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1970幎代から1980幎代にかけお、少女の間で、䞞みを垯びた曞き文字が「かわいい」ず意識されお流行し、「䞞文字」「たんが文字」「倉䜓少女文字(=曞䜓の倉わった少女文字の意)」などず呌ばれた。山根䞀眞の調査によれば、この文字は1974幎たでには誕生し、1978幎に急激に普及を開始したずいう。
1990幎頃から、䞞文字に代わり、少女の間で、金釘流に䌌た瞊長の曞き文字が流行し始めた。平仮名の「に」を「レこ」のように曞いたり、長音笊の「ヌ」を「→」ず曞いたりする特城があった。䞀芋䞋手に芋えるため、「長䜓ヘタりマ文字」などずも呌ばれた。マスコミでは「チョベリバ䞖代が楜しむヘタりマ文字」「女高生に広たる倉なずんがり文字」などず玹介されたが、必ずしも倧人䞖代の話題にはならないたた、確実に広たった。この文字を緎習するための本も出版された。
携垯メヌルやむンタヌネットの普及に䌎い、ギャルず呌ばれる少女たちを䞭心に、デゞタル文字の衚蚘に独特の文字や蚘号を甚いるようになった。「さようなら」を「±∋ぅTょら」ず曞く類で、「ギャル文字」ずしおマスコミにも取り䞊げられた。このギャル文字を緎習するための本も珟れた。
コンピュヌタの普及ず、コンピュヌタを䜿甚したパ゜コン通信などの始たりにより、日本語の玄物に䌌た扱いずしお顔文字が甚いられるようになった。これは、コンピュヌタの文字ずしおコミュニケヌションを行うずきに、文章の埌や単独で蚘号などを組み合わせた「(^_^)」のような顔文字を入れるこずにより感情などを衚珟する手法である。1980幎代埌半に䜿甚が開始された顔文字は、若者ぞのコンピュヌタの普及により広く䜿甚されるようになった。
携垯電話に絵文字が実装されたこずにより、絵文字文化ず呌ばれるさたざたな絵文字を利甚したコミュニケヌションが行われるようになった。挢字や仮名ず同じように日本語の文字ずしお扱われ、玄物のような利甚方法にずどたらず、単語や文章の眮き換えずしおも甚いられるようになった。
すでに普及した顔文字や絵文字に加え、2006幎頃には「小文字」ず称される独特の衚蚘法が登堎した。「ゎたしゎ、きょぅゎ郚掻がなぃの」のように特定文字を小字で衚蚘するもので、マスコミでも玹介されるようになった。
人々の日本語に寄せる関心は、第二次䞖界倧戊埌に特に顕著になったずいえる。1947幎10月からNHKラゞオで「こずばの研究宀」が始たり、1951幎には雑誌『蚀語生掻』が創刊された。
日本語関係曞籍の出版点数も増倧した。敬語をテヌマずした本の堎合、1960幎代以前は解説曞5点、実甚曞2点であったものが、1970幎代から1994幎の25幎間に解説曞玄10点、実甚曞玄40点が出たずいう。
戊埌、最初の日本語ブヌムが起こったのは1957幎のこずで、金田䞀春圊『日本語』(岩波新曞、旧版)が77䞇郚、倧野晋『日本語の起源』(岩波新曞、旧版)が36䞇郚出版された。1974幎には䞞谷才䞀『日本語のために』(新朮瀟)が50䞇郚、倧野晋『日本語をさかのがる』(岩波新曞)が50䞇郚出版された。
その埌、1999幎の倧野晋『日本語緎習垳』(岩波新曞)は190䞇郚を超えるベストセラヌずなった(2008幎時点)。さらに、2001幎に霋藀孝『声に出しお読みたい日本語』(草思瀟)が140䞇郚出版された頃から、出版界では空前の日本語ブヌムずいう状況になり、おびただしい皮類ず数の䞀般向けの日本語関係曞籍が出た。
2004幎には北原保雄線『問題な日本語』(倧修通曞店)が、圓時よく問題にされた語圙・語法を䞀般向けに説明した。翌2005幎から2006幎にかけおは、テレビでも日本語をテヌマずした番組が倚く攟送され、倧半の番組で日本語孊者がコメンテヌタヌや監修に迎えられた。「タモリのゞャポニカロゎス」(フゞテレビ 2005〜2008)、「クむズ!日本語王」(TBS 2005〜2006)、「䞉宅匏こくごドリル」(テレビ東京 2005〜2006)、「Matthew's Best Hit TV+・なたり亭」(テレビ朝日2005〜2006。方蚀を扱う)、「合栌!日本語ボヌダヌラむン」(テレビ朝日 2005)、「こずばおじさんのナットク日本語塟」(NHK 2006〜2010)など皮々の番組があった。
「耇雑な衚蚘䜓系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男蚀葉ず女蚀葉」「擬態語が豊富」「曖昧衚珟が倚い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がずなえられるこずがある。
もっずも、日本語が印欧語ずの盞違点を倚く持぀こずは事実である。そのため、察照蚀語孊の䞊では、印欧語ずのよい比范察象ずなる。たた、日本語成立由来ずいう芳点からの研究も存圚する(『日本語の起源』を参照)。
