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Q11045602 |
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山本まゆり
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山本 まゆり(やまもと まゆり)は日本の漫画家。神奈川県川崎市出身。血液型はB型。麻布大学附属渕野辺高等学校卒業。_NEWLINE_1979年、第4回白泉社アテナ大賞デビュー優秀者賞を受賞。以後、同誌などに少女漫画作品を発表。その後、『ほんとにあった怖い話』(朝日新聞出版)、『心霊事件簿DX』(実業之日本社)などに、霊や霊能者をテーマにした作品を発表。代表作は「魔百合の恐怖報告」シリーズ、2009年にテレビドラマ化された「リセット」。_NEWLINE_実兄は、フルート奏者の山本俊自。 | 1509196842135079553 |
Q11468814 |
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山本久土
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山本 久土(やまもと ひさと、1964年8月1日 - )は、日本のギタリスト、ヴォーカリスト。東京都出身。血液型B型。
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略歴
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ザ・スターリン、セックス・ピストルズ、ルースターズ、ザ・モッズポリス等に影響を受け、高校在学中よりスリーピースバンドで音楽活動開始。オリジナル曲を作成し渋谷屋根裏等で活動。_NEWLINE_元GENの尾方茂樹らとのNORa、元FRICTIONで後にROSSOを結成した佐藤稔とイマイアキノブ、元高円寺百景、現在はROVO等で活躍する原田仁が在籍した楼など自身のユニットと並行する形で1994年頃よりPhew UNITに参加。以降、現在まで長年に渡ってPhewのサポートを務める。_NEWLINE_2000年にはPhewやボアダムス、想い出波止場、羅針盤等で知られる山本精一、元スターリンの西村雄介らとパンク・バンドMOSTを旗揚げ。現在までに二枚のアルバムを発表。_NEWLINE_2004年初頭よりアコースティック・ギターによる弾き語りソロ・プロジェクト東口トルエンズとしての活動を開始。レパートリーは映画・テレビ主題歌から歌謡曲、三上寛、野坂昭如等のアングラ系フォークまで、ありとあらゆるジャンルのカヴァー。又、これの命名者である戸川純はライブに度々ゲスト出演し、同年5月にメンバーとして正式加入。「血だるまアコースティック・パンク・デュオ」が誕生した。精力的にライブを行い、2005年11月にはテイチクより初のDVDを発表したが、これが現在のところ唯一の単独作品となる。2006年2月以降、コンビとしての活動を休止。2006年11月に一度だけ吉田達也によるソロ・ユニットRUINS aloneをもじったトルエンズアローン名義を使用した以外は、山本個人もトルエンズを名乗ることは無くなった。_NEWLINE_2009年現在参加中の主なユニットは元ザ・スターリンの遠藤ミチロウ率いるアンプラグド・パンク・バンドM.J.Q、MOSTのドラマー茶谷雅之とのデュオ久土'N'茶谷である。 | 8228554134059739042 |
Q11045528 |
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山本健児
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経歴
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高知県高知市西町出身。山本雄秀・駒の二男として生れる。幼少期は神童と呼ばれ、友人の遊びを断り蔵に籠り読書三昧が日課であったという。県立中学海南学校、大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第62連隊付となる。1920年(大正9年)4月、歩兵中尉に進み、1923年(大正12年)11月、陸軍大学校(35期)を卒業した。_NEWLINE_1924年(大正13年)2月から10月まで操縦学生として訓練を行った。同年10月、飛行第5大隊付となる。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵中尉に任じられ飛行第5連隊付となる。同中隊長、陸軍航空本部員、下志津陸軍飛行学校教官などを歴任し、1931年(昭和6年)8月、航空兵少佐に昇進した。_NEWLINE_1933年(昭和8年)8月、陸軍省軍務局課員に就任し、1935年(昭和10年)8月、航空兵中佐に進級。同年12月、飛行第12連隊付となり、航空本部員を経て、1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に昇進し航空本部第3課長に就任した。_NEWLINE_1938年12月、陸軍航空総監部第2課長兼航空本部第4課長に発令され、次いで飛行第12戦隊長に着任。ノモンハン事件に出動した。1941年(昭和16年)7月、第7飛行団長に就任。同年8月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎え、南方の諸作戦に参加した。_NEWLINE_1942年(昭和17年)12月、浜松陸軍飛行学校幹事となり、同校長を経て、1944年(昭和19年)6月、第8飛行師団長心得に就任し台湾防空の任を担った。同年10月、陸軍中将に進み、第8飛行師団長に親補された。台湾で終戦を迎え、1946年(昭和21年)に復員。_NEWLINE_戦後は、朝日生命保険顧問、高知県軍人恩給連盟初代会長などを歴任した。墓所は高知市小高坂丹中山。 | 17250124860308327671 |
Q11469204 |
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山本清治
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競輪選手になるならば大阪へ
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山本は熊本県の生まれであるが、熊本商業を卒業後、競輪選手の登録地を大阪とした。_NEWLINE_これは、競輪を職業として選ぶ以上、当時自転車産業が盛んで、かつ戦前、自転車メーカーに所属していた選手が大勢いた大阪のほうが早く強くなれるという考えがあったことに起因するものだった。当時大阪は後に第1回の全国争覇競輪(現・日本選手権競輪)を優勝することになる横田隆雄を筆頭として、自転車競技の第一人者といえる選手が数多くおり、山本も彼らを目標に日夜精進していれば、必ずトップクラスになれる日は近いと信じていた。また山本は選手登録日当時、熊本商業の生徒であったが、学校の許可を得て競輪競走にも参加していたという、二足のわらじを履いていた。
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ヤマセイの燕返し
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名剣士、佐々木小次郎の燕返しをもじって、ヤマセイの燕返しと言われたことがあった。これは山本が後方に置かれたときにも、直線に入ってビューンと伸びてくることからつけられたとされるもので、後に井上茂徳のニックネームとなる「鬼脚」に近い表現といえる。_NEWLINE_この驚愕ともいえるヤマセイの燕返しに対抗したのが、埼玉の高倉登の「超」地脚先行。高倉は自らトップを引きつつもそのまま逃げ切ったことがあるという、人間離れともいうべき競走を幾度となく成し遂げた。その高倉に唯一対抗できたのは山本だったと言われている。それが証拠に、1951年は山本が3つ、高倉が2つの特別競輪を制覇し、ほぼ2人でタイトルを分け合った。
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初物に強い
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山本は、GI大会として現存している、高松宮杯競輪及び競輪祭競輪王戦の第1回の優勝者である。また第1回ではないが、1968年まで開催されることになる全国都道府県選抜競輪ではメイン種目となっていくことになる、4000メートル競走(1963年の第20回大会より種目の一本化が図られたが、1966年に3010mで開催された西宮競輪場以外、全て4000mで行われた。)でも初代優勝者となっている。
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ヤマセイ日記
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山本はデビューしたときから日記をつけることが習慣となっており、やがてマスコミがこの日記の内容に目をつけ、ヤマセイ日記と呼んで、しばしその内容が紹介されたことがあった。_NEWLINE_山本自身、長く競輪選手を続けるつもりはデビューしたときから考えていなかったようで、逆に自分自身で決めている引退年齢から逆算して、ならばあと○年間頑張ろう、という形の内容のものがほとんどだった。人生は長く、競輪選手はその間の通過点でしかない。だったらその通過点である競輪で自分が持てる力を最大限発揮しようという考えを持っていたようだ。_NEWLINE_この山本の考え方というのは、後に現役のトップクラスの選手としてまだまだ頑張れるはずにもかかわらず引退した福島正幸や中野浩一にも通じるところがあり、またこの日記は、引退後も多くの競輪関係記事で取り上げられることにもなった。それくらい、この日記の意味するところは大きいといえる。
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いつ引退するのか?
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山本は前述したヤマセイ日記では当初、デビュー10年目にあたる28歳頃が引退の年齢になるのではないかと綴っていた。つまり当初から選手としての在籍期間は10年間と決めていたふしがある。しかし実際にはそうならず、31歳の年齢である1961年に引退した。同年12月25日、登録消除。_NEWLINE_これは28歳に到達したとき、山本自身がまだまだ現役として精神的、肉体的にも頑張れることから、「だったらまだあと3年ぐらいは頑張ってみようではないか。」とくだんの日記に記したことが起因している。_NEWLINE_そして日記に記した3年後となる1961年11月の大阪住之江競輪場の開催をもって現役を引退することになった。もっとも当時、力が衰えたどころか、まだまだトップクラスで戦える力を十分持っていた。_NEWLINE_後年、フランシナ・ブランカース=クン夫人のヘルシンキ五輪での惨敗を見て、無敵の勝者もいつかは衰える日が来る、そうなる前にやめたい、という日記の一節をスピードチャンネルで自ら読み、早い引退に至った心境の一端を語った。
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初代ミスター競輪
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山本のことを、「初代ミスター競輪」という人は少なくない。一時は通算勝率が5割を超えたことがあり、ヤマセイから買えば当たるというファンの厚い信頼を得ていたからだ。_NEWLINE_山本の通算成績は1290戦609勝、2着266回。通算勝率47.2%、同連対率は67.8%にも上るが、この成績のほとんどがトップクラス同士における戦いでのもの。さしずめ「2代目ミスター競輪」といってもいい中野浩一の同勝率53.9%、同連対率71.8%に次ぐものであり、山本、中野と同じく、ほとんど新人時代からトップクラスに君臨し、なおかつその地位を維持したまま引退した吉岡稔真の同勝率45.8%、同連対率56.5%を上回るものである。_NEWLINE_引退後は事業家に転身し、競輪に携わることは雑誌の特集記事程度の他なかったが、1995年に日本名輪会が創設されるとそのメンバーとなり、各種イベントにおいて姿を見せるようになった。2011年からは岸和田競輪場において山本の功績を讃えるため現役当時のあだ名を冠杯とした『ヤマセイ杯』が開催されている。 | 2649364942745344180 |
Q15220923 |
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山本龍彦
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来歴
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慶應義塾幼稚舎から慶應義塾大学法学部法律学科卒。慶應義塾大学法学部の在籍時に、大沢秀介ゼミナールに所属。その後引き続き、慶應義塾大学大学院法学研究科で大沢秀介に師事。2011年より慶應義塾大学法務研究科准教授。専門は日本国憲法、アメリカ憲法理論、および、プラグマティズム法学。2011年から法学セミナーにて連載を行っている。 | 17400747435515413897 |
Q11472677 |
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岡山県道61号妹尾御津線
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概要
_START_PARAGRAPH_
岡山県岡山市南区古新田から岡山空港に接続して北区御津宇垣(旧御津町地域)に至る。 | 15839273865610345463 |
Q21338062 |
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岡島秀治
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岡島 秀治(おかじま しゅうじ、1950年 - )は、昆虫学者、東京農業大学教授。_NEWLINE_大阪府生まれ。1973年東京農業大学卒、78年同大学院農学研究科博士課程修了、農学博士。東農大助教授、東京農業大学第一高等学校・中等部校長、東京農業大学農学部教授。専門は、昆虫学・動物系統分類学。同大学昆虫学研究室を主宰。 | 277710535494069881 |
Q11472913 |
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岡崎市立翔南中学校
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概要
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岡崎市針崎町に位置する中学校。岡崎市立南中学校の大規模化によって生じる教育上・学校運営上の諸問題を解消するために、2013年(平成25年)4月に開校した。岡崎小学校の全児童と、羽根小学校の一部の児童と、小豆坂小学校の一部の児童が本校へ進学する。_NEWLINE_旧日清紡針崎工場跡地に建設された。春咲の丘の開発を行った三菱地所設計名古屋支店が設計を担当した。「翔南」という言葉には、南中学校からさらに南へ羽ばたくという意味が込められている。_NEWLINE_2013年(平成25年)4月時点の生徒数は、510名(1年生169名、2年生171名、3年生170名)。 | 11334759320958424452 |
Q11472950 |
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岡崎氏
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概要
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三浦義継の末子で三浦大介義明の弟である義実は相模国大住郡岡崎に因んで岡崎四郎と号した。これが岡崎氏の始まりである。_NEWLINE_岡崎義実は相模西部を支配した中村荘司宗平の娘である桂御前と結婚している。桂御前との息子のうち、嫡男の義忠は現在の平塚市真田に因んで佐奈田氏を称したが、次男の義清は母方の叔父土屋宗遠の養子となって土屋氏を称している。岡崎氏は三浦氏の一族であるが、中村氏との婚姻関係及び根拠地が宗平一族の勢力圏にあることから実質的には中村党の一員と言った方が良い。事実、『吾妻鏡』や『源平盛衰記』等では「土肥・土屋・岡崎の一族」と中村党の有力氏族である土肥・土屋氏と同じ一族として扱われる記述が見出せるからである。_NEWLINE_治承4年(1180年)8月9日に源頼朝が挙兵すると岡崎親子はいち早くこの許に馳せ参じている。その後の石橋山の戦いでも岡崎親子は他の三浦党とは異なり、中村党と共に従軍しているが、この場合も中村党の一員として従軍していると言った方が良い。石橋山の戦いは源氏方の大敗で終わり、佐奈田義忠は討ち死にした。その後、義実は平家追討、奥州合戦、鎌倉幕府創立に従事し、89歳まで生きたが、晩年は貧窮した生活を送る等、不遇だったらしい。_NEWLINE_正治2年(1200年)6月21日に義実が死ぬと義忠の嫡男で孫の実忠が後を継いだ。建保元年(1213年)5月23日に一族の和田義盛が挙兵すると(和田合戦)、実忠は叔父の土屋義清や中村党とともに一族を引き連れて和田方に加勢した。この戦いで義清は敵の本陣を突こうとして討ち死にし、実忠も一族とともに討ち死にした。ここに岡崎氏は壊滅した。伊豆真田氏は岡崎氏の末裔を称している。 | 17462560148240597219 |
Q24717994 |
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岡本桜
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人物
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兵庫県大書記官であった父岡本貞の次男として神戸に生を受けた。同志社普通部・第一高等学校に進む。帝国大学工科大学応用化学科卒業。このときの卒業論文である「セルロイドについて」は『工業化学雑誌』に連載されたという。1903年(明治36年)に東京瓦斯に入社するも、翌1904年(明治37年)には大阪瓦斯に移り、ここで外国人技師長であったミラーより最新技術を学んだ。1906年(明治39年)名古屋瓦斯設立に際して、同社に技師長として入社。1922年(大正10年)に東邦瓦斯創立に伴い、同社の初代社長となる。1927年(昭和2年)には、三井銀行の支援により、東京瓦斯の取締役を兼任。1930年(昭和5年)に同社副社長に転じた。西部合同瓦斯など、各地のガス会社の経営・技術指導を行い、「ガス王」「ガス博士」とも称されるようになったという。また、名古屋市東区において桜菊女学園を設立し、経営していた。 | 8067624782089456558 |
Q30925939 |
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岡本美沙
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来歴
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1999年頃よりタンゴを中心としたライブ活動を展開。また、作曲・アレンジも手がける。2003年アルゼンチンに渡りピアニスト、ミドル・アンヘル・バルコスに師事し現地(アルゼンチン)でのラジオやコンサートに出演。 2005年、港健二郎監督長編劇映画『ひだるか』に主演し、女優としてもデビュー。全編音楽制作、音楽プロデュース。映画サウンドトラック「つきあかり」発表。_NEWLINE_また俳優入川保則と「朗読とピアノ」で共演。元パープルシャドウズの内村キンヤとの音楽ユニット「Moon Blanket」結成。オリジナル楽曲を中心にエレクトリックタンゴなどを制作。_NEWLINE_2012年、入川保則主演、横山浩之監督映画『ビターコーヒーライフ』の音楽制作。CM音楽、歌手への楽曲提供、楽曲アレンジなども音楽活動を行う。ジャズを西本貴至に師事。「生きるものの命の重さは同じ」をコンセプトに動物たちの生きる権利を音楽で訴える。 2014年タンゴテイストのエレクトロなどを収録したオリジナルアルバム『Yo~Identidad』を発表。_NEWLINE_2015年、港健二郎監督のドキュメンタリー映画『花のようにあるがままに』全編音楽制作。『Yo~Identidad』で発表した『花のようにあるがままに』が映画タイトルに採用され、映画でナビゲーター役でも出演。映画『花のようにあるがままに』サウンドトラックCD『CLASSICAL』発表。_NEWLINE_12月からは毎週火曜日18時30分~19時「生きているものの命の重さは同じ」をコンセプトにラジオ番組『岡本美沙のLove For All Things』レギュラーDJパーソナリティー。_NEWLINE_2016年7月からはインターネットラジオ RadiCro でも毎週金曜日12:00~12:30と23:00~23:30『岡本美沙のLove For All Things』レギュラーDJ パーソナリティーとして放送。 | 4576378048256870995 |
Q11474269 |
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岩国市営美川バス
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岩国市営美川バス(いわくにしえいみかわバス)とは、山口県岩国市で岩国市美川総合支所(旧・玖珂郡美川町)が運行していた自治体バスであり、岩国市営バス美川(いわくにしえいバスみかわ)とも称される。自家用自動車(白ナンバー)による有償旅客運送の形態を採っている。
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本社および営業所
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運営主体(所管)およびその所在地は、岩国市岩国市美川総合支所地域振興課(住所:山口県岩国市美川町四馬神1046-1番地)である。
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現行路線
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廃止されたJRバス中国(旧国鉄自動車部)岩益線の代替等を目的とする1路線と、生活維持路線としてのコミュニティバス路線2路線がある。当バスには全路線が運休となる日がある(毎週水曜日および12月31日から翌年1月2日)。
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車両
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日野自動車車体製の自家用自動車ナンバーの車両が使用されている(→撮影映像)。この車両の左前輪の後ろ位置の車体へは「自家用」表示がある。_NEWLINE_塗装は紫色と白色を基調にし、ロゴなどを添えてある。 | 4769830312132870549 |
Q65095821 |
_START_ARTICLE_
岸本栞奈
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経歴
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山口県立華陵高等学校時代は2013年に第5回女子ユースアジア選手権の日本代表U-18に選出。_NEWLINE_2014年は第5回女子ユース世界選手権の日本代表U-18に選ばれた。_NEWLINE_高校卒業後は大阪体育大学へ進学。_NEWLINE_2019年に日本ハンドボールリーグのソニーセミコンダクタマニュファクチャリングへ加入。 | 1459051107368545489 |
Q17212853 |
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島口駅
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駅構造
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島式ホーム1面1線を有していた地上駅。 | 16098857573758624907 |
Q11477045 |
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島袋浩
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不祥事
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2004年6月23日、当時16才の高校2年生の少女をアダルトビデオ(2003年12月12日出演)に出演させたとして、児童買春・ポルノ禁止法違反などの疑いで、チョコボール向井、平本一穂らとともに逮捕され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。 | 12585786764669559236 |
Q8250397 |
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崔恵妃
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恵妃崔氏(けいひ さいし、洪武28年10月8日(1395年11月20日) - 永楽22年7月18日(1424年8月12日))は、明の永楽帝の妃。朝鮮の人。
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経歴
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籍貫は畿内左道の水原府。中軍副司正崔得霏の娘として生まれた。_NEWLINE_永楽6年(1408年)、明に献上されて後宮に入り、美人となった。父の崔得霏は明の五品鴻臚少卿に任じられた。_NEWLINE_永楽19年(1421年)、永楽帝が後宮の者たちの大量処刑を行った際、南京で療養中のため巻き込まれずにすんだ。永楽22年7月18日(1424年8月12日)、永楽帝が崩御した。崔氏は殉死を命じられ、康靖荘和恵妃の諡号が贈られた。 | 11474923067728214422 |
Q11477248 |
_START_ARTICLE_
嵐山バイパス
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嵐山バイパス(らんざんバイパス)は、埼玉県東松山市大字上唐子から比企郡嵐山町大字平沢に至る国道254号のバイパス道路である。
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概要
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埼玉県比企郡嵐山町の市街地を迂回する目的で建設されたが、嵐山バイパス沿いに郊外店が増加し、旧道よりも嵐山バイパスの方が交通量が多くなっている。4車線幅で計画されていたものの、上り側の東松山バイパス唐子区間が開通するまでは本バイパスに接続する道路が2車線であったため、長らく4車線幅の用地の真ん中に2車線道路を造った全線暫定2車線で供用されていた。なお国道254号は、東京都内から嵐山バイパス終点までが連続4車線道路として計画されている。_NEWLINE_旧道は平沢区画整理事業により商業地ができるため、道路が一部変更をされたが、変更道路は国道指定されていない。このため、地図上では国道が途中で途切れたように描かれているが、道路は繋がっている。
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接続するバイパスの位置関係
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(東京方面)東松山バイパス - (唐子バイパス) - 嵐山バイパス - 小川バイパス(松本方面) | 6784921107244475776 |
Q11477290 |
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嵜岡邦彦
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嵜岡 邦彦(さきおか くにひこ、1962年1月10日 - )は、日本の企業家。NISグループ社長。
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略歴
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昭和37年1月10日に、愛媛県松山市に生まれる。大学卒業後の昭和61年に日新商事(現NISグループ)へと入社。広島支店長、取締役就任、取締役財務部長などを務める。その後、常務取締役財務・情報システム担当、専務取締役営業統括本部長、代表取締役専務取締役東京支社長兼営業統括部担当、代表取締役社長営業統括本部長などを経て、平成16年3月に秀邦代表取締役に就任。翌年には、ニッシン(現NISグループ)の代表取締役社長 兼 執行役員になる。平成18年6月には、代表取締役会長 兼 共同最高経営責任者(Co-CEO)となる。平成19年10月代表取締役会長兼社長 兼 最高経営責任者へと就任。
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その他
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日新商事は、平成2年11月にニッシンへと商号変更を変更。さらに平成18年10月にも商号変更し、現在のNISグループとなる。 | 14261650382729458233 |
Q970348 |
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嶋宏大
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嶋 宏大(しま ひろお、1963年5月10日 - )は、日本のノルディックスキージャンプの元選手。
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プロフィール
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北海道下川町出身。駒大岩見沢高校-地崎工業_NEWLINE_20歳で1984年サラエボオリンピック代表に選ばれる。_NEWLINE_1987年1月18日のSTV杯では大倉山ジャンプ競技場の当時のバッケンレコードとなる120.0メートルを記録。翌週に行われたワールドカップでも70m級で3位、90m級で6位と活躍した。 | 7358511329467393534 |
Q11477353 |
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嶋津武仁
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経歴
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静岡県下田市生まれ。武士の家系で彼の兄は市会議員で英語の教員という環境に育つ。東京学芸大学で甲斐説宗に師事。東京学芸大学大学院修士課程音楽教育学科にて作曲・指揮を修めた後、ベルリン芸術大学で尹伊桑に師事。師から非常に高い評価を得、ダルムシュタット夏期講習会の参加などを通していくつかの国際コンクール歴等を重ねる。ベルリン工科大学では電子音楽の研究を重ねて極めて知的な音響作曲法による作品を生み出す。現在福島大学人間発達文化学類教授だが福島市の付属中学校の校長も兼務している。最近の管弦楽曲ではノーノの美学に近く、「レクイエム」では震災をテーマにした楽曲も目立ち、理性科学的よりもシリアスな内容の世界の楽曲が目立つ。多くの特出した弟子を世界中に輩出している。 | 15751560671909870701 |
Q22126935 |
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川島真織
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来歴
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京都府京都市西京区出身。周囲は田んぼばかりという地で育ち、当時を「野性児でした」と回顧。小学生でバレーボール、中学でラグビーを経験。小学校時代にプロレスを知り、やりたい思いに駆られ、プロレスごっこを始めるも、やりすぎて『持ち上げて投げるの禁止令』が発令される。_NEWLINE_その後、就職するも長続きせず、17歳の時、「やりたいことをやろう」と、思いこがれたプロレスラーへの夢をかなえるため様々なプロレス団体へ連絡。最終的にシアタープロレス花鳥風月を選んだ理由は「すぐ返事をくれた」からだという。2014年4月、練習生としてリング上で挨拶をし、その翌月に上京。練習がきつく「3か月間は何度も逃げようと思った」が「逃げたらダサい」と思いよぎり耐え抜いた。_NEWLINE_2014年11月の新宿FACE大会で服部健太とエキシビションマッチでリングデビュー。5月30日、浅草橋ヒューリックホール大会においてデビュー査定マッチで合格を勝ち取り、6月20日の王子神谷バビロン大会で塚本拓海を相手にプロデビュー。_NEWLINE_プロレスセンスは評価が高く、同年7月13日にはVKFプロレス『Monday Night Brawl』に服部健太とのタッグで出場。_NEWLINE_政宗&進祐哉組と対戦。_NEWLINE_また7月20日に行われた第1回花鳥風月1DAYタッグトーナメントでは政宗との師弟コンビを結成。服部健太&三尾祥久組に惜敗した。_NEWLINE_10月19日のVKF・新木場1stRING大会では、出場予定選手の欠場のため、急きょ自身初となるメインイベントへの抜擢を受けた。6人タッグでIWA軍、松田"KING"慶三から金星を挙げ、デビューから4か月目の初白星となった。_NEWLINE_2016年より長期欠場中。2018年11月発売の週刊プロレス増刊「プロレスラー選手名鑑2019」では花鳥風月所属選手から外されており、この年までに退団扱いとなっている。 | 12733552474412666285 |
Q11479087 |
_START_ARTICLE_
川端俊介
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川端 俊介(かわばた しゅんすけ、1963年 - )は、日本の野球選手(投手)。教師。群馬県高崎市出身。_NEWLINE_速球と落差のあるカーブを武器に活躍した。山際淳司の小説「スローカーブを、もう一球」のモデルとして広く知られている。
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略歴
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高崎市立第一中学校で軟式野球部に入部し野球をはじめる。卒業後、群馬県立高崎高等学校に進学、硬式野球部に入部。高校2年の夏までは右サイドスローの控え投手であったが、OBの指導でオーバースローに変えたところ球威が増加し、エースとなった。1980年秋の群馬県高校野球選手権で快投を続け、2回戦群馬県立沼田高等学校に5-2で勝利・3回戦前橋育英高等学校で13-0のコールド勝ち・準々決勝群馬県立前橋商業高等学校に7-2で勝利・準決勝群馬県立高崎商業高等学校に3-0で快勝し、関東高校野球選手権への出場を決めた。決勝でも勢いは衰えず、群馬県立吉井高等学校に2-1で競り勝った。関東高校野球選手権大会では、1回戦茨城県立水戸農業高等学校に8-0で快勝・2回戦國學院大學栃木高等学校に3-2で辛勝・準決勝茨城県立日立工業高等学校に2-0で競り勝って1981年春のセンバツ出場を決めた。センバツでは力を出し切れず1回戦で敗れた。_NEWLINE_高崎高校を卒業後は、東京学芸大学に進学し教員免許を取得。群馬県公立小学校教員に採用され、現在は小学校教諭として児童の指導にあたっている。 | 12140309340300861997 |
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川端康成
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生い立ち――両親との死別
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1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋 1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。7か月の早産だった。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ヶ崎)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。_NEWLINE_しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転移し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した。_NEWLINE_2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字3番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。_NEWLINE_宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした。_NEWLINE_川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。
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「寂寥の家」の神童
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幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。_NEWLINE_1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。_NEWLINE_人なかに出るのがいやで、私は学校を休みがちだつた。ところが、村々で児童の出席率の競争があつて、誘ひ合はせて登校する習はしだつたから、子供たちがそろつて押し寄せて来ると、私の家では雨戸をしめ、老人と私の三人が片隅でひつそりとすくんでゐた。子供たちが声を合はせて呼んでも答へなかつた。子供たちは悪口雑言し、雨戸に石を投げ、落書きをした。_NEWLINE_ — 川端康成「行燈――落花流水」_NEWLINE_康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。なお、笹川良一とは小学の同級生であった。祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。_NEWLINE_しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。_NEWLINE_小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。
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作家志望と「孤児の感情」
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1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。_NEWLINE_しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。_NEWLINE_康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。_NEWLINE_中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。_NEWLINE_お祖父さんの生――死。私は撥をかけたやうに力強く右手を振つてみた。からからと骨が鳴る。小さい方の骨壺を持つてゐる。旦那はお気の毒な人だつた。お家のためになつた旦那だつた。村に忘れられない人だ。帰りみちは祖父の話。止めてほしい。悲しむのは私だけだらう。家に残つた連中も、祖父に死なれてただ一人の私が、これからどうなるだらうと、同情のうちにも、好奇心をまじへてゐるやうに思はれる。_NEWLINE_ — 川端康成「骨拾ひ」_NEWLINE_川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている。また自身の出目(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている。_NEWLINE_私の家は旧家である。肉親がばたばたと死んで行つて、十五六の頃から私一人ぽつちになつてゐる。さうした境遇は少年の私を、自分も若死にするだらうと言ふ予感で怯えさせた。自分の一家は燃え尽くして消えて行く燈火だと思はせた。所詮滅んで行く一族の最後の人が自分なんだと、寂しいあきらめを感じさせた。今ではもうそんな消極的なことは考へない。しかし、自分の血統が古び朽ちて敗廃してゐる。つまり代々の文化的な生活が積み重り積み重りして来た頂上で弱い木の梢のやうに自分が立つてゐる事は感じてゐる。_NEWLINE_ — 川端康成「一流の人物」_NEWLINE_両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。_NEWLINE_8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった。
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初めての恋慕・小説家への野心
