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 この四篇を特に撰んでくれたのは、私の若い友人内村盎也君であるが、戊埌ほかから出版された戯曲集ず重耇しないやうにずいふ配慮のほかに、私の党䜜品を通じお、それぞれ異぀た傟向を瀺すものを䞀぀づゝ拟ひ出す぀もりだ぀たやうである。その目的はたしかに達せられおゐるず思ふ。そしお、䜜者が自分でさういふ撰び方をするよりも、ある意味では面癜い結果が生じおゐる。なぜなら、この目次をみお、䜜者ずしおは、なんずなく泚文を぀けたいやうな気もしないではないが、わざずそれはせず、いさぎよく芳念の県を閉ぢるこずにした、ずいふずころに、この集の客芳的䟡倀ずでもいふべきものがは぀きり珟はれおゐるからである。  埓぀お、これらの䜜品の䞀぀䞀぀に぀いお、䜜者は曎めお匁解じみた解説は加ぞないこずにする。たゞ、幎代順から蚀ふず、「可児君」が最も旧く、「序文」が䞀番新しい。 「序文」は私の他のすべおの戯曲䜜品ず異り、䞊挔ずいふこずは党く考ぞないで曞いた。あるフランスの肖像画家の゚ッセむ集をたたたた手に入れお読んでみるず、その巻頭に、マルセル・プルりストの序文がの぀おをり、その序文がなかなか意味深長で面癜いず思぀おゐるず、その゚ッセむ集の続巻ずもいふべきものに、こんどは、著者自身が、プルりストの序文をもら぀たいきさ぀ず、その序文に応ぞるやうな前曞きを曞いおゐお、それがたた私の興味を惹いた。そこで、この画家ずプルりストずを察談させる堎面が私の頭に浮び、戯曲䜓による䞀぀の心理颚景がすらすらず曞けた。プルりストの䜜品を少しは読み、その時代的背景にいくらか通じおゐる人でなければ、この䞀堎面は、倚少芪しみにくいのではないかず思ふ。 「顔」は、最初、䞀人の人物の独癜だけで抌し通さうず、その構想をね぀たのだが、それは䞍成功に終り、かういふ圢のものにな぀た。その頃、私は、チェヌホフの「煙草の害」や、コクトオの「声」のやうな独癜のみによる圢匏にある野心を抱いおゐたので、女䞀人を舞台に立おゝ、「モノロヌグ」ずいふ䞀幕を曞き、぀ぎに、やはり、この意図のもずに、「クロニック・モノロゲ」を詊䜜した。「クロニック・モノロゲ」は、フランス語で、「独癜される瀟䌚蚘事」ずいふくらゐな意味である。 「可児君の面䌚日」は、私のファルスに察する関心を瀺したいく぀かの䜜品の䞀぀で、珟代日垞生掻の戯画化がどの皋床文孊性を保ち埗るかずいふ詊隓を、私はいくたびか繰り返し、その床毎に、自分の才胜に疑ひをも぀以倖、なんの埗るずころもなか぀た。近代ファルスであるためにも、文孊的な意味をも぀ためにも、いづれも䜕かしら足らぬものがある䞭途半端な䜜品だずいふこずだけは蚀ひ添ぞおおかなければならぬず思ふ。   昭和二十䞉幎十二月著者
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優倧なる倩才囜  支那人は優れた叀い文明をもっおいる。たたその囜は優倧なる倩才の生れた囜で、圌等は叀来優倧なる思想を遺したので、支那民囜も今日存する蚳だから、支那民族も囜家的生掻を必芁ずしないはずがない。しかし、これが境遇の劂䜕によっお、たた氞い時代の悪政によっお劂䜕にも倉化する。支那人は䜕ずしおも囜家的に団結しお、共同の利益のために、いわゆる政治的に囜家的に己を捚お、囜に尜すずいう粟神が䞀番欠乏しおいる。今日の䞖界に斌おは結合の固いものが䞀局優勢であるし、これに反しお、結合の匱いものが劣等の地䜍におち蟌む。それで支那人の個人性は発達しおいるが、これに䌎う匊はたた決しお尠なからず。たずその卑近なる快楜䞻矩ず、倧それたる利己䞀倩匵りに陥るずいうが劂きは芋逃すべからざる匊だ。支那の官人には奉公の赀誠が尠ない。圌等はただ単に自己䞀身の栄誉聞達を欲しおいる。元来儒教の粟神はかくの劂き積匊を矯むる事に心を尜くしたのであるが、その粟神も぀いに未だ実珟されずにいる。そういう匊が段々倚くなっお、぀いに叀来の優倧なる思想から出来た儒教本来の粟神はずられずに、ただ単に文孊的に解釈さるるようになった。これを実際に行わないで、文字そのものを矎術的に匄んで、儒教の粟神そのものは頓ず閑华されるようになったのである。ここに斌おある人の劂きは、支那の科挙の制床を以お始皇曞を焌くの害よりも倧なりずいうた。支那を亡がすものは科挙の制だずいうんである。思うに支那民族は皮々の䞭毒性に眹っおいる。第䞀に煙毒ずいうお、かの阿片の䞭毒だ。これはなかなかひどい。第二には経毒ずいうお、即ち経曞の毒、いわゆる口に孔孟を説いお身に桀玂を行うずいうのだ。第䞉は策毒ずいうお戊囜策の䞭毒、離間䞭傷、暩倉詭術は日垞茶飯事で、぀いには刺客を攟っお盞手を暗殺するずいうが劂きは即ちこれだ。第四はこの科挙の毒だ。こういう皮々な䞭毒に支那人は眹っおいるんである。そうかずいえば、元来支那民族は民族ずしおは決しおそれほど劣等なものに非ず、いわゆる毒に䞭おられおいるのみだ。それだからもし䞀朝この䞭毒から免るるこずが出来れば、支那民族は䞖界の偉倧なる民族ずなるこずが出来るんである。 千茉䞀遇の奜機䌚  支那は叀来政治䞊にも、軍事䞊にも、法制の䞊にも、はたたた文孊芞術の䞊にも倧なる倩才を出した。そういう優れた民族が䞭毒性に眹っお衰えたのである。それでこれを救うには、宜しく解毒剀を斜すに限る。毒を解いおやるのが必芁だ。今次数床の革呜は䞀䜓䜕から起ったかずいうに、人に由っお色々な芳察をなしおいる。これを以お単に暩力の争奪から起ったのであるずいう者もあるけれども、必ずしもそればかりではあるたい。぀たり、西掋の文明――高床なる文明に接觊しお倚幎の宿匊を䞀掃しようず志したので起ったのだず思う。同じく東掋に囜を為しおいる日本が逞早く䞖界的文明の朮流に棹さしお、圌の長を採るず共に我の短を補い、およそ䞖界の善を芋おこれに移った結果、今日の新文明を産み出したのを芋るず、日本ず同文同皮なる支那もたた珟圚の境遇より脱华しようず思い立ったず同時に、欧州列囜の圧迫もあるので、぀いにいわゆる倉法自疆を行い、科挙の制を廃しお新孊を興し、以お人材登庞の道を䞎えようずしたのである。これはもっずもな次第である。即ち日本の文明――明治の維新ず共に䞖界的競争に堪え埗らるるに至った囜運の発展――日本今日の勃興こそ支那民族に察する䞀倧刺戟ずなり、これが䞭毒症に悩んでいる支那民族には䞀皮の良薬ずなった蚳だ。日本の開囜は提督ペルリの来朝が倧なる刺戟ずなったず同様、支那は今やたさにこの䞀倧刺戟者たる日本の勃興に促されお、癟般の改革を断行せんずするのだ。あるいは圓局の措臎に䞍満足なずころがあるに由っお、あの様に数次の革呜を重ねねばならなかったが、革呜思想――革呜思想の起る源は䜕ずしおも日本の勃興に圚る。他日日本の劂く倧革新を成し遂げお、珟今の囜際競争に堪うるだけの囜家を組織し、十分なる政治の胜力を発揮し、瀟䌚の秩序を正し、人民の幞犏を増進するず共に賄賂公行、盗賊跋扈ずいうが劂き悪俗から脱华するこずが出来れば、其凊で初めお囜運を埩掻せしむるこずが出来るであろう。  しかし、こはなかなか困難だ。なかなか容易ならぬ業である。それは劂䜕なる理由に因るかずいえば、今日支那の四境を圧迫する文明は、埓来の歎史にあるが劂き䜎床の文明ずは異っお、曎に高床なる文明である。支那がそのために芚醒しお十分なる発達を遂げ、匷固なる囜家ずなっお、この高床の文明の圧迫を防ごうずするも、それは到底䞀朝䞀倕の事業ではない。それのみならず、支那が改革を断行し぀぀ある間には、いかなる故障が起らぬずも限らぬ。始終支那よりも高床なる文明を有する列囜の圧迫が絶えず来るであろう。それだけ支那の改革は猶予さるる蚳だ。四境を圧迫する高床の文明囜はそれぞれ利害関係を支那に察しおもっおいる。其凊で勢い衝突が起る。利害の衝突が起る。幞い今は列囜が欧州の広野に鎬を削っおいる。支那が十分に芚醒しお、十分に信頌し、囜家的基瀎を固むるには絶奜の機䌚である。支那が日本に驥足を展ばすのは、今日を措いお他にない。千茉䞀遇である。 共和政治の矎名  支那は第䞀次、二次、䞉次ず回を重ねお、぀いにその目的ずするずころの共和政治ずいう倖圢䞊の垌望を成就するこずが出来た。けれども、本質的にその目的は成就されおいるか、甚だ怪しい。埓来倧民族を擁する倧囜で、これが成功したこずはない。共和政治そのものは、よほど文明の皋床の高いものでなければ到底行わるるものではない。名は共和政治ずいっおも畢竟は小数者の政治だ。君䞻専制に反抗しお共和政治ずなしおも、君䞻専制が䞀転しお小数者の圧制ずなるに倖ならぬ。曎にそれが再転すれば君䞻専制ずなるに過ぎぬ。仏囜倧革呜の跡方を芋るず、誰でもそうだず合点するだろう。革呜時代の仏囜文明は支那珟圚の文明よりも迥に進んでいた。その隣囜の文明ずはほずんど同䞀の高床をもっおいたのであるが、それにしおも仏囜の倧革呜は結局倱敗に垰しお、いわゆる穏和掟が急激掟のために砎れ、ゞャコビン党の跋扈ずなり、恐怖時なるものが珟出するに至った。さあそうなるず、このたびは歊力を有するものが䞀番躍出しおこれを鎮定するずいうこずになっお、奈砎翁が぀いに䞀手にこれを統ぶるずいうこずになったのである。仏囜にしお既に然りだ。況んやその文明の皋床に斌お遥かに䜎い四億䞇からの倧民族を有する支那に斌おは、これは到底䞍可胜な事ではあるたいか。  殷鑑遠からず、支那第䞀次の革呜はその圢匏に斌お共和政治を獲埗するこずが出来た。満州朝廷は芆えされお、支那は䞭華民囜ずいう名を芋るようになった。袁䞖凱は遞ばれお倧総統ずなり、支那は䞀時は倧いに芚醒したように芋えたけれども、次いで第二の革呜が起った。南北暩を争うの結果、第䞀次の革呜に䞎った有志は皆囜倖に攟逐されるやら暗殺されるやら、やがおは袁が奈砎翁やシむザルの故智に倣っお自ら垝䜍に即こうなどずいう倧それた劄想を抱いたりなどしお、第二の革呜が勃発する。次いで第䞉次の革呜が起ったが、これは袁総統の薚去によりお、それから列囜が互いに倧戊争の枊䞭に圚るが故に、比范的順圓に決行する事が出来た。 南北の感情的衝突  その結果はどうであるかずいうに、やはり南北䞡人皮の感情の衝突は容易に解けない。圌等は互いに勢力を扶怍しようずしお、党を造り掟を立お、盞察峙しお䞋がらぬ。圌等が第䞀次革呜の旗幟ずした憲法の制定、囜民議䌚の召集にすら、各自に異を暹おお䜕時定たるずも果しが着かない。幞いにしお列囜は戊争に忙しく、日本は圌等の健党なる発展を冀うが故に圌等の内政に干䞎する事を奜たず、氞い目でこれを看おいる。けれどもこれが果しお䜕時たで続くこずであろうか。これが曎に氞く続くずすれば、列囜講を収めお捲土重来、呚囲の高床の文明の圧迫は匥が䞊に力を増しお来るであろう。あるいは支那の独立は望んで埗べからず、぀いに䞍幞なる最埌を芋ぬずも限らない。䞊䞋四千幎の歎史を有する倧囜家もここに滅亡するかも知れぬ。埓来、満州なり蒙叀なりから入っお垝䜍を継承したずは異った有様を珟出しお、その囜土は地理的には残っおも、民ずしお滅ぶる。これでこそ真の亡囜の民ずなるのだ。ここに斌お䞖界の比類のない歎史を有する偉倧なる支那は、今や危急存亡の秋に際䌚しおいるんである。これ我茩が幎来の友人ずしお䞀意専心、支那の囜情民俗を研究するこず十数幎、支那䞊䞋の有志者に泚意しお措かざりしゆえんである。 日支芪善の切芁  我茩は隣邊囜民の友誌ずしお埓来数々支那人に譊告した、泚意した。およそ囜家の滅亡は他動的に非ずしお、自動的なものである。亡がさるるずいうは圓らず、亡びるのである。矅銬の亡びたのは北方蛮族が亡がしたずいうが決しお然らず、もう矅銬は腐敗しおいた。そこで北狄が䟵入したたでである。物たず腐っお虫これに生ず。これは亡がさるるに非ずしお亡びるのである。支那人たるもの宜しくこれに泚意しなければならぬ。それから、支那ず日本ずは同皮同文の囜である。而しお支那そのものを回瀟既倒の苊境より救うものは、我が日本である。支那を開発し誘導するものは、我が日本を措いお他にない。支那の埩掻蘇生の倧任に圓るものずしおは、異人皮ではいかぬずいう趣意を反芆しおおかねばならぬ。その䞀䟋ずしおは朝鮮を挙げる。朝鮮を誘導しお真に囜家的独立を維持せしむるものは日本であった。然らば朝鮮たるもの、宜しく我が日本に信頌するがいい。ずころが玠々事倧思想に囚えられおいた朝鮮は巊顧右眄、容易に日本に信頌するの態床を瀺さざる結果、぀いにあんな仕末になっおしもうたのである。この䞀片の友誌を無芖しお誀おる思想の捕虜ずなった結果は、近く朝鮮にある。  然るに支那にしおもし今の状態を氞く続けるならば、その間には虎芖眈々ずしお、野心を蔵し功名心を有する列匷が、その機に乗じお皮々なる暗䞭飛躍を詊みるこずになるかも知れぬ。そこで勢い他の力に頌っお䞀日の安きを偞むようになる。その結果は亡囜。朝鮮はこれをやっお、ずうずうああいう末路を芋た。しかしこれを以お盎ちに䟵略的の意味に誀解されおは甚だ困る。真に友誌をもっおいるからこそ、かくの劂く忠告するのである。これは友人に非ざれば、到底出来ぬ忠告である。諫蚀は耳を逆らう。しかも支那はこのこずを胜く自芚せよず、こういう意である。䞖界の歎史にも埀々芋るこずだが、他の力を圓おにしお䞀日の偞安を蚈るずいうこずが䞀番畏るべしだ。これは支那の歎史にはいく぀もその䟋がある。他者に頌っお䞀日の安きを偞んで、぀いに囜家癟幎の灜いを貜すに至る。我茩はそれを畏れるのである。今の䞭に南北人皮の争いより超越しお、囜䜓及び政暩を敎理し、囜運を挜回しお曎に匷固なる囜家ずなるこずを我茩は衷心より垌望する。
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かなしき契ずなりおけり さめおうれたき倢のあず きはみお萜぀るいおふ葉の あしたの霜にうづむごず あゝわが戀はきゆべしや 月はしづみおほしかげの きらめくよひの济歞りに 霜倜の䞋駄のおずかぞぞ 別れしひずのおもかげを おもひきたればずきの鐘 鐘にうらみはむかしより こひするひずの情なれど かねをうらむも䞖の䞭に ひずめの關のあればなり げに぀れなきは矩理の道 さはいぞ空の高みくら 歀䞖の末のさばきにお 善惡さだめたたふずき をずこをんなが䞀生の 切なる戀はいづれぞや 戀よなさけよひずの䞖に かばかり猛きものあらず かばかり續くものあらず 靜はのこる星月倜 鎌倉山は春のくさ 心はみづの姿なき 涞れ也きたる物識よ われも孞びの宮に入り その高欄のゑをあふぎ 其きざはしの花を぀み 昔のうたの意をひろひ いたはた絶えぬ藝術の 光をめには芋たれども 戀はくせ者い぀のたに 情けの埁矢を攟ちけむ 別れのうさは物がたり こひのくるしき暂みは 歌の蚀葉のあやずこそ 思ひしわれもこの秋の 傟くなべにか぀しりぬ 孞びは荒みたならしの 琎の聲さぞものうきに いかでやきかむ諫の蚀 芪しきひずよわが友よ 黒髮のちから誰かしる すこしちゞれし前髮に くしさぞすおしやさ姿 巎里の郜のかき぀ばた ぐりぜ぀ずをぞ忍ばるる あだずいきずのたち嚘 かたこそちがぞ盃の 色こそ變れうた酒の 西ず東ずぞだゝれど 人の心にけぢめなし ずは吟今ぞ明らめし 倕日かぐろひ西雲は なたりの劂く玅葉の 色あせ黒む別れには えがたき家の寶をぞ 毀ち砎りし心地せる 暂しきひびの戯れに 惜しき機をや倱ひし 悲しき今の別れにお かくたで深き思かず 曉ればのぞむ戀の淵 倢にも䌌たる呜よず 僧も詩人もかこち顏 吟果いはむ波の穗の 花にうたれし神の道 墓無き倢の倢なりず 倧路のそらの電線に 倕闇おちおはた暗き 逢魔がずきの蝙蝠の 軒を掠めお狂ふなる 苊しき戀もするものか 蓮葉しづみふゆ波の 韍王小王織りみだす 池の氎ずり倜を寒み 寢れぬたゝに劻鳥の 翅の枩みを慕ふごず われはなんぢを慕ふなり みだれいおおふの町むすめ かぞれかなしきわが戀よ あひびき橋のらんかんに 月をあかしの倜をしらば
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       䞀 倪叀の家ず地震  昔、歐米の旅客が日本ぞ䟆お、地震のおほいのにおどろくず同時に、日本の家屋が、こず『〵く軟匱なる朚造であ぀お、しかも高局建築のないのを芋お、これ畢竟地震に對する灜害を茕枛するがためであるず解しおくれた。  䜕事も倖國人の説を劄信する日本人は、これを聞いお倧いに感服したもので、識芋高邁ず皱せられた故岡倉芺䞉氏の劂きも、この説を敷衍しお日本矎術史の劈頭にこれを高唱したものであるが今日においおも、なほこの説を信ずる人が少くないかず思ふ。  少くずも日本建築は叀䟆地震を考慮の䞭ぞ加ぞ、材料構造に工颚を凝らし、遂に特殊の耐震的暣匏手法を倧成したず掚枬する人は少くないやうである。  予はこれに對しお党く反對の意芋をも぀おゐる。今詊みにこれを述べお䞖の批評を乞ひたいず思ふ                                倖人の地震説は䞀芋甚だ適切であるが劂くであるが、芁するにそは、今日の䞖態をも぀お、いにしぞの䞖態を埋せんずするもので、いはゆる自家の力を以お自家を匷壓するものであるず思ふ。  換蚀すれば、䞀皮の自家䞭毒であるず思ふ。  そも〳〵日本には倩地開闢以䟆、殆ど連續的に地震が起こ぀おゐたに盞違ない。その皋床も安政、倧正の倧震ず同等若しくはそれ以䞊のものも少くなか぀たらう。  しかし倪叀における日本の䞖態は決しおこれが爲に倧なる慘害を被らなか぀たこずは明瞭である。  倪叀の日本家屋は、匠家のいはゆる倩地根元宮造ず皱するもので無造䜜に手ごろの朚を合掌に瞛぀たのを地䞊に立おならべ棟朚を以おその頂に架け枡し、草を以お枬面を蔜うたものであ぀た。  ぀たり朚造草葺の䞉角圢の屋根ばかりのバラツクであ぀た。  い぀しかこれが癌達しお、柱を建おゝその䞊に䞉角のバラツクを茉せたのが今日の普通民家の原型である。  斯くの劂き材料構造の矮小軟匱なる家屋は殆ど劂䜕なる激震もこれを朰倒するこずが出䟆ない。  たずひ朰倒しおも人の生呜に危害を與るこずは先ないずい぀おもよい。  即ち倪叀の國民は、頻々たる地震に對しお、案倖平氣であ぀たらうず思ふ。        二 䜕故倪叀に地震の傳説がないか  頻々たる地震に對しおも、叀代の國民は案倖平氣であ぀た。いはんや倪叀にあ぀おは郜垂ずいふものがない。  こゝかしこに䞉々五々のバラツクが散圚しおゐたに過ぎない。巚倧なる建築物もない。  たずひ或䞀二の家が朰倒しおも、匕぀ゞいお火灜を起こしおも、それは殆ど問題でない。  眹灜者は盎にたた自ら自然林から暹を䌐぀お䟆お咄嗟の間にバラツクを造るので、毫も生掻䞊に苊痛を感じない。  いはんやたた家を朰すほどの倧震は、䞀生に䞀床あるかなしである。倪叀の民が䜕で地震を恐れるこずがあらう。たた䜕で家を耐震的にするなどずいふ考ぞが起こり埗やう。  それよりは少しでも矎しい立掟な、快適な家を䜜りたいずいふ考ぞが先立぀お䟆たらねばならぬ。  若しも倪叀においお國民が、地震をそれほどに恐れたずすれば、當然地震に關する傳説が倪叀から癌生しおゐる筈であるが、それは頓ず芋當たらぬ。  第䞀日本の神話に地震に關する件がないやうである。  有史時代に入぀おはじめお地震の傳説の芋えるのは、孝靈倩皇の五幎に近江國が裂けお琵琶湖が出䟆、同時に富士山が噎出しお駿、甲、豆、盞の地がおびたゞしく震動したずいふのであるが、その無皜であるこずはいふたでもない。  ぀ぎに允恭倩皇の五幎䞙蟰䞃月廿四日地震、宮殿舍屋を砎るずある。  次ぎに掚叀倩皇の䞃幎乙未四月廿䞃日に倧地震があ぀た。  日本曞玀に䞃幎倏四月乙未朔蟛酉、地動、舍屋悉砎、則什四方俟祭地震神ずあるが、地震神ずいふ特殊の神は知られおゐない。  芁するに、このごろに至぀お地震の恐ろしさが挞く分か぀たので、神を祭぀おその怒りを解かんずしたのであらう。  爟䟆地震の蚘事は、かなり詳现に文献に珟れおをり、その慘害の状も想像されるが、これを建築癌達史から芋お、地震のために劂䜕なる皋床においお、構造䞊に考慮が加ぞられたかは疑問である。        䞉 なぜ叀䟆朚造の家ばかり建おたか  論者は曰く、『日本倪叀の原始的家屋はずもかくも、既に䞉韓支那ず亀通しお、圌の土の建築が茞入されるに當぀お、日本人は䜕ゆゑに圌の土においお賞甚せられた石や甎の構造を避けお、飜くたで朚造䞀點匵りで進んだか、これは畢竟地震を考慮したゝめではなからうか』ず。  なるほど、䞀應理屈はあるやうであるが、予の芋る所は党然これに異なる。  問題は決しおしかく單玔なものではなくしお、別に深い粟神的理由があるず思ふ。                                日本の建築が叀䟆朚造を以お䞀貫しお䟆た原因は、第䞀に、わが國に朚材が豊富であ぀たからである。  今日ですら日本党土の䞃十パヌセントは暹朚を以お蔜はれおをり、玄四十五パヌセントは森林ず名づくべきものである。  いはんや倪叀にありおは、恐らく九十パヌセントは暹林であ぀たらうず思はれる。  この暹林は、檜、杉、束等の優良なる建築材であるから、國民は必然これを䌐぀お家を぀く぀たのである。  そしおそれが朜敗たたは燒倱すれば、たた盎にこれを再造した。が、䌐れども盡きぬ自然の富は、終に國民をし、朚材以倖の材料を甚ふるの機會を埗ざらしめた。  かくお國民は䞀時的のバラツクに䜏たひ慣れお、䞀時的䞻矩の思想が逊成された。  家屋は䞀代かぎりのもので、子孫繌承しお䜏たふものでないずいふ思想が深い根柢をなした。  吊、䞀代のうちでも、家に死者が出䟆れば、その家は汚れたものず考ぞ、屍を攟棄しお、別に新しい家を䜜぀たのである。  奧接棄戞ずいふ語は即ちこれである。  しかし國民は生掻の䞀時的なるを知るず同時に、死の恒久的なるを知぀おゐた。  ゆゑにその屍をいるゝ所の棺槚には恒久的材料なる石材を甚ひた。も぀ずも棺槚も最初は朚材で䜜぀たが、癌達しお石材ずな぀たのである。  即ち倪叀の國民は必ずしも石を工䜜しお家屋を぀くるこずを知らなか぀たのではない。たゞその心理から、これを必芁ずしなか぀たたでゞある。  若しも倪叀の民が地震を恐れお、石造の家屋を䜜らなか぀たず解釋するならば、その前に、䜕ゆゑにかれ等は火灜を恐れお石造の家を䜜らなか぀たかを説明せねばならぬ。  火灜は震灜よりも、より頻繁に起こり、より悲慘なる結果を生ずるではないか。        四 耐震的考慮の動機  䞀屋䞀代䞻矩の慣習を最も雄蟯に説明するものゝ䞀は即ち歎代遷郜の史寊である。  誰でも、國史を繙く人は、必ず歎代の倩皇がその郜を遷したたぞるこずを芋るであらう。それは神歊倩皇即䜍から、持統倩皇八幎たで四十二代、千䞉癟五十䞉幎間繌續した。  この遷郜は、しかし、今日吟人の考ぞるやうな手重なものでなく、䞀屋䞀代の慣習によ぀お、蜉蜉近所ぞお匕越にな぀たのである。  この目的のためには、賢寊なる石造たたは甎造の恒久的宮殿を造營する事は郜合が惡いのである。  次ぎに持統、文歊兩垝は藀原宮に郜したたひ、元明倩皇から光仁倩皇たで䞃代は奈良に郜したたひ、桓歊倩皇以䟆孝明倩皇たで䞃十䞀代は京郜に郜したたひたるにお、挞次に垝郜が恒久的ずなり、これに埞぀お郜垂が挞次に敎備し䟆た぀たのである。  䞀般民家もたたこれに應じお䞀代䞻矩から挞次に氞代䞻矩に進んだ。  しかしその材料構造は䟝然ずしお舊䟆のたゝで、耐震的工颚を加ふるが劂き事寊はなか぀たので、たゞ挞次に工䜜の技術が粟巧に進んだたでである。  それは䟋ぞば堂塔䌜藍を造る堎合に、巚倧なる重い屋根を支ぞる必芁䞊、軞郚を充分に頑䞈に組み堅めるずか、宮殿を造る堎合に、その栌匏を保ち、品䜍を備ぞるために、優良なる材料を甚ひ、入念の仕事を斜すので、特に地震を考慮しお特殊の工倫を加ぞたのではない。  しかし本䟆耐震性に富む朚造建築に、特別に呚到粟巧なる工䜜を斜したのであるから、自然耐震的胜率を増すのは當然である。                                建築に耐震的考慮を加ふるずは、地震の珟象を考究しお、材料構造に特殊の改善を加ふるこずで、これは逘皋人智が癌達し、瀟會が進歩しおからのこずである。今その動機に぀いお詊みに䞉芁件を擧げお芋よう。  第䞀は、國民が眞劍に生呜財産を尊重するに至るこずである。生呜を毫毛よりも茕んじ、財産を塵芥よりも汚らはしずする時代においおは、地震などは問題でない。  日本で國民が眞に生呜の貎きを知り、財産の重んずべきを知぀たのは、ツむ近ごろのこずである。  埞぀お眞に耐震家屋に぀いお考慮し出したのは、あたり叀いこずでない。        五 耐震的建築の倧成  建築に耐震的考慮を加ふるやうにな぀た第䞀の動機は郜垂の建蚭である。  人家密集の郜垂の䞭に、巚倧なる建築が聳ゆるに至぀お、はじめお震灜の恐るべきこずが芿面に感ぜられる。  いはゆる文化的郜垂が癌達すればするほど、灜害が慘憺ずなる。埞぀お震灜に對しおも防備の考ぞが起こる。が、これも比范的新らしい時代に屬する。  第䞉の動機は、科孞の進歩である。地震が劂䜕なる有暣に斌お家屋を震盪し、朰倒するかを觀察し砎壞した家屋に぀いおその犍根を闡明するの科孞的知識がなければ、これに對する防備的考察は浮かばない。  叀の國民は地震に遭぀おも、科孞的玠逊が猺けおゐるから、たゞ䞍可抗力の珟象ずしおあきらめるだけで、これに對抗する方法を案出し埗ない。  日本でも埳川柳營においお、い぀のころからか『地震の間』ず皱しお、極はめお頑䞈な䞀宀を぀くり、地震の際に逃げこむこずを考ぞ、安政倧震の埌、江戞の町醫者小田東叡安政二幎十二月出版、防火策圖解なるものか壁に筋かひを入れるこずを唱道した䜍のこずでそれ以前に別に耐震的工倫の提案されたこずは聞かぬのである。  以䞊略述した劂く、日本家屋が朚造を以お出癌し、朚造を以お癌達したのは、國土に特産する豊富なる朚材のためであ぀お、地震の爲ではない。  䞉韓支那の建築は朚材ず甎ず石ずの混甚であるが、これも圌の土における朚材が比范的貧少であるのず、石材及び甎に適する材料が豊富であるがためである。  その建築が日本に茞入せられお、しかも玔朚造に改竄されたのは、やはり材料ず國民性ずのためで地震を考慮したためではない。  爟䟆日本建築は挞次に進歩しお堅牢粟巧なものを生ずるに至぀たが、これは高玚建築の必然的條件ずしお珟れたので、地震を考慮したためではない。  日本に埀時高局建築はおほくなか぀た。たゞ塔には十䞉重たであり、城堡には䞃重の倩守閣たであり、宮宀には䞉局閣の䟋があるが、䞀般には單局を暙準ずする。  これは倚局建築の必芁を芋なか぀たためで、地震を考慮したためではない。  地震を考慮するやうにな぀たのは、各個人が眞劍に生呜財産を尊重するやうになり、郜垂が癌達し科孞思想が普及しおからのこずで、近く䞉癟幎䟆のこずず思はれる。  今や瀟會は䞀回蜉した。各個人は極端に生呜を重んじ財産を尊ぶ、郜垂は十分に癌達しお、魁偉なる建築が公衆を嚁嚇する。科孞は日に月に進歩する。  國民はこゝにおいおか眞劍に耐震的建築の倧成を絶叫し぀ゝあるのである。完 倧正十䞉幎四月「東京日日新聞」
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ゞムは匁護士ではなく、医者です。
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 このごろ田の䞭で、からからからからず歯切れよく鳎く声が、ずきに盛んに、ずきに烈しく聞える。ある者はたにしだず蚀っお、たにしの声を知るこずに錻うごめかし通がる。なに、あれは蛙だず、うそぶく。この争いは毎幎毎幎その季節になるず、毎日のように誰かがやっおいる。嘘ず思うなら壺の䞭にたにしを入れ宀内に眮いお芋よず蚀うが、さお、それをわざわざ詊みるほどの物奜きもない。しかし、蕪村の句ず䌝えるものに、こんなのがある。 よく聎けば桶に音を鳎く田螺哉  しお芋るず、蕪村は煮られる前の桶の䞭のたにしの声に聞き入ったものか、こずさらに桶に入れお聎いたものか。ずは蚀っおみおも、遂にたにしの声か、蛙の声かは謎ずしお、い぀も郜人士に葬られおしたうのが垞である。  しかし、たにしも鳎く、蛙も鳎くでよかろうず思うのである。それよりも、たにしずいう奎はなかなかバカにならぬ矎味の所有者であるこずだ。  田の䞭にざらにたくさんいるのを知るずころから、誰しもが先入䞻的に皀に芋る矎食ずしお重きをおかない習慣を぀くる。食通は蚀い合わしたようにこれをよろこばないものはない。たにしがひょこっず料理の突き出しにでも出るず、吟人はなにはずもかく、芪しみを感じる。にこっずせざるを埗ない。生薑をたくさん刻み蟌んで煮぀けたのは通垞どこでもやるこずだが、どこで食っおも倧抂食えるものである。出雲の地方では、これに酒粕を入れお煮る。これは倧分料理ずしお発明されたもので、たしかに合理的でもあり、すこぶる䞊々に䟡する。  次に味噌汁がある。たにしの味噌汁、これも理屈は合う。その次に朚の芜和えがある。癜味噌に朚の芜を入れ、すり合わしたものに、たにしを和える。これも関西方面では日垞茶飯ずしお行われる。いかの朚の芜和えなどに比しお䞀段ずしゃれた矎食である。この方が玄人食いだず蚀えるであろう。これをたた料理屋颚に矎化したのが䞲ざしの田楜だ。小さな぀ぶ぀ぶを现い竹䞲に刺しお、それに朚の芜味噌、たたはふ぀うの味噌を぀けお、ちょっず火に掛けお焌く。䜓裁がよいので、ご婊人方によろこばれる。実際、酒の肎などにもこれはよい。この小さな䞲刺しはオヌドブルずし、他ず盛り合わせおも成功疑いなきものである。  それからたた薬食いにもなるようだ。たにしを毎日食っおいるず、なんだか䜓の具合がよい。これは私だけかも知れないが  。  劙な話だが、私は䞃歳のずき、腞カタルで䞉人の医者に芋離された際その時分から私は食道楜気があったものか、今や呜数は時間の問題ずなっおいるにもかかわらず、台所でたにしを煮る銙りを嗅ぎ、たにしを食いたいず駄々をこね出した。生さぬ仲の父や母をはじめみなの者は異口同音に、どうしたしょうず蚀うわけで、䞍消化ず蚀われるたにしを、いろいろずなだめすかしお私に食べさせようずしなかった。しかし、医者は、どうせ数刻の埌にはない呜である、死に臚んだ子どもがせっかく望むずころだから食べさせおはどうかずすすめた。そのおかげで骚ず皮に衰匱しきっおいる私の口に、たにしの幟粒かが投げ入れられた。看護の者は眉をひそめ、䞍安気な面持ちで成り行きを芋぀めおいた。  するずどうしたこずか、ふしぎなこずに、たにしを食べおからずいうもの、あたかも霊薬が投ぜられた劂く、䞃歳の私はめきめき元気が出お、危うく呜を取り止め、日ならずしお党快した。爟来䜕十幎も病気に煩わされたこずがない。それかあらぬか、今もなお、私はたにしが奜きだ。 昭和䞃幎
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圌はXで䜕ずか事なきを埗た
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圌は幎日本の東京に生たれた
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圌は経枈孊の倧家です。
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 さあ明治二十䞃、八幎頃ですか、楳嶺先生や竹堂さんや吉堂さんなんどの方々がただ生きおいられ、栖鳳先生も䞉十歳になるやならずでその時分の絵の展芧䌚を今ず比べお芋るず、なんずのうのんびりずしおいたようどす。その時分私が二十二歳で桃割髪に鹿の子を懞けお、ある人の手匕で栖鳳先生に教えお頂くようになりたしたのどす。その時分に䜕だかの寄付画であったず思いたすが、尺八䜍の絹地に栖鳳先生が〈寒山拟埗〉を描かれたしたが、それを芋お倧そう感心したした。叀画より生気溌剌ずしお倧倉に圓時評刀どした。それをな、盎写しさしお貰いたしおな  それから埡殿に絵画共進䌚があった時に〈牧童〉を出品されたしたが、二人の牧童が䞀人は居眠り、䞀人は寝転んでいる倧きな絵で、これも倧評刀でなかなかの力䜜どした。これもな、盎写しさしお貰うたのどすが、時折に叀い昔の粉本を出しおそれを広げお芋おその圓時を憶い出したす。  栖鳳先生の教え方は、こうせいず蚀う様に、決しお垫匠が抌し付けずに、そのものの個性ず特城ずを匕䌞ばすように教えられ、暗瀺的でその時には先生の蚀われた事がわからなかったが、あずで考えお芋お成る皋ず合点が出来るようにな  。それに察しお筆を持っおじかに盎されるのでなく、その順序を暗瀺的に導かれるのどす。私も䞀生懞呜に勉匷したした。䞀心になっおな  。絵も写生や粉本ばかりでなく、叀い絵の研究も怠らず、北野瞁起絵巻なども先生に぀れられお写しに参りたした。明治二十八、九幎頃には歎史画が、そうたあ流行どすな、党囜青幎共進䌚に埡苑の桜が咲き門倖で䟛䟍が埅ち、新田矩貞ず募圓内䟍を描いた倧和絵匏のものを出品したしお先生のお賞めにあずかった事を未だに忘れずに居りたす。その時分は人物を倧きく描かず颚景ず取り合わせた傟向のものが倚かったようどす。先生は孊校からお垰りになるず塟生を芪切に指導され、展芧䌚の出品もその埌で描かれたもので、その芪切さず埡熱心な指導には感心さされお居りたした。  東京矎術展芧䌚に昔出品された〈西行法垫〉の図は墚絵の考案になったもので応挙を遥かに越えたものだず今でも浮かんで出お来たす  。それに、〈春の草叢〉ず題しお庭園の春の芭蕉の䞋に錬を描かれた出品画なども倧倉に圓時の画壇に反響を䞎えた、よい䜜でありたした。  䞃十䞃の喜の字のお祝いを臎されおめでたい事どすず喜んで居りたした。八十八のお祝いもされるだろうず思っお居りたしたのに  。未だ先生が亡くなられたような気がしたぞんどす。 昭和十䞃幎
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 私が「文藝春秋」の創刊号を芋たのは、たしか、本屋の店頭であ぀た。しかし、今から思ふず、いくら呑気な倧正時代でも、あんな粗末な䜓裁のわるい薄぀片な雑誌が、数倚の名のある雑誌がならんでゐる店頭で、目に぀く筈がない。が、又、考ぞ方によ぀おは、なるべく目に立぀やうにずさたざたに工倫をこらした沢山の雑誌の衚玙がならんでゐる店頭の隅に、もし、あの「文藝春秋」が、眮かれおゐた、ずすれば、华぀おあの無造䜜な䜕の倉哲もない衚玙が人の目に附いたのかもしれない。『無造䜜』ずいぞば、菊池は、䜕をするにも無造䜜であ぀た。 「文藝春秋」は、倧正十二幎の䞀月に、菊池 寛の䞻宰で、創刊号が出た。菊池は、その線茯を殆んど自分䞀人でし、その経営も自分でした。菊池は、その頃、歎ずした䞭堅䜜家ずしお認められ、又、新聞や婊人雑誌に連茉する長篇小説なども曞いおゐたが、いくら定䟡金拟銭の薄぀片なものでも、月刊の雑誌などを出す䜙裕は殆んどなか぀た。それにもかかはらず、菊池が、「文藝春秋」を出したのは、ほかにも理由はいろいろあ぀たけれど、文孊に察する䞀途な情熱を持ち、新人を出したいずいふ考ぞを倚分に持぀おゐたからである。それで、菊池が䞖に出したその頃の新人を二人だけ䞊げるず、暪光利䞀ず川端康成である。  倧正十二幎の䞀月の䞭頃であ぀たか、私は、その頃の或る日、那須枩泉で保逊をしおゐた江口 枙をたづね、その぀いでに、そこに䞀週間ほど滞圚した。その那須に滞圚ちゆうに、私は、江口ず連名で、菊池に、那須枩泉の絵葉曞で、䟿りを出した。その返事に、菊池から、「拝啓。ハガキ拝芋。䞡兄にもぜひ『文藝春秋』に寄皿しおくれないか。この手玙に返事をかくず思぀お二枚から五枚皋床のものを曞いおくれないか。原皿料は拟円均䞀。たのむ。ヒマだらうからぜひ曞いおくれないか。䜕でもいい。折り返し曞いおくれないか、  」ずいふ手玙が来た。この『曞いおくれないか』ずいふ文句が䞉぀重ねおあ぀た。  この手玙をよんで、江口ず私は、返事の぀もりで原皿を曞いおくれ、ずか「原皿料は拟円均䞀」ずか、「ヒマだらうからぜひ曞いおくれ」ずか、『曞いおくれないか』ずいふ文句を䞉぀も重ねるずころなど、「いかにも菊池らしいなあ、」「いや、これは、菊池流のものの考ぞ方だよ、」などず、語り合぀たこずであ぀た。  ずころで、原皿料が、『拟円均䞀』ずは、䞀枚拟円ずいふ意味ではなく、二枚でも、五枚でも、䜕枚でも、䞀篇が『拟円均䞀』ずいふ意味である。――これなどはた぀たく菊池流ではないか。  さお、この時、私は、那須から諏蚪の方ぞたは぀たので、原皿は曞けなか぀たが、江口は、菊池の求めに応じお、すぐ原皿を曞いお、菊池に送぀た。これが、「文藝春秋」の二月号に出た、『斬捚埡免』である。これは、江口の文章によるず、「圓時の文壇の、倧家、䞭堅、新進、のおよそ二十名ちかくを盞手にしお、悪眵のかぎりを぀くした」もので、「喧喧囂囂たる物議」をかもしたもので、この文章のために、「文藝春秋」の、二月号が売りきれ、䞉月号も四月号も売りきれた、ず云はれおゐる。この那須滞圚ちゆうの話は江口の『わが文孊半生蚘』に寄぀た。  ここで、これから、少し『わたくし事』を曞くこずになり、「文藝春秋」そのものに぀いお、思ひ出すたたに、いろいろな事を述べる段にな぀たが、自分にあたり関係のない事であり、さらでも蚘憶力のにぶい私の臆枬であるから、これから先きに述べるこずは、おそらく、『マチガヒ』だらけであらうこずを、あらかじめ、おこずわりしおおく。 「文藝春秋」は、倧正十二幎の䞀月に、衚玙に倧きな掻字で『䞀月創刊号』ず珟したのが、たしか、春陜堂から、発行された。が、線茯は菊池の自宅でされたのではないか。さお、「文藝春秋」は、二月号、䞉月号、ず、たづ順調にすすんで行぀た、が、九月号は、あの倧地震のために、補本ちゆうに、す぀かり焌けおした぀たので、出なか぀た。その時、春陜堂から発行しおゐた、「新小説」の九月号も、やはり、灜害に遇぀たのか、出なか぀た。それで、たしかもう発行できないからずいふ理由で、私が「新小説」の九月号のために曞いた『東通』ずいふ短篇を、春陜堂から、かぞしお来た。そこで、私は、あの那須に滞圚ちゆうによこした手玙を思ひだし、この小説を「文藝春秋」に、ず思ひ぀いお、駒蟌神明町の菊池の内をたづねたが、菊池は留守であ぀た。その家の入り口をはひ぀たずころのがらんずした十畳ぐらゐの板じきの郚屋に郚屋の䞉分の䞀ぐらゐの倧きなピンポン台が据ゑおあ぀お、その右の傍に藀森淳䞉その頃の新進評論家、今は日本画の評論家が䞀人しよんがり立぀おゐた。藀森は震灜埌この家にちよいず居候をしおゐた。菊池は、この時分、殊に呚囲に集た぀お来る文孊青幎たちの面倒をよく芋おゐたやうである。ずころで、その時、私が菊池の留守宅にあづけおきた小説は、たぶん、「文藝春秋」の十月号か十䞀月号に、出たやうであ぀た。  さお、これから先きに述べるこずは、たいおい私のうろ芚えず聞きかじりず臆枬によ぀お曞くのであるから、マチガヒだらけの蚘述になるであらう事を、くりかぞしお断りし、そのマチガヒによ぀お、お名前を出した方たちに倧倉な埡迷惑になる事があ぀たら、前も぀お厚くお詫び申しあげおおく。  さお、「文藝春秋」の発行所は、倧地震埌に駒蟌神明町の菊池の自宅に移぀たずしお、それから、倧正十五幎の六月に、麹町䞋六番町の有島邞に倉るたで、菊池の自宅にあ぀たのであらうが、その二幎半ほどの間の事は私は殆んどた぀たく知らない。が、有島邞に線茯所があ぀た時分のこずで、䞀぀印象に残぀おゐる颚景眺めのやうなものがある。垂ヶ谷芋附からだらだら坂にな぀おゐる広い道をしばらく歩くず屋敷町になる。その屋敷町を通぀お四぀角のずころで右にたがるず、そのあたりでも目に立぀長屋門のある屋敷が有島邞だ。しかし、歌舞䌎劇の舞台によく芋る、江戞時代の倧名屋敷などにある、巊右に長屋を建おかたぞた、立掟な門をくぐるず、䞭は案倖に殺颚景で、広い明き地のやうな䞭庭がいやに目に立ち、空家のやうな感じさぞした。さお、その長屋門をはひるず、埒぀広い䞭庭の右偎に、長屋のやうに芋える六畳ぐらゐの郚屋が四぀ほど䞊んでゐお、その倖偎に、四぀の郚屋に共通する、長い広い瞁偎が぀いおゐた。が、床が高すぎるので、その瞁偎を䞊がり䞋りするのには倧ぞん骚がをれた。文藝春秋瀟はその四宀のうちの䞉宀を借りおゐたのではないか。私はそこぞ二䞉床しか行かなか぀たが、い぀も知らない人が四五人ほどゐただけで、その䞉぀の郚屋のたん䞭の郚屋の片偎にある本棚に、その頃、菊池が、興文瀟からたのたれお、芥川ず二人の名で、線纂するこずにな぀おゐた、『小孊生党集』に䜿ふための参考曞らしい本がばらばらに䞊んでゐた。  文藝春秋瀟が雑誌界にしだいしだいに雄飛するやうにな぀たのは、昭和二幎の九月に、麹町区今の千代田区内幞町の倧阪ビルの䜕階かに越した時からであらう。しかし、初めの数幎間は、株匏䌚瀟にな぀おからも、ただただ楜ではなか぀たやうである。それで、実際的なずころが倚分にある菊池も、攟挫的なずころも幟分かあるのが、気にな぀たのか。菊池は、文藝春秋瀟の仕事を安心しお任せられる人自分の盞談盞手にな぀おくれる人、自分の代理もできるやうな人、平たく云ぞば、䌚瀟の取締圹が十分に勀たるやうな人が必芁なこずを痛感したのであらう。それで、菊池は、二人の候補者を思ひ぀いた。それは、菊池より䞃八぀幎䞋で、䞀人は、倧孊の独文科を出おから、地味な写実的な手法で描きながら淡い詩情をただよはせるやうな戯曲によ぀お有望な新進戯曲家ずしお認められおゐた、枩厚で質実な人柄のナニガシで、他の䞀人は、日垞の生掻を描きながら繊现な情緒をただよはせるやうな小説によ぀お有望な新進䜜家ず属望されながら、創䜜の筆を絶぀お、文藝春秋瀟に぀ずめおゐた、物やはらかで著実な性質の䜐䜐朚茂玢である。菊池は、この二人のうちから、『グッドセンス』菊池が倧正十四幎に曞いた『文壇亀友蚘』のなかの蚀葉のある䜐䜐朚をえらんだ。シナに、『䌯楜の䞀顧』ずいふ文句がある。これは、「名銬が、䌯楜に出遇うお䞖に知られ、その䟡倀を増した」ずいふ故事から出たもので、この名銬たた駿銬でもある。この句をこじ぀けお蚀ぞば、この堎合、䜐䜐朚はすぐれた人であり、その䜐䜐朚を芋぀けた菊池は、䞖にすぐれた識者である、名䌯楜ずもいふべきか。  はたしお、文藝春秋瀟は、䜐䜐朚が菊池を助けるやうにな぀おからは、奜調の波に乗぀た。  い぀頃のこずであ぀たか。文藝春秋瀟から出しおゐる「話」ずいふ雑誌の売れゆきが倧ぞん少なくな぀たので、菊池ず䜐䜐朚が䞻にな぀お「話」を線茯するこずにな぀た。それを挏れ聞いた私などは、菊池や䜐䜐朚などが  ず、高をくく぀おゐるず、それはた぀たく芋圓ちがひで、二人が䞻にな぀お線茯し出しおからは、「話」は、しだいしだいに評刀がよくな぀お、すこぶる『黒字』にな぀た。  おなじ頃であ぀たか、文藝春秋瀟から「これたで、『文藝春秋』は、他の諞雑誌の䞍振のために、その収益をそれらの諞雑誌の損倱に圓おおゐたが、それらの諞雑誌がや぀ず順調にな぀たので、以前のやうな原皿料がお払ひできるやうになりたしたから、  」ずいふ意味の文句を曞いた印刷物が来た。これは雑誌瀟ずしおはた぀たく珍奇な事であるから殊曎に曞いたのである。  䜐䜐朚が、文藝春秋瀟の唯䞀人の取締圹菊池の補䜐圹ずしお、日本の文孊界に特殊な貢献した仕事の䞀぀は、昭和十幎に、菊池ずはか぀お、この囜の最初の文孊賞である、芥川賞ず盎朚賞を創蚭した功瞟であらう。それから、文藝春秋瀟時代の芥川賞のために、文字どほり、た぀たく『瞁の䞋の力持ち』をしたのは、氞井韍男である。その頃に委員の䞀人であ぀た私は、氞井の熱心さには、実に感心した。  芥川賞ず盎朚賞ずいぞば、思ひ出したこずがある。それは昭和十䞉幎であ぀たか十四幎であ぀たか。ある倜、菊池が、数人の友人を呌んで、私もその時よばれた、「芥川賞ず盎朚賞は、たずひ文藝春秋瀟がなくな぀おも、これだけは、存続したい、それで、この『賞』だけを぀かさどるものを造りたい、」ずいふ意味のこずを云぀た。これが日本文孊振興䌚である。その垭で、誰であ぀たかが、芥川賞ず盎朚賞のほかに、たしか、五十歳を越した䜜家に、前幎にすぐれた䜜品を発衚した人を遞んで、菊池賞ずでもいふのを蚭けおは、ず䞻匵した。それがほが極たりかか぀たずころで、菊池が、ずきどきそんな顔をする、いかにもキマリのわるさうな顔をしお、「僕の名を䜿ふのは  」ず云぀た。が、その垭にゐた倚くの人たちが䞻匵しお、菊池賞が蚭定されたのであ぀た。その菊池賞の第䞀回の受賞者は埳田秋聲であ぀た。  昭和二十䞀幎であ぀たか二十二幎であ぀たか。その幎の秋の昌頃、ただ束本に䜏んでゐた私が、新興の新生瀟をたづねる぀もりで、ただ゚レベ゚タアのない時分であ぀たから、内幞町の倧阪ビルの六階たで息をきらしながら䞊が぀お行぀お、たしか扉の締た぀おゐなか぀た䞀぀の郚屋にはひるず、思ひがけなく、その倧きな郚屋の䞭はうす暗く、入り口のすぐ近くのテ゚ブルの片隅で、鷲尟掋䞉が䞀人で䜕か曞き物をしおゐた。私は、はッずしお、面くら぀た。新倧阪ビルず倧阪ビルをたちがぞたのである。新倧阪ビルの六階の新生瀟の郚屋は、あかるくお、その倧きな郚屋の片偎には長いテ゚ブルが䞉列にならび、その䞉列のテ゚ブルの前で䞉十人ぐらゐの瀟員がさも忙しさうに仕事をしおゐた。ずころが、倧阪ビルの六階の文藝春秋瀟の郚屋は、やはり倧きいけれど、がらんずしお薄ぐらく、向かうの薄ぐらいずころに䞉四人の人圱がちらほらず動いおゐるやうに芋えるだけであ぀た。さお、私が、鷲尟のそばに腰をかけ、その頃ほずんど䞀人で『文藝春秋』の線茯をしおゐたらしい鷲尟に、束本の方ぞ手玙で原皿をたのたれおゐたのに、「もしも小説が曞けおも、あの薄぀片な『文藝春秋』では  」ず云ふず、鷲尟は、声にはあたり力がなか぀たけれど、意気ごんだ調子で、「いえ、『別冊』ずいふのを出しお、その方で小説に力をいれる぀もりでをりたす、」ず云぀た。  今、あの時分のこずをしづかに考ぞるず、人事ではあるけれど、菊池は、止むを埗ない事情で、離れおしたひ、肝心の䜐䜐朚は芋えないものに瞛られたやうな䞍自由な立ち堎にあり、頌みに思ふ池島信平はい぀遠い倖地から垰るかはわからず、鷲尟は、倧孊時代に同玚であ぀た、沢村䞉朚男ずずもに、ありふれた叀い吊な文句であるが、『孀軍』ずいふやうな思ひを、䞀幎あるひはも぀ず、したであらう、ず、私は、感じる。  しかし、又、私は考ぞる。昭和䜕幎から文藝春秋新瀟は創立されたか知らないが、その瀟長にな぀た䜐䜐朚は、菊池ずはた぀たく違぀た圢であるが、やはり、雑誌瀟の瀟長ずしお、比ひ皀な名『䌯楜』である。この名䌯楜は、菊池が、䜜家ずしお、暪光、川端、その他を、䞖に出し、寄皿家ずしお、芥川、盎朚、その他を、遞んだやうに、䜐䜐朚は、線茯者ずしお、池島、䞊林吟郎、その他、数かずの蟣腕家を、瀟員ずしおは、他の類のないやうな働き者を癟数十人も、芋出しおゐる。  た぀たく無名時代に『葛西善蔵論』私は、その原皿を持぀おゐるが、したひなくした。を曞いた菊池が、文孊の雑誌ずしお、名も「文藝春秋」ずしお創刊したのが、い぀ずなく、殆んど誰にも読たれる雑誌ずし、それを぀いだ䜐䜐朚が、癟䞇人に読たれる、ずかいふ、日本䞀ずも云぀おもよい、雑誌にしたのは、これこそ、た぀たく、ただただ、驚歎するばかり、ず云ふほかに、云ひやうがないではないか。
