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日本のプロ野球
日本のプロ野球(にほんのプロやきゅう)では、日本で行われるプロ野球全般について述べる。 以下のうち、1949年の日本野球機構(NPB)発足以降で特記のないものはNPBの事象を指す。 日本野球機構(NPB)では1軍公式戦としてセントラル・リーグとパシフィック・リーグ、ファーム公式戦としてイースタン・リーグとウエスタン・リーグが開催されているほか、オールスターゲーム、日本選手権シリーズなどを主催している。日本で単に「プロ野球」と言えば通常これらを指す。 日本野球機構(NPB)傘下にはセントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の2リーグがある。 現在は両リーグがそれぞれ6球団を擁し、これらを指して一般に「12球団」と呼ばれる。かつては両リーグとも最大で8球団が在籍したが、黎明期に弱小球団が淘汰された結果、1950年代には現在の数となっている。 以下に、2005年以降のペナントレース(リーグ戦+セ・パ交流戦)における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す。同年以降に記載を限ったのは、2004年シーズン中に発生したプロ野球再編問題の結果、翌2005年シーズンより、観客数の発表が実数に切り替わったこと、かつ、セ・パ交流戦が開始されたことによる。 2005年シーズンよりパ・リーグでは、従前のオリックス・ブルーウェーブ(兵庫県神戸市)と大阪近鉄バファローズ(大阪府大阪市)が合併し、オリックス・バファローズ(移行措置としてダブル・フランチャイズ期間あり)という1つの球団になって参戦している。また同シーズンより、東北楽天ゴールデンイーグルス(宮城県仙台市)が新規参入で加わった。この結果、パ・リーグは従前同様、6球団で維持されている。 なおNPB12球団は、8球団が三大都市圏に所在し、4球団が札仙広福(地方中枢都市)の各都市(★)にある。 1950年のセ・パ分立時には、鉄道系7球団(セの阪神・国鉄、パの西鉄・阪急・近鉄・南海・東急)、新聞系4球団(セの読売・中日・西日本、パの毎日)、映画系2球団(セの松竹、パの大映)、食品系1球団(セの大洋)、独立系1球団(セの広島)であった。 撤退した業種は、上述の映画系のほか、放送系(横浜:TBSHD)、流通系(ダイエー:ダイエー)、衣料品系(太陽:田村駒)、不動産業系(日拓:日拓グループ)等が挙げられる。 2008年までの日本野球連盟・日本野球機構所属球団の変遷(シーズン中の変更のみ日付を記す)。 2012年からは横浜ベイスターズが横浜DeNAベイスターズとなっている。 ※あくまでもおおよその目安であって、この通りとは限らない。 2004年に起こったプロ野球再編問題と四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)誕生の影響もあって、当時は全国各地に独立リーグ構想が持ち上がった。ルートインBCリーグのように実現した独立リーグもあるが、資金面などの問題もあって実現までに至っていないものも複数存在する。 社会人野球を統括する日本野球連盟は、リーグ所属選手について2005年から2008年までは社会人などアマチュアと同等に扱っていた。しかし、2009年に日本野球連盟は「国内の独立リーグに関する取扱要領」を制定し、NPB同様プロ選手として扱われる(退団者の社会人野球選手登録は1チーム3人以内)ことになった。2010年からは、独立リーグ退団者は退団翌年度に社会人野球選手登録ができない制限も追加された。その後、2014年11月に、すべての独立リーグ退団者に対して登録者数制限が適用外となり、日本独立リーグ野球機構所属リーグ(四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグ)並びに賛助会員チームの退団者に対しては登録期間制限も適用外となった。この決定以降に機構に加盟した九州アジアリーグや北海道フロンティアリーグの選手に関しても同様に適用される。 一方、日本野球機構(NPB)は、外国人(日本の学校卒業者を除く)およびNPB在籍経験のある独立リーグ選手に対しては「移籍」の形でNPB球団と契約することを認めているが、それらに該当しない選手についてはプロ野球ドラフト会議での指名を受けなければ契約できない。この点について、独立リーグ(アイランドリーグとBCリーグ)側は、選手の経歴によらず移籍可能にしたいという意向を持っていると報じられている。 独立リーグの選手もNPB同様にプロ契約を交わして球団から報酬を受け取っているものの、その額はNPBと比べ極めて少ない。解散時点のKANDOKは完全無給制で、同リーグを脱退した球団によって設立されたBASEBALL FIRST LEAGUE→さわかみ関西独立リーグも同様である。そのため、オフシーズンに副業を認めるリーグも存在する。また、2020年より開幕した北海道ベースボールリーグは、シーズン中も球団地元の企業や農家で選手が就労する形態を採用する。 四国アイランドリーグplusは、下記の4球団によって構成される。 2004年の創設当初の名称は「四国アイランドリーグ」で、四国4県の各1球団が加入して2005年シーズンを行った。2007年12月、福岡・長崎の九州2球団が新規加入したのに伴い、「四国・九州アイランドリーグ」に改称。2008年シーズンから6球団で公式戦を行っていた。福岡(福岡レッドワーブラーズ)は経営難に伴い、2009年でいったんリーグ戦への参加を休止し、2010年は5球団で開催された。福岡は事務所は存続し、「準加盟球団」として新たなスポンサーを探して2011年の復帰を目指すとしていたが、2011年の復帰は見送られた。また、長崎セインツは2010年シーズン限りで撤退・解散した。一方、休止が決まったジャパン・フューチャーベースボールリーグから三重スリーアローズが加盟して2011年度より参加したことに伴い、「四国アイランドリーグplus」に改称。しかし、三重は2011年度限りでリーグを脱退し、解散。2012年度以降は四国4チームで公式戦を開催しており、福岡の復帰は実現していない。資金は4億円程である。 ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)は、下記の8球団によって構成される。 2006年の創設当初の名称は北信越ベースボール・チャレンジ・リーグで、新潟・信濃・富山・石川の4球団が加入して2007年シーズンを行った。2007年11月、群馬・福井の2球団が新規加入したのに伴い、現名称に改称。2008年シーズンからは6球団(2地区制)で公式戦をおこなった。2015年シーズンから福島・武蔵の2球団が加入して8球団(2地区制)となり、さらに2017年度から栃木および滋賀の2球団が加入、10球団(2地区制)となった。2019年に茨城が加入し、11球団(2地区制)となる。2020年シーズンからは、神奈川がリーグ戦に参加し、12球団となった。2020年は2地区制で開催予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、3地区制に変更された。2021年も3地区制で開催された。2021年9月1日、西地区の4チーム(富山・石川・福井・滋賀)は2022年シーズンよりリーグに参加せず、新リーグを結成することが発表され、9月16日にはリーグの名称が日本海オセアンリーグとなることが明らかにされた。これに伴い、2022年は2地区制となる。 また、静岡県浜松市に事務所を置く「静岡県民球団」(正式名称未定)が、将来の加盟を前提にした球団設立活動をおこなう「準加盟球団」の承認を受けている。 発足当時からの加盟球団だった新潟は、2023年11月に2024年からのNPBファーム加入が正式に決定し、2023年末をもってリーグ加盟資格を終了する予定である。 関西独立リーグは2009年シーズンより開始。「KANDOK」の略称を使用していた。大阪エキスポセブンティーズや三重スリーアローズが加入する予定があったが、いずれも独自にリーグを結成する方針に変更した(大阪エキスポセブンティーズはリーグ発足に至らず)。また、初年度参加の大阪ゴールドビリケーンズは2009年のシーズン終了後に脱退し、2010年シーズンから韓国人選手主体のソウル・ヘチ(旧コリア・ヘチ→韓国ヘチ)が加盟した。2011年からは大阪ホークスドリームのほか、2010年限りで休止した神戸9クルーズの選手を引き継いだ兵庫ブルーサンダーズ、チームの権利を引き継いだフォレストホームの設立による神戸サンズが参加した。一方、明石レッドソルジャーズは代表者の死去などに伴い、2011年から活動を休止した。2012年度は06BULLSと大和侍レッズの2球団が加入する一方、大阪ホークスドリームやソウル・ヘチはリーグ戦への参加を休止した。2012年度終了後、大阪ホークスドリームはリーグを脱退してクラブチームに変更、神戸サンズと大和侍レッズは活動を休止した。このため、リーグ発足当時から残っている球団は紀州レンジャーズのみとなっていた。2013年度は紀州・兵庫・06BULLSの3球団であった。シーズン終了後、紀州と他の2球団が運営方針をめぐって対立し、全球団が脱退したためリーグは事実上活動を停止した。兵庫と06BULLSは、新たにBASEBALL FIRST LEAGUE(ベースボール・ファースト・リーグ、現・さわかみ関西独立リーグ)を設立した。 ジャパン・フューチャーベースボールリーグは、下記の2球団によって構成されていた。 2010年シーズンより開始。三重スリーアローズは当初関西独立リーグに加盟する予定だったが、関西独立リーグの既存球団との間に選手の給与水準やリーグ運営方針に関して意見や理念の相違があったとされ、その為に2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決定し、独自の独立リーグを結成する運びとなった。10月13日に新リーグの名称を「ジャパン・フューチャーリーグ」と発表。同年12月1日に「ジャパン・フューチャーベースボールリーグ」に改称した。また関西独立リーグの初代王者である大阪ゴールドビリケーンズも、三重スリーアローズと同様に、2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決め、ジャパン・フューチャーベースボールリーグへの参加を表明した。2010年は四国・九州アイランドリーグとの交流戦も加えてリーグ戦を実施した。しかし、大阪球団の選手の不祥事によりスポンサーが撤退するなど経営問題が浮上し、2010年9月に2011年度のリーグ休止を決定した。上記の通り、三重は2011年度は四国アイランドリーグplusに参加した。 関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)は、下記の5球団によって構成される。発足から2018年12月3日までのリーグ名は「BASEBALL FIRST LEAGUE」だった。2018年12月4日より「関西独立リーグ」にリーグ名を変更した。2020年のシーズン開始後に同年シーズン(12月末日まで)は命名権売却による「さわかみ関西独立リーグ」の名称を使用すると発表された。発表のないまま2021年1月以降もリーグウェブサイト等では「さわかみ関西独立リーグ」の名称が使用されていたが、同年4月になって命名権契約を更新したことが発表された。2022年時点では、旧リーグと同じ「KANDOK」の略称をリーグウェブサイトにて使用している。 2013年12月にリーグの運営方針をめぐって紀州と対立した兵庫ブルーサンダーズと06BULLSによって設立が表明され、2014年になって設立された姫路GoToWORLDを加えて、2014年4月に開幕した。基本的に選手が無給という点は、解散時の初代関西独立リーグと同じである。 2016年度限りで姫路が活動を休止し、一方2017年度より和歌山ファイティングバーズ(現・和歌山ウェイブス)が加入したため、2018年度まで3球団で運営された。2019年度より堺市をフランチャイズとする堺シュライクスが加入し、4球団での運営となる。2023年からは淡路島に本拠を置く新球団淡路島ウォリアーズが加入し、5球団でリーグ戦を実施している。さらに2024年度からは姫路イーグレッターズ(Egretters)が参加する予定である(かつての姫路GoToWorldとは別球団)。 北海道ベースボールリーグは、2023年は下記の3チームにより運営される。2020年よりリーグ戦を実施し、初年度は富良野と美唄の2チームで公式戦を実施した。2021年シーズンより士別・石狩の2チームが加わっている。選手はシーズン中も球団の地元で就労しながら練習・試合をおこない、当初はチームに監督を置かないなど、過去の独立リーグとは異なる方針を採用している。 2021年シーズン終了後の同年10月6日に、美唄・士別・石狩の3球団が9月30日をもってリーグを脱退し、新リーグを結成することが明らかにされた。北海道ベースボールリーグは、残る富良野に加え、すながわリバーズ、滝川市の新球団で2022年の運営をおこなうとした。滝川市の新球団は後日「滝川プレインウィンズ」に名称決定したが、本拠地を滝川市から奈井江町などに変更したことに伴い「奈井江・空知ストレーツ」に再度変更された。2022年シーズンからは監督を置いている。 離脱した3球団側は11月5日にリーグ設立記者会見を開き、リーグ名を北海道フロンティアリーグと発表した。 2023年シーズンより「旭川ビースターズ」がリーグ戦に参加している。一方、前年加入した奈井江・空知はシーズン開幕前の3月31日に、前年シーズンでのリーグ脱退と解散を発表した。2023年シーズン終了後には、すながわの当シーズン限りでの脱退が発表された。 九州アジアリーグは2021年よりリーグ戦を実施し、2023年は下記の4チームにより運営される。初年度は火の国と大分の2チームであった。2021年9月より命名権による「ヤマエ久野 九州アジアリーグ」の通称を使用し、ヤマエ久野の持株会社化に伴って2022年11月に「ヤマエグループ 九州アジアリーグ」に通称を変更した。2022年に北九州(同年の正式名称は「福岡北九州フェニックス」)、2023年に宮崎がそれぞれ加入している。2024年からは佐賀県を拠点として東南アジア出身選手で構成される佐賀インドネシアドリームズが「準加盟球団」として、一部の公式戦に参加する予定である。 北海道フロンティアリーグは2021年に設立され、2022年は下記の3チームにより公式戦を開催。 ベイサイドリーグは、「日本海オセアンリーグ」の名称で2021年に設立され、2022年より公式戦を開催している。発足当初はベースボール・チャレンジ・リーグの西地区から離脱した4球団で構成されていた。しかし、福井ネクサスエレファンツは2022年限りで活動を休止する一方、2023年からリーグ戦に参加する前提で千葉県に新球団を設立することが2022年10月に発表された。さらに神奈川県を本拠とする「YKSホワイトキングス」の加入と滋賀GOブラックスの1年間の活動休止を発表した後、2023年は千葉・YKSによる「ベイサイドリーグ」に再編することとなった。残る富山と石川はリーグを離脱して、次節の日本海リーグを結成した。2023年は下記の2チームで公式戦を開催している。しかし、同年シーズン終了後に千葉は2024年はリーグに参加せず、2025年以降のベースボール・チャレンジ・リーグ正式加盟を目指すと発表した。 なお日本海オセアンリーグ時代に1年間の活動休止が発表された滋賀の2024年以降の処遇については公表されていない。 日本海リーグは、2023年に設立され、下記の2球団で公式戦を開催している。 2020年度より始動する琉球ブルーオーシャンズは上記の独立リーグには加盟せず、NPBが参入枠を拡大した場合に加盟することを目標とする。試合はNPBのファームや上記の独立リーグのチームのほか、アジアのプロ野球リーグのチームとの交流戦を実施する意向を持っていた。しかし、2022年11月に、今後の活動を一時休止すると発表した。 なお、リーグには非加盟のまま、琉球は日本独立リーグ野球機構に賛助会員として加盟していたが、2022年2月に除名された。 NPBで現役を終えた引退選手によるリーグであるプロ野球マスターズリーグは、下記の5球団によって構成される。 2001年(2001-2002年シーズン)よりNPBで現役を終えた選手によって、主にプロ野球のオフシーズンである冬季にリーグ戦を開催していたが、2008-2009年シーズンをもってリーグ戦は休止(以後、オールスター戦のみ開催)。その後はリーグ戦再開を目指しているが、2019年現在再開には至っていない。 女性によるプロ野球リーグとして、1950 - 1951年にかけて日本女子野球連盟が存在した。 2010年より日本女子プロ野球機構によるリーグが開始され、59年ぶりに女子プロ野球リーグが復活した。2020年までリーグ戦が開催されていたが、2021年7月21日に所属選手が0人となったため、以後は事実上の消滅状態となっている。 一方、2009年に発足した関西独立リーグにおいて、吉田えりが神戸9クルーズに入団し、男子リーグでプレーする初の女子プロ野球選手となった(同年限りで退団)。吉田は2013年に石川ミリオンスターズに移籍した。2010年に、増田里絵が明石レッドソルジャーズに入団し、2人目となった。NPB及び四国アイランドリーグplusでも女子選手のプレーが認められているが、2021年現在まで所属した女子選手は現れていない(NPBでは過去にオリックスや近鉄で女性が入団テストを受験した事例がある)。 ドーピングに対しては平成19年(2007年)から機構独自の検査を行い、罰則を設けている。日本アンチ・ドーピング機構(JADA)には加盟していない。2017年度シーズンからは血液検査も実施される。 2003年に「暴力団等排除宣言」。12球団や球場等で「プロ野球暴力団等排除対策協議会」を結成。2016年、前年に野球賭博問題があり、改めて反社会的勢力の遮断の必要性があるとのことから、各球団に身元確認などを強化するよう要請。野球協約の改定も検討課題と報じられた。 古くは日本運動協会と天勝野球団が、1923年にソウルでプロ球団同士の海外試合を行っている。 プロ野球リーグ戦開始後、初の公式戦海外遠征開催は、1940年に行われた満州リーグ戦である。満州(現在の中華人民共和国・東北部)に参加全9チームが総遠征し、7-8月にかけての夏季リーグ戦(事前の練習試合・オープン戦含む)を開催した。翌1941年も開催する予定だったが日中戦争の戦局悪化の影響で取りやめとなった。 戦後は1961年5月20日に当時アメリカ占領下の沖縄・奥武山野球場で西鉄ライオンズ対東映フライヤーズ戦で戦後初の海外遠征が開催された(1962年6月13、14日にも阪急ブレーブス対大毎オリオンズ戦が同じく沖縄遠征を実施)。 2002年5月14、15日には台湾(中華民国)の台北市・天母棒球場で福岡ダイエーホークス対オリックス・ブルーウェーブ戦が開催された。 2005年にも韓国のソウルの蚕室(チャムシル)球場と釜山の社稷(サジク)球場で千葉ロッテマリーンズ対福岡ソフトバンクホークス戦が6月28、29日に予定されていたが、韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズが蚕室球場を本拠地として使っているため、空き日がなく試合が不可能となり、代わりに仁川の文鶴(ムナク)球場で試合することに決めたが、採算が取れないと判断し、同年3月9日に開催取りやめを発表した(実際はロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムで開催)。 このほか、2014年の開幕戦「巨人対阪神」を日本プロ野球創立80年記念としてアメリカ合衆国で開催する計画もあったが、予算その他の理由により同年度の開催を見送っている。なおアメリカ開催に際しては外務省出身だった当時のNPBコミッショナー・加藤良三が強く熱望していたといわれている。 NPBによるプロ野球中継は対巨人戦ナイターをメインとして、黎明期からラジオやテレビ(NHK・各民放)の地上波で全国放送されてきたものの、2000年代になると視聴率低迷とBSデジタル放送・CS放送の普及により地上波放送は激減した。衛星放送の多チャンネル化で民放系BS放送局やJ SPORTS、トゥエルビなどで、特にパ・リーグ主催試合を中心に放送が増えた。2010年代後半からはDAZN、パ・リーグTVなどインターネットで配信する事例も多くなった。 報道量上位競技では地上波でもプロ野球の比率が非常に高く、視聴率の低さに対して報道量は多い。特に2007年から2009年にかけては、2位3位に対して約2倍の報道量である。近年の全国放送は開幕戦や週末デーゲーム、日本シリーズなど少数だが、関東地方以外の本拠地を持つ球団では地元局でのローカル中継は随時放送されており、視聴率も各地で高視聴率を獲得している。 ラジオでは、2007年にはラジオ大阪が国内中波ラジオ局としては初めてプロ野球中継から撤退している。また、2012年には、地上波の視聴率が低いことから、読売ジャイアンツが日本シリーズに進出したにもかかわらず、日本テレビ系列のラジオ日本が日本シリーズの放送を行わなかった。さらに、2017年にはTBSラジオが関東キー局では初となるプロ野球中継から全面撤退している。1980年代まではラジオNIKKEI(当時はラジオたんぱ)もプロ野球中継を編成していた。衛星放送局の日本BS放送(BS11)では、四国・九州アイランドリーグとベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)による一部の公式戦も中継していた(現在はNPBを含め、BS11でのプロ野球・セミプロ野球の放送はしていない)。NPBでは基本的にオープン戦、公式戦およびクライマックスシリーズの放映権は主催各球団が管理している。日本シリーズ、オールスターゲームの放映権は日本野球機構が管理する。
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"paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "※あくまでもおおよその目安であって、この通りとは限らない。", "title": "日本野球機構(NPB)" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "2004年に起こったプロ野球再編問題と四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)誕生の影響もあって、当時は全国各地に独立リーグ構想が持ち上がった。ルートインBCリーグのように実現した独立リーグもあるが、資金面などの問題もあって実現までに至っていないものも複数存在する。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "社会人野球を統括する日本野球連盟は、リーグ所属選手について2005年から2008年までは社会人などアマチュアと同等に扱っていた。しかし、2009年に日本野球連盟は「国内の独立リーグに関する取扱要領」を制定し、NPB同様プロ選手として扱われる(退団者の社会人野球選手登録は1チーム3人以内)ことになった。2010年からは、独立リーグ退団者は退団翌年度に社会人野球選手登録ができない制限も追加された。その後、2014年11月に、すべての独立リーグ退団者に対して登録者数制限が適用外となり、日本独立リーグ野球機構所属リーグ(四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグ)並びに賛助会員チームの退団者に対しては登録期間制限も適用外となった。この決定以降に機構に加盟した九州アジアリーグや北海道フロンティアリーグの選手に関しても同様に適用される。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "一方、日本野球機構(NPB)は、外国人(日本の学校卒業者を除く)およびNPB在籍経験のある独立リーグ選手に対しては「移籍」の形でNPB球団と契約することを認めているが、それらに該当しない選手についてはプロ野球ドラフト会議での指名を受けなければ契約できない。この点について、独立リーグ(アイランドリーグとBCリーグ)側は、選手の経歴によらず移籍可能にしたいという意向を持っていると報じられている。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "独立リーグの選手もNPB同様にプロ契約を交わして球団から報酬を受け取っているものの、その額はNPBと比べ極めて少ない。解散時点のKANDOKは完全無給制で、同リーグを脱退した球団によって設立されたBASEBALL FIRST LEAGUE→さわかみ関西独立リーグも同様である。そのため、オフシーズンに副業を認めるリーグも存在する。また、2020年より開幕した北海道ベースボールリーグは、シーズン中も球団地元の企業や農家で選手が就労する形態を採用する。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "四国アイランドリーグplusは、下記の4球団によって構成される。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2004年の創設当初の名称は「四国アイランドリーグ」で、四国4県の各1球団が加入して2005年シーズンを行った。2007年12月、福岡・長崎の九州2球団が新規加入したのに伴い、「四国・九州アイランドリーグ」に改称。2008年シーズンから6球団で公式戦を行っていた。福岡(福岡レッドワーブラーズ)は経営難に伴い、2009年でいったんリーグ戦への参加を休止し、2010年は5球団で開催された。福岡は事務所は存続し、「準加盟球団」として新たなスポンサーを探して2011年の復帰を目指すとしていたが、2011年の復帰は見送られた。また、長崎セインツは2010年シーズン限りで撤退・解散した。一方、休止が決まったジャパン・フューチャーベースボールリーグから三重スリーアローズが加盟して2011年度より参加したことに伴い、「四国アイランドリーグplus」に改称。しかし、三重は2011年度限りでリーグを脱退し、解散。2012年度以降は四国4チームで公式戦を開催しており、福岡の復帰は実現していない。資金は4億円程である。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)は、下記の8球団によって構成される。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2006年の創設当初の名称は北信越ベースボール・チャレンジ・リーグで、新潟・信濃・富山・石川の4球団が加入して2007年シーズンを行った。2007年11月、群馬・福井の2球団が新規加入したのに伴い、現名称に改称。2008年シーズンからは6球団(2地区制)で公式戦をおこなった。2015年シーズンから福島・武蔵の2球団が加入して8球団(2地区制)となり、さらに2017年度から栃木および滋賀の2球団が加入、10球団(2地区制)となった。2019年に茨城が加入し、11球団(2地区制)となる。2020年シーズンからは、神奈川がリーグ戦に参加し、12球団となった。2020年は2地区制で開催予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、3地区制に変更された。2021年も3地区制で開催された。2021年9月1日、西地区の4チーム(富山・石川・福井・滋賀)は2022年シーズンよりリーグに参加せず、新リーグを結成することが発表され、9月16日にはリーグの名称が日本海オセアンリーグとなることが明らかにされた。これに伴い、2022年は2地区制となる。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "また、静岡県浜松市に事務所を置く「静岡県民球団」(正式名称未定)が、将来の加盟を前提にした球団設立活動をおこなう「準加盟球団」の承認を受けている。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "発足当時からの加盟球団だった新潟は、2023年11月に2024年からのNPBファーム加入が正式に決定し、2023年末をもってリーグ加盟資格を終了する予定である。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "関西独立リーグは2009年シーズンより開始。「KANDOK」の略称を使用していた。大阪エキスポセブンティーズや三重スリーアローズが加入する予定があったが、いずれも独自にリーグを結成する方針に変更した(大阪エキスポセブンティーズはリーグ発足に至らず)。また、初年度参加の大阪ゴールドビリケーンズは2009年のシーズン終了後に脱退し、2010年シーズンから韓国人選手主体のソウル・ヘチ(旧コリア・ヘチ→韓国ヘチ)が加盟した。2011年からは大阪ホークスドリームのほか、2010年限りで休止した神戸9クルーズの選手を引き継いだ兵庫ブルーサンダーズ、チームの権利を引き継いだフォレストホームの設立による神戸サンズが参加した。一方、明石レッドソルジャーズは代表者の死去などに伴い、2011年から活動を休止した。2012年度は06BULLSと大和侍レッズの2球団が加入する一方、大阪ホークスドリームやソウル・ヘチはリーグ戦への参加を休止した。2012年度終了後、大阪ホークスドリームはリーグを脱退してクラブチームに変更、神戸サンズと大和侍レッズは活動を休止した。このため、リーグ発足当時から残っている球団は紀州レンジャーズのみとなっていた。2013年度は紀州・兵庫・06BULLSの3球団であった。シーズン終了後、紀州と他の2球団が運営方針をめぐって対立し、全球団が脱退したためリーグは事実上活動を停止した。兵庫と06BULLSは、新たにBASEBALL FIRST LEAGUE(ベースボール・ファースト・リーグ、現・さわかみ関西独立リーグ)を設立した。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ジャパン・フューチャーベースボールリーグは、下記の2球団によって構成されていた。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2010年シーズンより開始。三重スリーアローズは当初関西独立リーグに加盟する予定だったが、関西独立リーグの既存球団との間に選手の給与水準やリーグ運営方針に関して意見や理念の相違があったとされ、その為に2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決定し、独自の独立リーグを結成する運びとなった。10月13日に新リーグの名称を「ジャパン・フューチャーリーグ」と発表。同年12月1日に「ジャパン・フューチャーベースボールリーグ」に改称した。また関西独立リーグの初代王者である大阪ゴールドビリケーンズも、三重スリーアローズと同様に、2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決め、ジャパン・フューチャーベースボールリーグへの参加を表明した。2010年は四国・九州アイランドリーグとの交流戦も加えてリーグ戦を実施した。しかし、大阪球団の選手の不祥事によりスポンサーが撤退するなど経営問題が浮上し、2010年9月に2011年度のリーグ休止を決定した。上記の通り、三重は2011年度は四国アイランドリーグplusに参加した。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "関西独立リーグ(さわかみ関西独立リーグ)は、下記の5球団によって構成される。発足から2018年12月3日までのリーグ名は「BASEBALL FIRST LEAGUE」だった。2018年12月4日より「関西独立リーグ」にリーグ名を変更した。2020年のシーズン開始後に同年シーズン(12月末日まで)は命名権売却による「さわかみ関西独立リーグ」の名称を使用すると発表された。発表のないまま2021年1月以降もリーグウェブサイト等では「さわかみ関西独立リーグ」の名称が使用されていたが、同年4月になって命名権契約を更新したことが発表された。2022年時点では、旧リーグと同じ「KANDOK」の略称をリーグウェブサイトにて使用している。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2013年12月にリーグの運営方針をめぐって紀州と対立した兵庫ブルーサンダーズと06BULLSによって設立が表明され、2014年になって設立された姫路GoToWORLDを加えて、2014年4月に開幕した。基本的に選手が無給という点は、解散時の初代関西独立リーグと同じである。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2016年度限りで姫路が活動を休止し、一方2017年度より和歌山ファイティングバーズ(現・和歌山ウェイブス)が加入したため、2018年度まで3球団で運営された。2019年度より堺市をフランチャイズとする堺シュライクスが加入し、4球団での運営となる。2023年からは淡路島に本拠を置く新球団淡路島ウォリアーズが加入し、5球団でリーグ戦を実施している。さらに2024年度からは姫路イーグレッターズ(Egretters)が参加する予定である(かつての姫路GoToWorldとは別球団)。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "北海道ベースボールリーグは、2023年は下記の3チームにより運営される。2020年よりリーグ戦を実施し、初年度は富良野と美唄の2チームで公式戦を実施した。2021年シーズンより士別・石狩の2チームが加わっている。選手はシーズン中も球団の地元で就労しながら練習・試合をおこない、当初はチームに監督を置かないなど、過去の独立リーグとは異なる方針を採用している。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2021年シーズン終了後の同年10月6日に、美唄・士別・石狩の3球団が9月30日をもってリーグを脱退し、新リーグを結成することが明らかにされた。北海道ベースボールリーグは、残る富良野に加え、すながわリバーズ、滝川市の新球団で2022年の運営をおこなうとした。滝川市の新球団は後日「滝川プレインウィンズ」に名称決定したが、本拠地を滝川市から奈井江町などに変更したことに伴い「奈井江・空知ストレーツ」に再度変更された。2022年シーズンからは監督を置いている。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "離脱した3球団側は11月5日にリーグ設立記者会見を開き、リーグ名を北海道フロンティアリーグと発表した。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2023年シーズンより「旭川ビースターズ」がリーグ戦に参加している。一方、前年加入した奈井江・空知はシーズン開幕前の3月31日に、前年シーズンでのリーグ脱退と解散を発表した。2023年シーズン終了後には、すながわの当シーズン限りでの脱退が発表された。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "九州アジアリーグは2021年よりリーグ戦を実施し、2023年は下記の4チームにより運営される。初年度は火の国と大分の2チームであった。2021年9月より命名権による「ヤマエ久野 九州アジアリーグ」の通称を使用し、ヤマエ久野の持株会社化に伴って2022年11月に「ヤマエグループ 九州アジアリーグ」に通称を変更した。2022年に北九州(同年の正式名称は「福岡北九州フェニックス」)、2023年に宮崎がそれぞれ加入している。2024年からは佐賀県を拠点として東南アジア出身選手で構成される佐賀インドネシアドリームズが「準加盟球団」として、一部の公式戦に参加する予定である。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "北海道フロンティアリーグは2021年に設立され、2022年は下記の3チームにより公式戦を開催。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ベイサイドリーグは、「日本海オセアンリーグ」の名称で2021年に設立され、2022年より公式戦を開催している。発足当初はベースボール・チャレンジ・リーグの西地区から離脱した4球団で構成されていた。しかし、福井ネクサスエレファンツは2022年限りで活動を休止する一方、2023年からリーグ戦に参加する前提で千葉県に新球団を設立することが2022年10月に発表された。さらに神奈川県を本拠とする「YKSホワイトキングス」の加入と滋賀GOブラックスの1年間の活動休止を発表した後、2023年は千葉・YKSによる「ベイサイドリーグ」に再編することとなった。残る富山と石川はリーグを離脱して、次節の日本海リーグを結成した。2023年は下記の2チームで公式戦を開催している。しかし、同年シーズン終了後に千葉は2024年はリーグに参加せず、2025年以降のベースボール・チャレンジ・リーグ正式加盟を目指すと発表した。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "なお日本海オセアンリーグ時代に1年間の活動休止が発表された滋賀の2024年以降の処遇については公表されていない。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "日本海リーグは、2023年に設立され、下記の2球団で公式戦を開催している。", "title": "独立リーグ" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2020年度より始動する琉球ブルーオーシャンズは上記の独立リーグには加盟せず、NPBが参入枠を拡大した場合に加盟することを目標とする。試合はNPBのファームや上記の独立リーグのチームのほか、アジアのプロ野球リーグのチームとの交流戦を実施する意向を持っていた。しかし、2022年11月に、今後の活動を一時休止すると発表した。", "title": "独立リーグ非加盟チーム" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "なお、リーグには非加盟のまま、琉球は日本独立リーグ野球機構に賛助会員として加盟していたが、2022年2月に除名された。", "title": "独立リーグ非加盟チーム" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "NPBで現役を終えた引退選手によるリーグであるプロ野球マスターズリーグは、下記の5球団によって構成される。", "title": "プロ野球マスターズリーグ" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2001年(2001-2002年シーズン)よりNPBで現役を終えた選手によって、主にプロ野球のオフシーズンである冬季にリーグ戦を開催していたが、2008-2009年シーズンをもってリーグ戦は休止(以後、オールスター戦のみ開催)。その後はリーグ戦再開を目指しているが、2019年現在再開には至っていない。", "title": "プロ野球マスターズリーグ" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "女性によるプロ野球リーグとして、1950 - 1951年にかけて日本女子野球連盟が存在した。", "title": "女子プロ野球" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2010年より日本女子プロ野球機構によるリーグが開始され、59年ぶりに女子プロ野球リーグが復活した。2020年までリーグ戦が開催されていたが、2021年7月21日に所属選手が0人となったため、以後は事実上の消滅状態となっている。", "title": "女子プロ野球" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "一方、2009年に発足した関西独立リーグにおいて、吉田えりが神戸9クルーズに入団し、男子リーグでプレーする初の女子プロ野球選手となった(同年限りで退団)。吉田は2013年に石川ミリオンスターズに移籍した。2010年に、増田里絵が明石レッドソルジャーズに入団し、2人目となった。NPB及び四国アイランドリーグplusでも女子選手のプレーが認められているが、2021年現在まで所属した女子選手は現れていない(NPBでは過去にオリックスや近鉄で女性が入団テストを受験した事例がある)。", "title": "女子プロ野球" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "ドーピングに対しては平成19年(2007年)から機構独自の検査を行い、罰則を設けている。日本アンチ・ドーピング機構(JADA)には加盟していない。2017年度シーズンからは血液検査も実施される。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2003年に「暴力団等排除宣言」。12球団や球場等で「プロ野球暴力団等排除対策協議会」を結成。2016年、前年に野球賭博問題があり、改めて反社会的勢力の遮断の必要性があるとのことから、各球団に身元確認などを強化するよう要請。野球協約の改定も検討課題と報じられた。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "古くは日本運動協会と天勝野球団が、1923年にソウルでプロ球団同士の海外試合を行っている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "プロ野球リーグ戦開始後、初の公式戦海外遠征開催は、1940年に行われた満州リーグ戦である。満州(現在の中華人民共和国・東北部)に参加全9チームが総遠征し、7-8月にかけての夏季リーグ戦(事前の練習試合・オープン戦含む)を開催した。翌1941年も開催する予定だったが日中戦争の戦局悪化の影響で取りやめとなった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "戦後は1961年5月20日に当時アメリカ占領下の沖縄・奥武山野球場で西鉄ライオンズ対東映フライヤーズ戦で戦後初の海外遠征が開催された(1962年6月13、14日にも阪急ブレーブス対大毎オリオンズ戦が同じく沖縄遠征を実施)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2002年5月14、15日には台湾(中華民国)の台北市・天母棒球場で福岡ダイエーホークス対オリックス・ブルーウェーブ戦が開催された。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2005年にも韓国のソウルの蚕室(チャムシル)球場と釜山の社稷(サジク)球場で千葉ロッテマリーンズ対福岡ソフトバンクホークス戦が6月28、29日に予定されていたが、韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズが蚕室球場を本拠地として使っているため、空き日がなく試合が不可能となり、代わりに仁川の文鶴(ムナク)球場で試合することに決めたが、採算が取れないと判断し、同年3月9日に開催取りやめを発表した(実際はロッテの本拠地・千葉マリンスタジアムで開催)。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このほか、2014年の開幕戦「巨人対阪神」を日本プロ野球創立80年記念としてアメリカ合衆国で開催する計画もあったが、予算その他の理由により同年度の開催を見送っている。なおアメリカ開催に際しては外務省出身だった当時のNPBコミッショナー・加藤良三が強く熱望していたといわれている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "NPBによるプロ野球中継は対巨人戦ナイターをメインとして、黎明期からラジオやテレビ(NHK・各民放)の地上波で全国放送されてきたものの、2000年代になると視聴率低迷とBSデジタル放送・CS放送の普及により地上波放送は激減した。衛星放送の多チャンネル化で民放系BS放送局やJ SPORTS、トゥエルビなどで、特にパ・リーグ主催試合を中心に放送が増えた。2010年代後半からはDAZN、パ・リーグTVなどインターネットで配信する事例も多くなった。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "報道量上位競技では地上波でもプロ野球の比率が非常に高く、視聴率の低さに対して報道量は多い。特に2007年から2009年にかけては、2位3位に対して約2倍の報道量である。近年の全国放送は開幕戦や週末デーゲーム、日本シリーズなど少数だが、関東地方以外の本拠地を持つ球団では地元局でのローカル中継は随時放送されており、視聴率も各地で高視聴率を獲得している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ラジオでは、2007年にはラジオ大阪が国内中波ラジオ局としては初めてプロ野球中継から撤退している。また、2012年には、地上波の視聴率が低いことから、読売ジャイアンツが日本シリーズに進出したにもかかわらず、日本テレビ系列のラジオ日本が日本シリーズの放送を行わなかった。さらに、2017年にはTBSラジオが関東キー局では初となるプロ野球中継から全面撤退している。1980年代まではラジオNIKKEI(当時はラジオたんぱ)もプロ野球中継を編成していた。衛星放送局の日本BS放送(BS11)では、四国・九州アイランドリーグとベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)による一部の公式戦も中継していた(現在はNPBを含め、BS11でのプロ野球・セミプロ野球の放送はしていない)。NPBでは基本的にオープン戦、公式戦およびクライマックスシリーズの放映権は主催各球団が管理している。日本シリーズ、オールスターゲームの放映権は日本野球機構が管理する。", "title": "その他" } ]
日本のプロ野球(にほんのプロやきゅう)では、日本で行われるプロ野球全般について述べる。
{{pathnav|frame=1|野球|[[プロ野球]] / [[日本の野球]]}} '''日本のプロ野球'''(にほんのプロやきゅう)では、[[日本]]で行われる[[プロ野球]]全般について述べる。 == 歴史 == {{See also|#各年の日本プロ野球}} 以下のうち、[[1949年]]の[[日本野球機構]](NPB)発足以降で特記のないものはNPBの事象を指す。 * [[1871年]]9月30日:横浜の[[外国人居留地|外国人居留民]]とアメリカ軍艦「[[コロラド級戦艦|コロラド号]]」の乗員との間で、現在の[[横浜スタジアム]]を球場として日本で初となる[[野球]]の試合が行われた。 *[[1872年]]頃:第一番中学(現在の[[東京大学]])の外国人教師[[ホーレス・ウィルソン]]によって、学生たちの間に野球が広まる。 * [[1907年]]:[[慶応大学]]対ハワイ・セントルイスの一戦で初の有料試合。 * [[1908年]]:アメリカのプロ野球チーム([[マイナーリーグ]]主体)来日。 * [[1909年]]:[[羽田運動場|羽田球場]]建設。日本運動倶楽部設立。 * [[1920年]]:[[日本運動協会]]設立。'''日本のプロ野球の始まり'''。次いで[[天勝野球団]]が設立される(プロ球団を宣言するのは1923年)。日本運動協会は[[朝鮮]]・[[満州]]にも遠征し人気を博す。 * [[1923年]]:[[関東大震災]]の震災被害により日本運動協会・天勝野球団ともに解散。日本運動協会は[[阪神急行電鉄]]により[[日本運動協会#宝塚運動協会|宝塚運動協会]]として再結成。 * [[1929年]]:宝塚運動協会解散。 * [[1934年]]:[[読売ジャイアンツ|大日本東京野球倶楽部]](→東京巨人軍)が設立。 * [[1935年]]:[[阪神タイガース|大阪野球倶楽部]](→大阪タイガース)が設立。 * [[1936年]]:[[中日ドラゴンズ|大日本野球連盟名古屋協会]](→名古屋軍)、[[翼軍|東京野球協会]](→東京セネタース)、「[[名古屋金鯱軍|名古屋野球倶楽部]](→名古屋金鯱軍)、[[オリックス・バファローズ|大阪阪急野球協会]](→阪急軍)、[[松竹ロビンス|大日本野球連盟東京協会]](→大東京軍)が発足。これらの球団と巨人・大阪により、2月5日、日本初のプロ野球リーグとして'''[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟]]'''設立。ペナントレース(公式戦)が始まり、日本における全国規模の社会人スポーツリーグ第1号となった。連盟が設立された[[2月5日]]はのちに「プロ野球の日」と定められる。2月9日、名古屋の[[鳴海球場]]で、東京巨人軍・名古屋金鯱軍がプロ野球初の対抗試合を実施した<ref>後楽園の二十五年</ref>。 * [[1939年]]:日本職業野球連盟が'''日本野球連盟'''に改称。 * [[1944年]]:日本野球連盟が'''日本野球報国会'''に改称。しかし同年中に活動休止。 ** [[沢村栄治]]など多くのプロ野球選手も[[第二次世界大戦]]に動員され、戦死者も多数出た。[[ヴィクトル・スタルヒン]](ロシア生まれ)が敵性人として抑留、のち追放された(戦後に復帰)。 * [[1945年]] ** [[1月1日]]:[[1月5日|5日]]:[[1945年の正月大会|正月大会]]が関西で開催。 * 1945年(戦後) ** [[11月6日]]:日本野球連盟の復活宣言。 ** [[11月23日]]:東西対抗戦開催。 * [[1946年]]:ペナントレース再開。 * [[1947年]]:日本では2例目のプロ野球リーグとして[[国民野球連盟]]が発足。 * [[1948年]] ** この年、日本プロ野球初の[[フランチャイズ]]制度が暫定導入。 ** 2月:国民野球連盟が解散。 ** [[8月17日]]:日本プロ野球初の[[ナイター|夜間試合]](ナイトゲーム)が、[[横浜公園平和野球場]](ルー・ゲーリッグスタジアム)にて開催。 * [[1949年]]:[[プロ野球再編問題 (1949年)|プロ野球再編問題]]。日本野球連盟が'''[[セントラル・リーグ]]'''と'''[[パシフィック・リーグ]]'''に分裂し、両リーグを統括する'''[[日本野球機構]](NPB)'''が発足。セントラルは8球団、パシフィックは7球団体制。 * [[1950年]]:各リーグ優勝チームによる選手権試合[[日本選手権シリーズ|日本ワールドシリーズ]](1954年から「'''日本選手権シリーズ'''」)を開始。[[1950年の日本シリーズ|第1回]]優勝は毎日オリオンズ。 * [[1951年]]:第1回[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]開催。 * [[1952年]]:フランチャイズ制度が正式に導入。 * [[1954年]]:職業野球団に対して支出した広告宣伝費等の取扱いの特例税制優遇制度施行。 * [[1955年]]:ファーム(二軍)リーグとして[[イースタン・リーグ]]と[[ウエスタン・リーグ]]が発足。 * [[1958年]]:この年からセ・パ両リーグが6球団ずつの計12球団による体制となる。以降、運営母体の交代や球団の入れ替わりがありつつも12球団制が維持されている。 * [[1959年]]:[[6月25日]]、初の[[天覧試合]]([[後楽園球場]]での読売ジャイアンツ対大阪タイガース)。 * [[1961年]]:[[柳川事件]]。社会人野球協会(現・[[日本野球連盟]]、先述のプロ組織とは別)はプロ退団者の受け入れを拒否。 * [[1965年]]:第1回・[[プロ野球ドラフト会議]](新人選手選択会議)。 * [[1969年]]:[[黒い霧事件 (日本プロ野球)|黒い霧事件]]。 * [[1973年]]:[[プロ野球再編問題 (1973年)|プロ野球再編問題]]。[[北海道日本ハムファイターズ|日拓ホームフライヤーズ]]と[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]の合併計画が起こる(後に破談)。 * [[1974年]]:[[セーブ]]記録の採用。 * [[1975年]]:パ・リーグが[[指名打者]]制導入。 * [[1978年]]:[[江川事件]]。 * [[1980年]]:[[日本プロ野球選手会]]が[[労働組合]]として認可。 * [[1985年]]:パ・リーグが[[予告先発]]導入。当初は日曜日の試合のみ。 * [[1993年]]:[[逆指名制度]]および[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント制度]]導入。 * [[1994年]]:パ・リーグの予告先発を全試合で導入。 * [[1997年]]:[[プロ野球脱税事件]]。10選手が[[脱税]]で起訴される。 * [[1999年]]:柳川事件以降中止されていた、社会人野球協会のプロ退団者受け入れを再開。 * [[2004年]] ** パ・リーグで[[プレーオフ]]制度導入。 ** [[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]。[[大阪近鉄バファローズ]]と[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]の合併に端を発して1リーグ移行計画にまで発展。[[9月]]には選手会による史上初の[[プロ野球ストライキ|ストライキ]]が発生した。 * [[2005年]] ** 公式戦で初の[[セ・パ交流戦]]を実施。 ** [[独立リーグ]]の[[四国アイランドリーグplus|四国アイランドリーグ]]が発足。 * [[2006年]] **[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|ワールド・ベースボール・クラシック]]で、プロ選手(MLB所属2名を除いて全員NPB所属選手)によって構成された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表チーム]]が初優勝する。 * [[2007年]] ** セ・リーグでもプレーオフ制度が導入され、両リーグとも[[クライマックスシリーズ]]として開催。 ** 独立リーグの[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|北信越ベースボール・チャレンジ・リーグ]]が発足。 * [[2008年]] ** 四国アイランドリーグが四国・九州アイランドリーグに改称。 ** 北信越ベースボール・チャレンジ・リーグがベースボール・チャレンジ・リーグに改称。 * [[2009年]] ** 日本初のNPBと大学の選抜チーム同士による「[[U-26 NPB選抜 対 大学日本代表]]」を開催。 ** 独立リーグの[[関西独立リーグ (初代)|関西独立リーグ(初代)]]が発足。 * [[2010年]] **公式戦で[[本塁打]]の判定に[[ビデオ判定]]を導入。 **独立リーグの[[ジャパン・フューチャーベースボールリーグ]]が発足。しかし同年末に活動休止。 * [[2011年]] ** プロ野球球団と大学野球チームの練習試合が、3月と8月に限り解禁となる<ref>{{cite news |title=解禁初日の3月1日、巨人VS中大!原監督も大歓迎 |newspaper=スポーツ報知 |date=2011-02-18 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20110218-OHT1T00030.htm |accessdate=2019-05-27|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110220161515/http://hochi.yomiuri.co.jp/giants/news/20110218-OHT1T00030.htm |archivedate= 2011-02-20 }}</ref>。 ** 公式試合球を12球団で統一。 ** セ・パで分かれていたプロ野球審判員を統一。 ** [[東日本大震災]]の影響を受けて、当初3月25日としていた開幕日を両リーグとも4月12日に延期([[開幕戦#東日本大震災電力不足問題|東日本大震災電力不足開幕延期問題]])<ref>{{Cite web|和書|url= http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/03/1303864.htm |title= 社団法人日本野球機構に対する通知について |publisher= 文部科学省 |date= 2011-03-18 |accessdate= 2019-05-27 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110321174745/http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/23/03/1303864.htm |archivedate= 2011-03-21 }}</ref><ref>{{Cite news|url= http://www.sanspo.com/baseball/news/110324/bsr1103240506000-n1.htm |title= セ・リーグ折れた!4・12同時開幕へ最終調整 |newspaper= SANSPO.COM |publisher= 産経デジタル |date= 2011-03-24 |accessdate= 2019-05-27 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20110326180400/http://www.sanspo.com/baseball/news/110324/bsr1103240506000-n1.htm |archivedate= 2011-03-26 }}</ref>。また、4月2日と3日のオープン戦にチャリティーの冠をつけ慈善試合とし、2日の試合では6試合合計5万人以上の観客を集めた<ref>{{Cite news|url= https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/04/03/kiji/K20110403000555200.html |title= 斎藤&田中、愛のタッグ…2人で1つの募金箱 |newspaper= Sponichi Annex |publisher= スポーツニッポン新聞社 |date= 2011-04-03 |accessdate= 2019-05-27 }}</ref>。 ** [[野球日本代表]](通称「侍ジャパン」)の常設化を決定。 ** 四国・九州アイランドリーグが四国アイランドリーグplusに改称。 * 2012年:セ・リーグも予告先発を導入<ref>{{cite news |title=きっかけは原監督…セ予告先発導入 |newspaper=[[デイリースポーツ]] |date=2012-03-09 |url=http://www.daily.co.jp/baseball/2012/03/09/0004869421.shtml |accessdate=2019-05-27|archiveurl= https://web.archive.org/web/20120309123406/https://www.daily.co.jp/baseball/2012/03/09/0004869421.shtml |archivedate= 2012-03-09 }}</ref>。 * 2013年 ** 2011年から東日本大震災による電力不足対策として行われてきた、「試合開始から3時間30分を経過して9回終了時点で同点の場合は試合終了とする」ルールを撤廃、再び時間無制限・延長12回までとする。 ** 関西独立リーグが活動休止。 * 2014年 ** NPB80周年ベストナインが発表され、投手に[[別所毅彦]]、捕手に[[野村克也]]、一塁手に[[王貞治]]、二塁手に[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]と[[高木守道]]、三塁手に[[長嶋茂雄]]、遊撃手に[[吉田義男]]、外野手に[[張本勲]]と[[山内一弘]]と[[山本浩二]]と[[福本豊]]が選出された<ref>{{Cite web|和書|url= http://npb.jp/award/2014/2014awards_bno80y.html |title= NPB80周年ベストナイン |work= 2014年 表彰選手 |publisher= 日本野球機構 |accessdate= 2019-05-27 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.sankei.com/sports/news/141126/spo1411260023-n1.html |title= 【プロ野球】王、長嶋氏らベストナイン NPB80周年記念 |newspaper= 産経ニュース |publisher= 産経デジタル |date= 2014-11-26 |accessdate= 2019-05-27 }}</ref><ref>{{Cite news|url= https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20141126-1401263.html |title= 長嶋、王、野村ら80周年ベストナイン |newspaper= nikkansports.com |publisher= 日刊スポーツ新聞社 |date= 2014-11-26 |accessdate= 2019-05-27 }}</ref>。 ** 独立リーグの[[関西独立リーグ (2代目)|ベースボール・ファースト・リーグ]]が発足。 * 2015年:[[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題|野球賭博問題]]<ref>{{cite news |title=巨人、福田投手を熊崎コミッショナーに告発 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |date=2015-10-07 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/1549585.html |accessdate=2017-02-26}}</ref>。当該球団のほか複数の球団においても金銭の授受が発覚した<ref>{{cite news |title=DeNA「高校野球くじは協約違反せず」身内に甘い?処分ナシ |newspaper=[[東京スポーツ]] |date=2016-03-21 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/225419 |accessdate=2017-02-26}}</ref><ref>{{cite news |title=阪神も高校野球くじ判明、1、2軍選手20人弱が関与と公表 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2016-03-22 |url=https://www.sanspo.com/article/20160322-K3FORG4Q6VKPRI5VZHMIYIRDI4/ |accessdate=2017-02-26}}</ref>。 * 2016年:[[コリジョンルール]]の採用、ビデオ判定の運用範囲拡大(本塁クロスプレー)<ref>{{cite news |title=「衝突禁止、ビデオ拡大」新ルールでプロ野球が変わる |newspaper=読売新聞 |date=2016-03-25 |url=https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160325-OYT8T50001/ |accessdate=2019-05-27|archiveurl= https://web.archive.org/web/20160325031331/http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20160325-OYT8T50001.html |archivedate= 2016-03-25 }}</ref>。 * 2018年:ビデオ判定にリクエスト制度を導入。監督のみ行使でき、1試合で最大2回まで(延長戦では10回表以降で1回のみ)可能だが、要求によって判定が翻った場合は回数は減らない<ref>{{cite news |title=来季導入「リクエスト」1試合2回失敗まで行使可能 |newspaper=[[日刊スポーツ]] |publisher=[[日刊スポーツ新聞社]] |date=2017-11-14 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201711140000083.html |accessdate=2018-04-21}}</ref>。 * 2019年:ベースボール・ファースト・リーグが関西独立リーグ(2代目)に改称。 * 2020年 ** 世界的に[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]が感染拡大する中、[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]と合同で対策連絡会議を設置。同会議での専門家チームからの勧告を受けてレギュラーシーズンの開幕を約3か月遅れの6月19日まで延期し、試合数は当初予定していた143から120に削減した<ref name="kaimaku" />。感染リスクを避けるため、当面の間は無観客試合での開催とすることを決定した<ref name="kaimaku">[https://www.nikkansports.com/m/baseball/news/202005250000006_m.html?mode=all プロ野球6月19日の開幕を正式発表!当面は無観客]</ref>(7月10日から人数制限のうえで有観客試合を再開<ref>{{Cite news | title = プロ野球、応援は大リーグ式? きょうから有観客試合 | agency = [[朝日新聞]] | date = 2020-07-10 | url = https://www.asahi.com/articles/ASN7975XXN79UTQP007.html}}</ref>)。 ** 交流戦、オールスターゲームは中止となり、クライマックスシリーズについてもセ・リーグは中止、パ・リーグは1位と2位による1ステージのみに規模を縮小した。 ** 独立リーグの[[北海道ベースボールリーグ]]が発足。 * 2021年 ** 新型コロナウイルス感染拡大により、全試合延長戦なし・9回打ち切りとする<ref>{{Cite news | title = 今季は9回打ち切り ナイターも30分ほど前倒し | newspaper = [[日刊スポーツ]] | date = 2021-3-22 | accessdate = 2021-3-30 | url = https://www.nikkansports.com/baseball/news/202103220000577.html}}</ref>。1年延期された[[2020年東京オリンピック]]の開催に伴い、準備や競技を開催する球場を使用できなくなったため、変則日程が組まれた。 ** 独立リーグの[[九州アジアリーグ]]が発足。 * 2022年 ** 規定9回・延長12回による試合を再開。 ** 独立リーグの[[北海道フロンティアリーグ]]、[[ベイサイドリーグ|日本海オセアンリーグ]]が発足。 * 2023年 ** 日本海オセアンリーグがベイサイドリーグに改称。 ** 独立リーグの[[日本海リーグ]]が発足。 * 2024年 ** イースタン・リーグに[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|新潟アルビレックスBC]]、ウエスタン・リーグに[[ハヤテ223]]が参入(予定)。 == 日本野球機構(NPB) == {{座標一覧}} [[日本野球機構]](NPB)では1軍公式戦として[[セントラル・リーグ]]と[[パシフィック・リーグ]]、ファーム公式戦として[[イースタン・リーグ]]と[[ウエスタン・リーグ]]が開催されているほか、[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]、[[日本選手権シリーズ]]などを主催している。日本で単に「プロ野球」と言えば通常これらを指す。 === NPBのリーグ・球団 === 日本野球機構(NPB)傘下にはセントラル・リーグ(セ・リーグ)とパシフィック・リーグ(パ・リーグ)の2リーグがある。 現在は両リーグがそれぞれ6球団を擁し、これらを指して一般に「'''12球団'''」と呼ばれる<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/1547540.html 日刊スポーツ(2015年10月24日)]</ref>。かつては両リーグとも最大で8球団が在籍した<ref group="注釈">ただし各リーグ8球団だった時期は異なるため、「16球団」が存在したことはない(最大はセが8球団、パが7球団だった1950年の「15球団」)。</ref>が、黎明期に弱小球団が淘汰された結果、1950年代には現在の数となっている。 {|class="wikitable sortable" style="text-align:center; font-size:85%;" !style="white-space: nowrap;"|{{縦書き|リーグ}} !style="white-space: nowrap;" class="unsortable"|球団名 !{{Jbr|[[プロ野球地域保護権|保護地域]]|{{Small|(人口)}}}} !style="white-space: nowrap;"|本拠地球場 !{{Jbr|収容|人数|{{Small|(人)}}}} !{{Jbr|平均|観客数|{{Small|(人/試合)}}}} !class="unsortable"|画像 |- |rowspan="6" style="background-color:lightgreen;"|{{Abbr|[[セントラル・リーグ|セ]]|セントラル・リーグ}} |style="text-align:left"|[[ファイル:Yomiuri Giants insignia.svg|20px|link=読売ジャイアンツ]] [[読売ジャイアンツ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Yomiuri Giants'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/東京都|東京都}}|8|0}}</span>[[東京都]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/東京都|東京都}}}}) |<span style="display:none">13105-9</span>[[東京ドーム]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[文京区]]、{{ウィキ座標|35|42|21|N|139|45|7|E|region:JP|位置|name=読売ジャイアンツ(東京ドーム)}})</span> |46,000 |32,199 |[[ファイル:Tokyo Dome 2007-12.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Tokyo Yakult Swallows insignia.svg|20px|link=東京ヤクルトスワローズ]] [[東京ヤクルトスワローズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Tokyo Yakult Swallows'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/東京都|東京都}}|8|0}}</span>東京都<br />({{formatnum:{{自治体人口/東京都|東京都}}}}) |<span style="display:none">13104-1</span>[[明治神宮野球場]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[新宿区]]、{{ウィキ座標|35|40|28.4|N|139|43|1.5|E|region:JP|位置|name=東京ヤクルトスワローズ(明治神宮野球場)}})</span> |34,572 |22,741 |[[ファイル:Meiji Jingu Stadium-4.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Yokohama DeNA BayStars insignia.svg|20px|link=横浜DeNAベイスターズ]] [[横浜DeNAベイスターズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Yokohama DeNA BayStars'')</span> |style="white-space: nowrap;"|<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/神奈川県|神奈川県}}|8|0}}</span>[[神奈川県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/神奈川県|神奈川県}}}}) |<span style="display:none">14100-3</span>[[横浜スタジアム]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]、{{ウィキ座標|35|26|36.18|N|139|38|24.1|E|region:JP|位置|name=横浜DeNAベイスターズ(横浜スタジアム)}})</span> |34,046 |24,708 |[[ファイル:Yokohama_stadium_2020_wing.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Chunichi Dragons insignia.svg|20px|link=中日ドラゴンズ]] [[中日ドラゴンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Chunichi Dragons'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/愛知県|愛知県}}|8|0}}</span>[[愛知県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/愛知県|愛知県}}}}) |<span style="display:none">23100-2</span>[[ナゴヤドーム]]<br />(バンテリンドーム ナゴヤ)<br /><span style="font-size: 90%;">([[名古屋市]][[東区 (名古屋市)|東区]]、{{ウィキ座標|35|11|9.5|N|136|56|50.88|E|region:JP|位置|name=中日ドラゴンズ(ナゴヤドーム)}})</span> |38,414 |25,459 |[[ファイル:ナゴヤドーム - panoramio (2).jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Hanshin tigers insignia.PNG|20px|link=阪神タイガース]] [[阪神タイガース]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hanshin Tigers'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/兵庫県|兵庫県}}|8|0}}</span>[[兵庫県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/兵庫県|兵庫県}}}}) |<span style="display:none">28204-9</span>[[阪神甲子園球場]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[西宮市]]、{{ウィキ座標|34|43|16.43|N|135|21|41.91|E|region:JP|位置|name=阪神タイガース(阪神甲子園球場)}})</span> |47,508 |36,370 |[[ファイル:Hanshin Koshien Stadium2.JPG|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Hiroshima Toyo Carp insignia.svg|20px|link=広島東洋カープ]] [[広島東洋カープ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hiroshima Toyo Carp'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/広島県|広島県}}|8|0}}</span>[[広島県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/広島県|広島県}}}}) |<span style="display:none">34100-2</span>広島市民球場<br />([[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]])<br /><span style="font-size: 90%;">([[広島市]][[南区 (広島市)|南区]]、{{ウィキ座標|34|23|30.76|N|132|29|5.03|E|region:JP|位置|name=広島東洋カープ(広島市民球場)}})</span> |33,000 |27,732 |[[ファイル:MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima facade(2014).jpg|none|100px]] |- |rowspan="6" style="background-color:lightblue;"|{{Abbr|[[パシフィック・リーグ|パ]]|パシフィック・リーグ}} |style="text-align:left"|[[ファイル:Hokkaido Nippon-Ham Fighters insignia.svg|20px|link=北海道日本ハムファイターズ]] [[北海道日本ハムファイターズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Hokkaido Nippon-Ham Fighters'')</span> |style="white-space: nowrap;"|<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/北海道|北海道}}|8|0}}</span>[[北海道]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/北海道|北海道}}}}) |<span style="display:none">01100-2</span>[[エスコンフィールドHOKKAIDO]]<br /><span style="font-size: 90%;">([[北広島市]]、{{ウィキ座標|42|59|23|N|141|32|58|E|region:JP|位置|name=北海道日本ハムファイターズ(エスコンフィールドHOKKAIDO)}})</span> |35,000 | - |[[ファイル:エスコンフィールド北海道を、特徴的なガラス張りの部分を撮影した画像.jpg|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Rakuten eagles insignia.png|20px|link=東北楽天ゴールデンイーグルス]] [[東北楽天ゴールデンイーグルス]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Tohoku Rakuten Golden Eagles'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/宮城県|宮城県}}|8|0}}</span>[[宮城県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/宮城県|宮城県}}}}) |<span style="display:none">04100-9</span>[[宮城球場]]<br />(楽天モバイルパーク宮城)<br /><span style="font-size: 90%;">([[仙台市]][[宮城野区]]、{{ウィキ座標|38|15|22.09|N|140|54|9.24|E|region:JP|位置|name=東北楽天ゴールデンイーグルス(宮城球場)}})</span> |30,508 |18,748 |[[ファイル:Rakuten Mobile Park Miyagi Entrance.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Seibu lions insignia.png|20px|link=埼玉西武ライオンズ]] [[埼玉西武ライオンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Saitama Seibu Lions'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/埼玉県|埼玉県}}|8|0}}</span>[[埼玉県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/埼玉県|埼玉県}}}}) |<span style="display:none">11208-9</span>[[西武ドーム]]<br />(ベルーナドーム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[所沢市]]、{{ウィキ座標|35|46|7.02|N|139|25|13.67|E|region:JP|位置|name=埼玉西武ライオンズ(西武ドーム)}})</span> |31,552<ref>{{Cite web|和書|title=ベルーナドーム概要 |url=https://sp.seibulions.jp/stadium/dome.html |website=埼玉西武ライオンズ |accessdate=2022-10-04}}</ref> |16,837 |[[ファイル:Seibu Dome baseball stadium - 01.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Chiba Lotte Marines insignia.svg|20px|link=千葉ロッテマリーンズ]] [[千葉ロッテマリーンズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Chiba Lotte Marines'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/千葉県|千葉県}}|8|0}}</span>[[千葉県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/千葉県|千葉県}}}}) |<span style="display:none">12100-2</span>[[千葉マリンスタジアム]]<br />(ZOZOマリンスタジアム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[千葉市]][[美浜区]]、{{ウィキ座標|35|38|42.42|N|140|1|51.05|E|region:JP|位置|name=千葉ロッテマリーンズ(千葉マリンスタジアム)}})</span> |30,118<ref>{{Cite web|和書|title=ZOZOマリンスタジアム概要 |url=https://sp.marines.co.jp/stadium/ballpark/guide.html |website=千葉ロッテマリーンズ |accessdate=2022-10-04}}</ref> |20,685 |[[ファイル:QVC Marine Field, front.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[File:Orix Buffaloes insignia.svg|20px|link=オリックス・バファローズ]] [[オリックス・バファローズ]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''ORIX Buffaloes'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/大阪府|大阪府}}|8|0}}</span>[[大阪府]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/大阪府|大阪府}}}}) |<span style="display:none">27100-4</span>[[大阪ドーム]]<br />(京セラドーム大阪)<br /><span style="font-size: 90%;">([[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]、{{ウィキ座標|34|40|9.85|N|135|28|34.37|E|region:JP|位置|name=オリックス・バファローズ(大阪ドーム)}})</span> |36,220<ref>{{Cite web |title=ARENA |url=https://www.kyoceradome-osaka.jp/use_guide/arena/ |website=京セラドーム |accessdate=2022-10-04}}</ref> |19,896 |[[ファイル:Kyocera Dome Osaka1.jpg|none|100px]] |- |style="text-align:left"|[[ファイル:Fukuoka SoftBank Hawks insignia.svg|20px|link=福岡ソフトバンクホークス]] [[福岡ソフトバンクホークス]]<br /><span style="font-size: 90%;">(''Fukuoka SoftBank Hawks'')</span> |<span style="display:none">{{padleft:{{自治体人口/福岡県|福岡県}}|8|0}}</span>[[福岡県]]<br />({{formatnum:{{自治体人口/福岡県|福岡県}}}}) |<span style="display:none">40130-7</span>[[福岡ドーム]]<br />(福岡PayPayドーム)<br /><span style="font-size: 90%;">([[福岡市]][[中央区 (福岡市)|中央区]]、{{ウィキ座標|33|35|43.38|N|130|21|43.83|E|region:JP|位置|name=福岡ソフトバンクホークス(福岡ドーム)}})</span> |40,000<ref>{{Cite web|和書|title=2022年度 福岡PayPayドームの定員について |url=https://sp.softbankhawks.co.jp/news/detail/00005127.html |website=福岡ソフトバンクホークス |accessdate=2022-10-04}}</ref> |31,221 |[[ファイル:Fukuoka Dome20130811.jpg|none|100px]] |} *「収容人数」:[[消防法]]上の定員、またはプロ野球開催時の定員。 *「平均観客数」:本拠地ホームゲームの1試合平均観客数(2022年){{R|kankyakudouin}}。[[クライマックスシリーズ]]、[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]の観客数は含まず。ソフトバンクによれば全球団が満席率をベースにしており、未発券の分を引いた数を発表しているという<ref>[http://twitter.com/HAWKS_official/status/248635723476004864 福岡ソフトバンクホークス(公式)12年9月19日]</ref>。ただし2017年シーズンでチケット完売時に同じ数値を発表したのはソフトバンク以外には日本ハムだけである(ソフトバンク38,585人:24試合、日本ハム41,138人:9試合)。 *2004年以前の観客動員数は概数発表であり、これは戦前から昭和20年代にかけてプロ野球が人気薄だった時代に景気づけのために考えられた「悲しい知恵の所産」とされている<ref>朝日新聞1988年6月2日朝刊21面</ref>。また、東京ドームの55,000人(消防署に届けられた定員は約46,000人<ref group="注釈">開場当初、小石川消防署に届けられていた定員は46,314人(そのうち立ち見2,976人)であった([[1988年]](昭和63年)10月7日[[朝日新聞]]22面。)が、現在の定員は明らかにされていない。</ref>)、福岡ドームの48,000人<ref>{{cite news |title=松坂今季全記録 |newspaper=朝日新聞 |date= |url=http://www.asahi.com/paper/sports/baseball/matsuzaka/matsu.html}}</ref>(2005年までの定員は35,157人)のように定員を超える発表をしていた<ref group="注釈">2004年に広島市が作成した新球場建設資料によると他の球場も当時発表されていた収容人員と現在の定員に違いが見受けられる。(http://www.city.hiroshima.lg.jp/toshikei/toshika/shinkyuzyo/siryo/041126/shiryo.pdf 説明資料 2.他球場の施設状況)</ref>。 *2005年からは観客動員数がチケットの発券枚数を基にした発表となる<ref>{{Cite web|和書| url =https://full-count.jp/2017/09/24/post85316/ | title =阪神が1位キープ NPB観客動員、実数発表後初の2500万人突破なるか | publisher =フルカウント| date =2017-09-24| accessdate =2017-11-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書| url =http://www.toushin-1.jp/articles/-/4377 | title =改革が奏功したプロ野球、観客数は着実に増加 以前の入場者数はドンブリ勘定だった!? | publisher =投信1| date =2017-11-02| accessdate =2017-11-19}}</ref>。2017年にはセ・パ合計で2513万9463人を記録。2500万人を超えたのはNPB史上初<ref>{{Cite web|和書| url =https://baseballking.jp/ns/134687 | title =NPB史上初「入場者数2500万人」突破!阪神300万人超え、楽天は前年比10.7%増 | publisher =ベースボールキング| date =2017-10-11| accessdate =2017-11-19}}</ref>。 * 保護地域は原則、1球団に本拠地球場を構える都道府県ひとつが認められている。ただし、オリックスと近鉄との合併の影響に鑑みた暫定措置として、2005年から2007年度までの3年間に限っては阪神とオリックスに各2府県(大阪府・兵庫県)の保護地域が認められていた。 * プロ野球の歴史において、[[北海道]]・[[四国|四国地方]]からNPBに加入したチームは存在しない。ただし、日本ハムファイターズが2004年に北海道に移転した。また[[独立リーグ]]を含めれば、2005年創設の四国アイランドリーグ(現・[[四国アイランドリーグplus]])所属チームが四国地方に存在する。 {| |- | {{location map+|Japan|float=none|width=400|caption=[[セントラル・リーグ]](セ・リーグ)|places= {{Location map~|Japan|lat=35.705833|long=139.751944|label=[[File:Yomiuri Giants insignia.svg|13px|link=読売ジャイアンツ]]巨人|mark=Blue pog.svg|position=top}} {{Location map~|Japan|lat=35.674556|long=139.717083|label=[[File:Tokyo Yakult Swallows insignia.svg|13px|link=東京ヤクルトスワローズ]]ヤクルト|mark=Blue pog.svg|position=right}} {{Location map~|Japan|lat=35.443383|long=139.640028|label=[[File:Yokohama DeNA BayStars insignia.svg|13px|link=横浜DeNAベイスターズ]]DeNA|mark=Blue pog.svg|position=bottom}} {{Location map~|Japan|lat=35.185972|long=136.947467|label=[[File:Chunichi Dragons insignia.svg|13px|link=中日ドラゴンズ]]中日|mark=Blue pog.svg|position=top}} {{Location map~|Japan|lat=34.721231|long=135.361642|label=[[File:Hanshin tigers insignia.PNG|13px|link=阪神タイガース]]阪神|mark=Blue pog.svg|position=bottom}} {{Location map~|Japan|lat=34.391878|long=132.484731|label=[[File:Hiroshima Toyo Carp insignia.svg|13px|link=広島東洋カープ]]広島|mark=Blue pog.svg|position=left}} }} | {{location map+|Japan|float=none|width=400|caption=[[パシフィック・リーグ]](パ・リーグ)|places= {{Location map~|Japan|lat=43.015192|long=141.409686|label=[[File:Hokkaido Nippon-Ham Fighters insignia.svg|13px|link=北海道日本ハムファイターズ]]日本ハム|mark=red pog.svg|position=}} {{Location map~|Japan|lat=38.256136|long=140.902567|label=[[File:Rakuten eagles insignia.png|13px|link=東北楽天ゴールデンイーグルス]]楽天|mark=red pog.svg|position=}} {{Location map~|Japan|lat=35.768617|long=139.420464|label=[[File:Seibu lions insignia.png|13px|link=埼玉西武ライオンズ]]西武|mark=red pog.svg|position=top}} {{Location map~|Japan|lat=35.645117|long=140.030847|label=[[File:Chiba Lotte Marines insignia.svg|13px|link=千葉ロッテマリーンズ]]ロッテ|mark=red pog.svg|position=right}} {{Location map~|Japan|lat=34.669403|long=135.476214|label=[[File:Orix Buffaloes insignia.svg|13px|link=オリックス・バファローズ]]オリックス|mark=red pog.svg|position=top}} {{Location map~|Japan|lat=33.595383|long=130.362175|label=[[File:Fukuoka SoftBank Hawks insignia.svg|13px|link=福岡ソフトバンクホークス]]ソフトバンク|mark=red pog.svg|position=}} }} |} ==== ホームゲーム開催地 ==== <!--「2023年」のデータなので情報更新せず球場名だけ更新しないこと--> <div class="NavFrame" style="clear: both; border: 1px solid #999; margin: 0.5em auto; width: 100%;"> <div class="NavHead" style="background-color: #FFFFFF; text-align: center; font-weight: bold;">'''ホームゲーム開催地'''</div> <div class="NavContent" style="padding: 1em 0 0 0; text-align: left;"> *2023年度。ホームゲーム数は71ないし72試合(143試合制のため。ホームゲームが71試合行われた年の翌年は72試合、72試合行われた翌年は71試合となる)。 *球団および専用球場の省略名は、NPB公式サイトで使用されている略称<!--上記のリーグ毎の一覧で、球団・球場の公式名称が記載されているので、プロ野球に詳しくない人のためにこちらは通称等で記載-->。 {|class="wikitable" style="text-align:center" !rowspan="2"|球団名 !colspan="2"|本拠地開催 !colspan="5"|地方開催 |- ![[専用球場]] !style="font-size: 70%;"|試合数 !style="font-size: 70%;"|地方開催<br />合計試合数 !|地方 !|都市 !|球場 !style="font-size: 70%;"|球場別<br />試合数 |- |rowspan="6" style="background-color: #88BB88;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]] |rowspan="6" |[[東京ドーム]]<br />[[ファイル:Tokyo Dome 2015-5-12.JPG|none|150px]] |rowspan="6" |65 |rowspan="6" |6 |rowspan="2"|[[東北地方|東北]] |[[秋田市]] |[[秋田県立野球場]]<br/>(こまちスタジアム) |0{{Refnest|group="注釈"|1試合の開催が予定されていたが、降雨により中止となった<ref>{{Cite news |title=秋田での巨人―ヤクルト戦は雨天中止 ブリンソンがヘッスラで沸かせる「もっとうまく滑れると…」 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/06/27/kiji/20230627s00001173400000c.html |newspaper=スポーツニッポン |date=2023-06-27 |accessdate=2023-07-12}}</ref>。}} |- |[[盛岡市]] |[[いわて盛岡ボールパーク]]<br/>(きたぎんパーク) |1 |- |[[中部地方|中部]] |[[岐阜市]] |[[長良川球場]] |1 |- |[[近畿地方|近畿]] |[[大阪市]] |京セラドーム大阪 |2 |- |rowspan="2"|[[九州]] |[[長崎市]] |[[長崎県営野球場]]<br />(長崎ビッグNスタジアム) |1 |- |[[佐賀市]] |[[佐賀県立森林公園野球場]]<br/>(さがみどりの森野球場) |1 |- |rowspan="2" style="background-color: #88BB88;"|[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]] |rowspan="2" |[[明治神宮野球場|神宮]]<br />[[ファイル:Remodeled meiji jingu stadium.jpg|none|150px]] |rowspan="2" |70 |rowspan="2" |2 |[[東海地方|東海]] |[[静岡市]] |[[静岡県草薙総合運動場硬式野球場]] |1 |- |[[四国地方|四国]] |[[松山市]] |[[松山中央公園野球場]]<br />(坊っちゃんスタジアム) |1 |- |style="background-color: #88BB88;" rowspan="1"|[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]] |[[横浜スタジアム|横浜]]<br />[[ファイル:YokohamaStadium view.jpg|none|150px]] |70 |1 |[[北信越地方|北信越]] |[[新潟市]] |[[新潟県立野球場]]<br />(HARD OFF ECOスタジアム新潟) |1 |- |style="background-color: #88BB88;" rowspan="2"|[[中日ドラゴンズ|中日]] | rowspan="2"|[[ナゴヤドーム|バンテリンドーム]]<br />[[ファイル:ナゴヤドーム - panoramio (8).jpg|none|150px]] | rowspan="2"|70 | rowspan="2"|2 |style="background-color: #ffffcc;"|'''[[愛知県]]''' |style="background-color: #ffffcc;"|[[豊橋市]] |style="background-color: #ffffcc;"|[[豊橋市民球場]] |style="background-color: #ffffcc;"|1 |- |[[中部地方|中部]] |[[岐阜市]] |[[長良川球場]] |1 |- |style="background-color: #88BB88;" rowspan="2"|[[阪神タイガース|阪神]] | rowspan="2"|[[阪神甲子園球場|甲子園]]<br />[[ファイル:Hanshin Koshien Stadium 2007-19.jpg|none|150px]] | rowspan="2"|62 | rowspan="2"|9 |[[近畿地方|近畿]] |[[大阪市]] |京セラドーム大阪 |8 |- |[[中国地方|中国]] |[[倉敷市]] |[[岡山県倉敷スポーツ公園野球場]]<br />(マスカットスタジアム) |1 |- |style="background-color: #88BB88;" |[[広島東洋カープ|広島]] | style="white-space: nowrap;"|[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島|マツダスタジアム]]<br />[[ファイル:MAZDA Zoom-Zoom Stadium Hiroshima.jpg|none|150px]] | 72 | 0 | style="text-align:center" colspan="4"|- |- |style="background-color: #88CCEE;" |[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]] | [[エスコンフィールドHOKKAIDO|エスコンF]]<br />[[ファイル:エスコンフィールド北海道.jpg|none|150px]] | 71 | 0 |style="text-align:center" colspan="4"|- |- |style="background-color: #88CCEE;" rowspan="3"|[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]] |rowspan="3"|[[宮城球場|楽天モバイル]]<br />[[ファイル:Rakuten Mobile Park Miyagi Inside.jpg|none|150px]] |rowspan="3"|69 |rowspan="3"|3 |rowspan="2"|[[東北地方|東北]] |[[盛岡市]] |いわて盛岡ボールパーク<br/>(きたぎんパーク) |1 |- |[[山形市]] |[[山形市総合スポーツセンター#野球場|山形市総合スポーツセンター野球場]]<br />(きらやかスタジアム) |1 |- |[[関東地方|関東]] |[[文京区]] |東京ドーム |1 |- |style="background-color: #88CCEE;" rowspan="3"|[[埼玉西武ライオンズ|西武]] |rowspan="3"|[[西武ドーム|ベルーナドーム]]<br />[[ファイル:Seibu Dome September-10 2007-1.jpg|none|150px]] |rowspan="3"|66 |rowspan="3"|5 |style="background-color: #ffffcc;"|'''[[埼玉県]]''' |style="background-color: #ffffcc;"|[[さいたま市]] |style="background-color: #ffffcc;"|[[埼玉県営大宮公園野球場]] |style="background-color: #ffffcc;"|2 |- |[[関東地方|関東]] |[[文京区]] |東京ドーム |1 |- |[[九州]] |[[那覇市]] |[[那覇市営奥武山野球場]]<br/>(沖縄セルラースタジアム那覇) |2 |- |style="background-color: #88CCEE;" |[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |[[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリン]]<br />[[ファイル:Chiba Marine Stadium Complete View.jpg|none|150px]] |71 |1 |[[関東地方|関東]] |[[文京区]] |東京ドーム |1 |- |style="background-color: #88CCEE;" |[[オリックス・バファローズ|オリックス]] |[[大阪ドーム|京セラD大阪]]<br />[[ファイル:Osaka Dome by MASA2.JPG|none|150px]] |64 |8 |[[近畿地方|近畿]] |[[神戸市]] |[[神戸総合運動公園野球場]]<br />(ほっともっとフィールド神戸) |8 |- | rowspan="7" style="background-color: #88CCEE; white-space: nowrap;"|[[福岡ソフトバンクホークス|ソフトバンク]] |rowspan="7"|[[福岡ドーム|PayPayドーム]]<br />[[ファイル:Fukuokadome ground.jpg|none|150px]] |rowspan="7"|63 |rowspan="7"|8 |style="background-color: #ffffcc;"|'''[[福岡県]]''' |style="background-color: #ffffcc;"|[[北九州市]] |style="background-color: #ffffcc;"|[[北九州市民球場]] |style="background-color: #ffffcc;"|2 |- |rowspan="4"|[[九州地方|九州]] |[[長崎市]] |長崎県営野球場<br />(長崎ビッグNスタジアム) |1 |- |[[宮崎市]] |[[宮崎県総合運動公園硬式野球場]]<br/>(ひなたサンマリンスタジアム宮崎) |1 |- |[[熊本市]] |[[藤崎台県営野球場]]<br/>(リブワーク藤崎台球場) |1 |- |[[鹿児島市]] |[[鹿児島県立鴨池野球場]]<br/>(平和リース球場) |1 |- |[[関東地方|関東]] |[[文京区]] |東京ドーム |1 |- |[[近畿地方|近畿]] |[[大阪市]] |京セラドーム大阪 |1 |} * 「{{Color|#ffffcc|■}}」:本拠地のある都道府県での地方主催試合。[[プロ野球地域保護権|保護地域]]の試合。 </div></div> ==== 観客数 ==== 以下に、2005年以降の[[ペナントレース]](リーグ戦+[[セ・パ交流戦]])における、主催試合(ホームゲーム)での、1試合あたり平均観客数(人/試合)の変遷を示す<ref name="kankyakudouin">{{Cite web|和書|title=統計データ |url=https://npb.jp/statistics/2022/attendance.html |website=日本野球機構 |accessdate=2022-10-04}}</ref>。同年以降に記載を限ったのは、[[2004年の日本プロ野球|2004年シーズン]]中に発生した[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]の結果、翌[[2005年の日本プロ野球|2005年シーズン]]より、観客数の発表が実数に切り替わったこと、かつ、セ・パ交流戦が開始されたことによる。 2005年シーズンよりパ・リーグでは、従前の[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]([[兵庫県]][[神戸市]])と[[大阪近鉄バファローズ]]([[大阪府]][[大阪市]])が合併し、[[オリックス・バファローズ]](移行措置としてダブル・フランチャイズ期間あり)という1つの球団になって参戦している。また同シーズンより、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]([[宮城県]][[仙台市]])が新規参入で加わった。この結果、パ・リーグは従前同様、6球団で維持されている。 なおNPB12球団は、8球団が[[三大都市圏]]に所在し、4球団が[[札仙広福]](地方中枢都市)の各都市(★)にある。 {{Graph:Chart |width=350 |height=500 |type=line |colors=#E50012 , #FF7820 , #FFE100 , #0093C9 , #96c800 , #CCCCCC , #00214B , #870010 , #003595 , #016299 , #FBC700 , #9E751E |showSymbols=yes |legend=最新(2022年)の統計値順 |xAxisTitle=年 |yAxisTitle=1試合あたり平均観客数(人/試合) |yAxisMin=0 |y1Title=(セ)★広島東洋カープ |y2Title=(セ)読売ジャイアンツ |y3Title=(セ)阪神タイガース |y4Title=(セ)横浜DeNAベイスターズ |y5Title=(セ)東京ヤクルトスワローズ |y6Title=(パ)千葉ロッテマリーンズ |y7Title=(パ)埼玉西武ライオンズ |y8Title=(パ)★東北楽天ゴールデンイーグルス |y9Title=(セ)中日ドラゴンズ |y10Title=(パ)★北海道日本ハムファイターズ |y11Title=(パ)★福岡ソフトバンクホークス |y12Title=(パ)オリックス・バファローズ |x=2005, 2006, 2007, 2008, 2009, 2010, 2011, 2012, 2013, 2014, 2015, 2016, 2017, 2018, 2019, 2020, 2021, 2022 |y1=14385 , 13829 , 15681 , 19315 , 26015 , 22224 , 21980 , 22079 , 21744 , 26455 , 29722 , 29963 , 30670 , 31001 , 31319 , 8964 , 13560 , 27732 |y2=40029 , 39626 , 40436 , 39948 , 40755 , 41203 , 37736 , 40333 , 41781 , 41921 , 42270 , 41724 , 41675 , 41699 , 42643 , 8209 , 11286 , 32199 |y3=42907 , 43218 , 43669 , 41344 , 41765 , 41745 , 40256 , 37886 , 38494 , 37355 , 39977 , 40994 , 42148 , 40831 , 42935 , 8632 , 10555 , 36370 |y4=13370 , 15158 , 17111 , 15694 , 17319 , 16800 , 15308 , 16194 , 19802 , 21730 , 25546 , 26933 , 27880 , 28166 , 31716 , 7795 , 10223 , 24708 |y5=17914 , 18019 , 18517 , 17802 , 18505 , 18513 , 18726 , 18371 , 19899 , 19983 , 23021 , 25063 , 25871 , 27152 , 27543 , 6010 , 9379 , 22741 |y6=19618 , 19848 , 21645 , 22245 , 20350 , 21474 , 18511 , 17211 , 17506 , 16999 , 18620 , 21207 , 20425 , 23127 , 23463 , 6500 , 8798 , 20685 |y7=16223 , 17597 , 15187 , 19633 , 21042 , 22101 , 22106 , 21195 , 22234 , 20811 , 22456 , 22791 , 23239 , 24833 , 25299 , 5002 , 8737 , 16837 |y8=14369 , 13996 , 15519 , 15959 , 16711 , 15856 , 16225 , 16358 , 17793 , 20142 , 21467 , 22513 , 24931 , 23972 , 25659 , 3935 , 8545 , 18748 |y9=31293 , 32859 , 33202 , 33720 , 31922 , 30460 , 29777 , 28896 , 27753 , 27790 , 28469 , 28991 , 27927 , 30231 , 31741 , 6300 , 8363 , 25459 |y10=20083 , 23581 , 25459 , 26027 , 27669 , 27027, 27644 , 25813 , 25773 , 26358 , 27221 , 29281 , 28978 , 27731 , 27368 , 4608 , 7673 , 17937 |y11=31117 , 29964 , 32044 , 31251 , 31194 , 30062 , 31860 , 33993 , 33458 , 34284 , 35221 , 35112 , 35094 , 36149 , 36891 , 8879 , 6508 , 31221 |y12=19943 , 20445 , 15794 , 17594 , 17860 , 20049 , 19458 , 18482 , 19979 , 23663 , 24890 , 24923 , 22658 , 22575 , 24423 , 5559 , 5994 , 19896 }} ==== 二軍組織(ファーム) ==== * [[イースタン・リーグ]]([[北海道日本ハムファイターズ (ファーム)|日本ハム]]、[[東北楽天ゴールデンイーグルス (ファーム)|楽天]]、[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|西武]]、[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|ロッテ]]、[[読売ジャイアンツ (ファーム)|巨人]]、[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|ヤクルト]]、[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|DeNA]]、[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ|オイシックス]]) * [[ウエスタン・リーグ]]([[ハヤテ223|ハヤテ]]、[[中日ドラゴンズ (ファーム)|中日]]、[[阪神タイガース (ファーム)|阪神]]、[[オリックス・バファローズ (ファーム)|オリックス]]、[[広島東洋カープ (ファーム)|広島]]、[[福岡ソフトバンクホークス (ファーム)|ソフトバンク]]) ==== 球団の運営母体の業種 ==== * [[新聞]]系 - 巨人([[読売新聞グループ本社|読売新聞]])、中日([[中日新聞社|中日新聞]]) * [[鉄道]]系 - 西武([[西武鉄道]])<ref group="注釈">[[西武ホールディングス]]の子会社。1979年 - 2005年は[[西武グループ]]の[[デベロッパー (開発業者)|デベロッパー]]かつ事実上の事業[[持株会社]]である国土計画(後の[[コクド]])が球団を保有していたが、経営悪化や2004年の[[西武鉄道#証券取引法違反事件|西武鉄道の証券取引法違反事件]]により2006年にコクドが解散することとなり、解散後は同グループの[[プリンスホテル]]が2007年から2008年まで保有し、2009年からは西武鉄道の保有となった。</ref>、阪神([[阪神電気鉄道]])<ref group="注釈">[[阪急阪神ホールディングス]]の子会社。[[阪急・阪神経営統合]]の際には阪急阪神HDに実質的な経営者が交代したとNPBからみなされ、法人としての前身である旧阪急電鉄が過去に球団(阪急ブレーブス)を保有しオリックスに譲渡した経緯があることから、預かり保証金や手数料など30億円の支払いを求められたが、再審査の上で1億円の支払いに留められた。</ref>。 * [[食品]]系 - 日本ハム([[日本ハム]])<ref group="注釈">2018年時点では、日本ハムは日本ハム株式会社がゼネラルパートナーを名乗り、北海道内の有力企業がグランドパートナーと名乗り出資しているが、広島と同様に独立採算制に移行する計画もある。</ref>、ロッテ([[ロッテホールディングス|ロッテHD]])、ヤクルト([[ヤクルト本社]]) * [[情報]]・[[通信]]系 - ソフトバンク([[ソフトバンクグループ]])、楽天([[楽天グループ]])、DeNA([[ディー・エヌ・エー]]) * [[金融]]系 - オリックス([[オリックス (企業)|オリックス]]) * 独立系 - 広島([[マツダ]]創業家)<ref group="注釈">広島は、マツダ創業家である松田家が筆頭株主で、球団株式の40%強を保有している。このほか、マツダも約35%を保有している。なお、1955年12月から1967年までは上記事業(新聞=[[中国新聞社]]、鉄道=[[広島電鉄]]、金融=[[広島銀行]]、[[広島相互銀行]])を含む地元財界企業のグループオーナー型経営で、1968年の資本整理後、マツダ(当時東洋工業)・球団ともに松田家の同族経営だった時代は、[[製造業]]系とも解釈できた。</ref> 1950年のセ・パ分立時には、鉄道系7球団(セの阪神・国鉄、パの西鉄・阪急・近鉄・南海・東急)、新聞系4球団(セの読売・中日・西日本、パの毎日)、[[映画]]系2球団(セの松竹<ref group="注釈">衣料品製造販売業の田村駒との共同経営だった。</ref>、パの大映)、食品系1球団(セの大洋)、独立系1球団(セの広島)であった。 撤退した業種は、上述の映画系のほか、[[放送]]系(横浜:[[TBSホールディングス|TBSHD]])、[[流通]]系(ダイエー:[[ダイエー]])、[[衣料品]]系(太陽:[[田村駒]])、不動産業系(日拓:[[日拓グループ]])等が挙げられる。 ==== 球団の変遷 ==== 2008年までの日本野球連盟・日本野球機構所属球団の変遷(シーズン中の変更のみ日付を記す)。 [[ファイル:Npb history.png|932x932px]] 2012年からは横浜ベイスターズが横浜DeNAベイスターズとなっている。 ;新規参入に際して *日本野球機構では長年、新規にチームを結成し加入する場合は60億円、既存球団の株式譲渡を受けて加入する場合は30億円の「加入料」を払うことになっていた。 *[[2004年]]の[[プロ野球再編問題 (2004年)|再編問題]]を受けて、この制度が見直され新結成・譲渡の如何に関わらず「預かり保証金」として、30億円を支払う。そのうち、25億円が預託金で、10年間譲渡されなかった場合は預託金は返還される。残り5億円は日本プロ野球組織への支払いとなり、そのうちの1億円は加盟に際しての事務手続きの手数料、残り4億円は野球振興基金への寄付となる。 === スケジュール === ==== 年間カレンダー ==== * [[自主トレーニング]]([[1月]]) * 春季[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]([[2月]]) * [[オープン戦]](2月下旬 - [[3月]]下旬) * [[教育リーグ|春期教育リーグ]](二軍)(3月) * [[開幕戦]](3月下旬 - [[4月]]上旬)※現状ではほぼ毎年セ・リーグとパ・リーグが同時に開幕しているが、稀に開幕日を別にする年もある<ref group="注釈">最近では[[2010年の日本プロ野球|2010年]]や[[2023年の日本プロ野球|2023年]]が該当(2010年パ・リーグ3月20日、セ・リーグ3月26日、2023年パ・リーグ3月30日、セ・リーグ3月31日)。2010年は阪神とオリックスが共に本拠地開幕権を持っていたが、阪神甲子園球場が高校野球開催期間中で使用できないため京セラドーム大阪での開幕戦を希望した阪神に配慮して、パ・リーグが開幕カードを前倒しして開催した。なお、[[2017年の日本プロ野球|2017年]]も同様に阪神とオリックスが共に本拠地開幕権を持っていたが、この年は阪神が開幕権を返上した。2023年は、日本ハム対楽天1回戦がエスコンフィールドHOKKAIDOで開催され、残りの球団の試合が3月31日に開催された。1試合のみ先行しての開幕戦は1952年の[[阪神タイガース|大阪タイガース]]対[[中日ドラゴンズ|名古屋ドラゴンズ]]([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])以来71年ぶりちなみに、少なくとも1953年以降開幕日が別になったケースでは、2010年・2023年を含め全てパ・リーグがセ・リーグより先に開幕している。</ref>。 * [[セ・パ交流戦|日本生命セ・パ交流戦]]([[5月]]中旬 - [[6月]]中旬) * [[フレッシュオールスターゲーム]](二軍。旧:ジュニアオールスター)([[7月]]下旬) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]](7月下旬、冠スポンサーは[[マイナビ]](2017年から)〈1988年 - 2006年は[[三洋電機|SANYO]]、2007年は[[ガリバーインターナショナル|ガリバー]]、2008年 - 2016年は[[マツダ]]〉) * [[マジックナンバー (野球)|マジックナンバー]]点灯([[8月]]下旬 - [[9月]]) * [[胴上げ]](レギュラーシーズン優勝決定)(9月中旬 - 10月上旬) * [[消化試合]](レギュラーシーズン順位決定 - [[クライマックスシリーズ]]開幕) * [[戦力外通告]](10月1日 - レギュラーシーズン終了翌日とクライマックスシリーズ終了 - 日本シリーズ終了直後の2回) * [[みやざきフェニックス・リーグ]](二軍)([[10月]]) * [[クライマックスシリーズ]]([[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ制度]]。セ・パ両リーグで統一のプレーオフ/10月上旬 - 中旬) * [[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]](10月下旬) * [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]](10月下旬 - [[11月]]上旬、冠スポンサーは[[三井住友銀行]](2014年から)(2011年 - 2013年は[[コナミホールディングス|コナミ]])) * 秋季キャンプ(10月下旬 - 11月中旬) * [[ストーブリーグ]](日本シリーズ終了後 - 翌年1月) ** [[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)権の行使(日本シリーズ終了後) ** [[契約更改]](日本シリーズ終了後 - 翌年2月) ** [[トレード]](日本シリーズ終了後 - 翌年[[7月31日]]) * 翌シーズンの日程発表(11月中旬 - 12月上旬) ※あくまでもおおよその目安であって、この通りとは限らない。 ==== 試合開始時刻 ==== * 試合開始時刻は、[[ナイター]]では'''18:00'''プレイボールが多いが、稀に'''18:20'''開始や'''18:30'''、現在ではほぼないが例外的に'''19:00'''もある。デーゲームでは主催球場によって異なるが、'''13:00'''、'''13:30'''<ref group="注釈">マツダスタジアムでの広島主催試合の日曜・祝日開催分で夏季を除き見られる。</ref>、'''14:00'''、'''15:00'''<ref group="注釈">札幌ドームとナゴヤドームでの開催試合の土曜開催分で見られるが、ナゴヤドームでは2017年以降の土曜開催分は全て14:00としている。</ref> のいずれかに開始される。2017年には'''15:30'''プレイボールが1試合あった<ref>{{PDFlink|[http://npb.jp/games/2017/schedule_all_pl.pdf 2017年度 パシフィック・リーグ 全試合日程PDF版]}} - [[日本野球機構]]ホームページ</ref>(パ・リーグは'''13:00'''開始が多いが、セ・リーグは'''14:00'''開始が多い)。また、夏期などに'''16:00'''開始や'''17:00'''開始の薄暮試合とするケースも見られる。 * 2009年度は'''18:30'''<ref group="注釈">2013年度の'''18:30'''開始の試合が[[読売ジャイアンツ|巨人]]主催試合を含め、7試合。'''17:00'''開始の試合が16試合に増加した。</ref> の試合が4試合だった。 * [[那覇市]]の[[那覇市営奥武山野球場|沖縄セルラースタジアム那覇]]で2010年以降毎年開催されている公式戦2試合は、当地のライフスタイルに合わせて2013年までは'''19:00'''開始とされていたが、2014年以降は'''18:30'''開始とされている。 * 2018年度は、DeNAが'''17:30'''または'''17:45'''としている試合がある<ref>{{PDFlink|[http://npb.jp/games/2018/schedule_all_cl_20180125.pdf 2018年度 セントラル・リーグ 全試合日程PDF版]}} - [[日本野球機構]]ホームページ</ref>。 * 秋に開催されるポストシーズンゲームの試合開始時刻はテレビ中継に左右されるケースが多い。[[クライマックスシリーズ]]は主催球団のシーズン中に倣うことが多い。[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]は'''18:00'''、'''18:10'''、'''18:15'''、'''18:30'''<ref group="注釈">開催球場によっては'''18:20'''または'''18:40'''の場合もあるが、2021年は全試合'''18:00'''に設定された。また、全試合デーゲームで統一された1993年までは'''13:00'''(1994年は第3戦から第5戦まで'''18:15''')開始に設定された。</ref> に設定される。 * [[2011年]]は、開幕直前に見舞われた[[東日本大震災]]による電力不足の影響で、4月中に開催予定の[[東北地方|東北]]、[[関東地方|関東]]でのナイトゲームが自粛となった。 *[[2021年]]は、新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言の影響で、首都圏開催の試合で試合終了を早くするため'''17:30'''、'''17:45'''開始とする試合があった。 === NPBパートナー(協賛企業) === {|class="wikitable" ! 協賛企業・団体名 ! 備考 |- |[[カルビー]] | *2019年から協賛<ref>[http://npb.jp/news/detail/20190312_01.html カルビー株式会社「NPBパートナー」契約を締結] NPB.jp 日本野球機構 2019年3月12日</ref> *1973年から現在に至るまで「[[プロ野球チップス]]」を販売している。 |- |[[コナミホールディングス|コナミ]] | *2006年以降は[[コナミデジタルエンタテインメント]](KDE) *NPB公認の野球ゲームソフト「[[実況パワフルプロ野球]]シリーズ」「[[プロ野球スピリッツ]]シリーズ」を販売している。 *2005年-2007年「[[アジアシリーズ]]」特別協賛 *2011年-2013年の「[[日本選手権シリーズ]]」(「KONAMI日本シリーズ」)特別協賛はKDEではなくコナミ本社、およびコナミグループ全社。 |- |[[大正製薬]] | * 2016年シーズンから<ref>[http://npb.jp/news/detail/20160819_01.html 2016年新人選手選択会議 開催日・特別協賛社決定のお知らせ(日本野球機構NPBニュース 2016年8月19日、2016年11月2日閲覧]</ref> * [[プロ野球ドラフト会議|新人選手選択会議]]特別協賛([[リポビタンD]]名義、2013年から) * [[NPB AWARDS]]特別協賛(リポビタンD名義、2014年から) |- |[[日本生命保険]] | * [[セ・パ交流戦]]特別協賛 * [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]協賛 |- | [[マイナビ]] | * 2017年[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]特別協賛 |- |[[三井住友銀行]] | * 2014年10月就任<ref>[http://www.npb.or.jp/news/20141001.html NPBパートナーに「三井住友銀行」](日本野球機構NPBニュース 2014年10月1日 10月2日閲覧)</ref> * 2014年より日本選手権シリーズ(「SMBC日本シリーズ」)特別協賛 |- |[[ローソン]] | * 2012年5月就任 * [[2014年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ]](「LAWSONクライマックスシリーズ・パ」)特別協賛 |} {|class="wikitable" |+過去のパートナー企業・団体 |- ! 協賛企業・団体名 ! 備考 |- |- |[[ガリバーインターナショナル]] | * 2007年オールスターゲーム特別協賛 |- |[[三洋電機]] | * 現在のブランド上の名称は「[[パナソニック]]」 * 1987年-2006年オールスターゲーム特別協賛 |- |[[新日本石油]] | *現社名・[[ENEOS]] *[[野球日本代表]]協賛(現在も継続中) *[[NPB12球団ジュニアトーナメント]]・ENEOSカップ特別協賛(現在も継続中) |- |[[日本コカ・コーラ]] | * [[「ジョージア魂」賞]]協賛([[ジョージア (缶コーヒー)|ジョージア]]名義) |- | [[マツダ]] | * 2008年-2016年[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]特別協賛 |} == 独立リーグ == === 概要 === 2004年に起こった[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]と四国アイランドリーグ(現・[[四国アイランドリーグplus]])誕生の影響もあって、当時は全国各地に[[独立リーグ]]構想が持ち上がった。[[ベースボール・チャレンジ・リーグ|ルートインBCリーグ]]のように実現した独立リーグもあるが、資金面などの問題もあって実現までに至っていないものも複数存在する。 [[社会人野球]]を統括する[[日本野球連盟]]は、リーグ所属選手について2005年から2008年までは社会人など[[日本のアマチュア野球|アマチュア]]と同等に扱っていた。しかし、[[2009年]]に日本野球連盟は「国内の独立リーグに関する取扱要領」を制定し、NPB同様プロ選手として扱われる(退団者の社会人野球選手登録は1チーム3人以内)ことになった<ref>[http://www.jaba.or.jp/gaiyou/gijiroku/houkoku/2009/dokurithu_k.pdf 国内独立リーグに関する取扱要領(2009年2月25日)] - 日本野球連盟</ref>。2010年からは、独立リーグ退団者は退団翌年度に社会人野球選手登録ができない制限も追加された。その後、2014年11月に、すべての独立リーグ退団者に対して登録者数制限が適用外となり、[[日本独立リーグ野球機構]]所属リーグ(四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグ)並びに賛助会員チーム{{Efn|賛助会員は通常は機構所属リーグに加盟するチーム。リーグに所属しないチーム単独の賛助会員としては[[琉球ブルーオーシャンズ]]が存在したが、後述の通り除名となった。}}の退団者に対しては登録期間制限も適用外となった<ref>[http://www.iblj.co.jp/topics_detail/id=4660 公益財団法人日本野球連盟(JABA)における国内独立リーグ取扱要領の改正について] - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2014年11月10日)</ref>。この決定以降に機構に加盟した[[九州アジアリーグ]]や[[北海道フロンティアリーグ]]の選手に関しても同様に適用される。 一方、日本野球機構(NPB)は、外国人(日本の学校卒業者を除く)およびNPB在籍経験のある独立リーグ選手に対しては「移籍」の形でNPB球団と契約することを認めているが、それらに該当しない選手については[[プロ野球ドラフト会議]]での指名を受けなければ契約できない。この点について、独立リーグ(アイランドリーグとBCリーグ)側は、選手の経歴によらず移籍可能にしたいという意向を持っていると報じられている<ref>[http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=8461 独立リーガー、プロとしての存在を明確に ~日本独立リーグ野球機構設立会見~] - Sports Communications(2014年9月1日)</ref>。 独立リーグの選手もNPB同様にプロ契約を交わして球団から報酬を受け取っているものの、その額はNPBと比べ極めて少ない。解散時点の[[関西独立リーグ (初代)|KANDOK]]は完全無給制で<ref>[http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110128/bbl11012811460018-n1.htm (5)無給のプロ野球「批判は覚悟」存亡かけ再出発 産経ニュース 2011年1月28日]</ref>、同リーグを脱退した球団によって設立されたBASEBALL FIRST LEAGUE→[[関西独立リーグ (2代目)|さわかみ関西独立リーグ]]も同様である。そのため、オフシーズンに副業を認めるリーグも存在する。また、2020年より開幕した[[北海道ベースボールリーグ]]は、シーズン中も球団地元の企業や農家で選手が就労する形態を採用する。 === 四国アイランドリーグplus === [[四国アイランドリーグplus]]は、下記の4球団によって構成される。 2004年の創設当初の名称は「四国アイランドリーグ」で、[[四国]]4県の各1球団が加入して2005年シーズンを行った。2007年12月、福岡・長崎の[[九州]]2球団が新規加入したのに伴い、「四国・九州アイランドリーグ」に改称。2008年シーズンから6球団で公式戦を行っていた。福岡([[福岡レッドワーブラーズ]])は経営難に伴い、2009年でいったんリーグ戦への参加を休止し、2010年は5球団で開催された。福岡は事務所は存続し、「準加盟球団」として新たなスポンサーを探して2011年の復帰を目指すとしていたが、2011年の復帰は見送られた。また、[[長崎セインツ]]は2010年シーズン限りで撤退・解散した。一方、休止が決まったジャパン・フューチャーベースボールリーグから[[三重スリーアローズ]]が加盟して2011年度より参加したことに伴い、「四国アイランドリーグplus」に改称。しかし、三重は2011年度限りでリーグを脱退し、解散。2012年度以降は四国4チームで公式戦を開催しており、福岡の復帰は実現していない。資金は4億円程である{{要出典|date=2017-12}}。 * [[愛媛マンダリンパイレーツ]] * [[香川オリーブガイナーズ]] * [[高知ファイティングドッグス]] * [[徳島インディゴソックス]] === ベースボール・チャレンジ・リーグ === [[ベースボール・チャレンジ・リーグ]](ルートインBCリーグ)は、下記の7球団によって構成される。 2006年の創設当初の名称は北信越ベースボール・チャレンジ・リーグで、新潟・信濃・富山・石川の4球団が加入して2007年シーズンを行った。2007年11月、群馬・福井の2球団が新規加入したのに伴い、現名称に改称。2008年シーズンからは6球団(2地区制)で公式戦をおこなった。2015年シーズンから福島・武蔵の2球団が加入して8球団(2地区制)となり、さらに2017年度から栃木および滋賀の2球団が加入、10球団(2地区制)となった。2019年に茨城が加入し、11球団(2地区制)となる。2020年シーズンからは、神奈川がリーグ戦に参加し、12球団となった。2020年は2地区制で開催予定だったが<ref>[https://www.bc-l.jp/news.php?keyno=209&nowpg=4 2020年シーズンの体制について] - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2019年11月1日)</ref>、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、3地区制に変更された<ref>{{PDFlink|[https://www.bc-l.jp/_data/news/p_1591336907.pdf 2020 年度ルートインBCリーグ運営体制]}} - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2020年6月5日)</ref>。2021年も3地区制で開催された<ref>[https://www.bc-l.jp/news.php?keyno=475 2021シーズン地区割り・開幕日・キャンプイン解禁日のお知らせ] - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2020年12月24日)</ref>。2021年9月1日、西地区の4チーム(富山・石川・福井・滋賀)は2022年シーズンよりリーグに参加せず、新リーグを結成することが発表され<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.bc-l.jp/news.php?keyno=716|date=2021-09-01|title=来季のリーグ参加球団及び体制について|website=ベースボール・チャレンジ・リーグ|accessdate=2021-09-01}}</ref>、9月16日にはリーグの名称が[[日本海オセアンリーグ]]となることが明らかにされた<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/202109160000945.html |title=BC4球団「日本海オセアンリーグ」発足 「未来の野球人のため」|newspaper=[[日刊スポーツ]]|date=2021-09-16|accessdate=2021-09-16}}</ref>。これに伴い、2022年は2地区制となる<ref>[https://www.bc-l.jp/news.php?keyno=776 2022シーズン地区割り・開幕日・キャンプイン解禁日のお知らせ] - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2021年11月11日)2022年1月29日閲覧。</ref>。 また、[[静岡県]][[浜松市]]に事務所を置く「静岡県民球団」(正式名称未定)が、将来の加盟を前提にした球団設立活動をおこなう「準加盟球団」の承認を受けている<ref>[http://www.bc-l.jp/bcl_news/29383 ルートインBCリーグ準加盟球団承認のお知らせ] - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2018年4月27日)</ref>。ただし、2023年時点では活動休止中とされている。一方、[[山梨県]]を活動地域とする球団についても2023年に準加盟が承認され、[[山梨ファイアーウィンズ]]のチーム名で2024年から練習試合などを実施の上、2025年の正式加盟を目指している。 発足当時からの加盟球団だった[[新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ]]は、2023年11月に2024年からのNPBファーム加入が正式に決定し、2023年末をもってリーグ加盟資格を終了した<ref>[https://www.bc-l.jp/news.php?keyno=1225 新潟アルビレックス・ベースボール・クラブの NPBファーム・リーグ新規参加承認に関するお知らせ] - ベースボール・チャレンジ・リーグ(2023年11月22日)2023年11月22日閲覧。</ref>。 * [[福島レッドホープス]] * [[茨城アストロプラネッツ]] * [[栃木ゴールデンブレーブス]] * [[埼玉武蔵ヒートベアーズ]] * [[群馬ダイヤモンドペガサス]] * [[神奈川フューチャードリームス]] * [[信濃グランセローズ]] === 関西独立リーグ(初代) === [[関西独立リーグ (初代)|関西独立リーグ]]は2009年シーズンより開始。「KANDOK」の略称を使用していた。[[大阪エキスポセブンティーズ]]や[[三重スリーアローズ]]が加入する予定があったが、いずれも独自にリーグを結成する方針に変更した(大阪エキスポセブンティーズはリーグ発足に至らず)。また、初年度参加の[[大阪ゴールドビリケーンズ]]は2009年のシーズン終了後に脱退し、2010年シーズンから韓国人選手主体の[[ソウル・ヘチ]](旧コリア・ヘチ→韓国ヘチ)が加盟した。2011年からは[[大阪ホークスドリーム]]のほか、2010年限りで休止した[[神戸9クルーズ]]の選手を引き継いだ[[兵庫ブルーサンダーズ]]、チームの権利を引き継いだフォレストホームの設立による[[神戸サンズ]]が参加した。一方、[[明石レッドソルジャーズ]]は代表者の死去などに伴い、2011年から活動を休止した。2012年度は[[06BULLS]]と[[大和侍レッズ]]の2球団が加入する一方、大阪ホークスドリームやソウル・ヘチはリーグ戦への参加を休止した。2012年度終了後、大阪ホークスドリームはリーグを脱退してクラブチームに変更、神戸サンズと大和侍レッズは活動を休止した。このため、リーグ発足当時から残っている球団は紀州レンジャーズのみとなっていた。2013年度は紀州・兵庫・06BULLSの3球団であった。シーズン終了後、紀州と他の2球団が運営方針をめぐって対立し、全球団が脱退したためリーグは事実上活動を停止した。兵庫と06BULLSは、新たにBASEBALL FIRST LEAGUE(ベースボール・ファースト・リーグ、現・[[関西独立リーグ (2代目)|さわかみ関西独立リーグ]])を設立した<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2013121900686 新独立リーグが発足=関西の兵庫とブルズ―野球]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }} - 時事通信2013年12月19日</ref>。 === ジャパン・フューチャーベースボールリーグ === [[ジャパン・フューチャーベースボールリーグ]]は、下記の2球団によって構成されていた。 [[2010年]]シーズンより開始。三重スリーアローズは当初関西独立リーグに加盟する予定だったが、関西独立リーグの既存球団との間に選手の給与水準やリーグ運営方針に関して意見や理念の相違があったとされ、その為に2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決定し、独自の独立リーグを結成する運びとなった。10月13日に新リーグの名称を「ジャパン・フューチャーリーグ」と発表。同年12月1日に「ジャパン・フューチャーベースボールリーグ」に改称した。また関西独立リーグの初代王者である大阪ゴールドビリケーンズも、三重スリーアローズと同様に、2009年10月に関西独立リーグからの脱退を決め、ジャパン・フューチャーベースボールリーグへの参加を表明した。2010年は四国・九州アイランドリーグとの交流戦も加えてリーグ戦を実施した。しかし、大阪球団の選手の不祥事によりスポンサーが撤退するなど経営問題が浮上し、2010年9月に2011年度のリーグ休止を決定した。上記の通り、三重は2011年度は四国アイランドリーグplusに参加した。 * [[三重スリーアローズ]] * [[大阪ゴールドビリケーンズ]] === 関西独立リーグ(2代) === [[関西独立リーグ (2代目)|関西独立リーグ]](さわかみ関西独立リーグ)は、下記の6球団によって構成される。発足から2018年12月3日までのリーグ名は「'''BASEBALL FIRST LEAGUE'''」だった。2018年12月4日より「'''関西独立リーグ'''」にリーグ名を変更した。2020年のシーズン開始後に同年シーズン(12月末日まで)は命名権売却による「さわかみ関西独立リーグ」の名称を使用すると発表された。発表のないまま2021年1月以降もリーグウェブサイト等では「さわかみ関西独立リーグ」の名称が使用されていたが、同年4月になって命名権契約を更新したことが発表された<ref>[https://kandok.jp/archives/6693/ 【一般財団法人さわかみ財団様とネーミングライツ契約締結(継続)】] - 関西独立リーグ(2021年4月1日)2021年4月1日閲覧。</ref>。2022年時点では、旧リーグと同じ「KANDOK」の略称をリーグウェブサイトにて使用している<ref>[https://kandok.jp/# さわかみ関西独立リーグ]</ref>。 2013年12月にリーグの運営方針をめぐって紀州と対立した[[兵庫ブルーサンダーズ]]と[[06BULLS]]によって設立が表明され、2014年になって設立された[[姫路GoToWORLD]]を加えて、2014年4月に開幕した。基本的に選手が無給という点は、解散時の初代関西独立リーグと同じである。 2016年度限りで姫路が活動を休止し、一方2017年度より和歌山ファイティングバーズ(現・[[和歌山ウェイブス]])が加入したため、2018年度まで3球団で運営された。2019年度より[[堺市]]をフランチャイズとする[[堺シュライクス]]が加入し、4球団での運営となる。{{by|2023年}}からは[[淡路島]]に本拠を置く新球団[[淡路島ウォリアーズ]]が加入し、5球団でリーグ戦を実施している。さらに2024年度からは[[姫路イーグレッターズ]]が参加する予定である<ref>[https://kandok.jp/archives/8226/ 姫路球団加盟承認について] - 関西独立リーグ(2023年6月20日)2023年6月21日閲覧。</ref>(かつての姫路GoToWorldとは別球団)。 * [[兵庫ブレイバーズ]](旧:兵庫ブルーサンダーズ→神戸三田ブレイバーズ) * [[大阪ゼロロクブルズ]](旧:06BULLS) * [[和歌山ウェイブス]](旧:和歌山ファイティングバーズ) * [[堺シュライクス]] * [[淡路島ウォリアーズ]] * [[姫路イーグレッターズ]] === 北海道ベースボールリーグ === [[北海道ベースボールリーグ]]は、下記の2チームにより運営される。2020年よりリーグ戦を実施し、初年度は富良野と美唄の2チームで公式戦を実施した。2021年シーズンより士別・石狩の2チームが加わっている。選手はシーズン中も球団の地元で就労しながら練習・試合をおこない、当初はチームに監督を置かないなど、過去の独立リーグとは異なる方針を採用している<ref>{{Cite news|url=https://full-count.jp/2019/05/03/post359643/|title=来春2チームで始動 既存の独立Lと異なる発想の「北海道ベースボールリーグ」|newspaper=Full-Count|date=2019-05-03|accessdate=2019-11-16}}</ref>。 2021年シーズン終了後の同年10月6日に、美唄・士別・石狩の3球団が9月30日をもってリーグを脱退し、新リーグを結成することが明らかにされた<ref name="hbl211006">{{Cite tweet|author=[[北海道ベースボールリーグ]] |user=hbbleague |number=1445589499208028161 |title=HBLの今後について(お知らせ) |date=2021-10-06 |accessdate=2021-10-06}}</ref><ref>{{Cite tweet|author=士別サムライブレイズ|user=samurai_blades |number=1445645011610005507 |title=北海道ベースボールリーグ退会について(ご報告) |date=2021-10-06 |accessdate=2021-10-06}}</ref>。北海道ベースボールリーグは、残る富良野に加え、[[すながわリバーズ]]、[[滝川市]]の新球団で2022年の運営をおこなうとした<ref name="hbl211006"/>。滝川市の新球団は後日「滝川プレインウィンズ」に名称決定したが<ref>{{Cite tweet|author=滝川プレインウィンズ |user=takikawa_hbl |number=1455173408514187275 |title=【球団名・ロゴ発表】 |date=2021-11-01 |accessdate=2021-11-01}}</ref>、本拠地を滝川市から[[奈井江町]]などに変更したことに伴い「[[奈井江・空知ストレーツ]]」に再度変更された<ref>{{Cite tweet|author=滝川プレインウィンズ |user=plainwinds |number=1487943208420233218 |title=当球団(旧・滝川プレインウィンズ)の新たな球団名が決まりましたのでお知らせいたします。 |date=2022-01-31 |accessdate=2022-01-31}}</ref>。2022年シーズンからは監督を置いている。 離脱した3球団側は11月5日にリーグ設立記者会見を開き、リーグ名を[[北海道フロンティアリーグ]]と発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.hokkaido-np.co.jp/article/608525 |title=野球で北海道の未来拓く 北海道フロンティアリーグ立ち上げ 23日、栃木で入団テスト|newspaper=[[北海道新聞]]|date=2021-11-06|accessdate=2021-11-06}}</ref>。 2023年シーズンより「旭川ビースターズ」がリーグ戦に参加している。一方、前年加入した奈井江・空知はシーズン開幕前の3月31日に、前年シーズンでのリーグ脱退と解散を発表した<ref>[https://hbl.nsstraights.com/posts/42460371 奈井江・空知ストレーツ脱退・解散のお知らせ] - 奈井江・空知ストレーツ(2023年3月31日)2023年3月31日閲覧。</ref>。2023年シーズン終了後には、すながわの当シーズン限りでの脱退が発表された<ref>[https://hokkaido-baseball-league.com/%e3%81%99%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%8f%e3%83%aa%e3%83%90%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%81%aehbl%e8%84%b1%e9%80%80%e3%81%ae%e3%81%8a%e7%9f%a5%e3%82%89%e3%81%9b/ すながわリバーズのHBL脱退のお知らせ] - 北海道ベースボールリーグ(2023年11月9日)2023年11月13日閲覧。</ref>。 * [[富良野ブルーリッジ]] * [[旭川ビースターズ]] === 九州アジアリーグ === [[九州アジアリーグ]]は{{by|2021年}}よりリーグ戦を実施し、2023年は下記の4チームにより運営される。初年度は火の国と大分の2チームであった。2021年9月より命名権による「ヤマエ久野 九州アジアリーグ」の通称を使用し、ヤマエ久野の[[持株会社]]化に伴って2022年11月に「ヤマエグループ 九州アジアリーグ」に通称を変更した。2022年に北九州(同年の正式名称は「福岡北九州フェニックス」)、2023年に宮崎がそれぞれ加入している。2024年からは[[佐賀県]]を拠点として東南アジア出身選手で構成される[[佐賀インドネシアドリームズ]]が「準加盟球団」として、一部の公式戦に参加する予定である<ref>{{Cite news|url=https://kbc.co.jp/news/article.php?id=11123584&utm_content=uzou_5&utm_source=uzou|title=野球独立リーグにインドネシア選手たちの球団が参入|newspaper=[[九州朝日放送]]|date=2023-11-02|accessdate=2023-11-02}}</ref>。 * [[火の国サラマンダーズ]] * [[大分B-リングス]] * [[北九州下関フェニックス]](旧:福岡北九州フェニックス) * [[宮崎サンシャインズ]] === 北海道フロンティアリーグ === [[北海道フロンティアリーグ]]は2021年に設立され、2022年は下記の3チームにより公式戦を開催。 * [[美唄ブラックダイヤモンズ]] * [[KAMIKAWA・士別サムライブレイズ]] * [[石狩レッドフェニックス]] === ベイサイドリーグ === [[ベイサイドリーグ]]は、「日本海オセアンリーグ」の名称で2021年に設立され、2022年より公式戦を開催している。発足当初はベースボール・チャレンジ・リーグの西地区から離脱した4球団で構成されていた。しかし、[[福井ネクサスエレファンツ]]は2022年限りで活動を休止する一方、2023年からリーグ戦に参加する前提で[[千葉県]]に新球団を設立することが2022年10月に発表された<ref>[https://no-l.jp/2951/ 千葉県を本拠地とする新球団設立の決定および 福井ネクサスエレファンツの活動終了について] - 日本海オセアンリーグ(2022年10月31日)2022年10月31日閲覧。</ref>。さらに神奈川県を本拠とする「YKSホワイトキングス」の加入と[[滋賀GOブラックス]]の1年間の活動休止を発表した後、2023年は千葉・YKSによる「ベイサイドリーグ」に再編することとなった。残る富山と石川はリーグを離脱して、次節の日本海リーグを結成した。2023年は下記の2チームで公式戦を開催している。しかし、同年シーズン終了後に千葉は2024年はリーグに参加せず、2025年以降のベースボール・チャレンジ・リーグ正式加盟を目指すと発表した<ref>[https://sky-sailors.com/2023/09/28/2024%e3%82%b7%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%83%b3%e9%81%8b%e5%96%b6%e4%bd%93%e5%88%b6%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6/ 2024シーズン運営体制について] - 千葉スカイセイラーズ(2023年9月28日)2023年11月3日閲覧。</ref>。 * [[YKSホワイトキングス]] * [[千葉スカイセイラーズ]] なお日本海オセアンリーグ時代に1年間の活動休止が発表された滋賀の2024年以降の処遇については公表されていない。 === 日本海リーグ === [[日本海リーグ]]は、2023年に設立され、下記の2球団で公式戦を開催している。 * [[富山GRNサンダーバーズ]] * [[石川ミリオンスターズ]] == 独立リーグ非加盟チーム == [[2020年]]度より始動する[[琉球ブルーオーシャンズ]]は上記の独立リーグには加盟せず、NPBが参入枠を拡大した場合に加盟することを目標とする。試合はNPBのファームや上記の独立リーグのチームのほか、アジアのプロ野球リーグのチームとの交流戦を実施する意向を持っていた。しかし、[[2022年]]11月に、今後の活動を一時休止すると発表した<ref>[https://ryukyu-blueoceans.jp/other/20221111 活動一時休止のお知らせ] - 琉球ブルーオーシャンズ(2022年11月11日)2022年11月11日閲覧。</ref>。 なお、リーグには非加盟のまま、琉球は[[日本独立リーグ野球機構]]に賛助会員として加盟していたが、2022年2月に除名された。 * [[琉球ブルーオーシャンズ]] == プロ野球マスターズリーグ == NPBで現役を終えた引退選手によるリーグである[[プロ野球マスターズリーグ]]は、下記の5球団によって構成される。 2001年(2001-2002年シーズン)よりNPBで現役を終えた選手によって、主にプロ野球のオフシーズンである冬季にリーグ戦を開催していたが、2008-2009年シーズンをもってリーグ戦は休止(以後、オールスター戦のみ開催)。その後はリーグ戦再開を目指しているが、2019年現在再開には至っていない。 * [[プロ野球マスターズリーグ#札幌アンビシャス|札幌アンビシャス]] * [[プロ野球マスターズリーグ#東京ドリームス|東京ドリームス]] * [[プロ野球マスターズリーグ#名古屋80D'sers|名古屋80D'sers]] * [[プロ野球マスターズリーグ#大阪ロマンズ|大阪ロマンズ]] * [[プロ野球マスターズリーグ#福岡ドンタクズ|福岡ドンタクズ]] == 女子プロ野球 == 女性によるプロ野球リーグとして、[[1950年|1950]] - [[1951年]]にかけて[[日本女子野球連盟]]が存在した。 2010年より[[日本女子プロ野球機構]]によるリーグが開始され、59年ぶりに女子プロ野球リーグが復活した。2020年までリーグ戦が開催されていたが、2021年7月21日に所属選手が0人となったため、以後は事実上の消滅状態となっている。 ; 2010年創設 * 京都アストドリームス(現・[[京都フローラ]]) * 兵庫スイングスマイリーズ(現・[[兵庫ディオーネ|愛知ディオーネ]]) ; 2012年創設 * 大阪ブレイビーハニーズ(現・[[レイア (野球チーム)|レイア]]) ; 2013年創設 * イースト・アストライア(現・[[埼玉アストライア]]) 一方、2009年に発足した関西独立リーグにおいて、[[吉田えり]]が[[神戸9クルーズ]]に入団し、男子リーグでプレーする初の女子プロ野球選手となった(同年限りで退団)。吉田は2013年に[[石川ミリオンスターズ]]に移籍した。2010年に、[[増田里絵]]が[[明石レッドソルジャーズ]]に入団し、2人目となった。NPB及び四国アイランドリーグplusでも女子選手のプレーが認められているが、2021年現在まで所属した女子選手は現れていない(NPBでは過去にオリックスや近鉄で女性が入団テストを受験した事例がある)。 == その他 == ===ドーピング対策=== [[ドーピング]]に対しては[[平成19年]](2007年)から機構独自の検査を行い、罰則を設けている<ref>[http://npb.jp/anti-doping/ NPBアンチ・ドーピングガイド2016]</ref>。[[日本アンチ・ドーピング機構]](JADA)には加盟していない。2017年度シーズンからは[[血液検査]]も実施される<ref>[https://www.yomiuri.co.jp/sports/npb/20161212-OYT1T50076/ 来季から血液のドーピング検査導入…プロ野球]</ref><ref>[https://www.sanspo.com/article/20161213-RZ3A6IX5KZLULPGTJ34WJFAIN4/ NPB実行委、来季から血液ドーピング検査導入]</ref>。 ===暴力団排除活動=== 2003年に「暴力団等排除宣言」。12球団や球場等で「プロ野球暴力団等排除対策協議会」を結成<ref>[http://npb.jp/npb/20110120release.html 試合観戦/暴力団等排除活動]</ref><ref>[http://jpbpa.net/news/?id=1295603125-731353 選手による暴力団等排除宣言が行われました。]</ref><ref>[http://dragons.jp/elimination/ 暴力団排除宣言]</ref>。2016年、前年に[[読売ジャイアンツ所属選手による野球賭博問題|野球賭博問題]]があり、改めて反社会的勢力の遮断の必要性があるとのことから、各球団に身元確認などを強化するよう要請。野球協約の改定も検討課題と報じられた<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2016/10/05/kiji/K20161005013477070.html NPB 暴力団排除徹底へ身元確認強化を 12球団に要請]</ref>。 === 国際大会への配慮 === ; [[1964年東京オリンピック]] * [[1964年]]、日本で戦後初めての[[近代オリンピック]]となる東京オリンピックが開かれた。[[10月10日]]のオリンピックの開幕式までに[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]](史上初の全試合ナイター開催)を含む全ての公式戦を消化するように日程の配慮が行われ、通常オープン戦が行われる[[3月]]中旬(パ・[[3月14日]]、セ・[[3月20日]])に開幕。 * しかし、日本シリーズの[[阪神タイガース|阪神]]vs[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦は、当初[[9月29日]]開幕予定が、[[セントラル・リーグ]]の優勝がなかなか決まらずに、阪神が優勝した翌日の[[10月1日]]に開幕。更に雨天中止が災って、最終戦の第7戦が東京五輪の開幕日の10月10日に行われる羽目になった。 ; [[2000年シドニーオリンピック|シドニーオリンピック]] * [[2000年]]に開かれたシドニーオリンピックにおいて、[[野球]]が[[夏季オリンピック]]で初めてプロ選手の出場が認められた。この年の大会は、[[パシフィック・リーグ]]所属の主力選手(各チーム1人ずつ)が代表として派遣された。その為、期間中に行われるパ・リーグの公式戦のうち、[[東京ドーム]]をホームスタジアムとする[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]の主催ゲーム(他のイベントの都合上日程が変更できなかった)を除く平日の試合を極力行わないように配慮した。 ; [[2002 FIFAワールドカップ]] * [[2002年]]に開催されたサッカーワールドカップ日韓大会では、日本代表チームの試合日や決勝戦開催日などに試合を行わないように日程を調整した。 ; [[2004年アテネオリンピック|アテネオリンピック]]、[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]] * [[2004年]]に開かれたアテネオリンピック、[[2008年]]に行われた北京オリンピックでは全12チームから2名ずつ代表選手を選抜した日本代表チームが派遣された。シドニーオリンピック時のような日程調整はなかったが、代表チームに参加した選手(日本以外の代表チームに参加した選手も含む)たちには代表チームの公式日程期間中に挙行された試合数を[[規定打席]]・[[規定投球回]]の計算から除外する特例措置が設けられた。 ; [[2020年東京オリンピック]] * [[2020年]]に行われる予定だった東京オリンピックでは、12球団から選抜された日本代表チームの派遣、また開催期間にあたる7月21日から8月13日までのシーズン中断が予定されていた。それに伴って開幕は例年より1週間早い3月20日、閉幕は例年より遅い10月17日、そして[[クライマックスシリーズ]]と[[日本選手権シリーズ]]も例年より3週間遅くなる予定だった。さらに、オリンピックの試合会場となっているなどの理由で、五輪前後の期間中に本拠地球場が使用できない[[横浜DeNAベイスターズ|DeNA]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]は、期間中の主催試合を減らす、他球団の本拠地球場での代替開催や地方球場開催を増やすなど日程上の配慮が行われていた。ただし、前述のとおり世界的な[[SARSコロナウイルス2|新型コロナウイルス]]の感染拡大と東京オリンピックの延期に伴い、当初組まれていた日程でのプロ野球開催は行われなかった。 **その後[[2021年]]に1年延期されることが決定したため、2021年もオリンピック準備期間を考慮した日程を組むこととなった。 === 公式戦海外遠征 === 古くは日本運動協会と天勝野球団が、1923年に[[ソウル特別市|ソウル]]でプロ球団同士の海外試合を行っている。 プロ野球リーグ戦開始後、初の公式戦海外遠征開催は、[[1940年]]に行われた[[満州リーグ戦]]である。[[満州]](現在の[[中華人民共和国]]・東北部)に参加全9チームが総遠征し、7-8月にかけての夏季リーグ戦(事前の練習試合・オープン戦含む)を開催した。翌[[1941年]]も開催する予定だったが[[日中戦争]]の戦局悪化の影響で取りやめとなった。 戦後は[[1961年]][[5月20日]]に当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]占領下の[[沖縄県|沖縄]]・[[那覇市営奥武山野球場|奥武山野球場]]で[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]対[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]戦で戦後初の海外遠征が開催された([[1962年]][[6月13日|6月13]]、[[6月14日|14日]]にも[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]対[[千葉ロッテマリーンズ|大毎オリオンズ]]戦が同じく沖縄遠征を実施)。 2002年[[5月14日|5月14]]、[[5月15日|15日]]には[[台湾]]([[中華民国]])の[[台北市]]・[[台北市立天母棒球場|天母棒球場]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]対[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]戦が開催された。 2005年にも[[大韓民国|韓国]]のソウルの[[蚕室総合運動場野球場|蚕室(チャムシル)球場]]と[[釜山広域市|釜山]]の[[社稷野球場|社稷(サジク)球場]]で[[千葉ロッテマリーンズ]]対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦が[[6月28日|6月28]]、[[6月29日|29日]]に予定されていたが、[[韓国野球委員会|韓国プロ野球]]の[[LGツインズ]]と[[斗山ベアーズ]]が蚕室球場を本拠地として使っているため、空き日がなく試合が不可能となり、代わりに[[仁川広域市|仁川]]の[[文鶴野球場|文鶴(ムナク)球場]]で試合することに決めたが、採算が取れないと判断し、同年3月9日に開催取りやめを発表した(実際はロッテの本拠地・[[千葉マリンスタジアム]]で開催)。 このほか、[[2014年]]の開幕戦「巨人対阪神」を日本プロ野球創立80年記念として[[アメリカ合衆国]]で開催する計画もあったが、予算その他の理由により同年度の開催を見送っている<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20130705-1152338.html 巨人-阪神 米国開幕戦を断念「難しい」](日刊スポーツ、2013年7月5日、2014年4月21日閲覧)</ref>。なおアメリカ開催に際しては外務省出身だった当時のNPBコミッショナー・[[加藤良三]]が強く熱望していたといわれている。 === 中継番組 === NPBによる[[プロ野球中継]]は対巨人戦[[ナイター]]をメインとして、黎明期から[[ラジオ]]や[[テレビ]](NHK・各民放)の地上波で全国放送されてきたものの、2000年代になると視聴率低迷と[[BSデジタル放送]]・[[CS放送]]の普及により地上波放送は激減した。[[衛星放送]]の多チャンネル化で民放系BS放送局や[[J SPORTS]]、[[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|トゥエルビ]]などで、特にパ・リーグ主催試合を中心に放送が増えた。2010年代後半からは[[DAZN]]、[[パ・リーグTV]]などインターネットで配信する事例も多くなった。 報道量上位競技では地上波でもプロ野球の比率が非常に高く、視聴率の低さに対して報道量は多い。特に2007年から2009年にかけては、2位3位に対して約2倍の報道量である<ref>[http://www.n-monitor.co.jp/pressreiease/2010/0330.html WBC・遼クン効果が報道量を底上げ~2009 年スポーツ関連のTV報道調査~](ニホンモニター株式会社 2010年3月30日)</ref>。近年の全国放送は開幕戦や週末デーゲーム、日本シリーズなど少数だが、関東地方以外の本拠地を持つ球団では地元局でのローカル中継は随時放送されており、視聴率も各地で高視聴率を獲得している<ref>[https://www.sankei.com/article/20161022-BGCXNH5QFRNVBEAXTEQRCNQETM/ 【プロ野球】平均視聴率は広島30%、北海道20% 地上波全国中継減少もローカル局など存在感] - 『産経ニュース』2016年10月22日付</ref><ref>[https://www.htv.jp/press/other/201112.html プロ野球2020シーズン 広テレ!のカープ戦は今年も高視聴率!] - 広島テレビ プレスリリース 2020年11月12日付</ref><ref>[https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201809280000117.html 驚異的数字!テレビ新広島カープV瞬間視聴率68%] -『日刊スポーツ』2018年9月28日付</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/203832 与田竜 マコトシヤカ?視聴率急回復で2ケタ台連発 〝球団総出〟LiSAのMVも大好評!] - 『東スポweb』2020年8月25日付</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/209324 中日5連勝! チームも視聴率も「好調モード」突入] - 『東スポweb』2020年10月15日付</ref>。 ラジオでは、2007年には[[大阪放送|ラジオ大阪]]が国内中波ラジオ局としては初めてプロ野球中継から撤退している。また、2012年には、地上波の視聴率が低いことから、読売ジャイアンツが日本シリーズに進出したにもかかわらず、日本テレビ系列の[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]が日本シリーズの放送を行わなかった。さらに、2017年には[[TBSラジオ]]が関東キー局では初となるプロ野球中継から全面撤退している。1980年代までは[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]](当時はラジオたんぱ)もプロ野球中継を編成していた。衛星放送局の[[日本BS放送]](BS11)では、四国・九州アイランドリーグとベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)による一部の公式戦も中継していた(現在はNPBを含め、BS11でのプロ野球・セミプロ野球の放送はしていない)<ref group="注釈">その後も[[日本女子ソフトボールリーグ]]については、チームの母体が資本参加している[[ビックカメラ女子ソフトボール高崎]]の試合を中心に時折放送していた。</ref>。NPBでは基本的にオープン戦、公式戦およびクライマックスシリーズの[[放映権 (日本プロ野球)|放映権]]は主催各球団が管理している。日本シリーズ、オールスターゲームの放映権は日本野球機構が管理する。 == 関連項目 == {{Portal|野球}} === 組織関連 === * [[日本野球機構]] ** [[NPBエンタープライズ]] ** [[プロ野球審判員]] ** [[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]] ** [[総進軍優勝大会]] * [[国民野球連盟]] * プロ野球オーナー会議 * [[全日本野球会議]] * [[日本独立リーグ野球機構]] * [[独立リーグ連絡協議会]] === 大会関連 === * [[日本プロ野球公式戦開催球場一覧]] * [[セ・パ交流戦]] * [[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ制度]] * [[アジアシリーズ|プロ野球アジアシリーズ]] ** [[日韓クラブチャンピオンシップ]] ** [[アジア プロ野球チャンピオンシップ]] * [[ワールド・ベースボール・クラシック]] * [[日米野球]] * [[プロ野球12球団チャリティーマッチ -東日本大震災復興支援試合-]] * [[NPB12球団ジュニアトーナメント]]([[新日本石油|ENEOS]]カップ) * [[プロ野球マスターズリーグ]] * [[フレッシュオールスターゲーム]] * [[ファーム日本選手権]] * [[新日本リーグ]] * [[教育リーグ]] * [[グランドチャンピオンシップ (独立リーグ)]] === 球団関連 === * [[プロ野球チーム一覧]] * [[運営会社 (日本プロ野球)]] * [[野球場]] * [[プロ野球地域保護権]] * [[優勝ペナント]] === 選手関連 === * [[プロ野球選手]] * [[日本のプロ野球選手一覧]] * [[外国人枠 (日本プロ野球)|外国人枠]] * [[日本プロ野球選手会]] * [[野球界の永久欠番]] * [[日本プロ野球名球会]] * [[日本プロ野球OBクラブ]] * [[プロ野球ドラフト会議]] * [[トレード]] * [[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA) * [[契約更改]] * [[日本人選手のメジャーリーグ挑戦]] * [[日本人メジャーリーガー一覧]] * [[ストーブリーグ]] === 個人タイトル・表彰関連 === ; 野手タイトル * [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]] * [[最多本塁打 (日本プロ野球)|最多本塁打]](本塁打王) * [[最多打点 (日本プロ野球)|最多打点]](打点王) * [[最多盗塁 (日本プロ野球)|最多盗塁]](盗塁王) * [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]] * [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]] ; 投手タイトル * [[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]] * [[最多勝利]] * [[最多奪三振 (日本プロ野球)|最多奪三振]](奪三振王) * [[最高勝率 (野球)|最高勝率]] * [[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]](セーブ王) * [[最優秀中継ぎ投手]] ; 表彰 * [[沢村栄治賞]](沢村賞) * [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]] * [[最優秀選手 (野球)|最優秀選手]](MVP) * [[最優秀新人 (日本プロ野球)|最優秀新人]](新人王) * [[カムバック賞 (日本プロ野球)|カムバック賞]] ; 機構外の協賛による表彰 * [[ゴールデングラブ賞|三井ゴールデン・グラブ賞]](ゴールデングラブ賞) - [[三井物産]]協賛 * [[スピードアップ賞|ローソンチケット スピードアップ賞]](スピードアップ賞) - [[ローソンエンタテインメント]]協賛 * [[スカパー! ドラマティック・サヨナラ賞]](サヨナラ賞・月間サヨナラ賞) - [[スカパーJSAT]]協賛 * [[月間MVP (日本プロ野球)|日本生命月間MVP賞]](月間MVP) - [[日本生命保険]]協賛 ; 機構外からの表彰 * [[最優秀バッテリー賞]] - [[スポーツニッポン|スポーツニッポン新聞社]]主催・[[電池工業会]]協力 ; 廃止 * [[最多出塁数]] * [[最多勝利打点]] * [[ファイアマン賞]] - [[損害保険ジャパン]]協賛 * [[スーパースラッガー賞]](最高長打率) * [[週間ベストプレイヤー賞]](週間BISポイント1位選手に授与、1989年-2000年) * [[JCB・MEP賞]](セ・リーグのみ) - [[ジェーシービー|JCB]]協賛 * [[JA全農Go・Go賞]] - [[全国農業協同組合連合会]]協賛 * [[最優秀投手]] * [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]] - [[IBM]]提携 * [[「ジョージア魂」賞]] - [[日本コカ・コーラ]]協賛 ; 歴代獲得者一覧 * [[セントラル・リーグ個人タイトル獲得者一覧]] * [[パシフィック・リーグ個人タイトル獲得者一覧]] === 記録関連 === * [[セイバーメトリクス|セイバーメトリクス (sabermetrics) ]] * [[NPB・BIS]] * [[野球の各種記録]] * [[日本プロ野球記録の一覧]] * [[完全試合]] * [[ノーヒットノーラン]] * [[サイクルヒット]] * [[トリプルスリー]] * [[勝利打点]] * [[毎回得点]] * [[プロ野球記念本塁打一覧]] * [[幻の本塁打一覧]] * [[Aクラス・Bクラス]] === 監督関連 === * [[プロ野球監督]] ** [[日本のプロ野球監督のチーム別一覧]] === 試合関連 === * [[ホーム・アンド・アウェー]] * [[ビジター]] * [[ゲーム差]] * [[没収試合|放棄試合]](没収試合) * [[天候不順以外で中止・打ち切りになった日本プロ野球の試合]] * [[ダブルヘッダー]] * [[コールドゲーム]] * [[予告先発]] * [[指名打者]] * [[ヒーローインタビュー]] * [[サスペンデッドゲーム]] === 応援関連 === * [[応援団]] * [[私設応援団]] * [[中虎連合会]] * [[ヒッティングマーチ管理委員会]] === 報道関連 === * [[プロ野球中継]] * [[野球評論家]] === その他 === * [[河野安通志]] * [[押川清]] * [[橋戸信]] * [[正力松太郎]] ** [[正力松太郎賞]] * [[プロ野球再編問題 (1949年)]] * [[プロ野球再編問題 (1973年)]] * [[プロ野球再編問題 (2004年)]] * [[野球くじ]](野球トトカルチョ) * [[日本女子野球連盟]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} <!-- === 参考文献 === --> == 外部リンク == * [https://npb.jp/ NPB.jp 日本野球機構] * [http://baseball-museum.or.jp/ 公益財団法人野球殿堂博物館] * [http://jpbpa.net/ 日本プロ野球選手会 公式ホームページ] {{日本プロ野球}} <div id="各年の日本プロ野球">{{各年の日本プロ野球}}</div> {{Normdaten}} {{デフォルトソート:にほんふろやきゆう}} [[Category:日本のプロ野球|*]] [[en:Professional baseball#Japan]]
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アメリカ航空宇宙局
