text
stringlengths
0
6.63k
時々、訪問者があるので困った。ある朝、若い人が来て、新研究をお話し致したいと、さも大発見をしたようにいうので、ファラデーは面会して、話をきいた。やがて書棚にあるリーの叢書の一冊をとって、
「君の発見はこの本に出てはいないか。調べたのかね。」
「これは四十年も前に判っている事ではないか。このようなことで、私の時間をつぶさないようにしてくれ給え。」
しかし、誰か新しい発見でもすると、ファラデーは人を招いて、これを見せたものだ。発見の喜びを他人に分つというつもりである。キルヒホッフがスペクトル分析法を発見したときにも、ファラデーはいろいろな人に実験して見せた。ブルデット・クート男爵夫人に出した手紙には、
時々は手紙で質問し、返事を乞うた人もある。この中で面白いのは、ある囚人のよこした手紙である。
ファラデーの返事は大抵簡単明亮であった。
英国で科学者のもっとも名誉とする位置はローヤル・ソサイテーの会長である。ファラデーは勧められたが、辞退してならなかった。
一八五七年、ロッテスレー男爵が会長をやめるとき、委員会ではファラデーを会長に推選することになり、ロッテスレー男、グローブ、ガシオットが委員の代表者となって、ファラデーに会長就任を勧めにやって来た。皆が最善をつくして勧めたし、また多数の科学者も均しくこれを希望しておった。
ファラデーは元来、物事を即決する気風の人で、自分もこれに気づいているので、重要の事はいつも考慮する時間を置いて、しかる後に決定するというのを恒例にした。この時も恒例に従いて、返事は明日ということで、委員の代表者をかえした。
翌朝、チンダルがファラデーの所に入って来ながら、「どうも心配です。」という。ファラデーは「何にが」という。「いや、昨日来た委員連の希望を御諾きにならないのではあるまいか。それが心配で。」と返事した。ファラデーは「そんな責任の重い位置につくことを勧めてくれるな。」という。チンダルは「いや、私はもちろんお勧めもするし、またこれを御受けになるのが義務と思います。」というた。
ファラデーは物事をやす受け合いをすることの出来ない性質で、やり出せば充分にやらねば気がすまないし、さもなければ初めからやらないという流儀の人である。それで当時のローヤル・ソサイテーの組織等について多少満足しておらない点があった。それゆえ、会長になれば必ず一と悶着起すにきまっているので、「おいそれ」と会長にはならなかったのだ。もちろん、改革に着手するとなれば、ファラデー側の賛成者もあることは確なのである。そんな事で、チンダルは大いに勧めては見た。そのうちにファラデー夫人もはいって来た。これは夫の意見に賛成した。結局ファラデーは辞退してサー・ベンジャミン・ブロージーが会長になった。
ファラデーの研究は非常に多い。題目だけで百五十八で、種々の雑誌や記事に発表してある。短い物も多いが、しかし、そういうものの中にも重要なのがある。また金曜講演の要点を書き取ったような物もその中にある。しかし非常に注意して行うた実験もある。
ことに電気に関する実験的研究の約三十篇の論文は、その発表も二十六年間にわたり、後で三巻の本にまとめた。人間の事業の最高記念物、新発見の智識の庫として、非常に貴ばれたもので、これを精読して、自分の発見の端緒を得た人が、どの位あるかわからない。マックスウェルはこれから光の電磁気説を想いついて、理論物理学の大家となり、またエヂソンも面白がって読み耽けり、大発明家となった。
この本は普通の本とは非常に趣きが異っていて、ファラデーが研究するに当って、いろいろに考えをめぐらした順序から、うまく行かなくて失敗におわった実験の事までも、事細かにすっかりと書いてある。これを読めばいかにして研究すべきかということの強い指針を読者に与えるし、そのうまく行かなかった実験を繰りかえして、発見をした人も少くない。この両方面から見て、非常に貴い本である。
電磁気以外の研究は「化学および物理学の実験研究」という本に、集めてある。また「化学の手細工」という本を出版したが、これは時勢遅れになったというので、後には絶版にしてしまった。それから、クリスマス講演の中で、「ロウソクの化学史」と、「天然の種々の力とその相互の関係」とが出版されている。いずれも六回の講演で、クルークスの手により出版された。
