年、[[ちばてつや賞]]に入選した「[[骨の音|ゴミの海]]」が『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]オープン増刊』([[講談社]])に掲載され、デビュー<ref name=骨の音/>。以後は主に『[[月刊アフタヌーン]]』などの講談社の雑誌で活動している。 漫画家の[[須賀原洋行]]とは親交がある。ともに『月刊アフタヌーン』に連載していたこともあり、『[[よしえサン]]』の単行本巻末に特別寄稿として、須賀原をモチーフにした読切作品を掲載したこともある。一方の須賀原も『寄生獣』単行本巻末に岩明を主人公にしたフィクション読切漫画「寄生OL」を特別寄稿している<ref>その時、岩明としてデザインされたキャラクターは『[[それはエノキダ!]]』の主人公「榎田保」として流用された。</ref>。 == 作風 == 残虐描写を特徴とするが、ストーリーは哲学的かつドラマティックな展開を両立させている。2000年代以降は歴史に題材を取った作品が多い。休載になることもしばしばで作品の量は多くなく、本人も自覚している{{refnest|第14回文化庁メディア芸術祭の受賞コメントでは、「(『ヒストリエ』)開始から7年経つのに単行本がいまだ6冊というのが何とも面目ない話で、今現在もほかのマンガ家さんが聞いたら笑ってしまうようなわずかな仕事量に立ち往生し、机にへばりついておる所です。ご挨拶にも伺えず申しわけありません」として授賞式にも参加していない<ref>[https://natalie.mu/comic/news/41766 第14回メディア芸術祭、マンガ部門大賞は「ヒストリエ」]</ref>。}}。 == 略歴 == * 1985年:『ゴミの海』がちばてつや賞に入選しデビュー。 * 1985年 - 1988年:『モーニング』で『風子のいる店』を連載。 * 1988年 - 1995年:『モーニングオープン増刊』、『月刊アフタヌーン』で『寄生獣』を連載。 * 1993年:第17回講談社漫画賞受賞(『寄生獣』)。 * 1996年:第27回星雲賞コミック部門受賞(『寄生獣』)。 * 1996年 - 1999年:『ビッグコミックスピリッツ』で『七夕の国』を連載。 * 1999年:『モーニング新マグナム増刊』にて『雪の峠』を短期集中連載。 * 2000年:『ヤングチャンピオン』にて『剣の舞』を短期集中連載。 * 2001年 - 2002年:『ヤングアニマル嵐』で『ヘウレーカ』を連載。 * 2003年:『月刊アフタヌーン』で、『ヒストリエ』の連載を開始。 * 2010年:第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞受賞(『ヒストリエ』)。 * 2012年:第16回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞(『ヒストリエ』)。 *2015年 - 2018年:『別冊少年チャンピオン』にて『レイリ』を連載(作画:室井大資)。 *2019年:第3回さいとう・たかを賞受賞(『レイリ』)。 == 作品リスト == === 連載 === * [[風子のいる店]](1985年 - 1988年、『モーニング』連載) * [[寄生獣]](1988年 - 1995年、『モーニングオープン増刊』→『月刊アフタヌーン』連載) ** [[ネオ寄生獣|ネオ寄生獣f]](原作、アンソロジー。2015年) ** [[ネオ寄生獣]](原作、アンソロジー。2016年) **[[寄生獣|寄生獣リバーシ]](原作 / 作画:[[太田モアレ]]。2018年 - 2021年、『[[コミックDAYS]]』連載) *[[骨の音]](短編集。1990年) * [[七夕の国]](1996年 - 1999年、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』連載) * [[雪の峠・剣の舞]](中編集。雪の峠:1999年、『[[モーニング新マグナム増刊]]』掲載。剣の舞:2000年、『[[ヤングチャンピオン]]』掲載) * [[ヘウレーカ]](2001年 - 2002年、『[[ヤングアニマル嵐]]』連載) * [[ヒストリエ]](2003年 - 、『月刊アフタヌーン』連載中) * [[ブラック・ジャック#リメイク漫画|ブラック・ジャック〜青き未来〜]](脚本提供<ref>雑誌連載時は「岩明均」名義だったが、単行本では「'''山石日月'''」名義。</ref>。原作:[[手塚治虫]]、作画:[[中山昌亮]]。2011年 - 2012年、『[[週刊少年チャンピオン]]』連載) *[[レイリ]](原作・脚本。漫画:[[室井大資]]。2015年 - 2018年、『[[別冊少年チャンピオン]]』連載) === アンソロジー収録 === * ネオ・デビルマン(初出:[[竹書房]]『[[コミックガンマ]]』1996年No.33) **[[モーニング (漫画雑誌)#モーニングKC|モーニングKCデラックス]]『ネオデビルマン』第2巻(1999年)→[[講談社文庫#講談社の文庫レーベル|講談社漫画文庫]]『ネオデビルマン』下巻(2001年)→[[モーニング (漫画雑誌)#モーニングKC|KCデラックス]]『新装版 ネオデビルマン』下巻(2012年) * 雪の峠(初出:講談社『モーニング新マグナム増刊』1999年5月19日号 - 1999年11月10日号) **『武士の誇り(漫画家たちが描いた日本の歴史)』(2014年、[[金の星社]]) *キャラクターが先?物語が先?(『手塚治虫文化賞20周年記念MOOK マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たち―』(2016年、[[朝日新聞出版]])) === 未収録作品 === * 午前の星(『モーニング パーティー増刊』 1986年7月8日号、 9月9日号) * 大理石の都(『コミックモーニング増刊 OPEN』 1986年7月29日号) * 酒場紳士(『コミックモーニング特別編集 THE OPEN B』 1988年10月25日号) * 残像(『コミックモーニング』 1991年32号) * 目を見て話せ(2003年、『[[エース特濃]]』Vol.1。2008年、『[[コミックチャージ]]』4号に再録) ==インタビュー== * 『[[SPA!]]』1992年2月5日号 * 『SPA!』1993年8月18日号 * 『[[ぱふ]]』1995年3月号 * 『[[クイックジャパン]]』Vol.59 (2005年3月発行) * 『[[ジャンプスクエア]]』2009年5月号 * 『[[朝日新聞]]』2012年4月23日 * 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』2013年No.10(2013年2月21日号) * 『モーニング』2013年No.11(2013年2月28日号) * 『モーニング』2013年No.12(2013年3月7日号) * 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]』 2015年1月臨時増刊号 総特集・岩明均 * 『[[キネマ旬報]]』2015年5月上旬号 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * ジャンプスクエア公式サイト 岩明均先生 直撃インタビュー 完全版 ** [https://web.archive.org/web/20090423045444/http://jumpsq.shueisha.co.jp/contents/topic-iwaaki/index.html 第1回 古代史への興味を持った理由](2009年4月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) ** [https://web.archive.org/web/20090423052511/http://jumpsq.shueisha.co.jp/contents/topic-iwaaki/index2.html 第2回 一日の過ごし方・スケジュール](2009年4月23日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いわあき ひとし}} [[Category:岩明均|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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伊藤誠
伊藤誠(いとうまこと) など。
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伊藤誠(いとうまこと)
'''伊藤誠'''(いとうまこと) == 実在の人物 == * [[伊藤誠 (漫画家)]] * [[伊藤誠 (映画監督)]] * [[伊藤誠 (経済学者)]] * [[伊藤誠 (プロデューサー)]] * [[伊藤誠 (外交官)]] * [[伊藤誠 (美術評論家)]] * [[伊藤誠 (シンガーソングライター)]] <!-- * [[伊藤誠 (棋士)]] * [[伊藤誠 (ファイナンシャル・プランナー)]] * [[伊藤誠 (彫刻家)]] * [[伊藤誠 (大学講師)]] * [[伊藤誠 (フィギュアスケート選手)]] 伊藤誠解除は記事作成後に --> など。 == 架空の人物 == * [[デイズシリーズの登場人物#主要人物|伊藤誠]] - アダルトゲーム『デイズシリーズ』の登場人物。 == 関連項目 == * {{prefix}} {{人名の曖昧さ回避}} {{DEFAULTSORT:いとう まこと}}
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岩泉舞
岩泉 舞(いわいずみ まい、1970年7月13日 - )は、日本の漫画家。北海道室蘭市出身。1989年、「ふろん」がホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞しデビュー。以後1994年まで、『週刊少年ジャンプ』に短編作品を執筆した。1999年から『月刊Vジャンプ』に作品を掲載していた。 読みきり作品が中心であり、しかもきわめて寡作だったため、2021年までは代表作である『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が唯一の単行本であった。 2015年には、マンガ図書館Zで『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が公開された。「七つの海」の冒頭3ページは、岩泉が所有していたカラー原画を使用している。 2021年3月2日、Twitterにて『七つの海』に雑誌掲載当時のカラーページと未収録作品、描き下ろし作品を含めた短編集『岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET』の発売が発表され、岩泉本人のイラスト入りコメントも同時に公開された。
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岩泉 舞は、日本の漫画家。北海道室蘭市出身。1989年、「ふろん」がホップ☆ステップ賞にて佳作を受賞しデビュー。以後1994年まで、『週刊少年ジャンプ』に短編作品を執筆した。1999年から『月刊Vジャンプ』に作品を掲載していた。 読みきり作品が中心であり、しかもきわめて寡作だったため、2021年までは代表作である『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が唯一の単行本であった。 2015年には、マンガ図書館Zで『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が公開された。「七つの海」の冒頭3ページは、岩泉が所有していたカラー原画を使用している。 2021年3月2日、Twitterにて『七つの海』に雑誌掲載当時のカラーページと未収録作品、描き下ろし作品を含めた短編集『岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET』の発売が発表され、岩泉本人のイラスト入りコメントも同時に公開された。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 岩泉 舞 | ふりがな = いわいずみ まい | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = [[日本]]・[[北海道]][[室蘭市]] | 生地 = | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1989年]] - | ジャンル = [[少年漫画]] | 代表作 = | 受賞 = [[ホップ☆ステップ賞]]佳作(「ふろん」) | サイン = | 公式サイト = }} '''岩泉 舞'''(いわいずみ まい、[[1970年]][[7月13日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[室蘭市]]出身。[[1989年]]、「ふろん」が[[ホップ☆ステップ賞]]にて佳作を受賞しデビュー<ref>岩泉舞 『七つの海』 36ページ。</ref>。以後[[1994年]]まで、『[[週刊少年ジャンプ]]』に短編作品を執筆した。[[1999年]]から『月刊Vジャンプ』に作品を掲載していた。 読みきり作品が中心であり、しかもきわめて寡作だったため、2021年までは代表作である『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が唯一の単行本であった。<!--安定した画力と優しさのあるストーリーで根強い人気があった。--> 2015年には、[[マンガ図書館Z]]で『七つの海 - 岩泉舞短編集1』が公開された。「七つの海」の冒頭3ページは、岩泉が所有していたカラー原画を使用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/RYUSEdeg/status/631783486441938944|publisher=出口竜正Twitter|title=#マンガ図書館Z 「七つの海 岩泉舞短編集」は作者様への公開連絡の際、|accessdate=2016-05-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://twitter.com/KenAkamatsu/status/632872856162975744|publisher=赤松健Twitter|title=#マンガ図書館Z - 岩泉舞『七つの海 ~岩泉舞短編集~』(全1巻) …|accessdate=2016-05-31}}</ref>。 2021年3月2日、Twitterにて『七つの海』に雑誌掲載当時のカラーページと未収録作品、描き下ろし作品を含めた短編集『岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET』の発売が発表され<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/iwaizumi_planet/status/1366681365928808448|url=https://twitter.com/iwaizumi_planet/status/1366681365928808448|website=Twitter|accessdate=2021-03-02|language=ja}}</ref>、岩泉本人のイラスト入りコメントも同時に公開された<ref>{{Cite web|和書|title=https://twitter.com/iwaizumi_planet/status/1366672576886444035|url=https://twitter.com/iwaizumi_planet/status/1366672576886444035|website=Twitter|accessdate=2021-03-02|language=ja}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === * ふろん (1989年、『週刊少年ジャンプ オータムスペシャル』掲載) * 忘れっぽい鬼 (1989年、『週刊少年ジャンプ ウインタースペシャル』掲載) * たとえ火の中… (1990年、『週刊少年ジャンプ』第25号掲載) * 七つの海 (1991年、『週刊少年ジャンプ』第21・22合併号掲載) * COM COP (1991年、『週刊少年ジャンプ』第39号掲載) * COM COP2 (1992年、『週刊少年ジャンプ』第10号掲載) * KING -キング- (1992年、『週刊少年ジャンプ』第49号掲載) * クリスマスプレゼント (1993年、『週刊少年ジャンプ』第3・4合併号掲載) - 原作:[[武論尊]] * COM COP3 〜夢見る佳人〜 (1993年、『週刊少年ジャンプ』第52号掲載) - 原作:[[村山由佳]] * リアルマジック (1994年、『サマースペシャル』掲載) * MY LITTLE PLANET * ロボットを捨てに行く (2022年、Web描き下ろし) * ミレンさんの壺(2022年、『eBigComic4』連載<ref name="natalie20221001">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/495898|title=死んだ人間の“未練”を探る不思議な少女描く、岩泉舞の新連載「ミレンさんの壺」|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-10-01|accessdate=2022-10-01}}</ref>) - 初連載作品{{R|natalie20221001}} === 書籍 === * 『七つの海 - 岩泉舞短編集1』 集英社〈[[ジャンプ・コミックス]]〉、1992年5月13日第1刷発行、{{ISBN2|4-08-871469-5}} ** 「ふろん」 「忘れっぽい鬼」 「たとえ火の中…」「七つの海」 「COM COP」 「COM COP2」の6編を収録。 * 『岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET』 小学館クリエイティブ〈単行本〉、2021年5月31日発売<ref name="natalie20210531">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/430368|title=岩泉舞の約30年ぶり新作マンガ収めた作品集、カラーページや単行本未収録作も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-05-31|accessdate=2021-05-31}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=小学館クリエイティブ|url=http://www.shogakukan-cr.co.jp/book/b564310.html|title=岩泉舞作品集 MY LITTLE PLANET|accessdate=2021-05-31}}</ref>、{{ISBN2|978-4-77803-839-7}} ** 「MY LITTLE PLANET」「ふろん」「忘れっぽい鬼」「たとえ火の中…」「七つの海」「COM COP」「COM COP2」「KING」「COM COP〜夢みる佳人〜」「クリスマスプレゼント」を収録{{R|natalie20210531}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Twitter|iwaizumi556|岩泉舞}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いわいすみ まい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北海道室蘭栄高等学校出身の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]]
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いわしげ孝
いわしげ 孝(いわしげ たかし、1954年12月31日 - 2013年3月6日)は、日本の漫画家。鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業高等学校を経て二松學舍大学卒。血液型AB型。デビューから十数年は本名の岩重孝(読みは同じ)で活動していた。 高校時代の1970年(昭和45年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)の第5回新人漫画賞で「小さな命」が入選、審査員である本宮ひろ志から「彼の作品は生命が感じられるね」と評価された。この作品が翌1971年の同誌正月号に掲載され、デビューを果たす。 当時のいわしげは意欲的に漫画を描いており、同じ年に「スクラップ」も同誌の上期手塚賞で佳作に選ばれたほか、続く下期手塚賞でも「ブルースを歌う少女」が佳作に選ばれている。ただ、当時まだ高校生だったいわしげは、絵柄の荒々しさなど漫画の技術に未熟さを感じていたという。以降しばらくは学業に専念する。 高校卒業後、大学入学のために上京、書店でアルバイトをする傍ら漫画を描いた。 大学卒業後、『ビッグコミック』(小学館)に投稿を開始する。1978年に「忘れ雪」が第2回小学館新人コミック大賞で入選し、本格的にデビューする。 1980年(昭和55年)の梅雨時に、『ビッグコミック』の縁ではるき悦巳と知り合い、そのアシスタントとなる。同期にさかもと瓢作(坂本瓢作)がおり、はるきの作品である『じゃりン子チエ』の補助作業もさかもとと共に行った。並行していわしげは『ぼっけもん』を『ビッグコミックスピリッツ』で連載し、同作は1986年(昭和61年)に第31回小学館漫画賞に選ばれている。 1988年(昭和63年)から『ビッグコミックスピリッツ』にて『ジパング少年』を連載、同時にペンネームを本名の岩重孝からいわしげ孝に変更した。 以降は『週刊ヤングサンデー』『ビッグコミックスペリオール』(共に小学館)に移り、『花マル伝』などを連載した。その後『モーニング』(講談社)での『まっすぐな道でさみしい』の連載などを経て、『ビッグコミック』にて『単身花日』を2006年から2008年4月まで連載、同年のうちに引き続き同誌にて『上京花日』の連載を開始した。 2013年3月6日、病気のために死去した。58歳没。遺作となった『上京花日』は、2010年より病気療養に入って休載し、2011年秋にいったん再開したものの、未完のまま2012年2月25日号掲載分が絶筆となった。
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いわしげ 孝は、日本の漫画家。鹿児島県鹿児島市出身。鹿児島県立鹿児島工業高等学校を経て二松學舍大学卒。血液型AB型。デビューから十数年は本名の岩重孝(読みは同じ)で活動していた。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = いわしげ 孝 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 岩重 孝 | 生年 = [[1954年]](昭和29年)[[12月31日]] | 生地 = [[鹿児島県]][[鹿児島市]] | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1954|12|31|2013|3|6}} | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1970年]] - (学業専念のため一時中断)<br />[[1978年]] - [[2012年]] | ジャンル = 人情[[劇画]] | 代表作 = 『[[ぼっけもん]]』 | 受賞 = 第31回[[小学館漫画賞]]([[1986年]]) | サイン = | 公式サイト = }} '''いわしげ 孝'''(いわしげ たかし、[[1954年]][[12月31日]]<ref name="FPD">『Fusion Product 創刊号』ふゅーじょんぷろだくと、1981年7月。pp. 140-141。</ref> - [[2013年]][[3月6日]]<ref name="natalie20130322">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/87219 |title=「上京花日」のいわしげ孝が逝去、58歳 |website=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2013-03-22 |accessdate=2023-09-05}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[鹿児島県]][[鹿児島市]]出身<ref name="FPD" />。[[鹿児島県立鹿児島工業高等学校]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/236739.html |title=いわしげ孝 |website=東文研アーカイブデータベース |publisher=独立行政法人 国立文化財機構 東京文化財研究所 |date=2016-09-05 |accessdate=2023-09-05}}初出:『日本美術年鑑』平成26年版 p.451。</ref>を経て[[二松學舍大学]]卒。血液型[[ABO式血液型|AB型]]<ref name="FPD" />。デビューから十数年は本名の'''岩重孝'''(読みは同じ)で活動していた<ref name="FPD" />。 == 概要 == [[高校]]時代の[[1970年]](昭和45年)に『[[週刊少年ジャンプ]]』([[集英社]])の第5回[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#新人漫画賞|新人漫画賞]]で「小さな命」が入選、審査員である[[本宮ひろ志]]から「彼の作品は生命が感じられるね」と評価された。この作品が翌[[1971年]]の同誌正月号に掲載され、デビューを果たす。 当時のいわしげは意欲的に漫画を描いており、同じ年に「スクラップ」も同誌の上期[[手塚賞]]で佳作に選ばれたほか、続く下期手塚賞でも「ブルースを歌う少女」が佳作に選ばれている。ただ、当時まだ高校生だったいわしげは、絵柄の荒々しさなど漫画の技術に未熟さを感じていたという。以降しばらくは学業に専念する。 高校卒業後、[[大学]]入学のために上京、[[書店]]で[[アルバイト]]をする傍ら漫画を描いた。 大学卒業後、『[[ビッグコミック]]』([[小学館]])に投稿を開始する。[[1978年]]に「忘れ雪」が第2回[[小学館新人コミック大賞]]で入選し、本格的にデビューする<ref name="FPD" />。 [[1980年]](昭和55年)の[[梅雨]]時に、『ビッグコミック』の縁で[[はるき悦巳]]と知り合い、その[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]となる<ref>『ガチャバイ』下巻([[1998年]])、あとがきより。</ref>。同期に[[はるき悦巳#アシスタント|さかもと瓢作]](坂本瓢作)がおり、はるきの作品である『[[じゃりン子チエ]]』の補助作業もさかもとと共に行った。並行していわしげは『[[ぼっけもん]]』を『[[ビッグコミックスピリッツ]]』で連載し、同作は[[1986年]](昭和61年)に第31回[[小学館漫画賞]]に選ばれている。 [[1988年]](昭和63年)から『ビッグコミックスピリッツ』にて『[[ジパング少年]]』を連載、同時に[[ペンネーム]]を本名の'''岩重孝'''から'''いわしげ孝'''に変更した。  以降は『[[週刊ヤングサンデー]]』『[[ビッグコミックスペリオール]]』(共に小学館)に移り、『[[花マル伝]]』などを連載した。その後『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』([[講談社]])での『[[まっすぐな道でさみしい]]』の連載などを経て、『ビッグコミック』にて『[[単身花日]]』を2006年から2008年4月まで連載、同年のうちに引き続き同誌にて『[[上京花日]]』の連載を開始した。 [[2013年]][[3月6日]]、病気のために死去した<ref name="natalie20130322" /><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.daily.co.jp/gossip/obituaries/2013/03/24/0005839862.shtml |title=「ぼっけもん」のいわしげ孝さん死去 |website=デイリースポーツ online |publisher=デイリースポーツ |date=2013-03-24 |accessdate=2023-09-05}}</ref>。{{没年齢|1954|12|31|2013|3|6}}。遺作となった『上京花日』は、2010年より病気療養に入って休載し、2011年秋にいったん再開したものの、未完のまま2012年2月25日号掲載分が絶筆となった<ref name="natalie20130322" />。 == 作品リスト == ; 岩重孝名義 * [[ぼっけもん]]([[ビッグコミックスピリッツ]]) * [[うち、若葉!]](ビッグコミックスピリッツ) * [[二匹のブル]]([[原作]]:[[瀬叩龍]]、ビッグコミックスピリッツ) ; いわしげ孝名義 * [[ジパング少年]](ビッグコミックスピリッツ) * [[ざっぺら]]([[ビッグコミックスペリオール]]) * [[ばんえい駆ける]](ビッグコミックスペリオール) * [[花マル伝]]([[週刊ヤングサンデー|ヤングサンデー]]) *: 主人公の花マルのクラスメートの杉矢は『単身花日』など、後の作品のモブシーンにもたびたび登場する。 * [[怪人百面相]](ビッグコミックスペリオール) * [[新・花マル伝]] ([[週刊ヤングサンデー]]) * [[まっすぐな道でさみしい]] [[種田山頭火|-種田山頭火外伝-]] ([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]) * [[青春の門#漫画|青春の門 -筑豊編-]](原作:[[五木寛之]]、モーニング) * [[単身花日 桜木舜の単身赴任・鹿児島]]([[ビッグコミック]]) * [[上京花日]](ビッグコミック、未完) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Webarchive |url=https://web.archive.org/web/20130629074547/http://big-3.jp/bigcomic/rensai/hanabi_knt/index.html |title=ビッグコミック連載作品の紹介 上京花日 いわしげ孝}} - 小学館コミック ビッグスリーネット {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:いわしけ たかし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:鹿児島県立鹿児島工業高等学校出身の人物]] [[Category:二松學舍大学出身の人物]] [[Category:鹿児島県出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:2013年没]]
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岩谷テンホー
岩谷 テンホー(いわたに てんほー、1954年9月30日 - )は、日本の漫画家。本名は岩谷芳朗。代表作は『みこすり半劇場』。長崎県出身。 長崎県南松浦郡新上五島町(旧奈良尾町)出身。長崎県立長崎工業高等学校卒業。大手印刷会社で漫画雑誌の写真製版の仕事をしていた。届く4コマ漫画の原稿を読み、俺にも書けると一念発起し、1985年に31歳でデビューした。1986年から2002年まで週刊プレイボーイに『マグニチュード9.99』を長期連載した。担当が元少年ジャンプの編集者であったこともあり、作画やアイディア出しのアドバイスをたくさんもらい、インタビューでは育ててくれた雑誌と述べている。 その後東スポアダルト面で4コマ漫画の連載をスタート。作中に下ネタを入れだすのはここからとなる。 自身では作風を「『サザエさん』の世界にお色気を持ち込んだもの」と述べている。 いわゆる下ネタかブス女をオチや題材に持ってくる作風がほとんどでかつ専門的にこれらの4コマ作品を描き続けているため、イメージが定着している。小道具としてナスやキュウリなどを(性具代わりに)使うといったギャグも非常に多い。しかし長年人気を維持しており、「偉大なるマンネリ」と例えられる作風である。 当然ながら作品発表の場はお色気ものの4コマ雑誌(艶笑4コマ誌)か、青年漫画誌に限られているが、過去にはごく稀にファミリー向けの4コマ誌にゲスト作家として招かれたこともあった。そのときの雑誌の予告には「あの岩谷テンホーがファミリー向け4コマ誌に!大丈夫か?」などといったコピーが掲載された。このようなケースの作品では当然ながら下ネタは描かれなかったものの、その分作者独特の毒気のある作風が存分に発揮されていた。
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岩谷 テンホーは、日本の漫画家。本名は岩谷芳朗。代表作は『みこすり半劇場』。長崎県出身。
'''岩谷 テンホー'''(いわたに てんほー、[[1954年]][[9月30日]] - )は、日本の[[漫画家]]。本名は岩谷芳朗<ref>{{Cite web|和書 | url = https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00175149 | title = 岩谷テンホー | publisher = Web NDL Authorities | accessdate = 2023-07-17 }}</ref>。代表作は『[[みこすり半劇場]]』。[[長崎県]]出身。 == 略歴 == [[長崎県]][[南松浦郡]][[新上五島町]](旧[[奈良尾町]])出身<ref>{{Citation|和書 | author = 岩谷テンホー | title = とんびの島から | date = 2018 | publisher = 集英社 | asin = B07BK5L2B3 }}</ref>。[[長崎県立長崎工業高等学校]]卒業。大手印刷会社で漫画雑誌の写真製版の仕事をしていた。届く4コマ漫画の原稿を読み、俺にも書けると一念発起し、1985年に31歳でデビューした<ref>{{Cite web|和書 | url = https://mangaseek.net/person/225.html | title = 岩谷テンホー | publisher = まんがSeek | accessdate = 2023-07-17 }}</ref>。1986年から2002年まで週刊プレイボーイに『マグニチュード9.99』を長期連載した。担当が元[[週刊少年ジャンプ|少年ジャンプ]]の編集者であったこともあり、作画やアイディア出しのアドバイスをたくさんもらい、インタビューでは育ててくれた雑誌と述べている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=デビュー35周年を迎えるナンセンス下ネタ4コマ漫画の巨匠・岩谷テンホー「僕の漫画は『サザエさん』の世界にお色気を持ち込んだものなんです」 - エンタメ - ニュース|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2020/08/20/111874/|website=週プレNEWS[週刊プレイボーイのニュースサイト]|date=2020-08-20|accessdate=2020-08-31|language=ja}}</ref>。 その後東スポアダルト面で4コマ漫画の連載をスタート。作中に下ネタを入れだすのはここからとなる<ref name=":0" />。 自身では作風を「『サザエさん』の世界にお色気を持ち込んだもの」と述べている<ref name=":0" />。 == 作風 == いわゆる[[下ネタ]]かブス女を[[オチ]]や題材に持ってくる作風がほとんどでかつ専門的にこれらの4コマ作品を描き続けているため、イメージが定着している。小道具として[[ナス]]や[[キュウリ]]などを(性具代わりに)使うといったギャグも非常に多い。しかし長年人気を維持しており、「偉大なるマンネリ」と例えられる作風である。 当然ながら作品発表の場はお色気ものの4コマ雑誌(艶笑4コマ誌)か、[[青年漫画]]誌に限られているが、過去にはごく稀にファミリー向けの4コマ誌にゲスト作家として招かれたこともあった<!-- どの4コマ誌雑誌であったかは失念 -->。そのときの雑誌の予告には「あの岩谷テンホーがファミリー向け4コマ誌に!大丈夫か?」などといったコピーが掲載された。このようなケースの作品では当然ながら下ネタは描かれなかったものの、その分作者独特の毒気のある作風が存分に発揮されていた。 == 作品リスト == * '''[[みこすり半劇場]]'''…[[ぶんか社]]発行の[[4コマ漫画#4コマ誌|4コマ誌]](4コマ漫画専門雑誌)ならびに同誌掲載の漫画のタイトル。正式名称は「岩谷テンホーのみこすり半劇場」。「[[東京スポーツ]]」([[中京スポーツ]]/[[大阪スポーツ]]/[[九州スポーツ]]) におなじく同名の4コマ漫画を連載中。派生作品として[[みこすり半劇場必殺]]、[[みこすり半劇場タイフーン]]、[[みこすり半劇場タイフーン]]、[[みこすり半劇場ファミリー編]]、[[みこすり半劇場ぶっ飛び]]などがある。 : [[2007年]][[10月4日]]に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で放送された「[[とんねるずのみなさんのおかげでした]] 」のコーナー「[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜]]」で、[[ダイノジ]]が「東スポの裏に連載している4コマ漫画で作者の岩谷テンホーが行き詰まった時に描くパターン(忍者編&家族編)」という物まねを行なった。 : [[2013年]]3月に[[リバプール (企業)|リバプール]]よりオリジナルアニメDVDが[[セブン-イレブン]]限定で発売される。[[まがりひろあき]]監督。 * [[テンホー注意報 本ナマ 赤貝編]] * [[テンホー注意報 本ナマ 青筋編]] * [[テンホーの第3の足]] * [[テンホー漬]] * [[テンホーのすっぽん横町]] * [[生しぼりテンホー劇場]] : [[極生しぼりテンホー劇場]] : [[激生しぼりテンホー劇場]] : [[特選!生しぼりテンホー劇場]] * [[東京コンニャ区]] : [[東京コンニャ区 今昔お笑い天国]] * [[かずのこ伝書]] : [[かずのこ大全]] * [[はまぐり草子]] : [[はまぐり絵巻全集]] * [[タバスコシャワー]] * [[まぜごはん]] * [[リビ道]] * [[ダボパン]] * [[おまかせナース天国]] * [[あわびの涙]] * [[愛のカリブト]]([[ワニマガジン社]]『[[アクションカメラ]]』) * [[タバスコシャワー]] * [[ダボパン]] * [[たまんて箱]] * [[テンパーくん]] * [[はみチン波止場]]([[週刊実話]]連載終了) ** [[新はみチン波止場]]([[週刊実話]]連載) * [[岩谷テンホーのまんずの河]]([[週刊プレイボーイ]]連載終了) * [[マグニチュード9.99]](週刊プレイボーイ連載終了) * [[動物性おつゆ]]([[週刊ヤングサンデー]]連載終了) == 書籍 == * 『みこすり半劇場』第1ー13集 日本文華社・ぶんか社, 1988-96 : みこすり半劇場 刑事編 (Bunka comicsデラックス)ぶんか社, 1992.12 : みこすり半劇場 時代劇編 1-2(Bunka comicsデラックス ぶんか社, 1992-94 : みこすり半劇場 ファミリー編 1-2(Bunka comicsデラックス) ぶんか社, 1993-94 : みこすり半劇場 青春編 (Bunka comicsデラックス) ぶんか社, 1993.2 : みこすり半劇場 病院編 (Bunka comicsデラックス) ぶんか社, 1993.3 : みこすり半劇場 カップル編 (Bunka comicsデラックス ぶんか社, 1996.4 : みこすり半劇場 アドベンチャー編 (Bunkasha comics) ぶんか社, 1996.8 : 岩谷テンホーのまるごとみこすり半劇場 (みこすり半劇場増刊) ぶんか社, 2006-07 : みこすり半劇場 タイフーン ぶんか社, 2006.11 : みこすり半劇場 ハリケーン ぶんか社, 2006.11 : 完本みこすり半劇場 (BUNKASHA COMICS) ぶんか社, 2015.4 : 大盛!!みこすり半劇場昇り竜 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2015.5 : 大盛!!みこすり半劇場太鼓判 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2016.10 : 大盛!!みこすり半劇場うっちゃり (Bunkasha comics) ぶんか社, 2016.2 : 大盛!!みこすり半劇場絶頂 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2017.12 : 大盛!!みこすり半劇場右手で (Bunkasha comics) ぶんか社, 2017.4 : 大盛!!みこすり半劇場うず潮 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2018.7 : 大盛!!みこすり半劇場エビ反り (Bunkasha comics) ぶんか社, 2019.1 : 大盛!!みこすり半劇場くい込み (Bunkasha comics) ぶんか社, 2019.8 : 大盛!!みこすり半劇場バズーカ (Bunkasha comics) ぶんか社, 2020.1 : 大盛!!みこすり半劇場突進 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2020.8 : 大盛!!みこすり半劇場 2021 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2021.11 : 大盛!!みこすり半劇場反撃 (Bunkasha comics) ぶんか社, 2021.4 * 『タバスコシャワー』1-2 (マンサンコミックス) [[実業之日本社]], 1989-90 * 『Magnitude 9.99 : 全方位激震ギャグ』1-5 (プレイボーイ・ギャグ・コミックス) [[集英社]], 1991-94 * 『リビ道』第1-3巻 実業之日本社, 1992 * 『岩谷テンホ~のはまぐり草子』第1-2巻 (マンサンコミックス) 実業之日本社, 1992-93 * 『テンホーの第3の足』ぴいぷる社, 1994.1 * 『テンホー漬』ぶんか社, 1995.6 * 『岩谷テンホーのまんずの河』第1巻 (プレイボーイ・ギャグ・コミックス) 集英社, 1996.10 <Y84-G1980> * 『たま(ん)て箱』第1-2巻 (Bun bun comics) 未来出版, 1996.10 * 『カリブト』1-2 (ジャンプ・コミックスデラックス) 集英社, 1996-98 * 『東京コンニャ区』(Bun bun comics) 未来出版, 1997.7 * 『まぜごはん』v.1 (マンサンQコミックス) 実業之日本社, 2002.11 * 『テンホー本ナマ注意報 赤貝編』未来出版, 2003.11 * 『はまぐり絵巻 完全版』v.1-2 (マンサンQコミックス) 実業之日本社, 2003. : はまぐり絵巻全集 地の巻・天の巻 (マンサンQコミックス) 実業之日本社, 2004 * 『テンホー本ナマ注意報 青筋編』未来出版, 2004.1 * 『動物性おつゆ』1-3 (Young sunday comics special) [[小学館]], 2004-07 * 『おまかせナース天国』未来出版, 2004.7 * 『テンホーのすっぽん横町』未来出版, 2005.12 * 『とんびの島から』(愛蔵版コミックス. ふんわりジャンプ) 集英社, 2018.4 == アーケードゲーム == * 麻雀コミック劇場([[ダイナックス]]) * 笑いの麻雀エンジェルス([[ダイナックス]]) == 出演 == === ラジオ === * [[福山雅治の魂のラジオ]]にゲスト出演したことがある。 === ウェブテレビ === * [[宇宙一せまい授業!]]([[あっ!とおどろく放送局]]-2007年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[日本の漫画家一覧]] * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] == 外部リンク == * {{Twitter|iwatanitenho}} {{Normdaten}} {{manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いわたに てんほお}} {{DEFAULTSORT:いわたに てんほお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新聞連載の漫画家]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:成人向け漫画家]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]]
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スペースシャトル
スペースシャトル(英: Space Shuttle)は、かつてアメリカ航空宇宙局 (NASA) が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。 もともと「再使用」というコンセプトが強調されていたが、出来上がったシステムは、オービタ部分は繰り返し使用されたが、打ち上げられる各部分の全てが再利用できたわけではなく、外部燃料タンクなどは基本的には使い捨てである。 初飛行は1981年、2回目の飛行は1982年で、2011年7月の135回目の飛行を最後に退役した。 スペースシャトルは宇宙輸送システム (Space Transportation System, STS) あるいはスペースシャトル計画の一環としてもちいられた。STSの開発とシャトルの飛行は、基本的にアメリカの資金によって行われた。主な使用目的は、NASAのおかれた様々な政治的状況や起こしてしまったシャトルの事故も影響して、およそ10年ごとに大きく変遷してきたが、数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ、宇宙空間における科学実験、国際宇宙ステーション (International Space Station, ISS) の建設などである。なおシャトルはNASAによってだけでなく、米国国防総省、欧州宇宙機関、ドイツ等の軌道上実験にも使用された。 シャトルは再使用型宇宙往還機であり、軌道船 (Orbitor Vehicle, OV)、外部燃料タンク (External Tank, ET)、固体燃料補助ロケット (Solid Rocket Booster, SRB) の三つの部分によって構成されている。ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船 (OV) のみが地球周回軌道に到達する。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられるが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備された。SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用された。 まずシャトルの構造および打ち上げ〜着陸の概略を説明する。 通常は5名から7名の飛行士が搭乗した。なお、最も初期の頃に行われた、STS-1からSTS-4の4回の試験飛行のように、機長と操縦士の2名だけでも飛行できた。 発射時のシャトルの構成は、おおまかに の三つの部分から構成されていた。なお、上記に加えて、STSのために開発された、PAMとIUSと呼ばれる人工衛星打上げ用の2種類の固体ロケットを用いれば、搭載物をさらに高い軌道に運ぶこともできた。なお、シャトルには全体でおよそ250万個もの部品が使われており、人間がこれまでに製造した中で最も複雑な機械であると言われている。 (→#構造・メカニズム・諸元) シャトルは通常のロケットと同じように、発射台からは垂直に離陸する。その際の推力を生むのは2本のSRBおよび、(軌道船の後部に装着している)3基のメイン・エンジン (Space Shuttle Main Engine, SSME) であり、SSMEの推進剤(液体水素と液体酸素)は外部燃料タンクから供給される。上昇の手順はおおまかに、 のふたつに分かれていて、打上げからおよそ2分後に第二段階に移り、SRBは切り離され落下、パラシュートで海に着水し再使用のため船で回収される。機体(軌道船およびET)はその後も上昇を続け、軌道に到達するとSSMEが燃焼を停止し、ETも役目を終えて切り離される。切り離され自由落下を始めたET(巨大なオレンジ色のタンク)は通常は大気圏に再突入して空気抵抗と熱によって消滅する。ただし、様々な用途に使用することは、構想としてはあった。 軌道船はその後さらに軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射することでミッションの目標としている軌道へと向かう。軌道上での姿勢は、姿勢制御システム (Reaction Control System, RCS) を噴射することで制御する。 シャトルが従来の宇宙船とは際だって異なった特徴の一つに、軌道船の胴体部分のほとんどを占めるほどの大きさの貨物搭載室を備えていることと、そこに大きな観音開きのドアがついていることである。これによって、飛行士や宇宙ステーションの建設資材などを、地球周回低軌道や大気圏上層部、さらには熱圏などに運ぶことができた。例えば、ハッブル宇宙望遠鏡のような大きなものを搭載し軌道に投入することや故障した衛星などがあれば、その軌道へ向かい、貨物室に回収して地球に持ち帰ったりすることもできた。 任務が終了すると、軌道船はOMSを逆噴射して速度を落とし大気圏に再突入した。降下している間、シャトルは大気の様々な層を通過し、主に空気抵抗を用いて機体の速度を極超音速状態から減速させる。大気圏下層部に到達し着陸態勢に入るとグライダーのように滑空飛行し、フライ・バイ・ワイヤ方式の操縦系統で油圧によって動翼を制御した。着陸の際には、長い滑走路が必要とされた。シャトルの形態は、帰還時に極超音速飛行および旅客機のような低速飛行の双方をしなければならない、という二律背反する要求を満たすために作られた妥協の産物であり、その結果として軌道船は着陸寸前には、普通の航空機には見られないような急激な降下(高い降下率)を経験することになる。 (→#飛行手順の詳細) 当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたが、実際の運用で発生した事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなっていき、結果的に使い捨てロケットよりもコストが高くなった。(→#甘すぎた予測と膨らんだ費用と危険性) 「スペースシャトル」という言葉は、一般には軌道船(オービタ)の単体を指していることもある。シャトル(往復を繰り返すもの)という表現に合致しているのは基本的にオービタ部分であるし、形状という点でも、「シャトル」という用語の源となっている織物のシャトルと形が類似し連想させるのはオービタ単体であるからである。ただし技術的な観点、つまり宇宙飛行システム、飛行に必要な技術的な要素、という意味では、軌道船以外にも外部燃料タンク・固体燃料補助ロケットが結合されて、はじめてシャトルは完成状態となり飛行可能となるので、NASAのエンジニアなどは三つが合体した状態を「スペースシャトル」と呼ぶ。そして、紛らわしさを避けるために「オービタ」「SRB」「ET」などの呼称を用いて呼び分けている。 完成状態にする作業はスペースシャトル組立棟で行われる。なお、この建物は元々はシャトルのものではなく、アポロ計画のサターン5型ロケットを組み立てるために作られたものである。 「スペースシャトル」という用語で、スペースシャトルをコアとした計画全体(スペースシャトル計画)を指して用いられていることもある。 シャトルの設計と製造は1970年代初頭に始まったが、その概念はそれより20年も前、1960年代のアポロ計画よりも早い段階に存在していた。宇宙から宇宙船を水平に着陸させるという構想は1954年に国立航空諮問委員会(NACA)が描いていたもので、それは後にX-15航空工学実験調査機として実現することになった。NACAに対してこの提案を行ったのは、ヴァルター・ドルンベルガーである。 1957年、X-15をさらに発展させたXシリーズ宇宙往還機計画が提案された。宇宙飛行士ニール・アームストロングはX-15とX-20両方のテスト・パイロットに選抜されたが、X-20は計画されただけで実機が飛行することはなかった。 X-20は実現されなかったが、同様のコンセプトを持つHL-10実験機は数年後に開発され、1966年1月にNASAの元へと届けられた。HLとは、「Horizontal Landing(水平着陸)」の意味である。 1960年代半ば、空軍は次世代宇宙輸送システムに関する一連の極秘調査計画を行い、「一部再使用型の宇宙船こそが最も安上がりな方法だ」と判断した。彼らの提案では、使い捨て型の宇宙船とロケット(クラスI)の開発に直ちに取りかかり、それに続いて一部再使用型(クラスII)の開発を続け、最終的には完全再使用型(クラスIII)に達するべきである、とされた。1967年、NASA長官ジョージ・ミューラー (George Mueller) は幹部80人を集め、将来的な選択肢に関する1日間の討論会を開催した。会議では、初期の頃の空軍のX-20計画を含む様々な提案がなされた。 1968年、NASAは地球と宇宙を往復することを目的とした「統合往還機 (Integrated Launch and Re-entry Vehicle, ILRV)」の研究を開始し、同時に複数の企業に対してメイン・エンジン (SSME) の開発を競わせた。ヒューストンとハンツビルにあるNASAの事務局は共同で、宇宙に貨物を運ぶだけでなく大気圏を滑空して地球に帰還できるような宇宙船の設計を公募した。その中の一つに、巨大なロケットと小型の軌道船によって構成されたDC-3と呼ばれた案があった。 1969年、ニクソン大統領はスペースシャトル計画を進行させることを正式に決定した。 1973年8月、X-24Bが飛行に成功したことにより、大気圏に再突入した宇宙船が水平に着陸するのが可能であることが証明された。 スペースシャトルは、再使用することを目的に設計された宇宙船としては初めてのものである。シャトルは様々な搭載物を低軌道に運び、ISS(国際宇宙ステーション)の人員を交代させることができ、軌道船は地球を周回する人工衛星その他の物体を回収し地上に持ち帰ることもできるように設計された。各軌道船は「100回の飛行もしくは10年間の使用に耐えられるように」との考えで設計されたが、後にその期間は延長された。STS(宇宙輸送システム)の設計責任者は、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画などでも宇宙船の設計を担当したマキシム・ファゲット(英語版)である。軌道船の大きさや形状を決定する際の最も重要な要素となったのは、当時計画されていた商業衛星や秘密衛星の最大のサイズのものを搭載できるようにすることと、極軌道から一周回で離脱するという空軍の秘密計画に対応できるような飛行範囲を持っていることである。衛星を宇宙空間に配置するための高い搭載能力が欲しいという国防総省の要求、および再使用できる機器を持つ宇宙船を開発することによって宇宙開発予算を削減したいというニクソン政権の要求の双方に応えるため、固体燃料補助ロケットと使い捨て型の燃料タンクの併用という方式が選択された。 シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からオービタを守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発である。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ているが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまい、大気圏再突入時に発生する1600度以上の熱に耐える事は出来ない。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発された。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができる。だが、まだ問題があった。機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しない為、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまう。試行錯誤が繰り返された結果、機体と耐熱タイルの間にフェルトをはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が浮上した。これは特殊なフェルトではなく、カウボーイハットなどに用いられるごく普通のフェルトである。機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられた。耐熱タイルは2万5千枚製造され、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けられた。 素材選択や接着方法の開発が難航した耐熱タイルは、やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行で何度も脱落を経験している。安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回タイルひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならず、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになった。 飛行可能な機体は6機製造された。1号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用された。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機である。当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが、構造試験のために製造されたSTA-099をチャレンジャー (OV-099) に改造したほうが安上がりだと判断された。チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われたため、機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。コロンビアは2003年に空中分解事故を起こして消滅した。 スペースシャトル計画の始まりの段階で、NASAの関係者には「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」などと主張する者もいて、そうした甘い見込みのもとに計画は進んでしまった。 シャトルを繰り返し安全に飛ばすため、再使用する機体の部品は飛行のたびに徹底的な検査が行われたが、シャトルを構成する膨大な数の部品の検査にかかる費用は巨額のものとなった。 エンデバーの製作にかかった費用は約17-18億ドルで、シャトルの一回の飛行にかかる費用は2002年の時点では約4億5,000万ドルだった。だが、コロンビアの事故以降は安全対策のコストが上昇し、2007年には1回の飛行につき約10億ドルを要するようになった。 スペースシャトルには技術的な困難だけでなく、官僚主義に侵されたNASAという巨大組織の抱える問題も影響した。チャレンジャー号の事故は予測・回避できた可能性が高かったにもかかわらず、NASAの幹部は「事故は起きないだろう」と充分な対策を行わず、米国が行った宇宙飛行中の事故では初の死者を出している。コロンビア号の事故においても、発射時の映像を確認した職員によって上昇中に剥離した断熱材がオービタに衝突した可能性が指摘されたものの、NASA幹部は提供された情報を軽視したという経緯がある。 政治学者のロジャー・A・ピールケ・Jr. (Roger A. Pielke, Jr.) は、2008年度初頭までにシャトル計画にかかった費用は総額で1,700億ドル(2008年度換算)ほどと算定した。これによれば打ち上げ一回あたりのコストは15億ドルということになる。 最終的には、スペースシャトルの計135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかっていた。 軌道船は多くの航空機と似たような形状をしており、主翼は内側が81°、外側が45°の後退角を持った二重デルタ翼で、垂直尾翼の後退角は50°である。主翼の後端には4枚の動翼が取りつけられている。垂直尾翼後端には空力ブレーキも兼ねた方向舵が設置されていて、降下と着陸の際に高揚力装置(フラップ)とともに作動して機体を制御する。 胴体部分のほとんどは直径4.6m、長さ18mの貨物搭載室が占めていて、観音開きの保護ドアによって覆われている。搭載物は通常は機体が水平の状態にあるときに格納され、その後機体とともに発射台上に垂直に設置される。無重力の宇宙空間では、搭載物は飛行士が操縦するロボットアームや船外活動によって放出される。搭載物自体が持っているロケットによって、さらに高い軌道へと投入されることもある。 機体の後端には、メイン・エンジンが三角状に配置されている。エンジンのノズルは上下方向に10.5°、左右方向に8.5°傾けることが可能で、上昇中に推力の向きを変えて機体の進行方向を制御する。軌道船の機体構造は主にアルミニウム合金によって作られているが、エンジン部分の支持構造にはチタニウム合金が使用されている。 軌道船は飛行目的に応じて、軌道実験室(スペースラブ、スペースハブ)、搭載物をより高い軌道に投入するためのロケット(慣性上段ロケット (IUS)、ペイロード・アシスト・モジュール (PAM))、軌道滞在期間延長機器(EDO (Extended Duration Orbiter) キット)、カナダ・アームなど様々な追加機器を搭載することができる。 製造された機体の中で実際に宇宙に行くことができたのは、OV-099チャレンジャー号、OV-102コロンビア号、OV-103ディスカバリー号、OV-104アトランティス号、OV-105エンデバー号の5機である。 オービタに加えられた主な機器の画像 外部燃料タンク (ET) の主な機能は、軌道船のメイン・エンジンに燃料の液体水素と酸化剤の液体酸素を供給すると同時に、2本のSRBと軌道船を接続し、全体を支える骨組みとなることである。ETはシャトルの中では唯一再使用されない部分で、飛行のたびに投棄されているが、軌道に投入して(宇宙ステーションに接続するなどして)利用することは構想としては検討されていた。 固体燃料補助ロケット (SRB) は2基合計で発射時に必要とされる推力の83%、約1,250万ニュートン(1,276.8トン)を発生し、打上げから2分後、高度約15万フィート(46km)に達したところで切り離され、パラシュートで海に着水して回収される。外殻は厚さ13mmの鋼鉄でできている。SRBは何度も再使用されるもので、一例を挙げれば2009年に試験発射されたアレスI-Xロケットは、過去48回のシャトルの飛行で使用されたSRBの部品を寄せ集めて作られたものであり、その中には1981年の初飛行 (STS-1) で使われたものも含まれていた。 シャトルはコンピュータ制御されたフライ・バイ・ワイヤ方式のデジタル飛行制御システムを採用した、初期のころの機種の一つである。これは飛行士が操作する操縦桿やペダルと、機体の操縦翼面や姿勢制御システムの間に機械的なリンクや油圧系統などが一切存在しないということを意味する。飛行士が入力した操作は電気信号に変換され、電線(ワイヤ)を介して操縦装置に伝えられる。 フライ・バイ・ワイヤ方式の最大の懸念は信頼性の問題であり、シャトルのコンピューターシステムについては多くの研究開発が行われた。シャトルは IBM製の5台のAP-101と呼ばれる、それぞれ独立して冗長性を持ち、組み込みシステムを構成する32ビット汎用コンピューターを使用している。このうち4台は主飛行電子ソフトウェアシステム (Primary Avionics Software System, PASS) という特製のソフトウェアで稼働し、残りの1台はこれとは別の、バックアップ飛行システム (Backup Flight System, BFS) というソフトを使用している。これらを総称して「データ処理システム (Data Processing System, DPS)」と呼ぶ。 シャトル用DPS設計の到達目標は、フェイルセーフを達成して信頼性を向上させることだった。DPSは、もし5台のコンピューターのうち1台が故障してもミッションを継続することができ、2台が故障しても安全に着陸できるように設計されている。 4台の汎用コンピューターは、相互に監視し合いながら稼働している。もし1台が他と違う指令を出した場合は、3台が「投票」を行い、違う指令を出している1台を機体の制御から除外する。残りの3台のうち1台がまたもや違う指令を出した場合は、残った2台が投票をしてその1台を除外する。極めて稀な場合だが、もし4台の「主張」が2対2に別れた場合は、どちらか一方のグループが無作為に選ばれる。 BFS(バックアップ飛行システム)は5台のコンピューターの中で独立して開発されたソフトで、4台のメインシステムが故障した時にのみ稼働する。BFSが開発されたのは、メインシステムはハードウェア的には冗長性を持たせているものの全く同じソフトで稼働しているため、もし何らかのエラーが発生した時には4台すべてが故障してしまう可能性があるからである。埋め込み式アビオニクスソフトは、一般の商用ソフトとは全く違う環境のもとで開発されている。コードラインの数は商用ソフトに比べればごく限られたもので、変更がなされることは滅多になく、広範な試験が行われ、ほんのわずかなコンピューターコードのために開発要員や試験要員も含めて多くの人員が関わっている。しかし、どんなに万全を尽くしても故障というのは常に起こりうるものであり、そのような不測の事態に備えてBFSは用意された。シャトルが退役するまでの間、実際にBFSが操縦を引き継ぐような事態が発生することは一度もなかった。 シャトルのコンピューターのソフトウェアは、PL/Iに似たHAL/Sと呼ばれる高級プログラミング言語で書かれている。これはリアルタイム組み込みシステム環境のために、特別に設計されたものである。 IBM製AP-101コンピューターは、もともと1台あたり約424KBの磁気コアメモリを持ち、CPUは毎秒40万回の計算を行うことができた。ハードディスクはなく、ソフトは磁気テープカートリッジからロードした。 1990年、AP-101はAP-101Sという上位機種に置きかえられた。記憶容量はこれまでの2.5倍の約1MBに、演算速度は3倍の毎秒120万回に向上し、さらに記憶装置は磁気コアメモリからバックアップ電池つきの半導体メモリに改良された。 1983年11月から、シャトルにはグリッド・コンパス (GRiD Compass) と呼ばれる、世界で最も初期の頃に作られたラップトップ型コンピュータを使用していた。コンパスはせいぜい8,000ドル程度で売られていた安価なものだが、その重量や大きさに比して不釣り合いなほどの性能を当時発揮し、NASAはその重要な顧客の一つだった。なお、グリッド・コンパスは飛行制御系統には関係せず、シャトルの飛行軌跡を2周回分表示させるのに使用された。 操縦室の窓と貨物搭載室ドアの間の機体側面には、軌道船の名称が書かれている。搭載室ドア後部の下側には、NASAの標章と「United States」の文字および星条旗が描かれている。国旗は右側主翼にももう一つある。文字に使用されている書体はHelveticaである。 シャトルは1970年代に開発された宇宙船であるため、その当時から安全面における性能や信頼性を向上させるべく多くの改良や改造が施されてきた。 内部構造のほとんどは初期に設計されたものとそれほど変わってはいないが、アビオニクス(飛行用電子機器)は大きく変貌した。たとえばコンピューターのアップグレード(性能向上)に関して言えば、初期の頃のアナログ式のメーター類は廃止され、最新型のエアバスA380やボーイング777に使われているような、グラスコックピットと呼ばれるフルカラーの液晶表示板に改められた。HP-41Cのようなプログラム入力可能な電卓も、依然として使われている。ISS(国際宇宙ステーション)の登場により、ISSに補給物資を届ける飛行でより多くの貨物をミッドデッキに搭載できるよう、内部エアロックは外部エアロックに置き換えられた。外部エアロックの上部には、ISSとのドッキングに使うロシアのアンドロジナスドッキング機構が使われた。 SSME(メイン・エンジン)もまた、信頼性と出力を向上させるべく何度も改良を施されてきた。発射時に「エンジンの出力を104%に上げる」という言い回しが存在することはその名残である。これは安全上の限界を超えてエンジンを噴射するという意味ではなく、初期のエンジン出力と比較しての値を指す。長い開発期間のうちに製造元のロケットダイン社は、安全出力を当初の設計値の104%にまで向上させることができたのだが、これまでに作成した膨大な量の文書やソフトを書き直す必要を避けるため104%という言い回しが残ることとなった。SSMEの進歩の歴史は、フェーズII、ブロックI、ブロックIA、ブロックIIA、ブロックII のような「ブロック番号」となって残されている。これらの改良によってエンジンの信頼性・メンテナンス性・性能は大きく向上し、2001年にはブロックIIエンジンを109%の推力にまで到達させることができた。ただし通常使用される最大推力は104%までで、106%または109%が実現されるのは緊急事態が発生して飛行が中止される時だけである。 最初の二回の飛行STS-1とSTS-2では、外部燃料タンクが太陽光を吸収して内部の温度が上昇するのを防ぐため全体が白色に塗られた。しかし地上での試験で必要ないことが分かったので次回からは廃止され、その塗料の分だけ軌道に投入できる搭載量が増えることとなった。他のところでは、液体水素タンク内部の桁のいくつかも不要なことが判明したため、軽量化のために取り除かれた。改良を施された軽量タンクはほとんどの飛行で使用されてきたが、STS-91からは超軽量タンク(SLWT)に置きかえられた。改良型の超軽量タンクにはアルミニウム/リチウム合金2195が使用されていて、最終型の軽量タンクに比べ3.4トンの減量に成功した。シャトルは無人では飛行できない設計になっているため、これらは実際の飛行で試してみる以外に手段がなかった。 SRB(固体燃料補助ロケット)もまた、何度も改良されてきた。代表的なところではチャレンジャー号爆発事故の後、本体接合部分の密閉性を確保するOリングが三重に強化された。 SRBには他にも性能や安全性を高めるためのいくつかの改良が試みられたが、実現されることはなかった。その中の一つに、より簡略かつ低コストで、安全面や性能にも格段の向上を果たしたと考えられる発展型SRB(Advanced Solid Rocket Booster, ASRB)があった。ASRBは1990年代半ばに宇宙ステーション計画支援のため製造が開始されたが、開発費が22億ドルにまではね上がったため中止が決定された。この代替案として、搭載能力を向上させるために超軽量タンクが開発されたが、安全性は向上しなかった。空軍は独自に、分割式ではない一体成形型の軽量SRBを開発していたが、こちらもまたキャンセルされた。 1995年、発射台上で準備作業をしていたディスカバリー号のETの発泡断熱材にキツツキが穴を空けたため、発射が遅れるという事態が発生した。この時以来、NASAは発射台周辺に市販の鳥よけのためのフクロウの模型や風船を配置するようになった。これらは打ち上げの直前にすべて取り除かれる。ET断熱材は発泡スチロールのようにもろい物質であるため、発射の際の衝撃や空気抵抗ではがれ落ち、軌道船を大気圏再突入の熱から保護する耐熱タイルを傷つける事故がこれまでにもたびたび発生してきた。断熱材の剥落は2003年2月1日に発生したコロンビア号空中分解事故の原因になり、その後も何度も打上げスケジュールの延期の原因になった。 人間が搭乗せず、搭載物だけを宇宙に送る無人の発射計画も1980年代以来何度も提案されてきたが、そのたびに却下された。「シャトルC(英語版)」と呼ばれるこれらの計画は、シャトルで蓄積されてきた技術を応用し、再使用という特性を放棄することとひきかえに、大幅なコストの削減が期待できるはずだった。 最初の4回の飛行では、飛行士は離陸時と帰還時には完全密閉型のヘルメットを着用し、空軍の高々度用与圧服を改良した宇宙服を着た。5回目の飛行からはこの与圧服は廃止され、青いワンピースのフライトスーツと部分与圧ヘルメットを着用するようになったが、チャレンジャー号事故による2年間の中断の後に再開された1988年の飛行からは、打上げ/帰還時にはあまりかさばらないように改良されたヘルメットつきのオレンジ色の部分与圧服(Launch-Entry Suit: LES)を着用するようになった。1995年からは、完全与圧式の改良型与圧服 (Advanced Crew Escape Suit: ACES) に置き換えられた。 軌道船がISSとドッキングして宇宙に滞在できる期間を延長するために、ステーション・シャトル電力供給システム (Station-to-Shuttle Power Transfer System, SSPTS) が導入された。SSPTSはISSが発生した電力を使用して軌道船の消耗品の消費を抑えるもので、STS-118から実用化された。 軌道船諸元(OV-105エンデバー号) 外部燃料タンク諸元(超軽量タンク) 固体燃料補助ロケット諸元 完成型詳細 シャトルの発射は、すべてケネディ宇宙センターで行われる。発射時に適用される天候基準は以下のとおりである。ただし、これだけに限定されるものではない。 特に落雷が起きる可能性がある場合には、シャトルは絶対に発射されない。航空機はしばしば雷の直撃を受けることがあるが、構造が伝導体であることや、電気的に接地されていないために電流が空気中に放電されることなどにより、機体が悪影響を受けることはない。これに対してシャトルは、機体構造は通常のジェット旅客機と同じように伝導性のアルミニウムで作られているので内部機器が電流の影響を受けることはないが、発射時に噴射される噴煙が機体と地面をつなぐ電線の役目を果たしてしまう。このためNASAの基準では、周辺10海里以内に積乱雲が発生している場合には発射を行ってはならないことになっている。当日は気象担当官が発射台周辺のみならず、大西洋を越えた緊急着陸地点やSRB(固体燃料補助ロケット)の回収点の天候なども監視し、最終的に発射を行うかどうかを判断する。シャトルは雷に対してはまず安全だとは思われるが、アポロ12号が発射された時には実際に落雷で船内が一時停電する事故が発生したため、NASAはこの件については特に慎重になっている。 長い間、シャトルは12月31日と1月1日をまたがっては飛行できなかった。1970年代に開発されたシャトル用のソフトウェアは年越しができるようには設計されておらず、もし飛行中にそれを強行するとコンピューターをリセットしなければならなくなり、予測できないようなエラーが発生する可能性が生じるからである。NASAの技術者がこの問題を解決したのは2007年のことで、これによってようやくシャトルは年を越えて飛行できるようになった。 発射当日はTマイナス9分前の最後のホールド(待機)が解除された後、いよいよ最終的な準備段階に入り、管制センターに設置された地上の打上げ管制装置 (Ground Launch Sequencer, GLS) が秒読み作業を引き継ぐが、もしシャトルに搭載された機器に重大な問題が発生した場合には秒読みは自動的に停止される。発射31秒前には、「オート・シークエンス・スタート (Auto Sequence Start)」と呼ばれる作業工程によって秒読み作業がGLSからシャトルのメイン・コンピューターに引き継がれる。 発射16秒前(Tマイナス16)、騒音抑制装置が作動し、猛烈な音響で機体が損傷を負わないようにするために移動式発射台やSRBの火炎偏向板(フレームトレンチ)に1,100m3の水が放出されはじめる。 発射10秒前(Tマイナス10)、SSME(メイン・エンジン)のノズル内に停滞している水素ガスを燃焼させて除去するために、ノズルの下で電気火花が飛ばされはじめる。エンジン周辺にこれらのガスが残っていると、点火する過程で搭載した検知機が異常を感知して、異常な加圧を招いたり爆発したりする可能性がある。この時、SSMEのターボ・ポンプが作動して燃焼室内に液体酸素や液体水素を供給しはじめる。この間、軌道船の4台のコンピューターは相互に指令を交わし、点火に必要なすべての動作を制御する。 発射6.6秒前(Tマイナス6.6)、SSMEの点火が始まる。点火指令は軌道船のGPC(汎用コンピューター)を経由して、3番エンジン(右側)、2番エンジン(左側)、1番エンジン(中央)の順に120ミリ秒の間隔を置いて送られる。GPCはSSMEの推力を90%にまで到達させると同時に、ノズルの向きを所定の位置に固定する。エンジンに点火されると、騒音抑制装置の水が蒸発して大量の水蒸気となり、南側に向かって噴出される。3基のSSMEの推力はそれから3秒以内に100%に達しなければならず、もしそれが実現しなかった場合はGPCがエンジンを緊急停止させる。逆に正常に推力が発生されていることが確認されれば、SRBを発射台に固定している8本の爆発ボルトが吹き飛ばされ、SRBに点火される。この時間こそが「Tマイナス0」と規定されている発射の瞬間であり、この直後に機体は上昇を開始する。そしてSRBは、いったん点火されたら燃料をすべて消費するまで燃焼を停止することはできない。SRBの排気ガスは北側に向かって掘られた火炎坑に沿って音速に近い速度で噴出され、しばしば衝撃波を発生させる原因となる。GPCは、4台の汎用コンピューターに設定された「発射手順制御装置(Master Events Controller)」と呼ばれるプログラムを介して点火の手順を実行する。上昇中に様々な異常事態が発生したときの緊急対応手順(中止方法)は、広範囲なものが用意されている。その大部分を占めるのは最も複雑で大きな負荷がかかるSSMEに関するもので、SRBが原因でチャレンジャー号爆発事故が発生した後には、緊急対応手順はより拡充されたものになった。 SSMEに点火されSRBが発射台から解放されるまでの間、機体はエンジンの推力によって機首下げの方向にわずかに(操縦席付近で約2m)傾く。この運動は、NASAの隠語で「うなずき (nod)」あるいは「はじき (twang)」などと呼ばれている。その後機体は約6秒かけてまた元の位置に揺れ戻ってきて、完全に垂直になった瞬間にSRBに点火されて上昇を開始する。 発射整備塔を離れた直後、シャトルは予定軌道に対応するためロール運動とピッチ運動を開始し、ETとSRBが上になった裏返しの姿勢になる。機体はゆるやかな弧を描きながら上昇し、燃料はどんどん消費されて重量が軽くなっていくため、加速度は徐々に増加していく。発射直後の加速度は1.2Gで、SRBが切り離される直前は2.5Gに増大し、SRB切り離し直後はいったん0.9Gに落ち、その後SSMEが燃焼を停止する直前には3Gにまで達する。地球周回軌道に乗るためには垂直方向よりもむしろ水平方向への加速がより多く必要とされるが、機体が視界から消える前はほぼ垂直に上昇していくため、水平方向への運動はほとんど確認することはできない。ISSが周回している高度380km付近での周回速度は秒速7.68km、時速27,650kmで、地表付近ではマッハ23に相当する。ISSは赤道に対して51.6°の傾斜角をもって地球を周回しているので、シャトルがランデブーをするためにはその角度に合わせる必要がある。 マックスQ付近では、機体の、特に主翼などの弱い部分にかかる空気力学的圧力を抑えるため一時的にSSMEの推力が65%にまで絞られる。その前後では、空気の急激な圧縮と断熱膨張によりベイパーコーン (vapor cone) やプラントル・グロワートの特異点が起こる。 発射126秒後、SRBをETにつなぎとめていたボルトが爆薬で切断される。SRBはブースター分離モーターを噴射して機体の後方へと押しのけられ、残った推力を偏向し180度のターンを行い燃焼を完全に終了し、真下を向いて落下する。SRBはパラシュートで海に着水して再使用のため回収されるが、シャトルはSSMEの推力でなおも上昇を続ける。この時点では、機体はSRBがなくなったことで推力と重量の比は1を下回っているため、SSMEの力だけでは地球の重力を振り切ることはできなくなる。しかし燃焼を続けるうちに燃料が消費されて徐々に機体が軽くなり、やがて推力:重量比は再び1を超え、最終的に軌道に到達するまで二度と1を下回ることなく加速を続ける。 機体はその後も機首をやや上に向けた姿勢で徐々に軌道を水平に近づけ、SSMEの力で加速する。発射から約5分45秒後、地上との直接通信が終了し、背面が宇宙空間に向いた姿勢になるよう機体を反転させる。地上との交信は、その後は追跡およびデータ中継衛星 (Tracking and Data Relay Satellite, TDRS) を介して行われる。 最後の10秒間には機体は相当に軽くなっているため、飛行士に負担をかけないよう加速度が3G以下になるように推力が絞られる。 メイン・エンジンは空転すると機器を傷める可能性があるので、燃料が完全に空になる前に停止される。液体酸素は液体水素よりも前に供給が停止される。液体酸素はより過激に反応する傾向があり、停止直後の加熱した金属部分に触れると爆発するかもしれないからである。ETはエンジン停止後に爆発ボルトで切り離され、大部分は大気圏内で消滅してわずかな部品がインド洋または太平洋に落下するが、どこに落ちるかは打上げプロファイルによって変わる。タンク内の配管はすべて密閉されており、圧力を解放するような装置は設けられていないため、ETは大気圏下層部で内圧によって破裂する。大気圏再突入時に表面の断熱材が焼失すると、内部に残っていた液体酸素や液体水素を熱から保護する手段がなくなるため、急膨張して爆発の大きな要因になる。このような手段によって、地上に大きな破片が落下するのを防いでいる。 ET分離直後は、軌道の近地点はまだ大気圏を離れてはいないので、そのままでは大気圏に再突入することになる。そのため軌道船は軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射し、近地点をより高い高度に設定してETと衝突するのを防止する。一部の飛行(すなわちISSミッションなど)では、打上げ能力を確保するためにOMSが、メイン・エンジンの燃焼後期に並行して使用された。投入時の軌道をこのように設定しているのは、ETを宇宙空間に放出せず大気圏内で廃棄するためと、もしOMSが点火しなかったり、何らかの理由で搭載室のドアが開かなくなるような事態が発生しても、このような軌道にしておけば自動的に地球に帰還できるから、という安全上の理由もある。 軌道に乗ると、シャトルは様々な、しばしば相互に関連した任務をこなす。1980年代から90年代にかけては、NASAとヨーロッパ宇宙機関が共同開発した宇宙実験室 (Spacelab) などを含む宇宙科学計画や多種多様な衛星や科学探査機の軌道投入に使用されてきた。90年代から2000年代にかけては衛星打上げの任務は減少し、計画の焦点はもっぱら宇宙ステーションの建設に移った。ほとんどの飛行は数日から2週間程度で終了するが、軌道滞在期間延長機器 (Extended Duration Orbiter) を搭載したり国際宇宙ステーションにドッキングすれば、滞在期間をさらに延長することもできる。 シャトルの大気圏再突入の過程では、降着装置をおろすのと、対気速度計に使うピトー管 (air data probe) を展開する作業以外はすべてコンピューターが自動で行うが、もし何か緊急事態が発生した場合は手動で再突入することも可能である。滑走路への進入と着陸も自動操縦装置に任せることはできるが、通常は手動で行われる。 再突入の作業は、まず軌道船の飛行方向を反転させ、機体後部を進行方向に向けることから始まる。その姿勢でOMSロケットを進行方向に約3分間噴射し(逆噴射)、軌道周回速度を322km/hほど減速する。これにより、軌道の近地点を下げて大気圏上層部に入るようにする。逆噴射の間にかかる加速度は約0.1Gである。その後軌道船は反転して機首を下げ(地球から見ればひっくり返した姿勢になっていたので機首を上げる方向(ピッチ軸を時計回り)に180度回転)、機首を進行方向に向ける。逆噴射は、着陸地点のケネディ宇宙センターから見てほぼ地球の裏側の、インド洋上空の赤道付近で行われる。 高度約120kmの熱圏下層部にさしかかる頃、機体にかかる空気抵抗が顕著になりはじめる。この時の速度はマッハ25(時速30,000km、秒速8.3km)ほどである。シャトルは40°ほどの迎角をとりつつ姿勢制御システムと動翼を併用して機体を制御し、長い航跡を引いて速度だけでなく熱も減少させながら次第に降下していく。空気抵抗が増加するにつれ、シャトルは宇宙船から次第に航空機としての性格を現すようになる。直進している間は、機体には機首を下げるかもしくは40°よりも高い迎角をとらせようとする力が働く。軌道船は途中で4回、70°以上の深いバンク角をとったS字飛行をする。この間迎角は40°を保ったままで、各Sターンは数分間行われる。この操作を行うことで、機体の運動エネルギーを上下方向ではなく左右方向に分散して減速する。このS字飛行が始まるのは熱負荷が最も強烈になる時間帯で、この間熱保護シールドは灼熱化し、加速度は最大となる。最後のターンが終わる頃には軌道船は完全に航空機(グライダー)となっており、機首を下げて機体を水平にし、着陸施設への進入作業が開始される。 軌道船の最大滑空比/揚抗比は速度によって相当に変化し、極超音速域では1:1、超音速域では2:1で、滑走路への進入と着陸を行う亜音速域では4.5:1にまで低下する。 大気圏下層部では、軌道船は毎秒50m(時速180km)という高い降下率を除けば通常のグライダーのように飛行する。この高い高い降下率は、しばしば「空飛ぶレンガ」「翼の生えたレンガ」と揶揄される。速度がマッハ3程度にまで低下したところで、機体の対気速度を検出するため、胴体前方下部の左右両側に設置された対気速度測定用のピトー管が展開される。 高度3,000m、滑走路端まで12kmに達したところで、進入および着陸操作が開始される。飛行士は空力ブレーキを作動させ、機体の速度を682km/hから着陸速度の346km/hにまで減速させる(一般的なジェット旅客機の着陸速度は260km/h程度である)。機体のノーズは滑走路手前ギリギリまでノーズダウンの状態であるが、着陸寸前でノーズアップの状態とされ機体下面の空気抵抗を利用してさらに減速が行われる。430km/hで降着装置がおろされ、343km/hあたりでタイヤが接地し着陸する。シャトルは通常航空機に対して重く、着陸時のタイヤへの加重は過酷で、ボーイング747の2-3倍の63.6トンにもなる。タイヤは16層構造で1本4000ドルで6回まで再使用できるが、実際は使い捨てである。空力ブレーキの作動を補助するために、後輪または前輪が接地したところで直径12mのドラグシュートが展開されるが、どちらの段階で開くかはシュートの展開モードの選定によって変わる。ドラグシュートは機体が110km/h以下になった段階で投棄される。 着陸後は、機体の表面温度が下がるまで数分間待ち、有毒な水素やヒドラジン、四酸化二窒素(姿勢制御システムや3台ある補助動力装置の燃料として使用される)、アンモニアが機体周囲から検出されないかを確認し終えるまで、軌道船は滑走路上で停止したままにされる。支援車両によってパージとベント用の配管が軌道船の燃料配管と貨物室への配管に取り付けられ、着陸後約45-60分かけて有害なガスが除去される。 以上の着陸行程は、基本的にグライダーとして動作するために、やり直しが行えない。そのため着陸地点の天候は厳重にチェックされ、気象予報によっては他の着陸ポイントに変更される。機体は航空機としては非常に重量があるため、通常の飛行場の滑走路では耐えられず、特別に強化された路面をもつ飛行場が選ばれた。通常はNASAシャトル着陸施設の長さ5.2kmの滑走路が主に使用されるが、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地も使用された。この他世界各地に予備の着陸地点が指定され、日本では嘉手納飛行場がその一つであった。 上記のような操縦特性とアプローチに習熟するため、NASAではガルフストリーム IIを改造したシャトル訓練機での訓練を行っていた。 シャトルの着陸は、初期はカリフォルニア州エドワーズ空軍基地に、ケネディ宇宙センターの滑走路が整備された後は基本的にはケネディ宇宙センターで行われることが多かった。ケネディ宇宙センターの天候が不順な場合は回復するまで宇宙で待機したり、あるいはエドワーズ空軍基地やその他世界中に配置された代替基地に着陸することもできた。ただしケネディ以外の施設に着陸するということは、その後にシャトル輸送機でケープ・カナベラルまで運ばれて来なければならないことを意味した。代替着陸基地の一つのホワイト・サンズ空軍基地の滑走路はシャトルが着陸するには整備が不十分という問題もあった。STS-3ではコロンビア号がニューメキシコ州のホワイト・サンズ空軍基地に着陸したが、この滑走路は当時はまだ整備が行き届いておらず、細かい砂が機体に入り込んでその後の整備が大変だった。シャトルを空輸するためのクレーン設備も準備する必要があるなど問題があった。結局、同基地に着陸したのはこの1回だけである。 代替着陸施設は多数あるが、エドワーズ空軍基地とホワイト・サンズ空軍基地以外は使用されることはなかった。エドワーズ空軍基地についても、シャトルの大陸横断に掛かる多額のコストのため近年はできるだけ利用しない方針が採られており、日本人最後の乗務となったSTS-131の着陸時にも一時は使用が決定していたが、最終的にはケネディ宇宙センターへの着陸となった。 主なシャトルの飛行記録は以下のとおりである。 出典:NASA打上げマニフェスト、NASAスペースシャトル公文書記録 1986年1月28日、スペースシャトルチャレンジャー号が発射から73秒後に右側のSRBのOリングの故障が原因で空中分解し、搭乗していた7名の飛行士全員が犠牲になった。機体の最重要機器の一つであるOリングが、異常寒波が原因の低温により損傷した。現場の技術者は再三にわたり12°C以下の気温でのOリングの安全性は保証できないと警告したが、NASAの幹部はこれを無視した。 2003年2月1日、スペースシャトルコロンビア号が発射の際に主翼前縁の強化カーボン・カーボン断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解した。地上管制室の技術者たちは損傷の広がりをより明確に把握できるよう、国防総省に対して三回にわたって高解像度の写真を撮影するよう要求し、NASAの熱保護システムの技術主任はコロンビアに搭乗している飛行士たちに耐熱タイルのダメージを調査させるべく船外活動の許可を求めた。NASAの幹部は国防総省の支援の動きに介入してこれを停止させ、船外活動の要求も拒否した。その結果、飛行士が自ら修理に赴くことや、発射準備作業中だったアトランティスで救援に向かうことの実現性は、ついにNASA幹部によって考慮されることはなかった。 2011年7月8日(日本時間9日未明)に打ち上げられたアトランティスのSTS-135をもって、30年あまりに及んだスペースシャトル計画を終了した。当初の予定では2011年2月26日の打ち上げが最後になる予定だったが、後に追加予算が認められて、非常時の救援ミッションのために待機していたアトランティスをISSの補給ミッションに転用する形で同年7月の打ち上げが認められた。 シャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて月や火星まで到達できるような宇宙船が現在開発中である。当初「有人開発船(Crew Exploration Vehicle)」と呼ばれていた計画概念は、その後オリオン宇宙船やコンステレーション計画へと発展した。しかし2010年にオバマ政権はコンステレーション計画の予算を打ち切り、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案した。次世代の宇宙船が登場するまでは、飛行士がISSに到達しまた帰還するためにはロシア連邦のソユーズ宇宙船か、または開発中のアメリカの民間商用宇宙船に頼る以外に手段がなくなる。オバマ大統領の提案はアメリカ合衆国議会によって承認されたが、次の宇宙船が開発されるまでの5年間にシャトルを延長して使用する可能性を含む対抗案も2010年に議会で検討された。しかし結局、シャトルの退役計画は覆されなかった。 退役後は、ディスカバリーはスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示される。国立航空宇宙博物館別館に展示中のエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることに伴い、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されることになっている。2010年4月、タイム紙は「2010年に最も影響を与えなかった人々」のリストの中にスペースシャトルを挙げ、その理由を「シャトルは従来のロケットのように格好良くないから」とした。 2008年12月23日、NASAはISSへの物資補給を民間に委ねる商業軌道輸送サービス (COTS) に関する契約を、スペースX社およびオービタル・サイエンシズ社と取り交わしたことを発表した。スペースXは2012年にファルコン9ロケットでドラゴン宇宙船を、オービタル・サイエンシズは2013年にアンタレスロケットでシグナス宇宙船を打ち上げ、スペースシャトルに代わってISSへの無人補給ミッションを果たした。 NASAは次いでISSへの有人飛行も民間に委ねるべく商業乗員輸送開発 (CCDev) 計画を開始し、2014年にスペースXのドラゴン2宇宙船とボーイングのCST-100宇宙船を選定した。しかし、有人宇宙船の開発はたびたび遅延を繰り返し、民間によるISSへの有人飛行が実現したのは、スペースシャトル退役から9年後の2020年5月の事であった。 シャトル訓練機 (STA) はシャトルの着陸訓練に使用されたアメリカ航空宇宙局の練習機である。グラマン ガルフストリーム IIをベースに4機が改造された。操縦特性が着陸進入時のオービタの挙動と合致するようになっており模擬的に着陸訓練を行うことが出来た。 外観は飛行訓練中の高い空気力学的荷重に耐えられるように改造されていた。操縦室の左席がオービタの制御と視界を忠実に再現していた。通常の飛行は右席のみで可能となっており、訓練空域までの移動などはこちらで操縦する。 4機のSTAが通常はテキサス州エルパソで飛行訓練を行い、ヒューストンで整備を行った。STAは同様にフロリダ州のケネディ宇宙センターでも使用された。 機体後部には数名分の座席が設置されておりT-38が使用できない・人数が多い場合(T-38は2名)に、STAはジョンソン宇宙センターとケネディ宇宙センター間の乗員輸送に使用された。 シャトル派生型打ち上げ機 (Shuttle-Derived Launch Vehicle) または単純にシャトル派生機 (Shuttle-Derived Vehicle, SDV) は、スペースシャトル計画で開発された技術を基にしたロケットで幅広い機種がこれまで提案されてきた。しかし2022年に後述のスペース・ローンチ・システムが唯一打ち上げを果たした一方、それ以外の多くの案は実用化には至っていない。1980年代末から1990年代初頭にNASAは公式に貨物専用のシャトル-Cを研究してきた。 SDVの概念はシャトル自体が飛行を開始した当時から提案された。SDVの概念には以下を含む: これらの案に共通するのは既存のスペースシャトルの構成要素を流用する事で開発費を抑え、より廉価に新型の重量物を軌道に投入する能力を持つ打ち上げシステムを開発しようという意図である。しかし、実際には個々の構成要素は新しい目的別には最適化されておらず、従来の構造体を流用する事によって補強が必要になるなど構造重量の増加の一因ともなり、最適化の障害となっている。有人飛行用としての高度な安全性を備え、再利用を前提としたシステムを使い捨てとして使用しようとした場合、過剰な安全装置等が貨物打ち上げには不要である場合も多い。その為、結局、新技術を盛り込んで最適化された構造の完全新規開発の機体と比較して無駄が多い事は否めず、生産、運用の過程で高くつく可能性が指摘されている。 シャトルCはアメリカ航空宇宙局が提案したスペースシャトルの構成要素を流用した無人貨物打ち上げロケットである。外部燃料タンク (ET) と固体燃料補助ロケット (SRB) とメイン・エンジンを備えた貨物用モジュールを組み合わせて使用される予定だった。複数のシャトルCの概念が1984年から1995年にかけて提案された。 シャトルCの概念は理論的にはシャトル計画で開発された再利用技術によって重量物打ち上げロケットの開発費を減らす事が期待された。提案は複数回行われ、いずれも既存のシャトルの構造体や使用回数限度の迫ったメイン・エンジンや航法コンピュータを流用するというものだった。中にはコロンビア号やエンタープライズ号を1回限りの貨物打ち上げ機として使用する案もあった。チャレンジャー号の事故の前にNASAは年間14回の打ち上げを期待していた。チャレンジャー号の事故の後にはこの打ち上げ頻度は複数の理由により非現実的である事が明らかになった。シャトルCは無人であるので高い打ち上げ頻度でも整備費が安く安全性に関する要求水準が低いと考えられた。 2段階の開発が計画された。第一段階として貨物輸送機の形状と大きさが検討された。NASAによる研究は小型だが最も打ち上げ効率の良い機能的な輸送機を示した。 1990年代初頭、NASAの技術者は火星探査用の宇宙船を組み立てる為に地球周回軌道へ80トンの使い捨ての6機のセグメントを打ち上げる為にシャトルCの設計を含む有人火星飛行計画を立案した。代替案は4機のサターンVを使用する案だった。ブッシュ大統領が2010年にスペースシャトルの運用を終了すると発表した後、これらの提案された仕様は検討対象から外された。 DIRECTはNASAのビジョン・フォー・スペース・エクスプロレーションで提案されたアレスIとアレスVの代替案として提案された。元のシャトル派生打ち上げ機では"ジュピター"と称され、より野心的な"プロジェクト2"で重量物打ち上げロケットのレビタリアン、軌道周回支援ステーションオリンピア、ガロン重量貨物宇宙船、宇宙ステーションアルゴとヘリオスと乗員貨物船アルテミスから構成され2011年に打ち上げる計画だった。 2008年9月, DIRECTチームは69人のメンバーで構成されるとされ、 NASAの技術者、コンステレーション計画でNASAと契約した技術者とマネージャー62人から構成され、グループの刊行物によると少数のNASAには属さないメンバーもいる。 計画の名称である"DIRECT"はスペースシャトル計画のハードウェアと施設を"直接"移行する事によって最大限流用する哲学に由来する。 DIRECTには三つの派生機種があり2009年5月に最新の3.0版が発表された。2009年6月17日にワシントンDCで開催された有人宇宙飛行計画委員会の公聴会で明らかになった。 10月11日に2010年のNASAの権限法 (S. 3729) へのオバマ大統領による調印によってスペース・ローンチ・システムが義務化され、DIRECTチームは彼らの努力の成功を宣言した。彼らは新しい宇宙技術企業である: C-Star エアロスペース, LLC.へ組織変更した。 スペース・ローンチ・システムまたはSLSはNASAがコンステレーション計画の中止に伴いスペースシャトルの代替として開発するシャトル派生型打ち上げシステムの一種である。 2010年NASA権限法によってアレスIとアレスVの機体設計を乗員と貨物輸送の両方に使用できる単体のロケットに一本化する構想である。より強力な機種に更新された。当初の打ち上げ能力は上段を除いたコアのみで構成され低軌道へ70から100トンの投入能力を備える。更に地球離脱段を上段に加えることで130トン以上の打ち上げ能力を獲得する見込みである。 スペースシャトルのコンポーネントを流用することで開発期間を短縮してコストを削減する計画だったが、実際には開発は大幅に遅延しコストも増大した。2022年11月に初打ち上げに成功した。 ジュピターシリーズは2000年代後半に提案されたスペースシャトル派生ロケットの一つである。NASAがコンステレーション計画のために開発していたアレスIとアレスVの代替として企図された。出来るだけスペースシャトルの構成要素や施設を流用する事が予定されていた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "スペースシャトル(英: Space Shuttle)は、かつてアメリカ航空宇宙局 (NASA) が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "もともと「再使用」というコンセプトが強調されていたが、出来上がったシステムは、オービタ部分は繰り返し使用されたが、打ち上げられる各部分の全てが再利用できたわけではなく、外部燃料タンクなどは基本的には使い捨てである。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "初飛行は1981年、2回目の飛行は1982年で、2011年7月の135回目の飛行を最後に退役した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "スペースシャトルは宇宙輸送システム (Space Transportation System, STS) あるいはスペースシャトル計画の一環としてもちいられた。STSの開発とシャトルの飛行は、基本的にアメリカの資金によって行われた。主な使用目的は、NASAのおかれた様々な政治的状況や起こしてしまったシャトルの事故も影響して、およそ10年ごとに大きく変遷してきたが、数々の人工衛星や宇宙探査機の打ち上げ、宇宙空間における科学実験、国際宇宙ステーション (International Space Station, ISS) の建設などである。なおシャトルはNASAによってだけでなく、米国国防総省、欧州宇宙機関、ドイツ等の軌道上実験にも使用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "シャトルは再使用型宇宙往還機であり、軌道船 (Orbitor Vehicle, OV)、外部燃料タンク (External Tank, ET)、固体燃料補助ロケット (Solid Rocket Booster, SRB) の三つの部分によって構成されている。ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船 (OV) のみが地球周回軌道に到達する。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられるが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備された。SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "まずシャトルの構造および打ち上げ〜着陸の概略を説明する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "通常は5名から7名の飛行士が搭乗した。なお、最も初期の頃に行われた、STS-1からSTS-4の4回の試験飛行のように、機長と操縦士の2名だけでも飛行できた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "発射時のシャトルの構成は、おおまかに", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "の三つの部分から構成されていた。なお、上記に加えて、STSのために開発された、PAMとIUSと呼ばれる人工衛星打上げ用の2種類の固体ロケットを用いれば、搭載物をさらに高い軌道に運ぶこともできた。なお、シャトルには全体でおよそ250万個もの部品が使われており、人間がこれまでに製造した中で最も複雑な機械であると言われている。 (→#構造・メカニズム・諸元)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "シャトルは通常のロケットと同じように、発射台からは垂直に離陸する。その際の推力を生むのは2本のSRBおよび、(軌道船の後部に装着している)3基のメイン・エンジン (Space Shuttle Main Engine, SSME) であり、SSMEの推進剤(液体水素と液体酸素)は外部燃料タンクから供給される。上昇の手順はおおまかに、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "のふたつに分かれていて、打上げからおよそ2分後に第二段階に移り、SRBは切り離され落下、パラシュートで海に着水し再使用のため船で回収される。機体(軌道船およびET)はその後も上昇を続け、軌道に到達するとSSMEが燃焼を停止し、ETも役目を終えて切り離される。切り離され自由落下を始めたET(巨大なオレンジ色のタンク)は通常は大気圏に再突入して空気抵抗と熱によって消滅する。ただし、様々な用途に使用することは、構想としてはあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "軌道船はその後さらに軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射することでミッションの目標としている軌道へと向かう。軌道上での姿勢は、姿勢制御システム (Reaction Control System, RCS) を噴射することで制御する。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "シャトルが従来の宇宙船とは際だって異なった特徴の一つに、軌道船の胴体部分のほとんどを占めるほどの大きさの貨物搭載室を備えていることと、そこに大きな観音開きのドアがついていることである。これによって、飛行士や宇宙ステーションの建設資材などを、地球周回低軌道や大気圏上層部、さらには熱圏などに運ぶことができた。例えば、ハッブル宇宙望遠鏡のような大きなものを搭載し軌道に投入することや故障した衛星などがあれば、その軌道へ向かい、貨物室に回収して地球に持ち帰ったりすることもできた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "任務が終了すると、軌道船はOMSを逆噴射して速度を落とし大気圏に再突入した。降下している間、シャトルは大気の様々な層を通過し、主に空気抵抗を用いて機体の速度を極超音速状態から減速させる。大気圏下層部に到達し着陸態勢に入るとグライダーのように滑空飛行し、フライ・バイ・ワイヤ方式の操縦系統で油圧によって動翼を制御した。着陸の際には、長い滑走路が必要とされた。シャトルの形態は、帰還時に極超音速飛行および旅客機のような低速飛行の双方をしなければならない、という二律背反する要求を満たすために作られた妥協の産物であり、その結果として軌道船は着陸寸前には、普通の航空機には見られないような急激な降下(高い降下率)を経験することになる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "(→#飛行手順の詳細)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたが、実際の運用で発生した事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなっていき、結果的に使い捨てロケットよりもコストが高くなった。(→#甘すぎた予測と膨らんだ費用と危険性)", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "「スペースシャトル」という言葉は、一般には軌道船(オービタ)の単体を指していることもある。シャトル(往復を繰り返すもの)という表現に合致しているのは基本的にオービタ部分であるし、形状という点でも、「シャトル」という用語の源となっている織物のシャトルと形が類似し連想させるのはオービタ単体であるからである。ただし技術的な観点、つまり宇宙飛行システム、飛行に必要な技術的な要素、という意味では、軌道船以外にも外部燃料タンク・固体燃料補助ロケットが結合されて、はじめてシャトルは完成状態となり飛行可能となるので、NASAのエンジニアなどは三つが合体した状態を「スペースシャトル」と呼ぶ。そして、紛らわしさを避けるために「オービタ」「SRB」「ET」などの呼称を用いて呼び分けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "完成状態にする作業はスペースシャトル組立棟で行われる。なお、この建物は元々はシャトルのものではなく、アポロ計画のサターン5型ロケットを組み立てるために作られたものである。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「スペースシャトル」という用語で、スペースシャトルをコアとした計画全体(スペースシャトル計画)を指して用いられていることもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "シャトルの設計と製造は1970年代初頭に始まったが、その概念はそれより20年も前、1960年代のアポロ計画よりも早い段階に存在していた。宇宙から宇宙船を水平に着陸させるという構想は1954年に国立航空諮問委員会(NACA)が描いていたもので、それは後にX-15航空工学実験調査機として実現することになった。NACAに対してこの提案を行ったのは、ヴァルター・ドルンベルガーである。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1957年、X-15をさらに発展させたXシリーズ宇宙往還機計画が提案された。宇宙飛行士ニール・アームストロングはX-15とX-20両方のテスト・パイロットに選抜されたが、X-20は計画されただけで実機が飛行することはなかった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "X-20は実現されなかったが、同様のコンセプトを持つHL-10実験機は数年後に開発され、1966年1月にNASAの元へと届けられた。HLとは、「Horizontal Landing(水平着陸)」の意味である。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1960年代半ば、空軍は次世代宇宙輸送システムに関する一連の極秘調査計画を行い、「一部再使用型の宇宙船こそが最も安上がりな方法だ」と判断した。彼らの提案では、使い捨て型の宇宙船とロケット(クラスI)の開発に直ちに取りかかり、それに続いて一部再使用型(クラスII)の開発を続け、最終的には完全再使用型(クラスIII)に達するべきである、とされた。1967年、NASA長官ジョージ・ミューラー (George Mueller) は幹部80人を集め、将来的な選択肢に関する1日間の討論会を開催した。会議では、初期の頃の空軍のX-20計画を含む様々な提案がなされた。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1968年、NASAは地球と宇宙を往復することを目的とした「統合往還機 (Integrated Launch and Re-entry Vehicle, ILRV)」の研究を開始し、同時に複数の企業に対してメイン・エンジン (SSME) の開発を競わせた。ヒューストンとハンツビルにあるNASAの事務局は共同で、宇宙に貨物を運ぶだけでなく大気圏を滑空して地球に帰還できるような宇宙船の設計を公募した。その中の一つに、巨大なロケットと小型の軌道船によって構成されたDC-3と呼ばれた案があった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1969年、ニクソン大統領はスペースシャトル計画を進行させることを正式に決定した。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1973年8月、X-24Bが飛行に成功したことにより、大気圏に再突入した宇宙船が水平に着陸するのが可能であることが証明された。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "スペースシャトルは、再使用することを目的に設計された宇宙船としては初めてのものである。シャトルは様々な搭載物を低軌道に運び、ISS(国際宇宙ステーション)の人員を交代させることができ、軌道船は地球を周回する人工衛星その他の物体を回収し地上に持ち帰ることもできるように設計された。各軌道船は「100回の飛行もしくは10年間の使用に耐えられるように」との考えで設計されたが、後にその期間は延長された。STS(宇宙輸送システム)の設計責任者は、マーキュリー計画、ジェミニ計画、アポロ計画などでも宇宙船の設計を担当したマキシム・ファゲット(英語版)である。軌道船の大きさや形状を決定する際の最も重要な要素となったのは、当時計画されていた商業衛星や秘密衛星の最大のサイズのものを搭載できるようにすることと、極軌道から一周回で離脱するという空軍の秘密計画に対応できるような飛行範囲を持っていることである。衛星を宇宙空間に配置するための高い搭載能力が欲しいという国防総省の要求、および再使用できる機器を持つ宇宙船を開発することによって宇宙開発予算を削減したいというニクソン政権の要求の双方に応えるため、固体燃料補助ロケットと使い捨て型の燃料タンクの併用という方式が選択された。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からオービタを守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発である。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ているが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまい、大気圏再突入時に発生する1600度以上の熱に耐える事は出来ない。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発された。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができる。だが、まだ問題があった。機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しない為、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまう。試行錯誤が繰り返された結果、機体と耐熱タイルの間にフェルトをはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が浮上した。これは特殊なフェルトではなく、カウボーイハットなどに用いられるごく普通のフェルトである。機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられた。耐熱タイルは2万5千枚製造され、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けられた。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "素材選択や接着方法の開発が難航した耐熱タイルは、やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行で何度も脱落を経験している。安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回タイルひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならず、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "飛行可能な機体は6機製造された。1号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用された。実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機である。当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが、構造試験のために製造されたSTA-099をチャレンジャー (OV-099) に改造したほうが安上がりだと判断された。チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして機体が失われたため、機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。コロンビアは2003年に空中分解事故を起こして消滅した。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "スペースシャトル計画の始まりの段階で、NASAの関係者には「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」などと主張する者もいて、そうした甘い見込みのもとに計画は進んでしまった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "シャトルを繰り返し安全に飛ばすため、再使用する機体の部品は飛行のたびに徹底的な検査が行われたが、シャトルを構成する膨大な数の部品の検査にかかる費用は巨額のものとなった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "エンデバーの製作にかかった費用は約17-18億ドルで、シャトルの一回の飛行にかかる費用は2002年の時点では約4億5,000万ドルだった。だが、コロンビアの事故以降は安全対策のコストが上昇し、2007年には1回の飛行につき約10億ドルを要するようになった。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "スペースシャトルには技術的な困難だけでなく、官僚主義に侵されたNASAという巨大組織の抱える問題も影響した。チャレンジャー号の事故は予測・回避できた可能性が高かったにもかかわらず、NASAの幹部は「事故は起きないだろう」と充分な対策を行わず、米国が行った宇宙飛行中の事故では初の死者を出している。コロンビア号の事故においても、発射時の映像を確認した職員によって上昇中に剥離した断熱材がオービタに衝突した可能性が指摘されたものの、NASA幹部は提供された情報を軽視したという経緯がある。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "政治学者のロジャー・A・ピールケ・Jr. (Roger A. Pielke, Jr.) は、2008年度初頭までにシャトル計画にかかった費用は総額で1,700億ドル(2008年度換算)ほどと算定した。これによれば打ち上げ一回あたりのコストは15億ドルということになる。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "最終的には、スペースシャトルの計135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかっていた。", "title": "計画・設計・製造" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "軌道船は多くの航空機と似たような形状をしており、主翼は内側が81°、外側が45°の後退角を持った二重デルタ翼で、垂直尾翼の後退角は50°である。主翼の後端には4枚の動翼が取りつけられている。垂直尾翼後端には空力ブレーキも兼ねた方向舵が設置されていて、降下と着陸の際に高揚力装置(フラップ)とともに作動して機体を制御する。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "胴体部分のほとんどは直径4.6m、長さ18mの貨物搭載室が占めていて、観音開きの保護ドアによって覆われている。搭載物は通常は機体が水平の状態にあるときに格納され、その後機体とともに発射台上に垂直に設置される。無重力の宇宙空間では、搭載物は飛行士が操縦するロボットアームや船外活動によって放出される。搭載物自体が持っているロケットによって、さらに高い軌道へと投入されることもある。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "機体の後端には、メイン・エンジンが三角状に配置されている。エンジンのノズルは上下方向に10.5°、左右方向に8.5°傾けることが可能で、上昇中に推力の向きを変えて機体の進行方向を制御する。軌道船の機体構造は主にアルミニウム合金によって作られているが、エンジン部分の支持構造にはチタニウム合金が使用されている。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "軌道船は飛行目的に応じて、軌道実験室(スペースラブ、スペースハブ)、搭載物をより高い軌道に投入するためのロケット(慣性上段ロケット (IUS)、ペイロード・アシスト・モジュール (PAM))、軌道滞在期間延長機器(EDO (Extended Duration Orbiter) キット)、カナダ・アームなど様々な追加機器を搭載することができる。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "製造された機体の中で実際に宇宙に行くことができたのは、OV-099チャレンジャー号、OV-102コロンビア号、OV-103ディスカバリー号、OV-104アトランティス号、OV-105エンデバー号の5機である。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "オービタに加えられた主な機器の画像", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "外部燃料タンク (ET) の主な機能は、軌道船のメイン・エンジンに燃料の液体水素と酸化剤の液体酸素を供給すると同時に、2本のSRBと軌道船を接続し、全体を支える骨組みとなることである。ETはシャトルの中では唯一再使用されない部分で、飛行のたびに投棄されているが、軌道に投入して(宇宙ステーションに接続するなどして)利用することは構想としては検討されていた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "固体燃料補助ロケット (SRB) は2基合計で発射時に必要とされる推力の83%、約1,250万ニュートン(1,276.8トン)を発生し、打上げから2分後、高度約15万フィート(46km)に達したところで切り離され、パラシュートで海に着水して回収される。外殻は厚さ13mmの鋼鉄でできている。SRBは何度も再使用されるもので、一例を挙げれば2009年に試験発射されたアレスI-Xロケットは、過去48回のシャトルの飛行で使用されたSRBの部品を寄せ集めて作られたものであり、その中には1981年の初飛行 (STS-1) で使われたものも含まれていた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "シャトルはコンピュータ制御されたフライ・バイ・ワイヤ方式のデジタル飛行制御システムを採用した、初期のころの機種の一つである。これは飛行士が操作する操縦桿やペダルと、機体の操縦翼面や姿勢制御システムの間に機械的なリンクや油圧系統などが一切存在しないということを意味する。飛行士が入力した操作は電気信号に変換され、電線(ワイヤ)を介して操縦装置に伝えられる。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "フライ・バイ・ワイヤ方式の最大の懸念は信頼性の問題であり、シャトルのコンピューターシステムについては多くの研究開発が行われた。シャトルは IBM製の5台のAP-101と呼ばれる、それぞれ独立して冗長性を持ち、組み込みシステムを構成する32ビット汎用コンピューターを使用している。このうち4台は主飛行電子ソフトウェアシステム (Primary Avionics Software System, PASS) という特製のソフトウェアで稼働し、残りの1台はこれとは別の、バックアップ飛行システム (Backup Flight System, BFS) というソフトを使用している。これらを総称して「データ処理システム (Data Processing System, DPS)」と呼ぶ。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "シャトル用DPS設計の到達目標は、フェイルセーフを達成して信頼性を向上させることだった。DPSは、もし5台のコンピューターのうち1台が故障してもミッションを継続することができ、2台が故障しても安全に着陸できるように設計されている。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "4台の汎用コンピューターは、相互に監視し合いながら稼働している。もし1台が他と違う指令を出した場合は、3台が「投票」を行い、違う指令を出している1台を機体の制御から除外する。残りの3台のうち1台がまたもや違う指令を出した場合は、残った2台が投票をしてその1台を除外する。極めて稀な場合だが、もし4台の「主張」が2対2に別れた場合は、どちらか一方のグループが無作為に選ばれる。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "BFS(バックアップ飛行システム)は5台のコンピューターの中で独立して開発されたソフトで、4台のメインシステムが故障した時にのみ稼働する。BFSが開発されたのは、メインシステムはハードウェア的には冗長性を持たせているものの全く同じソフトで稼働しているため、もし何らかのエラーが発生した時には4台すべてが故障してしまう可能性があるからである。埋め込み式アビオニクスソフトは、一般の商用ソフトとは全く違う環境のもとで開発されている。コードラインの数は商用ソフトに比べればごく限られたもので、変更がなされることは滅多になく、広範な試験が行われ、ほんのわずかなコンピューターコードのために開発要員や試験要員も含めて多くの人員が関わっている。しかし、どんなに万全を尽くしても故障というのは常に起こりうるものであり、そのような不測の事態に備えてBFSは用意された。シャトルが退役するまでの間、実際にBFSが操縦を引き継ぐような事態が発生することは一度もなかった。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "シャトルのコンピューターのソフトウェアは、PL/Iに似たHAL/Sと呼ばれる高級プログラミング言語で書かれている。これはリアルタイム組み込みシステム環境のために、特別に設計されたものである。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "IBM製AP-101コンピューターは、もともと1台あたり約424KBの磁気コアメモリを持ち、CPUは毎秒40万回の計算を行うことができた。ハードディスクはなく、ソフトは磁気テープカートリッジからロードした。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "1990年、AP-101はAP-101Sという上位機種に置きかえられた。記憶容量はこれまでの2.5倍の約1MBに、演算速度は3倍の毎秒120万回に向上し、さらに記憶装置は磁気コアメモリからバックアップ電池つきの半導体メモリに改良された。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1983年11月から、シャトルにはグリッド・コンパス (GRiD Compass) と呼ばれる、世界で最も初期の頃に作られたラップトップ型コンピュータを使用していた。コンパスはせいぜい8,000ドル程度で売られていた安価なものだが、その重量や大きさに比して不釣り合いなほどの性能を当時発揮し、NASAはその重要な顧客の一つだった。なお、グリッド・コンパスは飛行制御系統には関係せず、シャトルの飛行軌跡を2周回分表示させるのに使用された。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "操縦室の窓と貨物搭載室ドアの間の機体側面には、軌道船の名称が書かれている。搭載室ドア後部の下側には、NASAの標章と「United States」の文字および星条旗が描かれている。国旗は右側主翼にももう一つある。文字に使用されている書体はHelveticaである。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "シャトルは1970年代に開発された宇宙船であるため、その当時から安全面における性能や信頼性を向上させるべく多くの改良や改造が施されてきた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "内部構造のほとんどは初期に設計されたものとそれほど変わってはいないが、アビオニクス(飛行用電子機器)は大きく変貌した。たとえばコンピューターのアップグレード(性能向上)に関して言えば、初期の頃のアナログ式のメーター類は廃止され、最新型のエアバスA380やボーイング777に使われているような、グラスコックピットと呼ばれるフルカラーの液晶表示板に改められた。HP-41Cのようなプログラム入力可能な電卓も、依然として使われている。ISS(国際宇宙ステーション)の登場により、ISSに補給物資を届ける飛行でより多くの貨物をミッドデッキに搭載できるよう、内部エアロックは外部エアロックに置き換えられた。外部エアロックの上部には、ISSとのドッキングに使うロシアのアンドロジナスドッキング機構が使われた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "SSME(メイン・エンジン)もまた、信頼性と出力を向上させるべく何度も改良を施されてきた。発射時に「エンジンの出力を104%に上げる」という言い回しが存在することはその名残である。これは安全上の限界を超えてエンジンを噴射するという意味ではなく、初期のエンジン出力と比較しての値を指す。長い開発期間のうちに製造元のロケットダイン社は、安全出力を当初の設計値の104%にまで向上させることができたのだが、これまでに作成した膨大な量の文書やソフトを書き直す必要を避けるため104%という言い回しが残ることとなった。SSMEの進歩の歴史は、フェーズII、ブロックI、ブロックIA、ブロックIIA、ブロックII のような「ブロック番号」となって残されている。これらの改良によってエンジンの信頼性・メンテナンス性・性能は大きく向上し、2001年にはブロックIIエンジンを109%の推力にまで到達させることができた。ただし通常使用される最大推力は104%までで、106%または109%が実現されるのは緊急事態が発生して飛行が中止される時だけである。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "最初の二回の飛行STS-1とSTS-2では、外部燃料タンクが太陽光を吸収して内部の温度が上昇するのを防ぐため全体が白色に塗られた。しかし地上での試験で必要ないことが分かったので次回からは廃止され、その塗料の分だけ軌道に投入できる搭載量が増えることとなった。他のところでは、液体水素タンク内部の桁のいくつかも不要なことが判明したため、軽量化のために取り除かれた。改良を施された軽量タンクはほとんどの飛行で使用されてきたが、STS-91からは超軽量タンク(SLWT)に置きかえられた。改良型の超軽量タンクにはアルミニウム/リチウム合金2195が使用されていて、最終型の軽量タンクに比べ3.4トンの減量に成功した。シャトルは無人では飛行できない設計になっているため、これらは実際の飛行で試してみる以外に手段がなかった。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "SRB(固体燃料補助ロケット)もまた、何度も改良されてきた。代表的なところではチャレンジャー号爆発事故の後、本体接合部分の密閉性を確保するOリングが三重に強化された。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "SRBには他にも性能や安全性を高めるためのいくつかの改良が試みられたが、実現されることはなかった。その中の一つに、より簡略かつ低コストで、安全面や性能にも格段の向上を果たしたと考えられる発展型SRB(Advanced Solid Rocket Booster, ASRB)があった。ASRBは1990年代半ばに宇宙ステーション計画支援のため製造が開始されたが、開発費が22億ドルにまではね上がったため中止が決定された。この代替案として、搭載能力を向上させるために超軽量タンクが開発されたが、安全性は向上しなかった。空軍は独自に、分割式ではない一体成形型の軽量SRBを開発していたが、こちらもまたキャンセルされた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "1995年、発射台上で準備作業をしていたディスカバリー号のETの発泡断熱材にキツツキが穴を空けたため、発射が遅れるという事態が発生した。この時以来、NASAは発射台周辺に市販の鳥よけのためのフクロウの模型や風船を配置するようになった。これらは打ち上げの直前にすべて取り除かれる。ET断熱材は発泡スチロールのようにもろい物質であるため、発射の際の衝撃や空気抵抗ではがれ落ち、軌道船を大気圏再突入の熱から保護する耐熱タイルを傷つける事故がこれまでにもたびたび発生してきた。断熱材の剥落は2003年2月1日に発生したコロンビア号空中分解事故の原因になり、その後も何度も打上げスケジュールの延期の原因になった。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "人間が搭乗せず、搭載物だけを宇宙に送る無人の発射計画も1980年代以来何度も提案されてきたが、そのたびに却下された。「シャトルC(英語版)」と呼ばれるこれらの計画は、シャトルで蓄積されてきた技術を応用し、再使用という特性を放棄することとひきかえに、大幅なコストの削減が期待できるはずだった。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "最初の4回の飛行では、飛行士は離陸時と帰還時には完全密閉型のヘルメットを着用し、空軍の高々度用与圧服を改良した宇宙服を着た。5回目の飛行からはこの与圧服は廃止され、青いワンピースのフライトスーツと部分与圧ヘルメットを着用するようになったが、チャレンジャー号事故による2年間の中断の後に再開された1988年の飛行からは、打上げ/帰還時にはあまりかさばらないように改良されたヘルメットつきのオレンジ色の部分与圧服(Launch-Entry Suit: LES)を着用するようになった。1995年からは、完全与圧式の改良型与圧服 (Advanced Crew Escape Suit: ACES) に置き換えられた。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "軌道船がISSとドッキングして宇宙に滞在できる期間を延長するために、ステーション・シャトル電力供給システム (Station-to-Shuttle Power Transfer System, SSPTS) が導入された。SSPTSはISSが発生した電力を使用して軌道船の消耗品の消費を抑えるもので、STS-118から実用化された。", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "軌道船諸元(OV-105エンデバー号)", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "外部燃料タンク諸元(超軽量タンク)", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "固体燃料補助ロケット諸元", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "完成型詳細", "title": "構造・メカニズム・諸元" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "シャトルの発射は、すべてケネディ宇宙センターで行われる。発射時に適用される天候基準は以下のとおりである。ただし、これだけに限定されるものではない。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "特に落雷が起きる可能性がある場合には、シャトルは絶対に発射されない。航空機はしばしば雷の直撃を受けることがあるが、構造が伝導体であることや、電気的に接地されていないために電流が空気中に放電されることなどにより、機体が悪影響を受けることはない。これに対してシャトルは、機体構造は通常のジェット旅客機と同じように伝導性のアルミニウムで作られているので内部機器が電流の影響を受けることはないが、発射時に噴射される噴煙が機体と地面をつなぐ電線の役目を果たしてしまう。このためNASAの基準では、周辺10海里以内に積乱雲が発生している場合には発射を行ってはならないことになっている。当日は気象担当官が発射台周辺のみならず、大西洋を越えた緊急着陸地点やSRB(固体燃料補助ロケット)の回収点の天候なども監視し、最終的に発射を行うかどうかを判断する。シャトルは雷に対してはまず安全だとは思われるが、アポロ12号が発射された時には実際に落雷で船内が一時停電する事故が発生したため、NASAはこの件については特に慎重になっている。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "長い間、シャトルは12月31日と1月1日をまたがっては飛行できなかった。1970年代に開発されたシャトル用のソフトウェアは年越しができるようには設計されておらず、もし飛行中にそれを強行するとコンピューターをリセットしなければならなくなり、予測できないようなエラーが発生する可能性が生じるからである。NASAの技術者がこの問題を解決したのは2007年のことで、これによってようやくシャトルは年を越えて飛行できるようになった。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "発射当日はTマイナス9分前の最後のホールド(待機)が解除された後、いよいよ最終的な準備段階に入り、管制センターに設置された地上の打上げ管制装置 (Ground Launch Sequencer, GLS) が秒読み作業を引き継ぐが、もしシャトルに搭載された機器に重大な問題が発生した場合には秒読みは自動的に停止される。発射31秒前には、「オート・シークエンス・スタート (Auto Sequence Start)」と呼ばれる作業工程によって秒読み作業がGLSからシャトルのメイン・コンピューターに引き継がれる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "発射16秒前(Tマイナス16)、騒音抑制装置が作動し、猛烈な音響で機体が損傷を負わないようにするために移動式発射台やSRBの火炎偏向板(フレームトレンチ)に1,100m3の水が放出されはじめる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "発射10秒前(Tマイナス10)、SSME(メイン・エンジン)のノズル内に停滞している水素ガスを燃焼させて除去するために、ノズルの下で電気火花が飛ばされはじめる。エンジン周辺にこれらのガスが残っていると、点火する過程で搭載した検知機が異常を感知して、異常な加圧を招いたり爆発したりする可能性がある。この時、SSMEのターボ・ポンプが作動して燃焼室内に液体酸素や液体水素を供給しはじめる。この間、軌道船の4台のコンピューターは相互に指令を交わし、点火に必要なすべての動作を制御する。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "発射6.6秒前(Tマイナス6.6)、SSMEの点火が始まる。点火指令は軌道船のGPC(汎用コンピューター)を経由して、3番エンジン(右側)、2番エンジン(左側)、1番エンジン(中央)の順に120ミリ秒の間隔を置いて送られる。GPCはSSMEの推力を90%にまで到達させると同時に、ノズルの向きを所定の位置に固定する。エンジンに点火されると、騒音抑制装置の水が蒸発して大量の水蒸気となり、南側に向かって噴出される。3基のSSMEの推力はそれから3秒以内に100%に達しなければならず、もしそれが実現しなかった場合はGPCがエンジンを緊急停止させる。逆に正常に推力が発生されていることが確認されれば、SRBを発射台に固定している8本の爆発ボルトが吹き飛ばされ、SRBに点火される。この時間こそが「Tマイナス0」と規定されている発射の瞬間であり、この直後に機体は上昇を開始する。そしてSRBは、いったん点火されたら燃料をすべて消費するまで燃焼を停止することはできない。SRBの排気ガスは北側に向かって掘られた火炎坑に沿って音速に近い速度で噴出され、しばしば衝撃波を発生させる原因となる。GPCは、4台の汎用コンピューターに設定された「発射手順制御装置(Master Events Controller)」と呼ばれるプログラムを介して点火の手順を実行する。上昇中に様々な異常事態が発生したときの緊急対応手順(中止方法)は、広範囲なものが用意されている。その大部分を占めるのは最も複雑で大きな負荷がかかるSSMEに関するもので、SRBが原因でチャレンジャー号爆発事故が発生した後には、緊急対応手順はより拡充されたものになった。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "SSMEに点火されSRBが発射台から解放されるまでの間、機体はエンジンの推力によって機首下げの方向にわずかに(操縦席付近で約2m)傾く。この運動は、NASAの隠語で「うなずき (nod)」あるいは「はじき (twang)」などと呼ばれている。その後機体は約6秒かけてまた元の位置に揺れ戻ってきて、完全に垂直になった瞬間にSRBに点火されて上昇を開始する。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "発射整備塔を離れた直後、シャトルは予定軌道に対応するためロール運動とピッチ運動を開始し、ETとSRBが上になった裏返しの姿勢になる。機体はゆるやかな弧を描きながら上昇し、燃料はどんどん消費されて重量が軽くなっていくため、加速度は徐々に増加していく。発射直後の加速度は1.2Gで、SRBが切り離される直前は2.5Gに増大し、SRB切り離し直後はいったん0.9Gに落ち、その後SSMEが燃焼を停止する直前には3Gにまで達する。地球周回軌道に乗るためには垂直方向よりもむしろ水平方向への加速がより多く必要とされるが、機体が視界から消える前はほぼ垂直に上昇していくため、水平方向への運動はほとんど確認することはできない。ISSが周回している高度380km付近での周回速度は秒速7.68km、時速27,650kmで、地表付近ではマッハ23に相当する。ISSは赤道に対して51.6°の傾斜角をもって地球を周回しているので、シャトルがランデブーをするためにはその角度に合わせる必要がある。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "マックスQ付近では、機体の、特に主翼などの弱い部分にかかる空気力学的圧力を抑えるため一時的にSSMEの推力が65%にまで絞られる。その前後では、空気の急激な圧縮と断熱膨張によりベイパーコーン (vapor cone) やプラントル・グロワートの特異点が起こる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "発射126秒後、SRBをETにつなぎとめていたボルトが爆薬で切断される。SRBはブースター分離モーターを噴射して機体の後方へと押しのけられ、残った推力を偏向し180度のターンを行い燃焼を完全に終了し、真下を向いて落下する。SRBはパラシュートで海に着水して再使用のため回収されるが、シャトルはSSMEの推力でなおも上昇を続ける。この時点では、機体はSRBがなくなったことで推力と重量の比は1を下回っているため、SSMEの力だけでは地球の重力を振り切ることはできなくなる。しかし燃焼を続けるうちに燃料が消費されて徐々に機体が軽くなり、やがて推力:重量比は再び1を超え、最終的に軌道に到達するまで二度と1を下回ることなく加速を続ける。 機体はその後も機首をやや上に向けた姿勢で徐々に軌道を水平に近づけ、SSMEの力で加速する。発射から約5分45秒後、地上との直接通信が終了し、背面が宇宙空間に向いた姿勢になるよう機体を反転させる。地上との交信は、その後は追跡およびデータ中継衛星 (Tracking and Data Relay Satellite, TDRS) を介して行われる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "最後の10秒間には機体は相当に軽くなっているため、飛行士に負担をかけないよう加速度が3G以下になるように推力が絞られる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "メイン・エンジンは空転すると機器を傷める可能性があるので、燃料が完全に空になる前に停止される。液体酸素は液体水素よりも前に供給が停止される。液体酸素はより過激に反応する傾向があり、停止直後の加熱した金属部分に触れると爆発するかもしれないからである。ETはエンジン停止後に爆発ボルトで切り離され、大部分は大気圏内で消滅してわずかな部品がインド洋または太平洋に落下するが、どこに落ちるかは打上げプロファイルによって変わる。タンク内の配管はすべて密閉されており、圧力を解放するような装置は設けられていないため、ETは大気圏下層部で内圧によって破裂する。大気圏再突入時に表面の断熱材が焼失すると、内部に残っていた液体酸素や液体水素を熱から保護する手段がなくなるため、急膨張して爆発の大きな要因になる。このような手段によって、地上に大きな破片が落下するのを防いでいる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ET分離直後は、軌道の近地点はまだ大気圏を離れてはいないので、そのままでは大気圏に再突入することになる。そのため軌道船は軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射し、近地点をより高い高度に設定してETと衝突するのを防止する。一部の飛行(すなわちISSミッションなど)では、打上げ能力を確保するためにOMSが、メイン・エンジンの燃焼後期に並行して使用された。投入時の軌道をこのように設定しているのは、ETを宇宙空間に放出せず大気圏内で廃棄するためと、もしOMSが点火しなかったり、何らかの理由で搭載室のドアが開かなくなるような事態が発生しても、このような軌道にしておけば自動的に地球に帰還できるから、という安全上の理由もある。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "軌道に乗ると、シャトルは様々な、しばしば相互に関連した任務をこなす。1980年代から90年代にかけては、NASAとヨーロッパ宇宙機関が共同開発した宇宙実験室 (Spacelab) などを含む宇宙科学計画や多種多様な衛星や科学探査機の軌道投入に使用されてきた。90年代から2000年代にかけては衛星打上げの任務は減少し、計画の焦点はもっぱら宇宙ステーションの建設に移った。ほとんどの飛行は数日から2週間程度で終了するが、軌道滞在期間延長機器 (Extended Duration Orbiter) を搭載したり国際宇宙ステーションにドッキングすれば、滞在期間をさらに延長することもできる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "シャトルの大気圏再突入の過程では、降着装置をおろすのと、対気速度計に使うピトー管 (air data probe) を展開する作業以外はすべてコンピューターが自動で行うが、もし何か緊急事態が発生した場合は手動で再突入することも可能である。滑走路への進入と着陸も自動操縦装置に任せることはできるが、通常は手動で行われる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "再突入の作業は、まず軌道船の飛行方向を反転させ、機体後部を進行方向に向けることから始まる。その姿勢でOMSロケットを進行方向に約3分間噴射し(逆噴射)、軌道周回速度を322km/hほど減速する。これにより、軌道の近地点を下げて大気圏上層部に入るようにする。逆噴射の間にかかる加速度は約0.1Gである。その後軌道船は反転して機首を下げ(地球から見ればひっくり返した姿勢になっていたので機首を上げる方向(ピッチ軸を時計回り)に180度回転)、機首を進行方向に向ける。逆噴射は、着陸地点のケネディ宇宙センターから見てほぼ地球の裏側の、インド洋上空の赤道付近で行われる。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "高度約120kmの熱圏下層部にさしかかる頃、機体にかかる空気抵抗が顕著になりはじめる。この時の速度はマッハ25(時速30,000km、秒速8.3km)ほどである。シャトルは40°ほどの迎角をとりつつ姿勢制御システムと動翼を併用して機体を制御し、長い航跡を引いて速度だけでなく熱も減少させながら次第に降下していく。空気抵抗が増加するにつれ、シャトルは宇宙船から次第に航空機としての性格を現すようになる。直進している間は、機体には機首を下げるかもしくは40°よりも高い迎角をとらせようとする力が働く。軌道船は途中で4回、70°以上の深いバンク角をとったS字飛行をする。この間迎角は40°を保ったままで、各Sターンは数分間行われる。この操作を行うことで、機体の運動エネルギーを上下方向ではなく左右方向に分散して減速する。このS字飛行が始まるのは熱負荷が最も強烈になる時間帯で、この間熱保護シールドは灼熱化し、加速度は最大となる。最後のターンが終わる頃には軌道船は完全に航空機(グライダー)となっており、機首を下げて機体を水平にし、着陸施設への進入作業が開始される。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "軌道船の最大滑空比/揚抗比は速度によって相当に変化し、極超音速域では1:1、超音速域では2:1で、滑走路への進入と着陸を行う亜音速域では4.5:1にまで低下する。 大気圏下層部では、軌道船は毎秒50m(時速180km)という高い降下率を除けば通常のグライダーのように飛行する。この高い高い降下率は、しばしば「空飛ぶレンガ」「翼の生えたレンガ」と揶揄される。速度がマッハ3程度にまで低下したところで、機体の対気速度を検出するため、胴体前方下部の左右両側に設置された対気速度測定用のピトー管が展開される。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "高度3,000m、滑走路端まで12kmに達したところで、進入および着陸操作が開始される。飛行士は空力ブレーキを作動させ、機体の速度を682km/hから着陸速度の346km/hにまで減速させる(一般的なジェット旅客機の着陸速度は260km/h程度である)。機体のノーズは滑走路手前ギリギリまでノーズダウンの状態であるが、着陸寸前でノーズアップの状態とされ機体下面の空気抵抗を利用してさらに減速が行われる。430km/hで降着装置がおろされ、343km/hあたりでタイヤが接地し着陸する。シャトルは通常航空機に対して重く、着陸時のタイヤへの加重は過酷で、ボーイング747の2-3倍の63.6トンにもなる。タイヤは16層構造で1本4000ドルで6回まで再使用できるが、実際は使い捨てである。空力ブレーキの作動を補助するために、後輪または前輪が接地したところで直径12mのドラグシュートが展開されるが、どちらの段階で開くかはシュートの展開モードの選定によって変わる。ドラグシュートは機体が110km/h以下になった段階で投棄される。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "着陸後は、機体の表面温度が下がるまで数分間待ち、有毒な水素やヒドラジン、四酸化二窒素(姿勢制御システムや3台ある補助動力装置の燃料として使用される)、アンモニアが機体周囲から検出されないかを確認し終えるまで、軌道船は滑走路上で停止したままにされる。支援車両によってパージとベント用の配管が軌道船の燃料配管と貨物室への配管に取り付けられ、着陸後約45-60分かけて有害なガスが除去される。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "以上の着陸行程は、基本的にグライダーとして動作するために、やり直しが行えない。そのため着陸地点の天候は厳重にチェックされ、気象予報によっては他の着陸ポイントに変更される。機体は航空機としては非常に重量があるため、通常の飛行場の滑走路では耐えられず、特別に強化された路面をもつ飛行場が選ばれた。通常はNASAシャトル着陸施設の長さ5.2kmの滑走路が主に使用されるが、カリフォルニア州のエドワーズ空軍基地も使用された。この他世界各地に予備の着陸地点が指定され、日本では嘉手納飛行場がその一つであった。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "上記のような操縦特性とアプローチに習熟するため、NASAではガルフストリーム IIを改造したシャトル訓練機での訓練を行っていた。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "シャトルの着陸は、初期はカリフォルニア州エドワーズ空軍基地に、ケネディ宇宙センターの滑走路が整備された後は基本的にはケネディ宇宙センターで行われることが多かった。ケネディ宇宙センターの天候が不順な場合は回復するまで宇宙で待機したり、あるいはエドワーズ空軍基地やその他世界中に配置された代替基地に着陸することもできた。ただしケネディ以外の施設に着陸するということは、その後にシャトル輸送機でケープ・カナベラルまで運ばれて来なければならないことを意味した。代替着陸基地の一つのホワイト・サンズ空軍基地の滑走路はシャトルが着陸するには整備が不十分という問題もあった。STS-3ではコロンビア号がニューメキシコ州のホワイト・サンズ空軍基地に着陸したが、この滑走路は当時はまだ整備が行き届いておらず、細かい砂が機体に入り込んでその後の整備が大変だった。シャトルを空輸するためのクレーン設備も準備する必要があるなど問題があった。結局、同基地に着陸したのはこの1回だけである。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "代替着陸施設は多数あるが、エドワーズ空軍基地とホワイト・サンズ空軍基地以外は使用されることはなかった。エドワーズ空軍基地についても、シャトルの大陸横断に掛かる多額のコストのため近年はできるだけ利用しない方針が採られており、日本人最後の乗務となったSTS-131の着陸時にも一時は使用が決定していたが、最終的にはケネディ宇宙センターへの着陸となった。", "title": "飛行手順の詳細" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "主なシャトルの飛行記録は以下のとおりである。", "title": "飛行記録" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "出典:NASA打上げマニフェスト、NASAスペースシャトル公文書記録", "title": "飛行記録" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "1986年1月28日、スペースシャトルチャレンジャー号が発射から73秒後に右側のSRBのOリングの故障が原因で空中分解し、搭乗していた7名の飛行士全員が犠牲になった。機体の最重要機器の一つであるOリングが、異常寒波が原因の低温により損傷した。現場の技術者は再三にわたり12°C以下の気温でのOリングの安全性は保証できないと警告したが、NASAの幹部はこれを無視した。", "title": "飛行記録" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "2003年2月1日、スペースシャトルコロンビア号が発射の際に主翼前縁の強化カーボン・カーボン断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解した。地上管制室の技術者たちは損傷の広がりをより明確に把握できるよう、国防総省に対して三回にわたって高解像度の写真を撮影するよう要求し、NASAの熱保護システムの技術主任はコロンビアに搭乗している飛行士たちに耐熱タイルのダメージを調査させるべく船外活動の許可を求めた。NASAの幹部は国防総省の支援の動きに介入してこれを停止させ、船外活動の要求も拒否した。その結果、飛行士が自ら修理に赴くことや、発射準備作業中だったアトランティスで救援に向かうことの実現性は、ついにNASA幹部によって考慮されることはなかった。", "title": "飛行記録" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "2011年7月8日(日本時間9日未明)に打ち上げられたアトランティスのSTS-135をもって、30年あまりに及んだスペースシャトル計画を終了した。当初の予定では2011年2月26日の打ち上げが最後になる予定だったが、後に追加予算が認められて、非常時の救援ミッションのために待機していたアトランティスをISSの補給ミッションに転用する形で同年7月の打ち上げが認められた。", "title": "退役" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "シャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて月や火星まで到達できるような宇宙船が現在開発中である。当初「有人開発船(Crew Exploration Vehicle)」と呼ばれていた計画概念は、その後オリオン宇宙船やコンステレーション計画へと発展した。しかし2010年にオバマ政権はコンステレーション計画の予算を打ち切り、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案した。次世代の宇宙船が登場するまでは、飛行士がISSに到達しまた帰還するためにはロシア連邦のソユーズ宇宙船か、または開発中のアメリカの民間商用宇宙船に頼る以外に手段がなくなる。オバマ大統領の提案はアメリカ合衆国議会によって承認されたが、次の宇宙船が開発されるまでの5年間にシャトルを延長して使用する可能性を含む対抗案も2010年に議会で検討された。しかし結局、シャトルの退役計画は覆されなかった。", "title": "退役" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "退役後は、ディスカバリーはスミソニアン博物館の国立航空宇宙博物館別館、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示される。国立航空宇宙博物館別館に展示中のエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることに伴い、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されることになっている。2010年4月、タイム紙は「2010年に最も影響を与えなかった人々」のリストの中にスペースシャトルを挙げ、その理由を「シャトルは従来のロケットのように格好良くないから」とした。", "title": "退役" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2008年12月23日、NASAはISSへの物資補給を民間に委ねる商業軌道輸送サービス (COTS) に関する契約を、スペースX社およびオービタル・サイエンシズ社と取り交わしたことを発表した。スペースXは2012年にファルコン9ロケットでドラゴン宇宙船を、オービタル・サイエンシズは2013年にアンタレスロケットでシグナス宇宙船を打ち上げ、スペースシャトルに代わってISSへの無人補給ミッションを果たした。", "title": "退役" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "NASAは次いでISSへの有人飛行も民間に委ねるべく商業乗員輸送開発 (CCDev) 計画を開始し、2014年にスペースXのドラゴン2宇宙船とボーイングのCST-100宇宙船を選定した。しかし、有人宇宙船の開発はたびたび遅延を繰り返し、民間によるISSへの有人飛行が実現したのは、スペースシャトル退役から9年後の2020年5月の事であった。", "title": "退役" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "シャトル訓練機 (STA) はシャトルの着陸訓練に使用されたアメリカ航空宇宙局の練習機である。グラマン ガルフストリーム IIをベースに4機が改造された。操縦特性が着陸進入時のオービタの挙動と合致するようになっており模擬的に着陸訓練を行うことが出来た。", "title": "シャトル訓練機" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "外観は飛行訓練中の高い空気力学的荷重に耐えられるように改造されていた。操縦室の左席がオービタの制御と視界を忠実に再現していた。通常の飛行は右席のみで可能となっており、訓練空域までの移動などはこちらで操縦する。", "title": "シャトル訓練機" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "4機のSTAが通常はテキサス州エルパソで飛行訓練を行い、ヒューストンで整備を行った。STAは同様にフロリダ州のケネディ宇宙センターでも使用された。", "title": "シャトル訓練機" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "機体後部には数名分の座席が設置されておりT-38が使用できない・人数が多い場合(T-38は2名)に、STAはジョンソン宇宙センターとケネディ宇宙センター間の乗員輸送に使用された。", "title": "シャトル訓練機" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "シャトル派生型打ち上げ機 (Shuttle-Derived Launch Vehicle) または単純にシャトル派生機 (Shuttle-Derived Vehicle, SDV) は、スペースシャトル計画で開発された技術を基にしたロケットで幅広い機種がこれまで提案されてきた。しかし2022年に後述のスペース・ローンチ・システムが唯一打ち上げを果たした一方、それ以外の多くの案は実用化には至っていない。1980年代末から1990年代初頭にNASAは公式に貨物専用のシャトル-Cを研究してきた。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "SDVの概念はシャトル自体が飛行を開始した当時から提案された。SDVの概念には以下を含む:", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "これらの案に共通するのは既存のスペースシャトルの構成要素を流用する事で開発費を抑え、より廉価に新型の重量物を軌道に投入する能力を持つ打ち上げシステムを開発しようという意図である。しかし、実際には個々の構成要素は新しい目的別には最適化されておらず、従来の構造体を流用する事によって補強が必要になるなど構造重量の増加の一因ともなり、最適化の障害となっている。有人飛行用としての高度な安全性を備え、再利用を前提としたシステムを使い捨てとして使用しようとした場合、過剰な安全装置等が貨物打ち上げには不要である場合も多い。その為、結局、新技術を盛り込んで最適化された構造の完全新規開発の機体と比較して無駄が多い事は否めず、生産、運用の過程で高くつく可能性が指摘されている。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "シャトルCはアメリカ航空宇宙局が提案したスペースシャトルの構成要素を流用した無人貨物打ち上げロケットである。外部燃料タンク (ET) と固体燃料補助ロケット (SRB) とメイン・エンジンを備えた貨物用モジュールを組み合わせて使用される予定だった。複数のシャトルCの概念が1984年から1995年にかけて提案された。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "シャトルCの概念は理論的にはシャトル計画で開発された再利用技術によって重量物打ち上げロケットの開発費を減らす事が期待された。提案は複数回行われ、いずれも既存のシャトルの構造体や使用回数限度の迫ったメイン・エンジンや航法コンピュータを流用するというものだった。中にはコロンビア号やエンタープライズ号を1回限りの貨物打ち上げ機として使用する案もあった。チャレンジャー号の事故の前にNASAは年間14回の打ち上げを期待していた。チャレンジャー号の事故の後にはこの打ち上げ頻度は複数の理由により非現実的である事が明らかになった。シャトルCは無人であるので高い打ち上げ頻度でも整備費が安く安全性に関する要求水準が低いと考えられた。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "2段階の開発が計画された。第一段階として貨物輸送機の形状と大きさが検討された。NASAによる研究は小型だが最も打ち上げ効率の良い機能的な輸送機を示した。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1990年代初頭、NASAの技術者は火星探査用の宇宙船を組み立てる為に地球周回軌道へ80トンの使い捨ての6機のセグメントを打ち上げる為にシャトルCの設計を含む有人火星飛行計画を立案した。代替案は4機のサターンVを使用する案だった。ブッシュ大統領が2010年にスペースシャトルの運用を終了すると発表した後、これらの提案された仕様は検討対象から外された。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "DIRECTはNASAのビジョン・フォー・スペース・エクスプロレーションで提案されたアレスIとアレスVの代替案として提案された。元のシャトル派生打ち上げ機では\"ジュピター\"と称され、より野心的な\"プロジェクト2\"で重量物打ち上げロケットのレビタリアン、軌道周回支援ステーションオリンピア、ガロン重量貨物宇宙船、宇宙ステーションアルゴとヘリオスと乗員貨物船アルテミスから構成され2011年に打ち上げる計画だった。 2008年9月, DIRECTチームは69人のメンバーで構成されるとされ、 NASAの技術者、コンステレーション計画でNASAと契約した技術者とマネージャー62人から構成され、グループの刊行物によると少数のNASAには属さないメンバーもいる。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "計画の名称である\"DIRECT\"はスペースシャトル計画のハードウェアと施設を\"直接\"移行する事によって最大限流用する哲学に由来する。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "DIRECTには三つの派生機種があり2009年5月に最新の3.0版が発表された。2009年6月17日にワシントンDCで開催された有人宇宙飛行計画委員会の公聴会で明らかになった。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "10月11日に2010年のNASAの権限法 (S. 3729) へのオバマ大統領による調印によってスペース・ローンチ・システムが義務化され、DIRECTチームは彼らの努力の成功を宣言した。彼らは新しい宇宙技術企業である: C-Star エアロスペース, LLC.へ組織変更した。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "スペース・ローンチ・システムまたはSLSはNASAがコンステレーション計画の中止に伴いスペースシャトルの代替として開発するシャトル派生型打ち上げシステムの一種である。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "2010年NASA権限法によってアレスIとアレスVの機体設計を乗員と貨物輸送の両方に使用できる単体のロケットに一本化する構想である。より強力な機種に更新された。当初の打ち上げ能力は上段を除いたコアのみで構成され低軌道へ70から100トンの投入能力を備える。更に地球離脱段を上段に加えることで130トン以上の打ち上げ能力を獲得する見込みである。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "スペースシャトルのコンポーネントを流用することで開発期間を短縮してコストを削減する計画だったが、実際には開発は大幅に遅延しコストも増大した。2022年11月に初打ち上げに成功した。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "ジュピターシリーズは2000年代後半に提案されたスペースシャトル派生ロケットの一つである。NASAがコンステレーション計画のために開発していたアレスIとアレスVの代替として企図された。出来るだけスペースシャトルの構成要素や施設を流用する事が予定されていた。", "title": "シャトル派生型打ち上げ機" } ]
スペースシャトルは、かつてアメリカ航空宇宙局 (NASA) が1981年から2011年にかけて135回打ち上げた再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船である。 もともと「再使用」というコンセプトが強調されていたが、出来上がったシステムは、オービタ部分は繰り返し使用されたが、打ち上げられる各部分の全てが再利用できたわけではなく、外部燃料タンクなどは基本的には使い捨てである。
