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Q11628893
_START_ARTICLE_ 西武ホールディングス _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 西武ホールディングスは、2004年に発覚した西武鉄道における有価証券報告書虚偽報告事件を受けて、西武グループ創業家の堤義明前社長のワンマン経営からの企業体質の改善を図るとともに、東京都・埼玉県を中心にした鉄道事業と、プリンスホテル・コクドが請け負ってきたレジャー・ホテル事業の一体型経営を行い、西武グループの経営再建をするために設立された。_NEWLINE_グループ再編が行われるまでは、西武鉄道・国土計画の創業者である堤康次郎の後継者である堤義明が大半の株を保有するコクドにおいて、西武鉄道・西武建設と、首都圏外のプリンスホテル・ゴルフ・スキー場などの運営会社の株式の大数を有しており、コクドのオーナーである義明が西武鉄道グループの経営権を握っていた。_NEWLINE_しかし、2004年10月に上場会社であった西武鉄道と伊豆箱根鉄道が有価証券報告書上で、コクドの実質持株比率が上場廃止基準に触れるにも関わらず、名義株で過小記載するといった虚偽記載を行っていたと公式に発表すると共に、堤義明がコクドの会長職などを辞任し、表舞台から退いた(2005年に証券取引法違反容疑により逮捕)。東京証券取引所はそれぞれ上場廃止処分を下した。不採算事業の拡大と上場廃止に伴う信用低下から、メインバンクであるみずほフィナンシャルグループなど金融機関主導による経営再建の策定が急浮上した経緯がある。_NEWLINE_2014年4月23日に東京証券取引所第1部に上場。事実上の前身会社である西武鉄道が有価証券報告書虚偽報告事件を受け、2004年12月17日に上場廃止して以来、約9年半ぶりの再上場となった。鉄道業界における上場は1997年に上場した東海旅客鉄道(JR東海)以来17年ぶりである。この上場に合わせて、「西武ホールディングス」および「西武グループ」のロゴマークを変更した。_NEWLINE_2016年2月10日、西武HDは2004年上場廃止となり、株主から株主代表訴訟で損害賠償請求を提訴され、賠償金など309億円を要した件で、堤義明らに支払いを求めていた債権の全額を回収すると発表した。堤は保有するNWコーポレーション株式の全部を売却して資金を捻出する。これによって堤と西武HDの関係は解消される。_NEWLINE_池袋旧本社ビル跡地に賃貸オフィスビルを新築した。このビルは西武池袋線の線路上空に18階建てのビルであり、低層部には商業テナントを誘致している。2019年3月竣工したこのビルには西武HDの本社機能も入り、1986年以来33年ぶりに西武が池袋に帰る形となったが、鉄道の本社はこれまで通り所沢に位置している。
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Q68324344
_START_ARTICLE_ 西洋剣術 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 西洋剣術は、フェンシングに代表される、西洋の戦闘技術である。刀剣のデザインは剣技と密接な関係が有るため、ロングソード、巨大な両手剣、片手剣と盾の組み合わせ、軍用サーベルなどにも独自の戦闘技術がある。_NEWLINE_血が付いて切れなくなったり、刃が欠けて使い物にならなくなっては兵器としての実用性に欠けるため、西洋剣では切れ味よりも丈夫さが重視されていた。したがって切れ味を重視する日本刀とは異なる戦闘技術が発達した。_NEWLINE_西洋剣術は日本の古流剣術のように連綿と語り継がれているものではなく、銃の発達によって、フェンシングなどスポーツの一種となっていたもの以外、実践的な剣術は学ぶ者がいなくなり、失伝した。現在の西洋古流剣術は再研究され復元されたものであるため、研究者間で解釈の違いがあり、また修正もある。武術考古学:古武術復元学とでもいうべきアカデミックな研究として行なわれる。また、日本の武道のような精神的、哲学的な要素は剣術(道)ではなく騎士道として教えられる。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 西洋剣術は剣が実用的な兵器として戦場に出始めたときに、それを効果的に使用すべく技術体系もあったのは間違いないだろう。それはギリシャ時代でより洗練され、ローマ時代には軍隊の教練として必須であった。やがてヴァイキングやゲルマン、ノルマンなど各民族が独自に文化を広げ、それらの中に剣術があったのも間違いないだろう。しかし、ローマ崩壊以後の暗黒時代には十分な資料が無い。_NEWLINE_中世の剣術テキストとして現存する最も古いものは13世紀、ドイツにおいて無名の僧侶が書き残したテキスト「I.33」(en)と呼ばれるものでブロードソードとバックラーのコンビネーションを述べている。このコンビネーションはその後数世紀に及び使用された人気のあるスタイルだった。_NEWLINE_ドイツではその後ヨハネス・リヒテナウアー(Johannes Liechtenhauer)が登場する。彼はゲルマンスタイルの元祖であった。彼は秘密主義者でありその教えは一連の長い暗号めいた詩 Merkverseとして出版された。その教えは15世紀初頭、ジークモント・リンゲック(Sigmond Ringec)に引き継がれ彼はMerkverseに注釈をつけたことで知られる。_NEWLINE_もう一つはイタリアの「ルネサンス剣術」の流れである。北イタリアのフィオレ・ディ・リベリ(Fiore di Liberi)は15世紀にフェラーラのニコロ3世の宮廷剣術指南(マエストロ)に任命された。彼の書『フロス・デュエラトールム Flos Duellatorrym(戦いの花)』は、当地の剣豪「ジョバンニ・デッレ・バンデネーレ(黒隊長ジョバンニ)」をモデルに、素手の組討、ダガーを用いた二刀流、ロングソード、長柄武器などを使った完全なもので、1410年に出版された。ドイツ、イタリアではその後ハンス・タルホファーやジャコモ・ディ・グラシなどが代表される。_NEWLINE_イギリスでは16世紀初頭にジョージ・シルバー(George Shilver)が登場する。かれはブロードソードの達人であった。彼の書『Paradoxes of Defense』と『Brief Instructions on my Paradoxes of Defense』は戦いの哲学ともいえるもので、またそのころ広がり始めたレピアへの非難書でもあった。_NEWLINE_当時、剣術は教養の一部とされ、多くの剣術学校があった。また、軍隊では必須教練として剣術を教えた。しかし、その後の、火薬と銃の発達に従い西洋剣術は消えていく。_NEWLINE_ここでいう盾とは戦闘時に手に持って防御するものをいい(手盾)、矢よけのような据え置き式は言及しない。_NEWLINE_盾はギリシャやローマを例にするまでもなく、最も基本の防御であった。鎧を作るよりもコストが安く、だれにでも使えるためである。一説によれば盾は肉食獣などの狩猟時に身を守る防具がはじまりともいわれる。盾の分布は西洋、アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカ、全ての場所で見られる。しかし、日本では古代の一時期をのぞいて手盾はほとんど見られない。_NEWLINE_西洋の古代の軍における戦術は盾の使用法と密接なつながりがあった。マケドニアのファランクスなどでは長槍と盾を持ち密集して重なる。盾は左隣の兵士の体右半分を隠す。このため盾を失う事は仲間を危険にさらす恥ずべき行為とされた。またファランクスの最右は右半身がさらされる為、勇気ある者がこの場所を担った。ローマでは盾のフォーメーションが更に発展し、亀甲陣形など盾が主体に行なわれた。_NEWLINE_良くある間違いはローマのような組織だった使い方をすることのみで盾の有効さを言われるが、もちろん個人戦闘でも有効である。軍隊を組織し訓練する以前から盾は個人で使っていた。_NEWLINE_「盾に担がれて凱旋する」は名誉な戦死をしたものに限られる。映画「グラディエーター」のラストは死んだ主人公が仲間の盾に担がれる。_NEWLINE_また、盾は面積が大きく目立つ為、識別のために表面を塗り分けたがこれが騎士の紋章の始まりである。スパルタのΛマークなどすでに盾が識別マークとして使われていた事を意味する。_NEWLINE_盾は使用者にあわせて様々な形状がある。ヴァイキングは円盾を使い、ノルマン騎兵は下が伸びた涙滴型を好んだ。これは脚を保護するのに適している。三角型の良く見られる盾形状は十字軍のころには用いられている。ドイツ型は上の角を切り欠き、視界の確保と、槍による騎馬突撃のさい、槍乗せとしても使う。東欧では側面が長く上に伸び、側頭部の保護するのもある。_NEWLINE_やがて、甲冑が発達しはじめると盾は使用されなくなってきた。しかし、一部、グリニッジ甲冑では肘部分を大きくして、盾の代わりとしたものもある。この時代に使われた盾は、クロスボウ兵士が矢をつがえる間、身を防いだ大盾、トーナメントの紋章を描いた飾り盾、トーナメントの騎士がつける固定式の盾(タージュ)などである。_NEWLINE_特殊なものでは決闘裁判につかわれたデュエリング・シールドがある。これは大きな盾にスパイクやフックをつけ決闘による裁判で使用された。_NEWLINE_また、盾と他の武器を合体させたコンポジット・シールドとも言うべきものも存在する。_NEWLINE_単発銃と組み合わせたガン・シールド。篭手とスパイク、目くらましのランタンを合体させたランタン・シールドなどである。しかし、実際に使用されたとは考えにくい。_NEWLINE_レイピアに使われたものはバックラーだが、太い針金をつけ、ここに剣を引っ掛けて折るソード・ブレイカー・シールドは実在した。_NEWLINE_火器の発達によって軍隊では使用されなくなったが、数十年程前はジュラルミンの重い盾でのぞき穴がついたものを機動隊は用いた。この盾の特殊な使用法として、暴動者の足の甲に盾の下辺を叩きつける戦法があった。今日でも暴動鎮圧のために警察軍はポリカーボネイト製の軽く透明な盾を用いる。ライオットシールドも参照のこと。 _START_SECTION_ 剣の種類と構造 _START_PARAGRAPH_ 剣は刀と異なり両刃である。相手に向けた側の刃を表刃(longedge)、反対側(親指と人差し指の間側)の方を裏刃(shortedge)と呼ぶ。裏刃は剣の主なテクニックであり、角度をつけて相手の裏側を切り込む。攻撃ラインが一つ増えることでもある。 _START_SECTION_ 剣の持ち方 _START_PARAGRAPH_ 十字鍔のあるブロードソードでは十字鍔に人差し指を引っ掛ける持ち方がある。中華の剣も同様にして持つ。_NEWLINE_これは安定はよいが指が危険なので指環ができた。_NEWLINE_実存するいくつかの片手剣のグリップはとても短い。また握りにあるグリップは指の凹凸と一致しない(たとえばグラディウスなど)それゆえ当時の人は手が小さかった。などという説もあったが※これは遺骨などの研究によって否定されている。_NEWLINE_いまではロングソード同様に、親指を立てて剣の峰に沿わせて持っていたと考えられている。しかし、残された絵画ではこのような表現は発見されておらず、論争になっている。_NEWLINE_※ローマ時代のローマ人は150cmほどだったといわれる。そしてゲルマン人は180cmほどだった。ローマ人から見ればゲルマン人は巨人であった。_NEWLINE_レイピアは、手の甲を上にして、ポンメルが手首に下から押し上がるようにして持つ。こうすることで、手首が作用点、指が支点となり、重い剣先でも水平に保てることができる。初期では普通に柄を持っていたが、中期では人差し指を鍔にかける持ち方が登場し、指を守る指環がつくようになった。ルネサンスのレイピアでは、左右に付いたこの指環に中指、人差し指を引っ掛け、V字の間に柄を挟みこむような持ち方や、指環に人差し指一本もしくは人差し指・中指の二本を、銃の引き金にかけるように、引っ掛ける持ち方が出てきた。前者はイタリア式の持ち方で、一時期フェンシングでも使われたが、指の負担が大きく廃れた。_NEWLINE_ドイツ剣術におけるロングソードの持ち方には、二つある。一つは親指の付け根、人差し指と親指のV字型になっている谷の部分(手相の知能線の入口)に、柄の裏刃側(片刃でいう峰側)をあわせて持つ方法。もう一つは、四指の付け根の関節、つまり手の甲に四つ突きでた関節の裏側(手相でいう感情線)に、へりを合わせて、親指を立てて持つ方法。親指を左右にスライドさせることで、剣の表刃、裏刃を滑らかに切り返せる上、親指で支える事で握りが安定する。このイメージは替え刃カッターの送り刃スライドを親指でチキチキと押し出した時と同じ持ち方で、親指で剣を支えるのだ。 _START_SECTION_ バックラーとブロードソード _START_PARAGRAPH_ バックラーは直径25cm程の小さな盾であり、ルネサンス時代まで、とりわけ弓兵や一般兵に好んで使用された防具である。_NEWLINE_軽く小さいバックラーは機動性が高く、中型以上の盾とは全く異なり、自分から相手の剣に当てていく使い方をする。そのため、盾の欠点である死角が生じないが、相手の攻撃を正確に読んで当てていく技術が要求される。気持ちとしては二刀流に近いが、バックラーを小剣にすると防御が難しい。これは腕を伸ばすことで盾の影が多く取れること(剣だと通常腕を曲げて構える)拳を中心とした前後左右で受けられるので目視誤差が少ない(小剣だと拳から上だけに限定される)が理由かもしれない。あるいは切っ先を相手に向けるとその分、ガード面積は少なくなる。_NEWLINE_剣とバックラーのコンビネーションを扱った「I.33」においては、基本的にバックラーは柄をしっかりと持ち、腕を伸ばして、拳を相手に突きつけるように構える。こうすることで、盾の影を大きく取ることができる。_NEWLINE_腕を伸ばす以外の構えとしては、たとえば、「女の構え(Frauen-Hut)」は中型以上のシールドにも応用できるとされる。これは、相手に左肩を見せるように横向きに立ち、バックラーと剣は胸の前で肘を曲げて祈るように持つ構えで、この姿がおびえる女性に見えることからこの名前がある。相手に左肩と背中ががら空きだと思わせ、攻撃を誘い、それを裏拳で叩き落すようにバックラーで防御し、同時に右手の剣で水平に斬りつける方法である。このときも右手と左手は同じ動きをする。_NEWLINE_フィルボウはフィドル(バイオリンの原型の楽器)を弾いているのににているところから来た名前だ。剣をバックラーの裏に切っ先をななめ下にかまえる。これから剣で相手の剣を防御し、バックラーを持つ左腕で相手の右腕を絡めることが出来る。_NEWLINE_右手の剣を握った拳の上にバックラーを被せるように持ち、重ねたまま攻撃するテクニックはベーシックである。これは、「小さな盾は遠くに構える」という原則に沿っており、また、最も狙われやすい篭手が絶対に防御されるという理にかなったテクニックである。相手は、篭手以外のところを狙おうとするならば、数十センチは間合いを詰めねばならなくなるのである。また、この構えは手の内が隠せるため、例えば左手に剣を持ち替え、バックラーと一緒に握っても相手には分からない。_NEWLINE_その他、シールドに比べると遥かに軽く、自分のリーチの最大範囲で扱えるバックラーは、予備的攻撃、すなわち相手を殴る、押し付けるといった動作がしやすい。たとえば、相手の攻撃を体で避けた際には、素手の場合と異なり、バックラーでは相手の拳だけではなく、剣を持った右手自体を押さえることもできる。金属のバックラーでのパンチは非常に強力で、頭部を殴れば一撃で相手を失神させる。_NEWLINE_バックラーはレイピアでも使うしブロードソードでも使う。レイピアのダガーで(真っ直ぐ横に長いキヨン、帆船の帆のような護拳を持つタイプのもの)はバックラーと同じように構えても良い。事実、このタイプのダガーは護拳を相手に向け剣身は垂直になるように構える。いわば、短剣のついたバックラーである。_NEWLINE_また、バックラーは左の腰につけていた。引っ掛けているだけなので瞬時に持つことができる。つまり、急に襲われた時、左手でバックラーを瞬時に持ち、防御しつつ、右手で剣を抜いた。喧嘩っ早い連中は剣の鞘は全てを被うものではなく金属リングにしていたので簡単に剣を引き抜くことが出来た。この、引き抜いた直後の構え、すなわち右手を高く左の上に剣先は下を向いている状態~がレイピアの構えの1番である。西洋剣は剣帯で吊ってあるため握りは左の太ももか少し上である。この位置は腕を下ろすと自然に当たる位置で剣帯がある分長い剣でも抜ける。西洋風抜刀術である。また、構えの10番は背中をガードする。つまり多人数に囲まれたときのものである。 _START_SECTION_ ブロードソード&シールド _START_PARAGRAPH_ 西洋剣術の基本であるこの組み合わせは、防御と攻撃を役割分担するという考えに基づいており、古代からルネサンスに至るまで存在した。 _START_SECTION_ 足さばき _START_PARAGRAPH_ 左足を前、右足を後ろして肩幅に開く。左足のつま先は相手に対して真っ直ぐ向け、右足はそれに対して45度に開く。上体は、頭上に紐がついて持ち上げられるイメージで真っ直ぐにたて、膝は軽く曲げる。重心は、足の裏全体に体重をかけるか、土踏まずよりもやや前におく。_NEWLINE_前進は、まず左足を前、次に進んだ分右足を動かして、足を交差させて歩くように進む。足の接地は、つま先から着ける。剣道と同じである。これは当時の履物の裏が革だけで、ワラジや現代の靴のようにグリップ力がないので滑りやすいという理由がある。_NEWLINE_裸足の感覚に近い。 後退は右足から動かし、後ろ歩きをするように、左足を追従させる。前進するときは歩幅を小さく、後退する時は大きくする。 _START_SECTION_ ソード _START_PARAGRAPH_ 構え方はいくつかあるが、たとえば、剣を額の上に並行に構え頭部を守る構え方、肩に担ぐような構え方(疲れにくく、そのままポンメルで殴るように押し出し、手首の返しで左右から攻撃できる)、腕を下に下ろす構え方(疲れにくく、盾の影になるので相手からは攻撃が見難くなる)などがある。_NEWLINE_重いブロードソードの攻撃は、全て腰の回転から始まる。斬撃の場合、右足で踏み込むが、腰のひねりを伝えるように、肩、肘、手首と伸ばし、剣が伸びてから初めて足が着地するようにする。剣、足の順番は、突きの場合でも同じで、レピアの技術にも通底している。基本的な斬りは、左右の水平、左右の上斜め、真上である。連続攻撃が重視され、攻撃によって空いた部分や、盾ではじかれた力をそのまま使って反対側を攻撃することが促されている。_NEWLINE_剣先を軽く相手の盾の上に乗せる方法もある。相手は顔面を守ろうと盾を上げる。そして様子を見ようと盾を下げるだろう。そのタイミングでそのまま突きを顔面に入れる。_NEWLINE_突きの場合、まず肘を伸ばし、顎をあげ鼻先で相手を見下ろすように突く。頭を下げると肩も下がり、5cmは到達距離が短くなり、目標もぶれてしまうという。突いた際に、手の甲が上になっているのであれば、手首を返して右から水平の斬り、手の甲が下ならば左からの斬りに繋げる。_NEWLINE_裏刃を使った攻撃(ラップショット)では、相手の背後を狙う。剣を立て、パンチを打つように右40度に突き出した後、そのまま手首を内転させ、大きく右に踏み込む。そして、剣を手繰りよせるように肩、肘、手首をまわして裏刃で切る。相手は正対したまま後頭部、尻を斬られてしまう。_NEWLINE_盾を持った相手へのアウトサイドへの攻撃は特殊である。盾の上から下に弧を描くように切り下ろすが、このときは一度肘を左にむけ力瘤を相手に見せ付けるような姿勢をとり、攻撃のとき肘を張って右上に上げる。そうすることで力強い攻撃が下向きにできる。このとき回転軸は肩ではなく前腕部の中ほどにある。盾のうらを上から垂直下に攻撃する(背の高い相手では難しい)。_NEWLINE_盾同士は間合いが近いので、剣で相手の剣を捉えることもある。相手が剣を垂直に立てて構えているときなど、ラップショットの要領で相手の剣を裏から捉え自分の盾に挟み込んでしまう。相手は剣が動かせないがこちらはそのまま表刃で相手の顔を狙う。_NEWLINE_ベテランが相手だとあなたの鼻が盾の上からのぞいたら盾と剣で頭部をガードしていても、頭部はやられる。その正確性とスピードはあなたが思っている以上にある。たった数センチの防御が間に合わない。_NEWLINE_ブロードソードのもっとも有効な攻撃/防御ゾーンは右手正面に小型の傘を開いて短くもったほどの空間である。_NEWLINE_盾がある場合はその傘は盾に邪魔され左下がへこんだややいびつな形になるだろう。_NEWLINE_盾を構えるとき体を隠す構えをクローズド・ガード。開く構えをオープン・ガードという。オープンガードは盾を攻撃に使う意思がある。センターグリップの盾をオープン・ガードで構えると左手は盾の半径分リーチが伸びることになる。このリーチ分で相手を突いたり、剣を叩いたりが容易になる。相手がクローズド・ガードのとき、このリーチ分を使い相手の盾の端を強く突けば相手の盾はどんでん返しのように回る。同時に剣で開いた部分を突く。_NEWLINE_盾の間合いは近い。接近した場合、剣が十分に振れない場合がある。そのときはポンメルやガルドで殴るつけるのは効果的である。膝を蹴るのも有効だ。上半身の攻防と盾に気をとられ盲点になる。盾の知識の無いものは盾を蹴って相手の体勢を崩せるというが、これは間違いだ。盾の後ろには空間があり体と離れているので衝撃は吸収される。むしろ盾を踏みつけるようなストロークの長い蹴りのほうがまだしも役に立つかもしれない。 _START_SECTION_ 盾 _START_PARAGRAPH_ 盾は拳の胸の位置にしっかりと持つ。小さな盾ほど体から離し、大きな盾は体につける。盾の陰を大きく取ることが大切であるとされ、上下は肘を中心に盾を上下に回し、左右は腰の回転で防御する。標準的な円盾は大きさが「両方の拳をあわせて肘から肘までが直径」であった。これは広げた新聞紙ほどある。盾は重いがベテランはそれほど盾を動かさなくても十分防御できる。実際彼らがセンターグリップのヴァイキングシールドを使うとき、左手の拳は直径20cmほども動かさない。_NEWLINE_腕に固定した盾はつかまれると弱い。盾のふちをつかまれてねじられると簡単に腕の関節がはずれる。ただし、つかんだ腕は切り落とされるかもしれない。_NEWLINE_盾は、剣と連動させ、予備攻撃に使う。たとえば、盾の縁で相手の武器や盾を引っ掛けてガードを開けさせたり(フック)、盾を相手の武器に押し付け、動きを殺して、主導権を奪ったり(プッシュ)、相手の顔に押し付け視界を奪ったりする。_NEWLINE_盾の間合いはとても短いため、視線は相手の胸から上をとらえがちになり、腰から下には注意が行かなくなることが多い。また、自分の視界をふさぐように防御した場合には、死角ができる。そのため、盾で顔面をカバーした時は一歩後退し、顔をのぞかせる時を狙っている相手に対処することが促されている。さらに、センターボスの盾は端をおされるとどんでん返しのように盾が裏返り防御に穴が開いてしまうし、アックスなどで引っ掛けてそのまま突かれる攻撃には弱い。_NEWLINE_盾をもって倒れた時も危険である。もし腕ベルトで固定する盾で自分がその盾の上に背中から倒れた場合、動く事が出来なくなる。_NEWLINE_全ての攻撃において、盾は自分の正面にあるべきである。 初心者の多くは右斜めに切りつける時盾は左下に流れてしまう。 _START_SECTION_ 強度と材質 _START_PARAGRAPH_ ヴァイキング達は軟らかい木を材料にし、縁をわざと強化しなかった。これは相手が盾の縁を攻撃し刃が食い込んで動けなくなる一瞬を狙うためのものである。_NEWLINE_ルネッサンス期に少数の鉄の盾がでたが重さの関係上、ほとんどが木製である。ベニア板のように木目を垂直に張り合わせた。表面に描かれた絵は識別マークの意味や古代では呪術的意味合いも有り木目が分からないようにする意味合いもあった。小型〜中型の盾は革も多い。ギリシャ時代では木の盾の上に青銅を貼り付けたが以後、そのようなものは見られなくなる。_NEWLINE_バックラーは鉄もある。試験ではブロードソードの5~6撃で破損し、斧による攻撃では2~3撃で破壊された。 _START_SECTION_ 盾の精神面 _START_PARAGRAPH_ 盾をもつと言う事は防御専門ハードウェアを持っていることだ。_NEWLINE_また攻撃部門の右手と独立しているので防御と攻撃を同時に出来る。他のロングソードなどのように攻撃と防御二者択一ではないところが最大の強みである。_NEWLINE_盾を持つというと消極的な感じがするが実際は逆である。_NEWLINE_相手の攻撃2~3撃は当たらないし、盾を持っただけで体の1/3は隠れる。相手の攻撃を無力化するのだから積極的な攻撃になる。ましてやこちらの剣は短い。_NEWLINE_剣道の試合でこちらは小太刀一本だが相手の有効な攻撃でも1/3は無効となる。となれば逃げる必然性がないといえばわかるだろう。 _START_SECTION_ ロングソード(甲冑) _START_PARAGRAPH_ 甲冑着用時のロングソードを用いた剣術の特徴の一つは、リカッソをつかむハーフグリップ(ハーフソード)である。通常は右手で柄を、左手でリカッソを持ち、両手の親指は内側に向ける。鎧は切れないため、剣を棒術のように使い、突きを行ったり、柄の部分をつかって絡めたりする。_NEWLINE_スタンスは左半身であり構えは右だけになる(相手が盾の場合は左右が反転する)。_NEWLINE_構え1は両腕を上げ剣先を相手の顔に向ける。剣先を下にすることで弱点のわきの下をガードできる。_NEWLINE_構え2はそのまま腕を下ろした状態である。剣先は脇を狙い右腕は下に伸ばす。_NEWLINE_構え3は正面の構えである。腕を下ろし剣先は左に横に構える。_NEWLINE_構え4はつばをわきの下に当て剣先はまっすぐ相手に向ける。ランスを構えたような状態になる。_NEWLINE_第一の目標は脇の下である。次は股間である。ひじの裏、膝の裏、手のひらもターゲットになる。_NEWLINE_ハーフグリップにおける左手は、ダガーを逆手で持っているのと同じ状態なので、非常に強く突くことができ、さらに右手と鎧の重量を加えることができる。これでチェーンで覆われた喉や脇を貫くのであるが、その際には、先端を相手のアーマー部のプレートの表面にあて、滑らせるようにして脇や喉をねらう。従って良い鎧はこの部分の縁が切りっぱなしではなく、きちんと折り曲げられ返しが付いている。ドイツのゴチック式甲冑に見られる溝は、剣を滑らせ関節部から外に誘導する目的もある。_NEWLINE_お互いハーフグリップの場合は、フェンシングのように剣の先端での争いになる。先端を細かく回して、イニシアチブを取りあうのであるが、その場合、間合いが楯以上に近いので、組み討ちに持っていったり、腰のひねりと共にキヨンでなぐるハンマーアタックを行ったり、長い柄を膝の裏に当て、足を持ち上げて倒したりする方法もある。_NEWLINE_ユニークなテクニックとして、お互い構え2の場合、相手のガントレットに切っ先を刺し込んで引き倒す方法がある。ガントレットのカフスは動きやすいように広がっており、ハーフグリップ同士の間合いでは、剣先はすぐにその部分に届く。体を回し込みながら剣先を相手のガントレットに入れるのは容易で、やられた方は腕は切り裂かれ引きずり倒されることになる。また、そのまま相手のガントレットに覆われた手のひら(装甲はない)を突くこともある。_NEWLINE_脇の下に剣先が入ったならば、即座に構え4で前進し、剣先をぐりぐりとこねるようにして鎖を突き破り、そのまま肺を突き通す。あるいは倒れるように体重を押し当て、倒れたならば止めを刺す。このとき甲冑の重さは武器になる。_NEWLINE_ハーフグリップは一番近い剣先に相手が注意を向けさせ、そのままキヨンやポンメルで殴りつけるのは一動作で行うことができる。_NEWLINE_ハーフグリップを用いず、通常に構えて斬り合う場合、切るのではなく衝撃を与え倒すことが目的となる。とりわけ、剣先を逆手に持ったハンマーアタックは強力で、ロングソードの場合、切る、突くという剣としての「正規な」使用法以外にも、使えるところは何でも使う剣術となる。_NEWLINE_しかし、甲冑に対して最も効果的な武器はメイスやウォーハンマー、ピックなどである。_NEWLINE_では甲冑ではあまり威力のない剣はなぜ常備していたのか。一つは槍よりも携帯性がよく短剣よりも威力があるからだろうが、装甲の薄い兵士には打撃武器よりも殺傷力や取り回しの点で有効だったはずだ。騎士は甲冑の防御力にものをいわせ強引に切り込める。さながら戦車戦のように装甲の薄いものは逃げるしかなかっただろう。 _START_SECTION_ 体と足さばき _START_PARAGRAPH_ 体は相手を正面に見たとき、体は構えにより左右どちらかにねじれる。剣道のようにまっすぐ正対しない。足はブロードソードと同様である。ロングソードでは後ろの足を前に出す送り足を多用する。フェンシングや剣道のような継ぎ足はあまりしない。したがって相手を追いかけるとき足だけ見ると、左右左右と普通に歩くステップである。_NEWLINE_相手に対して前進するときは必ず相手の左右に回り込む。剣道のようにクイのようにしての中心に食い込むことは無い。_NEWLINE_これをやると突きの場合たいていは相打ちになる。剣の長さが相手のほうが長ければ、自分が死ぬ。剣には強い方向がありそれは自分の正面からやや右である。この方向をさけ、弱い方向から攻撃する。これはハーフグリップから組討になる場合、大切な概念である。例えば膝へのキックがある。甲冑着用のとき、正面から膝へのキックは相手の動きをとめるだけだが、相手の横に回りこみ膝を横から蹴ると、甲冑の重みで膝は折れてしまう。投げも同様である。相手の強い方向へ引っ張ったり後ろから押したり横から押したりすると、相手はバランスを崩し倒れるのは柔術と同じ考えである。 _START_SECTION_ 構造 _START_PARAGRAPH_ 突きに徹した剣であるものの、先端でのカット、あるいは引き、押しきりも出来るよう両刃になっている。(後期では刃がなくなり突き専用のものもある)重さは1,2~1,5kg。剣身は長いものでは88cmほどある。拳をまもるヒルト部分は曲線で複雑なラインを構成するが、工芸的な美しさだけではなく、相手の剣の受け流しを計算に入れたものでもある。スェプトヒルトと呼ばれるものは∫状のフックがついており、これで相手の剣を絡め取ることが出来る。籠型ヒルトはかなり重い。そのご、登場したものはカップ型のヒルトである。半球形をしたヒルトは軽くて丈夫である。スモールソードになると剣は更に軽く、貝殻状のヒルトになる。_NEWLINE_レイピアの剣は真っ直ぐで相当に長いが剣帯で吊ってあるので抜きやすい。また鞘を金属リングにかえると非常に抜きやすい。 _START_SECTION_ 足 _START_PARAGRAPH_ 右足を前、左足を後ろにして、肩幅に開く。前足のつま先は相手に対してまっすぐに向け、後足はそれに対して45度~90度の間で開く。上体は、頭上に風船があり上に引っ張られるようなイメージでまっすぐに立て(イタリア式は極端に前屈みになる)膝はロングソードなどよりやや強く曲げる。_NEWLINE_ステップはフェンシングのようなリズミカルなホップはしない。足の裏全体を地面につける。日本の剣道がつま先よりなのに対してステップは踵から着地する。フェンシングと同じである。これは「歩く」が元になっている。_NEWLINE_特にファント(ランジ)をするときは踵から着地すれば、その勢いを膝を曲げることでより前にだせるが、これをつま先から着地するとその時点で動きにストップがかかってしまう。 _START_SECTION_ 構え _START_PARAGRAPH_ 右手は軽く肘を曲げ、手の甲を上にし、剣の指鐶に指を通して、ポンメルを手首の裏に当て、切っ先は相手の喉に狙いをつける。指を支点にポンメルは剣の重さで上に上がるため、剣先は下がらず、構えていても楽なのだ。この場合、刃は水平になる。イタリアではポンメルを手首に当てる持ち方はせず、刃は垂直にかまえる。_NEWLINE_左手は頬の前に垂直に立てて、手を左右に振って顔面の防御をする。左腕を犠牲にして急所を守る。なお、剣の防御は近代フェンシングでは8番までだが、レイピアでは9番目まであり、その順序も異なっている。これらはカットがまだ残る古い型である。例えば5番は頭上に水平に構えるのだが、これは現在ではサーブルの頭へのカットに対しての防御に見られる。_NEWLINE_また、イタリア式とフランス式では順序が異なる。たとえばイタリア式は腕を斜め上に伸ばし切っ先を斜め下(相手の中心)向けて1番、_NEWLINE_切っ先の位置を変えず腕を右に2番、そのまま時計方向腕を下に3番、左に肘を反るようにして4番となる。_NEWLINE_よくある誤解で、「レイピアは撓る」といわれる。これは競技フェンシングの剣ではある程度当てはまる。競技フェンシングは振込むことで先端が撓り、相手の背後を突く(正確には剣の先端を当てる)ことができた。しかし、これは競技テクニックであり生死を賭けるような剣術ではそのような攻撃はダメージを与えられない。また、撓ることで衝撃を逃がし安全になる。実際にレピアはそれほど撓るものではない。撓ると先端がぶれ、正確で鋭い突きができないからである。_NEWLINE_剣の見極めの一つに剣を持って拳で握った手を叩く。良い剣は中心部がぶれても先端はぶれない。悪い剣は先端が大きくぶれる。 _START_SECTION_ 間合い _START_PARAGRAPH_ シングル・レイピアは剣の中で最も間合いの長い部類に入る。突きを主体としているので剣先は必ず相手の体よりも内側を向いている。レイピアの間合いを考えるとき、このようなイメージを想像するとわかりやすい。自分の正面130cmほどのところに直径20cmほど厚さ十数cmほどの円盤が縦になって宙に浮いている。この円盤がもっとも有効な攻撃/防御ゾーンである。もちろん、強い踏み込みをすればこの円盤はもっと厚みが増え円筒形になるだろう。この攻撃/防御ゾーンが間合いである。この概念をほかの剣にもイメージすると、レイピアの防御/防御ゾーンが非常に小さいことがわかるだろう。これがレイピアの特性なのだ。もしダガーがあれば、ダガーの扇形をした、攻撃/防御ゾーンが自分の左側50cmほどのところにもう一つあるわけだ。相手を攻撃する場合、この防御/防御ゾーンをどのようにかいくぐるかが剣術テクニックといえる。_NEWLINE_しかしイタリア式の間合いはかなり短い※ _START_SECTION_ 防御 _START_PARAGRAPH_ レイピアは防御のテクニックである。したがって相手を殺傷するよりも自分の身を守ることが大切とされる。フェンシングでもこの考えは同様であり、判定はやられたほうをカウントし、結果的に自分が生き延びて勝ったとなる。_NEWLINE_さて、フェンシングのフルーレと違うのはフェンシングはルール上、「攻撃権」というのがあり攻撃をするにいたって、相手の剣を防御し捉えなくてはならない。したがって剣の動きは肘を中心に扇状に動かし防御空間は肘を中心とし剣先は外を向く円錐状になる。相手の剣を捕らえて1、攻撃して2と2テンポにならざるを得ない。しかしレピア(フェンシングのエペも同様)では防御と攻撃は同時である為、相手の剣を肘を押し当てるようにして防御し剣先は相手にむけた、逆円錐状になる。つまり防御したと同時に剣先はあいてに届いているわけだ。(この感覚はドイツロングソードに近い。)_NEWLINE_あなたが攻撃を受け、後ろに後退するとき最も良いのは、腕を左に切っ先を相手に向ける4番の構えだ。相手は追い討ちで突き返しをすると、自然にこのラインと重なる。_NEWLINE_もうひとつはブロードソードでも使う1番の構えである。これは腕を上に、切っ先を相手の中心に向けたガードである。 _START_SECTION_ 攻撃 _START_PARAGRAPH_ レイピアの主攻撃は突きである。フェンシングに特徴的な、体を伸ばしきって行う突きをファント(ランジ)といい、レイピアにおいても重要とされるが、現代フェンシングに比べると使用頻度は落ちる。_NEWLINE_レイピアにおいてランジをする場合は、すぐに姿勢を戻すか他の姿勢を取らねばならないとされる。戻る場合には、前足で地面を蹴る。より距離を保つために、そのまま右足を交差させ後ろまで下がる場合もある。相手が下がった場合に更に前進する方法もあり、後足を前足まで引きつけ、もう一度ランジする。このときは腕を引く暇がないので、剣先を動かさず、肘を伸ばしたまま、肩と手首で角度を付け円錐状の空間を意識して角度をつけた突きをする。あるいは後ろ足を交差させ歩いて、相手の後退と共に小走りで追いかける形もある。_NEWLINE_レイピアは、刃は鋭く両刃なので切る事もでき、裏刃のテクニックもある。たとえば、フェンシングのサーブル、バンデロールは、袈裟切りに切りつける寸前に腕を内転させ、剣先を下に向けることで、通常の斬りつけよりも早く相手に剣を届かせる方法である。_NEWLINE_その他、通常の構えからは、手の甲を上にして切っ先を相手に向けている状態から、そのままの鳩尾や喉を狙っての突き、足を狙っての表刃の切り下げ、裏小手を狙っての裏刃の切上げ、などが可能である。_NEWLINE_チボーのレピア剣術はまたスタイルがことなりシングルソードであった。かれは体や腕の長さを基準に剣の長さ、相手との距離、ステップの位置や歩幅などを分析して詳細な図形として表した。これはダ・ヴィンチのウィトルウィウス人体図のような感じで円とそれに接する正方形などを基準に数学的に間合いなどを解析してい_NEWLINE_る。当時の幾何学と西洋宇宙論に影響を受けており、また彼も人体と宇宙を関連づけて考えていたようだ。かれはその著書のなかでマスケット銃やツーハンドソード、シールド&ソードに対抗する手段などを残している。 _START_SECTION_ ヴォルテ _START_PARAGRAPH_ レイピアにおけるカウンターの技術で、相手が踏み込んできた時、剣は相手の移動線上においたまま、体を捻って突きをかわすものである。フェンシングで時おりみられるダッキングはこれの変形で、剣を残したまましゃがみこむ。_NEWLINE_相手が大きく踏み込んでくるのが見えたら、その相手の体の正面に切っ先を向け、左足は後ろから横へと移動させる。足の移動と身を捻る角度によって、デミ・ヴォルテ(45度)、ハーフ・ヴォルテ(90度)、フル・ヴォルテ(180度)の3種類がある。_NEWLINE_フル・ヴォルテでは、左足が体を中心に元の位置とは反対の位置まで移動し、相手に完全に背中を向ける形になる。 手の平を上を向け、手首は剣と90度の角度をつけることで、踏み込んできた相手に切っ先を向ける。フル・ヴォルテはまた、後ろ向きにランジする形で、軸線をずらす攻撃としても使用される。_NEWLINE_ヴォルテは片手剣でのみ使われる。ヴォルテは自分の軸を相手の中心からはずしつつ攻撃する。剣道には見られないとても西洋剣術的な動きである。 _START_SECTION_ 喧嘩的なテクニック _START_PARAGRAPH_ 相手の剣をフックヒルトダガーで捉えるとそのまま捻りあげる。レイピアは指環のなかに指を通しているのですぐに離せない。そのままねじって指を折る。_NEWLINE_腹に剣が刺さったら、そのまま膝でポンメルを蹴り上げ、更に深く突き刺し右に剣を押し上げる。_NEWLINE_レイピアの間合いは遠いが攻撃は突きが主体だから、踏み込むことが多い。相手も同じタイミングで突きを出せば、あなたが基本に忠実に剣でそれを押しのけ防御したとしてもその間合いは一挙に縮まる。3m近い間合いが一挙にコンタクト・レンジまでになる。こうなると切っ先は外を向いているので動けない。ダガーがあればダガーが有効だが(まさにダガーをもつということは間合いが長短2つあることだ)なければ相手の腕をつかむのがもっとも安全な選択肢である。軽やかな剣技にみられるレピアだが、実際には間合いが近づけば、護拳でなぐったり相手の腕をつかんで引き倒す、蹴り上げるといった荒っぽいものになることが多かったようだ。 _START_SECTION_ 左手 _START_PARAGRAPH_ 左手では、防御のためにダガー、剣の鞘、マント、帽子などを使った。_NEWLINE_マントは相手の剣を振り払い絡めるほか、顔面に投げつけたり、マントの裏からマントごと剣を刺し通して相手から読まれにくい攻撃を行うこともできる。相手の構えた剣はあなたの前数十cmに剣先があり、この剣先にマントを乗せるだけでも片手で剣を持つ相手の握力はそれに耐えられず、剣先は下に向く。_NEWLINE_自分の腕に巻きつけて、完全に盾や鎧などの防具としても使える。_NEWLINE_マントは裾に重りを入れたり、裏と表をコントラストの強い配色にして相手の目を眩ませるなどの工夫がなされた。このマントは180度の開きを持つサークル型ものがよい。長さは羽織って手首が出る半マントである。あまり長く広いと重すぎるし払ったときのウェーブが裾まで届くのにタイムラグがある。_NEWLINE_このマントを使う防御は闘牛士のマタドールが使うムレタの扱いに見られる。_NEWLINE_ダガーは剣と並行に構えるのではなく、必ず角度をつけて持つ。相手に対しても 自分の剣に対しても45度位の角度をもち、パリーは肘を中心に扇状にカバーする。この時、左右の足は通常の構えとは逆に、左腕・左足を前にして短剣などを相手に向けても良い。 ランジの後、体を引く際には、ダガーを剣を引いた分だけ前に出して防御する。_NEWLINE_ダガーの形状にはいくつかあるが、十手のようなヒルトを持つものはやや斜めに、船の帆型の手を防御するガードがついたものは垂直に立て腕を伸ばす。これはバックラーと同じと見てよい。すなわち、盾(この場合はダガー)の影を大きく取るのである。_NEWLINE_レイピアの場合、最終的な攻撃は剣先が必ずこちらを向いている。したがって日本刀のように垂直・水平・斜めからの、斬り上げ・斬り下ろしのカットラインもある剣術よりも読みきりは容易である。日本古流の二刀流に比べると、さほど難しいものではない。_NEWLINE_ダガーを持っている場合はあなたが集中するのは左のダガーである。右の剣ではない。とにかくダガーで防御することを考えよ。 _START_SECTION_ 東欧系サーベル _START_PARAGRAPH_ ハンガリーなどアジア系の民族(マジャール)は片刃のサーベルを使った。これは湾曲しておりカットを重視したものだ。フェンシングのサーブルとはまったく異なり重い。手首、肘を回し遠心力と回転をつけて切る。ハンガリーには古くからサーベルがあり西洋の剣と近世まで同時に存在していた。_NEWLINE_立ち居合いのような抜刀から攻撃もあるようだ。_NEWLINE_未編集 _START_SECTION_ 抜剣と納剣 _START_PARAGRAPH_ 西洋の剣は剣帯で吊ってあり直身なので、日本の刀のような鞘引きはできない。そのために居合いのような技術はない。納剣も日本剣術のようなきれいな物ではなく、長い剣は剣身をもって二段階で鞘に納めた。リカッソはこのような時も役立つ。鞘は革、金属、木などでつくられ時には内側に羊毛を貼った。これは雨の進入を防ぐと共に、脂分が錆を防ぐからである。また、密着感もよい。_NEWLINE_日本刀に慣れた人が西洋剣を鞘から抜く場合、その長さに驚き西洋人の身長のことを理由に挙げるが、そうではない。剣と刀の装着方法がちがうのだ。日本刀は腰の帯に挟む。したがって柄は腰よりも上であり胸元もと近くにある。_NEWLINE_一方、西洋剣は腰から吊るすので柄の位置は大腿部にある。西部劇のカウボーイのピストルホルダーの位置だ。右腕を前にのばし、拳を頂点に大腿部(西洋剣の位置)と腰上(刀の位置)の三角形を想定すると二等辺三角形ではなく不等辺三角形となり一番長いのは拳〜大腿部の辺になる。これが抜くときのスライド幅となるので、刀よりも長い剣でも抜けるのだ。_NEWLINE_剣は左の腰に吊すので椅子は自分の右から座る。これが現在のテーブルマナーにおける着席の元である。_NEWLINE_貴人の前でひざまずいての礼は左足を立てる。右足を立てると斬りつけることが簡単だからだ。両足でひざまずくのは神に祈りをささげるときである(だからヒト相手は片足だけ)。_NEWLINE_剣を吊って、立ったまま腰を曲げてお辞儀をすると、鞘先が上がって後ろの人にあたるので、男性のお辞儀は手を左右に広げお尻を後ろに突き出す礼ができた。男性バレリーナなどがする礼である。このときも同様の理由で右足を引く。_NEWLINE_馬の左から乗ったり馬を誘導するとき左に立つのは、やはり左の剣がじゃまに成らないためである。(武士が馬の右から乗馬するのは、両手持ちの太刀は腰に水平に佩く。_NEWLINE_柄が前方に長くつきでるので馬の左からのると、鞍にぶつかる。 _START_SECTION_ 馬上での斬り合い _START_PARAGRAPH_ 馬を切ることはルール違反であるが、それでも馬の首筋や肩を剣で守るガードがサーベルにはある。_NEWLINE_ドイツ剣術のマスターになるには、3つのテストを受けねばならなかった。ひとつはマスターとの戦いである。二つ目は酔っ払い、3つめのテストは素人であった。酔っ払いは恐れを知らずに攻撃をするし、素人は想定外の戦いをするからだ。_NEWLINE_間合いの近いバックラー&ブロードソードよりもシングル・レイピアのほうがコンタクトレンジになりやすい。これはレピアが突きが主であり接近しやすいこと。バインドしやすいこと。ガルドと腕の小さな動きだけで相手の切っ先をはずせることから、突き、踏み込み、切っ先をはずすとそのまま鍔元まで相手の剣が滑ってくる。そうなれば相手の腕を掴み引き倒すのが容易になる。_NEWLINE_ハンガリーには馬上レイピアとも呼ばれるものがあり、長さは1,6mほどもある。ウィング・フッサー騎兵隊が馬上で槍のような使い方をした。
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Q11629237
_START_ARTICLE_ 西田彩香 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 東京都江戸川区出身。_NEWLINE_1989年、日本舞踊『羽の禿』に出演する。10歳の頃、ミュージカル『アニー』の主役に抜擢される。その後は、映画やテレビドラマ、CMに出演しており、『家なき子』への出演で注目を集めた。15歳の頃には、歌手デビューを果たしている。_NEWLINE_明海大学外国語学部日本語学科に入学したのち、学業に専念するため、芸能活動を休止する。在学中は軽音楽部に所属しており、学園祭では、自身で作詞を手がけたオリジナル楽曲を披露したこともある。4年生の頃、芸能活動を再開する。以後、舞台への出演を中心に活動している。2005年、同大学を卒業した。
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Q60229998
_START_ARTICLE_ 見上瑠那 _START_SECTION_ 人物・エピソード _START_PARAGRAPH_ 趣味は舞台鑑賞・映画鑑賞、特技はモノマネ、タロット占い。_NEWLINE_株式会社KIEからPFプロジェクトへ移籍(2019年4月)、移籍に伴い見上月梛へ改名した。
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Q11630322
_START_ARTICLE_ 覚山尼 _START_PARAGRAPH_ 覚山尼(かくさんに、建長4年7月4日(1252年8月10日) - 徳治元年10月9日(1306年11月15日))は、鎌倉時代中期の安達一族の女性。鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗の正室。父は有力御家人・安達義景、母は北条時房の娘。兄(養父)に安達泰盛。堀内殿、松岡殿、覚山志道、潮音院殿とも。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 父義景が出生の翌年に死去したため、21歳離れた異母兄泰盛の猶子として養育された。鎌倉甘縄安達邸で育ち、弘長元年(1261年)に10歳で北条得宗家の嫡子で11歳の時宗に嫁ぎ、安達氏と得宗家の縁を結ぶ。夫婦仲は、時宗の帰依した無学祖元の証言などから仲睦まかったとされ、文永8年(1271年)12月、20歳で嫡男・貞時を出産。日蓮の回想によれば、時宗は嫡子誕生の喜びから日蓮を恩赦して死一等を減じ、流罪に減罪したと言われる。また、時宗の影響で禅も行っている。建治3年(1277年)には流産をしている。_NEWLINE_弘安7年(1284年)4月、病床にあった時宗は無学祖元を導師として禅興寺_NEWLINE_で落髪(出家)たとき、共に落髪付衣し、覚山志道大姉と安名した。_NEWLINE_時宗は34歳で死去し、時宗の死後息子貞時が執権に就任、兄泰盛が幕政を主導。晩年は仏事につとめ、父義景、兄泰盛の後を受けて遠江国笠原荘を領している。弘安8年(1285年)に、内管領平頼綱の讒言を信じた執権貞時が、泰盛を始めとする安達氏一族を誅殺する(霜月騒動)。この事件の際、安達一族の子供達を庇護したと見られ、その後の安達氏の勢力回復には覚山尼の存在が大きかったと思われる。同年には貞時の承認を得て鎌倉松ヶ岡に東慶寺を建立。さらに夫の暴力などに苦しむ女性を救済する政策を行なったと言われ、直接史料は無いが、これが元で東慶寺は縁切寺(駆込寺、駆入寺とも)となったと言われている。55歳で死去。
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Q3571070
_START_ARTICLE_ 許志永 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1973年、中国河南省商丘市民権県生まれ。1990年に蘭州大学法律系に入学、法学士の学位を取得。1995年に蘭州大学法律系の修士課程に入学、修士の学位を取得。1999年に北京大学法学院に入学、2002年に法学博士の学位を取得した。2002年より北京郵電大学文法経済学院の講師。_NEWLINE_2011年7月30日、結婚。_NEWLINE_2013年12月、米誌「フォーリン・ ポリシー」の「2013年度世界の思想家100人」に選ばれた。 _START_SECTION_ 「公盟」での活動 _START_PARAGRAPH_ 2003年、ホームレスに間違われた出稼ぎ青年が収容所で暴行を受けて死亡した「孫志剛事件」に絡み、同じく法学博士である滕彪、兪江と連名で全国人民代表大会常務委員会に意見書を出し、農村から都市に流入したホームレスを強制的に収容・送還する「都市浮浪乞食収容送還法」の廃止を求め、これを実現させたことで、広く名を知られるようになった。_NEWLINE_2003年10月、滕彪、兪江、張星水と共同で「公盟」の前身である民間公益組織「陽光憲道社会科学研究センター」(略称「陽光憲政」)を創設。_NEWLINE_2003年11月、北京市海淀区の人民代表大会代表に当選(第13期)。2006年に再選(第14期)。_NEWLINE_2005年、「陽光憲道社会科学研究センター」が北京市民政局に継続登記できなかったため、「北京公盟諮詢有限責任公司」(略称「公盟」。「諮詢」はコンサルティングの意味)と改名し、北京市工商局に登記。_NEWLINE_2005年、陳情の実態調査のため、北京南駅近くの「陳情村」で2カ月間暮らし、陳情者を監禁する「ヤミ監獄(黒監獄)」などを取材。_NEWLINE_2006年、「盲目の人権活動家」陳光誠の弁護人を務める。_NEWLINE_2006年12月から、都市に移住した農民工の子女の教育を受ける権利に関する調査研究に着手。_NEWLINE_2008年9月に起きたメラミン混入粉ミルク事件で、被害者家族の法的支援に尽力。_NEWLINE_2009年から大学での講義資格を剥奪される。2013年3月から給与差し止め。_NEWLINE_2009年7月14日、税務局が「公盟」に総額142万元(約1900万円)の罰金の支払いを命じる。7月29日午前5時、制服警官1名と私服警官5名が責任者である許志永を連行。当局から「脱税容疑」で告発され、北京市第一看守所に勾留された。8月13日、「脱税罪」で正式逮捕。8月23日、保釈。 _START_SECTION_ 「公民」での活動 _START_PARAGRAPH_ 2010年3月、「公盟」は組織名称を「公民」と改め、引き続き人権擁護活動に携わる。「公民」は民主法治制度の確立を目標とした公益組織で、新公民運動を唱道。_NEWLINE_2011年11月、北京市海淀区北郵選挙区の人民代表大会代表選に出馬。当局の妨害を受けて正式な候補者名簿に入らなかった。有効投票数22000余票のうち3500余票を獲得するも、当局が推薦した候補者の16000余票に及ばず、落選 。_NEWLINE_2012年11月15日、中国共産党総書記に就任した習近平宛に公開書簡「国家の命運に対する一公民の考え」を発表。_NEWLINE_11月24日、北京市公安局の国保(国内安全保衛総隊)人員に連行される。_NEWLINE_2013年2月26日、北京の地下鉄の駅で、教育の平等を訴えるビラを配布。北京市に戸籍のない市民に、市教育委員会庁舎前に集まって平等な教育を受ける権利を要求するよう呼びかけた。翌27日に北京市の国保から呼び出しを受ける。_NEWLINE_2013年4月12日、香港で開かれる「孫志剛事件十周年シンポジウム」に参加するため赴いた北京の空港で身柄を拘束され、自宅軟禁状態に置かれた。7月16日に公共秩序騒乱容疑で勾留され、8月22日に正式に逮捕された。_NEWLINE_2013年12月13日、正式に北京市第一中級人民法院に起訴された。_NEWLINE_2014年1月22日、初公判。当局の司法手続きに抗議の意思を示すため黙秘を貫いた。公判は即日結審。_NEWLINE_2014年1月26日、判決公判。懲役4年の実刑判決を受けた。
