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鴨下重彦
鴨下 重彦(かもした しげひこ、1934年3月13日 - 2011年11月10日)は、日本の医学者。専門は小児科学。学位は、医学博士。東京大学名誉教授。国立国際医療センター名誉総長。北海道室蘭市出身。
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原谷村 (埼玉県)
原谷村(はらやむら)は、埼玉県の西部、秩父郡に属していた村。
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Hot dogs 2
『hot dogs 2』(ホット・ドッグス・ツー)は2006年12月20日にリリースされたFENCE OF DEFENSEの14thアルバム。 解説. 1994年にリリースされた『hot dogs』から12年経ちメンバー4度目の「戌年」を迎え、『hot dogs』第2弾としてリリース。 前回が全編ロンドンレコーディングであったのに対し、今作は全編沖縄で合宿しながらのセッション・レコーディングとなった。 元々2月のライブで、”hot dogs 2”というタイトルでアルバム制作をする宣言をしていたが、メンバー個々の活動に追われ、10月頭から曲作り - セッション - リハーサル - レコーディング - マスタリングに至るまで期間わずか1ヶ月半という過密スケジュールで制作された。 シーケンサー、シンセサイザーが全く入っておらず、ストレートなロック・サウンドを中心にした作品。 収録曲. 作曲 西村麻聡(特記以外) 編曲 FENCE OF DEFENSE
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認可法人
認可法人(にんかほうじん)とは、特別の法律に基づいて数を限定して設立され、かつ、その設立に関し行政官庁の認可を要する法人のうち、特別民間法人に該当しない法人のことである。 特殊法人等改革基本法(平成13年法律第58号)では、認可法人の改革も指向され、第2条・別表において、認可法人(認可法人でない法人形態に移行した法人を含む)が指定されている。同法に基づく特殊法人等整理合理化計画に基づき、認可法人の多くが独立行政法人・特別民間法人や、一般的な民間法人などに改編された。 かつて認可法人であった法人. 主に平成13年12月の特殊法人等整理合理化計画に基づき整理された認可法人をあげる。 独立行政法人化. 独立行政法人に改組されたもの。 民間法人化. 民間法人として民営化されたもの。 地方共同法人化. 地方共同法人に改組されたもの。 共済組合化. 下記の45の共済組合が認可法人であったが、共済組合として整理されている。このうち、日本たばこ産業共済組合及び日本鉄道共済組合は1997年(平成9年)4月1日に厚生年金保険に統合されている。
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救世忍者乱丸
救世忍者乱丸(きゅうせいにんじゃらんまる、生年月日不明 - )は、日本の女子プロレスラー。 義眼を隠すため覆面レスラーとして活動しているが自身の生い立ちをテーマにした講演会は素顔で行っている。 経歴. 3歳のときに「網膜芽細胞腫」に罹り片目を摘出、以来、義眼を付けている。 空手師範だった父の影響で空手を習い始める。その後国際武道大学へ進学。大学在学中世界大会へ出場。 大学3年でプロレス入りを目指し、オーディションを受けるも不合格だったが、アニマル浜口レスリング道場に通い、あるプロレス団体のオーディション合格を果たす。 義眼を隠すため覆面レスラーとして某団体で活動するも、マスクを外してリングに上げられたり丸坊主にされるなど惨めな目に合わされリングから退いた。 その後、ジャガー横田からの電話がきっかけとなり、吉本女子プロレスJd'より「救世忍者乱丸」として再デビューを果たす。 乱丸フェスタ. 2011年より乱丸が行っている自主興行。2022年現在、35回行っている。 初回から大阪を中心に行われているが、2014年に行われた第9回は新木場1stRINGで開催し、東京初進出を果たした。近年は大阪の176BOXで興行が行われていることが多い。 「世界一オモロいプロレスの大会」を謳っており、英語禁止マッチや小芝居マッチといったコミカルかつバラエティ豊かな試合が多い。 黎明期はハイビスカスみぃと乱丸のタッグである「なにわ☆凡女美ィーナス」がレジェンド選手や男子選手と戦う試合がメインイベントになることが多かった。また、男盛対女子選手の試合も多かった。 多くの選手が出場した経験があり、菊タローや松山勘十郎、広田さくらといった、コミカルマッチを得意とする選手は勿論、栗原あゆみや華名、志田光などのその当時の女子プロレスのエース級の選手だけでなく、師匠であるジャガー横田をはじめ、井上貴子、豊田真奈美など、女子プロレスのレジェンドも参戦した経験も持ち、新崎人生や越中詩郎などの有名な男子選手も参戦した事がある。 2016年9月に行われた16回大会において、志田光、朱里と共に乱丸がアイドルユニット「ピンキーミルキー」を結成。志田、朱里の両者が日米マット界を席巻している2022年現在も3人の交流は続いている。なお、メンバーは流動的で、タッグパートナーのハイビスカスみぃをはじめ、小波やアクトレスガールズの面々が歌ったこともあった。 2021年3月からは過去の大会を順次YouTubeにて公開している。 人物. 尼崎市で親と住んでいる。父は寿司店経営。
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西餅
西餅(にしもち)は、日本の漫画家。 略歴. 第30回MANGA OPENに『劇研もっこす』を投稿し、編集部賞を受賞。『モーニング』で3回掲載され、読者の反応はイマイチであったが、一部の熱烈な支持と編集長の独断により、『モーニング』2012年21号から『犬神もっこす』に改題して正式連載となった。劇団を立ちあげた経験があり、団員との交流を元にしたエピソードが作品に活かされている。モーニング2014年8号に読み切りに掲載した『ハルロック』を、2014年19号より連載。かつて「分解魔」、「ドライバー少女」と言われた向阪晴(さきさかはる)が電子工作で小暴れするストーリーとなっている。 次に『モーニング・ツー』で連載した高校野球漫画『僕はまだ野球を知らない』が夏の選手権地方予選1回戦で勝利した時点で連載打ち切りになった後、出版社を通さずに個人で続編『僕はまだ野球を知らない・Second』のウェブ連載を開始した。2021年5月にAmazon.co.jpのセルフ出版サービスKindle ダイレクト・パブリッシングで電子書籍単行本1巻が配信開始。
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土曜日です おはよう大沢悠里です
『土曜日です おはよう大沢悠里です』(どようびです おはようおおさわゆうりです)とは、TBSラジオで放送されていたワイド番組である。 大沢はこの後平日昼間の『大沢悠里ののんびりワイド』を担当、その8年後からは午前中帯の『大沢悠里のゆうゆうワイド』を足掛け30年にわたって担当。2016年からは実に37年ぶりに土曜日にカムバックし、『大沢悠里のゆうゆうワイド土曜日版』を2022年3月末まで担当。 放送時間. 毎週土曜日 6:00 - 7:00、7:40 - 9:05<br> ※途中サラリーマンニュースショー 朝のファンファーレをフロート番組として放送するため中断。 出演. 肩書は放送当時 タイムテーブル. ※1979年10月現在
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塩水溜まり
塩水溜まり(えんすいたまり、)とは、海底に存在する比較的大きな面積を持つ海底窪地に、塩分濃度が高くなり密度が大きくなった海水(塩水)が溜まった場所のことである。なお、潮の干満によって、干潮時に岩場の磯にできることがある潮溜まりとは別物である。 概説. 地球の海水は、海全体において均質になっているわけではなく、実際は場所によって含有する(溶存している)成分が異なることがある。海水中の一般的な塩分濃度は 3.1% から 3.8% とされているが、それよりも塩分濃度の高い塩水が海底窪地に溜まった状態になっている場所を塩水溜まりと呼んでいる。塩水溜まりに存在する塩水は、周辺の海水よりも塩分濃度が3〜5倍高い。つまり周囲よりも比重が大きいために、撹拌するような海底流が存在しなければ海底の窪地に溜まり得るのである。 塩分濃度が高くなっている原因として以下の要因が考えられている。 どのような成因であれ、平均的な塩分濃度の海水に棲む海洋生物にとって高濃度の塩水は有害となり、このような場所に生息することができない。塩水溜まりに住む生物が、極限環境生物に分類される所以である。 塩水溜まりは『海底の湖』. 塩水溜まりは、しばしば「海底の湖」に喩えられる。なぜなら、塩分濃度の高い塩水は、通常の海水よりも密度も高いため、その上にある海水と、そう簡単には混ざらないからである。このような塩水と、その上にある海水との間には、明瞭な境界が見られ、まるで「湖面」と「湖岸線」のような境を海底に形成する。 もし潜水艦で塩水溜まりに潜ろうとすると、塩水が高い密度を持っているため、何らかの工夫をしないと、塩水溜まりの表面に浮かんでしまう。なお、潜水艦が、この塩水溜まりの「湖面」で動くことで、塩水溜まりの塩水とその上にある海水との境界面に波を発生させることが可能であり、それはあたかも「湖岸線」に打ち寄せる波のように、塩水溜まりの縁へと打ち寄せる。 塩水溜まりと生物. 深海の塩水溜まりは、しばしば冷水湧出帯としての性質を持つ。ここの塩水は、一般的な海洋生物にとっては有害だが、ある種の極限環境生物にとっては、住むのに好都合な環境なのである。深海の塩水溜まりの塩水には、しばしばメタンが高濃度に含有されている。このメタンが漏れ出して、それが微生物によって加工される。そして、その微生物に住みかを与え、自分達は微生物から栄養分を得るという形で共生関係にある二枚貝が、深海の塩水溜まりの縁の部分に住んでいる。つまり、塩水溜まりから漏れ出しているメタンを含んだ塩水が、この生態系を支えているのである。ただし、このメタンは無限に存在するわけではなく、メタンが尽きれば、この生態系は姿を消すこととなる。
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墨田区の町名
本項墨田区の町名(すみだくのちょうめい)では、東京都墨田区に存在する、または過去に存在した町名を一覧化するとともに、明治時代初期以来の区内の町名の変遷について説明する。 当区の場合、南部の本所地区では大正12年(1923年)の関東大震災による被害が甚大であり、その後の復興、区画整理に伴い、昭和初期(1929 – 1933年)に大幅な町名変更が行われた。北部の向島地区では、(1)明治22年(1889年)の市制町村制施行に伴う旧村の廃置分合(町村合併)、(2) 荒川放水路の開削に伴う地区の分断と行政区画の変更、(3)昭和7年(1932年)の向島区成立に伴う新町名の設定、(4)1960年代の住居表示実施など、たびたび行政区画が変更している。これに加え、南葛飾郡の旧村はそれぞれが多くの飛地を有し、境界線が複雑であった。以上のような事情から、墨田区の行政区画の変遷はきわめて複雑であり、詳細については参考文献を併せ参照されたい。 墨田区の前史と行政区画の移り変わり. 東京都墨田区は、昭和22年(1947年)3月15日、従前の本所区と向島区の区域をもって新設された。前身の2区のうち、本所区は明治11年(1878年)東京府に設置された15区のうちの1つである。一方、向島区はそれから半世紀以上後の昭和7年(1932年)、東京市が周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入した際に成立した20区のうちの1つで、南葛飾郡隅田町・寺島町・吾嬬町(あずままち)の3町の区域をもって成立した。向島区が存続したのは昭和22年までの15年間のみであった。以下、明治時代初期から墨田区成立までの行政区画の変遷について略述する。 近世. 墨田区の区域は、南部が旧本所区、北部から東部が旧向島区にあたる。この区域は近世には武蔵国葛飾郡のうちであり、現在の葛飾区西部、江東区などとともに西葛西領に属していた。本所地区は早くから町地化し、町奉行の支配下にあった。一方、旧本所区の北部(現在の墨田区向島一〜四丁目、押上一・二丁目など)と旧向島区の区域は「江戸」の範囲外であり、代官支配地であった。 本所地区は、近世初期には本所村と称したが、元禄期(17世紀末)までには北本所町、南本所町と総称される町場が成立していた。万治3年(1660年)以降、本所と深川(江東区)は本所奉行の支配下にあったが、正徳3年(1713年)以降、町奉行支配に移管された。一方、「江戸」の範囲外であった旧本所区北部から旧向島区にかけての地域には以下の17村が存在した。 これらの旧村はそれぞれが多くの飛地を有していた。これに加え、明治以降の度重なる行政区画の変更、荒川放水路の開削に伴う地区の分断等の要因により、上に列挙した旧村の区域が現・墨田区のどこに該当するかを特定することは容易でない。上記各村のうち、亀戸村は大部分が現在の江東区に属し、木ノ下村、上木下川村、下木下川村はそれぞれ一部が現在の葛飾区に属している。 明治維新以降. 江戸が「東京」と改称されたのは慶応4年(1868年)のことである。同年7月17日(1868年9月3日)、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、東京府が設置された(慶応4年9月8日に「明治」と改元)。以後、1889年(明治22年)に東京市が発足するまでの過渡期には、東京府の行政区画はめまぐるしく変遷し、番組制、大区小区制、15区6郡制等と呼ばれる制度が相次いで実施された。 現・墨田区域のうち、町奉行支配地であった本所地区は東京府に編入。代官支配地であった小梅村などの17村は武蔵知県事の管轄を経て、明治元年11月(1868年12月)、東京府に編入された。 明治2年3月(1869年4月)、東京府では、町地と郷村部との境界線を定める朱引(しゅびき)が行われた。これは、皇居を中心とした市街地(江戸時代の町奉行所支配地に相当)を朱引内とし、その外側を郷村とするもので、朱引内を50の区画に分けて、50番組(50区)が設定された。これとともに、江戸時代から続いていた名主制度が廃止された。同年5月、周囲の郷村部にも5つの組が設定され、これを地方5番組と称した。後に本所区及び向島区となる区域は、このうち朱引内の44番組から46番組、および地方4・5番組に属した。 明治4年6月(1871年7月)には朱引が見直されて、朱引内は44区、朱引外は25区(計69区)に区分された。明治4年7月(1871年8月)には廃藩置県が実施された。これにともない、同年11月(1871年12月)、従来の東京府、品川県、小菅県が廃止され、新たな東京府が設置された。同時に朱引が廃止されて、府内は6大区・97小区に分けられた(いわゆる大区小区制)。明治7年(1874年)3月、区割りは再度見直され、朱引が復活。朱引内外に11大区・103小区が設置された。後に墨田区となる区域は、このうち朱引内の第6大区4〜8小区、朱引外の第11大区1・2小区に属した。 その後、郡区町村編制法の施行に伴い、大区小区制は廃止され、明治11年(1878年)11月2日、東京府下に15区6郡が置かれた。墨田区の前身にあたる2区のうち本所区はこの時設置された。また、向島地区の各村は南葛飾郡の所属となった。 市制町村制以降. 明治22年(1889年)、市制・町村制が施行され、同年5月1日、東京市(15区からなる)が成立。本所区は東京市の区となった。同時に東京府下の6郡では既存の町村が廃置分合されて85町村に整理された。向島地区の旧村は、一部は本所区に編入され、残りは廃置分合により隅田村、寺島村、吾嬬村、大木村の4村に再編された。これら4村と旧村との対応関係は複雑であるため、後に改めて述べる。なお、隅田村と寺島村は大正12年(1923年)、吾嬬村は大正元年(1912年)に町制を施行、大木村は荒川放水路開削に伴い大正3年(1914年)廃村となっている。 昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡(荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾)に属する82町村を編入し、いわゆる大東京市が成立した。なお、従前の6郡のうち、南豊島郡と東多摩郡が明治29年(1896年)に合併して豊多摩郡となっている。編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ、35区から構成されることとなった。この時、従前の隅田町、寺島町、吾嬬町の3町の区域をもって向島区が新設された。 昭和18年(1943年)7月1日、東京府と東京市が廃止されて、新たに東京都が設置された。この時、本所区、向島区を含む35区は東京都直轄の区となった。昭和22年(1947年)3月15日、35区は22区に再編される。この時、本所区と向島区は廃止され、両区の区域をもって新たに墨田区が設置された。同年8月1日、板橋区から練馬区が分離して東京都の区部は23区となり、現在に至る。 本所区の町名. 概要. 本所地区は、近世から町地化が進み、番場町、荒井町、表町、石原町、亀沢町など、多くの町が成立した。これらの町は現在の墨田区東駒形・本所・石原・亀沢などにあたる。近世においては、これらの町地と武家地、寺社地などを含めて北本所町・南本所町と総称した。明治以降は北本所町・南本所町という総称は使用されなくなり、「北本所番場町」「南本所荒井町」といった個別の町名が使用されるようになっている。なお、北本所町・南本所町の飛地を北本所出村・南本所出村と称したが、これらは南葛飾郡大島村及び亀戸村に編入された(現・江東区のうち)。このほか、北十間川沿いに位置する中之郷村、小梅村の一部(現在の押上、業平橋付近)も町地化し、町奉行支配地となっていた。 明治11年(1878年)11月2日の本所区成立の時点では区内に70数か町が存在した。明治22年(1889年)の市制町村制施行時、南葛飾郡小梅村・押上村・柳島村・須崎村・中之郷村・請地村・亀戸村・北本所出村・南本所出村の各一部が本所区に編入された。これらの編入区域は、2年後の明治24年(1891年)、向島押上町など11か町に再編されている。明治11年から明治24年の間には下記のような町名変更があった。 以上の変更により、本所区内の町の数は計83となった(「一丁目・二丁目」等に分かれるものは、各「丁目」を1町と数える)。本所区は関東大地震で甚大な被害を受け、震災復興後の区画整理に伴い、昭和4年〜8年(1929 – 1933年)にかけて町名町域の大幅な再編が実施された。この結果、旧町名の多くが失われた。1960年代には「住居表示に関する法律」に基づく住居表示が実施されているが、この際には昭和4年〜8年成立の町名がおおむね踏襲された。 明治期の町名. 以下は明治24年現在の町名と、昭和4年〜8年の町名再編後の町名の対照表である。なお、「本所」を冠称する各町は、明治44年(1911年)に冠称を廃止している。 南葛飾郡からの編入区域. 明治22年(1889年)の市制町村制施行時に南葛飾郡から本所区に編入された区域は、2年後の明治24年に9町に再編され、一部は既存の新小梅町と小梅瓦町に編入された。これら旧村と本所区の町名の対応は以下のとおりである。 ※備考の『角川』は、『角川日本地名大辞典 東京都』を指す。 新旧の村名. 明治22年(1889年)の市制町村制以前の南葛飾郡の旧村と、同年廃置分合されて成立した新村(隅田村、寺島村、吾嬬村、大木村)の対応関係は複雑であるため、以下の表にまとめた。 なお、上記のほか、(新)隅田村の区域には、堀切村、篠原村、四ツ木村の各一部を含み、大木村には渋江村、川端村の各一部を含む。 住居表示実施直前の町名. 本所地区. 1923年の関東大震災からの復興に際し、東京市では各地で区画整理と町名改正が実施された。これに伴い、新たな町名・町界が設定され、多くの旧町名が廃止された。墨田区の前身の1つである本所区においても昭和時代初期に震災復興に伴う大幅な町名改正が実施されている。その後、1962年に「住居表示に関する法律」が施行され、同法に基づく住居表示の実施によって、墨田区の町名は再度変更されている。 墨田区では、1964年から区内の住居表示が順次実施され、1967年に区内全域の住居表示実施が完了している。 以下は、旧本所区の区域の住居表示実施直前(1963年現在)の町名と現行町名の対照表である。1963年の時点で存在していた町名の大部分は昭和時代初期、震災復興による町名改正に伴って新設された町名である。1963年以降の住居表示実施に際しては、震災復興時の町名がおおむね継承された。 向島地区. 以下は、旧向島区の区域の住居表示実施直前(1964年現在)の町名と現行町名の対照表である。 現行町名. 墨田区では全区において住居表示の実施が完了している。以下は住居表示実施後の町名と、当該住居表示実施直前の旧町名の一覧である。旧町名の後に「(全)」と注記したもの以外は当該旧町域の一部である。
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ホセ・マリア・ロメロ・ポジョン
ホセ・マリ(José Mari)ことホセ・マリア・ロメロ・ポジョン(José María Romero Poyón、1978年12月10日 - )は、スペイン・アンダルシア州セビリア出身の元サッカー選手。元スペイン代表。ポジションはFW。 経歴. クラブ. 地元のセビージャFCの下部組織出身で、18歳だった1997年3月5日、ラーヨ・バジェカーノ戦 (2-0) でトップチームデビューした。1996-97シーズンは21試合に出場して7得点したが、最終的にチームはセグンダ・ディビシオン(2部)降格となった。1997年夏、アトレティコ・マドリードに移籍し、1997-98シーズンと1998-99シーズン合わせてリーグ戦で18得点を挙げた。1999年に行われたマドリード・ダービーではホーム (3-1)・アウェー (3-1) ともに得点し、ほぼ20年ぶりのダービーでのアウェー戦勝利に貢献した。2000年1月、イタリア・セリエAのACミランに移籍したが、恥骨炎や靭帯の負傷に悩まされたほか、ホームシックにかかってチームに馴染めず、在籍期間中に5点しか挙げられなかった。なお、ホセ・マリは1920年代に在籍したウンベルト・ソルダーティ () 以来、ACミランに所属した2人目のスペイン人選手であった。2002-03シーズンはプリメーラ・ディビシオン(1部)に復帰した古巣アトレティコ・マドリードにレンタル移籍し、2002年11月10日のアスレティック・ビルバオ戦 (3-3) ではハットトリックを達成したが、2度目の在籍は不成功に終わった。 2003年夏、ビジャレアルCFと契約した。移籍金は公開されていない。同年夏のUEFAインタートトカップでは重要な役割を果たして優勝し、2004-05シーズンは30試合に出場して4得点してクラブ史上最高位の3位フィニッシュに貢献した。2007年夏にはマンチェスター・ユナイテッドFCからジュゼッペ・ロッシが加入し、さらにニハト・カフヴェジが長期の離脱から復帰したため、ホセ・マリは地元セビージャのレアル・ベティスと1年契約を結んだ。2007-08シーズンは無得点に終わり、2008年9月24日のFCバルセロナ戦 (2-3) で移籍後初得点を挙げた。契約は2010年6月までであったが、2008年12月にレアル・ベティスとの契約を解除し、2009年1月、セグンダ・ディビシオン(2部)のジムナスティック・タラゴナと契約を結んだ。2009-10シーズンは6得点を挙げたが、2010年6月に契約満了によりクラブを離れた。2010年7月、31歳のホセ・マリはセグンダ・ディビシオンに降格したばかりのヘレスCDと契約した。 代表. 2000年にはシドニーオリンピックに出場し、3得点を挙げて銀メダル獲得に貢献した。 2001年4月25日、コルドバで行われた日本との親善試合 (1-0) でスペイン代表デビューした。2002年11月20日のブルガリアとの親善試合で初得点を決めた。 人物. 好きな俳優はアントニオ・バンデラスやメル・ギブソン、ペネロペ・クルス、ジュリア・ロバーツ。好きな歌手はフリオ・イグレシアスである。サッカー選手ではヨハン・クライフやダヴォール・シューケルが憧れである。
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ヨアヒム・カイザー
ヨアヒム・カイザー(Joachim Kaiser、1928年12月18日 - 2017年5月11日)は、ドイツの音楽評論家・作家。マルツェル・ライヒ=ラニツキと並びドイツを代表する評論家のひとりに数えられる。 経歴. 東プロイセンのミルケン(現ポーランド領ミウキ)生まれ。父親は医者。早くから文学や音楽に関心を持ち、ハンブルクのギムナジウムを卒業後、ゲッティンゲンやフランクフルト・アム・マイン、テュービンゲンの大学で音楽学、ドイツ学、哲学、社会学を学ぶ。またその中間期にはフランクフルト大学のテオドール・アドルノをハインツ=クラウス・メツガーらと訪れ、ダルムシュタット様式の現代音楽の大きな影響をも受けた。 1951年より評論活動を開始。1953年には47年グループにも参加している。1958年、『グリルパルツァーの劇様式』("Grillparzers dramatische Stil") でテュービンゲン大学より博士号を受けた。同年以降はミュンヘンに住み、南ドイツ新聞の主任音楽評論家として内外のコンサート・オペラ・演劇などを執筆する。 テレビやラジオの解説にも精力的で、またバイロイト音楽祭が1951年に再開した際には支援を行った。シュトゥットガルト音楽演劇大学で定年まで音楽学の教授を務めていたが、退官後はミュンヘンで執筆活動に専念している。 著書. 『グリルパルツァーの劇様式』、『現代の大ピアニスト達』(1965)、『小さな劇場の本』(1965)、『ベートーヴェンの32のソナタ達とその解釈』(1975) などがある。また作家として3冊の小説も出版している。
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抒情小曲集
『抒情小曲集』(じょじょうしょうきょくしゅう、ノルウェー語: "Lyriske stykker")は、エドヴァルド・グリーグが1867年から1903年にかけて作曲した、全66曲からなるピアノ曲集。6~8曲ごとにまとめられて出版され、全10集からなる。第1集はコペンハーゲンの出版社から、第2集以降はドイツのペータースから出版された。 「蝶々」(作品43-1)、「春に寄す」(作品43-6)、「トロルドハウゲンの婚礼の日」(作品65-6)などはとりわけ有名である。 個々の曲名は、音楽之友社『グリーグ 抒情小曲集 1・2』(舘野泉解説)による。 第1集 作品12. 1867年に出版。この時期は、ニーナ・ハーゲルップとの結婚の年で、翌1868年にピアノ協奏曲を作曲するなど、充実した創作期の作品である。後の作品集と比較すると、音形は単純で、複雑な技巧は必要としないながらも、すでにグリーグらしさは発揮されている。 第2集 作品38. 1883年に出版。第1集から16年の隔たりがある。ピアノ協奏曲、『ペール・ギュント』の音楽を作曲し、名声は揺るがないものとなったが、以降ピアノや歌曲、室内楽作品などを中心に手がけるようになっていく。 第3集 作品43. 第2集の翌年に作曲されたが、出版は1886年。ヨーロッパ各地への演奏旅行の合間に書かれた曲。全体的に春の喜びに溢れている。 第4集 作品47. 1888年に出版。作品は1885年に遡るものもある。「アルバムの綴り」、「ハリング」、「飛びはね踊り」など、他の曲集と重複する名前の曲がある。 第5集 作品54. 1891年に出版。『抒情小曲集』の中心をなす完成度の高いもの。最初の4曲は作曲者により『抒情組曲』として管弦楽へ編曲されている。 第6集 作品57. 1893年に出版。フランスの保養地マントンで作曲された。祖国への郷愁とヨーロッパ的なスタイルが同居している。 第7集 作品62. 1895年に出版。トロルドハウゲンで作曲された。体調が次第に悪化していった時期の作品。第5、6集と比べ地味なため玉石混淆と言われることもあるが、むしろ芸術性は高まり、グリーグ後期の繊細で洗練された自然美が描かれる。 第8集 作品65. 1896年に書かれ、1897年に出版。ピアニストの舘野泉によれば、第5曲をはじめとして「バラード調」の曲が多い。 第9集 作品68. 1898年から1899年初めに書かれ、1899年に出版。2~3分の小さな曲ばかり。第4曲と第5曲は1899年にグリーグ自身が管弦楽(基本は弦楽合奏だが第4曲のみオーボエとホルンを1本ずつ使用)に編曲している。 第10集 作品71. 20世紀に入り、1901年5月に5曲を作曲。同年に出版。 管弦楽編曲. グリーグ自身によるもの. 前述のように、6曲が編曲されている。
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サラット・フォンセカ
