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Q56350159
_START_ARTICLE_ 星野恒彦 _START_PARAGRAPH_ 星野 恒彦(ほしの つねひこ、1935年11月19日 - )は、俳人、英文学者、早稲田大学名誉教授。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 東京生まれ。東京都立日比谷高等学校卒業。1959年早稲田大学第一文学部英文科卒業、同大学院文学研究科博士課程修了。立正大学教養部助教授、早稲田大学法学部教授。2003年退任、名誉教授。1976年れもんに入会、多田裕計に師事、1980年貂の会に入り川崎展宏に師事。2002年『俳句とハイクの世界』で俳人協会評論賞受賞。俳人協会理事(国際部長)、国際俳句交流協会副会長、「貂」代表。
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Q11513363
_START_ARTICLE_ 春の歌/テクテク _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 11thアルバム『スーベニア』収録曲「春の歌」と、新曲「テクテク」を両A面で収録。
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Q11514505
_START_ARTICLE_ 晋州 _START_SECTION_ 魏晋南北朝時代 _START_PARAGRAPH_ 北魏の孝昌年間に設置された唐州を前身とする。528年(建義元年)に晋州と改称された。
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Q45826795
_START_ARTICLE_ 晏玉ソウ _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1925年、雲南航空学校第1期卒業。国民党の北伐に参加。_NEWLINE_1929年、中央陸軍軍官学校航空班飛行教官。_NEWLINE_1929年11月26日、軍政部航空署航空第1隊(隊長:高在田)飛機師。_NEWLINE_1930年7月15日、軍政部航空第1隊(隊長:張有谷)副隊長(中校)。_NEWLINE_1930年12月15日、軍政部航空第1隊隊長。_NEWLINE_1932年10月、中央航空学校教育処副処長。後に教育処長に昇進。_NEWLINE_1933年7月18日、軍政部航空第2隊隊長(空軍少校上級)。_NEWLINE_1935年9月7日、空軍中校。_NEWLINE_1936年10月、空軍第8大隊長。1937年5月、航空委員会第2処(教育処)処長。_NEWLINE_1939年5月、空軍軍士学校教育長。同年夏、轟炸総隊総隊長を兼任するが、軍士学校の業務により多忙であり、後に邢剷非が総隊長となった。_NEWLINE_1940年7月19日、空軍上校。_NEWLINE_1942年7月、陸軍大学特別班第5期卒業。_NEWLINE_1943年2月、空軍第5路司令官。また雲南辺防副司令、雲南防空副司令兼任。_NEWLINE_1946年9月、重慶の空軍第5軍区司令官。_NEWLINE_1947年、西南空軍司令。_NEWLINE_1948年9月22日、空軍少将。_NEWLINE_国共内戦末期の1949年11月末、国庫金を輸送機で回収すべく重慶を訪れた呉嵩慶に家族も共に台湾へ連れていくよう頼み、1万ドルと引き換えに要求をのませた。台湾に脱出する直前、重慶白市驛機場の戦闘機4機と高等練習機6機を爆破した。_NEWLINE_1957年4月、空軍総司令部諮議室主席諮議官。1958年5月15日、台湾警備総司令部副総司令(李立柏との2人制)。_NEWLINE_1960年代に退役し、家族とともに渡米。大年三十(大晦日)の日、食卓で脳溢血で倒れ死去。
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Q738011
_START_ARTICLE_ 景観生態学 _START_PARAGRAPH_ 景観生態学(けいかんせいたいがく、英語:landscape ecology)は、景観を研究対象とした生態学。ドイツの地理学者、カール・トロールにより1938年に創出された。検討生態学的特徴の基礎となる概念によれば、それらの空間的特性の関係を風景と客観所定の空間的に機能的全体性として、自然のバランスより、いくつかの方向で言及されるか、または方法の構成として見られる検査因果効果構造であるが、景観の諸特性と潜在的な価値を評価し、土地利用に応用することをその目的とする実学として発展した。研究対象は、人間活動の影響が少ない自然域の景観とともに、人間活動の影響が多く反映している都市域の景観を含む。自然科学の枠を超える様々な方面からのアプローチを必要とする分野である。
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Q11514695
_START_ARTICLE_ 景観開花 _START_PARAGRAPH_ 景観開花。(けいかんかいか)は東北大学景観開花。実行委員会主催による土木デザイン設計競技。2004年から本設計競技は毎年秋頃、宮城県仙台市を舞台に繰り広げられる。アイデアコンペティション形式での設計競技は建築デザイン分野においては、頻繁に行われる催しであるが、土木分野においては珍しい。各賞決定のプロセスは、数ある応募作品の中から一次審査通過作品と協賛企業冠賞を数点選出。後日、公開審査を行い最優秀賞1点、優秀賞1点、佳作数点が決定される。
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Q65270713
_START_ARTICLE_ 智証大師諡号勅書 _START_PARAGRAPH_ 『智証大師諡号勅書』(ちしょうだいししごうちょくしょ)は、円珍への醍醐天皇の命を伝える勅書。『円珍勅書』とも称す。撰者は式部大輔・藤原博文、筆者は小野道風である。『円珍贈法印大和尚位並智証大師諡号勅書』(えんちんぞうほういんだいかしょういならびにちしょうだいししごうちょくしょ)の名称で国宝に指定されている。東京国立博物館蔵。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 第5代天台座主・円珍が入寂して36年目に当たる延長5年12月27日(928年1月27日)、円珍に対して僧侶の最高位である法印大和尚位への昇格と智証大師の諡号を贈るとの醍醐天皇の命を伝える勅書である。小野道風の署名はないが、末尾に「延長五年十二月廿七日」の年記があり、『帝王編年記』の同日の条に、「智証大師是也。入滅後三十七年。宣命道風書之」の記載と、加えて翌延長6年に書写の『屏風土代』との書風の比較から、この一巻が少内記の任にあった道風34歳の時の真筆と認められている(異説については後述)。入念な下書きを重ねた後の清書本であり、『屏風土代』のような推敲の跡はない。本書は円珍の功績を称える本文の後、これを施行する太政官牒、並びに監督官庁にあたる治部省の符の文書が加えられている。このような勅書の体裁は唐制を模倣したもので、原本と副本の2通が作成され、御画可や関係官吏の自署をともなう原本は中務省に留め置かれ、園城寺に下賜された副本が本書ということになる。よって、中務卿・敦実親王ら関係官吏8人の署名もみな道風の手により、その官位は蠅頭の小楷で適格に書かれ、道風の高い技量が如実に示されている。 _START_SECTION_ 背景 _START_PARAGRAPH_ 円珍の弟子の第10代天台座主・増命は、円珍に諡号を賜るべく尽力したが、それが実現する前の延長5年11月11日(927年12月7日)に入寂した。朝廷は増命に静観(じょうかん)の諡を贈り、同時に彼の師の円珍に僧位と諡を贈った。勅書の揮毫は、一代の能書の聞こえ高い者に命じられたため、当時を代表する能書で三跡の一人と称えられた道風に命じられたことは、その名声を象徴している。道風の書は、その在世中から「道風の書を一行も持たぬのは恥」とまで言われるほど人気の的であったという。また、『源氏物語』(絵合)では道風の書を、「今めかしう、をかしげに、目も輝くまでみゆ」と、現代風で見事なその書はまばゆいほどに見えると賞賛している。 _START_SECTION_ 書体・書風 _START_PARAGRAPH_ 書体は行書体を主体に草書体を交え、書風は、和様漢字の元祖と称されるに相応しく、豊潤な和様である。その太い重量感と弾力性のある墨線は気力に溢れて盛り上がってくるように感じられ、能書道風の壮年期の面目を遺憾なく発揮している。日本の書道史上、特筆すべきことは、道風がそれまでの唐様の模倣から脱して、和様を創始したということである。その特徴は、王羲之などの唐様では、起筆・送筆・収筆をはっきりさせた三折法が採られ、点画が直線的であるのに比べ、和様では運筆の抑揚が優美で抒情味あふれ、起筆・送筆・収筆の区切りが曖昧になり、点画が曲線的になることにある。しかし、南北朝時代の書論『麒麟抄』には「羲之が手に肉を懸て、道風は書給へり、然りと雖も羲之が所定の筆法に替はらざるなり」(道風は王羲之の書に少し肉付けをして書いているが、その書法の根本は変わらない)とあり、両者の書法はまったく正反対のものではないとある。 _START_SECTION_ 料紙 _START_PARAGRAPH_ 料紙は縹色に染められた漉染紙で、薄墨の罫線が幅3.6cmで引かれている。大きさは縦28.7cm×横154.9cmで、現状は巻子1巻に仕立てられている。通常、諡号勅書には白色の紙が使われるところ、円珍を顕彰するための配慮として縹紙が採用されたとする説がある。_NEWLINE_なお、文書の切断や改竄を防ぐため、本書には、朱文方印「天皇御璽」(8.7cm×8.7cm)が13顆、裏面に2顆捺されている。 _START_SECTION_ 釈文 _START_PARAGRAPH_ 全釈文は以下の通りだが、本項では便宜上、文中に句読点および返り点を補った。_NEWLINE_天台座主少僧都法眼和尚位圓珍、_NEWLINE_    右、可レ贈二法印大和尚位號智證大師一。_NEWLINE_  勅。慈雲秀嶺、仰則_NEWLINE_  弥高、法水清流、酌レ之_NEWLINE_  寧盡。故天台座主_NEWLINE_  少僧都圓珍、戒珠_NEWLINE_  無レ塵、慧炬有レ照。渡二_NEWLINE_  大瀛一而求レ法、騁二異域一_NEWLINE_  而尋レ師。濟レ物爲レ宗、泛二_NEWLINE_  舟檝於苦海一。利他在レ_NEWLINE_  意、加二斧斤於稠林一。_NEWLINE_  是以蒙霧斂二其翳_NEWLINE_  昧一、朗月增二其光明一。遺_NEWLINE_  烈永傳、餘芳遠播。追二-_NEWLINE_  憶志節一、足二以褒崇一。_NEWLINE_  冝レ贈二法印大和尚位_NEWLINE_  諡號智證大師一。可下依二_NEWLINE_  前件一、主者施行上。_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日_NEWLINE_                      三品行中務卿敦實見□_NEWLINE_          従四位上行中務大輔源朝臣國淵奉_NEWLINE_          従五位下守中務少輔源朝臣興平[行]_NEWLINE__NEWLINE_奉レ_NEWLINE__NEWLINE_勅、如レ右牒到奉行。_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日_NEWLINE_    參議従四位下守治部卿兼讃岐守當幹_NEWLINE_    治部大輔 闕_NEWLINE_    參議正四位下行左大辨兼讃岐権守悅_NEWLINE__NEWLINE_告二法印大和尚位智證大師一、    奉レ_NEWLINE__NEWLINE_勅、如レ右符到奉行。_NEWLINE_                                   大錄 闕_NEWLINE_    治部少輔従五位下公彦      少錄茂倫_NEWLINE_                                   少錄直幹_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日 _START_SECTION_ 読み下し文 _START_PARAGRAPH_ 読み下し文は以下の通りだが、一部漢字を旧字体から新字体へ改め、難読語に読み仮名を補った。_NEWLINE_天台座主少僧都法眼和尚位円珍、_NEWLINE_    右、法印大和尚位と号智証大師とを贈るべし。_NEWLINE_  勅す。慈雲の秀嶺、仰げば則ち弥(いよいよ)高く、_NEWLINE_  法水の清流、之を酌めども寧ぞ尽きんや。_NEWLINE_  故天台座主少僧都円珍、戒珠(かいしゅ)に塵無く、慧炬(えこ)照らす有り。_NEWLINE_  大瀛(たいえい)を渡りて法を求め、異域に騁(は)せて師を尋ぬ。_NEWLINE_  物を済(すく)うを宗と為し、舟檝(しゅうしゅう)を苦海に泛(うか)ぶ。_NEWLINE_  利他意に在り、斧斤(ふきん)を稠林(ちゅうりん)に加う。_NEWLINE_  是を以て蒙霧其の翳昧(えいまい)を斂(おさ)め、朗月其の光明を増す。_NEWLINE_  遺烈永(とこしえ)に伝え、余芳遠く播(うつ)る。_NEWLINE_  志節を追憶するに、以て褒崇するに足らん。_NEWLINE_  宜しく法印大和尚位と諡号智証大師とを贈るべし。_NEWLINE_  前件に依り、主者施行すべし。_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日_NEWLINE_                      三品行中務卿敦実□_NEWLINE_          従四位上行中務大輔源朝臣国淵奉_NEWLINE_          従五位下守中務少輔源朝臣興平[行]_NEWLINE__NEWLINE_勅を奉り、右の如く牒到らば奉行せよ。_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日_NEWLINE_    参議従四位下守治部卿兼讃岐守当幹_NEWLINE_    治部大輔 闕_NEWLINE_    参議正四位下行左大弁兼讃岐権守悦_NEWLINE__NEWLINE_法印大和尚位智証大師に告ぐ、_NEWLINE__NEWLINE_勅を奉り、右の如く符到らば奉行せよ。_NEWLINE_                                   大録 闕_NEWLINE_    治部少輔従五位下公彦      少録茂倫_NEWLINE_                                   少録直幹_NEWLINE_                  延長五年十二月廿七日 _START_SECTION_ 伝来 _START_PARAGRAPH_ 『円珍勅書』は近世末まで長らくその存在を知られず、各集帖に収録されることもなく園城寺に伝わっていたが、明治維新前後に円珍の入唐に関する文書類(国宝「円珍関係文書」、現・東京国立博物館蔵)とともに同寺を離れて北白川宮の所蔵となった。次いで、明治23年(1890年)に同宮家から古筆研究団体の難波津会へ貸し出されたことで初めて世間に紹介され、書道雑誌『書苑』や『大日本史料』などへの掲載を通じて道風の真筆として知られるようになっていった。そして、太平洋戦争終結直後に国有財産化して東京国立博物館が保管するところとなり、昭和27年(1952年)3月29日付で文化財保護法による重要文化財に、さらに同日付で国宝に指定されるに至った。
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Q4428837
_START_ARTICLE_ 曽野綾子 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 東京府南葛飾郡本田町(現・葛飾区立石)に父町田英治郎(大和護謨製作所専務取締役)、母キワの二女として生まれる。幽里香という姉がいたが、出生8年前に亡くなっており、一人娘として成長。1934年、大森区田園調布に移る(以後三浦朱門と結婚後も同所に居住)。母親の希望により幼稚園から大学まで聖心女子学院。敗戦前後10か月ほど金沢に疎開し学校も金沢第二高等女学校に変わるが勤労動員令が下り平野化学工場に配属。1946年3月、東京に戻り聖心に復学一人娘ゆえ小学校より親の知人の次男が婿養子に決まっており、一流大学出の秀才であったが、中学の頃破談となっている。曾野本人の意に沿わぬ相手だったのが理由だが、父親が病気治療で退社し家勢が衰えたことも大きな要因だった。戦後父親は姻戚(義弟・山口堅吉)を頼って米軍に接収された箱根宮ノ下の富士屋ホテルの支配人となる(妻子を田園調布に置いての単身赴任だった。山口は最後のオーナー経営者)。芥川賞候補作「遠来の客たち」の舞台となる米軍接収の箱根山ホテルはここをモデルとしており、曾野は1948年夏に実際ここに滞在しアルバイトまがいの手伝いをしていた。同年9月26日、洗礼をうける。_NEWLINE_中河与一主宰の同人誌『ラマンチャ』(1951年5月)に載った「裾野」が臼井吉見の目にとまり、臼井の紹介で現在の夫・三浦朱門や阪田寛夫らの第十五次『新思潮』に加わる。朝日放送に入社した阪田の伝手もあり、同人誌発行資金獲得のため同社にコントを投稿し数編採用される。「鰊漁場の図」(新思潮5号)、「田崎と鶴代」(新思潮6号)、「片隅の戦士」(世界8・9月合併号)と発表し、22歳で文学的アドバイザーでもあった三浦と結婚。山川方夫の紹介で『三田文学』に書いた「遠来の客たち」が芥川賞候補となり23歳で文壇デビュー。以後、次々に作品を発表。30代で不眠症に苦しむが、『弥勒』『無名碑』など新しい方向性にチャレンジするうち克服した。_NEWLINE_臼井は、曽野や有吉佐和子の活躍を「才女時代」と評した。文学史的には、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦、小沼丹、島尾敏雄らと共に「第三の新人」に属す。_NEWLINE_文化人類学者の三浦太郎は長男で、彼をモデルにして『太郎物語』を執筆した。太郎の妻はエッセイストの三浦暁子。_NEWLINE_1995年から2005年まで日本財団会長職を務め、2009年10月からは日本郵政社外取締役に就任。2000年、元ペルー大統領のアルベルト・フジモリ(8年前のアウトゴルペで失脚)が日本に長期滞在した折、自宅に私人として受け入れた。
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Q1850384
_START_ARTICLE_ 最上 (重巡洋艦) _START_SECTION_ 建造~太平洋戦争開戦まで _START_PARAGRAPH_ 1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約で戦艦や空母に保有制限がかかった結果、日欧米の加盟各国は制限のない条約型巡洋艦の建造を進めた。日本海軍は旧式艦の軽巡龍田、天龍、球磨、多摩を重巡4隻に置換する計画を進めたが、1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議で重巡の保有トン数が制限されたため、主砲を50口径20.3cm連装砲塔から60口径三年式15.5cm3連装砲に変更し、将来的に主砲を換装できる巡洋艦の建造を計画した。これが最上型である。前型の高雄型重巡洋艦に比べて艦橋を小型化し、機関部や61cm三連装魚雷発射管など最新の技術を導入した。同様の経緯および本型に対抗する意味を含め、イギリスはサウサンプトン級軽巡洋艦を、アメリカはブルックリン級軽巡洋艦を建造した。_NEWLINE_こうして最上は二等巡洋艦として、呉海軍工廠で1931年(昭和6年)10月27日に起工した。1932年(昭和7年)8月1日、山形・最上川から最上と命名され、艦艇類別等級表の二等巡洋艦に最上型が新設された。_NEWLINE_1934年(昭和9年)3月14日に進水したが、2日前に水雷艇友鶴が転覆する友鶴事件が発生し、友鶴と同じ藤本喜久雄少将が設計した最上型の工事も急遽中断され確認を行った。1935年(昭和10年)3月20日の公試運転で排水量12,669トン、154,266軸馬力で36ノットを発揮するが、推進器附近の外鈑に亀裂が見つかり砲塔が旋回困難となった。最上型は敷設艦八重山や潜水母艦大鯨等の建造で得た電気溶接の技術を艦全体で採用したが技術的に途上の部分があり、砲塔のリングサポート(リングバルクヘッド)を高角砲甲板に直接溶接した結果、船体の歪みが甲板を伝ってリングサポートを変形させたと判明した。_NEWLINE_その後の公試運転では4月10日に66,009馬力で30.868ノット、6月10日に100,403馬力で33.522ノットを記録した。竣工は約2か月遅れて7月28日になり、呉鎮守府籍に編入した。8月10日の公試では128,989馬力で35.036ノットを記録した。竣工後、呉警備戦隊の旗艦を重巡加古と交代で務めた。_NEWLINE_最上は第四艦隊に所属したが、9月26日に三陸沖での演習で第四艦隊事件に遭遇しカタパルトに固定していた水上機が大破、前部構造物の垂直鋼板がひずんで第二砲塔が旋回不能となった。このため竣工からわずか2か月で大改修が必要になった。1936年(昭和11年)3月-4月、呉警備戦隊の旗艦を潜水母艦長鯨と交代で務めた。_NEWLINE_1939年(昭和14年)、最上は呉海軍工廠で主砲を50口径20.3cm連装砲塔5基に換装する工事に着手した。この工事で性能上は一等巡洋艦(重巡洋艦)になったが、対外的には戦没まで15.5センチ砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)で通した。この換装工事で2番砲塔の砲身が1番砲塔との間に入りきらなくなり、常に軽い仰角をかけることになった。1940年(昭和15年)5月1日、第七戦隊に編入された。1941年(昭和16年)に海南島に進出し、仏印進駐作戦を支援した。 _START_SECTION_ 太平洋戦争緒戦 _START_PARAGRAPH_ 太平洋戦争開戦時、熊野、鈴谷、三隈、最上の第七戦隊(栗田健男少将)は第二艦隊(南方部隊、近藤信竹中将)指揮下で南方作戦に投入された。南遣艦隊(馬來部隊、小沢治三郎中将)に所属し、マレー、クチン(ボルネオ島)、パレンバンなど、マレー作戦や蘭印作戦における上陸作戦を支援した。