座標: 北緯38度52分59秒 西経77度0分59秒 / 北緯38.88306度 西経77.01639度 / 38.88306; -77.01639 アメリカ航空宇宙局(アメリカこうくううちゅうきょく、英語: National Aeronautics and Space Administration, NASA)、或いは米国国家航空宇宙局(べいこくこっかこうくううちゅうきょく)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関である。1958年7月29日、国家航空宇宙法(National Aeronautics and Space Act)に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics、NACA)を発展的に解消する形で設立された。正式に活動を始めたのは1958年10月1日のことであった。 NASAはアメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させた。現在は国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)の運用支援、オリオン宇宙船、スペース・ローンチ・システム、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっている。 宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的あるいは軍事目的における長期間の探査である。人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機ニュー・ホライズンズ(New Horizons)のような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっている。2006年2月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」であった。 1957年10月4日、ソビエト連邦が人類史上初の人工衛星スプートニク1号を成功させたことにより、アメリカ国民は「自国の宇宙開発技術が、いかに貧弱であるか」という事実を思い知らされた(スプートニク・ショック)。議会はアメリカの安全保障および技術の先駆性が脅威に晒されていることを警告し、連邦政府は直ちに何らかの行動をとるよう促した。 これを受け、アイゼンハワー大統領およびその側近は対応策を慎重に検討し、数ヶ月にわたって討議を重ねた結果、「非軍事目的の宇宙活動を実施するためには、陸海空軍などが独自に宇宙開発を進める状態を改め、指揮系統を一元化するべきだ」との結論に達し、国防高等研究計画局(Advanced Research Projects Agency、ARPA)も同時に、創設されることとなった。 1957年末から1958年初頭にかけ、NACA(国家航空宇宙諮問委員会)はそれまで同委員会が果たしてきたような役割を非軍事の新設の機関に委譲する方法についての検討を始め、またその概念を精査するためにいくつかの委員会を立ち上げた。1958年1月12日、NACAはガイフォード・スティーヴァー(Guyford Stever)を議長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。スティーヴァーの委員会は、第二次世界大戦後にアメリカの市民権を獲得したヴェルナー・フォン・ブラウンをリーダーとするアメリカ陸軍弾道ミサイル局の「宇宙ロケット開発グループ」から提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年1月14日、NACA長官ヒュー・ドライデンは「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。 1958年1月31日午後10時48分(アメリカ東部標準時)、エクスプローラー1号(国際衛星識別符号 "1958α" を与えられている)が発射され、アメリカ初の人工衛星となった。3月5日、大統領科学技術諮問委員会委員長ジェームズ・キリアン(James Killian)は、アイゼンハワー大統領に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、NACAを強化し再編した組織による文民統制型の宇宙計画を創設することを促した。同年3月末にNACAは、当時企画中だった水素とフッ素を推進剤とする100万ポンド(453トン、445万ニュートン)の推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。 同年4月アイゼンハワーは議会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、アメリカ航空宇宙局設立のための予算案を述べた。NACAのそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、議会は予算案を承認し、同時にNASA設立のための具体的な根拠となった「国家航空宇宙決議」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、フォン・ブラウン率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状のアメリカの宇宙開発には様々な機関が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。スティーヴァーの宇宙開発委員会はブラウンらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。 1958年7月29日、アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙決議に署名し、ここにアメリカ航空宇宙局(NASA)が正式に発足した。同年10月1日に実務がスタートすると、NASAは直ちに46年の歴史を持つNACAの組織(8千人の従業員、1億ドルの年間予算、三つの主要な研究施設(ラングレー航空研究所、エイムズ航空研究所、ルイス飛行推進研究所)や二つの小さな実験施設など)をそのまま吸収した。 フォン・ブラウン博士が所属していた陸軍弾道ミサイル局と、海軍調査研究所もまたNASAに併合された。NASAがソ連との宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦下のドイツにおいて、フォン・ブラウンに率いられたロケット計画で開発された技術であった。そこにはロバート・ゴダード博士の初期の研究の成果も取り入れられている。空軍および国防高等研究計画局が行っていた初期段階の研究も、NASAに引き継がれた。1958年12月には、カリフォルニア工科大学が運営するジェット推進研究所もNASAの指揮下に入った。 NASAが最初に行ったのは、冷戦下におけるソ連との熾烈な宇宙開発競争の中で実施された有人宇宙飛行計画であった。1958年に開始されたマーキュリー計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また陸・海・空軍からも代表者が送り込まれ、NASAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍のテスト・パイロットの中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。 1961年5月5日、第一次選抜飛行士「マーキュリー・セブン」の一人であるアラン・シェパード(Alan Shepard)飛行士がマーキュリー宇宙船「フリーダム7」で15分間の弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。その後1962年2月20日にはジョン・グレン(John Glenn)飛行士が「フレンドシップ7」で2時間半の飛行を行い、初の地球周回飛行を成功させた。 マーキュリー計画の終了後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのジェミニ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は1965年3月23日のジェミニ3号で、ガス・グリソムとジョン・ヤングが地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の衛星とのランデブーやドッキングが可能なことが証明され、無重力が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASAは太陽系探査のための様々な宇宙機を打ち上げた。史上初の有人飛行(ボストーク1号)と同様、月の裏側の写真を初めて撮影したのはソ連の探査機だったが、地球以外の惑星(金星)を初めて探査したのはNASAのマリナー2号だった。 アポロ計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらアポロ1号では、地上での訓練中に火災事故が発生し、飛行士3名が犠牲になった。これにより、アポロ宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。8号と10号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。1969年7月20日、アポロ11号が月面に着陸し、ニール・アームストロングとバズ・オルドリン両飛行士が人類として(また地球上に誕生した生物として)初めて、地球以外の天体の上に降り立った。13号では月に向かう途中で宇宙船の酸素タンクが爆発する事故が発生したが、3名の飛行士は無事地球に帰還することに成功した。アポロでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また土質力学、流星物質、地震学、伝熱、レーザー光線を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、磁場、太陽風など、多数の科学的実験が行われた。 スカイラブはアメリカが地球周回軌道上に打ち上げた初の宇宙ステーションである。100トン近く(正確には91トン)もある機体は1973年から1979年まで地球を周回し続け、1973年と1974年に3回にわたって飛行士が搭乗した。スカイラブでは当初は太陽系の他の惑星が及ぼす重力の変位の調査が行われる予定だったが、国民が宇宙開発に関心を失い予算が削減されたことにより任務が縮小された。実験の中には、微少重力が及ぼす影響を調べることや、搭載された望遠鏡で太陽の活動を観測することも含まれていた。当初はスペースシャトルとドッキングさせ、より高い安全な軌道に移行させることが計画されていたが、シャトルが初飛行に成功する前の1979年に大気圏に再突入して消滅した。3回目の搭乗員(SL-4)が1974年2月に下船した後、太陽の活動が活発になり、その結果地球の大気が暖められて大気圏が膨張し、機体にかかる空気抵抗が増大したため再突入の時期が早まったのである。スカイラブは1979年7月11日16:37(UTC)ごろに再突入し、オーストラリア西部からインド洋にかけて破片が散らばったが、いくつかの残骸が回収された。 アポロ・ソユーズテスト計画は、1975年7月にアメリカとソビエト連邦の間で初めて行われた共同飛行計画である。アメリカにとってはこれがアポロ宇宙船の最後の飛行であり、また1981年4月にスペースシャトルが打ち上げられるまで、有人宇宙飛行は中断された。 1970年代から80年代におけるNASAの最大の眼目は、スペースシャトルであった。シャトルは1985年までに再使用可能な4機の機体が製造され、その1号機であるコロンビア号は1981年4月12日に初めて打ち上げられた。 シャトルのニュースは、NASAにとって必ずしも明るいものばかりではなかった。打ち上げにかかるコストは当初に予想していたものよりもはるかに高くつき、発射が日常化されるにつれ国民は宇宙開発に対する関心を失っていった。そんな中で1986年に起こったチャレンジャー号爆発事故は、宇宙飛行にともなう危険性を再認識させることとなった。 そんな中で、後に国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)へと発展するフリーダム宇宙ステーション計画が、有人宇宙飛行の焦点として開始されたが、このような計画はボイジャー計画のような無人惑星探査に比べ、費用がかかりすぎるのではないかという議論がNASA内部にさえもあった。 その一方で、シャトルはハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、HST)のような画期的な計画も成功させた。HSTはNASAとヨーロッパ宇宙機関(European Space Agency、ESA)の共同開発によって行われたもので、この成功によって他国の宇宙機関との協力という新たな道が開かれた。HSTに費やした予算は20億ドル以下で、1990年に稼働して以来、数多くの鮮明な天体写真を送り続けている。その中でも、草分けとなった「ハッブル・ディープ・フィールド(Hubble Deep Field)」は特に有名である。 1995年、シャトル・ミール計画によってロシアとの共同計画も再開された。ミールとシャトルがドッキングすれば、これはもはや完全な宇宙ステーションであると言えた。このアメリカとロシアという宇宙開発における二大巨頭の協力関係は、ISS(国際宇宙ステーション)の建設作業において21世紀まで継続されている。2003年、コロンビア号空中分解事故によりシャトルの飛行が2年間中断された間、NASAはISSの保守作業をロシアの宇宙船に頼ったことから見ても、両者の信頼関係の強さは明白である。 ISSは、主な機材の運搬はすべてシャトルに頼っている。1986年のチャレンジャー号と2003年のコロンビア号の事故で、シャトルは2機の機体と14名の飛行士を失った。1986年の事故では新たにエンデバー号が製造され喪失した機体の埋め合わせがなされたが、2003年の事故ではそのような補強はされず、新型宇宙船オリオンへの移行が決定された。 ESAや日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など、ステーション建設に投資した他の国々はISSの完成に懸念を表明したが、これに対し宇宙運用局長のウィリアム・H・ガーステンマイヤー(William H. Gerstenmaier)は、計画には柔軟性がありシャトルは2007年には6ヶ月で3回の飛行を成功させていること、NASAは危機的な日程にも対応できる能力があることなどを説明した。 90年代を通して、NASAは議会の財政削減にともなう予算の縮小に直面してきた。第9代長官で、「より早く、より良く、より安く」の標語の生みの親であるダニエル・ゴールディン(Daniel Goldin)は、進行中の多彩な惑星探査計画(ディスカバリー計画)は、経費を削減することで継続が可能であると提案した。1999年にマーズ・クライメイト・オービター(Mars Climate Orbiter)とマーズ・ポーラー・ランダー(Mars Polar Lander)の2機が失敗したのはこの経費削減が原因であると批判を浴びたが、一方でスペースシャトルは2006年12月までに116回の飛行に成功していた。 NASAは21世紀初頭までに150の有人宇宙飛行を含む多数の宇宙計画を成功させてきた。中でも著名なのは、11号による史上初の月面着陸を含む、一連のアポロ計画である。スペースシャトルはチャレンジャー号とコロンビア号の事故により、14名の搭乗員全員の命が失われるという大きな障害に見舞われた。シャトルはロシアの宇宙ステーションミールとのドッキングを果たし、現在はロシア・日本・カナダ・欧州宇宙機関など世界の多数の国々が共同参加している国際宇宙ステーションへのドッキングが可能である。 無人飛行計画もまた多数行われており、太陽系の7つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星)はいずれも少なくとも一度は探査機が訪れ、1997年に打ち上げられたカッシーニ(Cassini)探査機は2004年の半ばに土星の周回軌道に乗り、土星表面やその衛星を探査している。カッシーニはNASAのジェット推進研究所と欧州宇宙機関による、20年以上におよぶ国際協力のたまものであった。またパイオニア10・11号およびボイジャー1・2号の4機は太陽系を離れた。NASAは現在の所、小惑星帯を越えて太陽系の外側へ探査機を送り込んだ唯一の宇宙機関である。いくつかの小惑星や彗星にも探査機が接近し、NEARシューメーカーは史上初の小惑星への着陸を行った。 火星に対しては、水や生命の存在や地質や気候についてを観察をする目的で多数の探査計画が行われてきた。火星探査機はすべてカリフォルニア州パサデナのジェット推進研究所で作成されている。 マリナー計画やバイキング計画に続き、1996年に打ち上げられた「マーズ・パスファインダー(Mars Pathfinder)」は翌年に火星に20年ぶりに着陸し、同時期に打ち上げられた「マーズ・グローバル・サーベイヤー(Mars Global Surveyor)」は上空から火星を観測した。 2001年に打ち上げられた「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」は2011年初頭時点でも火星上空から観測を続けていて、2003年に打ち上げられた「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 のローバー「スピリット(Spirit)」と「オポチュニティ(Opportunity)」は、2004年の初頭以来グセフ(Gusev)クレーターやメリディアニ平原(Meridiani Planum)で当初予定していたより17倍もの長期間に渡って運用され続けている。2005年には「マーズ・リコネッサンス・オービター(Mars Reconnaissance Orbiter)」が打ち上げられ、2011年初頭時点でも火星上空から観測が続けられている。2007年には「フェニックス(Phoenix Mars Lander)」が打ち上げられ、2008年5月25日に火星の北極付近に着陸し、同年6月のロボットアームによる土壌掘削調査により土壌中から氷らしきものを発見した。 2008年5月25日、「豪腕」「改革屋」の異名を持つ科学ミッション部門の副長官アラン・ステム(Alan Stem)が辞任した。伝聞によると在任中の4月11日、アランは「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」 および「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 の予算のカットを指示したが、グリフィン長官に覆されたとのことである。この削減案は、マーズ・サイエンス・ラボラトリーにかかる経費の超過を相殺するためのものであった。アランは「自分が辞任する理由はMERに関わるものではない」とし、「MERの予算をカットしようとした人間は自分ではない」とも述べた。彼は1年ほどの勤務の間に、「NASAの重要な科学実験計画を再建し、大きな変革をもたらした」と評価されたが、辞めた理由は「健全な計画や、政治的に微妙な問題を含むような基礎研究が中止されることを避けるためだった」と語っている。グリフィン長官は基礎研究のような地味な部分の予算を削りたがる傾向を持っており、それを拒否したことがアランを辞任に導いたのではないかと言われている。 20世紀の中盤からNASAは地球観測のための計画を増加させ、環境調査を行ってきた。その成果の一つが1980年代に打ち上げられた「地球観測システム(Earth Observing System、EOS)」で、オゾン層の破壊のような地球的規模の環境問題を監視することが可能となった。 また初の世界的規模の測量は、1978年にゴダード宇宙研究所の科学者たちにより、ニンバス(Nimbus)7号を使用して行われた。 国家的規模の自然復旧計画の中の一つとして、NASAは南サンフランシスコ湾の61平方キロメートルにおよぶ政府による塩湖の干拓事業が、周辺の環境にどのような影響を及ぼしているのかを衛星を使用して観察している。 またNASAは、環境破壊の予防とエネルギーの削減および水資源の確保に直結する計画に、全機関をあげて取り組んでいる。これらの事実により、アメリカ政府の環境問題に関わる専門機関はNASAであることは明らかである。 地球科学事業(Earth Science Enterprise)の主目的は、自然に対する理解を深め人間が地球環境に与えた変化を知ることである。そのためNASAは、その目的を達成するために関係諸機関と長年にわたり協力してきた。2000年代末までに同事業が行ってきた計画は、以下のとおりである。 NASAは国立再生可能エネルギー研究所(National Renewable Energy Laboratory)と協力して、世界的規模の太陽資源地図を作成している。またDNAPL重非水液による水質汚染を除去するための、革新的な技術を評価する取り組みも続けている。1999年4月6日、NASAはアメリカ合衆国環境保護庁、アメリカ合衆国エネルギー省および空軍との間で、自然酸化膜除去および重非水液の酸化還元反応を矯正する二つの革新的な技術についての合意書を取り交わし、ケネディ宇宙センターにおいてその実験に協力することを約束した。国立宇宙局は軍およびアメリカ国防契約管理局と協力して「汚染予防のための共同グループ(Joint Group on Pollution Prevention)」を結成し、汚染物質を除去するための取り組みを続けている。 2003年5月8日、環境保護庁はアメリカ政府の施設として初めて、ゴダード宇宙飛行センターでごみ再処理ガスを動力源として使用することを許可した。 現在の「宇宙開発における合衆国の指針(Space policy of the United States)」の中で、NASAは「宇宙の探査および開発・獲得に、有人あるいは無人機を使用した継続的で実行可能な計画を実施し、地球・太陽系・宇宙に関する根本的な科学的知識をより広げるために民間の宇宙機を使用する」と述べている。現在は火星、土星といった深宇宙への探査計画、および地球や太陽に関する研究計画が進行中である。また水星や冥王星へと向かう探査機もすでに打ち上げられている。計画中の木星への探査計画が実現されれば、太陽系の半分以上の惑星を網羅することになる。 より発展した大型の移動探査機「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory)」は現在進行中で、当初は2009年10月に発射の予定だったが、技術的な問題により若干の遅れが生じ、2011年11月に打ち上げられた。 冥王星探査機「ニュー・ホライズンズ(New Horizons)」は2006年に打ち上げられ、2015年に冥王星を観測した。水星探査機「メッセンジャー(MESSENGER)」は水星への接近を繰り返しながら減速し、2011年3月に水星の周回軌道に乗った。その他、小惑星帯の探査を目的とする「ドーン(Dawn)」や、複数の彗星探査機が飛行中である。現在準備中の計画には、火星の大気を研究するための「マーズ・スカウト計画(Mars Scout Program)」の一環としての「メイヴン(Mars Atmosphere and Volatile EvolutioN、MAVEN)」がある。 2002年以来、NASAは予算案や計画文書の中に以下のような声明を記している。 「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること。宇宙を探査し、生命の起源を探ること。次の世代の探求心を鼓舞すること......それができるのはNASAだけである。」 2006年2月の初め、この声明は一部が変更され、「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること」の部分が削除された。ある者はこの変更はNASAの文治主義を保護するためのものだと考えたが、他の者の中には、これは科学者ジェームズ・ハンセン(James Hansen)による、アメリカ政府の温暖化対策への姿勢に対する批判ではないかと疑う者もいた。NASAは公式にはそのような事は一切関係ないと否定し、宇宙探査のための新しい方針を示している。NASAのモットーは、「すべての者のための利益」である。 上院の「国土安全保障・政府問題委員会(Committee on Homeland Security and Governmental Affairs)」幹部は2006年7月31日にグリフィン長官を招致し、この変更に対する懸念を表明した。NASAはこの年、いくつかの地球探査計画を中止していた。 2004年1月14日、探査機スピリットが火星に着陸してから10日後、G・W・ブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」と題する新宇宙政策「コンステレーション計画」を発表した。この計画は、現行のシャトルを2010年に退役させ、2014年までにオリオン宇宙船による有人宇宙飛行を実現させ、2020年までに月を有人探査し将来の有人火星探査に繋げるというものだった。この新宇宙政策について議会は当初は懐疑的だったが、2004年の暮れには初年度の予算を承認した。 この計画を奨励するために、NASAは2004年に「100年間の挑戦(Centennial Challenges)」と称する、非政府組織による科学賞を設立した。この中では、たとえば船外活動の時により効率よく作業できる宇宙服の手袋など、「宇宙開発の展望」計画のために有益な発明が表彰されている。 2006年12月4日、NASAは月面基地建設計画を発表した。当時の副長官スコット・ホロウィッツは2020年に建設を開始し、2024年までには飛行士が交代で滞在して、すべての資源を現地で調達できるような機能を持った基地を完成させる予定であることを表明した。この計画では、世界の様々な国の協力を求めていた。 2007年9月28日、NASA長官(当時)マイケル・グリフィン(Michael Griffin)は2037年までに人間を火星に到達させる目標を発表した。 しかし、この計画は2010年にバラク・オバマ大統領により中止された。 NASA長官は同機関における最高責任者であり、また大統領の宇宙科学に関する最高顧問でもある。 NASAの本部はワシントンD.C.にあり、ここからすべての支局に指示を出している。ミシシッピー州セントルイス近郊のジョン・C・ステニス宇宙センターの敷地内には、共同サービスセンターがある。共同センターの建設は2006年に起工し、2008年に竣工した。またケネディ宇宙センターではロケットの部品を輸送するための鉄道も運営されていた。各分野ごとの研究施設の一覧は、下記のとおりである。これらのうちのいくつかは、歴史的あるいは管理上の理由から複数の設備を持っている。施設に付いている人名は宇宙飛行士や宇宙開発に功績のあった関係者を記念したもの。 NASAでは科学調査や宇宙飛行士の訓練などに使用する航空機を多数運用しており、これらの機材を運用する人員も多数雇用している。機体はアメリカ軍の払い下げなどを民間機として再登録したものが多いが、新規取得やXプレーンなどの実験機の新規開発、改造も行っている。施設の多くは飛行場に隣接しているため、貨物や研究者の移送も自前で行っている。 パイロット出身の宇宙飛行士は引退後、NASAのパイロットとして雇用される者もいる。 NASAは現在、数多くのメダルや勲章を飛行士や功績のあった職員に授与している。そのうちのいくつかは、現役の軍の制服組を表彰するものである。中でも最も権威が高いのは「宇宙名誉勲章(Congressional Space Medal of Honor)」で、2009年までに28人が叙勲され(うち17人は追贈)、「自身の義務を遂行した宇宙飛行士の中で、国家と人類の福祉に対する非凡で賞賛に値する努力と貢献が特に傑出していた」と認められている。 次に権威が高いのは「NASA殊勲賞(NASA Distinguished Service Medal)」で、軍人パイロットから文官の職員にいたるまで、すべての政府関係者が受賞する資格を持っている。例年の表彰は、フロリダ州オーランド(Orlando)の国立航空宇宙協会の施設で行われている。 2023年11月、NASA独自の映像ストリーミングサービス「NASA+」を開始した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "座標: 北緯38度52分59秒 西経77度0分59秒 / 北緯38.88306度 西経77.01639度 / 38.88306; -77.01639", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アメリカ航空宇宙局(アメリカこうくううちゅうきょく、英語: National Aeronautics and Space Administration, NASA)、或いは米国国家航空宇宙局(べいこくこっかこうくううちゅうきょく)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関である。1958年7月29日、国家航空宇宙法(National Aeronautics and Space Act)に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会(National Advisory Committee for Aeronautics、NACA)を発展的に解消する形で設立された。正式に活動を始めたのは1958年10月1日のことであった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "NASAはアメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させた。現在は国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)の運用支援、オリオン宇宙船、スペース・ローンチ・システム、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的あるいは軍事目的における長期間の探査である。人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機ニュー・ホライズンズ(New 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Stever)を議長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。スティーヴァーの委員会は、第二次世界大戦後にアメリカの市民権を獲得したヴェルナー・フォン・ブラウンをリーダーとするアメリカ陸軍弾道ミサイル局の「宇宙ロケット開発グループ」から提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年1月14日、NACA長官ヒュー・ドライデンは「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1958年1月31日午後10時48分(アメリカ東部標準時)、エクスプローラー1号(国際衛星識別符号 \"1958α\" を与えられている)が発射され、アメリカ初の人工衛星となった。3月5日、大統領科学技術諮問委員会委員長ジェームズ・キリアン(James Killian)は、アイゼンハワー大統領に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、NACAを強化し再編した組織による文民統制型の宇宙計画を創設することを促した。同年3月末にNACAは、当時企画中だった水素とフッ素を推進剤とする100万ポンド(453トン、445万ニュートン)の推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "同年4月アイゼンハワーは議会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、アメリカ航空宇宙局設立のための予算案を述べた。NACAのそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。7月16日、議会は予算案を承認し、同時にNASA設立のための具体的な根拠となった「国家航空宇宙決議」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、フォン・ブラウン率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状のアメリカの宇宙開発には様々な機関が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。スティーヴァーの宇宙開発委員会はブラウンらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1958年7月29日、アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙決議に署名し、ここにアメリカ航空宇宙局(NASA)が正式に発足した。同年10月1日に実務がスタートすると、NASAは直ちに46年の歴史を持つNACAの組織(8千人の従業員、1億ドルの年間予算、三つの主要な研究施設(ラングレー航空研究所、エイムズ航空研究所、ルイス飛行推進研究所)や二つの小さな実験施設など)をそのまま吸収した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "フォン・ブラウン博士が所属していた陸軍弾道ミサイル局と、海軍調査研究所もまたNASAに併合された。NASAがソ連との宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦下のドイツにおいて、フォン・ブラウンに率いられたロケット計画で開発された技術であった。そこにはロバート・ゴダード博士の初期の研究の成果も取り入れられている。空軍および国防高等研究計画局が行っていた初期段階の研究も、NASAに引き継がれた。1958年12月には、カリフォルニア工科大学が運営するジェット推進研究所もNASAの指揮下に入った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "NASAが最初に行ったのは、冷戦下におけるソ連との熾烈な宇宙開発競争の中で実施された有人宇宙飛行計画であった。1958年に開始されたマーキュリー計画はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また陸・海・空軍からも代表者が送り込まれ、NASAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍のテスト・パイロットの中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1961年5月5日、第一次選抜飛行士「マーキュリー・セブン」の一人であるアラン・シェパード(Alan Shepard)飛行士がマーキュリー宇宙船「フリーダム7」で15分間の弾道飛行に成功し、アメリカ初の宇宙飛行士となった。その後1962年2月20日にはジョン・グレン(John Glenn)飛行士が「フレンドシップ7」で2時間半の飛行を行い、初の地球周回飛行を成功させた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "マーキュリー計画の終了後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うためのジェミニ計画が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は1965年3月23日のジェミニ3号で、ガス・グリソムとジョン・ヤングが地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の衛星とのランデブーやドッキングが可能なことが証明され、無重力が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASAは太陽系探査のための様々な宇宙機を打ち上げた。史上初の有人飛行(ボストーク1号)と同様、月の裏側の写真を初めて撮影したのはソ連の探査機だったが、地球以外の惑星(金星)を初めて探査したのはNASAのマリナー2号だった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "アポロ計画は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながらアポロ1号では、地上での訓練中に火災事故が発生し、飛行士3名が犠牲になった。これにより、アポロ宇宙船は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。8号と10号は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。1969年7月20日、アポロ11号が月面に着陸し、ニール・アームストロングとバズ・オルドリン両飛行士が人類として(また地球上に誕生した生物として)初めて、地球以外の天体の上に降り立った。13号では月に向かう途中で宇宙船の酸素タンクが爆発する事故が発生したが、3名の飛行士は無事地球に帰還することに成功した。アポロでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また土質力学、流星物質、地震学、伝熱、レーザー光線を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、磁場、太陽風など、多数の科学的実験が行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "スカイラブはアメリカが地球周回軌道上に打ち上げた初の宇宙ステーションである。100トン近く(正確には91トン)もある機体は1973年から1979年まで地球を周回し続け、1973年と1974年に3回にわたって飛行士が搭乗した。スカイラブでは当初は太陽系の他の惑星が及ぼす重力の変位の調査が行われる予定だったが、国民が宇宙開発に関心を失い予算が削減されたことにより任務が縮小された。実験の中には、微少重力が及ぼす影響を調べることや、搭載された望遠鏡で太陽の活動を観測することも含まれていた。当初はスペースシャトルとドッキングさせ、より高い安全な軌道に移行させることが計画されていたが、シャトルが初飛行に成功する前の1979年に大気圏に再突入して消滅した。3回目の搭乗員(SL-4)が1974年2月に下船した後、太陽の活動が活発になり、その結果地球の大気が暖められて大気圏が膨張し、機体にかかる空気抵抗が増大したため再突入の時期が早まったのである。スカイラブは1979年7月11日16:37(UTC)ごろに再突入し、オーストラリア西部からインド洋にかけて破片が散らばったが、いくつかの残骸が回収された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アポロ・ソユーズテスト計画は、1975年7月にアメリカとソビエト連邦の間で初めて行われた共同飛行計画である。アメリカにとってはこれがアポロ宇宙船の最後の飛行であり、また1981年4月にスペースシャトルが打ち上げられるまで、有人宇宙飛行は中断された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1970年代から80年代におけるNASAの最大の眼目は、スペースシャトルであった。シャトルは1985年までに再使用可能な4機の機体が製造され、その1号機であるコロンビア号は1981年4月12日に初めて打ち上げられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "シャトルのニュースは、NASAにとって必ずしも明るいものばかりではなかった。打ち上げにかかるコストは当初に予想していたものよりもはるかに高くつき、発射が日常化されるにつれ国民は宇宙開発に対する関心を失っていった。そんな中で1986年に起こったチャレンジャー号爆発事故は、宇宙飛行にともなう危険性を再認識させることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そんな中で、後に国際宇宙ステーション(International Space Station、ISS)へと発展するフリーダム宇宙ステーション計画が、有人宇宙飛行の焦点として開始されたが、このような計画はボイジャー計画のような無人惑星探査に比べ、費用がかかりすぎるのではないかという議論がNASA内部にさえもあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "その一方で、シャトルはハッブル宇宙望遠鏡(Hubble Space Telescope、HST)のような画期的な計画も成功させた。HSTはNASAとヨーロッパ宇宙機関(European Space Agency、ESA)の共同開発によって行われたもので、この成功によって他国の宇宙機関との協力という新たな道が開かれた。HSTに費やした予算は20億ドル以下で、1990年に稼働して以来、数多くの鮮明な天体写真を送り続けている。その中でも、草分けとなった「ハッブル・ディープ・フィールド(Hubble Deep Field)」は特に有名である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1995年、シャトル・ミール計画によってロシアとの共同計画も再開された。ミールとシャトルがドッキングすれば、これはもはや完全な宇宙ステーションであると言えた。このアメリカとロシアという宇宙開発における二大巨頭の協力関係は、ISS(国際宇宙ステーション)の建設作業において21世紀まで継続されている。2003年、コロンビア号空中分解事故によりシャトルの飛行が2年間中断された間、NASAはISSの保守作業をロシアの宇宙船に頼ったことから見ても、両者の信頼関係の強さは明白である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ISSは、主な機材の運搬はすべてシャトルに頼っている。1986年のチャレンジャー号と2003年のコロンビア号の事故で、シャトルは2機の機体と14名の飛行士を失った。1986年の事故では新たにエンデバー号が製造され喪失した機体の埋め合わせがなされたが、2003年の事故ではそのような補強はされず、新型宇宙船オリオンへの移行が決定された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ESAや日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など、ステーション建設に投資した他の国々はISSの完成に懸念を表明したが、これに対し宇宙運用局長のウィリアム・H・ガーステンマイヤー(William H. Gerstenmaier)は、計画には柔軟性がありシャトルは2007年には6ヶ月で3回の飛行を成功させていること、NASAは危機的な日程にも対応できる能力があることなどを説明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "90年代を通して、NASAは議会の財政削減にともなう予算の縮小に直面してきた。第9代長官で、「より早く、より良く、より安く」の標語の生みの親であるダニエル・ゴールディン(Daniel Goldin)は、進行中の多彩な惑星探査計画(ディスカバリー計画)は、経費を削減することで継続が可能であると提案した。1999年にマーズ・クライメイト・オービター(Mars Climate Orbiter)とマーズ・ポーラー・ランダー(Mars Polar Lander)の2機が失敗したのはこの経費削減が原因であると批判を浴びたが、一方でスペースシャトルは2006年12月までに116回の飛行に成功していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "NASAは21世紀初頭までに150の有人宇宙飛行を含む多数の宇宙計画を成功させてきた。中でも著名なのは、11号による史上初の月面着陸を含む、一連のアポロ計画である。スペースシャトルはチャレンジャー号とコロンビア号の事故により、14名の搭乗員全員の命が失われるという大きな障害に見舞われた。シャトルはロシアの宇宙ステーションミールとのドッキングを果たし、現在はロシア・日本・カナダ・欧州宇宙機関など世界の多数の国々が共同参加している国際宇宙ステーションへのドッキングが可能である。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "無人飛行計画もまた多数行われており、太陽系の7つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星・天王星・海王星)はいずれも少なくとも一度は探査機が訪れ、1997年に打ち上げられたカッシーニ(Cassini)探査機は2004年の半ばに土星の周回軌道に乗り、土星表面やその衛星を探査している。カッシーニはNASAのジェット推進研究所と欧州宇宙機関による、20年以上におよぶ国際協力のたまものであった。またパイオニア10・11号およびボイジャー1・2号の4機は太陽系を離れた。NASAは現在の所、小惑星帯を越えて太陽系の外側へ探査機を送り込んだ唯一の宇宙機関である。いくつかの小惑星や彗星にも探査機が接近し、NEARシューメーカーは史上初の小惑星への着陸を行った。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "火星に対しては、水や生命の存在や地質や気候についてを観察をする目的で多数の探査計画が行われてきた。火星探査機はすべてカリフォルニア州パサデナのジェット推進研究所で作成されている。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "マリナー計画やバイキング計画に続き、1996年に打ち上げられた「マーズ・パスファインダー(Mars Pathfinder)」は翌年に火星に20年ぶりに着陸し、同時期に打ち上げられた「マーズ・グローバル・サーベイヤー(Mars Global Surveyor)」は上空から火星を観測した。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2001年に打ち上げられた「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」は2011年初頭時点でも火星上空から観測を続けていて、2003年に打ち上げられた「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 のローバー「スピリット(Spirit)」と「オポチュニティ(Opportunity)」は、2004年の初頭以来グセフ(Gusev)クレーターやメリディアニ平原(Meridiani Planum)で当初予定していたより17倍もの長期間に渡って運用され続けている。2005年には「マーズ・リコネッサンス・オービター(Mars Reconnaissance Orbiter)」が打ち上げられ、2011年初頭時点でも火星上空から観測が続けられている。2007年には「フェニックス(Phoenix Mars Lander)」が打ち上げられ、2008年5月25日に火星の北極付近に着陸し、同年6月のロボットアームによる土壌掘削調査により土壌中から氷らしきものを発見した。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2008年5月25日、「豪腕」「改革屋」の異名を持つ科学ミッション部門の副長官アラン・ステム(Alan Stem)が辞任した。伝聞によると在任中の4月11日、アランは「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」 および「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 の予算のカットを指示したが、グリフィン長官に覆されたとのことである。この削減案は、マーズ・サイエンス・ラボラトリーにかかる経費の超過を相殺するためのものであった。アランは「自分が辞任する理由はMERに関わるものではない」とし、「MERの予算をカットしようとした人間は自分ではない」とも述べた。彼は1年ほどの勤務の間に、「NASAの重要な科学実験計画を再建し、大きな変革をもたらした」と評価されたが、辞めた理由は「健全な計画や、政治的に微妙な問題を含むような基礎研究が中止されることを避けるためだった」と語っている。グリフィン長官は基礎研究のような地味な部分の予算を削りたがる傾向を持っており、それを拒否したことがアランを辞任に導いたのではないかと言われている。", "title": "NASAの宇宙飛行計画" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "20世紀の中盤からNASAは地球観測のための計画を増加させ、環境調査を行ってきた。その成果の一つが1980年代に打ち上げられた「地球観測システム(Earth Observing System、EOS)」で、オゾン層の破壊のような地球的規模の環境問題を監視することが可能となった。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "また初の世界的規模の測量は、1978年にゴダード宇宙研究所の科学者たちにより、ニンバス(Nimbus)7号を使用して行われた。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "国家的規模の自然復旧計画の中の一つとして、NASAは南サンフランシスコ湾の61平方キロメートルにおよぶ政府による塩湖の干拓事業が、周辺の環境にどのような影響を及ぼしているのかを衛星を使用して観察している。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "またNASAは、環境破壊の予防とエネルギーの削減および水資源の確保に直結する計画に、全機関をあげて取り組んでいる。これらの事実により、アメリカ政府の環境問題に関わる専門機関はNASAであることは明らかである。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "地球科学事業(Earth Science Enterprise)の主目的は、自然に対する理解を深め人間が地球環境に与えた変化を知ることである。そのためNASAは、その目的を達成するために関係諸機関と長年にわたり協力してきた。2000年代末までに同事業が行ってきた計画は、以下のとおりである。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "NASAは国立再生可能エネルギー研究所(National Renewable Energy Laboratory)と協力して、世界的規模の太陽資源地図を作成している。またDNAPL重非水液による水質汚染を除去するための、革新的な技術を評価する取り組みも続けている。1999年4月6日、NASAはアメリカ合衆国環境保護庁、アメリカ合衆国エネルギー省および空軍との間で、自然酸化膜除去および重非水液の酸化還元反応を矯正する二つの革新的な技術についての合意書を取り交わし、ケネディ宇宙センターにおいてその実験に協力することを約束した。国立宇宙局は軍およびアメリカ国防契約管理局と協力して「汚染予防のための共同グループ(Joint Group on Pollution Prevention)」を結成し、汚染物質を除去するための取り組みを続けている。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "2003年5月8日、環境保護庁はアメリカ政府の施設として初めて、ゴダード宇宙飛行センターでごみ再処理ガスを動力源として使用することを許可した。", "title": "NASAの科学研究" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "現在の「宇宙開発における合衆国の指針(Space policy of the United States)」の中で、NASAは「宇宙の探査および開発・獲得に、有人あるいは無人機を使用した継続的で実行可能な計画を実施し、地球・太陽系・宇宙に関する根本的な科学的知識をより広げるために民間の宇宙機を使用する」と述べている。現在は火星、土星といった深宇宙への探査計画、および地球や太陽に関する研究計画が進行中である。また水星や冥王星へと向かう探査機もすでに打ち上げられている。計画中の木星への探査計画が実現されれば、太陽系の半分以上の惑星を網羅することになる。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "より発展した大型の移動探査機「マーズ・サイエンス・ラボラトリー(Mars Science Laboratory)」は現在進行中で、当初は2009年10月に発射の予定だったが、技術的な問題により若干の遅れが生じ、2011年11月に打ち上げられた。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "冥王星探査機「ニュー・ホライズンズ(New Horizons)」は2006年に打ち上げられ、2015年に冥王星を観測した。水星探査機「メッセンジャー(MESSENGER)」は水星への接近を繰り返しながら減速し、2011年3月に水星の周回軌道に乗った。その他、小惑星帯の探査を目的とする「ドーン(Dawn)」や、複数の彗星探査機が飛行中である。現在準備中の計画には、火星の大気を研究するための「マーズ・スカウト計画(Mars Scout Program)」の一環としての「メイヴン(Mars Atmosphere and Volatile EvolutioN、MAVEN)」がある。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "2002年以来、NASAは予算案や計画文書の中に以下のような声明を記している。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること。宇宙を探査し、生命の起源を探ること。次の世代の探求心を鼓舞すること......それができるのはNASAだけである。」", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2006年2月の初め、この声明は一部が変更され、「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること」の部分が削除された。ある者はこの変更はNASAの文治主義を保護するためのものだと考えたが、他の者の中には、これは科学者ジェームズ・ハンセン(James Hansen)による、アメリカ政府の温暖化対策への姿勢に対する批判ではないかと疑う者もいた。NASAは公式にはそのような事は一切関係ないと否定し、宇宙探査のための新しい方針を示している。NASAのモットーは、「すべての者のための利益」である。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "上院の「国土安全保障・政府問題委員会(Committee on Homeland Security and Governmental Affairs)」幹部は2006年7月31日にグリフィン長官を招致し、この変更に対する懸念を表明した。NASAはこの年、いくつかの地球探査計画を中止していた。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2004年1月14日、探査機スピリットが火星に着陸してから10日後、G・W・ブッシュ大統領は「宇宙開発の展望」と題する新宇宙政策「コンステレーション計画」を発表した。この計画は、現行のシャトルを2010年に退役させ、2014年までにオリオン宇宙船による有人宇宙飛行を実現させ、2020年までに月を有人探査し将来の有人火星探査に繋げるというものだった。この新宇宙政策について議会は当初は懐疑的だったが、2004年の暮れには初年度の予算を承認した。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "この計画を奨励するために、NASAは2004年に「100年間の挑戦(Centennial Challenges)」と称する、非政府組織による科学賞を設立した。この中では、たとえば船外活動の時により効率よく作業できる宇宙服の手袋など、「宇宙開発の展望」計画のために有益な発明が表彰されている。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "2006年12月4日、NASAは月面基地建設計画を発表した。当時の副長官スコット・ホロウィッツは2020年に建設を開始し、2024年までには飛行士が交代で滞在して、すべての資源を現地で調達できるような機能を持った基地を完成させる予定であることを表明した。この計画では、世界の様々な国の協力を求めていた。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2007年9月28日、NASA長官(当時)マイケル・グリフィン(Michael Griffin)は2037年までに人間を火星に到達させる目標を発表した。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "しかし、この計画は2010年にバラク・オバマ大統領により中止された。", "title": "NASAの将来" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "NASA長官は同機関における最高責任者であり、また大統領の宇宙科学に関する最高顧問でもある。", "title": "長官" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "NASAの本部はワシントンD.C.にあり、ここからすべての支局に指示を出している。ミシシッピー州セントルイス近郊のジョン・C・ステニス宇宙センターの敷地内には、共同サービスセンターがある。共同センターの建設は2006年に起工し、2008年に竣工した。またケネディ宇宙センターではロケットの部品を輸送するための鉄道も運営されていた。各分野ごとの研究施設の一覧は、下記のとおりである。これらのうちのいくつかは、歴史的あるいは管理上の理由から複数の設備を持っている。施設に付いている人名は宇宙飛行士や宇宙開発に功績のあった関係者を記念したもの。", "title": "施設" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "NASAでは科学調査や宇宙飛行士の訓練などに使用する航空機を多数運用しており、これらの機材を運用する人員も多数雇用している。機体はアメリカ軍の払い下げなどを民間機として再登録したものが多いが、新規取得やXプレーンなどの実験機の新規開発、改造も行っている。施設の多くは飛行場に隣接しているため、貨物や研究者の移送も自前で行っている。", "title": "航空機" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "パイロット出身の宇宙飛行士は引退後、NASAのパイロットとして雇用される者もいる。", "title": "航空機" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "NASAは現在、数多くのメダルや勲章を飛行士や功績のあった職員に授与している。そのうちのいくつかは、現役の軍の制服組を表彰するものである。中でも最も権威が高いのは「宇宙名誉勲章(Congressional Space Medal of Honor)」で、2009年までに28人が叙勲され(うち17人は追贈)、「自身の義務を遂行した宇宙飛行士の中で、国家と人類の福祉に対する非凡で賞賛に値する努力と貢献が特に傑出していた」と認められている。", "title": "表彰および勲章" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "次に権威が高いのは「NASA殊勲賞(NASA Distinguished Service Medal)」で、軍人パイロットから文官の職員にいたるまで、すべての政府関係者が受賞する資格を持っている。例年の表彰は、フロリダ州オーランド(Orlando)の国立航空宇宙協会の施設で行われている。", "title": "表彰および勲章" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "2023年11月、NASA独自の映像ストリーミングサービス「NASA+」を開始した。", "title": "NASA+" } ]
アメリカ航空宇宙局、或いは米国国家航空宇宙局(べいこくこっかこうくううちゅうきょく)は、アメリカ合衆国政府内における宇宙開発に関わる計画を担当する連邦機関である。1958年7月29日、国家航空宇宙法に基づき、先行の国家航空宇宙諮問委員会を発展的に解消する形で設立された。正式に活動を始めたのは1958年10月1日のことであった。 NASAはアメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、アポロ計画における人類初の月面着陸、スカイラブ計画における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機スペースシャトルなどを実現させた。現在は国際宇宙ステーションの運用支援、オリオン宇宙船、スペース・ローンチ・システム、商業乗員輸送などの開発と監督を行なっている。 宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、宇宙空間の平和目的あるいは軍事目的における長期間の探査である。人工衛星を使用した地球自体への探査、無人探査機を使用した太陽系の探査、進行中の冥王星探査機ニュー・ホライズンズのような太陽系外縁部の探査、さらにはハッブル宇宙望遠鏡などを使用した、ビッグ・バンを初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっている。2006年2月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」であった。
{{Redirect|NASA}} {{Coord|38|52|59|N|77|0|59|W |type:landmark_region:US-DC |display=title}} {{Infobox Government agency | agency_name = アメリカ航空宇宙局<br />{{lang|en|National Aeronautics and Space Administration}} | abbreviation = NASA | logo = NASA_Worm_logo.svg | logo_width = 140px | logo_caption = NASAのロゴタイプ | seal = NASA logo.svg | seal_width = 140px | seal_caption = NASAの記章 | formed =[[1958年]][[10月1日]] | preceding1 = [[アメリカ航空諮問委員会|国家航空宇宙諮問委員会]] | jurisdiction = [[アメリカ合衆国連邦政府]] | headquarters = {{USA}}<br>[[ワシントンD.C.]] | latd=38 |latm=52 |lats=59 |latNS=N | longd=77 |longm= 0 |longs=59 |longEW=W | region_code=US-DC | employees = 17,900人 | budget = 215億ドル(2018年度) | chief1_name = ビル・ネルソン<ref>[https://sorabatake.jp/19635/ NASA長官・副長官に宇宙飛行士経験のあるネルソン氏とメルロイ氏が任命。] SORABATAKE、2021年11月10日閲覧。</ref><br>(長官) | chief1_position = | chief2_name = | chief2_position = | website = [https://www.nasa.gov nasa.gov] }} '''アメリカ航空宇宙局'''(アメリカこうくううちゅうきょく、{{lang-en|'''N'''ational '''A'''eronautics and '''S'''pace '''A'''dministration, '''NASA'''}})、或いは'''米国国家航空宇宙局'''(べいこくこっかこうくううちゅうきょく)<ref>https://www.mext.go.jp/a_menu/kaihatu/space/kaihatsushi/detail/1291224.htm</ref>は、[[アメリカ合衆国]]政府内における[[宇宙開発]]に関わる計画を担当する連邦機関である。[[1958年]][[7月29日]]、国家航空宇宙法(National Aeronautics and Space Act)に基づき、先行の[[アメリカ航空諮問委員会|国家航空宇宙諮問委員会]](National Advisory Committee for Aeronautics、NACA)を発展的に解消する形で設立された。正式に活動を始めたのは1958年[[10月1日]]のことであった。 NASAはアメリカの宇宙開発における国家的努力をそれ以前よりもさらに充実させ、[[アポロ計画]]における[[人類]]初の[[月面着陸]]、[[スカイラブ計画]]における長期宇宙滞在、さらに宇宙往還機[[スペースシャトル]]などを実現させた。現在は[[国際宇宙ステーション]](International Space Station、ISS)の運用支援、[[オリオン (宇宙船)|オリオン宇宙船]]、[[スペース・ローンチ・システム]]、[[商業乗員輸送開発|商業乗員輸送]]などの開発と監督を行なっている。 宇宙開発に加えてNASAが帯びている重要な任務は、[[宇宙空間]]の[[平和]]目的あるいは[[軍事]]目的における長期間の探査である。[[人工衛星]]を使用した[[地球]]自体への探査、[[宇宙探査機|無人探査機]]を使用した[[太陽系]]の探査、進行中の[[冥王星]]探査機[[ニュー・ホライズンズ]](New Horizons)のような太陽系外縁部の探査、さらには[[ハッブル宇宙望遠鏡]]などを使用した、[[ビッグ・バン]]を初めとする宇宙全体への探査などが主な役割となっている。[[2006年]]2月に発表されたNASAの到達目標は、「宇宙空間の開拓、科学的発見、そして最新鋭機の開発において、常に先駆者たれ」であった。 == 歴史 == === 宇宙開発競争 === [[1957年]][[10月4日]]、[[ソビエト連邦]]が人類史上初の[[人工衛星]][[スプートニク1号]]を成功させたことにより、アメリカ国民は「自国の宇宙開発技術が、いかに貧弱であるか」という事実を思い知らされた([[スプートニク・ショック]])。[[アメリカ合衆国議会|議会]]はアメリカの[[安全保障]]および技術の先駆性が脅威に晒されていることを警告し、[[アメリカ合衆国連邦政府|連邦政府]]は直ちに何らかの行動をとるよう促した。 これを受け、[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー大統領]]およびその側近は対応策を慎重に検討し、数ヶ月にわたって討議を重ねた結果、「非軍事目的の宇宙活動を実施するためには、[[アメリカ軍|陸海空軍]]などが独自に宇宙開発を進める状態を改め、指揮系統を一元化するべきだ」との結論に達し、[[国防高等研究計画局]](Advanced Research Projects Agency、ARPA)も同時に、創設されることとなった。 [[ファイル:NACA seal (cropped).png|thumb|left|120px|NACAのマーク]] === NACA時代 === {{See also|アメリカ航空諮問委員会}} [[1957年]]末から[[1958年]]初頭にかけ、[[アメリカ航空諮問委員会|NACA]](国家航空宇宙諮問委員会)はそれまで同委員会が果たしてきたような役割を非軍事の新設の機関に委譲する方法についての検討を始め、またその概念を精査するためにいくつかの委員会を立ち上げた。1958年[[1月12日]]、NACAはガイフォード・スティーヴァー(Guyford Stever)を議長とする「宇宙技術特別委員会」を設立した。スティーヴァーの委員会は、[[第二次世界大戦]]後にアメリカの[[市民権]]を獲得した[[ヴェルナー・フォン・ブラウン]]をリーダーとする[[アメリカ陸軍弾道ミサイル局]]の「宇宙ロケット開発グループ」から提案された、巨大ロケット開発計画を諮問する任務も帯びていた。1958年[[1月14日]]、NACA長官ヒュー・ドライデンは「宇宙技術のための国家的調査計画」を発表し、以下のように述べた。{{cquote|'''我が国の威信および軍事的な必要性の両面から考えれば、今回の挑戦(スプートニク)に見舞われた、宇宙征服のための調査および開発の計画を精力的に推し進めることは、緊急かつ重要な課題である。(中略)そのため、非軍事的な国家機関によって科学的な調査が行われるべきだとの提案がなされた。(中略)NACAは宇宙開発技術で主導権を取ることにより、その成果を急速に拡大し延長する能力がある。'''}} 1958年[[1月31日]]午後10時48分(アメリカ[[東部標準時]])、[[エクスプローラー1号]]([[国際衛星識別符号]] "1958α" を与えられている)が発射され、アメリカ初の人工衛星となった。[[3月5日]]、大統領科学技術諮問委員会委員長ジェームズ・キリアン(James Killian)は、アイゼンハワー大統領に「民間宇宙計画のための組織」と題する書簡を送り、日程の遅れを最小限に抑えて調査計画を拡張すべく、NACAを強化し再編した組織による[[文民統制]]型の宇宙計画を創設することを促した。同年3月末にNACAは、当時企画中だった[[水素]]と[[フッ素]]を推進剤とする100万ポンド(453[[トン]]、445万[[ニュートン (単位)|ニュートン]])の推力を持つ3段式のロケットの開発計画を含む、「宇宙開発に関する提言」と題する報告書を発表した。 同年4月アイゼンハワーは議会で演説し、民間主導の宇宙開発機関を新設する意向と、アメリカ航空宇宙局設立のための予算案を述べた。NACAのそれまでの役割は、たとえば調査活動ひとつを取ってみても、その規模や進展、管理、運営などの点において変革がなされるべきであった。[[7月16日]]、議会は予算案を承認し、同時にNASA設立のための具体的な根拠となった「国家航空宇宙決議」についても若干の言及をした。そのわずか2日後、フォン・ブラウン率いる作業グループは予備報告書を提出し、その中で現状のアメリカの宇宙開発には様々な機関が割り当てられ、相互の連携が欠落し国家的労力が重複していることを痛烈に批判した。スティーヴァーの宇宙開発委員会はブラウンらのグループの批判に同意し、10月には最終的な草案が提出された。 [[ファイル:NASA Worm logo.svg|thumb|right|[[1975年]]から[[1992年]]まで使用されていたNASAのロゴタイプ。2020年代から再び使用される。]] === NASAの発足 === 1958年[[7月29日]]、アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙決議に署名し、ここにアメリカ航空宇宙局(NASA)が正式に発足した。同年[[10月1日]]に実務がスタートすると、NASAは直ちに46年の歴史を持つNACAの組織(8千人の従業員、1億ドルの年間予算、三つの主要な研究施設([[ラングレー研究所|ラングレー航空研究所]]、エイムズ航空研究所、ルイス飛行推進研究所)や二つの小さな実験施設など)をそのまま吸収した。 フォン・ブラウン博士が所属していた陸軍弾道ミサイル局と、海軍調査研究所もまたNASAに併合された。NASAがソ連との宇宙開発競争に参入するにあたって重要な貢献をなしたのは、かつて第二次大戦下の[[ドイツ]]において、フォン・ブラウンに率いられたロケット計画で開発された技術であった。そこには[[ロバート・ゴダード]]博士の初期の研究の成果も取り入れられている。空軍および国防高等研究計画局が行っていた初期段階の研究も、NASAに引き継がれた。1958年12月には、[[カリフォルニア工科大学]]が運営する[[ジェット推進研究所]]もNASAの指揮下に入った。 [[ファイル:Mercury 3.jpg|thumb|left|upright|120px|[[1961年]][[5月5日]]、[[アラン・シェパード]]飛行士の搭乗するマーキュリー宇宙船「フリーダム7」が、[[PGM-11 (ミサイル)|レッドストーン]]ロケットによって打ち上げられる瞬間。この後アメリカ初となる[[弾道飛行]]に成功。]] === マーキュリー計画 === {{Main|マーキュリー計画}} NASAが最初に行ったのは、[[冷戦]]下におけるソ連との熾烈な[[宇宙開発競争]]の中で実施された[[有人宇宙飛行]]計画であった。1958年に開始された[[マーキュリー計画]]はまだほとんど手探りの状態で、そもそも人間は宇宙空間で生存できるのかという初歩的なことを調べることから開始された。また[[アメリカ陸軍|陸]]・[[アメリカ海軍|海]]・[[アメリカ空軍|空軍]]からも代表者が送り込まれ、NASAを支援した。飛行士の選抜は、すでにいる選び抜かれた軍の[[テスト・パイロット]]の中から候補を絞り込めばよいだけなので、比較的容易であった。 [[1961年]][[5月5日]]、第一次選抜飛行士「[[マーキュリー・セブン]]」の一人である[[アラン・シェパード]](Alan Shepard)飛行士がマーキュリー宇宙船「[[マーキュリー・レッドストーン3号|フリーダム7]]」で15分間の[[弾道飛行]]に成功し、アメリカ初の[[宇宙飛行士]]となった。その後[[1962年]][[2月20日]]には[[ジョン・ハーシェル・グレン|ジョン・グレン]](John Glenn)飛行士が「[[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7]]」で2時間半の飛行を行い、初の[[人工衛星の軌道|地球周回飛行]]を成功させた。 === ジェミニ計画 === {{Main|ジェミニ計画}} [[ファイル:Gemini 1.jpg|thumb|right|120px|[[ジェミニ1号]]の打ち上げ]] マーキュリー計画の終了後、月飛行に必要な種々の問題を解決し実験を行うための[[ジェミニ計画]]が始まった。飛行士を搭乗させての初飛行は[[1965年]][[3月23日]]の[[ジェミニ3号]]で、[[ガス・グリソム]]と[[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]が地球を3周した。続く9回の有人飛行で、長期間の宇宙滞在や、他の衛星との[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]やドッキングが可能なことが証明され、[[無重力]]が人体に及ぼす医学的データが集められた。またこれと平行して、NASAは[[太陽系]]探査のための様々な宇宙機を打ち上げた。史上初の有人飛行([[ボストーク1号]])と同様、[[月の裏]]側の写真を初めて撮影したのはソ連の探査機だったが、地球以外の[[惑星]]([[金星]])を初めて探査したのはNASAの[[マリナー2号]]だった。 [[ファイル:Apollo 11 Launch - GPN-2000-000630.jpg|thumb|left|120px|[[アポロ11号]]の打ち上げ]] === アポロ計画 === {{Main|アポロ計画}} [[アポロ計画]]は、人間を月面に着陸させかつ安全に地球に帰還させることを目的に構想された。しかしながら[[アポロ1号]]では、地上での訓練中に火災事故が発生し、飛行士3名が犠牲になった。これにより、[[アポロ宇宙船]]は人間を搭乗させる前に数回の無人試験飛行を行うことを余儀なくされた。[[アポロ8号|8号]]と[[アポロ10号|10号]]は月を周回し、多数の写真を持ち帰った。[[1969年]][[7月20日]]、[[アポロ11号]]が月面に着陸し、[[ニール・アームストロング]]と[[バズ・オルドリン]]両飛行士が[[人類]]として(また地球上に誕生した[[生物]]として)初めて、地球以外の[[天体]]の上に降り立った。[[アポロ13号|13号]]では月に向かう途中で宇宙船の[[酸素]]タンクが爆発する事故が発生したが、3名の飛行士は無事地球に帰還することに成功した。アポロでは計6回の月面着陸が行われ、貴重な科学的データと400kg近い岩石のサンプルを持ち帰った。また[[土質力学]]、[[流星物質]]、[[地震学]]、[[伝熱]]、[[レーザー光線]]を使用した地球と月の間の正確な距離の測定、[[磁場]]、[[太陽風]]など、多数の科学的実験が行われた。 === スカイラブ計画 === {{Main|スカイラブ計画}} [[スカイラブ計画|スカイラブ]]はアメリカが地球周回軌道上に打ち上げた初の[[宇宙ステーション]]である。100トン近く(正確には91トン)もある機体は[[1973年]]から[[1979年]]まで地球を周回し続け、1973年と[[1974年]]に3回にわたって飛行士が搭乗した。スカイラブでは当初は太陽系の他の惑星が及ぼす[[重力]]の変位の調査が行われる予定だったが、国民が宇宙開発に関心を失い予算が削減されたことにより任務が縮小された。実験の中には、微少重力が及ぼす影響を調べることや、搭載された望遠鏡で[[太陽]]の活動を観測することも含まれていた。当初は[[スペースシャトル]]とドッキングさせ、より高い安全な軌道に移行させることが計画されていたが、シャトルが初飛行に成功する前の1979年に[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]して消滅した。3回目の搭乗員(SL-4)が1974年2月に下船した後、太陽の活動が活発になり、その結果地球の[[大気]]が暖められて[[大気圏]]が膨張し、機体にかかる[[空気抵抗]]が増大したため再突入の時期が早まったのである。スカイラブは1979年[[7月11日]]16:37(UTC)ごろに再突入し、[[オーストラリア]]西部から[[インド洋]]にかけて破片が散らばったが、いくつかの残骸が回収された。 === アポロ・ソユーズテスト計画 === {{Main|アポロ・ソユーズテスト計画}} [[ファイル:Apollo-soyuz.jpg|thumb|right|国立航空宇宙博物館に展示されているアポロとソユーズ両宇宙船]] [[アポロ・ソユーズテスト計画]]は、[[1975年]]7月にアメリカと[[ソビエト連邦]]の間で初めて行われた共同飛行計画である。アメリカにとってはこれがアポロ宇宙船の最後の飛行であり、また[[1981年]]4月にスペースシャトルが打ち上げられるまで、有人宇宙飛行は中断された。 [[ファイル:Space Shuttle Columbia launching.jpg|thumb|left|[[1981年]][[4月12日]]、[[スペースシャトル]]「[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア]]」の初飛行]] === スペースシャトルの時代 === {{See also|スペースシャトル|ハッブル宇宙望遠鏡|国際宇宙ステーション}} 1970年代から80年代におけるNASAの最大の眼目は、[[スペースシャトル]]であった。シャトルは[[1985年]]までに再使用可能な4機の機体が製造され、その1号機である[[スペースシャトル・コロンビア|コロンビア号]]は[[1981年]][[4月12日]]に初めて打ち上げられた。 シャトルのニュースは、NASAにとって必ずしも明るいものばかりではなかった。打ち上げにかかるコストは当初に予想していたものよりもはるかに高くつき、発射が日常化されるにつれ国民は宇宙開発に対する関心を失っていった。そんな中で[[1986年]]に起こった[[チャレンジャー号爆発事故]]は、宇宙飛行にともなう危険性を再認識させることとなった。 そんな中で、後に[[国際宇宙ステーション]](International Space Station、ISS)へと発展する[[フリーダム宇宙ステーション]]計画が、有人宇宙飛行の焦点として開始されたが、このような計画は[[ボイジャー計画]]のような無人[[惑星探査]]に比べ、費用がかかりすぎるのではないかという議論がNASA内部にさえもあった。 その一方で、シャトルは[[ハッブル宇宙望遠鏡]](Hubble Space Telescope、HST)のような画期的な計画も成功させた。HSTはNASAと[[ヨーロッパ宇宙機関]](European Space Agency、ESA)の共同開発によって行われたもので、この成功によって他国の宇宙機関との協力という新たな道が開かれた。HSTに費やした予算は20億ドル以下で、[[1990年]]に稼働して以来、数多くの鮮明な天体写真を送り続けている。その中でも、草分けとなった「[[ハッブル・ディープ・フィールド]](Hubble Deep Field)」は特に有名である。 [[1995年]]、[[シャトル・ミール計画]]によって[[ロシア]]との共同計画も再開された。[[ミール]]とシャトルがドッキングすれば、これはもはや完全な宇宙ステーションであると言えた。このアメリカとロシアという宇宙開発における二大巨頭の協力関係は、ISS(国際宇宙ステーション)の建設作業において21世紀まで継続されている。[[2003年]]、[[コロンビア号空中分解事故]]によりシャトルの飛行が2年間中断された間、NASAはISSの保守作業をロシアの宇宙船に頼ったことから見ても、両者の信頼関係の強さは明白である。 ISSは、主な機材の運搬はすべてシャトルに頼っている。[[1986年]]のチャレンジャー号と[[2003年]]のコロンビア号の事故で、シャトルは2機の機体と14名の飛行士を失った。1986年の事故では新たに[[スペースシャトル・エンデバー|エンデバー号]]が製造され喪失した機体の埋め合わせがなされたが、2003年の事故ではそのような補強はされず、新型宇宙船[[オリオン (宇宙船)|オリオン]]への移行が決定された。 ESAや日本の[[宇宙航空研究開発機構]](JAXA)など、ステーション建設に投資した他の国々はISSの完成に懸念を表明したが、これに対し宇宙運用局長のウィリアム・H・ガーステンマイヤー(William H. Gerstenmaier)は、計画には柔軟性がありシャトルは[[2007年]]には6ヶ月で3回の飛行を成功させていること、NASAは危機的な日程にも対応できる能力があることなどを説明した。 90年代を通して、NASAは議会の財政削減にともなう予算の縮小に直面してきた。第9代長官で、「より早く、より良く、より安く」の標語の生みの親であるダニエル・ゴールディン(Daniel Goldin)は、進行中の多彩な惑星探査計画([[ディスカバリー計画]])は、経費を削減することで継続が可能であると提案した。[[1999年]]に[[マーズ・クライメイト・オービター]](Mars Climate Orbiter)と[[マーズ・ポーラー・ランダー]](Mars Polar Lander)の2機が失敗したのはこの経費削減が原因であると批判を浴びたが、一方でスペースシャトルは[[2006年]]12月までに116回の飛行に成功していた。 == NASAの宇宙飛行計画 == NASAは21世紀初頭までに150の有人宇宙飛行を含む多数の宇宙計画を成功させてきた。中でも著名なのは、[[アポロ11号|11号]]による史上初の月面着陸を含む、一連の[[アポロ計画]]である。[[スペースシャトル]]は[[チャレンジャー号爆発事故|チャレンジャー号]]と[[コロンビア号空中分解事故|コロンビア号]]の事故により、14名の搭乗員全員の命が失われるという大きな障害に見舞われた。シャトルは[[ロシア]]の宇宙ステーション[[ミール]]とのドッキングを果たし、現在はロシア・[[日本]]・[[カナダ]]・[[欧州宇宙機関]]など世界の多数の国々が共同参加している国際宇宙ステーションへのドッキングが可能である。 無人飛行計画もまた多数行われており、太陽系の7つの惑星(水星・金星・火星・木星・土星・[[天王星]]・[[海王星]])はいずれも少なくとも一度は探査機が訪れ、[[1997年]]に打ち上げられた[[カッシーニ (探査機)|カッシーニ]](Cassini)探査機は[[2004年]]の半ばに土星の周回軌道に乗り、土星表面や[[土星の衛星と環|その衛星]]を探査している。カッシーニはNASAの[[ジェット推進研究所]]と欧州宇宙機関による、20年以上におよぶ国際協力のたまものであった。また[[パイオニア10号|パイオニア10]]・[[パイオニア11号|11号]]および[[ボイジャー1号|ボイジャー1]]・[[ボイジャー2号|2号]]の4機は太陽系を離れた。NASAは現在の所、[[小惑星帯]]を越えて太陽系の外側へ探査機を送り込んだ唯一の宇宙機関である。いくつかの[[小惑星]]や彗星にも探査機が接近し、[[NEARシューメーカー]]は史上初の小惑星への着陸を行った。 === 火星探査 === {{main|火星探査|火星探査機}} [[ファイル:MRO Aerobrake.jpg|thumb|right|[[マーズ・リコネッサンス・オービター]]]] 火星に対しては、[[水]]や[[生命]]の存在や[[地質]]や[[気候]]についてを観察をする目的で多数の探査計画が行われてきた。火星探査機はすべて[[カリフォルニア州]][[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]のジェット推進研究所で作成されている。 [[マリナー計画]]や[[バイキング計画]]に続き、1996年に打ち上げられた「[[マーズ・パスファインダー]](Mars Pathfinder)」は翌年に火星に20年ぶりに着陸し、同時期に打ち上げられた「[[マーズ・グローバル・サーベイヤー]](Mars Global Surveyor)」は上空から火星を観測した。 2001年に打ち上げられた「[[2001マーズ・オデッセイ]](Mars Odyssey)」は2011年初頭時点でも火星上空から観測を続けていて、2003年に打ち上げられた「[[マーズ・エクスプロレーション・ローバー]](Mars Exploration Rover、MER)」 のローバー「[[スピリット (探査機)|スピリット]](Spirit)」と「[[オポチュニティ]](Opportunity)」は、[[2004年]]の初頭以来グセフ(Gusev)[[クレーター]]や[[メリディアニ平原]](Meridiani Planum)で当初予定していたより17倍もの長期間に渡って運用され続けている。2005年には「[[マーズ・リコネッサンス・オービター]](Mars Reconnaissance Orbiter)」が打ち上げられ、2011年初頭時点でも火星上空から観測が続けられている。2007年には「[[フェニックス (探査機)|フェニックス]](Phoenix Mars Lander)」が打ち上げられ、[[2008年]][[5月25日]]に火星の[[北極]]付近に着陸し、同年6月のロボットアームによる土壌掘削調査により土壌中から氷らしきものを発見した。 [[2008年]][[5月25日]]、「豪腕」「改革屋」の異名を持つ科学ミッション部門の副長官アラン・ステム(Alan Stem)が辞任した。伝聞によると在任中の[[4月11日]]、アランは「2001マーズ・オデッセイ(Mars Odyssey)」 および「マーズ・エクスプロレーション・ローバー(Mars Exploration Rover、MER)」 の予算のカットを指示したが、グリフィン長官に覆されたとのことである。この削減案は、[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー]]にかかる経費の超過を相殺するためのものであった。アランは「自分が辞任する理由はMERに関わるものではない」とし、「MERの予算をカットしようとした人間は自分ではない」とも述べた。彼は1年ほどの勤務の間に、「NASAの重要な科学実験計画を再建し、大きな変革をもたらした」と評価されたが、辞めた理由は「健全な計画や、政治的に微妙な問題を含むような基礎研究が中止されることを避けるためだった」と語っている。グリフィン長官は基礎研究のような地味な部分の予算を削りたがる傾向を持っており、それを拒否したことがアランを辞任に導いたのではないかと言われている。 == NASAの科学研究 == === オゾン層破壊 === [[20世紀]]の中盤からNASAは地球観測のための計画を増加させ、環境調査を行ってきた。その成果の一つが1980年代に打ち上げられた「地球観測システム(Earth Observing System、EOS)」で、[[オゾン層]]の破壊のような地球的規模の[[環境問題]]を監視することが可能となった。 また初の世界的規模の[[測量]]は、[[1978年]]にゴダード宇宙研究所の科学者たちにより、[[ニンバス (人工衛星)|ニンバス]](Nimbus)7号を使用して行われた。 === 塩湖の蒸発およびエネルギー管理 === 国家的規模の自然復旧計画の中の一つとして、NASAは南[[サンフランシスコ湾]]の61平方キロメートルにおよぶ政府による[[塩湖]]の[[干拓]]事業が、周辺の環境にどのような影響を及ぼしているのかを衛星を使用して観察している。 またNASAは、[[自然破壊|環境破壊]]の予防とエネルギーの削減および[[水資源]]の確保に直結する計画に、全機関をあげて取り組んでいる。これらの事実により、アメリカ政府の[[環境問題]]に関わる専門機関はNASAであることは明らかである。 === 地球科学事業 === 地球科学事業(Earth Science Enterprise)の主目的は、自然に対する理解を深め人間が地球環境に与えた変化を知ることである。そのためNASAは、その目的を達成するために関係諸機関と長年にわたり協力してきた。2000年代末までに同事業が行ってきた計画は、以下のとおりである。 * [[炭素]]管理のための炭素分離評価(Carbon sequestration for Carbon Management) * 国防のための大気および水質に関する早期警戒システム(Early warning systems for air and water quality for Homeland Security) * [[エネルギー]]予想のためのより高度な[[天気予報]](Enhanced weather predication for Energy Forecasting) * 沿岸管理のための環境指標(Environmental indicators for Coastal Management) * 地域社会発展管理のための環境指標(Environmental indicators for Community Growth Management) * [[絶滅]]危機に瀕する[[生物種]]のための環境モデル(Environmental models for Biological Invasive Species) * [[大気汚染]]管理のための国家的および地球的規模の大気の計測および予測(Regional to national to international atmospheric measurements and predictions for Air Quality Management) * 水資源管理および保護のための[[水循環]]の研究(Water cycle science for Water Management and Conservation) NASAは[[国立再生可能エネルギー研究所]](National Renewable Energy Laboratory)と協力して、世界的規模の太陽資源地図を作成している。また[[DNAPL]]重非水液による[[水質汚染]]を除去するための、革新的な技術を評価する取り組みも続けている。[[1999年]][[4月6日]]、NASAは[[アメリカ合衆国環境保護庁]]、アメリカ合衆国エネルギー省および[[アメリカ空軍|空軍]]との間で、自然酸化膜除去および重非水液の[[酸化還元反応]]を矯正する二つの革新的な技術についての合意書を取り交わし、[[ケネディ宇宙センター]]においてその実験に協力することを約束した。国立宇宙局は軍および[[アメリカ国防契約管理局]]と協力して「汚染予防のための共同グループ(Joint Group on Pollution Prevention)」を結成し、汚染物質を除去するための取り組みを続けている。 [[2003年]][[5月8日]]、環境保護庁はアメリカ政府の施設として初めて、[[ゴダード宇宙飛行センター]]でごみ再処理ガスを動力源として使用することを許可した。 == NASAの将来 == [[ファイル:Rocket_size_comparison.png|thumb|right|300px|左から月飛行に使用された[[サターンV]]、[[スペースシャトル]]、計画が中止された[[アレスI]]、[[アレスIV]]、[[アレスV]]]] 現在の「宇宙開発における合衆国の指針(Space policy of the United States)」の中で、NASAは「宇宙の探査および開発・獲得に、有人あるいは[[無人機]]を使用した継続的で実行可能な計画を実施し、地球・太陽系・宇宙に関する根本的な科学的知識をより広げるために民間の宇宙機を使用する」と述べている。現在は[[火星]]、[[土星]]といった[[深宇宙]]への探査計画、および地球や太陽に関する研究計画が進行中である。また[[水星]]や[[冥王星]]へと向かう探査機もすでに打ち上げられている。計画中の[[木星]]への探査計画が実現されれば、太陽系の半分以上の惑星を網羅することになる。 より発展した大型の移動探査機「[[マーズ・サイエンス・ラボラトリー]](Mars Science Laboratory)」は現在進行中で、当初は[[2009年]]10月に発射の予定だったが、技術的な問題により若干の遅れが生じ、[[2011年]]11月に打ち上げられた。 冥王星探査機「[[ニュー・ホライズンズ]](New Horizons)」は[[2006年]]に打ち上げられ、[[2015年]]に冥王星を観測した。水星探査機「[[メッセンジャー (探査機)|メッセンジャー]](MESSENGER)」は水星への接近を繰り返しながら減速し、[[2011年]]3月に水星の周回軌道に乗った。その他、[[小惑星帯]]の探査を目的とする「[[ドーン (探査機)|ドーン]](Dawn)」や、複数の[[彗星]]探査機が飛行中である。現在準備中の計画には、火星の大気を研究するための「[[マーズ・スカウト|マーズ・スカウト計画]](Mars Scout Program)」の一環としての「[[MAVEN|メイヴン]](Mars Atmosphere and Volatile EvolutioN、MAVEN)」がある。 === 将来に向けた声明 === [[ファイル:NASA 50th Logo RGB Hi.jpg|thumb|right|NASA50周年記念のロゴマーク]] [[2002年]]以来、NASAは予算案や計画文書の中に以下のような声明を記している。 「'''我々が住むこの惑星を理解し、保護すること。宇宙を探査し、[[生命]]の起源を探ること。次の世代の探求心を鼓舞すること……それができるのはNASAだけである。'''」 [[2006年]]2月の初め、この声明は一部が変更され、「我々が住むこの惑星を理解し、保護すること」の部分が削除された。ある者はこの変更はNASAの文治主義を保護するためのものだと考えたが、他の者の中には、これは科学者ジェームズ・ハンセン(James Hansen)による、アメリカ政府の[[温暖化対策]]への姿勢に対する批判ではないかと疑う者もいた。NASAは公式にはそのような事は一切関係ないと否定し、宇宙探査のための新しい方針を示している。NASAのモットーは、「すべての者のための利益」である。 [[アメリカ合衆国上院|上院]]の「国土安全保障・政府問題委員会(Committee on Homeland Security and Governmental Affairs)」幹部は2006年[[7月31日]]にグリフィン長官を招致し、この変更に対する懸念を表明した。NASAはこの年、いくつかの地球探査計画を中止していた。 === コンステレーション計画 === [[ファイル:Orion briefing model.jpg|thumb|left|[[オリオン (宇宙船)|オリオン]]開発担当企業の発表。[[2006年]][[8月31日]]、NASA本部にて]] [[2004年]][[1月14日]]、探査機[[スピリット (探査機)|スピリット]]が火星に着陸してから10日後、[[ジョージ・W・ブッシュ|G・W・ブッシュ大統領]]は「[[ビジョン・フォー・スペース・エクスプロレーション|宇宙開発の展望]]」と題する新宇宙政策「[[コンステレーション計画]]」を発表した。この計画は、現行のシャトルを[[2010年]]に退役させ、[[2014年]]までにオリオン宇宙船による有人宇宙飛行を実現させ、[[2020年]]までに月を有人探査し将来の有人火星探査に繋げるというものだった。この新宇宙政策について議会は当初は懐疑的だったが、2004年の暮れには初年度の予算を承認した。 この計画を奨励するために、NASAは2004年に「[[センテニアル・チャレンジ|100年間の挑戦(Centennial Challenges)]]」と称する、非政府組織による科学賞を設立した。この中では、たとえば[[船外活動]]の時により効率よく作業できる[[宇宙服]]の手袋など、「宇宙開発の展望」計画のために有益な発明が表彰されている。 2006年[[12月4日]]、NASAは月面基地建設計画を発表した。当時の副長官[[スコット・ホロウィッツ]]は[[2020年]]に建設を開始し、[[2024年]]までには飛行士が交代で滞在して、すべての[[資源]]を現地で調達できるような機能を持った基地を完成させる予定であることを表明した。この計画では、世界の様々な国の協力を求めていた。 [[2007年]][[9月28日]]、[[NASA長官]](当時)[[マイケル・D・グリフィン|マイケル・グリフィン]](Michael Griffin)は[[2037年]]までに人間を火星に到達させる目標を発表した。 しかし、この計画は2010年に[[バラク・オバマ]]大統領により中止された。 == 長官 == {{main|NASA長官}} NASA長官は同機関における最高責任者であり、また[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の宇宙科学に関する最高顧問でもある。 == 施設 == {{main|NASAの施設}} NASAの本部は[[ワシントンD.C.]]にあり、ここからすべての支局に指示を出している。[[ミシシッピー州]][[セントルイス]]近郊のジョン・C・ステニス宇宙センターの敷地内には、共同サービスセンターがある。共同センターの建設は[[2006年]]に起工し、[[2008年]]に竣工した。また[[ケネディ宇宙センター]]ではロケットの部品を輸送するための鉄道も運営されていた。各分野ごとの研究施設の一覧は、下記のとおりである。これらのうちのいくつかは、歴史的あるいは管理上の理由から複数の設備を持っている。施設に付いている人名は宇宙飛行士や宇宙開発に功績のあった関係者を記念したもの。 === 研究施設 === * [[エイムズ研究センター]](ARC):[[カリフォルニア州]][[マウンテンビュー]]、モフェット連邦空港内 [[ファイル:Site du JPL en Californie.jpg|thumb|right|ジェット推進研究所]] * [[ジェット推進研究所]](JPL):カリフォルニア州[[パサデナ (カリフォルニア州)|パサデナ]]、[[カリフォルニア工科大学]]の研究機関 * ゴダード宇宙研究機関:[[ニューヨーク]] * [[ゴダード宇宙飛行センター]](GSFC):[[メリーランド州]][[グリーンベルト (メリーランド州)|グリーンベルト]] * ジョン・[[グレン研究センター]](GRC):[[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーブランド]] * [[ラングレー研究所]] (LaRC):[[バージニア州]][[ハンプトン (バージニア州)|ハンプトン]] * [[ジョンズ・ホプキンズ大学応用物理研究所|応用物理研究所]](APL):[[ハワード郡 (メリーランド州)|メリーランド州ハワード郡]]、[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]の研究機関 === 実験施設 === * [[エイムズ研究センター]]:カリフォルニア州マウンテンビュー、モフェット連邦空港内 * [[ドライデン飛行研究センター]](DFRC):[[カリフォルニア州]][[ロサンゼルス郡 (カリフォルニア州)|ロサンゼルス]]、[[エドワーズ空軍基地]]内。 :2014年3月1日に[[アームストロング飛行研究センター]]に名称を変更 * 独立検査確認施設:[[ウェストバージニア州]][[フェアモント (ウェストバージニア州)|フェアモント]] * [[ジョン・C・ステニス宇宙センター]]:[[ミシシッピー州]][[セントルイス]]湾近郊 * [[ラングレー研究所]]:ヴァージニア州ハンプトン === 組立および発射施設 === [[ファイル:Vehicle-Assembly-Building-July-6-2005.jpg|thumb|right|[[ケネディ宇宙センター]]]] * [[マーシャル宇宙飛行センター]](MSFC):[[アラバマ州]][[ハンツビル]] * [[ケネディ宇宙センター]](KSC):[[フロリダ州]][[ケープ・カナベラル]] * [[ジョンソン宇宙センター]](JSC):[[テキサス州]][[ヒューストン]] * ミシュー(Michoud)組立施設:[[ルイジアナ州]][[ニューオーリンズ]] * ワロップス飛行施設:[[ヴァージニア州]][[ワロップス島]] * [[ホワイトサンズ・ミサイル実験場#NASA|ホワイトサンズ試験施設]]:[[ニューメキシコ州]][[ラスクルーセス]] === 深宇宙通信網 === * [[ディープスペースネットワーク]]基地 ** [[キャンベラ深宇宙通信施設]]:[[オーストラリア]]・[[キャンベラ]] ** [[ゴールドストーン深宇宙通信施設|ゴールドストーン深宇宙通信複合施設]]:[[カリフォルニア州]]バーストウ ** [[マドリード深宇宙通信施設]]:[[スペイン]]・[[マドリッド]] === 娯楽博物施設 === [[ファイル:STS-95 Florida From Space.jpg|thumb|right|[[1998年]][[10月31日]]、[[スペースシャトル]]から撮影された[[フロリダ半島]]]] * [[ケネディ宇宙センター]]来訪者用複合施設(Visitor Complex):[[フロリダ州]][[メリット島]] * [[ヒューストン宇宙センター]](Space Center Houston):テキサス州ヒューストン * 合衆国宇宙ロケットセンター(U.S. Space & Rocket Center):アラバマ州ハンツビル == 航空機 == NASAでは科学調査や宇宙飛行士の訓練などに使用する航空機を多数運用しており、これらの機材を運用する人員も多数雇用している。機体はアメリカ軍の払い下げなどを民間機として再登録したものが多いが、新規取得や[[Xプレーン]]などの実験機の新規開発、改造も行っている。施設の多くは飛行場に隣接しているため、貨物や研究者の移送も自前で行っている。 パイロット出身の宇宙飛行士は引退後、NASAのパイロットとして雇用される者もいる。 * [[:en:Shuttle Training Aircraft|シャトル訓練機]] - [[オービタ]]の飛行特性に習熟するための[[練習機]]([[グラマン ガルフストリーム II|ガルフストリーム II]]を改造) * DC-8-72 - flying laboratoryとして1986年から運用(元[[アリタリア]]、[[ブラニフ航空]]運用機:DC-8-62H→退役後エンジン換装)<br>2023年経年化により元[[JAL]]運用[[ボーイング777#777-200ER_(772)|777-200ER]]:JA704Jへ置き換え予定 * WB-57 -天文観測などに使用する高高度観測機([[:en:Martin B-57 Canberra|B-57]]を改造)。 * [[F/A-18 (航空機)|F/A-18A]] - チェイス機として利用されている他、[[F-18 HARV (航空機)|F-18 HARV]]や[[X-53 (航空機)|X-53]]などの改造ベースとなっている。 * T-38A(N) - 宇宙飛行士の訓練の他、[[連絡機]]として使用されている([[T-38 (航空機)|T-38]]を改造) * [[スーパーグッピー]] - 大型輸送機。[[アポロ月着陸船]]など大型の貨物を空輸する際に使用する。 * アルタイル - [[アメリカ海洋大気庁|NOAA]]と共同で運用する気象観測用の[[無人航空機]]([[MQ-9 リーパー]]の非武装型)。 * [[X-57 (航空機)|NASA X-57 マクスウェル]] - [[電動航空機]]の実験機。 == 表彰および勲章 == NASAは現在、数多くのメダルや[[勲章]]を飛行士や功績のあった職員に授与している。そのうちのいくつかは、現役の軍の制服組を表彰するものである。中でも最も権威が高いのは「[[宇宙名誉勲章]](Congressional Space Medal of Honor)」で、2009年までに28人が[[叙勲]]され(うち17人は追贈)、「自身の義務を遂行した[[宇宙飛行士]]の中で、国家と人類の[[福祉]]に対する非凡で賞賛に値する努力と貢献が特に傑出していた」と認められている。 次に権威が高いのは「NASA殊勲賞(NASA Distinguished Service Medal)」で、[[軍人]]パイロットから[[文官]]の職員にいたるまで、すべての政府関係者が受賞する資格を持っている。例年の表彰は、[[フロリダ州]][[オーランド]](Orlando)の国立航空宇宙協会の施設で行われている。 == 関係法令 == * [[1958年]] - [[:en:National Aeronautics and Space Administration|National Aeronautics and Space Administration]] PL 85-568 * [[1961年]] - [[:en:Apollo mission|Apollo mission]] funding PL 87-98 A * [[1970年]] - [[:en:National Aeronautics and Space Administration Research and Development Act|National Aeronautics and Space Administration Research and Development Act]] PL 91-119 * [[1984年]] - [[:en:National Aeronautics and Space Administration Authorization Act|National Aeronautics and Space Administration Authorization Act]] PL 98-361 * [[1988年]] - [[:en:National Aeronautics and Space Administration Authorization Act|National Aeronautics and Space Administration Authorization Act]] PL 100-685 == NASA+ == [[2023年]][[11月]]、NASA独自の映像ストリーミングサービス「NASA+」を開始した<ref>{{Cite web|url=https://plus.nasa.gov/|title=NASA+|accessdate=2023-11-10|publisher=NASA}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.space.com/nasa-plus-streaming-service-launches-nov-2023|title=NASA+ streaming service launches with all-new original series today (video)|accessdate=2023-11-10|publisher=Space.com}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[アメリカ合衆国の宇宙開発]] * [[NASAのミッション一覧]] * [[宇宙機関の一覧]] * [[宇宙開発]] * [[ロケット]] * [[人工衛星]] * [[宇宙開発競争]] * [[民間宇宙開発]] * [[スカイロン]] * [[船外活動]]([[宇宙遊泳]]) == 外部リンク == {{Commonscat|NASA}} * {{Official website|https://www.nasa.gov/}}{{en icon}} ** [https://photojournal.jpl.nasa.gov/ Photojournal] ** [https://apod.nasa.gov/apod/calendar/allyears.html Astronomy Picture Calendar] ** [https://worldwind.arc.nasa.gov/ World Wind](惑星閲覧フリーソフトウェア) * {{Kotobank|NASA}} {{NASA space program}} {{アメリカ航空宇宙局の施設}} {{宇宙飛行}} {{宇宙機関}} {{マーキュリー計画}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あめりかこうくううちゆうきよく}} [[Category:NASA|*]]
