text
stringlengths
0
6.63k
家のなかでリップの味方をするのは、犬のウルフだけだったが、この犬がまた主人に負けず劣らず、はなはだ細君に頭があがらなかった。ヴァン・ウィンクルのかみさんは、彼らをのらくら仲間と見て、意地の悪い目でウルフをにらみつけ、主人がむやみにふらつき歩いているのはこの犬のせいだ、と言わんばかりだった。じっさい、ウルフはどこから見ても立派な犬にふさわしい気性をそなえていて、どんな猟犬にも劣らず勇敢に、獲物を追って森の中を駈けまわった。だが、いかに勇気があったとしても、絶えまなく四方八方から攻めたてる恐ろしい女の舌には対抗できない。ウルフは家に入るなり、うなだれてしまい、尾は地面に垂れさげるか、股のあいだに捲きこんで、絞り首にでもされるような様子でおずおずと歩き、しきりにヴァン・ウィンクルのかみさんを横目でうかがうのだった。そして、ほんのちょっとでも箒の柄や柄杓をふりあげようものなら、悲鳴をあげて、戸口のほうへすっとんでゆくのだ。
連れそう年月がたつにつれて、リップ・ヴァン・ウィンクルの形勢はますます悪くなる一方だった。とげとげした性質は、年をへてもやわらぐものではなく、毒舌は使えば使うほど鋭くなる唯一の刃物である。もう久しいこと、彼は、家から追いだされると、村の賢人や、哲学者や、そのほかの怠けものがあつまる一種の常設クラブのようなところへ通っては、みずからを慰めることにしていた。そのクラブは、ジョージ三世陛下の赤ら顔の肖像を看板にかかげた、小さな宿屋のまえのベンチで会合をひらくのだ。ここで彼らは、長いものうい夏の日に、一日じゅう木かげに腰をすえて、大儀そうに村の噂話をしたり、いつ果てるともしれぬ、とりとめのない話をしたりするのだった。しかし、たまたま通りすがりの旅行者から、古新聞が手に入ったりすると、深遠な議論がおこることもあった。それはどんな政治家でも金をはらって聞くだけの価値のある議論であったろう。彼らはまったくもってまじめくさってその新聞の内容を傾聴したものだ。勿体ぶってゆっくりと新聞を読みあげるのは、デリック・ヴァン・バンメル校長先生だ。この人は、身なりのきちんとした、学問のある小男で、辞書にあるどんなむずかしい言葉にも決してひるむことはない。そして、彼らは実にえらそうな顔をして、国家問題を論じあったものだ。もっとも、問題が起ってから数カ月もたってはいたが。
この砦からも、不幸なリップはついにがみがみ女房のために、いやおうなしに追いだされてしまった。彼女は不意にこの平穏な集会のなかに押し入って、一座のひとびとを頭ごなしにどなりつけるのだ。あのいかめしい人物のニコラス・ヴェダーでさえ、この恐ろしい女丈夫の毒舌をまぬがれることはできなかった。彼女は彼に向い、亭主をそそのかして怠け癖をつけたのはおまえさんだと言って、まっこうから食ってかかった。
あわれなことに、リップは、しまいにはほとんど絶望の淵におちてしまった。畑仕事や女房のがなりたてる声から逃れるには、銃を手にして森のなかへ迷いこむよりほかに手段はなくなった。彼は森のなかで、ときどき木の根もとに腰をおろして、ウルフと弁当を分けあうのだった。彼は、共に迫害に苦しむ仲間として、ウルフに同情をよせていた。「かわいそうにな、ウルフ」と彼はよく言った。「おまえの女主人はおまえにみじめな暮しをさせているな。だが、気にかけるんじゃないよ、な。おれが生きているかぎり、おまえの友だちになって味方してやるからな」ウルフは尾をふって、主人の顔をものおもわしげに見入るのだった。もし犬にも憐れと思う心があるものなら、ウルフのほうも、心の底から主人をあわれんでいたに相違ない。
よく晴れた秋の日、こんなふうにして長いことぶらぶら歩いているうちに、リップはいつのまにか、カーツキル山脈のいちばん高い峰の一つに登っていた。彼は大好きな栗鼠撃ちをしていた。銃声がしじまにこだまし、またこだまをかえした。息もきれぎれに疲れはてて、彼は午後もおそくなってから、山の、草におおわれた緑の丘に身を投げだした。そこはちょうど断崖の端の頂きになっていた。木立のすきまから、彼は、なんマイルにもわたって鬱蒼とした森林がつづいている低い地方をいちめんに見おろした。遠く、はるか下のほうには、堂々たるハドソン河が望まれ、紫色の雲のかげや、たゆたう小舟の帆影を、その鏡のような水面のここかしこに、眠たげに映しながら、音もなく、荘厳に流れ、やがて青い高地のあいだにその姿を消していった。
ふりかえって見おろせば、そこは深い峡谷で、荒れはてて、ものさびしく、草木がぼうぼうとおいしげり、その谷底はそばだつ断崖から崩れおちた岩のかけらで埋まり、夕映えの光もほとんどさしこまなかった。しばらくのあいだリップは、寝ころんだまま、この光景に見入っていた。夕暮れは次第に濃くなり、山々は長い青い影を谷間に投げかけはじめた。これでは村に着かないうちにすっかり暗くなってしまうだろうということに彼は気がついた。女房の恐ろしい剣幕に出会うことを思って彼は深い溜め息をもらした。