{{Otheruseslist|スペースシャトルの'''<u>機体</u>'''|スペースシャトルの'''<u>計画</u>'''を中心とした記事|スペースシャトル計画}} {{Expand English|Space Shuttle|date=2021年7月|fa=yes}} {{ロケット |名称 = スペースシャトル |画像名 = STS120LaunchHiRes.jpg |画像サイズ = 270px |画像の注釈 = STS-120におけるディスカバリー号の発射 |基本データ = |運用国 = {{USA}} |開発者 = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]]<br>ユナイテッド・スペース・アライアンス<br>[[サイオコール]]/アライアント・テックシステム(固体燃料補助ロケット担当)<br>[[ロッキード・マーチン]](外部燃料タンク担当)<br>[[ロックウェル・インターナショナル|ロックウェル]]/[[ボーイング]](軌道船担当) |運用機関 = NASA |使用期間 = [[1981年]] - [[2011年]] |射場 = [[ケネディ宇宙センター第39発射施設]] |打ち上げ数 = 135回 |成功数 = 133回 |開発費用 = |打ち上げ費用 = 15億ドル |原型 = |姉妹型 = |発展型 = |公式ページ = https://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/main/ |公式ページ名 = NASA - Space Shuttle |物理的特徴 = |段数 = 2段 |ブースター = 2基 |総質量 = 2,028[[トン|仏トン]] (4,470,000[[ポンド (質量)|ポンド]]) |空虚質量 = |全長 = 56.083 [[メートル|m]] (184[[フィート]]) |直径 = 8.69 m (28フィート6[[インチ]]) |軌道投入能力 = |低軌道 = 24,400 kg (53,600ポンド) |低軌道詳細 = |中軌道 = |中軌道詳細 = |極軌道 = |極軌道詳細 = |太陽同期軌道 = |太陽同期軌道詳細 = |静止移行軌道 = 3,810 kg (8,390ポンド) |静止移行軌道詳細 = |静止軌道 = |静止軌道詳細 = |その他軌道名 = |その他軌道 = |その他軌道詳細 = |その他軌道名2 = |その他軌道2 = |その他軌道詳細2 = |表の脚注 = }} '''スペースシャトル'''({{lang-en-short|Space Shuttle}})は、かつて[[アメリカ航空宇宙局]] (NASA) が[[1981年]]から[[2011年]]にかけて135回打ち上げた[[再使用型宇宙往還機|再使用をコンセプトに含んだ有人宇宙船]]である。 もともと「再使用」というコンセプトが強調されていたが、出来上がったシステムは、[[オービタ]]部分は繰り返し使用されたが、打ち上げられる各部分の全てが再利用できたわけではなく、[[スペースシャトル外部燃料タンク|外部燃料タンク]]などは基本的には使い捨てである。 == 概要 == 初飛行は[[1981年]]、2回目の飛行は[[1982年]]で、[[2011年]]7月の135回目の飛行を最後に退役した。 スペースシャトルは宇宙輸送システム (Space Transportation System, STS) あるいは[[スペースシャトル計画]]の一環としてもちいられた。STSの開発とシャトルの飛行は、基本的にアメリカの資金によって行われた。主な使用目的は、NASAのおかれた様々な政治的状況や起こしてしまったシャトルの事故も影響して、およそ10年ごとに大きく変遷してきた<ref name="SayounaraSS">地球ドラマチック「さようならスペースシャトル 〜栄光と挫折の30年〜 」前編および後編。イギリスの放送局の制作した番組。日本ではNHKによる放送、前編2012年1月21日および後編1月28日(再放送、1月30日および2月6日)。[https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20120129-33-05637][http://www.nhk.or.jp/dramatic/backnumber/257b.html]</ref>が、数々の[[人工衛星]]や[[宇宙探査機]]の打ち上げ、[[宇宙空間]]における科学実験、[[国際宇宙ステーション]] (International Space Station, ISS) の建設などである。なおシャトルはNASAによってだけでなく、米国[[国防総省]]、[[欧州宇宙機関]]、[[ドイツ]]等の軌道上実験にも使用された。 シャトルは[[再使用型宇宙往還機]]であり、軌道船 (Orbitor Vehicle, OV)、外部燃料タンク (External Tank, ET)、固体燃料補助ロケット (Solid Rocket Booster, SRB) の三つの部分によって構成されている<ref>[http://www.nasa.gov/returntoflight/system/system_STS.html Shuttle Basics]. NASA.</ref>。ETとSRBは上昇中に切り離され、軌道船 (OV) のみが地球周回軌道に到達する。発射時には機体は通常のロケットと同じように垂直に打ち上げられるが、軌道船は水平に滑空して帰還・着陸し、再使用のために整備された。SRBはパラシュートで海に降下し、回収船で回収されて整備した後、推進剤を再充填して再利用された。 === 構造・飛行等の概略 === [[ファイル:Space Shuttle Profilo Missione.jpg|thumb|250px|飛行の概略。打ち上げ、固体燃料補助ロケット (SRB) の切り離し、外部燃料タンク (ET) の切り離し、軌道上での作業、減速、大気圏再突入、着陸 の概念図]] まずシャトルの構造および打ち上げ〜着陸の概略を説明する。 通常は5名から7名の飛行士が搭乗した。なお、最も初期の頃に行われた、[[STS-1]]から[[STS-4]]の4回の試験飛行のように、機長と操縦士の2名だけでも飛行できた。 発射時のシャトルの構成は、おおまかに # オレンジ色の'''[[スペースシャトル外部燃料タンク|外部燃料タンク]]''' (External Tank, ET)<ref>最初の打ち上げ(コロンビア号)の際は、外部燃料タンクも白色に塗装されていた。</ref><ref name="et_paint1">[http://www.msfc.nasa.gov/news/news/releases/1999/99-193.html "NASA Takes Delivery of 100th Space Shuttle External Tank"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20070311004932/http://www.msfc.nasa.gov/news/news/releases/1999/99-193.html |date=2007年3月11日 }}. NASA, August 16, 1999. Quote: "…orange spray-on foam used to insulate…"</ref><ref name="et_paint2">[http://www.nasa.gov/home/hqnews/2004/dec/HQ_04hh_external_tank.html "Media Invited To See Shuttle External Fuel Tank Ship From Michoud"]. NASA, December 28, 2004. Quote: "The gigantic, rust-colored external tank…"</ref> # 2本の白色で細長い'''[[スペースシャトル固体燃料補助ロケット|固体燃料補助ロケット]]''' (Solid Rocket Boosters, SRB) # [[宇宙飛行士]]と貨物を搭載する'''[[オービタ|軌道船]]''' (Orbiter Vehicle,OV) の三つの部分から構成されていた。なお、上記に加えて、STSのために開発された、[[ペイロード・アシスト・モジュール|PAM]]と[[IUS]]と呼ばれる人工衛星打上げ用の2種類の固体ロケットを用いれば、搭載物をさらに高い[[人工衛星の軌道|軌道]]に運ぶこともできた。なお、シャトルには全体でおよそ250万個もの部品が使われており、人間がこれまでに製造した中で最も複雑な機械であると言われている<ref name="parts">{{cite web|url=http://spaceflight.nasa.gov/shuttle/upgrades/upgrades5.html|title=The 21st Century Space Shuttle — Fun Facts |accessdate=January 11, 2010|publisher=[[National Aeronautics and Space Administration]]|author=NASA}}</ref>。 (→[[#構造・メカニズム・諸元]]) シャトルは通常の[[ロケット]]と同じように、発射台からは[[垂直]]に離陸する。その際の[[推力]]を生むのは2本のSRBおよび、(軌道船の後部に装着している)3基の[[SSME|メイン・エンジン]] (Space Shuttle Main Engine, SSME) であり、SSMEの[[ロケットエンジンの推進剤|推進剤]]([[液体水素]]と[[液体酸素]])は外部燃料タンクから供給される。上昇の手順はおおまかに、 # SRBも含めてすべてのロケットが噴射される第一段階 # SRBが役目を終えSSMEだけで推進する第二段階 のふたつに分かれていて、打上げからおよそ2分後に第二段階に移り、SRBは切り離され落下、[[パラシュート]]で海に着水し再使用のため船で回収される。機体(軌道船およびET)はその後も上昇を続け、軌道に到達するとSSMEが燃焼を停止し、ETも役目を終えて切り離される。切り離され自由落下を始めたET(巨大なオレンジ色のタンク)は通常は[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]して[[空気抵抗]]と[[熱]]によって消滅する。ただし、様々な用途に使用することは、構想としてはあった<!--<ref name="etuse" />-->。 軌道船はその後さらに[[スペースシャトル軌道制御システム|軌道操縦システム]] (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射することでミッションの目標としている軌道へと向かう。軌道上での姿勢は、[[姿勢制御システム]] (Reaction Control System, RCS) を噴射することで制御する。 シャトルが従来の宇宙船とは際だって異なった特徴の一つに、軌道船の胴体部分のほとんどを占めるほどの大きさの貨物搭載室を備えていることと、そこに大きな観音開きのドアがついていることである。これによって、飛行士や宇宙ステーションの建設資材などを、[[地球]]周回[[低軌道]]や[[大気圏]]上層部、さらには[[熱圏]]などに運ぶことができた<ref name="atmos">{{cite web|url=http://liftoff.msfc.nasa.gov/academy/space/atmosphere.html|title=Earth's Atmosphere|accessdate=October 25, 2007|publisher=[[National Aeronautics and Space Administration]]|year=1995|author=NASA|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071013232332/http://liftoff.msfc.nasa.gov/academy/space/atmosphere.html|archivedate=2007年10月13日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。例えば、[[ハッブル宇宙望遠鏡]]のような大きなものを搭載し軌道に投入することや故障した衛星などがあれば、その軌道へ向かい、貨物室に回収して地球に持ち帰ったりすることもできた。 任務が終了すると、軌道船はOMSを[[逆噴射]]して速度を落とし[[大気圏]]に再突入した。降下している間、シャトルは大気の様々な層を通過し、主に空気抵抗を用いて機体の速度を[[極超音速]]状態から減速させる。大気圏下層部に到達し着陸態勢に入ると<!-- [[姿勢制御システム]] (Reaction Control System, RCS) を使用して という部分は削除します。複数箇所に記述があるので勘違いされているようですが、RCSは大気圏に入るとほとんど使いません(カリフォルニア上空あたりが最後の使用になる)。オーストラリア上空付近で燃料も大半を投棄します-->[[グライダー]]のように滑空飛行し、[[フライ・バイ・ワイヤ]]方式の操縦系統で[[油圧]]によって[[動翼]]を制御した。着陸の際には、長い[[滑走路]]が必要とされた。シャトルの形態は、帰還時に極[[超音速]]飛行および[[旅客機]]のような低速飛行の双方をしなければならない、という二律背反する要求を満たすために作られた妥協の産物であり、その結果として軌道船は着陸寸前には、普通の[[航空機]]には見られないような急激な降下(高い降下率)を経験することになる。 (→[[#飛行手順の詳細]]) === かさんだコストと危険性 === 当初は通常のロケットより一回あたりの飛行コストを安くできるという見込みでこの計画がスタートし製造されたが、実際の運用で発生した事故に対する安全対策により、当初の予想より保守費用が大きくなっていき、結果的に使い捨てロケットよりもコストが高くなった<ref name="SayounaraSS" />。(→[[#甘すぎた予測と膨らんだ費用と危険性]]) === 呼称の指す範囲 === 「スペースシャトル」という言葉は、一般には軌道船(オービタ)の単体を指していることもある。[[シャトル]](往復を繰り返すもの)という表現に合致しているのは基本的にオービタ部分であるし、形状という点でも、「シャトル」という用語の源となっている[[シャトル (織物)|織物のシャトル]]と形が類似し連想させるのはオービタ単体であるからである。ただし技術的な観点、つまり宇宙飛行システム、飛行に必要な技術的な要素、という意味では、軌道船以外にも外部燃料タンク・固体燃料補助ロケットが結合されて、はじめてシャトルは完成状態となり飛行可能となるので、NASAのエンジニアなどは三つが合体した状態を「スペースシャトル」と呼ぶ。そして、紛らわしさを避けるために「オービタ」「SRB」「ET」などの呼称を用いて呼び分けている。 完成状態にする作業は[[スペースシャトル組立棟]]で行われる。なお、この建物は元々はシャトルのものではなく、アポロ計画の[[サターンV|サターン5型ロケット]]を組み立てるために作られたものである。 「スペースシャトル」という用語で、[[スペースシャトル計画|スペースシャトルをコアとした計画全体(スペースシャトル計画)]]を指して用いられていることもある。 == 計画・設計・製造 == === 計画の初期段階 === [[ファイル:Space Shuttle concepts.jpg|thumb|180px|スペースシャトルの当初のコンセプト図の一部]] シャトルの設計と製造は1970年代初頭に始まったが、その概念はそれより20年も前、1960年代の[[アポロ計画]]よりも早い段階に存在していた<ref>Please refer to [[Space Shuttle design process]].</ref><ref name="X15">Please refer also to [[North American X-15#Design_and_development]].</ref>。宇宙から宇宙船を水平に着陸させるという構想は[[1954年]]に[[アメリカ航空諮問委員会|国立航空諮問委員会]](NACA)が描いていたもので<ref name="X15" />、それは後に[[X-15 (航空機)|X-15]][[航空工学]]実験調査機として実現することになった。NACAに対してこの提案を行ったのは、[[ヴァルター・ドルンベルガー]]である<ref name="X15" />。 [[1957年]]、X-15をさらに発展させた[[Xプレーン|Xシリーズ]][[スペースプレーン|宇宙往還機]]計画が提案された。宇宙飛行士[[ニール・アームストロング]]はX-15と[[X-20]]両方の[[テスト・パイロット]]に選抜された<ref name="X15" /><ref name="X20" />が、X-20は計画されただけで実機が飛行することはなかった<ref name="X20">Please refer to [[X-20 Dyna-Soar]].</ref>。 X-20は実現されなかったが、同様のコンセプトを持つHL-10実験機は数年後に開発され、[[1966年]]1月にNASAの元へと届けられた。HLとは、「Horizontal Landing(水平着陸)」の意味である<ref name="HL10">Please refer to [[Northrop HL-10]].</ref>。 1960年代半ば、[[アメリカ空軍|空軍]]は次世代宇宙輸送システムに関する一連の極秘調査計画を行い、「一部再使用型の宇宙船こそが最も安上がりな方法だ」と判断した。彼らの提案では、使い捨て型の宇宙船とロケット(クラスI)の開発に直ちに取りかかり、それに続いて一部再使用型(クラスII)の開発を続け、最終的には完全再使用型(クラスIII)に達するべきである、とされた。[[1967年]]、NASA長官ジョージ・ミューラー (George Mueller) は幹部80人を集め、将来的な選択肢に関する1日間の討論会を開催した。会議では、初期の頃の空軍のX-20計画を含む様々な提案がなされた。 [[1968年]]、NASAは地球と宇宙を往復することを目的とした「統合往還機 (Integrated Launch and Re-entry Vehicle, ILRV)」の研究を開始し、同時に複数の企業に対してメイン・エンジン (SSME) の開発を競わせた。[[ヒューストン]]と[[ハンツビル]]にあるNASAの事務局は共同で、宇宙に貨物を運ぶだけでなく大気圏を[[滑空]]して地球に帰還できるような宇宙船の設計を公募した。その中の一つに、巨大なロケットと小型の軌道船によって構成されたDC-3と呼ばれた案があった<ref name="DC3">Please refer to [[North_American_DC-3#History]].</ref>。 [[1969年]]、[[リチャード・ニクソン|ニクソン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]はスペースシャトル計画を進行させることを正式に決定した<ref>Please refer to [[Space_Shuttle_design_process#Decision-making_process]].</ref>。 [[1973年]]8月、[[X-24 (航空機)#X-24B|X-24B]]が飛行に成功したことにより、大気圏に再突入した宇宙船が水平に着陸するのが可能であることが証明された。 {{Seealso|スペースシャトル計画}} === 開発・設計 === [[ファイル:Nasa Shuttle Test Using Electron Beam full.jpg|thumb|140px|[[1975年]]に行われた模型を使用しての[[風洞]]試験。再突入で機体が高温の空気に包まれる状態を、[[イオン]]ガスを吹きつけることで再現した。]] スペースシャトルは、[[再使用型宇宙往還機|再使用することを目的に設計された宇宙船]]としては初めてのものである。シャトルは様々な搭載物を低軌道に運び、ISS(国際宇宙ステーション)の人員を交代させることができ、軌道船は地球を周回する人工衛星その他の物体を回収し地上に持ち帰ることもできるように設計された。各軌道船は「100回の飛行もしくは10年間の使用に耐えられるように」との考えで設計されたが、後にその期間は延長された。STS(宇宙輸送システム)の設計責任者は、[[マーキュリー計画]]、[[ジェミニ計画]]、アポロ計画などでも宇宙船の設計を担当した{{仮リンク|マキシム・ファゲット|en|Maxime Faget}}である。軌道船の大きさや形状を決定する際の最も重要な要素となったのは、当時計画されていた[[商業衛星]]や[[秘密衛星]]の最大のサイズのものを搭載できるようにすることと、[[極軌道]]から一周回で離脱するという空軍の秘密計画に対応できるような飛行範囲を持っていることである。衛星を宇宙空間に配置するための高い搭載能力が欲しいという[[国防総省]]の要求、および再使用できる機器を持つ宇宙船を開発することによって[[宇宙開発]]予算を削減したいというニクソン政権の要求の双方に応えるため、[[ロケットエンジンの推進剤#固体燃料ロケット|固体燃料補助ロケット]]と使い捨て型の燃料タンクの併用という方式が選択された。 ==== 耐熱タイル ==== シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からオービタを守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発である。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様の[[アルミニウム]]で出来ているが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまい、大気圏再突入時に発生する1600度以上の熱に耐える事は出来ない。そこで、断熱材として素材に[[シリカ]]ガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発された。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができる。だが、まだ問題があった。機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しない為、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまう。試行錯誤が繰り返された結果、機体と耐熱タイルの間に[[フェルト]]をはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が浮上した。これは特殊なフェルトではなく、カウボーイハットなどに用いられるごく普通のフェルトである。機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられた。耐熱タイルは2万5千枚製造され、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものが[[ジグソーパズル]]のように機体に貼り付けられた<ref name="SayounaraSS" />。 素材選択や接着方法の開発が難航した耐熱タイルは、やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行で何度も脱落を経験している。安全確保のため、帰還後に毎回タイルひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならず、シャトルの不安要因のひとつとしてつきまとうことになった。 === 製造 === 飛行可能な機体は6機製造された。1号機[[スペースシャトル・エンタープライズ|エンタープライズ]]は宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用された。実用化されたのは、[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]、[[スペースシャトル・チャレンジャー|チャレンジャー]]、[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]、[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]]、[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー]]の5機である。当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定だったが、構造試験のために製造されたSTA-099をチャレンジャー (OV-099) に改造したほうが安上がりだと判断された。チャレンジャーは[[1986年]]、発射から73秒後に[[チャレンジャー号爆発事故|爆発事故]]を起こして機体が失われたため、機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たにエンデバーが製作された。コロンビアは[[2003年]]に[[コロンビア号空中分解事故|空中分解事故]]を起こして消滅した。 [[ファイル:Shuttle profiles.jpg|thumb|center|400px|シャトル5機。このうちの2機が事故で失われることになった。]] === 甘すぎた予測と膨らんだ費用と危険性 === スペースシャトル計画の始まりの段階で、NASAの関係者には「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」などと主張する者もいて、そうした甘い見込みのもとに計画は進んでしまった<ref name="SayounaraSS" />。 シャトルを繰り返し安全に飛ばすため、再使用する機体の部品は飛行のたびに徹底的な検査が行われたが、シャトルを構成する膨大な数の部品の検査にかかる費用は巨額のものとなった<ref name="SayounaraSS" />。 エンデバーの製作にかかった費用は約17-18億[[ドル]]で、シャトルの一回の飛行にかかる費用は2002年の時点では約4億5,000万ドルだった。だが、コロンビアの事故以降は安全対策のコストが上昇し、2007年には1回の飛行につき約10億ドルを要するようになった<ref>http://www.nasa.gov/centers/kennedy/about/information/shuttle_faq.html</ref><ref>{{cite | title = スペースシャトルの打上げ費用はいくらくらいですか - スペースシャトルに関するQ&A | publisher = JAXA | accessdate=2011-05-16 | url = http://iss.jaxa.jp/iss_faq/shuttle/shuttle_012.html }}</ref>。 スペースシャトルには技術的な困難だけでなく、[[官僚主義]]に侵されたNASAという巨大組織の抱える問題も影響した。チャレンジャー号の事故は予測・回避できた可能性が高かったにもかかわらず、NASAの幹部は「事故は起きないだろう」と充分な対策を行わず、米国が行った宇宙飛行中の事故では初の死者を出している<ref name="SayounaraSS" />。コロンビア号の事故においても、発射時の映像を確認した職員によって上昇中に剥離した断熱材がオービタに衝突した可能性が指摘されたものの、NASA幹部は提供された情報を軽視したという経緯がある<ref name="SayounaraSS" />。 [[政治学]]者のロジャー・A・ピールケ・Jr. (Roger A. Pielke, Jr.) は、[[2008年]]度初頭までにシャトル計画にかかった費用は総額で1,700億ドル(2008年度換算)ほどと算定した。これによれば打ち上げ一回あたりのコストは15億ドルということになる<ref> [http://sciencepolicy.colorado.edu/admin/publication_files/resource-2656-2008.18.pdf ''The Rise and Fall of the Space Shuttle''], Book Review: Final Countdown: NASA and the End of the Space Shuttle Program by Pat Duggins, American Scientist, 2008, Vol. 96, No. 5, p. 32.</ref><!--なお、[[1985年]]発射のSTS-61-Aと[[1993年]]発射のSTS-55で搭載されたスペースラブは、ドイツの資本で行われたものであり、スペースラブの管制センターは[[バイエルン州]]のオーバーファッフェンホーフェン(Oberpfaffenhofen)に置かれた<ref>[http://www.damec.dk/vis.asp?id=44] [http://www.eads.com/1024/en/investor/News_and_Events/news_ir/2008/20081128_eads_astrium_spacelab.html]</ref>-->。 最終的には、スペースシャトルの計135回の打ち上げで'''2090<u>億ドル</u>'''もの費用がかかっていた<ref name="SayounaraSS" />。 == 構造・メカニズム・諸元 == === 軌道船 === [[ファイル:Space Shuttle Orbiter-Illustration.jpg|thumb|left|300px|軌道船透視図]] [[ファイル:Plánik orbitera 2.JPG|thumb|left|300px|軌道船透視図]] {{main|オービタ}} 軌道船は多くの[[航空機]]と似たような形状をしており、[[主翼]]は内側が81°、外側が45°の後退角を持った二重[[デルタ翼]]で、[[垂直尾翼]]の後退角は50°である。主翼の後端には4枚の[[エレボン|動翼]]が取りつけられている。垂直尾翼後端には[[空力ブレーキ]]も兼ねた[[方向舵]]が設置されていて、降下と着陸の際に[[高揚力装置]](フラップ)とともに作動して機体を制御する。 [[飛行機#胴体|胴体]]部分のほとんどは直径4.6[[m]]、長さ18mの貨物搭載室が占めていて、観音開きの保護ドアによって覆われている。搭載物は通常は機体が水平の状態にあるときに格納され、その後機体とともに発射台上に垂直に設置される。[[無重力]]の宇宙空間では、搭載物は飛行士が操縦するロボットアームや[[船外活動]]によって放出される。搭載物自体が持っているロケットによって、さらに高い軌道へと投入されることもある。 [[ファイル:SSME1.jpg|thumb|upright|中央に見えるのが軌道船の3基のメイン・エンジン。その両脇にある2基の小さいロケットは軌道操縦システム。さらにその上にあるのが[[垂直尾翼]]。]] 機体の後端には、メイン・エンジンが三角状に配置されている。エンジンの[[ノズル]]は上下方向に10.5°、左右方向に8.5°傾けることが可能で、上昇中に推力の向きを変えて機体の進行方向を制御する。軌道船の機体構造は主に[[アルミニウム合金]]によって作られているが、エンジン部分の支持構造には[[チタニウム]][[合金]]が使用されている。 軌道船は飛行目的に応じて、軌道実験室([[スペースラブ]]、[[スペースハブ]])、搭載物をより高い軌道に投入するためのロケット([[慣性上段ロケット]] (IUS)、[[ペイロード・アシスト・モジュール]] (PAM))、軌道滞在期間延長機器(EDO (Extended Duration Orbiter) キット)、[[シャトル・リモート・マニピュレータ・システム|カナダ・アーム]]など様々な追加機器を搭載することができる。 製造された機体の中で実際に宇宙に行くことができたのは、OV-099チャレンジャー号、OV-102コロンビア号、OV-103ディスカバリー号、OV-104アトランティス号、OV-105エンデバー号の5機である<ref>{{cite web |url = http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/resources/orbiters/orbiters.html |title = Orbiter Vehicles |publisher=NASA Kennedy Space Center |accessdate = 2009-10-11 }}</ref>。 '''オービタに加えられた主な機器の画像''' {{center|<gallery> ファイル:Mplm in shuttle.jpg|多目的補給モジュール (注:MPLMはシャトル計画ではなくISS計画の構成品) ファイル:STS034-71-000AK - STS-34 Galileo spacecraft IUS deployment sequence in OV-104's payload bay - 1989.jpg|[[ガリレオ (探査機)|ガリレオ探査機]]を載せたIUS ファイル:SBS-3 with PAM-D stage.jpg|衛星を放出するPAM ファイル:EDO pallet.jpg|軌道滞在期間延長 (EDO) 機器 ファイル:Spacelab Module in Cargo Bay.jpg|スペースラブ ファイル:1996 s72 Scott EVA.jpg|カナダ・アーム </gallery>}} === 外部燃料タンク === {{main|スペースシャトル外部燃料タンク}} 外部燃料タンク (ET) の主な機能は、軌道船のメイン・エンジンに[[燃料]]の[[液体水素]]と[[酸化剤]]の[[液体酸素]]を供給すると同時に、2本のSRBと軌道船を接続し、全体を支える骨組みとなることである。ETはシャトルの中では唯一再使用されない部分で、飛行のたびに投棄されているが、軌道に投入して(宇宙ステーションに接続するなどして)利用することは構想としては検討されていた<ref name="etuse">[http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19940004970_1994004970.pdf NASA-CR-195281, "Utilization of the external tanks of the space transportation system"]. NASA, August 23–27, 1982.</ref><ref name="etuse2">[http://www.astronautix.com/craft/stsation.htm STS External Tank Station] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150407010201/http://www.astronautix.com/craft/stsation.htm |date=2015年4月7日 }}. astronautix.com</ref>。 === 固体燃料補助ロケット === {{main|スペースシャトル固体燃料補助ロケット}} 固体燃料補助ロケット (SRB) は2基合計で発射時に必要とされる推力の83%、約1,250万[[ニュートン (単位)|ニュートン]](1,276.8[[トン]])を発生し<ref name="Columbia Accid Report D.7">[http://caib.nasa.gov/news/report/pdf/vol2/part07.pdf Columbia Accident Investigation Board Report, Vol II, Appendix D.7] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090411132700/http://caib.nasa.gov/news/report/pdf/vol2/part07.pdf |date=2009年4月11日 }}. NASA, October 2003.</ref>、打上げから2分後、高度約15万[[フィート]](46km)に達したところで切り離され、パラシュートで海に着水して回収される<ref>{{cite web|title=NASA Space Shuttle Columbia Launch|url=http://www.asterpix.com/console?as=1203639196321-20328515dc|accessdate=2020-04-25}}</ref>。外殻は厚さ13[[ミリメートル|mm]]の[[鋼鉄]]でできている<ref>{{cite web|author=NASA|url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v2appl2b.htm|title=Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle Challenger Accident|publisher=NASA|accessdate=2020-04-25}}</ref>。SRBは何度も再使用されるもので、一例を挙げれば[[2009年]]に試験発射された[[アレスI]]-Xロケットは、過去48回のシャトルの飛行で使用されたSRBの部品を寄せ集めて作られたものであり、その中には1981年の初飛行 (STS-1) で使われたものも含まれていた<ref>[http://www.nasa.gov/mission_pages/constellation/ares/09-053.html NASA Ares I First Stage Motor to be Tested August 25]. NASA, July 20, 2009.</ref>。 === 飛行制御系統 === シャトルはコンピュータ制御された[[フライ・バイ・ワイヤ]]方式の[[デジタル]]飛行制御システムを採用した、初期のころの機種の一つである。これは[[パイロット (航空)|飛行士]]が操作する[[操縦桿]]やペダルと、機体の操縦翼面や姿勢制御システムの間に機械的なリンクや[[油圧]]系統などが一切存在しないということを意味する。飛行士が入力した操作は電気信号に変換され、[[電線]](ワイヤ)を介して操縦装置に伝えられる。 フライ・バイ・ワイヤ方式の最大の懸念は信頼性の問題であり、シャトルのコンピューターシステムについては多くの研究開発が行われた。シャトルは [[IBM]]製の5台のAP-101と呼ばれる、それぞれ独立して[[冗長化|冗長性]]を持ち、[[組み込みシステム]]を構成する32[[ビット]]汎用コンピューターを使用している。このうち4台は主飛行電子ソフトウェアシステム (Primary Avionics Software System, PASS) という特製の[[ソフトウェア]]で稼働し、残りの1台はこれとは別の、バックアップ飛行システム (Backup Flight System, BFS) というソフトを使用している。これらを総称して「データ処理システム (Data Processing System, DPS)」と呼ぶ<ref name="LogicD">{{cite web|publisher=NASA Office of Logic Design|url=http://www.klabs.org/mapld06/abstracts/139_ferguson_a.html|title=Implementing Space Shuttle Data Processing System Concepts in Programmable Logic Devices|accessdate=2006-08-27|author=Ferguson, Roscoe C.|coauthors=Robert Tate and Hiram C. Thompson}}</ref><ref name="ibm">{{cite web|url=http://www-03.ibm.com/ibm/history/exhibits/space/space_shuttle.html|title=IBM and the Space Shuttle|accessdate=August 27, 2006|author=IBM|publisher=[[IBM]]}}</ref>。 シャトル用DPS設計の到達目標は、[[フェイルセーフ]]を達成して信頼性を向上させることだった。DPSは、もし5台のコンピューターのうち1台が故障してもミッションを継続することができ、2台が故障しても安全に着陸できるように設計されている。 4台の汎用コンピューターは、相互に監視し合いながら稼働している。もし1台が他と違う指令を出した場合は、3台が「投票」を行い、違う指令を出している1台を機体の制御から除外する。残りの3台のうち1台がまたもや違う指令を出した場合は、残った2台が投票をしてその1台を除外する。極めて稀な場合だが、もし4台の「主張」が2対2に別れた場合は、どちらか一方のグループが無作為に選ばれる。 BFS(バックアップ飛行システム)は5台のコンピューターの中で独立して開発されたソフトで、4台のメインシステムが故障した時にのみ稼働する。BFSが開発されたのは、メインシステムは[[ハードウェア]]的には冗長性を持たせているものの全く同じソフトで稼働しているため、もし何らかのエラーが発生した時には4台すべてが故障してしまう可能性があるからである。埋め込み式[[アビオニクス]]ソフトは、一般の商用ソフトとは全く違う環境のもとで開発されている。コードラインの数は商用ソフトに比べればごく限られたもので、変更がなされることは滅多になく、広範な試験が行われ、ほんのわずかなコンピューターコードのために開発要員や試験要員も含めて多くの人員が関わっている。しかし、どんなに万全を尽くしても故障というのは常に起こりうるものであり、そのような不測の事態に備えてBFSは用意された。シャトルが退役するまでの間、実際にBFSが操縦を引き継ぐような事態が発生することは一度もなかった。 シャトルのコンピューターのソフトウェアは、[[PL/I]]に似たHAL/Sと呼ばれる高級[[プログラミング言語]]で書かれている。これはリアルタイム組み込みシステム環境のために、特別に設計されたものである。 IBM製AP-101コンピューターは、もともと1台あたり約424[[キロバイト|KB]]の[[磁気コアメモリ]]を持ち、[[CPU]]は毎秒40万回の計算を行うことができた。[[ハードディスク]]はなく、ソフトは[[磁気テープ]]カートリッジからロードした。 [[1990年]]、AP-101はAP-101Sという上位機種に置きかえられた。記憶容量はこれまでの2.5倍の約1[[メガバイト|MB]]に、演算速度は3倍の毎秒120万回に向上し、さらに[[記憶装置]]は[[磁気コアメモリ]]からバックアップ[[電池]]つきの[[半導体メモリ]]に改良された。 1983年11月から、シャトルにはグリッド・コンパス (GRiD Compass) と呼ばれる、世界で最も初期の頃に作られた[[ラップトップ]]型[[コンピュータ]]を使用していた。コンパスはせいぜい8,000ドル程度で売られていた安価なものだが、その重量や大きさに比して不釣り合いなほどの性能を当時発揮し<ref name="GRiD">{{cite web|url=http://www.computerhistory.org/events/index.php?id=1139464298|title=Pioneering the Laptop:Engineering the GRiD Compass|accessdate=October 25, 2007|publisher=The Computer History Museum|year=2006|author=The Computer History Museum}}</ref>、NASAはその重要な顧客の一つだった<ref name="GRiDNASA">{{cite web|url=http://ntrs.nasa.gov/search.jsp?R=499112&id=1&qs=Ntt%3DGRiD%252BCompass%26Ntk%3Dall%26Ntx%3Dmode%2520matchall%26N%3D0%26Ns%3DHarvestDate%257c1|title=Portable Computer|accessdate=October 26, 2007|publisher=NASA|year=1985|author=NASA}}</ref>。なお、グリッド・コンパスは飛行制御系統には関係せず、シャトルの飛行軌跡を2周回分表示させるのに使用された。 [[ファイル:Shuttle Patch.svg|thumb|100px|シャトル計画の標章]] === 機体の塗装と標章 === 操縦室の窓と貨物搭載室ドアの間の機体側面には、軌道船の名称が書かれている。搭載室ドア後部の下側には、NASAの標章と「United States」の文字および[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]が描かれている。国旗は右側主翼にももう一つある。文字に使用されている書体は[[Helvetica]]である<ref>{{cite video|date=2007-09-12 |title=[[Helvetica (film)|Helvetica]]|medium=[[Documentary film|Documentary]]}}</ref>。 === 改良 === シャトルは1970年代に開発された宇宙船<ref name="shuttle_sale">{{cite news|url=http://abcnews.go.com/Technology/wireStory?id=9574776|title=Recession Special: NASA Cuts Space Shuttle Price|last=Dunn|first=Marcia|date=January 15, 2010|publisher=''[[ABCニュース (アメリカ)|ABC News]]''|accessdate=January 15, 2010}}</ref>であるため、その当時から安全面における性能や信頼性を向上させるべく多くの改良や改造が施されてきた。 [[ファイル:STSCPanel.jpg|thumb|STS-101の操縦席。アトランティス号で[[グラスコックピット]]が初めて採用された。]] 内部構造のほとんどは初期に設計されたものとそれほど変わってはいないが、アビオニクス(飛行用[[電子機器]])は大きく変貌した。たとえばコンピューターのアップグレード(性能向上)に関して言えば、初期の頃の[[アナログ]]式の[[計量器|メーター]]類は廃止され、最新型の[[エアバスA380]]や[[ボーイング777]]に使われているような、[[グラスコックピット]]と呼ばれるフルカラーの[[液晶]]表示板に改められた。[[HP-41C]]のような[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]入力可能な[[電卓]]も、依然として使われている。ISS(国際宇宙ステーション)の登場により、ISSに補給物資を届ける飛行でより多くの貨物をミッドデッキに搭載できるよう、内部エアロックは外部エアロックに置き換えられた。外部エアロックの上部には、ISSとのドッキングに使うロシアの[[アンドロジナスドッキング機構]]が使われた。 <!-- 勘違いしているようでしたので補足しますが、Kursを装備していないシャトルには自動ドッキング能力はありません。クルーの操縦でドッキングします。--> SSME(メイン・エンジン)もまた、信頼性と[[動力|出力]]を向上させるべく何度も改良を施されてきた。発射時に「エンジンの出力を104%に上げる」という言い回しが存在することはその名残である。これは安全上の限界を超えてエンジンを噴射するという意味ではなく、初期のエンジン出力と比較しての値を指す。長い開発期間のうちに製造元の[[ロケットダイン]]社は、安全出力を当初の設計値の104%にまで向上させることができたのだが、これまでに作成した膨大な量の文書やソフトを書き直す必要を避けるため104%という言い回しが残ることとなった。SSMEの進歩の歴史は、フェーズII、ブロックI、ブロックIA、ブロックIIA、ブロックII <!-- 補足:ブロックIIAは過渡的なモデルで、ブロックIIが最終型なので、この順番の表記が望ましい-->のような「ブロック番号」となって残されている。これらの改良によってエンジンの信頼性・メンテナンス性・性能は大きく向上し、[[2001年]]にはブロックIIエンジンを109%の推力にまで到達させることができた。ただし通常使用される最大推力は104%までで、106%または109%が実現されるのは緊急事態が発生して飛行が中止される時だけである。 最初の二回の飛行[[STS-1]]と[[STS-2]]では、外部燃料タンクが[[太陽光]]を吸収して内部の温度が上昇するのを防ぐため全体が白色に塗られた。しかし地上での試験で必要ないことが分かったので次回からは廃止され、その塗料の分だけ軌道に投入できる搭載量が増えることとなった<ref name="aerospaceweb">{{cite web|url=http://www.aerospaceweb.org/question/spacecraft/q0285.shtml|title=Space Shuttle External Tank Foam Insulation |accessdate=October 25, 2007 |publisher=Aerospaceweb.org |year=2006 |author=Aerospaceweb.org}}</ref>。他のところでは、[[スペースシャトル外部燃料タンク#液体水素タンク|液体水素タンク]]内部の桁のいくつかも不要なことが判明したため、軽量化のために取り除かれた。改良を施された[[スペースシャトル外部燃料タンク#軽量タンク|軽量タンク]]はほとんどの飛行で使用されてきたが、STS-91からは[[スペースシャトル外部燃料タンク#超軽量タンク|超軽量タンク]](SLWT)に置きかえられた。改良型の超軽量タンクにはアルミニウム/[[リチウム]]合金2195が使用されていて、最終型の軽量タンクに比べ3.4トンの減量に成功した。シャトルは無人では飛行できない設計になっているため、これらは実際の飛行で試してみる以外に手段がなかった。 SRB(固体燃料補助ロケット)もまた、何度も改良されてきた。代表的なところでは[[チャレンジャー号爆発事故]]の後、本体接合部分の密閉性を確保する[[Oリング]]が三重に強化された。 SRBには他にも性能や安全性を高めるためのいくつかの改良が試みられたが、実現されることはなかった。その中の一つに、より簡略かつ低コストで、安全面や性能にも格段の向上を果たしたと考えられる[[スペースシャトル固体燃料補助ロケット#発展型SRB|発展型SRB]](Advanced Solid Rocket Booster, ASRB)があった。ASRBは1990年代半ばに宇宙ステーション計画支援のため製造が開始されたが、開発費が22億ドルにまではね上がったため中止が決定された<ref>{{cite web|author=Encyclopedia Astronautica|url=http://www.astronautix.com/lvfam/shuttle.htm|title=Shuttle|publisher=Encyclopedia Astronautica|accessdate=2010-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100118201447/http://www.astronautix.com/lvfam/shuttle.htm|archivedate=2010年1月18日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。この代替案として、搭載能力を向上させるために超軽量タンクが開発されたが、安全性は向上しなかった。空軍は独自に、分割式ではない一体成形型の軽量SRBを開発していたが、こちらもまたキャンセルされた。 [[1995年]]、発射台上で準備作業をしていたディスカバリー号のETの発泡[[断熱材]]に[[キツツキ]]が穴を空けたため、発射が遅れるという事態が発生した。この時以来、NASAは発射台周辺に市販の鳥よけのための[[フクロウ]]の模型や風船を配置するようになった。これらは打ち上げの直前にすべて取り除かれる<ref>{{cite web|url=http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/missions/sts-70/woodpecker.html|title=Woodpeckers damage STS-70 External Tank|accessdate=2006-08-27|author=Jim Dumoulin|publisher=NASA}}</ref>。ET断熱材は[[発泡スチロール]]のようにもろい物質であるため、発射の際の衝撃や空気抵抗ではがれ落ち、軌道船を大気圏再突入の熱から保護する耐熱タイルを傷つける事故がこれまでにもたびたび発生してきた。断熱材の剥落は2003年[[2月1日]]に発生した[[コロンビア号空中分解事故]]の原因になり、その後も何度も打上げスケジュールの延期の原因になった。 人間が搭乗せず、搭載物だけを宇宙に送る無人の発射計画も1980年代以来何度も提案されてきたが、そのたびに却下された。「{{仮リンク|シャトルC|en|Shuttle-C}}」と呼ばれるこれらの計画は、シャトルで蓄積されてきた技術を応用し、再使用という特性を放棄することとひきかえに、大幅なコストの削減が期待できるはずだった。 最初の4回の飛行では、飛行士は離陸時と帰還時には完全密閉型の[[ヘルメット]]を着用し、空軍の高々度用与圧服を改良した[[宇宙服]]を着た。5回目の飛行からはこの与圧服は廃止され、青いワンピースのフライトスーツと部分与圧ヘルメットを着用するようになったが、チャレンジャー号事故による2年間の中断の後に再開された1988年の飛行からは、打上げ/帰還時にはあまりかさばらないように改良されたヘルメットつきのオレンジ色の部分与圧服(Launch-Entry Suit: LES)を着用するようになった。1995年からは、完全与圧式の改良型与圧服 (Advanced Crew Escape Suit: ACES) に置き換えられた。 軌道船がISSとドッキングして宇宙に滞在できる期間を延長するために、ステーション・シャトル[[電力]]供給システム (Station-to-Shuttle Power Transfer System, SSPTS) が導入された。SSPTSはISSが発生した電力を使用して軌道船の消耗品の消費を抑えるもので、[[STS-118]]から実用化された。 === 技術的詳細 === [[ファイル:Space Shuttle vs Soyuz TM - to scale drawing.png|thumb|軌道船と[[ソユーズ宇宙船]]比較図(同縮尺)]] [[ファイル:Shuttle Left Wing Cutaway Diagram.jpg|thumb|主翼解剖図]] '''軌道船諸元'''<ref name="tech">{{cite book|last=Jenkins |first=Dennis R. |title=Space Shuttle: The History of the National Space Transportation System |publisher=Voyageur Press |edition= |date=2007 |pages= |isbn=0963397451}}</ref>(OV-105エンデバー号) * 全長:37.237m * 全幅:23.79m * 全高:17.86m * 空虚重量:78,000kg<ref>{{cite web |url=http://www-pao.ksc.nasa.gov/shuttle/resources/orbiters/endeavour.html |title=John F. Kennedy Space Center - Space Shuttle Endeavour |publisher=Pao.ksc.nasa.gov |date= |accessdate=2009-07-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110521101826/http://www-pao.ksc.nasa.gov/shuttle/resources/orbiters/endeavour.html |archivedate=2011年5月21日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref> * 離陸時総重量:111,000kg * 最大着陸重量:100,000kg * 主エンジン:ロケットダイン社製ブロックII-SSME3基。1基あたり海面推力1.752[[ニュートン (単位)|MN]](178トン、104%推力発生時) * 最大搭載量:25,060kg * 貨物室寸法:4.6m×18.0m * 運用高度:190〜960km(100〜520[[海里]]) * 最大速度:秒速7.743km(時速27,870km マッハ22.57相当) * 軌道範囲:2,009km(1,085海里) * 定員:飛行によって異なる。初期の頃は最小人員の2名で飛行したが、後の多くの飛行では5名になり、その後7名(船長、パイロット、数人の[[搭乗運用技術者]]、まれに[[航空機関士]](フライトエンジニア))で構成するのが一般的になった。STS-61-AとSTS-71の2回の飛行では8名が搭乗した。STS-3xxと呼ばれる緊急救助飛行では、11名(4人乗りで打ち上げて、7人を移乗)を搭乗できるよう検討されていた。 '''外部燃料タンク諸元'''(超軽量タンク) * 全長:46.9m * 直径:8.4m * 燃料容量:2,025m{{sup|3}} * 空虚重量:26,535kg * 発射時重量:756,000kg '''固体燃料補助ロケット諸元''' * 全長:45.46m<ref name="Jenkins_3rd">{{cite book|last=Jenkins |first=Dennis R. |title=Space Shuttle: The History of the National Space Transportation System |publisher=Voyageur Press |edition=Third |date=2002 |pages= |isbn=0-9633974-5-1}}</ref> * 直径:3.71m<ref name="Jenkins_3rd" /> * 空虚重量(1機あたり):68,000kg<ref name="Jenkins_3rd" /> * 発射時総重量(1機あたり):571,000kg<ref name="STS_prop_systems">[http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19910018886_1991018886.pdf Space Shuttle Propulsion Systems], p. 153. NASA, June 26, 1990.</ref> * 推力(発射時、海面推力):12.5MN(1,281,360kg)<ref name="Columbia Accid Report D.7" /> '''完成型詳細''' * 全長:56m * 発射時総重量:2,000,000kg * 発射時総推力:30.16MN(3,091,680kg) == 飛行手順の詳細 == === 発射 === [[ファイル:STS-79 rollout.jpg|200px|thumb|STS-79で、移動式発射台上に設置されるアトランティス号。両主翼上部に見える灰色の箱状のものは、シャトルに推進薬を充填したり電力供給などを行うための地上設備。]] [[ファイル:Sound suppression water system test at KSC Launch Pad 39A.jpg|thumb|200px|2004年、[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|ケネディ宇宙センター39番発射台]]で行われた騒音抑制装置の試験の様子。発射時には、爆音で機体が損傷することを防ぐために41秒間で1,100m³の水が放出される。]] [[ファイル:STS-115 shortly after liftoff.jpg|thumb|200px|発射台から上昇してゆくところ。(アトランティス号、STS-115)]] [[ファイル:Columbia STS-107 launch.jpg|thumb|160px|打ち上げられた後に地上から見える、空中に残された白い筋(コロンビア号、STS-107)]] [[ファイル:Atlantis taking off on STS-27.jpg|thumb|200px|高高度を上昇中のスペースシャトル。この写真は望遠撮影(アトランティス号、STS-27)]] シャトルの発射は、すべてケネディ宇宙センターで行われる。発射時に適用される天候基準は以下のとおりである。ただし、これだけに限定されるものではない。 # 発射台周辺や飛行経路に一切の[[降雨]]があってはならない。 # [[気温]]は[[摂氏]]2℃以上37℃以下でなければならない。 # 高度2,400mに上昇するまでの間に機体の姿を隠してしまうような[[雲]]が存在してはならない。 # 高度9,000mに到達するまでの間、[[雷]]が発生する確率が20%を超えてはならない<ref name="weather launch criteria">{{cite web|url=http://www-pao.ksc.nasa.gov/kscpao/release/1999/39-99.htm|title=SPACE SHUTTLE WEATHER LAUNCH COMMIT CRITERIA AND KSC END OF MISSION WEATHER LANDING CRITERIA|work=KSC Release No. 39-99|publisher=NASA Kennedy Space Center|accessdate=2009-07-06|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090626180630/http://www-pao.ksc.nasa.gov/kscpao/release/1999/39-99.htm|archivedate=2009年6月26日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 特に[[落雷]]が起きる可能性がある場合には、シャトルは絶対に発射されない。航空機はしばしば雷の直撃を受けることがあるが、構造が[[電気伝導体|伝導体]]であることや、[[電気]]的に[[接地]]されていないために[[電流]]が空気中に[[放電]]されることなどにより、機体が悪影響を受けることはない。これに対してシャトルは、機体構造は通常の[[ジェット旅客機]]と同じように伝導性のアルミニウムで作られているので内部機器が電流の影響を受けることはないが、発射時に噴射される噴煙が機体と地面をつなぐ電線の役目を果たしてしまう。このためNASAの基準では、周辺10海里以内に[[積乱雲]]が発生している場合には発射を行ってはならないことになっている<ref>Weather at About.com. [http://weather.about.com/od/thunderstormsandlightning/f/anvilrule.html What is the Anvil Rule for Thunderstorms?]. Retrieved 2008-06-10.</ref>。当日は気象担当官が発射台周辺のみならず、[[大西洋]]を越えた緊急着陸地点やSRB(固体燃料補助ロケット)の回収点の天候なども監視し、最終的に発射を行うかどうかを判断する<ref name="weather launch criteria" /><ref>NASA Launch Blog. [http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/launch/sts-121/launch-vlcc_070106.html]. Retrieved 2008-06-10.</ref>。シャトルは雷に対してはまず安全だとは思われるが、[[アポロ12号]]が発射された時には実際に落雷で船内が一時[[停電]]する事故が発生したため、NASAはこの件については特に慎重になっている。 長い間、シャトルは12月31日と1月1日をまたがっては飛行できなかった。1970年代に開発されたシャトル用のソフトウェアは年越しができるようには設計されておらず、もし飛行中にそれを強行するとコンピューターをリセットしなければならなくなり、予測できないようなエラーが発生する可能性が生じるからである。NASAの技術者がこの問題を解決したのは[[2007年]]のことで、これによってようやくシャトルは年を越えて飛行できるようになった<ref name="YERO">{{cite web |last=Bergin |first=Chris |title=NASA solves YERO problem for shuttle |url=http://www.nasaspaceflight.com/content/?cid=5026 |date=February 19, 2007 |accessdate=2007-12-22 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080418182718/http://www.nasaspaceflight.com/content/?cid=5026 |archivedate=2008年4月18日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 発射当日はTマイナス9分前の最後のホールド(待機)が解除された後、いよいよ最終的な準備段階に入り、管制センターに設置された地上の打上げ管制装置 (Ground Launch Sequencer, GLS) が秒読み作業を引き継ぐが、もしシャトルに搭載された機器に重大な問題が発生した場合には秒読みは自動的に停止される。発射31秒前には、「オート・シークエンス・スタート (Auto Sequence Start)」と呼ばれる作業工程によって秒読み作業がGLSからシャトルのメイン・コンピューターに引き継がれる。 発射16秒前(Tマイナス16)、騒音抑制装置が作動し、猛烈な[[音#音圧|音響]]で機体が損傷を負わないようにするために移動式発射台やSRBの火炎偏向板(フレームトレンチ)に1,100m³の水が放出されはじめる<ref name="sps">National Aeronautics and Space Administration. [http://www-pao.ksc.nasa.gov/kscpao/nasafact/count4ssws.htm "Sound Suppression Water System"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140313042409/http://www-pao.ksc.nasa.gov/kscpao/nasafact/count4ssws.htm |date=2014年3月13日 }} Revised 2000-08-28. Retrieved 2006-07-09.</ref>。 発射10秒前(Tマイナス10)、SSME(メイン・エンジン)のノズル内に停滞している水素ガスを燃焼させて除去するために、ノズルの下で電気[[放電|火花]]が飛ばされはじめる。エンジン周辺にこれらのガスが残っていると、点火する過程で搭載した検知機が異常を感知して、異常な加圧を招いたり爆発したりする可能性がある。この時、SSMEの[[ターボ]]・[[ポンプ]]が作動して燃焼室内に液体酸素や液体水素を供給しはじめる。この間、軌道船の4台のコンピューターは相互に指令を交わし、点火に必要なすべての動作を制御する。 発射6.6秒前(Tマイナス6.6)、SSMEの点火が始まる。点火指令は軌道船のGPC(汎用コンピューター)を経由して、3番エンジン(右側)、2番エンジン(左側)、1番エンジン(中央)の順に120[[ミリ秒]]の間隔を置いて送られる。GPCはSSMEの推力を90%にまで到達させると同時に、ノズルの向きを所定の位置に固定する<ref name="countdown101">National Aeronautics and Space Administration. [http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/launch/countdown101.html "NASA - Countdown 101"]. Retrieved 2006-07-10.</ref>。エンジンに点火されると、騒音抑制装置の水が[[蒸発]]して大量の[[水蒸気]]となり、南側に向かって噴出される。3基のSSMEの推力はそれから3秒以内に100%に達しなければならず、もしそれが実現しなかった場合はGPCがエンジンを緊急停止させる。逆に正常に推力が発生されていることが確認されれば、SRBを発射台に固定している8本の[[爆発ボルト]]が吹き飛ばされ、SRBに点火される。この時間こそが「Tマイナス0」と規定されている発射の瞬間であり、この直後に機体は上昇を開始する。そしてSRBは、いったん点火されたら燃料をすべて消費するまで燃焼を停止することはできない<ref>{{cite web|url=http://spaceflight.nasa.gov/shuttle/reference/shutref/srb/posts.html |title=HSF - The Shuttle |publisher=Spaceflight.nasa.gov |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>。SRBの排気ガスは北側に向かって掘られた火炎坑に沿って[[音速]]に近い速度で噴出され、しばしば[[衝撃波]]を発生させる原因となる。GPCは、4台の汎用コンピューターに設定された「発射手順制御装置(Master Events Controller)」と呼ばれるプログラムを介して点火の手順を実行する。上昇中に様々な異常事態が発生したときの緊急対応手順(中止方法)は、広範囲なものが用意されている。その大部分を占めるのは最も複雑で大きな負荷がかかるSSMEに関するもので、SRBが原因でチャレンジャー号爆発事故が発生した後には、緊急対応手順はより拡充されたものになった。 SSMEに点火されSRBが発射台から解放されるまでの間、機体はエンジンの推力によって機首下げの方向にわずかに(操縦席付近で約2m)傾く。この運動は、NASAの隠語で「うなずき (nod)」あるいは「はじき (twang)」などと呼ばれている。その後機体は約6秒かけてまた元の位置に揺れ戻ってきて、完全に垂直になった瞬間にSRBに点火されて上昇を開始する。 発射整備塔を離れた直後、シャトルは予定軌道に対応するため[[ローリング|ロール]]運動と[[ピッチング|ピッチ]]運動を開始し、ETとSRBが上になった裏返しの姿勢になる。機体はゆるやかな弧を描きながら上昇し、燃料はどんどん消費されて重量が軽くなっていくため、[[加速度]]は徐々に増加していく。発射直後の加速度は1.2[[重力加速度|G]]で、SRBが切り離される直前は2.5Gに増大し、SRB切り離し直後はいったん0.9Gに落ち、その後SSMEが燃焼を停止する直前には3Gにまで達する。地球周回軌道に乗るためには垂直方向よりもむしろ水平方向への加速がより多く必要とされるが、機体が視界から消える前はほぼ垂直に上昇していくため、水平方向への運動はほとんど確認することはできない。ISSが周回している高度380km付近での[[宇宙速度#第一宇宙速度|周回速度]]は秒速7.68km、時速27,650kmで、地表付近では[[マッハ]]23に相当する。ISSは[[赤道]]に対して51.6°の[[軌道傾斜角|傾斜角]]をもって地球を周回しているので、シャトルが[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]をするためにはその角度に合わせる必要がある。 [[ファイル:SSLV ascent.jpg|thumb|upright|速度マッハ2.46、高度約20,000mに達した頃の機体表面の圧力図。気圧が低い部分から高くなるに従って青から赤へと色分けされている。灰色は機体をとりまく空気の密度を表している。「オーバーフロー (Overflow)」というソフトを使用して作成。]] [[最大動圧点|マックスQ]]付近では、機体の、特に主翼などの弱い部分にかかる空気力学的圧力を抑えるため一時的にSSMEの推力が65%にまで絞られる。その前後では、空気の急激な圧縮と断熱膨張によりベイパーコーン (vapor cone) や[[プラントル・グロワートの特異点]]が起こる。 発射126秒後、SRBをETにつなぎとめていたボルトが[[爆薬]]で切断される。SRBはブースター分離モーターを噴射して機体の後方へと押しのけられ、残った推力を偏向し180度のターンを行い燃焼を完全に終了し、真下を向いて落下する。SRBはパラシュートで海に着水して再使用のため回収されるが、シャトルはSSMEの推力でなおも上昇を続ける。この時点では、機体はSRBがなくなったことで推力と重量の比は1を下回っているため、SSMEの力だけでは地球の[[重力]]を振り切ることはできなくなる。しかし燃焼を続けるうちに燃料が消費されて徐々に機体が軽くなり、やがて推力:重量比は再び1を超え、最終的に軌道に到達するまで二度と1を下回ることなく加速を続ける。 <!--[[ファイル:space shuttle glow.JPG|thumb|left|[[STS-119]]で宇宙から撮影された[[夕焼け]]の写真。雲が白からオレンジ色に変わっている。]]--> 機体はその後も機首をやや上に向けた姿勢で徐々に軌道を水平に近づけ、SSMEの力で加速する。発射から約5分45秒後、地上との直接通信が終了し、背面が宇宙空間に向いた姿勢になるよう機体を反転させる。地上との交信は、その後は[[TDRS|追跡およびデータ中継衛星]] (Tracking and Data Relay Satellite, TDRS) を介して行われる。 最後の10秒間には機体は相当に軽くなっているため、飛行士に負担をかけないよう加速度が3G以下になるように推力が絞られる。 メイン・エンジンは空転すると機器を傷める可能性があるので、燃料が完全に空になる前に停止される。液体酸素は液体水素よりも前に供給が停止される。液体酸素はより過激に反応する傾向があり、停止直後の加熱した金属部分に触れると爆発するかもしれないからである。ETはエンジン停止後に爆発ボルトで切り離され、大部分は大気圏内で消滅してわずかな部品が[[インド洋]]または[[太平洋]]に落下するが、どこに落ちるかは打上げプロファイルによって変わる<ref name="tech" />。タンク内の配管はすべて密閉されており、圧力を解放するような装置は設けられていないため、ETは大気圏下層部で内圧によって破裂する。大気圏再突入時に表面の断熱材が焼失すると、内部に残っていた液体酸素や液体水素を熱から保護する手段がなくなるため、急膨張して爆発の大きな要因になる。このような手段によって、地上に大きな破片が落下するのを防いでいる。 ET分離直後は、軌道の[[近地点]]はまだ大気圏を離れてはいないので、そのままでは大気圏に再突入することになる。そのため軌道船は軌道操縦システム (Orbital Maneuvering System, OMS) を噴射し、近地点をより高い高度に設定してETと衝突するのを防止する。一部の飛行(すなわちISSミッションなど)では、打上げ能力を確保するためにOMSが、メイン・エンジンの燃焼後期に並行して使用された。投入時の軌道をこのように設定しているのは、ETを宇宙空間に放出せず大気圏内で廃棄するためと、もしOMSが点火しなかったり、何らかの理由で搭載室のドアが開かなくなるような事態が発生しても、このような軌道にしておけば自動的に地球に帰還できるから、という安全上の理由もある。 === 軌道上 === [[ファイル:STS007-32-1702.jpg|thumb|200px|軌道上のチャレンジャー号(1983年)]] 軌道に乗ると、シャトルは様々な、しばしば相互に関連した任務をこなす。1980年代から90年代にかけては、NASAと[[ヨーロッパ宇宙機関]]が共同開発した宇宙実験室 (Spacelab) などを含む宇宙科学計画や多種多様な衛星や科学探査機の軌道投入に使用されてきた。90年代から2000年代にかけては衛星打上げの任務は減少し、計画の焦点はもっぱら宇宙ステーションの建設に移った。ほとんどの飛行は数日から2週間程度で終了するが、軌道滞在期間延長機器 (Extended Duration Orbiter) を搭載したり国際宇宙ステーションにドッキングすれば、滞在期間をさらに延長することもできる。 === 大気圏再突入および着陸 === {{未検証|date=2007年6月|section=1}} シャトルの[[大気圏再突入]]の過程では、降着装置をおろすのと、対気速度計に使う[[ピトー管]] (air data probe) を展開する作業以外はすべてコンピューターが自動で行うが、もし何か緊急事態が発生した場合は手動で再突入することも可能である。滑走路への進入と着陸も[[自動操縦装置]]に任せることはできるが、通常は手動で行われる。 再突入の作業は、まず軌道船の飛行方向を反転させ、機体後部を進行方向に向けることから始まる。その姿勢でOMSロケットを進行方向に約3分間噴射し([[逆噴射]])、軌道周回速度を322km/hほど減速する。これにより、軌道の近地点を下げて大気圏上層部に入るようにする。逆噴射の間にかかる加速度は約0.1Gである。その後軌道船は反転して機首を下げ(地球から見ればひっくり返した姿勢になっていたので機首を上げる方向(ピッチ軸を時計回り)に180度回転)、機首を進行方向に向ける。逆噴射は、着陸地点のケネディ宇宙センターから見てほぼ地球の裏側の、インド洋上空の赤道付近で行われる。 [[ファイル:Stsheat.jpg|thumb|140px|再突入時、機体表面の温度が1,500℃以上に上昇する状態を再現した[[シミュレーション]]画像]] 高度約120kmの[[熱圏]]下層部にさしかかる頃、機体にかかる空気抵抗が顕著になりはじめる。この時の速度はマッハ25(時速30,000km、秒速8.3km)ほどである。シャトルは40°ほどの[[迎角]]をとりつつ[[姿勢制御システム]]と動翼を併用して機体を制御し、長い航跡を引いて速度だけでなく熱も減少させながら次第に降下していく。空気抵抗が増加するにつれ、シャトルは宇宙船から次第に航空機としての性格を現すようになる。直進している間は、機体には機首を下げるかもしくは40°よりも高い迎角をとらせようとする力が働く。軌道船は途中で4回、70°以上の深い[[ローリング|バンク]]角をとったS字飛行をする。この間迎角は40°を保ったままで、各Sターンは数分間行われる。この操作を行うことで、機体の[[運動エネルギー]]を上下方向ではなく左右方向に分散して減速する。このS字飛行が始まるのは熱負荷が最も強烈になる時間帯で、この間熱保護シールドは灼熱化し、加速度は最大となる。最後のターンが終わる頃には軌道船は完全に航空機(グライダー)となっており、機首を下げて機体を水平にし、着陸施設への進入作業が開始される。 {{center|<gallery> ファイル:CFD Shuttle.jpg|軌道船が超高速で飛行する状態をコンピューター・シミュレーションで再現した画像 ファイル:Sts-127 landing.ogv|エンデバー号(STS-127)帰還の動画 </gallery>}} 軌道船の最大滑空比/揚抗比は速度によって相当に変化し、極超音速域では1:1、超音速域では2:1で、滑走路への進入と着陸を行う[[亜音速]]域では4.5:1にまで低下する<ref>http://klabs.org/DEI/Processor/shuttle/shuttle_tech_conf/1985008580.pdf</ref>。 大気圏下層部では、軌道船は毎秒50m(時速180km)という高い降下率を除けば通常のグライダーのように飛行する。この高い高い降下率は、しばしば「空飛ぶレンガ」「翼の生えたレンガ」と揶揄される。速度がマッハ3程度にまで低下したところで、機体の対気速度を検出するため、胴体前方下部の左右両側に設置された対気速度測定用の[[ピトー管]]が展開される。 [[ファイル:Atlantis is landing after STS-30 mission.jpg|thumb|160px|着陸直前、一般の[[航空機]]と同じように[[降着装置]]をおろす[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス号]]]] 高度3,000m、滑走路端まで12kmに達したところで、進入および着陸操作が開始される。飛行士は[[空力ブレーキ]]を作動させ、機体の速度を682km/hから着陸速度の346km/hにまで減速させる(一般的なジェット旅客機の着陸速度は260km/h程度である)。機体のノーズは滑走路手前ギリギリまでノーズダウンの状態であるが、着陸寸前でノーズアップの状態とされ機体下面の空気抵抗を利用してさらに減速が行われる。430km/hで[[降着装置]]がおろされ、343km/hあたりで[[タイヤ]]が接地し着陸する。シャトルは通常航空機に対して重く、着陸時のタイヤへの加重は過酷で、ボーイング747の2-3倍の63.6トンにもなる。タイヤは16層構造で1本4000ドルで6回まで再使用できるが、実際は使い捨てである。空力ブレーキの作動を補助するために、後輪または前輪が接地したところで直径12mのドラグシュートが展開されるが、どちらの段階で開くかはシュートの展開モードの選定によって変わる。ドラグシュートは機体が110km/h以下になった段階で投棄される。 着陸後は、機体の表面温度が下がるまで数分間待ち、有毒な水素や[[ヒドラジン]]、[[四酸化二窒素]](姿勢制御システムや3台ある[[補助動力装置]]の燃料として使用される)、アンモニアが機体周囲から検出されないかを確認し終えるまで、軌道船は滑走路上で停止したままにされる。支援車両によってパージとベント用の配管が軌道船の燃料配管と貨物室への配管に取り付けられ、着陸後約45-60分かけて有害なガスが除去される。 以上の着陸行程は、基本的にグライダーとして動作するために、やり直しが行えない。そのため着陸地点の天候は厳重にチェックされ、気象予報によっては他の着陸ポイントに変更される。機体は航空機としては非常に重量があるため、通常の飛行場の滑走路では耐えられず、特別に強化された路面をもつ飛行場が選ばれた。通常は[[NASAシャトル着陸施設]]の長さ5.2kmの滑走路が主に使用されるが、[[カリフォルニア州]]の[[エドワーズ空軍基地]]も使用された。この他世界各地に予備の着陸地点が指定され、日本では[[嘉手納飛行場]]がその一つであった。 上記のような操縦特性とアプローチに習熟するため、NASAでは[[グラマン ガルフストリーム II|ガルフストリーム II]]を改造した[[:en:Shuttle Training Aircraft|シャトル訓練機]]での訓練を行っていた。 {{center|<gallery> ファイル:STS-95 landing.jpg|タイヤが接地する瞬間、摩擦で煙があがっているところ(ディスカバリー、[[STS-95]]) ファイル:STS-73 landing.jpg|着陸(ケネディ宇宙センター、コロンビア、STS-73) ファイル:Space Shuttle Endeavour landing.jpg|着陸直後、減速のためにドラグシュート(後方の[[パラシュート]]状のもの)を展開する(エンデバー号) ファイル:Discovery mission completed q.jpg|停止後、乗降用のタラップが寄せられたところ。(ディスカバリー号) ファイル:Gulfstream II Shuttle Training Aircraft.jpg|[[:en:Shuttle Training Aircraft|シャトル訓練機]] </gallery>}} === 着陸施設 === シャトルの着陸は、初期は[[カリフォルニア州]][[エドワーズ空軍基地]]に、ケネディ宇宙センターの滑走路が整備された後は基本的にはケネディ宇宙センターで行われることが多かった。ケネディ宇宙センターの天候が不順な場合は回復するまで宇宙で待機したり、あるいは[[エドワーズ空軍基地]]やその他世界中に配置された代替基地に着陸することもできた。ただしケネディ以外の施設に着陸するということは、その後に[[シャトル輸送機]]で[[ケープ・カナベラル]]まで運ばれて来なければならないことを意味した。代替着陸基地の一つのホワイト・サンズ空軍基地の滑走路はシャトルが着陸するには整備が不十分という問題もあった。STS-3ではコロンビア号が[[ニューメキシコ州]]のホワイト・サンズ空軍基地に着陸したが、この滑走路は当時はまだ整備が行き届いておらず、細かい砂が機体に入り込んでその後の整備が大変だった。シャトルを空輸するためのクレーン設備も準備する必要があるなど問題があった。結局、同基地に着陸したのはこの1回だけである。 代替着陸施設は多数あるが、エドワーズ空軍基地とホワイト・サンズ空軍基地以外は使用されることはなかった<ref>{{cite web |author=Global Security |publisher=GlobalSecurity.org |url=http://www.globalsecurity.org/space/facility/sts-els.htm |title=Space Shuttle Emergency Landing Sites |accessdate=2007-08-03}}</ref><ref>{{cite web |author=US Northern Command |url=http://www.northcom.mil/News/2009/031309_a.html |title=DOD Support to manned space operations for STS-119 | accessdate=2010-04-30}}</ref>。エドワーズ空軍基地についても、シャトルの大陸横断に掛かる多額のコストのため近年はできるだけ利用しない方針が採られており、日本人最後の乗務となった[[STS-131]]の着陸時にも一時は使用が決定していたが<ref>http://www.cnn.co.jp/science/AIC201004200009.html</ref>、最終的にはケネディ宇宙センターへの着陸となった。 {{center|<gallery> ファイル:Atlantis on Shuttle Carrier Aircraft.jpg|[[ボーイング747]][[シャトル輸送機]]で運ばれるアトランティス号。1988年 (NASA) ファイル:Space Shuttle Transit.jpg|シャトル輸送機で運ばれるエンデバー号 </gallery>}} == 飛行記録 == {{main|スペースシャトルのミッション一覧}} 主なシャトルの飛行記録は以下のとおりである。 [[ファイル:OV-101 first flight.jpg|thumb|[[1977年]]、シャトル計画の一環である進入着陸試験で、カリフォルニア州エドワーズ空軍基地の[[ドライデン飛行研究センター]]に向けて初飛行するエンタープライズ号 (OV-101)]] {|class="wikitable" border="1" style="font-size:90%;" |+ '''スペースシャトル主飛行記録''' |- ! 日時 ! 軌道船 ! 主なできごと/注記 |- | [[1977年]][[2月18日]] |'' [[スペースシャトル・エンタープライズ|エンタープライズ]] '' | シャトル輸送機に搭載されての初飛行 |- | 1977年[[8月12日]] | ''エンタープライズ'' | 初の単独滑空飛行。ロジャース乾湖に着陸。 |- | 1977年[[10月12日]] | ''エンタープライズ'' | 三度目の飛行。尾部保護カバーを取り除いての初飛行。ロジャース乾湖に着陸。 |- | 1977年[[10月26日]] | ''エンタープライズ'' | ''エンタープライズ''最後の滑空試験。エドワーズ空軍基地のコンクリート滑走路への初着陸。 |- | [[1981年]][[4月12日]] | '' [[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]'' | 宇宙空間への初飛行 ([[STS-1]]) |- | [[1982年]][[11月11日]] | ''コロンビア'' | 4名の飛行士を搭乗させての初の実用飛行 (STS-5) |- | [[1983年]][[4月4日]] | ''[[スペースシャトル・チャレンジャー|チャレンジャー]]'' | ''チャレンジャー''初飛行 ([[STS-6]]) |- | [[1984年]][[8月30日]] | ''[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]'' | ''ディスカバリー''初飛行 (STS-41-D) |- | [[1985年]][[10月3日]] | ''[[スペースシャトル・アトランティス|アトランティス]]'' | ''アトランティス''初飛行 (STS-51-J) |- | [[1986年]][[1月28日]] | ''チャレンジャー'' | 発射73秒後に機体が爆発 ([[チャレンジャー号爆発事故]]) ([[STS-51-L]])。7名の飛行士全員が死亡。この中に教師もいた。 最初の悲劇 |- | [[1988年]][[9月29日]] | ''ディスカバリー'' | チャレンジャー号事故後の初の再開飛行 ([[STS-26]]) |- | [[1989年]][[5月4日]] | ''アトランティス'' | シャトルを使用しての初の[[宇宙探査機|探査機]]発射([[マゼラン (探査機)|マゼラン]]、STS-30) |- | [[1990年]][[4月24日]] | ''ディスカバリー'' | [[ハッブル宇宙望遠鏡]]発射 ([[STS-31]]) |- | [[1992年]][[5月7日]] | ''[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー]]'' | ''エンデバー''初飛行 (STS-49) |- | [[1996年]][[11月19日]] | ''コロンビア'' | 17日間と15時間にわたるシャトルの最長宇宙滞在記録 (STS-80) |- | [[2000年]][[10月11日]] | ''ディスカバリー'' | シャトル100回目の飛行 ([[STS-92]]) |- | [[2003年]][[2月1日]] | ''コロンビア'' | [[コロンビア号空中分解事故|大気圏再突入時に空中分解]] ([[STS-107]])。7名の飛行士全員が死亡。 見過ごされた危機だった |- | [[2005年]][[7月25日]] | ''ディスカバリー'' | コロンビア号事故後の初の再開飛行 ([[STS-114]]) |- | [[2010年]][[2月8日]] | ''エンデバー'' | 最後の夜間発射 ([[STS-130]]) |- |- | [[2010年]][[5月14日]] | ''アトランティス'' | ''アトランティス'' 号の計画上での最後の飛行 ([[STS-132]])(後にSTS-135が追加され、それが最後の飛行になった) |- | [[2011年]][[2月24日]] | ''ディスカバリー'' | ''ディスカバリー''最後の飛行 ([[STS-133]]) |- | [[2011年]][[4月29日]] | ''エンデバー'' | ''エンデバー''最後の飛行 ([[STS-134]]) |- | [[2011年]][[7月8日]] | ''アトランティス'' | ''アトランティス''および''スペースシャトル計画''最後の飛行 ([[STS-135]])<ref>{{Cite web|url= http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/launch/index.html|title=NASA - Launch and Landing|accessdate=2011-07-01|publisher=NASA}}</ref> |} 出典:NASA打上げマニフェスト<ref name="manifest">{{Cite web|url=http://www.nasa.gov/mission_pages/station/structure/iss_manifest.html |title=Consolidated Launch Manifest |accessdate=May 28, 2009 |publisher=NASA}}</ref>、NASAスペースシャトル公文書記録<ref name="archive">{{Cite web |url=http://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/shuttlemissions/list_main.html |title=Space Shuttle Mission Archives |accessdate=May 28, 2009|publisher=NASA}}</ref> === 事故 === {{Main|チャレンジャー号爆発事故|コロンビア号空中分解事故}} 1986年1月28日、スペースシャトル''チャレンジャー号''が発射から73秒後に右側のSRBのOリングの故障が原因で空中分解し、搭乗していた7名の飛行士全員が犠牲になった。機体の最重要機器の一つであるOリングが、異常寒波が原因の低温により損傷した。現場の技術者は再三にわたり12℃以下の気温でのOリングの安全性は保証できないと警告したが、NASAの幹部はこれを無視した<ref>{{cite web|url=http://history.nasa.gov/rogersrep/v1ch6.htm |title="Report of the PRESIDENTIAL COMMISSION on the Space Shuttle Challenger Accident", Chapter VI: An Accident Rooted in History |publisher=History.nasa.gov |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>。 2003年2月1日、スペースシャトル''コロンビア号''が発射の際に主翼前縁の[[炭素繊維強化炭素複合材料|強化カーボン・カーボン]]断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解した。地上管制室の技術者たちは損傷の広がりをより明確に把握できるよう、国防総省に対して三回にわたって高[[解像度]]の写真を撮影するよう要求し、NASAの熱保護システムの技術主任は''コロンビア''に搭乗している飛行士たちに耐熱タイルのダメージを調査させるべく船外活動の許可を求めた。NASAの幹部は国防総省の支援の動きに介入してこれを停止させ、船外活動の要求も拒否した<ref>[http://www.century-of-flight.net/Aviation%20history/space/Columbia%20accident.htm "the Columbia Accident"]. century-of-flight.net</ref>。その結果、飛行士が自ら修理に赴くことや、発射準備作業中だった''アトランティス''で救援に向かうことの実現性は、ついにNASA幹部によって考慮されることはなかった<ref>{{cite web|url=http://www.nasa.gov/columbia/caib/PDFS/VOL2/D13.PDF |title=D13 - In-Flight Options |format=PDF |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>。 == 退役 == 2011年[[7月8日]](日本時間9日未明)に打ち上げられた''アトランティス''の[[STS-135]]をもって、30年あまりに及んだスペースシャトル計画を終了した<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/science/update/0521/TKY201105210118.html|title=最後のシャトル、7月8日打ち上げ 30年の歴史に幕|publisher=[[asahi.com]]|date=2011-05-21|accessdate=2010-05-21}}</ref>。当初の予定では2011年2月26日の打ち上げが最後になる予定だったが、後に追加予算が認められて、非常時の救援ミッションのために待機していたアトランティスをISSの補給ミッションに転用する形で同年7月の打ち上げが認められた<ref>{{cite news|url=http://www.sorae.jp/030604/4098.html|title=スペースシャトル追加ミッションの打ち上げは6月28日か|publisher=sorae.jp|date=2010-08-24|accessdate=2010-08-25}}</ref>。 シャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて[[月]]や[[火星]]まで到達できるような宇宙船が現在{{いつから|date=2016年6月}}開発中である<ref>{{cite web|url=http://www.csa.com/discoveryguides/newshuttle/overview.php |title=The Space Shuttle and Its Replacement |publisher=Csa.com |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>。当初「有人開発船(Crew Exploration Vehicle)」と呼ばれていた計画概念は、その後[[オリオン宇宙船]]や[[コンステレーション計画]]へと発展した。しかし2010年に[[バラク・オバマ|オバマ]]政権はコンステレーション計画の予算を打ち切り、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案した<ref>{{cite web|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/01/31/AR2010013101058.html |title=NASA budget for 2011 eliminates funds for manned lunar missions |publisher=Washington Post |date= |accessdate=2010-02-01}}</ref>。次世代の宇宙船が登場するまでは、飛行士がISSに到達しまた帰還するためには[[ロシア|ロシア連邦]]のソユーズ宇宙船か、または開発中のアメリカの民間商用宇宙船に頼る以外に手段がなくなる。[[バラク・オバマ|オバマ大統領]]の提案は[[アメリカ合衆国議会]]によって承認されたが、次の宇宙船が開発されるまでの5年間にシャトルを延長して使用する可能性を含む対抗案も[[2010年]]に議会で検討された<ref>{{cite web|url=http://blogs.orlandosentinel.com/news_politics/2010/03/shuttle-flights-would-continue-under-new-proposal.html|title=Shuttle flights would continue under new proposal|publisher=Orlando Sentinel|date=2010-03-03|accessdate=2010-03-04}}</ref>。しかし結局、シャトルの退役計画は覆されなかった。 退役後は、ディスカバリーは[[スミソニアン博物館]]の[[国立航空宇宙博物館]]別館、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示される。国立航空宇宙博物館別館に展示中のエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることに伴い、ニューヨークの[[イントレピッド海上航空宇宙博物館]]に移されることになっている<ref>{{cite news|url=http://www.asahi.com/science/update/0413/TKY201104130082.html|title=退役シャトルの「終の棲家」4カ所発表 初飛行30周年|publisher=[[asahi.com]]|date=2011-04-13|accessdate=2011-07-12}}</ref>。2010年4月、[[タイム (雑誌)|タイム]]紙は「2010年に最も影響を与えなかった人々」のリストの中にスペースシャトルを挙げ、その理由を「シャトルは従来のロケットのように格好良くないから」とした<ref>[http://www.time.com/time/specials/packages/article/0,28804,1984685_1985389_1985284,00.html Least Influential People of 2010]</ref>。 === 民間商用宇宙船への交代 === [[2008年]]12月23日、NASAはISSへの物資補給を民間に委ねる[[商業軌道輸送サービス]] (COTS) に関する契約を、[[スペースX]]社および[[オービタル・サイエンシズ]]社と取り交わしたことを発表した<ref>[http://www.nasa.gov/home/hqnews/2008/dec/HQ_C08-069_ISS_Resupply.html "NASA Awards Space Station Commercial Resupply Services Contracts"]. NASA, December 23, 2008.</ref>。スペースXは[[2012年]]に[[ファルコン9|ファルコン9ロケット]]で[[ドラゴン (宇宙船)|ドラゴン宇宙船]]を<ref>{{cite web|url=http://www.spacex.com/press.php?page=20081223 |title=Space Exploration Technologies Corporation - Press |publisher=Spacex.com |date= |accessdate=2009-07-17}}</ref>、オービタル・サイエンシズは[[2013年]]に[[アンタレス_(ロケット)|アンタレスロケット]]で[[シグナス (宇宙船)|シグナス宇宙船]]を打ち上げ、スペースシャトルに代わってISSへの無人補給ミッションを果たした。 NASAは次いでISSへの有人飛行も民間に委ねるべく[[商業乗員輸送開発]] (CCDev) 計画を開始し、[[2014年]]にスペースXの[[ドラゴン2|ドラゴン2宇宙船]]と[[ボーイング]]の[[CST-100|CST-100宇宙船]]を選定した。しかし、有人宇宙船の開発はたびたび遅延を繰り返し、民間によるISSへの有人飛行が実現したのは、スペースシャトル退役から9年後の[[2020年]]5月の事であった。 == シャトル訓練機 == [[ファイル:Gulfstream II Shuttle Training Aircraft.jpg|thumb|C-11A シャトル訓練機(N947NA)]] [[ファイル:Shuttle Landing Simulator cockpit.jpg|thumb|シャトル訓練機のコックピット。左席に訓練生が座る]] '''[[:en:Shuttle Training Aircraft|シャトル訓練機]]''' (STA) はシャトルの着陸訓練に使用された[[アメリカ航空宇宙局]]の[[練習機]]である。[[グラマン ガルフストリーム II]]をベースに4機が改造された。操縦特性が着陸進入時のオービタの挙動と合致するようになっており模擬的に着陸訓練を行うことが出来た。 === 開発 === 外観は飛行訓練中の高い空気力学的荷重に耐えられるように改造されていた。操縦室の左席がオービタの制御と視界を忠実に再現していた。通常の飛行は右席のみで可能となっており、訓練空域までの移動などはこちらで操縦する。 === 運用の歴史 === 4機のSTAが通常はテキサス州[[エルパソ (テキサス州)|エルパソ]]で飛行訓練を行い、[[ヒューストン]]で整備を行った<ref name="nasa_sta">[http://www.nasa.gov/vision/space/preparingtravel/rtf_week5_sta.html NASA - Test Drive: Shuttle Training Aircraft Preps Astronauts for Landing]</ref>。STAは同様にフロリダ州のケネディ宇宙センターでも使用された。 === 機体 === * N944NA (sn144) * N945NA (sn118) * N946NA (sn146) * N947NA (sn147) === その他の用途 === 機体後部には数名分の座席が設置されており[[T-38 (航空機)|T-38]]が使用できない・人数が多い場合(T-38は2名)に、STAはジョンソン宇宙センターとケネディ宇宙センター間の乗員輸送に使用された。 == ギャラリー == {{center|<gallery widths="300" heights="200"> ファイル:Space shuttles Atlantis (STS-125) and Endeavour (STS-400) on launch pads.jpg|[[2009年]]、2機のシャトルが発射台で待機する様子。この状況は[[STS-125]](アトランティス号)が[[ハッブル宇宙望遠鏡]]の修理のみに使用され、ISSの緊急救助用の機体を別に待機させておかなければならなくなったために生じた。 ファイル:Atlantis launch plume edit.jpg|2001年、夕方に発射されたアトランティスの写真。太陽がカメラの後方にあるため、排煙の影が月と交差している。 </gallery>}} == 架空のシャトル一覧 == * 映画『[[007 ムーンレイカー]]』(1979年)より、ムーンレイカー号。 * 映画『[[スペースバンパイア]]』(1985年)より、チャーチル号。 * テレビドラマ『[[NASA〜未来から落ちてきた男〜]]』(1991年)より、フロンティア号。 *映画『[[アルマゲドン (映画)|アルマゲドン]]』(1998年)より、インディペンデンス号、フリーダム号。 * 映画『[[ゼロ・グラビティ (映画)|ゼロ・グラビティ]]』(2014年)より、エクスプローラー号。 == シャトル派生型打ち上げ機 == {{main|シャトル派生型ロケット}} [[ファイル:Saturn V-Shuttle-Ares I-Ares V-Ares IV comparison.jpg|thumb|200px|[[サターン V]], スペースシャトル, アレス I, アレス V, と アレス IV.の比較]] '''シャトル派生型打ち上げ機''' ({{Lang|en|Shuttle-Derived Launch Vehicle}}) または単純に'''シャトル派生機''' ({{Lang|en|Shuttle-Derived Vehicle, SDV}}) は、[[スペースシャトル計画]]で開発された技術を基にしたロケットで幅広い機種がこれまで提案されてきた。しかし[[2022年]]に後述の[[スペース・ローンチ・システム]]が唯一打ち上げを果たした一方、それ以外の多くの案は実用化には至っていない。[[1980年代]]末から[[1990年代]]初頭にNASAは公式に貨物専用のシャトル-Cを研究してきた。 === 概念 === [[ファイル:In-Line SDLV 1978.jpg|thumb|160px|1978年にチオコール社で提案された直列型シャトル派生機の絵]] SDVの概念はシャトル自体が飛行を開始した当時から提案された。SDVの概念には以下を含む: * 有翼のオービタを無人化された使い捨ての貨物ポッドに交換する("側面搭載型" SDV) * オービタを取り除いて外部燃料タンクの上部に上段と貨物部を備える("直列型" SDV) * かさばる貨物を打ち上げる為に大型の貨物コンテナを外部燃料タンクの後部に備える(後部貨物輸送機) * 固体燃料補助ロケット (SRB) を回収用有翼"フライバック"液体燃料補助ロケットに換装する。 * 1本かそれ以上の本数の固体燃料補助ロケットに新開発の上段を開発して載せる。 * 耐用回数の末期のオービタから主翼を除いてスペースシャトルの外部燃料タンクを軌道上に投入して組み合わせて宇宙ステーションとして利用する。 * [[2005年]]に明らかに前例のない1本の固体燃料ロケット(後に大幅に改良された"延長型"SRB)と新開発の2段目を使用する[[アレスI]]が発表された。 これらの案に共通するのは既存のスペースシャトルの構成要素を流用する事で開発費を抑え、より廉価に新型の重量物を軌道に投入する能力を持つ打ち上げシステムを開発しようという意図である。しかし、実際には個々の構成要素は新しい目的別には最適化されておらず、従来の構造体を流用する事によって補強が必要になるなど構造重量の増加の一因ともなり、最適化の障害となっている。有人飛行用としての高度な安全性を備え、再利用を前提としたシステムを使い捨てとして使用しようとした場合、過剰な安全装置等が貨物打ち上げには不要である場合も多い。その為、結局、新技術を盛り込んで最適化された構造の完全新規開発の機体と比較して無駄が多い事は否めず、生産、運用の過程で高くつく可能性が指摘されている。 === シャトルC === {{Main|{{仮リンク|シャトルC|en|Shuttle-C}}}} [[ファイル:Shuttle-c launch painting.jpg|thumb|160px|シャトルCの夜間打ち上げの想像図]] '''シャトルC'''は[[アメリカ航空宇宙局]]が提案したスペースシャトルの構成要素を流用した無人貨物打ち上げロケットである。[[スペースシャトル外部燃料タンク|外部燃料タンク]] (ET) と[[スペースシャトル固体燃料補助ロケット|固体燃料補助ロケット]] (SRB) と[[SSME|メイン・エンジン]]を備えた貨物用モジュールを組み合わせて使用される予定だった。複数のシャトルCの概念が1984年から1995年にかけて提案された<ref name="globalsec">{{cite web | url = http://www.globalsecurity.org/space/systems/sts-c.htm | title = Shuttle-C | publisher = [[:en:GlobalSecurity.org|GlobalSecurity.org]] | accessdate = 2009-01-20 }}</ref>。 シャトルCの概念は理論的にはシャトル計画で開発された再利用技術によって重量物打ち上げロケットの開発費を減らす事が期待された。提案は複数回行われ、いずれも既存のシャトルの構造体や使用回数限度の迫ったメイン・エンジンや航法コンピュータを流用するというものだった。中にはコロンビア号やエンタープライズ号を1回限りの貨物打ち上げ機として使用する案もあった。チャレンジャー号の事故の前にNASAは年間14回の打ち上げを期待していた。チャレンジャー号の事故の後にはこの打ち上げ頻度は複数の理由により非現実的である事が明らかになった<ref name="rogers">{{cite web | url = http://history.nasa.gov/rogersrep/v1ch8.htm | title = Report of the Presidential Commission on the Space Shuttle Challenger Accident | publisher = [[アメリカ航空宇宙局]] | date = 1986-06-06 | accessdate = 2009-01-20 }}</ref>。シャトルCは無人であるので高い打ち上げ頻度でも整備費が安く安全性に関する要求水準が低いと考えられた<ref name="harsh">{{cite web | url = http://pdf.aiaa.org/preview/1989/PV1989_2521.pdf | title = Shuttle-C, evolution to a heavy lift launch vehicle | publisher = NASA/[[AIAA]] | date = 1989-07-13 | accessdate = 2009-08-05 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090920034004/http://pdf.aiaa.org/preview/1989/PV1989_2521.pdf | archivedate = 2009年9月20日 | deadlinkdate = 2017年9月 }}</ref><ref name="eudy">{{cite web | url = http://pdf.aiaa.org/preview/1990/PV1990_3685.pdf | title = Shuttle-C, heavy lift vehicle of the 90's | publisher = NASA/AIAA | date = 1990-09-25 | accessdate = 2009-08-05 }}{{リンク切れ|date=2017年9月 |bot=InternetArchiveBot }}</ref>。 2段階の開発が計画された。第一段階として貨物輸送機の形状と大きさが検討された。NASAによる研究は小型だが最も打ち上げ効率の良い機能的な輸送機を示した。 [[1990年代]]初頭、NASAの技術者は火星探査用の宇宙船を組み立てる為に地球周回軌道へ80トンの使い捨ての6機のセグメントを打ち上げる為にシャトルCの設計を含む有人火星飛行計画を立案した。代替案は4機の[[サターンV]]を使用する案だった。ブッシュ大統領が2010年にスペースシャトルの運用を終了すると発表した後、これらの提案された仕様は検討対象から外された。 === DIRECT === {{Main|{{仮リンク|DIRECT & Jupiter Rocket Family|en|DIRECT & Jupiter Rocket Family}}}} '''DIRECT'''はNASAの[[ビジョン・フォー・スペース・エクスプロレーション]]で提案された[[アレスI]]と[[アレスV]]の代替案として提案された。元のシャトル派生打ち上げ機では"ジュピター"と称され、より野心的な"プロジェクト2"で重量物打ち上げロケットの''レビタリアン''、軌道周回支援ステーション''オリンピア''、''ガロン''重量貨物宇宙船、宇宙ステーション''アルゴ''と''ヘリオス''と乗員貨物船''アルテミス''から構成され2011年に打ち上げる計画だった。 {{as of |2008|10 |alt=2008年9月}}, DIRECTチームは69人のメンバーで構成されるとされ、<ref> {{cite web |url= http://www.airspacemag.com/space-exploration/End_Run.html |title= End Run - A small band of rogue rocketeers takes on the NASA establishment |accessdate=2008-10-19 |work= Air & Space Magazine |publisher = [[スミソニアン協会]] |date= September 29, 2008 }}</ref> NASAの技術者、[[コンステレーション計画]]でNASAと契約した技術者とマネージャー62人から構成され、グループの刊行物によると少数のNASAには属さないメンバーもいる。 計画の名称である"DIRECT"は[[スペースシャトル計画]]のハードウェアと施設を"直接"移行する事によって最大限流用する哲学に由来する。 DIRECTには三つの派生機種があり2009年5月に最新の3.0版が発表された。2009年6月17日にワシントンDCで開催された有人宇宙飛行計画委員会の公聴会で明らかになった<ref name="Chang">{{cite web | title = Review Panel Hears Rival Plans for New Spaceflight | last = Chang | first = Kenneth | url = http://www.nytimes.com/2009/06/18/science/space/18nasa.html | work = New York Times | accessdate = 2010-01-30 | date = 2009-06-17 }}</ref>。 [[10月11日]]に[[:en:NASA Authorization Act of 2010|2010年のNASAの権限法]] (S. 3729) へのオバマ大統領による調印によってスペース・ローンチ・システムが義務化され、DIRECTチームは彼らの努力の成功を宣言した。彼らは新しい宇宙技術企業である: C-Star エアロスペース, LLC.へ組織変更した<ref>http://www.spacenews.com/policy/101011-obama-signs-nasa-bill.html</ref><ref>http://www.launchcomplexmodels.com/Direct/documents/Direct-Team-Declares-Success-PR-101310.pdf</ref>。 === スペース・ローンチ・システム === {{main|スペース・ローンチ・システム}} [[ファイル:NASA SLS ref config Feb 2011.png|thumb|left|160px|2011年2月のNASAのスペース・ローンチ・システム (SLS) の仕様]] '''スペース・ローンチ・システム'''または'''SLS'''はNASAが[[コンステレーション計画]]の中止に伴いスペースシャトルの代替として開発するシャトル派生型打ち上げシステムの一種である。 [[:en:NASA Authorization Act of 2010|2010年NASA権限法]]によって[[アレスI]]と[[アレスV]]の機体設計を乗員と貨物輸送の両方に使用できる単体のロケットに一本化する構想である。より強力な機種に更新された。当初の打ち上げ能力は上段を除いたコアのみで構成され低軌道へ70から100トンの投入能力を備える。更に地球離脱段を上段に加えることで130トン以上の打ち上げ能力を獲得する見込みである<ref name="senate">{{cite web |url=http://commerce.senate.gov/public/index.cfm?p=Legislation&ContentRecord_id=8d7c1465-f852-4835-ba84-25faf56bbb36&ContentType_id=03ab50f5-55cd-4934-a074-d6928b9dd24c&Group_id=6eaa2a03-6e69-4e43-8597-bb12f4f5aede |title=Featured Legislation: The NASA Authorization Act of 2010 |date= July 15, 2010 |publisher=[[United States Senate]] |accessdate= May 26, 2011}}</ref><ref name="spaceflightnow">{{cite news |title=NASA to set exploration architecture this summer |first=Stephen |last=Clark |url=http://spaceflightnow.com/news/n1103/31slsmpcv/ |newspaper=spaceflightnow.com |date= March 31, 2011 |accessdate= May 26, 2011}}</ref>。 スペースシャトルのコンポーネントを流用することで開発期間を短縮してコストを削減する計画だったが、実際には開発は大幅に遅延しコストも増大した。[[2022年]]11月に初打ち上げに成功した。 {{Clearleft}} === ジュピター === [[ファイル:Commonality DIRECT.jpg|thumb|ジュピターの共通コアステージの流用計画]] {{Main|{{仮リンク|DIRECT & Jupiter Rocket Family|en|DIRECT & Jupiter Rocket Family}}}} '''ジュピター'''シリーズは[[2000年代]]後半に提案されたスペースシャトル派生ロケットの一つである。NASAがコンステレーション計画のために開発していたアレスIとアレスVの代替として企図された。出来るだけスペースシャトルの構成要素や施設を流用する事が予定されていた。 == 注記(出典および脚注) == {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/technology/sts-newsref/stsref-toc.html NSTS 1988 Reference manual] * [http://science.howstuffworks.com/space-shuttle.htm How The Space Shuttle Works] * [http://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19810022734_1981022734.pdf NASA Space Shuttle News Reference - 1981 (PDF document)] * [http://science.ksc.nasa.gov/shuttle/resources/orbiters/orbiters.html Orbiter Vehicles] * [http://ocw.mit.edu/OcwWeb/Aeronautics-and-Astronautics/16-885JFall-2005/LectureNotes/index.htm Lecture Series on the space shuttle] from MIT OpenCourseWare == 関連項目 == {{表2列| ; 用語 : [[有人宇宙飛行]] : [[大気圏再突入]] : [[リフティングボディ]] : [[オービタ]] : [[再使用型宇宙往還機]] : [[単段式宇宙往還機]] | ; その他の再利用型宇宙往還機 : [[ブラン (オービタ)|ブラン]]{{·}} [[プチーチュカ]]{{·}} [[ブラン2.01|2.01]]{{·}} [[ブラン2.02|2.02]]{{·}} [[ブラン2.03|2.03]] : [[X-20 (航空機)|X-20 Dyna-Soar]] (1957-1963) : [[ホッパー (宇宙船)|ホッパー]] : [[エルメス (宇宙船)|エルメス]] (1975-1992) : [[HOPE (宇宙往還機)|HOPE]] : [[クリーペル]] : [[X-33 (航空機)|X-33]] (1995-2001) : [[スカイロン]] }} == 外部リンク == {{Commons&cat|Space Shuttle|Space Shuttles}} {{Commonscat|Landings of Space Shuttles|着陸時の写真}} * [https://www.nasa.gov/mission_pages/shuttle/ NASA - Space Shuttle] {{En icon}} * [https://spaceflight.nasa.gov/gallery/images/shuttle/ NASA - Human Space Flight Web Gallery] {{En icon}} * [https://iss.jaxa.jp/shuttle/ JAXA - 宇宙ステーション・きぼう広報・情報センター - スペースシャトル] {{Space Shuttle| state = uncollapsed}} {{Space Shuttles}} {{US launch systems}} {{Reusable launch systems}} {{NASA space program}} {{アメリカ合衆国の有人宇宙計画}} {{シャトル・ミール計画}} {{宇宙飛行}} {{スペース・プレーン}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:すへえすしやとる}} [[Category:スペースシャトル|*]] [[Category:宇宙船]] [[Category:NASA]] [[Category:アメリカ合衆国のロケット]]
2003-02-08T00:32:09Z
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秘密戦隊ゴレンジャー
『秘密戦隊ゴレンジャー』 (ひみつせんたいゴレンジャー) は、1975年4月5日から1977年3月26日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全84話が放送された、NET (現・テレビ朝日)・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中に登場するヒーローチームの名称。 「スーパー戦隊シリーズ」第1作目として扱われている。他方、シリーズ初期には、本作品と『ジャッカー電撃隊』はシリーズに含まないという見解もあった。 変身ヒーロー作品に「戦隊」という図式を取り入れたうえ、ヒーロー5人が最初から登場するという設定が子供たちの大きな人気を集め、結果的に最高視聴率は22%、放映話数も全84話という記録を打ち立てた。再放送を含めて、2年間という放送期間はスーパー戦隊シリーズの最長記録となっており、未だにその記録は破られていない。人気を支えた理由としては、第1話の時点で5人のキャラクターを明確にしたことや、ハードなスパイアクションからギャグ、次回予告にも使われたなぞなぞネタといった、あらゆる娯楽的要素を盛り込んでいたことなどが挙げられる。 本作品では後年の『バトルフィーバーJ』以降で採用される巨大ロボットこそ登場しなかったものの、ミニチュア特撮による大型メカの活躍場面が用意されているのも特徴である。東映プロデューサーの吉川進は、当時ロボットが子供たちの人気を集めていたことから、メカニックの要素は軽視できなかったことを述べている。 集団変身ヒーローの嚆矢としては、テレビアニメでは1972年の『科学忍者隊ガッチャマン』、実写作品でも同年に制作された『トリプルファイター』がすでに存在していたが、一部書籍では本作品が「実写では本邦初」と説明されている。 主題歌「進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー」のシングルレコードは、番組のヒットにも乗ってミリオンセラー(資料によっては42万枚)を記録した。また、後述のゴレンジャーマシーンなどを商品化したポピニカ商材は、年間46億円以上の売り上げを記録した。 本作品は石森により、スパイアクション漫画作品として『週刊少年サンデー』などの少年漫画誌でも連載されていたが、テレビ版のタッチがコメディ路線に移行していくにつれ、途中からギャグ漫画に180度方向転換し、漫画のタイトルもジャンル変更にともない『週刊少年サンデー』のみ『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』に改題された。石森は本作品について「まんがよりもテレビでこそいきる」作品であると述べている。 「ドラマや敵の怪人をコミカルに描く」というコンセプトは、本作品で美術全般を担当したエキス・プロダクションの前沢範が企画会議で石森に「舞台のショーで見られるような、コミカルで楽しいものにしましょう」と提案し、採用された。視聴率は20%を超えるまでになり、吉川進プロデューサーが女子大生のファングループから訪問を受けるなど、性別や年齢を問わない幅広い層から支持を集めた。 メインライターは、上原正三が同じ石森原作である『がんばれ!!ロボコン』と並行して担当。上原はコメディ路線へ作風が変化した理由について、俳優のイメージに引きずられた点と、『ロボコン』との相乗効果が生じた点、沖縄出身である自身の陽気で楽天的な資質などを挙げている。後年、スーパー戦隊シリーズ9作品のメインライターを務めることとなる曽田博久も、本作品よりすでにサブライターとして参加しており、『激走戦隊カーレンジャー』まで、20年間にわたってスーパー戦隊シリーズの脚本に携わることとなる。 アクション面では、仮面ライダーシリーズと異なる集団戦の描写が取り入れられ、ワンフレームで全員が戦う広域カットと個々の戦いを組み合わせることなどにより演出の幅が広がったとされる。また、集団戦に加え各ヒーローが皆異なる武器を持っていることも仮面ライダーシリーズと異なる特長であり、肉弾戦と武器の描写を織り交ぜることで、戦いの流れに変化をつけている。 本作品では、山陰地方(第38話・第39話・第41話)や愛媛県松山市近辺(第60話)などで、本格的な地方ロケを行っている。 NET(現:テレビ朝日)では本作品の放送前、土曜19時台後半より在阪準キー局・毎日放送制作の『仮面ライダーアマゾン』を放送していた。しかし1975年春(3月31日)より「腸捻転」解消によるネットチェンジが実施され、毎日放送はTBS系列に変更となり、その影響で「仮面ライダーシリーズ」の放映権もTBS系列に異動となった。背景には当時のテレビ局と新聞社の統合系列化というマスコミの大変革があった。 『仮面ライダーX』での「メカニック・ヒーロー」への挑戦や『仮面ライダーアマゾン』の「本格的怪奇アクションドラマ」への回帰は成功したとはいえなかったが、それでもNETとしては「仮面ライダーシリーズ」という有力コンテンツを失う危機感は少なからずあった。その穴を埋めるべく東映テレビ事業部本部長の渡邊亮徳は『仮面ライダーストロンガー』制作時に毎日放送に却下されていた「『スパイ大作戦』を参考にした複数の専門家が集まったヒーローチーム」という「5人ライダー」の案件を再検討し、新番組に採り入れることを決定した。また、「5人」とした理由について、企画に参加していた石森プロの加藤昇は『サイボーグ009』のような9人では実写で描写するには多すぎ、同時期に3人ヒーローである『アクマイザー3』の企画が進行していたことを理由に挙げており、東映テレビ事業部部長の渡邊亮徳は7人では多すぎ、3人では少なすぎ、4人では縁起が悪く、5人が収まりが良かったとしている。原作者の石森章太郎は、集団で戦うイメージソースとして自身の作品『少年同盟』も挙げている。 石森は「5人のヒーロー集団」という設定から複雑なデザインは避け、一目でわかるシンプルなヒーロー像を設定した。カラーテレビの時代を反映させ、かつての『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ放送)と同様、「色」で個性を強調することとした。強化服を纏うという設定は、既存の作品に見られる改造人間・ロボット・宇宙人などとの差別化から生み出された。石森はこの設定について「007シリーズ」などのスパイものの小道具を全身にまとったイメージと述べている。企画書では、敵味方ともに仮面の集団であることを作品のポイントとしており、仮面という古典的要素と現代的なメカ要素を組み合わせることによる劇画的な雰囲気を強調することが狙いであるとしている。 番組のコンセプトはスムーズに決定したが、ネーミングについては難航した。 当初のタイトル案は『レッド・1』というものであり、各メンバーの名もレッドマスクなどと仮称されていた。その後に考案されたのが『ファイブレンジャー』で、メンバーの名称もレッドレンジャーなどとするものだった。 しかし、この『ファイブレンジャー』は「理屈っぽい」として渡邊に却下され、次に出た『ガッツレンジャー』も却下された後、最終的に「5人レンジャー」の「人」を取って「5レンジャー」の名前が考案され、これにOKを出した渡邊によって片仮名の『ゴレンジャー』が決定名となった。 これに伴い、メンバーの名称も渡邊によって日本語に直された。「モモレンジャー」については、当時「ピンク」という単語に「ピンク映画」「ピンク産業」などとエロチックな用法が多かったため、「ピンクレンジャーでは子供向け番組には刺激が強い」と判断し、渡邊が「果物のモモ、ハートのモモ、ふっくらした女性のモモが、ちょっと不良っぽくていい」と「モモレンジャー」に決定した。平山は、小牧リサの太ももから「モモレンジャー」を発想したと証言している。その後、2015年に『手裏剣戦隊ニンニンジャー』が制作されるまで、各ヒーローの色名に日本語が使われた戦隊は、シリーズ中本作品のみであった。 世界征服を企み、国際的に暗躍する黒十字軍。彼らの侵攻を食い止めるべく、国連はイーグルという国際的平和組織の秘密防衛機構を設立、スイス・ジュネーヴに本拠地を置き、全世界に各10ブロックのガードサークルを配置して黒十字軍に対抗していた。ある日、黒十字軍は日本ブロックに焦点を絞って総攻撃を仕掛け、全国の各支部(北海道・東北・関東・関西・九州)は壊滅する。 しかし、各支部に1名ずつ奇跡的に生き残った者がいた。関東支部の海城分隊長の弟で、秘密工作のスペシャリスト海城 剛、東北支部の分隊長新命 明、九州支部の精密技術班員大岩 大太、北海道支部の化学分析班員ペギー 松山、そして関西支部の新米隊員明日香 健二である。イーグル日本ブロックの最高指揮官である江戸川権八は、彼ら5名を新宿の秘密基地に呼び寄せた。 ここに、イーグル日本ブロックが黒十字軍に逆襲するために創設した特別部隊ゴレンジャーの戦いが始まった。 国連が人類を守るために設立した国際秘密防衛機構イーグル(Earth Guard League)の日本ブロックに属する精鋭部隊。作中では単に「ゴレンジャー」と呼称され、「秘密戦隊」のネーミングは作品タイトルや主題歌の歌詞に用いられるのみに留まっている。 黒十字軍の襲撃により壊滅的打撃を受けたイーグル日本ブロック各支部の生き残り隊員が、江戸川権八総司令の指揮下でレンジャー訓練を受け、地球の平和を守るために黒十字軍と戦う特殊部隊ゴレンジャーとなった。正規メンバーは5人であるが、熊野大五郎のようにイーグル内で選抜されたゴレンジャー予備隊員も存在する。 ゴレンジャーの正体は一般には秘匿されているが、第4話の時点で素顔の写真と詳細なプロフィールが黒十字軍の手に渡っており、怪人がスナック「ゴン」にやって来た際には姿を隠すなどして秘密を守っていた。 ゴレンジャーのメンバーは2代目キレンジャーを含め以下の6人。当初のメンバー5人の本名である海城(かいじょう)、新命(しんめい)、大岩(おおいわ)、ペギー、明日香(あすか)の頭文字を繋げると「カシオペア」となり、これはクライマックスへ向けての重要な伏線となっている(後述)。 集合時の名乗りは、「5人揃って、ゴレンジャー!」。大野剣友会の振付による、勢ぞろいした5人が右の掌を前に掲げる決めポーズは、殺陣師の高橋一俊が歌舞伎の『白浪五人男』から採ったものである。 黒十字総統が率いる、人間社会の完全破壊と地球征服を目的とする国籍不明の悪の軍隊。モットーは「破壊と殺戮」。世界規模の組織を有し、アフリカ(日輪仮面将軍)・中央アジア(鉄人仮面テムジン将軍)・北欧(火の山仮面マグマン将軍)には大幹部が配置されている。大幹部以外にもアラビア砂漠の鉄カゴ仮面など幹部級の実力を有する仮面怪人が各地に存在している。歴史も古く、ゴールデン仮面大将軍のような古代からの構成員も存在する。大組織であるがそれに留まらずイーグル構成員を金で寝返らせたり、死者を蘇生改造して仮面怪人にする、アトランティスの遺産、コンドラー戦闘爆撃隊を入手する、宇宙忍団を呼びよせるなど戦力増強もたびたび行っている。作戦面では一般的な怪人の能力に依拠したテロ作戦以外にも最初に日本を攻撃した際に黄金仮面、武者仮面、青銅仮面、ヒスイ仮面、毒ガス仮面の五人の仮面怪人を同時に投入するなど大規模作戦も実行、そのいずれもイーグル支部を壊滅させるなど精度が高かった。 ナレーター以外は全てノンクレジット カッコ内は出演話数。 66話までは大野剣友会が、67話以降はジャパンアクションクラブ(JAC)がアクションを担当した。前者では剣戟を応用した集団戦が、後者ではスピード感あるアクションが特徴となっており、それぞれの得意分野が取り入れられている。 新堀和男によると大野剣友会時代のベストメンバーは「アカ・新堀、アオ・中屋敷、キ・前田、モモ・栗原、ミド・中村」とのことであるが、実際にこの組み合わせが実現したのは1,2回程度だという。 アカレンジャー役を務めたJACの大葉健二(高橋健二)は、JAC担当になった当初は誠直也から要望を出されたが、誠がアフレコでスタントの様子を見てからは何も言われなくなり、大葉は自分たちが認められたと感じたという。 サブタイトルはいずれも「○○! ××」(第64話から「○○!! ××」)というフォーマットで統一。また色名が必ず入れられている。 1975年12月13日に第14話、1976年1月24日に第20話、2月21日に第25話、3月6日に第26話、8月14日に第53話、8月21日に第54話、1977年3月5日に第1話、3月19日に第2話を再放送。 1976年6月26日は、「アントニオ猪木対モハメド・アリ」中継を始めとしたスポーツ特別番組『格闘技世界一決定戦』(19:30 - 21:21)のため放送休止。「猪木対アリ」戦では本番組よりモモレンジャー役の小牧リサと、同局で放映中の『ベルサイユのトラック姐ちゃん』より山本由香利(ゆか里)が、劇中の衣装で登場し花束贈呈を担当。その模様は試合中継映像のDVD「燃えろ! 新日本プロレス エクストラ 猪木VSアリ 伝説の異種格闘技戦」にて確認できる。 いずれも東映まんがまつりの一編として公開された。 これらの作品は2003年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE BOX』および、単品では2004年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE VOl.1』に収録されている。2011年11月21日発売の「復刻!東映まんがまつり 1976春」には「真赤な猛進撃!」のみ収録されている。 2020年11月2日、第33回東京国際映画祭ジャパニーズ・アニメーション部門で『真っ赤な猛進撃!』、『爆弾ハリケーン』に加えて『ジャッカー電撃隊VS秘密戦隊ゴレンジャー』を上映。 特記のない限り、いずれも発売元は東映ビデオ。 各作品での詳細はそれぞれのリンク先を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "『秘密戦隊ゴレンジャー』 (ひみつせんたいゴレンジャー) は、1975年4月5日から1977年3月26日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全84話が放送された、NET (現・テレビ朝日)・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中に登場するヒーローチームの名称。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「スーパー戦隊シリーズ」第1作目として扱われている。他方、シリーズ初期には、本作品と『ジャッカー電撃隊』はシリーズに含まないという見解もあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "変身ヒーロー作品に「戦隊」という図式を取り入れたうえ、ヒーロー5人が最初から登場するという設定が子供たちの大きな人気を集め、結果的に最高視聴率は22%、放映話数も全84話という記録を打ち立てた。再放送を含めて、2年間という放送期間はスーパー戦隊シリーズの最長記録となっており、未だにその記録は破られていない。人気を支えた理由としては、第1話の時点で5人のキャラクターを明確にしたことや、ハードなスパイアクションからギャグ、次回予告にも使われたなぞなぞネタといった、あらゆる娯楽的要素を盛り込んでいたことなどが挙げられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "本作品では後年の『バトルフィーバーJ』以降で採用される巨大ロボットこそ登場しなかったものの、ミニチュア特撮による大型メカの活躍場面が用意されているのも特徴である。東映プロデューサーの吉川進は、当時ロボットが子供たちの人気を集めていたことから、メカニックの要素は軽視できなかったことを述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "集団変身ヒーローの嚆矢としては、テレビアニメでは1972年の『科学忍者隊ガッチャマン』、実写作品でも同年に制作された『トリプルファイター』がすでに存在していたが、一部書籍では本作品が「実写では本邦初」と説明されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "主題歌「進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー」のシングルレコードは、番組のヒットにも乗ってミリオンセラー(資料によっては42万枚)を記録した。また、後述のゴレンジャーマシーンなどを商品化したポピニカ商材は、年間46億円以上の売り上げを記録した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "本作品は石森により、スパイアクション漫画作品として『週刊少年サンデー』などの少年漫画誌でも連載されていたが、テレビ版のタッチがコメディ路線に移行していくにつれ、途中からギャグ漫画に180度方向転換し、漫画のタイトルもジャンル変更にともない『週刊少年サンデー』のみ『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』に改題された。石森は本作品について「まんがよりもテレビでこそいきる」作品であると述べている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「ドラマや敵の怪人をコミカルに描く」というコンセプトは、本作品で美術全般を担当したエキス・プロダクションの前沢範が企画会議で石森に「舞台のショーで見られるような、コミカルで楽しいものにしましょう」と提案し、採用された。視聴率は20%を超えるまでになり、吉川進プロデューサーが女子大生のファングループから訪問を受けるなど、性別や年齢を問わない幅広い層から支持を集めた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "メインライターは、上原正三が同じ石森原作である『がんばれ!!ロボコン』と並行して担当。上原はコメディ路線へ作風が変化した理由について、俳優のイメージに引きずられた点と、『ロボコン』との相乗効果が生じた点、沖縄出身である自身の陽気で楽天的な資質などを挙げている。後年、スーパー戦隊シリーズ9作品のメインライターを務めることとなる曽田博久も、本作品よりすでにサブライターとして参加しており、『激走戦隊カーレンジャー』まで、20年間にわたってスーパー戦隊シリーズの脚本に携わることとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アクション面では、仮面ライダーシリーズと異なる集団戦の描写が取り入れられ、ワンフレームで全員が戦う広域カットと個々の戦いを組み合わせることなどにより演出の幅が広がったとされる。また、集団戦に加え各ヒーローが皆異なる武器を持っていることも仮面ライダーシリーズと異なる特長であり、肉弾戦と武器の描写を織り交ぜることで、戦いの流れに変化をつけている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "本作品では、山陰地方(第38話・第39話・第41話)や愛媛県松山市近辺(第60話)などで、本格的な地方ロケを行っている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "NET(現:テレビ朝日)では本作品の放送前、土曜19時台後半より在阪準キー局・毎日放送制作の『仮面ライダーアマゾン』を放送していた。しかし1975年春(3月31日)より「腸捻転」解消によるネットチェンジが実施され、毎日放送はTBS系列に変更となり、その影響で「仮面ライダーシリーズ」の放映権もTBS系列に異動となった。背景には当時のテレビ局と新聞社の統合系列化というマスコミの大変革があった。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『仮面ライダーX』での「メカニック・ヒーロー」への挑戦や『仮面ライダーアマゾン』の「本格的怪奇アクションドラマ」への回帰は成功したとはいえなかったが、それでもNETとしては「仮面ライダーシリーズ」という有力コンテンツを失う危機感は少なからずあった。その穴を埋めるべく東映テレビ事業部本部長の渡邊亮徳は『仮面ライダーストロンガー』制作時に毎日放送に却下されていた「『スパイ大作戦』を参考にした複数の専門家が集まったヒーローチーム」という「5人ライダー」の案件を再検討し、新番組に採り入れることを決定した。また、「5人」とした理由について、企画に参加していた石森プロの加藤昇は『サイボーグ009』のような9人では実写で描写するには多すぎ、同時期に3人ヒーローである『アクマイザー3』の企画が進行していたことを理由に挙げており、東映テレビ事業部部長の渡邊亮徳は7人では多すぎ、3人では少なすぎ、4人では縁起が悪く、5人が収まりが良かったとしている。原作者の石森章太郎は、集団で戦うイメージソースとして自身の作品『少年同盟』も挙げている。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "石森は「5人のヒーロー集団」という設定から複雑なデザインは避け、一目でわかるシンプルなヒーロー像を設定した。カラーテレビの時代を反映させ、かつての『仮面の忍者 赤影』(関西テレビ放送)と同様、「色」で個性を強調することとした。強化服を纏うという設定は、既存の作品に見られる改造人間・ロボット・宇宙人などとの差別化から生み出された。石森はこの設定について「007シリーズ」などのスパイものの小道具を全身にまとったイメージと述べている。企画書では、敵味方ともに仮面の集団であることを作品のポイントとしており、仮面という古典的要素と現代的なメカ要素を組み合わせることによる劇画的な雰囲気を強調することが狙いであるとしている。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "番組のコンセプトはスムーズに決定したが、ネーミングについては難航した。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "当初のタイトル案は『レッド・1』というものであり、各メンバーの名もレッドマスクなどと仮称されていた。その後に考案されたのが『ファイブレンジャー』で、メンバーの名称もレッドレンジャーなどとするものだった。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "しかし、この『ファイブレンジャー』は「理屈っぽい」として渡邊に却下され、次に出た『ガッツレンジャー』も却下された後、最終的に「5人レンジャー」の「人」を取って「5レンジャー」の名前が考案され、これにOKを出した渡邊によって片仮名の『ゴレンジャー』が決定名となった。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "これに伴い、メンバーの名称も渡邊によって日本語に直された。「モモレンジャー」については、当時「ピンク」という単語に「ピンク映画」「ピンク産業」などとエロチックな用法が多かったため、「ピンクレンジャーでは子供向け番組には刺激が強い」と判断し、渡邊が「果物のモモ、ハートのモモ、ふっくらした女性のモモが、ちょっと不良っぽくていい」と「モモレンジャー」に決定した。平山は、小牧リサの太ももから「モモレンジャー」を発想したと証言している。その後、2015年に『手裏剣戦隊ニンニンジャー』が制作されるまで、各ヒーローの色名に日本語が使われた戦隊は、シリーズ中本作品のみであった。", "title": "制作経緯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "世界征服を企み、国際的に暗躍する黒十字軍。彼らの侵攻を食い止めるべく、国連はイーグルという国際的平和組織の秘密防衛機構を設立、スイス・ジュネーヴに本拠地を置き、全世界に各10ブロックのガードサークルを配置して黒十字軍に対抗していた。ある日、黒十字軍は日本ブロックに焦点を絞って総攻撃を仕掛け、全国の各支部(北海道・東北・関東・関西・九州)は壊滅する。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "しかし、各支部に1名ずつ奇跡的に生き残った者がいた。関東支部の海城分隊長の弟で、秘密工作のスペシャリスト海城 剛、東北支部の分隊長新命 明、九州支部の精密技術班員大岩 大太、北海道支部の化学分析班員ペギー 松山、そして関西支部の新米隊員明日香 健二である。イーグル日本ブロックの最高指揮官である江戸川権八は、彼ら5名を新宿の秘密基地に呼び寄せた。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ここに、イーグル日本ブロックが黒十字軍に逆襲するために創設した特別部隊ゴレンジャーの戦いが始まった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "国連が人類を守るために設立した国際秘密防衛機構イーグル(Earth Guard League)の日本ブロックに属する精鋭部隊。作中では単に「ゴレンジャー」と呼称され、「秘密戦隊」のネーミングは作品タイトルや主題歌の歌詞に用いられるのみに留まっている。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "黒十字軍の襲撃により壊滅的打撃を受けたイーグル日本ブロック各支部の生き残り隊員が、江戸川権八総司令の指揮下でレンジャー訓練を受け、地球の平和を守るために黒十字軍と戦う特殊部隊ゴレンジャーとなった。正規メンバーは5人であるが、熊野大五郎のようにイーグル内で選抜されたゴレンジャー予備隊員も存在する。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ゴレンジャーの正体は一般には秘匿されているが、第4話の時点で素顔の写真と詳細なプロフィールが黒十字軍の手に渡っており、怪人がスナック「ゴン」にやって来た際には姿を隠すなどして秘密を守っていた。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ゴレンジャーのメンバーは2代目キレンジャーを含め以下の6人。当初のメンバー5人の本名である海城(かいじょう)、新命(しんめい)、大岩(おおいわ)、ペギー、明日香(あすか)の頭文字を繋げると「カシオペア」となり、これはクライマックスへ向けての重要な伏線となっている(後述)。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "集合時の名乗りは、「5人揃って、ゴレンジャー!」。大野剣友会の振付による、勢ぞろいした5人が右の掌を前に掲げる決めポーズは、殺陣師の高橋一俊が歌舞伎の『白浪五人男』から採ったものである。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "黒十字総統が率いる、人間社会の完全破壊と地球征服を目的とする国籍不明の悪の軍隊。モットーは「破壊と殺戮」。世界規模の組織を有し、アフリカ(日輪仮面将軍)・中央アジア(鉄人仮面テムジン将軍)・北欧(火の山仮面マグマン将軍)には大幹部が配置されている。大幹部以外にもアラビア砂漠の鉄カゴ仮面など幹部級の実力を有する仮面怪人が各地に存在している。歴史も古く、ゴールデン仮面大将軍のような古代からの構成員も存在する。大組織であるがそれに留まらずイーグル構成員を金で寝返らせたり、死者を蘇生改造して仮面怪人にする、アトランティスの遺産、コンドラー戦闘爆撃隊を入手する、宇宙忍団を呼びよせるなど戦力増強もたびたび行っている。作戦面では一般的な怪人の能力に依拠したテロ作戦以外にも最初に日本を攻撃した際に黄金仮面、武者仮面、青銅仮面、ヒスイ仮面、毒ガス仮面の五人の仮面怪人を同時に投入するなど大規模作戦も実行、そのいずれもイーグル支部を壊滅させるなど精度が高かった。", "title": "黒十字軍" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ナレーター以外は全てノンクレジット", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カッコ内は出演話数。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", 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『秘密戦隊ゴレンジャー』 (ひみつせんたいゴレンジャー) は、1975年4月5日から1977年3月26日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全84話が放送された、NET (現・テレビ朝日)・東映制作の特撮テレビドラマ、および作中に登場するヒーローチームの名称。
{{Pathnav|スーパー戦隊シリーズ|frame=1}} {{半保護}} {{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}} {| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第1作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''秘密戦隊<br />ゴレンジャー''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1975年4月<br />- 1977年3月 |- |style="border:1px solid black; white-space:nowrap; background-color:#ffccff"|'''第2作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[ジャッカー電撃隊|ジャッカー<br />電撃隊]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1977年4月<br />- 1977年12月 |} {{基礎情報 テレビ番組 |番組名=秘密戦隊ゴレンジャー |ジャンル=[[特撮]][[テレビドラマ]] |放送時間=土曜 19:30 - 20:00 |放送枠= |放送分=30 |放送期間=[[1975年]][[4月5日]] -<br />[[1977年]][[3月26日]] |放送回数=全84話 |放送国={{JPN}} |制作局=NETテレビ(現・[[テレビ朝日]]) |放送局=[[オールニッポン・ニュースネットワーク|NETテレビ系列]] |企画= |製作総指揮= |監督=[[竹本弘一]] 他 |演出= |原作=[[石ノ森章太郎|石森章太郎]] |脚本=[[上原正三]] 他 |プロデューサー={{Plainlist| * 荻野隆史(NET) * [[平山亨]] * [[吉川進]] * [[深沢道尚]](東映) }} |出演者={{Plainlist| * [[誠直也]] * [[宮内洋]] * [[畠山麦]] * [[だるま二郎]] * [[小牧リサ|小牧りさ]] * [[伊藤幸雄]] * [[高原駿雄]] * [[鹿沼絵里|鹿沼えり]] * [[安藤三男]] * [[八名信夫]] }} |声の出演={{Plainlist| * [[飯塚昭三]] * [[京田尚子]] }} |ナレーター={{Plainlist| * [[田中信夫]] * [[大平透]] }} |音声=[[モノラル放送]] |字幕= |データ放送= |音楽=[[渡辺宙明]] |OPテーマ=「[[進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー|進め! ゴレンジャー]]」<br />歌:[[ささきいさお]]、[[堀江美都子]]、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] |EDテーマ={{Plainlist| * 「[[進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー|秘密戦隊ゴレンジャー]]」(第1 - 63話)<br />歌:ささきいさお、[[こおろぎ'73]] * 「[[見よ!!ゴレンジャー/戦いおわって|見よ!! ゴレンジャー]]」(第64 - 84話)<br />歌:ささきいさお、こおろぎ'73、ウィルビーズ }} |言語=[[日本語]] |外部リンク= |外部リンク名= |特記事項=「[[スーパー戦隊シリーズ]]」 第1作 }} 『'''秘密戦隊ゴレンジャー'''』 (ひみつせんたいゴレンジャー) は、[[1975年]][[4月5日]]から[[1977年]][[3月26日]]まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時([[日本標準時|JST]])に全84話が放送された、[[テレビ朝日|NET]] (現・テレビ朝日)・[[東映]]制作の[[特撮テレビ番組一覧|特撮テレビドラマ]]、および作中に登場するヒーローチームの名称。 == 概要 == 「[[スーパー戦隊シリーズ]]」第1作目として扱われている。他方、シリーズ初期には、本作品と『[[ジャッカー電撃隊]]』はシリーズに含まないという見解もあった。 {{Main|スーパー戦隊シリーズ#『ゴレンジャー』および『ジャッカー』の扱い}} 変身ヒーロー作品に「戦隊」という図式を取り入れたうえ、ヒーロー5人が最初から登場するという設定が子供たちの大きな人気を集め、結果的に最高視聴率は22%、放映話数も全84話という記録を打ち立てた。再放送を含めて、2年間という放送期間はスーパー戦隊シリーズの最長記録となっており、未だにその記録は破られていない。人気を支えた理由としては、第1話の時点で5人のキャラクターを明確にしたことや、ハードな[[スパイ]]アクションから[[ギャグ]]、次回予告にも使われた[[なぞなぞ]]ネタといった、あらゆる娯楽的要素を盛り込んでいたことなどが挙げられる{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=148、212}}{{R|超世紀152}}{{efn|東映テレビ事業部部長の[[渡邊亮徳]]は、1つのパターンに決めると長続きしないため、正攻法だけでなくギャグ的なイメージを加味することで個性豊かにし、1話1話を面白くさせることを徹底させた旨を語っている{{R|大全集236}}。}}。 本作品では後年の『[[バトルフィーバーJ]]』以降で採用される[[戦隊ロボ|巨大ロボット]]{{R|J2006020401}}こそ登場しなかったものの、ミニチュア特撮による大型メカの活躍場面が用意されているのも特徴である{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集148|全怪獣上|全怪獣169|超世紀152|20th4}}}}。東映プロデューサーの[[吉川進]]は、当時ロボットが子供たちの人気を集めていたことから、メカニックの要素は軽視できなかったことを述べている{{R|大全集237}}。 集団変身ヒーローの嚆矢としては、[[テレビアニメ]]では[[1972年]]の『[[科学忍者隊ガッチャマン]]』、実写作品でも同年に制作された『[[トリプルファイター]]』がすでに存在していたが、一部書籍では本作品が「実写では本邦初」と説明されている{{R|甦る}}。 主題歌「[[進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー]]」の[[シングルレコード]]は、番組のヒットにも乗って[[ミリオンセラー]]<ref>[http://www.xebecmpc.com/animesi/animesi.html アニメソング25年史]、木村英俊、ジーベック音楽出版、90-91頁{{リンク切れ|date=2019年10月}}。</ref>(資料によっては42万枚<ref>[[池田憲章]]、[[高橋信之 (出版プロデューサー)|高橋信之]]『ウルトラマン対仮面ライダー―メガヒーロー 光と影の神話』文藝春秋、1993年、237頁。ISBN 4-16-347170-7</ref>)を記録した。また、後述のゴレンジャーマシーンなどを商品化した[[ポピニカ]]商材は、年間46億円以上の売り上げを記録した{{R|J2006020401}}。 本作品は石森により、スパイアクション漫画作品として『[[週刊少年サンデー]]』などの少年漫画誌でも連載されていたが、テレビ版のタッチがコメディ路線に移行していくにつれ、途中から[[ギャグ漫画]]に180度方向転換し、漫画のタイトルもジャンル変更にともない『週刊少年サンデー』のみ『[[ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ]]』に改題された{{R|甦る}}。石森は本作品について「まんがよりもテレビでこそいきる」作品であると述べている{{R|大全集154}}。 「ドラマや敵の怪人をコミカルに描く」というコンセプトは、本作品で美術全般を担当した[[エキス・プロダクション]]の前沢範が企画会議で石森に「舞台のショーで見られるような、コミカルで楽しいものにしましょう」と提案し、採用された{{R|創男}}。視聴率は20%を超えるまでになり、[[吉川進]]プロデューサーが女子大生のファングループから訪問を受けるなど、性別や年齢を問わない幅広い層から支持を集めた{{R|hero}}。 メインライターは、[[上原正三]]が同じ石森原作である『[[がんばれ!!ロボコン]]』と並行して担当{{R|大全集212}}。上原はコメディ路線へ作風が変化した理由について、俳優のイメージに引きずられた点と、『ロボコン』との相乗効果が生じた点、沖縄出身である自身の陽気で楽天的な資質などを挙げている{{R|大全集212}}。後年、スーパー戦隊シリーズ9作品のメインライターを務めることとなる[[曽田博久]]も、本作品よりすでにサブライターとして参加しており、『[[激走戦隊カーレンジャー]]』まで、20年間にわたってスーパー戦隊シリーズの脚本に携わることとなる。 アクション面では、仮面ライダーシリーズと異なる集団戦の描写が取り入れられ、ワンフレームで全員が戦う広域カットと個々の戦いを組み合わせることなどにより演出の幅が広がったとされる{{R|20th30}}。また、集団戦に加え各ヒーローが皆異なる武器を持っていることも仮面ライダーシリーズと異なる特長であり、肉弾戦と武器の描写を織り交ぜることで、戦いの流れに変化をつけている{{R|20th30}}。 本作品では、[[山陰地方]](第38話・第39話・第41話)や[[愛媛県]][[松山市]]近辺(第60話)などで、本格的な地方ロケを行っている。 == 制作経緯 == NET(現:テレビ朝日)では本作品の放送前、土曜19時台後半より[[在阪テレビジョン放送局|在阪]][[準キー局]]・[[毎日放送]]制作の『[[仮面ライダーアマゾン]]』を放送していた。しかし1975年春(3月31日)より[[ネットチェンジ#近畿広域圏におけるいわゆる大阪準キー局「腸捻転」の解消|「腸捻転」解消によるネットチェンジ]]が実施され、毎日放送は[[TBSテレビ|TBS]][[ジャパン・ニュース・ネットワーク|系列]]に変更となり<ref>毎日放送と入れ替わりで、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]がNETの準キー局となった</ref>、その影響で「[[仮面ライダーシリーズ]]」の放映権もTBS系列に異動となった{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集146|大全平山|甦る|20th4}}}}。背景には当時のテレビ局と新聞社の統合系列化というマスコミの大変革があった。 『[[仮面ライダーX]]』での「メカニック・ヒーロー」への挑戦や『仮面ライダーアマゾン』の「本格的怪奇アクションドラマ」への回帰は成功したとはいえなかったが、それでもNETとしては「仮面ライダーシリーズ」という有力コンテンツを失う危機感は少なからずあった{{efn|『[[人造人間キカイダー]]』は、NETがねじれ解消を見越して強力なコンテンツとすることを想定したものであったが、長期化には至らなかった{{R|20th5}}。}}。その穴を埋めるべく東映テレビ事業部本部長の[[渡邊亮徳]]は『[[仮面ライダーストロンガー]]』制作時に毎日放送に却下されていた「『[[スパイ大作戦]]』を参考にした複数の専門家が集まったヒーローチーム」という「5人ライダー」の案件を再検討し、新番組に採り入れることを決定した{{Refnest|group="出典"|{{R|大全平山|甦る|71-84五人}}}}{{efn|『ストロンガー』での5人ライダー案は、東映と毎日放送の事前協議の段階で没となったため文書としては残されていない{{R|71-84五人}}。}}。また、「5人」とした理由について、企画に参加していた[[石森プロ]]の加藤昇は『[[サイボーグ009]]』のような9人では実写で描写するには多すぎ、同時期に3人ヒーローである『[[アクマイザー3]]』の企画が進行していたことを理由に挙げており{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=198|loc=「スタッフキャストインタビュー 加藤昇」}}、東映テレビ事業部部長の[[渡邊亮徳]]は7人では多すぎ、3人では少なすぎ、4人では縁起が悪く、5人が収まりが良かったとしている{{R|大全集236|material12}}。原作者の[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]は、集団で戦うイメージソースとして自身の作品『[[少年同盟]]』も挙げている{{R|大全集154}}。 石森は「5人のヒーロー集団」という設定から複雑なデザインは避け、一目でわかるシンプルなヒーロー像を設定した{{R|大全集146|20th4}}。カラーテレビの時代を反映させ、かつての『[[仮面の忍者 赤影]]』([[関西テレビ放送]])と同様、「色」で個性を強調することとした{{R|hero|20th5}}。強化服を纏うという設定は、既存の作品に見られる改造人間・ロボット・宇宙人などとの差別化から生み出された{{R|大全集146|20th4}}。石森はこの設定について「[[ジェームズ・ボンド|007シリーズ]]」などのスパイものの小道具を全身にまとったイメージと述べている{{R|大全集154}}。企画書では、敵味方ともに仮面の集団であることを作品のポイントとしており、仮面という古典的要素と現代的なメカ要素を組み合わせることによる劇画的な雰囲気を強調することが狙いであるとしている{{R|超世紀152}}。 === 題名案の変遷 === 番組のコンセプトはスムーズに決定したが、ネーミングについては難航した{{R|超世紀152|20th4}}。 当初のタイトル案は『'''レッド・1'''』というものであり、各メンバーの名も'''レッドマスク'''などと仮称されていた{{R|大全集146|超世紀152}}。その後に考案されたのが『'''ファイブレンジャー'''』で、メンバーの名称も'''レッドレンジャー'''などとするものだった{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集146|超世紀152|大全平山|tokunew1104}}}}。 しかし、この『ファイブレンジャー』は「理屈っぽい」として渡邊に却下され、次に出た『'''ガッツレンジャー'''』も却下された後、最終的に「5人レンジャー」の「人」を取って「'''5レンジャー'''」の名前が考案され、これにOKを出した渡邊によって片仮名の『'''ゴレンジャー'''』が決定名となった{{R|tokunew1104|大全集146}}{{efn|プロデューサーの平山亨は、「モモレンジャー」を先に発想したことからすべて日本語に統一したと証言している{{R|大全平山}}。これ以前の企画書では、女性メンバーはホワイトであった{{R|大全集146}}。}}。 これに伴い、メンバーの名称も渡邊によって日本語に直された{{R|tokunew1104}}。「モモレンジャー」については、当時「ピンク」という単語に「[[ピンク映画]]」「ピンク産業」などとエロチックな用法が多かったため、「ピンクレンジャーでは子供向け番組には刺激が強い」と判断し、渡邊が「果物のモモ、ハートのモモ、ふっくらした女性のモモが、ちょっと不良っぽくていい」と「モモレンジャー」に決定した{{R|hero}}。平山は、小牧リサの太ももから「モモレンジャー」を発想したと証言している{{R|大全平山}}。その後、[[2015年]]に『[[手裏剣戦隊ニンニンジャー]]』が制作されるまで、各ヒーローの色名に日本語が使われた戦隊は、シリーズ中本作品のみであった{{R|oricon_20141216}}。 == あらすじ == 世界征服を企み、国際的に暗躍する'''黒十字軍'''。彼らの侵攻を食い止めるべく、[[国際連合|国連]]は'''イーグル'''という国際的平和組織の秘密防衛機構を設立、[[スイス]]・[[ジュネーヴ]]に本拠地を置き、全世界に各10ブロックのガードサークルを配置して黒十字軍に対抗していた。ある日、黒十字軍は日本ブロックに焦点を絞って総攻撃を仕掛け、全国の各支部([[北海道]]・[[東北地方|東北]]・[[関東地方|関東]]・[[近畿地方|関西]]・[[九州]])は壊滅する。 しかし、各支部に1名ずつ奇跡的に生き残った者がいた。関東支部の海城分隊長の弟で、秘密工作のスペシャリスト'''海城 剛'''、東北支部の分隊長'''新命 明'''、九州支部の精密技術班員'''大岩 大太'''、北海道支部の化学分析班員'''ペギー 松山'''、そして関西支部の新米隊員'''明日香 健二'''である。イーグル日本ブロックの最高指揮官である江戸川権八は、彼ら5名を[[新宿]]の[[秘密基地]]に呼び寄せた。 ここに、イーグル日本ブロックが黒十字軍に逆襲するために創設した特別部隊'''ゴレンジャー'''の戦いが始まった。 == 登場人物== === 秘密戦隊ゴレンジャー === [[ファイル:Inasegawa Seizoroi no Ba.jpg|thumb|350px|歌舞伎の『[[青砥稿花紅彩画|白浪五人男]]』が「5人揃ってゴレンジャー」の名乗りポーズの原典である。]] 国連が人類を守るために設立した国際秘密防衛機構'''イーグル'''(Earth Guard League)の日本ブロックに属する精鋭部隊{{R|20th6|学研の図鑑12}}。作中では単に「ゴレンジャー{{efn|英字表記は'''GORENGER'''。}}」と呼称され、「秘密戦隊」のネーミングは作品タイトルや主題歌の歌詞に用いられるのみに留まっている。 黒十字軍の襲撃により壊滅的打撃を受けたイーグル日本ブロック各支部の生き残り隊員が、江戸川権八総司令の指揮下で[[レンジャー (陸上自衛隊)|レンジャー]]訓練を受け、地球の平和を守るために黒十字軍と戦う特殊部隊ゴレンジャーとなった{{R|学研の図鑑12}}。正規メンバーは5人であるが、熊野大五郎のようにイーグル内で選抜されたゴレンジャー予備隊員も存在する{{R|20th6}}。 ゴレンジャーの正体は一般には秘匿されているが、第4話の時点で素顔の写真と詳細なプロフィールが黒十字軍の手に渡っており、怪人がスナック「ゴン」にやって来た際には姿を隠すなどして秘密を守っていた{{efn|一方、映画『[[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]]』ではジャッカーのメンバーに不審人物として追われたペギーが「ゴレンジャー証明書」という身分証明書を見せる場面がある。}}。 ゴレンジャーのメンバーは2代目キレンジャーを含め以下の6人。当初のメンバー5人の本名である海城('''か'''いじょう)、新命('''し'''んめい)、大岩('''お'''おいわ)、'''ペ'''ギー、明日香('''あ'''すか)の頭文字を繋げると「'''[[カシオペヤ座|カシオペア]]'''」となり、これはクライマックスへ向けての重要な伏線となっている([[#黒十字軍|後述]]){{efn|初期企画書では、5人のグループ名にもなっていた{{R|大全集146}}。}}。 集合時の名乗りは、「'''5人揃って、ゴレンジャー!'''」{{R|20th6}}。大野剣友会の振付による、勢ぞろいした5人が右の掌を前に掲げる決めポーズは、[[殺陣]]師の[[高橋一俊]]が歌舞伎の『[[青砥稿花紅彩画|白浪五人男]]』から採ったものである{{R|大全集210|Ohno}}。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|海城 剛|かいじょう つよし}}|海城剛}} : ゴレンジャーのリーダーで{{R|20th8}}、イーグル関東支部の生き残り。4月4日生まれの24歳{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|赤の伝説|2012|p=15}}{{R|大全集12|大全16|20th8|学研の図鑑12}}}}。一人称は「俺」。 : イーグル秘密工作班出身{{Sfn|完全超百科|2006|p=4}}{{R|20th8}}である秘密工作のスペシャリストで、優れた決断力と統率力を持つ義理人情に厚い熱血漢{{R|20th8}}。次第に指揮官としての冷静さと貫禄を身につけていき、時には大人の余裕も見せるようになる{{R|20th8}}。またユーモアのセンスに富み{{R|20th8}}、仲間内での会話では軽妙な遣り取りを交わすことが多く、仮面怪人に対しても巧みなレトリックを弄して煙に巻くケースが見受けられる{{efn|第9話の魔女仮面戦、第29話の扉仮面戦など。}}。正々堂々とした立ち振る舞いを好み{{R|20th8}}、状況によっては敵にも情けをかける一方、騙し討ちなどの卑怯な手段を使う者に対しては激しい怒りを見せる。変装術、格闘術、オートバイの運転などにも長けている{{R|20th8}}。 : 第1話の冒頭でイーグル関東支部が黒十字軍の襲撃を受けた際、黄金仮面に分隊長である兄を殺されている{{R|20th8}}。これ以外の親族は第12話で「俺の姉は黒十字軍に殺された{{efn|死亡時期や、実姉か義姉かについては未言及。}}」と剛本人が述べている。 :* 初期に着用していた白いスーツは誠の要望により作られたが、撮影初日に着用した誠はイメージと異なっていたと述べている{{R|20th18}}。 :* 海城役には次作『[[ジャッカー電撃隊]]』で桜井五郎/スペードエース役を演じた[[丹波義隆]]も候補に挙がっていた{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=148、184}}。 :; {{Visible anchor|アカレンジャー}} :: 海城剛が変身する赤い戦士{{R|20th8}}。 :: 格闘能力と指揮能力に秀でており、総合能力ではアオに分があるものの、見事なリーダーシップでメンバーの危機を救ったこともたびたびあった。海城はかつてイーグル内の[[サッカー]]部でエースストライカーだったため、ゴレンジャーストーム/ゴレンジャーハリケーンではフィニッシュのキッカーを務める{{R|学研の図鑑12}}。 :: 設定ではアカのマスクはプロトタイプで、これを基に他のメンバーのマスクが開発された{{R|大全集10|20th8}}。 ::* [[岡田勝]]によると、変身後のアカは、[[新堀和男]]が一人で演じた。新堀と海城役の[[誠直也]]は現場で打ち合わせを何度も行い、誠は新堀が演じたアカに対して「背は高く恰好が良かったので全然心配していなかった」と述べており{{R|THM7}}、殺陣担当が変更されて新堀がアカレンジャーを降板した際には、「あのふてぶてしい感じは俺に合ってるから、アカレンジャーはやっぱり新堀のほうがいいな」と漏らした{{R|max}}。 ::* 誠によれば、新堀は他のメンバーよりコンマ数秒遅く立ち回りを行っており、リーダーとしてのスケール感を表現しているという{{R|20th18}}。また、アカの特徴である重心を落としたガニ股の走りは、ラグビー経験のある誠の走りを真似たものである{{R|20th18}}。 ::* 造形を担当したエキス・プロダクションの[[前澤範]]は、アカを他の4人より目立つようにしようという考えからブーツを白い400ミリメートルのものにするなどしていたが、制作スケジュールから精神的な余裕はなく深く考えてはいなかったと述べている{{R|20th87}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|新命 明|しんめい あきら}}|新命明}} : ゴレンジャーの[[wikt:リーダー|サブリーダー]]で{{R|20th10|学研の図鑑12}}、イーグル東北支部の唯一の生き残り。メンバー最年長の25歳{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集16|大全16|20th10|学研の図鑑12}}}}。一人称は「俺」。 : 性格はクールな二枚目{{R|20th10}}。東北支部では[[射撃]]などの実戦訓練の指揮官を務めていた分隊長だった{{R|学研の図鑑12}}。かつてレーサーを目指していたこともあり、[[メカ]]の操作や各種飛行メカの運転技術{{Sfn|完全超百科|2006|p=4}}{{R|学研の図鑑12}}に長けており、車輛は言うに及ばず、船舶や航空機も動かせる{{R|20th10}}。人間嫌いでメカを愛するが、子供には優しい一面も持っている{{R|20th10}}。バリブルーン、バリドリーンなどの機長を務めるため、非常緊急出動の要請を受けるまで秘密基地に待機していることが多い。諜報活動などの際は、大岩と行動をともにすることも多い{{R|20th10}}。 : 一見、気障で斜に構えた冷たい人間のようにみえるが、メンバーを思いやる優しさと敵の罠を見破るクールさを併せ持ったチームワークを大事にする大人の性格であり{{R|20th10|学研の図鑑12}}、アカが不在のときはサブリーダーとして見事な指揮を執ることも多く、メンバーからの信望も厚い。加えて仲間思いであり、メンバーが危機に陥ったときは江戸川総指令の制止を振り切って出撃しようとすることもあった。海城とは意見の相違で対立することもあるが、アイコンタクトで意思の疎通を図れるほど互いを信頼している{{R|20th10}}。ときには感情を露わにして海城に窘められる場面もあった。 : 普段は[[テンガロンハット]]を被ることが多い{{R|大全集16|20th10}}{{efn|第2回撮影会では[[ハンチング帽]]であり、第1話でスナック「ゴン」集結前の個別特訓シーンでアカレンジャーから「合格だ」と言われた後、変身を解いた瞬間のみ被った姿を見ることが出来る{{R|大全集16}}。}}。白いギターを愛用しており{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集16|大全16|20th10}}}}、愛煙家でもある。 :* 主演作『[[仮面ライダーV3]]』など、既にヒーロー俳優として実績のあった宮内洋がアオに起用された理由のひとつに、当時赤色は「女の子の色」という認識が強く、リーダーのアカが視聴者に受け入れられなかった場合の保険という意味合いもあった{{R|甦る}}。しかし、宮内は当時レギュラー出演していた『[[刑事くん]]』(TBS)の撮影などで多忙だったこともあり、「1人のヒーローの下でヘコヘコ働く下っ端なんて嫌です!」と固辞していた{{Refnest|group="出典"|name="miyauchi"|{{R|ライダー71-84|CL|昭和M}}}}。これは、宮内が未だ誰も見ぬ新シリーズ「戦隊ヒーロー」の図式を理解していなかったためであるが、東映サイドはもとより、原作者の石森がどうしても気障でクールなサブリーダーであるアオの配役に宮内を切望し、「アカレンジャーは[[宮本武蔵]]、君=アオレンジャーは[[佐々木小次郎]]のイメージでやってくれればいいんだよ」と力説して何とか説得し{{R|group="出典"|miyauchi}}、5人の個性を生かしたチームヒーローものという図式を理解した宮内は、新命をバリブルーンの機長に据えて別撮りで済むシーンを多くすることによってスケジュールの問題をクリアする目処もついたため、ようやくオファーを受けた。ただし、初期は撮影に参加せず、変身後の声のみの出演となったエピソードもある。そのため制作側も宮内には非常に気を遣い、オープニングの登場順でもアオ=新命のクレジットを通常の2番目(アカ→アオ→キ→モモ→ミド)ではなく5番目(アカ→キ→モモ→ミド→アオ)にする、宮内の十八番である素顔のスタントアクションを多くこなすなど、番組内の新命のスタンスが主人公である海城と極力同等(それ以上のケースすらある)に近いものになった。 :; {{Visible anchor|アオレンジャー}} :: 新命明が変身する青い戦士。 :: 専用の弓矢ブルーチェリー(ウルトラブルーチェリー)による遠距離攻撃やキック技を得意とする{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=7}}{{R|20th10}}。バリブルーンまたはバリドリーンで駆けつけることも多く、単独での格闘は少ない{{R|20th10}}。 ::* 変身後のアオは、岡田勝によると[[中村文弥]]と[[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]]が入れ替わりで演じた。中村は主に前期、中屋敷は後期を担当した{{R|max}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|大岩 大太|おおいわ だいた}}|大岩大太}} : ゴレンジャーのムードメーカーで{{R|20th12}}、イーグル九州支部の唯一の生き残り。23歳{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集20|大全16|20th12|学研の図鑑12}}}}。一人称は「おいどん」。ゴレンジャーの男性メンバーの変身前は主に苗字で呼び合っていたが大岩大太は「'''大ちゃん'''」と呼ばれている。ただし、第67話でカンキリ仮面との戦いに駆けつけた際はアカから一度だけ名字で呼ばれた。 : 力自慢で[[カレーライス|カレー]]好きの[[九州男児]]。九州地方の方言らしき言い回しを用いる{{R|大全16|20th12}}。挿入歌によれば10人兄弟らしい{{R|20th12}}。細かいことにはこだわらない性格的には純朴な底抜けのお人好しで{{R|学研の図鑑12}}、女性や子供にも優しいが、敵にそこを突かれて策略に嵌り捕獲されることも多い{{R|大全集20|20th12}}。 : 三枚目だが、江戸川の迂闊な一言から彼の正体がゴレンジャーの総司令であることに真っ先に気付くなど、洞察力に優れており、黒十字軍に捕えられた際、助けに来た仲間に手旗信号やなぞなぞで罠の存在を知らせるなど、機転も利く。戦闘時は得意な[[柔道]]を駆使して相手を投げ飛ばす、また自身の怪力や頭突きなどを武器とした格闘戦を挑むことが多い{{R|20th12}}。その一方で、精密技術班員だったこともあり、精密機器や通信関係のスペシャリストという理知的な側面を併せ持ち{{R|20th12|学研の図鑑12}}、相手を撹乱する作戦にも力を発揮する。 : カレーライスに関しては目がなく、黒十字軍が用意したカレーでさえも我慢できずに食べてしまう{{efn|罠的なもの以外にも、第3話では潜入中に黒十字軍基地の厨房のカレーを食べてしまっている。}}{{R|20th12}}。カレーは大岩をおびき出すエサによく使われるが、一服盛られることは少なく、第9話で痺れ薬入り、第36話で[[睡眠薬]]入りのカレーを食べてしまったぐらいだった。また、江戸川総司令がスナック「ゴン」のマスターとしてカレー教室を開いた際には、受講者の作ったカレーを大量に食べていた。「ゴン」では必ず大盛りカレーを注文し、多いときは一度に4杯を注文して綺麗に平らげていた{{efn|第1話でも「ゴン」到着早々に4杯の大盛りカレーを注文し、完食した。}}。それらは、黒十字軍の起こした事件で急遽出動するなどの止むを得ない事情があったとはいえ、ほとんどツケであり、マスターの江戸川からは第3話という早い時期から代金を払えとボヤかれていた。 : 第55話で急遽九州支部の教官に栄転するが、第67話で2代目キレンジャー大五郎の殉職を知り、キレンジャーに再任する{{R|学研の図鑑12}}。 : [[なぞなぞ]]は苦手なようで、太郎や明日香になぞなぞを出されると「何じゃらホイ?」と九官鳥のゴンや他の人に振って、いつもゴンに馬鹿にされている{{R|20th12}}。 :* 演じた畠山麦は、石森に師事していた漫画家[[すがやみつる]]の友人であることが縁で起用された{{R|甦る}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|熊野 大五郎|くまの だいごろう}}|熊野大五郎}} : 第55話から第67話に登場。元はイーグルのゴレンジャー予備隊員だったが、大岩が古巣の九州支部教官に栄転したため、成績優秀者の大五郎が2代目キレンジャーに昇格した{{R|20th12|学研の図鑑12}}。一人称は「俺」。大岩大太の呼び名「'''大ちゃん'''」は熊野にも受け継がれるが、海城と新命からは「'''大五郎'''」と名前で呼ばれることもあった。 : カレーが大好物の大岩とは異なり、[[ナポリタン]]や[[あんみつ]]などの甘いものを好む大の甘党で{{R|20th12|学研の図鑑12}}、[[釣り]]を趣味とする{{R|group="ep"|ep56}}{{R|20th12}}。[[相撲]]が得意な肉弾派で猪突猛進気味の性格{{R|学研の図鑑12}}。しかしそれが仇となり、第67話で自らの不注意によって細菌兵器カビカXをカンキリ仮面に奪われ、これを原因とするパトカーの交通事故で太郎が怪我をしたことに責任を感じ、名誉挽回をかけて1人で戦うもカンキリ仮面が放ったカンキリカッターが腹部に刺さり戦死した。 :* この大岩交代および復帰劇は、大岩役の畠山が、映画『[[沖縄やくざ戦争]]』の競演が縁で[[松方弘樹]]から指名されて、松方主演のドラマ『[[あがり一丁!]]』([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])で主人公の弟分の板前、純役でレギュラー出演することになり、急遽ピンチヒッターが必要になったためである<ref>人気アニメ・マンガの知られたくない黒歴史(鉄人社、2018年3月21日第1刷)p.136-137</ref>。このため、初登場となった第55話のオープニングでは畠山の映像に熊野大五郎/だるま二郎の名をテロップする形となっており、だるまの映像を用いた新オープニングへの差し替えは第56話からとなっている。 :; {{Visible anchor|キレンジャー}} :: 大岩大太または熊野大五郎が変身する黄色の戦士{{R|20th12}}。 :: 初代・2代目ともに怪力を生かした肉弾戦を得意としている{{R|20th12}}。 ::* キレンジャーのマスクは、エキスプロの前澤によると畠山の容貌に合わせて丸く作られたとのことである{{R|max-2}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|ペギー 松山|ペギー まつやま}}|ペギー松山}} : ゴレンジャーの紅一点で{{R|20th14}}、イーグル北海道支部の唯一の生き残り。18歳{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集24|大全16|20th14|学研の図鑑12}}}}。一人称は「私」。 : 化学分析班員であったため、爆弾開発のスペシャリスト{{R|20th14}}で、変装と化学分析、爆弾処理が得意{{Sfn|完全超百科|2006|p=5}}{{R|学研の図鑑12}}。非常に落ち着いた性格で、明日香の抑え役に廻ることもたびたびある{{R|20th14}}。女性ながら格闘能力も一般イーグル隊員を凌駕しており{{R|20th14}}、空手の有段者でもある。他に能なども嗜んでいる{{R|20th14}}。 : 父がスイス人、母が日本人の[[混血#日本国内における混血|ハーフ]]であり{{R|大全集24|20th14}}、挿入歌では弟の存在が語られている。恋仲だった北海道支部時代の上官、醍醐次郎は支部壊滅の際に戦死した。 : 服装は[[ベスト]]と[[ホットパンツ]]に白いブーツを着用していることが多い{{R|大全集24|20th14}}。[[香水]]はシャネルの五番{{R|20th14}}。髪型はロングヘアーだが、第4話で変装の際、ショートヘアーのかつらを着用したことがある{{R|20th14}}。 : 映画『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』ではゴレンジャーのメンバーでは唯一変身前の姿でも登場。 :* 役名は歌手の[[ペギー葉山]]を捩った名前である。なお「松山」という名前も葉山の代表曲「[[南国土佐を後にして]]」の舞台である高知県の隣、愛媛県の県庁所在地「松山市」に引っかけたお遊びである。 :; {{Visible anchor|モモレンジャー}} :: ペギー松山が変身する桃色の戦士{{R|20th14}}。 :: 爆発物の扱いに長けており、イヤリング爆弾のほか、ゴレンジャーストーム/ゴレンジャーハリケーンの使用時は自らが開発したボール爆弾のセッティングも務める{{R|20th14|学研の図鑑12}}。また、手刀やキックによる攻撃も得意とする{{R|20th14}}。 ::* 岡田勝によると、変身後のモモは小沢章治がメインで演じた{{R|max}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|明日香 健二|あすか けんじ}}|明日香健二}} : イーグル関西支部の生き残りの新人隊員で、メンバー最年少の17歳{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集28|大全16|20th16|学研の図鑑12}}}}。一人称は「僕」または「俺」。 : ゴレンジャーの中ではマスコットキャラクター的な存在で、[[動物]]や[[自然]]をこよなく愛する{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集28|20th16|学研の図鑑12}}}}。黒十字軍によるイーグル支部襲撃の際、他の4人は攻撃に巻き込まれ負傷しているが、明日香だけは支部施設の屋上にある鳩小屋で[[鳩]]の世話をしていたため毒ガス攻撃を免れており、直接の被害は受けていない。若さゆえに血気盛んな面が強い{{R|大全集28|20th16}}。その性格ゆえか新命からは「坊や」と呼ばれることも多い{{R|20th16}}。 : 挿入歌によるとなぞなぞが得意なようで、作中でも時々大岩になぞなぞを出している{{R|20th16|学研の図鑑12}}。 :* 当初キャスティングされたのは、新人歌手の岸明彦{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=130、148}}で、撮影会では彼が明日香役として参加しているが、クランクイン直後に降板{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=130、148、180}}したために、急遽伊藤幸雄がその代役を務めることになった{{R|超世紀152}}。岸が降板したために第1話の撮影は「通常の倍の時間がかかった」と監督の[[竹本弘一]]は回想している{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=196}}。 :; {{Visible anchor|ミドレンジャー}} :: 明日香健二が変身する緑色の戦士{{R|20th16}}。 :: 格闘能力は高く、軽い身のこなしで持ち味のスピードを駆使して遠近用万能武器ミドメランを使って戦う{{Sfn|完全超百科|2006|p=5}}{{R|20th16}}。 ::* 岡田勝によると、変身後のミドは湯川泰男がメインで演じた{{R|max}}。 === ゴレンジャーのサポートメンバー === ; {{Visible anchor|{{読み仮名|江戸川 権八|えどがわ ごんぱち}}|江戸川権八}} : イーグル日本ブロック総司令官であり{{R|20th6}}、ゴレンジャーの創設者。普段は[[新宿駅]]付近にあるスナック ゴン<ref>第45 - 84話は、フルーツパーラー ゴン</ref>のマスターに扮している{{R|20th6}}。 : 当初はゴレンジャーの面々にも正体を隠し、声のみで指令を下していた。しかし、第2話でマスターの姿のまま大岩を「キ」とうっかり呼んだため、大岩に正体を勘付かれてしまう。結局、第3話ではマスターの姿でゴレンジャーに命令することになってしまい、以後はゴレンジャールームにも姿を見せて直接命令を下すようになった。 : 戦闘訓練や操縦訓練も受けており、「ゴン」で暴れる黒十字軍の攻撃をかわしたことがある他、第20話ではバリブルーンを操縦する場面がある。 : 料理人としての腕も確かで、得意料理はカレー。第37話では料理教室(カレーの作り方)なども開いている。 : [[詰将棋]]などを趣味としており、それを参考に作戦を考えたこともある。 :* 企画書(第2稿)での名称は'''大前田権八'''であった{{R|大全集146}}。 : ; イーグル連絡員 :; {{Visible anchor|007 / {{読み仮名|加藤 陽子|かとう ようこ}}|加藤陽子}} :: イーグル連絡員の中では最も長期に渡って活動した。普段はスナック ゴン → フルーツパーラー ゴンのウェイトレスに扮している。主にゴレンジャーのサポート活動が中心で、第37話、第58話ではモモレンジャーに転換することもあった{{R|20th6|学研の図鑑12}}。パイロットとしての訓練も受けており、第66話ではバリドリーン、第47・50・65・67・70・71話ではバリタンクの予備パイロットとして参戦したこともある{{R|学研の図鑑12}}。 :: 総司令やゴレンジャーメンバーからは通常「007」と呼ばれるが、大岩からは戦闘中であっても「陽子ちゃん」と呼ばれている。大岩のことは他のメンバー同様「大ちゃん」と呼んでいる。 ::* 企画書(第2稿)では大前田権八の娘'''大前田陽子'''という設定であった{{R|大全集146}}。 ::* 演じる[[鹿沼絵里|鹿沼えり]]は、[[小山ゆうえんち]]でゾルダーに追いかけられて高所から飛び降りるシーンの撮影の際に背中を負傷し、最終回には未出演となった{{R|大全集200}}。残っていたアフレコは寝たままの状態で行ったという{{R|大全集200}}。 : :; 008 / {{読み仮名|林 友子|はやし ともこ}}、009 / {{読み仮名|中村 春子|なかむら はるこ}} :: イーグル連絡員のメンバー。 :; その他のイーグル連絡員(各支部隊員・諜報員) :: 黒の[[ベレー帽]]に緑の軍服を着用。ゴレンジャーをサポートする他、科学研究員は新武器の開発も行っている。仮面怪人がイーグル各支部を強襲する際に戦死する者が多い。ゾルダーに化け潜入や諜報活動も行うが、大半は見破られて殉職する。見破られる理由の一つとして、イーグルで用意したゾルダーの衣装が本物のゾルダーと材質が異なることがガンマン仮面の言動から示唆されている。特殊探知機を体にかざされ、黒十字軍の正式構成員でないことを見破られた者{{R|group="ep"|ep3}}もいた。基地に潜入する際に合言葉に引っ掛かり処刑装置の串刺しに遭う者{{R|group="ep"|ep55}}、情報を掴んで逃げる際に矢に射られる者{{R|group="ep"|ep2}}、極めつけは毒グモの実験台で白骨化する者まで出し、その任務は過酷を極めた。 === その他 === ; {{読み仮名|加藤 太郎|かとう たろう}} : イーグル連絡員の加藤陽子の弟{{R|20th6}}。よく「ゴン」に遊びに来ている。第3・12・22・27話では黒十字軍の罠に巻き込まれてしまい誘拐されることもあったが、第47・53話などでは大岩に出題するなぞなぞや発言が事件解決のヒントになることもあった。 : ; {{Visible anchor|ゴン}} : 第32話から登場。スナックゴンで飼われている[[キュウカンチョウ|九官鳥]]{{R|20th6}}。九州弁を話し、人間と会話ができる。大岩をからかっては面白がっている。 == ゴレンジャーの戦力 == === 共通装備 === ; ゴレンジャースーツ{{Refnest|group="出典"|name="GOREN"|{{R|大全集8|大全106|画報17|20th6}}}} : 5人が着用するイーグル開発の5色の戦闘用特殊強化服。人間の大脳中枢を刺激してその潜在能力を飛躍的に高め、腕に衝撃吸収装置、膝には体温調節器が備わっているので、爆撃などの激しいショックやどんな気温にも耐える。マスクの額部分には番号が書かれており、アカが1{{efn|アカのみ黄色い1に翼がデザインされている。}}、アオが2、キが3、モモが4、ミドが5となっている。また、マスクの後頭部にはそれぞれ番号と同じ数の縦のラインがあり、スーツの胸部分には番号と同じ数のVの字状のラインが施されている。アイマスクには各戦士の個人武器が収納されており、アイマスクのデザイン自体も各々の武器にちなんだものとなっている。ベルトのバックル部分はゴレンジャーのマークとなっており、ベルトの帯部分にはアイマスクと同じ形の飾りがある。 : ゴレンジャーの変身プロセスは「'''転換'''」と呼ばれる。転換アクションは「'''ゴー!'''」というかけ声とともにジャンプして着地する、もしくはその場で回転するだけで完了し、特にアイテムは使用しない。着用する際瞬間的に10万ボルトの高電圧がかかるため、彼らのような訓練を受けたメンバーのみが着用できる{{R|大全集8}}。高電圧に耐えるため、転換の際には精神集中が必要である{{R|group="ep"|ep40}}{{R|大全集8|大全106}}。 :* 撮影用スーツは[[ジャージー (衣類)|ジャージ]]を改造している{{R|大全集10}}。マスクはFRP製で{{efn|エキスプロダクションの[[八木功]]によれば、当時のFRPは耐久性に配慮して厚みを持たせており、重量があることが難点であったという{{R|20th90}}。}}、ゴーグル部分は強度の都合から一体成型となっている{{R|21st11}}{{efn|造形を担当した前澤範によれば、当時は透明のアクリルや塩化ビニールを押し型で曲げる方法しかなかったが、平面に戻ろうという性質があるため穴を開けることになったという{{R|20th87}}。同時期に制作された[[仮面ライダーストロンガー]]のマスクも同様の作りとなっている{{R|20th87}}。}}。シンプルなデザインのため、従来のヒーローマスクのような分割線の筋彫りや噛み合わせなどが設けられなかったが、材質の向上によりパーツを歪ませずに前後での分割が可能となった{{R|21st11}}。 :* 1975年1月に[[よみうりランド]]にて開催された第1回撮影会では材質が異なっていた{{R|大全集130}}。マントは、第1回撮影会では石森がデザインした丈が長く、アカレンジャー以外の四人も襟が幅広いもので{{Sfn|宇宙船SPECIAL|1998|pp=170-171}}、ベルトの形状なども異なるものであった{{R|大全集130}}。この撮影会でバーディーの実演を行ったところ、火が合成繊維のマントに燃え移ってしまい、すぐに劇中の短いものに変更されたそうである{{R|泣虫}}{{Sfn|怪獣とヒーローを創った男たち|2002|p=171}}。なお、第2回撮影会は1975年2月に新宿西口公園にて本編スーツを着用したゴレンジャーが、出演俳優および武者仮面を除く第5話までの仮面怪人とともに参加したものが開催されている{{R|大全集130}}。 ; ニューゴレンジャースーツ{{R|group="出典"|GOREN}} : 第43話で敵にゴレンジャースーツの資料が奪われ苦戦を強いられたため、新たに開発された特殊強化服。スーツの外観や転換プロセスは旧スーツと同様であるが{{R|大全集8}}、スペックはアップしている。ただし着用時に発生する電流の電圧も15万ボルトに上がっている。変身解除は「'''逆変転'''」と呼ばれ、転換と同様に「ゴー!」の掛け声と共にその場で回転しスーツが脱げる方式になっている{{R|group="ep"|ep82}}。 : ; [[通信機]]{{R|大全106}}{{efn|名称は、書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では'''ブレスレット'''{{R|大全集186}}、書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では'''ブレスレット型通信機'''{{R|20th6}}と記述している。}} : ゴレンジャー全員が腕に付けている、ブレスレット型の通信用アイテム。転換後は手袋の内側に装着されている。ゴレンジャー以外の一般のイーグル隊員も着用している。中期以降では携帯式のトランシーバー型通信機も登場する。 : ; キーカード{{R|20th6}} : ゴレンジャー全員が所持しているアイテム。5つ揃えて桃・緑・赤・青・黄の順に並べると、ベルトバックルにもあしらわれているゴレンジャーのシンボルマークになる(赤が中央になっているのはアカがリーダーであるためである{{efn|また、ゴレンジャーマシーンなどでの走行時の並び順と同じでもある。}})。第1話で、「ゴン」に集合した時点では素顔での面識がなかった5人が互いの正体を確認するために使われたほか、ゴレンジャールームのドアの鍵としても使われている{{R|20th6}}。 : ; バーディー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全106|画報17|30超全集256b|20th6}}}} : ゴレンジャー全員のベルトの両腰に付いている小型ロケットブースター{{R|20th6}}。これによりゴレンジャーはジェット推進によって30分間で時速100キロの飛行が可能となり{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|完全超百科|2006|p=6}}{{R|20th6|東映×石ノ森}}}}、バリブルーンから飛び降りる際にも使用。横向きに付いており、引き出してノズルを下に向けるだけで点火・ジェット噴射{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}が始まる。 : ; 強化ヘルメット{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=13、25、29}}{{R|大全106|画報17}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では、名称を'''隊員ヘルメット'''と記述している{{R|20th6}}。}} : 第43話より登場した、転換前のマシン操縦の際に着用される特殊ヘルメット{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}。左右にゴレンジャーのマークがありゴーグル部分には転換する戦士のアイマスク型のマークと番号が付いているのが特徴。防弾能力は折り紙付きで、機関銃で撃たれても弾丸を平然と弾き返す。 === 個人武器・技 === ; アカレンジャー :; レッドビュート{{Refnest|group="出典"|name="AKA"|{{R|大全集10|大全106|画報18|30超全集256a|20th8}}}} :: アカの個人武器である鞭。敵を縛り付けてゴレンジャースーツから2万ボルトの電撃を叩き込む'''レッドスパーク'''という技が使える{{R|大全集10|大全106|20th8}}。 ::; ヤリビュート{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集10|大全106|画報18|20th8}}}} ::: レッドビュートを変形させた投げ槍。日輪仮面との戦いで初使用。 ::; ドリルビュート{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集10|大全106|20th8}}}} ::: レッドビュートを変形させたドリルで、腕に装着する。第29話で貨物列車の天井を破るために使用。 ::; アミビュート{{R|大全集10|20th8}} ::: レッドビュートをネット状に変形させ、捕縛に用いる形態。第39話で岩面仮面戦に使用。 : :; ニューレッドビュート{{Refnest|group="出典"|name="AKA2"|{{R|大全106|画報18|20th8}}}} :: 第43話から登場した、レッドビュートの改造強化版{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}。先端には各種アタッチメントを装着可能。なお、第66話までアカレンジャーは旧武器の「レッドビュート」呼びをしており、第67話から「ニューレッドビュート」と呼ぶようになった。 ::; レッドビュートパンチ{{R|大全106|20th8}} ::: 先端に赤い球体を装着し、打撃武器として使用する形態。初登場がこの形態であるため、これがニューレッドビュートの基本形態と誤解されていることが多い。 ::; レッドハンター{{R|group="出典"|AKA2}}(別名:レッドハンド{{R|大全集186}}、レッドアンカー、レッドアーム) ::: 第44話から登場した、先端にクランプアームを装着し、捕縛や奪取に用いる形態。 ::; エレキビュート{{R|大全106|20th8}} ::: アミビュートに変形させた状態で高圧電流を流し、ゾルダーを一網打尽にする。 ::; レッドビュート6人斬り{{R|大全集186}} ::: ニューレッドビュートを一閃させ、6人のゾルダーを一度に倒す技。 : :; シルバーショット{{R|group="出典"|AKA}} :: アカが右腰にさげている麻酔銃{{R|大全集10|20th8}}。第35話では信号弾を発射していた。 :; オートコントローラー :: レッドスターの小型自動操縦装置。音声とリモコン操作により、レッドスターの無人操縦が可能。第79話でスケート仮面に足を凍りづけにされた際、窮地を脱するために使用。 :; レッドキック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集10|30超全集256a|20th8}}}} :: サッカーで鍛えた脚力を生かしたキック技。変形技の'''三段跳びレッドキック'''もある{{R|大全集186}}。 :; レッドパンチ{{R|20th8}}(アカレンジャーパンチ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}) :: アカレンジャーのパンチ技。 : ; アオレンジャー :; ブルーチェリー{{Refnest|group="出典"|name="AO"|{{R|大全集14|大全106|画報18|30超全集256a|20th10}}}} :: アオの個人武器である百発百中の精密度を誇る弓。エッジ部分は剣としても使用可能。特殊金属製の矢を射る{{R|20th10}}。第1話では「アーチェリー(アオチェリー)」、第2話では「ブルーアーチェリー」と呼ばれていた。連続撃ちの'''連続ブルーチェリー'''{{Refnest|group="出典"|name="AO2"|{{R|大全集186|大全106|20th10}}}}、ジェット噴射を用いて矢の飛ぶ方向を変える'''スピンシュート'''{{R|group="出典"|AO2}}(虹仮面に使用)、一本の矢を空中で三本に分裂させる'''トリプルブルーチェリー'''{{R|大全集14|大全106}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では、名称を'''トリプルチェリー'''と記述している{{R|20th10}}。}}(分身した大ナタ仮面に使用)といった技がある。第31話では鉄カン仮面の頭部にリールを取り付け、ゴレンジャーストームを敵の頭に貼り付けるための'''リール巻き戻しチェリー'''を使用した。 ::; チェリーミサイル{{R|20th10}} ::: ブルーチェリーの矢の先端に、モモの持つ高性能小型爆弾を付けてジェット噴射で威力を増して射る{{R|20th10}}。別名'''ブルーアローミサイル'''{{R|画報18}}。主に敵のメカなどを破壊するために使われ、武者仮面のロケット、ドクロ仮面の棺桶、砲丸仮面の砲丸ライナー、第37話で逃げる秘密結社ブラックホールの車、第39話の重力装置を破壊した。オープニングでは最終回まで毎回登場している。 ::; ブルー回転アタック{{R|20th10}} ::: 連続で前転しながら敵に接近し、手にしたブルーチェリーの矢を敵の首筋に突き刺す。砲丸仮面の砲丸ライナーを封じるために使用。 : :; ウルトラブルーチェリー{{R|group="出典"|AO}} :: 第43話から登場した、ブルーチェリーの強化版。弓に丸い装甲版が装着され、命中精度や連射性も向上した。射たれた矢を3本に分裂させる'''ウルトラブルーチェリー連続射ち'''が使える{{R|大全集186|東映×石ノ森}}。矢の先端にアタッチメントを装着可能で、陽子の母の形見であるダイヤモンドを付けたダイヤモンドヘッド{{R|大全106}}(体の硬い蛇口仮面に使用)、とりもちブルーチェリー{{R|大全106}}(鉄ワナ仮面に使用)といったバリエーションがある。第72話でアオレンジャーが一度だけ「ニューブルーチェリー」と呼んでいた。 ::* 玩具『[[超合金 (玩具)|超合金]]アオレンジャー』では「スーパーアオチェリー」という名称になっている{{R|U150}}。 :; オートコントローラー{{R|20th10}} :: バリブルーンやバリドリーンの小型自動操縦装置で第9話・第39話・第42話・第47話・第48話・第51話などで使用。音声とリモコン操作により、バリブルーンやバリドリーンの無人操縦が可能。 :; ブルーキック{{R|20th10}} :: 虹仮面と鉄カゴ仮面に使用した飛び蹴り。ジャンプして、敵集団に6連続キックを放つ'''六段蹴り'''もある{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集14|画報18|20th10}}}}。 :; 避雷針{{R|20th10}} :: ベルト横のスイッチを押すと、頭から避雷針が出てくる。八ツ目仮面の八ツ目ショックを空中に放電させた。 : ; キレンジャー :; {{読み仮名|YTC|ワイ・ティー・シー}}{{Refnest|group="出典"|name="KI"|{{R|大全集18|大全106|画報18|30超全集256a|20th12}}}} :: キ専用の高性能無線機で'''Y'''ellow '''T'''rans'''C'''eiver(イエロートランシーバー)の略。さまざまな周波数の電波や音波を発信でき、主に妨害電波や不快音波で仮面怪人にダメージを与えるために使用される。第36話では0.033メガサイクルの超低周波光線を発して空飛ぶ軍艦を破壊した{{Refnest|group="出典"|name="KI2"|{{R|大全集18|大全106|20th12}}}}。磁力コントローラーをセットすることも可能で、歯車仮面の水爆の起爆装置を狂わせた{{R|大全集18}}。また、赤面仮面に対して'''マグネット金縛り'''や'''マグネットパワー'''という技を放った。デザインは途中でマイナーチェンジされており、軍艦仮面との再戦ではアンテナの先に突起物が追加された。キのスーツがニュースーツに代わってからは投入されなくなった。 :; キーステッカー{{R|group="出典"|KI}} :: 第43話から登場した、伸縮自在のステッキ。先端に拳形のアタッチメントが付いており、これはグー('''キーゲンコツ'''とも呼称される{{R|大全106}})・チョキ・パーに変形する{{R|20th12}}。初使用時先端には拳ではなく槍状の刃がついていた。第55話でゾルダーを10人まとめて投げる'''十人投げ'''という技がある{{R|大全106}}{{efn|ただし、映像では7人しか投げていなかった。}}。 :: 棒部分の色は当初茶色だったが黄色に変更した。 ::; キー木魚{{R|group="出典"|KI2}}{{efn|資料によっては'''キーモクギョ'''と表記している{{R|大全集186}}。}} ::: キーステッカーを木魚のバチくらいの長さに変形させたもの。これでゾルダーたちの頭を連続で殴りつける'''鉄拳ドレミ打ち'''{{R|大全集18|20th12}}という技がある。殴る際にはド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドの音階による効果音が入る。「'''キレンジャーさま怒りの鉄拳ッ!、ドレミ打ち!'''」がキメ台詞。 : :; メガトン頭突き{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集186|30超全集256a|20th12}}}}(爆弾頭突き{{R|大全集18|大全16}}) :: キレンジャーの得意技。