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Q83030
_START_ARTICLE_ 認知症 _START_SECTION_ 症状 _START_PARAGRAPH_ 以前よりも脳の機能が低下し、主に以下の様な各種症状を呈することとなる。 _START_SECTION_ 中核症状 _START_PARAGRAPH_ 程度や発生順序の差はあれ、全ての認知症患者に普遍的に観察される症状を「中核症状」と表現する。_NEWLINE_記憶障害と見当識障害(時間・場所・人物の失見当)、認知機能障害(計算能力の低下・判断力低下失語・失認・失行・実行機能障害)などから成る。_NEWLINE_これらは神経細胞の脱落によって発生する症状であり、患者全員に見られる。病気の進行とともに徐々に進行する。 _START_SECTION_ その他の症状 _START_PARAGRAPH_ 実臨床においては、アルツハイマー病と白質型多発性脳梗塞の合併が多く、後者では歩行障害(パーキンソン症候群。開脚性を伴うことも少なくない)および排尿障害(進行すると尿失禁に至る)がしばしばみられる。レビー小体型認知症では、認知症・幻覚妄想と共に、歩行障害、過活動膀胱を含めた自律神経障害がしばしばみられる。 _START_SECTION_ 軽度認知障害 _START_PARAGRAPH_ 軽度認知障害(Mild Cognitive Impairment:MCI)とは、正常老化過程で予想されるよりも認知機能が低下しているが、認知症とはいえない状態。認知症の前段階にあたるが、認知機能低下よりも記憶機能低下が主兆候となる。主観的・客観的に記憶障害を認めるが、一般的な認知機能・日常生活能力はほぼ保たれる。「認知症」の診断ができる程度に進行するまで、通常5〜10年、平均で6〜7年かかる。医療機関を受診した軽度認知障害では、年間10%から15%が認知症に移行するとされる。さらに、単に軽度の記憶障害のみの例より、他の認知障害を合わせて持つ例の方が、認知症への進行リスクははるかに高い(4年後の認知症への移行率は、記憶障害のみの場合は24%、言語・注意・視空間認知の障害のいずれかの合併例では77%であった)。_NEWLINE_認知症における疾患修飾治療(disease-modifying therapy)、いわゆる根治療法を企図した100以上の臨床試験がすべて失敗に終わり、少なくともMCIの段階からの治療開始が望ましいと考えられている。しかし、MCIから認知症への進行を確実に食い止める治療法はまだ見つかっていない。_NEWLINE_MCIの段階では、軽症であるがゆえにその背景にある病気、つまりアルツハイマー病の前駆段階なのか、血管性認知症の前駆段階なのかを判定するのがしばしば困難であること、さらに最近の報告(Brain 2013)では、80歳以上のアルツハイマー病の方の実に8割が何らかの脳血管障害を伴っていることが明らかとなり、脳血管障害に対する介入が、血管性認知症はもちろんのこと、アルツハイマー病の前駆段階であるMCI(MCI due to ADと呼ばれる)に対しても有効なのではないかという期待が世界中で高まっている。我が国でも、脳血管障害に対する治療薬がMCIに対して有効かどうかを確かめようとする医師主導治験(COMCID Study)が平成27年5月より始まっている。_NEWLINE_国立長寿医療研究センターの研究班がまとめた発表によると、認知症の前段階と言われるMCIの高齢者を4年間追跡調査してみたところ、14%が認知症になったものの、46%は正常に戻った。研究は、認知症患者ではない65歳以上の住民約4200人を2011年から4間追跡、国際的なMCI判定基準に基づく150項目に回答する形での認知機能検査により、最初の時点で約740人(18%)がMCIと判定された。4年後に同じ検査を行ったところ、MCIと当初判定された人の46%は正常範囲に戻っていた。この認知機能検査は、記憶力・注意力・処理速度・実行機能の4項目を検査するが、MCIの中でも、1項目だけスコアが低いタイプが正常に戻った割合が39〜57%であるのに対し、複数の項目のスコアが低いタイプは20%台であった。MCIの中でも、問題のある項目が少ないほど回復率が高い傾向があった。また、4年の間に認知症と診断された人の割合は、当初MCIと判定された人では14%と、当初正常だった人の5%に比べ、大幅に高くなっていた。 _START_SECTION_ 若年性認知症 _START_PARAGRAPH_ 若年性認知症(Young onset dementia, YOD)とは、65歳未満で発症する認知症。有病率は研究途中ではあるが、45-64歳の人口10万あたりの男性で101-120人、女性で61-77人というデータがある。 _START_SECTION_ 難聴との関係 _START_PARAGRAPH_ アメリカ国立加齢研究所(NIA)縦断研究部門長ボルティモア加齢縦断研究責任者のLuigi Ferrucci博士らの研究で、難聴を有する成人はそうでない成人に比べて、認知症およびアルツハイマー病を発症するリスクが高く、難聴が重度であるほどリスクも高いことを突き止めた。この研究は、36-90歳の男女639人を対象に、難聴と認知症との関連性について調べたもので、1990年の研究開始時に認知症が認められた被験者はいなかった。研究グループは4年間にわたり、認知力と聴力検査を実施し、2008年まで平均約12年に及ぶ追跡調査を行い、認知症やアルツハイマー病の徴候をモニターした。その結果、125人の被験者が「軽度」、53人が「中等度」、6人が「重度」の難聴と診断された。最終的には、58例が認知症と診断され、そのうち37例はアルツハイマー病であった。軽度の難聴では認知症リスクがわずかに上昇し、中等度と重度の難聴を持つ患者ではリスクが大幅に増大していた。また、60歳以上の被験者では、認知症発症リスクの36%超が難聴と関連していることが分かった。難聴が悪化するほどアルツハイマー病のリスクは増大し、聴力が10デシベル低下するごとに、発症リスクは20%ずつ増大した。研究結果は、医学誌「Archives of Neurology(神経学)」2011年2月号に掲載された。この結果に関連して、アメリカのアルバート・アインシュタイン医科大学のリチャード・B・リプトン博士は『HealthDay News』2月14日付にて、「難聴は加齢の生物学的測定値の一種かもしれない。また、難聴は神経細胞の損傷の結果生じた可能性があり、仮に聴覚を介在するニューロンに障害があるなら、記憶やより高度の認知機能をつかさどる神経細胞の損傷マーカーにもなる」と述べた。 _START_SECTION_ 診断 _START_PARAGRAPH_ 意識障害時には診断できない。ICD-10とDSM-IVでさえ診断基準は異なるが、一般に、日常生活に支障が出る程度の記憶障害・認知機能の低下の2つの中核症状が見られる時に診断する。周辺症状の有無は問われない。機能が以前と比べて低下していることが必須であり、生まれつき低い場合は精神遅滞(知的障害)に分類される。_NEWLINE_記憶・認知機能などの程度を客観的に数値評価する検査としてWAIS-R(ウェクスラー成人知能検査)などがあるが、施行に時間を要し日常診療で用いるには煩雑である。簡便なスクリーニング検査としては、世界的にはミニメンタルステート検査(MMS、MMSE)が頻用されている。日本では聖マリアンナ医科大学の長谷川和夫らが開発した「長谷川式認知症スケール」(HDS-R)がよく利用される。_NEWLINE_軽程度・疑わしい認知症患者については脳波検査も含めるべきである。_NEWLINE_英国国立医療技術評価機構(NICE)はアルツハイマー型認知症、脳血管性認知症の診断基準にはNINCDS-ADRDAアルツハイマー基準、前頭側頭型認知症の診断基準にはLund–Manchester基準を推奨している。 _START_SECTION_ CSF Aβ _START_PARAGRAPH_ ベータアミロイド(Aβ)は脳脊髄液(CerebroSpinal Fluid、CSF)、血漿中にAβ40とAβ42として存在する。高齢者ではCSF Aβ42が低下するがAD患者ではAβ40が高度に低下しAβ40/Aβ42比は増加する。 _START_SECTION_ CSF タウ _START_PARAGRAPH_ タウ蛋白質はADで上昇するとされている。AD以外では血管性認知症、パーキンソン病、進行性核上性麻痺、HIV感染症では上昇は認められない。しかし前頭側頭型認知症、レビー小体型認知症、皮質基底核変性症、クロイツフェルトヤコブ病では上昇例が認められている。よりADに特異度が高い検査としてリン酸化タウが期待されている。 _START_SECTION_ 血漿 Aβ _START_PARAGRAPH_ 血漿AβもAD発症の危険因子や病態進行のマーカーとなりえる。 _START_SECTION_ 画像検査 _START_PARAGRAPH_ 他疾患との鑑別、認知症タイプ判別のため、認知症の疑いのある場合は画像撮影を実施しなければならない。 _START_SECTION_ 頭部CT _START_PARAGRAPH_ 脳腫瘍、慢性硬膜下血腫、正常圧水頭症などの治療可能な疾患の検出が目的となる。脳萎縮の評価はMRIに比べて劣る。内側側頭部の萎縮の評価は間接所見として側脳室下角の拡大の程度で判定するが下角の拡大が常に海馬や海馬傍回の萎縮と合致するとは限らない。 _START_SECTION_ 頭部MRI _START_PARAGRAPH_ statistical parametric mapping(SPM)やvoxel-based morphometry(VBM)が盛んである。認知症の鑑別としてDLBとADを比較すると、ADでは海馬や側頭頭頂葉皮質の萎縮が強い。無名質はADの方が、中脳被蓋はDLBの方が萎縮が強いことが示されている。ADでは高齢発症では内側側頭部萎縮が目立つが初老期発症では側頭頭頂葉皮質の萎縮が目立つ。 _START_SECTION_ SPECT _START_PARAGRAPH_ 認知症疾患の鑑別として単一光子放射断層撮影(SPECT)は非常に重要視されている。AD,VaD,FTDかの診断が疑わしい場合はSPECTを実施すべきである。シンチグラフィーも参照。血流は神経細胞数よりもシナプス活動を反映していると考えられており、ADではパペッツの回路として嗅内皮質と解剖学的に密接な繊維連絡を持つとされている帯状回後部や楔前部で血流低下が認められる。DLBでは後頭葉の血流低下が認められる。 _START_SECTION_ PET _START_PARAGRAPH_ アミロイド斑を検出できるPETトレーサーが開発されておりアミロイドイメージングとして注目されている。11C-PIBが最も研究されておりADでは前頭前野や楔前部などの大脳皮質に強い集積が認められるのに対して、正常例では大脳皮質の集積は乏しいとされている。 _START_SECTION_ 管理 _START_PARAGRAPH_ 治療可能と判明しているタイプ以外の認知症以外について、治療法は存在しない。AChE薬は初期状態の認知症に多く処方されているが、しかしその利益は大きくない。_NEWLINE_「治療可能な認知症(treatable dementia)」の場合は原因となる疾患の治療を速やかに行う。慢性硬膜下血腫または正常圧水頭症が原因の場合は手術で治す事ができる。 _START_SECTION_ 援助の方針 _START_PARAGRAPH_ 介護者には、認知症の介護はもどかしく非常にストレスになることを心理教育し、ネグレクトにならないよう陰性感情を認識させる。介護者についてもうつ病を罹患している可能性を診察する。_NEWLINE_介護保険、障害年金、デイケア通所など社会資源の利用も有用である。専門医(老年内科、精神科、神経内科など)、介護職(介護福祉士等)の協力・連携の元にチーム医療を行う事が望ましい。 _START_SECTION_ 心理療法 _START_PARAGRAPH_ 軽中程度の認知症患者(タイプを問わない)に対しては、NICEは投薬(認知機能改善を目的とする)の有無に関わらず、認知刺激グループ療法(Cognitive Stimulation Therapy)プログラムへの参加機会が与えられるべきであるとしている。日中の散歩などで昼夜リズムを整える(光療法)、思い出の品や写真を手元に置き安心させる回想法やテレビ回想法なども有効な場合がある。_NEWLINE_患者の不安感など精神状態の影響を受ける周辺症状は、介護者がそれらを取り除く事で発症を抑制することが可能となることもある(ユマニチュード)。_NEWLINE_BPSDに対して、多数の非薬理学的な介入の手法があるが、音楽療法と行動管理技術が効果的である。興奮状態に対しては、介護施設において、パーソンセンタードケア、コミュニケーション技術の訓練、認知症ケアマッピングが、ただちに、あるいは6か月後でも有効であり、音楽療法と、活動(標準的な活動状態)は有効だが長期的な試験はなく、アロマテラピーと光療法は有効でない。_NEWLINE_認知症患者の睡眠障害に対して、薬物を用いない方法では、光療法が有効だとするランダム化比較試験が複数存在する。 _START_SECTION_ 薬物でのBPSD管理 _START_PARAGRAPH_ また認知症患者は認知機能低下のみならず、不眠、抑うつ、易怒性、幻覚(とくに幻視)、妄想といった周辺症状(BPSD)と呼ばれる症状を呈すことがある。これらには向精神薬の投与が有効でありえるが、第一に心理療法を試みるべきであり、薬物の正しい利用に努め、低用量にて副作用を監視しながら慎重に投与すべきである。厚労省はBPSDに対して、向精神薬は原則使用すべきではないとしている。_NEWLINE_NICEの2006年ガイドラインは、BPSDに対して薬物介入を第一選択肢とするのは、深刻な苦痛または緊急性のある自害・他害リスクのある場合に限らなければならない、2013年の厚労省のガイドラインでは第一選択は非薬物介入が原則であり処方時には患者・保護者に承諾を取るべきであるとしている。 _START_SECTION_ 漢方薬 _START_PARAGRAPH_ 遠志はイトヒメハギの根で、その主治は鎮静作用であるが、『神農本草経』(後漢~三国時代に成立)に「不忘」とあり、健忘症状に有効であることが記載されている。近年の研究では、遠志が高齢者への記憶を含めた認知機能を改善させた報告や、βアミロイド(Aβ)によるラット皮質ニューロンへの傷害を抑制した報告などがある。『神農本草経』の記載は、現在の認知症の中核症状と同等のものとは考えにくいが、健忘を使用目標のひとつとして、遠志を含有する漢方薬を考慮できる。_NEWLINE_健忘を主治とする生薬の「遠志」を含む漢方エキス製剤は、帰脾湯、加味帰脾湯、人参養栄湯である。「遠志」を含まないが、認知症に効果が期待できる漢方薬には、抑肝散、抑肝散加味陳皮半夏、釣藤散、当帰芍薬散、八味地黄丸がある。 _START_SECTION_ 嚥下困難 _START_PARAGRAPH_ 認知症患者の多くは嚥下困難を抱えている。しかしAGSは高度の認知症患者に対し経管栄養法(胃瘻)は推奨せず、代わりに経口摂取援助を提案している。胃瘻は患者の動揺と関連性があり、身体的・薬物的拘束の使用を増加させ、褥瘡の悪化をまねく。_NEWLINE_半夏厚朴湯(TJ16, 構成生薬 半夏、伏苓、厚朴、蘇葉、生姜)は脳血管性障害患者の嚥下反射、咳反射を改善し、障害を持つ高齢者における誤嚥性肺炎の発生を予防する。 _START_SECTION_ 経済的コスト _START_PARAGRAPH_ 認知症に対しての経済的コストは、オランダでは保健支出の5.5%、ドイツでは3.7%を占めている。コストの総額は、全世界では推定6450億ドル(2010年、スイスのGDPと同額)、米国では1680-2300億ドル、欧州全体では2130億ドルに上ると試算されている。 _START_SECTION_ 介護問題 _START_PARAGRAPH_ 介護については、現在でも多くの家族が認知症患者を介護しているが、その負担の大きさから心中問題に発展する事もある。認知症患者の介護は、24時間の見守りが必要であり、これは地域ぐるみでないと対策は難しい。患者の多くは死ぬ場所に自宅を希望しているが、現状では大部分は病院で亡くなっている。_NEWLINE_しかし、この問題は家族や貧困の問題とされており、社会問題とされることはまだまだ少ない。日本においては、患者の9割近くが65歳以上であり65歳未満の初老期の認知症患者(若年性認知症)の対策が遅れているため、その患者の家族負担は65歳以上よりも重いとされている。介護保険においては、要支援2以上の患者が認知症高齢者グループホームを利用できる。 _START_SECTION_ 自動車運転をめぐる問題 _START_PARAGRAPH_ 判断力が低下した認知症患者による自動車運転などの問題もある。各県の公安委員会は認知症にかかっている者の運転免許を取消しまたは停止することができる(道路交通法第103条)。認知症関連5医学会は連名でガイドラインを策定し、認知症が判断した際は、医師は患者および家族に対し自動車運転の中止ならびに運転免許証返納を行うよう説明し、かつその点をカルテに記載するよう勧告している。 _START_SECTION_ 鉄道事故をめぐる問題 _START_PARAGRAPH_ 認知症患者(疑いがある場合も含む)が鉄道事故に巻き込まれるケースが、2005年度から2012年度までの8年間で149件発生していることが明らかになった。事故被害者のうち115人は死亡しているが、こうしたケースについて鉄道事業者が、事故被害者が認知症であることを考慮せずに賠償請求をするケースが多く見受けられており、安全対策や、誰が賠償責任を負うかなど、新たな課題として浮上している。事故被害者の遺族らからは、四六時中の見守りは無理などとして、鉄道事業者の動きに反発する声が強い。_NEWLINE_2007年12月に認知症の男性がJR共和駅で線路内に下りて起こした事故でJR東海が親族に約720万円の賠償を求める訴えを起こしたが、2016年3月1日、最高裁はこの損害賠償請求を棄却し、認知症患者やその家族にとっては画期的な判決となったが、国の政策も含め、責任能力がない人が起こした事故の損害回復をどうすべきかという課題も浮かび上がった。 _START_SECTION_ 所在不明者をめぐる問題 _START_PARAGRAPH_ 警察庁のまとめによると、2013年、捜索願(行方不明者届)が出された認知症の人の数は1万322人であり、2012年度と2013年度に届出のあった19,929人の不明者のうち、2014年4月現在所在が確認できていない人数が258人である。一方で警察に保護されたものの住所や名前などの身元不明の人が13人(2013年5月現在)いた。_NEWLINE_2019年6月20日の警察庁の発表によれば、2018年中に警察に届け出があった認知症の行方不明者はのべ16,927人で、前年比1064人増であり、統計を取り始めた2012年から連続で増加、最多となった。行方不明者全体87,962人に占める割合は19.2パーセントで過去最大。70歳以上が9割を占めた。 _START_SECTION_ 法的保護 _START_PARAGRAPH_ 既に、認知症患者を対象にした悪徳商法などが発生している。悪質リフォームや、金融機関による認知症患者の金融商品の無断解約などは、発生・発覚時にはよく報じられるが、解決策について議論されることは少ない。このため、家族等や弁護士や司法書士、社会福祉士、地域包括支援センター、成年後見人制度による対策が求められている。 _START_SECTION_ 介護士の人権 _START_PARAGRAPH_ 2018年に70代の認知症の男性が包丁を持って施設内部を徘徊していたのを発見した際に介護士の男性が包丁を取り上げたところ、襲いかかってきたために自衛のために投げ倒し、認知症の男性が軽傷を負った。高山市はこれを認知症患者への介護士による虐待と判断した。岐阜県は虐待にあたるか捜査中である。認知症患者の面倒を見る介護職員の9割近くがセクハラや暴言などを受けている _START_SECTION_ 表記改正への賛否議論 _START_PARAGRAPH_ 「痴呆」という呼び名が差別的であるとされたのは、「痴」「呆」ともに「愚か」「馬鹿」という意味を持つ漢字だからである。実際、厚生労働省のアンケートでは、「痴呆」という呼称が一般的な用語や行政用語として用いられる場合、また病院等で診断名や疾病名として使用される場合でも、不快感や軽蔑した感じを「感じる」人は、「感じない」人を上回った。_NEWLINE_「痴呆」の呼び名の代替案として「認知症」とする事とした事に関して、「認知」の意味が正しく伝わらず、適切ではないのではないか、また日本語として破綻しているのではないか、という議論が出ている。_NEWLINE_心理学会関係(検討会には参加者なし)からは、「認知」は人間の知的機能をあらわす概念であり、それをそのまま病名として用いると意味が不明確で誤解が生じる危険があるとして異論もある。社団法人日本心理学会・日本基礎心理学会・日本認知科学会・日本認知心理学会から連名で出された意見書の中でその不適切さが指摘され、代案として「認知失調症」を提起する意見書が厚生労働省に提出されている。_NEWLINE_また、「痴呆」と言う言葉は「一度獲得された知能が、後天的な大脳の器質的障害のため進行的に低下する状態」を指し、「認知症」と言う言葉より症状を的確に表しているという意見もある。
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Q35245
_START_ARTICLE_ 語源学 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 語の由来を語源または語原(ごげん)という。語源への興味と関心は語源意識と言われる。_NEWLINE_語の意味、発音、表記は時と共にしばしば変わるため、語源がいつも明らかとは限らない。また、言語の起源を考えることにも繋がるため、すべての語源を明らかにすることは難しい。_NEWLINE_英語やドイツ語、フランス語などの近代語には、ラテン語、ギリシア語など古典語に由来する専門語が多く、語源を知るとその語の意味がよく分かることがある。_NEWLINE_ただし、比較言語学の知識が無い場合、語源の説明にはしばしば強引なこじつけがされる。特に日本語や朝鮮語のように同系統の言語が未だに確認されていない言語では、この傾向が著しい。民間語源も同様の現象であり、言語学的な根拠の無い、民間で流布する語源説のことである。 _START_SECTION_ 日本語 _START_PARAGRAPH_ 古くは、『和名抄』などに、語の由来についての説明が見える。江戸時代に至っては、新井白石が『東雅』にて外来語の指摘で見識を示した。国学者の中には、契沖や賀茂真淵のように語源について言及した者もいれば、本居宣長のように「語源を探るよりも、古人の使用法を知るべき」という者もいた。明治時代には、大槻文彦が語源の必要性を説き、『言海』の増補改訂版である『大言海』を作った。
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Q756618
_START_ARTICLE_ 謎の大陸アトランティス _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ ギリシャの若者が、漂流していたアトランティスの王女を助ける。彼女の言うままに、世界の果てと思われていたヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)を抜けて舟を進めると、高度な文明を誇る大陸アトランティスがあった。年老いた王を騙して実権を手中にした悪宰相は、水晶を使って太陽光を集めレーザー光線とする殺人兵器を使用するなどして世界征服を企む。しかし企みは神の怒りを買い、大火山が噴火。全土を揺るがす大地震と共に、大陸は一夜にして大海に没する。若者や王女ら生き残った人達が、その文明を世界に伝えていった。
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Q28685819
_START_ARTICLE_ 谷口徹 (柔道) _START_PARAGRAPH_ 谷口 徹(たにぐち とおる、1982年10月24日 -)は神奈川県出身の日本の柔道家。現役時代は81kg級の選手。身長は179cm。得意技は小内刈り。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 柔道は3歳の時に父親の譲が指導者を務めていた朝飛道場で始めた。1997年横須賀学院中学3年の時に全国中学校柔道大会の78kg級決勝で港南中学3年の仲田直樹と対戦するが、頭から畳に突っ込んで内股を仕掛けたため、規定により反則負けを喫した。同年の全日本選抜少年柔道大会個人戦無差別では中量級ながら優勝を飾った。_NEWLINE_1998年東海大相模高校1年の時にはインターハイ団体戦の決勝で国士舘高校と対戦すると、大将戦で反則負けを喫して2-2と並んだ。代表戦では2歳年上の兄である望が鈴木桂治に払巻込の技ありで敗れて、チームは2位にとどまった。1999年高校選手権の団体戦で優勝を飾った。同年、全日本ジュニアの81kg級で3位となり、フランスジュニアでは、2位となった。。2000年高校選手権では3位だった。同年、全日本ジュニアの決勝で高校の1年先輩となる東海大学1年の鈴木貴士に敗れて2位だったものの、アジアジュニアでは優勝を飾った。_NEWLINE_2001年東海大学へ進学すると、大学1年の時には全日本ジュニアの決勝で筑波大学1年の仲田に敗れてまたも2位にとどまった。2003年の大学3年では優勝大会で2位だったが、講道館杯では、有留、野瀬、秋山、百瀬を破り、決勝で旭化成の塘内将彦を破って優勝した。大学4年の時には学生体重別では3位だったが、優勝大会と体重別団体で団体2冠を達成した。_NEWLINE_2005年には松前柔道クラブの所属で実業個人選手権に出場して2位になる。同年の全日本実業柔道団体対抗大会では、優勝をした。。2006年には旭化成の所属となり、全日本実業個人選手権で優勝を飾る。同年のカナダ国際でも優勝した。。2008年の実業個人選手権では決勝で中学時代からのライバルだったアルゼの仲田を破って2年ぶり2度目の優勝を果たした。同年の全日本柔道選手権大会では、中量級ながら準々決勝まで進出するも、石井慧に敗れ5位にとどまる。また、同年の韓国国際では、2位となった。。2009年の実業個人選手権では3度目の優勝を飾った。
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Q11633467
_START_ARTICLE_ 豊岡村 (群馬県) _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 村の南部を碓氷川、北部を烏川が流れる。
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Q67498358
_START_ARTICLE_ 豊島修平 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 『Tartaros-タルタロス-』の「タルタロスアテレコしてみたコンテスト」に出場。「ユーザー人気投票」によって、「声優チャレンジ部門(ドワンゴクリエイティブスクールの部)」でユーザー人気投票1位に選ばれたことで、追加予定のシナリオキャラクターに選ばれる。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 特技には空手(初段)を挙げている。趣味にはドライブ、カラオケ、動物鑑賞をそれぞれ挙げている。
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Q7830709
_START_ARTICLE_ 豊栄町 _START_SECTION_ 歴代町長 _START_PARAGRAPH_ 平成12年7月 - 平成17年2月(東広島市との合併により失職) 家森建昭
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Q55525306
_START_ARTICLE_ 貝層 _START_PARAGRAPH_ 貝層(かいそう)とは、地中に貝類が堆積して貝殻による層をなしたもの。過去人類の活動によって形成された「人為貝層」(いわゆる「貝塚」)と、太古の海に生息していた貝類の死骸が海底に堆積して形成された「自然貝層」がある。 _START_SECTION_ 人為貝層の例 _START_PARAGRAPH_ 「日本の貝塚一覧」または「Category:日本の貝塚」を参照 _START_SECTION_ 自然貝層 _START_PARAGRAPH_ 太古の海に生息していた貝類が死んだ後、海底土砂と共に地層化したもので、多くは化石と化している。 主に地質学・古生物学の研究対象となる。隆起により陸地化した場合、地層の露頭などで観察され、古環境復元の研究などで活用される。国や地方自治体によって天然記念物に指定されているものもある。
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Q4677466
_START_ARTICLE_ 賦活症候群 _START_PARAGRAPH_ 賦活症候群(ふかつしょうこうぐん、またはアクチベーション・シンドローム、英: Activation Syndrome)は、選択的セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)などの抗うつ薬の副作用の一種で、中枢神経刺激症状の総称である。初期刺激症状とも呼ばれる。_NEWLINE_主にSSRIやセロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(SNRI)の投与初期(特に2週間以内)や増量期に起こりやすいと言われている。不安、焦燥、不眠、敵意、衝動性、易刺激性、アカシジア、パニック発作、軽躁、躁状態などを呈し、悪化するとリストカットなどの自傷や、自殺行為に至ることもあり危険である。生物学的な作用機序は不明であるが、症状が出たら薬剤の中止や減量、抗不安薬や抗精神病薬の投与が有効とされている。_NEWLINE_境界性パーソナリティ障害の症状と類似し誤診しやすい。通常これらの症状は一過性のものであるとされる。双極性障害の諸症状とも似ており、閾値下の躁転、または躁転そのものとする意見もあり、うつ病エピソードの治療中にこれらの症状が現れた場合、鑑別は慎重にすべきである。_NEWLINE_境界性パーソナリティ障害を合併している場合はアクチベーション(症候群)のリスクが増すとされており、気分安定薬や第二世代抗精神病薬を中心とした治療が推奨される。_NEWLINE_特に若年者に対しての投与には慎重を要する。英国医薬品庁(MHRA)は2003年、SNRIのベンラファキシン(日本では開発中止)、SSRIのセルトラリン、シタロプラムなどの18歳未満への投与を禁止、若年成人でも自殺の危険性が高まるなどとした。これを受け、日本の厚生労働省は18歳未満の大うつ病性障害患者に対するパロキセチンの投与を禁止した。一方、アメリカ食品医薬品局(FDA)はSSRI以外の抗うつ薬においてもアクチベーション・シンドロームが起こるとし、禁止ではなく警告とした。これらの流れから、現在では英国医薬品庁、2006年には厚生労働省でも、禁忌から「警告として注意喚起を行う」に変更された。_NEWLINE_軽度のアクチベーション・シンドロームは、三環系などの旧来の抗うつ薬でも起こるが、これらの抗うつ薬は、眠気やだるさなど沈静的な副作用も強く、賦活作用がマスクされることや、副作用の強さから通常少量から増量するため、アクチベーション・シンドロームは起こりにくい状況下にある。_NEWLINE_一方、自覚できる副作用が軽減されているSSRIやSNRIは、精神科やその他の診療科でも容易に・多量が処方される傾向にあり、アクチベーション・シンドロームを起こしやすいため、注意が必要である。医師は患者や患者の家族にこれらの副作用が出ることを説明しておき、緊密な連携が取れるようにする必要がある。
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Q11635116
_START_ARTICLE_ 質屋営業法 _START_SECTION_ 内容 _START_PARAGRAPH_ この法律において「質屋」とは、「質屋営業を営む者で第2条第1項の規定による許可を受けたもの」であり(1条2項)、その質屋営業の定義は「物品(有価証券を含む)を質に取り、流質期限までに当該質物で担保される債権の弁済を受けないときは、当該質物をもつてその弁済に充てる約款を附して、金銭を貸し付ける営業」と規定されている(1条1項)。「質屋」でない者は、質屋営業を営んではならない(5条)。_NEWLINE_つまり、質屋営業法上の質屋となるために第2条第1項の規定による許可が必要なのであるが、その許可手続きなどについては、都道府県公安委員会(所管の警察署)で行う。許可を受けたことを証する表示は営業所の見易い場所においてなさなければならない(10条)。利率や流質期限についても営業所の見易い場所における掲示が必要である(17条)。_NEWLINE_流質期限が経過した時は、質屋が質物の所有権を取得する(19条)。_NEWLINE_ぞう物の品触れについては21条。盗品及び遺失物の回復については22条。警察の差止めや立入り調査権については23条、24条。
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Q11635661
_START_ARTICLE_ 赤松光夫 _START_PARAGRAPH_ 赤松 光夫(あかまつ みつお、1931年3月3日 - )は、日本の小説家。青春小説、推理小説、時代小説、官能小説などで知られる。 _START_SECTION_ 経歴と作品 _START_PARAGRAPH_ 徳島県で浄土真宗尊光寺の僧侶の四男として生まれる。京都大学文学部卒。出版社に勤務し、女学生雑誌『高校家庭クラブ』の編集長をしていたが、石上玄一郎の主宰する同人誌『現象』に参加し、菊村到らとも知り合う。1960年から作家活動を始める。はじめ青春小説を書き、ファンレターに書かれていた経験をもとに書いた「ロストラブ」シリーズはベストセラーになった。同時期にジュニア小説を書いていた川上宗薫は「おれと赤松はジュニア小説の柏鵬だ」と語っている。_NEWLINE_1961年に、前年に起きたU-2撃墜事件から着想して、国際謀略を題材にしたスパイ・ミステリー『虹の罠』を発表、続いて常磐線三河島駅で発生した三河島事件から企業謀略を題材にした『衝突現場』、東海村原子力研究所の研究員失踪事件を発端にした『火の鎖』と、ミステリ・サスペンス小説のヒット作を放つ。_NEWLINE_1980年代以降は密教に関心を持ち、密教ミステリを次々に発表。のち多くの官能小説や、『蜜の追跡者』『尼僧殺人巡礼』などの官能ミステリ・サスペンスを執筆。1996年光文社歴史時代小説フェアで書き下ろした『女巡礼地獄忍び』以降のくノ一、尼僧もので知られる。ほかに太平洋戦記や、出身地が徳島に近い讃岐の志度浦である平賀源内を描いた『江戸の大山師』などの歴史小説、自身もその流れを汲む赤松一族のルーツを辿る『謀叛の一党 赤松一族の野望』(1994年)、京大時代についての自伝的小説『遠い灯』(1994年)があり、2001年以後沈黙していたが、2008年時代小説で復活した。_NEWLINE_『美千の性典』(「あの雲に歌おう」1965年)などが映画化されている。_NEWLINE_趣味はゴルフと囲碁。長兄は赤松信乗(1921 - )で、海軍予備学生日記を赤松光夫の世話で刊行している。_NEWLINE_尼僧お庭番シリーズは、1996年に光文社時代小説文庫の歴史時代小説フェアの一冊としてた第1作『女巡礼地獄忍び』が文庫書き下ろしされ、これは徳川幕府に制圧された雑賀党の残党に拾われた少女がくノ一として成長していく物語。続編の『尼僧お庭番』はその10年後に、尼僧となった主人公が徳川吉宗に仕え、ご落胤の謎を探る、天一坊事件を題材としている。続いてシリーズとして、『女刺客人』『白山 夜叉の肌』『暗闇大名』『大奥梟秘帖』までがあり、吉宗から、家重、家治と三代の徳川将軍に仕えた主人公の、少女時代から90歳で大奥で生涯を閉じるまでの全6巻となっている。新尼僧忍法シリーズとして、幕末を舞台にした『尼僧ながれ旅』、徳川家康と織田信長の秘密に迫る『尼僧忍法一番首』などがある。
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_START_ARTICLE_ 赤松祐高 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 永禄2年(1559年)、赤松政秀の子として誕生。天正5年(1577年)、中国地方に侵攻してきた織田氏の家臣・羽柴秀吉に兄・斎村政広と共に降伏する。以後も秀吉に従い、半田山家鼻城1万石を領す。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは兄同様、はじめ石田三成の西軍に与するが、徳川方の東軍に寝返る。兄政広の切腹後に流浪した。_NEWLINE_大坂の陣では浪人衆として、豊臣秀頼に仕え大坂城に篭城。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣後、播磨国に逃れて播磨網干大覚寺に篭るが、池田利隆の兵に囲まれたため、衆兵を救わんとして切腹した。享年57。_NEWLINE_嫡男・祐則は半田山で帰農し、郷長となる。子孫は曽谷氏と称し、現在に至る。
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Q18224504
_START_ARTICLE_ 赤瀬紗也香 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 1994年8月25日、神奈川県川崎市出身。川崎市立橘中学校、神奈川県立川崎北高等学校を経て、日本体育大学卒業。_NEWLINE_ANAエアポートサービス所属。第2所属は、スポーツアカデミー新城。_NEWLINE_中学校時代に第6回アジアエージグループ選手権大会(2009年、東京)に日本代表として出場経験があり、100mと200mの背泳ぎで優勝を飾っている。_NEWLINE_また高等学校時代では2010年、高校1年次の全国高等学校総合体育大会女子100m・200m背泳ぎ二冠制覇、ジュニアパンパシフィック水泳大会でも女子100m・200m背泳ぎ二冠制覇を果たす。_NEWLINE_2011年、第52回短水路日本選手権女子200m背泳ぎにて2位に入り短水路高校新記録をマーク、高校2年に進級して同年の全国高等学校総合体育大会女子200m背泳ぎでは大会新記録で2連覇を果たしている。同年の第66回国民体育大会(山口県)少年女子A200m背泳ぎで大会記録となる記録で優勝した。_NEWLINE_2012年、前年の活躍を受けてロンドン・オリンピック出場が期待されたが、選考会となった2012年第88回日本選手権水泳競技大会では成績が振るわずオリンピック出場を逸した。この高校3年の夏休みの時に日本体育大学水泳部の練習参加を直訴したエピソードがある。_NEWLINE_2013年、川崎北高3年の終盤に出場した第54回短水路日本選手権女子200m背泳ぎで短水路の女王:酒井志穂を抑えて優勝を飾った後、日本体育大学体育学部進学直後の第89回日本選手権女子200m背泳ぎで初優勝を飾り、同年のジャパンオープン200m背泳ぎでも優勝、この年は世界水泳選手権(スペイン・バルセロナ)日本代表にも選出された。また同年の第89回日本学生選手権水泳競技大会でも100m・200m女子背泳ぎ二冠に輝いた。_NEWLINE_2014年、第55回短水路日本選手権では背泳ぎ50m・100m・200mの3種目を制覇、第90回日本選手権では100m・200mでそれぞれ2位に終わったが、6月のジャパンオープン200m背泳ぎで優勝して同年のパンパシフィック水泳選手権(オーストラリア・ゴールドコースト)及び2014年アジア競技大会(大韓民国・仁川広域市)日本代表に選出された。_NEWLINE_アジア競技大会の直前に出場した第90回日本学生選手権では前年に引き続いて100m・200m背泳ぎを制覇して2年連続二冠を達成した。アジア競技大会では女子200m背泳ぎにて優勝し、シニアの主要国際大会で初の金メダル獲得を果たした。それまで赤瀬が金メダルを獲得していた主要国際大会はいずれも日本水泳連盟がジュニア層から代表を選ぶ大会であった。
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Q22131109
_START_ARTICLE_ 超シリトリアル _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 一般的な遊びであるしりとりを番組が開発した「超尻バトルボード」を用いて行う「新感覚しりとりバトル」を行う。_NEWLINE_「超尻バトルボード」を初めとした番組内のセットはプロジェクションマッピングを用いており、また「しりとり」にちなみ「尻」や「ヒップ」という単語、「尻」→「桃尻」→「桃」といった連想から桃が多くあしらわれている。
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Q3277847
_START_ARTICLE_ 超小型写真 _START_PARAGRAPH_ 超小型写真(ちょうこがたしゃしん)は、通常よりも小型の写真機、通常よりも小型のフィルムを用いて撮影される写真、とりわけ銀塩写真を指す語である。超小型写真に使用される写真機を超小型カメラ(ちょうこがたカメラ)、あるいは外来語としてサブミニチュアカメラ(英語: subminiature camera)と呼ぶ。顕微鏡写真とは異なる。_NEWLINE_120フィルムなどを使用する中判カメラに対し、「ライカ」(35mmフィルム使用)に代表される「35mm以下のフィルムを使用する写真機」を小型カメラ(こがたカメラ)、ミニチュアカメラ(英語: miniature camera)と定義し、そのなかでもとりわけ「35mm未満のフィルム」である「8mm幅」や「16mm幅」といった小型映画用のフィルムを写真に転用したものを、「超小型」(サブミニチュア)と定義している。フィルムのサイズによって規定されており、したがってデジタルカメラは範疇外である。_NEWLINE_実用品として超小型化を追求したもの(代表例はミノックス)から、年少者向けなトイカメラの一種として安価に製造されたもの(1930-50年代の日本における各種「豆カメラ」の多くや、110フィルムを用いるカメラの中でも廉価帯のもの)まで多様な製品が存在したが、「135フィルム」(35mmフィルム)を使用するカメラのような主流にはならなかった。カメラ・フィルムともサイズが極小であるため、たとえ高度な技術を用いて精度を高めてもより大型の135フィルム機などに絶対性能が劣ることや、フィルム規格によっては継続してのフィルム供給・現像態勢に難があったためで、フィルムの製造中止によって実用品としての命脈を断たれたモデルも見られる。_NEWLINE_135フィルムを使用する、通常の「小型カメラ」よりも小型の写真機については、コンパクトカメラ(Point-and-shoot camera)を参照のこと。 _START_SECTION_ 略歴・概要 _START_PARAGRAPH_ 1936年(昭和11年)、ソビエト連邦に併合される前のラトビアの首都リガで、「ミノックスI型」が開発され、小型映画の規格「パテベビー」が初めて使用した9.5mmフィルムを、初めて写真用に使用した。翌1937年(昭和12年)には、日本の美篶商会が、「35mmフィルム」のちょうど半分の幅を持つ小型映画の規格「17.5mmフィルム」を使用した「ミゼットフィルム」を発表、豆カメラブームを起こす。_NEWLINE_第二次世界大戦終結後、各社が、16mmフィルムを使用した『豆カメラ』を発売した。理研光学(現リコー)のステキーや、西村雅貫が開発したミカオートマットとこれに続く「コーナン16」あるいは「ミノルタ16」、「マミヤ16」など多くの製品が登場している。さらに「小さく、画質が悪いがとにかく撮影できる」ことだけを重視した、トイカメラレベルで実用性に乏しい豆カメラは、無名の零細メーカーによっても多数作られた。豆カメラは終戦後の混乱期から1950年代初頭にかけ、日本に進駐してきた連合軍兵士がノベルティグッズとして購入することが多かった。_NEWLINE_一方、1959年(昭和34年)に135フィルムを用いるハーフサイズカメラであるオリンパス・ペンが登場すると、写りの良さと安価な価格設定にあわせ、ライカ判に比べて倍の枚数が撮影できる経済性が大衆に支持を受ける。ライカ判のコンパクトカメラが小型化する1970年代後半までの間、他社からも製品が登場している。_NEWLINE_1971年(昭和46年)にはコダックが、インスタマチックを刷新しさらに小型の「110フィルム」を使用する「ポケットインスタマチック」規格を発表する。この登場により、多くの16mmカメラが製造を終えた。110規格自体は、10年ほどでブームが終息するが、トイカメラ用として現在も細々とフィルムが出荷されている。_NEWLINE_さらにコダックは1982年(昭和57年)、円形のシートフィルムに放射線状にフレームを並べた「ディスクフィルム」規格を発表する。しかし商業的には失敗し、1998年(平成10年)にフィルムの生産が終了になった。_NEWLINE_1996年(平成8年)4月には、富士フイルム、コダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンが共同開発した「世界標準規格の新しい写真システム」として、24mm幅のフィルムを専用カートリッジに詰めた「アドバンストフォトシステム」(APS)が発表になる。ライカ判を置き換える、次世代の規格として期待されたが、2011年(平成23年)に生産終了となった。
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Q179098