これらの名誉をファラデーは非常に重んじたもので、特別に箱をつくりて、その内に入れて索引までも附けて置いた。
しかしファラデー位、講演の上手にやれる人はあるまいが、ファラデーよりもっと効目があるように説教の出来る者は無数にあるという評で、講演の時の熱心な活きいきとした態度は全々無く、ただ信心深い真面目という一点張りで、説くことも新旧約聖書のあちらこちらから引きぬいたもので、よく聖書をあんなに覚えていたものだと、感心した人もある。
ファラデーは神がこの世界を支配することに関して、系統的に考えたことは無いらしい。ニュートンやカントはそれを考えたのであるが。ファラデーのやり方は、科学と宗教との間に判然と境界を立てて別物にしてしまい、科学において用うる批評や論難は、宗教に向って一切用いないという流儀であったらしい。ファラデーの信じた宗教では、聖書のみが神の教というので、それに何にも附加せず、またそれより何にも減じないというのであった。ファラデーは新旧約聖書の出版の時代とか、訳者とかについて、一つも誤りなしと信じ、他の古い記録と比較しようとも考えなかった。
ファラデーは非常に慈け深い人で、よく施しをした。どういう風に、またどの位したのか、さすがに筆まめな彼れもそればかりは書いて置かなかった。多分貧しい老人とか、病人とかに恵んだものらしく、その金額も年に数百ポンド(数千円)にのぼったことと思われる。なぜかというと、ファラデーは年に一千ポンド近くも収入があったが、家庭で費したのはこの半分くらいとしか思われぬし、別に貯金もしなかったからだ。ファラデーの頃には、グリニッチの天文台長の収入が年に一千ポンド位。また近頃では、欧洲戦争前の大学教授の収入が、やはりその位であった。
一八五三年には、ファラデーは妙な事に係り合って、狐狗狸の研究をし、七月二日の雑誌アセニウムにその結果を公にした。
ファラデーのこの器械は今日も残っている。この顛末がタイムスの紙上にも出たが、大分反対論があり、女詩人のブラウニング等も反対者の一人であった。その頃ホームという有名な男の巫子があったが、ファラデーは面会を断わった。理由は、時間つぶしだというのであった。
一八五八年にはアルバート親王の提議で、ヴィクトリア女王はロンドン郊外ハンプトンコートの離宮の近くで緑の野原の見える小さな一邸をファラデーに賜わった。ファラデーは初めには御受けを躊躇した。これは家の修理等に金がかかりはせぬかと気づいたためであった。これを聴かれて、女王は家の内外を全部修理された。そこでファラデーは移転した。しかし、王立協会の室はまだそのまま占領しておって、時々やって来た。
クリスマスの講演も一八六〇年のが最終となり、ファラデーの健康は段々と衰えて、翌年十月には王立協会の教授もやめて、単に管理人となった。時に七十歳である。このとき、ファラデーが王立協会の幹事に送った手紙には、
「一八一三年に協会に入ってから今や四十九年になる。その間、サー・デビーと大陸に旅行したちょっとの間が不在であっただけで、引きつづき永々御世話になりました。その間、貴下の御親切により、また協会の御蔭によって、幸福に暮せましたので、私はまず第一に神様に謝し、次には貴下並びに貴下の前任者に厚く御礼を申し上げねばならぬ。自分の生涯は幸福であり、また自分の希望通りであった。それゆえ、協会へも相当に御礼をなし、科学にも相当の効果を収めようと心がけておりました。が、初めの中は準備時代であり、思うままにならぬ中に、もはや老衰の境に入りました。」
翌一八六二年三月十二日が実にこの大研究家の最終の研究日であった。またその年の六月二十日が金曜講演の最後であった。その時の演題はジーメンスのガス炉というのであったが、さすがのファラデーも力の弱ったことが、ありありと見えて、いかにも悲しげに満ちておった。ファラデー自身も、これが最後の講演だと、心密かに期していたそうである。この後も、人のする講演を聴きに行ったことはある。翌一八六三年にはロンドン大学の評議員をやめ同六四年には教会の長老をやめ、六五年には王立協会の管理人もやめて、長らく棲んでいた部屋も返してしまい、実験室も片づけた。この時七十四歳。後任にはチンダルがなった。もっともチンダルは既に一八五四年から物理学の教授にはなっておった。