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9月4日
9月4日(くがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から247日目(閏年では248日目)にあたり、年末まであと118日ある。
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9月4日(くがつよっか)は、グレゴリオ暦で年始から247日目(閏年では248日目)にあたり、年末まであと118日ある。
{{カレンダー 9月}} '''9月4日'''(くがつよっか)は、[[グレゴリオ暦]]で年始から247日目([[閏年]]では248日目)にあたり、年末まであと118日ある。 == できごと == {{multiple image | footer = [[西ローマ帝国]]滅亡(476) | image1 = Young Folks' History of Rome illus420.png | width1 = 160 | caption1 = [[ロムルス・アウグストゥルス]]の退位 | image2 = 628px-Western_and_Eastern_Roman_Empires_476AD%283%29.PNG | width2 = 160 | caption2 = 476年の東西ローマ帝国 }} {{multiple image | footer = フランスの第二帝政終焉、[[フランス第三共和政|第三共和政]]に移行(1870) | image1 = BismarckundNapoleonIII.jpg | width1 = 180 | caption1 = [[普仏戦争]]で捕虜となった[[ナポレオン3世]](左) | image2 = Gambetta proclaiming the Republic of France - Project Gutenberg eText 16910.jpg | width2 = 140 | caption2 = 共和政を宣言する[[レオン・ガンベタ]] }} {{multiple image | footer = オランダ女王[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]が退位し[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]が即位(1948) | image1 = Queen_Wilhelmina_%26_Juliana.jpg | width1 = 100 | caption1 = 1914年頃のウィルヘルミナと娘ユリアナ | image2 = Inauguration_queen_Juliana.jpg | width2 = 140 | caption2 = 即位2日後のユリアナ }} [[ファイル:Kix aerial photo.jpg|thumb|[[関西国際空港]]開港(1994)。画像は2007年のもので滑走路が2本だが、開港当時は1本であった]] * [[476年]] - 西ローマ帝国皇帝[[ロムルス・アウグストゥルス]]が[[オドアケル]]によって退位させられ、[[西ローマ帝国]]が滅亡。 * [[626年]]([[武徳]]9年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]) - 李世民([[太宗 (唐)|太宗]])が[[唐]]の第2代皇帝に即位<ref>{{Cite web|url=https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%A4%AA%E5%AE%97%EF%BC%88%E5%94%90%EF%BC%89/|title=太宗(唐)|work=世界の歴史まっぷ|accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * [[925年]] - [[ウェセックス家]]の王族[[アゼルスタン (イングランド王)|アゼルスタン]]が[[イングランド君主一覧|アングロ・サクソン人の王]]に就任。 *[[929年]] - [[レンツェンの戦い]]([[:en:Battle_of_Lenzen|Battle of Lenzen]])。ドイツ王[[ハインリヒ1世 (ドイツ王)|ハインリヒ1世]]がスラヴ民族の[[オボトリート族]]と[[ヴェレティ族]]([[:en:Veleti|Veleti]])を撃破。<!-- enより --> * [[1260年]] - [[モンタペルティの戦い]]([[:en:Battle_of_Montaperti|Battle of Montaperti]])。[[シエーナ共和国]]の[[ギベリン]]軍が[[フィレンツェ共和国]]の[[教皇派と皇帝派|ゲルフ]]軍を破る。 * [[1282年]] - [[アラゴン王]][[ペドロ3世 (アラゴン王)|ペドロ3世]]が[[パレルモ]]にて[[シチリア王]]ピエトロ1世として即位することを宣言する。 * [[1346年]] - [[百年戦争]]:[[カレー包囲戦 (1346年-1347年)|カレー包囲戦]]が始まる。 * [[1479年]] - [[アルサソヴァス条約]]<small>([[:en:Treaty_of_Alcáçovas|英語版]])</small>が[[アフォンソ5世 (ポルトガル王)|アフォンソ5世]]らによって署名される。 * [[1526年]] - [[リンリスゴー橋の戦い]]([[:en:Battle_of_Linlithgow_Bridge|Battle of Linlithgow Bridge]]) * [[1607年]] - [[ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)|ヒュー・オニール]]が90人ほどの味方と共にアイルランドからの退去([[:en:Flight_of_the_Earls|Flight of the Earls]])を開始。 * [[1710年]]([[宝永]]7年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]) - 新宮家・[[閑院宮]]を創設。 * [[1774年]] - [[ジェームズ・クック]]が[[ニューカレドニア]]を発見。 * [[1781年]] - [[スペイン]]のネベ総督が現在の[[ロサンゼルス]]の前身となる村落を建設。 * [[1796年]] - [[フランス革命戦争]]:[[ロヴェレトの戦い]]<small>([[:en:Battle_of_Rovereto|英語版]])</small> * [[1800年]] - [[マルタ包囲戦 (1798年–1800年)|マルタ包囲戦]]が終了。マルタはイギリスの保護国になる。 * [[1812年]] - [[米英戦争]]:[[ハリソン砦包囲戦]]が始まる。 * [[1839年]] - [[アヘン戦争]]の前哨戦に当たる[[九竜の海戦]]<small>([[:en:Battle_of_Kowloon|英語版]]、[[:zh:九龍海戰|中国語版]])</small>が行われる。 * [[1862年]] - [[南北戦争]]:ミルヒルの戦い、リーズバーグ近郷でポトマック川渡河点を確保するための騎兵同士の会戦で、北バージニア軍の1隊がラウドアン郡からポトマック川を越えてメリーランド州内に入る。[[メリーランド方面作戦]]の前哨戦。 * [[1870年]] - [[フランス帝国|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]がプロイセンの捕虜となったのを受けてパリで蜂起が発生し、国防政府(臨時政府)が成立。[[フランス第二帝政|第二帝政]]が終焉を迎え、[[フランス第三共和政|第三共和政]]が始まる。 * [[1886年]] - [[アパッチ族]]の[[ジェロニモ]]が降伏。 * [[1888年]] - [[ジョージ・イーストマン]]が[[ロールフィルム]]・[[カメラ]]の特許を取得し、[[コダック#社名の由来|Kodak]]の商標を登録する。 * [[1912年]] - [[アルバニア反乱 (1912年)|アルバニア反乱]]<small>([[:en:Albanian_Revolt_of_1912|英語版]])</small>が終了。 * [[1913年]] - [[ワグナー事件]]。[[ドイツ]]・[[バーデン=ヴュルテンベルク州]]の国民学校の教員ワグナーが、家族を殺害した後に街に出て無差別殺人。 * [[1914年]] - イギリス、フランス、ロシアの政府間で[[ロンドン条約 (1914年)|ロンドン条約]]<small>([[:fr:Convention_de_Londres_(1914)|フランス語版]])</small>が締結。 * [[1919年]] - [[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]が[[シヴァス会議]]([[:en:Sivas_Congress|Sivas Congress]])を開く。11日まで。 * [[1923年]] - [[飛行船]][[シェナンドー (飛行船)|シェナンドー]]が初飛行。 * [[1936年]] - [[スペイン内戦]]に際して[[ラルゴ・ガバレロ]]([[:en:Francisco_Largo_Caballero|Francisco Largo Caballero]])が戦時内閣を組閣。 * [[1939年]] - [[第二次世界大戦]]:日本の[[阿部信行]]首相が「欧州戦争には介入しない」と[[中立]]を表明。 * 1939年 - 第二次世界大戦:ドイツに対する[[イギリス空軍]]の攻撃が開始。[[ウィリアム・J・マーフィー]]([[:en:William_J._Murphy_(RAF_officer)|William J. Murphy (RAF officer)]])ら4人が第二次世界大戦におけるイギリス空軍最初の犠牲者となる。 * [[1941年]] - 第二次世界大戦:[[ドイツ]]の潜水艦が初めてアメリカの艦船を攻撃。標的は[[USS グリーア]]([[:en:USS_Greer_(DD-145)|USS Greer_(DD-145)]])。 * [[1943年]] - 第二次世界大戦:[[恩賜上野動物園|上野動物園]]で[[戦時猛獣処分|空襲に備えて薬殺]]した猛獣の慰霊法要を実施<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2018-03.pdf|title=上野動物園における「猛獣処分」とその慰霊|author=斉藤涼子|format=PDF |accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * [[1944年]] - 英軍第11機甲師団([[:en:11th_Armoured_Division_(United_Kingdom)|11th Armoured Division (United Kingdom)]])が[[アントワープ]]を解放。<!-- enによる --> * 1944年 - [[継続戦争]]が講和を行うべく停戦。 * [[1948年]] - [[オランダ]]女王[[ウィルヘルミナ (オランダ女王)|ウィルヘルミナ]]が健康上の理由で退位を表明。[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]が新女王に即位。 * [[1949年]] - 大型旅客機[[ブリストル ブラバゾン]]が初飛行。 * 1949年 - [[ピークスキル暴動]]。[[ポール・ロブスン]]の再コンサート終了後、観客が反共主義者や退役軍人・[[クー・クラックス・クラン|KKK団]]の襲撃を受け140名の負傷者を出す。 * [[1951年]] - [[サンフランシスコ講和会議]]が開幕する。[[9月8日]]に[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]に調印。 * [[1955年]] - [[アメリカ合衆国による沖縄統治|アメリカの占領下にあった沖縄]]の[[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]付近(現:[[沖縄県]][[中頭郡]][[嘉手納町]])で[[由美子ちゃん事件]]([[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]所属の米兵による6歳幼女への[[強姦]]殺人事件)が発覚。 * 1955年 - [[高橋ユニオンズ|トンボユニオンズ]]の[[ヴィクトル・スタルヒン]]投手が日本プロ野球史上初の通算300勝を達成。 * [[1957年]] - [[フォード・モーター]]が[[エドセル]]ブランドを新設する<ref>{{Cite web|url=http://www.joesherlock.com/Edsel-07.html|title=The Real Story Of The Edsel|work=Joe Sherlock|accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * 1957年 - [[アフリカ系アメリカ人公民権運動|米公民権運動]]:[[リトルロック高校事件]]。[[アーカンソー州]]知事{{仮リンク|オーヴァル・フォーバス|en|Orval Faubus}}の命令により[[州兵]]100人が出動し、[[アフリカ系アメリカ人|黒人]]9人の高校通学を阻む。 * [[1963年]] - [[スイス航空306便墜落事故]]。 * [[1964年]] - [[エディンバラ]]で[[フォース・ロード・ブリッジ]]<small>([[:en:Forth_Road_Bridge|英語版]])</small>が開通。 * [[1967年]] - [[ベトナム戦争]]:[[スウィフト作戦]]([[:en:Operation_Swift|Operation Swift]])が始まる。 * [[1970年]] - チリで大統領選挙。[[サルバドール・アジェンデ]]が当選する。 * [[1971年]] - [[アラスカ航空1866便墜落事故]]。 * [[1972年]] - [[マーク・スピッツ]]、[[ミュンヘンオリンピック]]水泳で[[ミュンヘンオリンピック#ハイライト|七冠達成]]。 * 1972年 - CBSで[[ボブ・バーカー]]司会のthe price is rightが放送開始<ref>{{Citation|title=The (New) Price is Right {{!}} The Premiere 9/4/72|url=https://www.youtube.com/watch?v=tpPXkYcLuX0|language=ja-JP|access-date=2023-11-22}}</ref> * [[1975年]] - [[中東戦争]]:[[シナイ暫定協定]]([[:en:Sinai_Interim_Agreement|Sinai Interim Agreement]])が締結される。 * [[1976年]] - [[京阪100年号事故]]。 * [[1979年]] - 上野動物園の[[ジャイアントパンダ]]・[[カンカンとランラン|ランラン]]死去。 * [[1983年]] - 新薬開発で2億円を不正に受領した[[岐阜薬科大学]]学長を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]。 * [[1984年]] - [[京都・大阪連続強盗殺人事件]]([[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]115号事件)<ref>『[[京都新聞]]』1988年10月25日夕刊第7版一面1頁「元警官広田に死刑 大阪地裁 連続強盗殺人で判決 自白、目撃証言信用できる 「残虐かつ冷酷」と断罪」(京都新聞社)</ref>。 * [[1987年]] - [[日本航空]]を完全民営化する「日本航空株式会社法を廃止する等の法律」が可決。同年[[10月1日]]施行<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jil.go.jp/institute/research/2008/documents/046/046_01.pdf|title=5.日本航空の完全民営化(P.10)|work=独立行政法人労働政策研究・研修機構|format=PDF |accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * 1987年 - [[第二電電]]・[[ソフトバンクテレコム|日本テレコム]]・[[日本高速通信]]の[[新電電]]3社が一般向けの[[市外電話]]サービスを開始。 * [[1989年]] - 初回となる大規模な[[月曜デモ (1989年)|月曜デモ]]。西側メディアの存在もあり東ドイツより外でも広く知られるようになる。 * [[1990年]] - [[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]首相らが[[大韓民国|韓国]]の首都[[ソウル特別市|ソウル]]を訪問し、南北分断後初の[[南北朝鮮首相会談]]を行う。 * [[1991年]] - プロ野球実行委員会において[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ(当時)]]の、[[神奈川県]][[川崎市]]から[[千葉県]]への保護地域、ならびに本拠地球場を同県[[千葉市]][[美浜区]]の[[千葉マリンスタジアム]]への移転を正式に承認。 * [[1994年]] - [[関西国際空港]]開港。 * 1994年 - [[武豊]]騎手が騎乗する[[スキーパラダイス]]がフランスの[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]で優勝。日本人騎手初の国外[[競馬の競走格付け#「国際グレード」|G1]]勝利<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.prcenter.jp/yushun/blog/2014/09/04/|title=夏が終わってさびしいもん 夏が終われば凱旋門|work=優駿 Official Web Site|date=2014-09-04|accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * [[1995年]] - [[沖縄米兵少女暴行事件]]。[[日米地位協定]]により起訴されるまで犯人が日本側に引き渡されないことが大きな問題になる。 * [[1998年]] - [[Google]]社設立。 * [[2001年]] - [[東京ディズニーシー]]がグランドオープン。 * [[2002年]] - [[アメリカンリーグ|ア・リーグ]]で[[オークランド・アスレチックス|アスレチックス]]がリーグ最多の20連勝。 * [[2006年]] - 運輸多目的衛星[[MTSAT|MTSAT-2]]([[ひまわり (気象衛星)|ひまわり]]7号)が気象観測の待機運用を開始。初めて日本の[[気象衛星]]が2機体制となる。 * [[2010年]] - 現地時間(UTC+12)午前4:36にニュージーランドで[[カンタベリー地震 (2010年)|2010年カンタベリー地震]]が発生。日本時間では午前1:36。 * [[2014年]] - アルカイダが[[インド亜大陸]]支部<small>([[:en:Al-Qaeda_in_the_Indian_Subcontinent|英語版]])</small>を作る旨を発表。<!-- frによる --> * [[2016年]] - [[マザー・テレサ]]が教皇[[フランシスコ (ローマ教皇)|フランシスコ]]により[[列聖]]される。 * [[2018年]] - [[平成30年台風第21号|平成30年台風21号]]が「非常に強い」勢力で日本に上陸し、[[近畿地方]]を中心に大きな被害を出す。関西国際空港ではタンカーが[[関西国際空港連絡橋]]の橋桁に衝突。 * 2018年 - [[アリフ・アルヴィ]]が[[2018 Pakistani presidential election|2018年パキスタン大統領選挙]]<small>([[:en:2018_Pakistani_presidential_election|英語版]])</small>の結果パキスタンの首相に選出。9月9日就任。 * [[2020年]] - [[ベネディクト16世]]が生後93年4か月16日になり既存の[[レオ13世 (ローマ教皇)|レオ13世]]を超えてローマ教皇経験者史上最高齢となった。 == 誕生日 == {{multiple image | image1 = Alexander_III_and_Ollamh_R%C3%ADgh.JPG | width1 = 120 | caption1 = スコットランド王[[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]](右; 1241-1286)誕生 | image2 = Wanli-Emperor.JPG | width2 = 100 | caption2 = [[明]]の第14代皇帝、[[万暦帝]](1563-1620)誕生 }} [[ファイル:Statue of Ninomiya Sontoku 02.JPG|thumb|120px|農政家、[[二宮尊徳]](1787-1856)]] [[ファイル:Anton Bruckner.jpg|thumb|120px|作曲家[[アントン・ブルックナー]](1824-1896)。]] [[Image:JoanAiken.jpg|thumb|100px|児童文学作家、[[ジョーン・エイケン]](1924-2004)]] * [[973年]] - [[ビールーニー]]、学者(+ [[1048年]])※[[9月5日]]とも * [[1241年]] - [[アレグザンダー3世 (スコットランド王)|アレグザンダー3世]]、スコットランド王 (+ [[1286年]]) * [[1359年]]([[延文]]4年/[[正平 (日本)|正平]]14年[[8月12日 (旧暦)|8月12日]]) - [[足利氏満]]{{要出典|date=2021-03}}、[[室町幕府]]第2代[[鎌倉公方]](+ [[1398年]]) * [[1383年]] - [[フェリクス5世 (対立教皇)|フェリクス5世]]、歴史上最後の[[対立教皇]](+ [[1451年]]) * [[1454年]] - 第2代[[バッキンガム公]][[ヘンリー・スタッフォード (第2代バッキンガム公爵)|ヘンリー・スタッフォード]](+ [[1483年]]) * [[1557年]] - [[ゾフィー・フォン・メクレンブルク]](+ [[1631年]]) * [[1563年]]([[嘉靖]]42年[[8月17日 (旧暦)|8月17日]])- [[万暦帝]]、第14代[[明]][[皇帝]](+ [[1620年]]) * [[1580年]] - [[ジョージ・パーシー]]([[:en:George_Percy|George Percy]])、[[探検家]](+ [[1632年]]) * [[1596年]] - [[コンスタンティン・ホイヘンス]]([[:en:Constantijn_Huygens)、詩人・作曲家(+|Constantijn Huygens]])、詩人、作曲家(+ 1687) * [[1652年]]([[承応]]元年[[8月2日 (旧暦)|8月2日]])- [[徳川綱誠]]、第3代[[尾張藩|尾張藩主]](+ [[1699年]]) * [[1681年]] - [[カール・ハインリヒ・ビーバー]]、[[作曲家]]・[[ヴァイオリニスト]](+ [[1749年]]) * [[1717年]] - [[ジョブ・オートン]]、[[教役者]](+ [[1783年]]) * [[1729年]] - [[ルイ・フェルディナン (フランス王太子)|ルイ・フェルディナン]]、フランス王太子 * [[1755年]] - [[ハンス・アクセル・フォン・フェルセン]]、[[軍人]]、[[貴族]](+ [[1810年]]) * [[1768年]] - [[フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン]]、[[政治家]]、[[作家]](+ [[1848年]]) * [[1787年]]([[天明]]7年[[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) - [[二宮尊徳]](二宮金次郎)、篤農家、思想家(+ [[1856年]]) * [[1789年]] - [[シャルル・ゴーディショー=ボープレ]]、[[植物学者]](+ [[1854年]]) * [[1794年]] - [[エドワード・ベイツ]]、[[アメリカ合衆国司法長官]](+ [[1869年]]) * [[1803年]] - [[サラ・チルドレン・レスポーク]]([[:en:Sarah_Childress_Polk|Sarah Childress Polk]])、米[[ジェームズ・ポーク|ポーク]]大統領の[[ファーストレディ]](+ [[1891年]]) * [[1809年]] - [[マヌエル・モント]]([[:en:Manuel_Montt|Manuel Montt]])、政治家、[[チリ大統領の一覧|チリ大統領]](+ [[1880年]]) * 1809年 - [[ユリウシュ・スウォヴァツキ]]、[[ロマン主義|ロマン派]][[詩人]]、[[劇作家]](+ [[1849年]]) * [[1824年]] - [[アントン・ブルックナー]]、[[作曲家]](+ [[1896年]]) * [[1825年]] - [[ダーダーバーイー・ナオロジ]]([[:en:Dadabhai_Naoroji|Dadabhai Naoroji]])、[[インド国民会議]]の議長(+ [[1917年]]) * [[1826年]] - [[マルティン・ヴィーベリ]]、[[発明家]](+ [[1905年]]) * [[1846年]] - [[ダニエル・バーナム]]、[[建築家]](+ [[1912年]]) * [[1848年]] [[- ルイス・ハワード・ラティマー]]([[:en:Lewis_Howard_Latimer|Lewis Howard Latimer]])、[[発明家]](+ [[1928年]]) * [[1849年]] - [[カール・ベルクボーム]]、[[法哲学]]者(+ [[1927年]]) * [[1850年]] - [[ルイージ・カドルナ]]、[[第一次世界大戦]]時の[[イタリア王国]]参謀本部長(+ [[1928年]]) * [[1852年]] - [[エイリッフ・ペーテシェン]]、[[画家]](+ [[1928年]]) * [[1885年]] - [[鈴木文治]]、[[政治家]]・労働運動家(+ [[1946年]]) * 1885年 - [[アントニオ・バッキ]]([[:en:Antonio_Bacci|Antonio Bacci]])、枢機卿(+ [[1971年]]) * [[1888年]] - [[オスカー・シュレンマー]]、[[芸術家]]、[[彫刻家]]、[[デザイナー]](+ [[1943年]]) * [[1891年]] - [[フリッツ・トート]]、[[軍人]]、[[土木技術者]]、政治家(+ [[1942年]]) * [[1892年]] - [[ヘルムート・プレスナー]]、[[哲学者]]、[[社会学|社会学者]](+ [[1985年]]) * 1892年 - [[ダリウス・ミヨー]]、[[作曲家]](+ [[1974年]]) * [[1894年]] - [[オラーヌ・ドマジス]]([[:en:Orane_Demazis|Orane Demazis]])、[[俳優#性別での分類|女優]](+ [[1991年]]) * [[1896年]] - [[アントナン・アルトー]]、[[詩人]](+ [[1948年]]) * [[1898年]] - [[松田尚之]]、彫刻家(+ [[1995年]]) * [[1901年]] - [[ウィリアム・ライオンズ]]、[[ジャガー (自動車)|ジャガー]]創業者(+ [[1985年]]) * [[1904年]] - [[クリスチャン=ジャック]]、[[映画監督]](+ [[1994年]]) * 1904年 - [[サビン・カー]]、[[陸上競技選手]](+ [[1983年]]) * [[1905年]] - [[メアリー・レノー]]([[:en:Mary_Renault|Mary Renault]])、作家(+ 1983年) * 1905年 - [[ヴァルター・ツァップ]]、[[ミノックス]]創業者(+ [[2003年]]) * [[1906年]] - [[マックス・デルブリュック]]、[[生物物理学]]者(+ [[1981年]]) * [[1907年]] - [[レジー・ナルダー]]([[:en:Reggie_Nalder|Reggie Nalder]])、俳優(+ [[1991年]]) * [[1908年]] - [[ロベール・ギラン]]、[[ジャーナリスト]](+ [[1998年]]) * 1908年 - [[エドワード・ドミトリク]]、映画監督(+ [[1999年]]) * 1908年 - [[リチャード・ライト (小説家)|リチャード・ライト]]、[[作家]]、詩人(+ [[1960年]]) * 1908年 - [[ディタ・パルロ]]、女優(+ [[1971年]]) * [[1909年]] - [[時実利彦]]、[[生理学者]](+ [[1973年]]) * 1909年 - [[エドゥアルト・ヴィルツ]]([[:en:Eduard_Wirths|Eduard Wirths]])、アウシュヴィッツ強制収容所のドイツSS主任医師(+ [[1945年]]) * [[1912年]] - [[ギュンター・リュッツオウ]]、[[ドイツ空軍 (国防軍)|ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]](+ [[1945年]]) * [[1913年]] - [[高橋政知]]、[[実業家]](+ [[2000年]]) * 1913年 - [[丹下健三]]、[[建築家]](+ [[2005年]]) * 1913年 - [[ミッキー・コーエン]]、ギャング(+ [[1976年]]) * 1913年 - [[スタンフォード・ムーア]]、[[生化学者]](+ [[1982年]]) * [[1914年]] - [[ルドルフ・ライディング]]、[[フォルクスワーゲングループ|フォルクスワーゲン]]社第3代目の[[社長]](+ 2003年) * [[1917年]] - [[ヘンリー・フォード2世]]、[[実業家]](+ [[1987年]]) * [[1918年]] - [[ジェラルド・ウィルソン]]、[[トランペット奏者]](+ [[2014年]]) * [[1919年]] - [[グァルティエロ・ヤコペッティ]]、[[映画監督]]、[[雑誌記者]](+ [[2011年]]) * [[1923年]] - [[平井三郎]]、元[[プロ野球選手]](+ [[1969年]]) * [[1924年]] - [[ジョーン・エイケン]]、[[児童文学作家]](+ [[2004年]]) * [[1925年]] - [[アサ・アール・カーター]]、[[脚本家]]、[[作家]](+ [[1979年]]) * 1925年 - [[エリアス・フラウイ]]([[:en:Elias_Hrawi)|Elias Hrawi)]]、政治家、[[レバノンの大統領|レバノン大統領]](+ [[2006年]]) * [[1926年]] - [[イヴァン・イリイチ]]、哲学者、[[評論家]](+ [[2002年]]) * [[1927年]] - [[ピーター・ケネディ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * 1927年 - [[福田拓泉]]、[[政治運動家]] * 1927年 - [[ジョン・マッカーシー]]、[[人工知能]]研究者(+ [[2011年]]) * [[1928年]] - [[ディック・ヨーク]]、[[ラジオ]][[声優]]、[[ブロードウェイ]][[俳優]]、[[テレビ]]俳優(+ [[1992年]]) * [[1930年]] - [[藤岡琢也]]、[[俳優]](+ [[2006年]]) * [[1931年]] - [[ミッツィ・ゲイナー]]、女優 * [[1933年]] - [[森下整鎮]]、元プロ野球選手(+ [[2018年]]) * [[1934年]] - [[ヤン・シュヴァンクマイエル]]、[[アニメーション監督]] * 1934年 - [[ロナルド・ルディントン]]、フィギュアスケート選手(+ [[2020年]]) * 1934年 - [[クライヴ・グレンジャー]]、[[経済学者]](+ [[2009年]]) * 1934年 - [[エドゥアルト・ヒーリ]]、[[バリトン]]歌手(+ [[2012年]]) * [[1935年]] - [[すまけい]]、俳優(+ [[2013年]]) * [[1936年]] - [[梶原一騎]]、[[漫画原作者]](+ [[1987年]]) * 1936年 - [[関森正治]]、元プロ野球選手 (+ [[2023年]]) * [[1937年]] - [[ドーン・フレーザー]]、[[競泳選手]] * 1937年 - [[レス・アレン]]、サッカー選手 * 1937年 - [[ジーン・ルドウィック]]([[:en:Gene_Ludwig|Gene Ludwig]])、[[オルガニスト]](+ [[2010年]]) * [[1938年]] - [[渡会純男]]、元プロ野球選手 * [[1941年]] - [[ケン・ハレルソン]]、元プロ野球選手 * [[1942年]] - [[奥山茂彦]]、政治家(+ [[2017年]]) * 1942年 - [[ジェリー・ジャレット]]、[[プロレスラー]](+ [[2023年]]) * [[1944年]] - [[アンソニー・アトキンソン]]、経済学者(+ [[2017年]]) * [[1945年]] - [[早川忠孝]]、政治家 * 1945年 - [[平沢勝栄]]、政治家 * [[1946年]] - [[関口穣二]]、元プロ野球選手 * 1946年 - [[デイヴ・リーブマン]]、[[サクソフォーン|サックス]]奏者、[[フルート]]奏者 * [[1949年]] - [[旭堂南陵 (4代目)|四代目旭堂南陵]]、[[講談師]](+ [[2020年]]<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20210208230424/https://www.jiji.com/jc/article?k=2020073001334|title=旭堂南陵さん死去 講談師、元参院議員-70歳|newspaper=時事通信社|date=2020-07-30|accessdate=2020-12-17}}</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2020/07/30/kiji/20200730s00041000295000c.html 講談師で元参院議員の旭堂南陵さん死去 70歳 NHK朝ドラにも出演] - Sponichi Annex 2020年7月30日</ref>) * 1949年 - [[トム・ワトソン]]、[[プロゴルファー]] * [[1950年]] - [[ドイル・アレクサンダー]]、野球選手 * [[1951年]] - [[小林薫]]、俳優 * 1951年 - [[ジュディス・アイヴィー]]、女優 * [[1953年]] - [[木村健悟]]、元[[プロレスラー]]、政治家、東京都品川区議会議員 * 1953年 - [[ファティ・テリム]]、サッカー選手 * [[1955年]] - [[伊沢弘]]、俳優、[[声優]]、[[演出家]] * 1955年 - [[マイケル・フォーチュナティ]]、歌手 * 1955年 - [[成毛眞]]、実業家 * 1955年 - [[白石幸長]]、俳優、声優 * [[1956年]] - [[ブラッキー・ローレス]]、[[ミュージシャン]] * 1956年 - [[野平ゆき]]、女優 * [[1957年]] - [[カンディ・アレキサンダー]]、[[ダンサー]] * 1957年 - パトリシア・トールマン([[:en:Patricia_Tallman|Patricia Tallman]])女優 * [[1958年]] - [[越中詩郎]]、プロレスラー * [[1959年]] - [[アルミン・コグラー]]、[[スキージャンプ]]選手 * [[1960年]] - [[石井雅博]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[与座朝勝]]、元プロ野球選手 * 1960年 - [[デイモン・ウェイアンズ]]、コメディアン * [[1961年]] - [[黄日華]]、俳優 * [[1962年]] - [[山中伸弥]]、医学者、[[京都大学|京都大学iPS細胞研究所]]名誉所長 * [[1964年]] - [[荻野目慶子]]、女優 * 1964年 - [[津原泰水]]、小説家(+ [[2022年]]) * 1964年 - [[山崎有恒]]、歴史学者 * [[1965年]] - [[粕谷昌央]]、[[調教師]] * 1965年 - [[渋谷員子]]、[[コンピュータグラフィックス|CG]]デザイナー、ドットクリエイター * [[1966年]] - [[宍戸開]]、俳優 * 1966年 - [[吉田豊彦]]、元プロ野球選手 * 1966年 - [[木下文信]]、元プロ野球選手 * [[1968年]] - [[おおばやしみゆき]]、[[漫画家]] * 1968年 - [[マイク・ピアッツァ|マイク・ピアザ]]、元プロ野球選手 * 1968年 - [[芹沢純一]]、騎手 * 1968年 - [[千葉聡]]、[[歌人]]、高校教諭 * [[1969年]] - [[ノア・テイラー]]、俳優 * [[1970年]] - [[大島こうすけ]]、[[作曲家]]、[[キーボーディスト]] * 1970年 - [[大森貴洋]]、バスプロ * 1970年 - [[大森立嗣]]、映画監督 * 1971年 - [[ペギー・シュヴァルツ]]、[[フィギュアスケート]]選手 * [[1972年]] - [[ホルヘ・コルテス]]、元プロ野球選手 * [[1973年]] - [[リディア・シモン]]、マラソン選手 * [[1974年]] - [[小倉弘子]]、[[TBSテレビ|TBS]][[アナウンサー]] * [[1975年]] - [[阿部美穂子]]、[[タレント]] * 1975年 - [[マーク・ロンソン]]、シンガーソングライター * [[1976年]] - [[デッカチャン]]、お笑いタレント * 1976年 - [[福島潤]]、声優 * [[1978年]] - [[石橋磨季]]、写真家 * [[1978年]] - [[田丸麻紀]]、女優 * 1978年 - しまぞうZ、お笑いタレント([[キャベツ確認中]]) * [[1979年]] - [[宮崎宣子]]、アナウンサー * 1979年 - [[松浦孝亮]]、レーシングドライバー * [[1980年]] - [[ファビオ・カルボーン]]、[[レーシングドライバー]] * 1980年 - [[島谷ひとみ]]、歌手 * 1980年 - [[廖于誠]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[古卿大知]]、元プロ野球選手 * 1980年 - [[デイヴィッド・ギャレット]]、ヴァイオリニスト、モデル * 1980年 - [[パット・ネシェック]]、プロ野球選手 * [[1981年]] - [[ビヨンセ・ノウルズ]]、歌手、女優 * 1981年 - [[ジェロ]]、演歌歌手 * 1981年 - [[桝太一]]、アナウンサー * 1981年 - [[村上よしゆき (漫画家)|村上よしゆき]]、漫画家 * 1981年 - [[上野隆博|上野隆博 (TAKAHIRO)]]、[[ダンサー]]、[[振付師]]、演出家 * [[1982年]] - SHINGO、ミュージシャン([[Agitato]]) * 1982年 - [[シオマリアッチ]]、お笑いタレント * 1982年 - [[細田阿也]]、タレント * [[1983年]] - [[中丸雄一]]、アイドル([[KAT-TUN]]) * [[1985年]] - [[義達祐未]]、元女優 * 1985年 - [[山本哲哉]]、元プロ野球選手 * 1985年 - [[河本裕之]]、サッカー選手 * [[1986年]] - [[清水由紀]]、女優、タレント(元[[美少女クラブ31]]) * 1986年 - [[海堀あゆみ]]、サッカー選手 * [[1987年]] - [[佐井祐里奈]]、アナウンサー * [[1988年]] - [[重盛さと美]]、タレント * 1988年 - [[戸田亮]]、元プロ野球選手 * 1988年 - [[大谷真徳]]、元プロ野球選手 * [[1989年]] - [[赤坂和幸]]、元プロ野球選手 * 1989年 - [[アンドレルトン・シモンズ]]、プロ野球選手 * 1989年 - 櫻田佑、お笑いタレント([[トンツカタン]]) * [[1990年]] - [[鶴野太貴]]、サッカー選手 * 1990年 - [[小原由梨愛]]、元サッカー選手 * 1990年 - [[オルガ・ハルラン]]、フェンシング選手 * 1990年 - [[ステファニア・フェルナンデス]]、ファッションモデル * 1990年 - [[クリス・ベック (野球)|クリス・ベック]]、プロ野球選手 * [[1991年]] - [[高倉稜]]、騎手 * 1991年 - [[西田哲朗]]、元プロ野球選手 * 1991年 - [[三谷美菜津]]、バドミントン選手 * [[1992年]] - [[ウィリー・ガルシア]]、プロ野球選手 * 1992年 - [[流大]]、ラグビー選手 * [[1994年]] - [[GOMESS]]、ミュージシャン * 1994年 - [[山下永夏]]、モデル、タレント * [[1995年]] - [[松若風馬]]、騎手 * [[1996年]] - [[植田大輝]]、元俳優 * [[1997年]] - [[坂東希]]、パフォーマー、ファッションモデル、女優(元[[Flower (グループ)|Flower]]、元[[E-girls]]) * 1997年 - [[松田蘭]]、レースクイーン * [[1998年]] - [[長濱ねる]]、タレント(元[[櫻坂46|欅坂46]]、元[[日向坂46|けやき坂46]]) * [[1999年]] - [[楢岡のあ]]、[[グラビアアイドル]] * 1999年 - [[木須デソウザフェリペ]]、プロ野球選手 * 1999年 - [[田中希実]]、陸上競技選手 * [[2000年]] - [[濱田太貴]]、プロ野球選手 * [[2003年]] - [[山本姫香]]、グラビアアイドル、ファッションモデル * [[2005年]] - [[鈴原すず]]、グラビアモデル * 生年非公開 - [[あの]]、歌手、タレント、女優([[I's]]、元[[ゆるめるモ!]]) * 生年不詳 - [[AYA -絢-]]、歌手(元[[BeForU]]) * 生年不明 - モモコグミカンパニー、アイドル(元[[BiSH]]) == 忌日 == {{multiple image | footer = 作曲家[[エドヴァルド・グリーグ]](1843-1907)没。{{audio|Grieg Notturno Op 54 No 4 performed live by Mark Gasser, 2009.ogg|ノクターン作品54-4を聴く}} | image1 = Edvard_Hagerup_Grieg_zou.jpg | width1 = 80 | alt1 = 銅像 | image2 = Edvard_Hagerup_Grieg.JPG | width2 = 140 | alt2 = 墓 }} {{multiple image | image1 = %E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0%E5%A2%93.JPG | width1 = 100 | caption1 = 政治家[[田中正造]](1841-1913)没。[[足尾銅山鉱毒事件]]を告発した | image2 = HIH_Kitashirakawa_Nagahisa.jpg | width2 = 100 | caption2 = [[北白川宮永久王]](1910-1940)、演習中に事故死 | image3 = %E5%A4%A7%E5%92%8C%E9%9B%AA%E5%8E%9F%E9%96%8B%E6%8B%93%E8%80%85%E4%B9%8B%E5%A2%93.jpg | width3 = 100 | caption3 = [[南極]]探検家[[白瀬矗]](1861-1946)、貧窮のうちに没 }} {{multiple image | footer = [[欧州連合]]創立者の1人、政治家[[ロベール・シューマン]](1886-1963)没。[[シューマン宣言]]を発した | image1 = Bundesarchiv_Bild_183-19000-2453%2C_Robert_Schuman.jpg | width1 = 100 | alt1 = ロベール・シューマン | image2 = Robert_Schuman_grave.jpg | width2 = 140 | alt2 = 墓所。EU旗が飾られている }} {{multiple image | footer = 医学者・神学者・人道主義者、[[アルベルト・シュヴァイツァー]](1875-1965)没。 {{Squote|[[生命]]への敬意に基づかない[[宗教]]や哲学は真の宗教や哲学ではない。――書簡より(1961)}} | image1 = Bundesarchiv_Bild_183-D0116-0041-019%2C_Albert_Schweitzer.jpg | width1 = 100 | alt1 = アルベルト・シュヴァイツァー | image2 = Albert_Schweitzer.jpg | width2 = 100 | alt2 = モニュメント }} === 人物 === * [[799年]] - [[ムーサー・カーズィム]]、[[イスラム教]][[シーア派]][[十二イマーム派]]第7代[[イマーム]](* [[745年]]) * [[1063年]] - [[トゥグリル・ベグ]]、[[セルジューク朝]]初代[[スルターン]](* [[993年]]) * [[1199年]] - [[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン]]、[[シチリア王国|シチリア王]][[グリエルモ2世]]の妃(* [[1165年]]) * [[1774年]]([[安永 (元号)|安永]]3年[[7月29日 (旧暦)|7月29日]])- [[冷泉為村]]、[[江戸時代]]の[[公卿]]、[[歌人]](* [[1712年]]) * [[1811年]]([[文化 (元号)|文化]]8年[[7月17日 (旧暦)|7月17日]])- [[呉春]]、[[絵師]](* [[1752年]]) * [[1851年]] - [[レヴィ・ウッドベリー]]、第13代[[アメリカ合衆国財務長官]](* [[1789年]]) * [[1884年]] - [[チャールズ・フォルジャー]]、第34代アメリカ合衆国財務長官(* [[1818年]]) * [[1886年]] - [[近藤真琴]]、[[教育者]](* [[1831年]]) * [[1907年]] - [[エドヴァルド・グリーグ]]、[[作曲家]](* [[1843年]]) * 1907年 - [[三遊亭三福 (初代)]]、[[落語家]](* [[1865年]]) * [[1913年]] - [[田中正造]]、政治家・活動家(* [[1841年]]) * [[1930年]] - [[ウラディミール・アルセーニエフ]]、[[探検家]](* [[1872年]]) * [[1940年]] - [[北白川宮永久王]]、[[皇族]](* [[1910年]]) * [[1944年]] - [[エーリッヒ・フェルギーベル]]、[[ドイツ陸軍 (国防軍)|ドイツ陸軍]][[通信兵大将]](* [[1886年]]) * [[1946年]] - [[白瀬矗]]、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中尉]]、[[南極]][[探検家]](* [[1861年]]) * [[1955年]] - [[ガス・ウェイイング]]、プロ野球選手(* [[1866年]]) * [[1963年]] - [[ロベール・シューマン]]、元[[フランスの首相|フランス首相]](* [[1886年]]) * [[1965年]] - [[アルベルト・シュヴァイツァー]]、医者、音楽家(* [[1875年]]) * [[1966年]] - [[高瀬荘太郎]]、[[会計学|会計学者]]、元[[文部大臣]](* [[1892年]]) * [[1974年]] - [[マルセル・アシャール]]、劇作家(* [[1899年]]) * 1974年 - [[クレイトン・エイブラムス]]、[[アメリカ陸軍参謀総長]](* [[1914年]]) * [[1975年]] - [[壺井繁治]]、[[詩人]](* [[1897年]]) * [[1976年]] - [[宮沢俊義]]、[[法学者]](* [[1899年]]) * [[1983年]] - [[猫田勝敏]]<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%8C%AB%E7%94%B0%20%E5%8B%9D%E6%95%8F-1652031 猫田勝敏] 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2021年2月13日閲覧</ref>、[[バレーボール]]選手(* [[1944年]]) * 1983年 - 渡辺 宗太郎<ref>『人物物故大年表』</ref>、[[行政法]]学者(* [[1893年]]) * [[1984年]] - [[エルンスト・シュテュッケルベルク]]、[[物理学者]](* [[1905年]]) * [[1986年]] - [[ワルター・ワンダレイ]]、[[ボサノヴァ]]・[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]の[[オルガン]]奏者、[[ピアニスト]](* [[1931年]]) * 1986年 - [[ハンク・グリーンバーグ]]、プロ野球選手(* [[1911年]]) * [[1987年]] - [[佐々木つとむ]]<ref group="注">ただし、9月4日は遺体の発見された日。発見時には死後約1週間が経過しているものとされた。「タレント佐々木つとむさん、刺殺死体で発見 同居女性姿消す」 『[[朝日新聞]]』1987年[[9月5日]] 夕刊11頁</ref>、ものまねタレント(* [[1947年]]) * [[1988年]] - [[松田武]]、第4代[[航空幕僚長]]、[[実業家]](* [[1906年]]) * 1988年 - [[津川武一]]、[[日本共産党]][[衆議院議員]]、[[小説家]](* [[1910年]]) * [[1989年]] - [[ジョルジュ・シムノン]]、[[推理作家]](* [[1903年]]) * 1989年 - [[コーリン・クラーク]]、[[経済学者]](* [[1905年]]) * [[1990年]] - [[アイリーン・ダン]]、[[俳優|女優]](* [[1898年]]) * 1990年 - [[大石真]]、[[児童文学]][[作家]](* [[1925年]]) * [[1991年]] - [[反町茂雄]]、[[古書店]]経営者(* [[1901年]]) * [[1992年]] - [[三升家小勝 (7代目)]]、落語家(* [[1937年]]) * [[1997年]] - [[ハンス・アイゼンク]]、[[心理学者]](* [[1916年]]) * 1997年 - [[アルド・ロッシ]]、[[建築家]](* [[1931年]]) * [[1999年]] - [[クレメント・スラヴィツキー]]、作曲家(* [[1910年]]) * [[2001年]] - [[林富士馬]]、詩人、[[文芸評論家]](* [[1914年]]) * 2001年 - [[伊藤宗一郎]]、第69代[[衆議院議長]](* [[1924年]]) * 2001年 - [[萩元晴彦]]、テレビ・音楽[[プロデューサー]](* [[1930年]]) * [[2002年]] - [[ヴラド・ペルルミュテール]]、[[ピアニスト]](* [[1904年]]) * [[2003年]] - [[ローラ・ボベスコ]]、[[ヴァイオリニスト]](* [[1921年]]) * 2003年 - [[福田一郎]]、[[音楽評論家]](* [[1923年]]) * 2003年 - [[ティボール・ヴァルガ]]、[[ヴァイオリニスト]]、[[指揮者]](* [[1921年]]) * [[2006年]] - [[アストリッド・ヴァルナイ]]、[[ソプラノ]][[歌手]](* [[1918年]]) * 2006年 - [[阿部謹也]]、[[歴史学者]](* [[1935年]]) * 2006年 - [[ジャチント・ファッケッティ]]、[[サッカー選手]](* [[1942年]]) * 2006年 - [[スティーブ・アーウィン]]、[[積極行動主義|環境保護活動家]]、[[クロコダイルハンター]](* [[1962年]]) * [[2007年]] - [[瀬島龍三]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.shikoku-np.co.jp/national/okuyami/article.aspx?id=20070904000145|title=瀬島龍三氏死去/元伊藤忠商事会長、元大本営参謀|publisher=四国新聞社|date=2007-09-04|accessdate=2020-11-26}}</ref>、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の[[中佐]]、実業家(* [[1911年]]) * 2007年 - [[佐藤真]]、[[映画監督]](* [[1957年]]) * 2007年 - [[沼田憲保]]、[[オートバイ|モーターサイクル]][[ロードレース (オートバイ)|ロードレース]]選手(* [[1966年]]) * [[2017年]] - [[長崎昭義]]、実業家、スキー選手(* [[1945年]]) === 人物以外(動物など) === * [[1979年]] - ランラン、[[上野動物園]]の[[ジャイアントパンダ]](* [[1968年]]) == 記念日・年中行事 == {{multiple image | footer = [[アルゼンチン]]の[[移民]]の日 | direction = vertical | image1 = Barbinokballet.JPG | width1 = 220 | caption1 = {{仮リンク|移民祭|es|Fiesta_Nacional_del_Inmigrante}}、[[ウクライナ]]移民のダンス | image2 = Arabianqueen.JPG | width2 = 220 | caption2 = 移民祭、「アラブ系の女王」 }} * [[移民]]の日({{ARG}}) *: アルゼンチン行政府の政令により1949年に制定された<ref>{{Cite journal|和書|url=https://doi.org/10.15002/00008693|title=越境者が辿り着いたブエノスアイレス : アンナ=カズミ・スタールの作品に見られる重層的アイデンティティの考察|author=高木佳奈|date=2013-04|volume=14|page=44|journal=異文化. 論文編|publisher=[[法政大学]]国際文化学部 |accessdate=2020-11-22}}</ref>、[[移民]]を称える記念日。{{仮リンク|移民祭|es|Fiesta_Nacional_del_Inmigrante|en|Immigrant's Festival}}が催される。アルゼンチンは1914年には人口のほぼ3割が非ネイティブであった。 * {{仮リンク|新聞配達の日 (アメリカ)|en|Newspaper Carrier Day|label=新聞配達の日}}({{USA}}) *: [[1833年]]のこの日、10歳の少年 Barney Flaherty が初の[[新聞配達]]を行ったことを記念<ref>{{Cite web |url=http://holidayinsights.com/moreholidays/September/newspapercarrier.htm|title=Newspaper Carrier Appreciaton Day|website=holidayinsights.com(Premier Star Company)|accessdate=2020-07-09}}</ref>。 * [[クラシック音楽]]の日({{JPN}}) *: 「ク(9)ラシ(4)ック」の語呂合わせ。より多くの人にクラシック音楽に親しんでもらうことが目的。日本音楽マネージャー協会(現日本クラシック音楽事業協会)により創立記念日の8月19日と共に設定され、これらの日を中心に音楽家の無料報酬によるコンサートなどが開催される<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.classic.or.jp/2013/01/blog-post_3981.html |title=日本クラシック音楽事業協会の歩み 日本クラシック音楽事業協会|work=一般社団法人日本クラシック音楽事業協会|date=2013-01-01|accessdate=2020-07-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://travel.navitime.com/ja/area/jp/guide/NTJanv0045/|title=8月19日はクラシック音楽の日|work=NAVITIME Travel|publisher=ナビタイムジャパン|date2015-8-17|accessdate=2022-5-15}}</ref>。 * [[クジラ|くじら]]の日({{JPN}}) *: 鯨類などの試験研究などを行う一般財団法人日本鯨類研究所が制定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2012/09/04145058.html|title=9月4日は「クジラの日」|work=J-CASTニュース|publisher=ジェイ・キャスト|date=2012-9-4|accessdate=2022-5-15}}</ref>。鯨と日本人の共生を考えることが目的。日付は9と4で「くじら」と読む語呂合わせから。 * [[櫛|くし]]の日({{JPN}}) *: 「く(9)し(4)」の語呂合わせ。美容関係者が櫛を大切に扱い、美容に対する人々の認識を高めてもらおうと、美容週間実行委員会(現美容週間振興協議会)が[[1978年]]に制定<ref>{{Cite web|和書|url=http://beautyweek.com/history/ |title=美容週間の歴史 |publisher=NPO法人美容週間振興協議会 |accessdate=2020-07-09}}</ref><ref name="日本気象協会2018">{{Cite web|和書|url=https://tenki.jp/suppl/sachico_nakayama/2018/09/04/28363.html|title=語源は同じ「櫛」と「串」、今日は「くしの日・串の日」|work=tenki.jp|publisher=日本気象協会|date=2018-9-4|accessdate=2022-5-15}}</ref>。あわせて、この日を中心とする[[9月1日]]から[[9月7日]]までの1週間を翌1979年より「美容週間」「くしの日キャンペーン」としている。 * 串の日({{JPN}}) *: 運動会やお祭り、イベントなどで外出することが多いこの季節に、片手でも手軽に食べられる串ものをもっと食べてもらいたいとの願いが込められている。日付は9と4で「串(くし)」と読む語呂合わせから。株式会社「味のちぬや」が制定した<ref>{{Cite web|和書|url=https://chinuya.com/chi-h-day.html#kushi|title=串の日|work=味のちぬや|accessdate=2020-07-09}}</ref><ref name="日本気象協会2018"/>。 * [[関西国際空港]]開港記念日({{JPN}}) *: [[1994年]](平成6年)のこの日、[[大阪府]][[大阪市]]に位置する[[国際空港]]が開港した。世界初の本格的な海上空港で、日本初の24時間運用空港でもある。航空審議会が「泉州沖が最適」と答申してから20年目のことだった。 * 心を注ぐ急須の日({{JPN}}) *: 急須のある生活を勧めることで人々の心にも愛情という潤いを注ぎ、家族のなごみの時間を増やしてもらおうと、「京都ほっこり庵七之進」の畠山友晴氏が制定。日付は9と4で「急須」と読む語呂合わせから。急須でお茶を飲む文化の普及と、人と人との温かいコミュニケーションの拡大を目指している<ref>{{Cite web|和書|url=https://econews.jp/idea/food/20130830.html|title=おばあちゃんの知恵袋 9月4日/心を注ぐ急須の日|work=日本テクノ株式会社|date=2013-0-09|accessdate=2020-07-09}}</ref>。 == フィクションのできごと == {{フィクションの出典明記|section=1|ソートキー=日0904|date=2011-07}} {{精度|section=1|date=2020年10月}} === 誕生日(フィクション) === * [[1906年]] - 末延唯月、漫画『[[紡ぐ乙女と大正の月]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book|和書|title=紡ぐ乙女と大正の月 1|date=2020-06-26|publisher=[[芳文社]]|page=3|isbn=978-4832271999|author=ちうね}}</ref> * [[1968年]] - [[マイク・バイソン]]、ゲーム『[[ストリートファイター (ゲーム)|ストリートファイター]]』シリーズに登場するキャラクター *[[1977年]] - 五代みのり、[[仮面ライダーシリーズ]]『[[仮面ライダークウガ]]』の登場人物 * 2283年 - 神宮寺詩織(おっとりの詩織)、ゲーム『[[銀河お嬢様伝説ユナ]]』シリーズに登場するキャラクター<ref>{{Wayback|url=http://www.hudson.co.jp:80/gamenavi/gamedb/softinfo/yuna3/char/shiori.html|title=銀河お嬢様伝説ユナ:キャラクター紹介:おっとりの詩織|date=20100923091743}}</ref> * 生年不明 - 浜瑚蛍介、漫画・アニメ『[[ナルどマ]]』の主人公 * 生年不明 - 流木野サキ、アニメ『[[革命機ヴァルヴレイヴ]]』のヒロイン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.valvrave.com/character/#c4|title=流木野 サキCV:戸松 遥|website=TVアニメーション『革命機ヴァルヴレイヴ』公式サイト|work=[[サンライズ (アニメ制作ブランド)|サンライズ]]|accessdate=2020-07-09}}</ref> * 生年不明 - 小田切寧々、漫画・アニメ『[[山田くんと7人の魔女]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.yamajo-anime.com/news/228.html|title=メインキャラクター設置画一挙公開!|work=[[吉河美希]]・[[講談社]]/2014「やまじょ」製作委員会|accessdate=2020-07-09}}</ref> * 生年不明 - クマシー、漫画・アニメ『[[ONE PIECE]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Kumacy.html|title=クマシー|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-07-09}}</ref> * 生年不明 - ワンゼ、漫画・アニメ『ONE PIECE』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://one-piece.com/log/character/detail/Wanze.html|title=ワンゼ|work=[[フジテレビ]]・[[東映アニメーション]]|accessdate=2020-07-09}}</ref> * 生年不明 - 近藤勲、漫画・アニメ『[[銀魂]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 松平栗子、漫画・アニメ『銀魂』に登場するキャラクター * 生年不明 - 谷地仁花、漫画・アニメ『[[ハイキュー!!]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://haikyu.jp/chara/karasuno/yachi.html|title=烏野高校 谷地 仁花 CV:諸星 すみれ|work=[[古舘春一]]/[[集英社]]・「ハイキュー!!」製作委員会・[[毎日放送|MBS]]|accessdate=2020-07-09}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=古舘春一|authorlink=古舘春一|date=2014-01-04|title=ハイキュー!!|publisher=[[集英社]]|series=[[ジャンプ・コミックス]]|isbn=978-4088708522|volume=9巻|page=106}}</ref> * 生年不明 - 米林才子、漫画・アニメ『[[東京喰種トーキョーグール|東京喰種トーキョーグール:re]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - [[史上最強の弟子ケンイチの登場人物#鷹目京一|鷹目京一]]、漫画・アニメ『[[史上最強の弟子ケンイチ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite book |和書|author=松江名俊|authorlink=松江名俊|title=史上最強の弟子ケンイチ 公式ガイドブック 史上最強の秘伝書series=少年サンデーコミックススペシャル|page=126|publisher= [[小学館]]|date=2014-05-16|isbn=978-4091250162}}</ref> * 生年不明 - オルカ、漫画・アニメ『[[クジラの子らは砂上に歌う]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 日比野奏、漫画『おじさまと猫』に登場するキャラクター * 生年不明 - 生田目千足、漫画・アニメ『[[悪魔のリドル]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鏑木美波、アニメ『[[ハイスクール・フリート]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|work=TVアニメ「ハイスクール・フリート」公式サイト|url=https://www.hai-furi.com/character/05_05/|title=鏑木美波 CV:阿澄佳奈|accessdate=2020-07-09}}</ref> * 生年不明 - [[芳乃さくら]]、ゲーム・アニメ 『[[D.C. 〜ダ・カーポ〜]]』 に登場するキャラクター * 生年不明 - 鯨瀬・クリスティナ・桜子、ゲーム・アニメ『[[グリザイアシリーズ|グリザイア:ファントムトリガー]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 鷹見沢仁、ゲーム・アニメ『[[夜明け前より瑠璃色な]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 榎並マドカ(マドカ)、ゲーム『[[Tokyo 7th シスターズ|Tokyo 7th Sisters]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - フローネ・トリーティア、ゲーム『[[悠久幻想曲]]』に登場するキャラクター * 生年不明 - 米原はるか、『[[鉄道むすめ]]』に登場するキャラクター<ref>{{Cite web|和書|url=https://tetsudou-musume.net/contents/chara/chara.php?cid=TM34|title=TM34 米原はるか|work=鉄道むすめ~鉄道制服コレクション~|accessdate=2020-07-09}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == {{Commons&cat|September 4|4 September}} {{新暦365日|9|3|9|5|[[8月4日]]|[[10月4日]]|[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]|0904|9|04}} {{1年の月と日}}
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https://ja.wikipedia.org/wiki/9%E6%9C%884%E6%97%A5
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京浜急行電鉄