_START_ARTICLE_ 超心理学 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 日本超心理学会によれば、超心理学は、心と物あるいは心同士の相互作用を科学的な方法で研究する学問だとされる。リン・ピクネットの書籍では、既知の自然の法則では説明できない現象を研究する学問、としている。_NEWLINE_羽仁礼は、超心理学とは、いわゆる超能力を研究対象とするものだと説明した。具体的な研究対象は、基本的にはESP (extra-sensory perception) とサイコキネシス(念力)だとされる。前者には、テレパシー、予知、透視などが含まれる。ただし実際には、超心理学は臨死体験や体外離脱、前世記憶、心霊現象をも研究対象に含む場合もある。_NEWLINE_研究対象は超自然的なものであるが、(各国の)超心理学会などでは「方法論は実験心理学の規範に準拠する」としている。被験者の割付けやデータの統計学的検定といった研究計画については通常の実験心理学よりもかなり厳密に行われており、追試が可能な形で行うことを目指す、あるいは実際に行うというものである。日本超心理学会は、その存在の有無や仕組みを、科学的手法に基づき、特に行動科学の手法を用いて明らかにしようとしている、としている。_NEWLINE_ただし、この学問に対する評価には幅があり、「科学と認められる」とする者、「科学的なものとしては認めるが心理学ではない」とする者、「研究対象となるべき現象(超感覚的知覚能力など)がそもそも存在しない」とする者、「疑似科学の範疇」とする者など、様々である。だが、欧米の有名大学において博士号を授与されてきたという点で、超心理学というのは、超常現象・心霊現象に関する研究の中では最も科学的でアカデミックな色彩が強い分野である、と羽仁礼は解説した。_NEWLINE_J・B・ラインとその弟子たちら、超心理学の創成期の人々が残した華々しい研究成果は、その後に実験条件を厳しくされたことによって、次々と否定されるに至った、ともされ、また、その後新しい手法が開発されると、偶然の期待値を上回る好結果が発表されるが、それがやがて否定される、ということが繰り返されており、超心理学者らは現在でも研究の対象がそもそも実在することを証明することにかなりの労力を費やしている、と羽仁礼は指摘した。_NEWLINE__NEWLINE_日本では、広義の超心理学が「サイ科学」と呼ばれることがあるが、サイ科学はオカルト的な要素も含むため、超心理学とは分けて考えるべきだとする見解もある。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 歴史的にはジェームズ、フロイト、ユング、アイゼンクといった者たちも超心理学に関わることもあった。_NEWLINE_「超心理学」という言葉が造語されたのは1889年のことであり、ドイツの美学者あるいは心理学者マックス・デソワール (Max Dessoir)によるものである。_NEWLINE_一般に、「parapsychology」(超心理学)という用語が広く使われるようになったのは、アメリカ合衆国ノースカロライナ州ダラムのデューク大学に超心理学研究室が設置され、1927年にスコットランド出身の心理学者ウィリアム・マクドゥーガルが教授として迎えられ、同年にJ・B・ラインとその妻ルイザも参加したことによる、といい、ラインがこの「超心理学」という用語を広めた、とされる。ラインは、「超心理学の父」、ともされる。_NEWLINE_1930年には、この超心理学の実験作業が本格的にスタートした。_NEWLINE_J・B・ラインの計画は、千里眼、テレパシー、予知、サイコキネシスなどの「霊能力」が、管理された研究室の条件下で、著名な演技者を使わなくても実演可能であることを示すことだった、という。そこで、まず心霊調査を信頼できる学問とする作業に着手したといわれ、1934年に発行された著書『超感覚的知覚』は広く読者を獲得し、「ESP」という用語を一般に知られるものとした、という。_NEWLINE_ラインは統計学の見地からも難癖のつけようがない結果を出した、という。例えば、ゼナー・カードを用いて実験を実施し、実験対象者の一部は普通に予想される5回以上の的中率を反復的に実現することを示した、という。その一方で、ラインの実験結果のほとんどに批判が寄せられている、ともされる。ただし批判があるにせよ、「霊」の存在の介在を排した形での超能力研究を確立した意味で、ラインの功績は評価されるべきだ、ともされる。_NEWLINE_ラインの助手のベティ・ハンフリーは、テストの結果は、開始時が最も良く、次第に下降し、テストを続行すると再度上昇に転ずる、ということを発見した。これは「U曲線」「低下効果」「退屈要因」などと呼ばれるようになったといわれ、超心理学の分野では再現可能な最初の発見事項とされている、という。_NEWLINE_また、ニューヨークの超心理学者ガートルード・シュマイドラーは「山羊・羊効果」を発見した、とされる。これは、ESPを信じる被験者は、信じない被験者に比較すると、良好な結果を出す傾向がある、という内容のものである。(→#ヤギ・羊効果)_NEWLINE_1957年には、超心理学研究の水準を引き上げることを目的として、アメリカ合衆国で超心理学会(超心理学協会、PA)が結成された。この学会は、世に認められている通常の学問分野と同様に、査読制度を採用した専門誌を発行している。_NEWLINE_1965年、ラインが退職し、この超心理学研究室は現在は大学からは独立した超心理学研究所として存在している、というが、ラインが主導して1957年に設立された「超心理学協会」は、1969年に米国科学振興協会の下部機関に認定された。_NEWLINE_J・B・ラインの後に、様々な手法が開発された。例えば、ラインが用いたゼナー・カードに代わって、「無作為事象生成装置」というものが超心理学研究室の標準的な装置になった、という。_NEWLINE_また、物理学者のヘルムート・シュミット (物理学者)が、放射性崩壊のような予測不能の物理現象に対するサイコキネシスの効果を検知する可能性を示し、これはプリンストン大学のロバート・ジャンをチーフとする研究チームによって正しく再現された、ともされる。_NEWLINE_現代の超心理学実験は非常に巧緻を極めており、その方法論も大変進んできているのだが、たいていの人たちはそれに気づかないままでいる。_NEWLINE_上記の米国や欧州とは文脈が大きく異なるが、日本では、福来友吉(1869–1952)が、心霊研究や超心理学の草分けとなった、とされ、東京帝国大学の助教授時代に、御船千鶴子の存在を知り、またその後、長尾郁子の研究を行った、とされる。_NEWLINE_現在の日本では、日本超心理学会(初代会長:故小熊虎之助明治大学教授→二代目会長:大谷宗司防衛大学校心理学名誉教授)や日本サイ科学会(創立者:故関英男/会長:佐々木茂美電気通信大学名誉教授)において、行動科学から認知心理学、さらには素粒子物理学を基にした検証や論究が継続されている。 _START_SECTION_ 研究室や学部の設置状況 等 _START_PARAGRAPH_ 米国において超心理学の専門の学部を備えた大学は、カリフォルニア州オリンダのジョン・F・ケネディ大学1校である、という。ただし心理学部の大学院課程で研究が継続できる大学が、J・F・ケネディ大学以外に数校ある、という。_NEWLINE_イギリスにおいては、(1983年以前には)エディンバラ大学、サレー大学、アストン大学の3大学において、個人ベースで超心理学の大学院教科研究が提供された、とされ、数名の心理学部の学生が心霊現象の研究論文で博士号の学位を取得した、とされる。そして、1983年にアーサー・ケストラーの遺書により、遺産70万ポンドが、イギリス初の超心理学部の創設のために寄託され、これに対してエディンバラ大学とカーディフ大学が名乗りを上げ、結局これをエディンバラ大学が引き受けることになった、という。この超心理学部は「ケストラー記念超心理学部」と名づけられ、1985年にロバート・L・モリスが初代の主任教授に任命された。_NEWLINE_ヨーロッパでは、イギリス以外にオランダのユトレヒト大学でも超心理学研究室が設置されたが、同研究室が閉鎖された後では、エディンバラの超心理学部がヨーロッパでは唯一の専門学部だとされる。_NEWLINE_日本の大学には超心理学を専門とする学部や学科は存在しないが、明治大学情報コミュニケーション学部では、教授の石川幹人や准教授の蛭川立らが超心理学的な研究も行っており、同大学院ではそのような研究でも博士号を取得することが可能だとされる。 _START_SECTION_ 研究者の態度のマッピング _START_PARAGRAPH_ マイケル・フリードランダーは、概観すると超常現象が実在すると頑固に信じている人と、実在を頭から一切否定する人に、真っ二つに分かれていると指摘した。_NEWLINE_この両者の中間地帯に、比較的人数が少ない、第三のグループが存在していて、超常現象に関する主張を検討するにはやぶさかでないという姿勢で実験に勤しんでいる。_NEWLINE_この第三のグループも、さらに二派に分かれているように見えると述べられることがあり、片方の派は、非常に懐疑的であるものの、厳密で科学的な対照標準を持ち込んで実験や研究を行っている。この人たちは、今でも中立的な姿勢を守っており結論を出していないが、(超常現象の実在の立証に関して)成果と呼べるようなものは今日まで提出していないと言う。_NEWLINE_もうひとつの派は、上記の派とは鏡像のような関係にあり、現代科学のテクニックを大いに活用しているものの、超常現象を共感をもって受け入れたがっていて、実験の対象に(上記の派に比べて)より思いやりがあり、また自身の過ちにも寛容であるように見える、と述べた。_NEWLINE_研究者の態度について、石川幹人明治大学教授は、公開サイト「超心理学講座」の「超心理学における7つの誤解」では、「(超心理学者は)信奉は棚上げにして、経験的事実にもとづいた研究を行なっている。超心理学者のなかには、懐疑論者も多くいる。当然、霊魂の存在などを前提とすることはない。」とした。 _START_SECTION_ 初期 _START_PARAGRAPH_ 初期の実験、ラインが行ったものでは、特別なカード(ゼナー・カード)のなかから、ランダムに一枚を選んで伏せ、それがどんな図柄のカードか、被験者に当てさせるという実験を行った。 _START_SECTION_ 現代 _START_PARAGRAPH_ ロバート・ジャンやチャールズ・ホノートンなどといった人々が行っている現代の実験では、被験者が実験装置から感覚的な手がかりを得たりしないように、電子機器やコンピュータによる乱数、地球にランダムに降り注ぐ宇宙線などを利用して標的の選択を自動化している。_NEWLINE_ロバート・ジャンとその協力者らによって、プリンストン大学工学部の変則現象調査研究所で行われた実験は、ランダムに選ばれる数列に対して、精神が何らかの影響を与えられるのではないかという可能性を測定するために、大規模テストを自動的に行う電子装置を設計し、被験者らは、選ばれた数値を大きくしたり小さくしたりするように求められた。ジャンの実験のサンプル数、試行回数はきわめて大きかった。例えば、平均値の予想が100.00となるテストを、55000回試行し、ある被験者はスコアを上げようと努力した時の平均は100.082に、逆に下げようとしたときには平均が99.86になったと報告された。_NEWLINE_(この実験についても、批判者たちは例によって、実験手続きや統計分析を微に入り細に穿って検証し、懸念を表明した)_NEWLINE_スタンフォード研究所(SRI)に在籍していた科学者、ラッセル・ターグとハロルド・パソフは、遠くの情景を叙述できると述べるユリ・ゲラーの透視能力をテストした。ゲラーから数百マイル離れたテストの現場へ出かけ、ゲラーは前もって決められていた時間に、遠く離れた場所にいる実験者のまわりの景色がどうなっているか言葉や絵で描写した。パソフとターグは、描写を採点するシステムを考案した。論文を書き上げ、査読制度がある科学雑誌「ネイチャー」に投稿し、それが掲載されるという栄誉を受けた。(だが、絵の同定方法や実験手続きが批判を受けた。)_NEWLINE_ケストラー記念超心理学部の主任教授であったロバート・モリスは、チャールズ・ホノートンと合流し、ホノートンはガンツフェルト実験を開発した。(ガンツフェルトとは「全体野」を意味する)。ガンツフェルト実験では、被験者の目はアイマスクで覆われ、耳にはイヤホンを付け、ホワイトノイズが流される。被験者の全感覚、すなわち全体野への入力がどれも遮断されるのである。こうして世界から感覚的に隔絶した状態で被験者は隣の部屋で一連の絵を眺めている実験者からの情報を受け取ろうと試みる。この実験を何千回も繰り返すことによって、期待される確率よりもほんの少しだけ正しく有意な予知ができるという結果が得られたと言われている。ホノートンが厳密に練り上げた研究プログラムは、ホノートンが1991年に亡くなった後も続けられているとも言われている。 _START_SECTION_ 日本 _START_PARAGRAPH_ 小久保秀之、笠原敏雄らが、1990年代に日本で行われた研究についてまとめている。 _START_SECTION_ 実験結果に関わる要因 _START_PARAGRAPH_ 超心理学における実験では、以下の要因が重要とされている。 _START_SECTION_ ヤギ・羊効果 _START_PARAGRAPH_ 超心理学実験の得点は、超心理現象を信じる者(ヒツジ)が被験者の時は高く、超心理現象を信じない者(ヤギ)が被験者の時は低い傾向がある。この現象は偶然には1万分の1未満の確率でしか起きないにも関わらず、集合実験でも個別実験でも検出された。この効果はジョン・パーマー、ガートルード・シュマイドラー、T・R・ローレンスなどの超心理学者らの実験によって検出された。パーマーによれば、実験が成功するという状況に被験者が「心理的快適さ」を感じていた場合、ターゲットを当てやすいとされる。 _START_SECTION_ 実験者効果 _START_PARAGRAPH_ 全く同一の実験であっても、実験者がだれであるかにより結果に違いが出ることがある。これを実験者効果と呼ぶ。「ヤギ・羊効果」は被験者側の信念が影響する例であるが、実験者側の信念も実験に影響することが広く知られている。_NEWLINE_懐疑論者のリチャード・ワイズマンと超心理学者のマリリン・シュリッツが実験者効果を調べる実験を行ったところ、全く同じ条件の実験であるに関わらず、シュリッツが行った実験のみに優位な結果が得られた。ガートルード・シュマイドラーの実験では「独善的で冷たく自信過剰」な印象の実験者の結果が失敗しやすいという結果が出た。また実験者の妻が入院している期間のみ著しくスコアが低いという結果が出た実験なども見られる。 _START_SECTION_ 自発的想像傾向 _START_PARAGRAPH_ 自発的想像傾向とは「心のうちに自然に現れるイメージを積極的に求め、重要視する傾向」のことである。ジョン・パーマーの実験によれば、自発的想像傾向はESPが発揮されるについて重要な性格傾向であるとされる。こうした傾向を持つ被験者が、社会心理的に快適な状況の実験に参加すれば成功しやすいとされる。またフィオナ・シュタインカンプの実験では「外向性が高く、神経質傾向が低く、知能が高い」被験者はESP得点が高い傾向が見られた。そうした被験者は社会心理的快適さを得やすいため、と考えられる。 _START_SECTION_ 仮説群 _START_PARAGRAPH_ 超心理学では、いわゆる「心霊現象」や臨死体験などの理解のしかたに関して、いくつかの仮説がある。_NEWLINE_超ESP仮説では「死後生や霊魂の存在の証拠とされる心霊現象も、ESPや超能力によるものだと見なすことで、霊魂を想定しなくても説明可能になる」とする。これと対立するサバイバル仮説では「肉体の死後も何らかの存在が存続し続けていてそれが様々な超常現象を引き起こしている」とする。 _START_SECTION_ ロバート・キャロル _START_PARAGRAPH_ ロバート・キャロルは『懐疑論者の辞典』(査読を欠いた、ロバート・キャロルによる個人的な本・サイト)において「審読制のある超心理学の専門誌も少なくとも6誌ある。しかし、この研究分野の特徴は詐欺や欺瞞である。きちんと比較実験を立案して、統計データを解析する能力にも欠けている。」と述べた。また、「スーザン・ブラックモアのように、何年たっても超常現象の有意に支持する結果が見つからず、研究をあきらめてしまった超心理学者もいる」と書いた。_NEWLINE_また肯定的結果を得たと主張する超心理学者が、サイの存在を支持しない研究結果をわざと無視して自分の研究結果を正当化してしまうことも多い、とし、ラインも自分の信念を支持しないデータは理由を付けて捨てていた、とした。(→#お蔵入り効果) _START_SECTION_ ランディ _START_PARAGRAPH_ ダグラス社の取締役会会長のジェームス・マクドネル (James McDonnell) により50万ドルの出資によって1979年に設立されたマクドネル超能力研究所 (McDonnell Laboratory for Psychical Research) という、おそらく世界で一番資金のある超能力研究所があった。この研究所の所長であるピーター・フィリップス (Peter Phillips) 博士に、超能力実験においていかにイカサマ師のトリックを見抜くか、マジシャンのジェームス・ランディが11ヶ条の助言を送り、また要請があれば無償で実験に立ち会うことも申し出た。ところが、ランディの申し出は断られ、助言も無視された。封も開けられず手紙は送り返されていたという。これに怒ったジェームス・ランディはある計画を立てた。「プロジェクト・アルファ」である。_NEWLINE_ランディはこの研究所に2人の若いマジシャン Steve ShawとMichael Edwardsを送り込み、自分達に超能力があると研究所スタッフに思い込ませることに成功し、研究は彼らがマジシャンであることが暴露されるまで3年間続き、金属を曲げたり念写やテレパシーなどの実験をしても研究所スタッフは誰一人それが手品であることを見抜けなかった、という。2人がマジシャンであることが暴露された2年後の1985年に研究所は閉鎖された。_NEWLINE_その後ランディは、「超能力を目の前で実証することが出来たなら100万ドルを進呈する」という企画を行っている。ランディのほうは、「これまで300人の「超能力者」と名乗る者たちが、100万ドルを求めてランディに挑戦してきたが、ことごとくそのトリックを暴いたので、いまだ誰ひとりとして自慢の超能力を実証したものはいない」と言ってはいるものの、ランディのこちらの企画に関しては、ランディのやり方にも問題があるようで、様々な批判がされている(en:One Million Dollar Paranormal Challenge#Controversies and claimants)。 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 超心理学研究にあえて足を踏み入れていった科学者たちは、一体どういう人物だったのかというと、別に奇人変人というわけでもなく、疑似科学者だったというわけでもない。例えば、ピーター・フィリップスは見識ある物理学者であったし、テイラーは現代物理学に関する多くの啓蒙書を著したことでよく知られており、ロンドンのキングス・カレッジに講座ももっている。ロバート・ジャン (Robert G. Jahn)は、プリンストン大学の工学部で教授を務めている人物である。_NEWLINE_これらの人物をはじめとする科学者らにとって、超常現象というものは、対象として扱い始めた時は、現代科学で用いられている実験方法をもってすれば、どうにか解決可能な問題だと見えるものなのだ、ということには留意しておく必要がある。そう見えたにもかかわらず、成果らしい成果を出すには至らなかったとも言われているのである。 _START_SECTION_ 進路として _START_PARAGRAPH_ 大部分の科学者は、超常現象に関する研究は、(研究者として)実りが無いと見なしている。ただし、すでに終身在職制度で自身の地位が守られている場合は、テーマに人気があろうがなかろうが、自由に研究課題が選べる。_NEWLINE_しかし、将来の教授のポジションや終身在職権を狙っている学者が、超常現象の研究を行うことでそれを得るというようなことは非常に困難である。明治大学の石川幹人は、超心理学の周辺の学問(心理学等々)の学位を取得しその分野の研究者の職を得た上で超心理学の研究を行うことをひとつの方法として勧めた。
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_START_ARTICLE_ 足利義晴 _START_SECTION_ 将軍就任 _START_PARAGRAPH_ 西国最大の大名・大内義興に擁された前将軍足利義稙が上洛した煽りを受け、父の義澄は将軍職を解任され近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。その最中の永正8年(1511年)3月5日に、義澄の長男として、亀王丸は近江国蒲生郡水茎岡山城で生まれた。_NEWLINE_しかし同年8月14日、父は帰洛を果たせずに同地で死去している。誕生直後に、亀王丸は義澄派であった播磨守護・赤松義村の元に送られて庇護下で養育された(『高代寺日記』『武家昇譜日記』)。_NEWLINE_永正10年(1513年)2月14日には、義稙陣営と義澄陣営(実質は亀王丸陣営)の和睦により、義稙の将軍職が確定した。なお、義晴は義稙の養子になったとする史料もある。ところが、犬猿の仲である備前守護代・浦上村宗への反攻を目論む赤松義村によって、名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったばかりか、あろうことか永正18年(1521年)1月には敗戦。この敗戦の責により義村が強制隠居へ追い込まれたせいで、亀王丸の身柄は浦上氏に渡ってしまった。_NEWLINE_永正18年(1521年)3月7日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったために高国が警固の職務を行った。これによって天皇の信任を失った義稙の放逐を決意した高国によって、友誼を通じる浦上村宗の元にいる亀王丸は代わりの将軍として招かれることになる。_NEWLINE_7月6日、亀王丸は播磨から3万人の供勢を引き連れて連れて上洛し、高国の歓待を受けた。その後、仮の御所として上京の岩栖院に入った。_NEWLINE_7月26日、亀王丸は学習開始の儀式「読始」を行い、28日には朝廷から高国と東坊城和長によって考えられた義晴の名を与えられ、従五位下に叙された。_NEWLINE_8月9日、元服前の儀式である涅歯(鉄漿で歯を黒く染める儀式)を行い、同月29日には内裏へ代始の参賀を行った。_NEWLINE_また、高国の判断を受け入れた朝廷からは、11月25日に正五位下・左馬頭に任ぜられた。_NEWLINE_12月24日、義晴は新たに御所と定められた三条御所に移り、元服を行った。元服は足利義政の故実に則って行われ、高国が加冠役を務めた。_NEWLINE_翌25日、朝廷から征夷大将軍に補任され、第12代将軍となった。また、同日に政務をとり始めるための儀式「沙汰始」、「評定始」、「判始」が執り行われた。_NEWLINE_とはいえ、11歳の義晴には実際の政務を行うには未熟で、細川高国や政所執事(頭人)の伊勢貞忠、飯川国信や大舘常興に代表される義澄を支持していた幕臣(中には義晴と共に播磨に下っていた者もいた)、播磨国に所領を持つ奉公衆三淵晴員の姉で大舘氏の養女ともされる佐子局(後に清光院)(義晴の養育係)らが政務の運営にあたった。 _START_SECTION_ 近江幕府(桑実寺など) _START_PARAGRAPH_ 大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川六郎(後の晴元)は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。さらに元盛を殺したことで元盛の2人の兄波多野稙通や柳本賢治らが高国から離反し、大永7年(1527年)2月に桂川原の戦いで高国が破れると、実権を掌握した阿波の国人・三好元長や細川六郎らが入京。義晴は高国や武田元光を伴い近江に逃れた。もっとも、この間にも六郎と義晴の間で交渉が行われており、10月には義晴が京都に帰還し、翌年1月には三好元長が義晴が滞在していた東寺を訪問して、義晴と面会している。_NEWLINE_ところが、享禄元年(1528年)に入ると状況が悪化し、義晴は朽木稙綱を頼って朽木(興聖寺)に落ち延び、若狭の武田元光らの軍事力を背景に、三好元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。しかし、六郎側の工作で義維側に寝返る幕臣もいた。ただし、奉公衆・奉行衆・女房衆・昵懇公家衆など幕府を支えた人々の多くは朽木に従い、朝廷も享禄3年(1530年)に義晴を権大納言に昇進させ、地方の大名も義晴との関係を維持していた。そして、享禄4年(1531年)、高国は中嶋の戦い及び大物崩れで敗れて自害する。_NEWLINE_戦後、今度は六郎と元長が対立、天文元年(1532年)に元長が六郎と手を組んだ一向一揆によって討たれた後(享禄・天文の乱)、京都より近江の観音寺城山麓桑実寺境内に約3年にわたり幕府を移す。それは朽木の時とは違い、奉公衆・奉行衆を引き連れた本格的な幕府の移転であった(ただし、朽木の段階でかなりの幕臣が同行しており、その人々を基盤としていたとする見方もある)。また、この頃、義晴は桑実寺の縁起絵巻の作成を三条西実隆と土佐光茂に依頼しているが、京都を離れていても京都と強いつながりをもっていたのはこの頃の義晴の強みでもあった。また、「享禄」「天文」の改元を行う際に改元を要請する武家執奏とそのための費用献上を行ったのは義晴であった。そして、足利義維を強く支持した大名は細川晴元(六郎)のみで、他に関係を持ったのは畠山義堯と大内義隆および摂関家の九条稙通くらいで、細川氏の家臣(内衆)の中でも柳本賢治や松井宗信のように義晴との和解を主張する者もいた。そして、何よりも義維は細川晴元が京都の実権を握った後も治安の悪化によって上洛できなかった(=将軍として在京できる条件が揃わなかった)ために、義晴を解任して将軍宣下を受けることが出来なかったのが、彼が堺公方に留まって中央政権になり得なかった最大の要因であった(後に義維の息子・義栄が上洛しないまま将軍宣下を受けているが、この時は将軍職は空席)。 _START_SECTION_ 義晴・晴元体制の成立 _START_PARAGRAPH_ 天文3年(1534年)中には六角定頼・義賢父子の後援を得て六郎と和解し、9月に帰京した。また、この直前の6月に近衛尚通の娘を妻に迎えた。この婚姻の背景として尚通の正室の実家である徳大寺家と細川高国が縁戚関係にあり、高国の仲介で婚約が成立し、大物崩れ後も足利将軍家と近衛家の利害の一致からそのまま婚姻が実行されたと言う。また、尚通の娘(夫の没後は慶寿院を名乗る)が将軍の御台所としては日野富子以来となる男子(義輝・義昭・周暠)を儲けたことは、血縁的な後ろ盾が乏しかった義晴にとっては大きな力となった。ただし、この頃の義晴は体調を崩していたらしく、天文3年の前半にはほとんど政務活動が停止していたほか、天文5年(1536年)8月には将軍職を嫡男の菊幢丸(後の足利義輝)に譲る意向を示した(『鹿苑日誌』『厳助往年記』)。その際に菊幢丸に代わって公事を行う「年寄衆」を指名している。その後、義晴は引退を撤回したが、その8名(大舘常興・大舘晴光・摂津元造・細川高久・海老名高助・本郷光泰・荒川氏隆・朽木稙綱)の年寄衆は、後に内談衆と呼ばれて義晴政権の政権運営を支える側近集団となった。。なお、天文4年(1535年)に長年仮名を名乗り続けてきた細川六郎が義晴の偏諱を受けて「細川晴元」と名乗り、天文6年(1537年)には六角定頼の猶子(実父は三条公頼)を妻に迎えた。当時、京都に出仕していた大名は晴元と同族の細川元常(和泉守護で三淵晴員の実兄)しかおらず、近江在国の定頼を加えたこの3人と義晴の協調の下で一時的な安定を迎えることになる。_NEWLINE_その後、天文10年(1541年)10月に細川晴元と木沢長政が対立すると、義晴は双方の支援要請を断ったが、最終的には晴元側として近江坂本に逃れ、翌天文11年(1542年)の太平寺の戦いで長政が戦死すると、その首は義晴の下に送られている。これを受けて3月に京都に帰還して新しい御所の造営に着手した。また、天文12年(1543年)には細川氏綱が晴元打倒の兵を挙げるも、義晴は晴元支持の姿勢を変えなかった。 _START_SECTION_ 将軍職譲渡と最期 _START_PARAGRAPH_ ところが、天文15年(1545年)に入って畠山政国が氏綱方につくと戦況が変わり、9月には晴元は丹波国に落ち延び、義晴は京都郊外の東山慈照寺(銀閣寺)に入った。一方、畠山政国の重臣である遊佐長教は秘かに使者を義晴に派遣して氏綱への支持を求めた。晴元の苦境をみた義晴は晴元を排斥しようと画策する。しかし晴元の重臣・三好長慶の弟である三好実休や安宅冬康(鴨冬)らが四国から軍勢を率いて渡海し上洛すると一気に形勢は不利になり、11月に北白川の瓜生山城に入城したものの晴元と対立して敗れ(舎利寺の戦い)、近江坂本に避難した。この時の12月19日に嫡男菊童丸を元服させて「義藤」(後に義輝と改名、以降「義輝」と記載)と名乗らせ、翌20日には義輝に将軍職を譲った(『光源院殿御元服記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。ところが、この際に2つの大きな出来事が発生している。1つは当時の室町幕府の慣例では将軍または後継者が元服する際には、父である将軍か管領が烏帽子親を務めることになっており、近年の研究では管領の常設はなくなったとされている戦国期の室町幕府においても元服の際には管領の任命が行われていた。ところが、義晴は三管領の家ではない六角定頼を管領代に任じて義輝の烏帽子親としたのである。これは当時、晴元も氏綱も近江坂本に駆けつけられる情勢に無かった(逆にいずれかが坂本に居た場合にはその者が管領に任命されていた筈である)ことに加え、晴元と義晴の関係が悪化し、氏綱に対しては晴元の舅である六角定頼が抵抗したため、最終的には義晴を庇護する定頼への配慮から彼を烏帽子親に任じる選択をした考えられている。なお、当時の坂本には定頼だけではなく、氏綱派の遊佐長教もおり、氏綱を烏帽子親にすべく画策していたが、晴元派の六角定頼が烏帽子親となったため、義輝の元服の儀には欠席し、翌日の将軍宣下の儀に畠山政国の名代として参列している。もう1つは義晴自身が右近衛大将に昇進していることである。足利将軍は将軍在任中に権大納言と右近衛大将を兼務してから内大臣に昇進することを慣例としていたが、その地位が不安定であった義稙・義澄はともかく、義晴は将軍と権大納言の地位にあってから久しく経つにも関わらず、一向に右近衛大将就任の意向を示さなかった。ところが、義晴が突然将軍職を幼い義輝に譲ることを知った後奈良天皇や近衛稙家(義晴の義兄)は義晴がこのまま政務や京都警固の任を放棄することを憂慮した(前述のように、天文5年に引退を表明して最終的に撤回している)。そこで、引き留めの意図を含めて義輝の将軍宣下の翌日に義晴を急遽右近衛大将に任じたのである。もっとも、義晴自身は官位への関心を示すことなく、翌天文16年1月26日に義輝とともに任官の御礼の参内をしているものの、慣例であった大将拝賀の儀式もその後の内大臣任命もなかった(大将拝賀も任大臣節会も費用がかかるため、義晴は大将や大臣に就任することが費用に見合わないものと考えていた可能性もある)。以後は大御所として幼少の義輝の後見人となり、義輝と共に慈照寺に帰った。_NEWLINE_天文16年(1547年)3月29日、瓜生山城に入って氏綱になおも味方することを表明する(『続応仁後記』)。しかし義晴方だった六角定頼が離反して晴元に味方し、摂津でも義晴方の薬師寺元房ら諸将が晴元に降伏した(『細川両家記』)。7月12日、細川・六角連合軍が瓜生山城を攻撃し、義晴は7月19日に城を焼いて近江坂本に逃走した(『御湯殿上日記』『足利季世記』『続応仁後記』『長享年後畿内兵乱記』)。その後、晴元と和睦して義輝と共に閏7月1日に京都に戻った。六角定頼は瓜生山城攻撃中の7月15日に秘かに義晴に使者を送って晴元との和平の仲介を行っている。定頼は義晴の支援者であると同時に晴元の舅でもあり、義晴による晴元切り捨ては容認できなかったと考えられている。足利将軍の一貫した支持者であると同時に六角氏と晴元との同盟を堅持する定頼の存在は義晴の対細川京兆家の方針を拘束することになり、細川氏綱や後の三好長慶が細川晴元と敵対することで、本人の意思と関わりなく足利将軍とも敵対せざるを得なくなってしまう構造となったのである。_NEWLINE_天文18年(1549年)には晴元と三好長慶が三好政長の処遇をめぐって対立した。この際、義晴は晴元に協力したため、6月に政長が戦死して晴元が敗れると(江口の戦い)、義晴は義輝や晴元、近衛稙家と共に近江朽木谷に逃れた。_NEWLINE_義晴は京都を奪回するため、10月18日に慈照寺の裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始した。しかしこの頃から病がちになり、天文19年(1550年)3月7日には坂本から穴太(現滋賀県大津市穴太)に移動したが、病が重くなって動けなくなった。そして5月4日、穴太にて死去した。享年40(満39歳没)。死因は悪性の水腫だったという(『言継卿記』『厳助大僧正記』『長享年後畿内兵乱記』)。ただし、病気を苦にして自害したとする説もある(後述)。
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Q65283577
_START_ARTICLE_ 蹴る (映画) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 「プライド in ブルー」「アイ・コンタクト」の中村和彦が、監督・プロデュース・撮影・編集を担当。_NEWLINE_電動車椅子サッカーのワールドカップを目指す選手たちを6年にわたって撮影したドキュメンタリー映画。 _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ 電動車椅子サッカーの大会で活躍する永岡真理の姿から作品は始まる。激しい接触による転倒の後も試合に復帰した永岡は大会MVPを獲得し、2013年1月には男女混合で行われる電動車椅子サッカーで女性初の日本代表選手に。しかし、オーストラリアでのアジア・太平洋・オセアニア地域カップ(APOカップ)では優勝に沸く代表チームの中で永岡は失意を味わう。一方、中村のカメラは徐々に他の代表選手にも向けられ、特に東武範についての記録が多くなる。家族や交際相手、ヘルパーやサポーターなどの支援も受けながら日常生活と闘病を過ごす彼らには、サッカーを愛する共通の情熱と、それぞれ異なる個人の事情があった。そのような日々の中、延期されていた電動車椅子サッカーのワールドカップが2017年にアメリカで開催されることになり、新たな挑戦が始まる。 _START_SECTION_ 製作 _START_PARAGRAPH_ サッカー日本女子代表(なでしこジャパン)が2011 FIFA女子ワールドカップ(ドイツ大会)で優勝した前日(7月16日)、電動車椅子サッカーの日本代表対関東選抜代表の試合を取材した中村和彦が、この試合に唯一の女子選手として関東選抜に選ばれて活躍した永岡真理に衝撃を受け、4年後のワールドカップに日本代表として選ばれる姿を撮りたいという希望を受けた永岡が了承して、同年8月に撮影が開始された。永岡の所属する横浜クラッカーズの練習風景や同チームのクラブ大会優勝、鹿児島在住の東や塩入を含めた各代表選手の自宅訪問、オーストラリアでのAPOカップなどの取材が続き、さらにワールドカップが2015年から2017年へ延期されたこともあって製作費がかさんだ。監督の中村は介護資格を取得して取材での活用と資金充填に使った他、映画製作委員会に参加した「らくだ」スタジオの協力、文化庁からの助成金獲得、配給費用に向けたクラウドファンディングによる198人・団体からの寄付などを受け、6年をかけて撮影が終了し、その1年後に公開へこぎ着けた。 _START_SECTION_ 封切り _START_PARAGRAPH_ 2018年の第31回東京国際映画祭での企画「GOAL! GOAL! GOAL! -フットボール映画ベストセレクション-」で『蹴る』のワールドプレミア上映が行われることになり、10月26日深夜(27日未明)にTOHOシネマズ六本木ヒルズで行われた。上映前のトークショーには監督の中村が登場したほか、映画祭初日の10月25日に行われた開会イベントでは中村・永岡・北澤の3名が登場してレッドカーペットを踏んだ。_NEWLINE_2019年2月16日にはヨコハマ・フットボール映画祭での上映が行われた。同映画祭は東京国際映画祭とのコラボレーションで上記の「~フットボール映画~」を企画した他、聴覚障害者の鑑賞も想定した日本語字幕版の作成なども行い、その後の配給についても担当することになった。また、同映画祭内の企画として行われた「フットボール文化祭」では、映画『蹴る』や電動車椅子サッカーに関する展示紹介も行われた。_NEWLINE_2019年3月23日から4月26日までは東京・東中野のポレポレ東中野で初の劇場公開が行われた(単館上映)。この上映では中村が常時登壇したのに加え、初日には日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)副理事長の原博実が永岡と共に登場し、公開期間中には出演者の吉沢・落合・鈴木をはじめ、聴覚障害者によるデフサッカー(参考:日本ろう者サッカー協会)、脳性麻痺7人制サッカー(CPサッカー)、精神障害患者によるソーシャルフットボールといったJIFF参加各団体の関係者、およびサッカーライターの木村元彦や宇都宮徹壱などが日替わりで登場した。_NEWLINE_ポレポレ東中野での上映終了後は、映画館での1~2週間程度の上映、ヨコハマ・フットボール映画祭と連携する各地のフットボール映画祭での単発上映、障害者団体のイベントや出演者の地元などでの上映会などが全国各地で続けられている。7月27日、および8月3日と8月4日には鹿児島市内での上映が行われ、東京や横浜での上映時イベントには参加しなかった東や塩入が登場した。各地の映画上映では漫画家の森下裕美が協力し、自らの作品「少年アシベ」に登場する「ゴマちゃん」も登場するイラストを公開した。 _START_SECTION_ 作品の評価 _START_PARAGRAPH_ 公開時の『蹴る』公式サイトには、サッカー日本代表元監督でFC今治オーナーの岡田武史、サッカーライターの木村元彦、自らも電動車椅子を利用する作家の乙武洋匡の3人が推薦のコメントを寄せた。_NEWLINE_2018年12月には文部科学省の特別選定映画に指定された(少年向き/青年向き/成人向き)。2019年4月13日深夜(14日未明)にはテレビ東京系のサッカー番組「FOOT×BRAIN」のサッカー映画特集の中で『蹴る』が取り上げられ、同番組司会の勝村政信が番組内のコラムで映画の内容を称讃し、多くの人の作品鑑賞と電動車椅子利用者への理解を願う感想を寄せた。
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Q11637395
_START_ARTICLE_ 軍国美談 _START_PARAGRAPH_ 軍国美談(ぐんこくびだん)は、大日本帝国で広く知らされたエピソードで、日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、太平洋戦争における軍人、兵士、銃後の人々が題材となっている。新聞報道や軍人の手記などから生まれ、それを元にした流行歌(軍国歌謡)、映画、伝記・小説から歌舞伎、浪曲、講談、落語なども作られることがあり、学校教科書(国定教科書)などの教材として使われることも多かった。呼び名としては、戦時美談、愛国美談、戦時佳話なども使われた。中でも英雄的に殉職した軍人は軍神とも呼ばれた。 _START_SECTION_ 美談の発生と影響 _START_PARAGRAPH_ 「美談」は、政府や軍関係者が広めようとしたものもあったが、多くは新聞報道と民衆の支持によって物語化されていった。_NEWLINE_満州事変開始以降は、将兵の戦死や美談が数多く報道され、日露戦争時から比べると映画、ラジオ、レコードなどのメディアもこれに加わっていた点で変化がある。これらの中には涙を誘う悲劇としての他に、欧米に対する日本人の精神性の象徴として捉える論調も多く現れた。教科書で取り上げられた以外にも、雑誌や教師による訓話などで、子供達に大きな影響を与えた。美談を集めた出版もなされ、『満州事変軍事美談集』(教育総監部、1933年)や、教育雑誌『教育時論』の「戦時美談」欄などがあった。_NEWLINE_第二次世界大戦後になって国定教科書に記述されたものは、文部省や占領軍の方針により削除されることとなり、教師の指示により子供自身の手で墨を塗ったり紙を貼ったりして、いわゆる墨塗り教科書と呼ばれた。
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Q11638520
_START_ARTICLE_ 近江鉄道220形電車 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1991年(平成3年)から1996年(平成8年)までの6年間にわたって自社彦根工場で1両ずつ製造された両運転台の電車で、6両が登場した。近江鉄道の電車としては初の冷房車である。_NEWLINE_製造当時、本線八日市駅 - 貴生川駅間は運行経費削減のため、1往復を除きレールバスLE10形で運用されていた。しかし、LE10形は二軸車で収容能力も小さかったことからラッシュ時には早々に輸送力不足に陥り、2両連結での運用が恒常化して合理化の企図を削ぐ結果となっていた。そこでレールバス2両を電車1両で置き換えて本質的な合理化を図るために製造されたのがモハ220形である。この車両の登場により、LE10形や在来の両運転台の電車であるモハ100形・モハ200形の運用を置き換えた。車籍はモハ100形101 - 103、モハ203形203・205、モハ131形132のものを引き継いでいる。_NEWLINE_本形式は様々な流用部品を利用して車体を新造した車体更新車であるが、その過程では彦根工場で蓄積された車両改造技術により、さながら鉄道模型を実物大で作るがごとき特異な製造法が、随所で実践された。その結果、モダンなデザインと新旧の技術や機器が入り交じったキメラのような電車となった。近江鉄道の他のいくつかの車両にも言えることだが、事実上廃車になった車両の車籍を改造名義で流用しているため、書類上は1914年(大正3年)製造のものまで存在する。 _START_SECTION_ 構造 _START_PARAGRAPH_ 車体の全長は17 m弱で、白地に赤・緑・青のいわゆるライオンズカラーに塗られている。前面は前照灯と尾灯を腰部配置とした三面折妻で、中央に非常用の貫通扉を備えており、貫通扉の有無以外は後続の800系に類似する。また、貫通扉には埼玉西武ライオンズのマスコット「レオ」が描かれている。本系列も同時期の他の系列と同じくワンマン運転設備および、料金表・整理券発行機・料金箱を備えていた。_NEWLINE_客用扉は1,300mmの両開き扉が片側に3箇所配置されている。両開き扉は近江鉄道では初の採用であり、従来の1系や500系よりも扉幅を広く取ることによって乗降をスムーズに行えるようになっている。_NEWLINE_台枠は、モハ200形など戦前・戦中製造の在来車から流用された古典的な形鋼通し台枠で、これを土台に構体部分を構築したが、側扉や初期の車輛の側窓など側構体の一部には西武701系の廃車体を切り継いで現代風の両開き3扉の両運転台車体を仕立てた。この鉄道模型の切り継ぎ改造さながらの技法は、1950年代以前には私鉄車両で散見されたが、近年ではほとんど他例がない。_NEWLINE_主電動機は在来車の1形や500系などでも使用されていた、鉄道省戦前標準形の吊り掛け駆動・MT15(端子電圧675 V時出力100 kW)4基を搭載する。主制御器はやはり鉄道省が昭和初期に開発した古典的な電空カム軸式自動加速制御器・CS5を在来車から流用して搭載した(詳細は国鉄30系電車などを参照)。何れも開発後60年以上を経過した旧式機器であるが、近江鉄道では在来車で長年使い慣れており、十分に実用できる性能であるため、費用節約の見地もあってこれで済まされた。_NEWLINE_対して格段に近代的なのは台車とブレーキである。台車は、西武鉄道の低年式吊り掛け駆動車からの廃車発生品である住友金属工業FS40で、近江鉄道では車体更新車での換装で導入が始まっていたものであった。軸ばねこそ簡略なペデスタル支持式ではあるが枕ばねには空気ばねを備え、1970年代以降の製造で当時経年も少ない近代的な台車である。またブレーキは、従来の自動空気ブレーキに代わり、次段階の電磁直通ブレーキをも飛び越して大手私鉄に比肩する水準のHRD電気指令式ブレーキを採用、メンテナンスフリーと作動の迅速性を実現している。制動自体は一般的な台車装荷シリンダ作動の踏面ブレーキ方式で、制御装置の構造上、発電ブレーキは装備しない空気ブレーキ専用である。_NEWLINE_この車両は両運転台式に加えて車体長が短いため床下スペースに余裕がなく、電車用冷房装置の標準的な電源である三相交流電源を供給する補助電源装置の大容量電動発電機ないし静止型インバータの搭載が困難だったが、本形式は架線電圧そのままの直流1,500 Vで駆動する冷房装置を開発して搭載し、補助電源関連の機器を不要として問題を解決した。このコロンブスの卵的な合理化の着想は低圧の600 V電源車では路面電車を中心にある程度の先例があったが、1,500 Vの高圧電源では当時、1988年から製作された愛知環状鉄道100系電車等のわずかな例があるのみで、以後他社で追随する例も生じた。 _START_SECTION_ 運用と定期運用の消滅 _START_PARAGRAPH_ 落成当時でも日本では数少なくなっていた吊り掛け駆動方式ながら、両運転台式の機動力を活かし、本線の八日市駅 - 貴生川駅間や多賀線の区間運転を中心に全線にわたって使用されてきたが、1両ということもあり収容能力に限界があることと、当形式に使用されている機器は半世紀以上前の設計であることから老朽化も進んでいるため、晩年は運用が減りつつあった。_NEWLINE_2013年(平成25年)度より後継車両である900形・100形が投入され、2014年(平成26年)春ダイヤ改正より平日のみの運用となった。また運用は1本のみで、運転される区間も本線の米原駅 - 高宮駅間と多賀線のみに縮小された。_NEWLINE_2015年(平成27年)3月5日に車両老朽化のため定期運用を終了することが公式ホームページにて発表され、3月13日の定期運転終了後に臨時列車『アンコール号』が運転され、彦根駅で「卒業式」と題した引退記念イベントが行われた。_NEWLINE_2015年(平成27年)5月31日にラストランが行われ、本形式は営業運転を終了した。 _START_SECTION_ 現状 _START_PARAGRAPH_ 6両とも彦根駅構内に収容され、一部は同駅に隣接する近江鉄道ミュージアムで保存展示されていたが、2018年12月8日に同館の閉鎖に伴い、牽引車として使用されているモハ226を除き全車解体することが発表され、2019年1月15日の夜から翌16日の未明にはモハ223が500系モハ501とともに、同16日の夜から翌17日の未明にはモハ221とモハ224が奈良県の解体場へと陸送された。
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Q11638674
_START_ARTICLE_ 近藤しづか _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 2004年に大学の構内で雑誌『CanCam』からスカウトを受け読者モデルへ。22歳大学一年生当時の2006年にはワールド・ミス・ユニバーシティ・コンテストに出場し日本大会でグランプリを獲得し、続けて大韓民国で開催された世界大会にも出場。審査員特別賞を獲得した。2007年から『CanCam』の専属モデルとなっている。2013年から『AneCan』の専属モデルとなっている。 _START_SECTION_ 広告塔 _START_PARAGRAPH_ ハイアット・リージェンシー・ワイキキから日本人初のイメージモデル起用を受けた(2010年)。2012年にはアジア最大級の食料ならびに飲料の専門展示会『FOODEX JAPAN 2012』内の企画『FOODEX 美食女子』の公式サポーターに就任。同年3月に就任式やトークショーを千葉の幕張メッセで実施した。2013年にも継続してこの役を担っている。2015年にはミラノ国際博覧会日本館 サポーター就任。 _START_SECTION_ 自炊モデル _START_PARAGRAPH_ 得意の料理を活かして2010年頃から3つの料理学校に通いフードコーディネーターの資格を取得。『CanCam』誌上で“自炊モデル”として親しまれている。「タンブラーランチ」を考案し、話題沸騰。2011年の暮れには自身初の料理連載『Weeklyレシピ』をモデルプレスに始動。料理関係ではさらに、NHKワンセグ『楽ごはん』への出演や、農林水産省『めざましごはんキャンペーン』でのレシピ提供、『FOODEX JAPAN』への参画など、フードコーディネーターとしての活動の幅を広げてきた。2012年には“ヘルシーロコモコ”と題した自身の考案メニューがハイアットリージェンシーワイキキホテルのメニューに正式採用。異例の事態として注目を集める運びとなった。 _START_SECTION_ 私生活 _START_PARAGRAPH_ 千葉県に出生。2004年に青山学院大学入学(英米文学科)。8年間のイタリア在住経験もあって語学堪能。
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_START_ARTICLE_ 近藤良平 _START_PARAGRAPH_ 近藤 良平(こんどう りょうへい、1968年8月20日 - )は、日本のダンサー・振付家。ダンスカンパニー「コンドルズ」主宰。 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 1968年に日本で生まれ、父の仕事の都合で生後6ヶ月でペルーに渡る。以後、日本・ペルー・チリ・アルゼンチンで育つ。横浜国立大学教育学部卒業。大学在学中の20歳の時にモダンダンスを始める。_NEWLINE_1994年に山崎広太作品にメインダンサーとして抜擢され、バニョレ国際振付コンクール本選に出場以来、笠井叡、木佐貫邦子などの作品にも出演。_NEWLINE_1996年にダンスカンパニー「コンドルズ」を旗揚げし、全作品の構成・映像・振付を手がける。世界20ヶ国以上で公演を行い、ニューヨークタイムズ紙が絶賛、渋谷公会堂公演を即日完売させた。_NEWLINE_2005年には、そのユニークで斬新な舞台が評価され「 朝日舞台芸術賞・寺山修司賞」を受賞。_NEWLINE_櫻井翔主演三池崇史監督作品「ヤッターマン」の振付を担当。他にも氣志團やYUKIやフジファブリック、宮崎あおい主演『星の王子様』などの振付も担当。_NEWLINE_2007年、野田秀樹演出、NODA・MAPの四人芝居「THE BEE」で役者デビュー。前田哲監督作品映画「ブタがいた教室」にも役者として出演。_NEWLINE_NHK教育テレビ「からだであそぼ」をはじめ、ミュージカル、CM、コンサートなど、ジャンルを問わず振り付け師活動を行う一方、横浜国立大学、立教大学、桜美林大学、女子美術大学などで非常勤講師としてダンスの指導や、全国各地でワークショップを行っている。_NEWLINE_2017年、第67回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。2018年、第67回横浜文化賞を受賞。
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Q17231201