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1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。_NEWLINE_同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。_NEWLINE_意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。_NEWLINE_川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と書き送っている。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。_NEWLINE_私はこの愛に温められ、清められ、救はれたのであつた。清野はこの世のものとも思へぬ純真な少年であつた。それから五十歳まで私はこのやうな愛に出合つたことはなかつたやうである。_NEWLINE_ — 川端康成「独影自命」_NEWLINE_この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。
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一高入学――伊豆一人旅へ
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1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた。その雰囲気の中、康成は行く末は〈三田か早稲田の文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した。_NEWLINE_教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。_NEWLINE_9月に第一高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には石濱金作、酒井真人、鈴木彦次郎、三明永無、守随憲治、池田虎雄、片岡義雄、辻直四郎らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという。川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった。_NEWLINE_授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で瘦せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った。ある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった。_NEWLINE_石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅した。この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った。下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた。_NEWLINE_彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた。_NEWLINE_伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった。1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。康成は、今東光、今日出海兄弟の母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は処女作としている。_NEWLINE_康成は酒が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理の甥の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった。しかしマダムの台湾行に伴い店を閉め、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った。_NEWLINE_なお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が川端(まだ一高生)と一緒にいるのに出くわしたという。平岡梓は肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという。_NEWLINE_彼(三輪)は 「川端という男はぼくらの持っていないすばらしい感覚とか神経の持主で、平岡お前もつきあってみたらどうだ、少しはましな人間になるぞ」といいましたが、ぼくは文学青年なんて畑ちがいの人間とはつきあう資格はないよといって笑いました。この時はまさか、この一高生がノーベル賞作家の川端康成になろうとは、ぼくならずとも誰が想像できたでしょう。ご自身でさえ、そんな期待はつゆほどもお持ちでなかったでしょう。それから幾星霜、(中略)倅(三島由紀夫)が作家となった口火を切ってくださり、その後も今日まで陰になり日向になり援護してくださったのです。_NEWLINE_ — 平岡梓「川端さんのこと」
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出発――『新思潮』と伊藤初代
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1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。同級に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。しばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介、久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる。11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した。_NEWLINE_翌1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社の招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた。久米正雄、水守亀之助、加藤武雄、南部修太郎、中村星湖、小島政二郎、佐佐木茂索、加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、本郷区の根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。この頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。_NEWLINE_この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜駅で途中下車して2人で伊藤初代(当時15歳)のいる岐阜県を訪ねた。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して長良川湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った。帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという。その後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった。_NEWLINE_川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈奇跡のやうに美しい夢〉を持ち、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている。_NEWLINE_私は幼くから孤児であつて、人の世話になり過ぎてゐる。そのために決して人を憎んだり怒つたりすることの出来ない人間になつてしまつてゐたが、また、私が頼めば誰でもなんでもきいてくれると思ふ甘さは、いまだに私から消えず、何人からも許されてゐる、自分も人に悪意を抱いた覚えはないといふやうな心持と共に、私の日々を安らかならしめてゐる。これは私の下劣な弱点であつたと考へられぬこともないが、どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうにもなつてゆくものだと、この頃では自分を責めないことにしてゐる。_NEWLINE_ — 川端康成「文学的自叙伝」
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横光との出会い・婚約破談
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同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は菊池寛の家で横光利一と初めて出会い、夕方、3人で本郷区湯島切通坂町2丁目6(現・文京区湯島)の牛肉屋「江知勝」に行き、菊池に牛鍋を奢ってもらった。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、純潔な凄気〉を川端は感じた。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから友達になれ〉と川端に言った。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった。_NEWLINE_その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している。_NEWLINE_〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった。12月には、『新潮』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た。
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時評家として――傷心と関東大震災
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1922年(大正11年)1月に「創作月評」を『時事新報』に発表し、川端は先ず文芸批評家として文壇に登場した。2月には月評「今月の創作界」を載せ、翌年まで度々作品批評を書いた。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。6月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念し、〈新しい文藝〉について、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。またこの魔は生娘が好きだ〉と論じている。_NEWLINE_また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った。_NEWLINE_私は精神の打撃に遭ふと、心疲れが来る前に体の衰へるのを感じ、その徴しとして足が痛み出すのである。さうした心の潰えと体の衰へと、寒さも加はつたせゐの足の痛みで、去年の暮にも、私は湯ヶ島に逃れて来たのであつた。四緑丙午の小娘のためである。_NEWLINE_ — 川端康成「湯ヶ島での思ひ出」(「少年」作中)_NEWLINE_1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一や佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に犬養健の作品を創作評で取り上げ、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する。_NEWLINE_9月1日に、本郷区駒込千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた。今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で吉原などの被災の跡を廻った。川端は、〈幾百幾千〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が恋をすることを考へた〉と綴った。
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『文藝時代』――新感覚派と抒情
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1924年(大正13年)3月に東京帝国大学国文学科を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。最後の大学4年の時から、国許の親類の送金を断わり自活を試みはじめていた。単位が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・藤村作の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。大宅壮一が川端と石濱金作を住家に招いて、卒業祝いに鶏を一羽つぶして振る舞ってくれた。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『新小説』に発表した。5月には、郷里の三島郡役所で徴兵検査を受けたが、体重が十貫八百三十匁(約41キログラム)で不合格となった。検査前1か月間、伊豆の温泉で保養し、三島郡の宿屋では毎回の食事に生卵を3個飲んでいたにもかかわらず、〈郡役所の広間で恥をかいた〉思いを川端は抱いた。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという。_NEWLINE_10月には、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。横光は、劇団を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという。主導者の川端は、これからは宗教に代り文芸が人間救済の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「頭ならびに腹」により、同人は「新感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されようになった。_NEWLINE_ヨーロッパに興ったダダイスムの下に「芸術の革命」が目指されたアバンギャルド運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月にプロレタリア文学派により創刊された『文藝戦線』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、掌編小説を掲載することが多かった。これらの小品群(掌の小説)は、未来派やダダイスムの影響により、既成の道徳によらない自在な精神を表現したものが多く、失恋や孤児根性を克服し新しい世界へ飛躍する願望が秘められている。こういった極く短い形式の小説を創ることの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且和歌や俳句や川柳のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される日〉が来ることを川端は夢みて、日本人が掌篇小説においても〈小説の最も短い形式〉を完成し得ると確信していた。_NEWLINE_1925年(大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病日記を西成郡豊里村の黒田家の倉から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「十六歳の日記」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の処女作である〉としている。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(菅虎雄の息子。雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている。川端は当時、本郷区林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した。12月には、心霊的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に神秘性が加味されてきた。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した。_NEWLINE_1926年(大正15年・昭和元年)1月と2月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、喘息で胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉郡鎌倉町(現・鎌倉市)由比ヶ浜へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている。_NEWLINE_その時の荷物というのが、お祖母さんの家紋入りの蒲団や風呂敷、手文庫、一閑張りの机のほかに、祖父母が大切にしていたという仏像六、七体とご先祖の舎利まであったのでびっくりいたしました。なんとご先祖や祖父母を大事になさる方かと感心したことを覚えております。_NEWLINE_ — 川端秀子「川端康成とともに」_NEWLINE_6月には、掌編小説(掌の小説)を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され、友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、大宅壮一、江戸川乱歩、豊島与志雄、尾崎士郎、岡本一平・かの子夫妻などもいた。また、この年の春には、衣笠貞之助、岸田国士、横光利一、片岡鉄兵らと「新感覚映画連盟」を結成し、川端は『狂つた一頁』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正モダニズムの成果であるこの作品は9月に公開され、ドイツ表現主義の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている。_NEWLINE_『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚映画連盟」は立ち消えとなった。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった。
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湯ヶ島から杉並町馬橋へ
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1927年(昭和2年)正月、前年の大晦日に梶井基次郎が温泉療養に湯ヶ島温泉にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『伊豆の踊子』の単行本の校正を手伝ってもらった。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている。_NEWLINE_湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々(淀野隆三、外村繁、三好達治)、十一谷義三郎、藤沢桓夫、小野勇、保田与重郎、大塚金之助、日夏耿之介、岸田国士、林房雄、中河与一、若山牧水、鈴木信太郎、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎らも訪れた。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている。3月に横光利一ら同人に、永井龍男、久野豊彦、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。_NEWLINE_4月5日、上野精養軒で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ。その家では、原稿料の代りに読売新聞社から貰った桂の碁盤を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った花梨の机を譲った。その机は池谷信三郎も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた。_NEWLINE_同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に大宅壮一が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元太郎の娘)と秀子は、偶然同じ青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身であった。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。妊娠していた妻・秀子が、6月頃(7月の芥川龍之介自殺より少し前)、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった。8月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始する。
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不振時代――熱海から馬込文士村
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同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の鳥尾子爵(鳥尾小弥太)の別荘を借りて移り住んだ。林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった。_NEWLINE_当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎や藤沢桓夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作が転換、今東光と鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた。_NEWLINE_翌1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた。川端は当初、襖を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった。_NEWLINE_3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)。馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎、宇野千代、子母沢寛、萩原朔太郎、室生犀星、岡田三郎のほか、川端龍子、小林古径、伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した。
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浅草時代――流行作家へ
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1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた。_NEWLINE_また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した。_NEWLINE_同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である。_NEWLINE_1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。_NEWLINE_続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間や空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話、音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した。
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『禽獣』――虚無の眼差し
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1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。_NEWLINE_1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった。_NEWLINE_それと同時に少女小説を書くことも増え、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州の上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した。_NEWLINE_11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介の遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。
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『雪国』の世界と新人発掘
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1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した。_NEWLINE_8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている。_NEWLINE_世間の一部が風評するやうに、私は新進作家の新奇さのみを、褒めたりおだてたりしてゐるのでは、決してない。作家的素質の美しさやみづみづしさに触れる喜びで、自分を洗つてゐるのである。_NEWLINE_ — 川端康成「文芸時評 中島直人氏」(昭和9年2月1日)_NEWLINE_1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞・直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった。_NEWLINE_1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。_NEWLINE_6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した。信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。_NEWLINE_1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する。_NEWLINE_同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄が郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる。野々宮写真館の主人からコンタックスを譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、ゴルフも時々やるようになる。
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少年少女の文章への親しみ
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1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。_NEWLINE_1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。_NEWLINE_1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在中、熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人の死去に遭遇した。この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る。5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校や聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二、伊藤整らと共に発起人となった。またこの年には、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島、興津、静岡市と東海道へも旅した。
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戦時下と敗戦
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1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。4月には、『満州日日新聞』の招きで囲碁の催しのため、呉清源、村松梢風と共に建国されたばかりの満州に赴いた。吉林、奉天など満州各地を廻り、在満州の檀一雄、田中総一郎、緑川貢、北村謙二郎らと座談会をし、新京(現・長春)北郊の寛城寺に住む日本人作家の山田清三郎らに会い、異郷で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる。ハルピンで一行と別れて承徳を経て北京、天津、大連に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも関東軍の招きで山本実彦(改造社社長)、高田保、大宅壮一、火野葦平と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、撫順、黒河、ハイラルも巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大連などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した。_NEWLINE_川端が帰国後、真珠湾攻撃により太平洋戦争の開戦となった。開戦の報を聞いた川端は、妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました。」と戦争の行く末を嘆いていたとされているが、この後、川端は否が応でも戦争に関わっていくこととなる。_NEWLINE_1942年(昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、創元社より刊行した。8月には島崎藤村、志賀直哉、武田麟太郎、瀧井孝作らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『名人』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「日本文学報国会」の派遣作家として、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市)の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日(太平洋戦争開戦)に際しては、『東京新聞』記者尾崎宏次の依頼により、東京新聞の紙面上で川端が戦没兵士の遺文を読んで感想を書く「英霊の遺文」という連載を引き受けている。この年、ドイツで『伊豆の踊子』がオスカー・ベンル訳で独訳出版された。_NEWLINE_1943年(昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る。以前から養女の約束をしていた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は離婚し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の媒酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。_NEWLINE_1943年(昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『源氏物語』や中世文人の文学などの文章に親しむことが多かった。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈大和魂といふ言葉や、大和心といふ言葉は、平安時代にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている。12月25日に片岡鉄兵が旅先で死去した(50歳没)。東京駅に片岡の遺骨を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は荻窪へ向かった。_NEWLINE_戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、谷崎潤一郎の『細雪』や、『源氏物語』などが発禁となっていた。多くの文学者が陸軍・海軍の報道班員として徴用され、なかには進んで自由主義的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった。まともに執筆活動ができなくなった川端は、収入が途絶し生活費に困窮するようになったので、やむなく軽井沢に所有していた別荘を売却して生活費に充てている。1944年(昭和19年)にはアメリカ軍爆撃機B-29による日本本土空襲も開始され、川端はひとり、裏山で防空壕をノミと金づちで拡幅する作業に没頭し、地区の防空班長や隣組長も引き受けている。_NEWLINE_時節柄川端も戦争協力を避けることはできず、1942年の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり(東京新聞 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。この記事のなかで川端が熱意をもって論じたのが、1944年10月に開始された神風特別攻撃隊であり、「英霊の遺文」に以下のような感想を述べている。_NEWLINE_特別攻撃隊の隊名によつて、日本の古い言葉は次々と新しい命を噴きつつある。言葉がこのやうに生きたしるしを目の当たりにして、まことの言葉とはこのやうに神であると、私達文学者はさらにつつしみたいものである。これらの特別攻撃隊名は新造語ではない。隊員が言霊に身命を宿したのである。言霊は祖国にあつた。隊員は銃後から生れて行つた。出撃の感動などを聞かれても,隊員の多くは語らない。『母なる内地』への『無言』の凱旋があるだけだ。前線と銃後とにこの無言の通じるところに、日本の言霊の泉があらう。_NEWLINE_ — 川端康成「言葉の新しい生命」_NEWLINE_同年には「日本文学振興会」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も下記のようにこの賞の目的に沿う決意を書いている。_NEWLINE_戦記文学の今日の意義と使命は言ふまでもない。ただ文学者として思ふことは、多くの戦記が十分大切にされてゐぬ憾みはないか。民族の宝を散佚埋没に委ねてはゐないか。この賞によつて、今日のため、後世のためそれを尚大切にする発燭を得れば幸ひである。_NEWLINE_ — 川端康成「戰記分學賞制定發表」_NEWLINE_1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、新田潤、山岡荘八(新田と山岡は大尉待遇)と共に鹿児島県鹿屋航空基地に赴き、1か月滞在して特別攻撃隊神雷部隊を取材した。川端はそのときの心境を「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と戦後に振り返っているが、秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛プロパガンダ記事『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に桜花や特攻への称賛の談話を寄せている(朝日新聞 1945年6月1日)。_NEWLINE_山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている。しかし、短期間で鹿児島を去った川端の印象は、新田、山岡や前から海軍報道班員として従軍していた丹羽文雄と比較すると薄かったようで、同じく鹿児島の特攻隊取材のために、日本映画社カメラマンとして従軍していた山根重視の回想には、丹羽、新田、山岡は登場するが川端だけは登場しない。_NEWLINE_川端が鹿児島で特攻の取材をしていた、5月1日に、久米正雄、小林秀雄、中山義秀、高見順、大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった。5月末には新田や山岡を置いて一足先に鹿児島から鎌倉へ帰り、8月15日には日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して天皇陛下の玉音放送を聞いた。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った。川端は終戦のときの状況を下記のように記している。_NEWLINE_それは時自体が死に、失なわれた時期であった。そして人々は、混乱し、ばらばらに、国や個人の過去、現在、未来を眺めた。多くの人にとって、それは、狂った旋風に巻き込まれたようなものであった。みじめな光景は、この感じによく合っていた。廃墟のつきさすような焦げくさい臭い。圧迫するような静けさ。運命の化石した光景。山積された金属くずの赤さび。(かつて美しかった東京の信じがたい顔を描写したのち)限りない広さの廃墟が、砂漠のごとく至るところに拡がっているようにみえた。それは、希望のない単調なパノラマであった。_NEWLINE_ — 川端康成_NEWLINE_その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で島木健作の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った。_NEWLINE_私の生涯は「出発まで」もなく、さうしてすでに終つたと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還つてゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書かうとは思はない。_NEWLINE_ — 川端康成「島木健作追悼」_NEWLINE_また、川端は夫人に、「これからは、日本の教育が大変なことになるよ。占領軍はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、敗戦のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している。_NEWLINE_国を亡ぼした戦争が避けられたのか避けられなかつたのかを、敗戦後の怨み言などが解くものでない。それを知るのは後世の歴史の眼でもない。かりにまた戦争中に戦争の真実を見得なかつた一人の文学者がありとすれば、その人は戦争後に戦争の真実を見得ようはずはない。だまされて戦争をしてゐた人間などは一人もゐないのである。戦争の間にも時間と生命は流れ去つた。_NEWLINE_ — 川端康成「武田麟太郎と島木健作」
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相次ぐ友の死――日本の哀しみへ
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1946年(昭和21年)1月に、木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている。川端は6月、三島の「煙草」を『人間』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『盗賊』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である横光利一に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという。_NEWLINE_同年の3月31日には武田麟太郎が死去し(42歳没)、初めて弔辞を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、大佛次郎、岸田国士らと「赤とんぼ会」を結成し、藤田圭雄編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『婦人文庫』に発表。一部がGHQにより削除された。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は山口瞳)の一家がいた。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と日劇や宝塚歌劇を観に行ったり仲が良かった。山口瞳の息子・正介は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている。_NEWLINE_1947年(昭和22年)2月に日本ペンクラブの再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『小説新潮』に発表。約13年間を経て、ようやく『雪国』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている。_NEWLINE_戦争中、殊に敗戦後、日本人には真の悲劇も不幸も感じる力がないといふ、私の前からの思ひは強くなつた。感じる力がないといふことは、感じられる本体がないといふことであらう。敗戦後の私は日本古来の悲しみのなかに帰つてゆくばかりである。私は戦後の世相なるもの、風俗なるものを信じない。現実なるものをあるひは信じない。_NEWLINE_ — 川端康成「哀愁」_NEWLINE_12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった横光利一が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた。この年から川端は、古美術への関心を深め、その後、池大雅・与謝蕪村の『十便十宜』、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』などの名品の数々をコレクションすることになる。_NEWLINE_1948年(昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく〉と、その死を悼んだ。3月には、もう一人の恩人であった菊池寛も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の同性愛の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。_NEWLINE_川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の命を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の美の伝統のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った。6月には、志賀直哉のあとを引き継ぎ、第4代日本ペンクラブ会長に就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、東京裁判の判決を傍聴した。