彼が山をおりようとしたとき、遠くのほうから「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と呼びかける声がきこえてきた。彼はあたりを見まわしたが、烏がただ一羽、山の上を羽ばたいてゆくほかには、何も見えなかった。きっと気のせいだろうと思って、ふたたびおりてゆこうとした。そのとき、同じ呼び声が森閑とした夕ぐれの大気にひびきわたった。「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と同時に、ウルフは背中の毛を逆立てて、一声ひくく唸り、主人のかたわらにこそこそと近より、恐ろしげに谷間を見おろした。リップはこのとき、訳のわからぬ気味悪さが身に迫ってくるのを感じ、不安げに同じ方向を見た。すると奇妙な姿をした者が、何か背中に重いものを背負って、前かがみになりながら、ゆっくりと岩をよじのぼってくるのが目に入った。彼は、こんなさびしい人のかよわぬところに、人間のすがたを見たのでびっくりしたが、これはだれかこの近辺のものが助けをもとめているのだろうと思い、手をかしてやろうと、急いでおりていった。
近づいてみると、彼はその見知らぬ人の様子の風変りなのにますます驚いた。背の低い角ばった体格の老人で、かみの毛は濃くて、ぼさぼさしており、胡麻塩ひげをはやしていた。服装はずっと古いオランダ風で、布製の胴着の腰を帯紐でしめ、半ズボンをなん枚も重ねてはいていたが、そのいちばん外側のはだぶだぶで、両側には一列に飾りボタンがつき、両膝には房がついていた。彼は肩に、酒がいっぱい入っているらしい頑丈な樽をかついでいて、こっちへきて荷物に手をかしてくれとリップに合図した。この初めて会った知合いに多少きまりが悪く、不安でもあったが、リップは例によってすぐさま申し出に応じた。そこで、かわるがわる樽をかつぎながら、二人は、水の涸れた渓流の川床らしい狭い峡谷をよじのぼって行った。登るにつれて、リップはときおり長く余韻をひく遠い雷のようなひびきを耳にした。それは高い岩と岩とのあいだの深い峡谷から、というよりはむしろ、その割れ目からきこえてくるように思われた。二人の進む嶮しいみちはそのほうに通じていた。リップはちょっと立ちどまったが、これは高山でときどき起る一時的な雷雨のひびきだろうと思って、また歩きつづけた。峡谷を通りぬけると、切りたった絶壁にかこまれた小さな円形劇場のような窪地へ出た。その絶壁の縁には、木々がおおいかぶさるように枝をさしのべているので、青空と明るく輝く夕やけ雲とがちらっと見えるだけだった。ここまでずっとリップとその連れとは黙々として一生懸命に登ってきた。このような人けのない山のなかに、なんのために酒樽を運びあげるのか、リップにはひどく不審に思われたのだが、この見知らぬ男には何か妙な得体の知れないところがあって、そのために恐ろしい気がして、馴れなれしくできなかったのである。
とりわけリップに奇妙に思われたのは、この連中が、あきらかに遊び興じているのに、このうえなくしかつめらしい顔をし、ふしぎに黙りこくっていて、まったく今までに見たこともないような陰気な遊び仲間だったということである。この場の静けさをやぶるものは、ナインピンズの球のひびきだけで、球がころがるたびに、その音は雷鳴のように山々を伝ってこだました。
リップとその連れが近づいてゆくと、彼らは急に遊戯をやめ、じっと動かない彫像のような目つきをして、異様な、ふしぎな、生気のない顔でにらんだので、リップの心はおじけづき、膝ががくがくふるえた。彼の連れは、そのとき、樽の中味をいくつかの大きな酒壜にあけかえ、リップに合図して、一座のものに給仕するように命じた。彼は恐ろしさにふるえながら、指図にしたがった。一同は黙りこくったまま、酒をぐいぐい飲むと、また勝負にとりかかった。
次第にリップの恐怖や不安はおさまっていった。彼は、だれの目も自分にそそがれていないすきをみて、思いきってその飲みものを味わってみるほどになったが、その風味は上等のオランダ酒そのままのようだった。リップは生まれつき酒好きだったので、すぐにまた一杯やりたくなった。一口のむとまた一口に手が出て、あまりなんどもなんども酒壜をかたむけていたので、ついに正気を失い、目がくるくるまわって、次第に頭が垂れさがり、そのままぐっすり眠りこんでしまった。
眼をさましてみると、彼は緑の丘のうえにいるのだった。谷間にはじめて、あの老人を見たところである。彼は眼をこすった。うららかな太陽の照り輝く朝だった。小鳥は茂みのなかで跳びながらさえずっていた。鷲が一羽空高く輪をえがいて、けがれのない山のそよ風を胸にうけて舞っていた。「まさか」とリップは思った。「おれは一晩じゅうこんなところで寝たんじゃあるまいな」彼は寝こむまえのいろいろなできごとを思いかえしてみた。酒樽をかついだ奇妙な男、山の峡谷、岩のなかの荒れはてた隠れ場所、ナインピンズをしている陰気な連中、酒壜。「ああ、あの酒壜。あいつが怪しからんのだ」とリップは思った。「女房にどう言いわけをしたらよいだろう」
彼はあたりを見まわして銃をさがしたが、磨いて油をひいてある鳥打ち銃のかわりに、古い火縄銃がかたわらにころがっているのを見つけた。銃身は錆だらけで、銃機はおちかかり、台尻は虫にくわれている。そこで彼は、あのしかつめらしい顔をした山の威張り屋どもが自分をだまし、酒を盛って酔いつぶし、銃をうばいとったのだろうと思った。ウルフも姿を見せなかったが、栗鼠かしゃこを追って、おそらくどこかへ迷いこんでしまったのだろう。彼は口笛を吹き、その名を呼んでみたが、なんの甲斐もなかった。山びこが彼の口笛と呼び声とを繰りかえすだけで、犬の姿はまるで見当らなかった。