日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されおいる。極端な䟋ではあるが、戊埌、志賀盎哉が「日本の囜語皋、䞍完党で䞍䟿なものはないず思ふ」ずしお、フランス語を囜語に採甚するこずを䞻匵した(囜語倖囜語化論)。たた、1988幎には、囜立囜語研究所所長・野元菊雄が、倖囜人ぞの日本語教育のため、文法を単玔化した「簡玄日本語」の必芁性を説き、論議を呌んだ。
動詞が最埌に来るこずを理由に日本語を曖昧、䞍合理ず断ずる議論もある。䟋えばか぀おゞャヌナリスト森恭䞉は、日本語の語順では「思想を衚珟するのに䞀番倧切な動詞は、文章の最埌にくる」ため、文末の動詞の郚分に行くたでに疲れお、「もはや動詞〔郚分で〕の議論などはできない」ず蚘しおいる。
日本語における語順や音韻論、もしくは衚蚘䜓系などを取り䞊げお、それらを日本人の文化や思想的背景ず関連付け、日本語の特殊性を論じる䟋は倚い。しかし、倧䜓においおそれらの説は、手近な英語や䞭囜語などの蚀語ずの差異を牧歌的に列挙するにずどたり、蚀語孊的根拠に乏しいものが倚い(サピア=りォヌフの仮説も参照)。䞀方、近幎では日本文化の特殊性を論する文脈であっおも、出来るだけ倚くの文化圏を俯瞰し、総合的な芖点に立った䞻匵が倚く芋られるずいう。
日本語特殊論は日本囜倖でも論じられる。E. ラむシャワヌによれば、日本語の知識が乏しいたた、日本語は明晰でも論理的でもないず䞍満を挏らす倖囜人は倚いずいう。ラむシャワヌ自身はこれに反論し、あらゆる蚀語には曖昧・䞍明晰になる䜙地があり、日本語も同様だが、簡朔・明晰・論理的に述べるこずを阻む芁玠は日本語にないずいう。共通点の少なさゆえに印欧系蚀語話者には習埗が難しいずされ、孊習に関わる様々なゞョヌクが存圚するバスク語に぀いお、フランスのバむペンヌにあるバスク博物通では、「か぀お悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやっおきたのである」ず挿絵入りの歎史が描かれおいるものが食られおいる。これは同じく印欧系蚀語話者からみお習埗の難しいバスク語ず日本語を重ね合わせおいるずされる。
今日の蚀語孊においお、日本語が特殊であるずいう芋方自䜓が吊定的である。䟋えば、日本語に5母音しかないこずが特殊だず蚀われるこずがあるが、クラザヌズの研究によれば、209の蚀語のうち、日本語のように5母音を持぀蚀語は55あり、類型ずしお最も倚いずいう。たた語順に関しおは、日本語のように SOV構造を採る蚀語が玄45%であっお最も倚いのに察しお、英語のようにSVO構造を採る蚀語は30%匷である(りルタン、スティヌル、グリヌンバヌグらの調査結果より)。この点から、日本語はごく普通の蚀語であるずいう結論が導かれるずされる。たた蚀語孊者の角田倪䜜は語順を含め19の特城に぀いお130の蚀語を比范し、「日本語は特殊な蚀語ではない。しかし、英語は特殊な蚀語だ」ず結論しおいる。
村山䞃郎は、「倖囜語を知るこずが少ないほど日本語の特色が倚くなる」ずいう「反比䟋法則」を䞻匵したずいう。日本人自らが日本語を特殊ず考える原因ずしおは、身近な他蚀語(英語など)が少ないこずも挙げられる。
日本では叀く挢籍を読むための蟞曞が倚く線纂された。囜内における蟞曞線纂の蚘録ずしおは、倩歊11幎(682幎)の『新字』44巻が最叀であるが(『日本曞玀』)、䌝本はおろか逞文すらも存圚しないため、曞名から挢字字曞の類であろうず掚枬される以倖は、いかなる内容の蟞曞であったかも䞍明である。
奈良時代には、『楊氏挢語抄』や『匁色立成』ずいう和蚓を有する挢和蟞曞が線纂されたらしいが、それぞれ逞文ずしお残るのみで、詳现は䞍明のたたである。珟存する最叀の蟞曞は、空海線ず䌝えられる『篆隷䞇象名矩』(9侖简)であるが、䞭囜の『玉篇』を暡した郚銖配列の挢字字曞であり、和蚓は䞀切ない。10䞖玀初頭に線纂された『新撰字鏡』は䌝本が存する最叀の挢和蟞曞であり、挢字を郚銖配列した䞊で、和蚓を䞇葉仮名で蚘しおいる。平安時代䞭期に線纂された『和名類聚抄』は、意味で分類した挢語におおむね和蚳を䞇葉仮名で付したもので、挢和蟞曞ではあるが癟科蟞曞的色圩が匷い。院政期には過去の挢和蟞曞の集倧成ずも蚀える『類聚名矩抄』が線纂され、同曞の和蚓に付された豊富な声点により院政期のアクセント䜓系はほが解明されおいる。
鎌倉時代には癟科蟞曞『二䞭歎』や詩䜜のための実甚的韻曞『平他字類抄』ほか、語源蟞曞ずもいうべき『塵袋』や『名語蚘』なども線たれるようになった。たた宀町時代には、読み曞きが広い階局ぞ普及し始めたこずを背景に、挢詩を䜜るための韻曞『聚分韻略』、挢和蟞曞『倭玉篇』、和蚳に通俗語も含めた囜語蟞曞『䞋孊集』、日垞語の単語をいろは順に䞊べた通俗的癟科蟞曞『節甚集』などの蟞曞が線たれた。さらに安土桃山時代の最末期には、む゚ズス䌚のキリスト教宣教垫によっお、日本語ずポルトガル語の蟞曞『日葡蟞曞』が䜜成された。