それでも、まだ灯台等の調査は止めずにやっておったが、トリニテー・ハウスは商務省とも相談の上、この調査はやめても、年二百ポンドの俸給はそのままという希望で、サー・フレデリック・アローが使いにやって来た。アローは口を酸くして、いろいろ説いたが、どうしてもファラデーに俸給を受け取らせることが出来なかった。ファラデーは片手にサー・アローの手を、片手にチンダルの手を取って、全部をチンダルに譲ることにした。
ファラデーの心身は次第に衰弱して来た。若い時分から悪かった記憶は著しく悪るくなり、他の感覚もまた鈍って来、一八六五年から六六年と段々にひどくなるばかりで、細君と姪のジェン・バーナードとが親切に介抱しておった。後には、自分で自由に動けないようになり、それに知覚も全く魯鈍になって耄碌し、何事をも言わず、何事にも注意しないで、ただ椅子によりかかっていた。西向きの窓の所で、ぼんやりと沈み行く夕日を眺めていることがよくあった。ある日、細君が空に美しい虹が見えると言ったら、その時ばかりは、残りの雨の降りかかるのもかまわず、窓から顔をさし出して、嬉しそうに虹を眺めながら、「神様は天に善行の証しを示した」といった。
終に一八六七年八月二十五日に、安楽椅子によりかかったまま、何の苦しみもなく眠るがごとくこの世を去った。遺志により、葬式は極めて簡素に行われ、また彼の属していた教会の習慣により、ごく静粛に、親族だけが集って、ハイゲートの墓地に葬った。丁度、夏の暑い盛りであったので、友人達もロンドン近くにいる者は少なく、ただグラハム教授外一、二人会葬したばかりであった。
日輪が静に地平線より落ち行きて、始めて人の心に沈み行く日の光の名残が惜しまれる。せめて後の世に何なりと記念の物を残そうということが心に浮ぶ。
ファラデーに、ほんとうによく似た写真や、肖像画は無いといわれている。これは写真や画の出来が悪いという意味ではないので、ファラデーの顔の生き生きして、絶えず活動せるのを表わし得ないというためなそうだ。
この本に入れてあるのは五十歳位の時の写真で、ファラデーの働き盛りの時代のものである。その少し後に、チンダル教授の書いたのには、「ファラデーは身の丈けは中位より少し低い。よく整っていて、活溌で、顔の様子が非常に活き活きしている。頭の形が変っていて、前額から後頭までの距離が非常に長く、帽子はいつも特別に注文した。初めは頭髪が褐色で、ちぢれておったが、後には白くなった。真中から分けて、下げていた。」
晩年に、病後のファラデーの講演を聴いたポロック夫人の書いたものによると、「髪の毛も白く長くなり、顔も長く、眼も以前は火のように輝いていたがそうでなくなった。顔つきは、画や像にあるネルソンのに何となく似ているようだ。」
ファラデーの生涯を書き終るに当り、王立協会の設立や、その他関係の深かった一、二の人について、ちょっと書き添えて置こう。
ファラデーの研究は始終を通じて、実に四十四年の永きにわたる。すなわち一八一六年の生石灰の研究を振り出しに、同六〇年より六二年の頃に研究して結果の未定に終った磁気と重力との関係、並びに磁気と光との関係に終る。この間に発表した論文は数多く、題目を列べただけで、数頁にわたる。けれども電気磁気に関する重要なる論文は、「電気の実験研究」と題する三巻の本におさめられ、電気磁気以外のおもなるものは、「化学および物理学の実験研究」と題する一冊の本におさめられている。
今便利のため、この四十四年を三期に分とう。第一期は一八一六年より三〇年に至り、種々の方面の研究をした時期で、後の大発見の準備時代と見るべきもの。次は一八三一年より三九年に至る間で、電磁気学上における重大の発見に、続ぐに重大の発見を以てした黄金時代とも見るべきもの。遂に健康を害して、しばらく休養するの止むなきに至った。再び健康を回復して研究に従事したる、一八四四年より六〇年を第三期とし、この間に磁気と光との関係並びに反磁性の大発見をなした。
第一期に関する研究の大要を、年を逐うて述べよう。
この外、塩素と炭素との化合物や、ヨウ素と炭素と水素との化合物について研究し、また木炭より黒鉛をつくる研究もやった。