サラット・フォンセカ(, , , 1950年12月18日 - )は、スリランカの軍人、政治家。スリランカ陸軍第8代司令官としてタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)との戦いを指揮し、26年にわたる内戦を終結させた。内戦後はを務め、退官後の2010年には大統領選に出馬したが、当時現職だったマヒンダ・ラージャパクサに敗れた。 大統領選後には議会選挙に出馬して国会議員となるが、その直後に政治犯として収監され議席を失った。2015年の大統領選挙ではマイトリーパーラ・シリセーナを支持し、彼の当選後には恩赦を受けて釈放され軍時代の勲章なども回復した。その後さらに同年3月には、スリランカ陸軍史上初の陸軍元帥となった。 2016年の総選挙では全国区で出馬し当選。地方開発大臣や野生動物・持続可能な開発担当大臣を歴任したが、2018年10月26日に起きたをきっかけに失脚した。 生い立ち. 1950年12月18日、スリランカ南西部のアンバランゴダで生まれる。彼の父ピーターは校長、母ピヤワティも教師だった。地元で教育を受けたのちにコロンボにある仏教系男子校アナンダ・カレッジへ入学。1969年に卒業した。在学時は水泳と水球が得意で、学校ではキャプテンを務めた。 軍歴. カレッジを卒業したフォンセカは、1970年2月に士官候補生として陸軍へ入隊し、基本訓練を受けた。訓練後は少尉として第1大隊へ配属され、翌年6月に発生した人民解放戦線(JVP)の武装蜂起にも対応した。 1973年に中尉、1976年には大尉に昇進し、同時期にはコマンド部隊の訓練なども受けた。その後1980年に少佐に昇進したフォンセカは、翌年以降数年間をスリランカ陸軍士官学校の教官として過ごした。 第一次イーラム戦争. 1987年にバングラデシュの参謀学校を卒業したフォンセカは、スリランカ陸軍第4軽歩兵隊の指揮官に任命された。当時は第一次イーラム戦争の終盤であり、フォンセカ自身もジャフナ半島攻略作戦に参加した。戦後は中佐に昇進し、1989年には第1大隊長を任された。 同時期には人民解放戦線(JVP)による2回目の武装蜂起も発生しており、これに対してもガンパハ県の軍事コーディネーターとして参加した。この作戦で彼はJVP指導者のを捕らえ、評判を上げた。 第二次イーラム戦争. 1991年には大佐に昇進し、バラベガヤ作戦では第3旅団長として活躍した。エレファント・パスの戦いでは、フォンセカ率いる部隊が包囲されながらも圧倒的な劣勢を持ち堪え、LTTEの撃退に成功した。その後はアンベプッサにあるの中央司令官に任命され、陸軍本部作戦部にて働いた。 1993年にジャフナ要塞がLTTEに占領されると、フォンセカは部隊を率いて奪還作戦を行なった。この作戦でフォンセカは足に銃弾を受け負傷するが、奪還作戦は成功し数百名の兵士が救出された。同年末には准将に昇格し、陸軍本部に配属された。 第三次イーラム戦争. 1995年にはLTTEからジャフナを奪還したでの役割を評価され、広く知られるようになった。またその後のでも重要な役割を果たした。 1998年には少将に昇格し、司令官兼陸軍本部参謀を務めた。 2000年にが再び陥落するとフォンセカはジャフナ防衛本部へと赴き、ジャフナ半島防衛作戦を指揮した。その後ワンニ防衛本部司令を務めたのち、2002年から2003年にかけて再びジャフナ防衛本部司令を務めた。またこの時期に新しい歩兵訓練プログラムを開発した。 その後イギリスの王立国防学院で学び、その後はスリランカの参謀学校で校長を務めた。2003年にはの司令官に任命され、その翌年にはとなった。そして2005年、大統領マヒンダ・ラージャパクサからを任命され、中将に昇進した。 暗殺未遂事件. 2006年4月25日、フォンセカの乗った車両がLTTEの自爆テロに遭い、重傷を負った。実行犯はアノジャ・クーゲンチララサという妊婦で、軍病院で一般向けに行われていた産科診療を受けた後でフォンセカの車両を襲撃した 。フォンセカとその副官が重傷を負い、護衛を含む9名が死亡したがフォンセカ自身は一命を取り留めた。これは襲撃場所が軍病院の正面で、救急車で数分以内にスリランカ国立病院へ搬送することができたからである。また事故直後もフォンセカには意識があり、将校や医師と話すこともできた。その後緊急手術を受け、一時は意識不明となり人工呼吸器を装着したが、事件から5日後の4月30日には意識を取り戻した。その後陸軍本部に併設された軍病院へ移送され、さらにシンガポールで高度な治療を受けた。その後彼が大臣となった2016年には、大統領のマイトリーパーラ・シリセーナに対して自身の暗殺に関わった人物の恩赦に向けた措置を取るよう要請した。 第四次イーラム戦争. 治療を終えたフォンセカは同年7月から軍務に復帰した。彼は30年に及ぶ内戦を終結させた戦略の立案者と評されている。 彼は従来の方針を変更してLTTEの巧妙な戦術・戦略に合わせた戦い方を考案し、圧倒的な数的優位を利用してLTTEに圧力をかけ続けた。また、陸上戦を支援するために海軍・空軍を全面的に展開することを主張し、他の軍司令官の支持を得ることに成功した。 フォンセカは陸軍部隊を小さな集団に分け、高度な訓練を受けた士気の高い兵士を育成し、LTTE支配地域へ送り込んで幹部を暗殺させた。また彼は陸軍を防衛重視からから攻撃重視の軍隊へと変貌させた。経験豊富な指揮官は、積極的な軍事指導とともに歩兵の訓練・気風の変更、北方の防備など、戦闘前の準備で軍事戦略を変えていったのである。また積極的に前線の兵士を激励し、軍内にあった保守的な姿勢を転換した。また2007年にはを創設も行なっている。 彼はLTTEの攻撃への対応に追われていた陸軍を変革し、3年で戦争を終結させる計画を立案した。その主眼は領土の回復だけでなく敵軍の掃討に当てられていた。彼は主要幹線道路沿いで行われていた作戦を削減すると同時に戦線を拡大し、敵戦力の分散を図った。そして4人編成の小隊を大量に投入し、自軍兵力と民間人の犠牲を少なくしつつ隠密作戦と多方面作戦を展開した。また東部戦線の終結前に北部の攻略を開始することで、停戦交渉が行えないようにした。 また孫子の兵法に則って敵軍の戦力が集中した場所は避け、また軍内の年功序列も廃して現場経験の多い指揮官を登用した。またLTTEの艦船・指揮官の排除に海軍・空軍が必要であることを証明した陸軍情報部も再構築した。また軍内部の評価制度も一新して汚職や賄賂の排除に取り組んだ。また銃などの装備品の在庫管理制度も改革し、軍事予算の効率化にも取り組んだ。これらの業績が評価され、2009年1月にはインドのが選ぶ最優秀軍事指揮官に選ばれた。 戦争終結. 2009年5月18日、スリランカ軍はLTTEを完全に制圧し、26年に及ぶ内戦を終結させた。フォンセカはその中心的存在として陸軍を指揮し、この業績によって国内から英雄として評価されるようになった。そしてその後すぐに国内初の陸軍元帥(名誉職)に昇進した。そして同年7月には大統領直属のとなり、大統領の防衛戦略を補佐した。 退官. 翌年1月に行われる大統領選挙に出馬するため、同年11月12日に防衛大臣ゴーターバヤ・ラージャパクサを通じて辞任届けを大統領に提出した。彼は月末まで仕事を続けるよう留任されたが結局16日に辞任し、後任には空軍司令官のロシャン・ゴーナティラカが就任した。 政治家としての経歴. 事前の報道. 戦争が終結する前からフォンセカが政界入りするかどうか議論がなされていたが、戦争が終結した直後の2009年8月ごろには既にフォンセカが政界入りするとの報道が出始めていた。 2010年大統領選出馬. 2010年大統領選挙においてフォンセカは統一国民党(UNP)、人民解放戦線(JVP)などから推薦を受けた野党統一候補として立候補した。また元大統領のチャンドリカ・クマーラトゥンガからも支援を受けた。なお彼自身はどの政党にも所属しない無所属で立候補した。 フォンセカの大統領出馬宣言がなされた直後、現職大統領のラージャパクサは任期満了の2年前に選挙を実施するよう要求した。 フォンセカを支援するUNP、JVPの両党は、強力な選挙運動をおこなった。彼らはフォンセカこそがLTTEとの内戦に勝利した真の英雄であり、彼が大統領になれば少数民族からの支援も得てラージャパクサ政権下で行われた汚職を一掃する用意があると主張した。また、長年先送りにされてきた公務員の給与引き上げも約束した。さらに彼らは憲法改正によって大統領権限の一部を議会へ移譲し、公費の使途を監視する独立委員会を設置することも公約に掲げた。 一方でフォンセカは選挙期間中に数多くの挫折を味わった。2009年12月には地元紙の「サンデイ・リーダー」がとある記事を掲載した。そこには「当時防衛長官であり大統領の実弟でもあるゴーターバヤ・ラージャパクサが、降伏したLTTEの幹部3名を殺害するよう命令した」というフォンセカの証言が掲載されていた。この証言は全国に広まることとなり、フォンセカは世間から「裏切り者」として認識されてしまった。その後フォンセカは自身の証言の一部のみが同紙に取り上げられていると釈明したが、多くの分析家はこの時点で勝敗が決したと後に分析している。 これに加えてスリランカ政府もフォンセカの不正行為の証拠を提示した。この証拠によるとフォンセカは、入札委員会の委員長を解任して自身がその職に就き、全ての入札を彼の義理の息子が所有する企業から受けていた。加えて彼の親友が会社設立の経緯をメディアに暴露した。それによると、この会社はフォンセカの義理の息子によってアメリカで設立され、終戦までの3年間で合計300万ルピーもの装備品をスリランカ軍に販売していた。フォンセカは批判されている会社と義理の息子の会社は無関係だと主張したが、会社名は同じ"Hicorp"だった。この疑惑もまた政府を支持する全国紙などで大々的に報道され、フォンセカの評判を落とすために利用された。 その後、LTTEと協力関係にあったタミル人政党「タミル国民連合(TNA)」がフォンセカの支持に動いた。すると今度は、フォンセカとTNAの間に結ばれた密約が政府から暴露された。それによるとフォンセカは、大統領選において北部および東部のタミル人の支持を得る見返りに、北部州と東武州の合併およびタミル人による自治を約束したという。しかし、この報道は後に野党党首がフェイクニュースであると証明した。しかし一部のシンハラ人たちはこの報道に怒りを発した。なぜならそれまでの30年間スリランカ政府がLTTEと戦ってきたのはまさにタミル人の自治を認めないためだったからである。一方で野党もマヒンダ・ラージャパクサとイーラム人民民主党(EPDP)党首のダグラス・デバナンダが密かに協力していることを暴露した。 こういった混乱はありつつも、フォンセカは依然として1月26日の選挙当日には大勝するだろうと考えていた。そのため彼は大統領公邸から数百メートル離れた場所にある五つ星ホテルの部屋を70部屋借りて選挙当日の夜を迎えた。またメディアは軍およそ400名の兵士が脱走し、フォンセカが予約したホテルへと駆けつけたと報じた。フォンセカ陣営はこれを否定し、ホテルにいる人々はフォンセカを支持する政党のメンバーであって脱走兵はいないと述べた。 そして翌日の1月27日、選挙結果が発表された。 大統領選直後. 敗戦の報を聞いたフォンセカは結果を受け入れることを拒否し、オーストラリアへの亡命を検討すると述べた。 1月28日、「選挙結果が僅差だった場合に備えてフォンセカがクーデターを計画している」とラージャパクサ政権の閣僚が主張したことを受け、CIDが新たに捜査を開始した。またこれに伴い、フォンセカを支持していたJVPが運営していたメディア「ランカ」が1月30日に裁判所令を受け閉鎖されている。ただし、「ランカ」については数日後に裁判所が閉鎖令を撤回し、CIDに対して事務所の再開を命じた。しかし、フォンセカ自身は2月8日に戦争法違反の疑いでスリランカ陸軍に逮捕・拘束された。 逮捕・勾留. 2010年2月8日、フォンセカはスリランカ軍憲兵により逮捕・勾留された。逮捕理由は防衛次官時代に軍規違反をしたというものであった。軍はフォンセカがスリランカ軍法第57条1項に違反したと宣言した。彼はスリランカの弁護士の公休日にあたる8月9日〜13日に軍法会議で審理を受けたため、弁護を受けられなかった。その他、裁判官の選定が適切でなかったとフォンセカの弁護人は主張している。それに加えて証人尋問も前述の期間に行われたため、弁護人は証人尋問にも同席できなかった。これらの問題にも関わらず、軍法会議はフォンセカに対して有罪判決を下し、30ヶ月の収監を命じた。さらに大統領マヒンダ・ラージャパクサの宣言により、軍籍と過去の勲章、そして軍人年金の受給資格を剥奪された。 2011年11月、フォンセカはさらに他の事件で収監3年、罰金5,000ルピーの判決を受けた。 彼はさらにコロンボ高等裁判所でも起訴されたが、軍事法廷とコロンボ高裁で扱われている容疑は実質的に同じであり、同じ容疑に対して複数回の判決を下すことはできないという主張が認められたため、2012年3月に無罪判決が下された。 フォンセカが大統領選挙直後に逮捕されたこともあり、フォンセカは政治犯として報道されることがある。 2010年総選挙とその後の動き. 2010年4月に実施された総選挙に(DNA)党首としてコロンボ選挙区で立候補したフォンセカは98,000票以上を集め、彼が率いたDNAも選挙区で110,683票を集めた。彼は国会議員の地位を得たが、2年半の実刑判決を受けたことで憲法上議員職を続けられなくなった。彼は軍籍剥奪、収監、議員資格の剥奪の取り消しを求めて控訴したが、2011年12月に請願は却下された。そのため、翌年1月に彼は最高裁判所へ上訴した。 釈放後. 国内外からの釈放の声に押された大統領マヒンダ・ラージャパクサは2012年5月、ついにフォンセカの釈放を命じる書類に署名した。 同年9月、DNA選出の国会議員が事務局長を辞任した。彼はフォンセカ釈放のため複数回ラージャパクサ大統領と交渉をしたことでメディアから注目されていた。翌月には(NBF)とDNAが共同で大統領制廃止運動を展開した。最大野党統一国民党(UNP)の国会議員は執行部に参加の許可を求めたが、首脳陣は10月18日にコロンボ・ハイドパークで開かれる予定だったデモへのボイコットを党員に命じた。 2015年大統領選挙・総選挙. 2015年に実施された大統領選挙では、フォンセカはマイトリーパーラ・シリセーナの支持に回り勝利した。シリセーナの当選に伴ってフォンセカは恩赦を受け、1月22日付で全ての罪状を免除され市民権を回復した。また、これによって過去の軍籍や勲章、軍人年金の受給権も回復された。フォンセカは加えて有罪判決によって失った自らの国会議席の回復を要求した。また3月22日にはシリセーナ大統領によって新設された陸軍元帥のポストに就任した。 同年に実施された総選挙では自身が代表を務めるからコロンボ選挙区へ立候補したが、落選した。 統一国民党(UNP)への参加. 2016年2月、フォンセカが率いる民主党(DP)は統一国民党(UNP)と合意を結び、UNPが主導する政党連合の統一国民戦線(UNF)にDPが参加することとなった。 そして同年2月9日、M・K・A・D・S・グナワルダナ議員の死去に伴い空席となった議席を引き継ぐ形でフォンセカは国会議員となった。そして25日には「野生生物・持続可能な発展担当大臣」として初の入閣を果たした。 しかし2018年に発生したにより大臣の職を失い、危機が収束した後も返り咲くことはなかった。憲政危機においてシリセーナ大統領はフォンセカの名前が捜査線上に上がっていると主張したが、受け入れられなかった。 さらに翌年発生した連続爆発テロ事件を受け、首相でありUNP総裁でもあったラニル・ウィクラマシンハはフォンセカを法務大臣に任命するよう要求したが、シリセーナ大統領はその要求を却下した。 2022年、フォンセカは、大衆の支持、そして多数派であるスリランカ人民戦線(SLPP)の支持を得られるのであれば、大統領になる用意はあると述べた。 外部リンク.
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ベリア
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Maps.me
Maps.me(MAPS.MEとも表記、過去名にMapsWithMe)とはAndroid、iOS、BlackBerry対応のモバイルアプリケーションで、オープンストリートマップを使用したオフライン使用地図を提供する。2014年11月、が買収し、ブランドの1つとなっている。2015年9月、アプリはオープンソース化された。最初のアプリはベラルーシとスイスで開発された。Maps.meは(Yury Melnichek)、アレクサンダー・ボースク(Alexander Borsuk)、ヴィクター・ゴヴァコ(Viktor Govako)によって設立され、アレクサンダーの指揮下でMapsWithMeは当初ユーザー数が全世界で250万人に達した。メルニチェクは2013年11月からエヴゲーニー・リソフスキー(Evgeny Lisovskiy)が引き継ぐまでプロジェクトを牽引していた。2017年初期にアプリの方針が変更され、控えめな広告にって収益が支えられるようになった。 Mail.ru Groupによる買収. このアプリは当初チューリッヒに拠点を置き、ミンスクに開発オフィスを持っているMapsWithMe GmbHが開発した。 2012年、MapsWithMeはヴィリニュスで行われたコンペティションに初参加し、賞としてシリコンバレーで手当のある9週間の講習を受けた。 2014年11月、Maps.meはMail.Ru Groupに買収され、My.comのブランドとなりアプリも無料化された。エンジニアチームはモスクワにあるMail.Ru Groupのオフィスへと移りプロジェクトを継続することになった。 データソースと技術. Maps.meの全地図データは無料で編集できる世界地図プロジェクトであるオープンストリートマップを採用している。また、宿泊施設データは提携を結んでいるブッキングドットコムによるものである。 アプリケーションで使われている技術: API. Maps.meは開発者向けの無料アプリケーションプログラミングインタフェースを提供していて商用・個人両方で使用できる。 YotaPhone. 2013年、ロシア製スマートフォンでディスプレイが2画面(前面LCD、背面eインク)搭載されているYotaPhoneの開発者は端末のeインクディスプレイに対応したアプリの開発をMapsWithMeに求め、MapsWithMeは端末のカラー画面とeインク画面の両方に最適化した特別バージョンアプリをリリースした。 メイン画面では全ての国の地図を閲覧したり、ピンを押したり、場所を探すことができて、電池の節約のために地図をeインクディスプレイに移して表示することができる。 2016年5月4日のリリースを最後にYotaPhoneでのサポートを終了している。
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名将の采配
『名将の采配』(めいしょうのさいはい)は、NHK総合テレビジョンで放送された歴史ドキュメンタリー番組である。 概要. 日本史・世界史において分岐点となった戦いや劣勢から逆転した戦いなどを題材に、司令官の人物(名将)が採った戦術をジオラマで再現する一風変わった“歴史バラエティ”である。 戦場となる平地・山・海・城などの地形や建物などをジオラマで再現し、敵・味方・兵科によって色や形を変えた駒で軍勢を再現している。駒は黒衣が操作し、軍勢が多いと駒も多くなる。戦いの中においてポイントになるいくつかの場面で、ゲストは名将の采配を予想、ジオラマ上で駒を動かし、名将は史実でどのような行動を取ったのか(成功か失敗か)を問われる。正解再現パートでは黒衣が駒を動かすと共にバトルマスターによって解説が行われる。 2008年10月8日に『番組たまご トライアル2008』企画の一番組として制作・放送された。その後、2009年6月から全7回が『EYES』火曜深夜枠でレギュラー化され、2010年7月からは第2期の放送が決定した。
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長野県上田高等学校
長野県上田高等学校(ながのけんうえだこうとうがっこう)は、長野県上田市大手一丁目にある公立高校である。男女共学で、全日制普通科と定時制普通科を設置している。全日制では、国立大学を中心に難関大に合格者を輩出している。 概要. 長野県東信地区において随一の進学校として周知されており、広く上田・小県、東御、佐久などから入学してくる。東京大学をはじめとする旧帝国大学、国公立大学及び医学部・早慶・上智などへの進学者を多く輩出する。 校舎は上田藩の藩主館跡に建てられており、校門は上田藩主居館表御門を継承している。周囲には堀も残されている。門、塀、堀はともに上田市の文化財に指定されている。 学内及び学区内の高等学校では部活動を「~部」ではなく「~班」と呼称する。そのため、部活ではなく班活と言う。学祭は、前身の上田松尾高等学校にちなんで「松尾祭」と言う。 2004年より、公立高等学校の通学区制度が変更され、東信地区は第5から第2通学区へと変更になった。前期選抜は2011年度より実施していない。 また2018年現在、スーパーグローバルハイスクール (SGH) 指定校となっている。生徒らは学校理念の「至剛の誇り」とかけて、「SGHを忘れるな」を合言葉としている。 敷地内には『向』と題したブロンズ像が設置されているが、これは同校の48期生が卒業30周年を機に寄贈したものである。48期生が彫刻家であり53期生でもある尾澤正毅に制作を打診したところ、意気に感じた尾澤が母校のためにと無償で請け負ったことから、48期生は鋳造費と据付費の実費のみを支払い、1980年11月22日に除幕された。
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国民服
国民服(こくみんふく)は、1940年(昭和15年)に定められ、太平洋戦争中に使用された、日本国民男子の標準服。 概要. 1938年(昭和13年)、厚生省社会局は物価騰貴の対策として国民服の制定に向けた検討を開始。同年4月13日、賀川豊彦、本位田祥男ら有識者、関係団体による庶民経済保護座談会が開催された。この時点の国民服はワイシャツやネクタイを不要とする簡素な服装で、生地は耐久力があり廉価かつ衛生的なものという構想が造られていた。 1940年(昭和15年)に入ると戦時の物資統制令下における国民の衣生活の合理化・簡素化が主目的となり、厚生省及び陸軍省の管理下にあった被服協会により国民服が創定され、その後昭和15年11月1日勅令725号「国民服令」によって法制化された。この時期には、第2次近衛内閣の国務大臣星野直樹の着用姿が映像で確認できる。 ただし、着用が強制されたのではなく、太平洋戦争後半までは着ていない者の方が多かった 。国民服令は昭和22年4月18日法律第72号「日本国憲法施行の際現に効力を有する命令の規定の効力等に関する法律」により失効した。 季節の区別なく着ることができ、改まった席では国民服儀礼章を着用して礼装とすることができるなど合理性も考慮されていた。1942年以降は全国の生徒・学生の共通通学服としても指定されるなど当時の男子の間で広く採用され、戦時の窮乏生活での繊維材料の資源節約と戦意高揚に一定の効果を発揮した。 もっとも戦時であり自由な数に手に入れることはできなかった。 1942年2月1日からは、衣料品にも配給制度(点数切符制)が導入され、都市部の住民には1人年間100点が与えられた中で、点数化された衣料品を選ぶ制度となっていた。その中で国民服は学生服とならび14点とスーツ一式31点と比べ低い点数とされていた。 国家総力戦にあって、軍服に容易に転換できる服装を普及させることは国防力の充実に寄与した。更に終戦間際には「大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例」(昭和19年12月1日勅令第652号)が昭和20年6月22日勅令第384号「大東亜戦争陸軍下士官兵服制特例中改正ノ件」を以って改正された。同改正では、「大東亜戦争陸軍軍人服制特例」へ改題されると共に、軍服の代用として国民服を使用することが認められることになった(同第2条表)。また、この勅令に先立つ沖縄戦でも、市民や学徒たちが防衛隊員として正規軍指導の下で国民服で戦闘に参加している。しかしながら国民服が軍服によく似ていたため、沖縄戦や樺太の戦いなどにおいて、アメリカ軍やソビエト連邦赤軍が国民服を着用した非戦闘員を射殺するという事態も多数発生したとされる。 なお、国民服と同様の主旨から女子の着用が推奨される服装として婦人標準服が1941年から研究され、1942年4月に決定されたが、国民服のように普及はせず、ほとんど着られなかった 。 構成及び変遷. 被服協会による昭和15年5月5日発行の冊子「国民服(男子用)の手引」では、国民服は上衣、中衣及び袴により構成されるとし、袴の形式については自由としていたが、同年11月の国民服令では、これらに帽子、外套、手袋及び靴が加えられ、袴の制式が定められた(国民服令別表第1)。また、帽子と外套も制式が定められたが、礼装時以外は適宜とされた。 上衣、袴及び礼装時の外套並びに帽子については「茶褐絨又ハ茶褐布(国防色)」と地質(素材や色)が定められたが、色調については軍服のように厳密なものは要求されなかった。また、礼装時の手袋は白色とされた。 上衣. 5月5日に発表された上衣には1号から4号の4種類があった。何れもシングルブレストの5個ボタンで、胸と腰に4つのポケットが付いていた。 11月公布の国民服令では、甲号と乙号の2種類に整理された。甲号は1号のデザインがそのまま受け継がれ、乙号は4号のものが受け継がれた。ただし、乙号の襟は1号と同じ立折襟式開襟でも可とされ、この場合旧3号と4号の兼用とも言える。また、既に3号国民服を作成した者に対しては、襟を改造するだけで乙号国民服とすることが出来、この改造は容易である旨がアナウンスされた。甲号は一般用として推奨されていたのに対し、この頃には乙号(4号)が青少年の団服や制服として普及していたが、一般の使用も推奨されるとされた。 中衣. 中衣のデザインは日本襟や縦型物入れ(ポケット)といった日本古来の服装の特長を生かしたもので、国民服創定に於いて特に創意工夫されたとしている。ワイシャツ、カラー及びベストを兼ねた服で、ネクタイは不要。合服として単独でも着られた。上衣を開襟にした場合、下にワイシャツとネクタイを着用することが出来、実際にそのような着こなしをしていた者もいたが、これは国民服とは言えず(国民服令第6条)、好ましくないとされた。 上衣と同様に、5月5日に発表された中衣は1号から4号の4種類あったが、11月の国民服令で甲号と乙号の2種類に整理された。 帽子. 国民服令により新規に制定された帽子は、日本古来の烏帽子をイメージしたもので、寒冷時には両側の折り返しを下ろすことにより耳を覆うことができるようになっていた。また、乙号着用の際は、陸軍の昭和13年制略帽(通称戦闘帽)型のものを使用することもできた。 戦争末期の特例. 昭和18年勅令第499号「国民服制式特例」により、上衣、袴及び礼装用外套の地質に関する規定が緩和された(国民服制式特例第1条)。また、脚絆の着用が可となり(同3条)、その際に履く、裾をボタン留め出来るデザインの袴が加えられた(同4条)。そして、デザインがシンプルでより軍服(=同時期の九八、若しくは三式軍衣)に近い乙号を中心に製造されるようになっていった。
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ボリビアの都市の一覧
ボリビアの都市の一覧。 事実上の首都はラ・パス、憲法上の首都はスクレ、最大都市はサンタ・クルス・デ・ラ・シエラ。 ボリビアで最も人口が集中しているのは中央政府組織があるラ・パス都市圏(ラ・パスとエル・アルト)で、2012年の人口は合わせて164万6480人であった。 これは、ボリビアの全人口の14.8%にあたる。
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クレスト
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大阪府立北摂自然公園
大阪府立北摂自然公園(おおさかふりつほくせつしぜんこうえん)とは、大阪府北部の北摂山系の森林地帯にある自然公園で、5市町に点在している。 概要. 大阪府北部の高槻市・茨木市・島本町・豊能町・能勢町にある北摂山系の森林地帯に点在する10地区が指定されている。面積は2,594ヘクタール。平成13年(2001年)8月31日に指定された。大阪府は全国一森林面積が少ないことなどから、さまざまな動植物が生息する北摂山系の自然風景を守り、里山の乱開発を防止して里山の保全を図り、自然公園法に基づいた自然を生かした環境整備などの目的から大阪府で初めて指定された。北摂自然公園は特別地域と普通地域の2つに区分され、特別地域は一部の動植物の採取なども制限されている。年間訪問客は78万3千人ほど。 地区. 東からの順番。 名所. その他. 社寺 外部リンク. 府立北摂自然公園
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エコ足立 (小惑星)
エコ足立(えこあだち、12391 Ecoadachi)は小惑星帯の小惑星である。北海道北見市の円舘金と札幌市の渡辺和郎が発見した。 小惑星名は長年に渡り環境フェアの活動を行ってきた東京都足立区に由来し、2008年6月の区民環境フェアで渡辺の知人が講演したのが切っ掛けで名付けられた。
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ルイス・フィリペ (ブラガンサ公)
ルイス・フィリペ(、1887年3月21日 - 1908年2月1日)は、ブラガンサ朝のポルトガル国王(在位:1908年2月1日のうち約20分、後述するが、国王と見ず王太子のまま逝去したとする見方も多い)。 生涯. 1887年3月21日、カルロス1世の長男としてリスボンに生まれる。母親はオルレアン家出身のアメリア王妃である。 1908年2月1日、父王カルロス1世や他の王族とともに馬車でコメルシオ広場付近を通りかかった時に急進的共和主義者の民衆により襲撃され、父王は即死した。この時点で王位は法定推定相続人であるルイス・フィリペが継承したことになるが、彼もまた襲撃された際に重傷を負い、約20分後に崩御した。すなわちこの、襲撃され負傷してから崩御するまでの約20分間が、ルイス・フィリペが王位に就いていた期間であり、2014年時点で世界一在位していた時間の短い君主である。 なお、在位期間が20分間と短い上、状況が状況であったために正式な即位式を経たわけでもないので、ルイス・フィリペを短時間ながら国王であったと見るか、王太子であり即位する前に逝去したと見るか、意見は分かれるところである。一般には国王であったと見る説が有力であり、『ギネス・ブック』にも「もっとも在位していた時間が短い王」として記録されている。 ルイス・フィリペの死後、襲撃された際に負傷したものの生き残ったルイス・フィリペの弟マヌエルが王位に就いた。 脚注.