彼は昨夜の遊戯場にもう一度行ってみて、もしあの連中のうちのだれかに出あったら、犬と銃とを返してもらおうと決心した。彼は立ちあがって歩こうとしたが、からだの節々がこわばって、いつものようにはきびきびと動けないのに気がついた。「こういう山の寝床はおれには向かんわい」とリップは考えた。「もしこんな浮かれさわぎのおかげで、リュウマチの発作でもおこして寝こもうもんなら、女房のやつにさぞありがたい目にあわされるだろうな」どうにかこうにか、彼は谷間へおりていった。彼は、ゆうべ自分が連れといっしょに登った峡谷を見つけはしたが、おどろいたことに、今は渓流が泡を立てて流れおち、岩から岩へ飛びちって、せせらぎが谷間いっぱいにあふれていた。しかし、彼はどうにかその縁をよじのぼり、白樺や樟やまんさくの林のなかを、やっとのことで通りぬけ、ときには野生の葡萄づるにつまずいたりからまったりした。葡萄づるは木から木へ蔓や巻ひげをまきつけ、彼の行くみちに網をひろげていたのである。
とうとう彼は、峡谷が断崖のあいだをぬけて、円形劇場へと通じていた場所にたどりついた。しかしあの通路は跡形もなかった。岩は通りぬけられないほどの高い壁をつくっていて、その上からは、激流が羽毛のような水しぶきをあげて流れおち、周囲の森のかげで暗くなった広くて深い滝つぼに落ちこんでいた。あわれなリップはここで行きづまってしまった。彼はふたたび犬の名を呼び、口笛を吹いた。それに答えたのは、一群の怠け烏のかあかあ鳴く声だけだった。その烏どもは、陽あたりのよい断崖の上に差しでた枯木のあたりの空に、高々と舞ってあそんでいたが、高いところにいるのをいいことにして、途方にくれた憐れな男を見おろし嘲笑しているように見えた。どうしたらよいだろう。朝も過ぎようとしていた。リップは朝飯を食べていないので、ひどく空腹を感じていた。彼は犬と銃とをあきらめるのが悲しかったし、女房にあうのは恐ろしかった。かといって、山のなかで餓死したところで何になろう。彼は首をふると、錆びついた火縄銃を肩にして、当惑と心配とで胸をつまらせながら、家の方に足を向けた。
村に近づくにつれて、彼は大ぜいのひとびとに出あったが、顔見知りの人はひとりもいなかった。これにはいささか驚いた。この近在の人なら、だれでも知り合いだと思っていたからである。彼らの服装が、また、彼の見なれていたものとは違った型のものだった。彼らのほうでもみな彼を見つめて、同じくびっくりした様子だった。そして、彼に眼を注ぐと、だれもかれも自分の顎をなでた。こういうしぐさが絶えず繰りかえされるので、リップは思わず知らずつりこまれて、顎に手をやった。すると、驚いたことに、顎ひげが一尺ものびていたのだ。
彼はもう村はずれに入っていた。見知らぬ子供たちの群があとについてきて、うしろからわいわい囃したて、灰色の顎ひげをゆびさした。犬もまた昔なじみのものは一匹として見あたらず、彼が通りかかると吠えたてた。村そのものも変っていた。以前より大きくなり、人もずっと増えていた。前には見かけたこともない家が建ちならび、彼がよく出入りした家はひとつもなくなっていた。見知らぬ名前の標札が戸口にかかり、見知らぬ顔が窓に見え、何もかも知らないものばかりだった。彼は不安になってきた。自分がまわりの世界といっしょに魔法にかけられているのではないかと疑いはじめた。たしかにここは自分が生れた村で、ここを出たのはつい昨日のことだ。カーツキル山脈がそびえている。遠くには銀色のハドソン河が流れている。どの丘もどの谷も寸分たがわず前のままだ。リップはすっかり途方に暮れてしまった。「昨夜のあの酒壜が」と彼は思った。「おれの頭をまるでめちゃめちゃにしてしまったのだ」
彼はやっとのことで自分の家に行く道を見つけ、黙っておそるおそる家に近づいて行きながら、今か今かと女房のかんだかい声がきこえてくるのを待ちかまえていた。家は朽ちはてていた。屋根は落ちこみ、窓は破れ、扉は蝶つがいがはずれていた。ウルフに似た餓死しかかった犬が、そのまわりをこそこそ歩いていた。リップは犬の名を呼んでみたが、そのやくざ犬は唸り声をあげ、歯をむいて、行ってしまった。これはまったくひどい仕打ちだった。「おれの犬までが」とリップは溜め息をついて言った。「おれを忘れてしまったわい」
彼は家に入った。ほんとうの話、その家はヴァン・ウィンクルのかみさんが、いつもきちんとしておいたものだった。それががらんとしてものさびしく、住む人もないらしかった。この荒れはてたさまに、女房の恐ろしさも消えうせ、彼は大声で妻子を呼んだ。人けのない部屋が、一瞬彼の声で鳴りひびいたが、またひっそりと静まりかえってしまった。
そこで彼はそとへとび出し、昔よく行きつけた村の宿屋へ急いだ。だが、それもなくなっていた。それにかわって、大きながたぴしの木造の建物が建っていた。窓はぽっかりと大きな口をあけ、それもいくつかこわれ、古帽子や着古しのペティコートでつくろわれており、扉の上にはペンキで「ユニオン・ホテル、経営者ジョナサン・ドゥリトル」と書いてあった。かつてはあの大木が静かな小さいオランダ風の宿屋に影をなげかけていたのに、今は高いはだかの竿が一本立っており、てっぺんに赤いナイトキャップのようなものがついていて、そこから、星と縞とをおかしな工合に組みあわせた旗がひるがえっていた。こういうことは何から何まで妙で、合点がいかなかった。けれども、彼は看板にジョージ陛下の赤ら顔をみとめた。その肖像の下で、彼はいくたびとなくのどかにパイプをくゆらしたものだった。だが、このジョージ陛下さえも妙に変っていた。赤い軍服は、青と浅黄色との上衣にかわり、手には王笏のかわりに剣をもち、頭には縁のそりあがった三角帽をかぶり、下にはペンキの大きな文字で、ワシントン将軍と書いてあった。
「ああ、みなさん」とリップはややうろたえて叫んだ。「わしは、ここの生まれの、つまらない、おとなしいもので、王様の忠義な臣民です。王様万歳」