京浜急行電鉄株式会社(けいひんきゅうこうでんてつ、英: Keikyu Corporation)は、神奈川県横浜市に本社を置く鉄道会社である。略称は「京急」(けいきゅう)、「京急電鉄」(けいきゅうでんてつ)。日本の大手私鉄の一つで、東京都区部南部から神奈川県東部の三浦半島にかけて京急本線を中心とする5つの鉄道路線を運営している。東証プライムに上場し、東武鉄道と共に芙蓉グループ(みずほ銀行系列)を構成する企業の一つで、京急グループの中核企業である。 東京都区部南部から、羽田空港や、神奈川県川崎市、横浜市を経て三浦半島へ至る鉄道路線を運営している。それに京浜急行バスを加えた交通事業のほか、グループ各社と連携して流通事業、サービス事業、不動産事業なども経営している。これらは直接の収益確保のほかに、特に横浜市以南の京急線沿線地域の定住・交流人口の減少を防ぐことも意識している。 創立120周年を迎えた2018年には、通勤利用者の減少や、東京モノレールやリムジンバスに羽田空港アクセス線が加わり羽田空港アクセスの競合激化が予測されることから、「みさきまぐろきっぷ」「葉山女子旅きっぷ」といった企画乗車券の活用や、城ヶ島の再開発などを通して外国人を含む観光客の三浦半島への誘致を強化する経営戦略を表明している。同年5月には日本旅行と提携した。その他、2018年3月には、京急沿線に営業網を持つ湘南信用金庫及び日本保証と不動産事業の空き家対策で提携。同年11月には、神奈川県横須賀市および同市に二軍拠点を持つプロ野球球団の横浜DeNAベイスターズと三者連携協定を結んでいる。2021年には、ヘリコプターによる三浦半島の遊覧飛行に向けてAirXと提携した。 2019年9月には、神奈川県横浜市西区高島一丁目(みなとみらい地区内、横浜高速鉄道みなとみらい線新高島駅となり)に、京浜急行電鉄のほか複数のグループ企業(計11社)の本社機能の集約を目的として建設された京急グループ本社ビルが竣工。同年9月17日に品川駅西口の東京都港区高輪から本社を移転した(その他のグループ企業についても同年9月から10月にかけて順次移転)。なお、本社の移転については京急2100形1編成に貼られたステッカーで「横浜駅から この春、新たな感動が始まる」のスローガンとともに告知された。 かつては「京浜急行(けいひんきゅうこう)」を公式通称、「Keihin Electric Express Railway Co., Ltd.」を英文社名としていたが、2007年(平成19年)12月1日よりポスター・チラシ類などにおいて「京急電鉄(けいきゅうでんてつ)」の名称および新ロゴマーク、2010年(平成22年)10月21日より「Keikyu Corporation」の英文社名を使用開始し、順次変更している。 過去の略称は前身である京浜電気鉄道時代の「京浜」が使われており、1963年(昭和38年)には湘南電気鉄道時代の一部の駅名であった「湘南 - 」を「京浜 - 」に統一させた。しかし、昭和30年代前半から子会社の名前などに「京急」を使うようになり、一時は「京浜」と「京急」の略称が混在していた。次第に「京急」の方が定着していったことから、1987年(昭和62年)6月1日には同年の国鉄分割民営化により発足した東日本旅客鉄道(JR東日本)との差別化も意識し、コーポレートアイデンティティ (CI) の一環として、それまで「京浜 - 」としていた10駅の駅名を「京急 - 」に改め、略称を「京急」に統一した。なお、「京急 - 」という名称は京浜急行電鉄の登録商標になっている。 ただし、「京急」の略称は定着したが、「京急電鉄」という呼び方については完全に定着した訳ではない。東海旅客鉄道(JR東海)は、東海道新幹線上り列車が品川駅に到着する際の乗り換え案内で「京浜急行線」という表現を2023年時点でも使用している。報道機関では、NHKやTBSテレビなどがニュースや交通情報で「京浜急行」と表記することがある。 大師電気鉄道時代は3本線で円を作ることで川崎、その中に「大」を4つで「ダイシ」(大師)とする社紋を使用し、京浜電気鉄道となった後も継続して使用していた。その後、大東急時代を経て京浜急行電鉄として再出発する際に用意されたのが先代社紋で、社員への募集、会社組合双方からの選考委員による選定の後、杉浦非水による修正によって出来上がった。K、翅、車輪 からなる図案はそれぞれが京浜、急行、電鉄を表している。 現在の社紋は経営の多角化によって従来の社紋が相応しくなくなってきたため、1958年(昭和33年)の創立60周年を契機に変更が検討され、1964年(昭和39年)5月に制定されたものである。図案は社内候補と東急エージェンシーに依頼したものから2案が選定され、これらをアレンジした数種から再検討、選定された。円が会社の主な事業である交通(鉄道・バス)を表し、中央の図形は京浜の「K」および「ケ」をスピーディかつ安定感を持った形に図案化したものである。また、この図形を円を突き破るように配置することで、困難を突破していく力強さを表している。 ロゴマークは2000形電車の登場やウイング高輪のオープンといった節目があった1983年(昭和58年)頃から使われだした。当時は現在と違い水色が地色で「KEIKYU」の文字は白抜きだった上、ロゴ下部の文字が斜体で「 京浜急行 」と書かれていた。 コーポレートスローガンは創業90周年を迎えた1988年(昭和63年)に初めて制定され、当時は「めざす未来へ―ふれあい京急」だった。1998年(平成10年)の創業100周年と空港線羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業という大きな節目を前に「新しい出会いに夢のせて」に変わり、現在のコーポレートスローガンである「あんしんを羽ばたく力に」は、2008年(平成20年)の創業110周年に合わせて導入された3代目である。2代目まではロゴマークにもコーポレートスローガンを掲出していたが、2008年に色を反転した現行のロゴに変わった際、コーポレートスローガンは外された。また、ロゴ下部の文字には「京急電鉄」と「京急グループ」のバリエーションがある。 現在の京浜急行電鉄の元となったのは、1899年に旧東海道川崎宿に近い川崎駅(後の六郷橋駅)から川崎大師近くの大師駅(現在の川崎大師駅)までの1435mmの標準軌で開通した大師電気鉄道である(現在の大師線の一部)。同社は日本で三番目、関東では最初の電気鉄道会社であった。創立時には安田財閥が人的・資金面で援助したこともあり、そのため現在でも安田財閥の流れを組む芙蓉グループの一員となっている。同年、京浜電気鉄道と社名を改めた。 東京市電との相互乗り入れを目論み、軌間を開業時の標準軌から一旦1372mmの馬車軌間へ改軌を行うが、後に子会社となる湘南電気鉄道による三浦半島方面の延伸線への乗り入れを行うために、再度、標準軌に改軌された。 太平洋戦争中の1942年には陸上交通事業調整法に基づく戦時統合により東京急行電鉄(いわゆる大東急)に併合されるが、1948年に京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)の3社が分離・独立し、現在に至る。 京急の路線全体、もしくは特に本線を指して京急線と呼ばれる。 以下は前身の京浜電気鉄道や湘南電気鉄道などの路線も含む。 総延長キロ数 : 87.0km 京浜急行電鉄の前身の一つである湘南電気鉄道にも「予定線」として以下の計画線が存在した。日ノ出町駅 - 桜木町駅間の建設予定地には、予定地に沿って道路や住宅が並んでいる。 2020年3月末現在、73駅を営業している(泉岳寺駅を含む)。 京浜急行電鉄は、都営地下鉄との間で泉岳寺駅を境に浅草線に乗り入れ直通運転を実施している。東京都内にも路線がありながら、東京メトロとの直接の乗換駅はない。 は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。 駅長所在駅は品川・平和島・京急蒲田・羽田空港第1・第2ターミナル・京急川崎・川崎大師・京急鶴見・神奈川新町・横浜・日ノ出町・上大岡・金沢文庫・追浜・横須賀中央・京急久里浜・三浦海岸の16駅。駅長所在駅ごとに管区が置かれ、泉岳寺駅とここに挙げた16駅以外の駅は、いずれかの駅長に属する被管理駅となっている。なお、京急ステーションサービスへの委託時代は駅長もその他の駅係員同様、同社の社員であった。 都営地下鉄浅草線(泉岳寺以北)、京成電鉄押上線・本線(青砥以東)・東成田線・成田スカイアクセス線、北総鉄道北総線、芝山鉄道芝山鉄道線と直通運転を実施している。乗り入れ車両は8両編成のため、普通列車の停車駅の有効長の関係で空港線と逗子線以外は普通としては運転されず、京急線内では急行・特急・快特・エアポート快特として運転される。おおよその目安として、品川駅 - 浦賀駅間の普通、空港線系統・本線系統の快特と羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 逗子・葉山駅間のエアポート急行が、それぞれ10分間隔で運行されている。そのほかに、普通が品川駅 - 京急蒲田駅間で20分間隔、エアポート快特が京成線方面 - 羽田空港間に40分間隔で運行されている。 基本的に信号は駅の信号室で取り扱う。そのため事故などでダイヤが乱れた場合は各信号室の判断による運行が行われ、運行中に種別・行先・接続列車等を臨機応変に変更することで、運転再開及び回復までの時間短縮を図っている。インターネット上ではこのような運行形態を指して「行っとけ(逝っとけ)ダイヤ」という通称が用いられる事もある。 また通常ダイヤ以外に、貸切イベント列車を運行することがある。2017年までも企業からの申し込みに対応してサイクルトレインなどを走らせていたが、個人の同窓会や結婚式などの受け付けも2017年10月から始めた(実施は最短で3か月後)。土・日曜日のみで、午前中の品川駅発→浦賀駅または三浦海岸駅着か、夕方の大師線往復(京急川崎駅発着)が利用できる。 品川駅と三崎口駅を結ぶ長い路線でありながら、乗車に際して座席指定券が必要となる「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」のほかは、別料金を徴収する優等列車はない。 京急の現有車両は沿線の金沢八景駅山側に立地する東急車輛製造、およびその後身の総合車両製作所と川崎車両(旧・川崎車輛→川崎重工業車両カンパニー)の2メーカー製で、総合車両製作所(東急車輛製造を含む)と川崎車両でそれぞれほぼ半々の割合で製造されている。なお東急車輛製造および総合車両製作所が無かった戦前は、汽車製造(汽車会社。現・川崎車両)に多く発注されていたほか、終戦直後には当時鉄道車両の生産経験がなかった三井造船(三井E&S造船を経て現・三菱重工マリタイムシステムズ)に発注した例もあった。 2019年9月30日時点で798両を保有する。各形式の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。 経営・技術面など多方面から範としたアメリカのパシフィック電鉄の影響から、創業以来の伝統として車体広告車などの例外を除いて車体は赤く塗装されており、会社のイメージカラーにもなっている。塗色のパターンは幾度か変遷があり、現在では、窓下に白帯が入るものと窓周りが白く塗られているものがある。2007年3月に登場した1000形6次車(ステンレス車体)より、車体幕板と腰板に赤色のラッピングを施し、さらに窓下に白帯を入れアクセントとした外装となり、2015年度製造の15次車の6両編成まで継続された。同年度製造の15次車4両編成(1800番台)以降は、赤色に窓周り白色のラッピングが窓枠及び客室扉と乗務員室扉の周りを除いた車体側面全体に拡大され、さらに2017年度に導入された17次車からはステンレス車体に全面塗装が施されることになり、5次車以来となる全面塗装車体で導入されることになった。 2014年の西武9000系電車「RED LUCKY TRAIN」を始め、2017年からの羽田空港 - 東京都心間の利便性をアピールする車体広告など、各地の鉄道会社においても積極的に営業活動を行っており、京急の電車に広く見られる赤地に白帯のデザインを再現したラッピング車両が全国各地で見られるようになっている(「広報」の節も参照)。日本以外でも、友好鉄道協定を結んでいる台湾鉄路管理局において、2016年5月12日より同年10月12日までの期間にEMU700型電車第1編成においてラッピングで再現された。 視認性の問題から行先表示に3色LED表示器は導入しなかったが、フルカラー・白色LEDが実用化され視認性に特に問題なかったこと、多くの色を表現でき種別案内が色で可能になったこと、行先の増加や運転系統の変化に伴い幕交換が多数発生している現状を踏まえ、2005年(平成17年)以降製造車両から本格採用した。2010年3月頃よりフルカラー・白色LED行先表示(日本語・英語を交互表示)が搭載されている。また、列車無線装置の機器スペースの都合で、前面のみをフルカラーLEDに交換した編成が出現しており、600形、2100形、1500形などが該当する。800形の全廃後は、在籍車両の正面の行先表示器はすべてLED式となっている。 相互直通運転を行っている京成電鉄とは異なり、駅名の「京急」は省略しない(「京急川崎」など)。以前は「京急」(1987年までは「京浜」)を省略していたが、神奈川新町などを正式駅名表記とするようになった頃から省略しなくなった。 方向幕搭載車は、過去は白地に黒文字、800形以降は黒地に白抜き文字の表示であったが、2002年以降から白地に黒文字のローマ字入りに交換が開始され、現在はすべて完了している。かつては行先板を使用していた名残りから「新町(神奈川新町)」「文庫(金沢文庫)」など省略駅名を表示していたが、現在は羽田空港第1・第2ターミナル駅行を「羽田空港」と表示するのを唯一の例外として、京急線内の駅についてはすべての車両が正式な駅名を表示するようになっている。 特殊な表示形態として以下のものがある。 形式呼称は、京成電鉄や東京都交通局および小田急電鉄と同様に「...系」ではなく「...形」を使用し、相互乗り入れを行う各事業者の車両と形式番号が重複しないように2000番台より若い数字を用いる(京成車は3000番台、都営車は5000番台、北総車は7000番台、千葉ニュータウン鉄道車は9000番台。なお、大東急時代は元京浜電鉄・湘南電鉄の車両に5000番台が振られていたが、京急の分離独立時に5000を引いて一斉に改番した)。また、京急では必ずしも編成を固定しておらず、1500形を中心に現在でも編成替えが多く行われていることから編成を表す「...F」(「編成」を意味する英単語Formationの頭文字)などの呼称は用いられていない。さらに、京急線内では車両形式と編成を表す記号も使用されており、一例を挙げると、2代目1000形の8両編成では「8V」などと呼称されている(出典:『京急ダイヤ100年史』)。 都営地下鉄線に乗り入れる列車は、片側3扉で、貫通扉を備え、火災などの非常時に運転室正面から脱出可能な編成に限定される。現在、この条件を満たすのは1500形・600形・新1000形とその派生型である。なお2100形は貫通扉を備え、非常時には正面から避難できる構造で直通規格を満たしてはいるが、泉岳寺駅までの線内運用となっている。ただし、臨時列車や車両展示などで浅草線走行記録はある。800形などの片側4扉車両は、品川駅以南の運用であった。 先頭車両(制御車)は事業用車両クト1形が廃車された2010年度以降は全て電動車となっており、他社局からの乗り入れ車両についても原則的に先頭台車は重量の重く安定している電動台車に限定している。これは国鉄三河島事故・鶴見事故以降、京急線内では脱線事故などの際に転覆事故へと被害を拡大させないこと、車輪とレールの半・導体膜が破壊され短絡感度が良くなり、軌道回路の正確な検知を行うことで素早く確実な分岐器の転換・信号の開通・踏切の動作が求められているためである。ただし、過去には京成の3500形や旧3000系列(3200形・3300形)などの先頭付随台車(6M車)の車両(改造前に、主に夏季の海水浴や正月の初詣臨時列車で使用された)や、当時先頭車が電動車でなかった北総7000形(北総・公団線(現・北総線)の2期線開通直後の一時期)が例外的に入線した時期もあった。 ボルスタレス台車は走行安定性の観点から現在に至るまで採用されておらず、ダイレクトマウント式のボルスタ(枕ばり)付き台車を採用している。軸箱支持装置についても円筒案内式が多くを占めており、これ以外の採用例は2代目800形のペデスタル式や3代目600形の軸梁式程度である。標準軌であること、ボルスタ式なので曲線入り口での台車回転に心皿と側受の制動がかかる一方で曲線区間中は乗り心地を悪くするフランジ横圧が弱いこと、車軸支持の摩擦が少なく位置決め剛性が高いこと、軸ばねのストロークが大き目でばね定数が低目であること等で走行安定性と乗り心地および粘着の高いバランスを追求している所が京急特有の乗り心地の原因だと言われている。 ドイツの電気機器メーカー「シーメンス」社製VVVF制御装置やノルウェー製座席、スウェーデン製座席カバーを使用するなど、日本以外からの技術導入も積極的である。 起動加速度は全車両で3.3 - 3.5km/h/s と高めに設定されている一方、直流モーターを使用する車両は弱め界磁制御の領域を広く取るなどして高速性能も確保している。 かつて運行していた週末座席指定特急では禁煙プレートに号車札を差し込み、灰皿を置いて喫煙可能にしていた名残で、3代目600形まで独特の形をしていた禁煙プレートを採用していた。 1988年に、関東地方の大手私鉄では初めて全車両の冷房化を達成した。 なお総合車両製作所製の電車の製造銘板には、同社の対外通称である「J-TREC」のロゴを記載することを大手私鉄中唯一認めておらず、漢字で「総合車両製作所」とだけ記されている。 地下鉄乗り入れを行う車両のうちはアクセス特急に対応しているのは、車上情報管理装置に誤通過防止機能(停車予告機能)の搭載を行った編成のみが運用に入る。 原則600形と新1000形10次車以降(1800番台は2編成を幌で貫通連結して運用に入る)の車両に限られている 京浜急行電鉄分離独立後に在籍した過去の車両は以下の通り。いずれも廃車時の形式。東急統合時と1965年、1966年に改番が実施され、製造時とは形式名が変更されている車両が多い。 開業期から京浜急行電鉄成立以前までに下記3形式の木造車両が在籍した。形式はいずれも製造時のもの。一部は京急分離独立後にも在籍していた。このほか、大師電気鉄道開業時から大正時代まで木造2軸電車が在籍していた。 廃車後の地方私鉄への譲渡先は、東京急行電鉄や西武鉄道と比べると多くないが、特筆すべき譲渡先としては高松琴平電気鉄道が挙げられ、木造車時代から平成に入って引退した車両まで数多くの車両が譲渡されている。 運転保安装置は全線で乗り入れ先各線と共通の1号型ATSを採用していたが、2009年(平成21年)2月14日よりC-ATSに更新した。検車区は久里浜の車両管理区を中心に金沢検車区と新町検車区を加え計3か所を有する。 路線はかつての軌道線や地方鉄道に由来するため地上を走行する区間が多かったが、各地で立体交差化が進んでいる。近年は弘明寺駅 - 上大岡駅間の高架化や空港線の一部地下化、京急蒲田駅付近の高架化が行われた。特に京急蒲田駅周辺では第一京浜や環状八号線に跨るため慢性的な交通渋滞の要因となっていたことから、早急な高架化を実現するために大部分で直接高架工法を導入して連続立体交差事業が行われ、2012年(平成24年)10月には事業区間全線が高架化。2017年(平成29年)3月に事業全体が完了した。2021年7月現在で進行中の事業は、大師線地下化第1期、品川駅付近連続立体交差化である。 待避駅では列車衝突の防止および信号現示の効率化のため、待避線に安全側線を設けることを基本としている。これにより、待避列車に対しYY現示(警戒)でなくY現示(注意)で進入させることができ、また後続列車に対しても場内信号機にG現示(進行)を早く出すことができる。 大規模な駅では発車時刻や行先などを表示する発車標のLED式表示装置、液晶式表示装置への更新が行われている。また品川駅、京急蒲田駅、羽田空港第3ターミナル駅、羽田空港第1・第2ターミナル駅、横浜駅などでは外国人の利用客を意識して日本語、英語のみならず中国語、韓国語の表示にも対応している。 品川駅1番線、京急蒲田駅1,4番線、羽田空港第3ターミナル駅、羽田空港第1・第2ターミナル駅、京急川崎駅3番線、横浜駅では自動放送装置も導入されている。ドア数や車両数の違いや分割・併合の多さ、先着などの案内が複雑なため主要駅への自動放送装置導入には消極的だったが、詳細なアナウンスができるシステムが構築され、駅員によるアナウンスと遜色のない細やかな情報が提供されることが特徴である。 その他、接近する列車の種別が表示される簡易案内装置が多くの駅で導入されている。あくまで接近列車の種別を示すもので、JRの東京圏輸送管理システム (ATOS) のように次発列車の時刻・種別を案内するものではない。当初は機械式だったが、現在はLED式となっている。また、併せて列車接近自動放送(通過・停車別)が導入されている駅も多いが、内容は非常に簡易的である(例:「まもなく、上り、快特が、到着致します。危険ですから、黄色い線の内側に、下がって、お待ちください。」)。 また、2008年(平成20年)11月18日より「京急駅メロディ大募集」として同年7月に一般公募により決定したご当地ソングが京急線内主要17駅(品川・青物横丁・立会川・平和島・京急蒲田・羽田空港(現:羽田空港第1・第2ターミナル)・京急川崎・横浜・上大岡・金沢文庫・金沢八景・新逗子(現:逗子・葉山)・横須賀中央・堀ノ内・浦賀・京急久里浜・三崎口の各駅)で、接近メロディとして使用が開始されている(後に生麦・羽田空港第3ターミナル・港町・井土ヶ谷・追浜・三浦海岸の各駅や、期間限定で梅屋敷・川崎大師の両駅でも採用された。それぞれの駅の採用曲は「発車メロディ#京浜急行電鉄」の項目を参照)。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた(品川駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の『赤い電車』は除く)。なお、ご当地ソングを鉄道事業者が採用している例はこれが初めてではなく、既に西日本鉄道(西鉄)で行っているが、西鉄では列車車内でのメロディでの採用に対して京急では駅の案内で使用している点が異なる。 ホームで駅員が監視業務をしていない駅では車掌がワイヤレスマイクを通じて駅ホームスピーカーを使い(一部の京成車は車外スピーカーで直接)、種別、行先、ドア閉めの告知をしており、笛や発車ブザーによる発車案内は主要駅を除き省略されている。通過待ちをする列車の乗務員はホームに立ち通過監視を行うのが慣習になっているほか、車掌による発車時のホーム監視は8両編成以下の場合乗務員室扉を開けて行っていたが(ホームドア設置駅を除く)、近年は安全のため乗務員扉を閉め窓から監視するようになっている。また監視に集中することから、車掌と駅員の間での敬礼は行われない。 また、車両は羽田空港・浦賀・逗子・葉山・三崎口寄りを1号車とし、品川寄りを大きい数字(12両編成の場合12号車、8両編成の場合8号車)としている。 2019年1月28日、羽田空港国際線ターミナル駅(現:羽田空港第3ターミナル駅)に、目の錯覚を利用した「錯視サイン」を全国の駅で初めて導入している。 自動券売機は現在すべてがタッチパネル式多機能券売機となっているが、PASMOの導入に合わせてPASMO対応への改造が行われた。一部には定期券発行機能(新規含む)が搭載され、利便性向上を図っている。2010年7月下旬から品川駅を皮切りに、自動券売機が順次更新されている。1994年(平成6年)4月1日には独自のストアードフェアシステムを導入し、対応するルトランカードの販売・利用が開始された。一方でパスネットの利用開始は機器更新が間に合わず、2000年(平成12年)10月14日のサービス開始時には導入せず2001年(平成13年)以降の予定としていたが、羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴う乗客増加に対応すべく、2000年12月20日に前倒しで導入した(ただし導入当時は対応自動改札機が限定されていた)。 大人普通旅客運賃(小児は、IC運賃は全区間75円均一、切符利用の場合は半額・10円未満の端数切り上げ)。2023年(令和5年)10月1日改定。 このほか、品川駅・八丁畷駅・横浜駅で京急線とJR線の初乗り区間同士を利用する場合、大人・小児とも10円(八丁畷乗り換えに限り大人は20円)の割引が適用される。 このほかにも有人改札口で硬券による入場券および初乗り運賃の乗車券を発売していたが、2012年2月現在は京急線全線で硬券の発売は終了している。 羽田空港への路線が就航している日本国内の主要空港(新千歳・函館・小松・大阪(伊丹)・岡山・広島・徳島・福岡・北九州・長崎・那覇)にも券売機が設置されており、羽田空港からの乗車券を購入することができる。2016年3月15日より、全日本空輸(ANA)が運営するANAマイレージクラブと連携し、この券売機できっぷを買うとANAのマイルが貯まる「京急ANAのマイルきっぷ」の発売を開始している。 京急線は、沿線に三浦半島、横浜といった観光地や羽田空港を擁し、観光客を始めとする利用者に向けて様々な割引乗車券(企画乗車券)を発売している。 一部の乗車券は、『三浦COCOON』サイト内の「デジタル乗車券」のみの発売で、紙式乗車券の発売は行わない乗車券がある。 なお、ここでは単に「羽田空港駅」と記した場合、羽田空港第3ターミナル駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の両方が含まれる。 以下の乗車券はPASMOでのみ発売する。定期券が搭載されていないカードのPASMOのみ使用可能である。いずれも泉岳寺駅では発売していない。 なお、『なぎさ』と『Haneiro KEIKYU』は京急各線全駅以外に、都営地下鉄及び京成線の主要駅にて配布している。 京急グループ本社1階に「京急ミュージアム」が2020年1月21日に開館した。 空港線の羽田空港延長後は、地方からの羽田空港到着便利用者を対象として、京急沿線とつながりのない中国地方など遠隔地の放送局の番組に複数社提供社として名を連ねたり、スポットCMを出稿したりした例があり、過去に札幌テレビでは『ズームイン!!朝!』の7時半以降のローカルセールス枠のスポンサー(複数社のうちの一つ)となったことがある。 京急本体やグループ各社と、グループ外企業と連携するオープンイノベーションを推進するため、ベンチャー企業への出資枠を新設した。初年度の2018年度は1億円。 2010年代ごろから過酷な労働環境が問題となっている。知人に京急乗務員がいる利用者からは「13連勤手取り14万円電鉄」と揶揄されないような賃金体系と労働環境を確保するようにと国土交通省へ意見が上がっており、それに対して京急では働き方改革等を推進していくとした。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "京浜急行電鉄株式会社(けいひんきゅうこうでんてつ、英: Keikyu Corporation)は、神奈川県横浜市に本社を置く鉄道会社である。略称は「京急」(けいきゅう)、「京急電鉄」(けいきゅうでんてつ)。日本の大手私鉄の一つで、東京都区部南部から神奈川県東部の三浦半島にかけて京急本線を中心とする5つの鉄道路線を運営している。東証プライムに上場し、東武鉄道と共に芙蓉グループ(みずほ銀行系列)を構成する企業の一つで、京急グループの中核企業である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "東京都区部南部から、羽田空港や、神奈川県川崎市、横浜市を経て三浦半島へ至る鉄道路線を運営している。それに京浜急行バスを加えた交通事業のほか、グループ各社と連携して流通事業、サービス事業、不動産事業なども経営している。これらは直接の収益確保のほかに、特に横浜市以南の京急線沿線地域の定住・交流人口の減少を防ぐことも意識している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "創立120周年を迎えた2018年には、通勤利用者の減少や、東京モノレールやリムジンバスに羽田空港アクセス線が加わり羽田空港アクセスの競合激化が予測されることから、「みさきまぐろきっぷ」「葉山女子旅きっぷ」といった企画乗車券の活用や、城ヶ島の再開発などを通して外国人を含む観光客の三浦半島への誘致を強化する経営戦略を表明している。同年5月には日本旅行と提携した。その他、2018年3月には、京急沿線に営業網を持つ湘南信用金庫及び日本保証と不動産事業の空き家対策で提携。同年11月には、神奈川県横須賀市および同市に二軍拠点を持つプロ野球球団の横浜DeNAベイスターズと三者連携協定を結んでいる。2021年には、ヘリコプターによる三浦半島の遊覧飛行に向けてAirXと提携した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "2019年9月には、神奈川県横浜市西区高島一丁目(みなとみらい地区内、横浜高速鉄道みなとみらい線新高島駅となり)に、京浜急行電鉄のほか複数のグループ企業(計11社)の本社機能の集約を目的として建設された京急グループ本社ビルが竣工。同年9月17日に品川駅西口の東京都港区高輪から本社を移転した(その他のグループ企業についても同年9月から10月にかけて順次移転)。なお、本社の移転については京急2100形1編成に貼られたステッカーで「横浜駅から この春、新たな感動が始まる」のスローガンとともに告知された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "かつては「京浜急行(けいひんきゅうこう)」を公式通称、「Keihin Electric Express Railway Co., Ltd.」を英文社名としていたが、2007年(平成19年)12月1日よりポスター・チラシ類などにおいて「京急電鉄(けいきゅうでんてつ)」の名称および新ロゴマーク、2010年(平成22年)10月21日より「Keikyu Corporation」の英文社名を使用開始し、順次変更している。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "過去の略称は前身である京浜電気鉄道時代の「京浜」が使われており、1963年(昭和38年)には湘南電気鉄道時代の一部の駅名であった「湘南 - 」を「京浜 - 」に統一させた。しかし、昭和30年代前半から子会社の名前などに「京急」を使うようになり、一時は「京浜」と「京急」の略称が混在していた。次第に「京急」の方が定着していったことから、1987年(昭和62年)6月1日には同年の国鉄分割民営化により発足した東日本旅客鉄道(JR東日本)との差別化も意識し、コーポレートアイデンティティ (CI) の一環として、それまで「京浜 - 」としていた10駅の駅名を「京急 - 」に改め、略称を「京急」に統一した。なお、「京急 - 」という名称は京浜急行電鉄の登録商標になっている。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ただし、「京急」の略称は定着したが、「京急電鉄」という呼び方については完全に定着した訳ではない。東海旅客鉄道(JR東海)は、東海道新幹線上り列車が品川駅に到着する際の乗り換え案内で「京浜急行線」という表現を2023年時点でも使用している。報道機関では、NHKやTBSテレビなどがニュースや交通情報で「京浜急行」と表記することがある。", "title": "社名" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "大師電気鉄道時代は3本線で円を作ることで川崎、その中に「大」を4つで「ダイシ」(大師)とする社紋を使用し、京浜電気鉄道となった後も継続して使用していた。その後、大東急時代を経て京浜急行電鉄として再出発する際に用意されたのが先代社紋で、社員への募集、会社組合双方からの選考委員による選定の後、杉浦非水による修正によって出来上がった。K、翅、車輪 からなる図案はそれぞれが京浜、急行、電鉄を表している。", "title": "社紋・コーポレートスローガン" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "現在の社紋は経営の多角化によって従来の社紋が相応しくなくなってきたため、1958年(昭和33年)の創立60周年を契機に変更が検討され、1964年(昭和39年)5月に制定されたものである。図案は社内候補と東急エージェンシーに依頼したものから2案が選定され、これらをアレンジした数種から再検討、選定された。円が会社の主な事業である交通(鉄道・バス)を表し、中央の図形は京浜の「K」および「ケ」をスピーディかつ安定感を持った形に図案化したものである。また、この図形を円を突き破るように配置することで、困難を突破していく力強さを表している。", "title": "社紋・コーポレートスローガン" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "ロゴマークは2000形電車の登場やウイング高輪のオープンといった節目があった1983年(昭和58年)頃から使われだした。当時は現在と違い水色が地色で「KEIKYU」の文字は白抜きだった上、ロゴ下部の文字が斜体で「 京浜急行 」と書かれていた。", "title": "社紋・コーポレートスローガン" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "コーポレートスローガンは創業90周年を迎えた1988年(昭和63年)に初めて制定され、当時は「めざす未来へ―ふれあい京急」だった。1998年(平成10年)の創業100周年と空港線羽田空港駅(現在の羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業という大きな節目を前に「新しい出会いに夢のせて」に変わり、現在のコーポレートスローガンである「あんしんを羽ばたく力に」は、2008年(平成20年)の創業110周年に合わせて導入された3代目である。2代目まではロゴマークにもコーポレートスローガンを掲出していたが、2008年に色を反転した現行のロゴに変わった際、コーポレートスローガンは外された。また、ロゴ下部の文字には「京急電鉄」と「京急グループ」のバリエーションがある。", "title": "社紋・コーポレートスローガン" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "現在の京浜急行電鉄の元となったのは、1899年に旧東海道川崎宿に近い川崎駅(後の六郷橋駅)から川崎大師近くの大師駅(現在の川崎大師駅)までの1435mmの標準軌で開通した大師電気鉄道である(現在の大師線の一部)。同社は日本で三番目、関東では最初の電気鉄道会社であった。創立時には安田財閥が人的・資金面で援助したこともあり、そのため現在でも安田財閥の流れを組む芙蓉グループの一員となっている。同年、京浜電気鉄道と社名を改めた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "東京市電との相互乗り入れを目論み、軌間を開業時の標準軌から一旦1372mmの馬車軌間へ改軌を行うが、後に子会社となる湘南電気鉄道による三浦半島方面の延伸線への乗り入れを行うために、再度、標準軌に改軌された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "太平洋戦争中の1942年には陸上交通事業調整法に基づく戦時統合により東京急行電鉄(いわゆる大東急)に併合されるが、1948年に京浜急行電鉄、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)の3社が分離・独立し、現在に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "京急の路線全体、もしくは特に本線を指して京急線と呼ばれる。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "以下は前身の京浜電気鉄道や湘南電気鉄道などの路線も含む。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "総延長キロ数 : 87.0km", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "京浜急行電鉄の前身の一つである湘南電気鉄道にも「予定線」として以下の計画線が存在した。日ノ出町駅 - 桜木町駅間の建設予定地には、予定地に沿って道路や住宅が並んでいる。", "title": "路線" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2020年3月末現在、73駅を営業している(泉岳寺駅を含む)。", "title": "駅" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "京浜急行電鉄は、都営地下鉄との間で泉岳寺駅を境に浅草線に乗り入れ直通運転を実施している。東京都内にも路線がありながら、東京メトロとの直接の乗換駅はない。", "title": "駅" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "は、右欄の乗降人員と比較して増()、減()を表す。", "title": "駅" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "駅長所在駅は品川・平和島・京急蒲田・羽田空港第1・第2ターミナル・京急川崎・川崎大師・京急鶴見・神奈川新町・横浜・日ノ出町・上大岡・金沢文庫・追浜・横須賀中央・京急久里浜・三浦海岸の16駅。駅長所在駅ごとに管区が置かれ、泉岳寺駅とここに挙げた16駅以外の駅は、いずれかの駅長に属する被管理駅となっている。なお、京急ステーションサービスへの委託時代は駅長もその他の駅係員同様、同社の社員であった。", "title": "駅" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "都営地下鉄浅草線(泉岳寺以北)、京成電鉄押上線・本線(青砥以東)・東成田線・成田スカイアクセス線、北総鉄道北総線、芝山鉄道芝山鉄道線と直通運転を実施している。乗り入れ車両は8両編成のため、普通列車の停車駅の有効長の関係で空港線と逗子線以外は普通としては運転されず、京急線内では急行・特急・快特・エアポート快特として運転される。おおよその目安として、品川駅 - 浦賀駅間の普通、空港線系統・本線系統の快特と羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 逗子・葉山駅間のエアポート急行が、それぞれ10分間隔で運行されている。そのほかに、普通が品川駅 - 京急蒲田駅間で20分間隔、エアポート快特が京成線方面 - 羽田空港間に40分間隔で運行されている。", "title": "運行体制" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "基本的に信号は駅の信号室で取り扱う。そのため事故などでダイヤが乱れた場合は各信号室の判断による運行が行われ、運行中に種別・行先・接続列車等を臨機応変に変更することで、運転再開及び回復までの時間短縮を図っている。インターネット上ではこのような運行形態を指して「行っとけ(逝っとけ)ダイヤ」という通称が用いられる事もある。", "title": "運行体制" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "また通常ダイヤ以外に、貸切イベント列車を運行することがある。2017年までも企業からの申し込みに対応してサイクルトレインなどを走らせていたが、個人の同窓会や結婚式などの受け付けも2017年10月から始めた(実施は最短で3か月後)。土・日曜日のみで、午前中の品川駅発→浦賀駅または三浦海岸駅着か、夕方の大師線往復(京急川崎駅発着)が利用できる。", "title": "運行体制" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "品川駅と三崎口駅を結ぶ長い路線でありながら、乗車に際して座席指定券が必要となる「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」のほかは、別料金を徴収する優等列車はない。", "title": "運行体制" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "京急の現有車両は沿線の金沢八景駅山側に立地する東急車輛製造、およびその後身の総合車両製作所と川崎車両(旧・川崎車輛→川崎重工業車両カンパニー)の2メーカー製で、総合車両製作所(東急車輛製造を含む)と川崎車両でそれぞれほぼ半々の割合で製造されている。なお東急車輛製造および総合車両製作所が無かった戦前は、汽車製造(汽車会社。現・川崎車両)に多く発注されていたほか、終戦直後には当時鉄道車両の生産経験がなかった三井造船(三井E&S造船を経て現・三菱重工マリタイムシステムズ)に発注した例もあった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2019年9月30日時点で798両を保有する。各形式の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "経営・技術面など多方面から範としたアメリカのパシフィック電鉄の影響から、創業以来の伝統として車体広告車などの例外を除いて車体は赤く塗装されており、会社のイメージカラーにもなっている。塗色のパターンは幾度か変遷があり、現在では、窓下に白帯が入るものと窓周りが白く塗られているものがある。2007年3月に登場した1000形6次車(ステンレス車体)より、車体幕板と腰板に赤色のラッピングを施し、さらに窓下に白帯を入れアクセントとした外装となり、2015年度製造の15次車の6両編成まで継続された。同年度製造の15次車4両編成(1800番台)以降は、赤色に窓周り白色のラッピングが窓枠及び客室扉と乗務員室扉の周りを除いた車体側面全体に拡大され、さらに2017年度に導入された17次車からはステンレス車体に全面塗装が施されることになり、5次車以来となる全面塗装車体で導入されることになった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2014年の西武9000系電車「RED LUCKY TRAIN」を始め、2017年からの羽田空港 - 東京都心間の利便性をアピールする車体広告など、各地の鉄道会社においても積極的に営業活動を行っており、京急の電車に広く見られる赤地に白帯のデザインを再現したラッピング車両が全国各地で見られるようになっている(「広報」の節も参照)。日本以外でも、友好鉄道協定を結んでいる台湾鉄路管理局において、2016年5月12日より同年10月12日までの期間にEMU700型電車第1編成においてラッピングで再現された。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "視認性の問題から行先表示に3色LED表示器は導入しなかったが、フルカラー・白色LEDが実用化され視認性に特に問題なかったこと、多くの色を表現でき種別案内が色で可能になったこと、行先の増加や運転系統の変化に伴い幕交換が多数発生している現状を踏まえ、2005年(平成17年)以降製造車両から本格採用した。2010年3月頃よりフルカラー・白色LED行先表示(日本語・英語を交互表示)が搭載されている。また、列車無線装置の機器スペースの都合で、前面のみをフルカラーLEDに交換した編成が出現しており、600形、2100形、1500形などが該当する。800形の全廃後は、在籍車両の正面の行先表示器はすべてLED式となっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "相互直通運転を行っている京成電鉄とは異なり、駅名の「京急」は省略しない(「京急川崎」など)。以前は「京急」(1987年までは「京浜」)を省略していたが、神奈川新町などを正式駅名表記とするようになった頃から省略しなくなった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "方向幕搭載車は、過去は白地に黒文字、800形以降は黒地に白抜き文字の表示であったが、2002年以降から白地に黒文字のローマ字入りに交換が開始され、現在はすべて完了している。かつては行先板を使用していた名残りから「新町(神奈川新町)」「文庫(金沢文庫)」など省略駅名を表示していたが、現在は羽田空港第1・第2ターミナル駅行を「羽田空港」と表示するのを唯一の例外として、京急線内の駅についてはすべての車両が正式な駅名を表示するようになっている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "特殊な表示形態として以下のものがある。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "形式呼称は、京成電鉄や東京都交通局および小田急電鉄と同様に「...系」ではなく「...形」を使用し、相互乗り入れを行う各事業者の車両と形式番号が重複しないように2000番台より若い数字を用いる(京成車は3000番台、都営車は5000番台、北総車は7000番台、千葉ニュータウン鉄道車は9000番台。なお、大東急時代は元京浜電鉄・湘南電鉄の車両に5000番台が振られていたが、京急の分離独立時に5000を引いて一斉に改番した)。また、京急では必ずしも編成を固定しておらず、1500形を中心に現在でも編成替えが多く行われていることから編成を表す「...F」(「編成」を意味する英単語Formationの頭文字)などの呼称は用いられていない。さらに、京急線内では車両形式と編成を表す記号も使用されており、一例を挙げると、2代目1000形の8両編成では「8V」などと呼称されている(出典:『京急ダイヤ100年史』)。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "都営地下鉄線に乗り入れる列車は、片側3扉で、貫通扉を備え、火災などの非常時に運転室正面から脱出可能な編成に限定される。現在、この条件を満たすのは1500形・600形・新1000形とその派生型である。なお2100形は貫通扉を備え、非常時には正面から避難できる構造で直通規格を満たしてはいるが、泉岳寺駅までの線内運用となっている。ただし、臨時列車や車両展示などで浅草線走行記録はある。800形などの片側4扉車両は、品川駅以南の運用であった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "先頭車両(制御車)は事業用車両クト1形が廃車された2010年度以降は全て電動車となっており、他社局からの乗り入れ車両についても原則的に先頭台車は重量の重く安定している電動台車に限定している。これは国鉄三河島事故・鶴見事故以降、京急線内では脱線事故などの際に転覆事故へと被害を拡大させないこと、車輪とレールの半・導体膜が破壊され短絡感度が良くなり、軌道回路の正確な検知を行うことで素早く確実な分岐器の転換・信号の開通・踏切の動作が求められているためである。ただし、過去には京成の3500形や旧3000系列(3200形・3300形)などの先頭付随台車(6M車)の車両(改造前に、主に夏季の海水浴や正月の初詣臨時列車で使用された)や、当時先頭車が電動車でなかった北総7000形(北総・公団線(現・北総線)の2期線開通直後の一時期)が例外的に入線した時期もあった。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ボルスタレス台車は走行安定性の観点から現在に至るまで採用されておらず、ダイレクトマウント式のボルスタ(枕ばり)付き台車を採用している。軸箱支持装置についても円筒案内式が多くを占めており、これ以外の採用例は2代目800形のペデスタル式や3代目600形の軸梁式程度である。標準軌であること、ボルスタ式なので曲線入り口での台車回転に心皿と側受の制動がかかる一方で曲線区間中は乗り心地を悪くするフランジ横圧が弱いこと、車軸支持の摩擦が少なく位置決め剛性が高いこと、軸ばねのストロークが大き目でばね定数が低目であること等で走行安定性と乗り心地および粘着の高いバランスを追求している所が京急特有の乗り心地の原因だと言われている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ドイツの電気機器メーカー「シーメンス」社製VVVF制御装置やノルウェー製座席、スウェーデン製座席カバーを使用するなど、日本以外からの技術導入も積極的である。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "起動加速度は全車両で3.3 - 3.5km/h/s と高めに設定されている一方、直流モーターを使用する車両は弱め界磁制御の領域を広く取るなどして高速性能も確保している。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "かつて運行していた週末座席指定特急では禁煙プレートに号車札を差し込み、灰皿を置いて喫煙可能にしていた名残で、3代目600形まで独特の形をしていた禁煙プレートを採用していた。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1988年に、関東地方の大手私鉄では初めて全車両の冷房化を達成した。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "なお総合車両製作所製の電車の製造銘板には、同社の対外通称である「J-TREC」のロゴを記載することを大手私鉄中唯一認めておらず、漢字で「総合車両製作所」とだけ記されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "地下鉄乗り入れを行う車両のうちはアクセス特急に対応しているのは、車上情報管理装置に誤通過防止機能(停車予告機能)の搭載を行った編成のみが運用に入る。 原則600形と新1000形10次車以降(1800番台は2編成を幌で貫通連結して運用に入る)の車両に限られている", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "京浜急行電鉄分離独立後に在籍した過去の車両は以下の通り。いずれも廃車時の形式。東急統合時と1965年、1966年に改番が実施され、製造時とは形式名が変更されている車両が多い。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "開業期から京浜急行電鉄成立以前までに下記3形式の木造車両が在籍した。形式はいずれも製造時のもの。一部は京急分離独立後にも在籍していた。このほか、大師電気鉄道開業時から大正時代まで木造2軸電車が在籍していた。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "廃車後の地方私鉄への譲渡先は、東京急行電鉄や西武鉄道と比べると多くないが、特筆すべき譲渡先としては高松琴平電気鉄道が挙げられ、木造車時代から平成に入って引退した車両まで数多くの車両が譲渡されている。", "title": "車両" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "運転保安装置は全線で乗り入れ先各線と共通の1号型ATSを採用していたが、2009年(平成21年)2月14日よりC-ATSに更新した。検車区は久里浜の車両管理区を中心に金沢検車区と新町検車区を加え計3か所を有する。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "路線はかつての軌道線や地方鉄道に由来するため地上を走行する区間が多かったが、各地で立体交差化が進んでいる。近年は弘明寺駅 - 上大岡駅間の高架化や空港線の一部地下化、京急蒲田駅付近の高架化が行われた。特に京急蒲田駅周辺では第一京浜や環状八号線に跨るため慢性的な交通渋滞の要因となっていたことから、早急な高架化を実現するために大部分で直接高架工法を導入して連続立体交差事業が行われ、2012年(平成24年)10月には事業区間全線が高架化。2017年(平成29年)3月に事業全体が完了した。2021年7月現在で進行中の事業は、大師線地下化第1期、品川駅付近連続立体交差化である。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "待避駅では列車衝突の防止および信号現示の効率化のため、待避線に安全側線を設けることを基本としている。これにより、待避列車に対しYY現示(警戒)でなくY現示(注意)で進入させることができ、また後続列車に対しても場内信号機にG現示(進行)を早く出すことができる。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "大規模な駅では発車時刻や行先などを表示する発車標のLED式表示装置、液晶式表示装置への更新が行われている。また品川駅、京急蒲田駅、羽田空港第3ターミナル駅、羽田空港第1・第2ターミナル駅、横浜駅などでは外国人の利用客を意識して日本語、英語のみならず中国語、韓国語の表示にも対応している。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "品川駅1番線、京急蒲田駅1,4番線、羽田空港第3ターミナル駅、羽田空港第1・第2ターミナル駅、京急川崎駅3番線、横浜駅では自動放送装置も導入されている。ドア数や車両数の違いや分割・併合の多さ、先着などの案内が複雑なため主要駅への自動放送装置導入には消極的だったが、詳細なアナウンスができるシステムが構築され、駅員によるアナウンスと遜色のない細やかな情報が提供されることが特徴である。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その他、接近する列車の種別が表示される簡易案内装置が多くの駅で導入されている。あくまで接近列車の種別を示すもので、JRの東京圏輸送管理システム (ATOS) のように次発列車の時刻・種別を案内するものではない。当初は機械式だったが、現在はLED式となっている。また、併せて列車接近自動放送(通過・停車別)が導入されている駅も多いが、内容は非常に簡易的である(例:「まもなく、上り、快特が、到着致します。危険ですから、黄色い線の内側に、下がって、お待ちください。」)。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "また、2008年(平成20年)11月18日より「京急駅メロディ大募集」として同年7月に一般公募により決定したご当地ソングが京急線内主要17駅(品川・青物横丁・立会川・平和島・京急蒲田・羽田空港(現:羽田空港第1・第2ターミナル)・京急川崎・横浜・上大岡・金沢文庫・金沢八景・新逗子(現:逗子・葉山)・横須賀中央・堀ノ内・浦賀・京急久里浜・三崎口の各駅)で、接近メロディとして使用が開始されている(後に生麦・羽田空港第3ターミナル・港町・井土ヶ谷・追浜・三浦海岸の各駅や、期間限定で梅屋敷・川崎大師の両駅でも採用された。それぞれの駅の採用曲は「発車メロディ#京浜急行電鉄」の項目を参照)。メロディはスイッチの制作で、編曲は塩塚博が手掛けた(品川駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の『赤い電車』は除く)。なお、ご当地ソングを鉄道事業者が採用している例はこれが初めてではなく、既に西日本鉄道(西鉄)で行っているが、西鉄では列車車内でのメロディでの採用に対して京急では駅の案内で使用している点が異なる。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "ホームで駅員が監視業務をしていない駅では車掌がワイヤレスマイクを通じて駅ホームスピーカーを使い(一部の京成車は車外スピーカーで直接)、種別、行先、ドア閉めの告知をしており、笛や発車ブザーによる発車案内は主要駅を除き省略されている。通過待ちをする列車の乗務員はホームに立ち通過監視を行うのが慣習になっているほか、車掌による発車時のホーム監視は8両編成以下の場合乗務員室扉を開けて行っていたが(ホームドア設置駅を除く)、近年は安全のため乗務員扉を閉め窓から監視するようになっている。また監視に集中することから、車掌と駅員の間での敬礼は行われない。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "また、車両は羽田空港・浦賀・逗子・葉山・三崎口寄りを1号車とし、品川寄りを大きい数字(12両編成の場合12号車、8両編成の場合8号車)としている。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "2019年1月28日、羽田空港国際線ターミナル駅(現:羽田空港第3ターミナル駅)に、目の錯覚を利用した「錯視サイン」を全国の駅で初めて導入している。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "自動券売機は現在すべてがタッチパネル式多機能券売機となっているが、PASMOの導入に合わせてPASMO対応への改造が行われた。一部には定期券発行機能(新規含む)が搭載され、利便性向上を図っている。2010年7月下旬から品川駅を皮切りに、自動券売機が順次更新されている。1994年(平成6年)4月1日には独自のストアードフェアシステムを導入し、対応するルトランカードの販売・利用が開始された。一方でパスネットの利用開始は機器更新が間に合わず、2000年(平成12年)10月14日のサービス開始時には導入せず2001年(平成13年)以降の予定としていたが、羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴う乗客増加に対応すべく、2000年12月20日に前倒しで導入した(ただし導入当時は対応自動改札機が限定されていた)。", "title": "設備" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "大人普通旅客運賃(小児は、IC運賃は全区間75円均一、切符利用の場合は半額・10円未満の端数切り上げ)。2023年(令和5年)10月1日改定。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "このほか、品川駅・八丁畷駅・横浜駅で京急線とJR線の初乗り区間同士を利用する場合、大人・小児とも10円(八丁畷乗り換えに限り大人は20円)の割引が適用される。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "このほかにも有人改札口で硬券による入場券および初乗り運賃の乗車券を発売していたが、2012年2月現在は京急線全線で硬券の発売は終了している。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "羽田空港への路線が就航している日本国内の主要空港(新千歳・函館・小松・大阪(伊丹)・岡山・広島・徳島・福岡・北九州・長崎・那覇)にも券売機が設置されており、羽田空港からの乗車券を購入することができる。2016年3月15日より、全日本空輸(ANA)が運営するANAマイレージクラブと連携し、この券売機できっぷを買うとANAのマイルが貯まる「京急ANAのマイルきっぷ」の発売を開始している。", "title": "運賃" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "京急線は、沿線に三浦半島、横浜といった観光地や羽田空港を擁し、観光客を始めとする利用者に向けて様々な割引乗車券(企画乗車券)を発売している。", "title": "割引乗車券" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "一部の乗車券は、『三浦COCOON』サイト内の「デジタル乗車券」のみの発売で、紙式乗車券の発売は行わない乗車券がある。", "title": "割引乗車券" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "なお、ここでは単に「羽田空港駅」と記した場合、羽田空港第3ターミナル駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の両方が含まれる。", "title": "割引乗車券" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "以下の乗車券はPASMOでのみ発売する。定期券が搭載されていないカードのPASMOのみ使用可能である。いずれも泉岳寺駅では発売していない。", "title": "割引乗車券" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "なお、『なぎさ』と『Haneiro KEIKYU』は京急各線全駅以外に、都営地下鉄及び京成線の主要駅にて配布している。", "title": "広報" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "京急グループ本社1階に「京急ミュージアム」が2020年1月21日に開館した。", "title": "広報" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "空港線の羽田空港延長後は、地方からの羽田空港到着便利用者を対象として、京急沿線とつながりのない中国地方など遠隔地の放送局の番組に複数社提供社として名を連ねたり、スポットCMを出稿したりした例があり、過去に札幌テレビでは『ズームイン!!朝!』の7時半以降のローカルセールス枠のスポンサー(複数社のうちの一つ)となったことがある。", "title": "広報" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "京急本体やグループ各社と、グループ外企業と連携するオープンイノベーションを推進するため、ベンチャー企業への出資枠を新設した。初年度の2018年度は1億円。", "title": "関連会社" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2010年代ごろから過酷な労働環境が問題となっている。知人に京急乗務員がいる利用者からは「13連勤手取り14万円電鉄」と揶揄されないような賃金体系と労働環境を確保するようにと国土交通省へ意見が上がっており、それに対して京急では働き方改革等を推進していくとした。", "title": "その他" } ]
京浜急行電鉄株式会社は、神奈川県横浜市に本社を置く鉄道会社である。略称は「京急」(けいきゅう)、「京急電鉄」(けいきゅうでんてつ)。日本の大手私鉄の一つで、東京都区部南部から神奈川県東部の三浦半島にかけて京急本線を中心とする5つの鉄道路線を運営している。東証プライムに上場し、東武鉄道と共に芙蓉グループ(みずほ銀行系列)を構成する企業の一つで、京急グループの中核企業である。
{{半保護}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 京浜急行電鉄株式会社 | 英文社名 = Keikyu Corporation | ロゴ = [[File:Keikyu Logo full.svg|280px|ロゴ]] | 画像 = [[File:Keikyu Group Headquarters 02.jpg|250px|京急グループ本社]] | 画像説明 = [[京急グループ本社]] | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]] | 機関設計 = [[監査役会設置会社]] | 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|9006|1949年5月16日}} | 略称 = 京急、京急電鉄、京浜急行、KHK | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 220-8625 | 本社所在地 = [[神奈川県]][[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]][[高島 (横浜市)|高島]]一丁目2番8号<br />([[京急グループ本社]]) | 本社緯度度 = 35 | 本社緯度分 = 27 | 本社緯度秒 = 44.8 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 139 | 本社経度分 = 37 | 本社経度秒 = 34.4 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP | 設立 = [[1948年]]([[昭和]]23年)[[6月1日]]<ref group="注">当時の東京急行電鉄から分離する形で、新設の当社が[[陸上交通事業調整法]]による合併前の旧京浜線を引き継いだ。なお、当社鉄道事業を創業した会社の設立(創立)は[[1898年]]([[明治]]31年)[[2月15日]](大師電気鉄道株式会社)。</ref> | 業種 = 陸運業 | 事業内容 = 旅客鉄道事業 他 | 代表者 = [[代表取締役]][[会長]] [[原田一之]]<br />代表取締役[[社長]] [[川俣幸宏]] | 資本金 = 437億3800万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho">{{Cite report |author=京浜急行電鉄株式会社 |date=2022-06-29 |title=第101期(2021年4月1日 - 2022年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 発行済株式総数 = 2億7576万547株<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 売上高 = 連結: 2652億3700万円<br />単独: 1233億8200万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 営業利益 = 連結: 35億1000万円<br />単独: 4億4600万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 経常利益 = 連結: 50億6500万円<br />単独: 2億1100万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純利益 = 連結: 125億1500万円<br />単独: 139億8800万円<br />(2022年3月期)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 純資産 = 連結: 2568億8400万円<br />単独: 1427億5800万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 総資産 = 連結: 9123億8500万円<br />単独: 8218億9200万円<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 従業員数 = 連結: 8,938人<br />単独: 2,926人<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 決算期 = 3月31日 | 会計監査人 = [[EY新日本有限責任監査法人]]<ref name="yuho" /> | 主要株主 = [[日本マスタートラスト信託銀行]](信託口) 12.33%<br />[[日本生命保険]] 3.66%<br />[[日本カストディ銀行]](信託口) 3.33%<br />[[みずほ銀行]] 3.02%<br />[[横浜銀行]] 2.92%<br />日本カストディ銀行([[三井住友信託銀行]]退職給付信託口) 1.99%<br />[[西武鉄道]] 1.95%<br />[[明治安田生命保険]] 1.82%<br />日本カストディ銀行 退職給付信託[[みずほ信託銀行]]口 1.71%<br />JP MORGAN CHASE BANK 385781 1.19%<br />(2022年3月31日現在)<ref name="yuho" /><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --> | 主要子会社 = [[京急グループ]]を参照 | 関係する人物 = [[立川勇次郎]]<br />[[雨宮敬次郎]]<br />[[望月軍四郎]]<br />[[五島慶太]]<br />[[田中百畝]]<br />[[日野原保]] | 外部リンク = https://www.keikyu.co.jp/ | 特記事項 = {{Reflist|group=注}} }} '''京浜急行電鉄株式会社'''(けいひんきゅうこうでんてつ、{{Lang-en-short|Keikyu Corporation}}<ref>京浜急行電鉄株式会社 定款 第1章第1条</ref>)は、[[神奈川県]][[横浜市]]に本社を置く[[鉄道会社]]である。略称は「'''京急'''」(けいきゅう)、「'''京急電鉄'''」(けいきゅうでんてつ)。[[日本]]の[[大手私鉄]]の一つで、[[東京都区部]]南部から神奈川県東部の[[三浦半島]]にかけて[[京急本線]]を中心とする5つの[[鉄道路線]]を運営している<ref name="rekishi-chizucho">今尾恵介・原武史監修『日本鉄道旅行歴史地図帳』5号 首都圏私鉄(新潮社、2010年)p.10</ref>。[[東京証券取引所|東証]]プライムに上場し、[[東武鉄道]]と共に[[芙蓉グループ]]([[みずほ銀行]]系列)を構成する企業の一つで<ref>[https://fuyou-fc.jp/about/index04.html 芙蓉グループ企業一覧] 芙蓉ファミリークラブ(2021年11月14日閲覧)</ref>、[[京急グループ]]の中核企業<ref name="グループ事業">[https://www.keikyu.co.jp/company/group/ グループ事業のご案内] 京浜急行電鉄(2021年11月14日閲覧)</ref>である。 == 概要 == [[東京都区部]]南部から、[[東京国際空港|羽田空港]]や、[[神奈川県]][[川崎市]]、[[横浜市]]を経て[[三浦半島]]へ至る鉄道路線を運営している<ref name="rekishi-chizucho" />。それに[[京浜急行バス]]を加えた交通事業のほか、グループ各社と連携して流通事業、サービス事業、不動産事業なども経営している<ref name="グループ事業"/>。これらは直接の収益確保のほかに、特に横浜市以南の京急線沿線地域の定住・交流人口の減少を防ぐことも意識している。 創立120周年を迎えた[[2018年]]には、通勤利用者の減少や、[[東京モノレール]]や[[リムジンバス]]に[[羽田空港アクセス線]]が加わり羽田空港アクセスの競合激化が予測されることから、「[[みさきまぐろきっぷ]]」「[[葉山町|葉山]]女子旅きっぷ」といった[[特別企画乗車券|企画乗車券]]の活用や、[[城ヶ島]]の再開発などを通して外国人を含む観光客の三浦半島への誘致を強化する[[経営戦略]]を表明している<ref>三浦半島に訪日客呼べ/京急創立120周年、新収益源に/「ドル箱路線」競合激化 知名度向上に種まき『[[日経産業新聞]]』2018年3月8日(食品・日用品・サービス面)</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO37710050T11C18A1L71000/ 「京急、神奈川・城ケ島で再開発 ホテルを建て替え」]『[[日本経済新聞]]』ニュースサイト(2018年11月13日)2018年12月23日閲覧</ref>。同年5月には[[日本旅行]]と提携した<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO3060612016052018TJ1000/ 首都圏私鉄「脱自前」の波 京急と日本旅行、観光で提携]『日本経済新聞』朝刊2018年5月17日(企業1面)2018年6月4日閲覧</ref>。その他、2018年3月には、京急沿線に営業網を持つ[[湘南信用金庫]]及び[[日本保証]]と不動産事業の[[空き家]]対策で提携<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO28070100T10C18A3L82000/ 「京急や湘南信金、空き家対策で連携 顧客網など活用」]『日本経済新聞』朝刊2018年3月14日(首都圏経済面)2020年1月26日閲覧</ref>。同年11月には、神奈川県横須賀市および同市に[[横浜DeNAベイスターズ (ファーム)|二軍]]拠点を持つ[[日本プロ野球|プロ野球]]球団の[[横浜DeNAベイスターズ]]と三者連携協定を結んでいる<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20181119HP_18183NS.html 横須賀市、株式会社横浜DeNAベイスターズ、京浜急行電鉄株式会社との三者連携に関する基本協定書締結について] - 京浜急行電鉄ニュースリリース(2018年11月19日)2018年12月23日閲覧</ref>。2021年には、[[ヘリコプター]]による三浦半島の遊覧飛行に向けて[[AirX]]と提携した<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2021/20211025HP_21072IT.html 京急電鉄とAirXが資本業務提携 陸×空のイノベーション!新しい空の交通市場を見据え、スカイポート(空の駅)設置などを検討してまいります] - 京浜急行電鉄ニュースリリース(2018年10月27日)2021年11月14日閲覧</ref>。 [[2019年]]9月には、神奈川県横浜市西区[[高島 (横浜市)|高島]]一丁目([[横浜みなとみらい21|みなとみらい地区]]内、[[横浜高速鉄道みなとみらい線]][[新高島駅]]となり)に、京浜急行電鉄のほか複数のグループ企業(計11社)の本社機能の集約を目的として建設された[[京急グループ本社]]ビルが竣工<ref name="keikyu20190902">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190902HP_19133CK.html 横浜・みなとみらい21地区 「京急グループ本社」竣工記念式典を実施 新本社ビルに入居する、京急電鉄をはじめとする京急グループ11社の社長が登壇しました] - 京浜急行電鉄ニュースリリース(2019年9月2日)2020年1月26日閲覧</ref>。同年[[9月17日]]に[[品川駅]]西口の東京都港区[[高輪]]から本社を移転した(その他のグループ企業についても同年9月から10月にかけて順次移転)<ref name="keikyu20190520">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190520HP_19047CK.html みなとみらい21地区・新本社ビル 9月17日(火)から京急グループ11社が順次移転します!建物名称は「京急グループ本社」に] - 京浜急行電鉄ニュースリリース(2019年5月20日)2020年1月26日閲覧</ref><ref name="mainichi20190523" />。なお、本社の移転については[[京急2100形電車|京急2100形]]1[[編成 (鉄道)|編成]]に貼られたステッカーで「横浜駅から この春、新たな感動が始まる」のスローガンとともに告知された。 <!-- 現在の京浜急行電鉄は[[鉄道駅]]業務、列車運転業務、工務・電気設備保守および施工管理業務、車両整備業務を電鉄本体で行っている。鉄道駅については一時期、[[泉岳寺駅]]を除く<ref name="Sengakuji" group="注釈">泉岳寺駅は[[東京都交通局]]の管理駅(都営地下鉄浅草線との共同使用駅)であるため。</ref>全駅の業務を[[京急ステーションサービス]]に委託していた<ref group="注釈">2005年から2017年10月まで。その間、乗務員は登用試験の合格者が電鉄本体に転籍、教習を経て業務に就いていた。</ref>。--> <gallery> ファイル:Keikyuhonsha.jpg|東京都港区高輪にあった旧本社(2010年) </gallery> == 社名 == かつては「'''京浜急行'''(けいひんきゅうこう)」を公式通称、「'''Keihin Electric Express Railway Co., Ltd.'''」<ref group="注釈">「京浜急行電鉄株式会社」の直訳。</ref>を英文社名としていたが、[[2007年]]([[平成]]19年)[[12月1日]]より[[ポスター]]・[[チラシ]]類などにおいて「'''京急電鉄'''(けいきゅうでんてつ)」の名称<ref group="注釈">同じく関東の大手私鉄[[東急|東京急行電鉄]](略称:東急)もかつて公式通称は「東京急行」であったが、2006年から「東急電鉄」に変更され、2019年の事業持株会社制移行に伴い鉄軌道部門事業会社の社名も「[[東急電鉄|東急電鉄株式会社]]」に変更されている。</ref>および新ロゴマーク、[[2010年]](平成22年)[[10月21日]]<ref name="keikyu20101019" />より「'''Keikyu Corporation'''」の英文社名を使用開始し、順次変更している。 過去の略称は前身である京浜電気鉄道時代の「京浜」が使われており、[[1963年]]([[昭和]]38年)には[[湘南電気鉄道]]時代の一部の駅名であった「湘南 - 」を「京浜 - 」に統一させた。しかし、昭和30年代前半から子会社の名前などに「京急」を使うようになり、一時は「京浜」と「京急」の略称が混在していた。次第に「京急」の方が定着していったことから、[[1987年]](昭和62年)[[6月1日]]には同年の[[国鉄分割民営化]]により発足した[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)及び同社が運行する[[京浜東北線]]との差別化も意識し、[[コーポレートアイデンティティ]] (CI) の一環として、それまで「京浜 - 」としていた10駅の駅名を「京急 - 」に改め<ref group="注釈">[[京急蒲田駅]]、[[京急川崎駅]]、[[京急新子安駅]]、[[京急鶴見駅]]、[[京急富岡駅]]、[[京急田浦駅]]、[[京急大津駅]]、[[京急久里浜駅]]、[[京急長沢駅]]、京急安浦駅(現・[[県立大学駅]])が該当。</ref>、略称を「京急」に統一した<ref name=":2">『週刊私鉄全駅・全車両基地No.10 京浜急行電鉄①』(朝日新聞出版)p.29</ref>。なお、「京急 - 」という名称は京浜急行電鉄の[[登録商標]]になっている。 ただし、「京急」の略称は定着したが、「京急電鉄」という呼び方については完全に定着した訳ではない。[[東海旅客鉄道]](JR東海)は、[[東海道新幹線]]上り列車が品川駅に到着する際の乗り換え案内で「京浜急行線」という表現を2023年時点でも使用している。報道機関では、[[日本放送協会|NHK]]や[[TBSテレビ]]などがニュースや交通情報で「京浜急行」と表記することがある。 == 社紋・コーポレートスローガン == [[大師電気鉄道]]時代は3本線で円を作ることで川崎、その中に「大」を4つで「ダイシ」(大師)とする社紋を使用し、京浜電気鉄道となった後も継続して使用していた。その後、[[大東急]]時代を経て京浜急行電鉄として再出発する際に用意されたのが先代社紋で、社員への募集、会社組合双方からの選考委員による選定の後、[[杉浦非水]]による修正によって出来上がった。K、翅、車輪 からなる図案はそれぞれが京浜、急行、電鉄を表している<ref name=KH80>{{Cite book|和書|author=京浜急行電鉄株式会社社史編集班(編)|year=1980|title=京浜急行八十年史|publisher=京浜急行電鉄|pages=292-293}}</ref>。 現在の社紋は経営の多角化によって従来の社紋が相応しくなくなってきたため、[[1958年]](昭和33年)の創立60周年を契機に変更が検討され、[[1964年]](昭和39年)5月に制定されたものである。図案は社内候補と[[東急エージェンシー]]に依頼したものから2案が選定され、これらをアレンジした数種から再検討、選定された。円が会社の主な事業である交通(鉄道・バス)を表し、中央の図形は京浜の「K」および「ケ」をスピーディかつ安定感を持った形に図案化したものである。また、この図形を円を突き破るように配置することで、困難を突破していく力強さを表している<ref name=KH80/><ref name=symbol>{{Cite web|和書|date=2016-02|url=http://www.jametro.or.jp/upload/subway/oJvuHLoxRbie.pdf|author=京浜急行電鉄株式会社 総務部|title=京急電鉄の「紋章」と「ロゴ・スローガン」について |work=『SUBWAY 日本地下鉄協会報』第208号|format=PDF|publisher=[[日本地下鉄協会]]|accessdate=2018-10-06|pages=46-47}}</ref>。 [[ロゴマーク]]は[[京急2000形電車|2000形電車]]の登場や[[京急ショッピングセンター#店舗|ウイング高輪]]のオープンといった節目があった[[1983年]](昭和58年)頃から使われだした。当時は現在と違い水色が地色で「KEIKYU」の文字は白抜きであった上、ロゴ下部の文字が斜体で「 ''京浜急行'' 」と書かれていた。 コーポレートスローガンは創業90周年を迎えた[[1988年]](昭和63年)に初めて制定され、当時は「'''めざす未来へ―ふれあい京急'''」であった。[[1998年]]([[平成]]10年)の創業100周年と[[京急空港線|空港線]]羽田空港駅(現在の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])開業という大きな節目を前に「'''新しい出会いに夢のせて'''」に変わり、現在のコーポレートスローガンである「'''あんしんを羽ばたく力に'''」は、[[2008年]](平成20年)の創業110周年に合わせて導入された3代目である。2代目まではロゴマークにもコーポレートスローガンを掲出していたが、2008年に色を反転した現行のロゴに変わった際、コーポレートスローガンは外された<ref name=symbol/>。また、ロゴ下部の文字には「京急電鉄」と「京急グループ」のバリエーションがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/handbook/handbook2018-2019/p087-091.pdf|title=京急グループ会社要覧 2018-2019|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2018-10-06|page=87}}</ref>。 <gallery> Daishi Electric Railway logomark.svg|京浜電気鉄道<br />社紋 Keikyu Logo 1948.svg|京浜急行電鉄<br />社紋(先代) Keikyu Logo 1964.svg|京浜急行電鉄<br />社紋(現行) Keikyu logo.svg|ロゴマーク(3代目) </gallery> == 歴史 == [[ファイル:keikyu kawasakidaisi.JPG|thumb|right|150px|京浜急行発祥の地記念碑([[川崎大師駅]])]] 現在の京浜急行電鉄の元となったのは、[[1899年]]に旧[[東海道]][[川崎宿]]に近い川崎駅(後の[[六郷橋駅]])から[[平間寺|川崎大師]]近くの大師駅(現在の[[川崎大師駅]])までの1435mmの[[標準軌]]で開通した'''大師電気鉄道'''である(現在の[[京急大師線|大師線]]の一部)。同社は日本で三番目、[[関東地方|関東]]では最初の[[電気鉄道]]会社であった。創立時には[[安田財閥]]が人的・資金面で援助したこともあり、そのため現在でも安田財閥の流れを組む[[芙蓉グループ]]の一員となっている。同年、'''京浜電気鉄道'''と社名を改めた。 [[東京都電車|東京市電]]との[[直通運転|相互乗り入れ]]を目論み、[[軌間]]を開業時の標準軌から一旦1372mmの[[4フィート6インチ軌間|馬車軌間]]へ改軌を行うが、後に子会社となる[[湘南電気鉄道]]による三浦半島方面の延伸線への乗り入れを行うために、再度、標準軌に改軌された。 [[太平洋戦争]]中の[[1942年]]には[[陸上交通事業調整法]]に基づく戦時統合により[[東京急行電鉄]](いわゆる[[大東急]])に併合されるが、[[1948年]]に京浜急行電鉄、[[小田急電鉄]]、京王帝都電鉄(現在の[[京王電鉄]])の3社が分離・独立し、現在に至る。 === 年表 === * [[1897年]]([[明治]]30年)[[8月26日]] - 大師電気鉄道に対して軌道特許状下付(神奈川県[[橘樹郡]][[川崎町 (神奈川県)|川崎町]]久根崎 - 同郡[[大師町|大師河原村]][[小字|字]]中瀬)<ref name="ndl805159/16">[{{NDLDC|805159/16}} 『京浜電気鉄道株式会社沿革』]([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)</ref>。 * [[1898年]](明治31年)[[2月25日]] - '''大師電気鉄道株式会社'''設立<ref name=":2" />。[[立川勇次郎]]が専務取締役(代表)に就任。本社を[[東京市]][[京橋区]]南鍋町1丁目5番地に置く<ref>[https://www.keikyu.co.jp/history/chronology01.html 京急歴史館]</ref>。 * [[1899年]](明治32年) **[[1月21日]] - 川崎駅(後の[[六郷橋駅]]) - 大師駅(現在の[[川崎大師駅]])間 (2.0km) が営業開始<ref name=":3">『京浜急行スゴすぎ謎学』(河出書房新社)pp.118 - 119</ref>。 *** 開業式は[[1902年]](明治35年)[[10月17日]]挙行。営業開始3年後となった開業式について、業務多忙により実施できなかったと推測されている<ref>寺島京一「黎明期の京浜電車」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』1967年1月・67号</ref><ref group="注釈">『京浜電気鉄道株式会社沿革』にも本社ノ事業ノ一段落ヲ告ゲタルモノと記述[{{NDLDC|805159/15}} 『京浜電気鉄道株式会社沿革』]</ref>。『京浜急行百年史』『京浜電気鉄道沿革史』によれば、開業当初は[[日清戦争]]後で社会経済情勢が不安定であったこと、対立関係にあった[[人力車]]組合の影響を考慮して、開業直後に行わなかったとの旨が記載されている。 ** [[4月25日]] - '''京浜電気鉄道株式会社'''に社名変更<ref name=":2" />。 ** [[11月28日]] - 軌道特許状下付(橘樹郡川崎町久根崎 - [[東京府]][[荏原郡]]品川町品川橋、同郡大森町字揚場 - 大森停車場)<ref name="ndl805159/16"></ref>。 * [[1900年]](明治33年)[[11月2日]] - 軌道特許状下付(橘樹郡川崎町六郷橋際 - 神奈川町停車場)<ref name="ndl805159/17">[{{NDLDC|805159/17}} 『京浜電気鉄道株式会社沿革』](国立国会図書館デジタルコレクション)</ref>。 * [[1901年]](明治34年) **[[2月1日]] - 大森停車場前駅(現在の[[大森駅 (東京都)|大森駅]]) - 八幡駅(現在の[[大森海岸駅]]) - 川崎駅間が開業<ref name=":2" />。 ** [[8月24日]] - 発電所の余剰電力を利用した電灯・電力供給事業開始。 ** [[11月10日]] - 軌道特許状下付(蒲田 - 羽田)<ref name="ndl805159/17"></ref>。 ** [[11月18日]] - 軌道特許状下付(橘樹郡大師河原村字川中島 - 同村中瀬耕地渡船場)<ref name="ndl805159/16"></ref>。 * [[1902年]](明治35年) **[[6月28日]] - 蒲田駅(現在の[[京急蒲田駅]]) - [[穴守駅]]間が開業<ref name=":2" />。 ** [[9月1日]] - 六郷橋駅 - 川崎駅(現在の[[京急川崎駅]])間が開業<ref name=":2" />。 * [[1904年]](明治37年) **[[3月1日]] - 全線を[[標準軌]]から[[4フィート6インチ軌間|馬車軌間]]に[[改軌]]。 ** [[5月8日]] - 品川駅(現在の[[北品川駅]]) - 八幡駅間が開業<ref name=":2" />。大森停車場前駅 - 八幡駅間が[[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]]となる。 * [[1905年]](明治38年)[[12月24日]] - 川崎駅 - 神奈川停車場前駅(現在の[[神奈川駅]])間が開業<ref name=":3" />。 * [[1913年]]([[大正]]2年)[[12月31日]] - (旧)穴守駅 - 穴守駅間が開業。 * [[1923年]](大正12年)[[5月1日]] - 電灯・電力供給事業を群馬電力(後の[[東京電力 (1925-1928)|東京電力]]<ref group="注釈">[[東邦電力]]系。現在の[[東京電力]]とは別。</ref>)に譲渡。 * [[1925年]](大正14年)[[3月11日]] - [[高輪駅]] - 品川駅間が開業<ref name=":2" />。 * [[1927年]]([[昭和]]2年)[[8月27日]] - 自動車事業開始。 * [[1929年]](昭和4年)6月22日 - 京浜神奈川駅(現在の神奈川駅) - (仮)[[横浜駅]]間が仮開業<ref name=":2" />。 * [[1930年]](昭和5年) **[[2月5日]] - (仮)横浜駅 - 横浜駅間が開業<ref name=":2" />。 ** [[4月1日]] - '''湘南電気鉄道'''の[[黄金町駅]] - [[浦賀駅]]間と[[金沢八景駅]] - 湘南逗子駅(後の京浜逗子駅、現在の[[逗子・葉山駅]])間が標準軌(1435mm)で開業<ref name=":2" />。 * [[1931年]](昭和6年) ** 4月1日 - 湘南電気鉄道の湘南逗子駅沼間口乗降場(後の京浜逗子駅) - 湘南逗子駅葉山口乗降場(後の逗子海岸駅)間が開業。 ** [[7月4日]] - [[大船]] - [[片瀬 (藤沢市)|片瀬]]間にて日本初の[[有料道路]]事業開始([[京浜急行線]])。 ** [[12月26日]] - [[日ノ出町駅]]まで延伸された湘南電気鉄道と、横浜から[[野毛山]]をトンネルで抜けて標準軌で敷設された京浜電気鉄道延長線が接続され、横浜駅 - 浦賀駅間で[[直通運転]]開始<ref name=":2" />。 * [[1933年]](昭和8年)4月1日 - 高輪駅を廃止して[[品川駅]]へ乗り入れ<ref name=":2" />。全線を標準軌に改軌<ref name=":2" />。品川駅 - 浦賀駅間で直通運転開始<ref>[https://www.city.yokohama.lg.jp/isogo/shokai/rekishi/nenpyo1.html 磯子区歴史年表 昭和2年~20年] 磯子区総務部</ref>。 * [[1937年]](昭和12年)[[3月8日]] - 大森支線の大森海岸駅 - 大森駅間が廃止。 * [[1939年]](昭和14年)3月 - 京浜電気鉄道の筆頭株主が[[東京高速鉄道]]に移動。京浜電気鉄道と湘南電気鉄道は実質的に[[東京横浜電鉄]]の系列に入る。 * [[1941年]](昭和16年)[[11月1日]] - 京浜電気鉄道が湘南電気鉄道・湘南半島自動車を合併<ref name=":2" />。 * [[1942年]](昭和17年) ** 5月1日 - [[小田急電鉄]]と共に東京横浜電鉄へ合併。[[東京急行電鉄]]([[大東急]])が発足<ref name=":2" />。 ** 9月1日 - 逗子線の湘南逗子駅沼間口乗降場 - 湘南逗子駅葉山口乗降場間が廃止<ref name=":4">『京浜急行スゴすぎ謎学』(河出書房新社)pp.188 - 190</ref>。 ** [[12月1日]] - [[京急久里浜線|久里浜線]]の横須賀堀内駅(現在の[[堀ノ内駅]]) - 久里浜駅(現在の[[京急久里浜駅]])間が開業<ref name=":2" />。 * [[1944年]](昭和19年) **[[6月1日]] - 大師線の川崎大師駅 - 産業道路駅(現在の[[大師橋駅]])間が開業。 ** [[10月1日]] - 大師線の産業道路駅 - [[入江崎駅]]間が開業<ref name=":2" />。 * [[1945年]](昭和20年) ** [[1月7日]] - 大師線の入江崎駅 - [[桜本駅]]間が開業。大師線が全線開通。 ** [[9月27日]] - 穴守線の稲荷橋駅(現在の[[穴守稲荷駅]]) - 穴守駅間が営業休止。 * [[1948年]](昭和23年) ** 6月1日 - 東京急行電鉄の第3会社として'''京浜急行電鉄株式会社'''が設立<ref>『京急電鉄各駅停車』p.85</ref>。東京急行電鉄から現在の当社線を譲り受けて営業開始。 ** 7月3日 - 逗子線の湘南逗子駅 - 逗子海岸駅 (両駅とも現在の逗子・葉山駅)間が開業<ref name=":4" />。 * [[1949年]](昭和24年) - [[東京証券取引所]]に株式上場。 * [[1951年]](昭和26年)3月 - 大師線の[[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]] - 桜本駅間が営業休止。 * [[1952年]](昭和27年)[[1月1日]] - 大師線のうち塩浜駅 - 桜本駅を川崎市交通部(現在の[[川崎市交通局]])に譲渡。 * [[1956年]](昭和31年)[[4月20日]] - 穴守線の穴守稲荷駅 - (旧)羽田空港駅間が開業<ref name=":2" />。 * [[1963年]](昭和38年)11月1日 - 穴守線を[[京急空港線|空港線]]に改称<ref name=":2" />。久里浜線に久里浜検車区および久里浜工場(現在の[[京急ファインテック#久里浜事業所|久里浜事業所]])を開設し、野比駅(現在の[[YRP野比駅]])まで開業<ref name=":2" />。 * [[1964年]](昭和39年)[[3月25日]] - 大師線の[[小島新田駅]] - 塩浜駅間が営業休止。 * [[1966年]](昭和41年) **[[3月27日]] - 久里浜線の野比駅 - [[津久井浜駅]]間が開業<ref name=":2" />。 ** [[7月7日]] - 久里浜線の津久井浜駅 - [[三浦海岸駅]]間が開業<ref name=":2" />。 * [[1968年]](昭和43年)[[6月21日]] - 本線[[泉岳寺駅]] - 品川駅間が開業。都営1号線(現在の[[都営地下鉄浅草線|都営浅草線]])と直通運転開始<ref name=":2" />。 * [[1969年]](昭和44年)[[11月17日]] - [[佐藤首相訪米阻止闘争]]デモの学生が京急蒲田駅に[[火炎瓶]]を投擲。川崎駅 - 泉岳寺駅間で運転を休止<ref>跳ね返された過激派 通行人・乗客を巻き添え 地元「自警団」とも乱闘『朝日新聞』1969年(昭和44年)11月17日朝刊 12版 14面-15面</ref>。 * [[1971年]](昭和46年)[[7月1日]] - [[冷房]]車の運転開始<ref>{{Cite news |和書|title=7月1日から冷房電車運転 京浜急行 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通協力会 |date=1971-06-24 |page=4 }}</ref><ref name="Keikyu100th-291">京浜急行電鉄『京浜急行百年史』pp.291 - 292</ref>。[[京急1000形電車 (初代)|初代1000形]](1251 - 1268号車)と[[京急700形電車 (初代)|2代目600形]]8両が使用された<ref name="Keikyu100th-291"/>。 * [[1975年]](昭和50年)[[4月26日]] - 久里浜線の三浦海岸駅 - [[三崎口駅]]間が開業<ref name=":2" />。久里浜線が全線開通。 * [[1984年]](昭和59年)7月1日 - 大船 - 片瀬間の有料道路事業廃止。 * [[1985年]](昭和60年)[[3月2日]] - 逗子線の京浜逗子駅・逗子海岸駅を統合し、新逗子駅(現在の逗子・葉山駅)が開業<ref name=":4" />。新逗子駅 - 逗子海岸駅間が廃止<ref name=":4" />。 * [[1986年]](昭和61年)12月26日 - 東京 - [[弘前市|弘前]]間に夜行[[高速バス]]「[[ノクターン号]]」運行開始。 * [[1988年]](昭和63年)[[7月26日]] - 自社車両がすべて冷房車となる<ref name="Keikyu100th-291"/>。 * [[1991年]]([[平成]]3年)[[1月15日]] - 空港線の穴守稲荷駅 - (旧)羽田空港駅間が営業休止。 * [[1993年]](平成5年)4月1日 - 空港線の穴守稲荷駅 - 羽田駅(現在の[[天空橋駅]])間が開業<ref>{{Cite news |和書|title=京急空港アクセス大幅改善 羽田駅が開業モノレールと接続 品川から直通、17分に |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-04-01 |page=1 }}</ref>。品川、横浜、羽田駅での終日禁煙を実施<ref>{{Cite news |title=小田急全駅終日禁煙に 京急は主要3駅 |newspaper=[[交通新聞]] |publisher=交通新聞社 |date=1993-04-06 |page=4 }}</ref>。。 * [[1994年]](平成6年)4月1日 - 「[[ルトランカード]]」による[[乗車カード|ストアードフェアシステム]]導入(パスネット普及に伴い2002年10月使用停止)。 * [[1995年]](平成7年)[[2月21日]] - 品川駅 - 横浜駅間で最高速度を120km/hに引き上げ<ref>『なぜ京急は愛されるのか』(交通新聞社新書)p.81</ref>。同時に[[昼間点灯]]を実施。同年4月1日の[[ダイヤ改正]]で同区間の最速列車は15分45秒運転となった。 * [[1998年]](平成10年) ** 2月25日 - 京浜急行電鉄が前身の大師電気鉄道として設立して以来、「創立100周年」を迎える<ref name="Keikyu199805">[https://web.archive.org/web/19991019002626/http://www.keikyu.co.jp/n/topics/199804/19980528-1.html 6月1日(月)より、当社ホームページ内に京急100周年デジタルアルバム「京急写真館」をオープン](京浜急行電鉄報道発表資料・インターネットアーカイブ・1999年時点の版)</ref>。 ** 11月18日 - 空港線の天空橋駅 - 羽田空港駅(現:[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]])間が開業し、現在の営業区間が全て開通<ref name=":2" />。 * [[2000年]](平成12年)[[12月20日]] - [[パスネット]]導入<ref>{{Cite news |和書|title=京急が12月20日 前倒し導入 |newspaper=交通新聞 |publisher=交通新聞社 |date=2000-11-02 |page=3 }}</ref>。 * [[2003年]](平成15年)[[10月1日]] - 自動車事業を[[京浜急行バス]]株式会社に継承し、分割する。 * [[2004年]](平成16年)[[11月24日]] - [[西武鉄道]]の株式計260万株を同年中にホテル京急と共同で購入していたことが発表される(「[[西武鉄道#証券取引法違反事件]]」参照)。 * [[2005年]](平成17年) ** [[9月22日]] - [[ロック (音楽)|ロック]][[バンド (音楽)|バンド]]の[[くるり]]とのタイアップによる京急テーマソング『[[赤い電車 (曲)|赤い電車]]』がリリース。 ** [[10月7日]] - 久里浜線の三崎口駅 - [[京急久里浜線#路線の延伸計画|油壺駅]](仮称)間の免許廃止を届出<ref name="keikyu20061007">{{Cite press release |和書 |title=当社久里浜線延伸区間[三崎口〜油壺(仮称)間]の免許一旦取下げについて |publisher=京浜急行電鉄 |date=2005-10-07 |url=http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051007.html |accessdate=2016-03-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20051212235606/http://www.keikyu.co.jp/press/2005/20051007.html |archivedate=2005年12月12日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。 * [[2006年]](平成18年)[[11月14日]] - 全駅への[[自動体外式除細動器]](AED)設置を完了。 * [[2007年]](平成19年)[[3月18日]] - [[PASMO]]を導入、[[Suica]]との相互利用開始(その後、在庫僅少により[[横須賀中央駅|横須賀中央]]・[[上大岡駅|上大岡]]・横浜・品川各駅の定期券センターを除き発売中止、同年10月1日より全駅で発売再開)。同時に[[首都圏_(日本)|首都圏]]の私鉄としては初めての試みとして全駅構内(売店、飲食店、自動販売機)でPASMO[[電子マネー]]を導入。 * [[2008年]](平成20年)2月25日 - 会社創立110周年の一環として、駅係員と乗務員の制服を一新。 * [[2009年]](平成21年)[[9月30日]] - [[セブン-イレブン|セブン-イレブン・ジャパン]]と業務提携を行い、[[京急ステーションコマース]]が運営する京急線各駅の売店全てをセブン-イレブンに転換することを発表<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/20090930.shtml|publisher=京浜急行電鉄|work=報道発表資料|title=セブン-イレブン・ジャパンと京浜急行電鉄株式会社 駅売店のセブン-イレブン展開で業務提携|date=2009-9-30|accessdate=2014-6-22|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100111121455/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/_tmp_mk_auto/20090930.shtml|archivedate=2010年1月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 * [[2010年]](平成22年) ** [[5月16日]] - 本線[[平和島駅]] - [[六郷土手駅]]間および空港線京急蒲田駅 - [[大鳥居駅]]間の上り線高架線使用開始。 ** [[10月21日]] - 泉岳寺駅以外<ref name="Sengakuji" group="注釈" />の全駅に[[駅ナンバリング]]を導入。英文社名を「{{Lang|en|Keihin Electric Express Railway Co., Ltd.