一八二〇年は電気学上特筆すべき事で、すなわちエールステッドが電流によって磁針の振れることを発見した年である。
ボルタが電流を発見してから、電流と磁気との間に何等かの関係あるべきことを考えた人は多かったが、みな成功しなかった。エールステッドは他の人よりも、強い電流の通れる針金を取って実験したため、この発見をしたのである。そこで電流の通れる針金を磁針に平行にして、その上方に置いたり、下方に置いたり、また針金を磁針に直角にして、上に置いたり、下に置いたりして、種々研究した結果、終に「電気の作用は廻わすように働く」という定律を見出した。今日より見れば、極めて不充分な言い表わし方ではあるが、とにかく、偉大な発見であった。
デビーもこの発見の記事を読んで、早速実験に取りかかり、電流の通れる針金に横に鉄粉の附着することを確めた。
この時代は、ニュートンの引力説が全盛の時代であったから、電流が己れの方へ直接に働くことなく、己れと直角の方向へ働いて、横に磁針をまげるということは、余程奇妙に感ぜられたものと見える。
この実験に成功したのは九月三日のことで、この日の出来事は既に前にも記した通りである。
その十二月には、地球の磁力によりて、電流の通れる針金の廻転することをも確かめ、翌年も引きつづきこの方面の研究に没頭した。
以前からファラデーは種々の本を読んだときに、面白いと思うた事を手帳に書き抜いておったが、この頃からは自分の心に浮んだ考をも書き始めることにした。その中に次のようなのがある。
「二つの金箔を電気の極にして、その間に光を一方から他方へ通すこと。」
これらは、後になってファラデーのやった大発見の種子とも見るべきものである。
後にこの手帳を製本させて、その表紙に書きつけたのに、
「予はこの手帳に負う処が多い。学者は誰れでもかかるものを集め置くのがよい。一年も引きつづいて、やっておれば、左まで面倒とは思わなくなるだろう。」
一八二二年に、ファラデーは塩素ガスを液体にした。デビーは以前から、塩素の固体といわれているものは加水塩化物に外ならずというておった。ファラデーはその分析を始めたが、デビーに見せたら、「ガラス管に封じ込んで圧力を加えたまま、熱して見たらどうか。」と言うた。別に、どうなるだろうという意見は言わなかった。ファラデーはその通りにして熱して見たら、ガラス管の内には、液体が二つ出来た。一つは澄んで水のような物で無色である。他は油のような物であった。デビーの友人のパリスという人が丁度このとき実験室に来合せて、それを見て戯談半分に、「油のついている管を使ったからだ。」と言った。
すぐあとでファラデーが管を擦ったら、破れて口が開いたが、油のような液は見えなくなってしまった。これは前にガラス管を熱したとき、塩素のガスが出たが自己の圧力が強かったため、液化してしまい、油のようになっていたのだ。ところが、今管に口が開いて圧力が減じたので、再びもとの塩素ガスになって、飛散してしまったのである。
翌朝パリスはファラデーから次の簡単明瞭な手紙を受け取った。
「貴殿が昨日油だと言われし物は、液体の塩素に相成り申候。ファラデー」
かく、自己の圧力を使うて液体にする方法は、その後デビーが塩酸に用いて成功し、ファラデーもまたその他のガス体を液化するに用いて成功した。
しかし、これは随分危険な実験で、ファラデーも怪我をしたことがあり、一度はガラスの破片が十三個も眼に入ったことがある。
これらの実験があってから、どのガス体でも、ことにその頃まで永久ガスといわれておったものでも、充分な圧力と冷却を加えれば、液体とも固体ともなることが判明した。
翌一八二四年には、油に熱を加えて分解して、ベンジンを得た。このベンジンからアニリンが採れるので、従って今日のアニリン色素製造の大工業の基礎になった発見というてもよい。
この年、ローヤル・ソサイテーの会員になった。その次第は前に述べた。
これに聯関して起った事件は、一八二七年にファラデーの実験室に炉を造ったので、その番人に砲兵軍曹のアンデルソンという人を入れた事である。ガラスの研究が済んだ後も、引き続いてファラデーの助手をつとめ、一八六六年に死ぬまでおった。良く手伝いをした人だが、その特長というべきは軍隊式の盲従であった。