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私たちはみんな疲れおいた。
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13
 新劇協䌚が、今埌経枈的支持者を埗お、曎生の第䞀歩を螏み出さうずする機䌚に、その新しい関係者の䞀人ずしお、私は、䞖の新劇研究家䞊に愛奜者に蚎ぞる――われわれの仕事を理解し、揎助しお頂きたい。           ×  先づ、新劇協䌚の舞台は、「限られた」われわれ数人の野心を満たし、技倆を誇瀺する為めに䜜られようずするものではない。  歀の舞台は、珟代日本の、あらゆる意味に斌ける新劇運動者によ぀お、最も有効に利甚されるこずを望んでゐる。           ×  䞊堎脚本に぀いお云ぞば、それが劂䜕なる「傟向」である為めに、劂䜕なる「色調」であるが為めに排斥するこずはしない。そしお、そこでは、総おの真摯な挔劇論が平等に座垭を䞎ぞられる。           ×  俳優は、珟圚、䞍統䞀であるこずを免れない。近い将来に斌お、その統䞀が期せられる筈である。䜕よりも、舞台指揮者が、皜叀の数日間、兌俳優教垫たるこずを繰り返す匊颚を䞀掃したい。  それから、新劇俳優の名に応はしき才胜ず教逊ずを発芋するに至るであらう。           ×  自䜜を掻字にする機䌚をさぞ䞎ぞられない無名の劇䜜家が、歀の舞台を唯䞀の発衚機関ずしお、初めお傑䜜を䞖に瀺すこずができたら、どんなに愉快だらう。           ×  新劇の珟状に倱望しお、圓今、俳優たるこずを断念し、又は躊躇しおゐる有為な青幎男女が、歀の舞台によ぀お、埐々にその倩分を発揮し、茝やかしい未来に到達するこずができたら、どんなに幞せだらう。岞田
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0.896
653
短歌に口語をずり入れるこずは、随分久しい問題である。さうしお今に、䜕の解決も぀かずに、残されおゐる。 䞀䜓どの時代でも、歌が型に這入぀お来るず、倧抵は珍しい語に逃げ道を求めた。圢匏の刺戟によ぀お、䞀時を糊塗しようずするのである。若しわれ〳〵が、文献に珟れた死語・叀語の䞭から、圓時に斌ける口語・文語が択り分けられるずしたならば、必、倚くの口語的発想を芋出すこずが出来ようず思ふが、今日では容易な仕事ではなくな぀おゐる。散朚匃歌集あたりには、それでも倚くの口語を芋るこずが出来る。実は、この話の最初に歎史的に芋た、口語ず文語ずの限界に就いお、予め述べおおかねばならない筈なのであ぀た。䜕時の時代にも、文語ず口語ずの区別は、倧凡立぀おゐた事なので、たゞそれが、今日ほど甚しくはなくお、幟分互ひに譲歩しあふ事があ぀たずいふばかりで、今の人の考ぞるやうに、口語その儘を筆録したのが、盎に文語ずならない事は、今日の口語文を芋おも知れるであらう。二葉亭や矎劙斎の倧胆な詊みに過ぎなか぀た時代から芋れば、今日の口語文は、確に䞀皮の圢匏を備ぞたものにな぀お来おゐる。倚くの人は、です、だを䌚話語ずしお、文章語ずしおはであるを䜿うおゐる。よく〳〵、修蟞䞊の必芁のある堎合の倖は、の぀けにずは蚀はないで、最初にずいふ。かうしお珟代語の䞭にも、幟分、硬化しかけおゐる正確な語を、文章語にむけおゐるのである。 これたでの研究でも時間の助動詞぀・きはぬ・けりず范べお、䌚話的芁玠の倚いものずせられおゐる。俊頌などが口語を取り容れおゐる、ずいうたずころで、名詞に止぀おゐるので、䞀぀の短歌の党䜓の発想には、倧した圱響を持぀おゐないものである。西行あたりになるず、たゝ、䌚話語ず文章語ずの刀断を誀぀たらしいふ぀ゝかさが芋えおゐる。さうしお党発想に深い圱響のある動詞・副詞などにも、䌚話語が尠からず混じおゐる容子である。が䜵し、これは西行の出身が、もず〳〵無孊であるべき筈なのであるから、䞍思議はない。山家集を芋お、折々さうした凊に気の぀くのは、䌚話語の発想法が、ただ、玔化を経お取り入れられおゐなか぀た蚌拠である。景暹なんどは、あれでなか〳〵動揺した男で、「䞀寝入りせし花の蔭かな」「それそこに豆腐屋の声聞ゆなり」などの詊みをしおゐる。けれども、これも口語をも぀お文語的発想を詊みた、ず蚀ひ換ぞる方が寧適圓であらう。代々の俗謡類を芋おも、必䌚話語その儘を甚ゐたものずは思はれない。どうしおもいくらか宛圢匏化し、硬化させおゐる傟きがある。しお芋れば、短歌の䞊には䜕時も、文語即叀語・死語・普通文語ばかりを甚ゐおゐねばならないであらうか。叀語・死語の利甚範囲も限りがあらうし、珟代の文語でもだん〳〵硬化の床を増すに連れお、生き〳〵ずした実感を珟すこずが出来なくなる。限りある蚀語を以お、極りなくわれ〳〵の内界を具象しお行かうずするには、幟分の無理が残る。譬ひ珟代語の衚さないものを、叀語・死語が持぀おゐるにしおも、無限に内的過皋を説明しおゆくこずの出来よう筈がない。我々はどうしおも、口語の発想法を利甚せなければならぬ堎合に、今立ち到぀おゐるのである。其で、いよ〳〵、口語の方から、或補充を求めるずなるず、たづわれ〳〵の態床をきめお眮く必芁がある。其は、䞀若し、文語ず口語ずが同量の内容を持぀おゐるものずしたならば、口語の方を採らないこず。甚垞識的な物蚀ひの様であるが、圢匏が違ぞば、自ら内容の範囲も倉぀お来なければならない蚣で、かういふ堎合はあたり無いのであるが、悟性が劂䜕に鋭敏に働いおも、知性がこれに䌎うお、埮现な区別たでも意識するずいふ事は、総おの人に予期せられない事である。豊富な孊才ず、敏感ずを備ぞた歌人、䞊びに読者の少い䞖の䞭では、事実、この条件は無甚な事かも知れない。二文語に盎蚳しおはならないこず。「春日野に若菜を摘めばわれながら昔の人の心地こそすれ」景暹に斌おは、われながらの口語らしい臭ひが著しく錻に附く。これは無意識ながら口語的発想を盎蚳したので、無機的に固定しおゐる。䞉口語的発想法を甚ゐるなら、歌党䜓に脈搏の䌝぀おゐるものでなくおはならぬ。氎に油を雑ぞたやうなものであ぀おは、邪魔にこそなれ、口語を取り容れた䟡倀はないのである。倧正五幎十二月号の「煙草の花」に芋えた、癜秋氏の「たたらず雀が可愛くなるの」ののは、固定しおゐる。蚀ひ換ぞれば有機的でないので、そこに䞀皮の嫌味が生じたのである。郚分的に、口語ず文語の発想法が存圚しおゐるやうでは駄目である。四たた、口語的発想は、どうかするず散文的に流れ易い。歀はずりわけ、避けねばならぬこずで、景暹のわれながらは䞀銖に埋文情調の挲るこずを碍げおゐる。癜秋氏のかあゆくなるのも固定しおゐる為に、散文に過ぎなくな぀おした぀た。五たた、口語的発想法を甚ゐるには、厳密な芳照態床を甚ゐなければならぬ。若し、明培した意識を働すこずを閑华しおを぀たら、ずんでもない発想法を捉ぞお埗々ずするやうな事があるであらう。景暹の堎合でも、芳照を怠぀た為に、䜜者の小䞻芳を衚すわれながらずいふ、䞍快な口語脈が混入しお来たのである。六口語を甚ゐる以䞊は、これたでの文語では衚し了せなか぀た、曲折・気分を衚さなければならぬ。癜秋氏の堎合にかあゆくなるのが遊戯的に聞えるのは、単に新しい刺戟を求めたゞけに止぀お、特殊の発想法を芁求しおゐなか぀たからである。「アラボギ」同人が、近幎口語から発芋しお来た、䞍可抗力を衚はす「――ねば・ならねば」などは貎い収穫である。ずはいぞ事実、この叀兞的な詩圢に、ある革呜を起さうずするのであるから、単なる内容の改革のやうな苊悶には止らない。それに范べおは、単に材料を提䟛するばかりではなく、其材料をどう取り扱ふかを問題にしおゐるのであるから、その困難は尋垞䞀様なこずではない。蚀ひ換ぞれば、䞀々の堎合に深く芳照しお適切な発想法を捉ぞなければならないのである。 明治の新掟和歌では、服郚躬治氏の詊みられた安房歌「迊具土」が歀皮の最初のものであらうが、党䜓的に生呜が埋動しおゐない。又歀ず反察に、子芏氏は通垞語から文語に盎蚳を詊みお、ひずりぶみ新聞玙・さむさはかり寒暖蚈・おいぶるの高足机などいふ新造語を拵ぞたが、俳諧趣味からの出来心であ぀た。其他近幎にな぀お、西出朝颚氏の口語短歌が珟れたが、これは叙述語を口語にした、ずいふだけのもので、癜秋氏のかあゆくなるのほどにも緎れおゐなか぀た。わたしが述べた数条の甚意を忘れお、口語短歌を䜜るものがあ぀たら、それは必、倱敗に終るこずが予蚀せられる。譬ひ短歌党䜓を口語で組みたおゝも、畢竟無駄な話しである。
0.644
Complex
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なかなか機䌚が無かった
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Simple
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11
倫レ幌童性質ノ枅淚無垢ナルハ猶ホ絲ノ玔癜ナルカ劂シ其ノ玅ト爲リ黒ト爲リ又青黄玫藍ト爲ルハ䞀ニ倖物ノ感化ニ是レ由ル幌時ノ感染ハ第二ノ倩性ト成リ畢生埩タ脱华シ胜ハサルモノナレハ孟母ノ居ヲ遷シ墚子ノ絲ニ悲ミタル等以テ先哲ノ善誘懇導ニ勉メタル苊心ノ䞀斑ヲ芋ルヘキナリ抑〻垝國民カ叀䟆尚歊ノ氣象ニ富ミ癟難ヲ排シテ勇埀猛進シ以テ國嚁ヲ癌揚セシハ歎史ノ證明スル所ニシテ就䞭南北朝ノ頃ペリ文祿幎間ニ枉リ我邊民カ片タル葉舟ニ棹シテ浩枺タル怒激ヲ凌キ近クハ亞现亞倧陞ペリ遠クハ南掋諞島ヲ蹂躪シ䞀床八幡歊神ノ倧旗埠頭ニ翩飜タレハ陞䞊応チ無人ノ郷ト變シ幟倚ノ雄邊ヲシテ震懟屏息セシメタルノ快事今猶ホ炳然トシテ青史ヲ照ラシ玙䞊聲アルカ劂ク人ヲシテ䞀讀骚鳎リ肉動キ意氣凛然タラシム我邊民ノ歀ノ劂ク異域ニ暪行濶歩スルヲ埗タルハ固ペリ膜倧力剛ナリシニ由ルト雖モ海戰ノ進退陣圢ノ變化颚向倩〻舊史ト盞照暎シテ爛然異圩ヲ攟チ名ハ小説ナルモ寊ハ粟神教科曞ニシテ即チ軍孞研究ノ䞀方䟿タリ况ンダ䞊村海軍少䜐ノ懇切嚎密ナル校閲アルニ斌テヲダ䞖ノ架空文字ヲ䞊列シ恬々自ラ喜フモノト逈ニ撰ヲ異ニス歀曞䞀出我少幎子匟ヲ感化シテ䞍知䞍識ノ間ニ海事思想ヲ蓄ヘシメ未䟆國民ノ元氣ヲ皷舞スルノ功偉倧ナルハ期シテ竢ツヘキナリ曞成ルニ及ヒ鄙芋ヲ曞シ序ト爲ス  明治䞉十䞉幎韍集庚子倩長節楓菊秋錊ヲ曝ス處ニ斌テ 海軍少䜐 子爵 小笠原長生
1
Complex
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0
0.7
588
こちらはケンです。圌は自分の犬が倧奜きです。
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Simple
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22
蚘玀の死語・䞇葉の叀語を埩掻させお、其に新なる生呜を蚗しようずする、我々の努力を目しお、骚董趣味・憬叀癖ずよりほかに考ぞるこずの出来ない人が、ただ〳〵随分ずあるやうである。最近には、埡歌所掟の頭目井䞊通泰氏が、われ〳〵䞀掟に向うお、暗に攻撃的の態床を瀺しおゐる。これは偶、安易な衚珟・䞍透明な芳照・散文的な生掻に満足しおゐる、桂園掟の欠陥を曝け出しおゐるので、歎史的に存圚の䟡倀を倱うおゐる人々の、無理䌚な攟蚀に察しお、今曎らしく匁難の劎をずらうずは思はぬ。唯尠くずも、新芞術を解しおゐるず思はれる人々の、懐いおゐる惑ひを、開いお眮かうず思ふのだ。 軜はづみで、おろそかであるこずを意味する垞識䞀片の考ぞから芋れば、叀語・死語の意矩を、字面通りにしか考ぞるこずの出来ないのも、無理ではない。而もさうした垞識者流の倚いのには、実際驚く。殊にひどいのは、自身所謂叀語・死語を䜿ひ乍ら、われ〳〵䞀掟の甚語や、衚珟法を攻撃する無反省な茩である。 われ〳〵は敢ぞお、叀語・死語埩掻に努めおゐる者なるこずを明蚀しお憚らない。かういふわたしの語は、決しお反語や皮肉ではない。我々の囜語は、挢字の䌝来の為に、どれだけ蚀語の怠惰性胜を逞しうしおゐたか知れない皋で、決しお順圓の発達を遂げお来たものではないのである。この千幟幎来の闖入者が、どれだけ囜語の自然的発達を劚げたかずいふこずは、実際文法家・囜語孊者の抂算以䞊である。挢字の勢力がただわれ〳〵の発想法の骚髄たで沁み蟌んでゐなか぀た、平安朝の語圙を芋おも、われ〳〵の祖先が、どれ皋緻密に衚珟する蚀語を有぀おゐたかは、粗雑な、抂括的な発想ほかするこずの出来ない、珟代の甚語に慣された頭からは、想像の぀かない皋である。かうした方面に泚意を払ひ乍ら、物語類を読んで行くず、床々矚たれ、驚かれる倚くの語に逢着する。曎に、奈良朝に溯぀お芋るず、倖的な支那厇拝は、頗盛んであ぀たに係らず、固有の発想法で、自圚に分解叙述しおゐる。物皆は時代を远うお発達する。唯語ばかりが、歀䟋に掩れお、退化しおゐる䟋は決しお少くないのである。単綎・孀立の挢語は、無限に熟語を䜜るこずは出来おも、囜民の感情に有機的な吻合を為すこずは出来なか぀た。散文はずもあれ、思想の曲折を尊ぶ埋文に、固定的な挢語が、勢力を占めるこずの出来なか぀たのは、この為である。其にも係らず、䞖間通甚の語には、どし〳〵挢字の勢力が拡぀お来おゐる。 さすれば、短歌に甚ゐられる語は、圓然愈枛じお来る蚣である。其で、歀欠陥を埋めるには、どういふ方䟿に埓ぞばよいか。之を補填するものずしお、挢語・口語・新造語・叀語を曎に倚く採り入れるずいふこずが、胞に浮ぶ。凊が挢字・挢語は、熟語を陀いおは、既に述べたやうな根本の性質䞊、たづ今の分では、倧した結果を予期するこずは出来ぬ。 口語は極めお有望なものであるが、歀迄色々の人に詊みられたやうな、無機的なものでなく、単語ずしおゞなく歌党䜓が、口語の発想法によ぀お、埋動するやうなものでなくおは、倚くの堎合無意矩な努力にな぀お了ふのである。新造語も亊其通りで、二぀の挢字を䞊べお、無雑䜜に捏ち䞊げられたものであ぀おはならぬ。党䜓に鳎り響く生呜を持぀たものでなければならぬ。 叀語ず口語ずの発想や倉化に就いお、呚到な芳察をしお、其に随応するやうな態床を採るべきである。唯叀語を甚ゐるこずに぀いおは、䞀床垞識者流の考ぞに就いお、泚意を払ふ必芁がある。圌等は、かういふ劄信を擁いおゐる。われ〳〵の時代の蚀語は、われ〳〵の思想なり、感情なりが、残る隈なく、分解・叙述せられおゐるもので、あらゆる衚象は、悉く蚀語圢匏を捉ぞおゐるず考ぞおゐるのである。けれども歀は、おほざ぀ぱな空想で、事実、蚀語以倖に喰み出した思想・感情の盛りこがれは、われ〳〵の持぀おゐる語圙の幟倍に䞊぀おゐるか知れない。若し珟代の語が、珟代人の生掻の劂䜕皋埮现な郚分迄も、衚象するこずの出来るものであ぀たなら、故らに死語や叀語を埩掻させお来る必芁はないであらうが、さうでない限りは、曎に死語や叀語も蘇らさないではゐられない。反察の偎から、歀事を考ぞるず、はやり語の非垞な勢で人の口に䞊るのは、どうした蚣であらう。我々の蚀語が、珟代人の思想感情を残る隈なく衚象しおゐるものずすれば、はやり語なんかで、新らしく内界を具珟する必芁はない筈である。而も、われ〳〵の粟神内容は、䞀日癟個のはやり語を歓迎するだけの䜙裕ず、枟沌ずを残しおゐる。又、他の方面から芋るず、誰しも口癖を持぀おゐないものはなからうが、其人々の粟神内容が、䜕時も䞀぀の蚀語衚象に這入぀お来るずいふこずは、他の理由は別ずしお、我々が、埮现な衚象の区劃を重んじおゐぬずいふこずも、明らかに䞀぀の理由でなければならぬ。歀から掚しお芋おも、珟代の蚀語が、必しも珟代人の心理に随応した総おゞあるずいふこずは出来ないであらう。其䞊我々の感情なり、思想なりが、䞀代毎に忘られお行぀お、圢さぞ止めないものならば栌別、実際日本歊や䞇葉人の心は、珟圚われ〳〵の内にも掻きおゐるこずを、誰が吊むこずが出来よう。今、叀語・死語を甚ゐる範囲を最小限床に止めおも、尠くずも歀心持を衚象するに圓぀おは、圌叀語・死語を蘇らしお、䜕のさし぀かぞがあるだらう。 このやうに叀兞的な心持でなくおも、珟に我々が日垞其内に生きおゐる粟神䜜甚も、叀語や、死語には緻密に衚珟せられおゐるに係らず、珟代の蚀語には其衚象胜力を備ぞないものが埀々ある。其等の内容を珟すに、䞀々新語を造るこずの出来ないわれ〳〵は、叀人が甚ゐ慣し而もわれ〳〵の祖先の生掻内容が、䞀床は盛られお来たこずのある蚀語を甚ゐる事に察しお、いひ知らぬ誇りず暩利ずを感じるのである。けれども単に其だけで以お、叀語・死語の埩掻に努めおゐるのでない。われ〳〵は歀内容を盛るに最適切な圢匏を、各時代の語圙の䞭から求め出さうず思ふのである。 われ〳〵の叀語・死語をば埩掻せしめようず努めるのは、単なる憬叀癖を満足せしめる為にするのだず思うおはならぬ。われ〳〵は骚董品に籠぀おゐる、幟癟幎の黎の匂ひを懐したうずする者ではない。われ〳〵の霊は、埀々䜏すべき家を尋ねあおるこずが出来なくお、よすがなくさたようおゐるこずがある。其霊の入るべき殻があるずさぞ聞けば、譬ひ幟重の地局の䞋からでも、其を掘り出さずにはゐられないではないか。劄りに今を信ずる人々よ。おん身らは自己を衚珟するに忠ならざるより、安じお攟蚀しおゐる。珟圚のわれ〳〵の生掻は、珟圚のわれ〳〵の生きた語によ぀おのみ衚されるず。䜵しわれらの生呜の埋動には、我々の垞に口にする語ばかりに、宿しきれないものがあるのである。
0.726
Complex
0.655
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0.908
2,756
 珟今戯曲ずしお通甚しおゐる䜜品のうちには、若しもその䞻題を取぀お小説ずしたならば、定めし読むに堪ぞないであらうやうな安䟡な䜜品が倚い。その反察に、小説ずしお読めば盞圓高い芞術的の銙りを攟぀おゐる䜜品の内容を、戯曲ずしお舞台にかけお芋るず、極めお空疎な印象しか䞎ぞられないずいふやうな堎合が屡々あるのであるが、これは抑も䜕に基因するであらう。  戯曲ずいふ文孊的圢匏が、それ自身にも぀おゐる匱点であらうか。或はたた、戯曲の創䜜がそれほど六かしいものなのであらうか。  人はよく「これは戯曲的な䞻題」であるずか、「劇的な内容」であるずか、さういふ蚀葉を䜿぀お、そこに戯曲創䜜の出発点を眮かうずする。これが文孊ずしおの戯曲を芞術的に䜎玚ならしめる唯䞀の原因であらうず思はれる。  あらゆる芞術的䜜品の魅力は、䜜者の䞻芳を通しおのみわれわれの魂に觊れお来るものである。客芳的に「芞術的な䞻題」ずいふものは絶察にあり埗ない。小説に斌おは既にこの真理が普く䌚埗されおゐるに拘はらず、戯曲の方面に斌おのみ、なほ客芳的に「劇的䞻題」なるものが尊重され、戯曲の芞術的䟡倀が、この暙準によ぀お論議される滑皜千䞇な状態を持続しおゐるのである。  人生を劂䜕に芳、劂䜕に衚珟するかずいふこずでなしに、人生の劂䜕なる郚分を捉ぞるかずいふこずに戯曲創䜜の芁諊があるずすれば、戯曲は断じお芞術的䜜品のレベルには達し埗ないであらう。勿論䞻題の遞択は制䜜過皋の第䞀歩には違ひない。ただ、小説家は、あくたで芞術家ずしおの䞻芳を透しお人生の事盞に興味を向け、小説家にしお初めお感じ埗る真理の閃きを捉ぞお、これを独特の衚珟に盛らうずする。そこから、芞術的䜜品が生れるのである。然るに、劇䜜家のみは䜕故に、客芳的態床を以お人生の「劇的葛藀」に泚目し、劇䜜家ならずずも感じ埗る「興味」を捉ぞお、これを公衆に瀺す矩務があるのだらう。戯曲の倧郚分が芞術的䟡倀に乏しい所以である。  勿論小説にも通俗小説ずいふものがある。珟代の日本に斌おは、新掟劇ず新劇ずを察立させお、䞀を通俗的、䞀を芞術的ずしおゐるらしいが、新劇ずは結局、新掟劇より「ロマンチックな手法」乃至「センチメンタルな分子」を陀いたずいふだけで、それがために芞術的䟡倀が向䞊しおゐるずは云ぞないものである。  極めお倧ざ぀ぱな論じ方のやうであるが、小説家が小説的に人生を芳、戯曲家が戯曲的に人生を芳るずいふこずがあり埗るにしおも、その「小説的」な芳方が盎ちに「芞術的」な芳方でなければならぬ劂く、「戯曲的」な芳方が、結局「芞術的」な芳方でなければならないずいふ点で、珟圚の戯曲家乃至戯曲批評家の頭がは぀きりしおゐないのではないかず思はれる。  ここで、第䞀、問題になるのは「戯曲的」ずいふ蚀葉である。芞術的ずいふ意味を含んだ「戯曲的」ずいふ蚀葉である。かうなるずもう「衚珟」ずいふ問題に結び぀いお来るが、ここでは「衚珟以前」のもの、即ち劇䜜家の芞術的霊感が、小説家のそれず劂䜕に違ふか、延いお、「戯曲以前のもの」は、「小説以前のもの」に察しお、劂䜕に区別さるべきか、この点に぀いお䞀考しおみたいず思ふのである。  芞術家の立堎によ぀お、その制䜜過皋や、制䜜動機がたちたちであるこずは圓然であるが、所謂「䞻題」の捉ぞ方に斌お、劇䜜家が小説家ず異る䞀点は、ただ、生呜の韻埋に興味を繋ぐか、或はその姿態に心を傟けるかによ぀お生じるのであるず思ふ。これは必ずしも、人生の動的な半面或は静的な半面ず䞀臎するわけではない。䞀切のものに「生呜」を䞎ぞるこずが芞術であるずすれば、そしお、「生呜」に絶察的静止があり埗ないずすれば、人生を動的半面、静的半面に区別するこずさぞ䞍可解である。  色圩にも韻埋がある劂く、音響にも姿態がある。運動そのもののうちに、韻埋ず姿態があるこずは云ふたでもない。時間及び空間的存圚である䞀぀の「生呜」が、時間的にある姿態を瀺し埗るず同時に、空間的にある韻埋を䌝ぞ埗るものであるこずを知れば、小説ず戯曲ずの分野は自ら明かになるず思ふ。県に蚎ぞる韻埋ず耳に映ずる姿態、これは、小説ず戯曲ずを区別する根本の感芚である。  かう云ふずたた、「韻埋の矎」が「詩」の同矩語に解せられる恐れがあるが、「詩」は圢匏の䞊から音声䞊の韻埋を䞀぀の芁玠ずしおゐるだけで、「詩的矎」は必ずしも生呜の韻埋のみを䌝ぞるず限぀おはゐない。この堎合には、韻埋ずか姿態ずかいふ蚀葉は䜿はない方がいいのであるが、匷ひお云ぞば、詩は生呜の最も党的にしお玔粋な衚珟である。埓぀お、生呜の「特殊な衚珟」が、小説や戯曲の劂く、最初から玄束されおはゐないのである。あらゆる生呜の韻埋ず姿態が、時には離れ離れに、時には入り乱れ、たた時には䞀臎融合しお自由な衚珟に達するずころから詩が生じるのである。ここで詩論にたではひるわけに行かないが、芁するに戯曲の戯曲たる所以は、䞻題そのものの客芳的特性に圚るのではなくしお、流動する人生の姿を通しお、統䞀ある生呜の韻埋を捉ぞ、これに文孊的意味を䞎ぞお、動䜜たたは癜の圢匏に盛る、これ以倖にはないのである。  戯曲を読み又はその戯曲の䞊挔を芳る時、われわれは「䜜者の意図」を露骚に瀺されるこずを厭ふ。䜜者から盎接に話しかけられるこずを䞍快に感じる。これはなぜかず云ぞば戯曲䜜家は、読者なり芳衆なりず倶にその傍らに圚぀お人生を芳、圌等ず倶に笑ひ、䞔぀泣くべき立堎に眮かれおあるからである。読者や芳衆は、戯曲の前に立぀た時、䜜家の存圚を忘れおゐる。圌等は、自ら戯曲に盛られおある「人生」の批刀者にならうずする。これは、結局同じこずで、や぀ぱりい぀の間にか䜜者の魔術にかかり、䜜者の批刀に耳を傟け、䜜者の批刀を批刀ずしお受け入れればその䜜品は成功である。読者や芋物をしお、恰も䜜者の力を藉らずしお、「人生の心理」を発芋したやうな快感を䞎ぞるずころに、戯曲の戯曲たる圢匏があるこずを思ぞば、これをも぀ず高い凊から芋お、戯曲はその芞術的手法に斌お、最も暗瀺的なものでなければならないず云ぞるのである。  最も暗瀺的であるこずは、最も盎接的であるこずを劚げない。これは矛盟でもなんでもない。暗瀺ずいふこずは、必ずしも、間接的な物蚀ひや、遠廻しな蚀葉䜿ひを指すのではない。この䞀芋矛盟したやうな二点を、最も正しく理解しお、これを最も巧みに取入れるこずが、戯曲創䜜の芁諊である。䜜者が䜕等間接の解釈を加ぞないで、しかも䜜者の云はんずするこずを盎接語り尜しおゐるやうな、さういふ「堎面」こそは戯曲のために最も奜たしい堎面なのである。しかしながら、かういふ堎面を珟実の䞭に求めるこずは䞍可胜である。珟実の䞭には䜕等解釈ずいふものはない。然し、垞に解釈を劚げ、又は解釈に無益なる分子が混圚しおゐるものである。これを敎理するのが劇䜜家の手腕であり、才胜である。  さお、「堎面」ずいふ蚀葉が出お来たから、序に戯曲の「結構」即ち、コンポゞションに぀いお䞀ず通り研究しおみよう。  戯曲の結構に぀いおも、叀来、所謂「䜜劇術」ずいふやうなこずが論ぜられお、䜕か䞀定の法則でもあるやうに思はれおゐるが、これが若し、「劇的事件の掚移」乃至は「筋の運び」ずいふやうな立堎から、先づ準備説明を必芁ずし、劇的高朮を経お倧団円に至るずいふやうなこずなら、誰しも心埗おゐるこずであ぀お、これは戯曲に限らず、興味䞭心の物語には垞に応甚されるコンポゞションの垞套手段である。  喧嘩の話をする。ちやんずこの型に嵌めお、先づ喧嘩の起぀た理由から、喧嘩の有様、喧嘩が枈んで双方が仲盎りをするなり、䞀方が殺されるなり、二人共譊察ぞ匕぀匵られるなりする凊で話が終るずい぀た颚である。が、それは喧嘩に察する興味が䞀般にそれだけで満足されるからであ぀お、たたそれが䞀番解り易く、䞀番話し易いからであ぀お、若し、これを喧嘩の最䞭から物語を起すずするず、䞀寞六かしくなる。たしお、仲盎りの堎などから始めるず、なかなか骚である。成皋、戯曲では、時間的に順序を远぀お堎面を展開させる必芁があるからでもあるが、喧嘩の話を戯曲に仕組むにしおも、必ずしも喧嘩の堎面を䜿はなくおもいい。それを䜿ふより以䞊に面癜い堎面が、喧嘩埌のある堎面にあり埗るのである。ただそれを面癜く珟はすこずが六かしい。たた、喧嘩をしたあずの人間の気持などよりも、喧嘩をしおゐる最䞭の凄たじい光景により以䞊、興味をも぀のが普通であるから、劇䜜家は、぀い、そ぀ちを遞ぶこずになるたでの話で、畢竟、戯曲ずいふものが、喧嘩を芋に行く心理に投ずるこずを必芁ず考ぞれば、もうそれたでの話である。喧嘩が枈む。芋物は散぀お了ふ。額の血を拭きながら暪町に消えお行く男の心持などは、もう誰も考ぞおはゐない。戯曲が、そこから始た぀おはなぜいけないのか。勿論、これは䞻題の遞び方にもよるのであるが、䜕よりも䞀぀の堎面の䜜り方に、それぞれ興味の䞭心がなければならないずすれば、その興味は、通俗的であるこずも芞術的であるこずもできるわけである。堎面の緊匵ずいふこずは、必ずしも、芋物に「ある期埅」をもたせるずいふこずではない。「どうなるか」ずいふ興味は、結局、通俗的な興味にすぎない。さういふものがあ぀おもかたはないが、それ以䞊の魅力がなければならない。それは、前にも述べた「生呜の韻埋的衚珟」による心理的又は動性的な矎感である。それは音楜に比すれば諧調の矎である。瞬間瞬間、䞀語䞀語、䞀挙䞀動によ぀お醞し出される雰囲気の流れである。芳衆をしお䜕等の期埅なく、䜕等の予想なく、而も倊怠ず焊燥を感ぜしめないで、刻々の陶酔境にひたりきるこずを埗させれば、もう堎面の切り方など重芁な問題でない。しかし、さういふ結果を埗るために、党䜓ずしおやはり、堎面の切り方は問題になるのである。しかし、これも詮じ぀めれば堎面の統䞀ず調和、堎面ず堎面ずの関係から生じる韻埋的効果、それ以倖のものではない。  次に来るのは「戯曲の文䜓」であるが、これは、前二章に亘぀お論じた通りである。  そこで、私は、「戯曲以前のもの」ずいふ暙題を遞んだ理由を明かにしなければならない。  これはもう、小説ずか戯曲ずかいふ境界を超越しお、文孊的制䜜䞀般に関する根本的の問題である。埓぀お、この䞀点だけで既に、あらゆる文孊䜜品の根本䟡倀が決定されるわけである。戯曲ずしおの䟡倀、小説ずしおの䟡倀、曎に䞀幕物ずしおの䟡倀、䞉幕物ずしおの䟡倀、悲劇ずしお、喜劇ずしおの䟡倀、それらの䟡倀問題は、この根本䟡倀の䞊に定めらるべきこずであ぀お、この䞀点で凡庞な、或は劣等な䜜品は、戯曲ずしお劂䜕にその䟡倀が論ぜられようずも、その䟡倀は結局、他の芞術的䜜品の傍らでは、䜕等の暩嚁もないこずになる。これは云ふたでもないこずである。  この根本的䟡倀こそは、ここで云はうずする「戯曲以前のもの」なのである。  ある人は云ふであらう。その根本䟡倀ずは、぀たり䜜品の「内容」を指すのではないかず。しかし、「内容」ずいふ蚀葉は䜿ひたくない。なぜなら、この蚀葉には「圚るもの」ずいふ意味が先に立぀お、「把握したもの」ずいふ意味が皀薄になるからである。客芳性のみ䌝ぞられお、寧ろより䞻芁な䞻芳性が閑华せられる恐れがあるからである。  愛し合぀おゐた男女が結婚する。しかし、間もなく、男には別の女が出来た。するず、前の女は、絶望のあたり海に投じお死ぬ。これは、戯曲の「筋」であるず云ぞるかもしれない。しかし、決しお「内容」ではない。それならば、䜜者が若し、この戯曲によ぀お、男女の恋愛に察する、宿呜的な心理傟向を瀺さうずしたず仮定すれば、それはなるほど、この䜜品の「内容」であるず云ひ埗よう。ただ、それは、あくたでも「内容」であ぀お、䜜品の「創造的䟡倀」ずは䜕も関係はない。  それならば、䜜品の「根本的䟡倀」を巊右するものは䜕かず云ぞば、この問題に察する䜜者の「興味のもち方」である。「態床」ずいふ蚀葉も穏かでない。功利的の意味が含たれるやうな気がする。「興味のもち方」にはいろいろある。教育家ずしお、政治家ずしお、瀟䌚孊者ずしお、宗教家ずしお、心理孊者ずしお、倫理孊者ずしお、又は、新聞蚘者ずしお、刑事ずしお、商人ずしお、隣人ずしお、知人ずしお、赀の他人ずしお、又は芪ずしお、兄匟ずしお  。が、それらの「興味のもち方」は䜕れも、芞術的䜜品の根柢にはならない。芞術家は、その䜕れでもあり埗るず同時に、その䜕れでもないのである。そこには、もう䞀぀別に、「芞術家ずしおの興味のもち方」がある。これにも亊、芞術家各個の玠質によ぀お、幟通りもの「興味のもち方」があるだらう。あるものは楜芳的に、あるものは悲芳的に、又あるものは喜劇的に、あるものは悲劇的に、あるものは浪挫的に、あるものは珟実的に、様々な「興味のもち方」をするであらうが、兎も角も、その「興味」は、䞀床は必ず芞術家ずしおの心境を透しお、特殊な感受性ず想像力の節にかけられ、そこから「人生の新しい盞」が正しく矎しく浮び出おゐる。――さういふ「興味のもち方」は、芞術家の本質的倩分を決定的に物語るものであ぀お、鑑賞者の立堎から、その䜜品に興味がもおないずか、もおるずかいふのも、぀たりは、䜜家ず鑑賞者ずの隔り――芞術的倩分の盞違――ずいふこずに垰着するわけなのである。  この「興味のもち方」は、䜜品を通じお芋る時は、云ふたでもなく「衚珟」ず離れお存圚はしない。たた、これだけを問題ずするこずも䞍圓のやうではあるが、実際、われわれは数倚の䜜品䞭に、ここたで論じ぀めなければ、その䟡倀を批刀するこずができないやうなものを芋出すのである。぀たり戯曲ずか小説ずかいふ䜜品そのものの䟡倀批刀を、真面目にする気にはなれないほど、さういふ䜜品を発衚する䜜家の芞術的倩分に疑ひをも぀こずが、屡々あるのである。  戯曲論ずしおは、甚だ芋圓違ひのやうではあるが、戯曲䜜家の第䞀免蚱状を、「察話させる術」ず断じたその意味に斌お、私は将来の劇䜜家に「戯曲以前のもの」を芁求するのである。䞀九二五・五
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     䞊  人生䜕すれぞ垞に忙促たる、半生の過倢算ふるに遑なし。悲しいかな、我も亊た浮萍を远ひ迷雲を尋ねお、この倕埒らに埀事を远懐するの身ずなれり。  垞に惟ふ、志を行はんずするものは必らずしも終生を劎圹するに及ばず。詩壇の正盎男ゎヌルドスミスこの情を賊しお蚀ぞるこずあり。 I still had hopes, my long vexation past, Hero to return――and die at home at last.  浮䞖に背き埮志を蓄ぞおより、䞖路酷だ峭嶢、烈々たる炎暑、凄々たる冬日、い぀は぀べしずも知らぬ旅路の空をうち眺めお、屡、正盎男ず共に故郷な぀かしく袖を涙にひぢしこずあり。  われは凜嶺の東、山氎の嚁霊少なからぬずころに産れたれば、我が故郷はず問はゞそこず答ふるに躊躇はねども、埀時の産業は砎れ、知己芪瞁の颚流雲散せざるはなく、快く疇昔を語るべき叀老の存するなし。山氎もはた昔時に異なりお、豪族の擅暪を぀らにくしずも思ずうなじを垂るゝは、流石に名山倧川の嚁霊も半死せしやず芚お面癜からず。「远懐」のみは其地を我故郷ずうなづけど、「垌望」は我に他の故郷を匷ゆる劂し。  回顧すれば䞃歳のむかし、我が早皲田にありし頃、我を迷はせし䞀幻境ありけり。軜々しくも候少くしお政海の知己を埗぀、亀りを圓幎の健児に結びお、欝勃沈憂のあたり月を匄し、花を折り、遂には曞を抛げ筆を投じお、䞀二の同盟ず共に䞖塵を避けお、䞀切物倖の人ずならんず䌁おき。今にしお思ぞば政海の波浪は自から高く自から卑く、虚名を貪り俗情に蹀はるゝの人には棹を圹ひ、橈を甚ゆるのおもしろみあるべきも、わが劂く䞀片の頑骚に動止を制し胜はざるものゝ挂ふべきずころならず。然れども我は実にこの波浪に挂蕩しお、悲憀慷慚の壮士ず共に我が血涙を絞りたりしなり。醜悪なる瀟界を眵蹎しお䞀蹶青山に入り、怪しげなる草廬を結びお、空しく俗骚をしお畞人の名に敬しお心には遠けしめたるなり。この時に我が為めにこの幻境を備ぞ、わが為にこの幻境の同䜏をなせしものは、盞州の䞀孀客倧矢蒌海なり。  はじめおこの幻境に入りし時、蒌海は䞀田家に寄寓せり、再び埀きし時に、圌は䞀畞人の家に寓せり、我を駐めお共に居らしめ、我を酔はしむるに濁酒あり、我を歌はしむるに砎琎あり、瞊に我を泣かしめ、瞊に我を笑はしめ、我玠性を枉げしめず、我をしお我疎狂を知るは独り圌のみ、ずの歎を発せしめぬ。おもむろに庭暹を瞰めお奇句を吐かんずするものは歀家の老畞人、剣を撫し時事を慚ふるものは蒌海、倩を仰ぎ流星を数ふるものは我れ、この䞉箇䞀宀に同臥同起しお、玉兎幟床か眅け、幟床か満ちし。  䞉たび我が行きし時に、蒌海は幟倚の少幎壮士を率ゐお朝鮮の挙に䞎らんずし、老畞人も亊た各囜の点取に雷名を蜟かしたる秀逞の吟咏を廃しお、自村の興廃に関るべき倧事に眉をひそむるを芋たり。この時に至りお我は既に政界の醜状を悪くむの念挞く専らにしお、利剣を把぀お矩友ず事を共にするの志よりも、静かに癜雲を趁ふお千峰䞇峰を攀づるの談興に耜るの思望倧なりければ、矩友を倱ふの悲しみは胞に䜙りしかども、私かに我が去就を玛々たる政界の倖に眮かんずは定めぬ。この第䞉回の行、われは髪を剃り笻を曳きお叀人の跡を蹈み、自から意向を定めおありしかば矩友も遂に我に迫らず、遂に倧坂の矩獄に䞎らざりしも、我が懐疑の所芋朋友を倱ひしによりお倧に増進し、この埌幟倚の苊獄を経歎したるは又た是非もなし。  狂ひに狂ひし頑癖も皍静たりお、茲幎人間生掻の五合目の䞭阪にたゆたひ぀ゝ、そゞろに旧事を远想し、垰心矢の劂しず蚀ひたげなるこの幻境に再遊の心は、この春束島に遊びし時より衷裡を離れず。幞にしお倧坂の事ありおより消息絶えお久しき蒌海も、獄を出でゝ近里に棲めば、曞を飛ばしお䞉個同遊せんこずを慫むるに、来月たで埅぀べしずの来曞なり。我は䞀日を千秋ず数ぞお今日たで埅ち぀るものを、今曎に閑暇を埗ながら行くべきずころに行かぬは、あさはかな心の虫の焊぀を抑ぞかねお、䞀曞を急飛し、飄然家を出でゝ圌幻境に向ひたるは去月二十䞃日。  この境、郜を距るこず遠からず、むかし行きたる時には幟床か鞋の玐をゆひほどきしけるが、今は汜笛䞀声新宿を発しお、名にしおふ玉川の砧の音も耳には入らで、旅人の行きなやむおふ小仏の峰に近きずころより右に折れお、数里の山埄もむかしにあらで腕車のかけ声すさたじく、月のなき桑野原、䞃幎の倢を珟にくりかぞしお、幻境に着きたる頃は倜も既に十時ず聞きお驚ろきたり。この幻境の名は川口村字森䞋、蚪ふ人あらば俳号韍子ず尋ねお、我が老畞人を音づれよかし。  韍子は圓幎六十五歳、元ず豪族に生れしが少うしお各地に飄遊し、奜むずころに埓ひお矩倪倫語りずなり、江郜に数倚き倪倫の䞭にも寄垭に出でゝは垞に二枚目を語りしずぞ。然れども圌は元来䞀個の䟠骚男子、芞人の卑䞋なる根性を有たぬが自慢なれば、あたらしき才芞を自ら埋没しお、䞭幎家に垰り父祖の産を継ぎたりしかど、生埗の奇骚は鋀犂に甚ゆべきにあらず、再䞉再四家を出でゝ豪䟠を以お自から任じ、業は孊ばずしお頭領株の䞀人ずなり、墚぀が取぀おは其道の達人を驚かしめ、颚流の遊塲に立ちおは幟倚の䜳人を悩殺しお今に懺悔の皮を残し、或時は剣を挺しお歊人の暎暪に圓り、危道を蹈み死地に陥りしこず数を知らず。然れども我が知りおよりの圌は、沈静なる硬挢、颚流なる田人、園芞をわきたぞ、俳道に明らかに、矩倪倫の節に巧みに、刀剣の鑑定にぬきんで、村内の葛藀を調理するに嚁暩ある二十貫男、むかし䞉段目の角力を悩たせし腕力たしかに芋えたり。  わが幻境は圌あるによりお幻境なりしなり。わが再遊を詊みたるも寔に圌を芋んが為なりしなり。我性尀も䟠骚を愛す。而しお今日の瀟界たこずの䟠骚を容るゝの地なくしお、剜軜なる壮士のみ時を埗顔に跳躍せり。昚日の䞀壮士、奇運に遭䌚し代議士の栄誉を荷ひお議堎に登るや、酒肉足りお脟䞋芋苊しく肥ゆるもの倚し、われは歀茩に䌚ふ毎に嘔吐を催ふすの感あり。䞖に知られず人に重んぜられざるも胞䞭に䞇里の颚月を蓄ぞ、綜々䜙生を逊ふ、この老䟠骚に䌚はんずする我が埗意は、いかばかりなりしぞ。  車を䞋り閉せし雚戞を叩かんずするに、むかしながらの老婆の声はしはぶきず共に耳朶をうちぬ。次いで少婊の高声を聞きぬ。わが手は戞に觊れお音なふ声ず共に、䞭には早や珍客の来遊におどろける蚀葉を掩らせるものあり。わが音むかしに倉らぬか、な぀かしきものは埀日の知音なり。戞は開かれお我は迎ぞ入れられしが、老畞人の面を芋ず、之を問ぞば八王子にありず蚀ふ、八王子ならば車を駆぀お過ぎり来しものを、この時われは呆然ずしお為すずころを知らず。  埋火をかき起しお炉蟺再びにぎはしく、少婊は我ず車倫ずの為に新飯を炊ぎ、老婆は寝衣のたゝに我が傍にありお、䞀枚の枋団扇に枅颚をあほり぀ゝ、我が䞃幎の浮沈を問ぞり。ふずころに収めたる圓䞖颚の花簪、䞀䞖䞀代の芋立にお、安物ながらも江戞の土産ず、汗を拭きふき銀座の店にお賌ひたるものを取出しお、昔日の少嚘のその時五六歳なりしものゝ名を呌べば、早や寝床に入れりず蚀ふ、枉げおその顔芋せおよず乞ぞば、やがお出で来りお䞀瀌す。驚かるゝたでに倉りお、その名にしれし幎の数もかさなりお、今は十䞉歳ず聞けばな぀かしき山癟合の、いた幟幎たゝば人目にかゝらむなど戯れける䞭に、老婆は他の小嚘の、むかしの少嚘のずしばぞなるものを抱き来りお我を驚ろかせぬ。その名をぬひず呌ぶず聞きお、行先人の劻ずなりおたちぬひの業に家を修むる吉瑞ありず打ち笑ひぬ。時も移りお我は老婆ず少嚘ずの玙垳に入りお䞀宵を過ごしぬ。この倜は䞃幎の刺倚き浮䞖の旅路を忘华し、安らかなる眠りに入りお楜しかりけり。  明くれば早暁、老鶯の声を尋ねお欝叢たる藪林に分け入り、旧日の「我」に垰りお倢幻境䞭の詩人ずなり、既埀ず将来ずを思ひめぐらしお、神気甚だ爜快なり。老婆は埌庭に怍ゑたる癟合数株、惜気もなく堀りずりお我が朝选の膳に䟛し、その花をば叀びたる花瓶に掻けお、我が前に眮据ゑぬ。人を垂に遣りお老畞人に我が来遊を告げしめ、われに蚱しお圌が秘蔵の文庫に入りお、其終生の秘曞なる矩倪倫本を雑抜せしめたり。午になれど老人未だ垰らず、我は人を埅぀身の぀らさを奜たねば、少嚘ず其が兄なる少幎ずを携ぞお、網代ず呌べる仙境に蹈入れり。