空中から飛び込み頭突きを決める。バーディーと併用することで高速で頭突きをする'''阿蘇山頭突き'''もあり{{R|20th12}}、こちらは第30話で鉄の箱から脱出するために使用。作中では、メガトン頭突きのことを阿蘇山頭突きと呼ぶことがある。 :; {{読み仮名|[[阿蘇山]]投げ|あそざんなげ}}{{R|大全16|20th12}} :: 柔道の得意なキレンジャーの投げ技。キレンジャーは投げ技が豊富で、巴投げの要領で何度も回転して相手にダメージを与える'''阿蘇山車'''{{R|20th12}}、肩にかついで放り投げる'''阿蘇山大噴火'''{{R|20th12}}、敵にさば折りを食らわせた上で放り投げる'''[[桜島]]大噴火'''という技もある。この際、「'''おどば阿蘇山たい!怒ればでっかい噴火山たい!'''」とセリフがある。 :; 阿蘇山落とし{{R|20th12}} :: ヒッププレスを食らわす。 :; 阿蘇山キック{{R|20th12}} :: 全体重をかけた強力なキック。 :; 阿蘇山絞め :: 敵を両手で絞め付ける。第24話で使用。 : ; モモレンジャー :; イヤリング爆弾{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集22|大全106|20th14}}}} :: モモの個人武器である[[手榴弾]]{{R|20th14}}。'''モモ爆弾'''{{R|画報18|20th14}}・'''ピンク爆弾'''{{R|30超全集256a|20th14}}とも呼ばれる。フェイスマスクについているハート型のイヤリングをはずし{{efn|これで安全ピンが抜ける。}}、「いいわね、いくわよ!」{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集22|大全106|画報18}}}}のセリフとともに敵に向かって投げつける。鉄カン仮面には、敵の周りを爆風で取り囲む'''ネズミ爆弾'''を使用した。 ::; モモミラー{{Refnest|group="出典"|name="MOMO"|{{R|大全集22|大全106|画報18|30超全集256a|20th14}}}} ::: ハート型の鏡。太陽光線を反射して目くらましにしたり、敵の光線や炎を反射することも可能。脳波感知機の機能も持っている。鉄グシ仮面戦では'''モモミラー火炎返し'''で鉄グシファイヤーを反射した。鏡仮面戦ではミラーを巨大化させてサンミラー火炎を反射した。 ::; モモカード{{R|group="出典"|MOMO}} ::: 第43話から登場した、ハート型手裏剣。複数に分裂して、敵集団を一度に攻撃できる。 ::; モモセセリ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全106|画報18|30超全集256a|20th14}}}} ::: 蝶形の小型偵察機。ペンダントヘッドにモモカード2枚を合体させて使用する。第46話・第51話で使用。 : ; ミドレンジャー :; ミドメラン{{Refnest|group="出典"|name="MIDO"|{{R|大全集26|大全106|画報18|30超全集256a|20th16}}}} :: ミドの特殊合金製ブーメラン。投げることはもちろん、直接敵に斬りつけることも可能で、この戦法は'''ミドメランカッター'''と呼ばれる{{R|大全集186|20th16}}。改造による強化が可能で、舟耳仮面戦では両端に鉤爪状のカッターを付けた'''改良ミドメラン'''{{R|画報18|20th16}}を、カミソリ仮面戦では途中で大量に分裂させる'''スーパーミドメラン'''{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集26|大全106|20th16}}}}を使用した。鉄グシ仮面戦ではミド自らが回転しつつミドメランを放つ技'''回転ミドメラン'''を使用したが、弾かれた。小さな隠しポケットが付いており、第24話でその中に機密カードを隠している。また、第16話ではプールに引き込まれたペギーを救出している。 :; ニューミドメラン{{R|大全集186|大全106|画報18|20th16}}{{efn|書籍『30大スーパー戦隊超全集』では名称を'''ネオミドメラン'''と記述している{{R|30超全集256a}}。}} :: 第43話から登場した、ミドメランのバージョンアップ版。 :; ミドパンチャー{{R|group="出典"|MIDO}} :: ニューミドメランが変形した[[スリングショット]]。鉄板も貫通する弾丸を放つ。発射後に弾丸を巨大化させることも可能。 : :; ミドキック{{R|大全集26|20th16}} :: ミドレンジャーの得意とするキック技。空中二段蹴りの'''ダブルキック'''{{R|20th16}}、ゴールデン仮面大将軍に使用した'''ミド矢車キック'''{{R|20th16}}というバリエーションがある。 === 必殺技 === ; ゴレンジャーストーム : 番組初期でのゴレンジャーの必殺技。モモレンジャーの用意する銀色のバレーボール型爆弾をモモからキ→ミド→アオの順番に蹴っていく(キはヘディング)ことで5段階式の起爆スイッチをセットし、最後にアオからのパスをアカが「フィニッシュ!」の掛け声とともにキックして敵にぶつけると大爆発する{{R|大全集9|大全106}}。 : キとミドの蹴る順番が入れ替わったり、モモ→キ→アオ→ミド→アカの順に蹴ることも数回あった<ref group="ep">第8話・第9話・第11話・第12話・第21話・第22話・第31話・第35話・第36話・第40話</ref>。第9話からボールの色がパスされたメンバーに合わせて変わるようになり、アカレンジャーにパスされるとスパイクが生えるなどの強化が施された{{R|大全集9}}。必ずしもゴレンジャー全員が揃う必要はないらしく、第13話ではモモ→キ→アカの順で3人だけが使用するシーンも見られる{{efn|この場合は単に「ストーム」と呼ばれ、威力は弱くなる。}}。第23話ではバーディーで飛行しながら空中でパスやシュートを行う'''空中ゴレンジャーストーム'''を使用した。 : 第2話で早くも武者仮面に通用しないなど、仮面怪人に破られる場面も多く戦隊の必殺技としては弱い部類である。 : 設定上モモレンジャーがその場で組み立てて出していることから、敵に応じた改造も可能で、角仮面戦では爆弾の中から子爆弾が現れる'''ゴレンジャーストーム親子爆弾'''による時間差攻撃を使用している。 :* 必殺技の内容は決定まで難航し、撮影前日まで検討が行われた{{R|大全集210}}。東映プロデューサーの[[平山亨]]は、アメリカ映画で手榴弾をリズミカルにパスするシーンをイメージソースに挙げている{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=199|loc=「スタッフキャストインタビュー [[平山亨]]」}}。殺陣師の[[岡田勝]]は「キックが入るが、イメージはバレーボール」と述べている{{R|max|20th30b}}。 :; ゴレンジャーストーム・ニューパワー作戦 :: 第27話から登場したゴレンジャーストームの強化型。ボールが敵の弱点や特性に応じて変化する。第35話ではスチール仮面戦にミドレンジャーのミドメランを、第37話ではアカレンジャーのレッドビュートを組み合わせて使用することもあった。 ::* 東映プロデューサーの吉川進は、変形を加えたのは最後にもう1つサービスをという意図があったものであることを述べている{{R|大全集237}}。 : ; ゴレンジャーハリケーン : 第43話からニューゴレンジャースーツへの変更に伴い登場した、ペギーとイーグル科学班が共同開発したゴレンジャーストーム・ニューパワー作戦の変化能力を最大限に引き出したラグビーボール型の新型キック爆弾{{R|大全集9|大全106}}{{efn|資料によってはフットボール型と記述している{{R|画報17|30超全集256b}}。}}。 : 使用するボールは'''エンドボール'''と呼ばれ、繰り出し方も変わり、当初はアカの「モモ!ゴレンジャーハリケーンだ!」{{efn|第44話においてアカは「ゴレンジャーストームハリケーンだ!」と旧技名を交えて言っている。}}の掛け声でモモがジャンプしてエンドボールを取り出し全員が横一列に整列し、アカの「ゴレンジャーハリケーン・○○(変形するものの名前)」{{efn|第44話においてアカは「ゴレンジャーストーム・電気コンロ」と旧技名を言っている。}}・「アタック!」の掛け声を合図にモモからキ→ミドへとパスした後ミドからのパスをアオがジャンプして受け取り(右手のみの場合と両手の場合あり)右手で地面にセッティングして「アカ、クラウディングトライだ」{{efn|第48話ではダブルアタックトライ、第56話ではファイヤーキック。}}と声をかけ、アカが「オーケー!」と返してから「トイヤー!」と言ってジャンプし、アオが地面に直立させたエンドボールをアカが「エンドボール!」の掛け声とともに片足で蹴りこむようになった{{R|学研の図鑑36}}。また、仮面怪人を中心にエンドボールを奪おうとするゾルダーたち黒十字軍側とゴレンジャーとの攻防戦が描かれることも多くなった。当初はゾルダーを全員倒さないうちにエンドボールが繰り出されており、[[ラグビーフットボール|ラグビー]]競技のようにゾルダーを掻き分けながらボールをパスを行い、バス回しの途中で黒十字軍側がいったんボールを奪う場面もよく見られる。ただし、第67話で殺陣が[[大野剣友会]]から[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]]に変わってからは、ゾルダーを掻き分けながらボールをパスするシーンは第79話(スケート仮面の回のアイスホッケーバージョン)だけである。このボールも敵に応じた改造が可能で、第53話や第61話などで改造されている。 : 第67話からはさらに繰り出し方が変わり、アカの「モモ!ゴレンジャーハリケーンだ!」の掛け声で全員が縦一列に整列してモモが横回転してエンドボールを取り出し、アカの「いくぞ!」の掛け声を合図に全員が「オー!」と言ってジャンプをして各ポジションに散り、モモが「オッケー!ゴレンジャーハリケーン・○○(変形するものの名前)」と言い、モモ(空中で離し)→ミド(回転しながら空中で蹴る)→キ(フライングヘッドバット)の順でパスされ、キからのパスをアオが回転しながら「オーライ!」と言って両手で受け取り地面に押さえ、アカが両足で蹴りこむように変更された{{R|学研の図鑑36}}(ただし第69話から第71話の3話のみ、モモが空中で離したボールをミド→キ→アオの順に宙返りしながらタッチし最後にその空中のボールをアカが蹴り込んでいる)。受け答えは「ゴレンジャーハリケーン・○○(変形するものの名前)」と言うのがアカからモモに変わった以外はほぼ同じ。 : 「ゴレンジャーストーム」同様、こちらもボールが敵の弱点や苦手なものに応じて変形するが、その内容は次第にギャグ色の強いものになり{{efn|例:機関車仮面は石炭、トサカ仮面は入れ歯、アバラ仮面は鶏がらスープなど。}}、それを受けた怪人のリアクションも回を追うごとにエスカレートしていき、幹部である火の山仮面マグマン将軍ですら例外ではなかった(マグマン将軍の項を参照)。 :* 岡田勝はモチーフについて、インタビューにより「ラグビー」{{R|max}}と述べているものと、「アメフト」と述べているものがある{{R|20th30b}}。書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では「アメリカンフットボールのような陣形」と解説している{{R|大全集9}}。岡田は、5人に役割分担をさせやすいことを理由に挙げている{{R|20th30b}}。名乗りのポーズ(個人の名乗りも含む)も第67話から第71話までは大野剣友会のものが踏襲されたが、第72話以降はJACオリジナルのポーズに変更されている。ハリケーンを繰り出す前の、中腰になって片手を前に出すポーズは、やくざや香具師が[[仁義を切る]]際の「お控えなすって」のポーズを殺陣師の[[岡田勝]]が採り入れたもの{{R|Ohno}}。 :; ゴレンジャーハリケーンの変則使用例 :: 第45話と第53話では、アオからパスされたエンドボールをアカが投げてとどめを刺すこともあり、第53話では野球仮面に打ち返されて失敗している。第43話、第48話、第55話、第71話でモモ→キ→ミドとパスした後、時々アオにパスを出しミドにパスを返す場合もあった。第53話での野球仮面への2回目の攻撃時のみモモ→ミド→キ→アオ→キ→アカと渡った。このとき、ミドにパスされた時点でエンドボールは野球のボールへ変化しており、捕手役のキに投手役のミド、アオ、アカが1球ずつ投げて野球仮面から三振を取ってとどめを刺すという演出だった。また、第57話ではモモ→ミドの後に星のような並び方からアカ→アオ→キー→モモ→ミドと高速パスを続けてトサカ仮面を翻弄後にアオがエンドボールを投げてアカが空中で蹴るというゴレンジャーストームのような流れとなったほか、第79話ではスケートリンクを使いアイスホッケーのようにスティックでパスを出しており、この際はモモ→アカ→モモ→ミド→キ→アオ→アカとパスを出しアカの出したパスをアオが両手で受け取り芝生部分に押さえアカが蹴りこんでいる。 :: 第60話の妖貝仮面戦でミドがゾルダーの妨害を受けてパスをミスしてしまい、エンドボールは水没した。この時、モモが予備のボールを出し、キを経由せず直接ミドにパスをしたが、爆弾の威力は変わらなかった。この時のミスで海に落ちたエンドボールを、第61話で牛靴仮面が回収して黒十字ハリケーンの素材にしたことがある。ただし、実際は予めペギーが先回りして偽物とすり替えていた。 :: また、最終回のみモモが取り出したエンドボールをアカへ渡し、アカが「ゴレンジャーハリケーン・カシオペア」と言った後モモにパスを出した。以降のパスは後期と同様だが映像が撮り直されている。 :: 映画『[[秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン]]』(1976年)では、モモ・ミド・アカの三人のみによるゴレンジャーハリケーンを使っているが、鋼鉄剣竜に敗れている。最終決戦では5人が1個ずつエンドボールを持ち、一斉に蹴り飛ばす'''爆弾ハリケーン'''という技で、鋼鉄剣竜を倒した。 :: 映画『[[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]]』(1978年)では、ジャッカー電撃隊との合同作戦としてアカがビッグワンにパスを行った後に受け取ったエンドボールをビッグボンバーの砲身にセットして発射する'''ゴレンジャーハリケーン・ビッグボンバー'''が使用されており、エンドボールが変化しない点は爆弾ハリケーンと同様。 ; ゴレンジャーストーム・ゴレンジャーハリケーンの変形{{Sfn|大全|2001|pp=74-210}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=17|loc=「BONUS COLUMN01 ゴレンジャーストーム&ハリケーン変身一覧表」}} :{| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" |- ! 話数 !! 名称 !! 相手 |- !colspan="3"|ゴレンジャーストーム |- |第13話 |(子爆弾入り){{efn|本体命中直前に子爆弾が落ち、角仮面が防御を解いた後に子爆弾を踏ませて倒す。}}{{efn|劇中ではモモレンジャーは「OK!ゴレンジャーストーム」としか言っておらず名称なし、使用命令をだしたアカレンジャーは「時間差攻撃開始」と言っている。「子爆弾入り」の呼称は『スーパー戦隊画報1』のp.17の表より。}} |角仮面 |- |第27話 |モグラ |鉄の爪仮面 |- |第28話 |スッポンダー |鉄グシ仮面 |- |第29話 |ダブルパワー{{efn|2つにボールが分身、これを同時に放つ。}} |扉仮面 |- |第31話 |リールシュート{{efn|アオがブルーチェリーで鉄カン仮面に打ち込んだリールがエンドボールを引き寄せる。}} |鉄カン仮面 |- |第32話 |薪わり{{efn|薪に変化。大ナタ仮面は「大鉈包み割り」で真っ二つにするが、突如起きたフラッシュによって倒された。}}{{efn|書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では、名称を'''ニューパワー作戦・薪わり'''と記述している{{R|大全集186}}。}} |大ナタ仮面 |- |第33話 |桃太郎{{efn|桃に変化し、これを切ると中からさらに爆弾が飛び出す。}}{{efn|書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では、名称を'''ニューパワー作戦・桃太郎'''と記述している{{R|大全集186}}。}} |鉄ひめ仮面 |- |第34話 |青天狗{{efn|青天狗の面が顔に貼り付くというもの。}} |赤面仮面 |- |第35話 |ミドメランストーム{{efn|エンドボールがミドメランと合体。スチール仮面の網を破りながら倒した。}} |スチール仮面 |- |第37話 |ビュートフィニッシュ{{efn|エンドボールがレッドビュートを伝う。}} |フォーク仮面 |- |第38話 |錨 |海賊仮面 |- |第39話 |ハンマー |岩面仮面 |- |第40話 |手まり |鉄カゴ仮面 |- |第41話 |ハラハラコイン{{efn|コインに変形後、鉄獅子仮面(コインを食べて腹から武器を出す能力がある)に無理やり食わせて腹の中でエンドボールに戻る。}} |鉄獅子仮面 |- !colspan="3"|ゴレンジャーハリケーン |- |第43話 |ブリリアントカッター{{efn|ブリリアントカッターそのものには変化せず、エンドボールの脚部分が回転しながらダイヤ部分を削っていった。}} |ダイヤモンド仮面 |- |第44話 |電気コンロ{{efn|やかんとセットで使用して苦しめさせる。}} |エレキ仮面 |- |第45話 |二段ロケッター{{efn|エンドボールを阻止されても、中から発射された小型のエンドボール型ロケッターが確実に仕留める。}} |剣ザメ仮面 |- |第46話 |石炭{{efn|エンドボールが煙突に突っ込んで石炭に変化し、苦しみながら爆死させる。}} |機関車仮面 |- |第47話 |青い鳥{{efn|鳥牙仮面の頭に置いた後に自爆して同怪人を爆死させる。}} |鳥牙仮面 |- |第48話 |レンズカバー&マグネシウム{{efn|ダブルアタックトライでマグネシウム入りのレンズカバーをレンズ部分に被せて仕留める。}} |カメラ仮面 |- |第49話 |ドクロ{{efn|爆弾入りの頭蓋骨に変化後、ウルトラブルーチェリーでつの骨仮面の頭と入れ替える。}} |つの骨仮面 |- |第50話 |バタフライ(蝶){{efn|鉄ワナ仮面の顔に張り付かせて爆死させる。}} |鉄ワナ仮面 |- |第51話 |黄金銃{{efn|巨大な黄金銃に変化。弾丸型爆弾をガンマン仮面の口に詰めさせて爆死させる。}} |ガンマン仮面 |- |第52話 |設計図{{efn|エンドボールの設計図を電話で読み込ませて自爆させる。}} |電話仮面 |- |rowspan="2"|第53話 |ストレート{{efn|野球のピッチャーの要領で投げたエンドボールが野球のボールに変化するが、野球仮面に打ち返された。}} |rowspan="2"|野球仮面 |- |変化球{{efn|野球のボールをモモレンジャーのリモコン操作であやつるもの。野球仮面を三振に仕留めた後に球が落下して同仮面の頭に直撃し爆死させる。}} |- |第54話 |タマゴ |火の山仮面マグマン将軍 |- |第55話 |耳の栓{{efn|大耳仮面の顔に張り付かせて爆死させる。}} |大耳仮面 |- |第56話 |火の玉作戦{{efn|ファイヤーキックでエンドボールが火の玉になり、杖で防がれてもそのまま引火する。}} |蛇口仮面 |- |第57話 |入れ歯{{efn|入れ歯型爆弾を噛みつかせて爆死させる。入れ歯は剣ザメ仮面の剣ザメクラッシャーの流用である。}} |トサカ仮面 |- |第58話 |観音菩薩{{efn|純金の観音菩薩像型爆弾を掴ませて爆死させる。}} |パラボラ仮面 |- |第59話 |かすみ網{{efn|飛行する死の鳥仮面をかすみ網で捕らえて墜落させる。}} |死の鳥仮面 |- |第60話 |真珠{{efn|真珠型爆弾を抱かせて故郷の海を思い出させつつ爆死させる。}} |妖貝仮面 |- |第61話 |クワガタ虫{{efn|黒十字ハリケーンが変化したカブト虫と空中で交錯、そのまま2匹とも牛靴仮面の口に入らせて爆死させる。}} |牛靴仮面 |- |第62話 |骨ガラスープ{{efn|骨ガラスープ状の液体爆弾を飲ませて自爆させる。}} |アバラ仮面 |- |第63話 |チャンネル{{efn|手に変化してテレビ仮面の顔のボタンをいじる。}} |テレビ仮面 |- |第64話 |マグネットロック{{efn|時計のついた磁石に変形、磁力で時計仮面の針を狂わせる。}} |時計仮面 |- |第65話 |焚火 |落ち葉仮面 |- |第66話 |扇風機 |風車仮面 |- |第67話 |缶詰 |カンキリ仮面 |- |第68話 |アンプル |注射仮面 |- |第69話 |パインカッター{{efn|回転して飛んでいく曲刀に変形。パイナップル仮面の頭部を切り裂く。}} |パイナップル仮面 |- |第70話 |空気入れ |タイヤ仮面 |- |第71話 |ピアニスト{{efn|バレリーナの人形に変形。ピアノ仮面の鍵盤を踏みつける。}} |ピアノ仮面 |- |第72話 |銀の舟 |イカリ仮面 |- |第73話 |ゴレンジャー{{efn|ゴレンジャーたちの各武器に変形。}} |剣道仮面 |- |第74話 |視力検査{{efn|視力検査票に変化、読み終わると爆発。}} |眼鏡仮面 |- |第75話 |給油タンク |ストーブ仮面 |- |第76話 |クモの巣 |鉄グモ仮面 |- |第77話 |冷凍スプレー |鉄ヘビ仮面 |- |第78話 |製氷機 |マンモス仮面 |- |第79話 |アイスホッケー{{efn|大きな雪玉に変化。}} |スケート仮面 |- |第80話 |手毬{{efn|ゴレンジャーストーム版のものとはデザインが異なり、ストーム版は糸をまいた和風の毬、ハリケーン版は色を塗ったボール風。}}{{efn|劇中ではモモレンジャーも鋼鉄虎仮面も「てまり」と呼称だが、書籍『スーパー戦隊画法1』p.17の表では、名称を'''毛糸玉'''と記述している。}} |鋼鉄虎仮面 |- |第81話 |大火鉢 |鉄ビン仮面 |- |第82話 |ヨーヨー |ヨーヨー仮面 |- |第83話 |鉄の罠{{efn|トラバサミに変形。}} |ダイガー仮面 |- |rowspan=2|第84話 |ギロチン |rowspan=2|黒十字総統 |- |カシオペア{{efn|総統の弱点カシオペアX線(見た目はW型の火柱)に変化。}} |- |} === その他の合体技 === ; ゴレンジャーチャージ{{R|大全集186|20th6}} : 第5話で使用。心肺停止となったミドに対し、4人が右手を掲げてそれぞれの色の光線を放ち、蘇生させた。スーツに流れる特殊電流を利用し、エネルギーを充填させたもの{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集186|20th6|東映×石ノ森}}}}。 ; ゴレンジャーサークル : 敵を囲み、一瞬にして位置を入れ替わることで敵を混乱させる。青スジ仮面に使用。 ; 不意打ちキック : 眼鏡仮面のスローモーションメガネを破るために使用した技。アオの合図とともに、キ以外の4人が敵の頭上に飛び蹴りを食らわす。キは敵の股間目掛けてスライディングで頭突きする'''不意打ち頭突き'''を使用した。 === ゴレンジャーの使用マシン・メカ === ; ゴレンジャーマシーン : イーグル科学陣が製作したゴレンジャー隊員が使用する陸上戦闘・追跡用の特殊[[オートバイ|バイク]]{{R|東映×石ノ森|20th22}}。ブルーマシーンとグリーンマシーンのサイドカー部分は切り離せる{{efn|第24話でグリーンマシーンが切り離しを実行している。}}。動力源は[[リチウム]]エンジンで、これによってゴレンジャーマシーンは空気のあるところならば半永久的に走ることが出来る{{R|大全集32|20th22}}。ブルーマシーン・グリーンマシーンのサイドカー部分のシートは、第53話以降色が変わっていた。また、高性能コンピューターによる自動走行も可能{{R|大全集32|20th22}}。使われない時はゴレンジャールーム付属の車庫に待機している。ゴレンジャー基地に侵入した鉄の爪仮面に破壊されかけたことがあった。第54話で、黒十字軍のナバローン要塞を破壊するために爆薬を積んで特攻、要塞もろとも大破した。 :* 海城剛役の誠直也は、オートバイシーンはスタントなしであったと証言している{{R|20th18}}。 :; レッドマシーン :: アカ(海城)専用バイク{{efn|第41話で新命が運転したこともある。}}。レーダー探知機、通信装置、銛ビュート、イオンジェットによる急加速装置{{R|超世紀169|20th22}}などを搭載している。第37話後半から、ヘッドライト周辺が黒くなっていた。 ::* デザイン画ではフロント部分の形状が異なっている{{R|material12}}。 ::* ベース車は[[スズキ・GT750]]{{R|大全集32}}。誠は、運転に支障はなかったと述べている{{R|20th18}}。 :; ブルーマシーン :: アオとキが乗るサイドカー。運転は主に新命(アオ)が担当するが{{R|20th22}}、新命がバリブルーンでの別行動も多いため、大岩(キ)もしくはペギー(モモ)が運転することも多い。第26話では大岩が運転、ペギーがサイドカーという組み合わせも出ている。基本装備はレッドマシーンと大差ないが、高速走行時の安定性に優れている。設定では特殊作業用マジックハンドを搭載しているが劇中では未使用{{R|大全集32|20th22}}。第53話の冒頭シーンで、カー側の後部の飾りが無かった。 ::* ベース車は[[スズキ・GT380]]{{R|大全集32}}。 :; グリーンマシーン :: ミドとモモが乗るサイドカー。運転は主に明日香(ミド)が担当、明日香不在時や待機時にはペギー(モモ)が単独で運転することもある{{R|20th22}}。第24話ではモモが運転、ミドがサイドカーという組み合わせが登場している{{efn|カミソリ仮面との戦闘からの離脱の際に、負傷したミドを救出するため、モモがグリーンマシーンを運転。そのままミドをサイドカーに乗せて脱出している。}}。 ::* ベース車はブルーマシーンと同じスズキGT380{{R|大全集32}}。 ; スターマシーン : 第55話より登場した、ゴレンジャーマシーンの後継車両。設計案は第52話で語られている。第三次防衛計画の一環として開発された。動力源は旧マシーンと同じリチウムエンジン{{R|大全集32|20th22}}で、エンジン出力と装甲が強化されている{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=5}}。話数が増えていくたび、後部にペナント型の旗が付いたり、車体の1か所に各マシーンの名称があしらわれたり(例:レッドスター⇒レッドS)、バックミラーが附属したりすることもあった。また、ブルースター・グリーンスターそれぞれの後部には「GORANGER」ではなく、「GORENGER」と書かれていた。先代マシン同様、ゴレンジャールーム付属の車庫に保管されている。最終話ではゴレンジャーマシーン同様、バリドリーンとともに爆薬を積み込み黒十字城に突入、これを破壊した。爆破直前のシーンは第54話のゴレンジャーマシーンの映像が使い回されている。 :* ベース車は3台とも旧マシーンと同じである{{R|大全集32}}。 :; レッドスター :: アカ(海城)専用の新型バイク。強固な壁も打ち破る特殊超圧鋼で作られており、フロント部から機銃掃射を行う{{Refnest|group="出典"|name="STAR"|{{R|大全集32|超世紀169|20th22}}}}。第62話ではアバラ仮面のアバラ絞めで崖から転落してしまい大破するが、すぐに修理されていた{{R|画報21}}。オートコントローラーによる自動操縦が可能{{R|20th22}}。 ::* 放送当時に[[バンダイ]]から発売されたプラモデル「マスコミシリーズ」では、初期のみ'''ニューレッドマシーン'''という名称であった{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=134-137|loc=「ゴレンジャー&ジャッカートイカタログ」}}。 :; ブルースター :: アオとキが乗る新型サイドカー。運転は主に新命(アオ)が担当する。ブルーマシーンと同じく、新命が待機やバリドリーンでの別行動が多いため大岩や熊野(キ)もしくはペギーが運転するケースもある。第60話では新命が運転、明日香がサイドカーという珍しい組み合わせも登場した。マジックハンドを搭載しているが設定のみで劇中では未使用{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=40}}{{R|超世紀169}}。 :; グリーンスター :: ミドとモモが乗る新型サイドカー。運転は主に明日香(ミド)が担当。明日香が不在のときはペギー(モモ)が主に使用するが、第63話では熊野、第78話では大岩が運転している。フロントに搭載した特殊消火器{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=40}}から消火剤を噴射することもできる{{R|group="出典"|STAR}}。 ::ブルー、グリーンスターの側車部分は以前の"マシーン"側車よりも狭くなっており、搭乗時には両膝を立てた状態になってしまっている。 : [[ファイル:ShinjyukuSt WestGate.JPG|200px|thumb|新宿西口地下駐車場入口。「バリブルーン」などは手前の排気ダクト(円筒)から発進する設定だが、自動車との対比から判るように実際には直径50メートルもなく、あくまでもそれは物語上のフィクションである。]] ; バリブルーン : ゴレンジャーの空中要塞でもある[[垂直離着陸機|垂直離着陸]]可能な飛行[[戦艦]]。[[ブルドッグ]]をモチーフとしたデザイン{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}{{R|ART128}}。カラーリングは赤地に白で、赤塗装は炎のようなデコレートがある。操縦席の定員は基本的に2名だが、他に機体中央部と左右翼端に透明なドームをかぶせた座席があり、5名搭乗する場合にはそれを使用する。浮力発生用(垂直離着陸用)として左右翼端下部に四翅の大型[[ヘリコプターのローター|回転翼]]2基、推力発生用として[[推進式 (航空機)|推進式]]に三翅の[[プロペラ]]を2基尾翼に持つ。爆撃機と戦闘機の機能を兼ね備え、給油無しで世界一周も可能という驚異的な航続距離を誇る。主に新命明によって操縦されるが、緊急時で新命が不在のときは他のゴレンジャー{{efn|第17話でミド、第41話で海城が操縦している。}}や江戸川総司令、007{{efn|第20話で江戸川総司令が操縦している。}}などが操縦することもある。しかし操縦は非常に難しく、性能を全て引き出せるのは新命のみだが、補助的な武器を使用する際は新命の手に余るときもあり、本来はそれらを担当するコ・パイロットがいるのが好ましい{{efn|主に大岩が担当{{R|TH4520}}。}}。この点は後継機バリドリーンも同じである。様々な救助用メカや攻撃兵器を使ってゴレンジャーを支援する。主な武器はスーパークレーン{{R|大全106|20th22}}、ロケット砲{{R|画報21|20th22}}、第28話と第42話で使用した[[ドリルミサイル]]{{R|超世紀169|画報21}}、第36話で使用したバリネット{{R|大全集186}}。他にも、人員を掃除機の要領で吸引収容する透明の救命ホース{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}{{R|画報21|20th22}}}}、フックワイヤー{{R|大全106|20th22}}、マジックハンド{{R|20th22}}、索敵カメラのスカイスコープ{{R|大全106}}(バリスコープ{{R|大全106}})、煙幕のブルースモーク{{R|大全106}}、第26話で使用した集音マイク、青スジ仮面の吹き矢を吸い付けたウルトラマグネット、第37話で水爆ミサイル搭載のコンドラーを凍結させた凍結噴射装置{{R|大全106}}といった装備がある。第42話で鉄人仮面テムジン将軍を乗せたまま墜落、爆発四散した(テムジン将軍の項を参照)。 :* 企画時の名称は第1稿では'''レッドブルーン'''、第2稿では'''ジャガーブルーン'''と改称された{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=147}}。いずれの名称にも含まれる「ブルーン」は、石森による最初のラフ画稿の時点で既に登場しており、またこれを受けて平山プロデューサーが提案したという江戸川総司令の専用マシン「ブルブルーン」の強烈なインパクトが、動物モチーフの導入を検討するきっかけになったのではないかと、一部資料では推測されている{{R|ART153}}。他のモチーフ案としては、決定稿にも採り入れられた犬の他、双頭の竜を模したものも存在する{{R|ART153}}。デザイン画では内部透視図も描かれている{{R|material12}}。 ; バリドリーン : バリブルーンが失われたあと、第42話のラストシーンで初登場した、バリブルーンに代わる新型の空中要塞。バリブルーン同様、浮上・離着陸用回転翼と推進式プロペラで飛行する。鳥をモチーフとしたデザイン{{R|ART128}}。カラーリングは白地に赤、機首と爪先は黄色。[[可変翼]]として展開する翼にはゴレンジャー全員の色が配されている。操縦席は5名搭乗できるように拡大されている{{R|大全集32}}。操縦は引き続き新命明{{efn|第60話では新命が不在のためアカが操縦しており、第66話ではアオと交代して007が操縦している。}}が行い、バリブルーンと同様にオートコントローラーによる自動操縦も可能。第50話で江戸川総司令によってコンピュータが電子データの形で設計し、紙の設計図は処分されていたことが明らかにされた。主な武器は機体下部に搭載されたバルカンミサイル砲のスカイロック{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|大全集32|超世紀169|大全106|画報21|20th22}}}}・スカイミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|大全106|20th22}}}}・両翼の爪を発射するスペースウイング{{Refnest|group="出典"|{{R|大全106|画報21|20th22}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''スペースリング'''と記述している{{R|大全集186}}{{Sfn|30大スーパー戦隊超全集|2007|p=257|loc=「ゴレンジャーのマシン・メカ」}}。}}{{efn|第55話での初使用時は、'''バリドリーンネイル'''という名称だった。}}。他にも、人工雲・プロペラシェーブ・小型ムービーカメラなどを装備している{{R|20th22}}。バリタンクやバリキキューンを常時格納しており、それらを前線に輸送・投入する役割もある。最終話でスターマシーンとともに爆薬を積み込んで黒十字城に突入し、黒十字城とともに爆発四散した。 :* 初期案での名称はジェット・バリブルーン{{R|ART128}}。デザイン画では主翼の模様は孔雀を模しており、ローター部分と爪部分はバリブルーンと同様のファイヤーパターンが存在した{{R|material12|ART128}}。 ; バリタンク : バリドリーンとともに第42話より登場した特殊合金製の万能6輪戦車。高い走破性を持つため、地上はもちろん、地底や海底を潜航することも可能{{R|学研の図鑑38}}。搭乗口はバリドリーンと通路が直結した後部と左右部分の閉開式ハッチの三か所ある。主な操縦者はアカまたはアオ。007とモモが操縦することもあるが{{R|20th22}}、キとミドは操縦することはなかった{{efn|ただし、熊野は第65話で、描写はないが単身でゴレンジャー基地までバリタンクを運搬しており、大岩は第67話で運転席から降りてくる描写がある。}}。最高搭乗人数は6人{{R|20th22}}。主な武器は車体前部の2基の機銃(マシンガン{{Sfn|赤の伝説|2012|p=13}}、機関銃{{R|学研の図鑑38}})と、上部の2本の巨大なマジックハンド'''バリハンド'''{{R|大全集186}}。このアームは敵を引き裂くジャイロカッターとして使えるほか、回転させてジャイロコンパス{{R|画報21}}(別名:ハンドジャイロ{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=35、187}}{{R|超世紀169}})として地中に潜ることも可能。アームは第64話で改良されて以降、テンフィンガー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|大全106|画報21|20th22}}}}と呼ばれる強化版のマニピュレーターになり、仮面怪人を掴んで放り投げたりしていた{{efn|地中に潜るときはハンドジャイロに戻っていることもある。}}。他にも、飛行中のバリドリーンから離脱して地上へ降下する際の[[パラシュート]]・第45話の潜望鏡と魚雷ミサイル{{R|画報21}}・第54話の消火装置と地中ミサイル{{R|画報21}}・第55話で崖を登るために発射したアンカー'''バリネット'''などを装備。第61話では牛靴仮面の黒十字ハリケーンを無力化するための大型吸引装置を装備した。第46話では機関車仮面を「轢き潰してやる!」と轢殺すべく轢いたこともある。 :* 造形物は実物大の車両とミニチュアが存在する{{R|大全集32}}。実物大のベース車両は軽自動車で、中央のタイヤはダミーであった{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=235|loc=「メモリアルスチール集」}}。 : ; バリキキューン : 第69話より登場した諜報活動用{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=9}}の[[気球]]型飛行メカ{{R|学研の図鑑38}}。主な操縦者はモモまたはキ{{R|20th22}}{{efn|第80話ではアオも操縦していた。}}。ステルス機能を搭載しているため{{Sfn|完全超百科|2006|p=6}}レーダーに引っかかることなく、いかなる場所にも離着陸できるスパイマシンとなっている{{R|学研の図鑑38}}。両側には作業用マニピュレーターにもなる鎖付きマジックハンドのバリハンド{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集32|超世紀169|大全106|画報21|20th22|学研の図鑑38}}}}と鎖付きのクチバシハンド{{R|20th22}}{{efn|作中では「クチバシ」と呼称しているが、第72話ではモモはクチバシハンドと呼んでいた。}}を装備している。他にも、煙幕のスモークバリア{{R|20th22}}と機関銃のバリマシン{{R|画報21|20th22}}を装備している。 :* 造形物はミニチュアのほか、実物大の操縦席が作られた{{R|大全集32}}。 : ; スペック :{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1" |- ! 名称 !! 全長 !! 全高 !! 重量 !! スピード !! 初登場 |- ! レッドマシーン |rowspan=3|2.8{{nbsp}}[[メートル|m]]{{R|超世紀169}} |rowspan=9| |300{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|超世紀169}} |300{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]{{R|group="出典"|MACHINE}} |rowspan=3| |- ! ブルーマシーン |500{{nbsp}}kg{{R|超世紀169}} |rowspan=2|250{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE}} |- ! グリーンマシーン |400{{nbsp}}kg{{R|超世紀169}} |- ! レッドスター |2.6{{nbsp}}m{{R|超世紀169}} |280{{nbsp}}kg{{R|超世紀169}} |350{{nbsp}}km/h{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{R|超世紀169|画報21|20th22}}}} |rowspan=3|第55話 |- ! ブルースター |rowspan=2|3{{nbsp}}m{{R|超世紀169}} |450{{nbsp}}kg{{R|超世紀169}} |300{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE2}} |- ! グリーンスター |350{{nbsp}}kg{{R|超世紀169}} |250{{nbsp}}km/h{{R|group="出典"|MACHINE2}} |- ! バリブルーン |42{{nbsp}}[[メートル|m]]{{R|group="出典"|MACHINE2}} |84{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|MACHINE2}} |[[マッハ数|マッハ]]0.98{{R|画報21|20th22}}{{efn|資料によっては、「時速1,200キロメートル{{R|大全集32}}{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=314}}」「マッハ1.2{{R|超世紀169}}」と記述している。}} |第1話 |- ! バリドリーン |50{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}} |95{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE2}} |マッハ1.1{{R|画報21|20th22}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では「マッハ1.5」と記述している{{R|超世紀169}}。}} |第42話 |- ! バリタンク |13{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}} |9.5{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE2}} |rowspan=2|100{{nbsp}}km/h{{R|画報21|20th22}} |第42話 |- ! バリキキューン | |5.5{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}} |10{{nbsp}}t{{R|超世紀169}} |第69話 |} === 施設 === [[ファイル:2018 Shinjuku Station WestGate.jpg|thumb|新宿西口地下駐車場付近<br>中央の円筒が、バリブルーンの発進口のモデルとなった排気ダクト]] ; ゴレンジャー基地 : [[新宿駅]]西口付近にある'''スナック・ゴン'''の地下にあり、隠し通路およびエレベーターを経由して指令室'''ゴレンジャールーム'''にたどり着くイーグル日本ブロック本部{{R|東映×石ノ森}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=9}}。ゴレンジャールームの入り口には5人が持つキーカードをセットするスペースがあり、キーカードを揃えるとドアが開くようになっている<ref group="ep">第1話、第2話</ref>{{efn|また、その出入口は007などの諜報員も使用しているが、その際のドアの解錠についての描写はない。}}。ゴレンジャーマシーンやスターマシーンで出動する際は、ゴレンジャールームに隣接する地下ガレージから新宿駅西口のロータリーを通って地上に出る。バリブルーンやバリドリーンは新宿西口地下駐車場の排気ダクトのシークレットポート{{R|material2}}から、VTOL発進する。 : また、イーグル隊員が警備をするゲートも存在しており、そちらではゲートを通る際にレントゲンカメラによる撮影で侵入者をチェックされており、そのチェックに引っかかった場合、基地への通路が遮断され、別ルートへと導く仕掛けになっている{{R|group="ep"|ep44}}。 : スナック・ゴンは、第44話でのエレキ仮面軍団によるゴレンジャー基地探索の際に内装を破壊されてしまったため、第45話からは場所を移転した上で、'''フルーツパーラー・ゴン'''にリニューアルされた。 == 黒十字軍 == 黒十字総統が率いる、人間社会の完全破壊と地球征服を目的とする国籍不明の悪の軍隊{{Sfn|赤の伝説|2012|p=15}}。モットーは「破壊と殺戮」。世界規模の組織を有し、アフリカ(日輪仮面将軍)・中央アジア(鉄人仮面テムジン将軍)・北欧(火の山仮面マグマン将軍)には大幹部が配置されている。大幹部以外にもアラビア砂漠の鉄カゴ仮面など幹部級の実力を有する仮面怪人が各地に存在している。歴史も古く、ゴールデン仮面大将軍のような古代からの構成員も存在する。大組織であるがそれに留まらずイーグル構成員を金で寝返らせたり、死者を蘇生改造して仮面怪人にする、アトランティスの遺産、コンドラー戦闘爆撃隊{{Sfn|赤の伝説|2012|p=15}}を入手する、宇宙忍団を呼びよせるなど戦力増強もたびたび行っている。作戦面では一般的な怪人の能力に依拠したテロ作戦以外にも最初に日本を攻撃した際に黄金仮面、武者仮面、青銅仮面、ヒスイ仮面、毒ガス仮面の五人の仮面怪人を同時に投入するなど大規模作戦も実行、そのいずれもイーグル支部を壊滅させるなど精度が高かった。 * プロデューサーの吉川進は、ハイテクを駆使するヒーロー側との対比や子供へのわかりやすさなどから、プリミティブなイメージで統一したと述べている{{Sfn|超世紀全戦隊大全集|1993|pp=145-147|loc=「新たな世紀に向けて 企画者インタビュー [[吉川進]]」}}。脚本陣はストーリーの打ち合わせはせず、石森の描いた怪人デザイン画から好きなものを選んで好きなように書いていた{{R|U98}}。 :{{キャラスペック |名称=黒十字総統 |身長=250{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{R|大全210|20th24}} |体重=120{{nbsp}}kg{{R|大全210|20th24}} |出身地=暗黒星雲{{R|大全210}} }} ; {{Visible anchor|{{読み仮名|黒十字総統|くろじゅうじそうとう}}|黒十字総統}} : 黒十字軍の首領。原水爆もよせつけない不死身の肉体を持つ。武器は黒十字剣{{R|20th24}}。前期は白い頭巾で素顔を隠していたが、火の山仮面マグマン将軍着任の際に素顔を現し、その後も顔やマントなど幾度かマイナーチェンジされた。 : 基本的には冷酷非情な性格ではあるが、寛容な一面もあり、見所がある部下に対しては失敗をしても罪に問わなかったり、組織内で諍いが起きたときは仲裁役に回り、組織に対して忠誠を示す部下を大いに褒め称えるなど、大組織の首領としての手腕は高い。 : 自らゴレンジャーをも圧倒する絶大な戦闘力を持つが、最終話で{{読み仮名|カシオペアX線|カシオペアエックスせん}}という宇宙線が弱点であることを見ぬかれ、ゴレンジャーハリケーン・カシオペアで追い詰められ、彼自身が機械生命体であり黒十字城そのものであることが明かされる。最終的にはゴレンジャーによって爆薬を積んだバリドリーンとスターマシーンごと黒十字城は爆散した。 : 映画『[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]』では黒十字総統が生まれ変わった黒十字王が登場。 :* 第1話から総統を演じたのは[[安藤三男]]であり、エキスプロの前沢代表は、俳優として頭巾で顔の隠れた役柄に不満を持った安藤から個人的に相談を受け、のちに顔の出る衣装を作り、これに応えている。前半期の総統は始終腕組みをしているものだったため、安藤の負担も大きく、前沢は腕をピアノ線で吊るように工夫したという{{R|21st11}}。シリーズ後半に安藤の病気療養による降板により、[[八名信夫]]への交代とともに総統の性格も変更された{{R|大全集148|画報29bc}}{{efn|共演者の飯塚昭三は、アフレコ現場へ向かう途中に安藤が[[喀血]]したことがあったと証言している{{Sfn|大全|2001|pp=204-205|loc=取材・構成 大久保一光「25年目の仮面怪人座談会 RESPECT 飯塚昭三&島田彰」}}。}}。 :<!--リスト分断防止のため--> :{{キャラスペック |名称=日輪仮面 |身長=195{{nbsp}}cm{{Sfn|大全|2001|p=60}}{{R|20th24}} |体重=160{{nbsp}}kg{{Sfn|大全|2001|p=60}}{{R|20th24}} |出身地=アフリカ{{Sfn|大全|2001|p=60}} }} ; {{Visible anchor|{{読み仮名|日輪仮面|にちりんかめん}}|日輪仮面}} : 第15話より登場した'''アフリカの星'''という異名を持つ初代大幹部。アフリカ戦線で連戦連勝の実績を買われ、総統により日本に呼び寄せられた。日輪状の杖を武器とする。勝つためには手段を選ばず、卑怯な作戦を取ることが多い。将軍ではあるが部下は持たず{{R|大全集45}}、不利になると共闘した仲間も簡単に見捨てて撤退するため、仲間の仮面怪人と対立することもあった。高熱線で敵を攻撃する日輪ファイヤー{{R|20th24}}という必殺技の他にも、サンミラー火炎という鏡仮面との合体技もある。高速移動能力や再生能力も有する。アフリカ戦線では、自ら調合した水分を蒸発させる薬品Z20を使った作戦を得意としていた模様。失敗続きに加え第20話で総統がテムジン将軍を招聘したことに焦り、最後のチャンスを与えられゴレンジャーを罠にかける。処刑されそうになったので裏切ったと見せかけてゴレンジャーの油断を誘い、味方にイーグルの基地を破壊させた上、1度はアカレンジャーを破る。さらにアカ以外の4人を捕らえるが、怒りに燃えたアカの反撃を受け、ゴレンジャーストームで倒された。 : :{{キャラスペック |名称=鉄人仮面テムジン将軍 |身長=210{{nbsp}}cm{{Sfn|大全|2001|p=104}}{{R|20th24}} |体重=220{{nbsp}}kg{{Sfn|大全|2001|p=104}}{{R|20th24}} |出身地=モンゴル{{Sfn|大全|2001|p=104}} }} ; {{Visible anchor|鉄人仮面テムジン将軍}} : 第20話より登場。[[ゴビ砂漠]]から呼び寄せられた'''モンゴルの鬼'''という異名を持つ2代目大幹部。ゴビ砂漠から引き連れて来た金属をモチーフとした複数の仮面怪人により構成された'''鋼鉄軍団'''{{R|material2}}を率いる。 : [[軍人]]型の大幹部で、[[軍服|肋骨軍服]]調の戦闘用ジャケットを纏っている。初登場時に座乗していた車両は、軍用車両を思わせる[[四輪駆動|四輪駆動車]]。戦いぶりも実力本位の真っ向勝負が多く、初対決でゴレンジャーを出し抜き、古代[[アトランティス]]の[[飛行船]]を奪取してみせるなど、ゴレンジャーを大いに苦しめる。また、第35話ではコンドラー爆撃隊という一人乗りの小型戦闘機隊を指揮しており、黒十字軍の空戦力を高めた功績も大きい。 : 指揮能力、行動力は黒十字軍の中でも秀でており、部下との信頼関係も厚いため、鋼鉄軍団は文字どおりの「鉄の結束力」{{efn|テムジンに対し不遜な発言を重ねたために最期は見捨てられた鉄カゴ仮面や、テムジンに「馬鹿」呼ばわりまでされた鉄獅子仮面のような例外もいた。}}を誇る。自身の戦闘能力も高く、ムチとロケット弾を放つ三つ又の槍を武器とし、眼から破壊光線を放つことも可能{{R|20th24}}。だが失敗が相次ぎ{{efn|第35話ではそれを苦にして、自分自身で部下のスチール仮面に銃殺処刑を命じたこともあった。}}、さらに第42話で地下ミサイル基地をバリブルーンに破壊されたため、総統から火の山仮面マグマン将軍との共同作戦を命じられる。誇りを傷つけられたテムジンはゴレンジャーに最後の勝負を挑む。瞬時に物体を凍結させ吸着する凍結装置を搭載した戦闘用ジャケットによってゴレンジャーストームを2度も防ぎ、バリブルーンを奪いゴレンジャーに[[特別攻撃隊|特攻]]を仕掛けるも、アオのコントローラーによりバリブルーンの制御を奪われ、さらに機内温度の上昇によってジャケットに貼り付いたストームが解凍されたためにバリブルーンとともに爆死した。その死に様を黒十字総統は激賞する。笑うとき、口元に手を当てる癖がある。 :* ラフデザイン画での名称は「鉄面将軍」や「モンゴラー」、「ゴーレム」や「ゴラーム」であった{{R|material12}}。 :* 第20話の初登場シーン、および1975年7月に開催された撮影会では軍服風のスーツではなく、タイツ姿にマントを羽織っただけのものが使用されている{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=|pp=47、131}}{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=5}}。 : :{{キャラスペック |名称=火の山仮面マグマン将軍 |身長=250{{nbsp}}cm{{Sfn|大全|2001|p=138}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では「身長/198センチメートル」と記述している{{R|20th24}}。}} |体重=120{{nbsp}}kg{{Sfn|大全|2001|p=138}}{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では「体重/97キログラム」と記述している{{R|20th24}}。}} |出身地=アイスランド・ヘクラ火山{{Sfn|大全|2001|p=138}} }} ; {{Visible anchor|火の山仮面マグマン将軍}} : 第42話より登場。[[アイスランド]]の[[ヘクラ山|ヘクラ火山]]より呼び寄せられた3代目大幹部。配下に'''噴火軍団'''を従えている。当初はテムジン将軍との共闘を行うために来日したが、テムジン将軍の死後、本格的に活動を開始する。無敵の移動要塞ナバローンを指揮し、ナバローンを用いた一撃離脱の奇襲戦法と権謀術数でゴレンジャーを窮地に陥れる。常に指揮棒を携えており、頭部の火山を噴火させて火山弾の雨で敵を攻撃する'''火の山仮面怒りの大噴火'''という必殺技を持つ{{R|20th24}}。必殺技抜きでも、ゴレンジャーの個人武器を軽々と捌くなど戦闘能力は高い。ゴレンジャーに次々と作戦を失敗させられた末に、第54話でゴレンジャーと交戦中にバリタンクにナバローンへの侵入を許してしまい、ナバローンの設計図を奪われる。総統に見限られナバローンを率いて最終決戦に挑むが、液体をかけると浮き出てくる特殊設計図を解析した{{efn|誤ってコーヒーを設計図にかけてしまうも、これにより設計図を解析した。}}ゴレンジャーにより、爆薬を積んだゴレンジャーマシーンでの特攻で、ナバローンを破壊される。やむなく自らゾルダーを率いて出撃するもゴレンジャーハリケーン・タマゴの攻撃を受け、エンドボールが変化した卵を頭のマグマで茹でて食べて爆発、悔しがりの断末魔を残して滅び去る。 :* 造形用デザイン画での名称は「火の岩仮面」であった{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=7}}{{Sfn|大全|2001|p=139}}。 :* エンディングでの登場カットは最終話まで使用された{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=4}}。 : :{{キャラスペック |名称=ゴールデン仮面大将軍 |身長=196{{nbsp}}cm{{Sfn|大全|2001|p=198}}{{R|20th24}} |体重=86{{nbsp}}kg{{Sfn|大全|2001|p=198}}{{R|20th24}} |出身地=古代エジプト{{Sfn|大全|2001|p=198}} }} ; {{Visible anchor|ゴールデン仮面大将軍}} : 第54話より登場。棺の中で永い眠りについていたが、マグマン将軍に見切りをつけた総統による復活の儀式によって目覚めさせられた。黒十字軍で将軍の中の将軍たる「大将軍」の地位にある唯一の仮面怪人であり、精鋭を集めた黒十字軍最大最強の'''アフリカ軍団'''を率いる最高幹部{{Sfn|赤の伝説|2012|p=15}}。呪術や古代バビロニアの占星術に深い造詣を持つ。常に大斧を持った2人の近衛兵を傍らに従え、先端にドクロのついた指揮棒を持っている{{R|20th24}}。自ら戦線に立つことはあまりなく、傲慢な性格のため仮面怪人の反感を買いやすく、統率力に欠けるところがあるが、総統への忠誠と忠義心は軍団随一である。しかしゴレンジャーの妨害により成果はほとんどあげられず、最終話ではゴレンジャーの技の応酬の前に敗れるが、ゴレンジャールームの場所を突き止めるべく、自らの身体を金粉に変えて5人のスーツに付着し、黄金の虹となって基地の居場所を総統に教えた。 :* デザインモチーフは[[スフィンクス]]{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=8}}で、デザイン画では「ゴールドスフィンクス」と記載されていた{{Sfn|大全|2001|p=199}}。 : ; 仮面怪人 : 破壊活動の陣頭指揮を執る怪人たち。主に改造人間{{efn|書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では「改造人間の軍団」と表現{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=36、40}}。ダイガー仮面のように、「改造された怪人」と明確に表現しているのもある{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=71}}。}}と推測されるが、一貫したイメージは採られておらず、中には明らかに[[ロボット]]然とした者(例:大岩が部品から組み立てて作った赤面仮面)もおり、鉄カン仮面はイーグルが所持している体内構造図では機械だった。シリーズ初期の回は主に世界各国の民俗[[仮面]]をモチーフにデザインされた。 : ゴレンジャーの攻撃に倒されると「炎の中で悶え苦しむ」シーンが描写される(これは大幹部も同じ)。 : シリーズが進むにつれ題材とするカテゴリが増え、武器や鉱物、遊具{{Sfn|赤の伝説|2012|p=15}}、[[生物]]、[[家電機器|家電製品]]、[[日用品]]、[[スポーツ]]用品など様々なモチーフを用いた怪人が現れた{{efn|東映プロデューサーの吉川進は、石森がデザインする際に「怪人は子供が日常で見かけるようなものがいい」と述べていたことを証言している{{R|20th5}}。}}。中には[[名詞|複合名詞]]や[[名詞|物質名詞]]を名乗る者もいる。金属系やメカニック系のモチーフも多い。 : シリーズ後期には、風貌や言動を含めた存在自体がギャグとしか思えない仮面怪人が数多く登場し、怪人が変装もせず公然と都会の雑踏の中を駆け抜けたり、街角の売店で新聞を買うなど{{efn|このような描写は後のスーパー戦隊シリーズ作品でも幾度か見られる。}}、従来の特撮作品にない演出がなされた。ただしこのような「ギャグ系」怪人でも、登場回のストーリーや展開する作戦にはシリアスなものも多く、ゴレンジャー5人が団結しないと太刀打ち出来ない猛者揃いであった。 :* [[曽田博久]]は「ゴレンジャーの怪人を見て怖がる子供はいないでしょう。怪人を観て怖がりたいなら『仮面ライダー』を観ればいいわけですからね」とコメントしていて、怪人のコミカルさは割り切ったものだった。石森のデザインには「パチンコ仮面」(「[[パチンコ用語の一覧#た行|チューリップ]]仮面」、「チンジャラ仮面」の付記あり)というものもあったが、吉川プロデューサーに没にされたという{{R|max-3}}。 :* 曽田によれば、各話の登場怪人は既に用意されていた石森のデザインの中から脚本家が選んでストーリーを執筆しており、脚本家から怪人についての注文を出すことはなかったという{{R|20th88}}。当初は[[上原正三]]が優先的に選んでいたが、上原が多忙になると次第に曽田が先に選ばせてもらうようになった{{R|20th88}}。 :* 仮面怪人の造形はエキスプロによって行われ、石森のラフスケッチを前澤範が造形用に起こしていた。石森も前澤も同時期に同じスタッフで担当していた『[[仮面ライダーストロンガー]]』と差別化しようとの思いがあり、「とにかくコミカルで面白いものを」とのコンセプトを念頭に置いたという。「色彩豊かなゴレンジャーのキャラクターに負けないように」と、前澤はスタッフに「仕上げをとにかく綺麗に」と徹底したと語っている。ゴレンジャーの仮面怪人は顔にギミックのついたものが多いが、これはギミック好きな吉川の直接指示によって加えられたものという{{R|max-2}}。また、エキスプロの[[八木功]]は、当時の[[東映生田スタジオ]]はノウハウの蓄積によって撮影スケジュールが短くなっていたため、全身を作り込んでいては間に合わなかったと証言している{{R|20th90}}。 : ; 戦闘員 :; {{Visible anchor|ゾルダー}} :: 一般戦闘員。黒十字軍の最下級の兵士である。「ホイ!」と奇声を発する。「舞台のショーのような楽しいアクションにしよう」との、上述の企画時の申し合わせにより、コミカルな立ち回りがゴレンジャーとの間で繰り広げられた。 :: 全身を黒タイツに包み、黒いレザーベスト、目の縁取りが付属しているヘッドキャップを装着している初期のマスクにはストッキング素材が使われ、目や鼻や口が透けて見えている。1クール放映を終えたころから、視界が取りやすいよう[[スーツアクター]]の眼部が剥き出しとなった。武器は黒十字ナイフ、黒十字機関銃、バズーカ砲など。直属の仮面怪人の戦法に従い、特殊技を体得した者もいる。また、専用のジープも支給されている。鉄人仮面テムジン将軍配下の黒十字コマンド部隊は軍服を着用している。鼓笛隊に扮した者や、男女の人間態で行動した者もいる。 :: 任務には忠実で、戦闘時に捕まっても黙秘を貫き{{efn|一度だけアオレンジャーに漏らしたことはあるが、作戦遂行後だった。}}、作戦のための自爆も厭わない。その一方で「キレンジャーが自分の解けなかったナゾナゾを戦闘中に捕まえたゾルダーに答えさせる」「野球仮面配下のゾルダー最後の1人が背番号0を見せて『俺は補欠だ!』と叫ぶ」と言ったコミカルな描写も多い。 :: 劇場版『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』などにも登場。 :; {{Visible anchor|黒十字忍団}} :: 第64話より登場したゾルダーの精鋭部隊。「宇宙忍団」という地球外組織の協力を得て結成された。全身真っ黒なのは一般のゾルダーと同じだがベストや仮面がカラフルである。特別訓練を施されており、忍者のごとき身軽さと壁をすり抜けるなどの忍術を備えている。槍や剣を使った接近戦を得意とする。一般のゾルダーのように仮面怪人とともに任務に携わることはまれで、一般のゾルダーがやられた後に仮面怪人の合図で登場する。時に付き従っていた仮面怪人への刺客ともなる。タイヤ仮面配下のタイヤ忍団やイカリ仮面配下のイカリ忍団、鉄ヘビ仮面配下の鉄ヘビ忍団のように上役の仮面怪人に合わせた能力を持つ者たちもいる。 :; 科学班 :: 特に呼称はないが仮面怪人や特殊装置の製造など科学技術を要する作業に登場する。当初、俳優が顔出しで演じたが、後に全て白衣を着たゾルダーの姿になった。 :; 鋼鉄軍団親衛隊員 :: テムジン将軍の側近で軍服調のジャケットを纏った2人組のゾルダー。 :: 第42話でテムジン将軍がコンドラーで出撃した後の消息は不明。 :; アフリカ軍団親衛隊員 :: ゴールデン仮面大将軍の配下のうち、通常のゾルダー・忍団と大きく外見が異なり、古代エジプト兵のような恰好{{efn|頭部と手袋・ブーツがオレンジ、丸い兜と胴体部分のみの鎧。斧と盾で武装。}}をしている側近のゾルダー2名{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=25|loc=「アフリカ軍団」}}。 :: 最終回、大将軍が撃破された際に敬礼し、その後は総統の側近として行動。最終戦闘時に2人ともアカレンジャーを攻撃するが、かわされてお互いの斧が当たり死亡。 :; 狼部隊 :: 三ケ月仮面の配下。一般人に狼の染色体を植え付けて変身させたもの。三ヶ月仮面の持つ杖から発するムーンライト光線で操る。 :; 足軽隊 :: 剣道仮面の配下。足軽の格好をしており、ゾルダーの衣装を着けず、「ホイ!」という掛け声も出さない。 :; その他 :: 黒十字軍構成員には俳優が顔出しで演じる軍人もおり、軍帽、軍服を着用している。大幹部送迎時にサイドカーを運転するなどの姿が見られた。 : ; 特殊構成員{{R|大全集37}} : 仮面怪人やゾルダー以外で組織に所属している科学者やエージェント{{R|大全集37}}。イーグルから寝返って黒十字軍側についた者もおり、劇中で「待遇はイーグルよりもいい」と述べている。 :; {{Visible anchor|サイボーグQ}} :: 第36話に登場。黒十字軍の女性諜報員。改造人間で、鋼鉄製の伸縮自在の爪を持つ。改造されたことにより黒十字軍の構成員として生きていくしかない旨を語っている。洗脳はされておらず、黒十字軍を裏切ったため処刑された。 :; {{Visible anchor|死神博士}} :: 第53話に登場する科学者。大量殺戮兵器製造の罪で収監されていたイーグルの刑務所から野球仮面の手を借りて脱獄し、強引に自作のボール爆弾を提供させられる。その腹癒せに野球仮面直属のゾルダーを実験と称して大勢爆死させ、戦闘時にも野球仮面が大切にしている赤バットに新型銃で穴を開けて怒りを買い、銃殺刑に処せられた。 :: この時のボール爆弾は後に蛇口仮面(第56話)が同型の物を使用{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=34|loc=「蛇口仮面」}}。 ::* 博士を演じた八名信夫はこの死神博士としての出演の後、病気で降板した安藤に代わって2代目黒十字総統に起用される。 :; {{Visible anchor|ブラックシャドウ9}} :: 第79話に登場。黒十字軍の女性諜報員。江崎貴美子という名でスケート仮面が行う作戦の実行員として行動。作戦をかぎつけた海城には仲間のサイボーグを差し向け牽制した。 === 黒十字軍の戦力 === ; 虹の要塞 : 第15話に登場。虹仮面の前線基地。バリヤを装備。 ; アトランティス号 : 第21話より登場。古代[[アトランティス]]帝国によって製造されたが、その破壊力で1万1千年前にアトランティス大陸を滅亡させたとも言われている悪魔の[[飛行船]]。日本の富士山麓に隠されていたが、鉄人仮面テムジン将軍が隠し場所を記した地図の半分を入手。残り半分の地図は清水博士が持っていたが、息子を人質に取られたため、黒十字軍に協力。清水親子はゴレンジャーに助けられるものの、アトランティス号は黒十字軍の手に落ちた。主武装は[[艦砲]]のみであるため、鉄人仮面たちはゴンドラに機関銃などの装備を追加していた。 : 鉄人仮面は富士火山帯の地下に水爆を仕掛け、日本を沈没させて第二のアトランティスにする「アトランティス計画」を立案し、アトランティス号はゴレンジャーへの陽動作戦に利用されるが、第23話で乗っていた針金仮面と共に空中ゴレンジャーストームによって爆散した。 ; コンドラー : 第35話より登場。黒十字総統がバリブルーン打倒のため、南米[[ナスカの地上絵|ナスカ高原]]から呼び寄せた戦闘機部隊の機体。自転車に蝙蝠状の主翼を付けたようなフォルムの単座軽戦闘機である。搭乗員が剥き出しで腹ばい式に搭乗するので防御力には欠けているが、機動力はバリブルーンを上回っている。武器は操縦席の機関銃、機首のコンドラーミサイル{{R|20th24}}{{efn|ただし、発砲シーンは単なる大砲に見え、ミサイルの弾体が飛んで行く描写はない。}}と、対象物の回収に用いられる2基の爪状アーム。 : 羽ばたいて飛行する[[オーニソプター]]で、基本的にゾルダーが操縦するが、話によってはその回の仮面怪人や大幹部自らが搭乗することもある。バリブルーンおよびバリドリーンと対戦すると必ず1機だけ撃墜されて撤退するのがパターンである。「アトランティス計画」では[[水爆]]を搭載したこともある。 ; 戦艦 : 第36話に登場。軍艦仮面による「動く要塞作戦」に投入された。ロケットエンジンの働きで飛行し、コンドラーも搭載発進可能。キレンジャーのYTCから発射された超低周波光線で爆破された。 ; 移動要塞ナバローン : 第42話より登場。火の山仮面マグマン将軍が操る移動要塞。上部は岩山に偽装されており、上部を収納することで飛行と地中潜行が可能となる。戦闘時には上部の岩山部分を展開させて、多数の'''ナバロン砲'''や毒ガス、長距離火炎砲'''ファイヤーロード'''、バリヤーで攻撃する。また、コンドラー飛行隊も搭載している。敵の攻撃に備えて、すべての部屋を切り離せる機能を持つが、それが仇となってゴレンジャーに設計図を奪われた上に彼らが誤ってコーヒーをかけてしまって浮き出た部分を解析されたことで、ゴレンジャーマシーンの自爆攻撃によって司令室と動力室、武器倉庫を破壊され、大爆発して崩壊した。 : 第43話では名前を聞いたキレンジャーが「はて、どっかで聞いたような名前たい」と言っている。 ; ツタンカーメン号 : 第55話に登場。大耳仮面によって指揮される飛行船。[[スフィンクス]]型の基地から発進し、猛毒細菌'''死の細菌ガスZ'''を空中散布するツタンカーメンの呪い計画を行う。ガス散布のみを目的としているため、攻撃力や防御力は低いが破壊されるだけでもガスが拡散する怖れがあるためバリドリーンはうかつに攻撃できず、スペースウイングによって宇宙空間に運ばれて爆破された。 :* 書籍『秘密戦隊ゴレンジャー大全集』では、ミニチュアはアトランティス号のものを改造したと推測している{{R|大全集228}}。 ; バットラー : 第64話より登場。黒十字城の完成とともに導入された空中戦艦。[[軍艦]]に文字通り、蝙蝠状の主翼を持った姿をしており、艦首に固定式6連装砲を装備。コンドラーの母艦機能も持ち、共にバリドリーンを攻撃する。その他に大型ミサイル、爆弾、空中[[機雷]]なども装備。弱点は機首。初登場時にはバリドリーンを不時着に追い込むなどしたが、以降はスペースウイングによって撃墜されることが多い。 ; 黒十字城 : 第64話より登場した黒十字軍の巨大飛行戦艦。多数のバットラーやコンドラーを搭載し、城自体が反重力装置によって飛行可能。バリドリーンの数倍の大きさをもち、反重力砲やウルトラ光線、機雷で攻撃する。また、凄まじい突風を噴出させることであらゆるものを吹き飛ばすことが可能となる。防御も完璧で、あらゆる攻撃をバリヤーによって弾き返す。その実態は黒十字総統が変身したもの。 : 万一に備えてダミーが複数存在する。黒十字城・バットラー・コンドラーの黒十字軍戦略航空部隊は、イーグルとゴレンジャーを苦しめたが、最終話でバリドリーンとスターマシーンの自爆攻撃を受けて滅んだ。 ; 移動車両 : 主にゾルダーの輸送用として「[[トヨタ・ダイナ]]」「[[三菱ふそう・キャンター|三菱 キャンター]]」などが使われた{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では、名称を'''黒十字ジープ'''と記述している{{R|20th24}}。}}。[[サイドカー]]も使われ、仮面怪人や大幹部移動時の他、実戦に投入された。 ; 黒十字軍装甲車{{R|大全集38}}(黒十字装甲車{{R|20th24}}) : 第47話より登場。大口径砲を搭載してバリドリーンなどへの対空兵器としても活躍した。黒とグレーの迷彩塗装が施されており、装甲を施すことで防御力を増している。 :* ベース車両は[[スズキ・ジムニー]]{{R|大全集38}}。初期に登場していたジープを改造したものとされる{{R|大全集228}}。 == キャスト == === レギュラー=== * 海城剛 / アカレンジャー - [[誠直也]] * 新命明 / アオレンジャー - [[宮内洋]] * 大岩大太 / キレンジャー - [[畠山麦]] (1 - 54, 67 - 84){{efn|67話はクレジットなし。}} * 熊野大五郎 / キレンジャー - [[だるま二郎]] (55 - 67) * ペギー松山 / モモレンジャー - [[小牧リサ|小牧りさ]] * 明日香健二 / ミドレンジャー - [[伊藤幸雄]] * 加藤陽子(イーグル連絡員007){{efn|name="renrakuin"|オープニングクレジットでは「イーグル連絡員」。}} - [[鹿沼絵里|鹿沼えり]] (71話まで) * 林友子(イーグル連絡員008){{efn|name="renrakuin"}} - [[志麻いづみ|白川恵美]](26話まで) * 中村春子(イーグル連絡員009){{efn|name="renrakuin"}} - 本田みき(20話まで) * 加藤太郎 - 小沼宏之 * 黒十字軍総統 - [[安藤三男]](55話まで){{efn|name="soutou"|第54話・第55話では実際の演者が安藤だと確認できないシーンが多々見られる。また声は後任の八名が担当している{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=37|loc=「黒十字総統」}}{{R|大全210|画報29bc}}。}}→[[八名信夫]](56 - 84) * 江戸川権八 - [[高原駿雄]]{{efn|62 - 71、78話は休演。}} === 声の出演 === ナレーター以外は全てノンクレジット * 日輪仮面 - [[増岡弘]] (15 - 20) * 鉄人仮面テムジン将軍 (20 - 42)、火の山仮面マグマン将軍 (45 - 54)、ゴールデン仮面大将軍 (54 - 84) - [[飯塚昭三]] * 火の山仮面マグマン将軍 (42 - 44) - [[依田英助]] * ゴン - [[京田尚子]] (32 - 54、61、62) * ナレーター - [[田中信夫]] (1 - 14)、[[大平透]] (15 - 84) === 主なゲスト出演者 === カッコ内は出演話数。 * 海城分隊長 - [[はやみ竜次]] (1) * 幼稚園の先生 - [[松谷紀代子]] (1) * 工藤博士 - [[山本廉]] (2) * 工藤コウイチ - 菅野裕 (2) * 黒十字軍科学者 - [[杉義一]](3) * イーグル秘密工作員003 - [[長沢大]](3) * 無藤博士 - [[北原義郎]] (4) * 黒十字軍科学者 - [[打田康比古]] (4) * イーグル隊員 - [[加藤大樹|加藤寿]]、[[日吉としやす]] (6) * ルミ - 川島ゆかり (6) * ルミの両親 - [[片山滉]]、[[笠原玲子]] (6) * 白石 - [[平松慎吾]]{{efn|クレジットは「平山慎吾」。}} (7) * 白石リカ - 坂口浩子 (7) * 先生 - [[中村万里]] (7) * 警官 - [[潮健児|潮健志]]{{efn|ノンクレジット。声は別人の担当。}} (7) * スコット - [[トニー・セテラ]] (8) * エミ - エイミー岡田 (8) * 医師 - [[中村孝雄]] (8) * スネークセンター職員 - [[叶年央]](8) * ジェイムス・サチコ - 安達由紀(8) * ユキ - [[蝦名由紀子]] (10) * 工藤博士 - [[宇南山宏]] (11,70){{efn|2話とも別人の設定。}} * 黒十字軍科学者 - 水原仗二(11) * 江口所長 - [[柄沢英二]] (14) * 清崎博士 - 晴海勇三(14) * 執事{{efn|スピードメッセンジャー配達員にも化ける。正体はドクロスープのシェフ。}} - 潮健志 (14) * 白滝博士 - [[笹川恵三]] (14) * 洋館の美女(ドクロ仮面) - 安達由紀(14) * プールサイドの子供 - 鈴木まさゆき(16) * みどり - 池谷智南 (18) * ミス・サファイヤ - [[賀川ゆき絵|賀川雪絵]] (19) * ミス・サファイヤの手下 - [[新海丈夫]]、[[川島一平|木下陽夫]] (19) * 清水博士 - [[轟謙二]] (21 - 23) * イサム - 庄野たけし (21 - 23) * 松本博士 - [[稲川善一]] (26) * 内山博士 - [[倉石一旺]] (26) * イーグル秘密情報員0010 - [[斉藤真]] (27) * 吉野博士 - [[入江正徳]] (28) * 吉野たみ - 瀬島充貴 (28) * 大田黒 - [[大田黒武生]](28) * 博士 - [[梶哲也]] (29) * 黒十字軍のスパイ - [[上野山功一]]{{efn|クレジットは「上ノ山功一」。}} (31) * 秋月参謀 - [[小林勝彦]] (32) * イーグル参謀 - [[中田博久]] (33) * 黒十字軍科学者 - [[村上幹夫|村上幹男]] (34) * イーグル科学者 - [[大矢兼臣]] (34) * 街のおばさん(ゾルダー) - [[由起艶子]] (34) * 水木亜矢(サイボーグQ) - 富士谷ひろみ (36) * 黒潮十兵衛 - 轟謙二 (38,39) * 十兵衛の兄 - [[名川貞郎|名川定郎]](38) * 隕石を拾った子供たち - 鈴木まさゆき、伊坂あゆみ、伊坂あきら、伊坂ひろみ、森川ひとみ、森川ふとし (39) * イーグル連絡員008{{efn|レギュラーの林友子と同一人物か否かは不明。}} - 内藤みどり (40) * <small>[[能]]協力</small> - [[野村四郎]] (40) * 谷口博士 - [[富田浩太郎]] (41) * 谷口マコ - 松下実加 (41) * 幼稚園の先生 - 奈三恭子 (47) * 女の子 - 戸川絵夢 (48) * イーグル中央研究所所長(つの骨仮面) - 杉義一(49) * 講談師(鉄ワナ仮面) - 潮健児(50) * ミスターX - 依田英助 (51) * 若山教授 - 片山滉 (52) * 清水博士 - 村上幹夫 (52) * イーグル秘密情報員0079 - 柄沢英二 (52) * 高木総司令 - [[大木史朗]] (52) * 黒十字軍科学者 - 細井雅男 (52) * 青年 - 小林文隆 (52) * 死神博士 - 八名信夫 (53) * 刑務所の医師 - 大矢兼臣 (53) * 西多摩市の市長(トサカ仮面) - [[田島義文]] (57) * トラックの運転手 - [[関根勤|ラビット関根]]{{efn|前年公開の映画『[[トラック野郎・爆走一番星]]』に関根が出演したことに因んだ配役であった{{R|TQG}}。}} (57) * 喫茶店でペギーを探す男 - [[南雲佑介]] (57) * 母親 - 安達由起 (58) * 子供 - 田遠実 (58) * 左久井アナウンサー - [[岸野一彦|岸野和彦]](58) * 大郷分隊長 - 轟謙二 (59,60) * 中林 - 山本廉 (59) * 中林夫人 - 由起艶子 (59) * 横井博士 - 杉義一 (60) * 洋館の女性 - 田中京子 (62) * 自転車の少年 - 猪野塚弘之 (62) * 駐在 - [[人見きよし]] (62) * 黒田博士 - [[加地健太郎]] (66) * 黒田博士の妻 - [[沢柳迪子]] (66) * 黒田博士の息子 - [[加戸谷隆斗|谷村隆之]] (66) * 研究員 - [[西園寺章雄|西園寺宏]](67) * 医師 - 村上幹夫 (67) * イーグル諜報部員 - [[和田恵秀|和田一壮]] (68) * 中原団地の子供 - 七五三木猛明 (68) * 警官 - [[亀山達也]]、[[畑中猛重]](69) * 主婦 - [[山本緑]]、[[八百原寿子]](69) * イーグル諜報部員0017 - 岩田広之(70) * 松井教授 - [[斎藤英雄 (俳優)|斎藤英雄]] (71) * 謎のバレリーナ - 蓮見里美 (71) * イーグル小隊長 - 松本伊佐武(73) * イーグル隊員 - 大田黒武生、叶年央(73) * 村山 - 岸野一彦(75) * 村山の妻 - 金子弘美(75) * ガソリンスタンドの店員 - [[橋本晃一|三橋洋一]](75) * 記者 - [[岸本功]](75) * 小村道子(鉄ヘビ仮面) - [[藍とも子]] (77) * 太田典子 - 小関典子(77) * 典子の両親 - [[纓片達雄]]、[[花原照子]] (77) * 村の駐在 - [[里木佐甫良]] (77) * 黒川隊員 - [[大前均]] (78) * TVアナウンサー - [[篠原大作]] (78) * 江崎貴美子(ブラックシャドウ9) - 岡田杏子 (79) * 航空社員 - 浦信太郎 (79) * スポーツクラブ支配人 - [[山崎満]] (79) * 工事現場監督 - [[高杉哲平]] (79) * アパートの大家 - 北川巧 (79) * 冬季訓練の指導官(ゾルダー) - 島村卓志 (79) * スポーツクラブ会員(刺客サイボーグ) - 原田力 (79) * 田村博士 - [[相沢治夫]] (80) * 田村陽一 - 寺嶋浩昭 (80) * 横田鉄也少尉 - [[伴大介|伴直也]] (81) * 横田めぐみ(鉄也の妹) - 結城なほ子 (81) * イーグル裁判長 - 稲川善一 (81) * イーグル検察官 - [[川上大輔 (俳優)|川上大輔]] (81) * イーグル弁護人 - 平松慎吾 (81) * 石原純子(イーグル諜報部員003) - 日野麗子 (82) * マジシャン(ヨーヨー仮面) - [[滝雅也]] (82) * 大古次郎{{efn|書籍『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀 1975 秘密戦隊ゴレンジャー』では「醍醐(大古)次郎」と表記している{{R|20th25}}。}} (ダイガー仮面) - [[池田駿介]] (83) * 川辺教授 - 弘松三郎 (83) * 新田博士 - 南祐輔 (83) * 広木博士 - 山本武 (83) * 医師 - 酒井郷博 (83) === スーツアクター === 66話までは[[大野剣友会]]が、67話以降は[[ジャパンアクションエンタープライズ|ジャパンアクションクラブ(JAC)]]がアクションを担当した{{R|大全集210|20th81}}。前者では剣戟を応用した集団戦が、後者ではスピード感あるアクションが特徴となっており、それぞれの得意分野が取り入れられている{{R|大全集210|20th81}}。 [[新堀和男]]によると大野剣友会時代のベストメンバーは「アカ・新堀、アオ・中屋敷、キ・前田、モモ・栗原、ミド・中村」とのことであるが、実際にこの組み合わせが実現したのは1,2回程度だという{{R|Ohno}}。 アカレンジャー役を務めたJACの[[大葉健二]](高橋健二)は、JAC担当になった当初は誠直也から要望を出されたが、誠がアフレコでスタントの様子を見てからは何も言われなくなり、大葉は自分たちが認められたと感じたという{{R|仮面俳優209}}。 ==== 大野剣友会 (1 - 66) ==== * アカレンジャー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集10|Ohno}}<ref>{{Cite web|和書|publisher=株式会社 レッド・エンタテインメント・デリヴァー|url=http://www.redactionclub.com/member/KazuoNiibori.html|title=新堀和男|accessdate=2011-04-09}}</ref>}}、日輪仮面{{R|Ohno}}、火の山仮面マグマン将軍{{R|Ohno}}、鉄人仮面テムジン将軍{{R|toei-13}}、仮面怪人{{R|Ohno}}(機関車仮面{{R|toei-13}}ほか)、アオレンジャー(代役)<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|1264182978088808448}}</ref> - [[新堀和男]] * アカレンジャー(トランポリン){{R|Ohno}}、ミドレンジャー(代役){{R|Ohno}}、仮面怪人{{R|Ohno}}(武者仮面{{R|toei-13}}、ガンマン仮面<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|1261620812487856128}}</ref> ほか) - 湯川泰男 * アオレンジャー(後期){{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=15、210}}{{R|Ohno}}、鉄人仮面テムジン将軍{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=47|loc=「黒十字軍全仮面怪人名鑑 鉄人仮面テムジン将軍」}}、機関車仮面{{R|Ohno}} - [[中屋敷哲也|中屋敷鉄也]] * アオレンジャー(代役){{R|Ohno}}、黄金仮面{{R|toei-13}} - [[河原崎洋央|河原崎洋夫]] * アオレンジャー{{R|大全集14|Ohno}} - 湯浅洋行 * キレンジャー{{R|大全集18|Ohno}}、仮面怪人{{R|Ohno}} - 前田直高 * キレンジャー{{R|Ohno}} - 天野正登 * キレンジャー<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.office-big.co.jp/president.html|title=代表プロフィール|publisher=Office Big|accessdate=2011-05-16}}</ref> - 田中耕三郎 * モモレンジャー(初期){{R|大全集22}} - 内藤みどり * モモレンジャー{{R|大全集22|Ohno}} - 清田真妃 * モモレンジャー{{R|Ohno}} - 栗原良二 * アオレンジャー(トランポリン){{R|Ohno}}、キレンジャー{{R|Ohno}}、モモレンジャー{{R|Ohno}}、仮面怪人{{R|Ohno}}(ガンマン仮面{{R|toei-18}}、電話仮面<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|1261619500677337088}}</ref>、青すじ仮面{{R|toei-18}}ほか)、ゾルダー{{R|toei-18}} - [[上田弘司]] * モモレンジャー{{R|Ohno}}、仮面怪人{{R|Ohno}} - [[小沢章治]] * ミドレンジャー{{R|Ohno}}、アカレンジャー(代役){{R|Ohno}}、アオレンジャー(初期){{R|大全集14|Ohno}} - [[中村文弥]] * ミドレンジャー{{R|Ohno}}、日輪仮面{{R|大全集45}}、仮面怪人{{R|Ohno}} {{efn|機関車仮面(メイン)<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|1146406964374601728}}</ref>、野球仮面<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|711916345957298176}}</ref>、蛇口仮面<ref>{{Twitter status|shinichiwakasa|1264127888040681472}}</ref>、トサカ仮面<ref name="ゴレンジャー">{{Cite book|和書|date=1988-06-31|title=秘密戦隊ゴレンジャー大全集:[[ジャッカー電撃隊]]|series=[[テレビマガジン]]特別編集|pages=180-183|chapter=秘密戦隊ゴレンジャー座談会 忘れえぬヒーローたち|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-178409-9}}</ref>、牛靴仮面<ref name="ゴレンジャー" /> など}} - [[橋本春彦]] * ミドレンジャー{{R|大全集26}} - 尚川泰男 ==== ジャパンアクションクラブ (67 - 84) ==== * アカレンジャー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集10|仮面俳優143|仮面俳優209}}<ref>{{Cite news|agency=[[ガジェット通信]]|url=http://getnews.jp/archives/66291|title=大葉健二がやってきた! 『宇宙刑事ギャバン』からのメッセージ|accessdate=2011-04-09}}</ref>}} - [[大葉健二|高橋健二]] * アオレンジャー{{R|大全集14|仮面俳優143}}、アカレンジャー(代役){{R|仮面俳優143}}、仮面怪人<ref>『東映ヒーローMAX』vol3、辰巳出版、2002年、56頁</ref> - [[岡本美登]] * キレンジャー{{R|JAC}} - 建部豊 * モモレンジャー{{R|JAC|20th95}} - 横山稔 * ミドレンジャー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集26|仮面俳優173|20th95}}}} - [[村上潤]] * アカレンジャー(代役)<ref>『東映ヒーローMAX』 Vol.5、辰巳出版、2003年、60項</ref> - [[春田純一|春田三三夫]] * アオレンジャー(代役){{R|仮面俳優143}} - [[益田てつ|益田哲夫]] == スタッフ == * 原作 - [[石ノ森章太郎|石森章太郎]] * 連載 - [[週刊少年サンデー]]( - 第55話)、[[てれびくん]](第49話 - 第84話)、[[小学館の学年別学習雑誌|小学館学習雑誌]]、[[テレビランド]] * [[脚本]] - [[上原正三]]、[[高久進]]、[[新井光]]、[[曽田博久]]、平山公夫、[[藤川桂介]] * [[プロデューサー]] - (東映)[[平山亨]]、[[吉川進]](第5話 - )、[[深沢道尚]](第64話 - 第71話)、(NET)萩野隆史 * 音楽 - [[渡辺宙明]] * 音楽制作 - あんだんて * [[撮影監督|撮影]] - 原秀夫、[[森喜弘]]、吉田重業、高梨昇、山沢義一、小川康男、加藤弘章 * [[照明]] - 戸塚和夫、城田昌貞、安藤真之助、小宮山靖夫、元持秀雄、小林和夫、銀屋謙蔵 * [[美術監督|美術]] - 小川富美夫、市丸博幸、阿部三郎 * [[オプティカル・サウンド|仕上]]制作 - [[映広|映広音響]] * [[音響監督|録音]] - [[太田克己]] * 編集 - [[菅野順吉]]、松本高行 * [[効果音|効果]] - 平田靖、松田昭彦、伊藤克己、大平隆義([[フィズサウンドクリエイション|イシダサウンドプロ]]) * 選曲 - 村田好次 * [[助監督 (映画スタッフ)|助監督]] - 平山公夫、福島孔道、高橋正治、天間敏広、松本喜隆、小林俊夫、真川敏夫 * [[スクリプター|記録]] - 紀志一子、川村澪子、堀よし子、平田穂美、船津一、安倍伸子、植村よし子、久保田民子、宮瀬淳子、田畑三代 * 技斗 **[[大野剣友会]](第1 - 66話)[[高橋一俊]](第1 - 23話{{R|大全集210}})、池田力也(第24 - 26話{{R|大全集210}})、[[岡田勝]](第27 - 66話{{R|大全集210}}) **[[ジャパンアクションエンタープライズ|JAC]](第67話 - 第84話)[[山岡淳二|山岡順二]]{{R|大全集210}} * 進行主任 - 大里俊博、小迫進、野津修平、川上正行、山中喆、原田良彦、川口秀雄、工藤孝行 * 特殊造形 - [[エキスプロダクション]] * メークアップ - 佐藤せつ子、のざねまさえ、入江プロ、北島操 * 装置 - 日向勤 * トランポリン - 湯川泰男(第1話 - 第66話) * 衣裳 - 東京衣裳 * [[現像]] - [[東映ラボ・テック|東映化学]] * [[特撮研究所]] - [[鈴木昶]] ** 特撮監督 - [[矢島信男]](ノンクレジット) * 大平特殊効果 - 菊地潔 * オートバイアクション - 室町健三 * オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|スズキ自動車]] * [[制作進行|制作担当]] - 佐久間正光、大里俊博、伊東暉雄 * [[監督]] - [[竹本弘一]]、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、[[田口勝彦 (テレビドラマ監督)|田口勝彦]]、[[折田至]]、北村秀敏、[[小西通雄]] * 制作 - [[テレビ朝日|NET]]{{efn|ロゴは、当時一般的に使用された「斜体」ではなく、正方形風にアレンジした「直立」だった。このロゴは『[[アクマイザー3]]』や『[[超神ビビューン]]』でも使用されている。}}、[[東映]] == 音楽 == ; 主題歌 :; オープニングテーマ「[[進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー|進め! ゴレンジャー]]」 :: 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:[[ささきいさお]]、[[堀江美都子]]、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] :; エンディングテーマ ::; 「[[進め!ゴレンジャー/秘密戦隊ゴレンジャー|秘密戦隊ゴレンジャー]]」(第1 - 63話) ::: 作詞:[[八手三郎]] / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、[[こおろぎ'73]]{{efn|テロップでは「こうろぎ'73」と表記されていた。}} ::: バトルシーンでも使用された。後半には[[器楽曲|インストゥルメンタル]]版も使用されている。番組名がタイトルに使われたため、オープニングと混同されることがある。 ::; 「[[見よ!!ゴレンジャー/戦いおわって|見よ!! ゴレンジャー]]」(第64 - 84話) ::: 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73、ウィルビーズ ::: メイン・ヴォーカルのささきいさおの担当部分にはメロディーがないため、厳密には歌唱ではなくナレーションで参加していることになる。メロディーがあるのはバックコーラス部分のみである。歌詞は第64話から第68話までは前半1番+後半3番が使用され、バリキキューンが登場した第69話からは1番に変更された。また第66話まではテロップが「秘密戦隊ゴレンジャー」のままだった。 : ; 挿入歌 :; 「とべ! バリブルーン」(第13・19・22・23・28・32話) :: 作詞:赤井圭 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73 :: 第15・24・26・35・37・39・42話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「青い空からアオレンジャー」 :: 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお :: 第17話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「ナゾナゾのミドレンジャー」 :: 作詞:赤井圭 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、堀江美都子、コロムビアゆりかご会 :: 第22話ではインストゥルメンタル版が使用された。また、中盤では予告編BGMとしても使用された。 ::* 作曲した渡辺は子供向けにしたと述べており、印象に残った曲に挙げている{{R|大全集205}}。 :; 「進めゴレンジャーマシン」 :: 作詞:吉井勝 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73 :: 第15・17・18話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「花のモモレンジャー」 :: 作詞:[[平山亨|田中守]] / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:堀江美都子 ::* 作曲した渡辺は大人っぽさを意識したと述べている{{R|大全集205}}。 :; 「悪魔の黒十字軍」 :: 作詞:土井信 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:こおろぎ'73 :: 第15・34・61話ではインストゥルメンタル版が使用された。 ::* 作曲した渡辺は、悪の組織の曲が一番難しいと述べている{{R|大全集205}}。 :; 「ゴレンジャーストーム」 :: 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、堀江美都子、こおろぎ'73 :: 第16・17話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「ゴレンジャー絵かきうた」 :: 作詞:石森章太郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:堀江美都子 :: 第18話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「おいどん大喰いキレンジャー」 :: 作詞:赤井圭 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:こおろぎ'73、コロムビアゆりかご会 :: 第55話ではインストゥルメンタル版が使用された。 :; 「赤い力だアカレンジャー」 :: 作詞:田中守 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお :; 「ゴレンジャーがやってくる」 :: 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、[[ザ・チャープス]] :: インストゥルメンタル版は第43話の冒頭、新命がバリドリーンの操縦訓練をするシーンで初使用。また、同話からゴレンジャーハリケーンのシーンに毎回のように使用された。なお、放送当時に発売された企画アルバムにインスト版が収録されているが、これは劇中未使用のもの。実際に使用されたバージョンは1996年当時は音源が行方不明になっており<ref>『[[秘密戦隊ゴレンジャー MUSIC COLLECTION]]』(1996年、[[日本コロムビア]])のライナーノーツより。</ref>、1997年の時点でも発見できなかったが<ref>『東映戦隊ヒーロー [[バトルミュージックコレクション]]』(1997年、日本コロムビア)のライナーノーツより。</ref>、その後選曲の村田好次がコピーテープを保存していることが判明し、2016年5月25日発売の『秘密戦隊ゴレンジャー オリジナル・サウンドトラック』に初収録された{{efn|『オリジナル・サウンドトラック』の楽曲解説では初収録を『東映戦隊ヒーロー バトルミュージックコレクション』と記述しているが、そちらに収録されたのは未使用バージョンであることが楽曲解説に明記されており、実際に使われていたバージョンの初収録は『オリジナル・サウンドトラック』が正しい。}}。 :; 「バリドリーンの歌」 :: 作詞:[[上原正三]] / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73 :: 第42話ラストのバリドリーン初登場のシーンで初使用。以降、バリドリーンやバリタンクの戦闘シーンに歌入り版・インストゥルメンタル版の両方が頻繁に使用されている。後半の予告編BGMとしても使用された(最後の音のみ「ゴレンジャーがやってくる」を編集で繋げている<ref>『東映戦隊ヒーロー バトルミュージックコレクションVol.2』(1997年、日本コロムビア)のライナーノーツより。</ref>)。 :; 「[[見よ!!ゴレンジャー/戦いおわって|戦いおわって]]」 :: 作詞:八手三郎 / 作曲・編曲:渡辺宙明 / 歌:ささきいさお、こおろぎ'73 :: 「見よ!! ゴレンジャー」の発表が本作品の主題歌・挿入歌LPの発売後だったため、同シングルのB面曲として作られた。作中未使用。 == 放送日程 == サブタイトルはいずれも「○○! ××」(第64話から「○○!! ××」)というフォーマットで統一。また色名が必ず入れられている{{R|大全集212}}。 1975年12月13日に第14話、1976年1月24日に第20話、2月21日に第25話、3月6日に第26話、8月14日に第53話{{efn|name="natsu"|夏枯れによる視聴率低下対策のため{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=192|loc=「ゴレンジャー&ジャッカー劇場用作品タイトル紹介」}}。}}、8月21日に第54話{{efn|name="natsu"}}、1977年3月5日に第1話、3月19日に第2話を再放送{{Sfn|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=238|loc=「放送リスト 秘密戦隊ゴレンジャー」}}。 1976年6月26日は、「[[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]」中継を始めとしたスポーツ特別番組『格闘技世界一決定戦』(19:30 - 21:21)のため放送休止。「猪木対アリ」戦では本番組よりモモレンジャー役の小牧リサと、同局で放映中の『[[ベルサイユのトラック姐ちゃん]]』より[[山本ゆか里|山本由香利(ゆか里)]]が、劇中の衣装で登場し花束贈呈を担当。その模様は試合中継映像のDVD「燃えろ! 新日本プロレス エクストラ 猪木VSアリ 伝説の異種格闘技戦」にて確認できる。 {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!登場怪人!!脚本!!技斗!!監督 |- |style="text-align: right;"|'''1975年'''{{0}}4月{{0}}5日 |1 |真赤な太陽!無敵ゴレンジャー |style="text-align: left;"| * 黄金仮面(声 - [[西尾徳]]) * 武者仮面(声 - [[島田彰]]) * 青銅仮面(声 - 竹内靖) * ヒスイ仮面(声 - [[篠田薫]]) * 毒ガス仮面 |rowspan="7"|上原正三 |rowspan="23"|高橋一俊 |rowspan="2"|竹本弘一 |- |style="text-align: right;"|4月12日 |2 |青い地球!死の砂漠化計画 |style="text-align: left;"| * 武者仮面 |- |style="text-align: right;"|4月19日 |3 |大逆襲!黄色いつむじ風 |style="text-align: left;"| * 青銅仮面 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|4月26日 |4 |紅のキック!砕けミクロ大作戦 |style="text-align: left;"| * ヒスイ仮面 * 毒ガス仮面 |- |style="text-align: right;"|5月{{0}}3日 |5 |みどり色の怒り 不死身ガス人間 |style="text-align: left;"| * 毒ガス仮面(声 - [[丸山詠二]]) |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|5月10日 |6 |赤い謎!スパイルートを海に追え |style="text-align: left;"| * 鉄輪仮面(声 - [[依田英助]]) |- |style="text-align: right;"|5月24日 |7 |ピンクの月光!オオカミ部隊 |style="text-align: left;"| * 三ヶ月仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=34-35|loc=「仮面怪人大百科 三ヶ月仮面」}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=26}}}}{{efn|名称は、書籍『全怪獣怪人 下巻』では'''三日月仮面'''{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=172}}、書籍『'70年代特撮ヒーロー全集』では'''三ヵ月仮面'''{{R|宇宙船SP216}}とそれぞれ表記している。}}(声 - 飯塚昭三) * 毒牙仮面 * 狼人間{{R|20th25}} |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|5月31日 |8 |黒い恐怖!殺しの毒牙 |style="text-align: left;"| * 毒牙仮面(声 - [[渡部猛]]) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|6月{{0}}7日 |9 |青い影法師 バリブルーン秘密戦略 |style="text-align: left;"| * 魔女仮面(声 - [[京田尚子]]) |rowspan="3"|上原正三 |rowspan="2"|折田至 |- |style="text-align: right;"|6月14日 |10 |赤い風船!風速100メートル |style="text-align: left;"| * ツバサ仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全40|20th25}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=27}}}}{{efn|デザイン画では'''翼仮面'''と表記している{{R|大全40}}。資料によってはデザイン画の名称に準じているもの{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=114}}や'''つばさ仮面'''と表記している{{R|大全集40}}{{Sfn|30大スーパー戦隊超全集|2007|pp=258-259|loc=「仮面怪人図鑑」}}。}}(声:飯塚昭三) |- |style="text-align: right;"|6月21日 |11 |みどり色の戦慄!耳地獄からの脱出 |style="text-align: left;"| * 舟耳仮面(声 - 西尾徳) |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|6月28日 |12 |銀色の超エネルギー!焦熱地獄 |style="text-align: left;"| * 銀熱仮面(声 - 渡部猛) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|7月{{0}}5日 |13 |ピンクの秘密!人間爆弾を倒せ |style="text-align: left;"| * 角仮面(声 - 飯塚昭三) * 人間爆弾{{R|20th25}} ||上原正三 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|7月12日 |14 |赤い棺桶!ドクロ屋敷の怪 |style="text-align: left;"| * ドクロ仮面(声 - 丸山詠二) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|7月26日 |15 |青い大要塞!大暴れバリブルーン |style="text-align: left;"| * 虹仮面(声 - [[岩名雅記]]) * 鏡仮面(声 - 丸山詠二) |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="2"|竹本弘一 |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}2日 |16 |白い怪奇!鏡の中の目 |style="text-align: left;"| * 鏡仮面 * 黒髪仮面(声 - 西尾徳) |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}9日 |17 |むらさき色の遊園地!悪魔の墓場 |style="text-align: left;"| * 黒髪仮面 ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|8月16日 |18 |戦慄の黒十字軍!(秘)作戦で攻撃せよ |style="text-align: left;"| * 一つ目仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=56-57|loc=「仮面怪人大百科 一つ目仮面」}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=28}}}}{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''一ツ目仮面'''と表記している{{R|全怪獣173}}。}}(声:丸山詠二) ||平山公夫 |- |style="text-align: right;"|8月23日 |19 |青い火花!海に浮かぶスパイ戦線 |style="text-align: left;"| * 剣仮面(声 - 飯塚昭三) ||藤川桂介 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|8月30日 |20 |真赤な死闘!日輪仮面対アカレンジャー ||‐ |rowspan="5"|上原正三 |- |style="text-align: right;"|9月{{0}}6日 |21 |青い驚異!古代から来た怪飛行船 |style="text-align: left;"| * 砲丸仮面(声 - 岩名雅記) * 歯車仮面(声 - 丸山詠二) |rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|9月13日 |22 |黄色い空襲!アトランティスの悪夢 |style="text-align: left;"| * 歯車仮面 * 針金仮面(声 - 西尾徳) |- |style="text-align: right;"|9月20日 |23 |みどりの空中戦!怪飛行船の最期 |style="text-align: left;"| * 針金仮面 * カミソリ仮面(声 - [[和田周]]) |- |style="text-align: right;"|10月{{0}}4日 |24 |青い怒り!強烈ミドメラン大逆襲 |style="text-align: left;"| * カミソリ仮面 * 八ツ目仮面(声 - 細井雅男) |rowspan="3"|池田力也 |rowspan="3"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|10月11日 |25 |真赤な導火線!八ツ目の魚雷攻撃 |style="text-align: left;"| * 八ツ目仮面{{efn|書籍によっては'''八ッ目仮面'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=114}}。}} ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|10月18日 |26 |青すじ七変化!恐怖の毒薬博士 |style="text-align: left;"| * 青すじ仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=72-73|loc=「仮面怪人大百科 青すじ仮面」}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=29}}}}{{efn|書籍『全怪獣怪人 下巻』では、名称を'''青スジ仮面'''と表記している{{R|全怪獣173}}。}}(声 - [[清川元夢]]) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|10月25日 |27 |黄色い物体Q! ゴレンジャー基地SOS |style="text-align: left;"| * 鉄の爪仮面(声 - [[増岡弘]]) |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="40"|岡田勝 ||折田至 |- |style="text-align: right;"|11月{{0}}1日 |28 |赤い大噴火!地底基地に潜入せよ |style="text-align: left;"| * 鉄グシ仮面(声 - 依田英助) ||山田稔 |- |style="text-align: right;"|11月{{0}}8日 |29 |赤い追撃!なぞの封印列車 |style="text-align: left;"| * 扉仮面(声 - 岩名雅記) ||曽田博久 ||折田至 |- |style="text-align: right;"|11月15日 |30 |金色の火柱!機雷連続大爆発 |style="text-align: left;"| * 機雷仮面(声 - 丸山詠二) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|11月22日 |31 |黒い挑戦状!怒れ五つの正義の星 |style="text-align: left;"| * 鉄カン仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|画報30|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=82-83|loc=「仮面怪人大百科 鉄カン仮面」}}}}{{efn|書籍『'70年代特撮ヒーロー全集』では、名称を'''テッカン仮面'''と記載している{{R|宇宙船SP216}}。}}(声 - 岩名雅記) ||平山公夫 |- |style="text-align: right;"|11月29日 |32 |青い熱風!バリブルーン応答なし |style="text-align: left;"| * 大ナタ仮面(声 - 増岡弘) ||上原正三 |rowspan="3"|北村秀敏 |- |style="text-align: right;"|12月{{0}}6日 |33 |赤い標的!にせものゴレンジャー出現 |style="text-align: left;"| * 鉄ヒメ仮面{{R|画報30|20th25}}{{efn|資料によっては'''鉄ひめ仮面'''{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|30超全集258}}{{Sfn|大全|2001|pp=86-87|loc=「仮面怪人大百科 鉄ひめ仮面」}}}}、書籍『'70年代特撮ヒーロー全集』では'''鉄姫仮面'''{{R|宇宙船SP216}}と表記している。}}(声 - 清川元夢) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|12月20日 |34 |黄色いスパイ戦!見たかYTCの威力 |style="text-align: left;"| * 赤面仮面(声 - 依田英助) |rowspan="4"|上原正三 |- |style="text-align: right;"|12月27日 |35 |黒い大怪鳥!コンドラー戦斗爆撃隊 |style="text-align: left;"| * スチール仮面(声 - [[大宮悌二]]) |rowspan="3"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|'''1976年'''{{0}}1月10日 |36 |真赤な猛進撃!動く要塞無敵戦艦 |style="text-align: left;"| * 軍艦仮面(声 - 渡部猛) * サイボーグQ |- |style="text-align: right;"|1月17日 |37 |真白い閃光!黒十字総統の正体 |style="text-align: left;"| * フォーク仮面(声 - 依田英助) |- |style="text-align: right;"|1月31日 |38 |青い断崖!悪魔の海賊宝さがし |style="text-align: left;"| * 海賊仮面(声 - 西尾徳) |rowspan="2"|曽田博久 |rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|2月{{0}}7日 |39 |真赤な日本海!怪隕石の超能力 |style="text-align: left;"| * 岩面仮面(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align: right;"|2月14日 |40 |紅の復讐鬼!地獄のモモレンジャー |style="text-align: left;"| * 鉄カゴ仮面(声 - 依田英助) ||上原正三 ||田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|2月28日 |41 |黒い大逆転!鳥取砂丘の攻防戦 |style="text-align: left;"| * 鉄獅子仮面(声 - 依田英助) ||曽田博久 ||山田稔 |- |style="text-align: right;"|3月13日 |42 |黒の鉄人死す!さらばバリブルーン ||‐ |rowspan="6"|上原正三 |rowspan="3"|竹本弘一 |- |style="text-align: right;"|3月20日 |43 |真赤な{{ruby|不死鳥|フェニックス}}!無敵バリドリーン登場 |style="text-align: left;"| * ダイヤモンド仮面(声 - [[野島昭生]]) |- |style="text-align: right;"|3月27日 |44 |青い万能戦車!バリタンク発進 |style="text-align: left;"| * エレキ仮面(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align: right;"|4月{{0}}3日 |45 |暗黒の剣鮫!海の殺し屋襲来 |style="text-align: left;"| * 剣ザメ仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|大全120|30超全集258|20th25}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=32}}}}{{efn|デザイン画では名称を'''剣鮫仮面'''と表記しており{{R|大全120}}、書籍『'70年代特撮ヒーロー全集』ではこちらに準じている{{R|宇宙船SP217}}。}}(声 - 丸山詠二) |rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|4月10日 |46 |黒い超特急!機関車仮面大暴走 |style="text-align: left;"| * 機関車仮面(声 - 島田彰) |- |style="text-align: right;"|4月17日 |47 |赤い大逆襲!怒りのゴレンジャー |style="text-align: left;"| * 鳥牙仮面(声 - 野島昭生) |- |style="text-align: right;"|4月24日 |48 |黒い補給基地!遊園地危機一髪 |style="text-align: left;"| * カメラ仮面(声 - 大宮悌二) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |rowspan="3"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|5月{{0}}1日 |49 |みどりの大脱走!卍のトリックプレイ |style="text-align: left;"| * つの骨仮面(声 - 丸山詠二、人間態 - 杉義一) |rowspan="3"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|5月{{0}}8日 |50 |青い翼の秘密!危うしバリドリーン |style="text-align: left;"| * 鉄ワナ仮面(声 - 依田英助、人間態 - 潮健児) |- |style="text-align: right;"|5月15日 |51 |青いニセ札づくり!夕陽のガンマン |style="text-align: left;"| * ガンマン仮面(声 - [[青森伸]]) |rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|5月29日 |52 |ピンクの電話鬼!殺しのダイヤル |style="text-align: left;"| * 電話仮面(声 - 増岡弘) |rowspan|上原正三 |- |style="text-align: right;"|6月{{0}}5日 |53 |赤いホームラン王!必殺の背番号1 |style="text-align: left;"| * 野球仮面(声 - [[永井一郎]]) * 死神博士 |rowspan|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|6月19日 |54 |真赤な挑戦!火の山最期の大噴火 ||‐ |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|7月{{0}}3日 |55 |金色の大将軍!ツタンカーメンの呪い |style="text-align: left;"| * 大耳仮面(声 - [[坂井寿美江|坂井すみ江]]) |- |style="text-align: right;"|7月10日 |56 |青い夏休み!魔の殺人海岸 |style="text-align: left;"| * 蛇口仮面(声 - 大宮悌二) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |rowspan="6"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|7月31日 |57 |黒い包囲網!五つの顔のペギー |style="text-align: left;"| * トサカ仮面(声 - 丸山詠二、人間態 - [[田島義文]]) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}7日 |58 |真赤な野望!総統閣下の黄金城 |style="text-align: left;"| * パラボラ仮面(声 - 依田英助) |rowspan="2"|上原正三 |- |style="text-align: right;"|9月{{0}}4日 |59 |真赤な南国!謎のゴールド大作戦 |style="text-align: left;"| * 死の鳥仮面(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align: right;"|9月11日 |60 |青い瀬戸内海!浮ぶ秘密要塞島 |style="text-align: left;"| * 妖貝仮面(声 - 増岡弘) |rowspan="2"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|9月18日 |61 |桃色のKOパンチ!エンドボール勝負 |style="text-align: left;"| * 牛靴仮面(声 - 依田英助) |- |style="text-align: right;"|9月25日 |62 |白い怪奇!死神館の罠 |style="text-align: left;"| * アバラ仮面(声 - [[和久井節緒]]) ||上原正三 |rowspan="2"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|10月{{0}}2日 |63 |黒い電光石火!飛び出す大砲 |style="text-align: left;"| * テレビ仮面(声 - 依田英助) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|10月16日 |64 |青いUFO!! 宇宙軍団大襲来 |style="text-align: left;"| * 時計仮面(声 - 増岡弘) |rowspan="2"|上原正三 |rowspan="3"|竹本弘一 |- |style="text-align: right;"|10月23日 |65 |真赤な決死隊!! 殴りこみ黒十字城 |style="text-align: left;"| * 落葉仮面(声 - 依田英助) |- |style="text-align: right;"|10月30日 |66 |赤い人質交換!! バットラー大爆撃 |style="text-align: left;"| * 風車仮面(声 - 青森伸) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|11月{{0}}6日 |67 |真赤な特攻!! キレンジャー夕陽に死す |style="text-align: left;"| * カンキリ仮面(声 - 増岡弘) ||上原正三 |rowspan="18"|山岡順二 |rowspan="2"|小西通雄 |- |style="text-align: right;"|11月13日 |68 |ピンクの反乱!! 針・針・針の大攻撃 |style="text-align: left;"| * 注射仮面(声 - 丸山詠二) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|11月20日 |69 |五色の新兵器!! バリキキューン発進 |style="text-align: left;"| * パイナップル仮面(声 - 依田英助) |rowspan="5"|上原正三 |rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|11月27日 |70 |青い逆襲!! 宇宙特急をストップせよ |style="text-align: left;"| * タイヤ仮面(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align: right;"|12月{{0}}4日 |71 |真赤な大決戦!! 地球移動計画 |style="text-align: left;"| * ピアノ仮面(声 - 増岡弘) |- |style="text-align: right;"|12月11日 |72 |青い機密!! 解体されたバリドリーン |style="text-align: left;"| * イカリ仮面(声 - 依田英助) |rowspan="3"|竹本弘一 |- |style="text-align: right;"|12月18日 |73 |黒いつむじ風!! 勝負だ!一直線 |style="text-align: left;"| * 剣道仮面(声 - 丸山詠二) |- |style="text-align: right;"|12月25日 |74 |青い大寒波!! 地球氷づけ作戦 |style="text-align: left;"| * 眼鏡仮面(声 - 青森伸) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |- |style="text-align: right;"|'''1977年'''{{0}}1月{{0}}8日 |75 |真赤な火炎地獄!! ストーブ仮面の陰謀 |style="text-align: left;"| * ストーブ仮面(声 - 依田英助) ||上原正三 |rowspan="3"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|1月15日 |76 |真赤な潜入!! 君は海城剛を見たか? |style="text-align: left;"| * 鉄グモ仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|画報38|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=182-183|loc=「仮面怪人大百科 鉄グモ仮面」}}}}{{efn|書籍によっては、名称を'''鉄蜘蛛仮面'''と表記している{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=178}}{{R|宇宙船SP217}}。}}(声 - [[滝雅也]]) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|1月22日 |77 |黒い恐怖!! 吸血へび女 |style="text-align: left;"| * 鉄ヘビ仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|画報38|30超全集258|20th25}}}}{{efn|書籍によっては、名称を'''鉄へび仮面'''{{Sfn|大全|2001|pp=184-185|loc=「仮面怪人大百科 鉄へび仮面」}}・'''鉄蛇仮面'''{{Sfn|全怪獣怪人 下|1990|p=179}}{{R|宇宙船SP217}}、'''鉄ヘビ女'''{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=115}}と表記している。}}(声 - [[東美江]]、人間態 - [[藍とも子]]) ||上原正三 |- |style="text-align: right;"|1月29日 |78 |黒い妨害電波!! 原始の雄叫び |style="text-align: left;"| * マンモス仮面(声 - 依田英助) ||{{Plainlist| * 高久進 * 新井光 }} |rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|2月{{0}}5日 |79 |真赤な追跡!! 姿なき暗殺者の正体 |style="text-align: left;"| * スケート仮面(声 - 丸山詠二) * ブラックシャドウ9 ||上原正三 |- |style="text-align: right;"|2月12日 |80 |真赤な敵中横断!希望への脱出 |style="text-align: left;"| * 鋼鉄虎仮面(声 - [[北山年夫]]) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|2月19日 |81 |黒い疑惑!! 殺人スパイの罠 |style="text-align: left;"| * 鉄ビン仮面{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集40|30超全集258|20th25}}{{Sfn|大全|2001|pp=192-193|loc=「仮面怪人大百科 鉄ビン仮面」}}{{Sfn|スーパー戦隊画報1|2005|p=39}}}}{{efn|書籍『'70年代特撮ヒーロー全集』では、名称を'''鉄びん仮面'''と表記している{{R|宇宙船SP217}}。}}(声 - 依田英助) ||上原正三 |rowspan="3"|田口勝彦 |- |style="text-align: right;"|2月26日 |82 |黒い魔術師!! 人形館の怪?! |style="text-align: left;"| * ヨーヨー仮面(声 - 滝雅也) ||曽田博久 |- |style="text-align: right;"|3月12日 |83 |オレンジ色の初恋!! 吼える大都会 |style="text-align: left;"| * ダイガー仮面(声 - 依田英助、素体 - [[池田駿介]]) |rowspan="2"|上原正三 |- |style="text-align: right;"|3月26日 |84 |真赤な大勝利!!{{ruby|永久|とわ}}に輝け五ツ星 ||‐ ||山田稔 |} == 放送局 == {{出典の明記|section=1|date=2015年3月}} * [[テレビ朝日|NETテレビ]](制作局):土曜 19:30 - 20:00 * [[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]:土曜 19:30 - 20:00 * [[青森放送]]:火曜 17:55 - 18:25<ref>『[[デーリー東北]]』1976年4月6日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[テレビ岩手]]:金曜 18:00 - 18:30<ref>『[[河北新報]]』1975年10月24日、1976年4月30日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[秋田放送]]:木曜 17:00 - 17:30<ref>『[[秋田魁新報]]』1975年10月2日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[山形テレビ]]:月曜 18:00 - 18:30<ref>『[[日刊スポーツ]]』1975年10月6日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[宮城テレビ放送|宮城テレビ]]:金曜 18:00 - 18:30(1975年10月3日まで)<ref>『河北新報』1975年4月11日 - 10月3日付朝刊、テレビ欄。</ref> ** [[東日本放送]]:土曜 19:30 - 20:00(1975年10月4日から)<ref>『河北新報』1975年10月4日 - 1977年3月26日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福島中央テレビ]]:月曜 18:00 - 18:30<ref>『[[福島民報]]』1975年10月27日 - 1977年5月16日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[新潟放送]]:金曜 17:30 - 18:00<ref>『日刊スポーツ』1976年3月5日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[テレビ山梨]]:月曜 18:00 - 18:30<ref>『[[山梨日日新聞]]』1975年7月21日付テレビ欄。</ref> * [[長野放送]] : 火曜 18:00 - 18:30 <ref>『[[信濃毎日新聞]]』1975年4月15日 テレビ欄。</ref> * [[静岡放送]]:金曜 17:30 - 18:00<ref>『日刊スポーツ』1975年10月3日付朝刊、テレビ欄。</ref> ** [[静岡朝日テレビ|静岡けんみんテレビ]]:日曜 18:30 - 19:00(1979年7月1日 - )<ref>『静岡新聞』1979年7月1日付朝刊、テレビ欄</ref> * [[北日本放送]]:水曜 16:50 - 17:20(1975年10月8日放送開始)<ref>『[[北國新聞]]』1975年10月8日付朝刊テレビ欄。</ref> * [[石川テレビ放送|石川テレビ]]:火曜 18:00 - 18:30<ref>『[[北日本新聞]]』 1976年7月6日付朝刊、テレビ欄。</ref> * [[福井放送]]:火曜 18:00 - 18:30(1976年4月6日放送開始)<ref>『北國新聞』1976年4月6日付朝刊テレビ欄。</ref> * [[名古屋テレビ放送|名古屋放送]]:水曜 19:00 - 19:30 * [[朝日放送テレビ|朝日放送]]:土曜 18:00 - 18:30(先行放送){{efn|[[テレビ朝日|NETテレビ]]系の土曜18:00 - 18:30における『[[超電磁ロボ コン・バトラーV]]』は、金曜17:00 - 17:30にて放送。}} * [[岡山放送|テレビ岡山]]:金曜 17:00 - 17:30(1976年2月13日 - ) * [[広島ホームテレビ]]:土曜 19:30 - 20:00 * [[テレビ山口]]:日曜 11:30 - 12:00 * [[四国放送]] * [[瀬戸内海放送]]:土曜 19:30 - 20:00 * [[テレビ愛媛]] * [[テレビ高知]] * [[九州朝日放送]]:水曜 19:00 - 19:30( - 1976年3月)→ 土曜 19:30 - 20:00(1976年4月 - ) * [[熊本放送]]:日曜 11:30 - 12:00 * [[大分放送]]:土曜 18:00 - 18:30 (1976年4月10日 - ) * [[宮崎放送]]:木曜 17:20 - 17:50 ( - 1976年3月)→ 水曜 17:20 - 17:50 (1976年4月 - )<ref>『宮崎日日新聞』1976年5月12日付朝刊テレビ欄。</ref> * [[鹿児島テレビ放送|鹿児島テレビ]] : 火曜 17:55 - 18:25 * [[沖縄テレビ放送|沖縄テレビ]] == 劇場版 == いずれも[[東映まんがまつり]]の一編として公開された。 ; 『[[秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン]]』 : [[1976年]][[7月18日]]公開。 :* 監督:山田稔 技斗:岡田勝 脚本:上原正三 :* 登場怪人:鋼鉄剣竜 === テレビシリーズ再編集版 === ; 『秘密戦隊ゴレンジャー』 : 1975年7月26日公開。第6話の再編集版。 ; 『秘密戦隊ゴレンジャー 青い大要塞』 : 1975年12月20日公開。第15話の再編集版。一部地域のみの公開。 ; 『秘密戦隊ゴレンジャー 真赤な猛進撃!』 : 1976年3月20日公開。第36話の再編集版。 ; 『秘密戦隊ゴレンジャー 火の山最後の大噴火』 : 1976年12月19日公開。第54話の再編集版。『青い大要塞』同様一部地域のみの公開であったため、DVDへの収録が発表されるまでは関連書籍で言及されることは皆無に等しく、幻の作品になっていた。 これらの作品は2003年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE BOX』{{R|宇宙船106}}および、単品では2004年7月21日発売の『スーパー戦隊THE MOVIE VOl.1』に収録されている。2011年11月21日発売の「復刻!東映まんがまつり 1976春」には「真赤な猛進撃!」のみ収録されている。 2020年11月2日、[[第33回東京国際映画祭]]ジャパニーズ・アニメーション部門で『真っ赤な猛進撃!』、『爆弾ハリケーン』に加えて『ジャッカー電撃隊VS秘密戦隊ゴレンジャー』を上映<ref>{{Cite web|和書|title=ジャパニーズ・アニメーション部門《特撮》スーパー戦隊特集 ゲスト登壇 第一弾発表!|url=https://2020.tiff-jp.net/news/ja/?p=54993|website=東京国際映画祭|accessdate=2020-11-01}}</ref>。 == エピソード == * 主演の[[誠直也]]と[[宮内洋]]が写真週刊誌の対談{{Full|date=2014年2月}}で語ったところによると、ロケ中は、[[煙草]]を隠れて吸ったり、立ち小便をしないなど、見学に来た子どもたちのイメージを壊さないように苦労したそうである。そんな苦労を共にしたためか、誠と宮内らのキャストは仲が良く、男性キャストのみで撮影後の飲み会に繰り出すこともしばしばだったという<ref>宮内洋『ヒーロー真髄』 風塵社、1999年、116-117頁。</ref>。 * 1998年にインナーブレイン社から発売されたPCソフト『'''秘密戦隊ゴレンジャーのしくみ'''』によると、当時撮影で東京から御殿場方面へゴレンジャーの役者が、個別に自家用車で高速道路を移動していたところ、次から次へと速度超過で警察に止められた。バラバラに移動していたが、奇しくも高速で5人揃ってしまったと宮内洋は語っている。 == 映像ソフト化 == 特記のない限り、いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 * [[VHS|ビデオ]](VHS、セル・レンタル共通)ソフトは[[1986年]] - [[1991年]]にかけて全20巻が発売された。各巻3話、59話分+劇場版1本を収録。発売当初はあくまでも傑作選の予定だったため、収録順は放送順と一致していない。19巻のジャケットには、『[[超獣戦隊ライブマン]]』に登場するジェットファルコンの画像が誤って使用されていた。 * [[レーザーディスク|LD]]-BOXは[[1998年]][[11月21日]] - [[1999年]][[5月21日]]にかけて全3集が発売された<ref>{{Cite book|和書|date = 1999-05-01|title = 宇宙船YEAR BOOK 1999|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 64|id = 雑誌コード:01844-05}}</ref><ref>{{Cite book|和書|date = 2000-04-20|title = 宇宙船YEAR BOOK 2000|series = 宇宙船別冊|publisher = 朝日ソノラマ |page = 62|id = 雑誌コード:01844-04}}</ref>。初の全話収録でのソフト化である。 * [[DVD]]は[[2003年]][[4月21日]] - [[8月8日]]にかけて、全14巻が発売された{{R|宇宙船106}}。各巻6話収録で、1 - 3巻、4 - 6巻、7 - 9巻、10 - 12巻、13・14巻はそれぞれ同時リリースされた。 ** [[2008年]][[7月21日]]発売の『石ノ森章太郎 生誕70周年 DVD-BOX』に第1話が収録されている。 ** [[2011年]]4月発売の『スーパー戦隊 1stエピソードコレクション I』に第1話が収録されているほか、[[ペイ・パー・ビュー]]で劇場版『爆弾ハリケーン!』が視聴可能。 * [[Blu-ray Disc|Blu-ray]]は[[2017年]][[2月8日]]から[[10月4日]]にかけてBOX全5巻が発売された。各巻3枚組・17話{{efn|第1巻のみ16話収録。}}収録<ref>[http://www.toei-video.co.jp/DVD/gorenger.html 東映ビデオ:秘密戦隊ゴレンジャー特集]</ref>。また[[2021年]][[4月14日]]発売の『スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1975 - 1981』に計8話{{efn|第1・20・42・43・53・54・67・84話。}}が収録されている<ref>[https://www.toei-video.co.jp/special/supersentai-ikkyo/ 東映ビデオ:「スーパー戦隊一挙見Blu-ray」特集]</ref>。 == CS放送・ネット配信 == ; CS放送 * [[東映チャンネル]] **2005年8月 - 2006年5月 **2017年3月 - 12月(「スーパー戦隊ワールド」枠、後者はHD放送) **2007年9月 - 2008年2月(「アンコールアワー」枠) * [[ファミリー劇場]] **2001年 - 2003年 **2010年 - 2011年 ; ネット配信 * 東映特撮 [[YouTube]] Official **[[2011年]][[8月1日]] - [[2012年]][[5月20日]] **[[2014年]][[10月25日]] - [[2015年]][[8月15日]] **[[2021年]][[1月26日]] - [[11月16日]] * 東映特撮[[ニコニコ動画|ニコニコ]]おふぃしゃる **[[2022年]][[10月29日]] - == その他の展開 == ; キレンジャーのカレー発売 : スーパー戦隊シリーズ30作を記念して、キレンジャーをイメージキャラクターに起用したレトルトカレー『キレンジャーカレー ポーク中辛』が、[[2006年]][[7月10日]]に[[永谷園]]より数量限定で全国発売された<ref>[http://www.nagatanien.co.jp/company/news/pdf/news20060705141530.pdf 永谷園のプレスリリース (PDFファイル)]</ref>。 ; 『[[アニメック]]』の特集 : [[ラポート]]のアニメ情報誌『[[アニメック]]』で連載されていた、[[池田憲章]]によるテレビ特撮作品の名作の作品研究特集「日本特撮映画史・SFヒーロー列伝」にて、生誕10周年を迎えた[[1986年]]に本作品が特集された。複数回に分けての掲載となったものの、「日本特撮映画史・SFヒーロー列伝」と交互で連載されていた特撮作品の特集「特撮カルチャーセンター」や各種アニメキャラクター特集優先でしばしば中止となり、バリドリーン登場以降の展開に進む前後で何の予告もなく打ち切りとなってしまった。 ; 音盤ソフトの展開 : 放映当時は[[日本コロムビア|コロムビア]]が[[レコード|シングルレコード]]や挿入歌を収録したソング集など発売された他、他社を含む特撮やアニメを収録したレコードを発売した。ただし、放送中に劇中音楽を収録した音楽ソフトの発売はなかった。 : 放送終了後の[[1996年]]にBGM集『[[秘密戦隊ゴレンジャー MUSIC COLLECTION]]』が発売され、[[2004年]]には5000枚限定で再発売された。ただし、当時は「バリドリーンの歌」「ゴレンジャーがやってくる」のインストゥルメンタル版の音源が発見できなかったことや、CD1枚という容量の都合により、多くの未収録曲がある。 : 2016年5月25日、『秘密戦隊ゴレンジャー オリジナル・サウンドトラック』が発売された。前述の音源が新たに発見されたこともあり、同盤では本作品のために作られたBGM全曲を、2枚組にて収録している。 ; パチンコ・パチスロ化 : [[パチンコ]]としては[[豊丸産業]]から2005年と2009年に、また[[タイヨーエレック]]から2013年に発売。[[パチスロ]]としては[[三共 (パチンコ)|SANKYO]]から2009年にタイアップ機が発売された。 ; ゲーム化 : 2000年に[[バンダイナムコゲームス|バンプレスト]](後のバンダイナムコゲームス)から発売された[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用の『[[AZITO|AZITO3]]』にゴレンジャーが登場。なおプレイ開始時にアカレンジャーが最初から登場している。 : 同年発売の[[ドリームキャスト]]用の『[[特撮冒険活劇 スーパーヒーロー烈伝]]』にもゴレンジャーが参戦した。 : 2001年9月に同じくバンプレストから発売された『[[スーパー特撮大戦2001]]』では、ゴレンジャーが参戦した。 : 2010年3月より、[[バンダイ]]から稼動開始の[[データカードダス]]『[[スーパー戦隊バトル ダイスオー]]』の第1弾にアカレンジャーが参戦。第2弾ではキレンジャーとミドレンジャーが、第3弾でアオレンジャーとモモレンジャーが参戦しゴレンジャー全員が参戦を果たした。 ; エイプリルフール企画 : 2010年4月1日、『[[サイボーグ009]]』の公式サイトが1日限定で「秘密戦隊ゴレンジャー公式サイト」になり、コンテンツはファンクラブへのリンクを除いてすべてゴレンジャー関連のものに置き換えられた。作品自体の情報は事実に基づくものであり、石ノ森章太郎の手によるイラストが使用されたほか、漫画版の試し読みも可能だった。 ; [[復刻堂]] : 2011年2月28日、[[ダイドードリンコ]]より「復刻堂 秘密炭酸ゴレンジャー」が発売された<ref>[http://www.dydo.co.jp/corporate/news/2011/110209_3.html DyDo Drink Message 企業情報 ニュースリリース]</ref>。 ; バラエティ番組 : 『[[アメトーーク!|日曜もアメトーーク!]]』(2017年7月30日放送分)にて、同番組のための新撮映像に野球仮面(声 - [[関智一]])が登場。[[激走戦隊カーレンジャー|芋長の芋羊羹]]で巨大化し、[[宇宙戦隊キュウレンジャー]]と[[カズレーザー]]が搭乗したキュウレンオーと戦う。 == シリーズ内の他作品への登場 == 各作品での詳細はそれぞれのリンク先を参照。 ; 『[[ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー]]』 : 本放送終了後に公開された映画で、ゴレンジャーの5人およびバリドリーンが登場。ペギーのみ素顔でも登場。 ; スーパー戦隊大集合 : 『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』第51話として放送された特別総集編。タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の世界を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。 ; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』 : 『[[百獣戦隊ガオレンジャー]]』放送期間中にリリースされた[[スーパー戦隊Vシネマ]]作品。バリドリーンおよび本作品の映像を流用する形で新命、アカレンジャーが登場している(アカの一部カットは新撮)。 ; 『[[轟轟戦隊ボウケンジャーVSスーパー戦隊]]』 : 『[[轟轟戦隊ボウケンジャー]]』放送期間中にリリースされたスーパー戦隊Vシネマ作品。劇中のシーンでアカレンジャー、EDにゴレンジャー全員が写真のみで登場している。 ; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』 : 関連する映画も含め、複数のキャラクターが同作品にて登場。 :: '''テレビシリーズ''':ゴレンジャー全員(1話、アカレンジャーの声は誠直也)、バリブルーン(50話)、海城(最終話) :: '''[[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]]''':ゴレンジャー全員およびバリブルーン、同作品ではそれに加えて黒十字総統の設定を踏まえた「黒十字王」というキャラクターも登場。海城のみ素顔でも登場。またノンクレジットではあるが、アオレンジャーの声を宮内洋が当てている<ref>パンフレット掲載の出演者・スタッフインタビュー記事より{{Full|date=2019年10月}}。同作品に宮内は[[ジャッカー電撃隊]]・番場壮吉/ビッグワンとしても出演しており、役名のクレジットは番場のみとなっている。</ref>。 :: '''[[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]]''':野球仮面(声は永井一郎)、ゾルダー ; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』 : スーパー戦隊シリーズと[[仮面ライダーシリーズ]]のクロスオーバー作品。ゴレンジャーの5人および野球仮面が登場。 ; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊×宇宙刑事 スーパーヒーロー大戦Z]]』 : 上記2シリーズと[[メタルヒーローシリーズ]]のクロスオーバー作品。アカレンジャーが登場。 ; 『[[手裏剣戦隊ニンニンジャー]]』 : シリーズおよび本作品開始40周年を記念し、第7話のラストでアカレンジャーが登場。 ; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 超スーパーヒーロー大戦]]』 : スーパー戦隊シリーズと仮面ライダーシリーズのクロスオーバー作品。モモレンジャーが登場。 ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』 : 『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。海城剛/アカレンジャーと野球仮面が登場。 ; 『[[セイバー+ゼンカイジャー スーパーヒーロー戦記]]』 : 『機界戦隊ゼンカイジャー』と『[[仮面ライダーセイバー]]』の劇場作品。アカレンジャーが登場。 ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャーVSキラメイジャーVSセンパイジャー]]』 : 2022年4月29日期間限定劇場上映、同年9月28日にBlu-ray&DVD発売。ゴレンジャーが登場。キレンジャーは2代目となっている。 == 関連項目 == * [[麒麟戦隊アミノンジャー]] * [[レインボー戦隊ロビン]] * [[ボス (コーヒー)|ボス]] - コラボレーションCMにゴレンジャーが登場し、遊園地内で迷った[[布袋寅泰]]と対峙した。声はオリジナルキャストではなく別人が担当していた。 * [[さんふらわあ]] - [[日本高速フェリー]]時代、当時の[[東京港|東京]] - [[那智勝浦町|那智勝浦]] - [[高知港|高知]]航路で劇場版『秘密戦隊ゴレンジャー 爆弾ハリケーン!』の撮影が行われた。 * [[南原清隆]]([[ウッチャンナンチャン]]) - 『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]]系)の番組内でエンディング曲『秘密戦隊ゴレンジャー』を使ったダンスを披露したことがある。笑っていいとも!最終回(特番)でも久々に披露した。歌詞の「バンバラバンバンバン」を「ナンバラバンバンバン」に変えていた。 * [[新庄剛志]] (SHINJO) - 2004年9月20日のプロ野球の試合前の守備練習で、[[北海道日本ハムファイターズ]]の同僚である[[森本稀哲]](アカレンジャー)・[[島田一輝]](アオレンジャー)・[[石本努]](モモレンジャー)・[[坪井智哉]](ミドレンジャー)の4選手とともにゴレンジャーの覆面(自身はキレンジャー)を被って登場した<ref>[http://www.nikkansports.com/m/baseball/special/skyperfect2014/skyperfect2014_09_m.html 勝敗を分けた延長戦 日本ハム - 劇的サヨナラが一転、球界史上初の珍事] nikkansports.com、2017年2月5日閲覧。 ※タイトルには「延長戦」とあるが、記事の本文の方では述べられているように、当試合は9回で終了している。</ref>。 * [[輝け!!新人紅白歌合戦]] - 本番組継続中の1976年5月 - 9月に[[TBSテレビ|TBS]]で放送、紅組のキャプテンはモモレンジャーことペギー松山役の小牧りさが担当(白組は[[毒蝮三太夫]]が担当)。TBS番組にもかかわらず、司会の[[玉置宏]]は小牧を「'''モモレンジャーのお姉さん'''」と紹介した。なお小牧は『ゴレンジャー』のときの衣装(ブラウス・ボレロ・ホットパンツ・ブーツ)では登場せず、ワンピースにハイヒール姿で登場した。 * [[世紀末戦隊ゴレンジャイ]] - 『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』(フジテレビ系)内で放送された本作品のパロディー[[コント]]。本家制作側承認済みであるため、ソフト化も行われている。 * [[戦え!ぼくらのヒーロー大集合]] - 1976年[[5月15日]]の土曜20時台(本作品第51回放送直後)にて放送。後半ゴレンジャーが『[[アクマイザー3]]』『[[ザ・カゲスター]]』と共に出演。この後同年[[7月31日]]には同枠(本作品第57回放送直後)にて放送された『チビッ子祭り!正義のヒーロー総出演』で、ゴレンジャーは『[[がんばれ!!ロボコン]]』『[[超神ビビューン]]』『カゲスター』と共に出演(司会は[[水木一郎]]・ささきいさお・堀江美都子)。さらに同年[[9月25日]]の同枠(本作品第62回放送直後)で放送された『テレビ人気者大集合!!』で。ゴレンジャーは『ロボコン』『カゲスター』『ビビューン』と再々出演し、さらに『[[宇宙鉄人キョーダイン]]』([[毎日放送]]制作・TBS系列)や『[[忍者キャプター]]』([[テレビ東京|東京12チャンネル]])といった、他局放送の東映特撮ヒーローとも共演した(ゲストはささきいさおと[[大杉久美子]])。 * [[日野・レンジャー]]([[日野自動車]]) - 本作品の放送期間中に、レンジャーを5台(プラス1台)映して、子供のナレーションでゴレンジャー名乗りのパロディをする[[コマーシャルメッセージ|CM]]が放送された。 * [[爆報! THE フライデー]] - [[2014年]][[12月5日]]放送分で、熊野大五郎(二代目キレンジャー)役のだるま二郎の近況を放送。番組内ではそれに加えて新命明(アオレンジャー)役の宮内洋、明日香健二(ミドレンジャー)役の伊藤幸雄、ペギー松山(モモレンジャー)役の小牧リサがだるま二郎の元を訪れ、都合で不参加となった海城剛(アカレンジャー)役の誠直也からの手紙を小牧が代読した模様も併せて放送された。 * [[ヤマハ発動機|ヤマハ除雪機]] - 2018年に販売40周年を迎えるにあたり、アオレンジャーが[[電撃戦隊チェンジマン|チェンジペガサス]]、[[星獣戦隊ギンガマン|ギンガブルー]]、[[忍風戦隊ハリケンジャー|ハリケンブルー]]、[[侍戦隊シンケンジャーの登場人物|シンケンブルー]]と共にイメージキャラクターに採用されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/294005|title=アオレンジャー、チェンジペガサス、シンケンブルーら戦士5人が「除雪は青の時代!」|publisher=映画ナタリー|date=2018-08-03|accessdate=2019-04-01}}</ref>。2019年には[[獣拳戦隊ゲキレンジャーの登場人物|ゲキブルー]]と[[天装戦隊ゴセイジャー|ゴセイブルー]]を加えて引き続き起用された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.yamaha-motor.co.jp/snowblower/2019sp/|title=除雪は青の時代|publisher=ヤマハ発動機|accessdate=2023-04-08|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190905144740/https://www.yamaha-motor.co.jp/snowblower/2019sp/|archivedate=2019-09-05}}</ref>。 * [[ザ・ハイスクール ヒーローズ]] - 2021年7月期にテレビ朝日系『[[オシドラサタデー]]』枠で放送された、テレビ朝日・[[ジェイ・ストーム]]・東映による学園ヒーロードラマ。主人公がゴレンジャーオタクという設定で、作中にもアカレンジャーが登場する<ref>{{Cite web|和書|title=美少年、1年ぶり主演ドラマで“戦隊ヒーロー”に変身 テレ朝×東映とタッグ「期待で胸がパンパンです」|url=https://www.oricon.co.jp/news/2197653/full/|website=ORICON NEWS|accessdate=2021-06-26}}</ref>。また同作品の放送開始を記念し、2021年7月30日には同局にて本作品の第1・2話の再放送も行われた(4:00 - 4:55、関東ローカル)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2201757/full/|title=『秘密戦隊ゴレンジャー』46年の時を経て地上波放送 美 少年主演『ザ・ハイスクールヒーローズ』放送記念 |publisher=ORICON NEWS|date=2021-07-29|accessdate=2021-07-31}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist|2}} === 参照話数 === {{Reflist|group="ep" |refs= <ref name="ep2">第2話</ref> <ref name="ep3">第3話</ref> <ref name="ep40">第40話</ref> <ref name="ep44">第44話</ref> <ref name="ep55">第55話</ref> <ref name="ep56">第56話</ref> <ref name="ep82">第82話</ref> }} === 出典 === {{reflist|3 |refs= <ref name="J2006020401">[http://www.bandai.co.jp/releases/J2006020401.html ~スーパー戦隊シリーズ30作品記念企画~ トレーディングカードゲーム「レンジャーズストライク」] - プレスリリース 株式会社バンダイ{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref> <ref name="oricon_20141216">[https://www.oricon.co.jp/news/2046483/full/ スーパー戦隊生誕40周年、新ヒーローは『手裏剣戦隊ニンニンジャー』] [[オリコン]] 2014年12月26日。</ref> <ref name="JAC">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988}}{{要ページ番号|date=2014年7月}}</ref> <ref name="大全集8">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=8|loc=「ゴレンジャースーツ」}}</ref> <ref name="大全集9">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|p=9|loc=「ゴレンジャーストーム」「ゴレンジャーハリケーン」}}</ref> <ref name="大全集10">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=10-11|loc=「アカレンジャー」}}</ref> <ref name="大全集12">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=12-13|loc=「海城剛」}}</ref> <ref name="大全集14">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=14-15|loc=「アオレンジャー」}}</ref> <ref name="大全集16">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=16-17|loc=「新命明」}}</ref> <ref name="大全集18">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=18-19|loc=「キレンジャー」}}</ref> <ref name="大全集20">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=20-21|loc=「大岩大太」}}</ref> <ref name="大全集22">{{Harvnb|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988|pp=22-23|loc=「モモレンジャー」}}</ref> <ref 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book|和書|date=2015-06-20|edition=第1版|title=OFFICIAL PERFECT BOOK TOQGER ETERNAL MEMORIES [[烈車戦隊トッキュウジャー]] 公式完全読本|series=ホビージャパンMOOK|publisher=[[ホビージャパン]]|page=38|chapter=TOQGER Main Cast Interview 07 [[関根勤]](取材・構成 大黒秀一)|location=東京|isbn=978-4-7986-1031-3}}</ref> <ref name="21st11">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 21世紀|volume=vol.11|volume-title=[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK||page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[前澤範]]|isbn=978-4-06-509522-5}}</ref> <ref name="20th4">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=4-5}}</ref> <ref name="20th5">{{Harvnb|20th 1975|2018|p=5|loc=「INTERVIEW ゴレンジャーの真実 吉川進」}}</ref> <ref name="20th6">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=6-7|loc=「秘密戦隊ゴレンジャー」}}</ref> <ref name="20th8">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=8-9|loc=「海城剛 / アカレンジャー」}}</ref> <ref name="20th10">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=10-11|loc=「新命明 / アオレンジャー」}}</ref> <ref name="20th12">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=12-13|loc=「大岩大太、熊野大五郎 / キレンジャー」}}</ref> <ref name="20th14">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=14-15|loc=「ペギー松山 / モモレンジャー」}}</ref> <ref name="20th16">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=16-17|loc=「明日香健二 / ミドレンジャー」}}</ref> <ref name="20th18">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=18-19|loc=「SPECIAL INTERVIEW'75 [[誠直也]]」}}</ref> <ref name="20th22">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=22-23|loc=「ゴレンジャーメカニック」}}</ref> <ref name="20th24">{{Harvnb|20th 1975|2018|p=24|loc=「黒十字軍」}}</ref> <ref name="20th25">{{Harvnb|20th 1975|2018|pp=25-27|loc=「仮面怪人」}}</ref> <ref name="20th30">{{Harvnb|20th 1975|2018|p=30|loc=「特集企画 スーパー戦隊の神業 大野剣友会の集団アクション」}}</ref> <ref name="20th30b">{{Harvnb|20th 1975|2018|p=30|loc=「証言! 岡田勝」}}</ref> <ref name="20th81">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-08-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1981 [[太陽戦隊サンバルカン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|pages=30-31|chapter=特集企画 スーパー戦隊の神業 JACの初期スーパー戦隊アクション|isbn=978-4-06-509606-2}}</ref> <ref name="20th87">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2019-05-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1987 [[光戦隊マスクマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|pages=32-33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 特別対談 [[前澤範]]×小松義人|isbn=978-4-06-513713-0}}</ref> <ref name="20th88">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1988 [[超獣戦隊ライブマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[曽田博久]]|isbn=978-4-06-509615-4}}</ref> <ref name="20th90">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2019-04-25|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1990 [[地球戦隊ファイブマン]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=32|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[八木功]]|isbn=978-4-06-513711-6}}</ref> <ref name="20th95">{{Cite book|和書|editor=講談社|date=2019-04-10|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1995 [[超力戦隊オーレンジャー]]|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|page=33|chapter=スーパー戦隊制作の裏舞台 [[村上潤]]|isbn=978-4-06-513710-9}}</ref> <ref name="学研の図鑑12">{{Harvnb|学研の図鑑|2021|pp=12-13|loc=「秘密戦隊ゴレンジャー」}}</ref> <ref name="学研の図鑑36">{{Harvnb|学研の図鑑|2021|pp=36-37|loc=「連続技ゴレンジャーハリケーン」}}</ref> <ref 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name="max-2">『東映ヒーローMAX』vol.14(辰巳出版)、72頁</ref> <ref name="max-3">『東映ヒーローMAX』vol.14(辰巳出版)、66頁</ref> <ref name="toei-18">『東映ヒーローMAX』Vol,18、辰巳出版、73-74頁</ref> <ref name=tokunew1104>『[[特撮ニュータイプ]]』2011年4月号 73ページ</ref> <ref name="CL">{{Cite journal|和書|title=秘蔵写真で綴る!! 宮内洋大全集|date=2015-06-01|publisher=[[徳間書店]]|journal=[[ハイパーホビー|HYPER HOBBY]] PRESENTS キャラクターランド|volume =Vol.1|pages=42-50|isbn=978-4-19-730134-8}}</ref> <ref name="昭和M">{{Cite book|和書|date=2015-06-18|publisher=ダイアプレス|title=俺たちのPLAY-BACK 昭和マガジン VOL.2 ボクらのスーパー戦隊|series=DIA Collection|pages=54-58|chapter=特撮ヒーロー界のレジェンドが語る“ヒーローの在り方” 宮内洋|isbn=978-4-8023-0030-8}}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * 大全集シリーズ([[講談社]]) ** {{Cite book|和書 |date = 1988-06-31 |title = 秘密戦隊ゴレンジャー大全集 : ジャッカー電撃隊 |series = [[テレビマガジン]]特別編集|publisher = 講談社|isbn = 4-06-178409-9 |ref = {{SfnRef|秘密戦隊ゴレンジャー大全集|1988}}}} **{{Cite book|和書|date=1993-11-14|title=[[テレビマガジン]]特別編集 戦隊シリーズ20周年記念 超世紀全戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178416-1|ref={{SfnRef|超世紀全戦隊大全集|1993}}}} * {{Cite book|和書 |date = 1990-11-30 |title = [[全怪獣怪人]] |publisher = [[勁文社]] |volume = 下巻 |id=C0676 |isbn = 4-7669-1209-8 |ref = {{SfnRef|全怪獣怪人 下|1990}}}} * {{Cite book|和書 |others = 監修 金田益実|date = 1998-05-30|title = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]SPECIAL ’70年代特撮ヒーロー全集 |publisher = [[朝日ソノラマ]] |isbn = 4-257-03533-1 |ref = {{SfnRef|宇宙船SPECIAL|1998}}}} * {{Cite book|和書 |author = 岩佐陽一 編|date = 2001-02-10 |title = 秘密戦隊ゴレンジャー大全 仮面怪人大百科 |publisher = [[双葉社]] |isbn = 4-575-29186-2 |ref = {{SfnRef|大全|2001}}}} * {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 上巻|publisher = [[勁文社]]|isbn = 4-7669-3975-1|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 上巻|2002}}}} * {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 下巻|publisher = 勁文社|isbn = 4-7669-4108-X|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 下巻|2002}}}} * {{Cite book|和書|date=2002-08-30|title=スーパー戦隊アートコレクション 戦隊ロボ編|publisher=[[メディアワークス]]|isbn=4-8402-2139-1|ref={{SfnRef|アートコレクション|2002}}}} * {{Cite book|和書 |editor = 特撮映画研究会|date = 2002-12 |title = 怪獣とヒーローを創った男たち |series = タツミムック|publisher = [[辰巳出版]] |isbn = 4-88641-808-2 |ref = {{SfnRef|怪獣とヒーローを創った男たち|2002}}}} *{{Cite book|和書|others = 編集:[[井上嘉大]]|date = 2003-03-20|title = 全怪獣怪人大事典(上巻)東映篇|publisher = [[英知出版]]|isbn = 4-7542-2016-1|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人・上|2003}}}} * {{Cite book|和書|date=2005-09-07|title=スーパー戦隊画報|volume=第1巻|publisher=[[竹書房]]|ISBN=4-8124-2219-1|ref={{SfnRef|スーパー戦隊画報1|2005}}}} * {{Cite book|和書|date = 2006-04-25|title =決定版 全スーパー戦隊 完全超百科|publisher = 講談社|isbn = 4-06-304567-6|ref = {{SfnRef|完全超百科|2006}}}} * {{Cite book|和書|others=構成 間宮“TAKI”尚彦|date=2007-03-08|title=30大スーパー戦隊[[超全集]]|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-105112-7|ref = {{SfnRef|30大スーパー戦隊超全集|2007}}}} * {{Cite book|和書|date = 2010-10-29|title =なつかしの東映×石ノ森 ヒーロー大図鑑|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-364833-1|ref = {{SfnRef|東映×石ノ森|2010}}}} * {{Cite book|和書|date = 2011-05-25|title =決定版 全スーパー戦隊 パーフェクト超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304815-5|ref = {{SfnRef|パーフェクト超百科|2011}}}} *{{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|isbn=978-4-8130-2163-6|ref={{SfnRef|百化繚乱 上之巻|2011}}}} * {{Cite book|和書|date = 2012-07-28|title =スーパー戦隊戦士列伝 赤の伝説|publisher = 角川書店|isbn = 978-4-04-110216-9|ref = {{SfnRef|赤の伝説|2012}}}} *{{Cite book|和書|others=講談社 編|date = 2014-11-20|title = 仮面ライダー1971-1984 <small>秘蔵写真と初公開資料で蘇る昭和ライダー10人</small>|publisher =講談社|isbn = 978-4-06-218566-0|ref = {{SfnRef|仮面ライダー1971-1984|2014}}}} * {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}} * {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2018-03-24|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1975 秘密戦隊ゴレンジャー|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|isbn=978-4-06-509616-1|ref={{SfnRef|20th 1975|2018}}}} * {{Cite book|和書|date = 2018-02-26|title =決定版 全スーパー戦隊 コンプリート超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304848-3|ref = {{SfnRef|コンプリート超百科|2018}}}} * {{Cite book|和書|date = 2021-04-20<!--奥付表記-->|title =スーパー戦隊|series=学研の図鑑|publisher = 学研プラス|isbn = 978-4-0540-6788-2|ref = {{SfnRef|学研の図鑑|2021}}}} * {{Cite book |和書 |date=2022-04-01 |title=スーパー戦隊 TOY HISTORY 45 1975-2021 |series = ホビージャパンMOOK |publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=978-4-7986-2745-8 |ref={{SfnRef|TH45|2022}} }} == 外部リンク == * [http://www.super-sentai.net/sentai/goranger.html 秘密戦隊ゴレンジャー](スーパー戦隊ネット内の紹介記事) * [https://www.toei-video.co.jp/special/gorenger/ Blu-ray DVD 秘密戦隊ゴレンジャー特集](東映ビデオ内にあるサイト) {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日|NET]]系列 |放送枠=[[テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ|土曜19:30 - 20:00]](本番組より[[スーパー戦隊シリーズ]]) |番組名=秘密戦隊ゴレンジャー<br />(1975年4月5日 - 1977年3月26日)<br />※本番組よりNET制作 |前番組=[[仮面ライダーアマゾン]]<br />(1974年10月19日 - 1975年3月29日)<br />※同番組まで[[毎日放送]]制作・[[仮面ライダーシリーズ|昭和仮面ライダーシリーズ]] |次番組=[[ジャッカー電撃隊]]<br />(1977年4月2日 - 12月24日)<br />※同番組より通称をNETからテレビ朝日に変更 }} {{スーパー戦隊シリーズ}} {{石ノ森章太郎}} {{デフォルトソート:ひみつせんたいこれんしやあ}} [[Category:秘密戦隊ゴレンジャー|*]] [[Category:スーパー戦隊シリーズの特撮テレビドラマ]] [[Category:1970年代の特撮作品]] [[Category:1975年のテレビドラマ]] [[Category:テレビ朝日土曜7時30分枠の連続ドラマ]] [[Category:上原正三脚本のテレビドラマ]] [[Category:高久進脚本のテレビドラマ]] [[Category:曽田博久脚本のテレビドラマ]] [[Category:藤川桂介脚本のテレビドラマ]] [[Category:復讐を題材としたテレビドラマ]] [[Category:アトランティス文明を題材としたテレビドラマ]] [[Category:石ノ森章太郎の漫画作品]] [[Category:漫画作品 ひ|みつせんたいこれんしやあ]] [[Category:1975年の漫画]] [[Category:週刊少年サンデーの漫画作品]] [[Category:小学館の学年誌の漫画作品]] [[Category:アトランティス文明を題材とした漫画作品]]
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日本の伝統芸能
日本の伝統芸能(にほんのでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事などで行われてきたものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。 伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているわけではない。 詳細な分類はそれぞれの項目を参照のこと。
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日本の伝統芸能(にほんのでんとうげいのう)は、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事などで行われてきたものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された有形無形のものを言う。詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
{{redirect|伝統芸能|[[NHK教育テレビ]]の番組|日本の伝統芸能 (NHK)|各国の事例|芸能}} {{出典の明記|date=2023年3月}} '''日本の伝統芸能'''(にほんのでんとうげいのう)は、[[日本]]に古くからあった[[芸術]]と[[技能]]の汎称。特定階級または大衆の[[教養]]や[[娯楽]]、[[儀式]]や[[祭事]]などを催す際に付随して行動化されたもの、または[[年中行事|行事]]などで行われてきたものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された有形無形のものを言う。[[詩歌]]・[[音楽]]・[[ダンス|舞踊]]・[[絵画]]・[[工芸]]・[[芸道]]などがある。 == 伝統芸能の定義 == 伝統芸能とは、[[西洋#文化の概念|西洋文化]]が入ってくる前の芸術と技能を[[現代芸術]]と区別した呼称である。日本固有の文化という意味だが、[[文化_(代表的なトピック)|文化]]の先進国であった[[中国]]から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。しかし、[[明治]]期の[[西洋#日本における西洋|西洋化]]以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。また、日本では別々の時代に成立した多くの伝統芸能が並列的に存在しているが、すべての伝統芸能が現存しているわけではない。 == 形式による分類 == 詳細な分類はそれぞれの項目を参照のこと。 === 歌 === * [[和歌]] ** [[長歌]] ** [[短歌]] ** [[旋頭歌]] ** [[片歌]] ** [[連歌]] * [[俳諧]] ** [[俳句]] ** [[連句]] * [[琉歌]] === 日本舞踊 === * [[神楽]] * [[田楽]] * [[雅楽]] * [[舞楽]] * [[猿楽]] * [[白拍子]] * [[延年]] * [[曲舞]] * [[上方舞]] * [[大黒舞]] * [[恵比寿舞]] * [[纏舞]] * [[念仏踊り]] * [[盆踊り]] * [[歌舞伎舞踊]] === 演劇 === *[[能楽]] **[[能]] ** [[狂言]] * [[歌舞伎]] * [[文楽|人形浄瑠璃]] === 音曲 === * [[雅楽]] ** [[謡物]] ** [[歌舞]] ** [[管絃]] ** [[舞楽]] * [[邦楽]] ** [[箏曲]] ** [[琵琶曲]] ** [[胡弓楽]] ** [[尺八楽]] ** [[三味線楽]] ** [[地歌]] * [[浄瑠璃|浄瑠璃節]] **[[義太夫節]] **[[宮古路豊後掾|豊後節]](『伝授の雲龍』を残して廃絶) ** [[常磐津節]] ** [[富本節]] ** [[清元節]] ** [[新内節]] ** [[河東節]] ** [[宮園節]] * [[唄]] ** [[地歌]] ** [[長唄]] ** [[荻江節]] ** [[歌沢]] ** [[端唄]] ** [[小唄]] ** [[都々逸]] ** [[民謡]] ** [[島唄]]([[奄美諸島|奄美]]民謡) === 演芸 === * [[講談]](講釈) * [[落語]] * [[浪花節]](浪曲) * [[奇術]] * [[萬歳]] * [[俄]] * [[梯子乗り]] * [[女道楽]] * [[太神楽]] * [[紙切り]] * [[曲ゴマ]] * [[写し絵]] * [[花火]] * [[絵解き]] === 工芸 === * [[彫金]] * [[漆器]] * [[陶芸]] * [[織物]] === 芸道 === * [[茶道]] * [[香道]] * [[武芸 (日本)|武芸]]([[古武道]]) * [[書道]] * [[華道]] === 盤上遊戯 === * [[囲碁]] * [[将棋]] == 関連項目 == * [[六芸]] * [[琴棋書画]] * [[芸道論]] * [[民族音楽]] * [[古典楽器]] * [[舞踊学会]] * [[琉球伝統芸能]] * [[にっぽんの芸能]]、[[古典芸能への招待]] - [[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]が編成している伝統芸能専門番組枠。 == 外部リンク == {{Commonscat}} * [https://www.ntj.jac.go.jp/tradition.html 伝統芸能情報館]([[日本芸術文化振興会]]) * {{Wayback|url=https://www.nhk.or.jp/koten/program/ |title=NHK古典芸能番組一覧 |date=20140421025149}}(NHK [[日本放送協会]]) {{日本の伝統芸能}} {{日本関連の項目}} [[Category:日本の伝統芸能|*]]
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古典楽器
古典楽器(こてんがっき)は、比較的古い時代に使われた楽器の総称である。地域や音楽のジャンルによって定義や呼び名は異なる。 日本の古典楽器の詳細は和楽器を参照。
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古典楽器(こてんがっき)は、比較的古い時代に使われた楽器の総称である。地域や音楽のジャンルによって定義や呼び名は異なる。
'''古典楽器'''(こてんがっき)は、比較的古い時代に使われた[[楽器]]の総称である。[[地域]]や[[音楽]]の[[ジャンル]]によって定義や呼び名は異なる。 == 分類 == === 日本の古典楽器 === [[日本]]の古典楽器の詳細は[[和楽器]]を参照。 * [[尺八]] * [[三味線]] * [[琴]] * [[箏]] * [[笙]] * [[篳篥]] * [[琵琶]] === 西洋音楽の古典楽器 === * [[西洋音楽]]の古典楽器の詳細は[[古楽器]]を参照。 == 関連項目 == * [[楽器]] * [[伝統芸能]] * [[ルネサンス音楽]] * [[バロック音楽]] {{DEFAULTSORT:こてんかつき}} [[Category:楽器]] [[Category:音楽史]] {{Musical-instrument-stub}}
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1984年
1984年(1984 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。昭和59年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。 ※ 主体暦は、朝鮮民主主義人民共和国で1997年に制定された。 世界のできごとのみ記載。
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1984年は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる閏年。昭和59年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。