すると、まわりの見物人たちがいっせいに騒ぎたてた。「王党だ、王党だ、スパイだぞ、亡命者だぞ。追いだせ、叩きだせ」
例の三角帽のもったいぶった男が、やっとのことで一同を鎮めると、十倍もいかめしい顔つきをして、またこの素性の知れぬ未決囚にむかい、なんのためにここへきたのか、だれを探しているのか、と詰問した。憐れなリップはおずおずと、自分は悪意があるわけでなく、ただ、いつも近所の人たちがこの宿屋のあたりにきているので、ここへ探しにきただけなのだ、とへりくだって言った。
「なるほど、それはだれだ。名前を言ってみたまえ」
「ヴァン・バンメル校長先生はどうしましたね」
「あのかたも戦争に行かれて、国民軍の偉い大将じゃったが、今は国会議員になんなさったよ」
故郷や友人たちにこんな悲しい変化があったのを聞き、自分がこの世の中にひとりぼっちになってしまったのを知って、リップは心細くなってしまった。どの返事をきいても、ひどく長い年月が経ったような話だし、さっぱり訳のわからぬことをいうので、彼は困りきってしまった。戦争、国会、ストーニー・ポイント。彼はこれ以上ほかの友人のことを聞く勇気もなくなり、絶望のあまり大声で叫んだ。「ここにいるかたで、リップ・ヴァン・ウィンクルを知っている人はいませんか」
「ああ、リップ・ヴァン・ウィンクルか」と二、三のものが叫んだ。「ああ、知ってるとも。あれ、あそこにいるのがリップ・ヴァン・ウィンクルだよ。木によっかかっているのがね」
リップは見た。すると、山に登ったときの自分に瓜二つの男が目に入った。自分同様、いかにもものぐさらしいし、じっさい、ぼろをまとっているところはおなじだった。憐れなリップは、まったく頭がこんがらかってしまった。自分の正体があやしく思われ、自分がほんとうに自分なのか、それとも別の人間なのか疑わしくなった。彼が当惑しきっていると、くだんの三角帽子の男が、おまえはいったいだれなのか、名はなんというのか、と訊いた。
「知るもんか」とリップは思案にあまって叫んだ。「おれは自分じゃない。だれかほかの人間だ。向うにいるあれがおれだ。そうじゃない。あれはおれの後釜にすわっただれか別な男だ。おれはゆうべはおれだったが、山の上で寝こんでしまって、鉄砲はかえられるし、何もかも変って、おれまでかわってしまった。自分の名前も、自分がだれなのかもわからない」
まわりで見ていた人たちは、このとき互いに顔を見合わせ、うなずき合い、意味ありげに目くばせして、額を指でたたいた。また、囁き声で、鉄砲を取りあげて、その老人に危いまねをさせないようにしたら、というものもいた。この言葉を耳にしただけで、あの三角帽子の尊大な男は、いささかあわててその場をひきさがった。みんなが息をのんだ瞬間に、一人の若々しい器量のよい女が、人だかりを押しわけて、この胡麻塩ひげの男をのぞきにやってきた。女はまるまると肥った子を抱いていたが、その子は彼の様子におどろいて泣きだした。「おだまりよ、リップ」と彼女は大声で言った。「おだまり、お馬鹿さんね。あのおじいさんは何もしやしないよ」子供の名といい、母親の様子といい、声の調子といい、すべてが、つぎつぎと彼の心に記憶を呼びおこした。
「おまえさんの名はなんというのかね、おかみさん」と彼がたずねた。
「ほんとに、気の毒ですわ。リップ・ヴァン・ウィンクルっていうんですけど、二十年も前に鉄砲をもって家を出られたっきり、その後なんの音沙汰もないんです。犬だけひとりで帰ってきましたけど、お父さんが鉄砲で自殺なさったのやら、インディアンにさらわれておしまいになったのやら、だあれにもわからないんです。あたしはそのころまだほんの子供でしたわ」
リップはもう一つだけ聞きたいことがあった。それを言うときには、声がふるえた。
「あら、お母さんもつい先頃亡くなりました。ニューイングランドの行商相手にかんしゃくをおこして、血管を破ってしまったんです」
この知らせで、少くともいくらか気楽になった。この正直な男は、もう我慢ができなくなった。彼は娘とその子を抱きしめた。
「わしはおまえのお父さんだよ」と彼は叫んだ。「むかし若かったリップ・ヴァン・ウィンクルさ。今はおじいさんのリップ・ヴァン・ウィンクルだよ。だれも憐れなリップ・ヴァン・ウィンクルがわからないんですか」
みな驚いて突ったっていた。やがて一人の老婆が群衆のなかからよろよろと出てきて、片手を額にかざし、その下からリップの顔をちょっとのぞいて、叫んだ。「たしかにそうだよ。リップ・ヴァン・ウィンクルさんだよ。あの人だよ。よくまあお帰りなさった、あんたさん。ほんにまあ、二十年もの長いあいだ、どこへ行ってなさった」
リップの話はすぐにすんだ。丸二十年が彼にはたった一夜に過ぎなかったからだ。近所の人たちはその話をきいて目を丸くした。互いに目くばせしたり、舌で頬をふくらませたりしているものもいた。三角帽子をかぶった尊大な男は、もう危険がないとなると、またこの戦場にもどってきていたが、口をへの字にむすび、首を振った。それにあわせて、集っている人たちもみな同じように首を振った。
手短かに話すと、一同はちりぢりになって、もっと大切な選挙の騒ぎへともどっていった。リップの娘は、父親を家に連れて帰り、いっしょに暮らすことにした。彼女は、こぢんまりした造作のととのった家をもち、大丈夫で陽気な農夫をつれあいにしていた。リップはその男が、よく自分の背中によじのぼった腕白小僧の一人であることを思いだした。リップの跡取り息子はというと、さっき木によりかかっていた父親に生き写しの男だが、これは野良仕事にやとわれていた。親譲りの性格まるだしで、なんにでも首をつっこむが、自分の仕事はそっちのけだった。