網代は山間の䞀枩泉塲なり、むかし蒌海ず手を携ぞお爰に遊びし事あり、巌に滎る涓氎に鉱気ありければ、これを济宀にう぀し、薪火をもお暖め぀ゝ、近郷近里の老若男女、春冬の閑時候に来り遊ぶの䟿に䟛せり。䞀条の山埄草深くしお、昚倕の露なほ葉䞊にのこり、耰ぐる裳も湿れがちに、峡々を越えお行けば、昔遊の跡歎々ずしお尋ぬべし。老鶯に送迎せられ、枓氎に耳奪はれ、やがお砧の音ず欺かれお、ずある䞀軒の埌ろに出づれば、仙界の老田爺が棒打ずか呌べるこずをなすにおありけり。こゝは網代の村端にお、これより枓柗に沿ひ山䞀぀登れば、昔し遊びし济亭、森粛たる叢竹の間にあらはれぬ。この行甚だ楜しからず、蒌海玄しお未だ来らず、老䟠客の面未だ芋ず、加るに魚なく肉なく、埒らに济宀内に老女の喧囂を聞くのみ。肱を曲げお䞀睡を貪がるず思ふ間に、倕陜已に西山に傟むきたれば、晩蝉の声に別れおこの桃源を出で、元の山路に拠らで他の草埄をたどり、我幻境にかぞりけり、この時匊月挞く明らかに、劙想胞に躍り、歩々倩倖に入るかず芚えたり。  楌䞊には我を埅぀畞人あり、楌䞋には晩逐の甚意にいそがしき老母あり、匊月は我幻境を照らしお朊朧たる奜颚景、埗も蚀はれず。階を登れば老䟠客莞爟ずしお我を迎ぞ、盞芋お未だ䞀語を亀はさゞるに、満堂䞀皮の枅気盈おり。盞芋ざる事䞃幎、盞芋る時に驟かに口を開き難し、斯般の趣味、人に語り易からず。始めは問答倚からず、盞察しお盞笑ふのみなりしが、挞く談じ挞く語りお、我は別埌の苊戊を説き起しぬ。  この過去の䞃幎、我が為には䞀皮の牢獄におありしなり。我は友を持぀こず倚からざりしに、その友は囜事の眪をも぀お我を離れ、我も亊た孀㷀為すずころを倱ひお、浮䞖の迷巷に蹈み迷ひけり。倧俗の倧雅に双ぶべきや吊やは知らねど、我は憀慚のあたりに曞を売り筆を折りお、倧俗をも぀お䞀生を送らんず思ひ定めたりし事あり、䞀転しお再び倧雅を修めんずしたる時に、産砎れ、家廃れお、我が痩腕をもお掻蚈の道に奔走するの止むを埗ざるに至りし事もあり。わが頑骚を愛しお我が犠牲ずなりし者の為に、半知己の友人を過ちたりし事もあり。修道の䞀念甚だ危ふく、あはや逓鬌道に迷ひ入らんずせし事もあり、倩地の間に生れたるこの身を蚝かりお、自殺を䌁おし事も幟回なりしか、是等の事、今や我が日頃無口の唇頭を掩れお、この老知己に察する懺悔ずなり、刻のう぀るも知らで語りき。  しばらくありお老婆は酒を暖め来りお、飲たずず蚀ふ我に䞀杯を匷ひ、これより談話䞀転しお我幻境の埀事に入れり。淡泊掗ふが劂き孀剣の快男児蒌海この垭の談笑を共にせざるこそ終生の恚なり。少婊も出で来り、圓時の䞻人なる無口男も垭に進みお、或は旧時の田花の今は已に寡婊になりしを語り、或は近家の興廃浮沈に説き及び、或は我が棲むずころを問ひなどし぀、この倜の興味は抹すべからざる我生涯の幻倢なるべし。就䞭、老母は我が元来の虚匱にお孊道に底なき湖を枡るを危ぶみお、涙を浮べお我が健党を祈るなど、郜に倚き知己にも増しお我が䞊を思ふの真情、ありがたしずも尊ふずしずも蚀はん方なし。  この倜の玙垳は広くしお、我ず老䟠客ず枕を䞊べお臥せり、屋倖の流氎、倜の沈むに埓ひお音高く、わが遊魂を巻きお、なほ深きいづれかの幻境に流し行きお、われをしお睡魔の奎ずならしめず。翁も亊たねがぞりの数に倢幟床かずぎれけむ、むく〳〵ず起きお我を呌び、これより談話俳道の事、戯曲の事に闌にしお、い぀眠るべしずも知られず。われは眠りの成らぬを氎の眪に垰しお、 䞃幎を倢に入れずや氎の音 ず吟みけるに、翁はこれを䜕ずか読み倉ぞお芋たり。翁未だ壮幎の勇気を喪はざれど、生幎限りあれば、かねお存呜に石碑を建぀るの志あり、我が来るを埅ちお文を属せしめんずの意を陳ければ、我は快よく之を諟しぬ、又た圌の倚幎苊心しお集めし矩倪倫本、我を埗お沈滅の憂ひなきを喜び、其没埌には悉皆我に莈らんず蚀ひければ、我は其奜意に感泣しぬ。翁の秀逞䞀二を挙ぐれば、 倢いく぀さたしお来しぞほずゝぎす こゝに寝む花の吹雪に埋むたで なほ名吟の数倚くあり、我他日、翁の為に茯集の劎を取らんこずを期す。この倜、翁の請に応じお即吟、癜扇に題したる我句は、 越えお来お又䞀峰や月のあず  暁倩の癜むたで眠り埗ず、翌朝日闌けお起き出でたるは、い぀の間にか明方の熟睡に入りたりしず芚ゆ。蒌海遂に来らねば、老䟠ず我ず車を双べお我幻境の門を出づ、この時老婆は呉々も我再遊の前の劂く長からざるべきを請ふに、この秋再びず契りお別れたり。行くずころは高雄山。同䌎はおもしろし、別しお月も宵にはあるべし、この倜の枅興を思ぞば、涌颚盈ちお車䞊にあり。      䞋  むかしわれ蒌海ず同に圌幻境に隠れしころ、山に入りお炭焌、薪朚暵の業を助くるをこよなき挫興ずなせしが、又た或時は圌家の老婆に砎衣を借りお、身をや぀し぀炭売車の埌に尟きお、この垂に出づるをも楜しみき。  斯る無邪気の劎力をもお我はわが胞䞭に蟠りたる䞍平を抑ぞ぀、疲れお垰る倜の麊飯の味、今に忘れず、老畞人わが埀事を説きお倧に笑ふ時、われは頭を垂れお冥想す。昔日のわが䞍平、幜鬌の劂くにわが背埌に立ちお呵々ずうち笑ふ。遮莫、わがルヌ゜ヌ、ボルテむアの茩に欺かれ了らず、又た新聞玙々面倧の小倩地に翺翔しお、局促たる政治界の傀儡子ずなり畢るこずもなく、己が候昔の䞍平は転じお限りなき満足ずなり、歀満足したる県を以お蛙飛ぶ叀池を眺る身ずなりしこそ、幞ひなれ。  䜙は八王子に䞀泊するを奜たざりしず雖、老人の意芋枉げ難く止むこずを埗ずしお、俗気郜にも増せる垂塵の䞭に䞀倜を過せり。明くれば早暁芊亭を出で、銬車に投じお高雄山に向ふ、この時のわが口占は、 すゞ颚や高雄たうでの朝ただち  路に梭の音の高く聞ゆる家ありければ県を転じお芋るに、花の劂き少女ありお杌を甚ゆるこず甚だ忙はし、わが蓬莱曲の露姫が事を思ひ出でゝな぀かしければ、胜く其面を芋んずするに、銬車は行き過ぎおその事かなはず、圌少女が窻の倖におもしろき花の咲けるに心づきお、其名を問ぞば、鋞草なりず蚀に、少女の颚流思ひやられお、句䞀぀読みたれども難あれば茉せず。  琵琶滝より流れ萜぀る氎のほずりの茶亭にお銬車に別れ、これより登り䞉十八䞁、ずいふも霊山の路は遠からず。道すがら巣林子の曲を評しあひ、治兵衛梅川などわが老畞人の埗意の節おもしろく間拍子ずるに歩行も苊しからず、蛇の滝をも䞀芋せばやず思しが、そこぞも䞋ず巌角に憩お、枅々冷々の玄颚を迎ぞ、䜓静に心閑にしお、冥思を自然の絶奥に銳せお、聊か平生の煩矅を掗ふ。幜山に登の興は登぀きたる時にあらず、荒抛を披き、峭※山咢を陟る間にあるなり、栄達は矚むべきにあらず、栄達を埗るに至るたでの盀玆こそ、たこずに欜すべきものなるべし。  頂䞊にのがり尜きたるは真午の頃かずぞ芚えし、憩所の涌台を借り埗お、老畞人ず共に瞊たゝに睡魔を飜かせ、山鶯の声に驚かさるゝたでは倩狗ず矜を并べお、象倖に遊ぶの倢に䜙念なかりき。 この山に鶯の春い぀たでぞ  ずはわがねがけながらの句なり。老畞人も亊たむかしの豪遊の倢をや繰り返しけむ、くさめ䞀぀しお起き䞊たれば、冷氎に喉を湿るほし、眺めあかぬ玄境にいずた乞しお山を降れり。  琵琶滝を過ぎ、かねお聞く狂人の様を䞀芋し、か぀は己れも平生の颚狂を療治せばやの願ありければ、折れお其凊に䞋るに、聞きしに違はず男女の狂人の態、芋るもなか〳〵に凄くあはれなり。そが䞭には家を理するの良劻もあるべく、業に励むの良工もあるべし、恋のも぀れに乱れ髪の少女もあらむ、逆想に凝りお䞖を忘れたる小ハムレットもあらむ。  われを芋おいづれより来たせしぞず問ひかけたる少幎こそは、狂ひお未だ日浅き田里の秀才ず芚えたり、䞖間真面目の人、真面目の蚀を吐かず、华぀おこの狂秀才の蚀語、尀も真意を吐露すらし。われは極めお狂人に同情を有するものなり、か぀お狂者それがしの枕頭にあるこず䞉日、己れも之に感染するばかりになりお堪ぞがたかりし事ありしが、今も我は狂人ず共に長く留たる事胜はず。琵琶滝はさすがに霊瀑なり、神々しきこず比類倚からず、高巌䞉面を囲んで昌なほ暗らく、深々ずしお鬌掞に入るの思ひあり、いかなる神人ぞ、この䞊に盀桓しおこの琵琶の音をなすや、こゝに来おこの瀑にうたれお䞖に立ち垰る人の倚きも、理ずこそ芚ゆるなれ、われは迷信ずのみ蚀ひお笑ふこず胜はず。  こゝを立ち去りおなほ降るに、ひぐらしの声涌しく聞えたれば、 日ぐらしの声の底から岩枅氎  この倜は山麓の芊亭に䞀泊し、あくる朝連立お蒌海を其居村に蚪ひ、䞉個再び癟草園に遊びたるこずあれど、蚘行文曞きお己れの遊興を埗意顔に曞き立぀るこず平生奜たぬずころなれば、こゝにお筆を擱しぬ。 明治二十五幎八月
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 倩保四幎は癞巳幎で、その倏四月の出来事である。氎戞圚城の氎戞䟯から領内䞀般の䜏民に察しお、次のやうな觊枡しがあ぀た。それは領内の窮民たたは鰥寡孀独の者で、その身がなにかの痌疟あるひは異病にかゝ぀お、容易に平癒の芋蟌みの立たないものは、䞀々申出ろずいふのであ぀た。  城内には斜薬院のやうなものを蚭けお、領内のあらゆる名医がそこに詰めあひ、いかなる身分の者でも勿論無料で蚺察しお取らせる、投薬もしお遣るずいふのであるから、領内の者どもは皆その善政をよろこんで、名䞻や庄屋をたよ぀お遠方からその蚺察を願ひに出おくる者も倚か぀た。  ずころが、県のさきの城䞋に䞍思議の病人のあるこずが芋出された。それは䞋町の町人の嚘で、文政四幎生れの今幎十䞉になるのであるが、䜕ういふわけか歀䞖に生れ萜ちるずから圌女は明るい光を嫌぀お、い぀でも暗いずころにゐるのを奜んだ。少しでも明るいずころぞ抱ぞ出すず、かれは火の぀くやうに泣き立おるので、䞡芪も乳母も持䜙しお、よんどころなく圌女を暗い郚屋で育おた。それが習慣にな぀たかしお、圌女は起぀おあるくやうにな぀おも矢はり暗い郚屋を離れなか぀た。しかも圌女は決しお盲でもなか぀た、跛足でもなか぀た。殊にその容貌はすぐれお矎しか぀た。赀児のずきから日の光をうけずに育぀たにも䌌ないで、かれの顔は玉のやうに茝いおゐた。戞障子を立お籠めお、その郚屋はすべおの光を防ぐやうに出来おゐるばかりでなく、かれは厠ぞ通ふ時のほかは他の座敷ぞも廊䞋ぞも出なか぀た。厠ぞゆく時でも、かれは䞡袖で顔を掩ひかくすやうにしおゐたが、どうかしお其袖のあひだからちらりず掩れた顔をみせられた堎合には、誰でもその矎しいのに驚かない者はなか぀た。  圌女はひずり嚘で、しかもその家は城䞋でも聞えた倧商人であるので、芪たちは圌女が奜むたゝに育おゝゐた。䞃぀八぀にな぀お、かれは手習をはじめたが、勿論垫匠に぀いお皜叀するのではなか぀た。かれは芪達からあたぞられた手本を机の䞊に眮いお、い぀もの暗い郚屋で曞き習぀おゐたが、その筆蹟は子䟛ずも思はれないほどに芋事なものであ぀た。どうしお暗いずころで文字を曞くこずが出来るか、それも䞀぀の䞍思議にかぞぞられおゐたが、おそらく幌いずきから暗いずころに育぀たので、かれの県は暗いのに銎れたのであらうずいふ説であ぀た。それから惹いお、かれは暗いずころで物をみるこずは出来るが、明るいずころでは芋えないのではあるたいかず云ふ噂が立぀た。誰が云ひ出したずも無しに、かれは梟嚘のあだ名を呌ばれるやうにな぀た。しかもその梟嚘の正䜓を確かに芋ずゞけた者は、この城䞋に䞀人もなか぀た。  今床の觊出しに぀いお、梟嚘は䜕うしおもいの䞀番に願ひ出なければならないのであ぀たが、その家が富裕であるので、芪たちも遠慮しお差控ぞおゐるのを、町圹人どもが盞談しお先づ芪たちにも埗心させ、その次第を曞きあげお差出すず、係りの圹人も額を皺めた。なんにしおもこれは䞀皮の奇病である。兎もかくも明日召連れおたゐれず云ふこずにな぀たので、あくる日の朝、町圹人どもが打揃぀お梟嚘の家ぞ迎ひにゆくず、芪たちは気の毒さうに断぀た。 『なにぶんにも嚘が䞍承知を申したす。いかに説埗いたしおも、巊様な晎がたしい埡堎所ぞ出るのは嫌だず申したすので、わたくし共も困り果おゝをりたす。』  䜵し䞀旊ずゞけ出た以䞊、今曎それを取消すわけには行かない。殊に藩䟯もその䞍思議な嚘をひそかに埡芧になるかも知れないずいふやうな内意を掩れ聞いおゐるので、町圹人どもは䜕うしおも圌女を召連れお行かなければならないず思぀たので、かれらは暗い郚屋にかくれおゐる嚘をたづねお、芪たちに代぀お色々に説埗したが、圌女は矢はり埗心しなか぀た。どうしおも明るいずころぞ連れ出すのは免しおくれず云぀お、かれは声をたおゝ泣いた。これには圌等もほず〳〵持䜙したが、たぞに云ふような事情であるから、圌等は自分たちの責任䞊、無理無䜓にも圌女を連れ出さなければならなか぀た。そのうちに、圌等の䞀人が斯う云ひ出した。 『この䞊は瞛りからげおも匕぀立おゝ行かなければならぬが、それもあたりに無慈悲で、圓人は勿論、芪たちにも気の毒だ。所詮は䞖の光を嫌ふのだから、県を塞いで眮いたらば、暗いずころにゐおも同じこずではないか。さうしお、䞊の埡恩によ぀お、䞍思議の病気が平癒すれば、この䞊の仕合せはあるたい。』 『そうだ。それがいゝ。県を塞いで行け。』  嚘の机のうぞには手習草玙のあるのを芋぀けお、これ屈竟のものだず圌等はその草玙の䞀枚を匕き裂いお、嚘の顔を぀ゝむやうに抌しかぶせた。あるものは曎に智慧を出しお、草玙の黒いずころを䞞く切りぬいお、膏薬のやうに嚘の䞡県に貌り぀けた。  これで嚘もやうやく埗心したので、芪たちも町圹人共もほ぀ずした。今幎十䞉の矎しい少女は、真黒な手習草玙の玙片に県をふさがれお、生れおから初めお自分の家の敷居をたたいで出た。かれは倧きい黒県鏡をかけおゐるやうに芋えた。 『梟嚘がお城ぞ行く。』  この噂が応ち町々にひろが぀お、芋物人が四方からあ぀た぀お来た。ふだんから梟嚘の名ばかりを聞いおゐる町の人たちは䞀皮の奜奇心に駆られお、その正䜓を芋ずゞけようずしお矀぀お来たのであ぀た。町々の町圹人は鉄棒でそれらの矀衆を制しおゐたが、芋物人はあずからあずからず抌寄せおくるので、迚もそれを远ひ払うこずは出来なか぀た。町圹人どもは声をからしお叱り制しながら、わづかに嚘の巊右だけを鉄棒で堰切぀おゐたが、その鉄棒の堰もうづ巻いお寄せる人波に砎られお、心ない芋物人は嚘の肩に觊れ、袖に觊れるほどに迫぀お来お、しげ〳〵ずその顔を芗くのもあ぀た。  たずひ䞡方の県は塞がれおゐおも、このありさたを嚘が知らない筈はなか぀た。かれは途䞭で幟たびか立ちどた぀お、自分の家ぞ垰しおくれず蚎ぞるのを、附添぀おいる人々が色々になだめお、兎もかくも城のたぞたで行き぀くず、嚘はたたもや立ちどた぀お、これから先ぞはどうしおも行かないず云ひ出した。 『こゝたで来お䜕うしたものだ。お城はもうすぐだ。』ず、人々は右巊から賺したが、嚘はもう肯かなか぀た。 『わたしは垰りたす。』 『いや、垰すこずはならない。』  かうした抌問答を぀ゞけおゐるうちに、嚘の気色はだん〳〵に倉぀お来た。圌女は遮る人々を突きのけお、だしぬけに駈け出さうずしたので、もう腕づくのほかはないず思぀た圌等は、右巊から圌女の晎着の袖や袂を捉ぞお匕き摺぀お行こうずするず、嚘はいよ〳〵すさたじい気色にな぀お、支ぞる人々を払ひ退け抌し退けお、自分のたはりを隙間なく取りたいおゐる芋物人の頭や肩のうぞをひら〳〵ず飛び越え、跳り越えお駈け出した。䞍意の出来事に人々は唯あれ〳〵ずいふばかりで、そのうちの䞀人が嚘の垯を匕぀捉ぞようずしたが、手がずゞかないので取逃しおした぀た。  䞡方の県を黒い玙でふさがれおゐる嚘は、芋圓が付かずに走぀たのか、それずも初めからそこを目ざしお走぀たのか、圌女は城門倖の堀際ぞ真驀地に駈け出したかず思ふず、およそ五六間もあらうず芋える距離を䞀ず飛びにしお、堀のなかぞ飛び蟌んだので、その隒動はいよ〳〵倧きくな぀た。倧勢は぀ゞいおその堀際ぞ駈け寄぀たが、氎に呑たれた嚘の姿はもう芋えなか぀た。城の堀ぞみだりに立入るこずは囜法で犁じられおゐる。殊に芁害堅固な歀城の堀は非垞に深く䜜られおゐるので、誰も迂闊に這入るこずは出来なか぀た。町圹人から重ねお其次第をずゞけ出るず、藩䟯も頗る奇怪に思はれお、早速に堀のなかを詮議しろずの呜什を䞋された。  藩䞭でも屈指の氎緎の者がかはる『〵飛び蟌んで探りたは぀たが、氎の底からは女の髪の毛䞀筋すらも発芋されなか぀た。なたじひのお慈悲でわが子を召されなければ、こんなこずにもならなか぀たであらうず、嚘の芪たちは今曎に䞊を恚むやうにもな぀た。町圹人共も由ないこずを届け出たのを埌悔した。  梟嚘の死――その奇怪な噂がただ消えやらない其幎の八月朔日、巳の刻頃午前十時から近幎皀なる暎颚雚がこの城䞋ぞ襲぀お来お、城内にも城倖にもおびたゞしい損害をあたぞた。その倧暎れの最䞭に、倖堀から黒雲をたき起しお、金色の鱗をかゞやかしながら倩䞊に昇぀た怪物のあるこずを、倚数の人が目撃した。人々はそれを韍の昇倩であるず云぀た。さうしお、それは圌の梟嚘が蛇䜓に倉じたのであらうず䌝ぞられた。䜵し圌女は最初からの蛇䜓であるのか、あるひは入氎の埌に韍蛇ず倉じたのか、その議論は区々で遂に決着しなか぀た。  䞊田秋成の「雚月物語」のうちに「蛇性の婬」の怪談のあるこずは誰も知぀おゐるが、これは曲亭銬琎が氎戞にいた人から聞いた話であるずいふこずで、その趣がやゝ類䌌しおゐる。「蛇性の婬」は支那の西湖䜳話の翻案であるが、これは銬琎が自ら筆蚘しお、讃州高束藩の家老に送぀たものであるから、たさかに翻案や捏造ではあるたいず思はれる。韍の昇倩は兎も角も、かうした奇怪な嚘が奇怪な死を遂げた事実だけは、たしかに氎戞の城䞋に起぀たに盞違あるたい。
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明治幎に、初めお鉄道が開通したした
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 圌處に、遙に、湖の只䞭なる䞀點のモヌタヌは、日の光に、たゞ青瑪瑙の瓜の泛べる颚情がある。たた、行く船の、さながら癜銀の猪の驅けるが劂く芋えたるも道理よ。氎底には蒌韍のぬしを望めお、倧なる蠑螈の圱の、藻に亂るゝ、ず聞くものを。珟に其處を挕いだ我が友の語れるは、氎深、寊に䞀千二癟尺ずいふずずもに、青黒き氎は挆ず成぀お、梶は蟷り櫓は膠し、ねば〳〵ず捲かるゝ心地しお、船は其のたゝに人の生えた巖に化しさうで、もの凄か぀た、ずさぞ蚀ふのである。私は䌑屋の宿の瞁に――床は高く、座敷は廣し、襖は新しい――肘枕しお芖めお居た。草がくれの艫に、月芋草の咲いた、苫掛船が、぀い手の屆くばかりの處、癜砂に䞊぀お居お、やがお蟋蟀の閚ず思はるゝのが、敞癟䞀矀の赀蜻蛉の、矅の矜をすいず䌞し、す぀ず舞ふに぀れお、サ、サ、サず音が聞こえお、う぀ゝに蘆間の挣ぞ動いお行くやうである。苫を䞔぀芆うお、薄の穗も靡き぀ゝ、旅店の午は靜に、蝉も鳎かない。颯ず颚が吹いお䟆る、ず、いたの倩氣を消したやうに、応ちかげ぀お、冷たい小雚が麻絲を亂しお、其の苫に、斜にすら〳〵ず降りかゝる。すぐ又、沖から晎れかゝる。時に、薄霧が、玙垳を䌞べお、蜻蛉の色はちら〳〵ず、錊葉の唄を描いた。八月六日の日ず芺えお居る。むら雚を吹通した颚に、倧火鉢の貝殌灰――これは倧降のあずの昚倜の泊りに、䜕ずなく寂しか぀た――それが日ざかりにも寒か぀た。 昭和五幎十䞀月
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芝居ぞの泚文が倧分出る様ですから、私も尻銬に乗぀お、埡囜座の事を申させお頂きたす。あの芝居は䜕ず蚀぀おも、源之助が持぀お、死んで行く江戞の狂蚀の掻きた蚘録を頭に印象させる為に行く芋物が䞭心にな぀お居るので、新しい芞術を云々される先生方も忍んで芋孊に行぀お居られたす。所が若手の倧頭の泚文からあたり狂蚀を䞊べ過ぎるので、肝腎の源之助の出し物を昌は出さなか぀たり、筋も䜕も蚣らぬ皋にはしよ぀おや぀お仕舞ふ事が床々です。前者の䟋は「女熊坂」で、埌者の䟋は「䞉人吉䞉」です。是では源之助を圓にしお行぀た倚くの芋物にどう申し蚣があるのです。又源之助にしおも自分きりでなくなる芞だず蚀ふ事の十分の自芚を持぀お、出来るだけ研究的に、出来るだけ深切詳现に、せめお型だけなりず蚘念に止めお眮く積りにな぀お欲しいず考ぞたす。歀は圹者蚱りでなく、束竹䌚瀟の方でも本気にな぀お呉なければ、出来ない盞談だず思ひたす。芞題ばかり沢山䞊べお筋曞に毛の生えた䜍の倧ざ぀ぱな挔芞をしお居る様では客足は぀なげたせん。それに歀座は廻り舞台を利甚するこずの尠いのも客匱らせの䞀぀です。
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私は昚幎退職したした。
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圌が小孊生の頃、地元のサッカヌチヌムに所属しおいたした
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 十月廿䞃日、晎。急行で午埌四時䞉十分頃に西那須驛に着した。寊は、初めおのこずで、而も急行は宇郜宮より先きは黒磯でなければずたらぬやうに旅行案内には出おゐたので、正盎に黒磯たでの切笊を買぀たのだが、車䞊で人に教ぞられお西那須ぞ䞋りたのだ。  そこから自動車乘り合ひ、䞀人前四圓で五里半の道を四十五六分で鹜原の犏枡りず云ふ枩泉堎ぞ䟆た。その途々のいい颚景は、日が暮れおゐたので、芋られなか぀た。どこぞずたるず云ふ當おもなか぀たのだが、乘り合はせた老人倫婊も當おお行くず云ふので、䞀緒にいづみ屋別通ぞずたるこずにしお、そこで自動車を䞋りた。團體が䟆おゐおやかたしいが、あすは歞るからず云はれお、僕は老人倫婊のず前以぀おきた぀おたおもお向き坐敷の隣宀ぞ這入぀た。宿垳ぞは、どこぞ行぀おも、僕は職業を著述家ず曞くのだが、どう云ふこずをするのかず問ひ返されるこずがあるので、今囘はそのうるささの豫想を避けるため、職業の䞀郚分なる小説家を以おしたずころ、それを䞀ず目芋おから番頭は俄かにほほゑんでじろりず僕の方を芋返した。名を知぀おたのか、それずも小説家ず云ふのが珍らしか぀たのか、そこはちよッず分らなか぀た。やがお再び番頭がや぀お䟆お、 「曞き物をなさるなら、ここはごた〳〵しおゐたしお、お困りでしようから、あすから本通の離れの二階ぞ埡案内臎したしようか」ず云぀た。その代り、寂しくお䞍䟿だがずのこずであ぀たが、それはかたはないから、その方が結構だず僕は頌んだ。  湯はすみずほ぀お修善寺枩泉のそれのやうに綺麗だ。手ぬぐひも染たらないで、たす〳〵癜くなるず云ふ。僕が修善寺を奜きなのもその爲めである。その倜は䞀杯飮んで盎ぐ䌑む぀もりであ぀たが、食埌、隣宀の老人に呌ばれお暫らく話をしに行぀た。日本橋の藥り問屋の隱居であ぀た。孫だず云ふ五歳の女の子をも぀れおた。 「あなたなどはただお若くお結構です、わたしなどは、もう、この通り、あたたも」などず云぀たが藥り屋のせいか、なかなか達者さうなおぢいさん、おばアさんであ぀た。二十幎䟆、いづみ屋のお客ださうだ。向ふずこちらず同じやうに酒は䞀本ず飮めないのであ぀た。達者なのは、䞀぀には、さう飮たないせいだずおぢいさんは云぀おた。西那須驛の自動車立お堎の人があたり暪暎で面癜くなか぀た話も繰り返された。それは僕も䞍愉快には思぀たが、ただ仕かたがなか぀たこずずしお䟆たのであ぀たから、今、同感しないではゐられなか぀た。貞し切りで十二圓だから、䞉人が四圓づ぀はいいずしおも、いよ〳〵出癌の時に䞀人ふえたにも拘らず、矢匵り、その人からも四圓取぀たのだ。そしお「それが當り前です」ず、立お堎のものらは僕らを乘せおからも怒鳎぀おゐた。  十月廿八日、曇。別通は、そのうら廊䞋から川向ふを芋るず前山䞊びにその巊右の青い暹朚やこうえふが芋える代りに、ごた〳〵ず人の埀き䟆がやかたしい。で、朝めしをすたせるず盎ぐ、道の向ふがはなる本通の離れぞ移぀た。そしお本通ずしおも、段々高くな぀おるその䞀番奧の建お物の二階を僕が占領するこずにな぀た。そこぞ行くには長い内廊䞋や、いく぀もの階段や、倧きな郚屋々々があるけれども、倧抵は別通の方で客を受けおしたうかしお、殆どがらんどうのやうだ。そのがらんどうの䞀番奧二階だが、この倏は皇倪子殿䞋附き䟍埞や歊官がゐたさうで、ずッず前にはたた閑院の宮暣もゐられた。たた、䞉島圌吉さんが新婚の宎をひらいた時の宀もここであ぀たずのこず。  あたりの家々の家根をよそに芋おろしお、青い山や赀い山に向぀おゐる。青いのは前山で、柀山の杉がお槍のやうに䞊んでその絶頂たでのしあが぀おる。これにはこうえふが比范的に少い。が、それず䞀぀淺い谷をぞだおた山には、その代り、赀や黄や青みがかか぀た黄やの色で以぀お䞀面の錊が織り出されおゐる。そのうちで、赀いのはもみぢや぀぀じ、櫻の葉の色で、黄いろいのはカツラ、ナラ、栗などの葉だ。それらを抌しなべおこうえふず云぀おるのだが、その光りあるけしきは、本幎はただ霜や颚がひどくないので、これからただ暫らく盛りだず云ふ。  ここに䞉島子爵の別莊があるず云ぞば、劻よ、お前も十日會の會員だから、䟆月の幹事に當぀おる同氏を思ひ出しお芪しみを持぀だらうが、それは赀い山の方のはづれ無論、川のこなたであるが、川は音ばかりでこの宀からは芋えないに圚る。こちらぞかぎの手に反぀お向ふぞひらいおるその方に、そこの庭前のではないかも知れぬが、高い束が䞀぀あ぀お、巊右のこうえふを拔いおゐる。その束や別莊は䞁床、恰も赀い山の暹朚ず぀らな぀おそのふもずにあるやうに芋える。その少しさき䟆た道の方に鳥居戞山のこれも赀、黄こきたぜのこうえふが芋えお、その裟に陛䞋の埡甚邞がある。今䞊陛䞋は鹜原をおきらひだずか云ふこずで、日光ぞばかりお行きだけれども、皇倪子殿䞋はよくここぞ䟆られる。兎に角、この宀から四方をながめるず、靜かなもので、火鉢の湯のたぎ぀おる音がしおゐるあひだに、川の音が始終遠く、そしお時々自動車や銬車の癌着の響きが束や檜葉や赀い寊ばかりにな぀おる柿の朚やの暹かげから、聞えるばかりだ。 「僕のやうな商賣のものがこの宿ぞ䟆たこずがありたすか」 ず、䞻人に聜いお芋るず、 「倧町さんず云ふお方が暫らく埡滯圚のこずがございたした」ずの答ぞであ぀た。同䌎者――ず蚀ぞば、田䞭君や束本君だらうが――二䞉名ず䟆お、倧分に酒の飮めるのを芋せたらしい。逘ほど驚いおたやうすであ぀たので、僕は、 「今ぢやア、もう、あの人も党くの犁酒をしおゐたす」ず知らせおや぀たら、これにも䞻人は䞍思議な顏぀きをした。はた折り枩泉堎の枅琎暓ず云ぞば、故尟厎玅葉の爲めに有名にな぀たも同暣で、もずは小さい宿屋であ぀たが、他がふさが぀おたので斷わられお枠はそこぞずた぀た。そしおそこの堎面をかの『金色倜叉』に曞き入れたので、今では評刀にな぀お、倚くの人々がきそ぀おそこぞ行くが、そしおその堎所では䞀等の家に廣が぀たが、土地の人はいただに枅琎暓玅葉が぀けたも同暣の名など云はれおも氣が付かないで、䜕ずか屋ず元の名でなければ分らないずのこずも話にのが぀た。玅葉や倧町氏の曞いた物が鹜原にも殘぀おるず云぀お、番頭たでが僕にも䜕か曞いお欲しいやうすであ぀たが、僕は䟋の通り字がぞたなので、遠慮しお眮いた。  午埌䞀時、これから雜誌人間十二月號の爲めの小説を曞き初めるのだ。英枝よ、これは日蚘の䞀節だから、手もずぞ行぀おも、このたた保存しお眮いお貰ひたい。鹜原は亀通が䞍䟿な爲め今のずころ二床ず䟆る぀もりはないから、䟆た以䞊、暫らく滯圚する。そしお『人間』の小説ず䞭倮公論ぞ枡した物の續き四五十枚を曞いおしたうあひだに、䞀床もッず奧の方ぞ遊びに行぀お䟆るかも知れない。兎に角、蜉宿等の知らせが行くたではここぞ東京日々だけを毎日送぀お貰ひたい。倧抵の手玙も保留しお眮いお、誰れから䜕が䟆たず云ひさぞすればよし。       湯は䞊んで倧小䞉宀にも別れおゐるが、客ずしおは僕ひずりが自由に占領しおゐられるやうなものだ。本通には誰れもゐないやうすだ。  十月廿九日。曇。今曉二時たで起きおお、今䞀床湯にあッたた぀おからずこに就いた。けふ、晩食埌、別通の老人倫婊を蚪問しお芋たら、 「孫がむづかるので、もう、あす歞らうず思ひたすが、自動車は癪にさわりたしたから、銬車にしようず思぀おたす」ず云぀た。銬車で新鹜原たで行き、それから茕䟿鐵道の䟿があるのだ。 「僕も歞る時にはさうするかも知れたせん」ず答ぞた。然し、旅ぞ出おゐおも腰を据ゑおるあひだは、二床ず䟆るか䟆ないは考ぞるが、ただ巊ほど歞りのこずが苊にならぬものだ。  十月䞉十日。晎。けさの二時に『子無しの堀』ず云ふ、寊際に人間らしい小説を五十䞉枚曞き終は぀たので、十時に起きお食事をすたせるず、䞀ず息入れお䟆る぀もりで車䞊を奧の方ぞ行぀た。犏枡りの宿屋が䞊んでる道を䞉四䞁も行くず、その突き當りに癜倉山のふもずなる倩狗岩ず云ふ倧きな石が山にべッたりず廣が぀お屹立しお、その呚圍もみなこうえふだ。  そのけはしいやた裟を巊りぞ曲぀たずころに、盎ぐ退銬橋がかか぀お、川添ひ道が走぀おゐる。然し、橋からたた盎ぐのずころに暪ぞ巊りに枡る橋があ぀お、そのさきは怍竹氏私有の公園だず車倫は説明した。そこにも暹の葉の色に照぀おるのが望める。怍竹氏の第四子に當る人は東京に出版屋をや぀おたこずもあ぀お、僕も盎接知らないでもないのだから、この公園の名も倚少の芪しみがあ぀た。それをながめながら、川のこなたを進んだ。 「怍竹さんだッお、瞣䞋䞀等の金滿家ずしおも癟萬圓はありたすたい。それに、内田信也ず云ふ人はただ栃朚瞣に生たれたず云ふばかりで高等孞校建蚭の爲めに癟萬圓を寄附したず云ふのですから、土地のものは皆呆れたほど驚いおをりたす」ず云぀た宿の䞻人の蚀葉を思ひ出しながら。  退銬橋から䞉四䞁䟆たずころに、鹜釜ず云ふ宿堎があ぀お、そこの鹜原郵䟿局で人間瀟宛おの原皿の曞き留め郵䟿を出した。たた二䞉䞁でこの邊はさう人の目に芋えないでのがり道にな぀おるが犏枡りの宿々の内湯ぞ匕いた湯の出もずのあるずころぞ䟆た。この邊の川ぶちから芋返るず、癜倉山の埌ろ手が、そこも岩だらけのあひだにこうえふしおゐるのが芋える。そこから眞ッ盎ぐに、たた、自動車みちを䞉䞁ばかりで有名な枅琎暓もある枩泉堎を、廣い河原を隔おお、高みの路傍から芋た。が、はた折りの䜍眮は呚圍の山々が少し遠くひらけおゐお、そのながめは廣い河原を枡぀おこちらがはの山々のはにかみ笑ひを芋るに圚るばかりらしい。そこぞ立寄぀お䞀泊しようかずも考ぞたのを、それが爲めに盎ぐ匕ッ返した。 「そりやア、鹜の湯よりもここのけしきの方がいいでしよう――鹜の湯は山ず山ずのあひだですから、ながめが窮屈です」ず、車倫に云はれたけれども、䞀方では、いづみ屋の番頭から、 「䜕ず云぀おも鹜原のけしきは鹜の湯が䞀等ですから」ずも聜いおゐた。そしお僕もこの方が䞀泊するに足りさうだず云ふ豫想にうち勝たれた。  その當時は壓制家ず云はれお瞣䞋のひらけない人民ず死を以぀お爭぀たやうなものだが、もずの䞉島知事の思ひ切぀た道路開拓は今ずな぀おはなか〳〵爲めにな぀おる。この鹜原の奧をもッず奧たでも自動車がずほるのだ。が、内湯の出もずにかか぀おる橋を枡るず、川の支流をさかのがるこずになるのだが、ここの道は䞉島道路ではなく、お兌みちず云぀お、鹜の湯のお兌ず云ふ婆アさんが自分䞀個で切りひらいた道だ。狹くな぀お、而も隚分ひどい坂があるので、自動車は通じない。慣れた車倫は、然し、どうやら斯うやら十䞁の道をのがり぀めた。僕よりも䞀ず足さきであ぀た䞭幎の倫婊づれは、ずるい車倫の爲めに、車をおろされたけれども。 「鹜原は䞀體に坂みちですから、のがりの時はからだが延びさうになるし、䞋だりにはたた腕が拔けさうで――」先般、東京から皌ぎに䟆た車倫は䞉名ずも䞀週間ずこたぞられないで匕き䞊げおした぀たさうだ。  お兌みちの初たりは兩がはに怍ゑ付けたやうな杉ず檜の朚ずで倧抵のながめはふさがれおるが、坂の䞭腹からながめがたた䞋の方ぞひらけお、坂の䞊ぞ䟆るず、倩狗岩の暪手たでが高みからずッず芋枡された。そこに鹜の湯の倧きな宿屋がたッた䞉軒だけあるのだ。茗荷屋ず云ふのが客でふさが぀おたので、玉屋ず云ふのにあが぀た。車は䞃十錢取぀た。宿は䞀泊貳圓で䞭等のずころだ。  僕に當぀た䞉階の䞀宀の正面には、川を隔おお䞀ずかたたりの杉の森がその腰から以䞊を芋せおゐる。が、その埌ろうわ手も青ず赀盞ひ半ばの景だ。そしお瞁がはぞ出るず、目の䞋にうづもれたこうえふのあひだを右から巊りぞず十間はばばかりの川氎が癜く音を立おお流れおゐる。その䞊流ず䞋流ずからうぞぞそり返぀お黄、赀、べに等のいろづき葉が、束その他の針葉暹の青葉ず入りたじ぀お、暪ぞ四぀に重な぀た山山の絶頂たで䞀面に぀らなり枡぀おる。隚分倧きいず云ぞば倧きい景だ。そしおその党景を匕き締める爲めのやうに、䟋の杉の森が䞀番こちらぞ近く、僕の目の前に立぀おゐる。無論、その眞ッ䞋の厖にもこうえふはいち面だ。぀たり、ながめのそらからも、たたその目の䞋からも。赀い照らしが滿ちお䟆お、それを眞ン䞭に針葉暹の青さが䞀局に匕き立おおゐる。  犏枡りのは――僕の占領しおゐる堎所からは別だが――かの川添ひの郚屋々々から芋るず、こう葉をこう葉の䞭から芋るやうな景だ。が、ここのはそれを近く芋おろし、遠く芋枡すのである。近く迫぀た方だけで云ぞば、北海道のこうえふの䞀名所神居叀札の景に䌌おゐお、ただ面癜い釣り橋がないばかりだ。が、たた、かの釣り橋の代りに、僕らの倚る高どのの欄干がある。そしお䞋を芋おろすず目がくらむほどだ。  晩食にはただ二時間ばかりあるので、以䞊けふの日蚘をお前ぞ出しかたがた、そずぞ出お、もッずさきの方の道ぞず狹い芝ばしを枡぀お進むず、行く手の川ぶちに少し平らかな廣ろ堎が芋えお、怍ゑ付けたやうに玅葉暹の幹が立ち䞊んで、倚くの幹ず幹ずのあひだがこれも赀さうな倪陜のよこ照らしに向ふのそらを透かし圫りにしおゐる。䟆た぀いでにそこたで行き付くず、入り口に梅ヶ岡ず云ふ立お札がしおあ぀た。その䞭で僕の䞁床䞀ず郚屋眮いお隣りにゐ合はせた䞭幎者倫婊が䞀緒に寫眞を取らせおゐたのを少し隔おおながめながら行くず、向ふの方から䜕だか芋たやうな人がにこ〳〵しおや぀お䟆るのではないか  お前は誰れだッたず思ふ 婊人䜜家の○○さんなら、近ごろここぞ䟆おゐるずか新聞にあ぀たから、ひよッずするず出會ふかも知れないずは思぀おたが、小寺健吉氏ずは僕も思ひも寄らなか぀た。繪に適する䜍眮を方々探しおゐたらしい。而も同じ旅通の四階に䟆おゐるのであ぀た。枠は毎幎䟆るのだが、 「去幎の今ごろは、もう、こうえふが半ば以䞊過ぎおゐたが」ずのこずだ。暫らく䞀緒に厖のそばの腰かけに䌑んだが、僕らの目の前に玅葉しお厖の䞭腹からかしらを出しおる二本の特別な暹は、二本ずも、葉の倧きい、きざみの淺いむタダもみぢのやうであ぀た。  宿ぞ歞぀おから、枠に聖目を眮かせお碁を䞃八番ばかり打぀お、䞀緒に食事をした。そしお互ひに別宀ぞ別れおから、僕は䞭倮公論の續きを曞き初めお、午前の䞀時半たで起きおた。川氎の遠い音にたじ぀お、雚がさアず降぀おゐるのが近く聜えた。
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あれはマニアの間でしか流通しおいない
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     䞀 アダムずむノず  小さい男の子ず小さい女の子ずが、アダムずむノずの画を眺めおゐた。 「ど぀ちがアダムでど぀ちがむノだらう」  さう䞀人が蚀぀た。 「分らないな。着物着おれば分るんだけれども。」  他の䞀人が蚀぀た。Butler      二 牧歌  わたしは或南䌊倪利亜人を知぀おゐる。昔の垌臘人の血の通぀た或南䌊倪利亜人である。圌の子䟛の時、圌の姉が圌にお前は牝牛のやうな県をしおゐるず蚀぀た。圌は絶望ず悲哀ずに狂ひながら、床々泉のあるずころぞ行぀お其氎に顔を写しお芋た。「自分の県は、実際牝牛の県のやうだらうか」圌は恐る怖る自らに問うた。「ああ、悲しい事には、悲し過ぎる事には、牝牛の県にそ぀くりだ。」圌はかう答ぞざるを埗なか぀た。  圌は䞀番懇意な、又䞀番信頌しおゐる遊び仲間に、圌の県が牝牛の県に䌌おゐるずいふのは、ほんたうかどうかを質ねお芋た。しかし圌は誰からも慰めの蚀葉を受けなか぀た。䜕故ず云ぞば、圌等は異口同音に圌を嘲笑ひ、䌌おゐるどころか、非垞によく䌌おゐるず云぀たからである。それから、悲哀は圌の霊魂を蝕み、圌は物を喰ふ気もしなくな぀た。するず、ずうずう或日、其土地で䞀番可愛らしい少女が圌にかう云぀た。 「ガ゚タアノ、お婆さんが病気で薪を採りに行かれないから、今倜わたしず䞀所に森ぞ行぀お、薪を䞀二荷お婆さんぞ持぀お行぀おやる手䌝ひをしお頂戎な。」  圌は行かうず蚀぀た。  それから倪陜が沈み、涌しい倜の空気が栗の朚蔭に挟぀た時、二人は其凊に坐぀おゐた。頬ず頬ずを寄せ合ひ、互ひに腰ぞ手を廻しながら。 「をう、ガ゚タアノ、」少女が叫んだ。「わたしはほんたうに貎方が奜きよ。貎方がわたしを芋るず、貎方の県は――貎方の県は」圌女は歀凊で䞀寞蚀ひよどんだ。――「牝牛の県にそ぀くりだわ。」  それ以来圌は無関心にな぀た。同䞊      䞉 鎉  鎉は孔雀の矜根を五六本拟ふず、それを黒い矜根の間に揷しお、埗々ず森の鳥の前ぞ珟れた。 「どうだ。おれの矜根は立掟だらう。」  森の鳥は皆その矜根の矎しさに、驚嘆の声を惜たなか぀た。さうしおすぐにこの鎉を、森の倧統領に遞挙した。  が、その祝宎が開かれた時、鎉は癜鳥ず舞螏する拍子に折角の矜根を残らず萜しおした぀た。  森の鳥は即座に隒ぎ立぀お、䞀床にこの詐停垫を突き殺しおした぀た。  するず今床はほんたうの孔雀が、悠々ず森ぞ歩いお来た。 「どうだ。おれの矜根は立掟だらう。」  孔雀はたるで扇のやうに、虹色の尟矜根を開いお芋せた。  しかし森の鳥は悉、疑深さうな県぀きを改めなか぀た。のみならず䞀矜の梟が、「あい぀も詐停垫の仲間だぜ。」ず云ふず、䞀斉にむらむら襲ひかか぀お、この孔雀をも亊突き殺しおした぀た。Anonym 倧正十四幎十二月
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どのようにお呌びしたらよろしいでしょうか。
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でもどうしお
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日の詊合で山田遞手が初ゎヌルを決めた
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ほんの僅かな時でよい 生掻のわずらいから脱れ 静な時をも぀事は―― おお 䜕ず云う仕合せだろう 昚日 私は 曞斎で たった䞀人ッきりの私の䞖界で 海を越えた遠い囜の 心の友の著曞を読み 今日も亊 別の友のを読んだが 私は私のこころにふれ 私の䞀番懐しい私を 圌凊に そしお 䞀人はもう歀の䞖を去った過ぎし日に 時ず凊ずを越えお芋出した ああ その歓び その深い歓び 氞遠の自分を感じた霊の最い これこそ たこずの私の幞犏 それにしおもそれにしおも その僅な時をすら䞎えられないずは 友よ 取ろうではないか この最もハンブルな 無圢な幞犏を――いやその幞犏を 邪魔する間垣を砎ろうではないか 氞遠の人類のために――さあ そのために歀の身を捚おおも進もうではないか 我等の぀ずめを果すために 発衚誌䞍詳 『瀟䌚掟アン゜ロゞヌ集成』別巻を底本
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兄さんが䞀人で店をやっおいる
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そのような人が、珟圚、日本に䞇人居る
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しばらく野球の話が続きたす
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0.182514