{{Otheruseslist|'''西暦'''|日本ローカルの事柄|1984年の日本|小説|1984年 (小説)|その他|1984 (曖昧さ回避)}} {{年代ナビ|1984}} {{YearInTopic | BC = | 千年紀 = 2 | 世紀 = 20 | 年代 = 1980 | 年 = 1984 }} {{year-definition|1984}} この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。 == 他の紀年法 == * [[干支]]:[[甲子]](きのえ ね) * [[日本]](月日は一致) ** [[昭和]]59年 ** [[神武天皇即位紀元|皇紀]]2644年 * [[大韓民国]](月日は一致) ** [[檀君紀元|檀紀]]4317年 * [[中華民国]](月日は一致) ** [[民国紀元|中華民国]]73年 * [[朝鮮民主主義人民共和国]](月日は一致) ** [[主体暦|主体]]73年 * [[仏滅紀元]]:2526年 - 2527年 * [[ヒジュラ暦|イスラム暦]]:1404年3月27日 - 1405年4月7日 * [[ユダヤ暦]]:5744年4月26日 - 5745年4月7日 * Unix Time:441763200 - 473385599 * [[修正ユリウス日]](MJD):45700 - 46065 * [[リリウス日]](LD):146541 - 146906 <div style="font-size:smaller"> ※ 主体暦は、[[朝鮮民主主義人民共和国]]で[[1997年]]に制定された。 </div> == カレンダー == {{年間カレンダー|年=1984}} == できごと == 世界のできごとのみ記載。 === 1月 === * [[1月1日]] - [[AT&T]]分割。 * 1月1日 - [[ブルネイ]]独立。 * [[1月14日]] - [[マクドナルド]]の創業者[[レイ・クロック]]が[[カリフォルニア州]][[サンディエゴ]]の病院で死去。 * [[1月21日]] - 映画[[ターザン]]の主役をつとめたジョニー・ワイズミュラーが死去。 * [[1月24日]] - [[アメリカ合衆国|米]][[Apple|Apple Computer]]が[[Macintosh]]を発表。 === 2月 === * [[2月8日]] - 冬季[[サラエボオリンピック]]が開幕。 * [[2月9日]] - [[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]の[[ユーリ・アンドロポフ]]書記長死去。後任に[[コンスタンティン・チェルネンコ]]第二書記を選出。 === 3月 === === 4月 === * [[4月22日]] - [[リビア]][[大使館]]員によるデモ隊への乱射事件を受けて[[イギリス]]がリビアと国交を断絶。 === 5月 === === 6月 === * [[6月7日]] - 第10回[[サミット]]開催([[イギリス]]・[[ロンドン]])。 * [[6月11日]] - [[イタリア共産党]]の[[エンリコ・ベルリンゲル|エンリコ・ベルリングェル]][[書記長]]死去。 * [[6月14日|6月14]]-[[6月17日|17日]] - 欧州諸共同体加盟国で[[1984年欧州議会議員選挙|欧州議会議員選挙]]の投票が実施される。 === 7月 === * [[7月28日]] - [[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]開催。 === 8月 === * [[8月3日]] - 日本の静止[[気象衛星]]「[[ひまわり3号]]」打上げ。 * [[8月4日]] - [[アフリカ]]の[[オートボルタ]]が[[ブルキナファソ]]に[[改名]]。 * [[8月5日]] - [[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]で、オリンピックで初めての[[マラソン#女子の参加|女子マラソン]]を実施。 * [[8月12日]] - [[7月28日]]から開催されていた[[1984年ロサンゼルスオリンピック|第23回夏季オリンピック・ロサンゼルス大会]]が閉幕。 * [[8月21日]] - [[フィリピン]]・[[マニラ]]で、[[フェルディナンド・マルコス]][[フィリピン大統領|同国大統領]]に対する50万人規模の抗議デモ発生。 * [[8月24日]] - [[トヨタ自動車]]が製造業で初の5兆円企業(売上高)となる。 * [[8月30日]] - [[スペースシャトル]]・[[スペースシャトル・ディスカバリー|ディスカバリー]]、初の打ち上げに成功。 === 9月 === === 10月 === * [[10月19日]] - [[カトリック教会]]の[[司祭]]、[[イエジ・ポピエウシュコ]]が[[ポーランド]]公安部によって暗殺。 * [[10月25日]] - [[オーストラリア]]から[[コアラ]]6頭が贈られて日本に初めて上陸。 * [[10月31日]] - [[インド]]首相、[[インディラ・ガンジー]]が暗殺される。{{see|{{仮リンク|インディラ・ガンディー暗殺事件|en|Assassination of Indira Gandhi}}}} === 11月 === * [[11月6日]] - [[1984年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]で[[ロナルド・レーガン|レーガン]]が再選。 * [[11月11日]] - [[たま (バンド)|たま]]初ライブ。 * [[11月11日]] - [[シンボリルドルフ]]が[[菊花賞]]を勝利し、史上4頭目の[[中央競馬クラシック三冠|牡馬クラシック三冠]]達成。無敗(8戦8勝)での三冠達成は日本競馬史上初。 * [[11月25日]] - [[カツラギエース]]が日本調教馬として初めて[[ジャパンカップ]]で優勝。 === 12月 === * [[12月3日]] - [[インド]]・[[ボパール]]にある[[ユニオン・カーバイド]]の[[殺虫剤]]工場から有毒ガスが流出、2万人近くが死亡した[[ボパール化学工場事故]]が発生。 * [[12月19日]] - [[イギリス]]([[マーガレット・サッチャー|サッチャー]]首相)と[[中華人民共和国|中国]]([[趙紫陽]][[国務院総理]])が香港返還合意文書に調印。これにより[[1997年]]7月1日に[[香港]]が中国に返還されることに。 * [[12月27日]] - [[南極大陸]]・{{仮リンク|アラン・ヒルズ|en|Allan Hills}}にて、[[火星]]を起源とする隕石「[[アラン・ヒルズ84001]]」が採取される。 == 芸術・文化 == === 音楽 === {{Main|1984年の音楽}} *[[シーラ・E|シーラE]]「グラマラス・ライフ」 *ダン・ハートマン「あなたを夢見て」 *ロマンティックス「トーキン・イン・ユア・スリープ」 *[[フィル・コリンズ]] 「[[見つめて欲しい]]」<ref>{{cite web| url=http://i.imgur.com/vSPWRmH.jpg| title=BPI > Certified Awards > Search results for Phil Collins (page 3)|publisher=[[British Phonographic Industry]]| access-date=1 July 2021}}</ref> *[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]「[[ビートに抱かれて]](ウェン・ダブズ・クライ)」「[[パープル・レイン]]」 === 映画 === {{Main|1984年の映画}} *ストリート・オブ・ファイヤー *[[カリブの熱い夜]] == スポーツ == {{Main|1984年のスポーツ}} * ボクシング *[[ティム・ウィザースプーン]]が[[グレグ・ペイジ]](2009年50歳死去)を判定で破って、WBC世界ヘビー級チャンピオンになった。 * [[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]](夏季) ** 柔道競技で[[山下泰裕]]が左足に怪我を負いながらも[[エジプト]]代表のラシュワンを破り金メダルを獲得。 * [[サラエボオリンピック]](冬季) * 野球 {{Main|1984年の野球}} * モータースポーツ ** [[スポーツカー世界選手権|世界耐久選手権]] ** [[F1世界選手権]] *** ドライバー [[ニキ・ラウダ]]([[マクラーレン|マクラーレン・TAGポルシェ]]) *** コンストラクター マクラーレン・TAGポルシェ ** [[ロードレース世界選手権]] *** 500cc [[エディ・ローソン]] *** 250cc [[クリスチャン・サロン]] * サッカー ** [[UEFA欧州選手権]]で地元開催の[[サッカーフランス代表|フランス]]が優勝、初の国際タイトルを取った。[[ミシェル・プラティニ]]の全盛期である。 == 誕生 == {{see also|1984年の日本#誕生|Category:1984年生}} <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は上記「1984年の日本」項内に記入(世界的に著名な人物は本節と併記) --> === 1月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[1月1日]] - [[パオロ・ゲレーロ]]、[[サッカー選手]] * 1月1日 - [[マリック・バディアヌ]]、[[サッカー選手]] * 1月1日 - [[モハマド・ガダル]]、[[サッカー選手]] * [[1月3日]] - [[フィリプ・ザレウシキー]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1月5日]] - [[ライアン・オメラ]]、フィギュアスケート選手 * 1月5日 - [[イケチュク・ウチェ]]、サッカー選手 * 1月5日 - {{仮リンク|柳仁英|en|Yoo In-young}}、女優 * [[1月6日]] - [[ポール・オセゲラ]]、[[プロ野球選手]] * [[1月7日]] - [[ジョン・レスター (左投手)|ジョン・レスター]]、[[メジャーリーガー]] * 1月7日 - [[カルロス・コーポラン]]、メジャーリーガー * 1月7日 - [[シャビエル・マルガイラス]]、サッカー選手 * 1月7日 - [[マックス・リーメルト]]、俳優 * [[1月8日]] - [[ジェフ・フランコーア]]、メジャーリーガー * 1月8日 - [[金正恩]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.nikkansports.com/general/news/202201070001148.html|title=元号が昭和から「平成」に/今日は?|publisher=日刊スポーツ|date=2022-01-08|accessdate=2022-01-08}}</ref>、[[朝鮮民主主義人民共和国]]第3代最高指導者 * [[1月9日]] - [[蒼国来栄吉]]、[[大相撲]][[力士]] * 1月9日 - [[オリバー・ジャービス]]、[[レーシングドライバー]] * [[1月10日]] - [[マルアーヌ・シャマフ]]、サッカー選手 * 1月10日 - [[アレクサンドル・ポポフ (フィギュアスケート選手)|アレクサンドル・ポポフ]]、フィギュアスケート選手 * 1月10日 - [[丸山穂高]]、政治家 * [[1月11日]] - [[スタイン・スハールス]]、サッカー選手 * [[1月14日]] - [[エリック・アイバー]]、メジャーリーガー * 1月14日 - [[マイク・ペルフリー]]、メジャーリーガー * [[1月15日]] - [[メーガン・ジェンドリック]]、競泳選手 * [[1月16日]] - [[ステファン・リヒトシュタイナー]]、サッカー選手 * 1月16日 - [[増田隆之]]、声優 * 1月16日 - [[クレイグ・ビーティ]]、サッカー選手 * [[1月17日]] - [[カルヴィン・ハリス]]、歌手 * [[1月18日]] - [[ジャスティン・トーマス]]、プロ野球選手 * 1月18日 ‐ [[長谷部誠]]、サッカー選手 * [[1月19日]] - [[カルン・チャンドック]]、[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー * 1月19日 - [[アリオナ・サフチェンコ]]、フィギュアスケート選手 * 1月19日 - [[ニコラス・パレハ]]、サッカー選手 * [[1月22日]] - [[レオン・ポウ]]、[[バスケットボール]]選手 * 1月22日 - [[ウバルド・ヒメネス]]、メジャーリーガー * 1月22日 - [[吉村健二 (投手)|吉村健二]]、[[野球選手]] * [[1月23日]] - [[アリエン・ロッベン]]、サッカー選手 * [[1月24日]] - [[スコット・カズミアー]]、メジャーリーガー * 1月24日 - [[ボイ・ヴァーテルマン]]、サッカー選手 * [[1月25日]] - [[ロビーニョ]]、サッカー選手 * 1月25日 - [[シュテファン・キースリング]]、サッカー選手 * 1月25日 - [[オンドレイ・ホタレック]]、フィギュアスケート選手 * [[1月26日]] - [[アントニオ・ルカヴィナ]]、サッカー選手 * 1月26日 - [[羅雪娟]]、元[[競泳]]選手 * [[1月28日]] - [[アンドレ・イグダーラ]]、バスケットボール選手 * [[1月29日]] - [[ヌーノ・モライス]]、サッカー選手 * 1月29日 - [[ナタリー・デュトワ]]、[[競泳]]選手 * [[1月30日]] - [[キッド・クディ]]、ラッパー * [[1月30日]] - [[琴奨菊和弘]]、力士・大関 * 1月30日 - [[ジェレミー・ハーミダ]]、メジャーリーガー * [[1月31日]] - [[ウラジミール・ビストロフ]]、サッカー選手 * 1月31日 - [[ジェレミー・ウォリナー]]、陸上競技選手 * 1月31日 - [[アレッサンドロ・ロジーナ]]、サッカー選手 * 1月31日 - [[モハメド・チテ]]、サッカー選手 === 2月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[2月1日]] - [[佐藤有世]]、声優 * [[2月1日]] - [[オスカー・アングロ]]、[[野球選手]] * 2月1日 - [[ダレン・フレッチャー]]、サッカー選手 * 2月1日 - [[マティアス・メルツ]]、[[オリエンテーリング]]選手 * [[2月2日]] - [[胡金龍]]、[[プロ野球選手]] * [[2月4日]] - [[ダグ・フィスター]]、[[メジャーリーガー]] * [[2月5日]] - [[カルロス・テベス]]、サッカー選手 * [[2月6日]] - [[ダレン・ベント]]、サッカー選手 * 2月6日 - [[アントワン・ライト]]、バスケットボール選手 * [[2月8日]] - [[セシリー・ストロング]]、女優 * 2月8日 - [[マノン・フリール]]、バレーボール選手 * [[2月9日]] - [[アンナ・ユルキェビッチ]]、フィギュアスケート選手 * 2月9日 - [[ハンネ・ヴァトネ]]、[[シンガーソングライター]] <!-- 日本ローカル? * 2月9日 - [[IVAN]]、ファッションモデル、タレント --> * 2月9日 - [[ディオナー・ナバーロ]]、メジャーリーガー * 2月9日 - [[韓庚]]、歌手、俳優 * [[2月10日]] - [[ザザ・パチュリア]]、バスケットボール選手 * 2月10日 - [[アレックス・ゴードン]]、メジャーリーガー * 2月10日 - [[ルイス・クルーズ]]、プロ野球選手 * [[2月12日]] - [[カテリーン・イバルグエン]]、[[陸上選手]] * [[2月15日]] - [[mink]]、歌手 * 2月15日 - [[ネイト・シャーホルツ]]、メジャーリーガー * [[2月16日]] - [[ウサマ・メルーリ]]、競泳選手 * [[2月17日]] - [[マルチン・ゴルタット]]、バスケットボール選手 * 2月17日 - [[ユリア・メルクロワ]]、バレーボール選手 * [[2月18日]] - [[ブライアン・ボグセビッチ]]、プロ野球選手 * 2月18日 - [[イドリス・カルロス・カメニ]]、サッカー選手 * [[2月19日]] - [[マリリン・プラ]]、フィギュアスケート選手 * [[2月20日]] - [[ブライアン・マッキャン]]、メジャーリーガー * [[2月21日]] - [[ダビド・オドンコール]]、サッカー選手 * 2月21日 - [[香里奈]]、女優、モデル * 2月21日 - [[ダミアン・モロニー]]、俳優 * [[2月22日]] - [[ブラニスラヴ・イヴァノヴィッチ]]、サッカー選手 <!-- 日本ローカル? * 2月22日 - [[亜太]]、ベーシスト --> * [[2月25日]] - [[邢慧娜]]、陸上競技選手 * 2月25日 - [[ハインリヒ・ハウスラー]]、自転車競技選手 <!-- 日本ローカル? * 2月25日 - [[w-shun]]、ボーカリスト --> * [[2月26日]] - [[エマニュエル・アデバヨール]]、サッカー選手 * 2月26日 - [[アレックス・デ・アンジェリス]]、オートバイレーサー * 2月26日 - [[ベレン・サート]]、女優 * [[2月27日]] - [[スコット・マシソン]]、プロ野球選手 * 2月27日 - [[アニバル・サンチェス]]、メジャーリーガー * [[2月28日]] - [[カロリナ・クルコヴァ]]、ファッションモデル * [[2月29日]] - [[ダレン・アンブローズ]]、サッカー選手 * 2月29日 - [[カレン・ジョーンズ]]、競泳選手 *2月29日 - [[吉岡聖恵]]、歌手 === 3月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[3月1日]] - [[パトリック・ヘルメス]]、サッカー選手 * 3月1日 - [[ボシュコ・ヤンコヴィッチ]]、サッカー選手 * [[3月2日]] - [[鄭大世]]、サッカー選手 * [[3月4日]] - [[岩村愛子]]、女優、声優 * 3月4日 - [[ザク・ウィットブレッド]]、サッカー選手 <!-- 出典不明 * [[3月5日]] - [[ドロテア・ブラント]]、[[水泳選手]] --> * [[3月5日]] - [[ギョーム・オアロ]]、サッカー選手 * [[3月7日]] - [[ブランドン・T・ジャクソン]]、俳優 * 3月7日 - [[マチュー・フラミニ]]、サッカー選手 * [[3月8日]] - [[ノラ=ジェーン・ヌーン]]、女優 * 3月8日 - [[サーシャ・ブヤチッチ]]、バスケットボール選手 * 3月8日 - [[山田恵里]]、[[ソフトボール]]選手 * [[3月9日]] - [[カメル・ギラス]]、サッカー選手 * 3月9日 - [[スヴェトラーナ・ニコラエワ]]、フィギュアスケート選手 * [[3月10日]] - [[ダヴィ・ジョゼ・シルバ・ド・ナシメント|ダヴィ]]、サッカー選手 * 3月10日 - [[オリヴィア・ワイルド]]、女優 * [[3月12日]] - [[ジェイミー・アレクサンダー]]、女優 * 3月12日 - [[ホセ・アレドンド]]、元メジャーリーガー * [[3月13日]] - [[デニス・スアレス]]、[[プロ野球選手]] * [[3月15日]] - [[イ・ユンジ]]、女優 * [[3月20日]] - [[フェルナンド・トーレス]]、サッカー選手 * 3月20日 - [[野村佑香]]、女優 * [[3月21日]] - [[ソポ・ゲロヴァニ]]、歌手 * 3月21日 - [[ワーナー・マドリガル]]、プロ野球選手 * [[3月22日]] - [[ピオトル・トロホウスキ]]、サッカー選手 * 3月22日 - [[ジョー・スミス (投手)|ジョー・スミス]]、メジャーリーガー <!-- 日本ローカル? * 3月24日 - [[石井亮輔]]、[[ソングライター]] --> * [[3月24日]] - [[神永東吾]]、ミュージカル俳優 * 3月24日 - [[パク・ボム]]、歌手 * 3月24日 - [[クリス・ボッシュ]]、バスケットボール選手 * 3月24日 - [[ホセ・ルイス (内野手)|ホセ・ルイス]]、プロ野球選手 * [[3月25日]] - [[キャサリン・マクフィー]]、歌手、女優、モデル * [[3月28日]] - [[クリストファー・サンバ]]、サッカー選手 * [[3月29日]] - [[フアン・モナコ]]、テニス選手 * 3月29日 - [[キラ・カアイフエ]]、プロ野球選手 * [[3月30日]] - [[マリオ・アンチッチ]]、テニス選手 * 3月30日 - [[サマンサ・ストーサー]]、テニス選手 * 3月30日 - [[ジム・ハウザー]]、プロ野球選手 * 3月30日 - [[スカイラー・ストロズモー]]、プロ野球選手 === 4月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[4月2日]] - [[ショーン・ロバーツ]]、俳優 * [[4月3日]] - [[マクシミリアーノ・ロペス]]、サッカー選手 * [[4月4日]] - [[ショーン・メイ]]、バスケットボール選手 * 4月4日 - [[トーマス・ルヴクヴィスト]]、自転車競技選手 * [[4月5日]] - [[ロドニー・カーニー]]、バスケットボール選手 * 4月5日 - [[マーシャル・オールマン]]、俳優 * [[4月6日]] - [[ミカエル・シアニ]]、サッカー選手 * [[4月7日]] - [[レナト・ヤンバエフ]]、サッカー選手 * [[4月8日]] - [[申芮智]]、フィギュアスケート選手 * [[4月9日]] - [[アダム・ローウェン]]、メジャーリーガー * [[4月10日]] - [[カルロス・アドリアーノ・デ・ジョス・ソアレス]](アレモン)、サッカー選手(+ [[2007年]]) * 4月10日 - [[マンディ・ムーア]]、歌手 * 4月10日 - [[ゴンサロ・ロドリゲス]]、サッカー選手 * [[4月11日]] - [[アンドレス・ブランコ]]、メジャーリーガー * 4月11日 - [[アレハンドロ・デアザ]]、メジャーリーガー * [[4月12日]] - [[レビ・ロメロ]]、[[プロ野球選手]] * [[4月13日]] - [[アンデルス・リンデゴーア]]、サッカー選手 * 4月13日 - [[水嶋ヒロ]]、俳優、小説家 * [[4月14日]] - [[日馬富士公平]]、大相撲第70代[[横綱]] * 4月14日 - [[クリス・ラルー]]、[[プロ野球選手]] * [[4月15日]] - [[陳玘]]、中国の卓球選手 * [[4月16日]] - [[ロマン・フェイユ]]、自転車競技選手 * 4月16日 - [[ケロン・スチュワート]]、陸上競技選手 * 4月16日 - [[ムラド・メグニ]]、サッカー選手 * [[4月17日]] - [[ラッファエレ・パッラディーノ]]、サッカー選手 * 4月17日 - [[ジェド・ラウリー]]、メジャーリーガー * [[4月18日]] - [[アメリカ・フェレーラ]]、女優 * 4月18日 - [[マルコス・マテオ]]、プロ野球選手 * [[4月19日]] - [[イ・ダヘ]]、女優 * 4月19日 - [[ジェニファー・ペリマン]]、タレント <!-- 日本ローカル? * 4月19日 - [[美紗央]]、女優 --> * [[4月20日]] - [[ネルソン・エボラ]]、陸上競技選手 * 4月20日 - [[タイソン・グリフィン]]、総合格闘家 * [[4月22日]] - アメリ・ベラバ、ミュージシャン、([[シュガーベイブス]]) * [[4月23日]] - [[アレクサンドラ・コステニューク]]、チェス棋士 * 4月23日 - [[渡辺明 (棋士)|渡辺明]]、将棋棋士 * [[4月27日]] - [[パトリック・スタンプ]]、ミュージシャン * [[4月28日]] - [[ロムロ・サンチェス]]、プロ野球選手 * 4月28日 - [[ドミトリ・トルビンスキ]]、サッカー選手 * 4月28日 - [[豊永利行]]、声優 * [[4月29日]] - [[リナ・クラスノルツカヤ]]、テニス選手 * 4月29日 - [[ワン・バオチャン]]、俳優 * [[4月30日]] - [[ショーン・デバリ]]、プロレスラー * [[4月30日]] - [[岡田直子]]、[[喜劇女優]] [[吉本新喜劇]] === 5月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[5月1日]] - [[ミショ・ブレチュコ]]、サッカー選手 * 5月1日 - [[小山慶一郎]]、歌手、俳優、タレント、[[NEWS (グループ)|NEWS]]のメンバー * [[5月2日]] - [[ターボ・セフォロシャ]]、バスケットボール選手 * [[5月3日]] - [[ナム・サンミ]]、女優 * [[5月4日]] - [[サラ・マイアー]]、フィギュアスケート選手 * [[5月6日]] - [[フアン・パブロ・カリーソ]]、サッカー選手 * [[5月7日]] - [[アレックス・スミス]]、アメリカンフットボール選手 * [[5月8日]] - [[デヴィッド・キング (フィギュアスケート選手)|デヴィッド・キング]]、フィギュアスケート選手 * [[5月9日]] - [[プリンス・フィルダー]]、[[メジャーリーガー]] * 5月9日 - [[チェイス・ヘッドリー]]、メジャーリーガー * [[5月10日]] - [[ブレント・ボメントレ]]、フィギュアスケート選手 * 5月10日 - [[丁楊]]、フィギュアスケート選手 * 5月10日 - [[エドワード・ムヒカ]]、メジャーリーガー * 5月10日 - [[キャム・ミコライオ]]、[[プロ野球選手]] * [[5月11日]] - [[アンドレス・イニエスタ]]、サッカー選手 * 5月11日 - [[クリスティアン・オボド]]、サッカー選手 * [[5月14日]] - [[ハッサン・イェブダ]]、サッカー選手 * 5月14日 - [[マーク・ザッカーバーグ]]、実業家 * 5月14日 - [[オリー・マーズ]]、シンガーソングライター * 5月14日 - [[ミヒャエル・レンジング]]、サッカー選手 * [[5月15日]] - [[ヨアン・デロ]]、フィギュアスケート選手 * [[5月16日]] - [[ブランドン・マン]]、[[プロ野球選手]] * 5月16日 - [[ダリオ・チヴィタニッチ]]、サッカー選手 * [[5月17日]] - [[アンドレアス・コフラー]]、スキージャンプ選手 * 5月17日 - [[イゴール・デニソフ]]、サッカー選手 * 5月17日 - [[パッセンジャー (歌手)|パッセンジャー]]、シンガーソングライター * 5月17日 - [[クリスティアン・ボラーニョス]]、サッカー選手 <!-- 日本ローカル? * 5月17日 - [[飯田洋輔]]、俳優 --> * [[5月18日]] - [[ニキ・テルプストラ]]、自転車競技選手 * 5月18日 - [[イベット・ラロワ]]、[[陸上選手]] * [[5月19日]] - [[ヘスス・ダトロ]]、サッカー選手 * [[5月20日]] - [[ディララ・カズモヴァ]]、歌手、女優 * 5月20日 - [[ナトゥーリ・ノートン]]、女優 * [[5月22日]] - [[カロリーネ・ヘルフルト]]、女優 * [[5月25日]] - [[マリオン・レイヴン]]、歌手 * [[5月28日]] - [[ミカ・トッド]]、元[[ミニモニ。]]メンバー *[[5月28日|5月28日 -]] 若槻千夏。タレント * [[5月29日]] - [[カーメロ・アンソニー]]、バスケットボール選手 * [[5月30日]] - [[サマンサ・ストーサー]]、テニス選手 * 5月30日 - [[フランク・ハーマン]]、プロ野球選手 * [[5月31日]] - [[ネイト・ロビンソン]]、バスケットボール選手 * 5月31日 - [[アンドリュー・ベイリー]]、メジャーリーガー * 5月31日 - [[ミロラド・チャビッチ]]、競泳選手 === 6月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[6月2日]] - [[ナイダン・ツブシンバヤル]]、柔道選手 * 6月2日 - [[タイラー・ファーラー]]、自転車競技選手 * [[6月4日]] - [[レイニー・ヤン]]、歌手、女優 * [[6月5日]] - [[ロビンソン・チリノス]]、メジャーリーガー * [[6月7日]] - [[アリ・コイヴネン]]、歌手 * 6月7日 - [[マルセル・シェーファー]]、サッカー選手 * [[6月8日]] - [[マキシミリアーノ・ペレイラ]]、サッカー選手 * 6月8日 - [[ハビエル・マスチェラーノ]]、サッカー選手 * [[6月9日]] - [[ユリエスキ・グリエル]]、[[野球選手]] * 6月9日 - [[ヴェスレイ・スナイデル]]、サッカー選手 * 6月9日 - [[クリスティーナ・バイアー]]、アイスダンス選手 * [[6月11日]] - [[ヴァグネル・ラヴ]]、サッカー選手 * [[6月12日]] - [[ロジャー・バーナディーナ]]、メジャーリーガー * 6月12日 - [[ブルーノ・ソリアーノ]]、サッカー選手 * [[6月14日]] - [[ヘスス・グスマン]]、[[プロ野球選手]] * [[6月15日]] - [[クリフ・ペニントン (野球)|クリフ・ペニントン]]、メジャーリーガー * 6月15日 - [[ティム・リンスカム]]、メジャーリーガー * [[6月18日]] - [[ケイティー・オーシャー]]、フィギュアスケート選手 * 6月18日 - [[フェルナンド・ロドリゲス]]、メジャーリーガー * [[6月19日]] - [[ユリア・オベルタス]]、フィギュアスケート選手 * [[6月22日]] - [[ヤンコ・ティプサレビッチ]]、テニス選手 * 6月22日 - [[シーザー・ラモス]]、メジャーリーガー * [[6月23日]] - [[ダフィー (歌手)|ダフィー]]、歌手 * [[6月24日]] - [[J.J.レディック]]、バスケットボール選手 * [[6月25日]] - [[ローレン・ブッシュ]]、[[モデル (職業)|モデル]] * [[6月26日]] - [[デロン・ウィリアムス]]、バスケットボール選手 * 6月26日 - [[ユリヤ・テプリヒ]]、フィギュアスケート選手 * 6月26日 - [[ホセ・バレア]]、バスケットボール選手 * 6月26日 - [[レイモンド・フェルトン]]、バスケットボール選手 * [[6月30日]] - [[エカテリーナ・コステンコ]]、フィギュアスケート選手 === 7月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[7月1日]] - [[ドナルド・トーマス]]、走高跳選手 * [[7月2日]] - [[ジョニー・ウィアー]]、フィギュアスケート選手 * 7月2日 - [[ウラディミール・バレンティン]]、プロ野球選手 * 7月2日 - [[ヴィニシウス・マガリャエス (1984年生)|ヴィニシウス・マガリャエス]]、総合格闘家 * 7月2日 - [[マールテン・マルテンス]]、サッカー選手 * [[7月3日]] - [[ニコラス・ロッシュ]]、自転車競技選手 * [[7月4日]] - [[赤西仁]]、歌手、タレント、俳優 * 7月4日 - [[イ・ジェフン]]、俳優 * 7月4日 - [[カズレーザー]]、お笑いタレント([[メイプル超合金]]) * 7月4日- [[夢咲ねね]]、女優 * [[7月5日]] - [[ダナイ・ガルシア]]、女優 * 7月5日 - [[山田優 (モデル)|山田優]]、モデル、女優 * [[7月6日]] - [[張昊]]、フィギュアスケート選手 * [[7月7日]] - [[坂口智隆]]、プロ野球選手 * 7月7日 - [[アルベルト・アクィラーニ]]、サッカー選手 * 7月7日 - [[アルフレッド・フィガロ]]、プロ野球選手 * [[7月8日]] - [[ダニエラ・サラヒバ]]、モデル * [[7月9日]] - [[フアン・カルロス・リナレス (1984年生の外野手)|フアン・カルロス・リナレス]]、野球選手 * 7月9日 - [[オルソジ・ファスバ]]、短距離走選手 * 7月9日 - [[ハンナ・ホール]]、女優 * [[7月10日]] - [[オスカル・エスカンドン]]、ボクサー * 7月10日 - [[マルク・ゴンサレス]]、サッカー選手 * 7月10日 - [[田中圭]]、俳優 * [[7月11日]] - [[ベン・スピーズ]]、オートバイレーサー * 7月11日 - [[セリンダ・スワン]]、女優 * 7月11日 - [[レイチェル・テイラー]]、女優 * 7月11日 - [[タニス・ベルビン]]、フィギュアスケート選手 * [[7月12日]] - [[マイケル・マクガヴァン]]、サッカー選手 * 7月12日 - [[南條愛乃]]、声優、歌手、[[μ's]] * [[7月14日]] - [[サミール・ハンダノヴィッチ]]、サッカー選手 * 7月14日 - [[ムニル・エル・ハムダウィ]]、サッカー選手 * 7月14日 - [[レナルド・バークマン]]、バスケットボール選手 * 7月14日 - [[ニウマール・オノラート・ダ・シウバ|ニウマール]]、サッカー選手 * [[7月15日]] - [[エドガル・バレット]]、サッカー選手 * [[7月16日]] - [[ソロモン・ジョーンズ]]、バスケットボール選手 * [[7月19日]] - [[ラッセ・イェルツェン]]、ヴィデオ作成者 * 7月19日 - [[ディアナ・モカヌ]]、競泳選手 * 7月19日 - [[アダム・モリソン]]、バスケットボール選手 * [[7月21日]] - [[セルゲイ・ベルビーロ]]、フィギュアスケート選手 * [[7月22日]] - [[スチュワート・ダウニング]]、サッカー選手 * 7月22日 - [[フリスティナ・ヴァシレヴァ]]、フィギュアスケート選手 * [[7月23日]] - [[ブランドン・ロイ]]、バスケットボール選手 * [[7月24日]] - [[ダニエル・ヴェンデ]]、フィギュアスケート選手 * [[7月25日]] - {{仮リンク|レディー ジェーン|ko|레이디 제인 (가수)|en|Lady Jane (singer)}}(本名 全智慧)、歌手 * [[7月26日]] - [[ブランドン・モロー]]、メジャーリーガー * 7月26日 - [[キリアコス・イオアヌ]]、[[陸上選手]] * 7月26日 - [[ケビン・ジェプセン]]、メジャーリーガー * 7月26日 - [[丘みどり]]、[[演歌歌手]] * [[7月27日]] - [[マリアーノ・バルボサ]]、サッカー選手 * 7月27日 - [[ワルテル・ガルガノ]]、サッカー選手 * 7月27日 - [[マックス・シャーザー]]、メジャーリーガー * [[7月28日]] - [[アレクサンドル・グラチェフ]]、フィギュアスケート選手 * [[7月29日]] - [[アンナ・ベッソノバ]]、新体操選手 * 7月29日 - [[チャド・ビリングズリー]]、メジャーリーガー * 7月29日 - [[ウィルソン・パラシオス]]、サッカー選手 * 7月30日 - [[木村良平]]、声優 * 7月30日 - [[小川美佳]]、ものまねタレント === 8月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> <!-- 日本ローカル? * [[8月1日]] - [[坂本雅幸]]、[[太鼓]]奏者 --> * [[8月1日]] - [[バスティアン・シュヴァインシュタイガー]]、サッカー選手 * 8月1日 - {{仮リンク|柳智媛|ko|유지원 (아나운서)}}、アナウンサー * [[8月2日]] - [[ジャンパオロ・パッツィーニ]]、サッカー選手 * [[8月3日]] - [[ジョナサン・シガー]]、モデル、タレント * 8月3日 - [[マット・ジョイス]]、メジャーリーガー * 8月3日 - [[ライアン・ロクテ]]、競泳選手 * [[8月7日]] - [[ウェイド・ルブラン]]、メジャーリーガー * [[8月8日]] - [[橋本マナミ]]、女優・タレント * [[8月9日]] - [[古川高晴]]、[[アーチェリー]]選手 * [[8月10日]] - [[速水もこみち]]、俳優 <!-- 日本ローカル? * 8月10日 - [[ヤハラリカ]]、モデル・女優・タレント・MC --> * [[8月11日]] - [[ルーカス・ディ・グラッシ]]、F1ドライバー * 8月11日 - [[メルキー・カブレラ]]、メジャーリーガー * 8月11日 - [[アダム・ブライト]]、[[プロ野球選手]] * [[8月12日]] - [[シェローン・シンプソン]]、陸上競技選手 * [[8月13日]] - [[ニコ・クラニチャール]]、サッカー選手 * 8月13日 - [[アリョーナ・ボンダレンコ]]、テニス選手 * 8月13日 - [[ブーン・ローガン]]、メジャーリーガー * [[8月14日]] - [[ジョルジョ・キエッリーニ]]、サッカー選手 * 8月14日 - [[ロビン・セーデリング]]、テニス選手 * [[8月15日]] - [[ジェニファー・カーク]]、フィギュアスケート選手 * [[8月17日]] - [[オクサナ・ドムニナ]]、フィギュアスケート選手 * [[8月18日]] - [[ロベルト・フート]]、サッカー選手 * [[8月19日]] - [[アレッサンドロ・マトリ]]、サッカー選手 * [[8月20日]] - [[森山未來]]、俳優、ダンサー * [[8月21日]] - [[アリゼ]]、歌手 * 8月21日 - [[B.J.アップトン]]、メジャーリーガー * 8月21日 - [[ダスティン・モルケン]]、プロ野球選手 * [[8月22日]] - [[リー・キャンプ]]、サッカー選手 * [[8月23日]] - [[グレン・ジョンソン]]、サッカー選手 * 8月23日 - [[リディア・チェプクルイ]]、陸上競技選手 * [[8月24日]] - [[チャーリー・ビラヌエバ]]、バスケットボール選手 * [[8月25日]] - [[ICONIQ]]、歌手 * [[8月26日]] - [[カイル・ケンドリック]]、メジャーリーガー * [[8月27日]] - [[杉本美香]]、柔道家・日本代表 * [[8月27日]] - [[デヴィッド・ベントリー]]、サッカー選手 * 8月27日 - [[サリー・ムンタリ]]、サッカー選手 * [[8月28日]] - [[アーラ・ベクナザロワ]]、フィギュアスケート選手 * 8月28日 - [[サラ・ローマー]]、女優・モデル * [[8月30日]] - [[劉艶]]、フィギュアスケート選手 * [[8月31日]] - [[マイケル・コレノ]]、フィギュアスケート選手 * 8月31日 - [[シャール・シュワーツェル]]、プロゴルファー === 9月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[9月1日]] - [[平岡祐太]]、俳優 * [[9月2日]] - [[唐禹哲]]、俳優 * [[9月3日]] - [[ギャレット・ヘドランド]]、俳優 * [[9月5日]] -[[上條倫子]]、[[日本放送協会|NHK]][[アナウンサー]] * 9月5日- [[クリス・アンカー・セレンセン]]、自転車競技選手 * [[9月6日]] - [[クリスティアン・ラウフバウアー]]、フィギュアスケート選手 * 9月6日 - [[トーマス・デッケル]]、自転車競技選手 * [[9月7日]] - [[ベラ・ズボナレワ]]、テニス選手 * 9月7日 - [[マウロ・ゴメス]]、[[プロ野球選手]] * [[9月8日]] - [[ヴィタリー・ペトロフ]]、F1ドライバー * [[9月9日]] - [[ブラッド・グザン]]、サッカー選手 * 9月9日 - [[ブレット・ピル]]、[[プロ野球選手]] * [[9月10日]] - [[ルーク・トレッダウェイ]]、俳優 * 9月10日 - [[アンドリュー・ブラウン]]、プロ野球選手 * [[9月11日]] - [[安田章大]]、タレント、歌手、俳優、[[関ジャニ∞]] * 9月11日 - [[クリスチーナ・オブラソワ]]、フィギュアスケート選手 * [[9月12日]] - [[ジョン・ヘイマー]]、フィギュアスケート選手 * [[9月13日]] - [[パーカー・ペニングトン]]、フィギュアスケート選手 * [[9月15日]] - [[ヘンリー (サセックス公)|サセックス公ヘンリー]]、[[イギリス]]国王[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]]次男 * 9月15日 - [[ルーク・ファンミル]]、マイナーリーガー(+ [[2019年]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/201907290000911.html|title=元楽天の長身右腕ファンミル投手が事故死 34歳|publisher=日刊スポーツ|date=2019-07-28|accessdate=2020-11-13}}</ref>) * [[9月16日]] - [[サブリナ・ブライアン]]、女優、声優 * 9月16日 - [[ケイティ・メルア]]、シンガーソングライター * [[9月17日]] - [[ミッシェル・ファブリツィオ]]、オートバイレーサー * [[9月18日]] - [[トラビス・アウトロー]]、バスケットボール選手 * 9月18日 - [[ディジー・ラスカル]]、ラッパー * [[9月19日]] - [[ケヴィン・ゼガーズ]]、俳優 * 9月19日 - [[ダニー・バレンシア]]、メジャーリーガー * [[9月20日]] - [[ブライアン・ジュベール]]、フィギュアスケート選手 <!-- 日本ローカル? * 9月20日 - [[高木里代子]]、ジャズ・ピアニスト --> * [[9月21日]] - [[ワーレイ]]、ラッパー * 9月21日 - [[カルロス・ロサ]]、プロ野球選手 * [[9月22日]] - [[チアゴ・エミリアーノ・ダ・シウバ|チアゴ・シウヴァ]]、サッカー選手 * 9月22日 - [[テレサ・フー]]、歌手、女優 * [[9月23日]] - [[マット・ケンプ]]、メジャーリーガー * [[9月24日]] - [[アンナ・ザドロズニュク]]、フィギュアスケート選手 * [[9月25日]] - [[テオドラ・ポシュティッチ]]、フィギュアスケート選手 * 9月25日 - [[ラシャード・マキャンツ]]、バスケットボール選手 * 9月25日 - [[マイケル・クロッタ]]、プロ野球選手 * 9月25日 - [[ビクター・ガラテ]]、プロ野球選手 * [[9月26日]] - [[ウィルフィン・オビスポ]]、プロ野球選手 * [[9月27日]] - [[アヴリル・ラヴィーン]]、歌手 * 9月27日 - [[ワウテル・ウェイラント]]、自転車競技選手(+ [[2011年]]) * 9月27日 - [[ジョン・ラナン]]、メジャーリーガー * [[9月28日]] - [[ライアン・ジマーマン]]、メジャーリーガー * [[9月29日]] - [[ペア・メルテザッカー]]、サッカー選手 === 10月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[10月1日]] - [[マット・ケイン]]、[[メジャーリーガー]] * 10月1日 - [[アビゲイル・ピーターセン]]、フィギュアスケート選手 * 10月1日 - [[クリス・ジョンソン (内野手)|クリス・ジョンソン]]、メジャーリーガー * [[10月2日]] - [[マリオン・バルトリ]]、テニス選手 * 10月2日 - [[リッカルド・ベルタニョン]]、[[プロ野球選手]] * [[10月3日]] - [[アシュリー・シンプソン]]、歌手・女優 * 10月3日 - [[ユン・ウネ]]、女優 * [[10月4日]] - [[リェーナ・カーチナ]]、歌手([[t.A.T.u.]]) * 10月4日 - [[ドリュー・スタッブス]]、メジャーリーガー * 10月4日 - [[アントニー・ル・タレク]]、サッカー選手 * [[10月6日]] - [[ジェニファー・ドン]]、フィギュアスケート選手 * 10月6日 - [[バレリー・ビリ]]、陸上競技選手 * 10月6日 - [[アレクサンダー・ガージ]]、フィギュアスケート選手 * [[10月7日]] - [[生田斗真]]、俳優、タレント * [[10月10日]] - [[トロイ・トゥロウィツキー]]、メジャーリーガー * [[10月11日]] - [[アレクサンドル・スミルノフ]]、フィギュアスケート選手 * 10月11日 - [[マックス・ラミレス]]、メジャーリーガー * [[10月12日]] - [[ジェイミー・ヴァーナー]]、元総合格闘家 * [[10月13日]] - [[ヘイデン・ペン]]、プロ野球選手 * [[10月14日]] - [[全炳斗]]、韓国の野球選手 * 10月14日 - [[クラウディア・ラウシェンバッハ]]、フィギュアスケート選手 * 10月14日 - [[クリス・ジョンソン (投手)|クリス・ジョンソン]]、プロ野球選手 * [[10月16日]] - [[シェイン・ワード]]、歌手 * [[10月17日]] - [[臼田あさ美]]、モデル、女優 * [[10月18日]] - [[フリーダ・ピントー]]、女優 * 10月18日 - [[中司ゆう花]]、声優 * 10月18日 - [[リンゼイ・ボン]]、スキー選手 * [[10月19日]] - [[ジョシュ・トムリン]]、メジャーリーガー * 10月19日 - [[藤田咲]]、声優 * 10月19日 - ビートりょう ([[THE BOHEMIANS]])、ミュージシャン * [[10月20日]] - [[フロラン・シナマ=ポンゴル]]、サッカー選手 * [[10月22日]] - [[関根麻里]]、女優・タレント * 10月22日 - [[佐藤俊作]]、俳優 * [[10月23日]] - [[イザベル・グラール]]、ファッションモデル * [[10月24日]] - [[木村カエラ]]、歌手、ファッションモデル * [[10月25日]] - [[ケイティ・ペリー]]、シンガーソングライター * [[10月26日]] - [[サーシャ・コーエン]]、フィギュアスケート選手 * 10月26日 - [[アドリアーノ・コレイア]]、サッカー選手 * 10月26日 - [[ジェフェルソン・ファルファン]]、サッカー選手 * [[10月27日]] - [[ブレイディ・クイン]]、NFL選手 * [[10月28日]] - [[オバフェミ・マルティンス]]、サッカー選手 * [[10月29日]] - [[ホセ・ミハレス]]、メジャーリーガー * [[10月30日]] - [[シェーン・ロビンソン]]、メジャーリーガー * [[10月31日]] - [[赤羽根健治]]、声優 === 11月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[11月1日]] - [[ミロシュ・クラシッチ]]、サッカー選手 * 11月1日 - [[スティーブン・ボート]]、メジャーリーガー * [[11月2日]] - [[ジュリア・ステグナー]]、ファッションモデル * [[11月3日]] - [[錦戸亮]]、俳優、タレント、歌手、[[関ジャニ∞]] * 11月3日 - [[福井未菜]]、女優 * 11月3日 - [[ブランドン・ディクソン]]、[[プロ野球選手]] * [[11月4日]] - [[アイラ・ユスフ]]、サッカー選手 * [[11月5日]] - [[把瑠都凱斗]]、元大相撲力士 * [[11月6日]] - [[リッキー・ロメロ]]、[[メジャーリーガー]] * 11月6日 - [[ロビー・ウィドランスキー]]、[[野球選手]] * [[11月7日]] - [[アメリア・ベガ]]、ミス・ユニバース * [[11月9日]] - [[ジョエル・ズマヤ]]、メジャーリーガー * 11月9日 - [[SE7EN]]、歌手 * 11月9日 - [[デルタ・グッドレム]]、歌手 * 11月9日 - [[ク・ヘソン]]、女優 * 11月10日 - [[小林直己]]、[[三代目J Soul Brothers]]、[[EXILE]]のメンバー * [[11月10日]] - [[ケンドリック・パーキンス]]、バスケットボール選手 * [[11月11日]] - [[ヒルトン・アームストロング]]、バスケットボール選手 * [[11月12日]] - [[ベンジャミン・オコルスキー]]、フィギュアスケート選手 * 11月12日 - [[ヤン・ツィ]]、テニス選手 * 11月12日 - [[パク・サンダラ]]、歌手([[2NE1]]) * 11月12日 - [[シーザー・ヒメネス]]、イタリアンベースボールリーガー * [[11月14日]] - [[マリヤ・シェリフォヴィッチ]]、歌手 * 11月14日 - [[ヴィンチェンツォ・ニバリ]]、自転車競技選手 * 11月14日 - [[フェリックス・ペレス (野球)|フェリックス・ペレス]]、プロ野球選手 * [[11月17日]] - [[佐藤めぐみ]]、女優 * 11月17日 - [[葉山いくみ]]、声優 * [[11月18日]] - [[千葉涼平]]、アーティスト w-inds. * [[11月19日]] - [[ホルヘ・フシーレ]]、サッカー選手 * [[11月20日]] - [[レイトン・ベインズ]]、サッカー選手 * [[11月21日]] - [[アルバロ・バウティスタ]]、オートバイレーサー * 11月21日 - [[ジェナ・マローン]]、女優 * 11月21日 - [[ジョシュ・ブーン]]、バスケットボール選手 * [[11月22日]] - [[スカーレット・ヨハンソン]]、女優 * 11月22日 - [[アントン・トカレフ]]、フィギュアスケート選手 * 11月22日 - [[ヨニ・ラソ]]、元マイナーリーガー * [[11月23日]] - [[ルーカス・グラビール]]、俳優・歌手 * 11月23日 - [[ロバート・コエロ]]、メジャーリーガー * 11月23日 - [[キャスパー・ウェルズ]]、メジャーリーガー * [[11月24日]] - [[ジョエル・グスマン]]、プロ野球選手 * 11月24日 - [[カギソ・ディクガコイ]]、サッカー選手 * [[11月25日]] - [[ギャスパー・ウリエル]]、俳優 * [[11月26日]] - [[アントニオ・プエルタ]]、サッカー選手(+ [[2007年]]) * [[11月28日]] - [[アンドリュー・ボーガット]]、バスケットボール選手 * 11月28日 - [[エリザベス・パットナム]]、フィギュアスケート選手 * 11月28日 - [[マーク=アンドレ・フルーリー]]、アイスホッケー選手 * 11月28日 - [[メアリー・エリザベス・ウィンステッド]]、女優 * 11月28日 - [[トレイ・ソングス]]、シンガーソングライター * [[11月29日]] - [[ラスムス・リンドグレン]]、サッカー選手 * 11月29日 - [[カトレゴ・ムフェラ]]、サッカー選手 * [[11月30日]] - [[アラン・ハットン]]、サッカー選手 * 11月30日 - [[ナイジェル・デ・ヨング]]、サッカー選手 * 11月30日 - [[オリガ・リパコワ]]、陸上競技選手<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%AC%20%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%91%E3%82%B3%E3%83%AF-1783104|title=オリガ ルイパコワとは|work=[[コトバンク]]|accessdate=2021-07-25}}</ref> === 12月 === <!-- 世界的に著名な人物を除き、主に日本国内のみで知られる日本人は「1984年の日本」項内に記入 --> * [[12月3日]] - [[エレーナ・ロマノフスカヤ]]、フィギュアスケート選手 * 12月3日 - [[ファン・パブロ・フランシア]]、サッカー選手 * [[12月5日]] - [[ロコ・ウキッチ]]、バスケットボール選手 * 12月5日 - [[ジョシュ・ルーキー]]、[[プロ野球選手]] * 12月5日 - [[アブデル・カデル・ゲザル]]、サッカー選手 * [[12月7日]] - [[ロバート・クビサ]]、F1ドライバー * 12月7日 - [[リュドミラ・ネリディナ]]、フィギュアスケート選手 * 12月7日 - [[カレン・コン]]、[[マレーシア]]の歌手 * [[12月8日]] - [[バダ・ハリ]]、キックボクサー * 12月8日 - [[エマ・グリアン]]、陸上競技選手 * 12月8日 - [[TAKAHIRO (歌手)|TAKAHIRO]]、歌手、俳優、[[EXILE]] * 12月8日 - [[ニッキー・ミナージュ]]、歌手 * [[12月11日]] - [[レイトン・ベインズ]]、サッカー選手 * 12月11日 - [[加藤順大]]、[[サッカー選手]] * [[12月12日]] - [[ダニエル・アッゲル]]、サッカー選手 * 12月12日 - [[マテュー・ラダニュー]]、自転車競技選手 * [[12月13日]] - [[サンティ・カソルラ]]、サッカー選手 * [[12月15日]] - [[コール・ガーナー]]、[[野球選手]] * 12月15日 - [[マルティン・シュクルテル]]、サッカー選手 * [[12月16日]] - [[ユリア・シャピロ]]、フィギュアスケート選手 * 12月16日 - [[マリオ・サンティアゴ]]、[[プロ野球選手]] * [[12月17日]] - [[福田明日香]]、歌手 * [[12月18日]] - [[ジュリアーノ・ラッツォーリ]]、アルペンスキー選手 * [[12月19日]] - [[イアン・ケネディ]]、[[メジャーリーガー]] * [[12月20日]] - [[アンドレイ・マキシミーシン]]、フィギュアスケート選手 * [[12月21日]] - [[ヴォーン・チピアー]]、フィギュアスケート選手 * 12月21日 - [[ジャクソン・ラスボーン]]、俳優 * 12月21日 - [[深谷博輝]]、[[L’ALGORITHME]](アルゴリズム)シェフ * [[12月22日]] - [[ベースハンター]]、ミュージシャン * [[12月23日]] - [[ジョシュ・サティン]]、[[メジャーリーガー]] * [[12月24日]] - [[ウォーレス・スピアモン]]、陸上競技選手 * [[12月25日]] - [[ナタリア・ギマランエス]]、モデル * [[12月26日]] - [[ベリー・ファンドリエル]]、[[野球選手]] * [[12月28日]] - [[增菘瑋]]、野球選手 * 12月28日 - [[マルティン・カイマー]]、プロゴルファー * 12月28日 - [[キンバリー・ミックル]]、陸上競技選手 * [[12月30日]] - [[レブロン・ジェームズ]]、バスケットボール選手 * 12月30日 - [[セルヒオ・ガデア]]、オートバイレーサー == 死去 == {{See|訃報 1984年}} == ノーベル賞 == * [[ノーベル物理学賞|物理学賞]] - [[カルロ・ルビア]]([[イタリア]])、[[シモン・ファンデルメール]]([[オランダ]]) * [[ノーベル化学賞|化学賞]] - [[ロバート・メリフィールド]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]) * [[ノーベル生理学・医学賞|生理学・医学賞]] - [[ニールス・イェルネ]]([[デンマーク]])、[[ジョルジュ・J・F・ケーラー]]([[ドイツ]])、[[セーサル・ミルスタイン]]([[アルゼンチン]]、[[イギリス]]) * [[ノーベル文学賞|文学賞]] - [[ヤロスラフ・サイフェルト]]([[チェコスロバキア]]) * [[ノーベル平和賞|平和賞]] - [[デズモンド・ムピロ・ツツ]]([[南アフリカ]]) * [[ノーベル経済学賞|経済学賞]] - [[リチャード・ストーン]](イギリス) == フィクションのできごと == * [[2月26日]] - [[ビッグ・ボス|ヴェノム・スネーク]]が搬送された[[キプロス]]の病院で9年間の眠りから覚醒する。同年[[3月11日]]、XOFの部隊がビッグ・ボス殺害の為に病院を襲撃するが、顔を包帯で巻いた謎の男[[ビッグ・ボス|イシュメール]]の協力や、突如現れた燃える男の出現により、スネークは病院から脱出することに成功する。(ゲーム『[[メタルギアソリッドV|METAL GEAR SOLID V: THE PHANTOM PAIN]]』) * [[4月23日]] - 朝、巨大な[[ドラゴン|飛翼竜]]が[[マンハッタン|マンハッタン島]]上空に出現し、火炎吐射によって[[自由の女神像 (ニューヨーク)|自由の女神像]]を破壊。これに対し、ニュージャージー[[空軍州兵|州空軍]]{{仮リンク|第141空中給油飛行隊|label = 第141戦術戦闘中隊|en|141st Air Refueling Squadron}}の[[F-105 (戦闘機)|F-105]]が{{仮リンク|マグワイア空軍基地|label = マクガイヤ基地|en|McGuire Air Force Base}}から緊急出撃する。(ボードゲーム『{{仮リンク|空戦マッハの戦い|en|Air War (game)}}』)<ref>{{Cite book |和書 |author1=David C. Isby|authorlink1=デービッド・C・イスビー|author2=Greg Costikyanほか|authorlink2=グレッグ・コスティキャン|title = AIR WAR 空戦マッハの戦い シナリオブック |publisher = [[ホビージャパン|Hobby Japan]] |year = 1983 |pages = 19,20}}</ref> * [[ジョージ・オーウェル]]のディストピア小説『''[[1984年 (小説)|1984年]]''』は、題名通り1984年のロンドンが舞台である。 * 2029年の未来世界から1984年5月12日の夜のロサンゼルスに殺人機械であるターミネーターの[[T-800]]と人類抵抗軍兵士のカイル・リースがタイムトラベルされ、未来の人類抵抗軍を率いるジョン・コナーの母親となる運命にあるサラ・コナーをめぐる戦いが起こり、カイルが死亡するもサラはT-800を破壊して生き残る。そして半年後の11月10日にカイルの間の子であるジョンを妊娠したサラは車での旅の途中、生まれ来るジョンへ向けたメッセージを録音し、立ち寄ったガソリンスタンドにてポラロイドカメラで写真を撮られるが、その写真は未来で転送される前にカイルがジョンから貰うも戦闘の中で燃えて灰になった写真そのものであった。(映画『[[ターミネーター (映画)|ターミネーター]]』) * 2029年のロサンゼルスにある機械軍の施設内のタイムマシンより、ターミネーターのT-800がサラ・コナーを抹殺するため1984年の5月12日の夜のロサンゼルスにタイムトラベルされ、これを知った人類抵抗軍の指導者ジョン・コナーによりサラ抹殺を阻止すべく抵抗軍からもタイムトラベルを行うこととなり、何人もの兵士が志願するがカイル・リースが選ばれてタイムトラベルされた。その後、サラへの刺客のT-800はサラ本人と彼女を戦士に育てていた別のT-800(守護者)によって機能を停止し、カイルは警官に成りすました新型ターミネーターの[[T-1000]]に襲われるが、本物の警官であるオブライエン共々サラや守護者に救われ、戦闘の末にT-1000は強酸のトラップによって倒される。そしてサラは1997年に起こる、自我に目覚めた戦略防衛コンピュータシステム「[[スカイネット]]」による全世界への核攻撃「審判の日」を止めるべく、守護者と協力して作り上げたタイムマシンを使って1997年へとタイムトラベルしようとするが、カイルが最初にタイムトラベルした時に見た「審判の日は2017年」という謎の情報を話したことで、守護者はこれを「別の時間軸の記憶」と判断し、これを受けてカイルはサラを説得してタイムトラベルの行き先を2017年へ変更する。そして、T-1000との戦闘で生体組織を損傷してタイムトラベル出来なくなっていた守護者と未来で合流する予定を立てて、カイルとサラは2017年へタイムトラベルした。(映画『[[ターミネーター:新起動/ジェニシス]]』) * 「科学アカデミア」の学生である大原丈(後のライブマンメンバー・イエローライオン)と尾村豪(後の武装頭脳軍ボルト幹部・ドクターオブラー)、アカデミアで記念写真を撮る。(特撮テレビ番組『[[超獣戦隊ライブマン]]』第41話「透明人間、豪」) * 感情依存生物メイラス、ジョージ・ハッチンソン卿を操り復活を目論む。(テレビドラマ『[[ドクター・フー]]』) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{Notelist2}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} <!-- == 参考文献 == --> == 関連項目 == {{Commonscat|1984}} * [[年の一覧]] * [[年表]] * [[年表一覧]] {{十年紀と各年|世紀=20|年代=1900}} {{Navboxes | title = 1984年の各国([[各年の国の一覧|一覧]]) | list1 = {{各年のアメリカ|1984|unit=1||List=1}} {{各年のヨーロッパ|1984|unit=1||List=1}} {{各年のアフリカ|1984|unit=1||List=1}} {{各年のアジア|1984|unit=1||List=1}} {{各年のオセアニア|1984|unit=1||List=1}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:1984ねん}} [[Category:1984年|*]]
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超電子バイオマン
『超電子バイオマン』(ちょうでんしバイオマン)は、1984年2月4日から1985年1月26日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全51話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。 本作品では視聴者層の拡大を図り、様々な新機軸が導入された。 マンネリ打破を掲げた本作品では、「戦隊」という語句が含まれない冠名の使用や、戦隊シリーズで多数見られる「戦隊名の一部+色」に代わり「色+ナンバー(例:レッドワン)」を各戦士の呼び名とするなどといった様々な試みがなされており、スーパー戦隊シリーズ自体の転機(ターニングポイント)となった作品でもあった。 その一環として、企画当初は「男性5人のみの戦隊」という案も出ていたが、5人全員を男性にしてしまうとドラマの展開が難しくなることから見送られ、自然なキャラクター造形のため、代わって東映プロデューサーの鈴木武幸による「女性戦士が2人」という要素が導入された。この要素には、女性1人ではメンバーの飾り物になりがちなところを、2人だと女の子同士の会話というドラマ造りができるなどの利点があった。一般的には男児向け作品での女性戦士はあまり受けが良くないものであり、スタッフからは反対意見も出たが、実施してみると好評だったため、翌年には一転して「女性5人でもいいのでは」という意見まで出たという。 さらに本作品では等身大の怪人が一話限りで退場せず幹部と同じくレギュラーとして登場し、その帰結として毎回の巨大戦では敵方の異なる巨大ロボットが登場するという初の試みもなされている。敵組織が巨大ロボットを繰り出す展開は過去のシリーズ作品でも幾度か試みられていたが、等身大の怪人をレギュラー化させたり、等身大の怪人と巨大ロボットとは形態上での関連性を一切持たせないなど、本作品では先行するそれらの作品ともオリジナリティーの面で大きな差別化が図られた。従来の巨大戦はセットでの撮影のみであったが、本作品では屋外での撮影も多用され、クレーンによる吊りなどアクション自体も特徴的なものとなった。 企画当初は物語と設定におとぎ話の要素を盛り込んでおり、過去にバイオロボと邂逅しバイオ粒子を浴びたおとぎ話の主人公たち(桃太郎、金太郎、一寸法師、かぐや姫)が現代へとタイムリープしてきて現代人の女性とともに戦うという構想が考えられていた。この設定は早い時期に「子供が皆おとぎ話を知っているかどうかが疑問」ということで没となったが、郷の動物との意思疎通能力や、メンバーのキャラクター設定などにその名残が見られる。昔話の要素を切り捨ててからの企画はハイテク寄りになり、当時世に出始めた生命工学を表す専門用語「バイオテクノロジー」を題名に取り入れ、なおかつ「超電子」を冠するということでマスクには点滅する発光ダイオードが施された。このバイオテクノロジーという単語から想起される「生体改造」というイメージから、サイボーグ的なヒーローを登場させる案もあったが、こうした「負の要素」を背負ったヒーローは、スーパー戦隊シリーズが掲げる「明るさ」「にぎやかさ」といった統一コンセプトからかけ離れてしまうことからこちらも没とされた。その後も5人全員が異星人という案や、500年前に理想郷を求めて旅をしていた5人がバイオ粒子を浴び、その子孫が戦うといった感じで設定が二転三転。5人の名前も数回にわたって変更されている。 この当時、勧善懲悪の1話完結というスタイルでは、1年という長期間に亘って視聴者の関心を引き付け続けるのは難しいという東映側の判断や、鈴木がかつて関わっていた長浜ロマンロボシリーズの影響もあり、本作品では従来の1話完結という基本を踏まえながらも、敵首領・ドクターマンこと蔭山秀夫とその息子である秀一、そして秀一に似せて作られたアンドロイドのプリンスをめぐる親子の愛憎劇、さらにリーダーである郷史朗と肉親との再会劇といったドラマが用意されるなど、年間を通して大河ドラマとしても楽しめる連続性をもたせた構成が取られている。他には、前出の長浜ロマンロボシリーズのひとつである『闘将ダイモス』を意識する形で恋愛ドラマの要素を盛り込むことも検討されていたが、アニメとは異なり生身の人間が演じる実写作品では生々しい映像になり過ぎ、保護者層からの反感を買う恐れもあったことから時期尚早ということで見送られ、結果としてこの要素は『鳥人戦隊ジェットマン』まで持ち越されることとなった。 技術的な面でも、ヒーローのスーツの素材が本作品より変更されており、それまで多用されてきた綿とナイロンによるものから、新たに伸縮性・耐熱性に優れた「オペコット」と呼ばれる合成繊維による生地が使用されるようになった。また既にメタルヒーローシリーズでは『宇宙刑事ギャバン』から使われていた「東通ecgシステム」が、本作品よりスーパー戦隊シリーズにも本格的に導入され、以降『超力戦隊オーレンジャー』まで使用されることとなった。 また本作品から、主に敵の初登場時に名前のテロップが下に挿入されるようになった。 スーパー戦隊シリーズのDX超合金を手がけたポピーが、前作『科学戦隊ダイナマン』放映中にバンダイへ吸収合併されたため、本作品では当初より超合金(DX 電子合体バイオロボ)などの関連玩具商品もバンダイブランドで発売された。詳細はポピーからバンダイへの移行も参照。 また超合金だけでなくプラモデルも、バンダイホビー事業部(現在のBANDAI SPIRITS)よりいろプラ黎明期に、いろプラとして、ベストメカコレクションサイズでバイオロボが発売され、同事業部最後のスーパー戦隊ロボのスケールモデル商品となった。一応の合体変形を有していたが、いろプラ黎明期の簡易な製品化のため主にバイオジェット2号(下半身部)は脚部などの変形がオミットされている。他方でカプセルトイ(ガシャポン)、食玩の平行販売で発売されたプラ組立てキット(後のミニプラ)は簡易ながらも、劇中設定を踏襲した変形合体を実現していた。こちらはスーパー戦隊シリーズ#食玩ならびにミニプラ#1984年を参照。 かつて高度な文明によって栄えたバイオ星は、その超科学によって生み出された物質活性化を促進させるバイオ粒子をめぐって引き起こったバイオ平和連合と反バイオ同盟の戦争により滅んでしまう。バイオ粒子の平和利用を目指していたバイオ平和連合の科学者たちは滅亡は避けられないと悟り、宇宙一美しい地球では将来自分たちのような科学をめぐっての悲劇を繰り返させてはならないと、1484年に自我とバイオ粒子を持つ巨大ロボットバイオロボとそのサポートロボピーボを地球に送りこむ。 それから500年経った1984年。ドクターマンと名乗る狂気の天才科学者が、自らが作り出したメカ人間による新帝国ギアを率いて世界征服を開始した。科学による地球の危機に目覚めたピーボは5人の若者をバイオベースに召喚する。彼らは500年前、バイオロボによって肉体と精神を強靱にするバイオ粒子を浴びせられた5人の若者の子孫だった。 宿命の糸で結ばれた5人の若者は超電子頭脳の戦闘マニュアルに従って、バイオマンとしてギアに立ち向かうことになるが、ギアの猛攻は凄まじくイエローフォー / 小泉ミカが倒れた。残された4人は、同じバイオ粒子を受け継いだ矢吹ジュンを戦列に加え、心新たにギアとの宿命的な戦いに身を投じていく。 500年前に地球に飛来したバイオロボが放出したバイオ粒子を浴びた地球人の子孫たちによって結成されたスーパー戦隊。特徴として、バイオ粒子の影響により身体能力を高められる。 名乗りの際には各人毎に「ワン」「ツー」「スリー」「フォー」「ファイブ」を発した後、レッドの「超電子」と全員での「バイオマン」を発する。劇場版では個人名乗りを終えた後に行った。 飛躍的にエネルギー効率を高めるバイオ粒子によって、超電子頭脳が発展し、バイオロボやビーボのように自我を持つようになっている。 「メカこそ優秀、メカこそ絶対、メカこそ永遠」と考える総統ドクターマンが率いるメカ人間の帝国。南極の奥地にある機械の都市要塞ネオグラードを拠点とする。人間を下等な存在だと断定し、メカ人間こそが地球を支配すべきという考えの下、人類への攻撃を開始した。メカ人間たちは「フォア・ザ・マン!」、「オブ・ザ・マン!」、「バイ・ザ・マン!」とドクターマンへの尊称を連呼し、巨大ロボ・メカジャイガン(後にネオメカジャイガン)とメラージュ戦闘機で日本を狙う。スーパー戦隊シリーズにおいて、人間が悪の組織の首領である初のケースとなっている。バイオマンのメンバーを変身後でなく、変身前のフルネームで呼んでいる。 メカ人間はアンドロイドとほぼ同義であるが、ドクターマンのように元々人間でサイボーグの概念で語るべきものも含んでいる。ただしドクターマンに関しては、自分が人間だったことを隠していた。 ジューノイド5獣士以外の各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。 ギアの大幹部で、メカジャイガンやジューノイドを使い実際の作戦を指揮する。 ドクターマンが生体部品とメカを合成して作り出した戦闘用メカ獣士たちで、ジューノイド5獣士と呼ばれる。後半はサイゴーン、メッツラー、ジュウオウのジューノイド3獣士となる。 第28話、第31話、劇場版は5人全員で出撃。劇場版では、ジュウオウ、メッサージュウ、サイゴーン、メッツラー、アクアイガーの順にバイオマンの名乗りを模した名乗り口上を行い、それぞれの必殺技を一斉に仕掛けて相手を攻撃する連携技 ジューノイドスクラムアタックを披露した。 第32話以降、生き残って再生された3獣士はビッグスリー同様に武装だけでなく、防御力に於いても、全身をドクターマンによって生み出された新金属 超合金ミラクルG-Xで覆い、バイオエレクトロンを寄せ付けなかった。 3獣士は強化された力を存分に振るってバイオマンを苦戦させたが、新必殺技スーパーエレクトロンの威力の前には勝てず、最終的に3人ともスーパーエレクトロンによって最期を遂げた。 新帝国ギアが誇る数々のメカニックも、すべてドクターマンの手で作り上げられたものである。ドクターマンの専門分野はロボット工学であるが、電子工学や材料工学の分野でも既存の技術を遥かに凌駕する製品を開発しており、果てはタンパク質合成で生体コンピューターを作り上げるなど、世界一の天才の自称に恥じない優秀な技術力を有している。 1984年2月ごろ、第7話以降のアフレコを前にして矢島由紀(ミカ役)が突然失踪。このような状況下で制作された第10話では、ミカは終始イエローフォーのスーツ姿のまま戦死扱いになり、埋葬シーンでも採石場にてスーツ状態のまま遺影も飾られずに弔いが行われるという展開になった。 当初降板理由は不明であり、JAC側からも正式な発表・説明はされなかったが、その後牧野美千子(ひかる役)と太田直人(真吾役)がバラエティ番組において、矢島が番組途中で失踪していたこと、千葉でいわゆるオナベとして働いているところに出くわしたことを語っている。なお、第7話から10話では「日本一声にうるさいマネージャー」が推薦した、矢島と声質が似ている声優の田中真弓が代役としてアフレコを行った。諸般の事情から実現には至らなかったものの、当時JACに所属していた声優富沢美智恵も矢吹ジュン役のオーディションを受ける予定だった。 戦隊側のキャストは当初、阪本良介(郷役)と矢島以外は芸歴の浅い新人で構成されていたが、この矢島の降板に伴い前年デビューしたばかり田中澄子(ジュン役)が加わったことで、レッド以外は全員新人俳優が担当することとなった。 また、この件が起因して鈴木武幸は矢島の所属事務所JACのエースである真田広之を出すように依頼し、当時アイドル的人気が高かった真田が異例のゲスト出演を果たした。真田は驚くほど礼儀正しく現場に一番早く来ていて、鈴木は「さすがトップスターだ」と思ったという。 それまでの俳協中心のキャスティングに代わり、仮面ライダーシリーズなど幾多の東映作品に参加したテアトル・エコー所属の声優が多数起用されている。この影響により、それまで戦隊シリーズでナレーションを務めて来た大平透に代わり村越が起用された。また、本作品からレギュラーの登場人物の声を担当する声優の名前が、OPクレジットに表記されている。 参照ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 2004 イエローフォー役の辻井は、本作品で初めて女性キャラクターを担当した。ピンクファイブ役の竹田は、本作品を最後にスーツアクターとして引退し、アクションコーディネーターへ転向した。 メインライターは前作から引き続き曽田博久。曽田はそれまでも常に新しくすることを考えていたため、本作品で特別に革新を狙ってはいなかったが、しっかりした縦糸を作らないと持たない気がしたと述べている。本作品からは藤井邦夫がサブライターとして新たに参加し、多彩なストーリーを執筆した。元々助監督として東映テレビプロダクションに入社し、『特捜最前線』でも演出陣に名を連ねていたこともあり、藤井には本作品への参加に際して監督としてもオファーがあったが、特撮作品の演出は自信がないとの理由で依頼を断っている。 メイン監督は前年より特撮作品の演出に参入した堀長文がパイロットを担当。スーパー戦隊シリーズに初めてビデオ合成を導入したり、長回しのカットを多用したりと演出に新風を吹き込ませた。堀はその後3作品連続でパイロット作品を手掛けた。 また東映の鈴木武幸プロデューサーが本作品の途中からチーフプロデューサーに昇格、シリーズの数多の作品で辣腕を振るい続けることになる。 シャープなデザインが特徴のギアの各キャラクターは、前作より引き続き参加の出渕裕が担当した。デザインだけでなくプロットも手掛けるなど制作に深く関わっており、後年にも自身の肌にあった作品であったと述懐している。 後のスーパー戦隊シリーズで特撮監督を務める佛田洋の初参加作品である。 『電子戦隊デンジマン』以来となる単独の劇伴を収録したLP『超電子バイオマン 音楽集』が発売され、本作品より歌曲中心の「ヒット曲集」と劇伴による「音楽集」の二本立てによるリリース形式が確立された。 マンネリ化打破と野心的な新機軸が多く盛り込まれた結果、視聴者層を幼児・児童層から10代全般にまで拡大し、女子層の獲得にも成功したとされる。 玩具展開でも当時の戦隊シリーズで「シリーズ最高」の売上を達成した作品であり、戦隊シリーズを玩具業界で「定番」と位置づけた。ただしバンダイの見込みでは本作品は前作『ダイナマン』対比で130%の売上を期待されていたが、110%の売上に留まった。バンダイのデザイン部プレックスに在籍していた大石一雄は、本作品の販売成績について苦戦していたと述べており、バイオロボの合体方法が2機合体だったことが苦戦した要因ではないかと推測している。 またテレビ局に入る本作品のキャラクター使用料は、1984年度における全テレビ局のキャラクターの中で『キン肉マン』に次ぐ2位である。 系列は放送当時のもの。 いずれも発売元は東映ビデオ。 『テレビマガジン』、『てれびくん』、『テレビランド』の各雑誌は2月号より本作品の掲載が始まっているが、『TVアニメマガジン』では他の競合雑誌からは1か月遅れの番組開始の3月号からの掲載となった。また同誌が1984年6月号をもって休刊したため、第23話以降のクレジットは前述の3雑誌のみに変更された。 フランスで吹替版が放送され、高い人気を得た。 アメリカ合衆国では1985年にサバン・プロダクションズが1話につき1万ドルで国際放映権を取得し、本作品をベースにアメリカで撮影した映像を組み合わせた作品『Bio-Man』(監督・脚本 - シュキ・レヴィ)を制作するが、放送には至らなかった。1990年代初頭にFoxチルドレンネットワーク社長のマーガレット・ローシュが『Bio-Man』を見たことがパワーレンジャーシリーズ制作のきっかけとなっている。
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"この当時、勧善懲悪の1話完結というスタイルでは、1年という長期間に亘って視聴者の関心を引き付け続けるのは難しいという東映側の判断や、鈴木がかつて関わっていた長浜ロマンロボシリーズの影響もあり、本作品では従来の1話完結という基本を踏まえながらも、敵首領・ドクターマンこと蔭山秀夫とその息子である秀一、そして秀一に似せて作られたアンドロイドのプリンスをめぐる親子の愛憎劇、さらにリーダーである郷史朗と肉親との再会劇といったドラマが用意されるなど、年間を通して大河ドラマとしても楽しめる連続性をもたせた構成が取られている。他には、前出の長浜ロマンロボシリーズのひとつである『闘将ダイモス』を意識する形で恋愛ドラマの要素を盛り込むことも検討されていたが、アニメとは異なり生身の人間が演じる実写作品では生々しい映像になり過ぎ、保護者層からの反感を買う恐れもあったことから時期尚早ということで見送られ、結果としてこの要素は『鳥人戦隊ジェットマン』まで持ち越されることとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "技術的な面でも、ヒーローのスーツの素材が本作品より変更されており、それまで多用されてきた綿とナイロンによるものから、新たに伸縮性・耐熱性に優れた「オペコット」と呼ばれる合成繊維による生地が使用されるようになった。また既にメタルヒーローシリーズでは『宇宙刑事ギャバン』から使われていた「東通ecgシステム」が、本作品よりスーパー戦隊シリーズにも本格的に導入され、以降『超力戦隊オーレンジャー』まで使用されることとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "また本作品から、主に敵の初登場時に名前のテロップが下に挿入されるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "スーパー戦隊シリーズのDX超合金を手がけたポピーが、前作『科学戦隊ダイナマン』放映中にバンダイへ吸収合併されたため、本作品では当初より超合金(DX 電子合体バイオロボ)などの関連玩具商品もバンダイブランドで発売された。詳細はポピーからバンダイへの移行も参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "また超合金だけでなくプラモデルも、バンダイホビー事業部(現在のBANDAI SPIRITS)よりいろプラ黎明期に、いろプラとして、ベストメカコレクションサイズでバイオロボが発売され、同事業部最後のスーパー戦隊ロボのスケールモデル商品となった。一応の合体変形を有していたが、いろプラ黎明期の簡易な製品化のため主にバイオジェット2号(下半身部)は脚部などの変形がオミットされている。他方でカプセルトイ(ガシャポン)、食玩の平行販売で発売されたプラ組立てキット(後のミニプラ)は簡易ながらも、劇中設定を踏襲した変形合体を実現していた。こちらはスーパー戦隊シリーズ#食玩ならびにミニプラ#1984年を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "かつて高度な文明によって栄えたバイオ星は、その超科学によって生み出された物質活性化を促進させるバイオ粒子をめぐって引き起こったバイオ平和連合と反バイオ同盟の戦争により滅んでしまう。バイオ粒子の平和利用を目指していたバイオ平和連合の科学者たちは滅亡は避けられないと悟り、宇宙一美しい地球では将来自分たちのような科学をめぐっての悲劇を繰り返させてはならないと、1484年に自我とバイオ粒子を持つ巨大ロボットバイオロボとそのサポートロボピーボを地球に送りこむ。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "それから500年経った1984年。ドクターマンと名乗る狂気の天才科学者が、自らが作り出したメカ人間による新帝国ギアを率いて世界征服を開始した。科学による地球の危機に目覚めたピーボは5人の若者をバイオベースに召喚する。彼らは500年前、バイオロボによって肉体と精神を強靱にするバイオ粒子を浴びせられた5人の若者の子孫だった。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "宿命の糸で結ばれた5人の若者は超電子頭脳の戦闘マニュアルに従って、バイオマンとしてギアに立ち向かうことになるが、ギアの猛攻は凄まじくイエローフォー / 小泉ミカが倒れた。残された4人は、同じバイオ粒子を受け継いだ矢吹ジュンを戦列に加え、心新たにギアとの宿命的な戦いに身を投じていく。", "title": "あらすじ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "500年前に地球に飛来したバイオロボが放出したバイオ粒子を浴びた地球人の子孫たちによって結成されたスーパー戦隊。特徴として、バイオ粒子の影響により身体能力を高められる。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "名乗りの際には各人毎に「ワン」「ツー」「スリー」「フォー」「ファイブ」を発した後、レッドの「超電子」と全員での「バイオマン」を発する。劇場版では個人名乗りを終えた後に行った。", "title": "登場人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "飛躍的にエネルギー効率を高めるバイオ粒子によって、超電子頭脳が発展し、バイオロボやビーボのように自我を持つようになっている。", "title": "バイオマンの装備・戦力" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "「メカこそ優秀、メカこそ絶対、メカこそ永遠」と考える総統ドクターマンが率いるメカ人間の帝国。南極の奥地にある機械の都市要塞ネオグラードを拠点とする。人間を下等な存在だと断定し、メカ人間こそが地球を支配すべきという考えの下、人類への攻撃を開始した。メカ人間たちは「フォア・ザ・マン!」、「オブ・ザ・マン!」、「バイ・ザ・マン!」とドクターマンへの尊称を連呼し、巨大ロボ・メカジャイガン(後にネオメカジャイガン)とメラージュ戦闘機で日本を狙う。スーパー戦隊シリーズにおいて、人間が悪の組織の首領である初のケースとなっている。バイオマンのメンバーを変身後でなく、変身前のフルネームで呼んでいる。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "メカ人間はアンドロイドとほぼ同義であるが、ドクターマンのように元々人間でサイボーグの概念で語るべきものも含んでいる。ただしドクターマンに関しては、自分が人間だったことを隠していた。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ジューノイド5獣士以外の各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ギアの大幹部で、メカジャイガンやジューノイドを使い実際の作戦を指揮する。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ドクターマンが生体部品とメカを合成して作り出した戦闘用メカ獣士たちで、ジューノイド5獣士と呼ばれる。後半はサイゴーン、メッツラー、ジュウオウのジューノイド3獣士となる。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "第28話、第31話、劇場版は5人全員で出撃。劇場版では、ジュウオウ、メッサージュウ、サイゴーン、メッツラー、アクアイガーの順にバイオマンの名乗りを模した名乗り口上を行い、それぞれの必殺技を一斉に仕掛けて相手を攻撃する連携技 ジューノイドスクラムアタックを披露した。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "第32話以降、生き残って再生された3獣士はビッグスリー同様に武装だけでなく、防御力に於いても、全身をドクターマンによって生み出された新金属 超合金ミラクルG-Xで覆い、バイオエレクトロンを寄せ付けなかった。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "3獣士は強化された力を存分に振るってバイオマンを苦戦させたが、新必殺技スーパーエレクトロンの威力の前には勝てず、最終的に3人ともスーパーエレクトロンによって最期を遂げた。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "新帝国ギアが誇る数々のメカニックも、すべてドクターマンの手で作り上げられたものである。ドクターマンの専門分野はロボット工学であるが、電子工学や材料工学の分野でも既存の技術を遥かに凌駕する製品を開発しており、果てはタンパク質合成で生体コンピューターを作り上げるなど、世界一の天才の自称に恥じない優秀な技術力を有している。", "title": "新帝国ギア" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1984年2月ごろ、第7話以降のアフレコを前にして矢島由紀(ミカ役)が突然失踪。このような状況下で制作された第10話では、ミカは終始イエローフォーのスーツ姿のまま戦死扱いになり、埋葬シーンでも採石場にてスーツ状態のまま遺影も飾られずに弔いが行われるという展開になった。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "当初降板理由は不明であり、JAC側からも正式な発表・説明はされなかったが、その後牧野美千子(ひかる役)と太田直人(真吾役)がバラエティ番組において、矢島が番組途中で失踪していたこと、千葉でいわゆるオナベとして働いているところに出くわしたことを語っている。なお、第7話から10話では「日本一声にうるさいマネージャー」が推薦した、矢島と声質が似ている声優の田中真弓が代役としてアフレコを行った。諸般の事情から実現には至らなかったものの、当時JACに所属していた声優富沢美智恵も矢吹ジュン役のオーディションを受ける予定だった。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "戦隊側のキャストは当初、阪本良介(郷役)と矢島以外は芸歴の浅い新人で構成されていたが、この矢島の降板に伴い前年デビューしたばかり田中澄子(ジュン役)が加わったことで、レッド以外は全員新人俳優が担当することとなった。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "また、この件が起因して鈴木武幸は矢島の所属事務所JACのエースである真田広之を出すように依頼し、当時アイドル的人気が高かった真田が異例のゲスト出演を果たした。真田は驚くほど礼儀正しく現場に一番早く来ていて、鈴木は「さすがトップスターだ」と思ったという。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "それまでの俳協中心のキャスティングに代わり、仮面ライダーシリーズなど幾多の東映作品に参加したテアトル・エコー所属の声優が多数起用されている。この影響により、それまで戦隊シリーズでナレーションを務めて来た大平透に代わり村越が起用された。また、本作品からレギュラーの登場人物の声を担当する声優の名前が、OPクレジットに表記されている。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "参照ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 2004", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "イエローフォー役の辻井は、本作品で初めて女性キャラクターを担当した。ピンクファイブ役の竹田は、本作品を最後にスーツアクターとして引退し、アクションコーディネーターへ転向した。", "title": "キャスト" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "メインライターは前作から引き続き曽田博久。曽田はそれまでも常に新しくすることを考えていたため、本作品で特別に革新を狙ってはいなかったが、しっかりした縦糸を作らないと持たない気がしたと述べている。本作品からは藤井邦夫がサブライターとして新たに参加し、多彩なストーリーを執筆した。元々助監督として東映テレビプロダクションに入社し、『特捜最前線』でも演出陣に名を連ねていたこともあり、藤井には本作品への参加に際して監督としてもオファーがあったが、特撮作品の演出は自信がないとの理由で依頼を断っている。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "メイン監督は前年より特撮作品の演出に参入した堀長文がパイロットを担当。スーパー戦隊シリーズに初めてビデオ合成を導入したり、長回しのカットを多用したりと演出に新風を吹き込ませた。堀はその後3作品連続でパイロット作品を手掛けた。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また東映の鈴木武幸プロデューサーが本作品の途中からチーフプロデューサーに昇格、シリーズの数多の作品で辣腕を振るい続けることになる。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "シャープなデザインが特徴のギアの各キャラクターは、前作より引き続き参加の出渕裕が担当した。デザインだけでなくプロットも手掛けるなど制作に深く関わっており、後年にも自身の肌にあった作品であったと述懐している。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "後のスーパー戦隊シリーズで特撮監督を務める佛田洋の初参加作品である。", "title": "スタッフ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "『電子戦隊デンジマン』以来となる単独の劇伴を収録したLP『超電子バイオマン 音楽集』が発売され、本作品より歌曲中心の「ヒット曲集」と劇伴による「音楽集」の二本立てによるリリース形式が確立された。", "title": "音楽" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "マンネリ化打破と野心的な新機軸が多く盛り込まれた結果、視聴者層を幼児・児童層から10代全般にまで拡大し、女子層の獲得にも成功したとされる。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "玩具展開でも当時の戦隊シリーズで「シリーズ最高」の売上を達成した作品であり、戦隊シリーズを玩具業界で「定番」と位置づけた。ただしバンダイの見込みでは本作品は前作『ダイナマン』対比で130%の売上を期待されていたが、110%の売上に留まった。バンダイのデザイン部プレックスに在籍していた大石一雄は、本作品の販売成績について苦戦していたと述べており、バイオロボの合体方法が2機合体だったことが苦戦した要因ではないかと推測している。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "またテレビ局に入る本作品のキャラクター使用料は、1984年度における全テレビ局のキャラクターの中で『キン肉マン』に次ぐ2位である。", "title": "放送日程" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "系列は放送当時のもの。", "title": "放送局" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "いずれも発売元は東映ビデオ。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "『テレビマガジン』、『てれびくん』、『テレビランド』の各雑誌は2月号より本作品の掲載が始まっているが、『TVアニメマガジン』では他の競合雑誌からは1か月遅れの番組開始の3月号からの掲載となった。また同誌が1984年6月号をもって休刊したため、第23話以降のクレジットは前述の3雑誌のみに変更された。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フランスで吹替版が放送され、高い人気を得た。", "title": "他媒体展開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アメリカ合衆国では1985年にサバン・プロダクションズが1話につき1万ドルで国際放映権を取得し、本作品をベースにアメリカで撮影した映像を組み合わせた作品『Bio-Man』(監督・脚本 - シュキ・レヴィ)を制作するが、放送には至らなかった。1990年代初頭にFoxチルドレンネットワーク社長のマーガレット・ローシュが『Bio-Man』を見たことがパワーレンジャーシリーズ制作のきっかけとなっている。", "title": "他媒体展開" } ]
『超電子バイオマン』(ちょうでんしバイオマン)は、1984年2月4日から1985年1月26日まで、テレビ朝日系列で毎週土曜18:00 - 18:25(JST)に全51話が放送された、東映制作の特撮テレビドラマ、および作中で主人公たちが変身するヒーローの名称。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{Pathnav|スーパー戦隊シリーズ|frame=1}} {{注意|クレジットなどで確認できない[[スーツアクター]]の役柄を記載する場合には、'''必ず[[Wikipedia:信頼できる情報源|信頼可能な情報源]]からの[[Wikipedia:出典を明記する|出典を示してください]]。'''出典の無い情報については、[[Wikipedia:独自研究は載せない]]に基づき一定期間ののち除去されるおそれがあります([[プロジェクト:特撮/スーツアクターの役名記載について]]での議論に基づく)}} {{出典の明記|date=2012年5月11日 (金) 11:22 (UTC)}} {| style="float: right; text-align:center; border-collapse:collapse; border:2px solid black; white-space:nowrap" |- |colspan="3" style="background-color:#ffccff; border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''[[スーパー戦隊シリーズ]]''' |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第7作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|[[科学戦隊ダイナマン|科学戦隊<br />ダイナマン]] |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|1983年2月<br />- 1984年1月 |- |style="border:1px solid black; background-color:#ffccff; white-space:nowrap"|'''第8作''' |style="border:1px solid black; white-space:nowrap"|'''超電子<br />バイオマン''' |style="border:1px solid black; 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その一環として、企画当初は「男性5人のみの戦隊」という案も出ていたが、5人全員を男性にしてしまうとドラマの展開が難しくなることから見送られ{{R|material60}}、自然なキャラクター造形のため、代わって東映プロデューサーの鈴木武幸による「女性戦士が2人」という要素が導入された{{Refnest|group="出典"|{{R|全怪獣|20th5|特撮全史}}}}。この要素には、女性1人ではメンバーの飾り物になりがちなところを、2人だと女の子同士の会話というドラマ造りができるなどの利点があった。一般的には男児向け作品での女性戦士はあまり受けが良くないものであり、スタッフからは反対意見も出たが、実施してみると好評だったため、[[電撃戦隊チェンジマン|翌年]]には一転して「女性5人でもいいのでは」という意見まで出たという{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen13|material60|20th5}}}}。 さらに本作品では等身大の怪人が一話限りで退場せず幹部と同じくレギュラーとして登場し、その帰結として毎回の巨大戦では敵方の異なる巨大ロボットが登場するという初の試みもなされている{{Refnest|group="出典"|{{R|超世紀159|百化出渕|全怪獣|20th5}}}}。敵組織が巨大ロボットを繰り出す展開は過去のシリーズ作品でも幾度か試みられていたが、等身大の怪人をレギュラー化させたり、等身大の怪人と巨大ロボットとは形態上での関連性を一切持たせないなど、本作品では先行するそれらの作品ともオリジナリティーの面で大きな差別化が図られた{{R|超人}}。従来の巨大戦はセットでの撮影のみであったが、本作品では屋外での撮影も多用され、クレーンによる吊りなどアクション自体も特徴的なものとなった{{R|大全集198}}。 企画当初は物語と設定に[[おとぎ話]]の要素を盛り込んでおり、過去にバイオロボと邂逅しバイオ粒子を浴びたおとぎ話の主人公たち(桃太郎、金太郎、一寸法師、かぐや姫)が現代へとタイムリープしてきて現代人の女性とともに戦うという構想が考えられていた{{R|大全集172|超世紀159}}。この設定は早い時期に「子供が皆おとぎ話を知っているかどうかが疑問」ということで没となったが{{R|大全集172|taizen13}}、郷の動物との意思疎通能力や、メンバーのキャラクター設定などにその名残が見られる。昔話の要素を切り捨ててからの企画はハイテク寄りになり、当時世に出始めた生命工学を表す専門用語「バイオテクノロジー」を題名に取り入れ、なおかつ「超電子」を冠するということでマスクには点滅する発光ダイオードが施された{{R|taizen13}}。このバイオテクノロジーという単語から想起される「生体改造」というイメージから、サイボーグ的なヒーローを登場させる案もあったが、こうした「負の要素」を背負ったヒーローは、スーパー戦隊シリーズが掲げる「明るさ」「にぎやかさ」といった統一コンセプトからかけ離れてしまうことからこちらも没とされた{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=59}}。その後も5人全員が異星人という案や、500年前に理想郷を求めて旅をしていた5人がバイオ粒子を浴び、その子孫が戦うといった感じで設定が二転三転。5人の名前も数回にわたって変更されている。 この当時、勧善懲悪の1話完結というスタイルでは、1年という長期間に亘って視聴者の関心を引き付け続けるのは難しいという東映側の判断や、鈴木がかつて関わっていた[[長浜ロマンロボシリーズ]]の影響もあり、本作品では従来の1話完結という基本を踏まえながらも、敵首領・ドクターマンこと蔭山秀夫とその息子である秀一、そして秀一に似せて作られたアンドロイドのプリンスをめぐる親子の愛憎劇、さらにリーダーである郷史朗と肉親との再会劇といったドラマが用意されるなど、年間を通して大河ドラマとしても楽しめる連続性をもたせた構成が取られている{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集172|20th5|特撮全史}}}}。他には、前出の長浜ロマンロボシリーズのひとつである『[[闘将ダイモス]]』を意識する形で恋愛ドラマの要素を盛り込むことも検討されていたが、アニメとは異なり生身の人間が演じる実写作品では生々しい映像になり過ぎ、保護者層からの反感を買う恐れもあったことから時期尚早ということで見送られ、結果としてこの要素は『[[鳥人戦隊ジェットマン]]』まで持ち越されることとなった{{R|material61}}。 技術的な面でも、ヒーローのスーツの素材が本作品より変更されており、それまで多用されてきた綿とナイロンによるものから、新たに伸縮性・耐熱性に優れた「オペコット」と呼ばれる合成繊維による生地が使用されるようになった{{R|material61}}{{efn|前作『科学戦隊ダイナマン』から化学繊維に変わったとする資料もある{{R|U87_47}}。}}。また既に[[メタルヒーローシリーズ]]では『[[宇宙刑事ギャバン]]』から使われていた「[[東通ecgシステム]]」が、本作品よりスーパー戦隊シリーズにも本格的に導入され、以降『[[超力戦隊オーレンジャー]]』まで使用されることとなった。 また本作品から、主に敵の初登場時に名前のテロップが下に挿入されるようになった{{efn|同時期に放映されていたメタルヒーローシリーズではすでに導入されていた。}}。 === 商業展開 === スーパー戦隊シリーズの[[超合金 (玩具)|DX超合金]]を手がけた[[ポピー (玩具メーカー)|ポピー]]が、前作『[[科学戦隊ダイナマン]]』放映中に[[バンダイ]]へ吸収合併されたため、本作品では当初より超合金(DX 電子合体バイオロボ)などの関連玩具商品もバンダイブランドで発売された。詳細は[[科学戦隊ダイナマン#商業展開|ポピーからバンダイへの移行]]も参照。 また超合金だけでなく[[プラモデル]]も、バンダイホビー事業部(現在の[[BANDAI SPIRITS]])より'''いろプラ'''黎明期に、いろプラとして、ベストメカコレクションサイズでバイオロボが発売され、同事業部最後のスーパー戦隊ロボのスケールモデル商品{{efn|スケールモデルとしての最後の商品。大スケールのモデルは発売されていない。バンダイホビー事業部におけるスーパー戦隊シリーズのプラモデル製品は、翌1985年に[[プルバック式]]走行ディフォルメロボシリーズ「ロボチェンマン」として、[[電撃戦隊チェンジマン#基地・メカニック|チェンジロボ]]が発売されたのが最後。}}となった。一応の合体変形を有していたが、いろプラ黎明期の簡易な製品化のため主にバイオジェット2号(下半身部)は脚部などの変形がオミットされている。他方で[[カプセルトイ]]([[ガシャポン]])、[[食玩]]の平行販売で発売されたプラ組立てキット(後のミニプラ)は簡易ながらも、劇中設定を踏襲した変形合体を実現していた。こちらは[[スーパー戦隊シリーズ#食玩]]ならびに[[ミニプラ#1984年]]を参照。 == あらすじ == かつて高度な文明によって栄えた'''バイオ星'''は、その超科学によって生み出された物質活性化を促進させる'''バイオ粒子'''をめぐって引き起こったバイオ平和連合と反バイオ同盟の戦争により滅んでしまう。バイオ粒子の平和利用を目指していた'''バイオ平和連合'''の科学者たちは滅亡は避けられないと悟り、宇宙一美しい地球では将来自分たちのような科学をめぐっての悲劇を繰り返させてはならないと、1484年に自我とバイオ粒子を持つ巨大ロボット'''バイオロボ'''とそのサポートロボ'''ピーボ'''を地球に送りこむ。 それから500年経った1984年。'''ドクターマン'''と名乗る狂気の天才科学者が、自らが作り出したメカ人間による'''新帝国ギア'''を率いて世界征服を開始した。科学による地球の危機に目覚めたピーボは5人の若者をバイオベースに召喚する。彼らは500年前、バイオロボによって肉体と精神を強靱にするバイオ粒子を浴びせられた5人の若者の子孫だった。 宿命の糸で結ばれた5人の若者は超電子頭脳の戦闘マニュアルに従って、'''バイオマン'''としてギアに立ち向かうことになるが、ギアの猛攻は凄まじくイエローフォー / 小泉ミカが倒れた。残された4人は、同じバイオ粒子を受け継いだ矢吹ジュンを戦列に加え、心新たにギアとの宿命的な戦いに身を投じていく。 == 登場人物 == === 超電子バイオマン === 500年前に地球に飛来したバイオロボが放出したバイオ粒子を浴びた地球人の子孫たちによって結成されたスーパー戦隊{{R|学研の図鑑218}}。特徴として、バイオ粒子の影響により身体能力を高められる{{R|学研の図鑑248}}。 名乗りの際には各人毎に「ワン」「ツー」「スリー」「フォー」「ファイブ」を発した後、レッドの「超電子」と全員での「バイオマン」を発する{{R|20th6}}。劇場版では個人名乗りを終えた後に行った。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|郷 史朗|ごう しろう}}|郷史朗}} : バイオマンのリーダー{{R|20th8}}。24歳{{R|20th8|学研の図鑑218}}。日本人初の[[スペースシャトル]]パイロット{{R|20th8|学研の図鑑218}}。バイオ粒子を浴びた先祖は武者修行中の[[侍]]{{R|20th8|学研の図鑑218}}。 : ギアに絶対に負けないという強い信念と責任感、そして誰よりも熱い心と決断力で仲間を引っ張っていく{{R|20th8|学研の図鑑218}}。第1話でバイオ粒子を直接浴びた影響で[[動物]]との意思疎通能力を持っており、多数の犬[[猫]]通信員、[[鳩]]連絡員を従えて情報収集を行う{{R|20th8|学研の図鑑218}}。一時的に反バイオ粒子を用いたバイオキラーガンの影響により、この能力が失われることがあった{{R|group="ep"|10話}}。ハンバーグが好物。 : 両親とは幼いころに死別したと思われていたが、終盤に父・郷紳一朗と思わぬ形で再会を果たす。 :* 初期の企画ではバイオ粒子を浴びた[[桃太郎]]という設定。動物との会話ができるという能力は桃太郎がお供の[[犬]]・[[サル|猿]]・[[キジ|雉]]を連れていたことに由来するもの。企画時の名前は「鬼塚桃太郎{{R|大全集172}}」「鬼塚翔{{R|大全集172}}」。また、デザイン案のみだが、ギアの親衛隊長である郷の兄が描かれている{{R|material61}}。 :* スチール撮影会時の衣裳は、演じる阪本良介の私物である{{R|20th20}}。また、第1話から着用しているジャケットも阪本が自ら選んでワッペンをつけたものである{{R|20th20}}。 :; {{Visible anchor|レッドワン}} :: 郷史朗が変身する戦士{{R|20th8}}。 :: パンチが得意で{{Sfn|完全超百科|2006|p=26}}、空手をベースとした格闘技などの戦闘術とバイオソード長剣タイプによる剣技、バイオソード銃タイプでの射撃を得意とする{{R|20th8|学研の図鑑218}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|高杉 真吾|たかすぎ しんご}}|高杉真吾}} : 23歳の[[自動車競技|カーレーサー]]志望の青年{{R|20th10|学研の図鑑218}}{{efn|演じる太田は、[[モータースポーツライセンス|A級ライセンス]]所持者。}}。バイオ粒子を浴びた先祖は[[猟師]]{{R|20th10|学研の図鑑218}}。 : 明るく陽気な性格で、早合点しがちで{{R|学研の図鑑218}}、気は優しく力持ちでかつ、子供たちにはよく好かれている。{{要出典範囲|ミカが殉職した後は2代目サブリーダーとなる。|date=2020年1月}}4歳のとき、全身骨折の大怪我をしたトラウマから精神面に弱さが垣間見え{{R|学研の図鑑218}}、自分に自信が持てない面も多々見られ、それが原因で失敗することも多い{{R|group="ep"|33話}}。だが、その度に仲間の支えや必死の努力で克服した。 : 底抜けの運動神経と反射神経に加え、カーレーサーとして身につけたメカへの知識を生かして活躍する{{R|20th10|学研の図鑑218}}。 : 明立高校時代は野球部に所属していたが千本ノックに耐え切れず、逃げ出してしまった過去を持つ{{R|group="ep"|33話}}。後にスーパーエレクトロンを会得するため、千本ノックに再び挑戦しクリアしたことで自らの過去にピリオドを打った{{R|group="ep"|33話}}。[[ブレイクダンス]]が得意で、グリーンツーに変身した際に生かしている。 :* 初期の企画ではバイオ粒子を浴びた[[金太郎]]という設定。ガッチリとした体格の肉体派という設定がその名残。企画時の名前は「大熊金太郎{{R|大全集172}}」「高杉慎吾{{R|大全集172}}」。 :; {{Visible anchor|グリーンツー}} :: 高杉真吾が変身する戦士{{R|20th10}}。 :: スピード戦が得意で{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=29}}、ジャンプ力に優れ{{R|学研の図鑑218}}、メンバー一の怪力と柔軟な体を用いたリズミカルな動きを得意とする{{R|20th10}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|南原 竜太|なんばら りゅうた}}|南原竜太}} : 18歳{{R|20th12|学研の図鑑218}}。[[漁師]]の家系の出身{{R|20th12}}。バイオ粒子を浴びた先祖は[[農民]]{{R|20th12|学研の図鑑218}}。 : クールな態度だが、根性がある熱血漢にして人情家{{R|20th12|学研の図鑑218}}。年齢の割には年寄りじみた発言をすることも多い。荒くれものの父親に反発し、非行に走った時期もあったが、母親に支えられて立ち直った{{R|group="ep"|19話}}。それゆえか、失敗を犯し、弱音を吐く高杉に檄を飛ばし彼を殴りつけ叱咤激励したり、非道を働くプリンスをグレていた時の自分と重ね合わせ説得しようとするなど、郷よりもさらに直情的な面を持つ。 : [[マリンスポーツ]]が得意{{R|20th12}}。 : 最終話では爆発寸前の反バイオ爆弾を停止させた{{R|group="ep"|51話}}。 :* 初期の企画ではバイオ粒子を浴びた[[一寸法師]]という設定。俊敏で小柄という部分にその名残がある。企画時の名前は「都京太郎{{R|大全集172}}」「水城大介{{R|大全集172}}」。 :; {{Visible anchor|ブルースリー}} :: 南原竜太が変身する戦士{{R|20th12}}。 :: 変身後も水中戦を得意とし、強力な足腰の優れたバネを利用した跳躍や滑空を中心とした空中からの攻撃など軽快な戦闘スタイルを得意としている{{R|20th12|学研の図鑑218}}{{efn|ブルースリーのスーツアクターを務めた[[喜多川務]]は第1話ラストの撮影で靭帯を損傷したため、吊りでのアクションが多くなった{{R|21st7}}。}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|小泉 ミカ|こいずみ ミカ}}|小泉ミカ}} : 18歳の女性ネイチャー[[カメラマン]]{{R|20th14|学研の図鑑218}}。バイオマンのサブリーダー{{R|20th14}}。バイオ粒子を浴びた先祖は[[くノ一]]{{R|20th14|学研の図鑑218}}。 : 女だからと軽く見られることを嫌う行動派で気が強く勝ち気な性格で、好奇心も旺盛{{R|20th14|学研の図鑑218}}。亡き兄の遺志を継ぎ[[アフリカ]]の大自然を撮影することを夢見ており、初めは夢を叶えたいことからバイオマンとして戦うことを拒否するが、500年前からの宿命やバイオ星の悲劇を知り戦うことを決意する。バイオマン加入後も郷と意見を対立させて単独行動に走る面も見られた。 : 空手を主とした格闘技と[[オートバイ|バイク]]の運転が得意で{{R|20th14}}、愛車は郷と同型の[[スズキ・RG250ガンマ|スズキRG250Γ]](HBカラー)。 : バイオキラーガンを用いたメイスンの攻撃で致命傷を負いながらもバイオキラーガンの反バイオ粒子エネルギーを全て使い切らせることに成功するが、サイゴーン火炎爆弾の直撃を受けて、カメレオンカンス撃破後に息を引き取り、イエローフォーの姿のままで葬儀が行われた{{R|group="ep"|10話}}。 :* 初期の企画では5人の中で唯一の現代人という設定。自らの夢のためにバイオマンとして戦うことを拒むという設定はそのまま生かされた。企画時の名前は「篠山ミカ{{R|大全集172}}」。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|矢吹 ジュン|やぶき ジュン}}|矢吹ジュン}} : 19歳{{R|20th16|学研の図鑑218}}。[[アーチェリー]]のオリンピック強化選手{{R|20th16|学研の図鑑218}}。ジュンの先祖は劇中や公式設定では触れられていない{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=186}}。 : バイオロボはバイオマンを選び出す際、ギアが侵攻した日本国内限定で選び出したため、当時[[イギリス]]でオリンピック強化合宿中だった彼女は資格者ではあったものの感知不能であった{{R|学研の図鑑218}}。帰国直後にバイオマンとギアの戦闘を偶然目撃、憧れからテクノブレスが欲しいと郷にねだるが、危険性から1度は拒否される。だが、それでも戦いたい一心で郷たちを追いかけ、現れたバイオロボによってバイオ粒子反応があることを証明され、第11話からイエローフォーとしてバイオマンの一員となった。 : 好奇心旺盛でミカほどではないものの勝気な面があり、仲間の失敗(特にひかる)を厳しく咎めたりするといった圧が強いキツイ性格の持ち主だが{{R|学研の図鑑218}}、男性には結構モテる。そんな彼女も[[クモ]]が大の苦手で{{R|学研の図鑑218}}、いつもは引っ張っているひかるの背中に隠れてしまうほど。幼少時は[[バレエ]]を習っていた{{R|学研の図鑑218}}。 :* 第15話「女戦士炎のちかい」の予告映像でひかるの頬を叩く場面が作中でカットされたのは、当初は第9話・イエロー=ミカとして撮影されていた話を撮り直し、キャラクターの立場上ジュン初登場後すぐには放映できなかった上、演じた田中の演技力もあいまってのことである<ref>東映ヒーローMAXvol31、80-83頁 牧野美千子インタビューより。</ref>。 :; {{Visible anchor|イエローフォー}} :: 小泉ミカおよび矢吹ジュンが変身する戦士{{R|20th14|20th16}}。 :: 初代は高い運動神経による素早い連続攻撃などの格闘戦を得意とする{{R|20th14|学研の図鑑218}}。 :: 2代目はメンバー唯一の専用武器'''バイオアロー'''を使った遠距離攻撃に秀でる{{R|20th16|学研の図鑑218}}。またピンクファイブとの連携技も多い{{R|20th16|学研の図鑑218}}。 : ; {{Visible anchor|{{読み仮名|桂木 ひかる|かつらぎ ひかる}}|桂木ひかる}} : 20歳の女子大生{{R|20th18|学研の図鑑218}}。バイオ粒子を浴びた先祖が[[公家]]の娘{{R|20th18|学研の図鑑218}}。 : お嬢様風のルックスで優しさにあふれる穏やかな性格で{{R|学研の図鑑218}}、当初はメカクローンや自爆用メカ人間におびえて逃げ回り、その都度ミカに助けられるといったパターンが多かった。ミカの死後は徐々にその負けん気の強さを見せるようになり{{R|学研の図鑑218}}、イエロー顔負けの激しい戦いを見せたり、ピンチに取り乱すピーボを叱咤激励したこともある。植物知識に造詣が深く{{R|学研の図鑑218}}、自ら探し出した薬草を用いて高杉{{R|group="ep"|3話}}やデビル菌に対抗出来る植物を探しだして菌に冒された子供たち{{R|group="ep"|15話}}を救っている。 : 無償の心の優しさを持っており、ギアの新頭脳ブレインに友情と優しさを説いて交流を持ち、メカクローン1号がドクターマンの敵討ちの協力をバイオマンに懇願した時はこれを信じ、いぶかしがる他のメンバーを説得するなどした{{R|group="ep"|28話}}。幼いころ大病を患い長く入院していた時期があり、その時の経験から[[看護師]]に憧れている。 : 趣味の[[フルート]]の腕前はプロ級{{R|20th18|学研の図鑑218}}。第15話と第39話では、フルートを武器として使ったこともある。 :* 初期の企画ではバイオ粒子を浴びた[[竹取物語|かぐや姫]]という設定。'''ヒメ'''という愛称が付けられていた。実制作の作品における先祖が、[[公家]]のお姫様だったのは初期設定の名残である。企画時の名前は「香月光」{{R|大全集172}}。 :; {{Visible anchor|ピンクファイブ}} :: 桂木ひかるが変身する戦士{{R|20th18}}。 :: 味方のサポートに回ることが多いが、バレエを活かした柔軟な動きも得意とする{{R|20th18}}。攻撃力は通常は高くないが、怒ると驚異的な力を発揮する{{R|学研の図鑑218}}。敵の力を利用した攻撃が得意{{Sfn|完全超百科|2006|p=26}}。 === バイオマンの協力者 === ; {{Visible anchor|ピーボ}} : 500年前バイオ星平和連合がバイオロボとともに地球に送り込んだ金色の小柄なサポートロボ{{R|学研の図鑑97}}。元はバイオ星でバイオ粒子の母星救出計画実験助手ロボとして製作された{{R|学研の図鑑97}}。地球でバイオベースを建造し、バイオマンのサポートを行う。時にはバイオロボの操縦や、緊急時にバイオロボの出力強化パーツとして合体することもできる(この非常手段はピーボへの負荷もまた大きい)。非常に人間くさい感情を持ち、臆病でかなりのおっちょこちょい。1度バイオスーツの強化を行った際には完成直後に爆発事故を起こしてしまい記憶喪失になってしまい、故郷の星や名前もわからなくなり、宇宙に風船で帰ろうとした{{R|学研の図鑑218}}。年齢的に最低でも500歳ではあるが精神的にはまだまだ子供であり、親友であるジョーイと再会した際やシルバが現れた際には感情が不安定になりかなりの混乱を起こしたが、その後に友人の死を受け入れ、恐怖を克服した後で単身シルバに立ち向かい、説得するほどの勇気を取り戻した。最終決戦直前では柴田博士の電波を逆探知して、ネオグラードの所在を突き止める優秀さも見せた。 : バイオマンの良き友人として、教師として共に地球を守り、ギアとの戦いを終えた後、バイオロボと共に別の星を守るために旅立った{{R|group="ep"|51話}}。 :* 最初期の企画書ではピーボに相当するキャラクターは存在せず、昔話要素が外れた後の企画でバイオMini(ミニ)として追加された{{R|material61|大全集172}}。 ; {{Visible anchor|{{読み仮名|柴田博士|しばたはかせ}}|柴田博士}} : ドクターマン(=ロボット工学者・蔭山秀夫)に対抗するため、メカ人間に取り付ける「良心回路」の研究を行っている科学者。妙なヒゲに[[サングラス|色眼鏡]]の怪しげな風貌をしている。その正体は、かつての蔭山の友人であり、史朗の父親でもある科学者・郷紳一朗であった。 ; {{読み仮名|郷 紳一朗|ごう しんいちろう}} : かつての友人の暴走を止めるべく、自らの死を偽装するとともに自身の肉体をドクターマン同様メカ人間化することで研究を進め、新帝国ギアの打倒のために動いていた。 : メカ人間になったことでバイオの力は失われたが、それにより反バイオ粒子の影響を受けなくなった。ギアに拉致され、ネオグラードで囚われの身となる。秀一とバイオマンに助けられるが、バイオマンと秀一を脱出させるために自爆行為を行い、それにより力尽きて死亡。爆死の直前、バイオマンと秀一に「メカに勝てる最大の武器は人間の心だ」と説いた。 ; {{読み仮名|蔭山 秀一|かげやま しゅういち}} : ドクターマン=蔭山秀夫の実の息子。17歳。父の存在は知らず「{{読み仮名|中村 公一|なかむら こういち}}」として生活していた。蕎麦屋で働きながら、夜間学校に通っていたが、バイオマンとの出逢いと、父の存在を知ったことで人生が変化する。蕎麦屋を辞めた後、いずこかに旅立つが、旅先で柴田博士と出会い、彼の助手として働くこととなった。メカ人間ミキとの触れ合いの中で良心回路の無限の可能性と、人間と心を持ったメカが理解しあえることを柴田やバイオマンたちに悟らせることとなった。 : 顔がプリンスと瓜二つであるため、シルバが複製したプリンスに変装してネオグラードに赴き、父のように慕っていた柴田(郷)博士の死を目の当たりにして、その原因となった実父であるドクターマンを憎みながらも一方で父への思いを捨てきれず、地球を破壊しようとするドクターマンに最後の説得を試みた。それは瀕死となったメカ人間の父に残されていた人間の心を揺さぶり起こした。 : ギアとの戦いが終わった後、バイオマンと共にピーボを見送った{{R|group="ep"|51話}}。 ; {{読み仮名|蔭山 節子|かげやま せつこ}} : ドクターマン=蔭山秀夫の夫人。17年前に赤ん坊の秀一を連れて夫の元を去っており、バイオマンと、中村家の養子になっていた秀一に手紙と記録映像を見せることでドクターマンの正体を教えた。彼女自身は写真と声のみで作中には登場していない。彼女の離反はドクターマンの[[心的外傷|精神的外傷]]になっているらしく、夫人に興味を抱いたモンスターに癇癪を破裂させている。 == バイオマンの装備・戦力 == === 共通装備・技 === ; テクノブレス{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen188|gahou164|20th6}}{{Sfn|30大スーパー戦隊超全集|2007|p=216|loc=「変身」}}}} : バイオマンの5人が右手首に装備している変身用のブレス。通信機としても機能し、上面が開いてモニターが表示される。一度装着されると手では外すことができない。通信機能を持つ初の変身アイテム。 : テレビシリーズと劇場版とで変身ポーズが微妙に変化しているが、これは阪本がテレビシリーズ第16話の撮影時に負傷し、劇場版撮影時に左腕を上げられなかったための措置である{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=239}}。 :* テレビシリーズ:右手を拳に、左手を平手にして頭の上で合わせ、テクノブレスを胸の前に下ろして「'''バイオマン'''」または個人名と発声。 :* 劇場版:右手を前へ突き出し、テクノブレスを胸の前に掲げて「'''バイオマン'''」と発声。 ; バイオスーツ{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen188|gahou164|20th6}}}} : テクノブレスによって装着される強化服{{R|20th6}}。バイオファイバー製{{R|20th6}}で、あらゆる衝撃に耐え、メカクローンの連射銃も防ぐ。装着者に2000 - 2500kgのパンチ力、3500 - 4000kgのキック力、時速120キロの走行速度{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と100メートルの跳躍力を与える。頭部の'''超電子頭脳'''には戦闘マニュアルに加え、各人毎に異なる能力もインプットされており、戦闘に応じてスーツの性能を引き出す能力があるため、戦闘に対しては素人だった5人がすぐに戦闘に対応できた{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。超電子頭脳へのダメージを防ぐためにスイッチを切ることも可能だが、その間は通信ができなくなる。後にスーパーエレクトロン開発のために強化されるが、強化スーツのバイオ粒子に同調するにはより強力な体力と精神力が必要。また、バイオの力は、生命の危機にさらされることで限界値まで生命力を活性化する場合がある。 :* デザイン画では胸に文字類が描かれていた{{R|material60}}。 ; バイオソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|taizen188|gahou164|30大217|20th6}}}} : バイオマン全員が標準装備する万能武器。右腰のホルスターで携行し、通常はレーザー光線{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=28}}を発するビームガン型だが、グリップ部をたたみ刃を出すことで電流を流す短剣としても使用可能。長剣にも変形する。後述の個人技やバイオエレクトロンに使われるほか、等身大戦闘で多用される。 ; バイオパンチ{{Refnest|group="出典"|name="punch"|{{R|taizen177|gahou166|20th8}}}} : メカクローンの頭を粉砕する威力があるストレートパンチ{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。全員共通技だが、主にレッドが使う。空中から両手パンチを放つ'''スカイパンチ'''{{R|group="出典"|punch}}もある。ブルースリーのパンチ力は2000kg。 ; バイオキック{{R|20th8}} : スタンダードなキック技。全員共通技。ブルースリーのキック力は3500kg。バイオマンがフルパワーを発揮すると、パンチ力とキック力は500kg増加する。 ; 反バイオ探知機{{R|20th6}} : バルジオン発見の情報を得て、その反バイオ粒子エネルギーを探すためにピーボが3機開発してバイオマンに使用させたが、偽情報だったために発見できずに終わる。 === 個人武器・技 === ; レッドワン :; ファイヤーソード{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen177|gahou166|30大217|20th8}}}}{{efn|資料によっては、'''ファイアーソード'''{{R|大全集75}}、'''レッドワンファイヤーソード'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} :: 長剣タイプのバイオソードの刀身を柄の超電子頭脳によって過熱し、敵に振るうことで高熱火炎に包み、大爆発を起こす{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。投擲することもある。 :; スパークソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen177|gahou166|30大217|20th8}}}}{{efn|資料によっては、'''レッドスパークソード'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} :: 長剣タイプのバイオソードの刀身にエネルギーを集めてスパーク{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}させて周囲の敵を弾き飛ばす。 :; 超電子レーダー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen177|gahou165|30大217|20th8}}}}{{efn|資料によっては、'''超電子頭脳レーダー'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} :: 10キロ四方の敵の距離と方位を計算し、行動を予測し、バイオソード銃タイプと連動させることで正確な射撃を行う{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}{{R|大全集212}}。ただし幽体はキャッチ不可能。 :; ダイビングアタック{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|30大217|20th8}}}} :: 空中から敵に体当たりする。グリーンツーも使用可能{{R|taizen179}}。 :; バイオスーパーキック{{R|taizen177|20th8}} :: 空中で後方宙返りしてから敵に全体重をかけたキックを食らわす。 : ; グリーンツー :; ハリケーンソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen179|gahou166|30大217|20th10}}}} :: 長剣タイプにしたバイオソードの刀身を発光させ、強烈な渦巻き状のエネルギー波を放射する。 :; 超電子スコープ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen179|gahou165|30大217|20th10}}}} :: [[透視]]能力。人間に化けたメカクローンも判別できる。ズーム機能も装備。 :; グリーンブーメラン{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen179|gahou166|30大217|20th10}}}} :: 緑色に光る[[ブーメラン]]のシルエットを緑色のビームで形成し、放つ。 :; ブレイクアクション{{Refnest|group="出典"|name="green"|{{R|taizen179|gahou166|30大217|20th10}}}} :: [[ブレイクダンス]]を応用した格闘技。 :; スーパージャンプ{{R|group="出典"|green}} :: 垂直に高くジャンプし、敵を霍乱させる。 :; ブーメランキック{{R|taizen179|20th10}} :: ジャンプして一回転し、相手の頭上を飛び越え、着地する寸前に後ろ向きの体勢から相手に回し蹴りを決める。 :; フィルターサングラス :: 透明化した敵をメタルテープの力で、実体を確認する特殊装備。 :; 必殺ドリル回し :: 変身前で使用。電動ドリルで、敵のボディを解体する。 : ; ブルースリー :; エレキソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen181|gahou166|30大217|20th12}}}} :: 長剣タイプのバイオソードに高圧電流を帯びさせたもので敵の内部メカをショートさせる。投擲することもある。 :; 超電子イヤー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen181|gahou165|30大217|20th12}}}} :: 1キロ離れた地点の微細な音を認識できる。 :; スーパースカイダイビング{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen181|gahou166|30大217|20th12}}}} :: 高速で空を滑空し、敵に体当たりする。 :; ブルーカッター{{R|taizen181|20th12}} :: 太陽を背にして敵の視力を奪い、エレキソードの状態で、ジャンプして空中で一回転してから敵に斬りつける。 :; クロスカッター{{R|taizen181|gahou166}} :: ジャンプして回転を加えながら降下し、敵をバイオソードで切り裂く。 :; スクリュークラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen181|gahou166|20th12}}}} :: ジャンプして螺旋状に急降下し、回転しながら敵の脳天にバイオソードを突き刺す。エレキソードの状態で使用することもある。 :; フライングカッター{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen181|gahou166|20th12}}}} :: 急降下しながら空中の敵をバイオソードで切り裂く。 :; バイオパワーフルチャージ{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen188|gahou166|20th12}}}} :: 子供を助けたいという思いが超電子頭脳で増幅され、その力で体内から電撃を放射させ、相手の体に密着して電撃を浴びせて倒す。第9話で使用。 :; 必殺スパナメカ壊し :: 変身前で使用。スパナで、敵のボディを解体する。 : ; イエローフォー :; サンダーソード{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen183|gahou166|30大217|20th14|20th16}}}} :: 長剣タイプのバイオソードから空中に雷光を放ち[[放電]]、[[落雷]]させる。 :; 超電子[[ホログラフィー]]{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen183|gahou165|20th14}}}}{{efn|資料によっては、'''超電子ホログラフィ'''と表記している{{R|大全集212|30大217}}。}} :: 12秒間、記憶した映像を空中に投影したり、虚像を短時間発生させるレーザーホログラフにもなり、敵をかく乱する。第10話でミカの死の間際にも起動し、ミカの別れの言葉の代わりとして彼女の姿を映し出した{{efn|エンディング映像にも用いられている、走りながら笑顔で手を振るミカのシーンの流用。}}。 :; アクションシューティング{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen183|gahou166|30大217|20th14|20th16}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''アタックシューティング'''と記述している{{R|大全集212}}。}} :: カメラのシャッターのようなカットに合わせて、敵の隙を突いて強烈な連続[[パンチング|パンチ]]やキック、バイオソードでの攻撃を食らわす。 :: 2代目は劇場版にてカメラのシャッターやコンボ技のシャッターチャンスを外しカメラマン要素を消して使用していた。 :; ストロボフラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen183|gahou166|20th14}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''ストロボシャワー'''と記述している{{R|大全集212}}。}} :: 初代イエローフォーの技。超電子頭脳から強烈な光を放射し、敵の視力を奪う。第6話で使用。 :; バイオアロー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen187|gahou166|30大217|20th16}}}} :: 二代目イエローフォーの専用武器。矢の先端にショック爆弾を付けることも可能{{R|20th16}}。 : ; ピンクファイブ :; レーザーソード{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen185|gahou166|30大217|20th18}}}} :: 長剣タイプのバイオソード刀身に[[レーザー]]エネルギーを集中させ、発射。 :; 超電子ビームライト{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen185|gahou165|20th18}}}} :: 強い光を放ち暗闇を200メートル先まで照らす{{R|大全集212}}。初使用は第25話。 :; ピンクバリアー{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen185|gahou166|20th18}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では'''ピンクバリア'''{{Sfn|大全集|1988|pp=75、213}}、書籍『30大スーパー戦隊超全集』では'''ピンクバリヤー'''{{R|30大217}}と表記している。}} :: 超電子頭脳から発するビームで光のバリヤーを発生させる。 :; ピンクフラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen185|gahou166|20th18}}}} :: 超電子頭脳から連続して強力な閃光を発し、敵を怯ませる。 :; スピンチョップ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen185|gahou166|30大217|20th18}}}} :: スピン回転しながら敵に連続チョップを食らわす。 === 合体技・必殺技 === ; バイオエレクトロン{{Refnest|group="出典"|name="bio"|{{R|大全集78|taizen188|gahou164|30大218|20th6}}}} : バイオマンが繰り出す必殺技の総称{{R|20th6}}。彼らのヘルメットに搭載されている超電子頭脳をシンクロさせ、最大効果を発揮できる技を導き出す{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。使われた技は以下の8種類。 :; ミラクルレーザー{{R|group="出典"|bio}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''バイオソードミラクルレーザー'''と記述している{{R|大全集212}}。}} :: バイオソード長剣タイプを合わせてウェーブ状のレーザー光線{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=19}}を発射する{{R|20th6}}。 :; バイオエレクトロビーム{{Refnest|group="出典"|{{R|taizen188|gahou164|30大218|20th6}}}}{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、名称を'''エレクトロビーム'''と記述している{{R|大全集212}}。}} :: 5人のバイオソード銃タイプから敵の1点めがけて5色のレーザー熱戦を発射する{{R|20th6}}。 :; バイオスーパーエレクトロン{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|gahou164|30大218|20th6}}}}{{efn|書籍『ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全』では、名称を'''バイオスーパーエレクトロ'''と記述している{{R|taizen188}}。}} :: 超電子頭脳からバイオ粒子エネルギーの光線を一斉に照射する{{R|20th6}}。 :; バイオビッグアロー{{R|大全集78|30大218}}{{efn|資料によっては、名称を'''バイオエレクトロンビッグアロー'''と記述している{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen188|gahou164|20th6}}}}。}} :: 二代目イエローフォー参戦で追加された技。バイオアローを巨大化させ、巨大なバイオ粒子を集中・変換させた金色の光矢を発射する。 :; バイオリボルバー{{R|group="出典"|bio}} :: 敵を囲み5方向からバック宙回転をしながらキックを浴びせて天高く吹き飛ばす{{R|20th6}}。 :; ミラクルボンバー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen188|gahou164|30大218|20th6}}}} :: バイオソード短剣タイプからエネルギーの地走りを起こして敵の足下で爆発させる{{R|20th6}}。 :; ペンタビーム{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|gahou164|30大218|20th6}}}} :: ミラクルボンバーの長剣タイプ技{{R|20th6}}。劇場版で使用し、ジューノイド5獣士をまとめて吹き飛ばした。 :; サーカスループ{{R|group="出典"|bio}} :: 第2話で使用。5人が連続空中回転しながらサイゴーンに接近して一斉にバイオキックする{{R|20th6}}。 : ; スーパーエレクトロン{{R|group="出典"|bio}} : 強化されたジューノイドたちにはバイオエレクトロンが効かなかったため、バイオマンが研究と特訓の末新たに開発した最強必殺技。第34話から使用された。バイオスーパーエレクトロンを発展させた技で、バイオスーツを同調させて、空中でスクラムを組んでバイオマンが超電子頭脳から放たれる5人の体内で増幅したバイオ粒子を結束{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}、自らの体を砲身にして光子弾{{Sfn|完全超百科|2006|p=25}}{{Sfn|パーフェクト超百科|2011|p=28}}として発射する。これをくらったジューノイドは大きな爆発とともにミラクルG-X装甲を貫通されてダメージを受け、さらにエネルギーの玉で遠くに吹き飛ばされる。終盤ではジューノイドに致命傷を与えるまでになった。 :* バイオロボともども必殺技が1種類となったのは、児童層にキャラクター性を強くアピールする必要があったためとされる{{R|大全集172}}。 ; その他合体技 :; バイオソードフラッシュ{{R|taizen188|20th6}} :: 全員のバイオソード長剣タイプを合わせ、中心部から渦巻状のエネルギー{{Sfn|完全超百科|2006|p=25}}を放つ{{R|20th6}}。打撃も光線攻撃も通じないゴーストカンスの幽霊たちにもダメージを与えられる。 :; スクランブル攻撃{{R|20th6}} :: 5人で敵の周囲を何度も宙返りして撹乱しながら攻撃する。第3話で使用。 : ; イエローとピンクの合体技 :; ペアーソード{{Refnest|group="出典"|name="YP"|{{R|taizen187|gahou164|20th16}}}}{{efn|書籍『30大スーパー戦隊超全集』では'''ペアソード'''と表記している{{R|30大218}}。}} :: 2人のバイオソード長剣タイプをクロスさせて2色の波状光線を発射する。 :; ペアービーム{{R|group="出典"|YP}} :: 2人のバイオソード銃タイプで同時に一斉射撃する。最終話では男性陣との連携で放ち、ファラキャットを倒した。 :; ペアータイフーン{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen187|gahou164|20th16}}}}{{efn|書籍『30大スーパー戦隊超全集』では'''ペアタイフーン'''と表記している{{R|30大218}}。}} :: 空中で腕を組んで、回転しながら連続蹴りを放つ、第15話のモンスター・ジュウオウ戦で使用。2人で周囲の敵に宙返りキックを繰り返して蹴散らすバージョンもある。 :; ペアーキック{{R|gahou164|20th16}} :: 2人で同時にキックを放つ。 === 基地・メカニック === 飛躍的にエネルギー効率を高めるバイオ粒子によって、超電子頭脳が発展し、バイオロボやビーボのように自我を持つようになっている{{R|学研の図鑑248}}。 ; バイオベース : [[富士山]]の裾野地下にあるバイオマンの基地。500年前に地球に飛来したピーボが秘かに建造し、新帝国ギアが動き出すまでの間、眠りに就いていた。 : ギアの出現に合わせて機能が作動。地下にあるので地上からカムフラージュされており、セキュリティも万全で、最終話でドクターマンのキングメガスに発見されるまでは、ギアにもシルバにも見つけられず、攻撃できなかった。 : 内部にバイオドラゴンとバイオロボを整備するドックを有し、宇宙空間の異変を察知する宇宙観測装置をはじめとする警戒システムや医療施設など自給システムも充実。基地の外観はバイオドラゴンが出撃するシーンの発進口とエスカレーターが描かれたのみで、全体像は不明。 : 5人の生活拠点でもあり、第31話では就寝中の様子が描かれ、女性陣は2段ベッド、男性陣は[[ハンモック]]を吊るして就寝していた。 :* バイオドラゴンの発進シーンは、外観のイラストにバイオドラゴンのミニチュアをビデオ合成している{{R|21st10}}。この手法は背景イラストを自在に変更できることから採用されたが、実際に背景が変更されることはなかった{{R|21st10}}。 ; バイオドラゴン : 500年前にバイオ星からピーボが乗ってきたバイオジェット1号とバイオジェット2号を搭載する巨大戦闘母艦{{R|学研の図鑑248}}。2機を積んだままの[[戦艦]]形態で発進した後、空中で上層や艦首、両舷の甲板を展開して簡易カタパルトとして機能する[[空母]]形態に変形{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|超世紀174|taizen190|20th22|material36|TH4527}}}}。2機のバイオジェットを発進させる。オートコントロール装置{{R|material36}}や磁力クレーン{{R|material36}}、船体両脇に2連レーザー砲を装備している{{R|TH4527}}。バイオロボが戦闘中に動けなくなった際には、下部から牽引ビームを放射して艦底に吸着させ、回収し、基地へと運ぶ。また、艦底部のスラスターから煙幕を噴出する。地上へ着陸すると、[[エスカレーター]]に乗って全員がコクピット(および、各ジェットコクピット)に移動するが、途中からはバイオマン全員が飛び上がり、空中から直接乗り込む描写も増えた。 : メラージュ戦闘機との空中戦も行い、戦艦形態時の厚い装甲に覆われた全身はメラージュ戦闘機のビーム砲にもビクともしない。第36話ではイエローフォーが一時的に戦闘離脱した際に、バイオロボに代わってネオメカジャイガンと交戦、マグネメガスの光線に苦しみながらも、敵が空中からの攻撃に弱いことを見抜いた。 : コクピット部はバイオジェット2号と似た形状となっているが、こちらは5人乗りになっている。最終話ではピーボと共に、再び守るべき惑星へと旅立った。 :* デザイン画での名称は'''バイオムサシ'''や'''バイオペガサス'''だった{{R|material60|taizen190}}。没案では自動車をモチーフとしていた{{R|超世紀159}}。 :* 「ビッグスケール バイオドラゴン」はスーパー戦隊シリーズとしては初めて変形ギミックが搭載された母艦である{{R|TH4527}}。 : ; バイオマッハ : 機動性と索敵能力に優れたスーパーバイク。レッドワンが乗る赤い車体の1号とイエローフォーが乗る黄色い車体の2号がある。バイオターボがギアに奪われた際にはグリーンとブルーが乗っている{{R|20th22}}。バイオターボ同様スーパースピード機能を有している{{R|大全集212}}。鉤縄のついたロープを発射可能{{R|gahou170|20th22}}。 ; バイオターボ : グリーンツー、ブルースリー、ピンクファイブが乗る高い探査能力を持つ{{Sfn|コンプリート超百科|2018|p=19}}スーパーカー{{R|20th22}}。車体は特殊鋼バイオトラン製でミサイル攻撃にも耐える{{R|material36}}。運転は主にグリーンツーが担当するが、グリーン不在時にはブルーが運転。車体上部には通信用アンテナ兼高性能レーダー・エレクトロセンサーアイを、車体前面にはターボミサイル{{R|taizen190|gahou170}}{{efn|書籍によっては、ミサイルランチャーと記述している{{Sfn|完全マテリアルブック 下巻|2002|p=40}}。}}を装備している。一時的に加速するスーパースピード機能を持つ。第40話では、モンスターとジュウオウが強奪していった。 : ; バイオジェット1号 : レッドワンとピンクファイブが搭乗する特殊ジェット戦闘機{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}で、[[垂直/短距離離着陸機|V/STOL]]機能を持ち{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|taizen190|20th22|material36}}}}、異次元や宇宙空間でも飛行可能で、離着陸可能。オールレンジの万能レーダーでメラージュ戦闘機をキャッチし、3連装ミサイルランチャー{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE"|{{R|taizen190|gahou170|20th22}}}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では、5連装ミサイルと記述している{{R|超世紀174}}。}}と2連装レーザー砲{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|超世紀174|taizen190|20th22}}}}(レーザービーム砲{{R|material36}}、ビームマシンガン{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}})を装備。バイオロボ合体時の上半身になる。 : 後年の『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』にも登場した。 : バイオロボへの合体シーンにおいて、「バイオジェット1号の窓からバイオジェット1号が旋回する様子が見える」というカットミスが見られることがある。また、両ジェットとも、ロボ合体時のコクピットはジェットのままとなっている。 :* 準備稿名は'''バイオジャック'''(初期デザイン){{R|material60|taizen190}}。 ; バイオジェット2号 : グリーンツー・ブルースリー・イエローフォーが搭乗する多目的[[戦略爆撃機]]。旋回性能に優れる。コクピットは三座で、グリーンとブルーが前列の二席、イエローが後列の一席に座乗する。1号と同じくV/STOL機能を搭載{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|taizen190|material36}}}}。巡航ミサイルランチャー{{R|group="出典"|MACHINE}}と2連装レーザー砲{{Refnest|group="出典"|name="MACHINE2"|{{R|大全集212|超世紀174|taizen190|gahou170|20th22}}}}を装備し、バイオロボ合体時の下半身になる。 :* 準備稿名は'''バイオフット'''(初期デザイン){{R|material60|taizen190}}。 : ; {{Visible anchor|バイオロボ}} : バイオジェット1号とバイオジェット2号が合体した戦闘用巨大ロボット。合体コードは「'''ハイパークロス'''」。合体前のバイオジェットの配色は2機とも白を基調としていたが、合体後のバイオロボは黒を基調とした外見になる。胸の黄色い部分が観音開きの入口となっている。物語後半では直立姿勢で飛行ポーズを採り、バイオドラゴンからの発進プロセスを省略して両足から巨大な飛行エネルギーを噴射して出撃することもあった。 : バイオ星平和連合によってピーボとバイオドラゴンと共に建造され、バイオ粒子エネルギーを動力として使用し、その無限の可能性を高める目的と、平和利用ならびに、反バイオ同盟などの科学を悪用するグループからの自衛のために生み出された。5人が揃わなければ本来の力を発揮することが出来ない{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。絶対的窮地に陥った時は目からの転送光線でビーボを収納、回路の一部にすることでパワーアップすることもできるが、ピーボへの負担が大きいために多用はできない。劇中描写はないものの、設定では陸海空、宇宙空間でも活動可能{{R|material36}}<ref>テレビランドスペシャル 『超電子バイオマン』 [[講談社]] [[1985年]]{{要ページ番号|date=2016年3月}}</ref>。装甲はバイオ星の特殊金属ジルバイオン製{{R|学研の図鑑248}}。宇宙一硬い金属だが、サンダーメガスの放つ10万度のビームには敵わないことがピーボから言及されている{{R|学研の図鑑248}}。 : 言葉はしゃべらないが人工知能{{Sfn|完全超百科|2006|p=27}}による自我を持っており、「シュイーン」という機械音が意思表示らしい。またお辞儀などの身振りで意思を示すこともある。直接5人のバイオマン候補をスカウトしたことに始まり、現地で呼び出された際にはバイオマンたちを直接素手で鷲掴みにして自身の入口まで運んだり、敵の攻撃によりコクピット内のバイオマンたちに危機が迫ったと感じ取り、彼らを脱出させたこともある。また、体内に爆弾などの危険物が存在する場合、危険警報装置が作動して一時的に機能停止状態になる。 :* 初期企画での名称は'''バイオキング'''であった{{R|大全集172}}。自我を持っているという設定は、マンネリ打破の一環として戦士とロボットの交流を描くことを意図していたことによる{{R|大全集172}}。 :* アクション用スーツは足のゲタ部分を低くしており、スーツアクターを務めた[[日下秀昭]]はそれまでのロボットよりも動きやすかったことを述べている{{R|仮面俳優133}}。書籍『スーパー戦隊 Official Mook 21世紀 vol.15 手裏剣戦隊ニンニンジャー』では、フォルムや可動域など造形面においてバイオロボが到達点に達したと評している{{R|21st15}}。 :; 武装 ::; スーパーメーザー{{Refnest|group="出典"|name="ROBO"|{{R|大全集78|超世紀174|taizen192|gahou170|30大219|20th23}}}} ::: 注がれるエネルギー量は雷100万本分にも及ぶバイオロボの主力となる必殺剣。柄の超電子頭脳によって雷100万本分のエネルギーを刀身に集積することで、必殺技を繰り出す{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}{{R|学研の図鑑248}}。バイオロボはこれを用いた剣技数では最多の戦隊ロボで、後述の多くの必殺技を持つ。 ::: ネオメカジャイガン第1号のメタルメガスとの戦闘では折れたスーパーメーザーをエネルギー状に変化させ、そのまま敵目がけて投げつける破片攻撃を用いて倒した。 ::; バイオシールド{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|超世紀174|taizen192|gahou170|20th23}}}} ::: 防御用の円形の盾。ジルバイオン鋼製{{R|大全集212|20th23}}。ハニワカンス、カマキリカンスの剣には真っ二つにされてしまった。 ::; バイオロボミサイル{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|taizen192|gahou170|20th23}}}} ::: 腹部のハッチから発射する単発ミサイル。使用頻度も高く、バイオジェット1号の操縦桿に発射ボタンがある。 ::; スーパーミサイル{{Refnest|group="出典"|name="ROBO2"|{{R|taizen192|gahou170|20th23}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''バイオロボ・スーパーミサイル'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} ::: 両肩部から連射するミサイル。 ::; バイオフラッシュ{{R|taizen192|20th23}} ::: 目から放射する赤い閃光で敵にダメージを与える。 ::; バイオロボビーム{{R|taizen192|20th23}} ::: メラージュ戦闘機などを撃破する際に使用する目から放射する赤い光線。 ::; スーパーキック{{efn|資料によっては、名称を'''バイオロボ・スーパーキック'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} ::: スーパージャンプ{{R|20th23}}から放つ強力なキック。 ::; バイオ粒子光線{{R|20th23}} ::: 目からバイオ粒子エネルギーを放射する。地球に着いた時、バイオマンの先祖となる人々にこの光線を浴びせた。また、バイオロボの目はバイオ粒子を持つ人間を判別する機能もある。 ::; 塩素系ガス中和剤{{R|20th23}} ::: 第37話で使用した薬剤。ミサイル発射口から巨大な缶を取りだし、直接手で中身を周囲に振り撒く。 ::; バイオ粒子エネルギー放射{{R|20th23}} ::: 体内のバイオ粒子エネルギーを上昇させ、相手にぶつける。ピーボと合体することで限界以上のパワーを発揮し、その高エネルギーをビームに代えて目から発射することも可能。バルジオン、キングメガスとの最終決戦で使用。 :; 必殺技 ::; ストレートフラッシュ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集78|taizen192|gahou170|30大219|20th23}}}} ::: スーパーメーザーをメカジャイガンのボディに水平に突き刺す。 ::; ダッシングビーム{{Refnest|group="出典"|name="ROBO3"|{{R|大全集212|taizen192|gahou170|30大219|20th23}}}} ::: 相手に向かって踏み込み、すれ違いざまに横一閃に斬りつける。 ::; コンセントレーション{{R|group="出典"|ROBO3}} ::: スーパーメーザーを胸元に構えた後、円月を描くように振りかざしてから斬りつける。 ::; コメットカッター{{R|group="出典"|ROBO3}} ::: スーパーメーザーを額に構えた後、左右に振りかざしてから斬りつける。 ::; チェーンソーカッター{{R|group="出典"|ROBO3}} ::: モーションはコメットカッターの流用である。 ::; 十文字斬り{{R|group="出典"|ROBO3}} ::: 特訓により編み出した相手を十文字に斬りつける{{efn|書籍『スーパー戦隊大全集』では、ストレートフラッシュの変形と推測している{{R|大全集212}}。}}。 ::; ウェイトアタック{{R|group="出典"|ROBO2}} ::: 上空へ跳び上がり、落下時の加速を利用して空中から袈裟斬りを放つ。その場から垂直に跳び上がるパターンと、前方へ勢いよく跳び上がるパターンが存在する。 ::; 逆転一文字斬り{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen192|gahou170|20th23}}}}{{efn|資料によっては、名称を'''逆転一文字切り'''{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}と表記している。}} ::: わざと後方へ倒れることで敵の攻撃を紙一重で回避し、そのまま地面に寝転がった状態から横一閃に斬りつける攻防一体の技。ネプチューンカンスを倒した{{R|taizen192|gahou170}}。 ::; グレートアタック{{Refnest|group="出典"|name="ROBO4"|{{R|大全集212|30大219|20th23}}}} ::: 劇場版で使用。 ::; ブレイクアタック{{R|group="出典"|ROBO4}} ::: 敵の前で高く跳躍し、落下時の加速を利用して縦一閃に斬りつける。 ::; シャドウカッター{{R|group="出典"|ROBO3}} ::: 技名は未呼称および決め技ではないが敵の気配を察知し、横に胴体を斬る。 ::; ピンホールスティング{{R|taizen192|30大219}} ::: 劇中未使用。刀身にエネルギーを集中させ、弱点目がけて突き刺す。 ::; バイオ粒子斬り{{R|group="出典"|ROBO}} ::: 上空へ飛び上がり、胸元に構えたスーパーメーザーに両目からバイオ粒子エネルギーを放ってチャージさせる'''エネルギーチャージ'''を行い、チャージが限界まで完了すると同時にバックが爆発し、レッドワンの「スーパーメーザー・バイオ粒子斬り!」の呼称と共に空中でバイオロボが数回転した後、全身にピンク色のバイオ粒子エネルギーを纏いながら滑空するように突撃し、相手を横一閃に斬りつける。ネオメカジャイガンとの戦いから決め技として用いるようになった。 ::: バイオ粒子斬りさえも通じないバルジオンに対抗するため、バイオロボが体内にピーボを転送・搭載させることでさらにバイオ粒子エネルギーを増大させた状態ではバイオ粒子斬りの強化版を使用した。 ::; スーパーフラッシュ{{R|group="出典"|ROBO4}} ::: ピーボを搭載したことで増大したバイオ粒子エネルギーをスーパーメーザーに蓄積させ、刀身に金色のエネルギーを纏わせて突き刺す。ドクターマン自らが駆るキングメガス戦で使用。技名は未呼称。 :; 決め技ではない技 ::; ビーム返し{{R|taizen192|20th23}} ::: その名の通り、スーパーメーザーを構えて敵のビーム攻撃を刀身で跳ね返す{{Sfn|赤の伝説|2012|p=41}}。決め技ではない。序盤から適度に使用されていたが、呼称が行われたのは最後の使用となる第47話のみ。 ::; カットオフ{{R|gahou170|20th23}} ::: スーパーメーザーを振り下ろして斬りつける。決め技ではなく、アマゾンメガスの髪の毛攻撃を切断するために使用。 ::; スーパーフラッシュ{{R|taizen192|gahou170}} ::: スーパーメーザーを額に構え、強烈な光を放って周囲に小爆発を起こす。決め技ではなく、相手を怯ませるために使用。第38話ではドクロメガスの暗闇攻撃を解除させた。 ::; 衝撃波(正式名称不明) ::: 第2話で使用。刀身を地面に突き立て、敵目がけて爆発を起こして攻撃する。 ; スペック :{| class="wikitable sortable" style="font-size:small" border="1" |- ! 名称 !! 全長 !! 重量 !! スピード |- ! バイオドラゴン |102{{nbsp}}[[メートル|m]]{{Refnest|group="出典"|name="SPEC"|{{R|超世紀174|taizen190|gahou170|20th22}}}} |1,800{{nbsp}}[[トン|t]]{{R|group="出典"|SPEC}} |{{Plainlist| * [[マッハ数|マッハ]]7{{R|group="出典"|MACHINE}}{{efn|書籍『超世紀全戦隊大全集』では「マッハ2」{{R|超世紀174}}、書籍『全怪獣怪人大事典 上巻』では「マッハ5」{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=377}}と記述している。}}(飛行) * 550{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]](走行){{R|taizen190|20th22}} }} |- ! バイオジェット1号 |25.6{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}} |368{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE2}} |マッハ12{{R|group="出典"|MACHINE2}}{{efn|テレビランド 『超電子バイオマン』の記述ではマッハ25{{要ページ番号|date=2016年3月}}。}} |- ! バイオジェット2号 |31{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE2}} |552{{nbsp}}t{{R|group="出典"|MACHINE2}} |マッハ10{{R|group="出典"|MACHINE}}{{efn|資料によっては「マッハ12」{{R|大全集212|超世紀174}}と記述している。}} |- ! バイオマッハ1号 |2.2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}} |rowspan=3| |300{{nbsp}}km/h(スーパースピード時:540{{nbsp}}km/h){{R|group="出典"|SPEC}} |- ! バイオマッハ2号 |2{{nbsp}}m{{R|group="出典"|MACHINE}} |250{{nbsp}}km/h(スーパースピード時:450{{nbsp}}km/h){{R|group="出典"|SPEC}} |- ! バイオターボ |4.8{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|taizen190|gahou170|20th22}}}} |350{{nbsp}}km/h(スーパースピード時:630{{nbsp}}km/h){{Refnest|group="出典"|{{R|大全集212|超世紀174|taizen190|gahou170|30大219|20th22}}}} |- ! 名称 !! 全高 !! 重量 !! スピード |- ! バイオロボ |52{{nbsp}}m{{Refnest|group="出典"|name="SPEC2"|{{R|超世紀174|taizen192|gahou170|30大219|20th23}}}} |920{{nbsp}}t{{R|group="出典"|SPEC2}} |飛行速度:マッハ3{{R|group="出典"|ROBO2}} |} == 新帝国ギア == 「メカこそ優秀、メカこそ絶対、メカこそ永遠」と考える総統'''ドクターマン'''が率いるメカ人間の帝国。南極の奥地にある機械の都市要塞'''ネオグラード'''を拠点とする。人間を下等な存在だと断定し、メカ人間こそが地球を支配すべきという考えの下、人類への攻撃を開始した。メカ人間たちは「フォア・ザ・マン!」、「オブ・ザ・マン!」、「バイ・ザ・マン!」とドクターマンへの尊称を連呼し、巨大ロボ・メカジャイガン(後にネオメカジャイガン)とメラージュ戦闘機で日本を狙う。スーパー戦隊シリーズにおいて、人間が悪の組織の首領である初のケースとなっている。バイオマンのメンバーを変身後でなく、変身前のフルネームで呼んでいる。 メカ人間は[[人造人間|アンドロイド]]とほぼ同義であるが、ドクターマンのように元々人間で[[サイボーグ]]の概念で語るべきものも含んでいる。ただしドクターマンに関しては、自分が人間だったことを隠していた。 ジューノイド5獣士以外の各幹部・レギュラーの身長・体重などの設定はない{{R|20th24}}。 * 出渕は、自身が後年に発表した画集『NEOS(ネオス)』において「企画当初の敵組織の名前をそのまま(画集の)タイトルとして用いた」と画集の中で明かしている{{要ページ番号|date=2019年4月}}。 ; {{Visible anchor|ドクターマン}} : 新帝国ギアをたった一人で作り上げた真の天才を名乗る{{Sfn|完全超百科|2006|p=27}}天才科学者で、その正体は[[ロボット工学]]者だった'''{{読み仮名|蔭山 秀夫|かげやま ひでお}}'''。コンピューター研究の一環として、脳細胞を人為的に発達させて常人の数千倍の力を発揮させて超人化させるという実験を、自らを実験台とすることで成功させ、コンピューター以上の高度な頭脳を得る。しかし、それにより「機械こそ人間に取って代わるべき」と考えるようになり、ギアを創設する。副作用として発生した肉体の老化は、体の相当部分をメカ改造することで対応している。中盤、息子との決別を機に自身を再改造し、脳までも機械化{{R|group="ep"|26話}}。それに合わせてコスチュームも変更された。指揮棒から放つサイコビームで作戦を失敗した幹部に制裁を与える{{R|20th24}}。全身から衝撃波を放つことも可能。 : 「メカには心は不要」が持論だが、自身は完全に心を捨てきれたわけではなく、幹部であるビッグスリーやジューノイドに喜怒哀楽のある[[人工知能]]を搭載するなど人間的な一面を見せることもあり、特に家族が絡むと感情的な行動に出る傾向がある。本人もそれを自覚はしており、再改造を行った際に人間的な感情を低減させる処置を行い、ネオメカジャイガン投入時には、自身の手足であるジューノイドもろとも、バイオマンを抹殺しようとした。しかし完全に感情を捨てきることはできず、人としての情は最後の最後まで残したまま敗退した{{R|group="ep"|51話}}。 : 技術者としては非常に優秀でたった一人で新帝国ギアを築き上げ、多種多様かつ高性能の巨大ロボットを開発したのみならず、異星の科学を短期間で解析してバルジオンの改良型を完成させるほどである。 :* 当初の名称はサイバー総統{{R|material61}}。デザインを担当した出渕裕は、ドクターマンのデザインイメージを[[天本英世]]や[[岸田森]]が演じることを念頭においていたと述べている{{R|大全出渕|百化119}}。 === ビッグスリー === ギアの大幹部で、メカジャイガンやジューノイドを使い実際の作戦を指揮する。 * 初期企画ではヒューマノイド三人衆という総称であった{{R|大全集172}}。 ; {{Visible anchor|メイスン}} : ビッグスリーのリーダー格。ビッグスリーの中で最高の知能を持つが、ドクターマンの立案した作戦をあたかも自分が立案したような発言をすることからファラやモンスターに疎まれることが多い。中年男性風の渋い容貌をしており、スーツ姿の紳士風に変装することもある。光線を発射するステッキ{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=378}}{{R|20th24}}を武器とし、戦闘力は非常に高い。性格は残忍で人間を軽蔑しているが、その性格には相当人間臭い面があり、ドクターマンの機嫌を取るために黄金を強奪したり{{efn|ドクターマンからは「下らん」と一蹴された。}}、自分を造ったドクターマンが人間だと知ると反乱を計画し、彼に取って代わろうとする野心家の側面を持つ。しかし反乱は失敗し、野心やドクターマンの正体に関する記憶を取り除かれ、徹底した忠誠心を持つように記憶操作された{{R|group="ep"|28話}}。[[#ジューノイド|ジューノイド]]の強化とともにパワーアップされ、顔面は機械が露出し、右腕にメイスンミサイルを装備し、右手がメイスンバルカンに変形するようになった{{R|group="ep"|32話}}。胸からレーザーを発射することも可能{{R|20th24}}。 : シルバとの対決の際に慢心した隙を突かれて、シルバニードルを胸部に受けて爆死する{{R|group="ep"|50話}}。 :* デザインのイメージになったのは[[団時朗]]。額の模様はメイクで処理されているが、出渕は造形物を想定していた{{R|百化121}}。改造後は頭部も造型にするよう指示が書かれている{{R|百化121}}。 : ; {{Visible anchor|ファラ}} : ビッグスリーの一員である女性型メカ人間。ビッグスリーの中で最も残酷な心を持つ。メイスンに負けず劣らずの性能を持っている。光線を発射する細身の剣が武器{{R|20th24}}。三人の中で特に変装が得意。プライドが高く嫉妬深いという性格のため、直属の配下であるファラキャットしか信用しておらず、ファラキャットとは常に一緒に行動する{{efn|この設定は、ファラを演じた飛鳥がアクションが得意でなかったため、アクションの得意な大島とセットにすることで物語の展開を図ろうとしたためである{{R|百化121}}。}}。 : メイスンの反乱の時は彼に与するなど、彼女も野心家の側面がある。しかし反乱失敗後、メイスン同様にドクターマンの正体に関する記憶を取り除かれ、徹底した忠誠心を持つように記憶操作された{{R|group="ep"|28話}}。 : 第33話からはパワーアップし、口からファラビームストーム{{R|20th24}}やファラフレイム{{R|20th24}}を吐いたり、肩からレーザーを発射したり{{R|20th24}}、投げキッスで光のナイフを複数作り出すファラキッスを使用できるようになった。 : バルジオンに乗ってバイオロボと戦うものの、スーパーメーザーを受けたことによるダメージが致命傷となって、ネオグラード帰還後にドクターマンの目の前で爆死{{R|group="ep"|49話}}。 :* デザインのイメージは[[真行寺君枝]]{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=120}}。周囲からの要望により胸元の開いたデザインとなったが、出渕はロボットという設定であるのに肌を露出させることに違和感を抱いており、改造後のデザインでは露出が抑えられた{{R|大全出渕|百化121}}。 :* 初期企画ではウーマンという名称であった{{R|大全集172}}。 : ; {{Visible anchor|モンスター}} : ビッグスリーの一員である[[スキンヘッド]]の巨漢型メカ人間。ビッグスリーの中で最高のパワーを誇り、そのパワーはバイオマン全員でも圧倒されるほど。武器は斧のモンスタートマホークで、ビッグスリー3人の武器を交差させると強力な光線を発射できる。怪力自慢だが製作に際してパワーだけが重視された影響か、彼の性格はメイスンやファラのような冷酷さがなく、ビッグスリーの中で最も人間臭く、ボケをかますことが多々ありよくメイスンやファラにつっこまれる。そのため、メイスンやファラには少し、プリンスにははっきりとバカにされている。さらには製作者のドクターマン自身も認めてしまうほど無教養で考えることが苦手な面があり、ファラにもあきれられている。しかし、その反面ドクターマンへの忠誠は厚く、メイスンが反乱を計画した際にはドクターマンの暗殺に加担することを躊躇したが、最終的には計画に加担した{{R|group="ep"|28話}}。直属の部下であるジュウオウとはメカ同士とは思えない「血の通った関係」を感じさせ、25話では戦いが無い際に二人同じ部屋でテレビを楽しむ描写も見られた。メタルメガスの一件ではたった一人でジュウオウのパーツを拾い集め、その足でネオグラードに戻り、修理をドクターマンに懇願したほど{{R|group="ep"|34話}}。他の二人同様、人間への変装が可能だが、その魁偉な風貌から一般人にもあからさまに怪しまれてしまうことも多々あった。一人称は「俺」または「ぼくちゃん」。夢はファラとの結婚。 : 第34話でパワーアップし、右腕をビッグアイアン{{R|20th24}}やビッグハンド{{R|20th24}}、ビッグカッター{{R|20th24}}やビッグフックといった武器への換装が可能になった他、モンスタービームを発射できるようになった。 : バルジオン争奪戦で、スーパーメガスに乗って、バルジオンを奪おうとしたバイオマンを止めるが、その際にスーパーメーザー・バイオ粒子斬りを受ける。スーパーメガスから脱出したが、スーパーメーザーを受けたダメージが大きかったためか致命傷を負い、破壊されたジュウオウの頭部を抱えながらバイオロボに向かって突進し爆発した{{R|group="ep"|48話}}。しかしその際、自身の命と引き換えにバルジオンをネオグラードに送り届ける功績を挙げ、ドクターマンもこれを賞賛した。 :* 出渕がデザイン依頼を受けた時点で、モンスター役はストロング金剛と決まっていたことを聞かされていたため、本人をイメージしてデザインされている{{R|百化121}}。デザイン画では顔に白塗り風にすることを想定していたが、金剛が汗かきであったためメイクがうまく行かず実現しなかった{{R|百化121}}。 === ジューノイド === ドクターマンが生体部品とメカを合成して作り出した戦闘用メカ獣士たちで、'''ジューノイド5獣士'''と呼ばれる。後半はサイゴーン、メッツラー、ジュウオウの'''ジューノイド3獣士'''となる。 第28話、第31話、劇場版は5人全員で出撃。劇場版では、ジュウオウ、メッサージュウ、サイゴーン、メッツラー、アクアイガーの順にバイオマンの名乗りを模した名乗り口上を行い{{efn|最後の決めポーズは中央のジュウオウがレッドワンのポーズと手の位置が上下逆に、それ以外の4人のポーズが、バイオマンのそれと左右対称になっている。}}、それぞれの必殺技を一斉に仕掛けて相手を攻撃する連携技 '''ジューノイドスクラムアタック'''を披露した。 第32話以降、生き残って再生された3獣士はビッグスリー同様に武装だけでなく、防御力に於いても、全身をドクターマンによって生み出された新金属 '''超合金ミラクルG-X'''で覆い、バイオエレクトロンを寄せ付けなかった{{efn|ただし、ジューノイドもビッグスリーも、ストーリーが進むにつれて、スーパーエレクトロンへの繋ぎとして、昔の技でダメージを受ける描写も出てきた。}}。 3獣士は強化された力を存分に振るってバイオマンを苦戦させたが、新必殺技スーパーエレクトロンの威力の前には勝てず、最終的に3人ともスーパーエレクトロンによって最期を遂げた。 * 出渕は全員ロボットのイメージでデザインすることを提案していたが、東映プロデューサーの鈴木武幸から子供へのわかりやすさを考慮して動物の要素を入れるよう要望を受けたと述べている{{R|20th85}}。強化後のデザインは出渕の要望によりメカニカル要素を強調している{{R|20th85}}。 :{{キャラスペック |名称=メッサージュウ |身長=240{{nbsp}}[[センチメートル|cm]]{{R|20th24}} |体重=310{{nbsp}}[[キログラム|kg]]{{R|20th24}} |飛行速度=700{{nbsp}}km/h{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|メッサージュウ}} : 鳥か翼竜のようなデザインのジューノイド。しばしば猛禽類のような咆哮を上げるのが癖。常に先陣を切り、荒っぽくも正々堂々と勇猛果敢に挑む正攻法での戦闘を得意としている。時速700キロの飛行能力を生かした空中戦を得意とし、両目からの超音波破壊ビーム{{R|20th24}}、口からの超音波サイクル{{R|20th24}}を主に使用する。この他戦闘ではなく、ジョーイに対する拷問のみのために使用された棒状の専用武器メッサーバトロンも存在する。 : レッドワンやブルースリーと対戦する機会が比較的多かった。 : 第13話でのモンスター起用時、既に負傷状態であるにもかかわらず、無理矢理モンスターの盾にされたり、戦闘中にしりもちをついたりするなどの不名誉な扱いも稀に担わされていたが、バイオマンの初戦の相手を務めた他、3話連続起用、ビッグスリーからの唯一の戦線抜擢、自身の活躍が際立つ登場話も多く、後述の通り、5獣士で最も惨い扱いで最期を遂げたこともなお、好印象を視聴者に与えた存在ともされる。 : メタルメガスによる無差別砲撃作戦の犠牲者の一人。生存率80%に生存できず、ドクターマンのいう惜しくない存在の烙印を押された存在となる。その最期は片方の脚を除く下半身に片翼、そして頭部は原型を留めないまでの重篤損傷を受け焼殺されるという醜態を晒しながら葬り去られた{{R|group="ep"|31話}}。 :* 出渕が描いた最初の準備稿ではメッサージュウは昆虫をイメージしたものだったが{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|pp=173、201}}、2度の改訂により完成した。ジュウオウとのコラボが可能なメッサージュウ専用のメカジャイガン・マッハカンスの草案も存在する{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=236|loc=「アーリーデザインコレクション 超電子バイオマン・篇」}}。メッサージュウとアクアイガーは生物モチーフであったため、メカニック的な改造を施すには予算がかかってしまうことから退場することとなった{{R|百化出渕}}。 :{{キャラスペック |名称=サイゴーン |身長=239{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=255{{nbsp}}kg{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|サイゴーン}} : [[不動明王]]と[[阿修羅]]を合わせたような不気味なデザインが特徴のジューノイドで、回転する3つの顔を持つ。瞬間移動を繰り返し、手にしたサイコステッキ{{R|20th24}}から光線を発射して相手の自由を奪う'''サイゴーン不動念力'''{{R|20th24}}{{efn|書籍『全怪獣怪人大事典 上巻』では、'''駆動念力'''と記載している{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=379}}。}}、火炎爆弾、口からの火炎放射{{R|20th24}}、冷凍ビーム{{R|20th24}}が武器。先端に人間の眼球の形をした石がついたステッキは、設定では斧に変形可能で、一部スチール写真などで形状が確認できる。 : メタルメガスによる無差別攻撃を受け大破したが辛くも生還し{{R|group="ep"|31話}}、生態的なデザインから全身が銀色のデザインであるロボット然としたデザインのニューサイゴーンとなって復活して、メイスンの直属となった{{R|group="ep"|32話}}{{efn|ただし、一度だけファラの指揮下で働いたことがある。}}。トリプル超能力と称してより強化された念動力 '''ホラーキネシス'''{{R|20th24}}、両眼から発射する、'''サイゴーンデスビーム'''{{R|20th24}}と口から発射する高熱火炎弾 '''サイゴーンフレアー'''{{R|20th24}}を繰り出すほか、ホラーキネシスの応用技でミニカーを通して本物の無人車を操る'''ゴーストカー'''。土砂崩れを引き起こす'''岩石落とし'''などを駆使して、5獣士以上の戦闘能力と存在感を見せたが、パワーアップされてからはBパートからの登場、イエローフォーに攻撃を仕掛けるシーンが比較的多かった。 : メイスンを庇い、スーパーエレクトロンを喰らい爆死{{R|group="ep"|50話}}。作品全体を見るとミカへのトドメを刺すなど、イエローフォーとの因縁が深い。 :* 改造後のマスクの一つはメカクローンのものを改造している{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=122}}。 :{{キャラスペック |名称=ジュウオウ |身長=233{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=480{{nbsp}}kg{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|ジュウオウ}} : 馬鹿力と鉄球で戦うジューノイド。トゲ付き棍棒{{R|20th24}}や右手の指に仕込まれた一斉発射が可能なロケット砲{{R|20th24}}も武器としている。モンスターを「オヤビン」と呼んで慕っており、第13話でモンスターがメッサージュウと組んで任務を行った際も、勝手に助太刀に現れるほど。愛嬌あふれる性格ではあるが、モンスターに対してはタメ口や「のろま」など軽口を吐くこと{{R|group="ep"|17話}}がある。「はいな」や「ランラランララーン」が口癖の5獣士きってのコミカルキャラ。その分単細胞でギアの作戦を台無しにしてしまうことも多かった。モンスターが他のジューノイドと共に任務を行うことがあったのに対し、ジュウオウはモンスター以外のビッグスリーの配下に付いたことはなく、メイスンとファラには快く思われていない節があり、ファラには「スクラップにでもなったんじゃないの?」と呟かれ、スクラップ状態で蹴りを入れられたことがある。 : メタルメガスの攻撃では本来の頑丈さもあり、5体の中で損傷が最も軽微だったが、大ダメージを負ったサイゴーン、メッツラーとともに、郷もろとも崖から転落した際にバラバラになってしまう{{R|group="ep"|31話}}。それを不憫に思ったモンスターが自力で破片を拾い集めて、ドクターマンに修理を直訴{{R|group="ep"|34話}}。サイゴーンやメッツラーと比べて、外見があまり変化がないとはいえ、同様にパワーアップされ、正式にモンスターの直属となったが、サイゴーンとメッツラーより出撃回数が少なくなる。パワーアップをしてからは主体攻撃として、'''バリバリロケット'''を胸部から発射する{{R|20th24}}。パワーに反し、動きが鈍重でスピードが弱点だとモンスターと共に分析されたことで、ネオグラードを出て行き、秘密特訓として50m走を行うがほとんど効果が出なかった。パワーアップしてからは崖から落ちた際などにモンスターに比較的助けられたり、「ジュウオウがいないと生きていけません」と言われているなど、大事に扱われる描写が増える。 : モンスターと共にバルジオンを奪おうと奮闘、シルバからバルジオンの通信機を奪う殊勲を挙げるが、自身もバイバスターの連射で満身創痍となったところに、モンスターの盾となってスーパーエレクトロンを喰らい「みなさん、さようなら〜!!」と叫んで爆死する{{R|group="ep"|48話}}。 :* 初期企画ではジュオーという名称であった{{R|大全集172}}。 :{{キャラスペック |名称=メッツラー |身長=222{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=280{{nbsp}}kg{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|メッツラー}} : フードに包まれた一つ目の頭部を持つ不気味な風貌が特徴のスパイ活動に特化したジューノイド。[[レイピア]]とペンチ状の左腕を武器とする。巨大な一つ目から放つ光線 '''メッツラービーム'''{{R|20th24}}や衝撃波 '''ゴーストハリケーン'''{{R|20th24}}のほか、分身能力や'''チェンジゴースト'''で姿を消して不意打ちを食らわせたり、液状化(緑色の液体へ変化できる)して空間移動能力を駆使し、変幻自在な戦法を得意とするが、ファラキャットがピンチになった時に駆けつけて応戦するシーンが多く見られた。 : メタルメガスの砲撃によって損傷したが、他のジューノイドが盾となり爆風の直撃を免れ、サイゴーンとともに生還。修理・パワーアップされた際にファラの直属となった{{efn|ただし、メイスンの指揮下で二度働いている。}}。 : ニューメッツラーになった際には頭部と右手が機械的になり、バイオマンの攻撃に耐えられるほどの防御力が備わり{{efn|33話で特にその描写が目立った。}}、バイオマン5人相手に互角に渡り合える実力を発揮する。パワーアップ後は幻影を作り出す目からの光線 '''ミラージュビーム'''{{R|20th24}}や右腕を伸ばす、'''メッツラー・アームストレッチ'''{{R|20th24}}を使い、バイオマン相手に二つの技をそれぞれ駆使する戦法を取る。全話を通して、作戦に起用された回数が5獣士の中で最も多い。 : ファラとファラキャットを庇うように、スーパーエレクトロンを喰らい爆死した{{R|group="ep"|49話}}。 :* ネーミングの由来は目が顔(ツラ)にあることから。初期企画ではグロイダーという名称であった{{R|大全集172}}。 :{{キャラスペック |名称=アクアイガー |身長=213{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=262{{nbsp}}kg{{R|20th24}} |水中速度=55{{nbsp}}km/h{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|アクアイガー}} : [[ピラニア]]のような頭部を持つ水陸両用のジューノイド。「優秀なメカとはドクターマンの命令をいかに正確に実行すること」という論理的な信念の持ち主。ジューノイドの中で水中戦が唯一、可能だが、その利点は全体を通しても水中からの奇襲や水中に飛び込む程度しか発揮される機会が少なかった。モニター越しのひかるを見て「かわいいですねぇ」と喜ぶなど、人間と同じような感性を持つ。メッサージュウと同様、モンスターと共に一度だけ行動を起こしたことがある。 : モリや槍としても使用できる銃 '''アイガーガン'''を武器とし{{R|20th24}}、アクアイガー水竜巻{{R|20th24}}や口から吐く[[シャボン玉]]爆弾{{R|20th24}}、衝撃波のアクアハリケーンで攻撃する。 : メタルメガスの砲撃にて、頭部や脚部などが四散するほどに損傷し爆死した{{R|group="ep"|31話}}。 :* デザイン画では足は[[フィン|足ひれ]]状になっていた{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=123}}。 === その他 === ; {{Visible anchor|ファラキャット}} : ファラの[[ボディーガード]]である女性型メカ人間。ファラは「私のかわいい小猫ちゃん」と呼んで寵愛している。アクロバティックな動きに加えて、鋭い爪による引っかき攻撃や華麗なダブル[[ヌンチャク]]捌きを見せるなど抜群の格闘技センスを持ち{{R|20th24}}、バイオマンをしばしば圧倒した。 : ファラの死後はドクターマンのボディーガードとなり、ビッグスリーやジューノイド全員が戦死した中、最終回では最後の砦として、指令室に乗り込んできたバイオマンを圧倒しかけるも、ペアービームの直撃を受けて爆死する{{R|group="ep"|51話}}。 :* 終盤ではファラと共に退場する予定であったが、ドクターマンが1人になってしまうためボディーガードが必要であるという出渕の意見により最終話まで登場することとなった{{R|百化121}}。 ; {{Visible anchor|キャット軍団}} : 劇場版に登場したファラキャットの3人の部下。サイ、斧、短剣といった武器を二刀流で使う。3人ともイエローフォーのバイオアローで絶命。 : 赤いタイツがキャット1、黄色のタイツがキャット2、茶色のタイツがキャット3で、登場時に名乗りを上げている。 ; プリンス : ドクターマンが生き別れの息子・秀一の成長した姿を想像し、「自分の息子」として作り出した少年型メカ人間。当然、秀一に外見は似ているが、性格は冷酷冷徹。ドクターマンの後継者およびギアの最高幹部として作製されただけあり、モンスターを片手でいなすなど、全ての性能においてビッグスリーの面々を上回っている。だが彼をメカ人間と知らない南原との接触により、突然戦闘を放棄し母親を探し回る。連れ戻しにきたメイスンとファラとの対決でメカ人間の正体を露呈してしまい、ドクターマンの手で人間的感情を消去する改良が加えられた。武器は光線を発射する指揮棒とショットガン{{R|20th24}}。メカジャイガングロテスカンスを操縦しバイオロボに挑むもスーパーメーザーに敗れカンスごと自爆した。この他、49-50話でシルバがバルジオン奪還のために作ったものが存在するが、秀一が変装してすり替わったため、シルバ製のプリンスは起動しなかった。 :* プロデューサーの[[鈴木武幸]]が前作から要望していた「アニメ的な美形キャラ」という案から、敵側のドラマを盛り上げることも兼ねて創作された{{R|百化119}}。 : ; {{Visible anchor|メカクローン}} : ギアの量産された下級兵士。両手を上下に振って独特の金属音を発し、行進時は全員揃った動きをする。銀色の仮面の下に醜いメカの顔を隠している。武器は斧状の剣と銃{{R|20th24}}{{efn|書籍『全怪獣怪人大事典 上巻』では、「鎌と特製マシンガン」と記載している{{Sfn|全怪獣怪人・上|2003|p=379}}。