_START_ARTICLE_ 通信社の歴史 _START_SECTION_ 黎明期 _START_PARAGRAPH_ ニュースをいかに迅速に提供するかということは、通信社に求められる大きな資質である。19世紀以降に進んだ電気通信網の整備は、通信社の発展に大いに貢献した。いち早く産業革命を達成したヨーロッパからは、相次いで有力通信社が出現した。_NEWLINE_1835年、ユダヤ系フランス人シャルル=ルイ・アヴァス(fr:Charles-Louis Havas、1783年 - 1858年)が、近代的通信社の先駆であるアヴァス通信社 (Agence Havas) をパリで創業した。遡ること10年、1825年に通信事務所を作ったアヴァスは、主要国の首都に配置した通信員から送られる株式・商品市場などのニュースを翻訳・編集して購読者に配布した。アヴァスは1848年、ヨーロッパ各国の首都を伝書鳩によって結ぶという画期的な方法を採用した。当時の鉄道に比べると伝書鳩の方が効率が良く、アヴァスのニュースの速さに注目した新聞社は、こぞってアヴァスを購読するようになった。_NEWLINE_14年後の1849年、ユダヤ系ドイツ人で元アヴァス社員のベルンハルト・ヴォルフ(Bernhard Wolff、1811年 - 1879年)がベルリンでヴォルフ電報局 (Wolffs Telegraphisches Bureau) を創業した。ヴォルフは1848年、ベルリンの新聞「ナツィオナール・ツァイトゥング (National-Zeitung) 」の経営に参画した。このときヴォルフは、取材費と通信費が社にとって大きな負担になっていることを知り、これを軽減するため、銀行や新聞社に相場の情報を配信することを考えた。このころ敷設された電信線が民間に解放されることが決定すると、ヴォルフはこれを利用したニュース配信に乗り出した。_NEWLINE_1851年には、やはりユダヤ系ドイツ人で元アヴァス社員のポール・ジュリアス・ロイター(Paul Julius Reuter、1816年 - 1899年)が、ロンドンでロイター (Reuters) を創業した。1849年に独立したロイターは、ドイツで興した通信社がヴォルフに駆逐されたのち、イギリスに渡って株式市況を速報する事業を始めた。国内外に張り巡らした電信網の使用を政府から許可されたロイターは、ニュース配信の他に、個人や企業に向けた電信事業を広く展開した。_NEWLINE_これら3社は同業他社を圧倒する勢力を保持し、19世紀の世界における3大通信社と称された。 _START_SECTION_ 協定破棄へ _START_PARAGRAPH_ 国際ニュースをヨーロッパの通信社(とりわけロイター)からの供給に依存せねばならなくなったAPは、国際協定の破棄を大目標に掲げる。1893年、アメリカ国内に限って自主権を獲得し、3大通信社に準ずる存在として協定に加わったが、国際市場への進出は依然として制限されたままであった。_NEWLINE_1918年、APはアヴァスの勢力圏である南米に進出した。ただし、南米の新聞社が契約相手をアヴァスからAPに変えた場合、その損失分をAPはアヴァスに補償せねばならず、しかもAPからアヴァスへ提供する記事はこれまで通り無償とする、極めて不利な条件下での進出であった。_NEWLINE_1927年に開催されたAPの理事会は、協定の破棄を支持した。さらに1933年、APは日本の新聞聯合社とニュース交換契約を締結し、国外市場に乗り出した。堅固な独占体制の崩壊が既成事実となったことで、ロイターやアヴァスは打撃を蒙った。翌1934年、協定は正式に破棄され、3社による分割独占の時代は終わりを告げた。以後、豊富な資力を誇るアメリカの通信社が発展を遂げた。 _START_SECTION_ 3大通信社の衰退と変容 _START_PARAGRAPH_ この間ヴォルフは、ドイツが第一次世界大戦で敗北を喫したことにより、国外の勢力圏をロイターとアヴァスに奪われ、国際通信社の座から転落した。1933年、ナチス・ドイツの国営通信社DNB (de:Deutsches Nachrichtenbüro) に吸収され、第二次世界大戦の敗戦後は国家の東西分裂に合わせて西ドイツ側のDPA (Deutsche Presse-Agentur) と東ドイツ側のADN(Allgemeine Deutsche Nachrichtendienst) とに分裂した。_NEWLINE_アヴァスは、第二次世界大戦でフランスが降伏すると解体に追い込まれ、フランス政府に接収された。これに反発した元社員らは残った施設を元にして通信社群を興し、徹底抗戦の論陣を張った。パリが解放された1944年、これらの通信社を糾合してAFP (Agence France-Presse) が創設された。同社はアヴァスの設備や人材を受け継いだため、アヴァス時代と同様に大きな勢力を持つことができた。設立当初は半官半民の組織であったが、1957年の定款改正により、民間企業に改組された。しかし、収入の多くを政府から拠出される資金に依存する構造は、その後も続いている。_NEWLINE_ロイターは、第一次世界大戦中に社長に就任したロデリック・ジョーンズ (Roderick Jones) のもと、世界戦略を推進した。ジョーンズは通信社の社長でありながらイギリス情報省(Ministry of Information)のプロパガンダ局長を兼任し、政府と癒着した経営を続けた。ロイターは、一時は世界最大の通信社として君臨するが、台頭するAPやUP (United Press Association) に押され、次第に衰微していった。1941年に協同組合に改組したロイターは、生き残りの道をイギリス連邦の大合同による経済圏の構築に求め、自社株をオーストラリアのAAP (Australian Associated Press) 、及びニュージーランドのNZPA (New Zealand Press Association) にも開放した。しかし、カナダや南アフリカの抱き込みに失敗し、インドでの売り上げは同国の独立後に激減。また、極東の有力市場であった中国では、共産党政権の成立により、西側諸国の通信社が軒並み締め出された。_NEWLINE_ロイターはかつての威光を失い、存亡の危機に立たされた。 _START_SECTION_ 米ソの興隆 _START_PARAGRAPH_ 20世紀中葉に至ると、アメリカのAPやUP、そしてソ連の国営通信社タス(ТАСС:現・イタル・タス)が勢力を拡大した。_NEWLINE_アメリカでは、AP、UP、INSの3社が鎬(しのぎ)を削っていた。APがロイターやアヴァスなどの有力通信社と提携して、相互の活動領域を定める戦略を採ってきたのに対し、UPは独力で商圏を開拓した。_NEWLINE_APはアメリカ国内の契約相手を1つの都市圏につき1社に限定しており、契約できなかった社は不満を募らせていた。UPはこの間隙を縫うように、APとの契約から漏れた社を積極的に取り込んで勢力を拡大した。1958年、設備投資の増大で経営が悪化したINSと合併してUPI (United Press International) となり、APと激しく競争した。UPIは、国外においてはBUP (British United Press) を設立して、イギリス連邦の市場に進出。同地域を地盤とするロイターに対抗した。_NEWLINE_ソ連では、帝政ロシア時代の通信社がロシア革命後に再編されて、タスが誕生した(1918年、「ロスタ」に改組。1925年、「タス」に改組)。タスは、連邦内のニュースを独占配布する権限を有し、また国際ニュースはタスを通じて連邦内に流されることになっていたため、安定経営が維持できたのである。 _START_SECTION_ 第三世界の動向 _START_PARAGRAPH_ 20世紀中葉、アジア・アフリカの植民地は次々と独立を果たした。しかし、こと国際情報の輸出入に関しては先進国との間に著しい不均衡が残ったままであった。発展途上国側から配信されるニュースの量と先進国から配信されるそれとの差は歴然としていた。_NEWLINE_また、英語やフランス語、スペイン語など使用頻度の高い言語を公用語としない国々の通信社の場合、諸外国に記事を配信するにはあらかじめ翻訳をせねばならず、時間と労力、そして経費がかかる(この点では、日本の共同通信社や時事通信社も同様である)。このため、欧米の通信社は構造的に優位に立っているとされる。南北問題は、情報面でも存在していたのである。このため途上国の間では、「独立国間の主権の平等を原則として、相互依存の関係を構築すべし」とする機運が高まった。_NEWLINE_1978年のUNESCO総会で決議された「マス・メディア宣言」に代表される、いわゆる「新世界情報通信秩序 (New World Information and Communication Order) 」の概念は、こうした情報格差の是正を目的として提唱されたものであるが、現在のところ実現の見込みは乏しい。 _START_SECTION_ ロイターの復活 _START_PARAGRAPH_ 一方ロイターは、深刻な経営難に陥っていた。売上高は最大手APの5分の1と大きく水をあけられ、存続すら危うい状況であった。このような中、1963年に急死した前社長を継いだジェラルド・ロング (Gerald Long) の指揮の下、ロイターは社の建て直しを図る。起死回生の切り札は、同社初のコンピュータによる経済情報通信サービス「ストックマスター (Stockmaster) 」であった。_NEWLINE_「株の達人」の名の通り、「ストックマスター」は証券取引を生業とする者に向けて開発された製品であった。「ストックマスター」の成功によりロイターは劇的な復活を遂げ、金融情報サービス企業として大きく舵を切る。主たる顧客は新聞社ではなく、端末の画面を凝視するディーラーとなった。_NEWLINE_ロイターが開発したこのシステムは、改良によって利便性を増した。「ストックマスター」では、顧客は端末に送られた経済情報を元に取引の方針を決め、電話で売買の注文をしていた。新サービスでは、端末に「売り」または「買い」と入力することで決済が完了するようにした。コンピュータ上で全ての取引が完結する、仮想市場が現出したのである。_NEWLINE_1981年、グレン・レンフルー (Glen Renfrew) がロングを継いでロイターの社長に就任した。レンフルーは1984年、ロンドン証券取引所及びNASDAQへのロイター株上場を果たす。同社の株価は急上昇し、社は大いに潤った。以後ロイターは、世界最大の電子証券会社「インスティネット (Instinet) 」を始めとする企業との合併を繰り返して規模を拡大した。 _START_SECTION_ ブルームバーグの台頭 _START_PARAGRAPH_ 1981年10月、マイケル・ブルームバーグ (Michael Bloomberg) が「イノヴェーティヴ・マーケット・システムズ (Innovative Market Systems) 」(のちブルームバーグ (Bloomberg L.P.) に改称)を創業した。_NEWLINE_ブルームバーグはソロモン・ブラザーズ (Salomon Brothers) の幹部として活躍していたが、社内抗争が元で解雇された。このとき手にした1000万ドルの退職金を元手に、ブルームバーグと4人の同志は国債価格などの情報を配信するビジネスを開始した。当時は、ダウ・ジョーンズやキャンター・フィッツジェラルドが出資する「マネーライン・テレレート社(Moneyline Telerate, Inc.:以下「テレレート」)」の販売する端末が圧倒的なシェアを誇っており、この分野への新規参入は不可能とさえいわれていた。しかしブルームバーグの開発した端末は、テレレートの製品を凌駕していた。即ち、価格や利率といった情報のみならず、内蔵ソフトがテクニカル分析を行い、「売り」か「買い」かの判断の指針を示すという画期的な機能を有していたのである。_NEWLINE_設立当初、ブルームバーグはダウ・ジョーンズからニュースの提供を受けて、端末に流していた。しかし、将来ダウ・ジョーンズがブルームバーグを敵視して情報提供を断ることを懸念して、自前の取材網の確立を模索する。ブルームバーグは1990年2月、ダウ・ジョーンズから引き抜いたマシュー・ウィンクラー (Matthew Winkler) を中心として、「ブルームバーグ・ビジネス・ニューズ」を開始した。金融情報ベンダーとして創業したブルームバーグは、こうして通信社事業に本格参入するに至った。_NEWLINE_ブルームバーグが躍進する中、モスクワでは1989年、インテルファクス通信 (Интерфакс) が設立された。ソ連の消滅も影響し、タスの一極集中体制は崩れた。1991年には、慢性的な赤字に苦しんでいたUPIが倒産し、APがアメリカ市場に覇を唱えた。一方ロイターは、インターネットを利用した情報提供に本格的に乗り出した。_NEWLINE_世界の通信社の勢力図は、さらなる変動を続けている。 _START_SECTION_ 乱立 _START_PARAGRAPH_ 日本では、江戸時代に米相場の動きを手旗信号によって遠方に伝える手法が存在したが、近代的通信社が生まれたのは明治時代のことである。板垣退助らが中心となって展開した自由民権運動を契機として国会設立の機運が高揚し、1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開かれた。この動きに乗って続々と新聞が発刊され、同時に国政の動向や政論を配信する通信社も数多く設立された。東京だけで200を超える通信社が存在したというが、草創期の通信社は総じて小規模なものであった。_NEWLINE_1887年(明治20年)、六角政太郎が「東京急報社」を創業。大阪・堂島の米市場の情報を江戸橋電信局に打電し、東京の顧客に伝達した。これが日本における近代的商業通信の嚆矢である。同社は1904年(明治37年)に「合資会社商業通信社」として再生。1919年(大正8年)に株式会社化し、1937年(昭和12年)12月に同盟通信社の子会社「日本商業通信社」に吸収された。_NEWLINE_1888年(明治21年)11月4日、三井物産創業者の益田孝により「時事通信社」(現在の時事通信社とは無関係)が創立された。同社は、当時の内務省警保局長清浦奎吾(のち首相)の肝煎りで設立された御用機関であったが、激しい内紛に見舞われ、3年足らずで事実上の休業に陥った。_NEWLINE_1890年(明治23年)1月10日、郵便報知新聞社(のちの報知新聞社)社長の矢野龍渓こと矢野文雄が「新聞用達会社」を創業した。同社は郵便報知新聞社と同様に、立憲改進党支持の姿勢を明確にしていた。_NEWLINE_1892年(明治25年)5月10日、時事通信社と新聞用達会社が合併して「帝国通信社」(以下「帝通」)が誕生。初代社長には、新聞用達会社で主幹を務めた竹村良貞が就任した。同社の記事は、政府の方針にそぐわないとして度重なる発行停止処分を受けたが、帝通は官庁の発表記事に強く、新聞各社は帝通の記事を欲した。同社は日清戦争及び日露戦争を通じてその業務を拡大し、抜きん出た存在に成長した。_NEWLINE_19世紀に生まれた通信社としては他に、1890年11月に清浦奎吾が警保局の機密費を使って設立した「東京通信社」や、1891年(明治24年)に漆間真学が設立した「日本通信社」、1893年(明治26年)5月に出版界の雄・博文館の大橋佐平が設立した「内外通信社」、1899年(明治32年)2月に自由党代議士の星亨が設立した「自由通信社」などがある。_NEWLINE_日本通信社は、1906年(明治39年)に庇護者の伊藤博文が京城(現在のソウル特別市)に統監府を置き、自ら初代統監に就任すると、京城に支局を設置した。日本の通信社が海外に拠点を置いたのは、これが最初である。内外通信社はロイターとの直接契約に成功し、外電を国内に配信した。しかし当時は外電の需要が低く、売り上げは低迷した。結果、1897年(明治30年)に博報堂の瀬木博尚に譲渡され、1955年(昭和30年)に博報堂に吸収された。自由通信社は自由党の宣伝機関として機能し、星の死後は西園寺公望がこれを継いだが、関東大震災以後凋落した。 _START_SECTION_ 「電通」誕生 _START_PARAGRAPH_ 1901年(明治34年)7月1日、光永星郎が「電報通信社」を創業した。_NEWLINE_光永は、日清戦争の際に従軍記者として中国に渡った経験を持つ。このとき、通信手段の不備による記事掲載の遅れなどの理由から通信社の重要性を痛感した光永は、自ら通信社を興すことを考えた。だが通信社設立には莫大な資金を要することから、光永は営利の見込まれる事業として広告業に目を付けた。即ち、広告代理店「日本広告株式会社」を設立し、然るのちに通信社を広告代理店に併設するという形をとったのである。日本広告と電報通信社は、新聞社から受領する通信料と新聞社に支払う広告料を相殺する方式で地盤を築いた。新聞社にとってこの手法は、広告枠を電報通信社に開放しさえすればニュースを享受できるため都合が良く、後発の通信社であった電報通信社がシェアを拡大する上で大いに役立った。しかし同時に、これは通信社が新聞社の生殺与奪の権を握ることに他ならないとの批判も受けた。_NEWLINE_1906年(明治39年)12月27日、光永は「日本電報通信社」を興し、「電報通信社」を買収。資本金は20万円であった。翌1907年(明治40年)4月、京城に支局を設置した。また、6月21日にUPが設立されると、翌月には早くもUPと通信協定を結び、アメリカ系の国際ニュースを初めて日本の新聞に導入。8月1日、日本広告と合併した。現在の「電通」である。_NEWLINE_電通の急成長ぶりは、1908年(明治41年)に開催された創立7周年記念式典の際に、逓信省通信局長の小林謙二郎が述べた祝辞にも現れている。祝辞によると、当時の日本における予約電報は毎日8000字、予約電話は毎日50通話で、共に3分の1が電通によるものであったという。_NEWLINE_日本の有力通信社として台頭した電通は、先行する帝通と激しく争った。なお、電通は他社に比して政治的立場の鮮明な記事は多くはなかったが、立憲民政党系の帝通と競合したこと、立憲政友会(政友会)系の新聞社と多く契約していたことなどにより、電通も政友会系と目されることが多かった。 _START_SECTION_ 「国際」と「東方」 _START_PARAGRAPH_ 1914年(大正3年)2月、「国際通信社」(以下「国際」)が設立された。代表社員は、樺山資紀の長男で財界の重鎮・樺山愛輔。総支配人は元AP東京支局長ジョン・ラッセル・ケネディ (John Russell Kennedy) が務めた。_NEWLINE_同社設立の背景には、アメリカ在住の経験を持つ高峰譲吉や、彼に同調した牧野伸顕、渋沢栄一らの強い思いがあった。_NEWLINE_1909年8月に渡米実業視察団の団長としてアメリカに向かった渋沢は、同国における日本関係の記事が非常に少ないこと、しかもそのわずかな記事の中には悪意に基づくものもあることを憂慮し、日本から海外にニュースを積極的に発信する必要があるとの認識を持つに至った。1911年には、来日したAPのメルヴィル・イライジャ・ストーン (Melville Elijah Stone) が講演し、日本も国家代表通信社 (National News Agency) を持つべきだと主張した。のちの同盟通信社社長・古野伊之助は、これに感銘を受けた1人である。_NEWLINE_しかし、世界3大通信社の協定に基づく制約により、国際は諸外国の通信社と独自に契約することが許されず、極東市場を掌握するロイターを通してニュースを得るに留まった。渋沢らの意図に反して、国際はロイターに従属する立場から脱却できなかったのである。_NEWLINE_国際は慢性的な赤字に苦しんだ。同社がロイターに支払う通信手数料は月2000円。対して、契約新聞社からの購読料はほぼ同額の2000円余りに留まり、諸経費を含むと足が出た。赤字は外務省が補填した。新通信社の設立が検討された。_NEWLINE_1913年11月、ケネディが独断でロイターと契約。渋沢が設立しようとしていた通信社、文言中の「シンジケート」は、ロイターから日本国内における営業譲渡を受ける体裁でありながら、毎年3000ポンドも払って原則ロイターからの受信しかできず、発信はロイター側から求められたときだけ行うことになった。ロイターは日本の新聞社と個別に契約する必要がなくなった。_NEWLINE_1914年10月1日に「東方通信社」が上海で設立された。社長は支那研究所所長の宗方小太郎。「国際」がアメリカでの排日運動に刺激されて誕生したのに対し、こちらは中国におけるドイツの排日運動の盛り上がりに対抗するため、外務省の働きかけによって誕生した。1920年(大正9年)8月1日、同社は「新東方通信社」(以下「東方」)に改称し、本社を東京に移転している。 _START_SECTION_ 電聯時代 _START_PARAGRAPH_ ケネディに代わり国際社長に就任した岩永裕吉は、3万ポンドの代償を払って日本国内のロイター暖簾を譲り受けるなどした。1925年(大正14年)にはモスクワへ赴き、ロスタ(後のイタル・タス)と対等の通信契約を締結した。_NEWLINE_さらに岩永は、新聞社の共同機関による通信社の設立を説き、1926年(大正15年)5月1日、国際と東方の合併により「日本新聞聯合社」を設立(翌年「新聞聯合社」に改称。以下「聯合」)した。同社は東京日日新聞社、大阪毎日新聞社、東京朝日新聞社、大阪朝日新聞社、国民新聞社、時事新報社、中外商業新報社、報知新聞社の8社による匿名組合であった。_NEWLINE_このころ、帝通は落日の時を迎えていた。頼母木桂吉が社長を務めていた大正末期に黄金時代を現出した帝通であったが、関東大震災で社屋が全壊する被害を受けた。また1925年(大正14年)に頼母木が加藤内閣の逓信事務次官に就任して社長職を離れたころから、社業は陰りを見せ始めた。_NEWLINE_国際は帝通を通じて外電を各地方に配信する契約を締結していたが、新会社の聯合は、契約期間が満了したのを機にこれを廃止。急速に没落した帝通は、1929年(昭和4年)に破産宣告を受けるに至る。以後、電通と聯合の2大勢力が激しく争う「電聯時代」が到来した。 _START_SECTION_ 同盟通信社 _START_PARAGRAPH_ 1931年(昭和6年)の満州事変後、陸軍省・海軍省・外務省の情報担当者による会議が行われ、情報通信の一元化による統制を行うための布石として、電通と聯合の合併が画策された。電通にとっては承服できかねる話であり、多くの地方紙も強硬に反対したが、新会社「同盟通信社」の設立構想は進められた。_NEWLINE_1932年(昭和7年)12月、里見甫の「満州における国家代表通信社」の設立工作により、満州における電通と聯合の通信網を統合した国策会社である「満州国通信社」(略称「国通」)が設立された。同社は後に同盟通信社の姉妹機関となる。_NEWLINE_1935年(昭和10年)11月17日、電通の承諾なきまま「同盟通信社」の設立が許可され、12月17日の設立総会で、翌月1日からの業務開始が決定した。合併推進派は、小森七郎、正力松太郎、寺田四郎の3名を光永の元に向かわせて翻意を促したが、光永は首を縦に振らなかった。_NEWLINE_1936年(昭和11年)1月1日、「社団法人同盟通信社」(以下「同盟」)が発足した。ただし、未だ電通側の承諾が得られないままの見切り発車であったため、この時点では聯合が社名を変更したに過ぎなかった。同年3月9日に誕生した廣田内閣において逓信大臣に就任した頼母木桂吉は、かつての商売敵である光永を呼び付け「政府裁定案」の受諾を迫った。光永はこの案を呑み、4月30日に契約書に調印。6月1日、電通は通信部を同盟に譲渡し、広告代理部門は同盟の広告部と統合した。現在の、広告専業としての電通の基礎は、こうして形成された。_NEWLINE_同盟は日本の国家代表通信社として、また東洋最大の通信社として君臨した。しかし帝国と共に拡大した同社の命運は、帝国と共に尽きることとなる。 _START_SECTION_ 「同盟」分裂 _START_PARAGRAPH_ 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦は日本のポツダム宣言受諾によって終結した。同年9月24日、GHQは「新聞の政府からの分離」を指令。同盟社長の古野伊之助は、同盟が原型を留めない形で解体されるのを恐れ、先手を打つことにした。古野は即日GHQに赴き、同盟の自発的解散の意志を表明したのである。10月31日、同盟は正式に解散し、翌11月1日、共同通信社(以下「共同」)と時事通信社(以下「時事」)が発足した。_NEWLINE_「同盟通信社の解散に関する覚書」では、共同は「新聞社および放送局を対象とする新聞通信を経営」し、時事は「一般購読者を対象とする時事通信、経済通信、出版事業などの経営」を行うとの基本方針が定められた。 _START_SECTION_ 共同通信社 _START_PARAGRAPH_ 共同は発足当日の11月1日に、早くもAPとニュース配信を受ける契約を締結した。11月10日にUPと、また1946年(昭和21年)1月1日にはロイターと契約し、国際ニュースの安定供給に向けて布石を打った。また、1949年(昭和24年)7月に国際ニュースの自主取材を開始。1951年(昭和26年)11月、ニュー・ヨーク支局の設置に漕ぎ着けた。_NEWLINE_1950年(昭和25年)に始まった朝鮮戦争は、朝鮮特需による好景気を日本にもたらしたが、共同もニュース配信量の急増による恩恵に浴した。さらに、中国が戦争に介入すると、新華社から受信するニュースが世界中から重宝され、共同の価値を高からしめた。_NEWLINE_しかし1952年(昭和27年)9月、加盟新聞社のうち朝日、毎日、読売の3大紙が脱退を表明した。_NEWLINE_他社を圧倒する規模を有する3社は、共同に高額な負担金を払わずともニュースの収集が可能と判断した。また3社には、「共同が干上がれば、多くのニュースを共同に依存する各地方紙が打撃を受け、自社の販路拡大に有利に働く」との思惑があったとされる。3社の負担金の合計額は1800万円と、全体(7200万円)の4分の1に達しており、これを失えば共同が直ちに苦境に陥ることは確実であった。共同は、他の加盟新聞社に負担金の増額を要請。各社がこれを了承したことにより、危機を乗り切った。なお、ロイターなどとの契約が思うように進まなかったことから、3社はのちに、海外ニュースに関しては再び共同からの記事配信を受けるようになった。_NEWLINE_世界の注目を集めた1964年(昭和39年)の東京オリンピックでは、共同の配信する記事が存在感を示した。 _START_SECTION_ 時事通信社 _START_PARAGRAPH_ 一方時事は1946年(昭和21年)8月、UPと経済通信分野における独占契約を締結。さらに1949年(昭和24年)12月、AFPと一般ニュースの契約を、1952年(昭和27年)1月、ロイターと経済通信の独占契約を、1953年(昭和28年)にはAFPと経済通信の独占契約を、それぞれ締結した。_NEWLINE_しかし、時事の船出は順調には進まなかった。同盟の目ぼしい遺産は共同が引き継ぎ、さらに時事は外地から引き揚げて来る元同盟社員の受け皿とされたために人件費がかさみ、設立当初から苦難の道を歩まざるを得なかったのである。_NEWLINE_同盟解散時、古野は将来時事と共同が再合同することを期していた。一般ニュース分野と経済通信分野とに分割して棲み分けを図ったのも、両社の無用な衝突を避けるためである。そして「時事は、一般ニュースを必要とする場合は共同から無料で供給してもらえばよい。専用線も共同のものを無償で使用すればよい」としていたが、実際に分社化するとそのようにはいかなかった。一般ニュースの自主取材は「覚書」によって厳しく制限され、また、敗戦後間もない日本経済は著しく疲弊しており、経済通信での収入も芳しくなかった。時事は、毎年決算期になると不渡りを出す危険が噂されたことから、「危険通信社」の異名を取るほどであった。_NEWLINE_このため、1949年(昭和24年)7月14日に社長の長谷川才次が共同常務理事の松方三郎(松方正義の末子)と直接交渉し、両者は「覚書」の撤廃に合意した。以後、共同から時事へのニュース供給は途絶し、古野の意図に反して両社の本格的な抗争が始まった。_NEWLINE_1971年(昭和46年)、日本経済新聞社が子会社「株式会社市況情報センター (QUICK) 」を設立した。QUICKは、専用端末「ビデオ-I」で経済情報サービス分野に参入し、急成長を遂げた。新たな脅威の出現により、時事はさらなる苦境に陥った。_NEWLINE_1971年は時事にとって、もう1つの意味で特別な年であった。この年の6月、初代社長の長谷川が退陣したのである。_NEWLINE_「独裁的」とも評される長谷川の経営方針や、政財界寄りの態度に不満を覚えた社員らは1968年(昭和43年)、実質的には機能していなかった「時事通信社労働組合」(1950年発足)に代わる組織として「時事通信労働組合」を結成し、待遇改善などを要求する運動を展開。組合には約120人が参加した。1971年(昭和46年)3月26日と4月28日、組合は全日ストに突入し、機動隊が出動する異常事態となった。_NEWLINE_労使の対立は、1971年5月の第51回定期株主総会で頂点を迎える。席上、組合員による質問が突如打ち切られ、提出議案が強行採決されたことに組合側が猛反発し、総会は紛糾した。こうした一連の混乱の責任を取って、長谷川ら経営陣は辞職した。 _START_SECTION_ 外資の参入 _START_PARAGRAPH_ ロイターは明治初期に、外国の通信社で初めて日本に特派員を置いた歴史を持つが、20世紀半ばの段階では現地法人の設立には至っていなかった。1971年のQUICK設立時、ロイターは8%の資本参加を行い、「ストックマスター」など主力商品の販売を委託した。しかし、1984年(昭和59年)にQUICKとの関係を解消。翌1985年(昭和60年)、日本法人「ロイター・ジャパン」を設立した。_NEWLINE_一方、ブルームバーグも日本市場の開拓を目指し、経済情報を一刻も早く入手できる環境を整えるべく、東京証券取引所内の記者クラブ「兜倶楽部」への加盟を申請した。しかし外国メディアの加盟は例がなく、また全国の記者クラブのあり方にも関わる重大事であったため、再三にわたる申請に対しても許可は下りなかった。また、「兜倶楽部に加盟すれば重要な経済情報がいち早く手に入るため、立場を悪用すれば不正に利益を上げることもできる。通信社といえるのかどうかも疑わしいブルームバーグに、そのような特権を与えてもよいのか」といった疑問の声もあった。_NEWLINE_業を煮やしたブルームバーグ側は、アメリカ大使館の圧力を利用して揺さぶりをかけた。これが功を奏し、1993年(平成5年)、ロイターと共に兜倶楽部への加盟を認められた。この結果、両社の速報性は向上した。対して、規制に安住して20年前の商品「ビデオ-I」を販売し続けてきた、QUICKの影響力は著しく損なわれた。また、時事にとってこの一件は、QUICK以上に巨大な競争相手の登場を意味していた。 _START_SECTION_ 合併説 _START_PARAGRAPH_ 共同の命綱は加盟社からの負担金であるが、強大な発言力を有する大手新聞社や経営環境の厳しい新聞社からの値下げ要求に悩まされている。1998年、外信のみ共同と契約していた朝日、毎日、読売が、負担金の値下げを要求した。部数が減少した産経も脱退を仄めかし、負担金の大幅削減を実現している。2005年には、負担金に関する日本テレビとの交渉が決裂。日本テレビは脱退し、ニュース収集に関する読売への依存度を強めることとなった。こうした動きが波及すれば、共同の財務体質に深刻な影響を及ぼしかねない。_NEWLINE_対する時事は、創業時に一般ニュースの分野を共同に明け渡したことから、長く辛酸を嘗めてきた。主力の経済情報分野では、ロイターやブルームバーグの参入でパイの争奪戦が激化しており、安閑としていられない状況が続く。_NEWLINE_こうした事情から、共同・時事両社の合併が常に囁かれている。両社が出資する新会社「日本メディアーク」の設立時などには、業界紙や雑誌が「合併に向けた動きか」と報じた。_NEWLINE_日本の通信社を代表する両社の合併が仮に実現した場合、新会社が日本の国家代表通信社として世界に雄飛する可能性が期待される。だが反面、少なくとも日本国内においては新会社が突出した影響力を持つことになるため、情報市場の独占による弊害を危惧する声もある。
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Q18337115
_START_ARTICLE_ 進雄神社 (豊橋市) _START_SECTION_ 由緒 _START_PARAGRAPH_ 元禄11年(1698年)森田新田の開発がなり、その鎮守として高師村字東浦十番地に一社を建立して牛頭天王を奉斎、明治3年、神社制度の改正にあたり、進雄命を祭神と仰ぎ、進雄神社と改め、村社に列せられる。_NEWLINE_明治41年(1908年)、第15師団の設置にあたり境内地はその用地として買収される。ために字東浦7番地に遷祀(せんし)。また、大正8年(1919年)には火薬庫築造による危険の回避に迫られ、南栄町(この頃は栄町と呼称していた模様)と地元集落の北山との談合の結果、現在地に遷座し奉ることになった。_NEWLINE_昭和40年(1965年)、南栄町公民館の収益を主財源として羽田八幡宮の旧拝殿を移築、それを機に栄生町・東栄町・新空池町・曙町が氏子として加入したが、後に曙町は脱退。また昭和60年(1985年)学区変更により南栄町より分離した新草間町が加入したが、平成13年に脱退し、現在は四町の氏神として多くの人々の崇敬を聚めている。
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Q11641038
_START_ARTICLE_ 道の駅シルクウェイにちはら _START_SECTION_ バスターミナル _START_PARAGRAPH_ 本施設はバスターミナルを併設している。なお、バス停の名称は日原(道の駅)(津和野町営バスは道の駅)である。
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Q11641277
_START_ARTICLE_ 道の駅尾花沢 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 愛称に「花笠の里」が含まれるのは、同市が地元の踊りである花笠踊りの発祥地であることに由来する。また「ねまる」とは、尾花沢弁で「くつろぐ」を意味する。俳人・松尾芭蕉は、奥の細道を辿る旅の途中、尾花沢に長期滞在し、この地で「涼しさを我宿にしてねまる也」という句を残しており、そこから名付けられた。
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Q64783526
_START_ARTICLE_ 道下義行 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 大阪府出身。1915年(大正4年)陸軍士官学校第27期卒業。_NEWLINE_1941年(昭和16年)3月に陸軍歩兵大佐・歩兵第77連隊長(朝鮮軍、第30師団)となり、大東亜戦争に出征。ついで、1943年(昭和18年)6月に南海第4守備隊長(第17軍)に転じ、1945年(昭和20年)6月に陸軍少将に進級。終戦まで守備隊長としてブーゲンビル島にて抵抗を続けた。
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Q11642054
_START_ARTICLE_ 遠山直景 (左衛門大夫) _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 父の政景が1580年に没すると家督を継ぐが、その7年後の1587年に死去したと伝わる。ただし、豊臣秀吉の小田原征伐の際に江戸城に拠っていたという説もあり、定かではない(一般的には江戸城は川村秀重が守備していたとされる。秀重は政景の弟、つまり直景の叔父。)。_NEWLINE_直景が当主をしていた時期は、北条家の里見氏方面での争いは一種の安定期を迎えている。里見氏の当主里見義頼は北条氏と和睦をしていた(房相一和)。そのため、主にこの方面の柱石であった直景には、軍功などはほぼ残っていない。_NEWLINE_遠山氏は江戸城代を代々勤めていたが、父の代に北条家一門の北条氏秀(上杉景虎とは別人説が出ている北条綱成の次男とされる人物)が江戸城代として入城するが、ほどなく逝去。氏秀の子である乙松が城代を継ぐが、これも早世する。その後は北条氏政が江戸を治めていた。_NEWLINE_直景が家を継いでいたのは、この時期にあたる(氏秀逝去の前後)。江戸城代として正式な配置にあったかは不明。江戸城の支城であった葛西城の城主をしていた。直景が発行した伝馬手形が残り、江戸から葛西を経て房総方面にかけての地域を管轄していたことから、この一帯の支配を任されていたことが確認できる。また、氏政が担当していた千葉氏との外交の補佐をしていたとする説がある。_NEWLINE_『遠山文書』天正10年には彼の伝馬手形において「葛西新宿」とあり、これが現在の東京都葛飾区にある新宿の初見である。
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Q11642515
_START_ARTICLE_ 適齢期 _START_PARAGRAPH_ 『適齢期』(てきれいき)は、1994年4月15日から7月1日まで、TBS系「金曜ドラマ」枠で放送された日本のテレビドラマ。全12話。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 主人公の国分翔平は、山梨県から上京し、大手メーカーに勤めるサラリーマン。仕事も充実し、恋人である高瀬真琴との関係も良好だが、ひょんなことから自身の実家である果樹農家の後継者問題に巻き込まれ、それをきっかけに真琴との関係も雲行きが怪しくなりはじめる。翔平は結婚相手を求め、なかば仕方なしに結婚情報サービス会社に登録する。
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Q11643076
_START_ARTICLE_ 郡上八幡インターチェンジ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 郡上市和良・下呂市下呂温泉・同市萩原町・小坂町方面や郡上市明宝・高山へと通じるせせらぎ街道へはここで降りる。_NEWLINE_下り線のランプは平面交差となっているが、東海北陸道の他のインターチェンジと同様に交差部分には信号機が設置されていない(出口優先、福光インターチェンジは信号機が設置されている)。見通しもやや悪いため、通行には注意を要する。 _START_SECTION_ 郡上八幡バスストップ _START_PARAGRAPH_ 郡上八幡バスストップは東海北陸道の郡上八幡インターチェンジにあるバス停留所である。郡上市中心部からは距離があるため利用にはタクシーなどが便利。最寄駅は、長良川鉄道郡上八幡駅である(南に約1.8km)。
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Q11643360
_START_ARTICLE_ 郵政監察制度 _START_PARAGRAPH_ 郵政監察制度(ゆうせいかんさつせいど)は、日本の郵便事業が国営時に置かれた、事業統治を目的にした警察制度である。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 郵便物や小包が差し出されてから遅滞や過失なく仕分け・管理がされて受取人へ無事に配送されたかどうか、郵便貯金や簡易保険の横領がないかどうかをチェックし、必要に応じて指導や処分を下す制度である。葉書や切手など金券類の偽造や変造、郵便為替を用いる詐欺などの犯罪の捜査も行う。 _START_SECTION_ 郵政監察官 _START_PARAGRAPH_ 郵政監察官とは、郵政事業の監察や郵政事業に関する犯罪の取締りに当たる郵政省の職員である。厳密な業務範囲は後述する。刑事訴訟法上、特別司法警察職員として職務を行う。「郵政Gメン」とも通称される。 _START_SECTION_ 郵政省 _START_PARAGRAPH_ 第3回臨時会で成立した郵政省設置法(昭和23年12月15日法律第244号)第26条に規定がある。同法制定時から郵政事業庁廃止に至るまで郵政監察官の定員は増減なく700名以内であった。_NEWLINE_「郵政監察官は、郵政業務の運行に関するすべての事項の調査にあたり、その実情及び改善すべき事項についての意見を郵政大臣に提出し、並びに犯罪の嫌疑があるときは、捜査し、その内容を郵政大臣に報告し、及び必要がある場合には、犯罪の訴追に協力することについて、郵政大臣から特命を受けたものとする。」(郵政省設置法第26条第2項)とされた。この表現はのちの郵政事業庁法で「あたり」を「当たり」、「郵政大臣」を「郵政事業庁長官」、と改められて郵政事業庁設置法まで継続する。_NEWLINE_郵政監察官は、郵政業務に対する犯罪につき特別司法警察員として刑事訴訟法に規定する司法警察権が認められていた。現行犯逮捕を除いて自ら被疑者を直接に逮捕できず、被疑者の逮捕を要する場合は裁判所に逮捕状を請求し、警察官に執行させた。 _START_SECTION_ 郵政事業庁 _START_PARAGRAPH_ 郵政事業庁設置法(平成11年7月16日法律第92号)は第4章の表題を「郵政監察官」として特に規定を置いていた。郵政省当時と同様の規定が置かれていた。 _START_SECTION_ 日本郵政公社 _START_PARAGRAPH_ 日本郵政公社法(平成14年7月31日法律第97号)第63条に規定がある。_NEWLINE_「郵政監察官は、郵政事業(公社の行う事業をいう。以下この項及び次項において同じ。)に関する犯罪、非違及び事故に関する調査及び処理その他郵政事業の適正かつ確実な実施の確保に係る職務に従事する公社の役員又は職員のうちから、総務大臣の定める者がその役員又は職員の主たる勤務地を管轄する地方裁判所に対応する検察庁の検事正と協議して指名する者をもって充てる。」ものとされた(日本郵政公社法第63条第2項)。_NEWLINE_司法警察員としての職務は「郵政監察官は、郵政事業に対する犯罪について、刑事訴訟法 (昭和23年法律第131号)に規定する司法警察員の職務を行う。」(公社法第63条第3項)とされ、「郵政業務」が「郵政事業」、「つき」が「ついて」と改められたのみで条文の構成に大きな変更はない。郵政事業庁の公社化とともに民間事業者が信書便を扱うことも合法化され、郵政監察官が有する司法警察権の対象となる「郵政事業」の範囲も「公社の行う事業」と明示(公社法第63条第2項括弧書き)された。民間事業者が行なう信書便事業に係る犯罪などに郵政監察官の司法警察権は及ばないが、「民間事業者による信書の送達に関する法律」(民間信書便法)による総務大臣の許可を受けずに信書便事業を行なった者の行為は、民間信書便法第3条による郵便法第5条第2項(公社による信書便送達事業の独占)の適用除外に該当せず、郵便法第76条の郵政事業に対する犯罪として司法警察権が行使される。 _START_SECTION_ 日本郵政株式会社 _START_PARAGRAPH_ 郵政民営化に伴い郵政監察制度は廃止された。日本郵政株式会社内に監査部門が新設されたが、これはコンプライアンスチェックの部署であり、司法警察権を持っていない。職員犯罪や不正防止のために700億円を投じて監視カメラを導入したが、民主党政権時に「職員の士気が下がる」として撤去した。信書便は総務省総合通信局監理官が監督している。
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Q22130786
_START_ARTICLE_ 郷田兼徳 _START_PARAGRAPH_ 郷田 兼徳(ごうだ かねのり、1840年(天保11年)- 1918年(大正7年))は、幕末の薩摩藩士、明治期の内務官僚。青森県令。旧名・東郷嘉一郎。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 薩摩藩士の家に生まれる。戊辰戦争に従軍。明治政府に出仕し、越後府判事補に任官。水口県少参事、東京府権少参事などを歴任。_NEWLINE_1874年12月22日、青森県九等出仕に転じ、以後、弘前出張所長官、少書記官、大書記官を歴任。前任山田秀典の死去に伴い、1882年1月14日、青森県令に昇進。保守的な気風を持っていたことから弘前士族の支持を受け、県政は保守派が掌握し、自由民権派と対立した。1882年7月、産馬共会の管理を県から民間に移管する問題で県南代表と対立した。その後、県南側が独自のせり市を開設し、郷田県令は裁判所に訴えたが県側が敗訴した(産馬騒擾事件)。_NEWLINE_1883年12月22日、参事院議官補に転じ、1891年5月12日、内務書記官に就任したが、同年7月14日、依願免本官(諭旨退官)となり退職した。
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Q11643848
_START_ARTICLE_ 都道府県労働局長登録教習機関 _START_PARAGRAPH_ 都道府県労働局長登録教習機関(とどうふけんろうどうきょくちょうとうろくきょうしゅうきかん)は、建設機械等の運転・操作や作業主任者の選任に必要となる免許(の実技教習)又は技能講習に関する学科・実技教育を行うことを目的として都道府県労働局長より登録された機関の総称である。労働安全衛生法第77条の規定により、実技教習・技能講習を実施する機関はこの登録を受けたものでなければならないが、特別教育(安全衛生教育を含む)に関しては特に必要ない。_NEWLINE_呼称の「都道府県労働局」の部分は厚生労働省の地方支分部局の総称であり、当該労働局は個別具体的には「東京労働局」のように表記されるため、登録教習機関が自ら肩書きを称する場合は同様に「東京労働局長登録教習機関」のように表記される。_NEWLINE_現在の総称は法律改正により2004年(平成16年)3月31日から使用されているもので、2000年(平成12年)3月31日までは「都道府県労働基準局長指定教習機関」と、2004年3月30日までは「都道府県労働局長指定教習機関」と称した。
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Q64783728
_START_ARTICLE_ 酒井幾造 _START_SECTION_ 経歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 岡山県出身。1902年(明治35年)陸軍士官学校第14期卒業。_NEWLINE_1926年(大正15年)3月に新発田連隊区司令官、同年7月に陸軍歩兵大佐を経て、1927年(昭和2年)7月に第7師団司令部附・北海道帝国大学配属将校となる。_NEWLINE_ついで、1929年(昭和4年)8月に歩兵第12連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月1日に陸軍少将に進級と同時に待命、同月29日に予備役に編入した。
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Q11644278
_START_ARTICLE_ 酒井雲 _START_PARAGRAPH_ 酒井 雲(さかい くも、1898年12月6日 - 1973年11月10日)は浪曲師。本名:酒井玉之助。日本を代表する演歌歌手・村田英雄の師匠として知られる。_NEWLINE_岐阜県長良(現・岐阜市)の生まれ。豆腐の売り子から、16歳で桃中軒雲右衛門に入門し桃中軒東風を名乗る。すぐに雲右衛門没後は酒井玉水などを名乗り地方巡業に出る。従来の浪曲とは違う、人気の文芸小説を浪曲化し、「文芸浪曲」と称した独自の世界を確立。従来の講談物の「勧善懲悪」、他の儒教的倫理観に対し、彼の文芸浪曲は人間の尊厳を高らかに歌いあげた。_NEWLINE_昭和に入り明治座、国技館で独演会を開く。戦時中は時局(愛国)浪曲。戦後ラジオ、テレビの本放送が始まるとNHKの専属になり一躍人気者になる。鳩山一郎は後援会長を務めたp.73。_NEWLINE_得意演目は「坂崎出羽守」「恩讐の彼方へ」「地震加藤」「駕籠幽霊」「景清」「桐一葉」「雪の渡り鳥」「小猿七之助」「本能寺」「瞼の母」等多い。_NEWLINE_1970年に勲五等双光旭日章、1971年にNHK放送文化賞を受賞。_NEWLINE_弟子を多く育成した。幼少期に入門した酒井雲坊(後に演歌に転じた村田英雄)が著名。
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Q424955
_START_ARTICLE_ 酸化インジウム(III) _START_SECTION_ 結晶構造 _START_PARAGRAPH_ 非晶質の酸化インジウム(III)は、水には不溶だが、酸には溶解する。結晶は、水にも酸にも溶解しない。_NEWLINE_結晶には立方晶(ビクスビ鉱(en:bixbyite)型)と三方晶(コランダム型)、二つの相があり、それぞれおよそ3 eVのバンドギャップをもつ。_NEWLINE_格子定数等は右の物性欄に示す。_NEWLINE_三方晶は高温高圧条件か、非平衡的な成長法を用いてつくられる。 _START_SECTION_ 導電性と磁性 _START_PARAGRAPH_ クロムをドープした酸化インジウム(III)の薄膜(In₂₋ₓCrₓO₃)は、高温で強磁性を示し、単一の結晶相を持ち、高密度のキャリアを持つ磁性半導体である。スピントロニクスにおけるスピン注入素子としての応用が期待されている。_NEWLINE_亜鉛をドープした酸化インジウム(III)の多結晶の薄膜は、高い導電性(~10⁵ S/m)を持ち、液体ヘリウムの低温で超伝導性を示す。_NEWLINE_超伝導転移温度Tcは、ドーピングと薄膜の構造に依存し、3.3 K以下である。 _START_SECTION_ 合成 _START_PARAGRAPH_ バルク試料は、水酸化インジウム(III)、硝酸インジウム(III)、炭酸インジウム(III)、または硫酸インジウム(III)を加熱して作られる 。_NEWLINE_アルゴン/酸素雰囲気下でインジウム標的にスパッタリングを施すと酸化インジウム(III)の薄膜が得られる。半導体における拡散障壁(障壁金属)として用いることができる(例: アルミニウムとケイ素の間の拡散を防ぐ)。_NEWLINE_レーザーを用いたアブレーションによって単結晶ナノワイヤー(en:Nanowire)とすることができ、直径は最小で10 nmまで制御でき、電界効果トランジスタ(FET)の材料となる。単結晶ナノワイヤーは、酸化還元タンパク質の鋭敏で選択的なセンサーとして働く。ナノワイヤーを得るその他の方法として、ゾルゲル法がある。_NEWLINE_酸化インジウム(III)は半導体材料として用いられ、p-InP, n-GaAs, n-Siその他の素材とヘテロ接合を構成する。_NEWLINE_太陽電池の製造に有用な方法として、熱したシリコン基板に塩化インジウム(III)水溶液をスプレーすることで、酸化インジウム(III)層を作製できる。 _START_SECTION_ 応用 _START_PARAGRAPH_ 酸化インジウム(III)はある種のバッテリー、可視光を通す赤外線反射薄膜(ホットミラー)、光学薄膜、帯電防止剤に用いられる。_NEWLINE_酸化スズ(IV)と組み合わせて、透明導電体の酸化インジウムスズ(ITO)として用いられる。_NEWLINE_半導体においては、n型半導体として、集積回路の抵抗素子に用いられる。_NEWLINE_組織学においては、染色に用いられる。
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Q11250555
_START_ARTICLE_ 釈譜詳節 _START_SECTION_ 解題 _START_PARAGRAPH_ 『釈譜詳節』序および『月印釈譜』序によれば、『釈譜詳節』は1446年に死去した昭憲王后(世宗の正妃)の冥福を祈るために、世宗の命により首陽大君(後の第7代国王・世祖)が作った書である。『釈譜詳節』の編纂に当たっては、『釈迦譜』・『釈迦氏譜』を基にして、それを朝鮮語に翻訳したという。しかしながら、他の諺解資料とは異なり、原文の漢文が記載されていない点、朝鮮文が他の諺解文とは異なり漢文の直訳調の文体ではない点などから見て、『釈譜詳節』の文体は自然な散文に近いものだったと推測される。_NEWLINE_なお、底本には『釈迦譜』・『釈迦氏譜』の他に、玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(巻9)、『地蔵菩薩本願経』(巻11)、『大方便仏報恩経』(巻11)、鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』(巻13~21)などがある。
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Q11644544
_START_ARTICLE_ 釈雲照 _START_PARAGRAPH_ 釈 雲照(しゃく うんしょう、文政10年3月20日(1827年4月15日) - 明治42年(1909年)4月13日)は、幕末から明治期にかけての真言宗の僧。俗姓は渡辺氏。出雲国(島根県)の出身。日本人初の上座部仏教徒である釈興然は甥にあたる。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1836年(天保7年)松江千手院で出家し、1844年(弘化元年)高野山に上って真言密教を修学した。江戸時代後期に戒律復興運動を行った慈雲の影響を受け、明治維新後の1884年(明治17年)十善会を発足し戒律主義を主唱し、以後は目白新長谷寺に戒律学校を創建し、機関紙「十善宝窟」を創刊した。1909年(明治42年)4月13日、インフルエンザのため目白僧園で死去。_NEWLINE_雲照の仏教に対する内省的な態度は新仏教運動に精神的な基盤となったが、戒律主義は近代における仏教には定着せず雲照の没後は衰退していった。
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Q11644796