_NEWLINE_1942年(昭和17年)3月1日未明、ジャワ島への上陸作戦を支援するため三隈、駆逐艦敷波とバンタム湾を警戒中、所属する第三護衛隊の軽巡名取が輸送船団に接近する米重巡ヒューストンと豪軽巡パースを発見、各艦に集合を命令した。最上は三隈と共に両艦を捕捉、砲雷撃し撃沈した。この際、最上が発射した魚雷が今村均陸軍中将らが乗る陸軍特殊船神州丸と輸送船2隻に命中し大破、輸送船佐倉丸と第二号掃海艇が沈没した。山本五十六大将は後日、最上と三隈、敷波に感状を贈った。_NEWLINE_馬来部隊は4月6日、ベンガル湾で通商破壊作戦に従事した。三隈、駆逐艦天霧と共に南方隊を編制、商船5隻を撃沈した。4月22日、呉に帰投した。 _START_SECTION_ ミッドウェー海戦 _START_PARAGRAPH_ 日本海軍は5月にミッドウェー島攻略作戦を発動し、最上は第二艦隊(攻略部隊・近藤信竹中将)の支援隊(第七戦隊、駆逐艦荒潮・朝潮、給油艦日栄丸)に配属された。5月26日にグァム島に到着、28日に出航し、29日に占領部隊(輸送船団、第二水雷戦隊)と合流し、ミッドウェー島へ向かった。写真からは1番砲塔の天蓋に日の丸を描いていたのが確認できる。_NEWLINE_6月5日のミッドウェー海戦で、日本軍は空母赤城、加賀、蒼龍、飛龍を失った。連合艦隊は夜戦で米機動部隊の撃滅を企図し、ミッドウェー島の航空戦力を夜間のうちに破壊することを第二艦隊に命じ、近藤中将は支援部隊に実行を命じた。第七戦隊は支援隊は最大戦速(35ノット)で進撃し、外洋での高速航行に同行できない荒潮、朝潮は、遅れて追随した。_NEWLINE_だが午後9時15分、山本五十六連合艦隊司令長官は第七戦隊を含む攻略部隊と南雲機動部隊に連合艦隊主力部隊との合流を命じ、午後11時55分にミッドウェー攻略作戦の中止と各艦隊の撤退を命じた。第七戦隊は反転から約1時間20分後、アメリカの潜水艦タンバーと遭遇し、回避運動中に最上と三隈が衝突した(後述)。栗田中将は連合艦隊に『最上前進の見込み立たず、三隈支障なし』と報告し、三隈と最上にトラック島への退避を命じた。_NEWLINE_最上は艦首が圧壊したが、猿渡正之運用長らの応急作業で速力14ノット程度で前進可能となった。6月6日、ミッドウェー島からB-17爆撃機、SB2Uビンジゲーター6機、SBDドーントレス6機が爆撃し、至近弾1発で戦死2名・負傷者数名が出た。7日午前5時、最上と三隈は荒潮、朝潮と合流した。_NEWLINE_空母ホーネットからF4Fワイルドキャット8機、SBDドーントレス26機、空母エンタープライズからF4F12機、SBD31機が発進した。一連の空襲で三隈が沈没、最上は爆弾5発(資料によっては6発)を被弾した。1発目は五番砲塔に命中し砲員全員が戦死、四番砲塔の砲員18名中無傷は2名だけだった。飛行甲板に命中した一弾は水上偵察機3機を吹き飛ばし、火災を発生させた。内籐力水雷長が飛行甲板下の全魚雷を射出放棄し、誘爆を回避した。最上では乗員91名が死亡している。最上と朝潮、荒潮は三隈の乗員を救助し、8日午前4時に第二艦隊と合流した。_NEWLINE_近藤長官は損傷した最上・朝潮・荒潮に、熊野、鈴谷、第18駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)の護衛をつけてトラック泊地回航を命じ、14日朝に到着した。最上は工作艦明石の支援で、仮設艦首を装着するなどの応急修理に入った。6月25日、戦隊司令官に西村祥治少将が就いた。8月5日、最上と明石は駆逐艦雪風、時津風の護衛で出港、最上は11日に佐世保に到着した。最上は25日に第七戦隊を外れ、艦首の修理やレーダー装備の増設などの工事に入った。 _START_SECTION_ 中南太平洋での戦い _START_PARAGRAPH_ 1943年(昭和18年)4月末に工事は完了した。第一艦隊に配属された後、5月1日に佐世保から呉に回航し、17日に第三艦隊第七戦隊に復帰した。アリューシャン方面作戦のため横須賀に移動後、再び内海西部へ戻った。6月8日、柱島泊地で戦艦陸奥の爆沈に遭遇、米潜水艦の奇襲と判断して対潜攻撃を行うが、誤って爆雷2個を投下した。_NEWLINE_6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を始めた。7月8日、第三艦隊(小沢治三郎中将)指揮下の空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、沖鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦6隻(嵐、萩風、磯風、涼月、初月、玉波)は内地を出撃、15日にトラック泊地に到着した。このうち玉波を除く駆逐艦と巡洋艦はラバウルに進出したが、萩風と嵐をラバウルに残して他はトラックに戻った。以後、最上は主に中部太平洋で行動した。_NEWLINE_ブーゲンビル島の戦いを支援するため第二艦隊(栗田健男中将)の指揮する遊撃部隊(重巡愛宕・高雄・摩耶・鈴谷・最上・筑摩、軽巡能代、駆逐艦藤波・早波・玉波)が11月5日にラバウルへ進出したが、直後に米機動部隊(サラトガ、プリンストン)による大規模な空襲を受けた。最上は爆弾1発を1-2番砲塔間の上甲板右舷に被弾し、戦死19名、負傷者37名(または41名)を出した。前部右舷水線付近に破孔が生じたため高速を出すことができず、昼間は12ノット、夜間は10ノットでトラックへと向かった。8日に鈴谷、駆逐艦島風・玉波と共にトラック泊地に戻り、明石の支援で修理を行った。12月16日、駆逐艦霞・玉波と共にトラック泊地を出発。最上と玉波は21日に呉に到着し、最上は22日から呉工廠で修復に入った。1944年(昭和19年)1月1日、第七戦隊から外れた。_NEWLINE_2月17日に修理が完成し、3月8日に物資を搭載して呉を出港、シンガポールを経て16日にリンガ泊地に到着した。同日、第七戦隊(利根、筑摩、熊野、鈴谷)に復帰し、23日に同戦隊第二小隊4番艦となった。25日、戦隊司令官に白石萬隆少将が就いた。_NEWLINE_6月中旬のマリアナ沖海戦で最上は小沢機動部隊に配備された(編制はマリアナ沖海戦参照)。24日、呉に帰投した。7月8日に呉を出撃し、20日にリンガ泊地に進出。重巡妙高・羽黒と訓練を行った。 _START_SECTION_ レイテ沖海戦、沈没 _START_PARAGRAPH_ 10月中旬以降の捷号作戦は、第一遊撃部隊第三部隊(西村祥治中将)に戦艦山城・扶桑、駆逐艦4隻(満潮・山雲・朝雲・時雨)と共に参加した。1944年(昭和19年)10月22日午後3時、第三部隊はブルネイを出撃し、速力18ノットでスリガオ海峡へ向かった。_NEWLINE_24日午前2時と午前7時未明、最上は計3機の水上偵察機を射出した。午前10時前、第三部隊は米機動部隊艦載機約26機の空襲を受け、最上は機銃掃射で戦死傷者8名を出した。最上は水偵の残り2機を発進させ、ミンドロ島に向かわせた。偵察機は正午にレイテ湾で戦艦4、巡洋艦2、駆逐艦2、輸送船80、南部に飛行艇母艦1、飛行艇15、その南方に魚雷艇14、駆逐艦4隻と報告し、ミンドロ島の基地に帰投した。_NEWLINE_同日午後7時、最上は湾口の魚雷艇を掃討するため満潮、山雲、朝雲と共に艦隊を先行。午後11時過ぎに交戦し、魚雷艇を撃退した。この時山城または扶桑から誤射され、戦死者3名を出した。25日未明、艦隊は米魚雷艇等から雷撃を受け、午前3時半までに扶桑と満潮、山雲が沈没、朝雲が大破した。山城と最上、時雨が前進を続けたが、アメリカ軍はジェシー・B・オルデンドルフ提督の戦艦・巡洋艦・駆逐艦がレーダー射撃で迎撃し、山城は沈没、時雨も撤退した。最上は魚雷は回避したが、直撃弾で3番主砲を破壊され、艦中央部は大火災となった。_NEWLINE_3時45分、最上は前方の発砲閃光に向けて魚雷4本を発射し、煙幕を張って3時57分に反転、南下退却を始めた。炎上する艦で藤間良艦長は、レイテ島に座礁して乗組員を陸戦隊とする方針を告げた。中野信行航海長は「われわれは、海峡に入口まで来ていると思います。われわれは船乗りです。艦を捨てることはできません」と北上を上申したが、藤間艦長は「そんなこと言っても君、たいまつを背負って(炎上した状態で)突入は無理だ」と諭した。4時2分、艦橋に直撃弾を受け、藤間艦長以下司令部が壊滅した。砲術長の荒上義一少佐が指揮を執ったが、機関が故障して速力が低下し、魚雷や弾丸が誘爆を起こした。_NEWLINE_志摩清英中将の指揮する第二遊撃部隊がスリガオ海峡に到着したが、旗艦の重巡那智が最上と衝突した(後述)。志摩中将は第二遊撃部隊の反転を決断し、駆逐艦曙を最上の護衛に就けた。最上の通信装置は壊れていたため、曙が通信を代行した。日の出後、両艦は断続的に空襲を受けた。蒸気が噴出して機関科員は退去し、8時30分頃に航行不能、消火の手立てもなくなった。9時以降の空襲で爆弾2発が命中(米軍は魚雷2本も命中と報告)、重油タンクが破壊され前部が炎上。10時30分、総員退去が決まった。曙は危険を冒して最上の左舷後部に接舷、乗組員を移乗させ、午後0時30分に魚雷1本を発射。午後1時7分、最上は左舷から転覆して沈没した。_NEWLINE_最終的に最上の戦死者は190名、負傷者は125名に達した。10月26日、曙はマニラに到着し、最上生存者は同地に上陸した。その後、最上乗員のうち595名がフィリピンの地上戦に投入された(マニラの戦い)。_NEWLINE_11月21日、第七戦隊は解隊された。12月20日、最上は帝国軍艦籍から除籍された。_NEWLINE_2019年9月9日、海底の最上の残骸が調査船ペトレルにより同年5月8日にスリガオ海峡の海底1450メートル地点にて発見されたことが発表された。 _START_SECTION_ 二度の衝突事故 _START_PARAGRAPH_ 最上は太平洋戦争中、二度の衝突事故に見舞われた。1度目はミッドウェー海戦で第七戦隊で行動中だった。先頭の旗艦熊野が右45度前方にアメリカの潜水艦タンバーを発見、左45度一斉回頭を命令。回頭後に再び潜水艦を発見し、二度目の左45度緊急回頭を命じた。しかし、後続艦が2度目の回答が新規命令か1度目の命令の確認かで混乱し、後続の鈴谷は45度、熊野と3番手の三隈は90度転針した。隊列が乱れ、三隈の左舷中央部に最上の艦首が衝突した。_NEWLINE_2度目はレイテ沖海戦で、スリガオ海峡に到着した志摩艦隊が午前4時15分、炎上する最上を発見した。志摩艦隊の那智は、最上が停止していると誤認し、面舵を取って前を通過しようとしたが、最上は8ノットで前進しており、那智の左舷に艦首が接触した。衝突は那智の誤射が原因という証言もある。当時、那智艦内で『敵の戦艦らしき艦影、左前方大火災。止めをさす』という放送があり、那智は右に回頭しつつ魚雷8本を発射、最上が魚雷を回避するため面舵に転舵し衝突したという。最上は羅針盤を応急修理する間、志摩艦隊とも離れてしまった。発令所長は「陸戦隊にはなれない。海軍軍人は艦に乗ってこそ役に立つ人々であり、艦を乗り換えて奉公したい」と上申し、荒上砲術長も同意して南進を続けた。 _START_SECTION_ 歴代艦長 _START_PARAGRAPH_ ※『艦長たちの軍艦史』114-117頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。
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Q11515910
_START_ARTICLE_ 月刊イオ _START_PARAGRAPH_ 『月刊イオ』は、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)の機関紙部門である朝鮮新報社が発行している月刊の日本語雑誌の一つである。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 「イオ/이어」は朝鮮語で「継ぐ」という意味であり、「(在日朝鮮人の)1、2世同胞の祖国、民族を想う心を受け継ぐ」という気持ちが込められているとされる。 _START_SECTION_ 類似雑誌 _START_PARAGRAPH_ 『月刊イオ』と類似の雑誌として、朝鮮新報社と同じ朝鮮総聯傘下の朝鮮青年社が発行する『月刊セセデ』がある。
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Q11516490
_START_ARTICLE_ 有村産業 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1950年(昭和25年)11月、与論町出身の有村喬により設立された。奄美航路を運航するマルエーフェリーとは、創業者同士が親戚関係である。_NEWLINE_空路の整備により、1980年代以降は旅客が減少し経営を圧迫していたが、1995年(平成7年)に旅客重視の「クルーズフェリー飛龍」「クルーズフェリー飛龍21」を船舶整備公団(現:鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の資金で相次いで就航させる。他社が旅客扱いを簡素化もしくは廃止する流れに逆らったこの方針は失敗し、1999年(平成11年)に経営破綻した。_NEWLINE_オーナー一族の有村家は経営から退き、沖縄電力を中心とした沖縄財界が支援して再建を図った。2008年(平成20年)、原油価格の高騰から再建計画を変更しようとしたが、最大の債権者である鉄道建設・運輸施設整備支援機構が反対、さらに燃油供給の現金決済を求められたことで運転資金が枯渇し破産に至り、2012年(平成24年)12月をもって清算結了、消滅した。 _START_SECTION_ 破産後の動き _START_PARAGRAPH_ 2008年6月、航路維持のため旧経営陣が中心となり「琉球フェリー」を設立し、45億円の資金を調達してフェリー1隻を競売で買い取り就航させる計画が明らかになった が、資金調達ができず宙に浮いた形となっている。このほか、琉球海運による救済合併をはじめ、いくつかの航路再建案が示された が、いずれも実現することはなく、所有していた全ての船舶が売却されて再開の道は断たれた。_NEWLINE_有村産業の破綻で沖縄本島と台湾との旅客航路が途絶えたが、フェリー航路の開設は現在も実現していない。2014年10月7日には台湾の華岡グループが花蓮と石垣島を結ぶ貨客船の運航を計画している事を発表している。
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Q4335792
_START_ARTICLE_ 有機鉱物 _START_PARAGRAPH_ 有機鉱物(ゆうきこうぶつ、Organic minerals)とは、有機物で構成されている鉱物。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 鉱物の定義は普通「天然に産出する無機質で一定の化学組成と結晶構造を有する固体物質」とされている。しかし、天然には生物活動によらずに生成される有機物も存在し、これらを慣例的に鉱物として扱っている。これが有機鉱物である。_NEWLINE_なお、琥珀(Amber)や石炭(Coal)、石油(Crude oil)を有機鉱物に分類することもあるが、これらは鉱物として見られないことが普通であり、したがって有機鉱物に含めないことが多い。 _START_SECTION_ 分類 _START_PARAGRAPH_ 有機鉱物は、鉱物として記載されているものは少なく、2009年現在で4700種以上ある鉱物の中の40種類ほどに過ぎない。そのため、普通はケイ酸塩鉱物の次の位置に置かれている。_NEWLINE_他の鉱物と同じように、陰イオンで種類を分類することが出来るものの、種類が少ないので普通は種類分けは行わない。_NEWLINE_なお、有機鉱物以外の鉱物を「無機鉱物」と定義し、それらで大別する分類法もある。
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Q4391842
_START_ARTICLE_ 朋党 _START_PARAGRAPH_ 朋党(ほうとう)とは、前近代の中国やその周辺地域において政治的な思想や利害を共通する官僚同士が結んだ党派集団のこと。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ そもそも、朋党の形成について、儒教では批判的にみられており、『論語』では孔子の発言として「君子は矜にして争わず、群れて党せず」(衛霊公編)「君子は周して比せず、小人は比して周せず」(為政編)を記している。だが、実際には前近代の中国においては、たびたび朋党が形成され、反対派から攻撃されて政変の一因(例:党錮の禁)となったが、それが大きな転機を迎えるのは唐の後期に発生した牛李の党争である。従来の貴族社会内部の血縁や婚姻関係などを軸に形成されることが多かった朋党から、学問・政策などを軸に形成される朋党への過渡期にあたる時期の朋党間の対立であり、従来の要素が残っているとは言え、藩鎮弾圧には消極的で科挙には積極的な牛党と藩鎮弾圧には積極的で科挙には消極的な李党という対立構図が浮上することになった。_NEWLINE_宋代に入ると、従来から侍従や台諫(御史台や諫官、その官僚を「言路の官」「言官」とも称した)による上奏制度である「議」に加え、その他の官僚にも広く皇帝への直接上奏の機会を認めた「対」の導入によって官僚による言論活動が盛んになった。また、科挙制度の導入によって合格者は血縁・婚姻関係に関わらず登用されるようになった一方で、実際の任官には上位の官職保有者の推薦(保挙)が必要となった。このため、科挙の同年合格者同士とか同じ職場同士、同じ地域出身といった人間関係の構築が将来の昇進に深く関わるようになり、結果的には朋党の形成を促すようになる。また、集団での言論活動を擁護するために政治的な思想・言論に基づく朋党を擁護する「君子有党論」も出現し、朋党による争いが発生するたびにこうした見方が強調されるようになる。王禹偁・欧陽脩・范仲淹・司馬光・劉安世は「道」による君子の朋党と「利」による小人の朋党には区別があり、小人の朋党は排除しなければならないが君子の朋党は国家に資することを説いた。特に欧陽脩の『朋党論』は名文として後世に知られた。_NEWLINE_だが、現実の北宋の政治においては朋党間の政治対立は、反対派を小人の朋党として非難・追放することに終始し、政治的混乱を招くことになる。加えて皇帝が権力の集中を強めていく宋代以降の王朝において、君主に隷属すべき官僚が横のつながりで政治集団を形成して一種の世論を生み出す可能性のある朋党は皇帝の権力行使を脅かすものとして抑圧、ひいては禁圧される方向へと向かうことになる。_NEWLINE_南宋の高宗は紹興2年(1132年)4月に朋党に対する厳罰を命じる詔を出し、明の洪武帝は『大明律』職制編に姦党条・交結近侍官員条・上言大臣特政条を設けて朋党を禁じ、清の雍正帝は『御製朋党論』を著し欧陽脩を批難し、一切の朋党を認めない姿勢を示している。もっとも、現実には「すべての官僚は皇帝に直結すべきで横のつながりなど不要」と皇帝が言っても意見の近い者や利害の一致する者が結ぶのは避けがたく、清朝滅亡に至るまで朋党は存在した。_NEWLINE_なお、平田茂樹は、現代国家に置き換えた場合の朋党の位置づけについて、国家を皇帝を頂点とする「政党(=皇帝党)」、朋党をその内部で形成された「派閥」に中国固有の社会的結合を反映させた姿とみなしている。
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Q11517072
_START_ARTICLE_ 望月哲男 _START_PARAGRAPH_ 望月 哲男(もちづき てつお、1951年1月6日 - )は、ロシア文学者、北海道大学スラブ研究センター教授。_NEWLINE_静岡県生まれ。1975年東京大学露文科卒、1982年同大学院博士課程単位取得退学、同助手、1986年北大助教授、1994年教授、1996年木村彰一賞受賞。『アンナ・カレーニナ』、『白痴』の新訳を出した。
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Q22123528
_START_ARTICLE_ 朝倉陽子 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 子役からスタートし1987年にカネボウ水着キャンペーンガールに選ばれる。1988年に現在の名前に改名。
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Q11517501
_START_ARTICLE_ 朝日広告社 (福岡県) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 新聞・テレビ・ラジオ・雑誌などの広告をはじめ、ポスター等の印刷物、ウェブコンテンツや映像コンテンツ、イベントの企画・運営、タレント・講師のキャスティングなどを行なう会社である。
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Q11517622
_START_ARTICLE_ 朝暘学校 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ そもそも鶴岡には藩校として致道館が存在した。しかし、県令三島通庸はあえて洋風の学校を建設した。これは明治政府に対する反感の強かったこの地方に、明治政府の威光と新しい時代が始まったことを告げるねらいがあった。そのため東京市参事での銀座煉瓦街建設の経験から当時の最高レベルの人材を集め、学校建設に力を注いだのである。_NEWLINE_朝暘の名前は現在も鶴岡市内の小学校名として残っている。 _START_SECTION_ 寿碑建立経緯 _START_PARAGRAPH_ 朝暘学校の建設は、地元の全面的な合意があったわけではなく、三島通庸県令に対する反発も大きかった。その三島と同じ薩摩藩士にもかかわらず、このような記念碑が建立されたわけで、建設指揮に当たった、県官吏原口祐之がいかに技術力と人望を兼ね備えた人物であったかをうかがうことが出来る。
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Q3246587