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鎌倉にて――『山の音』『千羽鶴』
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1949年(昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた。同月、イタリアのベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和は国境線にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、朝鮮動乱直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「骨拾ひ」を『文藝往来』に発表した。11月には広島市に招かれ、豊島与志雄、青野季吉と3人で原爆被災地を視察した。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した。_NEWLINE_1950年(昭和25年)2月、養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・長崎を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている。長崎では、『この子を残して』の著者・永井隆を見舞った。旅の後、川端は京都に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた。そして、焼失したと聞かされていた『凍雲篩雪図』(浦上玉堂の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、スコットランドのエジンバラでの大会に募金のアピールを書き送った。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「舞姫」を『朝日新聞』に連載開始する。この年、鎌倉文庫が倒産した。_NEWLINE_1951年(昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に林芙美子が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日したユーディ・メニューイン訪日公演を三島由紀夫らと観に行った。1952年(昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『婦人公論』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が筑摩書房より刊行され、これにより昭和26年度芸術院賞を受賞した。授賞式で天皇陛下と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて陛下が声をかけたという。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った。10月に大分県の招きで、竹田町(現・竹田市)九重高原を知人の画家・高田力蔵の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『波千鳥』の背景として生かされることとなる。法華院温泉に同宿していた作家志望の熊本の学生から、小説の勉強はどうしたらいいかを訊ねられた川端は、「自分の両親を写生しなさい」と答えたという。_NEWLINE_1953年(昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『婦人画報』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に堀辰雄が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、西川流名古屋おどり舞台台本「船遊女」を書き、西川鯉三郎の振付で上演された。11月には、永井荷風、小川未明らと共に芸術院会員に選出された。_NEWLINE_1954年(昭和29年)3月、新設された新潮社文学賞の審査委員に就任する。4月には、『山の音』の単行本が筑摩書房より刊行され、これにより第7回野間文芸賞を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の短編で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから長編の骨格と主題とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った。_NEWLINE_そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ偏執狂の男を主人公にした「みづうみ」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の超現実的な新しい手法と「魔界」が注目された。この実験的作品は、以前の『水晶幻想』や、のちの『眠れる美女』に繋がっていくことになる。5月からは、「東京の人」を『中部日本新聞』などに連載開始した。
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ペンクラブへの貢献――国際的作家へ
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1955年(昭和30年)1月から「ある人に生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。_NEWLINE_1955年6月、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八と芳賀檀が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、1956年3月の日本ペンクラブ評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった。_NEWLINE_1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。_NEWLINE_1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。_NEWLINE_1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルトでの第30回国際ペンクラブ大会に出席した。7月に、同市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られた。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。
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『眠れる美女』『古都』――魔界と伝統美
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1960年(昭和35年)1月から「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルのサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた。_NEWLINE_1961年(昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業の北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった。11月には第21回文化勲章を受章した。_NEWLINE_1962年(昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた。10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹、茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。_NEWLINE_1963年(昭和38年)4月に財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという。川端はその後、吉永の20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。1964年(昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去し、訃報が相次いだ。6月から「たんぽぽ」を『新潮』に断続的連載を開始する(未完)。同月には、ノルウェーのオスロでの第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。_NEWLINE_1965年(昭和40年)4月から1年間、NHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映開始された。7月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『週刊朝日』に発表した。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、芹沢光治良に後をゆずった。11月12日、伊豆湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建立された。この除幕式では、作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟と47年ぶりに再会した。後藤は、蔵前高工(現・東京工大)受験のために下田港から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった。1966年(昭和41年)1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。
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ノーベル文学賞受賞――美しい日本の私
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1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。_NEWLINE_1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」で、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『ほくろの手紙』などであった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)。1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。_NEWLINE_翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。_NEWLINE_「鈴鳴らし行く」巡礼の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな悪鬼、妖魔が棲んでゐるかしれたものではない。日本の秋の夕映えの野に遠音さす鐘の声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。_NEWLINE_ — 川端康成「夕日野」_NEWLINE_12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休などの和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった。なお、川端はこの頃、『源氏物語』の現代語訳の準備を着々と進めていた。_NEWLINE_1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。_NEWLINE_6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。
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エピローグ――突然の死
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1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共に同地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。6月には、中華民国の台北でのアジア作家会議に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正熙の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関し、「生みの親も知らぬ孤児」、「養家は部落の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。同月25日、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地において割腹自決した(三島事件)。細川護立の葬儀のため上京中だった川端はすぐに現地へ駆けつけたが、すでに現場検証中で遺体とは対面できなかった。_NEWLINE_1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島由紀夫葬儀・告別式の葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や、政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。同月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。_NEWLINE_1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田与重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和の国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。_NEWLINE_4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人は、お手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は、「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。_NEWLINE_川端はマンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥え絶命しているところを発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。川端の死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。_NEWLINE_鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた。_NEWLINE_翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位勲一等旭日大綬章に叙勲された。5月27日には、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山斎場で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。_NEWLINE_8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された。
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死後
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1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された。_NEWLINE_1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。_NEWLINE_1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された。_NEWLINE_1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという。_NEWLINE_同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。_NEWLINE_1985年(昭和60年)5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。_NEWLINE_生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた。_NEWLINE_2014年(平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された。
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創作の主題・源流
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川端は、自身の文学創作に関して、〈恋心が何よりの命の綱である〉とし、作品テーマや理想に関するものを語ったものとして、以下のような言葉がある。_NEWLINE_私は東方の古典、とりわけ仏典を、世界最大の文学と信じてゐる。私は経典を宗教的教訓としてでなく、文学的幻想としても尊んでゐる。「東方の歌」と題する作品の構想を、私は十五年も前から心に抱いてゐて、これを白鳥の歌にしたいと思つてゐる。東方の古典の幻を私流に歌ふのである。(中略)西方の偉大なリアリスト達のうちには、難行苦行の果て死に近づいて、やうやく遥かな東方を望み得た者もあつたが、私はをさな心の歌で、それに遊べるかもしれぬ。_NEWLINE_ — 川端康成「文学的自叙伝」
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特質性・芸術観
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『新思潮』発刊、『文藝春秋』同人参加、横光利一らと共にヨーロッパの前衛文学を取り入れた新しい文学を志した『文藝時代』創刊で新感覚派の代表的作家として頭角を現し、その後は芥川賞銓衡委員となり、戦中は海外報道班員、戦後は日本ペンクラブ会長、1968年(昭和43年)には、日本人で初のノーベル文学賞受賞という川端康成の軌跡は、戦前戦後と紛れもなくその時代を反映する時の人としての文学的経歴だが、モノローグ的、和歌に繋がる川端の作品自体は、時代の思想や世相に左右されることのない自身の芸術観に基づいた澄んだ詩的なものとなっている。_NEWLINE_そのため、政治的な思想の背景で敵視されるということもほとんどなく、プロレタリア文学の作家であった中野重治なども、川端の掌の小説を集めた処女作品集『感情装飾』を愛読し、林房雄が1926年(大正15年)に左翼運動で逮捕された時に京都の未決監へその本を差し入れ、出所後に林がその礼を述べると、「あれはいい本だな、少くとも美しい」とつぶやいたとされる。_NEWLINE_伊藤整は、醜いものを美しいものに転化させてしまう川端の作品の特性を、「残忍な直視の眼が、醜の最後まで見落とさずにゐて、その最後に行きつくまでに必ず一片の清い美しいものを掴み、その醜に復讐せずにはやまない」川端の「逞しい力」と捉えている。そして、『伊豆の踊子』に関する随筆『「伊豆の踊子」の映画化に際し』の中で川端が、実は踊子の兄夫婦が〈悪い病の腫物〉を持ち、見るに忍びなかったことは書かずじまいだったと告白する「真実を言おうとする直視癖」と、「美しいものを現わそうと願う人並はずれた強い執着」が交錯することに触れ、そういった川端の二つの特質が、時には「一つの表現のなかに二重になって」いて、それがさらに成功し「批評眼に映る場合には、この両立しない二つのものが、不思議な融合のしかたで有機的な一体になっている」と論じている。_NEWLINE_伊藤は、川端のその「表現の分裂」は、『十六歳の日記』で顕著なように、「作者の生来のものの現われ」だとし、それは一般的な「文章道」からは「大きな弱点になり得たかもしれない」が、川端はそれを「自然な構え」により棄てずに成長し、その一点から「氏にのみ特有なあの無類の真と美との交錯した地点にいたっている」と分析して、川端自身が、〈どんな弱点でも持ち続ければ、結局はその人の安心立命に役立つやうになつてゆくものだ〉と述べていることを鑑みながら、「この作家が東方の経典を最も愛していると書く心にも、ここから道がついている」と考察している。そして伊藤は、川端の文学史的な意義について、川端は、「マルクシズムとモダニズムとの対立と交流の中」に批評家として立ちながら、「当時の政治文学と娯楽文学の両方から身をかわし、大正文壇の創った人間性に即した文学を受け継ぎ、それを救った」ことだと評している。_NEWLINE_三島由紀夫は、川端が「温かい義侠的な」人でありながらも、過剰な親切や善意の押売りもなく、他人に対してどんな忠告もしない「達人」「孤独」的な「無手勝流の生き方」に触れつつ、その人生は全部「旅」であり、川端を「永遠の旅人」だと呼び、川端の文学にもその態度が反映しているとして、以下のように解説している。_NEWLINE_芭蕉のあの幻住菴の記の「終に無能無才にして此の一筋につながる」といふ一句は、又川端さんの作品と生活の最後のmanifesto でもあらうが、川端さんの作品のあのやうな造型的な細部と、それに比べて、作品全体の構成におけるあのやうな造型の放棄とは、同じ芸術観と同じ生活態度から生じたもののやうに思はれる。たとへば川端さんが名文家であることは正に世評のとほりだが、川端さんがついに文体を持たぬ小説家であるといふのは、私の意見である。なぜなら小説家における文体とは、世界解釈の意志であり鍵なのである。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」_NEWLINE_そして三島は、あえて「世界解釈の意志を完全に放棄した」川端の芸術作品の「おそれげのなさ」は、川端の生活面において言われる「度胸」「大胆不敵」と暗示される「虚無的にさへ見える放胆な無計画」と、作品の「構成の放棄」は似通って符合しているとし、それは、ギリシャの彫刻家が不安と混沌をおそれて大理石に造型意志を託す態度とは対蹠的であり、大理石の彫刻が「虚無」に対峙して「全身で抗してゐる恐怖」とは全く反対の性質の「虚無の海の上にただよふ一羽の蝶」のような、あるいは「一条の絹糸のおそれげのなさ」だと川端文学の特性を論じている。また三島は、近代作家において、「中世文学の秘められた味はひ、その絶望、その終末感、その神秘、そのほのぐらいエロティシズムを、本当にわがものにした」のは、川端一人だけだと高く評価している。_NEWLINE_中村光夫は、川端文学の特色を、「日本人の心の動きを純粋な形で見つめたもの」とし、それは作品の語り手(作者の分身)と対象(踊子など)の関係性が、能の「ワキ」と「シテ」に似ていて、「シテの多くがワキの夢の所産であり、同時に舞台の支配者である」関係となり、対象が幻でありながらも「自然に似た存在の重味」を得ているとして、そこに川端の文学が、単なる写実の私小説と異なる「現代性」「古典性」を獲得している理由だと解説している。そして中村は、現実に対する川端の態度を、「誠実な自己批評あるいは自己否定の熱情」だとし、その批評や否定の対極に、川端自身(知識階級であり男)に無いものを持つ「女性」(踊子など)、「民衆あるいは日本」があるとしている。_NEWLINE_また中村は、三島が川端の人生を「旅」に喩えたことに関連し、川端にとって、旅が人生の象徴であるように、「すべての人間関係」(親子夫婦も含めた)が〈ゆきずり〉であるという思想が老年まで根を張り、それをすべての事象に川端が実感していることが『みづうみ』や『眠れる美女』に顕現化しているとし、『みづうみ』では主人公が、〈ゆきずり〉の人を〈ゆきずり〉のままで別れてしまうことを哀惜し、〈この世の果てまで後をつけてゆきたい〉という願望の実現の不可能性を語る場面に触れながら、そこで広い意味での〈ゆきずり〉の関係を示唆する川端が、社会生活での人間の存在形式を見つめていると解説している。_NEWLINE_勝又浩は、三島が川端を「永遠の旅人」と称したことを敷衍し、川端が処女作『ちよ』の中で自身を〈自分が幽霊に見えて、自身さへ怖れます〉、〈霊どもに力で生き、動かされてゐる幻です〉と語っていることに触れながら、「こういう人が、たまたまトンネルを越えて、まれびととなって人界を訪れる。そして踊子の純情を輝かし、雪国の芸者の生命を輝かすのだ」と考察している。そして勝又は、川端が旅行記の中で、〈旅の私の胸にふれるのは、働く貧しい人の姿と、打ちひしがれたやうにさびしい人の姿と、美人と少年少女と古今東西の第一級の美術(建築もふくめて)と、そして自然です〉と述べていることや、エッセイでの「終始峻厳な作家の顔つき」を鑑みて、そこには、「現実には、ほとんど一人の踊子もいず、一人の駒子もいないこの世で、なお堪えなければならない」川端の「旅人」の素顔があるとし、川端が『美しい日本の私―その序説』で、歌人や文人たちよりも仏教者たちを並べていることに注目しながら、以下のように論じている。_NEWLINE_諸行無常の自覚を激しく生きた人々とは、言い換えれば、この生が死者たちの上にあること、死の虚無こそがこの世の源郷なのだと知った人たちに他ならない。彼らもまた「永遠の旅人」なのだ。そして、そんな彼らが唯一信じ、鏡とも、慰めともした自然とは、生と死、この世とあの世をつなぐただ一つの媒介なのである。「霊ども」の促しで生きると、孤児の宿命を自覚した川端康成の孤独は、「永遠の旅人」たちのもうひとつの伝統に、最後の慰めを求めたのである。_NEWLINE_ — 勝又浩「人の文学――川端文学の源郷」_NEWLINE_。
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女性の描き方について
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川端文学の一つの主題である「生命(いのち)への讃仰」、「処女」について三島由紀夫は、川端にとり「生命」=「官能」であるとし、以下のように論考している。_NEWLINE_氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」_NEWLINE_川嶋至は、川端の作品の主人公の眼を通して描かれる女性について、「彼に女を感じさせる瞬間にだけ光彩を放つ存在」であり、「人間としての実体を持たない」とし、作中に出てくる「愛」という言葉が、読者に戸惑いを感じさせるのは、名陶がどんなに美しくても、「厳然として対話のないもの」として人間に対するのと同様に、女も、「精神的な交流のない」あるいは、「交流を拒絶された存在」として描かれているからだと考察し、「川端氏ほど作品の上で、女性を冷徹なものとしてつき放して描く作家はいないと言っても、過言ではないであろう。まさしく作家としての氏は、女性讃美者ではなく、女体嗜好者なのである」と評している。_NEWLINE_川端にとっては、犬も女も同列の生態であることを指摘している三島は、川端のその非情の「地獄」を『禽獣』で見せたことについて以下のように解説している。_NEWLINE_女はイヌのやうな顔をし、イヌは女のやうな顔をしてゐる。作家が自分のうちに発見した地獄が語られたのだ。かういふ発見は、作家の一生のうちにも、二度とこんなみづみづしさと新鮮さで、語られる機会はないはずである。以後、川端氏は、禽獣の生態のやうな無道徳のうちに、たえず盲目の生命力を探究する作家になる。いひかへれば、極度の道徳的無力感のうちにしか、生命力の源泉を見出すことのできぬ悲劇的作家になる。これは深く日本的な主題であつて、氏のあらゆる作品の思想は、この主題のヴァリエーションだと極言してもいい。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「川端康成ベスト・スリー――『山の音』『反橋連作』『禽獣』」_NEWLINE_羽鳥徹哉は、『夏の靴』の少女、『日本人アンナ』のアンナ、『浅草紅団』の弓子、『雪国』の駒子、『古都』の千重子など、川端文学の中で見られる「不孝で孤独な少女」、「常識的には無意味な反社会的な行動」により、崩れ落ちそうな自分を支えているような少女たちは、川端文学の具象化であり、「苛酷で、無情な運命に決して負けず、それと対決し、それに挑戦して生きようとする、川端の精神を託された美しい女の姿」であるとしている。
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横光利一との比較において
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中村光夫は、横光利一が「陽」で、その文学に内在する劇は『機械』に顕著なように「男同志の決闘」である「男性文学」であるのに対して、川端康成は「陰」であり、「女性文学」だとし、横光がある意味、積極的に「進取性」を持つために終生苦しい不毛な努力をし、「自分の文学を見失った観がある」のに比して、川端は、「軟体動物から生きる智慧」を学び、常に流れに従っているように見えつつも、逆にそのことで「流れからくる力」を最小限に止めて成功したとしている。そして中村は、生田長江が指摘したように、横光が「播種の役割に終始」し、川端は同じように彷徨に身を任せながら大きな収穫を得たその対立は、川端に「ある冷酷な狡さ」を感じるとして、以下のように論評している。_NEWLINE_根が素朴で抒情家であり、批評的才能をまったく欠いていた横光氏は、そのときどきの文壇の意識にいつもその制作の態度を直結させていたので、この点で氏の新しい外観の底には大正期の私小説作家の気風がそのまま生きていたのです。(中略)(横光氏は)実はこの古風な文士気質の所産であったのですが、川端氏は批評家としても一流であっただけに、文壇の動きの裏がいつもよく見えていたので、時流にたいして逃避のように映る態度が、実際は自分の足下の土をもっとも着実に掘ることになったのです。_NEWLINE_ — 中村光夫「川端康成」_NEWLINE_三島由紀夫は、横光利一と川端康成は元々、同じ「人工的」な文章傾向の「天性」を持った作家であったが、横光は苦闘し、その天性の感受性をいつからか「知的」「西欧的」なものに接近し過ぎて、「地獄」「知的迷妄」へと沈み込み、自己の本来の才能や気質を見誤ってしまったのに対して、川端は、「もつとも知的なものに接近した極限の作品」である『禽獣』で、その「地獄」をのぞき、寸前でそこから身を背けたことで、「知的」「西欧的」「批評的」なものから離れることができ、「感受性」を情念、感性、官能それ自体の法則のままを保持してゆくことになったと論考している。よって『禽獣』は川端にとり、分かれ目になった作品であり、「それまで感覚だけにたよつて縦横に裁断して来た日本的現実、いや現実そのものの、どう変へやうもない怖ろしい形」を、川端がそこで初めて直視しているという意味で、それが重要な作品であり、ある意味で川端は「実に抜け目」がなく、「俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた」と評している。
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黙って凝視する癖
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川端康成の鋭い眼は特徴的で、人をじっと長くじろじろと見つめる癖があることは、多くの人々から語り継がれ、それにまつわる話は、泥棒が布団の中の川端の凝視にぎょっと驚き、「だめですか」と言って逃げ出したという実話や、大学時代に下宿していた家主のおばあさんが家賃の催促に来た時、川端はじっと黙っていつまでも座っているだけで、おばあさんを退散させたという有名な話があるのをはじめ、様々なエピソードがある。_NEWLINE_気の弱い人は初対面で川端から黙ってじろじろと見つめられると冷汗を拭くばかりだとされ、或る若い初心な女性編集者は、初めて川端を訪問した時、他に誰も来客がなく、2人で面と面を突き合わせていたが、30分間ずっと何も話してもらえず、ただじっとじろじろと見つめられ、ついに堪えかねてワッと泣き出したという伝聞もある。川端自身はマイペースで長い間黙り合っていても苦にならない性質らしく、彼女が泣き出した時に、「どうしたんですか」と言ったとされる。また、来客が多数訪れていて、客の中の古美術商が川端の気に入る名品を持って来ていた場合などは、川端がそれをじっと観ることに没頭し自分の世界の中に入り込んでしまうため、骨董のコの字も知らない連中までもが、「ひたすら氏の後ろ姿と古ぼけた名画とを鑑賞しなければならない羽目」になるという。_NEWLINE_川端のじっと見る眼の強さについては、川端夫人の秀子も、「彼の性格を最もよく表現してゐるものは、彼の、あの鋭い眼です」と言い、以下のように語っている。_NEWLINE_初対面の女性などについて、この鋭い観察眼は長所よりも欠点を即座に感じてしまふのです。どんなに美しい人の前に出ても、あああの人にはこんな欠点があつた、などちやんと見抜いてしまふ。然しそれは決して、殊更にアラを探さうといふ意地悪さからではなくて、かう、無意識にあの鋭い眼が働くのです。私なども、始終起居を共にしながら、あの鋭い眼光には往々射すくめられるのです。_NEWLINE_ — 川端秀子「あの鋭い眼が……」_NEWLINE_堀辰雄の夫人・多恵子は、「あの大きな目を一様に見開いて、ぎょろりと御覧になる」と言い、吉行淳之介は、「物自体の本質が映っている眼」「虚無を映す眼」としている。吉行は、川端家を訪れた或る女性が、「外に出たとき自分の躰が一まわり縮んだ気持がした」と言ったことに触れ、それを「おそらく、川端さんの眼でしゃぶりつくされたためであろう」としている。_NEWLINE_画家の草間彌生は、『雑草』を1953年(昭和28年)に発表し、その絵を川端が購入しているが、その当時のことについて、1メートルくらいの距離から川端にじっと見つめられたとして、「私は田舎から出てきたばかりで、先生はこの伊豆の踊子みたいな子が描いたのかと思われたのかもしれません。でも、男性からじっと見つめられたことなどなかったので、少し怖かったです」と述懐している。_NEWLINE_梶井基次郎は、湯ヶ島温泉で川端と親交を深めたことを友人たちに伝える手紙の中で、川端から顔をじっと見つめられることについて、「日南にあつたやうによく顔を見る――僕はあれだなと思つたが失礼かもしれぬと思つてだまつてゐたが少し気味が悪い。でも非常に親切で僕は湯ヶ島へ来たことを幸福に思つてゐる」と綴っている。_NEWLINE_三島由紀夫も、21歳の時に川端の家を初訪問した時の印象を、「氏の目は碁をさす人の目のやうであつた。対局の、一見落着かぬやうでゐて、カンドコロを指す目であつた。それは又剣道の達人の目であつた。うごく刃と共にうごく目であつた。人をみつめる死んだ鋭さではなかつた」とし、「川端氏のあのギョッとしたやうな表情は何なのか、殺人犯人の目を氏はもつてゐるのではないか」と記している。_NEWLINE_しかし三島は、川端と親しくなった以降では、川端が外国人との交遊の場で、西洋人を見つめている様子を、「氏ほど西洋人を面白がつて眺めてゐる人はめづらしい。西洋人の席にゐる氏を見てゐると、いつも私はさう思ふが、それはほとんど、子供が西洋人を面白がつてしげしげと眺めてゐるあの無垢な好奇心に近づいてゐる」とし、川端に見つめられた或るアメリカ人の大女のおばあさんが、全く文学も知らないのに、すっかり川端を気に入ってしまい、ただ2人で目と目を見交わし楽しそうだったと語っている。また三島は、ある日の川端のお茶目な様子を以下のように記している。_NEWLINE_私がお訪ねしたときにトーストと牛乳が出た。行儀のわるい癖で、トーストを牛乳に浸してたべてゐた。すると川端さんがちらと横眼でこちらを見て、やがて御自分もトーストを牛乳に浸して口へ運ばれだした。別段おいしさうな顔もなさらずに。_NEWLINE_ — 三島由紀夫「現代作家寸描集――川端康成」_NEWLINE_北條誠は、川端の眼光について以下のように語っている。_NEWLINE_物事の本質を見きわめようとするから、鋭く見えるのだ。相手を深く識ろうとするから「こわく」見えるのだ。こっちが無心で対座していれば、氏の目は日ごろのその「鋭さ」や「恐ろしさ」からは想像できないような、あたたかいやさしさをたたえて静まっている。_NEWLINE_ — 北條誠「川端康成・心の遍歴」_NEWLINE_孫の明成が誕生し喜んだ川端は、明成を可愛がり、例によってじっと黙って赤ん坊の顔をひたすら見つめていたが、たちまち明成は怖がって泣いたという。_NEWLINE_なお、川端本人も早くから自分の癖を自覚し、中学時代の日記には、自身の容姿へのコンプレックスを吐露すると共に、〈俺ほど人の美貌をまんじりとせず見つめる者はあるまい。そしてのろひうらやみ抱擁せんと常に思ふのである〉とし、自伝小説では、〈人の顔をじろじろと見る私の癖は、盲と二人きりで何年も暮してゐたところから生れたのかもしれません〉とも語っているが、この癖について進藤純孝は、川端が幼い時の眼底結核の病痕で、右の眼がよく見えないことからくるのではないと推測している。
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温かさと孤独
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上記のように川端康成は、無口と凝視癖で初対面の人に取っ付きにくい印象を与えるが、とても親切で窮地にある人の援助や就職の世話をしたり、恩人の遺族の面倒を見たりといった話は多い。また、訪問客が絶えず、新年会も川端の家で行われることが恒例であったが、集まった客同士で賑やかな時でも、川端はいつも静かであったため、賑やかな久米正雄が「君は全く孤独だね」と大声で言ったことがあるという。ちなみに、三島由紀夫はその時に、久米正雄の方がよほど孤独に見えたとし、「豊かな製作をしてゐる作家の孤独などは知れてゐる」と語っている。_NEWLINE_三島由紀夫は、川端を「温かい義侠的な立派な人」であり、清水次郎長のような人であるが、その行為はちっとも偽善的でなく、そういう人にありがちな過剰な善意で、私生活に押し入って忠告してくるようなことや、「附合」を強要することもないとし、そういった「達人」のような境地には普通の人間では、なかなかなれないとしている。人との和を重んじて争わず、社交的であったため、川端は「文壇の総理大臣」と呼ばれたこともあるという。_NEWLINE_室生犀星は、川端の人徳について、「海の幸、山の幸といふ言葉があるが、川端康成の作家運は何時もあふれるほどその周囲から多くの幸を受けてゐる。この人に冷酷な批判を加へた批評家を私は知らない。冷徹温情の二面相搏ち、軽々しく人を愛しないが、人から愛せられることでは此の人ほどの作家はまた私の知らないところである」と述べている。_NEWLINE_川端は、前衛画家・古賀春江と親しかったが、古賀が1933年(昭和8年)に病に倒れた時には、古賀に兄事していた高田力蔵を助けて、その面倒を見ていた。また、藤田圭雄によると、野上彰が脳腫瘍で倒れた際には、共訳した『ラング世界童話全集』の印税は、野上に全額あげると言い、皆が感涙したという。_NEWLINE_舟橋聖一は、青野季吉が死去した際のことに触れながら、川端の人柄について以下のように語っている。_NEWLINE_青野季吉が長逝された。(中略)その病室には、大ぜいの見舞客や見舞品が殺到したらしいが、その中で、特に川端さんが、懇ろに、花を持っていったり、掛け軸をはこんだりしている様子に、私は思わず、目がしらを熱くした。昭和年代の作家として、やはり川端さんは、ずば抜けて偉いものだと思う……。そう云えば、北條民雄氏のときも、川端さんの行動に、私などは唯、あれよあれよと、敬服するだけだった。臆病な私は北條民雄と聞くだけでも、近寄れないのに、川端さんはまるで何ンでもないように、往ったり来たりしていた。_NEWLINE_ — 舟橋聖一「川端さんの寛容」
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従軍記者体験について