}}」から「{{Lang|en|Keikyu Corporation}}」に変更<ref name="keikyu20101019">{{Cite web|url=http://www.keikyu.co.jp/ir/cms_pdf/20101019_%E9%81%A9%E6%99%82%E9%96%8B%E7%A4%BA%EF%BC%88%E8%8B%B1%E6%96%87%EF%BC%89%20.pdf|format=PDF|publisher=京浜急行電鉄|work=IRニュース|title=英文会社名の変更に関するお知らせ|date=2010年10月19日|accessdate=2017-1-13|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130604133957/http://www.keikyu.co.jp/ir/cms_pdf/20101019_%E9%81%A9%E6%99%82%E9%96%8B%E7%A4%BA%EF%BC%88%E8%8B%B1%E6%96%87%EF%BC%89%20.pdf|archivedate=2013年6月4日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 * [[2011年]](平成23年) **[[4月29日]] - 前年9月末で営業終了させた[[ホテルパシフィック東京]]の建物を[[テナントビル]]へ転換し、[[京急EXイン]](ビジネスホテル)・結婚式場・会議場と[[ショッピングモール]]を併設した[[複合商業施設]]「[[SHINAGAWA GOOS|SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)]]」として開業。 ** 6月 - 3月11日に発生した[[東日本大震災]]に伴う[[東日本大震災による電力危機|電力供給逼迫]]の影響で、8両編成の[[弱冷房車]]を1両増加し2両体制(既存の三崎口側3両目と新設の同7両目)に変更。4両・6両編成で弱冷房車を1両(三崎口側3両目)新設<ref>『京急電車の運転と車両探検』(JTBパブリッシング発行)p.30</ref>。 * [[2012年]](平成24年)10月21日 - 本線平和島駅 - 六郷土手駅間および空港線京急蒲田駅 - 大鳥居駅間の下り線高架線使用開始<ref name=":2" />。 * [[2013年]](平成25年)[[3月23日]] - [[交通系ICカード全国相互利用サービス]]開始により、[[Kitaca]]、[[manaca]]、[[TOICA]]、[[ICOCA]]、[[PiTaPa]]、[[nimoca]]、[[はやかけん]]、[[SUGOCA]]が京急線で利用可能になる<ref name=":2" /><ref group="注釈">割引用manaca、障がい者用nimoca、割引用はやかけんは相互利用対象外。</ref>。 * [[2015年]](平成27年) ** [[2月26日]] - [[台湾鉄路管理局]]との友好鉄道協定を締結<ref>{{Cite web|和書|url =http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2014/20150227HP_14223MT.pdf|format=PDF|publisher=京浜急行電鉄|work=ニュースリリース|title=台湾鉄路管理局と京急電鉄が友好鉄道協定を締結|date=2015年2月18日|accessdate=2015-4-5}}</ref>。 ** 7月7日 - 全線でデジタル空間波式列車無線(デジタルSR無線)の使用を開始<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 No.935([[電気車研究会]])pp.238 - 239</ref><ref group="注釈">従来の誘導無線式列車無線(IR無線)との併用。</ref>。 * [[2016年]](平成28年)[[3月28日]] - [[横浜みなとみらい21]]地区(56-1街区、神奈川県横浜市[[西区 (横浜市)|西区]][[高島 (横浜市)|高島]]一丁目)の開発事業者に決定<ref>{{Cite press release|和書|title=みなとみらい 21 中央地区 56-1 街区における事業予定者への決定に関するお知らせ|publisher=京浜急行電鉄|date=2016-03-28|url=http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20160328HPTK.pdf|format=PDF|access-date=2022-11-05|archive-url=https://web.archive.org/web/20160331220025/http://www.keikyu.co.jp/file.jsp?assets/pdf/company/news/2015/20160328HPTK.pdf|archive-date=2016-03-31}}</ref><ref name=":1">「[http://www.nikkei.com/article/DGXLZO98970920Y6A320C1L82000/ 京急電鉄、本社を横浜MM21に新設へ 東京から移転]」[[日本経済新聞]]ニュースサイト(2016年3月29日)2022年11月4日閲覧</ref>。同時に、京浜急行電鉄のほか複数のグループ企業(計11社)の本社機能を集約し、同地に建設する京急グループ本社ビルへの移転を発表。 * [[2017年]](平成29年) ** 7月 - 京急グループ本社ビルが着工<ref name=":1" />。 ** 10月 - [[空き家]]を転貸したり、独居高齢者宅に学生の[[下宿]]を仲介したりする事業を開始すると発表<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXMZO22127390R11C17A0L83000/ 「京急、沿線の空き家対策、独居高齢者宅を将来転貸」]『日本経済新聞』朝刊2017年10月12日(東京面)2020年1月26日閲覧</ref>。 ** [[10月16日]] - 株式会社京急ステーションサービスを合併。 * [[2018年]](平成30年) ** 9-10月 - 沿線在住の小中学生を対象に、全駅(ただし、他社線との乗換最寄り駅など26駅を除く)の駅名改称案を募集<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180918HP_18132MT.html 京急沿線の小中学生から「わがまち駅名募集!」] 京浜急行電鉄(2018年9月18日)2022年11月4日閲覧</ref>。 * [[2019年]](平成31年・[[令和]]元年) ** 1月21日 - 京急川崎駅で開業120周年記念式典を開き、[[距離標|ゼロキロポスト]]横に記念モニュメントを設置<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO40278580R20C19A1L82000/ 「京急開業120年、川崎で記念式典」]『日本経済新聞』朝刊2019年1月22日(首都圏経済面)2019年2月9日閲覧</ref>。 ** [[6月21日]] - 三浦半島で観光[[タクシー]]「みさきめぐりタクシー」を京急三崎タクシー(神奈川県[[三浦市]])とともに開始<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20190614HP_19054AK.html 観光タクシー「みさきめぐりタクシー」で三浦半島の魅力を満喫!] 京浜急行電鉄ニュースリリース(2019年6月14日)2020年1月26日閲覧</ref>。 ** [[9月17日]] - 本社を[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[高輪]]二丁目20番20号から神奈川県横浜市西区高島一丁目2番8号の[[京急グループ本社]]に移転<ref name="mainichi20190523">{{Cite news|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20190523/ddl/k14/020/123000c|title=京急グループ、新本社に集約 横浜・10月完了予定/神奈川|newspaper=[[毎日新聞]]|publisher=毎日新聞社|date=2019-05-23|accessdate=2019-05-27}}</ref>。 ** 10月1日 - 消費税増税に伴い運賃を値上げ及び空港線の加算運賃を値下げ<ref>{{Cite press release|和書|format=PDF|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20190910HP_19139TS.pdf|title=鉄道旅客運賃の認可及び改定について|date=2019-09-10|accessdate=2019-10-01}}</ref>。 * [[2020年]](令和2年) ** 1月21日 - 京急グループ本社1階に[[企業博物館]]「[[京急ミュージアム]]」が開館<ref name="京急ミュージアム開館">[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/2020121.html 京急ミュージアム 本日1月21日(火)にオープンしました。] 京浜急行電鉄ニュースリリース(2020年1月21日)2020年1月26日閲覧</ref>。 ** 3月14日 - 駅名改称案を公募したうちの4駅([[大師橋駅|産業道路]]・[[花月総持寺駅|花月園前]]・[[京急東神奈川駅|仲木戸]]・[[逗子・葉山駅|新逗子]])及び羽田空港関連2駅([[羽田空港第3ターミナル駅|羽田空港国際線ターミナル]]・[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港国内線ターミナル]])の駅名を改称<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2019/20191216HP_19166TS.html 京急線6駅の駅名を2020年3月14日(土)に変更します] 京浜急行電鉄(2019年12月16日)</ref><ref>『[[鉄道ジャーナル]]』2020年4月号「月刊京急 変わる駅名に感謝を込めて」</ref>。 * [[2022年]](令和4年) ** 11月26日 - 日中の[[特別急行列車|特急]]と[[快速特急|快特]]の交互10分間隔化、[[路線バス]]との接続改善など、23年ぶりの大規模な[[ダイヤ改正]]を実施予定<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2022/20221024_22098TE.html 鉄道・バス・まちづくり一体で多極型まちづくりを目指します。11.26 京急線が23年ぶりの大幅ダイヤ改正を実施します 特急が増えて都心エリアの乗車機会拡大!日中の快特/特急交互10分間隔運転] 京浜急行電鉄ニュースリリース(2022年10月24日)2022年11月4日閲覧</ref>。 === 歴代経営陣 === {|class="wikitable" |- !期間!!colspan="2"|代表!!備考 |- |1898年2月25日 - 1903年12月5日||colspan="2"|[[立川勇次郎]]|| |- |1903年12月5日 - 1904年10月23日||colspan="2"|[[岩田作兵衛]]|| |- |1904年10月23日 - 1904年12月22日||colspan="2"|[[雨宮敬次郎]]|| |- !期間!!会長!!社長!!備考 |- |1904年12月22日 - 1907年10月24日||(stub)||雨宮敬次郎||社長制を設ける。 |- |1907年10月24日 - 1909年5月15日||(stub)||[[栗生武右衛門]]|| |- |1909年5月15日 - 1910年8月5日||(stub)||[[三浦泰輔]]|| |- |1910年8月5日 - 1918年6月28日||(stub)||[[青木正太郎]]|| |- |1918年6月28日 - 1921年12月24日||(stub)||[[安田善三郎]]|| |- |1921年12月24日 - 1923年10月18日||(stub)||[[安田善五郎]]|| |- |1923年10月18日 - 1930年6月24日||(stub)||青木正太郎|| |- |1930年6月24日 - 1939年4月||[[望月軍四郎]]||rowspan="2"|[[生野団六]]|| |- |1939年4月 - 1941年11月25日||(stub)|| |- |1941年11月25日 - 1942年4月30日||(stub)||[[五島慶太]]|| |- !期間!!colspan="2"| !!備考 |- |1942年5月1日 - 1948年5月31日||colspan="2"| ||[[東京急行電鉄]]([[大東急]])時代 |- !期間!!colspan="2"|代表!!備考 |- |1948年6月1日 - 1948年12月23日||colspan="2"|[[上田甲午郎]]||京浜急行電鉄を設立。 |- !期間!!会長!!社長!!備考 |- |1948年12月23日 - 1950年12月25日||(stub)||[[井田正一]]|| |- |1950年12月25日 - 1964年2月25日||(stub)||[[田中百畝]]||田中百畝は社長在任中の1964年2月11日に死亡。 |- |1964年2月25日 - 1964年5月23日||(stub)||三代目[[鈴木三郎助 (3代目)|鈴木三郎助]]|| |- |1964年5月23日 - 1969年11月22日||(stub)||[[佐藤晴雄 (実業家)|佐藤晴雄]]|| |- |1969年11月22日 - 1975年5月27日||(stub)||[[中川幸一]]|| |- |1975年5月27日 - 1981年6月25日||中川幸一||[[片桐典徳]]|| |- |1981年6月25日 - 1987年6月26日||片桐典徳||[[飯田道雄]]|| |- |1987年6月26日 - 1991年6月27日||飯田道雄||[[芹沢守利]]|| |- |1991年6月27日 - 1997年6月27日||(stub)||[[平松一朗]]|| |- |1997年6月27日 - 2005年6月29日||(stub)||[[小谷昌]]|| |- |2005年6月29日 - 2013年6月27日||小谷昌||[[石渡恒夫]]|| |- |2013年6月27日 - 2022年3月31日||石渡恒夫||[[原田一之]]|| |- |2022年4月1日 -||原田一之||[[川俣幸宏]]<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXZQODZ00027_Z00C22A2000000/ 京浜急行電鉄社長に川俣氏]日本経済新聞 2022年10月26日閲覧</ref>|| |} == 路線 == [[ファイル:Keikyu Corporation Linemap.svg|thumb|right|300px|路線図]] 京急の路線全体、もしくは特に[[京急本線|本線]]を指して'''京急線'''と呼ばれる。 以下は前身の京浜電気鉄道や[[湘南電気鉄道]]などの路線も含む。 === 現有路線 === 総延長キロ数 : 87.0km * [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|20px|KK]] [[京急本線|本線]] : [[泉岳寺駅]] - [[浦賀駅]] 56.7km * [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|20px|KK]] [[京急空港線|空港線]] : [[京急蒲田駅]] - [[羽田空港第1・第2ターミナル駅]] 6.5km * [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|20px|KK]] [[京急大師線|大師線]] : [[京急川崎駅]] - [[小島新田駅]] 4.5km * [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|20px|KK]] [[京急逗子線|逗子線]] : [[金沢八景駅]] - [[逗子・葉山駅]] 5.9km * [[ファイル:Number prefix Keikyū.svg|20px|KK]] [[京急久里浜線|久里浜線]] : [[堀ノ内駅]] - [[三崎口駅]] 13.4km <gallery widths="150px" heights="250px" perrow="4" caption="京急沿線の[[ランドサット]]衛星写真"> 京急衛星画像050.jpg|京急全線 京急衛星画像100北.jpg|川崎以北拡大 京急衛星画像100中.jpg|川崎-金沢八景間拡大 京急衛星画像100南.jpg|金沢八景以南拡大 </gallery> === 廃止路線・区間 === * [[京浜電気鉄道大森支線|大森支線]] : [[大森駅 (東京都)|大森駅]] - [[大森海岸駅]] 0.7km<ref>『なぜ京急は愛されるのか』p67</ref> * [[京急大師線|大師線]] : [[小島新田駅]] - [[桜本駅]] 3.5km : うち[[塩浜駅 (神奈川県)|塩浜駅]] - 桜本駅間は川崎市に譲渡され[[川崎市電]]の一部となり<ref>『京急電鉄各駅停車』p72 - 73</ref>、のちに川崎市電の他の区間とともに廃止。 * [[京急空港線|空港線]] : [[穴守稲荷駅]] - 穴守駅 1.3km === 未成線 === * [[品川駅#京浜急行電鉄|品川駅]]([[高輪駅]]) - 千駄ヶ谷町 6.9km <ref name="moriguchi-p185">森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、p.185</ref> * [[京急蒲田駅|京浜蒲田駅]] - [[五反田駅]] 7.7km : 1942年の大東急発足で東京急行電鉄が継承、1948年の京浜急行電鉄分離後も東急が保持し、1958年2月17日失効<ref name="moriguchi-pp55-58">森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、pp.55-58,186</ref>。 <!--* 生見尾線 : 総持寺駅(廃止) - 学校裏駅(現・[[平和島駅]])付近 : 現在の[[東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線|産業道路]]に沿って海沿いを走るルートであった。1915年に軌道特許申請が却下され、京浜電鉄は東京府内部分の建設を断念。神奈川県内は大師線に接続するルートに変更、完全子会社[[海岸電気軌道]]として開業するが1937年に廃止となった(「[[海岸電気軌道#歴史]]」を参照)。現在の大師線の川崎大師 - 産業道路間は、旧海岸電軌の廃線跡に作られたものである(「[[海岸電気軌道#廃線跡とその後]]」を参照)。--> * 金沢文庫駅 - 鎌倉八幡 7.3km : [[朝夷奈切通|朝比奈峠]]付近を経由する予定であった。1958年失効<ref name="moriguchi-pp73-78">森口誠之『鉄道未成線を歩く〈私鉄編〉』JTB、2001年、pp.73-78,185</ref>。 * [[京急武山線|武山線]] : [[衣笠駅]]付近(現在の衣笠十字路付近)- 林 6.1km : [[太平洋戦争]]後中止<ref name="moriguchi-pp73-78" />。 * [[京急久里浜線|久里浜線]] : 三崎口駅 - [[京急久里浜線#路線の延伸計画|油壺駅]](仮称) - [[京急久里浜線#路線の延伸計画|三崎駅]](仮称) 5.7km : 油壺駅 - 三崎駅間 3.6kmは1970年<ref name="moriguchi-pp73-78" />、三崎口駅 - 油壺駅間 2.1kmは2005年<ref name="keikyu20061007" />事業廃止<ref>{{Cite web|和書|date=2016-03-16 |url=http://v4.eir-parts.net/v4Contents/View.aspx?cat=tdnet&sid=1337371 |title=棚卸資産評価損および減損損失の計上に関するお知らせ |publisher=京浜急行電鉄 |format=PDF |accessdate=2016-03-16}}</ref>。 * [[逗子・葉山駅|逗子海岸駅]] - [[三崎口駅|飯森駅]](仮称) 16.1km <ref name="moriguchi-pp73-78" /> 京浜急行電鉄の前身の一つである湘南電気鉄道にも「予定線」として以下の計画線が存在した。日ノ出町駅 - 桜木町駅間の建設予定地には、予定地に沿って道路や住宅が並んでいる。 * [[日ノ出町駅]] - [[桜木町駅]] 1.0km<ref name="moriguchi-p185" /> * [[京急逗子線|逗子線]] : [[逗子・葉山駅|逗子海岸駅]] - [[鎌倉駅]] 4.7km <ref name="moriguchi-p185" /> == 駅 == {{Main2|駅の設備については「[[#設備|設備]]」節を}} 2020年3月末現在、73駅<ref>[http://www.mintetsu.or.jp/corporates/keikyu/ 京浜急行電鉄株式会社] - 日本民営鉄道協会、2021年7月29日閲覧</ref>を営業している(泉岳寺駅を含む)。 京浜急行電鉄は、都営地下鉄との間で泉岳寺駅を境に浅草線に乗り入れ直通運転を実施している。東京都内にも路線がありながら、東京メトロとの直接の乗換駅はない<ref group="注釈">品川駅には[[東京メトロ南北線]]が2030年代に延伸開業予定である。なお、関東の大手私鉄では神奈川県だけに路線を持つ[[相模鉄道]]も東京メトロや都営地下鉄との直接の乗換駅がないが、東京メトロ南北線・[[東京メトロ副都心線|副都心線]]、[[都営地下鉄三田線]]との直通運転を行っている。</ref>。 [[ファイル:Keikyu-map.svg|thumb|none|720px|京浜急行電鉄・路線図]] === 乗降人員上位15駅 === {{↑}}{{↓}}は、右欄の乗降人員と比較して増({{↑}})、減({{↓}})を表す。 {|class="wikitable" style="font-size:90%; text-align:right;" |- !style="width:1em;"|順位 !style="width:15em;"|駅名 !style="width:6em;"|路線名 !style="width:6em;"|2015年度 !style="width:6em;"|2010年度 !style="width:6em;"|2005年度 !style="width:6em;"|2000年度 !特記事項 |- !1 |style="text-align:left;"|[[横浜駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 316,478 |{{↑}} 311,022 |{{↑}} 306,494 | 297,427 |style="text-align:left;"|各社局線総合では世界第5位 |- !2 |style="text-align:left;"|[[品川駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 272,500 |{{↑}} 250,414 | 240,469 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !3 |style="text-align:left;"|[[泉岳寺駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 182,372 |{{↑}} 158,974 | 152,026 | |style="text-align:left;"|[[都営地下鉄浅草線]]の直通人員含む |- !4 |style="text-align:left;"|[[上大岡駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 143,299 |{{↑}} 141,742 |{{↑}} 135,901 | 128,793 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !5 |style="text-align:left;"|[[京急川崎駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線<br />{{color|#00bfff|■}}大師線 |{{↑}} 122,931 |{{↑}} 115,036 | 108,019 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !6 |style="text-align:left;"|[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}空港線 |{{↑}} 83,431 |{{↑}} 74,884 | 70,691 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !7 |style="text-align:left;"|[[金沢文庫駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↓}} 69,870 |{{↓}} 72,532 |{{↑}} 73,650 | 68,806 |style="text-align:left;"|他路線と接続しない単独駅として第1位。 |- !8 |style="text-align:left;"|[[横須賀中央駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↓}} 67,278 |{{↓}} 68,232 | 70,776 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !9 |style="text-align:left;"|[[金沢八景駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線<br />{{color|#00bfff|■}}逗子線 |{{↑}} 57,353 |{{↑}} 53,907 |{{↓}} 52,205 | 54,902 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !10 |style="text-align:left;"|[[京急蒲田駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線<br />{{color|#00bfff|■}}空港線 |{{↑}} 53,397 |{{↑}} 47,313 | 45,428 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !11 |style="text-align:left;"|[[平和島駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 46,493 |{{↑}} 44,505 | 43,475 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !12 |style="text-align:left;"|[[京急久里浜駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}久里浜線 |{{↓}} 43,608 |{{↑}} 44,158 | 44,017 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !13 |style="text-align:left;"|[[追浜駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 41,160 |{{↓}} 40,205 | 43,399 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !14 |style="text-align:left;"|[[青物横丁駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↓}} 40,067 |{{↑}} 44,564 | 38,140 | |style="text-align:left;"|&nbsp; |- !15 |style="text-align:left;"|[[杉田駅 (神奈川県)|杉田駅]] |style="text-align:left;"|{{color|#00bfff|■}}本線 |{{↑}} 34,648 |{{↑}} 33,761 |{{↑}} 32,228 | 28,800 |style="text-align:left;"|&nbsp; |- |} === 駅長所在駅 === [[駅長]]所在駅は[[品川駅#京浜急行電鉄|品川]]・[[平和島駅|平和島]]・[[京急蒲田駅|京急蒲田]]・[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港第1・第2ターミナル]]・[[京急川崎駅|京急川崎]]・[[川崎大師駅|川崎大師]]・[[京急鶴見駅|京急鶴見]]・[[神奈川新町駅|神奈川新町]]・[[横浜駅#京浜急行電鉄|横浜]]・[[日ノ出町駅|日ノ出町]]・[[上大岡駅#京浜急行電鉄|上大岡]]・[[金沢文庫駅|金沢文庫]]・[[追浜駅|追浜]]・[[横須賀中央駅|横須賀中央]]・[[京急久里浜駅|京急久里浜]]・[[三浦海岸駅|三浦海岸]]の16駅。駅長所在駅ごとに管区が置かれ、泉岳寺駅とここに挙げた16駅以外の駅は、いずれかの駅長に属する被管理駅となっている。なお、京急ステーションサービスへの委託時代は駅長もその他の駅係員同様、同社の社員であった<ref>『京浜急行スゴすぎ謎学』p216 - 217</ref>。 == 運行体制 == [[都営地下鉄浅草線]](泉岳寺以北)、[[京成電鉄]][[京成押上線|押上線]]・[[京成本線|本線]](青砥以東)・[[京成東成田線|東成田線]]・[[京成成田空港線|成田スカイアクセス線]]、[[北総鉄道北総線]]、[[芝山鉄道]][[芝山鉄道線]]と直通運転<!--相互乗り入れ →芝山鉄道(にリースされている)車両は京急線内には来ないので、芝山鉄道を含めた場合は「相互」直通運転ではない。-->を実施している。乗り入れ車両は8両[[編成 (鉄道)|編成]]のため、普通列車の停車駅の[[有効長]]の関係で空港線と逗子線以外は普通としては運転されず<ref>『京急電車の運転と車両探検』(JTBパブリッシング発行)p24</ref>、京急線内では[[急行列車|急行]]・[[特別急行列車|特急]]・[[快速特急|快特]]・[[エアポート快特]]として運転される。おおよその目安として、品川駅 - 浦賀駅間の普通、空港線系統・本線系統の快特と羽田空港第1・第2ターミナル駅 - 逗子・葉山駅間のエアポート急行が、それぞれ10分間隔で運行されている<ref name=":0">『京急電車の運転と車両探検』(JTBパブリッシング発行)p22</ref>。そのほかに、普通が品川駅 - 京急蒲田駅間で20分間隔<ref name=":0" />、エアポート快特が京成線方面 - 羽田空港間に40分間隔で運行されている<ref name=":0" />。 基本的に信号は駅の信号室で取り扱う<ref group="注釈">[[列車集中制御装置|CTC]]は[[京急久里浜線|久里浜線]]・[[京急大師線|大師線]]のみ導入。また、近接駅により遠隔操作される駅もある。</ref>。そのため事故などでダイヤが乱れた場合は各信号室の判断による運行が行われ、運行中に種別・行先・接続列車等を臨機応変に変更することで、運転再開及び回復までの時間短縮を図っている。[[インターネット]]上ではこのような運行形態を指して'''「行っとけ(逝っとけ)ダイヤ」'''という通称が用いられる事もある<ref>[https://trafficnews.jp/post/78364/4 「住むなら京急沿線」と思わせる10の理由 職人技の「行っとけダイヤ」、品川は大変貌?] - 乗りものニュース、2017年8月26日</ref>。 また通常ダイヤ以外に、貸切イベント列車を運行することがある。2017年までも企業からの申し込みに対応して[[サイクルトレイン]]などを走らせていたが、個人の[[同窓会]]や[[結婚式]]などの受け付けも2017年10月から始めた(実施は最短で3か月後)。土・日曜日のみで、午前中の[[品川駅]]発→[[浦賀駅]]または[[三浦海岸駅]]着か、夕方の[[京急大師線|大師線]]往復([[京急川崎駅]]発着)が利用できる<ref>{{Cite web|和書|title=京急電鉄による電車を利用した新たな沿線活性化の取り組み「貸切イベント列車」の販売を開始します|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20170925HP_17130MT.html|date=2017-09-25|accessdate=2017-12-23}}</ref>。 品川駅と三崎口駅を結ぶ長い路線でありながら、乗車に際して[[座席指定席|座席指定券]]が必要となる[[ウィング号 (京急)|「モーニング・ウィング号」「イブニング・ウィング号」]]のほかは、別料金を徴収する[[優等列車]]はない。 == 車両 == 京急の現有車両は沿線の金沢八景駅山側に立地する[[東急車輛製造]]<ref group="注釈">2014年に横浜金沢プロパティーズへ商号変更後、2016年に東京急行電鉄に吸収合併され解散した。</ref>、およびその後身の[[総合車両製作所]]と[[川崎車両]](旧・川崎車輛→[[川崎重工業|川崎重工業車両カンパニー]])の2メーカー製で、総合車両製作所(東急車輛製造を含む)と川崎車両でそれぞれほぼ半々の割合で製造されている。なお東急車輛製造および総合車両製作所が無かった戦前は、[[汽車製造]](汽車会社。現・川崎車両)に多く発注されていたほか、終戦直後には当時鉄道車両の生産経験がなかった[[三井E&Sホールディングス|三井造船]](三井E&S造船を経て現・[[三菱重工業|三菱重工マリタイムシステムズ]])に発注した例もあった。 [[2019年]][[9月30日]]時点で798両を保有する。各形式の詳細、使用線区、運用などについてはそれぞれの記事を参照されたい。 === 外観 === 経営・技術面など多方面から範とした[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[パシフィック電鉄]]の影響から、創業以来の伝統として[[ラッピング車両|車体広告車]]などの例外を除いて車体は赤く塗装されており、会社のイメージカラーにもなっている。塗色のパターンは幾度か変遷があり、現在では、窓下に白帯が入るものと窓周りが白く塗られているものがある。[[2007年]]3月に登場した[[京急1000形電車 (2代)|1000形]]6次車(ステンレス車体)より、車体幕板と腰板に赤色の[[ラッピング車両|ラッピング]]を施し、さらに窓下に白帯を入れアクセントとした外装となり<ref name = "Keikyu20070314">[https://web.archive.org/web/20070321173538/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/mk_auto/20070314a.shtml 新造車両を導入 - 当社初のステンレス製車両(新1000形6次車) - 3月31日(土)より営業開始!](京浜急行リリース・インターネットアーカイブ・2007年時点の版)</ref>、[[2015年]]度製造の15次車の6両編成まで継続された。同年度製造の15次車4両編成(1800番台)以降は、赤色に窓周り白色のラッピングが窓枠及び客室扉と乗務員室扉の周りを除いた車体側面全体に拡大され<ref>野月貴弘 「気になる貫通構造 新1000形1800番台」『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』2016年10月(通巻666)号 102頁 - 105頁。</ref><ref>「京浜急行電鉄新1000形16次車」『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年2月(通巻928)号 93頁。</ref>、さらに2017年度に導入された17次車からはステンレス車体に全面塗装が施されることになり、5次車以来となる全面塗装車体で導入されることになった<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20171129HP_17148MT.html|publisher=京急電鉄|title=新1000形!約11年ぶりに新造車を全面塗装!赤と白で“京急らしさ”復活!|date=2017-11-29|accessdate=2017-12-15|format=PDF}}</ref>。 2014年の[[西武9000系電車#RED LUCKY TRAIN|西武9000系電車「RED LUCKY TRAIN」]]を始め、2017年からの羽田空港 - 東京都心間の利便性をアピールする車体広告など、各地の鉄道会社においても積極的に営業活動を行っており、京急の電車に広く見られる赤地に白帯のデザインを再現したラッピング車両が全国各地で見られるようになっている<ref>[https://toyokeizai.net/articles/-/385299?display=b 全国の京急「ウソ電」、知らぬ間にリアルに変貌] - 東洋経済オンライン、2020年10月30日</ref>(「[[#他社との相互旅客誘致|広報]]」の節も参照)。日本以外でも、友好鉄道協定を結んでいる[[台湾鉄路管理局]]において、[[2016年]][[5月12日]]より同年[[10月12日]]までの期間に[[台湾鉄路管理局EMU700型電車|EMU700型電車]]第1編成においてラッピングで再現された<ref>[https://web.archive.org/web/20160513112255/http://japan.cna.com.tw/news/atra/201605120004.aspx (フォーカス台湾)京急カラーの特別塗装車両が出発進行 台湾鉄道]</ref><ref>{{Zh-tw icon}}[http://news.ltn.com.tw/news/life/breakingnews/1693826 披京濱紅色電車塗裝 台鐵阿福號奔馳北台]『[[自由時報]]』</ref><ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2016/20160510HP_16030YM.html (京急ニュースリリース)台鉄×京急 友好鉄道協定締結企画 台鉄で京急の赤いラッピング列車が運行します]</ref>。 <gallery> Pacific Electric 1001.jpg|[[パシフィック電鉄]]の赤い電車(保存車、2008年) TRA Keikyu EMU700 EMC701 Xizhi 20160829.jpg|京急ラッピング仕様の[[台湾鉄路管理局EMU700型電車]](2016年) </gallery> ==== 種別・行先表示 ==== 視認性の問題から行先表示に3色LED表示器は導入しなかったが、フルカラー・白色[[発光ダイオード|LED]]が実用化され視認性に特に問題なかったこと、多くの色を表現でき種別案内が色で可能になったこと、行先の増加や運転系統の変化に伴い幕交換が多数発生している現状を踏まえ、2005年(平成17年)以降製造車両から本格採用した。2010年3月頃よりフルカラー・白色LED行先表示(日本語・英語を交互表示)が搭載されている。また、列車無線装置の機器スペースの都合で、前面のみをフルカラーLEDに交換した編成が出現しており、600形、2100形、1500形などが該当する。800形の全廃後は、在籍車両の正面の行先表示器はすべてLED式となっている。 相互直通運転を行っている京成電鉄とは異なり、駅名の「京急」は省略しない(「[[京急川崎駅|京急川崎]]」など)。以前は「京急」(1987年までは「京浜」)を省略していたが、神奈川新町などを正式駅名表記とするようになった頃から省略しなくなった。 [[方向幕]]搭載車は、過去は白地に黒文字、800形以降は黒地に白抜き文字の表示であったが、2002年以降から白地に黒文字のローマ字入りに交換が開始され、現在はすべて完了している。かつては行先板を使用していた名残りから「新町([[神奈川新町駅|神奈川新町]])」「文庫([[金沢文庫駅|金沢文庫]])」など省略駅名を表示していたが、現在は[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]行を「羽田空港」と表示するのを唯一の例外として、京急線内の駅についてはすべての車両が正式な駅名を表示するようになっている。 特殊な表示形態として以下のものがある。 * [[エアポート快特]]と快特を区別するため、エアポート快特には「快特」の文字の前に飛行機のマークを表示する(他社の車両も同様)。2012年10月21日からは、アクセス特急との統一と誤乗防止のため、橙色となる。京成線内から羽田空港へ向かうアクセス特急や快速、または京急線内のエアポート急行についても同様に「(飛行機マーク)アクセス特急」「(飛行機マーク)快速」「(飛行機マーク)急行」の表示を行う。ただし、「エアポート急行」の表示機能のない車両は「急行」の表示を行う。 * 一部の車両は「品川(日本橋)方面 駅名」・「成田空港方面 駅名」と表示する。 * 「[[ウィング号 (京急)|京急ウィング号]]」の種別表示「'''''{{Color|green|Wing}}'''''」は横幅の広い行先表示箇所に表示され、行先が種別表示箇所に表示されるのが2000形の時からの京急ウィング号ならではの特徴であった。現在は新種別幕の追加および全車両共通幕化改造により、他の列車種別と同様に種別が種別幕に、行き先が方向幕に表示されるのみとなった。 * 京成線への直通列車では、駅名の「京成」を省略する([[京成成田駅|京成成田]]は「成田」と表示など)。 *大師線で運用される列車は「京急川崎⇔小島新田」と表示する。 <gallery> Keikyu600 LtdExp for Misakiguchi(Black).JPG|[[京急600形電車 (3代)|600形]]の黒地方向幕(快特三崎口行) Keikyu1500 LtdExp for Imba-Nihon-idai.JPG|行先が2行表示された<br />[[京急1500形電車|1500形]]の白地方向幕(特急印旛日本医大行) KeikyuNew1000 LtdExp for Misakiguchi(LED).JPG|[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]のLED方向幕(快特三崎口行・旧仕様) KeikyuNew1000 LtdExp for Uraga(LED Japanese).JPG|[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]のLED方向幕<br />(快特浦賀行・現行仕様・日本語表記) KeikyuNew1000 LtdExp for Uraga(LED English).JPG|[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]のLED方向幕<br />(快特浦賀行・現行仕様・英語表記) Keikyu Wing.jpg|[[京急2100形電車|2100形]]の<br />「[[ウィング号 (京急)|ウィング号]]」の方向幕(ウィング号京急久里浜行) Keikyu Airport Express.JPG|エアポート急行の種別・行先表示(エアポート急行羽田空港国内線ターミナル行) Keikyu600 Access express.JPG|[[京急600形電車 (3代)|600形]]<br />アクセス特急の方向幕(アクセス特急羽田空港国内線ターミナル行) Keikyu airport express 20121021.JPG|[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]のフルカラー行先表示機([[エアポート快特]]成田空港行) </gallery> ===== 種別色 ===== * [[エアポート快特]]…橙 * エアポート快特(旧表示)・快特…緑 * 特急…赤 * 急行…青 * 普通…黒 === 型式呼称 === 形式呼称は、京成電鉄や東京都交通局および[[小田急電鉄]]と同様に「…系」ではなく「…形」を使用し、相互乗り入れを行う各事業者の車両と形式番号が重複しないように2000番台より若い数字を用いる(京成車は3000番台、都営車は5000番台、北総車は7000番台、千葉ニュータウン鉄道車は9000番台。なお、[[大東急]]時代は元京浜電鉄・湘南電鉄の車両に5000番台が振られていたが、京急の分離独立時に5000を引いて一斉に改番した)。また、京急では必ずしも編成を固定しておらず、1500形を中心に現在でも編成替えが多く行われていることから編成を表す「…F」(「編成」を意味する英単語Formationの頭文字)などの呼称は用いられていない。さらに、京急線内では車両形式と編成を表す記号も使用されており、一例を挙げると、2代目1000形の8両編成では「8V」などと呼称されている(出典:『京急ダイヤ100年史』)。 === 仕様 === [[ファイル:Keikyu 1000gata bogie.jpg|thumb|300px|[[京急1000形電車 (2代)|2代目1000形]]の台車]] ==== 都営地下鉄線乗り入れ車両 ==== 都営地下鉄線に乗り入れる列車は、片側3扉で、貫通扉を備え、火災などの非常時に運転室正面から脱出可能な編成に限定される。現在、この条件を満たすのは[[京急1500形電車|1500形]]・[[京急600形電車 (3代)|600形]]・[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]]とその派生型である。なお[[京急2100形電車|2100形]]は貫通扉を備え、非常時には正面から避難できる構造で直通規格を満たしてはいるが、泉岳寺駅までの線内運用となっている。ただし、臨時列車や車両展示などで浅草線走行記録はある。800形などの片側4扉車両は、品川駅以南の運用であった。 ==== 先頭車両 ==== 先頭車両(制御車)は事業用車両クト1形が廃車された2010年度以降は全て[[動力車|電動車]]となっており、他社局からの乗り入れ車両についても原則的に先頭台車は重量の重く安定している電動台車に限定している<ref name = "十見百聞">{{Cite journal|和書|author=[[電気学会]] |date=1988 |url=https://doi.org/10.1541/ieejjournal.118.744 |title=日本の電気鉄道のあゆみの中から 京浜急行を例に|volume=118|issue=12|pages=744-747 |journal=電気学会誌 |publisher=電気学会 |accessdate=2019-10-19}}</ref><ref>{{Cite journal |author = 丸山信昭 |date = 1998-07 |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/40002500620 |title = 京浜急行の先頭電動車編成について (特集 京浜急行電鉄) |journal = 『[[鉄道ピクトリアル]]』 |issue = Vol.656〈1998年7月増刊号〉 |pages = P95-99 |publisher=[[鉄道図書刊行会]] |naid=40002500620|accessdate=2019-10-19}}</ref>。これは国鉄[[三河島事故]]・[[鶴見事故]]以降、京急線内では脱線事故などの際に転覆事故へと被害を拡大させないこと、車輪とレールの半・導体膜が破壊され短絡感度が良くなり<ref name="speed-up">道平隆「京急のスピードアップと2灯明滅信号」、『鉄道と電気技術』8巻4号、一般社団法人日本鉄道電気技術協会、1997年4月、61-63頁。ISSN 0915-9231</ref>、[[軌道回路]]の正確な検知を行うことで素早く確実な[[分岐器]]の転換・信号の開通・踏切の動作が求められているためである。ただし、過去には京成の[[京成3500形電車|3500形]]や[[赤電 (京成)|旧3000系列]]([[京成3200形電車|3200形]]・[[京成3300形電車|3300形]])などの先頭付随台車(6M車)の車両(改造前に、主に夏季の[[海水浴]]や正月の[[初詣]]臨時列車で使用された)や、当時先頭車が電動車でなかった[[北総開発鉄道7000形電車|北総7000形]]([[北総鉄道北総線|北総・公団線(現・北総線)]]の2期線開通直後の一時期)が例外的に入線した時期もあった。 ==== 台車 ==== [[鉄道車両の台車#ボルスタレス台車|ボルスタレス台車]]は走行安定性の観点から現在に至るまで採用されておらず<ref group="注釈">ただし、京急線に他事業者のボルスタレス台車装備車が入線したことはあり、[[2013年]]11月から[[2014年]]1月にかけて同方式の台車を装備する[[東京都交通局E5000形電気機関車]]が終電後の深夜に[[京急ファインテック]]久里浜事業所まで自力走行で入線している。 </ref>、ダイレクトマウント式のボルスタ(枕ばり)付き台車を採用している。軸箱支持装置についても円筒案内式が多くを占めており、これ以外の採用例は2代目800形のペデスタル式や3代目600形の軸梁式程度である。標準軌であること、ボルスタ式なので曲線入り口での台車回転に心皿と側受の制動がかかる一方で曲線区間中は乗り心地を悪くするフランジ横圧が弱いこと、車軸支持の摩擦が少なく位置決め剛性が高いこと、軸ばねのストロークが大き目でばね定数が低目であること等で走行安定性と乗り心地および粘着の高いバランスを追求している所が京急特有の乗り心地の原因だと言われている。 ==== その他 ==== [[ドイツ]]の電気機器メーカー「[[シーメンス]]」社製[[可変電圧可変周波数制御|VVVF制御装置]]<ref group="注釈">現在は全車両が日本製の制御装置に交換されている。</ref>や[[ノルウェー]]製座席、[[スウェーデン]]製座席カバーを使用するなど、日本以外からの技術導入も積極的である。 [[起動加速度]]は全車両で3.3 - 3.5km/h/s と高めに設定されている一方、[[直流電動機|直流モーター]]を使用する車両は弱め[[界磁位相制御|界磁制御]]の領域を広く取るなどして高速性能も確保している。 かつて運行していた週末座席指定特急では禁煙プレートに[[行先標|号車札]]を差し込み、[[灰皿]]を置いて喫煙可能にしていた名残で、3代目600形まで独特の形をしていた禁煙プレートを採用していた。 1988年に、関東地方の大手私鉄では初めて全車両の[[冷房]]化を達成した<ref group="注釈">関東地方の私鉄では[[相模鉄道]]が先(1987年)に全車両の冷房化を達成したが、当時の相鉄は大手私鉄ではなかった。</ref>。 なお総合車両製作所製の電車の製造銘板には、同社の対外通称である「J-TREC」のロゴを記載することを{{要出典範囲|大手私鉄中唯一認めておらず|date=2023年5月}}、漢字で「総合車両製作所」とだけ記されている。 === 現有車両 === 地下鉄乗り入れを行う車両のうちはアクセス特急に対応しているのは、[[鉄道車両のモニタ装置|車上情報管理装置]]に[[停車駅通過防止装置|誤通過防止機能(停車予告機能)]]の搭載を行った編成のみが運用に入る。 原則600形と新1000形10次車以降(1800番台は2編成を幌で貫通連結して運用に入る)の車両に限られている<ref> 『鉄道ピクトリアル』通巻868号「鉄道車両年鑑2012年版」(2012年10月・電気車研究会) </ref> * 旅客用車両 ** [[京急1000形電車 (2代)|1000形(2代)]] - 6次車以降は[[ステンレス鋼|ステンレス]]製となる<ref name = "Keikyu20070314"/>。 ** [[京急2100形電車|2100形]] - 線内優等列車専用(泉岳寺乗り入れ可能)2ドア車。 ** [[京急600形電車 (3代)|600形(3代)]] ** [[京急1500形電車|1500形]] - 4連は[[界磁チョッパ制御]]。 * 事業用車両 ** [[京急デト11・12形電車|デト11・12形]] ** [[京急デチ15・16形電車|デチ15・16形・デト17・18形]] <gallery widths="160" style="font-size:90%;"> Keikyu-Type600-652F-Lot4.jpg|600形(3代) Keikyu-Type1000-1001F-Lot1.jpg|1000形(2代) Keikyu-Type1000-1449F-Lot8.jpg|1000形(2代)ステンレス車 Keikyu-Type1000-1801F-Lot15.jpg|1000形(2代)1800番台 Keikyu-Type1500-1537F-Lot1990-3.jpg|1500形 Keikyu-Type2100-2125F-Lot2.jpg|2100形 </gallery> === 過去の車両 === 京浜急行電鉄分離独立後に在籍した過去の車両は以下の通り。いずれも廃車時の形式。東急統合時と1965年、1966年に改番が実施され、製造時とは形式名が変更されている車両が多い。 * 旅客用車両 ** [[京浜電気鉄道1号形電車|110形]] ** [[京浜電気鉄道41号形電車|120形]] ** [[京浜電気鉄道51号形電車|140形]] ** [[湘南電気鉄道デ1形電車|230形]] ** [[京急400形電車 (2代)|400形(2代)]] ** [[京急500形電車|500形]] ** [[京急700形電車 (初代)|600形(2代)]] ** [[京急700形電車 (2代)|700形(2代)]] ** [[京急800形電車 (2代)|800形(2代)]] ** [[京急1000形電車 (初代)|1000形(初代)]] ** [[京急2000形電車|2000形]] * 事業用車両 ** [[湘南電気鉄道デト101形電車|デト20形]] ** [[京急デト30形電車|デト30形]] ** デワ40形 ** [[京急ホ50形貨車|ホ50形]] ** [[京急チ60形貨車|チ60形]] ** [[京急リ70形貨車|ト70形]] ** [[京急クト1形電車|クト1形]] <gallery widths="160" style="font-size:90%;"> Keikyu-de51.JPG|51形(140形) Keikyu268.JPG|230形 Keikyu501 Hakkei 1986.JPG|500形 Keikyu 616 kaitoku.jpg|600形(2代) KeikyuDaishi 04p5907sv.jpg|700形(2代) Keikyu-1000-1-1333.jpg|1000形(初代) Keikyu-Type2000-2011F-Lot1982-12.jpg|2000形 Keikyu-Type800-820F-Lot1981-1.jpg|800形(2代) </gallery> 開業期から京浜急行電鉄成立以前までに下記3形式の木造車両が在籍した。形式はいずれも製造時のもの。一部は京急分離独立後にも在籍していた。このほか、大師電気鉄道開業時から大正時代まで木造2軸電車が在籍していた。 * [[京浜電気鉄道1号形電車|1号形]] * [[京浜電気鉄道26号形電車|26号形]] * [[京浜電気鉄道29号形電車|29号形]] 廃車後の地方私鉄への譲渡先は、[[東京急行電鉄]]や[[西武鉄道]]と比べると多くないが、特筆すべき譲渡先としては[[高松琴平電気鉄道]]が挙げられ、木造車時代から平成に入って引退した車両まで数多くの車両が譲渡されている。 == 設備 == === 運転保安装置 === 運転保安装置は全線で乗り入れ先各線と共通の[[自動列車停止装置#1号型ATS|1号型ATS]]を採用していたが、[[2009年]](平成21年)[[2月14日]]より[[自動列車停止装置#C-ATS|C-ATS]]に更新した<ref>[https://web.archive.org/web/20090304102835/http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/090206_2.shtml 高機能ATSの運用を開始いたします](京浜急行電鉄報道発表・インターネットアーカイブ・2009年時点の版)</ref><ref>『週刊私鉄全駅・全車両基地No.10 京浜急行電鉄①』(朝日新聞出版)p28</ref>。[[車両基地|検車区]]は久里浜の車両管理区を中心に[[金沢検車区]]と[[新町検車区]]を加え計3か所を有する。 === 立体交差化事業 === 路線はかつての軌道線や地方鉄道に由来するため地上を走行する区間が多かったが、各地で立体交差化が進んでいる。近年は[[弘明寺駅 (京急)|弘明寺駅]] - [[上大岡駅]]間の高架化や[[京急空港線|空港線]]の一部地下化、[[京急蒲田駅]]付近の高架化が行われた。特に京急蒲田駅周辺では[[国道15号|第一京浜]]や[[東京都道311号環状八号線|環状八号線]]に跨るため慢性的な交通渋滞の要因となっていたことから、早急な高架化を実現するために大部分で直接高架工法を導入して[[連続立体交差事業]]が行われ<ref>『[[鉄道ピクトリアル]]』2017年8月号 (No.935) p58 - p61、[[電気車研究会]]</ref><ref>[http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/rittaikousa/index.html 京浜急行線の連続立体交差事業と関連する街路事業] - 大田区</ref>、[[2012年]](平成24年)10月には事業区間全線が高架化<ref>[http://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/koutsu/rittaikousa/shinchoku/renritujigyou.html 事業区間の全線高架化] - 大田区</ref>。[[2017年]](平成29年)[[3月]]に事業全体が完了した<ref>『鉄道ピクトリアル』2017年8月号 (No.935) p192 - p197、電気車研究会</ref>。2021年7月現在で進行中の事業は、[[京急大師線|大師線]]地下化第1期、[[品川駅]]付近連続立体交差化である<ref name="yuho" />。 === 待避線 === [[待避駅]]では列車衝突の防止および信号現示の効率化のため、[[待避線]]に[[安全側線]]を設けることを基本としている。これにより、待避列車に対しYY現示(警戒)でなくY現示(注意)で進入させることができ、また後続列車に対しても場内信号機にG現示(進行)を早く出すことができる<ref name="speed-up"/>。 === 旅客案内施設 === 大規模な駅では発車時刻や行先などを表示する[[発車標]]のLED式表示装置、液晶式表示装置への更新が行われている。また[[品川駅]]、[[京急蒲田駅]]、[[羽田空港第3ターミナル駅]]、[[羽田空港第1・第2ターミナル駅]]、[[横浜駅]]などでは外国人の利用客を意識して日本語、英語のみならず[[中国語]]、[[朝鮮語|韓国語]]の表示にも対応している。 品川駅1番線、京急蒲田駅1,4番線、羽田空港第3ターミナル駅、羽田空港第1・第2ターミナル駅、京急川崎駅3番線、横浜駅では自動放送装置も導入されている。ドア数や車両数の違いや分割・併合の多さ、先着などの案内が複雑なため主要駅への自動放送装置導入には消極的であったが、詳細なアナウンスができるシステムが構築され、駅員によるアナウンスと遜色のない細やかな情報が提供されることが特徴である。 その他、接近する列車の種別が表示される簡易案内装置が多くの駅で導入されている。あくまで接近列車の種別を示すもので、JRの[[東京圏輸送管理システム]] (ATOS) のように次発列車の時刻・種別を案内するものではない。当初は機械式であったが、現在はLED式となっている。また、併せて列車接近自動放送(通過・停車別)が導入されている駅も多いが、内容は非常に簡易的である(例:「まもなく、上り、快特が、到着致します。危険ですから、黄色い線の内側に、下がって、お待ちください。」)。 また、[[2008年]](平成20年)[[11月18日]]より「京急駅メロディ大募集」として同年7月に一般公募により決定した[[ご当地ソング]]が京急線内主要17駅(品川・青物横丁・立会川・平和島・京急蒲田・羽田空港(現:羽田空港第1・第2ターミナル)・京急川崎・横浜・上大岡・金沢文庫・金沢八景・新逗子(現:逗子・葉山)・横須賀中央・堀ノ内・浦賀・京急久里浜・三崎口の各駅)で、[[発車メロディ#接近メロディ|接近メロディ]]として使用が開始されている(後に生麦・羽田空港第3ターミナル・港町・井土ヶ谷・追浜・三浦海岸の各駅や、期間限定で梅屋敷・川崎大師の両駅でも採用された。それぞれの駅の採用曲は「[[発車メロディ#京浜急行電鉄]]」の項目を参照)。メロディは[[スイッチ (音楽制作会社)|スイッチ]]の制作で、編曲は[[塩塚博]]が手掛けた(品川駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の『[[赤い電車 (曲)|赤い電車]]』は除く)。なお、ご当地ソングを鉄道事業者が採用している例はこれが初めてではなく、既に[[西日本鉄道]](西鉄)で行っているが、西鉄では列車車内でのメロディでの採用に対して京急では駅の案内で使用している点が異なる。 ホームで駅員が監視業務をしていない駅では車掌が[[ワイヤレスマイク]]を通じて駅ホームスピーカーを使い(一部の京成車は車外[[スピーカー]]で直接)、種別、行先、ドア閉めの告知をしており、笛や発車ブザーによる発車案内は主要駅を除き省略されている<ref>『京浜急行スゴすぎ謎学』p174 - 176</ref>。通過待ちをする列車の乗務員はホームに立ち通過監視を行うのが慣習になっているほか<!--これは業務規定ではありません-->、車掌による発車時のホーム監視は8両編成以下の場合乗務員室扉を開けて行っていたが([[ホームドア]]設置駅を除く)、近年は安全のため乗務員扉を閉め窓から監視するようになっている<!-- 今でも以前のやり方で監視している方もいます。 -->。また監視に集中することから、車掌と駅員の間での敬礼は行われない。 また、車両は羽田空港・[[浦賀駅|浦賀]]・[[逗子・葉山駅|逗子・葉山]]・[[三崎口駅|三崎口]]寄りを'''1号車'''とし、品川寄りを大きい数字(12両編成の場合12号車、8両編成の場合8号車)としている。 [[2019年]]1月28日、羽田空港国際線ターミナル駅(現:羽田空港第3ターミナル駅)に、目の錯覚を利用した「[[錯視]]サイン」を全国の駅で初めて導入している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASM1T6JYRM1TUTIL05R.html|title=目を疑う案内表示 錯覚使い立体的 羽田で全国初導入:朝日新聞デジタル|accessdate=2019-01-28|date=2019-01-28|website=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=朝日新聞}}</ref>。 === 駅務施設 === [[自動券売機]]は現在すべてが[[タッチパネル]]式多機能券売機となっているが、[[PASMO]]の導入に合わせてPASMO対応への改造が行われた。一部には[[定期乗車券|定期券]]発行機能(新規含む)が搭載され、利便性向上を図っている。[[2010年]]7月下旬から品川駅を皮切りに、自動券売機が順次更新されている。[[1994年]](平成6年)[[4月1日]]には独自の[[ストアードフェアシステム]]を導入し、対応する[[ルトランカード]]の販売・利用が開始された<ref name=":5">『京浜急行スゴすぎ謎学』p218 - 220</ref>。一方で[[パスネット]]の利用開始は機器更新が間に合わず、[[2000年]](平成12年)[[10月14日]]のサービス開始時には導入せず<ref name=":5" />[[2001年]](平成13年)以降の予定としていたが、羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)開業に伴う乗客増加に対応すべく、2000年[[12月20日]]に前倒しで導入した(ただし導入当時は対応自動改札機が限定されていた)。 == 運賃 == 大人普通旅客運賃(小児は、IC運賃は全区間75円均一、切符利用の場合は半額・10円未満の端数切り上げ)。[[2023年]](令和5年)[[10月1日]]改定<ref>{{Cite press release|title=鉄道旅客運賃の改定申請が認可されました|publisher=京浜急行電鉄|date=2023-04-21|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20230421HP_23009TE.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-02}}</ref><ref>{{Cite press release|title=小児IC運賃を全区間75円均一とします|publisher=京浜急行電鉄|date=2023-05-10|url=https://www.keikyu.co.jp/assets/pdf/20230510HP_23013TE.pdf|format=PDF|language=ja|access-date=2023-10-02}}</ref>。 :{| class="wikitable" rules="all" style="text-align:center;" |- ! rowspan="2" |キロ程 (km) !! colspan="2" |運賃(円) |- !IC !切符 |- |1 - 3||150 |150 |- |4 - 6||180 |180 |- |7 - 10||228 |230 |- |11 - 15||277 |280 |- |16 - 20||313 |320 |- |21 - 25||347 |350 |- |26 - 30||403 |410 |- |31 - 35||455 |460 |- |36 - 40||510 |510 |- |41 - 45||566 |570 |- |46 - 50||650 |650 |- |51 - 55||667 |670 |- |56 - 60||710 |710 |- |61 - 67||740 |740 |} ; [[運賃#特定区間運賃|特定運賃]] : JR線との競合のため、品川駅 - 横浜駅で313円(切符は320円)、品川駅 - 京急川崎駅、京急川崎駅 - 横浜駅で240円(切符同額)の特定運賃を設定。 :: これに伴い、品川駅 - 神奈川駅・京急東神奈川駅、北品川駅・新馬場駅 - 横浜駅などの区間でも特定運賃を適用。 ; [[運賃#加算運賃|加算運賃]] : 羽田空港第3ターミナル駅・羽田空港第1・第2ターミナル駅発着の運賃は50円を加算{{Efn|2019年9月30日までは170円加算であった<ref name="keikyu20190219">{{Cite press release |和書 |title=加算運賃の引下げ実施に関するお知らせ |publisher=京浜急行電鉄 |date=2019-02-19 |url=https://www.keikyu.co.jp/resource_pastnews/pdf/company/news/2018/20190219HP_18239TS.pdf |format=PDF |accessdate=2019-10-01}}</ref>。}}(小児は25円加算。小児IC運賃は75円+25円で100円となる) :: 天空橋駅 - 羽田空港第1・第2ターミナル駅間内のみの利用は加算運賃なし{{Efn|旧加算運賃(170円)適用時は、京急蒲田駅 - 穴守稲荷駅と羽田空港の2駅間に特定運賃の設定があった<ref name="keikyu20190219"/>(例:京急蒲田駅 - 羽田空港国内線ターミナル駅〈現:羽田空港第1・第2ターミナル駅〉間335円〈切符は340円〉)}}。 ; 割引運賃 : 品川 - 新馬場の各駅と泉岳寺駅を経由して都営浅草線大門駅 - 五反田駅(泉岳寺駅を除く)の各駅、泉岳寺駅・三田駅を経由して都営三田線白金高輪 - 芝公園の各駅との運賃は、大人20円・小児10円の割引。 : 子安 - 日ノ出町の各駅(横浜駅を除く)と[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]新高島 - 馬車道の各駅との運賃は、大人20円・小児10円の割引。 : 子安 - 日ノ出町の各駅(横浜駅を除く)と[[東急東横線]]反町 - 白楽の各駅との運賃は、大人20円・小児10円の割引。 このほか、品川駅・八丁畷駅・横浜駅で京急線とJR線の初乗り区間同士を利用する場合、大人・小児とも10円(八丁畷乗り換えに限り大人は20円)の割引が適用される。 このほかにも有人改札口で[[乗車券#硬券|硬券]]による[[入場券]]および初乗り運賃の乗車券を発売していたが、2012年2月現在は京急線全線で硬券の発売は終了している。 羽田空港への路線が就航している日本国内の主要空港([[新千歳空港|新千歳]]・[[函館空港|函館]]・[[小松飛行場|小松]]・[[大阪国際空港|大阪(伊丹)]]・[[岡山空港|岡山]]・[[広島空港|広島]]・[[徳島飛行場|徳島]]・[[福岡空港|福岡]]・[[北九州空港|北九州]]・[[長崎空港|長崎]]・[[那覇空港|那覇]])にも券売機が設置されており、羽田空港からの乗車券を購入することができる。[[2016年]][[3月15日]]より、[[全日本空輸]](ANA)が運営する[[ANAマイレージクラブ]]と連携し、この券売機できっぷを買うとANAのマイルが貯まる「京急ANAのマイルきっぷ」の発売を開始している<ref>[https://www.keikyu.co.jp/visit/otoku/keikyu_ANA.html 京急ANAのマイルきっぷ] - 京浜急行電鉄(2023年10月2日閲覧)</ref>。 == 割引乗車券 == [[ファイル:京浜急行電鉄 羽得2枚きっぷ A券.png|thumb|羽得2枚きっぷ A券]] [[ファイル:京浜急行電鉄 京急羽田・ちか鉄共通パス 共通一日乗車券 B券.png|thumb|京急羽田・ちか鉄共通パス 共通一日乗車券 B券]] [[ファイル:京浜急行電鉄 横浜1DAYきっぷ B券 品川発着.png|thumb|横浜1DAYきっぷ B券]] 京急線は、沿線に三浦半島、横浜といった観光地や羽田空港を擁し、観光客を始めとする利用者に向けて様々な割引乗車券([[特別企画乗車券|企画乗車券]])を発売している。 一部の乗車券は、『三浦COCOON』サイト内の「デジタル乗車券」のみの発売で、紙式乗車券の発売は行わない乗車券がある<ref>[https://www.keikyu.co.jp/visit/otoku/otoku_ferry.html 東京湾フェリー往復きっぷ(デジタルきっぷのみ発売)] - 京浜急行電鉄ホームページ内</ref>。 なお、ここでは単に「羽田空港駅」と記した場合、羽田空港第3ターミナル駅と羽田空港第1・第2ターミナル駅の両方が含まれる。 === 発売中の割引乗車券 === ; 三浦半島1DAYきっぷ/三浦半島2DAYきっぷ : 京急本線金沢文庫駅 - 浦賀駅、逗子線・久里浜線全線および三浦半島エリアの[[京浜急行バス]]指定区間が乗降自由、三浦半島の各種施設の優待特典が付く。各々1日ないし2日間有効。以前は横須賀市内エリアをフリー区間に収めたものも発売していた。 ; [[みさきまぐろきっぷ]] : 京急線乗車駅 - 三崎口駅の往復乗車券と、三崎エリアの京浜急行バスが乗り降り自由、[[マグロ]]料理の食事券、レジャー施設利用券が付く。1日間有効で、乗車券は往復とも後戻りしない限り途中下車も可能である。特に[[三浦海岸駅]]周辺の線路沿い[[カワヅザクラ|河津桜]]と[[菜の花]]が咲き誇る2月後半の利用者が多い。 なお、三浦国際マラソン当日は発売休止となる<ref group="注釈">三崎エリア全体の施設・店舗の混雑や交通規制に伴うバスの運行中断・経路変更などを考慮しての措置。</ref>。 ; 葉山女子旅きっぷ : 京急線乗車駅 - [[逗子・葉山駅]]までの往復乗車券、逗子駅および逗子・葉山駅から[[葉山町]]および[[鎌倉市]]の[[九品寺 (鎌倉市)|九品寺]]方面までのフリー区間電車バス乗車券、選べる逗子・葉山ごはん券、お土産引換券のセット。「女子旅」と記載されているが、男性も購入できる。当日限り有効。 ; よこすか満喫きっぷ : 「よこすかグルメきっぷ」の後継商品。京急線乗車駅 - 往復乗車券、横須賀市内のフリー区間電車バス乗車券、選べる食事券([[ヨコスカネイビーバーガー]]または[[海軍カレー|よこすか海軍カレー]])に加え、施設利用券またはお土産引換券がつく。当日限り有効。 ; 東京1DAYきっぷ : 京急線乗車駅 - 品川駅の往復乗車券と、フリー区間となる京急線泉岳寺駅 - 品川駅および[[東京都交通局]]([[都営地下鉄]]・[[都営バス]]・[[都電荒川線|都電さくらトラム]]・[[東京都交通局日暮里・舎人ライナー|日暮里・舎人ライナー]]、即ち都営部分は[[都営地下鉄#自局発売分|都営まるごときっぷ]]と同等の効力)が乗降自由。泉岳寺駅を除く京急線各駅で販売している。1日間有効。以前は「TOKYO探索きっぷ」の名称で発売していた。 ; 横浜1DAYきっぷ : 京急線横浜駅 - 上大岡駅および[[横浜市営地下鉄ブルーライン]]横浜駅 - 上大岡駅(ただし[[阪東橋駅|阪東橋]] - [[弘明寺駅 (横浜市営地下鉄)|弘明寺]]では途中乗降不可)、[[横浜高速鉄道みなとみらい線|みなとみらい線]]全線、[[横浜市営バス]](横浜都心部の一部区間)が乗降自由。1日間有効。「みなとぶらりチケット」に京急線横浜駅 - 上大岡駅間とみなとみらい線を追加したものといっても良い。 ; 弘明寺みうら湯きっぷ : 乗車駅 - 弘明寺駅の往復乗車券と「[[みうら湯]]弘明寺店」の入場割引券。2日間有効。橋脚耐震工事による長期休業のため、2015年4月1日から1年間発売を休止していた。 ; 東京湾フェリー往復きっぷ : 京急線乗車駅 - 京急久里浜駅および京急久里浜駅 - [[久里浜港]]の京急バスと、久里浜港 - [[金谷港]]の[[東京湾フェリー]]往復乗車券。4日間有効。 ; 京急羽田・ちか鉄共通パス<ref>[http://www.keikyu.co.jp/information/otoku/otoku_chikatetsu/index.html 京急羽田・ちか鉄共通パス] - 京浜急行電鉄</ref><!-- 「ちか鉄」で正当--> : 京急線羽田空港駅 - 泉岳寺駅の片道乗車券と都営・東京地下鉄共通一日乗車券。羽田空港第1・第2ターミナル駅と羽田空港第3ターミナル駅で発売。 ; 東京トラベル1DAYパス/東京トラベル2DAYパス : 京急線羽田空港駅 - 泉岳寺駅(品川駅でも乗降可能)の片道乗車券と都営地下鉄一日乗車券(ワンデーパスと同等の効力)。羽田空港第1・第2ターミナル駅と羽田空港第3ターミナル駅で発売。 ; 空の旅おでかけきっぷ : 京急線羽田空港駅 - [[押上駅]]または[[浅草駅]]経由 - [[東武本線]]各駅(一部を除く)の割引乗車券。1日間有効。羽田空港第1・第2ターミナル駅と羽田空港第3ターミナル駅で発売。 ; 羽得きっぷ : 関東地区を除く[[JTB|JTBグループ]]と[[近畿日本ツーリストグループ]]の窓口(一部を除く)で発売。京急線羽田空港駅 - 泉岳寺または横浜駅の往復割引乗車券。9日間有効。 ; 羽得2枚きっぷ : 券売機を設置している空港で発売。また、航空会社との提携で品川駅・横浜駅・羽田空港駅でも発売されることがある。効力は10日間有効であること以外は上記の羽得きっぷと同じだがこちらは2枚1組となっているのでペア乗車券としても利用できる。京急線駅で購入する場合、往路品川/復路横浜という利用も可能。 ==== PASMO限定発売 ==== 以下の乗車券は[[PASMO]]でのみ発売する。定期券が搭載されていないカードのPASMOのみ使用可能である。いずれも泉岳寺駅では発売していない<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.keikyu.co.jp/visit/otoku/otoku_pasmo_ensen.html|title=おトクなきっぷ(PASMO)|website=京浜急行電鉄|accessdate=2023-02-23}}</ref>。 ;京急全線1日フリーパス :京急の鉄道路線全線が発売日当日限り乗り放題となる乗車券。 ;京急線・京急バス1日フリーパス :京急の鉄道路線全線と京急バスの空港・中距離バスを除く全線が発売から24時間乗り放題となる乗車券。 ;みなとみらいきっぷ :発売駅から横浜駅までの往復(途中下車可能)と、[[みなとみらい線]]が乗り放題となる乗車券。横浜駅では発売していない。 ;東京周遊パス :発売駅から泉岳寺駅までの往復(途中下車不可能だが、泉岳寺駅と品川駅のみ乗り降り自由)と都営地下鉄・東京メトロが1日乗り放題となる乗車券。羽田空港駅では発売していない。 === 過去に発売されていた割引乗車券 === ; 平和島温泉クアハウスきっぷ : 乗車駅 - 平和島駅の往復乗車券と「平和島温泉クアハウス」の入場割引券。2日間有効。2011年6月現在発売を終了している。 ; 記念艦三笠きっぷ : テレビドラマ『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』の放送に合わせて発売されていた割引乗車券。2012年3月31日までの期間限定発売。京急線乗車駅 - 往復乗車券、フリー区間および[[博物館船|記念艦]]「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」の入場引換券、[[Z旗]]のハンカチがついていた。なお、中学生の場合は記念品がプレゼントされた。なお、小人用の設定はなかった<ref group="注釈">中学生以下は記念艦「三笠」の入場料が無料であるため。</ref>。1日間有効。 ; 大田江戸前きっぷ : 京急線乗車駅 - 往復乗車券、フリー区間および[[江戸前]]食事券(指定された10店舗の中から1品選ぶ)、商店街おみやげ券 または レトロ喫茶券。当日限り有効。 ; 京急&[[東京スカイツリー]]周辺散策フリーきっぷ : 京急線乗車駅 - 都営浅草線[[浅草駅]]・[[押上駅]]の往復乗車券、[[東武伊勢崎線]](東武スカイツリーライン)浅草駅 - [[北千住駅]]間・押上駅 - [[曳舟駅]]間・[[東武亀戸線]]全線のフリー区間の割引乗車券。1日間有効。2014年3月31日で発売終了<ref>[http://www.keikyu.co.jp/report/detail/004735.html 「京急&東京スカイツリー周辺散策フリーきっぷ」の発売終了について](京急グループのお知らせ) - 京浜急行電鉄(2014年2月25日付、2014年7月12日閲覧)</ref>。 ; よこすかグルメきっぷ : 京急線乗車駅 - 往復乗車券、フリー区間電車バス乗車券および選べる食事券(「[[ヨコスカネイビーバーガー]]」または「よこすか海軍カレー」)。よこすか満喫きっぷの発売に伴い、発売終了。 ; 羽田京急きっぷ : 日本各地の空港の[[リムジンバス]]の往復乗車券と、京急線往復乗車券がセットになったきっぷ。京急線内では羽田空港第1・第2ターミナル駅から品川(泉岳寺)または横浜までならどの駅でも利用可能。バスの乗車券、京急の乗車券とも2枚1組になっているのでペア乗車券としても使えた。有効期限は10日。2019年9月30日で発売終了<ref>{{Cite web|和書|date=2019-08-27|url=https://www.keikyu.co.jp/report/2019/2019086_19079HPTI.html|title=企画乗車券「羽田京急きっぷ」の発売終了について|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2022-10-26}}</ref>。 == 広報 == === 広報誌 === * 京急のまちマガジン なぎさ(偶数月の1日発行) * Haneiro KEIKYU * MIULIKE * 京急線 普通電車の旅(廃刊) なお、『なぎさ』と『Haneiro KEIKYU』は京急各線全駅以外に、都営地下鉄<!-- 浅草線全駅(京成管理の押上駅含む)など -->及び京成線<!-- 上野・日暮里・押上・成田空港等 -->の主要駅にて配布している。 === 企業博物館 === [[京急グループ本社]]1階に「[[京急グループ本社#京急ミュージアム|京急ミュージアム]]」が2020年1月21日に開館した<ref name="京急ミュージアム開館"/>。 === 他社との相互旅客誘致 === * [[東武鉄道]]、[[近畿日本鉄道]]、[[京阪電気鉄道]]、[[南海電気鉄道]]、ならびに[[西日本鉄道]]などと共同で、空港アクセスPRなど相互の旅客誘致活動を推進している。 * 2012年には京急が[[西武鉄道]]の沿線を、西武が京急の沿線を互いにPRする[[ラッピング広告|ラッピング]]を施した電車を半年間運行した<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2011/detail/003856.html 3月26日(月)から【西武鉄道×京急電鉄】相互ラッピング電車を運行!] - 京浜急行電鉄、2012年3月21日</ref>。 * 2018年の[[羽田空港第1・第2ターミナル駅|羽田空港国内線ターミナル駅]]開業20周年を記念して、2100形の塗装を模した[[ラッピング車両]]が他事業者において運行されている。以下、運行開始順に記す。 ** [[大阪モノレール]] - 2017年10月10日から[[大阪高速鉄道1000系電車|1000系]]21編成に実施<ref>{{Cite web|和書|date=2017-10-14|url=http://railf.jp/news/2017/10/14/193000.html|title=大阪モノレール1000系に京急のラッピング|work=railf.jp(鉄道ファン)|publisher=交友社|accessdate=2018-04-26}}</ref> ** [[沖縄都市モノレール]] - 2018年2月8日から[[沖縄都市モノレール1000形電車|1000形]]に実施<ref>{{Cite web|和書|date=2018-01-22|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20170122HP_17206KK.html|title=2月8日(木)沖縄「ゆいレール」に「京急ラッピング車両」が登場!|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2018-03-30}}</ref> ** [[長崎電気軌道]] - 2018年2月10日から[[長崎電気軌道1200形電車|1200A形]]1203号に実施<ref name="keikyu180209">{{Cite web|和書|date=2018-02-09|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20180208HP_17239NS.html|title=2月10日(土)から京急カラーの車両が九州を走ります!|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2018-04-22}}</ref><ref>{{Twitter status2|naganyan_net|966861437078446080|2018年2月22日|accessdate=2018-04-23}}</ref> ** [[鹿児島市交通局]] - 2018年2月20日から[[鹿児島市交通局9500形電車|9500形]]9504号に実施<ref name="keikyu180209"/><ref>{{Cite web|和書|date=2018-02-21|url=http://railf.jp/news/2018/02/21/172000.html|title=鹿児島市交9504号車が京急2100形カラーに|work=railf.jp(鉄道ファン)|publisher=交友社|accessdate=2018-04-23}}</ref> ** [[高松琴平電気鉄道]] - 2018年4月16日から[[高松琴平電気鉄道1080形電車|1080形]](元1000形(初代))1083編成に実施<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-10|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180410HP_18001EW.html|title=4月16日(月)から高松琴平電気鉄道「京急ラッピング車両」運行開始!|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2018-04-22}}</ref> ** [[広島電鉄]] - 2018年4月23日から[[広島電鉄3900形電車|3900形]]3905号に実施<ref>{{Cite web|和書|date=2018-04-20|url=http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180420HP_18002MT.html|title=4月23日(月)から「京急電鉄の車両が広島電鉄に登場!?」|publisher=京浜急行電鉄|accessdate=2018-04-22}}</ref> *同じ[[立川勇次郎]]が創業した縁で、2019年に京急開業120周年と[[養老鉄道]]全通100周年で相互に連携<ref>[https://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20190115HP_18224CK.html 「京急と養老つなぐキャンペーン」のお知らせ] 京浜急行電鉄 (2019年1月15日)<!--養老鉄道側(http://www.yororailway.co.jp/oshirase/558_index_msg.html)でも同時発表--></ref>。 <gallery> Keikyu nagatoro.JPG|西武鉄道の[[秩父地方|秩父]]・[[長瀞渓谷|長瀞]]の[[ラッピング広告|広告がラッピング]]されている電車 Osaka-monorail-keikyuu.jpg|大阪モノレールの京急ラッピング電車(2020年3月までの旧デザイン) 20191208 Yuirail-Keikyu.jpg|沖縄都市モノレールの京急ラッピング電車 Nagasaki Electric tramway Type 1200A 1203 &quot;Keikyu&quot;.jpg|長崎電気軌道の京急ラッピング電車 ファイル:Kotoden 1083 Keikyu Corporation‐Ad Busshōzan Station 20180421.jpg|高松琴平電鉄の京急ラッピング電車 </gallery> === キャラクター === * けいきゅう♪ドレミたん<ref>[https://career.oricon.co.jp/news/64086/full/ 京急初の“萌えキャラ”で「京急検定」アピール] - オリコンキャリア(2009年3月13日付、2012年7月22日閲覧)</ref> ** 2009年頃に展開されたキャラクターである。電車を模した箱の中に「[[萌え|萌えキャラ]]」の女の子が制服姿で乗り、電車の運行業務を行う意匠となっている。愛称の「ドレミたん」は、[[京急2100形電車|2100形]]電車に採用されている[[ドイツ]]・[[シーメンス]]社製[[ゲートターンオフサイリスタ|GTOサイリスタ]][[半導体素子|素子]][[可変電圧可変周波数制御|VVVFインバータ制御装置]]および[[かご形三相誘導電動機|主電動機]]から発する磁励音(通称「ドレミファインバーター」)に由来する。箱のデザインモデルとなる電車は、愛称の由来となった2100形のほか、[[京急600形電車 (3代)|600形]] (KEIKYU BLUE SKYTRAIN) <ref>[https://www.walkerplus.com/article/6555/ 萌えキャラ“ドレミたん”がクールに変身!] - Walker Plus([[東京ウォーカー]]、2009年5月31日付、2021年9月15日閲覧)</ref>や[[京急1000形電車 (2代)|新1000形]](ステンレス車)<ref>[http://www.keikyu.co.jp/corporate/press/press_files/090728_03.shtml 大好評につき問題等一新!!京急検定 最終回を実施](報道発表資料) - 京浜急行電鉄(2009年7月28日付){{リンク切れ|date=2012年7月}}</ref>のバージョンもあった。2009年3月、[[タイトー]]が販売するゲームソフト『[[鉄道ゼミナール#大手私鉄編|鉄道ゼミナール -大手私鉄編-]]』の[[スピンオフ]]として公式サイトにアップデートされた「京急検定」に登場したのち、同年11月にリニューアルした公式モバイルサイトなどでも使用された。また、京急系列のホテルでは関連グッズを付属させた宿泊プランの販売も行われた<ref>[http://www.asakusabashi.keikyu-exinn.co.jp/ 『けいきゅう♪ドレミたん』マグカップ付プラン(朝食付)](トップページ内「人気のプランをご紹介」) - 京急EXイン浅草橋駅前(2012年7月22日閲覧)</ref>。 * けいきゅん<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2011/detail/003577.html 京急電鉄のマスコットキャラクター誕生!! 「開業1周年記念祭」の詳細発表](ニュースリリース) - 京浜急行電鉄(2011年10月14日付、2012年7月22日閲覧)</ref><ref>[http://www.keikyu.co.jp/report/detail/003686.html 京急電車マスコットキャラクターの名前が「けいきゅん」に決まりました](京急グループのお知らせ) - 京浜急行電鉄(2011年12月15日付、2012年7月22日閲覧)</ref> ** 2011年10月に羽田空港国際線ターミナル駅(現:羽田空港第3ターミナル駅)開業1周年となったことを記念して作成されたキャラクターである。「開業1周年記念祭」の告知とあわせて愛称の公募が開始され、同年11月に結果発表し命名された。京急によると、同社の広報活動全般に展開するとしている。 === 協賛番組 === ; 現在 :* [[S-PARK]]<ref group="注釈">2018年4月7日深夜(翌8日未明)の土曜深夜(日曜未明)から新規。</ref>([[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - 番組終盤のローカルセールス枠のスポンサー(複数社のうちの一つ)で、「京急電鉄」の表記。 :* [[スーパーJチャンネル]](日曜版)([[テレビ朝日]]) - 後述の『[[サンデーステーション]]』が2020年10月18日に再び21時台に戻る関係で、2020年10月4日から提供。ローカルセールス扱いのスポンサーで、「京急電鉄」の表記。 ; 過去 :* [[クイズ・チェック!NOW]]([[テレビ朝日|NETテレビ]])→1970年代後半-1980年代前半平日夜の天気予報→1980年代後半平日夕方のローカル天気予報→[[おはようテレビ朝日]]など歴代のテレビ朝日平日朝ワイド内天気コーナー(テレビ朝日) - [[東日本電信電話|NTT東日本]]と入れ替えに降板。 :* [[京急ミュージック・トレイン]]([[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ関東→ラジオ日本]]) :* [[おしゃべりトマト]]([[テレビ神奈川]]) - 番組内コーナー「京急情報ステーション」。京急沿線の情報と同社イメージガール(歴任者に[[武田雅子]]など)を起用し、沿線で撮影されたイメージビデオを放送。 :* [[新報道2001]](フジテレビ) - 2018年3月25日をもって降板。なお、同番組の最終回は翌週4月1日であった。 :* [[サンデーステーション]](テレビ朝日)- 2020年9月27日をもって降板。 空港線の羽田空港延長後は、地方からの羽田空港到着便利用者を対象として、京急沿線とつながりのない[[中国地方]]など遠隔地の放送局の番組に複数社提供社として名を連ねたり、スポットCMを出稿したりした例があり、過去に[[札幌テレビ放送|札幌テレビ]]では『[[ズームイン!!朝!]]』の7時半以降のローカルセールス枠のスポンサー(複数社のうちの一つ)となったことがある。 === その他 === * [[スタンダード (企業)|スタンダード社]]の[[カラオケボックス]]「[[JOYSOUND]]品川港南口店」に2017年7月より期間限定で設置された、電車の運転席・客席を模した「京急電鉄カラオケルーム」の監修に協力した<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20170710HP_17071KK.html カラオケルームに京急電鉄の車両を再現!車掌マイクで乗務員になりきり!「京急電鉄カラオケルーム」が、7月20日にJOYSOUND品川港南口店にオープン!](京浜急行電鉄プレスリリース、2017年10月5日閲覧)</ref>。 * 2018年7月30日から9月17日、北斗の拳35周年×京急120周年記念「北斗京急周年のキャンペーン」で[[京急蒲田駅]]・[[上大岡駅]]・[[県立大学駅]]の駅名看板を『[[北斗の拳]]』仕様に特別装飾した<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2018/20180719HP_18086EW.html 駅名看板を「京急かぁまたたたたーっ駅」などに特別装飾します](京浜急行電鉄プレスリリース、2018年7月19日閲覧)</ref>。 == 関連会社 == {{See|京急グループ}} 京急本体やグループ各社と、グループ外企業と連携する[[オープンイノベーション]]を推進するため、[[ベンチャー]]企業への出資枠を新設した。初年度の2018年度は1億円<ref>[http://www.keikyu.co.jp/company/news/2017/20180320HP_16235MT.html ベンチャー企業への出資枠を新設します 京急電鉄はオープンイノベーションを推進します] 京浜急行電鉄ニュースリリース(2018年3月20日)2018年6月4日閲覧。</ref><ref>[https://www.nikkei.com/article/DGKKZO3009970002052018L82000/ 「ベンチャー出資枠 新設/京急、総額1億円 沿線の魅力向上に」]『[[日経産業新聞]]』2018年5月8日(住建・不動産面)2018年6月4日閲覧。</ref>。 == その他 == === 労働環境 === 2010年代ごろから過酷な労働環境が問題となっている<ref>{{Cite web|和書|date=2021-03-29|url=https://diamond.jp/articles/-/266735|title=「京急」社員たちが悲痛告白、低賃金と重労働の驚きの実態とは|website=DIAMOND online|publisher=ダイヤモンド社|accessdate=2023-04-26}}</ref>。知人に京急乗務員がいる利用者からは「'''13連勤手取り14万円電鉄'''」と揶揄されないような賃金体系と労働環境を確保するようにと[[国土交通省]]へ意見が上がっており、それに対して京急では働き方改革等を推進していくとした<ref>{{Cite web|和書|date=2023-02-09|url=https://www.mlit.go.jp/common/001601228.pdf|title=京浜急行電鉄株式会社における運賃改定申請について|publisher=国土交通省 鉄道局|accessdate=2023-04-26}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"|refs= <ref name="Sengakuji">[[泉岳寺駅]]は[[東京都交通局]]の管理駅(都営地下鉄浅草線との共同使用駅)であるため。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book | 和書 | editor = 京浜急行電鉄 社史編集班 | title = 京浜急行八十年史 | date = 1980年3月15日 | publisher = 京浜急行電鉄}} * {{Cite book | 和書 | editor = 京浜急行電鉄 | title = 京浜急行百年史 | date = 1999年3月 | publisher = 京浜急行電鉄}} * {{Cite book | 和書 | editor = 京浜急行電鉄 | title = 京浜電気鉄道沿革史 | date = 1949年5月 | publisher = 京浜急行電鉄}} * 佐藤良介『京急電車の運転と車両探検 向上した羽田空港アクセスと車両の現況)』JTBパブリッシング、2014年、[[ISBN]][[%E7%89%B9%E5%88%A5:%E6%96%87%E7%8C%AE%E8%B3%87%E6%96%99/9784533097058|9784533097058]]。 * 中村正史「週刊私鉄全駅・全車両基地No.10 京浜急行電鉄①」朝日新聞出版、2014年。 * 矢嶋秀一『京急電鉄各駅停車』株式会社洋泉社、2015年、ISBN[[特別:文献資料/9784800306845|9784800306845]]。 * 小佐野カゲトシ『京浜急行スゴすぎ謎学』河出書房新社、2016年、ISBN[[特別:文献資料/9784309449406|9784309449406]]。 * 佐藤良介『なぜ京急は愛されるのか』交通新聞社新書、2018年、ISBN[[特別:文献資料/9784330862187|9784330862187]]。 == 関連項目 == {{Commonscat|Keikyu Corporation}} {{Multimedia|京浜急行電鉄の画像}} * [[京急グループ]] * [[東京急行電鉄]]([[大東急]]) * [[芙蓉グループ]] * [[日本の鉄道事業者一覧]] * [[空港連絡鉄道]] * [[京浜急行電鉄のダイヤ改正]] * [[東京国際空港]] * [[平間寺|川崎大師]] * [[穴守稲荷神社]] == 外部リンク == * {{Official website|https://www.keikyu.co.jp/}} * [https://www.keikyu.co.jp/visit/haneda-airport/ 羽田空港アクセスガイド] * [https://www.keikyu-point.jp/ 京急プレミアポイント] * {{Twitter|keikyu_official|京急線運行情報【公式】}} * {{Twitter|keikyunofficial|けいきゅん【京急電鉄公式】}} * {{Facebook|keikyu|KEIKYU}} * {{Instagram|keikyu_official|京急電鉄【公式】}} * {{YouTube|c=UCg5KgFopgJ0KVXXsyPKp7eQ|【公式】KEIKYU Movie}} {{京急グループ}} {{大手私鉄}} {{芙蓉グループ}} {{PASMO}} {{パスネット}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けいひんきゆうこうてんてつ}} [[Category:大手私鉄・準大手私鉄]] [[Category:横浜市西区の企業]] [[Category:東京都発祥の企業]] [[Category:東証プライム上場企業]] [[Category:1949年上場の企業]] [[Category:京浜急行電鉄|*けいひんきゆうこうてんてつ]] [[Category:芙蓉グループ]] [[Category:有料道路事業者|廃けいひんきゆうこうてんてつ]] [[Category:日本の鉄道事業者]] [[Category:東京国際空港のアクセス]] [[Category:1948年設立の企業]] {{リダイレクトの所属カテゴリ |collapse= |header=この記事は以下のカテゴリでも参照できます |redirect1=けいきゅう♪ドレミたん |1-1=鉄道のマスコット |1-2=関東地方のマスコット }}