}}だが、バイオスーツには通じない。 :* デザイン画での名称は'''ファイトノイド'''{{R|百化121}}。出渕の発言によれば、デザイン面で『[[スーパーロボット レッドバロン]]』前半に登場する戦闘兵士・メカロボの影響を強く受けているという{{R|百化121}}。 :* 初期企画ではメカノイド兵士という名称であった{{R|大全集172}}。 :; メカクローン1号{{efn|書籍によっては'''メカクローン第1号'''と表記している{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}}。}} :: その名の通りドクターマンが初めて造ったメカクローン。既にメカが老朽化してあちこち破損しており、雑用係としてこき使われていたが、バイオマンの面々にドクターマンへの厚い忠誠心を語るなどの自我を持ち、ドクターマンを殺した(と思われた)ビッグスリーに復讐しようとした{{R|group="ep"|28話}}。 ::* 演じた[[岡本美登]]は、アクション監督の[[山岡淳二]]が岡本をシルバ役に起用することを構想していたことから、メカクローン1号役はレギュラー入りする前に現場へ引き合わせる意味合いがあったものと推測している{{R|仮面俳優143}}。 ; メカ人間ジョーイ : 爆発したバイオ星から地球に漂着した映像記録媒体のビデオメッセージを見たドクターマンが、ピーボのバイオ星での友人でビデオメッセージの送り主でもあるジョーイに似せて作ったメカ人間。ピーボを騙し、バイオベースの秘密を探ろうとしたが、ピーボがビデオメッセージを観たことで正体を見抜かれてしまい、自爆した。ビデオメッセージは滅亡寸前のバイオ星からジョーイがピーボに宛てた遺言であり、バイオ星の言語で話していたため、さすがのドクターマンも本物のジョーイがすでに故人であることは知らなかった。 ; ツインドール : 双子の少女の姿をしたメカ人間。スーパーコンピュータ開発に必要な子供の脳細胞を集めるために、特殊な長縄跳びで子供を異常空間に転送する。南原もそれに巻き込まれたが、スーパーコンピュータをブルースリーに破壊されて消滅した。ツインカンスのコントロールも行っていた。 ; 新頭脳ブレイン : ドクターマンによって作られた史上初のタンパク質合成による自我を持つコンピュータ。アンカーカンスを制御する頭脳として登場し、[[国際連合安全保障理事会]]に挑戦するが、感情を持つがゆえにバイオマンの挑発に乗って勝手な行動を取ったり、ひかるとの交流で良心に目覚めるなどしてドクターマンの怒りに触れてしまう。ファラの攻撃で損傷した後、バイオロボを救うため、アンカーカンスに乗り込んで動きを抑えたところをバイオロボに攻撃させた。戦いの後、自ら海に落ちて爆発した。 ; マグネ戦士 / 山守正太 : 根倉山で1人で暮らしていた野生児。人間離れした運動神経を持ち、敵味方に「もしやバイオの血を受け継ぐものか?」と思われた。ジュンに惚れて自らもバイオマンとなろうとするが、バイオロボに「資格なし」と判定されてしまい、意気消沈しているところをファラに騙されてバイオマンと戦うための戦士「マグネ戦士」に仕立てられる。ギアのコントロールから逃れ、元の姿に戻った後、バイオマンと共にギアに立ち向かった。 :* 第36話の次回予告のみ、正太が変身ポーズをとっているカットが使用されている。 :* ストーリー上は悪役ながらも、ヒーロー然としたデザインのマグネ戦士は視聴者からの人気が高かった{{R|taizen212}}。書籍『超世紀全戦隊大全集』では、シルバとともにアンチヒーローとして紹介している{{Sfn|大全集|1993|pp=96-97|loc=「アンチヒーローの世界」}}。 ; ミキ : サタンメガスを修復させるエネルギー転送装置としてドクターマンに造られたメカ人間。修復エネルギーは攻撃にも使用可能。セーラー服の女子高生の姿をしているため、バイオマンでも容易に見つけ出すことはできないはずであったが、飛び込んできた車を念力で破壊したことであっさり知られてしまった。逃亡ののち柴田博士に助けられ、彼に'''良心回路'''を取り付けられたために良心に目覚め、秀一と仲良くなる。だが、そのために本来の役割を無意識に実行してしまうことに苦しみ、苦悩の末、サタンメガスに特攻、自爆してサタンメガスの再生を封じた。 === ギアの戦力 === 新帝国ギアが誇る数々のメカニックも、すべてドクターマンの手で作り上げられたものである。ドクターマンの専門分野はロボット工学であるが、[[電子工学]]や[[材料工学]]の分野でも既存の技術を遥かに凌駕する製品を開発しており、果ては[[翻訳 (生物学)|タンパク質合成]]で生体コンピューターを作り上げるなど、世界一の天才の自称に恥じない優秀な技術力を有している。 ; ネオグラード : 全長:地上380{{nbsp}}m / 地下250{{nbsp}}m{{R|20th24}} : 南極大陸の奥地のクレバスに存在する新帝国ギアの要塞都市。司令室の他、メカジャイガンなどの兵器工場や格納庫を備える。世界中のあらゆる情報を収集することができ、日本のテレビ番組を視聴することもできる。ドクターマンの死と反バイオ爆弾の停止によってギアは完全に壊滅し、主を失ったネオグラードは南極の雪に静かに埋もれていった{{R|group="ep"|51話}}。 :* ネオグラードの外観は出渕のイラストをそのまま使用していたため、ミニチュアなどの造形物などは作られていない。 ; メカジャイガン : ギアの破壊工作用巨大ロボット{{R|material36}}。通称は「カンス」で「○○カンス」と呼称される。常に数体のストックが存在し、ドクターマンの出撃指令{{efn|「メカジャイガン・○○カンス、出撃!!」と呼称。}}でネオグラードの下部にあるドックから、巨大輸送カプセルで運ばれるが、カニカンスやゴーストカンスなどのように直接出撃する場合もある。動物をモチーフにしたものが多く、プリンスが設計、搭乗したグロテスカンスを除く大半が自動操縦で動く。 :* 初期企画では大巨獣メカベームと設定されていたが、メカ帝国の設定にそぐわないため変更された{{R|大全集172}}。デザインを担当した出渕は、漠然としたイメージから巨大ロボットを描くことを得意としていたが、メカジャイガンは従来の慣習から動物のイメージを要求されることが多く苦労した旨を語っている{{R|20th85}}。 ; ネオメカジャイガン : 後半から登場。通称は「メガス」で「○○メガス」と呼称され、火力・装甲・出力共に従来のメカジャイガンよりも格段に強化され、さらにパワーアップしたジューノイドと同様に表面装甲にミラクルG-Xが用いられ、武装もより強力になっている。ドクターマンの出撃指令{{efn|「ネオメカジャイガン・○○メガス、出撃!!」と呼称。}}で輸送カプセルで運ばれるところまではメカジャイガンと共通しているが、最大の違いはビッグスリーが操縦する有人機となっていることである。そのため、操縦席はメラージュ戦闘機として脱出する機構になっている{{efn|41話のアマゾンメガスのみ、兜自体がコクピットを兼ねた脱出機構を備えている。}}。より戦闘的な武器や器物をモチーフにしたものが多く、中にはレスラーメガスやラガーメガスといったスポーツに因んだものもあったが、全体的にはメカジャイガン以上に兵器然としたデザインが特徴。 : ビッグスリーだけでなくシルバも操縦可能で、自ら乗り込んでバイオロボと戦った{{R|group="ep"|37話|39話}}{{efn|ただし、37話でシルバが乗ったカノンメガスは終盤メイスンが奪還し最終的にメイスンがバイオロボと戦っている。}}。 :{{機動兵器 |名称=キングメガス |全高=52.7{{nbsp}}m{{R|20th26}} |重量=1,013{{nbsp}}t{{R|20th26}} }} :; キングメガス :: 第50話のラストシーンで登場した最後のネオメカジャイガン。ドクターマン自らが乗り込む。[[トラバサミ]]のような独特の形状の手を持つ。メカジャイガン・ネオメカジャイガンとバルジオンを解析して得られた反バイオ同盟の技術の集大成で、攻撃力・防御力・探査能力全ての面でそれまでのネオメカジャイガンはおろかバルジオンをも上回る。バルジオンよりも強力なバイオ粒子探知機を持ち、今まで発見できなかったバイオベースの場所も特定。さらにバルジオン以上の反バイオ粒子エネルギーを放出しつつ、通常兵器の並行使用能力を有しているため、反バイオ粒子でバイオ粒子を相殺しつつ通常兵器で攻撃を続けることが可能となっている。 :: 武装は両手中央部から放つバルジオンの反バイオ粒子砲を凌ぐ威力を誇る反バイオ粒子ビーム(矢のような光弾のバルジオンのとは異なり、稲妻状に放射される)、腹部の地底ミサイル、肩部のキングメガスレーザー、膝からのキングメガスミサイル、剣(これを使用する時のみ手元が一般的な形状に変化する)など、まさに全身が武器の塊といえる。最終決戦でバイオベースに向かって地下へのミサイル攻撃を仕掛け、バイオロボとの激突では序盤は優位に立ち、バルジオン戦と同様にピーボと合体してパワーアップしたバイオロボに対し、一度はピーボを回路から引きずり下ろして追い詰めたが、再合体後に形勢を覆され、強化バイオ粒子斬りからのスーパーフラッシュという連続攻撃を受けて撃破された。 :: しかし、このキングメガスが破壊されるとネオグラードに設置してある、地球を消滅させる威力を持つ時限式の反バイオ爆弾が起動するという二重機能を持ち、超絶戦闘能力に加え、万が一戦いに敗れてもこういった奥の手まで用意され、ドクターマンが「'''自らの最高傑作'''」と称するに相応しい能力を発揮した。 ::* デザインは、ドクターマンが操縦する最後のメカということから、全身金色にしてゴージャス感を出している{{R|百化139}}。頭部は王冠をイメージしている{{R|百化139}}。 ::* 最終回に登場したキングメガスについては、出渕はデザインを納入したあとになってからドクターマンがバルジオンを手本に創ったという設定を知らされたため「可能だったらもっとそれらしいデザインに直したかった」と回想し、自身の画集『-NEOS-ネオス』にはバルジオン風のよりヒーロー然とした'''グレート・キングメガスII'''のイラストも掲載している{{Full|date=2019年4月}}。 ; メラージュ戦闘機 : 新帝国ギアの単座戦闘機で、機首のレーザー砲が武器。メカクローンが操縦して都市などを爆撃し、バイオドラゴンならびにバイオジェットとドッグファイトを展開する。ネオメカジャイガンからの脱出機としても使われ、戦い敗れたビッグスリーの他、シルバ{{R|group="ep"|39話|49話}}とドクターマン{{R|group="ep"|51話}}も搭乗した。戦隊シリーズに登場した敵の戦闘機としては初めてコックピット部分の描写があるのも特徴。 ; 地上戦闘車両 : ジューノイドやビッグスリーが移動や地上攻撃の際に使用する。 ; バイオキラーガン : 反バイオ粒子を使用した銃。第10話ではまだ反バイオ粒子を発生させる技術がギアには無く、人工衛星を使って宇宙空間から集積したものを使用していたが、それでも初代イエローフォーを殺害する威力を発揮した。最終話ではバルジオンの技術を解析して作られた反バイオ粒子発生機能を付加した改良型がキングメガスに搭載された{{R|group="ep"|51話}}。 ; 超鋼鉄 : ドクターマンが開発した装甲材質。スーパーメーザーでも容易には切断できないほどの硬度を持つが、当初は原料不足からハニワカンス一体分しか調達できなかった。 ; ミラクルG-X : ドクターマンがネオメカジャイガンおよび、ビッグスリーやジューノイド強化のために新しく生み出した超合金で、バイオマンの通常技や武器のみならず、バイオエレクトロンやスーパーメーザーの一撃をも弾いてしまう強度を誇り、その硬度は当初バイオマンを苦しめたが、バイオマン各個人によるバイオ粒子の強化と、それによる新必殺技のスーパーエレクトロンとバイオ粒子斬りの開発によって、ミラクルG-Xは打ち破られた。 == 第3勢力 == :{{キャラスペック |名称=バイオハンター シルバ |身長=192{{nbsp}}cm{{R|20th24}} |体重=139{{nbsp}}kg{{R|20th24}} |走行速度=100{{nbsp}}mを7.5秒{{R|20th24}} |ジャンプ力=30m{{R|20th24}} }} ; {{Visible anchor|バイオハンター シルバ}} : 第37話より登場。銀色のボディが特徴で、シルバの名もそこから由来する(銀=シルバーから)。バイオ粒子を戦争に利用される恐れがあるとしてバイオ星平和連合と対立していた組織'''反バイオ同盟'''が作った殺人ロボット。バイオ星の消滅と共に滅んだと思われていたがバルジオン共々脱出し地球に来ていた。主な武器は反バイオ粒子エネルギーを放つ拳銃・'''バイバスター'''{{R|20th24}}で、後述するバイオキラーガン以上の威力と、0.03秒の抜き撃ちで高い命中率を誇る。また、肘から出す'''シルバニードル'''{{R|20th24}}は射出も可能な遠近兼用武器で、メカ人間をも射抜く威力を持ちメイスンをも敗死させた。全身はLSV合金製で、半径400メートル先のバイオ粒子反応をキャッチする探知機能を備える。あらゆる武器・兵器に関するデータがインプットされており、ネオメカジャイガンの操縦も可能。腕を拘束されても、片腕の装甲を爆破することで脱出する。プリンスの複製を製作するなど技術者としての能力も持つ。目的は「バイオ粒子反応を持つもの(それが[[無機物]]などの非生命体でも[[有機物]]などの生命体でも)の抹殺」のみで、バイオ粒子でなければネオメカジャイガンといった兵器の強奪使用も辞さない。犠牲を一切考慮せずピーポが過去の過ちを説得しても応じようとしないなど、上記目的の達成のためだけに行動する危険な存在となっている。 : バイオ粒子を持つ者に対しては「'''バイオ粒子反応あり!破壊!'''」と宣言した後、バイバスターの銃口を向ける。ギアに拘束された際ドクターマンを「自分を騙した男」と言い放ったり、プリンスの存在を知っていたりと時折謎めいた一面を覗かせる。バルジオンとはぐれ、戦いで負けそうになった時は「おのれ…バルジオンさえあれば…!」と負け惜しみをたびたび言っている。 : バルジオン争奪戦の最終局面で、遂にバルジオンを取り戻し、南極でバイオロボと因縁の決着を付けるため激突。反バイオ粒子砲でバイオロボを絶体絶命の窮地に追い込むが、ピーボを呼んでエネルギーを急上昇させたバイオロボに圧倒され、強化バイオ粒子斬りによってバルジオンを破壊されるも脱出。しかし、その時点で既に致命傷を負っており、バイオロボにバイバスターを向けるが結局一発も放つこと無く爆発四散した{{R|group="ep"|50話}}。 :* 当初の名称はシルバード{{R|material61}}。シルバのデザインについては、キャラクターデザインを手がけた出渕が『[[人造人間キカイダー]]』の名敵役・[[ハカイダー]]を念頭に置いていたと証言している{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=125}}{{R|20th85}}{{efn|出渕は、ハカイダーのイメージは鈴木からの要望によるものであったとも述べている{{R|20th85}}。}}。バイバスターの多用は、ビデオ合成の費用を圧迫させた{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=14}}。また、デザイン案のみだが、シルバと同系統の「シルバーマン」というキャラが描かれている{{R|material61}}。 :* スーツアクターを務めた[[岡本美登]]は、初登場時の肩にバイバスターを当てる仕草は脚本のト書きに記述されていたと証言している{{R|仮面俳優143}}。 : :; 『[[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]]』 :: 大ザンギャック副首領{{R|超百科}}として登場。'''ライダーハンター'''と名乗り、愛銃のバイバスターで仮面ライダーたちを攻撃する。実はライダーハンターという肩書は自称で、'''ライダー・戦隊ハンター'''が彼の正体である。劇中ではメテオ、オーズ、ダブルバース、最終決戦でもオーズとゴーカイジャーたちを圧倒するも、オーズから渡されたライダーキーでオーズに変身したゴーカイジャーのタジャドルチャージによるライジングストライクを受けて爆散した。その際、かつて因縁のあるレッドワンは苦戦するゴーカイシルバーに「本当のシルバーの力を見せてやれ!」と激励していた。 : :{{機動兵器 |名称=バルジオン |全高=51.3{{nbsp}}m{{R|20th24}} |重量=1,270{{nbsp}}t{{R|20th24}} |飛行速度=マッハ3{{R|20th24}} |装甲=特殊金属バルバジウム{{efn|反バイオ同盟によって生み出されたジルバイオンに匹敵する超金属。}} }} ; バルジオン : 第48 - 50話に登場{{efn|本格的な登場に先行して、第37話と第38話でのバイオ星での過去のシーンでもその姿が描かれている。}}。反バイオ同盟がバイオ粒子とそれを持つ者を抹殺するために、シルバと共に創り上げた巨大ロボット。無尽蔵と言える膨大な反バイオ粒子エネルギーを動力源とし、そのエネルギー余波はバイオ粒子を持つ者を苦しめるだけではなく、柴田博士の良心回路まで無効化する。特殊金属バルバジウム製装甲はバイオ粒子斬りも通じない頑強な硬度を誇る。一定距離内ならシルバの通信機により無人でも少々の行動は可能で、他の者が操縦していても、シルバの呼びかけにより機能を停止する。シルバは地球飛来時にバルジオンと逸れてしまい、バイオマン打倒のために捜し回るが、バルジオンはシルバ以外でも操縦できるためギアも自己の戦力にしようとこのロボットを追い求める。 : 武装は胸部中央の装甲を展開して発射する'''反バイオ粒子砲'''{{R|20th24}}を主力として、スーパーメーザーにも劣らない切れ味の必殺剣'''バルジオンメーザー'''{{R|20th24}}、その剣撃にも耐える硬度を持つ左腕に固定された盾。バイオロボに比べると武装は少ないものの、主力武装である反バイオ粒子砲は特に強力で連射可能でかつ驚異的な威力を誇り、さらに常時放出される反バイオ粒子のエネルギー力場が相乗しバイオロボを敗北寸前に追い詰めた。バルジオンメーザーと盾の使用は初登場の48話のみ。 :* デザインコンセプトは「悪のバイオロボ」{{Sfn|百化繚乱 上之巻|2011|p=136}}。 :* 海外で放映された際は名称が'''バイオデストロイアー'''に変更された。 == キャスト == === レギュラー・準レギュラー === * 郷史朗 / レッドワン - [[坂元亮介|阪本良介]] * 高杉真吾 / グリーンツー - [[太田貴彦|太田直人]] * 南原竜太 / ブルースリー - [[大須賀昭人]] * 小泉ミカ / イエローフォー - [[矢島由紀]](第1 - 9話) * 矢吹ジュン / イエローフォー - [[田中澄子]](第11 - 51話) * 桂木ひかる / ピンクファイブ - [[牧野美千子]] * 郷紳一朗(柴田博士) - [[中丸忠雄]](第43,44,47 - 50話) * プリンス(第19,20話)、蔭山秀一{{efn|name="noname"}}(第25,26,43,44,47 - 51話) - [[井浦秀知|井浦秀智]](2役) * ドクターマン - [[幸田宗丸]](第1 - 4,6 - 51話) * メイスン - [[中田博久]](第1 - 4,6 - 50話) * モンスター - [[ストロング小林|ストロング金剛]](第1 - 4,6 - 48話) * ファラ - [[飛鳥裕子]](第1 - 4,6 - 49話) * ファラキャット{{efn|name="noname"|オープニングクレジットでは役名未表記。}} - [[シンシア・ラスター|大島ゆかり]](第2,6,11,14,16 - 18,22,24,27 - 29,33,35,36,38,41,45,49,51話) ==== 矢島由紀の失踪 ==== 1984年2月ごろ、第7話以降のアフレコを前にして矢島由紀(ミカ役)が突然失踪{{R|大全集172}}{{Sfn|夢|2018|p=132}}。このような状況下で制作された第10話では、ミカは終始イエローフォーのスーツ姿のまま戦死扱いになり、埋葬シーンでも[[採石場]]にてスーツ状態のまま遺影も飾られずに弔いが行われるという展開になった{{efn|台本での第10話のラストは、カメレオンカンスとの戦闘後、横たわるイエローが一輪の花を見ながら「きれい……この美しい星を守ってね」という最期のセリフとともに仲間に看取られ息を引き取り、郷が遺体を抱え立ち去るシーンとなっている。}}。 当初降板理由は不明であり、JAC側からも正式な発表・説明はされなかったが{{efn|演じていた矢島が「スタッフと駆け落ちして失踪」という都市伝説(真相は不明)が発生した{{R|oricon20190107}}。}}、その後牧野美千子(ひかる役)と太田直人(真吾役)が[[有田とマツコと男と女|バラエティ番組]]において、矢島が番組途中で失踪していたこと、千葉でいわゆるオナベとして働いているところに出くわしたことを語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://tvtopic.goo.ne.jp/program/tbs/24193/615706/|title=[有田とマツコと男と女 (2013年1月10日放送回) ]の番組概要ページ|work=gooテレビ番組(関東版)|publisher=[[NTTレゾナント]]|accessdate=2017-09-06}}</ref>。なお、第7話から10話では「日本一声にうるさいマネージャー」が推薦した{{Sfn|夢|2018|p=133}}、矢島と声質が似ている声優の[[田中真弓]]が代役としてアフレコを行った{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=218}}{{efn|田中は正規の仕事ではなく緊急処置の代役のため、ノンクレジット。}}。諸般の事情から実現には至らなかったものの、当時JACに所属していた声優[[富沢美智恵]]も矢吹ジュン役のオーディションを受ける予定だった。 戦隊側のキャストは当初、阪本良介(郷役)と矢島以外は芸歴の浅い新人で構成されていたが、この矢島の降板に伴い前年デビューしたばかり田中澄子(ジュン役)が加わったことで、レッド以外は全員新人俳優が担当することとなった。 また、この件が起因して[[鈴木武幸]]は矢島の所属事務所JACのエースである[[真田広之]]を出すように依頼し、当時アイドル的人気が高かった真田が異例のゲスト出演を果たした。真田は驚くほど礼儀正しく現場に一番早く来ていて、鈴木は「さすがトップスターだ」と思ったという{{Sfn|夢|2018|p=133}}。 === 声の出演 === それまでの[[東京俳優生活協同組合|俳協]]中心のキャスティングに代わり、[[仮面ライダーシリーズ]]など幾多の東映作品に参加した[[テアトル・エコー]]所属の声優が多数起用されている。この影響により、それまで戦隊シリーズでナレーションを務めて来た[[大平透]]に代わり村越が起用された。また、本作品からレギュラーの登場人物の声を担当する声優の名前が、OPクレジットに表記されている。 * ピーボ - [[太田淑子]] * 小泉ミカ / イエローフォー - [[田中真弓]](第7 - 10話・クレジットなし{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=218}}) * メッサージュウ - [[八代駿]](第1,7 - 9,13,23,24,29,31話) * サイゴーン - [[山下啓介]](第2,10,16,20,28,31,32,34,36,37,39,43,47話) * ジュウオウ - [[安西正弘]](第3,5,13,15,17,19,20,25,30,31,34,39,40,42,46,48話) * メッツラー - [[伊沢弘]](第4,11,18,19,22,25 - 27,31 - 33,35,38,41,44,45,49話) * アクアイガー - [[永井寛孝]](第6,12,14,21,23,31話) * シルバ - [[林一夫]](第37,42,44 - 50話) * ナレーター - [[村越伊知郎]] === ゲスト === 参照{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004}} * 「テクノトピア21」の科学者{{efn|name="noname"}} - 辻井啓嗣、[[志村忍]](1話) * 田島誠{{efn|name="noname"}} - 工藤秀和(5話) * ジョーイ - 中山忍{{efn|女優の[[中山忍]]とは別人。}}(7、8話) * ツインドール{{efn|name="noname"}} - 坂井香月、坂井江奈美(9話) * 早瀬健 - [[真田広之]](13話) * 早瀬のコーチ - [[広瀬裕|広瀬和久]](13話・クレジットなし) * ブレインの声 - [[曽我部和恭|曽我部和行]](14話) * 看護婦{{efn|name="noname"}} - [[長門美由樹|長門美雪]](15話) * 浦島次郎{{efn|name="noname"}} - 松川傑(17話) * 浦島浜子{{efn|name="noname"}} - [[呉恵美子]](17話) * リサ{{efn|name="noname"}} - 斉藤吏恵子(18話) * プリンスに襲われた母親{{efn|name="noname"}} - [[島村美妃]](20話) * 柳{{efn|name="noname"}} - [[小林アトム]](21話) * 工藤所長{{efn|name="noname"}} - [[松本朝生|松本朝夫]](21話) * 巡査{{efn|name="noname"}} - [[佐藤輝|佐藤輝昭]](22話) * 篠原ユウ{{efn|name="noname"}} - 新山麻子(23話) * 花園百合{{efn|name="noname"}} - 沢井美奈(24話) * 「もーれつ!ガマン大会」の司会者{{efn|name="noname"}} - [[島田洋八|藤井洋八]](25話) * ドラキュラ伯爵{{efn|name="noname"}} - 新堀和男(25、26話) * 若き日の蔭山秀夫{{efn|name="noname"}} - [[土師孝也]](26、51話) * 蔭山節子{{efn|name="noname"}} - [[里見和香]](26、51話) * ハルオ{{efn|name="noname"}} - 星野光司(27話) * メカクローン1号{{efn|声およびスーツアクター。}}{{efn|name="noname"}} - [[岡本美登]](28話) * ミチオ{{efn|name="noname"}} - [[神谷まさひろ|神谷政治]](29話) * 国友兼光{{efn|name="noname"}} - [[高杉玄]](30話) * 国友明子{{efn|name="noname"}} - 立花愛子(30話) * 津山舞子{{efn|name="noname"}} - 平野雅子(32話) * 津山静子{{efn|name="noname"}} - 加藤陽子(32話) * 明立高校野球部監督{{efn|name="noname"}} - [[日吉としやす]](33話) * 洋介{{efn|name="noname"}} - 野口隆哉(34話) * 山守正太 - [[黒崎輝]](35、36話) * タカシ{{efn|name="noname"}} - 加藤岳史(40話) * 邦子{{efn|name="noname"}} - 若林味香(40話) * カオル{{efn|name="noname"}} - 林典子(41話) * 発電所員{{efn|シナリオでの役名は「岸田」だが、作中では名前を呼ばれず、名札が見える場面では「大沢」と表記されている{{R|taizen237}}。書籍『スーパー戦隊大全集』では前者{{R|大全集191}}、書籍『ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全』では後者{{R|taizen237}}で紹介している。}}{{efn|name="noname"}} - [[小倉雄三]](42話) * 所員{{efn|name="noname"}} - 岡本美登(42話) * メカ人間ミキ{{efn|name="noname"}} - [[柴田時江]](43、44話) * キャット軍団 - 野本奈穂子、菊地香理、志村忍(劇場版) === スーツアクター === イエローフォー役の辻井は、本作品で初めて女性キャラクターを担当した{{R|仮面俳優181}}。ピンクファイブ役の竹田は、本作品を最後にスーツアクターとして引退し、アクションコーディネーターへ転向した{{R|仮面俳優181|20th93}}。 * レッドワン{{R|大全集75|taizen270|RED}} - [[新堀和男]] * グリーンツー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen270|Actor}}}}、メッツラー{{R|taizen199}} - [[釼持誠|剣持誠]] * ブルースリー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen270|仮面俳優153|21st7}}}} - [[喜多川2tom|喜多川務]] * イエローフォー{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen270|仮面俳優181}}}}、ジュウオウ{{R|taizen199|仮面俳優191}}、メカクローン(第50話){{efn|イエローフォーに扮したジュン役の田中澄子との絡みでメカクローンに扮した<ref>{{Cite book|和書|year=2005-03-10|title=東映ヒーローMAX|volume= Vol.12|page=78|publisher=[[辰巳出版]]|series=タツミムック|id=ISBN 4-7778-0127-6}}</ref>。}} - [[辻井啓伺|辻井啓嗣]] * ピンクファイブ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集75|taizen270|仮面俳優181|20th93}}}} - [[竹田道弘]] * ピーボ{{Refnest|group="出典"|{{Sfn|大全集|1988|p=83}}{{R|Actor|taizen270}}}} - 野本奈穂子 * メッサージュウ{{R|taizen199}} - [[金田憲明]] * バイオロボ{{Refnest|group="出典"|{{R|大全集198|taizen270|仮面俳優133|21st5}}}}、サイゴーン{{R|taizen199|仮面俳優133}} - [[日下秀昭]] * グリーンツー{{R|taizen270}}、アクアイガー{{R|taizen199}}、ジュウオウ(代役){{R|仮面俳優191}} - [[石垣広文]] * バイオハンターシルバ{{R|hiroshi|仮面俳優143}}、メカクローン1号{{R|taizen226|仮面俳優143}} - [[岡本美登]] * マグネ戦士{{R|taizen212}} - [[赤田昌人]] * メカクローン{{R|toei-18}} - 大竹浩二 * メカクローン<ref name="ショッカーO野" />、他<ref name="ショッカーO野" /> - [[ショッカーO野]] == スタッフ == メインライターは前作から引き続き[[曽田博久]]。曽田はそれまでも常に新しくすることを考えていたため、本作品で特別に革新を狙ってはいなかったが、しっかりした縦糸を作らないと持たない気がしたと述べている{{R|20th88}}。本作品からは[[藤井邦夫]]がサブライターとして新たに参加し、多彩なストーリーを執筆した。元々助監督として東映テレビプロダクションに入社し、『[[特捜最前線]]』でも演出陣に名を連ねていたこともあり、藤井には本作品への参加に際して監督としてもオファーがあったが、特撮作品の演出は自信がないとの理由で依頼を断っている。 メイン監督は前年より特撮作品の演出に参入した[[堀長文]]がパイロットを担当。スーパー戦隊シリーズに初めてビデオ合成を導入したり、[[長回し]]のカットを多用したりと演出に新風を吹き込ませた。堀はその後3作品連続でパイロット作品を手掛けた。 また東映の[[鈴木武幸]]プロデューサーが本作品の途中からチーフプロデューサーに昇格、シリーズの数多の作品で辣腕を振るい続けることになる。 シャープなデザインが特徴のギアの各キャラクターは、前作より引き続き参加の[[出渕裕]]が担当した。デザインだけでなくプロットも手掛けるなど制作に深く関わっており{{efn|良心回路の設定、プリンスの再登場、郷の父をドクターマンと因縁付けるなどの案は出渕によるものである{{R|20th85}}。}}、後年にも自身の肌にあった作品であったと述懐している{{R|百化出渕}}。 後のスーパー戦隊シリーズで特撮監督を務める[[佛田洋]]の初参加作品である。 * プロデューサー - 加藤守啓(テレビ朝日)、[[阿部征司]](第1 - 18話)・[[鈴木武幸]](東映)、富田泰弘([[東映エージエンシー]]) * 原作 - [[八手三郎]] * 連載 - [[テレビマガジン]]、[[てれびくん]]、[[テレビランド]]、[[TVアニメマガジン]](第1 - 22話) * 脚本 - [[曽田博久]]、[[藤井邦夫]]、[[鷺山京子]]、[[山本優]]、[[鳴海丈]] * 音楽 - [[矢野立美]] * アクション監督 - [[山岡淳二]]、横山稔([[ジャパンアクションクラブ|ジャパン・アクション・クラブ]]) * 監督 - [[堀長文]]、[[山田稔 (テレビドラマ監督)|山田稔]]、服部和史 * 撮影 - [[いのくままさお]] * 照明 - 斉藤久、高橋弘 * 美術 - 山下宏、宮国登 * キャラクターデザイン - [[出渕裕]]、[[原田吉朗]]、森野うさぎ、渡部昌彦、[[神田正宏]]{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|pp=202-211}} * 録音 - 上出栄二郎 * 効果 - 大泉音映 * 選曲 - 石川孝 * 編集 - 成島一城 * 製作担当 - 山本康郎 * 進行主任 - 奈良場稔 * 計測 - 黒須健雄 * 記録 - 石川和枝 * 助監督 - 阿部誠華、[[小中肇]] * 製作デスク - 寺崎英世 * 装置 - 東映美術センター * 操演 - 船越幹雄 * 美粧 - サン・メイク * 衣裳 - 鷹志衣裳 * 装飾 - [[装美社]] * 撮影協力 - [[後楽園ゆうえんち]]、浅間園・浅間火山博物館 * 企画協力 - [[企画者104]] * キャラクター制作 - [[レインボー造型企画]] * 合成 - [[チャンネル16]] * 現像 - [[東映化学工業|東映化学]] * 車輌協力 - [[マツダ|MAZDA]] * オートバイ協力 - [[スズキ (企業)|スズキ自動車]] * ビデオ合成 - [[東通ecgシステム]](近藤弘志、前岡良徹、峰沢和夫、山本博司) * (株)[[特撮研究所]] **操演 - [[鈴木昶]]、白熊栄次 **美術 - [[大澤哲三]] **撮影 - 高橋政千 **照明 - 加藤純弘 * 特撮監督 - [[矢島信男]] * 制作 - [[テレビ朝日]]、[[東映]]、[[東映エージエンシー]] == 音楽 == 『[[電子戦隊デンジマン]]』以来となる単独の劇伴を収録した[[レコード|LP]]『超電子バイオマン 音楽集』が発売され、本作品より歌曲中心の「ヒット曲集」と劇伴による「音楽集」の二本立てによるリリース形式が確立された。 ; 主題歌 : スーパー戦隊シリーズとしては初めて、劇伴担当者とは異なる作曲家が主題歌作曲を担当することとなり、当時の人気作詞家・康珍化と、音楽プロデューサーとして著名な加瀬邦彦の豪華コンビが起用された。作曲家とアレンジャーが分けられたのも本作品からである。 : 主題歌および挿入歌を歌った宮内はこの曲がソロデビュー曲となり、以降の戦隊シリーズや東映特撮作品でも常連歌手として活躍することになる。 :; オープニングテーマ「超電子バイオマン」 :: 作詞:[[康珍化]] / 作曲:[[加瀬邦彦]] / 編曲:[[矢野立美]] / 歌:[[宮内タカユキ]] :: 鈴木プロデューサーの回想によると、康はスタッフの熱意に負けじと、主題歌の歌詞を巨大な地球の写真に書き付けて送ってきたそうである。 :: OP映像のキャスト紹介で、高杉真吾のものだけが第5話から差し替えられている。 :; エンディングテーマ「バイオミック・ソルジャー」 :: 作詞:康珍化 / 作曲:加瀬邦彦 / 編曲:矢野立美 / 歌:宮内タカユキ :: エンディングの映像は、当時のシリーズのパターンとして5人の日常的な姿やメカの活躍シーン、敵側レギュラーの揃いといったシーンで構成されている。 :: またイエローの交代、ギアのパワーアップとバイオ粒子斬りの登場、終盤におけるギア側のレギュラーの退陣と物語の展開に合わせて、当時としては珍しく幾度かのマイナーチェンジが行われた。 :: 冒頭のバイオロボを清掃するシーンは映っているメンバーがミカのまま、イエロー交代後も差し替えずに継続使用。また、終盤の5人が走ってくるシーンが34話より、全員新規撮影のものに差し替えられている{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=175|}}。 : ; 挿入歌 :; 「俺達バイオマン」(第33・49話) :: 作詞:[[八手三郎]] / 作曲:加瀬邦彦 / 編曲:[[田中公平]] / 歌:宮内タカユキ、[[こおろぎ'73]] :; 「セクシャル・レディ」(第15・21話) :: 作詞:[[吉田健美]] / 作曲:加瀬邦彦 / 編曲:田中公平/ 歌:石渡マキ :: 第11話ではカラオケ版のみが3回使用された。 :: 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』では、「女戦士(ファイブマンのファイブイエローまで)」を紹介する際の挿入歌として使用されている。 :; 「Blue Togetherness」(第11話・劇場版) :: 作詞:[[冬杜花代子]] / 作曲・編曲:[[矢野立美]] / 歌:宮内タカユキ :: 第15話ではイントロのみが使用された。 :: 『百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊』では、「力の戦士」紹介時の挿入歌として使用されている。 :; 「大空翔けて!」(第18話・劇場版) :: 作詞:冬杜花代子 / 作曲・編曲:矢野立美 / 歌:こおろぎ'73、ジャパン・エコーシンガーズ :; 「カラフル・バイオマン」(第12話) :: 作詞:吉田健美 / 作曲:加瀬邦彦 / 編曲:矢野立美 / 歌:宮内タカユキ、こおろぎ'73、ジャパン・エコーシンガーズ :; 「夢みるピーボ」 :: 作詞:[[曽田博久]] / 作曲・編曲:田中公平 / 歌:太田淑子、[[音羽ゆりかご会|コロムビアゆりかご会]] :; 「バイオロボの歌」(第12 - 14・16・17・20 - 22・24・25・28 - 30・32・34 - 36・38 - 41・44・47・48話・劇場版) :: 作詞:八手三郎 / 作曲:田中公平 / 編曲:矢野立美 / 歌:宮内タカユキ :: 第11・15話ではカラオケ版が使用された。 :: コーダ部分は編曲の矢野によるスーパーメーザー使用時の劇伴をモチーフとしている。 :; 「夕焼けのペガサス」 :: 作詞:冬杜花代子 / 作曲:加瀬邦彦 / 編曲:田中公平 / 歌:阪本良介 == 放送日程 == {| class="wikitable" style="text-align: center; font-size: smaller;" |- !放送日!!放送回!!サブタイトル!!主役ジューノイドおよびゲストメカなど!!登場巨大メカ!!脚本!!アクション監督!!監督 |- |style="text-align: right;"|1984年{{0}}2月{{0}}4日 |style="text-align: center;"|1 |style="text-align: center;"|謎の巨大ロボ出現 |style="text-align: left;"| * メッサージュウ |style="text-align: left;"| * [[カブトガニ|カブト]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="8"|曽田博久 |rowspan="38"|山岡淳二 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|2月11日 |style="text-align: center;"|2 |style="text-align: center;"|集合!宿命の戦士 |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[悪魔|デビル]]カンス |- |style="text-align: right;"|2月18日 |style="text-align: center;"|3 |style="text-align: center;"|わが友バイオロボ |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[ゴリラ]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|2月25日 |style="text-align: center;"|4 |style="text-align: center;"|自爆!メカ人間 |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[カブトムシ|ビートル]]カンス |- |style="text-align: right;"|3月{{0}}3日 |style="text-align: center;"|5 |style="text-align: center;"|見えない敵を斬れ |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[ミイラ]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|3月10日 |style="text-align: center;"|6 |style="text-align: center;"|起て!バイオロボ |style="text-align: left;"| * アクアイガー |style="text-align: left;"| * [[サイ]]カンス |- |style="text-align: right;"|3月17日 |style="text-align: center;"|7 |style="text-align: center;"|つかまったピーボ |style="text-align: left;" rowspan="2"| * メッサージュウ * メカ人間ジョーイ |style="text-align: left;" rowspan="2"| * [[イソギンチャク|イソギン]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|3月24日 |style="text-align: center;"|8 |style="text-align: center;"|戦え!星に誓って |- |style="text-align: right;"|3月31日 |style="text-align: center;"|9 |style="text-align: center;"|人を消すなわ跳び |style="text-align: left;"| * メッサージュウ * ツインドール |style="text-align: left;"| * ツインカンス |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|4月{{0}}7日 |style="text-align: center;"|10 |style="text-align: center;"|さよならイエロー |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[カメレオン科|カメレオン]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|4月14日 |style="text-align: center;"|11 |style="text-align: center;"|新戦士ジュン登場 |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[武士|ムシャ]]カンス |- |style="text-align: right;"|4月21日 |style="text-align: center;"|12 |style="text-align: center;"|殺人者グリーン! |style="text-align: left;"| * アクアイガー * 風船爆弾{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=120}} |style="text-align: left;"| * ハンマーカンス |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |style="text-align: left;"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|4月28日 |style="text-align: center;"|13 |style="text-align: center;"|ジュンよ |style="text-align: left;"| * メッサージュウ |style="text-align: left;"| * [[サメ]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|5月{{0}}5日 |style="text-align: center;"|14 |style="text-align: center;"|新頭脳ブレイン! |style="text-align: left;"| * アクアイガー * ブレイン |style="text-align: left;"| * [[錨|アンカー]]カンス |- |style="text-align: right;"|5月12日 |style="text-align: center;"|15 |style="text-align: center;"|女戦士炎のちかい |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[カエル]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |style="text-align: left;"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|5月19日 |style="text-align: center;"|16 |style="text-align: center;"|走れ21599秒 |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[ネプトゥーヌス|ネプチューン]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |style="text-align: left;"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|5月26日 |style="text-align: center;"|17 |style="text-align: center;"|僕は龍宮城を見た |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[カメ]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|6月{{0}}2日 |style="text-align: center;"|18 |style="text-align: center;"|超能力少女の祈り |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[埴輪|ハニワ]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |- |style="text-align: right;"|6月{{0}}9日 |style="text-align: center;"|19 |style="text-align: center;"|父はドクターマン |style="text-align: left;"| * メッツラー * プリンス |style="text-align: left;" rowspan="2"| * グロテスカンス |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|6月16日 |style="text-align: center;"|20 |style="text-align: center;"|プリンスの挑戦! |style="text-align: left;"| * サイゴーン * プリンス |- |style="text-align: right;"|6月23日 |style="text-align: center;"|21 |style="text-align: center;"|守れバイオベース |style="text-align: left;"| * アクアイガー |style="text-align: left;"| * [[カメラ]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|6月30日 |style="text-align: center;"|22 |style="text-align: center;"|大泥棒?! ブルー! |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[スカラベ]]カンス |style="text-align: left;"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|7月{{0}}7日 |style="text-align: center;"|23 |style="text-align: center;"|ギョ!人形の襲撃 |style="text-align: left;"| * アクアイガー |style="text-align: left;"| * [[ピラニア]]カンス |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|7月14日 |style="text-align: center;"|24 |style="text-align: center;"|爆発する愛の花! |style="text-align: left;"| * メッサージュウ * 爆弾花{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;"| * [[ドクガ]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |- |style="text-align: right;"|7月21日 |style="text-align: center;"|25 |style="text-align: center;"|プリンスの幽霊? |style="text-align: left;" rowspan="2"| * メッツラー * 幽霊軍団 |style="text-align: left;" rowspan="2"| * [[幽霊|ゴースト]]カンス * 亡霊カンス{{efn|ムシャカンス・カエルカンス・カメカンス・スカラベカンスの4体。}} |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|7月28日 |style="text-align: center;"|26 |style="text-align: center;"|恐るべき父の秘密 |- |style="text-align: right;"|8月{{0}}4日 |style="text-align: center;"|27 |style="text-align: center;"|クモ地獄の女戦士 |style="text-align: left;"| * メッツラー * メカグモ{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;"| * [[クモ]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|8月11日 |style="text-align: center;"|28 |style="text-align: center;"|ドクターマン暗殺 |style="text-align: left;"| * ジューノイド5獣士 |style="text-align: left;"| * [[タコ]]カンス |style="text-align: left;"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|8月18日 |style="text-align: center;"|29 |style="text-align: center;"|東京が消える日?! |style="text-align: left;"| * メッサージュウ |style="text-align: left;"| * [[クラゲ]]カンス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|8月25日 |style="text-align: center;"|30 |style="text-align: center;"|最強カンスの魔剣 |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[カマキリ]]カンス |style="text-align: left;" rowspan="9"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|9月{{0}}1日 |style="text-align: center;"|31 |style="text-align: center;"|新型?! メガス出現 |style="text-align: left;"| * ジューノイド5獣士 |style="text-align: left;"| * メタルメガス |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|9月{{0}}8日 |style="text-align: center;"|32 |style="text-align: center;"|ギアの大改造作戦 |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[斧|アックス]]メガス |- |style="text-align: right;"|9月15日 |style="text-align: center;"|33 |style="text-align: center;"|出るか?! 新必殺技 |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[髑髏|ドクロ]]メガス |style="text-align: left;" rowspan="4"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|9月22日 |style="text-align: center;"|34 |style="text-align: center;"|見よ!バイオの力 |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * レスラーメガス |- |style="text-align: right;"|9月29日 |style="text-align: center;"|35 |style="text-align: center;"|6番目の男 |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;" rowspan="2"| * マグネメガス |- |style="text-align: right;"|10月{{0}}6日 |style="text-align: center;"|36 |style="text-align: center;"|変身ボーイ |style="text-align: left;"| * サイゴーン * マグネ戦士 |- |style="text-align: right;"|10月13日 |style="text-align: center;"|37 |style="text-align: center;"|殺し屋シルバ! |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[カノン砲|カノン]]メガス |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|10月20日 |style="text-align: center;"|38 |style="text-align: center;"|謎のバルジオン |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[戦闘|バトル]]メガス * バルジオン |- |style="text-align: right;"|10月27日 |style="text-align: center;"|39 |style="text-align: center;"|メイスンのわな! |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[音波|ソニック]]メガス |style="text-align: left;"|山本優 |rowspan="2"|横山稔 |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|11月3日 |style="text-align: center;"|40 |style="text-align: center;"|奪われたターボ! |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * クラッシュメガス |style="text-align: left;"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|11月10日 |style="text-align: center;"|41 |style="text-align: center;"|悪魔の子守り唄! |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[アマゾーン|アマゾン]]メガス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |rowspan="11"|山岡淳二 |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|11月17日 |style="text-align: center;"|42 |style="text-align: center;"|郷!命を賭けろ! |style="text-align: left;"| * ジュウオウ |style="text-align: left;"| * [[雷|サンダー]]メガス |style="text-align: left;"|鳴海丈 |- |style="text-align: right;"|11月24日 |style="text-align: center;"|43 |style="text-align: center;"|セーラー服の戦士 |style="text-align: left;"| * サイゴーン * メカ人間ミキ |style="text-align: left;" rowspan="2"| * [[サタン]]メガス |style="text-align: left;" rowspan="2"|曽田博久 |style="text-align: left;" rowspan="2"|堀長文 |- |style="text-align: right;"|12月1日 |style="text-align: center;"|44 |style="text-align: center;"|美しき良心回路 |style="text-align: left;"| * メッツラー * メカ人間ミキ |- |style="text-align: right;"|12月8日 |style="text-align: center;"|45 |style="text-align: center;"|人間爆弾ジュン! |style="text-align: left;"| * メッツラー |style="text-align: left;"| * [[バロック]]メガス |style="text-align: left;"|藤井邦夫 |style="text-align: left;" rowspan="3"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|12月15日 |style="text-align: center;"|46 |style="text-align: center;"|脱出!わなの町! |style="text-align: left;"| * ジュウオウ * おばけつた{{Sfn|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=121}} |style="text-align: left;"| * [[ラグビーフットボール|ラガー]]メガス |style="text-align: left;"|鷺山京子 |- |style="text-align: right;"|12月22日 |style="text-align: center;"|47 |style="text-align: center;"|柴田博士の正体!? |style="text-align: left;"| * サイゴーン |style="text-align: left;"| * [[レンズ]]メガス |style="text-align: left;" rowspan="5"|曽田博久 |- |style="text-align: right;"|12月29日 |style="text-align: center;"|48 |style="text-align: center;"|出現!バルジオン |style="text-align: left;"| * ジュウオウ * モンスター |style="text-align: left;"| * スーパーメガス * バルジオン |style="text-align: left;" rowspan="2"|服部和史 |- |style="text-align: right;"|1985年{{0}}1月12日{{efn|1月5日は「お正月アニメスペシャル『[[地球へ…#アニメ映画版|地球へ…]]』」放送のため休止。}} |style="text-align: center;"|49 |style="text-align: center;"|危うしバイオロボ |style="text-align: left;"| * メッツラー * ファラ |style="text-align: left;"| * バルジオン |- |style="text-align: right;"|1月19日 |style="text-align: center;"|50 |style="text-align: center;"|突撃ネオグラード |style="text-align: left;"| * サイゴーン * メイスン * シルバ |style="text-align: left;"| * バルジオン * キングメガス |style="text-align: left;" rowspan="2"|山田稔 |- |style="text-align: right;"|1月26日 |style="text-align: center;"|51 |style="text-align: center;"|さよなら!ピーボ |style="text-align: left;"| * ファラキャット * ドクターマン |style="text-align: left;"| * キングメガス |} === 評価 === マンネリ化打破と野心的な新機軸が多く盛り込まれた結果、視聴者層を幼児・児童層から10代全般にまで拡大し、女子層の獲得にも成功したとされる{{R|大全集172|全怪獣|20th5}}。 玩具展開でも当時の戦隊シリーズで「シリーズ最高」の売上{{R|toy8502}}を達成した作品であり、戦隊シリーズを玩具業界で「定番」と位置づけた。ただしバンダイの見込みでは本作品は前作『ダイナマン』対比で130%の売上を期待されていたが{{R|トイジャーナル}}、110%の売上に留まった。バンダイのデザイン部[[プレックス]]に在籍していた[[大石一雄]]は、本作品の販売成績について苦戦していたと述べており、バイオロボの合体方法が2機合体だったことが苦戦した要因ではないかと推測している<ref>{{Cite journal|和書|date = 2000-08-04|journal = 玩具人生|issue = 1|page = 52|publisher = [[音楽専科社]]}}</ref>。 またテレビ局に入る本作品のキャラクター使用料は、1984年度における全テレビ局のキャラクターの中で『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』に次ぐ2位である<ref>マーチャンダイジングライツレポート1985年1月号{{要ページ番号|date=2017年12月}}</ref>。 == 放送局 == {{節スタブ}} 系列は放送当時のもの。 {| class="wikitable" style="font-size:small" !放送地域!!放送局!!放送日時!!系列!!備考 |- |[[広域放送|関東広域圏]]||テレビ朝日||土曜 18:00 - 18:25||rowspan="2"|[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]||制作局 |- |[[北海道]]||[[北海道テレビ放送|北海道テレビ]]|||| |- |[[青森県]]||[[青森放送]]||||[[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]<br />テレビ朝日系列|| |- |[[岩手県]]||岩手放送||水曜 17:00 - 17:30(1985年3月まで)→<br />水曜 16:35 - 17:00(1985年4月から)<ref>『[[日刊スポーツ]]』1985年3月6日 - 7月31日付テレビ欄。</ref>||[[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]||現・[[IBC岩手放送]] |- |[[秋田県]]||[[秋田放送]]||||日本テレビ系列|| |- |[[山形県]]||[[山形放送]]||金曜 17:00 - 17:30<ref>『日刊スポーツ』1985年3月1日 - 6月28日付テレビ欄。</ref>||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列|| |- |[[宮城県]]||[[東日本放送]]||rowspan="2"|土曜 18:00 - 18:25<ref>『[[福島民報]]』1984年2月4日 - 1985年1月26日付朝刊、テレビ欄。</ref>||rowspan="3"|テレビ朝日系列|| |- |[[福島県]]||[[福島放送]]|| |- |[[新潟県]]||[[新潟テレビ21]]|||| |- |[[山梨県]]||[[山梨放送]]||||rowspan="2"|日本テレビ系列|| |- |[[富山県]]||[[北日本放送]]||木曜 17:00 - 17:25||1984年5月24日から1985年6月13日まで放送<ref>『[[北日本新聞]]』1984年5月24日付、1985年6月13日付各朝刊、テレビ欄。</ref> |- |[[石川県]]||[[北陸放送]]||水曜 17:30 - 17:55<br>→火曜 17:30 - 17:55(最終回時点)||TBS系列||1984年2月8日から1985年1月29日まで放送<ref>『[[北國新聞]]』1984年2月8日付、1985年1月29日付各朝刊、テレビ欄。</ref> |- |[[福井県]]||[[福井テレビジョン放送|福井テレビ]]||木曜 17:25 - 17:55||[[フジネットワーク|フジテレビ系列]]||1984年2月9日から1985年1月31日まで放送<ref>『北國新聞』1984年2月9日付、1985年1月31日付各朝刊、テレビ欄。</ref> |- |[[長野県]]||[[テレビ信州]]|||||日本テレビ系列<br />テレビ朝日系列|| |- |[[静岡県]]||静岡けんみんテレビ||||rowspan="3"|テレビ朝日系列||現・[[静岡朝日テレビ]] |- |[[広域放送|中京広域圏]]||[[名古屋テレビ放送|名古屋放送]]|||| |- |[[広域放送|近畿広域圏]]||[[朝日放送テレビ|朝日放送]]|||| |- |[[島根県]]・[[鳥取県]]||[[日本海テレビジョン放送|日本海テレビ]]||||日本テレビ系列|| |- |[[岡山県]]・[[香川県]]||[[瀬戸内海放送]]||||rowspan="2"|テレビ朝日系列|| |- |[[広島県]]||[[広島ホームテレビ]]|||| |- |[[山口県]]||[[テレビ山口]]|||||TBS系列<br />フジテレビ系列|| |- |[[徳島県]]||[[四国放送]]||||日本テレビ系列|| |- |[[愛媛県]]||愛媛放送||||フジテレビ系列||現・[[テレビ愛媛]] |- |[[高知県]]||[[テレビ高知]]||||TBS系列|| |- |[[福岡県]]||[[九州朝日放送]]||||テレビ朝日系列|| |- |[[長崎県]]||[[長崎放送]]||||rowspan="2"|TBS系列|| |- |[[宮崎県]]||[[宮崎放送]]|||| |- |[[熊本県]]||[[テレビ熊本]]||||フジテレビ系列<br />テレビ朝日系列|| |- |[[鹿児島県]]||[[鹿児島放送]]||||テレビ朝日系列|| |- |[[沖縄県]]||[[琉球放送]]||||TBS系列|| |} == 他媒体展開 == === 映像ソフト化 === いずれも発売元は[[東映ビデオ]]。 * [[DVD]]は[[2008年]][[8月8日]]から[[12月5日]]にかけて、全5巻が発売された。各巻2枚組で10話(Vol.1のみ11話)収録。テレビシリーズ全話の初ソフト化もあってか反響は大きく、特にVol.1は爆発的ヒットを記録し、旧作にもかかわらず同年8月における特撮ソフトジャンルにて売上第2位を記録した。 * [[2021年]][[4月14日]]発売の『スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1982 - 1986』に計7話{{efn|第1・13・37・43・44・50・51話。}}が収録されている<ref name="ikkyomi">[https://www.toei-video.co.jp/special/supersentai-ikkyo/ 東映ビデオ:「スーパー戦隊一挙見Blu-ray」特集]</ref>。 * 劇場版は、ビデオ([[VHS]]、セル・レンタル共通)と[[2003年]][[7月21日]]発売のDVD-BOX『スーパー戦隊 THE MOVIE BOX』{{R|U106}}、[[2004年]]7月21日発売の『スーパー戦隊 THE MOVIE VOl.2』、スーパー戦隊 THE MOVIE Blu-ray BOX 1976-1995」(2011年6月21日発売)、2012年11月発売の「復刻!東映まんがまつり84夏」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.toei-video.co.jp/catalog/dstd03555/|title=「復刻!東映まんがまつり84夏」|accessdate=2021-10-15|publisher=東映ビデオ}}</ref>、前述の『スーパー戦隊一挙見Blu-ray 1982 - 1986』{{efn|映像特典扱い<ref name="ikkyomi"/>。}}に収録されている。 === 他テレビシリーズ === ; 『[[高速戦隊ターボレンジャー]]』 : 第1話「10大戦隊集合 頼むぞ! ターボレンジャー」(特別編)で、バイオマンの5人が登場。 ; 『[[未来戦隊タイムレンジャー]]』 : 第51話「スーパー戦隊大集合」(特別総集編)で、タイムレンジャー5人がタイムジェットで本作品の世界を見に来たという設定で、本作品の映像が流用されている。 ; 『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』 : 第1話などのレジェンド大戦を描いた箇所に、バイオマンの5人が他のスーパー戦隊とともに登場。 ; 『[[非公認戦隊アキバレンジャー|非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛]]』 : 第13話にて初代イエローフォーが登場。また第9話ではメカジャイガンをモチーフとしたシーラカンスカンスも登場している。 === 劇場版 === ; 超電子バイオマン<!--副題なし--> : 1984年7月14日公開。[[東映まんがまつり]]の一編として制作・公開された新作。上映時間45分と、『[[電子戦隊デンジマン#映画作品|電子戦隊デンジマン]]』以来となる40分超の中編作品となった。 :* 監督:堀長文 :* 特撮監督:矢島信男 :* アクション監督 : 山岡淳二 :* 脚本:曽田博久 :* 登場怪人:[[カニ]]カンス、ジューノイド5獣士、キャット軍団 : カニカンス、キャット軍団(キャット1・キャット2・キャット3)は映画だけのオリジナルキャラクター。 : 同作品の撮影中、アクション時の衝撃で脳震盪を起こしたジュン役の田中澄子が、一時的に記憶喪失になった。しかし大事には至らず、撮影は無事終了した{{Sfn|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=170, 246}}。 ; [[ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦]] : 『ゴーカイジャー』と『ゴセイジャー』のクロスオーバー作品。レッドワン/郷およびバイオロボが登場。 ; [[海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE 空飛ぶ幽霊船]] : 『ゴーカイジャー』の単独作品。メカクローンが登場。 ; [[仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦]] : 『ゴーカイジャー』を始めとするスーパー戦隊シリーズと、仮面ライダーシリーズのクロスオーバー作品。レッドワンおよびシルバが登場。 ; 『[[機界戦隊ゼンカイジャー THE MOVIE 赤い戦い! オール戦隊大集会!!]]』 : 2021年2月20日公開。『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』の劇場作品。レッドワンとシルバが登場。 === スーパー戦隊Vシネマ === ; 『[[百獣戦隊ガオレンジャーVSスーパー戦隊]]』 : 『百獣戦隊ガオレンジャー』をメインとしたクロスオーバー作品で、レッドワンおよびバイオジェット1号が登場。 === ゲーム === * 1998年に[[バンダイナムコエンターテインメント|バンプレスト]]([[バンプレスト|旧レーベル]]、後のバンダイナムコゲームス→バンダイナムコエンターテインメント)から発売の[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用『[[AZITO|AZITO2]]』にバイオマンが参戦した(同時期放送の『[[宇宙刑事シャイダー]]』も参戦)。 * これ以前のものでは、同じくバンプレストが1990年に[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]ソフトで発売した『[[SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所]]』がある。その中で歴代戦隊ロボが力士となって集まった戦隊部屋があり、バイオロボは登場しないものの、シルバが力士として登場。必殺技を使用する際、バルジオンに変身して反バイオ粒子砲を撃つファンサービスがある。 === 漫画版および雑誌展開 === ; [[テレビランド]]([[徳間書店]]) 作画: 細井雄二 : 徳間書店から全1巻が発売されている。特徴としては敵方がドクターマンとジューノイド5獣士のみで、ビッグスリーもファラキャットも登場しない。またテレビシリーズとはエピソード的な関連も低く、物語的にもかなりダイジェスト化されている。 ; [[テレビマガジン]]([[講談社]]) 作画:[[津原義明]] ; [[TVアニメマガジン]]([[秋田書店]]) 作画:[[岡崎優]] ; [[てれびくん]]([[小学館]])作画:[[おちよしひこ]] 『[[テレビマガジン]]』、『[[てれびくん]]』、『[[テレビランド]]』の各雑誌は2月号より本作品の掲載が始まっているが、『[[TVアニメマガジン]]』では他の競合雑誌からは1か月遅れの番組開始の3月号からの掲載となった。また同誌が1984年6月号をもって休刊したため、第23話以降のクレジットは前述の3雑誌のみに変更された。 === CS放送・ネット配信 === ; CS放送 * [[東映チャンネル]] ** [[2003年]][[2月]] - [[7月]](「スーパー戦隊ワールド」枠) ** [[2004年]][[9月]] - [[12月]](「アンコールアワー」枠) ; ネット配信 * 東映特撮 [[YouTube]] Official ** [[2012年]][[5月21日]] - [[11月11日]] ** [[2018年]][[6月2日]] - [[12月1日]] === 日本国外における展開 === [[フランス]]で吹替版が放送され、高い人気を得た{{R|S36|HTB}}。 [[アメリカ合衆国]]では[[1985年]]に[[サバン・エンターテイメント|サバン・プロダクションズ]]が1話につき1万ドルで国際放映権を取得し{{R|HTB}}、本作品をベースにアメリカで撮影した映像を組み合わせた作品『Bio-Man』(監督・脚本 - [[シュキ・レヴィ]])を制作するが{{R|Kidd|newyorker}}、放送には至らなかった{{R|newyorker}}。1990年代初頭に[[Fox Kids|Foxチルドレンネットワーク]]社長の[[マーガレット・ローシュ]]が『Bio-Man』を見たことが[[パワーレンジャー|パワーレンジャーシリーズ]]制作のきっかけとなっている{{R|newyorker}}。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 参照話数 === {{Reflist|group="ep"|2 |refs= <ref name="3話">第3話。</ref> <ref name="10話">第10話。</ref> <ref name="15話">第15話。</ref> <ref name="17話">第17話。</ref> <ref name="19話">第19話。</ref> <ref name="26話">第26話。</ref> <ref name="28話">第28話。</ref> <ref name="31話">第31話。</ref> <ref name="32話">第32話。</ref> <ref name="33話">第33話。</ref> <ref name="34話">第34話。</ref> <ref name="37話">第37話。</ref> <ref name="39話">第39話</ref> <ref name="48話">第48話。</ref> <ref name="49話">第49話。</ref> <ref name="50話">第50話。</ref> <ref name="51話">第51話。</ref> }} === 出典 === {{Reflist |refs= <ref name="トイジャーナル">{{Cite journal|和書 |date=1984-10-01 |editor=野村芳朗 |issue= 1984年10月号 |journal= [[トイジャーナル]] |page=16 |publisher=東京玩具人形問屋協同組合 |title=巻頭特集/年末年始商戦PART 1 商品研究 3 男児キャラクター 安定性と若干の厳しさが同居}}</ref> <ref name="大全集75">{{Harvnb|大全集|1988|p=75|loc=「超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="大全集78">{{Harvnb|大全集|1988|pp=78-79|loc=「コンビネーションアタック」}}</ref> <ref name="大全集172">{{Harvnb|大全集|1988|pp=172-173|loc=「作品の飛躍 超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="大全集191">{{Harvnb|大全集|1988|p=191|loc=「スーパー戦隊人名録 超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="大全集198">{{Harvnb|大全集|1988|pp=198-199|loc=「シリーズを支える影の主人公」}}</ref> <ref name="大全集212">{{Harvnb|大全集|1988|pp=212-213|loc=「スーパー戦隊全戦力 超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="全怪獣">{{Cite book|和書|year=1990|title=[[全怪獣怪人]]|publisher=[[勁文社]]|volume=上巻|page=414|isbn=4-7669-0962-3}}</ref> <ref name="超世紀159">{{Harvnb|大全集|1993|p=159|loc=「戦隊20年の戦い シリーズの変遷 ロボ戦の充実 超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="超世紀174">{{Harvnb|大全集|1993|p=174|loc=「超世紀全戦隊メカニックファイル」}}</ref> <ref name="超人">{{Cite book|和書|editor=竹書房/イオン編|date=1995-11-30|title=超人画報 国産架空ヒーロー40年の歩み|publisher=[[竹書房]]|page=172|id=C0076|isbn=4-88475-874-9}}</ref> <ref name="material36">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|pp=36-39}}</ref> <ref name="material60">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=60}}</ref> <ref name="material61">{{Harvnb|完全マテリアルブック 上巻|2002|p=61}}</ref> <ref name="taizen13">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=13}}</ref> <ref name="taizen177">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=177|loc=「メインキャラクター紹介 レッドワン」}}</ref> <ref name="taizen179">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=179|loc=「メインキャラクター紹介 グリーンツー」}}</ref> <ref name="taizen181">{{Harvnb|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004|p=181|loc=「メインキャラクター紹介 ブルースリー」}}</ref> 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book|和書|year=2012|title=スーパー戦隊 36LEGENDS|publisher=日之出出版|page=92|isbn=978-4891988623|chapter=緑の章 World パワーレンジャー}}</ref> <ref name="超百科">{{Cite book |和書 |chapter = ライダーハンター・シルバ |date= 2012-04-23 |editor= 小野浩一郎(エープロダクション) |isbn = 978-4-06-304825-4 |page=49 |publisher= 講談社 |series = テレビマガジン デラックス223 |title= 決定版 仮面ライダー×スーパー戦隊 スーパーヒーロー大戦超百科}}</ref> <ref name="仮面俳優133">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=133-142|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 12 [[日下秀昭]]」}}</ref> <ref name="仮面俳優143">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=143-152|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 13 [[岡本美登]]」(東映ヒーローMAX vol.29掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優153">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=153-162|loc=「第4章 東映ヒーロー史に刻み込まれた匠の技と業 14 [[喜多川2tom|喜多川務(2tom)]]」(東映ヒーローMAX vol.39掲載)}}</ref> <ref name="仮面俳優181">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=181-190|loc=「第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 17 [[竹田道弘]]」}}</ref> <ref name="仮面俳優191">{{Harvnb|仮面俳優列伝|2014|pp=191-198|loc=「第5章 プレイヤーからアクション監督への転身 18 [[石垣広文]]」}}</ref> <ref name="21st5">{{Harvnb|21st 5|2017|p=32|loc=「スーパー戦隊制作の裏舞台 [[日下秀昭]]」}}</ref> <ref 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name="toy8502">{{Cite journal|和書|editor=野村芳朗|title=商品ジャンル別レポート(3)男児キャラクター/伸び悩み、在庫が印象をより悪く|journal=トイジャーナル|issue=1985年2月号|page=43|publisher=東京玩具人形問屋協同組合|date=1985-02-01}}</ref> <ref name ="Kidd">{{Cite web|url=http://articles.latimes.com/1986-08-12/business/fi-18776_1_haim-saban|title=Kidd Stuff : A Crop of New Shows Sprouts From Saban Firm's TV Success|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ]]|accessdate=2014-05-24}}</ref> <ref name="U87_47">{{Cite journal|和書|date=1999-03-01|title=[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]|volume=Vol.87|issue=(1999年冬号)|page=47|publisher=[[朝日ソノラマ]]|id=雑誌コード:01843-03}}</ref> <ref name="U106">{{Cite journal|和書|date=2003-05-01|title=DVD & VIDEO Selection|journal=宇宙船|volume=Vol.106|issue=(2003年5月号)|page=88|publisher=朝日ソノラマ|id=雑誌コード:01843-05}}</ref> <ref name="toei-18">『東映ヒーローMAX』Vol,18、辰巳出版、73頁</ref> <ref name="特撮全史">{{Harvnb|特撮全史|2020|p=23|loc=「超電子バイオマン」}}</ref> <ref name="学研の図鑑97">{{Harvnb|学研の図鑑|2021|p=97|loc=「頼れるサポーターたち(1)」}}</ref> <ref 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後楽園|publisher=「hiroshiのブログ」([[前田浩]]公式ブログ)|accessdate=2011-05-05}}</ref> <ref name="hiroshi">{{Cite web|和書|date=2010-03-11|url=https://web.archive.org/web/20140305135424/https://ameblo.jp/kamenrider-thefirst/entry-10479418990.html|title=『シールドの向こう側』 楽しかったな~ ありがとう、お面達!|publisher=「hiroshiのブログ」([[前田浩]]公式ブログ)|accessdate=2011-07-07}}</ref> <ref name="oricon20190107">[https://www.oricon.co.jp/special/50603/ どこまで増える? 特撮ヒーローの“インフレ”化] オリコン 2018年1月7日、同6月22日。</ref> <ref name="ショッカーO野">{{Cite web|和書|title=プロフィール|url=http://shocker.sakura.ne.jp/p.html|website=shocker.sakura.ne.jp|accessdate=2019-11-02}}</ref> }} === 出典(リンク) === {{Reflist|group="出典"|2}} == 参考文献 == * 大全集シリーズ([[講談社]]) **{{Cite book|和書|date=1988-04-25|title=スーパー戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178408-0|ref={{SfnRef|大全集|1988}}}} **{{Cite book|和書|date=1993-11-14|title=[[テレビマガジン]]特別編集 戦隊シリーズ20周年記念 超世紀全戦隊大全集|publisher=講談社|isbn=4-06-178416-1|ref={{SfnRef|大全集|1993}}}} * {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 上巻 |publisher = [[勁文社]] |isbn = 4-7669-3975-1|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 上巻|2002}}}} * {{Cite book |和書|year = 2002|title = 25大スーパー戦隊シリーズ 完全マテリアルブック 下巻|publisher = 勁文社|isbn = 4-7669-4108-X|ref = {{SfnRef|完全マテリアルブック 下巻|2002}}}} *{{Cite book|和書|others = 編集:[[井上嘉大]]|date = 2003-03-20|title = 全怪獣怪人大辞典(上巻)東映篇|publisher = [[英知出版]]|isbn = 4-7542-2016-1|ref = {{SfnRef|全怪獣怪人・上|2003}}}} * {{Cite book |和書 |editor=安藤幹夫 編 |date=2004-7-30 |title=ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全 |series=東映スーパー戦隊大全2|publisher=[[双葉社]] |isbn=4-575-29688-0 |ref={{SfnRef|ゴーグルV・ダイナマン・バイオマン大全|2004}} }} * {{Cite book|和書|date=2005-09-07|title=スーパー戦隊画報|volume=第1巻|publisher=[[竹書房]]|ISBN=4-8124-2219-1|ref={{SfnRef|スーパー戦隊画報1|2005}}}} * {{Cite book|和書|date = 2006-04-25|title =決定版 全スーパー戦隊 完全超百科|publisher = 講談社|isbn = 4-06-304567-6|ref = {{SfnRef|完全超百科|2006}}}} * {{Cite book|和書|date = 2013-06-21|title =決定版 全スーパー戦隊 超戦力超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304838-4|ref = {{SfnRef|超戦力超百科|2013}}}} * {{Cite book|和書|others=構成 間宮“TAKI”尚彦|date=2007-03-08|title=30大スーパー戦隊[[超全集]]|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-105112-7|ref = {{SfnRef|30大スーパー戦隊超全集|2007}}}} * {{Cite book|和書|date = 2011-05-25|title =決定版 全スーパー戦隊 パーフェクト超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304815-5|ref = {{SfnRef|パーフェクト超百科|2011}}}} *{{Cite book|和書|date=2011-12-15|title=東映スーパー戦隊シリーズ35作品記念公式図録 百化繚乱 [上之巻] 戦隊怪人デザイン大鑑 1975-1995|publisher=グライドメディア|isbn=978-4-8130-2163-6|ref={{SfnRef|百化繚乱 上之巻|2011}} }} * {{Cite book|和書|date = 2012-07-28|title =スーパー戦隊戦士列伝 赤の伝説|publisher = 角川書店|isbn = 978-4-04-110216-9|ref = {{SfnRef|赤の伝説|2012}}}} * {{Cite book|和書|date=2014-12-20|others=鴬谷五郎[編著]|title=東映ヒーロー仮面俳優列伝|publisher=[[辰巳出版]]|isbn=978-4-7778-1425-1|ref={{SfnRef|仮面俳優列伝|2014}}}} *『スーパー戦隊 Official Mook 21世紀』講談社〈講談社シリーズMOOK〉 ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-07-10|volume=vol.5|volume-title=[[魔法戦隊マジレンジャー]]|isbn=978-4-06-509516-4|ref={{SfnRef|21st 5|2017}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-10-10|volume=vol.7|volume-title=[[獣拳戦隊ゲキレンジャー]]|isbn=978-4-06-509518-8|ref={{SfnRef|21st 7|2017}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-09-25|volume=vol.10|volume-title=[[天装戦隊ゴセイジャー]]|isbn=978-4-06-509521-8|ref={{SfnRef|21st 10|2017}}}} ** {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2017-09-07|volume=vol.15|volume-title=[[手裏剣戦隊ニンニンジャー]]|isbn=978-4-06-509526-3|ref={{SfnRef|21st 15|2017}}}} * {{Cite book|和書|date = 2018-02-26|title =決定版 全スーパー戦隊 コンプリート超百科|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-304848-3|ref = {{SfnRef|コンプリート超百科|2018}}}} * {{Cite book|和書|author=鈴木武幸|title=夢を追い続ける男|date=2018-12-02|publisher=講談社||ref={{SfnRef|夢|2018}}}} * {{Cite book|和書|editor=講談社|date=2019-01-24|title=スーパー戦隊 Official Mook 20世紀|volume-title=1984 超電子バイオマン|publisher=[[講談社]]|series=講談社シリーズMOOK|isbn=978-4-06-513706-2|ref={{SfnRef|20th1984|2019}}}} * {{Cite book|和書|date = 2020-01-07|title =キャラクター大全 特撮全史 1980〜90年代 ヒーロー大全|publisher = 講談社|isbn = 978-4-06-512925-8|ref = {{SfnRef|特撮全史|2020}}}} * {{Cite book|和書|date = 2021-04-20<!--奥付表記-->|title =スーパー戦隊|series=学研の図鑑|publisher = 学研プラス|isbn = 978-4-0540-6788-2|ref = {{SfnRef|学研の図鑑|2021}}}} * {{Cite book |和書 |date=2022-04-01 |title=スーパー戦隊 TOY HISTORY 45 1975-2021 |series = ホビージャパンMOOK |publisher=[[ホビージャパン]] |isbn=978-4-7986-2745-8 |ref={{SfnRef|TH45|2022}} }} == 外部リンク == * [http://www.super-sentai.net/sentai/bio.html 超電子バイオマン](スーパー戦隊ネット内の紹介記事) * [http://www.toei-video.co.jp/DVD/bioman.html DVD 超電子バイオマン特集](東映ビデオ内にあるサイト) {{前後番組 |放送局=[[テレビ朝日]][[オールニッポン・ニュースネットワーク|系列]] |放送枠=土曜18:00 - 18:25([[スーパー戦隊シリーズ]]) |番組名=超電子バイオマン<br />(1984年2月4日 - 1985年1月26日) |前番組=[[科学戦隊ダイナマン]]<br />(1983年2月5日 - 1984年1月28日) |次番組=[[電撃戦隊チェンジマン]]<br />(1985年2月2日 - 1986年2月22日) }} {{スーパー戦隊シリーズ}} {{デフォルトソート:ちようてんしはいおまん}} [[Category:スーパー戦隊シリーズの特撮テレビドラマ]] [[Category:1980年代の特撮作品]] [[Category:1984年のテレビドラマ]] [[Category:曽田博久脚本のテレビドラマ]] [[Category:藤井邦夫脚本のテレビドラマ]] [[Category:鷺山京子脚本のテレビドラマ]] [[Category:南極を舞台とした作品]] [[Category:コンピュータを題材としたテレビドラマ]] [[Category:超能力を題材としたテレビドラマ]] 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加瀬邦彦
加瀬 邦彦(かせ くにひこ、1941年3月6日 - 2015年4月20日)は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。 東京府(現東京都)生まれ。幼稚舎から慶應義塾に通う。 1957年11月、慶應義塾高等学校1年生の時、東京都から神奈川県茅ヶ崎市に転居したが、これが縁で同年12月23日にアメフト部の先輩の紹介により俳優上原謙のクリスマス・パーティーに誘われ、当時慶應義塾大学2年生だった加山雄三に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。 慶應義塾大学法学部政治学科在学中の1961年に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する。その後ホリプロに所属し、清野太郎、かまやつひろしらとバンド「キャノンボール」を結成。1963年には事務所の指示により、かまやつと共にザ・スパイダースに加入するも、寺内タケシの誘いで約3か月後に脱退し、寺内タケシとブルージーンズに加入した。 1966年、ビートルズの来日公演でブルージーンズが前座を務めることになったが、警備上の措置として、前座のバンドは演奏終了後、楽屋に監禁され、ビートルズを見ることや演奏を聴くことが出来ない状態になっていたため、客席からビートルズを見たかった加瀬はブルージーンズを脱退した。 所属していたホリプロはそれでも、加瀬を引きとめ給料を支払い続けていたが、「タダで給料をもらうのも申し訳ない」と同年7月に、加山が名付け親となるザ・ワイルドワンズを結成、渡辺プロダクションに移籍する。得意の12弦ギター(ヤマハ特注)は、ワイルドワンズ・サウンドの要となる。解散後は、作曲家としてだけでなく、沢田研二の音楽プロデューサーとなり、全盛期の沢田を支えた。 1981年1月、日本劇場取り壊しに伴う最後の日劇ウエスタンカーニバルにザ・ワイルドワンズ(加瀬、鳥塚繁樹、島英二、植田芳暁、渡辺茂樹)のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。一時期、渡辺と共にタイガース・メモリアル・クラブバンドにも在籍した。 “ケネディハウス銀座”のオーナーや、加山雄三&ハイパーランチャーズの音楽プロデューサーとしても活躍した。 1994年に食道癌の手術をしたことを著書で明かしていた。2014年には下咽頭癌を発症し、手術後は自宅療養していた。 2012年4月21日、ももいろクローバーZの横浜アリーナでのライブ公演『ももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜』の1日目に百田夏菜子 with ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田の為のソロ曲として作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。 2015年4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した。74歳没。呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された。通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め護国寺で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、高木ブー、中村あゆみ、モト冬樹、エド山口、江木俊夫らが参列した。翌28日葬儀・告別式が営まれ、岸部一徳、森本太郎、瞳みのる、つのだ☆ひろなど関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した。戒名は常樂院悠照清邦居士。同年、第57回日本レコード大賞・特別功労賞が贈られた。 日本のエレキ・バンドが日本語の歌詞で歌ったものとしては草分け的存在であるオリジナル楽曲「ユア・ベイビー」は、加瀬がブルージーンズ時代に作曲してシングルでも発売されたが、ワイルドワンズ時代においても新たにレコーディングし、「想い出の渚」と共に両A面扱いで発売された。
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加瀬 邦彦は、日本のミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。
{{出典の明記|date=2008年11月30日 (日) 04:33 (UTC)|ソートキー=2015年没}} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = 加瀬 邦彦 | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = maker<!-- singer/group/bandなど --> | Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | Alias = | Blood = <!-- 個人のみ -->AB型 | School_background = <!-- 個人のみ -->[[慶應義塾大学]]卒業 | Born = <!-- 個人のみ -->[[1941年]][[3月6日]]<br/>{{JPN}}・[[東京府]] | Died = <!-- 個人のみ -->{{死亡年月日と没年齢|1941|3|6|2015|4|20}}<br/>{{JPN}}・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]] | Origin = | Instrument = <!-- 個人のみ -->[[リードギター]] | Genre = [[J-POP]]<br/>[[グループ・サウンズ]] | Occupation = <!-- 個人のみ -->[[作曲家]]<br/>[[音楽プロデューサー]] | Years_active = [[1961年]] - [[2015年]] | Label = | Production = | Associated_acts =[[ザ・ワイルドワンズ]] | Influences =[[加山雄三]]、[[ビートルズ]] | URL = [http://wildones.blog39.fc2.com/ 加瀬邦彦オフィシャルブログ] | Notable_instruments = [[ヤマハ・SG|ヤマハ・SG-12A]] }} '''加瀬 邦彦'''(かせ くにひこ、[[1941年]][[3月6日]] - [[2015年]][[4月20日]]<ref name="sponichi20150422">[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2015/04/22/kiji/K20150422010216550.html ワイルドワンズ加瀬邦彦さん 自殺だった…所属事務所が発表] スポニチアネックス 2015年4月22日</ref>)は、日本の[[音楽家|ミュージシャン]]、[[作曲家]]、[[音楽プロデューサー]]。 == 経歴・人物 == [[東京府]](現[[東京都]])生まれ。[[慶應義塾幼稚舎|幼稚舎]]から[[慶應義塾]]に通う。 [[1957年]]11月、[[慶應義塾高等学校]]1年生の時、[[東京都]]から[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]に転居したが、これが縁で同年12月23日に[[アメリカンフットボール|アメフト]]部の先輩の紹介により俳優[[上原謙]]のクリスマス・パーティーに誘われ、当時[[慶應義塾大学]]2年生だった[[加山雄三]]に出会い、音楽面のみならずプライベートでも親交を深めるようになる。 [[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部政治学科]]在学中の[[1961年]]に、初めてのバンド「ザ・トップビーツ」を結成する<ref name="sankei20150509-1">{{Cite web|和書| url = https://www.sankei.com/article/20150509-KQYZ54IEXFLRTC7KQB2N5NCUGU/ | title = 【さらば愛しき人よ】加瀬邦彦さん 「想い出の渚」…湘南サウンドの“元祖” 仲間を立てる爽やかな笑顔(1/5ページ) | website = 産経ニュース | publisher = [[産経デジタル]] | date = 2015-05-09 | accessdate = 2018-06-12 }}</ref>。その後[[ホリプロ]]に所属し、清野太郎、[[かまやつひろし]]らとバンド「キャノンボール」を結成<ref name="sankei20150509-1" 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[[1981年]]1月、[[日本劇場]]取り壊しに伴う最後の[[日劇ウエスタンカーニバル]]にザ・ワイルドワンズ(加瀬、[[鳥塚しげき|鳥塚繁樹]]、[[島英二]]、[[植田芳暁]]、[[渡辺茂樹]])のメンバー5名が集結して出演したことを契機として、ザ・ワイルドワンズの再結成話が持ち上がり、仕事の都合で参加を辞退した渡辺を除くメンバー(加瀬、鳥塚、島、植田)4名でザ・ワイルドワンズを再結成した。一時期、渡辺と共に[[タイガース・メモリアル・クラブバンド]]にも在籍した。 “[[ケネディハウス]]銀座”のオーナーや、[[加山雄三&ハイパーランチャーズ]]の音楽プロデューサーとしても活躍した。 [[1994年]]に[[食道癌]]の手術をしたことを著書で明かしていた。[[2014年]]には[[喉頭癌|下咽頭癌]]を発症し、手術後は自宅療養していた<ref name="sponichi20150422"/>。 [[2012年]]4月21日、[[ももいろクローバーZ]]の[[横浜アリーナ]]でのライブ公演『[[ももクロ春の一大事2012 〜横浜アリーナ まさかの2DAYS〜]]』の1日目に[[百田夏菜子]] with ザ・ワイルドワンズとして参加。加瀬が百田の為のソロ曲として作詞・作曲した「渚のラララ」を披露した。 [[2015年]]4月20日午後9時、自宅にて自殺を図り、死亡した<ref name="sponichi20150422"/>。74歳没。呼吸用のチューブが塞がれた状態で発見された<ref name="sanspo20150422">{{Cite web|和書|url= https://www.sanspo.com/article/20150422-XO26MI2KBZPJLKS6VOJPH7IIUM/ |title= ザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦さん自殺、自宅洗面所前で見つかる |publisher= sanspo.com |date= 2015-04-22 |accessdate= 2015-04-22 }}</ref><ref name="hochi20150422">{{Cite web|和書|url= http://www.hochi.co.jp/entertainment/20150421-OHT1T50175.html |title= 加瀬邦彦さん急死、喉のチューブ塞がり自殺の可能性も |publisher= スポーツ報知 |date= 2015-04-22 |accessdate= 2015-04-21 }}</ref>。通夜は同月27日に葬儀委員長をザ・ワイルドワンズのメンバーが務め[[護国寺]]で営まれ、音楽仲間の寺内タケシ、[[高木ブー]]、[[中村あゆみ]]、[[モト冬樹]]、[[エド山口]]、[[江木俊夫]]らが参列した<ref name="daily20150428">{{Cite web|和書|url= https://www.daily.co.jp/gossip/2015/04/28/0007962158.shtml |title= 加瀬邦彦さん通夜 寺内タケシら参列 |publisher= デイリースポーツ |date= 2015-04-28 |accessdate= 2015-04-30 }}</ref>。翌28日葬儀・告別式が営まれ、[[岸部一徳]]、[[森本太郎]]、[[瞳みのる]]、[[つのだ☆ひろ]]など関係者300人が参列。仕事の都合で葬儀に参列できなかった加山は音声メッセージで加瀬を哀悼した<ref name="daily201504282">{{Cite web|和書|url= https://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2015/04/28/0007963868.shtml |title= 加瀬邦彦さん葬儀 加山雄三「つらい」 |publisher= デイリースポーツ |date= 2015-04-28 |accessdate= 2015-04-30 }}</ref>。戒名は常樂院悠照清邦居士<ref name="daily20150428"/>。同年、[[第57回日本レコード大賞]]・特別功労賞が贈られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2062604/full/|title=『レコ大』司会、2年連続で安住アナ&仲間由紀恵 クマムシに特別賞|publisher=ORICON STYLE|date=2015-11-20|accessdate=2015-11-20}}</ref>。 == 逸話 == 日本のエレキ・バンドが日本語の歌詞で歌ったものとしては草分け的存在であるオリジナル楽曲「ユア・ベイビー」は、加瀬がブルージーンズ時代に作曲してシングルでも発売されたが、ワイルドワンズ時代においても新たにレコーディングし、「[[想い出の渚]]」と共に両A面扱いで発売された。 == 主な作曲作品 == *[[1966年]] 『[[想い出の渚]]』(作詞:[[鳥塚しげき|鳥塚繁樹]]、歌:[[ザ・ワイルドワンズ]]) *[[1967年]] 『[[夕陽と共に]]』(作詞・歌:ザ・ワイルドワンズ) *1967年 『[[青空のある限り]]』(作詞:[[安井かずみ]]、歌:ザ・ワイルドワンズ) *[[1968年]] 『[[愛するアニタ]]』(作詞:[[山上路夫]]、歌:ザ・ワイルドワンズ) *1968年 『[[バラの恋人]]』(作詞:安井かずみ、歌:ザ・ワイルドワンズ) *1968年 『[[花のヤングタウン]]』(作詞:[[島田陽子 (詩人)|島田陽子]]、歌:ザ・ワイルドワンズ) *1968年 『[[青い果実 (ザ・ワイルドワンズの曲)|青い果実]]』(作詞:山上路夫、歌:ザ・ワイルドワンズ) *1968年 『[[シー・シー・シー]]』(作詞:安井かずみ、歌:[[ザ・タイガース]]) *[[1969年]] 『あの頃』(作詞:[[安井かずみ]]、歌:ザ・ワイルドワンズ) *1969年 『[[赤い靴のマリア]]』(作詞:[[山口あかり]]、歌:ザ・ワイルドワンズ) *[[1972年]] 『[[許されない愛]]』(作詞:山上路夫、歌:[[沢田研二]]) *1972年 『[[ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘#再上映|ゴジラのお嫁さん]]』(作詞:[[もず唱平]]、歌:[[子門真人]]) *[[1973年]] 『[[情熱の砂漠]]』(作詞:山上路夫、歌:[[ザ・ピーナッツ]]、陳和美らもカバー) *1973年 『指輪のあとに』(作詞:安井かずみ、歌:[[ザ・ピーナッツ]]) *1973年 『マンジョキロックンロール』(作詞:[[内田裕也]]、歌:内田裕也と1815ロックンロールバンド) *1973年 『[[あなたへの愛]]』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二) *1973年 『[[危険なふたり]]』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二) *1973年 『甘い十字架』(作詞:安井かずみ、歌:[[布施明]]) *1973年 『[[胸いっぱいの悲しみ]]』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二) *[[1974年]] 『[[恋は邪魔もの]]』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二) *1974年 『[[追憶 (沢田研二の曲)|追憶]]』(作詞:安井かずみ、歌:沢田研二) *1974年 『[[冬の駅]]』(作詞:[[なかにし礼]]、歌:[[小柳ルミ子]]) *1974年 『[[黄昏の街]]』(作詞:[[林春生]]、歌:小柳ルミ子) *[[1975年]] 『[[白い部屋 (沢田研二の曲)|白い部屋]](作詞:山上路夫、歌:沢田研二) *[[1976年]] 『[[ウィンクでさよなら]]』(作詞:[[松任谷由実|荒井由実]]、歌:沢田研二) *1976年 『雨の坂道で』(作詞:安井かずみ、歌:[[アグネス・チャン]]) *[[1977年]] 『お元気ですか』(作詞:[[松本隆]]、歌:アグネス・チャン) *1977年 『いつまでも変わらずに』(作詞:[[喜多條忠]]、歌:アグネス・チャン) *1977年 『もう貝殻は拾わない』(作詞:喜多條忠、歌:アグネス・チャン) *1977年 『もう振り向いたりしない』(作詞:松本隆、歌:アグネス・チャン) *1977年 『心に翼を下さい』(作詞:松本隆、歌:アグネス・チャン) *1977年 『愛のパントマイム』(作詞:松本隆、歌:アグネス・チャン) *1977年 『ハロー・サンシャイン』(作詞:三浦徳子、歌:アグネス・チャン) *1977年 『似たものどうし』(作詞:[[山川啓介]]、歌:アグネス・チャン) *1977年 『鉛筆で書いたラブ・レター』(作詞:松本隆、歌:アグネス・チャン) *[[1978年]] 『[[女はそれを我慢できない (アン・ルイスの曲)|女はそれを我慢できない]]』(作詞:加瀬邦彦、歌:[[アンルイス]]) *[[1979年]] 『[[ベイビー・アイ・メイク・ア・モーション]]』(作詞:岩沢律、歌:[[レイジー]]) *[[1980年]] 『[[TOKIO (沢田研二の曲)|TOKIO]]』(作詞:[[糸井重里]]、歌:沢田研二) *1980年 『[[恋のバッド・チューニング]]』(作詞:糸井重里、歌:沢田研二) *1980年 『夢みるマイ・ボーイ』(作詞:[[岡田冨美子]]、歌:[[榊原郁恵]]) *[[1981年]] 『めざめてキス・ミー』(作詞:[[竜真知子]]、歌:[[甲斐智枝美]]) *[[1983年]] 『[[ホタテマン|ホタテのロックン・ロール]]』(作詞:内田裕也、歌:[[安岡力也]]) *[[1984年]] 『[[超電子バイオマン]]』(作詞:[[康珍化]]、歌:[[宮内タカユキ]]) *[[1987年]] 『[[きわどい季節]]』(作詞:阿久悠、歌:沢田研二) *[[2010年]] 『[[渚でシャララ]]』(作詞:[[三浦徳子]]、歌:[[JULIE with THE WILD ONES|ジュリーwithザ・ワイルドワンズ]]) *[[2012年]] 『渚のラララ』〔作詞・作曲:加瀬邦彦、歌:[[百田夏菜子]] with ザ・ワイルドワンズ) == 活動歴 == *[[1964年]] 『ユア・ベイビー』(ブルージーンズ時代に作曲)後に、ワイルドワンズ時代多数作曲。 *[[1974年]] 『天使なんていない』([[西郷輝彦]]、作曲) *[[1976年]] 『THE DAY BEFORE TOMORROW』自身のソロ・アルバム(世界各国の7人の歌手が歌唱) *[[1979年]] 『[[ベイビー・アイ・メイク・ア・モーション]]』([[レイジー]]、作曲) *[[1981年]] 『青空オンリー・ユー』([[ひかる一平]]、作曲) *1981年 『[[NATALIE/アップル・パップル・プリンセス|アップルパップルプリンセス]]』([[竹内まりや]]、作曲) *[[1984年]] 「[[超電子バイオマン]]」OP曲『超電子バイオマン』ED曲『バイオミック・ソルジャー』(挿入歌も数曲)作曲。 *1984年 『不思議 Tokyo シンデレラ』[[セイントフォー]]作曲。 *[[1988年]] 『懐かしきラブ・ソング』タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲 *[[1990年]] 『君よ女神のままに』タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲 *1990年 『未来への花束』タイガース・メモリアル・クラブ・バンド、作曲 **その他、[[ザ・タイガース]]・[[ザ・ピーナッツ]]・[[ZOO (バンド)|ZOO]]などにも楽曲を提供している。 == 著書 == * 「ビートルズのおかげです」 ― ザ・ワイルド・ワンズ風雲録 あの頃の音楽シーンが僕たちのスタイルを生んだ ([[枻出版社]]) 2001年 ISBN 978-4870995536 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]] == 外部リンク == * [http://wildones.blog39.fc2.com/ 加瀬邦彦オフィシャルブログ] {{ザ・ワイルドワンズ}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:かせ くにひこ}} [[Category:日本のギタリスト]] [[Category:20世紀日本の実業家]] [[Category:21世紀日本の実業家]] [[Category:日本の作曲家]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:過去の渡辺プロ系列所属者]] [[Category:慶應義塾大学出身の人物]] [[Category:慶應義塾高等学校出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:自殺した日本の人物]] [[Category:1941年生]] [[Category:2015年没]]
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セイントフォー
セイントフォー(Saint Four)とは、加瀬邦彦が音楽プロデュースをしていた1980年代のアイドルグループである。2018年3月から濱田・岩間・鈴木の元メンバー3人で本格的に再始動している(2021年8月からコロナ禍の影響により、グループ活動を一時的に休止している)。 1982年「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。デビューするまでの間は、歌唱、体操、アクロバット、ジャズダンス、ローラースケートや日々のジョギング等、そのトレーニング期間は2年にまで及んだ。結成当初は岩間、鈴木、他2名(幻のメンバー)による通称「四人組」としてレッスンをスタートしたが、他2名がグループ活動を辞退したため、浜田、板谷が加入し、オリジナルメンバーとしてデビューを果たした。レコードデビュー前にはテレビ朝日「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」に「ツールーズ・エンジェル」としてアシスタント出演をしていた。正式なグループ名として「ルナリアンズ」(意味:月よりの使者)に決まりそうだったものを「もっと私たちに合う名前があるはず!」と「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」番組内で一般募集した中から「セイントフォー」(意味:聖なる4人)に決定した。グループは板谷・浜田・鈴木・岩間の立ち位置順で構成、「100%女の子のままデビュー!」というキャッチコピーでデビューを果たした。後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙などを取り入れたアクロバティックなパフォーマンスが話題になった。また、ステージでの衣装のほとんどを日本の老舗バレエ・ダンス用品企業「チャコット」から提供を受けていた。 1985年10月、同グループの振付師である一の宮はじめが主催した『ダンシングミュージカル フィナーレには花束を』に出演。 同年、西ドイツの音楽番組に日本人歌手代表して『不思議Tokyoシンデレラ』、『ロマンチックの向こう側(2ndアルバム収録曲)』の2曲を披露。 デビューからのシングル、アルバムは共に好セールス、また賞レースへの出場や受賞を獲得するなど、順風満帆な活動であった。 しかしセイントフォーを巡って、所属事務所「日芸プロジェクト」と所属レコード会社「リバスター音産」との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを発表した後は新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2か月後、本人たちの意思という形で解散。 1987年、東宝が救済に立ち上がり、再出発に向けて準備をしていた映画『やるときゃやるぜ! 〜COME BACK HERO〜』の公開、テレビ放映(テレビ朝日)、ビデオ発売を発表し実現させた。このことを受け、岩間は「セイントフォーは不滅です!」と、涙ながらに語った。 また、解散直後に日本テレビ『酒井広のうわさのスタジオ』にて、浜田と鈴木の二人が解散の経緯についてインタビューに答えている。 セイントフォー解散後、浜田範子・鈴木幸恵はロック系ボーカルデュオ「ピンクジャガー」として再デビュー。解散後、浜田は濱田のり子としてセクシー系の女優として活躍。岩間沙織も現在は女優として活動している。いわお潤は本名の岩男潤子に芸名を戻して、主に声優として活動するようになった。 2012年1月、「ザ・追跡スクープ劇場」(日本テレビ)の2月放送回には、解散から初めてオリジナルメンバーの4人が勢揃いしテレビ出演が予定されていたが、収録間近になり諸般の都合で急遽取りやめになったことについて、濱田はブログで「タイミングって本当に大事で、いつか良きタイミングで必ずその日が訪れると信じている」と、今後の活動においても「大きく前進したのも事実です」と報告した。 2013年3月17日、当グループのプロデュースをしていたザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏が運営する東京「ケネディーハウス銀座」にて、当グループのボーカルレッスン指導と楽曲提供をしていた上田司氏のバースデーライブに、濱田・岩間・鈴木の元メンバーがグループ解散以来、初のステージライブパフォーマンスを26年振りに披露。濱田のオフィシャルブログでの告知から広がり、チケットは即日完売しゲスト出演ライブは大成功となった。 10月、日刊スポーツには、一夜限りのワンマン復活ライブ!!の開催情報が、芸能欄で大きな記事として掲載された。 11月3日、ケネディーハウス銀座にて濱田・岩間・鈴木の3人で一夜限りのワンマン〜復活ライブ!!〜が開催された。2回公演のチケットは、即日完売した。その後、日刊スポーツ、FLASHなどでは復活ライブの記事が掲載される。このライブ以降、今後のセイントフォーとしての活動については検討中としていたが、板谷祐三子とは連絡がつかないことが2015年4月10日放送のTBS『爆報! THE フライデー』にて公表された。 2015年12月、『爆報! THE フライデー』に、解散以来28年振りに岩間、濱田、鈴木の三人が揃ってテレビ出演をした。 2018年3月12日、濱田・岩間・鈴木による3人で本格的に再始動することを表明。5月にはベスト盤と最新アルバムの2タイトルを同時発売し、また6月には再始動&CDリリース記念ライブも開催されることが本人たちのブログで報告された。その後の詳細は、週刊雑誌「FLASH」にも掲載され、濱田・岩間がインタビューに答えている。 また、同グループには橋幸夫がプロデュースしていたとされているが、本人たちは「1,2度しかお会いしたことがない」と雑誌の取材で答えており、実際のプロデュースには関わっておらず、当時、単に彼女たちが籍をおいていた所属レコード会社の副社長を橋が務めていただけににすぎなかった事が報告されている。 3月29日、テレビ朝日『スマートフォンデュ』に生出演。デビュー曲「不思議Tokyoシンデレラ」を当時のダンスとともにフルコーラスで披露。曲間に宙返りはなかったものの、現在も舞台やマラソンで身体を鍛えているメンバーの岩間が側転を披露した。 6月に開催される再始動&CDリリース記念ライブの予約は、受け付け開始から1時間で完売となった。その為、多くのファンが記念すべきライブへの参加ができない事情を考慮し、急遽7月8日に追加ライブが決定したが、既に予約が完売しており、さらに再追加ライブを同月15日に行うことが発表された。 5月16日、再始動CDリリース記念としてタワーレコード、ディスクユニオン、HMVなどのショップにて「セイントフォー が帰って来た!奇跡の再始動記念キャンペーン!!」を展開。 5月31日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで1位を獲得。「不思議Tokyoシンデレラ」と「太陽を抱きしめろ」の2曲を披露。 6月3日、タワーレコード新宿店イベントスペースにて、インストア・イベント(ミニライブ、特典手渡し&握手会&サイン会)を開催。 6月28日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで2度目の1位を獲得。2ndアルバム収録曲からの名曲「ファイアー~灼熱物語~」をテレビで初歌唱した。 7月6日からは、Radio NEOにてレギュラー番組「セイントフォーのミッドナイト・トーク」がスタートした。 7月27日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで3度目の1位を獲得。第4弾シングル「ハートジャックWAR」をテレビで歌唱した。 8月24日、東京歌謡曲ナイト(CLUB CITTA'川崎)のライブアクトにゲスト出演。シングル曲、映画でのライブシーンをバックスクリーンに映しだしながら「COME BACK HERO」を歌唱。ほかメドレーを披露。会場では、グッズやCDの販売も行われた。 2021年8月26日、コロナ禍のもと、岩間はメンバーとしての活動と並行して介護職も行っていることやメンバーの時間調整など、グループとしての活動が厳しくなり、セイントフォーとしての活動をストップしたままでは「応援してくれているファンに申し訳がない」という気持ちが一致し、一旦「それぞれに充実した時間を大切に過ごして行こう」というメンバー間での話し合いが持たれ「解散ではなく一時活動を休止する」ということをファンにむけて各メンバーのSNSなどで報告された。 2022年6月、ULTRA-VYBEpresents~名鑑シリーズ(邦楽ロック編)~にて「セイントフォー・コンプリートコレクション1984-1986」のCDが7月6日に期間限定で再販され、先着として缶バッジ、特製カードサイズカレンダーの特典が発表された。 過去に濱田・鈴木に対してインタビューを行っているプロインタビュアーの吉田豪は、セイントフォーは事務所による「オーディション詐欺」であったと断じている。無差別にダイレクトメールを送り、応募してきた者から30〜40万円の登録料を取るというもので、月3万円の給料も未払いだったという。彼女たちの主演映画「ザ・オーディション」も、セイントフォーの妹分を募集して同様に登録料を取るためのもので、それに応募して追加メンバーになった岩男は彼女の知らない間に両親がさらに大金を支払っていたという。 事務所の方針により、グループのマンネリ化を防ぐため結成から2年ごとにリーダーを変えていく方針だった。グループ結成からデビューまでの2年間は岩間がリーダーを務め、1985年3月に行ったデビューコンサート(芝郵便貯金ホール)にてリーダーが鈴木にバトンタッチされた。 デビュー直後に出演した『ザ・トップテン』(日本テレビ)の「もうすぐトップテン」というコーナーでは、結成当時から「え〜」「うっそ〜」「やだ〜」などのいわゆる「ぶりっ子言葉」を使ったら1回100円の罰金という決まりがあり、結構貯まっていると浜田が語った。このとき浜田は、緊張のあまり大きく息つぎをしながらのコメントに、司会の堺正章に「あんた、(一言一言)しゃべると疲れるんですか?」と、突っ込まれていた。 1985年1月5日、『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」(フジテレビ)に出演した。 コーナー司会の山村美智子(当時フジテレビアナウンサー)から「TOKYO不思議シンデレラ」と誤って紹介されて登場した。冒頭では、覇気がない言動のためか、島田紳助を相当困惑させていた。肝心の歌の部分は「西川のりお扮するレオタードオバQ(他は書き割り)とヒップアップ&コント赤信号のすもうダンサーズ」のコラボレーションで終わっている。また板谷も、本番中に西川のりおからセクハラを受け、終盤にはとうとう泣き出してしまうというハプニングがあった。なお、当コーナーへの出演は、この回だけだった。 少年サンデー連載『炎の転校生』第8巻では著者の島本和彦が当時、彼女達に熱を上げていたことから「戦闘フォー」というキャラクターが登場している。また、セイントフォーのビデオ『FIRE KISS 〜シークレット・メッセージ〜』には、彼の描き下ろしブックが予約特典として配布された。 この頃からは浜田と鈴木は作詞も勉強し、それぞれにサードアルバムにて自身のソロ曲の作詞で歌唱もしている。事務所の後輩で後に新メンバーとなった潤は加入前のレッスン生時代に、浜田が作詞した楽曲「愛の為に」の提供を受けて、セイントフォーのライブでは妹分と紹介され歌唱していた。 2009年11月16日、「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP(フジテレビ)」放送回は、当時ファンだったという松村邦洋やキャイ~ンの天野ひろゆきらが伝説のアイドルグループとして「不思議Tokyoシンデレラ」を当時の貴重映像とともに歌と踊りを織り交ぜながら紹介していた。 2010年2月14日、「5時に夢中!」(TOKYO MX)放送回、司会の逸見太郎が「今日はセイント・バレンタインデー!」というと、すかさずマツコ・デラックスが「セイントって言っていいのはセイント・フォーの時だけ!!」と言い放った。 2012年9月8日、「にじいろジーン」(フジテレビ)放送回、鈴木砂羽と山口智充が昭和のアイドルイベントで盛り上がりたいという中で「不思議Tokyoシンデレラ」が流された。 2013年5月1日、「ヒルナンデス!」(日本テレビ)放送回、アウトドアグッツの紹介コーナーで森山直太朗とミッツ・マングローブがヘッドライトを装着。するとミッツ・マングローブが「セイントフォーか光GENJIみたいに見える」と森山直太朗にツッコミを受けていた。 2013年7月18日放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のワンシーンで、同局で放送されていた『レッツゴーヤング』に出演して『太陽を抱きしめろ』を歌唱した時の映像が使用されたことが濱田のブログで報告されている。また同ドラマでは、この放送回の他にも、本グループの曲が流れたり、映像にレコードジャケットが映し出されたことで、根強いファンの間では話題となった。 鈴木は取材に対して、そして岩間は自身のブログで、オリジナル・メンバーになる前の「幻のメンバー」2名とは、今でも親交があることを明かしている。 2015年11月18日、「NHK歌謡コンサート」で司会の高山哲哉が、ゲストで登場した「フォー・セインツ」のグループ名を間違えて「セイントフォー」と紹介してしまう。 2018年3月、濱田・岩間・鈴木の三人で本格的に再始動することを正式に発表。一年前からレッスンや再始動に向けての準備をしていたことが明かされた。 同月、再始動発表直後に緊急生出演が決定した「スマートフォンデュ歌謡祭」(テレビ朝日)では、およそ30年振りにデビュー曲を歌唱し、その直後からはセイントフォー がYahoo!検索トレンドやツイッタ―で1位にランクインし、その状態は翌日のお昼過ぎまで続いて、番組は神回とまで言われた。 4月、再結成に伴う2タイトルCD同時リリース発表後、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」は、Amazon新着予約ランキングの歌謡部門、歌謡/演歌、各部門でベストセラー1位、新作「時の旅人」は2位にランクインした。 5月、2タイトルCD同時リリース後もAmazonランキング歌謡部門、歌謡/演歌各部門で、新作「時の旅人」は2位に、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」はベストセラー1位にランクインした。 またオリコンでは「時の旅人」は週間アルバムランキング225位、「コンプリート・コレクション1984-1986」はデイリーアルバムランキング49位、週間アルバムランキング120位にランクインした。 12月、東京神保町タクト(CDショップ)では、昭和歌謡新譜CD年間売上で「コンプリート・コレクション1984-1986」が3位を獲得。 2019年1月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ 」2018年歌謡曲/芸能部門を獲得。 同年9月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ」歌謡曲・芸能特集にて10位を獲得。 上記4曲は、2018年5月16日発売CD「時の旅人」に初音盤化収録されている。 以下、メンバーチェンジにより潤加入後 以上4曲は、『セイントフォーの“みんな起きてる!?”』( アール・エフ・ラジオ日本)の最終回および「解散ライブ~旅立ち~」で披露された。 上記4曲は、2018年5月16日発売CD「コンプリートコレクション」に初音盤化収録されている。 【キャスト】 【スタッフ】 【収録楽曲】 ※ 他に、ファンクラブ会員限定で販売された「セイントフォー旅立ちコンサート1部・2部(日仏会館)」がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "セイントフォー(Saint Four)とは、加瀬邦彦が音楽プロデュースをしていた1980年代のアイドルグループである。2018年3月から濱田・岩間・鈴木の元メンバー3人で本格的に再始動している(2021年8月からコロナ禍の影響により、グループ活動を一時的に休止している)。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1982年「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。デビューするまでの間は、歌唱、体操、アクロバット、ジャズダンス、ローラースケートや日々のジョギング等、そのトレーニング期間は2年にまで及んだ。結成当初は岩間、鈴木、他2名(幻のメンバー)による通称「四人組」としてレッスンをスタートしたが、他2名がグループ活動を辞退したため、浜田、板谷が加入し、オリジナルメンバーとしてデビューを果たした。レコードデビュー前にはテレビ朝日「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」に「ツールーズ・エンジェル」としてアシスタント出演をしていた。正式なグループ名として「ルナリアンズ」(意味:月よりの使者)に決まりそうだったものを「もっと私たちに合う名前があるはず!」と「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」番組内で一般募集した中から「セイントフォー」(意味:聖なる4人)に決定した。グループは板谷・浜田・鈴木・岩間の立ち位置順で構成、「100%女の子のままデビュー!」というキャッチコピーでデビューを果たした。後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙などを取り入れたアクロバティックなパフォーマンスが話題になった。また、ステージでの衣装のほとんどを日本の老舗バレエ・ダンス用品企業「チャコット」から提供を受けていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1985年10月、同グループの振付師である一の宮はじめが主催した『ダンシングミュージカル フィナーレには花束を』に出演。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "同年、西ドイツの音楽番組に日本人歌手代表して『不思議Tokyoシンデレラ』、『ロマンチックの向こう側(2ndアルバム収録曲)』の2曲を披露。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "デビューからのシングル、アルバムは共に好セールス、また賞レースへの出場や受賞を獲得するなど、順風満帆な活動であった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "しかしセイントフォーを巡って、所属事務所「日芸プロジェクト」と所属レコード会社「リバスター音産」との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを発表した後は新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2か月後、本人たちの意思という形で解散。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1987年、東宝が救済に立ち上がり、再出発に向けて準備をしていた映画『やるときゃやるぜ! 〜COME BACK HERO〜』の公開、テレビ放映(テレビ朝日)、ビデオ発売を発表し実現させた。このことを受け、岩間は「セイントフォーは不滅です!」と、涙ながらに語った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、解散直後に日本テレビ『酒井広のうわさのスタジオ』にて、浜田と鈴木の二人が解散の経緯についてインタビューに答えている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "セイントフォー解散後、浜田範子・鈴木幸恵はロック系ボーカルデュオ「ピンクジャガー」として再デビュー。解散後、浜田は濱田のり子としてセクシー系の女優として活躍。岩間沙織も現在は女優として活動している。いわお潤は本名の岩男潤子に芸名を戻して、主に声優として活動するようになった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2012年1月、「ザ・追跡スクープ劇場」(日本テレビ)の2月放送回には、解散から初めてオリジナルメンバーの4人が勢揃いしテレビ出演が予定されていたが、収録間近になり諸般の都合で急遽取りやめになったことについて、濱田はブログで「タイミングって本当に大事で、いつか良きタイミングで必ずその日が訪れると信じている」と、今後の活動においても「大きく前進したのも事実です」と報告した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2013年3月17日、当グループのプロデュースをしていたザ・ワイルドワンズの加瀬邦彦氏が運営する東京「ケネディーハウス銀座」にて、当グループのボーカルレッスン指導と楽曲提供をしていた上田司氏のバースデーライブに、濱田・岩間・鈴木の元メンバーがグループ解散以来、初のステージライブパフォーマンスを26年振りに披露。濱田のオフィシャルブログでの告知から広がり、チケットは即日完売しゲスト出演ライブは大成功となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "10月、日刊スポーツには、一夜限りのワンマン復活ライブ!!の開催情報が、芸能欄で大きな記事として掲載された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "11月3日、ケネディーハウス銀座にて濱田・岩間・鈴木の3人で一夜限りのワンマン〜復活ライブ!!〜が開催された。2回公演のチケットは、即日完売した。その後、日刊スポーツ、FLASHなどでは復活ライブの記事が掲載される。このライブ以降、今後のセイントフォーとしての活動については検討中としていたが、板谷祐三子とは連絡がつかないことが2015年4月10日放送のTBS『爆報! 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THE フライデー』に、解散以来28年振りに岩間、濱田、鈴木の三人が揃ってテレビ出演をした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2018年3月12日、濱田・岩間・鈴木による3人で本格的に再始動することを表明。5月にはベスト盤と最新アルバムの2タイトルを同時発売し、また6月には再始動&CDリリース記念ライブも開催されることが本人たちのブログで報告された。その後の詳細は、週刊雑誌「FLASH」にも掲載され、濱田・岩間がインタビューに答えている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "また、同グループには橋幸夫がプロデュースしていたとされているが、本人たちは「1,2度しかお会いしたことがない」と雑誌の取材で答えており、実際のプロデュースには関わっておらず、当時、単に彼女たちが籍をおいていた所属レコード会社の副社長を橋が務めていただけににすぎなかった事が報告されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "3月29日、テレビ朝日『スマートフォンデュ』に生出演。デビュー曲「不思議Tokyoシンデレラ」を当時のダンスとともにフルコーラスで披露。曲間に宙返りはなかったものの、現在も舞台やマラソンで身体を鍛えているメンバーの岩間が側転を披露した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "6月に開催される再始動&CDリリース記念ライブの予約は、受け付け開始から1時間で完売となった。その為、多くのファンが記念すべきライブへの参加ができない事情を考慮し、急遽7月8日に追加ライブが決定したが、既に予約が完売しており、さらに再追加ライブを同月15日に行うことが発表された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "5月16日、再始動CDリリース記念としてタワーレコード、ディスクユニオン、HMVなどのショップにて「セイントフォー が帰って来た!奇跡の再始動記念キャンペーン!!」を展開。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "5月31日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで1位を獲得。「不思議Tokyoシンデレラ」と「太陽を抱きしめろ」の2曲を披露。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "6月3日、タワーレコード新宿店イベントスペースにて、インストア・イベント(ミニライブ、特典手渡し&握手会&サイン会)を開催。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "6月28日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで2度目の1位を獲得。2ndアルバム収録曲からの名曲「ファイアー~灼熱物語~」をテレビで初歌唱した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "7月6日からは、Radio NEOにてレギュラー番組「セイントフォーのミッドナイト・トーク」がスタートした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "7月27日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで3度目の1位を獲得。第4弾シングル「ハートジャックWAR」をテレビで歌唱した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "8月24日、東京歌謡曲ナイト(CLUB CITTA'川崎)のライブアクトにゲスト出演。シングル曲、映画でのライブシーンをバックスクリーンに映しだしながら「COME BACK HERO」を歌唱。ほかメドレーを披露。会場では、グッズやCDの販売も行われた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2021年8月26日、コロナ禍のもと、岩間はメンバーとしての活動と並行して介護職も行っていることやメンバーの時間調整など、グループとしての活動が厳しくなり、セイントフォーとしての活動をストップしたままでは「応援してくれているファンに申し訳がない」という気持ちが一致し、一旦「それぞれに充実した時間を大切に過ごして行こう」というメンバー間での話し合いが持たれ「解散ではなく一時活動を休止する」ということをファンにむけて各メンバーのSNSなどで報告された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2022年6月、ULTRA-VYBEpresents~名鑑シリーズ(邦楽ロック編)~にて「セイントフォー・コンプリートコレクション1984-1986」のCDが7月6日に期間限定で再販され、先着として缶バッジ、特製カードサイズカレンダーの特典が発表された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "過去に濱田・鈴木に対してインタビューを行っているプロインタビュアーの吉田豪は、セイントフォーは事務所による「オーディション詐欺」であったと断じている。無差別にダイレクトメールを送り、応募してきた者から30〜40万円の登録料を取るというもので、月3万円の給料も未払いだったという。彼女たちの主演映画「ザ・オーディション」も、セイントフォーの妹分を募集して同様に登録料を取るためのもので、それに応募して追加メンバーになった岩男は彼女の知らない間に両親がさらに大金を支払っていたという。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "事務所の方針により、グループのマンネリ化を防ぐため結成から2年ごとにリーダーを変えていく方針だった。グループ結成からデビューまでの2年間は岩間がリーダーを務め、1985年3月に行ったデビューコンサート(芝郵便貯金ホール)にてリーダーが鈴木にバトンタッチされた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "デビュー直後に出演した『ザ・トップテン』(日本テレビ)の「もうすぐトップテン」というコーナーでは、結成当時から「え〜」「うっそ〜」「やだ〜」などのいわゆる「ぶりっ子言葉」を使ったら1回100円の罰金という決まりがあり、結構貯まっていると浜田が語った。このとき浜田は、緊張のあまり大きく息つぎをしながらのコメントに、司会の堺正章に「あんた、(一言一言)しゃべると疲れるんですか?」と、突っ込まれていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1985年1月5日、『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」(フジテレビ)に出演した。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "コーナー司会の山村美智子(当時フジテレビアナウンサー)から「TOKYO不思議シンデレラ」と誤って紹介されて登場した。冒頭では、覇気がない言動のためか、島田紳助を相当困惑させていた。肝心の歌の部分は「西川のりお扮するレオタードオバQ(他は書き割り)とヒップアップ&コント赤信号のすもうダンサーズ」のコラボレーションで終わっている。また板谷も、本番中に西川のりおからセクハラを受け、終盤にはとうとう泣き出してしまうというハプニングがあった。なお、当コーナーへの出演は、この回だけだった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "少年サンデー連載『炎の転校生』第8巻では著者の島本和彦が当時、彼女達に熱を上げていたことから「戦闘フォー」というキャラクターが登場している。また、セイントフォーのビデオ『FIRE KISS 〜シークレット・メッセージ〜』には、彼の描き下ろしブックが予約特典として配布された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "この頃からは浜田と鈴木は作詞も勉強し、それぞれにサードアルバムにて自身のソロ曲の作詞で歌唱もしている。事務所の後輩で後に新メンバーとなった潤は加入前のレッスン生時代に、浜田が作詞した楽曲「愛の為に」の提供を受けて、セイントフォーのライブでは妹分と紹介され歌唱していた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2009年11月16日、「HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP(フジテレビ)」放送回は、当時ファンだったという松村邦洋やキャイ~ンの天野ひろゆきらが伝説のアイドルグループとして「不思議Tokyoシンデレラ」を当時の貴重映像とともに歌と踊りを織り交ぜながら紹介していた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2010年2月14日、「5時に夢中!」(TOKYO MX)放送回、司会の逸見太郎が「今日はセイント・バレンタインデー!」というと、すかさずマツコ・デラックスが「セイントって言っていいのはセイント・フォーの時だけ!!」と言い放った。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "2012年9月8日、「にじいろジーン」(フジテレビ)放送回、鈴木砂羽と山口智充が昭和のアイドルイベントで盛り上がりたいという中で「不思議Tokyoシンデレラ」が流された。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2013年5月1日、「ヒルナンデス!」(日本テレビ)放送回、アウトドアグッツの紹介コーナーで森山直太朗とミッツ・マングローブがヘッドライトを装着。するとミッツ・マングローブが「セイントフォーか光GENJIみたいに見える」と森山直太朗にツッコミを受けていた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2013年7月18日放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』のワンシーンで、同局で放送されていた『レッツゴーヤング』に出演して『太陽を抱きしめろ』を歌唱した時の映像が使用されたことが濱田のブログで報告されている。また同ドラマでは、この放送回の他にも、本グループの曲が流れたり、映像にレコードジャケットが映し出されたことで、根強いファンの間では話題となった。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "鈴木は取材に対して、そして岩間は自身のブログで、オリジナル・メンバーになる前の「幻のメンバー」2名とは、今でも親交があることを明かしている。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2015年11月18日、「NHK歌謡コンサート」で司会の高山哲哉が、ゲストで登場した「フォー・セインツ」のグループ名を間違えて「セイントフォー」と紹介してしまう。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2018年3月、濱田・岩間・鈴木の三人で本格的に再始動することを正式に発表。一年前からレッスンや再始動に向けての準備をしていたことが明かされた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "同月、再始動発表直後に緊急生出演が決定した「スマートフォンデュ歌謡祭」(テレビ朝日)では、およそ30年振りにデビュー曲を歌唱し、その直後からはセイントフォー がYahoo!検索トレンドやツイッタ―で1位にランクインし、その状態は翌日のお昼過ぎまで続いて、番組は神回とまで言われた。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "4月、再結成に伴う2タイトルCD同時リリース発表後、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」は、Amazon新着予約ランキングの歌謡部門、歌謡/演歌、各部門でベストセラー1位、新作「時の旅人」は2位にランクインした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "5月、2タイトルCD同時リリース後もAmazonランキング歌謡部門、歌謡/演歌各部門で、新作「時の旅人」は2位に、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」はベストセラー1位にランクインした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "またオリコンでは「時の旅人」は週間アルバムランキング225位、「コンプリート・コレクション1984-1986」はデイリーアルバムランキング49位、週間アルバムランキング120位にランクインした。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "12月、東京神保町タクト(CDショップ)では、昭和歌謡新譜CD年間売上で「コンプリート・コレクション1984-1986」が3位を獲得。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2019年1月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ 」2018年歌謡曲/芸能部門を獲得。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "同年9月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「レコード・コレクターズ」歌謡曲・芸能特集にて10位を獲得。", "title": "エピソード" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "主な出演(1984年 - 1987年)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "", "title": "主な出演(1984年 - 1987年)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "", "title": "主な出演(1984年 - 1987年)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "上記4曲は、2018年5月16日発売CD「時の旅人」に初音盤化収録されている。", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "以下、メンバーチェンジにより潤加入後", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "以上4曲は、『セイントフォーの“みんな起きてる!?”』( アール・エフ・ラジオ日本)の最終回および「解散ライブ~旅立ち~」で披露された。", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "上記4曲は、2018年5月16日発売CD「コンプリートコレクション」に初音盤化収録されている。", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "【キャスト】", "title": "ビデオ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "【スタッフ】", "title": "ビデオ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "【収録楽曲】", "title": "ビデオ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "※ 他に、ファンクラブ会員限定で販売された「セイントフォー旅立ちコンサート1部・2部(日仏会館)」がある。", "title": "ビデオ" } ]
セイントフォーとは、加瀬邦彦が音楽プロデュースをしていた1980年代のアイドルグループである。2018年3月から濱田・岩間・鈴木の元メンバー3人で本格的に再始動している(2021年8月からコロナ禍の影響により、グループ活動を一時的に休止している)。
{{簡易区別|[[フォー・セインツ]]}} {{出典の明記|date=2012年8月27日 (月) 22:56 (UTC)}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | Name = セイントフォー | Img = | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = group | Alias = | Origin = {{JPN}} | Genre = [[アイドル歌謡曲]] | Years_active = 1984年 - 1987年<br />2013年 <br />2018年 - | Label = [[リバスター音産]](1984年 - 1987年)<br />[[ソリッドレコード]](2018年 - ) | Production = シアタープロジェクト | Influences = | URL = | Current_members = [[岩間沙織]]<br />[[濱田のり子|浜田範子]]<br />[[鈴木幸恵]]<!-- グループのみ --> | Past_members = [[板谷祐三子]]<br />[[岩男潤子|いわお潤]] | Notable_instruments = }} '''セイントフォー'''('''Saint Four''')とは、[[加瀬邦彦]]が音楽プロデュースをしていた[[1980年代]]のアイドルグループである。2018年3月から濱田・岩間・鈴木の元メンバー3人で本格的に再始動している(2021年8月からコロナ禍の影響により、グループ活動を一時的に休止している)。 == メンバー == === 現メンバー === ; 岩間沙織 : 1964年7月7日生まれ。[[ABO式血液型|血液型]]:O型。[[神奈川県]]出身。コーラス&バックダンス担当/担当アクロバット:側宙/イメージカラー:{{Colorbox|#00B16B}} グリーン/称号:FASHIONABLE SAORI(ファッショナブル・サオリ) : ※初代リーダー。グループ結成時からデビューするまでの2年間を務めた。 :{{Main|岩間沙織}} ; 浜田範子 : 1965年2月22日生まれ。血液型:A型。[[埼玉県]]出身。リードボーカル担当/担当[[アクロバット]]:後方宙返り/イメージカラー:{{Colorbox|#F8ABA6}} ピンク/称号:DRAMATIC NORIKO(ドラマティック・ノリコ) : {{Main|濱田のり子}} ; 鈴木幸恵 : 1966年5月15日生まれ。血液型:A型。神奈川県出身。リードボーカル担当/担当アクロバット:ピルエット/イメージカラー:{{Colorbox|#007DC5}} ブルー/称号:EXCITING YUKIE(エキサイティング・ユキエ) : ※二代目リーダー。デビューから解散まで務めた。 : {{Main|鈴木幸恵}} === 旧メンバー === ; 板谷祐三子 : 1968年3月5日生まれ。血液型:A型。神奈川県出身。コーラス&バックダンス担当/担当アクロバット:[[バック転]](のちに[[前方倒立回転]]に変更)/イメージカラー:{{Colorbox|#F15B5B}} レッド/称号:PASSIONATE YUMIKO (パッショネート・ユミコ) : ※1986年3月脱退。セイントフォー在籍中は常に眼鏡を着用していた。 : {{Main|板谷祐三子}} ; いわお潤 : 本名:岩男潤子。1970年2月18日生まれ。血液型:AB型。[[大分県]]出身。コーラス&バックダンス担当/担当アクロバット:[[バック転]]/イメージカラー:{{Colorbox|#F15B5B}} レッド。 : ※板谷脱退後に加入し、またグループ解散声明前に脱退。 : {{Main|岩男潤子}} == 来歴 == [[1982年]]「あなたもスターに!」というプロダクションのダイレクトメールに応募して、約3万人の中から選ばれた4人。デビューするまでの間は、歌唱、体操、アクロバット、ジャズダンス、ローラースケートや日々のジョギング等、そのトレーニング期間は2年にまで及んだ。結成当初は岩間、鈴木、他2名(幻のメンバー)による通称「四人組」としてレッスンをスタートしたが、他2名がグループ活動を辞退したため、浜田、板谷が加入し、オリジナルメンバーとしてデビューを果たした。レコードデビュー前には[[テレビ朝日]]「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」に「ツールーズ・エンジェル」としてアシスタント出演をしていた。正式なグループ名として「ルナリアンズ」(意味:月よりの使者)に決まりそうだったものを「もっと私たちに合う名前があるはず!」と「鶴ちゃんのアイドル・パンチ」番組内で一般募集した中から「セイントフォー」(意味:聖なる4人)に決定した。グループは板谷・浜田・鈴木・岩間の立ち位置順で構成、「100%女の子のままデビュー!」というキャッチコピーでデビューを果たした。後に板谷に替わっていわお潤が加入した。曲間にバック宙などを取り入れたアクロバティックなパフォーマンスが話題になった。また、ステージでの衣装のほとんどを日本の老舗バレエ・ダンス用品企業「[[チャコット]]」から提供を受けていた。 [[1985年]]10月、同グループの振付師である[[一の宮はじめ]]が主催した『ダンシングミュージカル フィナーレには花束を』に出演。 同年、西ドイツの音楽番組に日本人歌手代表して『不思議Tokyoシンデレラ』、『ロマンチックの向こう側(2ndアルバム収録曲)』の2曲を披露。 デビューからのシングル、アルバムは共に好セールス、また賞レースへの出場や受賞を獲得するなど、順風満帆な活動であった。 しかしセイントフォーを巡って、所属事務所「'''日芸プロジェクト'''」と所属レコード会社「'''[[リバスター音産]]'''」との間で発生した契約上のトラブルに巻き込まれ、4枚目のシングルを発表した後は新曲が発売できない状態が続き、デビューから2年2か月後、本人たちの意思という形で解散。 [[1987年]]、[[東宝]]が救済に立ち上がり、再出発に向けて準備をしていた映画『やるときゃやるぜ! 〜COME BACK HERO〜』の公開、テレビ放映([[テレビ朝日]])、ビデオ発売を発表し実現させた。このことを受け、岩間は「セイントフォーは不滅です!」と、涙ながらに語った。 また、解散直後に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]『[[酒井広のうわさのスタジオ]]』にて、浜田と鈴木の二人が解散の経緯についてインタビューに答えている。 セイントフォー解散後、浜田範子・鈴木幸恵はロック系ボーカルデュオ「'''ピンクジャガー'''」として再デビュー。解散後、浜田は[[濱田のり子]]としてセクシー系の女優として活躍。岩間沙織も現在は女優として活動している。いわお潤は本名の[[岩男潤子]]に芸名を戻して、主に声優として活動するようになった。 [[2012年]]1月、「[[ザ・追跡スクープ劇場]]」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])の2月放送回には、解散から初めてオリジナルメンバーの4人が勢揃いしテレビ出演が予定されていたが、収録間近になり諸般の都合で急遽取りやめになったことについて、濱田はブログで「タイミングって本当に大事で、いつか良きタイミングで必ずその日が訪れると信じている」と、今後の活動においても「大きく前進したのも事実です」と報告した。 [[2013年]]3月17日、当グループのプロデュースをしていた[[ザ・ワイルドワンズ]]の[[加瀬邦彦]]氏が運営する東京「ケネディーハウス銀座」にて、当グループのボーカルレッスン指導と楽曲提供をしていた上田司氏のバースデーライブに、濱田・岩間・鈴木の元メンバーがグループ解散以来、初のステージライブパフォーマンスを26年振りに披露。濱田のオフィシャルブログでの告知から広がり、チケットは即日完売しゲスト出演ライブは大成功となった。 10月、[[日刊スポーツ]]には、一夜限りのワンマン復活ライブ!!の開催情報が、芸能欄で大きな記事として掲載された<ref>「セイントフォー26年ぶり再結成」『日刊スポーツ』2013年10月29日付。</ref>。 11月3日、ケネディーハウス銀座にて濱田・岩間・鈴木の3人で一夜限りのワンマン〜復活ライブ!!〜が開催された。2回公演のチケットは、即日完売した。その後、[[日刊スポーツ]]、FLASHなどでは復活ライブの記事が掲載される。このライブ以降、今後のセイントフォーとしての活動については検討中としていたが、板谷祐三子とは連絡がつかないことが2015年4月10日放送の[[TBSテレビ|TBS]]『[[爆報! THE フライデー]]』にて公表された。 [[2015年]]12月、『爆報! THE フライデー』に、解散以来28年振りに岩間、濱田、鈴木の三人が揃ってテレビ出演をした。 2018年3月12日、濱田・岩間・鈴木による3人で本格的に再始動することを表明。5月にはベスト盤と最新アルバムの2タイトルを同時発売し、また6月には再始動&CDリリース記念ライブも開催されることが本人たちのブログで報告された。その後の詳細は、週刊雑誌「FLASH」にも掲載され、濱田・岩間がインタビューに答えている。 また、同グループには[[橋幸夫]]がプロデュースしていたとされているが、本人たちは「1,2度しかお会いしたことがない」と雑誌の取材で答えており、実際のプロデュースには関わっておらず、当時、単に彼女たちが籍をおいていた所属レコード会社の副社長を橋が務めていただけににすぎなかった事が報告されている。 3月29日、[[テレビ朝日]]『[[スマートフォンデュ]]』に生出演。デビュー曲「不思議Tokyoシンデレラ」を当時のダンスとともにフルコーラスで披露。曲間に宙返りはなかったものの、現在も舞台やマラソンで身体を鍛えているメンバーの岩間が側転を披露した。 6月に開催される再始動&CDリリース記念ライブの予約は、受け付け開始から1時間で完売となった。その為、多くのファンが記念すべきライブへの参加ができない事情を考慮し、急遽7月8日に追加ライブが決定したが、既に予約が完売しており、さらに再追加ライブを同月15日に行うことが発表された。 5月16日、再始動CDリリース記念としてタワーレコード、ディスクユニオン、HMVなどのショップにて「セイントフォー が帰って来た!奇跡の再始動記念キャンペーン!!」を展開。 5月31日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで1位を獲得。「不思議Tokyoシンデレラ」と「太陽を抱きしめろ」の2曲を披露。 6月3日、タワーレコード新宿店イベントスペースにて、インストア・イベント(ミニライブ、特典手渡し&握手会&サイン会)を開催。 6月28日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで2度目の1位を獲得。2ndアルバム収録曲からの名曲「ファイアー~灼熱物語~」をテレビで初歌唱した。 7月6日からは、[[Radio NEO]]にてレギュラー番組「セイントフォーのミッドナイト・トーク」がスタートした。 7月27日、『スマートフォンデュ・もう一度見てみたい投票ランキング』視聴者アンケートで3度目の1位を獲得。第4弾シングル「ハートジャックWAR」をテレビで歌唱した。 8月24日、東京歌謡曲ナイト(CLUB CITTA'川崎)のライブアクトにゲスト出演。シングル曲、映画でのライブシーンをバックスクリーンに映しだしながら「COME BACK HERO」を歌唱。ほかメドレーを披露。会場では、グッズやCDの販売も行われた。 [[2021年]]8月26日、コロナ禍のもと、岩間はメンバーとしての活動と並行して介護職も行っていることやメンバーの時間調整など、グループとしての活動が厳しくなり、セイントフォーとしての活動をストップしたままでは「応援してくれているファンに申し訳がない」という気持ちが一致し、一旦「それぞれに充実した時間を大切に過ごして行こう」というメンバー間での話し合いが持たれ「解散ではなく一時活動を休止する」ということをファンにむけて各メンバーのSNSなどで報告された。 [[2022年]]6月、[[ウルトラ・ヴァイヴ|ULTRA-VYBE]]<nowiki/>presents~名鑑シリーズ(邦楽ロック編)~にて「セイントフォー・コンプリートコレクション1984-1986」のCDが7月6日に期間限定で再販され、先着として缶バッジ、特製カードサイズカレンダーの特典が発表された。 == エピソード == 過去に濱田・鈴木に対してインタビューを行っている<ref>「元アイドル2」([[ワニマガジン社]])に所収</ref>プロインタビュアーの[[吉田豪]]は、セイントフォーは事務所による「オーディション詐欺」であったと断じている<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/pp/thebest/page/2|title=新感覚映画トークバラエティ「THE☆BEST」特集(2/3)|work=音楽ナタリー|accessdate=2015-01-17}}</ref>。無差別にダイレクトメールを送り、応募してきた者から30〜40万円の登録料を取るというもので、月3万円の給料も未払いだったという。彼女たちの主演映画「ザ・オーディション」も、セイントフォーの妹分を募集して同様に登録料を取るためのもので、それに応募して追加メンバーになった岩男は彼女の知らない間に両親がさらに大金を支払っていたという。 事務所の方針により、グループのマンネリ化を防ぐため結成から2年ごとにリーダーを変えていく方針だった。グループ結成からデビューまでの2年間は岩間がリーダーを務め、1985年3月に行ったデビューコンサート(芝郵便貯金ホール)にてリーダーが鈴木にバトンタッチされた。 デビュー直後に出演した『[[ザ・トップテン]]』(日本テレビ)の「もうすぐトップテン」というコーナーでは、結成当時から「え〜」「うっそ〜」「やだ〜」などのいわゆる「ぶりっ子言葉」を使ったら1回100円の罰金という決まりがあり、結構貯まっていると浜田が語った。このとき浜田は、緊張のあまり大きく息つぎをしながらのコメントに、司会の[[堺正章]]に「あんた、(一言一言)しゃべると疲れるんですか?」と、突っ込まれていた。 [[1985年]]1月5日、『[[オレたちひょうきん族]]』の「ひょうきんベストテン」(フジテレビ)に出演した。 コーナー司会の[[山村美智子]](当時フジテレビアナウンサー)から「TOKYO不思議シンデレラ」と誤って紹介されて登場した。冒頭では、覇気がない言動のためか、[[島田紳助]]を相当困惑させていた。肝心の歌の部分は「[[西川のりお]]扮するレオタード[[オバQ]](他は[[書割|書き割り]])と[[ヒップアップ]]&amp;[[コント赤信号]]のすもうダンサーズ」のコラボレーションで終わっている。また板谷も、本番中に西川のりおからセクハラを受け、終盤にはとうとう泣き出してしまうというハプニングがあった。なお、当コーナーへの出演は、この回だけだった。 [[少年サンデー]]連載『[[炎の転校生]]』第8巻では著者の[[島本和彦]]が当時、彼女達に熱を上げていたことから「戦闘フォー」というキャラクターが登場している。また、セイントフォーのビデオ『FIRE KISS 〜シークレット・メッセージ〜』には、彼の描き下ろしブックが予約特典として配布された。 この頃からは浜田と鈴木は作詞も勉強し、それぞれにサードアルバムにて自身のソロ曲の作詞で歌唱もしている。事務所の後輩で後に新メンバーとなった潤は加入前のレッスン生時代に、浜田が作詞した楽曲「愛の為に」の提供を受けて、セイントフォーのライブでは妹分と紹介され歌唱していた。 2009年11月16日、「[[HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]])」放送回は、当時ファンだったという[[松村邦洋]]や[[キャイ〜ン|キャイ~ン]]の[[天野ひろゆき]]らが伝説のアイドルグループとして「不思議Tokyoシンデレラ」を当時の貴重映像とともに歌と踊りを織り交ぜながら紹介していた。 2010年2月14日、「[[5時に夢中!|5時に夢中!]]」(TOKYO MX)放送回、司会の[[逸見太郎]]が「今日はセイント・バレンタインデー!」というと、すかさず[[マツコ・デラックス]]が「セイントって言っていいのはセイント・フォーの時だけ!!」と言い放った。 2012年9月8日、「にじいろジーン」(フジテレビ)放送回、[[鈴木砂羽]]と[[山口智充]]が昭和のアイドルイベントで盛り上がりたいという中で「不思議Tokyoシンデレラ」が流された。 2013年5月1日、「[[ヒルナンデス!|ヒルナンデス!]]」(日本テレビ)放送回、アウトドアグッツの紹介コーナーで[[森山直太朗]]と[[ミッツ・マングローブ]]がヘッドライトを装着。するとミッツ・マングローブが「セイントフォーか[[光GENJI]]みたいに見える」と森山直太朗にツッコミを受けていた。 [[2013年]]7月18日放送の[[日本放送協会|NHK]][[連続テレビ小説]]『'''[[あまちゃん]]'''』のワンシーンで、同局で放送されていた『[[レッツゴーヤング]]』に出演して『太陽を抱きしめろ』を歌唱した時の映像が使用されたことが濱田のブログで報告されている<ref>{{Cite news|url=https://ameblo.jp/noriko-hamada/entry-11577704114.html|title=あまちゃん|publisher=濱田のり子オフィシャルブログ「ハートのおもてなし」|date=2013-07-22|accessdate=2013-08-23}}</ref>。また同ドラマでは、この放送回の他にも、本グループの曲が流れたり、映像にレコードジャケットが映し出されたことで、根強いファンの間では話題となった<ref>{{Cite web|和書|title=<あまちゃん>“若き日の春子”有村架純の東京での衝撃の事実が明らかに 「じぇじぇじぇ!」「震えた」と驚きの声(MANTANWEB) |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/376a98aa1ddc583350f55fcde3ad6b011897db1b |website=Yahoo!ニュース |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref>。 鈴木は取材に対して、そして岩間は自身のブログで、オリジナル・メンバーになる前の「幻のメンバー」2名とは、今でも親交があることを明かしている。 2015年11月18日、「NHK歌謡コンサート」で司会の[[高山哲哉]]が、ゲストで登場した「[[フォー・セインツ]]」のグループ名を間違えて「セイントフォー」と紹介してしまう。 [[2018年]]3月、濱田・岩間・鈴木の三人で本格的に再始動することを正式に発表。一年前からレッスンや再始動に向けての準備をしていたことが明かされた。 同月、再始動発表直後に緊急生出演が決定した「スマートフォンデュ歌謡祭」(テレビ朝日)では、およそ30年振りにデビュー曲を歌唱し、その直後からはセイントフォー がYahoo!検索トレンドや[[Twitter|ツイッタ―]]で1位にランクインし、その状態は翌日のお昼過ぎまで続いて、番組は神回とまで言われた。 4月、再結成に伴う2タイトルCD同時リリース発表後、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」は、[[Amazon.co.jp|Amazon]]新着予約ランキングの歌謡部門、歌謡/演歌、各部門でベストセラー1位、新作「時の旅人」は2位にランクインした。 5月、2タイトルCD同時リリース後も[[Amazon.co.jp|Amazon]]ランキング歌謡部門、歌謡/演歌各部門で、新作「時の旅人」は2位に、ベスト盤CD「コンプリート・コレクション1984-1986」はベストセラー1位にランクインした。 またオリコンでは「時の旅人」は週間アルバムランキング225位、「コンプリート・コレクション1984-1986」はデイリーアルバムランキング49位、週間アルバムランキング120位にランクインした。 12月、東京神保町タクト(CDショップ)では、昭和歌謡新譜CD年間売上で「コンプリート・コレクション1984-1986」が3位を獲得。 2019年1月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「[[レコード・コレクターズ]] 」2018年歌謡曲/芸能部門を獲得。 同年9月、「コンプリート・コレクション1984-1986」が「[[レコード・コレクターズ]]」歌謡曲・芸能特集にて10位を獲得。 == 主な出演(1984年 - 1987年) == === 映画 === * [[1984年]]11月公開「[[ザ・オーディション]]」[[新城卓]]監督([[東宝東和]]/[[フィルムリンク・インターナショナル]]) - 制作に[[テレビ朝日]]が関わっていた。[[興行収入#配給収入|配給収入]]は8200万円<ref>『[[週刊東洋経済]]』1986年8月2日号、122頁。</ref>。VHS:品番12843001 ([[アポロン音工|アポロン音工業]])/ VHS・β版:NA-1119/VHD:DNK-908/LD:LNK-532([[ザ・ワークス (テレビ制作会社)|ザ・ワークス]]) * [[1987年]]8月公開「やるときゃやるぜ! 〜COME BACK HERO〜」山名兌二監督([[東宝]]/[[ジョイパックフィルム]]) - ビデオ版の本編終了後「COME BACK HERO」のCFが収録されている。VHS:TG1729 ([[東映ビデオ|東宝ビデオ]]) === ラジオ === * 1985年 - 1986年「セイントフォーのみんな起きてる!?」([[アール・エフ・ラジオ日本]]) * 1985年 「セイントフォーのハイッ!先生」([[KBCラジオ]]) === CM === * 1984年「ヤングジャワカレー」([[ハウス食品]]) * 1984年「[[オートラマ]]」レーザー1500スーパースポーツモデル(セイントフォーSpecial)、テルスター(ザ・オーディションSpecial)※限定販売 === ミュージカル === * 1985年10月4日 - 5日 [[一の宮はじめ]] ジャズダンスアカデミー第3回公演 「ダンシングミュージカル~フィナーレには花束を~」 *: (全3回公演、[[新橋 (東京都港区)|新橋]]・[[ヤクルトホール]]。作・演出・作詞・振付:一の宮はじめ。[[小林千絵]]やデビュー前の[[BaBe]]の2人と共演) === ライブ === * 1984年12月24日 クリスマス・コンサート([[サンシャインシティ|池袋サンシャイン]]広場) * 1985年3月16日 デビュー・コンサート([[東京郵便貯金ホール|東京・芝 郵便貯金ホール]]) *1985年4月2日 セイントフォーLIVEコンサート(LIVE HOUSE Liverpool吉祥寺店) *1985年4月3日 セイントフォーLIVEコンサート(LIVE HOUSE Liverpool国立店) * 1985年8月14日 セイントフォーin郡山コンサート([[郡山市民文化センター]]) * 1985年8月17日 セイントフォーin[[日比谷野外音楽堂]]コンサート * 1985年8月20日 セイントフォーin大阪城コンサート([[大阪城ホール]]) * 1985年8月23日 セイントフォーin平塚コンサート * 1985年8月28日 セイントフォーin川崎コンサート *1985年11月23日 1周年記念ライブ(銀座山野楽器・JamSpot) * 1986年1月 ニューイヤー・コンサート(横須賀、茅ヶ崎、相模原、[[ヤクルトホール]]/全4公演) * 1987年1月18日 ラスト・コンサート~旅立ち~([[日仏会館]]/全2公演) <br /> === イベント === * 1984年10月16日 デビュー発表会([[ホテルニューオータニ|ホテル・ニューオオタニ]]~クリスタル・ルーム) * 1984年10月29日 「ザ・オーディション」完成試写会&ミニ・コンサート([[中野サンプラザ]]) *1985年4月21日 ハッピーオンステージ([[東武動物公園]]) *1985年7月6日 ファンの集い([[新宿NSビル]]・大時計広場) <br /> === 音楽祭・受賞/出場歴 === * 1985年3月8日 リバスターレコード(ヒット曲賞受賞)「不思議Tokyoシンデレラ」 * 1985年3月27日 東京音楽祭・国内大会出場曲「太陽を抱きしめろ」 * 1985年7月5日 メガロポリス音楽祭(エメラルド賞受賞)「太陽を抱きしめろ」 * 1985年7月13日 JALスカイメイトスペシャル'85ほっかいどうレコード新人祭「太陽を抱きしめろ」 * 1985年7月14日 HBC'85ほっかいどうレコード新人祭・中島レコード新人歌謡祭「太陽を抱きしめろ」 * 1985年8月29日 日本テレビ音楽祭(新人奨励賞受賞)「ハイッ!先生」 * 1985年9月21日 KBC新人歌謡音楽祭(優秀新人賞受賞)「ハートジャックWAR」 * 1985年9月28日 ヤング歌謡大賞~'85新人グランプリ~(シルバー賞受賞)「ハートジャックWAR」 * 1985年10月7日 銀座音楽祭「ハートジャックWAR」 *1985年10月12日 新宿音楽祭(銅賞)「ハートジャックWAR」 *1985年「新人アイドルベストテン(明星)」第6位 <br /> == 主な出演(2013年/2018年~再始動・参加メンバー:濱田のり子、岩間沙織、鈴木幸恵) == === ライブ === * [[2013年]]3月17日 上田司バースデーライブ(ゲスト出演)(東京・銀座ケネディーハウス)参加メンバー:濱田、岩間、鈴木 * 2013年11月3日 セイントフォー「一夜限りの復活!ライブ」第1部・第2部(東京・銀座ケネディーハウス)参加メンバー:濱田、岩間、鈴木 * 2018年6月17日 「再始動&CDリリース記念ライブ」(東京・銀座ケネディーハウス) * 2018年7月8日 「再始動&CDリリース記念ライブ」追加ライブ(東京・銀座ケネディーハウス) * 2018年7月15日 「再始動&CDリリース記念ライブ」再追加ライブ(東京・銀座ケネディーハウス) * 2018年12月29日 「セイントフォー年忘れLIVE・2018」(武蔵野市吉祥寺・ROCK JOINT GB) === イベント === * 2018年6月3日 インストア・ミニライブ&特典会([[タワーレコード]]新宿店) * 2018年8月5日 ライブ&サイン会(軽井沢ショッピングプラザ・ニューイーストガーデンモール) * 2018年8月17日 テレビ朝日六本木ヒルズ夏祭りSUMMER STATIONスペシャルステージ「スマートフォンデュ歌謡祭」([[六本木ヒルズアリーナ]]) * 2018年8月24日「東京歌謡曲ナイト2018」ライブアクト出演([[CLUB CITTA'|CLUB CITTA'川崎]]) * 2019年2月3日 [[日本放送協会|NHK]]「レッツゴーヤング・フォーエバー2019」(SKIPシティー彩の国ビジュアルプラザ4F映像ホール・埼玉県川口市) * 2019年2月24日 「第11回ノスタルジック2Days2019」ステージコンテンツ出演([[パシフィコ横浜]]) *2019年3月10日 地域のイベントにて[[テラ・ローザ (バンド)|テラローザ]]のギタリスト、今井芳嗣をサポートに迎え鈴木幸恵がソロとして出演。 === テレビ === * 2015年4月10日 「[[爆報! THE フライデー]]」([[TBSテレビ|TBS]])メンバー岩間沙織の今!ゲスト出演:岩間沙織 *2015年12月11日 「[[爆報! THE フライデー]]」([[TBSテレビ|TBS]])三者三様、メンバーの今!ゲスト出演:濱田のり子、岩間沙織、鈴木幸恵 *2016年6月17日 「[[爆報! THE フライデー]]」([[TBSテレビ|TBS]])メンバー岩間沙織のお見合い!ゲスト出演:岩間沙織 *2016年7月13日 「[[あいつ今何してる?|あいつ今何してる?]]」(テレビ朝日)ゲスト出演:鈴木幸恵 *2018年3月29日「スマートフォンデュ歌謡祭」([[テレビ朝日]])歌唱曲「不思議Tokyoシンデレラ」 * 2018年5月31日「スマートフォンデュ歌謡祭」([[テレビ朝日]])もう一度見たい投票ランキング1位出演・歌唱曲「不思議Tokyoシンデレラ/太陽を抱きしめろ」 * 2018年6月28日「スマートフォンデュ歌謡祭」([[テレビ朝日]])もう一度見たい投票ランキング2ヶ月連続1位出演・歌唱曲「フャイヤー~灼熱物語~」 * 2018年7月27日「スマートフォンデュ歌謡祭」([[テレビ朝日]])もう一度見たい投票ランキング3ヶ月連続1位出演・歌唱曲「ハートジャックWAR」 * 2018年8月30日「スマートフォンデュ・六本木ヒルズ夏祭りSUMMER STATION」([[テレビ朝日]])歌唱曲「不思議Tokyoシンデレラ/太陽を抱きしめろ」 * 2018年11月29日「[[ハートネットTV]]~リハビリ・介護に生きる~」([[NHK Eテレ]])インタビュー取材出演:岩間沙織/ゲスト出演:濱田のり子、鈴木幸恵 *2019年2月21日「ひるまえほっと」発見!お宝番組・特別編([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]/関東甲信越)「レッツゴーヤング・フォーエバー2019」の模様を放送 *2019年4月8、9日「[[クイズ!脳ベルSHOW]]」([[BSフジ]])パネラー出演:濱田のり子 *2019年4月25日「無料屋」(テレビ朝日)ゲスト出演~セイントフォーと一緒にカラオケに行ける権~ *2019年5月30日「無料屋」(テレビ朝日)ゲスト出演~セイントフォーと一緒にしゃぶしゃぶが食べられる権~ *2019年6月27日「無料屋」(テレビ朝日)ゲスト出演~セイントフォーと一緒にボーリングができる権~ *2019年7月26日「無料屋」(テレビ朝日)ゲスト出演~逗子海水浴場にてセイントフォーが荷物番します権~ *2020年3月21日 [[有吉反省会]]2時間スペシャル([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])インタビュー出演:濱田のり子 *2020年11月11日 「今夜くらべてみました」(日本テレビ)懐かしの美少女アイドルコーナー・テレビ紹介:岩間沙織 *2021年2月18、19日「クイズ!脳ベルSHOW」(BSフジ)パネラー出演:鈴木幸恵 *2022年1月29日「ダンスな会」(テレビ朝日)※過去の映像から紹介されている === ラジオ(パーソナリティー) === * 2018年7月6日 - 2018年12月28日「セイントフォーのミッドナイト・トーク」([[Radio NEO]]) === ラジオ(ゲスト出演) === * 2018年5月11日「[[後藤麻衣 (女優)|後藤麻衣]]の心配ないさー」([[アール・エフ・ラジオ日本]]) * 2018年6月18日 「[[加藤裕介の横浜ポップJ]]」生出演([[アール・エフ・ラジオ日本]]) * 2018年8月5日「ピーロートpresents ~夏色スタジオin軽井沢~ワイン&スペシャルライブ」軽井沢ショッピングプラザ・ニューイーストガーデンモール(トーク&ライブ)公開生放送([[SBCラジオ]]) * 2019年1月13日「[[原めぐみ]]のEN♥JOYトーク」([[レインボータウンFM|レインボータウンFM88.5MHz]]) *2020年11月4日 「松本もとよ・ビバ!フラメンコ」([[ListenRadio|ラジオフチューズ87.4㎒]])ゲスト出演:鈴木幸恵 *2020年11月18日 「松本もとよ・ビバ!フラメンコ」([[ListenRadio|ラジオフチューズ87.4㎒]])ゲスト出演:鈴木幸恵 === 雑誌 === * 2013年3月「FLASH」再結成、取材掲載 * 2013年11月「FLASH」ライブ、取材掲載 * 2014年7月17日「俺たちの昭和マガジン」昭和アイドル・クローズアップ「伝説のアイドル・セイントフォー」濱田のり子:インタビュー掲載 * 2018年3月12日「FLASH」濱田×岩間、取材掲載 *2018年8月3日「ステレオ時代Vol.12」ムック(ネコ・パブリッシング)セイントフォー/ピンクジャガー掲載 * 2018年11月19日「CONTINE」取材掲載 *2021年8月3日「週刊アサヒ芸能」鈴木幸恵:取材掲載 *2022年3月1日「女性自身」岩間沙織:取材掲載 *2022年11月29日「電池以下~吉田豪編~」取材掲載 」 === Web関連 === * 2016年1月5日「アサ芸能プラス」伝説のいい女に会いたい!「<太陽を抱きしめろ>セイントフォー」インタビュー:岩間沙織 *2017年11月28日「アサ芸能プラス」蘇る「アイドルグループ」黄金伝説・2<特別対談>セイントフォー:濱田のり子・鈴木幸恵 *2018年3月31日「芽瑠璃堂」告知掲載 * 2018年4月3日 「ナリナリドットコム(音楽ナタリー)」-(exciteニュース、HMV&BOOKS Online、他)告知掲載 * 2018年4月22日「スマートフラッシュ」セイントフォー×濱田のり子、取材掲載 * 2018年5月7日「スマートフラッシュ」セイントフォー×岩間沙織、取材掲載 * 2018年5月11日「CDジャーナルWeb」取材掲載 * 2018年5月23日「タワーレコード」イベント告知掲載 * 2018年5月5日「チャッピー加藤×相澤瞬のそれゆけ!ドーナツ盤万博」~「不思議Tokyoシンデレラ」編(ニッポン放送)第5回掲載 * 2018年5月12日「チャッピー加藤×相澤瞬のそれゆけ!ドーナツ盤万博」~「太陽を抱きしめろ」編(ニッポン放送)第6回掲載 * 2018年5月31日「WEBザテレビジョン」スマートフォンデュ歌謡祭([[テレビ朝日]])もう一度見たい投票ランキング1位獲得記事 * 2018年6月4日「日刊ゲンダイDIGITAL」セイントフォー×岩間沙織、取材掲載 * 2018年6月28日「WEBザテレビジョン/音楽ナタリー/オリコン/テレ朝POST、他」([[テレビ朝日]])伝説のアイドル再び生熱唱!記事掲載 * 2018年7月1日「WEBザテレビジョン」東京女子流、昭和のアイドルを語る。記事中掲載 * 2018年7月26日「WEBザテレビジョン」([[テレビ朝日]])SNSで話題となるセイントフォーが今回も登場!記事掲載 * 2018年7月26日「テレビライフWEB」([[テレビ朝日]])セイントフォーら伝説のアイドルが生歌披露!記事掲載 * 2018年8月15日 FRESH LIVE TV「メグミン・歌のホットスタジオ」ゲスト生出演(神田SpaceCube:ネット配信型イベントスペース) * 2018年8月10日「WEBザテレビジョン、テレビライフWEB、他」テレビ朝日・サマステでセイントフォーら登場!記事掲載 * 2018年8月14日 ミドルエッジ「週刊20世紀Walker・Vol.25号」編集長と助手の昭和ヒットパレード!第4弾は「セイントフォー」掲載 * 2018年11月29日 NHKドキュメンタリー「[[ハートネットTV]]~リハビリ・介護に生きる~」番組紹介記事掲載 * 2019年2月16日 NHK番組発掘プロジェクト通信No.223「レッツゴーヤング・フォーエバー2019」開催ダイジェスト掲載 *2019年3月8日 NHK番組発掘プロジェクト通信No.225 80年代アイドル集合!「発掘!お宝番組」特別編ダイジェスト掲載 *2019年4月25日「WEBザテレビジョン」([[テレビ朝日]])「無料屋」セイントフォーとカラオケに行ける権!記事掲載 *2019年7月31日「EX WEB」([[双葉社]])カルト映画「ザ・オーディション」を[[松江哲明]]監督が語る! *2020年11月6日「EX WEB」岩間沙織「悲劇のアイドルグループ」セイントフォーの初代リーダー「最年長メンバー列伝」Vol.9 *2020年11月7日「ジャニーズだけじゃない、女性アイドルもバク転する時代に」([[Techinsight]]) *2021年8月2日 「アサ芸プラス」昭和のアイドルグループは今!鈴木幸恵:取材記事掲載 *2022年2月18日「80年代女性アイドルグループ人気ランキング」第6位(195票)ランクイン([[ランキングー!|ランキング―]]) *2022年7月5日 ミドルエッジ「デビューから解散までの全作品を収録!」セイントフォー・コンプリートコレクション1984-1986が発売決定! *2023年10月14日「宇宙人設定、PR費40億円…令和では考えられない"尖りすぎた"昭和アイドルたち」(ENTAME next)<ref>{{Cite web|和書|title=宇宙人設定、PR費40億円…令和では考えられない“尖りすぎた”昭和アイドルたち {{!}} ENTAME next - アイドル情報総合ニュースサイト |url=https://entamenext.com/articles/detail/27979 |website=entamenext.com |access-date=2023-10-14 |language=ja}}</ref> == ディスコグラフィ == === シングル === {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! c/w !! 規格品番 !! 備考 !! [[オリコンチャート|オリコン]]<br/>最高位 |- ! 1st | 1984年11月5日 | '''[[不思議Tokyoシンデレラ]]''' | 「恋気 DE ナマイ気」 | 7RC-0038 | 売上総数5.3万枚<ref name="zakzak">[http://www.zakzak.co.jp/ent/news/170613/ent1706131135-n1.html 40億円デビューも“前代未聞”のトラブルで解散した「セイントフォー」2年5カ月で空中分解]、ZAKZAK、2017年6月13日。</ref> | 35位 |- ! 2nd | 1985年3月21日 | '''太陽を抱きしめろ''' | 「ミリオン聖裸」 | 7RC-0043 | 売上総数6.1万枚<ref name="zakzak" /> | 15位 |- ! 3rd | 1985年7月21日 | '''ハイッ!先生''' | 「ビートガール」 | 7RC-0046 | 売上総数2.4万枚 | 35位 |- ! 4th | 1985年9月21日 | '''ハートジャックWAR''' | 「ラブ・サスペンス」 | 7RC-0053 | 売上総数1.1万枚 | 46位 |} === オリジナルアルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 備考 !! オリコン<br/>最高位 |- ! 1st | 1984年11月21日 | '''THE AUDITION''' | LP/28RL-0011 CT/28RM-0007 | LP/CT(売上総数2.2万枚<ref name="zakzak" />) | 40位 |- ! 2nd | 1985年5月21日 | '''太陽を抱きしめろ''' | LP/28RL-0016 CT/28RM-0012 | LP/CT(売上総数1.2万枚) | 26位 |- !3rd |1985年9月21日 |'''We're Saint Four~セイントフォーⅢ~''' |LP/28RL-0017 CT/28RM-0013 CD/32RR-0003 |LP/CT/CD(売上総数1.5万枚) |34位 |} === ベストアルバム === {| class="wikitable" style="font-size:small" border="1" ! 枚 !! 発売日 !! タイトル !! 規格品番 !! 備考 |- ! 1st | 1985年8月21日 | '''セイントフォー・ベストヒット14''' | 32RR-0002 | CD |- ! 2nd | 1985年11月21日 | '''ザ・ベスト・オブ・セイントフォー''' | LP/28RL-0019 CT/28RM-0015 CD/32RR-0006 | LP/CT/CD オリコン最高位90位(売上総数0.2万枚) |- ! 3rd | 2002年10月17日 | '''セイントフォー・BEST''' | PCCA01754 | CD/[[ポニーキャニオン]]  |- ! 4th | rowspan="2" |2018年5月16日 | '''時の旅人''' | CDSOL1807 |[[ソリッドレコード]] #収録曲(2-10:セルフカヴァー) ##'''噂のダンディボーイ'''(オリジナル新曲) ##太陽を抱きしめろ ##ファイヤー〜灼熱物語〜 ##センチメンタルの向こう側 ##ミリオン聖裸 ##恋愛☆ミステリー〜2018ver.〜 ##恋気DEナマイ気 ##夢に愛に恋 ##不思議Tokyoシンデレラ ##少年は鳥になった ##'''時の旅人'''(オリジナル新曲) ##初恋の並木道(初音盤化曲) ##夜のダンサー(初音盤化曲) ##ファイヤーKissで火をつけて(初音盤化曲) ##ドリームライト(初音盤化曲) (収録参加メンバー:濱田・岩間・鈴木) |- ! 5th |'''コンプリート・コレクション1984-1986''' | CDSOL1808-09 | #ボーナストラックス(初音盤化曲) ##COME BACK HERO ##スリリング ##トライアングルラブ ##ラストショー (歌唱メンバー:浜田範子、鈴木幸恵、岩間沙織、[[いわお潤]]) |} ; 未発表曲 #初恋の並木道 - デビューに向けてレッスン用として歌われていた楽曲。1985年3月芝郵便貯金ホールでのデビューコンサートで歌唱。ビデオ「抱きしめてセイントフォー」に収録。 #夜のダンサー -(1stアルバム「未来聖女」別詞曲) - 同じくデビューコンサートで歌唱。ビデオ「抱きしめてセイントフォー」に収録。 #ファイヤーKissで火をつけて - 1985年7月、日比谷野外音楽堂でのコンサートで歌唱。ビデオ「Fire Kiss~シークレットメッセージ」収録、ラジオ「みんな起きてる!?」にて放送。 #ドリームライト - デビュー前に歌っていた楽曲を [[1986年]]1月、メンバーそれぞれの出身地で行ったコンサートで歌唱。ビデオ「Fire Kiss~シークレットメッセージ」BGM収録、ラジオ「みんな起きてる!?」にて放送。 上記4曲は、2018年5月16日発売CD「時の旅人」に初音盤化収録されている。 以下、メンバーチェンジにより潤加入後 #スリリング - メンバーチェンジ後、新生セイントフォーの紹介盤および、レコード会社移籍第1弾として1986年6月に発売予定だった。歌の途中に「SAY!SAY!セイントフォー」という掛け声があった。 #COME BACK HERO - 映画「やるときゃやるぜ!~COME BACK HERO~」劇中歌。 移籍第2弾は1986年8月発売予定だった。 #トライアングルラブ #ラストショー 以上4曲は、『セイントフォーの“みんな起きてる!?”』( [[アール・エフ・ラジオ日本]])の最終回および「解散ライブ~旅立ち~」で披露された。 上記4曲は、2018年5月16日発売CD「コンプリートコレクション」に初音盤化収録されている。 === 他グループによるカバー === * 2004年7月には、アニメ『[[爆裂天使]]』([[ビクターエンタテインメント]])のイメージソングとして、声優陣の[[渡辺明乃]]・[[豊口めぐみ]]・[[高橋美佳子]]・[[田中理恵 (声優)|田中理恵]]ら4人が、当グループのデビュー曲『不思議Tokyoシンデレラ』をカバーした。カップリングにも『太陽を抱きしめろ』が同じくカバーされた。 * 2010年9月、テレビアニメ『[[そらのおとしものf]]』からの青春歌謡ユニット「'''[[そらのおとしもの#そらの少女TAI♪|ソラの少女TAI♪]]'''」([[日本コロムビア]])が、配信限定で『不思議Tokyoシンデレラ』をカバーした。その後CD化され『そらのおとしものfプレゼンツ そらの少女TAI♪』に収録されている。 * 2011年1月から、[[新潟県]]を中心に活動している[[ローカルアイドル]]「'''[[RYUTist]]'''」(りゅーてぃすと)が、『不思議Tokyoシンデレラ』をカバーし、ライブで披露。 == ビデオ == * 1985年7月発売「抱きしめてセイントフォー」 - 芝郵便貯金ホールでのライブほか収録。 :'''【収録楽曲】'''(LD版のチャプター順に列挙、※はVHS版未収録) {{indent| * 至上の愛(インストゥルメンタル)※ * 不思議 Tokyo シンデレラ * 恋気 DE ナマイ気 * 初恋の並木道※ * ダンス・シーン※ * 断崖 * A-cup Scandal * 夜のダンサー * 太陽を抱きしめろ * ミリオン聖裸(セラー) * 夢に愛に恋 * メドレー(ヒューマン・タッチ / プロポーション / 恋愛☆ミステリー / 雨の予感) * Rock'n Roll Dreams come through * 太陽を抱きしめろ※ :発売元:[VHS]ザ・ワークス、[LD]レーザーディスク株式会社 :販売元:[VHS]日本ビデオ映像株式会社、[LD]パイオニア株式会社 :品番:[VHS]NH-4014、[LD]SM058-0116 :価格:[VHS]9,800円、[LD]5,800円 :収録時間:[VHS]50分、[LD]55分 }} * 1985年12月10日発売「FIRE KISS 〜シークレット・メッセージ〜」 - 1985年8月17日に収録された日比谷野外音楽堂のライブやショートストーリー、4人のトークなどを収録。 :'''【収録楽曲】''' {{indent| * ヒューマンタッチ(LD版ではSide1の1曲目。以下、LD版のチャプター順に列挙) * アメリカン・ドリーム(History) * 不思議 Tokyo シンデレラ * センチメンタルの向こう側 * 太陽を抱きしめろ * ハイッ!先生 * ハートジャックWAR * ロマンチック街道(パジャマDEトーク) * Rock'n Roll Girl(Short Story by Yukie) * ね・が・い(Short Story by Noriko) * 魔術師は嘘つき * 未来聖女(LD版ではSide2の1曲目) * 傷だらけのキックオフ * 真夜中のTelephone Call ~ ビートガール * Mr.ロンリーによろしく(Short Story by Saori) * Please believe in love(Short Story by Yumiko) *♥(ハート)急上昇 *ファイヤー〜灼熱物語〜 *断崖 *ドリームライト(パジャマDEトーク) * ファイアーキッスで火をつけて * 少年は鳥になった :発売元:東映ビデオ株式会社 :品番:[VHS]TE-B702、[LD]TE-D115 :価格:[VHS]10,800円、[LD]9,800円 :収録時間:78分 }} * 1987年3月発売「WE ARE SAINT FOUR」 - 監督[[廣木隆一]]、脚本[[吉本昌弘]]による[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系「[[月曜ドラマランド]]」での放送を予定して撮影されたドラマ作品。潤が加入した後、唯一一般発売された作品で、幻のオリジナル5曲(収録楽曲を参照)を収録。 {{indent| '''【キャスト】''' * ノリコ:浜田範子 * ユキエ:鈴木幸恵 * サオリ:岩間沙織 * ジュン:いわお潤(現:岩男潤子) * 吉田稔 * 吉野繁 * 安藤麗二 * 山口柚香 * 猪態恒和 * 和田緑 * 倉崎青児 * 吉永千里 * 坂手洋二 '''【スタッフ】''' * プロデューサー:渡辺正憲、飯島茂 * 監督:廣木隆一(パッケージ上の表記は広木隆一) * 脚本:吉本昌弘 * 撮影:佐々木原保志、山本朗、相馬健司 * 照明:金沢正夫、吉角壮介、雨平巧 * 編集:沢田まこと * 助監督:金田龍、光石冨士朗、長田浩一 * 製作進行:山田幸弘、高畑隆史 * 企画・製作:株式会社パインウッド '''【収録楽曲】''' * ファイアーキッスで火をつけて * スリリング * トライアングルラブ * ラストショー * COME BACK HERO(パッケージ上の表記は「カムバックヒーロー」) :発売元:JHV(ジャパンホームビデオ株式会社) :品番:[VHS]KH-6028 :価格:9,800円 :収録時間:40分 }} ※ 他に、ファンクラブ会員限定で販売された「セイントフォー旅立ちコンサート1部・2部([[日仏会館]])」がある。 == 書籍 == === 単行本 === * フォト&エッセイ集・セイントフォーじゃじゃネコ通信「お・は・よ・!」(1985年12月1日、[[リイド社]]) === 写真集 === * 抱きしめてセイントフォー 別冊スコラ26(1985年6月、講談社、撮影:佐々木教平)ISBN 978-4061749269 === 関連書籍 === * [[藤公之介]]『ザ・オーディション』(1984年11月、せいこう出版) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == * [https://www.theater-project.com/company-1 公式プロフィール] - シアタープロジェクト {{Normdaten}} {{デフォルトソート:せいんとふおお}} [[Category:日本の女性アイドルグループ]] [[Category:日本のガール・グループ]] [[Category:3人組の音楽グループ]] [[Category:1984年に結成した音楽グループ]] [[Category:1987年に解散した音楽グループ]] [[Category:2018年に再結成した音楽グループ]]