さて、リップは、昔のような出歩きやそのほかの習慣をふたたび始めた。彼はやがて、以前の親しい友達を大ぜい見出したが、みなどうやら寄る年波で弱っていた。そこで彼は好んで若い人たちと交わるようにしたので、間もなく彼らから大へん好かれるようになった。
これといって家でする仕事もなく、怠けていてもどうこういわれぬ、いわゆるありがたい年齢にもなっていたので、彼はまた宿屋の戸口のベンチに席をしめ、村の長老の一人として敬われ、「独立戦争前」の古い時代の年代記として崇められた。しばらくすると、彼は、まともな噂話の仲間入りができるようになったし、昏睡しているあいだに起きた、変ったできごとがのみこめるようにもなった。革命戦争があったこと、この国が昔の英国の支配を脱したこと、自分はジョージ三世陛下の臣民ではなく、今は合衆国の自由な市民であること、こういったことのいきさつがわかってきた。実のところ、リップはまったく政治には門外漢だった。国家や帝国がどう変ろうと、彼にはほとんどなんの感慨も湧かなかった。けれども、ある種の専制政治があって、彼は長いことその下で苦しんでいたのだった。それは、嬶天下だった。幸いなことにそれも終っていた。結婚生活の首かせがはずれたので、彼は女房の専制を恐れることもなく、いつでも好きなときに出かけ、好きなときに帰ることができた。しかし、女房の名前が出ると、彼は首を振り、肩をすくめ、空をふり仰いだ。それは自分の運命をあきらめた表情とも見えるし、解放された喜びの表情とも受けとれよう。
彼は、ドゥリトルの旅館に知らぬ人が着くと、だれにでも自分の話をしてきかせた。はじめのうちは話すたびに、ところどころ違っていたが、それはたしかに、彼が眠りから醒めてまだ間もなかったからだ。しまいには、わたしが今まで述べた話の通りにぴったり落ちつき、この界隈では男も、女も、子供も、それを暗記していないものはなかった。なかには、いつもその話の真実を疑うようなふりをして、リップは頭がどうかしていたのだ、だから、いつでもとりとめがないんだ、と言いはるものもいた。しかし、年とったオランダ人たちは、ほとんどみなこの話を信じきっていた。今日でも彼らは、カーツキルの山のあたりに、夏の午後、雷鳴をきくと、かならずヘンドリック・ハドソンとその部下の乗組員たちとがナインピンズをして遊んでいるのだと言う。このあたりの女房の尻に敷かれた亭主どもは、人生が重荷になってくると、リップ・ヴァン・ウィンクルの酒壜から一口飲んで、気楽になりたいものだと一様にねがうのである。
わたしはホーマーと同じ考えである。ホーマーの考えというのは、カタツムリが、殻からはい出して、やがてガマになると、そのために腰掛けをつくらなければならなくなる。それと同じように、旅人も生れ故郷からさまよい出ると、たちまち奇妙なすがたになるので、その生活様式にふさわしいように住む家を変え、住めさえすれば、たとえのぞみの場所ではなくとも、そこに住まなければならなくなるというのである。
わたしはいつでも、はじめての土地に行って、変った人たちや風俗を見るのが、好きだった。まだほんの子供のころから、わたしは旅をしはじめ、自分の生れた町の中で、ふだん行かない所や知らない場所にいくども探険旅行をして、しょっちゅう両親をおどろかしたり、町のひろめやの金もうけの種になったりしたものだ。少年時代になると、わたしは観察の範囲をひろげた。休みの日の午後には、郊外を散歩し、歴史や物語で名高いところにはすっかりくわしくなった。人殺しや追いはぎがあったとか、幽霊が出たとかいうところは一つ残らず知りつくした。近隣の村々に出かけて行って、そこの風俗習慣を見たり、賢人名士たちと話しあったりして、大いに知識をふやした。ある長い夏の日には、遠くはなれた丘のいただきに登り、何マイルもひろがっている「未知の国」をはるかに見わたし、自分が住んでいる大地があまりにも広大なことを知って驚嘆したものである。
こういう漫歩癖は年とともに強くなった。航海記や旅行誌がわたしの愛読書となり、あまり読みふけって、学校の正規の勉強はほったらかしの始末だった。からりと晴れた日に桟橋をあちこちと歩き、遠い異境に向って出帆する船を見まもりながら、わたしは深いものおもいに沈んだ。次第に小さくなってゆく船の帆を見つめ、地の果てにただよってゆくわが身を空想するとき、どんなにわたしの眼はあこがれに輝いたことだろう。
さらに書物を読み、ものごとを考えるようになると、このとりとめもない癖は、以前よりも分別がついたとはいうものの、なおいっそう動かすことのできないものになった。わたしは故国の各地を遍歴した。もしわたしが単に美しい風景を見るのが好きだというだけだったら、他国にまで行って望みを満たそうとは思わなかったにちがいない。自然の魅力がかくもふんだんに与えられている国はどこにもないからだ。銀をとかしこんだ大海のような雄大な湖水。明るい大空の色に染まった山々、豊かなみのりに満ちあふれる山あいの地。人も訪れぬところに、轟々と音をたてておちる巨大な滝。自然のままの緑に波うつ果てしない大平原。おごそかに音もなく大洋へと流れてゆく、深く広い大河。堂々たる木々がおいしげる人跡未踏の森林。夏の日にまきおこる雲に燃え、陽光がさんさんと輝く、この国の大空。まったく、アメリカに住む人にとっては自国のそとに自然の景観の美と崇高とをもとめる必要はすこしもないのだ。