_START_ARTICLE_ 重松通雄 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 越智中学校(現:愛媛県立今治南高等学校)を経て、広島県呉市の呉海軍工廠に入り電気部に所属。11チームあった同社の硬式野球部の電気部エースとして「オール呉」が編成されるといつも選抜された。また1936年に創設された現行プロ野球に名乗りを上げたが加盟を認められなかった名古屋市の球団「セントラル・シティ」に偽名で登録し、数試合投げていた。しかし試合後酒を飲んで警察に拘留され、この件で呉工廠への復帰が閉ざされ、先に阪急入りしていた倉本信護から阪急入団テストの話を聞いて、テストに合格。1936年に創立したばかりの阪急軍に入団した。すぐに三宅大輔監督からアンダースローへの変更を言い渡された。1939年に自身初の二桁勝利となる13勝を挙げる。1941年に召集され、1942年に大洋軍で復帰。1944年に再び召集され、終戦後の1947年に金星スターズで再び日本プロ野球に復帰した。1950年は西日本パイレーツに在籍、同年に引退。_NEWLINE_翌1952年からパイレーツと合併した西鉄ライオンズの二軍監督に就任。その後も西鉄で一軍投手コーチを務めるなど1969年までコーチとして在籍。1970年から1976年まではスカウトを務めた。二軍監督・コーチ時代は鉄拳制裁をも辞さない指導から「鬼軍曹」として恐れられ、後に自身も鬼軍曹として知られる河村英文の著書「西鉄ライオンズ―最強球団の内幕」でも当時のエピソードが取り上げられている。また、同書では、重松が「日本初のアンダースロー投手である」という旨の発言をしたエピソードも紹介されている(日本初のアンダースロー投手については、西鉄時代の同僚である武末悉昌説もある)。アンダースローからカーブ、シュートを武器とした。_NEWLINE_なお、日本プロ野球は1937年 - 1940年、1942年 - 1944年に、規定投球回ではなく規定登板数を採用していたが(1939年は規定完投数)、重松は1937年秋シーズンに防御率7.20を記録している。これは現在も規定投球回(規定登板(完投)数)到達者としてはプロ野球のワースト記録となっている(1年1シーズン、および規定投球回制の下でのワースト記録は、2004年に斉藤和巳が記録した6.26)。
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Q11644978
_START_ARTICLE_ 野上進 _START_PARAGRAPH_ 野上 進(のがみ すすむ、1901年1月 - 1965年12月21日)は日本の政治家。参議院議員。九州産業交通初代社長。明治大学専門部政経科卒。
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Q11644979
_START_ARTICLE_ 野上郵便局 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 住所:〒640-1131 和歌山県海草郡紀美野町動木96番地1_NEWLINE_郵政民営化後の2008年(平成20年)に新局舎に移転した際、併設していた郵便事業海南支店野上集配センターは移転せず元位置で営業を続けた。2012年(平成24年)の日本郵便株式会社の発足にあたり全国の集配センターの多くは併設郵便局に統合されたが、同集配センターは別立地となっていたことから、海南郵便局の野上集配分室として分離された。
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Q2053164
_START_ARTICLE_ 野平一郎 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 東京生まれ。東京芸術大学附属音楽高等学校を経て、東京芸術大学音楽学部作曲科卒業、同大学院修了。渡仏し、アンサンブル・イティネレールのピアニストを務め、パリ国立高等音楽院を卒業。現在、東京芸術大学音楽学部教授、静岡音楽館AOI音楽監督を務め、作曲家・演奏家として精力的に活動している。作品はアンリ・ルモワンヌ社他から発売されている。妻は、作曲家・音楽評論家の野平多美。
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Q11645461
_START_ARTICLE_ 野戦特科射撃指揮装置 JGSQ-W3 _START_PARAGRAPH_ 野戦特科射撃指揮装置 JGSQ-W3(やせんとっかしゃげきしきそうち ジェイジーエスキューダブルスリー)は、陸上自衛隊の装備。野戦特科に配備される。多連装ロケットシステム指揮装置とは異なり、野戦特科全体を指揮することが出来る。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 81式野戦特科射撃指揮装置 JGSQ-W2の後継として開発された。民生品を流用することで処理時間短縮、能力向上などが実現した。1997年(平成9年)度より配備開始。製作は三菱電機。
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Q26262176
_START_ARTICLE_ 金ミン程 _START_SECTION_ 人物 _START_PARAGRAPH_ 2013年にグランドスラム・パリ78kg超級で3位になると、世界選手権では7位だった。2014年にはグランドスラム・バクーとグランプリ・ウランバートルで優勝するが、地元で開催されたアジア大会では3位だった。2015年にはアジア選手権とユニバーシアードで2位だったが、グランプリ・タシュケントで優勝を飾った。2016年にはアジア選手権で優勝するが、リオデジャネイロオリンピックでは準々決勝でキューバのイダリス・オルティスに一本負けすると、3位決定戦でも中国の于頌に敗れて5位だった。2017年の世界選手権では準々決勝で于頌に敗れるも、敗者復活戦を勝ち上がって29歳にして銅メダルを獲得した。ワールドマスターズでは優勝を果たして、韓国の女子選手として初となる年間ランキング1位になった。2018年のアジア大会では決勝で素根輝に技ありで敗れて2位だった。2019年のアジアパシフィック選手権では優勝した。_NEWLINE_IJF世界ランキングは4593ポイント獲得で、7位(19/4/15現在)。
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Q6611530
_START_ARTICLE_ 金主鎬 _START_PARAGRAPH_ 金主鎬(キム・ジュホ、김주호、きん しゅこう、1984年12月5日 - )は、韓国の囲碁棋士。ソウル出身、韓国棋院所属、権甲龍七段門下、九段。電子ランド杯王中王戦準優勝、LG杯世界棋王戦ベスト8など。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 1999年入段。2000年に三星火災杯に韓国代表として出場(1回戦○王煜輝、2回戦×劉昌赫)。2001年二段。2002年三段、オスラムコリア杯新鋭連勝最強戦準優勝。2003年王位戦リーグ入り、四段、LG杯世界棋王戦で柳時熏、周鶴洋を下しベスト8進出。2004年BCカード杯新人王戦、LG精油杯戦でベスト4、第1回電子ランド杯王中王戦で準優勝。2005年王中王戦ベスト4、棋聖戦ベスト8、囲碁マスターズ帝王戦10位。2006年七段。2008年八段。2010年九段。_NEWLINE_韓国囲碁リーグは2004年から第一火災チームなどで出場。韓国棋士ランキングでは2005年14位。
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Q11646390
_START_ARTICLE_ 金井稠共 _START_SECTION_ 金井総兵衛家の和算家としての流れ _START_PARAGRAPH_ 祖である玄蕃は、新田義貞より10世信濃守国繁に忠節をもって仕えていたが帰農して宮戸村に住んだとされる。しかし、子に恵まれず、弟の図書に家督を譲っている。二代目を称した安右衛門(生年不詳 - 1742年)の父が総兵衛と言う名である。安右衛門自身は和算書『塵劫記』に署名が記されている事から算学を嗜んでいたものと思われる。安右衛門は3男1女と子に恵まれ、その子は医師や画家として育っていく。三代目金井総兵衛重熙(1720年 - 1775年)は祖父である安右衛門の指導を受け、早くから算法を学んだとされ、『算法根源記』には、「関流直伝金井総兵衛重熙」の署名がある事から関流の和算を学んだ事が分かる。宝暦5年に須永直右衛門が彼に宛てた「算術相伝につき他言他見なすまじき」旨の誓詞も残っており、優れた算法の指導者だった事が分かる。四代目金井総兵衛義適(1746年 - 1839年)は重熙の3男として生まれ、幼名万五郎、俳号を眠石。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 稠共は義適の次男として生まれる。兄である靭負が小浜村の落合氏を継ぎ、医師となった事から、天保5年(1834年)頃に稠共が総兵衛を襲名し、名主になったとされる。父義適から関流和算を学び、修めるが、他の流派についても積極的に学び、最上流和算を安永惟正や久松彝之から学び、至誠賛化流和算を川田保則から学んだ。天保年間の末頃に上州沢渡の和算家剣持章行が関流の指導の為、関東を遊歴すると彼に師事した。剣持章行の著書にも門人の名として稠共の名が見える。彼の高弟として嘉永6年(1853年)頃には試問役を勤めている。測量技術にも優れ、土地の測量や絵図面と言った地図の作成から備前渠の治水工事などにも貢献した。彼が生涯にわたり手がけた和算書は約60冊になる。
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Q11190943
_START_ARTICLE_ 金光一昭 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 広島県庄原市出身。近畿大学卒業後フリーアナウンサーとして、中国放送 (RCC) を中心に広島県内の各放送局で活動。1993年8月エフエム山口入社、以後同局のパーソナリティとして活動。_NEWLINE_2017年4月現在の担当番組は、毎週金曜15時00分 - 18時55分「Happy Happy FRIDAY」。パーソナリティのほかディレクター、ライター、ミキサーの顔も持つ、マルチパーソナリティ。_NEWLINE_以前は主にBB金光(ビービーかねみつ)の名で活動していたが、2010年スタートのFRIDAY Bang! Bang! Highway以降は原則金光一昭名義で活動している。
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Q30927065
_START_ARTICLE_ 金嶺志 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 2013年、東京朝鮮高校卒業後、帝京大学に入る。_NEWLINE_2017年、帝京大学卒業後、NTTコミュニケーションズシャイニングアークスに加入。同年8月18日に行われたジャパンラグビートップリーグ第1節のリコーブラックラムズ戦にて先発出場で公式戦初出場を果たす。
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Q11647268
_START_ARTICLE_ 金森徳次郎 _START_PARAGRAPH_ 金森 徳次郎(かなもり とくじろう、1886年3月17日 - 1959年6月16日)は、日本の官僚、政治家、憲法学者。岡田内閣の法制局長官、第1次吉田内閣の憲法担当国務大臣。初代国立国会図書館長も務めた。 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 愛知県名古屋市生まれ。愛知一中、旧制一高を経て、東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験行政科に合格し大蔵省に入省、税務監督局属兼大蔵属。_NEWLINE_1914年、法制局に移り、法制局参事官、第一部長を歴任。この間、大学で法学、憲法学を講じ、『帝国憲法要説』等を著わした。1934年、岡田啓介内閣の法制局長官に就任するが、在任中に法制局長官就任以前の著作『帝国憲法要説』が天皇機関説的であるという理由で右翼勢力から攻撃を受け、1936年、辞任に追い込まれた。_NEWLINE_戦後は貴族院勅選議員を経て吉田茂内閣の憲法担当国務大臣に就任。帝国議会における大日本帝国憲法の改正審議で、憲法に関する政府答弁を行った。特に有名な答弁としては国体についてのものがある。金森は国体を「天皇を憧れの中心として、心の繋がりを持って統合している国家」であると答弁した。これにより国体は変化していないということを強弁し国会を乗り切ることに成功した。_NEWLINE_1948年、国立国会図書館の新設に際し、初代の館長に任命される。金森は晩年の11年間この職に在り、その間、日本図書館協会会長等の職を務め、憲法や読書に関する多くの著書を残した。なお、国立国会図書館東京本館の図書目録ホールに掲げられている「真理がわれらを自由にする」との書は、金森の揮毫による。_NEWLINE_1959年、国立国会図書館長を辞職した翌月に没した。_NEWLINE_エコノミストの金森久雄、地震学者の金森博雄は息子。娘のあやの夫は宇宙物理学者・東大名誉教授の中村純二。
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Q11647294
_START_ARTICLE_ 金森重頼 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 重頼は、伊東治明の子として生まれ、幼少期から徳川家康の左右に侍し、慶長18年(1614年)に長門守に任ぜられる。大坂の役の後、可重の跡を継いだ重頼は祖父と父の築き上げてきた高山の藩政に力を注ぎ、新田開発や銀山の開発など、名君として誉れ高い。元和元年(1615年)の一国一城令に際しては古川の増島城、萩原の萩原諏訪城を廃して旅館と称する陣屋とし藩主の通行の際などに利用した。また、同年自らの襲封に際しては父可重の遺品の茶壺「雲山肩衝」を将軍秀忠に献上しているが同3年(1617年)に天下の名物であるから自家に秘蔵するようにと返された。元和5年(1619年)には出雲守に任ぜられた。寛永の大飢饉の際には、前述の「雲山肩衝」を丹後国宮津藩主京極高広に金3000両で売却し、藩士・農民の救済にあてた逸話も伝わっている。将軍参内や日光東照宮参拝などには常にこれに従い、松平忠輝や加藤光広など取り潰しになった大名の身柄を預かるなど、幕府内での信頼も高かったようである。_NEWLINE_金森家代々と同じく茶の湯に秀で、和歌・連歌もたしなんだという風流人でもあった。慶安3年(1650年)閏10月7日、55歳で死去し、跡を頼直が継いだ。
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Q11647617
_START_ARTICLE_ 金澤翔子 _START_PARAGRAPH_ 金澤 翔子(かなざわ しょうこ、1985年6月12日 - )は、東京都目黒区出身の書家。母も同じく書家の金澤泰子。号は小蘭(号の場合、苗字は金沢)。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 母・泰子が高齢出産にあたる42歳で翔子を出産。新生児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断される。当初はその事実を知った泰子は我が子と共に死のうとも考えたが、夫の熱心な想いと遅咲きながらも少しずつ育っていく子の姿を見て思いとどまったという。金澤の書道は母の師事によるものから現在の作風に至っている。講演会や個展、席上揮毫などに金澤が出席する際には必ず泰子が同席している。271文字の般若心経を練習し、字を見て父親が誉めてくれた。趣味は、カラオケとプール。カラオケはモーニング娘。を歌うことが好きで、俳優の小池徹平のファン。マイケルジャクソンの大ファンでもある。好きな文字は「夢」。_NEWLINE_1990年、5歳の頃より書道を始め、1995年全日本学生書道連盟展に「花」を初出品する。1999年、日本学生書道文化連盟展に「龍」を出品し銀賞を受賞。2000年にも同じく日本学生書道文化連盟展に「延命十句観音経」を出品して銀賞を受賞。2001年、日本学生書道文化連盟展に「舎利札」を出品し、学生書道としては最高位である金賞を受賞。その後、矢口養護学校に進学する。_NEWLINE_2002年、日本学生書道文化連盟展に「觀」を出品し金賞を受賞。翌年の高校2年生修了と同時に学校を中退し、荒井裕司が理事を務めるステップアップアカデミー(現・翔和学園)に入学する(中退)。 _NEWLINE_2004年、書家としての号「小蘭」を取得。2005年、最初の個展である「翔子 書の世界」を銀座書廊で主催。_NEWLINE_2006年10月、建長寺に「慈悲」を奉納。_NEWLINE_2009年11月、建仁寺に「風神雷神」を奉納。この作品は同寺蔵の国宝「風神雷神図」の隣に展示され大きな反響を呼んだ。_NEWLINE_2012年1月、福島県いわき市に自身初の常設館である金澤翔子美術館を開設。館長となる。_NEWLINE_2012年のNHK大河ドラマである平清盛の題字を担当した。_NEWLINE_SEKAI NO OWARIのボーカリストFukase リーダーのNakajinは、小学校の時の同級生である。
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Q11647795
_START_ARTICLE_ 金糞岳 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ かつて滋賀県側の麓では「ノタ」または「ミタニ」と呼ばれていた。草野川東俣谷に古い鉱山跡があり、周辺には製鉄遺跡がある。鉱石を溶精する際に生じる金屎(かなくそ)が、山名の由来であるとする説がある。1824年(文政7年)の『古絵図』には「カナスソガ嶽」と記載されている。民話の『竹生島の話』で伊吹山に首を切られて、伊吹山より低い山になったと伝えられている。 _START_SECTION_ 環境 _START_PARAGRAPH_ 山頂周辺はブナやミズナラなどの落葉広葉樹が多く、南山腹に鳥越林道が開設されその周辺の地域ではスギなど針葉樹の植林地になっている。連状の頭の周辺はブナ林となっている。11月上旬頃にモミジなどの紅葉が見られる。 _START_SECTION_ 気象 _START_PARAGRAPH_ 金糞岳が属する伊吹山地は、冬には日本海側からの雪雲の流れ込みが多く、豪雪地帯である。山頂に「ノタの干雪」と呼ばれる残雪が遅くまで残る。金糞岳の南東に隣接する地域(滋賀県米原市甲津原奥伊吹)には奥伊吹スキー場がある。 _START_SECTION_ 登山 _START_PARAGRAPH_ 春先には登山道周辺では、イワカガミ、カタクリ、コブシ、ショウジョウバカマなどの花が咲く。低潅木に覆われた平らな山頂は、無雪期にはあまり展望が優れない。樹間からは、白山、伊吹山などの周辺の山や琵琶湖が望めることがある。登山口となる場所には、一般のキャンプ場である「高山キャンプ場」がある。登山道周辺には、山小屋やキャンプ指定地はなく、日帰りの登山が一般的である。6月中旬頃まで残雪があり、夏から秋にかけて登山者が訪れる。6月初旬に長浜観光協会が高山キャンプ場で「金糞岳夏山登山者安全祈願祭」を開催している。 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 山頂のすぐ北側に四等三角点(点名が川上、標高1277.23m)がある。 西隣には、二等三角点のある白倉岳(標高1,270.71 m)がある。
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Q11648051
_START_ARTICLE_ 釘調整 _START_SECTION_ 釘調整の目的 _START_PARAGRAPH_ パチンコ店は営業終了後から開店までの間に遊技客と店舗の利益の調和を目的にパチンコ台の遊技盤面に植設された障害釘の間隔を拡大又は縮小したりする調整を行う。障害釘は一般的に遊技釘又は単に釘と呼ばれる。 _START_SECTION_ 遊技球と障害釘と遊技盤 _START_PARAGRAPH_ パチンコは遊技客が発射ハンドルを操作して遊技球を盤面上にはじき出し、はじき出された玉は流下する途中で障害釘や風車その他の装飾類に衝突や接触を繰り返し、その衝突や接触の反動で始動口や賞球口に入賞することを可能としている。 _START_SECTION_ 遊技球 _START_PARAGRAPH_ 遊技球はパチンコ遊技に使われる玉、鉄製で直径が11mm、重さ5.4グラム以上5.7グラム以下に規定されており、規定に沿った玉が使われている。 _START_SECTION_ 障害釘 _START_PARAGRAPH_ 釘は真鍮製、全長は35mmで釘笠部1mm、釘尖端部3mm、本体胴部23mm、螺旋胴部8mmからなる(遊技機メーカーによって違いあり)。_NEWLINE_釘胴径1.7mmから2mm(遊技機メーカーで違い有り)。尖端部と本体胴部の間にねじり状態の螺旋部が有り、これによって遊技球が釘に激突しても衝撃で簡単に緩んだり抜けたりすることは無い。_NEWLINE_風車に使われている釘も真鍮製だが障害釘とは異なり全長33mmである。こちらには螺旋部が無く、尖端は通常の鉄釘と同じ形容をしている。 _START_SECTION_ 遊技盤 _START_PARAGRAPH_ 遊技盤は製造された時代やメーカーによって異なるものの、おおよそ縦横45cmから50cmの巾で厚さ20mmのベニア合板に障害釘を植設したもので、遊技盤面の中央には役物といわれ、ある種の条件を満たすことで作動する大入賞装置が備えられていたり、図柄表示装置が備えられていたりする。又中央役物、図柄表示装置の周辺には入賞口や、大入賞口、ひかりものや機種のキャラクターなどが配設されていて、遊技客の興趣を増大させる工夫がなされている。_NEWLINE_遊技盤面の呼びかたはメーカーによって様々だが、通称「セル」「ベニア」「板」などと呼ばれ、遊技盤などと正式名称を呼ぶことは少ない。_NEWLINE_釘はこの遊技盤面に遊技釘の尖端から17mm打込んであり、釘笠部1mmを加えて18mmが盤面上に突出している。_NEWLINE_障害釘は機種によって様々だが、おおよそ150本から350本が1枚の遊技盤に植設されている(一般的に無駄な釘は1本も無いと言われているが無駄な釘も存在している)。 _START_SECTION_ 配列釘の呼称 _START_PARAGRAPH_ 遊技板面に植設された障害釘はその目的によっていくつかのグループに分けられており、そのグループ名によって場所が特定される。 _START_SECTION_ 天釘(てんくぎ) _START_PARAGRAPH_ 遊技板面の最上段に植設された釘で3本から7本位まで横一列に並んでいる(2000年頃までは天4本と呼ばれ4本釘が常だった)。_NEWLINE_一般的に遊技板面にはじき出された遊技球が最初に激突する釘である。 _START_SECTION_ 連釘(れんくぎ) _START_PARAGRAPH_ 釘が連なって植設されている状態を指し、遊技球を目的の場所へ導くための誘導釘であったり、役物を遊技球の激突による破損から守るための壁釘であったり、次のような種類がある。_NEWLINE_ヨロイ釘、ハカマ釘、逆はかま釘、誘導釘、篭釘などあるが、地方や店舗によって呼びかたが異なることもある。 _START_SECTION_ バラ釘 _START_PARAGRAPH_ 1本1本の釘の間を遊技球が抜けていくだけの間隔がある独立した釘で、良く見ると横1列にきれいに並んでいたり正6角形に近い状態に配列されていたりする。 _START_SECTION_ 命釘(いのちくぎ) _START_PARAGRAPH_ 入賞口やワープ入り口、通過チャッカー近傍に植設された2本か3本の釘で、遊技球の通過を制限しなくてはならない場所に植設されている。 _START_SECTION_ 添え釘 _START_PARAGRAPH_ 命釘近傍に植設された1本の釘で、この釘の上げ下げ左右への振り調整で入賞が大きく左右される場合がある(ジャンプ釘と呼称されることもある) _START_SECTION_ 釘曲げ用具 _START_PARAGRAPH_ 釘調整には様々な用具や支援装置があり、先端を知る釘調整者の技術は0.01mm間隔の精確な調整能力がある。0.03mmから0.04mmの間隔調整が図柄表示装置の始動回数0.1回分に相当し、0.1回分の始動回数の違いが店舗と遊技客の利益の調和に大きく影響している。 _START_SECTION_ ハンマー _START_PARAGRAPH_ 釘間隔の拡大縮小に最も多用される用具のひとつ。鉄製、真鍮製、ステンレス製のハンマーがある。釘調整者でハンマーに拘る人は多く、理由は釘を叩いた時の音、釘を叩いた時に釘笠にできる傷、ハンマーの重さ、柄の持ち具合等様々である。鉄製ハンマーは音は良いが釘笠に傷を付けやすい。真鍮ハンマーは釘に優しいがハンマーに凹凸ができやすく手入れに時間がかかる。ステンレスハンマーは音で鉄製に負けるが凹凸は真鍮ほどできないので手入れも簡単。_NEWLINE_音で遊技釘が緩んでないか、確実に曲がったかなどの判断も行うため釘を叩く時の音は大切である。音で釘調整者の技量まで見抜いてしまうような不確実な習慣も存在する。 _START_SECTION_ 調整棒 _START_PARAGRAPH_ 一見ドライバー風に見えるためにドライバーと呼ぶ人もいるが、棒の先端が二股に割れており間に釘を挿入して釘を曲げるために用いる。 _START_SECTION_ 釘鋏(くぎばさみ) _START_PARAGRAPH_ 釘を挟んで曲げる用具で、まるでペリカンの口ばしの様に平たく長い。遊技盤に植設された釘を正面から挟んでも釘笠を傷める事が無いように、釘笠が当たる位置には溝が切ってある。 _START_SECTION_ 釘間計測用具 _START_PARAGRAPH_ 1980年(昭和55年)に三共のフィーバー機が登場してからも、1985年頃まではゲージ棒1本にハンマーか調整棒1本を持って釘調整がなされていた。しかしコンピュータの発展と共に遊技機から多様な情報が得られるようになり、伴って釘調整も多様化し、ゲージ棒1本で調整するなどということは無くなった。 _START_SECTION_ ゲージ棒 _START_PARAGRAPH_ 遊技機の登場と共に存在した釘間計測用具で、長さ12 - 13cm、太さ直径3mm程度(用具メーカーによって様々)の金属製棒の両端に釘間を計測する金属球を取付けた用具で、パチンコ球と同じ直径11mmを基準に0.01mm単位で大きさの違う金属球が付いている。遊技板面に接面させて簡便に使えるが、弱点は定点計測ができないことで、金属球の大きさに合わせて計測する釘の位置がずれてしまう。テレビのパチンコ・パチスロ番組等で釘の解説に使用されることも多いため、一般のパチンコファンにも比較的なじみのある道具である。 _START_SECTION_ 板ゲージ _START_PARAGRAPH_ フィーバー機の登場で、パチンコ遊技の殆どが大当りを求める確率のゲームに移行したため、1分間にあるいは千円の貸玉料金で何回図柄表示装置を始動させるか(いわゆるボーダーライン理論)など細かい配慮が必要になり、時として釘間を大きく開けることが要求されるようになった。ゲージ棒で対応した大きさが販売されないため、障害釘の釘笠の裏に接面させて使う板ゲージが出現した。_NEWLINE_板ゲージは11mmから17mm程度まで巾の違う板が数十枚あって、始動回数に合わせて板を選択して使うが、弱点は極めて大雑把な調整しかできないことである。_NEWLINE_使い方は釘笠の裏に板ゲージを差込み上下させて使用し、その時に発生する微妙な動作抵抗の変化を感じ取って調整するため、人によって動作抵抗変化の感じ取りかたが様々といった難しさが有る。 _START_SECTION_ デジタルゲージ _START_PARAGRAPH_ 1989年(平成元年)にデジタルゲージが考案されて、より精確な釘間測定が可能になった。数社から販売されたが、必要性を認識しない人が多く普及は進んでいない。デジタルゲージは釘の定点測定を可能としたため、0.03 - 0.04mmが始動回数0.1回の違いに相当することが明らかになった(機種によって違いがある)_NEWLINE_多様なデジタルゲージをそれぞれ使ってみると、個々に長所短所が見え隠れする。あるメーカーのデジタルゲージは正確だがあまりにも重すぎるのと高価過ぎる。あるものは手ごろの価格だが機種によっては装飾類が邪魔して使用不可又、あるものは持ち易いが柄の部分がパチンコ機の上皿に当たって気が付かないと不正確な数字を取得するなど様々である。 _START_SECTION_ 角度ゲージ _START_PARAGRAPH_ 2000年(平成12年)頃からにわかに植設された釘の角度が重要視されるようになり、様々な用具メーカーから角度測定用具が発売されるようになった。ステンレス製で厚さ1mm、巾15mm程の平板に0度から10度まで計測できるように加工を施してある。_NEWLINE_使い方は用具の先端を遊技盤面に接面させ、n角に加工された用具の一面を釘の本体に接面させて計測する。ステンレスの他にプラスチック製であったり、スライド式角度調整用具等もある。_NEWLINE_遊技盤面の釘配列及び装飾類の配設は、釘調整用具の使い易さまでは配慮していない盤面が多く、そのため角度ゲージが使えない箇所など多い。 _START_SECTION_ 風車ゲージ _START_PARAGRAPH_ 近年は遊技盤面に取付けられる数が減っているものの、遊技盤面に必ず取付けてある装飾類の1つに風車がある。_NEWLINE_風車は遊技球の流下速度に変化をもたらしたり、方向を変えるなど重要な役目を担っている。近年の遊技盤面は逆はかま釘下の風車から始動口までの距離が遠いため、勢いよく回る風車でないと遊技球が始動口に到達する前に死に球となる確率が高くなるなど、風車の回転状態が始動口入賞に影響を及ぼしている。_NEWLINE_当然風車の取付き角度は始動口側へn%の球を送り、アウト側へn%の球を送るなどを目論んで調整される。風車本体が測定の邪魔になって用具の開発が遅れていたが、風車釘の根元にゲージの一方を差込み一方が風車釘の頭にあって風車釘の頂点のズレから計測する方法のゲージが開発された。_NEWLINE_他方風車を軽く押さえて、物差し状の測定用具で風車の円板と遊技盤面との距離を測定して取付き状態を確認したり、ノギスのデプスバーを使って計測する用具が考案されている。 _START_SECTION_ 渡り釘ゲージ _START_PARAGRAPH_ 統一ゲージの遊技盤を作る段階で開発されたゲージで、大阪の釘調整者が使っていたのをヒントに考案された。_NEWLINE_使い方は数本から数十本の誘導釘の両端2本の釘を正確な角度に調整して、両端に挟まれた他の釘を調整した両端の釘より叩き上げてしまったところでゲージ板を両端の角度調整された釘に宛がい、両端に挟まれた調整していない釘をゲージ板まで叩き落として角度と列をそろえる方法。簡便で作業が早くなるが、強く叩きすぎると釘笠をゲージ板との衝突によって傷めてしまう危険があるのと、釘笠を調整の基準とするため釘本体の並びには少なからず凹凸が残る。_NEWLINE_釘本体の並びの凹凸を減らす方法も考案されている。 _START_SECTION_ 釘調整の基礎理論 _START_PARAGRAPH_ 釘調整は釘の並びや形など美しさも求められるが遊技客が楽しめる釘にすることが基本。そして店舗や遊技客の利益の調和をはかる。_NEWLINE_そのために大切なことが球の流下方向や量を変えること、つまり遊技盤の狙いの場所へn%の球を行かせて残りの(100-n)%をどこへ向かわせるか、言わば方向や量の比率を操作するのが釘調整である。確率の調整だから「絶対」は存在しない。また、釘調整は「逆も真」といえる。風車ゲージの項目で述べてあるように風車が勢いよく回ると球は始動口まで届くが回転の勢いを殺すことで始動回数を減らすこともできる。このように釘調整の全てに逆の作用があることを認識する柔軟な対応が求められる。 _START_SECTION_ 遊技台の傾斜 _START_PARAGRAPH_ 遊技台を店舗の島(台を1列に設置してある場所を島という)に設置する時「ネカセ」と言われる傾斜をつける事が0度から1度までの範囲で認められている。一般的に4分とか4分5厘の傾斜を付けると表現するが遊技台の下部を手前に12 - 13mm引っ張り出した状態で取付けるか、遊技台の上部を奥へ12 - 13mm入れた状態で取付けるかして傾斜が付けられている。_NEWLINE_「ネカセ」の傾斜をつける事により球はガラス面側では無く、遊技盤面側を通る確率が高く成るので遊技球がガラス面に当たる確率は減る。_NEWLINE_命釘は植設された根元が狭く釘笠側が広いのが一般的だが釘間巾の広いガラス面側を通る遊技球は盤面側を通る遊技球よりも賞球口や始動口へ入る確率が高くなる。_NEWLINE_逆に渡りなどでガラス面側を通る球は釘間から落ちて始動口に届く前に死に球となる確率が高くなる。 _START_SECTION_ 流下球の動き1 _START_PARAGRAPH_ 流下する球のスピードは千差万別だ、そのスピードによって球の飛ぶ方向が変化する。図、流下球の動き1の(A)と(B)では遊技盤面に直角に成るように釘が植設されているが垂直方向から球が流下して球の芯と釘本体の芯にぶつかったと仮定した時(A)で示す方向、真上に球が上がると思いがちだが釘がしなうため(B)で示すように少なからずガラス面方向へ飛ぶことになる。_NEWLINE_遊技台を垂直に立てて試し打ちなどをした時に球がガラス面に当たってバチバチと音を発するのはこのような理由が考えられるが、釘のしなりが戻ってくるところで次の遊技球が流下してくると(A)で示すように真上に飛んだり遊技盤面方向へ飛んだりするので垂直方向から流下して球と釘の芯どうしでぶつかっても決して一定の方向へ飛ぶわけでは無いことになる。_NEWLINE_(C)では釘を少し上向きに曲げてあるが狙いは遊技盤面側に多くの球を集めること。だが流下のスピードが早いと釘がしなうため真上に上がるとか盤面に当たってガラス方向へ飛ぶことになる。 _START_SECTION_ 流下球の動き2 _START_PARAGRAPH_ 図、流下球の動き2は遊技盤を垂直方向から見た様子で分かり易いように釘は左の方へ大きく曲げてある。このような釘へ遊技球が衝突したとき、球は曲げた方向の逆方向へ飛ぶ確率が増大する。目で見て分からない程度の角度調整でも垂直方向からの流下球は曲げた逆方向へ飛ぶ確率が高いと考えなくてはならない。 _START_SECTION_ 流下球の動き3風車 _START_PARAGRAPH_ どの遊技機メーカーでも一般的に風車の羽根は3枚で大きさもほぼ同じ。風車も垂直方向から流下する球は曲げた方向の逆方向へ飛んでいく確率が高いと考えて結構だが単なる1本の釘の曲がりと違って不確実な要素を多く含んでいる。風車には羽根をはじめ凹凸がたくさんある。この凹凸の当たる場所によっては球の飛ぶ方向が変化する又、遊技球が風車に激しく衝突して左右いずれかの方向へ勢いよく回転しているときに緩い球が流下してきた場合などは風車の回転方向へと導かれる。_NEWLINE_風車で遊技球の誘導方向の確率を高めたいときは風車の円板部を両手で持って力を加えて風車釘を曲げて調整する。 調整した後は必ず風車の回転状態を確認しなくてはならない。風車と遊技盤の接面部に摩擦が生じると前述の風車の項で説明したように球の勢いを殺してしまう結果を招いて曲げた効果を得られないことになる。_NEWLINE_ただし「逆も真」なので釘調整者の意図するところが始動口周辺に多くの球を寄せているように見せるための調整なら回転状態の悪い方が命釘は大きく開けられることになる。_NEWLINE_図、流下球の動き3では(a)で示すように風車の円板部を左に振ってある、このような場合には(b)で示すように右側へと流下する球が増える。逆に(c)のように円板部を右側に振ってあると(d)のように左側へと流下する球の確率が増える。 _START_SECTION_ 釘並びと角度の見方 _START_PARAGRAPH_ 遊技釘の曲がりなど植設状態を確認するときは角度ゲージを使っての確認が最も良い方法だが角度ゲージを使わなくとも確認する方法がある。_NEWLINE_特に連釘で始動口周辺に遊技球を誘導する釘は打込みの位置ずれがあるため角度ゲージで1本1本確認することがマイナスとなることもある。_NEWLINE_釘は上下の曲がり具合の確認、左右の曲がり具合の確認、連釘の並びの確認などによって見方が違う。_NEWLINE_先ず上下の上げ下げ角度の確認は慣れを要するが図、上下角度の見方(A)で示すように両目の眼で釘笠の頭頂部を捉え。釘笠に隠れて釘本体胴部の根元が見えない時には盤面に対して直角に植設されているかn度以内に収まっていると考えてよい。_NEWLINE_ところが(B)で示すように釘笠の下に植設された釘の根元から本体胴部まで見えるようになると7度から9度の範囲で時計の12時方向へ曲がっている。(C)は逆に7度から9度6時方向へ下がっていることに成る。_NEWLINE_釘笠にたいして釘の根元が見え隠れする境目がn度と覚えることによって釘を叩いた後から角度ゲージを宛がうことができるので作業効率が上がる。 _START_SECTION_ 左右振り釘の見方 _START_PARAGRAPH_ 釘の左右への曲がり具合の確認には遊技盤面セルを鏡面に見立てて確認する。一般的に命釘や渡り釘、添え釘や逆ハカマの出口釘を省いて左右への振りは付けられていないので盤面セルを鏡面に見立てて確認する方法が効果的。_NEWLINE_遊技盤面に対して左右直角に植設されているかどうかを確認する場合、植設されている釘の正面、上方から盤面セルを見て釘胴本体とセル鏡面が一直線に映る場合は直角に植設されていることが分かる。_NEWLINE_(B)(C)に見られるように「くの字」や「逆くの字」に見えるようでは左右に数度曲がっている。必要ならハンマーで釘の頭を叩いて角度の修正をおこなう。 _START_SECTION_ 誘導釘並びの見方 _START_PARAGRAPH_ 誘導釘を数多く叩いて正面から見ていると感覚に狂いが生じてくる。正面からはなかなか正確に見えない並びの乱れも誘導釘の斜め下から見上げたり、斜め上から見下ろすことにより並びの凹凸をはっきりと捉えることができるので修正も簡単におこなえる。 _START_SECTION_ 釘に球道ができる _START_PARAGRAPH_ 遊技客に人気の機種は撤去されることも無く数年間設置された状態になる。稼働が良いわけだから遊技球が繰返し通る釘は磨耗が進む。磨耗が進むと当然、釘が折れたりする。また、球は殆ど磨耗部分を通過することになる。_NEWLINE_釘痩せは一般的に釘に球道ができたとか釘がヤセたと表現するが釘痩せが進むと釘調整しても効果を得られにくくなる。図、釘の部位の釘痩せ部で示したように磨耗が進む。この症状は天釘や誘導釘のみならず大小の差こそあれ全ての釘に発生する。_NEWLINE_命釘の釘痩せに気づかないと閉めても閉めても効果が得られないので「ゴト」をやられているのではないかと善良な遊技客に対しても疑心の目で見ることになる。球ゲージも、板ゲージも釘痩せ部以外の箇所が計測部となることが多い。_NEWLINE_釘痩せによる影響を解消するには警察署へ変更承認書を提出して承認を得た後に痩せた釘を新品釘に交換することにより解消することができる。 _START_SECTION_ プラスゲージとマイナスゲージ _START_PARAGRAPH_ 遊技機メーカーの基本ゲージの作りかたでプラスゲージとマイナスゲージが存在する。プラスゲージは図、プラスゲージ・マイナスゲージ(A)で示すように球径である11mmより大きな間隔で釘が植設されている。プラスゲージを閉めた時にはいかにも閉めましたというような形になることもあるから閉めるには球の寄りを減らすなどの工夫が必要だ。_NEWLINE_マイナスゲージはプラスゲージとは逆に(B)で示すように球径11mmより狭い間隔で遊技釘が植設されている。この場合は釘間を開けないと球が通らない。見た目に釘笠が大きく開いているように見える。 _START_SECTION_ 遊技盤の問題点と統一ゲージ _START_PARAGRAPH_ 近年における遊技盤は、先に紹介したベニア合板のほかに厚さ10mmのポリカーボネートの透明な合成樹脂を使った遊技盤が使われるようになった。_NEWLINE_1996年に透明な板に釘を打ちつけてモニター画面上に装着する方法が考案され特許出願されたが、審査請求がなされなかったためみなし取り下げとなって、誰でも開発できるように成ったことから、遊技機メーカーによってポリカーボネートによる透明な板に釘を打ちつけた遊技盤が使われるようになった。透明盤の登場で全面液晶画面が可能となり遊技客の興趣を増大させることに成功している。 _START_SECTION_ ベニア合板製遊技盤 _START_PARAGRAPH_ ベニア合板に釘を打ちつけた場合、釘の尖端は板の柔らかい方向へと逃げて打ち込まれるため、同一機種でも2台と同じ台を製作することができない現状がある。厳密に見たとき全ての台の釘はばらばらの状態といえる。そこで人の手によって基本ゲージに近くなるように修正されたものが各店舗に納入されるが、店舗では更に独自の基準を設けて釘の角度、渡りの巾など盤面の全ての釘を触って統一した状態で店舗に設置して開店を迎える。_NEWLINE_こうした調整が統一ゲージと呼ばれる。これにより遊技客に同一の遊技機を提供することができるとの建前だが、遊技盤の製作段階で位置ずれした釘が打ち込まれているため『モアベター』な調整に止まっているといえる。 _START_SECTION_ ポリカーボネート製遊技盤 _START_PARAGRAPH_ ベニア合板に比較して基本ゲージにほぼ忠実に仕上がるため、人の手を殆ど加えることが無く統一ゲージの製品が製作される。今後は数年でベニア合板に変わるものとして注目されるが、難点は釘を叩いた時の音の悪さで曲がったのか曲がっていないのか計測ゲージを当てるまで分かりづらいところである。又、ベニヤに比べると硬く釘が折れた際などでも釘抜きに手間がかかることがある。
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Q11648147
_START_ARTICLE_ 釜谷真 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 関西の小規模大会を中心に実戦経験を多く積み、勝ったり負けたりを繰り返していたが、2010年7月24日に木下優人に勝利して以降、連勝街道を歩むようになり、一気に波に乗ったファイター。_NEWLINE_2012年2月18日のDEEPでは、戸井田カツヤを右ストレートでKOした。
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Q11648369
_START_ARTICLE_ 鈴原町 _START_SECTION_ 地理 _START_PARAGRAPH_ 北で行基町、北東の一点で西台、東で梅ノ木、南東で御願塚、南で南鈴原、南西で美鈴町、西で昆陽泉町、北西で昆陽東と接している。_NEWLINE_町内の全域が伊丹市立鈴原小学校(所在地は御願塚6丁目)の校区だが中学校は1〜8丁目が伊丹市立西中学校、9丁目が伊丹市立南中学校に分かれている。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 鈴原町1〜3丁目は旧川辺郡伊丹町大字伊丹の一部で、阪急電鉄が1935年(昭和10年)に売り出した新伊丹住宅地の一部に当たる。1955年(昭和30年)に大字伊丹および大字昆陽(旧稲野村)の一部を分離して住居表示を実施し、鈴原町1〜7丁目が成立した。伊丹市成立以前の旧自治体では1〜4丁目が旧伊丹町、5丁目以降が旧稲野村に当たる。_NEWLINE_その後、1967年(昭和42年)に昆陽および堀池・南野の一部住居表示未実施区域を編入して鈴原町8丁目とし、1995年(平成7年)には南野の一部を編入して鈴原町9丁目とする町域の拡大を実施した。また、9丁目の拡大と同時に鈴原町へ編入されなかった南野の一部を新たに南鈴原1〜4丁目としている。_NEWLINE_9丁目には長らくイタミ・ローズ・ガーデン(旧称「伊丹ばら園」)が所在していたが、2013年(平成25年)に大阪府豊能郡能勢町へ移転している。 _START_SECTION_ 町名の由来 _START_PARAGRAPH_ 旧大字伊丹の小字であった鈴松(すずまつ)より一字を取って命名された。鈴原町の成立後も長らく伊丹字鈴松は兵庫県道332号線の西側に残存していたが、2008年(平成20年)に梅ノ木7丁目となり消滅した。_NEWLINE_鈴原町に隣接する美鈴町は鈴原町の「鈴」に「美」を冠して命名された瑞祥地名である。 _START_SECTION_ 交通 _START_PARAGRAPH_ 町内に鉄道は通っておらず、阪急伊丹線伊丹駅や新伊丹駅が最寄駅となる。_NEWLINE_県道は町内の東側を332号線、西側を142号線が通っている。伊丹市バスでは鈴原町1丁目、鈴原町4丁目、鈴原町6丁目、堀池口(塚口方面)などのバス停を町内に設置している。
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Q30928267
_START_ARTICLE_ 鈴木克義 _START_PARAGRAPH_ 鈴木 克義(すずき かつよし、1957年 - )は、日本の言語教育学者、常葉大学准教授。英語および日本語の言語教育におけるディベートの活用や、メディア利用を専門としているほか、小学生や幼児への英語教育についても論考を発表している。 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 東京都生まれ。横浜市出身。_NEWLINE_1980年に横浜市立大学文理学部外国語課程英語英文科を卒業して、神奈川県の高等学校教員となり、神奈川県立野庭高等学校や神奈川県立港南台高等学校で英語科教諭を務めた。1988年に退職して渡米し、 ウェストチェスター大学で、日本語を教えながら大学院で英語教授法を学ぶプログラムに参加し、1990年に Ma-TESL(第二言語としての英語教授法修士)課程を修了して、香蘭女子短期大学国際教養科の教員となった。_NEWLINE_1998年に常葉大学短期大学部英語英文科助教授に転じ、以降、常葉学園富士短期大学、富士常葉大学、常葉大学短期大学部保育科と所属が移った。2005年、教授として常葉大学短期大学部英語英文科に復帰したが、2011年には、再び保育科に戻って主任を務めている。_NEWLINE_この間、1996年に福岡市男女共同参画懇話会委員を務めたほか、1999年から2004年まで静岡市男女共同参画課主催「しずおかディベート大会」の運営に関わり、2002年から2004年には富士市男女共同参画プラン推進会議副委員長を務めるなど、男女共同参画関係の活動にも取り組んでいる。
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Q315551