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山田昌寛
山田 昌寛(やまだ まさひろ、1981年5月1日 - )は、セパタクロー日本代表選手。氷取沢高等学校、日本体育大学体育学部卒業。日本代表インステップ・サーバー。和歌山県和歌山市生まれ。神奈川県横浜市出身。 経歴. 国内. [大阪・スイタクロー所属] [株式会社イカイ・EPS所属] [MSC武蔵野セパタクロークラブ所属] テレビ出演・取材等. ◆テレビ出演・取材等
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シャカ・サイン
シャカ・サイン (英:Shaka sign) は、ハワイなどで使われる挨拶のジェスチャーの一つ。 概要. 動作. 親指と小指を立たせ、人差し指から薬指までの三指は握り拳にして掌を自分側(もしくは相手側)に向ける。 また、そのまま自分の顔の真横に添えることで拳を受話器に見立て、電話のジェスチャーに使われる場合もある。
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松山駐屯地
松山駐屯地(まつやまちゅうとんち、JGSDF Camp Matuyama)は、愛媛県松山市南梅本町乙115に所在し、中部方面特科隊等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地。 概要. 1950年(昭和25年)12月に三津浜町(現・松山市須賀町)の旧愛媛師範学校女子部跡(現在の松山西警察署)に警察予備隊松山訓練所が開設されたのが始まりである。 1955年(昭和30年)10月に三津浜の松山駐屯地は老朽化に加え手狭となったため廃止され、旧陸軍歩兵22連隊の演習場があった小野村(現・松山市南梅本町)に小野駐屯地が新設された。また、1967年(昭和42年)の松山市との合併により松山駐屯地と改称され、幾多の改編移駐を経て今に至る。 駐屯地司令は、中部方面特科隊長が兼務。最寄の演習場は、小野演習場で松山駐屯地業務隊が管理する。
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国鉄キ700形貨車
国鉄キ700形貨車(こくてつキ700がたかしゃ)は、1926年(大正15年)に輸入、1927年(昭和2年)から国産化された、鉄道省(後に日本国有鉄道)の事業用貨車(広幅雪かき車)である。製造時はキ400形(初代)であった。 概要. 駅や操車場構内を除雪するための広幅雪かき車(ジョルダン車)として1926年(大正15年)にアメリカ合衆国のジョルダン社から2両を輸入し、これを参考に鉄道省は部内の工場で広幅雪かき車の国産化を開始した。登場時はユキ400形の形式が付与され、1928年の車両称号規程改正でキ400形(初代)となった。さらに1941年(昭和16年)3月の称号改正でキ700と改称された。ユキ400形(キ400形)として15両(キ400 - キ414)、キ700形への改称後に9両(キ715 - キ723)の計24両が製造されている。 アメリカから輸入した2両(キ400、キ401)は台枠の端部に前鋤、中央部には雪かき翼とそれを開閉する空気シリンダ・エアタンクを備えるのみの簡素な構造だったが、国産化したキ402以降の車両では前方の確認や機器の操作を行う木造の乗務員室(操縦室)が備えられ輸入車も同様に改造された。さらに戦後製のキ721 - キ723では乗務員室を鋼製化し、戦前製の木造乗務員室を備えた車両も昭和30年代までに鋼体化された。なお木造時代の乗務員室は前面が折妻型になっているもの、側面に出窓を備えたものも存在していたが、鋼体化で前面2枚窓の切妻型に統一され、昭和40年代以降は後部に機器室が増設された。また初期の製造分は前面に前鋤を備えるのみであったが、製造途中から開閉式の延鋤と補助翼が取り付けられより除雪能力を高めている。雪かき翼は左右どちらでも除雪でき、最大除雪幅は5.5 m。前頭が直立しているため、除雪速度は遅めである。 全長11,350 mm、自重35.3 t。台車はTR20だが、戦後製造分はTR41となり戦前型でも換装した車両がある。 塗色は黒であるが、1968年(昭和43年)10月ダイヤ改正(ヨンサントオ)においては最高速度65 km/h未満の貨車であるため、速度制限運用車に指定され、側面にそれを示す黄1号の帯が入った。 1979年(昭和54年)から1983年(昭和58年)にかけて8両が苗穂工場にて近代化改造工事を受けた。改造に際しては台車をトキ25000形の廃車発生品に交換、翼の駆動を油圧式とし、車体はディーゼルエンジンを積んだ箱型のものとなった。近代化改造された車両は750番台(キ750 - キ757)に改番された。 運用の変遷. 本形式は北海道地区、本州でも奥羽本線と新潟地区で使用されたが、除雪用モーターカーやDD15形・DE15形などが増備されるとこれらが構内の除雪にも使用されるようになり、本形式は老朽化も相まって次第に使用されなくなる一方、近代化した750番台はキ100形の置換用途で逆に本線でも使用されている。1987年(昭和62年)4月の国鉄分割民営化に際しては4両(キ750、キ752、キ754、キ757)が北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承されたが、1993年(平成5年)8月27日に最後まで在籍した2両(キ752、キ757)が廃車になり、形式消滅した。
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イランの歴史
イランの歴史(イランのれきし)は、イラン高原の古代文明から現在のイラン・イスラーム共和国に至るまで数千年に及ぶ。 こうした中でさまざまな王朝が興亡を繰り返し、イラン高原のみを領域としたものもあれば、アッバース朝やモンゴル帝国のような巨大な王朝もあった。 したがって「イランの歴史」を現在のイラン・イスラーム共和国領域に限定した地域史として記述するのはほとんど不可能である。 本項ではイラン高原を支配した諸勢力の歴史を中心に、その周辺域、特にマー・ワラー・アンナフル、ホラーサーン地方、アゼルバイジャン地方を含めた歴史的イラン世界の歴史を叙述する。 先史時代. イラン高原には極めて古い時代から人類の活動があったことがわかっている。考古学的には約10万年前の旧石器時代中期以降の遺跡が確認されている。 この地域における定住は約1万8千年前から約1万4千年前頃に始まったと考えられている。この時代の住人達は森林に覆われた山腹の洞窟などを主な住居とし、原始的な土器や剥片石器を用いていた。動物の骨を用いた骨角器は石器に比べあまり見つかっていない。 イラン高原の気候の変化に伴って、こうした人々の居住地は移動し、やがて大規模な集落も形成されるようになった。この地域は麦を中心とした農耕が最も早く始まった地域の1つであるといわれている。紀元前6000年ころには、かなり高度な農耕社会を形成しており、都市の原型となる集住地も確認される。ザーグロス山中で発掘された紀元前5000年頃のワインの瓶(現在はペンシルベニア大学博物館で展示)が知られている他、最も初期の集住地の痕跡としてスィアールク遺跡が知られている。この遺跡からイランの先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっている。 スィアールク遺跡の最も初期の層から発見される住居の痕跡は、木の枝で作った粗末な小屋のようなものであったが、間もなく練土を用いた建物が建設されるようになった。製陶技術も発達し、彩文土器が用いられるようになった他、紡錘車も発見されており、イラン高原における目覚しい技術革新の跡が見られる。紀元前4千年紀には日干し煉瓦を用いた家が建設されるようになり、漆喰が塗られていたことがわかる。家の内部には赤い塗料などで装飾が施されていたこともわかっており、文様や動物の図柄を用いた質の良い彩文土器が見られるようになる。スィアールク遺跡から発見される煉瓦や土器は、イラン高原に暮らした人々の技術進歩の痕跡を極めて分かりやすく残している。このことはイラン高原において文化的な断絶が長期間無かった事を示すと思われる。しかし、彩文土器は技術的にはともかく、図案・造形的な面においては各地の遺跡で統一性が見られず、まとまった一つの政治世界としての姿はまだ曖昧であった。上記に述べたような特徴はイラン高原の中央部を中心とした地域においての話であり、スサを中心としたであろう南西部では、紀元前3千年紀には中央部と異なり、近隣のメソポタミア文明の影響を強く受けた文化が生まれた。この地域ではイラン高原の伝統的な彩文土器も使用されなくなった。現在のトルクメニスタン南部からイラン北東部、アフガニスタン北部にかけての地域では紀元前2千年紀前半に独自の都市文化が発達した。現在これはオクサス文明などと呼ばれている。その具体的な姿はまだわかっていないが、東部イランの歴史を考える上で大きな意味を持つ。また、極めて古い時代とあまり変わらない生活様式が長く続いていた地域もあったと言われている。 歴史時代の始まり. 明らかにメソポタミア地方の文化的影響を強く受けたイラン高原南西部の文化は、やがてイラン地域における最初の文明、エラムの成立を見た。エラム人は高度な国家機構を整え、イラン世界最初の文字記録を残した。紀元前2千年紀の末期にはアーリア人(アーリヤ人)、またはインド・イラン人と呼ばれる人々がイラン高原に定着し、イランの歴史の根幹を成す要素が形成された。 エラム. イラン世界の歴史時代(文字記録のある時代)はエラム人の文明とともに始まる。エラムの人々は紀元前3千年紀から紀元前1千年紀半ばまでの間に、現在のイラン・イスラーム共和国のフーゼスターンからファールス地方にかけての領域に幾多の国家を形成した。エラム人の話した言語は、一般にエラム語と呼ばれる系統不明の言語である。これは後にイラン世界で主流となるインド・ヨーロッパ系の言語とは異なり、その出自はわかっていない。 エラム人は紀元前3千年紀の終わり頃、クティク・インシュシナク(プズル・インシュシナク)王の元で高度な政治的統一を見た。彼の勢力範囲はイラン高原南西部のほぼ全域を覆っており、確実な記録に残るものとしてはイラン高原における最初の統一的政治勢力となって周囲に覇を唱えた。以後、エラムはメソポタミアの諸王朝と度々戦火を交え、1000年以上の長きにわたってエラムはオリエント世界の重要勢力として存続したが、紀元前1千年紀にアッシリアによって主要都市スサが破壊されると、列強としてのエラムの歴史は終わりを告げた。だが、エラム人の作り上げた政治・社会の仕組みと文化は、後にこの地を支配したハカーマニシュ朝(アケメネス朝)によって継承され、後世のイラン世界に有形無形の影響を残し続けた。 アーリア人の到来. 紀元前2千年紀、中央アジアや南ロシアの草原地帯で遊牧民として生活し、インド・ヨーロッパ系の言語を用いていたアーリア人(アーリヤ人、アールヤ人)と自称し、或いは後世インド・イラン人と呼ばれるようになる人々が、イラン高原やインド亜大陸へと移動した。アーリア人達の移住ルートは主にコーカサス山脈の山道(コーカサス回廊)を超えるルート、中央アジアからソグディアナ、ホラーサーンに入るルート、そしてアフガニスタン地方を経由してイラン高原に入るルート(カーフィルの道)の三つがあったと言われている。紀元前1千年紀の始め頃までにはイラン高原全域にアーリア系の人々が定着した。彼らはそれ以前の住民と異なり、切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオンや山羊、馬などをあしらった新しい彩文土器を用いた。こうしたアーリア人の到来によって齎されたと思われる変化はスィアールク遺跡などで発見されている。そしてこの時期にイラン高原は本格的な鉄器時代に入った。非アーリア系と思われる先住の人々(エラムとインダス文明の中間ので栄えた)は次第にアーリア人に同化して姿を消していった。ただし、紀元前10世紀頃にはアーザルバイジャーン地方に近いウルーミーエ湖周辺の地方には、非アーリア系と考えられるマンナエ人()の王国が一時期勢力を持った。 アーリア人の歴史には9世紀頃から次第に光が当たり始める。彼らの中でも最も重要な二部族、即ちペルシア人とメディア人が、ほぼ同時に歴史記録に登場し始めるからである。この記録を残したのは、当時イラン高原西部に勢力を伸張させていたアッシリアであった。当時ペルシア人やメディア人は、まだ力が弱くしばしばアッシリアに貢納を収めていた。しかしメディア人達は次第に勢力を伸ばし、やがてイラン高原全域を支配する王国を作り上げた。これは慣用的にメディア王国と呼ばれ、オリエント世界を支配したアッシリアを滅ぼし、バビロニアやエジプトに並ぶ古代の強国となった。その後、メディア王国は新たに興ったペルシア人のハカーマニシュ朝に飲み込まれるが、エラム人と並んでハカーマニシュ朝の支配機構の中に入り、ともに中央権力機構を構成する集団となってペルシア人と同化していった。 ペルシアとイラン. やがて、後世この地域、及び住民を指すことになる言葉、即ちペルシアとイランが歴史に登場した。 かつてエラム人の中心地のひとつであったアンシャン(現在のファールス地方)にはペルシア語でパルスア、パールス、或いはファールスと呼ばれるアーリア人の部族(ペルシア人)が定着した。このためアンシャンと呼ばれた地方は次第にその部族名で呼ばれるようになった。これは古典ギリシア語ではペルスィスと呼ばれ、ヨーロッパの諸言語で用いられるペルシアという言葉はこのペルスィスに由来するものである。この名は紀元前6世紀にこの地から興ったハカーマニシュ朝(アケメネス朝)以来、歴史的にイラン高原に発した諸帝国と住民を指す名前ともなった。 イラン人自身はイラン高原に侵入するしばらく前に分かれた、インド亜大陸に侵入した同族と同様に、「高貴な人々」を意味する「アイルヤ」(アーリア)という自称を長く用いており、サーサーン朝期以降はイラン高原を中心とする地域は「アーリア人の土地」という意味のパルティア語「アールヤーン」に由来するパフラヴィー語の「エーラーン」あるいは「エーラーンシャフル」の名で呼ばれるようになった。「イーラーン」は、イスラーム時代になってあらわれる、パフラヴィー語の「エーラーン」の近世ペルシア語形である。紀元前3世紀のギリシアの地理学者エラトステネースも「イラン」の語で言及している。1935年3月21日、パフラヴィー朝のレザー・シャーは諸外国に対し「イラン」の使用を要請した。その後イラン人研究者による抗議などがあり1959年にはペルシアおよびイランは併用できるものとされた(詳細はイラン・ペルシア名辞論争を参照、またペルシアの地理についてはイランの地理を参照)。 諸王の王. "詳細はペルシア帝国を参照。" 紀元前6世紀にファールス地方から興り、当時の文明世界の大部を支配するハカーマニシュ朝(アケメネス朝、アカイメネス朝)が成立した。この王朝の王であるダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は諸王の王を名乗った。これはアッシリア王の称号の1つに由来し、ある特定の地域の王ではなく、広大な領域に住む幾多の異民族を支配する王、世界帝国の支配者であることを意識した称号であった。以後グレコ・マケドニア系のセレウコス朝、セレウコス朝をイランから放逐したパルティア人のアルシャク朝(アルサケス朝)、そしてファールス地方から興ったサーサーン朝に至るまで、諸王の王を名乗る王朝がイラン世界で興亡を繰り返した。 ハカーマニシュ朝とその時代. メディアに従っていたアンシャン(ファールス)の王クル2世(キュロス2世)は、反乱を起こしてメディア王イシュトゥメグ(アスティアゲス)を破ってイラン高原の支配権を握り、前559年頃にハカーマニシュ朝を成立させた。クル2世は更にリュディア、次いでバビロニアを征服した。次のカンブージャ2世(カンビュセス2世)の時代にはエジプトからインダス川流域に至る大帝国が形成された。 アッシリア帝国やバビロニアの統治機構を倣ったハカーマニシュ朝では、広大な領域を統治するために高度な官僚制が整えられ、領土内に20以上の軍管区(サトラペイア)を設定した。そしてそれぞれに総督(一般にギリシア語に由来するサトラップという名で知られている)が任じられたが、彼らを監視するために王の目、王の耳と呼ばれた監察官が活動した。また首都としてペルセポリスと呼ばれる都市が築かれたが、実質的な政治の中心はエラムの中心都市スサであった。また、王は一年の間にスサ、バビロン、エクバタナを移動したと伝えられる。ハカーマニシュ朝はしばしばペルシア帝国と呼ばれるが、単純に「ペルシア人の国家」というわけではない。ペルシア人は支配者として振舞ったが各地で征服された現地人の人口は圧倒的であり、またその中には長い歴史・伝統を持つ集団が数多く存在した。メディア人はしばしばペルシア人と併置して呼ばれ、帝国の中枢部にいて支配者の栄誉を共有していた。行政組織においては、豊かな経験を持つエラム人が多用されていた。行政文書や事務書類にエラム語が多用されていることがこれを端的に示す。バビロニアでは征服以前の官僚達が引き続いて現地の政治行政を担当していたし、リュディアやエジプトでもその統治は現地人の有力者に強く依存していた。このようにハカーマニシュ朝は長い伝統を持つ征服地の政治組織を温存し、その上に君臨した。またハカーマニシュ朝時代にはゾロアスター教の教義体系、組織もかなりの程度整えられたと考えられる。ザラスシュトラ(ゾロアスター)によって開かれたとされるこの宗教はこの時代以降、長い時間をかけてイラン世界の思想的な柱となっていった。 ハカーマニシュ朝は紀元前5世紀初頭のギリシアへの遠征(ペルシア戦争)においては一敗地にまみれ、対外的な拡大は一つの限界に達した。紀元前5世紀末頃には、相次ぐ分割相続と税負担増のために軍務を担ったペルシア人の封土所有者が没落し、帝国を支える軍の中心は傭兵へと移っていった。宮廷では慢性的な王位継承の争いが起きており、地方ではペルシア人の有力者やバビロニアやエジプト、リュディアなどの現地勢力による反乱が頻発した。歴代の王達はしかし、これらの反乱の鎮圧の脅威を抑えてその覇権を維持し続けた。この時代は王朝衰退の時代と言われているが、近年では再評価する動きもある。ハカーマニシュ朝の支配は最終的には外敵の侵入に対する敗北によって失われた。ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)の治世であった紀元前334年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王がハカーマニシュ朝に対する遠征を開始した。ダーラヤワウ3世はこれを迎え撃ったが、イッソスの戦い、次いでガウガメラの戦いで大敗し、最後は部下の裏切りによって殺された(前330年)。こうしてハカーマニシュ朝は短期間のうちに瓦解し、アレクサンドロスがハカーマニシュ朝の領域と統治機構を継承した。 ヘレニズムとイラン世界. アレクサンドロスはハカーマニシュ朝を征服して間もない前323年にバビロンで没した。アレクサンドロスの将軍達はその後継者たるを主張して相互に争った(ディアドコイ戦争)。この争いの末、イラン世界の大部分はセレウコス1世によって建てられたセレウコス朝の支配する所となった。アレクサンドロス時代からセレウコス朝時代にかけて、各地にギリシア人・マケドニア人(以下一括してギリシア人と呼ぶ)による植民都市が多数建設された。特にセレウコス朝は各地にギリシア的なポリスや、将来のポリスへの昇格を前提としたカトイキア(軍事植民地)の建設を行った。こうしたセレウコス朝の都市建設政策によって作られたポリスやカトイキアを拠点にギリシア文化やギリシア的な社会制度の普及が進み、ギリシア語はイランでもアラム語と並ぶ共通語となった。こういった文化的・社会的な潮流はヘレニズムと呼ばれる。 だが、セレウコス朝の植民政策は圧倒的にシリア、次いでバビロニアを中心としており、イラン高原より東への植民は規模からすればかなり限られたものであった。東方のサトラペイアの支配者たちはセレウコス朝の西方重視の姿勢に反発し、前250年前後にはバクトリアの支配者ディオドトス1世や、パルティアとソグディアナの支配者アンドラゴラスが相次いで独立した。ディオドトス1世は王国(グレコ・バクトリア王国)を存続させることに成功したが、アンドラゴラスの領土は独立後間もなくアルシャク1世(アルサケス1世)に率いられたパルニ氏族を中心とする中央アジアの遊牧民部族連合によって征服された。彼らはイラン系の言語を使用していたと考えられ、パルティアに定着し、一般にパルティア人という名で呼ばれるようになった。このパルティア人の王国がアルシャク朝(アルサケス朝)である。アルシャク朝は100年余りの間領土奪回を図るセレウコス朝と争った。これはセレウコス朝の王アンティオコス7世(前139 - 前129年)の敗北によって大勢が決し、セレウコス朝はシリア以外の領土を完全喪失した。一方アルシャク朝は戦いの中でバビロニアとイラン高原及びその周辺地域を支配し諸王の王を称するようになった。 アルシャク朝は遊牧民的な気質を強く残しており、王の宮廷は常に移動した。政治では有力な貴族が大きな影響力を持ち、その領地の経営には中央の統制はあまりかからなかった。アルシャク朝の領土、特にバビロニアを中心とした西部にはギリシア人やバビロニア人の多くの都市があった。ギリシア人は特にアルシャク朝の支配下にあってもそ政治・経済・文化の面で強力であった。コインの鋳造技術はギリシア人が握っていたし、軍事的にも大きな存在であった。アルシャク朝はこのギリシア人に特に配慮し、ミフルダート1世(ミトラダテス1世)のようにフィルヘレネ(ギリシアを愛する)という称号を用いたりした王もいた他、芸術や一部の社会制度については顕著にヘレニズム的な要素を取り入れられた。ギリシア人やバビロニア人など都市住民が力を持った西部と、遊牧民的な大氏族の勢力が強い東部との社会的な相違は深刻な政治対立を引き起こしていた。紀元前1世紀の接触以来アルシャク朝の主要な敵となったローマは、アルシャク朝に親ローマ的な王を擁立すべく介入を続けたが、この親ローマ王の支持基盤は常にギリシア人を中心とした西部の都市住民であった。 1世紀初頭にローマの支援の下でヴォノネス1世が王座を得ると、それ以前の親ローマ王と同じくギリシア人(及びバビロニア人)の都市がこれを支持したが、パルティア人の貴族達はヴォノネス1世に反対してアルダヴァーン2世(アルタバヌス2世)を擁立した。西暦12年頃まで続いた内戦でヴォノネス1世は敗れた。この戦いの結果、アルシャク朝におけるギリシア人都市の政治的意義は急速に低下した。36年から43年にかけてバビロニア最大のギリシア人都市セレウキアで大規模な反乱が発生したが、これはイラン世界においてギリシア人が主要な政治勢力として起こした最後の出来事となった。ギリシア人の勢力減退にあわせるようにイラン世界におけるヘレニズムは大きな影響を残しつつも終焉へと向かった。そしてイラニズムとも呼ばれる伝統回帰の動きが強くなっていった。 サーサーン朝. アルシャク朝の治世後期はローマとの戦争を除き情報が乏しいが、王位継承を巡って激しい内乱が繰り返し発生していた事がわかっている。またローマとの戦いでは中核地帯であるメソポタミアが度々占領されるなど、大きな損害を数度に渡り被った。このような戦乱の代表的なものは西暦110年代のローマ皇帝トラヤヌスによるパルティア遠征である。 最終的にアルシャク朝はイラン高原南西部で発生した反乱によって滅亡した。208年頃、ファールス地方の支配者パーパクの元でアルシャク朝に対する反乱が起きた。同じ頃、アルシャク朝ではヴォロガセス6世とアルダヴァーン4世(アルタバヌス4世)による内乱が発生した。アルシャク朝の内乱の最中、ファールスで新たに支配者となったアルダシール1世は226年までに二人のアルシャク朝の王を相次いで倒し、新たにサーサーン朝を建てた。サーサーン朝は間もなく旧アルシャク朝の領域のほぼ全てを支配下に置いて諸王の王を称するようになり、更に西ではローマ皇帝を捕虜とする大勝利を収め、東ではクシャーナ朝を支配下においた。そしてその中心都市はイラクのクテシフォンに置かれた。ただし、パルティア時代の大貴族の多くがサーサーン朝時代にも大きな力を持ち続けた点に見られるように、サーサーン朝の政治機構や文化、社会は多くの面おいてアルシャク朝時代の継続であった。 サーサーン朝は支配の正統性をゾロアスター教に求めた。アルダシール1世に仕えた祭司長タンサールの元でゾロアスター教は体系化され、正典と統一的な教会組織が形成された。こうした中で教会の勢力は増大し、シャープール1世(241年-272年)の時代に祭司長となったカルティールはやがて国王に匹敵する権力を得た。この時代のイランは諸宗教が渦巻く時代であった。正統な教義の制定に伴って教義論争・宗教対立が激化した。古くからイランに存在したズルワーン主義、サーサーン朝と時を同じくして成立したマニ教、またローマに対する勝利によって得られた捕虜達からはキリスト教が広まり、一定の勢力を得たし、東部領土には仏教を信仰する人々もいた。カルティールがこういった異端、異教を弾圧したことを誇っているように、宗教弾圧がしばしばあった。 サーサーン朝は王位継承紛争に悩まされながらも4世紀を通じてローマとの戦いを優位に進め、ローマを苦しめた遊牧民フン族の移動でも彼らの圧力をかわすことに成功していた。しかし5世紀には中央アジアで勢力を拡大したエフタルに相次いで敗北し、貢納を収めるようになった他、中小貴族の没落や飢饉の発生による社会不安の中で、急進的なマズダク教が広まり、彼らによる反乱や暴動が頻発するようになった。 6世紀に入るとホスロー1世(531年-579年によってエフタルが滅ぼされ、国内で盛んになっていたマズダク教を徹底弾圧して抑え、安定した時代を築いた。この時代には定額税制が導入され、軍制と身分制が確立した。繁栄は長く続き、ホスロー1世の孫、ホスロー2世(591年-628年)の時代には一時東ローマ帝国の支配下にあったシリア、エジプト、アナトリアを一時占領した。しかし東ローマの反撃でホスロー2世は敗れ、最後は反乱によって殺害された。この結果サーサーン朝では深刻な政治混乱が発生し、短期間に王が次々と交代した。混乱の中でヤズデギルド3世(632年-651年)が即位したが、この政治混乱とカーディスィーヤの戦い(636年)等の敗戦による弱体化は明らかであった。7世紀半ば、疲弊していたサーサーン朝はアラビア半島から勢力を拡大したアラブ人たちによって攻撃され、首都マダーインの陥落、ニハーヴァンドの戦い(642年)での敗北によって瞬く間に瓦解し、逃亡したヤズデギルド3世が殺害(651年)されたことによって完全に滅亡した。 イランのイスラーム世界化. イランは7世紀半ば、イスラーム勢力の統治下に入る。ウマイヤ朝、アッバース朝はペルシアの統治機構を温存して利用した。9世紀にアッバース朝が衰退を始めるとホラーサーンなどでイラン系半独立王朝ターヒル朝・アリー朝(ザイド朝)が現れ、ペルシア文芸復興の時代が始まる。アフガニスタン・地方では、アフガン系独立王朝サッファール朝・ガズナ朝が現れた。イラン高原でも10世紀にブワイフ朝が成立、イランの地のイスラーム化が進み、イスラーム世界に統合されるようになる。11世紀になると中央アジアからのテュルク系遊牧民が参入。遊牧系王朝とペルシア文人官僚、ペルシア文化の組み合わせからなる時代がセルジューク朝のもとにはじまる。 イスラーム到来. アラブ人たちは一神教イスラームを奉ずる共同体を形成していた。第3代正統カリフ・ウスマーン(644年-656年) の頃までにイラン世界はカスピ海沿岸部と中央アジア方面を除くホラーサーンまでがイスラーム勢力下にはいり、670年代にはサマルカンドやブハラなどマー・ワラー・アンナフルも征服された。これらの土地のうちサーサーン皇族などの領主がいなくなった土地はメディナのペルシア財務庁が管理し、地租ハラージュを徴集するハラージュ地に編入される一方、在地領主がいる場合にはイスラーム勢力との契約が結ばれ、一定の貢納を条件に彼らの統治が追認された(アフド地、スルフ地。以上について詳細はイスラームの征服 (イラン)を参照)。 イスラーム勢力はやがて王朝化してウマイヤ朝が成立する。この時代には東方・北方における散発的なサーサーン朝残党の蜂起や領土拡大を目的として、ホラーサーンなど辺境要地と都市にアラビア半島方面から徐々にアラブ人が入植してくるが、領土の人口の大部分はサーサーン朝の遺民であった。これを治めるために先述のように在地の統治機構は温存されたが、ウマイヤ朝では広大な領域統治のため中央統治機構にもサーサーン朝の官僚制と文書行政、通貨などの経済制度を導入した。ハカーマニシュ朝以降の帝国統治で蓄積されたペルシアの政治的経済的経験と知識が利用されたのである(西方では東ローマ帝国の経験と組織を同様に利用した)。実際に8世紀初め頃までの徴税文書はアラビア語ではなく中世ペルシア語で記されているし、東方ではサーサーン朝のディルハム銀貨が流通した。 ウマイヤ朝下では地租ハラージュはアラブ人には事実上免除されていた。一方、東方領民の大部分はイスラーム征服後も特に改宗を強制されることもなかったためゾロアスター教徒のままであり、非ムスリムである彼らにはジズヤという人頭税が課された。8世紀に入るとマワーリーと呼ばれる降伏したサーサーン朝残党やアラブ人に仕える人々がイスラームに改宗しムスリムとなり、官僚や軍人などとして活躍する者も出てきた。しかしながらムスリムとなってもジズヤが免除されることはなく、イスラームの平等の理念に反するとして徐々に不満が高まった。このマワーリー問題は、8世紀半ば、ウマイヤ朝を打倒しアッバース朝を成立させるアッバース朝革命の一因となった。アッバース朝革命がホラーサーンに起こり東方を根拠としたこと、指導したアブー・ムスリムがイラン系マワーリーである点にこれを見て取ることができる。 アッバース朝はこれまでのダマスカスにかえてバグダードを首都とした。これによってイスラーム世界の比重はやや東方に移り、政治・経済・文化のさまざまな面でシリア系マワーリーにかわってイラン系マワーリーの参入が始まる。またアッバース朝下にはムスリムであればアラブ出身でなくともジズヤが免除されるようになる一方、平等性を強調するシュアービーヤ運動は高まりをみせる。ペルシア人官僚はアッバース朝で重きをなし、ハールーン・アッ=ラシードの宰相バルマク家はその代表である。同時にアッバース朝はホラーサーンの度々の反乱、アゼルバイジャン方面のバーバクの乱を抑えつつ、9世紀初頭に安定した全盛期を迎える。 文芸復興とイラン系諸王朝の時代. アッバース朝の全盛はしかし長くは続かなかった。ハールーン・アッ=ラシードの子、アミーンとマアムーンの内乱は全土に影響し混乱状態を導いた。このような中で頭角を現し、反乱討伐に派遣されたホラーサーン総督となったイラン系マワーリーの将軍ターヒル・イブン・アル=フサインがニーシャーブールを中心に半独立政権をたてた。半独立というのはカリフからの直接の支配は受けないものの、アッバース朝によって支配権を追認されアミールとして正統性を確保したためで、これがターヒル朝(821年 - 873年)である。その後、9世紀後半には都市任侠集団ともいえるアイヤールを出自としてイラン東部スィースターンに成立したサッファール朝(867年 - 903年)、マー・ワラー・アンナフルにブハラを首都としてサーマーン朝(875年 - 999年)といういずれもイラン系の王朝が成立した。これらの王朝もアッバース朝から認められたアミールによる半独立政権であった。ターヒル朝は873年、南から侵入してきたサッファール朝に滅ぼされ、そのサッファール朝も北から進出したサーマーン朝に900年、ホラーサーンを奪われている。 イラン史ではこれらの王朝をもって「アラブの軛」を脱したとすることもあるが、この評価はイラン民族主義的な色彩が濃く、あくまでアッバース朝下の地方政権と評価するべきである。しかし、この時代が近世ペルシア語がほぼ形成され、ペルシアの伝統やペルシア語への誇りが復活した、ペルシア文芸復興と呼ばれる時代であったのは確かである。特にサーマーン朝はペルシア文芸の保護に熱心でルーダキー、ダキーキー、フィルダウスィーらのペルシア詩の巨人を輩出している。 この時代のもう一つの特徴は社会的流動性が活発化したという点である。アッバース朝の内乱はイスラーム世界全体で軍隊の移動、知識人の避難、糧食の移動に伴う取引など人々や物資の流動を激しくした。辺境部にあるイラン系諸王朝、特にサーマーン朝は中央アジア方面のテュルク系遊牧民との抗争を繰り返し、捕虜をマムルーク(奴隷軍人)としてアッバース朝へ供給した。恒常的なイスラーム世界中心部へのテュルク族の移入と、その代価としての銀の流れは巨大なものであった。 経済は活況を呈し、人々の交わりは増えてゆく。イラン以外の諸地域における地方王朝の成立もこのような社会的背景があるが、重要なのはこの時期にイラン地域で社会上層部を中心にイスラームへの改宗が飛躍的に進むことである。まさにこの時期に人々の生活・交流の規範となる文化――イスラーム的ペルシア文化が形成されたのである。換言すればイランやテュルクの人々がイスラーム文化に参入し、イランのイスラーム世界への統合が起こったといえよう。 テュルク族の参入と黄金時代. カスピ海沿岸ではイスラーム化は遅々として進まず、アッバース朝もたびたび侵攻をおこなっているが、恒久的な支配権を打ち立てることは出来なかった。このような中でシーア派がこの地域に勢力を徐々に扶植し、9世紀後半にはシーア派の一派ザイド派のアリー朝が成立するなど地域独自の勢力が形成されていた。10世紀にはズィヤール朝が成立(927年)、ザンジュの乱ののち衰退著しいアッバース朝の領域へアルボルズ山脈を越えて進出してゆく。この過程で優秀な歩兵としてダイラム人が脚光を浴び、その指導者のブワイフ家が932年、ブワイフ朝を建てた。ブワイフ朝はその後イラン高原からイラクを席捲、945年にはバグダードに入城して、アッバース朝カリフからアミール・アル=ウマラーに任じられた。配下の軍人にイクターとして徴税権を分与して軍事力を確保する一方、統治権は自らのもとにおいた。またブワイフ家はシーア派を奉じており、スンナ派のアッバース朝がその支配権を承認するという状況を引き起こした。この時代には西方エジプトではシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がカリフを称し、アッバース朝カリフの権威は地に落ち、現実の支配者に正統性を付与する存在に過ぎなくなる。 同時期、ホラーサーン方面ではテュルク族が政治の表面にあらわれてくる。