しかし、ヨーロッパはいろいろと人をひきつけるものをもっている。それは物語や詩歌にわれわれの想いをはせさせる。美術の傑作、教養高い社会の優雅なたしなみ、昔から伝えられている地方色ゆたかな珍しい慣習が、そこには見られるのだ。わたしの母国は青春の希望にあふれているが、ヨーロッパはすでに年功をつみ、永いあいだに蓄積した宝物に満ちている。その廃墟は過ぎし日の歴史を語り、くずれおちてゆく石の一つ一つが、それぞれ年代記そのものなのだ。わたしは、名声の高い偉業が行われた跡を歩きまわり、古人が残した足跡を踏み、すさび果てた古城のあたりに遊び、崩れかかった高殿の楼上で瞑想したくてならなかった。ひとことでいえば、凡俗な現実世界をのがれて、くらく荘厳な過去のなかに身を没したいと願ったのだ。
そのうえ、わたしはまた世界の偉人たちに会うことも切望していた。たしかにアメリカにも偉人はいる。どの町にも偉人はおおぜいいる。わたしも若いころには、そういう人たちと交わり、その影におおわれてすっかり萎縮してしまうところだった。凡人にとって、偉人、とりわけ町の偉人の影ほど害になるものはない。しかし、わたしはヨーロッパの偉人にあいたかった。なぜかというと、いろいろな哲学者の著書で読んだところによると、アメリカではすべての動物が退化するが、人間もその例にもれないということだったからである。そこで思うに、アルプスの頂きがハドソン河流域の高地より高いように、ヨーロッパの偉人はアメリカの偉人よりすぐれているに違いない。そしてわたしはこの考えに確信をもった。わたしたちのあいだで見うけられる多くのイギリス人の旅客がどうも貫禄があり、なかなか偉そうに見え、しかも、この連中だって自分の国に帰れば、ほんのつまらない人間にすぎないことがわかったからだ。この不思議な国に行ってやろう、そうして、退化した人間であるわたしの、祖先にあたる巨人族を見てやろう、とわたしは思った。
これらの理由により、科学者たらんとする者のために、大科学者の伝記があって欲しい。しかし、科学者の伝記を書くということは、随分むずかしい。というのは、まず科学そのものを味った人であることが必要であると同時に多少文才のあることを要する。悲しいかな、著者は自ら顧みて、決してこの二つの条件を備えておるとは思わない。ただ最初の試みをするのみである。
ファラデーの論文には、いかに考え、いかに実験して、それでは結果が出なくて、しまいにかくやって発見した、というのが、偽らずに全部書いてある。これでこそ発見の手本にもなる。
またファラデーの伝記は決して無味乾燥ではない。電磁気廻転を発見して、踊り喜び、義弟をつれて曲馬見物に行き、入口の所でこみ合って喧嘩をやりかけた壮年の元気は中々さかんである。莫大の内職をすて、宴会はもとより学会にも出ないで、専心研究に従事した時代は感嘆するの外はない、晩年に感覚も鈍り、ぼんやりと椅子にかかりて、西向きの室から外を眺めつつ日を暮らし、終に眠るがごとくにこの世を去り、静かに墓地に葬られた頃になると、落涙を禁じ得ない。
前編に大体の伝記を述べて、後編に研究の梗概を叙することにした。
一八〇四年にミケルは十三歳で、この店へ走り使いをする小僧に雇われ、毎朝御得意先へ新聞を配ったりなどした。骨を惜しまず、忠実に働いた。ことに日曜日には朝早く御用を仕舞って、両親と教会に行った。この教会との関係はミケルの一生に大影響のあるもので、後にくわしく述べることとする。
一年してから、リボーの店で製本の徒弟になった。徒弟になるには、いくらかの謝礼を出すのが習慣になっていた。が、今まで忠実に働いたからというので、これは免除してもらった。
リボーの店は今日でも残っているが、行って見ると、入口の札に「ファラデーがおった」と書いてある。その入口から左に入った所で、ファラデーは製本をしたのだそうである。
かように製本をしている間に、ファラデーは単に本の表紙だけではなく、内容までも目を通すようになった。その中でも、よく読んだのは、ワットの「心の改善」や、マルセットの「化学叢話」や、百科全書中の「電気」の章などであった。この外にリオンの「電気実験」、ボイルの「化学原理大要」も読んだらしい。
否、ファラデーはただに本を読んだだけでは承知できないで、マルセットの本に書いてある事が正しいかどうか、実験して見ようというので、ごくわずかしかもらわない小遣銭で、買えるような簡単な器械で、実験をも始めた。
ファラデーはある日賑やかなフリート町を歩いておったが、ふとある家の窓ガラスに貼ってある広告のビラに目をとめた。それは、ドルセット町五十三番のタタム氏が科学の講義をする、夕の八時からで、入場料は一シリング(五十銭)というのであった。
これを見ると、聴きたくてたまらなくなった。まず主人リボーの許可を得、それから鍛冶職をしておった兄さんのロバートに話をして、入場料を出してもらい、聴きに行った。これが即ちファラデーが理化学の講義をきいた初めで、その後も続いて聴きに行った。何んでも一八一〇年の二月から翌年の九月に至るまでに、十二三回は聴講したらしい。
またアボットの後日の話によれば、ファラデーが自分の家の台所へ来て、実験をしたこともあり、台所の卓子で友人を集めて講義をしたこともあるそうだ。この頃ファラデーが自分で作って実験を試みた電気機械は、その後サー・ジェームス・サウスの所有になって、王立協会に寄附され、今日も保存されてある。
この筆記を始めとして、ファラデーが後になって聴いたデビーの講義の筆記も、自分のした講義の控も、諸学者と往復した手紙も、あるいはまた金銭の収入を書いた帳面までも、王立協会に全部保存されて今日に残っている。