_START_ARTICLE_ 鈴木善幸 _START_SECTION_ 前半生 _START_PARAGRAPH_ 岩手県下閉伊郡山田町のアワビ、スルメ漁、水産加工業を営む網元の家に生まれた。また鈴木家は屋号「黒米屋」と呼ばれる米屋でもあった。父の善五郎は日露戦争に従軍した際の戦傷で漁に出られなくなったこともあり、男手の無かった妻・ヒサの実家の商売を切り盛りしていた。岩手県立水産学校を経て水産講習所(後の東京水産大学・現東京海洋大学)に入学。肋膜炎を患い1年休学し実家での療養中に昭和三陸地震津波に遭遇し、地元の被害の大きさを目の当たりにしたことが、後に政治家を志すきっかけとなる。学生時代の弁論大会で網元制度の前近代性に疑問を投げかける主張を行ったこともあり、就職時には思想傾向を理由に不採用になったこともある(共産主義思想と見なされた)。水産講習所卒業後、日本水産界の総帥と言われた大日本水産会会長の伊谷以知二郎の秘書となり、全国漁業組合連合会、岩手県漁業組合連合会に勤務したのち、中央水産業会企画部次長を務めた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には秋田県の歩兵連隊に赤紙召集され3ヶ月の訓練を受けるも、分隊長の「君は水産物の供出とか集荷とか、水産の大事な仕事をしていたようだから軍隊よりそちらで働く方がお国のためになる」という計らいにより、召集を解除され元のポストに復帰する。 _START_SECTION_ 議員としての活動 _START_PARAGRAPH_ 1947年(昭和22年)に日本社会党から第23回衆議院議員総選挙に出馬、初当選。水産常任委員会の委員として、水産庁の設置をはじめ漁業法や水産業協同組合法の成立等戦後の水産政策に大きな役割を果たす。後、社会革新党に移る。しかしカスリーン台風、アイオン台風襲来により地元が大きな被害を受けると復興のため奔走するも弱小政党だった社会革新党の議員ゆえに何も成果を残せない現実に幻滅、ついに次期総選挙への不出馬を明言するに至るも一方で支持者からは鈴木の与党移籍を求める声が高まり、同郷の先輩代議士小沢佐重喜の引き合いで吉田茂率いる民主自由党に移り、以後保守政治家となる。保守合同後は池田勇人の宏池会に所属。池田に側近として可愛がられたこともあり、その後はトントン拍子に保守政界での地位をのぼりつめる。1960年第1次池田内閣の郵政大臣として初入閣。第3次池田内閣改造内閣では内閣官房長官に就任するが、すぐに池田首相が病気で退任を受けた第1次佐藤内閣で前内閣のメンバーが留任させる居抜き内閣を取る中、官房長官人事のみ佐藤派の橋本登美三郎を就任させたため、退任となった。その後、改造内閣では官房長官退任となった代わりとして厚生大臣に就任した。その後、福田赳夫内閣で農林大臣などを歴任。党総務会長を10期務めるなど、裏方で力を発揮する調整型の政治家とみなされていた。『三木おろし』では大平派の参謀として、福田派の園田直、田中派の二階堂進らと共に挙党体制確立協議会(挙党協)を主導する。三木武夫の退陣後の『大福密約』でも大平派の大番頭としてこれを取りまとめ、大平正芳が総理総裁になった際には、自民党幹事長に起用されかけたが、田中角栄・二階堂進と関係が近すぎるとして福田派など反主流派が反発し取りやめになっている(斎藤邦吉が就任)。_NEWLINE_一方では、盟友の田中角栄と組み、後の三陸鉄道の前身となる国鉄宮古線・久慈線・盛線の開通を進め、また県内の選挙戦勝利の見返りとして国立岩手山青年の家の設置を佐藤栄作首相に働きかけたり、岩手と秋田を結ぶ仙岩トンネル(仙岩道路)の建設、国民休暇村の雫石町への誘致、地元選挙区の岩手県田老町(現・宮古市)にはグリーンピアを建設したり、実施第一次計画では仙台駅までの予定であった東北新幹線を、地元の盛岡駅まで延伸させるよう強い圧力をかけたとされるなど利益誘導による地元還元をする政治家としての側面も存在した。自民党総務会長、鉄建審会長として地元の鉄道網、漁港、港湾、道路、東北自動車道、三陸縦貫自動車道の整備に影響力を発揮した。ただ、早期のインフラ整備は「オリンピックに向けての公共事業が少なすぎる」と、1998年盛岡オリンピック構想を長野に持っていかれた一面を指摘する声もある。 _START_SECTION_ 大平内閣期 _START_PARAGRAPH_ 自民党総務会長として、日中国交正常化後3度訪中し当時の中国の最高指導者であった鄧小平とも会談しており、第1次大平内閣の1979年5月の会談では尖閣諸島の領有権問題の棚上げと、日中両国による海底資源の共同開発の提案があったという。改革開放論者であった鄧はさらに鈴木に、日本からの政府借款を受け入れたいという旨と、土地を提供するから共同で中国国内に兵器工場を作りましょうという話を持ち出してきた。鈴木は「これには正直言って驚いた。日本としては対米関係などを考えると大変なことで、出来るわけはない。私は、日本は日本国憲法の趣旨から言って諸外国とそういう面での共同の仕事は基本的に出来ないし、考えてない、と即座に断った」「この話は単なる外交上の駆け引きとして出してきたという印象ではなかった。真剣だった。今思うに当時、中国としても軍備の近代化を考えていたんだろう。(中略)日中共同の兵器工場建設の提案を断った代わりに、円借款の件は約束通り実行した。」と語っている。 _START_SECTION_ 大平首相の急死 _START_PARAGRAPH_ 1980年(昭和55年)5月、自民党が過半数を占める衆議院で、社会党提出の大平正芳内閣不信任案採決に、三木派、福田派などの反主流派自民党議員が多数欠席し、不信任案が可決された。大平首相はこれに対抗して衆議院を解散(ハプニング解散)することとし、参議院選挙の日程を繰り上げて、初の衆参同日選挙を行うことにした。だが、大平は選挙戦突入の初日に心臓発作で倒れ、選挙戦中盤に死亡する展開となった。選挙結果は、首相の憤死への同情から、衆参両院における自民の圧勝となる。この結果は予想されたものではなく、解散時における世論調査では、大平内閣の支持率21%に対して不支持率は41%だった。国民は自民の内紛に嫌気がさして、野党支持が自民党支持を上回っていた。このような状況での内閣不信任案可決と解散とに財界は困惑し、経団連の土光敏夫会長は、記者会見で「1番悪いケースになった。……不満を禁じえない。この際、自民党がもっと結束してことに当たってほしかった」と述べた。自民党は、この同日選挙に向かって、財界に50億円の政治資金拠出を要請、財界側は自民党の分裂回避を条件として応ずることとなった。これを契機に、反主流派の新党論も消滅し、同時に主流派の側も、不信任案審議時の欠席者の責任を不問にした。_NEWLINE_大平首相が死去したとき、伊東正義官房長官が内閣法の規定により首相臨時代理を、西村英一自民党副総裁が総裁臨時代行を務めたが、選挙は主流派を代表する形で、総務会長の鈴木善幸が財界との交渉も含め取り仕切った。鈴木は総理を目指すのではなく、大平を総理にすることに努力してきた人間であった(ただし鈴木は大平首相が緊急入院した際、選挙後の大平の自発的な退陣とその後の暫定政権論を記者団にもらしており、病床の大平を「浅薄な腹黒者。不謹慎極まりない」と激怒させている)。選挙が圧勝で終わったとき、不信任の可決から始まった騒動だけに、大平を追い込んだ形となった河本敏夫、福田赳夫ら反主流派が名乗りを上げるのは困難だった。田中派は依然として総裁を出しにくく、暫定案として考えられていた西村副総裁も落選していた。また中曽根康弘は不信任案に反対したものの、キングメーカーであった田中角栄の信頼をまだ勝ち取っていなかった。こうして、引き続き大平派から総裁を出すのが自然な流れとなったが、首相臨時代理であった官房長官の伊東は「親友が亡くなったばかりなのに、とても首相になる気はしないよ」と固辞。派の次世代リーダーである宮澤喜一は本命であったが田中から嫌われており、また大平との関係もやや疎遠だったことがマイナスに作用した。結果として大平・田中連携の要の位置にあった鈴木が大平政権を継承する形で総理・総裁の座に就任することになった。_NEWLINE_鈴木は、大平の初盆の日に自民党両院議員総会で総裁に選出されたとき、「もとより私は総裁としての力量に欠けることを十分自覚している。しかし、その選考の本旨に思いを致し、総裁の大役を引き受ける決意をした」と、異例の挨拶を行った。なお、後に鈴木は「カネを一銭も使わないで総裁になったのは、僕がはじめてじゃないか」と述べている。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある初めての自民党総裁である。_NEWLINE_首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。 _START_SECTION_ 鈴木政権 _START_PARAGRAPH_ (「鈴木善幸内閣」「鈴木善幸改造内閣」も参照)_NEWLINE_自民党ではハプニング解散まで引き起こした党内抗争を倦む空気が強かったこともあり、南部人らしく「和の政治」をスローガンに掲げた。財政収支が悪化していた国庫財政を立て直すため、財政改革では1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却を目標としながら増税論を抑えながら無駄な支出を削減するという方針を示し「増税なき財政再建」を掲げた。第二次臨時行政調査会(会長土光敏夫)を発足させ、伴食大臣にみなされがちな行政管理庁長官に「ポスト鈴木」に意欲を燃やしていた中曽根康弘を充てる、反主流派からも河本敏夫・中川一郎を中曽根と釣り合うポストで処遇、宏池会からも官房長官に政策通の宮澤喜一を起用し伊東正義・田中六助・斎藤邦吉など有力議員を入閣させる、など人事調整も巧みであった。様々な派閥及び族議員による支出要求に揉まれる中で鈴木は持ち前の絶妙なバランスを生かしながら主流派離脱を抑えながら少しずつ支出の削減を進め、最終的には全派閥を主流派入りさせた上で反執行派閥という存在を事実上無くし、自民党内で究極の「和の政治」を実現した。行政改革方針は後の中曽根行革への道筋を付けることになったが、「和の政治」からの昇華以上に、中曽根行革では新自由主義に邁進することになる。_NEWLINE_金権選挙の問題があった参議院の全国区選挙については拘束名簿式比例代表制に改めた。また現職の内閣総理大臣として初めて北方領土と、復帰後の沖縄を視察した。また財政難から月例給の4.58%給与引き上げの人事院勧告の実施を見送り、国家公務員の60歳定年制を導入した。 _START_SECTION_ 鈴木行革 _START_PARAGRAPH_ 鈴木内閣発足時、国債残高が82兆円まで達しており財政再建は目下の課題であった。1981年3月、土光敏夫を会長とする第二次臨時行政調査会が発足する。鈴木は「昭和57年度予算編成への具体的改革案を今夏までに求める」と臨調に要請し、また日本商工会議所の総会において行政改革に「政治生命をかける」と発言し並々ならぬ意欲を見せた。鈴木の意向を受けた大蔵省では前年度予算からの伸び率をゼロにする、ゼロシーリングが正式に決定された。7月には第二臨調が医療の適正化や行政の合理化を唱えた一次答申を示し、臨調の答申を最大限尊重し実施することが閣議決定された。鈴木はまとめられる省庁の歳出削減事項を一本化した法律にまとめて成立させる方向で、行革関連特例法として10月には衆議院で11月には参議院を通過して成立した。こうした中成立した昭和57年度予算は稀にみる抑制予算となった。_NEWLINE_翌昭和58年度予算は原則5%のマイナスシーリングの導入と、臨調の第三次答申の尊重と実施を図ることが閣議決定されたが、世界同時不況の渦中に日本経済が巻き込まれ5~6兆円の税収不足の恐れが出てきたため、1984年(昭和59年)までの赤字国債脱却が困難な状況に直面した。1982年9月16日には「財政非常事態宣言」と言われるテレビ演説を行い、更に徹底した歳出削減と赤字国債の増発で「未曽有の困難」を乗り切る必要があると訴えている。その翌月の10月には鈴木は退陣するものの、鈴木が敷いた行革への方針は続く中曽根康弘内閣へと引き継がれていく。 _START_SECTION_ 総合安全保障 _START_PARAGRAPH_ デタントの時代が終焉し米ソ冷戦が激しくなる中で鈴木は、「わが国は平和憲法のもと、非核三原則を国是とし、シビリアンコントロールのもとに専守防衛に徹した施策をとっており、近隣諸国に脅威を与えるような軍事大国になる考えは毛頭持っておりません」「わが国に対する核の脅威や攻撃に対しては、米国との安全保障体制に基づき、米国の核の抑止力に依存するとともに、これを抑止することが最も賢明な道と考えるものでございます。政府としては、このような考え方を変える考えは持っておりません。」と、米国の核の傘の下で専守防衛の原則を貫き、防衛計画の大綱に基づく着実な防衛力の整備を示した。鈴木はロナルド・レーガン大統領との会談で専守防衛の日本の防衛政策を「吼えるライオンより、賢いハリネズミでありたい」と表現している。また大平政権のブレーンであった高坂正堯らの唱えた『総合安全保障』の概念を導入し、軍事力のみに頼らない経済や外交を含めた総合的な安全保障体制を目指すとして、1980年12月、国防会議とは別の組織として内閣に総合安全保障関係閣僚会議を設置した。 _START_SECTION_ 日米『同盟関係』問題 _START_PARAGRAPH_ 元々社会党から政界入りしたこともあり外交面ではハト派スタンスが時折出る一方で、苦手だった安全保障外交について隙が出る発言を度々修正することがあった。1981年(昭和56年)5月7・8日のレーガン大統領との会談後の共同声明では、日本の公式文書では初めて『同盟関係』という文言が記されたことから、新たな軍事的密約を懸念したマスコミ側から記者会見の場で「今度は同盟関係ということが初めて謳われたが何か軍事的に変わったことがあるか」と、質問がなされた。鈴木は「自由と民主主義、自由市場の経済体制という価値観では日米は全く同じだ。これを守っていこうという立場を含めて同盟関係といっている。軍事的意味合いは持っていない。日本は、平和憲法のもとに、自衛のための防衛力しか持てない。専守防衛に徹する。軍事大国にはならないという点をはっきりさせているので、軍事同盟ということは全然、共同声明の中にも入っていない。」と発言。_NEWLINE_鈴木の帰国後、国会等で、『同盟』は軍事同盟を意味し個別自衛権から集団的自衛権への逸脱ではないかと問う声が共産党や社会党から起こり、5月11日の外務委員会において伊東正義外相は社会党の土井たか子の「日米軍事同盟、安保条約という意味を含んだ同盟ということを認識せざるを得ない」という質問に対し、_NEWLINE_「軍事的な何らかの関係のあるものを同盟というような言葉を使うのだということであれば、片務的とはいえ安保条約というのは軍事的に関係がありますから、同盟と使ってもいいと私は思うのでございまして」_NEWLINE__NEWLINE_「軍事というのを日本で考えますと憲法でも制約があるわけでございまして、日本は日本を守ることしかできないのだというのはもうはっきりしているわけでありますから、それ以上広げて軍事同盟なんということはできない、日本は軍事的には個別自衛権しかないのだということはもうはっきりしていることでございます。さっきから土井先生と私がやりとりしております片務的な安保条約、それが軍事的な同盟のようなものじゃないかと言われれば、安保条約を結んだときからこれはあるわけでありますから、それは何も否定しませんが、広い意味ではこれはそういうことも入った軍事関係だということを先ほどから申し上げているわけでございまして」_NEWLINE_等と発言。日米安全保障条約や同盟の解釈を巡り、軍事的意味はないとする鈴木の発言との相違が問題視された。また高島益郎外務事務次官も「軍事的な関係、安全保障を含まない同盟はナンセンス」と鈴木を批判。また鈴木も共同声明文が有馬龍夫ら外務省の事務側で一方的に作成され、自身の意向が全く反映されていないことに対し強い不満を示した。外務省内では米側の反応も受けて緊急の協議が行われ、13日、日本政府は統一見解を発表し、『同盟には軍事的側面はあるものの新たな軍事的意味を持つものではない』として鈴木の発言を事実上修正した。_NEWLINE_政府見解を受けた14日の外務委員会では伊東外相も、「日本とアメリカの間には日米安保条約がありますことは、これはもう厳然たる事実でございますので、そういうことを前提にしておりますことが中に入っているということは、これはもう間違いない、だれもが否定することではないわけでございます。そういう関係を同盟関係と、広い関係を同盟関係という言葉で表明したわけでございまして、そういう言葉を使ったから、何か日米関係の中に新しい枠組みをつくって、そしてそれが従来の枠組みを変えて、新しい枠組みをつくって新しい軍事的意味を持たせる、そういうような意味でこの言葉を使ったのではなく、安保条約の五条関係は憲法からしても個別自衛権であることは間違いないのであり、これを集団自衛権とかそういうものに直していこうとか、そういう意図は毛頭ない」と説明するも、翌15日の閣議では中川一郎・渡辺美智雄・鯨岡兵輔ら閣僚から外務省側の対応に批判の声が上がり、翌16日、責任を取る形で伊東外相・高島次官の両名とも辞表を提出し、事務次官は慰留を受けたものの外相は辞任する。この問題では、鈴木は同盟の解釈について「新たな軍事的意味を持つものではない」「米国の対ソ軍事戦略に巻き込まれるものではない」「わが国が集団的自衛権の行使を前提とするような軍事的な役割りを分担するといったようなことを意味するようなものでは全くない」「安保条約が日米双方による集団的自衛権の行使を前提とする条約に該当しないことは明らかであり、日米双方とも、安保条約の性格をいかなる意味でも変える考えのないことは一致しているところである」などと、軍事同盟を否定する考えを一貫して示した。 _START_SECTION_ ライシャワー発言への対応 _START_PARAGRAPH_ 1981年5月18日、毎日新聞朝刊に元駐日アメリカ合衆国大使エドウィン・O・ライシャワーが、古森義久(当時毎日新聞記者)に対して語った「非核三原則の規定する持ち込みとは陸揚げを指し、核兵器を搭載した艦船の寄港は含まない」「日米間の了解の下で、アメリカ海軍の艦船が核兵器を積んだまま日本の基地に寄港していた」「これについては日米安保条約の規定する"事前協議"の対象とならないことを日本側も了解していた」との発言が報道され、「非核三原則」違反を大使まで務めた外交官が認めたとして日本国内で騒動になった。「国防情報センター」のジーン・ロバート・ラロック所長(元海軍少将)による「核兵器搭載艦船は日本寄港の際にわざわざ兵器を降ろしたりしない」の「ラロック証言」と並び有名な「ライシャワー発言」であり、「日米核持ち込み問題」の一つである。20日、園田直外相はマイケル・マンスフィールド駐日大使と会談。ラロック証言を否定したロバート・スティーヴン・インガーソル国務長官代理による米政府見解を確認しライシャワー発言を否定したが、同20日、鈴木は日本記者クラブの昼食会で「日本政府は核の持ち込みについて一貫して航空機であろうと艦船であろうと事前協議の対象となる、という立場を堅持している」と言明したうえで、「事前協議は現実的に対処する。事前協議は予見できるものではなくイエスもノーもある」と協議次第では核持ち込みを許容するかの発言をし、問題となる。後、官邸で宮澤官房長官らと協議し自身の発言を否定する。日米同盟問題もあり国会では社会党から「鈴木・レーガン共同声明による日米同盟なるものが、実は、対ソ同時多発報復戦略に基づく核同盟にほかならない」などと、厳しく追及され対応に追われることとなった。 _START_SECTION_ シーレーン防衛 _START_PARAGRAPH_ 元海上幕僚長の中村悌次は日本の防衛すべき範囲として東京とグアムおよび大阪とバシー海峡をそれぞれ結ぶ2本のライン(中村ライン)を提示した。この概念を元にワシントンD.C.訪問中の鈴木は「シーレーン海上交通路につきましては約1000海里、1000マイル、こういうものを憲法の了承とも照らし合わせまして、我が国自衛の範囲内としてそれを守っていく、と」と発言。翌1982年(昭和57年)3月には来日したキャスパー・ワインバーガー国防長官の「日本の防衛力は憲法の範囲内ですら不十分だ。いろいろ難しいのは分かるが日本の空とシーレーンの防衛は実質的な改善を要求する。」と発言があり、ソ連の軍事力増強とアフガニスタン紛争への介入などで米ソ関係が緊張する中で日本の防衛力強化への圧力が高まり、P-3CやF-15Jの本格配備を想定した56中業が、1982年7月の国防会議で了承された。鈴木のシーレーン防衛の発言はアメリカの国防報告(1985年度版)において、『日本の領域の防衛、その空域と1000マイルまで外のそのシーレーンが日本の憲法のもとに合法的で、実際、その国家政策であると彼が1981年5月に述べたとき、鈴木首相は日本の役割と任務のためにゴールを明確に述べた。』と肯定的に記されることとなる。一方で米側から日本に対し武器技術の供与を求められた際は「武器が売れるといいなと思うような産業界の人をつくりたくない」という思いから、要請を拒否した。 _START_SECTION_ 園田外相による共同声明否定発言 _START_PARAGRAPH_ 1981年6月12日、ホノルルで日米安保事務レベル協議が開催され、米側から日本に対し、防衛計画の大綱の見直しと、1000海里シーレーンの防空・戦闘継続能力二ヶ月以上との要求がなされた。6月19日、マニラでのASEAN拡大外相会議でヘイグ米国務長官と会談した園田直外相は米側の過大な要求に対し、財政状況などから困難であるとの旨を伝えた。翌20日、ホテルの自室に集まった記者に日米間の相違について問われた園田は、先の鈴木・レーガン共同声明を「声明には鈴木総理の意思が反映されていない。声明は条約・協定・覚書とは異なる。外交上の拘束力はない。」などと発言し、新聞などで報じられ大きな問題となる。園田は緊急の記者会見を開き釈明したものの、アメリカからの対日信用を落とす形となった。日米同盟問題、非核三原則問題などと合わせ、鈴木・園田コンビが対米外交で失点を重ねたことは小室直樹など評論家から厳しく批判された。 _START_SECTION_ 第一次教科書問題 _START_PARAGRAPH_ 1982年6月に起きた第一次教科書問題に直面した際には、中国と韓国からの反発を受け、近隣諸国条項を定めた。 _START_SECTION_ 中曽根政権へ _START_PARAGRAPH_ 首相就任以来、一部マスコミからは角影内閣、暗愚の宰相と揶揄されていた。_NEWLINE_伊東の後任で外相に就いた園田直の日米同盟関係見直し姿勢もあって対米関係が著しく悪化したため、岸信介らの親米派により倒閣の動きが起こっていたが、党内事情では総理総裁の地位を脅かすまでには至らず、1982年(昭和57年)の総裁選で再選されれば長期政権も視野に入っていたが、1982年(昭和57年)10月に至って突然総裁選不出馬を表明。10月12日の退陣会見では「自分が総裁の座を競いながら党内融和を説いても、どうも説得力がないのではないか。この際、退陣を明らかにして人身を一新して、新総裁のもとに党風の刷新を図りたい。真の挙党体制を作りたい」と述べた。田中派の処遇を中心とする党内各派のバランスに苦慮していたことや米国政権に不信感を持たれ日米関係がこじれたことが背景にあるとされているが、不出馬の真相は明らかになっていない。一方で、外遊のたびに首相臨時代理に中曽根康弘を指名して後継候補であることを示し政争の芽を予め摘んでおくなど、引き際の調整力は巧みであった。首相在任記録は864日間で、首相在任中に大型国政選挙を経験していない首相としては日本国憲法下では最長記録である。退任後自由民主党最高顧問。 _START_SECTION_ 晩年 _START_PARAGRAPH_ 鈴木は内閣退陣後も当面宏池会の会長を務めたが、中曽根おろしを目論んだ二階堂擁立構想が頓挫し影響力が低下した。1986年(昭和61年)、会長職を宮澤喜一に禅譲する。1990年(平成2年)に政界を引退した。_NEWLINE_1992年(平成4年)2月、共和汚職事件に絡み国会の衆議院予算委員会に参考人招致された際に「カネは善意の保管者として預かった」などと発言し、物議をかもした。_NEWLINE_2002年(平成14年)9月30日、長男の衆議院議員・鈴木俊一が第1次小泉改造内閣で環境大臣として初入閣した。91歳の鈴木はテレビカメラの前で自宅の炬燵にあたり、寝ころんでテレビの報道を見ながら「大臣になってうれしいよ」と語った。_NEWLINE_2004年(平成16年)7月19日、肺炎のため93歳で死去した。 死後、正二位・大勲位菊花大綬章が贈られた。明治生まれの首相経験者としては最後の生存者だった。三女・千賀子は麻生太郎に嫁いだ。 _START_SECTION_ 評価 _START_PARAGRAPH_ 後継の中曽根内閣では、日米軍事同盟路線を強調し日米関係修復に努める一方で、鈴木の党内融和と行政改革推進の方針は継承され、鈴木の「和の政治」は、鈴木退陣後の自民党内抗争にも大きな影響を与えた。1970年代の角福戦争のような怨念も絡んだ抗争が繰り広げられることは無くなった。一方、石橋湛山以来の平凡な経歴を持つ首相となり、八幡和郎などのように「鈴木が首相になったことは誰でも首相になれるという前例になり政治を劣化させた」と評する向きもある。池上彰は「大平正芳氏が逝去して、首相のポストが転がり込んできた鈴木善幸氏が、自民党のなかで「誰でも首相になれる」という印象を最初につけた人だった気がします。鈴木さんは外交に疎く、日米同盟についての国会答弁でしどろもどろになってしまったのを覚えています。」と評している。
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_START_ARTICLE_ 鈴木将也 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 2011年に水戸ホーリーホックに加入。_NEWLINE_2012年、SC相模原に移籍。開幕からレギュラーとして活躍し、チームの関東1部優勝とJFL昇格に貢献。自身も関東1部のベストイレブンに輝いた。_NEWLINE_2015年、アスルクラロ沼津へ完全移籍。2017年シーズン終了後、契約満了により退団。_NEWLINE_2018年3月、東邦チタニウムサッカー部に完全移籍により加入すると発表された。
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_START_ARTICLE_ 鈴木梨央 _START_SECTION_ 経歴 _START_PARAGRAPH_ 2010年(平成22年)、5歳の時から芸能活動を開始。芸能活動を始めたきっかけは、テレビドラマ『Mother』を観て「芦田愛菜ちゃんみたいになりたい」と思い、芦田の所属するジョビィキッズプロダクションのオーディションを受けたことである。2012年(平成24年)、テレビドラマ『カエルの王女さま』で子役としてデビューする。_NEWLINE_2013年(平成25年)1月、NHK大河ドラマ『八重の桜』に出演し、綾瀬はるか演じる主人公・八重の幼少期を演じて注目を集める。同年4月、NHKの東日本大震災復興応援プロジェクト「NHK東日本大震災プロジェクト」のテーマ曲『親と子の「花は咲く」』でavex traxより歌手デビュー。同年7月には『Mother』と同スタッフ制作による水曜ドラマ『Woman』で満島ひかりの娘役を好演し、注目の子役として脚光を浴びる。翌2014年(平成26年)1月には芦田愛菜主演の『明日、ママがいない』に出演、人気子役同士のドラマ初共演が話題を呼ぶ。同年9月には、初めて自分の著書『鈴木梨央のおしゃれアレンジBOOK』を出版した。_NEWLINE_また、2014年(平成26年)よりKDDI「auスマートバリュー」のCMにおとくちゃん役で出演、翌2015年(平成27年)からは大塚製薬『ポカリスエット』のCMに子役として初めて起用され吉田羊と母娘役を演じ、話題を集めている。_NEWLINE_2015年(平成27年)1月には『お兄ちゃん、ガチャ』で連続ドラマ初主演。同年9月28日より放送のNHK連続テレビ小説『あさが来た』では波瑠演じるヒロイン・あさの幼少期を演じ、大河ドラマ(『八重の桜』)と朝ドラ(『あさが来た』)の両方で主人公の子供時代を演じる初の子役となる。作品の後半にはヒロインの長女・白岡千代役で再起用される。同年11月公開の劇場アニメ『リトルプリンス 星の王子さまと私』ではアニメ声優に初挑戦。同作が特別招待作品としてワールドプレミア上映された同年5月の第68回カンヌ国際映画祭では、世界各国の声優が一同に集結する中で日本語吹き替え版の声優として振袖姿でレッドカーペットを歩き、日本人最年少の主演女優としてカンヌデビューを果たしている。_NEWLINE_2016年(平成28年)11月、2枚目となるシングル『かあかあカラスの勘三郎/Danceしない?』を発売。単独名義として初のシングルとなる。_NEWLINE_2019年(平成31年)3月公開の映画『こどもしょくどう』で映画初主演を務めた。
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_START_ARTICLE_ 鉄道車両 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両(てつどうしゃりょう)は線路またはそれに準じる軌道の上を走行する車両である。 _START_SECTION_ 定義 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は、線路またはそれに準じる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両である。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。日本における例では、本線上を列車として走行することのないモーターカーや貨車移動機といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多い。日本の法規上は、線路閉鎖の手続きをしてからでなければ本線を走行できない保線車両は、鉄道車両と認められていない。_NEWLINE_本項目では、一般に公開されて旅客や貨物の輸送を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。 _START_SECTION_ 特徴 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、自動車など他の交通機関と異なっている点である。航空機や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている。_NEWLINE_さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの船や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している。 _START_SECTION_ 車種による分類 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される。まず大きく分けると旅客車、機関車、貨車の3つに分類することができる。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)。また、これ以外に事業用車を分類することもある。_NEWLINE_なお、車種以外に用途や設備により分類することができるが、これについてはそれぞれ旅客車・機関車・貨車・事業用車を参照。 _START_SECTION_ 旅客車 _START_PARAGRAPH_ 旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。_NEWLINE_郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。 _START_SECTION_ 電車 _START_PARAGRAPH_ 電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によってモーターを回して走行する車両である。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する付随車が存在する。搭載している電池の電力によって走行する方式も電車であるが、架線や第三軌条など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である。一方、搭載している熱機関によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されている。_NEWLINE_効率の良い発電所において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための変電所や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある。_NEWLINE_もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に路面電車や地下鉄で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている。また、モノレール、案内軌条式鉄道(新交通システム)、トロリーバス、索道(ロープウェイ)、鋼索鉄道(ケーブルカー)、磁気浮上式鉄道なども多くは電車の範疇に含まれる。_NEWLINE_日本語では、列車のことすべてを「電車」と呼ぶことがある。 _START_SECTION_ 気動車 _START_PARAGRAPH_ 気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である。外燃機関である蒸気機関を動力とする車両は蒸気動車と呼ばれ、それ以外の内燃機関で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する。内燃動車において用いられる機関としてはディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどがある。現代では一般的には、大出力を容易に得られ燃費のよいディーゼルエンジンが気動車の原動機として用いられている。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ。_NEWLINE_内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接車輪を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な変速機を使う場合を機械式、トルクコンバータを使う場合を液体式、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を電気式という。ただしガスタービン動車の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある。_NEWLINE_気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の分割・併合を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている。_NEWLINE_気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で経費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対して、燃料自体を搭載してその動力への変換を行うことから、重量が大きくなり重量あたりの性能で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している。 _START_SECTION_ 客車 _START_PARAGRAPH_ 客車という言葉は、広い意味では旅客車という意味を表すこともあるが、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両(機関車)に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する発電機を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている。_NEWLINE_客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に夜行列車などにおいて用いられる。 _START_SECTION_ 機関車 _START_PARAGRAPH_ 機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない。また動力装置以外に、客車に対する暖房用の蒸気発生装置を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする。_NEWLINE_機関車は、その動力方式でさらに蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別できる。それ以外にも1970年代にはアメリカと旧ソ連で、M-497のようなジェットエンジンによる推力を利用するジェットエンジン機関車も試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない。 _START_SECTION_ 蒸気機関車 _START_PARAGRAPH_ 蒸気機関車は、蒸気機関を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車はレシプロ式で、ピストンの往復運動をクランクで車輪の回転運動に変換して走行していた。このほかに蒸気タービン式や、発電してモーターで走行するものなどがあった。_NEWLINE_一般には燃料として石炭を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、コークス、木材、重油、泥炭などが用いられることもある。またサトウキビの生産が盛んな地方では、その絞りかすのバガスを燃料にしたり、変わったものとしてスイスにはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた。原子炉で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない。_NEWLINE_無火機関車は、鉱山や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置したボイラーからの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである。_NEWLINE_蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、熱効率が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、第二次世界大戦後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった。主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。 _START_SECTION_ 電気機関車 _START_PARAGRAPH_ 電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、蓄電池を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる。_NEWLINE_電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、ロシア、中華人民共和国では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、北アメリカやオーストラリアなどでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている。 _START_SECTION_ 内燃機関車 _START_PARAGRAPH_ 内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、ディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある。_NEWLINE_ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる。 _START_SECTION_ 貨車 _START_PARAGRAPH_ 貨車は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、JR貨物M250系電車のように動力分散方式の貨車も開発されてきている。_NEWLINE_搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、入換作業に手間が掛かるといった問題があった。_NEWLINE_これに対して、フォークリフトのような荷役機械が開発され、第二次世界大戦後から各国でコンテナ化の動きが始まった。このためにコンテナを搭載する貨車としてコンテナ車が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている。_NEWLINE_鉱山において鉱石を輸送する列車や、石油のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の石炭車・ホッパ車・タンク車などの貨車が開発されて使用されている。 _START_SECTION_ 事業用車 _START_PARAGRAPH_ 事業用車は、鉄道事業者が所有する車両のうち、直接営業目的に用いられない鉄道車両である。保線作業や工事に用いたり、事業者内部の業務に必要とされる物品を輸送したり、試験や試作の目的で造られたりといった車両がある。 _START_SECTION_ 寸法と重量 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両では、基本的な寸法と重量に規制が設けられている。 _START_SECTION_ 幅・高さ _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の幅と高さは、車両限界によって規定されている。車両限界は、車両の最大幅と最大高さを含めて、プラットホームとの関係などで複雑な形が定められている。これに対して、周辺の電柱や建物などの構造物を設置できる限界として、走行時の車両の動揺などを考慮した余裕を車両限界に加えた建築限界が定められている。国や鉄道会社により車両限界・建築限界は異なっている。車両が曲線を走行する際には、車体の中央部または端部(オーバーハング)が曲線の内側・外側にはみ出す(偏倚 へんい)ため、これを考慮して建築限界を広げるようになっている。 _START_SECTION_ 長さ _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の長さは、主に曲線を走行するときに、隣の車両や建築限界に抵触しないかという観点で決定される。車両を長くすればするほど曲線での偏倚が大きくなって、あらかじめ車両限界と建築限界の間に加えてある余裕を超えて障害物に抵触してしまうため、鉄道車両を長くするのには限度がある。車体幅を細くしたり裾を絞ったりすることで、通常よりさらに車両を長くすることができ、新幹線の先頭車両が中間車両より長いのはこのためである。車両の長さとしては車体そのものの長さである車体長と、隣の車両の連結器と接触する面の間の距離である連結面間距離がある。_NEWLINE_また、車両を支えている輪軸の間隔である軸距(ホイールベース)にも制約がある。隣接する輪軸の間があまりに狭いと走行安定性に問題があることから、軸距の下限が定められている。一方輪軸を備えて車体に対して回転する台車に関しても、その中心間の距離である台車中心間距離があまり長すぎると、曲線での車体の偏倚が大きくなるため問題がある。また信号回路の動作にも影響があるため、軸距または台車中心間距離の上限も定められている。 _START_SECTION_ 重量 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の重量は、その車両が走行する路線の設計荷重と関係する。鉄道車両の重量をその車軸の数で割った値を軸重と呼び、この値が走行することのできる路線を決定する。線路を設計する時点で、そこを通行する鉄道車両の軸重を活荷重という形で想定して建設される。線路には線路等級が定められており、重要な路線ほど重い車両を通行させることができるように建設されている。このため、通行することを想定している路線が許容する軸重に収まるように車両を設計する必要がある。_NEWLINE_機関車では、牽引性能を発揮するためにある程度の軸重を必要としている。幹線用に造られた軸重の大きな機関車を支線用に転用する際に、重量を負担する車軸を追加して軸重を下げる改造を行うことがある。また、国鉄DD51形ディーゼル機関車は動力のない中間台車に空気バネを装備しており、この圧力を変化させることで負担する重量を変え、動軸の軸重を上げたり下げたりすることができるようになっている。 _START_SECTION_ 構造 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の構造を上回り(車体)と下回り(走り装置)、動力機構に分けて説明する。 _START_SECTION_ 車体 _START_PARAGRAPH_ たいていの鉄道車両では、車体はほぼ箱状の構造をしている。なおそのうち構体は、台枠・骨組・外板などで構成され車体の強度を担う部分であり、座席などの室内設備、照明、制御機器などは含まない。床面は台枠、進行方向前後は妻構、左右は側構、上面は屋根構という。_NEWLINE_車体は古くはすべて木造であったが、腐蝕の問題などから順次鋼製部品への移行が進められた。この時代は、車体の荷重のすべてを台枠で負担するため、トラス棒を設けたり魚腹形の側梁を用いたりした頑丈な構造の台枠を採用していた。事故発生時の木造車体の粉砕が犠牲者を多くすることが問題とされ、やがて車体全体が鋼製のものへと発展していった。鋼製車体の中でも、半鋼製ともいうべき側構や妻構のみが鋼製で屋根は木造のものから、全鋼製のものへと移り変わっている。この際に車体の基本構造は変えなかったので、台枠は相変わらず非常に頑丈な構造で設計され、車体の他の部分が金属になったことに伴う重量増加は大きな問題となった。また、溶接技術が未発達な頃の鋼製車はリベット接合であった。やがて車体全体で強度を分担して受け持つモノコック構造(張殻構造)が用いられるようになり、車体は大幅に軽量化された。_NEWLINE_鋼製の車体は腐食の問題があり、錆が発生しないステンレス鋼を材料として使用することが検討された。まず、車体の骨組みは鋼製として外板をステンレスにしたセミステンレス車両が開発された。続いて車体すべてをステンレスで製造したオールステンレス車両が開発された。ステンレスの溶接には当初はスポット溶接、後にはレーザー溶接が用いられている。また腰板や幕板部の歪みを目立たなくするためにコルゲートのついた外板を使用するのが一般的であったが、技術の進歩によりビード加工で済ませるようになり、さらに新しいものは平滑な外板を使用するようになっている。ステンレスの外板を使用した車体は、錆を防ぐための塗装を省略することができるようになり、今日見られるような銀色の車両となった。ステンレス鋼は、鋼製車体に用いられる炭素鋼と比較して約1.5倍の引っ張り強さがあり、これに加えて鋼製車体のように腐食の進行を想定して「腐蝕しろ」(さびしろ)と呼ばれる余分の強度を持たせる必要がなくなったことから軽量化が図られた。さらに高張力ステンレス鋼の採用や構造解析による設計技術の進歩があって軽量化が進行している。_NEWLINE_錆が発生しない材料としてはアルミニウム合金もあり、アルミニウム合金製の鉄道車両も開発された。当初は骨組に外板を貼り付ける工法であったが、やがて大形押出成形材を利用したシングルスキン構造やダブルスキン構造が開発され、ミグ溶接、摩擦攪拌接合、レーザーミグハイブリッド溶接などにより接合されている。500系新幹線ではハニカム構造により軽量化が図られている。アルミニウム製の車両はステンレス車両と同様に塗装を省略できるほか、アルミニウム自体が軽量な素材であるため、必要な強度を保つために外板を厚くしたとしても車体の軽量化を実現できる。また、アルミニウム車体はリサイクルしやすく、車体を解体して出たアルミニウムを再び鉄道車両に使用する試みが行われている。_NEWLINE_車体の素材としては他に繊維強化プラスチック (FRP) を一部の複雑な形状の部分に用いている例がある。 _START_SECTION_ 台枠 _START_PARAGRAPH_ 台枠は、車体の一番基本となる構造である。車体全体の強度を受け持ち、台車や車軸に重量を伝える役割をしている。また連結運転の際には、隣の車両との間での力の伝達も行う。_NEWLINE_車両の前後の端に横方向に設けられている梁のことを端梁という。連結器はこの端梁に取り付けられるため、大きな荷重に耐える強度が必要とされる。車両の左右に車体全長に渡って設けられている梁は側梁と呼ばれる。両側の側梁の間に横方向に渡されている梁は横梁で、これがいくつも並んで台枠全体としては上から見るとはしご状の構造になっている。台車や車軸の真上に当たる部分には、枕梁が置かれている。また端梁中央から車体中央方向へ枕梁の位置まで中梁が延びている。この端梁から枕梁までの範囲を端台枠と呼び、この部分だけはステンレス車両であっても鋼製の連続溶接で組み立てるのが普通である。_NEWLINE_かつては台枠と側構でほとんどの強度を受け持ち、車体の他の部分はその部分で必要とされるだけの強度で作る方式であった。しかし軽量化のために、車体全体で必要とされる強度を分担して受け持つモノコック構造(応力外皮構造)が後に主流となった。_NEWLINE_蒸気機関車では、台枠は板台枠と棒台枠の2種類に大きく分けられ、これが車輪により支えられまたボイラーなどの上部構造を載せる仕組みとなっている。_NEWLINE_貨車でも有蓋車や無蓋車などたいていの車両では台枠があり、重量を受け持っている。コンテナ車の場合、コンテナの重量のほとんどは側梁にかかるため、側梁が強度を主に負担しており、このために魚腹形の側梁となっている。タンク車では台枠のないフレームレス構造のものがあり、この場合タンク体全体で強度を受け持っている。_NEWLINE_台枠の上面は床を構成し、座席やその他の車内設備を設置するとともに、旅客や貨物の荷重を負担する。床面は、単に鋼材に敷物を貼っただけの鋼板床のほか、優等車などでは遮音性に優れた、波形鋼板(キーストンプレート)の上にポリウレタンフォームやユニテックスを充填して敷物を貼りつけた構造などが使われる。また下面には、横梁に床下機器が吊り下げられる。軸受あるいは台車の心皿などの重量を支える構造は枕梁に力を伝達するようになっている。 _START_SECTION_ 側構 _START_PARAGRAPH_ 側構は、鉄道車両の左右部分である。近代的なモノコック構造の車両では、台枠と一体となって強度を負担している。窓より下の外板を腰板、窓より上の外板を幕板という。かつては側構の窓部分の開口による強度不足を補うために、ウィンドウ・シル/ヘッダーという帯状の補強構造物が窓の上と下に取り付けられていた。ビードやコルゲートといった表面加工が見られる車両もある。 _START_SECTION_ 妻構 _START_PARAGRAPH_ 妻構は、鉄道車両の前後部分である。車体の端を垂直に切り落としたような構造の場合を切妻といい、そのうち両側を削った構造の場合を折妻といい、それ以外の場合曲面妻という。構体両端部を閉じる構造を形成して強度上重要な部分を受け持っている。_NEWLINE_隣接車両と連結して旅客や乗務員の通り抜けが必要とされる場合には、中央部に貫通路が設けられる。また先頭車や機関車の場合は、窓を構成してフロントガラスをはめ込み運転台とする。貫通路と運転台を両立した貫通運転台構造もある。_NEWLINE_特急用の車両の場合などは、先頭部分の形状は特に外観を重要視して設計することがあり、複雑な形状となる。高い位置に運転台を設置する高運転台構造は、視認性をよくし、踏切事故などでの運転士への危険を防ぐなどの目的がある。高速車両などでは流線形が採用されることもある。_NEWLINE_運転台がある場合には、前灯、尾灯、ワイパーなどが設置される。貫通路がある場合は貫通幌などが設置される。また貫通路のある中間車の場合は貫通路の両側に妻窓が設けられることがある。 _START_SECTION_ 屋根構 _START_PARAGRAPH_ 屋根構は、車両の天井・屋根部分を構成している。前後方向に長桁が、左右方向には垂木が骨組みとして組み込まれている。冷房付きの車両では、室外機を屋根の上に搭載することが一般的で、これは重量が大きいため設置位置をあらかじめ検討してその重量に耐えるだけの強度構造とする。また、冷房は車内と車外を貫通して取り付けることが多いため、その場合は大きな開口部を設置することになり、この点でも強度上の配慮が必要となる。この他、車内側の天井や冷房風道、照明の灯具、車両補修の作業者が屋根の上を歩くときに使うランボード、雨水が垂れることを防ぐ雨どいなどが設置される。 _START_SECTION_ 運転台 _START_PARAGRAPH_ 機関車や電車・気動車の先頭車両などには、機関士・運転士が運転を行うための運転台(運転室)が設けられる。一般に妻面に設置されるが、機関車の中には機器の配置の都合でセンターキャブと呼ばれる車体中央付近に運転台を配置した構成も見られる。_NEWLINE_運転台は、車両の全幅に渡って設置される場合と、半分ほどの幅になっている場合がある。運転室は運転士が乗務するだけでなく、車掌やその他の客室乗務員などが乗務するスペースともなる。貫通式の運転台と呼ばれるものは、運転台の位置が列車の先頭や末端ではなく他の車両と連結されて中間になった時に、旅客や乗務員が車両間を移動できるように中央部に貫通路を設けることができる構成になっているものである。貫通路を設置できない運転台は非貫通運転台という。_NEWLINE_実際に運転士が座る席は、車体中央に設置される場合と、左右どちらかに偏って設置されている場合がある。自動車ではそれぞれの国の道路の進行方向に応じて、左側通行の国では右側に運転手席を配置するのが一般的であるが、鉄道の場合は進行区分との関係は必ずしもなく、左側通行が原則の日本では信号機が左側に立てられていることが多いことから、信号機を見やすい左側に席を配置することが多い。タブレット閉塞の区間ではタブレットの取り扱いに便利な側に設置したり、ワンマン運転を前提にプラットホームのある側に配置したりする例がある。_NEWLINE_自動車のアクセルに相当するのは主幹制御器(マスター・コントローラー、マスコン、路面電車など直接制御の車両の場合は直接制御器(ダイレクトコントローラー))である。自動車と違い手で操作する。縦方向の軸を中心に水平に回転させて操作するものと、横方向の軸を中心に垂直に回転させて操作するものがある。また、ブレーキハンドルと一体化したワンハンドルマスコンもある。ワンハンドルマスコンにおいては、押して走らせるものと引いて走らせるものとの両方がある。マスコンを左手で操作するか右手で操作するかは同じ鉄道事業者の中でも統一されておらず、車種によって様々である。_NEWLINE_ブレーキを操作するのはブレーキハンドルであり、これも手で操作する。機関車では、機関車のみに作用する単弁(単独ブレーキ弁)と列車全体に作用する自弁(自動ブレーキ弁)が別々に存在する。_NEWLINE_このほかに、警笛を鳴らすペダル、ATSに代表される自動列車保安装置の取り扱い装置、前灯やワイパーのスイッチ、速度計、圧力計、電圧計、各種の状態表示ランプ、列車無線の送受話器、時刻表差し、車内放送のマイク、車掌スイッチなどが設置されている。最近の車両では、モニタを運転台に設置して車両の状態を表示し、またタッチパネル式の入力装置により簡単な点検作業や車内の空調温度設定など様々な作業が運転台からできるようにされている。