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 ずうに『恋愛ず道埳』が単行にな぀お出る筈であ぀たが、あれだけでは䞀冊ずするにはあたりに貧匱量の䞊に斌おだず云ふ曞店の意芋から、その埌雑誌青鞜で発衚した゚ンマ・ゎルドマンの『婊人解攟の悲劇』ず『少数ず倚数』になほ新に『結婚ず恋愛』ずゎルドマンの小䌝を加ぞおやうやく出すこずにした。なほ曞店の芁求を満足させる為めに自分は序の䞭に婊人問題倉遷の歎史ず云぀たやうなものを曞く筈にな぀おゐたのだけれど、そんなこずは今の私には未だ〳〵荷が勝ち過ぎるし、それに曞くず云぀おも、自分䞀個のたずぞ独断にせよ芋識でも確立しおの䞊で、その動かない立堎から批評的に曞けるずでも云ふのならば兎に角、どうせえらい先生方の埡本を参考にしおアチコチずぬき曞きでもする䜍が萜ちになりさうなので、それは止めるこずにした。それに未だ自分は実の凊『問題の歎史』だずかなんずか云ふこずに興味を持぀おはゐない。自分に興味のないこずはなるたけやりたくない。ただ私は珟圚盎接にブツカツタ問題ずしお『恋愛』は女子の唯䞀の道埳であり、所謂『結婚』は恋愛ずはた぀たくその性質を異にしたものだず云ふこずをこれ等の論文に斌お䞀局ハツキリ芚り埗たのである。そしお私のぶ぀か぀た問題はたた珟今わが囜の瀟䌚に生存する幟倚の若き姉効たちの問題である。最も痛切な根本問題である。これは是非ずも芚醒した自分達から実行し始めなければならない。然し自分達のすべおがほんずうに真実な深い盞愛生掻を送らうず思ふず、これは実に容易な問題ではなくなる。䞀歩―二歩―䞉歩―ず次第に深く進むに぀れお根底に暪はる性の問題を始めずしお経枈問題、倫理問題その他さた『〵の瀟䌚問題に自然ず自分の県を転じなければならなくなる。そしお『最近の将来が解決しなければならない今日圓面の問題は劂䜕すれば人は自分自身であるず同時に他の人々ず䞀぀になり、党人類ず深く感ずるず共に各自の個性を維持しおゆけるかずいふこずである。』ず云぀たゎルドマンの蚀葉を今曎繰返しお考ぞなければならない。自分達ず私は日垞生掻のモトりずしお『出来るだけ自己に忠実に』ず云ふこずを心懞け、そしおその為めに努力しおゐる。自分達は自分達の生掻䞭からあらゆる虚停を远ひ出し、自由にしお自然な生き〳〵した生掻を営たふず努めおゐる。自分達は今なるべく瀟䌚ずの亀枉をさけおゐる。自分達は時々心匱くな぀お無人島の生掻を倢想する。自分達のやうにわがたゝでぢきムキにな぀お腹を立おたり、癪に障぀たり苊しが぀たり、萜胆したり、するものにはずおも今の瀟䌚に劥協しおあきらめお easy-going な倪平楜を云぀お生きおはゆけない。党然没亀枉な生掻をするか、進んで血を流すたで戊぀お行くかど぀ちかだ。然し自分達は軜はづみに飛び出しお犬死はしたくない。で、むダ〳〵ながら我慢しお先づ今の凊なるべく没亀枉の方に近い生き方をしおゐる。然し自分達は自分達のやうに考ぞおゐるものが勿論自分達ばかりでないず考ぞる時、そこに非垞な垌望ず慰藉ずが䞎ぞられる。日本に斌ける最初の真実の革呜の曙光がもはや遠からず地平の䞊に珟はれるず信じおゐる――吊既に珟はれおゐる。埮かではあるが確かに珟はれおゐる。自分達は決しお萜胆や絶望をしおはならない。来るべき真実の生掻の新生呜は確かに自分達若き同胞の䞭に芜たれおゐる。やがお自分達はほんずうに立䞊぀お戊ふべき日が来るこずゝ思ふ。自分達は先づ知らず〳〵自分達にこびり぀いおゐる無智や因習ず戊はなければならない。䞖間の気の毒な人等はたた〳〵自分達を『新しい』ず呌んでくれたけれど、自分などはその蚀葉を心から受取るには未だ〳〵䞭々旧い。も぀ず〳〵新しくならなければならない。自分は近頃『サアニン』を読み、高村氏の蚳された『未来掟婊人の婊人論』等を読んでただ面癜いず云぀おすたしおはゐられなか぀た。自分達の Vital force の劂䜕に貧匱に芋えたこずよ そしお自分達の呚囲にゐるかの青癜い顔付をしお、猫背にな぀お『癜魚のやうな』指先きでオチペボ口をしながら、碌そ぀ぜ倧きな声も出し埗ずに琎を掻き鳎らす姉効等の劂䜕にミれラブルに芋えたこずよ そしおさういふ姉効等ず生掻すべき運呜を有する若き男性の劂䜕に埡気の毒に考ぞられたこずよ。自分の連想はたたかの短髪の露西亜少女等を考ぞさせた。  自分は今この䞀小冊子を若き兄匟姉効の䞭に送るにあた぀お、幟分なりずその人々の芚醒の糧にならんこずを垌望しおやたない。『解攟』ず云ふのは髪の結ひ方をちがぞるのではない、マントを着お歩くこずでもない、たしお『五色の酒』ずかを飲むこずではなほない。然し新しき服装を笑ひ、女が酒を飲むこずを恐ろしき眪悪であるかの劂く眵぀お高尚が぀たり、䞊品ぶ぀たりしおゐる人等には愈々解攟など云ふこずはわかりさうもない。服装は個性ある者には趣味の衚珟であり、俗衆には流行である。酒は各人の単なる嗜奜に過ぎない。いづれも真の解攟ずはなんのかかはりもない。『解攟は女子をしお最も真なる意味に斌お人たらしめなければならない。肯定ず掻動ずを切に欲求する女性䞭のあらゆるものがその完党な発想を埗なければならない。党おの人工的障碍が打砎せられなければならない。偉なる自由に向ふ倧道に数䞖玀の間暪たは぀おゐる服埓ず奎隷の足跡が払拭せられなければならない。』  ゚レン・ケむに就いおは自分は圌女の思想の䞭に、自分達ず同じ系統をも぀た意芋を発芋し圌女の議論に共鳎する或者を芋出すこずが出来る。圌女の思想に興味を持぀こずは出来るけれども自分にはそれ以䞊に圌女に芪しみを持぀こずは出来ない。思想の䞊には自分は圌女の為めに可なり埗たものがあるず思ふ。䜵し、より以䞊の興味をも぀お圌女に泚意をむけるこずの出来ないのは䜕故だらう。ゎルドマンに斌けるが劂き芪しみを感じないのは䜕故だらう。自分は圌女に就いお云ふ䜕物をも持たない。唯だ自分は前にも云぀たずほり圌女の䞻匵が自分達のそれに共通であるずいふ点に興味を持぀お、それを玹介したに過ぎない。そしおこれ以䞊の蚀葉を゚レン・ケむに぀いお費やすこずを奜たない。圌女に就いおは、䞋手な自分の蚀葉で云ふよりもより倚く圌女を知぀た人が沢山にあるから。近くこの曞の出づるに先立぀お本間久雄氏の手によ぀お圌女の倚くの論文が蚳されおゐる。゚レン・ケむに぀いお、なを倚くを知りたい方々は、その『婊人ず道埳』を埡芧になるがよろしい。  ゎルドマンに就いお自分は沢山の蚀ひたいこずを持぀おゐる。自分は圌女の小䌝を読むにあた぀お自分のも぀た倧いなる興味ず芪しみず熱烈な或る同情ず憧憬を集泚させお、いろいろな深いずころから来る感激にむせび぀ゝ読んだ。『䜕ず云ふすばらしい、そしお生甲斐のある圌女の生涯だらう』自分はある感慚に打たれながら心の䞭でかう叫んだ。たこずに圌女の受けたなみ〳〵ならぬ圧迫ず苊闘を思ひその透培せる䞻匵ず䞍屈なる自信ずたた絶倫の勇気ず粟力に思ひ到るずき云ひしれぬ悲壮な痛烈な感に打たれる。そしお自分達のそれに思ひくらべるずき其凊に倧いなる懞隔を芋出す。そしおただ〳〵自分達の苊悶はなたぬるくそしお圧迫は軜い。自分達はただ苊痛のどん底たでは行き埗ないでゐる。ただ本圓に぀き぀めた自分をば芋出し埗ないでゐる。あらゆる粟神䞊のたた肉䜓䞊の苊痛を噛みしめお戊ふ所たで行き埗ないでゐる。ただ殻の䞭でたご〳〵しおゐるのだ。殻を噛み砎぀お飛び出さないではゐられないたでの凄い皋真実な芁求をも぀たでに成長しおはゐないのだず云ふやうな事柄がハツキリず解぀お来る。自分のやうな意気地のないずもすれば劥協を欲するやうな者はも぀ず酷い圧迫を受け制裁を加ぞられおあらゆる苊悶を舐めさせられる機䌚でも䞎ぞられなければずおもあのやうな立掟な生掻は出来ないだらう。自分は自分達のや぀おゐるある小さな仕事を発展させる為めにも各自の内郚生掻を確立させなければならない。その前に先づ尊い自己の内郚生呜を生み出す苊痛を忍ばねばならない。ただ自分達はや぀ずこの頃意識が動き出したばかりだ。この時にあた぀お自分はゎルドマンの劂き婊人を先芚者ずしお芋出し埗たこずを限なく嬉しくな぀かしく思ふ。そしお自分はこの尊敬すべき婊人の熱誠をこめたこの曞を凡おの若き姉効達の机䞊に捧げたいず思ふ。 この曞に収めた゚レン・ケむの小䌝は『恋愛ず結婚』の序文でらいおう氏の手に蚳されたものをそのたゝ拝借したのです。私のこの小さないずなみに心からの同情をも぀おいろいろ助力䞋す぀たこずを感謝いたしたす。たた゚レン・ケむの写真は宮田脩氏がお貞し䞋す぀たものです。同氏にも深く感謝いたしたす。 私のこの仕事はたたによ぀お完成されたものであるこずを私は忘れたせん。もし私の傍にがゐなか぀たら、ずおも私のたづしい語孊の力では完成されなか぀たでせう。この事は特にハツキリずお断りいたしお眮きたす。    䞀千九癟十四幎䞉月 染井にお 野枝
0.646
Complex
0.623
0.197
0.15
0.859
3,672
ステヌキの焌き具合は、いかがいたしたしょうか。
0.097152
Simple
0.077721
0.087436
0.068006
0.058291
23
日本は、矎しく枅らかな郷土芞胜の囜である。これは事実であ぀お、誇匵でも虚構でもない。其を盞共目前に展芳しお、我々の民族性に察しお、自ら信頌を持぀やうにしたい。さう思぀お我々は、戊争に先぀十数幎の間、春毎秋毎の「郷土舞螊民謡の䌚」を催しお来た。 口幅ひろく感じられるかも知れぬが、日本人らしい晎れやかな生掻の実珟が望たしか぀たのである。その結果は単に予期にそふ成瞟をあげえたず蚀ふだけでなく、実は、期埅しなか぀た方面に、色々な発芋があり、効果を自埗したのであ぀た。 日本芞胜の起原や、それぞれの芞ずしおの䟡倀、又は倚様なる倉化においお、曎め芋盎しお驚く所が極めお倚か぀た。我々の盞圓に甚意しおかゝ぀た為事が、十分酬いられたこずに、深く感謝を芚えた。 倚くの芞胜皮目の䞭、殆芞胜の出発点からあ぀た姿を残しおゐるものを芋おは、日本の芞の歎史の深さに驚く。䞭䞖近代の濃厚な宗教信仰を印象したものや、又それが、蟲・山・持村の実生掻に吞収せられお、それぞれ滋味を挂し或は日本独特の枅朔な色気を含んで、我々の心をよくするものがある。又その村々における叀颚な劎働や、饗宎の印象をずゞめおゐるものは、今日我々が芋おも聞いおも、祖先自らの身振り・声音を目のあたりにするやうな気がする。曎にも぀ず突぀こんで芞胜化したものに到぀おは、叀代・䞭䞖・近代をこの囜土に生きた人々の芞術的玠質が、どうしおもそこたで぀き぀めずには居られなくな぀お生れた、ず蚀ふ類すら埀々ある。単なる郷土芞胜の境涯を越えお、普遍な芞術の領域に入぀たものず蚀はれる。 われ〳〵は今䞀床、日本人が過去から珟圚に䌝ぞ来た執拗なず蚀぀およい皋激しく、鋭い芞術的感芚を、互に省みお、唯昔ず今の我々を知るばかりでなく、其玠質に沿うおどう進んで行぀たらよいか、さう蚀ふ埌来の反省を深める機䌚にもなれかしず思ふ。 しみ『〵ずしたあなた方の心が、芞ず民族ずの本然の関係を思぀お䞋さる誘ひにもなれゝば、我々の期埅は達せられるのである。
0.748
Complex
0.659
0.236
0.241
0.894
831
圌はミヌティングを欠垭した。
0.087333
Simple
0.069867
0.0786
0.061133
0.0524
14
叀来䞖間でいう「うたい曞」ずいうものには、䟋えば倏の倕、裞であぐらをかいお、倕顔棚の䞋で涌しい顔をしおいるようなのがある。  それではたた、先茩諞君を前にしお倱瀌でございたすが、たた実孊䞊のこずを話さしおいただきたす。  今日、字のこずは、盞倉らずうたいずか、たずいずかいうこずで枈んでしたっおおるようでありたすが、前に申し䞊げたしたように、うたいずか、たずいずかいう事はなかなか簡単に片付けられるようなものではありたせん。ただ、うたいずいった所で、うたいのはどうだずか、たずいのはどうだずかいう意矩が詳しく埗心の行くように分っお来なければならないず思うのでありたす。うたい曞は倕顔棚の䞋で涌しい顔をしおおるような、呑気に、排々ずしお曞いおおるようなのがございたす。䟋えば、江月和尚のごずき、原䌯茶宗のごずき、あるいは、䞀茶の曞なんぞは、そんなこずをいっお宜しいず思いたす。 かず思うず、同じ胜曞でありながら、容姿端麗そのもののようなものもある。 たた堂々ず䞉軍を叱咀するような勢いあるものもある。  それからたた非垞に厳然ずした圢の䞊に正しい謹厳な曞もありたす。それも胜曞の䞭に這入っおいる。それからたた堂々䞉軍を叱咀するような勢いのよい字もある。みなさんも、そういう曞のある事をご承知であろうず思いたすが  。 その他、痩躯鶎のごずき、あるいは鈍愚驢銬のごずき、さおは富有牡䞹のごずき、なよなよず可憐な野に咲く撫子のごずき、现雚のごずき、あわただしい倕立のごずき等々、圢容すれば際限のないほど、いわゆる胜曞なるものに様々な「柄」がある。  たた、非垞にひょろひょろずした骚ず皮のような字もありたす。䟋えば、竹田のような曞はそうだろうず思いたす。それから非垞に鈍感な驢銬のような感じの字もあるのでありたす。たた牡䞹のように華やかなものずか、様々な感じのする曞がありたすが、今日たで著名なものずしお残っおおりたすものは、䜓裁がどの圢䜓でありたしおも、やはり、胜曞ずしお残っおおりたす。そうするず、論より蚌拠、字は必ずしも、こうでなくちゃならぬ、ずいうような䜓裁曞䜓を持っおおるものではない。䜓裁だけで、もし胜曞だずか胜曞でないずいうような区別が簡単に付けられるものであったならば、芏矩敎然ずした圢のものが胜曞であるず決められるのですが、きちんずうたそうに曞いおあっおも、必ずしもそれを胜曞ずいわないのが沢山ありたす。 これに䟝っおみおも、胜曞は曞䜓曞颚の柄で決するものではない。  たあ近い䟋を挙げたすず、申し䞊げお甚だ悪いようですが、䞊野あたりに催されたす曞道展芧䌚などを芋たすず、若い人でも、名のない人でも、きちんずした俗にいう正しい曞き方で曞いおおる字が沢山ありたす。䞀芋芋事に曞けおおるのが沢山ありたす。たた、䞊代仮名でも、いかにも䜓裁が行成や貫之のように曞けおおるのがありたす。これを曞いたご圓人は非垞に埗意なこずだろうず思いたすが、それでも私達から芋たすず、胜曞にもなっおいない。それは䜓裁だけを暡倣したものだからでありたす。珟に近頃、貫之颚の曞が流行しおいる。いかに貫之颚に曞いおあっおもなんにもならぬのです。芁は無粟神のものですから  。぀たり、貫之を皮盞的に芋おいる。非垞な皮盞の芋をなし、貫之の芋方を誀っおいるずいうように、私どもは思うのでありたす。そこで貫之の仮名ずいうのは、あの现い線で、巧みに筆が䌞びお行っお、鮮やかな技巧でありたすが、しかし、それだけが貫之の胜曞の党郚ではない。それは貫之の胜曞の䞭の技術に属するある䞀郚の柄なんです。暡様なんです。図案だずいっおも宜い。デザむンでありたす。  貫之の生呜ずいうものは、その胜曞の䞭に無圢の姿を以お這入っおいる、それが貫之の生呜でありたしお、曞䜓の特色、あれは着物なんです。あるいは䜏たっおいる所の家だずいっお宜いかも知れたせん。もし、ああいう柄が䞀番よいずしたすず、今埌倪い型が出お来た堎合に、それは䞉文の䟡倀もないずいうこずになりたすが、事実、倪い線で曞けおおっおも胜曞だずいわれおおるのが、ご承知のごずく沢山ありたす。珟に匘法倧垫の「いろは」のごずきも非垞に倪い線でありたしょう。貫之の仮名が现いから良いず限るのではない。たた、匘法倧垫の曞が倪いから良いずいうのではない。そう臎したすず、胜曞ずいうも、その字は倪いから良いずいう蚳でもなし、悪いずいう蚳でもない。たた、貫之、行成のごずくに现い線で曞かれた曞が良いず限る蚳でもなければ、悪いずいう蚳でもない。そうなるず倪い線で曞いおも宜いし、现い線で曞いおも宜いし、それはその人の持っお生たれた性分に随い、たたその人の奜む所に随っおよろしい。たた筆などが倪い筆であれば、吊応なしに倪くなるが、それでも構わない。そこで倪いずか、现いずか条件を決めおしたおうずいうこずが元来、間違っおおるのじゃないかず思うのです。今の人の仮名に、芋事貫之ず同じように现く曞いおよく䌌おいるのもありたすが、貫之のよいずいうのは、现い線ではなくしお、その線の動きの䞭に、貫之ずいう人間䟡倀の䞭味が這入っおおりたしお、その䞭味が䞀番尊いので、その尊い䞭味があの现い線を自然に動かしお行く、非垞にデリケヌトな、埮劙な、なんずもいえないようなよい線の実を結んでいるのでありたす。そのよい線ずいうものが未熟の県に手先で拵えたもののように芋えるのです。それを埌からの人は、手先で真䌌する。そうしお寞毫も違わぬように圢造る。だが、それだけではよい物は出来ない。そこで貫之を孊ぶ人に悪口いいたすれば、ご苊劎さんにも胜く真䌌られたずいうよりほかに、自慢になるこずはないだろうず思いたす。たた、噚甚以䞊人から尊敬されるこずはなかろうず思うのでありたす。  貫之を芋んずする時には、貫之の䞭味を芋なくちゃならぬ。しかるを皮盞的に、茪郭的に、衚面だけ芋お、埗たりずするこずがありたしたならば、それは習字する者の考えが間違っおいるか、あるいはその人の皋床が䜎いずかいうようなこずがいえるず思うのでありたす。それで曞は結局、圢敎ではない。線の倪い现いではない。勢いが宜いずか筆の運びが速いずか、遅いずか、そういうようなこずでもない。結局、自然に近いよい線が匕けねばどうあっおも悪いのでありたす。倪くおも、现くおも、それはどちらでも宜い。䟋えば暹でも现いひょろひょろずした暹もありたすが、そうかず思いたすず、この庭にありたす怎の朚のように倪い暹もありたす。しかしながら、どちらも自然の線を匕いおおりたす。现い暹は、その枝が矢匵り自然の现い線を匕いおおりたす。怎の朚の根幹は、堂々ず倪い線を匕いおおる。それで結局现い線も、倪い線も同じ線を匕匵っおおりたす。ちょっずも違わない。そこで倧垫の筆になる倪い「いろは」を芋たしおも、貫之の现い仮名を芋たしおも、結局は暹朚の倪い、现いの劂くに根本䟡倀は同じこずなんです。埓っお、それが䞡者ずもに埌䞖たでどちらも宜いずされおおる。ものの皋床は、その人によっおいろいろず論じられるこずもありたすが、たた奜みによっお分けられるこずもありたすが、根本の是非だけは、ちゃんず決っおいる。  分り切ったような話でありたすが、それが近頃䞀郚の芋方で行きたすず、そう行かなくなっおこうでなくちゃならぬずいうこずをいう者もありたす。ここの床の間に今日掛かっおおりたすのは、现野燕台氏が持っお来られた楊守敬でありたすが、片䞀方は北方心泉ずいう加州金沢の坊さんでありたす。楊守敬は、明治幎代に日本に来お六朝時代の曞、あるいは、その他著名な曞道に぀いおショックを䞎えお、圓時の曞家を刺激した人でありたす。鳎鶎ずか、巌谷ずかいう人が最も刺激を受けたしお、筆を䜿うにしおも懞腕盎筆ずいうようなものが流行りたしお、䞀皮の型を䜜ったのでありたしたが、その新知識を䞎えたのがこの楊守敬でありたす。曞論なども盛んにやった人でありたす。それず䞀方は、やはりそれらの圱響を受けた䞀人の北方心泉でありたす。今ここに掲げお、芞術的の芋方を以お私が批刀したすず、たあ、守敬ず兄たり難し、匟たり難しずいうようなものに芋えたす。しかし、筆の運び方から行きたすず、北方心泉の方が囚われた所が少ない。楊守敬の方がむしろ曞法に囚われお、悪芝居しおおる所があるのでありたす。北方心泉はかなり叀い所を芋たしおそれに習っおいる。筆の運びが玠盎で、楜々しおいたす。楊守敬の方はなかなか曞法などを喧しくいう人だけにそれに匕っ掛かっおおる所がある。それから叀い曞の芋方が足らない。䞭囜人で圓時䞀流の人でもありたすし、䞭囜人ずしおは存倖楜に曞いおありたすが、それでも悠長には行っおおらない。北方心泉の方は、党幅が恰も䞀字の劂くぎたっず行っおおりたすが、こちら守敬は非垞にがたがたずしお纏たっおいたせん。これは䞀字䞀字になんか目的がありたすために、䞀字ず぀の面癜さを衚珟する苊心のために、党幅の調子を取り兌ねおおるずいう短がある。その点に斌お論じお行きたすず、楊守敬の方が北方心泉よりも非芞術的であるずいうこずがいえるず思いたす。その未熟ずいう意味が、これだけ筆達者な者に未熟ずいう事はなかろうずいわれたすが、それをもう䞀歩進んで芋たすず、北方心泉によい字を曞くよい倩分があっお、楊守敬の方にそれが少ない。孊ぶのは孊んだに違いはないが、曞法に珟われた根本の矎術粟神が少し足らない。もし心泉をああいう立堎に眮いお孊問を䞎えたならば、これが反察のすばらしい曞が出来おいたろうず思いたす。  北方心泉は金沢であったため、東京では䜙り知られおおりたせんが、ある時、「実業之日本」の瀟員で、北方心泉の芪類に圓る人が私の所ぞ参りたしお、図らずも心泉の話が出たした。その時に率盎に申したすず、北方心泉は、非垞に珍しい曞家だず私がいいたした。鳎鶎ずいう曞家が東京におっお、非垞に有名であったけれども、范べるず問題にならない。心泉の方が立掟である。鳎鶎の方は倩分のある人でもなし、こ぀こ぀ず䞀皮の字を曞いたが、鳎鶎は俗調だし、心泉は欲のない点、人栌的の違いもあるようだし、ずいうず、そうかずいっお、芪戚でありながら知らない。「鳎鶎くらい曞けるのですか」ずいうから「鳎鶎くらいじゃない。鳎鶎が足蚱にも远っ぀かないのだ」ず私は色をなしおいったこずがありたすが、それくらい北方心泉ずいう人は倩分を持っお、ご芧の通りよく出来た人でありたす。  心泉がえらいからずいっお、どれくらいえらいかずいうこずは分りたせぬ。倧しおえらくないかも知れない。仮りに副島皮臣䌯に范べたすず、北方心泉が副島さんの足蚱にも寄らないのでありたす。副島さんの曞はえらいものでありたしお、いわば人為的な曞でありながら、非垞に自然に近い。それから内容がしっかりしおいる。それから前にも床々申したしたが―― 曞には必ず「矎」が無ければならぬ。 達者ずか立掟だずいっおも、人品賀しきものには「自然矎」ずいう「矎」は具わらぬ。  曞にはどんな曞でも矎がなくおはいけない。矎がなくおは胜曞ずはいわれない。いかに立掟に曞いおも、いかに達筆に曞いおも、その人工的技術の倖に自然矎ずいうような矎がなくちゃいかぬ。雅ずいうものがなくちゃいかぬ。颚流ずか、雅ずかいうものに぀いおは、先に行っお解剖したいず思いたすが、今のずころ、簡単に申したしお、颚流ずか、雅ずかいうようなものがなくちゃならぬ。そういうものは、どこから生たれお来るかずいいたすず、やはり、俗欲のない所から生たれお来るようでありたす。俗欲の旺盛なものは、いわゆる俗人でありたす。簡単にあれは俗物だからずいいたすが、そういうものから雅ずか、矎ずかいうようなものは生たれお来ない。俗人ずいうものは、自然矎なんかに刺激される所は少ないようでありたす。自然の矎に芋ずれお、物質的我欲を忘れおしたうずいうようなこずは、たあ俗人には出来ない。出来おも皋床問題でありたす。ずころが垞始終俗的なこずに䜙り感興を持たないで、ずかく、自然矎の䞖界を芋぀めおいる、自然に芪しむ機䌚を望んでいる人が、本圓の颚流人であり、たた、雅人であるように思われたす。 至った人ずいうのは「自然矎」に察しお泚意深い人である。  兌行法垫なんか『埒然草』にいっおおりたすが、よき人の䜏たった家は埌から芋お非垞によいずか、あるいはそのほか、人の家の庭に、石の沢山あるのは芋にくいずか、仏間の䞭に仏様の数の倚いのは面癜くないずか、家の䞭に道具の非垞に沢山䞊んでいるのは芋にくいずか、立掟な事が曞いおありたす。通人ずいうのはどうかず思いたすが、䜙皋至った人であればこそいえるように思いたす。やはり、結局「自然矎」に察しお泚意深い人であるがために、そんなこずがはっきりいえるず思うのでありたす。それでよき人の䜏たった家は、埌から芋おも奥床しいように芋える。曞なんかでもよき人の曞いた字はよく、埌から芋おもその曞に矎が倚いのでありたす。そこで字を曞くのは手でなくお、人だずいうこずになるず思いたす。これは字ばかりでなく、絵を描いおもそうでありたす。぀たり、よき人でなくおはよき字は曞けない。 習字する堎合、筆硯玙墚にいかに心を甚うべきか。  今床は手本を遞ぶ堎合に、よき人の手本で字を習い、よき人の曞いた曞に始終接しおおるこず。そうするず、それから受ける感化で、自然ず自分ずいう人間がよくなっお来る。自分ずいう人間がよくなっお来るから、よい字が曞けるずいう順序になる。そういうこずを、みなほったらかしお眮いお、いきなり手先噚甚でうたい字を曞いお錻高々ず蠢かそうずいうのは無理なこずでありたしお、それは結局、うたい字を曞こうずいうこずを簡単に考えたからだろうず思うのでありたす。うたい字を曞こうずいうこずをもう少し別にしたしお、うたい字を自分は曞けるか曞けないか分らぬが、どうせ字を曞くのだから、よい字を曞くのだずいうこずになったならば、郜合が奜いず思いたす。うたい字を曞こうず思いたすず、普通の䞉角ずか四角ずか、正確な四角さなり、正確な䞉角さなり、正確なたるさにしなくちゃならぬずいうこずになりたす。よい字は字が曲っおおっおも、よい字である。真盎ぐに曞けなくおも構わない。぀たり、よい字ずいうこずは芏矩的な柄ではない、䞭味だ。そういうこずになるから、この䞭味のこずに泚意さえすれば、自然よい字が曞ける。そうしお、よい字の圢の手本で手習をしお来れば、自然うたい字が曞けるようになっお来るず思いたす。  さお、ご承知の通り「筆硯粟良人生䞀楜」ずいう蚀葉がありたすが、筆ずか玙ずかいうもので、字はうたく曞けるものではないず思いたす。それはやはり「筆硯粟良人生䞀楜」で、楜しめば宜いず思う。自分の奜きな筆を持぀、自分の奜きな玙を持぀、自分の奜きな墚を磚っお楜しむ。玙を芋お楜しみ、硯の感芚を味わい楜しみ、筆の柔らかさを楜しみ、硬さに興味を持぀。筆の軞の材料が良い竹だずか、悪い竹だずか、良い毛で筆が出来おおるずか。ずにかく読んで字の劂く「筆硯粟良人生䞀楜」だず思うのでありたす。そこでこれは䜕々ずいう筆をもっお字を曞けばうたい字が曞けるだろうずか、こういう玙に曞かせばうたい字が曞けるのだがなずいうようなこずは俗だず思いたす。そういうようなこずは、あるにはありたすけれども、それに重きを眮くこずは俗だず思いたす。筆なんかどんな筆だっお、私ども経隓によりたすず、同じこずでありたす。筆によっおうたい字が曞けるずいうようなこずは断じおありたせぬ。昔から胜曞筆を遞ばずずいわれおおりたすが、党く私もそう思うのでありたす。筆ず玙ずでうたい字が曞けるならば、自分の奜き気儘に求めれば宜いのでありたすが、自分の奜きな筆を遞んだから、玙を埗たからずいっお、決しお字がうたくならない。玙も曞きよい玙に曞けば気持の奜いこずはありたすけれども、それによっお盎ちにうたい字が生ずるこずはありたせぬ。墚も悪い墚であるず粘りっこいので、膠が倚いから曞きにくいずいうようなこずはありたすが、これたで皋君墚ずいうような良墚もありたすが、そういうものを持ったからずいっお、別段によい字が曞けるずいうこずはありたせぬ。絵もその通りでありたす。倧雅などの描いおいる墚色は頗るよい墚色でありたすが、あれはやはり倧雅の人の色でありたしお、墚がよいずいうのではない。墚でよい絵が出来たすならば、絵描きなどは高い墚さえ䜿えば宜いのでありたすが、そんな墚をなんが持った所がよい色が出るものではない。もしこれを化孊的に分析したしたならば、倧雅の墚色も束花堂の墚色も同じ色に違いない。同じ墚で曞いたのだから  、けれどもこれがちょっずした濃淡ずか、ちょっずした筆の遅速だずか、その人の品栌だずかいうような関係で墚色の感じが玙䞊に倉わる。そこで十人寄れば十人の墚色が出るのでありたす。しかし、それは墚色が倉化したのではない。その人が墚色に化孊的倉化を及がしたのでもない。墚色が倉化したのではなく、その人の色が墚ずは別の関係で出たずいうこずでありたす。䟋えば、䟋がたるで違いたすが、人の足音なんかでも知っおおれば人が分りたす。同じ䞋駄を履いお同じように歩いおも、その人の区別がはっきりず足音を別にしたす。非垞に䞍思議なものでありたす。十人寄れば十人ずも足音が違うのでありたす。いかに力を入れお来おも、なよなよず歩いお来おも、その人の足音はその人の足音で、䞋駄の桐であるずか、地面が柔らかいずか、固いずかによっお出るのではなく、その人の個性からの音が出おおる。そういう蚳で、その墚色ずいうこずも、その人の持っお生たれた色が出おおるのです。ちょっずした盞違から感じが倧倉に倉わるのです。埓っおこれも墚ばかりではありたせぬ。これは絵具でもその通り、同じ赀い絵具、青い絵具でも人次第で皆感じが違うのです。その人によっおです。墚色ばかりではありたせぬ。なんだっお同じこずでありたす。それで、結局は筆は芋お甚いお楜しむべきものである。「筆硯粟良人生䞀楜」で楜しめば宜いずいう私の考えでありたす。日甚的に今床良い硯を買っお来ようずか、良い玙を買っお来ようずか、なんが高い硯を買っお来おも、それによっおうたい字が曞けるものではない。そういう点がはっきりしおおる人、お分りになっおおった人もありたしょうが、はっきりしおおらなかった人もありたしょうず思いたしお、倱瀌を顧みずこんな事をいったのでありたすが、たあ筆を党郚おろしお曞いおも、ほんの先だけで曞いおも、党郚自分の奜みで宜いず思いたすが、ただ実甚の堎合に、぀る぀るした硯であれば、䞀時間で墚の磚れる所が䞉時間も四時間もかかる。十分で磚れるものが䞀時間も二時間もかかりたす。殊に絵ず違いたしお、たた现かい字を曞いたりする堎合は別ですけれども、普通の堎合には硯が粗くおも现かくおも、字のうたい、たずいに圱響するものではないず思いたす。誠によい曞を芋たす堎合、筆が悪かったり、硯が非垞に悪かったりしおいる堎合もありたすが、逆にそれがためにかえっお宜い結果の䟋も沢山ありたす。それで今はよい筆がないずか、昔はこういう筆があったがずいうこずは、それは趣味䞊楜しむ䞊から、今を䞍足だずいうのならば分っおおりたすが、それがために、どうもうたく曞けないずいうようなこずは断じおないず思うのでありたす。 昭和九幎
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            線䞊の䞀点  線䞊の䞀点  線䞊の䞀点     二線の亀点  䞉線の亀点  数線の亀点              倪陜光線は、凞レンズのために収斂光線ずなり䞀点においお赫々ず光り赫々ず燃えた、倪初の僥倖は䜕よりも倧気の局ず局ずのなす局をしお凞レンズたらしめなか぀たこずにあるこずを思ふず楜しい、幟䜕孊は凞レンズの様な火遊びではなからうか、ナりクリトは死んだ今日ナりクリトの焊点は到る凊においお人文の脳髄を枯草の様に焌华する収斂䜜甚を矅列するこずに䟝り最倧の収斂䜜甚を促す危険を促す、人は絶望せよ、人は誕生せよ、人は誕生せよ、人は絶望せよ 䞀九䞉䞀、九、䞀䞀
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 悲しき事の、さおも䞖には倚きものかな、われは今読者ず共に、しばらく空想ず虚栄の幻圱を離れお、たこずにありし䞀悲劇を語るを聞かむ。  語るものはわがこの倏霎時の仮の宿ずたのみし家の隣に䜏みし按摩男なり。ありし事がらは、そがたうぞなる犅寺の墓地にしお、頃は去歳の初秋ずか蚀ぞり。  二本抎に朝倕の烟も现き䞀かたどあり、䞻人は八癟屋にしお、か぀ぎうりを以お営ずす、そが劻ずの間に䞉五ばかりなる嚘ひずりず、六歳になりたる小児ずあり、倫は実盎なる性なれば家業に懈るこずなく、劻も日頃謹慎の質にしお物倚く蚀はぬほど糞針の道には心掛ありしずのうはさなり。かゝればかたどの烟现しずは蚀ひながら、其日其日を送るに倪き息吐く皋にはあらず、折には小金貞し出す勢ひさぞもありきず蚀ふものもありけり。  劻の䜕某はい぀の頃よりか、䜕ずなく気欝の様子芋え始めたれど、家内のものは曎なり、近所合壁のやからも巊したる事ずは心付かず、唯だ幎長けたる嚘のみはさすが、母の気むづかしげなるを面癜からず思ひしずぞ。䞖のありさた、䞉四幎このかた金融の逌迫より、皮々の転倉を芋しが、別しお其日かせぎの商人の䞊には軜からぬ䞍幞を生ぜしも倚かり。正盎をもお商売するものに䞍正の損倱を蒙らせ、真面目に道を歩むものに突圓りお荷を損ずるやうの事、挞く倚くなれりず芚ゆ。かの倫劻未だ巊したる困厄には陥らねど、思はしからぬが苊情の元なれば、時ずしお倫婊顔を赀めるなどの事もありしずぞ。裡家颚情の䟋ずしお、其日に埗たる銭をもお明日の米を買ふ事なれば、米䞀粒の尊さは䜙人の胜く知るずころにあらず。或日の事ずお劻は嚘を家に残し぀、小児を携ぞお出で行きしが、米買ふ銭を算ぞ぀ゝ、ふず其口を掩れたる蚀葉は「もしこの小児なかりせば、日々に二銭を省くこずを埗べきに」なりし。之を聞きたる小嚘は巊たでに怪しみもせざりし。その容貌にも殊曎に思はるゝずころはあらざりしずなむ。  このあたりの名寺なる東犅寺は境広く、暹叀く、陰欝ずしお深山に入るの思あらしむ。この境内に䞀条の山埄あり、高茪より二本抎に通ず、近きを択むもの、こゝを埀還するこずゝなれり。环々たる墳墓の地、苔滑らかに草深し、もゝちの人の魂魄無明の倢に入るずころ。わがかしこに棲みし時には、朝倕杖を携ぞお幜思を逊ひしずころ。又た無邪気の友ず共に山いちごの実を拟ひお楜みしずころなり。  家を出でゝ皋久しきに、母も匟も還るこず遅し、鎉は杜に急げども、垰らぬ人の圱は砎れし簷の倕陜の照光にう぀らず。幟床か立出でゝ、出で行きし方を眺むれど、沈み勝なる母の面は曎なり、歀頃ずんが远ひの仲間に入りお楜しく遊びはじめたる匟の圢も芋えず。日は党く暮れぬれども未だ垰らず。案じわびお埅぀うちに、雚戞の倖に人の音しければ急ぎ戞を開くに、母ひずり忙然ずしお立おり。その様子怪しげに芋えはせしものゝ、いかに悲しき事のありけんずは思ひもよらず。匟は、ず問ぞば、しばし黙然たりしが、䜕かは知らず倪息ず共に、あれは殺しお来たよ、ず答ぞぬ。  始めは戯れならむず思ひしが、その容貌の青ざめたるさぞあるに、倜の事ずお共に垰らぬ匟の身の䞍思議さに、䜕凊におず問ひければ、東犅寺裡にお、ず答ふ。驚ろき呆れお、半ば疑ひながらも、母の蚀ひたるずころに、走り行きお芋れば、こはいかに、無残や䞀人の匟は倒たに、墓の門なる石桶にうち沈められおあり。其傍になたぐさき血の连りかゝれる痕を芋りず蚀ぞば、氎にお殺せしにあらで、石に撃぀けおのちに氎に入たりず芚たり。気も絶え入んほどに愕き惑ひしが、走り還りお泣き叫び぀ゝ、近隣の人を呌ければ、挞く其筋の人も来りお死躰の始末は終りしが、殺せし人の継しき䞭にもあらぬ母の身におありながら、鬌にもあらぬ鬌心をそしらぬものもなかりけり。  東犅寺寺内より高茪の町に出でんずする现埄に芆ひかゝれる䞀老束あり。昌は近傍の頑童等こゝに来りお、束䞋の现流に小魚を網する事もあれど、倜に入りおは蛙のみ雚を誘ひお鳎き隒げども、その濁れる音調を驚ろき䌑たす足音ずおは、皀に聞くのみなり。寺内に棲みける圌の按摩、その業の為にはかゝる寂寥にも慣れたれば、倜出でゝ倜垰るに、こはさずいふもの未だ芚え知らず、五月雚の现々たる陰雚の䞭に䞀二床は圌燐火をも芋たれど、巊しお怖るゝ心も起らじず蚀ぞり。  雚少しくそがちお、桐の青葉の重げに垂るゝ䞀倜、暮すぎお未だ皋もあらせず、䟋の劂く家を出でゝ圌の老束の䞋に来掛りし時、突然片圱より顕はれ出るものありず芋る間に、わが身にひたずかじり぀き、逃げんずするも逃げられず、胆朰れながらも、其人を芋れば、髪は乱れお肩にからみ、色は倜目にも青癜ろく、鬌にやあらむ人にやあらむ、ず思ふばかり、身はわな〳〵ずふるひお、振り離さん皋の力もなくなれり。やうやく気を沈めお其人の態を぀く『〵打ち眺むれば、たがふ方なき狂女なり。さおは鬌にもあらずず心皍々安堵したれば、䜕故にわれを留むるやず問ひしに、唯ださめ『〵ず泣くのみなり。再䞉再四問ひたる埌に、答ぞお曰ふやう、功は今宵この山のうしろたで行かねばならずず。䜕甚あ぀お行くやず問ひければ、そこにお児を殺したる事あれば、こよひは我も共に死なむず思ひおなり。この蚀を聞きお、さおは前日の児殺よなず心付きたれば、曎に気味あしく、いかにもしお振離しお逃げんずすれど、狂女の力垞の女の腕にあらず、しばしがほどは或は賺し぀或はなだめ぀、埗意客は埅ちあぐみおあらむに、いかにせばやず案じわづらふばかりなり。いかに蚀ふずも䞀向に聞き入れず、死なねば枈たずずのみ蚀ひ募りお、捕ぞし袖を挜きお、吟を圌の山䞭に連れ行んずす。もし愈々死なむずならば独り行きおも宜からずやず蚀ぞば、ひずりにおは寂しき路を通ひがたしず蚀ふ。幞にも、この時角燈の光埮かにかなたに芋えければ、声を挙げお巡行の査官を呌び、茲に始めお蘇生の思ひを為せり。  始は査官蚀を尜しお説き諭しけれど、䞀向に聞入れねば、止むこずを埗ずしお、他の査官を傭ひ来り぀、遂に譊察眲ぞ送り入れぬ。  圌女は是より粟神病院に送られしが、数月の埌に、病党く愈えお、その倫の家に垰りけれど、倫劻ずも、元の家には䜏たず、いづれぞか移りお、噂のみはこのあたりにのこりけるずぞ。以䞊は我が自から聞きしずころなり。䜆し聞きたるは、この倏の事、筆にものしお䞖の人の同情を請はんず思ひたちしは、今日土曜日の倜、秋雚玅葉を染むるの時なり。  殺さんず思ひたちしは偶然の狂乱よりなりし、されども、斯の劂き悲劇の、斯くの劂き埒爟の狂乱より成りし事を思ぞば、たが぀びの魔力いかに迅䞔倧ならずや。芪ずしお子を殺し、子ずしお芪を殺す、倧逆䞍道歀の䞊もあらず、然るに斯般の悪逆の埀々にしお䞖間に行はるゝを芋おは、誰か悜惻ずしお人間の運呜のはかなきを思はざらむ。狂女心底より狂ならず、醒め来りお䞀倜悲悌に堪ぞず、児の血を濺ぎしずころに行きお己れを殺さんずす、己れを殺す為に、その悲しき塲所に独り行くこずを埗ず、华぀お路傍の人を連れ立おんこずを請ふ、狂にしお狂ならず、狂ならずしお猶ほ狂なり、あわれや子を思ふ芪の情の、狂乱の䞭に隠圚すればなるらむ。その狂乱の原はいかに。枠が出でがけに曰ひし䞀蚀、深く瀟䌚の眪を刻めり。  昚倜は淵明が食を乞ふの詩を読みお、其枅節の高きに服し、今倜は惚憺たる実聞をものしお、思はず袖を湿らしけり。知らぬうちずお、黙思逍遙の奜地ず思ひしずころ、この物語を聞きおよりは、自からに足をそのあたりに向けずなりにき。かの地に䜏みし時この文を䜜らず、华぀お今の菎にう぀りお之を曞くは、わが悲悌の念のかしこにおは䜙りに匷かりければなり。思ぞば䞖には䞍思議なるほどに酞錻のこずもあるものかな。 明治二十五幎十䞀月
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 ▲䜙の䜏っおる町は以前は組屋敷らしい狭い通りで、倚くは小さい月絊取の所謂勀人ばかりの軒䞊であった。䜙の䜏居は埀来から十間奥ぞ匕蟌んでいたゆえ、静かで塵埃の少ないのを喜んでいた。凊が二䞉幎前垂区改正になっお、衚通りを䞉間半削られたので埀来が近くなった。道路が広くなっお亀通が䟿利になったお庇に人通りが殖えた。自働車が盛んに通るようになった。自然商店が段々殖えお来お、近頃は近所の小さな有るか無いかのお皲荷様を担ぎ䞊げお月に䞉床の瞁日を開き、其晩は十二時過ぎたでも近所が隒がしい。同時に塵埃が殖えお、少し颚が吹くず、曞斎の机の䞊が応ちザラ〳〵する。眺望は無い方じゃ無いが、次第にブリキ屋根や襁耓の干したのを䜙蚈眺めるようになった。土地の繁昌は結構だが、自働車の音は我々を駆逐する声、塵埃の飛散は我々を吹払う颚である。  ▲文明ずは物質生掻の膚匵であっお、同時に粟神生掻の退瞮である。文明を呪う声が粟神生掻の偎から生ずるのは圓然である。  ▲或る人が来お、䞖間の人は電車が出来お䟿利になったずいうが、我々は電車のお庇で蟺鄙が賑かになっお家賃が隰るので、延長する床毎に段々遠くぞ転さなくおはならないから、電車の出来たのが华お䞍䟿だず云った。  ▲近頃は巣鎚や倧塚、䞭野や枋谷あたりから䞭倮の垂街ぞ毎日通う人は珍らしく無い。逗子や鎌倉から通う人さえある。䟿利だず云えば䟿利だが、茲に䞍䟿があるず云えば又云われん事は無い。電車や自働車の発達したお庇に、金のあるものが垂街を離れた郊倖に広倧なる邞宅を構えるは莅沢だが、金の無いものが家賃の安い凊ぞず段々匕蟌たざるを埗なくなるのは悲惚である。同じ亀通の䟿利の恩恵を受けるにも䞡様の意味がある。  ▲戞川秋骚君が曟お倧久保を高等裏店だず云ったのは適切の名蚀である。  ▲其䞊に我々は垂倖に駆逐されるばかりじゃない。毎日々々高䟡な電車皎を払わねばならない。亀通皎共に埀埩九銭ずいうのは決しお高くは無かろうが、月に積るず莫倧になる。我々の知人䞭には䞀家の電車代に毎月十円乃至十五円を支払う者は珍らしく無い。之だけの電車皎を払うのは䞭産者に取っおは盞圓な苊痛であるが、歀苊痛を忍び぀ゝ亀通の䟿利の恩恵を謝さねばならんのだ。  ▲加之ならず、電車がむクラ迅速でも、距離が遠ければ遠いほど時間を芁する。逗子から毎日東京ぞ通った経隓のある人の咄に、汜車の時間は埀埩四時間だが、汜車の埅合せやらステヌションから目的地たでの時間を合しお少くも五時間若くは其以䞊を芁するず云った。ツマリ埀埩に半日を無駄にしお了うわけである。逗子は少し遠方過ぎるから別ずしおも、倧塚巣鎚蟺から通う人は少くも埀埩䞀時間半乃至二時間近く費すであろう。毎日之だけの時間を或る䞀定の仕事に割いたなら、五六幎間には盞圓な倧きな仕事が出来る。我々は時間を埒費し぀぀電車の恩埳を難有がらなければならんのだ。  ▲そんなら電車に乗っおる間の時間を読曞に善甚したら宜かろうずいうが、其意で必ず曞籍を懐ろにしおいおも、あのゎタクサした䞭では浮の空で読める新聞ぐらいなら栌別、真面目な読曞に粟神を集䞭する事は迚も出来ない。䞔倧抵は釣革に揺䞋るのだから、たごたごしおいれば足を螏たれる、車が停ったり動いたりする床毎にペロ〳〵する、其間には車掌が『埡懐䞭物の埡甚心』ず号什を掛ける。足を螏たれたいず甚心し、ペロ〳〵したいず甚心し、懐䞭物を掠られたいず甚心し、其䞊に目的の停留堎を乗越すたいず甚心しなけりゃならない。乗るから降りるたで甚心のし぀ゞけで劎れお了う。  ▲自働車の䞊なら悠然ず沈着お読曞は本より犅の工颚でも岡田匏の粟神修逊でも䜕でも出来そうだが、電車は人間を怯懊にし、煩瑣にし、野卑にし、攟肆にする。我々は電車に乗る床毎に瀌譲の治倖法暩を目撃しお人間の矎性が電車に傷られ぀ゝあるを感じる。  ▲門倖から芋るず文人の生掻は極めお呑気に思われる。ノホホンだの埌生楜だの仙人だの若隠居だのずいう冷眵を我々は䜕癟遍䜕千遍も济びせられた。が、我々は䞍自由な郊倖生掻を喜んで、毎日埀埩の時間を無駄にしおも、釣革に垂䞋っお満員の䞭に抌し朰されそうになっおも猶お亀通の䟿利を心から難有がるほど呑気にはなれない。我々は腰匁圓を揺䞋げお青い眫や赀い眫の垳面ず睚めくらしなくおも自働車の音には毎日脅かされおいる。ガ゜リンの臭いや塵埃を济びせられおも平気になっおるほど仙人にはなれない。  ▲我々は垂䞭に生れお垂䞭に育ったものだ。身䜓の習慣が垂街生掻に銎らされおおる。空気が良いずいうような単玔な理由で郊倖生掻を楜む事は出来ない。其の垂倖の子なる我々が経枈䞊の圧迫で垂倖に駆逐されお、拠ろなしに電車の䟿利を口にしなけりゃならんのだ。亀通の䟿利ずいう満足の䞭に悲哀が含たれおおる。  ▲人口が過剰するず淘汰が行われる。限りある郜垂の地積が䞀杯になるず四捚五入しお䜙分を垂倖に掃出さねばならない。亀通の䟿利ずいうは歀淘汰を行う為めの準備であっお、四捚五入で匟き出される我々は電車に乗るべき任務を背負わせられるのだ。  ▲電車のお客様の倧倚数は我々階玚のものである。我々以䞋の劎働者の為めには特に割匕車ずいうものがあるから乗客の倧倚数は我々階玚のもの、即ち既に垂から掃出されたか、或は早晩掃出さるべき運呜を持っおるものである。其郜垂の劣敗者――ずいうのが悪るければ匱者――が毎日電車に乗っお垂の重倧なる財源の䟛絊者ずなっおいる。  ▲亀通の䟿利の恩恵を受けるのは垂の附近の蟲民で、ツむ十五六幎前たでは䞀反いくらずいう田や畑が宅地ずなっお毎幎五六割ず぀隰貎する。甚だしきは䞀時に二倍䞉倍に飛䞊る。倫たでは糞桶を担いでいた癟姓が俄に王付の矜織を着る地䞻様ずなっお、お邞の旊那様が䞀朝にしお䞋掃陀人の地借或は店借ずなっお了う。経枈䞊の倉革が霎らす䜍眮転換も爰に到っお頗る甚だしい。尀も狡猟な郜䌚人に欺かれお早くから地所を手攟しお了ったのもあるが、䞭には拱手しお応ち意倖なる垂街地の倧地䞻ずなったものもある。郜䌚の成金は屡々嘲匄嫉劬の目暙ずなったが、垂倖の成金は誰にも気が付かれない䞭に劎働者から倧玳士になっお了った。  ▲郊倖の堎所に由るず垂内の山の手よりも高い盞堎の地所がある。将来の隰貎を予期しお䞍盞圓なる高倀を歌っおるものもある。我々は既に垂内を駆逐され或は将に駆逐されんずしおいるが、郡郚でも電車の䟿利に济する地には段々䜏えなくなりそうだ。或る人が来お、景色の奜い䞊に銬鹿に安い地所があるから移転さないかず云うから、䜕凊かず聞くず、垂倖五里の蟺鄙な田舎である。我々は終に電車も電灯も瓊斯も電話も氎道も無い、有らゆる文明から党く塗絶された僻遠の地に匕蟌たねばならないかも知れない。我々はアむノ人のように段々奥ぞ奥ぞず远払われるのだ。  ▲芪から貰う孊費で䞋宿料を払っおる時代はノンキに人圢町の倜の景色を歌っおいられるが、扚お職業ずなるず文士生掻は門倖で芋るほど気楜じゃ無い。人圢町に憧がれたものが䞇幎町を歌うようになるかも知れない。郜䌚の咏嘆者が田舎の讃矎者ずならざるを埗なくなる。  ▲文科倧孊の孊費を調べたものを芋るず、䞊䞭䞋の䞉玚に分った䞋玚の費甚すらが幎額六癟円を算圓しおある。月に五十円を芁するわけだ。駈出しの文孊士では五十円の月絊を取れない人がある。孊校卒業生の問題は文孊士ばかりじゃないが、倧孊出身者䞭で文孊士が最も気の毒な境涯にある。二十幎前に、嫁に行くなら文孊士か理孊士に限るず高等女孊校の生埒の前で挔説しお問題を惹起した人があるが、文人ず新聞蚘者ずは今日では嫁に呉れおの無い嫌われ者の随䞀である。  ▲文人の資本は玙ず筆ばかりのように云う人があるが、文人は垞に頭脳を肥やす滋逊代に䞭々資本が芁る。芝居を芋るのもカプぞ行くのも、時ずしおは最少し深入するのも矢匵頭脳を豊かにする為めである。勿論、新らしい曞籍は垞に読たねばならない。偶像砎壊の䞖の䞭でも叀いものを党然棄おゝ了う事は出来ない。歀費甚だけ芋積っおも䞭々容易では無い。ず云っお少し頭脳の仕入れに油断するず、盎ぐ時代に遅れお了う。文人は垞に郜䌚を離れる事は出来ない。䞀幎郜䌚を離れたら党く時代に遅れお地平線䞋に蹎萜されお了う。文人の寿呜は盞撲ず同じだず云うが、盞撲よりも䞀局果敢ない。声名を維持するには垞に頭脳を逊うに努力しなけりゃならず、頭脳を逊うには矢匵資本の最沢を芁する。  ▲文人は競銬の銬のようなものだ。垞に矎食しおいないず応ち衰えお了う。が、銬の方は遊戯的に愛撫しお千金を費しお飌育するを惜たない金持があるが、人間の文人は時ずしおは飌逊者に噛付くので、千金の逌を䞎えお呉れるものが殆んど無い。  ▲叀来傑䜜は貧乏に生じたゆえ、文人は貧乏させお眮くに限るずいう説がある。曲芞の動物は腹を枛らせお眮かないず芞をしないずいう筆法である。若し恁んな説が道理らしく䞻匵されるなら我々は文人虐埅防止䌚を起さねばならない。  ▲近頃或る新聞が芞術皎を提起した。其理由に曰く、同じ芞術家でありながら俳優は高い皎を賊課せらるゝに反しお矎術家や文人が課皎されないのは䞍公平であるず。日本画の先生達には倧厊高楌を構えたり或は屡々豪遊したりするものもあるから、恁ういう倧先生方は別ずしお、高の知れた文人の目腐れ金に課皎した凊で結局手数損じゃ無かろう乎。が、之たで范やもするず浮浪人扱いされた文人の収入を皎源にしようずいうは、枈生䌚の寄付金を勧誘されたような気がしお名誉に感じるが、芞術皎ずいうは䞖界に比類なき珍皎ずしお公衆の興味を湧かすに足りる。が、そこに䞀疑問がある。文孊は果しお職業だろう乎。  ▲䞖の䞭には文孊を以お生呜ずし、文孊を売っお衣食しおいる者があるから、仮に之を称しお職業ず呌んでおるが、総おの職業を通じお䞀貫しおいるは同䞀任務の機械的反芆であっお、同じ芞術家でも俳優は毎日同じ狂蚀を舞台で繰返しおいる。䞀ず芝居枈んで他の狂蚀ず倉っおも、䜕ヵ月目或は䜕幎目には又繰返しおいる。又圚来の日本画家は䞀぀粉本を垞に写し盎しおいる。梅花曞屋だの雚埌山氎だのず画題たでもチャンず定たっおおる。印刷する代りに筆で描いおいるようなものだ。同じ粟神生掻の人でも坊さんがお説教をしたりお葬いをしたり、孊校の先生が講釈をしたりするは皆同䞀任務の機械的反芆である。文人も亊生掻の鞭に匕叩かれる為め千篇䞀埋の著述をする事はするが、本来手の仕事でも足の仕事でも県の仕事でも口の仕事でもなく、䞀぀〳〵が尜く頭脳の䞭枢から産出す仕事であるから、他の職業のように党く同䞀のものを䜜り出す事は決しお無い。  ▲文人の仕事を機械的にしたのは印刷術の進歩で、文人の頭脳の産物を機械がドシ〳〵印刷しお了うから、機械を間断なく運転させる為めには、印刷材料たる草藁をも亊間断なく準備しなければならない。そこで文人の頭脳も亊勢い機械的に発動すべく䜙儀なくされるので、新聞や雑誌が盛んになればなるほど文人の頭脳も亊定時的に働き出さねばならなくなる。文人の本来は感興を重んじお機械的に頭脳を働かすべき筈で無いが、幞いに印刷術の進歩が文人の頭脳の組織をも䞀倉しお、名什傑䜜が蜆蜀现工のようにドシ〳〵出来たなら、今たでのように実際家に軜蔑されないほどの収入を埗お、貧乏な日本の囜庫を富たすに足るほどの文孊皎を玍める事が出来るかも知れない。人情本を焌き盎した芞者文孊やゞゎマの本を䜜るものは即ち文孊補造業の皜叀を始めたので、远々には曞画屋の仕入れ屏颚や掛物を描いたり、䞉越や癜朚をお店ずする矎術家先生達ず䞀緒に倚額の営業皎を玍めるようになるだろう。恁ういう人達は郊倖生掻をするには及ばない。日本橋か銀座に䜕々株匏䌚瀟ず列んで癜煉瓊の事務所を構える事が出来る。  ▲䞊叞小剣君は日本の文士の隠者生掻を䜕時たでも保存したいず云っおる。が、文人が之たで隠者生掻を送っおいられたのは職業たるを認められなかったからで、今日のように到る凊に茪転機を運転しお、機械の経枈的胜力を党うさせる為めに文人の頭脳をも又機械的にし、収皎官史が文人の収入を算盀珠に匟き蟌むようになっおは、文人は最早倧久保や雑叞ヶ谷に閑居しお電車の䟿利を難有がっおばかりはいられなくなる。富の分配や租皎の賊課率が文人の旁ら研究すべき問題ずなっお、文人の机の䞊にはむブセンやメ゚タヌリンクず䞀緒に法芏倧党が茉るようになる。  ▲其代りには垂倖に駆逐されないでも枈むかも知れないが、或は駆逐されおも電車の恩愛に頌らないで自働車を走らす事が出来るかも知れないが、メ゚タヌリンクの倢を難有がる専門文人にもなれず、ゞゎマの本を䜜る文孊補造業に埓事する気にもなれないドッチ附かずの䞭途半端の我々は、䞁床垂区改正の時取払いになるお城の石垣ず同様なものではあるたい乎。垂街の子たる我々の頭は郊倖生掻を楜むには実は䜙りにプロセむックである。ず云っお、道路の繁昌に䌎う雑音塵埃に無頓着なるには少しくポヌ゚チック過ぎる。我々は文明を呪うものでは無い。华お文明を謳歌しおおる。が、文明は我々を駆逐せんずしお無蚀の逐客什を垃いおおる。我々の身の䞊も誠に以お厄介なる哉。倧正二幎五月珟代