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川端は1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員として、大日本帝国海軍の特攻基地であった鹿屋基地の取材を行っている。志賀は、大本営海軍報道部高戸顕隆海軍主計大尉からの依頼を受けた雑誌「台湾公論」の元編集長吉川誠一軍属から、横光利一と川端のいずれが、特攻作戦の取材で「日本の心を正確に誤りなく時代に語りつぐこと」ができるか?と問われ、「横光さんは大きくか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と川端を推薦したという。吉川は1945年4月10日に川端宅を訪れて、防空壕掘削作業中の川端に海軍報道班員の引き受けを打診したところ、川端は「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押したうえで応諾した。_NEWLINE_報道班員にはほかに新田潤、山岡荘八が選ばれ、4月23日に3人は海軍省に呼び出されたが、新田と山岡が大きな陸軍靴を履いていたのに対して、川端は痛々しく痩せた身体に子供靴のような真っ赤な靴を履いていた。その靴は川端によれば徳田秋声の遺品ということであったが、戦時中の物資不足の折に山岡には羨ましく感じたという。川端ら3人は鹿屋に出発前に大本営報道部の高戸大尉から、「海軍報道班員は、戦地に赴き、その勇壮なる戦いぶりを書いて国民の志気を高揚させるにある」「ただし,みなさんはこの戦いをよく見て下さい。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か三十年たってでも,あるいは五十年たってでも,この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい」と伝えられた。_NEWLINE_鹿屋で川端らは水交社に滞在し、特攻機が出撃するたびに見送りをしたが、3人が鹿屋に着いてまもなく飛行機墜落事故があった。昼夜問わず空襲もあり、そのたび山の中の防空壕に駆け込んだ。山岡は、「こんなとこでは死んでも死にきれないだろう」と驚き、川端はただじっと黙ってその方角を見つめ、その大きな目の中は真っ赤だった。_NEWLINE_川端らが取材していた時期に、鹿屋で特攻出撃のために待機していた中央大学法学部出身の谷田部海軍航空隊杉山幸照予備少尉によれば、川端は杉山ら学徒出陣で予備士官となった大学出身の特攻隊員と食堂などでよく文学談義に花を咲かせたり、隊員からお菓子をもらったりと懇意にしていた。このときの川端は予備士官には特攻の非人道的暴挙を非難し同情を寄せており、書物を渇望する学徒の予備士官のために、鎌倉文庫から本を30-40冊鹿屋に送るよう妻秀子に頼むなどの気配りを見せる一方で、沖縄戦で特攻作戦を指揮していた第五航空艦隊の上層部と話すときには、笑いながら特攻を賛美するような話をしていたので、杉山はその上下で態度を変える川端に対して「彼(川端)ほど小心で卑屈な人間を見たことがない」「偉大な作家であっただけに、その狡猾な言動を快くは感じていなかった」と痛烈に批判し、他の特攻隊員も不信を抱いていたという。また、川端は神国日本を信じて、やがて神風が連合軍艦隊を全滅させる、という過去の歴史の繰り返しを期待する“幼稚”な思想を特攻隊員らと共有していたと杉山は回想している。_NEWLINE_川端は当時の心境を「沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた。」と回想し、川端に特攻の記事は書かなくてもいいと伝えた大本営参謀の高戸は戦後に「繊細な神経ゆえに(特攻に関して)筆をとれなかったのではないか」と考えていたが、川端はこの取材により、朝日新聞の特攻兵器桜花についての『霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る』という記事に、下記のような称賛の談話を寄せている。_NEWLINE_神雷(桜花)こそは実に恐るべき兵器だ、この新鋭武器が前線に来た時、わが精鋭は勇気百倍した、これさへあれば沖縄周辺の敵艦船群はすべて海の藻屑としてくれるぞ!神雷特別攻撃隊の意気は今天を衝いておる。_NEWLINE_親飛行機の胴体に抱かれて行く、いはば子飛行機のこの神雷兵器は小さな飛行機の型をしてゐて色彩も優雅で全く可愛い、ところが敵艦発見と同時に猛然と親の懐を離れて神雷兵器は一瞬にして凄まじい威力を持つ特攻兵器となる、_NEWLINE_したがって敵がこの神雷を恐れることは非常なものだ、身の毛もよだつといつてゐるといふが、その通りだらう、神雷さへ十分に威力を発揮できたらすべての敵艦はことごとく葬り去られ神風の再現ができる、_NEWLINE_親飛行機と戦闘機の増産、これが今神雷に一番大切なことだ、これさへできれば神雷は数百数千の稲妻のごとく敵艦に殺到してすべてを沈めさるであらう、飛行機を作れ、飛行機を作れ、神雷による勝機は今目前にある、必勝を信じて神雷にまたがり、淡々と出撃する勇士等に恥づかしくない心をもつて生産戦に戦ひ抜かう、爆撃に決して屈するな、私は心からお傳したい。_NEWLINE_ — 川端康成「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」(朝日新聞 1945年6月1日)_NEWLINE_しかし、川端はこの記事が紙面に掲載される前の1945年5月末には鹿屋を発って鎌倉に戻っていた。杉山予備少尉が、特攻出撃のために待機していた鹿屋から茨城県筑波郡谷田部町の本隊への帰還を命じられたときに、食堂で食事中の川端を見かけ別れの挨拶をしたところ、川端はいつもの癖で杉山の顔を凝視しながら顔を真っ赤にして「自分も急用があり,身体の具合も悪いので、ちょっと帰りたいのだが飛行機の都合がつかないので困っている。」と鹿屋からの脱出の手助けをして欲しいと懇願した。杉山は川端を快くは思っていなかったが、一緒の飛行機で帰ることを提案し、川端はその提案に基づき自ら司令部と交渉して杉山が乗る零式輸送機に同乗することができた。途中、燃料補給で降りた鈴鹿で飛行機酔いして顔面蒼白になっていた川端に士官食堂でライスカレーを奢ったところ、しょぼしょぼとしながらも綺麗にたいらげ、「特攻の非人間性」について語ったという。杉山は、川端が軍の上層部に対しては特攻を礼賛するような発言をしていたことを知っており、その二面性に辟易している。_NEWLINE_杉山は戦後に出版した著作内の川端に関する回想で、一緒に取材していた「2,3の報道班員の人たち」(新田と山岡)は戦後に特攻隊員を紹介し、隊員の霊を慰めほめたたえてくれたのに、最後まで川端が特攻について語ることがなかったのが残念であったと記している。ただし、川端は鹿屋での体験を基にした作品『生命の樹』を書いており、杉山がこの作品を知らなかったのか、「川端さんの文章をもってすれば,どんなに人に感動をあたえることだろう」と多大な期待をしていた杉山にとって『生命の樹』では期待外れであったのかは不明である。_NEWLINE_川端が早々に退散したあとも山岡は鹿屋に残り、6月13日にはNHKが全国放送した神雷部隊の隊員らの様子を伝えるラジオ放送の司会や解説もしている。結局、山岡は神雷部隊が松山基地や宮崎県日向市にある富高基地に後退が決定するまで鹿屋に留まった。神雷部隊の後退が決まった日に山岡は司令の岡村基春大佐を訪ねたが、岡村は山岡に東京に早く帰りなさいと即して、第一回目の出撃で戦死した野中五郎大佐ら戦死した隊員の位牌に供えられていた、ウィスキーの角瓶や果物の缶詰といった、当時では貴重品ばかりの大量のお供え物を「東京も焼け野原と聞いている。家族は困っているでしょう。せめて、これをリュックに入れていってあげなさい」と渡している。山岡は川端と異なり自らの手配で陸路で東京に帰ったが、途中で空襲や機銃掃射にもあいながら5日もかけてどうにか帰り着いてる。_NEWLINE_敗戦後、川端は、「生と死の狭間でゆれた特攻隊員の心のきらめきを、いつか必ず書きます」と島居達也候補生に約束したとされる。そして鹿屋での体験を基にして作品『生命の樹』を書き上げたが、一部分がGHQにより削除されたという。
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その他
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洛中に現存する唯一の蔵元佐々木酒造の日本酒に、「この酒の風味こそ京都の味」と、作品名『古都』を揮毫した。晩年川端は、宿泊先で桑原武夫(京大名誉教授)と面会した際に「古都という酒を知っているか」と尋ね、知らないと答えた相手に飲ませようと、寒い夜にもかかわらず自身徒歩で30分かけて買いに行ったと、桑原は回想している。_NEWLINE_日本国有鉄道(国鉄)が1970年(昭和45年)から始めたディスカバー・ジャパンのキャンペーンにおいて、川端のノーベル賞受賞記念講演のタイトルと類似した「美しい日本と私」という副題の使用を快諾し、その言葉を自らポスター用に揮毫してくれたという。_NEWLINE_1971年(昭和46年)6月に、日立のセントラルヒーティングのテレビコマーシャルに出演して、世間を驚かせたという。そのCM用の撮影フィルムらしきカラー映像が、2014年(平成26年)10月に映像関連会社の倉庫から発見された。その5分ほどの映像には、詩人のサトウハチローによる川端についての詩の朗読がついている。サトウの次男の佐藤四郎さんは、「ハチローが出演する予定だったCMに病気で出演できなかった際、川端先生が代わりに出演してくれ、ハチローは涙を流して喜んだと弟子から聞いたことがある」と話している。_NEWLINE_1971年(昭和46年)の都知事選挙に立候補した秦野章の応援のため宣伝車に乗るなどの選挙戦に参加した川端は、瑚ホテルで按摩を取っている時に突然と起き上がって扉を開け、「やあ、日蓮様ようこそ」と挨拶したり、風呂場で音がすると言いながら再び飛び出していって、「おう、三島君。君も応援に来てくれたか」と言い出したために、按摩は鳥肌が立ち早々と逃げ帰ったという。その話を聞いた今東光も、都知事選最後の日に一緒に宣伝車に乗った際に川端が、「日蓮上人が僕の身体を心配してくれているんだよ」とにこにこ笑いながら言ったと語っている。
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美術コレクション・愛用品など
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川端は、古美術蒐集家として知られているが、小学校の時には画家になろうと考えたこともあり、絵に対する造詣も深い。また、自らも書を嗜み、日本棋院内にある対局部屋「幽玄の間」にある川端の筆による書『深奥幽玄』の掛軸をはじめ、いくつもの書を遺している。蒐集は古美術だけでなく、古賀春江、キスリング、石本正、梅原龍三郎、熊谷守一、無名の新人画家だった草間彌生の『雑草』『不知火』なども買い、近代絵画もコレクションしている。また、夏目漱石の五言絶句、北原白秋の自作歌、田山花袋の七絶詩、武者小路実篤の自作絵画、芥川龍之介の書簡(室生犀星宛て)、友人だった横光利一の書など、作家の直筆物も収集していた。書や絵には人格や魂がこもると考えていた川端は美術品について以下のように語っている。_NEWLINE_美術品、ことに古美術を見てをりますと、これを見てゐる時の自分だけがこの生につながつてゐるやうな思ひがいたします。(中略)美術品では古いものほど生き生きと強い新しさのあるのは言ふまでもないことでありまして、私は古いものを見るたびに人間が過去へ失つて来た多くのもの、現在は失はれてゐる多くのものを知るのであります。_NEWLINE_ — 川端康成「反橋」_NEWLINE_川端の書斎の机上には、手慰みにするための小型の美術品が置かれていた。なかでも、ロダンの小品彫刻『女の手』と、平安時代後期の密教法具『金銅三鈷杵』(こんどうさんこしょ)は常に身近に置き、生涯手放すことがなかった。川端はロダンの『女の手』について、〈女の手であるのに、このロダンの手から私はやはり横光君の手を思ひ出した〉と語り、横光が亡くなる何日か前の手を想起しながら、〈ひどく衰へて寝てゐた横光氏は手で思考と表現とを助けようとするかのやうであつた〉と説明している。_NEWLINE_1958年(昭和33年)11月から翌年4月まで胆石で入院していた際には、病院から初めて外出したクリスマス・イブの日に古美術店へ行き、〈聖徳太子は日本のキリストではないか、使徒ではないか〉と言い、『聖徳太子立像(南無仏太子像、太子2歳像)』を買って病院に戻り、退院まで枕元に置いて眺めていたという。_NEWLINE_中国磁器の汝州の『汝官窯青磁盤』を川端が手に入れた時の次のような挿話がある。この青磁盤は古美術商・繭山龍泉堂の人が月例入札で掘り出し、出品者も業者もそれとは知らずに、色が似ているところから高麗青磁だと思って普通の皿と3枚重ねていたのを安く落札したもので、繭山龍泉堂の人も汝官窯青磁の実物はむろん見たことがなく一応落札しておいたものを、川端がすぐ店で見染て安く買ったという。その後、この皿が本物の『汝官窯青磁盤』で日本には3点しかないものだと確認された。ところが川端はその後、『埴輪 乙女頭部』が欲しくなった際に金がなく、悩んだあげくに『汝官窯青磁盤』と交換してしまった。_NEWLINE_浦上玉堂の代表作『凍雲篩雪図』は、川端が1950年(昭和25年)に広島・長崎を慰問視察した帰り、京都に立ち寄り手に入れた。それ以前に入手した与謝蕪村・池大雅の合作『十便十宜』と共に、川端入手後に国宝に指定された逸品である。浦上玉堂について川端は、〈私にはすこぶる近代的なさびしさの底に古代の静かさのかよふのが感じられて身にしみる〉として、『凍雲篩雪図』には〈凍りつくやうなさびしさがありさうですけれども、それが日本でいろいろ救はれてゐるところもありさうです〉と語っている。_NEWLINE_愛用品の時計には、ウォルサムがあり、「リバーサイド」という懐中時計に自分の姓「川端」との縁を感じていたと言われている。カメラは戦前に購入したコンタックスを愛用し、旅先などで多くのスナップ写真を撮影している。_NEWLINE_川端の旧蔵品
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家系・親族
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各参考文献の家系図、年譜、経歴内の情報に拠る。
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祖先
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鎌倉幕府第2代執権・北条義時(鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の正室・北条政子の弟)、第3代執権・北条泰時の子孫で、泰時の孫(泰時の九男の子)・川端舎人助道政が川端家初代で康成は31代目に当たる700年続く家系である。
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主要作品
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各参考文献内の年譜、経歴内などで言及されている作品を中心に記載。 | 12992117750207287494 |
Q20039758 |
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工藤重矩
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工藤重矩(くどう しげのり、1946年9月17日- )は、国文学者、福岡教育大学名誉教授、福岡女子大学客員教授。_NEWLINE_大分県生まれ。九州大学法文学部国文科卒、1974年同大学院文学研究科国文学博士課程単位取得退学、九州大学助手。1975年福岡教育大学講師、助教授、88年教授、1992-97年福岡教育大学附属小倉小学校校長併任。1994年「平安朝律令社会の文学」で九大文学博士。2004-06年福岡教育大学副学長・附属図書館長、2006-08年教育学部長。2010年定年退官、名誉教授、福岡女子大学客員教授。 | 1120525472306581233 |
Q64783690 |
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布施丑造
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布施 丑造(ふせ うしぞう、1877年(明治10年)10月13日 - 1950年(昭和25年)12月22日)は、日本の政治家・石川県鳳至郡穴水町長、石川県会議員(立憲政友会)、石川県多額納税者、実業家。鳳至銀行頭取。能登産業銀行、鳳至電気、内外酒造各取締役。高岡電燈監査役。族籍は石川県平民。
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人物
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石川県人・布施豊蔵の二男。1902年、家督を相続した。林業、農業を営んだ。銀行会社の重役で、穴水町長に挙げられた。貴族院多額納税者議員選挙の互選資格を有した。 | 1031248676812140275 |
Q15725774 |
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帰ってきた獣電戦隊キョウリュウジャー 100 YEARS AFTER
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概要
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スーパー戦隊Vシネマ「帰ってきたシリーズ」の第4作。2013年放送の『獣電戦隊キョウリュウジャー』の特別編に相当し、テレビシリーズの最終回から100年後の2114年の世界を舞台に、未来の獣電戦隊の活躍が描かれている。本編時間は52分。_NEWLINE_100年後という設定は、キョウリュウジャーが1億年以上戦っている戦隊であるという設定を踏まえたもので、『忍風戦隊ハリケンジャー 10 YEARS AFTER』や『五星戦隊ダイレンジャー』の最終回なども意識されている。また作中でタイムスリップする先の2014年は、テレビシリーズのブレイブ43と44の間とされている。_NEWLINE_勝山りんの3度目の登場やウエスタンカーニバルによる獣電カーニバルフィニッシュなど、テレビシリーズで実現しなかった要素が多く盛り込まれている。監督の竹本昇は2114年のキョウリュウジャーの最初の組み合わせによるカミツキ合体の登場も希望していたが、造形物の都合から実現しなかった。_NEWLINE_テレビシリーズでアクション監督を担当した福沢博文は『烈車戦隊トッキュウジャー』の撮影に参加したため、本作品では清家利一がアクション監督を担当している。
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ストーリー
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西暦2114年、100年前に獣電戦隊キョウリュウジャーにより倒されたデーボス軍が復活を遂げた。_NEWLINE_かつてのデーボス軍の一員であったキャンデリラと、その部下のラッキューロはデーボス軍の復活を察知し、新たな獣電戦隊の結成を画策するが、キャンデリラの適当な性格が裏目に出てしまい、100年前のキョウリュウジャーの子孫らしき人物6名による史上最弱のブレイブチームが誕生してしまったのであった。 | 1026339120445366104 |
Q11481356 |
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常子内親王
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生涯
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父後水尾院に寵愛され、正式な内親王宣下はなかったが、延宝5年(1677年)諱が常子と定められて以降、常子内親王といわれるようになった。寛文4年(1664年)11月12日に6歳年下の近衛基熙と結婚した。結婚後も宮廷に頻繁に出入りし、夫基熙とともに兄弟姉妹や東福門院との交流も密であったが、基熙が霊元天皇とはしっくりいかなかったためか、霊元天皇に対しては批判的な面もあった。寛文6年(1666年)3月26日に長女熙子(天英院)を、翌寛文7年(1667年)6月4日に長男家熙を、寛文9年(1669年)4月27日には次男大炊御門信名を産んだ。夫基熙に先立ち元禄15年(1702年)、61歳で薨去。近衛家菩提寺の大徳寺に葬られた。 | 6459456033736427826 |
Q17224659 |
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常陸太田市市民バス
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常陸太田市市民バス(ひたちおおたししみんバス)は茨城県常陸太田市のコミュニティバスである。茨城交通と日立電鉄交通サービスが受託している。
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過去の路線
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2016年(平成28年)10月1日より、市民バスの一部の運行は見直しをされた公共交通(路線バスなど)によって引き継がれた。 | 5204796020536905297 |
Q11482217 |
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平和勝次とダークホース
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概要
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1971年結成。_NEWLINE_元々は平和勝次が漫才のネタとして披露していた「宗右衛門町ブルース」をジャケットを事務所の先輩ジャズ漫画の木川かえるに描いて貰いB面を旧友であった桂小春(現桂福團治)の「ペケペン落語」を吹き込み自主制作で500枚をプレスし、当時堺にあった有線放送に100枚を預けた。すると堺の盛り場から火が付き始め、次いで函館の有線でも評判になった。それを日本クラウンの大阪制作宣伝部長が聞きつけ、1972年12月5日にメジャーデビューすると200万枚の大ヒットとなり、一躍その名が知られることとなった。この曲のヒットで宗右衛門町の名前は全国区となり、町会から平和勝次に感謝状も贈られた。_NEWLINE_「宗右衛門町ブルース」の原曲は北原謙二の「さよなら さよなら さようなら」(作詞:星野哲郎、作曲:山路進一)だが、歌詞はサビの「さよなら さよなら」のフレーズを除き全面的に書き直されている。_NEWLINE_翌年には「女の舟唄」もヒットしたが、この年で解散した。なおオリジナルメンバーは平和勝次、坂東春彦、藤川猛、源五郎、中川ヒロシの5人だったが、3枚目のレコードリリース時から3名になっている。_NEWLINE_1993年、モダンチョキチョキズのアルバム『ボンゲンガンバンガラビンゲンの伝説』に収録されている「博多の女」という曲のレコーディングに参加する目的でごく短期間だが再結成。その後、2005年にも再結成する。_NEWLINE_2011年3月31日には名曲ベストヒット歌謡にも出演し、健在ぶりをアピールした。 | 13875235275900204136 |
Q11483355 |
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平田町 (岐阜県)
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地理
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町の東西を木曽三川の長良川・揖斐川に挟まれた三角州の中にあり、海抜0メートルの低い土地が多い。
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鉄道
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町内に鉄道路線なし。最寄駅は東海道新幹線の岐阜羽島駅・名鉄の新羽島駅(羽島市) | 13855289356911906486 |
Q11483463 |
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平福駅
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駅構造
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相対式ホーム2面2線を有し、列車交換が可能な地上駅。屋敷風の待合所(トイレ設置)が線路西側のロータリーに面して存在し、その南端からホームに入る。2番のりばへはさらに構内踏切を渡る。無人駅であり、自動券売機等の乗車券購入設備はない。
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その他
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第4回近畿の駅百選選定駅である。 | 7690954447120617763 |
Q28688751 |
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広岡久右衛門 (8代目)
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来歴・人物
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加島屋久右衛門家の5代目当主・正房の弟、加島屋次郎三郎の孫にあたる(7代目当主・正愼の実子ではない)。加島屋久右衛門家当主として、幕末期に幕府と長州藩の双方と駆け引きを繰り広げ、激動の時代を巧みに乗り切る。_NEWLINE_1869年(明治2年)、逝去した。三男の文之助が9代目当主(久右衛門正秋)となる。 | 6862854138938483150 |
Q11484879 |
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広島県立高陽東高等学校
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概要
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広島市のベッドタウンである安佐北区高陽地区に1983年に設立された比較的新しい高校。部活動の中でも著名なのが硬式野球部で近年着実に力をつけ、これまで3度甲子園に出場している。
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校風
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「求真愛美」(ぐしんあいび) | 962134778204445458 |
Q11485308 |
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広島電鉄1900形電車
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京都市電時代
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1977年10月の河原町・七条線廃止時に1904・1908号が先行して移籍。京都市電全廃止後の1978年9月以降に残りの全車が移籍した。
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広電譲渡時の改造
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1916号から始まっていた車両番号を1901 - 1915号に整理している。_NEWLINE_正面部は行先表示器の大型・電動化、京都時代についていた前面上部の「ワンマンカー」行灯の撤去、運転台の窓下に青色のワンマン表示板が設けられたほか、ヒサシの取付、中央窓のHゴム化が行われた。当時の広島電鉄の車両は正面腰部に黄色菱形の警戒塗装が施されたが、1900形については行われず、1980年代は広告車両としても多く使われていた。_NEWLINE_他に側面部はベージュ一色だったドアを車体と同じ塗り分けに変更、前後扉からの改造時に埋められていた中扉脇の広い吹き寄せに車掌用小窓を取りつけ、1908号以外は旧後扉部の締切窓を開閉可能にするなどの改造が施された。現在でも京都市交通局の局章をあえて各車両ドア付近に残している。オレンジ色の帯は1908号の登場当初は京都時代よりも明るい色だったが、後に現在の色に変更された。_NEWLINE_前面・側面の系統板受け下部の広告を取り付ける部分に、1両ずつに京都にちなんだ愛称板を取り付けた。最初に登場した1908「あらし山」と次の1904「かも川」(実車の表記はひらがなを用いている)は広電が命名したものだが、三例目以降は広電が選んだ京都にちなむ地名20候補から、利用客に対するアンケート投票を実施。約9000通を集めた中から上位を占めた「嵯峨野」「祇園」など13点が採用され、各車両に掲出された。また車体の全面的な補修も行われた。_NEWLINE_屋根上部は、集電装置をビューゲルからZパンタに交換。台車、電動機などの駆動部は京都時代のままで使われた。
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広電譲渡後の改造
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登場当初は中扉について各車で違いがあり、1901・1903 - 1905・1907 - 1910・1914については木製タテ棧2本、1906号については木製タテ棧なし、1902・1911 - 1913・1915号については軽金属製であった。2000年代に前扉・中扉ともアルミ製に交換された。_NEWLINE_路面電車としてはかなり早い段階で冷房改造が行われた。最初に1980年の運転開始当初より1901・1913号は富士電機直流駆動方式(25,000kcal/h×1)で改造。構造は、バス用クーラーのコンプレッサーを直流600Vモーターで駆動する構造であった。翌年の1981年7月に1902 - 1904号の3両が、三菱電機のCU127分散型(10,500kcal/h×2)で改造。1982年に残りの全車が、三菱電機の直流交流変換駆動方式(三菱MDA方式)CU77A集中型(21,000kcal/h×1)で冷房改造された。その後、三菱MDA方式による冷房改造は標準的な物になっている。前述の1901・1913号はクーラーユニットが屋根上などに見当たらず、非冷房車との識別が外見上困難な特徴があった。しかし構造が特殊であることと冷房能力に問題があり、後日CU77形に換装された。ただし他のCU77形を搭載する車両は冷房補機を床下に置くが、1901・1913号に関しては冷房補機を屋根上に置く形に変更された。_NEWLINE_2000年代には落雷事故を受けて避雷針が更新された。また砂撒き設備が車掌台の場所に設置された。_NEWLINE_愛称板については2001年頃から掲出を止め、系統番号のプレートとその愛称板を掲出する台だけが残された時期があったが、2006年3月に愛称板を新調し復活。現在も使用されている。_NEWLINE_出口の構造が広く収容力も充分で乗務員の評判が良いことから、旧型車の淘汰が進む中にあって現在でも全車が健在で、広電時代の在籍年数の方が京都市電時代よりもはるかに長くなっている。形式別に見た広電への譲渡車両としては、最も多く所有する車両である。
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運用
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2019年9月現在、1901号~1908号が千田車庫に配属され主に3号線・5号線・7号線の運用に就き、ラッシュ時では1号線の運用にも就く。1909号~1915号が江波車庫に配属され主に8号線・9号線の運用に就き、ラッシュ時では6号線の運用にも就く。旧型車の淘汰が進む中、この形式は日中でも頻繁に運用されている。1910号~1915号については9号線直通(白島-八丁堀-江波)の方向幕にも対応している。また、江波車庫所属の車両は検査明けの際は千田車庫管轄の運用に就くことがある。 | 5803053893716273052 |
Q11485485 |
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広沢吉平
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広沢 吉平(ひろさわ きちへい、1898年12月20日 - 1989年1月4日)は、昭和時代の日本の農業経済学者。茨城県西茨城郡西那珂村(現在の桜川市)出身。専攻は農業史。旭川大学再建の立役者。
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経歴
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地主の末子に生まれ、当初は第二高等学校に入り医大を目指していたが、解剖学の授業に衝撃を受けて農学志望に転向する。1925年東京帝国大学農学部卒業後、更に法学部に転じて1929年卒業する。この間に吉野作造の新人会に所属していた。卒業後は恩師の佐藤寛次の勧めで農学部講師となる。1936年には東京農業大学農学部農業経済学科教授となった。_NEWLINE_1941年、日本の支援で中華民国南京政府(汪兆銘政権)が設置した国立上海大学設置に際し、教授に招聘されて上海に渡るが、日本の第二次世界大戦敗北と同時に同大学も閉鎖される。同大学の日本人関係者は直接日本の中国侵略には関与していなかったとして翌年には全員の帰国が許されるが、新大学の設置に意欲を燃やしていた広沢は日本に帰国後そのまま実家で帰農してしまう。_NEWLINE_これを知った東畑精一が広沢を説得して農林省農業綜合研究所に復帰させ、続いて教授の籍を残していた東京農業大学教授に再任した。その後1951年、新設の茨城県立農科大学教授に転じ、同大が国立大学である茨城大学に再編されるとそのまま留任して農学部長を務めた。定年退官後は三度東京農業大学の教授となり、更に定年となるとまた新設の北日本学院大学教授に転じた。_NEWLINE_ところが、同大学は経営母体内の内紛から事実上の破綻状態に陥ってしまう。その中で1975年広沢は77歳の高齢で旭川大学と改名した同大学の学長代行、次いで同年学長に就任して大学の経営再建策に奔走する一方、農業史のみならず、マルクス経済学や近代経済学の講義を行うなどの奮戦振りを見せた。_NEWLINE_1971年勲三等瑞宝章受章、1989年故郷に近い水戸市の病院で死去。_NEWLINE_1962年 東京農業大学 農学博士 論文の題は「中国前近代的農蚕業の史的構造に関する研究」。_NEWLINE_日本及び中国農業史を中心に、晩年は中国近代の動乱と日本の明治維新の関連性などについての論文を発表した。 | 13864096852699493060 |
Q17226617 |
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広瀬徳蔵
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広瀬 徳蔵(ひろせ とくぞう、1878年(明治11年)5月19日 - 1933年(昭和8年)5月8日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、弁護士。
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経歴
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大阪市出身。広瀬種蔵の長男。関西法律学校(現在の関西大学)出身。判検事登用試験・弁護士試験に合格し、判事に任命されたが、辞職して弁護士を開業した。その後、大阪市会議員・大阪府会議員・大阪府会議長を歴任した。_NEWLINE_1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回の当選を重ねた。一方で、宝塚尼崎電気鉄道株式会社の取締役、城北土地株式会社・東神火災保険会社・大阪土地建物株式会社・境川運河株式会社の監査役を務めた。関西大学講師。 | 2311758315223375115 |
Q11485631 |
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広瀬絣
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広瀬絣(ひろせがすり)は、島根県安来市広瀬町(旧能義郡広瀬町)で製造されている絣。倉吉絣、弓浜絣とともに山陰の三絵絣の一つとされる。大柄の絵絣が特徴。
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概要
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文政年間に弓浜絣の影響で作られるようになった。_NEWLINE_1824年に町医者の妻の長岡貞子が米子町(現・米子市)から染色の技術を広めたのを始まったとされており、広瀬藩の保護を受けた。同藩の絵師堀江友声の図案で織られたという。「広瀬の大柄、備後の中柄、久留米の小柄」という評判を受けた。_NEWLINE_1962年には県の無形文化財に指定、1970年には伝承するために伝習所を設立、1985年には広瀬絣センターを設立した。 | 15333851924104966462 |
Q11485948 |
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床丹 (得撫島)
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床丹(とこたん)は、北海道根室支庁得撫郡に属していた集落で、得撫島の西部にあった。_NEWLINE_養狐番舎と気象観測所が存在し、漁期のみ択捉島から移住する季節集落も存在したが定住者はいない。得撫郡、新知郡、占守郡3郡は市町村制が適用されていなかった。1945年8月にソ連軍に侵攻された。戦後も札幌国税局管内の根室税務署の管轄ではあるが、現在もロシアによる占領が続いている。_NEWLINE_当該地域の領有権に関する詳細は千島列島の項目を見よ。 | 4731686069793959746 |
Q800794 |
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府中本町駅
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乗り入れ路線
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南武線と武蔵野線の2路線が乗り入れており、このうち南武線を当駅の所属線としている。武蔵野線の定期旅客列車は当駅が起点となっている。当駅より鶴見側は貨物線(通称「武蔵野南線」)となっている。駅番号は南武線がJN 20、武蔵野線がJM 35。
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駅名の由来
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この地は古い歴史があり、それが当駅名「府中本町」の由来となっている。_NEWLINE_鎌倉へ至る鎌倉街道のルート上で経済的にも重要拠点に位置し、中世には当地が「本町」と呼ばれていた。富士山まで見渡せる景勝地でもあることから府中御殿が建築され、その後も本町として発展してきた地であり、それらが当駅名の由来ともなっている(以前は駅前に説明の碑が設置されていたが、現在は本町一丁目公会堂の敷地内に移設されている)。
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駅構造
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3面6線のホームを有する地上駅である。南武線は相対式ホーム2面2線で、のりばの番号は1・4番線である。南武線の相対式ホームの間に武蔵野線の島式ホーム1面2線が挟まれる形になっており、のりばの番号は2・3番線である。さらに1番線と2番線、3番線と4番線の間にそれぞれ武蔵野貨物線があり当駅を通過する。武蔵野線は貨物バイパス線目的で敷設された事情があり、南武線と武蔵野線間を乗り換える利用客はコンコースに出てからホーム間を移動することになる。_NEWLINE_コンコースの改札向かい側(南側)に巨大な臨時改札口が設置されており、東京競馬場での競馬開催時(主に土日、パークウインズ含む)のみ営業する。_NEWLINE_直営駅(駅長配置)であり、管理駅として、南武線の南多摩駅 - 西国立駅間の各駅および武蔵野線の北府中駅を管理している。
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駅周辺
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駅舎と小さな駅前広場は高架上にあり、線路を横断する高架道路に面している。徒歩でのアクセスは道路上の歩道および北東と西側からは線路脇の道から階段(府中市によりエレベータ設置)、南東側からは競馬場通路(非開催日は駅舎東側を通って改札口側に回る)を使用。駅前にはイトーヨーカドー府中店が立地していたが、2010年8月22日に閉店し、閉店後はラウンドワンが出店している。駅前ロータリーを出て鎌倉街道を東に向かうと府中街道のT字路となっており、正面が大國魂神社西参道、左は京王府中駅にかけて市役所や商店街など市中心部へ続き、右の南東側は東京競馬場である。駅西側は小規模な商店街がある。その他は主に住宅地である。 | 6807085097911785986 |
Q17217919 |
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度会行忠
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度会 行忠(わたらい ゆきただ、1236年(嘉禎2年) - 1306年2月11日(嘉元3年閏12月27日)は、鎌倉時代後期の伊勢国(現:三重県伊勢市)出身の神道家、外宮祠官、伊勢神宮禰宜。
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概要
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家号は西河原で、度会神道(伊勢神道)の黎明期を代表する人物として名高く、正直・清浄の徳や祈禱の重要性を説くなどして、度会神道の基礎を築いた。_NEWLINE_行忠は生涯、『伊勢二所太神宮神名秘書』などの他に『心御柱秘記』を著した。また、神道五部書である『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本記』『造伊勢二所太神宮宝基本記』『倭姫命世記』は、いずれも奥付には奈良時代以前の成立となっているが、実際には鎌倉時代に行忠らの外宮祀官が、伊勢神宮に伝わる古伝を加味しつつ執筆したものとされる。_NEWLINE_行忠の後、同じく神道家の度会家行が禰宜となり、伊勢神道を確立した。
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生涯
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1236年(嘉禎2年)、伊勢国(現:三重県伊勢市)に伊勢神宮の外宮権禰宜であった父・度会行継の元に生まれ、祖父・度会行能の養嗣子となった。_NEWLINE_1251年(建長3年)から53年間、外宮の禰宜を務めた。_NEWLINE_しかし、1282年(弘安5年)に内宮の造営料木に口出しをしたため禰宜を免除され、京都に移り住んだ。京都で様々な教養を身に付け、時の関白であった公卿鷹司兼平の命令により1285年(弘安8年)から1287年(弘安10年)にかけて神道五部書の所説を明らかにした著書『伊勢二所太神宮神名秘書』を著した。同書は亀山天皇に認められ、同年1287年に禰宜に復職した。_NEWLINE_1293年(正応6年)に『伊勢二所太神宮神名秘書』の略本を著した。_NEWLINE_1298年(永仁6年)から1300年(正安2年)にかけて度会氏の家系を纏めた『古老口実伝』を著した。_NEWLINE_1304年(嘉元2年)に一禰宜になったが、1305年(嘉元3年)に亡くなった。 | 4359871875643639122 |
Q11486163 |