2003-02-08T06:28:20Z
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アース・ウィンド・アンド・ファイアー
アース・ウィンド・アンド・ファイアー(Earth, Wind & Fire)は、アフリカ系アメリカ人によるファンクミュージック・バンドである。R&B、ファンク、ソウル、ジャズなどのジャンルを融合させ、新たなポップミュージックの世界を開拓した。ファンクやディスコが全盛だった1970年代を象徴するバンドとして知られる。略称はEWF、EW&F。 1970年代半ば以降の全盛期は、ファンキーなサウンドとモーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカル、重厚なホーンセクション(英語版)が特徴であった。1980年代前半には、コンピューターを利用した電子音を採り入れたが、人気を復活させるのは困難だった。アメリカ合衆国国内だけでなく日本をはじめ世界的な人気も高く、1970年代から何度か活動停止と再開を繰り返しつつも定期的にヒット曲を放ち、世界でのCD・レコード総売上は9000万枚以上。グラミー賞を6回受賞し、2000年にロックの殿堂入りを果たしている。 モーリス・ホワイトは、初期はジャズ・ドラマーとしてラムゼイ・ルイスのバンドに参加していた。彼のバンドを離れた後、1969年にシカゴにて、ソルティ・ペパーズを結成、キャピトルからシングル"La La Time"を残す。 1970年には、活動拠点をロサンゼルスに変え、バンド名もアース・ウィンド・アンド・ファイアーと改名。占星術によると、モーリスの占星図にはEarth, Air & Fire(土と空気と火)の3つの要素があることから、Earth, Wind & Fire(土と風と火)と名づけた(当時の人気バンド、ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの模倣という説もある)。ワーナーと契約、モーリスの弟のヴァーダイン・ホワイト(後にフレッド・ホワイト(英語版)も加入)を含めた10人の大所帯バンドとなる。2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。 1972年にコロムビア・レコードに移籍、フィリップ・ベイリーとラルフ・ジョンソン(英語版)やラリー・ダン(英語版)が加入。コロムビアには、以後1990年まで在籍する。1973年に、Head To The Sky(『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』)をリリースし、ゴールド・ディスクを獲得する。1975年には、That's the Way of the World(『暗黒への挑戦』)を、同名の映画のサウンドトラックとしてリリースし全米アルバム・チャート第1位を獲得。この映画にはモーリスも出演しており、彼らの貴重なライヴ映像も観ることができる。75年に「シャイニング・スター」がポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットした頃から、アースの人気が急上昇した。76年には「ゲッタウェイ」を発表し、同曲もヒットした。この2曲はファンクの傑作曲とされている。77年から79年には「太陽の戦士」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」などがヒットしたが、ファンク度は後退し、ポップ・ソウル色が濃くなっていった。79年にはディスコ「ブギー・ワンダーランド」やバラード曲がヒットしたが、ファンクのアースがディスコやAORをやるなんて、という失望や批判の声も少なからず聞かれた。 1976年に、モーリスは自己プロダクション、カリンバ・エンタテインメントを設立。モーリスは、"Boogie Wonderland"に参加している「エモーションズ」などをプロデュースしている。1978年には、CBS/コロムビアの元、ARCレコード(英語版)を設立。レーベルの第一弾としてベスト盤『The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1』をリリース。ヒット曲"September"の初収録アルバムがこれになる。 1980年に、2枚組の大作Faces(『フェイセス』)を発表。しかし、このアルバムは不評で、これといったヒットも出なかった。挽回を目指し81年に発表したのがアルバムRaise!(『天空の女神』)である。このアルバムからは「レッツ・グルーブ」などのヒット曲が生まれ、アース健在を印象づけた。 1983年に発表した『エレクトリック・ユニヴァース』ではトレードマークであったホーンセクション(英語版)の使用を中止し、電子楽器中心のサウンドを展開させるが、活動を一時停止、各メンバーはそれぞれソロ活動に移る。この間、フィリップ・ベイリーは1984年にフィル・コリンズのプロデュースでChinese Wallをリリースし、"Easy Lover"をヒットさせる。彼は以後も不定期ながらソロ活動をしている。モーリスも1985年に唯一のソロ・アルバムとなるMaurice Whiteをリリースし、"I Need You"をヒットさせる。 1987年に『タッチ・ザ・ワールド(英語版)』をリリースし、活動を再開。1990年発売の『ヘリテッジ』を最後にコロムビアより離れ、ワーナーへと戻り、1993年に『千年伝説』をリリース。その頃よりモーリスはプロデューサー業を強化するようになり、1994年の全米ツアーには参加せず。モーリスは1995年のライヴ活動もリタイア。1996年に自主レーベル、カリンバ・レコードよりアルバムが制作され、avex traxより『アヴェタ』のタイトルで日本先行発売された。海外版としては、このアルバムは翌年にIn the Name of Loveとリタイトルと再構成され、ライノより翌年にリリースされる。モーリスはこのアルバムを最後にプロデューサー業に専念するようになり、以後の活動はフィリップが中心となっている。 1997年にモーリスは神経性障害と診断される。「パーキンソン病ではなく、元々神経質であることと、度重なるストレスから、震えが伴うことがある」とモーリスは発言していたが、2000年ロックの殿堂入りの際、式典前にパーキンソン病と診断されたことを明らかにし、ステージ活動から退いた。2004年の来日公演には同行する。2007年にはスタックス・レコード(コンコード・レコードにより復活)より、EWFのトリビュート・アルバムInterpetationsをリリース。モーリスは、エグゼクティヴ・プロデューサーとしてこのプロジェクトに参加。 2009年12月、4年ぶりの来日公演が東京と大阪、札幌で行われた。この時、翌2010年は結成40周年目の記念としてモーリスを加えての記念ライヴが行われるとアナウンスされたが、バンドでのライヴは叶わず、日本ではフィリップ・ベイリーのソロライヴのみが行われた。 2013年には22年ぶりにソニー・ミュージック(コロムビア)に戻り、9月にフォーエバー(英語版)(Now, Then & Forever)をリリース。ラリー・ダンが復帰し、原点回帰をテーマにしたサウンドとなる。限定版にはボーナスCDが付録する。 2016年2月3日、モーリス・ホワイトが死去。同年、第58回グラミー賞特別功労賞生涯業績賞を受賞。 2019年12月11日、日本の女性ボーカルグループLittle Glee MonsterとコラボレーションしたEP「I Feel The Light」をリリースした。 1970年 1971年 1973年 1974年 1975年 1976年 1977年 1978年 1979年 1980年 1981年 1982年 1983年 1987年 1988年 1990年 1993年 1997年 2003年 2005年 日本での人気は非常に高く、 幾度となく来日公演を行っている。また、DREAMS COME TRUE(特にベーシストの中村正人)が強く影響を受けており、『WHEREVER YOU ARE』ではモーリス・ホワイトがバックボーカルに参加している。
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アース・ウィンド・アンド・ファイアーは、アフリカ系アメリカ人によるファンクミュージック・バンドである。R&B、ファンク、ソウル、ジャズなどのジャンルを融合させ、新たなポップミュージックの世界を開拓した。ファンクやディスコが全盛だった1970年代を象徴するバンドとして知られる。略称はEWF、EW&F。 1970年代半ば以降の全盛期は、ファンキーなサウンドとモーリス・ホワイトとフィリップ・ベイリーのツインヴォーカル、重厚なホーンセクションが特徴であった。1980年代前半には、コンピューターを利用した電子音を採り入れたが、人気を復活させるのは困難だった。アメリカ合衆国国内だけでなく日本をはじめ世界的な人気も高く、1970年代から何度か活動停止と再開を繰り返しつつも定期的にヒット曲を放ち、世界でのCD・レコード総売上は9000万枚以上。グラミー賞を6回受賞し、2000年にロックの殿堂入りを果たしている。
{{混同|アース・アンド・ファイアー|x1=[[オランダ]]の[[ロック (音楽)|ロック]]グループの}} {{Infobox Musician | 名前 = アース・ウィンド・アンド・ファイアー | 画像 = Earth, Wind & Fire (2).jpg | 画像説明 = ライヴで演奏するアース・ウィンド・アンド・ファイアー(2009年) | 画像サイズ = 250px | 画像補正 = yes | 背景色 = band | 別名 = <!-- 活動時に使用した別名義を記載。通称や略称ではありません。 --> | 出身地 = {{USA}} [[イリノイ州]][[シカゴ]] | ジャンル = {{Hlist-comma|[[ファンク]]<ref name="allmusic">{{AllMusic |first=Steve |last=Huey |title=Earth, Wind & Fire {{!}} Biography & History |class=artist |id=earth-wind-fire-mn0000135273/biography |accessdate=2020-12-08 }}</ref><ref name="songhall">{{cite web |title= Maurice White |url= https://www.songhall.org/profile/maurice_white |website= www.songhall.org |publisher= Songwriters Hall of Fame |accessdate= 2023-04-24 |quote= Members Maurice White, Philip Bailey, Verdine White, Larry Dunn and Al McKay are known for their signature sound of fusing Pop, R&B, Rock, Latin, Funk, Jazz and African Music to win numerous awards. }}</ref>|[[ジャズ]]<ref name="allmusic" /><ref name="songhall" />|[[:en:Smooth soul|スムーズソウル]]<ref name="allmusic" />|[[ゴスペル (音楽)|ゴスペル]]<ref name="allmusic" />|[[ポップ・ミュージック|ポップ]]<ref name="allmusic" />|[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]<ref name="songhall" />|[[ロックンロール]]<ref name="allmusic" />|[[ラテン音楽|ラテン]]<ref name="songhall" />|[[サイケデリック・ミュージック|サイケデリア]]<ref name="allmusic" />|[[ブルース]]<ref name="allmusic" />|[[フォークソング|フォーク]]<ref name="allmusic" />|[[アフリカの音楽|アフリカン]]<ref name="allmusic" /><ref name="songhall" />|[[ディスコ (音楽)|ディスコ]]<ref name="allmusic" />}} | 活動期間 = {{Plainlist| * [[1969年]] - [[1983年]] * [[1987年]] - }} | レーベル = {{Hlist-comma|[[ワーナー・レコード|ワーナー・ブラザース]]|[[:en:American Record Corporation|ARC]]|[[コロムビア・レコード|コロムビア]]|[[:en:Kalimba Music|カリンバ]]|[[サンクチュアリ・レコード|サンクチュアリ]]}} | 事務所 = | 共同作業者 = | 公式サイト = [https://www.earthwindandfire.com/ EarthWindandFire.com] | メンバー = {{Plainlist| * [[フィリップ・ベイリー]] * [[ヴァーダイン・ホワイト]] * [[:en:Ralph Johnson (musician)|ラルフ・ジョンソン]] * マイロン・マッキンリー * フィリップ・ベイリー・ジュニア * B. デビッド・ウィットワース * モリス・オコナー * {{仮リンク|ジョン・パリス|en|John Paris}} }} | 旧メンバー = {{Plainlist| * [[モーリス・ホワイト]] * {{仮リンク|フレッド・ホワイト (ミュージシャン)|label=フレッド・ホワイト|en|Fred White (musician)}} * {{仮リンク|ラリー・ダン|en|Larry Dunn}} * グレッグ・ムーア * ゲイリー・バイアス * ボビー・バーンズ・ジュニア * クリスタル・ベイリー * {{仮リンク|キム・ジョンソン (音楽家)|label=キム・ジョンソン|en|Kim Johnson (musician)}} * レジー・ヤング * {{仮リンク|アル・マッケイ|en|Al McKay}} }} }} '''アース・ウィンド・アンド・ファイアー'''({{Lang|en|''Earth, Wind & Fire''}})は、[[アフリカ系アメリカ人]]による[[ファンク]]ミュージック・[[バンド (音楽)|バンド]]である。[[リズム・アンド・ブルース|R&B]]、ファンク、ソウル、ジャズなどのジャンルを融合させ、新たなポップミュージックの世界を開拓した<ref name=":2">{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/EarthWindandFire/info/464430|title=EW&Fのモーリス・ホワイト逝去。ソニー・ミュージックからの追悼文。|accessdate=2016-03-10|date=2016-02-06|publisher=Sony Music}}</ref>。ファンクや[[ディスコ]]が全盛だった[[1970年代]]を象徴するバンドとして知られる<ref name=":1" />。略称は'''EWF'''、'''EW&F'''。 1970年代半ば以降の全盛期は、ファンキーなサウンドと[[モーリス・ホワイト]]と[[フィリップ・ベイリー]]のツイン[[ヴォーカル]]、重厚な{{仮リンク|ホーンセクション|en|Horn section|preserve=1}}が特徴であった<ref name=":1">{{Cite web|和書|url = http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160205/k10010398321000.html|title = アース・ウインド&ファイヤー モーリス・ホワイトさん死去|accessdate = 2016-02-13|publisher = NHK|date = 2016-02-05|archiveurl = https://archive.is/olIzN|archivedate = 2016-02-05}}</ref>。[[1980年代]]前半には、[[コンピューター]]を利用した電子音を採り入れたが、人気を復活させるのは困難だった。[[アメリカ合衆国]]国内だけでなく[[日本]]をはじめ世界的な人気も高く、1970年代から何度か活動停止と再開を繰り返しつつも定期的にヒット曲を放ち、世界でのCD・レコード総売上は9000万枚以上<ref name=":1" />。[[グラミー賞]]を6回受賞し、2000年に[[ロックの殿堂]]入りを果たしている<ref name=":1" />。 == 来歴 == === 1969年 - 1982年 === モーリス・ホワイトは、初期はジャズ・ドラマーとして[[ラムゼイ・ルイス]]のバンドに参加していた。彼のバンドを離れた後、[[1969年]]に[[シカゴ]]にて、'''ソルティ・ペパーズ'''を結成、[[キャピトル・レコード|キャピトル]]からシングル"La La Time"を残す<ref name=salty>{{cite web|url=https://www.allmusic.com/artist/the-salty-peppers-mn0001276318 |title=The Salty Peppers - Overview|publisher=allmusic.com|accessdate=2012-07-27}}</ref>。 [[1970年]]には、活動拠点を[[ロサンゼルス]]に変え、バンド名も'''アース・ウィンド・アンド・ファイアー'''と改名。[[占星術]]によると、モーリスの占星図にはEarth, Air & Fire(土と空気と火)の3つの要素があることから、Earth, Wind & Fire(土と風と火)と名づけた<ref name=":0">{{Cite web|和書|url = https://www.barks.jp/news/?id=1000123266|title = 【2016年グラミー特集】グラミー生涯業績賞、ハービー・ハンコックやアース・ウィンド&ファイア|accessdate = 2016-02-05|publisher = BARKS|date = 2016-01-15}}</ref><ref name="cnn" />(当時の人気バンド、[[ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ]]の模倣という説もある<ref>[[ベストヒットUSA]]における[[小林克也]]の発言</ref>)。[[ワーナー・ミュージック|ワーナー]]と契約、モーリスの弟の[[ヴァーダイン・ホワイト]](後に{{仮リンク|フレッド・ホワイト (ミュージシャン)|label=フレッド・ホワイト|en|Fred White (musician)}}も加入)を含めた10人の大所帯バンドとなる。2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。 [[1972年]]に[[コロムビア・レコード]]に移籍、フィリップ・ベイリーと{{仮リンク|ラルフ・ジョンソン (ミュージシャン)|label=ラルフ・ジョンソン|en|Ralph Johnson (musician)}}や{{仮リンク|ラリー・ダン|en|Larry Dunn}}が加入。コロムビアには、以後1990年まで在籍する。1973年に、''Head To The Sky''(『ヘッド・トゥ・ザ・スカイ』)をリリースし、ゴールド・ディスクを獲得する。1975年には、''That's the Way of the World''(『[[暗黒への挑戦]]』)を、同名の映画の[[サウンドトラック]]としてリリースし全米アルバム・チャート第1位を獲得<ref name="cnn" />。この映画にはモーリスも出演しており、彼らの貴重なライヴ映像も観ることができる。75年に「シャイニング・スター」<ref>https://rateyourmusic.com/artist/earth-wind-and-fire</ref>がポップ・チャートでもクロスオーバー・ヒットした頃から、アースの人気が急上昇した。76年には「ゲッタウェイ」を発表し、同曲もヒットした。この2曲はファンクの傑作曲とされている。77年から79年には「太陽の戦士」「宇宙のファンタジー」「セプテンバー」「ガット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」などがヒットしたが、ファンク度は後退し、ポップ・ソウル色が濃くなっていった。79年にはディスコ「ブギー・ワンダーランド」やバラード曲がヒットしたが、ファンクのアースがディスコやAORをやるなんて、という失望や批判の声も少なからず聞かれた。 [[File:Earth Wind and Fire.jpg|thumb|180px|left|フェニックス・ホーンズ]] [[1976年]]に、モーリスは自己プロダクション、カリンバ・エンタテインメントを設立。モーリスは、"Boogie Wonderland"に参加している「[[エモーションズ]]」などをプロデュースしている。1978年には、CBS/コロムビアの元、{{仮リンク|ARCレコード|en|American Record Corporation}}を設立。レーベルの第一弾としてベスト盤『''The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1』''をリリース。ヒット曲"[[セプテンバー (EW&Fの曲)|September]]"の初収録アルバムがこれになる。 [[1980年]]に、2枚組の大作''Faces''(『[[フェイセス]]』)を発表。しかし、このアルバムは不評で、これといったヒットも出なかった。挽回を目指し81年に発表したのがアルバムRaise!(『[[天空の女神]]』)である。このアルバムからは「レッツ・グルーブ」などのヒット曲が生まれ、アース健在を印象づけた。 === 1983年以降の活動 === 1983年に発表した『[[エレクトリック・ユニヴァース]]』ではトレードマークであった{{仮リンク|ホーンセクション|en|Horn section|preserve=1}}の使用を中止し、[[電子楽器]]中心のサウンドを展開させるが、活動を一時停止、各メンバーはそれぞれソロ活動に移る。この間、フィリップ・ベイリーは1984年に[[フィル・コリンズ]]のプロデュースで''Chinese Wall''をリリースし、"[[イージー・ラヴァー|Easy Lover]]"をヒットさせる。彼は以後も不定期ながらソロ活動をしている。モーリスも1985年に唯一のソロ・アルバムとなる''Maurice White''をリリースし、"I Need You"をヒットさせる。 [[1987年]]に『{{仮リンク|タッチ・ザ・ワールド|en|Touch the World}}』をリリースし、活動を再開。[[1990年]]発売の『[[ヘリテッジ]]』を最後にコロムビアより離れ、ワーナーへと戻り、1993年に『[[千年伝説]]』をリリース。その頃よりモーリスはプロデューサー業を強化するようになり、[[1994年]]の全米ツアーには参加せず。モーリスは1995年のライヴ活動もリタイア。1996年に自主レーベル、カリンバ・レコードよりアルバムが制作され、[[avex trax]]より『アヴェタ』のタイトルで日本先行発売された。海外版としては、このアルバムは翌年に''In the Name of Love''とリタイトルと再構成され、[[ライノ・エンタテインメント|ライノ]]より翌年にリリースされる。モーリスはこのアルバムを最後にプロデューサー業に専念するようになり、以後の活動はフィリップが中心となっている。 [[1997年]]にモーリスは[[神経性障害]]と診断される。「[[パーキンソン病]]ではなく、元々神経質であることと、度重なるストレスから、震えが伴うことがある」とモーリスは発言していたが<ref name="gratitude">アルバム''gratitude''(2004年、日本再発盤)のウィリアム・C・ローデンによるライナー</ref>、[[2000年]][[ロックの殿堂]]入りの際、式典前にパーキンソン病と診断されたことを明らかにし、ステージ活動から退いた<ref name="cnn" />。2004年の来日公演には同行する<!--これがモーリス込みで最後の公演とも噂される-->。[[2007年]]には[[スタックス・レコード]]([[コンコード・レコード]]により復活)より、EWFの[[トリビュート・アルバム]]''Interpetations''をリリース。モーリスは、[[エグゼクティヴ・プロデューサー]]としてこのプロジェクトに参加。 [[2009年]]12月、4年ぶりの来日公演が東京と大阪、札幌で行われた。この時、翌2010年は結成40周年目の記念としてモーリスを加えての記念ライヴが行われるとアナウンスされたが、バンドでのライヴは叶わず、日本ではフィリップ・ベイリーのソロライヴのみが行われた。 [[2013年]]には22年ぶりに[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (米国)|ソニー・ミュージック]](コロムビア)に戻り、9月に''{{仮リンク|フォーエバー (EW&Fのアルバム)|label=フォーエバー|en|Now, Then & Forever}}(Now, Then & Forever)''をリリース。ラリー・ダンが復帰し、原点回帰をテーマにしたサウンドとなる。限定版にはボーナスCDが付録する<ref>[https://www.sonymusic.co.jp/artist/EarthWindandFire/info/427169 インフォメーション] | [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|Sony Music]]</ref>。 [[2016年]][[2月3日]]、モーリス・ホワイトが死去<ref name="cnn">[https://edition.cnn.com/2016/02/04/entertainment/maurice-white-earth-wind-fire-dies-feat/index.html Maurice White, leader and founder of Earth, Wind & Fire, dies at 74] [[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]英語版サイト、2016年2月5日閲覧。</ref>。同年、[[第58回グラミー賞]]特別功労賞生涯業績賞を受賞<ref name=":0" />。 [[2019年]][[12月11日]]、日本の女性ボーカルグループ[[Little Glee Monster]]とコラボレーションした[[コンパクト盤|EP]]「[[I Feel The Light]]」をリリースした。 == ディスコグラフィ == === アルバム === * ''Earth, Wind and Fire'' ([[デビュー (EW&Fのアルバム)|デビュー]], 1971, [[ワーナー・レコード|Warner Bros.]]) (US 200 #172/US R&B #24) * ''The Need of Love'' ([[愛の伝道師]], 1971, Warner Bros.) (US 200 #89/US R&B #35) * ''Last Days and Time'' ([[地球最後の日 (EW&Fのアルバム)|地球最後の日]], 1972, [[コロムビア・レコード|Columbia]]) (US 200 #87/US R&B #15) * ''Head to the Sky'' (ブラックロック革命→ヘッド・トゥ・ザ・スカイ, 1973, Columbia) (US 200 #27/US R&B #2) * ''Open Our Eyes'' ([[太陽の化身]], 1974, Columbia) (US 200 #15/US R&B #1) * ''That's the Way of the World'' ([[暗黒への挑戦]], 1975, Columbia) (US 200 #1/US R&B #1) *: EWFが出演した同名の映画のサウンドトラックとなる。全米アルバム・チャート3週間第1位。プラチナ・ディスクを獲得。 * ''Gratitude'' ([[灼熱の狂宴]], 1975, Columbia) (US 200 #1/US R&B #1) *: ライブアルバム。 * ''Spirit'' ([[魂 (EW&Fのアルバム)|魂]], 1976, Columbia) (US 200 #2/US R&B #2) * ''All 'N All'' ([[太陽神 (アルバム)|太陽神,]] 1977, Columbia) (US 200 #3/US R&B #1) * ''The Best of Earth, Wind & Fire Vol.1'' ([[ベスト・オブ・EW & F VOL.1]], 1978, ARC) (US 200 #6/US R&B #3) * ''I Am'' ([[黙示録 (アルバム)|黙示録]], 1979, ARC) (US 200 #3/US R&B #1) * ''Faces'' ([[フェイセス]], 1980, ARC) (US 200 #10/US R&B #2) * ''Raise!'' ([[天空の女神]], 1981, ARC) (US 200 #5/US R&B #1) * ''Powerlight'' ([[創世記 (EW&Fのアルバム)|創世記]], 1983, Columbia) (US 200 #12/US R&B #4) * ''Electric Universe'' ([[エレクトリック・ユニヴァース]], 1983, Columbia) (US 200 #40/US R&B #8) *: ホーンセクションを捨て、電子ドラムやシンセサイザーなどを多用したが不評だった。 * ''Touch the World'' ([[タッチ・ザ・ワールド]], 1987, Columbia) (US 200 #33/US R&B #3) * ''The Best of Earth, Wind & Fire Vol.2'' (1988, Columbia) (US 200 #190/US R&B #74) * ''Heritage'' ([[ヘリテッジ]], 1990, Columbia) (US 200 #70/US R&B #19) *: これがコロムビア・レコードからリリースされた最後のアルバムである。 * ''Millennium'' ([[千年伝説]], 1993, [[リプリーズ・レコード|Reprise]]/Warner Bros.) (US 200 #39/US R&B #8) *: ワーナー復帰後の第1弾。[[プリンス (ミュージシャン)|プリンス]]等外部のミュージシャンを呼んでいる。 * ''Live in VELFARRE'' (1995, Karimba Records) *: 1995年の[[ヴェルファーレ]]でのライヴを収めたライヴ・アルバム。 * ''Greatest Hits Live'' (1996, Pyramid/Rhino) (US 200 #--/US R&B #75) * ''In the Name of Love'' ([[イン・ザ・ネイム・オブ・ラブ]] 1997, Pyramid/Rhino) (US 200 #--/US R&B #50) *: 自主レーベル、カリンバ・レコード制作。1996年にavex traxより''Avatar''(アヴェタ)のタイトルでリリースされ、翌年に[[ライノ・エンタテインメント|ライノ]]より構成を変えてリイシュー。2003年にも自主レーベル、カリンバよりオリジナル・タイトルでリイシュー。 * "Greatest Hits" (1998, Columbia) (US 200 #--/US R&B #--) * ''The Essential Earth, Wind & Fire'' (2002, Columbia) (US 200 #--/US R&B #91) * ''The Promise'' (2003, Kalimba Records) (US 200 #89/US R&B #19) *: 国内盤は前作に続き、avexより。 * ''Illumination'' (2005, Sanctuary Records) (US 200 #32/US R&B #8) * ''Now, Then & Forever'' ([[フォーエバー (EW&Fのアルバム)|フォーエバー]], 2013, Legacy Recordings) (US 200 #11/US R&B #5) *: 国内盤はソニー・ミュージックより。 * ''Japanese Singles Collection-Greatest Hits-'' (ジャパニーズ・シングル・コレクション-グレイテスト・ヒッツ-, 2020, Sony Music Japan International) *: 日本限定発売、日本でリリースされた全シングル発売順にUS7インチ・シングルヴァージョンに準じて収録。DVDには世界初DVD化4曲含む20曲のミュージックビデオを収録。 === サウンドトラック === * ''スウィート・スウィートバックス・バッドアス・ソング'':独立系ながら興業成績1位になった映画のサントラ盤を担当した。 === シングル === 1970年 * "Love Is Life" (US HOT100 #93 /US R&B #43) 1971年 * "I Think About Lovin You" (US HOT100 - /US R&B #44) 1973年 * "Evil" (US HOT100 #50 /US R&B #25) * "Keep Your Head to the Sky" (US HOT100 #52 /US R&B #23) 1974年 * "Mighty Mighty" (US HOT100 #29 /US R&B #4) * "Kalimba Story" (US HOT100 #55 /US R&B #6) * "Devotion" (US HOT100 #33 /US R&B #23) 1975年 * "Shining Star" (US HOT100 #1 /US R&B #1) *: 初の全米No.1曲。 * "That's the Way of the World" (US HOT100 #12 /US R&B #5) *: 邦題「暗黒への挑戦」。 * "Sing a Song" (US HOT100 #5 /US R&B #1) 1976年 * "Can't Hide Love" (US HOT100 #39 /US R&B #11) * "Getaway" (US HOT100 #12 /US R&B #1) * "Saturday Nite" (US HOT100 #21 /US R&B #4) * "On Your Face" (US HOT100 - /US R&B #26) 1977年 * "太陽の戦士 Serpentine Fire" (CBS・ソニー、06SP-198)(US HOT100 #13 /US R&B #1) * "[[宇宙のファンタジー|Fantasy]]" (US HOT100 #32 /US R&B #12) 1978年 * "[[ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ|Got to Get You into My Life]]" (US HOT100 #9 /US R&B #1) *: [[ビートルズ]]の同名曲のカバー。 * "[[セプテンバー (EW&Fの曲)|September]]" (US HOT100#8 /US R&B #1) *: 代表的な曲の一つ。 * "Boogie Wonderland" with [[エモーションズ|The Emotions]] (US HOT100 #6 /US R&B #2) *: ディスコナンバー。当時アースに全面バックアップを受けていた[[エモーションズ]]がバックコーラスとして参加。 1979年 * "After the Love Has Gone" (US HOT100 #2 /US R&B #2) *: AORの作曲家[[デイヴィッド・フォスター]]、[[ジェイ・グレイドン]]、[[ビル・チャンプリン]]が提供。 * "In the Stone" (US HOT100 #58 /US R&B #23) * "Star" (US HOT100 #64 /US R&B #47) 1980年 * "Let Me Talk" (US HOT100 #44 /US R&B #8)、 * "You" (US HOT100 #48 /US R&B #10) * "And Love Goes on" (US HOT100 #59 /US R&B #15) 1981年 * "Let's Groove" (US HOT100 #3 /US R&B #1) *: 復活したアースらしい曲。 * "Wanna Be with You" (US HOT100 #51 /US R&B #15) 1982年 * "Fall in Love with Me" (US HOT100 #17 /US R&B #4) * "Side by Side" (US HOT100 #76 /US R&B #15) 1983年 * "Spread Your Love" (US HOT100 - /US R&B #57) * "Magnetic" (US HOT100 #57 /US R&B #10) 1987年 * "System of Survival" (US HOT100 #60 /US R&B #1) * "Thinking of You" (US HOT100 #67 /US R&B #3) * "Evil Roy" (US HOT100 - /US R&B #22) * "You and I" (US HOT100 - /US R&B #29) 1988年 * "Turn on (The Beat Box)" (US HOT100 - /US R&B #26) 1990年 * "For the Love of You" (US HOT100 - /US R&B #19) * "Heritage" (US HOT100 - /US R&B #5) * "Wanna Be the Man" (US HOT100 - /US R&B #46) 1993年 * "Sunday Morning" (US HOT100 #53 /US R&B #20) * "Spend the Night" (US HOT100 - /US R&B #42) * "Two Hearts" (US HOT100 - /US R&B #88) 1997年 * "Revolution" (US HOT100 - /US R&B #89) 2003年 * "All in the Way" with ''The Emotions'' (US HOT100 - /US R&B #77) 2005年 * "Pure Gold" (US HOT100 - /US R&B #76) == 日本での活動 == [[日本]]での人気は非常に高く、 幾度となく来日公演を行っている。また、[[DREAMS COME TRUE]](特にベーシストの[[中村正人]])が強く影響を受けており<ref>{{Cite web|和書|url = https://natalie.mu/music/pp/dreamscometrue03/page/3|title = 中村正人×大森靖子「私とドリカム2」対談|accessdate = 2016-02-06|publisher = 音楽ナタリー|page = 3|date = 2015-03-31}}</ref>、『[[WHEREVER YOU ARE]]』ではモーリス・ホワイトがバックボーカルに参加している。 === 日本公演 === * [[1979年]] : 3月26日〜28日 [[日本武道館]]、30日九電体育館、31日 京都府立体育館、4月1日 名古屋国際展示場、2日 大阪府立体育館、3日 大阪厚生年金会館 * [[1988年]] : 6月2日 日本武道館、4日 [[横浜文化体育館]]、5日 [[大阪城ホール]]、7日 名古屋市公会堂、8日 [[NHKホール]]、9日、10日 [[国立代々木競技場]]第一体育館 * [[1990年]] : 10月25日 [[東京ドーム]] * [[1994年]] : 4月1日、2日 国立代々木第一体育館、11日 大阪城ホール、12日 [[東京ベイNKホール]] * [[1995年]] : 4月21日、22日、25日 日本武道館 * [[1996年]] : 9月21日 東京ベイN.K.ホール、23日、24日 日本武道館 * [[2000年]] : 9月26日、27日 [[東京国際フォーラム]] ホールA * [[2001年]] : 11月2日 [[神戸国際会館]]こくさいホール、7日 [[オリックス劇場|大阪厚生年金会館]]、9日 日本武道館、12日 [[さっぽろ芸術文化の館|北海道厚生年金会館]] * [[2002年]] : 11月27日〜29日 [[東京国際フォーラム]]ホールA、12月2日 [[フェスティバルホール]]、3日 [[福岡国際センター]] * [[2004年]] : 9月3日、4日 日本武道館、5日 [[名古屋市総合体育館|名古屋レインボーホール]]、7日 福岡国際センター、9日 大阪城ホール、10日 [[愛媛県民文化会館]]メインホール * [[2006年]] : 1月14日、15日 フェスティバルホール、18日、19日 日本武道館、20日 [[愛知県芸術劇場]]大ホール * [[2009年]]  : 12月7日、9日 [[湊町リバープレイス|なんばHatch]]、 11日、12日 東京国際フォーラム ホールA、14日 Zepp Sapporo、16日 [[福岡市民会館]] * [[2012年]] : 5月17日 [[東京国際フォーラム]] ホールA * [[2013年]]  : 8月10日 SUMMER SONIC大阪、8月11日 SUMMER SONIC東京、 * [[2016年]] : 9月19日 [[名古屋国際会議場]]、9月22日 フェスティバルホール * [[2017年]] : 5月20日 フェスティバルホール、5月22日 日本武道館、5月24日 [[さっぽろ芸術文化の館|ニトリ文化ホール]]、5月26日 [[静岡市民文化会館]]大ホール、5月27日 [[広島市文化交流会館|広島文化学園HBGホール]] == その他 == *元[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界バンタム級王者[[薬師寺保栄]]が、「レッツ・グルーブ」を入場曲として使用していた。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[長岡秀星]](レコードジャケットのアートワークを担当) * [[ファンク]] * [[ディスコ・ミュージシャンの一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Earth, Wind & Fire}} * {{Official website|https://www.earthwindandfire.com/}} {{en icon}} * {{Facebook|EarthWindandFire}} * {{Twitter|earthwindfire}} * {{YouTube|user=EarthWindandFireVEVO}} * [https://www.sonymusic.co.jp/artist/EarthWindandFire/ アース・ウィンド・アンド・ファイアー] - ソニーミュージック * [https://wmg.jp/earth-wind-and-fire/ アース・ウィンド・アンド・ファイアー] - ワーナーミュージック・ジャパン {{アース・ウィンド・アンド・ファイアー}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ああすういんとあんとふあいああ}} [[Category:アース・ウィンド・アンド・ファイアー|*]] [[Category:アメリカ合衆国の音楽グループ]] [[Category:アメリカ合衆国のR&Bグループ]] [[Category:ソウル・グループ]] [[Category:ファンク]] [[Category:グラミー賞受賞者]] [[Category:ケネディ・センター名誉賞受賞者]] [[Category:ロックの殿堂入りの人物]] [[Category:コロムビア・レコードのアーティスト]] [[Category:ワーナー・ミュージック・グループのアーティスト]] [[Category:1969年に結成した音楽グループ]] [[Category:サマーソニック出演者]]
2003-02-08T06:59:33Z
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[ "Template:Official website", "Template:Twitter", "Template:Normdaten", "Template:Infobox Musician", "Template:Commonscat", "Template:混同", "Template:Facebook", "Template:YouTube", "Template:アース・ウィンド・アンド・ファイアー", "Template:Lang", "Template:脚注ヘルプ", "Template:Cite web", "Template:En icon", "Template:仮リンク", "Template:Reflist" ]
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魚戸おさむ
魚戸 おさむ(うおと おさむ、本名:魚戸 修、1957年5月9日 - )は、日本の漫画家。北海道函館市出身。 上京後、星野之宣・村上もとかのアシスタントを経て、1985年の『わんぱっくコミック』(徳間書店)に『忍者じゃじゃ丸くん』を執筆、商業誌デビューを果たす。漫画雑誌での初連載作品は1987年に『月刊コロコロコミック』(小学館)にて開始された『熱拳カンフークラブ』。代表作にテレビドラマ化された『家栽の人』(原作:毛利甚八)、『イリヤッド-入矢堂見聞録-』(原作:東周斎雅楽)などがある。 生活クラブの組合員であり、クラブが提携する特産品を紹介するコーナーのイラストをクラブの情報誌で担当している。 「ビッグコミック」2017年1月10日号から、終末医療をテーマにした作品『はっぴーえんど』の連載を開始した。数年前から構想を練って在宅医療に携わる医師らから取材を重ねて現場を歩き、生まれ育った函館市を舞台に、「都会過ぎず、田舎過ぎない場所」として函館の街も描いている。
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魚戸 おさむは、日本の漫画家。北海道函館市出身。
{{Redirect|はっぴーえんど|ロックバンド|はっぴいえんど}} '''魚戸 おさむ'''(うおと おさむ、本名:魚戸 修<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、60頁</ref>、[[1957年]][[5月9日]]<ref name="mangaseek" /> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[北海道]][[函館市]]出身<ref name="mangaseek" /><ref name="blog">[http://genmaisensei.jugem.jp/?pid=1 魚戸おさむ公式ブログ プロフィール]</ref><ref name="北海道新聞">「まんが家 魚戸おさむです」[[北海道新聞]]、2015年12月26日夕刊。</ref>。 == 来歴 == 上京後、[[星野之宣]]・[[村上もとか]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て<ref name="blog"/><ref name="北海道新聞"/>、[[1985年]]の『[[わんぱっくコミック]]』([[徳間書店]])に『[[忍者じゃじゃ丸くん]]』を執筆、商業誌デビューを果たす<ref name="blog"/><ref name="北海道新聞"/>。漫画雑誌での初連載作品は[[1987年]]に『[[月刊コロコロコミック]]』([[小学館]])にて開始された『[[熱拳カンフークラブ]]』<ref>これより以前の[[1986年]]には幼年向け雑誌『[[テレビランド]]』にて『[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]一発くん』を連載している。</ref>。代表作に[[テレビドラマ]]化された『[[家栽の人]]』(原作:[[毛利甚八]])<ref name="北海道新聞"/>、『[[イリヤッド-入矢堂見聞録-]]』(原作:[[長崎尚志|東周斎雅楽]])などがある。 [[生活クラブ事業連合生活協同組合連合会|生活クラブ]]の組合員であり、クラブが提携する特産品を紹介するコーナーのイラストをクラブの情報誌で担当している。 「[[ビッグコミック]]」2017年1月10日号から、[[終末医療]]をテーマにした作品『はっぴーえんど』の連載を開始<ref name="北海道新聞20161227">{{Cite web|和書|date= 2016-12-27 |url= http://dd.hokkaido-np.co.jp/entertainment/culture/culture/1-0352467.html |title= 魚戸おさむさん新連載は函館舞台 「看取り」主題の漫画 |work= どうしんウェブ/電子版(文化・芸能) |author= [[北海道新聞社]] |accessdate= 2017-01-12}}</ref>した。数年前から構想を練って在宅医療に携わる医師らから取材を重ねて現場を歩き<ref name="北海道新聞20161227"/>、生まれ育った函館市を舞台に、「都会過ぎず、田舎過ぎない場所」として函館の街も描いている<ref name="北海道新聞20161227"/>。 == 作品 == * [[熱拳カンフークラブ]] * [[家栽の人]] (原作:[[毛利甚八]]、監修:山崎司平) * [[イリヤッド-入矢堂見聞録-]](原作:[[長崎尚志|東周斎雅楽]]) * がんばるな!!! 家康 * [[ケントの方舟]](原作:毛利甚八) * ナイショのひみこさん * ニコパチ堂主人 大津次郎 * 斗馬(原作:[[若林敏生]]) * 大畸人伝: 魚戸おさむ短編集 * イーハトーブ農学校の賢治先生(原作:[[佐藤成]]) * 玄米せんせいの弁当箱(脚本:[[北原雅紀]]) * ひよっこ料理人 * はっぴーえんど(監修:[[大津秀一]]) * [[週刊マンガ日本史]]第37号『[[福澤諭吉]]』([[朝日新聞出版]]) * 食卓の向こう側 コミック編(原作:渡辺美穂、佐藤弘、[[西日本新聞社]]) * がんばりょんかぁ、マサコちゃん(原作:[[宮崎まさる|宮崎克]]) ; 絵本 * いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日(原作:内田美智子、[[講談社]]) * [[はなちゃんのみそ汁]](原作:安武信吾、千恵、はな共著、講談社) * 「弁当の日」がやってきた!!(原作:竹下和男、講談社) *マーガレットとジョニー スーパー恋物語 (原作:[[三遊亭白鳥]]、講談社) ; ゲームコミカライズ * [[忍者じゃじゃ丸くん]] * [[いっき]] * [[かんしゃく玉なげカン太郎の東海道五十三次|かんしゃく玉投げカン太郎 東海道五十三次]] * [[テラクレスタ]] * [[マイティボンジャック]] == 関連人物 == ; [[村上もとか]] : 1976年に19歳で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として村上の元に入り7か月後に脱走同然で辞するが、2年後に再びアシスタントとして師事した。11歳の時に父を亡くしており「先生というよりも父さんみたいな感じがする」として慕っている<ref>この段落は「1983年のぼくらより 村上もとか先生へ 魚戸おさむ」『少年サンデー1983』(『[[週刊少年サンデー]]』8月15日増刊号、第51巻第38号) [[小学館]]、2009年8月15日発行、70頁 を参照。</ref>。村上の作品である『[[六三四の剣]]』には「魚戸オサム」という名前のキャラがレギュラー出演している。 ; [[星野之宣]] : 短期間アシスタントを務めた後、共通の担当編集者の紹介で、村上のアシスタントとなる<ref>『日本漫画学院・漫画家リレー訪問紀(2002年12月号)より』</ref>。 ; [[花沢健吾]] : 元アシスタント<ref>コミダスによる花沢健吾へのインタビュー(2006年7月20日掲載)より。[https://blog.excite.co.jp/mangaword/5304638/ 『コミダス「花沢健吾インタビューその3」』]</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://genmaisensei.jugem.jp/ ひよっこ料理人と、時々玄米せんせい] - 魚戸おさむ公式ブログ * {{twitter|osamu_6446}} * [http://pokeman.jp/archives/166 ぽけまん 作者プロフィール] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:うおと おさむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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うたたねひろゆき
うたたね ひろゆき(1966年6月15日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター、同人作家。新潟県長岡市出身。妻は同じく漫画家の蘭宮涼。宇宙作家クラブ会員。 10代の頃から漫画を投稿し始めるも、漫画家になる気はなかった。大学卒業後は就職し、友人の同人誌の手伝いをする。これがきっかけで、漫画の仕事の依頼が来るようになった。 初期は成人誌で活動していたが、作品集『COUNT DOWN』刊行後は青年誌に活動の場を移している。青年誌での作品は、『セラフィック・フェザー』や『天獄』など。デビュー以来、少女の肢体をエロティックに描く作家として評価されている。 また、人気同人サークル「UROBOROS」を主宰し、成人向け同人誌を多数執筆していることでも知られる。オタクを自認しており、掲載誌の近況コメントなども、自身の参加した同人誌即売会やフィギュアなどの話題が多い。 『コンプティーク』(角川書店)で「リスティス」を連載していた当時はわたぬきほづみのペンネームを使用していたが、『電撃王』(アスキー・メディアワークス)へ移籍した後は、うたたねひろゆき名義に統一。名義変更の際には、「わたぬきほづみ失踪」のジョーク記事が誌面に掲載された。 ペンネームの「うたたねひろゆき」「わたぬきほづみ」はそれぞれ漢字で「一二三四五」「四月一日八月一日」と書き、当初は漢字の表記を用いていた。初作品集『COUNT DOWN』の表題は「一二三四五」→「5・4・3・2・1」→「カウントダウン」の連想で付けられている。近年、目の焦点が合いにくくなる眼病を患い、ペン入れ自体が難しくなり、作品数を絞ってはいるが、その美しい筆致は健在である。 影響を受けたイラストレーターに安彦良和、いのまたむつみを挙げている。
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うたたね ひろゆきは、日本の男性漫画家、イラストレーター、同人作家。新潟県長岡市出身。妻は同じく漫画家の蘭宮涼。宇宙作家クラブ会員。
{{存命人物の出典明記|date=2019年9月}} '''うたたね ひろゆき'''([[1966年]][[6月15日]] - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、同人作家。[[新潟県]][[長岡市]]出身。妻は同じく漫画家の[[蘭宮涼]]。[[宇宙作家クラブ]]会員。 == 略歴 == 10代の頃から漫画を投稿し始めるも、漫画家になる気はなかった。大学卒業後は就職し、友人の同人誌の手伝いをする。これがきっかけで、漫画の仕事の依頼が来るようになった<ref>美術手帖「マンガテクニック」季刊03号、p.30</ref>。 初期は[[成人向け漫画|成人誌]]で活動していたが、作品集『COUNT DOWN』刊行後は[[青年漫画|青年誌]]に活動の場を移している。青年誌での作品は、『セラフィック・フェザー』や『天獄』など。デビュー以来、少女の肢体をエロティックに描く作家として評価されている。 また、人気[[同人サークル]]「UROBOROS」を主宰し、成人向け[[同人誌]]を多数執筆していることでも知られる。[[おたく|オタク]]を自認しており、掲載誌の近況コメントなども、自身の参加した[[同人誌即売会]]や[[フィギュア]]などの話題が多い。 『[[コンプティーク]]』([[角川書店]])で「リスティス」を連載していた当時は'''わたぬきほづみ'''の[[ペンネーム]]を使用していたが、『[[電撃王]]』([[アスキー・メディアワークス]])へ移籍した後は、うたたねひろゆき名義に統一。名義変更の際には、「わたぬきほづみ失踪」のジョーク記事が誌面に掲載された。<ref>電撃王 1993年2月号 『LYTHTIS PREVIEW』巻末p.24-27</ref> ペンネームの「うたたねひろゆき」「わたぬきほづみ」はそれぞれ漢字で「一二三四五」「四月一日八月一日」と書き、当初は漢字の表記を用いていた。初作品集『COUNT DOWN』の表題は「一二三四五」→「5・4・3・2・1」→「カウントダウン」の連想で付けられている。近年、目の焦点が合いにくくなる眼病を患い、ペン入れ自体が難しくなり、作品数を絞ってはいるが、その美しい筆致は健在である。 影響を受けたイラストレーターに[[安彦良和]]、[[いのまたむつみ]]を挙げている<ref>美術手帖「マンガテクニック」季刊03号、p.30-31</ref>。 == 作品リスト == === 漫画 === * 闇語り =鬼哭の章=(少年サンデー大別冊) * COUNT DOWN(短編集、[[富士美出版]]、成人向け作品) * NEVES([[サイバーコミックス]]掲載) * [[トップをねらえ!|トップをねらえ! アストロ兵団]](コミックガンバスター2掲載) * [[セラフィック・フェザー]](原作:[[森本洋]]→[[武田俊也]]、[[月刊アフタヌーン]]、[[講談社]]、1993年 - 2008年、全11巻) * [[大合作]](月刊アフタヌーン1997年2月号) * 誘惑 エロティック・エキセントリック * [[リスティス]](コンプティーク→[[電撃王]]→[[月刊コミック電撃大王]]、1992年 - '''休載中'''、[[メディアワークス]]、既刊2巻) * [[禍神風塵帖]](アクションHiP→月刊コミック電撃大王) * グラス・ガーデン([[アフタヌーンシーズン増刊]]) * [[天獄 -HEAVEN'S PRISON-]]([[ウルトラジャンプ]]、2002年 - 2015年、[[集英社]]、全12巻) * [[げんしけん#書誌情報|PROJECT G げんしけん「同人誌」]] * [[バレット×ファング]]([[COMIC MeDu]]、2019年 - 連載中、既刊1巻) === アニメ === * [[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーンS]](原画) * [[アイドル防衛隊ハミングバード]](『ザッピングdeショッキング』特典ポスター) * [[クール・ディバイシスシリーズ]](『SACRED GIRL 聖少女』原作) * 誘惑COUNT DOWN(原作) * 誘惑COUNT DOWN 鏡(原作) * [[Hi・Me・Go・To]](企画、原作) * [[新世紀エヴァンゲリオン]](原画) === イラスト === * [[百星聖戦紀]] * [[TECH GIAN]](創刊号表紙) * [[クイーンズブレイド]]([[スティックポスター]]コレクション) * [[ToHeart2]](向坂環[[スポーツタオル]]) * [[悠久の車輪]] === ゲーム === * [[ザ・クイーン・オブ・デュエリスト]]([[キャラクターデザイン]]、イベント原画) * [[バーチャコール]](キャラクター原案) * [[ステラアサルトSS]](キャラクターデザイン、ゲーム中では使用せず) * [[麻雀四姉妹 若草物語]](キャラクター原案)アーケードゲーム、[[セガサターン]]にも移植 * [[新世紀エヴァンゲリオン エヴァと愉快な仲間たち|エヴァと愉快な仲間たち 脱衣補完計画!]](イベント原画) * [[Innocent Tears (ゲーム)|イノセントティアーズ]](キャラクターデザイン、3Dキャラ監修) === その他 === * [[エヴァンゲリオン ANIMA]](キャラクターデザイン) * [[ミッドナイトブリス#関連商品|SRカプコン リアルフィギュアコレクション]](ブリス化デザイン) == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[蘭宮涼]] * [[西崎まりの]] * [[たつねこ]] * [[日本の漫画家一覧]] * [[日本の成人向け漫画家の一覧]] * [[日本のイラストレーター一覧]] {{Manga-artist-stub}} {{コミックマーケットカタログ表紙}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うたたね ひろゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:同人作家]] [[Category:新潟県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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内山まもる
内山 まもる(うちやま まもる、1949年1月16日 - 2011年12月1日)は、日本の漫画家。男性。茨城県鹿島郡(現在は合併により鉾田市)出身。本名は内山守。趣味はゴルフ、釣り、オートバイ、カメラ、アウトドア。 代表作に『ザ・ウルトラマン』、『リトル巨人くん』など。 農家の長男で跡継ぎを期待されていたこともあり、漫画家になるつもりはなかった。だが、中学卒業時に自分の漫画を姉が勝手にタツノコプロへ応募したのがきっかけで採用され、2年間という約束で親に許しをもらって上京し入社する。タツノコではアニメ部門に配属され、当時の九里一平(第3代社長)のもとで作画スタッフとして2年間働く。 在籍中に『希望の友』を出版していた潮出版社から、漫画を描かないかと誘われる。当時のタツノコはアルバイト禁止だったことから迷うも、知人女性の「やるべき」との助言により、内緒でタツノコのメンバーに手伝ってもらいながら32ページを描き上げ、『希望の友』誌に発表した『チェ・ゲバラ』で1968年にデビューする。その後、小学館からの誘いで『ジャンボーグA』の連載を開始。本人はこれが漫画家としてのデビューであると語っている。 小学館からは再度誘われ、「ウルトラマンを描かないか」と言われる。タツノコのライバルである円谷プロダクションの作品だったこともあり、連載開始と同時にタツノコを退社して独立する。当時は20歳になっており、約束の2年間を過ぎたので親が連れ戻しに来たが、結局はそのまま東京に残ったという。 小学館の学年別学習雑誌などで『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』などを描き、『レオ』終了後の1975年、『小学三年生』4月号から『さよならウルトラ兄弟』の連載を開始する。この作品は後年に『ザ・ウルトラマン』と改題されて『コロコロコミック』に再掲載され、第三次ウルトラブームの一翼を担うことになり、内山も一気にブレイクする。 ウルトラ漫画の連載後は「人間を描きたい」と思うようになり、1976年から『コロコロコミック』でプロ野球漫画『リトル巨人くん』の連載を開始。これも同誌のみならず『小学館の学習雑誌』でも連載され、単行本15巻を数えるヒット作となる。1979年から『リトル巨人くん』に引き続いて『コロコロコミック』にて『燃えろ!クロパン』、『週刊少年サンデー』にて『番外甲子園』、『冒険王』にて『ひょうたん』『燃えよ甲子園!鷲と鷹』といった野球漫画を連載している。 1983年頃からは『漫画アクション』に発表した野球漫画『いごっそう甲子園』などで青年誌に進出し、作家の高橋三千綱と『こんな女と暮らしてみたい』『風と剣』『おれは女が嫌いだ』『プロゴルファー』などのコンビ作を発表した。それ以後も、ゴルフ漫画などを多く連載した。 2007年から2010年まで『てれびくん』にて新作ウルトラ漫画を連載し、2009年12月12日公開の映画『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』には『ザ・ウルトラマン』のファンだった監督の坂本浩一の要望により、光の国の住人役としてゲスト出演した。 晩年は『デッドにピンを!』(『GOLFコミック』)や『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』(『週刊大衆』)などを連載していた。 2011年12月1日朝、自宅にて62歳で死去した。 2021年6月22日、『ウルトラマン』シリーズ55周年、『ウルトラマンメビウス』15周年、内山の没後10年に合わせ、単行本未収録作品も収録された『完全版 ウルトラマンメビウス外伝 プラス平成ウルトラマン作品集』が刊行。
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内山 まもるは、日本の漫画家。男性。茨城県鹿島郡(現在は合併により鉾田市)出身。本名は内山守。趣味はゴルフ、釣り、オートバイ、カメラ、アウトドア。 代表作に『ザ・ウルトラマン』、『リトル巨人くん』など。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 内山 まもる | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 内山 守 | 生年 = [[1949年]][[1月16日]] | 生地 = {{JPN}}・[[茨城県]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]](現・[[鉾田市]]) | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1949|1|16|2011|12|1}} | 没地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = 1968年 - 2011年 | ジャンル = [[少年漫画]] [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』<br />『[[リトル巨人くん]]』 | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''内山 まもる'''(うちやま まもる、[[1949年]][[1月16日]]<ref name="mangaseek">まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、{{ISBN2|4-8169-1760-8}}、63頁</ref> - [[2011年]][[12月1日]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[茨城県]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]](現在は合併により[[鉾田市]])出身<ref name="mangaseek" />。本名は'''内山守'''<ref name="mangaseek" />。趣味は[[ゴルフ]]、[[釣り]]、[[オートバイ]]、[[カメラ]]、[[アウトドア]]。 代表作に『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』、『[[リトル巨人くん]]』など。 == 略歴 == 農家の長男で跡継ぎを期待されていたこともあり、漫画家になるつもりはなかった<ref name="mangagakuin">{{Cite web|和書|url=http://www.manga-g.co.jp/interview/2006/int06-05.html|title=内山まもる先生インタビュー|publisher=日本漫画学院|date=2006-05|accessdate=2021-02-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111015074851/http://www.manga-g.co.jp/interview/2006/int06-05.html|archivedate=2011-10-15}}</ref>。だが、中学卒業時に自分の漫画を姉が勝手に[[タツノコプロ]]へ応募したのがきっかけで採用され、2年間という約束で親に許しをもらって上京し入社する<ref name="mangagakuin" />。タツノコではアニメ部門に配属され、当時の[[九里一平]](第3代社長)のもとで作画スタッフとして2年間働く。 在籍中に『[[コミックトム|希望の友]]』を出版していた[[潮出版社]]から、漫画を描かないかと誘われる<ref name="mangagakuin" />。当時のタツノコはアルバイト禁止だったことから迷うも、知人女性の「やるべき」との助言により、内緒でタツノコのメンバーに手伝ってもらいながら32ページを描き上げ、『希望の友』誌に発表した『[[チェ・ゲバラ]]』で[[1968年]]にデビューする<ref name="mangagakuin" />。その後、[[小学館]]からの誘いで『[[ジャンボーグA]]』の連載を開始。本人はこれが漫画家としてのデビューであると語っている<ref name="mangagakuin" />。 小学館からは再度誘われ、「[[ウルトラマン]]を描かないか」と言われる。タツノコのライバルである[[円谷プロダクション]]の作品だったこともあり、連載開始と同時にタツノコを退社して独立する。当時は20歳になっており、約束の2年間を過ぎたので親が連れ戻しに来たが、結局はそのまま東京に残ったという<ref name="mangagakuin" />。 [[小学館の学年別学習雑誌]]などで『[[帰ってきたウルトラマン]]』『[[ウルトラマンA]]』『[[ウルトラマンタロウ]]』『[[ウルトラマンレオ]]』などを描き、『レオ』終了後の[[1975年]]、『小学三年生』4月号から『さよならウルトラ兄弟』の連載を開始する<ref name="mangagakuin" />。この作品は後年に『[[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]』と改題されて『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』に再掲載され、第三次ウルトラブームの一翼を担うことになり、内山も一気にブレイクする<ref name="mangagakuin" />。 ウルトラ漫画の連載後は「人間を描きたい」と思うようになり、[[1976年]]から『[[コロコロコミック]]』でプロ野球漫画『[[リトル巨人くん]]』の連載を開始。これも同誌のみならず『[[小学館の学習雑誌]]』でも連載され、単行本15巻を数えるヒット作となる<ref name="mangagakuin" />。1979年から『リトル巨人くん』に引き続いて『コロコロコミック』にて『[[燃えろ!クロパン]]』、『[[週刊少年サンデー]]』にて『番外甲子園』、『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』にて『ひょうたん』『燃えよ甲子園!鷲と鷹』といった野球漫画を連載している。 [[1983年]]頃からは『[[漫画アクション]]』に発表した野球漫画『いごっそう甲子園』などで青年誌に進出し、作家の[[高橋三千綱]]と『こんな女と暮らしてみたい』『風と剣』『おれは女が嫌いだ』『プロゴルファー』などのコンビ作を発表した。それ以後も、ゴルフ漫画などを多く連載した。 [[2007年]]から[[2010年]]まで『[[てれびくん]]』にて新作ウルトラ漫画を連載し、[[2009年]][[12月12日]]公開の映画『[[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]]』には『ザ・ウルトラマン』のファンだった監督の[[坂本浩一]]の要望により、光の国の住人役としてゲスト出演した。 晩年は『デッドにピンを!』(『[[GOLFコミック]]』)や『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』(『[[週刊大衆]]』)などを連載していた。 2011年12月1日朝、自宅にて62歳で死去した<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/60547|title=ザ・ウルトラマン、リトル巨人くんの内山まもるが逝去|newspaper=[[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher=ナターシャ|date=2011-12-01|accessdate=2021-02-04}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111201-OYT1T01285.htm|title=「ザ・ウルトラマン」内山まもるさん死去|newspaper=YOMIURI ONLINE|publisher=[[読売新聞社]]|date=2011-12-01|accessdate=2021-02-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111204053107/http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20111201-OYT1T01285.htm|archivedate=2011-12-04}}</ref>。 2021年6月22日、『ウルトラマン』シリーズ55周年、『ウルトラマンメビウス』15周年、内山の没後10年に合わせ、単行本未収録作品も収録された『完全版 ウルトラマンメビウス外伝 プラス平成ウルトラマン作品集』が刊行<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/433472|title=内山まもるが描く“平成ウルトラマン”まとめた1冊、単行本初収録作は190ページ以上|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-06-22|accessdate=2021-06-22}}</ref>。 == 作品リスト == === ウルトラシリーズの漫画化作品 === * [[帰ってきたウルトラマン]] ** 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学二年生]]』連載版 1971年5月号 - 1972年4月号 ** 決戦ウルトラ兄弟対11大怪獣 『小学二年生』9月増刊号(1971年) * [[ウルトラマンA]] ** 『小学二年生』連載版 1972年5月号 - 1973年3月号 ** ウルトラマンA〜ウルトラ5兄弟対ヤプール人〜 『小学二年生』9月増刊号(1972年) ** ウルトラマンA〜怪獣墓場の決闘〜 『小学二年生』1月増刊号(1973年) * [[ウルトラマンタロウ]] ** 『小学二年生』連載版 1973年4月号 - 1974年3月号 ** 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学五年生]]』連載版 1973年4月号 - 1974年3月号 ** かがやけウルトラの星 『小学二年生』9月増刊号(1973年) ** 本編第25話『燃えろ! ウルトラ6兄弟』 挿画 * [[ウルトラマンレオ]] ** 『小学二年生』連載版 1974年4月号 - 1975年3月号 ** 『[[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]]』連載版 1974年4月号 - 1975年3月号 * [[ザ・ウルトラマン (漫画)|ザ・ウルトラマン]]シリーズ ** さよならウルトラ兄弟3部作 『小学三年生』1975年4月号 - 1976年3月号 ***第一部 さよならウルトラ兄弟 1975年4月号 - 8月号 ***第二部 たたかえ!ウルトラ戦士 1975年9月号 - 12月号 ***第三部 復活!ウルトラ兄弟 1976年1月号 - 3月号 **ザ・ウルトラマン (若きファイタスの挑戦)『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』特別増刊号(1978年) ** 突撃!ウルトラ兄弟 『小学三年生』1978年10月号 - 同年11月号(同年『コロコロコミック』にて「ザ・ウルトラマン」のタイトルで再録) ** 飛べ!ウルトラ戦士 『小学三年生』1979年4月号 - 同年12月号 * [[アンドロメロス]] ** ウルトラ戦士銀河大戦争 『小学三年生』 1981年6月号 - 1982年3月号 * [[ウルトラマンティガ]] ** ウルトラマンティガ〜いざ鎌倉〜 『[[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]』VOL.81(1997年) * [[ウルトラマンメビウス]] ** ザ・ウルトラマンメビウス 「ウルトラマンメビウス」DVD同梱作品解説書(挿絵担当。2006年) ** ザ・ウルトラマンヒカリ 「ウルトラマンメビウス外伝 ヒカリサーガ」DVD同梱作品解説書(挿絵担当。2007年) ** [[ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟]] 「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟超全集」(2006年) ** ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦 戦え!ウルトラ兄弟 『[[てれびくん]]』2007年6月号 - 2008年2月号 ** ウルトラマンメビウス外伝 超銀河大戦 巨大要塞を撃破せよ!! 『[[コロコロイチバン!]]』2007年14号(前編)、15号(後編) ** ウルトラマンメビウス外伝 アーマードダークネス ジャッカル軍団大逆襲!! 『[[てれびくん]]』 2008年3月号 - 2009年3月号(ただし、2008年10月号は休載)。 ** ウルトラマンメビウス外伝 ゴーストリバース ウルトラ兄弟VS暗黒大軍団 『[[てれびくん]]』 2009年4月号 - 2009年12月号 * [[大決戦!超ウルトラ8兄弟]] ** 大決戦!超ウルトラ8兄弟 『てれびくん』 2008年10月号 * [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]] ** 大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE 『てれびくん』 2010年1月号 - 2010年3月号 ** 戦え!ウルトラ戦士 出撃!宇宙警備隊 『てれびくん』 2010年4月号 === ウルトラシリーズ以外のテレビ番組の漫画化作品 === * [[ハクション大魔王]] 『たのしい幼稚園』1969年-1970年 * [[昆虫物語 みなしごハッチ]] 『小学二年生』1970年5月号 - 10月号、『よいこ』、『幼稚園』 * [[ジャンボーグA]] 『小学二年生』1970年10月号 - 1971年3月号、1973年新年増刊号、『小学三年生』1973年2月号 - 3月号、『小学一年生』1973年12月号 * [[アストロガンガー]](原作:[[鈴川鉄久]])『小学一年生』1972年10月号 - 1973年3月号 * [[ミラーマン]]『小学二年生』1972年1月増刊号 * [[緊急指令10-4・10-10]] 『小学三年生』1972年8月号 - 1973年1月号、『小学五年生』1972年8月号 - 1973年1月号、『小学六年生』1972年8月号 - 1973年1月号 * [[笛吹童子]](原作:[[北村寿夫]])『小学五年生』1972年12月号 - 1973年6月号 * [[熱血猿飛佐助]]『小学二年生』1973年1月号 - 3月号 * [[コンドールマン]](原作:[[川内康範]])『小学二年生』1975年4月号 - 5月号、9月号 * [[超電磁ロボ コン・バトラーV]] 『小学三年生』1976年4月号 - 10月号 * [[恐竜探険隊ボーンフリー]] 『小学二年生』1976年11月号 - 1977年3月号 === オリジナル作品 === * [[チェ・ゲバラ]]『[[コミックトム|希望の友]]』1968年(デビュー作) * サブととうちゃん『小学三年生』1973年4月号 - 7月号 * [[リトル巨人くん]]『[[月刊コロコロコミック|コロコロコミック]]』、『小学二年生』1977年2月号 - 3月号、1978年2月号 - 3月号、1979年2月号 - 3月号、1980年2月号 - 3月号、1984年2月号 - 1986年3月号、『小学三年生』1977年4月号 - 1986年3月号、『小学四年生』1978年4月号 - 1978年8月号、1984年2月号 - 1986年3月号、『小学五年生』1985年4月号 - 1986年3月号 * チャンスだ!ゲンちゃん『小学三年生』1976年11月号 - 1977年3月号 * どんがら先生 『小学三年生』1986年4月号 - 1987年3月号 * 野球ムサシ『コロコロコミック』 *[[燃えろ!クロパン]]『コロコロコミック』1979年9月号 - 1981年3月号 * ひょうたん 『[[冒険王 (漫画雑誌) |冒険王]]』1974年8月号 - 1979年7月号 *鷲と鷹『少年KING』1983年5号 - 24号、1984年1号、2号 * [[仮面社員ヨシツネ]]『[[週刊現代]]』 <!--ほか多数--> === 原作つき作品 === * サイボーイ(原作:[[工藤かずや]])『コロコロコミック』 * 風と剣(原作:[[高橋三千綱]])『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』 * 番外甲子園(原作:[[やまさき十三]])『[[週刊少年サンデー]]』 * からす - トーナメントプロゴルファー(原作:[[いけうち誠一]])『[[週刊漫画ゴラク]]』 * てなもんや剛速球(原作:[[末田雄一郎]])『[[週刊漫画ゴラク]]』 * しおき華(原作:[[林雄介]])『[[週刊漫画ゴラク]]』 * プロゴルファー(原作:高橋三千綱)『[[Mr.ゴルフ]]』 * 新プロゴルファー(原作:高橋三千綱)『[[漫画アルバ]]』 * こんな女と暮らしてみたい(原作:高橋三千綱)『[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]』 * おれは女が嫌いだ(原作:高橋三千綱)『[[ヤングチャンピオン]]』 * いごっそう甲子園(原作:吉田悠二郎)『[[漫画アクション]]』 *牙のインハイ(原作:かわさき健)、[[漫画アクション#レーベル|アクションコミックス]] * トライトライ(原作:[[水谷龍二]])『[[週刊少年サンデー]]』1982年 * 幸福大通り(原作:水谷龍二)『[[月刊アフタヌーン]]』1987年 * 秘書マリ子 魅惑の社長秘書物語(原作:[[伊庭晋太郎]])全2巻、1990年刊。ゴラク・コミックス、[[日本文芸社]] * 元祖江戸前 寿し屋與兵衛(原作:[[白川晶]])『[[週刊大衆]]』<ref name="syukantaisyu">「『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』連載の 内山まもる氏 急逝」 『週刊大衆』 2011年12月19日号 37頁。2011年12月5日閲覧。 - なお、同記事中に週刊大衆編集部の名で「このたびの突然の訃報で、本誌(註:2011年12月19日号)157ページに掲載された『元祖江戸前 寿し屋與兵衛』214話が、内山先生の最後の作品となってしまい、今後、作品の続きを掲載することができないことを、読者のみなさまにご報告するとともに、内山先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。」とある。</ref> * 鬼麿斬人剣(原作:[[隆慶一郎]])『週刊大衆』 * デッドにピンを!(原作:[[草薙次郎]])『[[GOLFコミック]]』 * シオン〜闇のソムリエ〜(原作:宮崎信二)、[[日本文芸社#コミックス|NICHIBUN COMICS]] == 映画 == * [[大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE]](2009年、[[ワーナー・ブラザース|ワーナー・ブラザース映画]]) - 光の国の住人 役 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{ウルトラシリーズのスタッフ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うちやま まもる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:タツノコプロの人物]] [[Category:茨城県出身の人物]] [[Category:1949年生]] [[Category:2011年没]]
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宇野亜由美
宇野 亜由美(うの あゆみ)は、日本の漫画家。山口県萩市出身。 兄はセガ・インタラクティブの宇野薫。 1993年、『LaLa DX』(白泉社)10月10日号に掲載された「風呂上がりの情事」でデビュー。 代表作は1996年から2005年まで『LaLa』などで連載された『オコジョさん』シリーズ。この作品はアニメ化され、『しあわせソウのオコジョさん』のタイトルで2001年10月よりテレビ東京系にて放映(全51話)された。
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宇野 亜由美は、日本の漫画家。山口県萩市出身。 兄はセガ・インタラクティブの宇野薫。
'''宇野 亜由美'''(うの あゆみ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[山口県]][[萩市]]出身。 兄は[[セガ・インタラクティブ]]の[[宇野薫 (セガ・インタラクティブ)|宇野薫]]。 == 経歴 == [[1993年]]、『[[LaLa DX]]』([[白泉社]])10月10日号に掲載された「風呂上がりの情事」でデビュー。 代表作は[[1996年]]から[[2005年]]まで『[[LaLa]]』などで連載された『[[オコジョさん]]』シリーズ。この作品は[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]化され、『[[しあわせソウのオコジョさん]]』のタイトルで[[2001年]]10月よりテレビ東京系にて放映(全51話)された。 == 作品リスト == * アジア行かされまくり * リゾート行かされまくり * [[ぼくらはみんな高血圧!]] * [[オコジョさん]](『しあわせソウのオコジョさん』の題でアニメ化) * しあわせソウのオコジョさん(アニメ版『しあわせソウのオコジョさん』の設定を用いた漫画) * 無理矢理おしかけまSHOW * 向日館の人びと * ぶらり裁判ボーチョー * 婚圧ファイター == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/*/http://www.hakusensha.co.jp/okojo/ 白泉社オコジョさんWeb(Internet Archive)] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:うの あゆみ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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宇野比呂士
宇野 比呂士(うの ひろし、1962年4月6日 - 2018年)は、日本の漫画家。 大分県出身。男性。故人。代表作は「キャプテンキッド」、「天空の覇者Z」。 アニメ化などがされていないことから知名度はやや低いものの、「マガジンSPECIAL」の看板作家として長年活躍するなど、高い画力と熱血感あふれるストーリー展開から、ファンの間では評価の高い作家の一人である。 九州大学の工学部に入学。専攻は電子工学であり、「天空の覇者Z」は綿密な科学的考証のもとに描かれているという。卒論のテーマは「磁界が生体に及ぼす影響について」で、アフリカツノガエルの受精卵を強力な電磁界下に置き、細胞分裂の活発な状態でどのような影響を受けるのかを研究していた。 22歳当時はマンガ家になろうとは露ほども思っておらず、研究に没頭していたという。逆算すると、そこから方向転換して、わずか1年ほどで漫画家としてデビューしている。 1985年、「見上げてごらん 夜の星を」でデビュー。1986年から週刊少年マガジンで連載された「名探偵Mr.カタギリ」は、短期連載ながら好評となる。 1990年よりマガジンSPECIALで連載スタートした「キャプテンキッド」が人気となり、約3年間の長期連載となる。1995年に週刊少年マガジンで連載開始された「秘石戦記ストーンバスター!」は、全4巻で打ち切りとなってしまう。 1997年よりマガジンSPECIALで連載された「天空の覇者Z」が大きな人気を得て、2002年まで長期連載される。「歴史もの」「剣術アクション」「怪異とのバトル」「超兵器同士による戦闘シーン」という空想科学冒険マンガ作品であり、宇野にとってそれまでの集大成とも言える作品であった。 2003年よりマガジンSPECIALにて「魔法戦記LUNALUNA」、2006年よりコミックボンボンにて「恐竜世紀ダイナクロア」を連載するが、いづれも短期連載で終わった。以降は、「マンガでよめる! 十五少年漂流記」などの名作の漫画化に取り込む。 2018年3月26日、公式サイトの元運営者より死去したと発表された。詳細な日時は非公開で、死因は脳溢血。公式サイトの元運営者よると、亡くなる前の著者はアシスタントを使わず、独りで毎日原稿に向かっていたという。 シャーロック・ホームズ原作の 「バスカビル家の犬」 が遺作となるが、2022年現在でまだ発売されていない。脱稿済であるが、表紙を描いていなかったとのこと。次回作予定は、同じくシャーロック・ホームズの「緋色の研究」であったが、ネームの途中だったという。
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宇野 比呂士は、日本の漫画家。 大分県出身。男性。故人。代表作は「キャプテンキッド」、「天空の覇者Z」。 アニメ化などがされていないことから知名度はやや低いものの、「マガジンSPECIAL」の看板作家として長年活躍するなど、高い画力と熱血感あふれるストーリー展開から、ファンの間では評価の高い作家の一人である。
'''宇野 比呂士'''(うの ひろし、[[1962年]][[4月6日]] - [[2018年]])は、[[日本]]の[[漫画家]]。 [[大分県]]出身。男性。故人。代表作は「[[キャプテンキッド]]」、「[[天空の覇者Z]]」。 アニメ化などがされていないことから知名度はやや低いものの、「[[マガジンSPECIAL]]」の看板作家として長年活躍するなど、高い画力と熱血感あふれるストーリー展開から、ファンの間では評価の高い作家の一人である。 ==経歴== 九州大学の工学部に入学。専攻は電子工学であり、「[[天空の覇者Z]]」は綿密な科学的考証のもとに描かれているという。卒論のテーマは「磁界が生体に及ぼす影響について」で、[[カエル|アフリカツノガエル]]の受精卵を強力な電磁界下に置き、細胞分裂の活発な状態でどのような影響を受けるのかを研究していた。 22歳当時はマンガ家になろうとは露ほども思っておらず、研究に没頭していたという<ref>天空の覇者Z 第4巻のあとがき</ref>。逆算すると、そこから方向転換して、わずか1年ほどで漫画家としてデビューしている。 ===漫画家として=== [[1985年]]、「見上げてごらん 夜の星を」でデビュー。[[1986年]]から週刊少年マガジンで連載された「[[名探偵Mr.カタギリ]]」は、短期連載ながら好評となる。 [[1990年]]より[[マガジンSPECIAL]]で連載スタートした「[[キャプテンキッド]]」が人気となり、約3年間の長期連載となる。1995年に週刊少年マガジンで連載開始された「秘石戦記ストーンバスター!」は、全4巻で打ち切りとなってしまう。 [[1997年]]より[[マガジンSPECIAL]]で連載された「[[天空の覇者Z]]」が大きな人気を得て、2002年まで長期連載される。「歴史もの」「剣術アクション」「怪異とのバトル」「超兵器同士による戦闘シーン」という空想科学冒険マンガ作品であり、宇野にとってそれまでの集大成とも言える作品であった。 2003年より[[マガジンSPECIAL]]にて「[[魔法戦記LUNALUNA]]」、2006年より[[コミックボンボン]]にて「[[恐竜世紀ダイナクロア]]」を連載するが、いづれも短期連載で終わった。以降は、「マンガでよめる! 十五少年漂流記」などの名作の漫画化に取り込む。 ===死去=== 2018年3月26日、公式サイトの元運営者より死去したと発表された。詳細な日時は非公開で、死因は[[脳溢血]]<!-- http://hekiei.blog115.fc2.com/blog-entry-263.html -->。公式サイトの元運営者よると、亡くなる前の著者はアシスタントを使わず、独りで毎日原稿に向かっていたという。 [[シャーロック・ホームズ]]原作の 「[[バスカビル家の犬]]」 が遺作となるが、2022年現在でまだ発売されていない。脱稿済であるが、表紙を描いていなかったとのこと。次回作予定は、同じくシャーロック・ホームズの「[[緋色の研究]]」であったが、ネームの途中だったという。 == 作品リスト == * [[名探偵Mr.カタギリ]](原作:[[宮崎まさる|鐘田頌太朗]] [[週刊少年マガジン]]、1986~1988、全5巻) * [[キャプテンキッド]]([[マガジンSPECIAL]]→週刊少年マガジン→マガジンSPECIAL、1990~1993、全10巻、再版全12巻) * [[秘石戦記ストーンバスター!]](週刊少年マガジン、1994年35号~1995年16号、全4巻、ワイド版全3巻) * [[幕末覇王伝カオル]](描き下ろし、1995、全1巻) * [[天空の覇者Z]](マガジンSPECIAL、1997年2月号~2002年9月号、全16巻) * [[魔法戦記LUNALUNA]](マガジンSPECIAL、2003~2004、全3巻) * [[恐竜世紀ダイナクロア]]([[コミックボンボン]]、2006年2月号~2007年8月号、全4巻) * [[十五少年漂流記|マンガでよめる! 十五少年漂流記]](原作:[[ジュール・ヴェルヌ]]、2016、全1巻) * [[シャーロック・ホームズ]] 「[[バスカビル家の犬]]」 講談社 (遺作) 2023年1月現在、コミックス化はされていない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-substub}} {{DEFAULTSORT:うの ひろし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大分県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:2018年没]]
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楳図かずお
楳図 かずお(うめず かずお、本名:楳図一雄、1936年9月3日 あるいは9月25日 - )は、日本の漫画家・タレント・作詞家・作曲家。血液型はO型。初期には山路 一雄やウメヅ カズヲの名義による作品もある。 和歌山県伊都郡高野町に生まれ、奈良県五條市に育つ。1955年に貸本漫画家としてデビュー、『週刊少年サンデー』などに作品を発表。代表作に『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』など。作品は恐怖ものからSF、ギャグもの、時代劇まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般にはホラー漫画の第一人者として知られる。 1995年以降、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中で、現在はタレント活動を精力的に行っている。東京都武蔵野市吉祥寺南町に住居兼オフィスを構える。 1936年9月3日 あるいは9月25日、和歌山県伊都郡高野町に生まれる。本籍地は奈良県五條市だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は奈良県の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。なお、父は囲碁が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、高島忠夫の父とは囲碁友達だった。尚、楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない。 3歳から6歳までは奈良県宇陀郡曽爾村で過ごし、父から地元の伝説や民話を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳(1963年)までそこで過ごす。ちなみに、五條市に隣接する和歌山県橋本市は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、橋本駅前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と、縁がある。 1947年、小学5年生の時、手塚治虫の『新宝島』を読み、漫画家になることを決意する。初めは手塚を模倣して描いていたが、プロを意識しはじめた中学生時代に手塚調を廃し、初山滋や武井武雄など童画家の影響による作風で漫画を描きはじめ、神戸の「改漫クラブ」、青森の「少年少女漫画ルーム」など複数の同人サークルで積極的に活動する。中学時代は『漫画少年』にたびたび投稿していたがなかなか採用されず、往復マンガが一度載ったのを最後に同誌への投稿をやめ、『譚海』や『漫画と読物』などに作品を発表していた。奈良県立五條高等学校在学中は音楽と美術以外に好きな学科は全くなく、授業中には漫画を描いていた。 1955年、五條高校卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・奈良教育大学)を受験したが失敗。同年、『森の兄妹』(6月刊。山路一雄名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった水谷武子との共作で『ヘンゼルとグレーテル』の漫画化、後者は太古の地球に舞台を取った壮大な叙事詩的SF作品。以後、貸本漫画を多く発表し人気作家となる。 1961年、貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉を作った。1963年8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である佐藤まさあきに誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して劇団ひまわりの青年部に入り、『兵隊やくざ』(大映、1965年)や太田博之の映画やNHKの朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した。また、当時俳優志望だった久保新二と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という。 1966年、講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した「ねこ目の少女」「へび女(英語版)」等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『週刊少年マガジン』(講談社)、『週刊少年キング』(少年画報社)等などでは少年向けのSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。 1971年、主たる作品発表の場を、『週刊少年サンデー』(小学館)にしぼる。1975年、『漂流教室』ほか一連の作品で第20回小学館漫画賞受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、ギャグ作品「まことちゃん」の連載とあいまって、バンド活動を展開する。作詞家として、郷ひろみや近田春夫の楽曲の作詞を手がけたこともある。 1982年、「わたしは真悟」を小学館『ビッグコミックスピリッツ』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。 1995年に完結した『14歳』以後、漫画は休筆中。理由には、長年の執筆による腱鞘炎が悪化したことの他、「14歳」連載時、小学館の新任編集者にゲンコツの絵を持って来られ、「手はこう描くんですよ」と言われるなど精神的に憔悴したことが挙げられる。小学館との関係は、その後、かつてスピリッツでの担当編集者であった江上英樹が編集長である『月刊IKKI』等が代表作を復刻刊行する等にとどまっている。 休筆以降、現在まで、テレビ・雑誌等で活発なタレント活動を行っており、その明るくサービス精神にあふれたキャラクターを元気一杯に披露している。20代前半の頃より好んで着ている赤白のボーダー柄の服がトレードマークである。2005年の映画『楳図かずお恐怖劇場』シリーズの公開に伴い、絶版作品の復刻もあいまって、若い女性ファンを中心に現在もファンを増やし続けている。 2014年9月17日公開の長編ホラー映画「マザー」は、楳図初の監督作品となる。脚本も楳図で出演もしている。自叙伝の出版が決まった楳図と編集者の周辺に怪奇現象が続出するが、亡き母の怨念がそこにあったことを知るというストーリーで、片岡愛之助が楳図を演じる。母親役の真行寺君枝、編集者役に舞羽美海なども出演。 映画の完成披露会見では、前年の2013年に転倒して頭部を打ったことから慢性硬膜下血腫で8月と9月の2回にわたり手術を受け、右頭部で190cc、左頭部で250ccの血を抜き、その直後に撮影をしたことなどを明らかにした。 2018年1月、「わたしは真悟」が、フランス・アングレームで開催された「第45回アングレーム国際漫画フェスティバル」にて遺産部門(LA SELECTION patrimoine)に選ばれた。 2019年、文化庁長官表彰。 2021年8月、公式サイトにて、1995年の『14歳』以来26年ぶりとなる新作漫画を発表することを告知。 2022年1月から楳図かずお大美術展を開催。 2023年、第27回手塚治虫文化賞特別賞を受賞。 ほか多数
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楳図 かずおは、日本の漫画家・タレント・作詞家・作曲家。血液型はO型。初期には山路 一雄やウメヅ カズヲの名義による作品もある。 和歌山県伊都郡高野町に生まれ、奈良県五條市に育つ。1955年に貸本漫画家としてデビュー、『週刊少年サンデー』などに作品を発表。代表作に『漂流教室』『まことちゃん』『わたしは真悟』など。作品は恐怖ものからSF、ギャグもの、時代劇まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般にはホラー漫画の第一人者として知られる。 1995年以降、腱鞘炎などといった理由で漫画は休筆中で、現在はタレント活動を精力的に行っている。東京都武蔵野市吉祥寺南町に住居兼オフィスを構える。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 楳図 かずお | 画像 = 2010TIBE Day1 Hall2 Opening Kazuo Umezu.jpg | 画像サイズ = | 脚注 = 2010年 台北国際書展にて | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1936|9|3}}あるいは[[9月25日]] | 没年 = | 職業 = [[漫画家]]・[[タレント]] | 活動期間 = [[1955年]] - | ジャンル = [[ホラー漫画]]・[[SF漫画]]など | 代表作 = 『[[漂流教室]]』<br />『[[まことちゃん]]』<br />『[[わたしは真悟]]』<br />『[[14歳 (漫画)|14歳]]』 | 受賞 = * 第20回[[小学館漫画賞]]<br />(『漂流教室』ほか一連の作品) * 第45回[[アングレーム国際漫画祭]] 遺産賞(『[[わたしは真悟]]』) * [[文化庁長官表彰]] * ミケルッツィ賞 最優秀クラシック作品賞(『わたしは真悟』) * 第27回[[手塚治虫文化賞]]特別賞 }} '''楳図 かずお'''(うめず かずお、本名:楳図一雄、[[1936年]][[9月3日]]<ref name="映画.com">[https://eiga.com/person/19043/ 楳図かずお]、[[映画.com]]. 2020年8月26日閲覧。</ref><ref name="楽天ブックス">[https://books.rakuten.co.jp/event/book/comic/umezz-kazuo/ 楳図かずお]、[[楽天グループ|楽天]]ブックス。2020年8月26日閲覧。</ref> あるいは[[9月25日]]<ref name="日本人名大辞典">[https://kotobank.jp/word/%E6%A5%B3%E5%9B%B3%E3%81%8B%E3%81%9A%E3%81%8A-441614 楳図かずお]『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』[[講談社]]、[[コトバンク]]。2020年8月25日閲覧。</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[タレント]]・[[作詞家]]・[[作曲家]]。[[血液型]]はO型。初期には'''山路 一雄'''や'''ウメヅ カズヲ'''の名義による作品もある。 [[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]]に生まれ、[[奈良県]][[五條市]]に育つ。[[1955年]]に貸本漫画家としてデビュー、『[[週刊少年サンデー]]』などに作品を発表。代表作に『[[漂流教室]]』『[[まことちゃん]]』『[[わたしは真悟]]』など。作品は恐怖ものから[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[ギャグ]]もの、[[時代劇]]まで、少年もの、少女もの、青年ものを問わず幅広いが、一般には[[ホラー漫画]]の第一人者として知られる。 [[1995年]]以降、[[腱鞘炎]]などといった理由で漫画は休筆中で、現在はタレント活動を精力的に行っている。[[東京都]][[武蔵野市]][[吉祥寺南町]]に住居兼オフィスを構える。<!--尚、2022年現在、住居は草木が生い茂りゴミが散乱して廃墟化しており居住しているかどうかは不明--> == 来歴 == === 幼少期 === [[1936年]][[9月3日]]<ref name="映画.com" /><ref name="楽天ブックス" /> あるいは[[9月25日]]<ref name="日本人名大辞典" />、[[和歌山県]][[伊都郡]][[高野町]]に生まれる。[[本籍|本籍地]]は[[奈良県]][[五條市]]だが、父方は一族全部が教員という家系であり、父・公雄も小学校教員をしていたため、幼少期は[[奈良県]]の山間部の僻村を転々とした。高野町で生まれたのは、出産の便宜のため。なお、父は[[囲碁]]が好きで囲碁大会に奈良県代表としてしばしば出場し、[[高島忠夫]]の父とは囲碁友達だった<ref>楳図かずお『恐怖への招待』p.24(河出書房新社、1988年)</ref>。尚、楳図家の祖先については、(かずおの)曽祖父より前の世代の親族が奈良県外から来たらしいということしか分かっていない<ref>『アニメック』Vol.21のインタビューp.89</ref>。 3歳から6歳までは[[奈良県]][[宇陀郡]][[曽爾村]]で過ごし、父から地元の[[伝説]]や[[民話]]を聞かされて育つ。6歳からは五條市に住し、東京に出る27歳([[1963年]])までそこで過ごす。ちなみに、五條市に隣接する[[和歌山県]][[橋本市]]は、楳図青年の散歩コースでもあり、橋本市の広報誌に4コママンガ『オテンバ日記』を載せたり(1956年)、[[橋本駅 (和歌山県)|橋本駅]]前に『まことちゃん』の像が建てられたり(2002年)と、縁がある。 [[1947年]]、小学5年生の時、[[手塚治虫]]の『[[新宝島]]』を読み、漫画家になることを決意する。初めは手塚を模倣して描いていたが、プロを意識しはじめた中学生時代に手塚調を廃し、[[初山滋]]や[[武井武雄]]など[[童画]]家の影響による作風で漫画を描きはじめ、[[神戸市|神戸]]の「改漫クラブ」、[[青森県|青森]]の「少年少女漫画ルーム」など複数の[[同人]]サークルで積極的に活動する。中学時代は『[[漫画少年]]』にたびたび投稿していたがなかなか採用されず、往復マンガが一度載ったのを最後に同誌への投稿をやめ、『[[譚海]]』や『漫画と読物』などに作品を発表していた<ref>楳図かずお『恐怖への招待』p.135(河出書房新社、1988年)</ref>。[[奈良県立五條高等学校]]在学中は[[音楽]]と[[美術]]以外に好きな学科は全くなく、授業中には漫画を描いていた<ref>楳図かずお『恐怖への招待』p.136-137(河出書房新社、1988年)</ref>。 === プロ漫画家として === [[1955年]]、[[奈良県立五條高等学校|五條高校]]卒業。親の言いつけで奈良学芸大学(現・[[奈良教育大学]])を受験したが失敗<ref>楳図かずお『恐怖への招待』p.144(河出書房新社、1988年)</ref>。同年、『森の兄妹』(6月刊。'''山路一雄'''名義)、『別世界』(9月刊。共にトモブック社)でプロデビュー。前者は「改漫クラブ」の文通相手だった[[水谷武子]]との共作で『[[ヘンゼルとグレーテル]]』の漫画化、後者は太古の[[地球]]に舞台を取った壮大な[[叙事詩]]的[[サイエンス・フィクション|SF]]作品。以後、[[貸本漫画]]を多く発表し人気作家となる。 [[1961年]]、貸本短編誌『虹』29号に発表した「口が耳までさける時」において「恐怖マンガ」という言葉を作った。[[1963年]]8月、同じ大阪貸本漫画家の先輩である[[佐藤まさあき]]に誘われて上京。池袋にある佐藤の事務所に居候として3年間住む。以後、目白、高田馬場を経て、吉祥寺(現在)に住す。このころ本格的に俳優を志し、年齢を下に詐称して[[劇団ひまわり]]の青年部に入り、『兵隊やくざ』([[大映]]、[[1965年]])や[[太田博之]]の映画や[[日本放送協会|NHK]]の朝の連続ドラマに出演したこともあるが、劇団の上層部の人間から宗教への入信を勧められたのに嫌気が差して退団した<ref>楳図かずお『恐怖への招待』p.157(河出書房新社、1988年)</ref>。また、当時俳優志望だった[[久保新二]]と同居して毎晩ひとつの布団で寝ていたこともある<ref name="久保">[http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/155718 日刊ゲンダイ|“ポルノの帝王”久保新二氏が語る楳図かずお氏との共同生活]</ref>。ただし久保によると「といっても、乳くり合ってたワケじゃないぞ。オレはもちろん、その頃からナヨナヨして奇抜な服着てた楳図もホモじゃねえから」という<ref name="久保" />。 [[1966年]]、[[講談社]]の少女漫画誌『週刊[[少女フレンド]]』に連載した「ねこ目の少女」「{{ill2|へび女|en|Reptilia (manga)}}」等がヒットし、恐怖マンガ家として全国的に知られるようになる。この後、『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)、『[[少年キング|週刊少年キング]]』([[少年画報社]])等などでは少年向けのSF作品、「猫目小僧」など恐怖ものを連載。最も多忙な時期で月刊誌・週刊誌あわせて5本の連載作品を持っていた。 [[1971年]]、主たる作品発表の場を、『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])にしぼる。[[1975年]]、『[[漂流教室]]』ほか一連の作品で第20回[[小学館漫画賞]]受賞。同年、自作自演のLP『闇のアルバム』(CBSソニー)を発表。また、この後、[[ギャグ]]作品「[[まことちゃん]]」の連載とあいまって、バンド活動を展開する。[[作詞家]]として、[[郷ひろみ]]や[[近田春夫]]の[[楽曲]]の作詞を手がけたこともある。 [[1982年]]、「[[わたしは真悟]]」を小学館『[[ビッグコミックスピリッツ]]』に連載開始。これに伴い、主たる作品発表の場を同誌に移す。 === 休筆 === [[1995年]]に完結した『[[14歳 (漫画)|14歳]]』以後、漫画は休筆中<ref group="注釈">新作以外では未完のままになっていた貸本時代の漫画「ガモラ」の末尾部分を復刻版のために執筆(1997年)。</ref>。理由には、長年の執筆による[[腱鞘炎]]が悪化したことの他、「14歳」連載時、小学館の新任編集者にゲンコツの絵を持って来られ、「手はこう描くんですよ」と言われるなど精神的に憔悴したことが挙げられる<ref>{{Cite news|和書|title=(語る 人生の贈りもの)楳図かずお:13 くたびれた、未練なく休筆 |newspaper=朝日新聞 |edition=朝刊 |publisher=朝日新聞社 |date=2022-10-13 |accessdate=2022-10-13}}<br />{{Cite web2 |df=ja |url=https://www.asahi.com/articles/DA3S15443542.html |title=(語る 人生の贈りもの)楳図かずお:13 くたびれた、未練なく休筆 |website=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2022-10-13 |accessdate=2022-10-13 |url-access=subscription}}<br />“「14歳」連載中の出来事ですが、新人の担当編集者が仕事場に入ってくるなり、「手はこうやって描くんですよ」と、(中略)、その瞬間、この作品を最後にして、もう漫画を描くのはやめようと思ったんです。”</ref>。小学館との関係は、その後、かつてスピリッツでの担当編集者であった[[江上英樹]]が編集長である『[[月刊IKKI]]』等が代表作を復刻刊行する等にとどまっている。 休筆以降、現在まで、テレビ・雑誌等で活発なタレント活動を行っており、その明るくサービス精神にあふれたキャラクターを元気一杯に披露している。20代前半の頃より好んで着ている赤白のボーダー柄の服がトレードマークである。2005年の映画『[[楳図かずお恐怖劇場]]』シリーズの公開に伴い、絶版作品の復刻もあいまって、若い女性ファンを中心に現在もファンを増やし続けている。 === 休筆以降、映画監督としての活躍 === [[2014年]][[9月17日]]公開の長編ホラー映画「[[マザー (映画)|マザー]]」は、楳図初の監督作品となる。[[脚本]]も楳図で出演もしている。[[自伝|自叙伝]]の出版が決まった楳図と編集者の周辺に怪奇現象が続出するが、亡き母の怨念がそこにあったことを知るというストーリーで、[[片岡愛之助 (6代目)|片岡愛之助]]が楳図を演じる。母親役の[[真行寺君枝]]、編集者役に[[舞羽美海]]なども出演<ref name="movies.yahoo">[http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC/348675/story/ Yahoo!映画 「マザー 」(2014)監督 楳図かずお ]</ref>。 映画の完成披露会見では、前年の[[2013年]]に転倒して頭部を打ったことから[[慢性硬膜下血腫]]で8月と9月の2回にわたり[[手術]]を受け、右頭部で190cc、左頭部で250ccの血を抜き、その直後に撮影をしたことなどを明らかにした<ref name="headlines.yahoo">[https://mantan-web.jp/article/20140918dog00m200107000c.html <楳図かずお>1年前に慢性硬膜下血腫で手術2回 初監督映画会見で明かす - まんたんウェブ 9月18日(木)20時55分配信 ]</ref>。 [[2018年]]1月、「わたしは真悟」が、フランス・アングレームで開催された「[[アングレーム国際漫画祭|第45回アングレーム国際漫画フェスティバル]]」にて遺産部門(LA SELECTION patrimoine)に選ばれた<ref>[https://natalie.mu/comic/news/267200 楳図かずお「わたしは真悟」、アングレーム国際漫画祭で遺産部門に入賞] コミックナタリー(2018年1月29日), 2018年1月31日閲覧。</ref>。 [[2019年]]、[[文化庁長官表彰]]<ref>[https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/__icsFiles/afieldfile/2019/03/14/a1414330_02.pdf 平成30年度文化庁長官表彰名簿]</ref>。 [[2021年]]8月、公式サイトにて、1995年の『[[14歳 (漫画) |14歳]]』以来26年ぶりとなる新作漫画を発表することを告知<ref name="umezz-art">{{Cite web|和書|title=楳図かずおからのお知らせ|url=https://umezz-art.jp/|website=楳図かずお大美術展|accessdate=2021-11-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202108280000270.html|title=「まことちゃん」楳図かずお氏、26年ぶり新作「制作に4年かかりました」|publisher=日刊スポーツ|date=2021-08-28|accessdate=2021-08-28}}</ref>。 2022年1月から楳図かずお大美術展を開催<ref name="umezz-art" />。 2023年、第27回[[手塚治虫文化賞]]特別賞を受賞<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2276677/full/|title=第27回手塚治虫文化賞、マンガ大賞は入江喜和氏『ゆりあ先生の赤い糸』 特別賞に楳図かずお氏|date=2023-04-25|website=ORICON NEWS|publisher=[[オリコン#企業グループ|oricon ME]]|accessdate=2023-04-25}}</ref>。 == 影響 == * クリエーターや芸能人にも数多くの信奉者、フォロワーが存在する。 ** 推理小説作家の[[綾辻行人]]は楳図を「[[神]]」と称して尊敬し、『[[わたしは真悟]]』は1頁目から泣いて読むと言う。漫画家の[[山咲トオル]]やタレントの[[中川翔子]]など、そのイラストにおいて楳図の作風に影響を受けたものが多数ある。また、漫画家[[児嶋都]]は楳図タッチでのギャグ・ホラー漫画を描いている。 ** 中川翔子は楳図の漫画を読んでいた父[[中川勝彦]]から薦められて幼少期から楳図の漫画を読んでおり、思春期には楳図の絵を写経のように模写していた。芸名の「翔」の字は漂流教室の主人公「高松翔」から取られた。デビュー当時には「楳図タッチの絵を描く謎のアイドル」と紹介されたこともある。 ** 映画監督の[[塚本晋也]]は"人生最高の本"の一冊に楳図の『[[漂流教室]]』を挙げている。『わたしは真悟』は塚本の『[[鉄男]]』に影響を与えているという<ref>{{Cite news |url=https://gendai.media/articles/premium01print/47549?page=2&skin=premium01print |title=映画監督・塚本晋也さんが選ぶ人生最高の10冊 物語の中で描かれる「リアリティ」を見つめ続けて |work=日本一の書評 |newspaper=現代ビジネス+[講談社] |date=2016-01-31 |accessdate=2021-11-25}}</ref>。 ** シンガーソングライターの[[ルルティア]]は[[2005年]]公開の映画『楳図かずお恐怖劇場』の音楽を担当し、そのサウンドトラックアルバム『[[楳図かずお恐怖劇場 ルルティア・トラックス]]』を発表した。同じくシンガーソングライターの[[柴田淳]]も[[2008年]]公開の映画『おろち』の主題歌「愛をする人」を担当した。 ** [[ガロ系|特殊漫画家]]の[[山野一]]は「あっち側まで突き抜けちゃった人しか知りえない世界や収拾不可能とも思えるモチーフを、みごとに構成構築し、説得力ある完成度の高い作品に仕上げている。そんなお方が時には、[[マーク・ボラン]]ばりのパンタロンスーツで『[[まことちゃん]]』を描いたりもするのだから、もうほとんど人間の域を越えている」として「天才とキチガイは紙一重」という言葉が最も相応しい作家と評した<ref>山野一「楳図かずおはゾクゾク毒電波だ」『[[図書新聞]]』2249号(1995年6月10日号)</ref>。また山野は「身も心もボロボロになって、ようやく最後のページを閉じたとき、聡明な少女は気付くだろう。その作品がかくも自分を魅きつけたのは、その世界が実はずっと昔から自分の中にあり、自覚されずにいたものだからということを」とも語っている。 * コメディ・ギャグ要素を含む漫画やアニメにおいて、恐怖に戦慄する登場人物の表情が、突然その作品本来の絵柄から逸脱して楳図調のタッチになってしまうというパロディは非常に広範に用いられ、また漫画そのものがネタにされることもあり、『[[ドラえもん]]』の『主役はめこみ機』のエピソードではまことちゃんの顔が[[野比のび太]]に変わるという設定が使われた。 == エピソード == * 徹底的なオリジナル追求志向であり、他作品から影響を受けることを恐れて漫画や映画、アニメ、小説などには一切触れないという。また、オリジナリティをものにするには、まだ誰も手を付けていない未知の分野を積極的に開拓する姿勢が大切であるとも述べている<ref>日刊サイゾー【第20回】小明の「大人よ、教えて!」"逆"人生相談楳図かずおさんの至言「世界を相手にやっている人は、友達作っちゃうと危ない!」(後編)</ref>。 * 映画「[[漂流教室]]」([[大林宣彦]]監督)は、テーマやストーリーが大きく改変され、苦言を呈した。 * アメリカの文化にも大きな影響を受けている。[[エルヴィス・プレスリー]](音楽活動)、[[マリリン・モンロー]](わたしは真悟)アメリカ(14歳) など。 * 赤と白のボーダーシャツ([[ロヂャース (小売店)|ロヂャース]]にて購入)を好む。また赤と白のボーダーラインが自分のラッキーカラーであると語っている。なぜ赤と白のボーダーラインが好きかについては、海賊の着ている服のイメージからだと答えており、そのイメージの源泉は子供の頃に読んだ手塚治虫の『新宝島』から得たと答えている。また漫画家の他になりたい職業は?という問いにも「やっぱり海賊」と答えた。 * [[2007年]]に[[吉祥寺]]の自宅(まことちゃんハウス)を改築した際、外壁に赤と白のボーダーラインを入れた点について、近隣住民2人から「景観を損ねる」として建設差し止め[[仮処分]]申請に発展したが、東京地裁は10月12日に住民側の請求を却下。その後、原告側から塗装中止を求める訴訟も起こされたが、建物が完成したことに伴い、外壁を撤去するまで毎月10万円の損害賠償を請求する訴訟に変更されたものの、東京地裁は2009年1月28日に「周囲の目を引くが、景観の調和を乱すとまでは認められない」として請求を棄却した。 * なお「まことちゃんハウス」の室内は壁の色が部屋により変えられており、緑の玄関ホール、白のリビング、黄色の寝室、青の書庫、赤の屋根裏部屋などがある。別荘にも赤と白のボーダーラインを入れている。また、吉祥寺以前に居住していた[[高尾町|高尾]]の家の外壁は真黄色であった。 * 閉所恐怖症気味で、生来の自動車嫌いである(それゆえに一度も自動車免許を取得していない)。電車は利用するが、ほとんど徒歩で都内を移動する。 * 7つ年下の弟である、[[楳図良雄]]は広告代理店[[大広]]の社員で、担当したアニメ「[[アンデス少年ペペロの冒険]]」の主題歌の作詞を兄に頼んでいる。 == 受賞歴 == * [[1974年]] - 第20回[[小学館漫画賞]](『[[漂流教室]]』ほか一連の作品) * [[2018年]] - 第45回[[アングレーム国際漫画祭]] 遺産賞(''Je suis Shingo''『[[わたしは真悟]]』仏訳) * [[2019年]] - [[文化庁長官表彰]] * [[2020年]] - ミケルッツィ賞 最優秀クラシック作品賞(''Io sono Shingo''『わたしは真悟』伊訳)<ref>{{Cite news |title=楳図かずお氏の『わたしは真悟』がイタリアのマンガ賞を受賞! |publisher=小学館 |date=2021-01-05 |url=https://shogakukan-comic.jp/news/28524 |access-date=2023-04-24}}</ref> * [[2023年]] - 第27回[[手塚治虫文化賞]]特別賞 == 主要作品 == {{節スタブ}} === 連載作品 === * [[ロマンスの薬]](原題:ロマンスの薬あげます!!) - 『[[なかよし]]』(1962年) * [[紅グモ]] - 『週刊[[少女フレンド]]』([[1965年]]47号 - [[1966年]]10号) *: [[シリーズこわい本]]<13>に収録。<ref name="HSC" /> * [[半魚人 (漫画)|半魚人]] - 『[[週刊少年マガジン]]』([[1965年]]48号 - 53号) *: [[シリーズこわい本]]<15>に収録。<ref name="HSC" /> * [[ひびわれ人間]] - 『週刊少年マガジン』([[1966年]]06号 - 12号) * [[へび少女]] - 『週刊少女フレンド』(1966年11号 - 25号) * [[ウルトラマン]] - 『少年マガジン』(1966年 - 1967年) * [[赤んぼ少女]] - 『週刊[[少女フレンド]]』([[1967年]]30号 - 39号) *: のちに『のろいの館』『赤んぼう少女』とも改題される。 * [[SF異色短編集]] - 『[[ビッグコミック]]』(1968年 - 1969年) * [[映(かげ)像]] - 『[[ティーンルック]]』(1968年) *: 後に『[[谷間のユリ]]』<ref>『[[女性セブン]]』(1973年)</ref> と共に[[シリーズこわい本]]<1>に収録。<ref name="HSC">[[ハロウィン少女コミック館]]</ref> * [[蝶の墓]] - 『ティーンルック』(1968年) * [[猫目小僧]] - 『少年画報』など(1968年 - 1976年) * [[おそれ]] - 『ティーンルック』(1969年) * [[死者の行進]] * [[おろち (漫画)|おろち]] - 『[[週刊少年サンデー]]』([[1969年]]25号 - [[1970年]]35号) * [[イアラ]] - 『ビッグコミック』(1970年1月10日号 - 9月25日号) * [[アゲイン (漫画)|アゲイン]] - 『週刊少年サンデー』(1970年43号 - [[1972年]]5号) * [[怪獣ギョー]] - 『週刊少年サンデー』([[1971年]]36号 - 37号) * [[漂流教室]] - 『週刊少年サンデー』(1972年23号 - [[1974年]]27号) * [[洗礼 (漫画)|洗礼]] - 『少女コミック』(1974年 - 1976年) * [[まことちゃん]] - 『週刊少年サンデー』([[1976年]]16号 - [[1981年]]30号) * [[わたしは真悟]] - 『ビッグコミックスピリッツ』([[1982年]]8号 - [[1986年]]27号) *[[楳図かずおの呪い]] - (1986年) * [[神の左手悪魔の右手]] - 『[[ビッグコミックスピリッツ]]』(1986年31号 - [[1988年]]32号) * [[14歳 (漫画)|14歳]] - 『ビッグコミックスピリッツ』([[1990年]]4・5合併号 - [[1995年]]37号) * ZOKU-SHINGO 小さなロボット シンゴ美術館 - 『芸術新潮』(2022年2月号)<ref>{{Cite press release |和書 |url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000447.000047877.html |title=楳図かずお27年ぶりの新作をいち早く公開!付録は、“楳図がつくった”特製リーフレット。 |publisher=新潮社 |date=2022-01-25 |accessdate=2022-01-25}}</ref> === 読み切り === <!--多数ありますので特によく知られているもの・単独記事のあるものに限ってください--> * [[愛の方程式]] - 『[[高2時代]]』(1973年) * [[ねがい (漫画)|ねがい]] - 『週刊少年サンデー』([[1975年]]16号) * [[男神]] - [[朝日ソノラマ]]『[[DUO (マンガ雑誌)|DUO]]』(創刊号) === 本人歌唱作品 === ;シングル *ビチグソロック(1977年、「まことちゃん」B面曲) *グワシ!!まことちゃん/ギャングの母(1977年、「KAZZ(楳図の変名)、フィーリング・フリー」名義) *サンバ・デ・まことちゃん/パパ&ママROCK(1980年、「楳図かずお&スーパー・ポリス」名義) *木村の兄さん(1996年、UMEZZ名義) *あしゅらの道のまん中で/猫目小僧(2006年5月23日、映画『猫目小僧』主題歌。「浅草ジンタ with 楳図かずお」名義) *まことちゃん音頭(2010年12月22日) *新宿烏(2011年7月27日、映画『おろち』劇中歌のセルフカバー) ;アルバム *闇のアルバム(1975年7月21日、SOLL-152) *闇のアルバム(2005年6月29日、ソニー・ミュージック MHCL-542) *:1975年発売の『闇のアルバム』に未発表音源を追加してCD化。 *闇のアルバム・2(2011年8月31日) ;その他 *[[むかしトイレがこわかった!]](作曲も楳図が担当。[[日本放送協会|NHK]][[みんなのうた]]で2000年8月-9月に放送された。同年11月18日発売のオムニバスアルバム『NHKみんなのうた/小さな手紙』収録) === 作詞提供作品 === *[[朝倉理恵]]、エコノミック・アニマルズ **つる姫じゃ〜っ!(作曲も楳図が担当。(漫画『[[つる姫じゃ〜っ!]]』イメージソング) *[[内田あかり]] **ねどこ *[[郷ひろみ]] **[[寒い夜明け]] **南の果実 *[[近田春夫]] **[[ああ、レディハリケーン]] **[[エレクトリック・ラブ・ストーリー]] *[[谷村美月]] **新宿烏(映画『[[おろち (漫画)|おろち]]』劇中歌) *[[野下まこと]] **まことちゃん(漫画『[[まことちゃん]]』イメージソング) *[[堀江美都子]] **風よつたえて(アニメ『[[アンデス少年ペペロの冒険]]』エンディングテーマ) **猫目小僧(作曲も楳図が担当。アニメ『[[妖怪伝 猫目小僧]]』オープニングテーマ) **ペペロの冒険(アニメ『アンデス少年ペペロの冒険』オープニングテーマ) **見ろよ! この目を(アニメ『妖怪伝 猫目小僧』エンディングテーマ) == 作品の映像化 == === アニメ化作品 === * まことちゃん * おろち(漫画ビデオ) * 楳図かずおの呪い ** 第1話「ビデオカメラに何が映ったか?」 ** 第2話「幽霊屋敷」 === 映画化作品 === * [[蛇娘と白髪魔]](1968年、監督:[[湯浅憲明]]) * [[まことちゃん#アニメ映画|映画まことちゃん]] (1980年、監督:[[芝山努]]) * [[漂流教室#『漂流教室』|漂流教室]] (1987年、監督:[[大林宣彦]]) * [[漂流教室#『漂流教室 (DRIFTING SCHOOL)』|漂流教室 DRIFTING SCHOOL]] (1995年、監督:J・J・ミムラ) * [[洗礼 (漫画)#実写映画|洗礼]] (1996年、監督:[[吉原健一]]) * [[楳図かずお恐怖劇場]](2005年) ** 楳図かずお恐怖劇場「まだらの少女」 (監督:井口昇) ** 楳図かずお恐怖劇場「ねがい」 (監督:清水厚) ** 楳図かずお恐怖劇場「蟲たちの家」 (監督:[[黒沢清]]) ** 楳図かずお恐怖劇場「絶食」 (監督:伊藤匡史) ** 楳図かずお恐怖劇場「プレゼント」 (監督:[[山口雄大]]) ** 楳図かずお恐怖劇場「DEATH MAKE」 (監督:[[太一 (映像作家)|太一]]) * [[猫目小僧 (映画)|猫目小僧]] (2006年、監督:井口昇) * あしゅらの道のまん中で (2006年、歌:[[浅草ジンタ]] with 楳図かずお、監督:楳図かずお)PV * [[神の左手悪魔の右手#映画|神の左手 悪魔の右手]] (2006年、監督:[[金子修介]]) - コンビニの客役で本人登場 * [[おろち (漫画)#映画|おろち]] (2008年、監督:[[鶴田法男]]) * [[赤んぼ少女]] (2008、監督:山口雄大) === 監督映画作品 === *「[[マザー (映画)|マザー]]」 ([[2014年]][[9月27日]]、監督・脚本:楳図かずお)- 初の監督作品<ref name="dogatch">[https://web.archive.org/web/20150507013950/http://dogatch.jp/news/etc/26946 テレビドガッチ]</ref><ref>[http://movies.yahoo.co.jp/movie/%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%83%BC/348675/ Yahoo!映画「マザー 」]</ref>。 === テレビドラマ化作品 === * [[ロング・ラブレター〜漂流教室〜]]([[フジテレビジョン]]、2001年)(原作 『漂流教室』) * [[妖怪伝 猫目小僧]] * 怪談整形美女(原作『黒いねこ面』) * 雪花魔人形(原作『おろち』姉妹) === オリジナルビデオ作品 === * 楳図かずおのギャル10アイランド(脚本、監督、主演)-メーカー ボックスランド * うばわれた心臓(1985年、監督:早川光 日本初の[[オリジナルビデオ]]作品)原作は高校生シリーズ「恐怖」の1エピソード。 === 舞台化作品 === * わたしは真悟(2004年、劇団[[アロッタファジャイナ]]、監修:[[那須博之]]、脚本・演出:[[松枝佳紀]]、出演:[[上野未来]](真鈴役)) == 出演 == === 映画 === * [[兵隊やくざ]](1965年、監督:[[増村保造]]) * 蛇娘と白髪魔(1968年、監督:湯浅憲明)- タクシー運転手 役 * 喜談南海變化玉(1978年、監督:[[長嶺高文]]) * 妖怪天国(1986年、監督:[[手塚眞]]) * [[漂流教室]](1987年、監督:[[大林宣彦]]) * [[東京ゾンビ]](2005年、監督:佐藤佐吉) * [[真夜中の弥次さん喜多さん]](2005年、監督:[[宮藤官九郎]]) * [[神の左手悪魔の右手|神の左手 悪魔の右手]](2006年、監督:[[金子修介]]) * [[グーグーだって猫である]](2008年、監督:[[犬童一心]]) * [[グワシ!楳図かずおです]](2009年) === ドラマ === * [[総務省]]製作の選挙啓発ドラマ「[[希望の党☆]]」([[金子修介]]監督)に特別出演 * 月曜ドラマランド版「[[悪魔くん]]」に[[水木しげる]]への友情出演 * 月曜ドラマランド「[[チャッカリ夫人とウッカリ夫人#1983年版|うっかり夫人ちゃっかり夫人]]」 * [[火曜サスペンス劇場]]「真夜中の白い少女 呪われた女学院の惨劇!」 * [[世にも奇妙な物語]] 25周年記念スペシャル・春~人気漫画家共演編~ 「蟲たちの家」 * [[ドラマ24]]「[[東京センチメンタル]]」第6話 * 「[[吉祥寺だけが住みたい街ですか?]]」第10話 === ラジオ === * [[青春大通り]](1979年 - 1980年、文化放送)金曜パーソナリティ === CM === * [[関電工]]「関電工が足りない(コロンブスLAN編)」(2002年)- [[渡辺哲]]との共演 * [[大塚製薬]]「[[オロナミンCドリンク|オロナミンC]]」(2006年)- [[上戸彩]]との共演 * [[Google]]「[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]:みんなのand」(2014年) === 他 === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> * 舞台「マダム鶴子の優雅な正月」([[1984年]][[1月1日]]-2日 [[本多劇場]])<ref>[https://www.hagiomoto.net/etc/media/madam.html 萩尾望都作品目録 - 映像化・舞台化作品]</ref> * [[開運!なんでも鑑定団]](テレビ東京) ** 2000年4月11日 - まことちゃんファンの[[太田裕美]]が楳図からもらった感謝状を鑑定に出す。<ref group="注釈">週刊少年サンデー1978年9月10日号の企画で、太田の他に[[ピンクレディー]]、[[榊原郁恵]]、[[渡辺真知子]]に感謝状が贈られた。</ref> ** 2001年3月20日 - [[北原照久]]らと出張鑑定を行う。 * [[出没!アド街ック天国]]「[[高尾山]]」(2002年5月4日 テレビ東京) - 当時住んでいた家も紹介。 * [[課外授業 ようこそ先輩]]「“恐怖”は心の安全装置 楳図かずお」(2002年9月8日 NHK)- 小学生を相手に特別授業(夜の学校で[[肝試し]])を行った。 * [[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) ** [[絶対に笑ってはいけない病院24時]]([[2007年]][[12月31日]] - 2008年1月1日) ** クイズ楳図かずおの500のコト([[2008年]][[2月3日]]) ** [[絶対に笑ってはいけない新聞社24時]](2008年12月31日 - [[2009年]]1月1日)※2009年1月18日の未公開シーンに出演 ** [[絶対に笑ってはいけないホテルマン24時]](2009年12月31日 - [[2010年]]1月1日) ** [[絶対に笑ってはいけないスパイ24時]](2010年12月31日 - [[2011年]]1月1日) ** [[絶対に笑ってはいけない空港24時]](2011年12月31日 - [[2012年]]1月1日) ** [[絶対に笑ってはいけない熱血教師24時]](2012年12月31日 - [[2013年]]1月1日)※2013年1月8日の未公開SPで出演 * [[GYAO!#GyaO|GyaO]]「[[溜池Now]]」溜池会会員No.006 * [[くにまるワイド ごぜんさま〜]] 邦流 ゲスト(2009年7月6日 - 10日 [[文化放送]]) * [[趣味悠々]]「楳図かずおの今からでも描ける!4コマ漫画入門」(2009年11月5日 - 12月24日 [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]) * [[クイズ☆タレント名鑑]]([[TBSテレビ|TBS]]) - [[マイケル・ジャクソン]]「[[スリラー (曲)|スリラー]]」[[ミュージック・ビデオ]]の完全コピー企画 * [[SWITCHインタビュー 達人達]]「楳図かずお×[[稲川淳二]]」(2014年9月6日 NHK教育) * [[人生クイズ 冠婚葬祭]](テレビ朝日)コーナー担当 ほか多数 == 美術展 == * 楳図かずお大美術展(2022年1月28日 - 3月25日、東京シティビュー TOKYO CITY VIEW([[六本木ヒルズ]])、9月17日 - 11月20日、あべのハルカス美術館)<ref name="umezz-art" /><ref>{{Cite web2|url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/302691|title=楳図かずおさんが27年ぶりの新作『ZOKU-SHINGO』に込めた思い 今の漫画界を「商業主義」と苦言も|website=日刊ゲンダイDIGITAL|publisher=日刊現代|date=2022-03-27|accessdate=2022-03-27}}</ref> == アシスタント == * [[高木一夫]] * [[浅原一義]] * [[菅井こうじ]] * [[高橋のぼる]] * [[ロビン西]] * [[高橋留美子]] <ref>「デビュー当時、編集の紹介で1か月くらい(アシスタントではなく)手伝いをした」『ぱふ』の特集より</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 関連項目 == * [[岡田晟]] * [[ひばり書房]] ==外部リンク== * [http://umezz.com/jp/ 楳図かずおオフィシャルホームページ] * [https://umezz-art.jp/ 楳図かずお大美術展] * {{Twitter|umezz_art|【公式】楳図かずお大美術展/ UMEZZ ART PROJECT}} * [https://twilog.togetter.com/umezz_news/search 楳図かずおニュース] - 情報Twitterアカウント * {{Wayback|url=http://wwwa.filesend.to/plans/yuigon/body.php?od=20090813.html|title=プロフェッショナルの唯言・楳図かずお|date=20160305144033}} * {{Wayback|url=http://musicshelf.jp/?mode=static&html=special99/index|title=楳図かずお ロングインタビュー2 musicshelf|date=20111004163313 }} * {{Wayback|url=http://www.hakusuisha.co.jp/essay/2007/05/5_3.html|title=白水社 連載エッセイ|date=20090923171636 }} * {{Wayback|url=http://www.ii-ie2.net/space/space24.html|title=いい家ネット 著名人が語る「私のこだわり空間」|date=20081004011714 }} * [https://hkmc.jp/column/umezu_betsusekai.html 楳図かずお『別世界』における楽譜のアナリーゼ] - 金沢音楽制作 * [https://www.asahi.com/articles/ASQBG51MPQ95UCVL001.html 「へび女」と手塚治虫に魅せられて 楳図かずおを育んだ故郷(第1回)、(朝日新聞デジタル,2022年10月22日掲載記事)] * [https://www.asahi.com/articles/ASQBG51TCQ95UCVL00B.html 「恐怖漫画で天下をとる」 楳図かずお、俳優にも挑戦した若手時代(第2回)、(朝日新聞デジタル、2022年10月23日掲載記事)] * [https://www.asahi.com/articles/ASQBG51W0Q9CUCVL00J.html 髪形モデルはあの皇族 楳図かずお語る「まことちゃん」「漂流教室」(第3回)、(朝日新聞デジタル、2022年10月24日掲載)] * [https://www.yomiuri.co.jp/culture/subcul/20230610-OYT1T50135/ 楳図かずおさん、デビュー前に描いた自身の肉筆作品の寄贈受ける…「芸術的で僕自身びっくり」(読売新聞2023年6月10日掲載記事)] * 楳図かずお×酒井順子「恐怖マンガの始祖に聞く 新しい作品を生み出す原動力は」(婦人公論 2023年7月17日) ** [https://fujinkoron.jp/articles/-/9068 <前編>] ** [https://fujinkoron.jp/articles/-/9069 <後編>] {{吉祥寺}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うめす かすお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:ホラーに関連する人物]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のソングライター]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:ビクターエンタテインメントのアーティスト]] [[Category:みうらじゅん賞受賞者]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:和歌山県出身の人物]] [[Category:奈良県出身の人物]] [[Category:1936年生]] [[Category:存命人物]] 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うるし原智志
うるし原 智志(うるしはら さとし、1966年2月9日 - )は、広島県出身の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。オフィス・アースワーク所属。本名は漆原 智志(読みは同じ)。 1983年、広島県立宮島工業高等学校3年在学中によしもときんじと出会い、意気投合。その後、角川映画のアニメ『少年ケニヤ』のアニメーター一般公募に応募して合格。劇中のサイとカバの格闘シーンの一部を描く。 1984年、高校卒業後に『少年ケニヤ』の制作を担当していた東映動画へ入社。動画経験を積んだ後、日米合作作品のTVアニメ『トランスフォーマー』で原画に昇格。 1985年、東映動画を退社後にフリーランスとなった以降はOVA作品を中心に活躍。『メガゾーン23 PART II 秘密く・だ・さ・い』の原画でAICのプロデューサーの三浦亨に注目され、アダルトアニメ『ホワイトシャドウ』でキャラクターデザイン・作画監督を務めた。 1989年、ヒロイック・ファンタジーに材を取った『極黒の翼バルキサス』でキャラクターデザイン・作画監督を務め、監督のよしもとと協力。よしもととは以降もコンビを組み、『プラスチックリトル』『校内写生2』などで共に活躍することとなる。特に、原作・キャラクターデザイン・作画監督・演出として参加した『プラスチックリトル』の入浴シーンでは、並々ならぬ乳揺れへの執着を見せた。 1990年、よしもときんじや桜美勝志らとオフィス・アースワークを設立、現在に至る。 女性キャラクターのヌード、特に大きく形の良い乳房や、乳首と乳輪の写実的なディテール(皺やモントゴメリー腺など)を描くことを得意とし、自身も女性のイラストを手がけることが好きと公言する。また、ヌードイラストを描く際には陰毛を濃密に描写することが多い。 それぞれの作品でのクレジット表記や、アースワーク公式サイトで公表していた一覧より記述。 他、読み切り作品多数
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うるし原 智志は、広島県出身の男性アニメーター、キャラクターデザイナー、漫画家。オフィス・アースワーク所属。本名は漆原 智志(読みは同じ)。
{{Infobox animator | 名前 = うるし原 智志 | ふりがな = うるしはら さとし | 画像 = Satoshi Urushihara 20100220 Japan Expo Sud 1.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像解説 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = 漆原 智志(うるしはら さとし) | 別名義 = <!-- 愛称の欄ではありません --> | 生年月日 = {{生年月日と年齢|1966|2|9}} | 出身地 = {{JPN}}・[[広島県]] | 没年月日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 死没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 出身校 = [[広島県立宮島工業高等学校]] | 職業 = [[アニメーター]]<br />[[キャラクターデザイナー]]<br />[[漫画家]] | 所属 = オフィス・アースワーク | 活動期間 = [[1984年]] - | ジャンル = [[アニメーション]]<br />[[ヒロイック・ファンタジー]]<br />[[アダルトアニメ]] | 交流関係 = | 代表作 = 『[[極黒の翼バルキサス|レジェンド・オブ・レムネア]]』<br />『[[キラリティー (漫画)|キラリティー]]』 | 受賞 = | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | URL = | サイト名 = | その他 = }} '''うるし原 智志'''(うるしはら さとし、[[1966年]][[2月9日]] - )は、[[広島県]]出身の男性[[アニメーター]]、[[キャラクターデザイン|キャラクターデザイナー]]、[[漫画家]]。オフィス・アースワーク所属。本名は'''漆原 智志'''(読みは同じ)。 == 経歴・人物 == 1983年、[[広島県立宮島工業高等学校]]3年在学中に[[よしもときんじ]]と出会い、意気投合。その後、[[角川映画]]のアニメ『[[少年ケニヤ]]』のアニメーター一般公募に応募して合格。劇中の[[サイ]]と[[カバ]]の格闘シーンの一部を描く。 1984年、高校卒業後に『少年ケニヤ』の制作を担当していた[[東映アニメーション|東映動画]]へ入社。[[動画 (アニメーション)|動画]]経験を積んだ後、日米合作作品のTVアニメ『[[トランスフォーマー]]』で[[原画]]に昇格。 1985年、東映動画を退社後に[[フリーランス]]となった以降は[[OVA]]作品を中心に活躍。『[[メガゾーン23|メガゾーン23 PART II 秘密く・だ・さ・い]]』の原画で[[アニメインターナショナルカンパニー|AIC]]の[[プロデューサー]]の[[三浦亨 (プロデューサー)|三浦亨]]に注目され、[[アダルトアニメ]]『[[ホワイトシャドウ]]』で[[キャラクターデザイン]]・[[作画監督]]を務めた<ref>キャラクターデザインデビュー作。発売当時は名義非公開であったが、後にアースワーク公式サイトで公表。</ref>。 1989年、[[ヒロイック・ファンタジー]]に材を取った『[[極黒の翼バルキサス]]』でキャラクターデザイン・作画監督を務め、監督のよしもとと協力。よしもととは以降もコンビを組み、『[[プラスチックリトル]]』『[[校内写生|校内写生2]]』などで共に活躍することとなる。特に、原作・キャラクターデザイン・作画監督・[[演出]]として参加した『プラスチックリトル』の入浴シーンでは、並々ならぬ[[乳揺れ]]への執着を見せた<ref>アダルトアニメ並みの扇情的な描写となったために、試写を見た[[スポンサー]]から製品版での修正を要求されたという逸話まで残している。</ref>。 1990年、よしもときんじや[[桜美かつし|桜美勝志]]らとオフィス・アースワークを設立、現在に至る。 女性キャラクターの[[ヌード]]、特に大きく形の良い[[乳房]]や、[[乳首]]と[[乳輪]]の写実的なディテール(皺や[[モントゴメリー腺]]など)を描くことを得意とし<ref>主宰する同人サークル名は「大好き!ビーチクン」であり、発行される同人誌のあとがきなどで用いられる自称は「ニップルうるし」。いずれからも乳房に対しての並々ならないこだわりが見て取れる。</ref>、自身も女性のイラストを手がけることが好きと公言する。また、ヌードイラストを描く際には[[陰毛]]を濃密に描写することが多い<ref>一部ファンからは、姓と掛けた「たわし原」と呼称されている。ただ、あくまで他称であり、本人がこれについて言及したことはない。</ref>。 == 主な作品 == それぞれの作品でのクレジット表記や、アースワーク公式サイトで公表していた一覧より記述。 === テレビアニメ === * [[鉄腕アント]](動画) * [[ダンジョンズ&ドラゴンズ|ダンジョン&ドラゴン]](動画・原画) * [[マペットめざせブロードウェイ!|マペットベイビー]](動画・原画) * [[地上最強のエキスパートチーム G.I.ジョー]](原画) * [[戦え!超ロボット生命体トランスフォーマー]](原画・作画監督) * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]](原画) * [[星銃士ビスマルク]](原画) * [[ついでにとんちんかん]](オープニングアニメーション原画) * [[愛の若草物語]](原画) * [[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]](原画) * [[魁!!男塾]](原画) * [[宇宙船サジタリウス]](原画) * [[ふしぎ星の☆ふたご姫]](第30話:原画) * [[鴉天狗カブト]]('''メインキャラクターデザイン'''・第1話作画監督) * [[ラブひな|ラブひな クリスマススペシャル 〜サイレント・イヴ〜]](原画) * [[Fate/stay night]](第16話:原画) * [[ゼロの使い魔]](第1話:原画) * [[悪霊シリーズ|ゴーストハント]](第9話:原画) * [[一騎当千 (漫画)#一騎当千 Dragon Destiny|一騎当千 Dragon Destiny]](エンディングアニメーション作画監督) * [[げんしけん#げんしけん2|げんしけん2]](オープニングアニメーション作画監督・原画) * [[とある魔術の禁書目録 (アニメ)|とある魔術の禁書目録]](オープニングアニメーション原画) * [[クイーンズブレイド (アニメ)|クイーンズブレイド]]シリーズ ** クイーンズブレイド 流浪の戦士(第2話:絵コンテ) ** クイーンズブレイド 玉座を継ぐ者(エンディングアニメーション作画監督) * [[神のみぞ知るセカイ|神のみぞ知るセカイII]](第11話:予告イラスト) * [[機巧少女は傷つかない]](エンディングアニメーション特技作画監督) * [[モモキュンソード]](オープニングアニメーション原画) * [[レーカン!]](オープニングアニメーション原画) * [[sin 七つの大罪]](絵コンテ、原画) * [[じょしおちっ!〜2階から女の子が…降ってきた!?〜]]('''キャラクターデザイン''') === 劇場アニメ === * [[トランスフォーマー ザ・ムービー]](パイロット版の一部メカニックデザイン・原画) * 劇場版[[聖闘士星矢]]シリーズ ** [[聖闘士星矢 神々の熱き戦い]](原画) ** [[聖闘士星矢 真紅の少年伝説]](原画) * [[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]](原画) * [[ファイブスター物語]](作画監督補) * [[三国志 (アニメ映画)|三国志 第二部・長江燃ゆ!]](原画) === 一般OVA === * [[ガルフォース]](原画) * [[ウォナビーズ]](原画) * [[湘南爆走族]]シリーズ ** 湘南爆走族II 1/5 LONELY NIGHT(原画) ** 湘南爆走族III 10オンスの絆(原画) ** 湘南爆走族4 ハリケーン・ライダーズ(原画) * [[魔神伝|真魔神伝 バトルロイヤルハイスクール]](作画監督補・原画) * [[Good Morning アルテア]](レイアウト) * [[ハイスクールAGENT]](原画) * [[竜世紀|竜世紀 神章A.D 1990 璃子]](原画) * [[トップをねらえ!]](第2話:作画監督補) * [[クライング フリーマン]]シリーズ ** クライング フリーマン3 比翼連理('''キャラクターデザイン'''・作画監督) ** クライング フリーマン4 雄首冬獄('''キャラクターデザイン'''・作画監督) * [[極黒の翼バルキサス]](企画・原案・絵コンテ・演出・'''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画・動画) * [[メガゾーン23|メガゾーン23 PART II]](原画) * [[孔雀王#アニメ|孔雀王2 幻影城]](作画監督補・原画) * [[ガンスミスキャッツ#ライディングビーン|ライディングビーン]](メカニック設定) * [[クレオパトラD.C.]]シリーズ ** クレオパトラD.C. アポロンの雷(作画監督補) ** クレオパトラD.C. パンドラの匣(原画) * [[ロードス島戦記]](第1話:原画、第5話:作画監督) * [[冥王計画ゼオライマー (OVA)|冥王計画ゼオライマー]](PROJECT III:原画) * [[バブルガムクライシス]]シリーズ ** バブルガムクライシス PART6 RED EYES(原画) ** バブルガムクライシス PART7 DOUBLE VISION(ゲストキャラクターデザイン・総作画監督) * [[プラスチックリトル]]('''原作'''・演出・'''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画) * [[超時空世紀オーガス|超時空世紀オーガス02]](原画) * [[クイーンズブレイド グリムワール]]('''キャラクターデザイン'''・作画監督)※登場人物キューエルについてのみ担当 === 18禁OVA === * [[超能力少女バラバンバ]](パッケージイラスト・'''メカニックデザイン'''・原画) * [[フルーツバージョン]](原画) * [[くりいむレモン]]シリーズ ** [[ホワイトシャドウ]]('''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画) ** [[亜美・それから]](友情作画監督) * [[校内写生|校内写生2]](第1話:演出・'''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画、第4話:'''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画)<ref>発売当時は15禁であったが、その後の[[日本ビデオ倫理協会]]の規定改定により以降は18禁に分類。</ref> * [[淫獣学園|淫獣学園 La☆BlueGirl]](絵コンテ) * [[フロントイノセント]]('''原作・監督'''・脚本・絵コンテ・'''キャラクターデザイン'''・作画監督) === 一般ゲーム === * [[ラングリッサーシリーズ]]('''キャラクターデザイン'''・原画)<ref>[[セガサターン]]版『ラングリッサー トリビュート』(『I』 - 『V』を1パッケージにしたもの)の[[ソフマップ]]向け予約特典ポスターでヒロインを全裸に描いたため、未成年者には予約特典を渡せなくなるという珍事が起こった。</ref> * [[グローランサーシリーズ]](絵コンテ・'''キャラクターデザイン'''・作画監督・原画) * [[重装機兵ヴァルケン]]('''キャラクターデザイン''') * [[アマランス (ゲーム)|アマランス]]シリーズ ** アマランスII(パッケージイラスト) ** アマランスIII(パッケージイラスト) === 18禁PCゲーム === * [[秘密の花園 (ゲーム)|秘密の花園]]('''キャラクターデザイン'''・原画・作画監督)<ref>厳密には18禁ではない([[コンピュータソフトウェア倫理機構]]が設立されるより前の作品である)が、その後の倫理規定から鑑みて18禁に分類。</ref> === アーケードゲーム === * [[ロードブラスター]](原画 [[データイースト]]) * 麻雀ANGEL KISS([[ジャレコ]]) のちに[[セガサターン]]にも移植され、「麻雀天使エンジェルリップス」として発売された。 === 漫画 === ==== コミックス ==== * [[極黒の翼バルキサス|レジェンド・オブ・レムネア]](原案:[[よしもときんじ]]、『極黒の翼バルキサス』のコミカライズ)全3巻/愛蔵版全2巻 * [[キラリティー (漫画)|キラリティー]]([[月刊コミックNORA]]連載)全3巻/愛蔵版全2巻 * [[ラグナロックシティ]](月刊コミックNORA連載)全1巻<ref>単行本は画集サイズ(2001年3月、ISBN 4056023964)。</ref> * [[プラスチックリトル]](月刊コミックNORA連載)全1巻/オールカラー完全版全1巻 * [[VAMPIRE MASTER ダーククリムゾン]](原案協力:[[高瀬美恵]]、[[月刊マガジンZ]]連載、未完)全3巻/愛蔵版全4巻<ref>内容は旧1巻~3巻までの総集編。4巻と旧3巻の内容は同じであり、新作ではない。</ref> * [[悠久黙示録エイドロンシャドー]](原案:よしもときんじ、[[月刊コミック電撃大王]]、未完)全2巻 ==== 未単行本化作品 ==== * SHADOW ANGEL * 愛する人へ…(作画:木村義浩、[[コミック桃姫]]連載) * 凌辱の刻(『愛する人へ…』のリメイク、『木村義浩withうるし原智志』名義、[[COMIC TENMA]]連載) * 御譜の剣(プチマガジン[[comic モエマックスJr.]]連載) 他、読み切り作品多数 === 画集 === * SATOSHI URUSHIHARA CELL WORKS(1994年4月、[[ムービック]]、ISBN 4896010868) * VENUS(1997年11月、[[学研ホールディングス|学習研究社]]、ISBN 4-05-601681-X) * レジェンド・オブ・ラングリッサー(1998年8月、学習研究社、ISBN 405601955X) * LOVE(裸舞)(2003年4月、学習研究社、ISBN 4056031223) * U:COLLECTION(2003年12月、[[講談社]]、ISBN 4063645339) * Φ(2005年4月2日、学習研究社、ISBN 4056039615) * ビジュアルワークス 〜フロントイノセントvol.1より〜(2005年10月3日、[[エンターブレイン]]、ISBN 4757724969) * Σ(2006年6月30日、学習研究社、ISBN 4056044856) * 麗裸(2009年11月30日、[[学研パブリッシング]]、ISBN 4056056706) * グローランサー アートワークス(2010年6月28日、[[一迅社]]、ISBN 4758011729) * 姦 ―KAN―(2012年1月30日初版発行、[[茜新社]]、ISBN 978-4-86349-263-9) * 嬲 ―NABURU―(2016年9月10日初版発行、茜新社、ISBN 978-4-86349-574-6) === うるし原智志マガジン === * U-LOVERS vol.1(2011年6月9日、学研パブリッシング、ISBN 4056060975) * U-LOVERS vol.2(2013年10月3日、学研パブリッシング、ISBN 405606721X) === 挿絵 === * [[クリスタニア]]シリーズ * お嬢様×戦車(2009年4月、[[美少女文庫]]、著者:[[森野一角]]、表紙イラストと中綴ピンナップのみ担当) * クリスティナ戦記 奉仕の姫騎士と国境の商人(2015年9月、美少女文庫、著者:[[わかつきひかる]]) * 監獄城の囚人姫(2016年2月、美少女文庫、著者:わかつきひかる) * 僕の小さなエルフ義母(2018年5月、美少女文庫、著者:わかつきひかる) === その他 === * [[ゲームボーイ (ゲーム雑誌)]] (表紙絵)1989年-1991年 * [[COMIC TENMA]] (表紙絵、ピンナップ)2002年7月号-2005年8月号、2005年12月号、2006年3月号-2016年5月号 * [[コミックヴァルキリー]] (ピンナップ/隔月刊)2008年1、3、9、11月号、2009年5月号-2012年11月号 * [[月刊ヤングキング]] (ピンナップ/隔月掲載)2008年4月号、2010年6月号-2012年2月号、2012年6月号-2013年2月号 * [[comic モエマックスJr.]] (表紙絵/不定期刊行)2009年6月号-2011年9月号 * [[二次元ドリームマガジン]] (ピンナップ/隔月刊)2009年10月号、2012年2月号、2013年2-8、12月号、2014年4月号-継続中 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == アシスタント == * [[草野紅壱]] * [[政一九]] * [[かとうひでお]] == 関連項目 == * [[広島県出身の人物一覧]] * [[日本の漫画家一覧]] == 外部リンク == {{Commonscat|Satoshi Urushihara}} * [http://www.earthwork.ne.jp/ EARTHWORK Official Web Page]{{リンク切れ|date=2022年2月}} * [http://blog.livedoor.jp/uruchi1/ うるしのウルルン停滞記] * {{pixiv|14536776}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:うるしはら さとし}} [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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602
漆原友紀
漆原 友紀(うるしばら ゆき、1974年1月23日 - )は、日本の漫画家。山口県出身。女性。別のペンネームに、志摩 冬青(しま そよご)がある。 『ぶ〜け』(集英社)に吉山友紀名義で投稿を始め、後に志摩冬青名義で『ファンロード』(ラポート)にて活動。大学中退後、漆原友紀名義の投稿作『蟲師』(単行本では『瞼の光』に改題)が1998年、アフタヌーン四季賞の四季大賞を受賞し、商業誌デビュー。『蟲師』は2005年にアニメ化された。その後は『アフタヌーンシーズン増刊』や『月刊アフタヌーン』(共に講談社)などで活動。 ノスタルジックでどこか切ない世界と、そこを舞台に不可思議なことをあくまで日常的に繊細に描く叙情的な作風を特徴とする。 作中では蟲を含め昆虫全般も描かれているが作者本人はゴキブリが大の苦手。 代表作に、デビュー作が連載化された、妖怪に似た不思議な生命体「蟲」(むし)とそれを知る専門家「蟲師」を描いた『蟲師』がある。2007年3月24日には監督大友克洋・主演オダギリジョーによる実写映画版が公開。
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漆原 友紀は、日本の漫画家。山口県出身。女性。別のペンネームに、志摩 冬青がある。
{{存命人物の出典明記|date=2020年5月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 漆原 友紀 | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1974|1|23}} | 生地 = {{JPN}}・[[山口県]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1974|1|23|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成人向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = 『[[蟲師]]』 | 受賞 = * [[アフタヌーン四季賞]]1998年冬のコンテスト四季大賞 * [[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞 * 第30回[[講談社漫画賞]]一般部門 | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official|https://www.example.org}}や[https://www.example.org 公式ページ名] など --> }} '''漆原 友紀'''(うるしばら ゆき、[[1974年]][[1月23日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[山口県]]出身。女性。別のペンネームに、'''志摩 冬青'''(しま そよご)がある。 == 来歴 == 『[[ぶ〜け]]』([[集英社]])に吉山友紀名義で投稿を始め、後に志摩冬青名義で『[[ファンロード]]』([[ラポート]])にて活動。大学中退後、漆原友紀名義の投稿作『蟲師』(単行本では『瞼の光』に改題)が[[1998年]]、[[アフタヌーン四季賞]]の四季大賞を受賞し、商業誌デビュー。『蟲師』は2005年にアニメ化された。その後は『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』や『[[月刊アフタヌーン]]』(共に[[講談社]])などで活動。 ノスタルジックでどこか切ない世界と、そこを舞台に不可思議なことをあくまで日常的に繊細に描く叙情的な作風を特徴とする。 作中では蟲を含め[[昆虫類|昆虫]]全般も描かれているが作者本人は[[ゴキブリ]]が大の苦手。 代表作に、デビュー作が連載化された、[[妖怪]]に似た不思議な生命体「蟲」(むし)とそれを知る専門家「蟲師」を描いた『[[蟲師]]』がある。2007年3月24日には監督[[大友克洋]]・主演[[オダギリジョー]]による[[蟲師 (映画)|実写映画版]]が公開。 == 年表 == * [[1998年]] - アフタヌーン1998年冬のコンテスト四季大賞を受賞(『蟲師』)。 * [[2003年]] - [[文化庁メディア芸術祭]]マンガ部門優秀賞を受賞(『蟲師』)。 * [[2006年]] - 第30回[[講談社漫画賞]]一般部門を受賞(『蟲師』)。 == 作品リスト == === 志摩冬青 名義 === * バイオ・ルミネッセンス(短編集。1997年、ラポート) ** 化石の家 ** 雪の冠 ** 小景雑帳 ** 草雲雀 ** 虫師<!--『蟲師』ではないので注意--> ** Mar・man(雑誌未発表) === 漆原友紀 名義 === * [[蟲師]](1999年、『アフタヌーン』。単行本では『瞼の光』へ改題) - 四季大賞受賞作。 * 蟲師(1999年 - 2002年、『アフタヌーンシーズン増刊』。2002年 - 2008年、『アフタヌーン』)-上記作品の連載化。 ** {{Cite book|和書|date=2014-4-23|title=蟲師 特別篇 日蝕む翳|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4063769715}} * フィラメント―漆原友紀作品集(短編集。2004年、講談社アフタヌーンKC)前出の「バイオ・ルミネッセンス」から「草雲雀」以外のすべての作品を収録し、更に以下の2作が収められている。 ** 岬でバスを降りたひと ** 迷宮猫 * [[水域 (漫画)|水域]](2009年<!--2010年1月号付け--> - 2010年、『アフタヌーン』) * 猫が西向きゃ(2018年 - 2020年、『アフタヌーン』)<ref>[[月刊アフタヌーン]]2018年6月号。『猫が西向きゃ』第1話3頁-30頁、第2話31頁-58頁。2話同時掲載。</ref> == 画集 == * 『蟲師』二十景 漆原友紀画集 〜蟲襖〜 * 蟲師 画集 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://afternoon.moae.jp/ アフタヌーン公式Web] * {{Twitter|urushi_official|漆原友紀 official}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うるしはら ゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1974年生]] [[Category:存命人物]]