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お䌚蚈は1階レゞにおお願いいたしたす。
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飯田   矎しき町 山ちかく 氎にのぞみ 空あかるく颚にほやかなる町 飯田   静かなる町 人みな  蚀葉やわらかに 物音   ちたたにたゝず 粛然ずしお叀城の劂く䞘にた぀町 飯田   ゆたかなる町 財に貧富あれども 身に貎賀ありずおがぞず 䞀什䞀噚かりそめになく 老若男女、みなそれぞれの詩ず哲孊ずをも぀町 飯田   ゆかしき町 家々みな奥深きものを぀ゝみ ひずびず 瀌にあ぀く 軒さび  瓊ふり 壁しろじろず小鳥の圱をう぀す町 飯田   倩竜ず赀石の嚘 おんみ さかしくみめよく育ちたれど いた 新しき時代に生きんずす よそほひはかたちにあらず 矎しく  静かに ゆかしく 豊かに おんみの心をこそ 新しくよそほひたたぞ
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そんな蚀葉がぐるぐる頭の䞭を回りたす
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䞍意に埌ろから声がかかった
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 昚幎の倏だったか、京郜の関係者が寄り合っお友犅祭を催し、その所蔵品を持ち寄っお䞀堂に陳列した事があった。私も芋物に行ったが、流石に仙犅斎の代衚䜜などたんず集っおいお、なかなか矎事な催しだった。いい図柄や色気のものがたんずあっお、぀い懐ろの写生垖を取り出しおは、心芚えに瞮図させられる気にさえなった皋だった。  だんだん芋物しお行くず、あちらに誰か男の人が頻りに写生しおいる。おや、誰ぞ写生したはる、感心な人やなぁ、ず思いながら近づいお芋るず、それは土田さんだった。土田さんの写しおいたのは花筏の暡様だった。私はちょっず挚拶しおすぐに別れたが、いずれあの暡様が舞劓の衣裳にでもなっお来るのだろう、ず思った事だった。  土田さんはよく舞劓を研究しおいられた。最初は文展に〈䞉人の舞劓〉が出た。囜展にも同じ題材の䜜が出た。腰掛けたのがあり、座ったのがあり、かがんだのがあり、同じ題材を取り扱っお、䞀枚は䞀枚ず研究を打ち蟌んで描いお行かれたので、どの䜜品にも生呜があった。  土田さんの䜜品で䞀番叀く蚘憶にはっきり残っおいるのは、ただ文展の開かれない前、毎春京郜で開かれた矎術協䌚の展芧䌚に出された〈眰〉ずいう絵だ。田舎の小孊校の教宀の䞀隅に、䞉人の少幎が盎立さされおる図で、この絵は埡池の栖鳳先生のお宅の二階で描いおいられた時から知っおいた。少幎の立っおる足蚱に野菊の折枝が二、䞉本あしらっおあるが、もう殆ど仕䞊りに近づいた時䞁床私が行き合わしおるず、「さぁ今床は野菊を描かんならぬ。どこぞ咲いおる所ないかいなぁ」ず蚀っお偎にいる人に蚊ねお、それが二条離宮の近所に咲いおるず聞かされ「そうか、ちょっず行っおずっおこう」ず出掛けお行く姿が、今でも目に残っおる。 〈城皎日〉もその䌚に出た。これも田舎の颚俗で、村圹堎みたいな所に爺さんやお䞊さん達が皎を玍めに来おる絵で、䞀人の小嚘が赀い錻緒の草履を履いおいた。〈春の歌〉は田舎の子䟛が手を぀ないで茪になっお、唱歌をうたっおいる図だった。その頃土田さんの奜んで描いた題材は、䞻ずしお田舎の珟代颚俗だった。その䞭に珍しく〈孟宗竹〉があった。これは向日町蟺に写生に通ったりしたものだったが萜遞したず聞いた。〈春山霞壮倫〉ず題した䜜は叀事蚘か䜕かにある神話で、珍しく時代物だった。確か私の〈人圢遣い〉を出した幎で、䞡方共銀賞だった様に芚えおいる。  その頃奈良に工藀粟華ずいう八十幟歳かのお爺さんで写真を写す䞀颚倉った人があっお、ただ埡維新で充分に敎理の぀いおいない瀟寺の仏像や絵巻などをうんず撮圱しおいた。お婆さんず二人きりで粗末な家に棲んでいおお酒が奜きでい぀もお酒ばかり飲んでる様な人だったが、二階に䞊るず写真の皮板を䞀杯もっおいた。それが皆、それこそ埌には囜宝になったりした様な仏像や絵巻の写真だった。そこに土田さんは通っお〈散華〉の材料を手に入れたずいう事だった。  土田さんは昔から写生を重んじおいられた人だった。舞劓でも倧原女でも充分に写生に写生を重ねられた。そしお絵に仕䞊がったのを芋るず写生の儘でなしに、皆土田さんらしいよさにされおいた。そこに土田さんの芞術があるずいう気がする。 昭和十䞀幎
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先が党く芋えたせんでした
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侀  二月二十日の総遞挙に斌お、囜民の倚数が、ファッシズムぞの反察ず、ファッシズムに察する防波堀ずしおの岡田内閣の擁護ずを䞻匵し、曎にその意志を最も印象的に無産党の進出に斌お衚瀺したる埌僅かに数日にしお起こった二・二六事件は、重芁の地䜍にある数名の人物を襲撃し、遂に政倉を惹起するに至った。 二  先ず吟々は、〔残酷〕なる銃剣の䞋に仆れたる斎藀内倧臣、高橋倧蔵倧臣、枡蟺教育総監に察しお、深厚なる匔意を衚瀺すべき矩務を感ずる。浜口雄幞、井䞊準之助、犬逊毅等数幎来暎力の犠牲ずなった政治家は少なくないが、是等の人々が仆れたる時は、ただ反察思想が䜕であるかが明癜ではなかった、埓っおその死は蚀葉通りに䞍慮の死であった。然るに五・䞀五事件以来ファッシズム殊に〔軍郚〕内に斌けるファッシズムは、掩うべからざる公然の事実ずなった。而しお今回灜犍に遭遇したる数名の人々は歀のファッシズム的傟向に抗流するこずを意識目的ずし、その死が或は起こりうるこずを予知したのであろう、而も圌等は来らんずする死に盎面し぀぀、身を以おファッシズムの朮流を阻止せんずしたのである。筆者は之等の人々を個人的に知らず、知る限りに斌お圌等ず党郚的に思想を同じくするものではない。然しファッシズムに察抗する䞀点に斌おは、圌等は吟々の老いたる同志である。動もすれば退嬰保身に傟かんずする老霢の身を以お、危険を芚悟し぀぀その所信を守りたる之等の人々が、䞍幞兇刃に仆るずの報を聞けるずき、私は云い難き深刻の感情の胞䞭に枊巻けるを感じた。 侉  ファッシストの䜕よりも非なるは、䞀郚少数のものが〔暎〕力を行䜿しお、囜民倚数の意志を蹂躙するに圚る。囜家に察する忠愛の熱情ず囜政に察する識芋ずに斌お、生死を賭しお所信を敢行する勇気ずに斌お、圌等のみが決しお独占的の所有者ではない。吟々は圌等の思想が倩䞋の壇堎に斌お蚎議されたこずを知らない。況んや吟々は圌等に比しお〔敗〕北したこずの蚘憶を持たない。然るに䜕の理由を以お、圌等は独り自説を匷行するのであるか。  圌等の吟々ず異なる所は、唯圌等が暎力を所有し吟々が之を所有せざるこずのみに圚る。だが偶然にも暎力を所有するこずが、䜕故に自己のみの所信を敢行しうる根拠ずなるか。吟々に代わっお瀟䌚の安党を保持する為に、䞀郚少数のものは歊噚を持぀こずを蚱されその故に吟々は法芏によっお歊噚を持぀こずを犁止されおいる。然るに吟々が晏劂ずしお眠れる間に歊噚を持぀こずその事の故のみで、吟々倚数の意志は無の劂くに螏み付けられるならば、先ず公平なる暎力を出発点ずしお、吟々の勝敗を決せしめるに劂くはない。  或は人あっおいうかも知れない、手段に斌お非であろうずも、その目的の革新的なる事に斌お必ずしも咎めるをえないず。然し圌等の目的が䜕であるかは、未だ曟お吟々に明瀺されおはいない。䜕等か革新的であるかの印象を䞎え぀぀、而もその内容が䞍明なるこずが、ファッシズムが䞀郚の人を牜匕する秘蚣なのである。それ自身異なる目的を抱くものが、倫々の垌望をファッシズムに投圱しお、自己満足に陶酔しおいるのである。只管に珟状打砎を望む性急焊躁のものが、埀くべき方向の䜕たるかを匁ずるをえずしお、曩にコンムュニズムに狂奔し今はファッシズムに傟倒す。冷静な理智の刀断を忘れたる珟代に特異の病匊である。 四  由来囜軍は倖敵に察しお我が囜土を防衛する任務を課せられお、囜軍あるが為めに囜民は自ら歊噚を捚お、安んじお囜土の防衛を托したのである。  囜軍はそれだけで負担し切れぬほど重倧な䜿呜を持っおいる。将兵化しお政治家ずなるほどに、囜軍は為すべき任務を欠いでいるのであろうか。若しその任務たる囜防を党うするをえない事情にあるならば、真摯にその旚を蚎えるべき他の適圓の方法がある筈である。日本囜民はその蚀に耳を傟けないほど祖囜に察しお冷淡無関心ではない、若しそれが囜防の充実ず云う特殊の任務を逞脱しお、䞀般囜政に容喙するならば、その過去ず珟圚の生掻環境ずよりしお、決しお充分の資栌条件を具備するものず云うこずは出来ない。軍人は軍人ずしおの特殊の芳点に制玄されざるをえないのである。  軍人その本務を逞脱しお䜙事に奔走するこず、既に奜たしくないが、曎に憂うべきこずは、軍人が政治を巊右する結果は、若し䞀床戊争の危機に立぀時、囜民の䞭には、戊争が果たしお必至の運呜によるか、或は䜕らかの為にする結果かず云う疑惑を生ずるであろう。囜家の運呜が危険に迫れる時に斌お、挙囜満心の結束を必芁ずする時に斌お、かかる疑惑ほど障碍ずなるものはない。 五  䞀千数癟名の将兵をしお勅呜違反の叛軍たらしめんずするに至れるは、果たしお誰の責任であろうか。事件は突劂ずしお今日珟れたのではなくお、由っお来れる所遠きに圚る。満掲事倉以来擡頭し来れるファッシズムに察しお、若し〔軍郚〕にその人あらば、候に英断を以お抑止すべきであった。  囜軍の本務は囜防に圚るか奈蟺に圚るか、政治は囜民の総意に䟝るべきか䞀郚少数の〔暎〕力に䟝るべきかは、厳ずしお察立する芋解にしお、その間䜕等の劥協苟合を蚱されない。若し察立する芋解の䞀方を採るならば、その所信に斌お貫培を期すべきである。所謂責任ず称しおその郜床職を蟞するが劂きは、其の意味の責任を果たさざるものである。幞いにしお歀の機を利甚しお、抜本塞源の英断を行うもの囜軍の䞭より出珟するに非ずんば、曎に〔幟床か歀の䞍祥事を繰り返すに止た〕るであろう。 六  巊翌戊線が十数幎来無意味の分裂抗争に、時間ず粟力ずを浪費したる埌、挞く暎力革呜䞻矩を粟算しお統䞀戊線を圢成したる時、右翌の偎に䟝然ずしお暎力䞻矩の迷倢が䜎迷し぀぀ある。  今や囜民は囜民の総意か䞀郚の暎力かの、二者択䞀の分岐点に立ち぀぀ある。歀の最先の課題を確立するず共に瀟䌚の革新を行うに足る政党ず人材ずを議䌚に送るこずが急務である。二月二十日の総遞挙は、倫れ自身に斌おは未だ吟々を満足せしめるに足りないが、日本の黎明は圌の総遞挙より来るであろう。黎明は突劂ずしお捲き起これる劖雲によっお、暫くは閉ざされようずも、吟々の前途の垌望は䟝然ずしお圌凊に係っおいる。  歀の時に圓たり埀々にしお知識階玚の囁くを聞く、歀の〔暎〕力の前にいかに吟々の無力なるこずよず、だが歀の無力感の䞭には、暗に暎力讃矎の危険なる心理が朜んでいる、そしお之こそファッシズムを醞成する枩床である。暎力は䞀時䞖を支配しようずも、暎力自䜓の自壊䜜甚によりお瓊壊する。真理は䞀床地に塗れようずも、神の氞遠の時は真理のものである。歀の信念こそ吟々が確守すべき歊噚であり、之あるによっお始めお吟々は暎力の前に屹然ずしお亭立しうるのである。
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続きを芋る
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どなたも楜しそうに昔の話をされたす
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やはり日の可胜性が高い
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南の囜の黄昏れ、 空は玅き笑ひを残しお静かなり。 想思暹の葉のねむたげにうなだれ、 かすかなるうめきをやする。 ああ淋しみ、心をなす、怍民地の黄昏 怰子の䞊朚を瞫ひお、 灯火は玅き花ず芋たがう。 その時我が耳に蚪づれし悲歌の哀さよ。      ◉ 小暗き森の奥に、 時々もれくる鬱憂の月圱。 朚の葉は眠りより醒めお、 あやしき倜色に顫ぞ出す。 応ち響く恐ろしき獣の声 よろづのものは皆醒めはおぬ。 声かれお歯癜ろき、獣ず思ぞば、 吟はたゞ恐怖の為めに䌏しお圚るのみ      ◉ 癜き墓たちならぶ囜 たぞには荒磯の朮隒、    絶えず蚪づれ、 うしろには歓楜の歌きこえお、 たた墓石を濡す、 哭泣の哀れも湧く。 こゝにしお、悲しめる者盞集ひ、 匂ひよき酒を怰子の実に盛り、 互に口をすがめお飲む時の うれしさよ 死は遂に吟れを慰め、    人生の極みをのぞき芋る。      ◉ 小鳥は、秋の空にさ迷ふ、 吟れは、䞀぀の悲哀をずらぞ、 小さき胞に隈なく乱る。 迷ひ、悲しみ、䜕の益ある、 小鳥よ来れ手に手をずりお、 花咲き笑ふ南ぞさらむ。
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Xにはあたり意味が無い
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その内の䞀人が日、歳の誕生日を迎えたした
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圌が再びこの車のハンドルを握る
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 ――お金が汗をかいたわ」  河内屋の嚘の浊子はそういっお束厎の前に掌を開いお芋せた。ロヌマを取巻く䞘のように皋のよい高さで盛り䞊る肉付きのたん䞭に䞀円銀貚の片面が少し曇っお濡れおいた。  浊子はこどものずきにひどい脳膜炎を患ったため癜痎であった。十九にもなるのに六぀䞃぀の幎ごろの智恵しかなかった。しかし女の発達の力が頭ぞ向くのをやめお肉䜓䞀方にそそいだためか生れ぀きの矎人の玠質は息を吹き蟌んだように衚面に匵り切った。がたんの花にかんなの花の逞たしさを添えたような矎しさであった。河内屋の生人圢、ず近所のものが評刀した。  浊子は䞀人嚘であった。それやこれやで芪たちは䞍憫を添えお可愛ゆがった。癜痎嚘を持぀芪の意地から婿は是非ずも秀才をず十二分の条件を甚意しお八方を探した。河内屋は東京近郊の町切っおの資産家だった。  䞉人ほど官立倧孊出の青幎が進んで婿の候補者に立った。しかし圌等が芋合いかたがた河内屋に滞圚しおいるうちに圌等はこずごずく匙を投げた。「玙」「玙」浊子は䟿所ぞ入っお戞を開けたたた未来の倫を呌んで萜し玙を持っお来させるような癜痎振りを平気でした。  束厎は婿の候補者ずいうわけではなかった。評刀を聞き぀けお面癜半分嚘芋物に来たのだった。束厎は鮎釣が奜きだったずころからそれをかこ぀けに同業の䌯父から玹介状を貰っお河内屋に泊り蟌んでいた。町のそばには鮎のいる瀬川が流れお季節の間は盞圓賑った。束厎は工科出の健康な青幎で秋口から東北の鉱山ぞ勀める就職口も定たっおいた。  もはや婿逊子の望みも絶った芪たちはせめお将来自分䞀人で甚を足せるようにず浊子に日垞のやさしい生掻事務をボツボツ教え蟌むこずに努力を向けかえおいた。  束厎の来るすこし前ごろから浊子は毎日母芪から金を枡されお䞀人で町ぞ買物に行く皜叀をさせられおいた。  庭には藀が咲き重っおいた。築山を繞っお芗かれる花畑にはゞキタリスの现い頞の花が倢の焔のように冷たくいく筋もゆらめいおいた。早出の蚊を食おうずぬるい氎にもんどり打぀池の真鯉――なやたしく藹たけき六月の倕だ。  束厎は小早く川から䞊っお瞁偎で道具の仕末をしおいた。釣っお来た若鮎の噎るような匂いが倕闇に泌みおいた。そこぞ浊子が  ――お金が汗をかいたわ」  ずいっお垰っお来た。  ――束厎さん。こんなお金でおしおせん買えお」  この疑いのために浊子はそのたた塩煎逅屋の前から匕返しお来たのだ。  束厎は県を䞞くしお浊子の顔を芋た。むっくり高い錻。はかったようにえくがを巊右ぞ圫り蟌んだ䞋膚れの頬。豊かに括った朱の唇。そしお蛟眉の䞋に黒い瞳がどこを芋るずもなく煙っおいる。矢がすりの銘仙に文金の高島田。そこに䞀点の矞恥の圱も無い。束厎は県を萜しお嚘の掌を芋た。叀兞的で若々しいロヌマの䞘のように盛䞊った浊子の掌の肉の䞭に䞞い銀貚の面はなかば曇りを吹き消し぀぀ある。  束厎は思わず嚘の手銖を握った。そしお嚘の顔をたた芋䞊げた。そのずき束厎の顔にはあきらかに䞀぀の感動の色が内から皮膚をかきむしっおいた。  ――こんなお金でおしおせん買えお」  束厎の顔は決心した。そしおほっず溜息を぀いお可愛らしい浊子の掌ぞキスを䞎えた。そしおいった。  ――買えたすよ。買えたすずも。どりゃ、そいじゃ僕も䞀しょに行っおあげたしょう。そしおこれからはあなたの買物に行くずきにはい぀でも䞀しょに行っおあげたすよ」  その秋に束厎は浊子を劻に貰っお東北の任地ぞ立っお行った。  これはあの倧柄で人の奜さそうな貚幣䞀円銀貚があった時分の話である。
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䌝説の時代 タマス、ブルフむンチ著 野䞊圌生子蚳 定䟡匐円 尚文堂発行  䞃癟頁に近い倧郚なもので、党郚四十䞀章に別れおゐお叀代垌臘矅銬の神話東方北方の䌝説が残らず集たっおゐる。  蚳しぶりが劂䜕にも自由で平易でち぀ずもギコチないずころがなくお読んで行くうちに、やさしいお母さんのお話でも聞いおゐるやうな気持になる暖か味を感ずる。掻き〳〵した自由な拘束のない叀代の神々や英雄ののんびりした、䜕凊ずなくせたらぬ、動䜜がは぀きり浮んで来る。そしおせゝこたしい自分達のいたの生掻ず遠くかけはなれた、それ等の物語りがよんで行くものゝ心持を、だん〳〵にその玔なずころに匕き蟌んで行く。  装幀も気のきいた、気もちのいゝものだ。䞭にはさんだ写真版にも、ロセツチのパンドヌラなどのいゝのがあるが、それよりも、章の初めにはさんだ挿画がこの物語りの本の挿画にする為めに集められたかのやうに、し぀くりず、あおはた぀おゐお、すこしもいやな感がしない。すこしも目障りにならない。兎に角党䜓ずしお、念の入぀た、ち぀ずもいゝかげんでなく䜕凊たでも泚意のずゞいおゐる点がうれしい。  それに、おしたひに神話の系譜や玢匕たでも䞁寧に぀けおあるのは、あくたでも行き届いた仕方だず感心した。この倧郚な面倒な仕事を家事の忙しいあひたで、立掟に完成せられた、蚳者の忍耐ず、努力には本圓に敬服の他はない。 『青鞜』第䞉巻第九号、䞀九䞀䞉幎九月号
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圌がXで日頃のストレスを解消する
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デザむナヌが印象のよいデザむンのホヌムペヌゞを制䜜したす
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「あなたのお宅の埡䞻人は、面癜い画をお描きになりたすね。嘞おうちのなかも、い぀もおにぎやかで面癜くいらっしゃいたしょう。」  この様なこずを私に向っお云う人が時々ありたす。  そんな時私は、 「ええ、いいえ、そうでもありたせんけど。」などず衚面、あいたいな返事をしお眮きたすが、心のなかでは、䜕だかその人が、倧倉芋圓違いなこずを云っお居る様な気がしたす。もちろん、私の家にも面癜い時も賑やかな折も随分あるにはありたす。  けれど、䞻人䞀平氏は家庭に斌お、平垞、倧方無口で、沈鬱な顔をしお居たす。この沈鬱は氏が生来持぀珟䞖に察する虚無思想からだ、ず氏はい぀も申したす。  以前、この氏の虚無思想は、氏の無頌な遊蕩的生掻ずなっお衚われ、それに䌎っお氏はかなり利己的でもありたした。  それゆえに氏は、芪同胞にも芋攟され、劻にも愛の叛逆を䌁おられ、随分、苊い蟛い目のかぎりを芋たした。  その頃の氏の愛読曞は、䞉銬や緑雚のものが䞻で、其他独歩ずか挱石氏ずかのものも読んで居た様です。  酒をのむにしおも、䞀升以䞊、煙草を喫えば、䞀日に刺戟の匷い巻煙草の箱を䞉぀四぀も明けるずいう颚で、凡お、培底的に嗜奜物などにも耜れお行くずいう方でした。  食味なども、䞋町匏の粋を奜むず同時に、たた無茶な悪食、間食家でもありたした。  仕事は、昌よりも倜に捗るらしく、培倜などは殆ど毎倜続いた䜍です。昌は倧方眠るか倖出しお居るかでした。  しかしそうした攟埒な、利己的な生掻のなかにも、氏には愛すべき善良さがあり、尊敬すべき或る品䜍が認められたした。  四五幎以来、氏はすっかり、宗教の信仰者になっおしたいたした。  始めは、熱心なキリスト教信者でした。しかし、氏はトルストむなどの感化から、教䌚や牧垫ずいうものに、接近はしたせんでした。氏は、䞀床信ずるや、自分の本業などは忘れお、只管深く、その方ぞ這入っお行きたした。氏の愛読曞は、聖曞ず、東西の聖者の著曞や、宗教的文孊曞ず倉りたした。同時にあれほどの倧酒も、喫煙もすっかりやめお、氏の遊蕩無頌な生掻は、日倜祈祷の生掻ず激倉しおしたいたした。  その頃の氏の態床は、䞁床生れお始めお、自分の人生の䞊に、䞀倧宝玉でも芋付け出した様な無䞊の歓喜に熱狂しお居たした。キリストの名を芪しい友か兄の様に呌び、な぀かしんで居たした。或時長い間埀来の杜絶えお居た䞡芪の家に行き、突然跪いお、倧真面目に䞡芪の前で祈祷したりしお、䞡芪を华っお驚かしたこずもありたした。たた誰かに貰っお来たロヌマ旧教の僧の銖に掛け叀された様な連珠に十字架䞊のクリストの像の小さなブロンズの懞ったのを肌ぞ着けたりしお居たした。  氏の無邪気な利己䞻矩が、痛たしい皋愛他的傟向になり初めたした。  やがお、氏は倧乗仏教をも、味芚したした、茲にもたた、氏の歓喜的飛躍の著るしさを芋たした。その埌ずお、決しおキリスト教から遠かろうずはしたせんけれど、氏の元来が、キリスト教より、仏教の道を蟿るに適しお居ないかず思われる皋、近頃の氏の仏教修業が、いかにも氏に盞応しく芋受けられたす。  氏は毎朝、六時に起きお、家族ず共に朝飯前に、静座しお聖曞ず仏兞の研究を亀る亀るいたしお居りたす。  氏は、キリスト教も仏教も、極床の真理は同じだずの䞻匵を持っお居りたす。随っお二重に仕えるずいう芳念もないのでありたす。ただ、目䞋は、キリスト教に察しおは、その教理をやや研究的に、仏教には殆ど陶酔的状態に芋うけられたす。  珟圚に察する虚無の思想は、今尚氏を去りたせん。然し、氏は信仰を埗お「氞遠の生呜」に察する垌望を持぀様になりたした。氏の衚面は䞀局沈朜したしたが、底に光明を宿しお居る為か、氏の顔には幎ず共に枩和な、平静な盞が拡がる様に芋うけられたす。暎食の癖なども殆ど倱せたせいか、健康もずっず増し、二十貫目近い䜓に米琉の昌䞹前を無造䜜に着お、日向の怜などに小さい県をおずなしくしばたたいお居る所などの氏は䞁床象かなどの様に芋えたす。この容態で氏は、家庭に斌お家人の些末な感情などから超然ずしお、自分の宀にたおこもり勝ちでありたす。その宀は、毎朝氏の掃陀にはなりたすが、曞籍や、䜜りかけの仕事などが、雑然混然ずしお居お䞀寞足の螏み所も無い様です。䞀隅には、座蒲団を䜕枚も折りかさねた偎に銙立おを据えた座犅堎がありたす。壁間には、鳥矜僧正の挫画を仕立おた長い和装の額が五枚皋かけ連ねおありたす。氏は近頃挫画ずしお鳥矜僧正の画をひどく愛奜しお居る様です。  画などに察しおも、氏は画面そのものを愛するず同時に、その画家の䌝蚘を知るずいうこずを非垞に急ぎたす。近頃の氏の傟向ずしおは、西掋の宗教画家や東掋の高僧の遺墚などを圓然愛奜したす。それも明るい貎族的なラファ゚ルよりも、玠朎な単玔なミレヌを奜み、理智的に円満なダビンチよりも、悲哀ず砎綻に終ったアンれロを愛するずいう具合です。  近代の人ではアンリヌ・ルッ゜ヌの画を座右にしお居たす。元来氏は、他に察しお非垞な寛容を持っお居る方です。それは、時に他をいい気にならしめる傟向にさえなるのではないかずあやぶたれたす。  たずえば、 「あなたが先日あの方にあげた品ですね、あれをあの方は、こんな粗末なものを貰ったっお䜕にもなりゃしないっお蔭口云っおたしたよ。」などず告げる第䞉者があるずしたす。  この堎合氏は、 「折角やったのに倱瀌な。」 などずは云わずに、 「そうかい。いや、今床はひず぀、あい぀の気に入る様なのをやるこずにしようよ。」ず云った調子です。  たた、他人が氏を䟮蔑した折など、傍から、 「あなたはあんなに䟮蔑されおも分らないのですか。」など歯がゆがっおも、 「分っお居るさ、だけど向うがいくらこっちを䟮蔑したっお、こっちの颚袋は枛りも殖えもしやしないからな。」ず、平気に芋えたす。  たた、男女間の劬情に氏は殆ど癜痎かず思われる䜍です。が氏ずお決しお其を党然感じないのではない盞ですが、それに就いお懞呜になる先に氏は察者に蚱容を持ち埗るずのこずです。䞀面から云えば氏はあたり女性に哀惜を感ぜず、男女間の痎情をひどく面倒がるこずに斌お、たったく珍らしい皋の性栌だず云えたしょう。それ故か、少青幎期間に斌ける氏は、かなりな矎貌の持䞻であったにかかわらず、単に肉欲の察象以䞊あたり女性ずの深い恋愛関係などは持たなかった盞です。熱烈な恋愛から成った様に噂される氏の結婚の内容なども、実は、氏の劻が女性ずしおよりは、寧ろ「人」ずしお氏のその時代の芳賞にかない、たた圌女ずの或䞍思議な因瞁あっお偶然成ったに過ぎないず思われたす。 「女の宜い凊を味わうには、それ以䞊の厭な凊を倚く嘗めなければならない。」ずは、女の䟡倀をあたりみずめない氏の持説です。  氏は近来女の䞭でも殊に日本の芞者及びそうした趣味の女を嫌う様です。  音楜なども長唄をのぞいおは、むしろ日本のものより傑れた西掋音楜を奜みたす。  垭亭ぞも以前は小さんなど奜きでよく行きたしたが、近頃は少しも参りたせん。芝居は仕事の関係䞊、月に二぀䞉぀はかかしたせんが、男優では、仁巊衛門ず鎈次郎が奜きな様です。  氏は家庭にあっお、私憀を露骚に掩らしたり、私情の為に怒っお家族に圓ったりしたせん。その点から芋お、氏は自分を支配するこずの出来る理性家であるのでしょうか。たたたた家族の者に諫蚀でも加えるには、曟お倏目挱石氏の評された、氏の挫画の特色ずする「苊々しくない皮肉」の味いを以っお埐ろに迫りたす。それがたたなたじな小蚀などよりどれほどか深く察者の匱点を突くのです。たた氏の家庭が氏の芪しい知己か友人の来蚪に遇う時です、氏が氏の挫画䞀流の諷刺滑皜を続出颚発させるのは。そんな折の氏の家庭こそ平垞ずは打っお倉っお実に陜気で愉快です。その間などにあっお、氏に䞀味の「劂才なさ」が添いたす。これは、決しお、虚食や、阿諛からではなくお、劂䜕なる堎合にも他人に䞀瞷の逃げ路を䞎えお寛ろがせるだけの䜙裕を、氏の善良性が氏から分泌させる自然の滋味に倖ならないのです。  氏は、金銭にもどちらかず云えば淡癜な方でしょう。少したずたったお金の這入った折など䞀時に倧金持になった様に喜びたすけど、盎きにたた、そんなものの存圚も忘れ、時ずするず、自分の新聞瀟から受ける月絊の高さえ忘れお居るずいう颚です。近頃、口腹が寡欲になった為、以前の様に濫費したせん。  氏は、取り枈した花蝶などより、劙に鈍重な奇圢な、昆虫などに興味を持ちたす。たずえば、庭の隅から、ちょろちょろず走り出お人も居ないのに劙に、ひがんで、はにかんで、あわおお匕き返す、トカゲずか、重い䞍恰奜な胎䜓を据えお、たじたじずしお居る、ひきがえるずか。  人にしおも、蟞什に巧な智識階玚の狡猟さはずりたせんが、小䟛や、無智な者などに露骚なワむルドな匷欲や姊蚈を芋出す時、それこそ氏の、挫画的興味は掻躍する様に芋えたす。氏の息のたれに芋るいたずらっ子が、悪たれたり、あばれたりすればする皋、氏は愛情の䞉昧に這入りたす。  氏はなかなか画の䟝頌䞻に䞖話をやかせたす。仕事の仕䞊げは、催促の頻繁な方ほど早く間に合わせる様です。催促の頻繁な方皋、自分の画を匷芁される方であり、自分に因瞁深い方であるず思い極めお、䟝頌の順序などはあたり頭に這入らぬらしいのです。  終りに氏の近来の逞話を䌝えたす。  氏の家ぞ半月皋前の倕刻玄関皌ぎの盗人が入りたした。ふず気が付いた家人は䞀勢に隒ぎ立おたしたが、氏は逃げ行く盗人の埌姿を芋る䜍にし乍ら突立ったたた䞀歩も远おうずはしたせんでした。家人が詰問したすず、  氏は「だっお、あれだけの冒険をしおやっず這入ったんだぜ、盗人は䞉重の扉を手際よく明けお入りたしたあれ䜍いの仕事じゃ盗人は䜜りたおの倖套に垜子をずりたした。ただ手間に合うたいよ。逃がせ逃がせだ。」ずいう調子です。氏のこの蚀葉は氏のその時の心理の䞀郚を語るものでしょうが、䞀䜓は氏は怖くお賊が远えなかったのです。氏は郜䌚っ子的な䞊皮の匷がりは倧分ありたすがなかなか憶病でも気匱でもありたす。氏が坐犅の公案が通らなくお垫に匷く蚀われお家ぞ垰っお来た時の顔など、いたにも泣き出し盞な小児の様に悄気返ったものです。以䞊䞍備乍ら課せられた玙数を挞く埋めたした。
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Complex
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 私の短歌  私の歌はい぀も論説の二䞉句を䞊べた様にゎツゎツしたもの蚱りである。叙景的なものは至っお少ない。䞀䜓どうした蚳だろう。  公平無私ずかありのたゝにずかを垞に䞻匵する自分だのに、歌に珟われた所は党くアむヌの宣䌝ず匁明ずに他ならない。それには幟倚の情実もあるが、結局珟代瀟䌚の欠陥が然らしめるのだ。そしお䜏み心地よい北海道、争闘のない䞖界たらしめたい念願が连り出るからである。殊曎に䜜る心算で個性を無芖した虚停なものは歌いたくないのだ。 はしたないアむヌだけれど日の本に 生れ合せた幞犏を知る 滅び行くアむヌの為に起぀アむヌ 違星北斗の瞳茝く 我はたゞアむヌであるず自芚しお 正しき道を螏めばよいのだ 新聞でアむヌの蚘事を読む毎に 切に苊しき我が思かな 今時のアむヌは玔でなくなった 憧憬のコタンに悔ゆる歀の頃 アむヌずしお生きお死にたい願もお アむヌ絵を描く淋しい心 倩地に䌞びよ 栄えよ 誠もお アむヌの為めに気を挙げんかな 深々ず曎け行く倜半は我はしも りタリヌ思いお泣いおありけり         りタリヌは同胞 ほろ〳〵ず鳎く虫の音はりタリヌを 思いお泣ける我にしあらぬか ガッチャキの薬を売ったその金で 十䞀州を芖察する俺         ガッチャキは痔 昌飯も食わずに倜も尚歩く 売れない薬で旅する蟛さ 䞖の䞭に薬は倚くあるものを などガッチャキの薬売るらん ガッチャキの薬を぀ける術なりず 北斗の指は右に巊に 売る俺も買う人も亊ガッチャキの 薬の色の赀き顔かな 売薬の行商人に化けお居る 俺の人盞぀く『〵ず芋る 「ガッチャキの薬劂䜕」ず人の居ない 峠で倧きな声出しお芋る ガッチャキの薬屋さんのホダホダだ 吠えお呉れるな黒はよい犬 「ガッチャキの薬劂䜕」ず門に立おば せゝら笑っお断られたり 田舎者の奜奇心に売っお行く 呌吞もやっず慣れた歀の頃 よく云えば䞖枡り䞊手になっお来た 悪くは云えぬ俺の悲しさ 歀の次は暺倪芖察に行くんだよ そう思っおは海を芋わたす 䞖の䞭にガッチャキ病はあるものを などガッチャキの薬売れない 空腹を抱えお雪の峠越す 違星北斗を哀れず思う 「今頃は北斗は䜕凊に居るだろう」 噂しお居る人もあろうに 灰色の空にかくれた北斗星 北は䜕れず人は迷わん 行商がやたらにいやな今日の俺 金がない事が気にはなっおも 無自芚ず祖先眵ったそのこずを 枈たなかったず今にしお思う 仕方なくあきらめるんだず云う心 哀れアむヌを亡がした心 「匷いもの」それはアむヌの名であった 昔に恥じよ 芚めよ りタリヌ 勇敢を奜み悲哀を愛しおた アむヌよアむヌ今䜕凊に居る アむヌ盞手に金儲けする店だけが 倧きくなっおコタンさびれた 握り飯腰にぶらさげ出る朝の コタンの空に鳎く鳶の声 岞は埋め川には橋がかかるずも アむヌの家の朜ちるがいたたし あゝアむヌはやっぱり恥しい民族だ 酒にう぀぀をぬかす其の態 泥酔のアむヌを芋れば我ながら 矩憀も消えお憎しみの湧く 背広服生れお始めお着お芋たり カラヌずやらは窮屈に芚ゆ ネクタむを結ぶず芗くその顔を 鏡はやはりアむヌず云えり 我ながら山男なる面を撫で 鏡を䌏せお苊笑するなり 掋服の姿になるも悲しけれ あの䞖の母に芋せられもせで 獰猛な面魂をよそにしお 匱い淋しいアむヌの心 力ある兄の蚀葉に励たされ 涙に脆い父ず別るる コタンからコタンを巡るも楜しけれ 絵の旅 詩の旅 䌝説の旅 暊無くずも鰊来るのを春ずした コタンの昔慕わしきかな 久々で熊がずれたが其の肉を 䜕幎ぶりで食うたうたさよ 雚降りお静かな沢を炭竈の 癜い烟が立ちのがる芋ゆ 戞むしろに玅葉散り来る颚ありお 小屋いっぱいに烟たわれり 幜谷に颚嘯いお黄玅葉が 苔螏んで行く我に降り来る ひら〳〵ず散った䞀葉に冷めたい 秋が生きおたコタンの倕 桂朚の葉のない梢倩を衝き 日高の山に冬は迫れる 楜んで家に垰れば淋しさが 挲っお居る貧乏な為だ めっきりず寒くなっおもシャツはない 薄着の俺は又も颚邪ひく 炭もなく石油さえなく米もなく なっお了ったが仕事ずおない 食う物も金もないのにくよ〳〵するな 俺の心はのん気なものだ 鰊堎の雇になれば癟円だ 金が欲しさに心も動く 感情ず理性ずい぀も喧嘩しお 可笑しい様な俺の心だ 俺でなけや金にもならず名誉にも ならぬ仕事を誰がやろうか 「アむヌ研究したら金になるか」ず聞く人に 「金になるよ」ずよく云っおやった 金儲けでなくおは䜕もしないものず きめおる人は俺を咎める よっぜどの銬鹿でもなけりゃ歌なんか 詠たない様な心持䞍図する 䜕事か倧きな仕事ありゃいゝな 淋しい事を忘れる様な 金ためたたゞそれだけの人間を 感心しおるコタンの人々 銬鹿話の䞭にもい぀か思うこず ちょい〳〵出しお口噀ぐかな 情ない事のみ倚い人の䞖よ 泣いおよいのか笑っおよいのか 砂糖湯を呑んで䞍図思う東京の 矎奜野のあの汁粉ず粟逅 甘党の私は今はたたに食う お菓子に぀けお思う東京 支那蕎麊の立食をした東京の 去幎の今頃楜しかったね 䞊京しようず䞀生懞呜コクワ取る 売ったお金がどうも溜らぬ 生産的仕事が俺にあっお欲しい 埒食するのは恥しいから 葉曞さえ買う金なく本意ならず 埡無沙汰をする俺の貧しさ 無くなったむンクの瓶に氎入れお 䜿っお居るよ少し淡いが 倧持を告げようずゎメはやっお来た 人の心もやっず萜ち着く         ゎメは鎎 亊今幎䞍持だったら倧ぞんだ 䜙垂のアむヌ居られなくなる 今幎こそ乗るかそるかの瀬戞際だ 鰊の持を埅ち構えおる 或る時はガッチャキ薬の行商人 今鰊堎の持倫で働く 今幎こそ鰊の持もあれかしず 芋枡す沖に癜鎎飛ぶ 東京の話で今日も暮れにけり 春浅くしお鰊埅぀間を 求めたる環境に掻きお淋しさも そのたゝ楜し涙も嬉し 人間の仲間をやめおあの様に ゎメず䞀緒に飛んで行きたや ゎメゎメず声高らかに歌う子も 歌わるるゎメも共に可愛や カッコりず鳎く真䌌すればカッコり鳥 カアカアコりずどた぀いお鳎く 迷児をカッコりカッコりず呌びながら メノコの䞀念鳥になったず         メノコは女子 「芪おもう心にたさる芪心」ず カッコり聞いお母は云っおた バッケむやアカンベの花咲きたした シリバの山の雪は解けたす 赀いものの魁だ ずばっかりに アカンベの花真赀に咲いた 名の知れぬ花も咲いおた月芋草も 雚の真昌に咲いおたコタン 賑かさに飢えお居た様な歀の町は 旅芞人の䞉味に浮き立぀ 酒故か無智な為かは知らねども 芋せ物ずしお出されるアむヌ 癜老のアむヌはたたも芋せ物に 博芧䌚ぞ行った 咄 咄‌ 癜老は土人孊校が名物で アむヌの蚘事の皮の出どころ 芞術の誇りも持たず宗教の 厳粛もないアむヌの芋せ物 芋せ物に出る様なアむヌ圌等こそ 亡びるものの名によりお死ね 聎けりタリヌ アむヌの䞭からアむヌをば 毒する者が出おもよいのか 山䞭のどんな淋しいコタンにも 酒の空瓶たんず芋出した 淪萜の姿に今は泣いお居る アむヌ乞食にからかう子䟛 子䟛等にからかわれおは泣いお居る アむヌ乞食に顔をそむける アむヌから偉人の出ない事よりも 䞀人の乞食出したが恥だ アむヌには乞食ないのが特城だ それを出す様な䞖にはなったか 滅亡に瀕するアむヌ民族に せめおは生きよ俺の歀の歌 りタリヌは䜕故滅び行く空想の 倢より芚めお泣いた䞀宵 単玔な民族性を深刻に マキリもお圫るアむヌの现工 アむヌには熊ず角力を取る様な 者もあるだろ数の䞭には 悪蟣で栄えるよりは正盎で 亡びるアむヌ勝利者なるか 俺の前でアむヌの悪口蚀いかねお どぎたぎしおる態の可笑しさ うっかりずアむヌ嘲り俺の前 きたり悪気に蚀い盎しする アむヌず云う新しくよい抂念を 内地の人に䞎えたく思う 誰䞀人知っお呉れぬず思ったに 慰めくれる友の嬉しさ 倜もすがら久しかぶりに語らいお 友の思想の進みしを芋る 淋しさを慰め合っお湯の䞭に 浞れる友の赀い顔芋る カムチャッカの話しながら林檎䞀぀を 二぀に割りお仲よく食うた 母ず子ず蚀い争うお居る友は 病む事久し荒んだ心 それにたた遣瀬なかろう淋しかろう 可哀そうだよ肺を病む友 おずなしい惣次郎君銅鑌声で 「カムチャッカでなあ」ず語り続ける 久々に荒い仕事をする俺の おのひら䞀ぱい痛いため出た 働いお空腹に食う飯の味 ほんずにうたい䞉平汁吞う 骚折れる仕事も慣れお䞀升飯 けろりず食べる俺にたたげた 䞀升飯食える男になったよず 持堎の䟿り友に知らせる 歀の頃の私の元気芋おお呉れ 手銖぀かめば少し肥えたよ 仕事から仕事远い行く北海の 荒くれ男俺もその䞀人 雪よ飛べ颚よ刺せ䜕 北海の 男児の胆を錬るは歀の時 ホロベツの浜のハマナシ咲き匂い むサンの山の遠くかすめる 沙流川は昚日の雚で氎濁り コタンの昔囁き぀行く 平取はアむヌの旧郜懐しみ 矩経神瀟で尺八を吹く 尺八で远分節を吹き流し 平取橋の長きを枡る 厩埡の報二日も経っおやっず聞く 歀の山䞭のコタンの驚き 諒闇の正月なれば喪旗を吹く 颚も力のなき劂く芋ゆ 勅題も今は悲しき極みなれ 昭和二幎の淋しき正月 秋の倜の雚もる音に目をさたし 寝床片寄せ暜を眮きけり 貧乏を芝居の様に思ったり 病気を歌に詠んで忘れる 䞀雚は淋しさを呌び䞀雚は 寒さ招くか蝊倷の九月は 尺八を吹けばコタンの子䟛達 珍しそうに聞いお居るなり 病よし悲しみ苊しみそれもよし いっそ死んだがよしずも思う 若しも今病気で死んで了ったら 私はいゝが父に気の毒 恩垫から慰められお涙ぐみ そのたゝ拝む今日のお䟿り  俳句 浮氷鎎が乗っお流れけり 春めいお䜕やら嬉し山の里 倧持の旗そのたゝに春の倜 春浅き鰊の浊や雪五尺 鰊舟の囲ほぐしや春浅し 尺八で远分吹くや倏の月 倏の月野颚呂の䞭で砕けけり 蛙鳎くコタンは暮れお雚しきり 䌝説の沌に淋しき蛙かな 偉いなず子䟛歌うや倏の月 新聞の広告も読む倜長かな 倜長さや二䌞も曞いお又䞀句 倖囜に雁芋お思う故郷かな 雁萜ちおあそこの森は暮れにけり 十䞀州はや蚪れぬ初あられ たず今日の日蚘に曞かん初霰 雪陀けや倖で受け取る新聞玙 流れ氎流れながらに凍りけり 塞翁の銬で今幎も暮れにけり 雪空に星䞀぀あり枯朚立 枯葉みな地に抱れんずお地ぞ還る 〔昭和二十九幎版遺皿集より〕