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座間市立座間中学校
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概要
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座間市の中学校の中では最も長い歴史を持ち、2017年に創立70周年を迎えた。座間市立相武台東小学校からの入学者が3分の2以上を占める(他には立野台小学校、座間小学校から入学してくる)。生活違反に対する指導が厳しく、神奈川県ではあまりない中間テストがある。 | 5252122719069822670 |
Q625981 |
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廉東均
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来歴
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1970年3月7日、韓国でプロデビュー。_NEWLINE_1971年10月20日、16戦目で韓国ジュニアフェザー級王座を獲得した。同王座は12度の防衛に成功した。_NEWLINE_1974年3月17日、39戦目でOBF東洋ジュニアフェザー級王者張奎喆に挑戦し、12回判定勝ちで王座を獲得した。同王座は4度の防衛に成功した(うち、日本人相手に3度防衛)。_NEWLINE_1976年8月1日、54戦目で世界初挑戦。初代WBC世界ジュニアフェザー級王者リゴベルト・リアスコに挑戦し、15回判定負けで王座獲得ならず。_NEWLINE_1976年11月24日、リアスコから王座を奪取した王者ロイヤル小林に挑戦し、15回判定勝ちで王座を獲得した。_NEWLINE_1977年5月21日、2度目の防衛戦でウイルフレド・ゴメスと対戦し、12回KO負けで王座から陥落した。_NEWLINE_1977年6月27日、再起戦で洪秀煥と対戦し、12回判定負け。1980年12月19日、洪秀煥と再戦し、10回判定ドロー。この試合を最後に引退した。 | 1152694697948766593 |
Q712747 |
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張天錫
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若き日
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346年、張駿の末子として生まれた。_NEWLINE_354年1月、兄の張祚が涼王を称すると、長寧侯に封じられた。_NEWLINE_361年9月、中領軍に任じられ、中護軍張邕と共にまだ幼かった甥の張玄靚の輔政にあたった。
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政変を決行
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張邕は傲慢であり、淫らにして勝手気ままな人物であった。また、徒党を組んで政治を専断し、多くの人を処刑したので、国人はこれを患っていた。_NEWLINE_張天錫の腹心である郭増・劉粛は、就寝中の張天錫へ「国家は未だ鎮まる事を望んでいないようです!」と言った。張天錫は「何を言っている」と問うと、両者は「今、護軍(張邕)が出入りしておりますが、これは長寧(張祚)の振る舞いと似ております」と答えた。張天錫は驚いて「我もこれを強く疑っているが、敢えて口には出さなかった。計が何かあるのかね」と問うと、劉粛は「これを速やかに除く他ありません」と答えた。張天錫は「それを実行する人はいるのか」と問うと、劉粛は「肅がまさにその人です!」と答えた。この時、劉粛は20歳にも達していなかったので、張天錫は「汝は年少である。助けが必要であろう」と述べると、劉粛は「趙白駒とこの粛の二人で十分です」と答えた。これにより、張天錫は張邕暗殺を決意した。_NEWLINE_11月、張天錫は兵400を伴って入朝し、張邕もまた入朝した。劉粛・趙白駒は刀を鞘から出す準備をしながら張天錫に付き従った。そして、門下において張邕と出くわすと、劉粛が張邕へ斬りかかったが、避けられた。趙白駒もこれに続いたが、失敗した。二人は諦めて張天錫と共に禁中へ入ると、張邕は反攻に転じて三百余りの兵を率いて宮門を攻撃した。張天錫は屋へ登ると「張邕は凶逆にして無道を為している。諸宋(宋澄一族は張邕に誅殺された)には何の罪があって尽く誅殺されたというのか。さらには今、国家を傾覆しようとし、社稷を乱そうとしている。我は死を惜しんではおらぬが、先人の祭祀が廃されることを恐れ、ここに至った。これは我家の門戸の事であり、どうして汝ら将士は戈を向けて相対しようか。今、誅殺するのは張邕1人である。他の者は罪を問う所ではない。天地には霊があり、我は約束破らぬ」と叫んだ。これを聞き、張邕の兵はみな逃散してしまった。張邕は自殺し、その一族郎党はみな誅殺された。
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朝権を握る
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張玄靚は張天錫を使持節・冠軍大将軍・都督中外諸軍事に任じ、輔政を委ねた。張玄靚はまだ幼く、その性格は仁弱であったので、張天錫が政治を専断するようになった。_NEWLINE_12月、張天錫は建興49年を改め、升平5年として東晋の年号を奉じた。_NEWLINE_363年8月、張玄靚の母である郭氏は張天錫の専横を憎み、大臣張欽らと謀って張天錫の誅殺を目論んだ。だが、この計画は事前に露見し、張天錫は張欽らを尽く誅殺した。張玄靚はこれを大いに恐れ、位を張天錫へ譲ろうとしたが、張天錫は受けなかった。_NEWLINE_同月、右将軍劉粛らは議して、張玄靚が幼沖であり国家は多難である事から、長君が立つべきであると述べ、張天錫へ自立を勧めた。張天錫はこれに同意し、劉粛らに兵を与えて夜のうちに入宮させると、張玄靚を殺害させた。その後、張天錫は張玄靚が急死したと宣言した。
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君主に推戴
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国の人は張天錫を主君に推戴し、太廟において拝謁した。嫡母(父の正妻)である厳氏を太王太后に立て、生母である劉氏を王后に立て、張玄靚を平陵に葬り、沖公と諡した。また、自ら使持節・大都督・大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公・涼王を号した。さらに、司馬綸騫に上表文を携えて東晋に派遣してその命を請うと共に、侍御史兪帰(張重華の時代に到来した東晋からの使者)を送り届けた。_NEWLINE_364年2月、東晋より詔が下り、張天錫は大将軍・大都督・隴右関中諸軍事・護羌校尉・涼州刺史に任じられ、西平公に封じられた。_NEWLINE_6月、前秦君主苻堅は大鴻臚を使者として前涼に派遣し、張天錫は大将軍・涼州牧・西平公に任じられた。_NEWLINE_張天錫は即位して以降、音楽や酒・女に溺れて政治を省みる事が無かった。また、驕り昂って夜遅くまで遊び惚けていた。_NEWLINE_365年1月、張天錫は元日にも関わらず、寵臣とだらしなく飲み騒ぎ、群臣からの朝賀を受けなかった。また、永訓宮に留まって朝廷にも顔を出す事がなかった。從事中郎張慮は棺を担いで決死を覚悟してその振る舞いを諫め、朝政を観るように請うたが、張天錫は従わなかった。少府長史紀瑞もまた上疏し、その時政について「臣が聞く所によりますと、東野はよく御してその駕を敗り、秦氏は富強となって国を覆しました。馬力は既に尽き、これを求めたならば休むことも出来ません。人は既に披露して枯渇し、死人には労働は出来ません。造父の御では馬は尽きる事無く、虞舜の治では、人が窮する事はありませんでした。故に造父は御を失せず、虞舜は人を失いませんでした」と諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。_NEWLINE_366年10月、張天錫は前秦へ使者を派遣し、国交の断絶を通達した。以前、前涼に背いて隴西に割拠していた李儼は前秦の傘下に入っていたが、張天錫の時代になると再び前涼とも通じるようになった。
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李儼征伐
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12月、羌族の斂岐が前秦から反旗を翻して益州刺史を自称し、部落4千家余りを引き連れて西方に割拠していた李儼に臣従した。これを機に、李儼は前秦とも前涼とも国交を断絶した。_NEWLINE_367年2月、前秦の輔国将軍王猛らが斂岐討伐に向かった。3月、張天錫は李儼討伐の兵を挙げると、別駕楊遹を監前鋒軍事・前将軍に任じて金城に進ませ、晋興相常據を使持節・征東将軍に任じて左南に進ませ、游撃将軍張統を白土に進ませ、張天錫自らは3万を率いて倉松に拠った。4月、王猛は略陽を攻略し、斂岐を捕らえた。_NEWLINE_4月、張天錫は大夏・武始の2郡を攻略し、さらに常據は葵谷において李儼軍を撃破した。張天錫はさらに軍を進めて左南に駐屯すると、李儼は恐れて枹罕まで後退し、甥の李純を前秦へ派遣し、謝罪して救援を請うた。苻堅は前将軍楊安と建威将軍王撫に2万の兵を与えて王猛と合流させ、李儼救援を命じた。_NEWLINE_王猛が楊安と共に枹罕へ進むと、楊遹は枹罕の東でこれを迎え撃つも、大敗を喫した。この戦いで捕虜・斬首併せて1万7千を失い、全軍の2・3割に及んだ。また、前涼の将軍陰拠もまた敗北して捕らえられ、5千の兵を奪われた。その後、枹罕城下において張天錫は王猛と睨み合いの状態となった。王猛は張天錫へ書簡を送り「我が受けた詔は李儼救援のみであり、涼州と交戦する事ではない。今、防備を固めて次の詔を待っている所であるが、こうして膠着状態となっても互いに疲弊するだけで良策ではない。もし将軍が退却するのであれば、我は李儼の下へ赴くだけである。将軍は無事に帰る事が出来、それが最良だとは思わんかね」と告げた。これを読んだ張天錫は諸将へ「猛の書はこう言っている。我はもとより反乱を討ちに来ただけであり、秦と戦いに来たわけではない」と述べ、軍を撤退させた。その後、王猛は李儼を捕らえて枹罕を陥落させた。当時、前秦は強盛であり、これ以降も毎年のように侵攻を受けて、兵を動かさない年はなかったという。
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前秦に称藩
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368年、臨松郡を設置した。_NEWLINE_369年春、子の張大懐を世子に立てた。この年、災害や変異が相次いだので、張天錫は素服を着て正殿を避け、咎を引いて罪を責めた。_NEWLINE_370年、東晋より再び使者が到来し、張天錫は都督隴右関中諸軍事・大将軍・涼州牧に任じられ、西平公に封じられた。_NEWLINE_371年4月、苻堅は以前捕らえていた陰拠と兵士5千を前涼に返還し、梁殊・閻負に送らせた。この時、王猛は張天錫へ書を送り「昔、貴の先公は劉(前趙)・石(後趙)の藩を称したが、これはただ強弱を考えてのものであった。今、涼土の力を論じれば、往年からは損なわれている。また、大秦の徳は二趙の比ではない。にもかかわらず、将軍は翻然として断絶している。宗廟の福とはならないであろう!秦の威を以てすれば、遠方を揺らし、弱水を回して東に流し、江・河を逆流させて河を西に注がせる事も出来よう。関東は既に平らげており、この兵を河右へ移せば、恐らく六郡の士民では抗する事叶わぬであろう。かつて(後漢末に)劉表は『漢南を保つ事が出来る』と言ったが、将軍も『河西を全うできる』と言うかね。吉凶は身にあるものである、元亀は遠くにはない。故に、深算・妙慮し、自ら多福を求めるべきである。六世の業を一代で地に堕とすべきではないぞ!」と述べ、前秦の傘下に入るよう仕向けた。この書を見た張天錫は大いに恐れ、苻堅に謝罪して称藩を告げる使者を派遣した。苻堅はこれを認め、張天錫を使持節・都督河右諸軍事・驃騎大将軍・開府儀同三司・涼州刺史に任じ、西平公に封じた。
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東晋と通じる
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12月、苻堅は河州刺史李弁を涼州に移らせ、金城を統治させた。張天錫は前涼征伐の準備ではないかと煩い、大いに恐れた。その為、姑臧の南に壇を立てて家畜を捧げると共に、東晋との修好を強めようと思い、典軍将軍張寧・中堅将軍馬芮らを派遣し、東晋の三公と盟約を交わした。また、従事中郎韓博、奮節将軍康妙を東晋朝廷に派遣して表を奉じて盟文を送り、大司馬桓温に書を献じ、372年の夏に上邽に集結して共に前秦を討つ事を誓い合った。_NEWLINE_372年、母の劉氏が亡くなった。_NEWLINE_373年1月、世子の張大懐を廃嫡して使持節・鎮西将軍に任じて高昌公に封じ、寵愛していた焦氏の子である張大豫を代わって世子に立て、焦氏を左夫人に立てた。7月、大水・地震が起こり、西平では50日に渡って大地が動き、建物は崩れたという。8月、張天錫は病に倒れると、禍を祓う為に美人閻氏・薛氏を自殺させ、供物とした。10月、張天錫の病が癒えると、領内に大赦を下すと共に、両美人を追悼して夫人の礼で葬った。_NEWLINE_梁景・劉粛はともに豪族の家柄であり、幼少期より張天錫と親しかった。また、張天錫が張邕を誅殺した時、劉粛・梁景は大いに勲功を挙げたので、張天錫は深くこれを徳とした。この2人は寵用されて『張』の姓を賜り、張天錫の諸子はみな『大』の字があったので、梁景は大奕、劉粛は大誠と字を改められて養子となり、国政にも参画するようになった。これにより衆人はみな大いに憤怒したという。従兄弟である従事中郎張憲はこれを頑なに諫めたが、張天錫は聞き入れなかった。
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前涼滅亡
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376年7月、苻堅は武衛将軍苟萇・左将軍毛盛・中書令梁熙・歩兵校尉姚萇らに13万の兵を与え、前秦征伐を命じた。さらに、秦州刺史苟池・河州刺史李弁・涼州刺史王統に命じ、三州の兵をもって後続とした。また、閻負・梁殊を前涼に派遣し、張天錫へ長安に入朝するよう勧めさせた。閻負らが姑臧へ到着すると、張天錫は百官へ「今入朝すれば、必ずや帰れぬであろう。従わなければ、秦兵は必ずや到来するであろう。これをどうすべきか」と尋ねると、禁中録事席仂は「先公の故事にある通り、愛子を人質とし、重宝をもって賄賂とし、敵を退却させるのです。しかる後に、徐やかに計を為すのです。これが即ち、孫仲謀(孫権)の『屈伸の術』です」と勧めた。だが、他の者はみな席仂が弱腰であると激怒して「我らは代々晋朝に仕え、忠節は海内において著しいものがあります。今、一旦でも賊庭に身を委ねたならば、その辱は祖宗にまで及びましょう。これ以上の醜めはありません!また、河西は天険の地であり、百年の間虞などありません。もし領内の兵を総動員し、西に西域を招いて北に匈奴を引き入れて拒んだならば、どうして敗れる事をおそれましょうか!」と言い合った。これを聞いた張天錫は衣を翻すと「孤の計は決まった!降伏を語る者は斬る!」と大声で叫んだ。そして、閻負・梁殊へ「君たちは生きて帰りたいかね。死して帰りたいかね」と脅したが、梁殊は屈服せずに語気を強めて言い返した。張天錫はこれに怒り、二人を軍門に縛り付ると、軍士へ交互に射撃するよう命じ「射して当たらぬ者は、我と心を同じくする者ではないぞ」と言い放った。嫡母の厳氏は涙を流して「秦主は一州の地をもって天下を制しました。東は鮮卑(前燕)を平らげ、南は巴蜀を取り、その兵は留まることを知らず、向かうところ敵がありません。汝がもし降伏すれば、なお数年は命を長らえましょう。今、僅かなこの一隅の地をもって大国に抗衡しようとしている。さらに、その使者まで殺してしまいました。明日にでも亡国の憂き目に遭いましょう!」と嘆いた。張天錫はこれを聞かずに龍驤将軍馬建に2万の兵を与え、前秦軍を迎え撃たせた。2人の使者が殺された事実は前秦へも伝わった。_NEWLINE_8月、梁熙・姚萇・王統・李弁は清石津から河を渡って河会城へ侵攻すると、河会城を守る驍烈将軍梁済は前秦へ降伏した。苟萇は石城津から渡河すると、梁熙らと共に纒縮城を攻め、これもまた陥落した。馬建は大いに恐れ、清塞まで撤退した。張天錫は征東将軍常據へ3万の兵を与えて洪池へ派遣し、自らもまた5万の軍で金昌城へ出征した。安西将軍宋皓は張天錫へ「臣は昼に人事を見、夜に天文を見ましたが、秦軍には敵いません。これを降すことができません」と諫めたが、張天錫は怒って宋皓を宣威護軍に降格した。広武郡太守辛章は城を保って固守すると、晋興相彭和正・西平相趙疑と謀って「馬建が出陣しても、必ずや国家のために用いることはできず、秦軍は深く入るであろう。我らが三郡の精鋭を率いてその糧道を断ち、一朝にして命を決しようぞ」と言い合った。征東将軍常據もまず姚萇を撃つべきだと考えたが、これらは張天錫の命により止められた。_NEWLINE_苟萇は姚萇に兵3千を与えて先鋒とすると、馬建は1万の兵を率いて姚萇らを防いだが、大敗を喫して前秦へ降伏してしまった。これにより、他の前涼兵は逃散してしまった。さらに、苟萇が洪池に進むと、常據は迎え撃つも敗れて戦死し、さらに軍司席仂もまた戦死した。前秦軍は清塞へ進むと、張天錫は司兵趙充哲・中衛将軍史景に勇軍5万を与えて迎撃させたが、赤岸において趙充哲は姚萇に敗北を喫した。これにより3万8千の兵を失って趙充哲は戦死し、史景もまた陣没した。張天錫は大いに恐れ、自ら城を出撃したが、留守となった城内で反乱が起こった。その為、やむなく数千騎を率いて姑臧へ撤退した。前秦軍が姑臧まで進軍すると、窮した張天錫は左長史馬芮の勧めに応じ、降伏を決断した。自らを縛り上げて棺を伴い、素車・白馬を用い、苟萇の軍門に降った。苟萇はその戒めを解いて棺材を焼き払うと、張天錫を長安へ送致した。これにより、涼州の郡県はみな前秦へ降伏した。こうして前涼は滅亡した。張天錫の即位から13年の出来事であった。
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その後
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9月、張天錫は長安に到着すると、帰義侯に封じられ、侍中・比部尚書に任じられた。苻堅は前涼征伐より前に、張天錫の為に新しい邸宅を造っており、予定通り張天錫はその邸宅に住むこととなった。やがて、右僕射に移った。_NEWLINE_383年8月、苻堅は80万を超える大軍を率いて南征に出ると、張天錫は征南大将軍苻融の征南司馬となり、これに従軍して寿春に屯した。_NEWLINE_11月、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると、張天錫は陣営を脱出して東晋軍に帰順した。その後、東晋軍に従って建康に入った。孝武帝は詔を下して「昔(秦の穆公は殽の戦いで晋に大敗しながらも、百里奚の子で戦いの指揮官であった)孟明(百里視)を更迭せずにいたことで、終には彼の功は明らかとなった。どうして一事をもって才ある者を用いずにいようか!これをもって天錫を散騎常侍・左員外とする」と述べ、さらに詔を下して「もとの太尉・西平公張軌は遠方においてその徳は著しく、代々その労があった。強兵を阻んでいたが、遂に守りを失うに至った。散騎常侍天錫は高位にありながら朝に登り、先祖の祭祀は廃されることとなった。これに憐れみ嘆くばかりである。天錫に西平公の爵位を復すべきである」と述べ、張天錫はやがて金紫光禄大夫に任じられた。_NEWLINE_張天錫は幼い頃より文才があり、遠近から名を知られて邁人の傑であると称されていた。その為、東晋に帰順して以降は甚だ恩遇を受け、孝武帝は彼を重んじていつも終日に渡って論じ合った。だが、国が敗れて虜となったことから、彼を誹る朝士もまた多かったという。やがて精神を病んで生気を失ってしまい、列位に処されてはいたものの、誰もまともに相対しなくなった。_NEWLINE_隆安年間、会稽王の世子である司馬元顕が朝権を握るようになると、しばしば張天錫を呼び出しては愚弄したという。_NEWLINE_張天錫の家は貧しかったので、廬江郡太守に任じられたが、本来の官爵もまた以前通りであった。_NEWLINE_403年12月、桓玄が帝位を簒奪し桓楚を建国すると、彼は遠方の民を招懐しようと考え、張天錫を護羌校尉・涼州刺史に任じた。_NEWLINE_406年、この世を去った。享年61。鎮西将軍・金紫光禄大夫を追贈され、悼公と諡された。_NEWLINE_子の張大豫は河西に逃れて後涼天王呂光と涼州を争ったが、敗れて殺された。 | 11298067823090117716 |
Q708215 |
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張松
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張 松(ちょう しょう、? - 212年)は、中国後漢末期の政治家。字は子喬。益州蜀郡成都県の人。兄は張粛。子(または甥)は張表(「馬忠伝」)。『三国志』蜀志『劉二牧伝』『先主伝』に記述がある。
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生涯
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劉璋に仕え、別駕まで昇進した。_NEWLINE_劉璋は曹操が荊州を降し、関中や漢中をも支配下においたことを聞くと、張魯が曹操と組んで成都へ侵攻することを恐れ、曹操への使者を三回に分けて出し、帰服の意志を伝えさせた。先の二名の使者は歓迎を受けた。しかし三度目に赴いた張松は、赤壁の戦いの直前で曹操が慢心していたため、冷たく扱われた。このため張松は腹を立て、劉璋には曹操と絶交し、劉備と結ぶよう進言した(「先主伝」・「劉璋伝」・『漢晋春秋』)。_NEWLINE_張松は法正と共に劉備の元へ使者として赴いた。「先主伝」が引く『呉書』によると、法正と共に劉備から手厚い歓待を受けた張松は、益州の軍備や地理について詳しく語り、地図を描いて説明したとある。_NEWLINE_なお、『三国志』先主伝の注に引く『益部耆旧雑記』によれば、張松は小男で勝手に振舞うところがあったが、識見や判断力には優れていたとある。曹操の元に使者として赴いた時、曹操から冷遇されたが、楊修には評価された。楊修が張松に曹操が編纂した兵法書を見せると、張松は宴会時にそれを全て読み、すぐに暗唱して見せた。以前から楊修は張松を評価していたが、このことでさらに高く評価するようになった。_NEWLINE_益州に入った劉備は劉璋に対し、孫権・関羽の救援に赴きたいと主張して兵と物資を借りようとした。しかし張松だけは劉備の真意が読めず、劉備と法正に手紙を送り引き留めようとした。また、このことを知った兄は劉璋に密告した。果たして、劉備と張松の計画は劉璋の知るところとなり、張松は斬られてしまった。
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三国志演義
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小説『三国志演義』では、字は永年。背が低く出っ歯で、鼻も低いという風采の悪い人物という設定にされている。_NEWLINE_漢中の張魯が西川に軍を向けたため、曹操を説き伏せ張魯の背後を突かせようと使者として赴く。だが曹操に冷遇されたことから、楊修の前で曹操が書いた兵法書「孟徳新書」を全て丸暗記してみせ、曹操との謁見時に愚弄する発言を繰り返すということをする。このため百叩きの刑に遭ってしまい、怒って魏から荊州の劉備の元へ赴いている。荊州では劉備の厚遇に感動し「玄徳はこのように寛仁で士人を愛している。どうしてこの人物を捨てるべきであろうか」と考え、西川を劉備に譲り渡す決心をする。そして、曹操に渡すべく携えていた「四川地理図」を劉備に献上し、劉備を益州の新たな君主として迎えようと、友人の法正や孟達と共に画策することになっている。最期は、酒の席で劉備への手紙を兄に発見され、劉備入蜀計画を劉璋に密告され、怒った劉璋により妻子とともに処刑されたことになっている。 | 7420576450330179549 |
Q11488453 |
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後藤太栄
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人物
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アマチュア無線家としても知られ(コールサインはJH3GAH)、2000年から2001年には日本アマチュア無線連盟(JARL)の評議員を、2002年から2009年までは同監事を務めた。 | 11972848372787630087 |
Q28690034 |
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後藤沙織
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来歴・人物
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弟が観ていたアニメから声優という仕事に興味を持ち、自身も声優を目指すようになった。また、ラジオやキャラクターソングなどの幅広い活動に魅力を感じた事もきっかけであると語っている。_NEWLINE_両親の影響で小学生の頃から陸上を始め、高校では陸上部主将として全国高校女子駅伝にも出場。卒業後は実業団のシスメックス陸上競技部へ進み、ジュニア3000mで全国2位を取った経験もある。_NEWLINE_シスメックスを退社後、父親が自衛隊員だった事もあり陸上自衛隊へ入隊。任期を終えたのち声優になる決意を固め上京、養成所へ通った。_NEWLINE_2015年に一度声優を辞めており北海道に戻る事を決めていたが、直前に本気!アニラブのパーソナリティに決まった事で再び声優としての活動を始める。_NEWLINE_2016年3月1日、スターダストプロモーションへの所属を発表。_NEWLINE_陸上自衛隊では通信科に配属されており、暗号電信手を務めていたためモールス信号の解読ができる。声優になってからも予備自衛官として招集訓練に出頭している。特技は第四匍匐前進。_NEWLINE_陸上選手を辞めた後もランニングやマラソン大会への出場を趣味としている。夢は赤坂5丁目ミニマラソンを走る事。_NEWLINE_コスプレ好きであり、黒子のバスケやアイドリッシュセブン、ラブライブ!など、好きな作品の衣装を自作している。また、大のディズニーリゾートファンでもあり、ディズニー・ハロウィーンには全身仮装で入園している。_NEWLINE_2017年4月30日、スターダストプロモーションを退所。活動の場を地元である北海道へ移した。_NEWLINE_2019年3月、ファイターズパーソナリティを務めていたSTVラジオを離れ、現在は自身の経験を活かしてスポーツイベントMCなどで活動中。 | 13481862473230666819 |
Q11488549 |
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後藤清一 (彫刻家)
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後藤 清一(ごとう せいいち、1893年8月19日 - 1984年4月11日)は、大正 - 昭和時代の彫刻家。長男の後藤道雄は仏教美術史家。
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来歴
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1893年8月19日茨城県に生まれる。富岡周正に牙彫を学ぶ。東京美術学校(現東京芸術大学)入学後は高村光雲に師事し木彫を始める。仏教を厚く信仰し、仏像などを生涯作品のテーマにした。清一の彫る仏像は如来よりも菩薩や明王を題材にしたものが多い。1930年構造社会員となる。1958年日本美術展覧会評議員になり、1960年同展で「双樹」が文部大臣賞を受賞する。余暇は専ら骨董品収集と読書を趣味としていた。1984年4月11日に死去。90歳だった。 | 16774561343009193447 |
Q27917833 |
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後藤満久
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略歴
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ラグビーを始めた動機は友人に誘われたことから。_NEWLINE_2004年、関西創価高校卒業後、京都産業大学に入学する。_NEWLINE_2007年、京都産業大学ラグビー部の主将に就任した。_NEWLINE_2008年、京都産業大学卒業後、クボタスピアーズに加入。_NEWLINE_2009年10月10日に行われたジャパンラグビートップリーグ第5節のコカ・コーラウエストレッドスパークス戦に途中出場ながら公式戦初出場を果たす。 | 6920811520236781879 |
Q11489136 |
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御楯隊
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御楯隊(みたてたい)は、幕末期に長州藩で結成された長州藩諸隊の一つ。元治元年(1864年)結成。_NEWLINE_元治元年(1864年)8月、禁門の変に破れた太田市之進、山田顕義、品川弥二郎らが中心となって結成。総督は太田市之進、隊士230名。三田尻を屯所とする。_NEWLINE_元治元年12月15日(1865年1月12日)、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)すると、これに呼応して俗論党と戦い、呑水、赤村の戦いなどで活躍。この際に隊士玉木彦助が落命している。第二次長州征伐では、芸州口方面で遊撃隊などと共に幕府軍と戦う。慶応3年(1867年)に鴻城隊と合併し、整武隊となる。_NEWLINE_御楯隊の調練場であった防府市の防府護國神社境内の桑山招魂場には、御楯隊戦死者の慰霊碑がある。 | 8629713144981132384 |
Q20041652 |
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徳丸琴乃
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経歴
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愛知県稲沢市出身。アミューズ30周年オーディション中部地区ファイナリスト。2012年4月から2年間、地元である東海テレビ放送の情報番組『スタイルプラス』の5代目アシスタントを務めた。 | 15481921107677001900 |
Q11489589 |
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徳大寺家
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概要
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家祖の左大臣徳大寺実能は、閑院流の流祖である太政大臣藤原公季の五世孫・権大納言藤原公実の四男で、平安時代末期に崇徳・後白河両帝の国母となった待賢門院の同母兄にあたる。実能は葛野郡衣笠岡(現在の京都市北区)の西南麓に山荘を営み、その中に持仏堂を建ててこれを得大寺あるいは徳大寺と呼んでいたが、のちにはこの山荘自体が徳大寺殿と呼ばれるようになり、これが家名の由来となった。_NEWLINE_江戸時代には禁裏北の公家屋敷の一角、今出川烏丸東入北側に屋敷を構えていた。その跡地には明治になって華族会館が建てられ、戦後は同志社大学が取得して同大学大学院の図書館が建てられたが、烏丸今出川交差点と京都市バスの烏丸今出川停留所の間に今日もたたずむ旧徳大寺家の表門がかろうじて往時の名残をその地に留めている。_NEWLINE_現在、十大家紋にまで数えられる程に日本全国に浸透している木瓜紋を家紋として最初使用した家としても知られる。
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系譜
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太字は当主、実線は実子、点線(縦)は養子。 | 8281100538537009828 |
Q873512 |
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心理検査
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心理検査(しんりけんさ)とは、人間の心理の検査である。雑誌、一般向け書籍などに掲載されている、いわゆる「心理テスト」については通俗心理学を参照のこと。
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信頼関係
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心理検査は被験者の環境や心理状態などによって影響されて結果が違ってくるものである。そういった原因によるぶれを少なくするため、検査前には被験者と検査者の間に信頼関係を樹立しなければならない。この信頼関係をラポール(ラポート)という。これは純心理的なものだけではなく、検査室の室温、湿度、採光なども影響する。被験者には、事前に心理検査の目的をよく説明し(インフォームド・コンセントのように)、不安を取り除いた上で検査に当たるのが望ましい。また、学齢児には、この検査の結果は学校の成績評価には反映されないという事を説明した方が良い場合もある。_NEWLINE_特に年少児・発達障害児などの場合、十分な信頼関係が樹立されていないと、検査の途中で検査を放棄してしまったり、積極的な協力が得られなくなったりして続行が不可能になる危険性がある。また、検査結果も検査時の体調や感情的状態や雰囲気によって、かなり結果が変わる余地が大きい。このため、個別式知能検査であれば、体調の良い時に十分なラポールの上で、という方法で検査が行われている。
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学習効果
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又、他の試験と同様に、何度も同じ種類の検査を受ける事による慣れや試験傾向の学習、意図的な事前練習で試験結果を向上させる事が出来る。このため通常は、集団式知能検査であれば多くの被験者を同じ場所で同時に一回限りで、という方法で検査が行われている。なお、クレペリンなどの場合は就職試験によく出るため、練習のための書籍や講座が存在する。
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信頼性と妥当性
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心理検査の有効性を評価する時には、信頼性と妥当性という用語が使われる。信頼性とは、同じ被験者に対して、訓練された検査者なら誰が測っても、いつ測ってもあまり結果が違わないかどうかを表す用語である。妥当性とは、その検査を実施すれば、測ろうとする目的のものを測れるのかどうかを表す用語である。例えば、いくら精密な体重計であっても身長を測る事は出来ない。これは妥当性の欠如である。逆に、身長計を使ってもそれの誤差が数cmもあれば正確に測定出来ない。これは信頼性の欠如である。_NEWLINE_心理検査を開発する際には、多くのサンプルで統計を取り、より適切な問題を配置するなどの工夫がなされる事が多い。これを標準化作業という。例えば、一般的な知能検査で知能指数の標準が100であると信用できるのは、大量のサンプルで標準化が行なわれたからである。個別式知能検査の標準化では、1000人から5000人程度の被験者が対象となる場合が多い。_NEWLINE_村上宣寛は、YG性格検査、内田クレペリン精神検査、ロールシャッハ・テストなどは、実は、まったくデタラメな検査だと指摘している。
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入手
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日本心理検査協会倫理要綱では、「心理検査の使用者は個人情報保護に心がける」、「学校や各種相談所などの専門機関以外には販売、見本配布をしない」、「検査後もテスト用紙などを散逸させない」などの取り決めがあるため、一般的には心理検査と無関係な立場の人は購入出来ない。_NEWLINE_さらに日本国内においても、グローバルで開発・運用されている心理検査(シックスセカンズのSEI等)は、米国教育学会(AERA)・米国心理学会(APA)・全米教育測定協議会(NCME)の3団体が定める、Level A:基本的な知識があれば誰もが購入できる、Level B及びC:一定の条件を満たしたもの以外は購入・実施ができないという規定に従い、日本国内の購入者へも同様の制限を適用している。 | 16614914203214890425 |
Q12152 |
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心筋梗塞
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原因
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冠動脈の血流量減少は、主に動脈硬化などの何らかの要因によって狭窄(きょうさく)を起こすことによる。この要因には冠動脈部分での粥種の破裂 (plaque rupture) や攣縮 (spasm) が深く関係するが、他にも梅毒性動脈炎が起こす冠動脈起始部狭窄、解離性大動脈瘤が冠動脈に進展して起こる閉塞、川崎病などによる冠動脈での血栓(塞栓)形成などもある。_NEWLINE_RTIインターナショナルの研究者が現在までの発見をまとめており、血液型O型では心筋梗塞に、ほかの血液型より44%なりにくい。こうした研究は米国心臓協会のサイトに掲載されていたこともあり、20年以上の研究調査でO型の男女のリスクが低かった。
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症状
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強い胸部の痛みや苦悶感が生じ15分以上持続するが、虚血状態が解消されなければ数時間以上続く。顔面蒼白になり、冷や汗、徐脈、血圧の低下、脈拍の上昇などを伴い、意識不明に陥ることもある。そして、最悪の場合は、死に至る恐ろしい病である。_NEWLINE_左心不全を伴う症例が多く、湿性ラ音が広範囲で聴取できるようになる。Killipらはこのラ音所見を重症度の判定表にまとめ、これはKillip表と言う。_NEWLINE_75歳以上の高齢者や糖尿病などを併発している場合、患者の20%程度で痛みを伴わない無痛性心筋梗塞をおこす事がある。糖尿病患者では心筋梗塞を発症した患者の21% - 41%が無痛性とされ、糖尿病を併発していない場合は、6% - 15%との研究がある。痛みを感じなくなる原因は、脳血管障害や糖尿病性神経障害による自律神経障害が多いと考えられている。自覚症状がないまま心筋梗塞の病態が進行するため、発見時には既に重篤な状態(死亡も含む)となっている場合も多い。
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心臓カテーテル検査
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心臓カテーテル検査とは冠動脈の狭窄・閉塞を造影剤により描出する。侵襲を伴う検査でもあるが、病変描出に続いて、血管内治療である経皮的冠動脈形成術を行うことができる利点がある。
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心臓超音波検査
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心臓超音波検査(エコー)は、ごく軽度の心筋梗塞を検出する上で心電図や血清生化学検査に勝る簡便で最も有用な検査であり、心筋の壁運動低下を検出することにより診断する。ただし、心尖部や下壁に限局した梗塞の場合など、明らかな壁運動異常(asynergy)を検出しにくい場合もある。さらに副側血行路がある場合壁運動異常(asynergy)を呈さず、心電図も異常を示さず診断が困難になる場合も多々ある。_NEWLINE_心筋梗塞による MR(僧帽弁閉鎖不全症)の有無の診断にも役立つ。三尖弁の圧格差(TRPG)を計測することで肺動脈圧を推定することが可能であり、心不全の評価にも役立っている。すでに壁運動低下部位が薄くなって輝度が亢進していればそれは陳旧性病変である。
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Swan-Ganzカテーテル検査
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Swan-Ganzカテーテル検査では、静脈から差し込んだカテーテルを右心房・右心室を経由して肺動脈まで進め、ここでバルーンを用いて間接的に左心房の圧力(肺動脈楔入圧)を計測する方法が取られる。また、先端から冷水を注入してセンサーを用いた温度測定を行い、血流の量を知る方法もある。_NEWLINE_これらで得た肺動脈楔入圧(mmHg)と心係数(CI、心拍出量/体表面積、L/分/m²)で分類したものがForresterの分類である。心係数2.2以下を末端循環不全、肺動脈楔入圧18以上を肺うっ血状態とし、それぞれの区分から重症度を判定し投与する医薬品の種類や治療法を定めている。
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心筋シンチグラフィー
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心筋梗塞はないか、血流の少ないところはないか、心筋は正常に動いているか、心臓の働きを果たしているかなどを調べる検査。シンチグラフィーとは、体内に投与したグルコースなど放射性同位体から放出される放射線を検出し、その分布を画像化したもの。陽電子放射型断層撮影法 (PET) と呼ばれる画像診断法の一つ。腫瘍(がん)や各種臓器の機能の診断にも使われる。また、核種の組織親和性を利用して、異所性胃粘膜の検出、甲状腺や唾液腺の検査にも使われる。_NEWLINE_心筋梗塞の部位はテクネチウム-99mピロリン酸を取り込み、逆に正常な心筋はタリウム-201を取り込む性質を持つ。これを利用しシンチグラフィーを行えば心筋梗塞の進展具合を確認できる。