_NEWLINE_運転台は前面衝突の際に最初に巻き込まれる場所であるので、運転士の保護に配慮した設計がなされる。主に想定される衝突事故は踏切における障害物との衝突であり、前頭部はその衝突に耐えられるように強化されている。また運転士の座る位置を高くすることで、車体下部に障害物を巻き込んだ際の影響を抑えている。クラッシャブルゾーンを設けて衝撃を吸収する構造になっているものもある。_NEWLINE_運転台はすべての車両に設置されているわけではない。機関車のほとんどには両端に運転台が設置されているが、センターキャブの機関車では両側へ進行するときに兼用される運転台が中央に1つ設置されている。また、主に北アメリカではBユニット(あるいはブースター)と呼ばれる運転台を持たない機関車が用いられており、これは運転台を備えているAユニットと連結してそこから制御されることを前提にしている。_NEWLINE_電車は、その形式が長編成を組むことを前提にしている場合には、中間車として設計された車両には運転台が設けられない。これは気動車も同様であるが、長編成を組むような路線では電車が用いられることが多く、気動車が投入される路線では編成が短いこともあり、中間車として運転台を持たずに設計・製造される気動車の数は電車に比べて少ない。運転台を設けた車両を制御車、設けていない車両を中間車という。_NEWLINE_客車は動力がないため運転台も設置されないのが普通であるが、機関車を末端に連結して列車全体を後押しする形で運転する時に、先頭部の客車に設けた運転台から運転する形態があり、その場合には運転台が設置される。そうした客車を制御客車という。_NEWLINE_1両の車両の両端に運転台が設けられている場合を両運転台、片方にだけ設けられている場合を片運転台という。 _START_SECTION_ 扉 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の扉は、側構に設けられた外部に直接出る扉のほかに、車内を区切るために設けられた扉や、連結されている隣の車両に移るところに設けられた貫通扉などがある。_NEWLINE_引戸は扉が横にスライドして開閉する構造であり、広く用いられている。側構の内部に戸袋を設けて、そこに引き込む形で開閉される。2枚の扉が両側に開く両開き扉と、1枚の扉が片側にだけ開く片開き扉があり、通勤列車のように短時間に多人数の乗降を必要としている車両では両開きが広く用いられる。_NEWLINE_吊戸は側構の外部で扉を吊って、横にスライドして開閉する構造である。引戸と異なり、側構内部に戸袋を設ける必要がなく側構を薄くでき、強度上有利などの利点があるが、プラットホーム混雑時に乗客に危険があるとの懸念がある。日本では使用例が少ないが、それ以外ではかなり見られる方式である。_NEWLINE_開戸は蝶番によって壁に取り付けられ、蝶番を支点として回転することにより開く構造である。内側に開くものと外側に開くものがあるが、外側に開くものはホームにいる旅客に扉が衝突する危険があり、あまり用いられなくなった。初期の客車ではコンパートメント式で、車外側に開く開戸が一般的であった。内側に開くものは、乗務員用の扉に広く見られる。_NEWLINE_折戸は、2枚の扉が蝶番でつながっており、折り畳まれる形で開く扉である。2枚で構成される片開きのもののほか、これを2組設置して両側に開く4枚折戸もある。車体強度上不利な戸袋を設ける必要がなく、広い開口面積を確保できるため、一部の車両で用いられている。ただし開戸同様に扉の動作域があって乗客を巻き込む恐れがあるという問題のほか、気密性を確保しづらく寒冷地での使用が難しい。_NEWLINE_プラグドアは、扉がいったん外側または内側に動いた後、車体と平行にスライドして開く構造で、複雑な機構のため高価であるが、外板と扉部分が平坦になり見た目がよくなるとともに、高速鉄道では空気抵抗の削減を期待できる。ヨーロッパではLRTでも広く用いられている。外側スライド式では戸袋を必要としないという長所もある。ただしプラグドアは上述したように、動作機構が複雑であるため高価であるという問題がある。_NEWLINE_この他に、荷物車にシャッター式の上下に動かして開閉する扉が用いられた例がある。_NEWLINE_1両の車両の片側の側面にある扉の数は、0個から6個程度である。食堂車など、外部から直接乗車することを想定していない車両では扉を設置しないことがある。一方で通勤用の車両では迅速な乗降のために扉の数を増やす傾向にある。_NEWLINE_古い時代の鉄道車両では、そもそも扉がなくオープンデッキのスタイルのものがあった。そうしたものでも、高速化するにつれて柵を付けるようになり、やがて扉が付けられるようになった。この扉の開閉は古くは手動であったが、乗降時間の短縮や駅員・乗務員の労力軽減、安全性の向上といった目的で自動化が行われるようになった。車掌または運転士の取り扱う車掌スイッチにより一斉に開閉される。扉を開閉するのはドアエンジンにより、空気圧式のものと電気式のものがある。_NEWLINE_車内の温度維持等の目的で、すべての車両の扉を同時に開閉させるのではなく、旅客が乗降する時に必要とされる扉のみを旅客の意思で開けられるようになっているものがある。乗客が手で開けるが、機械で一斉に閉めることができる方式を半自動式という。また乗客が手作業で扉を開閉するのではなく、扉脇に設けられた押しボタンを操作することで開閉させられるものもある。扉の数が多い通勤車両などで長時間停車時の車内温度維持の目的で、大半の扉を閉めて一部のみ開けて残す機構を備えたものもある。_NEWLINE_自動ドアでも、事故等の非常時に旅客が避難脱出できるように手動で開けられるようにするドアコックが付いているものがある。 _START_SECTION_ 窓 _START_PARAGRAPH_ 窓は、鉄道車両では運転台の前面、客室の両側、妻面、扉など様々な場所に付けられている。固定された構造のものと、開閉可能なものがある。_NEWLINE_運転台の前面の窓にはフロントガラスがはめ込まれており、一般に固定された構造である。ただし側面の窓を開けられるようになっているものもある。また、乗務員用扉に取り付けられている窓は一般に開閉可能である。運転台と客室またはデッキを区切る壁にも窓が設置されていることがある。_NEWLINE_客室では側面に窓が設置されている。固定式のもの、一段上昇式のもの、一段下降式のもの、二段に分かれていてそれぞれが上昇、あるいは下降するもの、内側に傾いて開くもの、引き違いで横にスライドして開くものなどがある。戸袋にも固定式の窓が設置されていることがある。妻面にも窓を設置することがある。また、扉自体に設置されていることもある。_NEWLINE_窓ガラスとしては強化ガラスや合わせガラスが用いられる。2枚のガラスの間に空気層を設けた複層ガラスも用いられることがある。_NEWLINE_また、多くの客室の側面窓にはカーテンなどの遮光装置が設置されている。上部から引き降ろして所定の位置で止められる巻上カーテン式、一般家庭のカーテンのように横から引っ張って閉める横引カーテン式、2枚のガラスの間にブラインドが設置されているベネシャンブラインド式、金属または木製のよろい戸を使うよろい戸式などがある。巻上カーテン式の場合、カーテンレールにある窪みに金具を引っ掛けて止めるものと、任意の位置で止められるフリーストップ式のものがある。 _START_SECTION_ 座席 _START_PARAGRAPH_ 座席の配置形態としてはロングシート、クロスシート、セミクロスシートなどがある。その鉄道車両が投入を予定されている用途に応じて車内の座席の配置の仕方は異なっている。_NEWLINE_座席の表面には難燃性モケット、ビニールレザー、平織物、皮革などが用いられている。内部にはばねを入れて、その周りにポリウレタンフォームやビニールフォーム、フェルトなどを詰め物としている。 _START_SECTION_ 照明 _START_PARAGRAPH_ 車両の照明は、古くはオイルランプが用いられていたが、ピンチガスによる照明を経て白熱灯に変わり、現代では蛍光灯が主流となっている。また、読書灯などでLED照明が用いられることもある。一般に天井に照明器具が取り付けられ、そこに蛍光灯が取り付けられている。直接蛍光灯が露出しているタイプは通勤用車両など低コストな車両に多く、より高級な車両になると蛍光灯の周囲をカバーで覆っている。関西民鉄などでグレード感にこだわって、一般車両でもカバーを装着している例がある。一等車など特別な車両では間接照明も用いられる。_NEWLINE_客室の直接の照明のほかに、トイレの照明や行き先表示装置の照明などもある。 _START_SECTION_ 空調装置 _START_PARAGRAPH_ 客室内では多人数の旅客と乗務員が過ごすため、換気に配慮して設計が行われる。強制通風式と自然通風式がある。強制通風式では送風機を設置し、吸気と排気の両方を強制的に、あるいは吸気のみ、排気のみを強制的に行う。自然通風式ではベンチレーターを屋根の上などに設置して通風を行う。_NEWLINE_暖房はかなり古くから多くの旅客車に装備されている。石炭や薪を車内のダルマストーブなどで焚く暖房は古くから使われていた。コンパートメント車両では温水や酢酸ナトリウムを利用した湯たんぽによる足元暖房や、車内に設置された小型ボイラーによる温水循環暖房が用いられていた。蒸気暖房は、蒸気機関車または機関車や暖房車に搭載された蒸気発生装置からの蒸気を客室内の蒸気管に通して暖めるものであるが、蒸気機関車がなくなるにつれて次第になくなっていった。電気暖房は電気式のヒーターにより車内を暖める。気動車ではエンジンの排気熱で温める温水暖房もある。また冷房が搭載されている車両ではヒートポンプ式もある。_NEWLINE_冷房は、第二次世界大戦前から装備されている車両もあったが、普及するようになったのは第二次世界大戦後のことで、通勤車両などでは1970年代からである。電力消費が大きく、電源の確保に注意を払う必要がある。機関直結式冷房装置のようにエンジンから直接圧縮機を駆動して冷房を稼動させる形式もある。車内への冷気送り出しは天井部分に設置したダクトから行われるのが一般的である。室外機の配置の仕方により、集中式、集約分散式、分散式などがある。 _START_SECTION_ トイレ _START_PARAGRAPH_ 長距離列車に用いられる車両などには、トイレが設置される。扉を持った個室に便器と手洗いが設置されている。洗浄用の水はタンクに貯留されていて、必要に応じて車両基地などで補給されている。かつては便器から流された汚物は線路に垂れ流されており、これによる衛生上の問題があった。汚物を粉砕し消毒してから排出する粉砕式も試みられたが、異物を巻き込んで故障する問題が絶えず、しかも汚物を車外に排出するという方式には変わらなかったこともあり、抜本的な解決策とはならなかった。汚物をタンクに貯蔵する方式は、タンクがすぐに溢れてしまう問題があり、汚物に含まれる水分を濾過・処理して便器の水洗に再利用する仕組みが考案されてから広く普及するようになった。JRグループでは2002年3月に垂れ流し式の完全廃止を達成したが、世界的に見ればまだ垂れ流し式は多い。 _START_SECTION_ 連結器 _START_PARAGRAPH_ 連結器は隣の車両と連結して編成を構成する装置である。密着連結器、自動連結器、ねじ式連結器などの各種の連結器がある。その他に、ブレーキ用の空気圧を供給するブレーキ管や、電気配線などを連結するジャンパ連結器などが車両の間で繋がれる。 _START_SECTION_ 貫通路 _START_PARAGRAPH_ 貫通路は車両同士を連結して旅客や乗務員が行き来できるようにした通路である。踏み板と貫通幌、貫通扉などで構成されている。貫通幌は、蛇腹状の構造のものが一般的に使われているが、太い管状のゴムを組み合わせた例もある。貫通路に扉を設けるかは車両により、設けないことで見通しをよくし開放感を演出できるが、風が吹き抜けて冬に寒くなることや、騒音の問題、そして火災時の延焼防止などの観点から貫通扉を設置することがある。_NEWLINE_また、高速鉄道などで騒音と空気抵抗の低減を狙って連結部車体全周に幌を取り付けたものもある。 _START_SECTION_ 走り装置 _START_PARAGRAPH_ 走り装置あるいは走行装置は、鉄道車両がレール上を走行するために必要な車輪、車軸、軸受といった構造の総称である。車体と荷重を支え、レールに沿って車体を案内し、駆動装置や制動装置が発生させる駆動力・制動力を車輪と車体の間で伝達する役割を果たす。_NEWLINE_鉄道車両では、軸受が車体に固定されていてカーブに沿って向きを変えることができないものと、台車に軸受が取り付けられていて車体に対して台車が回転することでカーブに沿って向きを変えられるようになっているものがある。前者を、1両あたりの車軸が2軸の場合を二軸車、3軸の場合を三軸車といい、後者をボギー車という。ボギー車の台車にも、2軸台車、3軸台車などがある。_NEWLINE_ボギー車と二軸車の概念を図で示す。図の上がボギー車で、下が二軸車である。ボギー車では、台車に車軸が取り付けられているので、台車が車体に対して回転することでカーブで車輪がカーブの方向を向くことができる。一方、二軸車は車軸が車体に直接取り付けられているので回転することはない。_NEWLINE_ボギー車では、多少の軌道の不整があっても滑らかに走行することができるという長所がある。走行性能の差から、二軸車では最高速度が低く留められており、日本では75 km/hに制限されているが、ボギー車はこれよりずっと速く走ることができる。また脱線への安全性という面で見てもボギー車の方が有利である。一方、2軸ボギー台車2つを備えた4軸の車両と二軸車では、同じ軸重での搭載量はボギー車が二軸車の2倍にできるが、車体が長くなる分車体強度を向上する必要があること、台車そのものの構造が複雑で重量がかさむことなどから、総合的な積載効率には大きな差はない。かつては、商取引の単位が小さくボギー車では輸送力が過剰であることを理由に、日本やヨーロッパの貨車は二軸車が主流であったが、輸送単位の問題はコンテナの採用で解決し、走行性能を重視して貨車でもボギー車を採用するようになってきている。_NEWLINE_蒸気機関車では、シリンダーからコネクティングロッドで動輪を駆動する関係で、動軸は車体に固定されていて曲線に沿って回転させることができないものが普通である。曲線での走行性能を改善するために、若干の横方向の移動を許容したり、一部の車輪のフランジを削ったりしている。一方蒸気機関車でも先輪や従輪などの動力のない車輪については台車構造が標準である。_NEWLINE_二軸車では、車軸同士の間隔のことを固定軸距(ホイールベース)という。これに対してボギー車では、台車における車軸の間隔を固定軸距といい、台車同士の距離は台車中心間距離(ボギーセンター間距離)という。固定軸距が長くし台車の回転抵抗を大きくすると直線での直進性能がよくなるが、曲線での操向性能が悪化する。このため、両者の特性の調和を図る必要がある。_NEWLINE_二軸車のほかに三軸車というものも存在する。三軸車は曲線通過時の問題が大きく走行性能が悪いが、車両の費用や工数、消費する資材に比べて荷重を大きくできることから採用された例がある。その際には中央の軸に横動を許容するなどの対策が必要となる。またボギー車においても、ボギー台車に3つの車軸を備えた三軸台車というものが存在し、さらに四軸のものも見られる。逆に一軸台車というものもある。_NEWLINE_通常の構造では1つの車体の下にボギー台車を2つずつ備えているが、2つの車体を連結する部分の下に台車を取り付けて車体同士の連結構造と一体化した台車もあり、連接台車と呼ばれる。曲線通過が容易になり車体の重心を下げられる、台車から車体がオーバーハングした部分がなく乗り心地がよいなどの利点があるが、車端部の構造が複雑になり1台車で支持する荷重が増大する、車両を切り離すことが容易ではないなどの問題もある。また連接車は、台車中心間隔に制約が設けられている関係で、車体長が短いものが多い。_NEWLINE_路面電車などでは、その車体に全く車輪・車軸構造を持たずに、両側の車体によって支えられているだけの構造のものもある。これも連接車の一種とみなされる。低床式路面電車などでは、車体を下げつつ客室空間を確保する目的で、左右の車輪を車軸でつながずに独立した車輪としているものもある。_NEWLINE_日本独自の珍しい方式としては、車体の片方にはボギー台車を装備している一方で、もう片方は固定車軸を備えている車両があり、片ボギー車(半ボギー車)と呼ばれる。 _START_SECTION_ 輪軸 _START_PARAGRAPH_ 車輪と車軸を合わせて輪軸と称する。車輪と車軸は別に作られて、車軸にプレス機で400 - 500 kN程度の強い圧力を掛けて車軸より小さな取り付け穴の設けられた車輪に圧入することで車輪が車軸に固定される。車輪1枚で300 kg前後の重量があり、両側の車輪に車軸、歯車装置などを含めると1 tを超える。_NEWLINE_ほとんどの鉄道車両の車軸には、一番外側に軸受にはめ込む軸受座があり、その内側に車輪を取り付ける輪心座がある。ただし車輪より内側部分に軸受を設置する特殊な例もある。車輪より内側には、ディスクブレーキを使用する車両ではブレーキディスクや、動力車においては駆動装置用の歯車などが設置されている。ブレーキディスクについては、車輪より外側に設置したものもある。_NEWLINE_車輪は、一番外側のレールと接する面をリム部、車軸を差し込む部分をボス部、その間を結ぶ円盤状の部分をディスク部という。またディスク部とボス部をまとめて輪心、リム部をタイヤとも呼ぶ。輪心とタイヤを別に作り、タイヤを輪心に焼嵌めしたタイヤ付車輪と、タイヤと輪心を一体に作った一体圧延車輪がある。タイヤ付車輪は、タイヤが摩耗した時にタイヤだけ取り換えられるという利点があるが、タイヤが弛緩したり割損したりするという欠点があり、そうした心配がなく焼嵌めの熟練作業が不要で、軽量で車輪の寿命が長く、品質が安定するといった利点のある一体圧延車輪が現代の鉄道車両に広く用いられるようになっている。路面電車などでは輪心とタイヤの間にゴムなどを挟みこんで騒音低減効果を狙った弾性車輪も使用されているが、ドイツではこれを高速鉄道に使用してエシェデ事故を引き起こす大きな原因となった。車輪には一般に高炭素鋼が用いられる。_NEWLINE_車輪の輪心にはもともとスポーク状のものが多かったが、強度を向上したディスク構造のものが増えている。ディスク状のものはそれに働く応力を考慮して、リム部が外側に、ボス部が内側になるような湾曲した形状をしていることが一般的である。これに対して電動車などでは、電動機や歯車を装荷する場所を稼ぐために逆にボス部を外側にするように湾曲した形状をしていることがあり、この場合は必要な強度を出すためにディスク部が厚くなる。両面にブレーキディスクを取り付けられるようにほぼ直線的なディスク部形状になっていることもある。また軽量化のためにディスク部を波打たせた波打車輪もある。_NEWLINE_車輪がレールと接する面を踏面(とうめん)あるいはタイヤコンタという。踏面の形状は走行特性を決定する重要な要因である。外側に行くにつれて半径が小さくなる円錐状をしているが、実際の踏面形状はさらに複雑に定められている。車両が曲線に入ると、曲線外側の車輪はより車輪内側の半径の大きな部分がレールに接触するようになり、一方曲線内側の車輪はより車輪外側の半径の小さな部分がレールに接触するようになる。すると、曲線外側の車輪の方が曲線内側の車輪よりも1回転で進む距離が長くなり、自然に曲線内側へ曲がっていくような運動をすることになる。これにより車輪には、直線路ではレールの中央に沿って、また曲線では曲線に沿って走ろうとする力が働く。タイヤが摩耗してくると円滑な走行が阻害されるため、削正を行って正しい踏面形状に戻す保守作業が行われている。踏面形状は、脱線への耐性が高く、走行安定性に優れ、摩耗が少なく検査の手間がかからないことが求められるが、しばしば条件が相反する難しいものとなる。踏面の円錐形の傾きを踏面勾配と呼び、大きいほど曲線を通過しやすくなるが、直線において蛇行動が発生しやすくなるという問題がある。_NEWLINE_車輪の一番内側にはフランジが設けられており、脱線を防ぐ働きをする。国際鉄道連合 (UIC) が定める標準踏面形状では、フランジの高さは27 mm、角度は59度とされている。フランジ角度を大きくするほど脱線を防ぐ効果が大きいが、摩耗時の削正量が増大し、車輪の交換間隔が短くなって不経済であるという問題がある。新幹線では脱線防止を重視して角度を70度としている。 _START_SECTION_ 軸受 _START_PARAGRAPH_ 軸受は車軸を収めて車体の荷重を車軸に伝える装置である。一般に軸箱と呼ばれる箱に組み込まれている。かつては平軸受が多く使われていたが、軸受側にも回転するコロ状の装置を取り付けたコロ軸受が一般的となった。円錐コロ軸受では、車軸が軸受に対して軸方向に移動することが全くできないが、円筒コロ軸受ではわずかに軸方向の移動を許容している。軸方向の移動は末端のスラスト受によって受け止められる。 _START_SECTION_ 軸箱支持装置 _START_PARAGRAPH_ 軸箱の前後左右上下への多少の動きを許容するようにしながら、台車枠(二軸車の場合は車体)に対して支える構造のことを軸箱支持装置と呼ぶ。右図に示したのは、二軸車で多く使われている二段リンク式の懸架装置である。中央の青い箱状の構造が軸箱である。軸箱は前後左右に移動することができないように軸箱守(じくばこもり)で固定されており、図では軸箱の両側のグレーの構造が軸箱守である。これに対して上下方向へは、動揺を吸収して安定して走行し乗り心地を改善するために、ばねを設けて軸箱が動くことを許容する仕組みになっている。軸箱の上下方向の動きを許容し荷重を伝えるばねを軸ばねといい、図では黄色い板ばねになっている。_NEWLINE_例として示したのは軸箱守式の軸箱支持装置であるが、このほかに円筒案内式、軸梁式、板ばね式、リンクアーム式、ゴム式など各種の方式がある。 _START_SECTION_ 台車枠 _START_PARAGRAPH_ 台車枠は、台車全体の構造を形成している枠組みで、車体支持装置を通じて上部に車体を載せ、軸箱支持装置を通じて下部に軸受・輪軸を備えて、車体の重量を輪軸へ伝達する役割をしている。基礎ブレーキ装置を搭載してブレーキ機構を形成している。また動力台車の場合、動力に関する機構も台車枠に装荷される。 _START_SECTION_ 車体支持装置 _START_PARAGRAPH_ 車体支持装置は、台車の回転を許容しながら車体の荷重を支えるための機構である。ボルスタつき台車の場合は、揺れ枕の機構を用いて左右方向の動揺を吸収緩和しながら、枕バネの機構により上下動を吸収している。車体と台車の間の回転は、枕ばりと台車の間で行われる機構になっている。一方、揺れ枕の機構を廃して空気バネにより荷重を支えながらバネの変位により回転に対処するボルスタレス台車が増加しつつある。 _START_SECTION_ 駆動装置 _START_PARAGRAPH_ 動力機構で発生させた動力を車輪に伝達する機構は様々なものがある。_NEWLINE_電気車では電車でも電気機関車でも一般的にはモーターが台車に装荷されている。ただしTGVのように車体側に装荷されているものもある。吊り掛け駆動方式の場合は、台車枠と車軸の間にモーターが掛け渡されている構造になっており、一方カルダン駆動方式の場合はモーターは台車枠側に固定して装荷され、そこからカルダンジョイントを通じて車軸を駆動している。他にクイル式駆動方式、モーターの回転軸が直接車軸になっているダイレクトドライブ方式などの例もあり、また初期にはクランクを使って車輪を駆動する方式も見られた。_NEWLINE_内燃車では動車でも機関車でも、車体側にエンジンと変速機が搭載されており、そこからドライブシャフトで台車枠に装荷された減速機を駆動して、減速機が車軸を駆動している。ただし電気式の場合は発電してその電力で電気車と同様の機構を駆動する。_NEWLINE_蒸気機関車では、クランクで車輪を駆動する方式が大半である。しかしギアードロコのように歯車を介して車輪を駆動する方式もある。 _START_SECTION_ 制動装置 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両のブレーキは大別して車輪とレールの間の摩擦力(粘着力)で作用する粘着ブレーキと、それ以外の非粘着ブレーキがある。_NEWLINE_粘着ブレーキの中でも機械式のものは、人力あるいは機械力によるものがある。機械力は、蒸気ブレーキ、真空ブレーキ、空気ブレーキ、油圧ブレーキなどの各種がある。いずれもブレーキシリンダーを動力源として制輪子を動かして車輪の回転を止める仕組みになっている。制輪子を当てる先が車輪の踏面のものが踏面ブレーキ、ブレーキディスクのものがディスクブレーキである。ブレーキシリンダーから制輪子を動かすまでの機構は基礎ブレーキ装置と呼ばれ、台車(固定車軸の車両は車体)に装荷されている。制輪子としては昔から鋳鉄制輪子が用いられてきたが、近年ではレジンなど合成材料を用いることもある。_NEWLINE_これ以外の粘着ブレーキとしては、電気車では発電ブレーキや回生ブレーキなどのモーターを発電機として使用して制動力を得るものがあり、また内燃車ではエンジンブレーキのように原動機の回転力を利用したもの、変速機で発熱損失を利用して制動力を得るリターダなどがある。_NEWLINE_非粘着ブレーキには、電磁吸着ブレーキ、渦電流式レールブレーキなどの種類がある。 _START_SECTION_ 車体傾斜台車 _START_PARAGRAPH_ 車体傾斜台車は、曲線において車体を台車に対して傾ける機構を備えていて、遠心力による乗客の乗り心地への影響を低減することで、曲線の高速走行を可能にする台車である。日本の在来線ではコロ機構により車体を支えて、必要な時に回転させる振り子方式が主流で、カーブ走行時の遠心力で受動的に車体を傾ける自然振り子式と、油圧や空気圧などのアクチュエータなどを用いて強制的に車体を傾ける強制車体傾斜式がある。 _START_SECTION_ 自己操舵台車 _START_PARAGRAPH_ 自己操舵台車は、安定性を保ちながら曲線に沿って舵を取って曲がる台車で、複数の方式が研究されている。軸箱支持装置の工夫で、曲線に沿って車輪の向きを変えられるようにする技術があり、リンクで結合してステアリングを実現するシェッフェル台車や油圧により同様の動作を実現する機構などがある。 _START_SECTION_ 電気車 _START_PARAGRAPH_ 電気車では、集電装置から電力を取り入れて、制御器により所望の電圧・周波数などに変換して電動機を駆動している。_NEWLINE_集電装置は、現代では多くがパンタグラフであり、屋根の上に装備されている。避雷器と断路器を通って車内の回路に電流が流れる。第三軌条方式では集電靴から電力を取り込む。_NEWLINE_直流車の場合は、この電力を運転台からの指令に応じて抵抗制御、電機子チョッパ制御、界磁チョッパ制御、界磁添加励磁制御、VVVFインバータ制御などの各種の制御方式により必要とされる電圧・電流・周波数に変換する。交直車は直流区間では直流車と同じで、交流区間では主変圧器で電圧を落としてから整流器を通して直流に変換し、直流時と同じ回路につなぐ。交流車ではタップ切替制御やサイリスタ位相制御などにより電圧・電流・周波数の変換を行っている。_NEWLINE_制御器で変換された電力は電動機に供給され、電動機が車軸を駆動している。 _START_SECTION_ 内燃車 _START_PARAGRAPH_ 内燃車では、搭載された内燃機関により回転力を得る。電気式ではこの回転で発電機を駆動し、得た電力により電気車と同様の制御を行っている。機械式では歯車式の変速機により、液体式ではトルクコンバータにより変速して、推進軸により台車に装荷された減速機を駆動し、減速機が車軸を駆動している。 _START_SECTION_ 歴史 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は、鉱山の輸送などに用いるために考えられたトロッコが出発点となっている。その後、蒸気機関車が発明されるとともに近代的な輸送機関として発展するようになった。初期の客車は馬車の延長線であったが、やがて大型化と高速化のために台車を用いたボギー車が発達した。19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて、電気を動力とする鉄道車両と、内燃機関を動力とする鉄道車両が開発されて、次第に普及していった。第二次世界大戦後には各国で蒸気機関車は電気・ディーゼル動力へ置き換えられていった。また動力分散方式が広く普及するようになり、高速鉄道も開発されるに至った。 _START_SECTION_ 鉄道車両の形式・車両称号 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両には、その種類や使用目的を示すために形式が与えられる。一般的に形式は、アルファベット、カナ、数字などを組み合わせた文字列で構成されている。形式の与え方は鉄道事業者によって様々であり、統一されたものはない。さらに個別の車両には製造番号が与えられ、形式と製造番号を合わせて車両称号と呼ぶ。車両称号は、各車両に必ず表記されることになっている。_NEWLINE_車両に与えられる称号は記号や番号に限らず、固有の名前として与えられることがある。特に初期のイギリスの鉄道などでは固有の名前だけで車両が区別されていた頃があった。やがて車両の数が増えるにつれて番号による管理が一般的となっていったが、番号とは別に固有名詞を与える例も多かった。蒸気機関車で、形式全体を表す愛称と、個別の機関車の愛称が付けられていた例もあった。_NEWLINE_設計が多少変更されたが別形式にするほどではない場合には、番台分けが行われることがある。これは車両個別を区別するための番号について、途中を飛ばして100番からなどきりのよいところから次の番号を与えることで区別するものである。_NEWLINE_国鉄・JRについては国鉄の車両形式・JRの車両形式で形式の与え方が説明されている。日本の私鉄についてはそれぞれの会社記事の中で説明されている。_NEWLINE_また、編成単位に編成番号を表示している事業者もある。これは編成を構成している個別の車両の番号とは別個に、編成全体を識別するために与えられている番号である。ドイツのICEのように編成に固有名を与えている例もある。 _START_SECTION_ 編成 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は、列車として使用する際に単独ないしは2両以上組み合わせて使用される。その際の使用車両の組み合わせを編成という。1両のみで運行される場合、「1両編成」または「単行」、「単機」(機関車の場合、単行機関車の略)という。_NEWLINE_編成を構成する際には、必要な輸送力を想定して両数を決定し、動力車の配置や電源の容量などの技術的な必要性を考慮する。サービス面では、グリーン車のような優等車の必要性、食堂車やラウンジカーなどのサービス設備の配置、トイレの数などを考慮する。_NEWLINE_編成のうち、輸送力が最小時の必要両数で組成された部分を基本編成、輸送力増強のための増結編成を付属編成と言う。また、列車全体を単位として電源やサービス設備を設計する手法を固定編成と言う。固定編成の場合、走行に必要な機器を編成中の各車両に分散配置することが普通で、その場合単独で走行することができない車両が生じることになる。_NEWLINE_これらを運転中に編成落とし(列車の増結、解結)をしたり、分離運転(多層建て列車)したりする。 _START_SECTION_ 塗装 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の塗装は、基本的には車体の腐食防止を目的として実施される。このため本来は1色塗りで十分であり、古い時代の車両では汚れが目立たない塗装として黒や茶の1色塗りが広く用いられていた。ステンレス鋼やアルミニウム合金などの錆びることのない材料が車体に使用されるようになると、腐食防止を目的とした塗装の必要はなくなった。塗装にはそのための設備が必要とされ、年月とともに塗幕が劣化していき再塗装が必要となって経費がかかることや、塗料に有機溶剤が含まれていて作業者の健康管理上の問題があることなどから、無塗装化は鉄道会社の経営的には歓迎されるものである。_NEWLINE_一方で、複数の色で塗り分けたり、明るく鮮烈な色を用いた塗装を施したりするのは、外観のデザイン性を意識したものである。特に優等車両では、錆びることのない材料を車体に使用していても意匠上の理由で塗装を実施することがある。また路線や列車の識別を狙って、路線ごとに異なる色を採用する(ラインカラー)例もある。ステンレス車体の車両などでは、ラインカラーのような識別を目的とした塗装の代わりに帯状のステッカーやフィルムの貼付で代えることがある。これにより、それまでの塗装では困難であった多色の使用などが可能となった。またこうした技術を利用して車体全体に広告などを実施したラッピング車両が実現された。 _START_SECTION_ 企画 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の新規の製造のための企画は、新規の路線開業・列車の増発・電化や高速化などの輸送改善に伴う置き換え、老朽化した車両の置き換えなどの理由で行われる。鉄道車両は自動車に比べて耐用年数が長く30年から40年程度使用することも珍しくないため(帳簿上の耐用年数は電車が13年、気動車が11年であるが、製造から廃車までの間に大規模な更新工事を1 - 2回行うことで耐用年数を延長して使用することが通常である)、長期的な計画に基づいて新造計画が立てられる。_NEWLINE_必要となる車両数は、投入を予定している路線の列車ダイヤや既存の車両の廃車の進行予定を検討しながら決定される。鉄道車両メーカーの生産能力は限られているため一度に大量生産することはできず、複数年にわたって継続的に発注が行われることが一般的である。短期間に大量に生産すると製造単価を引き下げることができるが、その車両の更新時期が一度にやってくるという問題もある。_NEWLINE_どのような車両を製造するかは、その車両の用途、輸送改善の必要性、鉄道会社のイメージアップ、経営の合理化など様々な要素を考慮して決定される。特急列車用のような看板車両では性能とともにイメージアップの要素に注意が払われ、通勤列車用の車両ではコストダウンに重点が置かれる。特殊な設計の車両を少数導入することは新製・保守の費用の点から好ましくなく、同じ設計の車両をある程度まとまった数導入できるように考慮する必要がある。費用の削減をより推し進めるために、鉄道会社やメーカーを越えてできるだけ共通化した設計を導入する、標準化・規格化の動きもある。 _START_SECTION_ 設計 _START_PARAGRAPH_ どのような車両を新製するかの方針が決まると、具体的な設計が行われる。誰が設計を行うかは国や鉄道事業者に応じて、また時代によっても異なっている。_NEWLINE_鉄道の始まった初期には車両メーカーと鉄道事業者は未分化で、鉄道事業者自体が新製車両の設計を行い部内の工場で製作していた。とくにイギリスの鉄道は、部内の工場で設計から製造まで一貫して行うことが主流であった。鉄道事業者内部で設計・製造を担当する最高責任者は多くの事業者で技師長 (Chief Mechanical Engineer)、あるいは機関車(汽車)監察方(総監督) (Locomotive Superintendant) と呼ばれ、技師長が責任を負って機関車の設計・製造を監督していた。_NEWLINE_一方、鉄道会社とは独立した鉄道車両メーカーも存在する。この場合設計を行うのは鉄道車両メーカーである場合と、鉄道事業者である場合がある。日本やドイツなどでは、鉄道事業者が車両メーカーと共同で設計を行い発注することで、少数の形式を量産する形態を採用していた。アメリカでは、蒸気機関車の時代には鉄道会社が設計したものを車両メーカーに発注して製造させていたが、ディーゼル機関車の時代になるとメーカーが設計したラインナップから選択する形となった。イギリスやフランスなどではディーゼル機関車の時代になると、メーカーが設計したものを購入していたため、多くの形式が見られるようになった。_NEWLINE_既に製造されている車両のマイナーチェンジ程度であれば、比較的速く設計から製造に移ることができる。全くの新形式を1から設計する場合には1年半程度の設計・試作期間を費やし、その後1年程度試作車両の試運転で問題点の洗い出しをし、さらに1年程度費やして修正設計と量産化というスケジュールが一般的である。機関車の場合で、1形式につき2,000枚を超える図面が作られる。 _START_SECTION_ 製造 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両は複雑な構成をしているため、車両のすべてをメーカーで直接製造することはなく多くの部品を部品メーカーから購入して取り付ける。時には廃車・解体された車両から取り外された部品を転用することもあり、そうした車両から回収された部品のことを「廃車発生品」と呼ぶ。車両価格のおよそ半分が部品購入費である。_NEWLINE_鉄道車両の製作に要する時間は車種によって異なり、設計が完了した後、機関車で8か月程度、電車・気動車で6か月程度、客貨車で3か月程度とされている。鉄道車両の製造は自動車のように同じ車両を量産するわけではなく、様々に仕様の異なる車両を造り分ける多品種少量生産を特徴としている。またアメリカにおけるディーゼル機関車のような例を除けば、基本的に受注生産である。こうしたこともあり製造に関する作業の自動化は容易ではなく、組み立て工程の多くは現代においても労働集約的な作業となっている。_NEWLINE_多くの国で鉄道事業者と車両メーカー・部品メーカーは強い関係があり、技術開発や使用実績のフィードバックなどで協力関係にある。国内産業保護のために国外の車両メーカーに発注する際にも国内での最終組み立てを義務付けたり、部品の購入を義務付けたりする。 _START_SECTION_ 輸送 _START_PARAGRAPH_ 完成した鉄道車両は、メーカーの工場から実際に使用される場所(ベースとなる車両基地)まで車両輸送が行われる。車両には車輪が付いていることもあり、線路がつながっていれば機関車で牽引して輸送することがある。他に、線路を自力で走行していく事例もあれば、トレーラーや船などによる輸送も行われる。空輸された事例もある。 _START_SECTION_ 試運転と訓練 _START_PARAGRAPH_ 投入される路線に到着した新しい車両は、入念な検査と試運転が行われる。近年の車両ではインバータなどの機器から出る電磁波によって他の装置が誘導障害を起こすことがあるため、車載機器と線路側の機器の相互運用性が慎重に確認される。_NEWLINE_並行して、その路線を担当している運転士や車掌をはじめとする乗務員の新型車両に対する訓練も行われる。 _START_SECTION_ 運用 _START_PARAGRAPH_ 試運転や訓練が完了して使用可能になった鉄道車両は運用に投入されることで実際の営業運転での使用が開始される。_NEWLINE_鉄道運行計画では、車両運用という形で車両の使用計画が立てられている。「A駅からC駅まで運行した後折り返しB駅まで走る」というような計画が立てられており、そうした計画に対して実際のどの編成を充当するかが決められている。車両が1日に走行する距離は、電気機関車で約400 km、電車や気動車で約500 km、新幹線のような高速鉄道で約1,200 kmとされている。_NEWLINE_運用に就いている間、鉄道車両は定期的に検査を受けることになる。初期には劣化の進行を監視して、修理が必要になった時に取り換える方式であったが、結果的に故障してから取り換えることも多く、事後保守方式となっていた。そうした経験を積み重ねるにつれ、劣化を予測して定期的に検査を行う方式が採用されるようになり、予防保守方式となっていった。部品ごとに劣化の進行の程度と、故障した場合の重要性などを評価して検査周期を定めて実施している。保守費用は鉄道の経費に占める割合が高いために、部品の信頼性が向上するにつれて検査周期を長くする(検査回帰延伸)が実施され、経費削減に効果を上げている。_NEWLINE_ある車両が検査に入っている間、代わりに運用に就く車両として予備車が用意されている。検査の代走だけではなく事故・故障が起きて急遽修理に回された車両の代走や、臨時列車の運行にも使用される。 _START_SECTION_ 転属 _START_PARAGRAPH_ 大きな鉄道事業者で複数の路線・車両基地を保有している時には、路線・車両基地間で車両の転属が行われることがある。また事業者を越えて中古車両として譲渡されることもある。こうした場合には合わせて改造が行われることもある。 _START_SECTION_ 改造 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両が使用されている間に、様々な改造が行われることがある。腐蝕した部品の交換や内外装のリフォーム・装備する機器類の交換、中間車を先頭車に、あるいはその逆にする改造などがある。内装の更新については、アコモデーション(accommodation 接客設備という意味)改善、略してアコモ改善と呼ばれる。台車や台枠を流用して新たな車体を作り直すということもあり、車体更新と呼ばれる。なお、この際改造の元となる車両のことを「種車」(たねしゃ、たねぐるま)と呼ぶ。 _START_SECTION_ 廃車・解体 _START_PARAGRAPH_ 鉄道車両の耐用年数は車種によってまちまちであるが、事故や災害などで使用不能になるケースを除くと、おおむね在来線車両で20 - 30年程度、高速運転を行う新幹線車両は十数年程度である。_NEWLINE_鉄道車両としての登録から削除する(車籍を抜く)ことを廃車という。_NEWLINE_車両の耐用年数を決定する要素としては、物理的命数・経済的命数・陳腐的命数の3つがある。物理的命数は、車両を構成する重要部品が物理的に使用に耐えなくなる限界を指し、主に台枠や構体の耐用年数によって決定される。経済的命数は、老朽化に伴って故障が増え、修繕費が増加して新型車両に置き換えた方が安くなる年数を指す。陳腐的命数は、時代の変化やより新型の車両の投入などにより古い車両が時代遅れになることによる耐用年数を指す。近年では陳腐的命数による耐用年数の決定が主である。_NEWLINE_廃車になった車両は多くの場合解体処分される。解体処分には主要機器を取り外して構体を溶断・切断していく方法と、重機などにより叩き壊して解体する方法がある。1990年代以降では車体などの金属をリサイクルして新型車両に使う例もあり、また車両廃車後のリサイクル率を高められるように設計する車両もあるなど、解体後の活用法まで踏まえた指針も多くなっている。_NEWLINE_一部の価値が認められた車両は保存鉄道で動態保存が行われたり、公園や博物館・車両基地などで静態保存が行われることもある。 _START_SECTION_ 鉄道車両のデザインとデザイナー _START_PARAGRAPH_ (PDF) _NEWLINE_日本の鉄道車両はこれまで、榮久庵憲司、岡部憲明、奥山清行、川西康之、黒岩保美、島秀雄、妹島和世、星晃、水戸岡鋭治、山本寛斎、若林広幸といったデザイナーによりデザインされた車両も存在する。 _START_SECTION_ 鉄道工業 _START_PARAGRAPH_ 世界でもっとも鉄道車両生産額が大きい企業は、中国の中国中車である。21世紀初頭時点では、カナダのボンバルディア・トランスポーテーション、フランスのアルストム、ドイツのシーメンスが三大鉄道車両メーカーと称され、この3社で全体の約半分のシェアを持っていた。しかしその後の変動により、中国の中国北車と中国南車が1位と2位を占めるようになり、両社が合併して中国中車となった。一方でシーメンスは世界7位に転落した。_NEWLINE_2012年時点での鉄道車両新車生産額は、1位中国北車(中国)、2位中国南車(中国)、3位ボンバルディア・トランスポーテーション(カナダ・ドイツ)、4位アルストム(フランス)、5位ウラルワゴンマーシュ(ロシア)、6位シュタッドラー・レール(スイス)、7位シーメンス(ドイツ)の順であった。ボンバルディアはカナダの会社であるが、鉄道車両製造部門のボンバルディア・トランスポーテーションはドイツのベルリンに本社を置いており、ヨーロッパでの従業員や売り上げの比率が高く、実質的にヨーロッパの企業である。_NEWLINE_2000年から2004年時点での統計では、世界市場におけるシェアは首位のボンバルディアが21%、2位のアルストムが17%、3位のシーメンスが15%で、このほかにアメリカのGEトランスポーテーション・システムが7%、同じくアメリカのゼネラルモーターズ(鉄道車両製造部門は2005年にエレクトロ・モーティブ・ディーゼル (EMD) として独立)が4%、イタリアのアンサルドブレーダが4%などであった。ただしこの数値は鉄道車両以外の鉄道システム部門の数値を含んでいる。_NEWLINE_1999年から2000年に掛けての統計では、全世界での鉄道車両生産額は約25億ユーロであった。このうち、ヨーロッパが約60%、アジア太平洋が20%、北アメリカが18%、南アメリカが2%と、鉄道車両を購入している市場の面でもヨーロッパが過半を占めている。2001年時点で、全世界に電気機関車は約2万7000両、ディーゼル機関車は約8万6000両、旅客車は約18万両、貨車は約380万両存在している。_NEWLINE_合併や倒産で現存していないものを含む鉄道車両メーカーの一覧については、鉄道車両の製造メーカー一覧を参照。
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Q11649836
_START_ARTICLE_ 鉢伏山 (兵庫県神戸市) _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 標高は246m。隣接する鉄拐山(236m)とともに須磨浦公園内に位置し、山頂付近には須磨浦山上遊園がある。ハイキングコースが整備されているほかロープウェイとカーレーターで登ることもできる。周辺は治承・寿永の乱(源平合戦)の一ノ谷古戦場としても知られている。_NEWLINE_測量の基準となる四等三角点「鉢伏山」(北緯34度38分36秒東経135度5分40秒)は実際には鉢伏山頂より北、尾根道を少し歩いた先にある旗振山(252.6m)の山頂にある。旗振山は鉢伏山よりも標高が高いものの一般の地図には記載されることは少なく、鉢伏山の一部のような扱いになっていることが多い。鉢伏山と旗振山の間の谷から旗振山山頂に掛けては須磨区と垂水区の区境が走っており、かつてはここが摂津国と播磨国の国境であった。_NEWLINE_全長56kmに及ぶ六甲全山縦走路の最初の山である。 _START_SECTION_ 名前の由来 _START_PARAGRAPH_ 「鉢伏山」の名前は神功皇后が朝鮮遠征(三韓征伐)の帰路、この山の頂に兜の鉢を埋めたことに由来すると言われている。これと同様の名前に関する伝説は西宮市の甲山にも伝えられている。ただし、海側からのこんもりとした山容が鉢を伏せたように見えることから名付けられたとも考えることができる。_NEWLINE_また、北の「旗振山」は江戸時代から明治にかけて大坂堂島(堂島米会所)の米相場価格を山上で大きな旗を振ることによる信号で西へと伝えていた(旗振り通信)ためにそう呼ばれるようになった。 _START_SECTION_ 交通アクセス _START_PARAGRAPH_ 山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅下車。徒歩登山または須磨浦ロープウェイ。
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Q909712
_START_ARTICLE_ 銅タンパク質 _START_PARAGRAPH_ 銅タンパク質(どうタンパクしつ)とは補欠分子族として銅イオンを含むタンパク質のことである。生体中においてCu⁺、Cu²⁺、Cu³⁺の3つの状態をとることができるとされる銅イオンは、電子伝達機能、酸素運搬機能、酸化還元反応の触媒機能など、生命の維持にとって重要な機能を担うのに適しており、銅タンパク質はバクテリアからヒトまで、生物界に広く存在する。_NEWLINE_銅タンパク質に含まれる銅イオンは配位環境を反映した分光学的性質から下記のようにいくつかのタイプに分類される。_NEWLINE_また、ひとつのタンパク質分子中に複数の銅イオンを含むものはマルチ銅タンパク質と呼ばれる。 _START_SECTION_ CuA _START_PARAGRAPH_ CuA(カッパーエー)はタイプ3銅のように複核の銅中心である。タイプ1銅が2つ合わさったような構造をしており、両者の進化的な関連性が指摘されてきた。配位子はシステイン、メチオニン、主鎖カルボニルの酸素、そして2つの架橋システインである。各々の銅中心はゆがんだ四面体構造であり、銅間距離は2.6Å程度である。CuAはシトクロムcから電子を受け取る場であるとされている。CuAが含まれているタンパク質はこれまでに2種類しか知られていない。すなわち、シトクロムc酸化酵素と亜酸化窒素還元酵素である。 _START_SECTION_ CuB _START_PARAGRAPH_ CuB(カッパービー)はシトクロムc酸化酵素に含まれる。3つのヒスチジンが3角錐型で配位したタイプ2銅と似た構造をとっており、ヘムa₃からおよそ5Å離れた位置に存在する。 _START_SECTION_ CuZ _START_PARAGRAPH_ CuZ(カッパーゼット)は亜酸化窒素還元酵素にのみ見られる特殊な銅中心である。その構造は長らく議論の的であったが、X線結晶構造解析により、活性型の構造が明らかになった。活性型の構造では4つの銅と2つの硫黄がクラスターを作っているとされる。また、4つの銅には計7つのヒスチジンが配位している。このCuZで亜酸化窒素の窒素への還元反応が行われる。
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Q11650193
_START_ARTICLE_ 銅谷志朗 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 港区立白金小学校、港区立高松中学校、東京都立三田高等学校を経て明治大学政経学部経済学科を卒業後、1968年(昭和43年)4月、山陽放送にアナウンサーとして入社、ラジオDJ、テレビ広報番粗、ニュースなどを担当。_NEWLINE_1971年(昭和46年)4月、日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)に移籍。主にニュース、ドラマのナレーション、スポーツ実況(大相撲・プロレス・ボクシング・アーティスティックスイミング・重量挙げ・卓球・競馬・陸上競技フィールド競技など)を担当。1980年(昭和55年)のモスクワオリンピックの実況も担当した。相撲においては、1972年(昭和47年)九州場所3日目から約20年間キャスターを務めた『大相撲ダイジェスト』では独特の語り口と分かりやすい解説でお茶の間の人気者となり、また大相撲ファンにとってはお馴染みの顔になり、三賞選考委員も務めた。_NEWLINE_42歳の時に膵臓がんの手術を受け、胆嚢を全摘出し、十二指腸の一部と膵臓の頭の部分、胃の3分の2も切除。その後も蛋白質や脂肪は薬で消化する日々だったが、体調は徐々に回復する。_NEWLINE_1991年(平成3年)5月にアナウンス部副部長をもってテレビ朝日を退社、6月にはフリーアナウンサーとなり、テレビ東京の『激生!スポーツTODAY』などで相撲コメンテーターを務めた。フリーアナウンサーとしてはナレーション、司会、講演で活動。相撲ジャーナリストとしては力士からの信望も厚い。また報道番組・情報番組・ワイドショーのゲストコメンテーター、JR東日本ジパングクラブ『大相撲講座』講師も務めた。_NEWLINE_2018年(平成30年)10月29日13時5分、敗血症のため、東京都内の病院で死去。74歳没。葬儀は密葬で営まれた。