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そんな蚳にいかなかった
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 珟代の女性の感芚は色調ずか圢匏矎ずか音ずかに就いお著るしく発達しお来た。党ゆる新流行に察しお、その深い原理性を䞹念に研究しなくずも盎截に感芚からしお其の適応性優秀性を意識出来る敏感さを目立っお発達させお来た。これは新発明ずか、創造ずかには或いは適さぬ性質かも知れない。䜕故ず蚀えば、䜙り深く䞀凊、䞀物に執着しお研鑜を積むずいう性質ではないからである。しかし、流行の吞収に最も適した性質であり、巧に暡倣を容易ならしめる特質である。  斯くしお珟代の䞀般女性たちは、内倖特殊の研究家の創造発衚するものを容易に採り䞊げお自由に利甚するであろう。それだけでも昔の日本女性より、ずっず進歩しおいるず蚀える。物の刀断に斌おも感芚を広く鋭くする事によっお充分に正確に凊断する事が出来るものであり、たた実際珟代の女性たちは意識無意識に拘らず、圌女等の感芚によっお倧過なく日垞を凊眮しおいるようである。  埓っお圌女等をしおその特長の新感芚に広く磚きをかけさせたく思う。色調、圢匏矎、音等に察する感芚ばかりでなく察人的、殊に異性に察する感芚をもっず掗緎させ床い。  この点、ただ珟代の女性はむヌゞヌでセンチで安䟡な劥協をしお了うのが倚い。異性に察し、もっず高貎で確な朔癖を持っお貰い床い。朔癖のない女ほど䞋等で堕萜し易いものはない。朔癖を持぀事は時に孀独な淋しさが身を噛む事もあるが、恆に、もののむヌゞヌな郚分にたみれないではっきりずしお客芳的にものを芳察出来お、結局ロング・ランには正圓に自己を凊理させるに違いない。私は珟代女性の凊䞖法を、感芚の掗緎から講じようずする態床が最も珟代的だず信じおいる。
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 私が陶噚を自分で䜜る気になり、窯を自分の家に築き始めたのは昭和二幎四月であり、窯が出来お第䞀回の補䜜を了り、初窯を詊みたのはその幎の十月の䞃日であるから、ただ至぀お日の浅いこずである。自分の家に窯を持たなか぀た以前は、京郜で宮氞東山氏の窯堎、加賀では山代の須田菁華氏の窯堎を䞻ずし、時には山䞭の氞寿窯、倧聖寺の秋塘窯、尟匵赀接の䜜助氏の窯などに斌お、自分奜みの生地を぀くらせ、それに自分で䞊絵を描き、䞻ずしお食噚類をこしらぞ詊みおゐたのである。  凊が他人の䜜぀お呉れたのに自分が暡様を描くずいふのでは、個々の盞違からず、鑑賞力の盞違からずで、ずおもし぀くりず行かない。そこで、これは自分で䜕から䜕たで䞀通りやらねば本栌でないずいふ事がわかり、意を決しお遂に鎌倉の山厎にささやかな窯堎を蚭けるに至぀た。さお窯堎を蚭け、助手を䜿぀お研究にかか぀お芋るずいよいよ面癜くな぀お来たず、手を打たずには居られないこずにな぀お来た。䜵しその半面に斌おは、それは又益々むづかしい事にな぀お来たのだず嘆息せざるを埗なか぀た。  䞀䜓私の補䜜䞊の狙ひずいふものは、すべおこれを和挢の叀陶磁噚の優秀䜜品の䞊に眮いお居た。明代の染付や赀絵は蚀ふに及ばず、朝鮮物、日本物、その䜕れであ぀おも、芁するに埳川䞭期以䞊鎌倉時代ぐらゐたでの物を自分の奜み埗られる察象ずした。しかし自分は擬叀的にその皮盞の远求を䌁おようずしたのではない。即ちどこ迄も内容的に、その本質ず粟神ずを狙ひたいず思぀たのであ぀た。  凊が其埌の経隓により、今日の窯の造りず、そしお其の材料ずでは、到底昔の䜜品の持぀うたい味はひずいふものを珟出する蚳には行かないこずが確実にな぀た。かくお自分は、ある堎合には実際途方に暮れた。が又その䞀方には案倖に面癜い事もあ぀お、今日ではこの陶噚補䜜は愈々生涯止められぬ宿瞁だずいふ芚悟をしおした぀おゐるのである。  かうした間に自分は朝鮮の叀窯の芖察を思ひ立ち、京城以東、釜山以西を歩き廻぀た。鶏竜山その他数十ヶ所に斌お原料土や釉薬の採取も行぀た。或は尟匵の瀬戞䞉十六窯ず称される叀代の窯跡の最初の探査発掘をしおも歩いた。信楜に陶土の採取をや぀たのも䜕回かであ぀た。近くは矎濃の久々利村の山䞭に志野焌の砎片を芋付出し、それを䟿りにその窯跡の探査を進め、遂に四五ヶ所の志野叀窯を発芋し、曎に初期叀織郚の釉跡の発芋にたで進んで、所謂叀瀬戞の隠れおゐた皮々盞を発芋した。又九州の唐接附近に斌おは、叀唐接、岞岳及原料土を採取した等、これらの総おは自分のこの道に察する勉匷心ず興味ずを極床に誘぀お呉れた。尚歀他に埮力ながら参考品ずしおの叀陶磁の蒐集にも幟分其の歩を進めた。  斯様な蚳で、ここ数幎間窯堎に居る限りは土をいぢり、蜆蜀を廻し、筆を舐め、窯の火を焚くなど、自分の心持䞀杯の皋床に、補䜜䞊の努力を為し続けた。  そこで私ははなはだ僭越ではあるが、自䜜品の䞭から癟点だけをここに写し出しおその䞀぀䞀぀に補䜜の意図、材料ず技法ずの関係、焌䞊がり埌の感想等を䜵蚘し、曎に叀人のいはゆる秘法ずか秘䌝ずかに就いおも、私の経隓した範囲に斌お出来るだけそれを打開け、是によ぀お陶磁に関する補䜜䞊の知識や、鑑賞䞊の趣味性胜やを、も぀ずも぀ず真剣に深めお行きたいず思ふのである。昭和䞃幎 原文のたた
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攟射線火傷で右手をうしな぀た朚挜きの劻に  あなたはその埌どうしおいたすか。あなたず私は、あの高原の山里で、いわば行きずりの旅の者同志にすぎなか぀た筈ですのに、あれから四幎經぀いたも、私は折りにふれおはあなたのこずをたびたび思いだしおいたす。  あの女のひずはどうしおいるだろうず、名前も知らないあなたのこずを思い出すたびに、私の県の前に浮圫にな぀おは぀きり珟れる、䞀本の女の右腕があるのです。それはあなたの腕です。  あなたを想い浮べるずいうよりも、私はあなたの魔術のようなふしぎな腕のこずを思぀おいるのかも知れたせん。あなたの腕のためにあなたを想い出す。このようなこずは互いの䞍幞ですけれど、これに䌌たたくさんの錯芺が私のうちにうずたいおるようにおもわれたす。ゆるしおください。  䞀぀䞀぀の珟象の苊しい思い出が八方から寄぀おきお集䞭され、原子爆圈ずいう䞀぀のものに結び぀く結果にな぀おしたうのです。  八月六日から䞉日間、死の垂の河原で野宿しおから、死體ず、ただ燃えおいる焔のなかをぬけお、私はあなたず會぀た村に逃げのびたした。  冬のきびしい山䞊のあの村はなんお空氣の柄みき぀たずころだ぀たでしよう。よく磚いた぀めたい硝子のような空氣でした。あなたず私は癜い道端の小川のほずりにしやがんで話をしたした。小川の流れは氎晶みたいでしたし、パずいう小魚がちらちらず流れを行぀たり䟆たりしおいたした。鮮麗な色の鬌あざみが小川のふちに涯もなく咲いおいたした。そんなに枅柄な颚景のなかで、私たちはどんなに䞍仕合せな話をしなければならなか぀たでしようか。  あなたは簡單服から出おいる右手を、巊手でなでながら私に芋せたした。腕党體、ほずんど肩の近くから指さきたで、火傷のひき぀れでぎかぎか光぀おいたした。うす桃色ず茶耐色の匕き釣れが、よじけお曲りくねり、蟹の脚のように腕の党郚を這぀おいたのです。  そのうえあなたの腕は内偎に向぀おひどく曲り蟌んでいたした。原子爆圈ずいう未知の物質が、どんな颚に、どれだけ人間のからだを壞すものか、たたその負傷者たちにどんな治療をしおよいのか、醫者の連䞭にもた぀たくわからなか぀たので、あわおた醫者があなたの腕を前にたげお、肩ぞ釣らせたのでした。  あなたの右腕は曲぀たたた、䞀應火傷はなお぀たのですけれど、あなたには二人の子䟛があり、姙嚠しおいたした。 「この腕はどうしおも、のび瞮みができるようにしおもらわなくおは、子䟛を育おなくちやなりたせんから」  あなたは垌望をも぀おいるように、あかるい県をしおいたした。 「敎圢倖科ぞいら぀しやるのはも぀ず先きになるんですか」 「䜕床も行぀おおねがいしたんですけど、私の順番は半幎ものちなんですのよ。それだけたくさんいたす」  廣島の赀十字病院にどれだけ倧勢の重傷者が收容されおいるかが、あなたの蚀葉でもほうふ぀ずしたした。ある日、十萬の人が即死し、あずの党郚の垂の圚䜏者が倚かれ尠かれ負傷したのですから、赀十字病院の宀ずいう宀、廊䞋から廊䞋に負傷者たちが暪たわ぀お、惡臭が充滿しおいるこずは想像できたした。  ず぀ずのちに私が山から廣島にでお、赀十字病院ぞ行぀たずき、あの立掟な、倧きな病院の建物が、倖偎だけ殘し、なかは骞骚にな぀おいるのを知りたした。あれだけたくさんあ぀た病宀もどこがどこだかわからなくなり、扉も窓の硝子も吹きずんだず芋え、あちこちにけずりもしない薄い朚の板で壁をはり、がろの幕が䞋぀おいたのです。  たるで昔の田舍の芝居小屋のような病宀に、あなたの腕ずそ぀くりな火傷のあずを顏い぀ぱいにただよわせた人たちが、あそこにもここにもずいうほどいたした。  なんずいう怖ろしいお化けのような顏だ぀たこずでしよう。傷痕はあの日のように血たみれでもなく、也いおいるけれど、もし分泌物や血でぬれおいたら、私が子䟛のじぶんによく芋かけたラむの患者にそ぀くりだず思い、県をそむけないではいられたせんでした。  日赀でも他の倚くの堎所でそうであ぀たように、知りあいの醫者や看護婊、患者など私は廣島に原子爆圈が投䞋される日の十日前たであそこの倖科に入院しおいたしたふたたび會うこずのできなくな぀た人々の名をどれだけたくさんきいたこずでしようか。  ――あなたは腕をのばす日を埅ち䜗びおいた颚でした。小川の向うの山の端に、軒の傟いたみすがらしい蟲家がありたした。四疊半くらいの二階もこわれかけおいたしたが、あなたはそこに倫婊ず子䟛の四人づれで蟛がう匷く䜏んでいたした。あなたの良人は埩員しおから村の山で朚挜をしおいたした。  ある日、あなたのその働き手の良人は、山で朚材をひいおいお、自分の手の指を四本も切り萜しおした぀たのです。村人が廣島の病院ぞか぀いで行きたした。あなたは看護づかれのした蒌い顏で村にもど぀おきたずき、道で會぀た私に話したした。 「や぀ず私の順番がきお、通知が䟆たしたから。しばらく病院ぞ行぀お䟆たす」  あなたは以前にも぀おいたかすかな垌望を県ざしから消し、暗い顏぀きをしおいたした。たぶんお金がす぀かりなくな぀おいたのでしよう。そういうさびしそうな衚情をしおいたした。東北の生れで䞉十䞀歳ずいうあなたを、私は哀れでなりたせんでした。  䞀九四五幎の八月六日、あなたは廣島に䜏んでいお、あの暑い朝の八時十五分には西倩滿町を自分の家に向぀お歩いおいお、あの青い閃光を济びたのでした。光぀た瞬間足䞋の草を芋たら、火が぀いおがうがう燃えおいたずあなたは話しおいたした。家にかえ぀お二階にあがるず、火の氣もない二階の障子ず襖が、䞋からちろちろ燃えおいたずも話しおいたした。  あの調子で党垂が燒け亡び、倖にいた人々の皮膚を燒いたのです。  あなたは負傷埌、䞀幎半もしおからや぀ず入院するこずができ、自分のももの肉をず぀お、切り攟぀た腕の關せ぀の内偎ぞ移怍し、ようやくにしお腕をのばすこずのできる敎圢手術をうけたのでした。そのずきどんなにあなたはうれしか぀たこずでしようか。  幎を越した翌幎の初めあなたは病院から山里ぞかえ぀お䟆たした。暫く經぀おぶじに赀ちやんを生みたした。でもあなたの右腕はふしぎな䜜甚を起しはじめたした。寒い冬のあさ、小川でおしめを掗぀おいるあなたの腕の、ももの肉を怍えた個所がちぢれおくるずいうこずをきいたずき、私は息が詰たるような思いがしたした。あたたかい手でなでおいるずた぀すぐにのび、冷えるず空氣のぬけおゆく颚船のようにしがんでしたうずいうあなたの腕の人間的な悲劇。生きなくおはならない䞀人の女の右手が、氞久にうしなわれお行くのでしたら、戰爭そのものぞの抗議ず憎惡が日本䞭の女の胞に燃え立぀筈です。  戰爭の眞の恐怖は、戰爭䞭より戰埌にくるずいうこずを、こんにちの泥沌のなかで、私たちは深く知぀おいたす。あなたも明るい方向にむか぀お力づよく生きお行぀おください。 河原にう぀䌏せお死んでいた幌女に  小さいひずよ、あなたあの朝どこからあの河原たであるいおきたのかしら。私が芋たずき、あなたはあの炎倩の䞊の熱い砂のうえに、う぀䌏にな぀お死んでいたした。顏を少し暪向けに、晝寢しおいる姿で、兩手を投げだしおいたした。黒いおか぀ぱの髮にすでに女の匂いをかんじさせ、赀い錻緒の䞋駄の小ささであなたの幎を五぀か五぀かずおもわせたした。  私はいたもこれを曞いおいお、玙のうえに涙がおちそうにな぀おいたす。思い出のあなたの姿も、可憐すぎ、いたたしぎお哀しくおならないのに、あの日、あの突劂ずしお起぀た倧きな出䟆ごずの犧牲に、あなたのような小さい女の子䟛たで卷き蟌たれ、死ななくおはならなか぀たのか、その思いにかられおたたらなくなりたす。  私の芋たあなたの幎の幌女の死體は、廣い河原であなたがひずりでしたけれど、私の芋なか぀た廣島党垂のあらゆる町々で、どれだけあなたずおなじ幎ごろの男や女の子が死んだこずでしよう。私の心の傷跡にじたじたず血がにじんできたす。戰爭ぞの怒り、あなたたちぞ對しおの責任感、べ぀な意味での屈蟱感や敗北感がご぀たにな぀お胞に倧きなかたたりを盛りあがらせたす。  あなたはどこからあそこたで逃げおきたのでしよう。近くの町からか、遠いずころからきたのか、あなたにきくこずはできなか぀たけれど、河原にきおすぐに死んだこずを思うず、爆心地にちかい町にいたのにちがいありたせん。いきなり小さい肉體の内郚ふかく犯され、それでも負傷者の矀の流れに亀぀お、よろよろず逃げお䟆たのでしようね。  あなたの死體は八月の倪陜にさらされおいたけれど、兩芪らしい人もきようだいのようなひずも傍にいたせんでした。その人たちはみんな即死したのでしようか、あなたは爆心地を少しはなれたずころで遊んでいたのでしようか。  八月六日の倜がきたころから、あくる日も、その次の日も、倜は提灯をも぀た人々が、河原に家族の者や芪せきの者の名をよんで歩いたけれど、あなたを探しに䟆た人は䞀人もありたせんでしたから。  六日の午埌、河原にふり泚いだ倧粒の黒い雚に、あなたの小さい屍がたたかれおいたした。廣島党垂は油の焔のように倧きく高く燃えあがり、町はずれの䞭國山脈の手前の空に、虹がかかりたした。そのじぶんから、あなたの死體のたわりで、぀いで぀ぎ぀ぎ人がたおれお死んで行぀たのですよ。  小さいひずよ、あなたはあたりに小さくお、自分を死に誘぀た戰爭がどのようなものであ぀たかを知らないたた、ああした姿にな぀たのですのね。  戰爭のなかで生れ、戰爭のなかで死んだ小さいひずよ、八月六日にあなたが河原にくるなり息をひきず぀おから、二床目の原子爆圈が九日の午前十䞀時に長厎に投䞋され、぀づいお゜連の宣戰垃告が癌衚され、そしお第二次倧戰は十五日に終りずなりたした。  それからちようど四幎經ちたした。私の巊耳ず背䞭の傷も、かすかな傷あずをのこしおいたはなお぀おいたす。ですけれどふたたび埐々に、その傷あずが疌きはじめた氣がするのです。思えば耳ず背の傷があの當時ずしお、なおりにくく、普通の傷だ぀たら䞀週間で癒えるずいう傷をなおすのに䞉カ月間もかかりたした。い぀たでも膿がずたらず、切口がふさがりたせんでした。  その筈で、あの日廣島にいなか぀た人たちたでが、死體の片づけに田舍からでお行き、地䞊にのこ぀おいたりラニュヌム攟射線物質を吞぀お、原子爆圈症に犯されたのですから。  私の負傷のあずは珟圚ほんずうは痛んでいたせん。皮膚の傷あずでなく、も぀ず深い内郚で、こんにちの條件に刺戟されながら、疌きはじめおいるのです。  前の戰爭の痛手がただ生掻のあらゆる面にこびり぀いお消え去らないのに、いたたた次の戰爭の恐怖を、かんじずらなければならないなんお、人間にず぀おこれほど倧きく深い苊痛がほかにあるでしようか。  歎史は私たちの県の前で刻々に鋭く立體的になり、ひどく速くすすんでいるこずをかんじたす。でもそれにふれおゆく苊痛のなかに、ただ䞀筋の垌望ず安心感が生れ぀぀あるこずも、小さいひずよ知぀おいおください。  人は元䟆、たのしい、明るい、垌望にみちたものでなくおはならないのですもの。  小さいひずよ、幌いあなたの幎をわすれお、倧人のこずばでかいおしたいした。それほど私は倢䞭にな぀お云぀たのでした。
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明子はフランスに䜕人かの友達がいる。
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 本も時代によっお、さたざたな颚俗を成す。前述したように本はい぀もその時代の趣味奜尚を映じ出しおいる。即ち、僧俗時代、貎族時代、そうした時代の本はやはりそうした時代を明瀺する姿を以お遺されおいる。燊爛たる光耀を䌎うような、神ぞの尊厇ず神ぞの敬順を具象化したような宝玉や金属で食られた寺院本、王章や唐草や絡み暡様などでけんらんず装われた貎族蔵本などは自ら過剰な、華食的な歀等の生掻ず颚俗を具えおいる。蓋し圓然事である。印刷術の発明、倧量化以来、本は、甚だその働き堎を拡倧された。私蔵装食本は、本のうちの甚だ少数なる䞀郚ずなった。そしお倧倚数は公刊装本によるものが芏準ずなった。珟代に斌おは、本も甚だ倚衆的なアンチヌムな姿を以お䞖玀を瞊断しおいる。この珟代である。所で日本の珟圚、本はどんな姿をしおいるか。改めおいうたでもないが、䞀応は述べなければならないこずだ。日本はその過去の本に斌おは、西掋本ず甚だ異る綎本装幀をもっおいる。巻物圢匏たでは略同様であったが、綎本圢匏になっおからはたるで倉った圢匏ずなった。即ち袋綎じであっお、截口が綎る方にある、西掋の逆態である。西掋ず東掋ずは、いろいろなものが逆であるが、本もその䟋を劂実に瀺しおいる。衚玙を本文に綎じ合せる方法は西掋では早く姿を没したが、日本ではそれが、掋颚装本の枡来たでそのたた存続しおいた。チョン髷ず同様である。この和颚綎本、これは珟圚もむろん存圚する。数から云っおも、教科曞類のこの方匏のものを加えたら、盞圓な量であろう、が䞀般公刊本にあっおは極めお少数がそれであるのみである。そしお本の綎装ずいえば、殆ど倧郚分の人は掋匏装しか頭に浮べないであろう皋、掋装が垞態ずなった。䞁床男子は、街頭に斌おは殆ど掋装であるが劂しだ。これ即ち日本珟圚の颚俗に協応するものであっお、珟圚生掻の掋颚化の実情をはっきりず具象しおいるものである。本箱本棚を考えおも竪に䞊べる掋匏の方が普通である。和装は特殊な奜み以倖に普通は行われない。そしお和装はその意匠を斜すべき範囲が甚だ狭い。぀たり和装本の圢匏は、䞁床和服が殆ど手の぀ける䜙地のない皋、完成し切った圢䜓であるず同じである。珟圚公刊本に歀の和装の圢匏が倉圢乍ら甚いられるのは、僅に箱だ。即ち、題貌り圢匏がそれである。皀に数奇を奜んで本にも之が甚いられるが、朚に竹を぀いだ感じでおち぀けない。  折本仕立に至っおは画垖、曞垖の類の倖は殆どないずいっおもいい䜍だ。であるから、この蚘述では和本仕立の装綎に぀いおは之を省いお觊れるこずをしない。  珟圚行われおいる掋匏装本をみるに倧別しお䞉皮である。即ち、略装、本装、華装だ。猶、この倖に仮装を分ける方がいい。これは略装に含たせおもいいが、芳念が別の所から出発するから分ける方が正しい。  仮装は、ただ糞かがりをし、簡単な䞊被で之を芆い、綎じ攟しの截ち切らず、即ちアンカットが垞道である。時にしゃれお、又は特に圢を特別なものにするためには截たれるが、䞉方折り攟しのたたが本然の姿だ。之は぀たり、読者が自分の奜みに本装をするために甚意された圢匏であっお、刊行者は䞭味だけを提䟛するずいうわけ。之を截たないのは、本装の折に截断によっお本が小圢になるこずを忌むためである。玙の折郜合よりももっず別の圢、圓然の圢より倉えたい堎合には、非垞に舌を片よっお倚く出したりする。それだけでみるず随分倉な奇態な倖芳を呈しおいる。仮装は、巷間之をフランス装ずいう皋、フランスの本は仮装が倚い。仏蘭西では所蔵家が自らさせる所蔵装綎が普及発達しおいるし、又自ら手がけお装本をたのしむの、圌囜の矎術心の発達によるものず云えよう。日本の仮装は䞀般に盞圓芪切に綎じられおいるが本堎の仮装の綎じは各詮自性、ただ散り散りにならぬ皋床のぐたぐたなものが倚い。由来から考えればそれでいいわけであっお、かかる本は、再読䞉読するためには本装をしなければならない。フランス装の名が出来おいるだけあっお日本の本は仮綎でも盞圓䞁寧にかがられおいるし、小口などもよくそろえおあるもの少くない。蓋し日本のように再補補本が倧郚分厩れた本の䜜りなおしやノヌトの合冊䜍にしか甚いられぬ習慣や、又芞術的な補本をやる補本業が党く発達しおいない珟状ではこうしたこずも䞀方法であり、仮装も立掟に䞀装本圢態ずしお独立性を倚分に持っお来るわけである。この仮装を、その芳念を曎に䞀局培底させお、䞊被も甚意せず、糞も通さない出版もある。所蔵装幀に察しお䞀局懇切な刊行である。が之は、䜙り頁数の倚いものや、ザツなものには䜙り芋かけない。日本では二䞉あったかないかの寡少な方法である。  略装は、簡略な装本態であっお、日本の所謂フランス装などは圓然この郚類に入るわけであるが、䜙り費甚をかけず、しかも綎本ずしお纏ったものずするための方匏である。この様匏では、しばしば釘綎じが行われる。糞でかがり合せるのでなく、針金で綎じるのであるが、ぞんざいなやり方の堎合は、釘を衚裏から打ち぀けお固定する。名の通りの釘ずじもある。正しく云えば釘ずじず針金ずじに分぀べきだ。この方匏では、衚玙は倧抵玙が甚いられる。本の小口は切り敎えられおいる堎合が倚い。むろん気取った堎合はアンカットのも少なくない。衚玙ず䞭味の連絡は、䞭身の瞢り糞で衚玙に膠着され、その䞊を芋返し玙が抑える。ぞんざいなのは背ず峰に貌付けただけのもある。之は衚玙の玙が切れお攟れ易い。釘ずじのものは背に垃、寒冷玗などを膠着、それが糞の代りを぀ずめる。略したのは、芋返しで䞭身ず衚玙ずを貌り結ぶ。之は芋返し玙が䜙皋䞈倫でないず芋返しの折目が切れお䞭身が離脱しお了う。ペタ本圢態である。略装は近頃本を安く䜜る必甚䞊、よく採甚されおいる。が、どうも安物を぀くる心埗で出版者も工䜜者もやっ぀けるのでいい味のものが尠くなる。気軜で芪しみ易く又読むにも軜量で扱いいい、心易い様匏、奜もしい姿であるのに、そうした心組で、ガラクタ本にしお了う堎合が倚いこずは遺憟である。この仮装略装本を非垞に愛着しお、この方匏の䞊にいい本を䜜りたいずい぀も願っおいるが、前述のような事情で倱望しがちである。だがこの圢匏は将来十分発展性のあるものず考える。愛曞家も埒に華装ばかりを尊重したがらずに、こうした所に平明盎截な矎を打ち立おるこずに留意しおほしい。  本装は、たず本らしい。本ずしお䞀人前な、制服を぀けたずいった所の様匏である。略装の玙衚玙がボヌル貌りに代ったものずいっおいい。このボヌルは、厚薄によっお、本の味が倧倉違っお来る。薄手のものか䟋えばマニラボヌル、芯地など甚いたものは、略装の味に近くなり、心易さが増しお来るし、翻読にもおっくうな気持が来ない。ポケット蟞曞類が倧抵この薄衚玙であるのはその間の性質の自然な利甚である。又その逆に極端に厚いものもある。これは䜵し皀な䟋であっお、特殊な奜みの倖は甚いられぬ。板のようにどっしり堅固な感のほしい時には適圓である。歀の堎合、ボヌル玙の䞉方に鉋をかけお斜に萜ずす所謂面をずるのが普通であっお、その仕䞊りは䞀぀の皜を増すわけであるから、重厚であり耇雑な味を附加される。又この皜を厭うおカマボコ圢に円味でおずす堎合もある。これは敊厚な感じである。これず䌌たのはボヌルず被装物ずの間にやわらを入れお、぀たり綿入れ着物のような柔い盛り䞊がりをやるものがある。この皮のものは日本では、倧圢の写真貌などの倖は刊行本には殆どない。近刊拙著詩文集はその方匏でやるこずになっおいる。本装になるず背が䞀぀の重芁な働きをもっお来る。綎じ぀けにいろいろな皮別が出来お来るからである。これは二倧別しお、綎じ぀けず、貌り぀けの二皮になる。Binding ず Casing ずであっお、「ずじ぀け」ず「くるみ」である。ずじ぀けは、衚玙の板玙ぞ綎り糞を固着しお埌に装衚の材料を被せ装食する。䞀般に所蔵本の䞁寧なものに甚いるもので叀くは歀の法によったもので堅固の点では遥に埌者を凌ぐものである。「くるみ」の方は衚玙ず䞭身ずは別々に仕䞊がっお、それが繋ぎ糞で連結されるもの、今日の倧郚分の刊行本が拠っおいる方法であっお操䜜の簡単なこずを長所ずするが堅牢の点は前者にはるかに劣るものである。その連結法の差異の倖に、も䞀぀背の別様を述べる必芁がある。それは背の圢ず、背が浮いおいるか、密着しおいるかである。浮いおいるのは腔背であっお、本の開きが、らくである代りによい技術でないずすぐにふらふらになる。刊行本には最も䞀般的に芋る方匏。膠着しおいるのは䞈倫な点はいいが、その硬いもの、硬盎背Tight Backのものは開きが窮屈である。それを避けるために軟撓骚Flexible B.がある。これは開きがずっずらくである。が、背に箔など入れおある堎合離脱したり、皺が寄ったりしお、矎術的なものには䞍可である。圢の䞊から芋るず䞞圢ず角圢になる。䞞背には、倧山匷孀圢、䞭山緩孀圢それず、角䞞かたがこ圢ずある。普通芋る䞞背は前二者であっお、角䞞は、技術の未熟のために䜙り日本では少ないが西掋本は倚くがこれである。本の品もこれが最䞊である。角背は、背が平面なのでフラットバックず云われるが、角背は倚くの堎合裏打を固くしおその特長を匷化する。その折れ目、耳を立おたのを角山ずいう。角背の腔背は耐久力に難点がある。䜙皋優秀な技術が芁る。角背の、特に硬盎背は釘ずじ匏のものに適応するわけである。釘ずじは、針金などの金属が腐るのを避けお麻糞等によるものがある。之は針金ずじずいうよりも、やはり総称である打抜き綎じずいう颚がいいわけ角背を俗に南京ナンキンず呌ぶ。角背は保党䞊ず開きの点に難があるが、芖圢ずしおはキッカリずした角圢を成すので、そういった奜みには適合する。  連結の法に、も䞀぀の方法がある。突着け綎附ずいうので、衚玙の平ヒラず背ずの間の仕切り抌のないもの、背からすぐ平ぞ移行する方匏、衚玙をミミの根たで぀き蟌んで連絡するのである。之は仕切り抌を忌む様な平から背たで続いた装食などある堎合には歀の法によるより倖ないが、䞀寞締りのない様な感じである。堎合によっおはこの装食の関係がなくずも甚いお良果がある。又之ず同様の倖容ずなるものだが、䞀枚の芯玙をのべお貌附けたものなどもある。小圢の聖曞などにみるあれである。  以䞊で倧䜓装綎様匏を略述したこずになるが、各々その工皋圢態によっお、性質があるから、装案者はそれを味識しお配慮するこずが必芁である。曞の品栌、仮りに曞栌ずいおうなら、その曞栌を構成する分子ずしおその綎装様匏は重倧な圹割りをも぀ものである。䟋えば背皮を採り乍ら、打抜き綎じなどにするが劂きは、やむを埗ない堎合は臎し方なしずしお、党く以おちゃちである。又䞞背の匷いものに察しお䜙り盎線的な感じの文様を附するが劂きである。  さおそこで珟圚の日本の出版物をみおみる。色ずりどり姿さたざたである。党く雑然たる颚俗図である。これ即ち珟代日本を反映するものず云えばそれたでであるがも少し䜕ずかおち぀いた流れを成さないものか、誠に曞店店頭に立っおみるならば、この感はそぞろに深いものがある。
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Xがなんずも悲しかった
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 わたしは垝劇のために「小坂郚姫」をかいた。それを曞くこずに就いお参考のために、小坂郚のこずをいろいろ調べおみたが、どうも確かなこずが刀らない。䌝説の方でも播州姫路の小坂郚ずいえば誰も知っおいる。芝居の方でも小坂郚ずいえば、尟䞊家に取っおは家の芞ずしお知られおいる。それほど有名でありながら、䌝説の方でも芝居の方でもそれがはっきりしおいないのである。  たず䌝説の方から云うず、人皇第九十二代のみかど䌏芋倩皇のおんずきに、小刑郚ずいう矎しい女房が䜕かの科によっお京郜から播磚囜に流され、姫山――むかしは姫路を姫山ず云った。それが姫路ず呌びかえられたのは慶長以埌のこずで、むかしは土地党䜓を姫山ず称しおいたのを、慶長以埌には土地の名を姫路ずいい、城の所圚地のみを姫山ずいうこずになったのである――に隠れお䞖を終わったので、それを祭っお小刑郚明神ず厇めたずいうのであるが、それには又皮々の反察説があっお、播磚鑑には小刑郚明神は女神にあらずず云っおいる。播磚名所巡芧図䌚には「正䞀䜍小刑郚倧明神は姫路城内の本䞞に鎮座、祭神二座、深秘の神ずす。」ずある。それらの考蚌は藀沢衛圊氏の日本䌝説播磚の巻に詳しいから、今ここに倚くを云わないが、ただ別に刑郚姫は高垫盎のむすめだず云う説もあっお、わたしはそれによっお䞀篇の長線小説をかいたこずもある。しかし、小坂郚――小刑郚ずも刑郚ずもいう――明神の本䜓が女神であるか無いかずいう議論以倖に、その正䜓は幎ふる狐であるずいう説が䞀般に信じられおいるらしい。なぜそんな䌝説が拡たったのか、その由来は勿論わからない。  䞀䜓、姫路の城の起源は歎史の䞊で刀っおいない。赀束が初めお築いたものか、赀束以前から存圚したものか刀然しないのであるが、ずにかくに赀束以来その名を䞖に知られ、殊に矜柎筑前守秀吉が䞭囜攻めの根拠地ずなるに至っおいよいよ有名になったのである。慶長五幎に池田茝政がここに入っお倩䞻閣を䜜ったので、それがたた姫路の倩䞻ずしお有名なものになった。しかし埳川時代になっおからも、ここの城䞻はたびたび代っおいる。池田の次に本倚忠政、次は束平忠明、次は束平盎基、次は束平忠次、次は把原政房、次は束平盎矩、次は本倚政歊、次は把原政邊、次は束平明矩ずいう順序で玄癟四十幎のあいだに城䞻が十代も代っおいる。平均するず䞀代わずかに十四幎ずいうこずになるわけで、こんなに城䞻の亀代するずころは珍しい。それはこの姫路ずいう土地が䞭囜の芁鎮であるためでもあるが、城䞻が䜙りにたびたび倉曎するずいうこずも、小坂郚䌝説にはよほどの圱響をあたえおいるらしい。  それに぀いお、こんなこずが䌝えられおいる。この城の持ち䞻が代替りになるたびに、かならず䞀床ず぀は圌の小坂郚が姿をあらわしお、新しい城䞻にむかっおここは誰の物であるかず蚊く。こっちもそれを心埗おいお、ここはお前様のものでござりたすず答えればよいが、間違った返事をするず必ず䜕かの祟りがある。珟にある城䞻が庭をあるいおいるず、芋銎れない矎しい䞊があらわれお、䟋の通りの質問を出すず、この城䞻は気の匷い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、俺のものだず、きっぱり云い切った。するず、その女は怖い県をしおじろりず睚んだたたで、どこぞかその姿を隠したかず思うず、城䞻のうしろに立っおいる桜の倧朚が突然に倒れお来た。城䞻は早くも身をかわしたので無事であったが、颚もない晎倩の日にこれほどの倧朚が俄かに根こぎになっお倒れるずいうのは䞍思議である。぀づいお䜕かの犍いがなければよいがず、家䞭䞀同ひそかに心配しおいるず、その城䞻は間もなく囜換えを呜じられたずいうこずである。こんな話が昔からいろいろ䌝えられおいるが、芁するに口碑にずどたっお、確かな蚘録も蚌拠もない。  小坂郚明神なるものが祀られおあるにも拘らず、かれは倩䞻閣に棲んでいるず䌝えられおいる。由来、叀い櫓や倩䞻閣の頂䞊には幎叀る猫や錬その他の獣が棲んでいるこずがあるから、それらを混じお小坂郚の怪談を䜜り出したのかも知れない。支那にも䜕か類䌌の䌝説があるかず思っお心がけおいるが、寡聞にしお未だ芋あたらない。日本の怪談は九尟の狐ばかりでなく、倧抵は䞉囜䌝来で、日本固有のものは少ないのであるから、これも䜕か支那の小説か䌝説がわが囜に移怍されたものではないかずも想像されるが、出所が刀然しないので確かなこずは云えない。  さお、それから芝居の方であるが、これは専門家の枥矎さんに蚊いた方がいい。珟にわたしも枥矎さんに教えられお、初代䞊朚五瓶䜜の「袖簿播州廻」をくりかえしお読んだ。角曞にも姫通劖怪、叀䜐壁忠臣ず曞いおあるのをみおも、かの小坂郚を䞻題ずしおいるこずはわかる。二぀目の姫ヶ城門前の堎ずその城内の堎ずが即ちそれであるが、この狂蚀では桃井家の埌宀碪の前がこの叀城にかくれ棲み、劖怪ずい぀わっお家再興の味方をあ぀めるずいう筋で、若殿陞次郎などずいうのもある。これは淀君ず秀頌ずになぞらえたもので、小坂郚の怪談に蚗しお豊臣滅亡埌の倧坂城をかいたのである。珟に倧坂城内には䞍入の間があっお、そこには淀君の霊が生けるがごずくに棲んでいるなどず䌝えられおいる。それらを取り入れお小坂郚の狂蚀をこしらえあげたず云うのは、䜜者が倧坂の人であるのから考えおも容易に想像されるこずである。しかし、ずもかくも小坂郚ずいうものを䞀郚の纏たった狂蚀に䜜っおあるのは、この脚本のほかには無いらしい。これは安氞八幎䞉月、倧坂の角の芝居に曞きおろされたものである。  尟䞊家でそれを家の芞ずしおいるのいうのは、かの尟䞊束緑から始たったのであるが、䞀䜓それはどういう狂蚀であるか刀っおいない。他の通し狂蚀のなかに䞀幕はさみ蟌たれたもので、取り立おおこれぞずいうほどの筋のあるものではないらしい。しかし江戞では束緑の小坂郚が有名であったこずは、「埩再束緑刑郚話」などずいう狂蚀のあるのを芋おも知られる。この狂蚀は䟋の四代目鶎屋南北の䜜で、文化十䞀幎五月に森田座で䞊挔しおいる。すでに「埩再」ず名乗るくらいであるから、その以前にもしばしば奜評を博しおいたものず察しられるが、それがわからない。明治䞉十䞉幎の正月、歌舞䌎座の倧切浄瑠璃「闇梅癟物語」で五代目菊五郎が小坂郚を぀ずめた時にも、家の芞だずいうのでいろいろに穿玢したそうであるが、䞀向に手がかりがないので、叀い番附面の絵すがたを頌りに、䞉代目河竹新䞃が講釈皮によっお劇に曞きおろしたのであった。今床もわたしは尟䞊束助老人に぀いお䜕か心あたりは無いかず蚊いおみたが、老人もやはりかの歌舞䌎座圓時の話をしお、自分も倚幎小坂郚の名を聎いおいるだけで、その狂蚀に぀いおは䜕にも知らないず云っおいた。  小坂郚の正䜓が劖狐で、十二ひずえを着お姫路の叀城の倩䞻閣に棲んでいお、それを宮本無䞉四が退治するずいうのが、最も䞖間に知られおいる䌝説らしく、わたしは子䟛のずきに寄垭の写し絵などで幟床も芋せられたものである。こんなこずを曞いおいながらも、䞀皮今昔の感に堪えないような気がする。  そういうわけで、芝居の方では有名でありながら、その狂蚀が䌝わっおいない。そこを付け目にしお、わたしは新しく䞉幕物に曞いお芋たのであるが、䜕分にも材料が正確でないので、たずいろいろの䌝説を取りあわせお、自分の勝手に脚色したのである。  束緑のも菊五郎のも、小坂郚の正䜓を狐にしおいるのであるが、狐ず決めおしたうのはどうも面癜くないず思ったので、わたしは正䜓を説明せず、単に䞀皮の劖麗幜怪な魔女ずいうこずにしお眮いた。したがっお、あれは䞀䜓䜕者だず云うような疑問が起こるかも知れないが、それは私にも返答は出来ない。くどくも云う通り、昔は播州姫路の城内にああいう䞀皮の魔女が棲んでいお、ああいう奇怪な事件が発生したのだず思っお貰いたい。又、その以䞊には埡穿玢の必芁もあるたいず思っおいる。  今床の䞊挔に぀いお、おそらく歀の小坂郚の身蚱しらべが始たるだろうず思われるから、ちょっず申し䞊げおおく。倧正䞀四・二・挔芞画報 昭和䞉十䞀幎二月、青蛙房刊『綺堂劇談』所収「甲字楌倜話」より
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 䌊豆の東海岞は䌊倪利亜の゜レントオやアマルフむむの䞀垯ず景色が奜く䌌おゐたす。断厖の䞋に少しばかりの枚があり、それにさざなみが打ち寄せ打ち返すさたなどは、アトラアニなどがさうでした。そういぞば゜レントオは熱海、ポゞタノは舞鶎、たたヹズマオの煙は倧島の埡神火に盞応したす。たゞ西掋は建物がが぀しりずしおゐお、殊に䌊倪利亜では谷の䜎地よりも山頂、山腹に家を建おならべる習慣があ぀お、建築を入れた景芳は向うの方に軍配が䞊がりたせう。  小生は高等孊校時代にはじめお䌊東熱海間の山道を歩いお芋たのですが以前は䌊東から東京に出るには普通倧仁を経過したのです、こんなに奜い景色を今たで知らずにゐたかず驚きたした。その埌新道が開け、今では自動車が通じるやうになり、熱海䌊東間は䞀時間半で走りたす。小生は郷里に垰省するごずにい぀も䌊倪利亜海岞の景色を思ひ出したす。  䌊東は小生の生れた所で、もし倧地に乳房ずいふものがあるずしたら、小生に取぀おはたさにそれです。いふべきこずは䜙りに倚く、さりずおいたそれを曞いおゐるひたも有りたせん。唯だその景色のこずだけをいふず、冬が䞀番矎しいず思ひたす。雑朚山がた぀かに燃え、海面は鮮碧、たこずにルノワアルの油絵のやうに華矎で䞔぀枩玔です。倕方になるず入日を受けた盞州の倧山が暫時ぎらぎらず光り、そしおナポリ通いの汜船かのやうに、熱海行、東京行の汜船が笛を鳎らしお過ぎ行きたす。  源平の昔にはこんな所に頌朝がその青春時代を送぀たかず考ぞおも、どうも鎧、兜の時代物颚には想像しにくく、寧ろ牧歌的颚景の䞭の点景人物ずしお目に浮んで来たす。
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0.802
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 文孊座䞉月公挔はゎヌリキむの「どん底」ずきたり、私が挔出を匕受けた。  神西枅氏の翻蚳ができあがるのを埅っお、皜叀にはいる。毎日小田原から出お来るのは、病埌の私には倧儀だから、皜叀堎の隣に宿をずっおもらう。  配圹には思い切っお新人を起甚したので、どんな結果になるか、半分楜しみで、半分心配なのは臎し方がない。  この「芝居」は既に日本でも、床々䞊挔されおいる。叀い所は別ずしお、築地小劇堎以来、二、䞉の挔出家が、それぞれの流儀で、䞀応「どん底」の日本版を䜜っおみせた。私も、そのうちの䞀぀を芋おいるが、なんずしおも、䞉十幎前に、パリで芳たモスクワ芞術座の「どん底」が県の前にちら぀いお離れない。  この完壁ずいっおいいロシア近代劇の舞台は、私の今床の仕事の目暙に違いない。  私ばかりが、そう独りぎめにきめおいおも、俳優の䞀人䞀人がみんなその気になっおくれなければ困るず思い、幞い奜い䌝手があったので、「モスクワ芞術座の名優たち」ずいう蚘録映画を座員䞀同打揃っお芋孊した。誰も圌も感嘆の叫びをあげた。蚀葉はわからぬながら、カチャロフの男爵をはじめ、名優たちの名挔技は、たこずに神品の名にそむかぬものであった。事の序に、フランスで䜜った映画の「どん底」も叀いフィルムを借りお来お芳た。この方はゞュノェが男爵に扮し、ギャノァンがペヌペルの圹で出おいるが、誠に぀たらぬ映画のようにおもわれた。  皜叀堎に垰っお、皆で感想を語り合ったが、私が座員諞君の泚意を促したのは、モスクワ芞術座の「どん底」が、想像以䞊に明るい印象を䞎えた、ずいうこずであった。それはなんのためか いろいろ原因はあるが、第䞀に、こういう生掻のなかにもあるロシア民衆の底抜けの楜倩性である。しかし、この民族的特質は、やはり、ロシアの俳優でなければ、十分に出せないものではあろうけれど、われわれもそのこずを頭においお、それぞれの人物のむメヌゞを描かなければならぬこず、挔出䞊の配慮もたた、この䞀点を忘れおは倧事なものを倱う結果になるこず、であった。だいたいに、日本人のわれわれは、生掻の䞍幞な面、䟋えば、貧しさずか、病いずか、怒りずか、争いずか、特に死ずいうような堎面を舞台の䞊に描き出す時、必芁以䞊に感情的な衚珟をする傟向がある。これは䞀皮のセンチメンタリズムである。感傷の過床は垞にヒステリカルな衚情になる。これが、舞台を知らず知らず「劙な暗さ」で包むこずになる。぀たり、「暗い珟実」ずいうものはあるに違いないけれども、これを語るのには、「暗い語り方」しかないわけではない。  ゎヌリキむは、この戯曲「どん底」においお、いわば瀟䌚の「暗黒面」を描いおみせるのであるが、䜜者自身、こういう人々ず共に、生き、悲しみ、歌い、絶望し、憀り、そしお、なおか぀、明日の光明を埅ち望んでいるこずが、はっきり感じられる。  少くずも、䜜者は、自分たちの䞍幞ず苊難ずを語るために、埒らに興奮はしおいない。むしろ、「面癜い話」をしお聞かせ、盞手を楜したせるこずによっお、自分も笑い興じたい、かの「話奜き」の本性の劂きものをむき出しにしおいる。  最埌に、私がこの挔出を匕受けた最も倧きな理由は、神西枅氏の新蚳が間に合いそうだずいうこずであった。間に合うには間に合ったが、テキストレゞヌに十分暇をかけるこずが出来ず、䜜者にも蚳者にも申蚳ないような杜撰なレゞヌしかできなかった。完党な蚳を是非癜氎瀟版䞖界戯曲遞集に぀いお参照されたい。
0.589
Complex
0.623
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0.312
0.945
1,440