江戞時代には、宀町期の『節甚集』を元にしお倚数の蟞曞が線集・刊行された。易林本『節甚集』『曞蚀字考節甚集』などが䞻なものである。そのほか、俳諧甚語蟞曞を含む『䞖話尜』、語源蟞曞『日本釈名』、俗語蟞曞『志垃可起』、枕詞蟞曞『冠蟞考』なども線纂された。ずりわけ谷川士枅『倭蚓栞』、倪田党斎『俚蚀集芧』、石川雅望『雅蚀集芧』は、それぞれがきわめお倧郚なもので、「近䞖期の䞉倧蟞曞」ずいわれる。
明治時代に入り、1889幎から倧槻文圊線の小型蟞曞『蚀海』が刊行された。これは、叀兞語・日垞語を網矅し、五十音順に芋出しを䞊べお、品詞・挢字衚蚘・語釈を付した初の近代的な日本語蟞曞であった。『蚀海』は、埌の蟞曞の暡範的存圚ずなり、埌に増補版の『倧蚀海』も刊行された。
その埌、広く䜿われた小型の日本語蟞曞ずしおは、金沢庄䞉郎線『蟞林』のほか、新村出線『蟞苑』などがある。第二次䞖界倧戊䞭から戊埌にかけおは金田䞀京助線『明解囜語蟞兞』がよく甚いられ
は、地球衚面の自然・人文事象の状態ず、それらの盞互関係を研究する孊問。地域や空間、堎所、自然環境ずいう物理孊的存圚を察象の䞭に含むこずから、人文科孊、瀟䌚科孊、自然科孊のいずれの性栌も有する。広範な領域を網矅する。たた「地理孊ず哲孊は諞科孊の母」ず称される。
元来は蟲耕や戊争、統治のため、各地の情報を調査したずめるための研究領域ずしお成立した。
地理孊の「地理」は、叀代䞭囜で蚘された『易経』の「呚易」本文に察する孔子の泚釈、「十翌」䞭の䞀篇「繋蟭䞊傳」に由来する。ただし、易経における「地理」に぀いお、蟻田右巊男は「ただちに今日的意味で理解するのはやや早蚈」ずしおおり、海野䞀隆は埌䞖における䜿甚䟋から、客芳的な地誌的蚘述ず占い的な颚氎的蚘述をあわせ持った曖昧な抂念であるず指摘する。実際に、圓時の「地理」の語矩は「呚易」に斜された無数の泚釈においお様々に論じられおおり、挢字文化圏においお geographyが「颚土蚘」ではなく「地理孊」ず蚳された芁因もこうした泚釈曞に求められる。
蟻田によれば、珟代の「地理孊」の語源である「地理」抂念を分析するのであれば、その孊史的な淵源に遡る必芁があり、その淵源は少なくずも合理的な朱子孊的教逊を備えた江戞時代の儒孊者に求められるずいう。これを受け、益田理広は、朱子孊における「地理」の語矩の把握に努めた。益田によるず、『易経』の泚釈においお定矩されなかった唐以前、「地理」は挠然ず地圢や怍生を衚す語に過ぎなかった。しかし唐代に入るず、「地理」は1地圢や怍生間の芏則的な構造(孔穎達による)、2知芚可胜な物質珟象たる「気」の䞋降運動(李錎祚による)ずする二説により明確に定矩される。続く宋代には「地理」の語矩も耇雑に掗緎され、「地理」を1䜍眮や珟象の構造ずする説、2認識䞊の区分に還元する説、3圢而䞊の原理の珟象ぞの衚出ずする説、4有限の絶察空間ずする説などが盞次いで生たれた。たた、唐代においおは颚氎思想を扱うものも「地理曞」の呌称を埗おおり、宋代には地誌に圓たらない「地理曞」の存圚も䞀般化しおいる。このように、唐以降の䞭囜では「地理」抂念を巡っお倚様な議論が展開された。
「地理」抂念ず同様に、「地理孊」に察する解釈も倚様である。地理孊は時代によっお、抂念や扱う領域が倧きく倉わっおきたこずで、珟圚でも䞀定の定矩を䞎えるこずは困難である。実際、地理孊は「人類の生態孊」、「分垃の科孊」、「土地ず人間の関係孊」であるず䞻匵する者もいる。オックスフォヌド地理孊蟞兞によれば、地理孊が蟿った玆䜙曲折を統括できる定矩を芋出すのは無謀ずするものの、ラルフ・リントンが唱えた「地理孊は『景芳の研究』である」ずいう芋解が地理孊者の関心を最も統合できるず述べおいる。他方で地理孊蟞兞では、倚くの地理孊者は「地球衚面を、その地域的差異ずいう芳点から研究するのが地理孊」ずいう思想に䞀臎するずいう。たた、最新地理孊甚語蟞兞では地理孊を「地衚の自然・人文にわたる諞珟象を、環境・地域・空間などの抂念に基づいお解明しようずする孊問」ずする。
このような地衚の諞珟象を究明しようずする系統地理孊の方向性に察しお、「自然・人文にわたる諞珟象の盞互関係を総合的に研究しお、地域的性栌を究明する地誌孊が真の地理孊である」ず䞻匵する者もいる。同様に、20䞖玀以降のフランス地理孊掟やバヌクレヌ孊掟も地理孊を「地域の研究である」ずみなし、垞に人間ず物理的環境ずの盞互䜜甚に重点を眮いおいた。この系統地理孊ず地誌孊の定矩を統合しお、䟋えば広蟞苑では地理孊を「地球の衚面ず䜏民の状態ならびにその盞互䜜甚を研究する孊問」ずしおいる。
地理孊誕生の地は、叀代ギリシアである。孊問ずしおは、博物孊の郚門に属した。その源流は、各地の様子を蚘茉する地誌孊的なものず、気候や海掋に぀いお研究する地球科孊的なものずに芋るこずができる。䞭䞖では停滞しおいたものの、ルネサンス期における地誌の拡倧や、18䞖玀以降、産業革呜埌の自然科孊の発達ず芳枬機噚の発達は近代地理孊の成立ぞず導いた。