アボットの話に、次のような逸話がある。アンデルソンの仕事は炉をいつも同じ温度に保ち、かつ灰の落ちる穴の水を同じ高さに保つのであるが、夕方には仕舞って、何時も家に帰った。ところが、一度ファラデーは帰って宜しいということをすっかり忘れておった。翌朝になって、ファラデーが来て見ると、アンデルソンは一夜中、炉に火を焚き通しにしておった。
この年、デビーの推選で、協会の実験場長に昇進し、従って講義の際に助手をしなくてもよくなった。
それでも失望しないで、適当な実験の方法を見出せないためだと思って、繰り返し繰り返し考案をめぐらした。伝うる処によれば、この頃ファラデーは、チョッキのかくしに電磁回線の雛形を入れて持っていたそうで、一インチ位の長さの鉄心の周囲に銅線を数回巻きつけたもので、暇があるとこれを取り出しては、眺めていろいろと考えていたそうである。なるほど、銅線と鉄心。一方に電流が流れると他方に磁気を生ずる。反対に出来そうだ。磁気を鉄心に与えて置いたなら、銅線に電流が通りそうである!しかし、これは幾回となくファラデーがやって見て、何時も結果が出なかったことである。
否、ファラデーだけではない。他の学者もこれを行って見たに違いない。ただファラデーのように、結果無しと書いたものが残っておらぬだけだ。多分は、そう書き留めもしなかったろう。フランスのアンペアやフレネルも、いろいろとやったことは確かだが、結果は出なかった。
ところが、これとは別に次のような発見が一八二四年に公表された。フランスのアラゴは良好な羅針盤を作って、磁針を入れる箱の底に純粋の銅を用いた。普通ならば、磁針をちょっと動すと、数十回も振動してから静止するのだが、この羅針盤では磁針がわずか三、四回振動するだけで、すぐ止まってしまう。アラゴは人に頼んで、底の銅を分析してもらったが、少しも鉄を含んではいなかった。
そこで、アラゴの考えるには、銅が磁針の運動を止めるからには、反対に銅を動したなら、磁針は動き出すだろうと。すなわち、磁針の下にある銅を廻転して見た。果して磁針はこれに伴って廻り出した。なおこの運動は、磁針と銅との間に紙のような物を入れて置いても、少しも影響を受けない。その後には軸に取り附けた銅板の下で磁針を廻すと、上方の銅板が廻り出すことも確かめた。
ファラデーは一八二八年四月にも、また磁石で電流を起そうと試みたが、これも結果が出なかった。なぜ今までの実験で何時も結果が出なかったのか。原因は磁石も銅線のコイルも動かなかったためである。
今日、王立協会の玄関の所にファラデーの立像がある。その手に環を持っているのは、今述べた実験の環をあらわしたものだ。それから、この実験に用いた真物の環も、王立協会になお保存されてある。
それから八月三十日に、実験した手紙には、「この瞬間的の作用がアラゴの実験で銅板の動くときに影響があることに関係あるのではないか。」と書いた。
次に実験したのは九月二十四日で、十個の電池から来る電流を針金に通して磁石を作り、この際に他の針金に何等の作用があるかを調べた。しかし、その作用は充分に認められなかった。それから銅線の長いのや、短いので実験を繰り返し、また電磁石の代りに棒磁石でもやって見たが、やはり作用が充分に認められなかった。
その次に実験したのは十月一日で、ファラデーの手帳には次のごとく書いてある。
「三十六節。四インチ四方の板を十対ずつもつ電池の十組を硫酸、硝酸の混合で電流を起し、次の実験を次の順序に従って行った。
「三十七節。コイルの一つ(二百三フィートの長さの銅線のコイル)を平たいコイルに繋なぎ、また他のコイルは(前のと同じ長さのコイルで、同種な木の片に巻いた)電池の極につなぐ。この二つのコイルの間に金属の接触のないことは確めて置いた。このとき平たいコイルの所にある磁石が極めて少し動く。しかし、見難いほど少しである。
「三十八節。平たいコイルの代りに、電流計を用いた。そうすると、電池の極へつなぐ時と、切る時とで衝動を感ずるが、これも見難いほどわずかである。電池へつないだ時は一方に動き、切る時は反対の方に動く。平常はこの中間に磁石がいる。