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603
永福一成
永福 一成(えいふく いっせい、1965年1月1日 - )は、日本の漫画家、僧侶。東京都出身。 代表作に『チャイルド★プラネット』など。 和光大学文学部芸術学科卒、東京仏教学院修了。大学時代は漫画研究会に所属しており、卒業後に後輩であった松本大洋の『STRAIGHT』でアシスタントを務める。 1991年、第24回ちばてつや賞優秀新人賞受賞作「カラード・ブルー」でデビュー。実家は浄土真宗本願寺派永福寺。諸星大二郎のファン。『竹光侍』では初の原作を担当している。
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永福 一成は、日本の漫画家、僧侶。東京都出身。 代表作に『チャイルド★プラネット』など。
{{存命人物の出典皆無|date=2014年6月}} '''永福 一成'''(えいふく いっせい、[[1965年]][[1月1日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[僧|僧侶]]。[[東京都]]出身。 代表作に『[[チャイルド★プラネット]]』など。 == 略歴 == [[和光大学]]文学部芸術学科卒、[[本願寺築地別院#関連施設|東京仏教学院]]修了。大学時代は漫画研究会に所属しており、卒業後に後輩であった[[松本大洋]]の『[[STRAIGHT (漫画)|STRAIGHT]]』で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務める。 [[1991年]]、第24回[[ちばてつや賞]]優秀新人賞受賞作「カラード・ブルー」でデビュー。実家は[[浄土真宗]][[本願寺]]派[[永福寺]]{{要曖昧さ回避|date=2014年6月10日}}{{要出典|date=2015年8月}}。[[諸星大二郎]]のファン。『[[竹光侍]]』では初の原作を担当している。 == 作品リスト == <!--発表時期昇順--> === 漫画作品 === * カラード・ブルー(1991年 - xxxx年、[[週刊ヤングマガジン#ヤングマガジン海賊版|ヤングマガジン海賊版]]、[[講談社]]、全2巻) * [[ライトニング・ブリゲイド]](1993年 - 1995年、ヤングマガジン海賊版、講談社、全3巻) * [[チャイルド★プラネット]](原案:[[竹熊健太郎]]、1995年 - 1997年、[[週刊ヤングサンデー]]、[[小学館]]、全7巻) * OUT-SIDER(1997年 - 1998年、週刊ヤングサンデー、小学館、全4巻) * 鉄騎馬 メタル・ホース(1999年 - 2000年、週刊ヤングサンデー、小学館、全4巻) <!--* [[シルバー・フォックス]]--><!--詳細不明に付き一時不可視化。復旧には発表時期・掲載誌など必須条件、もしくは出典を提示の事。--> === 漫画原作 === * [[竹光侍]](作画:[[松本大洋]]、2006年 - 2010年、[[ビッグコミックスピリッツ]]、小学館、全8巻) * イーヴィル・イーター(作画:KOJINO、2012年 - 2013年、[[月刊サンデージェネックス]]、小学館、全3巻)<!--「12-13年」は単行本発行日から算出。第一話掲載は『GX』11年12月号の模様。--> * 月をさすゆび(作画:[[能條純一]]、2014年 - 2016年、[[ビッグコミックオリジナル]]、小学館、全4巻) * 明仁天皇物語(作画:[[古屋兎丸]]、監修: 志波秀宇、2019年、描き下ろし、小学館、全1巻)<ref>{{Cite web |title=明仁天皇物語 {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09860343 |website=小学館 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref> === 協力 === * [[昭和天皇物語]](作画:[[能條純一]]、原作: [[半藤一利]]、監修: 志波秀宇、2017年 - 、ビッグコミックオリジナル、小学館) - 9巻まで脚本を担当。 === 小説 === * [[竹光侍]](装画:松本大洋、2010年 - 2011年、[[小学館文庫]]、小学館、全4巻) * 装甲のジェーンドゥ!(装画:希、2011年、[[ガガガ文庫]]、小学館、単巻)<ref>{{Cite web |title=装甲のジェーンドゥ! {{!}} 書籍 |url=https://www.shogakukan.co.jp/books/09451272 |website=小学館 |access-date=2023-10-08 |language=ja}}</ref> == 脚注 == {{reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えいふく いつせい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:浄土真宗の僧]] [[Category:和光大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]]
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江川達也
江川 達也(えがわ たつや、1961年3月8日 - )は、日本の漫画家、テレビタレント。 愛知県名古屋市千種区出身。愛知教育大学教育学部卒業。男性。旧姓: 野々村。 小学生の時からノートに漫画を描き始め、中学時代で投稿作品を描き上げるが、その後は漫画からは離れる。1978年12月、江川家の養子に入る。名古屋市立北高等学校を経て愛知教育大学教育学部数学科に入学、人形劇サークル・漫画研究会・アニメ研究会などに在籍し、漫画以外の創作活動も行う。大学卒業後は1983年4月から8月までの約5ヶ月間、公立学校教諭(地方公務員)となり名古屋市立東陵中学校の数学科講師をしたのち退職、本宮ひろ志のアシスタントを4ヶ月間務める。 アシスタントの傍ら描いた習作『Don't Give Up』が『コミックモーニング』編集部の目に止まり、1984年、「BE FREE!」(『モーニング』)でデビュー。その後『まじかる☆タルるートくん』を始めとする少年誌向けのギャグ漫画や、『東京大学物語』『GOLDEN BOY』などの青年誌向けのストーリー漫画まで幅広い分野で執筆し、作品がアニメ化されるなど、立て続けにヒット作を生み出す。 21世紀に入ってからは、ネームバリューが高い作品(『源氏物語』、『日露戦争物語』、『家畜人ヤプー』など)を漫画化。また、携帯サイトや新雑誌などのニッチな場での漫画作品の発表を行う。 漫画以外にもテレビ出演(ホリプロとタレント契約)、ヌード画集執筆など幅広く活動。2005年から2020年まで続いた『ビーバップ!ハイヒール』にレギュラー出演。 2021年11月には江川の還暦を祝し、『まじかる☆タルるートくん』をメインにした展示イベント「まじかる☆タルるートくん展」を開催。 教師を経験していたことから、作品内に学校や教育をテーマとして取り入れることが多く、現在の学校教育や学歴社会・受験戦争を批判している。その一方で受験参考書(中経出版「センター試験の点数が面白いほどとれる本」シリーズ)の表紙を手掛けている。 大学時代の専攻は数学であり、作品内に数学が登場することもある。また、洗脳や妄想など心理学にも興味を持っており、これらの言葉が作品内に登場し、作品のテーマとなることも多い。 1980年代後半から1990年代前半の『週刊少年ジャンプ』誌上において、人気作家の一人だった江川は、その時「売れる漫画の理論」を作り出し、その後も多くのヒット作を生み出した(読者アンケートの人気結果を分析し、「どういう展開をすれば人気が出る(人気が下がる)」かを研究していたという)。その傍らで、『源氏物語』等の日本古典文学、日本近代国家の形成史に傾倒。これらを主題とする作品『源氏物語』、『日露戦争物語』、『BOCCHAN 坊っちゃん』を執筆した。 『家庭教師神宮山美佳』の連載と前後して作画をデジタル化。背景は手描きでなく、作画ソフトで加工した画像データを使用している。 東京都の高級住宅地にある建設費6億円強の豪邸に住んでおり、自宅には5775万円のメルセデス・ベンツ・SLRマクラーレンを所有する。書籍やテレビ等で、この車を購入したことに触れていることが多い。本人曰く「車の事はよくわからないのでベンツを買った」。だが、おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!に出演するほどの車好きであり、番組内で車とは「親父の思い出」であると発言している。 私生活では既婚者であり、妻との間に一男一女をもうけている。 かつて、アシスタントの態度に「責任感が無い」と怒り、現在はアシスタントを一切使わずに1人で漫画を描いている。また、「(うまいアシスタントを除いて)アシスタントを置かない方が仕事を速く処理できる」、若しくは「アシスタントを置かない方が好きな時に仕事ができるのでよい」という趣旨の説明をしていたこともある(『パソコンテレビ GyaO』内『PRO FILE #6 江川達也 【仕事】』参照、2006年3月20日まで配信)。ただし、アシスタントは現在でも募集している。 『ドラえもん』の原作者である藤子・F・不二雄が亡くなった後、雑誌やラジオにおいて『ドラえもん』を「人の欲望を際限なく肥大化させる」という趣旨の主張を繰り返し行った。藤子・F・不二雄個人についても、「子供を食い物にするハラ黒い大人だ」と批判している。その『ドラえもん』の悪所(と江川がみなす)部分を徹底分析し、アンチテーゼとして構築したのが『まじかる☆タルるートくん』であると江川は主張したが、結局は模倣に終わったと後に語る。後に『ドラえもん』の掲載誌である『月刊コロコロコミック』にて、『ドラえもん』と同じようなコンセプトを持つ『魔動天使うんポコ』を連載した。近年は、宮崎駿やコンピュータゲーム批判をよく行っているが、その反面、江川はいくつかのゲームソフトでキャラクターデザインを担当している。(後述) 著作『現実はマイナーの中に』で、水木しげるを最も尊敬する漫画家に挙げる一方で、手塚治虫に対しては藤子・F・不二雄のケース同様に、激しい批判を行っている。その他の影響を受けた漫画家に石ノ森章太郎、永井豪、松本零士、川崎のぼる、池上遼一、しげの秀一、大友克洋、本宮ひろ志、白土三平、松苗あけみ、一条ゆかりを挙げている。好きなアニメーション監督に、ユーリ・ノルシュテインをあげており、来日した際にサインを貰っている。 恋愛論を語ることが夢で、「恋愛論を語るなら『an・an』誌上で」→「ならばドラマ化されるほどの恋愛漫画の巨匠に」→「ドラマ化がよくされている漫画雑誌は『ビッグコミックスピリッツ』」と、その夢を逆算していって生まれたのが『東京大学物語』であると、江川はTV番組「アイデアの鍵貸します」で語った。その後、着実にそれらは実現し、最終的には『an・an』に取材を受けて、恋愛論を語ることも実現した。そのテレビドラマ版『東京大学物語』の脚本チェックに参加したことがきっかけで、後に『コーリュー』で脚本家デビュー、「江口達大」名義で、AV監督(アダルトビデオ『全編モザイク無し!全編声優吹き替え!全編主観映像! 全編淫語満載!!女教師と女生徒がペニバンで犯し合い、 男優は一切出てこない学園ドラマ。~ボクの初体験~』<ソフト・オン・デマンド>など)をそれぞれ経験したことがある。 『日露戦争物語』で、軍用の古地図を調べたことから、古地図マニアとなり、テレビ番組『タモリ倶楽部』の古地図企画でのレギュラーを務めたほか、巨大構造物(高速道路のジャンクションなど)の回によく出演していた。2012年4月2日放送「ビートたけしのTVタックル」3時間SPで卒業した三宅久之に、江川達也が色紙に描いた三宅久之の似顔絵が額縁入りで番組最後にビートたけしから贈られた。 準レギュラー、不定期出演を含む。
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江川 達也は、日本の漫画家、テレビタレント。 愛知県名古屋市千種区出身。愛知教育大学教育学部卒業。男性。旧姓: 野々村。
{{複数の問題|存命人物の出典明記=2015年11月19日 (木) 01:57 (UTC)|独自研究=2015年11月19日 (木) 01:57 (UTC)}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 江川 達也 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[愛知県]][[名古屋市]]<ref name="mangaseek">{{Cite book|和書|date=2003年2月25日|title=漫画家人名事典|pages=68|coauthors=まんがseek・日外アソシエーツ共著|publisher=[[日外アソシエーツ]]|id=ISBN 4-8169-1760-8}}</ref>[[千種区]] | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1961|3|8}}<ref name="mangaseek"/> | 没年 = | ジャンル = [[少年漫画]]<br/>[[青年漫画]]<br/>[[歴史漫画]] |職業 = [[漫画家]]<br/>[[タレント|テレビタレント]]<br/>[[AV監督]] | 活動期間 = [[1984年]]<ref name="mangaseek"/> - | 代表作 = 『[[まじかる☆タルるートくん]]』<br/>『[[東京大学物語]]』<br/>『[[日露戦争物語]]』<br/>『[[GOLDEN BOY]]』 | 受賞 = }} '''江川 達也'''(えがわ たつや、[[1961年]][[3月8日]]<ref name="mangaseek"/> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[タレント|テレビタレント]]。 [[愛知県]][[名古屋市]][[千種区]]出身。[[愛知教育大学]][[教育学部]]卒業<ref name="mangaseek"/>。男性。旧姓: 野々村。 == 略歴 == 小学生の時からノートに漫画を描き始め<ref name="mangaseek" />、中学時代で投稿作品を描き上げるが、その後は漫画からは離れる。[[1978年]]12月、江川家の養子に入る。[[名古屋市立北高等学校]]を経て[[愛知教育大学]][[教育学部]]数学科に入学、人形劇サークル・漫画研究会・[[アニメ研究会]]などに在籍し、漫画以外の創作活動も行う。大学卒業後は[[1983年]]4月から8月までの約5ヶ月間、公立学校教諭(地方公務員)となり[[名古屋市立東陵中学校]]の数学科講師をしたのち退職、[[本宮ひろ志]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を4ヶ月間務める<ref name="mangaseek" /><ref>[https://www.nikkansports.com/olympic/column/edition/news/1599908.html 東京五輪開催反対 江川達也の大胆改革案] - 日刊スポーツ TOKYO五輪ピックアップ、2016年2月19日</ref>。 アシスタントの傍ら描いた習作『Don't Give Up』が『[[モーニング (漫画雑誌)|コミックモーニング]]』編集部の目に止まり、[[1984年]]、「[[BE FREE!]]」(『モーニング』)でデビュー。その後『[[まじかる☆タルるートくん]]』を始めとする少年誌向けの[[ギャグ漫画]]や、『[[東京大学物語]]』『[[GOLDEN BOY]]』などの青年誌向けの[[ストーリー漫画]]まで幅広い分野で執筆し、作品がアニメ化されるなど、立て続けにヒット作を生み出す。 [[21世紀]]に入ってからは、ネームバリューが高い作品(『[[源氏物語]]』、『[[日露戦争物語]]』、『[[家畜人ヤプー]]』など)を[[漫画化]]。また、携帯サイトや新雑誌などのニッチな場での漫画作品の発表を行う。 漫画以外にも[[テレビ]]出演([[ホリプロ]]とタレント契約)、[[ヌード]]画集執筆など幅広く活動。2005年から2020年まで続いた『[[ビーバップ!ハイヒール]]』にレギュラー出演。 2021年11月には江川の還暦を祝し、『まじかる☆タルるートくん』をメインにした展示イベント「まじかる☆タルるートくん展」を開催<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/450845|title=「まじかる☆タルるートくん展」江川達也の還暦を祝し、11月10日より墓場の画廊で開催|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-10-25|accessdate=2021-10-26}}</ref>。 == 漫画作品の傾向 == 教師を経験していたことから、作品内に学校や教育をテーマとして取り入れることが多く、現在の学校教育や[[学歴|学歴社会]]・[[入学試験|受験戦争]]を批判している。その一方で受験参考書([[中経出版]]「センター試験の点数が面白いほどとれる本」シリーズ)の表紙を手掛けている。 大学時代の専攻は[[数学]]であり、作品内に数学が登場することもある。また、[[洗脳]]や[[妄想]]など心理学にも興味を持っており、これらの言葉が作品内に登場し、作品のテーマとなることも多い。 [[1980年代]]後半から[[1990年代]]前半の『[[週刊少年ジャンプ]]』誌上において、人気作家の一人だった江川は、その時「売れる漫画の理論」を作り出し、その後も多くのヒット作を生み出した(読者アンケートの人気結果を分析し、「どういう展開をすれば人気が出る(人気が下がる)」かを研究していたという)。その傍らで、『[[源氏物語]]』等の日本古典文学、日本[[近代]]国家の形成史に傾倒。これらを主題とする作品『源氏物語』、『[[日露戦争物語]]』、『[[BOCCHAN 坊っちゃん]]』を執筆した。 『[[家庭教師神宮山美佳]]』の連載と前後して作画をデジタル化。背景は手描きでなく、作画ソフトで加工した画像データを使用している。 == 人物 == 東京都の高級住宅地にある建設費6億円強の豪邸に住んでおり、自宅には5775万円の[[メルセデス・ベンツ・SLRマクラーレン]]を所有する<ref>{{Cite web|和書|author=松浦達也|authorlink=|coauthors=共同著作者|date=2008-05-26|url=http://magazine.carsensor-edge.net/daily1/category_503/_4222.html|title=メルセデス以外あり得ない!|work=[http://magazine.carsensor-edge.net/daily1/ Daily EDGE著名人・有名人のカーライフ]|accessdate=2009-04-07}}</ref>。書籍やテレビ等で、この車を購入したことに触れていることが多い。本人曰く「車の事はよくわからないのでベンツを買った」。だが、[[おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!]]に出演するほどの車好きであり、番組内で車とは「親父の思い出」であると発言している。 私生活では既婚者であり、妻との間に一男一女をもうけている。 かつて、アシスタントの態度に「責任感が無い」と怒り、現在はアシスタントを一切使わずに1人で漫画を描いている。また、「(うまいアシスタントを除いて)アシスタントを置かない方が仕事を速く処理できる」、若しくは「アシスタントを置かない方が好きな時に仕事ができるのでよい」という趣旨の説明をしていたこともある([http://www.gyao.jp 『パソコンテレビ GyaO』]内『PRO FILE #6 江川達也 【仕事】』参照、2006年3月20日まで配信)。ただし、アシスタントは現在でも募集している。 『[[ドラえもん]]』の原作者である[[藤子・F・不二雄]]が亡くなった後、雑誌やラジオにおいて『ドラえもん』を「人の欲望を際限なく肥大化させる」という趣旨の主張を繰り返し行った<ref name="zensinmangaka">『“全身漫画”家』</ref>。藤子・F・不二雄個人についても、「子供を食い物にするハラ黒い大人だ」と批判している<ref>『サイゾー』2003年3月号 江川式勉強法(欄外のコメントより)</ref>。その『ドラえもん』の悪所(と江川がみなす)部分を徹底分析し、[[アンチテーゼ]]として構築したのが『[[まじかる☆タルるートくん]]』であると江川は主張したが、結局は模倣に終わったと後に語る<ref name="zensinmangaka" />。後に『ドラえもん』の掲載誌である『[[月刊コロコロコミック]]』にて、『ドラえもん』と同じようなコンセプトを持つ『[[魔動天使うんポコ]]』を連載した。近年は、[[宮崎駿]]や[[コンピュータゲーム]]批判をよく行っているが、その反面、江川はいくつかのゲームソフトでキャラクターデザインを担当している。(後述) 著作『現実はマイナーの中に』で、[[水木しげる]]を最も尊敬する漫画家に挙げる一方で、[[手塚治虫]]に対しては藤子・F・不二雄のケース同様に、激しい批判を行っている<ref name="zensinmangaka" />。その他の影響を受けた漫画家に[[石ノ森章太郎]]、[[永井豪]]、[[松本零士]]、[[川崎のぼる]]、[[池上遼一]]、[[しげの秀一]]、[[大友克洋]]、[[本宮ひろ志]]、[[白土三平]]、[[松苗あけみ]]、[[一条ゆかり]]を挙げている<ref>美術手帖「マンガテクニック」季刊03号、p.24</ref>。好きなアニメーション監督に、[[ユーリ・ノルシュテイン]]をあげており、来日した際にサインを貰っている<ref>『甦るノルシュテインの世界』</ref>。 恋愛論を語ることが夢で、「恋愛論を語るなら『[[an・an]]』誌上で」→「ならばドラマ化されるほどの恋愛漫画の巨匠に」→「ドラマ化がよくされている漫画雑誌は『[[ビッグコミックスピリッツ]]』」と、その夢を逆算していって生まれたのが『[[東京大学物語]]』であると、江川はTV番組「[[アイデアの鍵貸します]]」で語った。その後、着実にそれらは実現し、最終的には『an・an』に取材を受けて、恋愛論を語ることも実現した。そのテレビドラマ版『東京大学物語』の脚本チェックに参加したことがきっかけで、後に『コーリュー』で脚本家デビュー、「江口達大」名義で、[[AV監督]]([[アダルトビデオ]]『全編モザイク無し!全編声優吹き替え!全編主観映像! 全編淫語満載!!女教師と女生徒がペニバンで犯し合い、 男優は一切出てこない学園ドラマ。~ボクの初体験~』<[[ソフト・オン・デマンド]]>など)をそれぞれ経験したことがある。 『日露戦争物語』で、軍用の古地図を調べたことから、古地図マニアとなり、テレビ番組『[[タモリ倶楽部]]』の古地図企画でのレギュラーを務めたほか、巨大構造物(高速道路の[[ジャンクション (道路)|ジャンクション]]など)の回によく出演していた。2012年4月2日放送「[[ビートたけしのTVタックル]]」3時間SPで卒業した[[三宅久之]]に、江川達也が色紙に描いた三宅久之の似顔絵が額縁入りで番組最後にビートたけしから贈られた。 == 作品リスト == === 漫画 === *[[BE FREE!]]([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、モーニングKC全12巻、KCPX(ワイド版)全10巻、講談社漫画文庫全10巻) *[[まじかる☆タルるートくん]]([[週刊少年ジャンプ]]、ジャンプコミックス全21巻、JCS(ワイド版)全16巻、集英社文庫全14巻) **アニメにも早稲田役で出演している *[[まじかる☆タルるートくん|まじかる☆たるるくん]]([[Vジャンプ]]、読み切り4コマ作品) *[[GOLDEN BOY]]([[スーパージャンプ]]、全10巻) *[[東京大学物語]]([[ビッグコミックスピリッツ]]、全34巻) *[[タケちゃんとパパ]](全3巻) *[[HAPPY BOY]]([[月刊少年ガンガン]]、全3巻) *[[魔動天使うんポコ]]([[月刊コロコロコミック]]、全4巻) *ネオデビルマン(複数の作家によるトリビュートコミックで江川達也の作品を1話収録)(モーニング新マグナム増刊号No.1(1998年1月10日号)に永井豪と江川の対談と共に掲載されたトリビュート漫画。モーニングKCデラックス1巻、講談社漫画文庫1巻に収録) *DEADMAN([[MANGAオールマン]]、全6巻) *[[ラストマン (漫画)|ラストマン]]([[週刊ヤングマガジン]]、全12巻) *[[THE LASTMAN PREMIUM]] *[[文化祭ウラ実行委員会]]([[コミックGOTTA]]、全2巻) *[[日露戦争物語]]([[ビッグコミックスピリッツ]]、ビッグコミックス全22巻、PHP文庫~12巻続刊中) *[[源氏物語]]([[MANGAオールマン]]→[[ウルトラジャンプ]]、全7巻) *[[ONE ZERO NINE]]([[週刊ヤングジャンプ]]、全4巻) *[[けっこう仮面R]](週刊ヤングマガジン、KCデラックス「けっこう仮面ショッキングエッチコレクション」に収録) *[[家畜人ヤプー]]([[コミックバーズ]]、全9巻) *[[八月の鯉・コーリュー]](短編集全1巻) *[[江川式勉強法]](月刊サイゾー、未単行本化) *プレイバックpart2(ジェッツコミックス全1巻) *[[仮面ライダー THE FIRST]]([[特撮エース]]、未単行本化) *平成歌謡漫画大全集2 HERO(ヤングマガジン創刊23周年企画 ヤングマガジン2003年6月) *[[坊つちやん#漫画|BOCCHAN 坊っちゃん]]([[コミック・ガンボ]](連載誌休刊により連載終了)、全2巻) *[[家庭教師神宮山美佳]]([[週刊現代]]、全3巻) *戦国里見八犬伝 Episode Zero([[ケータイ★まんが王国]]、全1巻)「戦国八犬伝」として連載された作品。 *[[真幸くあらば]](iPhone限定配信)映画のスピンオフコミック *織田信長物語~桶狭間合戦の真実([[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝]]、全1巻) *[[GOLDEN BOY]] II 〜さすらいのお勉強野郎 芸能界大暴れ編〜([[ビジネスジャンプ]]、全2巻)※「GOLDEN BOY」の続編 *マンガ 最終戦争論 石原莞爾と宮沢賢治(歴史街道増刊 月刊コミック大河(10号を以て休刊により連載終了)、全1巻) 「戦争と平和〜石原莞爾と宮沢賢治〜」として連載された作品。 *脳内散歩地図(月刊地図中心、2010年1月号~)第1回は一挙30ページ掲載、第2回以降は4ページ程掲載。 **三田用水発掘散歩地図 **桶狭間の合戦再現散歩地図 **徳川幕府利根川大改造地図 **長篠の合戦 **代々木の変遷 **渋谷駅周辺の変遷 **首都圏の治水を考える **明智光秀地図 *あああああい先生([[エブリスタ|E★エブリスタプレミアム]]、2010年、未単行本化) *高知能治安維持軍 H.I.P.P.S(パチンコ・パチスロホール情報誌 でちゃう! 、2011年11月号~2012年10月号) *忘却の涯て 16歳の自分への手紙([[クラブサンデー]]→[[サンデーうぇぶり]]、2016年3月 - 11月、未単行本化) === 書籍 === *ラストマン 野獣派宣言(2000年12月、講談社) *マンガジンマガジン Vol.2 江川達也(2001年3月、キネマ旬報社) *江川達也の「平成の浮世絵」(2001年6月、メディアファクトリー) *EROPOP-EGAWA TATSUYA'S WORKS 1984-2002(2002年2月、角川書店) *“全身漫画”家(2002年4月、光文社) *現実はマイナーの中に(2004年6月、ウェイツ) *教育「真」論―That’s Japan Special 連続シンポジウムの記録(2004年6月、ウェイツ)共著 *江川達也のニッポンを鍛えろ!-オレ的国家改造計画(2004年10月、ぶんか社) *江川達也の超・常識的生き方(2004年12月、海竜社) *名古屋パワーの法則(2005年3月、徳間書店) *江川達也の時事漫画 にあいこ≒るリアル 1 この国のバカたち(2005年4月、扶桑社) *「東京大学」にダマされるな!(2005年6月、PHP研究所) *サブカル「真」論―That’s Japan Special 連続シンポジウムの記録(2005年9月、ウェイツ)共著 *学校嫌い 江川達也×山田玲司 狂った教育から解放されるために(2007年7月、[[一迅社]]) *スピリチュアル・セックス(2008年5月、幻冬舎) *首都高をゆく(2009年6月、イカロス出版)インタビュー収録 *高速道路の謎(清水草一著)(2009年8月、扶桑社新書)インタビュー収録 *睡眠はコントロールできる(2010年6月、[[メディアファクトリー]]、[[メディアファクトリー新書]]、[[遠藤拓郎]]との共著) *VOICE 2011年3月号(PHP研究所)[[堀江貴文]]と対談 *江川達也が描く秋山兄弟と『坂の上の雲』(2011年11月、別冊宝島) === コラム === *江川達也の「明治イズムのすゝめ」(THE 21、2005年1月号~12月号)全12回 *本音のコラム(2006年~2007年、東京新聞 毎週月曜日) === デザイン === ;ゲームキャラクター *ホーリーアンブレラ ドンデラの無謀!!(1995年9月29日、[[スーパーファミコン]]、[[加賀電子|ナグザット]]製作アクションゲーム) *[[G.O.D 目覚めよと呼ぶ声が聴こえ|G.O.D〜目覚めよと呼ぶ声が聴こえ〜]](1996年12月20日、スーパーファミコン、[[イマジニア]]制作ロールプレイングゲーム) **製作総指揮・脚本:[[鴻上尚史]]、音楽監修:[[デーモン小暮]]。 *Aniventure Diary(2003年11月18日βテスト開始、2004年6月開発中止、[[タイトー]]制作オンラインRPG) ;アバター *[[Jenka.com]](2005年8月25日~2007年3月31日、アバターコミュニティサイト) ;3DCGデジタルアナウンサー *デジタル新人女性アナウンサー [[杏梨ルネ]](フジテレビ、2012年10月1日入社~2013年6月退社)退社後はボーカロイドに転職。 **[[にっぽんのミンイ]](2012年10月15日~2013年3月21日、フジテレビ)月~木曜深夜 **ボーカロイド歌謡祭2013(春)~初音ミクから生まれた新たな音楽の世界~ (2013年6月6日、フジテレビ) ;壁画 *[[東山動植物園]]([[アフリカゾウ]]舎巨大壁画作画担当) === 映像作品 === *実写映画版『[[BE FREE!]]』(1986年)…原作 *アニメ『[[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]』(1987年)…原画参加(強姦未遂シーンを担当) *アニメ版『[[まじかる☆タルるートくん]]』(1990年9月2日~1992年5月10日、[[朝日放送テレビ|朝日放送]]制作・[[テレビ朝日]]系) *映画版『[[まじかる☆タルるートくん (1991年の映画)|まじかる☆タルるートくん]]』(1991年3月9日公開)…原作 *映画版『[[まじかる☆タルるートくん 燃えろ!友情の魔法大戦]]』(1991年7月20日公開)…原作 *映画版『[[まじかる☆タルるートくん すき・すき♡タコ焼きっ!]]』(1992年3月7日公開)…原作 *ドラマ『[[東京大学物語]]』(1994年10月10日~1994年12月19日、テレビ朝日系)…原作 *アニメ(OVA)『[[GOLDEN BOY]] さすらいのお勉強野郎』(1995年~1996年)…原作 *ドラマ『コーリュー』(2002年12月15日、[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]制作・テレビ朝日系)…原作、脚本 *アニメ(オリジナルDVD)『東京大学物語』(2004年)…原作 *[[吉澤レイカ]]『憧れの家庭教師』(2003年、[[ソフト・オン・デマンド]])…総合演出 *[[黒沢愛]]『憧れのオフィスレディ』(2003年、ソフト・オン・デマンド)…総合演出 *[[月野しずく]]『憧れの戦闘員』(2004年、ソフト・オン・デマンド)…総合演出 === 監督作品 === ;実写映画 *実写映画版『東京大学物語』(2006年、ソフト・オン・デマンド)…監督・原作 *『[[KING GAME]]』(2010年、[[ファントム・フィルム]])…監督・原案 == 出演 == === テレビ === 準レギュラー、不定期出演を含む。 ==== 過去の出演番組 ==== *[[たかじんのそこまで言って委員会]]([[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) *[[たかじん胸いっぱい]]([[関西テレビ放送|関西テレビ]]) *[[たかじんONE MAN]]([[MBSテレビ|毎日放送]]) *[[ここがヘンだよ日本人]](1999年 - 2001年、TBS) - 主に教育問題、性問題に関する討論にて出演。 *[[ガチンコ!]](2000年7月、[[TBSテレビ|TBS]]) - 番組コーナー「ガチンコ一日一善隊」にて、江川に憧れる漫画家志望者<ref group="注釈">実際は青年向け漫画家として商業誌デビュー済みだった[[舞登士郎|まいとしろう]]。彼は取材内容をロケ当日まで一切知らされず、江川に憧れるどころか江川の作品をほとんど知らなかったにも関わらず、[[やらせ]]演技を強要された。江川本人が[[やらせ]]と承知で出演依頼を受けたかどうかは不明。</ref>にアドバイスを送る役で出演。 *[[TVチャンピオン]]「少年マンガ王選手権」(2000年10月5日、テレビ東京) - 仕事場を訪れた挑戦者に出題した。 *プレゼンタイガー(2001年、フジテレビ) *WINNERS(2002年 2003年、テレビ東京) *[[爆笑問題&日本国民のセンセイ教えて下さい!]](2003年9月23日 - 2005年10月4日、[[テレビ朝日]]) *爆笑問題のススメ(2003年、日本テレビ) *[[平成教育委員会]](2004年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 「2004年学問の秋スペシャル」で江川達也が最優秀生徒。 *[[出没!アド街ック天国]]「本郷」(2005年1月22日、テレビ東京) - 「東京大学物語」に関連したゲスト出演。 *[[こたえてちょーだい!]](2005年、2006年、フジテレビ) ※再現ドラマに俳優として出演 *[[ビーバップ!ハイヒール]](2005年4月 - 2020年3月、[[朝日放送テレビ]]) *[[FNNスーパーニュースアンカー]](2006年4月4日 - 2007年9月25日・12月24日、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) - 隔週火曜日コメンテーター *[[とんねるずのみなさんのおかげでした]](2006年8月、フジテレビ) *[[今田ハウジング]](2006年9月、日本テレビ) *[[太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。]](2006年10月、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) *[[アイデアの鍵貸します]](2006年11月24日、フジテレビ) *[[スーパーモーニング]](2007年4月-9月、テレビ朝日) - 月曜日コメンテーター *[[徳光和夫の感動再会"逢いたい"]](2007年4月 - 2009年3月、[[TBSテレビ|TBS]]) *[[ハイビジョン特集|NHKハイビジョン特集]]「[[日本のいちばん長い夏]]」(2010年7月31日、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|NHK-BShi]]) - 再現ドラマに俳優として、[[会田雄次]]役で出演 *[[A×A ダブルエー]](2010年8月、[[テレビ東京]])<ref>[https://ameblo.jp/tx-axa/entry-10630419729.html A×A ダブルエー 公式ブログ]</ref> *[[幸せの黄色い仔犬]](2011年、[[中京テレビ放送|中京テレビ]]) - 未来へのおくりもの〜[[東山動植物園]] 巨大壁画プロジェクト〜の作画担当として出演 *[[7スタBratch!]] (2011年4月7日- 、[[テレビ東京]]) - 木曜日コメンテーター *[[俳句王国]](2011年12月5日、[[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]) *[[爆報! THE フライデー]](2011年12月23日、TBS) - オリエンタルラジオが江川邸訪問 *デーモン閣下が斬る!BS世界のドキュメンタリー大解剖(2012年1月9日、[[NHK BS1]]) *あいたい「マンガが町を埋めつくす!~江川達也“マンガ王国とっとり”の旅~」(2012年3月9日、NHK総合 広島放送局) *[[金とく]]「真相回転!どえりゃあモータース」(2012年7月13日、NHK総合 名古屋放送局) *SHIBUYA DEEP A(2012年7月27日、NHK総合) *BS歴史館 戦国武将・決断のとき(2) 桶狭間の戦い「信長・27歳の一大挑戦」(2012年9月20日、NHK BSプレミアム) *イカさまタコさま お引越し記念2時間SP(2012年9月26日、TBS) *芸能人雑学王3時間SP 「~新バトル!雑学王3人 VS 博識芸能人30人 国算理社 白熱の大ハンディキャップマッチ!~」(2012年9月27日、テレビ朝日) *[[中居正広の怪しい噂の集まる図書館]](2013年2月19日、テレビ朝日) *[[バリバラ]](2013年4月19日・4月26日・6月28日・7月5日、NHK Eテレ) *[[中居正広のミになる図書館]](2013年5月28日、テレビ朝日) *[[アグレッシブですけど、何か?]](2014年4月16日、[[広島ホームテレビ]]) - 「漫画界の真実」 *[[ピエール瀧のしょんないTV]](2014年11月13日、[[静岡朝日テレビ]]) - 新東名を鑑賞 *[[チャージ730!|チャージ730!→モーニングチャージ!]](2015年4月 - 2016年、[[テレビ東京]]) *[[ビートたけしのTVタックル]]([[テレビ朝日]]) *[[タモリ倶楽部]](テレビ朝日) *[[虎ノ門ニュース 8時入り!]]([[DHCシアター]]) === テレビドラマ === *[[13歳のハローワーク (テレビドラマ)|13歳のハローワーク]] 第4話(2012年2月3日、テレビ朝日) - 江川達也役として出演。 === 映画 === *『[[スパイ・ゾルゲ]]』(2003年、東宝)…通行人(大陸浪人)役 ※カメオ出演 *『[[日本のいちばん長い夏]]』(2010年、アマゾンラテルナ)…[[会田雄次]]役 *『[[すべては「裸になる」から始まって]]』(2012年、BANANAFISH)…[[TOHJIRO]]監督役 === ラジオ === ;過去の出演番組 *[[伊集院光 日曜日の秘密基地]] VIPルーム(2004年8月22日、TBSラジオ) *[[デーモン小暮 ニッポン全国 ラジベガス]](2005年5月11日、ニッポン放送) *[[全国おとな電話相談室]](2008年3月9日、TBSラジオ) *ラジオ版 学問ノススメ(2009年10月25日、JFN) *[[SHARE SMILE]](2009年12月14日~18日、J-WAVE) *[[小島慶子 キラ☆キラ]](2010年3月12日、TBSラジオ) *[[上地雄輔のラジ音!]](2011年11月4日、NHK-FM) == 師匠 == *[[本宮ひろ志]] == 元アシスタント == *[[坂本眞一 (漫画家)|坂本眞一]]<ref>『[[週刊ヤングジャンプ]]』2009年39号452頁</ref> *[[藤島康介]]<ref name="mangaseekp325">『漫画家人名事典』325頁</ref> *[[藤沢とおる]]<ref name="mangaseekp325" /> *[[山田玲司]]<ref>『[[絶望に効くクスリ]]』Vol.1</ref> *[[田畑由秋]]<ref>『漫画家人名事典』240頁</ref> *[[いとう耐]]<ref>『[[オースーパージャンプ]]』(スーパージャンプ2009年8月25日増刊)242頁「いとう耐の解耐新語」</ref> *[[市川智茂]]<ref>『キネ旬ムック―マンガ研究本シリーズ 』(マガジンマガジンVol.2(2001年)江川達也)115頁</ref> *[[砂倉そーいち]]<ref>砂倉の単行本『ファンタスティックファニーズ』奥付の作者のメッセージより</ref> *[[宮本明彦]] *[[松浦聡彦]] *[[中井邦彦]] *[[まんきつ]]<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1212/29/news009.html 鬼才現る:我ながらひどいと思います――人気主婦ブロガー「まんしゅうきつこ」さんの正体 (1/2)]</ref> *[[上月まんまる]] *森永 茉裕 *池上 花英 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == *{{Twitter|tatsuya_egawa|江川達也}} *{{Instagram|egawatatsuya|Tatsuya Egawa}} *{{Facebook|100005789020536|江川 達也}} *[https://www.horipro.co.jp/egawatatsuya/ ホリプロによる紹介] *{{NHK人物録|D0009070666_00000}} {{Manga-artist-stub}} {{ホリプロ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えかわ たつや}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の脚本家]] [[Category:日本のAV監督]] [[Category:ホリプロ]] [[Category:教育学士取得者]] [[Category:愛知県内の地方公務員出身の人物]] [[Category:日本の中等教育の教員]] [[Category:愛知教育大学出身の人物]] [[Category:名古屋市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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江口寿史
江口 寿史(えぐち ひさし、1956年3月29日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。妻は元アイドルの水谷麻里。血液型O型。代表作に『ストップ!! ひばりくん!』、『すすめ!!パイレーツ』、『江口寿史の爆発ディナーショー』など。女性画に定評がある。 熊本県水俣市生まれ。1963年に放映が始まったTVアニメーション『鉄腕アトム』で漫画の存在を知り、さらに雑誌『少年』の『鉄腕アトム』の連載により漫画に夢中になる。読み始めの頃、一番好きだったのは同誌連載の関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』だったという。少しのちにちばてつやの大ファンとなる。 中学2年生の終わりに父親の転勤で千葉県野田市に転居。千葉県立柏高等学校卒業。浪人後、デザイン専門学校に入学するが、漫画を描くための勉強という名目で、名画座で映画ばかり見ていた。 1977年、映画『狼たちの午後』から、子供が銀行を襲うストーリーを思いつき、約3か月かけて描いた『恐るべき子どもたち』を集英社に送ったところ、ヤングジャンプ賞(月例新人賞)に入選。同年、『8時半の決闘』が第6回赤塚賞準入選。 「週刊少年ジャンプ」1977年5月23日号に『恐るべき子どもたち』が掲載され、デビューを飾る。『8時半の決闘』も同年7月11日号に掲載され、10月9日号から『すすめ!!パイレーツ』の連載を開始する。『パイレーツ』の後期より扉絵の構図などにイラストレーションとして見せる為の工夫が見られ始める。 初期のころは山上たつひこの影響を大いに受けていたようで、「すすめ!!パイレーツ」では、「がきデカ」のオマージュのようなシーンが随所にみられる。 1978年、『名探偵はいつもスランプ』で第6回愛読者賞を受賞。1979年、大友克洋の初単行本『ショート・ピース』が刊行。同作品に衝撃を受ける。「自分の絵があまりに古臭く思え」、そこから絵に対する関心が強くなり、同年創刊の雑誌『イラストレーション』を愛読するようになる。 1981年、「週刊少年ジャンプ」1月26日号から『ひのまる劇場』を連載。同年10月19日号から、自身の最大のヒット作となる『ストップ!! ひばりくん!』の連載を開始。この頃より筆の遅さが目立ち始め、また「白いワニ」に比喩される「真っ白な原稿」=「ネタ切れ」にも悩まされる様になる。結果、漫画家に厳しい「ジャンプ」としては異様な観すらある破格な優遇を受けながらも『ひばりくん』を中断し、未完のまま放り出してしまう。 以降、作品の発表の場を「フレッシュジャンプ」に移し、『江口寿史の日の丸劇場』(単行本は『寿五郎ショウ』として発売)の連載を始める。この作品によって以降の江口漫画の主流となる「一話完結のショートギャグ」というスタイルを確立する。『日の丸劇場』の連載終了の翌月より同誌において、作者唯一のストーリー物の連載作品『「エイジ」』の連載を開始。第一部が終了した時点で一旦筆を休め、5年後の1990年にその後を描いた『「エイジ85」』および『「エイジ2」』の連載を始めるが3回で中断。 この頃より集英社との専属契約を終了し、フリーに。「weekly漫画アクション」(双葉社)で『エリカの星』、「ビッグコミックスピリッツ」(小学館)で『パパリンコ物語』と他社での連載を始めるが、いずれも途中で投げ出す。その中にあって、1986年から『日の丸劇場』と同じ形式で「月刊ASUKA」(角川書店)で連載された『江口寿史のなんとかなるでショ!』だけは、落稿も1回に止め、円満終了を迎える。 1988年より「アクション」において、『日の丸劇場』、『なんとかなるでショ!』と同様のスタイルで『江口寿史の爆発ディナーショー』を連載。1992年に本作の単行本によって文藝春秋漫画賞を受賞する。なお、この受賞の際に選評で選考委員長の加藤芳郎に“久々の大型新人”扱いされたという逸話がある。 1989年4月~9月には、FM東京系の深夜放送番組スーパーFMマガジン「NORU SORU」のパーソナリティーを務める。 1990年、交際を続けていた元アイドルの水谷麻里と結婚(江口は2度目)。この頃より、イラストレーターとしての仕事が増え、徐々に仕事の中心がイラストの方へと移って行く。 1992年、『江口寿史の爆発ディナーショー』で文藝春秋漫画賞を受賞。1995年には自ら編集長となって「COMIC CUE」を創刊。松本大洋、望月峯太郎、よしもとよしとも、魚喃キリコ、古屋兎丸などの意欲的な作家を集めるとともに、「テーマを決めての競作」「名作漫画のカバー」などの企画も行った。 1995年は「COMIC CUE」の編集の仕事があったとはいえ、発表された漫画は合計でわずか14ページであり、漫画家として事実上廃業状態となる。 しかし、1998年より「アクション」誌上において『キャラ者』の連載を開始し、連載漫画家としての復帰を果たす。毎週1ページと短く休載も多いながらも、途中で投げ出される事なく続き、掲載誌を「weelkyぴあ・関東版」(ぴあ)に移した後2008年6月まで連載され、江口にとって最長の連載期間となった。 2003年より放映を開始したテレビアニメ『無人惑星サヴァイヴ』にキャラクター原案で参加。 2008年7月より「A-ZERO」にて『ゼロの笑点』を連載。月刊誌でなおかつオールカラー4ページ漫画ではあったが休載なく続き、2009年6月の本誌の休刊により終了。 2018年4月、金沢21世紀美術館にてイラストレーション展 『彼女』を開催。翌2019年より明石、しもだて(筑西市)、青森、旭川、長野、盛岡、千葉を巡回。2023年3月まで行われ、8会場あわせて12万人を越える動員を記録した。2023年3月14日から4月23日まで東京ミッドタウン日比谷にて、東京の風景に溶け込んだ“彼女”を描いた展示会『江口寿史イラストレーション展「東京彼女」』を開催した。 2021年11月13日、水俣市より観光大使第1号に任命された。 2022年3月31日発売の雑誌「昭和45年女・1970年女」vol.6より、音楽ライターの鈴木ダイスケと音楽対談『ヒサシ★ダイスケの「回転違いのズル休み」』連載開始。2023年9月より、兄弟誌の「昭和40年男」(2023年10月号 Vol.8)に移籍し、連載を続行する。 江口は遅筆な事で有名であるが、遅筆のエピソードとしては、「ジャンプ」の愛読者賞用の作品『POCKY』が、途中からネーム状態のまま掲載されるというものがある。そして遅筆の結果、印刷に間に合わずに落稿する事も多く、当初から不定期掲載を謳った連載も多い。 また「(連載作品)未完の帝王」との異名の通り、無事に連載が終了されている作品の多くが一話完結方式で連載されていたもので、いつでも最終回とする事ができた作品が多いのに対し、連載による継続したストーリー展開を必要とした作品については円満に終了された作品はほぼ皆無である。 1996年、『週刊ヤングジャンプ』で連載した『ラッキーストライク』にいたっては僅か3回で放棄した。 代表作の1つである『ストップ!! ひばりくん!』は長期の中断を経て、『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』(小学館クリエイティブ刊 全3巻)において、27年越しで完結した。 ワイド版、文庫版などの同一内容の再版本は割愛
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江口 寿史は、日本の漫画家・イラストレーター。妻は元アイドルの水谷麻里。血液型O型。代表作に『ストップ!! ひばりくん!』、『すすめ!!パイレーツ』、『江口寿史の爆発ディナーショー』など。女性画に定評がある。
{{別人|江口寿志|x1=アニメーター・キャラクターデザイナーの}} {{Infobox 漫画家 |名前=江口 寿史 |ふりがな=えぐち ひさし |画像= |画像サイズ= |本名=同じ |生年={{生年月日と年齢|1956|3|29}} |生地={{flagicon|Japan}} [[熊本県]]・[[水俣市]] |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]]<br/>[[イラストレーター]] |活動期間=[[1977年]] - |ジャンル=[[ギャグ漫画]] |代表作=『[[すすめ!!パイレーツ]]』<br />『[[ストップ!! ひばりくん!]]』<br />『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』 他 |受賞=第38回:[[文藝春秋漫画賞]]([[1992年]]) |サイン= }} '''江口 寿史'''(えぐち ひさし、[[1956年]][[3月29日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[イラストレーター]]。妻は元[[アイドル]]の[[水谷麻里]]。[[血液型]]O型。代表作に『[[ストップ!! ひばりくん!]]』、『[[すすめ!!パイレーツ]]』、『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』など。女性画に定評がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202110200000416.html|title=漫画家の江口寿史氏が持論展開「おじいちゃんなのに、じゃないんだよ」|publisher=日刊スポーツ|accessdate=2021-10-20}}</ref>。 == 経歴・人物 == === 生い立ち === [[熊本県]][[水俣市]]生まれ<ref name="語る人生2">{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:2 雑誌をおねだり、漫画に夢中 | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-07-20 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14981217.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。1963年に放映が始まったTVアニメーション『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』で漫画の存在を知り、さらに雑誌『[[少年 (雑誌)|少年]]』の『[[鉄腕アトム]]』の連載により漫画に夢中になる。読み始めの頃、一番好きだったのは同誌連載の[[関谷ひさし]]の『[[ストップ!にいちゃん]]』だったという<ref name="語る人生2"/>。少しのちに[[ちばてつや]]の大ファンとなる<ref>{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:3 少年マガジン、多くを学んだ | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-07-21 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14982631.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。 中学2年生の終わりに父親の転勤で[[千葉県]][[野田市]]に転居。[[千葉県立柏高等学校]]卒業<ref>{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:4 すべて駄目でも、漫画が残った | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-07-22 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14983961.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。浪人後、デザイン専門学校に入学するが、漫画を描くための勉強という名目で、[[名画座]]で映画ばかり見ていた<ref>{{ cite news | title = 【FUN ART LOVERS】 Vol.10 江口寿史 手描きの魅力は、肉体的な心地よさ。緊張感や偶然性も醍醐味です。 | newspaper = TOMBOW FUN ART STUDIO | date = 2020-10-28 | url = https://tombow-funart.com/topics/funartlovers/6057/ | accessdate = 2021-09-17}}</ref>。 1977年、映画『[[狼たちの午後]]』から、子供が銀行を襲うストーリーを思いつき、約3か月かけて描いた『恐るべき子どもたち』を集英社に送ったところ、[[週刊少年ジャンプの新人漫画賞#ヤングジャンプ賞|ヤングジャンプ賞]](月例新人賞)に入選<ref>{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:5 一発入選からデビュー、連載へ | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-07-23 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14985449.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。同年、『8時半の決闘』が第6回[[赤塚賞]]準入選。 === 漫画家デビュー === 「[[週刊少年ジャンプ]]」1977年5月23日号に『恐るべき子どもたち』が掲載され、デビューを飾る。『8時半の決闘』も同年7月11日号に掲載され、10月9日号から『すすめ!!パイレーツ』の連載を開始する。『パイレーツ』の後期より扉絵の構図などに[[イラストレーション]]として見せる為の工夫が見られ始める。 初期のころは山上たつひこの影響を大いに受けていたようで、「すすめ!!パイレーツ」では、「がきデカ」のオマージュのようなシーンが随所にみられる。 [[1978年]]、『名探偵はいつもスランプ』で第6回愛読者賞を受賞。1979年、[[大友克洋]]の初単行本『ショート・ピース』が刊行。同作品に衝撃を受ける。「自分の絵があまりに古臭く思え」、そこから絵に対する関心が強くなり、同年創刊の雑誌『[[イラストレーション (雑誌)|イラストレーション]]』を愛読するようになる<ref>{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:8 絵に向く関心、技磨いて扉絵に | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-07-28 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14990737.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。 === ストップ!! ひばりくん!の大ヒット === 1981年、「週刊少年ジャンプ」1月26日号から『[[ひのまる劇場]]』を連載。同年10月19日号から、自身の最大のヒット作となる『[[ストップ!! ひばりくん!]]』の連載を開始。この頃より筆の遅さが目立ち始め、また「[[都市伝説一覧#生物|白いワニ]]」に比喩される「真っ白な原稿」=「ネタ切れ」にも悩まされる様になる。結果、漫画家に厳しい「ジャンプ」としては異様な観すらある破格な優遇を受けながらも『ひばりくん』を中断し、未完のまま放り出してしまう。 以降、作品の発表の場を「[[フレッシュジャンプ]]」に移し、『[[寿五郎ショウ#日の丸劇場|江口寿史の日の丸劇場]]』(単行本は『[[寿五郎ショウ]]』として発売)の連載を始める。この作品によって以降の江口漫画の主流となる「一話完結のショートギャグ」というスタイルを確立する。『日の丸劇場』の連載終了の翌月より同誌において、作者唯一のストーリー物の連載作品『[[「エイジ」]]』の連載を開始。第一部が終了した時点で一旦筆を休め、5年後の1990年にその後を描いた『「エイジ85」』および『「エイジ2」』の連載を始めるが3回で中断。 この頃より集英社との専属契約を終了し、フリーに。「[[漫画アクション|weekly漫画アクション]]」([[双葉社]])で『[[ケンとエリカ|エリカの星]]』、「[[ビッグコミックスピリッツ]]」([[小学館]])で『[[パパリンコ物語]]』と他社での連載を始めるが、いずれも途中で投げ出す。その中にあって、[[1986年]]から『日の丸劇場』と同じ形式で「[[月刊Asuka|月刊ASUKA]]」([[角川書店]])で連載された『[[江口寿史のなんとかなるでショ!]]』だけは、落稿も1回に止め、円満終了を迎える。 [[1988年]]より「アクション」において、『日の丸劇場』、『なんとかなるでショ!』と同様のスタイルで『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』を連載。[[1992年]]に本作の単行本によって文藝春秋漫画賞を受賞する。なお、この受賞の際に選評で選考委員長の[[加藤芳郎]]に“久々の大型新人”扱いされたという逸話がある。 [[1989年]]4月~9月には、FM東京系の深夜放送番組[[スーパーFMマガジン]]「NORU SORU」のパーソナリティーを務める<ref>{{ cite news |author=聞き手・宮代栄一 | title = (語る 人生の贈りもの)江口寿史:11 雑誌編集、作家を直接くどいた | newspaper = 朝日新聞 | date = 2021-08-02 | url = https://www.asahi.com/articles/DA3S14996007.html | accessdate = 2021-09-18}}</ref>。 === 1990年代 === [[1990年]]、交際を続けていた元[[アイドル]]の[[水谷麻里]]と結婚(江口は2度目)。この頃より、[[イラストレーター]]としての仕事が増え、徐々に仕事の中心がイラストの方へと移って行く。 [[1992年]]、『江口寿史の爆発ディナーショー』で[[文藝春秋漫画賞]]を受賞。[[1995年]]には自ら編集長となって「[[COMIC CUE]]」を創刊。[[松本大洋]]、[[望月峯太郎]]、[[よしもとよしとも]]、[[魚喃キリコ]]、[[古屋兎丸]]などの意欲的な作家を集めるとともに、「テーマを決めての競作」「名作漫画のカバー」などの企画も行った。 1995年は「COMIC CUE」の編集の仕事があったとはいえ、発表された漫画は合計でわずか14ページであり、漫画家として事実上廃業状態となる。 しかし、[[1998年]]より「アクション」誌上において『[[キャラ者]]』の連載を開始し、連載漫画家としての復帰を果たす。毎週1ページと短く休載も多いながらも、途中で投げ出される事なく続き、掲載誌を「[[ぴあ (雑誌)|weelkyぴあ・関東版]]」([[ぴあ]])に移した後2008年6月まで連載され、江口にとって最長の連載期間となった。 === 2000年代 === [[2003年]]より放映を開始したテレビアニメ『[[無人惑星サヴァイヴ]]』にキャラクター原案で参加。 [[2008年]]7月より「[[A-ZERO]]」にて『ゼロの笑点』を連載。月刊誌でなおかつオールカラー4ページ漫画ではあったが休載なく続き、2009年6月の本誌の休刊により終了。 2018年4月、金沢21世紀美術館にてイラストレーション展 『彼女』を開催。翌2019年より明石、しもだて(筑西市)、青森、旭川、長野、盛岡、千葉を巡回。2023年3月まで行われ、8会場あわせて12万人を越える動員を記録した。2023年3月14日から4月23日まで東京ミッドタウン日比谷にて、東京の風景に溶け込んだ“彼女”を描いた展示会『江口寿史イラストレーション展「東京彼女」』を開催した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.hibiya.tokyo-midtown.com/anniversary/tokyo-kanojo/|title=江口寿史イラストレーション展「東京彼女」|website=東京ミッドタウン日比谷|publisher=三井不動産|data=|accessdate=2023-08-24}}</ref>。 2021年11月13日、水俣市より観光大使第1号に任命された<ref name="熊本日日2021-11-10">{{ cite news | title = 漫画家・江口寿史さん、水俣市の観光大使に SUPの新作イラストも公表 | newspaper = 熊本日日新聞 | date = 2021-11-10 | url = https://kumanichi.com/articles/462779 | accessdate = 2021-12-17 }}</ref><ref name="読売2021-12-02">{{ cite news | title = 水俣観光大使に江口さん 市が委嘱 イラストで魅力PR | newspaper = 読売新聞 | date = 2021-12-02 | url = https://www.yomiuri.co.jp/local/kumamoto/news/20211201-OYTNT50150/ | accessdate = 2021-12-17 }}</ref>。 2022年3月31日発売の雑誌「[[昭和45年女・1970年女]]」vol.6より、音楽ライターの[[鈴木ダイスケ]]と音楽対談『ヒサシ★ダイスケの「回転違いのズル休み」』連載開始。2023年9月より、兄弟誌の「[[昭和40年男]]」(2023年10月号 Vol.8)に移籍し、連載を続行する。 == 逸話 == * 高校1年の時、[[吉田拓郎]]を知って[[フォークソング|フォーク]]に夢中になり、マンガは描かなくなった<ref name = "ココロの旅">[http://www.ktv.jp/kokoro/20110809.html ココロの旅 | 関西テレビ放送 KTV 2011年8月9日放送]</ref>。しかし、ギターが上達せず音楽は諦め、19歳の時、初めて本気で漫画家になろうと決意したという<ref name = "ココロの旅"/>。江口は「マークII」(1985年)という、吉田拓郎に心酔する高校時代の自身を描いた短編を書いているが<ref>江口寿史のお蔵出し、1994年4月、自著、[[イーストプレス]]、p13-27に収録</ref>、2010年の[[レコード・コレクターズ]]増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」で、私のベスト1レコード/CDに、吉田拓郎の[[アルバム]]『[[元気です。]]』を挙げ、「このレコードとの出会いがなかったら今の自分はないという意味で断然1位であります」と記している<ref>[[レコード・コレクターズ]]増刊「日本のフォーク/ロック アルバム・ベスト100 1960-1989」、2010年11月、[[ミュージック・マガジン]]、p41</ref>。 * 地理には疎いようで、千葉県在住にもかかわらず、成増を千葉県の地名だと勘違いしていた。 * [[佐野元春]]は同い年という事もあり、江口が敬愛する[[ミュージシャン]]の一人でもある。また、対談した事もあり、佐野から「江口さんもきっと僕と同じように何かと戦っているんだと思う」と言われ、江口が答えに困ったというエピソードがある。 * 『ひばりくん』連載時に何度も原稿を落としていた事が問題視された事から「今度締切を守れなかったら坊主頭になります」と宣言したが、案の定、締切は守れず坊主頭になった。また、『ひばりくん』の劇中には江口本人である江口"Candy"寿史(えぐち キャンディ ひさし)なる人物が登場しており、上述の通り、江口が坊主頭になった際は彼も坊主頭になっていた。 * 漫画でも、自身が遅筆である事を自虐したネタを描く事が多々あり、上述の『ひばりくん』では度々本編を無視して締切に追われたり、無理矢理ページを埋めている事を仄めかす姿が描かれ、『江口寿史のなんとかなるでショ! 』の帯には'''「日本一の遅筆野郎」'''と書かれる始末であった。 * 「[[ぶりっ子]]」のワードメーカーでもある。 == 遅筆・放棄 == 江口は遅筆な事で有名であるが、遅筆のエピソードとしては、「ジャンプ」の愛読者賞用の作品『POCKY』が、途中から[[ネーム (漫画)|ネーム]]状態のまま掲載されるというものがある。そして遅筆の結果、印刷に間に合わずに落稿する事も多く、当初から不定期掲載を謳った連載も多い。 また「(連載作品)未完の帝王」との異名の通り、無事に連載が終了されている作品の多くが一話完結方式で連載されていたもので、いつでも最終回とする事ができた作品が多いのに対し、連載による継続したストーリー展開を必要とした作品については円満に終了された作品はほぼ皆無である。 1996年、『[[週刊ヤングジャンプ]]』で連載した『ラッキーストライク』にいたっては僅か3回で放棄した。 代表作の1つである『[[ストップ!! ひばりくん!]]』は長期の中断を経て、『ストップ!! ひばりくん! コンプリート・エディション』(小学館クリエイティブ刊 全3巻)において、27年越しで完結した<ref>{{cite news|title = 先ちゃん27年越しで最終話描く。「ひばりくん」完結|url =https://natalie.mu/comic/news/28357|publisher= ナタリー|date = 2010年2月27日| accessdate = 2010年2月27日}}</ref>。 === 未完のまま放棄された作品 === * [[「エイジ」]] * [[パパリンコ物語]] * [[ケンとエリカ#エリカの星|エリカの星]] * [[ケンとエリカ#BOXERケン|BOXERケン]] * ラッキーストライク * HOMERUN CATCHER * うなじ * 平成大江戸巷談 イレギュラー <!--要状況確認 * ご近所探検隊 * 犬の日記 --> == 作品リスト == === 漫画 === * <small>◎:連載作品(年度は連載開始年)</small> * <small>《収録短編集》■:GO AHEAD!!/□:寿五郎ショウ/◆:なんとかなるでショ!/◇:爆発ディナーショー/▼:お蔵出し/●:THIS IS ROCK!!/★:自選傑作集/▽:犬の日記、くさいはなし、その他の短篇/☆:青少年のための江口寿史入門/※:単行本未収録</small> * <small>連載作品についた□・★・☆については作中の何編かが収録されている事を示し、全編を収録している訳ではない</small> * <small>《短編集以外への収録短編》1:『すすめ!!パイレーツ』に収録/2:『ひのまる劇場』に収録/3:『なんとかなったワケ!』に収録/4:KAWADE夢ムック『総集編江口寿史』に収録/5:『江口寿史の正直日記』に収録/6:吾妻ひでお著『うつうつひでお日記DX』に収録</small> <table width="100%"><tr><td valign=top width="50%"> ; 1977年 :* 恐るべき子ども達■ :* 8時半の決闘<sub>1</sub> :* プロレス風雲録<sub>2</sub> :* [[すすめ!!パイレーツ]]◎ :* 2100年宇宙ベースボール■ ; 1978年 :* [[ひのまる劇場#名探偵はいつもスランプ|名探偵はいつもスランプ]]■ ; 1979年 :* 桜の花サイタ?■ ; 1980年 :* GO AHEAD!!■ ; 1981年 :* [[ひのまる劇場]]◎ :* それからのパイレーツ<sub>1</sub> :* [[ストップ!! ひばりくん!]]◎ ; 1982年 :* SPACE PIRATES▼ ; 1983年 :* POCKY▼ :* 日焼け注意報◇ :* [[寿五郎ショウ#日の丸劇場|江口寿史の日の丸劇場]]◎□▼★☆ ; 1984年 :* [[「エイジ」]]◎ :* 寿五郎ショウ□★ :* マークII▼ ; 1985年 :* とにかく若大将◆ :* 寿五郎の正直日記□ :* ラブ & ピース◎▼ :* [[ケンとエリカ#エリカの星|エリカの星]]◎ :* [[パパリンコ物語]]◎※ :* DOOR※ ; 1986年 :* 恋はガッツで◆ :* [[江口寿史のなんとかなるでショ!#第一部 なんとかなるでショ!|江口寿史のなんとかなるでショ!]]◎◆☆ :* ジョージ・A・ロメオに捧ぐ◆ :* THIS IS ROCK!!◎● :* 恥・ず・か・し・い◇★ :* あぶないしりとり◆ ; 1987年 :* 武蔵野日記▼ :* 不治は日本一の病◆ :* だからいったじゃないの◆ :* うしろにだれかが立っている▽ :* 江口寿史の正しい漫画のかき方教室▼ :* 加山美香ちゃん(17歳)が晃司について語ってくれた二、三の事情● ; 1988年 :* 未来はパール● :* [[江口寿史の爆発ディナーショー]]◎◇★▽☆ :* ご近所探検隊◎● :* 百合▼ ; 1989年 :* Red Monkey Yellow Fish● ; 1990年 :* イーぢゃないかっ!<sub>3</sub>(『その後のわたしたち』▽) :* バカッチ野球軍▼ :* KV-201XR◇★☆ :* 立ち喰いソバ屋のケンちゃん▼ :* 「エイジ」'85▽ ; 1991年 :* 「エイジ」2◎ :* 命、果てるまで● :* GOGO!! フリッパーズ● :* 岡村靖幸ライブレポート● :* カサブタ君▼ :* 日本フェ○○○振興会▼ :* [[ケンとエリカ#BOXERケン|BOXERケン]]◎ </td><td valign=top width="50%"> ; 1992年 :* ヌードラマ▼ :* 最終家庭教師● :* 今月のお買い物◎ :* 江口寿史のBAHO LIVE見聞録● ; 1994年 :* 犬の日記▽ :* Denny's Comic◎▽ :* BAHO HAPPENINGS▽ :* 真夏の夜の夢▽ :* P男■ :* 小山田系▽ :* くさいはなし▽ ; 1995年 :* 民翁▽ :* 絶食▽ ; 1996年 :* ラッキーストライク◎※ :* セクシーくの一◎▽ ; 1998年 :* HOMERUN CATCHER(原作:高田嘉)◎※ :* サインはY▽ :* 火の玉ボーイとワシ▽ :* [[キャラ者]]◎ :* うなじ◎<sub>4</sub> :* 岡本綾☆ ; 2001年 :* マフラーズ(原作:[[にざかな|一条マサヒデ]]) ; 2002年 :* 平成大江戸巷談 イレギュラー(原作:椿屋の源)◎※ ; 2003年 :* 今日までそして明日から<sub>4</sub>※ :* 今日は「はつね」に行こう。(ラーメン漫画大全 みんなのラーメン) :* マフラーズ(原作:一条マサヒデ) :* イソノの嫁([[漫画アクション]] No.39) ; 2004年 :* 寿丼◎ :* 御一行様 :* ゲームする女(週刊[[ファミ通]]832号) ; 2005年 :* 金沢日記<sub>5</sub> ; 2007年 :* ご近所探検隊リターンズ 闇太郎で呑む :* ハタチの頃とかなんとか… :* ぬいぐるみお父さんのホケン劇場!!(Web漫画,@nifty保険アドバイザー)◎※ ; 2008年 :* うつうつひでお日記を読む<sub>6</sub> :* ゼロの笑点◎ ; 2009年 :* 吉田戦車という名前(文藝別冊「総特集 吉田戦車」) ; 2011年 :* ちばてつやに会った夜のこと。(文藝別冊「総特集 ちばてつや」)※ :* E.T.T4コマ「セクシャル鮭ハラスNo.1」(大地丙太郎、田村信と共作)◎※ :* 諸星大二郎さんのこと(文藝別冊「総特集 諸星大二郎」)※ ; 2013年 :* ぶーしゃか不動産(ユリイカ増刊「総特集 岡村靖幸」)※ ; 2014年 :* ター坊がきた。(大貫妙子デビュー40周年アニバーサリーブック)※ ; 2015年 :* 金沢日記2(「正直日記」文庫版描きおろし) ; 2016年 :* ドギワ荘の妄春(文藝別冊「総特集 山上たつひこ」)※ </td></tr></table> ==== 単行本 ==== ワイド版、文庫版などの同一内容の再版本は割愛 <table width="100%"><tr><td valign=top width="50%"> * [[すすめ!!パイレーツ]] * [[ひのまる劇場]] * GO AHEAD!! * [[ストップ!! ひばりくん!]] * [[「エイジ」]] * [[寿五郎ショウ]] * [[江口寿史のなんとかなるでショ!]] * [[江口寿史の爆発ディナーショー]] * 江口寿史のお蔵出し * THIS IS ROCK!! * 日本漫画家大全・江口寿史自選傑作集 * [[ケンとエリカ]] * 犬の日記、くさいはなし、その他の短編 </td><td valign=top width="50%"> * WILL YOU PLEASE BOTTLE THE ACID?(作画 河野哲郎 江口は構成担当) * [[キャラ者]] * 青少年のための江口寿史入門 A Young Person's Guide to Eguchi Hisashi * なんとかなったワケ! * 江口寿史 JUMP WORKS * 文藝別冊 KAWADE夢ムック総集編江口寿史 * 江口寿史の正直日記 * ラーメン道場やぶり * 江口寿史のお蔵出し 夜用スーパー * ユリイカ2016年2月臨時増刊号 総特集 江口寿史 * 江口寿史 KING OF POP Side B </td></tr></table> === デザイン === <!--江口寿志は別人です!!混同しない様にご注意願います。--> * [[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]] オープニングアニメ(4作目作画) * [[デニーズ (日本)|デニーズ]](メニューとそのイメージキャラクターであるウエイトレスのイラスト。デニーズカードにも使用)(1992年 - 1997年、2023年9月<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/article/20230801-2739887/|title=【デニーズ50周年】13カ月間キャンペーン実施! 江口寿史さん描き下ろしのメニュー表紙も|website=マイナビニュース|publisher=マイナビ|date=2023-08-01|accessdate=2023-08-01}}</ref> - ) * [[おたくの星座]](キャラクターデザイン) **[[おたくの星座|オーロラクエスト おたくの星座 IN ANOTHER WORLD]](キャラクターデザイン) - 上記作品のリメイク(PCエンジン用CD-ROM2対応版)。 * [[大槻ケンヂ]]『[[グミ・チョコレート・パイン]]』(カバーイラスト) * [[老人Z]](キャラクターデザイン) * [[パーフェクトブルー|PERFECT BLUE]](キャラクター原案) * 恋愛講座 REAL AGE(キャラクターデザイン、1999年6月24日、PS用ソフト、イマジニア、限定版あり) * [[無人惑星サヴァイヴ]](キャラクター原案) * [[フィーバーガールズI]](キャラクターデザイン、[[三共 (パチンコ)|三共]]製[[パチンコ]]台) * ワイン雑誌「Real Wine Guide」(表紙イラスト、株式会社リアルワインガイド発行、2002年より) **RWGオリジナルカレンダー2014(創刊からのイラストの中より厳選された13枚で構成) * [[30minutes]]・[[30minutes鬼]](オープニングイラスト) * [[片腕マシンガール]](イラスト、2008年) * [[古代少女ドグちゃん]](イメージイラスト、2009年) * [[肥薩おれんじ鉄道]][[ラッピング車両]](2011年10月<ref>[http://www.hs-orange.com/cgi_bin/webpat/document/information/2011/102301/index.html 水俣市の観光をPRするラッピング列車が運行を開始しました。水俣出身の漫画家江口寿史さんのイラストが車体に描かれています。是非、ご乗車してみてください!]</ref>) [[ファイル:HSOR-103.JPG|thumb|200px|right|[[肥薩おれんじ鉄道HSOR-100形気動車#塗装|肥薩おれんじ鉄道HSOR-103 「水俣号」]]]] * [[水俣市]](出身地である水俣市の[[観光]]ガイドブックの表紙、駅貼りポスターのイラスト等) * ハロー!チャンネル vol.8(裏表紙イラスト「SG」)2012年4月25日 - 真野恵里菜とGibson SGがモチーフ * CanCam 2014年4月号(月刊トラちゃん vol.7コラボ企画) - トラウデン直美がモチーフ * [[プジョー]]([[プジョー・208]]GTi のイメージイラスト及び、サイト内公開グラフィックノベル[http://www.peugeot.co.jp/208gti/] 2013年6月 * 漫画家による仏の世界展 (イラスト出品「私訳魚籃観音之図」) 2014年(3月・京都、5月・東京、8月千葉) * 初の全国巡回作品展『江口寿史展 KING OF POP』開催 (2015年9月 - 11月 北九州市漫画ミュージアム、12月 - 2016年1月 川崎市市民ミュージアム『KING OF POP SideB』、2015年10月 - 2016年2月 明治大学米沢嘉博記念図書館)以降2017年4月まで全国7都市を巡回した。 * [[クレディセゾン]](イメージキャラクター、2017年 - ) **[[東池袋52]] 第4期[[Vtuber]]メンバーのキャラクターデザイン(2018年) - 2022年に同グループは活動を終了しているが、Vtuber・あおいのビジュアルは上記クレディセゾンのイメージキャラクターとして継続 * [[吉祥寺サンロード商店街]] デザインフラッグなど (2019年7月 - ) * [[水俣市]] デザインマンホール(2020年3月)<ref>https://www.nishinippon.co.jp/item/n/586754/</ref> * [[Sonny Boy]](キャラクター原案、2021年)<ref>{{cite web|url=https://anime.shochiku.co.jp/sonny-boy/|title=Cast / Staff|website=TVアニメ『Sonny Boy -サニーボーイ-』公式サイト|accessdate=2021-05-14}}</ref> * [[アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜|アニ×パラ〜あなたのヒーローは誰ですか〜 第13弾「パラアルペンスキー」]](キャラクターデザイン、2022年)<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/463053|title=NHK「アニ×パラ」江口寿史&島本和彦がキャラデザで参加、冬競技描く新作2本に|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-01-25|accessdate=2022-01-25}}</ref> * [[ワコール]]「Wing」ナチュラルアップブラ×江口寿史(2023年1月 - ) - 実際の商品を身につけたポートレイトをイラスト化したコラボレーション企画<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.w-wing.jp/zgeneration/index.html|title=ナチュラルアップブラ×江口寿史|website=Wing|publisher=ワコール|date=|accessdate=2023-10-15}}</ref> * [[パイロットコーポレーション]] ボールペン「juice」[[生見愛瑠]]×江口寿史コラボイラストパッケージ(パッケージイラスト、2023年2月)<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/511930|title=江口寿史イラストでパッケージしたボールペン発売、モデル・生見愛瑠とのコラボ|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-02-07|accessdate=2023-10-15}}</ref> * [[桜木紫乃]]『妄想Radio』(カバーイラスト、2023年) ==== ジャケットイラスト(音楽) ==== * [[パール兄弟]] アルバム『ブートレグだよ』1991年6月 * BAHO([[Char]]、[[石田長生]]) アルバム『HAPPENINGS』(ジャケットデザインも)1998年6月 * [[朝日美穂]]、[[直枝政広|直枝正広]]&ブラウンノーズ アルバム『TRIBUTE TO YASUYUKI OKAMURA EP』2001年7月 * [[岡村靖幸]] トリビュートアルバム『どんなものでも君にかないやしない』2002年4月 * [[ROUND TABLE featuring Nino]] シングル『Sunny Side Hill』2003年10月 * [[銀杏BOYZ]] アルバム『[[君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命]]』2005年1月 * [[吉田拓郎]] アルバム『[[一瞬の夏 (アルバム)|一瞬の夏]]』2005年3月 * [[MAMALAID RAG]] アルバム『the essential MAMALAID RAG』(ジャケットデザイン [[信藤三雄]])2010年4月 * [[DJ KAWASAKI]] アルバム『BLACK&GOLD』2012年3月 * [[SHIT HAPPENING]] アルバム『Lodge』(ジャケットデザインも)2012年12月 * [[lyrical school]] アルバム『[[date course]]』2013年9月 * So nice アナログシングル盤『光速道路』2014年4月 * [[Shiggy Jr.]] ミニアルバム『LISTEN TO THE MUSIC』2014年7月 * [[新・チロリン]] アルバム『Last Pajama Party』2015年8月 * [[東京スカパラダイスオーケストラ]] シングル『嘘をつく唇』2015年12月 * [[Shiggy Jr.]] アルバム『ALL ABOUT POP』2016年10月 * [[大森靖子]] アルバム『MUTEKI』2017年9月 * [[lyrical school]] アルバム『WORLD 'S END』2018年6月 * so nice [[RYUTist]] スプリットアナログシングル盤『日曜日のサマートレイン』2018年8月 * [[lyrical school]] アルバム『BE KIND REWIND』2019年9月 * [[SEKAI NO OWARI]] シングル『umbrella』2020年6月 * Pictured Resort 12インチEPアナログ盤『DYE IT BLUE』2020年8月 * [[大江千里]] アルバム『Class of '88』2023年5月24日<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/pp/oesenri02/page/3|title=大江千里×江口寿史対談|2人の“せんちゃん”が振り返る80年代のこと|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-05-24|accessdate=2023-10-15}}</ref> ==== イラスト集 ==== * NO MATTER(1988年4月 双葉社) * ILLUSTRATION H(1991年7月 双葉社) * EGUCHI HISASHI WORLD 1980s(1995年8月 美術出版社) * EGUCHI HISASHI WORLD 1990s(1995年8月 美術出版社) * ポストカードブック ONLY IN DREAMS(1996年11月 美術出版社) * 江口寿史 ストリップショウ H(1999年10月 美術出版社) * 江口寿史 スクラップブック E(1999年10月 美術出版社) * 素顔 Sugao -美少女のいる風景-(2004年9月 双葉社) * WORKs EH 95-08(2008年10月 小学館クリエイティブ) * KING OF POP 江口寿史 全イラストレーション集(2015年9月 玄光社) * step ― Eguchi Hisashi Illustration Book ―(2018年4月 河出書房新社) * RECORD 1992-2020 CDジャケットアートワーク集(2020年4月 河出書房新社) * 彼女(2021年3月 集英社インターナショナル) ==== アート関連の本 ==== * 江口寿史監修ポーズ集・基本編(1994年) * 江口寿史監修ポーズ集・動き編(1995年) * 江口寿史監修ポーズ集・日常編(1995年) * 江口寿史監修ポーズ集・カップル基本編(1996年) * 江口寿史監修ポーズ集・カップル日常編(1996年) * 江口寿史監修ポーズ集・二人のポーズカラー版(2001年) * 江口寿史の塗り絵(2008年) ==== 漫画集監修 ==== *日本短編漫画傑作集(全6巻)[[いしかわじゅん]],江口寿史,[[呉智英]],[[中野晴行]],[[村上知彦]],[[山上たつひこ]](共同監修) 小学館 2021 == 映像化作品 == === テレビドラマ === ; [[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[関西テレビ放送|関西テレビ]] * [[世にも奇妙な物語]]シリーズ *「[[ハイ・ヌーン]]」(1992年6月11日、「[[世にも奇妙な物語]]」主演:[[玉置浩二]]) - 『[[すすめ!!パイレーツ]]』収録「史上最大の生中継の巻」を改題。 **「ハイ・ヌーン」(2014年11月18日、「[[世にも奇妙な物語 25周年記念!秋の2週連続SP]]」主演:[[和田アキ子]])※リメイク版 *「しりとり家族」「しりとり家族ふたたび」(2017年4月29日、「[[世にも奇妙な物語 春の特別編 (2017年)|世にも奇妙な物語 '17春の特別編]]」※本編との合間の短編 主演:[[滝藤賢一]])<ref>{{Cite web|和書|date=2017-04-12|url=https://twitter.com/Eguchinn/status/851918080825372674|title=江口寿史(@Eguchinn)|publisher=Twitter|accessdate=2017-04-30}}</ref>『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』収録。 ; [[NHKワンセグ2]] *「[[キャラ者]]」 全3話 / ダイジェスト(2011年5月7日・14日・21日 / 28日、「[[青山ワンセグ開発]]」主演:[[山下リオ]]) == 江口が影響を受けた漫画家 == * [[ちばてつや]] - 特に『[[あしたのジョー]]』の影響は強く、様々な作品においてボクシングが描かれている。また、初期の絵柄は、ちばの模倣から始まっている。 * [[赤塚不二夫]] * [[山上たつひこ]] == アシスタント == * 西秋ぐりん * 河野哲郎 * [[一條裕子]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[ギャグ漫画]] * [[ぶりっ子]] == 外部リンク == * {{Facebook|HisashiEguchi|江口寿史}} * {{Twitter|Eguchinn|江口寿史}} * {{Instagram|egutihisasi|江口寿史 egutihisasi}} * {{Instagram|eguchiworks|江口寿史 EGUCHI HISAHI}} * {{YouTube|2a6Wqq4zifw|Hisashi Eguchi, Mangaka (Stop!! Hibari-kun!) - toco toco}}(2017年10月1日、江口寿史、ポートレイトドキュメンタリー) * [https://web.archive.org/web/20010405101449/http://www.kotobuki-studio.com/ KOTOBUKI-STUDIO] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:えくち ひさし}} [[Category:江口寿史|*]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:熊本県出身の人物]] [[Category:千葉県出身の人物]] [[Category:1956年生]] [[Category:存命人物]]
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枝松克幸
枝松 克幸(えだまつ かつゆき)は、日本の漫画家。代表作に『じゃりガキ9』など。三重県立津工業高等学校卒業。 天才科学者の祖父、鳴海神兵衛が発明した「パラメット(パラサイコ・ヘルメット)」という、被った人の精神力を身体能力に変換し、大幅にパワーアップさせるヘルメットを手にした小学生の少年・鳴海神児が、パ・リーグ万年最下位のお荷物球団、武蔵野ワイルドキャッツ(架空。オーナー企業はやはり架空の「武蔵野乳業」)に入団。周りのプロ選手たちに対して、持って生まれた闘争心、集中力を身をもって示し、パラメットボール(球速は120km程度だが、バットを通り抜ける)やニューパラメットボール(前述パラメットボールのパワーアップ版、球速が増している上に、人体などの分厚いものすら通りぬけることが可能)などの魔球を駆使して、リーグ初優勝を目指す。 また、優勝することにより、事故によって片足が不自由な少女・陽子にも勇気を伝え、陽子はリハビリに励むようになる、というストーリー。単行本内のカットには成長し、白いパラメットを被って、同じように成長した神児とキャッチボールしているという、ファン感涙物のカットがある。 単行本は集英社ジャンプ・コミックスより全3巻が当時発売されていた。
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枝松 克幸は、日本の漫画家。代表作に『じゃりガキ9』など。三重県立津工業高等学校卒業。
'''枝松 克幸'''(えだまつ かつゆき)は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作に『[[じゃりガキ9]]』など。[[三重県立津工業高等学校]]卒業<ref>東京野球小僧3巻表2より</ref>。 == 作品リスト == === 連載作品 === * 出口兄弟奮戦記 * フォーエバー神児くん * イレギュラーバウンド * [[じゃりガキ9]] * 4SPIRITS * キンタEXTRA * 東京野球小僧 * RISINGキッズ === 読切り作品 === * 出口兄弟恋愛記 ** 出口兄弟動乱記 * にゃんころ同盟 * ガッツ!ザウルス * ラブ・ジェネレーション * 星の流れに道化者〜4SPIRITS番外編〜 * SUZUKA・SPIRITS〜SPIRITS OF RIDERS編〜 ** SUZUKA・SPIRITS〜野球編〜 === フォーエバー神児くん === 天才科学者の祖父、鳴海神兵衛が発明した「パラメット(パラサイコ・ヘルメット)」という、被った人の精神力を身体能力に変換し、大幅にパワーアップさせるヘルメットを手にした小学生の少年・鳴海神児が、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]万年最下位のお荷物球団、武蔵野ワイルドキャッツ(架空。オーナー企業はやはり架空の「武蔵野乳業」)に入団。周りのプロ選手たちに対して、持って生まれた闘争心、集中力を身をもって示し、パラメットボール(球速は120km程度だが、バットを通り抜ける)やニューパラメットボール(前述パラメットボールのパワーアップ版、球速が増している上に、人体などの分厚いものすら通りぬけることが可能)などの魔球を駆使して、リーグ初優勝を目指す。 また、優勝することにより、事故によって片足が不自由な少女・陽子にも勇気を伝え、陽子はリハビリに励むようになる、というストーリー。単行本内のカットには成長し、白いパラメットを被って、同じように成長した神児とキャッチボールしているという、ファン感涙物のカットがある。 単行本は[[集英社]][[ジャンプ・コミックス]]より全3巻が当時発売されていた。 == 脚注 == {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:えたまつ かつゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:存命人物]]
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大迫純一
大迫 純一(おおさこ じゅんいち、1962年〈昭和37年〉7月21日 - 2010年〈平成22年〉5月25日)は、日本の小説家、シナリオライター、漫画家。 大阪市天王寺区生まれ、大阪貿易学院高等学校卒業。 大阪芸術大学芸術学部映像計画学科を2年次で中退 後、キャラクターデザイン、ゲーム原案、脚本、アトラクション俳優、造形助手などの仕事をする。 1984年(昭和59年)徳間書店『ハイパーゾーン』から『デストマン』でデビューし、漫画家としても活動していたが、作品の多くは単行本化しておらず『魔諭邏 MAYURA』が唯一の単行本である。 1996年(平成8年)青心社から『魔法探偵まぁリン1 バビロン・ゲート』にて、小説家としてデビュー。 2007年4月より放送のTVアニメ『神曲奏界ポリフォニカ』では、初のアニメの脚本を手掛けた。 2010年5月25日、癌により逝去。享年47。 かなりの速筆家であり、『神曲奏界ポリフォニカ』のシェアードワールドで執筆を行なっている1人の高殿円からは、“優等生”と評されていた。生前、3日で1冊というトップ・スピードを「意識的に」やり遂げたことがある。 血液型はA型。蟹座。好きな色は黒と銀。好きな酒はカンパリソーダ、タバコはマルボロ、好きな食べ物は卵料理、ソフトドリンクはコカコーラを好んで飲んだ。趣味は玩具と打撃系武器の蒐集。親指シフター。 アメコミのスポーンをこよなく愛し、その思い入れは大きく、スポーンのリングを嵌める事が多かった。 熱い漢の物語を描く、人呼んで「限りなく体育会系に近い文系」だったという。ホラー小説やミステリー小説、時代小説なども執筆していた。 日本推理作家協会所属。 携帯電話用ゲームの新作プロモーションを兼ねた、ゲームノベライズ本。コンシューマーの期待値を高める策として、“期待の新人・緋樫いつき”が設定された。
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大迫 純一は、日本の小説家、シナリオライター、漫画家。
'''大迫 純一'''(おおさこ じゅんいち、[[1962年]]〈[[昭和]]37年〉[[7月21日]] - [[2010年]]〈[[平成]]22年〉[[5月25日]]<ref>[http://ga.sbcr.jp/bunko_blog/k/014985/ 【訃報】大迫純一氏 (GA文庫ブログ)]</ref>)は、[[日本]]の[[小説家]]、[[脚本家|シナリオライター]]、[[漫画家]]。 == 略歴 == [[大阪市]][[天王寺区]]生まれ、[[開明中学校・高等学校|大阪貿易学院高等学校]]卒業<ref name="barrel">{{Cite web|和書|url=http://zoahunter.zombie.jp/page2.html|title=大迫純一の世界(『バレルロール』)|publisher=|language=日本語|accessdate=2020-12-13}}</ref>。 [[大阪芸術大学]][[芸術学部]]映像計画学科を2年次で[[退学|中退]]<ref name="barrel" /> 後、キャラクターデザイン、ゲーム原案、脚本、アトラクション俳優、造形助手などの仕事をする。 [[1984年]]([[昭和]]59年)[[徳間書店]]『[[ハイパーゾーン (雑誌)|ハイパーゾーン]]』から『デストマン』でデビューし、漫画家としても活動していたが、作品の多くは単行本化しておらず『魔諭邏 MAYURA』が唯一の単行本である。 [[1996年]]([[平成]]8年)[[青心社]]から『魔法探偵まぁリン1 バビロン・ゲート』にて、小説家としてデビュー。 [[2007年]]4月より放送のTVアニメ『[[神曲奏界ポリフォニカ]]』では、初のアニメの脚本を手掛けた。 [[2010年]][[5月25日]]、[[悪性腫瘍|癌]]により逝去。[[享年]]47<ref>[http://twitter.com/MORI_Natsuko/status/14809621396 Twitter / 森奈津子]</ref>。 == 人物 == かなりの速筆家であり、『神曲奏界ポリフォニカ』のシェアードワールドで執筆を行なっている1人の[[高殿円]]からは、“優等生”と評されていた。生前、3日で1冊というトップ・スピードを「意識的に」やり遂げたことがある。 血液型はA型。蟹座。好きな色は黒と銀。好きな酒は[[カンパリ#カンパリを使ったカクテル|カンパリソーダ]]、タバコは[[マールボロ (たばこ)|マルボロ]]、好きな食べ物は卵料理、ソフトドリンクはコカコーラを好んで飲んだ。趣味は玩具と打撃系武器の蒐集。[[親指シフト|親指シフター]]。 アメコミのスポーンをこよなく愛し、その思い入れは大きく、スポーンのリングを嵌める事が多かった。 熱い漢の物語を描く、人呼んで「限りなく体育会系に近い文系」だったという。[[ホラー小説]]や[[推理小説|ミステリー小説]]、[[時代小説]]なども執筆していた。 [[日本推理作家協会]]所属。 == 小説作品リスト == * [[神曲奏界ポリフォニカ]] ([[GA文庫]]) ** [[神曲奏界ポリフォニカ#ブラック・シリーズ|ブラック・シリーズ]]  ** [[神曲奏界ポリフォニカ#レオン・ザ・レザレクター|レオン・ザ・レザレクター&レオン・ザ・ゴールド シリーズ]] * [[ゾアハンター]]シリーズ * あやかし通信 ** あやかし通信 九夜でおくる怖い話([[実業之日本社]]) ** あやかし通信『怪』(ハルキ・ホラー文庫) :: 実業之日本社版の増補改訂版。 * スペクター([[コナミノベルス]]) : コナミオリジナルの特撮作品『[[スペクター (映画)|SPECTER]]』の小説版という位置付けで刊行されたが、共通なのは世界観のみで、内容は登場人物を含め、大迫独自のものとなっている。 * [[戦艦人間ハヤト]]([[HJ文庫]]) ** 戦艦人間ハヤト 起動! 白銀の宇宙戦艦!! ** 戦艦人間ハヤト2 脅威! メガナイクス!! ** 戦艦人間ハヤト3 決戦! 果てなき宇宙へ!! * [[鉄刃サザン]]([[HJ文庫]]) * ディストラクターXIII([[富士見ミステリー文庫]]) ** 黒き魔像の契約者―ディストラクターXIII〈1〉 ** 白き流聖の追撃者―ディストラクターXIII〈2〉 * 最終エージェント・チカル([[MF文庫J]]) * 魔法探偵まぁリン(発行:プラザ、発売:[[青心社]]) ** 魔法探偵まぁリン1 バビロン・ゲート ** 魔法探偵まぁリン2 カニバル・リターナー ** 魔法探偵まぁリン3 ナイトメア・ダメージ ** 魔法探偵まぁリン4 エターナル・レガシー * 超鋼威ガクテッカー(発行:プラザ、発売:[[青心社]]) ** 超鋼威ガクテッカー ** 超鋼威ガクテッカー2 弩闘編 ** 超鋼威ガクテッカー3 怪機編 * 魍獣妖拳伝(発行:プラザ、発売:[[青心社]]) * [[Kanon (ゲーム)|Kanon]]アンソロジー・ノベル(共著、[[ジャイブ|JIVE]] CHARACTER NOVELS) * [[Soul Link]]アンソロジー・ノベル(共著、[[ジャイブ|JIVE]] CHARACTER NOVELS) * 小説 無限の住人 刃獣異聞(KCノベルス) : [[沙村広明]]による[[無限の住人|同名の漫画]]のノベライズ。内容は大迫オリジナル。 * [[法石姫-クロイハナトナクシタナマエ-]]([[GA文庫]]) :生前に執筆された今作の原稿が2011年9月に刊行され遺作となった。 === 緋樫みつき名義 === * ヴァーミンロード([[徳間書店]] 携帯電話用ゲームの新作プロモーションを兼ねた、ゲームノベライズ本。コンシューマーの期待値を高める策として、“期待の新人・緋樫いつき”が設定された<ref>[http://zoahunter.zombie.jp/page2.html 大迫純一の世界]</ref>。 == キネティックノベル == * 神曲奏界ポリフォニカ THE BLACK (企画:[[ocelot]]、開発:[[KuroCo]]) == コミック作品リスト == * 魔諭邏 MAYURA([[アニメージュ#アニメージュコミックス|アニメージュコミックス]]) == ゲーム関係の仕事 == * [[最終電車 (ゲーム)|最終電車]] * [[19時03分 上野発夜光列車]] - 共に原作を担当。 * [[大幽霊屋敷 〜浜村淳の実話怪談〜]] - 実写ゲーム。聞き書き手、出演。 * [[ノベルズ〜ゲームセンターあらしR〜]] - グラフィックの原画を担当。 * [[ラブプラス]] - 姉ヶ崎寧々のシナリオ担当<ref>[http://blog.livedoor.jp/zoahunter/archives/50900639.html ゾアハンター/大迫外伝:恋愛ゲーム - livedoor Blog(ブログ)、2009年9月17日]</ref><ref>[http://twitter.com/S_Nakatsu/status/14769219946 「ラブプラスの寧々のシナリオを担当されるなどこれからの方だったのですが。本当に残念です。」中津宗一郎のTwitterより摘録、2010年5月27日]</ref>。 == 脚注・参考文献 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[開明中学校・高等学校]] - [[1995年]]([[平成]]7年)大阪貿易学院高等学校から改名 * [[大阪芸術大学]] == 外部リンク == * [http://blog.livedoor.jp/zoahunter/ ゾアハンター/大迫外伝 - livedoor Blog(ブログ)] *[http://zoahunter.zombie.jp/index.html 大迫純一の世界] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおさこ しゆんいち}} [[Category:日本の小説家]] [[Category:日本の脚本家]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:2010年没]]
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大島司
大島 司(おおしま つかさ、1970年1月30日 - )は、日本の漫画家。女性。血液型はO型。掛川市ふるさと親善大使。 代表作はデビュー作でもある『シュート!』シリーズで、1994年に第18回講談社漫画賞を受賞。 静岡県掛川市出身。掛川東高校卒業、東京デザイナー学院アニメーション科卒業。 学生時代から漫画を書き始め、講談社に投稿して入賞していたが、無理やりアクションシーンを盛り込むなどアクションへのこだわりが強かった。 その後少年誌へと移り、『週刊少年マガジン』新人賞に投稿したバレーボール漫画が選外佳作に選ばれ、その後『シュート!』でデビュー。「シュート!」は長期連載作品となり、アニメ化・実写映画化されるなど大ヒット作となった。大島は「『シュート!』は大島司を確立させた作品」と語っている。
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大島 司は、日本の漫画家。女性。血液型はO型。掛川市ふるさと親善大使。 代表作はデビュー作でもある『シュート!』シリーズで、1994年に第18回講談社漫画賞を受賞。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 大島 司 |画像 = <!-- 画像ファイル名 --> |画像サイズ = |脚注 = |性別 = [[女性]] |生年 = {{生年月日と年齢|1970|01|30}} |生地 = {{JPN}}・[[静岡県]][[掛川市]] |没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1970|01|30|YYYY|YY|YY}} --> |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]] |称号 = 掛川市ふるさと親善大使 |活動期間 = [[1990年]] - |ジャンル = [[少年漫画]]<br />[[青年漫画]]<br />[[スポーツ漫画]] |代表作 = 『[[シュート!]]』シリーズ<br />『[[アタック!!]]』 |受賞 = 第18回 [[講談社漫画賞]]([[1994年]]) |サイン = |公式サイト = }} '''大島 司'''(おおしま つかさ、[[1970年]][[1月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。女性。血液型は[[ABO式血液型|O型]]。掛川市ふるさと親善大使。 代表作はデビュー作でもある『[[シュート!]]』シリーズで、[[1994年]]に第18回[[講談社漫画賞]]を受賞。 == 来歴 == [[静岡県]][[掛川市]]出身。[[静岡県立掛川東高等学校|掛川東高校]]卒業、[[東京デザイナー学院]]アニメーション科卒業<ref name="gendai">[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/174453 デビュー作は「SMAP」6人の幻の映画 漫画家・大島司の原点] 日刊ゲンダイDIGITAL、2016年1月30日</ref>。 学生時代から漫画を書き始め、講談社に投稿して入賞していたが<ref name="gendai"/>、無理やりアクションシーンを盛り込むなどアクションへのこだわりが強かった。 その後少年誌へと移り、『[[週刊少年マガジン]]』新人賞に投稿したバレーボール漫画が選外佳作に選ばれ<ref name="gendai"/>、その後『シュート!』でデビュー<ref>[http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/other/all/2012/columndtl/200808100010-spnavi 五味幹男「心象風景を描く。漫画家 大島司氏 バレーボール漫画 『アタック!!』(週刊コミックバンチ/新潮社)」(スポーツナビ、2008年8月15日)]</ref>。「シュート!」は長期連載作品となり、アニメ化・実写映画化されるなど大ヒット作となった。大島は「『シュート!』は大島司を確立させた作品」と語っている<ref name="ref1">講談社「シュート THE FINAL INDEX」内、直筆アンケートにて。</ref>。 == 作品リスト == * 『[[シュート!]]』シリーズ([[週刊少年マガジン]]、[[1990年]]36号 - [[2003年]]24号) ** シュート!(週刊少年マガジン、1990年36号 - [[1996年]]42号、全33巻、文庫版全16巻) ** シュート! 〜蒼きめぐり逢い〜(週刊少年マガジン、1996年44号 - [[1997年]]42号、全5巻、文庫版全3巻) ** シュート! 〜熱き挑戦〜(週刊少年マガジン、1997年48号 - [[2000年]]11号、全12巻、文庫版全6巻) ** シュート! 〜新たなる伝説〜(週刊少年マガジン、2000年15号 - [[2003年]]24号、全16巻、文庫版全8巻) * [[STAY GOLD (漫画)|STAY GOLD]](週刊少年マガジン、[[2004年]]24号 - 49号、全3巻) * [[アタック!!]]([[週刊コミックバンチ]]、[[2007年]]3号 - [[2009年]]9号、[[2010年]]10号 - 13号、全11巻(未完)) ** アタック!! 〜約束のコート〜([[漫画アクション]]、[[2015年]]4号 - '''連載中'''、既刊4巻) * ブレイク([[月刊コミックゼノン]]、[[2012年]]8月号 - 9月号(前後編掲載) == アシスタント == * [[朝基まさし]]<ref>[http://www.manga-g.co.jp/interview/2007/int07-08.html 朝基まさし先生インタビュー/2007年8月号:日本漫画学院Web]より。</ref> * [[瀬尾公治]]<ref>[http://www.manga-g.co.jp/interview/2008/int08-02.html 瀬尾公治先生インタビュー/2008年2月号:日本漫画学院Web]より。</ref> * 大石知哉 * 神代京子<ref>[http://k-list.sakura.ne.jp/ 神代京子公式ホームページ。]より。</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 外部リンク == * [http://boa-sorte.jp/ ボアソルチマネジメント株式会社 『 大島司代理人 』] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おおしま つかさ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:静岡県出身の人物]] [[Category:1970年生]] [[Category:存命人物]]
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大島やすいち
大島 やすいち(おおしま やすいち、本名:大島 矢須一(読み同じ)、1954年3月24日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。平安高等学校卒業。東京都練馬区在住。男性。 高校時代は沼田清のアシスタントを務め、1971年、『週刊少年サンデー』(小学館)掲載の「青春の土」(新人漫画賞入選)でデビュー。 主に少年漫画・青年漫画を執筆している。 代表作に『おやこ刑事(でか)』(原作:林律雄)、『バツ&テリー』等。 妻の川島れいこも漫画家で、川島との間に生まれた娘の大島永遠と三島弥生もそれぞれ漫画家として活躍中。お笑い芸人の小林アナは遠戚にあたる。
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大島 やすいちは、日本の漫画家。京都府京都市出身。平安高等学校卒業。東京都練馬区在住。男性。
{{Infobox 漫画家 |名前=大島 やすいち |画像= |画像サイズ= |脚注= |本名=大島 矢須一 |生年={{生年月日と年齢|1954|3|24}} |生地=[[京都府]][[京都市]] |没年= |没地= |国籍={{JPN}} |職業=[[漫画家]] |活動期間=[[1971年]] - |ジャンル=[[少年漫画]]・[[青年漫画]] |代表作=『[[おやこ刑事]]』(原作:[[林律雄]])<br />『[[バツ&テリー]]』 他 |受賞=第8回[[講談社漫画賞]]少年部門([[1984年]]) |サイン= |公式サイト=[http://www.y-oshima.jp/ 大島やすいちホームページ「ビッグアイランド」] }} '''大島 やすいち'''(おおしま やすいち、本名:大島 矢須一(読み同じ)、[[1954年]][[3月24日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[京都府]][[京都市]]出身。[[平安中学校・高等学校|平安高等学校]]卒業。[[東京都]][[練馬区]]在住。[[男性]]。 == 人物 == 高校時代は[[沼田清]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を務め、[[1971年]]、『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])掲載の「青春の土」(新人漫画賞入選)でデビュー。 主に[[少年漫画]]・[[青年漫画]]を執筆している。 代表作に『[[おやこ刑事]](でか)』(原作:[[林律雄]])、『[[バツ&テリー]]』等。 [[妻]]の川島れいこも漫画家で<ref>[http://www.manga-gai.net/column/shitumon/shitumon_kawashima.html プロのマンガ家さんに聞く30の質問/川島れいこ]</ref>、川島との間に生まれた娘の[[大島永遠]]と三島弥生もそれぞれ漫画家として活躍中。お笑い芸人の[[小林アナ]]は遠戚にあたる。 == 経歴 == * 1971年 - 「青春の土」でデビュー。 * 1977年 - 『おやこ刑事』連載開始。 * 1983年 - 『バツ&テリー』連載開始。 * 1984年 - 『バツ&テリー』で第8回[[講談社漫画賞]]少年部門受賞。 == 作品リスト == * 青春の土(1970年、[[週刊少年サンデー]]、[[小学館]]) - デビュー作 * あのゴールをめざせ(1971年、週刊少年サンデー) * 狼の打者(1971年、週刊少年サンデー) * [[駒が舞う]](1972年-1973年、週刊少年サンデー) * 熱球南十字星(1972年、[[週刊少年サンデー超|少年サンデー増刊号]]、小学館) * キャッチマン(1973年、週刊少年サンデー) * ひだりまき甚太(1973年、週刊少年サンデー) * とびだせ又兵衛(1973年、少年サンデー増刊号) * 土俵の怪童(1974年、週刊少年サンデー) * 三冠王[[王貞治]]物語(1974年、小学館入門百科シリーズ、小学館)※1980年に「不滅の大打者王貞治」で再販 * ミスター又兵衛(1974年、少年サンデー増刊号) * 背番号マイナス10番(1974年、週刊少年サンデー) * 天下一大物伝(1975年、週刊少年サンデー) - [[テレビドラマ]]化 * 王貞治物語(1975年、少年サンデー増刊号) * 火の玉レッズ(1976年、[[小学館の学年別学習雑誌|小学四年生]]、小学館) * ストライク一平(1977年、[[小学館の学年別学習雑誌|小学三年生]] - 小学四年生、小学館) * [[おやこ刑事]](原作:[[林律雄]]、1977年-1981年、週刊少年サンデー) - テレビドラマ化 * 青春高校野球部(1977年、少年サンデー増刊号) * 現代警察(1977年、季刊現代警察、啓正社) * おれが大将(1978年-1980年、マンガ君 - [[少年ビッグコミック]]、小学館) * おれが片目のドンだ(1978年、リリカ、[[サンリオ]]) * あとの祭り(1979年、[[ビッグコミック]]、小学館) * 鷹は…(1980年、ビッグコミック) * [[一撃伝]](1980年-1984年、少年ビッグコミック - 少年ビッグ、小学館) ** 一撃拳(1987年-1988年、週刊少年マガジン) * 千里の馬(ランナーズ)(1981年、[[リイドコミック]]、[[リイド社]]) * 勇太やないか(1981年-1982年、週刊少年サンデー) * [[バツ&テリー]](1982年-1987年、[[週刊少年マガジン]]、[[講談社]]) - 第8回講談社漫画賞受賞、[[アニメーション映画]]化 ** バツ&テリーCOP(1987年、[[月刊少年マガジン]]・[[週刊ヤングマガジン]]、講談社) * 映画[[ションベン・ライダー]]オーディション広告の挿絵(1982年) * リトル・ジュン(1984年、週刊少年マガジン) ** [[はーいステップジュン]](1985年、[[マガジンスペシャル]]、講談社) - リトル・ジュンの連載版、[[テレビアニメ]]化 * ボバンバ・バンボ(1985年、週刊少年マガジン) * マーミー(1986年、[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、講談社) * スクランブル親衛隊(1986年、週刊少年マガジン) * 魔女キンキラ(1988年、モーニング増刊、講談社) * I LOVE N・Y(1988年、[[ペントハウス (雑誌)|ペントハウス]]、講談社) * ショット!ダン(1988年-1989年、週刊少年マガジン) * K.O.(1988年-1989年、月刊少年マガジン) * 熱闘コンドルズ(1989年、週刊モーニング) * シャドウ(1989年、[[コミックバーズ|コミックバーガー]]、[[スコラ]]) * ボウフラ(1990年、[[漫画アクション]]、[[双葉社]]) * ジャスティス(1991年、少年マガジン増刊、講談社) * 神の拳(1991年、[[ビジネスジャンプ]]、[[集英社]]) * [[こちら大阪社会部]](原作:[[大谷昭宏]]、1991年-1996年、[[ミスターマガジン]]、講談社) ** こちら社会部(原作:大谷昭宏 1996年-1998年、ミスターマガジン) * ショット(1992年、ビジネスジャンプ増刊、集英社) * なむさん(1992年-1993年、漫画アクション) * アクションスター(1992年-1993年、月刊少年マガジン) * チキンバスケット(1992年、[[月刊少年キャプテン]]、[[徳間書店]]) * TEAM男道(1994年-1995年、月刊少年マガジン) * あるがまま(1994年-1996年、ゴルフトゥデイ、日本ヴォーグ社) * アウトロー(1995年、漫画アクション) * JOCKEY(原作:[[田原成貴]] 1996年-1997年、[[ヤングマガジン増刊エグザクタ]]、講談社) * スポーツ女医八神蘭(1997年-1998年、[[週刊現代]]、講談社) * 黒のゴルファー(1998年-2001年、[[アルバトロス・ビュー|アルバコミック]]、[[小池書院]]) * 探偵屋の女房(1998年-2001年、リイドコミック) - [[オリジナルビデオ]]化 * 風介がゆく(2001年、週刊モーニング) * 熱き男の2002(2001年-2002年、[[週刊ポスト]]、小学館) * 兎の玉三郎(2002年-不明、[[アルバトロス・ビュー|ALBA]]、小池書院) * 探し屋の女房(2002年-2005年、[[コミック乱]]、リイド社) * 英雄三国志(2003年-不明、時代劇ファン、集英社) * 虎狼〜二匹の無頼(2005年-2006年、コミック乱) * 武田二十四将(2006年-2008年、コミック乱) * [[剣客商売]](原作:[[池波正太郎]]、2008年-連載中、コミック乱) * [[週刊マンガ日本史]]([[朝日新聞出版]]) ** 第10号『[[源義経]]』(2009年) ** 第22号『[[石田三成]]』(2010年) == アシスタント == * [[里見桂]] * [[高橋和希]] * [[渡辺みちお]] ==脚注== {{Reflist}} == 関連項目 == * [[まんがかぞく]] == 外部リンク == * [http://www.y-oshima.jp/index.html 大島やすいち公式ホームページ] {{Normdaten}} {{manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:おおしま やすいち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:龍谷大学付属平安高等学校出身の人物]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]]
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大友克洋
大友 克洋(おおとも かつひろ、1954年4月14日 - )は、日本の漫画家・映画監督。宮城県登米郡迫町出身。血液型はA型。息子はイラストレーターの大友昇平(SHOHEI)。 ペンタッチに頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑なパースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。 1988年、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は日本国外でも高い評価を得て、「ジャパニメーション」と呼ばれる、日本国外における日本アニメムーブメントのさきがけとなった。 近年は主に映画監督として活動している。日本SF作家クラブ会員だったが2023年2月時点では退会している。 東北の田舎に生まれ、何もすることが無かったので、幼少の頃より漫画をたくさん読んで育った。絵を描くのが好きだったので、小学生の頃は『鉄腕アトム』や『鉄人28号』をよく模写していた。 中学時代に石ノ森章太郎のマンガ家入門を読んだのをきっかけに、本格的に漫画家を志すようになる。 宮城県佐沼高等学校に入学。その頃から映画に興味を持ち始め、一時漫画から離れて映画漬けの日々を送る。またイラストにも興味を持つようになり、将来はプロのイラストレーターか映画監督になりたいと思うようになる。しかし、一人立ちを考えて漫画を描き始め、1971年末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆。手塚治虫の雑誌『COM』や『りぼん』に数度投稿を行う。高校を卒業すると上京し、以前友人に紹介されて漫画を見せたことのある双葉社の編集者に連絡を取り、採用される。 1973年、『漫画アクション』(双葉社)にて「銃声」でプロの漫画家としてデビュー。以後、『漫画アクション』の本誌・増刊で若者の日常を描いた短編作品を発表。次第にニューウェーブの作家として一部の漫画読者からは知られた存在になって行く。 1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『ヤングコミック』(少年画報社)に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌やSF雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる。 1979年、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行。一般に名前が知られるようになり、他の「ニューウェーブ」作家らとも交流を持つようになる。 1980年、『アクションデラックス』に『童夢』、『漫画アクション』に『気分はもう戦争』(原作:矢作俊彦)を連載開始。 1982年、『週刊ヤングマガジン』にて『AKIRA』( - 1993年)の連載を開始。この作品で一気にメジャー作家となる。漫画のヒットにより、約500万円の予算で1時間ほどの16mmフィルムの実写映画『じゆうを我等に』を自主制作。プライベートムービーを作ることで、映画制作のプロセスを自分なりに勉強した。 1983年公開のアニメ映画『幻魔大戦』(りんたろう監督)で、キャラクターデザイナーとして初めてアニメーション作品に参加。漫画とアニメとの違いを肌で感じ、この経験をきっかけにアニメ制作に興味を持つ。 1986年公開のオムニバス映画『迷宮物語』の中の一編「工事中止命令」で、初めて監督を務める。『幻魔大戦』の後、アニメ制作会社マッドハウスの丸山正雄プロデューサー(当時)から「短編を1本作ってみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けた。 1988年、自身の漫画をアニメ化した劇場アニメーション映画『AKIRA』で長編作品を初監督。1991年には『ワールド・アパートメント・ホラー』で商業実写映画を初監督する。以降、漫画よりも映画の分野に活動の軸足を移し、オムニバス映画『 MEMORIES』(1995年)、長編アニメ『スチームボーイ』(2004年)、実写映画『蟲師』(2007年)などの監督作品を発表する。 2012年、自らプロデューサーとなって、東日本大震災の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した。 2013年公開のオムニバス映画『SHORT PEACE』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。 2015年、アングレーム国際漫画祭で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて。 2019年、Anime Expo 2019にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される。 2022年1月より、講談社からデビュー以来の単行本未収録作品を含む全作品を雑誌掲載時の状態のまま収録する大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」の刊行が開始される。 大友の初期の作品はアメリカン・ニューシネマの影響が強く、ロックやジャズ、ドラッグといった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった。 コマ割りなどには敬愛する黒澤明やサム・ペキンパーの影響が強い。 緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された。 大友は、戦後に漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した。『ショート・ピース』刊行以後、日本の漫画全体の画風、手法が大きく変わったため、漫画の表現史を画するものとして「大友以前、大友以後」という言葉がしばしば用いられる。この言葉を用いた一人である米澤嘉博は、手塚治虫によって体系化された、記号化された絵を用いて意味のあるコマの連続で物語を表現するという漫画の手法に対して、事態をリアルに一枚の風景として描き出し、自在に変化するカメラワークによる画面の連続で作品を構成する大友の手法を、「非手塚的手法」と呼んだ。 なお手塚本人は、劇画ブーム終焉の要因を大友作品に帰するなど、大友を極めて高く評価していた。 大友の作品ではしばしばキャラクターのいない、風景だけが大写しにされたコマが続けて描かれるが、風景を物語の説明的な背景として使うのではなく「風景だけで何かを語らせる」というやり方は、それ以前の漫画にはない新しい手法であった ササキバラ・ゴウは、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している。このことは一面では、箱庭的な物語世界のなかにディテールを描き込むことへの欲求を作家に与え、70年代以降のSFブーム・アニメブームと連動して、作品に細かな世界設定を描きこむ傾向を育てた。このような傾向はのちに士郎正宗らによって徹底的に追究されていくことになる。他面、人物の立体的な造形は80年代以降の士郎正宗や桂正和、遊人などの描く美少女像を変化させ、「記号的な顔」と「写実的な肉体」を併せ持つ、日本の漫画表現独特の美少女キャラクターを生み出す一因ともなった。上記に加え、老人を口元に皺を一本入れるというような記号的な方法でなく、骨格から皮膚のたるみまで老人として表現するような大友のデッサン力、建物を様々な角度から正確な遠近法で描き出す描写力、写真や映画などから影響を受けた光学的な表現方法などは、以後の漫画界全体の画力を底上げすることになった。この他にも、効果音を描き文字ではなくフキダシを使って描く方法や、超能力などの大きな力によって地面が割れたり、球状にへこんだりするといった表現方法など、大友が始めたことでスタンダードとなった手法は数多い。 大友は、それまでは平面的だったマンガやアニメの世界を、生身の骨格を持ったキャラクターたちや、構造を理解した上で描いた高層ビル群などの奥行きのある背景によって、リアルに立体化してみせた。物事をテンプレに沿って描いたり漫画的表現をしたりすることを避け、物も人も現実に即した表現で描写、キャラクターも全く美化せず、見たままのアジア人的な容姿(細い目、低い鼻、短い足、小さい乳房)で描いた。そうすることにより、例え荒唐無稽なストーリーであっても本当にあるかもしれないと読者に思わせることが可能となっている。 このような大友のスタイルの斬新さは有名無名を問わず、多くの漫画家に多大な影響を与えた。『ショートピース』刊行前後よりその手法を模倣する漫画家が多数出現。その影響は浦沢直樹、守村大、東本昌平などの当時の新人だけでなく、福山庸治、谷口ジローといった既存の作家にも表れ、作風の変化をもたらした。とり・みき、みやすのんきらは大友風のSFX描写を積極的に取り入れた。貞本義行は衝撃のあまり、大友の単行本を仕事場に置いて、横で見て手本にしながら、大友の「人間の顔を真っ正面から劇画としてアプローチし、且つ漫画的なデザインセンス」を研究していった。そしてそれは少年誌・青年誌の漫画家だけでなく、吉田秋生などの少女漫画家にも及んだ。 大友は漫画界のみならず、アニメの世界にも革命をもたらし、その先進性によって世界中から注目されるようになった。大友の長編監督デビュー作となった劇場アニメ『AKIRA』(1988年)は、日本だけでなく世界中のカルチャーに影響を与え続けている。アメリカ映画『クロニクル』(2012年)は監督のジョシュ・トランクが『AKIRA』の影響を口にし、カニエ・ウェストの「Stronger」のMVは映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたものになっている。また日本の映画の音響面も大友作品以降、大きく進化することになった。 アニメーション監督としては安彦良和のファンで、『機動戦士ガンダム』ではなく、それ以降の『巨神ゴーグ』『ヴイナス戦記』などのアニメ作品が好き。また、安彦とは以前は彼のスタジオによく遊びに行っていた仲でもある。 デビュー以降、ATG映画のような若者の日常のバカバカしさを漫画にしていたが、1978年頃にメビウスやフランスのSF・ホラー漫画雑誌「メタル・ユルラン」の作家たちの存在を知ったことでバンド・デシネやヨーロッパのコミックに傾倒、いったんSFや西洋モノの作品に引き寄せられた。そして、彼らの様にきちんと絵を描くならストーリーもしっかり作らないといけないと考えるようになり、ストーリー作りにも力を入れるようになった。その後、軌道修正して自分なりの作風を確立する。 当時、日本の漫画業界は、劇画は『ゴルゴ13』のようなハードボイルド、一般漫画はスポーツ漫画と似たようなジャンルの作品ばかりだった。同じことをやりたくなかった大友は、若者のどうしようもなさを描くような漫画には飽きていたこともあり、子供のころから好きだったSFというジャンルを選んだという。 初めて描いたSF作品は、1979年発表の「Fire-Ball」。それまでロングショットだけで作中人物を描いてきた大友が初めてアップを使った作品でもあり、『童夢』『AKIRA』と続く80年代のSF作品への前触れとなった。1981年の「武器よさらば」は、SFというだけでなく、それまで実験的で渋めの作品が多かった大友がエンタメ志向でアクションを描いたことで驚かれた。 1980年代半ばからは漫画制作からアニメ映画や実写映画などの映像制作に活動の場を移していく。実写とアニメの制作については、分担作業である実写に対し、アニメは自分の頭の中でイメージが出来てしまう分、思い通りにならない現実とのギャップに悩まされるという。また日本のアニメは、実写同様にスタッフの枠が細分化されているアメリカと違って監督の影響力が強く、作品のすべてにその色が出てくるので、どれくらい物事を勉強しているか、あるいは世界に目を向けているかが重要になってくると述べている。 アニメの場合、実写のフレームとレンズの選定に相当するレイアウトは、常に自分で決めるようにしている。 大友は写実的な作風を持つ一方で、作品において漫画作品を始めとする過去の他の作品のパロディ、引用も数多くなされている。 大友本人は、子供の頃に触れた好きな作品へのオマージュを作品にするというのが制作における基本だと語っている。特に、手塚治虫、石ノ森章太郎、横山光輝という3人の漫画家を尊敬しており、自身の漫画でそれぞれオマージュを捧げている。手塚へのオマージュは、『FIRE BALL』において、メインコンピューターが"ATOM"(『鉄腕アトム』)と呼ばれているところ。石ノ森については、超能力をテーマにした『童夢』において、主人公の名前エッちゃん(悦子)を、同じく超能力を持つ少女が主人公の『さるとびエッちゃん』から引用している。横山は、代表作『AKIRA』の作品全体が横山のロボット漫画『鉄人28号』へのオマージュとなっている。作品タイトルにもなっている登場人物アキラの「実験番号28」は『鉄人28号』にちなんでつけており、主役を含む主要キャラクターの名前も同作の登場人物から引用している。また「戦時中に開発された究極の兵器が戦後の平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という物語の大筋も『鉄人28号』と同じであり、そのことは大友自身が語っている。 キャラクターデザイナーとして最初にオファーを受けたのは、アニメ映画『幻魔大戦』。 子供の頃は鉄腕アトムなどを真似して、非常に伝統的な漫画のような絵を描こうとしていた。しかし、高校生の時に流行った横尾忠則や伊坂芳太良といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。それ以来、漫画の登場人物は、従来の古典的なスタイルではなく、そういった新しいアプローチで描くようになった。 『幻魔大戦』の際、プロデューサーの丸山正雄に「ヒロインのルナ姫が可愛くない」と指摘されて何度も描き直したが、どうしても可愛く描けず、監督のりんたろうが間に入って可愛くないままのデザインでOKとなった。その後、『AKIRA』以降の作品では、初期に比べて登場人物の目が大きくなり、造形をかっこよく・可愛らしく描くようになっている。過去のインタビューでは、「そういった(一般的なアニメらしい可愛さの)絵柄も簡単に描けるが、描く理由もない。描かないと生き残れないなら描く」と語っている。 メカデザイナーとしては、「武器よさらば」で名を知られるようになった。作中のパワードスーツのデザインのアイデアは、その後、様々なジャンルの多数の作品に引用されている。 『幻魔大戦』に登場するサイボーグ戦士ベガのデザインは、当時のロボットデザインとは一線を画すオリジナリティを感じさせるものになっている。 『AKIRA』に登場する金田のバイクの未来的デザインは画期的で、世間に衝撃を与えた。アニメの世界以外でも、モーターショーでコンセプトモデルとして展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりしている。 影響については、特に一つを選ぶのが難しいくらい様々な人や作品に受けている。自身が見て経験してきたもの全ての影響がごちゃごちゃになって混在していて、その中から作品が生まれてくるという。小説『宇宙の戦士』のパワードスーツのデザインを手がけた宮武一貴や加藤直之のいたスタジオぬえの存在はもちろん大きいが、影響されたものには『2001年宇宙の旅』のようなSF映画も含まれている。『スターウォーズ』のデザインはあまり好きではなく、『エイリアン』やクリス・フォスやメビウス、H・R・ギーガーたちを集めてアレハンドロ・ホドロフスキーが制作しようとしていた『デューン』の方を好む。 シド・ミードの作品には大いに影響を受けている。金田のバイクも、シド・ミードがデザインした映画『トロン』に登場するバイク、ライトサイクルの楕円形の大きなフォルムから着想を得ている。 日本人では、自身の作品にも参加している渡部隆のほか、小林誠や『新世紀エヴァンゲリオン』のメカデザインも好き。
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PEACE』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2015年、アングレーム国際漫画祭で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "2019年、Anime Expo 2019にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2022年1月より、講談社からデビュー以来の単行本未収録作品を含む全作品を雑誌掲載時の状態のまま収録する大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」の刊行が開始される。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "大友の初期の作品はアメリカン・ニューシネマの影響が強く、ロックやジャズ、ドラッグといった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "コマ割りなどには敬愛する黒澤明やサム・ペキンパーの影響が強い。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら劇画のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "大友は、戦後に漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した。『ショート・ピース』刊行以後、日本の漫画全体の画風、手法が大きく変わったため、漫画の表現史を画するものとして「大友以前、大友以後」という言葉がしばしば用いられる。この言葉を用いた一人である米澤嘉博は、手塚治虫によって体系化された、記号化された絵を用いて意味のあるコマの連続で物語を表現するという漫画の手法に対して、事態をリアルに一枚の風景として描き出し、自在に変化するカメラワークによる画面の連続で作品を構成する大友の手法を、「非手塚的手法」と呼んだ。 なお手塚本人は、劇画ブーム終焉の要因を大友作品に帰するなど、大友を極めて高く評価していた。 大友の作品ではしばしばキャラクターのいない、風景だけが大写しにされたコマが続けて描かれるが、風景を物語の説明的な背景として使うのではなく「風景だけで何かを語らせる」というやり方は、それ以前の漫画にはない新しい手法であった", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "ササキバラ・ゴウは、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している。このことは一面では、箱庭的な物語世界のなかにディテールを描き込むことへの欲求を作家に与え、70年代以降のSFブーム・アニメブームと連動して、作品に細かな世界設定を描きこむ傾向を育てた。このような傾向はのちに士郎正宗らによって徹底的に追究されていくことになる。他面、人物の立体的な造形は80年代以降の士郎正宗や桂正和、遊人などの描く美少女像を変化させ、「記号的な顔」と「写実的な肉体」を併せ持つ、日本の漫画表現独特の美少女キャラクターを生み出す一因ともなった。上記に加え、老人を口元に皺を一本入れるというような記号的な方法でなく、骨格から皮膚のたるみまで老人として表現するような大友のデッサン力、建物を様々な角度から正確な遠近法で描き出す描写力、写真や映画などから影響を受けた光学的な表現方法などは、以後の漫画界全体の画力を底上げすることになった。この他にも、効果音を描き文字ではなくフキダシを使って描く方法や、超能力などの大きな力によって地面が割れたり、球状にへこんだりするといった表現方法など、大友が始めたことでスタンダードとなった手法は数多い。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "大友は、それまでは平面的だったマンガやアニメの世界を、生身の骨格を持ったキャラクターたちや、構造を理解した上で描いた高層ビル群などの奥行きのある背景によって、リアルに立体化してみせた。物事をテンプレに沿って描いたり漫画的表現をしたりすることを避け、物も人も現実に即した表現で描写、キャラクターも全く美化せず、見たままのアジア人的な容姿(細い目、低い鼻、短い足、小さい乳房)で描いた。そうすることにより、例え荒唐無稽なストーリーであっても本当にあるかもしれないと読者に思わせることが可能となっている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "このような大友のスタイルの斬新さは有名無名を問わず、多くの漫画家に多大な影響を与えた。『ショートピース』刊行前後よりその手法を模倣する漫画家が多数出現。その影響は浦沢直樹、守村大、東本昌平などの当時の新人だけでなく、福山庸治、谷口ジローといった既存の作家にも表れ、作風の変化をもたらした。とり・みき、みやすのんきらは大友風のSFX描写を積極的に取り入れた。貞本義行は衝撃のあまり、大友の単行本を仕事場に置いて、横で見て手本にしながら、大友の「人間の顔を真っ正面から劇画としてアプローチし、且つ漫画的なデザインセンス」を研究していった。そしてそれは少年誌・青年誌の漫画家だけでなく、吉田秋生などの少女漫画家にも及んだ。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "大友は漫画界のみならず、アニメの世界にも革命をもたらし、その先進性によって世界中から注目されるようになった。大友の長編監督デビュー作となった劇場アニメ『AKIRA』(1988年)は、日本だけでなく世界中のカルチャーに影響を与え続けている。アメリカ映画『クロニクル』(2012年)は監督のジョシュ・トランクが『AKIRA』の影響を口にし、カニエ・ウェストの「Stronger」のMVは映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたものになっている。また日本の映画の音響面も大友作品以降、大きく進化することになった。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "アニメーション監督としては安彦良和のファンで、『機動戦士ガンダム』ではなく、それ以降の『巨神ゴーグ』『ヴイナス戦記』などのアニメ作品が好き。また、安彦とは以前は彼のスタジオによく遊びに行っていた仲でもある。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "デビュー以降、ATG映画のような若者の日常のバカバカしさを漫画にしていたが、1978年頃にメビウスやフランスのSF・ホラー漫画雑誌「メタル・ユルラン」の作家たちの存在を知ったことでバンド・デシネやヨーロッパのコミックに傾倒、いったんSFや西洋モノの作品に引き寄せられた。そして、彼らの様にきちんと絵を描くならストーリーもしっかり作らないといけないと考えるようになり、ストーリー作りにも力を入れるようになった。その後、軌道修正して自分なりの作風を確立する。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "当時、日本の漫画業界は、劇画は『ゴルゴ13』のようなハードボイルド、一般漫画はスポーツ漫画と似たようなジャンルの作品ばかりだった。同じことをやりたくなかった大友は、若者のどうしようもなさを描くような漫画には飽きていたこともあり、子供のころから好きだったSFというジャンルを選んだという。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "初めて描いたSF作品は、1979年発表の「Fire-Ball」。それまでロングショットだけで作中人物を描いてきた大友が初めてアップを使った作品でもあり、『童夢』『AKIRA』と続く80年代のSF作品への前触れとなった。1981年の「武器よさらば」は、SFというだけでなく、それまで実験的で渋めの作品が多かった大友がエンタメ志向でアクションを描いたことで驚かれた。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1980年代半ばからは漫画制作からアニメ映画や実写映画などの映像制作に活動の場を移していく。実写とアニメの制作については、分担作業である実写に対し、アニメは自分の頭の中でイメージが出来てしまう分、思い通りにならない現実とのギャップに悩まされるという。また日本のアニメは、実写同様にスタッフの枠が細分化されているアメリカと違って監督の影響力が強く、作品のすべてにその色が出てくるので、どれくらい物事を勉強しているか、あるいは世界に目を向けているかが重要になってくると述べている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "アニメの場合、実写のフレームとレンズの選定に相当するレイアウトは、常に自分で決めるようにしている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "大友は写実的な作風を持つ一方で、作品において漫画作品を始めとする過去の他の作品のパロディ、引用も数多くなされている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "大友本人は、子供の頃に触れた好きな作品へのオマージュを作品にするというのが制作における基本だと語っている。特に、手塚治虫、石ノ森章太郎、横山光輝という3人の漫画家を尊敬しており、自身の漫画でそれぞれオマージュを捧げている。手塚へのオマージュは、『FIRE BALL』において、メインコンピューターが\"ATOM\"(『鉄腕アトム』)と呼ばれているところ。石ノ森については、超能力をテーマにした『童夢』において、主人公の名前エッちゃん(悦子)を、同じく超能力を持つ少女が主人公の『さるとびエッちゃん』から引用している。横山は、代表作『AKIRA』の作品全体が横山のロボット漫画『鉄人28号』へのオマージュとなっている。作品タイトルにもなっている登場人物アキラの「実験番号28」は『鉄人28号』にちなんでつけており、主役を含む主要キャラクターの名前も同作の登場人物から引用している。また「戦時中に開発された究極の兵器が戦後の平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という物語の大筋も『鉄人28号』と同じであり、そのことは大友自身が語っている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "キャラクターデザイナーとして最初にオファーを受けたのは、アニメ映画『幻魔大戦』。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "子供の頃は鉄腕アトムなどを真似して、非常に伝統的な漫画のような絵を描こうとしていた。しかし、高校生の時に流行った横尾忠則や伊坂芳太良といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。それ以来、漫画の登場人物は、従来の古典的なスタイルではなく、そういった新しいアプローチで描くようになった。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "『幻魔大戦』の際、プロデューサーの丸山正雄に「ヒロインのルナ姫が可愛くない」と指摘されて何度も描き直したが、どうしても可愛く描けず、監督のりんたろうが間に入って可愛くないままのデザインでOKとなった。その後、『AKIRA』以降の作品では、初期に比べて登場人物の目が大きくなり、造形をかっこよく・可愛らしく描くようになっている。過去のインタビューでは、「そういった(一般的なアニメらしい可愛さの)絵柄も簡単に描けるが、描く理由もない。描かないと生き残れないなら描く」と語っている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "メカデザイナーとしては、「武器よさらば」で名を知られるようになった。作中のパワードスーツのデザインのアイデアは、その後、様々なジャンルの多数の作品に引用されている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "『幻魔大戦』に登場するサイボーグ戦士ベガのデザインは、当時のロボットデザインとは一線を画すオリジナリティを感じさせるものになっている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "『AKIRA』に登場する金田のバイクの未来的デザインは画期的で、世間に衝撃を与えた。アニメの世界以外でも、モーターショーでコンセプトモデルとして展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、スティーヴン・スピルバーグ監督のハリウッド映画『レディ・プレイヤー1』に登場したりしている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "影響については、特に一つを選ぶのが難しいくらい様々な人や作品に受けている。自身が見て経験してきたもの全ての影響がごちゃごちゃになって混在していて、その中から作品が生まれてくるという。小説『宇宙の戦士』のパワードスーツのデザインを手がけた宮武一貴や加藤直之のいたスタジオぬえの存在はもちろん大きいが、影響されたものには『2001年宇宙の旅』のようなSF映画も含まれている。『スターウォーズ』のデザインはあまり好きではなく、『エイリアン』やクリス・フォスやメビウス、H・R・ギーガーたちを集めてアレハンドロ・ホドロフスキーが制作しようとしていた『デューン』の方を好む。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "シド・ミードの作品には大いに影響を受けている。金田のバイクも、シド・ミードがデザインした映画『トロン』に登場するバイク、ライトサイクルの楕円形の大きなフォルムから着想を得ている。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "日本人では、自身の作品にも参加している渡部隆のほか、小林誠や『新世紀エヴァンゲリオン』のメカデザインも好き。", "title": "作風と影響" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "", "title": "作品リスト" } ]
大友 克洋は、日本の漫画家・映画監督。宮城県登米郡迫町出身。血液型はA型。息子はイラストレーターの大友昇平(SHOHEI)。 ペンタッチに頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑なパースを持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。 1988年、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は日本国外でも高い評価を得て、「ジャパニメーション」と呼ばれる、日本国外における日本アニメムーブメントのさきがけとなった。 近年は主に映画監督として活動している。日本SF作家クラブ会員だったが2023年2月時点では退会している。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 大友 克洋 | ふりがな = おおとも かつひろ | 画像 = FIBD2016OtomoHermann (cropped).jpg | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 別名義 = <!-- 別名義または同一人物という出典に基づき記載。愛称の欄ではありません --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1954|4|14}} | 生地 = {{JPN}}・[[宮城県]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]]<br />[[映画監督]]<br />[[イラストレーター]]<br />[[デザイナー]] | 称号 = [[芸術文化勲章]]<br />[[紫綬褒章]] | 活動期間 = [[1973年]] - | ジャンル = [[青年漫画]]・[[SF漫画]] | 代表作 = {{ubl|『[[童夢 (漫画)|童夢]]』|『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』}} | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> * 第10回[[日本漫画家協会賞]] * 第13回・第15回[[星雲賞]] * 第4回[[日本SF大賞]] * 第8回[[講談社漫画賞]] * 第41回[[アニー賞]][[ウィンザー・マッケイ賞]] | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''大友 克洋'''(おおとも かつひろ、[[1954年]][[4月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[映画監督]]{{Sfn|漫画家人名事典|2003|p= 76}}。[[宮城県]][[登米郡]][[迫町]]{{Efn2|現:[[登米市]]迫町。}}出身{{Sfn|フリースタイル9|2009|p= 33}}。[[血液型]]はA型{{Sfn|漫画家人名事典|2003|p= 76}}<!--『漫画家人名事典』にのってましてたけど不要かな。-->。息子は[[イラストレーター]]の[[大友昇平]](SHOHEI)。 [[ペンタッチ]]に頼らない均一な線による緻密な描き込み、複雑な[[パースペクティブ|パース]]を持つ画面構成などそれまでの日本の漫画にはなかった作風で、80年代以降の漫画界に大きな影響を与えた。 [[1988年]]、自作を元に自ら制作したアニメーション映画『AKIRA』は日本国外でも高い評価を得て、「[[ジャパニメーション]]」と呼ばれる、日本国外における日本アニメムーブメントのさきがけとなった{{Sfn|BSマンガ夜話ニューウェーブセレクション|2004|p= 9}}。 近年は主に映画監督として活動している。[[日本SF作家クラブ]]会員だったが2023年2月時点では退会している。 == 経歴 == 東北の田舎に生まれ、何もすることが無かったので、幼少の頃より漫画をたくさん読んで育った<ref name="coolest-bike">{{cite web|url= https://www.forbes.com/sites/olliebarder/2017/05/26/katsuhiro-otomo-on-creating-akira-and-designing-the-coolest-bike-in-all-of-manga-and-anime/?sh=393dc94e6d25|title=Katsuhiro Otomo On Creating 'Akira' And Designing The Coolest Bike In All Of Manga And Anime |author= Ollie Barder|date= 2017-05-26|accessdate= 2022-12-07 |website= forbes.com |publisher= Forbes}}</ref><ref>NHK-FMラジオ「日曜喫茶室」鉄腕アトムの贈り物 1993年5月30日</ref>。絵を描くのが好きだったので、小学生の頃は『[[鉄腕アトム]]』や『[[鉄人28号]]』をよく模写していた<ref name="coolest-bike"/>。 中学時代に[[石ノ森章太郎]]のマンガ家入門を読んだのをきっかけに、本格的に漫画家を志すようになる<ref name="coolest-bike"/>。 [[宮城県佐沼高等学校]]に入学{{Sfn|漫画家人名事典|2003|p= 76}}。その頃から映画に興味を持ち始め、一時漫画から離れて映画漬けの日々を送る{{Sfn|ぱふ7月号|1979|p= 20}}。またイラストにも興味を持つようになり、将来はプロの[[イラストレーター]]か映画監督になりたいと思うようになる<ref name="coolest-bike"/>。しかし、一人立ちを考えて漫画を描き始め、[[1971年]]末に処女作『マッチ売りの少女』を執筆{{Sfn|ぱふ7月号|1979|p= 20}}。[[手塚治虫]]の雑誌『[[COM (雑誌)|COM]]』や『[[りぼん]]』に数度投稿を行う{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 152-153}}。高校を卒業すると上京し、以前友人に紹介されて漫画を見せたことのある[[双葉社]]の編集者に連絡を取り、採用される<ref name="coolest-bike"/>。 1973年、『[[漫画アクション]]』(双葉社)にて「銃声{{Efn2|[[プロスペル・メリメ]]の小説『マテオ・ファルコーネ』が原作。}}」でプロの漫画家としてデビュー<ref name="otomo-complete">{{cite web|url=https://otomo-complete.com/profile/index.html |author= |title=PROFILE|date= |accessdate= 2022-12-07|website=大友克洋全集 |publisher= [[講談社]]}}</ref>。以後、『漫画アクション』の本誌・増刊で若者の日常を描いた短編作品を発表。次第に[[ニューウェーブ (漫画)|ニューウェーブ]]の作家として一部の漫画読者からは知られた存在になって行く{{Sfn|マンガ伝|1987|p= 80-81}}<ref name="natalieshortpeace">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/pp/shortpeace |author=斎藤宣彦 |title=映画「SHORT PEACE」特集、大友克洋1万字インタビュー|date=2013-12-18 |accessdate= 2022-12-01|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。 1978年、描きためておいた「ヘンゼルとグレーテル」を『[[ヤングコミック]]』([[少年画報社]])に持ち込み、掲載される。以降、『アクション』以外の漫画雑誌や[[サイエンス・フィクション|SF]]雑誌へと活躍の場を広げ、西洋に題材をとった話やSFなどを発表するようになる<ref name="natalieshortpeace"/>。 [[1979年]]、初の単行本となる自選作品集『ショートピース』刊行<ref name="natalieartist">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/artist/2225 |author= |title=大友克洋 オオトモカツヒロ|date= |accessdate= 2022-12-07|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。一般に名前が知られるようになり、他の「ニューウェーブ」作家らとも交流を持つようになる。 1980年、『アクションデラックス』に『童夢』、『漫画アクション』に『[[気分はもう戦争]]』(原作:[[矢作俊彦]])を連載開始。 [[1982年]]、『[[週刊ヤングマガジン]]{{Efn2|創刊前から掲載を打診され、すでに1年目に「[[彼女の想いで…]]」、2年目に「[[武器よさらば (漫画)|武器よさらば]]」を発表していた。}}』にて『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』( - 1993年)の連載を開始。この作品で一気にメジャー作家となる。漫画のヒットにより、約500万円の予算で1時間ほどの16mmフィルムの実写映画『じゆうを我等に』を自主制作。プライベートムービーを作ることで、映画制作のプロセスを自分なりに勉強した<ref name="coolest-bike"/>。 [[1983年]]公開のアニメ映画『[[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]]』([[りんたろう]]監督)で、[[キャラクターデザイナー]]として初めてアニメーション作品に参加<ref name="otomo-complete"/>。漫画とアニメとの違いを肌で感じ、この経験をきっかけにアニメ制作に興味を持つ<ref name="coolest-bike"/><ref name="yorozoonews14513391">{{Cite web|和書|url =https://yorozoonews.jp/article/14513391|author=沼田浩一 |title =大友克洋のあくなき挑戦 大友アニメーションを振り返る 全集にブルーレイ「AKIRA」 |website = よろず〜|publisher = [[デイリースポーツ]] |date = 2022-01-29|accessdate= 2022-12-02}}</ref>。 1986年公開の[[オムニバス]]映画『[[迷宮物語]]』の中の一編「工事中止命令」で、初めて監督を務める<ref name="natalie455398">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/eiga/news/455398 |author= |title=大友克洋、「AKIRA」連載中に徹夜明けで短編アニメ制作の日々「本当に楽しかった」 |date=2021-11-28 |accessdate= 2022-12-07|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|映画ナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。『幻魔大戦』の後、[[アニメ制作会社]][[マッドハウス]]の[[丸山正雄]]プロデューサー(当時)から「短編を1本作ってみないか」と誘われ、二つ返事で引き受けた<ref name="natalie455398"/><ref>{{Cite web|和書|url = https://animageplus.jp/articles/detail/40764|title =『AKIRA』の意外な裏話も明らかに! 大友克洋トークイベント開催| website = [[アニメージュ]]| publisher = [[徳間書店]] | date = 2021-11-28| accessdate = 2022-02-06}}</ref>。 1988年、自身の漫画をアニメ化した劇場アニメーション映画『AKIRA』で長編作品を初監督<ref name="otomo-complete"/>。1991年には『[[ワールド・アパートメント・ホラー]]』で商業[[実写映画]]を初監督する<ref name="otomo-complete"/>。以降、漫画よりも映画の分野に活動の軸足を移し、オムニバス映画『[[MEMORIES (映画)| MEMORIES]]』(1995年)、長編アニメ『[[スチームボーイ]]』(2004年)、実写映画『[[蟲師 (映画)|蟲師]]』(2007年)などの監督作品を発表する<ref name="natalieartist"/>。 2012年、自らプロデューサーとなって、[[東日本大震災]]の復興支援を兼ねた初の原画展「大友克洋GENGA展」を開催<ref name="natalieartist"/>。3000枚もの原画が展示される漫画家としては世界最大規模の原画展となり、収益の約3割を被災した地元団体に寄付した<ref name="otomo-complete"/>。 2013年公開のオムニバス映画『[[SHORT PEACE]]』の中の一編『火要鎮』で監督を務める。同作はアヌシー映画祭公式セレクションとともに、アカデミー賞(アメリカ)へのプレノミネートを果たした。 2015年、[[アングレーム国際漫画祭]]で日本人として初めて最優秀賞を受賞する。それまでにも日本の漫画家が作品賞や特別賞を受賞したことはあったものの、大賞は大友が初めて<ref name="newsphere">{{Cite web|和書|url=https://newsphere.jp/entertainment/20150201-2/ |author= |title=“漫画を進化させた” 「AKIRA」大友氏の仏漫画祭最高賞、現地大絶賛 |date=2015-02-01 |accessdate= 2022-12-07|website= NewSphera|publisher= Skyrocket株式会社}}</ref>。 [[2019年]]、[[アニメ・エキスポ|Anime Expo 2019]]にて新作映画『ORBITAL ERA』の制作、代表作『AKIRA』の再アニメ化が発表される<ref>{{Cite web|和書|title=世界中のファンが歓喜!「大友克洋 全作品集」の制作を発表!|講談社C-station|url=https://c.kodansha.net/news/detail/34943/|website=講談社C-station|accessdate=2021-01-06|language=ja}}</ref>。 [[2022年]]1月より、[[講談社]]からデビュー以来の単行本未収録作品を含む全作品を雑誌掲載時の状態のまま収録する大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」の刊行が開始される<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/462593 |author= |title=大友克洋全集「OTOMO THE COMPLETE WORKS」刊行開始、「童夢」と絵コンテ集 |date=2022-01-21 |accessdate= 2022-12-07|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。 == 作風と影響 == [[ファイル:FIBD2016Otomo01.jpg|サムネイル|upright=1.4|[[2016年]][[アングレーム国際漫画祭]]にて]] === 初期の作風 === 大友の初期の作品は[[アメリカン・ニューシネマ]]の影響が強く、[[ロック (音楽)|ロック]]や[[ジャズ]]、[[麻薬|ドラッグ]]といった70年代の文化を背景とした日常風景を淡々と描くものが多かった{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 150-151}}。 コマ割りなどには敬愛する[[黒澤明]]や[[サム・ペキンパー]]の影響が強い{{Sfn|決定版!日本映画200選|2004|p= }}。 緻密に描き込まれているにもかかわらず、余白を大胆に取ることで白っぽい画面が作られており、リアルでありながら[[劇画]]のような泥臭さや過剰さのない乾いた画風が注目された{{Sfn|マンガ伝|1987|p= 80-81}}。 === 「大友以前・大友以後」 === 大友は、戦後に漫画において描かれてきた物語を解体し語りなおす作家として登場した{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 148-149}}{{Sfn|手塚治虫の冒険|1995|p= 216-217}}。『ショート・ピース』刊行以後、日本の漫画全体の画風、手法が大きく変わったため、漫画の表現史を画するものとして「大友以前、大友以後」という言葉がしばしば用いられる{{Sfn|BRUTAS1月1日・15日合併号|2007|p= 20}}。この言葉を用いた一人である[[米澤嘉博]]は、[[手塚治虫]]によって体系化された、記号化された絵を用いて意味のあるコマの連続で物語を表現するという漫画の手法に対して、事態をリアルに一枚の風景として描き出し、自在に変化するカメラワークによる画面の連続で作品を構成する大友の手法{{Efn2|米澤は大友と手塚の表現方法の違いを以下のような例で説明している。「『童夢』のえっちゃんの前でカッターナイフで首を切る浪人生の連続させられるコマは、間に少女の叫びのコマを入れることで、その間の動き(アニメートされた部分)を意識させる。同作品の少女テレポートシーンにおける、同一構図、フレームを止めた二つのコマの連続もそうだ。手塚風にやれば、パッと言う擬音やフラッシュ、あるいは斜線が描かれるだろうし、切るシーンは手の動きとズブッという擬音によって事態は描写される」{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}。}}を、「非手塚的手法」と呼んだ{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}。 なお手塚本人は、[[劇画]]ブーム終焉の要因を大友作品に帰するなど、大友を極めて高く評価していた{{Efn2|「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされてしまいました。少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画以上のリアリティが出せることが証明されてしまったのです」<ref>COMIX BOX「特集ぼくらの手塚治虫」1989年</ref>など。詳細は[[手塚治虫#関係の深い漫画家]]の節を参照のこと。}}。 大友の作品ではしばしばキャラクターのいない、風景だけが大写しにされたコマが続けて描かれるが、風景を物語の説明的な背景として使うのではなく「風景だけで何かを語らせる」というやり方は、それ以前の漫画にはない新しい手法であった{{Efn2|夏目房之介は風景の写実的な描写について[[宮谷一彦]]からの影響を指摘している{{Sfn|手塚治虫の冒険|1995|p= 231-234}}。米澤は「キャラクターと背景ではなく、キャラクターのいる風景こそが描かれる」と述べている{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 159}}。}} [[ササキバラ・ゴウ]]は、漫画の絵から説明的な意味・文脈を取り去り、人物も風景も同じ質感を持った単なる「もの」として写実的・立体的に描く大友の表現が、漫画の作品世界の中で均質な空間を表現することを可能にしたと指摘している{{Sfn|「美少女」の現代史|2004|p= 142-154}}。このことは一面では、箱庭的な物語世界のなかにディテールを描き込むことへの欲求を作家に与え、70年代以降の[[サイエンス・フィクション|SF]]ブーム・[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]ブームと連動して、作品に細かな世界設定を描きこむ傾向を育てた。このような傾向はのちに[[士郎正宗]]らによって徹底的に追究されていくことになる{{Sfn|「美少女」の現代史|2004|p= 142-154}}。他面、人物の立体的な造形は80年代以降の士郎正宗や[[桂正和]]、[[遊人]]などの描く美少女像を変化させ、「記号的な顔」と「写実的な肉体」を併せ持つ、日本の漫画表現独特の美少女キャラクターを生み出す一因ともなった{{Sfn|「美少女」の現代史|2004|p= 142-154}}。上記に加え、老人を口元に皺を一本入れるというような記号的な方法でなく、骨格から皮膚のたるみまで老人として表現するような大友のデッサン力、建物を様々な角度から正確な遠近法で描き出す描写力、写真や映画などから影響を受けた光学的な表現方法{{Efn2|走行中のバイクや自動車の残光の表現は大友が始めて広まったものであった{{Sfn|手塚治虫の冒険|1995|p= 226}}。}}などは、以後の漫画界全体の画力を底上げすることになった{{Sfn|BSマンガ夜話ニューウェーブセレクション|2004|p= 64-70}}。この他にも、効果音を描き文字ではなく[[フキダシ]]を使って描く方法や、超能力などの大きな力によって地面が割れたり、球状にへこんだりするといった表現方法など、大友が始めたことでスタンダードとなった手法は数多い{{Sfn|BSマンガ夜話ニューウェーブセレクション|2004|p= 29-38}}。 大友は、それまでは平面的だったマンガやアニメの世界を、生身の骨格を持ったキャラクターたちや、構造を理解した上で描いた高層ビル群などの奥行きのある背景によって、リアルに立体化してみせた<ref name="magmix79700">{{Cite web|和書|url=https://magmix.jp/post/79700 |author= 長野辰次|title=『スチームボーイ』BSで放映 大友克洋氏の「尋常でないこだわり」が詰まった描写とは |date=2022-02-20 |accessdate= 2022-12-18|website= マグミクス|publisher= [[メディア・ヴァーグ]]}}</ref>。物事をテンプレに沿って描いたり漫画的表現をしたりすることを避け、物も人も現実に即した表現で描写<ref name="asianbeatkatoki">{{Cite web|和書|url=https://asianbeat.com/ja/feature/issue_anime/otomo/interview-5.html |author= |title=アニメ特集 大友克洋-SHORT PEACEに至るまで- 特別インタビュー カトキハジメ |date=2013-08-01 |accessdate= 2022-12-18|language=|website=アジアンビート|publisher=福岡県アジア若者文化交流事業実行委員会}}</ref>、キャラクターも全く美化せず、見たままのアジア人的な容姿(細い目、低い鼻、短い足、小さい乳房)で描いた{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 150-151}}{{Sfn|手塚治虫の冒険|1995|p= 239-240}}{{Efn2|これは男はかっこよく、女はかわいらしく描くのが当然とされていた当時の漫画界において異例のことであった。}}。そうすることにより、例え荒唐無稽なストーリーであっても本当にあるかもしれないと読者に思わせることが可能となっている<ref name="asianbeatkatoki"/>。 このような大友のスタイルの斬新さは有名無名を問わず、多くの漫画家に多大な影響を与えた。『ショートピース』刊行前後よりその手法を模倣する漫画家が多数出現。その影響は[[浦沢直樹]]<ref name="naoki-urasawa">{{Cite web|和書|url=https://www.huffingtonpost.jp/2014/12/29/naoki-urasawa_n_6390106.html |author= |title=「読者がお金を払わなければ、"あるべき関係性"が結べない」漫画家・浦沢直樹さんインタビュー |website= [[ハフポスト]]|publisher= [[BuzzFeed Japan]] |date=2014-12-29 |accessdate= 2022-12-03}}</ref>、[[守村大]]、[[東本昌平]]などの当時の新人だけでなく、[[福山庸治]]、[[谷口ジロー]]といった既存の作家にも表れ、作風の変化をもたらした。[[とり・みき]]、[[みやすのんき]]らは大友風の[[SFX]]描写を積極的に取り入れた{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}。[[貞本義行]]は衝撃のあまり、大友の単行本を仕事場に置いて、横で見て手本にしながら、大友の「人間の顔を真っ正面から劇画としてアプローチし、且つ漫画的なデザインセンス」を研究していった<ref>[[白夜書房]]刊「漫画魂 おしぐちたかしインタビュー集」[[おしぐちたかし]]編著p.79より。</ref>。そしてそれは少年誌・青年誌の漫画家だけでなく、[[吉田秋生]]などの少女漫画家にも及んだ{{Sfn|マンガ伝|1987|p= 80-81}}{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}。 大友は漫画界のみならず、アニメの世界にも革命をもたらし、その先進性によって世界中から注目されるようになった<ref name="magmix79700"/>。大友の長編監督デビュー作となった劇場アニメ『AKIRA』(1988年)は、日本だけでなく世界中のカルチャーに影響を与え続けている<ref name="magmix79700"/>。アメリカ映画『[[クロニクル (映画)|クロニクル]]』(2012年)は監督の[[ジョシュ・トランク]]が『AKIRA』の影響を口にし、[[カニエ・ウェスト]]の「Stronger」のMVは映画『AKIRA』の世界観と映像をオマージュしたものになっている<ref>{{Cite web|和書|url= https://ure.pia.co.jp/articles/-/16578|title=全米大ヒット『クロニクル』と『AKIRA』の関係とは? 監督が語る |website=ウレぴあ総研|publisher= [[ぴあ]] |date=2013-08-19|accessdate= 2022-12-18}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.wwdjapan.com/articles/676677 |author=小川陸|title=カニエ・ウェストが「全てのクリエイションは『AKIRA』に影響された」と告白 |date=2018-08-19|accessdate= 2022-12-18|website= |publisher=WWD(Women's Wear Daily)}}</ref>。また日本の映画の音響面も大友作品以降、大きく進化することになった<ref name="magmix79700"/>。 アニメーション監督としては[[安彦良和]]のファンで、『機動戦士ガンダム』ではなく、それ以降の『[[巨神ゴーグ]]』『[[ヴイナス戦記]]』などのアニメ作品が好き<ref name="coolest-bike"/>。また、安彦とは以前は彼のスタジオによく遊びに行っていた仲でもある<ref name="coolest-bike"/>。 === SFへの傾倒 === デビュー以降、[[ATG映画]]のような若者の日常のバカバカしさを漫画にしていたが、1978年頃にメビウスやフランスのSF・ホラー漫画雑誌「[[メタル・ユルラン]]」の作家たちの存在を知ったことで[[バンド・デシネ]]やヨーロッパのコミックに傾倒、いったんSFや西洋モノの作品に引き寄せられた<ref name="natalieshortpeace"/>{{Efn2|当時、彼らがSFの漫画を描いたりSF映画の制作に参加したりしていたことの影響。}}。そして、彼らの様にきちんと絵を描くならストーリーもしっかり作らないといけないと考えるようになり、ストーリー作りにも力を入れるようになった<ref name="natalieshortpeace"/>。その後、軌道修正して自分なりの作風を確立する<ref name="natalieshortpeace"/>。 当時、日本の漫画業界は、[[劇画]]は『[[ゴルゴ13]]』のような[[ハードボイルド]]、一般漫画は[[スポーツ漫画]]と似たようなジャンルの作品ばかりだった。同じことをやりたくなかった大友は、若者のどうしようもなさを描くような漫画には飽きていたこともあり、子供のころから好きだったSFというジャンルを選んだという<ref name="coolest-bike"/><ref name="natalieshortpeace"/>{{Efn2|当時、映画『[[スターウォーズ]]』のおかげで全世界でSFがブームとなっていた。また日本でも『[[宇宙戦艦ヤマト]]』などのアニメのヒットにより、SFブームが起きていた。しかし、保守的な漫画業界では、『[[ドラえもん]]』のような可愛いSFはあったが、ハードSFは好まれなかった。}}。 初めて描いたSF作品は、1979年発表の「Fire-Ball」<ref name="coolest-bike"/>。それまでロングショットだけで作中人物を描いてきた大友が初めてアップを使った作品でもあり{{Efn2|いしかわじゅんの指摘による{{Sfn|BSマンガ夜話ニューウェーブセレクション|2004|p= 29-38}}。}}、『童夢』『AKIRA』と続く80年代のSF作品への前触れとなった。1981年の「武器よさらば」は、SFというだけでなく、それまで実験的で渋めの作品が多かった大友が[[エンターテインメント|エンタメ]]志向でアクションを描いたことで驚かれた<ref name="story04">{{Cite web|和書|url=http://shortpeace-movie.com/jp/#story04 |author= |title=武器よさらば |date= |accessdate= 2022-12-01|website= |publisher= 映画『SHORT PEACE』オフィシャルサイト}}</ref>。 === 実写とアニメ制作 === 1980年代半ばからは漫画制作からアニメ映画や実写映画などの映像制作に活動の場を移していく。実写とアニメの制作については、分担作業である実写に対し、アニメは自分の頭の中でイメージが出来てしまう分、思い通りにならない現実とのギャップに悩まされるという<ref name="natalie455398"/>。また日本のアニメは、実写同様にスタッフの枠が細分化されているアメリカと違って監督の影響力が強く、作品のすべてにその色が出てくるので、どれくらい物事を勉強しているか、あるいは世界に目を向けているかが重要になってくると述べている<ref name="natalie455398"/>。 アニメの場合、実写のフレームと[[レンズ]]の選定に相当する[[レイアウトシステム|レイアウト]]は、常に自分で決めるようにしている<ref name="story01">{{Cite web|和書|url=http://shortpeace-movie.com/jp/#story01 |author= |title=火要鎮 |date= |accessdate= 2022-12-18|website= |publisher= 映画『SHORT PEACE』オフィシャルサイト}}</ref>。 === パロディと批評性 === 大友は写実的な作風を持つ一方で、作品において漫画作品を始めとする過去の他の作品のパロディ、引用も数多くなされている{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}。 大友本人は、子供の頃に触れた好きな作品へのオマージュを作品にするというのが制作における基本だと語っている<ref name="coolest-bike"/>。特に、[[手塚治虫]]、[[石ノ森章太郎]]、[[横山光輝]]という3人の漫画家を尊敬しており、自身の漫画でそれぞれオマージュを捧げている<ref name="coolest-bike"/>。手塚へのオマージュは、『FIRE BALL』において、メインコンピューターが"ATOM"(『鉄腕アトム』)と呼ばれているところ<ref name="coolest-bike"/>{{Efn2|2004年の監督映画『[[スチームボーイ]]』のタイトルは、[[手塚治虫]]の『[[鉄腕アトム]]』の英題である『アストロボーイ』を意識したものではないが、物語は手塚が描こうとしていた過去の話でありながら未来に向かって広がって行くようなものにしたかったという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.walkerplus.com/movie/report/report1821.html |title=『スチームボーイ』レポート |publisher=MovieWalker |accessdate=2008-7-4 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20040710204013/http://www.walkerplus.com/movie/report/report1821.html |archivedate=2004年7月10日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。}}。石ノ森については、超能力をテーマにした『童夢』において、主人公の名前エッちゃん(悦子)を、同じく超能力を持つ少女が主人公の『[[さるとびエッちゃん]]』から引用している<ref name="coolest-bike"/>{{Efn2|エッちゃんは破壊的な超能力を持つ少女だが、作中にはほかにも鳥山明の漫画『[[Dr.スランプ]]』のキャラクター、[[則巻アラレ]](同様に破壊的なパワーを持つ少女型アンドロイド)の帽子が描かれている。}}。横山は、代表作『AKIRA』の作品全体が横山のロボット漫画『[[鉄人28号]]』へのオマージュとなっている<ref name="coolest-bike"/>{{Efn2|漫画家の守村大は、臨時でアシスタントに入った時に大友が「今度『鉄人28号』をやりたいから[[横山光輝]]先生に挨拶に行こうと思っている」と言うのを聞いている。その時は訳が分からなかったが、後に『AKIRA』のことだと気づいたという{{Sfn|モーニング34号|2017|p=}}。}}。作品タイトルにもなっている登場人物アキラの「実験番号28」は『鉄人28号』にちなんでつけており、主役を含む主要キャラクターの名前も同作の登場人物から引用している<ref name="coolest-bike"/>。また「戦時中に開発された究極の兵器が戦後の平和な時代に発見され、それを巡って物語が展開する」という物語の大筋も『鉄人28号』と同じであり{{Sfn|ユリイカ1988年8月臨時増刊号|1988|p= 156-159}}、そのことは大友自身が語っている<ref name="coolest-bike"/>。 * 1976年に掲載された短編『CHUCK CHECK CHICKEN』(漫画アクション増刊、1976年11月3日号)は当時大団円を迎えて日本中に大ブームを巻き起こした『[[子連れ狼]]』の全編パロディとなっており、駆け落ちした妻と間男を追って元香荻(こおぎ)藩粋応(すいおう)流の解釈人・拝三拝([[拝一刀]])が一子・団子郎([[拝大五郎|大五郎]])と旅をする物語となっている{{Efn2|ラストのコマでは三拝「団子郎…じっと我慢するのじゃぞ…」団子郎「はい、ちちうえ」と当時流行した[[ボンカレー]]のCM(落語家の[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]がパロディで『子連れ狼』を演じた)をパロディにしたオチが描かれている。}}。 * 1977年から不定期掲載(全5話)された『さよならにっぽん』(週刊漫画アクション、1977年8月4日号〜1978年2月23日号)は[[ニューヨーク|NY]]に空手道場を構える日本人の空手家の物語で当時[[ブルース・リー]]や『[[空手バカ一代]]』が流行っていた事からカンフーや空手をネタに依頼され、NYを舞台にしたのは映画『[[フレンチ・コネクション]]』の影響である。 * 『ハイウェイスター』は公道での[[ドラッグレース]]を描いた物語で映画『[[断絶 (映画)|断絶]]』の影響である。 * 『酒井さんちのゆきえちゃん』は大友が個人的に[[酒井ゆきえ]]が好きだった事から描いたオマージュ作品で作中にも『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』の番組に酒井ゆきえが登場している。 * 1978年から『[[rockin'on]]』で連載された「大友克洋の栄養満点!」{{Efn2|のちに単行本『ヘンゼルとグレーテル』に収録。なお、原稿の大半は[[渋谷陽一]]が大友に確認せずに勝手に廃棄してしまった。}}では、『[[白雪姫]]』『[[赤頭巾]]』といった有名な童話をシニカルなファンタジーとして語り直しており、1979年より『バラエティ』に連載された『饅頭こわい』(単行本未収録)では毎回2ページを使って『[[鉄人28号]]』や『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』などといった様々な漫画作品のパロディを行なっている。 * 1979年の『コミックアゲイン』誌では少女漫画の画風を模倣したパロディ作品「危ない! 生徒会長」(『SOS大東京探検隊』収録)を掲載している。 * 短編作品『猫はよく朝方に帰って来る』に登場する私立探偵は[[青池保子]]の『[[エロイカより愛をこめて]]』に登場するスパイ、エーベルバッハ少佐のパロディだと筆者自身がコメントしている。 === デザイン === ==== キャラクターデザイン ==== キャラクターデザイナーとして最初にオファーを受けたのは、アニメ映画『幻魔大戦』<ref name="natalie454458">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/454458 |author= |title=現代アニメの"当たり前"作った幻魔大戦をりんたろう監督語る、大友克洋との思い出も |date=2021-11-21 |accessdate= 2022-12-18|website= [[ナタリー (ニュースサイト)|コミックナタリー]]|publisher= 株式会社ナターシャ}}</ref>。 子供の頃は鉄腕アトムなどを真似して、非常に伝統的な漫画のような絵を描こうとしていた<ref name="coolest-bike"/>。しかし、高校生の時に流行った[[横尾忠則]]や[[伊坂芳太良]]といったイラストレーターの絵柄がすごく好きになり、自分もそういう画風でイラストのような感覚で漫画を描いてみたいと思うようになった。それ以来、漫画の登場人物は、従来の古典的なスタイルではなく、そういった新しいアプローチで描くようになった<ref name="coolest-bike"/>。 『幻魔大戦』の際、プロデューサーの丸山正雄に「ヒロインのルナ姫が可愛くない」と指摘されて何度も描き直したが、どうしても可愛く描けず、監督の[[りんたろう]]が間に入って可愛くないままのデザインでOKとなった<ref name="natalie454458"/>{{Efn2|りんたろうは、結果的にはそれがよかったと語っている。}}。その後、『AKIRA』以降の作品では、初期に比べて登場人物の目が大きくなり、造形をかっこよく・可愛らしく描くようになっている{{Sfn|ユリイカ8月臨時増刊号|1988|p= 152-153}}{{Sfn|手塚治虫の冒険|1995|p= 240-241}}。