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Q847725
_START_ARTICLE_ 銭ゲバ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 極度の貧困から、殺人を繰り返しながら金銭と名誉を掴む1人の青年・蒲郡風太郎(がまごおり ふうたろう)の波瀾万丈ピカレスクロマン。『週刊少年サンデー』(小学館)に1970年(昭和45年)13号から1971年(昭和46年)6号まで連載された。単行本は2009年現在、幻冬舎から文庫版(上・下巻)が刊行されているのみで、他に電子書籍がある。アナザーストーリーに風太郎の実の娘・風子(ふうこ)を主人公とした「銭ゲバの娘プー子」という作品があるほか、風太郎が消費者金融の社長となっている「銭豚」がある。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ 蒲郡風太郎は幼少の頃から左目に醜い傷が有った。父親は最低のろくでなし、母親は気だては良いが病弱。それゆえ家庭は極貧で、ときには5円の金も無いほどであった。_NEWLINE_貧しいながらも懸命に生きてきた風太郎にとって、心の支えとなっていたのは、母親と風太郎に優しく接する近所の青年であった。しかし、治療費が払えない母は病死、自暴自棄になった風太郎は盗みに走り、それを咎めた青年を手にかけてしまう。_NEWLINE_それを機に、風太郎は生まれ故郷を飛び出し、成長して大企業の社長一家に取り入って、陰で金銭の為に殺人を繰り返すことになる。遂には、社長一家を死に追い込み、企業の乗っ取りに成功し、政界進出も果たす。しかし、栄耀栄華を極めた風太郎は、誰もが予想できない最期を遂げるのであった。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 脚本は原作の内容を概ね踏襲したものとなっているが、場面設定としては原作が発表された1970年代を再現するものではなく、リーマンショック後の派遣切りなどの社会的格差が社会問題となった2009年時の世相を色濃く反映させたものとなっている。_NEWLINE_登場人物は風太郎や健蔵などの一部のキャラを除き、ドラマオリジナルの人物が多い。また、主人公の風太郎の左目にある傷は、原作では先天的な障害でついたものに対し、本作では小学生の頃に父親から突き飛ばされ、引き出しの角に顔が当たって出来た設定である。_NEWLINE__NEWLINE_ただし最終回においては、風太郎は恵まれた環境に育ち、大学に入学し、青春を謳歌し、大企業に就職し、茜と出会って結ばれ、幸せな家庭を築くという、まったく予期しない展開となっている。これが妄想なのか、夢なのか、希望なのか説明はされずに物語は終了を迎える。_NEWLINE_キャッチコピーは「金のためなら、なんでもするズラ」。 _START_SECTION_ まもなく!銭ゲバ _START_PARAGRAPH_ かつての『NNNニューススポット』が放送されていた20:54 - 21:00枠には、日曜日の21時台に放送されている『行列のできる法律相談所』以外の21時台の番組の見どころなどを放映する枠になっている。_NEWLINE_『まもなく!銭ゲバ』をネットしている地域は、21:00ではなく20:54からのフライングスタート扱いになっている。
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Q11651066
_START_ARTICLE_ 鎌田敏夫 _START_SECTION_ 来歴・人物 _START_PARAGRAPH_ 徳島県立城東高等学校、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。_NEWLINE_大学卒業後、シナリオ作家協会の主催するシナリオ研究所(現在のシナリオ講座)で学び、井手俊郎に弟子入りする。1967年、『でっかい青春』で脚本家デビュー。以降、『飛び出せ!青春』『俺たちの旅』など、一連の“青春ドラマシリーズ”をメインライターとして支えた。_NEWLINE_千葉真一主演でテレビドラマ『十字路』(1978年)と映画『戦国自衛隊』(1979年)の脚本を担い、映画は配給収入13億円5千万円のヒットを記録した。1980年、角川映画のオリジナル脚本を自らノベライズした『ニッポン警視庁の恥といわれた二人組 刑事珍道中』で小説に進出。誰に遠慮することもない自作脚本ということで地の文のギャグをのびのびと展開し、映画がシリーズ化されなかったにもかかわらず続編も執筆した。以後、自作ノベライズを中心に小説もコンスタントに手がけている。_NEWLINE_1983年、『金曜日の妻たちへ』が大きな反響を呼ぶ。不倫ブームが巻き起こり、“金妻”は不倫の代名詞と言われた。_NEWLINE_1986年、『男女7人夏物語』を大ヒットさせる。翌1987年の続編『男女7人秋物語』は、36.8パーセントの最高視聴率を記録した。_NEWLINE_1994年、『29歳のクリスマス』により芸術選奨文部大臣賞、第13回向田邦子賞受賞。_NEWLINE_2003年、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』の脚本を手がけるが(大河ドラマの脚本を初めて手がける執筆者としては最年長)、視聴率は低迷し、評価は芳しいものではなかった。終了後に、黒澤明監督の映画『七人の侍』(1954年)に酷似している部分があるとして黒澤プロから著作権侵害などを理由に訴えられたが、2005年に東京地方裁判所は請求を棄却している。_NEWLINE_2016年4月20日付で、日本脚本家連盟理事長に就任。
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Q968843
_START_ARTICLE_ 長享 _START_PARAGRAPH_ 長享(ちょうきょう)は、日本の元号の一つ。文明の後、延徳の前。1487年から1489年までの期間を指す。この時代の天皇は後土御門天皇。室町幕府将軍は足利義尚。 _START_SECTION_ 出典 _START_PARAGRAPH_ 『文選』の「喜得全功、長享其福」、『春秋左氏伝』の「元体之長也、享嘉之会也、利義之和也、貞事之幹也」、『後漢書』の「長享福祚、垂之後嗣、此万全之策也」から。
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Q40030773
_START_ARTICLE_ 長島滉大 _START_SECTION_ 来歴 _START_PARAGRAPH_ 成立学園高校を経て、2016年よりFC今治へ加入した。_NEWLINE_2018年9月4日、プリメイラ・リーガ・ポルティモネンセSCに期限付き移籍することが発表された。同クラブのU23カテゴリーでプレーする。_NEWLINE_2019年1月、ポルティモネンセSCのトップチームに昇格。_NEWLINE_2019年6月にFC今治に復帰。
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Q1371155
_START_ARTICLE_ 長江哀歌 _START_SECTION_ 製作 _START_PARAGRAPH_ 撮影は奉節県で高精細度ビデオを用いて行われた。
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Q6538444
_START_ARTICLE_ 長谷川寛 _START_SECTION_ 生涯 _START_PARAGRAPH_ 1782年に江戸に生まれ、少年時代は麻布で鍛冶屋を営んでいた。関流(関孝和の流派)の数学者であった日下誠の弟子になり、数学を学んだ。_NEWLINE_貧しい生活を送っていたが、後に寛が受け持つ塾に数学道場と名付けた。数学道場は弟子の数も多く、当時では盛んであった。_NEWLINE_寛は当初、関流だったが晩年には関流ではなくなり、破門されたという伝説があるが、定かではない。_NEWLINE_寛は変形術と極形術(扱いづらい数や図形を扱いやすい形に置き換えて、問題を解きやすくするという術)の創始者とされ、1820年に『算法変形指南』を著した後に弟子の福田廷臣に編纂される。_NEWLINE_1836年頃には『算法極形指南』を著したが、『算法極形指南』もまた弟子の秋田義一に編纂されている。
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Q11654011
_START_ARTICLE_ 長谷川零余子 _START_PARAGRAPH_ 長谷川 零余子(はせがわ れいよし、1886年(明治19年)5月23日 - 1928年(昭和3年)7月27日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本の俳人。_NEWLINE_群馬県緑野郡鬼石町(現・藤岡市)出身。本名は長谷川諧三(旧姓富田)。_NEWLINE_東京大学薬学科専科を卒業。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の編集に従事。1916年、「枯野」を創刊。立体俳句を提唱する。幾何学的な俳風で、知識人層の支持を得た。1928年、山陰地方への旅行から帰った後に発熱し、7月27日に東京府東京市淀橋区柏木(現・東京都新宿区)の自宅において41歳で死去。_NEWLINE_妻は俳人の長谷川かな女。小説家の三田完は孫。
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Q11654242
_START_ARTICLE_ 長野盆地 _START_PARAGRAPH_ 長野盆地(ながのぼんち)は、長野県長野市を中心とした盆地。古くから善光寺平(ぜんこうじだいら)と呼ばれ、県歌「信濃の国」に歌われる「四つの平」の一つである。_NEWLINE_範囲は必ずしも明確ではないが、南から千曲市、長野市、須坂市、小布施町、高山村、飯綱町、中野市にかけて広がる千曲川の流域一帯のこととする解釈が一般的である。この地域の河川敷から扇状地にかけてはりんごや桃、河川敷の砂地地域はナガイモの産地としても知られる。南縁の千曲市の傾斜地(約25ha)は姨捨の棚田として有名。_NEWLINE_イネ(水稲)の田植え時期は、盆地周囲の山間地では 5月上旬頃で、盆地底部の遅いところでは 6月中旬から6月末に行われる。 _START_SECTION_ 地形 _START_PARAGRAPH_ 広義には飯山盆地を含めた北信地方(北安曇地域を含まない)の中央部の盆地全体を指すこともあるが、通常は「高井富士」とも呼ばれる高社山(中野市・木島平村)を境に以北を飯山盆地として分け、高社山以南を長野盆地とする。しかし、飯山盆地もその構造や成因は高社山以南の長野盆地と共通した性格を持つ。南部の千曲川上流側の境界は明確ではないが、千曲市屋代付近より上流の狭窄部以北を指すのが妥当と思われる。 _START_SECTION_ 地学的知見 _START_PARAGRAPH_ 長野盆地はフォッサマグナと呼ばれる地溝帯の一部を占める低地の一つで、新生代第四紀になって形作られたものである。盆地底は千曲川とこれに合流する各河川によってもたらされた新しい時代の堆積物によって埋積されている。盆地を南から北へ貫流する千曲川自体には扇状地の発達が見られないが、これに合流する犀川や裾花川、百々川(どどかわ)、松川、夜間瀬川(よませがわ)などの河川が扇状地を発達させている。千曲川はこれらの扇状地の末端を縫うように盆地底を流路を変えながら曲流し、新旧の流路に沿って自然堤防と後背湿地が分布する。_NEWLINE_盆地の東西は隣接する山地と非常に明瞭な境界をもって接するが、東側と西側とではその様相を大きく異にする。東側では、盆地底を海水面に見立てるとあたかもリアス式海岸の岬と入江のように尾根筋と谷が入り組み、入江に当たる谷の出口に前述のように各支川による扇状地が発達する。南東では坂城町から千曲市戸倉(旧戸倉町)にかけての狭隘部(地名:岩鼻、半過)を経て上流の上田盆地に続く。_NEWLINE_盆地の西側に広がる水内丘陵(犀川丘陵)は地すべりの活動的な山地であり、善光寺地震の際には各所で地すべりや崩壊を生じた。近年でも1985年に長野市上松の地附山で発生した地すべりが大きな被害を出しており、長野市篠ノ井岡田の茶臼山では明治以来継続して滑動が続いている。裾花凝灰岩は陸上での火砕流堆積物によって出来たことが確認されている。 _START_SECTION_ 盆地の形成 _START_PARAGRAPH_ 盆地西側の山地の隆起と千曲川と流入する小河川の双方による浸食と堆積により形成され、堆積物は非常に厚く1988年長野市権堂町で行われた温泉掘削に伴う地下の扇状地堆積物層の厚み調査では、765mまで掘削したが盆地底まで到達していない、これは他の地域とも比べ非常に深い。しかし、ここの地表からマグマに達するまでの地殻の厚さはわずか5kmと言う人がいる(世界で最も厚い所では約600km、平均で約60kmと言われる)。_NEWLINE_善光寺地震の周期はボーリング調査などにより1,000年に一度とされているので、盆地西側の地盤は、善光寺地震の際に2m程度隆起した。1年あたりの変動量は、2000mm÷1000年で2mmである。地下の遺構として約4,000年前の縄文土器が、長野市街地では6mの地下から、盆地南部の千曲市は4m地下から出土している。このことから長野盆地での年間埋め立て量は、4000mm÷4000年で、1mm/年間の速さで進行している事になる。_NEWLINE_この隆起と埋め立て量の差から、1mm/年間の速度で相対的に西山地区が隆起している、現在の長野盆地と西山地区との高低差は300m前後であるから、長野盆地の発生は300000mm÷1mm/年間、つまり、300000年(30万年)と言うことになる。山地側も隆起量と比例し風化などで削られるため、実際の開始時期はもっと早い時期であったと考えられる。 _START_SECTION_ 地下資源 _START_PARAGRAPH_ 犀川流域および小田切背斜の裾花凝灰岩層の一部からは、商業生産できる量ではないが、原油、天然ガス、亜炭が産出する。日本の近代的石油工業発祥の地で、かつて、1871年頃より太平洋戦争直後帝国石油などがガスの採掘を行っていた。この含油層は現在でも採掘されている新潟県、秋田県沖の日本海の油井ともつながっている。 _START_SECTION_ 断層帯 _START_PARAGRAPH_ 長野盆地付近から信濃川に沿って、新潟県に延びる活断層帯の信濃川断層帯(長野盆地西縁断層)がある。_NEWLINE_盆地の西側では戸狩から飯山(以上、飯山市)、豊野、吉田、城山(じょうやま)・善光寺、妻科(長野県庁付近)、安茂里、篠ノ井(以上、長野市)と続く直線的な急崖によって区切られる。この急崖は盆地西縁に連続する活断層の集合体であり、断層は北西側が隆起、南東側が沈降を続け千曲川が東側に追いやられている。長野市の中心市街地は裾花川と、市街地北側の大峰山西側から流れ出す湯福川、大峰山北東側から流れ出す浅川、の作る扇状地上に展開するが、この活断層群の存在によって段丘状の地形をなしている。1847年(弘化4年)に発生し善光寺平一帯に大きな被害をもたらした善光寺地震はこの長野盆地西縁断層(小松原断層)を震源として起きた地震であり、地震による断層の変位が篠ノ井から飯山までの50kmにわたって見られたと言われる。_NEWLINE_活断層の活動は東側で新しく、中野市西部で千曲川の右岸に高丘丘陵と長丘丘陵を形成して、千曲川の河谷と長野盆地とを分けている。すなわち、ここでは千曲川の流路がほぼ現在の位置に固定した後、活断層の動きの蓄積によって高丘・長丘の両丘陵が隆起した結果、千曲川が長野盆地を外れてわざわざ丘陵西側の峡谷を選んで流れているように見えるのである。高丘丘陵南側の延徳低地(中野市)は、活断層の沈降側に当たり、千曲川本流の狭窄部への入口となっている事と北東側を夜間瀬川扇状地に遮られるために排水が悪く、古来水害常襲地となっている。
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Q11399578
_START_ARTICLE_ 門島考平 _START_PARAGRAPH_ 門島 考平(かどしま こうへい、旧芸名:加藤陽平、1981年3月17日 - )は、日本の俳優。千葉県出身。主に、テレビ、舞台、映画など幅広く活躍している。
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Q894868
_START_ARTICLE_ 門島駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 島式ホーム1面2線を持ち、交換設備を有する地上駅。平岡方面に警報機付きの構内踏切がある。飯田駅管理の無人駅で駅舎はなく、ホームに待合所がある。
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Q11655177
_START_ARTICLE_ 開創 _START_PARAGRAPH_ 開創(かいそう)とは寺院を創設すること。 寺院開創の創立者を開基、寺院の宗派のうえでの開創僧侶のことを開山という。
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Q11655445
_START_ARTICLE_ 間瀬峠 _START_SECTION_ 名称に関する言い伝え _START_PARAGRAPH_ 双頭の大蛇が坂上田村麻呂に追われ、この峠に逃げ、そこから将軍をまんじりと見つめたことからまんじり峠と呼ばれ、後にそれが転じて間瀬峠となったという言い伝えがある。詳細は風洞の字名を参照。
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Q1204648
_START_ARTICLE_ 関川村 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 村の中心となる下関(しもせき)は旧米沢街道における要所として発展し、豪農・豪商の邸宅や庭園が残る宿場町のまち並みは2007年に「美しい日本の歴史的風土100選」に選定された。その周りにはえちごせきかわ温泉郷が並び、荒川沿いの渓谷は隣接する山形県小国町の赤芝峡とあわせて紅葉の名所となっている。
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Q11655766
_START_ARTICLE_ 関市立小金田中学校 _START_SECTION_ 文化系部活動 _START_PARAGRAPH_ ・美術部・合唱部
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Q11656068
_START_ARTICLE_ 関根梓 _START_SECTION_ 略歴 _START_PARAGRAPH_ 1996年6月14日16時4分生まれ。名前の由来は「(出身地である長野県を流れる)梓川のように清く美しく長くて広い心で育ちますように」とのこと。_NEWLINE_2004年、通っていたジャズダンススクールの先生が応募した、ハロプロ エッグ オーディション2004に合格し、ハロプロエッグ第1期生の一員となった。2007年5月、初めて行われたハロー!プロジェクト新人公演に出演。これが関根にとって初舞台となった。なお、マイクを持って歌うことはできなかった。その後、ステージの中央に立てていた時期もあったが、いつしかステージの端で踊る存在になっていた。_NEWLINE_2010年の夏に、所属事務所よりハロプロエッグの研修課程修了という通達があり、11月28日に横浜BLITZで行われた『2010 ハロー!プロジェクト新人公演11月 〜横浜JUMP!〜』がハロプロエッグとしての最後のステージとなった。その後、所属事務所より女性アイドルグループ『アップフロントガールズ(仮)』としての活動を打診され、関根はこれを即座に了承した。「ちゃんとした結果を残してから辞めたいとずっと思っていた」というのがその理由である。_NEWLINE_2011年2月22日、K-POPカバーダンスグループ『UFZS』が結成され、そのメンバーとなり、同年3月9日には、ハロプロエッグの研修課程を修了したことが正式に発表された。4月1日、アップフロントガールズ(仮)としてのブログ「アップフロントガールズ(仮)オフィシャルブログ」が開始された。後にグループ名は『アップアップガールズ(仮)』に改名された。_NEWLINE_2012年より、NHK Eテレ『テストの花道』にレギュラー出演している。_NEWLINE_2013年5月にニコニコ動画へアップロードされた「【踊ってみた】にんじゃりばんばん 関根梓」は、再生回数が10万回を超えた。同動画の撮影中に関根の後ろをはとバスの車両が通ったことが話題になり、また、同動画の影響でアップアップガールズ(仮)を初めて知った人がいるという。_NEWLINE_同年8月31日、横浜BLITZにて行われたアップアップガールズ(仮)のライブ、アップアップガールズ(仮)1stライブハウスツアー アプガ第二章(仮)開戦〜横浜リベンジ決戦〜で、「アッパーカット!」のパフォーマンス中に左足首をひねり、靭帯部分断裂と診断された。怪我をして以降「ペースが全く掴めな」いなど、悪いこともあったが、「普段は踊っているので見えなかった部分もすごく見え」るなど、良いこともあったという。同怪我は12月17日までに完治した。_NEWLINE_2015年3月、ぐんま観光特使で、関根と同じくアップアップガールズ(仮)のメンバーである新井愛瞳との「地元PR対決」に勝利し「しあわせ信州応援アイドル」に就任した。2016年1月には、小海線全線開通80周年を記念し「小海線沿線地域特別応援大使」に就任した。
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Q11656084
_START_ARTICLE_ 関根紀代子 _START_SECTION_ 棋歴 _START_PARAGRAPH_ 1968年、第1回女流アマ名人戦で優勝(当時は旧姓:吉田)。未だ女流棋士の制度が存在しなかった時期に蛸島彰子のライバル格として注目された。_NEWLINE_1974年に女流棋士の制度が定められ、初の女流棋戦として女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始された時に、女流二段で女流棋士となった。_NEWLINE_1989年に村山幸子が引退し、現役女流棋士最年長者となる。_NEWLINE_若い世代が台頭する中で2000年の第14回レディースオープントーナメントでは決勝進出、老いてもなお実力を見せつけた。還暦での番勝負進出は女流棋士では最年長である(棋士を含めると大山康晴の66歳)。_NEWLINE_2007年4月より、蛸島の後任として女流育成会の幹事に就任。_NEWLINE_2009年3月18日、第17期倉敷藤花戦1回戦で長沢千和子に勝利し、20年余りをかけて「女流四段昇段後150勝」の昇段規定を満たし、女流五段に昇段した。_NEWLINE_2009年3月31日、女流育成会廃止(研修会と合併)に伴い幹事を退任。_NEWLINE_2010年4月、女流棋士会の役員制度復活により、女流棋士会会長に就任。_NEWLINE_2011年4月1日、日本将棋連盟の正会員となる。女流棋士が正会員になった第一号の9人のうちの1名。日本将棋連盟が公益社団法人に移行し、その時点で在籍する女流棋士で女流棋士番号がふり直され、日本将棋連盟女流棋士番号1番となる。_NEWLINE_2011年8月31日、日本将棋連盟役員会に引退届を提出し、受理される。普及に多大なる功績があったのを認められ、9月8日付けで女流六段となる。関根の引退に伴い、女流棋士の現役最年長者は蛸島彰子となった。_NEWLINE_2013年4月、女流棋士会会長を退任し名誉会長となる。
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Q11656120
_START_ARTICLE_ 関流砲術 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 開祖は元上杉家家臣・関之信(関八左衛門)で、同家中の丸田盛次(丸田九左衛門)に師事して霞流砲術の奥義を極め、関流を称することを許される。南蛮流とも号す。寛永年間、上総国の久留里藩に仕えたが、久留里藩改易ののちは久留里藩主・土屋家と同族の土屋家が藩主である土浦藩に移り明治維新まで同藩に伝わった。二代軍兵衛家は代々土浦で同藩の鉄砲指南をし、内蔵助家は同藩江戸屋敷において藩内ばかりでなく他藩士にも指南した。入門は士分以上に限られ、門人は諸国の大名、藩士に広く及んだ。_NEWLINE_この流の銃は独自の仕様により、近江の国友丹波ならびにこの技術を受け継いだ鉄砲鍛冶に特注した、独特の形状をした秀作である。肉薄の銃身に猿渡りと呼ばれる長い用心金に特徴がある。士分以上の持筒(もちづつ=自費装備の銃)や大筒等の、口径が大きいものを撃つのを得意とする流儀である。_NEWLINE_現在、茨城県土浦市で活動中。現宗家(内蔵助家当主)を中心に11月または3月に土浦市で公開演武が行われ、2月頃行われる日本武道館主催の「古武道演武大会」で披露されることも多い(2005年11月・2006年2月演武・2006年11月5日、土浦にて演武)。また、会員の多くは日本前装銃射撃連盟に所属しており、(社)日本ライフル射撃協会主催の火縄銃競技である、全日本前装銃射撃選手権大会メダリストやマズルローダー(前装銃)国際大会(世界選手権・環太平洋選手権)のメダリストも居る。
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Q11656384
_START_ARTICLE_ 関西芸術座 _START_PARAGRAPH_ 関西芸術座(かんさいげいじゅつざ)は、大阪市西区阿波座に本拠地を持つ劇団。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 創立は1957年5月。五月座、制作座、民衆劇場の合同による。第1回上演作は劇作家マックス・フリッシュ脚本の「そら、又歌っている」であった。関西の代表的な新劇劇団で、1950年代から60年代にかけては、東京の新劇団関西公演に匹敵する観客動員数を示した。関西俳優協議会会員。関西芸能マネージャー協議会会員。大阪新劇団協議会会員。_NEWLINE_2012年4月、大阪市西成区岸里東から西区立売堀3-8-4に移転した。
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Q11656974
_START_ARTICLE_ 阪神高速8号京都線 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 京都市初の都市高速道路であり、全線開通した2011年3月時点では京都市唯一であった。_NEWLINE_地域高規格道路の計画路線「京都高速道路」に指定されている。開通によって国道1号が南北に走る京阪国道の南区・伏見区周辺での渋滞解消・低減が確認されている。 _START_SECTION_ 独立した料金設定 _START_PARAGRAPH_ この路線は阪神地区の他の路線とは直接接続しておらず、料金設定(料金圏)においても独立した区間となっていた。なお、それぞれの阪神高速道路を利用して両地区を往来する場合は他の有料道路(第二京阪道路・近畿自動車道および京滋バイパス・名神高速道路、それぞれ別料金)または一般国道などを経由することとなっていた。_NEWLINE_地域高規格道路候補路線京阪連絡道路として久世橋線から阪神地区まで延伸する構想があった。 _START_SECTION_ 管理移管 _START_PARAGRAPH_ 近畿圏の高速道路料金体系の整理・統一とネットワーク整備の観点から、国土交通省が2016年12月に公表した「近畿圏の新たな高速道路料金に関する具体方針(案)」で、鴨川東出入口 - 第二京阪道路接続部間(油小路線)を西日本高速道路へ移管し、第二京阪道路等との一元的管理とするとともに、山科出入口 - 鴨川東出入口間(新十条通)は京都市へ移管し無料開放する方針が示された。この方針に基づき、2017年3月31日に日本高速道路保有・債務返済機構と阪神高速道路、西日本高速道路との間の協定が変更され、「阪神高速道路8号京都線」としての営業は2019年3月31日で終了し、翌4月1日から油小路線の区間は西日本高速道路の「油小路線」として営業を開始する一方で、新十条通の区間は本来の道路管理者である京都市へ移管され無料開放されることが確定した。_NEWLINE_「油小路線」は、既存の第二京阪道路へ「編入」され、移管後は第二京阪道路の一部として一元的に管理されることになった。また、管理移管に伴い、油小路線の区間の正式名称は「京都市道高速道路2号線」から「一般国道1号 油小路線」に変更された。 _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 2008年(平成20年)1月19日に上鳥羽出入口から第二京阪道路接続部までの区間(油小路線)が、同年6月1日に山科出入口から鴨川東出入口までの区間(新十条通、稲荷山トンネル)が、それぞれ供用を開始した。のちの2011年3月27日に、残る鴨川東出入口から上鳥羽出入口までの区間(油小路線斜久世橋区間)が供用開始され、全線が開通した。
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Q48761326
_START_ARTICLE_ 阿波秘境七福神 _START_PARAGRAPH_ 阿波秘境祖谷渓・大歩危七福神(あわひきょういやだに・おおぼけしちふくじん)は、徳島県三好市の7つの寺社による七福神めぐりの霊場。
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Q899178
_START_ARTICLE_ 陸前山王駅 _START_SECTION_ 駅構造 _START_PARAGRAPH_ 単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ地上駅。ホームは跨線橋で繋がっている。_NEWLINE_当駅から仙台臨海鉄道(貨物線)が分岐するため構内は広く、多くの留置線が敷設されている。また、かつてはこの駅から塩釜線(貨物線)も分岐していた。_NEWLINE_運転扱い要員(仙台臨海鉄道社員)が配置されているが、旅客扱い要員は配置されていないため無人駅である。自動改札機・自動券売機(1台のみ)が設置されている。以前はPOS端末など係員用機器も設置されていたが、旅客扱い要員の配置が廃止されたために撤去された。岩切駅の管理下にある。
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Q2985748
_START_ARTICLE_ 陸軍作戦司令部 (フランス陸軍) _START_SECTION_ 沿革 _START_PARAGRAPH_ 1998年6月30日に第3軍団を廃止し、新たに地上作戦部隊集団(CFAT)としてリールに司令部を置いて編制された。この地上作戦部隊集団を基にして、2008年7月1日に地上部隊集団(CFT)へ改編された。_NEWLINE_前身となった地上作戦部隊集団は、隷下に21個の司令部(commandements)を持ち、80個連隊、80,000名の将兵から構成されていた。組織の規模としては軍団レベル(niveau corps d'armée)であると示され、ブザンソン、ナント、マルセイユおよびリモージュの4箇所に師団レベル司令部(commandements de niveau division)が設けられ、師団級任務部隊として各旅団を指揮していた。2016年の陸軍再編でブサンソンの師団レベル司令部は第1機甲師団司令部に改められ、第7機甲旅団、第9海兵軽機甲旅団、第27山岳歩兵旅団およびフランス・ドイツ合同旅団を傘下に置き、マルセイユの師団レベル司令部は第3機甲師団司令部に改められ、第2機甲旅団、6軽機甲旅団および第11落下傘旅団を傘下におく編制となり、第1および第3機械化旅団は解隊された。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 参謀本部の下で分散型組織を形成し全般作戦を統括する。第一段階司令部の活動内容としては、地上部隊の作戦のために準備し組織化される部隊を指定すること、部隊訓練の管理と国際任務への対応、中核的司令部としての機能、司令部内における予備役要員の準備・蓄積などがある。_NEWLINE_第一段階司令部の下に第二段階司令部にあたる部隊参謀部(EMF)が4つ設けられている。この部隊参謀部とは師団レベル司令部として任務部隊を構成し、各旅団を指揮する。_NEWLINE_第三段階司令部は9個戦闘旅団、4個支援旅団、特殊部隊旅団を含む77個が再構成して組織され、この内の80,000名以上が指揮下に治められている。_NEWLINE_司令部要員には200名の将校を含む600名と200名の予備役士官が割り当てられている。
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Q11658704
_START_ARTICLE_ 陸軍航空技術学校 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 1935年8月、昭和10年7月29日勅令第225号により所沢陸軍飛行学校機関科を分離独立し、陸軍所沢飛行場に陸軍航空技術学校が設置された。当初の役割は、少年飛行兵・技術幹部候補生、転科将校、気象学生などの教育であった。_NEWLINE_1938年7月、下士官・幹部候補生、少年飛行兵の整備教育を陸軍航空整備学校に移管し、本校は将校の技術教育を担当した。1939年4月、立川に移転し、1943年8月、整備関係の実施教育・研究を立川陸軍航空整備学校へ移管し、技術関係将校の養成を担当した。
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Q10856040
_START_ARTICLE_ 難燃材料 _START_PARAGRAPH_ 難燃材料(なんねんざいりょう)とは、建築物の材料のうち、建築基準法施行令第1条の六で定める技術的基準に適合する不燃性を持つ材料を指す。一般には難燃合板、難燃繊維板、難燃プラスチック板などの材料が難燃材料に含まれる。_NEWLINE_不燃性能に関して政令で定める技術的水準に適合する建築材料には、不燃材料、準不燃材料、難燃材料の3ランクがあり、難燃材料はその最下位である。通常の火災による火熱が加えられた場合に、加熱開始後5分間は、燃焼しないことが必要である。また、外部仕上げにおいては、防火上有害な変形、溶融、亀裂その他の損傷を生じないこと、内部仕上げでは避難上有害な煙またはガスを発生しないものであること、の3点が条件となる。これらの条件を満たし、さらに国土交通大臣から認可されたもの。
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Q28068791
_START_ARTICLE_ 雪深山福子 _START_SECTION_ 出演 _START_PARAGRAPH_ 太字はメインキャラクター。
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Q11659989
_START_ARTICLE_ 雲を翔びこせ _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 武蔵国榛沢郡血洗島村(後の埼玉県深谷市)出身で明治期に実業家として名を成した渋沢栄一を主人公とした作品で、「近代国家の日本を作り上げたのは薩長土肥の志士だけではない」といった視点から、彼の青年期における人格形成や幕末における群像劇が描かれた。ナレーションは渥美清が担当した。_NEWLINE_劇中では西田敏行の演じる栄一らが江戸の御殿山にあった英国公使館の焼き打ちを計画し、同様の計画を企図した長州藩の志士らと関わることになっているが、実際に栄一らの企図した焼き打ち計画は横浜の異人街を対象としたものである。また、計画自体も尾高長七郎の反対により中止となっている。_NEWLINE_本放送時は通常当枠で放送している『ザ・ベストテン』を休止、21:00から5分間を使いその週のランキングをダイジェストで放送した。当ドラマの放送開始が21:05になっているのはこのためである。 _START_SECTION_ ストーリー _START_PARAGRAPH_ 安政5年(1858年)、武蔵国榛沢郡血洗島村で養蚕業、藍玉業を営む渋沢家の長男、渋沢栄一と尾高千代の婚礼が行われるところから物語が始まる。血気盛んな栄一は従兄の渋沢喜作と共に攘夷運動に傾倒し、弱体化した幕府に代わる自分たちのための幕府についての夢を語り合う。やがて、栄一は喜作のほか、尾高新五郎、尾高長七郎、尾高平九郎らと共に江戸の御殿山に建設中の英国公使館の焼き打ち計画を立てるが、決行当日になり長州藩士に先を越されたうえ、その巻き添えとなり幕府に追われる身となる。_NEWLINE_栄一と喜作は旧知の平岡円四郎を頼って京都へと落ち延びると、平岡の勧めで一橋慶喜に仕えることになる。二人は聡明な指導者という評判の慶喜に攘夷の決行および、新しい政治体制の実現に期待をする。一方で、栄一は各藩の対立と抗争により人材が失われていくことに、喜作は攘夷の志からは外れて政争に巻き込まれていくことに不満を覚える。_NEWLINE_慶応2年(1866年)、慶喜が15代将軍に就任したことで、栄一と喜作は幕府側の人間となり、栄一は旧勢力の幕引き役と称する慶喜の命により、フランスで行われるパリ万博へ赴くことになる。帰国後、栄一は朝敵と見なされ静岡で蟄居をしていた慶喜と再会し、欧州で経験した「身分の差がなく、経済の力が人々を豊かにし、国を豊かにする」という長所を取り入れることこそが国のためになると説く。それを聞いた慶喜は彼に対し、明治新政府への出仕を勧める。_NEWLINE_大蔵省へ入省した栄一だが、それぞれの組織の利益を主張するばかりで、民をないがしろにする新政府の面々に疑問を感じる。こうした中、従兄弟の新五郎と再会すると同志たちの顛末を聞かされ、さらに慶喜の名誉のためにと戊辰戦争を戦い抜いた喜作と再会し、彼から初心を忘れたのかと問われる。その夜、栄一は千代に対し、「自分たちのための幕府」作りのために邁進する旨を伝える。_NEWLINE_大蔵省を退官した栄一は、第一国立銀行の創設を皮切りに多種多様な企業の設立に関わっていく。途中、列強国に対抗するべく互いに手を組もうという政商の阪田彌左衛門や、国家の発展のため政界への復帰を願う井上聞多からの誘いを受けるが、これを固辞して生涯を通じて経済活動、福祉・教育などの社会文化事業に邁進する。彼には、国政とは常に距離を置き一農夫としての立場を貫くという信念があり、若かりしころの理想をいつまでも忘れなかった、というナレーションが流れて物語を終える。
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Q17989246
_START_ARTICLE_ 雲界の旅人 _START_PARAGRAPH_ 『雲界の旅人』(うんかいのたびびと)は、あろひろしによる日本の漫画作品。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 『月刊少年キャプテン』(徳間書店)にて1987年に第1話が読み切りとして掲載され、翌年の1988年より連載開始。単行本第1巻発売の後、掲載誌を『少年キャプテンSELECT』に移したものの、掲載誌休刊に伴いしばらく中断されていたが、1994年頃に新装版全2巻発売に合わせる形で『月刊少年キャプテン』に2話分掲載された。_NEWLINE_単行本新装版第2巻の「後書き」ならぬ「中書き」に書かれている通り、物語としては未完。作者の公認サイトでは「続きを描いて欲しい、という読者からの反応はあるものの、発表の場が無いなどの事情から今後の作品展開は難しい。しかし作者は未だに描くことを諦めてはいない」と語られていた。_NEWLINE_2016年2月、クラウドファンディングによる続編エピソード製作プロジェクトが発表された。目標金額130万円に対して316人のサポーターより計3,359,267円の支援が集まり、続編となる68ページの中編『雲界の旅人~島の花嫁篇~』は同人誌として執筆され、2017年10月に発行。更に、2018年2月よりサポーター以外への販売が始まった。_NEWLINE_世界観としては一見ヒロイック・ファンタジーに近いようだが、魔法やそれに類するものは登場せず、生態系も独自の要素が強い。作中で重要な位置を占める「竜」にしても、いわゆるドラゴンとは大幅に異なる存在として描かれている。 _START_SECTION_ あらすじ _START_PARAGRAPH_ その昔、慎重に計算された速度と軌道で打ち込まれた、直径数百kmの巨大な岩塊がその惑星を変えた。そして時は流れた……。_NEWLINE_見渡す限りの雲海の中に島(コロニー)が点在している世界。伝承によれば、かつてこの世界とそこに住まう生物たちは「先人(さきびと)たち」によって創造されたという。女剣士ライナと、そのパートナーである竜人アドルスは、その「先人たち」の知識と技術を求め、どの島にも所属しない渡り鳥(オーキイ)として探求の旅を続ける。
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Q28454000
_START_ARTICLE_ 電動ポンプサイクル _START_PARAGRAPH_ 電動ポンプサイクル(でんどうポンプサイクル、英: electric pump-fed cycle)は二液推進系ロケットエンジンの動作サイクルの1つである。燃料と酸化剤をそれぞれ専用の電動ポンプで0.2 - 0.3MPaから10 - 20MPaに昇圧して燃焼室に送り込むものである。ポンプを駆動する電動機は電池の直流電圧をインバータで交流電圧に変換して駆動する。一般的にはインバータとブラシレスDCモーターを組み合わせて用いる。この場合、駆動波形は正弦波に限らず双方向に電流が流れる波形が用いられる。
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Q30936449
_START_ARTICLE_ 電気化学原子間力顕微鏡 _START_PARAGRAPH_ 電気化学原子間力顕微鏡(でんきかがくげんしかんりょくけんびきょう、Electro-Chemical Atomic Force Microscope : EC-AFM)は電気化学反応を可視化する原子間力顕微鏡の一形式。 _START_SECTION_ 概要 _START_PARAGRAPH_ 原子間力顕微鏡(AFM)の原理を利用して探針とワーキング電極として作用する試料をセットする電気化学セルとそのセル電極の電位を制御する2台の定電位電解装置(バイポテンショスタット)が追加され、カンチレバーの変位をレーザー光と4象限光検出素子により、光学的に検出することにより、電気化学反応によって誘起される試料表面のナノスケールの形状変化を、in situで可視化する。EC-AFMは1991年にHansmaのグループによって,金属電極表面上に金属が電析して行く構造変化を捉えたのが最初だとされ、20世紀末以降に利用が拡大した。 _START_SECTION_ 周波数変調検出型AFM _START_PARAGRAPH_ 周波数変調検出型AFMは探針が先端についたカンチレバーを共振周波数を維持して振動ながら試料表面に近づけて周波数変化として力を計測して表面を画像化する手法。
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Q11660462
_START_ARTICLE_ 電気通信学部 _START_PARAGRAPH_ 電気通信学部(でんきつうしんがくぶ、英称: faculty of electro-communications)は、工学の中でも電気通信に関係する教育研究がなされていた学部であった。_NEWLINE_電気通信学部については、工学部との差を議論することが容易ではない。世界においても工学部との差は見出しにくいといわれる。 _START_SECTION_ 公立大学 _START_PARAGRAPH_ なし _START_SECTION_ 私立大学 _START_PARAGRAPH_ なし
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Q4778660
_START_ARTICLE_ 青松葉事件 _START_SECTION_ 発生までの経緯 _START_PARAGRAPH_ 御三家である尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家には、御附家老というものが存在した。御附家老とは、単純に言えば将軍家から派遣された藩主のお目付け役であり、尾張では成瀬隼人正(なるせはやとのかみ)家と竹腰兵部少輔(たけのこしひょうぶしょうゆう)家が知行高も大きく著名であった。藩主も遠慮しなければならない家柄からその権力は強大であり、藩内は自然、成瀬派と竹腰派に分かれた。このうち、より幕府に近い立場を取り続けたのが竹腰派であり、古くは幕府に反抗的だった7代藩主徳川宗春を隠居謹慎に追い込んだこともあった。幕末のこの時期、藩内は尊皇攘夷を唱える「金鉄組」と、佐幕的な立場を執る「ふいご党」とに分かれ、成瀬家は金鉄組、竹腰家はふいご党に近かった。_NEWLINE_そもそも尾張徳川家は、藩祖である徳川義直の時代から代々勤皇の家風であり、一度も将軍を出さず徳川将軍家への反発もあったことから、14代藩主に就任した徳川慶勝も尊皇攘夷の立場をとり、特にペリー来航以来藩政の刷新を進める中で竹腰家を初めとするふいご党と対立することが多かった。大老井伊直弼の弾圧により慶勝が隠居すると、金鉄組は没落し、竹腰兵部少輔が新藩主茂徳のもとで藩政を取り仕切ったが、桜田門外の変以降竹腰兵部少輔は失脚、慶勝が隠居の身ながら藩政の前面に出、金鉄組とともに頻繁に上洛して政局にあたった。その間、茂徳が隠居して慶勝の子義宜が藩主となり、ふいご党は日の目を見なかった。_NEWLINE_大政奉還後、1868(慶応4)年1月3日から5日にかけての鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北した。その一報が名古屋に届くと、京都に派兵するかどうかで、派兵を主張する金鉄組と派兵に慎重なふいご党との対立が深まった。このとき、京都にいた慶勝は、手勢を率いて上洛した監察吉田知行から、城代間宮正萬の言付けという形で尾張藩内の情勢を聞いた。_NEWLINE_鳥羽・伏見の戦いで勝利した官軍は、同月4日に仁和寺宮嘉彰(小松宮彰仁)親王を征夷大将軍に任じ、同月7日に慶喜追討令を発出していたが、名古屋以東には幕府譜代の大名が多く、江戸に戻っていた慶喜の反撃も考えられたため、征討軍の通過に不安を感じていた。_NEWLINE_同月15日、朝廷は慶勝を呼び出し、「自国の姦徒誅鋤ならびに勤皇の者誘引のため」、すなわち、交通の要衝にあたる尾張藩内の佐幕派勢力を粛清し、近隣の大名を朝廷側につくよう説得するため、帰国を命じた。 _START_SECTION_ 事件 _START_PARAGRAPH_ 慶勝は早くから勤皇派だったが、徳川御三家筆頭として幕府に配慮する立場にあり、また藩内に佐幕派がいるのは当然のことだった。しかし勅命に反抗するわけにはいかず、苦悩の末佐幕派の弾圧を決意し、松平春嶽に対して「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり。(…)」と語ったとされる。_NEWLINE_慶勝は勅命を受けて京都を発ち、1月19日に尾張一宮で1泊した後、同月20日に名古屋城に帰った。同日、家老・渡辺新左衛門在綱は慶勝を名古屋城内で出迎えたところを逮捕、斬首された。更に大御番頭・榊原勘解由正帰、大御番頭格・石川内蔵允照英ら13名が逮捕され、切腹ないし斬首となった。殺害の際には、理由の説明などはなく、また14人の家族は住居・食禄を取り上げられた。_NEWLINE_慶勝は、勅命があったことを秘し、尾張藩の内紛として事件を収拾し、藩士に口止めをした。また「勤皇の者誘引」のため、同月29日に遠・駿・濃・信・甲・野の7国の諸藩以下に向背(朝廷側につくか否か)を確認している。 _START_SECTION_ 事件名の由来 _START_PARAGRAPH_ 事件後、『朝風におもひかけなし青松葉 吹き散らされて跡かたもなし』との狂歌が生まれ、この事件は「青松葉事件」と呼ばれるようになった。_NEWLINE_事件名は、処刑された重臣のうちの筆頭格である御年寄列・渡辺新左衛門在綱の家が「青松葉」といわれていたことからとっているという考えが有力とされている。尾張藩士渡辺新左衛門家はもともと徳川家康の家来で「槍の半蔵」の異名を取った渡辺半蔵守綱(天文11年(1542年) - 元和6年(1620年))の末裔であるが、その渡辺新左衛門家は鉄砲にも興味を持ち、その鋳造に用いる火を起こすのに青松葉を使ったとか、知行地から年貢を受け取るとき、青松葉を俵に挿して数えた、などという逸話が多いことから「青松葉の渡辺」といわれていたらしい。 _START_SECTION_ 影響 _START_PARAGRAPH_ 事件のことが天領及び譜代の多い東海道・中仙道の各藩に伝わり、また尾張藩誘引使が各藩に勤皇証書を出させたことは、各藩が日和見的立場から中立もしくは協力的立場へと変化するきっかけとなり、討幕軍が抵抗を受けずに江戸に到達することができた要因になったとみられている。_NEWLINE_その後、朝廷は事件の行き過ぎを反省したとされ、明治3年に大赦を発令して渡辺新左衛門ら14人の名誉を回復し、家族に食禄を与えた。成瀬家、竹腰家はともに大名として認められた。これは尾張藩にとって思いもかけないことであった。特に竹腰家は、青松葉事件の対象であるふいご党の領袖であった。この矛盾した措置に、尾張藩は混乱した。_NEWLINE_なお後年、慶勝による北海道八雲町開拓のため移住した士族たちは、京都にいた慶勝に尾張藩の情勢を告げた監察吉田知行をはじめ、この事件に関係した者も多い。 _START_SECTION_ 事件の研究 _START_PARAGRAPH_ 1908年頃、徳川義親は養子に入った尾張徳川家で徳川慶勝の日記のうち慶応3年-明治元年分が欠落していて焼却された跡があり、また父・松平春嶽の日記でも同期間が空白になっていることに気付き、当時を知る旧藩士に質問しても事情を教えてもらえず、『三世紀事略』などの尾張徳川家の文献資料(蓬左文庫所蔵)から事件の存在を知ったとされる。このことは義親が徳川林政史研究所を設立する契機にもなり、義親は1976年に没するまで事件の研究をライフワークにしていた。死去の前年、義親は、事件について水谷 (1971)は丹念に資料を収集しているが事件が発生した理由が解明されていないと評し、事件は藩内の内紛ではなく朝命を受けた政治的謀略事件だった、としている。
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