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一條裕子
一條 裕子(いちじょう ゆうこ、1967年4月14日 - )は、日本の漫画家。宮城県出身。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。アシスタントを経て、1992年にデビューする。左利き。 デビュー前は「紫苑」名義で、「杏樹&紫苑」というコンビで耽美系の漫画(のパロディ?)を描いており、江口寿史の単行本『江口寿史のなんとかなるでショ!』『江口寿史の爆発ディナーショー』に収録されている。のちに江口のアシスタントもつとめた。 自称ギャグ漫画家。木造家屋や着物などの描写や、四季の風物に関係するパロディを好んで作品に取り入れており、いわゆる「古風な日本家庭」を題材にした作品が多い。2020年に入って、旧作がKindleで読めるようになった。
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一條 裕子は、日本の漫画家。宮城県出身。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。アシスタントを経て、1992年にデビューする。左利き。 デビュー前は「紫苑」名義で、「杏樹&紫苑」というコンビで耽美系の漫画(のパロディ?)を描いており、江口寿史の単行本『江口寿史のなんとかなるでショ!』『江口寿史の爆発ディナーショー』に収録されている。のちに江口のアシスタントもつとめた。 自称ギャグ漫画家。木造家屋や着物などの描写や、四季の風物に関係するパロディを好んで作品に取り入れており、いわゆる「古風な日本家庭」を題材にした作品が多い。2020年に入って、旧作がKindleで読めるようになった。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 一條 裕子 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{JPN}}・[[宮城県]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1967|4|14}} | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1967|4|14|****|**|**}} --> | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1992年]] - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[わさび (漫画)|わさび]]』など | 受賞 = | 公式サイト = [http://1jo.info/ 一條裕子の目録] }} '''一條 裕子'''(いちじょう ゆうこ、[[1967年]][[4月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[宮城県]]出身。[[武蔵野美術大学]]短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業。[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を経て、[[1992年]]にデビューする。 デビュー前は「紫苑」名義で、「杏樹&紫苑」というコンビで耽美系の漫画(のパロディ?)を描いており{{要出典|date=2009年7月}}、[[江口寿史]]の単行本『[[江口寿史のなんとかなるでショ!]]』『[[江口寿史の爆発ディナーショー]]』に収録されている。のちに江口のアシスタントもつとめた。 自称ギャグ漫画家。木造家屋や着物などの描写や、四季の風物に関係するパロディを好んで作品に取り入れており、いわゆる「古風な日本家庭」を題材にした作品が多い。2020年に入って、旧作がKindleで読めるようになった<ref>{{Cite web|和書|url = https://www.amazon.co.jp/s?i=digital-text&rh=p_27%3A%E4%B8%80%E6%A2%9D%E8%A3%95%E5%AD%90&s=date-desc-rank&qid=1601881453&text=%E4%B8%80%E6%A2%9D%E8%A3%95%E5%AD%90&ref=sr_st_date-desc-rank|title = 一條裕子|website = www.amazon.co.jp|publisher = Amazon|date = |accessdate = 2020-10-05}}</ref>。 == 作品 == * [[わさび (漫画)|わさび]](第1 - 4集1995 - 1997年発刊(1集に[[漫画アクション]]で93年に掲載された4作品を含む)、[[ビッグコミックスピリッツ]]1994 - 1997年) * [[末広町35番地]](1997年発刊、COMICアレ!1993 - 1997年) * [[静かの海 (漫画)|静かの海]](1998年発刊、まんがガウディ1996 - 1997年、まんがアロハ1997 - 1998年) * [[2組のお友達。]](緑の本 - 橙の本1999年発刊、ビッグコミックスピリッツ1997 - 1999年) * [[犬あそび]](2000年発刊、ビッグコミックスピリッツ1999 - 2000年) * [[必ずお読み下さい。]](2002年発刊、鳩よ!2000 - 2002年) * すてきな奥さん(2003年発刊、[[月刊アフタヌーン]]2002 - 2003年) * スワンパン(2006年発刊、[[ビッグコミック]]2005 - 2006年) * 金子の部屋 * 貂の家。(2007年発刊、[[ビッグコミックオリジナル]]2006年) * [[阿房列車]](原作:[[内田百閒]]、[[月刊IKKI]]2007 - ) * けせらせら(増刊コミック乱2007 - 2008年、[[コミック乱]]2008 - 2013年) * 美人妻が行く!([[婦人公論]]2007 - ) * 小倉案([[マリカ (雑誌)|マリカ]]2008 - ) * ルンたん([[A-ZERO]]2008 - ) == 師匠 == * [[江口寿史]] == 脚注 == {{Reflist}} == 外部リンク== * [http://1jo.info/ 一條裕子の目録] {{DEFAULTSORT:いちしよう ゆうこ}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:宮城県出身の人物]] [[Category:1967年生]] [[Category:存命人物]]
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わさび (漫画)
『わさび』は、一條裕子の漫画。小学館の青年誌『週刊ビッグコミックスピリッツ』に1994年4月から1997年3月まで連載された。 日本の古き伝統的家庭、帯刀家が舞台。家族構成は、当主・帯刀隆太郎(大学教授、途中で定年退職して非常勤講師となる)、歳の離れた妻・絹子、一人息子・隆之介(幼稚園児→小学生)、住み込みの手伝い・小原ふみである。帯刀家のシュールな日常が主に描かれる。テレビがないような古風な生活スタイルは現代人の目からは大きなギャップがあるが、一方ではその家の中でしか通用しない常識というものはあらゆる家庭に存在するものであり、誰しも成長の過程でよそと違うことを発見するという覚えがある筈である。それにしてもやはり当主の隆太郎をはじめとした面々のピントのずれた観念思考はたまらない。読者は小原ふみとともにそれに取り込まれていってしまうのである。さらにさまざまな実験的手法も大きな見どころである。 小学館刊、全4巻
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『わさび』は、一條裕子の漫画。小学館の青年誌『週刊ビッグコミックスピリッツ』に1994年4月から1997年3月まで連載された。 日本の古き伝統的家庭、帯刀家が舞台。家族構成は、当主・帯刀隆太郎(大学教授、途中で定年退職して非常勤講師となる)、歳の離れた妻・絹子、一人息子・隆之介(幼稚園児→小学生)、住み込みの手伝い・小原ふみである。帯刀家のシュールな日常が主に描かれる。テレビがないような古風な生活スタイルは現代人の目からは大きなギャップがあるが、一方ではその家の中でしか通用しない常識というものはあらゆる家庭に存在するものであり、誰しも成長の過程でよそと違うことを発見するという覚えがある筈である。それにしてもやはり当主の隆太郎をはじめとした面々のピントのずれた観念思考はたまらない。読者は小原ふみとともにそれに取り込まれていってしまうのである。さらにさまざまな実験的手法も大きな見どころである。
『'''わさび'''』は、[[一條裕子]]の漫画。[[小学館]]の青年誌『[[ビッグコミックスピリッツ|週刊ビッグコミックスピリッツ]]』に[[1994年]]4月から[[1997年]]3月まで連載された。 日本の古き伝統的家庭、帯刀家が舞台。家族構成は、当主・帯刀隆太郎(大学教授、途中で定年退職して非常勤講師となる)、歳の離れた妻・絹子、一人息子・隆之介(幼稚園児→小学生)、住み込みの手伝い・小原ふみである。帯刀家のシュールな日常が主に描かれる。テレビがないような古風な生活スタイルは現代人の目からは大きなギャップがあるが、一方ではその家の中でしか通用しない常識というものはあらゆる家庭に存在するものであり、誰しも成長の過程でよそと違うことを発見するという覚えがある筈である。それにしてもやはり当主の隆太郎をはじめとした面々のピントのずれた観念思考はたまらない。読者は小原ふみとともにそれに取り込まれていってしまうのである。さらにさまざまな実験的手法も大きな見どころである。 == 単行本 == 小学館刊、全4巻 *第一集(1995年5月) *第二集(1996年6月) *第三集(1996年11月) *第四集(1997年7月) {{DEFAULTSORT:わさひ}} [[Category:漫画作品 わ|さひ]] [[Category:ビッグコミックスピリッツの漫画作品]] {{Manga-stub}}
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イベント駆動型プログラミング
イベント駆動プログラミング(イベントくどうプログラミング、英: event-driven programming)とは、ユーザー側の操作による受動的なイベントの発生によって、コンピュータ側の能動的なプロセスの実行とプログラムフローの選択が決定されるというプログラミングパラダイムである。イベントドリブンとも邦訳される。グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)ソフトウェアでよく用いられており、ユーザー入力に対するレスポンス出力の実装に適している。デバイスドライバプログラムでも多用されている。Webアプリケーションでも並行計算を実現するための非同期処理で活用されている。 ここで言うイベントとは、マウスクリックやキーボード押下によるユーザー操作、センサーやシグナル受信によるハードウェア入力、走行スレッドや発生トランザクションからのメッセージ受信を指している。プロセスの実行とは、スレッドの開始や手続き/関数の呼出しを指している。 規則型(宣言型)のイベント駆動型プログラミングにおいては、規則の条件部が満たされ指定されたイベントが発生すると、その規則が実行される。このような規則を ECA規則 (event-condition-action rule) という。例えば為替レート換算であれば といった規則を用意しておけば、利用者としては というメリットを享受できる。ここで挙げた例は、データや状態の変化に反応して処理が起動されるリアクティブプログラミング(英語版)と呼ばれる。 手続き型のイベント駆動型プログラミングにおいては、まず各イベントに対応する処理を記述した手続き(サブルーチン、関数、あるいはメソッド)を、システムあるいはアプリケーションフレームワークに登録する。この手続きはイベントハンドラー (event handler) と呼ばれ、イベントが発生したときにシステムあるいはアプリケーションフレームワークによって呼び出される(コールバックされる)。イベントの待機中(アイドリング時)の処理はシステムに任せる。 一般的に、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) を使用するオペレーティングシステムやアプリケーションソフトウェアでは、イベント駆動型プログラミングを利用している。マウス操作やキーボード操作といったユーザーからの入力や、システム状態の変化・変更といった各イベントに対する処理を統一的に記述することができる。 イベント駆動型プログラミングを行うメリットは、アプリケーションを作成する際に、必要なイベントハンドラーにのみ処理を書けばよい、ということである。イベントを待機するプログラム構造自体はどのアプリケーションもほぼ共通であり、結果として、アプリケーションフレームワークによるプログラム構造のブラックボックス化と再利用がしやすくなり、アプリケーションプログラマーが記述しなければならないコード量が減る。処理の記述をハンドラーごとに分けるので、プログラムの見通しも良くなる。 イベントで駆動される処理はイベントハンドラーに記述されるが、その実装方法は開発者に一任される。処理の特性(実行内容、規模/複雑性)に合わせた典型的なイベントハンドラ実装パターンが存在する。以下に各パターンを挙げる。 Fluxパターン Flux(フラックス)は、Actionを介したブロードキャスト型メッセージパッシングによるパターンである。状態管理をStoresに委譲し、イベントハンドラはActionの発火に特化する。イベント側と状態管理(ビジネスロジック)側を疎結合にできる利点を持つ。またActionメッセージを保持・記録して取り回すことができる。 UIが関わる実装としては、Reduxがデファクトスタンダードである。 Commandパターン Commandパターンはオブジェクト指向プログラミングを用いたパターンである。実際の処理をCommandオブジェクトへ委譲し、command.Execute(コマンド実行)インターフェースをイベントハンドラ内で叩くことにより、イベントハンドラ側と処理側を疎結合に出来る利点を持つ。またCommandオブジェクトを保持・記録して取り回すことができる。
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イベント駆動プログラミングとは、ユーザー側の操作による受動的なイベントの発生によって、コンピュータ側の能動的なプロセスの実行とプログラムフローの選択が決定されるというプログラミングパラダイムである。イベントドリブンとも邦訳される。グラフィカルユーザーインターフェース(GUI)ソフトウェアでよく用いられており、ユーザー入力に対するレスポンス出力の実装に適している。デバイスドライバプログラムでも多用されている。Webアプリケーションでも並行計算を実現するための非同期処理で活用されている。 ここで言うイベントとは、マウスクリックやキーボード押下によるユーザー操作、センサーやシグナル受信によるハードウェア入力、走行スレッドや発生トランザクションからのメッセージ受信を指している。プロセスの実行とは、スレッドの開始や手続き/関数の呼出しを指している。
{{出典の明記|date=2015年12月}} {{プログラミング・パラダイム}} '''イベント駆動プログラミング'''(イベントくどうプログラミング、{{lang-en-short|event-driven programming}})とは、ユーザー側の操作による受動的なイベントの発生によって、コンピュータ側の能動的なプロセスの実行と[[制御構造|プログラムフロー]]の選択が決定されるという[[プログラミングパラダイム]]である。イベントドリブンとも邦訳される。[[グラフィカルユーザーインターフェース]](GUI)ソフトウェアでよく用いられており、ユーザー入力に対するレスポンス出力の実装に適している。[[デバイスドライバ]]プログラムでも多用されている。[[Webアプリケーション]]でも[[並行計算]]を実現するための[[非同期処理]]で活用されている<ref>https://www.tc3.co.jp/graphic-explanation-on-eventdriven-in-cloudnative/</ref>。 ここで言うイベントとは、[[クリック (マウス)|マウスクリック]]や[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]押下によるユーザー操作、[[センサー]]や[[シグナル]]{{要曖昧さ回避|date=2022年12月}}受信によるハードウェア入力、走行[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]や発生[[トランザクション]]からの[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]]受信を指している。プロセスの実行とは、[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]]の開始や[[手続き]]/[[関数 (プログラミング)|関数]]の呼出しを指している。 == 特徴 == [[ファイル:Event driven programming Simply Explained.jpg|200x200px|サムネイル|イベントフロー図]] 規則型(宣言型)のイベント駆動型プログラミングにおいては、規則の条件部が満たされ指定されたイベントが発生すると、その規則が実行される。このような規則を [[ECA]]規則 ({{lang|en|event-condition-action rule}}) という。例えば為替レート換算であれば * プログラムの起動直後 → '''換算前の金額'''を1に設定する * 換算前の通貨単位と変換後の通貨を「選択」する → '''換算前の金額'''とそれぞれの通貨を為替換算サービスに送る * サービスから為替レートを「受け取る」→ '''換算前の金額'''とレートから換算式を組み立てる。 * 入力欄に換算前の通貨の金額を「入力」する → 入力された金額を'''換算前の金額'''に設定する * '''換算前の金額'''が「設定される」→ 換算式を利用して換算結果を提示する といった規則を用意しておけば、利用者としては * 通貨単位だけ選択済みで金額が未入力ならば、例えば1円あたり何ドルかが得られる * 金額だけを変更することで、選択しておいた通貨間で換算を次々に行える * 金額をそのままにしても、通貨を選ぶ度にすぐに換算される。 * 入力を「確定する」という余計な手順を省ける(リアルタイム性) というメリットを享受できる。ここで挙げた例は、データや状態の変化に反応して処理が起動される{{仮リンク|リアクティブプログラミング|en|Reactive programming}}と呼ばれる。 [[プロシージャ|手続き]]型のイベント駆動型プログラミングにおいては、まず各イベントに対応する処理を記述した手続き([[サブルーチン]]、関数、あるいは[[メソッド (計算機科学)|メソッド]])を、[[システム]]あるいは[[アプリケーションフレームワーク]]に登録する。この手続きはイベントハンドラー ({{lang|en|event handler}}) と呼ばれ、イベントが発生したときにシステムあるいはアプリケーションフレームワークによって呼び出される([[コールバック (情報工学)|コールバック]]される)。イベントの待機中([[アイドリング]]時)の処理はシステムに任せる。 一般的に、[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) を使用する[[オペレーティングシステム]]や[[アプリケーションソフトウェア]]では、イベント駆動型プログラミングを利用している。[[マウス (コンピュータ)|マウス]]操作や[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]操作といったユーザーからの入力や、システム状態の変化・変更といった各イベントに対する処理を統一的に記述することができる。 イベント駆動型プログラミングを行うメリットは、アプリケーションを作成する際に、必要なイベントハンドラーにのみ処理を書けばよい、ということである。イベントを待機するプログラム構造自体はどのアプリケーションもほぼ共通であり、結果として、アプリケーションフレームワークによるプログラム構造の[[ブラックボックス (代表的なトピック)|ブラックボックス]]化と再利用がしやすくなり、アプリケーションプログラマーが記述しなければならないコード量が減る。処理の記述をハンドラーごとに分けるので、プログラムの見通しも良くなる。 ==用語と解説== ; イベント : 「キーボードのキーを押した」、「時計がある時刻になった」などの、プログラムの流れとは別に発生する事象。または、その事象に関する情報を含んだ[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]]を指す。 →[[イベント (プログラミング)]] ; イベントハンドラー : イベントが発生した際に実行すべき[[サブルーチン]]のこと。イベント[[フック (プログラミング)|フック]]、イベントリスナーなどの呼び方がある。 ; トリガー : イベントを発生させるきっかけ。プログラム内部でイベントを起こすことを「イベントをトリガーする」と表現することもある。 ; イベントディスパッチャー : 発生したイベントをイベントハンドラーに振り分ける機能のこと。 ; イベントキュー : 複数のイベントが連続して発生した場合に、それらのイベントを[[キュー (コンピュータ)|待ち行列]]として保持するデータ構造。イベントの発生間隔が短く、次のイベントが発生するまでにイベントハンドラーの処理が間に合わない場合に[[バッファ]]として用いられる。→[[メッセージキュー]] ; [[イベントループ]] : イベントを待機する[[ループ (プログラミング)|ループ]]を持つ機構。イベントループ内にイベントディスパッチャーを持つ構造が一般的である。メッセージループ、メッセージポンプとも呼ばれる。 == 実装 == イベントで駆動される処理はイベントハンドラーに記述されるが、その実装方法は開発者に一任される。処理の特性(実行内容、規模/複雑性)に合わせた典型的なイベントハンドラ実装パターンが存在する。以下に各パターンを挙げる。 '''Fluxパターン''' Flux(フラックス{{Efn|アプリケーションのデータフロー管理のためのアーキテクチャパターン。}})は、Actionを介したブロードキャスト型[[メッセージパッシング]]によるパターンである。状態管理をStoresに委譲し、イベントハンドラはActionの発火に特化する。イベント側と状態管理(ビジネスロジック)側を[[疎結合]]にできる利点を持つ。またActionメッセージを保持・記録して取り回すことができる。 UIが関わる実装としては、[[Redux (JavaScriptライブラリ)|Redux]]が[[デファクトスタンダード]]である<ref>{{Cite web |title=Related Libraries {{!}} Flux |url=https://facebook.github.io/flux/docs/related-libraries |website=facebook.github.io |access-date=2023-03-06 |language=en |publisher=[[Meta (企業)|Meta]] |date=2019/07/27 |work=flux}}</ref>。 '''Commandパターン'''{{Main|Command パターン}} Commandパターンは[[オブジェクト指向プログラミング]]を用いたパターンである。実際の処理をCommandオブジェクトへ委譲し、command.Execute(コマンド実行)インターフェースをイベントハンドラ内で叩くことにより、イベントハンドラ側と処理側を[[疎結合]]に出来る利点を持つ。またCommandオブジェクトを保持・記録して取り回すことができる。 == 脚注 == === 注釈 === <references group="注釈" /> <div class="references-small"> === 引用 === <references /></div> ==関連項目== *[[イベント (プログラミング)]] *[[イベントループ]] *[[コールバック関数]] *[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]] *[[出版-購読型モデル]] *[[メッセージ指向ミドルウェア]] *[[データフロープログラミング]] *[[シグナルプログラミング]] *{{仮リンク|フローベースプログラミング|en|Flow-based programming}} <!-- 以前の版に記載されてあった「フロー駆動型プログラミング」は出典がなく、独自研究により生み出された造語と思われるため、削除。なお、「命令型プログラミング」や「手続き型プログラミング」は、イベント駆動型プログラミングの対になる概念ではない。 --> ==外部リンク== *[https://web.archive.org/web/20070928120051/http://www.x-media.co.jp/jiten/index.cfm?ID=1772 X-Media用語辞典] - 2007年9月28日12時00分51秒時点のアーカイブ。 {{プログラミング言語の関連項目}} {{DEFAULTSORT:いへんとくとうかたふろくらみんく}} [[Category:ソフトウェア工学]] [[Category:プログラミングパラダイム]]
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末広町35番地
『末広町35番地』(すえひろちょう35ばんち)は、一條裕子 著の漫画。1994年5月から1997年3月まで『COMICアレ!』(マガジンハウス)にて連載。1997年5月、単行本刊行。 東西の童話を題材にして、現代の末広町35番地にある団地を舞台に、翻案した連作集。童話の登場人物が団地の住人となっている。パロディではあるのだが、単に移行という作業だけを行っているのではなくて、一旦物語を完全に分解している。あたらしいストーリーは不条理もののようでありながら構成を持ち、寓意があるようでナンセンス、という奇妙なもの。しかしその中でギャグ・センスは冴えていて知性を感じさせる作品である。
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『末広町35番地』(すえひろちょう35ばんち)は、一條裕子 著の漫画。1994年5月から1997年3月まで『COMICアレ!』(マガジンハウス)にて連載。1997年5月、単行本刊行。 東西の童話を題材にして、現代の末広町35番地にある団地を舞台に、翻案した連作集。童話の登場人物が団地の住人となっている。パロディではあるのだが、単に移行という作業だけを行っているのではなくて、一旦物語を完全に分解している。あたらしいストーリーは不条理もののようでありながら構成を持ち、寓意があるようでナンセンス、という奇妙なもの。しかしその中でギャグ・センスは冴えていて知性を感じさせる作品である。
『'''末広町35番地'''』(すえひろちょう35ばんち)は、[[一條裕子 ]]著の[[漫画]]。1994年5月から1997年3月まで『[[COMICアレ!]]』([[マガジンハウス]])にて連載。1997年5月、単行本刊行。 東西の[[童話]]を題材にして、現代の末広町35番地にある[[団地]]を舞台に、翻案した連作集。童話の登場人物が団地の住人となっている。[[パロディ]]ではあるのだが、単に移行という作業だけを行っているのではなくて、一旦物語を完全に分解している。あたらしいストーリーは不条理もののようでありながら構成を持ち、[[アレゴリー|寓意]]があるようでナンセンス、という奇妙なもの。しかしその中でギャグ・センスは冴えていて知性を感じさせる作品である。 {{DEFAULTSORT:すえひろちようさんしゆうこはんち}} [[Category:漫画作品 す|えひろちようさんしゆうこはんち]] {{Manga-stub}}
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アポロ計画
アポロ計画(アポロけいかく、Apollo program)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。 アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。 冷戦下の米ソ宇宙開発競争のさなかの1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日、宇宙飛行士ニール・アームストロングおよびバズ・オルドリンがアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。 アポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画であり、そこで使用されたアポロ宇宙船やサターンロケットは、後のスカイラブ計画やアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。そのため、これらの後続計画も、しばしばアポロ計画の一環であると見なされている。 アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成するにあたり、途中で二つの大きな事故があった。一つは、アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3名の飛行士が死亡している。もう一つは、アポロ13号において、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故である。これにより月面着陸は断念せざるを得なくなったが、乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、そして何よりも彼ら自身の優れた危機管理能力により、無事に地球に帰還することができた。 アポロ8号で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、17号は現在までのところ、人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。 アポロ計画は、ロケットや有人宇宙船の開発にともなう関連技術の発展に拍車をかけ、特に電子工学や遠隔通信、コンピュータなどの分野において大きく貢献した。またいくつもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、統計的な手段を用いる手法を開拓するなど、多くの工学の分野の発展にも繋がった。有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、文明、技術、電子工学の表章として今も残されている。計画で使用された多くの事物や遺物が、国立航空宇宙博物館をはじめとする世界各地の様々な場所で展示されている。 アポロ計画は、1960年初頭アイゼンハワー政権下において、マーキュリー計画の後継のプロジェクトとして着想された。マーキュリー宇宙船は、一人の飛行士を乗せて低軌道を周回させることしかできなかったものの、アポロ宇宙船では三人の飛行士を乗せ月を周回し、さらに月面に着陸することが目標とされた。計画名は当時のNASA長官エイブ・シルバースタイン(英語版)が、ギリシャ神話の太陽神アポロンにちなんで名づけたものである。後に彼は「まるで自分の子供に命名するような気持ちで名づけた」と語っている。 しかし、NASAが立案を開始した時点では予算の見通しは立っておらず、特にアイゼンハワー大統領の有人宇宙飛行に対する態度もあいまいなものであった。 1961年1月20日、ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国第35代大統領に選出された。選挙期間中、ケネディは宇宙開発やミサイル防衛の分野においてアメリカをソビエト連邦に優越たらしめることを公約としていた。宇宙開発を国家の威信の象徴とし、ミサイル・ギャップ(当時の米ソ間に想定されていた弾道ミサイルの技術および配備状況の格差)について警鐘をならすとともに、アメリカをこれに勝利させることを約束した。 しかし、この言葉とは裏腹に、大統領に選出された後もケネディはアポロ計画について直ちに決定を下すことはなかった。彼は宇宙開発技術の詳細についてよく知らず、また有人月面着陸に必要とされる莫大な予算に対し二の足を踏んでいたのである。NASAの長官ジェイムズ・ウェッブが13パーセントの予算増額を要求した際、ケネディはNASAの大型ロケットの開発促進は支持したものの、より大きなレベルでの決断は先延ばしにしていた。 1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、ボストーク1号で史上初の有人宇宙飛行を成功した。これを目の当たりにしたアメリカ国民はソ連との宇宙開発競争において立ち後れているという不安を増大させた。ガガーリンの飛行の翌日に開かれた下院科学・宇宙航行学委員会(英語版)では、アメリカがソ連に確実に追いつくことを目的とした緊急プログラムの支持を多数の議員が表明した。 しかし、ここでもケネディは慎重な反応を示しソ連に対するアメリカの対応については明確にすることはなかった。 4月20日にはケネディはリンドン・ジョンソン副大統領に覚書を送り、アメリカの宇宙開発の現状と、NASAに追いつく可能性を与えられる計画について検討するよう指示した。ジョンソンは翌日の返答で、「我々はいまだ、合衆国を世界の先頭に立たせるためのいかなる最大限の努力も果たしていないし、成果も出してはいない」との見解を示し、また有人月着陸の実現は近くはない将来であり、だからこそアメリカが世界で初めて達成できる可能性があると結論づけた。 1961年5月25日、ケネディは上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明した。 ケネディがこの演説をした時点では、アメリカは、そのわずか一ヶ月前に一人の飛行士を宇宙に送ったばかりであり、しかもそれは、砲弾のように単に上昇して下降してくる弾道飛行にすぎず、地球を周回する衛星軌道に乗ったものではなかった。NASAの関係者の中にさえ、ケネディのこの公約の実現性を疑う者がいた。 1969年の終わりまでに人間を月面に着陸させるというケネディの挑戦に応えるためには、平時にはいかなる国も実現したことのない規模の技術面での躍進的な進歩と、巨額の予算(250億ドル)とが必要とされた。アポロ計画は、ピーク時には40万人の従業員を雇用しており、アポロ計画をサポートしていたのは2万以上の企業や大学に及んでいた。 ケネディがアポロ計画の到達点を明確に定義したことにより、技術者たちはこの設定された目標に対し、生命への危険やコスト、あるいは技術や飛行士の能力への要求を最小限に抑えるための飛行方式を決定する必要に迫られることになり、その結果以下の四つの案が検討された。 1961年の初めまでは、NASA内部では直接降下方式が支持されていた。多くの技術者たちにとっては、地球周回軌道上においてすらいまだ行なわれたことのないランデブーやドッキングを、月周回軌道上で実現させることへの不安が大きかった。しかしながらラングレー研究所のジョン・フーボルトなどの反論者たちは、LOR方式によって得られる大幅な重量削減という利点を強調した。60年から61年にかけ、フーボルトはLORこそが最も確実で実践的な方式であると、各方面に訴えて回った。NASA内部の階級を飛び越え、副長官のロバート・シーマンズのところにも一連の文書を送った。フーボルトは、シーマンズが以前「(計画について)いろいろと雑音を発する者がいる」などと発言していたことを知っていたが、LOR方式を検討から外すべきではないと嘆願した。 そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン(Golovin)委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、ヒューストン有人宇宙センター内のNASA宇宙任務グループ(Space Task Group, 1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、ウェルナー・フォン・ブラウン博士によって非公式に発表された。NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。 ちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になってアポロ13号が月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。 月周回ランデブー方式(LOR)が採用されたことにより、アポロ宇宙船の基本的なデザインも決定された。宇宙船は全体として二つの大きな部分から構成されている。飛行士はそのうちの司令・機械船(Command/Service Module, CSM)で飛行中の大部分の時間を過ごし、月着陸船(Lunar Module, LM)で月面に降下し、また戻ってくる。 司令船 (Command Module, CM) は円錐形をしており、三人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ、また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されている。CMに搭載されている主なものは、反動姿勢制御装置、ドッキング用トンネル、航法装置、誘導コンピューターなどである。CMの下部には、メイン・ロケットや姿勢制御用ロケットおよびその燃料、燃料電池、通信用アンテナ、水や酸素のタンクなどを搭載した機械船 (Service Module, SM) が接続されている。アポロ15・16・17号では各種科学測定装置なども搭載されていた。機械船は飛行中のほとんどの時間を司令船に接続された状態にあり、大気圏に再突入する直前に投棄される。司令船底部には再突入時の激しい高温から機体および乗員を保護する耐熱シールドが貼られており、再突入時にはパラシュートを展開して十分に速度を落とした後、安全に海洋上に着水する。 CSM開発の契約は宇宙工学者ハリソン・ストームズ(英語版)をリーダーとするノース・アメリカンが獲得した。同社とNASAの関係はアポロ計画の進行中、特に飛行士三人を犠牲にしたアポロ1号の火災事故が発生したことなどにより、緊張したものになった。事故の原因は司令船内の電気配線のショートによるものであると断定されたが責任の所在は混沌としており、調査委員会は「司令船の設計・技術・品質管理において欠陥が存在した」と結論づけている。 月着陸船 (Lunar Module, LM) は、月面への着陸と司令・機械船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されている。地球の重力圏では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られている。定員は二名で、上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や月面車などを搭載するスペースが設けられている。 開発契約はグラマン社が獲得し、トム・ケリーが計画全体を監督するが、着陸船は開発の遅れという個別のトラブルを抱えることとなる。各種試験の遅延のためにアポロ計画全体の進行にも深刻な影響を与えはじめ、LMは「お荷物」(pacing item) とさえ呼ばれることとなった。このためNASAは、当初は8号で行われるはずだった有人試験飛行を9号に延期せざるを得なくなった。 フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。このうち直接降下方式を採用するためには、計画中のノヴァのような巨大なペイロードを持つロケットが必要だった。やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターはサターンIBおよびサターンVの開発へと向かうこととなった。これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。 サターンVは、3段のロケットおよびその3段目最上部(ペイロードを含まない、サターンV単体としての最頂部)に搭載された自動飛行制御装置によって構成されている。 第1段S-ICは十字型に配置された5基のF-1ロケットエンジンを搭載し、全体で約3,400トンの推力を発生する。燃焼はわずか2分30秒で終了し、機体を時速約9,600km(秒速2.68km)にまで加速する。開発期間中、F-1はずっと燃焼の不具合に見舞われてきた。エンジンへの燃料の供給がスムーズに行われなければ推力のゆらぎが発生し、やがてそれは大きな振動となってエンジン自体を破壊してしまう。この問題は、燃焼中のエンジンの内部で小規模な爆発を発生させて燃焼のばらつきを相殺するなどの数多くの実験を行い、試行錯誤を積み重ねた結果、最終的には解決された。 第2段S-IIは5基のJ-2ロケットエンジンを搭載し、およそ6分間の燃焼で機体を時速約24,000km(秒速6.84km)、高度185kmにまで到達させる。その後は第3段S-IVBが引き継ぎ、宇宙船を地球周回軌道に乗せる。S-IVBにはJ-2エンジンが1基だけ搭載されていて、軌道上で再点火して月へと向かう軌道に乗る。 サターンIBは、初期のサターンI(サターン1型ロケット)の発展型である。第1段は8基のH-1ロケットエンジンを搭載し、第2段にはサターンVの第3段と同じS-IVBロケットが使用される。第1段の推力は725トンしかないが、アポロ司令・機械船および月着陸船を地球周回軌道に乗せる能力を持っている。サターンIBは各種の試験飛行および宇宙ステーションスカイラブへの人員の搬送、そしてアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。1973年にはS-IVBを改造したスカイラブが、サターンVによって打ち上げられた。 1967年9月、テキサス州ヒューストンの有人宇宙センターは月面着陸に向けた一連の飛行計画を発表した。以下の A から G の七種のミッションは、それぞれ宇宙船の特定部分の性能や手順を確認するためのもので、次の段階に進むためには前段階の成功が必要であった。 後にはこれらに加え、短期間の滞在のうちに2度の月面船外活動を行うミッション H が追加され、さらに、より長い3日間月面に滞在し、月面車を使用して3度の船外活動を行うミッション J がこれに続くこととなった。ミッション J はアポロ15号から17号において実施されたものの、続く18号から20号までは計画自体がキャンセルされた。またこれに先立ち、機械船に科学測定装置を搭載し、軌道滞在中に各種観測を行うミッション I も計画されていたが、18号以降のフライトがキャンセルされたことにより J 案に吸収され、15号から17号において実行された。 アポロ計画のための準備は、有人飛行が行われる以前に始まっていた。サターンI の試験発射は1961年10月に始まり、1964年9月まで続けられた。このうちの3回の飛行では、模擬の司令・機械船を搭載していた。また1963年と1965年には、宇宙船の緊急離脱用ロケットの発射実験がホワイト・サンズミサイル基地において行われた。 公式に「アポロ」の名が冠されているものの中で、無人試験飛行が行われたのは4、5、6号のみである。アポロ4号はサターンVの初の試験飛行で、1967年11月9日に行われた。これはジョージ・ミューラーが提唱した「全段一斉試験方式」を例証するものであった。それまでは開発中の多段式ロケットの発射試験をする場合は、各段を別々に行うのが通例だったが、サターンVでは初めて全段を一度にまとめて発射した。実験はきわめて上首尾に終わった。およそ6km離れた地点からその様子を中継していたCBSキャスターのウォルター・クロンカイトによると、あまりにも強烈な騒音と振動で天井のタイルがはがれ落ち、窓が激しく揺さぶられたため、窓ガラスが割れないように手で抑えながら中継を続けなければならなかったという。この実験により、サターンの発射時には近辺にある構造物を振動から保護するための対策が必要であることが明らかになった。これ以降は発射台に直接緩衝機構を設置するようになり、これによって騒音と振動は大幅に低減された。 アポロ計画最後の無人試験飛行は6号で、1968年4月4日に発射され、約10時間後の21:57:21 UTCに地球に帰還した。 有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。 アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射されたアポロ7号であった。計画の目的は、アポロ1号の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。 1968年の夏頃には、この年に行われるアポロ8号の飛行には月着陸船の完成が間に合わないことが明らかになった。そのためNASAは計画を変更し、8号を単なる地球周回軌道に乗せるのではなく、月に向かわせ、クリスマス期間中に月を周回させることを決定した。これは当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーだったジョージ・ロウの発案によるもので、しばしば「この変更はソ連が有人のゾンド宇宙船で月を周回しようとしていることに対抗したものである」と言われることがあるが、ソ連にそのような計画があったことをうかがわせる証拠は存在しない。NASAはもちろんゾンドの飛行を知ってはいたが、ゾンド計画の時期とアポロ8号の決定に関するNASAの広範囲な記録は、必ずしも一致しない。結局のところ8号の計画変更は、別に月飛行でソ連に先を越されることを恐れたからではなく、単に着陸船の開発の遅れに起因するものと見るのが妥当である。 1968年12月21日から69年5月18日にかけて、NASAはサターンVを使用して三度の有人飛行(8、9、10号)を行った。それぞれの飛行はすべて三人の飛行士が乗り組み、後の二つは着陸船も搭載していたが、月面着陸を目標とするものではなかった。 続くアポロ11号で、人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは有名な以下の言葉を残した。 また次の12号は成功したものの、13号では機械船の酸素タンクが爆発するという事故が発生した。これにより月面着陸は中止せざるを得なくなったが、三人の飛行士は無事に地球に帰還することができた。その後の14号から17号までの飛行はすべて成功し、特に最後の三回では月面車を利用して広範囲に月面を探索する、前述のミッション J が実行された。 最後の17号は1972年12月7日に発射され、12月19日、無事地球に帰還した。船長ユージン・サーナンは2020年現在、最後に月を離れた人間である。 アポロ計画の成功を受け、NASAおよびその関連企業はアポロのハードウェアを利用した月飛行後の応用計画について、いくつかの案を検討した。「アポロ拡張計画」(後に『アポロ応用計画』と改称された)と呼ばれたこの計画では、地球周回軌道を回る13種類の案が提示されていた。そのうちの多くは、サターン・ロケットの月着陸船が搭載されていたスペースに、科学機器を乗せて打ち上げるというものであった。 これらのうち、実現されたのはスカイラブ計画(1973年5月-1974年2月)とアポロ・ソユーズテスト計画(1975年7月)だけであった。スカイラブの機体はサターンIBの第二段を改造して作られ、月着陸船をベースにした太陽望遠鏡が設置されていた。本体は一部を改造されたサターンVによって軌道上に打ち上げられ、三名の乗組員はサターンIBに搭載された司令・機械船で地上とラブの間を往復した。最後の飛行士が機体を離れたのは1974年2月8日のことで、スカイラブはその後1979年に、予定よりも早く大気圏に再突入して分解した。アポロ計画に関わった物体としては、その時点においてこれが最も古いものであった。 アポロ・ソユーズテスト計画は、アポロの司令・機械船および今回のために特別に開発されたドッキング・モジュールが、地球周回軌道上でソ連のソユーズ宇宙船とドッキングするというものであった。計画は1975年7月15日から24日にかけて行われたが、ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーションサリュートなどを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、アメリカは1981年4月12日にスペース・シャトルコロンビア号が初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。 アポロ計画では総量で381.7kgの岩石その他の物質が月面から持ち帰られ、そのほとんどは現在はヒューストンにある月資料研究所に保管されている。 放射年代測定によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。その範囲は約32億年前(月の海の部分で採取された玄武岩)から46億年前(高地で採取された地殻のサンプル)まで確認されている。したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった太陽系誕生初期の試料であると見られている。 アポロ計画全体を通して採取された岩石の中で重要なものの一つに、15号でジェームズ・アーウィン飛行士とデヴィッド・スコット飛行士が持ち帰った「ジェネシス・ロック(Genesis Rock = 創世記の石)」と呼ばれているものがある。斜長岩に分類されるこの岩石は、カルシウムに富む斜長石(灰長石)によってほとんどの部分が構成されており、月面の高地の地殻のサンプルであると考えられている。この中からは地球化学で KREEP と呼ばれる、地球上には存在しない岩種が発見された。KREEPや斜長岩などのサンプルは、月の外殻表面がかつて大規模に溶融した状態(マグマ・オーシャン)であったという仮説の根拠となっている。 採取された岩石の大部分は衝突にさらされた痕跡を有していた。たとえば多くのサンプルの表面には微少隕石が衝突したことによる極小のクレーターが確認されている。これは厚い大気の層に阻まれた地球上の岩石には見られないものである。また多くのものには隕石が衝突した際に発生した高圧の衝撃波にさらされた形跡が残されており、中には impact melt、すなわちクレーター周辺で衝撃により融解した物質から構成されたものもあった。そして月面から持ち帰られたすべてのサンプルは、繰り返し衝突の衝撃に曝されることによる角礫化が進行していた。 こうした月の岩石の分析結果は、月の成因を地球に火星程度のサイズの天体が衝突したことに求める「ジャイアント・インパクト説」の論旨と合致するものである。 1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。 NASAの歴史に関するウェブサイトを管理するスティーブ・ガーバーによれば、最終的にアポロ計画にかかった費用は1969年当時で200億ドルから254億ドル(2005年現在の貨幣価値に換算すると、およそ1350億ドル)になるという。 またアポロ宇宙船およびサターン・ロケットにかかった費用は2005年度換算で830億ドルで、このうち宇宙船が280億ドル(司令・機械船170億ドル、月着陸船110億ドル)、サターン・ロケット (I・IB・V) が460億ドルであった。 当初の予定ではアポロ計画は20号まで行われるはずだったが、NASAの大幅な予算削減およびサターンVシリーズの後続生産が打ち切られたことにより、18・19・20号の飛行はキャンセルされ、それらの予算はスペース・シャトルの開発およびスカイラブ計画に回されることとなった。残ったサターンVは、1機が1973年にスカイラブを打ち上げるために使用され、残りの2機はフロリダ州ケープ・カナベラルのジョン・F・ケネディ宇宙センター、アラバマ州ハンツビルのマーシャル宇宙飛行センター、ルイジアナ州ニューオリンズのミシャウド組立施設、テキサス州ヒューストンのリンドン・B・ジョンソン宇宙センターなどに分割して現在も展示されている。 アポロ計画は、多くの技術分野を刺激した。アポロ誘導コンピュータは、ミニットマン・ミサイルの開発共々、初期の集積回路研究の推進力となった(当時の大型コンピュータでは、まだ小型化の要求は低く、米国IBM社のSystem/360などではまだチップ上に集積したICを採用していない)。また燃料電池はこの計画によって初めて実用化され、CNC(コンピュータ数値制御)による機械工作もアポロの構造部品製作に際して開拓された分野であった。 いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。 史上初の月面着陸を成功させたアポロ11号の船長ニール・アームストロングは、しばしばマスコミから将来の宇宙開発の展望について質問されている。2005年にはそうした質問に対して「様々な課題はあるかもしれないが、1961年のアポロ計画スタート時に我々が直面したほど困難で、かつ大量の問題にはならないのではないか」と応え、火星への有人飛行は1960年代の月面着陸よりは容易になるであろうとの見解を述べた。 2004年1月14日、大統領ジョージ・W・ブッシュは演説の中で、2020年までに宇宙飛行士を月面に到達させることを含む新たな宇宙開発の展望の「コンステレーション計画」を発表した。 計画では、2010年に退役する現行のスペース・シャトルの後継としてオリオン宇宙船があげられており、その空力的な形状はアポロの司令船にきわめて近い。NASAの前長官マイケル・D・グリフィンは、オリオンを「増強版アポロ」("Apollo on steroids") と表現し、雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「オリオン計画はアポロ時代の技術に先祖返りした程度のもの、との批判がある」と伝えているが、一方でオリオンの操縦席の計器板や熱遮蔽板などでは新技術が使用される予定だった。コンステレーション計画のうちアポロ計画の設計に最も似通っていたのは、オリオンを軌道に乗せるために設計されたアレスI の上段ロケットである。このロケットのエンジンには、サターン・シリーズで使用されたJ-2を改良したJ-2Xの使用が計画されていた。J-2Xを開発するにあたり、NASAの技術者らは博物館でアポロ時代の資料を研究し、また実際にアポロ計画に従事した技術者たちに意見を求めた。コンステレーション計画の責任者ジェフ・ハンレイは、「月面への着陸およびそこからの離陸に関する技術的問題は、相当程度にわたってすでに解決されている。これらはアポロ計画が我々に残してくれた遺産である」と述べた。 アポロと同様、オリオンは月周回ランデブー方式をとるが、月着陸船アルタイルはアレスVロケットによって別個に打ち上げられる予定だった。このアレスVはスペース・シャトルやアポロ計画の技術を元にして開発される予定だったロケットである。そしてスカイラブ計画で行われたように地球周回低軌道上でオリオンとドッキングする。アポロ計画からの変化としては、オリオンではすべての飛行士が月面に降下し、軌道上には無人の宇宙船が待機するという点がある。また探索する地域はアポロ計画ではもっぱら赤道付近が中心だったのに対し、コンステレーション計画では極地方に重点が置かれ、アポロ計画では用いられなかった地球周回ランデブー方式も使用が検討されていた。 2010年、バラク・オバマ大統領によりコンステレーション計画は中止された。 1968年のクリスマス・イヴにアポロ8号が行った月面からのテレビ中継は、その時点までになされた報道の中で最も広範囲に伝えられたものであった。またアポロ11号による人類初の月面着陸は、全世界人口の五分の一がテレビ中継を通じて見守ったと言われている。 日本でNHK総合テレビが1969年7月16日21:45(JST)から75分間放送した報道特別番組「アポロ11号発射」は43.8%の、またイーグルの月面着陸を報じた21日7:00からの「朝のワイドニュース」は45.4%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録。21日、11時台の総視聴率は46%、12時台のそれは62%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。NHKの調査では、日本では昼間となったアポロ11号による人類初の月面着陸をテレビ同時中継で見た人は68%、21日中に他の番組で見た人を含めると91%に達した。 アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している。11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルの磁気テープは行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された。 アポロ計画に続く時期、NASAでは磁気テープが不足したため、アメリカ国立公文書記録管理局から大量のテープを持ち出して新しい衛星のデータを記録しており、テープの捜索にはNASAのテレビ担当者ディック・ナフツガー (Dick Nafzger) や月面カメラの設計をしたスタン・リーバー (Stan Lebar) なども加わったが、結局、アームストロングが月面に足を降ろした瞬間を記録した元テープは失われたと結論された。 一方、月面着陸の様子を撮影した特別仕様のカメラとテレビ中継映像の規格の違いから、テレビ放送用に変換された映像がテープに記録されていたため、11号について現存する放映時のデータが23万ドルをかけて収集・編集されることとなった。このデジタル復元作業はナフツガーおよび修復を専門とするロウリー・デジタル(Lowry Digital)社が担当し、ノイズやカメラぶれなどを歴史性を損なわずに除去するなどの作業が2009年9月の完了を目指して実施される。 ロウリー・デジタル社が修復作業をしている映像は、オーストラリアやCBSニュースの保管庫、ジョンソン宇宙センター内で記録されたキネスコープ(kinescope、キネコ)映像などから収集されたものである。復元される映像は一定のデジタル処理を施した白黒映像であり、音声に関しては手を加えられない。 多くの飛行士が、遠く離れた宇宙空間から地球を見るという経験から深甚な心理的影響を受けたと語っている。アポロが残した最も重要な遺産の一つは、地球が壊れやすい小さな惑星にすぎないという、陳腐とはなっても未だ普遍的とは言い難い認識である。これは月面上から撮影された写真を通じて伝えられ、なかでも8号の飛行士が撮影した「地球の出」(「アースライズ」、左)と、17号の飛行士が撮影した「ザ・ブルー・マーブル」と呼ばれるもの(右)が有名である。これらの写真は、多くの人々にとって環境保護への動機付けになったと指摘される。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アポロ計画(アポロけいかく、Apollo program)は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "冷戦下の米ソ宇宙開発競争のさなかの1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日、宇宙飛行士ニール・アームストロングおよびバズ・オルドリンがアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "アポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画であり、そこで使用されたアポロ宇宙船やサターンロケットは、後のスカイラブ計画やアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。そのため、これらの後続計画も、しばしばアポロ計画の一環であると見なされている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成するにあたり、途中で二つの大きな事故があった。一つは、アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3名の飛行士が死亡している。もう一つは、アポロ13号において、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故である。これにより月面着陸は断念せざるを得なくなったが、乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、そして何よりも彼ら自身の優れた危機管理能力により、無事に地球に帰還することができた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "アポロ8号で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、17号は現在までのところ、人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アポロ計画は、ロケットや有人宇宙船の開発にともなう関連技術の発展に拍車をかけ、特に電子工学や遠隔通信、コンピュータなどの分野において大きく貢献した。またいくつもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、統計的な手段を用いる手法を開拓するなど、多くの工学の分野の発展にも繋がった。有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、文明、技術、電子工学の表章として今も残されている。計画で使用された多くの事物や遺物が、国立航空宇宙博物館をはじめとする世界各地の様々な場所で展示されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アポロ計画は、1960年初頭アイゼンハワー政権下において、マーキュリー計画の後継のプロジェクトとして着想された。マーキュリー宇宙船は、一人の飛行士を乗せて低軌道を周回させることしかできなかったものの、アポロ宇宙船では三人の飛行士を乗せ月を周回し、さらに月面に着陸することが目標とされた。計画名は当時のNASA長官エイブ・シルバースタイン(英語版)が、ギリシャ神話の太陽神アポロンにちなんで名づけたものである。後に彼は「まるで自分の子供に命名するような気持ちで名づけた」と語っている。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "しかし、NASAが立案を開始した時点では予算の見通しは立っておらず、特にアイゼンハワー大統領の有人宇宙飛行に対する態度もあいまいなものであった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1961年1月20日、ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国第35代大統領に選出された。選挙期間中、ケネディは宇宙開発やミサイル防衛の分野においてアメリカをソビエト連邦に優越たらしめることを公約としていた。宇宙開発を国家の威信の象徴とし、ミサイル・ギャップ(当時の米ソ間に想定されていた弾道ミサイルの技術および配備状況の格差)について警鐘をならすとともに、アメリカをこれに勝利させることを約束した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "しかし、この言葉とは裏腹に、大統領に選出された後もケネディはアポロ計画について直ちに決定を下すことはなかった。彼は宇宙開発技術の詳細についてよく知らず、また有人月面着陸に必要とされる莫大な予算に対し二の足を踏んでいたのである。NASAの長官ジェイムズ・ウェッブが13パーセントの予算増額を要求した際、ケネディはNASAの大型ロケットの開発促進は支持したものの、より大きなレベルでの決断は先延ばしにしていた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、ボストーク1号で史上初の有人宇宙飛行を成功した。これを目の当たりにしたアメリカ国民はソ連との宇宙開発競争において立ち後れているという不安を増大させた。ガガーリンの飛行の翌日に開かれた下院科学・宇宙航行学委員会(英語版)では、アメリカがソ連に確実に追いつくことを目的とした緊急プログラムの支持を多数の議員が表明した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "しかし、ここでもケネディは慎重な反応を示しソ連に対するアメリカの対応については明確にすることはなかった。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "4月20日にはケネディはリンドン・ジョンソン副大統領に覚書を送り、アメリカの宇宙開発の現状と、NASAに追いつく可能性を与えられる計画について検討するよう指示した。ジョンソンは翌日の返答で、「我々はいまだ、合衆国を世界の先頭に立たせるためのいかなる最大限の努力も果たしていないし、成果も出してはいない」との見解を示し、また有人月着陸の実現は近くはない将来であり、だからこそアメリカが世界で初めて達成できる可能性があると結論づけた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1961年5月25日、ケネディは上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明した。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ケネディがこの演説をした時点では、アメリカは、そのわずか一ヶ月前に一人の飛行士を宇宙に送ったばかりであり、しかもそれは、砲弾のように単に上昇して下降してくる弾道飛行にすぎず、地球を周回する衛星軌道に乗ったものではなかった。NASAの関係者の中にさえ、ケネディのこの公約の実現性を疑う者がいた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1969年の終わりまでに人間を月面に着陸させるというケネディの挑戦に応えるためには、平時にはいかなる国も実現したことのない規模の技術面での躍進的な進歩と、巨額の予算(250億ドル)とが必要とされた。アポロ計画は、ピーク時には40万人の従業員を雇用しており、アポロ計画をサポートしていたのは2万以上の企業や大学に及んでいた。", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "", "title": "背景" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ケネディがアポロ計画の到達点を明確に定義したことにより、技術者たちはこの設定された目標に対し、生命への危険やコスト、あるいは技術や飛行士の能力への要求を最小限に抑えるための飛行方式を決定する必要に迫られることになり、その結果以下の四つの案が検討された。", "title": "月飛行方式の選択" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1961年の初めまでは、NASA内部では直接降下方式が支持されていた。多くの技術者たちにとっては、地球周回軌道上においてすらいまだ行なわれたことのないランデブーやドッキングを、月周回軌道上で実現させることへの不安が大きかった。しかしながらラングレー研究所のジョン・フーボルトなどの反論者たちは、LOR方式によって得られる大幅な重量削減という利点を強調した。60年から61年にかけ、フーボルトはLORこそが最も確実で実践的な方式であると、各方面に訴えて回った。NASA内部の階級を飛び越え、副長官のロバート・シーマンズのところにも一連の文書を送った。フーボルトは、シーマンズが以前「(計画について)いろいろと雑音を発する者がいる」などと発言していたことを知っていたが、LOR方式を検討から外すべきではないと嘆願した。", "title": "月飛行方式の選択" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン(Golovin)委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、ヒューストン有人宇宙センター内のNASA宇宙任務グループ(Space Task Group, 1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、ウェルナー・フォン・ブラウン博士によって非公式に発表された。NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。", "title": "月飛行方式の選択" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になってアポロ13号が月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。", "title": "月飛行方式の選択" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "月周回ランデブー方式(LOR)が採用されたことにより、アポロ宇宙船の基本的なデザインも決定された。宇宙船は全体として二つの大きな部分から構成されている。飛行士はそのうちの司令・機械船(Command/Service Module, CSM)で飛行中の大部分の時間を過ごし、月着陸船(Lunar Module, LM)で月面に降下し、また戻ってくる。", "title": "宇宙船" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "司令船 (Command Module, CM) は円錐形をしており、三人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ、また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されている。CMに搭載されている主なものは、反動姿勢制御装置、ドッキング用トンネル、航法装置、誘導コンピューターなどである。CMの下部には、メイン・ロケットや姿勢制御用ロケットおよびその燃料、燃料電池、通信用アンテナ、水や酸素のタンクなどを搭載した機械船 (Service Module, SM) が接続されている。アポロ15・16・17号では各種科学測定装置なども搭載されていた。機械船は飛行中のほとんどの時間を司令船に接続された状態にあり、大気圏に再突入する直前に投棄される。司令船底部には再突入時の激しい高温から機体および乗員を保護する耐熱シールドが貼られており、再突入時にはパラシュートを展開して十分に速度を落とした後、安全に海洋上に着水する。", "title": "宇宙船" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "CSM開発の契約は宇宙工学者ハリソン・ストームズ(英語版)をリーダーとするノース・アメリカンが獲得した。同社とNASAの関係はアポロ計画の進行中、特に飛行士三人を犠牲にしたアポロ1号の火災事故が発生したことなどにより、緊張したものになった。事故の原因は司令船内の電気配線のショートによるものであると断定されたが責任の所在は混沌としており、調査委員会は「司令船の設計・技術・品質管理において欠陥が存在した」と結論づけている。", "title": "宇宙船" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "月着陸船 (Lunar Module, LM) は、月面への着陸と司令・機械船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されている。地球の重力圏では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られている。定員は二名で、上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や月面車などを搭載するスペースが設けられている。", "title": "宇宙船" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "開発契約はグラマン社が獲得し、トム・ケリーが計画全体を監督するが、着陸船は開発の遅れという個別のトラブルを抱えることとなる。各種試験の遅延のためにアポロ計画全体の進行にも深刻な影響を与えはじめ、LMは「お荷物」(pacing item) とさえ呼ばれることとなった。このためNASAは、当初は8号で行われるはずだった有人試験飛行を9号に延期せざるを得なくなった。", "title": "宇宙船" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。このうち直接降下方式を採用するためには、計画中のノヴァのような巨大なペイロードを持つロケットが必要だった。やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターはサターンIBおよびサターンVの開発へと向かうこととなった。これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "サターンVは、3段のロケットおよびその3段目最上部(ペイロードを含まない、サターンV単体としての最頂部)に搭載された自動飛行制御装置によって構成されている。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "第1段S-ICは十字型に配置された5基のF-1ロケットエンジンを搭載し、全体で約3,400トンの推力を発生する。燃焼はわずか2分30秒で終了し、機体を時速約9,600km(秒速2.68km)にまで加速する。開発期間中、F-1はずっと燃焼の不具合に見舞われてきた。エンジンへの燃料の供給がスムーズに行われなければ推力のゆらぎが発生し、やがてそれは大きな振動となってエンジン自体を破壊してしまう。この問題は、燃焼中のエンジンの内部で小規模な爆発を発生させて燃焼のばらつきを相殺するなどの数多くの実験を行い、試行錯誤を積み重ねた結果、最終的には解決された。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "第2段S-IIは5基のJ-2ロケットエンジンを搭載し、およそ6分間の燃焼で機体を時速約24,000km(秒速6.84km)、高度185kmにまで到達させる。その後は第3段S-IVBが引き継ぎ、宇宙船を地球周回軌道に乗せる。S-IVBにはJ-2エンジンが1基だけ搭載されていて、軌道上で再点火して月へと向かう軌道に乗る。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "サターンIBは、初期のサターンI(サターン1型ロケット)の発展型である。第1段は8基のH-1ロケットエンジンを搭載し、第2段にはサターンVの第3段と同じS-IVBロケットが使用される。第1段の推力は725トンしかないが、アポロ司令・機械船および月着陸船を地球周回軌道に乗せる能力を持っている。サターンIBは各種の試験飛行および宇宙ステーションスカイラブへの人員の搬送、そしてアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。1973年にはS-IVBを改造したスカイラブが、サターンVによって打ち上げられた。", "title": "ロケット" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1967年9月、テキサス州ヒューストンの有人宇宙センターは月面着陸に向けた一連の飛行計画を発表した。以下の A から G の七種のミッションは、それぞれ宇宙船の特定部分の性能や手順を確認するためのもので、次の段階に進むためには前段階の成功が必要であった。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "後にはこれらに加え、短期間の滞在のうちに2度の月面船外活動を行うミッション H が追加され、さらに、より長い3日間月面に滞在し、月面車を使用して3度の船外活動を行うミッション J がこれに続くこととなった。ミッション J はアポロ15号から17号において実施されたものの、続く18号から20号までは計画自体がキャンセルされた。またこれに先立ち、機械船に科学測定装置を搭載し、軌道滞在中に各種観測を行うミッション I も計画されていたが、18号以降のフライトがキャンセルされたことにより J 案に吸収され、15号から17号において実行された。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "アポロ計画のための準備は、有人飛行が行われる以前に始まっていた。サターンI の試験発射は1961年10月に始まり、1964年9月まで続けられた。このうちの3回の飛行では、模擬の司令・機械船を搭載していた。また1963年と1965年には、宇宙船の緊急離脱用ロケットの発射実験がホワイト・サンズミサイル基地において行われた。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "公式に「アポロ」の名が冠されているものの中で、無人試験飛行が行われたのは4、5、6号のみである。アポロ4号はサターンVの初の試験飛行で、1967年11月9日に行われた。これはジョージ・ミューラーが提唱した「全段一斉試験方式」を例証するものであった。それまでは開発中の多段式ロケットの発射試験をする場合は、各段を別々に行うのが通例だったが、サターンVでは初めて全段を一度にまとめて発射した。実験はきわめて上首尾に終わった。およそ6km離れた地点からその様子を中継していたCBSキャスターのウォルター・クロンカイトによると、あまりにも強烈な騒音と振動で天井のタイルがはがれ落ち、窓が激しく揺さぶられたため、窓ガラスが割れないように手で抑えながら中継を続けなければならなかったという。この実験により、サターンの発射時には近辺にある構造物を振動から保護するための対策が必要であることが明らかになった。これ以降は発射台に直接緩衝機構を設置するようになり、これによって騒音と振動は大幅に低減された。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "アポロ計画最後の無人試験飛行は6号で、1968年4月4日に発射され、約10時間後の21:57:21 UTCに地球に帰還した。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射されたアポロ7号であった。計画の目的は、アポロ1号の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1968年の夏頃には、この年に行われるアポロ8号の飛行には月着陸船の完成が間に合わないことが明らかになった。そのためNASAは計画を変更し、8号を単なる地球周回軌道に乗せるのではなく、月に向かわせ、クリスマス期間中に月を周回させることを決定した。これは当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーだったジョージ・ロウの発案によるもので、しばしば「この変更はソ連が有人のゾンド宇宙船で月を周回しようとしていることに対抗したものである」と言われることがあるが、ソ連にそのような計画があったことをうかがわせる証拠は存在しない。NASAはもちろんゾンドの飛行を知ってはいたが、ゾンド計画の時期とアポロ8号の決定に関するNASAの広範囲な記録は、必ずしも一致しない。結局のところ8号の計画変更は、別に月飛行でソ連に先を越されることを恐れたからではなく、単に着陸船の開発の遅れに起因するものと見るのが妥当である。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1968年12月21日から69年5月18日にかけて、NASAはサターンVを使用して三度の有人飛行(8、9、10号)を行った。それぞれの飛行はすべて三人の飛行士が乗り組み、後の二つは着陸船も搭載していたが、月面着陸を目標とするものではなかった。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "続くアポロ11号で、人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは有名な以下の言葉を残した。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "また次の12号は成功したものの、13号では機械船の酸素タンクが爆発するという事故が発生した。これにより月面着陸は中止せざるを得なくなったが、三人の飛行士は無事に地球に帰還することができた。その後の14号から17号までの飛行はすべて成功し、特に最後の三回では月面車を利用して広範囲に月面を探索する、前述のミッション J が実行された。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最後の17号は1972年12月7日に発射され、12月19日、無事地球に帰還した。船長ユージン・サーナンは2020年現在、最後に月を離れた人間である。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "アポロ計画の成功を受け、NASAおよびその関連企業はアポロのハードウェアを利用した月飛行後の応用計画について、いくつかの案を検討した。「アポロ拡張計画」(後に『アポロ応用計画』と改称された)と呼ばれたこの計画では、地球周回軌道を回る13種類の案が提示されていた。そのうちの多くは、サターン・ロケットの月着陸船が搭載されていたスペースに、科学機器を乗せて打ち上げるというものであった。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "これらのうち、実現されたのはスカイラブ計画(1973年5月-1974年2月)とアポロ・ソユーズテスト計画(1975年7月)だけであった。スカイラブの機体はサターンIBの第二段を改造して作られ、月着陸船をベースにした太陽望遠鏡が設置されていた。本体は一部を改造されたサターンVによって軌道上に打ち上げられ、三名の乗組員はサターンIBに搭載された司令・機械船で地上とラブの間を往復した。最後の飛行士が機体を離れたのは1974年2月8日のことで、スカイラブはその後1979年に、予定よりも早く大気圏に再突入して分解した。アポロ計画に関わった物体としては、その時点においてこれが最も古いものであった。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "アポロ・ソユーズテスト計画は、アポロの司令・機械船および今回のために特別に開発されたドッキング・モジュールが、地球周回軌道上でソ連のソユーズ宇宙船とドッキングするというものであった。計画は1975年7月15日から24日にかけて行われたが、ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーションサリュートなどを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、アメリカは1981年4月12日にスペース・シャトルコロンビア号が初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。", "title": "ミッション" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "アポロ計画では総量で381.7kgの岩石その他の物質が月面から持ち帰られ、そのほとんどは現在はヒューストンにある月資料研究所に保管されている。", "title": "月面から持ち帰ったサンプル" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "放射年代測定によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。その範囲は約32億年前(月の海の部分で採取された玄武岩)から46億年前(高地で採取された地殻のサンプル)まで確認されている。したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった太陽系誕生初期の試料であると見られている。", "title": "月面から持ち帰ったサンプル" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アポロ計画全体を通して採取された岩石の中で重要なものの一つに、15号でジェームズ・アーウィン飛行士とデヴィッド・スコット飛行士が持ち帰った「ジェネシス・ロック(Genesis Rock = 創世記の石)」と呼ばれているものがある。斜長岩に分類されるこの岩石は、カルシウムに富む斜長石(灰長石)によってほとんどの部分が構成されており、月面の高地の地殻のサンプルであると考えられている。この中からは地球化学で KREEP と呼ばれる、地球上には存在しない岩種が発見された。KREEPや斜長岩などのサンプルは、月の外殻表面がかつて大規模に溶融した状態(マグマ・オーシャン)であったという仮説の根拠となっている。", "title": "月面から持ち帰ったサンプル" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "採取された岩石の大部分は衝突にさらされた痕跡を有していた。たとえば多くのサンプルの表面には微少隕石が衝突したことによる極小のクレーターが確認されている。これは厚い大気の層に阻まれた地球上の岩石には見られないものである。また多くのものには隕石が衝突した際に発生した高圧の衝撃波にさらされた形跡が残されており、中には impact melt、すなわちクレーター周辺で衝撃により融解した物質から構成されたものもあった。そして月面から持ち帰られたすべてのサンプルは、繰り返し衝突の衝撃に曝されることによる角礫化が進行していた。", "title": "月面から持ち帰ったサンプル" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "こうした月の岩石の分析結果は、月の成因を地球に火星程度のサイズの天体が衝突したことに求める「ジャイアント・インパクト説」の論旨と合致するものである。", "title": "月面から持ち帰ったサンプル" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。", "title": "コストおよびキャンセルされた計画" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "NASAの歴史に関するウェブサイトを管理するスティーブ・ガーバーによれば、最終的にアポロ計画にかかった費用は1969年当時で200億ドルから254億ドル(2005年現在の貨幣価値に換算すると、およそ1350億ドル)になるという。", "title": "コストおよびキャンセルされた計画" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "またアポロ宇宙船およびサターン・ロケットにかかった費用は2005年度換算で830億ドルで、このうち宇宙船が280億ドル(司令・機械船170億ドル、月着陸船110億ドル)、サターン・ロケット (I・IB・V) が460億ドルであった。", "title": "コストおよびキャンセルされた計画" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "当初の予定ではアポロ計画は20号まで行われるはずだったが、NASAの大幅な予算削減およびサターンVシリーズの後続生産が打ち切られたことにより、18・19・20号の飛行はキャンセルされ、それらの予算はスペース・シャトルの開発およびスカイラブ計画に回されることとなった。残ったサターンVは、1機が1973年にスカイラブを打ち上げるために使用され、残りの2機はフロリダ州ケープ・カナベラルのジョン・F・ケネディ宇宙センター、アラバマ州ハンツビルのマーシャル宇宙飛行センター、ルイジアナ州ニューオリンズのミシャウド組立施設、テキサス州ヒューストンのリンドン・B・ジョンソン宇宙センターなどに分割して現在も展示されている。", "title": "コストおよびキャンセルされた計画" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "アポロ計画は、多くの技術分野を刺激した。アポロ誘導コンピュータは、ミニットマン・ミサイルの開発共々、初期の集積回路研究の推進力となった(当時の大型コンピュータでは、まだ小型化の要求は低く、米国IBM社のSystem/360などではまだチップ上に集積したICを採用していない)。また燃料電池はこの計画によって初めて実用化され、CNC(コンピュータ数値制御)による機械工作もアポロの構造部品製作に際して開拓された分野であった。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "史上初の月面着陸を成功させたアポロ11号の船長ニール・アームストロングは、しばしばマスコミから将来の宇宙開発の展望について質問されている。2005年にはそうした質問に対して「様々な課題はあるかもしれないが、1961年のアポロ計画スタート時に我々が直面したほど困難で、かつ大量の問題にはならないのではないか」と応え、火星への有人飛行は1960年代の月面着陸よりは容易になるであろうとの見解を述べた。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "2004年1月14日、大統領ジョージ・W・ブッシュは演説の中で、2020年までに宇宙飛行士を月面に到達させることを含む新たな宇宙開発の展望の「コンステレーション計画」を発表した。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "計画では、2010年に退役する現行のスペース・シャトルの後継としてオリオン宇宙船があげられており、その空力的な形状はアポロの司令船にきわめて近い。NASAの前長官マイケル・D・グリフィンは、オリオンを「増強版アポロ」(\"Apollo on steroids\") と表現し、雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「オリオン計画はアポロ時代の技術に先祖返りした程度のもの、との批判がある」と伝えているが、一方でオリオンの操縦席の計器板や熱遮蔽板などでは新技術が使用される予定だった。コンステレーション計画のうちアポロ計画の設計に最も似通っていたのは、オリオンを軌道に乗せるために設計されたアレスI の上段ロケットである。このロケットのエンジンには、サターン・シリーズで使用されたJ-2を改良したJ-2Xの使用が計画されていた。J-2Xを開発するにあたり、NASAの技術者らは博物館でアポロ時代の資料を研究し、また実際にアポロ計画に従事した技術者たちに意見を求めた。コンステレーション計画の責任者ジェフ・ハンレイは、「月面への着陸およびそこからの離陸に関する技術的問題は、相当程度にわたってすでに解決されている。これらはアポロ計画が我々に残してくれた遺産である」と述べた。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "アポロと同様、オリオンは月周回ランデブー方式をとるが、月着陸船アルタイルはアレスVロケットによって別個に打ち上げられる予定だった。このアレスVはスペース・シャトルやアポロ計画の技術を元にして開発される予定だったロケットである。そしてスカイラブ計画で行われたように地球周回低軌道上でオリオンとドッキングする。アポロ計画からの変化としては、オリオンではすべての飛行士が月面に降下し、軌道上には無人の宇宙船が待機するという点がある。また探索する地域はアポロ計画ではもっぱら赤道付近が中心だったのに対し、コンステレーション計画では極地方に重点が置かれ、アポロ計画では用いられなかった地球周回ランデブー方式も使用が検討されていた。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "2010年、バラク・オバマ大統領によりコンステレーション計画は中止された。", "title": "科学的・工学的遺産" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1968年のクリスマス・イヴにアポロ8号が行った月面からのテレビ中継は、その時点までになされた報道の中で最も広範囲に伝えられたものであった。またアポロ11号による人類初の月面着陸は、全世界人口の五分の一がテレビ中継を通じて見守ったと言われている。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本でNHK総合テレビが1969年7月16日21:45(JST)から75分間放送した報道特別番組「アポロ11号発射」は43.8%の、またイーグルの月面着陸を報じた21日7:00からの「朝のワイドニュース」は45.4%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録。21日、11時台の総視聴率は46%、12時台のそれは62%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。NHKの調査では、日本では昼間となったアポロ11号による人類初の月面着陸をテレビ同時中継で見た人は68%、21日中に他の番組で見た人を含めると91%に達した。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している。11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルの磁気テープは行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "アポロ計画に続く時期、NASAでは磁気テープが不足したため、アメリカ国立公文書記録管理局から大量のテープを持ち出して新しい衛星のデータを記録しており、テープの捜索にはNASAのテレビ担当者ディック・ナフツガー (Dick Nafzger) や月面カメラの設計をしたスタン・リーバー (Stan Lebar) なども加わったが、結局、アームストロングが月面に足を降ろした瞬間を記録した元テープは失われたと結論された。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "一方、月面着陸の様子を撮影した特別仕様のカメラとテレビ中継映像の規格の違いから、テレビ放送用に変換された映像がテープに記録されていたため、11号について現存する放映時のデータが23万ドルをかけて収集・編集されることとなった。このデジタル復元作業はナフツガーおよび修復を専門とするロウリー・デジタル(Lowry Digital)社が担当し、ノイズやカメラぶれなどを歴史性を損なわずに除去するなどの作業が2009年9月の完了を目指して実施される。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "ロウリー・デジタル社が修復作業をしている映像は、オーストラリアやCBSニュースの保管庫、ジョンソン宇宙センター内で記録されたキネスコープ(kinescope、キネコ)映像などから収集されたものである。復元される映像は一定のデジタル処理を施した白黒映像であり、音声に関しては手を加えられない。", "title": "文化的遺産" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "多くの飛行士が、遠く離れた宇宙空間から地球を見るという経験から深甚な心理的影響を受けたと語っている。アポロが残した最も重要な遺産の一つは、地球が壊れやすい小さな惑星にすぎないという、陳腐とはなっても未だ普遍的とは言い難い認識である。これは月面上から撮影された写真を通じて伝えられ、なかでも8号の飛行士が撮影した「地球の出」(「アースライズ」、左)と、17号の飛行士が撮影した「ザ・ブルー・マーブル」と呼ばれるもの(右)が有名である。これらの写真は、多くの人々にとって環境保護への動機付けになったと指摘される。", "title": "文化的遺産" } ]