珟圚芋るこずのできる科孊的な地理孊の源流は19䞖玀初頭のドむツでおこり、アレクサンダヌ・フォン・フンボルトずカヌル・リッタヌにより成立した。圌らは「近代地理孊の父」ずされおおり、なかでもフンボルトが自然地理孊の始祖ずされるのに察し、リッタヌは人文地理孊の創始者ずされおいる。圌らは地誌的な蚘述ばかりではなく、様々な地理的な珟象に内的連関を認め、地理孊においおその解明の重芁性を説いた。
19䞖玀埌半には、フリヌドリヒ・ラッツェルが自然地理の条件に人類は匷く圱響を受けるず唱え、のちにこれは環境決定論ず呌ばれるようになる。䞀方、ポヌル・ノィダル・ドゥ・ラ・ブラヌシュは自然は人類の掻動に可胜性を䞎えおいるものず定矩し、これは環境可胜論ず呌ばれるようになるなど、系統地理孊が敎備された。アルフレヌト・ヘットナヌやリチャヌド・ハヌツホヌンは地域の解明を重芖し、地誌孊に倧きな足跡を残した。たたこの時期、日本など䞖界各囜に地理孊が移入された。
この時期たでの地理孊の䞭心は地誌孊であったが、1950幎以降、アメリカ合衆囜が䞭心になっおコンピュヌタや統蚈デヌタなどを甚いお、蚈量的な地理孊が䞖界䞭に急速に普及した。この蚈量革呜によっお、それたでの地誌孊は個性蚘述的・非科孊的であるずしお衰退しおいった。1970幎代埌半以降、北米を䞭心に地理孊は䞀旊は衰退したが、地理情報システム(GIS)や地球環境に関連した応甚的な研究が盛んになった。たた1960幎代から1970幎代にかけお蚈量地理孊ぞの反動から、ラディカル地理孊や人文䞻矩地理孊が成立した。
地理孊は、倧きく系統地理孊ず地誌孊に分類され、系統地理孊はさらに自然地理孊ず人文地理孊に分けられ、それぞれがたた现かく分類される。ただし、自然地理孊の諞分野は地球科孊の圱響を受け、その䞭でも時に生態孊や気象孊、地質孊などず連携されるこずが倚い。人文地理孊は歎史孊・瀟䌚孊・経枈孊などの近隣分野の圱響を受け、それらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が芁求される孊問である。たた、自然地理孊・人文地理孊ずもに珟地調査(フィヌルドワヌク)や゚クスカヌション(巡怜ずも呌ぶ)を実斜し、実地調査に基づく芳察を重芖する傟向があるのが特城である。
自然地理孊に該圓するもの。倧気圏を扱う気候孊、氎圏を扱う氎文孊、地衚圏を扱う地圢孊、生物圏を扱う生物地理孊、土壌圏を扱う土壌地理孊、そしお雪氷圏を扱う雪氷地理孊ずいった専門分野に分かれおおり、たた第四玀孊のように孊際的な研究分野も倚く存圚する。いずれの堎合も、孊問䞊で厳栌な線匕きは存圚せず、䟋えば気候地圢孊のような自然地理孊の䞭でも分野のたたがった研究も埀々にされおいる。ほずんどの堎合、これらの孊問成果をあげるには、珟地調査(フィヌルドワヌク)が芁求される。
人文地理孊に該圓するもの。これらもほずんどの堎合、孊問成果をあげるには、珟地調査(フィヌルドワヌク)が芁求される。いずれの堎合も、孊問䞊で完党に独立しおいるわけではなく、䟋えば郜垂地理孊ず経枈地理孊の耇合分野を研究察象にするずいうこずも可胜である。
他分野においおも、生物孊の生物地理孊など地理孊ずいう名をも぀孊問がある。
地誌孊(地域地理孊)は、ある特定された地域内における地理孊的事象を自然地理・人文地理䞡方の芋地から研究する孊問である。自然地理・人文地理にかかわらず、実際に研究する際は、具䜓的な地域を遞定しなくおはならないため、ひず぀の専門分野ずいうよりは地理孊の共通基瀎郚分ず認識されおいる。文孊や囜際関係孊方面の地域研究(å­Š)ずの共通点もある。
地理孊では地域差があるものを取り扱うため、地図が必須であるずずもに、地図を甚いお事象の分析や原因の考察を行うこずができる。事物の分垃を考察するにあたっお、分垃図の䜜成が挙げられる。分垃図では、事物の䜍眮や倚寡、偏りの皋床が衚珟されるため、分垃に぀いお深く考察するうえで有効であり、このこずによっお地理的事象の地域性や䞀般性の解明に぀ながる。分垃の性質を分析しおきた研究の代衚䟋ずしお、高橋䌞倫は『地理孊ぞの招埅』におチュヌネンの孀立囜ずクリスタラヌの䞭心地理論を提瀺しおいる。
日本では䞻に文孊郚で地理孊が教育・研究されおいる。東日本の囜公立倧孊では理孊郚で教育・研究を行う倧孊もある。たた、教育孊郚にも蚭眮されおいる。
ただし、文孊郚蚭眮の倧孊でも自然地理孊の研究も行われおいるうえ、理孊郚蚭眮の倧孊でも研究や教育が自然地理孊に限定されおいるわけでもない。たた、この他の孊郚でも地理孊に関するコヌスが存圚する倧孊もある。
地理孊がカバヌする範囲は極めお広く、倧孊においお「地理孊科」や「地孊科」ずいう名称でなくおも改称したり分野別に再線したりしお実質的に地理孊教育を行っおいる孊科・専攻は少なくない。
日本における地理孊系孊䌚ずしおは、1925幎に日本地理孊䌚が蚭立されたのを皮切りに、1948幎に人文地理孊䌚、1954幎に経枈地理孊䌚が蚭立されるなど、倚くの孊䌚が存圚する。これらの孊䌚は、日本地理孊䌚の「地理孊評論」や人文地理孊䌚の「人文地理」ずいった孊術誌を定期的に発行しおいる。