_START_ARTICLE_ 朝比奈伸 _START_SECTION_ 選手として _START_PARAGRAPH_ 同志社大学から1999年にJ1リーグ・ガンバ大阪に入団。手薄なセンターバックの即戦力として期待されるが、在籍した4年間でリーグ戦出場は16試合にとどまった。_NEWLINE_2003年にJ2・サガン鳥栖に完全移籍。2004年シーズンのキャプテンを務めた。鳥栖では2年間主力として活躍するも、戦力外通知を受ける。_NEWLINE_2005年からはJリーグ入りを目指すKyuリーグのロッソ熊本に入団し、初代主将を任され、JFL昇格に貢献。_NEWLINE_2007年は関西リーグのバンディオンセ神戸で1年間プレーし、2008年からTDK SCに所属。2009年シーズン限りで現役を引退した。 _START_SECTION_ 引退後 _START_PARAGRAPH_ 2010年より、古巣・ガンバ大阪の強化本部スタッフとなり、2017年までスカウトを8年間担当した。
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Q11517877
_START_ARTICLE_ 期間限定!ピカピカ天王洲LIVE _START_SECTION_ 番組概要 _START_PARAGRAPH_ これまで長年放送した22:00の『演歌の花道』が終了し、22:30『岡本綾子のNECスーパーゴルフ』が日曜17:30に引越した関係と、前年12月にテレビ東京天王洲スタジオの完成を記念して始まった音楽番組。後枠『MUSIX!』をBSデジタル放送のBSジャパンでも放送することになっていたため、同年秋の番組改編期からBSデジタル放送開始までのつなぎという位置づけであった。_NEWLINE_これ以後、日曜22時枠(現在の『にちようチャップリン』を含む)は1時間番組に定着した。
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Q11518928
_START_ARTICLE_ 木村晃健 _START_SECTION_ 略歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 力士を志して峰崎部屋に入門し、1993年(平成5年)1月場所に翔鶴山(しょうかくざん)の四股名で初土俵を踏んだ。1995年(平成7年)5月場所より四股名を三杉豊(みすぎゆたか)と改名したが伸び悩み、1999年(平成11年)9月場所を以って現役を引退した。最高位は東三段目60枚目。_NEWLINE_力士時代のキャリアを活かし、アマチュア時代に本名の木村豊として、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の名物コーナー「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」に第2回から第6回まで5回連続出場。貴乃花親方のものまねで人気を博し、同番組の「世界お笑い水泳2005」という企画に「貴乃鼻親方」名義で出演し、選手宣誓に当たる「奉納土俵入り」の大役を務め、MVPも授与された。_NEWLINE_現在でも趣味で相撲を続けており、小学生や中学生への指導を定期的に行っている。_NEWLINE_また、近年はアマチュア相撲大会にも積極的に参加しており、2010年靖国神社相撲大会では4位、第1回スギヨCUPビーチ相撲大会では3位の成績を残し、その後2010年8月7日に開催された日本相撲協会認定の昇段試験において初段を獲得。_NEWLINE_『TVチャンピオン』では、「スーパーデブ王選手権」に出場し、結果は準優勝。この時は歌って踊れるデブを目指していた。同番組の「デカ盛り王選手権」にも出場経験がある。また、『学校へ行こう!』のコーナー「癒し系ミュージシャン」では、「ヒットマンブギウギバンド」のメンバーだった。_NEWLINE_2008年のM-1グランプリでは、当時同じ事務所だった小林アナとのコンビ「ランニングパス」で出場し、2回戦まで進出。_NEWLINE_2011年2月7日の『とくダネ!』では八百長認定を受けた清瀬海の相撲を再現した。_NEWLINE_私生活では献血をこよなく愛し、その回数は150回を超える。本人は「献血をもっと広めていきたい」と常に口にしている。_NEWLINE_また、邦画『男はつらいよ』をこよなく愛し、発売されているビデオシリーズは全て収集するほどのマニアである。
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Q11519045
_START_ARTICLE_ 木村篤太郎 _START_SECTION_ 法律家 _START_PARAGRAPH_ 法曹としては帝国弁護士会理事長、検事総長、第一東京弁護士会会長を歴任した。 _START_SECTION_ 政治家 _START_PARAGRAPH_ 長く在野法曹で活動していた木村であったが、幣原喜重郎首相によって検事総長に登用、続く吉田茂首相では司法大臣として初入閣し、日本国憲法の署名に名を連ねた。その後公職追放令により公職追放されるが、追放解除程無くして吉田内閣に法務府初代総裁として再入閣。さらに1953年の参院選で奈良県から参議院議員に当選し、2期務めた。_NEWLINE_法務総裁・法務大臣としては日本共産党による暴力革命への懸念から治安対策の立案の中心となり、自ら提出した破壊活動防止法案を成立させた。血のメーデー事件では不信任案が提出されるものの、否決されこれを切り抜けている。また警察予備隊から保安隊へと繋がる再軍備政策にも関与し、保安庁長官(自衛隊発足後は防衛庁長官)や隊友会会長を務めた。長官在任中の1954年に予備自衛官制度を制定。_NEWLINE_政界引退後は1967年10月に自由民主党の院外団「自由民主党同志会」会長に就任し、死去するまでその座にあった。加えて街商組合(的屋の寄り合い)顧問の繋がりから院外団の政治活動の裏幹事的立場にもあり、法務総裁だった当時には警察力を補うため全国の博徒、的屋、愚連隊を結集した反共抜刀隊計画を元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に持ちかけた。この動きは梅津の死後森田政治に引き継がれ、日本国粋会の結成に繋がっている。 _START_SECTION_ 剣道家 _START_PARAGRAPH_ 高校では撃剣部(剣道部)に入部し北辰一刀流の小林定之に剣道を学んだ。勉学より剣道を優先し早朝から稽古に励んだという。2年生のとき、剣道部員7人と家を借り、寮を出て自炊生活を始める。大学でも撃剣部に属して木下寿徳、山里忠徳、中山博道の師範に学んだ。出稽古に訪れた学習院院長乃木希典の相手を務めたこともあった。_NEWLINE_1941年、大日本武徳会剣道部会長に就任。同年、中倉清ら剣道家が流派派閥を超えた剣道会を作りたいと木村に相談し、木村は快諾して論語から「思斉会」と名付け、自ら会長に就任した。思斉会は第二次大戦後の剣道復興に多大な貢献をもたらすこととなった。_NEWLINE_終戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)指令によって大日本武徳会は解散し、剣道の組織的活動は禁止され、1947年5月に木村も公職追放されたが、剣道復興に尽力した。1952年、禁止令が解除。同年10月14日、全日本剣道連盟発足と同時に会長に就任した。_NEWLINE_1974年、会長を退き名誉会長に就任。後任の会長は元最高裁判所長官石田和外であった。1985年、奈良県の芳徳寺正木坂剣禅道場に「木村篤太郎翁像」が建立された。_NEWLINE_日本刀を蒐集し、国宝・重文級のものはすべて財団法人刀剣博物館に寄贈した。愛刀は長曽禰虎徹興正。高齢になっても居合の稽古を欠かさず、剣道大会で居合を演武したこともあった。 _START_SECTION_ 実業家 _START_PARAGRAPH_ 岳父の井上篤太郎が社長をつとめる京王電気軌道(現・京王電鉄)の専務取締役をつとめたことがある。 _START_SECTION_ 生家 _START_PARAGRAPH_ 木村の生家は現在も五條市の新町通りに残っており、「まちや館」として勉強部屋や遺品が公開されている。
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Q11519228
_START_ARTICLE_ 木津川市立木津第二中学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 3校舎を持ち、3階建て。2019年度全教室エアコン設置、稼働開始。基本的に徒歩通学で、木津川台地区の生徒は自転車通学をしている。「フレンド学級」という特別支援学級が設けられている。文化祭はなく代わりに文化発表会というのがある。例年、2日間行われてきたが2014年から1日のみになった。2008年に木津川台地区が木津第二中学校の校区に変わったが、それ以前に木津中学校へ入学した生徒はそのまま木津中学校を卒業した。
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Q30932404
_START_ARTICLE_ 木部尚志 _START_PARAGRAPH_ 木部 尚志(きべ たかし、1964年 - )は日本の政治学者。専門は政治思想史、政治理論。国際基督教大学教養学部教授。テュービンゲン大学社会科学博士(Dr. rer. soc.)。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 福岡県生まれ。1986年国際基督教大学教養学部卒業。1988年早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。1995年ドイツ・テュービンゲン大学で博士号取得。国際基督教大学学部時代は武田清子に歴史学を、千葉眞に政治思想史を学ぶ。大学院進学後は藤原保信に政治思想史を学ぶ。
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_START_ARTICLE_ 未完成婚 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 多くの国や文化圏では、夫婦は性的パートナーであり、日常的に性交を行う関係であるとされる。夫婦間の性交を「夫婦の営み」「夫婦生活」と呼ぶなど、夫婦が性交することは普通のこととされる一方、離婚を問う裁判においては長期間にわたって性交がないことを夫婦関係の破綻と認定するなど、文化的にも法的にも、夫婦は性交するものとされている。_NEWLINE_長期間にわたって性交のない夫婦のことを指す用語としてセックスレス夫婦があげられるが、未完成婚とは一度たりとも膣性交(膣への陰茎の挿入)が果たされていない夫婦のことをいう。_NEWLINE_かつての日本の一部地方では、結婚式(披露宴)の後、新婚夫婦は夫婦となってから初めての性交(新婚初夜、初夜性交)を立会人看視のもとで行い、立会人は新郎が果てた(射精した)ことを見届けて、披露宴後の宴会の席に夫婦の交わりが完成したことを報告するしきたりがあった。過去においては結婚は家と家との結婚であり、夫婦の体液交換によって互いの血筋が合流し結婚が完成する、とする考えがあり、それが果たされていない状態から「未完成の」結婚、未完成婚、とするものである。キリスト教においても夫婦の肉体の交わりによって結婚が完成するとされている。_NEWLINE_なお、未完成婚とは「膣への陰茎の挿入が果たされていない夫婦」であり、膣に陰茎を挿入できていれば、たとえ膣内の刺激で夫が射精できない膣内射精障害などによって膣性交を最後まで完遂できないとしても、未完成婚とはみなされない。 _START_SECTION_ 問題点 _START_PARAGRAPH_ 夫婦が挙児を希望する場合、第一義的には膣性交からの膣内射精による自然妊娠があげられるが、挿入が達成されないという、妊娠するしない以前の問題を抱えていることや、相談相手がいないこと、父母や友人などから「子供はまだか」など聞かれたりすることに強いストレスを感じることがある。_NEWLINE_半面、性交のないことを夫婦のどちらも問題と感じていない場合、不満に思わない場合には特に問題とはならない。妊娠を希望する場合でも膣内射精によらず、マスターベーションによって射精・採取した精液を針のない注射器を用いて膣内に注入するシリンジ法や、体外授精などによっても妊娠が可能である。
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Q11519762
_START_ARTICLE_ 末永佳子 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 2005年10月から2006年1月にかけて、「Prismix↑(ぷりずみっくす)」という5人組のアイドルユニット、自称「最強の前座アイドル」としてライブハウスで行われるアイドルライブの前座ライブを中心に活動(末永佳子/河井美咲/石井美澄/岸波莉穂/石渡礼乃)。_NEWLINE_公式ブログは、2006年5月以降ライブドアブログだったが、2008年5月14日からアメーバブログに変更。_NEWLINE_2008年6月、スパイラルプロモーションからスパイラル・エンタテインメントに移籍。_NEWLINE_お米アイドル「米ドル(マイドル)」としても活動(出身地・千葉県の公認)。『よしこまち』という、自分で栽培し作った米を発売している。_NEWLINE_2012年12月 - 2013年10月、佐藤千聖とユニット「ワクワクギルル〜倭国乙女〜」として活動。_NEWLINE_特技は剣道、趣味はメイクをしてあげること。チャームポイントは、長いまつ毛。
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Q10520840
_START_ARTICLE_ 本多昌長 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 慶長19年(1614年)9月18日、福井藩家老・本多富正の子として府中にて誕生。幼名を千菊。母は側室。元和元年(1615年)幕府の証人として江戸に下向。_NEWLINE_元和2年(1616年)結城秀康側室・清涼院に伴われ、江戸城に登城し2代将軍・徳川秀忠と世子家光に拝謁する。寛永10年(1633年)元服し、藩主・松平忠昌より偏諱を受け内蔵助昌長と名乗る。寛永12年(1635年)松平直基養女と結婚。正保2年(1645年)11月、藩主・松平光通の家督相続の御礼言上の際に、永見吉次らと共に将軍家光に拝謁する。慶安2年(1649年)父・富正の死去により、家督相続し府中4万石の領主となる。慶安3年(1650年)河潅山芳春寺を再建する。_NEWLINE_寛文9年(1669年)5月21日没。享年56。家督は嫡男・長員が継いだ。 _START_SECTION_ 逸話 _START_PARAGRAPH_ 3歳で江戸城に登城し将軍秀忠に拝謁した際に、御台所於江の方に「父親の富正は容貌が良くないと聞いていますが、この子は母親に似たのですね」と声をかけられた。また、世子家光は千菊を奥に連れて行き印籠袋を賜った。
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Q18818221
_START_ARTICLE_ 本村伸子 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 愛知県豊田市生まれ。父親は元日本共産党愛知県委員会書記長の本村映一。父・映一は長崎市の出身で5歳のときに被爆した。東京教育大学在学中に知り合った女性と結婚。相手が愛知県出身だったことから、卒業後豊田市に移り、足助町立足助中学校(現・豊田市立足助中学校)や豊田市立松平中学校などで10年間数学を教えた。本村伸子は「被爆二世として生まれたことは私が政治に携わってきた原点」と述べている。_NEWLINE_豊田市立青木小学校、豊田市立猿投台中学校、愛知県立刈谷高等学校卒業。ゴスペラーズの酒井雄二は高校時代の同級生にあたる。1998年3月、龍谷大学大学院文学研究科国史学専攻修士課程修了。同年4月、新日本婦人の会愛知県本部に勤務。同年7月の第18回参議院議員通常選挙で元愛知県議会議員の八田広子が初当選。声がかかり、同年10月から6年間、八田の公設秘書を務めた。_NEWLINE_2004年から2007年まで八田広子事務所長。_NEWLINE_2005年9月の第44回衆議院議員総選挙において愛知11区から出馬するも落選。_NEWLINE_2013年7月の第23回参議院議員通常選挙において愛知県選挙区から出馬するも落選。_NEWLINE_2014年12月の第47回衆議院議員総選挙において比例東海ブロック単独で初当選を果たした。2017年10月の第48回衆議院議員総選挙において比例東海ブロックで再選。
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Q11520683
_START_ARTICLE_ 本町 (小金井市) _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 小金井市の中央部に位置する。北は桜町、東は緑町、南東は中町、南は前原町、南西は貫井南町、西は貫井北町に隣接する。中央本線が東西に貫通しており、一丁目・六丁目は中央本線の南側、二丁目~五丁目が中央本線の北側にある。六丁目には小金井市役所が置かれ小金井市の行政における中心でもある。おおむね西から東へ仙川が流れる。 _START_SECTION_ 地価 _START_PARAGRAPH_ 住宅地の地価は、2017年(平成29年)の公示地価によれば本町6-9-11の地点で40万4000円/m²となっている。小金井市で最も地価が高い。
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Q3245500
_START_ARTICLE_ 本街直樹 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 滝川第二高校、国士舘大学を経て、1991年にジェフユナイテッド市原の前身の古河電工に加入。1993年にモンテディオ山形の前身のジャパンフットボールリーグ所属のNEC山形へクラブ初のプロ契約選手のひとりとして移籍した。以降、山形の守備の中心選手としてプレーし続け、クラブがJ2に参入した1999年にJ2リーグ戦32試合に出場して引退した。_NEWLINE_2000年からは羽黒高校の体育教師およびサッカー部監督を務め、2004年度に全国高校サッカー選手権初出場に導いた。
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Q42579102
_START_ARTICLE_ 本覚寺 (高山市) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 山号は高原山。「本覚、夲覺(ほんがく)」とは「衆生の自性は本来清浄であり、一切の妄相をはなれ、照々霊々として覚知の性徳を本具する」という仏教用語である。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 創建不詳の天台宗寺院、荘厳寺を鎌倉時代の文永年間に江馬輝経の子、江馬朝方が子の江馬時信を僧として入寺させて再興し、本閣寺と名付けたのが始まりである。寺号は後に現在の通り本覚寺に改められている。_NEWLINE_天正13年(1585年)、富山の役において佐々成政により焼かれて廃れるが、寛永年間に国泰寺の松巌和尚により中興されて臨済宗に改められた。_NEWLINE_安永年間、13世魯峰和尚により石垣などが整備されて中興される。そのころ当地方も舞台になった大原騒動が起きており、騒動の指導者の一人である本郷村の善九郎の墓や、騒動で犠牲となった人々の供養塔(寒念佛供養塔)が建立された。_NEWLINE_天明年間、嶺州和尚が宗猷寺の南裔和尚、北州和尚と共に笠ヶ岳に登山。文政6年(1823年)に椿宗和尚は播隆上人の笠ヶ岳再興に協力。その後も数度播隆上人の笠ヶ岳登頂に協力した。その為、当時の笠ヶ岳登頂に関する資料『迦多賀嶽再興記』、『迦多賀嶽再興勧化張』等を所蔵している。_NEWLINE_石垣および寒念佛供養塔は高山市の文化財に指定されている。また、樹高22mを超える銀杏の大木が境内にあり、こちらは高山市の天然記念物となっている。そのほかの寺宝としては前述の笠ヶ岳登頂に関する資料のほか、円空作の地蔵菩薩像がある。
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Q11520838
_START_ARTICLE_ 本途物成 _START_PARAGRAPH_ 本途物成(ほんとものなり)とは近世日本において、土地に賦課された租税のうち、検地によって石高が示された田畑および屋敷地に課税されたもの。江戸幕府や諸藩が賦課した年貢の中でも中心的な地位を占め、本年貢(ほんねんぐ)・取箇(とりか)とも称された。また、単に「本途」「物成」とも呼ばれた。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 近世日本において農民が負担した年貢(租税)のもっとも基本的な負担であり、反対に武士(幕府・藩)からみればもっとも基本的な収入であった。_NEWLINE_原則的には検地が可能な田畑や屋敷地が賦課の対象であり、検地が困難あるいは不可能な山林原野湖沼河海に対してはそれらからの生産物に対して賦課する小物成が適用された(ただし、山林原野湖沼河海であっても、野高・楮高・海高など、生産量に対する石盛による石高換算が設定されている地域においては、本途物成の賦課対象となった)。小物成以外にも各種の付加税・高掛物・夫役・浮役などの賦課が行われており、こうした雑税と区別する意味で、本途物成・本年貢の用語が用いられた。_NEWLINE_本途物成は基本的には米で納めることが原則であるが、畑における本途物成(畑方物成)では麦や大豆、漆などの農作物による現物納が行われ、地域によっては金納との併用も行われた(関東畑永法・半石半永法など)。また、時代が下るにつれて米の現物納であった田における本途物成(田方物成)の地域でも、石代納や金納が一部で行われるようになった。これは貨幣経済の影響が大きくなったことによって、領主経済における米の位置づけが低下したことが影響しているとされている。更に専売制や営業税、御用金などの商工業を対象とした賦課が登場したことによって本途物成の地位は落ち込むことになる。天保年間には幕府の年貢収入全体における米納の割合は4割にまで低下していった。   
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Q18234493