その後しばらくして、ある夜ファラデーの家の前で馬車が止った。御使がデビーからの手紙を持って来たのである。ファラデーはもう衣を着かえて寝ようとしておったが、開いて見ると、翌朝面会したいというのであった。
早速翌くる朝訪ねて行って面会すると、デビーは「まだ商売かえをするつもりか」と聞いて、それから「ペインという助手がやめて、その後任が欲しいのだが、なる気かどうか」という事であった。ファラデーは非常に喜び、二つ返事で承諾した。
それで、一八一三年三月一日より助手になった。俸給は一週二十五シリング(十二円五十銭)で、なお協会内の一室もあてがわれ、ここに泊ることとなった。
どういう仕事をするのかというと、王立協会の幹事との間に作成された覚書の今に残っているのによると、「講師や教授の講義する準備をしたり、講義の際の手伝いをしたり、器械の入用の節は、器械室なり実験室なりから、これを講堂に持ちはこび、用が済めば奇麗にして元の所に戻して置くこと。修理を要するような場合には、幹事に報告し、かつ色々の出来事は日記に一々記録して置くこと。また毎週一日は器械の掃除日とし、一ヶ月に一度はガラス箱の内にある器械の掃除をもして塵をとること。」というのであった。
しかしファラデーは、かような小使風の仕事をするばかりでなく、礦物の標本を順序よく整理したりして、覚書に定めてあるより以上の高い地位を占めているつもりで働いた。
ファラデーが助手になってから、どんな実験の手伝いをしたかというに、まず甜菜から砂糖をとる実験をやったが、これは中々楽な仕事ではなかった。次ぎに二硫化炭素の実験であったが、これは頗る臭い物である。臭い位はまだ可いとしても、塩化窒素の実験となると、危険至極の代物だ。
三月初めに雇われたが、一月半も経たない内に、早くもこれの破裂で負傷したことがある。デビーもファラデーもガラス製の覆面をつけて実験するのだが、それでも危険である。一度は、ファラデーがガラス管の内に塩化窒素を少し入れたのを指で持っていたとき、温いセメントをその傍に持って来たら、急に眩暈を感じた。ハッと意識がついて見ると、自分は前と同じ場所に立ったままで、手もそのままではあったが、ガラス管は飛び散り、ガラスの覆面も滅茶滅茶に壊われてしまっておった。
かようなわけで、何時どんな負傷をするか知れないのではあるが、それでもファラデーは喜んで実験に従事し、夕方になって用が済むと、横笛を吹いたりして楽しんでおった。
一方において、王立協会で教授が講義をするのを聴いたが、これも単に講義をきくというだけでは無く、いろいろの点にも注意をはらった。その証拠には、当時アボットにやった手紙が四通も今日に残っているが、それによると、講堂の形から、通風、入口、出口のことや、講義の題目、目と耳との比較を論じて、机上に器械標本を如何に排列すべきかというような配置図や、それから講師のスタイル、聴者の注意の引きつけ方、講義の長さ等に至るまで、色々と書いてある。その観察の鋭敏なることは驚くばかりで、後にファラデー自身が講師となって、非常に名声を博したのも、実にこれに基づくことと思われる。
それで王立協会の目的はというと、一八〇〇年に国王の認可状の下りたのによると、「智識を普及し、有用の器械の発明並びに改良を奨め、また講義並びに実験によりて、生活改善のために科学の応用を教うる所」としてある。
しかし、その翌年には既に財政困難に陥って維持がむずかしくなった。幸いにデビーが教授になったので、評判が良くなり、この後十年間は上流社会の人達がデビーの講義を聞くために、ここに雲集した。しかし財政は依然として余り楽にもならず、後で述べるように、デビーが欧洲大陸へ旅行した留守中につぶれかけたこともあり、一八三〇年頃までは中々に苦しかった。
かように、一方では大学に似て、教授があって講義をする。しかし余り高尚なむずかしい講義はしない。また実験室があって研究もする。けれども他方では、会員があって、読書室に来て、科学の雑誌や図書の集めてあるのを読むようになっている。
その頃、欧洲の大学では実験室の設備のあった所は無いので、キャンブリッジ大学のごとき所でも、相当の物理実験室の出来たのは、ファラデーの死んだ後である。それ故、王立協会に実験室のあったということは、非常な長所と言って宜しい。
しかし時代が移り変って、現今では欧洲の大学には物理や化学の立派な実験室が出来た。その割合に王立協会のは立派にならない。今日でも講義をする場所としては有名であるが、それに関わらず、研究の余り出ないのはこのためである。
ロンドンの中央より少々西に寄ったピカデリーという賑やかな通から北へ曲りて、アルベマール町へはいると、普通の家と軒を並べた、大きなギリシャ式の建物がある。戸を開けて這入ると、玄関の正面には大きな石の廻り階段があって、その左右に室がある。室には、棚に書物あり、机の上には雑誌ありという風で、読書室になっている。また器械室と小さな標本室もある。さて正面の大きな階段を登ると、左に準備室があって、その先きに大きな講堂がある。講堂には大きい馬蹄形の机があって、その後方に暖炉や黒板があり、壁には図面などが掛かるようになっている。机の前には半円形になった聴講者の腰掛がならべてあり、一列毎に段々と高くなり、その上には大向うの桟敷に相当する席もあり、全体で七百人位は入れる。
この室はファラデーの時代には非常に大きい講堂として有名なものであった。しかし今日では、ドイツ辺の大学の物理講堂は、無論これ位の大きさはあるので、昔の評判を耳にしていて、今日実際を見ると、かえって貧弱の感がする。