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胸部レントゲン
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胸部のX線検査は、心筋梗塞に対する特異的な所見は得られないが、重症度の判定や動脈瘤を除くための診断に用いられる。
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急性期
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絶対安静が原則である。発症後急性期には致死的不整脈が容易に起こり死亡する危険性が非常に高い。また、虚血の時間が長引くほど心筋の死滅が進み心機能の不可逆的低下が進行していく。発病を疑った際は患者から目を離さず直ちに救急車を要請すること、患者の意識が消失し脈拍を触れない際には躊躇せず心臓マッサージを行うことが必要である。機能的な心停止に陥った際には3分から5分以上の無処置は社会復帰率をほとんど無にしてしまう。救急隊の到着を待たず直ちに救命処置(心臓マッサージなど)を開始する必要がある。_NEWLINE_心筋梗塞は、心筋に対する相対的・絶対的酸素供給不足が原因であり、安静にして酸素吸入を行う。また鎮痛および体の酸素消費低下目的で、モルヒネを投与する場合もある。急性期には心筋梗塞の病巣拡大を防ぐことが最大の目的となる。一般的に「モルヒネ」「酸素吸入」「硝酸薬」「アスピリン内服」などが中心に行われ、Morphine, Oxygen, Nitrate, Aspirinの頭文字をとって「MONA(モナー)」という名称で心筋梗塞の応急処置(First Aid)として知られている。_NEWLINE_発症から2時間を経過すると急速に壊死が進行していくが、6時間以内の心筋梗塞の場合、積極的に閉塞した冠動脈の再灌流療法を行うことで、心筋の壊死範囲を縮小可能である。これに限らず、発症から24時間以内の症例では、再灌流療法を行う意義が高いとされる。大別してカテーテル的治療 (PTCA, PCI) を行う場合と、血栓溶解療法 (PTCR) があり、国により、保険により、医師の判断により治療方針が分かれていることがある。日本では、PCIの可能な施設も多く、急性期であればPCIが行われることが多い。ただし、動脈を介した検査・処置であることから合併症も多い。特に心電図上STの上昇が見られた場合、如何に早くPCIを行うかが重要であるが、救急搬入後直ちに同療法を行える体勢を取っている病院は、心臓病治療の先進国である米国でもわずかである。_NEWLINE_狭窄部位が3つ以上であった場合などに、緊急冠動脈バイパス術 (CABG) が行われる施設もある。PCI と CABG を比較すると PCI では25〜30%再狭窄をきたすとされていたため、1枝病変であっても CABG に優位性があるという説もある。しかし、2004年から薬剤溶出性ステント (Drug-eluting stent, DES) が保険適応となり、PCI の成績向上が期待されている。
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安定期
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急性期にインターベンションが成功すると、比較的予後は保たれることが多い。安定期には安静、内服加療が中心となり、疾患の特徴上糖尿病、高血圧、高脂血症、コレステリン塞栓症などが併存することが多いため、これらに対する検査・加療、患者教育などが中心となる。_NEWLINE_インターベンション不成功例、発症から時間が経過していた例などは下記の様な合併症を生じることが多い。
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合併症
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狭窄が生じた冠動脈の部位と発生からの時間で大まかに分別される。
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心不全
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頻度は低いが、心不全は発症すると死亡率が高い。Swan-Ganzカテーテルで心機能を評価する Forrester分類に応じ、対症的に治療する。
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乳頭筋断裂
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発症数日後に生じることが多く、右冠動脈 (RCA) 梗塞の下壁梗塞に生じることが多い。たいていは発症すると重篤な僧帽弁閉鎖不全を伴い、心不全の原因となる。治療として CABG をおこなう場合は、同時に僧帽弁置換術をおこなうこともある。
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心破裂
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心筋が壊死し、心臓の血圧に耐えられずに外壁が破裂する症状。基本的にこれが起こると失血と心タンポナーデによって即死となる場合が多く、助かることは難しい。ちなみに右心室と左心室の間に穴が開くことを心室中隔穿孔という。
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心室瘤
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心室瘤は、左冠動脈前下降枝 (LAD) 梗塞の結果として心尖部に生じることが多い。心筋梗塞治療後も遷延する ST上昇の原因の一つである。破裂しやすく、心タンポナーデの原因となる。
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Dressler症候群(心筋梗塞後症候群)
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Dressler症候群とは心筋梗塞の発症数週間後に生じる自己免疫性心外膜炎。
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予後
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発症すると致死率は20%と非常に高い。そのほとんどは急性期に生じる不整脈を合併した例である。発症後48時間以内の致死率が特に高いため、それを乗り切れば救命できる確率も高くなる。 | 3693744977221098229 |
Q1615191 |
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心臓カテーテル検査
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抵抗の評価
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体血管抵抗、肺血管抵抗を計算することができる。
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心血管造影
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左室造影(LVG)によって局所壁の異常運動や左室駆出率を計算できる。左室の局所的な壁異常運動はAHA segment分類に基づいて行われる。1は前壁基部、2は前壁、3は心尖、4は下壁、5は後壁基部、6は中隔、7は側壁である。1~5はRAOでみる、そして6と7はLAOでみる。LVGでは心筋梗塞の合併症の検出もできる。具体的には左室瘤、壁在血栓、中隔穿孔、僧帽弁閉鎖不全症(乳糖筋断裂)などである。もちろん、その他の弁膜症の診断も行うことができる。 | 2719612858432850126 |
Q20044788 |
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志戸田用水隧道
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志戸田用水隧道(しとだようすいずいどう)は、宮城県富谷市志戸田にあった農業用水用隧道(トンネル)で、主に富谷市志戸田地区、大和町舞野地区に水を供給していた。現在は使われていない。 | 10302036721005567877 |
Q930293 |
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性犯罪者GPS監視
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性犯罪者GPS監視(せいはんざいしゃGPSかんし)とは、性犯罪を犯した前歴者を、GPSを利用して監視することをいう。_NEWLINE_現在特定の前歴者にGPSの取り付けを義務付ける制度がある国はアメリカ合衆国(半分以上の州)、大韓民国、イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、スウェーデンなどで実施されており、台湾、オーストラリア、ブラジルでも導入が検討されている。
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韓国
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韓国では2007年に、位置追跡電子装置装着法が成立し、2008年9月に性的暴行犯を対象に電子足輪付着制度が本格的に施行した。法案はハンナラ党議員による議員立法であり、当初は人権侵害だとの反対があったが、2006年に発生した執行猶予中の性犯罪者によって小学生が性的暴行後に殺された事件が法案成立を後押しした。当初の対象者は、13才未満の児童に対する性暴力犯罪者だったが、2009年には未成年者誘拐犯、2010年の改正で殺人犯・性暴行犯遡及適用、2014年6月からは強盗犯も対象となっている。監視は24時間体制で、禁止地域や禁止地域近くの緩衝地域に対象者が入ると、警察が対象者に電話する。緊急事態と判断される場合には警察が急行する。制度導入前と比較して2014年の性暴行などの再犯率は8分の1の水準になった。制度施行前の2004年から2008年間の性暴行犯罪者の再犯率は14.1%だったのが、制度施行後の2009年から2014年までは1.7%になるという再犯率が88%減少した。_NEWLINE_ただ、マニュアルが無いことや軽視、性犯罪への軽い刑罰と批判される韓国では、強姦の前科持ちで出所後複数回電子足輪を切断して逃走した前歴もある男が国外逃亡する事態が何度も起きている。原因として韓国検察が男の逮捕状を請求したが、犯罪者に甘いと批判されている韓国の裁判所は「逃走の恐れがない」と却下すること、逮捕した韓国警察も男の出国禁止申請をしなかったこと、出国禁止措置が出ていないと電子足輪をしていた場合も韓国の空港が男の嘘を確認せずに乗せることにあると指摘されている。
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アメリカでの状況
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全州で性犯罪者はミーガン法に基づき顔写真と個人情報をネットで公開される。特に常習性が見られる犯罪者はジェシカ法によりGPSの装着が義務付けられる。80年代アメリカの刑務所が過剰収用になった際に施行されたジェシカ法は、90年代以降GPSを利用した追跡が採用され、以後欧米を中心に子供を狙う性犯罪者を監視する目的で導入された。_NEWLINE_なお、現在では性犯罪者だけでなく在宅の被疑者や仮釈放中の者にも装着されている。逃亡及び改ざん防止措置が施されており、装着者が移動を許可された地域から抜け出したり装置を破壊しようとすると当局に通知が行く仕組みになっている。
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GNSS腕時計
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アメリカのGPSだけでなく、他の衛星測位システム(GLONASS・Galileo・BDSなど)を利用して性犯罪者を監視する場合もある。ただし、そのような場合でも代名詞的に”GPS"と総称される場合もある。 | 1663995052490468926 |
Q2305235 |
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悪魔博物館
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悪魔博物館(あくまはくぶつかん、リトアニア語: Velnių muziejus)は、リトアニア・カウナスにある博物館。国立チュルリョーニス美術館の分館である。悪魔をあしらった彫刻などを世界中から集めている。2009年現在、約3,000の収集品を所蔵している。_NEWLINE_元々、画家のアンタナス・ジュムイジナヴィチュス(1876年 - 1966年)が個人的に収集していたものであったが、彼の死後、生前住んでいた家を博物館として開設、当時は260の収集品を所蔵するのみであった。その後収集品は増え、また訪問客からの寄贈も多かったため、1982年、3回建ての博物館が別に建てられた。_NEWLINE_集められた悪魔に関する作品は様々な文化のもとで作られたもので、絵画から彫刻、さらには日用品も多く、神話の内容を表したものから政治的なものまで様々なものがある。政治的な意図を含んだ作品としては、例えばヒトラーとスターリンを悪魔になぞらえたものがある。 | 400461229886917463 |
Q1754903 |
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情炎の女サロメ
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概要
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サロメを描いた映画の一つであるが、以前の作品がモノクロ・サイレントであったのに対し、ハリウッド映画の第二次大戦後の全盛期のカラー大作である。のみならず、素材となった伝承・作品と大きく異なる、愛情と信仰に満ちたストーリーはまさにこの時期のアメリカ文化を反映したものとなっている。_NEWLINE_リタ・ヘイワースが主催するベッグワース・プロダクションの企画で制作にはバディ・アドラーが当たった。主なスタッフは別記のとおりであるが、見せ場である《七つのヴェールの踊り》の振付けはヴァレリー・ベティスが担当している。_NEWLINE_アメリカ本国では、1953年2月13日にプレミエ公開、一般公開は同年3月24日、日本では8月26日に封切られた。同年中に、イギリス、スウェーデン、西ドイツ(当時)、オーストリア、デンマーク、フィンランドで公開された。
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あらすじ
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紀元1世紀のガリラヤは、淫蕩なヘロデ王が統治していたが、ローマ帝国の支配の下にあり社会には不安感が顕著であった。そこに、救世主の到来を告げる預言者ヨハネが現れ、人々に説教する一方で王やその王妃ヘロディア、とりわけ王妃の再婚の不道徳を厳しく非判した。ヘロディアはヨハネの処罰を求めたが、ヘロデは民衆の反乱を恐れて従わなかった。_NEWLINE_その頃ローマではヘロディアの娘、サロメが皇帝の怒りを買い、エルサレムに総督として赴任するピラト、ガリラヤ駐屯軍の司令官になるクローディアスらと共に帰国することになった。クローディアスは武勇に優れた人物で実はヨハネの説教に心打たれる身であったが、船上でサロメの美しさに魅せられる。_NEWLINE_彼らはヘロデの王宮で歓迎の祝宴に招かれた。そこでヘロデははじめて見る義理の娘サロメにすぐにみだらな欲望を覚える。_NEWLINE_その後、王宮近くに現れたヨハネをサロメは変装して見に行くが、母への激しい非難に怒りを覚える。一方、ヘロディアはヨハネを殺害すべく刺客を送るが、クローディアスがヨハネを守る。ヘロデはここに至り、ヨハネを逮捕し王宮内の獄に繋ぐ。_NEWLINE_やがて、ヘロデの誕生日に再び王宮で祝宴が行われた。ここにクローディアスが来て、サロメを連れて獄中のヨハネのもとへ行く。彼は、ヨハネの預言どおりにイエスが現れたことを報告する。喜びに満ちたヨハネを見たサロメはここで大きく翻意し、王宮から去ることを決意する。_NEWLINE_祝宴の場に戻ったサロメは、ヘロデの望みに従い、ヨハネの助命を求めて《7つのヴェールの踊り》を舞うが、ヘロデは王妃の主張に従い逆にヨハネの首を斬らせる。失望に沈むサロメ。クローディアスは公然と王と王妃を難詰する。_NEWLINE_そのしばらく後、イエスの説教(「山上の垂訓」)に聴き入る群衆の中にサロメとクローディアスの姿があった。 | 1222162517189866674 |
Q13632 |
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惑星状星雲
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惑星状星雲(わくせいじょうせいうん、planetary nebula)は、超新星にならずに一生を終える恒星が赤色巨星となった際に放出したガスが、中心の星の放出する紫外線に照らされて輝いているものである。中心の星は恒星の進化において白色矮星になる前の段階である 。_NEWLINE_惑星状星雲の名は、望遠鏡で観測したときに緑がかった惑星のように見えるところから、ウィリアム・ハーシェルによって名付けられた。_NEWLINE_恒星は、一生の末期になると外層が膨張して赤色巨星となり、外層のガスは徐々に恒星の重力を振り切って周囲に放出されていき、原始惑星状星雲となる。一方、中心核は自分自身の重力で収縮し紫外線を放射し、この紫外線が赤色巨星であった時に放出したガスに吸収されると、ガスはそのエネルギーによって電離して光を放って輝くようになる。これが惑星状星雲である。_NEWLINE_惑星状星雲のスペクトルは、主に電離ガスから放たれる輝線スペクトルであり、散光星雲にも見られる水素、ヘリウムのバルマー系列(可視域においては)再結合輝線や衝突励起輝線を持つ。これは、電離窒素や電離酸素の確率の低い電子遷移に対応する輝線(禁制線)である。惑星状星雲のガスは極めて希薄であり、原子間の衝突がめったに起こらないために、励起状態の失活が起こらずこれらの輝線が観測できる。 | 17442930853770654071 |
Q28686712 |
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惑星 (航空機)
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惑星(わくせい)は、大日本帝国海軍が構想したとされる艦上爆撃機。実機は製作されておらず、略符号付与にも至っていない。_NEWLINE_なお、計画経緯が不明であるのに計画があった、また計画が中止となったなど、不明点やあいまいな点が多く、惑星なる航空機を記述されたものは出展のただ一人の著述者のものであり、出展の中にも資料として明示されたものがない点に注意されたい。
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概要
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1943年(昭和18年)末頃に、愛知航空機に発注される新艦上爆撃機として計画された遠距離艦上爆撃機。正式な試作発注が行われないまま、1944年(昭和19年)夏に計画機の整理統合などの影響を受けて計画は中止となった。計画経緯や機体の詳細は不明となっているが、エンジンは中島「誉」空冷複列星型18気筒系列のものを搭載する予定であり、速度性能と軽快性で艦上攻撃機「流星」を上回るように設計されている。武装は両翼に装備された20mm機銃など。 | 12758855799290367743 |
Q2439422 |
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愛しのヘレン
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解説
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ウイングス6枚目のシングルとして1973年10月26日に発売された。イギリスで12位、アメリカで10位を記録。_NEWLINE_アルバム『バンド・オン・ザ・ラン』のために行われたラゴスでのレコーディング・セッションで制作され、同アルバムのアメリカ盤に収録された。本国イギリスではオリジナル・アルバム未収録だったが、1993年、「ポール・マッカートニー・コレクションシリーズ」の一環として発売された『バンド・オン・ザ・ラン』の再発CDにボーナス・トラックとして収録された。ベスト・アルバム『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』にも収録。B面に収録された「カントリー・ドリーマー」は、当初、2枚組の予定だった『レッド・ローズ・スピードウェイ』に収録されるはずだったが、結果的に、同シングルのB面曲として収録された。_NEWLINE_タイトルの「ヘレン」とは、ポールが自分の自動車に付けた名前のことで、スコットランドにある自分の農場からロンドンへ戻る旅路を歌詞にしている。_NEWLINE_「カントリー・ドリーマー」は、日本の男女混成5人組ユニットであるブラウン・ライスのデビュー・シングル(同年12月1日発売)にもなっている。同シングルには、阿久悠による日本語詞のヴァージョンと、英語ヴァージョンの両方を収録。当該曲に関して、当時は“日本のバンドのための書き下ろし”と発表されていたが、実際にはポール・マッカートニー&ウイングスによるヴァージョンの方が先に発売されているため、カバーという解釈も可能である。 | 11645010708459374657 |
Q5372605 |
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愛沢えみり
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来歴
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東京新宿歌舞伎町のキャバクラ「ジェントルマンズクラブ」に在籍していた23歳当時、2011年10月発売の『小悪魔ageha』誌11月号で同誌に初登場し、初登場ながら3ページにも及ぶ特集の題材となる。翌2012年10月発売の11月号より同誌の専属モデルとなった。2014年からは、お笑い芸人のいとうあさこ、歌手のSORA、および元アイドルで実業家の川崎希とともに、4月始動のテレビ東京の新番組『美の国のお茶会』にレギュラー出演。同月、『小悪魔ageha』の出版元にあたるインフォレストの事業停止に伴い同誌が休刊、この時期まで同誌の専属モデルを担い続けていた。同時期にはランウェイイベント「Girls Award〔ガールズアワード〕」への初出場もあった。キャバクラ「フォーティーファイブ」への移籍を経て、9月に初写真集『愛沢えみり ファッション&ビューティーブック Emiri』(主婦の友社)を発売。ファッションや美容、私生活などについてを綴ったファッションブックで、発売後すぐに重版が決定するに至った。2013年7月自身初のアパレルブランドである『EmiriaWiz』をネット上に立ち上げる。2015年には自身の半生などについてを綴った初の自叙伝『キャバ嬢社長 歌舞伎町No.1嬢王 愛沢えみりとしての生き方』(主婦の友インフォス情報社)を発売。同年『小悪魔ageha』の復刊に伴い、さっそく復刊第1号から同誌の専属モデルに復帰している。翌2016年には同誌4月号にて自身初となる単独表紙。同年5月に『EmiriaWiz』一号店を新宿歌舞伎町に出店、OPEN日は入店まで最大5時間待ちであった。2017年3月には『昼職未経験のキャバ嬢が月商2億円の社長に育つまで キラキラ社長・愛沢えみりの起業術』(主婦の友社)を発売した。_NEWLINE_2019年3月を以て、キャバクラ嬢を引退することを公表し、同年3月末日を以て正式に引退した。理由としては、10年間キャバクラ嬢を務めあげて、「そろそろ潮時かな」と感じたこと、モデル業との両立が難しくなったことを挙げた。引退後は主にモデルとして活動する予定である。
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ブランド
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キャバクラ勤務、ならびに『小悪魔ageha』の専属モデル活動の傍ら、2013年には自身のプロデュース「Emiria Wiz」を新たに発起、同様オンライン展開による販売を始動させている。「EmiriaWiz」ではキャバクラ系のドレスなども展開、月商1億5000万円の売上高を計上しているという(2015年)。2016年5月に第一号店となる店舗を新宿にてOPENした。
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私生活
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3人姉妹の次女として神奈川県の横浜市に出生、間もなく父親の赴任に伴い大阪へ引っ越し、さらに3歳頃まで広島の祖父母のもとへ預けられたのち、大阪へ戻った1992年以降、豊中市立少路小学校を卒業する2001年まで大阪で育った。父親の転勤とともに家族で横浜へ引っ越し、横浜市立舞岡中学校から横浜市立戸塚高等学校へ入学。夜職以前の時期には短期間ながらコンビニエンスストアの店員や「109」の店員などの職を経験したという。_NEWLINE_東京・新宿区内のマンションに在住。164センチメートルの身長に体重が39キログラム。バスト75cm、ウエスト57cm、ヒップ81cm、靴23cm。血液型はB。1週あたり6日のキャバクラ勤務の合間にひと月あたり5日間の旅行期間をとるのが普段のライフスタイル。「ジェントルマンズクラブ」担当者の言によれば、“ほとんどお酒が飲めないのにあのテンションはスゴイ”。酒が飲めない。このことについては、キャバクラ嬢として活動し始めた当初から職場や客の理解も得られていたという。
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“嬢王”
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『小悪魔ageha』のモデル(“age嬢”)のなかでも抜きん出た金銭感覚を特色とする“新嬢王族”の代表格と言われる。同誌の専属モデルとなった2012年には、自宅にあたる超高級マンションの35階90平米の部屋を誌面に公開。8月号の誌面では、各種ハイブランド製品の購入費用や美容に掛ける費用、それらに家賃や光熱費などを含めておよそ974万円のひと月あたり総合出費という金銭事情が、ファッションデザイナーの武藤静香を凌ぐ全『age嬢』中第1位の“お値段”として注目を集めた。翌2013年にも1週あたりの支出総額およそ115万円という金銭事情が誌面(3月号)で話題となる。さらに同年6月号にあっては、各モデルの着装品の合計価格(“全身総額”)を競う企画において、水輝聖羅(約562万円)や武藤静香(786万円)を凌ぐ822万円の“全身総額”を計上し1位へ、「“歌舞伎町の嬢王”ならではの貫禄」などの評を受けるなどしている。 | 10453642345495709292 |
Q55521398 |
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慶應義塾大学環境情報学部
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慶應義塾大学環境情報学部(けいおうぎじゅくだいがく かんきょうじょうほうがくぶ)は、神奈川県藤沢市遠藤に所在する、慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに置かれる環境情報学部である。
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概要
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慶應義塾大学環境情報学部は、加藤寛、高橋潤二郎、竹中平蔵などが設立に参画し、1990年に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに開設された。同学部は、幅広い分野の領域を扱い、科学技術やデザインでの創造的問題解決を理念として掲げている。授与される学位は学士(環境情報学)。当学部の著名な教授として、「日本のインターネットの父」と称される村井純が所属している。 | 15501419085895480126 |
Q11074236 |
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憐 Ren
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『憐 Ren』(れん)は、 角川スニーカー文庫から発行された水口敬文(イラスト:シギサワカヤ)による日本のライトノベル。全4巻。
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概要
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第9回スニーカー大賞奨励賞受賞作。応募時のタイトルは『彼女の運命譚』。
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ストーリー
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退院した鳴瀬玲人は、久しぶりに来た教室で見知らぬ少女・朝槻憐を見つける。転校生かと思うが、他のクラスメイトは前からいると言う。彼女の謎に触れようとした時に傍にいた関係者に異変が起きるなど、不可解に思っていた玲人は教室で憐と二人だけになった時、不気味な違和感を確信する。彼女は、「時の意志」という巨大なものに関係する存在であった……。_NEWLINE_自殺をもいとわぬネガティブな少女と、どうしようもなく前向きな少年が織り成す希望の物語。
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主題歌
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『空色のミライ』:食い逃げリーダー | 16044177858905383716 |
Q11495225 |
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憧明良
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憧 明良(しょう あきら)は、日本の漫画家。神奈川県横浜市在住。
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概要
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主に成人向けの雑誌で作品を描いている。さまざまなジャンル、シチュエーションにおいて読者を引き込む描写の作品を描く。 | 15524050605762385073 |
Q28687213 |
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戦ふ隊商
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あらすじ
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南北戦争の頃。隊商のガイド、クリントは若くて優秀だが素行が悪く、親代わりのビルとジムは女性を添わせることで落ち着かせようとする。その女性・フェリスはサクラメントへ向かう隊商に参加。途中、一行は駅馬車がインディアンに襲われた現場に遭遇。1人の男によれば自分もかつてインディアンに襲われたが自分だけは助かったという。インディアンの襲撃を如何にかわすかに関して一行内ではその後も議論を繰り返す。フェリスは、自分は利用されたに過ぎないとしてクリントを拒否。しかしフェリスが事故を起こした時にクリントは間一髪で彼女を救出。それからは恋人としての付き合いを始める。隊商内は空気が緩み、荷物を売って遊興費に当てる者達が出て来る。一行は前進を選択。実は例の男はインディアンの仲間であり、隊を抜けてインディアンへ合図を送る。川を半分ほど渡ったところでインディアンとの戦闘が勃発。隊商側は、川を渡りきったグループが全滅。ビルとジムも死亡。クリントは燃料に火をつけ爆発を起こし、インディアンを駆逐。帰還を主張する人物もいたが、一行はそのままサクラメントを目指す。しかし、クリントはビルとジムの生前の意向によりガイドを廃業した。 | 980166875126907996 |
Q496738 |
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戦火の中へ
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あらすじ
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1950年。朝鮮人民軍が軍事境界線を越えて進撃したことで始まった朝鮮戦争で韓国軍は首都・ソウルを陥落されるなど劣勢を強いられ、ついには朝鮮半島南端まで追い詰められてしまった。そこで韓国軍は全兵力を洛東江流域に集中させ反撃を試みることとなった(釜山橋頭堡の戦い・浦項の戦い)。しかしそのことで戦略上の拠点である浦項に駐留していた部隊も移動することとなってしまうため、部隊本部を置いていた女学校の校舎の防衛には71名の学徒兵を充てることとなった。中隊長となった少年・ジャンボムは同じく動員された不良グループとの衝突などもあったがなんとか71名をまとめ、そのことを手紙に綴って母に送っていた。_NEWLINE_やがて朝鮮人民軍「766部隊」が南下。大隊長のパク少佐は「洛東江へ進撃せよ」という上官の命令を無視し、「最終拠点である釜山への近道」であるという理由で浦項へのルートを選択してきた。「女学校には学徒兵しかいない」という情報を聞いたパクは自ら女学校を訪れて、学徒兵に降伏を要求するもジャンボムはこれを拒否。やがて766部隊は校舎に対して攻撃を開始した…。 | 17721469233453873686 |
Q4811473 |
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抵当権
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抵当権の概要
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民法は抵当権の内容について「抵当権者は、債務者又は第三者が占有を移転しないで債務の担保に供した不動産について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利を有する」と規定する(369条1項)。_NEWLINE_まず、債権者(抵当権者)は自己の債権を確保するため、抵当権設定者(通常は債務者。物上保証も参照)の不動産または権利(地上権及び永小作権)に抵当権を設定する。抵当権は非占有担保物権であるため、抵当権設定の合意のみにより設定できるが(176条)、不動産登記が第三者に対する対抗要件となり(177条)、かつ抵当権の実行には通常、登記事項証明書が必要なため(民事執行法181条1項3号)、ほとんどの場合登記される。_NEWLINE_抵当権は同じ不動産について重ねて設定できる。その場合の各抵当権の優劣は設定された先後(登記されなければ対抗力がないため、実際には登記の順序)による(第373条)。その先後により1番抵当権、2番抵当権という具合に順位がつけられ、その順番に従って優先弁済を受けることになる。_NEWLINE_抵当権の特徴は非占有型の担保物権である点であり、抵当権が設定されても抵当権設定者は抵当権が設定され担保となっている目的物を債権者に引き渡す(占有を移す)必要がない。抵当権としばしば対比されるのが同じ約定担保物権である質権であるが、質権の場合には目的物を債権者に引き渡さなければならない点が抵当権とは異なる(344条)。抵当権の場合には、抵当権設定者は引き続き担保の目的物を自由に使用・収益・処分することができるので、目的物の効率的利用が妨げられず、社会的に重要な役割を果たしている。_NEWLINE_債務者が債務不履行に陥った場合には、抵当権が実行されて不動産競売(担保不動産競売)に付され、抵当権者はその代金をもとに他の一般債権者に優先して弁済を受けることで、債権の回収を図ることができる。抵当権が実行され不動産競売により目的物が競落されるとその物に設定されていた抵当権はすべて消滅する(消除主義)。抵当権の実行方法には担保不動産競売のほか担保不動産収益執行などの方法もある。
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抵当権の設定
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抵当権の設定は抵当権設定者と抵当権者との間で締結される抵当権設定契約によって設定される。
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目的物
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抵当権を設定することができるのは、登記・登録制度がある物や権利だけである。これは当該物に抵当権が設定されていることが誰にでも分かるよう、公示する必要があるからである。民法上、その典型は不動産であり(369条1項)、地上権と永小作権にも抵当権を設定することができるが(同条2項)、そのような形で利用されることはあまりない(よって以下では物に抵当権が設定された場合を念頭に記述する)。_NEWLINE_また、各種の特別法によってその対象が不動産以外にも広げられている。前述のとおり、登記や登録といった抵当権の公示手段があるものである。鉱業権、漁業権、立木(立木法)、船舶(商法848条)、自動車、農業動産、航空機、建設機械、工場(工場抵当という)がある。さらに、企業組織全体をその対象とする財団抵当がある。ここで対象となるのは工場財団や鉄道財団などである(詳細は特別法上の抵当権を参照)。
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物上保証
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通常、抵当権は債務者の所有物に対して設定される。つまり、債務者=抵当権設定者となる。しかし債務者以外の者が抵当権設定者となって債務を担保する場合もある。この場合の抵当権設定者は債務を負わない(つまり自ら給付を実現する義務を負わない)が自己の不動産の上に他人の債務のための責任だけを負担していることになる。これは債務者以外の者の財産が責任財産となるという点で保証の関係に類似するため、こうした抵当権設定を物上保証(ぶつじょうほしょう)といい、このときの抵当権設定者を物上保証人という。_NEWLINE_なお、保証人(連帯保証人)が担保提供する場合は、物上保証の責任だけでなく、保証人(連帯保証人)としての責任もあることは当然である。
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被担保債権
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抵当権の被担保債権は、通常、金銭債権である。元本の他、利息、定期金、損害遅延金、違約金等元本に付随するものが含まれる。ただし、利息等、時の経過によって金額が増大するものについては直近2年分までしか、優先弁済の対象とはならない(375条)。金額の増大によって、後順位抵当権者らに配当が回らなくなるのを防ぐ趣旨であり、後順位抵当権者が少ない質権は、2年の制限に服しない(346条)。_NEWLINE_抵当権を設定するには被担保債権を「特定」する必要がある。不特定の債権を担保したい場合は根抵当権を設定すべきである。特定さえされていれば、抵当権設定時に被担保債権が発生していなくても、期限付債権や条件付債権などで将来発生する可能性があるものについて被担保債権とすることができる(附従性の緩和、大判昭7.6.1)。
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果実
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抵当権はその担保する債権につき不履行があったときは、その後に生じた抵当不動産の果実に及ぶ(371条)。_NEWLINE_ここでいう果実とは、天然果実だけでなく法定果実も含む。この規定が担保不動産収益執行の実体的根拠であることに争いはないが、物上代位との関係でもそうであるかについては、後述のとおり争いがあった。また、債務不履行前に生じた賃料に対して及ぶか否かについても争いがある。_NEWLINE_抵当権者は、利息その他の定期金を請求する権利を有するときは、原則としてその満期となった最後の2年分についてのみ、その抵当権を行使することができる(375条)。これは後順位抵当権者の期待を保護するため(後順位抵当権者は、先順位抵当権の被担保債権額等を確認して担保価値を把握するはずである)であるから、後順位抵当権者等がいない場合には2年分を超えて抵当権を実行できる。
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賃借権
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土地賃借人が該土地上に所有する建物について抵当権を設定した場合には、原則として、抵当権の効力は当該土地の賃借権に及び、建物の競落人と賃借人との関係においては、右建物の所有権とともに土地の賃借権も競落人に移転する(最高裁判例昭和40年5月4日)。この場合賃貸人の承諾が必要であり(619条)、承諾が得られないときは、競落人は、承諾に代わる許可を裁判所に求めることが出来る(借地借家法20条)。
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物上代位