9世紀半ばころに中央アジアの草原地帯に形成されたカラハン朝が10世紀半ばには大勢力となってマー・ワラー・アンナフル方面へ進出してきた。伝承では960年、20万帳におよぶテュルク系遊牧民がイスラームへ改宗したという。これ以降、カラハン朝はサーマーン朝とマー・ワラー・アンナフルとホラーサーン北部をめぐって激しく争う。一方962年、サーマーン朝のテュルク系奴隷軍人でガズナ太守となったアルプテギーンがサーマーン朝から半独立、勢力を伸ばして972年にはガズナ朝となる。サーマーン朝は北からカラハン朝、南からガズナ朝に挟撃され999年に滅亡した。 11世紀初めのイラン世界の勢力配置は北東から順にマー・ワラー・アンナフルにカラハン朝、ホラーサーンにガズナ朝、イラン高原にブワイフ朝という状況であった。カラハン朝、ブワイフ朝が内紛に見舞われて弱体化する一方、998年に即位したマフムードの下でガズナ朝は最盛期を迎え、北インドから西部イランにまで遠征しており、インドのイスラーム化はこのころにはじまる。ガズナ朝はサーマーン朝をついでペルシア文化を保護した。しかしマフムードが1030年に没するとガズナ朝は急速に勢力を後退させ、イラン世界全体が混乱状態におちいる。9/10世紀はイラン世界が東西にやや分立する時代であった。直轄地の多い西方が内乱で疲弊してゆく一方、東方ではサーサーン朝以来の在地勢力が温存され生産力の拡大が見られた。これを背景に政治勢力も東西に分かれたが、ガズナ朝の後退後にこれを克服したのがトゥグリル・ベグ率いるオグズ系テュルク族のセルジューク朝である。 セルジューク朝は、遊牧的部族紐帯を維持したままイスラームへと改宗、集団としてイスラーム世界に参入して王朝を開いたという点で、これ以降の西アジアにおけるテュルク系諸王朝の嚆矢ともいえるものである。セルジューク朝は1038年のニーシャープールへの無血入城ののちホラーサーンでガズナ朝を破って、さらに南方・西方へと転じて勝利を得る。1055年にはトゥグリル・ベグがバグダードに入城、アッバース朝カリフから外衣と賜与品を与えられ、スンナ派ムスリムの支配者としてスルターンの称号を正式に認められた。続くアルプ・アルスラーン、マリク・シャーのもと、セルジューク朝は東部アナトリア、シリアへと勢力を広げてゆく。地中海から中央アジアにおよぶこの広大な帝国の行政を担ったのがペルシア人官僚たちであった。セルジューク朝の行政用語はペルシア語であり、在地の行政・司法を担うカーディーらもペルシア人であった。ガズナ朝にも見られるが、このようなペルシア系文人官僚をタージークといい、行政はタージークが、政治と軍事はテュルク系をはじめとする遊牧民が担い、さらにペルシア語を共通語とする枠組みがセルジューク朝のもとで完成した。イラン史を専門とする羽田正はこの体制をもつ世界を「東方イスラーム世界」と呼ぶ。このような体制は以降、20世紀に至るまでイラン世界の歴史の骨格となるのである。 タージークの頂点に位置したのが、宰相ニザームルムルクであった。彼は自らペルシア散文の名著『統治の書』(スィヤーサト・ナーメ)を著す一方、文芸・科学を保護し、レイ、エスファハーン(イスファハーン)、ニーシャープール、バルフ、マルヴなどの都市を中心にペルシア文化の黄金期が訪れる。宰相は全主要都市にニザーミーヤとよばれるマドラサ(学院)を設け、あるいはジャラーリー暦を生み出すウマル・ハイヤームの天文台建設を後援するなどした。またセルジューク朝の主要都市の一つたるバグダードにアブー・ハーミド・アル=ガザーリーなど、イスラーム史上に名高い学者らを招聘、その活動をも後援した。 スンナ派の保護者として君臨したセルジューク朝の脅威となったのは、イラン内のシーア派急進派であるイスマーイール派であった。ファーティマ朝は10世紀後半以降、イスラーム世界全体にイスマーイール派の宣教員(ダーイー)を送り込んでいたが、このころには東部山岳地帯、エスファハーン、アルボルズ山脈地帯に勢力を扶植。1090年に現在のテヘラン北方にを奪取すると、これ以降150年間にわたって散在する根拠地周辺を支配してイラン高原に無視できない勢力(ニザール派)を築き上げた。暗殺などの手段を用いて立場を確立するその政治手法は王朝統治者やスンナ派住民らに特に恐れられた。 トルコマーンと東方イスラーム世界. セルジューク朝のもと、政治・軍事をテュルク系などの遊牧民が担い、行政・文化をペルシア系の者が担う東方イスラーム世界が現出した。13世紀にはモンゴル帝国がイラン高原を征服しイルハン朝が成立する。この時代、遊牧民の機動力に基づく軍事的優位性は圧倒的であった。こうした勢力は権力中枢所在地に広大な牧草地を必要としており、この時代のイラン高原の歴史は、東方のホラーサーンやマー・ワラー・アンナフル、あるいは西方のアゼルバイジャンから東アナトリアに基盤を置く勢力による角逐の歴史であったといえる。イルハン朝崩壊後にはマーワーランナフルからティムールが大帝国を築く。その勢力が弱まると、西方の黒羊朝、白羊朝東方のティムール朝が対峙する状況となる。やがて16世紀への転換期にアゼルバイジャン方面からサファヴィー朝(1502年 - 1736年)がイラン高原を統一する。サファヴィー朝はシーア派を国教とし、ここにイランのシーア化がはじまる。中期のシャー・アッバース1世は都をイラン高原中央のエスファハーンに移し全盛の時代を迎える。サファヴィー朝崩壊後も遊牧系のナーディル・シャーのアフシャール朝、カリーム・ハーンのザンド朝がそれぞれ短期間イランを支配し、同じくトルコマーン系のガージャール朝(1795年 - 1925年)が成立する。遊牧勢力の優位性が揺らぐ中で、東方イスラーム世界もまたその変容を余儀なくされる。サファヴィー朝中期ころから、イラン世界は縮小をはじめ、マー・ワラー・アンナフルはトルキスタンとしてイラン世界から離れ、そしてドッラーニー朝以降ホラーサーンもまたアフガニスタンとイラン辺境部に二分される。さらに西方も東アナトリア・イラク方面もオスマン帝国との間に完全な国境線が敷かれ、ここに東方イスラーム世界は終焉を迎える。ガージャール朝はうち続く戦敗によってヘラートやカフカズを失い、今日ある姿での国民国家「イラン」の原像が立ち現れてくることになる。 セルジューク朝の分裂とホラズム・シャー朝. セルジューク朝はマリク・シャーの没後、遊牧的分割相続の影響もあり分裂がはじまる。イラン高原方面を治めたのが、宗家大セルジューク朝であるが、シリア、イラク、ケルマーン、ルームなどの地方政権が分立し、各政権間およびその内部において抗争が繰り返され、政治的統一は失われてゆく。この間にもテュルク族の流入は続き、セルジューク朝は彼らをアナトリアなど辺境部に送り出しており、これがアナトリアのテュルク化のきっかけとなっている。 1141年に大セルジューク朝のアフマド・サンジャルがカトワーンの戦いでカラキタイに敗れ1157年に亡くなると、大セルジューク朝は決定的な混乱に陥る。このときアラル海東南方に独自勢力を築きつつあったホラズム・シャー朝はアラーウッディーン・テキシュのもとで内紛を克服、イラン高原へと進出し1197年、アッバース朝カリフからイラクからホラーサーンに至る支配権を認められた。アラル海北方出身の遊牧民カンクリ、キプチャクの軍事力を背景にホラズム・シャー朝は次代アラーウッディーン・ムハンマドのもと13世紀初に最盛期を迎えた。しかし1219年にチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国軍が侵攻を開始(チンギス・カンの西征)。ホラズム・シャー朝は決定的な敗北を喫し、西方へ移りアゼルバイジャン地方を本拠地とするようになるが、1230年にルーム・セルジューク朝などの中東のイスラーム国家の連合軍との戦闘に敗れる。 モンゴル帝国下のイラン. モンゴル帝国軍はチンギス・ハーンのもとではホラーサーン中部まで侵攻し、のちにアラーウッディーン・ムハンマドおよびジャラールッディーン・メングベルディー追撃のためにアザルバイジャン地方まで進撃した。チンギス在世中にマー・ワラー・アンナフルやヘラート周辺をはじめとするアフガニスタン地域が早くにマフムード・ヤラワチらによって復興が開始され行政組織が整備されたのに対して、ホラーサーン以西は長らく放置されたままであった。1230年になってモンゴル皇帝オゴデイは、イラン高原へ帰還したジャラールッディーンの討伐のためチョルマグン率いるイラン駐留軍(タンマチ)を中央アジアから派遣してイラン中・西部の掌握を確実にし、さらにルーム・セルジューク朝、アルメニア王国、グルジア王国、アッバース朝、ディヤルバクル、ジャズィーラ地方の諸政権などに対し牽制をはかった。この時、これらアゼルバイジャン方面軍への兵站を任されていたウルゲンチのバスカーク(ダルガチ)であったチン・テムルをホラーサーンへ入府させ、ホラーサーンおよびマーザンダラーン地方の行政組織を整備させた。これがモンゴル帝国によるいわゆるイラン・ホラーサーン総督府のはじまりである。 これ以降オゴデイ治世時代にホラーサーン総督府はその統括地域をイラーク・アジャミー、ヘラート周辺のアフガニスタン地方、アゼルバイジャン地方へと順次拡大した。1241年にオゴデイが没し第六皇后ドレゲネ・ハトゥンによる摂政時代にはモースル、ディヤルバクル方面まで権限を拡大した。1240年頃にはバイジュ・ノヤン率いるイラン駐留軍はキョセ・ダーの戦いなどでルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、グルジア王国などイラン北西部の諸政権を軍事的に屈服させ、1243年にはホラーサーン総督アルグン・アカがアゼルバイジャン地方の州都タブリーズに入府し、イラン全域の統治が可能となった。この間にもルーム・セルジューク朝やアルメニア王国、モースルのバドルッディーン・ルウルウなどがアルグンを仲介としてモンゴル軍人による誅求をカラコルムのモンゴル帝国中央に訴えるようになった。このアルグンの時代にホラーサーン総督府は、ルーム・セルジューク朝などのムスリム政権だけでなく、グルジア王国やキリキアの小アルメニア王国など、モンゴル帝国に帰順した西方地域の土着王侯と帝国中央への仲介の役割を積極的に果たした。 1251年にモンケがモンゴル帝国の第四代皇帝(カアン)に即位すると、オゴデイ時代の行政区分を引継いで、帝国を燕京を中心とする華北、ビシュバリクを中心とするマー・ワラー・アンナフル・中央アジア、アムダリヤ川からシリア方面までの三つの巨大行政区を定めた。最後のものがアルグン・アカが監督していたイラン・ホラーサーン総督府の区分であり、その担当領域は「アームー(川)の岸辺からミスル(エジプト)の境まで」と称された。『元史』にみえる「阿母河等処行尚書省」がこれにあたる。 1253年1月、モンケはオノン川河源で開催したクリルタイの決議により、西方のニザール派やアッバース朝などを討滅すべくフレグ率いる本格的な遠征軍をアム川以西の諸国へと派遣した。フレグがイランに入ったのが1256年で、彼はアルグンからホラーサーン総督府の権限を接収、イランに対する行政権の全てを持つことになった。同年アラムートのニザール派を屈服させ、1258年、バグダードに入城、アッバース朝を滅ぼしカリフ位は空位となったのである。1260年にはシリア方面に進出するが、大カアン・モンケの死去により引き返し、大カアン位を巡る争いを見てイランに自立しアゼルバイジャンのタブリーズを中心にイルハン朝を開いた。 イルハン朝においても軍事・政治を行う遊牧民、行政を担うペルシア人という伝統的構造は変わらず、やがてモンゴル人とテュルク系遊牧民の混淆が進み、政権自体もイスラーム化してゆく。 1295年、ガザン・ハンはムスリムとなり、その弟オルジェイトゥ・ムハンマド・フダーバンダの代には、ペルシア文化がイルハン朝のもとさまざまな成果を生み出す。代表的なものに宰相ラシードゥッディーンの『集史』や今日に伝わる多くのミニアチュールを用いた写本、世界遺産ともなっている首都ソルターニーイェなどがある。またイルハン朝の時代は13世紀後半の世界的経済活性期にあたっており、文化的繁栄の背景には大元ウルスを中心とするモンゴル帝国による政治的安定を前提とした交易の活発化・地方特産品の開発を通じた地方産品の増加といった経済的状況があった。ガザンの治世から中央政権による強力な軍政や駅逓制度(ジャムチ)、財政制度が確立・機能されると、やがて農地開拓や商工業など各地で安定的な経済発展が促された。モンゴル王侯や財務官僚、往昔の聖人たちなどの墓廟建築を中心とするワクフによる巨大な寄進複合施設の建設が流行し、これに附随したモスクやマドラサ、バザール、キャラヴァンサライなども各地で建設された。後の時代に同様の寄進複合施設がティムール朝、オスマン朝などでも多数建設されている。 イルハン朝時代は大元ウルスと同じく「歴史叙述の時代」でもある。『世界征服者史』をはじめとして『集史』、『ワッサーフ史』、『選史』といった通史や「世界史」のジャンルの作品がペルシア語で多く執筆され、『ヘラート史記』や『シーラーズの書』、ルーム・セルジューク朝史である『尊厳なる命令』などの地方史も多く書かれた。また韻文学としては『ワッサーフ史』を筆頭にイルハン朝末期の『ガザンの書』や『シャーハンシャーの書』、『チンギスの書』などフェルドウスィーの『王書』に倣った詩文形式による歴史叙述のジャンルが開拓された。『集史』にはじまり『チンギスの書』などテュルク・モンゴル的な族祖伝承を、人祖アーダムに遡るイスラーム世界の伝統的な歴史観に組み込ませた歴史像をもつ作品群も現れ、後世のオスマン朝やティムール朝、サファヴィー朝、さらにジョチ・ウルス系の諸政権への影響は甚だ大きい。 イルハン朝の領域は『集史』において「アームー川の岸辺からミスルの境域まで」と称されたように広大な地域に及んだ。これは丁度サーサーン朝の支配地域とほぼ重なる規模であり、14世紀からこのイルハン朝の支配領域を指して「イランの地」の意味である「イーラーン・ザミーン」という地域的な呼称が登場する。 14世紀後半にはいり、ジョチ・ウルスとマムルーク朝の同盟による南北からの圧力、さらには繰り返される内紛によって衰退していく。1335年、オルジェイトゥの子アブー・サイードが後継者を得ないまま病没するとついに中央政権は瓦解し、各地の諸族が独自にチンギス裔をたてて分立する状況となる。 イルハン朝後継国家の並立. やがて傀儡のハーンも徐々に消えてゆくことになる。これら地方政権で有力だったのはバグダードからアゼルバイジャンにかけての西方にジャライル朝、アナトリア東部からメソポタミア平原北部の黒羊朝および白羊朝、東方には南からシーラーズを中心としたファールスのムザッファル朝、ヘラートのクルト朝、サブサヴァールのなどである。 ティムールの大帝国と東西並立. 14世紀末にこのようなイラン高原を一気に征服したのがティムール朝である。ティムールはテュルク化したモンゴル出身でチャガタイ・ウルスの内紛に乗じて頭角を現した。マー・ワラー・アンナフルのサマルカンドを中心として、瞬く間にイラン高原からシリア、アナトリアに至る大帝国を築きあげた。しかし1405年、ティムールが大明帝国攻撃の途上に没すると内紛が発生、東方では三男シャー・ルフがヘラートを本拠に権力を確立する一方、帝国西半は次々と自立し、アナトリア東部を本拠とするカラ・コユンルー部族連合による黒羊朝(カラ・コユンルー朝)が成立した。シャー・ルフは黒羊朝に対して数度の遠征を行い、宗主権を獲得するものの完全に併呑することはできなかった。1447年、シャー・ルフが没するとティムール朝はサマルカンド政権とヘラート政権に分立、互いに抗争を繰り返すようになる。この頃、西方でもバーヤンドル部族連合を中心とする白羊朝(アク・コユンルー朝)が成立、1468年前後に黒羊朝を駆逐した。白羊朝のウズン・ハサンはティムール朝を破ってイラン高原東部まで勢力を伸ばすが、1473年、オスマン帝国のメフメト2世に破れ白羊朝の征服活動は停止する。1480年代、ヤアクーブの治世下では比較的安定していた白羊朝もその死後に内紛・分裂に陥った。 ティムール没後のイラン世界も政治的に安定した時代ではなかったが、サマルカンドやヘラートなどでの建築活動や、あるいは宮廷での文学作品を数多く生み出した時代であった。代表的なものにサマルカンドのウルグ・ベク・マドラサがある。またスーフィー・タリーカの流行も著しかった。ナクシュバンディー教団やがその代表的なものである。 白羊朝は1508年、新興のサファヴィー朝に滅ぼされた。東方では北方にジョチ・ウルスの余裔であるウズベクのシャイバーニー朝が成立して南下をはじめ、1501年にサマルカンド政権、1507年にヘラート政権が滅んだ。サマルカンド政権の王子バーブルは再興を試みるも失敗し、アフガニスタンに退いたのちやがてインドにムガル朝を開くことになる。こうして東西分立の時代を終え、16世紀、イラン高原はサファヴィー朝による統一的な歴史を歩み始める。 エスファハーンは世界の半分―サファヴィー朝. 今日のイランでシーア派的イランの黄金期として想起されるとすれば、それはサファヴィー朝である。言語的民族的視点からはハカーマニシュ朝やサーサーン朝、文化的視点からはセルジューク朝の黄金期が想起されるが、なおシーア派的視点を加える時、帝国としての「偉大さ」を想起する候補としてはサファヴィー朝よりほかにないからである。しかし、サファヴィー朝もなお、その起源・性格において前代から引き続くトルコマーン系政権に属していたことは明らかであった。 サファヴィー朝はティムール朝や黒羊朝、白羊朝がイラン高原の覇を競うなかで西北隅アゼルバイジャンのアルダビールから勢力を拡大し、イランを統一した。サファヴィー朝は、もともとは13世紀半ばに確固とした姿をあらわす在地の神秘主義教団であるをなす家であった。教団内部の争いなどから、アナトリア東北部からアゼルバイジャンにかけてのトルコマーン系遊牧民との交流を拡大し、彼らの支持を集めるためにサファヴィー教団は非常に神秘的なシーア的言説を用いるようになった。こうしたことからサファヴィー教団は、12のひだ(シーア派12イマームの数)のついた赤い帽子をかぶるトルコマーン系遊牧民、すなわちクズルバシュ(キズィルバーシュ,テュルク語。赤い頭)を背景に政治勢力化してゆく。 1494年、黒羊朝との戦いで命を落とした兄をついだのが14歳のイスマーイール1世である。イスマーイールはキズィルバーシュを率いて1501年、黒羊朝を破ってタブリーズに入ってアゼルバイジャンを手中におさめ、さらに1508年、白羊朝を滅ぼしてメソポタミアもその版図に入れた。イラン世界西部を手中にしたイスマーイールは、東部においてティムール朝を滅ぼしたシャイバーニー朝と激突。1510年にマルヴ会戦で衝突し敵君主シャイバーニー・ハーンを討ち取り、イラン高原はサファヴィー朝によって統一されることになった。しかしイラン高原の統一勢力の出現は、アナトリア東部における過激シーア派トルコマーンの存在と叛乱の続発という事態を背景として、西方の大帝国オスマン朝の注意を引いた。1514年8月23日、スルタン・セリム1世率いるオスマン朝軍とイスマーイール1世率いるサファヴィー朝軍は東部アナトリア・チャルディラーンで会戦、オスマン朝軍の火力を備えた組織的歩兵戦力のまえに、サファヴィー朝キズィルバーシュ騎兵戦力は惨敗した。 このときに至るサファヴィー朝の奉じたシーア派は過激シーア派と称せられるようなものであった。それはトルコマーン系遊牧民のシャーマニズムを混淆し、さらにイスマーイールを無謬の地上における神の影、救世主とするようなもので、イスラームの教義を逸脱しかねないものであった。すなわちサファヴィー朝は一種の神秘的熱狂に裏付けられた勢力であったのである。しかしながら、チャルディラーンの敗北は、こうした性格を後退させ、トルコマーン系遊牧民とタージーク系官僚からなる伝統的な体制へと変容してゆく。宗教面でもレバノンやバーレーンなどから高名なシーア派法学者を招致し、王朝のシーア派教義の洗練につとめ、法学的精緻さを高めていった。 1524年にイスマーイール1世が没すると、キズィルバーシュ間の勢力争いによる混乱に陥る。後をついだタフマースプ1世は、その長い治世のはじめの10年こそ傀儡的立場に置かれたが、やがてキズィルバーシュ間の勢力均衡やグルジア系の人々の登用などにより小康状態を導き、度重なるオスマン朝やシャイバーン朝の侵攻を許しつつもよく耐えた。1576年、タフマースプ1世が没すると、再び母后やこれと結びついたキズィルバーシュ勢力によって国政は混乱した。 1587年に即位したアッバース1世はキズィルバーシュ勢力間の争いをおさめるとともに、さらに彼らの勢力を削いで実権を掌握、中興の英祖として名高く「大帝」を冠して呼ばれる。トルコマーン系政権の混乱は、遊牧部族民の半独立傾向と相互の争いから生ずるものであるが、それはサファヴィー朝も例外ではなかった。武力を部族民に依存し、中央直轄の軍事力を欠きやすいトルコマーン=タージーク体制の特徴ともいえる。アッバースは、カフカズ出身(特にグルジア)奴隷からなるグラーム軍団、各部族から引き抜いて編成したコルチ軍団の両騎兵、さらに銃砲兵をペルシア系住民によって編成し、常備直轄兵化、軍事力のキズィルバーシュへの依存を避けた。この改革はサファヴィー朝軍制を一変させるとともに、財政的裏付けのために王領地の増加、直轄化などがおこなわれ、権力構造を著しく変容させた。こうしたことから対外的にも軍事力の組織的運用が可能となり、東にシャイバーン朝からホラーサーン、西にオスマン朝からバグダードを奪還した。 1598年、アッバースは都を北西部カズヴィーンから中部エスファハーンへと遷した。これまでアゼルバイジャンあるいはホラーサーン方面に置かれた首都がイラン高原中央のエスファハーンへと遷されたことは、アッバースによる権力体制の変革を示すものであると同時に、ペルシア湾の重要性の増加を示すものでもあった。アッバース1世の時代、貨幣経済が著しく発展し、絹貿易などによる好景気に沸いた。ムガル朝のもとで安定するインドとの交易も進展し、ホルムズを拠点としたポルトガルをはじめ大航海時代に入ったヨーロッパ諸勢力(ネーデルラント連邦共和国、イングランド王国)は競ってアッバースの宮廷に使節を派遣した。ロバート・シャーリーによってペルシア軍が近代化すると、1622年にはホルムズをポルトガルから奪って(ホルムズ占領)、バンダレ・アッバースを中心とする貿易体制を確立した。アッバースは街道・港湾の整備や治安維持によって交易条件を整えるとともに、保護貿易的姿勢に出て莫大な利益を獲得。文化的にもレザー・アッバースィーの細密画などの写本芸術、あるいはムッラー・サドラーのシーア派哲学などが発達。イランの実質的なシーア化の進展はこの時代のことであった。アッバース1世の時代は、まさにサファヴィー朝の黄金時代であり、40万の人口を擁する新都エスファハーンは「世界の半分」と謳われ、今日世界遺産としてその姿をとどめている。アッバースが没したのは1629年のことであった。 アッバース没後も1660年代ころまでのサフィー1世、アッバース2世の時代ころまではサファヴィー朝はそれなりの安定を保った。1638年にオスマン帝国の反撃にあい、現在のイラク領域を失い、1639年にはによってオスマン朝との間の国境線を確定、長く続いた対オスマン戦争に終止符が打たれている。しかし、その後は、宮廷におけるキズィルバーシュ、ペルシア系文官、カフカズ系、さらにハラムのからんだ勢力争いで中央は混乱に陥り、給料の遅配などで叛乱が続発、地方の治安は極度に悪化した。ペルシア湾では海賊が跳梁し、インド産品に優位性を奪われ交易の利益も著しく減少した。このような状況下で物価は乱高下し、サファヴィー朝経済は壊滅状態に陥ってゆく。18世紀に入ることには、アッバース1世以降続けられた地方軍権の削減と首都への過度の兵力集中によって辺境・地方の防衛体制は脆弱化して混乱状態に拍車をかけた。東方から進出したアフガーン民族は、1722年、あっさりと首都エスファハーンに入城し、統一政権としてのサファヴィー朝は滅亡したのである。 近代イランへの道―ガージャール朝. 17世紀までにはヨーロッパ列強、すなわちポルトガル、イギリス、ロシア、フランスがこの地域に地歩を確立し始めていた。その後、イランはトルコマーンチャーイ条約、ゴレスターン条約などの諸条約によって上記諸国へと領土を割譲し、縮小してゆくことになる。 現代イランの光と蔭. 立憲革命とパフラヴィー朝の成立. イラン近代史はいまだに政権を握るシャーに対して闘った1905年のイラン立憲革命、立憲君主制への移行を示す1906年の(暫定)憲法発布、1908年の石油の発見にはじまる。第一議会(マジュリス)は1906年10月1日の招集である。また、 地域の鍵となる石油の発見は英国によるものであった(詳細は、(AIOC)を参照)。地域の支配権をめぐるイギリスとロシアの争いは1907年の英露協商によって勢力圏分割で合意に達した。外国の支配と専制に反対し続けたギーラーンにおける立憲主義運動も1921年、パフラヴィー朝への王朝交替とともに終焉している。 第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、基本的には中立を維持している。1919年、イギリスはイランに保護領を設定しようとするが、1921年のソヴィエト連邦軍の撤退で断念。同年イラン・ガザーク(コサック)旅団の軍人レザー・ハーンがクーデタをおこし、ついで1925年、皇帝に即位してガージャール朝にかわりパフラヴィー朝を開いた。レザー・シャーの統治は英国の秘密裏の援助によって開始されたが、やがて英国勢力の浸透を防ぎつつイランの開発を進める政策に転じ、約16年にわたった。 レザー・シャーの統治下、政治の非宗教化と部族および地方権力を掣肘し中央集権化がおこなわれてイランの近代化がはじまる。 第二次世界大戦ではイランはソヴィエト連邦へのレンドリース法に基づく物資供給路として不可欠の位置を占めていた。1941年8月、イラクから進出したイギリス軍および英領インド軍、北から南下したソ連軍がイランを占領。9月にはイギリスによってレザー・シャーが強制的に退位させられ、その子モハンマド・レザー・シャーが後を継いだ(→イラン進駐参照)。モハンマド・レザー・シャーはこの後、1979年まで皇帝としてイランを支配する。 1943年のテヘラン会談後のテヘラン宣言ではイランの戦後の独立および国境の維持が保障された。しかし、終戦を迎てもイラン北西部に駐留するソ連軍は撤退を拒否、1945年後半にはイラン領アゼルバイジャンおよびクルディスタン北部における親ソヴィエト民族主義・分離主義者による傀儡政権のアゼルバイジャン自治共和国およびクルディスターン人民共和国の設立を援助した。 ソヴィエト軍は1946年5月、石油利権の確約を得てようやく本来のイラン領から撤退、北部のソヴィエト政権は直ちに鎮圧され、利権も取り消された。 イラン皇帝とアメリカ合衆国. アルノー・ド=ボルシュグラーヴは言う。 占領後、当初は立憲君主制国家となる望みがあった。若い新皇帝(シャー)、モハンマド・レザーは議会に大きな権力を委ね、君臨するに留まっていたのである。数回の選挙が流動的な状況下でおこなわれたが、これは多くの選挙違反の伴うものであった。議会は慢性的な不安定状態に陥り、1947年から1951年まで6人もの首相が入れ替わりに政権を担うこととなったのである。 1951年、民族主義者モハンマド・モサッデグが英国の所有する石油会社の国有化を主張して、議会によって首相に選ばれた。これがアーバーダーン危機の始まりである。英国の経済制裁などによる圧力はイランに多大な困難をもたらしたが、国有化政策は続行された。1952年、モサッデグは辞任を強制されたが、選挙での圧勝により再選、ひるがえってシャーに亡命を余儀なくさせた。モサッデグは共和国を宣言するが、数日後の8月19日、アジャックス作戦()として知られるCIAと合衆国政府の策謀によってシャーは帰国して復位、モサッデグは職を追われて逮捕され、新任の首相はシャーによって任命された。 シャーはこの事件における米国の支持への見返りとして、1954年、英40%、米40%、仏6%、蘭14%の割合でイラン石油利権を分割する国際コンソーシアムの操業を今後25年にわたって認める契約に調印した。つまり石油の支配権も完全な利益もイランにはもたらされないことになったのである。1950年代末から1960年代には安定が回復した。1957年には16年にわたる戒厳令が解除され、イランはバグダード条約へ加盟し、米国から軍事援助、経済援助を受けて西側陣営にさらに接近する。政府は近代化政策を広範に実施、特に準封建的な土地制度を改革した。 しかしながら改革により経済状態の劇的な改善はなく、自由主義的西欧的政策はイスラーム的な宗教集団、政治集団を政権から遠ざけてゆく結果となる。1960年代半ば以降はモジャーヘディーネ・ハルク(MEK)などの組織の出現にともなって、政情は不安定化してゆく。1961年、シャーの白色革命として有名な、一連の経済、社会、行政改革を開始した。政策の核心は農地改革にあった。近代化と経済成長は空前の勢いで進行、世界第3位の膨大な石油埋蔵量がこれを後押しした。 1965年の首相ハサン・アリー・マンスールの暗殺事件以降、国家情報安全機関 (イラン)(SAVAK)の活動が活発化。この時期、13,000人から13,500人にのぼる人々がSAVAKによって殺害され、数千人が逮捕・拷問されたと見積もられている。ルーホッラー・ホメイニー(1964年に追放)の指導するイスラーム勢力は反対活動を大々的に繰り広げるようになった。 国際関係においては1937年の協定でイラクに帰属するとされたシャッタルアラブ川の水路領有権をめぐる争いでイラクとの関係が急速に悪化している。1969年4月中の数回の衝突ののちイランは協定を破棄、再交渉を要求。イランは防衛費に多大な予算をつぎ込み1970年代初頭までには域内第一の軍事大国となっていた。これを背景に1971年11月、イラン軍はペルシア湾口の3島を占領、イラクは報復として数千人のイラン人を追放した。この問題は1975年3月6日のアルジェ合意でようやく解決している。 1973年半ば、シャーは石油工業へのイランの管理権を回復した。1973年10月の第四次中東戦争にあたっては、西側およびイスラエルに対する石油禁輸措置には加わらず、原油価格上昇の好機をとらえて莫大な石油収入を得て、これを近代化と国防費に回した。1970年代初め、モジャーヘディーネ・ハルクは体制の弱体化、外国の影響力の排除を目的に、軍の契約にかかわるテヘラン駐在の米軍人、民間人の殺害事件を起こしている。 白色革命以降の経済成長による利益は、しかしながら非常に小さな集団に集中し、大多数の人々に恩恵がもたらされることはなかった。1970年代後半にはいると、宗教勢力に率いられた広範囲な反対運動が起こる。いまやシャーの統治への政治的・宗教的反感、特にSAVAKへの嫌悪が高まっていた。1978年9月、戒厳令が全国主要都市に布告された(黒い金曜日を参照)が、シャーは権力基盤の崩壊を認識。翌1979年1月16日にシャーはイランから亡命し、帝政は崩壊した。 イスラーム革命. 数ヵ月におよぶシャーの統治への大衆抗議ののち、1979年1月16日、モハンマド・レザー・シャーはイランを去ることを余儀なくされた。短期間の次期政権と政策構想をめぐる攻防では、アーヤトッラー・ホメイニー指導のもとイスラーム国家への移行を支持する連合勢力が勝利した。1979年2月1日、ホメイニーがフランスから帰国(ホメイニーは追放後の15年をイラク、トルコ、フランスで過ごした)し、2月11日、最高指導者に就いた。 新政府の政策は非常に保守的で、産業の国有化、法律・文化のイスラーム化を断行した。西洋的文化は禁止され、親西側エリートは速やかにシャー同様に亡命した。宗教内の対立派閥の衝突があり、また厳しい抑圧は急速に常態と化した。 イスラーム共和国. 1979年11月4日、アメリカ大使館人質事件が起こった。これはモジャーヘディーネ・ハルクの支持を背景として、好戦的なイラン人学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠・人質を監禁したもので、1981年1月20日まで続く(詳細はイーグルクロー作戦を参照)。カーター政権は国交を断絶、1980年4月7日には経済制裁を発動、同月末には救出作戦に踏み切った。しかしこの救出作戦ではヘリコプターに技術的問題が生じたこと、これに伴う空中衝突で8人の米兵を失ったことで4月25日に作戦中止が指令されている。国際司法裁判所は5月24日に人質解放を要求、最終的にロナルド・レーガン大統領就任の日、イラン側の要求をほぼ受け入れて事件は解決した。 1980年9月22日、イラクがイランに侵攻した。イラン・イラク戦争の勃発である。アメリカ政府はイランの孤立化を試み、米国およびその同盟国は勢力均衡のためイラクに武器と技術を供与した。皮肉にもその裏でレーガン政権高官は秘密裏にイランへ武器、補充部品の売却を行っていた(イラン・コントラ事件)。この戦争は1988年、国際連合安全保障理事会決議598号を受け入れてようやく終結、8年に及ぶ戦争でイランだけで3500億米ドルに達する損害を被った。 1979年以降90年代まで(また小規模には現在まで)、クルド人勢力(民族主義者および共産主義者)と政府のあいだで激しい戦闘が起こっている。これとイラン・イラク戦争の影響により、イラン領クルディスターンの大部分が無政府状態に陥ることもあった。 1981年、モジャーヘディーネ・ハルクによるイスラーム共和党本部および首相府爆破事件が連続して起こった。これら事件では当時の同党党首アーヤトッラー・モハンマド・ベヘシュティー、大統領モハンマド・アリー・ラジャーイー、首相モハンマド・ジャヴァード・バーホナルなど70人の政府高官が殺害されている。 1989年6月3日、ホメイニーが死去。専門家会議(高位ウラマーからなる)はアリー・ハーメネイー大統領を後継最高指導者に選出、スムーズな権力移行を内外に示した。 1991年の湾岸戦争にあたってはイランは中立を維持したもののアメリカに批判的で、イラク航空機および難民のイラン入国を許している。 ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領は一定の多数票を占め1993年に再選されたが、西側の観察では投票率の低下をもって悪化する経済への失望感の表れとの解釈も出た。1997年、ラフサンジャーニーをついで、穏健なモハンマド・ハータミーが大統領となった。これは未だに保守的なウラマーと改革と穏やかな自由化を求める行政府との亀裂をもたらした。1999年7月にはこの亀裂が頂点に達し、テヘランの街頭では大規模な反政府デモが起こっている。騒動は警察および政府支持の民兵によって解散されるまで1週間にわたって続いた。ハータミー大統領は2001年6月に再選されたものの、その政策はウラマーの構成する監督者評議会によってたびたび妨害されている。 ハータミーの再選後、イラン政府内の保守派は自由主義的新聞の発刊停止処分、改革派候補の立候補不適格判断などを通じて改革派の活動を徐々に圧迫していった。異議申し立てへの取り締まりは、ハータミーの改革への失望感と相まって、若年層のあいだに政治的アパシーを醸成。2005年の大統領選挙では、監督者評議会によって1,000人以上の立候補者が不適格とされたうえで、非常に保守的なテヘラン市長マフムード・アフマディーネジャードが選出された。 また2005年8月9日には最高指導者アーヤトッラー・アリー・ハーメネイーが核兵器の製造・配備・使用を禁じたファトワー(宗教令)を発出。当該文書はウィーンでの国際原子力機関(IAEA)会議の席上で公式声明として公開されている。しかし、2006年に入り、核の使用を容認する新たなファトワが宣言された。 2009年6月12日に大統領選挙が行われ、大差で現職のアフマディーネジャードが再選されたが、敗れた改革派候補ミール・ホセイン・ムーサヴィーは不正選挙を主張、6月13日から市民の抗議デモや暴動が連日発生している。最高指導者アリー・ハーメネイーは「選挙に不正は無かった」と述べ、抗議デモ中止を要求したが、それでも市民の怒りは収まらず、暴動は全土に広がっている。政権側は武力鎮圧する構えを見せているが、治安要員が私服に着替えて抗議デモに参加するなど内部での瓦解が始まっているとされ、現体制は最大の危機に立たされている。