「それゆえに鉄は存在しないが、感応作用があって磁針を動すのである。しかし、それはごく弱いのか、さもなくば充分な時間がない位に瞬間的のものである。多分この後の方であろう。」
その次に実験したのは十月十七日で、磁石を遠ざけたり、近づけたりして、これが針金に感応して電流の生ずるのを確かめた。
これで、以前の実験において結果が出なかったのは、磁石とコイルが共に静止しておったためだと分った。実際、磁石はコイルの傍に十年置いても、百年置いても、電流を生じない。しかし、少しでも動けば、すぐに電流を生ずるのであるから。
その次に実験したのは十月二十八日で、大きな馬蹄形の磁石の極の間で、銅板を廻し、銅板の中心と縁とを針金で電流計につないで置き、電流計が動くのを見た。
その次の実験は十一月四日で、手帳に「銅線の八分の一インチの長さのを磁極と導体との間で動すとき作用あり」と書いた。また針金が「磁気線を切る」と書いた。この磁気線というのは、鉄粉で眼に見られるように現わすことの出来る磁気指力線のことである。なお一歩進んで、この磁気線で感応作用を定量的に表わすことは、ずっと後になって、すなわち一八五一年にファラデーが研究した。
かように、約十回の実験で、感応作用が発見された。実験室の手帳を書き直おして、ローヤル・ソサイテーに送り、一八三一年十一月二十四日にその会で読んだ。しかし、印刷物として出したのは、翌年一月で、そのためにあるイタリア人との間に、ちょっと面倒な事件が持ち上った。
この論文は「電気の実験研究」の第一篇におさめてある。実験したときの手帳に書いてあるのと比較すると、文章においてはほとんど逐語的に同じであるが、順序において少し違っている。実験した順序は、今述べたように、磁石から電流を生ずるのを前に試みて、それから電流が他の電流に感応するのを、やったのである。しかし、論文の方には、電流の感応の方を前に書いて、感応の事柄を概説し、しかる後に、磁石の起す感応電流のことを記してある。
ファラデーはローヤル・ソサイテーで、自分の論文を発表してから、英国の南海岸のブライトンへ休養に行った。しかし、すぐ帰って来て、十二月五日には再び研究に取りかかり、同十四日には、地球の磁気を用いて感応電流が生ずるや否やを調べて、良い結果を得た。
ファラデーは恒例として、実験が成功した場合でも、しない場合でも、出来るだけ作用を強くして実験して見るので、この場合にもその通りにした。初めには、四インチ四方の板が十対ある電池を十個用いた。これで成功はしたのであるが、しかし電池を段々と増して、百個までにした。
百個の電池から来る電流を切ったり、つないだりすると、感応作用は強いので、コイルにつないである電流計の磁針は、四、五回もぐるぐると廻って、なお大きく振動した。
また電流計の代りに、小さい木炭の切れを二つ入れて置くと、木炭の接触の場所で小さい火花が飛ぶ。ファラデーは火花の出るのを電流の存在する証拠と考えておったので、これを見て喜んだ。しかし、まだこの感応電流が電池から来る電流のように、生理的並びに化学的の作用を示すことは見られなかった。
感応作用が発明されると、アラゴの実験はすぐに説明できた。すなわち、銅板に感応で電流を生じ、これが磁針に働いてその運動を止めるのである。
ファラデーはまた、この感応作用を使い、電流を生ずる機械を作ろうとした。初めに作ったのは、直径十二インチ、厚さ五分の一インチの銅板を真鍮の軸で廻し、この板を大きな磁石の極の間に置き、その両極の距離は二分の一インチ位にし、それから銅板の端と軸とから針金を出して、電流を取ったのである。
この後にも、色々な形の機械をこしらえた。板を輪にしたり、または数枚の板を用いたりした。しかし、最後に「余は電気感応に関する新しい事実と関係とを発見することを務めん。電気感応に関する既知のものの応用は止めにしよう。これは他の人が追い追いとやるであろうから。」というて止めた。ファラデーはこの後いつも応用がかった事に近づいてくると、そこで止めてしまい、他の新しい方面に向って進んで行った。そんな訳で、専売特許なども一つも取らなかった。
この論文の中に、ファラデーは次のような事も書いて置いた。
「針金は磁気よりの感応で電流を生ずるのであるから、恐らくある特別の状態にあるらしい。
「これを友人とも相談して、エレクトロトニックの状態と名づけることにした。