▲幜霊の家柄でいお、幜霊皮がないずいうのはちず劙なものですが、実際私の経隓ずいう方からいっおは、幜霊談皆無ずいっおも可いのです、尀もこれは幜霊でない、倢の事ですが、私を育おおくれた乳母が名叀屋に居たしお、私が子䟛の内に銀杏が奜で仕様がないものだから、東京ぞ来おも、わざわざ心にかけお莈っおくれる。ああ乳母の厚意だず思っお、い぀もおいしく喰べおいるず、ある幎の事、乳母が病気で、今床は助からないかも知れないず蚀っお来た。するずこれが倢に来お、私に銀杏を持っお来お、くれたず思うず目を芚たしたが、やがお銀杏が小包で届いお来た、遅れ走にたた乳母の死んだずいう知らせが、そこぞ来たので、倢の事を思っお、慄然ずした事がありたした。 ▲それから、故人の芙雀が、亡父菊五郎のずころぞ尋ねお来た事、これは郜新聞の人に話したしたから、圌方ぞ出たのを、たたお話しするのもおかしいから止したす。 ▲死んだ亡父は、埡承知の通、随分幜霊ものをしたしたが、ある時倧磯の海岞を、倜歩いお行くず、あのザアザアずいう波の音が䜕ずなく凄いので、今たでに浜蟺の幜霊ずいうものをやった事がないからい぀か遣っおみたいものだず蚀っおいたした。その事を、その埌䞍図埡莔負を蒙る䞉井逊之助さんにお話するず、や、それはいけない、幜霊の陰に察しおは、盞手は陜のものでなくおはいけない、倜の海は陰のものだから、そこぞ幜霊を出しおは华お凄みがないず仰いたした。亡父はなるほどず思っお、浜蟺の幜霊はおくらになっおしたいたした。 ▲話は䞀向纏たらないが堪忍しお䞋さい。埡承知の通、私共は団蔵さんを頭に、高麗蔵さんや垂村矜巊衛門ず東京座で『四谷怪談』をいたしたす。これたで祖父の梅壜さんがした時から、亡父の時ずも、この四谷をするずは、屹床怪しい事があるずいうので、い぀でもい぀でもその芝居に関係のある者は、皆おっかなびっくりでおりたすので、䞭には随分『正躰芋たり枯尟花』ずいうようなのもありたす。しかし実際をいうず私も憶病なので、䞁床前月の䞉十日の晩です、十時頃『四谷』のお岩様の圹の曞抜を読みながら、匟子や家内などず䞀所に座敷に居たすず、時々に頭䞊の電気がポりず消える。おかしいなず思っお、誰か立っおホダの工合を芋ようずするず、手を付けない内に、たたポりず぀く。それでいお、茶の間や他の間の電気はそんな事はないので、はじめ怪しいず思ったのも、二床目、䞉床目には怖気が぀いお、オむもう止そう、䜕だか薄気味が悪いからず止したくらいでした。 ▲『四谷』の芝居ずいえば、十䞉幎前に亡父が歌舞䌎座でした時の、䌊右衛門は八癟蔵さんでしたが、お岩様の眰だず蚀っお、足に腫物が出来た事がありたした。今床私に突合っお、䌊右衛門をするのは、高麗蔵さんですが、自分は䜕ずもないが、劻君の目の䞋に腫物が出来お、これが少し膚れおいるずころぞ、藍がかった色の膏薬を匵っおいるので、折から䜕だか、気味を奜く思っおいないずころぞ、ある晩高麗蔵さんが、二階ぞ行こうず、梯子段ぞかかる、劻君はたた嚁かす気でも䜕でもなく、䞊から䞋りお来る、その顔に薄く燈が映しお、䟋の腫物が芋えたので、さすがの高麗蔵さんも、䞀寞慄然ずしたずいう事です。 ▲たた東京座も、初日になるず、そのような意味の怪談もありたしょうけれども、たあたあ今申し䞊げるお話はこのくらいなものです。
0.76
Complex
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1
1,386
圌らが議論をしたせんでした
0.209333
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13
 レオン・ドオデが、ゞュりル・ルナアルの芞術を指しお、「小ささの偉倧さ」ず呌んでゐるが、そのゞュりル・ルナアルは、芞術家ずしおの゚ドモン・ロスタンをたた、「月䞊で、しかしお、偉倧」ず評した。この二぀の「偉倧」ずいふ蚀葉には、それぞれ、評者の「䜿ひ癖」も珟はれおゐるらしいが、兎も角、このパラドクサルな讃蟞は、私に、䜜家の皟質ずいふ問題を考ぞさせるず同時に、芞術の本䜓に぀いお少しく芖野を拡げさせおくれるやうに思ふ。  私は、先づここで、戯曲のこずに぀いお語りたいのだ。さお、それを始めるに圓぀お、䞊述のやうな前眮きが自然に浮んで来た。これは畢竟、私自身が、戯曲䜜家ずしお、絶えず自分の仕事の䞊にも぀垌望ず疑ひから出おゐるこずはいふたでもないが、曎に、公平な立堎から、ずいふ意味は、䞀個の芞術愛奜家ずしおの芋地から、文孊の䞀様匏たる戯曲の地䜍が、「文孊的暙準」に斌お、他の様匏、䟋ぞば小説に比しお、遥かに「卑い」ずいふ抂念を肯定し、しかも、その抂念に、理論ずしお䞀応の反駁を加ぞたいからである。  ここに、戯曲ずいふものに察する䞀぀の芳方がある。――それは、文孊の䞀様匏ずしお、あらゆる文孊的芏範のうちに、他の諞様匏ず同䞀角床からの批刀に堪ぞなければならぬものであり、小説を蚈る尺床は盎ちに戯曲を埋する尺床であ぀お差支ぞないずするもの、即ち、䞊挔によ぀お生じる効果、又は、舞台化を想像しおの䟡倀は、おのづから別であ぀お、それは、文孊ずしおの戯曲批評の圏倖であるずする解釈に埓ふものである。  この議論は、文孊の玔粋性を飜くたでも高め育くむ䞊に斌お、たしかに熱情に富む態床であるが、䞀方これずやや異぀た芳方をするこずもできるのである。  それは、戯曲を文孊の䞀様匏ずしお取扱ふこずに反察はしないが、「戯曲文孊」は、芁するに、「詩文孊」でも、「小説文孊」でもないのであ぀お、戯曲を蚈るのに、小説を埋する尺床を以おするこずは凡そ意味をなさず、埓぀お、戯曲批評なるものは、その戯曲の䞊挔、即ち舞台化の創造的党面を予想し埗なければ、断じお成立たぬばかりでなく、そこにのみ、所謂、文孊的䟡倀の問題が悉く含たるべきであるずする解釈である。  この議論は、私に云はせれば、文孊の倚様性を培底的に䞻匵するものずしお、十分泚意に倀し、䞔぀、挔劇芞術の進化ず独立のために、誠に気匷い態床であるが、果しお、さう云ひきるこずが「必芁」であるかどうか。  そこで、再び、本文の前眮きに垰らなければならぬ。  ゞュりル・ルナアルが、゚ドモン・ロスタンの戯曲芞術を評しお、「月䞊で、しかしお、偉倧」ず云぀た意味は、察するに、圌れ゚ドモン・ロスタンは、「小説家ルナアル」の県からは「月䞊」であり、「劇詩人ルナアル」の県からは「偉倧」だ぀たのではないか。蚀ひ換ぞれば、仏蘭西劇壇の巚星ロスタンの芞術は、文孊䞀元論者の前では、その䟡倀の倧郚を倱ひ、戯曲至䞊䞻矩者の前で、初めおその文孊的光芒を攟぀のであらうか  ずころで、私は、仏蘭西の文壇に斌おさぞも、圓時ルナアルの劂き「ロスタン評」を数倚く芋かけない事実を指摘したいのである。぀たり、ロスタンは、「偉倧な」芞術家であるず奉るもの、「月䞊な」䜜家にすぎぬず断ずるもの、この二぀の党掟が、それぞれ察立しお盞降らなか぀たこずである。  この䞀䟋をも぀おしおも、戯曲批評の角床乃至芳点に、どこか「曖昧さ」を感じないものはあるたいず思ふが、それも、ただ、幞ひにしお仏蘭西の劂く、戯曲が垞に舞台を通じお発衚され、䜜者の創造が䜜者の欲する俳優によ぀お遺憟なく評者の前に繰りひろげられる堎合なら兎も角、わが囜に斌おは、少数の䟋倖を陀き、倚くの新䜜戯曲が、殆んどすべお、掻字のみによ぀お䞖に問はれなければならぬ状態にあ぀おは、この「曖昧さ」が、䞀局痛切に、われわれの問題ずなるのである。  ここでは、しばらく、「偉倧」などずいふ蚀葉を差控ぞよう。今日、䜕人ず雖もルナアル流に、「月䞊で、しかしお、達者な」脚本䜜家を、珟圚の日本に斌お二䞉挙げるこずができるだらう。そしお、これらの䜜家は、その「月䞊さ」のために、所謂、「文孊的批評」の圏倖に眮かれおゐる。私は、それを、必ずしも䞍圓ずは思はぬ。䜕故なら、その「月䞊さ」は卑俗に近く、その「達者さ」は、倚く「職業的熟緎」にすぎぬからだ。しかしながら、それず同時に、「月䞊で、しかしお、優れた」戯曲を、わが文壇の批評家は芋逃がしおはゐないだらうか。しかも、その優れた郚分こそ、戯曲のために、「月䞊で」あるこずをさぞ幟分救぀おゐるのだ。この芳方から、「戯曲文孊」の領域が開けお来るのだず思ふが、どうであらう。  さお、かういふず、私は、前に述べた「戯曲至䞊䞻矩者」の仲間ず芋られる惧れがある。そこで、私の意芋を述べるこずにする。  第䞀に断぀おおきたいこずは、劂䜕なる意味に斌おも、理想から云ぞば、小説ず戯曲ずは、同じ尺床をも぀お蚈るべきだずいふ意芋に、私は賛成したいこずだ。  これは぀たり、人間の感受性が、極床に発達しおゐれば、「蚀葉」の芞術は、垰するずころ、単䞀な幻象に到達すべきものであり、小説的䟡倀ず戯曲的䟡倀ずは、埮々たる圢匏の限界を越えお、叡智のあらゆる襞に䜜甚するこずは想像に難くない。  これを、逆に考ぞれば、最も玔粋䞔぀豊富な文孊的䜜品は、その頂点に斌お、䞀切の類型を超越した「矎」の創造を䌁おおゐる。  小説だ、戯曲だず隒ぐのは、抑も末の末だ。  悲しい哉、私は、ただ、文孊に察しお、それ皋の野心はもおない。そこで、小説だ、戯曲だず隒ぐわけであるが、たあ、そこたで突き぀めお考ぞないたでも、既に、これたでの経隓に斌お、甚だ「戯曲的」なる戯曲、必ずしも優れた戯曲でなく、甚だ「小説的」なる小説、必ずしも芞術的䟡倀ありずは云ぞないこずを気づいおゐるし、殊に、意倖ずも云ふべきは、嘗おある小説の朗読を聎いお、私は、すばらしい「戯曲的」感動をしみじみず味぀た蚘憶がある。  そしお、曎に、声を倧にしお云ひたいこずは、叀来、東西の戯曲䜜家を通じ、その䜜品の芞術的高さを以お論じるなら、これを玔然たる「戯曲」ずしおみる時に斌おすら、倧倚数の専門戯曲䜜家は、小数の小説家兌戯曲䜜家に、遠く及ばない事実を発芋するのである。  私は、少し、小説家の肩を持ちすぎたやうだ。  誰でも云ふこずであるが、なるほど、小説は䞀人で読むものであり、戯曲は倚数に芋せるものだ。それゆゑ、小説は、いくら「高螏的」でもかたはないが、戯曲は、ある皋床たで「普遍性」をも぀おゐなくおはならぬ。埓぀おこの二぀のものを、芞術的深遠さ乃至朔癖さに斌お比范するこずは、元来無理である――ず。  しかし、私は、戯曲を倚勢に芋せるものず限る因襲的芋解に服し難い。ここに少々莅沢な挔劇愛奜者がゐお、自分䞀人が芋物するための劇堎を蚭備し、自分䞀人のために俳優を傭぀お、静かに幕をあげさせるこずが、果しお䞍可胜だらうか。  これは、だが、譬ぞである。私の云はうずするこずは、さうでもしなければ、䞊挔の望みがないやうな戯曲も、ある皮の「読者」をも぀こずに䟝぀お、立掟に、「戯曲的生呜」を䌝ぞ埗る磯䌚があるずいふこずだ。  随分廻りくどいこずを䞊べお来たが、いよいよ、本論にはひるこずにする。  戯曲を文孊ずしお読む堎合に、䜜者の幻象が、そのたた読者の幻象ずなり埗るこずを、戯曲䜜家ず雖も、小説䜜家ず等しく期埅しおゐるのである。戯曲䜜家は、普通、「舞台を頭に眮いおゐる」ず云ふが、これが、「舞台など頭に眮いおゐない」読者、乃至批評家の気に入らぬずころらしい。しかし、さういふ手前味噌は意にかけない方がよろしい。䞇䞀「舞台」を頭におかなければ、面癜くないやうな戯曲があれば、「舞台」を頭においおも面癜くないに極぀おゐるのだ。ただ、「舞台」ずいふ蚀葉を、「戯曲の䞖界」又は、「戯曲の時間的空間的生呜」ずいふ意味に解すれば、それはたた別だ。぀たり、さうなるず、劇堎や俳優は問題でなく、䜜家の芳察ず想像が描き出す物語の䞀堎面を、蚘憶ず連想によ぀お立䜓化し、耳ず県の仮感にたで歎々ず蚎ぞ埗る胜力、これさぞあれば、どんな戯曲でも、隅々たでわかる道理である。そしお、そこに、䞀脈の生呜感をずらぞ埗たら、その戯曲は、読たれたこずになるのである。  圓り前のこずのやうだが、実際は、なかなか、これだけの仕事が、盞圓の修業を必芁ずするので、第䞀に倚くの読者に欠けおゐるのは、蚘憶の集䞭ず、耳を通じお感じなければならぬ心理的リズムのキャッチだ。  小説の鑑賞は、どちらかず云ぞば、印象の継続から成立぀が、戯曲の鑑賞は印象の積み重ねである。  翻぀お、珟圚のわが戯曲壇を顧みおみよう。  私は、今たで、戯曲批評に察する意芋らしいものを述べたが、それは同時に、倚くの戯曲䜜家――殊に、これから䞖に出ようずする人々ず共に、私自身も亊、曎めお取䞊げるべき問題なのだ。  今日、新しい戯曲に関心をも぀人々は、異口同音に、かう叫ぶのである。 「昚日たでの戯曲は、あたりにも文孊的であ぀た。今日以埌の戯曲は、より舞台的でなければならぬ」ず。  固より、新しい戯曲に志すほどの人々は、既成俳優の舞台に䜕等期埅をもち埗ぬこずは云ふたでもなく、ここに云ふ舞台ずは、より理想的な、より自由な舞台を指しおゐるこずはよくわかるのであるが、さお、「文孊的」であるこずが、「舞台的」でないずいふ宣蚀には、可なりは぀きりした条件を぀けおおかなければならぬず思ふ。即ち、「文孊的」ずは、狭い意味に斌おであり、「舞台的」ずは、新しい意味に斌おであるずいふ条件だ。  なぜなら、私は、今日たでの戯曲が、少しも、広い意味に斌お「文孊的」であ぀たずは考ぞられず、たた、これたでの所謂、「文孊的戯曲」の䞭にも、旧い意味では、「舞台的」でありすぎたものさぞ決しお少くないず思ふからである。  私の考ぞでは、これからの戯曲が、その文孊性を培底させるこずによ぀お、より「舞台的」に進化の道を蟿る以倖、挔劇は遂に滅びる運呜にあるのだ。これは、挔劇を文孊に埓属させよずいふ意味ではない。寧ろ挔劇が、文孊の領域を拡倧させ、文孊に斌ける戯曲の分野を、豊饒にし、䞔぀、倚圩ならしめる、貎重な、そしお、䌝統的なる圹割を継続しなければならぬずいふのである。  そこで、最埌の問題ずしお、倚くの戯曲が、殊に、わが囜珟代の所謂芞術的新戯曲が、䜕故に、文孊的レベルに斌お、平均、小説の䞋䜍にあるかずいふ機埮な点を暎いおみよう。  第䞀に、小説は、叀来、わが囜でも、既に幟人かの巚匠を生み、その光茝ある䌝統は、十分に、珟代の䞭に育぀おゐる。然るに、戯曲の方面では、舞台の偏質的発達ず共に、その䌝統は、倖囜文孊の移入によ぀お䞭断され、珟代の新戯曲壇は、文孊的に栄逊䞍良の「芪無し子」である。  第二に、これは屡々云぀た通り、優れた珟代挔劇のない囜に、優れた劇䜜家の出る筈はなく、偉倧な才胜はたた偉倧な自己愛護者であるから、名優の出挔望み難き珟代劇など曞くよりも、小説を曞いお、盎接その䟡倀を䞖に問ふこずに、満身の熱情を燃え立たせるのである。  第䞉に、䜙皋、偶然の機䌚に、戯曲的衚珟に興味を芚えたものでなければ、倧抂の䜜家志望者は、文孊的野心の察象を、分野の広い、奜いお手本のある小説に向け、教逊の高たるに぀れお、たた、自信が぀けば぀くほど、暙準の䜎い戯曲からは絶瞁しおしたふのである。  これに反しお、文孊的皟質の皀薄な、それでゐお、埒らに名誉心の匷い青幎が誀぀お文孊雑誌など読み耜り、偶々玠人劇団の舞台でも芋お歩くず、すぐに曞いおみたくなるのは、「自分たちが喋るやうに曞ければいいらしい」戯曲なのだ。  第四に  。もうこれくらゐでよからう。こんなこずをいくら云぀おみおも愉快ぢやない。それより、実は、かくの劂き情勢のうちから、やはり、優れた戯曲䜜家が、これからは、少くずも、出お来お出お来られないこずはないずいふ垌望を、私は持぀おゐるのである。  やや予蚀めくが、かの、トオキむの出珟はなによりも、その機運を促進させるのではないだらうか。理由は簡単である。そこには、翻蚳劇の埋め合せをするものがあるからだ。  さおたた、この蟺であず戻りをしよう。  私は、この文章の䞭で、しきりに、「文孊的」ずいふ蚀葉を甚ひた。こずによるず誀解を招くず思ふから、もう䞀床、その意味を明らかにしお、次の議論を進めお行かう。  早速䟋を挙げるこずにするが、仏蘭西十䞃䞖玀の倧䜜家に、ボッスュ゚ずいふ博孊な坊さんがある。この坊さんは、職業柄、その曞くものは、文孊ずしお類の少い「匔詞」ずいふ圢匏であり、これがたた仏蘭西叀兞文孊の傑䜜である。  この「匔詞」は、私の芋るずころでは、小説よりも、戯曲に近く、誠にルむ十四䞖時代の「挔劇時代」を思はせるものである。これを若し、戯曲の䞭の、曎に特殊な䞀圢匏に結び぀ければ、云ふたでもなく、「独癜」なのである。ラシむヌ、コルネむナの有名な「長癜」も亊、これに髣髎たるものがあるず云ぞよう。  たた、同じ時代の、卓抜な閚秀䜜家、ド・セノィニ゚倫人の同著䜜は、悉くこれ、「曞簡」である。圌女の嚘に宛おた惻々たる母の声だ。舞台的独癜の䞀芋本だ。  これらの二䜜家は、䜕れも、その文孊的皟質に斌お必ずしも「戯曲家の息」を感じさせるずは云ぞないが、偶々、かくの劂き特殊な圢匏を遞んだこずによ぀お、「戯曲的」領域にたで、その才胜の䞀端を光らせおゐるのである。  ずころが、同じく「曞簡」を通じおみたフロオベ゚ルや、倏目挱石などになるず、その文䜓のも぀リズムが、「戯曲的な」䜕ものをも感じさせないのみならず、ここでは、华぀お、「小説的」な事象の把握が目立぀お来る。  そしお、極端な䟋になるず、名小説家モオパッサンの「戯曲」なるものが、「戯曲的」に、申分なく「月䞊な」ものであり、谷厎最䞀郎氏の傑䜜「盲目物語」が、その「独癜」ずいふ戯曲に近き圢匏に拘はらず、意識的にもせよ、芋事に「戯曲的」な分野から離れおゐるのである。  そこで、私は、ひそかに思ふのであるが、「戯曲的衚珟」を生む䜜家の皟質ずいふものは、「小説的衚珟」を生むそれず、同時に、裏衚の関係で䞀䜜家のうちに存圚し、ある䜜家は、䞻にその䞀面を、たたある䜜家は他の面を育お䞊げお行くのではないか。そしお、その䞡面に挟たれた郚分が、創造的䞭枢の働きをする䞀個の詩的粟神に違ひないのだ。  このナむィノな比喩を、思ひ切぀お、もう少し敷衍させお貰ふ。  この䞡面は、文孊的掻動の総おの面ではないが、やや察蹠的な䜍眮にあるもので、その掻動期は、自然に委す時は、䜜家の幎代に応じお、「小説面」が先ぞ、「戯曲面」がやや埌れお来るものであるらしい。これは、前に述べた創造䞭枢の蚓緎が、先づ「抒情詩の面」を通じお行はれ、次で、小説の面ずいふ順序を螏むのが普通であり、戯曲の面は最も耇雑で殻が固いずいふやうな理由から、その面を通じおは、䜙皋の倩才か、文孊的壮幎期に達した䜜家でない限り、内にあるものを滲み出させ、倖にあるものを吞収するこずが困難なのである。そこで、倧方の凡庞な才胜は、若幎にしおいきなり戯曲に手を染めたが最埌、ただ、その面の凊理ず食り立おに忙殺され、遂に、僅かでもあ぀た文孊的創造の芜を、むざむざ枯らしおしたふのである。  この䞀項の結論を急げば、幎少にしお文孊に志すものは、先づ抒情詩の面に熱情を集䞭するのが自然であるが、偶々、これを飛び越えお、小説の面に興味が觊れたずしおも、それはただ、倚少の「背䌞び」によ぀お、「小説らしきもの」を曞くこずができるであらう。しかしながら、䞇䞀、二十歳にしお戯曲に傟倒し、自ら、筆を執らうずするものがあ぀たら、先づ、倩才の折玙を぀けお貰はなくおは、危険である。  これは、芁するに、戯曲家的皟質の成長は、想像よりも芳察に負ふずころが極めお倧からである。  この䞀文は、「戯曲及び戯曲䜜家に぀いお」時評的な感想を纏めるのが目的であ぀たが、埒らに、空蚀を匄した傟きがないでもない。殊に、読み返しおみお気になるのは、聊か傍若無人な八぀圓りだ。読む人によ぀おは滑皜であらうが、私は、この蕪雑な感想を、将に興らんずし぀぀ある新戯曲時代のために「捧げ」た぀もりだ。 「月䞊で、しかしお、偉倧」な戯曲が䞀぀でも出おくれれば、私は、黙぀お匕退らう。䞀九䞉二・六
0.699
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1
6,732
圌が䞻にゲヌムのキャラむラストを描きたす
0.104333
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圌女は新車を芋せおくれた。
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 私の敬愛する先茩、内藀濯氏の近著「思はざる収穫」に぀いお䜕か曞けずいふ本玙線茯者の呜である。  先づ内容は「静芳ず逍遥」「人ず䜜」「印象ず远憶」「読埌」「身蟺雑事」「十二人䞀銖」の六項に分類され、これに四葉の叙情味あふるゝ写真が添ぞおある。  各項目はたた、それ『〵豊富な暙題を含んでゐるが、その䞀぀䞀぀に぀いお、こゝで述べおゐる暇はない。たゞ若干の䟋を挙げれば、「仏蘭西文芞の味はひ」ずいふ文章は、今日たで、恐らく劂䜕なる専門家も觊れ埗なか぀た問題を懇切に手際よく取あげたものであり、「玠心の詩人ノ゚ルレ゚ヌ」及び「商船テナシチむの䜜者」の二぀は䜕れも皀な理解ず愛情を以お綎られたものであり、「印象ず远憶」の項は、殊に著者の愉しげな、しかも感動に満ちた県差を想像せしめる奜個の随筆で、䞻ずしお、巎里の芝居が裏衚から語られおゐる。 「身蟺雑事」は、氏の善良なる「パパ振り」を発揮した、しかも、なか〳〵哲孊的な瞑想録で、子女の教育に圓るものは、均しく興味を以お読むこずができるであらう。  最埌の「十二人䞀銖」は、氏が予お埗意ずせられる仏蘭西詩の翻蚳䞭、倚分䌚心の䞀ダヌスを収録されたものであらう。 癜き月 森に照り 枝ごずに 掩るゝ声あり  ず、読み䞊げたゞけで、ノ゚ルレ゚ヌの魂が自ら、氏の魂に蘇぀おこの句を生んだずしか思ぞない。  芁するに、内藀氏は、専門家のノオト臭を離れお、文孊を語り、文孊に遊び埗る倧通の䞀人である。埓぀お、䜕等の予備知識なくしおこの䞀巻を繙くものにも、十分の理解ず、それ以䞊の感銘が䞎ぞられるであらうし、䞀個の趣味の曞ずしお、近代の教逊ある人々に悊び迎ぞられるこずを、私は固く信じるものである。
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0.635
0.272
0.35
1
714
 文郚倧臣が孊生の芝居を犁じたこずは、その動機に斌いお僕は倧賛成である。ず云ふのは、埓来行はれおゐるやうな「孊校劇」は、倧䜓に斌いおその錓吹者が信じおゐるやうな芞術的乃至孊術的欲求から生れたものではなく、寧ろそれずは反察な卑俗極たる趣味の発露に過ぎないからである。  詊みに、所謂孊生劇なるものゝ本䜓を突き止めお埡芧なさい。少し「頭の䜳い孊生」は、癜粉を塗぀お「圹者の真䌌」なんかしたがりはしたせんから玠人劇に぀いおは別に意芋がある。  然しながら、文郚倧臣が青幎教育に目芚め、民族文化の正しい指導者たる実を挙げる為めには、もう䞀歩螏み出さなければならない。  孊校劇を犁止するもいゝ――その効果は別問題ずしお。  たゞそれず同時に、先づ囜立挔劇孊校を蚭けなければうそだ――孊生の軍事教育などより前に。 「シネマの向䞊をはかる為めに、文芞物を専門に芋せる文芞掻動写真協䌚生る」ずのこず。耳よりな話である。  凊で今日たで、文芞掻動写真ずしお玹介された映画は、その原䜜者の名に斌いお、暙題のも぀芪しみに斌いお、䞻題の矎しさに斌いお、勿論、通俗的フむルムの銬鹿銬鹿しさに比すべきではないが、之を以お盎ちに掻動写真の進むべき道ずなすこずは、恐らく映画芞術の本質を無芖したこずになるであらう。  倖囜文芞玹介の䞀助ずしおこれらの映画を茞入するこずは盞圓の意矩がある。  真にシネマそのものゝ芞術的向䞊をはかる為めなら、必ずしも文芞物ず限る必芁はない。仏囜でいふなら、アベ゚ル・ガンスの『車茪』の劂き、文孊より独立した映画芞術の䜳䜜も少くない。かういふものを是非加ぞお欲しい。  鶎屋南北の党集が出るので、僕も予玄募集に応じようかず思぀お芋たが、今日たで、締切間際たでただ決心が぀き兌ねおゐる。  日本で、芝居でも曞かうずいふものが、自囜の叀兞劇䜜家を読んでゐないずは抑も䞍郜合な話しで、恐らくシェクスピむダ、ゲ゚テ、ラシむヌ、モリ゚ヌルなどを読むより埗る凊は倚いかも知れないに拘はらず、どうも近束ずか、南北ずか黙阿匥ずか云ふ名に接しおも、さほど芪しみがもおないのは、や぀ぱり西掋䞭毒の結果に違ひない。  凊で、考ぞお芋るず、そんなら珟代の日本劇䜜家で、誰が本邊叀兞劇の芞術的䌝統を承け継いでゐるか、そしお、その䌝統が、劂䜕に西掋劇の圱響の裡で光぀おゐるかず云ぞば、これは䞀寞、返事がしにくい。  仮に山本有䞉氏のうちに近束が、谷厎最䞀郎氏のうちに南北が、菊池寛氏のうちに黙阿匥があるずする。それは、倚分、これらの諞氏が有぀おをられる凊の䞀番䜳いものではないだらう。それはそれでいゝから、かういふ人々の口から、或はも぀ず若い、胜島歊文氏ずか、関口次郎氏ずかの口から、おれの最も芪炙する劇䜜家は、䟋ぞば鶎屋南北だ――ずいふやうなこずを云ひ出す時代が来ないものだらうか――ポルト・リシュがラシむヌの盎系ずしお玍た぀おゐるやうに。
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1
1,211
俺達の手を芋おくれ絊え ご぀ご぀で無现工で荒れお頜れお生掻の劂に殺颚景だが 矍鑠ずした姿を芋おくれ絊え 頑健なシャベルだ 䌝統ず因習の殻を螏み摧き 時代の扉を打ち開く巚倧な手だ りゅうりゅうず筋骚はもくれ䞊り 俺達の劂く底力を秘めおいる どきっどきっ脈打぀血管には 火よりも赀い革呜の血が流れ すべっすべっ皮膚は砲身の劂く燿いおいる ペシャンコにひしゃげた爪は兄匟達の顔面の劂に醜いが 頑固で硬質で 圌奎等の匟圧䜍びんびん匟き返すのである 干からびた田圃の劂な掌の亀裂も少しの悲しい色もなく 手其物が光に包たれ 荒っぜい指王が䜕ず莞爟に明日を玄束しおいる事か 手は戊闘の意欲に燃え 背胝は打ち固められた決心の固さ 目には芋えないがあらゆる䞖界の同志の手ず握り亀され 広倧な戊塵の列䌍に副い 采配の䞋る日を埅ち䟘びおいるのである ぎゅっぎゅっ鳎っおいる闘志を聞く事が出来るだろ 来るべき俺達の䞖玀を芋る事も出来るだろ 生々しい闘争の跡は皺の間に刻たれ ぎゅヌっず握れば奎等ぞ投げ぀ける手抎匟 開けば奎等の土台を芆す鋀犂ずもなる 十本の指がびんびん働く行動は 䜕時も組織ず統制の䞊での飛躍 手の䞭には先祖代々の魂が䜏み 搟られお空しく死んだ祖先の反逆が爆発し 焔の劂く燃しきっおいるのである 真黒い手 節くれ立った手 時代の尖端に飛躍する手 振り廻すずびゅっびゅっ颚が唞り 剣をずっお立ち䞊った勇姿が思われ 圌奎等の頭を打ち摧き 圌奎等の城壁ぞ突喊する殺気がむらむら湧き立ち䞊がる 急がず焊かず 手はじっず息をひそめ 鋌鉄補の情熱を沈め 軈来る幟癟䞇の同志が双手を䞊げお振り翳す日のために 同志を集め 同志を教え 耐え 忍び 朜勢力を貯わうる革呜の䜿埒である 『文芞戊線』䞀九二九幎八月号に今村桓倫名で発衚『今野倧力・今村恒倫詩集』改蚂版を底本
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倧䜓の感想は、日本青幎通での合評䌚で申し述べたから、其機関雑誌「青幎」に茉る事ず思ふ。其を埡参照願ぞれば結構である。たゞ爰では、熱心な傍芳者が、日本囜䞭の手のずゞく限りの民俗芞術を、真の意味に斌お自分の実蚌的態床を鍛錬する気組みで芋お歩いた、さうい぀た態床を離さないで、今床も芋せお貰぀た其感想を蚘録しお眮きたいず思ふのである。 たづ挔出に察しお 日本青幎通の歀事業に察する毎幎の苊劎ず蚀ふものは実に感謝に倀するず思ふ。぀いでは、柳田先生、高野博士、䞻ずしおは蚓緎のない田舎の芞術団の為に、骚を削る様な苊劎をしお䞋さる小寺融吉さんの努力を、我々䌚員は協同にねぎらはなければならない気がする。たゞ忌憚のない感じを申すず、あたりに小寺さんの近代的審矎感から、極めお僅かではあるが、時々生のたゝの原圢をたげお居はしたいかず恐れさせられた事である。しかし、歀は東京ぞ持぀お来るず蚀ふ意識の為に、県庁や村に斌お既に倧修正を斜しお居るものが倚々あるに盞違ないのだから、挔出者の朔癖な敎理から出お来る僅かな圢のひずみぐらゐを問題にしおは眰が圓るず思ふ。欲を蚀ふなら、其挔出の努力の䞭心を、舞台効果に眮かないで、地方人の謂はれない新意匠の混぀お居る点を掞察しお、出来るだけ原の姿にひき盎させるず蚀ふ点に眮かれたいずだけは願はないで居られない。歀はこの事業を、民俗的にするか芞術的にするかの倧切な岐れ目だず思ふが、恐らく歀点では、小寺さんにも迷ひがあり、尊敬する二先茩にも解決が぀き切぀お居ないのではないかず思うお居る。䞀䟋を申すず、今床も淡路の倧久保螊りの音頭の服装に就いお、倧分我々の間に修正案が出お居たが、結局、぀ずめお田舎らしい味を出さうず蚀ふずころに萜぀いたのであ぀た。だが、歀なども、土地では存倖田舎らしくない姿をず぀お居るのかも知れないのだから、其を我々の心に這入り易い叀颚にひき盎す事は、やはり芞術的に修正するのず同じ欠陥がありさうに思はれる。どの道、民俗芞術ず蚀ふものは、郜䌚匏な、我々の欲しないでかだんすをも滋逊分ずしお垞にずり蟌んで行぀お居るので、其が同時に発達の動力にもな぀お行くのであるから、歀点に考慮なく、たゞ我々の趣味に叶ふ叀兞味を附加しようずする事は、倚少本質的の誀りを含んでは居ないかず思ふのである。 尚䞀蚀、芞術的態床に就いお申したい。青幎通の立ち堎からすれば、新しい綜合芞術を田舎生掻ぞ䞎ぞようずする点に、意矩を芋出しおも居られるのであらうが、我々から申すず、其ならば今少し倧胆な修正を加ぞおいゝず思ふ。しかし、さうした修正は、う぀ちや぀お眮いおも、刻々に地方々々で行うお居るのであるから、歀催しでは、たゞ地方造型矎術の展芧䌚を開く意味に斌お、あたり芞術的ず蚀ふずころに目暙を眮いお戎かない方が、挔出者も楜であり、芋お居る我々も、真の過去の生掻を顧みさせられる事になるず思ふ。 悲芳せずに居られない日本の民俗芞術 青幎通の事業に斌おだけでなく、田舎を歩いお芋おも垞に感じる事であるが、日本の珟圚の民俗芞術の出発点が比范的近代にあり、而も、其本源が極めお単玔で、今尚分化の過皋の耇雑でない事を思はせる事が屡である。殊に今床のものに斌お䞀局歀感が深められた様な気がする。合評䌚の垭䞊で歀事を話しお、柳田先生から倧分蚓戒を戎いたが、どうも其気持ちは、やはり移らないで居る。倧䜓に斌お、念仏系統・䞇歳系統、歀二぀に分れ、而も其が近䞖の挔芞者の挔芞皮目の関係䞊、混乱を来しお居るず蚀぀た、極めおものたりないず蚀はうか、寂しすぎるず蚀はうか、圓代の隠者、抎本其角でもあり、平賀源内でもあり、又、原歊倪倫でもあり、曎に最適切には蜀山人を思はせる偉才兌垞枅䜐先生をしお、極端なる無芖ず残虐を擅にするにたかせるより倖はないず蚀うた歎史的の事情があるのである。日本の民俗芞術をあたりに悲芳しすぎるず、柳田先生は仰蚀぀たけれども、どうしおも悲芳せずに居られない。其皋分化展開の皋床が䜎いのである。歀事に就いおは、必兌垞先生が同じ誌䞊で実蚌しお居られる事ず思ふが、実際吊む事の出来ない事実なのである。 異圩を思はせた臌倪錓螊り 其䞭、やゝ俀を異にしたものは日向児湯郡の臌倪錓螊りであ぀た。歀には、南囜の皮子を十分に有しお居る事が芋られ、前の二぀のものよりは、根本に斌お叀代が窺はれるず思うた。でも、其挔技法に斌おは、かなり近代化したものを芋た。私どもは、舞螊音楜の専門家でないだけに、或点には囚はれないで、其ものゝ本質を芋る䜙裕を持぀お居る様な気が、他の方々の話を聞いお居る䞭にしたのである。歀螊りが、最珟代の生掻に受け容れられ易い事は事実でもあり、蚓緎其倖の行き届いお居る点では感心させられお居るが、䞍幞にしお王様の襯衣を空想化出来なか぀たあらびやんないずの子䟛の様な門倖挢は、劂䜕に芞術味を芁求しないずは蚀ぞ、歀を芞術囜ぞ持ち出さうず蚀぀た䞀郚の䌁おず其勇気には驚かずに居られない。 党䜓、臌倪錓螊りなるものには、名前は䞀぀でも、いろ〳〵違぀た、ずんでもない皮類のものが含たれおゐる。だから、歀䞀぀では、九州南郚はもずより、南島地方の臌倪錓螊りの暙準的のものず蚀ふ事も出来ない。寧、臌倪錓螊りの名をかりた他の民俗芞術ず蚀ふ方が正しいず思ふ。念仏螊り・䞇歳の倖に立぀唯䞀のものずしお挙げた歀ですらも、埡芧の通り、其音頭・囃しは極端に念仏であ぀た。歀では、悲芳しないでどう居られよう。歀は、鹿児島の劙円寺参りず同じ系統のもので、䞀方に祭りの時の倧名行列の姿にな぀お行くものであるず思ふ。 芁するに、成幎戒の時にあた぀お行はれた激しい南島颚の舞螊が、次第に他の民俗芞術を含んで倉化しお来たものに盞違ない。あの背に背負぀た、我々を喜ばした、䞈高い指物は、確かに或時期に斌お䌊勢螊りの芁玠を含んで来た事を瀺しお居る。即、お䌊勢様から貰぀お来る䞇床祓の䞀皮がだん〳〵に誇匵せられお来たのだず思はれる。 䌊勢螊り・たゝら螊りず物忌生掻の印象ず 䌊豆新島の盆祭り祝儀螊り。これも近代に、念仏者――門がめ・家がめの䞇歳匏を含んだ――が歀離れ島ぞ枡぀お、青幎期を印象する舞螊の䞊に俀を止めたものず思はれる。而も歀には、䌊勢螊りの芁玠が十分にずり蟌たれお居る事は、其挔芞皮目に䌊勢螊りのある事から芋おも知れる蚣だが、第䞀、傘がうろくず称する、其傘鉟が蚌しおも居る。又、顔を極床に隠すかゞみ幕を垂れた耄折笠が蚌しおも居る。若しあの䞭から匷ひお、曎に叀い新島の姿を求めようならば、はちたきの裟を垂らした䞋緒ず称する、䌊豆䞃島のものいみ生掻に通じたはちたきの固定した圢である。 曎に、歀は偶感的な事ではあるが、歀盆螊りの䞭に、或はたゝら螊りの系統が色濃く流れお居るのではないかず感ぜられた。あの扇や足の遣ひ方に、たゝら・棒づき――どうづき――或は堂䟛逊の芁玠が濃厚に芋られる様な気がしたのである。 たのむの神事から䞊芧螊りぞの掚移の跡 同じ系統のものに、飛隚宮村の神代螊りがあ぀た。歀螊りに察する䞀般的の批評は、新島の盆螊りず察照しお、其時代が遅れお居る、其だけ芞術的に或掗緎が加は぀お居るず蚀ふ点にあ぀た様だ。埌半の批評は、芞術批評は控ぞねばならない私にも蚣る様な気がする。けれども、前半の批評は、其が党䜓の為組服装などの点から出お居るずころを考ぞるず、遜かに賛成は出来なく思ふ。為組の䞭にも、郚分的に倉化があり、固定がありする点を芋なければならない。殊に服装の䞊では、其が行はれる堎合を考慮においお芋なければ問題にならない。所謂桃山時代以埌盛んにな぀お来た䞊芧螊りに斌ける庶民の服装が、曎に時を経お掗緎せられおあゝいふ颚になり、又、或期間の䞭絶が、歀を䞀局華矎に飛躍せしめた凊なども考ぞお芋なければなるたいず思ふ。 歀螊りで泚意すべき点は、あの䞀矀が四組に分れ、各組に䞀人宛、女に扮した、さうしお颚流笠を戎いた男の亀぀お居る点である。歀は数䞪の字から䞀所に緎り蟌むず蚀ふ颚習が出来る以前の圢を思はせるものであ぀お、元は氎無神瀟に行はれた、八朔頃のたのむの神事であ぀たのではなからうか。即、収穫を盎埌に控ぞお歀を祈る行事で、西出雲では、珟に今でも念仏螊りず称しお居るものである。挔技に斌おは、緎れお居るけれども、新島のものよりは寧玠人意識の倚いものず考ぞられる。䜕にしおも倧分近代味の加は぀た、殊に衣裳に斌おは最近のものが加は぀お居る様に考ぞられるのは残念である。歀は友人河合繁暹さんあたりが、今少し叀颚にひき戻す工倫をしお戎きたいものだず思ふ。さうしお、宮に仕ぞる若者衆が行぀た念仏螊りが、曎に䞊芧螊りに倉぀お行぀た道筋を、今少し考ぞ易くしお貰ひたいず思ふ。恐らく昔は、たう少し芞術的感興のあ぀たものであ぀たらう。 民俗芞術史の立ち堎から 䌚接の玄劂節は、非垞に統䞀の぀いたものであ぀たが、䞀点のもの足りなさがあ぀た。あたりに自由で、少しの拘泥もない、ず蚀぀たずころが、华぀お欠点だ぀たのではなからうか。それに、芞を芋せるず蚀぀た意識のある事が我々にも感じられた点が、劂䜕にも残念だず思はれた。あれでは、どうした぀お向うに磐梯山が聳えお居るずは思はれない。䌚接平野で螊぀お居るず蚀ふ気持ちでなく、やはり東京の人達が芋お居る前で螊぀お居るず蚀ふ意識の方が匷く、劂䜕に自由な螊りぶりであるかを芋おくれず蚀぀た気持ちが、我々の胞にも這入぀お来た。勿論、其が同時にあれの面癜か぀た所以でもあるのだけれども、たう少し、さうした優越感のなか぀た方がよか぀た様な気がする。だから、さうした優越感のあ぀た人ほどいけなか぀た。人を指しおは気の毒だけれども、あの䞭では䞀番うたくもあ぀たのだらう。それにいろ〳〵他人の䞖話をやいたりしなければならない地䜍にあ぀たんだず思ふが、最埌に氎を飲んでき぀かけを぀けた人があ぀たが、あの人から受けるものが䞀番感銘が䞍玔だ぀た。歀点では、氎を飲たした挔出者にも䞍平はある。しかし、日本のかうした倧衆的な芞術に、あゝしたせんちめんたりずむな気分は、最早滅びる時期が来たのだず思ふ。勿論、倧衆芞術には圓然感傷味がなければならぬのではあるが、珟代では、さうしたせんちめんず以倖に、も぀ず倖の或ものが加はらなければならぬのだず思ふ。 たゞ、爰で民俗芞術史の立ち堎から感じた事を䞀蚀申しお眮くず、普通我々が蚀ふ長篇の口説節以倖に、どゝ逞に近い圢の――なげ節以前から芋えお居る傟向の――短い口説が出来お居぀お、其が長い叙事詩の代りをしお居぀た。そしお其が、地方々々である空想づけられた名高い来歎を持぀た民謡を䜜る事にな぀た。譬ぞば、远分の劂き、おばこの劂き、或は歀玄劂節の劂きものが出来たので、其起源は、勿論、ほそり・なげ節などの起源にな぀お来るのだらう。けれども、さう蚀ふ䞀぀の、日本民謡史の䞭の或芖野が、歀唄をきゝ、歀螊りを芋お居る䞭に展けお来た様な気持ちがしお来たのである。歀玄劂節の劂きも、玄女ず蚀ふ女が居぀お歀唄が出来たず蚀ふけれども、其は反察に、歀唄からさうした空想の人物が生れお来たので、又、玄女の名そのものが、唄ひ方やら発音やらから生れお来たのに盞違ない。そしお其が無限に替ぞ唄を䜜぀お行぀お、やがお䞀぀の民謡の䞀矀団をなすやうにもな぀お行぀たのであらう。 緎道・立合の挔劇化せる前ず埌ず 淡路の倧久保螊りに就いおは、或晩䞀緒に芋お居た北原癜秋氏が、歀ず同じものを倧分の臌杵でも芋たず蚀うお居られた。さうしお芋るず、存倖我々の知らない陰に、いろんなものが広く分垃しお居るず蚀ふ事が感じられる。私の感じた凊では、歀芞は、阿波方面で盛んに行はれる、先に述べた堂䟛逊から出発したず思はれる、たゝら螊り・笠螊りの挔劇的な芁玠を倚分に含んだものらしい。第䞀に现い廊䞋のやうなずころを緎り歩くず蚀ふ事が其である。歀圢のだん〳〵発達しお行぀たのが、川厎音頭・䌊勢音頭、匕いおは明治の郜螊り以䞋の緎り螊りを圢づく぀お来たのである。そしお其間倉化を求める為に、䞀組づゝの挔劇的な芁玠をも぀たものを入れる様にな぀お来たのが、癜石・寺子屋・土橋などであるのだが、爰で泚意すべきは、䜕故その間に刀の類をずり扱ふ事を䞻ずしお居るかず蚀ふ事である。単に挔劇的の芁玠を入れるず蚀ふだけならば、必しも刀を振り翳すものず、歀を受けるものずの察立だけにしなくずもよい筈である。歀は、刀を持たせる前に、盞舞よりも、寧、立合ずも蚀ふべき、同じずりものを持぀お察立的に舞ふ颚があ぀たのであらう。其が倚くは長い棒の類であ぀たずころから、かうしたものが発達しお来たのだず、私は芋たい。そしお、其立合の圢を䜜らない前のものが、髭奎・䞉階笠・片手枕・淀の車などであらうが、歀ずおも、既に緎り螊りの圢から、䞀歩盞唱的な繰り返しの圢が出来お居たものず思はれる。だから、其以前には、個々別々な服装ず即興的な舞螊で、緎道颚に緎り歩いた姿を思はせお居るのである。 挔芞皮目の固定に察する打開 尚歀機䌚に述べお眮くが、私は、い぀でも歀郷土舞螊の䌚に、日本の舞螊の䞀原理にな぀お居る、極かすかな挔劇的な味を含んだ、挔劇的なものが避けられ勝ちな傟向にあるのを遺憟に思うお居る。若し歀が、職業的であるず蚀ふ、或は郜䌚的であるず蚀ふ事の為にさうされお居るのであるずしたら、そこに尚䞀局の苊心を願぀お、郜䌚的・職業人的でないずころの挔劇舞螊の発芋ず玹介ずを䞀぀の暙目にしお戎きたいず思ふ。でなければ、我々は、少くずも平安朝以埌の歌謡・舞螊に通じお居る䞀倧原動力を芋萜す事になるのである。 䜕にしおも青幎通の毎幎の努力に察しおは、二本の手では賛成し切れないほど厚意ず満足ずを感じお居るのであるが、倖の方々も既に感じお居られる様に、こゝで䞀飛躍をしなければ、挔芞皮目の䞊に或固定が出来る事は事実である。其には、かう蚀ふ方面を考ぞお芋る事も、確かにさうした方面の䞀掻路を開く事になるず考ぞられるのである。 ど぀さり節ず六斎念仏ず あたり長くな぀たが、あずの二぀に就いお䞀蚀だけ蚀うお眮かう。 隠岐のど぀さり節の劂き、山城の六斎念仏の劂き、片方は远分の䞀分化ず称しながら、極めお远分ずは瞁遠くな぀お居る点に斌お、日本民謡の或性質が芋られる様に思うた。 六斎念仏では、殊に出お来た村が、䞊葛宮吉祥院であるだけに、埡霊信仰・念仏などの関係が、深く我々の歎史的考究欲をそゝ぀たのだが、譬ぞ、私の考ぞる民俗芞術の範囲は党然離れお居ないにしおも、既に私が最埌の条件を加ぞた郚分の民俗芞術に入り過ぎお居るものである。若し歀を蚱す事の出来る雅量があるならば、今少し静かな、今少し挔芞的でないもので、而もも぀ず田舎の挔劇的な芁玠を含んだ――挔劇芞胜の歎史を顧るに奜郜合な――材料がたくさんあるに違ひないず思ふ。 しかし、䜕の圌のず蚀うおも、我々は街に居ながら、静かに田舎の人ず同じ呌吞をかはす䞀倜を、譬ぞ䞀幎の間に数倜だけであらうず埗られるず蚀ふ事は、幞犏な幎䞭行事だず感謝をしお居る。
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圌のスピヌチは私たちの心を打った。
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 雄匁が文孊の䞀ゞャンルずしお今日どういふ取扱ひを受けおゐるかずいふこずを考ぞおみるず、わが囜では、先づ第䞀に、そんな文孊のゞャンルはこれたで認められおはゐなか぀たやうである。  西掋では垌臘以来、論議ず挔説の圢で、雄匁が「文孊的に」発達し、フランス十䞃䞖玀にはボッシュ゚のやうな雄匁文孊の倩才を生み、その「匔蟞集」は叀兞の傑䜜ずしお文孊史家は必ずこれに若干の頁をさいおゐる。  元来西掋の゚ロカンスずいふ蚀葉を雄匁ず蚳すのは正しいかどうか疑問である。しかし、これは習慣に埓ふずしお、近代西掋文孊の䞀般的散文化にも拘はらず、私は、その䌝統のなかに、各皮目を通じお、雄匁の芁玠が倚かれ少かれ含たれおゐるこずを泚意しないわけにいかないのである。  アランなどに埓ぞば、散文は雄匁やリリシズムず察立するものずしお、その本質的な衚珟の性栌が明瞭に区別されおゐるけれども、これは飜くたでも玔粋な芋方であ぀お、私の意芋はこれず関係なく、西掋近代䜜家の手にな぀た散文が、高床な生掻色を垯びた雄匁の魅力をひそたせおゐるこずをたづ感じ、殊に、戯曲ず曞簡文孊の文䜓的特質は盎接雄匁の圱響を陀倖しお考ぞるこずは䞍可胜ではないかずかねがね思぀おゐる。  日本でも、さういふ意味に斌ける雄匁の䌝統は、叀来、軍蚘物語の類から講釈萜語たたは歌舞䌎劇の脚本等のなかにみられはするが、それは著しく職業的なものずしおの発達のしかたをした。云ひかぞれば、雄匁が䞇人の生掻のなかに浞最しなか぀た。日本人の個々の教逊ずなるやうな瀟䌚的芁求がなか぀たからである。これは結局、日本に斌けるデモクラシむの思想の歎史ず密接な関係があるのである。  ずころで、明治以埌、政治運動ず共に、新しい雄匁の䞖界が時代の面に浮び出たこずは呚知の通りであるけれども、この政治挔説なるもののひず぀の型は、凡そ、「文孊」の感芚ずも、哲孊の思玢ずも瞁遠い粗雑な興奮の䞊に出来あが぀たものであ぀お、わづかに、優秀な基督教牧垫の説教が西掋の雄匁の䌝統を承け぀いだかの芳があり、若干の文孊者が、或は戯䜜者的な奜みから、或は矎文調なる䞀皮のリリシズムに混ぞお、甚だ手軜な雄匁を振り廻したに過ぎぬ。  しかし、西掋文孊の圱響は、次第に、文䜓の倉革をもたらした。小説では挱石、荷颚など、評論では癜村、阿郚次郎などのなかに、早くも、西掋的雄匁の正統的な蚓緎がみられ、所謂「話術」ずいふやうなものず別個に、䟋の誘導的な叙述の呌吞が文章の颚栌ずしお読者を惹き぀けたのである。  それはさうず、私が今、特に問題にしたいのは、日本文孊の䌝統のなかに、「雄匁」なるものが特殊な地䜍を占めおゐないずいふこずは、今日、われわれの「戯曲文孊」が非垞に立ち遅れおゐる最も倧きな原因にな぀おゐるずいふ事実なのである。この問題はも぀ず詳しく論じなければ、成る皋ず思ふ人は少いかも知れぬが、私は、このためにでも、将来、日本に斌ける「雄匁」の歎史を調べおみたいず思぀おゐる。  セノィニェ倫人の劂き、その「曞簡集」䞀巻をも぀お堂々ずフランス叀兞䜜家の列に加぀おゐるずいふやうなこずは、たこずに瀺唆に富む珟象であ぀お、西掋人の「手玙」は、云ふたでもなく、叀い「雄匁」の枝に咲いた䞀個の花なのである。「文䜓」昭和十四幎五月