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日本協同党
日本協同党(にほんきょうどうとう)は、1945年12月18日に結成された協同組合主義、労使協調を標榜した中道政党。 概要. 賀川豊彦の提唱により創設された。賀川が設立に関わった共栄火災海上保険株式会社の社長を協同組合運動の同志である井川忠雄が務めていたこともあり、同社の本支店に県本部を設置され、当初の実質的な活動の中心は賀川の地元で灘消費購買組合、神戸消費購買組合を中心とした兵庫県本部であった。協同民主主義を標榜し、協同組合主義を経済原則に掲げ、戦争で大きな打撃を蒙った産業、経済、文化を、勤労、自主、相愛を基調とする協同組合主義により再建し、協同組合が産業の復興の中核となることを主張した。 結党メンバーには、船田中、赤城宗徳、井川忠雄など、戦争期に東条英機に反旗を翻した護国同志会の出身者、千石興太郎、黒沢酉蔵らがいた。党を指導する船田、千石らは、かつて近衛新体制運動に積極的に係わったものの、戦時体制下では非主流派となったため、終戦後の新たな体制の担い手となり得ると考えていた。しかし1946年(昭和21年)1月4日、GHQは黒沢、船田、千石らを公職追放とすることを決定し、日本協同党の代表世話人、世話人、委員計30名のうち、追放を免れたのは世話人の井川忠雄、委員の北勝太郎の2名のみであった。党存続の危機に見舞われた日本協同党は2月23日に緊急幹部会を開催し、井川を中心として党再建に乗り出すこととした。井川はまず日本協同党が自由党の左、社会党の右の存在とし、協同主義は統一的な協同組合行政を確立する理念であると主張した。2月28日には第一回の党全国代表者会議の席で、常任世話人として井川の他、船田中の実弟である船田享二、山本実彦らを選出した。 日本協同党は衆議院議員選挙を睨み、まず社会党との連携を模索した。社会党としても戦後の結党時、協同組合関係者を取り込む動きもあり、日本協同党と社会党との提携は不自然ではなかった。しかしGHQ内には日本協同党は日本を穏健化し、安定化させるのに寄与すると評価する声とともに、日本協同党のメンバーには中道やや右よりの政党であるとの合意があると見る向きもあった。4月10日の第22回衆議院議員総選挙において、日本協同党は94名の候補者を擁立するが、14名の当選にとどまった。思わしくない選挙結果を受けて、日本協同党は社会党との連携以外に諸派、無所属議員のとの連携を図るようになった27日、中央委員長に山本、副委員長に北、書記長に井川という日本協同党の新執行部が選出された。これと前後して無所属議員で結成された院内会派大同倶楽部内に新党結成の動きが起こり、更に日本協同党と大同倶楽部との合同を目指す動きが起こった。山本は改造社社長であり、戦前に2期、民政党の衆議院議員を務めており、経歴からも協同主義のイデオロギーに必ずしもこだわらない人物であった。この動きは北勝太郎を中心とした日本協同党内の農村派の反対によりいったん立ち消えになったかに見えたが、結局日本協同党や日本農本党などの諸派、大同倶楽部は、5月8日に協同組合主義を党是とする新党、協同民主党の結成に合意するに至った。 ところが協同組合主義の党是に多くの大同倶楽部所属議員からクレームが出され、議員の多くは日本協同党との合同に加わらずに新党結成を目指すこととなり、院内会派日本民主党準備会を結成した。進んでいた話が突然上手くいかなくなった背景には、他の大政党からの工作があったものと推測されている。結局日本協同党は日本農本党、日向民主党などいくつかの小会派によって5月24日に協同民主党を結成した。なお日本民主党準備会は院内会派新政会を経て、9月25日、国民党を結成。翌1947年になって、協同民主党と国民党が合同、国民協同党の結成へと至る。 執行部役員表. (参考文献:村川一郎・石上泰州『日本の政党』1995年3月、丸善株式会社・丸善ライブラリー、ISBN 4-621-05153-9)
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加藤明陳
加藤 明陳(かとう あきのぶ)は、近江水口藩の第5代藩主。水口藩加藤家9代。 生涯. 宝暦8年(1758年)8月1日、第5代藩主・加藤明煕の次男として江戸で生まれる。明和6年(1769年)5月15日に第6代藩主・加藤明堯の養子となり、安永5年(1776年)12月16日に能登守に任官する。安永7年(1778年)5月6日、養父の隠居により家督を継いで第7代藩主となる。 安永9年(1780年)12月3日に佐渡守に遷任する。幕命により京都警護などを務めた。寛政11年(1799年)9月6日、長男の明允に家督を譲って隠居し、以後は病気の療養に努めたが、文化5年(1808年)10月8日に死去した。享年51。 系譜. 父母 正室 側室 子女
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横手市立横手北小学校
横手市立横手北小学校(よこてしりつ よこてきたしょうがっこう)は、秋田県横手市八幡にある公立小学校。 概要. 現行の横手北小学校は、境町小学校・黒川小学校・金沢小学校との統合によって誕生した学校で、現行の校舎もこの際に新築されたものである。かつて、1996年に朝倉小学校へと統合されて閉校した同名の学校があるが、それについては#沿革の節で解説する。なお、本記事内においては特記しない限り現・横手北小(2016 - )について解説する。 校舎は鉄筋コンクリート構造・鉄骨構造の3階建て。設計を大嶋設計事務所、施工は横手・伊藤・半田JVが行った。校舎内では木材を多用しており、3階壁面に設置されたソーラーパネルでは非常用の電源となるように蓄電がされている。 横手北中学校と近接しており、グラウンドや駐車場は中学校と共同で使用している。 沿革. 略歴. 横手北小学校という名前の学校は現行の学校が開校する前にも存在し、それは1996年に閉校した「横手北小学校(初代)」である。初代横手北小学校は、1874年設立の「育英学校」を起源とし、横手学校、横手小学校、横手尋常高等小学校などと校名の改称や校舎移転を経て、1908年に女子部を「横手女子尋常高等小学校」として分離。これが後に横手北小学校となる学校である。なお、分離元である横手尋常高等小学校は後に横手南小学校となる。 分離当初、校舎は横手尋常高等小学校に併設されていたが、1911年5月に独立校舎が完成。校舎は現在市立横手病院があるあたりにあり、1913年4月9日には現在の横手城南高校に当たる「町立実科髙等女學校」が仮校舎として本校の校舎の一部を使用して開校、1922年には独立校舎へと移転した。その後、学校教育法によって「横手町立横手北小学校」となった1947年に男女共学となった。1960年1月に校舎は横手公園に近接する高台(現在横手城南高校の校舎がある場所)へ移転。閉校までその場所で落ち着くことになる。 校舎は火災などによって度重なる増改築が行われ、複雑に入り組んでおり、老朽化も著しかった。そこで、1991年に校舎改築準備委員会が学校関係者によって結成、市や市教育委員会などに対して働きかけを行った。ところが、1993年に市は横手北小を朝倉小・横手南小へ統合する計画を示したことににより、委員会の目的は校舎改築から北小存続に変わった。当時、横手北小には330人ほどが在籍していたが、児童数が減少傾向にあることなどから、将来を見据えて再編が必要であると市は主張し、1994年には横手北小の廃止(統合)に関する条例が可決した。横手北小は朝倉小へと統合されることになったが、児童の一部は横手南小へも振り分けられた。閉校後、横手北小校舎の跡地には1999年に横手城南高校が新校舎を建築し、移転してきた。 1997年に横手北小は消滅したが、そこから10年ほど経過した2010年代。横手市北部地域の3小学校(境町小・黒川小・金沢小)は児童数減少のため再編されることになり、その統合小学校の名称が「横手北小学校」となった。ただ、先述した横手北小学校(初代)とは名称が一緒というだけで直接的な関係はなく、学校のウェブサイト記載の沿革にも初代横手北小学校に関する記述は見られない。 年表. 以下、注釈の無い項目は『横手市史 昭和編』(1981年、横手市史編さん委員会)によるもの。 以下、注釈の無い項目は学校の公式サイトの情報によるもの。
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ミッシングピース (芸能事務所)
合同会社ミッシングピース()は、日本の芸能事務所。所在地は、東京都千代田区永田町。社名の由来は、シェル・シルヴァスタイン原作の絵本、『The missing piece』より。 概要. 2016年9月、芸能プロダクション、合同会社ミッシングピースとして、業務を開始。
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ファウルボール
ファウルボール()とは、野球、ソフトボールにおいて打者の打球がフェア地域に入らなかったもののことである(例外あり)。単に「ファウル」とも呼ばれる。 定義. 野球のフィールドは、本塁から一塁および本塁から三塁を通って外野フェンスに至る2本の線(ファウルライン)で区切られており、このうち捕手以外の守備側の選手や各塁が存在する側をフェア地域(フェアグラウンド)、それ以外をファウル地域(ファウルグラウンド)と呼ぶ。ファウルライン上はフェア地域である。 ファウルボールとは、打者が打った打球が次のようになったものをいう。 以上の定義は公認野球規則により定められている(定義32 FOUL BALL「ファウルボール」)。 概要. 審判員がファウルボールの判定を行う際は「ファウルボール」と発声し、両手を上方に広げたジェスチャーを行う。ファウルボールが捕球されなかった場合はボールデッドとなる(公認野球規則5.06(c)の原文、「捕球」はノーバウンドでの捕球を指す)。走者は投球当時の占有塁に戻り、打者は打ち直す。このとき、ボールカウントが0ストライク、または1ストライクの場合は、ストライクが1つ追加される。2ストライクの場合は、ボールカウントはそのままで再開される。 飛球は、ファウル地域に飛んだものであっても、グラウンドに落下する以前に野手が捕球した場合は、フェア地域で飛球が捕球された場合と同様になる。すなわち、打者はアウトで、ボールインプレイである。走者にはリタッチの義務が発生し、リタッチをした後は進塁を試みてもよい(タッグアップ)。記録では「邪飛」と書かれる。 打者はファウルボールを何本打っても、そのこと自体によりアウトになることはない。しかし、2ストライク後にバント(スリーバントと呼ばれる)した打球がファウルボールとなった場合は第3ストライクが宣告(三振)されるとともに、打者はアウトになる。このルールが追加される前は、意図的にバントで繰り返しファウルボールにし、相手の投手を疲れさせ降板させようとする戦法が広く使われていた。現在でも投手に多く投球させるために不利な投球に当てるだけのバッティングを行い、わざとファウルボールにする(根負けして甘い球が投げられた時を狙い打つ)戦術(カット)は行われているが、バントに比べれば難しい行為である。 規則適用上の注意点. 打球が一度本塁と一塁または三塁の間のファウル地域でバウンドしても、そのまま静止するか、一塁または三塁のファウル地域側を越えるか、プレーヤーなどに触れない限りはファウルボールとはならない。プレーヤーなどに触れ、ファウルボールと判定されるまではボールインプレイである。打球にスピンがかかっていたり、イレギュラーバウンドをしたりするなどの理由で、打球のバウンドが変わってファウル地域からフェア地域に入ってくる場合があるが、最初に打球が野手に触れた地点がフェア地域であるならば、それ以前に本塁と一塁または三塁の間のファウル地域でバウンドしていたとしても、フェアボールとなる。 観戦時におけるファウルボールの扱い. メジャーリーグベースボールでは、ファンがボールを返さなかったことがきっかけで、からファウルボールをプレゼントするサービスが始まった。 日本プロ野球の一軍公式戦で観客席に入ったファウルボールは全球場で観客が持ち帰れる(ファウルフライを捕球した野手が、ファンサービスとして投げ込むこともある)が、かつては景品と交換する形で野球場の係員に返却するか、あるいはただ返却する制度が一般的だった。二軍戦やアマチュア野球では最寄の係員に返却することが一般的である。しかし日本プロ野球の二軍戦において、試合中にボールの回収等の業務を行う係員は、多くは配置されない。 現在の日本プロ野球の二軍戦や、その二軍と社会人野球、独立リーグ、クラブチーム等との対戦で、非公式の練習試合を行う場合や、選抜高等学校野球大会や全国高等学校野球選手権大会では持ち帰ることができる。いずれの場合においてもファウルボールをグラウンドに投げ返してはならない。 ファウルボールによる事故. プロ野球において、観客などが観客席に飛びこんできたファウルボールにぶつかって大怪我をする事例がある。試合の主催者には安全に運営する一定の義務はあるが、チケットの裏面には試合観戦契約約款第13条が記載され、主催者側には責任がない旨が明記されている。過去にファウルボールで負傷した観客が球場側に損害賠償を求めた事例において、仙台地方裁判所は、野球には臨場感が欠かせない要素であるとした上で、「過剰な安全施設はプロ野球の魅力を減らす」として、一定の安全対策をしていれば充分としている。 例えば東北楽天ゴールデンイーグルス等は、不慮の事故に備えてヘルメットの貸し出し等を行うとともに「試合中はボールから目を離さないでほしい」と呼びかけている。各球場に増設されたフィールドシートの大部分においては、ヘルメットが貸与され着用するよう呼びかけられ、グラブが貸与される野球場もある。ただし、身体に何らかしらの要因があり、ボールを避ける能力を有しない者でも観戦自体は自己責任で行うことができる。また補助犬等も入場することができる。 ボール等の追いかけ等、他の観客に損害を及ぼす行為も禁止行為となっており、例えば東京ドームでは、ファンサービスとしてボールが投げ込まれた際、怪我のないよう十分注意した上で、投げ込み実施時にはボールを追いかけてはならず、席を離れないよう公式ウェブサイト上で呼びかけている。ZOZOマリンスタジアムでも、初回守備前の“マリーンズスタメンによるサインボール投げ込み”の際に「その場で受け取って下さい、ボールを追わないで下さい」とスタジアムDJが場内アナウンスを行なう。 しかしながら、実際には、防護ネットを外した札幌ドームでは2009年には94件、2010年には99件と毎年100件近くの事故が発生している。大きな事故事例としては、宮城球場で2005年に児童が頭蓋骨陥没骨折する事故が、2008年に右目眼球破裂事故が起きている。札幌ドームでは観客が失明する事故が2007年と2010年に発生している。2010年の事故では、札幌ドームや北海道日本ハムファイターズ、札幌市らを相手取った裁判となり、札幌地方裁判所が被告に対し4195万円あまりの損害賠償を命じる判決を下した。 メジャーリーグベースボールにおいては、少なくとも過去に5件以上の死亡事故が発生している。過去の事故においては、ために、相応の注意が必要である。2018年には、負傷対策として30球場で防護ネットを少なくともベンチの端まで設置することを決定した。 アメリカの裁判事例においては、マスコットが観客の注意を逸らせたとして球団に責任認めた事例があるものの、日本の裁判事例においては、売り子からビールを購入したことが契機となってボールから目を離したために発生した事故についても、自己責任であるとしている。 日本ではファウルボールがスタンドに入る時は笛とアナウンスで注意されるが、アメリカではそのような注意がなく、自分での判断が求められる。 2009年4月19日には、横浜スタジアムで阪神タイガースの鳥谷敬の打った打球が右翼席最前列にいたビールの売り子にぶつかるという事故が発生している。観戦ではなく、手に荷物を持ち、ボールから目を離すことも多いが、ヘルメット着用などの義務はされていない。
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バート・デュルクハイム
バート・デュルクハイム (独: "Bad Dürkheim") はドイツ連邦共和国 ラインラント=プファルツ州 バート・デュルクハイム郡にある市で、同郡の郡庁所在地であり、ライン=ネッカー広域連合にある温泉街である。 外部リンク. 公式サイト
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WWEバトルグラウンド
バトルグラウンド(Battleground)はアメリカのプロレス団体WWEが主催する、プロレス興行の名称。また、同興行を扱うPPVの名称である。2013年に新設された。バトルグラウンドは「戦場」を意味する。 試合結果. 第6回大会(2023年)NXT Battleground. 同日のAEWダブル・オア・ナッシングとの裏開催。
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野口貴裕
野口 貴裕(のぐち たかひろ、1991年6月19日 - )は、東京都出身の元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー(GK)。 来歴. 2010年、麻布大学附属渕野辺高校からFC町田ゼルビアに加入。2013年、ラインメール青森FCに移籍。 2015年、ヴァンラーレ八戸に加入したが1年で退団した。 2016年、サウルコス福井に選手兼GKコーチとして加入。2017年12月、現役引退を発表した。 個人成績. 0||0||colspan="2"|-||0||0||0||0 0||0||colspan="2"|-||0||0||0||0 8||0||colspan=2|-||colspan=2|-||8||0 15||0||colspan=2|-||1||0||16||0 17||0||colspan=2|-||colspan=2|-||17||0 40||0||colspan="2"|-||1||0||41||0
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環境創生研究部門
環境創生研究部門(かんきょうそうせいけんきゅうぶもん)とは、産業技術総合研究所が行う研究の一部門の名称である。
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名誉班長
名誉班長(めいよはんちょう)とは特定の組織において名誉職として任じる班長職或いは栄誉称号・名誉称号の一種。 消防団における名誉班長. 宮崎県西米良村では西米良村名誉消防団員条例の中で栄誉称号として名誉班長を規定しており、30年以上消防団員として勤続し、班長の階級を最後に退団した者に対し、村長が議会の承認を得て名誉班長の称号を授与されている。上位の称号に名誉団長、名誉副団長、名誉部長、下位の称号に名誉団員がある。 警察署のイメージキャラクターとしての名誉班長. 韓国の警察署が芸能人に付与するイメージキャラクターの職名のひとつ。2015年11月26日、映画「悪のクロニカル」で警察の強力班長役を演じた俳優ソン・ヒョンジュに対し、ソウル市にある江南警察署から名誉強力班長に任命し、刑事の努力を世に知らしめる活動を付与したことが報じられた。 地縁組織における名誉班長. 韓国の都市部では日本統治下時代から洞や里の下に班という組織が置かれ、近代に至るまで官製の上意下達型の組織として存在していた。その中で、1976年に韓国政府機関である内務部から「班常会運営強化指針」が出され、班単位で任命する名誉班長または班長の自宅に定期的に集まる班常会が制度化されていたという。かつては行政職員たる邑、面、洞の長が2か月交代で知名人を名誉班長に任命する取り組みがあったとされる。 物語上に登場するキャラクターの役職としての終身名誉班長. 物語で登場するブラック工場の役職の一つ。2015年10月から2016年3月までテレビ東京、テレビ大阪、テレビ愛知、AT-X、BSジャパン、ニコニコ動画にて放送されたテレビアニメ「おそ松さん」では、主人公おそ松君こと松野おそ松の兄弟で松野家の四男 松野一松が第2話「就職しよう」で就職したブラック工場から任命されていた役職であり、物語上では、そのマイペースでニヒルなキャラクターを引き立たせている。
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Smash Up!!
「Smash Up!!」(スマッシュ・アップ)は、椎名へきるの40作目のシングル。2011年4月27日にLantisから発売された。 解説. テレビ東京系アニメ『カードファイト!! ヴァンガード』第2期エンディングテーマ。本放送では第16話から第26話までのエンディングで使用された。なお、当初は第13話から使用する予定であったが東北地方太平洋沖地震に伴うアニメ制作スケジュールの遅延などの諸事情により3話遅れて使用されたことが、楽曲使用開始頃に行なわれた椎名本人のイベント上で、本人から直接説明されている。 批評. 『CDジャーナル』は「元気なポップ・チューンに、伸びのある爽やかな歌声は、まるでゲームの勝負に全力で挑みながら成長していくキャラクターが飛び出してきたようだ」と評された。この評価はリッスンジャパンとナタリーの情報と同様のことを述べている。
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足利潤童子
足利 潤童子(あしかが じゅんどうじ、生年未詳 - 延徳3年7月1日(1491年8月6日))は、室町時代後期(戦国時代)の人物。足利氏の一門・堀越公方初代の足利政知の三男。母は武者小路隆光の娘で政知側室(正室とも)の円満院。実兄に室町幕府11代将軍・足利義澄がいる。 生涯. 異母兄の茶々丸が素行不良のため父の命令で幽閉され、同母兄の義澄は政知の意向により、将軍後継候補として京都天龍寺に入ったため、潤童子が代わって世子に指名された。一説には、潤童子を政知の後継にしたい円満院の讒言によって茶々丸は元服もさせず、廃嫡・幽囚されたという。 延徳3年(1491年)、父・政知が死去すると、第2代堀越公方として就任することになっていたが、牢番を殺して脱獄した茶々丸によって、母・円満院と共に殺害された。 足利義澄が11代将軍に就任すると幕府奉公衆であった伊勢宗瑞(北条早雲)に命じて実母と実弟を殺害した茶々丸を討伐したのがいわゆる北条早雲の伊豆討ち入りであったと言われている。
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パンニング (音響)
パンニング(panning)とは、ステレオやサラウンドなどの多チャンネルオーディオにおいて、音像定位を(多くは水平方向に)変化させる表現、またはその機能。単にパンとも呼ぶ。パノラマ(panorama)に由来。 パンニングはチャンネル(スピーカー)間の音量差によって音像定位を表現する。ステレオフォニックでは、左右スピーカー間の空間に音像を定位させることができる。スピーカー間の実在しない空間に仮想音像を感じる現象をファントムと呼び、パンニングはこの現象を利用している。 パンポット. 多くのミキシング・コンソールには、パンニングの操作機能として、パンポット(pan pot; panoramic potentiometer)が備えられている。パンポットは多くのミキサーで回転ノブの形状をし、フェーダーと併せて配置される。 パンポットの名称は、アナログミキサーでポテンショメータ(ポット、可変抵抗器)が使用されることに由来する。古典的なアナログステレオミキサーのパンポットには、回転軸を共有する2基の対称な抵抗特性カーブを備えたポテンショメータが組み込まれ、軸の回転位置によって左右の音量差を変化させる。デジタルミキサーでは可変抵抗器は使われないが、デジタル信号処理で同様の音響処理をおこなう。 「パンポット」は慣習的な名称であり、より一般化してパンコントロール(pan control)、パンナー(panner)とも呼ばれる。 パンロウ. パンポットの抵抗特性カーブにはいくつかの種類があり、この組み合わせの法則をパンロウ(pan law)と呼ぶ。 現代的なパンロウには主に線形特性、平方根カーブ特性、正弦波/余弦波ペアの特性がある。線形特性のパンロウには中央定位で約-6dB(1/2)の減衰があり、定位にかかわらず和信号レベルが一定な特徴がある。平方根カーブおよび正弦波/余弦波ペアのパンロウには中央定位で約-3dB(1/√2)の減衰があり、定位にかかわらず電力が一定な特徴がある。いずれも理論上一長一短の性質を持つが、-6dBタイプはモノラル互換性が高く放送に適し、-3dBタイプは他の一般用途に適するとされる。中庸をとって中央定位で-4.5dB減衰の特性を持つパンロウも存在する。 バランスコントロール. 狭義にはモノラル入力に定位を与える機能を「パンポット」と呼び、ステレオなど多チャンネル入力の定位を調整する機能はバランスコントロール(balance control)と呼ぶ。 通常のパンポットはミキサーの信号フローにおいて、モノラル入力を多チャンネルに分配して音量差を与える。一方、バランスコントロールは元のチャンネル構成のまま音量差を与える。つまりバランスコントロールは音量差を与えるのみで、左チャンネルのみに存在する音を右チャンネルに「持ってくる」ようなことはしない。 パンロウの点においても、抵抗特性カーブの中央以上を平坦化した特殊な線形特性が使われることがある。 オートパン. 自動的に繰り返し左右にパンニングする音響効果をオートパンと呼ぶ。音像定位がめまぐるしくあるいはゆっくり左右に振れ、ヘッドフォンでは頭の周りを回転するような強い効果が得られる。専用のエフェクターのほか、ミキシング・コンソールのオートメーションなどで用いられる効果。 ロータリースピーカーと類似した音響効果が得られるが、ドップラー効果などの複雑な効果は伴わない。
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稚内市立図書館
稚内市立図書館(わっかないしりつとしょかん)は、北海道稚内市が運営する公立図書館である。日本で最も北に位置する図書館である。
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小畑村
小畑村
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佐藤次高
佐藤 次高(さとう つぎたか、1942年8月27日 - 2011年4月11日は、日本の歴史学者。専門はアラブ・イスラーム史。学位は、文学博士(東京大学・論文博士・1981年)(学位論文「アラブ中世社会史研究」))。東京大学名誉教授。東洋文庫研究部長、日本中東学会会長、史学会理事長、早稲田大学文学学術院教授などを歴任。1973年流沙海西奨学会賞受賞。2000年恩賜賞・日本学士院賞受賞。
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赤松俊秀
赤松 俊秀(あかまつ としひで、1907年4月28日 - 1979年1月24日)は、日本の歴史学者。北海道旭川市出身。 経歴. 北海道鷹栖村(現旭川市)の真宗大谷派の寺院光岸寺に次男として生まれる。三高を経て、京都帝国大学文学部史学科に進み、三浦周行・西田直二郎・中村直勝らに学ぶ。同期に清水三男がいる。卒業論文として「室町幕府の統制意識に関する一考察」をまとめ、1931年京都帝国大学文学部史学科卒。 京都府嘱託・主事として、府下の社寺宝物や史跡の調査に従事。1949年京都府教育委員会文化財保護課の初代課長。東寺百合文書のうち、東寺にて放置されたままであった文書群の存在を確認してその解読にあたり、その成果を「東寺百合文書」として発表する。(後年に発表論稿を含めて『教王護国寺文書』として平楽寺書店から刊行する。) その成果もあり、1951年、母校・京都大学の助教授に転じ、1953年教授に就任。1962年、「供御人、惣の研究」により、京都大学から文学博士の学位を取得、1971年定年退官。同名誉教授。 翌年より大谷大学文学部教授に就任、1975年より四天王寺女子大学(現四天王寺大学)文学部教授を歴任した。 綿密な文献研究に基づく実証主義的な学風で、政治史・社会経済史・文化史などに優れた業績を残した。また、第二次世界大戦中の文化財の緊急調査と疎開や、1950年に焼失した鹿苑寺舎利殿(金閣)の再建に奔走するなど、文化財保護上における功績も大きい。1974年に紫綬褒章を受章。 晩年の研究. 22歳のとき抱いた、愚管抄の平家の動向の記事と平家物語の記事の相互の関係について、「平家の記事を慈円は参考にして愚管抄を書いたのではないか」という疑問を長年抱き続け、50歳を過ぎてからも仮定から実証へと昇華しようという思いが捨てられなかったという。読み本系の「延慶本平家物語」を底本として「愚管抄」は記述されているという結論に達した。時同じくして、学弟朝順璽によって「覚一本系が古態とする根拠の一つである、「戒文の法然説法が摂取不捨の一句を欠いていることが、平安浄土教の証である」としてきた従前の論拠に対し、①金蓮寺本時宗古和讃にも摂取不捨の一句が抜けていること②いわゆる摂取不捨曼荼羅が今日一本も伝承されていないこと等から、般舟讃の一句が欠けていることが、古態となるのではなく、欠けていることこそが、弾圧下にあった法然浄土教を反映したものであるという説が発表されたが、依然赤松説に対して国文学会では批判が多く、赤松は何度も岩波書店の「文学」へ投稿することになった。しかし、後藤丹治以後、水面下にあって日の目を見なかった、読み本系古態説を再燃させた価値は高い。
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インド水塔
インド水塔(いんどすいとう)は、神奈川県横浜市中区山下町の山下公園内にある、インド式の水飲み場の遺構である。横浜市認定歴史的建造物に認定されている。 経緯. 横浜とインドの交流は開港後の19世紀から始まり、インド商人は山下町に商館を構え絹織物の輸出などを行っていた。しかし、1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生し、横浜在住のインド人も28人が亡くなり、山下町も壊滅的となった。横浜市民は被災インド人の救済の為、住宅の手当てなどに力を注いだ。1930年(昭和5年)に瓦礫処分場として埋め立てられた場所の上に山下公園が開園。そして1939年(昭和14年)に、横浜市民への感謝と同胞の慰霊のために在日インド人協会が山下公園内に建立し、横浜市に寄贈したのがこのインド水塔である。 設計は鷲巣 昌、施工は清水組(現・清水建設株式会社)。 老朽化、近年の台風で屋根の一部が破損が進んでおり、2022年秋〜2023年3月に横浜市によりが行われた。 建築様式. 設計は横浜市の第四代目建築課長で同潤会アパートにも携わった 鷲巣昌であり、イスラム教の寺院モスクの中庭にあるハウズ(泉亭)を想起させる珍しいスタイルのモニュメント。イスラム風、インド風、日本風が混在したデザインが特徴的で、東京の築地本願寺を思わせるような形であるとの評もある。横浜市認定歴史的建造物。 交通. インド水塔まで   (山下公園の西端に近い)
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1976年のNFL
1976年のNFLは1976年9月12日にNFL57回目のレギュラーシーズンが開幕し、1977年1月9日にカリフォルニア州パサデナで開催された第11回スーパーボウルを経て、1月17日にワシントン州シアトルでプロボウルが開催されてシーズンが終了した。タンパベイ・バッカニアーズとシアトル・シーホークスが誕生し、バッカニアーズはAFC西地区、シーホークスはNFC西地区に編入された。 ドラフト. 1976年4月8-9日にドラフトが行われ、17巡487名が指名された。この年のエクスパンションチームであるタンパベイ・バッカニアーズとシアトル・シーホークスに優先的に指名権が与えられ、全体1位でリーロイ・セルモンがタンパベイ・バッカニアーズに、スティーブ・ニーハウスがシアトル・シーホークスに指名された。5チームがワールド・フットボール・リーグの元選手との不正な契約を理由として、下位指名権を剥奪された。 日程. 各チーム14試合の対戦相手は、以下のように組まれた。4チーム所属地区の各チームは5チーム所属地区のチームとの対戦を原則2試合行ったが、4チーム所属地区から見て、16試合(2試合×8チーム)が必要であるのに対して、5チーム所属地区から見ると、15試合(3試合×5チーム)しか組めないため、各カンファレンスで1試合足りなくなった。そのため、1試合足りないチームについては他カンファレンスとの対戦を1試合増やした。このシーズンでは、セインツとレイダースがこのチームに該当する。 プロボウル. 詳細は「""」を参照