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抵当権の目的物が滅失した場合でも、それが債権などの形に転化していれば、それに対して抵当権が及ぶ(372条、304条)。例えば、抵当権の目的物であった家屋が焼失した場合、その損害を填補するために支払われる保険金や賠償金についても抵当権の効力が及び、抵当権者はそこから優先弁済を受けることができる。ただし、金銭が実際に支払われる前の、債権の状態で差押えをしなければならない。物上代位の対象となるのは上記の保険金や賠償金のほかに、土地収納の際の保証金や代替地がある。
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物上代位と賃料
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抵当目的物が賃貸に用いられている家屋であった場合、法定果実としての「賃料」に対しても抵当権の効力が及び、物上代位できるかが争われた。これは1990年代のバブル景気崩壊によって土地建物の担保価値が著しく低下したために注目された債権回収方法である(それ以前は土地の売却代金からの回収がほとんどであった)。通説と最高裁の判例はこれを可能としてきたが、異論もあった。_NEWLINE_そこで2003年(平成15年)に371条を改正して、抵当権が債務不履行後に生じた抵当不動産の果実(法定果実である賃料が念頭に置かれている)にも及ぶとされ(もっとも判例は物上代位の実体的根拠を372条・304条に求めるのであり、この点は変わらないとする理解が多数のようである)、同時に民事執行法において抵当目的物(抵当不動産)からの収益によって債権を回収するための担保不動産収益執行の手続が導入された(民事執行法188条)。しかしこの担保不動産収益執行の手続は、強制管理の手続を手直ししたもので、管理人に費用が掛かるので、大規模マンションには向いているが、小さなマンションでは経費倒れとなり、依然として物上代位の利用価値は大きい。_NEWLINE_いっぽう、抵当目的物が転貸された場合において、判例は、372条で準用する304条に規定する「債務者」に原則として転貸人は含まれないとして、転貸賃料に対する物上代位を否定した(最決平12.4.14)。
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抵当権に基づく妨害排除請求
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日本の抵当権規定は、ボワソナード旧民法を介して、フランス法・ベルギー法の影響を強く受けている。しかし、民法制定後、日本でドイツ法的解釈が支配的となると、抵当権は抵当目的物の交換価値のみを把握する価値権であり、担保に供された物の使用には介入するべきでないと考えられるようになり(特に我妻栄の影響)、物権的請求権についても所有権等と比べて制限があった。そのため、短期賃貸借制度を悪用するなどして抵当目的物を占有し競売代金を低下させ、それを恐れた抵当権者から法外な敷金の返却や立退料を求める占有屋が跋扈した。それゆえ、20世紀末になると、そうしたドイツ的解釈が日本において前提となる必然性はないと考えられるようになった(内田貴などが主張)。_NEWLINE_平成11年(1999年)の最高裁大法廷判決は、傍論であるが抵当権に基づく妨害排除請求権を初めて認めた。この判決により占有屋の跋扈に一定の歯止めがかけられることとなった。さらに、平成17年(2005年)判決では、正面から抵当権に基づく妨害排除請求権を承認した。
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代価弁済
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抵当不動産について所有権や地上権を買い受けた第三取得者が、抵当権者の請求に応じてその代価を弁済したときは抵当権は消滅する(378条)。これを代価弁済という。
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抵当権消滅請求
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抵当不動産の第三取得者は383条の規定に従って抵当権消滅請求をすることができる(379条)。もっとも、主たる債務者、保証人及びこれらの者の承継人は抵当権消滅請求をすることはできない(380条)。
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抵当直流
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抵当権者は設定契約あるいは別個の特約により、債務者が弁済期に債務を弁済しない場合に民事執行法上の手続によらずに抵当権の目的物を抵当権者に移転しまたは処分することができる契約を抵当権設定者と結ぶことができるものと解されている。これを抵当直流(ていとうじきながれ)という。質権の流質契約に相当するもので、質権における流質契約の場合には弁済期前にこのような契約を結ぶことは禁じられているが(349条)、抵当権の抵当直流については有効であると解されている。
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法定地上権
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土地及びその上に存する建物が同一の所有者に属する場合において、その土地または建物につき抵当権が設定され、その実行により所有権を異にするに至ったときは、その建物について、地上権が設定されたものとみなされる(388条)。これを法定地上権という。_NEWLINE_法定地上権の制度は、建物のみに抵当権が設定された場合で、抵当権が実行された場合に競落人が建物を所有するために土地を使用する権限がなくなるため、本条がないと土地の所有者が同意しないと建物を結局収去せぜるを得なくなるが、これでは建物の有効利用を図れなくなるために設けられているものである。_NEWLINE_1番抵当権設定時に土地と建物の所有者が同一の場合に限り、法定地上権の成立が認められる。これは、1番抵当権設定時に土地と建物の所有者が異なる場合には、土地所有者と建物所有者との間に土地利用権原についての約定(賃貸借等)があるはずであり、建物の抵当権の効力は従たる権利としてその賃借権等にも及んでおり、法定地上権を認める必要がないと考えられるからである。
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フランス
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フランス法においては、抵当権は3種類に分けられる。すなわち、約定抵当権(hypothèque conventionnelle)、裁判抵当権(hypothèque judiciaire)および法定抵当権(hypothèque légale)である。
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約定抵当権
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約定抵当権は、当事者間の合意によって設定される抵当権である。
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裁判抵当権
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裁判抵当権は、裁判所の裁判によって設定される抵当権である。
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法定抵当権
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法定抵当権は、(合意や裁判なくして)法律に基づき成立する抵当権である。妻は、夫が現在又は将来において所有する一切の不動産に対する包括的な抵当権を有するものとされている。
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スコットランド
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イギリスのスコットランドの民法体系にも抵当権制度は持ち込まれ、そこでは、約定抵当権(すなわち、冒険貸借(en:bottomry)と積荷冒険貸借(en:respondentia))と法定の黙示抵当権が区別された。後者については、最も重要なのは賃料のための土地所有者の抵当権(イングランド法におけるdistress(自救的な動産差押え)に相当する。)であり、その効力は当該土地の生産物や当該土地において飼養される牛や羊、さらには耕作用の家畜や馬にまで及んだ。_NEWLINE_スコットランドにおいては、農地に関する抵当権の規律が長らく不満の原因となっていた。その適用は、1867年抵当権改正(スコットランド)法(the Hypothec Amendment (Scotland) Act 1867)と、1880年抵当権廃止(スコットランド)法(the Hypothec Abolition (Scotland) Act 1880)によって制限された。後者によれば、土地所有者の土地賃料(当該土地上の建物の賃料を含む。)のための抵当権のうち、当該土地の広さが2エーカー(8,000 m²)を超えており、農地又は牧草地として賃貸されたものについては、終了するものとされた。同法および1883年農業用借地(スコットランド)法(the Agricultural Holdings (Scotland) Act 1883)により、賃料のためのその他の権利および救済が、抵当権が終了した場合には、土地所有者に対して付与された。_NEWLINE_2007年破産・強制執行等(スコットランド)法(the Bankruptcy and Diligence etc. (Scotland) Act 2007)は、コモン・ロー上の強制執行手続である賃料のための一時的強制管理(sequestration for rent)を廃止した。スコットランド法においては、土地所有者の抵当権は、土地所有者の貸地上に位置する一切の物品に対するコモン・ロー上の担保権であり、当該物品の所有者が誰かは問われない。その抵当権が担保するのは、土地所有者に対して負う一切の債務というわけではなく、賃料のみである。土地所有者の抵当権は、賃料のための一時的強制管理(sequestration for rent)と呼ばれる裁判所の手続によって実行される。_NEWLINE_スコットランド行政府はそのような仕組みは近代的な執行制度の下では役割を終えたと判断した。その主な理由は、土地所有者は、不払賃料を回収するには、差押え(attachment)などの他の強制執行手続を利用できるためである。賃料のための一時的強制管理(sequestration for rent )は、今日においては、土地所有者の抵当権によって担保される物品の売却のためにのみ用いることができる。なお、土地所有者の抵当権は、適格な賃貸借があれば自動的に発生する。_NEWLINE_法案は、強制執行手続そのものではないにもかかわらず、抵当権にも一定の変更を加えた。例えば、2002年負債整理・差押え(スコットランド)法(the Debt Arrangement and Attachment (Scotland) Act 2002)によって開始された、住居内の物品に対する抵当権を廃止するプロセスを完了させた。また、第三者の所有する物品に対する抵当権も廃止した。_NEWLINE_法案はさらに、賃料のための一時的強制管理(sequestration for rent )の廃止にかかわらず、土地所有者の抵当権は、倒産時において「土地所有者に優先権を与える」担保権として存続することとした。 | 16909731744695945647 |
Q11497692 |
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押村高
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押村 高(おしむら たかし、1956年 - )は、日本の政治学者、国際関係研究者。青山学院大学国際政治経済学部国際政治学科教授。専門は、政治思想史、国際関係思想史、フランス政治。
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来歴
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東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。1984年、早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。1987年、仏政府給費留学生としてフランスへ留学、1989年、パリ第2大学(パンテオン・アサス)大学院にてDEA(Diplôme d’Etudes Approfondies、Science politique)取得。早稲田大学教育学部助手、パリ第二大学・パリ社会科学高等研究院客員研究員などを歴任。青山学院大学国際政治経済学部専任講師、助教授を経て、1998年4月より教授。2012年度より国際政治経済学部長。 1997年、早稲田大学から『モンテスキューの政治理論――自由の歴史的位相』で博士(政治学)を授与される。 日本政治学会理事、政治思想学会理事。司法試験(旧一次)出題委員など歴任。 | 10842459948655555092 |
Q17215486 |
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招魂社競馬
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招魂社競馬(しょうこんしゃけいば)は1870年(明治3年) から1898年(明治31年)まで東京麹町区九段の招魂社(現在の靖国神社)境内にあった競馬場で行われていた競馬。日本人の手による最初の洋式競馬である(先に行われていた横浜や神戸の競馬は外国人によるもの)。_NEWLINE_主催は陸軍で招魂社/靖国神社の例大祭に際に行われ、九段招魂社の「馬かけ」や九段競馬、靖国神社競馬とも呼ばれる。
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概要
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1869年(明治2年)九段に招魂社(1879年(明治12年)に靖国神社に改称)が作られた際、境内には馬場も作られた。馬場は一周約500間(900メートル)の細長い馬場で靖国神社境内図にあるように極端に細長くコーナーのカーブがきつい馬場であった。_NEWLINE_陸軍(明治5年までは兵部省)は1870年(明治3年)9月23日に招魂社例大祭に合わせて競馬を行う(ただし靖国神社百年史や麹町区史では1871年(明治4年)5月の例大祭で初めて競馬が行われたとしているので、それ以前は非公式な競馬だったのかもしれない、明治3年の絵では一般の観客の姿は見られないが、明治4年秋の競馬では観客であふれている)。陸軍では軍馬を出場させ、軍以外の一般からも競馬の出走者を募っている。翌1871年(明治4年)1月に第2回目の競馬を開催する。第2回目までは賞品を与えたり多くの観客を集めたような記録はないが、第3回目となる明治4年5月の例大祭で行われた競馬は観客も大勢集まる盛大なもので、陸軍は明治4年5月からは招魂社競馬の勝利者には賞品も与えるようになっている(靖国神社百年史や麹町区史の競馬の記述はこの時から始まる)。明治4年5月の競馬で陸軍が用意した賞品は懐中時計5個、羅紗戎服地5着、フランケット5枚、ただし競馬の勝利者には一勝一品を与えたとあるから15レース行われたのであろう。_NEWLINE_1872年(明治5年)5月の競馬では各レースの優勝者には各々白銀1枚、同年9月のレースでは勝利者に与えるものは賞品から賞金に変わり各レースの優勝賞金は1円になっている。_NEWLINE_陸軍は毎年、招魂社/靖国神社の年三回の例大祭や臨時祭ではかならず競馬を行い、軍からだけではなく一般からの参加も認め、優勝者には賞を与えた。_NEWLINE_明治15年以降は年三回、各々3-4日間行われる例大祭の中で最初の2日間に競馬は行われている(靖国神社の例大祭の余興では競馬・相撲・能のなかで1つか2つが毎日行われている。)。_NEWLINE_こののち賞金額も増えていき、出走馬数もだんだん増えていく。一回の祭礼で出走する馬はピークの1896年(明治29年)11月の祭礼競馬では268頭にもなった。1891年(明治24年)から1898年(明治31年)の間の競馬では一番出走馬が少ない時でも150頭を数えたという。レース数も増え、明治20年5月6日の競馬では1日で20レース行われている。_NEWLINE_主として軍人による勇壮な招魂社/靖国神社の競馬は大変な人気であったと言い、月岡芳年や三代目歌川広重の絵でも観客席が埋め尽くされている様子が書かれている。_NEWLINE_観客には外国人もいたようで、横浜根岸競馬で1871年(明治4年)から1879年まで活躍したタイフーン号は招魂社競馬を観戦していたイギリス公使館付医師E.Wheelerが見出し購入したという。_NEWLINE_陸軍では軍として購入した馬を調教・選別の上で招魂社/靖国神社の競馬に出場させ、良い成績を上げた馬は力に見合った価格をつけて払い下げを行っていた。招魂社/靖国神社競馬で良い成績を上げた馬は戸山や三田、横浜根岸にも出走し、つまり招魂社/靖国競馬は祭礼の余興としてだけではなく、馬匹の改良の一端も担っていた。_NEWLINE_しかし、靖国神社の馬場は近代競馬を行うにはあまりにも狭すぎて、競馬は1898年(明治31年)には中止され、1901年(明治34年)には馬場も廃止されている。 | 8600667482209332232 |
Q170475 |
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振動
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公害としての振動
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物が振動すると、音や衝撃を発生させるため、強度の振動は構造物や人体に重大な影響として現れる。この振動が発生する原因としては、自動車や工事などの機械による振動や、地震などの自然原因による振動などがある。_NEWLINE_日本では振動は環境基本法で定義されている公害のひとつであり、振動規制法によって規制される。主に、幹線道路や鉄道を走行する車両、工場の機械設備や土木建築現場の建設機械などの作動によって引き起こされ、周辺住宅などに与える振動は公害とみなされる。_NEWLINE_また上記の公害とは別に、回転機器などにおいては、固有振動と一致すると共振によってより大きな振動となり破損にいたることもある。
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数学における振動
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数学においては、関数や数列の極限が定まらないとき、振動するという。極限やen:Oscillation_(mathematics)を参照。 | 10352260548721921529 |
Q578809 |
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放射能X
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概要
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1950年代に冷戦下のハリウッドで多数製作された、「放射能の影響による巨大生物」映画の1つ。3D映画として企画されたが、当時の特撮技術では画面に奥行きを出せなかったため、実物大の巨大蟻のプロップを使ってライブ・アクションで撮影された。_NEWLINE_なお、3Dの企画はクランクイン前に取り止められたが、アカデミー特殊効果賞にノミネートされた。
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ストーリー
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ニューメキシコ州の砂漠で突如起こった連続惨殺事件。その唯一の生存者である少女は放心状態となっていたが、現場から採取された大量の蟻酸を嗅いだ彼女は「Them!(奴らよ!)」と絶叫した。事件の犯人は何度もの核実験の影響により巨大化した蟻で、砂漠の地下は彼らの巨大な蟻塚と化していた。保安官のピーターソンは、生物学者のメドフォードやFBI捜査官のグラハムと協力して毒ガスによる殲滅作戦を行うが、時すでに遅く女王蟻は巣立った後だった。_NEWLINE_保安官たちは、砂漠から消え失せた女王蟻がロサンゼルスへ向かい、その地下を縦横無尽に走る下水道を新たな巣穴としていたことを突き止める。軍は蟻を根絶すべく、火炎放射器で武装した歩兵部隊を総動員する。幼い兄弟が蟻にさらわれたことを知り、単身で巣穴へ潜入した保安官が見たものは、無数の卵とそれを守る女王蟻の姿だった。 | 16847218972448409498 |
Q168891 |
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文化地理学
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現代文化地理学の潮流
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現代文化地理学は、カール・O・サウアーの提唱した文化的景観に対する批判より始まり、個人や集団による場所 (place) への価値や意味付けによって景観が形成されていくという考えの下、文化と空間・場所との関係が研究のメインストリームとなっている。場所の研究に関してはエドワード・レルフ、イーフー・トゥアン、ジョン・アーリが有名。
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景観概念
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カール・O・サウアーは、景観を誰が見ても分かる視覚的・客観的なものに限定した。しかし、1970年代からは景観には主観性があるのではないかという疑問が投げかけられ始めるようになる。これは、特定の人間がその景観を見ることによって、他者とは異なる捉え方がなされることに着目した新たな景観概念である。
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文化概念
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カルチュラリズムが批判されるまでは、文化は当初から存在、設定されている疑いの無いものであるとされていたが、1970年代以降は文化とは日々それに働きかける人々によって更新、設定されていくものであるという考え方が主流となる。また、文化は独立したものではなく、混合物であり、文化同士の境界線は曖昧であるとされ、その中で文化同士のせめぎあいが行われることで、文化の多様性が形成されているとも考えられるようになった。 | 4335984278460978584 |
Q11500001 |
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文書通信交通滞在費
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問題点
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前述のように、文通費は、報告や公開の義務がない。この盲点を突く形で、文通費を投資に流用するなどする議員が存在し、このことから、国会議員の「第二の給与」とも言われ問題視されている。 | 17587036630253431697 |
Q11500570 |
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斎藤惇夫
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来歴
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1940年に新潟県新潟市に生まれる。小学校から高校卒業までを長岡市で過ごす。新潟県立長岡高等学校を卒業後、立教大学法学部法学部に進学。同大卒業後、大手電機メーカーに勤務した。_NEWLINE_その後、福音館書店編集部に勤務。長年にわたり児童書籍の編集に携わる。同社編集担当取締役となった。_NEWLINE_1970年の処女作『グリックの冒険』で、翌年に日本児童文学者協会新人賞を受賞する。_NEWLINE_1972年の『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』で、国際児童年特別アンデルセン賞優良作品に選出される。_NEWLINE_1983年には、『ガンバとカワウソの冒険』で野間児童文芸賞を受賞した。_NEWLINE_『冒険者たち』はロングセラーとなり、「ガンバの冒険」の題で連続アニメ化された。_NEWLINE_また、劇団四季により『冒険者たち ガンバとその仲間』というタイトルで1976年より繰り返し上演されている。_NEWLINE_これらの作品の続編の執筆を望む読者の声は多いが、本人はもともとこれらの作品を三部作として位置づけていたため、続編を執筆することは考えていない。作家としては寡作である。2010年、23年ぶりの創作『哲夫の春休み』を上梓_NEWLINE_2017年4月より、さいたま市浦和区の麗和幼稚園園長。
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人物
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処女作となった『グリックの冒険』を書くきっかけは、斉藤の家で育てていたシマリスにまつわるエピソードからと同作のあとがきで自身述べている。また、斉藤本人の幼い頃の実体験も、この作品の執筆に生かされている。_NEWLINE_『グリックの冒険』の反響は大きく、読者から次作の催促があったが、その多くがガンバとその仲間のストーリーを望むものであったという。しかし、斉藤はガンバを主人公にして物語を描くことを考えてはいなかった。この頃、斉藤は福音館書店で童話の編集に携わっていた。ある日仕事で八丈島へ行くことになった。八丈島で野生のイタチを目撃し、太陽の光を浴びて白く見えたイタチに心を奪われ、『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』の着想に至り、作品を書き上げた。_NEWLINE_斉藤はカワウソを好きな動物に挙げているが、『ガンバとカワウソの冒険』執筆前には、当時ニホンカワウソが絶滅の危機に瀕しているのを知らなかったという。ガンバの冒険シリーズの挿絵を担当していた薮内正幸と、絶滅の危機にある動物について語り合った際に、斉藤はニホンカワウソの置かれている状況を知り得た。ニホンカワウソに興味をもった斉藤は、高知県を訪れ取材を重ねるなどし、『ガンバとカワウソの冒険』を完成させた。_NEWLINE_『冒険者たち ガンバと15ひきの仲間』と『ガンバとカワウソの冒険』の執筆については、薮内正幸との話が少なからず執筆のきっかけになったようである。
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著書
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旧版のある作品は、新版のみ記載。 | 13341259760812424767 |
Q11500671 |
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斎藤裕子 (アナウンサー)
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来歴・人物
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1979年に津田塾大学国際関係学科卒業と同時にフジテレビのアナウンサーとして入社。主に報道畑を担当、『サンケイテレビ朝刊』を経て11年先輩の逸見政孝とコンビを組み1983年3月から1984年3月まで約1年間『FNNニュースレポート6:30』のニュースキャスターなどを務めていた。 | 952833031405024718 |
Q11500715 |
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斐伊川堤防桜並木
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斐伊川堤防桜並木(ひいかわていぼうさくらなみき)は、島根県雲南市木次町に流れる斐伊川の堤防沿い約2km(木次駅前から上流)の区間に植えられた桜並木の名称。
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概要
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約800本のソメイヨシノが植えられている。_NEWLINE_1990年(平成2年)には、日本さくら名所100選にも選ばれている。 | 7995804674665041700 |
Q11501404 |
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新八犬伝
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概要
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前作『ネコジャラ市の11人』(人形劇コメディ)、前々作『空中都市008』(近未来SF)の相次ぐ不振を受け、時代劇という新ジャンルを導入することで、NHKテレビ人形劇の立て直しを図った作品。15分番組(週5日放送)でありながら、平均視聴率20%を記録した番組となった。アクション要素を加味した大胆な脚色や、辻村ジュサブローによる人形美術が人気を博した。_NEWLINE_「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」という文字が浮き出る8つの珠をそれぞれ持つ、伏姫ゆかりの八犬士が、悪代官・悪党・怨霊らによってもたらされる困難・妨害を乗り越えて活躍する。また、八犬士同士の出会いや、お互いの素性を知る前の行き違いなども見所で、特に犬塚信乃と犬飼現八が対決する「芳流閣の決闘」は劇場版の見せ場になっている。_NEWLINE_物語だけでなく、黒子姿で語りを担当した九ちゃんも人気があった。黒子の九ちゃんは、坂本九本人が顔出しした場面もあるが、スケジュール多忙で、別人が扮していた回もある。九ちゃんの名調子による口上、「因果は巡る糸車、巡り巡って風車」や、番組終了時の「本日、これまで!」は好評で、視聴者の間で流行した。口上の人気にあやかり、挿入歌『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』も作られた。_NEWLINE_また、「青天の霹靂(せいてんのへきれき)」といったなじみのなかった言葉をこの放送で覚えた子供も多かったとされる。これは、話中に登場する「霹靂車」(へきれきしゃ:車輪のついた投石機)の名前の由来を説明するために、稲妻のアニメと雷鳴の効果音とともに、「『霹』も『靂』もカミナリ。青空に突然雷が鳴ったら誰でもびっくりするでしょう? このように突然思いがけないことが起きることを『青天の霹靂』と言います...」と、マル九が演技を交えた名調子で、子供にも解りやすく解説したことによる。_NEWLINE_放送終了後、ほとんどのマスターテープが消去されてしまったため、視聴可能なエピソードは、第1話、第20話、最終話の3本のみだと思われていたが、2011年に新たに第86話が番組関係者から提供され、NHKアーカイブスに追加された。_NEWLINE_放送当時、家庭用ビデオテープレコーダはUマチックのみで普及していなかったため、本作の映像が民間から見つかる可能性は低く、全話の再放送や完全版の配信・ソフト化はまず見込めない。1975年には、東宝チャンピオンまつりの1作品として、40分の劇場版が新たに製作・公開された。こちらはDVD化されている。_NEWLINE_なお、第1話、第20話、最終話の3話分に加え、坂本九の解説を新たに収録した『NHKライブラリー選集』が1985年5月18日にNHK教育テレビで放送されている。_NEWLINE_また、2012年2月19日放送の『NHKアーカイブス』(NHK総合テレビ)では、ゲストに九代目林家正蔵を迎え、第1話、最終話の一部と、第86話が放送された。この時は、放送終了直前に茨城県日立市沖で震度5弱の地震が発生し、地震速報に差し替えられたため、同年2月29日に改めて放送されている。 | 1795419634832322438 |
Q1136564 |
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新大牟田駅
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概要
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大牟田市の代表駅である大牟田駅(JR鹿児島本線・西鉄天神大牟田線)から約7km北東の岩本地区に設置された。最も近いJR(在来線)駅は吉野駅、西鉄駅は東甘木駅であるが、いずれも当駅から3-4km離れている。_NEWLINE_なお、大牟田駅とは選択乗車が可能である。
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駅構造
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相対式ホーム2面2線を有する高架駅。通過線がなく、安全のために可動式安全柵が設けられている。_NEWLINE_駅舎は三層構造で、近代化遺産をイメージして1階にれんが風のタイルを用い、2、3階の外壁は緩やかに波打たせ、未来へ吹き抜ける風を表現している。内装にはカルタや大蛇山をあしらっている。_NEWLINE_改札口および待合室は1階、ホームは3階にある。また、改札口や待合室と自由通路を挟んで反対側(北側)には新大牟田駅観光プラザがある。_NEWLINE_当駅の南側(三池トンネル北側入口付近)に新大牟田保守基地が設置された。
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駅周辺
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駅周辺では区画整理が行われ、駅利用者のための駐車場が整備されている。また、周辺に住宅地などを整備する計画がある。 | 2437912644421452728 |
Q24875164 |
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新御堂 (君津市)
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地理
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市内西部、小糸川支流の江川左岸に位置する。地内は北東部に集落と水田があるほかは山林である。_NEWLINE_北で貞元、東で杉谷・郡、南で小香、西で上湯江とそれぞれ接する(いずれも君津市)。
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地名の由来
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地内の最勝福寺の建立に由来すると伝えられている。
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交通
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地内を通る鉄道路線・バス路線・国道・県道はない。最寄駅は内房線君津駅。バス路線では、杉谷・八幡地内を通る君津市コミュニティバス小糸川循環線に「新御堂入口」バス停がある。 | 13689833767698010467 |
Q30925505 |
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新本亘
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略歴
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ラグビーを始めたきっかけは兄。_NEWLINE_2011年、崇徳高校卒業後、専修大学に入る。_NEWLINE_2015年、専修大学卒業後、宗像サニックスブルースに加入。同年10月24日に行われたトップキュウシュウA第6節の三菱重工長崎戦に途中出場で公式戦初出場を果たす。_NEWLINE_2018年、清水建設ブルーシャークスに加入。 | 4232213945550703690 |
Q11503621 |
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新潮ミステリー倶楽部賞
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新潮ミステリー倶楽部賞(しんちょうミステリーくらぶしょう)は、新潮社が主催した公募の長編ミステリーの新人賞で、1996年から2000年まで全5回実施された。受賞作は、新潮社のハードカバーの単行本シリーズ「新潮ミステリー倶楽部」から刊行された。_NEWLINE_1988年から1994年まで全7回実施された日本推理サスペンス大賞(日本テレビ主催、新潮社協力)を引き継いで実施されたものである。また、この賞の後には、2000年より新潮社・幻冬舎・テレビ朝日主催のホラーサスペンス大賞が実施された。 | 759753475476031142 |
Q21653314 |
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新田町 (高浜市)
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地理
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高浜市の北西端に位置する。衣浦港の一部に相当し町内には貯水場や養魚場のほか多くの工場が立地している。町内に丁目を持つが小字は置かれていない。 | 12596801333644377217 |
Q11504250 |
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新鍛冶町 (弘前市)
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地理
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鍛冶町と同様の娯楽街・歓楽街である。町域の北部は土手町、東部は北川端町、南部から南西部にかけて桶屋町、西部は鍛冶町に接する。 | 1578926923904562424 |
Q11504540 |
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旅行博士観光バス
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概要
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設立当初は韓国の旅行会社「株式会社旅行博士」が母体で、日本初の外資系観光バス会社として設立された。2008年に母体変更によりトラベル・テースト・ジャパンに社名変更された。韓国からのインバウンドツアー輸送を中心に一般貸切も行っていた。 | 2348503988612384841 |
Q11504645 |
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日の出 (浦安市)
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地理
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第2期海面埋立事業によって作られた新町地区に位置し、浦安市最東端にあたる。区域内は「海風の街」と称されるマンションを中心とした市街地となっている。_NEWLINE_三丁目に市立日の出小学校、市立日の出中学校、五丁目に市立日の出南小学校、八丁目に浦安市墓地公園がある。_NEWLINE_東・北は東京湾に面し、西は入船、南は明海と接している。
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地名の由来
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浦安市の最も東に位置し、市内で最も早く日が昇るのを眺めることができることから「日の出」とした。 | 260129843025204728 |
Q170314 |
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日中戦争
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呼称
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日本側では、紛争が勃発した当初は北支事変と称し、1937年9月の第1次近衛内閣の閣議決定で支那事変を正式の呼称とした。_NEWLINE_戦争でなく事変と称されたのは、盧溝橋事件後の本格的な戦闘が行われても、1941年12月に太平洋戦争が勃発するまで両国は宣戦布告をおこなわなかったためであり、その理由として、日中両国がアメリカの中立法の発動による経済制裁を避けることが挙げられる。また、日本側は事態の早期収拾も狙っており、中華民国側は軍需物資輸入に問題が生じることを懸念していた。太平洋戦争が始まると、蒋介石の重慶政府が米英とともに日本に宣戦布告し、事変が戦争にエスカレートしたことを受け、日本側の東條内閣は10日の閣議で「今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」ことを決定した。
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時期区分