_START_ARTICLE_ 朴一圭 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 2012年、朝鮮大学校からJFLの藤枝MYFCに加入。2013年、関東1部のFC KOREAに移籍。同年の国体では東京都選抜に選出され、準優勝した。_NEWLINE_2014年より再び藤枝に移籍した。_NEWLINE_2016年よりFC琉球に完全移籍により加入し、2018年のJ3優勝とJ2昇格に貢献した。_NEWLINE_2019年、横浜F・マリノスへ完全移籍。
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Q11521839
_START_ARTICLE_ 杉山保次郎 _START_PARAGRAPH_ 杉山 保次郎(すぎやま やすじろう、安政元年(1855年) - 大正15年(1926年)7月20日)は、幕末の武士(尾張藩士)、剣術家(剣道範士)、弓術家。諱は贇保。自らの剣術流派を「名古屋長塀流」と称した。 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 名古屋城下に杉山清助の長男として生まれる。幼少より文学、融和流剣法、小笠原流弓術を学ぶ。_NEWLINE_明治元年(1868年)、遠藤五平太より小野派一刀流(中西派一刀流)剣術を学び、目録を授かる。同年、藩校・明倫堂の取立役参与・剣術世話掛となる。_NEWLINE_明治8年(1875年)、遠藤五平太より皆伝を授かる。_NEWLINE_明治16年(1883年)、山岡鉄舟(一刀正伝無刀流)より剣術を学ぶ。_NEWLINE_明治17年(1884年)、岐阜県警察本署の武術授業掛となるが、翌明治18年(1885年)に辞職し、再び山岡鉄舟より剣術を学ぶ。_NEWLINE_明治22年(1889年)、愛知県警察本部の武術授業掛となる。_NEWLINE_明治23年(1890年)、陸軍大尉として名古屋に赴任していた津田教修から津田一伝流剣術を学ぶ。_NEWLINE_明治24年(1891年)、津田教修から津田一伝流の皆伝を授かる。_NEWLINE_明治28年(1895年)、愛知県尋常師範学校、愛知県商業学校の剣柔嘱託教師、名古屋陸軍地方幼年学校の剣術教官、陸軍歩兵第33連隊の嘱託教師となる。_NEWLINE_道場「一心館」を開き、剣術と弓術を教え、明治35年(1902年)には弟子が千余人に達したという。_NEWLINE_明治42年(1909年)5月、第14回武徳祭に弓術と剣術で参加。弓術精錬証(流派:日置流竹林派)を授与される。_NEWLINE_大正元年(1912年)大日本武徳会剣道教士(流派:小野派一刀流)を授与される。_NEWLINE_大正15年(1926年)7月20日、没。同日付で大日本武徳会剣道範士号が追授された。
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Q762807
_START_ARTICLE_ 杉山新 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 柏レイソルユースより1999年にトップへ昇格するも、4年間でリーグ戦6試合の出場に留まり、戦力外通告を受ける。2003年にヴァンフォーレ甲府へ移籍し、16試合に出場するも健康上の理由で一度は戦力外通告を受けた(1型糖尿病を発病)。しかし本人の希望によりテストが行なわれ、翌年以降も甲府でプレーすることが決まった。なお、この時与えられた背番号"32"に愛着を持っており、9年間に渡って着用した。_NEWLINE_2005年に右SBでレギュラーに定着。粘り強い守備と攻撃参加を繰り返す運動量を武器に、サイドからの鋭い攻め上がりでチャンスを作った。_NEWLINE_J1・J2入れ替え戦出場資格である3位の座をかけた2005年シーズン最終節対京都戦のロスタイムに自陣ペナルティエリア付近でファウルを犯し、退場処分を受ける。PKか否かで試合が5分間中断したが、ペナルティエリア外のファウルと判定された。このとき2-1で甲府がリードしており、逃げ切れば3位がほぼ確定的であった。杉山は自責の念から涙ぐみながら退場。FKがポストを直撃して外れたのを見て涕泣し、その顔はテレビでも放映された。_NEWLINE_古巣の柏レイソルが相手のJ1・J2入れ替え戦は、リーグ戦最終節の退場処分のため第2戦のみに出場した。同じく柏に所属していた長谷川太郎は硬くなって本領を発揮できなかったが、杉山は先制ゴールのアシストなど特筆すべき活躍をした。_NEWLINE_2007年10月28日にクラブ公式サイトにて入籍を発表。_NEWLINE_2009年オフに甲府を退団し、2010年に大宮アルディージャへ移籍。埼玉県内でのプレーは小学生時代以来だという緑がある。_NEWLINE_2012年に横浜FCへ移籍し、2013年からはFC岐阜に所属する。_NEWLINE_2013年はシーズンを通してスタメンに定着。積極的に右サイドバックからアップダウンを繰り返す。11月、自身の闘病記とサッカーを綴った書籍『絶望なんかで夢は死なない “難病Jリーガー"杉山新、今日も全力疾走。』がイースト・プレスより刊行(ISBN 978-4781610467)。2014年シーズン終了後、契約満了により退団。_NEWLINE_2015年2月、現役引退が発表された。_NEWLINE_2016年3月、関東サッカーリーグ2部のLB-BRB TOKYOに入団。 _START_SECTION_ 指導歴 _START_PARAGRAPH_ 2018年 - 現在 東京実業高等学校サッカー部 コーチ
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Q11521964
_START_ARTICLE_ 杉山裕太郎 _START_PARAGRAPH_ 杉山 裕太郎(すぎやま ゆうたろう、1974年6月26日-)は、岐阜県大垣市出身の歌手。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 中学校時代から非行に走り、少年期は暴走族のリーダーや薬物使用などを繰り返していた。成人後、親の愛情に目覚めて更生を決意し、26歳で朝日大学法学部に入学。首席で卒業するとともに教員免許を取得する。この時期に音楽活動を開始し、卒業を機に活動を本格化させ上京。上京後は、過去の経験を生かして、いじめ、自殺、虐待、非行、薬物乱用などの悲劇の抑止力となるため、全国各地での『魂のうた講演ライブ』を通じて、ネット社会に警鐘を鳴らし、“愛”と“絆”の大切さを強く訴えている。このほか、CDや著書の出版、役者、TV、ラジオなどでも活動する。
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Q11522083
_START_ARTICLE_ 杉本政徳 _START_PARAGRAPH_ 杉本政徳(すぎもと まさのり、1946年2月6日 - )は北海道出身の元スキージャンプ選手。_NEWLINE_小樽潮陵高校-早稲田大学-国鉄北海道_NEWLINE_1968年グルノーブルオリンピックの代表に選ばれたものの競技では補欠にまわり出場しなかった。
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Q716964
_START_ARTICLE_ 李冶 _START_PARAGRAPH_ 李 冶(り や、1192年-1279年)は、金末から元初にかけての数学者。字は仁卿、号は敬斎。真定・欒城の出身。_NEWLINE_金の1230年に進士となり、河南・鈞州の知事となるが、1232年にモンゴル軍の侵入で鈞州が攻められると、脱出してそのまま隠退した。後、太原などに移り住むが、1251年に河北・元氏の封龍山に住みかを定め、以後は研究生活を送る。天元術を発展させて、幾何などの他の数学分野に応用した。1248年に『測円海鏡』12巻、1259年に『益古演段』3巻を著した他、元好問ら同じ隠遁文人らとの交流も多く、漢詩の作品も現存している。世祖(フビライ・ハーン)はたびたび彼を召して一度は翰林学士に任じたが、すぐにこれを辞退して遂に仕官には応じなかった。88歳で死去。
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Q701556
_START_ARTICLE_ 李恪 (呉王) _START_PARAGRAPH_ 李恪(り かく、武徳2年(619年) - 永徽4年2月6日(653年3月10日))は、中国唐の太宗李世民の三男。呉王に立てられた。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 李世民と楊妃(隋煬帝の娘)の間に生まれた。620年に長沙王に封じられ、626年に漢王に進封された。628年、蜀王に改封され、益州大都督となったが、赴任しなかった。のちに斉州都督に任じられて赴任を命じられた。636年、呉王に改封され、638年に安州都督に任じられた。李恪は文武ともにすぐれ、太宗に愛されて、李承乾が廃位された後は太子位に望まれたが、長孫無忌の諫言により取りやめられた。_NEWLINE_高宗の即位後、司空・梁州都督に任じられた。長孫無忌に忌避されて、653年に房遺愛や高陽公主の謀反事件に連座して処刑された。660年、鬱林王に追封された。神龍初年、司空の位を追贈され、諸侯の礼で改葬された。 _START_SECTION_ 子女 _START_PARAGRAPH_ 子に李仁・李瑋・李琨・李璄がいたが、李恪の処刑後にともに嶺南へ流刑となった。李恪が鬱林王に追封された後、李仁は鬱林県侯に封じられ、襄州刺史に任じられた。のちに李千里と改名し、唐州・廬州・許州・衛州・蒲州の刺史を歴任し、成王に封じられ、左金吾大将軍に上った。707年、李重俊が武三思を殺して兵変を謀った事件に参加し、失敗の後に処刑された。 _NEWLINE_李瑋は早逝した。李琨は、武則天のときに淄州・衛州・宋州・鄭州・梁州・幽州の刺史を歴任した。李璄は、帰政郡王に封じられ、宗正卿となり、李千里が処刑されると、南州司馬に左遷された。
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Q379653
_START_ARTICLE_ 李珥 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 李珥は李元秀と申師任堂の三男として江陵(江原道)に生まれた。字は叔献、号は栗谷である。_NEWLINE_母の申師任堂は詩文や書画をよくし、良妻賢母として評価が高い。彼を産むとき、母親の夢に龍が現れる奇瑞があったと伝えられている。この母の手ほどきで教育を受けた李珥は1548年、わずか13歳で進士の初試に合格し世間を驚かせた。16歳の時に母と死別して虚無感にとらわれて、金剛山で禅を学んだ。母の喪に服した後は学術に専念し、数々の文士と交際を結んだ。九回受験した科挙で全て状元(一番の成績)だったため「九度壮元公」と称された。_NEWLINE_貢納制の改革に意をそそぎ、黄海道海州では郷約や社蔵の実施に努力した。_NEWLINE_官吏としては戸曹佐郎、礼曹佐郎、吏曹佐郎を歴任、1568年に明国に使者に立っている。その後も右副承旨、吏曹判書に就き、朱子学に関する著作をものする一方、現実社会における数々の事項に関心を持ち、それに即した政策提議を行っている。 _START_SECTION_ 思想と提言 _START_PARAGRAPH_ 朱子学者として、李滉と並び称される彼は決して儒学のみならず多種多様の学問を積み、従来の朱子学をさらに発展させた。理気論でも、必ずしも朱熹の説に依拠せず、理通気局説を唱えて合理的解釈を行った。理の気に対する優位は認めたが、理の動静は否定した。徐敬徳の気一元論や荘子の哲学の影響を受けていた。_NEWLINE_李滉は理気二元論において、理と気は互いに独立して対立しており、どちらか片方が欠けると宇宙を構成できないとした。それに対し李珥は、理は無形無為の存在であり気は有形有為の存在として、理は気の主宰者ではあるが気は理が乗るだけであり、一元論でも二元論でもなく宇宙の構成は理と気がそれぞれ互いを包括しているという気を念頭に置いた主張を行った。「四端七情」と呼ばれる人の性に議論を置き換えてもそれは同じで、李滉は四端は理が発し気がそれに従い、七情は気が発し理がそれに乗るという理と気の相互の能動性を説いた。それに対し李珥は四端や七情がいずれも、気が発して理がそれに乗るという一つの形式であるという包括関係を説いた。_NEWLINE_彼は儒学者ではあるがその学問を実際の社会である政治・経済・教育・国防などに対しても適用させ、様々な施策を提言した。中でも1583年に14代国王宣祖に対し、「十万養兵」を説いたことが知られる。「このところ国事は、国内においては紀綱が崩れていて百官が職務を遂行せず、民は窮乏して財物が払底していて、それにより兵力は弱くなっている。無事に時がたてば、ひょっとすると持ちこたえることもできるだろうが、万一戦争でも起きたら必ずや(朝鮮は)倒れ、もはや救済の策はないだろう」と朝鮮王朝の無能に対し苦言を呈した提議をしていた。この提議は朝鮮が国防を軽視している現状から、やがて来るべき北胡(女真族)や南倭(日本)の侵略に対する施策として常備兵の必要性を説いたものだが、民たちに負担がひどいという理由で顧みられることは無かった。_NEWLINE_16世紀前半の朝鮮は士林派と勲旧派の政治闘争が激しく、ちょうど李珥が官吏となった直後、1567年の宣祖の即位から士林派が台頭する。しかし士林派の中で政策を巡って東人と西人の党争が表面化し、これらが朱子学の解釈の違いにまで党争の材料に使われてしまう。東人は李滉、西人は李珥の思想の流れを汲む派閥であった。李珥自身は党争を仲裁していたが、栗谷の死後やがて党争は激化し、内政や外交などの各面で深刻な影響を及ぼしたまま提議の11年後に豊臣秀吉の文禄・慶長の役を迎えることとなる。_NEWLINE_1584年に逝去。大韓民国の5000ウォン紙幣の中で肖像画が描かれており、2006年に発行された新貨にはその裏に彼の母(申師任堂)が描いた“草虫図”が描かれている。(旧貨には彼の生家である烏竹軒。)
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Q11523126
_START_ARTICLE_ 村山新治 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 長野県埴科郡屋代町(現千曲市)生まれ。1941年に長野工業学校卒業後、記録映画の助監督を経て、1949年に東映の前身である太泉映画入社。今井正らの助監督を務めた後、1956年に東映教育映画部の『わんぱく時代』で監督デビュー。1957年の『警視庁物語 上野発五時三十五分』で一般映画も監督するようになる。その後も『警視庁物語』シリーズをはじめとしたセミ・ドキュメンタリー的な作品を多く手がけた。_NEWLINE_1970年代以降は主にテレビドラマ演出に活躍の場を移し、『特捜最前線』や一連の東映不思議コメディーシリーズなどの監督を長年にわたって務めた。
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Q6414919
_START_ARTICLE_ 来敏 _START_PARAGRAPH_ 来 敏(らい びん、生没年不詳)は、中国三国時代の蜀漢の学者。字は敬達。荊州義陽郡新野県の人。父は来艶。子は来忠。
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Q17211844
_START_ARTICLE_ 来迎院 (龍ケ崎市) _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 永正14年(1517年)、常陸国河内郡小野村(現・稲敷市小野)の逢善寺によって、同郡馴馬村に建てられた草堂が当寺の起源と伝える。弘治2年(1556年)、延暦寺の覚仙が当地に伽藍を建立し一世となった。以後の歴史は判然としないが、江戸の寛永寺の援助で堂宇の再興が行われており、同寺との関係が深かったものと推定される。_NEWLINE_寛永8年(1631年)玄幸が再興し、寛政3年(1791年)、寛永寺から二百両を拝領して庫裡・本堂が再建されている。 _START_SECTION_ その他 _START_PARAGRAPH_ 毎年12月23日に火防祭火渡りを行っている
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Q11524156
_START_ARTICLE_ 東京サザエさん学会 _START_PARAGRAPH_ 東京サザエさん学会(とうきょうサザエさんがっかい)は、長谷川町子原作の漫画『サザエさん』を研究している団体である。会長は慶應義塾大学文学部名誉教授の岩松研吉郎が務めていた。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ ロンドンに『シャーロック・ホームズ』のファン(シャーロキアン)たちが集まってホームズを研究する団体「シャーロック・ホームズ協会」が出来たように、日本でも、『サザエさん』を愛する東京都内在住の学者・編集者・学生らファン有志が集まり「サザエさん」を研究するため一つの団体が出来上がった。それが、シャーロック・ホームズ協会に倣ったこの「東京サザエさん学会」である。なお、研究対象は原作のみで、アニメは対象外としている(後述の書籍『磯野家の謎 - 「サザエさん」に隠された69の驚き』より)。_NEWLINE_1981年創設。略称は「TSG」で、波平が加入していた「都下禿頭会(とかとくとうかい)」のローマ字綴りを略した「TTK」に倣った。また、同学会では集まったファン達を「イソニアン」と呼称していた(後述の書籍『磯野家の謎 - 「サザエさん」に隠された69の驚き』より)。_NEWLINE_1992年に飛鳥新社から出版された『磯野家の謎 - 「サザエさん」に隠された69の驚き』は200万部を超える大ヒットとなり、続編として『磯野家の謎・おかわり』も出版。『サザエさん』人気復活に大いに貢献した。また、その後数年続く「謎本ブーム」の火付け役になった。_NEWLINE_ただ、『磯野家の謎』ではギャグに走りすぎた面があり、都市伝説である『サザエさん』の最終回について書いたり、とりわけ続編の『おかわり』の「何故サザエさん一家はそんなに浮かれているのか?→磯野家はヒロポンを使用していた疑いあり」など、やりすぎた面もあった(ただし、最終回の都市伝説はルーツについての考察である。後者は長谷川の作品『似たもの一家』を持ち出して主張している)。_NEWLINE_そこに現れたのが、ゆうむはじめが代表を務める(と言ってもゆうむ一人しかいない)「世田谷サザエさん研究会」であり、ブームに便乗し『サザエさんの秘密』とその続編『サザエさんの悲劇』をデータハウスから出版(他にもドラえもんの謎本も別名義で出版)し、東京サザエさん学会を徹底的に批判したことで、1〜2年の間論争となった。_NEWLINE_だが、ゆうむの批判はやりすぎたものがあり、『秘密』では主に内装や家電の初出年代の誤りの指摘とそれに基づく仮説(「磯野家は大阪万博を機に家の内装を改装した」という説)の批判が記されていた程度だったが、続編である『悲劇』では、本文のうち最初の3章が『磯野家の謎』・『おかわり』の批判記事により構成されていたものであった(特に前述のヒロポン使用の件と、「マスオは徴兵逃れをした」「タラちゃんは出生の秘密がある」の3点を非難した)。また、元々『磯野家の謎』の便乗本であったにもかかわらず、本文中には「東京サザエさん学会」を中傷するような表現が多く、ゆうむは、『磯野家の謎』読者からバッシングを浴びることとなった(後に『秘密』と『悲劇』は1冊に統合されて文庫版・新装版が出版されたが、こういった経緯があったため、『磯野家の謎』の批判記事はマスオの話を除き全て削除された)。この他、『秘密』の文中の間違った記述などについて、岩松代表から『週刊文春』にて「恥を知れ!!世田谷サザエさん研究会」と題して批判記事が掲載され反論されたこともあった。_NEWLINE_しかしながら、結局のところこれ以上両者が対立することも無く、この話題は沈静化していった。なお1997年に両者とは無関係の清水勲が書いた研究本『サザエさんの正体』が平凡社から出版されている。_NEWLINE_学会の詳細な活動状況は不明ながら、会自体は存続している。『週刊文春』2009年11月5日号には『いまだに「ブラウン管」テレビ 磯野家の「地デジ化」はいつ?』という記事が掲載され、ここでは岩松代表が「(磯野家のテレビの)地デジ化は“何事もなかったように無視する”と思います」とコメントを寄せている。2018年5月18日には新刊『磯野家の危機』を宝島社から発売した。_NEWLINE_代表の岩松は、2019年8月に死去した。
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Q11524465
_START_ARTICLE_ 東京リビングサービス _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 東京電力の福利厚生子会社として1980年(昭和55年)4月1日に設立された。_NEWLINE_しかし、東京電力が福島第一原子力発電所事故に伴う損害賠償など資金確保を進めるため、2012年(平成24年)2月29日付けで日本ゼネラルフードと株式譲渡契約を締結し、同年7月1日に子会社化された。_NEWLINE_主な事業は社員食堂や社員寮のなどの管理運営や認可保育所、東京都認証保育所の運営、旅行代理店業務などを行っている。
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Q11524689