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丸智之
丸 智之(まる ともゆき)は、日本の漫画家。主に『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)にて活動。2022年から「ガンガンONLINE」(スクウェア・エニックス)のアプリ版にて、蒼乃白兎の小説『【翻訳】の才能で俺だけが世界を改変できる件〜ハズレ才能【翻訳】で気付けば世界最強になってました〜』のコミカライズを連載している。
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ふたりぽっぽ
『ふたりぽっぽ』は、山口舞子による日本の4コマ漫画作品。『まんがタイム』(芳文社)にて2009年9月号より2012年1月号まで、また、『まんがタイムオリジナル』(同)においても2009年9月号より2011年6月号まで連載されていた。 あらすじ. 黒坂こばとと白井くるりは家がお隣の幼馴染。共に「ぽっぽ」と呼ばれて育った高校生。 こばとが大好きなくるりと、そのくるりを邪険にしながらもなぜかピンチに駆け付けてしまうこばとのハイテンションスクールライフを描く作品。
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西鉄バス佐賀・鳥栖支社
西鉄バス佐賀・鳥栖支社(にしてつバスさが とすししゃ)は西日本鉄道(西鉄)の子会社である西鉄バス佐賀のバス営業所の一つ。所在地は佐賀県鳥栖市元町川原1303番1号。営業所表記は○鳥。 主に鳥栖市と周辺都市を結ぶの路線の運行や、佐賀県東部と小郡市のコミュニティバスを受託などを行なっている。営業所の最寄りバス停留所は「西鉄鳥栖」。 一般路線. 2021年10月1日現在の路線(太字は終点・始発停留所) 鳥栖市内線. いずれもJR鳥栖駅を拠点として運行している。 広域路線. 鳥栖市と近隣の都市を結ぶ。久留米 - 鳥栖線と綾部線は、地域間幹線系統として、国・福岡県・沿線自治体の補助を受けて運行する。 基山 - 大興善寺線. かつては佐賀県佐賀市・千代田町・東脊振村・基山町、福岡県筑紫野市・大刀洗町・三輪町・甘木市・北野町など、福岡県の筑後北部にも乗り入れていた。また、慢性的な乗客減少により、以上の全ての路線(プレミアムアウトレット線を除く)が鳥栖市や沿線自治体からの補助金を受けている。 コミュニティバス. 小郡市コミュニティバス. 福岡県小郡市からの受託運行。七夕ふれあい号の愛称が付けられている。 以前の路線. 2010年3月31日まで. 佐賀県基山町からの受託運行。2010年3月をもって契約終了となり、基山タクシーのジャンボタクシーに変更された。 2018年9月30日まで. みやき町コミュニティバス. 佐賀県みやき町からの受託運行。専用車両(トヨタ・ハイエース)2台を使用し、それぞれ「さくら号」「こすもす号」の愛称が付けられていた。 2009年9月1日運行開始。地域交通活性化の調査・研究を目的とする試行運行で、国から全額補助を受け運賃を無料として運行開始。日祝日は運休。水曜日・土曜日に運行する南北ルート、月曜日・木曜日に運行する東南&西北ルート、火曜日・金曜日に運行する西南&東北ルートが設定された。車両は「コスモス号」の愛称が付けられた専用車両(三菱ふそう・ローザ)1台を使用した。 2012年3月31日限りで試行期間が満了し運行を終了したが、同年5月から火曜日・木曜日に南北ルートの運行を再開した。火曜日・木曜日が祝日や盆と重なる場合は運休する。 2012年10月1日より5路線で運行開始。運賃100円を収受するようになり、車両もハイエースに置き換えられた。 2019年10月1日より車両ごと鳥栖構内タクシーに移管された。 2020年9月30日まで. 吉野ヶ里町コミュニティバス 佐賀県吉野ヶ里町から委託を受け運行しているコミュニティバス。2003年10月1日に西鉄が東脊振村内のほとんどの路線を廃止したのを機に、東脊振村が三田川町の吉野ケ里公園駅と村内各地を結ぶコミュニティバス「さざんか号」として運行開始した。三田川町と東脊振村が合併して発足した吉野ヶ里町に引き継がれ、2007年1月9日に旧三田川町域でも運行を開始した。その後、ダイヤ改正や路線再編を何度か実施している。運賃100円。土日祝日・年末年始は運休。 専用車両(日産ディーゼルRN)2台を使用し、それぞれ「さざんか号」「さくら号」の愛称が付けられている。運行開始当初は貸切車を転用した小型車(日野レインボー7M)1台に「さざんか号」の愛称を付けて使用していたが、上記の2007年の路線拡大にあわせて同形車をもう1台転用して「さくら号」の愛称を付け、2台を使用している。2011年9月1日に西鉄バス二日市から転入した現行車に置き換えられた。 乗務員の人手不足に伴い、2020年9月30日をもって運行から撤退。撤退した路線、便については、吉野ヶ里観光タクシーが引き継いで運行している。 2021年9月30日まで. きやまコミュニティバス 佐賀県基山町からの受託運行。基山タクシーが運行していた無料福祉バスを2014年4月1日にコミュニティバスに変更し、基幹路線である当路線を西鉄バス佐賀が運行している。他の路線は従来通り基山タクシーが担当する。2014年6月30日まで無料で試行運行し、翌7月1日より有料化(大人100円)された。2021年10月1日ダイヤ改正で運行から撤退。再び基山タクシーが運行を担当する。 桧原営業所から転入した三菱ふそう・ローザ(0373)が専用車として使用される。なお、枝線は基山タクシーの運行。
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湘北高等学校
湘北高等学校(しょうほくこうとうがっこう)
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南方神社 (さいたま市)
南方神社(なんぽうじんじゃ)は、埼玉県さいたま市北区の神社。 歴史. 創建年代は不明である。ただ江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に記載されていることから、その頃には既に存在していたものと推測される。当初は「諏訪社」という名称であった。 「不動院」が別当寺であった。不動院は真言宗の寺院で、同市同区の清浄院住職の隠居寺であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。現在は清浄院の境外仏堂「不動堂」として現存している。 1874年(明治7年)に周辺の4社を合祀、1907年(明治40年)の神社合祀により、更に多くの神社が合祀された。その際に、主祭神の建御名方命(たけみなかた)から「南方(みなかた)」とし、更に「なんぽう」と読ませることで「南方神社(なんぽうじんじゃ)」と称することになった。
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カワウソ
カワウソ(獺、川獺)は、食肉目イタチ科カワウソ亜科(カワウソあか、)に分類される構成種の総称。 分布. 南極大陸、オーストラリア大陸、ニュージーランドを除く、世界全域の水辺や海上で生息している。 形態. 最小種はコツメカワウソで体長41 - 64センチメートル、尾長25 - 35センチメートル。皮下脂肪の層はほとんどないが、下毛が密生することで空気がたまり保温する役割を果たしている。 四肢は短く、指趾の間に水かきのある種が多い。鉤状に発達した爪のある種が多い。 泳ぎが得意で、水中での生活に適応している。また、ラッコ以外のカワウソ亜科は陸上でも自由に行動することができる。 水かきをもった四肢は短く、胴体は細長い。このような体型は水の抵抗が少なく、敏捷な泳ぎを可能にしている。体は密生した下毛と固くて長い剛毛に覆われており、これらの体毛が水を弾くことにより、水中で体温が奪われることを防いでいる。頭の上部は扁平で、耳、目、鼻が同一線上に並んでいるため、水に潜りながらこれらの感覚器を水面上に同時に出し、周囲の様子を窺うことができる。また、水中では耳孔や鼻孔を閉じることができる。 分類. 2008年に発表されたイタチ科の核DNAやミトコンドリアDNAの最大節約法・最尤法・ベイズ法による分子系統推定でも、本亜科の単系統群であることが支持されている。一方で亜科内の系統関係で不明瞭な点もあり最大節約法ではノドブチカワウソがラッコと姉妹群という解析結果が得られたのに対して、最尤法では旧世界のカワウソ類+ラッコの中ではノドブチカワウソが最も初期に分岐したという解析結果が得られている。この解析では本亜科はイタチ属とミンク(アメリカミンク)が分類されるミンク属""からなる狭義のイタチ亜科の姉妹群という解析結果が得られている。 以下の分類・英名はMSW3 (Wozencraft, 2005) に、和名はDuplaix・今泉訳 (1986)・斉藤ら (1991)・Morris & Beer・鈴木訳 (2013)・川田ら (2018) に従う。 ニホンカワウソ. ニホンカワウソ(ないし)は、かつては北海道から九州まで、日本中に広く生息していたが、乱獲や開発による生息環境の変化で激減。1974年7月に高知県須崎市で捕らえられ、1975年4月に愛媛県宇和島市九島で保護されたのが最後の事例。同年3月5日に高知県幡多郡佐賀町(現在の黒潮町)の国道56号で轢死体を回収した。そして人間に目撃された最後の目撃例が1979年(昭和54年)6月の須崎市となっていた。2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された。なお愛媛県は2014年10月に更新した「愛媛県レッドデータブック2014」で、絶滅していないことを前提とする「絶滅危惧種」に引き続き指定している。 2017年(平成29年)2月にカワウソの姿が対馬に設置された琉球大学のカメラに捉えられ、同年8月に発表された。日本国内では38年ぶりとなる。環境省による調査の結果、糞から検出したDNAから対馬に生息するカワウソは韓国とサハリンのユーラシアカワウソに近縁であることが発表された。 MSW3 (Wozencraft, 2005) ではニホンカワウソを独立種'としているが、過去の分布を""としており北海道を含めた日本広域とみなしている可能性がある。ニホンカワウソの記載論文を含むMSW3の出典では北海道産は'とされたことはなく、他の日本産食肉類でも北海道の分布に誤りや見落としがあることからユーラシアカワウソの分布域から北海道が見落とされた可能性が指摘されている。 生態. 肉食性であり、ザリガニ、カエル、魚などを泳ぎながら手で捕まえて食べる。小臼歯や顎の筋肉が良く発達しており甲殻類は殻ごと食べられる他、口でぶら下がることも出来る。 小型の獲物は捕らえてすぐに捕食するが、大型のものは一度陸に上げて捕食する。特に捕らえた魚を川岸に並べる習性を持つ種がいる。 知能が高く器用で力もあるため、石で貝を割るだけでなく、物を移動させて足場を作りドアを開けることも可能である。このためカワウソ用のケージの鍵は犬用と比較して複雑な構造となっているが、これらも学習する可能性が指摘されている。 社会構造は種によって異なり単独で生活する種と、家族群を形成して生活する種がいる。 人間との関係. 飼い慣らすことは難しいが、バングラデシュなどアジアではカワウソで魚を網に追い込ませる鵜飼いのような伝統漁法がある。2000年代に入っては継承者が減りつつあり消滅の危機にある。また16世紀末から17世紀初めにかけ、ヨーロッパの貴族の間で鵜飼いがスポーツとして流行しており、1618年にはジェームズ1世が飼っている「ウ」や「ミサゴ」と共にカワウソを漁用に飼育していた記録が残っている。水族館で飼育している個体に芸を覚えさせることにも成功している。近年はカワウソをペットとして飼うブームが起きているが人気が高まると同時に密輸などの問題も出て来ている。 環境汚染に対して脆弱であり、酸性雨や餌となる動物が取り込んだ農薬などの化学物質による影響が懸念されている。 伝承. 東アジアでは、キツネやタヌキ同様に人を化かす伝承が多く伝わっている。水中を自由に動き巧みに魚を捕ることから漁師になぞらえた話も多い。 漢字の「獺」は「天を頼りとする獣」の意で、捕らえた魚を並べる習性が天地や祖先への祀りと信じられたことに由来する。魚を陸に並べる習性は礼記にある「先祖を祭っているようだ」との記述から「獺祭魚」と呼ばれ、詩作や著作の際に引用や調査のため多くの書物を広げ並べている様やその人を指すようになった。 日本. 和名は「カワオソ」が転訛したもので、「川に住む恐ろしい動物」の意があると考えられている。 日本の石川県能都地方では、20歳くらいの美女や碁盤縞の着物姿の子供に化け、誰何されると、人間なら「オラヤ」と答えるところを「アラヤ」と答え、どこの者か尋ねられると「カワイ」などと意味不明な答を返すといったものから、加賀(現在の石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もある。 江戸時代には、『裏見寒話』『太平百物語』『四不語録』などの怪談、随筆、物語でもカワウソの怪異が語られており、前述した加賀のように美女に化けたカワウソが男を殺す話がある。 安芸国安佐郡沼田町(現在の広島県広島市安佐南区沼田)の伝説では「伴(とも)のカワウソ」「阿戸(あと)のカワウソ」といって、カワウソが坊主に化けて通行人のもとに現れ、相手が近づいたり上を見上げたりすると、どんどん背が伸びて見上げるような大坊主になったという。 青森県津軽地方では人間に憑くものともいわれ、カワウソに憑かれた者は精魂が抜けたようで元気がなくなるといわれた。また、生首に化けて川の漁の網にかかって化かすともいわれた。 石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり、18歳-19歳の美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという。人の言葉も話し、道行く人を呼び止めることもあったという。 石川県や高知県などでは河童の一種ともいわれ、カワウソと相撲をとったなどの話が伝わっている。北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された。室町時代の国語辞典『下学集』には、河童について最古のものと見られる記述があり、「獺(かわうそ)老いて河童(かはらふ)に成る」と述べられている。 向田邦子 『思い出トランプ』冒頭の短篇「かわうそ」において、カワウソのしぐさは次のように描写されている。「子供のための小動物を集めたコーナーのプールに、二頭のかわうそがふざけていた。//どちらが牡でどちらが牝かわからなかったが、二頭ともじっとしているということがなかった。水に浮かんだ木の葉を魚にでも見たてているのか、わざと物々しく様子をつくってぶつかってゆく。//そうかと思うと、ポカンとした顔をして浮いている。ポカンとしている癖に、左右に離れた黒い小さな目は、油断なく動いているらしく、硬貨をじゃらつかせて餌の泥鰌入れに近寄る気配を見せると、二頭は先を争って、泥鰌の落ちてくる筒の下で、人間の手のような前肢をすり合せ、キイキイとにぎやかに騒ぎ立て催促する」。 アジア. アイヌ語では()と呼ぶが、アイヌの卜占にカワウソの頭骨を使う『()』があることから、アイヌと交易を行っていた北方民族の言語(ツングース語族)で呪術師を意味するシャーマン()との関連も指摘されている。このほかにも(水にいる獣)、(禿げた神)、(川を縫う)など生態に関連した呼び名もある。アイヌの伝承では人を騙したり食料を盗むなど悪い印象で語られるが、同時に物忘れや失敗をする憎めないキャラクターという側面もある。水中での動きの良さにあやかろうと子供の手首にカワウソの皮を巻く風習があり、泳ぎや漁が上手い者を「エサマンのようだ」と賞賛することもある。ウラシベツ(現在の網走市浦士別)で、カワウソの魔物が人間に化け、美しい娘のいる家に現れ、その娘を殺して魂を奪って妻にしようとする話がある。またアイヌ語ではラッコを本来は「(海のカワウソ)」と呼んでいたが、夜にこの言葉を使うとカワウソが化けて出るため、昼間は「ラッコ」と呼ぶようになったという伝承がある。カワウソの頭を食べると放心して物忘れする伝承もある。 中国では、美女に化けるカワウソの話が『捜神記』『甄異志』などの古書にある。 朝鮮半島にはカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。李座首(イ・ザス)という土豪には娘がいたが、未婚のまま妊娠したので李座首が娘を問い詰めると、毎晩四つ足の動物が通ってくるという。そこで娘に絹の糸玉を渡し、獣の足に結びつけるよう命じた。翌朝辿ってみると糸は池の中に向かっている。そこで村人に池の水を汲出させると糸はカワウソの足に結びついていたのでそれを殺した。やがて娘が生んだ子供は黄色(または赤)い髪の男の子で武勇と泳ぎに優れ、3人の子を儲けたが末の子が後の後金の太祖ヌルハチであるという。 ベトナムにもカワウソとの異類婚姻譚が伝わっている。丁朝大瞿越を建てた丁部領(ディン・ボ・リン)は、母親が水浴びをしているときにカワウソと交わって出来た子であり、父の丁公著はそれを知らずに育てたという。 北米. アラスカ、カナダの先住民族であるトリンギットには、カワウソにさらわれた女を接点にして交易を行い、双方に富をもたらしたという伝承がある。 ウィリアム・J・ロングはビーバーとカワウソは天敵同士ではないにもかかわらず、互いに攻撃する様子を見て先住民に理由を尋ねたところ、「ビーバーはカワウソの子供を盗んで奴隷にするから嫌っている」という話を聞いたと記している。またロングはカワウソがビーバーのダムを破壊する、子供のカワウソがビーバーの家族と行動しているのを観察している。ロングが話を聞いた先住民は「キーオネク」と呼んでいるという。
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姜肱
姜 肱(きょう こう、97年 - 173年)は、後漢の隠士・学者。字は伯淮。本貫は彭城郡広戚県。 略歴. 祖父は豫章太守、父は任城国相をつとめた名族の家に生まれた。 姜肱は五経に広く通じ、天文に明るく、かれのもとで学問しようと遠くからやってきた者が3000人あまりいた。公卿たちは争ってかれを召し出そうとしたが、姜肱はいずれも就任しなかった。ふたりの弟の名声もかれに次いだが、やはり招請に応じようとしなかった。 後に朝廷が徐稚とともに召し出そうとしたが、姜肱は洛陽に入らなかった。中常侍の曹節らが朝廷の事務を掌握し、陳蕃や竇武らを粛清すると、姜肱を太守として召し出そうとした。姜肱は身を隠して任命を避け、海浜をさすらった。再び召命があったが、やはり応じなかった。そこで太中大夫とされ、詔書が家に届いたが、姜肱は家人に「長らくの病で医者にかかっております」と答えさせた。姜肱はぼろぼろの古い衣服でしのび歩き、青州の境に潜伏し、占卜の商売で生計を立てた。召命がようやく絶え、家人もかれの居所を知らなくなり、年を経てようやく家に帰った。173年(熹平2年)、家で死去した。享年は77。
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日本語の世界16 国語改革を批判する
『日本語の世界16.国語改革を批判する』(こくごかいかくをひはんする)は、1983年5月に中央公論社「日本語の世界」シリーズの第16巻で出版された。1999年10月に、丸谷才一編著「国語改革を批判する」(中公文庫)で再刊された。 国字改良論に各自否定的な立場を取る6編の論考で構成。正字体および歴史的仮名遣を是とし、新字体および現代仮名遣いを非とすることを唱える著作で、國語改革反対派が改革派を批判する際に用いる常套的な主張をまとめており、福田恆存「私の國語敎室」など、反対派の関連書籍に数えられる。 内容. 国語改革の歴史(戦前). 前島密の漢字御廃止之議から説きおこし、否定的な評価をさしはさみつつ、国字改良論の展開についてのべる。 国語改革の歴史(戦後). 第二次大戦の日本の敗戦後、1946年の現代仮名遣いと当用漢字(常用漢字)の制定について、旧字旧かなの是認を基調にしつつその経緯をのべる。 現代日本語における漢字の機能. 漢語(二字熟語)について、和語に比べて語彙の多いことを長所とし、形態素の結合を分子になぞらえ、漢字の性質と漢字の重要性を説く。 国語改革と私. 著者がいわゆる旧仮名派になった経緯と、研究者としての「校本宮澤賢治全集」(筑摩書房)の刊行と歴史的かなづかいの使用に対する批判者への反論とをのべる。 「日本語改革」と私―ある国語生活史. 少時の文章に対する印象や、文章語と異なる口頭語の性質(記憶力に起因して、長い文においては文の始めから終わりまでが整合的にならないこと)などについて述べた随筆。 言葉と文字と精神と. 平易な表記をもって読み書きの普及に資するという国字改良論の目的を不要とする。ついで現代仮名遣いの弊害と称して、(1)語源の曖昧化(2)言語体系の破壊(3)同語異発音の余裕の消滅(4)拗音・促音について述べる。また、「伝統」および「文化の断絶」という概念についてもふれる。 丸谷才一の表記観. 本書の「言葉と文字と精神と」で、丸谷才一は簡潔に新字体・当用漢字(常用漢字)に関する自分の見解を述べている。それによれば、次の三つからなる。 全体的に新字新かなを非とするが、一部に留保をつけているのが特徴である。
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私の思い出
私の思い出(わたしのおもいで)は、日本のロックバンドである。2010年結成。 概要. 2010年3月、京都で結成。流動的にメンバーが変わる時期を経て、2010年8月よりメンバーが登山(歌手)・マサ(ギター)・バタやん(ベース)・中居貴族(ドラム)・上田(サックス)となる。上田が参加する前からバンド名は「私の思い出」であった。 京都・磔磔、名古屋・得三でのワンマンライブを経て、2014年 1st『アドベンチャー!危機一髪!』をリリース。 2015年12月にリリースした2nd『あゝ、冒険』は、2位の星野源に続くタワーレコード京都ウィークリーチャート3位、2016年7月にリリースした3rdアルバム『おやすみユートピア』および2017年リリース4thアルバム『アドベンチャーロック』がタワーレコード京都ウィークリーチャート1位になる。 自主イベントとして、2015年から梅田クラブクアトロでの「天地創造キャンプ」を開催。ザ50回転ズ、キノコホテル、ザ・たこさん、カルメラとのツーマンライブを成功させる。 「天地創造キャンプ vol.4」では、シークレットゲストの押尾コータローと「おにぎりユニバース」をセッションした。 2017年は京都のボロフェスタ、ギターウルフ主催シマネジェットフェスなど地方のフェスにも多数出演している。 2018年10月19日をもってスパゲットー上田(サックス)が脱退。 2019年7月1日、スパゲットー上田(サックス)脱退後からサポート参加していた安東ジョーンズ博士(キーボード)が正式加入したことを公式サイトで発表。 キャンプボーイのスタイルでステージに上がり、ライブのことを「キャンプ」と呼ぶ。 京都を拠点に全国各地で「キャンプ」を行っている。 「唯一現存するアドベンチャーロックバンド」と自称している。アドベンチャーロックバンドの定義は「私の思い出」自身が定めている。 京都の路面電車、京福電鉄「嵐電」とコラボレート。 2019年8月9日に台北(台湾)、8月11日に台南(台湾)、2019年11月にカトマンズ(ネパール)で海外キャンプを予定している。 メンバー. 登山正文  (のぼりやま まさふみ) - 歌手および隊長および新リーダー ジーザス・マサ  (じーざす・まさ) - ギター バタやん  (ばたやん) - ベース 中居貴族  (なかい きぞく) - ドラム 安東ジョーンズ博士  (あんどう じょーんず はくし) - キーボード スパゲットー上田  (すぱげっとー うえだ) - サックス、旧リーダー
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バスなび沖縄
バスなび沖縄(バスなびおきなわ)は、沖縄県の沖縄本島内の路線バスを対象としたバス時刻表、乗り換え経路検索システムおよびバスロケーションシステムのサービスを提供する路線バス総合案内サイト。 県全域での複数事業者による共通のバスロケーションシステムサービスとしては日本初である。 同記事ではかつて運営されていた沖縄本島内の路線バスを対象としたバス時刻表、乗り換え経路検索システムおよびバスロケーションシステムを提供していたサイトについても記述する(後述の「#かつて運営されていたサイト」を参照)。 概要. 沖縄本島の路線バス事業者が運行する路線バスの時刻表、乗り換え経路の検索サイトであり、かつバスロケーションシステムによるバスの位置情報提供サービスも行っている。また、パソコンサイトだけでなく、携帯電話サイトも開設されており、スマートフォン向け用無料アプリも存在する。なお、日本語以外に、英語、中国語、韓国語版のページも開設されている。 サービス開始に当たっては沖縄振興一括交付金が活用され、既に独自にバスロケーションシステムを導入していた那覇バス(2007年3月1日導入)、琉球バス交通(2010年4月1日)のうち、新システムを用いた琉球バス交通のシステムを踏襲する形でサイトが開設された。 サイト運営は沖縄モバイルクリエイト株式会社が行う。 対象事業者. 以下の沖縄本島の路線バス事業者4社の運行する路線バスが対象となる。 4社以外の事業者が運行する路線(国頭村営バス、うるま市有償バス、やんばる急行バス)は対象外である。また、4社が運行する路線であっても、那覇空港リムジンバス、カヌチャシャトルバス、市町村の委託を受けて運行するコミュニティバス(読谷村コミュニティバス「鳳バス」、沖縄市循環バス、中城村コミュニティバス「護佐丸バス」、北谷町コミュニティバス)は対象外である。 かつて運営されていたサイト. 沖縄・交通観光情報システム. 2000年度に沖縄・交通観光情報システム実証実験として、バス路線、バス時刻表情報等を提供することを目的に開設された。現在は閉鎖されている。 美ら島交通なび. 2004年7月1日より、路線バスの運行状況等に関する情報を提供することを目的に携帯サイトとして開設された。その翌年の2005年6月には、バス時刻表、乗り換え経路検索システムの機能が追加され、同時にパソコンサイトも開設された。現在は閉鎖されている。 沖縄バスロケーションシステム. 2004年2月27日より、沖縄総合事務局南部国道事務所が管轄する道路の渋滞状況を把握することを目的に、路線バスにGPS車載器を搭載し、バス位置情報から旅行速度をた割り出すバスプローブカー調査を開始し、同時にバスロケーションシステムとしてバスの位置情報提供サービスの提供を開始した。当初は沖縄バスの4台を用いて、20番・名護西線、120番・名護西空港線の一部で情報提供を開始した。 その後、琉球バス交通、沖縄バス、那覇バス、東陽バスの4社が運行する12路線にまで対象路線は拡大されたが、2010年3月31日をもってバスプローブカー調査が終了となることから、バスロケーションシステムの運用も終了した。現在は閉鎖されている。
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国際連合安全保障理事会決議96
国際連合安全保障理事会決議96(こくさいれんごうあんぜんほしょうりじかいけつぎ96、英: United Nations Security Council Resolution 96, UNSCR96)は、1951年11月10日に国際連合安全保障理事会で採択された決議。インド・パキスタンの国連代表(the United Nations representative for India and Pakistan)であるフランク・ポーター・グラハム()からの報告を受け、また理事会での非軍事化プログラムの基礎となる同氏の演説を聞き、承認・留意したもので、理事会は同時に、インドとパキスタンの双方が平和的解決に取り組み停戦を引き続き注視するだろうこと、及びジャンムー・カシミール州の加盟は自由で公平なものによって決定されるべきであるという原則を受け入れたことを含む宣言に満足の意を以て留意した。そして理事会は、グラハム氏(国連代表)に対し、ジャンムー・カシミール州の非武装化をなす計画について当事者の合意を得る努力を続行するとともに、6週間以内にその首尾と委ねられた問題について報告をするよう指示した。決議は9票対0票で採択されたが、インドとソビエト連邦の2国が棄権した。 詳細. 以下は決議の英文。 以下はその和訳。
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ゲオルギー・リヴォフ
ゲオルギー・エヴゲーニエヴィチ・リヴォフ公爵(ロシア語:;ラテン文字転写:Georgii Evgenevich Ľvov, 1861年11月2日 - 1925年3月7日)は、ロシア帝国の政治家。 二月革命によりニコライ2世の退位後成立したロシア臨時政府の初代大臣会議議長(首相)(在任期間:1917年3月23日から7月21日)。「リヴォフ」の表記に関しては、 L'vov が一般的であるが、他に Lvov 、Lvoffなどと表記される場合もある。また、日本では、リボフ公またはリヴォフ公の表記が多い。 来歴. 国会議員. 1861年11月2日、ザクセン王国のドレスデンで、の息子として生まれる。はリューリク朝の流れを組む名門貴族だが生活に困窮したため、リヴォフが生まれてすぐにドイツから戻りトゥーラ近郊のアレークシン地区ポポフカ村に移る。兄アレクサンドルは画家を目指して1896年にモスクワの学校に進学し、弟ウラジーミルは1901年に外務省に入省した。 1885年にモスクワ大学法学部を卒業し、トゥーラ州の裁判所で1893年まで勤務する。1901年にユリア・アレクセイヴナ・ボブリンスカヤと結婚した。1903年にトゥーラ州農村審議会長に就任し、日露戦争の際は極東で援護事業を展開した。 1906年に第一国会(ドゥーマ)に立候補し当選し、ゼムストヴォのメンバーとなった。ドゥーマでは食品医療委員会に所属し、日露戦争後の食糧不足解消のため食料や医療品の配給を手配した。1909年にアメリカ合衆国・カナダを視察し、1911年からはのメンバーとなった。1913年にモスクワ選挙区でアレクサンドル・グチコフが落選すると後継候補に選出されるが、内務省からモスクワ選挙区からの出馬を拒否された。1914年にゼムストヴォ全ロシア連合議長に選出され、同時に議長を兼務し、第一次世界大戦で負傷した軍人が入院する病院設備と医療機器の支援や衣服の供給を担当する。 ロシア革命. 1917年3月2日、二月革命によりニコライ2世が退位しロマノフ朝が崩壊する。翌3日にリヴォフはロシア臨時政府の首相兼内相に就任した 。リヴォフを首班とする臨時政府は戦争継続を決定し、7月に東部戦線でケレンスキー攻勢をかけるが失敗。さらに七月蜂起の発生により彼の政治的な権威は低下し、首相兼内相を辞任に追い込まれ、アレクサンドル・ケレンスキーが後を継いだ。 十月革命勃発後、ボリシェヴィキによりチュメニで逮捕されエカテリンブルクに連行されるが脱走に成功し、オムスクのシベリア共和国に合流した。リヴォフはシベリア共和国首相の指示を受け、1918年10月にアメリカに渡りシベリア共和国への支援を取り付けようとした。しかし、アメリカとの交渉に失敗したためフランスに渡り、1918年から1920年にかけてロシアへの支援と亡命者の援助を訴える集会を数度に渡り開催した。その後は政治活動から引退し、パリに居住し回顧録を執筆しながら余生を過ごし、1925年に同地で死去した。遺体はサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワに埋葬された。
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マイケル・コルレオーネ