「この状態は、その継続している間は別に電気的作用を示さない。しかし、コイルなり、針金なりが、磁石の方へ近づくか、または遠ざかる場合には、その近づくかまたは遠ざかりつつある間だけ、感応作用によりて、電流が通る。これはその間、エレクトロトニックの状態が高い方なりまたは低い方なりに変るからで、この変化と共に電流の発生が伴うのである。」
元来ファラデーは、物と物とが相離れた所から直接に作用し合うというような考を嫌ったので、引力にしても斥力にしても、相離れた所から作用を及ぼすように見えても、実際は中間に在る媒介物の内に起る作用の結果が、この形で現われるものだという風に考えた。
ファラデー自身が前に発見した電磁気廻転にしても、電流の通っている針金の周りの空間が、その電流のためにある作用を受けているとして考えられる。また磁極の周りの空間にも、例の磁気指力線があるとして考えられる。かように、たとい中間には眼に見える物体が無い場合でも、その空間にある媒介物が存在し、これがある状態になっているものと考えられる。それゆえ針金を動かせば感応で電流が生ずる場合にも、またその針金の在る場所は、すでにある特別の状態になっているものと考えらるるので、ファラデーはこれにエレクトロトニックという名称をつけたのである。
一八三二年の正月には、ファラデーは地球の自転のために生ずる電流を調べようというので、十日にケンシントンの公園へ、十二および十三の両日はテームス河のウォータールー橋に行った。これらの実験の結果はすぐにまとめて、ローヤル・ソサイテーで発表し、後に「電気の実験研究」の第二篇にした。
話が前に戻るが、一八三一年に電気感応の大発見をしたときに、ファラデーはまだ内職の化学分析をやっておったし、十一月まではローヤル・ソサイテーの評議員でもあったが、この外にもなお毛色の少し変った研究をしておった。
翌一八三二年にも、ファラデーは続いて種々の研究をした。静電気や、動物電気や、感応によりて生ずる電気。これらの電気はいずれも電池より出る電流と同様に化学作用をすることを確かめたのを手初めとして、どの電気も全く同一のものなることを確かめた。今日では自明の事のように思われるが、その頃ではこれも重要な結果であった。これは一八三三年一月に発表したが、「電気の実験研究」の第三篇になっている。
次にファラデーの取りかかった研究は、電流の伝導の問題であった。
水は電流を導くが、それが固体になって氷となると、電流を導かない。これから想いついて、ある固体とそれの溶解して液体となった場合とでは、電流の伝導にどれだけ違いが起るかを調べた。その結果は、金属だと、固体のときでも液体のときでも、よく伝導してその模様に変りはない。脂肪だと、固体のときでも液体のときでも、電流を導かない。その他の物体では、固体だと電流を伝導しないが、液体になると伝導する。塩化鉛とか、塩化銀とかいうような化合物は、みなこれに属する。かつ液体になっていて、電流を伝導する場合には、その物が分解して電極に集ることも確かめられた。これらの結果は一八三三年四月に発表した。(「電気の実験研究」の第四篇)
ファラデーはなおも研究をつづけて、一定量の電気が同じ液体内を通る場合には、いつも同じだけの作用をすることを確かめた。また液体が分解して電極に集るのは、電極に特別の作用があって、液体の内から物体を引きつけるためではない。物体が液体になりているとき、既に二種の物に分解しているので、電流の通るときにその方向と、反対の方向とに流れ動くため、電極に集るのであることを確かめた。これは一八三三年六月に発表した。(「電気の実験研究」の第五篇)
次に別種の問題に着手し、金属がガス体の化合をひき起すことを研究した。これは一八三四年正月に発表した。(「電気の実験研究」の第六篇)
その年の正月の終りから二月にかけて、電気分解に関する大発見が発表された。それは「電気の実験研究」の第七篇になっているが、まずファラデーは電池の電極を、単に電流の入り口と出口に過ぎないからとて、アノード(昇り道)およびカソード(降り道)という名称をつけ、また液体内で分解している物に、アニオン(昇り行く物)およびカチオン(降り行く物)という名前をつけた。