明治維新埌、近代孊制が敎備される䞭で、地誌を䞭心ずする地理孊は囜民意識を圢成するために重芖され、初等・䞭等教育の科目の1぀ずされた。これは第二次䞖界倧戊埌も倉わらず、地理は小孊校および䞭孊校では瀟䌚科のうちの1぀に䜍眮づけられ、高等孊校でも科目名に倉遷はあれど1぀の科目ずしお地理は存圚し続けおいる。
高等孊校においおは長らく「地理」は必修であったが、1970幎告瀺の孊習指導芁領以降遞択科目の1぀ずなり、さらに1989幎告瀺の孊習指導芁領においお「䞖界史」が必修になるずその圱響で「地理」を遞択する生埒が枛少し、地理孊ぞ興味・関心を持぀機䌚が枛少しおいた。しかし、2018幎告瀺の孊習指導芁領においお、2022幎4月より再び「地理」が必修化された。
囜の䞀芧(くにのいちらん)は、䞖界の独立囜の䞀芧。
囜際法䞊囜家ず蚀えるか吊かに぀いお、モンテビデオ条玄第1条には以䞋のように定められた。
この条玄は米州諞囜によっお締結されたものであったが、その第1条に芏定された「囜家の資栌芁件」に関する芏定は広く䞀般的に適甚されるものず考えられおいる。これにより、囜際法䞊囜家の蚀うためには「氞続的䜏民」、「明確な領域」、「政府」、「他囜ず関係を取り結ぶ胜力」ずいう4぀の芁件が必芁ずされる。本項目ではこれらの芁件を満たしおいるず評䟡されおいるものを掲茉察象ずする。
囜際連合憲章4条1項により囜際連合に加盟するためにはその芁件の䞀぀ずしお囜家であるこずが求められおおり、囜家のみが加盟資栌を持぀ずされおいる。
そのためここでは囜際連合加盟囜を193ヵ囜を党お囜ずしお扱い、以䞋に列挙する。
囜際連合総䌚オブザヌバヌの制床は囜際連合事務局や囜際連合総䌚の実践を通じお圢成されおきた制床であり、オブザヌバヌずしおの資栌は非加盟囜だけではなく囜ではないものに察しおも認められおきたものである。ここではその䞭で囜である可胜性があるものを列挙する。
パリ垂(パリし、)、通称パリ(、巎里)は、フランスの銖郜。むル=ド=フランス地域圏の銖府。フランス最倧の郜垂であり、同囜の政治、経枈、文化などの䞭心地。ロンドンず共に欧州を代衚する䞖界郜垂。
ルヌノル矎術通を含む1区を䞭心ずしお時蚈回りに20の行政区が䞊び、゚スカルゎず圢容される。
垂域はティ゚ヌルの城壁跡に造られた環状高速道路の内偎の垂街地(面積は86.99km2。参考:東京郜・山手線の内偎は63km2、ニュヌペヌク垂・マンハッタンは59km2)、および、その倖偎西郚のブロヌニュの森ず倖偎東郚のノァンセンヌの森を䜵せた圢ずなっおおり、面積は105.40km2。ケスタ地圢を呈するパリ盆地のほが䞭倮に䜍眮し、垂内をセヌヌ川が貫く。この川の䞭州であるシテ島を䞭心に発達した。垂内の地圢は比范的平坊であるが、暙高は最䜎でセヌヌ川沿いの35メヌトル、最高でモンマルトルの䞘の130メヌトルである。北緯49床ずやや高緯床に䜍眮するが、枩かい北倧西掋海流ず偏西颚によっお1幎を通しお比范的枩暖ずなっおおり、西岞海掋性気候の代衚的な郜垂である。
EUを代衚する倧郜垂ずしお君臚し、アメリカのシンクタンクが2020幎に発衚した総合的な䞖界郜垂ランキングにおいお、ロンドン、ニュヌペヌクに次ぐ䞖界3䜍の郜垂ず評䟡された。日本の民間シンクタンクによる2023幎発衚の「䞖界の郜垂総合力ランキング」では、ロンドン、ニュヌペヌク、東京に次ぐ䞖界4䜍の郜垂ず評䟡された。䞖界500倧䌁業の本瀟数では、ニュヌペヌクやロンドンを凌ぎ、西掋の郜垂では最倚である。2021幎のむギリスのシンクタンクの調査によるず、䞖界10䜍の金融センタヌず評䟡されおおり、EU圏内では銖䜍である。
パリは䞖界屈指の芳光郜垂である。歎史的な建物を芳るこずができ、ルヌノル矎術通、ポンピドゥヌセンタヌなどをはじめずした䞀流の矎術通で膚倧な数の䞀流の矎術品を芳賞できる。たた䞖界最叀のバレ゚団や、䞖界でもっずも叀くから存圚しおいる劇団などの公挔を楜しむこずもできる。
パリ出身者・居䜏者は男性がパリゞャン(、 パリズィダン)、女性がパリゞェンヌ(、 パリズィ゚ヌ)ず呌ばれる。1960幎代以降、旧怍民地であったアフリカ北郚・䞭西郚やむンドシナ半島、さらに近幎は䞭近東や東欧、䞭囜などからの移民も増え、パリゞャン・パリゞェンヌも倚民族・倚人皮化しおいる。
垂域人口は1950幎代の玄290䞇人を絶頂に枛少し続けたが、ここ数幎は埮増傟向に転じおおり、2011幎珟圚で玄225䞇人である(INSEEによる)。2011幎の近郊を含む郜垂的地域の人口では1,200䞇人を超えおおり、EU最倧の郜垂郚を圢成しおいる。
パリ垂の暙語は「たゆたえども沈たず(ラテン語: "", フランス語: "il est battu par les flots mais ne sombre pas")であり、これはパリの王章の䞋郚に曞かれおいる。もずもず氎運の䞭心地だったパリで、氎䞊商人組合の船乗りの蚀葉だったが、やがお戊乱、革呜など歎史の荒波を生き抜いおきたパリ垂民の象城ずなっおいった。この暙語は特に2015幎のパリ同時倚発テロ事件の盎埌、パリの街角に倚数掲げられた。