マイケル・コルレオーネ(英:Michael Corleone)は、『ゴッドファーザー』シリーズに登場する架空の人物。 アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が企画した「AFIアメリカ映画100年シリーズ」では、『アメリカ映画の悪役ベスト50』で11位、『アメリカ映画の名セリフベスト100』で彼のセリフ「"Keep your friends close, but your enemies closer."」(「友は近くに置け。敵はもっと近くに置け。」)は58位にランク入りしている。 概要. 『ゴッドファーザー』シリーズにおけるヴィトー・コルレオーネと並ぶ主人公。ヴィトーの三男として生まれ、1950年前後の一連の出来事を通して、ファミリーを引き継ぎ、2代目ドンとなる。 第二次世界大戦、太平洋戦争を海兵隊員として過ごし、その活躍で英雄と呼ばれる。当時は高い知性を持ち、理想家肌で、人から自然と尊敬を集める青年であった。ヴィトーもマイケルを後継者にするつもりはなく、やがて政界に進出し、ファミリーの表看板をつとめてくれればと希望していた。しかし、ヴィトー暗殺未遂事件、長兄ソニー暗殺を経て父の後継者となる。 ファミリーを引き継いでからは、奸智に長け、冷徹な命令を平然と下し、邪魔者を徹底して排除する性格へと変貌していく。これによって裏世界でも多くの成功を勝ち取り、父・ヴィトーの頃をも越える勢力となるも、父とは対照的に、家族を守るための行動が家族を崩壊させる結果を招く悲劇に襲われる。 小説版においてはヴィトーの方が主人公という印象が強いが、映画においては、1945年以降を主軸に話が進むため、マイケルの方が主人公という印象が強い。 ちなみに映像化する際、役者と監督の知名度の無さから興行的失敗を危惧した配給会社は、当時人気絶頂のロバート・レッドフォードをマイケル役に、と監督のフランシス・フォード・コッポラに勧めた。しかし、原作のイメージを尊重したコッポラは、典型的なアングロ・サクソン系のレッドフォードではなく、シチリアにルーツを持つアル・パチーノこそマイケルにはふさわしい、と譲らなかったという。 生涯. 1920年、アメリカ、ニューヨークのリトル・イタリーでヴィトー・コルレオーネの三男として誕生。折りしもこの年は、父・ヴィトーがファヌッチを暗殺して、マフィアとしての道を踏み出した年だった。 1941年、日本軍による真珠湾攻撃。これを受けアメリカが参戦し、マイケルは家族の反対を押し切って大学を中退して海兵隊に入隊する。 1944年、海軍十字章、パープルハート章を授与され、英雄としてライフ誌の表紙を飾る。 1945年、戦争終結を受けて海兵隊を除隊(最終階級は大尉)。ダートマス大学に復学する。この頃、ケイ・アダムスと婚約する。同年12月、ヴィトー暗殺未遂事件が発生。父の見舞いに病院を訪れた際に、父がさらなる暗殺の危機にあることを察知し、機転を利かせて、暗殺を阻止する(この時、暗殺に協力していたマクルスキー警部に顔面を殴打され、鼻に障害を持つ)。 1946年、報復として、父の暗殺を企てたソロッツォと、マクルスキーを暗殺。その後、シチリアへ逃亡し、ヴィトーの旧友で地元マフィアのドン・トマシーノに匿われ、父の故郷で過ごす。さらに地元の女性アポロニア・ビテリに一目惚れし、そのまま結婚。 1947年、コルレオーネとタッタリアの抗争が激化。兄ソニーが暗殺される。シチリアにも火の粉が飛び、車にしかけられた爆弾によって妻アポロニアが爆死する。 1949年、ヴィトーの和平提案によりタッタリアとの抗争終結。マイケルもアメリカに帰国する。ヴィトーが相談役に退き、事実上引退したことで、コルレオーネ・ファミリーの後継者としてドンを引き継ぐ。合わせて、ケイと再婚。 1951年、長男・アンソニーが誕生。2年後の1953年に長女メアリー・ルイズ誕生。 1955年、父ヴィトー死去。これを機に、ニューヨーク五大ファミリーのドン、およびモー・グリーンを暗殺する。合わせて、裏切り者(カルロ・リィツィ、サル・テッシオ)を粛清。 1957年、ピーター・クレメンザ死去。これをきっかけとして、幹部のフランク・ペンタンジェリ(フランキー)と、事実上配下のロサト兄弟が抗争を始める。さらにハイマン・ロスの暗躍によって、マイケルに裏切られたと勘違いしたフランキーがFBIに逮捕されたことをきっかけとして違法ビジネスについて供述を始める。 1959年、フランキーの供述を元に犯罪調査委員会(公聴会)が開かれ、マイケルは召喚を受ける。しかし、上院議員やフランキーへの圧力によってマイケルの犯罪が問われることなく、閉会する。その頃に母カルメラが死去。その後、ハイマン・ロスを暗殺。合わせて、裏切り者のフランキーと、さらに兄のフレド・コルレオーネを粛清する。 1959年の一連のできごとを受けてケイと離婚。その後、「ヴィトー・コルレオーネ財団」を設立。シチリア復興のための基金として多額の寄付を集め、1975年、バチカンの加護を得る。これを機に違法ビジネスを分離してファミリーの合法化をすることを決断。財団の看板を長女メアリーにし、合法ビジネスの後継者とする。 1979年、バチカンと関係の深い投資会社の損失を穴埋めすることで合法ビジネスを磐石のものにしようとする。しかし、シチリアに絡む利権から、当地の政治家、ドン・ルケージや、父・ヴィトーと友人だったドン・アルトベロが暗躍を始める。 違法ビジネスを引き継がせたジョーイ・ザザと確執を起こし、その後、そのザザがアルトベロに唆されて友好ファミリーの会合の場で集まったドンを皆殺しにする。ザザと抗争が始まるが、最終的に自身が後見人を務める甥のヴィンセント(ソニーの遺児)がザザを暗殺し、表面的な抗争は終結する。その後、ヴィンセントを違法ビジネスの後継者として助言などを行うようになり、実質的な権限などを与える。 1980年、ルケージ、アルトベロ暗殺。しかし、同日アルトベロの放った暗殺者によってメアリーがマイケルの身代わりとなり死亡。以後、この時のショックが元でシチリアの片田舎で廃人のように過ごす。 1997年、死去。
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アンソニー・マモ
サー・アンソニー・ジョゼフ・マモ(, KUOM, OBE, QC, 1909年1月9日 – 2008年5月1日)は、マルタの政治家。初代マルタ大統領。2007年6月8日以来、世界最高齢の元・元首だった。 生涯. ジョセフ・マモとカルラ・ブリンキャットの息子としてビルキルカラに生まれた。1931年に学士号を得、1934年に法学の学位を得てマルタ大学を卒業した。1974年に初代マルタ大統領になった。1976年に退任。2008年5月1日に他界。
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黄色い大地
『黄色い大地』(きいろいだいち、原題:"黄土地")は、1984年の中国映画。 概要. 日中戦争下の1939年の陝西省を舞台に、八路軍の兵士と貧農の娘の淡い恋と農民たちの苛酷な生活を描いたチェン・カイコー監督のデビュー作で、第五世代の映画で最初に公開された作品である。1985年金鶏奨最優秀撮影賞、1985年香港映画祭撮影賞、1985年ロカルノ国際映画祭銀賞、1985年ナント三大陸映画祭最優秀撮影賞を受賞した。
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福永挽歌
福永 挽歌(ふくなが ばんか、1886年3月22日 - 1936年5月5日)は、福井県出身の詩人、小説家、翻訳家。本名は渙(きよし)。別号に冬浦。早稲田大学卒業。東京日日新聞、万朝報などの記者を務め、のち日本女子高等学院などで教職に就いた。南アジア研究者の福永正明は、大甥である。
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イアン・スチュワート
イアン・スチュワート(Ian Stewart) イアン・スチュアート(Iain Stewart) イアン・スチュアート(Ian Stuart)
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舞鶴倉庫
舞鶴倉庫(まいづるそうこ)株式会社は、京都府舞鶴市に本社を置く日本の企業である。1947年(昭和22年)4月24日に設立された。 資本金は1億円で、事業所は舞鶴の他に京都市と草津市にある。主に舞鶴湾での業務を取り扱っている。
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ピーター・サフラン
ピーター・サフラン(Peter Safran、1965年11月22日 - )は、イギリス系アメリカ人の映画プロデューサー兼マネージャー。 プロフィール. イギリスで育ったサフランは、プリンストン大学を卒業し、ニューヨーク大学・ロー・スクールでJ.D.を取得した。ニューヨークで企業弁護士として働いた後、UTAのアシスタントになった。 映画キャリア. ゴールド・ミラー社のマネージャーとなり、1998年まで在籍した。その後、ブリルスタイン-グレイ社のマネージャーを5年間務め、2003年にブリルスタイン-グレイ・マネージメント社の社長に就任した。社長として、ブラッド・ピット、ジェニファー・アニストン、アダム・サンドラー、ニコラス・ケイジ、コートニー・コックスなど200人以上の顧客を抱える同部門の日常業務の責任者となった。兄のタッド・サフランが映画『The Long Weekend』を執筆し、ピーターがプロデュースした。2006年にBrillstein-Greyを退社すると、The Safran Companyを立ち上げ、すべての顧客リストを持っていった。マネージャーとして、ショーン・コムズ、アダム・シャンクマン、デヴィッド・ハイド・ピアース、ジェニファー・ロペス、ブルック・シールズ、ジェシカ・シンプソンなどを担当した。 DC映画の新リーダーへの就任. 2022年10月25日、ジェームズ・ガンと共に、ワーナー・ブラザース傘下のDCフィルムズの代わりに新設される「DCスタジオ」の共同会長兼CEOに就任することが発表された。今後4年のDC映画・ドラマ・アニメの製作を統括し、ピーターは主にビジネス・プロダクション面を担当する。
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オーランチニジン
オーランチニジン(Aurantinidin)は、水溶性の赤色の植物性染料である。アントシアニンとして知られる化合物群の一つであり、ペラルゴニジンのヒドロキシ誘導体である。オーランチニジンは、"Impatients aurantiaca" (Balsaminacea)、アルストロメリア属の栽培品種において生成すると報告されている。
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井上恭太
井上 恭太(いのうえ きょうた、1974年5月18日 - )は日本の元俳優、実業家。東京都出身。井上堯之の長男。成城大学文芸学部芸術学科卒業。 1995年、劇団新派入団、波乃久里子門下。 新派男優陣の層が薄い中で正統派二枚目として次代の新派を担うべく期待され、2013年には日本俳優協会賞奨励賞を受賞した。2014年に退団、役者を廃業する。最後の出演は2014年1月三越劇場『明治一代女』(弟 武彦役)。 2014年5月に、実弟の井上慶太と、東京・代々木に輸入ポスター専門店「ナップフォード・ポスター・マーケット」をオープンさせた。
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シュピー
シュピー(フランス語:Chépy)は、フランス北部のオー=ド=フランス地域圏、ソンム県にあるコミューンである。D465、D65上にあり、アブヴィルの16kmほど南西に位置している。このコミューンのほとんどの住民は、「Chépy」の綴りが間違っていると考えており、正しい綴りを「Chepy」とし、そのように発音している。
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ラベール
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別海町
別海町(べつかいちょう)は、北海道根室振興局管内の野付郡にある町。 概要. 北海道東端部に位置し、東は野付水道を挟んで北方領土を望む。面積は「町」としては日本で3番目に広く(1位は足寄郡足寄町、2位は紋別郡遠軽町でいずれも北海道内)、「市町村」としては道内6位(北方領土内の留別村を含む)。その広大な町域は大半が起伏のゆるやかな丘陵地帯で、原野を切り開いて造られた牧場が町域ほぼ全般に広がり、集落は別海(べつかい)、中西別(なかにしべつ)、中春別(なかしゅんべつ)、西春別(にししゅんべつ)、西春別駅前、上春別(かみしゅんべつ)、上風連(かみふうれん)、本別海(ほんべっかい)、尾岱沼(おだいとう)など町の全域に点在している。町役場は町域中央やや東寄りの別海市街に置かれているため、町の西部では標茶町の市街の方が近い地域がある。 南西部には防衛省陸上自衛隊別海駐屯地(航空自衛隊計根別飛行場)と矢臼別演習場が置かれる。その面積は17,192ha。沖縄県金武町県道104号線越えで行われていた砲撃訓練の移転を1997年(平成9年)から受け入れており、年に数回、アメリカ軍による大規模な射撃訓練が行われる。 気候. ケッペンの気候区分によると、別海町は湿潤大陸性気候に属する。寒暖の差が大きく気温の年較差、日較差が大きい顕著な大陸性気候である。降雪量が多く、豪雪地帯に指定されている。冬季は-25℃前後の気温が観測されることが珍しくなく、寒さが厳しい。 町名の由来. 1923年(大正12年)に旧別海村を含む6村が合併し現在の別海町域に相当する別海村が発足した際、当初役場が置かれていた現在の本別海地区から。アイヌ語の「ペッカイ(pet-kai)」(川の・折れ目)「ペッカイェ(pet-kaye)」(川・を折る)に由来するとされ、本別海地区で西別川が河口で曲がりくねる様子を表した名である。現在の別海地区は当初アイヌ語の「ヌウㇱペッ(nu-us-pet)」(豊漁の・川)に由来する「西別(にしべつ)」と称されていたが、役場移転後に改名している。 町名の読みについては古くから「べつかい」と「べっかい」が混在していたが、1971年(昭和46年)の町政施行を機に「べつかい」で統一された。公的な文書や放送各局では「べつかい」の読みが使われ、道路案内標識上のローマ字表記も「Betsukai」となっている。 しかし道道路線名中(例:北海道道123号別海厚岸線)や、かつて存在した標津線別海駅における読みは「べっかい」であり、地名においても、「別海」の発祥であった本別海地区の読みは「ほんべっかい」となっている。 このため読みはどちらが正しいか長期間にわたって議論になっていたが、2009年(平成21年)3月10日の町議会にて当時の町長が「べつかい」と「べっかい」の双方の読み方を認めると宣言し、町として公的表記を求められた場合は引き続き「べつかい」とするとしている。 歴史. 最も開拓が早かったのは東部沿岸部で、主に漁業が行われていたが、明治30年代から内陸部への入植がはじまり、こちらでは畑作農業が中心におこなわれていた。開拓当初は沿岸の本別海地区(当時は「別海」と称した)に置かれていた役場も、内陸の入植者増加により、1933年(昭和8年)に別海地区(当時は「西別」と称した)に移転している。 昭和に入ると農業から酪農への転換が進み始めたが、土地の広大さゆえに開拓は遅れていた。そこで1956年(昭和31年)から世界銀行の融資を受け、根釧パイロットファーム方式が導入。機械による開拓がおこなわれ、1973年(昭和48年)には新酪農村の建設に着手、現在の広大な酪農地帯を形成した。 公的機関. 警察. 北海道警察釧路方面本部 消防. 根室北部消防事務組合(管轄:別海町、中標津町、標津町、羅臼町) 地理. 各地区の人口・世帯数. 2022年(令和4年)3月時点の各地区の人口・世帯数。 増減率は2018年(平成31年)3月時点との比較。 消滅集落. 2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている。 経済. 産業. 平野部では酪農、本別海・尾岱沼等の沿岸部では漁業(サケ、コマイ、ホッキ、アサリ、ホタテ、ホッカイエビなど)が盛ん。 全国1位の生乳生産量で、年間生産量は43万トン。 教育. 高等学校. 道立 中学校. ※以下は廃校 小学校. ※以下は廃校 各学校の通学区域が広いため21台のスクールバスが運行されている。 別海町では概ね地域ごとに小学校と中学校が1校ずつ置かれるため、例えば上春別小の児童は全員上春別中に入学することになる。過去に中春別中のみ、中春別小・美原小・豊原小の3校からの入学であった。 2022年現在、人口1.4万人の町に16の小中学校が設置され、複式学級を持つ小学校は8校中4校である。一方1学年あたり2学級の学校は、別海中央小、別海中央中のみである。 郵便. 郵便局 簡易郵便局 交通. 鉄道. 1933年(昭和8年)12月1日、鉄道省によって標津線が開業。 1949年(昭和24年)6月1日、日本国有鉄道へ継承。 1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化により北海道旅客鉄道(JR北海道)へ継承。 1989年(平成元年)4月30日、標津線の廃止により、現在町内に鉄道路線はない。廃止以前、町内には以下の駅が設置されていた。 また、別海村時代には別海村営軌道が存在したが、1971年(昭和46年)に廃止された。 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事. 特産・地酒.  生乳生産量の高さを生かした「福祉牛乳給付事業」が行われており、一定の条件を満たす住民に対して牛乳の200mlパックを1週間ごとに5個、町より無料で給付している。給付される製品はべつかい乳業興社が供給している。
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回廊亭の殺人
『回廊亭の殺人』(かいろうていのさつじん)は、東野圭吾の推理小説。単行本は光文社から1991年に刊行され、1994年に光文社文庫版が刊行された。文庫化の際に『回廊亭殺人事件』と改題された。 2011年6月24日に常盤貴子主演でテレビドラマが放送された。 概要. 旅館を舞台にした長編推理小説。 2011年には「金曜プレステージ」枠でテレビドラマ化されている。 あらすじ. 巨万の富を築いた実業家・一ケ原高顕が死んだ。彼の死から一か月後、高顕の遺言書公開を見届けるために一ケ原一族が回廊亭に集まる。「恋人がこの旅館に集まる誰かに殺された」と確信する高顕の秘書・桐生枝梨子は姿を老婆に変え、回廊亭に乗り込む。枝梨子の最初で最後の青春を奪った犯人への、執念の復讐が始まる。 テレビドラマ版. 2011年6月24日、フジテレビジョン系列の「金曜プレステージ」において、『回廊亭殺人事件』のタイトルで、「東野圭吾3週連続スペシャル」の第3弾として放映された。桐生枝梨子は姿を一ヶ原高顕の姪っ子の美女に変えた(原作では老婆に変えた)。視聴率13.6%。
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土屋千明
土屋 千明(つちや ちあき、1982年6月29日 - )は、群馬県出身の女子競艇選手。登録番号4225。身長156cm。血液型O型。 92期。群馬支部所属。父はオートレーサーの土屋栄三、弟に同じ競艇選手の土屋智則(登録番号4362)、同期に安達裕樹、大峯豊、毒島誠らがいる。
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小川陽平
小川 陽平(おがわ ようへい、1981年8月21日 - )は、日本の俳優、ダンサー。神奈川県出身。FREE(S)所属。演劇集団SKIPPY(S)代表。 身長170cm。特技はストリートダンス、スポーツ全般。アクション。 アクターズクリニック講師、EXPG講師、東急スポーツオアシスインストラクターなどの実績も持つ。
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畑本時央
畑本 時央(はたもと ときお、1992年8月18日 - )は、熊本県出身の元プロサッカー選手。ポジションはディフェンダー(センターバック)。 来歴. 熊本県出身で、4歳からサッカーを始める。その後、 浦和レッズのジュニアユース、ユースでプレー。浦和レッズユースでは、高校2年生時からレギュラーとしてプレーしていた。当時は岡本拓也とCBのコンビを組むことが多かった。また、高校3年生時には、浦和レッズユースの主将を務めた。2011年、アビスパ福岡に加入。記者会見では、「地元の九州に帰ってプレーできることを嬉しく思う。」と語っている。2012年、J2第3節の湘南ベルマーレ戦で、Jリーグデビューを果たした。 2014年、ツエーゲン金沢へ期限付き移籍。 2015年よりグルージャ盛岡に完全移籍。 2018年末でグルージャ盛岡を退団。 2019年1月、現役引退とユース時代に所属していた浦和レッズのスカウト部スタッフ就任が発表された。 個人成績. 0||0||0||0||0||0||0||0 18||0||colspan=2|-||1||0||19||0 84||6||colspan=2|-||8||0||92||6 102||6||0||0||9||0||111||6
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春名成章
春名 成章(はるな せいしょう、1883年(明治16年)12月17日 - 1952年(昭和27年)9月21日)は、日本の衆議院議員(立憲政友会→昭和会)、外務参与官。ジャーナリスト。 経歴. 静岡県富士郡今泉村(現在の富士市)出身。鳥取県立鳥取第一中学校を経て、1906年(明治39年)に早稲田大学政治経済学科を卒業した。『時事新報』『東京朝日新聞』『東京日日新聞』の各社で記者を務めた。 1932年(昭和7年)、第18回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。第19回、第20回でも再選を果たした。犬養内閣では床次竹二郎鉄道大臣の秘書官を務め、岡田内閣で床次が逓信大臣に就任すると再度秘書官を務めた。 1935年(昭和10年)には昭和会の結党に参加。 1937年(昭和12年)に昭和会が解散すると、第1次近衛内閣で外務参与官に就任した。 終戦後、公職追放となった。1951年追放解除。
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ナサニエル・バンクス
ナサニエル・プレンティス・バンクス(、1816年1月30日-1894年9月1日)は、アメリカ合衆国の政治家、軍人である。マサチューセッツ州知事、アメリカ合衆国下院議長を務め、南北戦争のときは北軍の将軍だった。 初期の経歴. バンクスはマサチューセッツ州ウォルサムで、ナサニエル・プレンティス・バンクス・シニアとレベッカ・グリーンウッド・バンクス夫妻の最初の子として生まれた。公立学校の教育を受けただけで、若いうちに地元の綿糸工場でボビン・ボーイとして働き始めた。その生涯を通じてユーモアのある渾名、ボビン・ボーイ・バンクスで知られた。その後、機械工として修行し、短期間幾つかの週刊新聞の編集を行い、さらに法律を勉強して23歳で法廷弁護士として認められた。公衆の間での演説家としてその活力と能力が間もなく評判を取るようになった。よく響くはっきりした声と厳かな話し方で聴衆の前では指導的な姿に映るようになった。1847年4月11日、ロードアイランド州プロビデンスで、元工場従業員メアリー・セオドシア・パーマーと長い恋愛の後で結婚した。 政歴. バンクスは民主党員として1849年から1853年までマサチューセッツ州下院議員を務め、この間の1851年と1852年は議長を務めた。1853年の州憲法制定会議でも議長となり、同年に民主党と自由土地党の連衡候補者としてアメリカ合衆国下院議員に当選した。1854年にはノウ・ナッシング党として再選された。 連邦議会第34会期の開会時に、奴隷制がこの国に徐々に広がることに反対する幾つかの党の者達が団結してバンクスを議長に推し、1844年12月3日から1856年2月2日まで延々と続く最長でしかも最も激しい議長選びの後で、133回目の投票で議長に選出された。これは共和党としての最初の全国的な勝利と言われてきた。バンクスは反奴隷制の支持者を初めて議会の重要な地位に着け、カンザス州の紛争やチャールズ・サムナー上院議員の杖打ち事件の調査に協力した。さらに、バンクスの指名と決定には公平さの遺産も残した。1856年の大統領選挙では、ジョン・C・フレモントを共和党の中道候補として指名させる重要な役割を演じた。この過程の一部としてバンクスは、奴隷制の拡大に反対するノウ・ナッシング党が前もって調整していた大統領候補指名を辞退し、フレモント支持に動いた。その後の数年間、バンクスはマサチューセッツ州でノウ・ナッシング党と共和党の連衡に支持された。バンクスのノウ・ナッシング党の政策に対する興味は最低限のものであり、投票のための厳しい居住条件のみを支持した。 1857年にも共和党員として再選され、1857年12月には議席を辞して、1858年から1860年までマサチューセッツ州知事となった。この期間は何年もの不況によって政府の縮小を迫られていた。1860年の大統領選挙では共和党の候補指名を得ることを真剣に試みたが、マサチューセッツ州内の党員の不和、「安全な」共和党優勢州の住人であること、および過去にノウ・ナッシング党に所属していたことで、その機会は失われた。その後短期間イリノイ・セントラル鉄道のシカゴ常駐取締役に雇われ、主に鉄道の所有する広大な土地の販売促進を担当した。 南北戦争. 南北戦争の開戦が迫ってくると、エイブラハム・リンカーン大統領はバンクスを閣僚に据えようと考え、最終的には最初の志願兵少将の一人として選定し、1861年5月16日に指名した。南北戦争の開始時点でマサチューセッツ州民兵隊は組織がしっかりしており、装備も良いという認識がその指名決定において重要な役割を果たしており、バンクスは総務局長にも検討された。当初は陸軍士官学校を卒業した将軍達の多くの不満を買ったが、北軍側に新兵と金を惹きつける能力を含めその管理に政治的な恩恵をもたらした。 最初の指揮. バンクスは先ずメリーランド州アナポリスで指揮を執り、脱退の危険性があった奴隷所有州であるメリーランド州で南軍支持者を抑制し、次にポトマック川上流でロバート・パターソン准将が攻撃的な動きを取れなかったときにそこの指揮官として派遣された。 バレー方面作戦. ジョージ・マクレラン少将が1862年春に半島方面作戦に出陣すると、シェナンドー渓谷にいるストーンウォール・ジャクソンの南軍がリッチモンド守備の援軍に回ることを阻止するという重要な任務がバンクスの指揮する2個師団に与えられた。バンクス隊が難しい供給線のはずれにあたる渓谷南部に到着すると、大統領が北のはずれにあるストラスバーグまで呼び戻した。このときジャクソンは急速に隣り合うルレー渓谷を下っており、5月25日にバージニア州ウィンチェスターから撤退中のバンクス隊を追い出し、ポトマック川の北まで後退させた。バレーにおけるバンクスや他の北軍将軍達の指揮する優勢な敵に対してジャクソンの操軍と電撃的な攻撃というこの作戦は、北部を当惑させ、ジャクソンをアメリカ史の中でも最も有名な将軍の一人にさせた。 8月9日、バンクスはバージニア州カルペパー郡にあるシーダー山でジャクソン軍と再度遭遇し、攻撃は当初成功したが、南軍A・P・ヒルによる反撃でバンクス軍団を撃退し、南軍がその日の勝利を奪った。その日の終わりに北軍ジョン・ポープ少将の援軍が到着し、ジャクソン軍の残り部隊も同様に到着したので、そこで2日間のこう着状態となった。北部の新聞はバンクスの功績についてお世辞使いの版を用意し、一方南部の新聞はこの戦闘が南部の勝利と宣言した。 メキシコ湾岸軍. バンクスは次にワシントンD.C.防衛軍の指揮を任された。1862年11月にニューヨーク州やニューイングランドから引っ張って来る3万名の新兵を編成することを求められた。元マサチューセッツ州知事としてこれらの州知事とは結び付きがあり、徴兵業務は成功だった。12月にこれら新兵の大部隊を連れてニューヨークから船に乗り、ニューオーリンズに行って、メキシコ湾岸軍指揮官としてベンジャミン・バトラー少将と交代した。ミシシッピ川を遡り、当時ビックスバーグ占領を目指していたユリシーズ・グラント軍と合流する命令を受けたバンクスは、先ずバイユー・テッシュから南軍を追い、ルイジアナ州アレクサンドリアに進軍し、裕福な農業地帯から奴隷、綿花および牛を徴収した。 ポートハドソンの包囲戦. 南軍がその守備隊をミシシッピ川沿いポートハドソンに撤収した時、バンクスは1863年5月にそこを包囲した。ポートハドソンの包囲戦の間に要塞を急襲する試みが2度行われたが、ビックスバーグと同様、惨憺たる結果になった。ポートハドソンではバンクスの承認で、南北戦争の主要な戦いで初めてアフリカ系アメリカ人兵士が使われた。要塞の守備隊は食糧や弾薬が不足し、ビックスバーグが陥落したという報に接した1863年7月9日に降伏した。ミシシッピ川全体が北軍の支配下に入った。 1863年秋、バンクスは主にメキシコにいるフランス軍が南軍を助けたりテキサス州を占領したりしないようにする目的で2度船でテキサスへの遠征を行い、結果的にリオ・グランデ川河口近くの地域とテキサスの離れ島の領有を確保した。 レッド川方面作戦. レッド川方面作戦(1864年3月-5月)はバンクスの上官であるグラントが戦略的陽動と考えたものであり、1864年春の一連の協働攻勢作戦の一部として、バンクスには東に侵攻してアラバマ州モービルの占領を望んだ。バンクス自身はその作戦に同意できず、その代わりにガルベストンの占領を望んだが、参謀総長ヘンリー・ハレックから行動の命令が来た。ハレックの作戦はリンカーン内閣に承認されており、バンクスは職務上嫌々ながらそれに従った。 バンクス軍は南軍リチャード・テイラー(元大統領ザカリー・テイラーの息子)のためにマンスフィールドの戦いで大敗を喫し、20マイル (32 km)後退して翌日はプレザントヒルの戦いで踏みとどまった。バンクス軍はアレクサンドリアまでの後退を続け、そこで北軍内陸艦隊の一部と再結集した。デイビッド・ディクソン・ポーター指揮する海軍は南部の綿花を金になる戦利品として取るためにレッド川方面作戦に加わり、バンクスは金持ちの投機家に綿花を集めるために従軍を許していた。この混成部隊にアーカンソー州から陸路を辿れなかった共同軍が加わり、ウィリアム・シャーマンに属する2つの軍団は半ば独立した行動を採り、またこの軍隊が頼る川の水面は危険なくらい低かった。 バンクスはその後退を続けるためにポーターの艦隊に頼ったが、ポーターの艦隊は低水位のためにアレクサンドリアの滝以上は進めなかった。バンクスはジョセフ・ベイリーの提案した計画を承認し、水路に残された僅かな水を上げる手段として突堤を造ることにした。10日間に放火を浴びる1万名の兵士が2つの堤を造り、なんとかポーターの艦隊とバンクス軍を救出した。 この方面作戦の後、シャーマン将軍はそのアトランタに対する作戦を開始する直前だったが、シャーマンはレッド川方面作戦のことを「初めから最後まで最悪のしくじり」と呼んだ。 バンクスはレッド川方面作戦の後で指揮官から外された。 南軍は戦争の残り期間レッド川を保持し続けた。その部隊はロバート・E・リーがバージニア州アポマトックス・コートハウスで休戦を求めたその2ヵ月後、1865年6月に最終的に降伏した。 管理任務. 野戦指揮から外されたことで、リンカーン大統領はワシントンでバンクスに休暇を取らせ、そこでバンクスは大統領のルイジアナ再建計画について数ヶ月間活動した。バンクスは以前にルイジアナの中道体制擁護者文民政府の選出を取り仕切っており、彼が組織し予算を取った念入りな儀式で就任させていた。1865年早くに保守派民主党員ウィリアム・ファーラー・スミスとジェイムズ・T・ブラディが主宰した大統領機密調査委員会は、ニューオーリンズ地域における欠陥のある正規ではない貿易許可とバンクスを結びつけるために多大の努力を払った。幾らか一方的な最終委員会報告書では、具体的にバンクスを不正行為で告発せず、公開されることは無かった。しかし、バンクスは後にクレディット・モビリア・スキャンダルに結び付けられた男達やその他問題があると評判の者達に明白な補償無しに確かに特別の恩恵を認めていた。 戦後の経歴. 1865年8月、バンクスはアンドリュー・ジョンソン大統領によって任務を解かれ、1865年から1873年に再び合衆国下院議員となり、外交問題委員会の委員長を務め、時には共和党党員集会の議長も務めた。アラスカ購入法案の最後の成立に重要な役割を演じ、またマニフェスト・デスティニーを早くから強く推奨した者の一人でもあった。カナダやカリブ海諸島についてその地域のヨーロッパの影響力を減じるためにアメリカ合衆国がそれらを獲得すべきと考えた。またクレディット・モビリア・スキャンダルの調査委員会にも携わった。 1872年、バンクスはユリシーズ・グラント大統領の治世に不満を抱き、ホレス・グリーリーを支持する進歩的共和党に参加した。グリーリーのために北部中を選挙運動しているときに、対抗馬がマサチューセッツ地区で進歩的共和党と民主党の候補者であるバンクスを破るに十分な支持を集めることに成功した。バンクスはケンタッキーやその他の鉄道を開通させることに関わったことが政治的には損失に繋がったと考えた。しかし、1873年の恐慌で鉄道景気が下火になり、講演活動を続けてマサチューセッツ州上院議員を務めた。 1874年、独立候補として合衆国下院議員に再度選ばれ次の2期は再び共和党員として務めた(1875年-1879年)。1876年の選挙で異常事態となったサウスカロライナ州の事情を調査する委員会メンバーになった。その次の任期は選挙で敗北し、ラザフォード・ヘイズ大統領がバンクスを連邦保安官に任命し、これを1879年から1888年まで務めた後で、1888年に共和党員として合衆国下院議員に10期目の当選を果たした。この最終任期で精神的に荒廃し、次は候補指名されなかった。バンクスは1894年にマサチューセッツ州ウォルサムで死に、そこのグラブヒル墓地に埋葬されている。
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ある日突然恋だった
『ある日突然恋だった』(あるひとつぜんこいだった)は、TBS系列の毎週火曜日21:00 - 21:55の枠で、1982年(昭和57年)4月27日から同年6月22日まで放送されていたテレビドラマ。全9話。 内容. 本作は、金子和弘・著のハウツー本『女性相手の商売がわかる本』を原案としている。 主人公・平野勇気は東京・日本橋の毛皮商店「信濃屋嘉兵衛商店」の次男坊。東京から長野に赴任して10年経ったが、ある日、兄の彦一から勇気の元へ電話がかかり「家業を手伝うように」と言われる。更に母のムメから「お前が彦一を助けてくれるなら」と言われたことで、東京へ戻る決心をする。勇気には特定郵便局に勤める野辺かおるという恋人が居て、かおると結婚して長野に落ち着いて暮らそうと思っていた矢先のことであったが、東京へ戻るために意を決して別れを告げた。しかし、かおるも勇気を追って上京する。そして実家の店へ戻った勇気は、業界内での激しい競争の事情と家業のピンチを知り、この競争に勝ち抜くために「ミンクス」というプロジェクトチームを作り、地方に毛皮を売って行こうと作戦を立てる。そして勇気が訪問販売・出張販売のため地方を回る日々が始まる。しかし、かおるもその勇気の行く先々を追って行く……。勇気が家業に力を入れ建て直し、継いでゆくその姿を中心に描いた。
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ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて
「ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて」(ら・ら・ば・い〜やさしくだかせて)は、本田美奈子の20枚目のシングル。1995年5月10日にマーキュリーから発売された。 概要. 表題曲「ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて」では、テレビアニメ『魔法騎士レイアース』の第二期エンディングテーマ。カップリング曲「この歌をfor you」は、新曲録音している。
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トゥーセブンスエンターテイメント