_START_ARTICLE_ 東京大学本源氏物語 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 現在本写本は東京大学総合図書館青州文庫の所蔵になっている。室町中期の書写と見られる54帖の揃い本であり、全巻同一の筆者による一筆本である。東京大学総合図書館所蔵『源氏物語』 としてデジタルアーカイブで公開されており、IIIF対応の画像を閲覧することができる。 _START_SECTION_ 本文系統 _START_PARAGRAPH_ 池田亀鑑は源氏物語大成研究(資料)編において「「空蝉」、「紅葉賀」、「関屋」、「絵合」、「松風」、「初音」、「蛍」、「篝火」、「椎本」が河内本系、「澪標」、「朝顔」、「藤袴」、「幻」、「匂宮」が別本系、他の40の巻が青表紙本系にあたる」としており、伊藤鉄也は「別本とすべき巻に「初音」、「御法」が加わり、「篝火」、「行幸」、「柏木」、「鈴虫」、「紅梅」に青表紙本にも河内本にも無い語句が見られる」としている。_NEWLINE_本文については「澪標」、「朝顔」などで特に保坂本との近似が指摘されている。 _START_SECTION_ 影印本・翻刻本 _START_PARAGRAPH_ 本写本単独での影印本や翻刻本は刊行されていないが、浮舟帖1帖のみが本写本に近い本文を持つとされる保坂本の影印本において「保坂本に欠けている浮舟帖を補う」形で『保坂本源氏物語 別冊1 浮舟(東京大学本)』として刊行されている。 _START_SECTION_ そのほかの東京大学本源氏物語 _START_PARAGRAPH_ 東京大学には上記の写本のほかに、尾州家本源氏物語の各巻巻頭のみを書写した「東大本」があり、1921年(大正10年)の山脇毅による「平瀬本源氏物語」の発見の際、本文が河内本であることを判断する基準として河海抄などの注釈書に引用された河内本の本文と共にこの「東大本」との照合が行われた。
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Q11526076
_START_ARTICLE_ 東初石 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 流山市の中部に位置する。当地の一部は、かつて小金牧と呼ばれる軍馬育成のための放牧場の一部であり、全域が初石新田と呼ばれる開拓地を経て、現在は住宅街となっている。 一・二丁目は1966年(昭和41年)10月~1968年(昭和43年)2月にかけて流山市(施行時は東葛飾郡流山町)が、三・四丁目は東京都職員労働組合住宅として同時期に開発が行われた地域であり、五・六丁目は流山市の新拠点(つくばエクスプレスタウン流山おおたかの森地区)として現在整備されている地域である。地域内に首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス・東武鉄道野田線・常磐自動車道が通る。_NEWLINE_二丁目に千葉県立流山高等学校、流山中央病院、三丁目に京葉銀行初石支店、市立常盤松中学校、三丁目に近接して東武野田線初石駅、六丁目にライフガーデン流山おおたかの森、六丁目に近接してつくばエクスプレス・東武野田線流山おおたかの森駅がある。_NEWLINE_東は十太夫、西・南は西初石、北は江戸川台東・美田・柏市西原・西柏台と接している。 _START_SECTION_ 地価 _START_PARAGRAPH_ 住宅地の地価は、2015年(平成27年)1月1日の公示地価によれば、東初石2丁目160番2の地点で11万6000円/m²となっている。 _START_SECTION_ 地名の由来 _START_PARAGRAPH_ 江戸時代に開墾された初石新田の東部であることより東初石とした。 _START_SECTION_ 鉄道 _START_PARAGRAPH_ 最寄り駅は東武野田線初石駅、つくばエクスプレス・東武野田線流山おおたかの森駅である。 _START_SECTION_ バス _START_PARAGRAPH_ つくばエクスプレス・東武野田線流山おおたかの森駅および、東武野田線江戸川台駅より、京成バスの路線が運行されている(流01系統)。 また、流山おおたかの森駅発着の流山市コミュニティバス「ぐりーんバス」(ぐ06系統)も通っていて、最寄りバス停は「東初石3丁目バス停」である。
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Q11526839
_START_ARTICLE_ 東広島市女性暴行死事件 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 2007年5月4日、山陽新幹線東広島駅の近くにある2階建て短期賃貸アパートの一室で、何者かに頭部や顔面を中心に執拗に殴打された末に死に至ったとみられる女性会社員の遺体が発見される。_NEWLINE_女性は、5日前の4月29日より行方がわからなくなっており、家族は前日の5月3日に東広島警察署に捜索願を出していた。被害女性は、このアパートを4月26日から二週間の契約で借りていたが、家族は誰もそのことを知らなかった。_NEWLINE_女性の遺体は、頭部を執拗に殴打されており、水のたまった浴槽に頭から上半身を突っ込んだ状態で発見されたことから、警察は当初、顔見知りによる怨恨からの犯行を疑っていたと報じられていた。_NEWLINE_事件発覚から2週間後の5月17日、殺人の容疑で逮捕されたのは、隣の広島市でコンビニを経営しながら副業で探偵業を営んでいた男性だった。男性は、探偵業の業務として、女性が行方不明になる一週間前から女性の交際トラブルの相談にのっていたとされる。_NEWLINE_男性は一貫して容疑を否認するが、殺人罪で起訴され、さらに被害女性から事件当日に約146万円を盗んだとして窃盗罪で追起訴される。そして、裁判でも無罪を求めて最高裁まで争った。_NEWLINE_男性は現在、山口刑務所で服役中だが、2012年5月に再審無罪を求めて広島高裁に再審請求書を提出した。 _START_SECTION_ 検察側の主張 _START_PARAGRAPH_ 現場の短期アパートの室内で見つかった微量の血痕から検出された男性のDNAが犯行時に遺留したものだと主張。_NEWLINE_また、被害女性が行方不明になった4月29日に現金146万円を所持していたはずであるとして、これを男性が盗んだという事件の構図を描いた。 _START_SECTION_ 弁護側の反論 _START_PARAGRAPH_ 男性が4月29日に被害女性と会い、現場アパートに一緒に立ち入ったことは認めつつ、被害女性は男性と別れた後に「別の第三者」に殺害されたと主張。
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Q11527397
_START_ARTICLE_ 東根郵便局 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 住所:〒999-3799 山形県東根市三日町3-3-18
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Q17176949
_START_ARTICLE_ 東桜島村 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 桜島の東半分に位置していた。湯之、有村、黒神、高免、古里、野尻、持木、瀬戸、脇の9つの大字から構成されており、現在の東桜島町、有村町、黒神町、高免町、古里町、野尻町、持木町にあたる。
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Q17191345
_START_ARTICLE_ 東郷幸 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 上野高校から1954年に大阪タイガースへ入団。_NEWLINE_一軍試合に出場することなく1955年に退団し、翌年から天王寺鉄道管理局に所属し都市対抗野球大会に出場。_NEWLINE_1960年に国鉄スワローズでプロへ復帰し、1963年に引退した。
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Q47580840
_START_ARTICLE_ 東雷太郎 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 石川県金沢市の出身。山口大学経済学部卒業。2004年にテレビ山口にてローカルタレントとして活動。_NEWLINE_マジシャンであり、特技はテーブルマジック。東京池袋で開かれた「第4回ジャパンカップ」の「クロースアップコンテスト」部門に初出場にて2位。_NEWLINE_趣味は、散歩、妄想、ノンビリ時間を過ごすこと。モットーは、「奢らない。怒らない。泰然自若。」 としている。
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Q48763823
_START_ARTICLE_ 松井佑太 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 2010年、東農大二高校卒業後、帝京大学に入る。_NEWLINE_2014年、帝京大学卒業後、日野自動車レッドドルフィンズに加入。同年9月13日に行われたトップイーストリーグの釜石シーウェイブス戦に先発出場で公式戦初出場を果たす。
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Q6564980
_START_ARTICLE_ 松宮観山 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 下野国足利郡板倉郷に前原氏の子として生まれる。14歳の頃、天賦の才を惜しんだ両親が江戸に遊学させ、北条流兵学で知られる北条主約(氏如)の元で講習を受ける。その際、江戸の浪士である松宮政種の養子となり、「松宮左司馬」と称した。北条主約のもとで三十年あまり陶冶を重ね、主約より三箇の秘伝を受ける。_NEWLINE_徳川家宣が将軍に就く頃、幕府巡検使として主約とともに奥州二州および蝦夷を巡検した際には地理の形勢を分析し、主約が豆州下田奉行に着任した際には航路の分析を行っている。また、主約の着任地(武州、佐渡など)において城制研究を深め、幕府に対する各種上申書の作製に深く関わった。やがて主約が病に倒れ、自らも進退を共にして一介の浪士となったが、観山の能力を惜しんだ長崎奉行に呼ばれ、その元で見聞修得の日々を送った。_NEWLINE_宝暦5年(1755年)に家督を子の松宮俊英に譲り、自らは隠者となって俗称を「主鈴」と改めて俊英に「左司馬」を襲名させる。翌年、俊英が逝去したため、孫の松宮定俊に家督を相続し、再び左司馬の名を与え、自らは下谷忍ヶ岡付近にて教授を業とする。この頃から観山は北条流兵学の宋師と仰がれ、千人を超える幕下の藩士らが従遊する状況となった。観山の主だった著作はこの頃に記されている。_NEWLINE_安永9年(1780年)逝去。享年95。_NEWLINE_辞世の句「ありはてぬこの世の名残今はとて かき置く筆や形見なるらむ」(観山菅俊仍)_NEWLINE_墓所は東京都文京区大塚三丁目の高源院。法名:「仰高院觀山淨巌居士」
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Q2427293
_START_ARTICLE_ 松山吉之 _START_SECTION_ 選手時代 _START_PARAGRAPH_ 学生時代や古河電工、ガンバ大阪在籍時にはFW、攻撃的MF、サイドハーフでその攻撃能力を発揮。日本代表にも早稲田大学在籍時に選出されると1987年から1989年まで名を連ね国際Aマッチ通算9試合に出場し4得点を挙げている。京都パープルサンガ在籍時にはボランチを務めるなどプレーの幅を広げるも、1997年シーズンを以って引退した。_NEWLINE_G大阪(当時は松下電器)には、家庭の事情で実家に帰ってきていることを知った高校、大学時代の大先輩の釜本邦茂監督(当時)に「暇なときにボールを蹴りに来い!」と誘われ入団した。ジークフリート・ヘルト監督時代には3-5-2のウイングバックとして起用され、それまでやったことのなかったスローインにも挑戦した。_NEWLINE_さらに、京都ではボランチを務めるなどチーム事情に応じた適応能力も見せていた。 _START_SECTION_ 現役引退後 _START_PARAGRAPH_ 指導者としては京都でコーチとしてスタートし、名古屋グランパスエイトのコーチを経て、2004年からG大阪に在籍。2005年のJリーグ初優勝を支えた。また、若手選手の育成手腕にも実績があり、監督とのパイプを務める兄貴分としても信頼も厚かった。2006年を最後にG大阪を退団。2007年から2011年まで滋賀学園高校サッカー部のコーチを務めた。2012年に関西サッカーリーグ2部のレイジェンド滋賀FCの監督に就任。2014年をもって退任し、レイジェンド滋賀FCのゼネラルマネージャーに就任した。また、2017年よりDAZNでのサッカー解説者も務めている。_NEWLINE_名古屋のコーチ時代には、ファン感謝デーのキックスピードコンテストに若手選手とともに登場し、見事優勝してしまった逸話もある。また、古巣で燻っている選手をほうっておけず自らの推薦で獲得することもある。平岡直起(G大阪→名古屋)はその例である。_NEWLINE_G大阪退団後の2007年から実家の料亭「松山閣 松山」(京都市右京区)を父親から継ぎ、現在は5代目若旦那。2007年1月26日放送のMBS『ちちんぷいぷい』のコーナーで紹介された。
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Q1089679
_START_ARTICLE_ 松岡環 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 大阪府に生まれ、大阪府松原市で小学校教師として歴史を教えていた。1988年から中国の南京に赴いており、歴史教科書問題では戦争犯罪について日本人に正確な日本の歴史を教えるべきだと主張している。_NEWLINE_2002年、松岡編纂の証言集「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士一〇二人の証言」(社会評論社)が刊行。ニュース・ステーションで松岡著に関連して放送された。_NEWLINE_南京事件の被害者宅や関係場所を訪れて、数百人の中国人被害者や元日本軍人加害者をインタビューしたとする『南京 引き裂かれた記憶』というドキュメンタリー映画(武田倫和監督)を制作した。中国、香港、アメリカ、カナダなどで講演している。 _START_SECTION_ 評価 _START_PARAGRAPH_ 中国では「日本の良心」と呼ばれる。_NEWLINE_東中野修道と阿羅健一らの南京大虐殺否定派は、証言がすべて匿名や仮名であり第三者の検証ができないことや、証言の不自然なことなどを批判した。一方、本多勝一と小野賢二ら虐殺肯定派も、これほど間違いの多い本も珍しいなどと批判した。_NEWLINE_『歩兵第33連隊史』を編集した市川治平(歩兵第33連隊第5中隊第1小隊長)は「私のところに聞き取りには来ませんでしたが、元気な2人の戦友に尋ねたら、2人にも来なかったと言っています。(略)確かに予備役には悪い事をする人もいましたが、この本をざっと読んだところ、強姦などの話は、創作8割、本当2割でしょう」と評した。さらに「102人の元兵士のうち59人が歩兵第33連隊所属とされていますが、虚構と断言できます。我々は郷土部隊として出征し、連帯感があるので、誰かがインタビューを受ければ相互に連絡しあいます。しかるに誰一人として、インタビューを受けたことを知りません。そもそも三重県在住の参戦者は調査が行われたとされる平成12年当時、30人足らずしか存命しておらず、59人から聞けるわけがありません」と評した。 
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Q11530207
_START_ARTICLE_ 松崎康弘 _START_PARAGRAPH_ 松崎 康弘(まつざき やすひろ、1954年1月20日 - )は、千葉県千葉市出身の元サッカー審判員。現日本サッカー協会常務理事。_NEWLINE_千葉県立千葉高等学校在学中にサッカーを始め、中央大学を経て、新東京国際空港公団(現成田国際空港株式会社)に勤務。出向した日本航空のロンドン勤務中に審判資格を取得した。1993年1月に1級審判登録され、1995年から2002年までJリーグの主審として活動した。2006年8月から日本サッカー協会審判委員長(理事)。2012年6月から現職。_NEWLINE_また、日本人フットサル審判員の第一人者とされ、ルールに関した本を執筆したり、2000年から2003年まで週刊サッカーダイジェストのフットサルのページでコラムを書いていた。
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Q21019589
_START_ARTICLE_ 松平誠 _START_PARAGRAPH_ 松平誠(まつだいら まこと、1930年2月8日 - 2017年11月30日)は、日本のコンピューター技術者、生活文化学者。専攻、生活文化論。_NEWLINE_東京府東京市(現東京都千代田区)生まれ。1953年京都大学文学部卒業。日本ユニバック(現・日本ユニシス)勤務後、立教大学教授、1996年定年退任、女子栄養大学教授。1989年「都市生活文化論 -都市祝祭の構成原理-」で筑波大学文学博士。『都市祝祭の社会学』(1990)で今和次郎賞受賞。
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Q11530605
_START_ARTICLE_ 松平輝高 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 高崎藩初代藩主・松平輝規の長男。京都所司代在任中、竹内敬持を逮捕した(明和事件、宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元の死去に伴い老中首座となり、勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した(絹一揆)。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる。長男・輝行が早世したため、次男・輝和が家督を相続した。
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Q11530996
_START_ARTICLE_ 松本安市 _START_SECTION_ 学生時代 _START_PARAGRAPH_ 福岡県久留米市で洋品雑貨の卸売業を営む家の長男として生まれる。福岡県中学明善校入学後は授業で柔道を経験したが、クラブ活動ではバレーボール部に所属。中学3年の始めに上級生の強引な勧誘を受け、嫌々ながら柔道を始めたというのが柔道人生への第一歩となった。_NEWLINE_1937年4月に武道専門学校に入学するも、親元を離れた解放感から酒色に溺れ、不摂生が祟って2年生の9月には体調を崩して結核を患い、故郷・福岡での安静生活を余儀なくされる。10カ月後に再2年生として復帰すると、一心不乱に柔道に打ち込んで先輩の阿部謙四郎らに鍛えられたほか、大外刈の打ち込みで松の木を枯らすほどの鍛錬を重ねた。_NEWLINE_猛稽古の甲斐もあり、1940年2月には皇紀二千六百年奉祝第2回全日本東西対抗大会へ西軍選手として選抜されて東軍の猿丸貞満4段を得意の大外刈に降し、2人目の宮内英二4段とは引き分けた。6月には紀元二千六百年奉祝天覧武道大会の府県選士の部に出場、全国から52名の猛者が集って争われた同部では天覧の光栄に浴して藤原勇5段に次ぐ準優勝という成績を残した。11月に甲子園で開催の第1回全国学生柔道大会(全日本学生選手権大会の前身)では栄えある初代チャンピオンに輝いた。_NEWLINE_1941年になっても勢いは衰えず、4月の第10回日本選士権大会で一般の部に出場し決勝戦で角田良平5段を大外刈で破るなどして優勝を果たすと、5月には済寧館で開催の全国選抜選手権大会も制し、当時の柔道界においてその地位を不動のものとした。_NEWLINE_同年に武道専門学校を卒業し拓殖大学へ就職するが、翌42年2月に入隊のため同大を退職。この年、皇宮警察主催で実施された済寧館武道大会の5段の部で優勝している。 _START_SECTION_ 戦後の柔道界を牽引 _START_PARAGRAPH_ 終戦後の1946年7月に6段位を允許。福岡県柔道協会の結成を記念して1947年7月1日に開催された西日本選手権大会では個人戦・団体戦に出場。個人戦の決勝リーグでは木村政彦6段(熊本)と吉松義彦6段(鹿児島)との三つ巴戦になり、木村には延長2回の末に判定で敗れ、吉松には延長戦で縦四方固に抑え込まれ一本負けを喫して優勝を逃すも(優勝は一本背負投で吉松を宙に舞わせた木村)、団体戦では福岡県の優勝に貢献した。_NEWLINE_1948年3月15日に全関西・全九州対抗戦形式で行われた第2回新生大会では団体戦で強豪・広瀬巌7段と引き分け、個人戦では決勝戦にて木村政彦7段と激突。後述の通り両者激しい熱戦を展開したが引き分けに終わり、前年の雪辱はならなかった。_NEWLINE_1948年5月に開催された第1回全日本選手権大会では準決勝戦で吉松義彦6段を破り、決勝戦では武専の先輩にあたる伊藤徳治6段を延長3回の末に判定で破り優勝を飾って念願の“柔道日本一”に。_NEWLINE_大会直後の6月には福岡県警察へ奉職し、10月に平和台特設道場で行われた県下警察柔道大会では5人掛を実演、代わる代わる警察官の猛者5人を立て続けに豪快な大外刈で畳に叩き付けて観衆を驚嘆せしめた。11月13日に国家地方警察本部が主催した第1回全国警察大会では管区対抗戦で福岡管区の一員として出場し東京管区を相手に7対0の大勝を飾り、個人戦は決勝戦で鹿児島県警察の吉松義彦に敗れるも、九州勢の強さを見せ付けた。_NEWLINE_翌49年3月に宮崎市で催された警察官の第3回九州各県対抗戦でも優勝。8月には第3回西日本各県対抗戦の6段の部で吉松義彦と引き分けた。福岡県は鹿児島県と決勝戦を争い3対0でこれを破り優勝を果たし、嘗て西文雄や島井安之助、須藤金作らが築き上げた柔道王国・福岡の復活を印象付けた。また同年11月の第2回全国警察選手権大会でも松本は個人優勝を果たしている。_NEWLINE_檜舞台である全日本選手権大会には1953年の第6回大会まで続けて出場するも、1949年は初戦で伊藤徳治7段に、1950年は3回戦で石川隆彦7段に、1951年は3回戦で醍醐敏郎7段に、1952年は3回戦で山本博6段に、1953年は4回戦で吉松義彦7段にそれぞれ敗れ、2度目の栄冠はならず(このうち1952年は棄権負)。_NEWLINE_それでも1950年4月に鹿児島市で開催の全九州対県試合で福岡県を率いて優勝へ導き、11月の第3回全国警察大会では府県対抗戦で宮城県警察を6対1、大阪府警察を5対1で圧倒し、決勝戦でも警視庁を降して優勝。同大会の管区対抗戦でも優勝を成し遂げた。管区対抗は1951年11月の第3回大会も制し、福岡県警察の勇名をいよいよ全国に轟かせている。_NEWLINE_その後、1956年4月29日の第1回世界選手権大会の代表決定戦に38歳で出場し、決勝戦で夏井昇吉と時間一杯20分を戦った末に判定で敗れて代表の座はならず。この試合を以って松本は選手を引退した。永い現役生活を送ったが、選手として最も脂ののる20歳代半ばの時代を戦争・兵役で迎えた事は、松本にとって不運であったと言える。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 現役当時の身長184~185cm・体重97~100kg強。_NEWLINE_得意技は大外刈で、相手の体重や状況等に使い分けられるよう、5種類の大外刈を持っていたという。試合結果を見ても、勝利の90%が大外刈によるものである。_NEWLINE_試合となると常に激しい気迫を露(あらわ)にするスタイルで、特に1歳年長の木村政彦との試合は異常なまでに闘志を燃やした。当時の木村は、試合場に上がった途端に会場が静まり返る程の強さで、相手選手の間では「木村相手に何分もつか」が己の力量を測る1つの手段であった時代であり、そのような中で臆する事なく木村に挑み続けた唯一の柔道家が松本であった。この事は木村自身も、木村の師である牛島辰熊も認めている。1948年3月15日に行われた第2回新生柔道大会(個人戦)では決勝戦にて木村と激突し、松本得意の大外刈と木村得意の一本背負投との攻防となり、延長6回・試合時間49分の激闘の末に木村の飛び関節の腕挫で右腕を折られ、唇が避けて流血しながら、それでも木村に決戦を挑み終に審判により痛み分け(引き分け)を宣せられた試合が有名である。 _START_SECTION_ エピソード _START_PARAGRAPH_ 福岡市の警察署に勤務していた頃はヤクザの取締担当だった。剽悍な連中が多い事で知られる福岡のヤクザも、松本の名が出ると羊のように大人しくなったそうである。_NEWLINE_1969年の世界選手権の直前に渡米した日本代表選手が何も知らずに密輸の片棒を担がされている事を、選手団に同行していた松本の知る所となった。メキシコの空港で密輸物(腕時計)を受け取りに来たヤクザ連中に対し松本は「貴様らはそれでも日本人か! 恥を知れ!」と閻魔の如き形相で説教し、ヤクザは這う這う(ほうほう)の体で逃げ去ったという逸話が残っている。