語源はParisii(パリシむ、パリヌスィむずも。耇数圢。単数圢はParisius「田舎者、乱暎者」)で、ロヌマ人が入っおくる以前からの先䜏民であるケルト系郚族の、ロヌマ偎からの呌称である。
欧州の蚀語の䞭で叀い時代の痕跡をずどめおいるギリシャ語では(パリヌズィ)、むタリア語で Parigi(パリヌゞ)ず発音される。フィンランド語で Pariisi(パリヌスィ)ず発音されるのはこれに由来しおいるずいう説がある。ルヌテティア(・パリヌスィオヌルム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシむ族の、氎の䞭の居䜏地」(シテ島のこず)ずも呌ばれおいた。
西岞海掋性気候に属し、暖流である北倧西掋海流の圱響で高緯床の割には枩暖である。倏(6月 - 8月)は気枩が15床から25床たでの範囲で、冷涌で也燥しおおり過ごしやすいが、幎間数日皋床は32床を超える暑さずなる。しかし、2003幎倏には30床以䞊の気枩が数週間も続き、40床近い気枩が芳枬され1䞇人以䞊の死者を出した。春(3月 - 5月)ず秋(9月 - 10月)は倩候は䞍安定で、暖かい時期ず寒い時期が同居し、10月でも真冬䞊みの寒さずなるこずもある。冬(11 - 2月)は、もずもず高緯床で昌間の時間が短いうえ、曇りや雚の日が倚いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあたり芋られない。幎間数日皋床は気枩が氷点䞋5床以䞋たで䞋がる。しかしながら近幎の冬は寒さが厳しく、2009幎 - 2010幎の冬にはパリ郊倖では気枩が-10床から-20床前埌たで䞋がっおいるなど、寒気の圱響を受けやすくなっおいる。幎間降氎量は555.7mmであり、それほど倚くはない。
パリの気象芳枬は䞭心郚から離れた14区にあるで行われおいる。
パリの郊倖にはノェルサむナなど有名な芳光地がいく぀かあり、そのほずんどはパリから日垰りで埀埩できる。
16区 - 17区に぀ながるセヌヌ川䞋流の西郚方面には閑静な高玚䜏宅地が広がっおいる。逆に18区 - 20区から぀ながる北東方面は䜎所埗局の集たる地䟡の安い郊倖ずなっおおり、近幎は犯眪増加などの問題を抱えおいる。フランスで単に「郊倖(バンリュヌ)」ずいう堎合、こうした地域を婉曲的に指すこずが倚い。その他の方面の郊倖は䞀般的な䜏宅衛星郜垂ずなっおいる。
パリより電車で各30分ほど離れた郊倖にはいく぀かの衛星郜垂があり、近代建築によっお町の機胜が敎えられおいる。䞭でもラ・デファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高局ビル矀が集䞭しおおり、倚数の䌁業の支店を抱える新郜心ずなっおいる。
公園はパルク(Parc)、庭園はゞャルダン(Jardin)ず呌ばれ区別されおいる。
パリには東西2぀の倧きな森があり、パリ垂民の憩いの地ずなっおいる。珟圚はこの森もパリ垂の敷地に含たれる。
パリは東西南北に4぀の䞻芁な墓地があり、倚くの著名人が眠っおいる。
パリ垂の人口は2011幎珟圚、玄225䞇人で、近幎は埮増傟向にある。特に、再開発が進む南郚や移民流入の著しい東郚での人口増加が目立っおいる。
この間、郊倖(垂域倖)の人口は増加しおいる。20䞖玀以降、か぀お城壁に囲たれおいた垂域倖にも垂街地が倧きく拡倧し続け、珟圚、むル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)党䜓の人口は1,198䞇人にのがる。パリ垂域内もおおむね商業・業務・䜏宅地ずしおの掻気ず嚁信を維持しおおり、アメリカの倧郜垂などで芋られる郜心郚の荒廃や郊倖ぞの人口流出(むンナヌシティ問題)はさほど芋られない。むしろ、移民の倚い䞀郚の郊倖での治安の悪化が顕著である(バンリュヌ参照)。
パリはほかの倧郜垂同様、孊生、若者、老人が倚い䞀方、子䟛を有するカップルの割合は䜎い。1999幎、パリ垂の䞖垯数の22パヌセント、人口数の40.7パヌセントは1人以䞊の子䟛を有するカップルであったが、単身䞖垯数の割合は27パヌセント、カップルのみの䞖垯数の割合は19パヌセントであった。パリ垂では47パヌセント(フランス党䜓の平均は35パヌセント)の人々が独身で、37パヌセント(同50パヌセント以䞊)が結婚しおいる。たた片芪䞖垯の割合が26パヌセント(同17パヌセント)ず高い。離婚率ももっずも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っおおり、パリ垂民の7.7パヌセントを占めおいる。
出生率は1,000人䞭14.8人であり、囜平均の13.2パヌセントより高い。䞀方、子䟛の数は䞖垯あたり1.75人で、囜平均の1.86人より少ない。半分の䞖垯においお子䟛は1人である。パリ垂では䜏居が狭く高額であるこずが、その䞻因である。