株式会社トゥーセブンスエンターテイメント(Two sevens Entertainment inc.)は、福岡県福岡市に本社と東京都江東区に支社を置く芸能事務所。 概要. アーティスト・タレント・モデルが所属する。音楽系を主軸とし、映像制作やイベント事業を展開している。 2010年には野外音楽フェス「KIPフェス」を開催し、イベンター業とタレントやアーティストのキャスティング業に力を入れる。2017年にも福岡百道浜で開催されたBeatJackのキャスティング協力も行う。 2011年には新人の発掘および育成をプロダクション事業を展開し、プロデューサーのYANAGIMANや桜井鉄太郎、深町健二郎と提携している。BASEBALL☆GIRLSをビクターエンタテインメントよりメジャーデビューさせた。また、DJ KEINを中心にケツメイシの大蔵、ORANGE RANGEのRYO、Def TechのShen Brownとともにイベントを展開している。 2016年より、広瀬アリスやリリー・フランキーが出演する劇場映画「巫女っちゃけん。」を制作するにあたり、映画配給会社を都内で設立。 海外映画では、酔拳、マトリックス、キルビルなどを手がけるタイガームービー・ジャパンと提携し、日本のハリウッドスターの発掘もおこなっている。 2017年から、子供達の教育事業として、日本の未来を担う子供達に向け、世界、日本で活躍するタレントやアーティスト、スポーツ選手を繋ぐKIDS EXPOを企画し、総合制作を行い全国へと展開している。 代表者の中山稔己もTrip Jam na-ked(トリップジャム・ネーキッド)としてブロー・ウィンド・レコードからアルバムをリリースしており、また、QunQunや比花知春などのプロデュースを行い、比花知春の『Contrast』をSWORD RECORDSからリリースさせた。BASEBALL☆GIRLSやGreat Fantastic Everydayなどいくつかの所属アーティストプロデュースも行なっている。また、三国ヒーローズなどのゲーム音楽へ楽曲提供も行なっている。
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ゴールデン・シャドウ
ミュージカル・プレイ『ゴールデン・シャドウ』は宝塚歌劇団雪組の作品。24景。併演は『伊豆の頼朝』。1965年9月2日 - 9月30日に宝塚大劇場で公演があった。 ストーリー. 人気歌手のアントニオはある日、事故を起こし、重症を追う。マネージャーは咄嗟に怪我をしたのは弟のマリオだと発表。マリオはアントニオになってショーに出演、大成功を収め、女優のキャサリンとの婚約まで発表される。内重のぼるはアントニオとマリオの二役を演じる。
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猫騙し
猫騙し(ねこだまし)とは相撲の戦法の一種である。 解説. 立合いと同時に相手力士の目の前に両手を突き出して掌を合わせて叩くもので、相手の目をつぶらせることを目的とする奇襲戦法の一つ。相手に隙を作らせ、自ら有利な体勢を作るために使われる。普通の立合いではかなわないような、はるかに強い相手に対する一発勝負に使われるが、失敗すると一気に持って行かれてしまう可能性がある。 なお、これ自体はあくまで相撲の戦法の一つで、決まり手とはならない。万一、相手力士がこれに驚いたあまり倒れてしまっても、“決まり手”は「つきひざ」や「腰砕け」になる。 主な幕内の取組では、1899年(明治32年)5月場所5日目、前頭四枚目の大見嵜が関脇梅ノ谷(後の横綱二代目梅ヶ谷)に対し、1943年(昭和18年)1月場所9日目、前頭四枚目九州山が大関名寄岩に対し、1962年(昭和37年)11月場所5日目、前頭4枚目出羽錦が横綱大鵬に対して仕掛けた。平成以降では舞の海(1991年〈平成3年〉9月場所6日目の前頭5枚目琴ヶ梅戦、同年11月場所千秋楽の前頭二枚目水戸泉戦など)や皇司(2001年〈平成13年〉7月場所9日目、横綱武蔵丸戦)などが比較的多く用いていた。 上位力士では三重ノ海と貴景勝が大関時代にそれぞれ横綱北の湖・照ノ富士にやっているが、敗れている。2015年(平成27年)11月場所10日目に横綱白鵬が関脇栃煌山に対して猫騙しを2度も行って勝利し、藤島審判長からは「まさかという感じ、普通は小兵が奇襲でやるもの」と指摘され、北の湖理事長からも苦言を呈されている。
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山本佳希
山本 佳希(やまもと よしき、男性、本名:今井 芳樹、いまい よしき、1965年(昭和40年)5月8日 - )は、兵庫県出身の俳優である。 概要. 兵庫県立星陵高等学校卒業後、1984年慶應義塾大学文学部入学。1986年在学中に仁村ヒトシらとパノラマ歓喜団を旗揚げ。 1989年作家の中野俊成らとハラホロシャングリラ旗揚げ、以降の全ての作品に出演。 ハラホロシャングリラ劇団員のコントユニット「バラライカ(滝裕次郎・松澤仁晶)」で人力舎所属のタレントとなる。 平成4年度NHK新人演芸大賞優秀賞受賞。「高田文夫杯争奪OWARAIゴールドラッシュ」優勝。 その後、バラライカは活動休止し、現在はMeiMei所属。 2005年朗読ユニット「朗読組さんだる」で朗読活動も始める。➡2007年活動休止。 2017年ハラホロシャングリラ活動休止以降は、自身の演劇ユニット、ボビボビ。(活動期間2011年~2014年)を立ち上げたり、自身の経営するバーBASEを拠点とするBASEプロデュースでプロデューサーとしても活躍している。 ボビボビ。作品. • 汗はまだかける(2011年2月/中目黒ウッディシアター) • 2980!!(2012年2月/小劇場楽園) • さよならさくら荘(2013年6月/劇小劇場 • ハイパーミラクルマイファーザー!(2014年6月/劇小劇場) BASEプロデュース作品. • 往復書簡〜二十年後の宿題 -湊かなえ-(2011年11月/BASE) • 往復書簡〜十五年後の補習 -湊かなえ-(2012年3月/BASE) • 向日葵と夕凪(2012年8月/BASE) •往復書簡 まとめ公演 -湊かなえ-(2012年10月/BASE/神戸イカロスの森) • 過去から来た女(2012年12月/BASE) • お盆に家族でバーへ行く(2013年8月/BASE) • まるでデジャヴな眠り姫(2013年12月/BASE) • 男と女はそうじゃないでしょ(2014年3月/BASE) • お盆に家族でバーへ行く/お盆に家族で関東煮(再演)(2014年8月/BASE/神戸酒処よしや) • クリスマスは予定がない(2014年12月/BASE) • ヒガンノウタ(2015年3月/BASE/神戸酒処よしや/熱海海福寺) • 僕らの人生はどこから始まった?(2015年11月/BASE) • 聖夜に無職なサンタたち(2015年12月/BASE) • ビューティフルサンデイ(2016年2月/ギャラリールデコ) • ゴールデンウィーク持ち寄り朗読会(2016年4月/BASE) • 夏休み持ち寄り朗読会(2016年8月/BASE) • 向日葵と夕凪(2016年9月/BASE) • 忘れたい忘れられない(2017年1月/BASE/神戸酒処よしや/3月熱海海福寺) • お國と五平(2017年6月/BASE) • コントラクト(2017年7月/BASE)アンコール公演(2017年9月/BASE) • なまけものは夕暮れ時から忙しい(2017年10月/BASE) • まるでデジャヴな眠り姫(2018年1月/BASE) • ビューティフルサンデイ(2018年3月/ギャラリールデコ/神戸イカロスの森) • めぐるひかり(2018年6月/BASE) •いざさらば/メゾン(2018年12月/BASE) • コントラクト(再演)(2019年5月/BASE/神戸酒処よしや) • 後妻のお作法(2019年7月/BASE)•まじめな隣人(2019年10月/BASE) •冷徹(2020年2月/BASE) •BAKELACCAO!〜バケラッチョ2020(2020年9月/配信公演) •再生(2020年10月/配信公演) •クリスマスは予定がない(2020年12月/配信公演) 賞詞. コントユニット・『バラライカ』として受賞 外部リンク. MeiMeiホームページ - 所属事務所MeiMeiホームページ
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川勝隆雄
川勝 隆雄(かわかつ たかかず)は、江戸時代中期の旗本。隆尚流川勝家の3代当主。 生涯. 宝永元年(1704年)、川勝氏の男子として江戸に生まれ、後に川勝隆明の婿養子となった。享保元年(1716年)9月朔日、13歳で初めて将軍徳川吉宗に謁見した。享保20年(1735年)5月16日、義父隆明の隠居により、家督(上野・相模内2,800石)を継いだ。 元文2年(1737年)12月4日、江戸城西の丸の小姓組に列した。元文5年(1740年)正月11日、使番に転じ、寛保元年(1741年)12月19日に布衣を着る事を許された。延享4年(1747年)上野国館林城を松平右近将監武元に与えるため、同年正月15日、現地に赴き城引渡しの役を務めた。宝暦2年(1752年)10月18日、職を辞し寄合に列し、宝暦8年(1758年)9月18日に隠居した。家督は養子の隆忠に譲った。 明和8年(1771年)正月22日、68歳で没した。
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松原弘典
松原 弘典(まつばら ひろのり、1970年 - )は、日本の建築家。 経歴. 。 。1995年 東京芸術大学美術学部建築科卒業。 1996年 研究生。1997年 東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。 1997年から2001年まで、伊東豊雄建築設計事務所勤務。2001年から2002年まで、瀋陽市規劃設計研究院、北京非常建築研究所勤務。2002年から2005年まで、文化庁派遣藝術家在外研修員として北京大学建築学研究センター外籍講師。 2005年 北京松原弘典建築設計諮詢有限公司設立。 2005年から、慶應義塾大学総合政策学部准教授。オルタナティブ建築設計などをテーマに教えていた。 2006年から、東北大学非常勤講師。2011年 東京大学より博士(環境学)の学位授与。 2013年 東京松原弘典建築設計事務所に移転改組。 2014年1月14日 愛知県警が、強制わいせつと児童買春・ポルノ禁止法違反の疑いで=愛知県青少年保護育成条例違反罪などで起訴=を再逮捕した。再逮捕容疑では、2012年12月と13年1月に、沖縄県豊見城市のホテルなどで、当時小学6年だった同県南城市の少女(13)にわいせつな行為をし、その行為をデジタルカメラで撮影したとされる。県警によると、松原容疑者は「日時は曖昧ですが、全て間違いありません」と容疑を認めている。県警は昨年11月、名古屋市西区の女子中学生にみだらな行為をしたとして、松原容疑者を愛知県青少年保護育成条例違反容疑で逮捕。昨年12月には、女子中学生のみだらな動画を撮影したなどとして、児童買春・ポルノ禁止法違反容疑などで再逮捕した。 逮捕容疑は2012年12月15日と13年1月20日、沖縄県豊見城市のホテルで女子の体を触るなどし、デジタルカメラで動画撮影した疑い。 西署によると、2人は12年10月ごろ、メール相手を募集するインターネット上の掲示板で知り合った。 名古屋地検は26日、愛知県青少年保護育成条例違反や児童買春・ポルノ禁止法違反(製造)などの罪で、松原弘典容疑者を起訴した。 起訴状によると、昨年11月に名古屋市のホテルで13歳の少女にみだらな行為をして動画を撮影したほか、今年4月には宇都宮市のホテルで14歳の少女に同様の行為をしたとしている。愛知県警によると、松原被告の自宅のパソコンに、女性へのわいせつ行為を撮影した動画や写真約40点が保存されているのが確認された。
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人喰谷
人喰谷(ひとくいだに)は富山県南砺市にある谷。高落場山が源流で、小矢部川水系二ッ屋川の支流である。谷の周囲は落葉樹林が多く自生し、また美しい峡谷があることから紅葉スポットとして有名。月長石(ムーンストーン)という青白い結晶を含む鑑賞石が採れる。 概要. 五箇山トンネル付近にある峡谷で、人喰谷の上流側は中部北陸自然歩道になっている。 人喰谷では、月長石(ムーンストーン)という青白い結晶が含まれる石が採れる。この石は日本では他に長野県の木崎湖等でしか採れない。 歴史. かつては五箇山の人は城端(及び砺波平野)に向かう際に人喰谷を通っていたが、冬にはその途中で雪崩に遭い流される被害が多かった。この難所をさけるため、1883(明治16)年道谷新道と呼ばれる新道の工事が始まった。その新道は梨谷から梨谷川沿いに細尾峠に至り、その後は尾根沿いに城端側の上田へと一気に下るルートで、雪崩の危険を大きく減じることができるものであった。この道は1887(明治20)年に完成した。 地名の由来. 冬に生活物資が不足すると、ボッカという人達が雪の中、峠を越えて平野まで行って物資を運び出していたが、この谷は雪崩が多く、また雪崩に流されると雪が解けても、人も荷物も出てこなくなることから、人喰谷と呼ばれるようになったという。 アクセス. 加越能バスの世界遺産バスに乗り「五箇山トンネル口」バス停で下車。
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岸田一夫
岸田 一夫(きしだ かずお、1955年(昭和30年)12月3日 - )は、日本の政治家。茨城県鉾田市長(2期)。元鉾田市議会議員(1期)。 来歴. 茨城県鹿島郡大洋村(現在の鉾田市)出身。大洋村立大洋中学校、茨城県立鉾田第一高等学校卒業。1978年(昭和53年)3月、亜細亜大学法学部卒業。 1979年(昭和54年)9月、鹿行広域市町村圏事務組合の消防本部職員に採用される。 2015年(平成27年)3月、鉾田消防署長を退職。同年6月、鉾田市議会議員に順位2位で初当選。 2017年(平成29年)5月30日、任期満了に伴う鉾田市長選挙に立候補する意向を表明。第48回衆議院議員総選挙の影響で市長選は1週間前倒しされ、衆院選と同じ10月22日に実施された。鉾田市が進める市民交流会館の建設計画に反対の立場であり、計画の白紙撤回を訴えて立候補。いずれも無所属新人の3候補を破り、初当選を果たした。11月13日、市長就任。
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スピードローラー猛レース
スピードローラー猛レース(原題 - Bailey's Comets)とは、アメリカ合衆国のテレビアニメ。 概要. アメリカでは1973年9月8日から1975年8月31日にかけてCBSで放送された(全32話)。 このアニメはディパティエ・フレレング・エンターテイメントによって制作され、ジョー・ルビーとケン・スピアーズとデイビッド・H・ディパティエとフリッツ・フレレングが担当した。 ローラースケートのチーム『コメット』が、敵が仕込む妨害行為を避けながらレースに参加し、優勝を目指して世界各地を滑りまくるというお話となっている。 この作品の原題の読みは、『ベイリーズ・コメッツ』である。 日本では1977年1月30日から5月15日までNETテレビ⇒テレビ朝日で放送された(全16話)。放送時間は毎週日曜18:25 - 18:55(JST)。東京12チャンネル(現:テレビ東京)では、1978年4月19日から5月6日まで『マンガのくに』で再放送された。主題歌はオリジナル版のテンポを落とし、日本語の歌詞を付け加えた。
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カンナ (植物)
カンナ(美人蕉、)は、カンナ科カンナ属("Canna")の植物の一群。多様な種類、園芸品種がある。 春に球根を植えると、夏から秋にかけて独特の形をした花を咲かせる。葉は、緑色のものと赤銅色のものがある。球根で殖やすが、暖かい地方では掘りあげる必要が無く、宿根草として扱うことができる。
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彦八まつり
彦八まつり(ひこはちまつり)とは、上方落語協会が年に一度、9月の第1土曜日と日曜日に、大阪府大阪市天王寺区の生國魂神社で開催する、ファン感謝イベント。 概要. 「上方落語の始祖」米沢彦八の功績を称え、上方落語の伝統を身近な人々に広くアピールする目的から、6代目笑福亭松鶴の命日である9月5日にちなみ、1990年の生国魂神社での「彦八の碑」建立を機に、1991年より開催されている。 その後、開催日は9月の第1土曜と日曜に変更となり、現在に至る。 落語家以外のゲストが来場することもある。 江戸落語の「圓朝まつり」は、落語家が身内で行っていた圓朝忌を、彦八まつりを参考にして一般開放したものである。 グッズ.   彦八まつりにあわせて、新規入門者を追加するなど、一覧が更新される。 (過去に販売のもの)
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熊谷武雄
熊谷 武雄 (くまがい たけお、1883年11月2日- 1936年8月21日)は、日本の歌人(明治~昭和時代前期)。歌人の熊谷龍子は孫。 来歴. 宮城県本吉郡新月村(現・気仙沼市)生まれ。少年時、及川義亮に歌を学ぶ。郷里・気仙沼で農林業に従事しながら前田夕暮に師事。 1911年(明治44年)「詩歌」創刊に参加し同時に短歌結社「白日社」同人となる。1912年(大正元年) 仙台の文芸誌「シャルル」同人となり、郷土の文学の高揚に尽力した。 1921年 新月村の村会議員に就任。 1924年(大正13年)「日光」に前田夕暮らとともに参加。「詩歌」同人らが自由律口語短歌に転向するなかで定型律文語短歌をまもり、山村生活をうたった。東北の風土と生活に着材した清新かつ重厚な歌風。田園歌人として全国にその名を馳せた。 1936年(昭和11年)8月21日死去、享年54。
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トムとジェリー魔法の指輪
『トムとジェリー 魔法の指輪』 (Tom and Jerry: The Magic Ring)は、2001年11月12日に公開された、トムとジェリーシリーズのOVA。ハンナ・バーベラ・プロダクションのオリジナル短編をリキャプチャしたOVAを作るのはこの作品が初めてである。 この作品が公開される前の3月22日にウィリアム・ハンナが死去しているため、これが彼の遺作となった。 ワーナー・ブラザースがプロデュースしたトムとジェリーの作品はこれが初めてである。 ストーリー. 不気味な住宅で追いかけっこをしていたトムとジェリー。その拍子にトムが偶然にも研究中の魔法使いの部屋に入ってしまった。そこで魔法使いはトムに魔法の指輪を守るよう命じてコルカタへ向かった。 ところが、ジェリーがその指輪をかぶって抜けなくなってしまう。魔法使いに追い出されると思ったトムは街の人と動物達を巻き込んで指輪とジェリーを追いかける。 日本語版吹き替え. キャスト. 声の出演
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鶴崎町
鶴崎町(つるさきまち)は大分県の東部、大分郡に属していた町。現在の大分市東部、日豊本線鶴崎駅周辺にあたる。
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ウラカンFC
ウラカンFC(Huracán Football Club)は、1954年に創設されたウルグアイの首都モンテビデオに本拠地を置くサッカークラブである。ウラカン・デル・(Huracán del Paso de la Arena)とも呼ばれる。現在、セグンダ・ディビシオンに所属。
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金鍾基
金 鍾基(キム・ジョンギ、、1941年1月18日 - 2017年11月28日)は、大韓民国の政治家。第10・11・12・13代韓国国会議員。 経歴. 啓聖高等学校卒。慶北大学校法政大学政治学科、成均館大学校貿易大学院、ソウル大学校経営大学最高経営者課程修了。 東亜政経社副社長、4・19、6・3汎青年闘委運営委員、3選改憲反対汎国民闘委青年分科委員を経て政界入りし、新民党政策委員・中央常任委員・慶北第8地区党委員長・第10代総選挙対策委員などを務めた後、1978年の第10代総選挙で新民党の公認で立候補して当選し国会議員となった。国会議員計4期を務めたほか、国会憲法改正特別委員、国会予決・財務・内務委員、民正党政策・中央委副議長、アジア・太平洋国会議員連合韓国代表、国会農林水産委員長、民自党党務委員、自由民主連合副総裁、大韓民国憲政会理事、大韓民国憲政会副会長を歴任した。 2017年11月28日、持病により77歳で死去した。
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ノロ (ミジンコ)
ノロ属(ノロぞく、"Leptodora")は、ミジンコ類の1属である。1 cmを越える大型種で身体は細長く、捕食性を持つ。単一の種と思われていたが、複数種であるとの説が出ている。これが認められれば、日本産のものは "Leptodora richardi"である。 概要. ノロは細長い淡水性プランクトンで、前端に突き出した複眼があり、1対の強大な遊泳用の触角と歩脚状の胸肢を持ち、長い腹部の後端には1対の尾脚をもつ。日本では規模の大きい淡水湖に見られるが、北方ではより浅い湖沼や湿原にも見られ、世界的には北半球に広く分布する。幼生はメタノープリウスを経由する。 本種はミジンコ類では飛び抜けて大きいだけでなく、形態的にもかけ離れており、この1属で単独の1科を成し、さらに1下目を独自に立てる。ただし複数種が含まれるとの説もあり、それについても触れる。 和名はその動きが悠々としていることによる。ノロミジンコの名が使われたこともある。学名の "Leptodora" は薄い皮の意で、その身体がガラスのようであることによる。 特徴. 外見は一般のミジンコと大きく異なり、小エビのように見え、あるいは巨大な複眼から『一つ目小僧』という子供もいるとのこと。 体長は雌で15mm以上に達し、ミジンコ類で最大の種である。身体は細長い円筒形で無色透明。 頭部は長く、先端部は膨らんで、その内部を大型の複眼が満たし、単眼はない。雌の第1触角は非常に小さく、複眼の基部辺りの頭部腹綿にあって、動かすことができる。雄の第1触角は細いが非常に長く発達し、先は針状に尖る。第2触角は遊泳枝で、非常に良く発達する。基節は太くて長く、その先端から伸びる内肢と外肢はそれぞれ4節からなり、遊泳用剛毛の数はとても多い。 頭部に続く身体は細長くて4節からなるが、最初の1節は胸部が融合したもので、ここに6対の胸脚がある。胸脚はいずれも歩脚形で外肢を欠き、第1脚だけが特に強大になっている。甲殻はこの節の背面にあるが、嚢状の背殻となる。 それ以降の3節は細長い腹部である。付属肢はないが、最後の節には細長い尾爪が1対ある。肛門はこの尾爪の間に開く 生殖と発生. 一般的なミジンコと同様、単為生殖によって卵を生産することができる。卵は1度に5-20個を産み、孵化した幼生は体長2mm、ミジンコ類では例外的にメタノープリウスの段階である。25℃では約10日で成熟に達し、この時の体長は5.5mm程度。 分布. 日本の場合、本州では赤谷湖、霞ヶ浦、相模湖、富士五湖、諏訪湖、余呉湖、水月湖、天ヶ瀬ダムなど規模の大きい湖に多いが、北海道ではサロベツ原野、雨竜沼湿原、トムラウシ山湖沼群など、浅い湿原にも出現する。 世界的には北米、東部・中部アジア、満州、ヨーロッパから知られる。これらは長く単独種として扱われてきた。それについては分類の項を参照。 別種を含めての分布域は西ではピレネー山脈の麓に達してはおらず、イベリア半島や北アフリカには産しない。イタリア半島では北緯45°以北から知られる。シベリアや中央アジアでは分布はまばらである。中国では内モンゴル、新疆から、南は広東にまで見られる。これはほとんど北回帰線に近く、本属の分布としては最も南に位置する。 北アメリカでも分布は広く、北部アラスカには分布しないが南ではオクラホマ、テキサス南部、ミズーリ、ルイジアナなどの南部の州からは知られているが、メキシコには達しない。それらの分布は往々にして山脈に遮られ、それを越えられないようである。本属は中新世に東ヨーロッパからアジア、北アメリカへと分布を広げたものと推定される。 習性. 一般のミジンコ類が濾過摂食を行うとされるのに対して、この動物は捕食性であることが知られている。獲物になるのはより小型のプランクトン性の甲殻類、例えばゾウミジンコ属、ネコゼミジンコ属、ミジンコ属、オナガミジンコ属、オオメミジンコ属、ケンミジンコ属などであるが、ワムシを捕らえるとする報告や、共食いの報告もある。この動物の多い湖では動物プランクトンの量やその増減についての影響が小さくない。 この動物の遊泳速度は速く、秒速13.4mm(±4mm)で泳ぎ回る。この間、胸脚を大きく広げ、「捕獲用の籠」を形作る。獲物が動物の身体のどこかに触れると、動物は腹部を素早く前に引き寄せ、捕獲用の籠に押し込むようにして、この時に尾節の最後端でこれを塞ぐ。この反応は無条件反射的な行動であると思われる。直前やわずかに下方で接触した獲物を捕らえることはできず、獲物は本種に接触したときに逃避行動を取る。この際、カイアシ類は素早い1回の跳躍で逃れることができるが、ミジンコ類はより逃避速度が遅く、特に幼生では逃れることができるほどの速度を出せない。 分類. ミジンコ類の中で、本属のものは多くの特徴が独特であり、単独でノロ科 Leptodoridae Lilljebroug を立て、さらにこの科単独で端脚下目 Haplopoda を構成する。普通のミジンコ類では頭部以降の身体全てが甲殻に収まり、その背中側の一部が育児嚢になるのに対して、甲殻が育児嚢のみとなり、身体が裸出すること、また胸部の付属肢が普通のミジンコ類では鰓状であるのに対し、歩脚状である点などが目立つ。これらの点は、オオメミジンコ科などを含む鈎脚下目 Onychopoda とも共通する。またこの両者共に捕食性でもある。ただし鈎脚下目のものでは胸部の付属肢に内肢と外肢がある二叉形であるのに対して、本科ではすべて外肢を欠く単枝形となっている。また鈎脚下目のものでは胸脚が4対あるが、本科では6対であることなど、重要な差異が多い。 本属のものは "L. kindtii" ただ1種のみであると信じられてきた。かつて別種として記載されたものもあるが、それらは広く認められるには至っていない。しかし、2009年にアムール川流域から新たな種 "L. richardi" が記載された。この著者によると、この種は "L. kindtii" より身体が小さく、また身体の各部の比率が異なり、頭部がより長く、腹部がより短い。またこの種は極東ロシアから中国にわたって分布し、それに日本のものもこの種である。さらに Xu et al.(2011)は遺伝子情報からヨーロッパに "L. kindtii" が、東アジア(日本含む)に "L. richardi" が、そして北アメリカのものは未記載の別種であると判断した。また、ほぼシベリア全体にわたる地域では"L. kindtii" と "L. richardi" との雑種が見られる。この地域のものは"L. kindtii" のミトコンドリアDNAを持ちながら核DNAは両者の混合したものとなっているという。 水野・高橋(1991)は「北方系のものと思われるが、かなり南からも知られる」旨を述べているのは、本属を全て同種と見なしての言である。本属の分布は明らかに北方に偏っているが、日本に産するものは "L. richardi" と思われ、この種の分布は本属中もっとも南に偏っている。
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TVライブオンライン
TVライブオンラインは、2011年9月よりILZE株式会社が運営するインターネットTV局。
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大橋正春
大橋 正春(おおはし まさはる、1947年3月31日 - )は、日本の元最高裁判所判事(2012年2月13日 - 2017年3月30日)、弁護士。東京都出身。
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関田将人
関田 将人(せきた まさと、1985年5月27日 -)は、吉本興業所属のお笑い芸人。新潟県三条市(旧南蒲原郡下田村)出身。よしもと新潟県住みます芸人。 概要. 新潟県立加茂高等学校卒業。以前は『猫デココ』というコンビで活動していたが、2014年11月末で解散、ピン芸人となる。吉本興業の「よしもと新潟県住みます芸人」として新潟市に在住し、新潟県を拠点としたテレビレポーター、ラジオパーソナリティとして活躍している。 家族について. 妻がおり、鬼嫁としてメディアに取り上げられたことがある。
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ブルザ級駆逐艦
ブルザ級駆逐艦(ポーランド語:)は、ポーランド海軍がフランスより購入した駆逐艦の艦級()で、2隻が就役した。 建造までの経緯. 第一次世界大戦後、ポーランド軍は西方のかつての大国ドイツや東方のソ連へ対抗するべく列強からの援助を得て陸軍は騎兵隊や装甲列車、空軍は国産の戦闘機や爆撃機など数は少ないものの優れた戦力を揃えつつあった。しかし、海上戦力では未だ発展途上の段階で、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項によってかつてのドイツ帝国海軍(Kaiserliche Marine)とは比較にならないほど弱体化させられたワイマール・ドイツ海軍()とは言え、準弩級戦艦2隻に巡洋艦6隻と旧式駆逐艦10数隻の陣容は依然としてポーランド海軍にとっては脅威であった。 第一次大戦後にフランスと交わした同盟規約には、フランス海軍は巡洋艦戦隊をバルト海に派遣する約束があり、その後には装甲巡洋艦二隻(もしくは準弩級戦艦ダントン級)・軽巡洋艦4隻・駆逐艦4隻・潜水艦3隻へと強化された。 しかし、自国の防衛を同盟国任せには出来ない事を経験則的に知っていたポーランド海軍は1924年に海軍整備計画を発表した。その計画は14年間に巡洋艦2隻・駆逐艦6隻・水雷艇と潜水艦を12隻ずつ整備するという意欲的なものであった。そして、その計画の第一陣として1926年4月にフランスに発注されたのが本級ことブルザ級である。 同盟国ポーランドから本型の建造を依頼されたフランスは基本設計を駆逐艦ブーラスク級に採った。この頃のフランス海軍では第一次大戦からの戦訓で外洋航行も可能な「艦隊水雷艇(フランス海軍の種別では駆逐艦も水雷艇と同等)」の整備に取り組んでいた。 タイプシップとなったブーラスク級は外洋航行能力に有効な鋭く前方に伸びたクリッパー・バウと高い艦首乾舷を持つ船体に13cm単装砲を4門という充分な火力を持ち、33.4ノットの連続航行が可能な信頼性ある機関をシフト配置(機関を前後に二分割して間隔をあけて配置する生存性の高い配置)に積んだ高性能艦であった。 艦形について. 船体形状はこの当時のフランス駆逐艦に用いられた船首楼型船体でクリッパー・バウ型の艦首から「13cm(40口径)速射砲」を防盾の付いた単装砲架を背負い式で2基、風雪厳しいバルト海での運用に耐える重厚な箱型の艦橋後部には三脚型の前部マストが立ち、船体中央部に後方に向けやや傾斜した3本煙突が1番煙突と2番煙突の間がシフト配置のためにやや離されて立つ。 煙突の左右甲板は艦載艇置き場となっており、3番煙突左右に4cm対空機関砲が単装砲架で1基ずつ。その後部から55cm三連装魚雷発射管が直列に2基配置された。 その背後に単脚式の後部マストが立ち、後部甲板上に後ろ向きに13cm主砲が背負い式で2基の順である。艦尾甲板上は機雷置き場となり、艦尾へと伸びた二本のレールにより投下される。 第二次世界大戦後の1952年4月~1955年3月にかけて駆逐艦へと復帰工事が行われ、武装は10cm(56口径)連装砲2基、3.7cm(70口径)連装機関砲4基、新型レーダーとソナーを装備して再就役した。排水量は2,240トンで速力は30ノットとなった。 武装. 主砲、その他備砲、雷装. 本艦の主砲はフランスの兵器メーカーのシュナイダー社が作成したM1924 13cm(40口径)速射砲である。この砲は毎分5〜6発を発射でき、重量32〜34.85kgの砲弾を仰角35度で最大射程は18,700 mまで届かせることができ、射程10,000mから80mmの装甲を貫通する能力を持っていた。 これは装甲をもたないドイツの駆逐艦や舷側装甲を持たない防護巡洋艦、更には軽巡洋艦エムデンの50mm装甲でさえも破れる能力を持っていた。これを単装砲架で前甲板に2基、後甲板に2基配置した。 その他は、対空火力としてヴィッカーズ40mmポンポン砲を単装砲架で2基ずつ搭載した。就役後の1935年にフランスのオチキス社のオチキス 13.2mm(76口径)機関銃を連装砲架で2基追加した。他に対艦攻撃用に水雷兵装として55cm3連装魚雷発射管を2基装備した。 就役後の改装. 第二次世界大戦中の1940年にブルザは2番55cm三連装魚雷発射管1基を撤去して、跡地にアームストロング 7.62cm(45口径)高角砲を単装砲架で1基と、甲板上に12.7mm(62口径)連装機銃4基を追加した。 1942年更に主砲の13cm速射砲のうち1番・3番の計2基と4cmポンポン砲2基と12.7mm機銃全てを撤去、新たに対空火器として4cm四連装ポンポン砲を3番主砲跡地に1基、エリコン 2cm(76口径)機銃を単装砲架で4基に更新。対潜兵装として17.8cm24連装対潜爆雷投射機1基を搭載した。他に271型レーダーと292型レーダーを搭載した結果、満載排水量は2,430トンに増加した。1943年にエリコン 2cm単装機銃2丁が追加装備された。 機関. ボイラーはド・テンム式重油専焼缶3基にパーソンズ式ギヤード・タービン2基2軸推進で最大出力33,000hp、速力33ノットを発揮した。速力15ノットで航続距離は3,000海里と計算された。