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どうも山陜テレビず教育テレビの映りが悪い
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スポヌツにたったく興味が有りたせん
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バス停はどこにありたすか。
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ゞムは匁護士でなく医者だ。
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圌が党く盞手にされなかった
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人には二぀タむプが有りたす
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たくさんの人が釣りをしたした
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ずおも朚の銙りが良い
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 東京の䞭は䜕凊も倧抵知぀おゐる぀もりでゐたけれども、燈台もず暗し、掲厎をろくに知らずにゐたこずを最近にな぀お気が付いた。その掲厎ぞ行぀お芋お初めお、こんな特殊なずころを、今たで殆んど知らずにゐたかず、迂遠に心付いたわけだ。  ――尀も掲厎の抂念なり地圢等々は子䟛の頃から聞きおがえおよく知぀おゐる。掲厎ず云ぞば接浪、倧八幡楌、広重の絵の十䞇坪名所江戞癟景の内ず、よく知぀おゐる。写生画では小林枅芪や井䞊安治の朚版画でその昔の有様をずうからなじみだし  华぀おその為めに、今日たで実䜓は知らずにゐおも気に留めずにゐたものだらう。地域のせゐでアノァンテュヌルには瞁無く過ぎた土地だ。  二䞉日前八䞁堀たで写生の甚があ぀お行぀た序でに、そろそろ日の暮れ方であ぀たが、思ひ立぀お掲厎たで足をのばしお芋た。そしお車を「こゝが遊廓の入口だ」ずいふずころで䞋りお芋るず、盞圓幅の広い橋があ぀お、俄然ずしおその先きの行手に嚌家の䞀劃が展ける。通りの真䞭に打枡したコンクリヌトの道幅が倧局広く、その䞡偎の、嚌家の造りをした家䞊みが、たた倧局䜎く比范的暗い。そのくせ惻々ずしお町党䜓に物憂いやうな、打぀ちやりはなしたやうな、無蚀の゚ロティシズムが充満しおゐる。それが吉原や新宿あたりのやうにぱ぀ずしたものでないだけ――䞁床空も暗くどんよりずした日の、この町にはそれが誂ぞ向きのバックだらう――䞀局陰々ずしお真実めいた色街の景色だ぀た。  これが第䞀印象だ぀たのである。  掲厎の倧門であらう。別に門の䜓裁は成しおゐないけれども、ずに角倧門ず称し埗る暙識塔がそこに巊右䞀察に建぀おゐお、鋳物であるが叀颚な、先づその右手の塔の衚面に浮圫の文字がかなりの倧字で「花迎喜気皆知笑」ずしおある。いふたでもなく巊手の方ず぀ゞいお䞀聯を成すものに違ひない。道路をわた぀お巊手ぞ行぀お芋るず果しお、「鳥識歓心無解歌」ずしおあ぀た。裏面を芋るず「明治四十䞀幎十二月建」ず打出しおある。 掲厎遊廓門柱  倜目で審さにはわからなか぀たし、栌別にも泚意しなか぀たが、ずに角これは明治のカナモノ现工の䞀぀で、その末期のものずはい぀おも、今ずなれば存倖そのアラベスクなぞも時代の颚味のある少数の遺存物に圓るだらう。  ――それよりもがくは、この掲厎のカナモノを芋るず同時に、同じものでも吉原の倧門の明治味感を盎ぐさた思ひ出しおゐた。震灜の圓時たれだ぀たか名のきこえた人が真先きにあの砎片をか぀ぎ出したずか聞いたし、近頃の消息ではたた、残片を時節がらツブシに出したずも聞いたやうだ。これは元来ちやんずアヌチ圢の「門」にな぀おゐたもので、䜜も华々良く、韍宮の乙姫様がアヌチの匓圢の真䞭に立぀お倜空に電球を捧げおゐたのをおがえおゐる。これは文献で芋るず明治十四幎の䜜ずあるもので、 「総お鉄にしお氞瀬正吉氏の䜜に係る。䞡柱に巊の䞀聯を鋳出せり。 春倢正濃満街桜雲 秋信先通䞡行燈圱 是ぞ犏地桜痎居士が圓時豪奢の名残りず聞えし。」明治四十䞀幎版「吉原名所図絵」東陜堂  掲厎のものは䜕れこの暡倣に盞違ないものである。吉原のカナモノ现工ならば、さういふ庶民矎術品の䞀぀の代衚ずしお䌝はる䟡倀のあ぀たものである。掲厎の暙識塔も、震灜前あたりはあれで矢匵りアヌチ圢をしおゐた。今あるのは、その䞀郚かも知れない。  がくが昔、家人から聞いたずころに䟝れば、東京も川を向うぞ枡れば別䞖界で、遊廓も掲厎は東京をかたはれた東京者の行くずころである。埓぀お気颚が荒く、嚌劓などもそれに盞応した枡り者が陣取぀おゐお、埀々にしお雇人の方が䞻人よりも錻息があらい、ず。  しかしそれは「昔」の東京又は掲厎のこずであらう。今は「東京」も「掲厎」も倉぀たから党然話が別ず思はれる。――それにしおも、䜕凊かに昔なりのぞんきな、たた䌝法な気颚はあるものか、がくが぀い先倜の䞀二の発芋にしおも、それが吉原・新宿・品川・玉の井  䜕凊ずも違぀たキメの粗い叀颚な感じの有぀たのは、ずある曲り角で、しやぐたに結぀た真玅な装束の女が垯しろはだかでいきなりばたばた暪町から埀来ぞ出たのに出逢぀たこずや、ある小店の玄関先を芋るずもなく芋るず、そこに五六人の嚌劓がたむろしお、あるひは髪をかき䞊げおゐる、䞀人は立぀お桃色の着ものの前を倧きく匕぀ぱ぀お振りながら合せおゐる。その他、ゎチダゎチダしおゐる有様が、ずんず、囜芳の絵本かなんぞを芋るやうであ぀た。 遊女  この廓内は通りが正確に碁盀目をしながら、倧抵の通りのその行き止りたで行くず、卒然ずしおあたりが぀がむやうに暗くなり、高い䞀䞈ほどもありさうな黒塀などが立぀おゐる。たた倧抵は行き止りにコンクリヌトの広いゆるい段が出来お、その先きが目かくしの、忍び返しなど぀けた頑固な板塀にな぀おゐる。段を登぀お塀のすき間から向うをのぞくず、光り䞀぀芋えず、そこはどんよりした遠い氎面らしいのである。  いかさた、昔この向うの島に囚人がゐたころに、その時分深川は吉原の仮宅があ぀たずいふが、仮宅の隒ぎが、氎に乗぀お先づ倪錓がきこえお来る。それにかぶせお浮いた䞉味の音が囚人達の耳に䌝はる。囚人がそんな時やみにたぎれ牢脱けをしお氎を枡る芝居などが䜜られおゐる。――そのころのどんよりした氎面も今倜ず党く同じものだ぀たらう。  掲厎ずいふずころは䞀䜓、 「掲厎遊廓は掲厎匁倩町の党域を有し、別に䞀廓を成し、新吉原に擬したるものにしお海に臚むを以おその颚景は华぀お勝れりずす  掲厎橋を枡りお廓内に入れば盎接の倧路ありお海岞に達す。巊右䞡畔に桜暹を怍ゑ、新吉原の䞀時仮怍せるものに異り、春花爛挫の節には銙雲深く鎖しお䞀刻千金の倢を護す。この花折るべからずの暙札は平凡なれども歀凊に圚りおは面癜く芚え、海岞の防波堀は石垣ずコンクリヌトを以お築きたるものにしお明治䞉十䞀幎五月成、監督東京府技手恩田岳造ず固くしるしあり。倩然の颚浪はこれを以お容易に防ぎ埗るべし、色海滔々の情波は遂に防ぐべからず。」 「青楌綺閣瞊暪に連り、遊客の登るに任す。その䞭最も倧なるは八幡楌倧八幡ずいふにお構前に庭あり。蟠束に束竹等を配しお颚趣を添ぞたるが劂き新吉原に芋ざる所なり。その他新八幡楌、甲子楌、本金楌等は廓䞭屈指のものなり。倜着の袖より安房䞊総を望み埗る奇景に至぀おは、実に東京垂䞭に圚りおは本遊廓の特色なり。」  かういふ工合に曞かれたずころで、この文章は明治四十二幎発行の「新撰東京名所」第六十四号東陜堂版から匕甚したものだ。䜙皋今からは幎代の隔たる文献だから、嚌家の名などは到底このたゝではゐたい。しかし同じ本の「掲厎匁倩町、町名の起源䞊に沿革」に誌されるずころは今もそのたゝ通甚する筈だ。それに䟝るず、 「掲厎匁倩町は五䞇坪ありおもずは海䞭なりしが之れを埋築し、明治二十幎功成りお深川区に線入し、近隣に旧掲厎匁倩の瀟あるを以お町名ずし、同二十䞀幎九月、䞀䞁目二䞁目に分ち、遊廓ず為したり。」 束喜楌  しお芋れば、䞀立斎広重が死の盎前安政自䞉蟰至五午幎に䜜぀た江戞癟景にこれを「掲厎十䞇坪」ずしお䞀望荒涌ずした地域を空から倧鷲の舞ひ䞋るすさたじい颚景に衚珟したのも、肯かれる。井䞊安治の掲厎は――安田雷掲の掲厎なども同じやうな図柄の――前景に長い川添ひの堀防があ぀お、草地ずなり、これが埋立地ずおがしく、はるかに神瀟の屋根が兀然ず高く芋えるのは掲厎匁倩に盞違ないものである。  恐らく安治の颚景は、明治二十五幎以前に写されたこの土地の点景だ぀たに違ひない。  がくはその日十䞀月䞉日倜俄かに掲厎ぞ足を螏み入れたずい぀おも、別段甚事も目的もあるわけではないから、昭和十四幎極く気散じに、足の向くたにたに廓内をぶらぶらしお芋た。䞻な倧通りは非垞に幅広いが、他の十字路は倧抵六間幅だ。  䜕しろこの遊廓の印象は䜕凊も圌もヘンに森閑ずしお薄暗く陰気でゐお、そのくせぬるい湯がわくやうに、町のシンは沞々ず色めいおゐる。――ちよ぀ず東京垂内では他に䌌た感じの求めにくいものである。がくの乏しい連想でこれに䌌た感じのずころは、京郜の島原。それから匷ひおいぞば、阿波の埳島の遊廓、䞉浊䞉厎の遊廓。さういふものに䌌おゐる。垂街地から゚ロティシズムだけ隔離しお堎末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの䞀劃に封じ蟌たれた為め、町が内蚌しおゐる塩梅だらう。  昔の芝神明の境内の花街だずか池の端あたりは、矢匵り暗いむすやうな䞭に極く色぀ぜいものだ぀たが、四通八達のなかに圚るので、空気の通るものがあ぀た。濁぀おゐず柄んでゐた。  断぀おおくが、掲厎の印象はその時がくの受取぀た極く玠盎な客芳であ぀お、埮塵も䞻芳ではないずいふこずである。平たくいぞば、がくは䞀向その時色気を兆しおゐないのに、町党䜓、家々に、自づから色気があ぀お、それが感じられるずいふ意味。――  するず、飛躍しお人が色぀ぜくならうが為めには、新宿や吉原等の職業地よりも、掲厎は圓時絶奜のコンディションに眮かれおゐたものかもしれないず思ふ。――しかしさう思ふそばから盎ぐずこれを吊定にかゝる客芳にい぀はれないものゝあるのは、䜕ずも寂しいこず、沈んでゐるこず、滅しおゐるこずである。こゝの嚌家の䜕れかの窓から廓倖䞀円の暗い氎でも芋たならば、゚ロティシズム以倖に、䞀皮のニヒリズムが必ず起るだらう。これは奜たしい状態でない。 嚌家  遠音の新内流しなどずいふものは、今でも聞きどころによるず、昔のむキの矎感を回想し、埮匱ながらも、それを揺りさたすこずのあるものだ。しかし掲厎の蘭燈圱暗い二階座敷かなんかで、新内流しを聞けば、华぀おこれは里心を付け、逆効果になるだらうず思ふ。たしお支那そばのラッパなどを聞けば魂ごず寒くなりさうである。  は぀きりいぞば、掲厎は東京の䞭の「䞀぀のヰナカだ」ず考ぞお、終始蟻぀たが合ふやうに思はれた。――このがくの独断が間違はなければ、こずわざに、京にゐなかありずいふ通り、かういふ特殊区域が今時郜心をさう離れない堎所に、比范的のんびりず遺存するのは面癜いモヌドである。
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居士は東京に生れ東京に長ちたる者なり。僅に人事を解せしより、垂川團十郎氏の挔劇ず䞉遊亭圓朝氏の談芞を奜み、垞に之を芋、之を聞くを以お無䞊の楜しみず為せるが、明治九幎以来圓地に移䜏せるを以お、埩䞡氏の技芞を芋聞する胜わず。只新聞雑誌の評蚀ず、圚京知人の通信ず、圓地の朋友が東京垰りの土産話ずに䟝お、二氏の技芞の、歳月ず共に進歩しお、團十郎氏が近叀歎史䞭の英雄豪傑に扮しお、其の粟神颚采を摞するに奇を専らにし、圓朝氏が掋の東西、事の叀今、人の貎賀を論ぜず、其の䞖態人情を写すに劙を埗たるを知り、圌仰慕の念に耐ず、䞀囘之を芋聞せんず欲するや極めお切なり。去る十䞃幎の倏、偶事に因お出京せるを幞い、平玠の欲望を達せん事を思い、旅寓に投じお、行李を卞すや吊や、先ず䞻人を呌で二氏の近状を問う。䞻人答お曰く、團十郎は新富劇に出堎せるが、該劇は近日炎垝特に嚁を恣にするを以お、昚日俄に堎を閉じ、圓朝は避暑をかねお、目今静岡地方に遊べりず。居士之を聞お憮然たるもの暫久しゅうす。歀行郜䞋に滞留するこず僅に二呚間に過ず、團十郎再床堎に登らず、圓朝氏留っお垰らざるを以お、遂に二氏の技芞を芋聞する胜わず、宝山空手の思い埒に遺憟を霎らしお還る。其の翌十八幎の倏酷暑ず悪病を避けお有銬の枩泉に济す。端なく䌚人無々君ず邂逅しお宿を倶にす。君は真宗の僧䟶にしお、孊識䞡ら秀で尀も説教に長ぜりず。君䞀日济埌居士の宀に至る、茶を煮お共に䞖事を談ず。君広長舌を掉い無碍匁を恣にしお頻に居士の耳を駭かす。談偶文章ず挔説の利益に及ぶ。君砎顔埮笑しお曰く、文章の利は癟䞖の埌に䌝わり、千里の倖に及ぶ、挔説の益は䞀垭の内に止たり数人の間に限れり、故に利益の広狭より蚀えば、玠より同日の論に非ず、然れども其の人の感情を動かすの深浅より蚀えば文章遠く挔説に及ばず、䞔近来速蚘術䞖に行われ挔説をそのたゝ筆に䞊しお䞖に䌝うの䟿を埗たり、芪しく耳に聞くず、隔りお目に芖るず、感情皍薄きに䌌たれども尚其の人に察し其の声を聎くの趣を存しお尋垞文章の人を動すに優れり、䜙は元来蚀文䞀臎を唱うる者なり、曟お新井貝原䞡先茩が易読の文を綎りお有益の曞を著わすを芋お垞に其の識芋の高きを感ずれども、然れども尚其の筆を䞋すや文に近く語に遠きを恚みずなす、維新以降文章頗る䜓裁を改め、新聞雑誌の䞖に行わるゝや、文明の魁銖瀟䌚の先進たる犏柀犏地䞡先生高芋卓識垞に文を草する蚀文䞀臎の法を甚い、高尚の議論を著わし緻密の思想を述ぶるに、䜶屈聱牙の挢文に傚わず、艶麗嫻雅の和語を摞さず、務めお平易の文字ず通垞の蚀語を甚い始めしより、䞖の埌進茩靡然ずしお其の颚に習い、倧いに蚀語ず文章の埄庭を瞮めたるは䜙の尀も感賞する所なり、いな倧いに䞖の文明を進め人の智識を加うるに皗益あり、䞔倫詊に蚀語ず文章の人の感情を動かすの軜重に就お爰に䞀䟋を挙んに、韓退之蘇子瞻の䞊に駕する挢文の名人、玫匏郚兌奜法垫も䞉舎を避る和語の䞊手をしお文を草せしめ、之を莈りお人の非を諫めしむるず、蚥匁鈍舌の田倫野老をしお面前蚀を呈しお人の非を諫めしむるず、其の人の感情を動す孰れか深き、韓蘇玫兌の筆恐くは田倫野老の舌に及ばざらん、又他の䞀䟋を匕んに、埌醍醐倩皇新田矩貞に募圓の内䟍を賜わる、矩貞歓喜の䜙り「されば死ねずの仰せかや」の䞀語を発せる旚倪平蚘に蚘せるを、或る挢文の名家、其の語を挢蚳しお曰く「吟をしお死なしむるなり」ず原蚳䞡文の人の感情を動す孰か深きず蚀うに、原文の劙、蚳文に優るこず数等なるを芚ゆ、蓋原文は蚀語に近く蚳文は蚀語に遠ければなり、又本倚䜜巊が旅䞭家に送りし文に曰く「䞀筆申す火の甚心、阿仙泣すな、銬肥せ」ず火を譊むるは家を護る第䞀緊芁的の事、阿仙は䞀子の名泣すなの䞀語之が逊育に心を甚いん事を望むの意至れり、銬肥せの䞀句造次顛沛にも歊を忘れざる勇士の志操十分に芋ゆ、又遊女高尟が某君に送りし埌朝の文に曰く「ゆうしは浪の䞊の埡垰り埡通の銖尟劂䜕歀方におは忘れねばこそ思い出さず候かしく、君は今駒圢あたり時鳥」ず歀䞡尺牘文章字句の䞊より論ずれば敢お鍛緎の劙を尜せしに非ず、掚敲の巧みを求めたるに非ねども、僅々の文字に胜く情理の二ツを尜し、之を退之が孟尚曞に䞎うるの曞、兌奜が人に代っお鹜谷の劻に送るの文に比するも、人の感情を動かすの深き決しお枠に劣らざる可し、是も亊他に非ず其の文の盎に蚀を写せばなり、抑も人の喜怒哀楜盎に発しお蚀ず成り再び䌝っお文ず成る、蚀を換お之を蚀えば、蚀は意を写し文は蚀を写せるものなり、盎写ず埩写ず其の粟神を露わすに厚薄あり、随お他の感情を動かすに軜重ある又宜ならずや、方今挢文を胜するを以お䞖に尊たるゝ者極めお倚く、䞭に就お菊池䞉溪翁䟝田癟川君の二氏尀も蚘事文に巧みに、䞉溪翁は日本虞初新誌の著あり、癟川君は譚海の䜜あり、倶に奇事異聞を蚘述せるものにお文章の巧劙なる雕虫吐鳳為に掛陜の玙䟡を貎からしめしも、䜙を以お之を評さしめば、未萜語家䞉遊亭圓朝氏が人情話の巧に䞖態を穿ち劙に人情を尜せるに劂ず、其の人の感情を動す頗る優劣ありず蚀んずす、嗚呌圓朝氏をしお欧米文明の囜に生れしめば、其の意匠の優れたる、其の匁舌の秀でたる、倧いに公衆の尊敬を蒙り、啻に非垞の名誉ず非垞の金銀を埗るに止らず、或は爵䜍をも博し埗お富貎䞡ら人に超え、瀟䌚䞊流の玳士に数えらるゝや必せり、惜哉東掋半開の邊に生れたるを以お僅に萜語家の領袖ず呌れ、或は宎䌚に招かれ或は寄垭に出で、䞀垭の談話挞く数十金を埗るに過ず、其の䜍眮たる尋垞䞀様の芞人ず䌍しお官吏孊者の茩に向お䞀等を譲らざるを埗ず、実に䞍幞ず謂぀可し、ず口を極めお之を賞賛す。居士も亊其の説の圓れるを賛しお可ず称す。爟来居士の圓朝氏の技に感ずるや又䞀局の厚きを添え、同氏の談話筆蚘怪談牡䞹灯籠、鹜原倚助䞀代蚘等䞀線出る毎に之を賌い、目読の興を以お耳聞の楜に換ゆ、然り而しお芪しく談話を聞くず坐ら筆蚘を読むず、自ら写真を芋るず実物に察するの違い有れば皍隔靎掻痒の憟無きにあらず、䞔や圓朝氏固より小説家ならねば談話の結構に斌おは或は間然するずころ有るも、話䞭出るずころ倥倚の人物老若男女貎賀賢愚䞀々身に応じ分に適え、態を尜し情を穿ち、喜怒哀楜の状目前其の人を芋るの興味有らしむるに至りおは実に奇絶劙絶舌に神ありず蚀う可し。益〻無々君の蚀文䞀臎の説に感じ、文章の蚀語に劂かざるを匁え、䞔曩に無々君が圓朝氏の技を賛する過蚀に非るを知る。頃来曞肆駞々堂䞻人䞀小冊を携えお来り、居士に䞀蚀を冠せん事を望む、受お之を閲すれば、即ち䞉遊亭圓朝氏の挔ぜし人情談話、矎人の生埋を筆蚘せるものなり。其の談話は、犏地源䞀郎君が口蚳しお同氏に授けたる仏囜有名の小説を、同氏が䟋の高尚なる意匠を以お吟囜の近事に翻案し、䟋の卓絶なる匁舌を以お䞀堎の談話ずしお挔述したるものにお、結構の奇、事状の異、談話の劙、所謂䞉拍子揃い、柳の条に桜の花を開かせ、梅の銙りを有たせ、毫も間然する所なきものにお、曩に䞖に行われし牡䞹灯籠、倚助䞀代蚘等に勝る事䞇々なり。居士䞀読芚えず案を拍お奇ず叫び、愈〻無々君の説に服し、圓朝氏の技に駭き、盎に筆を採お平生の所感を蚘し、以お序に換ゆ。    明治二十幎四月二十日 半痎居士 宇田川文海識
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それが既に倚くのノりハりを蓄積しおいたす
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 私はこれたで「ある俳優」にあおはめお脚本を曞いたこずはない。ずころが、歀の「枩宀の前」はどういふ぀もりでか、新劇協䌚の人達にあおはめお曞いお芋ようず思぀た。それで先づ、畑䞭、䌊沢䞡君を兄効に芋立おたのである。䞡君は、これたで、あたり床々倫婊や恋人の圹で顔を合はせおゐるやうに思぀たので  凊が、歀の䜜を曞き䞊げお芋るず、いや、曞き぀ゝある最䞭に、私は、畑䞭䌊沢䞡君の本䜓がどこかぞ行぀おしたひ、歀の䞡君ずはそれこそ䌌おも぀かない二人の男女、貢、牧子ずいふ人物が、そこに珟はれおゐるのに気が぀いた。  こんなこずは、熟緎した䜜家にはないこずだらう。ロスタンの描いたシラノは、実にコクランそのものであ぀たではないか。  私は少々自分の無力を恥ぢた。  しかしながら、私の歀の倱敗は、必ずしも、䜜家ずしお臎呜的なものではないずいふ慰めが䞎ぞられた。歀の脚本は、私が未だ嘗お経隓したこずのない奜評を博した。  私は、それ故に、敢お歀の脚本は、結局、畑䞭、䌊沢䞡君が、䜕等かの意味に斌お私に䞎ぞおくれた霊感の賜であるず云ひたいのである。埓぀お、歀の二人の䞻芁人物が、畑䞭䌊沢䞡君によ぀お、劂䜕に挔じ掻かされるかは、最も私の興味をそゝるのである。  他の二圹、西原ずより江も亊、「ある俳優」にあおはめお曞いた぀もりだ぀たが、これも――これこそ、飛んでもない芋圓倖れだ぀た。私は、広く適圹を物色した。そしお、西原には、菊五郎氏門䞋の駿足鯉䞉郎氏を煩はすこずゝし、より江には垝劇の村田矎犰子嬢をお願ひするこずにした。  序に舞台装眮のこずであるが、これは特に私から、小束栄君に䟝嘱した。同君は、嘗お私の「玙颚船」の装眮に斌お極めお枅新な創意を瀺した新進の舞台装食家である。今床の「枩宀の前」でも、あの舞台の色調を巧に捕ぞられるこずだらうず期埅しおゐる。
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 豪攟か぀䞍逞な棋颚ず、䞍死身にしおか぀あくたで䞍敵な面だたしいを日頃もっおいた神田八段であったが、こんどの名人䜍挑戊詊合では、折柄倧患埌の衰匱はげしく、玙のように蒌癜な顔色で、薬瓶を携えお盀にのぞむずいった状態では、すでに勝負も決したずいっおもよく、果しお無惚な敗北を喫した。詊合䞭、盀の䞊で薄匱な咳をしおいたずいうこずである。  この神田八段は倧阪のピカ䞀棋垫であるが、か぀おしみじみ述懐しお、――もし、自分が名人䜍挑戊者になれば、いや、挑戊者になりそうな圢勢が芋えれば、名人䜍を倧阪にもっお行かせるなず、党東京方棋垫は協力し、党智を集泚しお自分に向っお来るだろうず、蚀ったずいうこずである。私はこれをきき、そしおいた、単身よく障碍を切り抜けお、折角名人䜍挑戊者になりながら、病身ゆえに惚敗した神田八段の胞䞭を想っお、暗然ずした。  東京の倧阪に察する反感はかくの劂きものであるか。しかし、私はこれはあくたで将棋界のみのこずずしお考えたい。すくなくずも文壇ではこのようなこずはあるたいず、考えたい。文孊の䞖界で、このようなこずが起るずは、想像も出来ないではないか。  けれど、たずえば、宮内寒匥氏はか぀お、次のように曞いお居られた。 「倫婊善哉は、䜕故か、評刀がよくなかったが、倧阪のああいう䞖界を描いた限り、私は傑䜜だず思った。唯、䞍幞にしお描かれた男女の䞖界が、圓代の颚朮に反しおいたこずず、それに、あの䞭の倧阪的なものが、東京の評家の神経にふれお、その点が劙な反感ずなったのかも知れないず思う。これは、織田氏にずっおは単なる䞍幞ずしお片附け埗るず思う。東京の評家ずいうのは量芋がせたいこずになるが、東京の感情ず倧阪の感情の察立が、あの䜜品を䞭心ずしお、無意識に争われなかったずは云い切れぬず思う。東京ず倧阪の感情は、氞遠に氷炭盞容れざるものず思う。だから、東京䞭心の今日の文孊感情が、織田氏に反感を感じたこずは、織田氏にずっおは、それだけに倧阪的であったずいうこずにもなるのであっお、逆にいえば名誉である。おそらく、あの䜜品は倧阪の読者にずっおは、党々別な味がしたのではないか、ず思われる」  私の䜜品に奜意的に觊れおおられる文章故、いささか気がさしながら匕甚したのであるが、芁するに、これをもっお芋れば、すくなくずも、倧阪的な䜜品は東京文壇の理解するずころずならぬのではあるたいか。  どうせ、文孊に察する考え方なぞ、人生に察する考え方ずおんなじで、十人十色であり誰の䜜品にしろ、䜜者が意気ごんで埅ち構えおいるほどには、いいかえれば、䜜者が満足する皋床に、理解されるこずなぞ、たかりたちがっおも有り埗ないのであるから、なにも倧阪的な䜜品が東京文壇に理解されないずいっお、悲しむにも圓らないのであるが、しかし、倧阪に察するある皮の感情が理解を阻んでいるずすれば、いや、そう蚀われおみれば、「単なる」にしおも、ずにかく䞀぀の「䞍幞」ずしお考えられないわけではない。  だからずいっお、私は姑に虐められた嫁のように、この䞍幞に打ち沈んでいるわけではさらにない。むしろサバサバしおいる。ずいうのは、実は嫁の方ではじめから姑に愛想を぀かしおいたからである。姑はなんでもかんでも、自分の蚀う通りせよず蚀う。それをいやだず、蚀ったのである。 「そんなこずを考えるず、私は、織田氏の勇敢さを感ずる。織田氏皋の人が、東京の感情に合うような现工が出来ない蚳はないだろうし、そういう现工をすれば、ずいうくらいのこずを感じないわけはないず思うが、それにも拘らず、あの䜜品を曞き送ったずいうこずは、東京文壇に察する䞀皮の反逆ず芋られないこずはないず思う」  ず、宮内氏も曞いお居られる通りだ。東京の暙準文化なぞ、埡免だず、䞉幎間、東京にいる間に、愛想を぀かしたのである。東京の暙準の感芚で芋た暙準人を暙準語で描くような文孊に愛想を぀かしたのである。  東京に自分の青春なぞあるず思ったのは、間ちがいだったず、私は東京の心理䞻矩文化に歪められた自分の青春を抱いお、䞉勝半䞃のお園のように、「お気に入らぬず知りながら、未緎な私が茪廻ゆゑ、そひ臥しは叶はずずも、お傍に居たいず蟛抱しお、是たで居たのがお身の仇」ず呟いお、東京にさよならしたのである。反感をもたれおも、臎し方ない。  故郷の倧阪ぞ垰った私は、しかしお園のように、 「去幎の秋のわづらひに、い぀そ死んでした぀たなら」などず、女々しくならずに、いそいそず新しい倧阪ずいう倫のふずころに抱かれた。既に、私は文五郎のあや぀る䞉勝半䞃のサワリを芋おいたのである。  そしお、ここに、倧阪の感芚があるず思った。物事をいやに耇雑化しおやに䞋ったり、あの人間の、このおれの心理はどうだ、こうだ、お前の䞍安がりようが足りないなぞず蚀っおいた東京の心理䞻矩にわずらいされお、遂に䜕ごずをも信ずるこずを教えられなかった私は、倧阪の感芚だけは、信じた。私はそこに私の青春の逆説的な衚珟を芋぀けたのである。すくなくずも、私は東京のもっおいる青春のいかものさ加枛に、反抗したのである。  二十八歳で「倫婊善哉」を曞くのはおかしいず蚀うが、しかし、それでは、東京に珟圚いかなる二十八歳の青春の文孊があるずいうのか。すくなくずも私はそれを芋せおもらえなかった。私の芋たのは、青春のお化けである。よしんば、それが青春らしいものを、もだもだず衚珟しおいるにしおも、二十代、䞉十代の者を唯䞀の読者ずするような䜜品では、所詮はせせこたしい倩地に跌蹐しおいるに過ぎない。もっずも、私ずおも五十歩癟歩、二十八歳の青春を衚珟したずは蚀うたい。そんなこずを蚀えば、嗀われる。ただ、私のしたこずは、魂の故郷を倱った文孊に倉な意矩を芋぀けお、これこそ圓代の文孊なりず、同憂の士が集っおわいわい隒ぐこずだけはたず避けたのである。  なるほど、私たちの幎代の者が、故郷故郷ずな぀かしがるのはいかにも幎寄じみお芋えるだろう。けれど、思想のお化けの数が新造語の数ほどあっお、しかも、どれをも信じたいずする心理䞻矩から来る䞍安を、深刻がるこずを、若き知識人の特暩だず思っおいるような東京に䞉幎も居れば、いい加枛、故郷の感芚がな぀かしくなっお来る筈だ。な぀かしくなれば、さっさず東京をはなれるず良い。䜕も東京にいなければ、文孊生掻がやれぬわけでも、文孊の志が達せられぬわけでもあるたい。私はそう思ったのだ。谷厎最䞀郎氏も既に十幎前にこのこずを蚀っおおられる。すなわち、「東京をおもう」ずいう゚ッセむの最埌の章がそれだ。 「  終りに臚んで、私は䞭倮公論の読者諞君に申しあげたい。䞭略諞君は、小説家やゞャヌナリストの筆先に迷っお埒らに垝郜の矎に憧れおはならない。われわれの囜の固有の䌝統ず文明ずは、東京よりも华っお諞君の郷土に斌お発芋される。東京にあるものは、根柢の浅い倖来の文化ず、たかだか䞉癟幎来の江戞趣味の残滓に過ぎない。䞭略倧䜓われ〳〵の文孊が軜䜻で薄っぺらなのは䞀に東京を䞭心ずし、東京以倖に文壇なしず云う先入䞻から、あらゆる文孊青幎が東京に斌ける䞀流の䜜家や文孊雑誌の暡倣を事ずするからであっお、その颚朮を打砎するには、真に日本の土から生れる地方の文孊を起すより倖はない。぀いおは、い぀も思うのであるが、今日は同人雑誌の措氎時代で、毎月私の手元ぞも倥しい小冊子が寄莈される。䞭略扚それらの雑誌を芋るず、殆んど倧郚分が東京の出版であり、熟れも歀れも皆同じように東京人の感芚を以お物を芋たり曞いたりしおいる。圌等のうちにも倚少の党掟別があり、それ『〵の䞻匵があるのではあろうが、私なんぞから芋るず、圌等は悉く東京のむンテリゲンチャ臭味に統䞀されおいる。圌等の関心は、東京の文化ず、東京を通じお茞入される倖来思想ずのみに存しお、自分たちの故郷の倩地山川や人情颚俗は、県䞭にないかの劂くである。で、もしこれらの文孊青幎がああ云う勿䜓ないこずをする暇があったら、東京ぞ出お互いに䌌たり寄ったりの党掟を䜜るこずを止め、故郷に斌お同志を集め小さいながらも機関雑誌を発行しお異色ある郷土文孊を起したならば、どうであろうか」  ひずころ地方文孊論がさかんであったが、十幎前に曞かれたこの文章にたさる地方文孊論を、私はいただか぀お知らない。東京人でありながら、早くから東京に芋切りを぀けお、関西を第二の故郷ずしおおられる谷厎氏の実感の前には、東京文壇の空虚な地方文孊論なぞ束になっおも、かなわぬのである。  故郷を捚おお東京に走り、その職業的有利さから東京に定䜏しおいる䜜家、批評家が、䞡䞉日地方に出かけお、地方人に地方文孊論に就お教えを垂れるずいう図は、ざらに芋うけられたが、たず、色の黒い者に色の黒さを自芚させるために、わざわざ色癜が狩り出されるようなもので、埡苊劎千䞇である。
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こい぀を起こさないでくれ。
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     䞀 九月の末におくれ銳せの暑䞭䌑暇を埗お、䌊豆の修善寺枩泉に济し、逊気通の新井方にずどたる。所䜜為のないたたに、毎日こんなこずを曞く。  二十六日。きのうは雚にふり暮らされお、宵から早く寝床に這入ったせいか、今朝は五時ずいうのにもう県が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖にかいた墚絵の雁ず盞察するこず玄半時間。おちこちに鶏が勇たしく啌いお、庭の流れに家鎚も啌いおいる。氎の音はひびくが雚の音はきこえない。  六時、入济。その途䞭に裏二階から芋おろすず、台所口ずも思われる流れの末に長さ䞀間ほどの蓮根を浞しおあるのが県に぀いた。湯は菖蒲の湯で、䌝説にいう源䞉䜍頌政の宀菖蒲の前は豆州長岡に生れたので、頌政滅亡の埌、かれは故郷に垰っお河内村の犅長寺に身をよせおいた。そのあいだに折々ここぞ来お入济したので、遂にその湯もあやめの名を呌ばれる事になったのであるず。もし果しおそうならば、猪早倪ほどにもない雑兵葉歊者のわれわれ颚情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ济びるなどは、遠぀昔の䞊臈の手前、いささか恐れ倚き次第だずも思った。おいおいに朝湯の客が這入っお来お、「奜い倩気になっお結構です」ず口々にいう。なにさた倖は晎れお氎は柄んでいる。硝子戞越しに氎䞭の魚の遊ぶのが鮮かにみえた。  朝飯をすたした埌、䟋の範頌の墓に参詣した。墓は宿から西北ぞ五、六町、小山ずいうずころにある。皲田や芋畑のあいだを瞫いながら、雚埌のぬかるみを右ぞ幟曲りしお登っおゆくず、その間には玅い圌岞花がおびただしく咲いおいた。墓は思うにもたしお哀れなものであった。片手でも抌し倒せそうな小さい仮家で、柊や柘怍などの䞋枝に掩われながら、南向きに寂しく立っおいた。秋の虫は墓にのがっお頻りに鳎いおいた。  この時、この堎合、䜕人も恍ずしお鎌倉時代の人ずなるであろう。これを雚月物語匏に綎れば、範頌の亡霊がここぞ珟れお、「汝、芋よ。源氏の運も久しからじ」などず、恐ろしい呪いの声を攟぀ずころであろう。思いなしか、晎れた朝がたた陰っお来た。  拝し終っお墓畔の茶店に䌑むず、おかみさんは倧いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情ずしお土地自慢は無理もないこずである。ずかくするあいだに空は再び晎れた。きのうたではフランネルに袷矜織を着るほどであったが、晎れるず俄にたた暑くなる。芭蕉翁は「朚曟殿ず背䞭あはせの寒さ哉」ずいったそうだが、わたしは蒲殿ず背䞭あわせの暑さにおどろいお、矜織をぬぎに宿に垰るず、あたかも午前十時。  午埌東京ぞ送る曞信二、䞉通を認めお、たた入济。欄干に倚っお芋あげるず、東南に連なる塔の峰や芳音山などが、きょうは俄かに抌し寄せたように近く迫っお、秋の青空が䞀局高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの䞋座敷では矩倪倫の䞉味線がきこえた。  宿の䞻人が来お語る。䞻人は頗る劇通であった。午埌䞉時、再び出お修犅寺に参詣した。名刺を通じお叀宝物の䞀芧を請うず、宝物は火灜をおそれお倉庫に秘めおあるから容易に取出すこずは出来ない。しかも、ここ䞡䞉日は法甚で取蟌んでいるから、どうぞその埌にお越し䞋されたいず慇懃に断られた。去っお日枝神瀟に詣でるず、境内に老杉倚く、あわれ幟癟幎を経たかず芋えるのもあった。石段の䞋に修善寺駐圚所がある。範頌が火を攟っお自害した真光院ずいうのは、今の駐圚所のあたりにあったずいい䌝えられおいる。しお芋るず、この老いたる杉のうちには、ほろびおゆく源氏の運呜を県のあたりに芋たのもあろう。いわゆる故囜は喬朚あるの謂にあらずず、唐土の賢人はいったそうだが、やはり故囜の喬朚はな぀かしい。  挜物现工の玩具などを買っお垰ろうずするず、町の䞭ほどで赀い旗をたおた楜隊に行きあった。掻動写真の広告である。山のふずころに抱かれた町は早く暮れかかっお、桂川の氎のうえには薄い靄が這っおいる。修善寺通いの乗合銬車は、いそがしそうに鈎を鳎らしお川䞋の方から駈けお来た。  倜は机にむかっお原皿などをかく、今倜は倧湯換えに付き入济八時かぎりず觊れ枡された。      二  二十䞃日。六時に起きお入济。きょうも晎れ぀づいたので、济客はみな元気がよく、桂川の䞋流ぞ釣に行こうずいうのもあっお、颚呂堎は頗る賑わっおいる。ひずりの西掋人が悠然ずしお這入っお来たが、湯の熱いのに少しおどろいた䜓であった。  朝飯たえに散歩した。路は倉らぬ河岞であるが、岩に堰かれ、旭日にかがやいお、咜び萜぀る氎のやや浅いずころに家鎚数十矜が矀れ遊んでいお、川に近い家々から湯の烟がほの癜くあがっおいるなど、おのずからなる秋の朝の颚情を芋せおいた。岞のずころどころに芒が生えおいる。近づいお芋るず「この草取るべからず」ずいう制札を立おおあっお、埌の月芋の材料にず貯えお眮くものず察せられた。宿に垰っお朝飯の膳にむかうず、鉢にうず高く盛った束茞に秋の銙が高い。東京の新聞二、䞉皮をよんだ埌、頌家の墓ぞ参詣に行った。桂橋を枡り、旅通のあいだを過ぎ、的堎の前などをぬけお、塔の峰の麓に出た。ずころどころに石段はあるが、路は極めお平坊で、雑朚が茂っおいるあいだに高い竹藪がある。槿の花の咲いおいる竹籬に沿うお巊に曲るず、正面に釈迊堂がある。頌家の仏果円満を願うがために母政子の尌が建立したものであるずいう。鎌倉の芇業を氞久に維持する倧なる目的の前には、あるに甲斐なき我子を捚殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうず掚量るず、ふだんは虫の奜かない傲慢の尌将軍その人に察しおも䞀皮同情の感をずどめ埗なかった。  曎に巊に折れお小高い䞘にのがるず、高さ五尺にあたる楕円圢の倧石に埁倷倧将軍巊金吟頌家尊霊ず刻み、煀びた堂の軒には笹竜胆の王を打った叀い幕が匵っおある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺の方を芋おろしお立っおいる。あたりには杉や楓など枝をかわしお生い茂っお、どこかで鎉が啌いおいる。すさたじいありさただずは思ったが、これに范べるず、範頌の墓は曎に甚だしく荒れたさっおいる。叔父埡よりも甥の殿の方がただしもの果報があるず思いながら、銙を手向けお去ろうずするず、入違いに来お磬を打぀参詣者があった。  垰り路で、ある店に立っおゆで栗を買うず実に廉い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうず思われた。宿に垰っお読曞、障子の玙が二ヵ所ばかり裂けおいる。県に立぀ほどの砎れではないが、それにささやく颚の音がややもすれば耳に぀いお、秋は寂しいものだずしみじみ思わせるうちに、宿の男が来お貌りかえおくれた。向座敷は障子をあけ攟しお、その瞁偎に若い女客が長い掗い髪を日に也かしおいるのが、抎の倧暹を隔おおみえた。  午埌は読曞に倊んで肱枕を極めおいるずころぞ宿の䞻人が来た。䞻人は善く語るので、おかげで退屈を忘れた。きょうも氎の音に暮れおしたったので、電灯の䞋で倕飯をすたせお、散歩がおら理髪店ぞゆく。倧仁理髪組合の掲瀺をみるず、理髪料十二銭、たたその傍に附蚘しお「ただし角刈ずハむカラは二銭増しの事」ずある。いわゆるハむカラなるものは、どこぞ廻っおも䜙蚈に金の芁るこずず察せられた。店さきに匵子の倧きい達摩を眮いお、その片県を癜くしおあるのは、なにか願掛けでもしたのかず蚊いたが、䞻人も職人も笑っお答えなかった。楜隊の声が遠くきこえる。たた䟋の掻動写真の広告らしい。  理髪店を出るず、もう八時をすぎおいた。露の倚い倜気は冷々ず肌にしみお、氎に萜ちる家々の灯のかげは癜くながれおいる。空には小さい星が降るかず思うばかりに䞀面に燊めいおいた。宿に垰っお入济、九時を合図に寝床に這入るず、廊䞋で、「按摩は劂䜕さた」ずいう声がきこえた。      䞉  二十八日。䟋に䟝っお六時入济。今朝は湯加枛が殊によろしいように思われお身神爜快。倩気もたた奜い。朝飯もすみ、新聞もよみ終っお、ふらりず宿を出た。  月末に近づいたせいか、この頃は垰る人が䞀日増しに倚くなった。倧仁行の銬車は家々の客を運んでゆく。赀ずんがうが乱れ飛んで、冷たい秋の颚は銬のたおがみを吹き、人の袂を吹いおいる。宿の女どもは門に立ち、たたは途䞭たで芋送っお「埡機嫌よろしゅう  来幎もどうぞ」  など口々にいっおいる。歌によむ草枕、かりそめの旅ずはいえど半月䞀月ず居銎染めば、これもたた䞀皮の別れである。涙脆い女客などは、朝倕芪んだ宿の女どもずいい知れぬ名残の惜たれお、銬車の窓からいくたびか芋送り぀぀揺られお行くのもあった。  修犅寺に詣でるず、二十䞃日より高祖忌執行の立札があった。宝物䞀芧を断られたのもこれがためであるず銖肯かれた。  転じお新井別邞の前、寄垭のたえを過ぎお、芋晎らし山ずいうのに登った。半腹の茶店に䌑むず、今来た町の家々は県の䞋に連なっお、修犅寺のいらかはさすがに䞀角をぬいお聳えおいた。この茶店には運動堎があっお、二十歳ばかりの束髪の嚘がブランコに乗っおいた。勿論土地の人ではないらしい。山の頂䞊は俗に芋晎らし富士ず呌んで、富士を望むによろしいず聞いたので、现い山路をたどっおゆくず、裳にた぀わる萩や芒がおどろに乱れお、露の倚いのに堪えられなかった。登るにしたがっお募配が挞く険しく、駒䞋駄ではずかくに滑ろうずするのを、剛情にふみ堪えお、先ずは頂䞊ず思われるあたりたで登り぀くず、なるほど富士は西の空にはっきりず芋えた。秋倩片雲無きの日にここぞ来たのは没怪の幞であった。垰りは䞋り阪を面癜半分に駈け降りるず、あぶなく滑っお転びそうになるこず䞡䞉床。降りおしたったら汗が流れた。  山を降りるず田甫路で、田の畔には葉鶏頭の真玅なのが県に立った。もずの路を還らずに、人家の぀づく方を北にゆくず、桜ヶ岡の麓を過ぎお、い぀の間にか向う岞ぞたわったずみえお、図らずも頌家の墓の前に出た。きのう来お、今日もたた偶然に来た。おのずからなる因瞁浅からぬように思われお、再び墓に銙をささげた。  頌家の墓所は単に塔の峯の麓ずのみ蚘憶しおいたが、今たた聞けば、ここを指月ヶ岡ずいうそうである。頌家が蚎たれた埌に、母の尌が来り匔っお、空ゆく月を打仰ぎ぀぀「月は倉らぬものを、倉り果おたるは我子の䞊よ」ず月を指さしお泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爟来ここを呌んで指月ヶ岡ずいうこずになったずか。蕭条たる寒村の秋のゆうべ、䞍幞なる我子の墓前に立っお、䞀代の女将軍が月䞋に泣いた姿を想いやるず、これもたた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。圌女がかくたでに涙を呑んで経営した芇業も、源氏より北条に移っお、北条もたた亡びた。これにくらべるず、秀頌ず盞抱いお城ずずもにほろびた淀君の方が、人の母ずしおはかえっお幞であったかも知れない。  垰り路に虎枓橋の䞊でカヌキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赀十字の埜章を぀けおいた。宿に垰っお䞻人から借りた修善寺案内蚘を読み、午埌には東京ぞ送る曞信二通をかいた。二時ごろ退屈しお入济。わたしの宿には圓時䞃、八十人の滞圚客があるはずであるが、日䞭のせいか広い颚呂堎には䞀人もみえなかった。菖蒲の湯を買切りにした料芋になっお、党身を湯に浞しながら、倩然の岩を枕にしお倧の字に寝ころんでいるず、奜い心持を通り越しお、すこし茫ずなった気味である。気぀けに枩泉二、䞉杯を飲んだ。  䞻人はきょうも来お、いろいろの面癜い話をしおくれた。䞻人の去った埌は読曞。絶間なしに流れおゆく氎の音に倜昌の別ちはないが、昌はやがお倜ずなった。食埌散歩に出るず、行くずもなしに、たたもや頌家の方ぞ足が向く。なんだか執り着かれたような気もするのであった。墓の䞋の䞉掲園ずいう蒲焌屋では䞉味線の音が隒がしくきこえる。頌家尊霊も今倜は定めお陜気に過ごさせ絊うであろうず思いやるず、我々が問い慰めるたでもないず理窟を぀けお、墓ぞはたいらずに垰るこずにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家の方ぞたどっおゆくず、倜はようやく寒くなっお、そこらの垣に機織虫が鳎いおいた。  わたしの宿のうしろに寄垭があっお、これも同じ䞻人の所有である。草履ばきの济客が二、䞉人這入っおゆく。私も぀づいお這入ろうかず思ったが、ビラをみるず、䞀流うかれ節䞉河屋䜕某䞀座、これには少しく恐れをなしお躊躇しおいるず、雚がはらはらず降っお来た。仰げば塔の峰の頂䞊から、蝊蟆のような黒雲が這い出しおいる。いよいよ恐れお早々に宿ぞ逃げ垰った。  垰っお机にむかえば、䞋の離れ座敷でたたもや矩倪倫が始たった。近所の宿でも䞉味線の音がきこえる。今倜はひどく賑かな晩である。十時入济しお座敷に垰るず、桂川も溢れるかず思うような倧雚ずなった。
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