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Q1919797
_START_ARTICLE_ 松本暁司 _START_SECTION_ 人物・来歴 _START_PARAGRAPH_ 大学卒業後に埼玉県教育委員会採用の高等学校教員として地方公務員となり、1963年に浦和市立南高等学校創立と同時に監督に就任。1969年には高校サッカー史上初の三冠(高校選手権、高校総体、国体)を成し遂げた。_NEWLINE_かつては藤枝東の長池実、帝京の古沼貞雄らと共に並び称される名将と呼ばれ、また厳しい指導でも知られ「鬼松」と恐れられた。_NEWLINE_その後、埼玉県サッカー協会会長を経て、現在は埼玉県フットサル連盟会長で活躍。教え子には、永井良和(浦和レッズレディース監督)、田嶋幸三(日本サッカー協会専務理事)、大熊清(日本代表コーチ)、森田英夫(日本体育大学監督)らがいる。_NEWLINE_漫画「赤き血のイレブン」の松木天平のモデルである。_NEWLINE_2019年9月2日、心臓疾患のため死去した。
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Q54867596
_START_ARTICLE_ 板橋敏雄 _START_PARAGRAPH_ 板橋 敏雄(いたばし としお、1931年1月17日 - 2019年3月25日)は日本の実業家。板通会長、わたらせテレビ社長、公益財団法人ロータリー米山記念奨学会理事長、国際ロータリー会長代理、日台ロータリー親善会議総裁などを歴任した。国際ロータリー超我の奉仕賞等受賞。 _START_SECTION_ 人物・経歴 _START_PARAGRAPH_ 1953年一橋大学商学部卒業、菱三商事入社。1959年、当時従業員15人程度だった家業の板橋通商(現板通)に入り、カリスマ的トップに依存した経営体制からの脱却などを行った。1972年柏ハウジング代表取締役。1973年板通通商代表取締役社長。1993年同代表取締役会長。1996年足利ケーブルテレビ(現わたらせテレビ)代表取締役社長。2010年足利ホールディングス取締役及び足利銀行取締役。2013年板通名誉会長、同年めぶきフィナンシャルグループ取締役。_NEWLINE_初当選時から茂木敏充衆議院議員を支援して後援会総連合会会長を務めたほか、両毛成型品塗装代表取締役社長、栃木サッカークラブ取締役、栃木県観光振興・復興県民会議会長、とちぎテレビ取締役なども務めた。_NEWLINE_1973年足利東ロータリークラブ会長。1974年栃木県塗料商業会会長。1992年足利市国際交流協会会長。1993年ロータリーの友委員長。同年足利商工会議所会頭。2004年栃木県経済同友会代表幹事。2007年栃木県経済同友会筆頭代表幹事。同年島津久厚の後任の財団法人ロータリー米山記念奨学会理事長。2009年国際ロータリー会長代理。_NEWLINE_このうち、足利商工会議所会頭は15年間務め、商店街の衰退などが進む中で足利市のまちおこしにあたり、2003年には地元財界を代表し池田憲人足利銀行頭取に対し強引な債権回収を行わないように要請を行った。2006年の中心市街地の活性化に関する法律改正にあたっては衆議院経済産業委員会参考人を務めた。_NEWLINE_ロータリー財団功労表彰状、ロータリー財団特別功労賞、国際ロータリー超我の奉仕賞受賞。2018年、日台ロータリー親善会議総裁として台湾を訪れ、2018年花蓮地震で被災した花蓮市に義援金を送った。_NEWLINE_2001年4月、勲四等瑞宝章受章。
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Q11532755
_START_ARTICLE_ 枕崎木原中継局 _START_PARAGRAPH_ 枕崎木原中継局(まくらざききはらちゅうけいきょく)は、鹿児島県枕崎市にあるテレビ放送の中継局である。_NEWLINE_なお、本項では南さつま市に存在する笠沙中継局・坊津北中継局・坊津南中継局についても詳述する。
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Q11532996
_START_ARTICLE_ 林家菊丸 _START_PARAGRAPH_ 林家 菊丸(はやしや きくまる)は、上方落語の名跡。当代は3代目。 _START_SECTION_ 3代目 _START_PARAGRAPH_ 3代目 林家菊丸_NEWLINE_2014年9月27日より4代目林家染丸門下の林家染弥がほぼ115年ぶりに名跡を襲名し、現在は3代目を名乗っている。
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Q11533131
_START_ARTICLE_ 林正之 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 1982年、日本大学文理学部心理学科に入学、文理学部漫画研究会に入部する。1986年、『バトルマシーン』(コミックアンソロジー)に掲載された「故郷の歌」で商業デビュー。ただし、実質上の商業デビューはその前年の『V-ZONE』にそうだまさゆき名義で掲載された「あなたを幸せにする死亡遊戯」。主に一話完結型のギャグ漫画を描いた。代表作は『極楽りんご』『ウラワザえもん』。2010年9月7日、食道癌にて死去。享年47。
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Q11533834
_START_ARTICLE_ 柏木集保 _START_PARAGRAPH_ 柏木 集保(かしわぎ しゅうほ、1948年3月18日 - )とは、長野県小諸市出身の競馬評論家である。「集保」の名はペンネームであり、資料を集めて保つとの意味。身長が高く、同業者からは「ジャンボ」との愛称で呼ばれている。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 上田高校時代にはハンドボールでインターハイに出場。その後は早稲田大学政治経済学部に進学し、相撲部屋からスカウトされた経験も持つ。1973年に競馬新聞『日刊競馬』を発行する日刊競馬新聞社に入社し、以後同社にて長年にわたり中央競馬の競馬予想を担当。1979年に福島開催で大きな実績を挙げたことから、メイン馬柱に名前が載るようになった。さらに1984年からメイン解説者となり、現在の“肩書き”は編集長である(実際の編集責任者は滝沢克明である。また、『編集長』になる以前は『二重丸ディレクター』という肩書きとなっていた時期もある。詳細は後述のCMキャッチコピーのリンク先参照)。コラム「編集長の競馬」を担当。_NEWLINE_本紙予想を担当したことはないが、飯田正美とともに『日刊競馬』の看板予想家であり、同紙のコマーシャルにも起用されている。また、netkeiba.comなどインターネットメディアを含む各競馬誌へのコラム寄稿のほか、映像メディアやイベントなどにも積極的に出演しており、井崎脩五郎と並ぶ関東競馬界のご意見番的存在とも言える。_NEWLINE_加齢に伴い、2018年(平成30年)5月27日の日本ダービーをもって毎開催日のレギュラー予想を引退し、以後はメインレースの展望やコラムに専念。またGIレース開催時に不定期で紙面やネットメディアに登場する。 _START_SECTION_ 競馬予想のスタイル _START_PARAGRAPH_ 血統、過去の走破タイム・ペース配分などから多角的にレースを推理・寸評し、出走馬の前評判にとらわれない独自の予想スタイルを貫いている。得意なレースは「長距離戦か逆の短距離戦」と自ら評している。一貫性のある予想を信条としており、同僚の宮崎秀一は柏木の予想スタイルを「馬券的にしつこい(同じ馬をしばらく追い続ける)」と評している。
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Q11535534
_START_ARTICLE_ 栃木県道47号真岡上三川線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 真岡市市街地から真西に伸び、上三川町で国道352号に合流する道路。かつては、現在は国道352号となっている河内郡上三川町 - 下都賀郡壬生町間も含んで「真岡壬生線」という路線名であった。_NEWLINE_ほぼ全線に渡って4車線であるが、鬼怒川を渡る鬼怒大橋の西行きは車線が減少しており、本路線のボトルネックとなっている。
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Q11535618
_START_ARTICLE_ 栄ヒ _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 栄権の子として生まれた。北周に仕え、漢王記室を初任とし、内史下士に転じた。_NEWLINE_隋の開皇年間、殿内監に累進した。華陰に盗賊が多く、優れた官吏を対処に当たらせることとなり、楊素が栄毗を華州長史に推薦した。華陰に楊素の土地や邸宅が多くあり、楊素の部下たちが好き放題にふるまっていたので、栄毗は法によってかれらを捕縛し、容赦することがなかった。栄毗が朝廷に召集されたとき、楊素が「わたしが卿を推薦したのは、自分を罰するためだったようだ」と栄毗に言った。栄毗は「法を守ること一心であり、ただ公に重ねて推薦されるのを恐れるだけです」と答えた。楊素は「さきにいったのは戲れだ。卿が法を守ることはわたしの望みでもある」と笑って言った。_NEWLINE_ときに晋王楊広が揚州にいて、長安の情勢を探らせるために、張衡を派遣して道筋に馬坊を置き、牧畜を名分としながら、実際には私に人を養わせていた。州県はあえてこの違法な命令に従ったが、栄毗はひとり従わなかった。文帝はこのことを聞いて栄毗を賞賛し、栄毗は蒲州司馬に転じた。_NEWLINE_604年、漢王楊諒が乱を起こすと、河東の豪傑たちは楊諒に呼応したので、蒲州刺史の丘和は関中に遁走した。蒲州長史の高義明が「河東は要害で、国の東門であり、もしここが失陥すれば、たいへんな難儀となるだろう。城中は恐ろしい空気だが、全員が叛いているわけではない。主だった叛乱者十数人を斬り捨てて、落ちつかせるだけだ」と栄毗に言うと、栄毗は肯いた。高義明は馬を走らせて丘和を追い、対策を協議しようとした。しかし高義明は城の西門で叛乱者たちに殺され、栄毗もまた捕らえられた。楊諒の乱が平定されると、栄毗は解放されて治書侍御史となった。煬帝(楊広)は「今日のことは、馬坊あってのことである。きみは心を変えてはいけない」と言って、栄毗の硬骨ぶりを敬愛した。百官たちも栄毗をはばかって、栄毗が朝廷にいるだけで粛然とした。後に母の喪のため職を去った。1年あまりして、復帰した。まもなく在官のまま死去した。鴻臚少卿の位を追贈された。
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Q42633746
_START_ARTICLE_ 栄町 (高崎市) _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 烏川中流域に位置している。高崎駅前の中心部である。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 1960年からある地名である。もとは新後閑町、和田多中町、下和田町、岩押町の一部であった。 _START_SECTION_ 鉄道 _START_PARAGRAPH_ 当町に鉄道駅はないが、高崎駅東口が当町にある。 _START_SECTION_ 道路 _START_PARAGRAPH_ 国道は通っていない。県道は群馬県道12号前橋高崎線、群馬県道24号高崎伊勢崎線が通っている。
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Q11536127
_START_ARTICLE_ 栢木節蔵 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 近江国蒲生郡安部村(現滋賀県)に生まれ、境村(現鳥取県境港市、旧境町)栢木五平の養子となる。_NEWLINE_幕末から回船問屋を営み、明治期には三菱汽船をはじめ、日本郵船、大阪商船、隠岐汽船と主要汽船の代理店、三井物産山陰特約店などを引き受け、境港海運界の中心人物として活躍した。_NEWLINE_明治11年(1878年)2月18日には、境町栄町一丁目、栢木節蔵の有する家屋、土蔵を借り受け三菱会社境出張所が開設された
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Q11536487
_START_ARTICLE_ 根頭神社 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 境内にある掲示板の由緒によれば、創建の年代は不明であるがこの地には昔から人が住んでいて、藤原左衛門丞がわけあって京の公家を離れ東国に下向したときに、この地の草分け八軒衆と呼ばれる家の1つ三橋孫六家にしかるべきお墨付きと大神の神事を授け、自らの土地を寄進し根津神社と称したことに始まるという。_NEWLINE_本殿は、旧千葉県立師範学校の御真影奉安殿で、一時は千葉県護国神社の本殿でもあった由緒ある建物という。 _START_SECTION_ 境内 _START_PARAGRAPH_ 境内には大正6年(1917年)、鎌ケ谷から出征した者の帰還を記念する石碑がある。 以下はその全文。□は判別できない文字。_NEWLINE_右鎌ヶ谷村字道野辺区出身者ニシテ明治三十七八年戦役ニ従軍シ各所ニ転戦し報国尽忠ノ義務ヲ果シ何レモ凱旋帰郷スルヲ得クルハ之遍本社心霊ノ加護ニ因ルモ□信仰ス因ツテ茲ニ記念ノタメ鳥居並ニ石碑ヲ奉献スルモノナリ 大正六年十月_NEWLINE_奉納人名 生家_NEWLINE_近衛師団歩兵 勲八等 皆川新蔵 源_NEWLINE_海軍機関兵 勲七等 皆川菊□ 源_NEWLINE_第一師団歩兵 勲八等 皆川松五郎 新屋_NEWLINE_野戦砲兵 勲八等 皆川嶋蔵 七エ門_NEWLINE_野戦砲兵 勲八等 小金 橘 権兵エ_NEWLINE_他郷寄付者_NEWLINE_第七師団輸卒 二子村 勲八等 石井民蔵 八郎左エ門_NEWLINE_近衛師団輸卒 船橋町 勲八等 大沢由蔵 四郎左エ門 _START_SECTION_ 交通・アクセス _START_PARAGRAPH_ 神社を中心として根頭神社の森が広がっており、鎌ケ谷市の市民の森ともなっている。周辺には鎌ケ谷高校、妙蓮寺がある。_NEWLINE_2008年、「鎌ケ谷市内の社叢林 八幡・春日神社と根頭神社の森」が「ちば遺産100選」に指定された。_NEWLINE_東武野田線鎌ヶ谷駅から徒歩15分程度。
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Q11537079
_START_ARTICLE_ 桃澤匡勝 _START_PARAGRAPH_ 桃澤 匡勝(ももざわ まさかつ、1906年4月18日 - 1989年1月)は、長野県上伊那郡飯島町本郷出身の落葉果樹栽培研究家。上伊那農業学校、農林省興津園芸試験場を経て、果実経営に取り組む。梨の盃状棚仕立て法を確立するとともに、果樹生産の組織化、計画出荷に尽力。長野県園芸農業協同組合連合会会長、日本園芸農業協同組合連合会理事、農林省農林水産技術会議専門委員等を歴任。 _START_SECTION_ 梨の桃澤式盃状棚仕立法 _START_PARAGRAPH_ 日本の梨栽培では、台風による果実の落下を防ぐため、いづれの産地でも棚仕立法を採用している。平坦地の棚仕立法としては、主幹を棚の真下まで伸ばし、主枝を水平にする関東式と、主幹の長さをやや短くとり、漏斗状に主枝を配置する関西式が主なものであった。_NEWLINE_桃澤式盃状棚仕立法は、主幹を短くし(主幹が短いほど樹勢が強い)、その上に四本の主枝を三年間直立させ(枝は立っているほどよく伸長する)、四年目の春に垂直に伸びた主枝を倒して均等に配置し、棚付けすることによって、養水分の流動を容易にし、枝の太さに差の少ない骨組みを作るというものである。桃澤は、主枝上に配置する亜主枝、側枝などの形成、配置も無理が無く、機械的に整枝する手法も開発し、指導することに成功した。これらにより、葉で合成された養分が均等に配分され、果実の肥大が良好で、場所による品質差もほとんどない高い商品性の果実を生産する成果をもたらした。_NEWLINE_盃状形整枝はニホンナシの棚仕立ての理想型の一つであるが、主幹周辺部の枝が低いためにその付近へ機械が入りにくいこともあり、関東を中心とした平坦地の赤ナシ地帯では盃状形より主幹の高い折衷式が現在主体となっている。しかし主枝の伸長に当たり、主枝を垂直に立てるという桃澤式の考え方は折衷式にも採り入れられており、その技術は今でも各地で生かされている。
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Q1328936
_START_ARTICLE_ 梁山伯と祝英台 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 中国の東晋の時代、会稽郡上虞の祝家の娘である祝英台が男装して杭州に遊学に出た途中に会稽から来たという梁山伯に出会う。ともに学ぶこと三年、深い友となった二人だが英台が女の身であることは知らないままであった。その後祝英台が学業をやめて里に帰ったので梁山伯が会いにいくと英台は向祝家の馬文才といいなずけになっていた。梁山伯は思い悩み鄞県の県令(役人)の職にあったときに死んでしまう。祝英台が嫁ぎに道をゆくときに梁山伯の墓のところを通りかかると急に嵐が吹く。輿を降りて墓の前に行くと墓が開き、その穴に身を投げると二匹の蝶が出てきてひらひらと飛んでいった。 _START_SECTION_ 南朝梁 _START_PARAGRAPH_ 原型が『金楼子』(550年代に編纂)に収録されたと、清初の古典研究書で言及されている。 _START_SECTION_ 唐代 _START_PARAGRAPH_ 「宣室志」にはこのように見られる:英台、上虞祝氏女、偽為男裝遊學、與會稽梁山伯者同肄業。山伯、字處仁。祝先歸。二年、山伯訪之、方知其為女子、悵然如有所失。告其父母求聘、而祝已字馬氏子矣。山伯後為鄞令、病死、葬鄮城西。祝適馬氏、舟過墓所、風濤不能進。問知山伯墓、祝登號慟、地忽自裂陷、祝氏遂並埋焉。晋丞相謝安奏表其墓曰義婦塚。_NEWLINE_ほかにも「鄞県志」、「寧波府志」、「宜興荊渓新志」にこの故事が載っている。
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Q11538371
_START_ARTICLE_ 梅ノ橋 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 金沢市の花街であるひがし茶屋街の近くに架けられている歩行者および自転車専用の橋で、金沢市の市道となっている。木製の高欄と桁隠しを採用した鋼橋で、夜間にはライトアップも施されている。_NEWLINE_この橋は泉鏡花の『義血侠血』の舞台になっており、同じく泉鏡花の『卯辰新地』(1917年)では「京都の団粟橋になぞらえたという新しい小橋」と紹介されている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 梅ノ橋は、1910年(明治43年)6月27日に才田幸次郎などの地元有志の寄付によって建造された橋で、1915年(大正4年)に金沢市の市道となる。その後、1922年(大正11年)8月3日および1953年(昭和28年)8月24日の浅野川の水害によって梅ノ橋は2回流失した。_NEWLINE_1953年の水害(二八水害)では金沢市は梅ノ橋の再建を断念することになる。しかし、金沢市民からの再建に対する強い要望によって金沢市は昔の梅ノ橋を復元することを決め、1978年(昭和53年)4月16日に現在の梅ノ橋が開通した。現在の梅ノ橋は3代目に当たる。
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Q17227784