また階下には小さな化学実験室がある。これは初めに小講堂であった室で、その先きに、昔からの実験室がある。炉や砂浴や机などがあり、棚には一面にいろいろの道具や器械が載せてある。この実験室は今でも明るくはないが、昔はもっと暗かったそうである。この実験室こそファラデーの大発見をした室である。その先きに暗い物置があるが、これから狭い階段を登ると、場長の住む室の方へとつづいている。
王立協会でやっている講義は三種類で、これはファラデーの時代からずっと引続いて同じである。
クリスマスの頃に子供のために開くやさしい講義が六回位ある。また平常一週三回位、午後三時からの講義があって、これは同じ題目で二・三回で完了することが多い。それから金曜の夜の九時からのがある。これが一番有名なので、良い研究の結果が出ると、それを通俗に砕いて話すのである。現今ではここで話すことを以て名誉として、講師には別に謝礼は出さないことにしてある。それでも、講師は半年も一年も前から実験の準備にかかる。もちろん講師自身が全部をするのではない、助手が手伝いをするのではあるが。
一八一三年九月に旅行の話が定まり、十月十三日ロンドンを出発し、同一五年三月二十三日に帰るまで、約一年半の間、フランス、イタリア、スイス、オーストリア、ドイツを巡った。
ファラデーはこのとき二十二才の青年で、最も印象をうけ易い年頃であったから、この旅行より得たものは実に莫大で、単に外国を観たというのみでなく、欧洲の学者を見たり、その話を聞いたりした。丁度普通の人の大学教育に相当するのが、ファラデーではこの大陸の旅行である。
この旅行についてファラデーは委細の記事を残した。これを見ると、デビーの友人の事から、旅行中の研究もわかり、これに処々の風景や見聞録を混じているので、非常に面白い。
それから税関の騒擾に吃驚したり、馬車の御者が膝の上にも達する長い靴をはき、鞭をとり、革嚢を持っているのを不思議がったり、初めてミミズを見たり、ノルマンヂイの痩せた豚で驚いたりした。
パリではルーブルを見て、その寳物を評して、これを獲たことはフランスの盗なることを示すに過ぎずというたり、旅券の事で警察に行ったら、ファラデーは円い頤で、鳶色の髪、大きい口で、大きい鼻という人相書をされた。寺院に行っては、芝居風で真面目な感じがしないといい、石炭でなくて木の炭を料理に使うことや、セイヌ河岸にいる洗濯女から、室内の飾りつけ、書物の印刷と種々の事が珍らしかった。
四月初めにはローマに向い、そこからファラデーは旅行の事どもを書いた長い手紙を母親に送り、また元の主人のリボーにも手紙を出した。そのうちには、政治上のごたごたの事や、デビーの名声は到るところ素晴らしいため、自由に旅行できることも書いてある。またパリが同盟軍に占領された由も書き加えてある。
コモ湖を過ぎてゼネバに来り、しばらくここに滞在した。
この間に、友人アボットに手紙を出して、フランス語とイタリア語との比較や、パリおよびローマの文明の傾向を論じたりしたが、一方では王立協会の前途について心配し、なおその一節には、
「旅行から受くる利益と愉快とを貴ぶことはもちろんである。しかし本国に帰ろうと決心した事が度々ある。結局再び考えなおして、そのままにして置いた。」
「近頃は漁猟と銃猟とをし、ゼネバの原にてたくさんの鶉をとり、ローン河にては鱒を漁った。」
かくファラデーが、辛棒出来かねる様にいうているのは、そもそも何の事件であるか。これにはデビイの事をちょっと述べて置く。
さて上に述べた手紙に対して、アボットは何が不快であるかと訊いてよこした。ファラデーはこの手紙を受取って、ローマで十二枚にわたる長文の返事を出した。これは一月の事だが、その後二月二十三日にも手紙を出した。この時には事件がやや平穏になっていた時なので、
ファラデーはリーブを徳としたのか、その交際はリーブの子の代までも続き、実に五十年の長きに亘った。
この頃のファラデーの日記を見ると、謝肉祭の事がたくさんかいてある。その馬鹿騒ぎが非常に気に入ったらしく、昼はコルソにて競馬を見、夕には仮面舞踏会に四回までも出かけ、しかも最後の時には、女の寝巻に鳥打帽という扮装で押し出した。
一八一五年五月には引き続いて王立協会に雇わるることとなって、俸給も一週三十シリング(十五円)に増したが、その後に一年百ポンド(一千円)となった。
今日に残っている実験室の手帳を見ると、この年の九月から手が変って、化学教授のブランドの大きな流し書きから、ファラデーの細かい奇麗な字になっている。デビーは欧洲へ出立するとき教授をやめて、ブランドが後任となり、デビーは名誉教授となって研究だけは続けておった。
ファラデーはデビーの実験を助ける外に、デビーの書いた物をも清書した。デビーは乱雑に字を書くし、順序等には少しも構わないし、原稿も片っ端しから破ってしまう。それでファラデーは強いて頼んでその原稿を残して置いてもらい、あとで二冊の本に製本した。今日に保存されている。
しかし、これは特筆に値いするものというて宜かろう。ささやかなる小川もやがては洋々たる大河の源であると思えば、旅行者の一顧に値いするのと同じく、ファラデーは講演者として古今に比いなき名人と謂われ、また研究者としては幾世紀の科学者中ことに群を抜いた大発見をなした偉人と称えられるようになったが、そのそもそもの初めをたずねれば、実にこの講演と研究とを発端とするからである。
一方で研究をすると同時に、他方では講演も上手になろうと苦心し、スマート氏について雄弁術の稽古をし、一回に半ギニー(十円五十銭)の謝礼を払ってやった位、熱心であった。