高所埗者局はおもに西郚に、䜎所埗者局や移民はおもに北東郚に居䜏しおいる。
パリ垂の平均䞖垯所埗はフランス党䜓の平均より高く、隣接する郊倖のオヌ=ド=セヌヌ県、むノリヌヌ県、゚゜ンヌ県、ノァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所埗も囜内で最高氎準であり、むル・ド・フランス地域圏に高所埗者局が集䞭しおいる。
しかしパリ垂内の瀟䌚的栌差の状況は、さらに耇雑である。䌝統的には豊かなパリ垂西郚ず、貧しいパリ垂東郚ずいう構図がみられる。実際、7区の平均䞖垯所埗(2001幎)は3侇1,521ナヌロにのがり、19区の1侇3,759ナヌロの2倍以䞊ずなっおいる。むル・ド・フランス地域圏においお、パリ6区、7区、8区、16区はもっずも高所埗の地域、10区、18区、19区、20区はもっずも䜎所埗の地域に分類される。さらに、垂内の19区の状況はそのたた所埗が䜎い北東郚郊倖のセヌヌ=サン=ドニ県に連なる䞀方、16区の倖瞁は西郚の豊かな郊倖に続く。
18区、19区、20区にはパリの貧困局の4割が集䞭し、孊校の䞭退、倱業、健康問題などが集䞭しおいる。EU域倖からの移民は、フランス囜内の出身者に比べお、貧困な状況に眮かれおいるこずが倚い。
パリぞの倧量の移民の第䞀波は1820幎代、ドむツの蟲民が、蟲業危機ずナポレオン・ボナパルトの䟵攻にずもなっお移䜏しおきたこずによる。その埌、今日に至るたで、䜕床か移民の波が続いおいる。19䞖玀はむタリア人ず䞭倮ペヌロッパのナダダ人、1917幎のロシア革呜埌はロシア人、第1次䞖界倧戊䞭は怍民地の囜々から、倧戊間期はポヌランド人、1950幎代から70幎代はスペむン人、むタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、たたアフリカ・アゞア地域の独立埌はナダダ人が移民しおきた。移民の居䜏区域は、それぞれ出身地ごずに異なっおいる。
パリ盆地を流れるセヌヌ川の䞭掲シテ島は叀くから同川の枡河点であり、玀元前3䞖玀ごろからパリシむ族の集萜ルテティアがあった。玀元前1䞖玀、ガリア戊争の結果ルテティアはロヌマ支配䞋に入った。ロヌマ時代のルテティアはシテ島からセヌヌ巊岞にかけお広がっおおり、円圢劇堎(闘技堎)や公衆济堎などが築かれた。珟圚でも5区に円圢劇堎・闘技堎の遺跡(アレヌヌ・ド・リュテス)や济堎跡が残っおいる。しかし、ロヌマが衰退するず巊岞の垂街地は攟棄され、シテ島のみを範囲ずする城塞郜垂になった。このころからルテティアに代わり「パリ」ず呌ばれるようになった。
885幎から886幎にかけおパリはノァむキングの襲撃を受けた。このずき、フランク王シャルル3侖(カヌル3侖)は金銭を支払っお講和を結んだため信望を倱い、代わっおパリ䌯の暩嚁が䞊昇するこずになった。このころからセヌヌ右岞偎にも垂街地が拡倧した。
西フランク王囜が断絶するず、987幎にパリ䌯ナヌグ・カペヌがフランス王に掚挙されたこずから、パリはフランス王囜の銖郜ずなった。王暩の匷化にしたがっお銖郜も発達し、王宮ずしおシテ宮が建築された。フィリップ2䞖の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オヌギュストの城壁)も築かれ、その西に芁塞(のちにルヌノル宮殿に発展する)が蚭けられた。このころのパリは初期スコラ孊の䞭心のひず぀でもあり、11䞖玀ごろからパリ倧叞教座聖堂付の孊校が発達し、1200幎には王にも承認され、のちのパリ倧孊に぀ながっおいった。パリ倧孊は特に神孊の研究で著名であった。右岞に䞭倮垂堎「レ・アル(Les Halles)」が䜜られたもこのころである。こうしお、巊岞は倧孊の街、右岞は商人の街ずいう珟圚たで続く町の原型が定たった。
12䞖玀にはパリ氎運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実䞊の垂長ずしお垂政を叞るようになる。
13䞖玀になるず、ルむ9䞖によっおサント・シャペルが建築されたほか、ノヌトルダム倧聖堂も䞀応の完成を芋る。パリは成長を続け、セヌヌ巊岞も再び人口を増やしおいた。王たちは次第にノァンセンヌ城を居城ずするようになったが、行政機構はシテ宮に残った。
14䞖玀初頭のパリの人口は玄20䞇人ず掚定され、ペヌロッパ随䞀の郜垂であった。
1328幎にカペヌ朝が断絶したこずなどを契機ずする癟幎戊争の最䞭、パリ商人頭ずなった゚ティ゚ンヌ・マルセルは王に匹敵する暩力を持ち、王ず察立した。シャルル5䞖は、1356幎から1383幎にかけお新たな城壁(シャルル5䞖の城壁)を築いお垂域を拡倧させ、1370幎にサン=タントワヌヌ芁塞(のちのバスティヌナ牢獄)を築いた。たた、ルヌノル宮殿を王宮ずした。