_START_ARTICLE_ 梅ヶ島金山 _START_PARAGRAPH_ 梅ヶ島金山(うめがしまきんざん)は、駿河国安倍郡(現・静岡県静岡市葵区)で採掘されていた金山である。現在は閉山。_NEWLINE_梅ヶ島金山は梅ヶ島村の日影沢金山(ひかげざわきんざん)、関之沢金山(せきのさわきんざん)、および入島村の湯ノ森金山(ゆのもりきんざん)などの総称であり、井川村の笹山金山(ささやまきんざん)を中心とする井川金山(いかわきんざん)も含めて、安倍金山(あべきんざん)と呼ばれる。 _START_SECTION_ 古代・中世 _START_PARAGRAPH_ 梅ヶ島村においては仁徳天皇の代に初めて金を朝廷に献上しており、延喜2年(902年)にも産出があったという。享禄年間には今川氏の治下に繁盛し、これを「元栄」(もとさかえ)、その後慶長年間の徳川氏の治下による繁盛を「中栄」(なかさかえ)と呼ぶ。_NEWLINE_『今川記』によれば安倍郡の金鉱は享禄以前から採掘され、永正年間以来、幕府や公家へしばしば金を贈っているという。永正16年(1519年)には今川氏親が年礼金10両を幕府に進呈し、享禄4年(1531年)には氏親の兄にあたる、中御門宣胤の男の宣秀の許へ金を贈っている。『実隆公記』には永正年間以来、今川氏から公家に金が贈られた記事が散見される。永正14年(1517年)、今川軍が遠江守護の斯波義達の居城引間城を攻めた際、安倍の金堀衆らに城内の井戸を堀崩させて攻め落としたことが『宗長日記』や『今川家譜』に記されている。_NEWLINE_駿河侵攻の後、永禄年間末期には梅ヶ島金山は武田氏の直領となり、元亀元年(1570年)に梅ヶ島の地侍、百姓にあてた『武田氏朱印状』に「如前々可為御領所、然則存其旨、御上貢等可相勉」とある。_NEWLINE_武田氏滅亡後、やがて梅ヶ島は中村一氏の所領となるが、慶長3年(1598年)の豊臣氏の『蔵納目録』には「駿河九枚、駿河黄金山、中村式部少輔」とあり、この時代、諸国の金山運上額と比べても駿河の金山はそれほど盛山ではなかった。 _START_SECTION_ 江戸時代 _START_PARAGRAPH_ 中村氏転封後、梅ヶ島は徳川氏の天領となり、慶長6年(1601年)頃から金抗の積極的開発が始まった。今川時代は安倍川流域の砂金採集が中心であったが、江戸時代に入り坑道掘りすなわち間歩稼業も盛んに行われるようになった。産金は当初は駿府の小判座(金座)で慶長小判に鋳造され、慶長17年(1612年)に駿府金座が銀座と共に江戸へ移転した後も、棹金は江戸に送られ小判の材料とされた。慶長の盛山は元和年間頃もなお継続したが、その後衰え、金山は幕府直轄から村請に変更となった。梅ヶ島村・井川村共に米作は皆無に等しく少量の麦・雑穀・芋などを作り、木材・桑・茶などがこれを補充していた。このような生産条件により村民にとって採金稼業は常に重要性を持っていた。慶長年間の坑道掘りは日傭労働の供給源となっていたと推定される。_NEWLINE_貞享元年(1684年)には駿府町人桑名屋六郎兵衛ら28名が、代官近山六左衛門を通じ5年限りとして勘定奉行の許可の下、日影沢金山を開発して繁盛を取り戻し金6000両余を運上していた。貞享3年(1686年)には出金も少なくなり荷分山となり、無用となった梅ヶ島・入島・井川七ヶ村の鏈御蔵御番所が入札を以て払い下げられている。5ヵ年の期限後、御手山となったが元禄4年(1691年)には村請となった。_NEWLINE_ところが、宝永4年(1707年)に起こった宝永地震によって間歩が崩壊したため、坑道を維持管理し坑内の水抜きを行うため金山の開発を請負った商人桑名屋六郎兵衛は正徳3年(1713年)、時の代官鈴木小右衛門に御金3500両を7年賦で拝借を願い出るに至った。この地震では金山に近い安倍川支流の大谷川源流で大規模な大谷崩が発生し土砂が流れ天然ダムを形成して大池が出来、梅ヶ島村仏山御林は湛水により年々埋没した。享保7年(1722年)には御林の2/3が埋没するに至り枯木も多くなり、廻り道を余儀なくされ冬は雪により百姓らも通路に難儀したため梅ヶ島村名主埜右衛門は代官所に百姓救済のため舟道具作製用の枯木を払い下げ頂くよう請願した(『秋山家文書』)。_NEWLINE_宝永5年・6年(1708・1709年)は金山留山となり保護のため採掘が禁止され、村民は困窮し村請を申請した。翌宝永7年(1710年)から正徳2年(1712年)までは乾字金7両の運上で村請、正徳3年(1713年)から享保6年(1721年)までは新金3両3分運上で桑名屋が請負った。_NEWLINE_享保17年(1732年)から5年間、江戸町和久屋源左衛門が試掘を行い、村民が追堀役金を上納し、廃鉱石や砂金を採取し小玉金にして売っていたが、享保20年(1735年)には間歩6ヶ所から出水し水抜きに費用が掛り採算が取れず衰退していった。天保9年(1838年)には土砂崩れが発生し採掘は中止され、金堀衆らは大谷崩の堆積地である梅ヶ島新田に移住していった。日影沢に近い梅ヶ島新田の民家の庭先には金山で鉱石をすり潰すために用いられた石臼が残る。 _START_SECTION_ 近代以降 _START_PARAGRAPH_ その後採掘が再開され、昭和10年(1935年)頃には盛期もあったが第二次世界大戦後に閉山された。_NEWLINE_現在は日影沢金山の坑道などの遺跡を廻る遊歩道が整備されている。 _START_SECTION_ 金鉱 _START_PARAGRAPH_ 梅ヶ島日影沢金山の金鉱石は、古生代の粘板岩を通る珪石脈中に黄鉄鉱を伴い現出する自然金(山金)である。この地域は糸魚川静岡構造線が東側を通り瀬戸川層群(四万十層群)が分布し、古第三系中の石英、方解石脈に由来した金鉱である。
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Q11539113
_START_ARTICLE_ 森テレビ中継局 _START_PARAGRAPH_ 森テレビ中継局(もりテレビちゅうけいきょく)は、静岡県周智郡森町に置かれているテレビの中継局。
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Q11539198
_START_ARTICLE_ 森下景端 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 森下重兵衛の子として岡山藩の七番町に生まれる。先祖は百姓であり、宝暦年間に武士に取り立てられたという。隣家は岡山藩儒の一家である中川家であり、そこの息子であった中川横太郎とは幼馴染ではあるが折り合いは悪かったという。 _START_SECTION_ 幕末期の岡山藩士として _START_PARAGRAPH_ 弘化2年(1845年)先徒雇として出仕。その後、安政3年(1858年)父が没したため家督相続する。この頃から牧野権六郎の目に留まるようになり、元治元年(1864年)権六郎の命で吉田屋十郎右衛門とともに長州藩に赴き山縣半蔵らと面会し、さらに益田親施(家老)と折衝することに成功している。_NEWLINE_慶応元年(1865年)2月、牧野権六郎の推挙により郡奉行(備中国)になる。慶応2年(1866年)4月、倉敷浅尾騒動がおこったが景端は尊攘派であったので取締りには消極的であった。そのため藩が徳川慶喜に詰問されたことにより、同年5月に藩主・池田茂政より郡奉行罷免(中小姓への格下人事)・切米10俵削減を被った。同年5月より各方面の郡奉行は農兵組立御用をし始めており、同年10月農兵組立掛となっていた景端も農民を徴募し農兵隊(12月17日耕戦隊と改名)を組織した。_NEWLINE_慶応3年(1867年)12月27日太政官より下命された西宮警備(兵庫県西宮市)のため日置帯刀に随い耕戦隊を率いて出陣。 _START_SECTION_ 江戸城入場・戊辰戦争へ _START_PARAGRAPH_ 明治元年(1868年)2月6日、太政官より岡山藩が江戸東征軍(新政府軍)先鋒を命じられたため、耕戦隊と勇戦隊を率いて2月9日江戸へ向い出陣。途中京都今熊野(京都市東山区)の藩邸の兵を加え350人編成とした。同年4月11日、江戸城明け渡しのため江戸城西の丸に入り接収役を勤めた。_NEWLINE_明治元年(1868年)閏4月7日、江原鋳三郎率いる撒兵隊(さっぺいたい)の分隊を中心とした旧幕府軍との戦い(八幡戦争)のため耕戦隊を率いて五井・姉ヶ崎(千葉県市原市)方面に出陣し旧幕府軍掃討に当たった。_NEWLINE_明治元年(1868年)5月15日、耕戦隊を率いて彰義隊討伐(上野戦争)に加わり深手を負いながらも平岡仙蔵(徹兵取締役)打ち取ったが、その後横浜病院に入院。_NEWLINE_明治元年(1868年)6月6日、新政府より命じられた奥州出兵(戊辰戦争)のため傷が癒えぬまま耕戦隊(7月15日遊奇隊と改称)を率いて出陣。6月22日より関田(福島県いわき市)、矢板坂(福島県いわき市)、湯長谷(福島県いわき市)、磐城平城攻城戦、三春(福島県三春町)出兵、二本松城攻城戦、同年8月組外格軍事方となり若松城総攻撃と転戦した。
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Q11539245
_START_ARTICLE_ 森乃福郎 _START_PARAGRAPH_ 森乃 福郎(もりの ふくろう)は、上方落語の名跡。当代は2代目。代々の出囃子は「獅子舞(大阪名物)」。_NEWLINE_三友派結成の立役者の一人・初代笑福亭福松の直系であり、本来の亭号は「笑福亭」であったが、初代が「森乃」に改めた。 _START_SECTION_ 落語家活動 _START_PARAGRAPH_ 京都・先斗町の御茶屋の息子に生まれる。子供のころから演芸が好きで京都府立鴨沂高等学校卒業後、1956年4月に3代目笑福亭福松(前名は2代目文の家かしく、三友派で活躍した2代目桂文之助の実子)に入門、笑福亭福郎を名乗り、同年に戎橋松竹で初舞台。1961年、藤山寛美の命名で森乃福郎に改名し、終生この名で通した。師の実父の名跡であり、福郎自身も憧憬を抱いていた3代目桂文之助を1987年に襲名する計画が、所属する松竹芸能で立ち上がっていたが、同時に2代目笑福亭松翁を襲名する予定であった6代目笑福亭松鶴が前年に亡くなったため、立ち消えになっている。 _START_SECTION_ タレント活動 _START_PARAGRAPH_ 入門早々からテレビ番組「奥さん!2時です」(毎日放送・東京12チャンネル共同制作)、「23時ショー」(NETテレビ)、「八木治郎ショー」(毎日放送)、「森乃福郎・田辺靖雄のお昼にあいましょう」(朝日放送)、「スタジオ2時」(毎日放送)、「寛美の落語紳士録」(毎日放送)やラジオ番組「お早うキンキ、ハイハイ福郎です」(近畿放送)、「ポップ対歌謡曲」(朝日放送)等の司会者として、また漫才の上方柳次・柳太とのユニット「大阪爆笑三人組」として活躍。3代目桂米朝と並んで落語家タレントの草分け的存在であった。漫談をメインとするようになったのは、1961年に花月亭九里丸が引退して関西から漫談家がいなくなることを憂慮した松竹新演芸の勝忠男が説得した結果である。 _START_SECTION_ 晩年 _START_PARAGRAPH_ 1989年ころに体調を崩し片肺を摘出してからは第一線から退き、タレントの活動をセーブし落語の活動を中心とした落語会、浪花座などに出演。その後入退院を繰り返し、1998年12月27日、肺炎併発による呼吸不全のため死去。63歳没。 _START_SECTION_ 主なネタ _START_PARAGRAPH_ 落語家としては、『滑稽清水』『太閤の猿』『大丸屋騒動』『半分垢』『崇禅寺馬場』などの古典落語の珍品や、『指南書』『象の足跡』『アメリカ人の恋』など師の実父・2代目桂文之助が作った新作落語をかける事が多く、演じた噺の中には筒井康隆が作った『妊娠』のような異色作もある。 _START_SECTION_ 弟子 _START_PARAGRAPH_ 弟子には福三(現:2代目福郎)、他に廃業した森乃みみずくがいた。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 1968年3月に同志社大学に入学後は喜劇研究会に所属。卒業後、1972年2月に初代森乃福郎に入門。前名は3代目笑福亭福三(しょうふくていふくざ)。2000年10月に2代目福郎を襲名。_NEWLINE_白髪の一部を黄色く着色(妻とお揃い)した頭髪が特徴。 _START_SECTION_ 主なネタ _START_PARAGRAPH_ 入門3年目から新作落語を手がけ、定期的に新作落語中心の落語会「新撰落語もぎた亭」を開催。古典落語においても、初代福松や2代目文之助の流れを汲む演目や、滅んでいた演目の発掘・復活を進めている。 _START_SECTION_ 弟子 _START_PARAGRAPH_ 弟子には森乃石松、森乃阿久太がいる。
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Q11539253
_START_ARTICLE_ 森久志 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1957年(昭和32年)5月10日、富山県富山市呉羽地区の梨農家に生まれる。_NEWLINE_実兄は、現職・富山市長の森雅志。_NEWLINE_出身大学を記した資料はないが、一橋大学卒業生に同姓同名の「森久志」なる人物が存在する。_NEWLINE_1981年(昭和56年)4月、オリンパス光学工業(当時)に入社。_NEWLINE_入社後の1985年(昭和60年)8月からは、ニューヨーク大学経営大学院(現在のスターン・ビジネススクール)に留学している。_NEWLINE_その後は同社にて経営企画本部長、CSR本部長などを経て、2007年(平成19年)4月よりコーポレートセンター長、同6月より常務執行役員を務めた。また、2005年(平成17年)6月からはオリンパスの子会社、ITX株式会社の取締役を兼務した。_NEWLINE_2012年(平成24年)2月16日金融商品取引法違反で逮捕、家宅捜索を受ける。 _START_SECTION_ 不正会計への関与 _START_PARAGRAPH_ 2011年(平成23年)、オリンパス副社長執行役員、及びオリンパスグループ経営統括室長に就任したが、同年10月になるとオリンパスによる巨額損失隠し(財テクによる巨額損失の「飛ばし」行為)や不正会計などのスキャンダルが社会問題化した。_NEWLINE_オリンパスは同月8日、この不正行為に1990年代から長く関与していた幹部として森副社長らを解任することを発表した。しかしながら森はその後も取締役の地位にはとどまっており、同月24日になって改めて前会長・前社長の菊川剛、監査役の山田秀雄とともに辞任届を提出し、取締役たる地位を喪失した(オリンパス事件)。
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Q11539526
_START_ARTICLE_ 森岡元隆 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 延宝8年(1680年)、森岡元長の子として誕生。_NEWLINE_才気煥発で主君・津軽信政からの信任が厚かった。元禄15年(1702年)9月、家老となると、200石加増され、1,200石になり、宝永3年(1706年)700石、同5年(1708年)600石の加増で2,300石となった。翌年(1709年)、6代将軍・徳川家宣が全国の大名に鶴の献上を命じると、諸大名は生類憐れみの令を気にしてなかなか献上しないところ、将軍の命であるとして反対派を抑え献上し、家宣から称賛された。翌年、信政の霊廟建築の惣奉行となった。_NEWLINE_正徳2年(1712年)、高照神社の遷宮挙式を前に死去した。実はこの死は信政を追った殉死で、信政が死去した宝永7年(1710年)の12月には自宅で切腹しており、当時殉死が禁じられていた為、2年後に届けたという。
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Q11254750
_START_ARTICLE_ 椎名鯛造 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 身長164cm。靴のサイズ25.5cm。_NEWLINE_愛知県名古屋市内の病院で生まれる。姉が2人。4歳で岐阜県へ引越。_NEWLINE_趣味:ツーリング・ゲーム。_NEWLINE_特技:ロンダートバック宙・バック宙・逆立ち・殺陣・飛込み。_NEWLINE_小3の時に、試しに砂場でバク転をやってみたらできたのがアクロバットの始まり。_NEWLINE_中学生時代は陸上部に入りたかったが、学校に陸上部がなくハンドボール部に所属。_NEWLINE_高校生時代は芸能活動をしていない。_NEWLINE_ファンからの相性は「鯛ちゃん」。
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Q11540874
_START_ARTICLE_ 椎骨脳底動脈循環不全 _START_PARAGRAPH_ 椎骨脳底動脈循環不全(ついこつのうていどうみゃくじゅんかんふぜん、英: vertebrobasilar insufficiency; VBI)は、椎骨脳底動脈系の循環不全により、脳幹、小脳、後頭葉の機能障害による発作を繰り返す。
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Q17161389
_START_ARTICLE_ 椿秀洋 _START_PARAGRAPH_ 椿 秀洋(つばき ひでひろ)は、日本の外交官。2012年(平成24年)から2015年(平成27年)までボリビア駐箚特命全権大使を務めた。 _START_SECTION_ 人物・経歴 _START_PARAGRAPH_ 鹿児島県出身。1975年(昭和50年)東京外国語大学外国語学部スペイン語学科を卒業し、外務省に入省した。1991年10月在メキシコ日本国大使館一等書記官、1994年10月外務省中南米局中南米第二課課長補佐、1996年11月国際連合開発計画東京事務所出向、1999年11月在ヴェネズエラ日本国大使館一等書記官、2002年10月在キューバ日本国大使館一等書記官、2007年10月外務省大臣官房在外公館課現地職員管理官、2009年4月総合外交政策局総務課政策企画室企画官、2010年(平成22年)9月バルセロナ総領事を経て、2012年(平成24年)からボリビア駐箚特命全権大使。2016年(平成28年)5月一般社団法人日本ボリビア協会理事。
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Q24868135
_START_ARTICLE_ 楊興新 _START_PARAGRAPH_ 楊 興新(ヤン シンシン、YANG XING XIN、1955年9月28日 - )は二胡演奏家、作曲家、日本二胡学院長。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 1955年9月28日中国東北部遼寧省、丹東市生まれ。6歳の時、初めて二胡を手にする。後に二胡演奏家、陳景勝に師事。11歳でソリストとしてデビュー。その後、劉明源、王国潼、陳耀星など中国を代表する演奏家に師事、演奏技術に磨きをかけ、中国各地での演奏会に。中国国立沈陽音楽大学で、ソリストとしての更なる技術向上に励むと共に、作曲法を学び、大学と沈陽の政府から栄誉賞を授与される。独自に中国伝統楽器胡琴の可能性を追究。板胡として初めて和音を奏でることを可能とした「三弦板胡」曲彝郷月夜(いきょうげつや)での創作で、中国胡琴の歴史的発展に努め。また、1981年に中国国家大賞を受賞したのを初め、遼寧省音楽年賞、音楽家協会金賞など中国を代表する数々の賞を受賞。中国音楽家協会会員。_NEWLINE_1988年5月来日、日本人女性と出会い結婚、永住を決意する。しかし3年後に妻がクモ膜下出血で倒れ、以後介護、リハビリの必要な身となる。その後、妻を励ます意味も込めて、日本での演奏活動を本格的に開始。自主、依頼を問わずコンサートを始める。楊自ら曲を手がけ、オリジナルアルバムは、現在まで13枚をリリース。ジャンルを越え、国境を越え様々な文化を取り入れた楽曲を創作する。また、独自に開発した「立式演奏スタイル」は、1994年、日本で二胡の新たな世界を開拓した。1998年10月、皇居に参上し、皇后陛下御誕生日祝賀の席で祝賀演奏を披露。つづく11月には、中国国家主席の江沢民が来日した際、日本政府の指名により歓迎晩餐会にて演奏するなど、様々な場で文化面での国際交流を実現している。_NEWLINE_中国国家大賞、遼寧省音楽年賞、音楽家協会金賞 、全日本ソリストコンテスト国際親善賞、スポニチ文化芸術大賞優秀賞日本文芸大賞現代文学賞、NHK地域放送文化賞_NEWLINE_永六輔との親交は深く、永の実母が他界した際にはコンサートツアー中で戻れなかった永に代わり葬儀に参列、二胡を演奏して見送ったという。
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Q51166412
_START_ARTICLE_ 極芯道貴裕 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 小学2年生の時、親の勧めでわんぱく相撲の予選大会に出場し、負けた悔しさが忘れられずに地域の関西奄美相撲連盟に通い始めた。週2回通っていた稽古は、道場に行く前にいつも腹痛がするほど厳しかった。佐藤貴信(後の幕内・貴景勝)は同じ稽古場で胸を合わせた間柄である。尼崎市立園田東中学校に進学してからは報徳学園へ出稽古するようになり、稽古はさらに厳しくなった。学校の友達と遊ぶ時間もなくなったことから相撲への情熱は薄れ、中学2年生の途中からは稽古場に顔を出すこともなくなったばかりか学校もサボりがちになった。そんな中、関西奄美相撲連盟の野島年由希監督から叱咤され、女手一つで育ててくれた母を悲しませていたことに気づき、改心して稽古に打ち込んだ。その結果、中学3年生の時には白鵬杯で無差別級3位の実績を残し、全国レベルの実力も身に付いた。素養が開花しかけた福島に対して野島は兵庫県内の強豪校への進学を勧めたが、自身は角界入りを考えていたため進路に迷っていた。後押しとなったのは「高校は後からでも行けるし、相撲をやりながらでも通信で資格は取れる」という母親の言葉であった。複数の部屋から勧誘は来ていたが「親孝行したいのなら、相撲部屋に入りなさい」と一番熱心に誘ってくれていた錦戸部屋への入門を決めた。_NEWLINE_2012年3月場所初土俵。同年11月場所に三段目に昇進するも、その場所を怪我で全休し、その後三段目で停滞していたため野島の勧めで2015年5月場所に本名から極芯道に改名。これは、野島が関西奄美相撲連盟から独立して設立した相撲道場「創芯道」に由来している。人間としての芯をしっかり持ちながら相撲道を極めろという野島の思いが詰まっている。改名後の2016年3月場所は新幕下で6勝1敗の好成績を残したが、直後に思うところがあって引退するつもりでいた。既に実家に戻っていたが、野島から慰留されて続投を選んだ。自宅の一室を改造してトレーニングルームを作り、自費の7万円をはたいて購入したバーベルやベンチを使用したウエイトトレーニングで体を鍛え、部屋に戻る日に備えた。復帰した7月場所から2場所連続で勝ち越し、同年11月場所からは鶴竜の付き人を務め始めた。鶴竜の付け人として巡業にも帯同し、巡業の土俵で様々なタイプの力士と稽古するようになり、錣山部屋の力士の付け人も務めていた関係で同部屋にもしばしば出稽古に行くようになった。そうしたことからも力をつけ、2018年3月場所には東幕下4枚目と、勝ち越せば関取昇進が見える位置まで番付を伸ばした。7月場所は東幕下2枚目まで番付を上げ、この場所は7番相撲を3勝3敗で迎え勝てば関取昇進という場面であったが、負けて3勝4敗になり関取昇進を逃した。9月場所は東幕下5枚目で全勝優勝を果たし、場所後の新十両昇進を確実にした。錦戸部屋からは初となる日本出身関取。新関取となる11月場所は11日目に負け越しを確定させ、13日目に幕下陥落が決定的となるなど十両の壁に阻まれ、場所を4勝11敗の大敗で終えた。東幕下4枚目まで番付を下げた2019年1月場所は9日目の5番相撲で負け越しを確定させて残りを休場し、場所成績は1勝4敗2休。 _START_SECTION_ 場所別成績 _START_PARAGRAPH_ 2019年9月場所終了現在