過去のインタビューでは、「そういった(一般的なアニメらしい可愛さの)絵柄も簡単に描けるが、描く理由もない。描かないと生き残れないなら描く」と語っている<ref>劇場版『AKIRA』メイキング映像『AKIRA PRODUCTION REPORT』(1988年)</ref>。 ==== メカニックデザイン ==== メカデザイナーとしては、「武器よさらば」で名を知られるようになった<ref name="coolest-bike"/>。作中の[[パワードスーツ]]のデザインのアイデアは、その後、様々なジャンルの多数の作品に引用されている<ref name="story04"/>。 『幻魔大戦』に登場するサイボーグ戦士ベガのデザインは、当時のロボットデザインとは一線を画すオリジナリティを感じさせるものになっている<ref>{{Cite web|和書|url =https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1230397.html |author=勝田哲也 |title =まさに異形! 大友克洋デザインの「幻魔大戦」サイボーグ戦士「ベガ」が立体化 |website =GAME Watch|publisher =[[インプレス]]|date =2020-01-21 |accessdate= 2022-12-18}}</ref>。 『AKIRA』に登場する金田のバイクの未来的デザインは画期的で、世間に衝撃を与えた。アニメの世界以外でも、[[モーターショー]]で[[コンセプトモデル]]として展示されたり、デザインを再現したカスタムバイクが販売されたり、[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の[[ハリウッド映画]]『[[レディ・プレイヤー1]]』に登場したりしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20180405/3/ |author= |title=ガンダム、金田バイク、リュウ! あらゆるキャラ大集合の「レディ・プレイヤー1」新ポスター公開 |date=2018-04-05 |accessdate= 2022-12-18|website= [[映画.com]]|publisher= 株式会社エイガ・ドット・コム}}</ref>。 影響については、特に一つを選ぶのが難しいくらい様々な人や作品に受けている<ref name="asianbeatotomo">{{Cite web|和書|url=https://asianbeat.com/ja/feature/issue_anime/otomo/interview-2.html |author= |title=アニメ特集 大友克洋-SHORT PEACEに至るまで- 特別インタビュー 大友克洋 |date=2013-08-01 |accessdate= 2022-12-18|language=|website=アジアンビート|publisher=福岡県アジア若者文化交流事業実行委員会}}</ref>。自身が見て経験してきたもの全ての影響がごちゃごちゃになって混在していて、その中から作品が生まれてくるという<ref name="coolest-bike"/>。小説『[[宇宙の戦士]]』のパワードスーツのデザインを手がけた[[宮武一貴]]や[[加藤直之]]のいた[[スタジオぬえ]]の存在はもちろん大きいが、影響されたものには『[[2001年宇宙の旅]]』のようなSF映画も含まれている。『スターウォーズ』のデザインはあまり好きではなく、『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』やクリス・フォスや[[ジャン・ジロー|メビウス]]、[[H・R・ギーガー]]たちを集めて[[アレハンドロ・ホドロフスキー]]が制作しようとしていた『[[ホドロフスキーのDUNE|デューン]]』の方を好む<ref name="natalieshortpeace"/>。 [[シド・ミード]]の作品には大いに影響を受けている<ref name="otomokawamura">{{Cite web|和書|url=https://www.cinra.net/article/interview-201904-otomokawamura |author= |title=大友克洋×河村康輔 未来のイメージを作った人物シド・ミードとは |date=2019-04-25 |accessdate= 2022-12-18|website= |publisher= CINRA}}</ref>。金田のバイクも、シド・ミードがデザインした映画『[[トロン (映画)|トロン]]』に登場するバイク、ライトサイクルの楕円形の大きなフォルムから着想を得ている<ref name="coolest-bike"/><ref name="otomokawamura"/>。 日本人では、自身の作品にも参加している[[渡部隆]]のほか、[[小林誠 (イラストレーター)|小林誠]]や『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』のメカデザインも好き<ref name="coolest-bike"/>。 == 受賞歴 == * [[1981年]] - 第10回[[日本漫画家協会賞]]優秀賞(<!--単行本化される前なので「」を使っています-->「童夢」「I・N・R・I」ほか) * [[1982年]] - 第13回[[星雲賞]]コミック部門(『[[気分はもう戦争]]』) * [[1983年]] - 第4回[[日本SF大賞]](『[[童夢 (漫画)|童夢]]』) * [[1984年]] - 第15回星雲賞コミック部門(『童夢』) * 1984年 - 第8回[[講談社漫画賞]]一般部門(『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』) * [[1992年]] - [[アイズナー賞]](アメリカ)最優秀彩色部門(『AKIRA』米国版) * [[2002年]] - アイズナー賞(アメリカ)最優秀最優秀アーカイブプロジェクト部門および最優秀国際作品部門(『AKIRA』米国版) * [[2005年]] - フランス[[芸術文化勲章]]シュヴァリエ(騎士)受章 * [[2002年]] - アイズナー賞(アメリカ)コミックの殿堂入り<ref>{{Cite web|和書|url=https://animeanime.jp/article/2012/07/15/10814.html |title=大友克洋さんが米国コミックの殿堂入り 日本人で4人目 コミコンで発表 |date=2012-07-15 |accessdate= 2022-12-04|website=アニメ!アニメ!|publisher= [[イード (企業)|イード]]}}</ref> * [[2012年]] - 第16回[[文化庁メディア芸術祭アニメーション部門]]大賞(『[[SHORT PEACE]]』の一編「火要鎮」)<ref>{{Cite web|和書|url=https://j-mediaarts.jp/awards/gland_prize?locale=ja&section_id=3 |title=アニメーション部門|大賞 |publisher=第16回文化庁メディア芸術祭 |accessdate= 2012-12-15}}</ref> * [[2013年]] - [[紫綬褒章]]受章<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140822162703/https://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2013110200040 |title=「面白いと思うことやってきた」=アニメ監督の大友克洋さん-紫綬褒章 |publisher=時事通信 |accessdate= 2013-11-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/25aki/meibo_hosho/hosho-13tokyo.pdf|title=平成25年秋の褒章受章者(東京都)|format=PDF|accessdate=2023-03-28|publisher=[[内閣府]]|date =2013-11-03|page=2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141127072325/http://www8.cao.go.jp/shokun/hatsurei/25aki/meibo_hosho/hosho-13tokyo.pdf|archivedate=2014-11-27|deadlinkdate=2023年3月}}</ref> * [[2014年]] - [[アニー賞]](アメリカ)[[ウィンザー・マッケイ賞]] (『生涯功労賞』)<ref>2014年2月3日中日新聞朝刊27面</ref><ref name="movie">[[#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref> * [[2015年]] - [[アングレーム国際漫画祭]](フランス)[[アングレーム国際漫画祭 グランプリ|グランプリ]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://eiga.com/news/20150130/10/|title=大友克洋、仏アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀賞受賞!|publisher=映画.com|date=2015-01-30|accessdate=2015-01-30}}</ref> * 2019年 - フランス芸術文化勲章オフィシエ(将校)受章<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ambafrance.org/article8283 |title=漫画家の大友克洋氏ら4氏が芸術文化勲章を受章|publisher=[[駐日フランス大使館]]|date=2019-01-17|accessdate=2021-06-19}}</ref> == 作品リスト == === 漫画作品 === {{main|大友克洋の漫画作品一覧}} ==== 単行本 ==== * [[ショートピース (漫画)|ショートピース]](1979年、奇想天外社)(1986年、双葉社) * [[大友克洋傑作集#ハイウェイスター|ハイウェイスター]](1979年、双葉社) * GOOD WEATHER(1981年、綺譚社) * [[大友克洋傑作集#さよならにっぽん|さよならにっぽん]](1981年、双葉社) * ヘンゼルとグレーテル(1981年、ソニー・マガジンズ) * [[気分はもう戦争]](1982年、双葉社)[[矢作俊彦]]原案 * BOOGIE WOOGIE WALTZ(1982年、綺譚社) * [[童夢_(漫画)|童夢]](1983年、双葉社) * [[AKIRA (漫画)|AKIRA]]全6巻(講談社、1983年 - 1993年) * [[彼女の想いで…]](1990年、講談社) * [[SOS大東京探検隊]](1996年、講談社) * [[武器よさらば (漫画)|武器よさらば]](2013年、[[バンダイビジュアル]]) ==== 原作など ==== <!--年は発表年--> * 大友克洋・[[高千穂遙]]原作、[[高寺彰彦]]作画「[[サルタン防衛隊]]」(1982年) * [[今敏]]著「[[ワールドアパートメントホラー]]」(1991年、今敏『ワールドアパートメントホラー』収録)- 実写映画の[[コミカライズ]]。映画の監督は大友、原案は今敏、脚本は[[信本敬子]]<ref>{{cite web|url=http://konstone.s-kon.net/modules/works/index.php?content_id=4 |author= |title=COMIC BOOK |date= |accessdate= 2022-12-06|website=|publisher=今敏公式ブログ「KON'S TONE」}}</ref>。 * 大友克洋脚本、岡田鯛漫画「ZeD」(1991年) - アニメ映画『[[老人Z]]』のコミカライズ。 * 大友克洋原作、[[ながやす巧]]作画「沙流羅」(1990年 - 2004年) * [[エンキ・ビラル]]著、大友克洋監修、貴田奈津子訳「モンスターの眠り」(1998年) * 大友克洋・[[木村真二]]共著「[[ヒピラくん]]」(2001年 - 2002年) - 絵本。 * 大友克洋原作、[[衣谷遊]]作画「スチームボーイ」(2005年 - 2007年) - アニメ映画『[[スチームボーイ]]』のコミカライズ。 * 大友克洋原案、富沢義彦原作、[[海童博行]]作画「危機之介御免」(2006年 - 2007年) * 大友克洋原案、富沢義彦原作、海童博行作画「危機之介御免〜ギヤマンの書〜」(2008年 - 2009年) * 大友克洋原案、[[中川いさみ]]漫画「サプライズ」(2018年、[[月刊モーニングtwo]]6月号掲載) === イラストレーション === ==== 装画・挿絵など ==== * [[高千穂遙|高千穂遥]]『狼たちの曠野』(1981年)装画 * [[都筑道夫]]『銀河探偵ビリイ・アレグロ』(1981年)装画 * [[関川夏央]]『名探偵に名前はいらない』(1981年)口絵 * [[矢作俊彦]]『カニを、もっとカニを!』(1981年)挿絵 * 矢作俊彦『カニを、さらにカニを!!』(1982年)挿絵 * [[NHK教育テレビジョン|NHK教育]]『[[YOU (テレビ番組)|YOU]]』(1982年)オープニングの[[イラストレーション|イラスト]]集。テーマ音楽は[[坂本龍一]]。 * [[久住昌之]]『久住昌之の笑えるビデオ HESO』(1990年) 表紙イラスト * 矢作俊彦『東京カウボーイ』(1992年)装画 * [[石野卓球]]『DOVE LOVES DUB』(1995年) CDジャケットイラスト * [[東京スカパラダイスオーケストラ]]『ROCK MONSTER STRIKES BACK』(1996年)CDジャケットイラスト * [[東郷隆]]『幕末袖がらみ』(1998年) 表紙イラスト * [[ジェームズ・キャメロン|ジェイムズ・キャメロン]]・[[小峯隆生]]『豪快!映画学 ジェイムズ・キャメロン×小峯隆生』(2001年)装画 * おたくの殿堂 『お殿』(2006年) ロゴ * [[佐藤哲也 (作家)|佐藤哲也]]『ぬかるんでから』(2007年) 装画 * 関純二『担当の夜』(2014年)筆者近影<ref>{{Cite web|和書|title=マンガ家と編集者の闘いを描いた実録小説『担当の夜』|url=https://ddnavi.com/news/183902/|website=ダ・ヴィンチニュース|accessdate=2020-12-27|language=ja}}</ref> * [[SABU (映画監督)|SABU]]『天の茶助』(2015年) 装画 * [[ピーテル・ブリューゲル]]の絵画「[[バベルの塔]]」(1563年)の内部図解「INSIDE BABEL」(2017年)<ref>[http://babel2017.jp/project/10.html 「バベルの塔」展ホームページ]</ref> * 佐藤喬『逃げ 2014年全日本選手権ロードレース』(2018年)装画 * [[東京スカパラダイスオーケストラ]]「TOKYO SKA TREASURES ~ベスト・オブ・東京スカパラダイスオーケストラ~」(2020年)CDジャケットイラスト ==== 画集 ==== * OTOMO KATSUHIRO ARTWORK KABA(講談社、1989年) * [[ビバ・イル・チクリッシモ!]]([[マガジンハウス]]、2008年)[[寺田克也]]との合作 * OTOMO KATSUHIRO ARTWORK KABA2(講談社、2012年) * GENGA OTOMO KATSUHIRO ORIGINAL PICTURES(発行:大友克洋原画展実行委員会 発売:パイ インターナショナル、2012年) === 映像作品 === ==== 監督作品 ==== * じゆうを我等に(実写映画、1982年) - 自主制作作品。16ミリ60分。 * [[ロボットカーニバル]]([[オムニバス]]・[[OVA]]、1987年) - オープニングとエンディングの監督・脚本・絵コンテを担当。 * [[迷宮物語]](オムニバス・アニメ映画、1986年) - 「工事中止命令」の監督・脚本・キャラクターデザインを担当。 * [[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]](アニメーション映画、1988年)<ref>{{Cite web | url = https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1980s/059301.html| title = AKIRA| publisher = トムス・エンタテイメント| accessdate = 2016-05-19}}</ref> * [[ワールド・アパートメント・ホラー]](実写映画、1991年) * [[MEMORIES (映画)|MEMORIES]](オムニバス・アニメ映画、1995年) * [[GUNDAM Mission to the Rise]](短編CGアニメ作品、1998年) - [[ガンダム (架空の兵器)|ガンダム]]と[[ザクII|ザク]]のデザインも担当。 * [[スチームボーイ]](アニメーション映画、2004年) * [[蟲師 (映画)|蟲師]](実写映画、2007年) * [[SHORT PEACE]](オムニバス・アニメ映画、2013年) - 「火要鎮」の監督・脚本、「武器よさらば」の原作を担当。 * [[なかの綾]]「じゅうくはたち」([[ミュージック・ビデオ]]、2016年)<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/190779|title=大友克洋が初めて実写MVの監督に、なかの綾のアルバム曲で|newspaper=コミックナタリー|date=2016-06-14|accessdate=2016-06-14}}</ref> * [[ORBITAL ERA]](アニメーション映画、時期未定) * 童夢(実写[[パイロットフィルム]]、製作時期不明)<ref>{{Cite web|和書|url=https://mantan-web.jp/article/20230224dog00m200076000c.html |author= |title=童夢:大友克洋監督の幻の実写映画 新潟国際アニメーション映画祭でパイロット版上映 |date=2023-02-25 |accessdate= 2023-03-21|website= まんたんウェブ|publisher=株式会社[[MANTAN]] }}</ref> ==== 脚本、キャラクターデザインなど ==== * ライブイン・茅ヶ崎(8ミリ長編映画、1978年、[[森田芳光]]監督) - 宣伝用イラスト。 * [[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]](アニメーション映画、1983年) - キャラクターデザイン。 * [[クラッシャージョウ#アニメ|クラッシャージョウ]](アニメーション映画、1983年) - スペシャル・デザイン(アラクネ)。 * [[キヤノン]]T70(カメラ製品のテレビCM、1984年) - [[キャラクターデザイン]]、[[絵コンテ]]、[[原画]]。 * [[AKIRA (漫画)|AKIRA]]([[ファミリーコンピュータ]]、1988年) - シナリオ、プロデュース。 * [[老人Z]](アニメーション映画、1991年) - 原作、脚本、メカニックデザイン。 * [[スプリガン (漫画)|スプリガン]](アニメーション映画、1998年) - 総監修。 * [[パーフェクトブルー|PERFECT BLUE]](アニメーション映画、1998年) - 企画協力。 * [[メトロポリス (2001年の映画)|メトロポリス]](アニメーション映画、2001年) - 脚本。 * [[FREEDOM-PROJECT]](CMおよびアニメーション映画、2006年) - 一部キャラクターデザイン・メカニックデザイン。 * [[ヒピラくん]](短編テレビアニメ、2009年) - 「おはなし」担当。 * [[鬼神伝]](アニメーション映画、2011年) - オロチコンセプトデザイン。 * [[キリンMCダノンウォーターズ]]「[[ボルヴィック]] 飲む自然篇」(テレビCM、2012年) - キャラクターデザイン。 * [[スペース☆ダンディ]](テレビアニメ、2014年) - ダンシング星人デザイン。 * [[犬ヶ島]](アニメーション映画、2018年) - コラボイラスト<ref>{{Cite web|和書|title=「AKIRA」の大友克洋による映画『犬ヶ島』との夢のコラボイラスト到着! - SCREEN ONLINE(スクリーンオンライン)|url=https://screenonline.jp/_ct/17160566|website=screenonline.jp|accessdate=2020-12-27}}</ref>。 * [[NHKスペシャル]] 東京リボーン(テレビ番組、2018年) - 一部デザイン監修。 ==== 原作提供 ==== * 高校エロトピア 赤い制服(1981年) - [[日活ロマンポルノ|にっかつロマンポルノ]]映画。短編「任侠シネマクラブ」映像化。[[白鳥信一]]監督。 * シャッフル(1981年) - 短編映画。短編「RUN」を実写映像化。監督:[[石井聰亙]] 出演:[[室井滋]]ほか。大友と連絡が取れなかったという理由で無許可で撮影を始め、後で承認される。後から知らされた大友は一言声をかけて欲しいとコメントしている{{Sfn|森達也の夜の映画学校|2006|p= }}。 * 不可思議物語(1988年) - オムニバスVシネマの中の一作。短編「猫はよく朝方に帰ってくる」を実写映像化。監督:[[山川直人 (映画監督)|山川直人]] 出演:[[三上博史]]、室井滋ほか * SO WHAT(1988年) - 劇場公開映画。同名の短編を実写映像化。監督:山川直人 出演:[[東幹久]]、室井滋、[[竹中直人]]ほか * 新SOS大東京探検隊(2006年)原作・キャラクター原案。 - 劇場アニメ映画。 == 関連人物 == ; [[石ノ森章太郎]] : 大友は石ノ森と同郷、同高校の出身であり、特に意識していた漫画家として石ノ森と[[園田光慶]](『アイアン・マッスル』)を挙げている{{Sfn|ぱふ7月号|1979|p= 26}}。 ; [[江口寿史]] : 江口は自分の絵柄がイラスト的になっていったことについて、大友の影響が大きかったことを語っている。住まいが近かったため一時期はよく一緒に飲んでいたという。『[[老人Z]]』への参加も飲み話がきっかけに実現したものであった{{Sfn|BRUTAS1月1日・15日合併号|2007|p= 30}} ; [[ジャン・ジロー]](メビウス) : しばしば画風が似ていることが指摘されており、大友自身「非常に好きな作家」として名を挙げている{{Sfn|ぱふ7月号|1979|p= 29-30}}。メビウスのほうも1984年 - 85年頃に大友の『さよならにっぽん』に衝撃を受けて以来興味を持ち、相互に影響し合っていると語っている{{Sfn|BRUTAS1月1日・15日合併号|2007|p= 30}}。 ; [[ナイン・オールドメン]] : 大友のアニメーションの仕事では、初期の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニーアニメ]]を支えたナイン・オールドメンの影響があり、『工事中止命令』(1988年)では画集を見ながら作業していたという<ref name="animestyle">{{Cite web|和書|url=http://style.fm/as/01_talk/morimoto03.shtml |author= |title= animator interview 森本晃司(3)|date= 2001-07-11|accessdate= 2009-10-20|website=[[WEBアニメスタイル]]|publisher=株式会社スタイル}}</ref>。 ; [[浦沢直樹]] : 19、20歳の頃に大友の登場に衝撃を受け、絵柄がガラッと変わって大友のような絵を描くようになったという<ref name="naoki-urasawa"/>。 ; [[中川いさみ]] : 大友が中川の漫画を気に入っており、後に中川の「マンガ家再入門」でストーリー漫画の指導をし、本作では大友が登場する。 ; [[宮崎駿]] : 1982年の講演で[[諸星大二郎]]と並べて「半分ぐらい好き」と評している。「ぼくの好きな漫画家は諸星大二郎なんです。大友克洋も半分ぐらい好きです。なぜ好きかといえば、通俗文化――といって悪い意味で使っているわけじゃありません――の中で、それから逃れられない人たちが大勢いる中で、諸星大二郎・大友克洋の絵を見たとき、非常に清々した気分になる」{{Sfn|映画 風の谷のナウシカ GUIDE BOOK|1984|p=176}} === アシスタント === * [[高寺彰彦]] * [[今敏]] * 末武康光 * [[守村大]] - 臨時アシスタント{{Sfn|モーニング34号|2017|p=}}。 == 脚注 == === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} === 参考文献 === * {{Cite book|和書|date = 2003-02-01|author =まんがseek・日外アソシエーツ編集部 |editor = |title = 漫画家人名事典|publisher = [[日外アソシエーツ]]|series =|isbn = 4-81691-760-8|ref = {{SfnRef|漫画家人名事典|2003}}}} * {{Cite journal|和書|author = |editor = |date=2009-08-20|title= ニューウェーブ・キイワード事典|journal= フリースタイル9 特集:1979 COMIC REVOLUTION|issue=|publisher= [[フリースタイル (出版社)|株式会社フリースタイル]]|isbn=978-4-939138-47-8|ref = {{SfnRef|フリースタイル9|2009}}}} * {{Cite journal|和書|author = |editor =レッカ社 |date=2004-10-01|title= 第1話 『童夢』大友克洋|journal= BSマンガ夜話―ニューウェーブセレクション|issue= |publisher= [[カンゼン]]|isbn=978-4-901782-36-4|ref = {{SfnRef|BSマンガ夜話ニューウェーブセレクション|2004}}}} * {{Cite journal|和書|author =真崎守 |editor = |date=1979-06-10|title= インタビュー 大友克洋|journal= ぱふ1979年7月号 特集 大友克洋の世界|issue= |publisher= [[カンゼン]]|isbn=978-4-901782-36-4|ref = {{SfnRef|ぱふ7月号|1979}}}} * {{Cite journal|和書|author =米沢嘉博 |editor = |date=1988年8月|title= マンガからのエクソダス 大友克洋についての覚書15項|journal= ユリイカ1988年8月臨時増刊号 総特集=大友克洋|issue=|publisher= [[青土社]]|isbn=978-4-7917-0993-9|ref = {{SfnRef|ユリイカ8月臨時増刊号|1988}}}} * {{Cite book|和書|date = 1987-12-01|author =村上知彦、高取英、米澤嘉博 |editor = |title = マンガ伝 ―「巨人の星」から「美味しんぼ」まで|publisher = [[平凡社]]|series =|isbn = 4-58274-206-8|ref = {{SfnRef|マンガ伝|1987}}}} * {{Cite book|和書|date = 2004-03-01|author =佐藤忠男|editor = |title = 決定版!日本映画200選―ビデオ&DVDで観たい |publisher = [[清流出版]]|series =|isbn = 4-86029-071-2|ref = {{SfnRef|決定版!日本映画200選|2004}}}} * {{Cite book|和書|date = 1995-06-23|author =夏目房之介|editor = |title = 手塚治虫の冒険 戦後マンガの神々|publisher = [[筑摩書房]]|series =|isbn = 4-48081-380-2|ref = {{SfnRef|手塚治虫の冒険|1995}}}} * {{Cite journal|和書|author = |editor = |date=2006-12-15|title= 別冊付録『大友克洋 新解説』|journal= BRUTAS2007年1月1日・15日合併号|issue=|publisher= [[マガジンハウス]]|isbn=|ref = {{SfnRef|BRUTAS1月1日・15日合併号|2007}}}} * {{Cite book|和書|date = 2004-05-20|author =[[ササキバラ・ゴウ]]|editor = |title = 「美少女」の現代史 |publisher = [[講談社現代新書]]|series =|isbn = 4-06149-718-9|ref = {{SfnRef|「美少女」の現代史|2004}}}} * {{Cite book|和書|date = 2006-04-01|author =[[森達也]]|editor = |title =森達也の夜の映画学校 |publisher = [[現代書館]]|series =|isbn = 4-76847-677-5|ref = {{SfnRef|森達也の夜の映画学校|2006}}}} * {{Cite journal|和書|author = |editor = |date=1984-03-30|title= 自分の原点|journal= アニメージュ増刊 映画 風の谷のナウシカ GUIDE BOOK |issue=|publisher= [[徳間書店]]|isbn=|ref= {{SfnRef|映画 風の谷のナウシカ GUIDE BOOK |1984}}}} * {{Cite journal|和書|author = |editor = |date=1984-03-30|title= 『ガマンできないマンガ』教えます! 守村大編|journal= モーニング2017年34号|issue=|publisher= 講談社|isbn=|ref = {{SfnRef|モーニング34号|2017}}}} == 外部リンク == * {{Twitter|otomo_zenshu|大友全集(@otomo_zenshu)}} * {{Kinejun name|89793}} * {{Mediaarts-db|C55211|大友克洋}} * {{YouTube|vM0EefzdCSY|Katsuhiro Otomo Receives Winsor McCay at the 2014 Annie Awards}} [[アニー賞]] 大友克洋 [[ウィンザー・マッケイ賞]](受賞スピーチ映像) {{大友克洋}} {{日本SF大賞|第4回}} {{星雲賞コミック部門}} {{文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおとも かつひろ}} [[Category:大友克洋|*]] [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本の映画監督]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:ガンダムシリーズの監督]] [[Category:SF映画監督]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:日本のキャラクターデザイナー]] [[Category:アニメのキャラクターデザイナー]] [[Category:メカニックデザイナー]] [[Category:ガンダムのデザイナー]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:アニー賞受賞者]] [[Category:アングレーム国際漫画祭グランプリ受賞者]] [[Category:アイズナー賞殿堂入りの人物]] [[Category:宮城県出身の人物]] [[Category:1954年生]] [[Category:存命人物]]
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大橋薫
大橋 薫(おおはし かおる、1966年3月24日 - )は、日本の漫画家。 「狼のエンブレム」(原作:平井和正&ウルフガイプロジェクト)でデビューする。 一卵性双生児の妹に漫画家の楠桂がおり、姉妹での合同作品も多数発表している。 『ファンロード』(ラポート)出身作家で、一本木蛮、児嶋都、ながいけんらと共に一時代を築いた。
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大橋 薫は、日本の漫画家。
{{Other people}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 大橋 薫 | ふりがな = | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1966|3|24}} | 生地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1966|3|24|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = <!-- XXXX年 - YYYY年 --> | ジャンル = <!-- [[少年漫画]] [[少女漫画]] [[青年漫画]] [[成年向け漫画]] [[女性漫画]]など --> | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [http://www.ngy1.1st.ne.jp/~k2office/ K2OFFICE] {{ja icon}} }} '''大橋 薫'''(おおはし かおる、[[1966年]][[3月24日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。 == 来歴 == {{出典の明記|date=2023年11月|section=1}} 「狼のエンブレム」(原作:[[平井和正]]&ウルフガイプロジェクト)でデビューする。 [[双生児|一卵性双生児]]の妹に漫画家の[[楠桂]]がおり、姉妹での合同作品も多数発表している。 {{独自研究範囲|date=2022-10-01|『[[ファンロード]]』([[ラポート]])出身作家で、[[一本木蛮]]、[[児嶋都]]、[[ながいけん]]らと共に一時代を築いた。}} == 作品リスト == * 衰族館 * 悪魔のお店-Shadow & Maria- * あなたのチアペット * いけない華子先生 ほけん-の-せんせ * 祈殺 * S○X * エデンのどん底 * エロカワ王子 * ANGEL ガラスの天使 * エンゼルのお仕事 * 大橋 薫イラスト集 BOX * オカルト・ゾーン 大橋薫怪奇作品集 <!-- * オカルト・ゾーン --> * オカルト・バージン * 乙姫BOMB! * 鬼姫祭り * 勝手にシンデレラコンプレックス * かなづちマーメイド * ガラスの天使 * 口裂け少女さっちゃん(原作:[[大塚英志]]) * くるぐる使い(原作:[[大槻ケンヂ]]) * 月曜日の人魚 * 検察側の証人 * GOGO昇天! * 御主人様の言うとおり * サイコ・クラッシュ! * 桜の君 極道の乙女たち * C ガールズトーク * シスタートラップ * 週末は行方不明 * セルロイド カーニバル * セルロイド カーニバル カーテンコール * タック&タカチの事件簿 16秒間の密室(原作:[[西澤保彦]]) * タック&タカチの事件簿2 6つの箱の死体(原作:西澤保彦) * 月夜のヒロイン * DEAD DREAM * トーキョーエクソシスト 帝都祓魔師 * Dolls Don't Cry * 年上な彼女たち * 人形使いサウジーネ・サーカス団 * 人魚の首 * 眠り姫は夢を見ない * バスターズ! * 万能少女 * ヒカルンパッ☆(『[[別冊ヤングマガジン]]』、[[講談社]]、全2巻) * ビッグマウスホラーショー * HIMEGOTO * FANGU〜牙〜 * 不良少年 * 分心 * ヘンカノ(『別冊ヤングマガジン』、講談社、単巻) * ボディコン英雄伝説 * 魔女からの伝言 * ポワゾンディナー * 魔女のいる教室 * 真澄鏡 * 迷いの街 * 真夜中の童話 * マリアに殺される * 巫女っす!(『[[ヤングキング]]』、[[少年画報社]]、全3巻) * ミナゴロシ * REJECT(不良品) * 流刑教室 * 霊獣都市 * レミングの行方 * カリブの海に抱かれて(原作:アン・メイザー、ハーレクイン、2018年3月、単巻) * 国王がついた嘘(原作:メイシー・イエーツ、ハーレクイン、2018年9月、単巻) * 腐乱禁忌(『ホラーシルキー』Vol.1<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/355281|title=白泉社の新Web雑誌ホラーシルキー、愛田真夕美や亜月亮らの7作掲載|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2019-11-13|accessdate=2021-09-17}}</ref>、白泉社、2019年) * プロポーズは唐突に(原作:キャロル・マリネッリ、ハーレクイン、2020年3月、単巻) * ウェイド一族(原作:キャロル・モーティマー、ハーレクイン、2021年3月、単巻) * 変態華族は視線で犯す〜徒花の淫美な箱庭〜(ぶんか社、2021年9月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b590778.html|title=変態華族は視線で犯す〜徒花の淫美な箱庭〜|publisher=ぶんか社|accessdate=2022-10-01}}</ref>、単巻) * うたかたの蜜月(原作:メイシー・イエーツ、ハーレクイン、2022年3月<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/468697|title=【3月10日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-10|accessdate=2022-03-11}}</ref>、単巻) * エロゲーのビッチ令嬢に転生したけど、純愛ルート目指します!(ぶんか社、2022年9月<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bunkasha.co.jp/book/b612177.html|title=エロゲーのビッチ令嬢に転生したけど、純愛ルート目指します!|publisher=ぶんか社|accessdate=2022-10-01}}</ref>、単巻) === 楠桂との合作 === * 戦国月夜 * Diaboro -悪魔- * 大橋薫&真弓(楠桂)作品集 * リトル・ショップ・オブ大橋姉妹 * 楠桂&大橋薫合作作品集 K2 OFFICE === アンソロジー === * 東日本大震災チャリティー漫画本 PARTY! HANA<ref group="注">計36人の作家による作品。</ref><ref>{{Cite web|和書|url=ttp://marga2011charity.blog.fc2.com/ |title=PARTY!〜東日本大震災チャリティー漫画本〜HP|author=[[ななじ眺]]・[[葉月めぐみ]] |accessdate=2016-06-05}}</ref>(2011年8月5日発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mediapal.co.jp/book/201/ |title=東日本大震災チャリティー漫画本 PARTY! HANA|大橋 薫他|チャリティー漫画本|出版案内 |publisher=株式会社メディアパル |accessdate=2016-06-05}}</ref>、メディアパル、ISBN 978-4-89610-201-7) ** いけない華子先生 ほけん-の-せんせ 番外編<ref>{{Cite web|和書|date=2011-07-18 |url=https://natalie.mu/comic/news/53232 |title=「君届」番外編も!マーガレット作家によるチャリティ本|work=コミックナタリー |publisher=[[ナタリー (ニュースサイト)|株式会社ナターシャ]] |accessdate=2016-06-05}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.ngy1.1st.ne.jp/~k2office/ K2OFFICE] {{ja icon}} (公式ウェブサイト、実妹・楠桂と共同) * ttp://k2officekaoru.blog66.fc2.com/ K2OFFICE大橋薫 公式ブログ 漫画家大橋薫のお仕事近況日常日記] {{ja icon}} * {{Twitter|ohashikaoru|大橋薫 公式Twitter}} {{ja icon}} (2011年 1月20日 20:47 - ) ※ [[協定世界時|UTC]]表記。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{デフォルトソート:おおはし かおる}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:成人向け漫画家]] [[Category:一卵性双生児]] [[Category:日本出身の双子]] [[Category:1966年生]] [[Category:存命人物]]
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大森葵
大森 葵(おおもり あおい、11月6日 - )は、日本の漫画家・イラストレーター。ファンタジー作品を描く傍ら、PlayStation 2用ゲームソフト『サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼』ではいるも晴章名義でキャラクターデザインを務めた。
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大森 葵は、日本の漫画家・イラストレーター。ファンタジー作品を描く傍ら、PlayStation 2用ゲームソフト『サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼』ではいるも晴章名義でキャラクターデザインを務めた。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 大森 葵 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢| |11|6}} |生地 = |没年 = |没地 = |国籍 = {{JPN}} |職業 = [[漫画家]]・[[イラストレーター]] |活動期間 = |ジャンル = [[少年漫画]] |代表作 = 『[[SOUL GADGET RADIANT]]』 |受賞 = |サイン = |公式サイト = {{Official|http://irumo.vis.ne.jp/|晴章堂WebSite}} }} '''大森 葵'''(おおもり あおい、[[11月6日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]・[[イラストレーター]]。[[ファンタジー]]作品を描く傍ら、[[PlayStation 2]]用[[ゲームソフト]]『[[サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼]]』では'''いるも晴章'''名義で[[キャラクターデザイン]]を務めた。 == 作品 == === 漫画 === * [[アルゴレスト バスターズ]] * [[ソニックウィザード]] * [[ファントムウィザード]] * [[勇者王ガオガイガーFINAL]] the COMIC * [[SOUL GADGET RADIANT]](全10巻) * [[シルシア=コード]](『[[月刊ComicREX]]』2016年1月号<ref name="CYLCIA-start">{{Twitter status2|irumo|658971629133807616|4=大森葵/いるも晴章の2015年10月27日のツイート|accessdate = 2015-11-05}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://natalie.mu/comic/news/167324 |title=「ひめゴト」の佃煮のりお、新連載はアイドル声優業界描く「ヒロインボイス」|newspaper=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2015-11-27 |accessdate=2022-10-18}}</ref> - 2018年12月号、全4巻) * [[Fate/Grand_Order#漫画|Fate/Grand Order -Epic of Remnant- 亜種特異点IV 禁忌降臨庭園 セイレム 異端なるセイレム]]』(『月刊ComicREX』2019年3月号 - 連載中、既刊6巻) === キャラクターデザイン === * [[ラストスタンド (ゲーム)|ラストスタンド]] ([[ワンダースワン]]用ゲームソフト) * [[サモンナイトエクステーゼ 夜明けの翼]] (PlayStation 2用ゲームソフト) === イラスト === * 「自由」(『[[ガンガンONLINE]]』2009年6月25日) いるも晴章名義 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Official website|http://irumo.vis.ne.jp/|晴章堂WebSite}} * {{Twitter|irumo}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おおもり あおい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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大山和栄
大山 和栄(おおやま かずえ、生年不詳(2月16日生) - 2010年4月)は、日本の女性漫画家。長崎県平戸市出身。血液型はO型。 1973年、小学館の少女向け漫画雑誌『週刊少女コミック』にて「おむこさん志願」でデビュー。以降同誌や、同社の一般女性向けの漫画雑誌『プチセブン』などを中心に多数の連載作品を執筆していた。また講談社、秋田書店などの少女向け漫画誌でも主に短編作品を発表していた。 2002年、乳がんに罹患していることが分かり、摘出手術を受けた。以降、乳がんの撲滅運動であるピンクリボン運動にもかかわっていた。また、その闘病体験を生かした作品である『未来暦』やエッセイ作品『明日への伝言』、『乳がんと闘う!!ピンクのリボン』なども発行された。 2009年10月頃より癌が再発した事実を自らのブログに公表し、闘病の記録を綴っていたが、2010年4月初旬自身のブログにて体調が急変したことを伝える記事を執筆していたのが最後の記事となった。その後、同月に亡くなっていたことが判明し、同年6月に故郷である平戸市にてお別れの会が執り行われた。 長崎県平戸の風土をこよなく愛し、作品の中にも数多く登場させていた。例えば『姉妹坂』における茜の出生地が長崎の平戸であり、後に息を引き取る場所も平戸であった。平戸の復興とイメージアップに対し、ピンクリボン運動の講演会などで熱く情熱的に語り、ピンクリボン運動を通して自らも行動を起こしていた。 大学の教壇に立ち、新たな可能性を秘めた若い才能を育てつつ、心に傷を持つ若者達(不登校児童)との交流にも力を注いでいた。 後進の女性漫画家のみならず、漫画を中心とした文化に対して与えた影響には多大なものがあり、画力とストーリーを兼ね備えた本格派の女性漫画家として道を開いた人物であり、作中のキャラクターに対し、個性ではなくシュールな人物としての性格を取り込ませ表現する手法を用いた作家でもあった。 1982年、歌手・女優である小泉今日子のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず、大山が描いた彼女の似顔絵のイラストが使用された。この縁で、小泉のアルバム『詩色の季節』(LP盤、レーベル:ビクターエンタテインメント)のうち、B面に収録された曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山のイラストがちりばめられている。 1984年、『週刊少女コミック』主催の『ザ・スカウトオーディション』において大山の代表作の1つである『シューティングスター』の主人公の名をグランプリとして冠した『浅香唯賞』に川崎亜紀が受賞。これを機に、川崎亜紀は芸名「浅香唯」として芸能界入りし、アイドルタレントとして活躍することとなる。 代表作の1つである『姉妹坂』は1985年に東宝より映画化された。また『未来暦』と『典子、点、テン』は中国でも発売されている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大山 和栄(おおやま かずえ、生年不詳(2月16日生) - 2010年4月)は、日本の女性漫画家。長崎県平戸市出身。血液型はO型。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "1973年、小学館の少女向け漫画雑誌『週刊少女コミック』にて「おむこさん志願」でデビュー。以降同誌や、同社の一般女性向けの漫画雑誌『プチセブン』などを中心に多数の連載作品を執筆していた。また講談社、秋田書店などの少女向け漫画誌でも主に短編作品を発表していた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "2002年、乳がんに罹患していることが分かり、摘出手術を受けた。以降、乳がんの撲滅運動であるピンクリボン運動にもかかわっていた。また、その闘病体験を生かした作品である『未来暦』やエッセイ作品『明日への伝言』、『乳がんと闘う!!ピンクのリボン』なども発行された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2009年10月頃より癌が再発した事実を自らのブログに公表し、闘病の記録を綴っていたが、2010年4月初旬自身のブログにて体調が急変したことを伝える記事を執筆していたのが最後の記事となった。その後、同月に亡くなっていたことが判明し、同年6月に故郷である平戸市にてお別れの会が執り行われた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "長崎県平戸の風土をこよなく愛し、作品の中にも数多く登場させていた。例えば『姉妹坂』における茜の出生地が長崎の平戸であり、後に息を引き取る場所も平戸であった。平戸の復興とイメージアップに対し、ピンクリボン運動の講演会などで熱く情熱的に語り、ピンクリボン運動を通して自らも行動を起こしていた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大学の教壇に立ち、新たな可能性を秘めた若い才能を育てつつ、心に傷を持つ若者達(不登校児童)との交流にも力を注いでいた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "後進の女性漫画家のみならず、漫画を中心とした文化に対して与えた影響には多大なものがあり、画力とストーリーを兼ね備えた本格派の女性漫画家として道を開いた人物であり、作中のキャラクターに対し、個性ではなくシュールな人物としての性格を取り込ませ表現する手法を用いた作家でもあった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1982年、歌手・女優である小泉今日子のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず、大山が描いた彼女の似顔絵のイラストが使用された。この縁で、小泉のアルバム『詩色の季節』(LP盤、レーベル:ビクターエンタテインメント)のうち、B面に収録された曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山のイラストがちりばめられている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1984年、『週刊少女コミック』主催の『ザ・スカウトオーディション』において大山の代表作の1つである『シューティングスター』の主人公の名をグランプリとして冠した『浅香唯賞』に川崎亜紀が受賞。これを機に、川崎亜紀は芸名「浅香唯」として芸能界入りし、アイドルタレントとして活躍することとなる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "代表作の1つである『姉妹坂』は1985年に東宝より映画化された。また『未来暦』と『典子、点、テン』は中国でも発売されている。", "title": "概要" } ]
大山 和栄は、日本の女性漫画家。長崎県平戸市出身。血液型はO型。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 大山 和栄(おおやま かずえ) |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢||2|16}} |生地 = {{JPN}}[[長崎県]][[平戸市]] |没年 = {{死亡年月日と没年齢||4|21|2010|4||}} |没地 = |血液型 = O型 |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1973年]] - [[2010年]] |ジャンル = [[少女漫画]]、[[エッセイ漫画]] |代表作 = [[姉妹坂]](全19巻)<br>赫い花(全12巻)<br>シューティングスター(全3巻) |受賞 = |サイン = |公式サイト = {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/yumegomori/ |title=ユメゴモリ |date=20190331140922}} }} '''大山 和栄'''(おおやま かずえ、生年不詳([[2月16日]]生) - [[2010年]][[4月]])は、[[日本]]の[[女性]][[漫画家]]。[[長崎県]][[平戸市]]出身。血液型はO型。 == 来歴 == [[1973年]]、[[小学館]]の少女向け漫画雑誌『[[週刊少女コミック]]』にて「おむこさん志願」でデビュー。以降同誌や、同社の一般女性向けの漫画雑誌『[[プチセブン]]』などを中心に多数の連載作品を執筆していた。また[[講談社]]、[[秋田書店]]などの少女向け漫画誌でも主に短編作品を発表していた。 [[2002年]]、[[乳癌|乳がん]]に罹患していることが分かり、摘出手術を受けた。以降、乳がんの撲滅運動である[[ピンクリボン]]運動にもかかわっていた。また、その闘病体験を生かした作品である『未来暦』やエッセイ作品『明日への伝言』、『乳がんと闘う!!ピンクのリボン』なども発行された。 [[2009年]]10月頃より癌が再発した事実を自らのブログに公表し、闘病の記録を綴っていたが、[[2010年]]4月初旬自身のブログにて体調が急変したことを伝える記事を執筆していたのが最後の記事となった。その後、同月に亡くなっていたことが判明し、同年6月に故郷である平戸市にてお別れの会が執り行われた<ref>[http://fucoxanthin-extra.com/?p=3937 参考サイト「末期癌を克服するフコキサンチン療法」] 2010年11月9日閲覧</ref>。 == 概要 == 長崎県平戸の風土をこよなく愛し、作品の中にも数多く登場させていた。例えば『姉妹坂』における茜の出生地が長崎の平戸であり、後に息を引き取る場所も平戸であった。平戸の復興とイメージアップに対し、ピンクリボン運動の講演会などで熱く情熱的に語り、ピンクリボン運動を通して自らも行動を起こしていた。 大学の教壇に立ち、新たな可能性を秘めた若い才能を育てつつ、心に傷を持つ若者達(不登校児童)との交流にも力を注いでいた<ref>ただし前述のとおり、2009年10月に再発が発覚し、これらの活動を一時中止し、その後亡くなったため、これらの活動に復帰することは叶わなかった。</ref>。 後進の女性漫画家のみならず、漫画を中心とした文化に対して与えた影響には多大なものがあり、画力とストーリーを兼ね備えた本格派の女性漫画家として道を開いた人物であり、作中のキャラクターに対し、個性ではなくシュールな人物としての性格を取り込ませ表現する手法を用いた作家でもあった。 [[1982年]]、歌手・女優である[[小泉今日子]]のデビューにあたり、プロモーションとして当初は写真の公表をせず、大山が描いた彼女の似顔絵のイラストが使用された。この縁で、小泉のアルバム『[[詩色の季節]]』([[LP盤]]、レーベル:[[ビクターエンタテインメント]])のうち、B面に収録された曲の作詞を担当する。作品は物語仕立ての内容となっており、歌詞カードには大山のイラストがちりばめられている。 [[1984年]]、『週刊少女コミック』主催の『ザ・スカウトオーディション』において大山の代表作の1つ<ref>大山和栄本人のHPのプロフィールに代表作として明記されている。</ref>である『シューティングスター』の主人公の名をグランプリとして冠した『浅香唯賞』に川崎亜紀が受賞。これを機に、川崎亜紀は芸名「[[浅香唯]]」として芸能界入りし、[[アイドル]][[タレント]]として活躍することとなる<ref>浅香唯本人公式HPのプロフィールなど参考。</ref>。 代表作の1つである『姉妹坂』は[[1985年]]に[[東宝]]より映画化された。また『未来暦』と『典子、点、テン』は[[中華人民共和国|中国]]でも発売されている<ref>[[台湾]]の[[出版社]]である[[東立出版社]]が発行。</ref>。 == 作品リスト == <!-- 基本的に発行順にソートしております --> === 一般漫画作品 === * 独り遊技(小学館 全1巻)※短編集<!-- 発行時期や単行本情報不明ですがおそらく著者にとって一番最初のコミックスだと思われます --> * 恋糸車(小学館 全6巻)原作:[[落合恵子]] # ISBN 9784-091303110(1977年10月) # ISBN 9784-091303127(1977年12月) # ISBN 9784-091303134(1978年2月) # ISBN 9784-091303141(1978年4月) # ISBN 9784-091303158(1978年6月) # ISBN 9784-091303165(1978年8月) * なつめのある家([[朝日ソノラマ]] 全1巻)<!-- ISBNコードは不明ですが無いと考えられます -->(1978年11月) * 春なかば(朝日ソノラマ 全1巻)<!-- ISBNコードは不明ですが無いと考えられます -->(1978年11月) * わた雪ふんわり(朝日ソノラマ 全1巻)<!-- ISBNコードは不明ですが無いと考えられます -->(1978年11月) * [[姉妹坂]](小学館 全19巻) * ほおずきの村へ(秋田書店 全1巻)ISBN 9784253071758(1980年12月) * 夢色の積み木箱(講談社 全1巻)ISBN 9784061089662(1981年4月) * 夢みたものは(小学館 全1巻)ISBN 9784091308023(1981年12月)※短編集 * 太陽の味がする(小学館 全3巻) # ISBN 9784091310712(1982年8月) # ISBN 9784091310729(1982年11月) # ISBN 9784091310736(1983年3月) * たんぽぽ便り(秋田書店 全1巻)ISBN 9784253072441(1983年7月) * シューティングスター(小学館 全3巻) # ISBN 9784091316813(1984年10月) # ISBN 9784091316820(1985年1月) # ISBN 9784091316837(1985年2月) * 北野模様(小学館 全4巻) # ISBN 9784091321916(1985年12月) # ISBN 9784091321923(1986年4月) # ISBN 9784091321930(1986年9月) # ISBN 9784091321947(1987年2月) * ぼだいじゅ(ヒット出版 全2巻)<!-- ISBNコードは不明です --> # 1986年2月発行 # 1986年4月発行 * 風の岐路(秋田書店 全1巻)ISBN 9784253120074(1986年3月) * 蒼いしあわせ(講談社 全1巻)ISBN 9784061701434(1986年11月) * 赫い花<!-- (読み:あかいはな) -->(小学館 全12巻) # ISBN 9784091776518(1989年4月) # ISBN 9784091776525(1989年6月) # ISBN 9784091776532(1989年9月) # ISBN 9784091776549(1989年11月)  # ISBN 9784091776556(1990年4月) # ISBN 9784091776563(1990年10月) # ISBN 9784091776570(1991年4月) # ISBN 9784091776587(1991年6月) # ISBN 9784091776594(1991年10月) # ISBN 9784091776600(1992年2月) # ISBN 9784091776617(1992年4月) # ISBN 9784091776624(1992年6月) * 典子、点、テン(双葉社 全1巻)ISBN 9784575331271(1991年7月) * 都わすれ(小学館 全11巻) # ISBN 9784091776716(1993年5月) # ISBN 9784091776723(1993年7月) # ISBN 9784091776730(1993年10月) # ISBN 9784091776747(1994年1月) # ISBN 9784091776754(1994年4月) # ISBN 9784091776761(1994年6月) # ISBN 9784091776778(1994年9月) # ISBN 9784091776785(1995年11月) # ISBN 9784091776792(1995年11月) # ISBN 9784091776808(1995年12月) # ISBN 9784091777119(1995年12月) * 未来暦([[集英社]] 1巻)ISBN 9784420150774(2005年12月) === エッセイ漫画作品 === * 明日への伝言―乳がんと闘う女性たち([[秋田書店]])ISBN 9784253104968(2004年7月) * 乳がんと闘う!!ピンクのリボン(集英社)ISBN 9784420151429(2008年01月) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * {{Wayback|url=http://www.geocities.jp/yumegomori/ |title=ユメゴモリ |date=20190331140922}} - 本人公式HP {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おおやま かすえ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:20世紀生]] [[Category:2010年没]]
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岡崎京子
岡崎 京子(おかざき きょうこ、1963年〈昭和38年〉12月13日 - )は、日本の漫画家。 1980年代から1990年代にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた。しかし作家活動の頂点にあった1996年(平成8年)に交通事故で重傷を負い、後遺症で作家生命を事実上絶たれた。 休筆後20年以上を経てもなお、過去作品が断続的に復刊され、また映画化されている。 東京都世田谷区下北沢の理髪店の娘として生まれる。 東京都立松原高等学校時代から橘川幸夫編集の投稿雑誌『ポンプ』等にイラストや漫画を頻繁に投稿。妹とともに表紙を飾ったこともある。 他、ミニコミ誌「リサイクル・サークル」内にイラストを提供。モチーフの多くはNew Age Steppersなどニューウェイブバンドであった。この頃、音楽家集団京浜兄弟社の加藤賢崇、常盤響、岸野雄一らと交流。跡見学園女子大学短期大学部在学中、友人の同人誌への投稿作品が、メジャーミニコミ誌『東京おとなクラブ』に転載されたものが、雑誌 『漫画ブリッコ』編集者・大塚英志に評価され、 1983年(昭和58年)、『漫画ブリッコ』(白夜書房)6月号にてデビュー。 1980年代から1990年代にかけて、サブカル誌、漫画誌、ファッション誌などに作品が掲載され、また新しいタイプの女性漫画家として内田春菊、桜沢エリカ、原律子らとともに、一般誌にも紹介される。岡崎の作品では、映画、小説、音楽、現代思想書などからの引用が多用され、また同時に岡崎の漫画表現を考察する本や雑誌も多く出版されている。岡崎の作品 『ヘルタースケルター』は2003年(平成15年)度文化庁メディア芸術祭・マンガ部門優秀賞、2004年(平成16年)第8回手塚治虫文化賞・マンガ大賞を受賞。 岡崎のアシスタントを務めていたことがあるのは安野モヨコ、よしもとよしとも、マユタン、千里唱子、坂本大三郎らの漫画家。また後のアートライター工藤キキもアシスタントだったことがある。 結婚後の1996年(平成8年)5月19日18時半頃、自宅付近にて夫と共に散歩中、飲酒運転の大型四輪駆動車にひき逃げされ、自力で呼吸できないほどの重傷を負ったうえ、意識障害が続き創作休止と長期療養を余儀なくされる。 岡崎の家族の了解をとって角川書店が1998年(平成10年)に『UNTITLED』を刊行。題名は編集部と家族が話し合い決定している。 以前からファンであり親交がある小沢健二のコンサートに事故の14年後(2010年(平成22年)5月)に車椅子に乗り訪れる。 『ヘルタースケルター』の映画化に際して事故後初の岡崎本人の発言が2012年1月に発表される。 初の大規模個展「戦場のガールズ・ライフ」が2015年に東京・世田谷文学館で開かれ、その後、兵庫と福岡へも巡回した。
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岡崎 京子は、日本の漫画家。 1980年代から1990年代にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた。しかし作家活動の頂点にあった1996年(平成8年)に交通事故で重傷を負い、後遺症で作家生命を事実上絶たれた。 休筆後20年以上を経てもなお、過去作品が断続的に復刊され、また映画化されている。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 岡崎 京子 |画像 = |画像サイズ = |脚注 = |本名 = |生年 = {{生年月日と年齢|1963|12|13}} |生地 = {{JPN}}・[[東京都]][[世田谷区]][[下北沢]]<ref name="chiwawacyan comic "/> |没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}} --> |没地 = |国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1983年]] - [[1996年]] |ジャンル = |代表作 = 『[[Pink (岡崎京子の漫画)|PINK]]』<br/>『[[リバーズ・エッジ (漫画)|リバーズ・エッジ]]』<br/>『[[ヘルタースケルター (漫画)|ヘルタースケルター]]』<br/>『危険な二人』<br/>『[[マジック・ポイント]]』<ref name="chiwawacyan comic ">[https://www.kadokawa.co.jp/product/321810000081/ チワワちゃん] そでのプロフィールより</ref> |受賞 = [[2003年]]度[[文化庁メディア芸術祭]]・マンガ部門優秀賞<br/>[[2004年]]第8回[[手塚治虫文化賞]]・マンガ大賞<br/>(以上『[[ヘルタースケルター (漫画)|ヘルタースケルター]]』) |サイン = |公式サイト = }} '''岡崎 京子'''(おかざき きょうこ、[[1963年]]〈[[昭和]]38年〉[[12月13日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。 [[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて、多くの優れた作品を発表、時代を代表する漫画家として知られた<ref name="media" />。しかし作家活動の頂点にあった[[1996年]]([[平成]]8年)に[[交通事故]]で重傷を負い、[[後遺症]]で作家生命を事実上絶たれた。 休筆後20年以上を経てもなお、過去作品が断続的に復刊され、また[[映画化]]されている。 == 来歴 == [[東京都]][[世田谷区]][[下北沢]]の[[理髪店]]の娘として生まれる。 [[東京都立松原高等学校]]時代から[[橘川幸夫]]編集の投稿雑誌『[[ポンプ (雑誌)|ポンプ]]』等にイラストや漫画を頻繁に投稿。妹とともに表紙を飾ったこともある。 他、ミニコミ誌「[[リサイクル・サークル]]」内にイラストを提供。モチーフの多くは[[New Age Steppers]]などニューウェイブバンドであった。この頃、音楽家集団[[京浜兄弟社]]の[[加藤賢崇]]、[[常盤響]]、[[岸野雄一]]らと交流。[[跡見学園女子大学短期大学部]]在学中、友人の同人誌への投稿作品が、メジャーミニコミ誌『東京おとなクラブ』に転載されたものが、雑誌 『[[漫画ブリッコ]]』編集者・[[大塚英志]]に評価され、 [[1983年]]([[昭和]]58年)、『漫画ブリッコ』([[白夜書房]])6月号にてデビュー<ref name="kenkyuu" /><ref name="shigotosyuu" />。 [[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて、[[サブカルチャー|サブカル]]誌、漫画誌、ファッション誌などに作品が掲載され、また新しいタイプの女性漫画家として[[内田春菊]]、[[桜沢エリカ]]、[[原律子]]らとともに、一般誌にも紹介される。岡崎の作品では、映画、小説、音楽、現代思想書などからの引用が多用され<ref name="bungei" />、また同時に岡崎の漫画表現を考察する本や雑誌も多く出版されている<ref name="media" />。岡崎の作品 『[[ヘルタースケルター (漫画)|ヘルタースケルター]]』は[[2003年]]([[平成]]15年)度[[文化庁メディア芸術祭]]・マンガ部門優秀賞、[[2004年]]([[平成]]16年)第8回[[手塚治虫文化賞]]・マンガ大賞を受賞<ref name="mito"/>。 岡崎のアシスタントを務めていたことがあるのは[[安野モヨコ]]、[[よしもとよしとも]]、[[マユタン]]<ref>[[ミュージシャン]]・[[声優]]、元[[三宅裕司のいかすバンド天国|イカ天]][[バンド (音楽)|バンド]]「[[マサ子さん]]」ボーカル</ref>、[[千里唱子]]、[[坂本大三郎]]<ref name="kenkyuu" />らの漫画家。また後のアートライター[[工藤キキ]]もアシスタントだったことがある<ref name="kenkyuu" />。 === 事故による休業 === 結婚後の[[1996年]]([[平成]]8年)5月19日18時半頃、自宅付近にて夫と共に散歩中、[[飲酒運転]]の[[スポーツ・ユーティリティ・ビークル|大型四輪駆動車]]に[[ひき逃げ]]され<ref name="untitled" />、自力で呼吸できないほどの重傷を負ったうえ、[[意識障害]]が続き創作休止と長期療養を余儀なくされる<ref name="i-Okazaki" />。 岡崎の家族の了解をとって[[角川書店]]が[[1998年]]([[平成]]10年)に『[[#untitled_biblio|UNTITLED]]』を刊行。題名は編集部と家族が話し合い決定している<ref name="untitled"/>。 以前からファンであり親交がある[[小沢健二]]のコンサートに事故の14年後([[2010年]]([[平成]]22年)5月)に[[車椅子]]に乗り訪れる<ref name="ozaken" />。 『ヘルタースケルター』の映画化に際して事故後初の岡崎本人の発言が2012年1月に発表される<ref name="natalie" />。 初の大規模個展「戦場のガールズ・ライフ」が[[2015年]]に東京・[[世田谷文学館]]で開かれ<ref>「余録」[[毎日新聞]]2015年3月29日に掲載される。</ref>、その後、兵庫と福岡へも巡回した<ref name="bluesheep" /><ref name="lmaga" />。 == 単行本リスト == === 漫画 === * 『バージン』 **[[白夜書房]], 1985年(昭和60年), (白夜コミックス), ISBN 4-938256-90-8. ** [[河出書房新社]], 1989年(平成元年), (カワデ・パーソナルコミックス23), ISBN 4-309-72523-6. ** 河出書房新社, 2002年(平成14年), (九龍コミックス), ISBN 4-309-72826-X. *** [[1985年]](昭和60年)までに発表された短篇を収録した短篇集。 * 『ボーイフレンド is ベター』 **[[白泉社]], 1986年(昭和61年), (JETS COMICS), ISBN 4-592-13100-2. *** [[1985年]](昭和60年)から[[1986年]](昭和61年)の間に発表された短篇13篇を収録した短篇集。 * 『セカンド・バージン』 **[[双葉社]]〈アクションコミックス〉、1986年、ISBN 4575930342 ** 新装版、双葉社〈アクションコミックス〉、2006年、ISBN 4575940461 *** [[週刊漫画アクション]]連載 * 『退屈が大好き』 ** 河出書房新社〈カワデパーソナルコミックス〉、1987年、ISBN 4309725163 ** 新装版、河出書房新社〈九龍コミックス〉、2002年、ISBN 4309728278 *** 短編集 * 『TAKE IT EASY』 **[[スコラ]], [[講談社]], [[1988年]](昭和63年), (バーガーKC-20), ISBN 4-06-304620-6. ** スコラ, [[1989年]](平成元年), (バーガーSC-74), ISBN 4-7962-4018-7. ** スコラ, [[1994年]](平成6年), (SC DELUXEバーガーSC-326), ISBN 4-7962-4270-8. ** [[ソニー・マガジンズ]], [[2000年]](平成12年), ([[バーズコミックス]]デラックス), ISBN 4-7897-8243-3. ** [[幻冬舎コミックス]], [[2003年]](平成15年), (バーズコミックスデラックス), ISBN 4-344-80347-7. *** 『[[コミックバーズ|コミックバーガー]]』[[1986年]](昭和61年)11月号から[[1987年]](昭和62年)3月号までの連載が初出。他に短篇数篇を収録。 * 『[[ジオラマボーイ パノラマガール]]』 **[[マガジンハウス]], 1989年(平成元年), (MAG COMICS), ISBN 978-4-8387-0059-2. ** マガジンハウス, 2010年(平成22年), (MAG COMICS), ISBN 978-4-8387-2165-8. *** [[平凡パンチ]][[1988年]](昭和63年)[[3月10日]]号から1988年(昭和63年)[[11月10日]]号までの連載が初出。 * 『[[Pink (岡崎京子の漫画)|pink]]』 ** マガジンハウス, 1989年(平成元年), (MAG COMICS), ISBN 978-4-8387-0107-0. ** Bach, Marie and Monthiers, Marie-Françoise, trans., Casterman, Bruxelles, Belgique, 2007, (SAKKA), ISBN 978-2-203-37345-7.※仏語版。 ** Bach, Marie and Monthiers, Marie-Françoise, trans., Casterman, Bruxelles, Belgique, 2007, (écritures), ISBN 978-2-203-00192-3.※仏語版。 ** マガジンハウス, [[2010年]](平成22年), ISBN 978-4-8387-2141-2. ** Vertical, New York, USA, 2013, ISBN 978-1-939130-12-9.※英語版。 *** Newパンチザウルス[[1989年]](平成元年)[[2月23日]]号から1989年(平成元年)[[7月4日]]号までの連載が初出。 * 『[[くちびるから散弾銃]]』 **[[講談社]], 1989年(平成元年), (MeワイドKC61), ISBN 4-06-176561-2. ** 講談社, 1990年(平成2年), (MeワイドKC86), ISBN 4-06-176586-8. ※「2冊め」。 ** 講談社, 1996年(平成8年), (KCDX704), ISBN 4-06-319704-2. ※合本版。 ** 講談社, 2012年(平成24年), (KCDX3252), ISBN 978-4-06-376652-3. ※合本版。 *** [[Me (雑誌)|Me twin]][[1987年]](昭和62年)2月号から[[1990年]](平成2年)5月号までの連載が初出。 * 『好き好き大嫌い』 **[[宝島社|JICC出版局]]〈宝島comics〉、1989年、ISBN 4-88063-583-9 ** 宝島社〈Wonderland comics〉、2003年、ISBN 4-7966-3148-8 *** 短編集 * 『ショコラな気持ち』 **[[扶桑社]]〈SUKI SUKI BOOKS〉、1990年、ISBN 4594005411 *** 描き下ろし。[[バレンタインデー]]をテーマにした[[コンパクト・ディスク|CD]]ケースサイズの企画本 * 『ROCK』 ** JICC出版局, 1991年(平成3年), (宝島COMICS), ISBN 4-7966-0080-9. ** 宝島社, 2003年(平成15年), (宝島COMICS), ISBN 4-7966-3333-2. ** Casterman, Bruxelles, Belgique, 2010, (SAKKA), ISBN 978-2-203-00623-2.※仏語版。 *** 月刊CUTiE[[1989年]](昭和64年)1月号から[[1990年]](平成2年)9月号までの連載が初出。 * 『ショコラ・エブリデイ』 **[[毎日新聞社]]、1992年、ISBN 4-620-77035-3 ** 新装版、[[小学館クリエイティブ]]、2009年、ISBN 978-4-7780-3504-4 *** 『[[PeeWee]]』ソニー・マガジンズ連載 * 『[[ハッピイ・ハウス]]』 **[[主婦と生活社]]〈GIGAコミックス〉、1992年、上:ISBN 4-391-92015-8、下:ISBN 4-391-92016-6 ** 新装版、主婦と生活社、2006年、ISBN 4-391-92096-4 *** 『[[コミックGIGA]]』連載 * 『カトゥーンズ』 ** 角川書店、1992年、ISBN 4-04-852378-3 ** 新装版、角川書店〈単行本コミックス〉、2004年、ISBN 4-04-853729-6 *** 『[[月刊カドカワ]]』連載 * 『危険な二人』 ** 角川書店, 1992年(平成4年), (YOUNG ROSÉ COMICS DELUXE), ISBN 4-04-852359-7. ** 角川書店, 2004年(平成16年), (単行本コミックス), ISBN 4-04-853704-0. *** [[ヤングロゼ]][[1991年]](平成3年)5月号から[[1992年]](平成4年)5月号までの連載が初出。 * 『[[東京ガールズブラボー]]』 ** JICC出版局、1993年、上:ISBN 4-7966-0547-9、下:ISBN 4-7966-0548-7 ** 宝島社、2003年、上:ISBN 4-7966-3198-4、下:ISBN 4-7966-3199-2 *** 『CUTiE』連載 * 『愛の生活』 ** 角川書店〈Young rose comics deluxe〉、1993年、ISBN 4-04-852430-5 ** 角川書店〈単行本コミックス〉、2004年、ISBN 4-04-853692-3 *** 『ヤングロゼ』連載 * 『マジック・ポイント』 **[[大原まり子]], 祥伝社, 1993年(平成5年), (FEEL YOUNG COMICS GOLD), ISBN 4-396-76081-7. ** 大原まり子, 祥伝社, 2012年(平成24年), (FEEL COMICS), ISBN 978-4-396-76545-3. *** FEEL YOUNG[[1993年]](平成5年)4月号から[[1993年]](平成5年)9月号までの連載が初出。 * 『[[リバーズ・エッジ (漫画)|リバーズ・エッジ]]』 **[[宝島社]], 1994年(平成6年), ISBN 4-7966-0825-7. ** 宝島社, 2000年(平成12年), (Wonderland COMICS), ISBN 4-7966-1669-1. ** Casterman, Bruxelles, Belgique, 2007, (SAKKA), ISBN 978-2-203-00619-5.※仏語版。 ** 宝島社, 2008年(平成10年), ISBN 978-4-7966-6698-5. ** 臉譜文化,2014年2月6日 ISBN 978-986-235-311-0 ※台湾中文版。 *** 月刊CUTiE[[1993年]](平成5年)3月号から[[1994年]](平成6年)5月号までの連載が初出。 * 『[[エンド・オブ・ザ・ワールド (漫画)|エンド・オブ・ザ・ワールド]]』 ** 祥伝社, 1994年(平成6年), (FEEL YOUNG COMICS GOLD), ISBN 4-396-76101-5. ** 祥伝社, 2012年(平成24年), (FEEL COMICS), ISBN 978-4-396-76546-0. *** [[1992年]](平成4年)から[[1994年]](平成6年)の間に発表された短篇5篇を収録した短篇集。 * 『[[私は貴兄のオモチャなの]]』 ** 祥伝社, 1995年(平成7年), (FEEL COMICS), ISBN 4-396-76136-8. *** FEEL YOUNG掲載作の短編集。表紙の題名は『I wanna be your dog』。 * 『ヘテロセクシャル』 ** 角川書店, 1995年(平成7年), (YOUNG ROSÉ COMICS DELUXE), ISBN 4-04-852503-4. ** 角川書店, 2004年(平成16年), (単行本コミックス), ISBN 4-04-853707-5. *** [[1993年]](平成5年)から[[1994年]](平成6年)の間に発表された短篇4篇を収録した短篇集。 * 『[[チワワちゃん]]』 ** 角川書店, 1996年(平成8年), (YOUNG ROSÉ COMICS DELUXE), ISBN 4-04-852687-1. ** 角川書店, 2004年(平成16年), (単行本コミックス), ISBN 4-04-853689-3. *** [[1994年]](平成6年)から[[1995年]](平成7年)の間に発表された短篇5篇及び書き下ろし2篇の短篇集。 ** 角川書店, 2018年(平成30年), (あすかコミックDX), ISBN 9784041078488. *** チワワちゃんの他、LOVE, PEACE & MIRACLE -紙の上のスライドショウ-、夏の思い出、チョコレートマーブルちゃん、GIRL OF THE YEAR、空を見上げる -あとがきにかえて-、好き? 好き? 大好き? を収録した短篇集。 * 『UNTITLED』 ** 角川書店〈Asuka comics deluxe〉、1998年、ISBN 4-04-852938-2 ** 角川書店〈単行本コミックス〉、2004年、ISBN 4-04-853728-8 * 『[[ヘルタースケルター (漫画)|ヘルタースケルター]]』 ** 祥伝社, 2003年(平成15年), ISBN 978-4-396-76297-1. ** Carlsen Verlag, Hamburg, Germany, 2005, (MANGA!), ISBN 978-3-551-78634-0.※独語版。 ** Casterman, Bruxelles, Belgique, 2007, (SAKKA), ISBN 978-2-203-00281-4.※仏語版。 ** Vertical, New York, USA, 2013, ISBN 978-1-935654-83-4.※英語版。 *** FEEL YOUNG[[1995年]](平成7年)7月号から[[1996年]](平成8年)4月号までの連載が初出。 **** [[2012年]]に同名で映画化される。 * 『[[日々の泡|うたかたの日々]]』 **[[ボリス・ヴィアン]], [[宝島社]], 2003年(平成15年), ISBN 978-4-7966-3275-1. *** 月刊CUTiE[[1994年]](平成6年)8月号から[[1995年]](平成7年)7月号までの連載が初出。 * 『恋とはどういうものかしら?』 ** 2003年、マガジンハウス〈Mag comics〉、ISBN 4-8387-1398-3 *** 短編集 * 『女のケモノ道』 **[[文藝春秋]]、2005年、ISBN 4-16-366780-6 *** 『CREA』連載 * 『秋の日は釣瓶落とし』 ** 双葉社〈アクションコミックス〉、2006年、ISBN 4575940453 *** 短編集 * 『東方見聞録:市中恋愛観察学講座』 ** 小学館クリエイティブ, [[小学館]], [[2008年]](平成20年), ISBN 978-4-7780-3502-0. *** [[ヤングサンデー]][[1987年]](昭和62年)[[4月10日]]号(1巻1号通巻261号)から1987年(昭和62年)[[10月24日]]号(1巻14号通巻274号)までの連載が初出。 * 『岡崎京子未刊作品集 森』 ** 祥伝社〈フィールコミックス〉、2011年、ISBN 978-4396765293 * 『レアリティーズ』 ** 平凡社、2015年、ISBN 9784-582-28797-4 === 文芸 === * [[いとうせいこう]]・岡崎京子 『ハプニングみたい』 ** 講談社、1992年、ISBN 4-06-205659-3 ** 講談社〈KCDX〉、2002年、ISBN 4-06-334637-4 * 『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』 **[[平凡社]]、2004年、ISBN 4-582-83212-1、物語集 * 『オカザキ・ジャーナル』 ** 平凡社、2015年、ISBN 978-4-582-83682-0 == イラストレーション == * 大原まり子『処女少女マンガ家の念力』[[表紙]]・[[挿絵]]、[[角川文庫]]、1987年、ISBN 4-04-166802-6 * 大原まり子『金色のミルクと白色(しろ)い時計』表紙・挿絵、角川文庫、1986年、ISBN 4-04-166801-8 * [[斉藤綾子]]『ルビーフルーツ』表紙、[[双葉社]]、1992年、ISBN 4575231169 * [[押切伸一]]・[[川勝正幸]]『流行の素』本文[[イラストレーション]]、JICC出版局、1990年、ISBN 4-88063-972-9 * 『[[ウゴウゴルーガ]]』エンディングアニメーション、[[フジテレビ]]、1993年 * [[サニーデイ・サービス]]『桜 super love』ジャケット、2017年 == その他 == * 「X'masスペシャル ポップス&ロック 1989ライブ」Xmas JINGLES 1989年12月23日 NHK == 関連書籍 == * [[椹木野衣]] 『平坦な戦場でぼくらが生き延びること:岡崎京子論』 [[筑摩書房]]、2000年、ISBN 4-480-82343-3 * <cite style="font-style:normal" id="bungei_biblio">『総特集岡崎京子』 河出書房新社〈文藝別冊、Kawade夢ムック〉2002年、ISBN 4-309-97627-1</cite> * Okazaki principle alliance 編 『Okazaki-ism:岡崎京子・研究読本』 21世紀box、2002年、ISBN 4-88469-269-1 * 『萩尾望都・岡崎京子・大島弓子』 [[キネマ旬報社]]〈[[BSマンガ夜話|マンガ夜話]]2〉、1999年、ISBN 4-87376-504-8 * [[ばるぼら (ライター)|ばるぼら]] 『岡崎京子の研究』 [[アスペクト (企業)|アスペクト]]、2012年、ISBN 4-75722-090-1 * 増渕俊之編 『岡崎京子の仕事集』 [[文藝春秋]]、2012年、ISBN 4-16375-390-7 - 岡崎の初期作品も収録 * 杉本章吾 『岡崎京子論』 [[新曜社]]、2012年、ISBN 4-78851-306-4 * 『岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ(世田谷文学館・岡崎京子展公式カタログ)』 平凡社、2015年、ISBN 978-4-582-20679-1 == 参考文献 == * <cite style="font-style:normal" id="untitled_biblio">岡崎京子『UNTITLED』角川書店〈Asuka comics deluxe〉、1998年、ISBN 4-04-852938-2。</cite> * 河出書房新社『[[文藝]]』 2001年秋季号 特集・岡崎京子 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2|refs= <ref name="mito">{{Cite web|和書| url = http://www.soum.co.jp/mito/life/lifej.html | author = 水戸芸術館 | title = 『ライフ』展出品予定作家プロフィール | accessdate = 2011-07-30 }}</ref> <ref name="media">{{Cite web|和書| url = http://plaza.bunka.go.jp/festival/2003/manga/000122/ | title = 2003年文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞 ヘルタースケルター作者プロフィール | accessdate = 2011-07-30 | archiveurl = https://web.archive.org/web/20090422090123/http://plaza.bunka.go.jp/festival/2003/manga/000122/ | archivedate = 2009年4月22日 | deadlinkdate = 2017年10月 }}</ref> <ref name="bungei">『[[#bungei_biblio|総特集岡崎京子]]』岡崎京子による引用・言及事例集</ref> <ref name="untitled">『[[#untitled_biblio|UNTITLED]]』あとがき</ref> <ref name="ozaken">{{Cite web|和書| url = http://entante.seesaa.net/article/151038070.html | title = 小沢健二のライブに車椅子の岡崎京子が……。 | work = 芸能エンタンテ | date = 2010年05月25日 | accessdate = 2011-07-30 }}<br />{{Cite web|和書|url=https://rockinon.com/blog/yamazaki/35171 | work = 山崎洋一郎の「日々ロック通信」 | title = 小沢健二のライブについて | date = 2010-05-25 | accessdate = 2011-07-30 }}</ref> <ref name="bluesheep">{{Cite web|和書| url = http://bluesheep.jp/11121163 | title = 「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」開催します | accessdate = 2017-07-16 }}</ref> <ref name="lmaga">{{Cite web|和書| url = https://www.lmaga.jp/news/2016/06/12001/ | title = 岡崎京子初の大規模展、いよいよ関西に | accessdate = 2017-07-16 }}</ref> <ref name="kenkyuu">『岡崎京子の研究』</ref> <ref name="shigotosyuu">『岡崎京子の仕事集』</ref> <ref name="natalie">{{Cite web|和書| url = https://natalie.mu/comic/news/62526 | title = 岡崎京子がヘルタースケルター映画化に事故後初コメント | work = ナタリー | date = 2012年01月11日| accessdate = 2012-08-19 }}</ref> <ref name="i-Okazaki">{{Cite web|和書| url = http://okazakikyoko.com/recent/ | title = 岡崎京子未公認ファンサイト『i-Okazaki』近況 | accessdate = 2012-11-11 }}</ref> }} == 外部リンク == * {{Wayback |url=http://www.demeken.net/okazaki/index.html |title=message for OKAZAKI KYOKO(友人による近況報告)|date=20190725005910}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:おかさき きようこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:跡見学園女子大学短期大学部出身の人物]] [[Category:東京都立松原高等学校出身の人物]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:障害を持つ人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]]
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岡崎つぐお
岡崎 つぐお(おかざき つぐお、1960年4月23日 - )は日本の漫画家。東京都出身。 1980年に『2年A組星子先生』でデビュー。デビュー後しばらくは『週刊少年サンデー』(小学館)で活躍した。代表作は『ただいま授業中!』『ジャスティ』『ラグナロック・ガイ』『あそびじゃないの』など。 その後、デジタルコミックも手掛け、1998年刊行の『ウェブコミックス』vol.1(ソフトバンク)に「カイン11」が掲載された。2011年、「Web Magazine KATANA」で『ジャスティ~ネオランビス編』が始まった。 女優の清水まゆみは叔母(母の妹)。
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岡崎 つぐおは日本の漫画家。東京都出身。 1980年に『2年A組星子先生』でデビュー。デビュー後しばらくは『週刊少年サンデー』(小学館)で活躍した。代表作は『ただいま授業中!』『ジャスティ』『ラグナロック・ガイ』『あそびじゃないの』など。 その後、デジタルコミックも手掛け、1998年刊行の『ウェブコミックス』vol.1(ソフトバンク)に「カイン11」が掲載された。2011年、「Web Magazine KATANA」で『ジャスティ~ネオランビス編』が始まった。 女優の清水まゆみは叔母(母の妹)。
{{存命人物の出典明記|date=2019年9月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 岡崎 つぐお | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[東京都]] | 国籍 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|4|23}} | 没年 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1980年]] - 現在 | ジャンル = [[少年漫画]] | 代表作 = 『[[ただいま授業中!]]』<br />『[[ジャスティ (漫画)|ジャスティ]]』<br />『[[ラグナロック・ガイ]]』<br />『[[あそびじゃないの]]』 | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''岡崎 つぐお'''(おかざき つぐお、[[1960年]][[4月23日]] - )は[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]]出身。 [[1980年]]に『[[2年A組星子先生]]』でデビュー。デビュー後しばらくは『[[週刊少年サンデー]]』([[小学館]])で活躍した。代表作は『[[ただいま授業中!]]』『[[ジャスティ (漫画)|ジャスティ]]』『[[ラグナロック・ガイ]]』『[[あそびじゃないの]]』など。 その後、[[デジタルコミック]]も手掛け、1998年刊行の『ウェブコミックス』vol.1([[ソフトバンク]])に「カイン11」が掲載された。[[2011年]]、「Web Magazine KATANA」で『ジャスティ~ネオランビス編』が始まった。 女優の[[清水まゆみ]]は叔母(母の妹)<ref>{{Cite tweet|author=岡崎つぐお |user=majam_fire_blue |number=554720087404343299 |title=@Midoh333 まだ酔っ払いなので、カミングアウトですが、私の母の妹で、清水まゆみの芸名です。ちょっと上手く売り損なった感のある、もったいないタレント(才能)です(^_^;) |date=2015-01-13 |accessdate=2023-04-21 }}<br />{{Cite tweet|author=岡崎つぐお |user=majam_fire_blue |number=633863329002319872 |title=あ、これ…!一番右下の「十代の河」?なんと渡辺宙明先生の御作曲でしたか!作品カットの女優は清水まゆみ。実は私の叔母なのです。…こんなところでご縁があったとは…!(・.・;) #CHUMEI90 |date=2015-08-19 |accessdate=2023-04-21 }}<br />{{Cite tweet|author=岡崎つぐお |user=majam_fire_blue |number=828936487580241920 |title=RT という感じの清水まゆみは私の母の妹なのです(*´ω`*) |date=2017-02-07 |accessdate=2023-04-21 }}</ref>。 == 作品リスト == * [[ただいま授業中!]](『週刊少年サンデー』、1980年 - [[1983年]]) * [[ジャスティ (漫画)|ジャスティ]](『[[週刊少年サンデー超|週刊少年サンデー増刊号]]』、[[1981年]] - [[1984年]]) ** ジャスティ ネオランビス編(『Web Magazine KATANA』、[[2011年]] - [[2015年]]) * 春美120%(『週刊少年サンデー』、1983年 - 1984年) * [[ラグナロック・ガイ]](『週刊少年サンデー』、1984年 - [[1985年]]) * ライジング・ファイタータケル(『[[月刊少年キャプテン]]』、1985年 - [[1987年]]) * どきどきハートビート(『週刊少年サンデー』、[[1986年]] - 1987年) * ミッドナイトゾーン・岡崎つぐおバラエティー傑作短篇集([[東京三世社]]、[[1988年]]) * とりたて一番!(『バーガーSC』(スコラ)、[[1991年]]) * [[超時空要塞マクロスII -LOVERS AGAIN-|超時空要塞マクロスII]](『週刊少年サンデー増刊号』、[[1992年]]) * [[あそびじゃないの]](『[[ファミ通|ファミコン通信]]』、1992年 - [[1994年]]、作画担当・作:宮岡寛) * カイン11(『ウェブコミックス』vol.1、[[ソフトバンク]]、1998年) * Eチェイサー([[情報通信振興会|電気通信振興会]] 、[[2002年]]) * メタル・バック(『[[月刊コミックNORA]]』) * [[岡田以蔵#漫画|以蔵]](原作:桜井和生) * プリマス A PLOT OF NIGHTMARE(『[[ヒーロークロスライン]]』、[[2007年]] - [[2009年]]) * サキュバス<夢魔>(『Web Magazine KATANA』、2011年) ** サキュバスII(『Web Magazine KATANA』、2011年) * [[サイボーグ009|サイボーグ009 BGOOPARTS DELETE]](『[[チャンピオンRED]]』、[[2019年]] - 2022年、全35話、原作:[[石ノ森章太郎]]) ; 読み切り * [[2年A組星子先生]](『週刊少年サンデー』、1980年) * ワックス・ドール (『月刊少年キャプテン』) * ルパンのワイン大作戦 (原作:[[モンキー・パンチ]]、2010年、『[[ルパン三世officialマガジン]]』’10春) == 師匠 == * [[あや秀夫]]<ref>[https://twitter.com/majam_fire_blue 岡崎つぐお] - 本人のTwitterより。</ref> == アシスタント == * [[本そういち]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references /> == 外部リンク == * {{Twitter|majam_fire_blue|岡崎つぐお}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おかさき つくお}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:存命人物]] [[Category:1960年生]]
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岡村賢二
岡村 賢二(おかむら けんじ、1963年3月30日 - )は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。男性。 1984年、『増刊少年サンデー』に『一年女帝』が掲載され、デビュー。格闘漫画や歴史漫画(「戦国武将列伝」シリーズ等)を多く描いており、激しいバイオレンス描写や、敵役を徹底的に悪人顔に描くなどの特徴がある。 他多数
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岡村 賢二は、日本の漫画家。新潟県新潟市出身。男性。 1984年、『増刊少年サンデー』に『一年女帝』が掲載され、デビュー。格闘漫画や歴史漫画(「戦国武将列伝」シリーズ等)を多く描いており、激しいバイオレンス描写や、敵役を徹底的に悪人顔に描くなどの特徴がある。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 岡村 賢二 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1963|3|30}} | 生地 = {{flagicon|Japan}} [[新潟県]][[新潟市]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = | 活動期間 = [[1984]]年 - | ジャンル = [[少年漫画]]、[[青年漫画]] | 代表作 = | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = [https://www.okamurakenji.com/ 岡村賢二オフィシャルHP] }} '''岡村 賢二'''(おかむら けんじ、[[1963年]][[3月30日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[新潟県]]<ref name=manganime-navi-niigata/>[[新潟市]]出身。男性。 [[1984年]]、『[[増刊少年サンデー]]』に『一年女帝』が掲載され、デビュー<ref name=manganime-navi-niigata>{{Cite web|和書|url=http://www.manganime-niigata.jp/list_a.html |title=新潟マンガ家・アニメクリエーター名鑑|publisher=MangAnimeナビ にいがた」|accessdate=2017年11月30日}}</ref>。格闘漫画や歴史漫画(「戦国武将列伝」シリーズ等<ref name=manganime-navi-niigata/>)を多く描いており、激しいバイオレンス描写や、敵役を徹底的に悪人顔に描くなどの特徴がある。<!--"(北条高時が)典型的な悪役ヅラ" 参考サイト:徹夜城http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/omanga/okamu.html--> == 作品リスト == * [[天地無用 (週刊少年サンデー)|天地無用]](原作:[[やまさき十三]]、1985年 - 1986年、『[[週刊少年サンデー]]』、全4巻) * [[GOAL]](1987年、『週刊少年サンデー』、全2巻) * [[ベアマーダー流介]](原作:[[橋場千晶]]、1988年 - 1989年、『週刊少年サンデー』、全5巻) * [[グラップキッズ]](原作:[[梶研吾]]、1989年 - 1991年、『[[漫画アクション#別冊漫画アクション|COMICアクションキャラクター]]』、[[双葉社]]) ** グラップ・ガイズ(原作:梶研吾、1993年 - 1994年、『[[コミックスコラ]]』、[[スコラ|株式会社スコラ]]) * [[紅狼]](原作:[[鷹匠政彦]]、1990年、『[[週刊ヤングサンデー]]』、全2巻) * [[闘魔伝 (岡村賢二)|闘魔伝]](1991年、双葉社アクションコミックス、全3巻) * [[蹴速の闘魔神]](1991年、双葉社アクションコミックス、全1巻) * [[烈王 (岡村賢二)|烈王]](レオ)(原作:梶研吾、1992年 - 1993年、『週刊ヤングサンデー』、全4巻) * Souls NY大和組(原作:梶研吾、1992年、光文社コミックス、全2巻) * 鉄機剣士 武王伝(原作:梶研吾、1994年、小学館、全3巻) * [[ドン・マイ・ワイフ]](原作:梶研吾、1995年、リイド社SPコミックス、全2巻) * [[鉄と剣]](原作:梶研吾、1995年 - 1996年、リイド社SPコミックス、全3巻) * [[シャングリラ-Shangri・La]](原作:梶研吾、1995年 - 1997年、リイド社SPコミックス、全8巻) * [[宇強の大空]](原作:梶研吾、1997年 - 2000年、『[[月刊少年ジャンプ]]』、全13巻)<ref name=manganime-navi-niigata/> * [[龍猿]](原作:梶研吾、2001年 - 2002年、集英社ジャンプコミックス、全3巻) * [[真田十勇士 (岡村賢二)|真田十勇士]](原作:[[笹沢左保]]、2002年 - 2007年、『[[コミック乱ツインズ]]』、全8巻)<ref name=manganime-navi-niigata/> * [[フットボールほど素敵な商売はない!!]](原作:[[戸塚啓]]、2003年 - 2004年、『[[週刊ヤングジャンプ]]』、全2巻) * [[上杉謙信 (岡村賢二)|上杉謙信]](2005年 - 2006年、『[[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝]]』、全2巻) * [[八犬士]](原作:[[滝沢馬琴]]、2005年 - 2006年、『[[別冊漫画ゴラク]]』、全2巻) * [[私本太平記]](原作:吉川英治、2007年 - 2010年、『コミック乱ツインズ』→『コミック乱ツインズ 戦国武将列伝』、全4巻) * [[長宗我部元親 (岡村賢二)|長宗我部元親]](2011年 - 2012年、『コミック乱ツインズ 戦国武将列伝』、全2巻) * [[明智光秀 (岡村賢二)|明智光秀]](全1巻) * [[真田幸村 (岡村賢二)|真田幸村]](全1巻) * [[激動 徳川家康]](全1巻) * [[関ヶ原 英傑伝〜西軍の殉将たち〜]](全1巻) * [[萬山十番勝負]](全3巻) * [[萬無頼伝]](全2巻) * [[龍の拳]](全5巻) * [[レッドシーサー]](全1巻) * [[影虎]](全3巻) * [[新・影狩り]](原作:[[さいとう・たかを]]、2011年 - 2014年、『[[コミック乱ツインズ]]』、既刊2巻) * [[第六天魔王 信長]](2012年 - 2013年、『[[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝]]』、全2巻) * [[島津戦記]](2014年、『コミック乱ツインズ 戦国武将列伝』、全2巻) * [[夜の戦士〜信玄の忍び〜]](原作:[[池波正太郎]]、2014年 - 2016年、『コミック乱ツインズ』、全3巻) * [[直江兼続〜信義の執政〜]](2014年 - 2015年、『[[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝]]』) * [[ごっつあんです]](2015年<ref>{{Cite web|和書|date=2015年11月20日|url=https://natalie.mu/comic/news/114900|title=コミックナタリー - 岡村賢二の新連載がゴラクで、平幕力士が結婚のため土俵で大金荒稼ぎ|accessdate=2016年3月13日 }}</ref> - 2016年、『[[週刊漫画ゴラク]]』、全4巻) * [[武士のフトコロ]](2016年 - 2018年、『週刊漫画ゴラク』、全7巻)<ref>{{Cite web|和書|date=2016年12月22日|url=https://natalie.mu/comic/news/214295|title=コミックナタリー - 貧乏な武士が剣術で立身出世、岡村賢二のゴラク新連載「武士のフトコロ」|accessdate=2016年12月23日 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2017年8月9日|url=https://natalie.mu/comic/news/214295|author=前島賢 |title=『武士のフトコロ』 第2巻 岡村賢二(著) 永井義男(監修)【日刊マンガガイド】 |work=[[このマンガがすごい!]] |publisher=宝島社|accessdate=2017年11月30日 }}</ref> * [[刀剣乱舞#漫画(つれづれ酒)|刀剣乱舞 ~日本号つれづれ酒~]](2021年 - 連載中、『マンガTOP』)<ref>https://dengekionline.com/articles/92981/</ref> 他多数 == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * {{マンガ図書館Z作家|4747|岡村賢二}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おかむら けんし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:新潟市出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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荻野真
荻野 真(おぎの まこと、1959年5月26日 - 2019年4月29日)は、日本の漫画家。男性。岐阜県出身。 岐阜県立恵那高等学校卒業、名古屋大学理学部中退。在学中は漫画研究会に所属しており、先輩に森博嗣がいた。 大学では落ちこぼれてしまい、仲の良かった同人誌仲間も当時の大手出版社による「青田買い」により疎遠となってしまい、ほぼ八方ふさがりの状態になってしまっていたという。半ばやけくそで漫画の原稿を持ちこむ。最初に持ち込んだ小学館ではボロクソに叩かれ、「いったい何しに来たの?」とまで言われたという。その隣のビルであったヤングジャンプ編集部に持ち込んだ際、応対してくれた田中純に評価され、知己を得たことがその後の大きな手助けになったと後に回顧している。 その後は政岡としや、釋英勝、もりたじゅんなどのアシスタントを渡り歩き、様々な出会いと経験を積む。 デビュー作で長期連載となった『孔雀王』は「宗教漫画ブームのはしり」と称された。 2019年4月29日、腎不全のため死去。59歳没。同年5月10日にヤングジャンプの公式サイト上で公表された。 『孔雀王』を筆頭に密教、神道などをモチーフとしたオカルト風アクション漫画家として知られている一方で、『ALGO!』『小類人』などSF作品も手がけている。 孔雀王退魔聖伝以降の作品では、中盤から話が広がりすぎたり、散らばったりしてうまくまとめられない、といった作風になることも多かった。 孔雀王曲神紀においては、その例が顕著となり、終盤の神との対決でカラオケの歌でチーム戦をするといった話で遂に集英社から苦言と打ち切りを宣告されている。 曲神紀最終話では、伏線もなく登場した孔雀の究極形態、ゼロの超神と伊邪那岐神が刃を交えるシーンでラストを迎えている。 この描写は当時のネットで話題にもなっている。 その後は比較的、纏まった作風になっている。 『孔雀王』の連載時、夢枕獏が自作の小説『サイコダイバー・シリーズ』からの盗用を指摘して問題になった。当事者間で話し合いが持たれ、荻野と担当編集者が謝罪、さらに『孔雀王』の単行本に「参考文献」として同作の名を挙げることで事態は沈静化した。この経緯については、『サイコダイバー・シリーズ』の後書きでも言及されている。
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荻野 真は、日本の漫画家。男性。岐阜県出身。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 荻野 真 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[岐阜県]] | 国籍 = [[日本]] | 生年 = {{生年月日と年齢|1959|5|26|died}} | 没年 = {{死亡年月日と没年齢|1959|5|26|2019|4|29}} | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1985年]] - [[2019年]] | 代表作 = 『[[孔雀王]]』 | 受賞 = 1985年集英社青年漫画大賞受賞(『孔雀王』) | 公式サイト = [http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/ 荻野真公式HP「孔雀の実家」] }} '''荻野 真'''(おぎの まこと、[[1959年]][[5月26日]]<ref name=prof>{{Cite web|和書|url=http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/profile/profile.htm |title=プロフィール |accessdate=2019-5-10 |date= |website=荻野真公式HP「孔雀の実家」}}</ref> - [[2019年]][[4月29日]]<ref name="oricon20190510">{{Cite web|和書|title=漫画『孔雀王』作者・荻野真さん死去 享年59 伝奇SF作品で人気 |url=https://www.oricon.co.jp/news/2135233/full/ |website=[[ORICON NEWS]] |date=2019-5-10 |accessdate=2019-5-10}}</ref><ref name="youngjump20190510">{{Cite web|和書|url= https://youngjump.jp/info/news_2019050901/ |title=訃報/読者の皆様へ |website=週刊ヤングジャンプ公式サイト |publisher=[[集英社]] |date=2019-5-10 |accessdate=2019-5-10}}</ref>)は、[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[岐阜県]]出身<ref name=prof />。 == 略歴 == [[岐阜県立恵那高等学校]]卒業<ref>{{Cite web|和書|url=https://school.gifu-net.ed.jp/ena-hs/dousoukai/jouryou/jouryou3.pdf |title=恵那高等学校同窓会報 城陵 第3号 |accessdate=2019-5-10 |date=2002-5-1 |website=[[岐阜県立恵那高等学校]] |format=PDF |language=日本語}}</ref>、[[名古屋大学]]理学部中退<ref name=prof />。在学中は漫画研究会に所属しており、先輩に[[森博嗣]]がいた<ref>[http://bluewatersoft.cocolog-nifty.com/about.html bluewatersoft] - 設立メンバーでソフトウェア開発者山本康彦の略歴</ref>。 大学では落ちこぼれてしまい、仲の良かった同人誌仲間も当時の大手出版社による「青田買い」により疎遠となってしまい、ほぼ八方ふさがりの状態になってしまっていたという。半ばやけくそで漫画の原稿を持ちこむ。最初に持ち込んだ小学館ではボロクソに叩かれ、「いったい何しに来たの?」とまで言われたという。その隣のビルであったヤングジャンプ編集部に持ち込んだ際、応対してくれた田中純に評価され、知己を得たことがその後の大きな手助けになったと後に回顧している<ref>孔雀王文庫版9巻 集英社1997年刊</ref>。 {{要出典範囲|date=2019年5月|その後は[[政岡としや]]、[[釋英勝]]、[[もりたじゅん]]などのアシスタントを渡り歩き、様々な出会いと経験を積む。}} デビュー作で長期連載となった『孔雀王』は「宗教漫画ブームのはしり」と称された<ref>夜叉鴉6巻 集英社1995年刊</ref>。 2019年4月29日、[[腎不全]]のため死去。59歳没。同年5月10日にヤングジャンプの公式サイト上で公表された<ref name="oricon20190510"/><ref name="youngjump20190510"/>。 == 作風 == 『孔雀王』を筆頭に[[密教]]、[[神道]]などをモチーフとしたオカルト風アクション漫画家として知られている一方で、『[[ALGO!]]』『小類人』など[[サイエンスフィクション|SF]]作品も手がけている。 孔雀王退魔聖伝以降の作品では、中盤から話が広がりすぎたり、散らばったりしてうまくまとめられない、といった作風になることも多かった。 孔雀王曲神紀においては、その例が顕著となり、終盤の神との対決で'''カラオケの歌でチーム戦をする'''といった話で遂に集英社から苦言と打ち切りを宣告されている。 曲神紀最終話では、伏線もなく登場した孔雀の究極形態、'''ゼロの超神'''と伊邪那岐神が刃を交えるシーンでラストを迎えている。 この描写は当時のネットで話題にもなっている。 その後は比較的、纏まった作風になっている。 == 人物 == * 荻野の両親はかなり厳格だったようで、漫画家になると告げた際、母親からは「情けない」と連呼しながらひたすら涙され、父親は「エロ漫画と不良物(暴力)だけは絶対に描くな」という条件を出してしぶしぶ認めたという。これは父親が教職にあり、当時休職して教育事務所で有害図書の摘発に携わっていたため、「俺の手でお前の漫画をお縄にさせるなよ、情けないから」という意味合いを込めていた。しかし、後年の作品を見ると荻野の得意分野は明らかにこの二つであり、この枷のために非常に苦労したという(『孔雀王』文庫版あとがきより)。 * 自身の作品の一つである『孔雀王』は実写映画や[[OVA]]、 ゲームと様々なメディア展開をしているが、萩野本人はいわゆる[[メディアミックス]]に対して不信感を持っていた。その理由は『孔雀王曲神記』の連載が終了した2010年頃、メディアミックスを重視した作品が増加したことで漫画業界が急変。そのコミカライズを担当する漫画家は「コンペに呼ばれた只の絵描き」として異論・反論も許されず、印税の取り分もごくわずかという不遇な扱いを受けていることを指摘。さらに連載漫画家の収入はこれらの影響で「自身のデビュー当時の収入の半分にも満たない」と語っている<ref>[[孔雀王|孔雀王曲神記]]12巻あとがき [[集英社]]2010年刊。</ref>。 * [[2015年]]末に[[心不全]]からくる[[腹水]]の排泄不良が原因で、急性ヘルニア・[[肝硬変]]・肺梗塞・[[多臓器不全]]などが一度に発症した。1週間ICU([[集中治療室]])に入院した後、体重の減量や食事療法を得た末、翌年1月に退院<ref>[http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/ 孔雀の実家](荻野真公式サイト)[http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/work/kujakuou_rising/kujakuou_rising.htm 『「孔雀王-ライジング-」第七巻発売に寄せて』]</ref>、2月から通常の連載ペースを取り戻した<ref>[http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/ 孔雀の実家](荻野真公式サイト)[http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/media/sengoku_rising.htm 『孔雀王ライジング、戦国転生に関する重大なお知らせ』]</ref>。 == 作品 == * [[孔雀王]](1985年 - 1989年、全17巻、文庫版全11巻、集英社) ** 孔雀王退魔聖伝(1990年 - 1992年、全11巻、文庫版全7巻、集英社) ※孔雀王の第2部。 ** 孔雀王曲神記(2006年 - 2010年、全12巻、集英社) ※孔雀王の第3部。また、連載打ち切りとなった「怨霊侍」の続編でもある。 ** 孔雀王ライジング(2012年 - 2019年、全10巻、『[[月刊!スピリッツ]]』[[小学館]])- 最終回は2019年6月27日発売の8月号に掲載<ref name="bigc">{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/news/oginomakotoshi_fuho/ |title=『孔雀王ライジング』荻野 真先生が逝去されました |accessdate=2019-5-10 |date=2019-5-10 |website=ビッグコミックBROS.NET}}</ref>{{Efn2|name="遺作"|闘病中に最終回を完成している<ref name="bigc" /><ref name="leed" />。}} ** 孔雀王-戦国転生-(2012年 - 2019年、全9巻、『[[コミック乱ツインズ 戦国武将列伝]]』→『[[コミック乱]]』[[リイド社]])- 2019年6月27日発売の8月号に掲載<ref name="leed">{{Cite web|和書|url=http://www.leed.co.jp/pr2019051001 |title=【訃報】読者の皆様へ |accessdate=2019-5-11 |date=2019-5-10 |website=[[リイド社]]}}</ref>{{Efn2|name="遺作"}} * [[ALGO!]](1990年、全3巻、[[集英社]]) * 暁星伝奇 真魚(1992年1月、『ヤングジャンプサーティー』集英社、単行本未収録) - [[空海]]の俗人時代を描いた作品 * 夜叉鴉(1994年 - 1997年、全10巻(集英社)、文庫版全6巻(2004年、集英社)、電子書籍版全11巻(2012年、サード・ライン)) - 電子書籍版11巻は、単行本未収録の2編「もち」「X'mas」を収録。 * {{ruby|小類人|ちゃいるど}}(1997年 - 2000年、全7巻、集英社) * [[拳銃神]](2000年 - 2003年、全9巻、集英社) * [[おぼこ (漫画)|おぼこ]](2004年、全1巻、集英社) ** [[サルビアの海]](2012年、全1巻、[[マガジン・マガジン]]) * [[怨霊侍]](2005年、全3巻、集英社) * [[15の春]](2011年、全1巻、集英社) == アシスタント == * [[片山誠]] * [[駕籠真太郎]] * [[戸田泰成]] == 盗用問題 == 『孔雀王』の連載時、[[夢枕獏]]が自作の小説『[[サイコダイバー・シリーズ]]』からの盗用を指摘して問題になった。当事者間で話し合いが持たれ、荻野と担当編集者が謝罪、さらに『孔雀王』の単行本に「参考文献」として同作の名を挙げることで事態は沈静化した。この経緯については、『サイコダイバー・シリーズ』の後書きでも言及されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www4.airnet.ne.jp/kujaku/ 孔雀の実家](荻野真公式サイト) * [http://bj.shueisha.co.jp/article/onryouji/index.html 『怨霊侍』ガイド・呪禁之書] (公式) {{Manga-artist-stub}} {{Authority control}} {{荻野真}} {{DEFAULTSORT:おきの まこと}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:1959年生]] [[Category:2019年没]]
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奥田ひとし
奥田 ひとし(おくだ ひとし、男性、1963年8月15日 - )は、日本の漫画家。代表作は『天地無用!』、『でたとこプリンセス』など。 秋田県仙北郡協和町(現:大仙市)出身。秋田県立秋田高等学校、駒澤大学経済学部卒業。在学中に「LEO」のペンネームで、徳間書店の季刊誌「ハイパーゾーン」に連載された『カナミ - 時の瘡痕』でデビュー。 大学卒業後は大手ハムメーカーに営業マンとして就職し断筆したが、漫画家への夢を捨てきれず1989年の手塚治虫逝去をきっかけに退社、出渕裕・結城信輝らの下でアシスタントとして修行を積む。当時の実績から、ゼネラルプロダクツが発刊したゼネプロカタログでは「日本の二大トップアニメーターの元で修行した漫画家」と紹介されている。翌1990年、白夜書房の「コミッククラフト」創刊号『ラジカルガーディアン』にて、ペンネームを「奥田ひとし」に改名し再デビュー。このペンネームは、高校時代の同級生であり漫画の技術へ大きな影響を受けた今野仁に敬意を表したものである。 コミッククラフトは7号で廃刊になったが、富士見書房からラジカルガーディアン単行本化の話があり(白夜からも単行本化の話はあった)、連載分1巻に書き下ろし2巻を加えた全3巻を発売。以後は富士見書房の雑誌「ドラゴンマガジン」「コミックドラゴン」などに連載を持ち、『天地無用!』『でたとこプリンセス』などの代表作を出す。 デビュー以来、長らく東京都内に住んでいたが、2004年に「どうしても秋田弁でしゃべりたい」という思いが抑えられなくなり、出身地の秋田に戻った。帰郷後は『超神ネイガー』の企画に賛同し、コミカライズ(富士見書房「月刊ドラゴンエイジ」読み切り→単行本化)をはじめ、様々な商品へのイラスト提供を行う。 実家は秋田県大仙市協和境の蔵元、奥田酒造店。銘柄の「千代緑」「重右衛門の酒」を、自身の作品中に度々登場させている。 その他、アンソロジーやイラスト、パンフレット類の4コマ掲載など多数。
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奥田 ひとしは、日本の漫画家。代表作は『天地無用!』、『でたとこプリンセス』など。
'''奥田 ひとし'''(おくだ ひとし、[[男性]]、[[1963年]][[8月15日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作は『[[天地無用!]]』、『[[でたとこプリンセス]]』など。 == プロフィール == [[秋田県]][[仙北郡]][[協和町 (秋田県)|協和町]](現:[[大仙市]])出身。[[秋田県立秋田高等学校]]、[[駒澤大学]][[経済学部]]卒業<ref>{{Cite web|和書|title=奥田ひとし |url=http://www.adnet-sakigake.com/kyo/interview/okuda/okuda.html |website=www.adnet-sakigake.com |access-date=2022-04-13}}</ref>。在学中に「LEO」のペンネームで、[[徳間書店]]の季刊誌「[[ハイパーゾーン (雑誌)|ハイパーゾーン]]」に連載された『カナミ - 時の瘡痕』でデビュー。 大学卒業後は大手ハムメーカーに営業マンとして就職し断筆したが、漫画家への夢を捨てきれず[[1989年]]の[[手塚治虫]]逝去をきっかけに退社、[[出渕裕]]・[[結城信輝]]らの下で[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]として修行を積む。当時の実績から、[[ゼネラルプロダクツ]]が発刊したゼネプロカタログでは「日本の二大トップアニメーターの元で修行した漫画家」と紹介されている。翌1990年、[[白夜書房]]の「コミッククラフト」創刊号『ラジカルガーディアン』にて、ペンネームを「奥田ひとし」に改名し再デビュー。このペンネームは、高校時代の同級生であり漫画の技術へ大きな影響を受けた[[今野仁]]に敬意を表したものである。 コミッククラフトは7号で廃刊になったが、[[富士見書房]]からラジカルガーディアン単行本化の話があり(白夜からも単行本化の話はあった)、連載分1巻に書き下ろし2巻を加えた全3巻を発売。以後は富士見書房の雑誌「[[ドラゴンマガジン (富士見書房)|ドラゴンマガジン]]」「[[月刊コミックドラゴン|コミックドラゴン]]」などに連載を持ち、『天地無用!』『でたとこプリンセス』などの代表作を出す。 デビュー以来、長らく東京都内に住んでいたが、2004年に「どうしても秋田弁でしゃべりたい」という思いが抑えられなくなり、出身地の秋田に戻った。帰郷後は『[[超神ネイガー]]』の企画に賛同し、コミカライズ(富士見書房「月刊ドラゴンエイジ」読み切り→単行本化)をはじめ、様々な商品へのイラスト提供を行う。 実家は秋田県大仙市協和境の蔵元、奥田酒造店。銘柄の「千代緑」「重右衛門の酒」を、自身の作品中に度々登場させている。 == 作品リスト == * ラジカルガーディアン(全3巻) * [[でたとこプリンセス]](全6巻) * [[イースIV|イース 太陽の仮面]] * [[陰陽探偵少女遊RANTO☆魔承録]](原作:[[あかほりさとる]]、全5巻) * 天地無用! シリーズ(原作:[[梶島正樹]]) ** 天地無用! 魎皇鬼(全12巻) ** 新・天地無用! 魎皇鬼(全10巻) ** 天地無用! 砂沙美伝説 ** 天地御免! アペンディクス ** 天地無用! 砂沙美ちゃん あらかると! * 超神ネイガー(原作:[[海老名保]]、高橋大/脚本:RED、全1巻) * ホムラ!(原作:[[今野仁]]、全3巻) * なんだ、ただの勇者様か - [[ウェブコミック誌]]『[[Webコミックゲッキン|YOMBAN]]』 * [[龍ヶ嬢七々々の埋蔵金]](原作:鳳乃一真、全2巻) * pallet その他、アンソロジーやイラスト、パンフレット類の4コマ掲載など多数。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://www.chiyomidori.com/ 奥田酒造店] - 奥田ひとしの実家の公式ページ。 * [http://www.osake.or.jp/kuramoto/23okuda.html 奥田酒造店] - 秋田県酒造協同組合内の蔵元紹介ページ。 * [http://www.adnet-sakigake.com/kyo/interview/okuda/okuda.html アド・ネット・さきがけ No.79 郷インタビュー 奥田ひとしさん] - 漫画家デビューの経緯などに触れられている。 <!-- ゆうドキっ! のページはなくなっています。 * [http://www.akita-abs.co.jp/youdoki/tokusyuu/061103.htm 秋田放送 ゆうドキっ! 2006年11月3日(金)放送分の特集] 清酒「超神」の誕生にまつわる特集番組の紹介。奥田酒造店の専務(奥田ひとしの実兄)、奥田ひとし自身へのインタビュー記事や写真などが見られる。 --> {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おくた ひとし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:駒澤大学出身の人物]] [[Category:秋田県立秋田高等学校出身の人物]] [[Category:秋田県出身の人物]] [[Category:1963年生]] [[Category:存命人物]]
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尾瀬あきら
尾瀬 あきら(おぜ あきら、1947年(昭和22年)7月26日 - )は、日本の漫画家。京都府京都市出身。別名松本 めぐむ。 高校生時代に石森章太郎の『マンガ家入門』を読み、漫画家を志す。 高校卒業後、あさのりじ、久松文雄のアシスタントを経て、石森プロに入る。当時の石森プロの先輩アシスタントに永井豪、後輩に小山田つとむがいた。石森プロ時代も久松やあさのりじの手伝いをしていた。 松本めぐむというペンネームで貸本漫画の描き下ろし単行本を手掛けた後、『空飛ぶゆうれい船』のコミカライズでデビュー。 初期はアニメや特撮番組のコミカライズ作品を手がけていた。その後、新聞や少女漫画雑誌の連載を経て、『マッチポイント!』からペンネームを現行の尾瀬あきらに変更。『少年ビッグコミック』にて連載された自身初の長期連載作『初恋スキャンダル』は連載5年、単行本全18巻の人気作品となった。 1985年(昭和60年)に『初恋スキャンダル』『とべ!人類II』で第31回(昭和60年度)小学館漫画賞を受賞している。 1988年(昭和63年)の春から『夏子の酒』(モーニング)の連載が始まる。日本酒造りとそのために必要な酒米造りについて、田舎や農業の抱える問題と共に描いた作品で広く人気を博し代表作となり、1994年(平成6年)にフジテレビ系列で連続ドラマ化された。 『夏子の酒』完結後、1年余りの取材を経て、三里塚闘争に奔走される地元農民の生き様を描いた『ぼくの村の話』を1992年(平成4年)春から1993年(平成5年)末にかけて『モーニング』にて連載。「ヒットこそしなかったものの、この作品で多くのものを得た」と公式サイトにて発言している。 これ以降、2 - 3年程度の連載作品を青年漫画雑誌で発表している。 基本的に社会派的な問題提起型の話が多く、日本社会の中に内在する、日の当たらない問題・人間を主題に扱う。漫画作品以外にも、漫画の描き方や、趣味である酒に関してつづった著書などがある。 コミカライズを担当していた時代は、既存の物語を組み立て直すことに空虚さを感じていたが、アシスタントではなく漫画を描き続けられただけで喜びを感じていたと語っている。『仮面ライダーV3』では必要最低限の部分を抑えれば自由にやって良いという体制であったため、結城丈二 / ライダーマンについて掘り下げるなどのオリジナル要素を盛り込んだ。『鋼鉄ジーグ』や『大空魔竜ガイキング』では、物語をパターンに納める作業をつまらなく感じたため、自身が好む「人間的な弱さのあるヒーローらしくないヒーロー」というコンセプトで執筆した。『ガイキング』で自身のヒーロー像を描き切ったと感じ、コミカライズの仕事を絶った。 『鋼鉄ジーグ』では女子高校生によるファンクラブが存在した。 ※ 全て松本めぐむ名義で執筆。 ※内部リンクは大元のテレビ作品へリンクしている ※ 松本めぐむ名義
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尾瀬 あきらは、日本の漫画家。京都府京都市出身。別名松本 めぐむ。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 尾瀬 あきら | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢|1947|07|26}} | 生地 = {{JPN}}・[[京都府]][[京都市]] | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1947|07|26|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 --> | 国籍 = {{JPN}} | 職業 = [[漫画家]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = [[1971年]] - | ジャンル = [[青年漫画]]<br />[[少年漫画]] | 代表作 = 『[[初恋スキャンダル]]』<br />『[[夏子の酒]]』 | 受賞 = 第31回小学館漫画賞(『初恋スキャンダル』、『とべ!人類II』) | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = <!-- {{Official website|https://www.example.org}}や[https://www.example.org/ 公式ページ名] など --> }} '''尾瀬 あきら'''(おぜ あきら、[[1947年]]([[昭和]]22年)[[7月26日]]{{R|nataprof}} - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[京都府]][[京都市]]{{R|nataprof}}出身。別名'''松本 めぐむ'''{{R|OFMKR4}}。 __TOC__{{-}} == 経歴 == 高校生時代に[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]の『マンガ家入門』を読み、漫画家を志す{{R|OFMKR4}}。 高校卒業後、[[あさのりじ]]、[[久松文雄]]のアシスタントを経て、石森プロに入る{{R|OFMKR4}}。当時の石森プロの先輩アシスタントに[[永井豪]]、後輩に[[小山田つとむ]]がいた。石森プロ時代も久松やあさのりじの手伝いをしていた。 '''松本めぐむ'''という[[ペンネーム]]で貸本漫画の描き下ろし[[単行本]]を手掛けた後、『[[空飛ぶゆうれい船]]』の[[コミカライズ]]でデビュー{{R|OFMKR4|169nin}}。 初期は[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]や[[特撮]]番組のコミカライズ作品を手がけていた{{R|OFMKR4|169nin}}。その後、新聞や少女漫画雑誌の連載を経て、『マッチポイント!』からペンネームを現行の尾瀬あきらに変更{{R|OFMKR4}}。『[[少年ビッグコミック]]』にて連載された自身初の長期連載作『[[初恋スキャンダル]]』は連載5年、[[単行本]]全18巻の人気作品となった{{R|169nin}}。 [[1985年]](昭和60年)に『初恋スキャンダル』『とべ!人類II』で第31回(昭和60年度)[[小学館漫画賞]]を受賞している{{R|OFMKR4}}。 [[1988年]](昭和63年)の[[春]]から『[[夏子の酒]]』([[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]])の連載が始まる。[[日本酒]]造りとそのために必要な[[酒米]]造りについて、田舎や[[農業]]の抱える問題と共に描いた作品で広く人気を博し代表作となり、[[1994年]]([[平成]]6年)に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列で連続ドラマ化された。 『夏子の酒』完結後、1年余りの取材を経て、[[三里塚闘争]]に奔走される地元農民の生き様を描いた『[[ぼくの村の話]]』を[[1992年]](平成4年)春から[[1993年]](平成5年)末にかけて『モーニング』にて連載。「ヒットこそしなかったものの、この作品で多くのものを得た」と[[ウェブサイト|公式サイト]]にて発言している<ref>[http://www008.upp.so-net.ne.jp/ozex/sakuhinsyu02.html 尾瀬あきら公式ホームページの作品紹介]より、2009年11月6日閲覧。</ref>。 これ以降、2 - 3年程度の連載作品を[[青年漫画]]雑誌で発表している。 == 作風・エピソード == 基本的に社会派的な問題提起型の話が多く、[[日本]]社会の中に内在する、日の当たらない問題・人間を主題に扱う。[[漫画]]作品以外にも、漫画の描き方や、趣味である[[酒]]に関してつづった著書などがある。 [[コミカライズ]]を担当していた時代は、既存の物語を組み立て直すことに空虚さを感じていたが、[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]ではなく漫画を描き続けられただけで喜びを感じていたと語っている{{R|OFMKR4}}。『[[仮面ライダーV3]]』では必要最低限の部分を抑えれば自由にやって良いという体制であったため、[[結城丈二|結城丈二 / ライダーマン]]について掘り下げるなどのオリジナル要素を盛り込んだ{{R|OFMKR4}}。『[[鋼鉄ジーグ]]』や『[[大空魔竜ガイキング]]』では、物語をパターンに納める作業をつまらなく感じたため、自身が好む「人間的な弱さのある[[ヒーロー]]らしくないヒーロー」という[[概念|コンセプト]]で執筆した{{R|OFMKR4}}。『ガイキング』で自身のヒーロー像を描き切ったと感じ、コミカライズの仕事を絶った{{R|OFMKR4}}。 『鋼鉄ジーグ』では[[女子高生|女子高校生]]による[[ファンクラブ]]が存在した{{R|OFMKR4}}。 == 主な作品 == <!-- 発表年代順 --> === アニメ・特撮番組の漫画化作品 === ※ 全て'''松本めぐむ'''名義で執筆。 ※内部リンクは大元のテレビ作品へリンクしている * [[空飛ぶゆうれい船]]『別冊少年キング』 * [[超人バロム・1]] - 原作:[[さいとう・たかを]]、『[[テレビマガジン]]』(1972年7月号 - 12月号) *: 連載1・2話(5・6月号)はさいとう・たかを(さいとうプロ)が執筆した。 * [[バビル2世]] - 原作:[[横山光輝]]、『テレビマガジン』(1973年2月号 - 9月号) * [[仮面ライダーV3]] - 原作:[[石ノ森章太郎|石森章太郎]]、『[[テレビランド]]』(1973年7月号 - 1974年2月号) * [[仮面ライダーX]] - 原作:石森章太郎、『テレビランド』(1974年3月号 - 5月号) * [[宇宙円盤大戦争]] - 原作:[[永井豪]]、『テレビマガジン』(1975年7月号 - 8月号) * [[鋼鉄ジーグ]] - 原作:永井豪、『[[冒険王 (漫画雑誌)|冒険王]]』(1975年11月号 - 1976年9月号) * [[大空魔竜ガイキング]] - 原作:中谷国夫・杉野昭夫・小林檀、『テレビランド』(1976年) === 児童文学の漫画化作品 === ※ '''松本めぐむ'''名義 * [[ハックルベリー・フィンの冒険|ハックルベリーの冒険]] - 原作:[[マーク・トゥエイン]]、集英社モンキー文庫 名作漫画シリーズ(1977年) === 一般小説の漫画化作品 === * [[善人長屋]] - 原作・[[西條奈加]]、『[[ビッグコミックオリジナル]]』(2018年 - 2020年) === 原作付き作品 === * [[リュウ (漫画)|リュウ]] - 原作:[[矢島正雄]]、『[[週刊少年サンデー]]』(1986年 - 1988年) === オリジナル作品 === ; [[少年漫画]] * [[とべ!人類]] - 『[[毎日中学生新聞]]』(1978年 - 1978年) *:'''松本めぐむ'''名義。作者初のオリジナル作品。後に『少年ビッグコミック増刊号』にて加筆修正版が再掲載された。 <!-- *: 後に『少年ビッグコミック増刊号』にて加筆修正版および続編「とべ!人類Ⅱ」が連載され、「尾瀬あきら 選集」2・3巻でコミック化されている(現在コミックパークにてオンデマンド出版されている)。 --> * [[初恋スキャンダル]] - 『[[少年ビッグコミック]]』(1981年 - 1986年) * とべ!人類II - 『少年ビッグコミック増刊号』(1984年 - 1985年) *: 『とべ!人類』の続編。『少年ビッグコミック増刊号』に再掲載された『とべ!人類』の反響を受けて描かれたもの。 ; [[少女漫画]] * マッチポイント! - 『[[コロネット (雑誌)|コロネット]]』(1979年) *: バレー部キャプテン槇村心のさわやか青春スポーツ&ラブ ; [[青年漫画]] * [[夏子の酒]] - 『[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]』(1988年 - 1991年) * [[ぼくの村の話]] - 『モーニング』(1991年 - 1993年) *: [[成田国際空港|成田空港]]建設に伴う[[三里塚闘争]]を、農民側の視点で[[成田空港問題|1960年代の候補地策定]]から[[第二次代執行]]発生直後まで、作者の入念な取材を基に辿った作品。エピローグで、[[1990年代]]の[[成田空港問題#円卓会議と政府の謝罪|円卓会議と政府の謝罪]]が行われたことが描かれている。 *: 「ぼく」は作中の[[語り手|ストーリーテラー]]で実質的な[[主人公]]の押坂哲平とされており、彼が小学5年生から高校1年生へ成長する間の出来事を、連載時点で成人(30歳代)となっている彼が回想する形で物語が展開されている。少年たちの[[キャラクターデザイン]]は『とべ!人類』の登場人物に近いものとなっている。 *: 連載当時、[[宮内庁下総御料牧場]]の風景などを[[1970年代]]に刊行された[[写真集]]を参考に[[模写]]したものが複数あり、講談社の担当のミスで[[著作権]]者に対して許諾を取らず無断で掲載したことが問題となった。これは[[日本放送協会|NHK]]のニュース番組でも報道された。単行本では出典が明記されている。 *: 本作は前作『夏子の酒』と異なり[[講談社漫画文庫]]化はされていない。単行本は再版されずに絶版となったが、[[復刊ドットコム]]の投票結果などから[[2008年]](平成20年)に[[コミックパーク]]での[[オンデマンド出版]]による再版が実現している。 * みのり伝説 - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(1994年 - 1997年) *: 出版社のライターとして働く杉苗みのりが独立して成長して行くサクセスストーリー。 *: [[藤田千恵子]]の「[[愛は下克上]]」を土台にしている。 * 奈津の蔵 - 『モーニング』(1998年 - 2000年) *: 夏子の祖母の時代の酒蔵を描いたもので『夏子の酒』の前章にあたる作品。 *: 当時の[[造り酒屋|酒蔵]]の悪習的しきたりや、酒造りの技術革新などの歴史が垣間見える。 * 光の島 - 『ビッグコミックオリジナル』(2001年 - 2004年)、原案:[[森口豁]]『[[子乞い]]』 *: [[沖縄県]][[鳩間島]]の小学校と村(役場)の存続のために[[里子]]に出された6歳の主人公、光が島民との触れあいで成長して行く様を題材とした作品。 *: なお、『子乞い』を原作とした作品は、他に[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列で放送されたドラマ『[[瑠璃の島]]』([[2005年]](平成17年))がある。 * オンサイト! - 『モーニング』(2004年 - 2005年) *: 1993年、父親の転勤(左遷)で長野県に転校してきた小学6年生の大村摩耶が、[[フリークライミング]]競技と、クラスメイトの岩本瞬([[在日韓国・朝鮮人|在日韓国人]]で本名は韓瞬(ハン・スン))や開業医の娘である朴正美(パク・ジョンミ)たちに出逢い、登場人物それぞれが抱える人間としての悩みを、クライミングを通じて打破して行く様を描いた作品。摩耶たちが中学3年生となり、将来を決意した所で第一部が完結。『ぼくの村の話』以来久々の少年少女を物語の中心に据えた作品となっている。 *: 第二部の構想がある模様だが、いまだ掲載されていない。 *: タイトルの「[[オンサイト]]」はフリークライミングにおける完登の様式のひとつ。 * [[蔵人 (漫画)|蔵人]] - 『[[ビッグコミックオリジナル]]』(2006年 - 2009年) * どうらく息子 - 全18巻『ビッグコミックオリジナル』(2010年 - 2017年) *: 大卒後就職が決まらず親族が経営する[[保育園]]で保育助手の[[アルバイト]]をしている関谷翔太が、偶々、寄席で観た「[[時そば]]」に魅せられ、惜春亭銅楽(せきしゅんていどうらく)に[[入門|弟子入り]]し[[落語]]の世界へ入っていく様を描く作品。 * 夢で逢いましょう - 『ビッグコミックオリジナル』(2022年) *: 2022年9号と10号に掲載された前後編{{R|natalie20220420}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/magazines/72491/|title=ビッグコミックオリジナル第10号|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2022-05-02}}</ref>。漫画家の「終活ラブコメ」を題材とした作品{{R|natalie20220420}}。 ; その他の漫画作品 * いざかやくん - '''尾古瀬あきら'''名義。公式サイトなどに掲載されている。 * [[週刊マンガ日本史]]第47号『[[杉原千畝]]』([[朝日新聞出版]]) == 一般書籍 == * 知識ゼロからの日本酒入門(2001年 [[幻冬舎]]) - エッセイと漫画から成る。 * さらに極める日本酒味わい入門(2003年 幻冬舎) - 上記の続編。 == イラスト提供 == * [[合名会社]][[森喜酒造場]]:日本酒「るみ子の酒」のパッケージイラスト *: 命名の由来となった森喜酒造場の専務が先代の闘病で実家の蔵元を引き継いだ[[女性]]であり、同様の[[主人公]]設定の「夏子の酒」の佐伯夏子に共感したことから、交友のあった尾瀬が命名、イラスト作成を行なっている。 * [[上野敏彦]]著『闘う純米酒』表紙カバー *: [[日本酒#純米酒|純米酒]]を巡る[[神亀酒造]]当主の闘いを描いている。 == その他の活動 == * [[小学館漫画賞]]・選考委員 - 第54回(2008年)から第60回(2014年)まで == 関連人物 == === アシスタント === * [[こしのりょう]] * [[太田垣康男]] * [[山本おさむ]]{{R|OFMKR4}} - 『哲ちん珍道中』は尾瀬との連名作品であった。 * [[矢野健太郎 (漫画家)|矢野健太郎]] === 他 === * [[久木田律子]] - 尾瀬と山本おさむがアシスタントをしていた(後に山本は久木田と結婚)。 == 関連書籍 == * [[洋泉社]]のムック「まんが秘宝」にインタビュー記事が掲載された。 ** Vol.1「ぶっちぎりヒーロー道」(1997年) - コミカライズ作品について話した。取り上げた作品は『空飛ぶゆうれい船』『バビル二世』『宇宙円盤大戦争』など。 ** Vol.2「つっぱりアナーキー王」(1997年) - 破滅・革命系の作品について話した。取り上げた作品は『ぎらぎらのてつ』『とべ!人類』『リュウ』『ぼくの村の話』など。 ** Vol.3「まんがチャンピオンまつり」(1998年) - アシスタント時代やドラマ化について話した。『夏子の酒』で主役を演じた[[和久井映見]]に好印象を持っていた。 * 「夏子の酒」読本(1993年 [[講談社]]) - ドラマ化の際に出たガイドブック。表紙に「原作・尾瀬あきら」との記載あり。 == ファンクラブ == * 「尾瀬あきら=松本めぐむFC」が同人誌「松本めぐむ全集」を刊行した。 == 関連項目 == * [[諏訪酒造]] - [[鳥取県]][[智頭町]]の酒造メーカー。尾瀬あきらギャラリーがある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist |refs= <ref name="nataprof">{{Cite web|和書|url = http://natalie.mu/comic/artist/show?id=2367 | title = コミックナタリー - 尾瀬あきらのプロフィール | publisher = 株式会社ナターシャ | accessdate = 2013-02-23}}</ref> <ref name="natalie20220420">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/474690|title=ある日気づいたら死んでいた?尾瀬あきらが描く終活ラブコメがBCオリジナルに|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-20|accessdate=2022-04-20}}</ref> <ref name="OFMKR4">{{Harvnb|OFM仮面ライダー4|2004|p=30|loc=五十嵐浩司「石ノ森章太郎を継ぐ者 仮面ライダーマンガ家列伝 第6回 尾瀬あきら」}}</ref> <ref name="169nin">中野渡淳一著「漫画家誕生 169人の漫画道」152 - 153頁 [[新潮社]]、[[2006年]]([[平成]]18年)</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー|volume=Vol.4|volume-title=ライダーマン|date=2004-09-24|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-367091-0|ref={{SfnRef|OFM仮面ライダー4|2004}}}} == 外部リンク == * [https://web.archive.org/web/20071229073955/http://www008.upp.so-net.ne.jp/ozex/ 尾瀬あきら公式ホームページ] {{リンク切れ|date= 2020年9月14日 (月) 12:23 (UTC)}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おせ あきら}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:京都市出身の人物]] [[Category:1947年生]] [[Category:存命人物]]
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落合尚之
落合 尚之(おちあい なおゆき、1968年1月6日 - )は、日本の男性漫画家。福岡県福岡市出身。代表作に『黒い羊は迷わない』『罪と罰 A Falsified Romance』など。 1991年に「どすこい!!タコ花田イカ花田」でデビュー。その後いくつかの短編を経て、小学館の『週刊ヤングサンデー』に『黒い羊は迷わない』の第一部、第二部を連載。再び数篇の短編を経て同じく小学館の『月刊サンデージェネックス』に「ダンデライオン」「鉄人」(原作:矢作俊彦)を、『ビッグコミックビジネス』に「派遣社員お銀」(原作:神尾龍)を連載。 2011年双葉社の『漫画アクション』にて「罪と罰 A Falsified Romance」を連載終了。
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落合 尚之は、日本の男性漫画家。福岡県福岡市出身。代表作に『黒い羊は迷わない』『罪と罰 A Falsified Romance』など。
'''落合 尚之'''(おちあい なおゆき、[[1968年]][[1月6日]]<ref name="weba">「[http://webaction.jp/title/5.php 作品紹介『罪と罰』]」『[http://webaction.jp/ Web漫画アクション]』</ref> - )は、[[日本]]の男性[[漫画家]]。[[福岡県]][[福岡市]]出身<ref>[http://natalie.mu/comic/artist/show?id=2448 コミックナタリー - 落合尚之のプロフィール] </ref>。代表作に『[[黒い羊は迷わない]]』『[[罪と罰 A Falsified Romance]]』など。 == 経歴 == 1991年に「どすこい!!タコ花田イカ花田」でデビュー。その後いくつかの短編を経て、[[小学館]]の『[[週刊ヤングサンデー]]』に『[[黒い羊は迷わない]]』の第一部、第二部を連載。再び数篇の短編を経て同じく小学館の『[[月刊サンデージェネックス]]』に「ダンデライオン」「鉄人」(原作:[[矢作俊彦]])を、『[[ビッグコミックビジネス]]』に「派遣社員お銀」(原作:[[上代務|神尾龍]])を連載。 2011年[[双葉社]]の『[[漫画アクション]]』にて「[[罪と罰 A Falsified Romance]]」を連載終了。 == 作品リスト == === 単行本 === <!--Wikipedia内に個別ページがある作品のISBNは個別ページ内に掲載しています。--> * [[黒い羊は迷わない]] 全2巻(小学館、ヤングサンデーコミックス) * [[ダンデライオン (落合尚之)|ダンデライオン]] 全2巻(小学館、サンデーGXコミックス) *# ISBN 978-4091570413 (2001年9月) *# ISBN 978-4091570420 (2001年10月) * [[鉄人 (漫画)|鉄人]] 全4巻(小学館、サンデーGXコミックス) *# ISBN 978-4091570437 (2002年8月19日) *# ISBN 978-4091570444 (2002年10月28日) *# ISBN 978-4091570451 (2003年6月19日) *# ISBN 978-4091570468 (2003年11月19日) * 派遣社員お銀 全1巻(小学館、ビッグコミックススペシャル) *# ISBN 978-4091805133 (2006/05/30) * [[罪と罰 A Falsified Romance]] 全10巻 - (双葉社、アクションコミックス) == 師匠 == * [[六田登]] - デビュー前に[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]としてつく<ref>[http://zenmaidrive.blog53.fc2.com/ ゼンマイ駆動 走れプガチョフ]</ref> == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://zenmaidrive.blog53.fc2.com/ ゼンマイ駆動 走れプガチョフ] - 公式ブログ * {{Twitter|ochiailyon|落合尚之}} * [http://www.shijima.jp/thesheepfold/index.html The Sheepfold] - 公認サイト {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おちあい なおゆき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:福岡市出身の人物]] [[Category:1968年生]] [[Category:存命人物]]
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小野弥夢
小野 弥夢(おの ひろむ、9月13日 - )は、漫画家。猫水彩画家。広島県呉市出身。 大和和紀のアシスタントを経て、1977年に『ロックンロールペテン師』でデビュー。 以後、「少女フレンド」を中心に活躍し、現在は女性誌に発表の場を移している。 代表作に『Lady Love』『DIVA』『Pony Tail』など。 特に『DIVA』は、少女漫画では初めて、本格的にオペラの世界を扱った作品として知られる。 1984年、『Lady Love』で第8回講談社漫画賞を受賞。 現在は猫水彩画家として活動しており、都内のギャラリーで作品展に参加している。
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小野 弥夢は、漫画家。猫水彩画家。広島県呉市出身。 大和和紀のアシスタントを経て、1977年に『ロックンロールペテン師』でデビュー。 以後、「少女フレンド」を中心に活躍し、現在は女性誌に発表の場を移している。 代表作に『Lady Love』『DIVA』『Pony Tail』など。 特に『DIVA』は、少女漫画では初めて、本格的にオペラの世界を扱った作品として知られる。 1984年、『Lady Love』で第8回講談社漫画賞を受賞。 現在は猫水彩画家として活動しており、都内のギャラリーで作品展に参加している。
{{redirect|Lady Love|[[RIZE]]のシングル|LADY LOVE}} {{redirect|SWEET16|[[Apple II]] Stdの[[CPU]][[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]]|Sweet16|[[佐野元春]]のアルバム|Sweet16 (アルバム)}} '''小野 弥夢'''(おの ひろむ、[[9月13日]] - )は、[[漫画家]]。猫水彩画家。[[広島県]][[呉市]]出身。 [[大和和紀]]の[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、1977年に『ロックンロールペテン師』でデビュー。 以後、「[[少女フレンド]]」を中心に活躍し、現在は[[女性漫画|女性誌]]に発表の場を移している。 代表作に『Lady Love』『DIVA』『Pony Tail』など。 特に『DIVA』は、[[少女漫画]]では初めて、本格的に[[オペラ]]の世界を扱った作品として知られる。 1984年、『Lady Love』で第8回[[講談社漫画賞]]を受賞。 現在は猫水彩画家として活動しており、都内のギャラリーで作品展に参加している。 == 作品リスト == * ショパンにささげるロックンロール * 緋の風 * Lady Love * Sweet 16 * 天使の賭け * Charming * ギャロップ * ほっかポッカ牧歌 *素敵なキッスしてあげる ([[別冊フレンド]] 1986年3月号) *ロマンスを踊りたい (別冊フレンド 1986年5月号~6月号) *[[DIVA (小野弥夢)|DIVA]] (別冊フレンド 1988年3月号~) *宵の口から……♡ ([[mimi (雑誌)#姉妹誌|mimi Excellent]] 1988年No.8、1989年No.10、12、1999年No.14) *アフタヌーンティ ([[mimi (雑誌)#姉妹誌|mimi Carnival]] 1991年10月号) *Pony Tail 女性騎士物語 ([[mimi (雑誌)|Monthly mimi]] 1992年3月号~) *草原に抱かれて眠りたい (Monthly mimi 1994年3月号) *なごり雪 (mimi Carnival 1995年5月号) *ハーブガーデン (mimi Carnival 1995年10月号) *アダージオ (mimi Carnival 1996年3月号) *好きといえるまで (mimi Carnival 1996年12月号) *ドアを開けたら暗闇が立っている (mimi Carnival 1997年3月号) == 外部リンク == *{{マンガ図書館Z作家|113}} *{{Mediaarts-db|id=C58682|name=小野弥夢}} {{Normdaten}} {{manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:おの ひろむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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小山田いく
小山田 いく(おやまだ いく、1956年6月10日 - 2016年3月23日)は、日本の漫画家。代表作に『すくらっぷ・ブック』など。本名は田上 勝久(たがみ かつひさ)。同じく漫画家のたがみよしひさは実弟。 長野県小諸市生まれ。小諸市立坂の上小学校、小諸市立芦原中学校、長野工業高等専門学校機械工学科卒業。卒業後の1979年、本名で描いた『五百羅漢』(『別冊ビッグコミック』12月1日号)で漫画家デビュー(これ以前にも“幻のデビュー作”として、第4回小学館新人コミック大賞を受賞した「菩薩」がある)。同年、「12月の唯」(第13回「週刊少年チャンピオン新人まんが賞」佳作)で小山田いく名義に変更し『週刊少年チャンピオン』にてデビューした(同期の受賞者は、入選の神矢みのる、佳作の木村和昭など)。その後、『春雨みら〜じゅ』『三角定規ぷらす1』といった読切短編を発表する。 1980年、故郷の小諸市を舞台とした青春ラブコメディ『すくらっぷ・ブック』で連載デビューする。この作品は前3作の短編から『春雨みら〜じゅ』の柏木晴(かしわぎ はる)を主人公とし、これら3作全ての登場人物を含めた「市立芦ノ原中学校」での学園生活(2学年進級から中学校卒業まで)を描くというもので、一躍人気を獲得する。 『すくらっぷ・ブック』以降しばらくは、短編『シューティング・ザ・ムーン』『ぶるうピーター』『ウッド・ノート』など、同様の恋愛青春群像を中心に描いていたが、1987年発表の『マリオネット師』ではマリオネットを操る若きスリ師の目を通して様々な人生劇を描く手法で、その人気を不動のものとする。以降、環境問題や社会問題を取り上げた作品を得意とするようになる。 民話や神話、古典文学、自然科学といった分野に造詣が深く、特に初期作品には民話や神話をモチーフにした作品やエピソードが多い。登場人物のセリフ中にも古典詩や俳句などがよく引用される。また鉄道にまつわる作品も多数発表している。工業高専卒ながら工学理数系はあまり得意ではなかったとしているが、作品には機械いじりが趣味というキャラクターも多く登場する。過去作品のキャラクターが成長ないし過去の人物として再登場することも多く、読者にとっては楽しみの一つでもあった。「大山田博士」や「寿司ごん店長」など、一部のキャラクターはスター・システムとして登場している。 1994年以降は『少年チャンピオン』発行元の秋田書店や、ぶんか社発行のミステリー・ホラー誌に執筆の場を移して活動した。 2016年3月23日、小諸市の自宅にて倒れているのが発見され、死亡が確認された。享年59。 執筆予定だった雑誌には弟のたがみよしひさが代わって、家族の想い出を描いたその短編「欠片の記憶」を描いた。「欠片の記憶」には「小山田いくこと田上勝久も肝硬変で死んだ......」と記されている。
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小山田 いくは、日本の漫画家。代表作に『すくらっぷ・ブック』など。本名は田上 勝久。同じく漫画家のたがみよしひさは実弟。
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Gnutella
Gnutella(グヌーテラ、ニューテラ)はP2Pプロトコルおよびファイル共有クライアント。 ナップスターなどのP2Pクライアントの場合は、中央サーバが存在し、ファイルのメタデータの管理や検索サービスを提供することにより、P2Pネットワークが機能している。それに対し、グヌーテラはサーバに依存せず、純粋にピア間の通信のみでファイルの送受信などの機能を実現している。 P2Pのしくみの分類中、このようなピア間の通信のみによって機能するものをピュアP2P、ナップスターのようにサーバの仲介を必要とするものを、ハイブリッドP2Pと呼んでいる。 その他には、KaZaA や Skypeに使われているスーパーノード型ハイブリッドP2Pがある。 ナップスターに代表される第一世代P2P(ハイブリッドP2P)は、中央サーバに依存する為、ネットワークへのトラフィックは少ないが、耐障害性が低く、サーバがダウンしたらネットワークが形成できないという弱点があった。それに対してグヌーテラに代表される第二世代P2P(ピュアP2P)は、各クライアントがサーバを兼ねる(サーバント)為、耐障害性が高い。 製作者の「核戦争でも生き残れるように設計されたもの(Gnutella is designed to survive nuclear war)」や、「万一、ニューヨークに核爆弾が投下されたとしても、(それ自体はたいへんなことだが)ニューヨーク以外の『グヌーテラ友達』によってグヌーテラネットは維持されるだろう」といった言葉が、グヌーテラネットワークの特徴をよく表している。 グヌーテラネットワーク上で交わされているメッセージは、PING、PONG、PUSH、QUERY、QUERY_HITの以上である。 中央サーバが存在しないグヌーテラにおいて、最初に接続するときに何処に問い合わせるのか?という問題が出てくる。 グヌーテラ第一世代では、ノード情報を掲示板などで入手する方法が採られていたが、グヌーテラ第二世代になって、GWC(GWebCache)というブートストラップサーバーにより各ノードと接続する方法がとられた。 接続においては、グヌーテラサーバントはまずPINGという接続要求を出す。それに対して、接続相手はPONGという信号を返して、ハンドシェイクを行い接続が完了する。 検索はグヌーテラネットワークで行っており、ファイルを求めるサーバントは、QUERYをグヌーテラネットワークに送信し、ヒットしたクエリがQUERY_HITとして検索結果に表示される。 グヌーテラでの、ファイルの転送はHTTPプロトコルで行われている。 ファイルの転送は、QUERY_HIT識別子に含まれる、IPアドレスやポート番号などによってファイルの所有者にHTTPでの転送命令を出す。 また、ファイル所有者がファイアウォール下にいるサーバントの場合は、PUSH識別子を出し、相手サーバントがHTTPでの転送命令を出す。 2000年、AOL社の一部門であるNullsoftで、当時社員だった Justin FrankelとTom Pepperの二人が、最初のグヌーテラクライアントを開発した。 2000年3月14日、二人はNullsoftのサーバー上にプログラムをダウンロードできる形でアップロードした。この出来事はスラッシュドットで告知されたため、その日の内に数千人がソフトをダウンロードした。ソースコードについては、後ほどGPLライセンスの元で提供する予定だった。 翌日、AOLは法的問題を理由にプログラムの提供を中止し、さらにNullsoft部門にプロジェクトを中止させた。しかしこの措置によっても、グヌーテラを止めることはできなかった。 数日後には、リバースエンジニアリングによってプロトコルは解析され、それを元にグヌーテラ互換のオープンソースクローンが登場した。現在でも、様々なグループが グヌーテラ 互換クライアントの開発を続けている。 シャットダウンから間もなくして、Brian MaylandがNullsoftのプログラムを入手して、グヌーテラプロトコルの動作原理を理解するためにリバースエンジニアリングした。彼の仕事のおかげでテキストベースのUNIXプログラムを作ったJosh Pieperや、より使いやすいGUIをもったプログラムを作ろうとしたGene KanやSpencer Kimballのような人々によってソフトウェア開発がなされることになった。 ユーザの裾野が広がるにつれ、システムの重大な問題が取り沙汰されはじめた。ネットワークはPINGリクエストで溢れかえり、同時に非常に多くの検索クエリーで高負荷になった。より高速なハブとしての役割を果たすコンピュータに接続した低速のモデムといった形でネットワークのトポロジーは非効率的だった。第一世代のソフトウェアの深刻なバグによってパケットがネットワーク上を不明確にさまよっていた。ネットワークは“本来は少数のユーザのために設計されたもので”100人単位から10,000 単位のユーザに膨張しトラブルに見まわれた。「ただ乗り」や「何も提供していないのにファイルを取り出すだけの人々」によってもユーザが探し物をするのを難しくした。 もう一度、情熱的なコミュニティーが救済に乗り出した。Bob Schmidtが初めてのホストキャッシングシステムを開発した。プログラマー達はGnutella 0.56のコードを修正し、パケットが適切に運ばれるようにTTLのバグを取り除こうとした。そして、Jorge Gonzalesはネットワークをダメにするスパマーたちからネットワークを守る行動に出た。 この時点で、物事は個人の開発者が全てをまかなうにはあまりにも複雑になっていた。彼らはコードを書き、報道やユーザやお金の工面をしなければならなかった。 こういった事情で、早急に商業的な努力が介入し、「救済に乗り出す」必要が出てきた。Clip2はgnutellahosts.comを開発し、より良いホストキャッシュの実装し、いくらかナップスターのようなトポロジーをグヌーテラネットワークに組み入れて合体させるようなやり方で動く小さなサーバリフレクターを開発した。
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Gnutella(グヌーテラ、ニューテラ)はP2Pプロトコルおよびファイル共有クライアント。
{{出典の明記|date=2020-02-09}} '''Gnutella'''('''グヌーテラ'''、'''ニューテラ''')は[[Peer to Peer|P2P]][[プロトコル]]および[[ファイル共有]][[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]。 == 概要 == [[ナップスター]]などのP2Pクライアントの場合は、中央[[サーバ]]が存在し、ファイルの[[メタデータ]]の管理や検索サービスを提供することにより、P2Pネットワークが機能している。それに対し、グヌーテラはサーバに依存せず、純粋に[[ピア]]間の通信のみでファイルの送受信などの機能を実現している。 P2Pのしくみの分類中、このようなピア間の通信のみによって機能するものを[[ピュアP2P]]、ナップスターのようにサーバの仲介を必要とするものを、[[ハイブリッドP2P]]と呼んでいる。 その他には、[[Kazaa Lite|KaZaA]] や [[Skype]]に使われている[[Peer to Peer#スーパーノード型P2P|スーパーノード型ハイブリッドP2P]]がある。 == 特徴 == ナップスターに代表される[[第一世代P2P]](ハイブリッドP2P)は、中央サーバに依存する為、ネットワークへの[[トラヒック理論|トラフィック]]は少ないが、耐障害性が低く、サーバがダウンしたらネットワークが形成できないという弱点があった。それに対してグヌーテラに代表される[[第二世代P2P]](ピュアP2P)は、各クライアントがサーバを兼ねる([[サーバント]])為、耐障害性が高い。 製作者の「核戦争でも生き残れるように設計されたもの(''Gnutella is designed to survive nuclear war'')」や、「万一、ニューヨークに核爆弾が投下されたとしても、(それ自体はたいへんなことだが)ニューヨーク以外の『グヌーテラ友達』によってグヌーテラネットは維持されるだろう」といった言葉が、グヌーテラネットワークの特徴をよく表している。 == グヌーテラの仕組み == グヌーテラネットワーク上で交わされているメッセージは、PING、PONG、PUSH、QUERY、QUERY_HITの以上である。 === 接続 === 中央サーバが存在しないグヌーテラにおいて、最初に接続するときに何処に問い合わせるのか?という問題が出てくる。 グヌーテラ第一世代では、ノード情報を掲示板などで入手する方法が採られていたが、グヌーテラ第二世代になって、GWC(GWebCache)というブートストラップサーバーにより各ノードと接続する方法がとられた。 接続においては、グヌーテラサーバントはまずPINGという接続要求を出す。それに対して、接続相手はPONGという信号を返して、[[ハンドシェイク]]を行い接続が完了する。 === 検索 === 検索はグヌーテラネットワークで行っており、ファイルを求めるサーバントは、QUERYをグヌーテラネットワークに送信し、ヒットしたクエリがQUERY_HITとして検索結果に表示される。 === 転送 === グヌーテラでの、ファイルの転送は[[HTTP]]プロトコルで行われている。 ファイルの転送は、QUERY_HIT識別子に含まれる、[[IPアドレス]]や[[ポート番号]]などによってファイルの所有者にHTTPでの転送命令を出す。 また、ファイル所有者が[[ファイアウォール]]下にいるサーバントの場合は、PUSH識別子を出し、相手サーバントがHTTPでの転送命令を出す。 == 開発の経緯 == [[2000年]]、[[AOL]]社の一部門である[[Nullsoft]]で、当時社員だった [[ジャスティン・フランケル|Justin Frankel]]と[[Tom Pepper]]の二人が、最初のグヌーテラクライアントを開発した。 2000年3月14日、二人はNullsoftのサーバー上にプログラムをダウンロードできる形でアップロードした。この出来事は[[スラッシュドット]]で告知されたため、その日の内に数千人がソフトをダウンロードした。ソースコードについては、後ほど[[GNU General Public License|GPL]]ライセンスの元で提供する予定だった。 翌日、AOLは法的問題を理由にプログラムの提供を中止し、さらにNullsoft部門にプロジェクトを中止させた。しかしこの措置によっても、グヌーテラを止めることはできなかった。 数日後には、[[リバースエンジニアリング]]によってプロトコルは解析され、それを元にグヌーテラ互換の[[オープンソース]]クローンが登場した。現在でも、様々なグループが グヌーテラ 互換クライアントの開発を続けている。 === グヌーテラ第一世代 === シャットダウンから間もなくして、[[Brian Mayland]]がNullsoftのプログラムを入手して、グヌーテラプロトコルの動作原理を理解するために[[リバースエンジニアリング]]した。彼の仕事のおかげでテキストベースの[[UNIX]]プログラムを作った[[Josh Pieper]]や、より使いやすいGUIをもったプログラムを作ろうとした[[Gene Kan]]や[[Spencer Kimball]]のような人々によってソフトウェア開発がなされることになった。 === グヌーテラ第二世代 === ユーザの裾野が広がるにつれ、システムの重大な問題が取り沙汰されはじめた。ネットワークはPINGリクエストで溢れかえり、同時に非常に多くの検索クエリーで高負荷になった。より高速な[[ハブ (ネットワーク機器)|ハブ]]としての役割を果たすコンピュータに接続した低速の[[モデム]]といった形でネットワークの[[トポロジー]]は非効率的だった。第一世代のソフトウェアの深刻なバグによってパケットがネットワーク上を不明確にさまよっていた。ネットワークは“本来は少数のユーザのために設計されたもので”100人単位から10,000 単位のユーザに膨張しトラブルに見まわれた。「ただ乗り」や「何も提供していないのにファイルを取り出すだけの人々」によってもユーザが探し物をするのを難しくした。 もう一度、情熱的なコミュニティーが救済に乗り出した。[[Bob Schmidt]]が初めてのホストキャッシングシステムを開発した。プログラマー達はGnutella 0.56のコードを修正し、[[パケット]]が適切に運ばれるようにTTLのバグを取り除こうとした。そして、[[Jorge Gonzales]]はネットワークをダメにする[[スパマー]]たちからネットワークを守る行動に出た。 この時点で、物事は個人の開発者が全てをまかなうにはあまりにも複雑になっていた。彼らはコードを書き、報道やユーザやお金の工面をしなければならなかった。 こういった事情で、早急に商業的な努力が介入し、「救済に乗り出す」必要が出てきた。[[Clip2]]はgnutellahosts.comを開発し、より良いホストキャッシュの実装し、いくらかナップスターのようなトポロジーをグヌーテラネットワークに組み入れて合体させるようなやり方で動く小さな[[サーバ]]リフレクターを開発した。 == グヌーテラ互換サーバント == {| class="wikitable" border="1" ! 名称 || プラットホーム || ライセンス |- | [[:en:Acquisitionx|Acquisition]] || [[macOS]] || [[シェアウェア]] |- | Acqlite || [[macOS]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:BearShare|BearShare]] || [[Microsoft Windows]] || シェアウェア [[:en:Closed source]] |- | [[:en:Phex|Phex]] || [[Java]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[Cabos]] || [[Java]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | CocoGnut || [[RISC OS]] || [[フリーウェア]] |- | [[:en:Gnucleus|Gnucleus]] || [[Microsoft Windows]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]], [[GNU Lesser General Public License|GNU LGPL]] |- | [[:en:gtk-gnutella|GTK-Gnutella]] || [[UNIX]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[LimeWire]] || [[Java]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:mlDonkey|mlDonkey]] || || |- | [[Morpheus]] || [[Microsoft Windows]] || [[:en:Closed source]] |- | [[:en:Mutella|Mutella]] || [[UNIX]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:Poisoned|Poisoned]] || [[macOS]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:Qtella|Qtella]] || [[Linux]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[Shareaza]] || [[Microsoft Windows]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:Symella|Symella]] || [[Symbian OS]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | [[:en:XNap|XNap]] || [[Java]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |- | XFactor || [[macOS]] || [[GNU General Public License|GNU GPL]] |} == 関連項目 == * [[Cabos]] * [[Freenet]] * [[LimeWire]] * [[Peer to Peer]] * [[Perfect Dark]] * [[Profes]] * [[Share (ソフトウェア)|Share]] * [[WinMX]] * [[Winny]] * [[ヌテラ]] - [[北米]]や[[欧州]]で人気のある[[スプレッド (食品)|スプレッド]](パンなどに塗る食品)。Gnutellaの[[語源]]とされるものの一つ([[GNU]] + Nutella)。 == 外部リンク == * [http://www.jnutella.org/ jnutella](日本語) * [http://twoget.sourceforge.jp/ Gnutella Wiki](日本語) * [https://atmarkit.itmedia.co.jp/fwin2k/experiments/gnutella_for_admin/gnutella_for_admin_0.html @IT : ネットワーク管理者のためのGnutella入門](日本語) * [http://gtk-gnutella.sourceforge.net/ja/?page=news GTK-Gnutella](日本語) * [http://rfc-gnutella.sourceforge.net/index.html Gnutella Protocol Development](英語) * [http://www.limewire.com/developer/ LIMEWIRE DEVELOPER RESOURCES](英語) ''Gnutella互換サーバント'' * [http://www.360share.com/ 360Share] * [http://sourceforge.net/projects/acqlite/ Acqlite] * [http://www.acquisitionx.com/ Acquisition] * [http://www.unitethecows.com/ AquaLime] * [http://www.bearflix.com/ BearFlix] * [http://www.bearshare.com/ BearShare] * [http://cabos.sourceforge.jp/ Cabos] * [http://epicea.philix.net/ Epicea] * [http://www.mp3downloading.com/etomipro/help_guide/help_guide.html eTomiPro] * [http://www.gofoxy.net/tw/download.jsp Foxy] * [http://www.freewirep2p.com/download.html#inter FreeWire] * [http://www.frostwire.com/ FrostWire] * [http://gift.sourceforge.net/ giFT-Gnutella] * [http://www.r66.7-dj.com/~ace/index2.html GnuAce] * [http://gpu.sourceforge.net/ GPU] * [http://gtk-gnutella.sourceforge.net/ja/?page=news GTK-Gnutella] * [http://www.gnucleus.com/GnucDNA/ GnucDNA] * [http://www.gnucleus.com/ Gnucleus] * [http://www.imesh.com/ iMesh] * [http://www.kceasy.com/ Kceasy] * [http://www.infocentral.jp/daunrodo/lemonwire/65239.htm LemonWire] * [http://www.limewire.com/japanese/content/home.shtml LimeWire] * [http://www.gnutellaforums.com/showthread.php?t=10142 LimeWire CVS jum] * [http://mldonkey.org/ MLDonkey] * [http://morpheus.com/ Morpheus] * [http://mutella.sourceforge.net/ Mutella] * [http://cn.mxie.com/ MXIE] * [http://www.mynapster.com/ MyNapster] * [http://www.neonapster.com/ NeoNapster] * [http://www.phex.org/mambo/ Phex] * [http://shareaza.sourceforge.net/ Shareaza] * [http://www.revolutionarystuff.com/swapper/ Swapper.NET] * [http://www.trustyfiles.com/ TrustyFiles] * [http://www.vagaa.com/ Vagaa] * [http://xnap.sourceforge.net/ XNap] * [http://www.xolox.nl/ xolox] * [http://www.zultrax.com/ Zultrax] [[Category:P2P]] [[Category:ネットワークソフト]]
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2023-05-25T12:53:20Z
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