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日中戦争の期間の一般的な見解は1937年〜1945年までであるが、日本では歴史認識の違いによって先の大戦の呼称 (大東亜戦争、十五年戦争、アジア太平洋戦争など) が分かれており、日中戦争の位置づけには様々な解釈がある。臼井勝美は、「前史: 塘沽協定から盧溝橋事件まで、1933年6月~1937年7月」、「第一期: 盧溝橋事件から太平洋戦争勃発まで、1937年7月~1941年12月)」、「第二期: 太平洋戦争から敗北まで、1941年12月~1945年8月」の三期に区分している。小林英夫は、「前史 満洲事変から盧溝橋事件勃発前まで」、「第一期 盧溝橋事件から武漢作戦まで」、「第二期 武漢作戦から太平洋戦争勃発まで」、「第三期 太平洋戦争勃発から終戦まで」の四期に区分している。_NEWLINE_中国共産党の公式な見解は、1935年の抗日人民宣言から始まり、1937年の盧溝橋事件 (七七事変) からとされていたが、2017年1月中国教育省は中国の教科書で使われている「日本の侵略に対する中国人民の8年間の抗戦」という表現を、日中戦争の始まりを1931年の「柳条湖事件」まで6年遡らせて「14年間の抗戦」に改めると発表した。
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「安内攘外」と「和協外交」
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1931年9月18日の柳条湖事件に端を発する満洲事変は、1932年3月1日の満洲国の樹立を経て、熱河作戦終結時の1933年5月31日に締結された塘沽協定により一応終結した。同協定で、長城線以南に非武装地帯が設定され、大日本帝国は北支五省の独立自治運動の拠点を獲得し、満洲国は中華民国により黙認された。国民党は、汪兆銘の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け国内と統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。広田弘毅外相は「和協外交」を提唱し、排日・排日貨運動も沈静化し、両国は公使館を大使館に昇格させた。
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北支自治運動―華北分離工作
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支那駐屯軍や関東軍など日本現地軍は、1935年5月2日深夜の天津日本租界事件を契機に、河北省と察哈爾省から国民党の排除を図り、6月、所謂梅津・何応欽協定を締結し、藍衣社の北支からの撤退、河北省主席于学忠の罷免などを実現させた。国民政府は、「邦交敦睦令」を発し排日行為を禁止した。その後、現地日本軍は、二十九軍が日本人を拘禁した張北事件などを理由に、土肥原・秦徳純協定を締結し、察哈爾省東北部の二十九軍を河北省に移駐させることを了承させた。そして、旧軍閥で二十九軍長宋哲元 を中心に北支五省に独立政権を樹立させ、国民政府から分離させるため「北支自治運動」を展開した。11月25日、非武装地帯に殷汝耕を委員長とする冀東防共自治委員会を設立させ、宋哲元を中心にして「北支自治政権」を設立させて殷汝耕を合流させる計画を立てた。しかし、国民政府は、宋哲元を冀察綏靖主任兼河北省主席に任命し、12月18日に冀察政務委員会を設置し、自治独立運動の阻止に一応成功した。このため、12月25日、日本現地軍は、冀東の冀察への合流を放棄して冀東防共自治政府を成立させた。
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「内戦停止、一致抗戦」
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1935年12月、中華民国では自治政権反対の一二・九運動を契機に「内戦停止、一致抗戦」の機運が拡大した。長征の途上にあった共産軍は、八・一宣言を出して「抗日救国」、「反蒋抗日」の統一戦線を呼び掛け、陝西省延安に根拠地建設を開始し、1936年2月から3月、「抗日実践」を示すため、彭徳懐と林彪が指揮する共産軍2万が山西省に侵入した。共産軍は閻錫山の軍と蒋介石の増援により敗退し、周恩来と会談した張学良の説得により「反蒋抗日」から「逼蒋抗日」への転換を受け入れ、五・五通電を発し「停戰議和一致抗日」を訴えた。一方、4月18日、共産軍の侵攻を契機に広田弘毅内閣は支那駐屯軍を増強した。
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川越茂・張群会談
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1936 年 8 月 23 日の成都事件と9月3日の北海事件を受け、大日本帝国外務省は、国民政府の対日態度の是正を要求し、9月8日から川越・張群会談が開始された。大日本帝国が防共協定の締結、日本人顧問の招聘などを要求し、国民政府が冀東防共自治政府の解消を要求したため、交渉は平行線を辿った。その後、9月19日に漢口、9月23日に上海で日本人が殺害され、11月上旬に内蒙古軍による綏遠事件も勃発し、12月3日に交渉は決裂した。12月12日の張学良らによる蒋介石監禁事件西安事件を経て、1937年初頭には国共合作が事実上成立した。
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林内閣の「対支実行策」
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2月2日、大日本帝国で広田内閣から林内閣へ交替すると、佐藤尚武外相は、対中優越観念の放棄や中華民国への軍事的威嚇方針をやめ、平和交渉に移るよう外交方針を変更し、陸軍参謀本部戦争指導課長石原莞爾は、華北工作など従来の帝国主義的な侵冦政策の放棄を唱えた。4月16日に外務、大蔵、陸軍、海軍大臣四相により決定された対支実行策 (第三次北支処理要綱) では、北支分治や中国内政を乱す政治工作は行わないとされ、日中防共軍事同盟の項目も削除された。一方で、関東軍は、対中高圧政策、対支一撃論を変更しなかった。5月3日、中華民国は、イギリスに財政基盤強化のための借款供与を要請し、イギリスは、大日本帝国にも参加を要請した。1937年5月31日、林内閣は総辞職し、6月に近衛文麿内閣が成立した。7月5日、川越大使は政府にイギリスからの借款供与提案を受諾するよう上申し、電報は盧溝橋事件前日の7月6日に届いた。
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国共内戦
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太平洋戦争および日中戦争の終結前後に、蒋介石率いる中国国民革命軍と毛沢東率いる中国共産党軍の間で国共内戦の再開が中国国内で懸念されると同時に1945年9月からは上党戦役など内戦がはじまった。アメリカも中国内戦を阻止するために介入し、重慶会談をはじめ様々な交渉が持たれるが、1946年6月に、蒋介石率いる国民革命軍が全面侵攻命令を発した。 1949年から1950年にかけて、中国共産党軍が国民党軍を破り、蒋介石らは台湾へ逃れ、中華人民共和国が成立した。
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残留日本兵と残留日本人
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国民党の蒋介石は「徳を以て怨みに報いる」として、終戦直後の日本人居留民らに対して報復的な態度を禁じたうえで送還政策をとったが、中国共産党軍は、シベリア抑留と同様に多くの日本人を強制連行・留用し、特に医療や建設関係に従事した。また1946年2月3日には、 八路軍の圧政に蜂起した日本人だけでなく蜂起していない日本人も大量に虐殺される通化事件が発生した。
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日華平和条約 (1952)
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サンフランシスコ平和条約締結の翌年、1952年4月28日には台北で日華平和条約が調印され、中華民国は日本への賠償請求を放棄した。交換公文では「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域」が適用範囲とされた。
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日中共同声明 (1972)
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1971年10月25日、 国連でアルバニア決議が採択され、中華民国が中国の代表権を喪失するとともに常任理事国の地位をはく奪され、中華人民共和国が中国の代表権を得た。1972年2月にニクソン大統領の中国訪問が実現し米中が接近するのと並行して日中国交正常化も進展し、1972年9月には日中共同声明が周恩来国務院総理と田中角栄内閣総理大臣によって調印された。声明第五項では「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する(The Government of the People's Republic of China declares that in the interest of the friendship between the Chinese and the Japanese peoples, it renounces its demand for war reparation from Japan.)」として、中華人民共和国は対日戦争賠償請求を放棄すると宣言された。1978年8月12日には、日中共同声明を踏まえて、日中平和友好条約が締結され、第1条では「主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉」が、第2条ではアジア・太平洋地域他の地域で覇権を求めないと規定された。なお1979年には米中が国交正常化した。_NEWLINE_日本は中華人民共和国に対し政府開発援助(ODA)を実施し、1979年から2013年度までに有償資金協力(円借款)約3兆3,164億円、無償資金協力を1,572億円、技術協力を1,817億円、総額約3兆6,553億円のODAを実施した。廃止の方向にあるODAに変わって、財務省影響下のアジア開発銀行が肩代わりして迂回融資を行い、1年あたりの援助金額は円借款の2倍であり、アジア開発銀行から中国への援助総額は日本円で2兆8000億円に上っており、「日本の対中国ODAは3兆円ではなく6兆円。3兆円は日本政府から中国政府に直接援助した金額。アジア開発銀行等の迂回融資分をあわせると6兆円」という指摘がある。_NEWLINE_日本政府はこれら三つの条約および声明(サンフランシスコ平和条約第14条b、日華平和条約第11条、日中共同声明第5項)によって、日中間における請求権は、個人の請求権の問題も含めて消滅したと認識している。江沢民も1992年4月1日、日本の侵略戦争については真実を求めて厳粛に対処するが、日中共同声明の立場は変わらないと発言している。_NEWLINE_また華人労務者への個人賠償が争われた西松建設会社事件での最高裁判決(2007年4月27日)では、サンフランシスコ平和条約は、個人の請求権を含めて、戦争中に生じたすべての請求権を放棄した。また日中共同声明も同様であるとされた。また、重慶爆撃訴訟の東京地裁判決(2015年2月25日)では、国際法の法主体は国家であって個人ではない。また国家でさえ、戦争被害については、国家責任を規定する国際法だけでは賠償を受けることができず、賠償に関する国家間の外交交渉によって合意される必要があるとし、個人の戦争被害については国家間での処理が原則とした。またハーグ陸戦条約第3条も国家間の賠償責任を規定するもので、個人に賠償請求権を付与するものではない、と判決した。
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評価
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当時関東軍参謀だった瀬島龍三は、「満洲を建国したことで朝鮮半島が安定したが、満洲国が建国したばかりで不安定だったことから満洲の安定を図るために満洲と中国の国境ラインに軍隊を移駐したところで中国勢力と衝突した」と戦後の談話で述べた。_NEWLINE_南京戦陥落直後の1937年12月19日に読売新聞は「日本は初めこの事変をこうまで拡大する意志はなかった。支那に引張られてやむを得ず、上海から南京まで行かざるを得なかった」として、事変の序幕は西安事件で蒋介石が共産党と妥協させられてからで、それ以降は「共産党戦術」が著しく、「支那と日本と大戦争をやらすのが共産党の利益であると打算しているようであった」と報道した。_NEWLINE_また同月に報知新聞も西安事件以来南京政府は大きく変化し、「政治的には国共合作後の共産党的圧力、経済的には在支権益を確保せんとするイギリス資本の掩護、思想的にはソヴィエト流の抗日救国の情熱、それ等が決河の勢いをなして北支に逆流し、ついには上海における計画的挑戦の暴露となり、戦局の急速なる拡大となってしまった 」とし、「今度の事変が決して支那と日本との問題でなく実に支那を舞台とするイギリスとソヴィエトの動きを除いては事変そのものすら考え得られないということも次第に明かとなり、東洋における防共と反英運動とが新らしい政治的課題として登場して来た」と回顧した。また、イギリスは表面は不干渉を表明したが、南京政府への支援を続け、さらに米国を巻き込むことに成功したと報じた。_NEWLINE_田母神俊雄(当時航空幕僚長)は、日本は国際法上合法的に中国大陸に権益を得て比較的穏健な内地化を進めようとしていたが、コミンテルンの工作によって蒋介石の国民党や中国共産党からの度重なるテロ行為に干渉され、またベノナファイルで明かになったように中国と同じくコミンテルンの工作を受けたアメリカに介入され、結果的に日中戦争に引きずり込まれることとなったと論じた。しかし、政府と防衛省幹部が内容に問題にあるとして田母神は浜田靖一防衛大臣から更迭された(田母神論文問題)。小堀桂一郎、中西輝政、西尾幹二などは田母神論文の内容を支持し、森本敏、小林節、纐纈厚、笠原十九司、水島朝穂らは論文を批判した。_NEWLINE_盧溝橋事件より8年間に戦争が勃発し、拡大・継続した最大の要因が日本と言う国家の政策と行動にあったことは間違いない。一部でいわれているように、仮に欧米列強の挑発がこの事態を招いた要因の一つであったとしても、当時の日本が列強の一つとして自他共に認めるほどの有力国であったことを考えれば、挑発によって窮地に陥った日本外交の拙劣さが責められるべきである。_NEWLINE_中川八洋は、計画経済体制の導入、日本の対ソ戦能力の低下、中国の共産化のために、近衛文麿が小事件を戦争まで拡大し、長期化させた、と評している。
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日中戦争を題材とした作品
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「Category:日中戦争を題材とした作品」を参照 | 14630380483757946820 |
Q11504953 |
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日刊岩見沢新聞
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日刊岩見沢新聞(にっかんいわみざわしんぶん)は、かつて株式会社岩見沢新聞社が北海道岩見沢市で発行していた地方新聞。日本新聞協会には非加盟。2009年(平成21年)8月に休刊した。
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概要
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1949年(昭和24年)10月8日にタブロイド判の『岩見沢新聞』として創刊。本社は北海道岩見沢市9条東1丁目。旬刊、週刊を経て日刊に移行し『日刊岩見沢新聞』に題号を変更。1981年(昭和56年)に株式会社化した。最終期は夕刊ブランケット判2ページ建てで日祝、第2・4土曜日休刊だった。公称部数は2,500部で、購読料は1部80円、1ヵ月1,350円だった。岩見沢市中心部とその周辺をエリアとし、1980年代以降はエリア内の北海道新聞販売店に宅配を委託していた。_NEWLINE_広告収入の減少と発行部数の低迷に加え、後継者が確保できないこと等を理由に、2009年(平成21年)8月31日付で休刊し、新聞発行から撤退した。新聞発行は『プレス空知』を発行する空知新聞社(滝川市)が継承し、岩見沢新聞社の従業員の一部が移籍して岩見沢支社を開設。『プレス空知美唄版』(旧・美唄新聞)を統合する形で2009年(平成21年)10月3日から『プレス空知岩見沢版』(16ページ建・週2回刊)が発行されている。 | 16666821407042152708 |
Q11506748 |
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日本バスプロ協会
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日本バスプロ協会(にっぽんバスプロきょうかい)は、山梨県富士河口湖町、河口湖に本部を置く、多くのブラックバス釣りのプロ(バスプロ)が加盟している団体。前身はJBTA(ジャパン・バスフィッシング・ トーナメント・アソシエーション)。日本全国の湖でバス釣りトーナメントを開催している。 | 8614153462173239090 |
Q60991125 |
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日本乳癌学会
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一般社団法人 日本乳癌学会(にほんにゅうがんがっかい、英称:Japanese Breast Cancer Society)は、乳癌に関する基礎的ならびに臨床的研究を推進し、社会に貢献するとともに、社員及び会員である医師等の乳癌の研究、教育及び診療の向上を図ることを目的に昭和42年に設立された学会。日本医学会分科会の一つであり、また日本学術会議の協力学術研究団体である。会員数は約9000名。学会事務局を東京都中央区日本橋3丁目8番16号ぶよおビル3階に置いている。。
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代表者
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理事長: 井本 滋(杏林大学医学部外科教授) | 13503733094877235131 |
Q11508769 |
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日本空手道道場会
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一般社団法人日本空手道道場会(にほんからてどうどうじょうかい)は、空手団体の一つ。_NEWLINE_全日本空手道連盟(全空連)の参加団体の一つであり、松濤館流を標榜する。_NEWLINE_一般財団法人全日本空手道松涛館に加盟している。 | 1904158604066828285 |
Q11509039 |
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日本蘇生協議会
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一般社団法人日本蘇生協議会(にほんそせいきょうぎかい)は、日本の学術団体。 | 7807366886139188924 |
Q11509350 |
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日本陸軍臨時軍用鉄道監部100号形蒸気機関車
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100号形は、かつて日本陸軍が朝鮮や満州の軍用鉄道で使用したタンク式蒸気機関車である。若干設計の異なるものを含めて82両が輸入され、満州での使用後、一部が内地の軽便鉄道に導入された。_NEWLINE_なお、この呼称は便宜的に付したもので、制式のものではない。
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譲渡
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安奉線の改軌工事完成とともに不要となった本形式は、満州や朝鮮各地の鉄道に分散した。また、内地においても3社が本形式を導入している。引き続き外地で使用された機関車の詳細は、記録が少ないため不明な点が多く残っている。
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南満州鉄道大連築港工事用軌道
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この鉄道へは、1908年度に小形2両が転属しているが、その後の消息は定かでない。
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溪堿鉄路
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満州にあったこの鉄道へは、1913年の開業用に大形8両が導入されている。同社では1 - 8と称した。さらに1929年度に後期製造の小形1両(21)が増備されているが、これの前歴は定かでない。一説には、大連築港工事用軌道から来たものと推定されている。
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本溪湖煤鉄有限公司廟兒溝専用鉄道
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安奉線から分岐するこの鉄道へは、1914年の開業用として、大形2両が導入され、1, 2と称した。
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南満州鉄道撫順炭礦採砂運搬軌道
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撫順炭礦で採掘法として灑砂充填法を採用するため、川砂を採取地から炭鉱へ運搬するために敷設された軌道で、少なくとも大形2両が1, 2として使用されていた。
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南満鉱業専用鉄道
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この専用鉄道で使用されている大形1両の写真が残っており、朝鮮または満州で使用されていたものの後身であると推定されている。同形車の有無や1939年(1940年?)の廃止後の消息は不明である。
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朝鮮瓦斯電気株式会社軌道
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もとは、釜山軌道が1909年11月に開業した軌間610mmの軌道であったが、1910年に韓国瓦斯電気(朝鮮瓦斯電気)に譲渡されたものである。軌間762mmへの改軌は1912年7月で、その際に導入されたのが、本形式の「大形」であった。両数は不明であるが、1 - 2両と推定されている。この軌道は、1915年に電気軌道(廃線時には釜山市電)に変更されたが、機関車の去就は定かでない。ただし、1914年6月に竣工した朝鮮起業株式会社の専用鉄道が、朝鮮瓦斯電気に運行委託されたことから、ここで使用された3両のうちに、本形式が含まれていた可能性がある。
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全北軽便鉄道
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朝鮮の全北軽便鉄道へは、1915年1月15日の開業に際し、大形・小形各2両が本線列車牽引用として導入された。当線は、1927年10月1日に国有化され、朝鮮総督府鉄道慶全北部線となり、ナキサ形21 - 24と改称された(全北軽便鉄道時代の番号は不明)。これらのうち、21, 22は小形、22, 23が大形である。1929年9月に標準軌(1,435mm)への改築が完了したため、22 - 24の3両は、1930年度に廃車となっている。
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价川軽便鉄道
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朝鮮の价川軽便鉄道へは、1915年6月に、前身である三井鉱山専用鉄道の開業に際して小形6両が導入された。その後、1927年に价川軽便鉄道と改称している。当線は、1932年11月1日に朝鮮総督府鉄道に借上げられ、1933年9月1日に正式に買収となった。これにより、所属する機関車はナキサ形33 - 38(後にナキサ8 - 13)と改称された。標準軌への改築は、同年10月15日に一部の区間(泉洞 - 价川間)について行われたが、残余の区間(新安州 - 价川間)は762mm軌間のまま残された。10, 12, 13の3両は朝鮮総督府鉄道時代に廃車となり、8, 9, 11の3両が大韓民国鉄道庁に引き継がれているが、その後の消息は不明である。
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朝鮮軽便鉄道慶東線
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朝鮮軽便鉄道慶東線へは、大形7両が譲渡された。同線は、1928年7月1日に国有化され、朝鮮総督府鉄道東海中部線となり、ナキサ形24 - 31(後にナキサ1 - 7)と改称された。標準軌への改築については、1938年7月1日に完成しているが、慶州 - 永川間は、762mm軌間のまま残された。そのため、2 - 7については、大韓民国鉄道庁に引き継がれているが、その後の消息は不明である。_NEWLINE_余剰となった1両は、1927年頃、図們鉄道に譲渡され、同社の32となった。この機関車は、1933年に廃車となっている。それ以外のうち4両については、1926年に朝鮮水電専用鉄道に譲渡されたと推定されている。
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帝国炭業長豊炭礦専用鉄道
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1919年に手押し軌道として開業した帝国炭業長豊炭礦専用鉄道を、1922年に朝鮮森林鉄道が買収し、改築したものであるが、帝国炭業時代に動力の蒸気化を企図し、本形式2両(大形・小形各1両)が導入された。その後、1923年に6社が合同して朝鮮鉄道が設立されると、その咸南線となっている。
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岩手軽便鉄道
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岩手軽便鉄道でも、1913年8月に開業用として6両を導入し、1 - 6として使用を開始している。岩手軽便鉄道では、あまり改造を加えず、原形を保ったまま使用された。なお、2 - 5については、ボイラーに取り付けられた銘板に記された製造番号が、24635, 23964, 24053, 24595であったことが判明しているが、足回りとボイラーの振り替えが頻繁に行われており、旧番号の追跡は困難となっている。_NEWLINE_1936年8月1日付けで岩手軽便鉄道は国有化され、鉄道省の釜石線となった。それにともない、ケ231形(ケ231 - ケ236)と改称されが、これも既存形式に編入とはなっていない。_NEWLINE_釜石線の改軌工事は1950年10月9日に完成し、それにともない本形式も用途廃止となった。廃車は、ケ234が1948年9月、ケ231が1949年9月、ケ232, ケ233が1950年7月、ケ235, ケ236が1950年12月であった。
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愛媛鉄道
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愛媛鉄道が、1918年(大正7年)の開業用に用意したものである。3両が導入され、1 - 3と称した。これらの導入に当たって、愛媛鉄道が南満州鉄道と直接取引した形跡はなく、ブローカーの手を通じて供給されたものらしい。_NEWLINE_その後、愛媛鉄道は1933年(昭和8年)10月1日付けで国有化され、ケ250形(ケ250 - ケ252)となった。本形式は、愛媛線の改軌工事の終了した1935年(昭和10年)9月に使用停止となり、翌1936年(昭和11年)に廃車された。処分は全車解体であった。
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宮崎県営鉄道
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1913年(大正2年)、宮崎県営鉄道飫肥線の開業に際して、2両を譲り受けたものである。同鉄道では、1, 2(書類上はヲ壱, ヲ弐)と称した。これらは、1929年(昭和4年)のガソリン動車導入まで、フル回転で使用された。_NEWLINE_宮崎県営鉄道飫肥線は、1935年10月1日付けで国有化され、鉄道省の油津線となった。それにともない、ケ290形(ケ290, ケ291)と改称されているが、愛媛鉄道のケ250形とまったく出自の同じ車両であり、徒に形式を増やす結果となっている。_NEWLINE_ケ290形は、油津線の改軌工事の終了した1937年(昭和12年)12月23日に、石炭増産の要求のあった松浦線(上佐世保支区)に転出し、1943年(昭和18年)7月の改軌工事終了まで使用された。その後、同年9月に廃車となった。 | 7201132140743387724 |
Q20038324 |
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日産・ENR34
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市場での評価
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発売当時は、4WDと言う駆動方式が評価され北海道を筆頭に降雪地域である東北地方や甲信越地方での販売が顕著であった。_NEWLINE_ただし、ターボモデルの非設定やスポーツカー自体の人気低迷の影響を受けて全体的な販売台数が伸び悩み、2WDモデルと同様にモデル周期途中の2001年6月に製造打ち切りとなった。_NEWLINE_製造終了が決定された同年よりD1グランプリが開催され、2WDモデルのER34ターボを駆る野村謙人気に影響されたため、新車販売時との人気が逆転しENR34を含めたR34の中古車価格が上昇すると言う皮肉な結果となった。_NEWLINE_ENR34に搭載されるアテーサE-TSは、基本設計がGT-R(BCNR33及びBNR34)と同一であり、中古で車両価格が下がったことも関係して、GT-Rのエンジン(RB26DETT)を換装する改造ベース車に使用される機会が増えた。_NEWLINE_2005年には、愛知県北名古屋市の自動車販売店SRSが、専門誌GT-Rマガジンの広告欄等で告知し、セダンのENR34をベースにした4Dr.GT-Rを20台限定で販売した。その後は、同様のコンセプトで加古川市のAPMで、4Dr.GT-Rが販売された。この場合の改造が本物に近付けたため、内装や配線類エンジンに至るまでをBNR34の部品を用いて製作された。_NEWLINE_既にデビューから15年以上経過している上にスポーツ走行で使われることが多い車種のため疲弊・損傷した個体が多いこと、上記の人気ゆえに絶版後も需要が相当数あったことにより状態の良い個体はそれらにより軒並み数を減らしたこと、その人気ゆえに海外中古車輸出が増加したことが重なり、極めて状態の良い個体が近年減りつつある。純正品でのチューニングメニューも多く、公認車検が不要なRB25DETを搭載した例もある。
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関連イベント
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東京都八王子市の中古車販売店シャフトオートサービスでは、2010年から「34」に絡んで、毎年3月4日にR34祭りをFSWで開催している。_NEWLINE_また、2013年のみ東西に分かれてR34祭りが開催された。ウェストは、きっずはぁと主催でYZサーキット東コースで開催された。 | 18427711570571810966 |
Q11510497 |
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日通ハートフル
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ビジネスサポート事業
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日通の各事業所にて、段ボールの組み立て、商品の梱包、倉庫での軽作業、事業所の清掃、事務の補助などの事業を行うために、知的障害者を中心に「日通ガンバリ隊」が結成されていて、全国にある日通の支所へ人材が派遣されている。
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名刺印刷事業
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日通の本社及び全国の各事業所、グループ会社の社員たちの名刺を作成している。フルカラー印刷や、縦書き、横書きなど、あらゆる書式の名刺に対応するため、最新の印刷機器も導入されている。
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メール事業
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日通の本社ビルに到着または本社ビルから発送する全ての郵便物を取り扱っている。車内のメール便や、取引先から到着する郵便物の仕分け作業は、各分野ごとに分担されている。 | 6750590483450355793 |
Q11510814 |
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日高川駅
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駅構造
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単式ホーム1面1線のホームと2本の側線を持つ地上駅であった。ホームは現在も多少崩れている箇所はあるが残されている。かつては、王子製紙春日井工場に原材料のチップを運搬する国鉄貨車が出入りしていた。しかし、末期には列車が1日で2往復しかないほどになった。_NEWLINE_戦前は機関庫が設けられるなど、鉄道線の中枢駅として機能していた。しかし、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)6月22日に空襲に遭い、駅舎や機関庫は全焼した。
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廃線跡の現状
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西御坊駅と日高川駅の間は廃止から20年以上たった今でも線路が残されており、周辺住民の生活道路となっている(ただし、一部区間には「紀州鉄道管理地 立入禁止」の看板が立てられている)。また、腕木式信号機や踏切(使用中止の標記あり)も残っている。_NEWLINE_日高川駅では線路が当時のまま残っているほか、駅の中程にある橋が残っている。転轍機も残っていた(但し分岐装置は作動しなかった)が、撤去されている。 | 2149290734405534200 |
Q11511473 |
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早稲田ゼミナール
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概説
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早大コースや日芸(日本大学芸術学部)コースが知られ、医歯薬獣医対策も設置している。_NEWLINE_1990年に放送されたTBSドラマ『予備校ブギ』の舞台ともなった。_NEWLINE_「MARCH大」という言葉を発案。 | 16200606982509529111 |
Q11512295 |
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明治ホールディングス
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沿革・概要
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明治およびMeiji Seika ファルマの前身企業である明治製菓(明菓)・明治乳業(明乳)は、共に旧・明治製糖(大日本明治製糖)から派生した同門(同根)企業である。それもあって、明乳は1986年にコーポレートアイデンティティを導入するまで明菓と同じロゴマークを用いていたほか、商品の共同開発などを手掛けていた。一方で両社間での資本の持ち合いについては独自性を尊重して僅かなものに留まり、それぞれの新会社へ移行後から2009年の経営統合に至るまで、厳密には関連会社(グループ会社)ではなく人的交流も盛んではなかった。_NEWLINE_しかし、アメリカ合衆国のサブプライムローン問題に端を発する世界経済の混乱や、地球温暖化対策としてバイオエタノールの生産が拡大したことなどにより、原材料価格の高騰が経営に重くのしかかる事態となっていた。そこで、こうした事態を乗り切ると共に同門企業の強みを生かし、両社の事業分野で培ったものを生かして新たな展開を図ることを目的とした経営統合を行うことを決意。2008年9月11日には両社トップが記者会見で正式発表し、2008年11月26日に両社の臨時株主総会で共同株式移転の承認に対する決議を行った。
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グループ再編について
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持株会社の発足後、2年以内のできるだけ早い時期に再編を進めていくことを公表していたが、2010年9月14日に行われた明治HDの記者会見で明乳・明菓のグループ事業再編、並びにそれに伴う傘下会社の社名変更を発表した。具体的には2011年4月1日に明菓のフード&ヘルスケア事業を吸収分割により明乳へ継承。同時に、食品事業が一体化した明乳は株式会社 明治へ、医薬品事業が残った明菓はMeiji Seika ファルマ株式会社へそれぞれ商号変更することになった。これによって長年使用されてきた『明治製菓』と『明治乳業』の社名は2011年3月31日をもって消滅した。
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ブランドロゴ・スローガン
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1986年以降別々となっていたブランドマーク(明菓は「Meiji」、明乳は「MEIJI」)は経営統合を機に統一することとなり、統合直前の2009年3月12日に新ブランドマークが発表された。新ブランドマークは全て小文字で「meiji」と表記、ブランドカラーは両社が使用していた「レッド」を使用する。また、社名表記に使用する和文・英文ロゴタイプのフォント統一も、新ブランドマークと同時に発表された。_NEWLINE_統合後の2009年7月9日にはグループスローガンとして「明日をもっとおいしく」を制定したが、2011年のグループ内再編で薬品関係事業が中心となったMeiji Seika ファルマでは、新たに「明日をもっとすこやかに」が制定された。なお、明治HDと明菓・明乳の事業を引き継ぐ明治は継続使用となる。長期経営指針「明治グループ2020(にーまるにーまる)ビジョン」では、「こども すこやか」「おとな はつらつ」「みんな わくわく」の3つのキーワードを“お客さまの生活貢献へのキーワード”として掲げている。 | 11648925196670544809 |
Q56346783 |
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星と俺とできめたんだ
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あらすじ
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ナイトクラブの雇われ歌手をしながら剣道に情熱を注ぐ星川健次。そんな彼には技術者の兄がいたが、兄は自らが設計したモーターボートエンジンのテスト中に起きた事故で死亡した。しかしそれが事故ではなく、兄の発明品を欲している東和精密工業の社長・雨宮によって仕組まれたものだと知った健次は、エンジン設計図のコピーを雨宮の手から奪い返す。 | 1829876126662708613 |
Q17232823 |
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星ノ音サンクチュアリ
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ストーリー
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対ハイテク犯罪の専門家を育成する銀星学園に通う男子学生・葛城 真人は落第寸前だった。_NEWLINE_異なる学年・クラスの生徒たちとチームを組む“特別試験”「フラッグス」を受けることになった彼だったが、メンバーは実妹である璃杏、幼馴染である神領寺姫翠、璃杏の同級生である小松原夜美と、真人を不安にさせるほど個性派だった。_NEWLINE_そこへ真人のライバルを自称する美少女、瀬里奈・マルグリッド・オクタヴィアスが乱入してきて、彼の日常は波瀾を極めるものとなった。 | 5128871142715706166 |
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