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Q11541922
_START_ARTICLE_ 槇原村 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 西側は日本海に面する。
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Q11542444
_START_ARTICLE_ 横尾友栄 _START_PARAGRAPH_ 横尾 友栄(よこお ともえ、 本名:渡辺(旧姓:横尾) 1970年11月26日 - )は、日本の実業家。有限会社壽屋寿香蔵代表取締役。元山形放送(YBC)アナウンサー。 _START_SECTION_ 人物・来歴 _START_PARAGRAPH_ 山形県東根市出身。山形県立山形西高等学校、日本女子大学文学部史学科卒業後、1993年にYBC入社。同社のアナウンサーとして長期間活躍。県内では知名度も高かった。2008年11月29日 をもって退社。現在は、家業を継ぎ「壽屋寿香蔵」代表取締役。既婚である。_NEWLINE_実妹は、前・まぐまぐ社長の横尾茜。
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Q1196914
_START_ARTICLE_ 横浜アリーナ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 麒麟麦酒(初代法人、現・キリンホールディングス)と横浜市、西武鉄道からの出資の第三セクターとして開業し、アリーナ部分の最大面積8,000 m²、最大収容人数は1万7000人で、コンサートやスポーツ、企業式典など、あらゆる用途に利用されている。「優良ホール100選」にも選ばれている。_NEWLINE_アリーナ横にライブハウス「新横浜NEW SIDE BEACH!!」と音楽スタジオ「Studio MUGIC」がある。_NEWLINE_横浜アリーナにおける「アリーナ席」とは、2階部分の可動式スタンド席のことを指し、一般的に言う「アリーナ席」は本会場では「センター席」と呼ばれている。_NEWLINE_2017年3月3日、株式会社横浜アリーナについて同年3月下旬を目処に西武鉄道がキリンホールディングスの保有する発行株式46.2%分を取得して筆頭株主になると共に、西武鉄道の子会社となることが発表された。_NEWLINE_また西武鉄道の発表と同日に大手芸能事務所のアミューズが、西武鉄道と同じく2017年3月下旬にキリンホールディングスから横浜アリーナ株式4.2%を取得し、資本参加することが発表された。
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Q11542959
_START_ARTICLE_ 横浜地方海難審判所 _START_PARAGRAPH_ 横浜地方海難審判所(よこはまちほうかいなんしんぱんしょ)は、海難審判法に基づき設置されている国土交通省所管の特別の機関である海難審判所の内、東京の海難審判所で取り扱う「重大な海難」以外の管轄区域において発生した海難について審判を実施する地方海難審判所の一つ。
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Q4922911
_START_ARTICLE_ 樹上開花 _START_PARAGRAPH_ 樹上開花(じゅじょうかいか)は三十六計の二十九計。「樹上に花を開(さか)す。」_NEWLINE_小兵力を大兵力に見せかけて敵を欺く計略。 _START_SECTION_ 事例 _START_PARAGRAPH_ 紀元前3世紀、燕の大軍に包囲された斉の田単は、斉が兵力に劣ることを補うため、当時の民衆の宗教心を利用することにした。まず、斉の民に、毎日定刻に餌をまいて鳥を招き寄せるよう命じた。鳥の大群が毎日斉に集まるのを見て燕軍は、天意が斉にあるかと疑った。次に、燕の捕虜に密かに命じて斉の墓地を暴かせた。これで人々は怨霊を恐れた。仕上げには、1000頭あまりの牛を極彩色に塗装した上で、その尾にたいまつを縛りつけて敵陣に突進させ、(亡霊のように)派手に仮装した5千の兵を牛の後に従わせて夜襲を行い、燕を敗走させた。_NEWLINE_20世紀、八路軍の陳賡兵団は囮部隊であったが、南進して接敵すると、大きく迂回して北上、再び同じルートで南進するという方式で、一兵団を複数の兵団であるかのように偽装した。また、移動する際には遠方から見えるほどの土埃を上げさせ、留まる際には、かまどを必要以上に多く作り、撤退する際には背嚢を多く捨てておくといった工作により、あたかも大兵力であるかのよう装って、これを主力と錯覚した国民党軍をよく撹乱した。
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Q11543801
_START_ARTICLE_ 橋本エイジ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 東京デザイナー学院中退後、アシスタントを経験。「ヒットマンブルース」で『ヤングマガジンアッパーズ』主催の第11回新人漫画賞にて入選を受賞後、同作品でデビュー。_NEWLINE_2009年、『月刊ヤングキング』(少年画報社)にて『学園兵器ミツマル』を連載開始。同2009年、『週刊コミックバンチ』(新潮社)にて『天翔の龍馬』(原作:梅村真也)を連載。『天翔の龍馬』は掲載誌の休刊により2010年8月をもって連載終了。_NEWLINE_2010年10月、徳間書店から新創刊された『月刊コミックゼノン』にて『ちるらん 新撰組鎮魂歌』(原作:梅村真也)を同年12月号より連載開始。_NEWLINE_『TOKYO23』がWOWOWミッドナイト☆ドラマ枠にてドラマ化され、2010年の9月から10月にかけて全5話を放映。これが初の映像化作品となる。
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Q784358
_START_ARTICLE_ 機回し線 _START_PARAGRAPH_ 機回し線(きまわしせん)とは、駅および車両基地の構内において機関車を付け替えるための線路である。機関車回し線(きかんしゃまわしせん)、機回り線(きまわりせん)、機関車回り線(きかんしゃまわりせん)、機走線(きそうせん)、機関車走行線(きかんしゃそうこうせん)などとも呼ばれる。 _START_SECTION_ 構造と使用方法 _START_PARAGRAPH_ 終着駅に機関車が牽引する列車が到着した後に折返し逆方向に牽引運転をするためには、反対側に機関車をつなぎかえる機回しの作業をする必要がある。機回しをするためには、牽引してきた客車や貨車を迂回して機関車を反対側に移動させる必要がある。このために機回し線は両端が着発線につながっており、分岐器を通って機関車が機回し線に入り進行することで、他の車両を迂回することができるようになっている。下の図では、Run-round loopと書かれているところが機回し線である。_NEWLINE_機回し線はプラットホームに面していない線路であることが多いが、隣の番線を利用して機回しをする場合など、プラットホームに面している通常の着発線を機回し線の代わりに利用することもある。_NEWLINE_電車のような動力分散方式を用いた列車を運転する場合、運転士が反対側の運転台に移動するだけでよいので機回し線は必要ではない。また機関車を用いた列車でも、プッシュプル方式のように機関車と反対側に別の機関車あるいは運転台の付いた制御客車を配置し、そこから運転士が機関車を制御して運転する場合には機回しをする必要がない。このことから、地下鉄や路面電車のように機関車方式の列車の運転を最初から想定していないような路線には、機回し線は設置されない。また、上野駅を発着する寝台列車のように、機関車で低速で推進して車両基地との移動をする場合や、スイスのチューリッヒ中央駅のように、到着した機関車牽引列車の反対側に入換用の機関車をつないで本線を牽引してきた機関車ごと引っ張って車両基地へ回送していく場合など、機回しをせずにプッシュプルではない機関車方式の列車を運転していることもある。線路に余裕が無く機回しが出来ない中で東京駅から東海道本線に多数の寝台列車が設定されていた時代は、その次の寝台列車を牽引する予定の機関車が車両基地から東京駅まで回送列車を牽引して来て上野方に切り離され、その列車が出発(牽引するのはもう1本前の列車を回送してきた機関車)した後に同じ線路を通ってホームを通過し、神戸方の短い引き上げ線に機関車が引き上げ、本来牽引すべき列車が回送されてきたら神戸方に連結する、という手順を繰り返していた(ただし、かつては東京駅にも機回し線が存在した)。_NEWLINE_日本においては、客車方式の列車の減少に伴い機回し線が撤去されている例が出ている。また、実際に機関車の付け替えのためではなく、留置線と同様の用途に用いられていることもある。
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Q11544596
_START_ARTICLE_ 檜ヶ山城 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 地元の小学校の校歌にも登場し、「檜山富士」とも呼ばれるたおやかな山容の檜ヶ山(桧ヶ仙とも)山頂に築かれた山城で、古くは大永年間に東郷忠光が拠ったと伝わる。_NEWLINE_1562年の毛利氏侵攻時には毛利方に攻められ、多久義敷率いる城方は良く守り、一度は防いだものの、善戦虚しく落城した。_NEWLINE_元亀年間の尼子氏残党の蜂起に際しては、毛利氏が改修し在城したことが文献記録からわかる。 _START_SECTION_ 遺構 _START_PARAGRAPH_ 現在も城下には五輪塔や塚が点在しており、周囲には支城の遺構もある。山上の城郭遺構も良く残り、区域によって郭や切岸の普請の度合いに差があることから、毛利氏による改修の事実を伺わせるものとなっている。しかし、檜ヶ山への登山道は荒れている上に山頂付近は急峻であり、案内板等もほとんどないことから、登城には注意が必要である。
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Q11544849
_START_ARTICLE_ 櫻間弓川 _START_PARAGRAPH_ 櫻間 弓川(さくらま きゅうせん、1889年(明治22年)5月18日 - 1957年(昭和32年)3月1日)は、シテ方金春流能楽師。元名、桜間金太郎。_NEWLINE_櫻間伴馬の次男。櫻間道雄は従兄弟。大正・昭和を代表する金春流の能楽師。長男は櫻間金太郎。_NEWLINE_1953年、東京水道橋能楽堂での「卒塔婆小町」の演技により日本芸術院賞を受賞。 _START_SECTION_ 櫻間金太郎 _START_PARAGRAPH_ 櫻間金太郎(1916年1月1日-1991年3月17日、本名櫻間龍馬)は能楽師(金春流シテ方)。櫻間弓川の長男。従来金春流が上演していなかった「正尊」「巻絹」を復曲、初演した。
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Q8886
_START_ARTICLE_ 欧州理事会 _START_SECTION_ 構成 _START_PARAGRAPH_ 欧州理事会は加盟国の国家元首または政府首脳と欧州理事会議長、欧州委員会委員長(ただし票決には加わらない)で構成される。欧州理事会の会合には通常、各国の外相も出席し、また欧州委員会委員長にもこれと同様に欧州委員会の委員も同伴することがある。_NEWLINE_会合は必要に応じて、フランスの首相といった国内における指導的立場にある人物も出席することができる。また欧州連合理事会事務総長も代表として出席する。欧州議会議長も出席し、会議の冒頭で欧州議会の立場を述べている。_NEWLINE_加えて協議には多くの人員が作業面でかかわっている。しかしながら欧州理事会の会議室には、1か国当たり2人の代表団の関係者がメッセージを伝える場合を除いては、立ち入りが禁止されている。また首脳らはボタンを押して隣室に控える常設代表に助言を求めることができる。さらにそれぞれの首脳が母語でのやり取りを可能にするために、会議には通訳が必要である。_NEWLINE_欧州理事会はその構成が厳密に規定されていないため、行政権が多岐に分かれているような加盟国では誰が会合に出席するのかということが問題になることがある。アレクサンデル・ストゥブは欧州議会議員であったころに、フィンランドの場合にはヨーロッパ外交政策を担っていた首相が欧州理事会の会合に出席すればよく、大統領は出席する必要はないと主張したことがある。2008年にストゥブは外相に就任したが、その年に開かれた南オセチア紛争に関する緊急欧州理事会の会合では大統領が首相に同伴して出席することを求めたため、各国から2名ずつしか出席できない取り決めがあったことを受けてストゥブは会合に出ることができなかった。このときストゥブは欧州安全保障協力機構議長を務めており、南オセチア紛争問題に深くかかわっていた。ポーランドについても大統領とポーランドの首相が異なる政党に所属しており、南オセチア問題に違う態度を持っていたことも問題となった。 _START_SECTION_ 議長 _START_PARAGRAPH_ 欧州理事会議長は任期が2年半で、1度に限り再任が認められている。2014年12月1日からはドナルド・トゥスクが務めている。議長は国家元首と同等のものでは決してなく、たんに欧州理事会構成員の同輩中の首席 (primus inter pares) というものに過ぎない。議長はおもに欧州理事会の会合を準備、進行することが役割となっており、政策執行権を持つものではない。また議長は欧州理事会と欧州連合の対外的な代表を務め、その任期の冒頭と満了時のほか、欧州理事会の会合後に欧州議会に経過を報告することとなっている。_NEWLINE_常任の欧州理事会議長の役職はリスボン条約によって設置された。リスボン条約以前は、議長は欧州連合理事会議長国の首脳が輪番制で勤めてきた。常任の欧州理事会議長が不在である場合には、欧州連合理事会議長国の首脳が欧州理事会の議長を務めることとなっている。 _START_SECTION_ 開催地と会合 _START_PARAGRAPH_ 欧州理事会の会合は1年に4度、ブリュッセルにおいて2日にわたって行われる。2002年まで欧州理事会の会合の開催地は議長国で行われてきた。ところがニース条約第22付帯宣言書で「ある国が議長国を務めている期間中の欧州理事会の会合のうち1回はブリュッセルで開くこととする。欧州連合の加盟国が18以上となった場合には、欧州理事会の会合はすべてブリュッセルで開くこととする」と定められた。_NEWLINE_このため2002年から2004年の間、欧州理事会の会合の半数はブリュッセルで開かれ、2004年の拡大以降はすべてブリュッセルで開かれるようになった。欧州理事会は欧州連合理事会が入るユストゥス・リプシウス・ビルを使用している。ただし欧州理事会の非定例の会合が行なわれたときには、ブリュッセルではなく議長国で行われる事もあった。欧州理事会は欧州連合理事会とともにユストゥス・リプシウスに隣接するレジダンス・パレスに移転することになっている。_NEWLINE_会合を1か所で開くことになった背景にはさまざまなものがある。これには反対運動に対するベルギー警察の対応の経験があることや、ブリュッセルに適切な施設があること、ジャーナリストへの対応に便利であることが挙げられる。また開催地を固定することで、とくに欧州連合の拡大を考えると、欧州理事会が各国の国内事情に影響を受けずに欧州連合の運営機関として政策課題に集中することができるということが期待されている。_NEWLINE_2007年にリスボン条約をリスボンで署名することに関して、欧州理事会の開催地について考慮することとなった。ベルギー政府は前例を作りたくないとして、実際の会合は通常どおりブリュッセルで行うことを主張した。つまり、条約署名、記念撮影、晩餐会はリスボンで行い、実務的な会合はブリュッセルで行うこととなった。このような成り行きは「転々とするサーカス」とたとえられる欧州議会に似たものであり、環境団体からは、同じ首脳会議を開くのに政治の都合でヨーロッパを飛行機で横断しておきながら二酸化炭素排出削減を求めるのは偽善だという批判を受けた。
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Q11545173
_START_ARTICLE_ 歌川芳勝 _START_PARAGRAPH_ 歌川 芳勝 (うたがわ よしかつ、生没年不詳)とは、江戸時代の浮世絵師。 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 歌川国芳の門人。本姓は石渡、名は庄助または勇助。江戸の人。歌川の画姓を称し一秀斎、一勢斎と号す。幕府御用達の醤油商をしていたが、後にそれを廃業し国芳に入門する。作画期は弘化から安政にかけての頃で、作は合巻の挿絵や錦絵を残している。『俗曲挿絵本目録』(漆山天童編)によれば、所作事『八重九重花姿絵』(天保12年〈1841年〉上演)の長唄正本の挿絵を描いたという。また浄瑠璃をよくし清元千年太夫と称した。息子に歌川芳室がいる。
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Q11546091
_START_ARTICLE_ 武田佳子 _START_SECTION_ 出演作品 _START_PARAGRAPH_ ※太字はメインキャラクター
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Q11546249
_START_ARTICLE_ 武田鉄矢の週刊鉄学 _START_PARAGRAPH_ 『武田鉄矢の週間鉄学』(たけだてつやのしゅうかんてつがく)は、2008年4月から朝日ニュースターで放送されていた報道番組である。放送時間は毎週日曜 11:00 - 11:55 (JST) 。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 俳優・歌手の武田鉄矢が、一般の情報・ワイドショー番組では語ることがない身近な話題に「肌感覚」でスポットライトを当て、その話題に関係する有識者との対談を軸に奥深く迫っていた番組。放送開始から7か月後の2008年11月にはスカパー!アワード2008ニュース部門賞を受賞した。_NEWLINE_2011年10月に武田が急病で倒れたため、同年内には過去の放送分を「アンコール」と題して放送したが、新作の放送は朝日ニュースターがテレビ朝日直営となることに伴う抜本的な番組改正に伴い、2012年2月をもって終了。同年3月以降は再び過去に放送された番組のアンコールが放送されたが、テレビ朝日CS放送の名称統合などにより2013年3月までにアンコールの放送も終了している。
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Q7316230
_START_ARTICLE_ 歯科保存学 _START_PARAGRAPH_ 歯科保存学(しかほぞんがく)は臨床歯学の一分野で、保存修復学、歯内療法学、歯周治療学の総称。単に保存学とよばれることもある。
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Q17212721
_START_ARTICLE_ 死人の声をきくがよい _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 生まれついての霊感体質のせいで、昔からろくな目に遭ってこなかった岸田純は、行方不明になった幼馴染の少女・早川涼子の霊を見る。霊に導かれて彼女の死体を発見した後も早川は姿を現し、怪事件に遭遇する岸田を何度も助けてきた。しかし岸田は、とある事件で知り合った少女・魔子に、早川をこの世に引き止めているのは岸田自身だと告げられる。
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Q378770
_START_ARTICLE_ 殺し屋 _START_SECTION_ 公務員の殺し屋 _START_PARAGRAPH_ 政府が政治的目的で秘密警察や情報機関を用いて殺人者を養成する場合もあると考えられる。フィクションにおいてはCIAの殺し屋は隠語で「ウェットボーイ」と言うとされるがその実態は不明である。マルコ・ポーロは『東方見聞録』において、暗殺者教団について記述しているがその真偽は不明である。詳細は暗殺教団を参照。 _START_SECTION_ 題材とした作品 _START_PARAGRAPH_ 殺し屋を主題とした作品、主役または重要人物に殺し屋が登場する作品を記述する。
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