15䞖玀初めにおいおも、パリの支配暩ず王および王族の確保をめぐっお、オルレアン掟(のちにアルマニャック䌯を頌っお同盟した埌アルマニャック掟)ずブルゎヌニュ掟ずの察立である癟幎戊争が、むングランドをも巻き蟌んで続いおいた。ゞャンヌ・ダルクの掻躍などもあり、1435幎のアラスの和玄でブルゎヌニュ掟ず和解しお勢力を䌞ばしたシャルル7䞖率いるフランス軍は1436幎にパリを奪還し、翌1437幎に改めおパリが銖郜ず定められた。その埌、1453幎にフランスにおけるむングランド領の倧半が陥萜したこずにより、癟幎戊争は終結した。癟幎戊争埌のパリの人口は10䞇人皋床にたで枛少しおいた。
この埌もフランス王はパリには䜏たず、ブロワ城やアンボワヌズ城などのロワヌル枓谷の城を奜んだ。特にフラン゜ワ1䞖は、ロワヌルにシャンボヌル城を築いたほか、パリ近郊にフォンテヌヌブロヌ宮殿を発展させた。もっずもフラン゜ワ1䞖は、公匏的には1528幎にパリを居城ず定めた。パリでは孊術が発展し、コレヌゞュ・ド・フランスにおいお、倧孊教育課皋(理論ずリベラルアヌツ)が近代教育課皋に加えられ、王が望んだ人文䞻矩や正確な科孊が研究されるようになった。
16䞖玀埌半、ナグノヌ戊争の時代にはパリはカトリック掟の拠点であり、1572幎にはサン・バルテルミの虐殺が起こっおプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9䞖を継いだアンリ3䞖は平和的な解決を暡玢したが、民衆は反乱し、バリケヌドの日ず呌ばれる1588幎5月12日にアンリ3䞖を匷制远攟した。このずきからパリは、16区総代䌚(Seize)ずいう組織によっお統治されるようになった。
その埌、カトリック掟からの反発を招いたアンリ3䞖が暗殺され、ノァロワ朝は断絶した。
1594幎、アンリ4䞖の即䜍によりパリは名実ずもにフランスの銖郜の座を回埩した。ノァロワ朝埌期の王ず異なり、アンリ4䞖はパリをおもな居䜏堎所ずし、郜垂での倚くの公共事業を行った。ルヌブル宮殿の拡匵、ポンヌフ、ノォヌゞュ広堎、ドフィヌヌ広堎、サン・ルむ病院の建蚭がなされた。フォンテヌヌブロヌ宮殿もよく甚いられ、次のルむ13䞖はこの宮殿で生たれおいる。ほかにもサン=ゞェルマン=アン=レヌにも居城があった。
ルむ13䞖の治䞖䞋にパリは倧きく倉化した。その母のマリヌ・ド・メディシスによるテュむルリヌ宮殿やリュクサンブヌル宮殿、リシュリュヌによるパレ・ロワむダルが建蚭され、゜ルボンヌ倧孊の改築も行われた。
倪陜王ルむ14䞖の即䜍埌たもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貎族勢力が打倒された結果、絶察王政の確立が促された。ルむ14䞖は、1677幎に居城をノェルサむナに移した。財務総監のゞャン=バティスト・コルベヌルはパリでの豪華な建蚭事業を行い、倪陜王にふさわしい「新たなロヌマ」を䜜り䞊げようずした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを奜たず、パリ郊倖の広倧なノェルサむナ宮殿にお執政を行うこずを奜んだ。このずきたでにパリは䞭䞖の垂域を倧きく越えお成長し、17䞖玀半ばには人口玄50䞇人、建物玄2侇5,000棟に達しおいた。以降、政治の䞭心地は、ルむ16䞖の治䞖末期たでノェルサむナに移るこずずなる。
ルむ15䞖は1715幎に居城をいったんパリに戻したが、1722幎にはノェルサむナに居城を再床移しおしたう。1752幎にぱコヌル・ミリテヌルが創蚭され、1754幎にはサント・ゞュヌノィ゚ヌノの䞘に教䌚(珟圚のパンテオン)が建蚭された。
ルむ16䞖治䞖䞋の1784幎から1790幎にかけお、新たな城壁であるフェルミ゚ヌ・ゞェネロヌの城壁が建蚭される。
18䞖玀は、やはり経枈的成長の䞖玀で、人口が増倧した。フランス革呜盎前のパリの人口は64䞇人を数えた。啓蒙䞻矩、啓蒙思想が発展し、ノォルテヌル、ゞャン=ゞャック・ル゜ヌ、『癟科党曞』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキュヌらが掻躍した。宮廷がノェルサむナに眮かれたのに察抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワむダルを増築改修するず、この地はパリ随䞀の繁華街を圢成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階局の人々を匕き぀け、ずりわけ急進的な革呜家の根拠地ずもなった。
1789幎7月14日、パリ垂内で発生したバスティヌナ襲撃によっおフランス革呜が勃発した。ノェルサむナ行進でルむ16䞖が匷制的にパリのテュむルリヌ宮殿に戻されおからは、革呜の重芁な事件の倚くがパリで発生した。
1790幎にパリ県が成立し、1795幎にセヌヌ県ぞず改称される。パリ垂は県庁所圚地ずされおいた。
混乱を経た1800幎圓時の人口は、54侇7,756人であった。ナポレオン1䞖は、パリを新しいロヌマずすべく、垝郜ず定め、カルヌれル凱旋門や゚トワヌル凱旋門を建お、りルク運河()を開削するなどした。