アポロ計画は、アメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の有人月面着陸に成功した。 アポロ計画(特に月面着陸)は、人類が初めて有人宇宙船により地球以外の天体に到達した事業である。これは宇宙開発史において画期的な出来事であっただけではなく、人類史における科学技術の偉大な業績としてもしばしば引用される。
{{Infobox space program | name = アポロ計画 | image = [[File:Apollo program.svg|frameless|upright]] | alt = アポロ計画の頭文字である「A」と共に月遷移軌道が描かれている。月と地球はAを挟む形で描かれており、月面にはアポローンの顔が描かれている。 | country = [[アメリカ合衆国]] | organization = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] | purpose = 有人[[月面着陸]] | cost = 254億ドル(1973年)<ref name="ApolloCost">United States. Congress. House. Committee on Science and Astronautics. (1973). ''[https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015084762718&view=1up&seq=1277 1974 NASA authorization: hearings, Ninety-third Congress, first session, on H.R. 4567]''. Page 1271. Washington: U.S. Govt. Print. Off.</ref> | status = 完了 | duration = 1961年 - 1972年 | firstflight = {{Unbulleted list | [[アポロSA-1|SA-1]] | {{Start date|1961|10|27}} }} | firstcrewed = {{Unbulleted list | [[アポロ7号]] | {{Start date|1968|10|11}} }} | lastflight = {{Unbulleted list | [[アポロ17号]] | {{Start date|1972|12|19}} }} | successes = 32 | failures = 2 ([[アポロ1号]]と[[アポロ13号]]) | partialfailures = 1 ([[アポロ6号]]) | launchsite = {{Unbulleted list | [[ケープカナベラル空軍基地第34複合発射施設]] | [[ケネディ宇宙センター]] | [[ホワイトサンズ・ミサイル実験場]] }} | crewvehicle = {{Hlist|[[アポロ司令・機械船]]|[[アポロ月着陸船]]}} | capacity = 3名 | launcher = {{Hlist|[[リトル・ジョーII]]|[[サターンI]]|[[サターンIB]]|[[サターンV]]}} }} '''アポロ計画'''(アポロけいかく、Apollo program)は、[[アメリカ航空宇宙局]](NASA)による[[人類]]初の[[月]]への有人[[宇宙飛行]]計画である。1961年から1972年にかけて実施され、全6回の'''有人[[月面着陸]]'''に成功した。 アポロ計画(特に月面着陸)は、[[人類]]が初めて有人[[宇宙船]]により地球以外の[[天体]]に到達した事業である。これは[[宇宙開発]]史において画期的な出来事であっただけではなく、[[人類史]]における[[科学技術]]の偉大な業績としてもしばしば引用される。 <!--[[小惑星]][[ソユーズ・アポロ (小惑星)|(2228) Soyuz-Apollo]]はソユーズ宇宙船とアポロにちなんで命名された<ref>{{cite web|url=https://minorplanetcenter.net/db_search/show_object?object_id=2228|title=(2228) Soyuz-Apollo = 1933 SK1 = 1952 DT1 = 1963 DD = 1973 YN3 = 1977 OH|publisher=MPC|accessdate=2021-09-25}}</ref>。--> == 概要 == [[冷戦]]下の'''米ソ[[宇宙開発競争]]'''のさなかの1961年5月、[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョン・F・ケネディ]]は、1960年代中に人間を[[月]]に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日、[[宇宙飛行士]][[ニール・アームストロング]]および[[バズ・オルドリン]]が[[アポロ11号]]で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。 アポロ計画は、NASAによる[[マーキュリー計画]]、[[ジェミニ計画]]に続く三度目の[[有人宇宙飛行]]計画であり、そこで使用された[[アポロ宇宙船]]や[[サターンロケット]]は、後の[[スカイラブ計画]]や[[アポロ・ソユーズテスト計画]]で使用された。そのため、これらの後続計画も、しばしばアポロ計画の一環であると見なされている。 アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成するにあたり、途中で二つの大きな事故があった。一つは、[[アポロ1号]]における予行演習中の発射台上での火災事故で、[[ガス・グリソム]]、[[エドワード・ホワイト]]、[[ロジャー・チャフィー]]の3名の飛行士が死亡している。もう一つは、[[アポロ13号]]において、月に向かう軌道上で[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の[[酸素]]タンクが爆発した事故である。これにより月面着陸は断念せざるを得なくなったが、乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、そして何よりも彼ら自身の優れた[[危機管理]]能力により、無事に地球に帰還することができた。 <!-- アポロ計画以外に[[人工衛星の軌道|地球周回軌道]]から離脱して人間を[[宇宙空間]]に送った例は、今のところ存在しない。 - 地球周回軌道の離脱というと惑星軌道を指すのが普通に思うので、[[ヒル球]]内部の軌道(地球の孫衛星軌道や月遷移軌道は地球周回の一種では?)を指すには似つかわしくないと思われます。 -->[[アポロ8号]]で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、[[アポロ17号|17号]]は現在までのところ、人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。 アポロ計画は、[[ロケット]]や有人宇宙船の開発にともなう関連技術の発展に拍車をかけ、特に[[電子工学]]や遠隔[[通信]]、[[コンピュータ]]などの分野において大きく貢献した。またいくつもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、[[統計]]的な手段を用いる手法を開拓するなど、多くの[[工学]]の分野の発展にも繋がった。有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、[[文明]]、技術、電子工学の表章として今も残されている。計画で使用された多くの事物や遺物が、[[国立航空宇宙博物館]]をはじめとする世界各地の様々な場所で展示されている。 == 背景 == アポロ計画は、1960年初頭[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]政権下において、[[マーキュリー計画]]の後継のプロジェクトとして着想された。マーキュリー宇宙船は、一人の飛行士を乗せて[[低軌道]]を周回させることしかできなかったものの、アポロ宇宙船では三人の飛行士を乗せ月を周回し、さらに月面に着陸することが目標とされた。計画名は当時の[[NASA長官]]{{仮リンク|エイブ・シルバースタイン|en|Abe Silverstein}}が、[[ギリシャ神話]]の太陽神[[アポロン]]にちなんで名づけたものである。後に彼は「まるで自分の子供に命名するような気持ちで名づけた」と語っている<ref>{{Cite book |author=Charles Murray, Catherine Bly Cox |year=2004 |title=Apollo |publisher=South Mountain Books |pages=p. 39 |language=英語 |isbn=978-0976000808 }}</ref>。 しかし、NASAが立案を開始した時点では予算の見通しは立っておらず、特にアイゼンハワー大統領の有人宇宙飛行に対する態度もあいまいなものであった<ref>{{Cite book |author=Charles Murray, Catherine Bly Cox |year=2004 |title=Apollo |publisher=South Mountain Books |pages=p. 45 |language=英語 |isbn=978-0976000808 }}</ref>。 1961年1月20日、ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国第35代大統領に選出された。選挙期間中、ケネディは宇宙開発や[[ミサイル]]防衛の分野においてアメリカを[[ソビエト連邦]]に優越たらしめることを公約としていた。宇宙開発を国家の威信の象徴とし、[[ミサイル・ギャップ]](当時の米ソ間に想定されていた[[弾道ミサイル]]の技術および配備状況の格差)について警鐘をならすとともに、アメリカをこれに勝利させることを約束した<ref>Michael R. Beschloss, "Kennedy and the Decision to Go to the Moon," in {{Cite book |author=Roger D. Launius and Howard E McCurdy, (eds.) |year=1997 |title=Spaceflight and the Myth of Presidential Leadership |publisher=University of Illinois Press |pages=p. 45 |language=英語 |isbn=978-0252066320 }}</ref>。 しかし、この言葉とは裏腹に、大統領に選出された後もケネディはアポロ計画について直ちに決定を下すことはなかった。彼は宇宙開発技術の詳細についてよく知らず、また有人月面着陸に必要とされる莫大な予算に対し二の足を踏んでいたのである。NASAの長官[[ジェイムズ・エドウィン・ウェッブ|ジェイムズ・ウェッブ]]が13パーセントの予算増額を要求した際、ケネディはNASAの大型ロケットの開発促進は支持したものの、より大きなレベルでの決断は先延ばしにしていた<ref>Michael R. Beschloss, "Kennedy and the Decision to Go to the Moon," p. 55.</ref>。 1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士[[ユーリ・ガガーリン]]が、[[ボストーク1号]]で史上初の有人宇宙飛行を成功した。これを目の当たりにしたアメリカ国民はソ連との[[宇宙開発競争]]において立ち後れているという不安を増大させた。ガガーリンの飛行の翌日に開かれた{{仮リンク|下院科学・宇宙航行学委員会|en|House Committee on Science and Astronautics}}では、アメリカがソ連に確実に追いつくことを目的とした緊急プログラムの支持を多数の議員が表明した<ref>"Discussion of Soviet Man-in-Space Shot," Hearing before the Committee on Science and Astronautics, U.S. House of Representatives, 87th Congress, First Session, April 13, 1961.</ref>。 しかし、ここでもケネディは慎重な反応を示しソ連に対するアメリカの対応については明確にすることはなかった<ref>{{Cite book |last=Sidey |first=Hugh |year=1963 |title=John F. Kennedy, President |publisher=Atheneum |pages=p. 114 |language=英語 }}</ref>。 4月20日にはケネディは[[リンドン・ジョンソン]][[副大統領]]に覚書を送り、アメリカの宇宙開発の現状と、NASAに追いつく可能性を与えられる計画について検討するよう指示した<ref>Kennedy to Johnson, [http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/Apollomon/apollo1.pdf "Memorandum for Vice President,"] April 20, 1961.</ref>。ジョンソンは翌日の返答で、「我々はいまだ、合衆国を世界の先頭に立たせるためのいかなる最大限の努力も果たしていないし、成果も出してはいない」との見解を示し、また有人月着陸の実現は近くはない将来であり、だからこそアメリカが世界で初めて達成できる可能性があると結論づけた<ref>Johnson to Kennedy, [http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/Apollomon/apollo2.pdf "Evaluation of Space Program,"] April 21, 1961.</ref>。 [[ファイル:Kennedy Giving Historic Speech to Congress - GPN-2000-001658.jpg|thumb|left|1961年5月25日の上下院合同議会で、月着陸計画の決定を発表するケネディ大統領]] 1961年5月25日、ケネディは[[アメリカ合衆国議会合同会議|上下両院合同議会]]での演説で、アポロ計画の支援を表明した。 {{cquote|'''まず私は、今後10年以内に人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標の達成に我が国民が取り組むべきと確信しています。この期間のこの宇宙プロジェクト以上に、より強い印象を人類に残すものは存在せず、長きにわたる宇宙探査史においてより重要となるものも存在しないことでしょう。そして、このプロジェクト以上に完遂に困難を伴い費用を要するものもないでしょう。'''<br/>''First, I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth. No single space project in this period will be more impressive to mankind, or more important in the long-range exploration of space; and none will be so difficult or expensive to accomplish.''<ref>John F. Kennedy, [http://www.jfklibrary.org/Historical+Resources/Archives/Reference+Desk/Speeches/JFK/Urgent+National+Needs+Page+4.htm "Special Message to the Congress on Urgent National Needs"], May 25, 1961</ref>}}<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=GhgVZLrxiu0 President Kennedy's Man on the Moon Speech - 1961 | Today in History | 25 May 16] British Movietone </ref> ケネディがこの演説をした時点では、アメリカは、そのわずか一ヶ月前に一人の飛行士を宇宙に送ったばかりであり、しかもそれは、[[砲弾]]のように単に上昇して下降してくる[[弾道飛行]]にすぎず、地球を周回する[[衛星軌道]]に乗ったものではなかった。NASAの関係者の中にさえ、ケネディのこの公約の実現性を疑う者がいた<ref>{{Cite book |author=Charles Murray, Catherine Bly Cox |year=2004 |title=Apollo |publisher=South Mountain Books |pages=pp. 3 - 4 |language=英語 |isbn=978-0976000808 }}</ref>。 1969年の終わりまでに人間を月面に着陸させるというケネディの挑戦に応えるためには、平時にはいかなる国も実現したことのない規模の技術面での躍進的な進歩と、巨額の予算(250億ドル)とが必要とされた。アポロ計画は、ピーク時には40万人の従業員を雇用しており、アポロ計画をサポートしていたのは2万以上の企業や大学に及んでいた<ref>[http://www.nasa.gov/centers/langley/news/factsheets/Apollo.html NASA Langley Research Center's Contributions to the Apollo Program], NASA Langley Research Center.</ref>。 [[ファイル:John F. Kennedy speaks at Rice University.jpg|thumbnail|right|ライス大学でアメリカの宇宙計画について演説するケネディ大統領。1962年9月12日]] {{cquote|'''我々が10年以内に月に行こうなどと決めたのは、それが容易だからではありません。むしろ困難だからです。この目標が、我々のもつ行動力や技術の最善といえるものを集結しそれがどれほどのものかを知るのに役立つこととなるからです。その挑戦こそ、我々が受けて立つことを望み、先延ばしすることを望まないものだからです。そして、これこそが、我々が勝ち取ろうと志すものであり、我々以外にとってもそうだからです。'''<br/>''We choose to go to the moon in this decade and do the other things, not because they are easy, but because they are hard, because that goal will serve to organize and measure the best of our energies and skills, because that challenge is one that we are willing to accept, one we are unwilling to postpone, and one which we intend to win, and the others, too.''(宇宙開発の国家目標について、ライス大学でケネディが行った演説から)<ref>John F. Kennedy,[http://www.jfklibrary.org/Historical+Resources/Archives/Reference+Desk/Speeches/JFK/003POF03SpaceEffort09121962.htm "Address at Rice University on the Nation's Space Effort"]</ref>}}<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=QXqlziZV63k "Why go to the moon?" - John F. Kennedy at Rice University] Rice University</ref> == 月飛行方式の選択 == {{出典の明記|date=2022-02-10|section=1}} ケネディがアポロ計画の到達点を明確に定義したことにより、技術者たちはこの設定された目標に対し、生命への危険やコスト、あるいは技術や飛行士の能力への要求を最小限に抑えるための飛行方式を決定する必要に迫られることになり、その結果以下の四つの案が検討された。 [[ファイル:Apollo Direct Ascent Concept.jpg|thumb|left|アポロ計画初期の段階での、直接降下および地球周回[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]方式の宇宙船のイメージ(1961年)]] * '''直接降下方式''':単体の宇宙船で月に向かい、着陸して帰還するというもの。この方式では、計画されただけで実現することのなかった[[NOVA (ロケット)|ノヴァ]]のような、非常に強力なロケットが必要とされる。 * '''地球周回ランデブー方式(Earth Orbit Rendezvous, EOR)''':複数のロケット(15基以上を必要とするという案もあった)で部品を打ち上げ、直接降下方式の宇宙船および地球周回軌道を脱出するための宇宙船を組み立てるというもの。軌道上で各部分を[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]させた後は、宇宙船は単体として月面に着陸する。 * '''月面ランデブー方式''':二機の宇宙船を続けて打ち上げる方式。燃料を搭載した無人の宇宙船が先に月面に到達し、その後人間を乗せた宇宙船が着陸する。地球に帰還する前に、必要な燃料は無人船から供給される。 * '''月周回ランデブー方式(Lunar Orbit Rendezvous, LOR)''':いくつかの単位から構成される宇宙船を、1基の[[サターンV]]で打ち上げるという方式。着陸船が月面で活動している間、司令船は[[月周回軌道]]上に残り、その後活動を終えて離昇してきた着陸船と再びドッキングする。他の方式と比較すると、LOR方式はそれほど大きな着陸船を必要とせず、そのため月面から帰還する宇宙船の重量(すなわち地球からの発射総重量)を最小限に抑えることができる。 1961年の初めまでは、NASA内部では直接降下方式が支持されていた。多くの技術者たちにとっては、地球周回軌道上においてすらいまだ行なわれたことのない[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]やドッキングを、月周回軌道上で実現させることへの不安が大きかった。しかしながら[[ラングレー研究所]]のジョン・フーボルトなどの反論者たちは、LOR方式によって得られる大幅な重量削減という利点を強調した。60年から61年にかけ、フーボルトはLORこそが最も確実で実践的な方式であると、各方面に訴えて回った。NASA内部の階級を飛び越え、副長官のロバート・シーマンズのところにも一連の文書を送った。フーボルトは、シーマンズが以前「(計画について)いろいろと雑音を発する者がいる」などと発言していたことを知っていたが、LOR方式を検討から外すべきではないと嘆願した。 そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン(Golovin)委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、[[ジョンソン宇宙センター|ヒューストン有人宇宙センター]]内のNASA宇宙任務グループ(Space Task Group, 1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、[[ウェルナー・フォン・ブラウン]]博士によって非公式に発表された。NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。 ちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になって[[アポロ13号]]が月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。 == 宇宙船 == {{main|アポロ宇宙船}} [[ファイル:Apollo CSM lunar orbit.jpg|thumb|right|月を周回するアポロ司令・機械船]] 月周回ランデブー方式(LOR)が採用されたことにより、アポロ宇宙船の基本的なデザインも決定された。宇宙船は全体として二つの大きな部分から構成されている。飛行士はそのうちの[[アポロ司令・機械船|司令・機械船]](Command/Service Module, CSM)で飛行中の大部分の時間を過ごし、[[アポロ月着陸船|月着陸船]](Lunar Module, LM)で月面に降下し、また戻ってくる。 === 司令・機械船 === {{main|アポロ司令・機械船}} [[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]] (Command Module, CM) は[[円錐]]形をしており、三人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ、また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されている。CMに搭載されている主なものは、反動姿勢制御装置、ドッキング用トンネル、航法装置、[[アポロ誘導コンピュータ|誘導コンピューター]]などである。CMの下部には、メイン・ロケットや姿勢制御用ロケットおよびその燃料、[[燃料電池]]、通信用[[アンテナ]]、水や酸素のタンクなどを搭載した[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]] (Service Module, SM) が接続されている。アポロ[[アポロ15号|15]]・[[アポロ16号|16]]・[[アポロ17号|17号]]では各種科学測定装置なども搭載されていた。機械船は飛行中のほとんどの時間を司令船に接続された状態にあり、[[大気圏再突入|大気圏に再突入]]する直前に投棄される。司令船底部には再突入時の激しい高温から機体および乗員を保護する耐熱シールドが貼られており、再突入時には[[パラシュート]]を展開して十分に速度を落とした後、安全に海洋上に着水する。 CSM開発の契約は宇宙工学者{{仮リンク|ハリソン・ストームズ|en|Harrison Storms}}をリーダーとする[[ノース・アメリカン]]が獲得した。同社とNASAの関係はアポロ計画の進行中、特に飛行士三人を犠牲にした[[アポロ1号]]の火災事故が発生したことなどにより、緊張したものになった。事故の原因は司令船内の電気配線の[[短絡|ショート]]によるものであると断定されたが責任の所在は混沌としており、調査委員会は「司令船の設計・技術・品質管理において欠陥が存在した」と結論づけている<ref>[http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/Apollo204/find.html Report of the Apollo 204 Review Board, Findings and Recommendations]</ref>。 === 月着陸船 === {{main|アポロ月着陸船}} [[ファイル:Apollo16LM.jpg|thumb|left|月面上の月着陸船]] [[アポロ月着陸船|月着陸船]]<ref group="注釈">初期には月周遊船 (Lunar Excursion Module, LEM) とも呼ばれていた。</ref> (Lunar Module, LM) は、月面への着陸と司令・機械船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されている。地球の[[重力圏]]では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られている。定員は二名で、上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や[[月面車]]などを搭載するスペースが設けられている。 開発契約は[[グラマン]]社が獲得し、トム・ケリーが計画全体を監督するが、着陸船は開発の遅れという個別のトラブルを抱えることとなる。各種試験の遅延のためにアポロ計画全体の進行にも深刻な影響を与えはじめ、LMは「お荷物」({{lang|en|pacing item}}) とさえ呼ばれることとなった<ref>[http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4205/ch7-4.html Chariots for Apollo, Ch 7-4]</ref>。このためNASAは、当初は[[アポロ8号|8号]]で行われるはずだった有人試験飛行を[[アポロ9号|9号]]に延期せざるを得なくなった。 == ロケット == {{出典の明記|date=2022-02-10|section=1}} フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。このうち直接降下方式を採用するためには、計画中の[[NOVA (ロケット)|ノヴァ]]のような巨大な[[ペイロード (航空宇宙)|ペイロード]]を持つロケットが必要だった。やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターは[[サターンIB]]および[[サターンV]]の開発へと向かうこととなった。これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。 === サターンV(サターン5型ロケット) === {{main|サターンV}} [[ファイル:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|アポロ11号の搭乗員たちを乗せて月へと向かうサターンV。1969年7月16日]] [[ファイル:Saturn V diagram from Apollo 6 Press Kit.jpg|thumb|left|アポロ6号で報道陣向けに公開されたサターンV図解(ペイロード含む)]] サターンVは、3段のロケットおよびその3段目最上部(ペイロードを含まない、サターンV単体としての最頂部)に搭載された自動飛行制御装置によって構成されている。 第1段[[S-IC]]は十字型に配置された5基の[[F-1ロケットエンジン]]を搭載し、全体で約3,400[[トン]]の[[推力]]を発生する。燃焼はわずか2分30秒で終了し、機体を時速約9,600km(秒速2.68km)にまで加速する。開発期間中、F-1はずっと燃焼の不具合に見舞われてきた。エンジンへの燃料の供給がスムーズに行われなければ推力のゆらぎが発生し、やがてそれは大きな振動となってエンジン自体を破壊してしまう。この問題は、燃焼中のエンジンの内部で小規模な爆発を発生させて燃焼のばらつきを相殺するなどの数多くの実験を行い、試行錯誤を積み重ねた結果、最終的には解決された。 第2段[[S-II]]は5基の[[J-2ロケットエンジン]]を搭載し、およそ6分間の燃焼で機体を時速約24,000km(秒速6.84km)、高度185kmにまで到達させる。その後は第3段[[S-IVB]]が引き継ぎ、宇宙船を地球周回軌道に乗せる。S-IVBにはJ-2エンジンが1基だけ搭載されていて、軌道上で再点火して月へと向かう軌道に乗る。 === サターンIB(サターン1B型ロケット) === {{main|サターンIB}} サターンIBは、初期の[[サターンI|サターンI(サターン1型ロケット)]]の発展型である。第1段は8基のH-1ロケットエンジンを搭載し、第2段にはサターンVの第3段と同じS-IVBロケットが使用される。第1段の推力は725トンしかないが、アポロ司令・機械船および月着陸船を地球周回軌道に乗せる能力を持っている。サターンIBは各種の試験飛行および[[宇宙ステーション]]スカイラブへの人員の搬送、そしてアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。1973年にはS-IVBを改造したスカイラブが、サターンVによって打ち上げられた。 == ミッション == === ミッションの種類 === 1967年9月、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の有人宇宙センターは月面着陸に向けた一連の飛行計画を発表した。以下の '''A''' から '''G''' の七種のミッションは、それぞれ宇宙船の特定部分の性能や手順を確認するためのもので、次の段階に進むためには前段階の成功が必要であった。 * '''A''' - (無人)司令・機械船 試験飛行 * '''B''' - (無人)月着陸船 試験飛行 * '''C''' - (有人)司令・機械船 [[低軌道|低高度地球周回軌道]]飛行 そして地球帰還 * '''D''' - (有人)司令・機械船および月着陸船 低高度地球周回軌道飛行 そして地球帰還 * '''E''' - (有人)司令・機械船および月着陸船 遠地点7,400kmの[[楕円軌道]]飛行 そして地球帰還 * '''F''' - (有人)司令・機械船および月着陸船 月周回飛行 そして地球帰還 * '''G''' - (有人)月面着陸 そして地球帰還 後にはこれらに加え、短期間の滞在のうちに2度の月面[[船外活動]]を行うミッション '''H''' が追加され、さらに、より長い3日間月面に滞在し、[[月面車]]を使用して3度の[[船外活動]]を行うミッション '''J''' がこれに続くこととなった。ミッション '''J''' は[[アポロ15号]]から[[アポロ17号|17号]]において実施されたものの、続く18号から20号までは計画自体がキャンセルされた。またこれに先立ち、機械船に科学測定装置を搭載し、軌道滞在中に各種観測を行うミッション '''I''' も計画されていたが、18号以降のフライトがキャンセルされたことにより '''J''' 案に吸収され、15号から17号において実行された。 === 無人ミッション === アポロ計画のための準備は、有人飛行が行われる以前に始まっていた。[[サターンI]] の試験発射は1961年10月に始まり、1964年9月まで続けられた。このうちの3回の飛行では、模擬の司令・機械船を搭載していた。また1963年と1965年には、宇宙船の[[打ち上げ脱出システム|緊急離脱用ロケット]]の発射実験が[[ホワイトサンズ・ミサイル実験場|ホワイト・サンズミサイル基地]]において行われた。 公式に「アポロ」の名が冠されているものの中で、無人試験飛行が行われたのは[[アポロ4号|4]]、[[アポロ5号|5]]、[[アポロ6号|6号]]のみである。[[アポロ4号]]はサターンVの初の試験飛行で、1967年11月9日に行われた。これはジョージ・ミューラーが提唱した「全段一斉試験方式」を例証するものであった。それまでは開発中の[[多段式ロケット]]の発射試験をする場合は、各段を別々に行うのが通例だったが、サターンVでは初めて全段を一度にまとめて発射した。実験はきわめて上首尾に終わった。およそ6km離れた地点からその様子を中継していた[[CBS]][[ニュースキャスター|キャスター]]の[[ウォルター・クロンカイト]]によると、あまりにも強烈な騒音と振動で天井のタイルがはがれ落ち、窓が激しく揺さぶられたため、窓ガラスが割れないように手で抑えながら中継を続けなければならなかったという<ref>{{Cite book |author=Charles Murray, Catherine Bly Cox |year=2004 |title=Apollo |publisher=South Mountain Books |pages=p. 240 |language=英語 |isbn=978-0976000808 }}</ref>。この実験により、サターンの発射時には近辺にある構造物を振動から保護するための対策が必要であることが明らかになった。これ以降は発射台に直接緩衝機構を設置するようになり、これによって騒音と振動は大幅に低減された{{efn|アポロに比べて貨物や乗員が地表に近いスペース・シャトル計画では、大量の水を散布して音響を抑制する方式が採用され、現在のスペース・シャトルでも継続して使用されている。Cf. [http://www-pao.ksc.nasa.gov/nasafact/count4ssws.htm Sound Suppression Water System]}}。 アポロ計画最後の無人試験飛行は6号で、1968年4月4日に発射され、約10時間後の21:57:21 UTCに地球に帰還した。 === 有人ミッション === [[ファイル:Buzz salutes the U.S. Flag.jpg|thumb|right|アポロ11号で、月面に立てた星条旗のかたわらに立つバズ・オルドリン飛行士。旗の上辺に梁があるが、これは大気のない月面上で旗を展開しておくためのものである]] 有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。 アポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射された[[アポロ7号]]であった。計画の目的は、[[アポロ1号]]の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。 1968年の夏頃には、この年に行われるアポロ8号の飛行には月着陸船の完成が間に合わないことが明らかになった。そのためNASAは計画を変更し、8号を単なる地球周回軌道に乗せるのではなく、月に向かわせ、[[クリスマス]]期間中に月を周回させることを決定した。これは当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーだったジョージ・ロウの発案によるもので、しばしば「この変更はソ連が有人の[[ゾンド計画|ゾンド宇宙船]]で月を周回しようとしていることに対抗したものである」と言われることがあるが、ソ連にそのような計画があったことをうかがわせる証拠は存在しない。NASAはもちろんゾンドの飛行を知ってはいたが、ゾンド計画の時期とアポロ8号の決定に関するNASAの広範囲な記録は、必ずしも一致しない。結局のところ8号の計画変更は、別に月飛行でソ連に先を越されることを恐れたからではなく、単に着陸船の開発の遅れに起因するものと見るのが妥当である。 1968年12月21日から69年5月18日にかけて、NASAはサターンVを使用して三度の有人飛行([[アポロ8号|8]]、[[アポロ9号|9]]、[[アポロ10号|10号]])を行った。それぞれの飛行はすべて三人の飛行士が乗り組み、後の二つは着陸船も搭載していたが、月面着陸を目標とするものではなかった。 続く[[アポロ11号]]で、人類は地球の歴史上初めて地球以外の天体の上に降り立ち、船長ニール・アームストロングは有名な以下の言葉を残した。 [[ファイル:Apollo 11 first step.jpg|thumb|left|月面に降り立った最初の人類となるニール・アームストロングをとらえた搭載カメラの映像]] {{Cquote|'''これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。'''<br/>''That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.''}} {{Listen|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title="That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind"|description=|format=[[Ogg]]}} [[ファイル:As17-134-20382.jpg|thumb|right|1972年12月13日、アポロ計画における最後の月面活動を行うハリソン・シュミット飛行士]] また次の[[アポロ12号|12号]]は成功したものの、[[アポロ13号|13号]]では機械船の酸素タンクが爆発するという事故が発生した。これにより月面着陸は中止せざるを得なくなったが、三人の飛行士は無事に地球に帰還することができた。その後の[[アポロ14号|14号]]から[[アポロ17号|17号]]までの飛行はすべて成功し、特に最後の三回では月面車を利用して広範囲に月面を探索する、[[#ミッションの種類|前述]]のミッション '''J''' が実行された。 最後の17号は1972年12月7日に発射され、12月19日、無事地球に帰還した。船長[[ユージン・サーナン]]は2020年現在、最後に月を離れた人間である。 === アポロ応用計画 === アポロ計画の成功を受け、NASAおよびその関連企業はアポロの[[ハードウェア]]を利用した月飛行後の応用計画について、いくつかの案を検討した。「アポロ拡張計画」(後に『アポロ応用計画』と改称された)と呼ばれたこの計画では、地球周回軌道を回る13種類の案が提示されていた。そのうちの多くは、サターン・ロケットの月着陸船が搭載されていたスペースに、科学機器を乗せて打ち上げるというものであった。 これらのうち、実現されたのは[[スカイラブ計画]](1973年5月-1974年2月)と[[アポロ・ソユーズテスト計画]](1975年7月)だけであった。スカイラブの機体はサターンIBの第二段を改造して作られ、月着陸船をベースにした太陽望遠鏡が設置されていた。本体は一部を改造されたサターンVによって軌道上に打ち上げられ、三名の乗組員はサターンIBに搭載された司令・機械船で地上とラブの間を往復した。最後の飛行士が機体を離れたのは1974年2月8日のことで、スカイラブはその後1979年に、予定よりも早く大気圏に再突入して分解した。アポロ計画に関わった物体としては、その時点においてこれが最も古いものであった。 アポロ・ソユーズテスト計画は、アポロの司令・機械船および今回のために特別に開発されたドッキング・モジュールが、地球周回軌道上でソ連の[[ソユーズ]]宇宙船とドッキングするというものであった。計画は1975年7月15日から24日にかけて行われたが、ソ連はこの飛行の後もソユーズや宇宙ステーション[[サリュート]]などを使って有人宇宙飛行を継続したのに対し、アメリカは1981年4月12日に[[スペースシャトル・コロンビア|スペース・シャトルコロンビア号]]が初飛行を行うまで、人間が宇宙に行くことは中断されていた。 === 計画の概要 === {| class="wikitable" style="font-size:95%;" |- ! width="90" align="left" | 計画名 ! width="90" align="center" | 使用ロケット ! width="110" align="center" | 乗組員 ! width="60" align="center" | 発射日 ! width="60" align="center" | 計画の目標 ! align="center" | 結果 |- | [[アポロAS-201]]<br/>('''アポロ1A''') | [[サターンIB]] | 無人 | 1966年<br/>2月26日 | 弾道飛行 | <span style="color:green;">一部成功</span> - サターンIBを使用してアポロ司令・機械船を打ち上げた、初の弾道飛行。機械船のロケットエンジンが予定よりも60秒長く噴射し、司令船の電気系統でトラブルが発生するなどの問題があった。 |- | [[アポロAS-203]]<br/>('''アポロ2号''') | [[サターンIB]] | 無人 | 1966年<br/>7月5日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 燃料タンク内の挙動およびロケットの性能試験。非公式に「アポロ2号」と呼ばれる。 |- | [[アポロAS-202]]<br/>('''アポロ3号''') | [[サターンIB]] | 無人 | 1966年<br/>8月25日 | 弾道飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 司令船の大気圏再突入試験。途中で制御不能に陥ったものの、計画自体は成功。非公式に「アポロ3号」と呼ばれる。 |- | [[アポロAS-204]]<br/>('''アポロ1号''') | [[サターンIB]] | [[ガス・グリソム]]<br/>[[エドワード・ホワイト]]<br/>[[ロジャー・チャフィー]] | 発射中止 | 地球周回飛行 | <span style="color:red;">失敗</span> - 1967年1月27日、発射台上での訓練中に司令船の火災事故が発生し、3名の飛行士が命を失った。「アポロ1号」と命名されたのは、事故の後のことだった。しかし、これは実際にはアポロ宇宙船の四度目の飛行となる予定だった(またNASAもAS-204と呼ぶ予定であった)。一方、1966年6月にNASAが承認し飛行士が身につけていた計画の標章にはすでに「アポロ1号」と記されていた。 |- | [[アポロ4号]] | [[サターンV]] | 無人 | 1967年<br/>11月9日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - (月着陸船を除いて)フル装備の状態で行われたサターンVの初飛行であり、司令船の大気圏再突入も成功した。 |- | [[アポロ5号]] | [[サターンIB]] | 無人 | 1968年<br/>1月22日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 月着陸船の初の試験飛行。多数の試験が行われ、終了後着陸船は大気圏に再突入し消息を絶った。<br/>使用されたロケットは、本来は3名の飛行士を犠牲にしたアポロ1号(AS-204)で使用される予定のものだった。 |- | [[アポロ6号]] | [[サターンV]] | 無人 | 1968年<br/>4月4日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">一部成功</span> - 軌道投入時に激しい振動が発生し、エンジンの数機が停止した。司令船の大気圏再突入は成功したが、予定していた「最悪の状態」を想定した試験を行うことはできなかった。 |- | [[アポロ7号]] | [[サターンIB]] | [[ウォルター・シラー]]<br/>ドン・アイセル<br/>ウォルター・カニンガム | 1968年<br/>10月11日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 11日間にわたり地球を周回し、司令船その他の性能試験を行う。 |- | [[アポロ8号]] | [[サターンV]] | フランク・ボーマン<br/>[[ジム・ラヴェル]]<br/>[[ウィリアム・アンダース]] | 1968年<br/>12月21日 | 月周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 史上初めて、人間が月を周回した飛行。地球周回軌道を離れて外部の世界から人間が地球を見下ろしたのも、この飛行が初めてだった。実験は成功したが、飛行士が睡眠障害に陥ったり軽い病気にかかるなどした。 |- | [[アポロ9号]] | [[サターンV]] | ジェームズ・マクディヴィッド<br/>[[デヴィッド・スコット]]<br/>[[ラッセル・スワイカート]] | 1969年<br/>3月3日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 10日間にわたり地球を周回し、月着陸船の性能試験および[[船外活動]]を行った。 |- | [[アポロ10号]] | [[サターンV]] | [[トーマス・スタッフォード]]<br/>[[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]<br/>[[ユージーン・サーナン]] | 1969年<br/>5月18日 | 月周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 2度目の月周回飛行。月周回軌道上で月着陸船の性能試験を行い、<br/>月へ高度15.6kmまで接近した。 |- | [[アポロ11号]] | [[サターンV]] | [[ニール・アームストロング]]<br/>[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]<br/>[[バズ・オルドリン]] | 1969年<br/>7月16日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">'''成功'''</span> - 史上初の有人月面着陸(最終降下局面では半自動にて手動介入)。着陸地点の周辺を歩行により探査。 |- | [[アポロ12号]] | [[サターンV]] | ピート・コンラッド<br/>リチャード・ゴードン<br/>アラン・ビーン | 1969年<br/>11月14日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">成功</span> - 発射時に落雷が機体を直撃して船内が一時的に停電したが、無事打ち上げに成功。1967年4月17日に着陸した無人探査機[[サーベイヤー計画|サーベイヤー]]3号から、わずか200mの地点に着陸した。 |- | [[アポロ13号]] | [[サターンV]] | [[ジム・ラヴェル]]<br/>[[ジャック・スワイガート]]<br/>フレッド・ヘイズ | 1970年<br/>4月11日 | 月面着陸 | <span style="color:orange;">失敗(『成功した失敗』と評されることもある)</span> - 月に向かう軌道の途中で機械船の酸素タンクが爆発し、月面着陸は断念せざるを得なくなった。乗組員は一時的に着陸船に避難し、月を周回して地球に帰還した。 |- | [[アポロ14号]] | [[サターンV]] | [[アラン・シェパード]]<br/>スチュワート・ルーズマ<br/>エドガー・ミッチェル | 1971年<br/>1月31日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">成功</span> - 月周回軌道上で着陸船のコンピューターに問題が発生したが、着陸に成功。初めて月面でカラー撮影を行い、また化学実験をした。 |- | [[アポロ15号]] | [[サターンV]] | [[デヴィッド・スコット]]<br/>アルフレッド・ウォーデン<br/>[[ジェームズ・アーウィン]] | 1971年<br/>7月26日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">成功</span> - 初の3日以上の長期月面滞在。初めて月面車を使用し、27.76kmにわたって広範な地質学的調査を行った。 |- | [[アポロ16号]] | [[サターンV]] | [[ジョン・ヤング (宇宙飛行士)|ジョン・ヤング]]<br/>[[ケン・マッティングリー]]<br/>チャールズ・デューク | 1972年<br/>4月16日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">成功</span> - 機械船の姿勢制御装置に故障が発生したため、大事を取って月面滞在日数が1日短縮された。計画の主要な目的は、月の高地を探索することであった。 |- | [[アポロ17号]] | [[サターンV]] | [[ユージン・サーナン]]<br/>ロナルド・エヴァンズ<br/>ハリソン・シュミット | 1972年<br/>12月7日 | 月面着陸 | <span style="color:green;">成功</span> - 最後の月面着陸。地質学者を搭乗させた唯一の飛行。 |- | [[スカイラブ1号]] | [[サターンV]] | 無人 | 1973年<br/>5月14日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - 宇宙ステーションスカイラブの発射。 |- | [[スカイラブ2号]] | [[サターンIB]] | ピート・コンラッド<br/>ポール・ウェイツ<br/>ジョセフ・カーウィン | 1973年<br/>5月25日 | 長期宇宙滞在 | <span style="color:green;">成功</span> - アメリカ初の宇宙ステーション、スカイラブに28日間にわたって滞在。 |- | [[スカイラブ3号]] | [[サターンIB]] | アラン・ビーン<br/>ジャック・ルーズマ<br/>オーウェン・ギャリオット | 1973年<br/>7月28日 | 長期宇宙滞在 | <span style="color:green;">成功</span> - スカイラブに59日間にわたって滞在。 |- | [[スカイラブ4号]] | [[サターンIB]] | ジェラルド・カー<br/>ウィリアム・ポーグ<br/>エドワード・ギブソン | 1973年<br/>11月16日 | 長期宇宙滞在 | <span style="color:green;">成功</span> - スカイラブに84日間にわたって滞在。 |- | [[アポロ・ソユーズテスト計画]] | [[サターンIB]] | トーマス・スタッフォード<br/>ヴァンス・ブランド<br/>ドナルド・スレイトン | 1975年<br/>7月15日 | 地球周回飛行 | <span style="color:green;">成功</span> - ソビエト連邦の宇宙船ソユーズ19号とランデブーとドッキングを行う。しばしば「アポロ18号」と呼ばれることもある。 |- | アポロ18号<br/>アポロ19号<br/>アポロ20号<br/> | [[サターンV]] | キャンセル | 未発射 | 月面着陸 | <span style="color:grey;">キャンセル</span> - 当初の計画では20号まで予定されていたものの、予算削減でキャンセルされる。 |- |} == 月面から持ち帰ったサンプル == {{main|月の石}} {| class="wikitable floatright" |- !計画番号 !試料総量 !代表的な試料 |- |[[アポロ11号]] |align="right"|22&nbsp;kg|| |- |[[アポロ12号]] |align="right"|34&nbsp;kg|| |- |[[アポロ14号]] |align="right"|43&nbsp;kg|| |- |[[アポロ15号]] |align="right"|77&nbsp;kg |[[ファイル:Apollo 15 Genesis Rock.jpg|thumb|center|月面から持ち帰った試料の中で最も有名な「[[ジェネシス・ロック]]」(アポロ15号の成果)。]] |- |[[アポロ16号]] |align="right"|95&nbsp;kg |[[ファイル:Lunar Ferroan Anorthosite (60025).jpg|thumb|150px|center|アポロ16号が採取した[[斜長岩]]。]] |- |[[アポロ17号]] |align="right"|111&nbsp;kg|| |} アポロ計画では総量で381.7kgの岩石その他の物質が月面から持ち帰られ、そのほとんどは現在はヒューストンにある月資料研究所に保管されている。 [[放射年代測定]]によれば、月面で採集された岩石は地球上のものと比較して全体的にきわめて古い。その範囲は約32億年前([[月の海]]の部分で採取された[[玄武岩]])から46億年前(高地で採取された[[地殻]]のサンプル)まで確認されている<ref>{{cite journal |author = James Papike, Grahm Ryder, and Charles Shearer |title = Lunar Samples |journal = Reviews in Mineralogy and Geochemistry |volume = 36 |pages = 5.1–5.234 |year = 1998 }}</ref>。したがって、これらは現在の地球上ではほとんど失われてしまった[[太陽系]]誕生初期の試料であると見られている。 アポロ計画全体を通して採取された岩石の中で重要なものの一つに、15号でジェームズ・アーウィン飛行士と[[デヴィッド・スコット]]飛行士が持ち帰った「[[ジェネシス・ロック]](Genesis Rock = 創世記の石)」と呼ばれているものがある。[[斜長岩]]に分類されるこの岩石は、[[カルシウム]]に富む斜長石([[灰長石]])によってほとんどの部分が構成されており、月面の高地の地殻のサンプルであると考えられている。この中からは地球化学で {{lang|en|[[:en:KREEP|KREEP]]}} と呼ばれる、地球上には存在しない岩種が発見された。KREEPや斜長岩などのサンプルは、月の外殻表面がかつて大規模に溶融した状態([[マグマ]]・オーシャン)であったという仮説の根拠となっている。 採取された岩石の大部分は衝突にさらされた痕跡を有していた。たとえば多くのサンプルの表面には微少[[隕石]]が衝突したことによる極小の[[クレーター]]が確認されている。これは厚い[[大気]]の層に阻まれた地球上の岩石には見られないものである。また多くのものには隕石が衝突した際に発生した高圧の[[衝撃波]]にさらされた形跡が残されており、中には {{lang|en|impact melt}}、すなわちクレーター周辺で衝撃により融解した物質から構成されたものもあった。そして月面から持ち帰られたすべてのサンプルは、繰り返し衝突の衝撃に曝されることによる[[角礫]]化が進行していた。 こうした月の岩石の分析結果は、月の成因を地球に火星程度のサイズの天体が衝突したことに求める「[[ジャイアント・インパクト説]]」の論旨と合致するものである<ref>{{cite book |last=Burrows |first=William E. |title=This New Ocean: The Story of the First Space Age |year=1999 |publisher=Modern Library | page=431 |isbn=0375754857 |oclc=42136309 }}</ref>。 == コストおよびキャンセルされた計画 == 1966年3月、NASAは議会に対しアポロ計画で人間を月に送るためにかかる費用は13年間で総額227億1800万ドルに達すると報告し、また実際それは1969年7月から1972年12月にかけて6度の月面着陸を成功させるという成果となって現れた。 NASAの歴史に関する[[ウェブサイト]]を管理するスティーブ・ガーバーによれば、最終的にアポロ計画にかかった費用は1969年当時で200億ドルから254億ドル(2005年現在の[[貨幣]][[価値]]に換算すると、およそ1350億ドル)になるという。 またアポロ宇宙船およびサターン・ロケットにかかった費用は2005年度換算で830億ドルで、このうち宇宙船が280億ドル(司令・機械船170億ドル、月着陸船110億ドル)、サターン・ロケット (I・IB・V) が460億ドルであった。 === キャンセルされた計画 === 当初の予定ではアポロ計画は20号まで行われるはずだったが、NASAの大幅な予算削減およびサターンVシリーズの後続生産が打ち切られたことにより、18・19・20号の飛行はキャンセルされ、それらの予算はスペース・シャトルの開発およびスカイラブ計画に回されることとなった。残ったサターンVは、1機が1973年にスカイラブを打ち上げるために使用され、残りの2機は[[フロリダ州]][[ケープ・カナベラル]]の[[ケネディ宇宙センター|ジョン・F・ケネディ宇宙センター]]、[[アラバマ州]][[ハンツビル]]のマーシャル宇宙飛行センター、[[ルイジアナ州]][[ニューオリンズ]]のミシャウド組立施設、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の[[ジョンソン宇宙センター|リンドン・B・ジョンソン宇宙センター]]などに分割して現在も展示されている。 == 科学的・工学的遺産 == アポロ計画は、多くの技術分野を刺激した。[[アポロ誘導コンピュータ]]は、[[ミニットマン (ミサイル)|ミニットマン・ミサイル]]の開発共々、初期の[[集積回路]]研究の推進力となった(当時の大型コンピュータでは、まだ小型化の要求は低く、米国IBM社の[[System/360]]などではまだチップ上に集積したICを採用していない)。また[[燃料電池]]はこの計画によって初めて実用化され、[[CNC]](コンピュータ数値制御)による機械工作もアポロの構造部品製作に際して開拓された分野であった。 === 将来の有人宇宙探査計画に与えた影響 === いくつかの国ではすでに有人月飛行が計画され、また月面基地の建設を目指す宇宙機関もある。 史上初の月面着陸を成功させた[[アポロ11号]]の船長[[ニール・アームストロング]]は、しばしばマスコミから将来の宇宙開発の展望について質問されている。2005年にはそうした質問に対して「様々な課題はあるかもしれないが、1961年のアポロ計画スタート時に我々が直面したほど困難で、かつ大量の問題にはならないのではないか」と応え、[[火星]]への有人飛行は1960年代の月面着陸よりは容易になるであろうとの見解を述べた。 === コンステレーション計画 === 2004年1月14日、大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]は演説の中で、2020年までに宇宙飛行士を月面に到達させることを含む新たな宇宙開発の展望の「[[コンステレーション計画]]」を発表した。 計画では、2010年に退役する現行のスペース・シャトルの後継として[[オリオン (宇宙船)|オリオン]]宇宙船があげられており、その空力的な形状はアポロの司令船にきわめて近い。NASAの前長官マイケル・D・グリフィンは、オリオンを「増強版アポロ」("{{lang|en|Apollo on steroids}}") と表現し、雑誌『ニュー・サイエンティスト』は「オリオン計画はアポロ時代の技術に先祖返りした程度のもの、との批判がある」と伝えているが<ref>[http://space.newscientist.com/article/dn9895-nasa-to-boldly-go-with-lockheed-martin.html NASA to boldly go... with Lockheed Martin - space - September 1, 2006 - New Scientist Space]</ref>、一方でオリオンの操縦席の計器板や熱遮蔽板などでは新技術が使用される予定だった<ref>[http://www.technologyreview.com/printer_friendly_article.aspx?id=17482 Technology Review: Part Apollo, Part Boeing 787]</ref>。コンステレーション計画のうちアポロ計画の設計に最も似通っていたのは、オリオンを軌道に乗せるために設計された[[アレスI]] の上段ロケットである。このロケットのエンジンには、サターン・シリーズで使用された[[J-2ロケットエンジン|J-2]]を改良した[[J-2ロケットエンジン#J-2X|J-2X]]の使用が計画されていた。J-2Xを開発するにあたり、NASAの技術者らは博物館でアポロ時代の資料を研究し、また実際にアポロ計画に従事した技術者たちに意見を求めた。コンステレーション計画の責任者ジェフ・ハンレイは、「月面への着陸およびそこからの離陸に関する技術的問題は、相当程度にわたってすでに解決されている。これらはアポロ計画が我々に残してくれた遺産である」と述べた<ref>[http://www.usatoday.com/tech/science/space/2006-08-14-nasa-apollo_x.htm?csp=34 NASA is borrowing ideas from the Apollo - USATODAY.com]</ref>。 アポロと同様、オリオンは月周回ランデブー方式をとるが、月着陸船アルタイルは[[アレスV]]ロケットによって別個に打ち上げられる予定だった。このアレスVはスペース・シャトルやアポロ計画の技術を元にして開発される予定だったロケットである。そしてスカイラブ計画で行われたように地球周回低軌道上でオリオンとドッキングする。アポロ計画からの変化としては、オリオンではすべての飛行士が月面に降下し、軌道上には無人の宇宙船が待機するという点がある。また探索する地域はアポロ計画ではもっぱら[[赤道]]付近が中心だったのに対し、コンステレーション計画では[[極地方]]に重点が置かれ、アポロ計画では用いられなかった地球周回ランデブー方式も使用が検討されていた。 2010年、[[バラク・オバマ]]大統領によりコンステレーション計画は中止された。 == 文化的遺産 == === 世界的な注目 === 1968年のクリスマス・イヴにアポロ8号が行った月面からの[[テレビ中継]]は、その時点までになされた[[報道]]の中で最も広範囲に伝えられたものであった。またアポロ11号による人類初の月面着陸は、全世界人口の五分の一がテレビ中継を通じて見守ったと言われている<ref>{{cite book |last=Burrows |first=William E. |title=This New Ocean: The Story of the First Space Age |year=1999 |publisher=Modern Library |page=p. 429 |isbn=0375754857 }}</ref>。 日本で[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]が1969年7月16日21:45(JST)から75分間放送した[[報道特別番組]]「アポロ11号発射」<ref>{{NHKアーカイブス|A196907162145001300100|特別番組「アポロ11号発射」 ~ケネディ宇宙基地から衛星中継~}}</ref>は43.8%の、またイーグルの月面着陸を報じた21日7:00からの「朝のワイドニュース」は45.4%の[[視聴率]]([[ビデオリサーチ]]・関東地区調べ)を記録。21日、11時台の総視聴率は46%、12時台のそれは62%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)。[[日本放送協会|NHK]]の調査では、日本では昼間となったアポロ11号による人類初の月面着陸をテレビ同時中継で見た人は68%、21日中に他の番組で見た人を含めると91%に達した<ref>引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、103-105頁、226頁。ISBN 4062122227</ref>。 === アポロ11号の放送データ復元計画 === アポロ計画40周年の記念事業の一環として、NASAはアポロ11号の月面着陸時の放送データ復元を実施している<ref>http://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/40th/</ref>。11号の月面歩行の様子を撮影したオリジナルの[[磁気テープ]]は行方不明になっていたが、3年間にわたる徹底的な調査の結果、テープは一旦消去した上で他の衛星データの記録に使用されたため、元データは完全に消去されてしまったと結論された<ref name="NPR_tapes">[http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=106637066 "Houston, We Erased The Apollo 11 Tapes"]. National Public Radio, July 16, 2009.</ref>。 アポロ計画に続く時期、NASAでは磁気テープが不足したため、[[アメリカ国立公文書記録管理局]]から大量のテープを持ち出して新しい衛星のデータを記録しており、テープの捜索にはNASAのテレビ担当者ディック・ナフツガー ({{lang|en|Dick Nafzger}}) や月面カメラの設計をしたスタン・リーバー ({{lang|en|Stan Lebar}}) なども加わったが、結局、アームストロングが月面に足を降ろした瞬間を記録した元テープは失われたと結論された<ref name="NPR_tapes"/>。 一方、月面着陸の様子を撮影した特別仕様の[[カメラ]]と[[テレビ中継]]映像の規格の違いから、[[テレビ]]放送用に変換された映像がテープに記録されていたため、11号について現存する放映時のデータが23万ドルをかけて収集・編集されることとなった。この[[デジタル]]復元作業はナフツガーおよび修復を専門とするロウリー・デジタル({{lang|en|[[:en:Lowry Digital|Lowry Digital]]}})社が担当し、ノイズやカメラぶれなどを歴史性を損なわずに除去するなどの作業が2009年9月の完了を目指して実施される<ref name="moon footage restore">Borenstein, Seth for AP. [https://web.archive.org/web/20090719134430/news.yahoo.com/s/ap/20090716/ap_on_sc/us_sci_moon_video "NASA lost moon footage, but Hollywood restores it"]. Yahoo news, July 16, 2009.</ref>。 ロウリー・デジタル社が修復作業をしている映像は、[[オーストラリア]]やCBSニュースの保管庫、ジョンソン宇宙センター内で記録されたキネスコープ(kinescope、[[キネコ]])映像などから収集されたものである。復元される映像は一定のデジタル処理を施した[[白黒]]映像であり、音声に関しては手を加えられない<ref name="moon footage restore"/>。 === 宇宙飛行士に与えた心理的影響 === [[ファイル:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|17号で撮影された「[[ザ・ブルー・マーブル]]」と呼ばれる地球の全景写真。上部に[[アフリカ大陸]]北部と[[アラビア半島]]がはっきりと写っている。<!-- 「我々は月を探査しに行ったのだが、実際には地球を発見することになった」(宇宙飛行士[[ユージン・サーナン]])-->]] [[ファイル:NASA-Apollo8-Dec24-Earthrise.jpg|thumb|left|月からの[[地球の出]]。<!-- 「私が知っているすべてのもの――私の人生、私が愛したもの、海――それらすべての世界が、いま私の親指の後ろに隠れてしまう」(宇宙飛行士[[ジム・ラヴェル]]) -->]] 多くの飛行士が、遠く離れた宇宙空間から地球を見るという経験から深甚な心理的影響を受けたと語っている<ref>立花隆『宇宙からの帰還』(中央公論社、1983)</ref>。アポロが残した最も重要な遺産の一つは、地球が壊れやすい小さな惑星にすぎないという、陳腐とはなっても未だ普遍的とは言い難い認識である。これは月面上から撮影された写真を通じて伝えられ、なかでも8号の飛行士が撮影した「[[地球の出]]」(「アースライズ」、左)と、17号の飛行士が撮影した「[[ザ・ブルー・マーブル]]」と呼ばれるもの(右)が有名である。これらの写真は、多くの人々にとって[[環境保護]]への動機付けになったと指摘される<ref>{{cite web |author=[[アル・ゴア]] |url=http://forumpolitics.com/blogs/2007/03/17/an-inconvient-truth-transcript/ |title=An Inconvenient Truth Transcript |date=2007-03-17 |accessdate=2007-07-29 |publisher=''Politics Blog'' -- a reproduction of the film's transcript }}</ref>{{リンク切れ|date=2023年2月}}。{{Clear}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [[的川泰宣]] 『月をめざした二人の科学者―アポロとスプートニクの軌跡』[[中公新書]] ISBN 4-12-101566-5 * アンドルー・チェイキン『人類、月に立つ』(原書名: A MAN ON THE MOON)[[日本放送出版協会|NHK出版]] ISBN 4-14-080444-0、ISBN 4-14-080445-9 == 関連項目 == * [[ソ連の有人月旅行計画]] * [[ソユーズL1計画]](ソ連版有人月周回計画) * [[ソユーズL3計画]](ソ連版有人月面着陸計画) * [[嫦娥計画]](中国版有人月面着陸計画) * [[レインジャー計画]] * [[サーベイヤー計画]] * [[ルナ・オービター計画]] * [[フロム・ジ・アース/人類、月に立つ]] - トム・ハンクスが製作総指揮のアポロ計画をテーマにしたアメリカHBOのテレビドラマシリーズ * [[アポロ計画陰謀論]] - アポロは月に行かなかった(ムーンホークス)、またはアポロは月で何者かに遭遇したと主張する一連の陰謀論 * [[アメリカ合衆国の宇宙開発]] * [[フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン]] * [[ヴェルナー・フォン・ブラウン]] - アポロ計画の中心的人物。月旅行に憧れていた。 * [[マーガレット・ハミルトン (科学者)]] - アポロ計画に関わった計算機科学者で、印刷された誘導コンピュータソースコードの脇に立つ写真が有名 * [[船外活動]]([[宇宙遊泳]]) * {{ill2|移動式検疫施設|en|Mobile quarantine facility}} - アポロ計画時代、月の伝染病を想定して使用された。 == 外部リンク == {{commons|Category:Apollo missions|アポロ計画}} * [https://www.apollomaniacs.com/apollo/ APOLLO MANIACS]{{ja icon}} * [https://spaceflight.nasa.gov/history/apollo/index.html NASAアポロ計画公式サイト] * [https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4205/contents.html Chariots for Apollo: A History of Manned Lunar Spacecraft By Courtney G Brooks, James M. Grimwood, Loyd S. Swenson] * [https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4009/cover.htm NASA SP-4009 The Apollo Spacecraft: A Chronology] * [https://history.nasa.gov/SP-4029/SP-4029.htm SP-4029 Apollo by the Numbers: A Statistical Reference by Richard W. Orloff] * [https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo.html The Apollo Program (1963 - 1972)] * [https://www.hq.nasa.gov/alsj/ The Apollo Lunar Surface Journal] * [https://science.ksc.nasa.gov/history/apollo/apollo.html アポロ計画(ケネディ宇宙センターウェブサイト)] * [https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/diagrams/apollo.html Project Apollo Drawings and Technical Diagrams] * [https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/diagrams/diagrams.htm Technical Diagrams and Drawings] * [https://moonstation.jp/challenge/lex/apollo アポロ計画(月探査情報ステーション)] * [http://www.lunarrock.com/Inventory.asp Lunar Rock Inventory] * [http://www.apolloarchive.com/ The Project Apollo Archive] * [http://www.io.com/~o_m/ssh_forgotten_astp.html OMWorld's ASTP Docking Trainer Page] * [https://sourceforge.net/projects/nassp/ Project Apollo for Orbiter spaceflight simulator] * [https://www.google.com/moon/ Google Moon: interactive map of the Moon and Apollo landing sites] * [https://airandspace.si.edu/topics/apollo-program アポロ計画@スミソニアン国立航空宇宙博物館]{{en icon}} * ペーパークラフト(U-DON'S FACTORY) ** [https://udonfactory.the-ninja.jp/paper/space/LM.html Apollo Lunar Module (LM) アポロ月着陸船] ** [https://udonfactory.the-ninja.jp/paper/space/saturn5.html Apollo-Saturn V アポロ・サターンV] ** [https://udonfactory.the-ninja.jp/paper/space/saturn1.html Apollo-Saturn 1B アポロ・サターン1B] * [https://www.youtube.com/watch?v=HilVwrrcLIo 20世紀の記録 月への挑戦/人類の偉大な一歩] - JAXA公式youtubeチャンネル内の動画 * {{Kotobank}} {{アポロ計画}} {{月面歩行者}} {{アメリカ合衆国の有人宇宙計画}} {{NASAの惑星探査計画}} {{NASA space program}} {{月}} {{Lunar rovers}} {{月探査機}} {{宇宙飛行}} {{Good article}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あほろけいかく}} [[Category:アポロ計画|*]] [[Category:アメリカ合衆国の歴史 (1945-1989)]] [[Category:ヴェルナー・フォン・ブラウン]]
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静かの海 (漫画)
『静かの海』(しずかのうみ)は、一條裕子著の漫画作品。ぶんか社の漫画雑誌「まんがガウディ」および「まんがアロハ!」に1996年12月から1998年1月まで連載された。単行本は1998年12月刊行。 題名は月面上の地名から。独り暮らしの老人木村しづの生活と、その家を訪れる孫娘梢子の姿を、さまざまな家具の視点から描く。毎回違った物に語らせる手法は丸山健二『千日の瑠璃』に通じるものがあり、全体小説的に情報を補完さることによって、しづとその周囲の生活が手に取るように分かるようになっている。誰しも心当たりがありながら人前で口に出されることのない事ごとを見事に捉えており、可笑しさと同時に心に暖かさを感じる作品である。
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『静かの海』(しずかのうみ)は、一條裕子著の漫画作品。ぶんか社の漫画雑誌「まんがガウディ」および「まんがアロハ!」に1996年12月から1998年1月まで連載された。単行本は1998年12月刊行。 題名は月面上の地名から。独り暮らしの老人木村しづの生活と、その家を訪れる孫娘梢子の姿を、さまざまな家具の視点から描く。毎回違った物に語らせる手法は丸山健二『千日の瑠璃』に通じるものがあり、全体小説的に情報を補完さることによって、しづとその周囲の生活が手に取るように分かるようになっている。誰しも心当たりがありながら人前で口に出されることのない事ごとを見事に捉えており、可笑しさと同時に心に暖かさを感じる作品である。
{{出典の明記|date=2017年2月5日 (日) 01:45 (UTC)}} 『'''静かの海'''』(しずかのうみ)は、[[一條裕子]]著の[[漫画]]作品。[[ぶんか社]]の漫画雑誌「[[まんがガウディ]]」および「[[まんがアロハ!]]」に[[1996年]]12月から[[1998年]]1月まで連載された。単行本は1998年12月刊行。 題名は月面上の地名から。独り暮らしの老人木村しづの生活と、その家を訪れる孫娘梢子の姿を、さまざまな家具の視点から描く。毎回違った物に語らせる手法は[[丸山健二]]『千日の瑠璃』に通じるものがあり、全体小説的に情報を補完さることによって、しづとその周囲の生活が手に取るように分かるようになっている。誰しも心当たりがありながら人前で口に出されることのない事ごとを見事に捉えており、可笑しさと同時に心に暖かさを感じる作品である。 == 注釈・出典 == {{reflist}} {{DEFAULTSORT:しすかのうみ}} [[Category:漫画作品 し|すかのうみ]]
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2組のお友達。
『2組のお友達。』(にくみのおともだち)は、一條裕子の漫画作品。 小学館の青年誌『週刊ビッグコミックスピリッツ』に1997年10月から1999年4月まで連載された。単行本「緑の本」と「橙の本」は1999年6月に同時刊行された。 舞台は過疎化した土地のお山の分校。生徒が2人しかいない教室には、なぜか老人がたむろしている。そこへやってきた新任の女教師。彼女の運命はいかに。本作でも一條裕子独特の可笑しみは遺憾なく発揮されており、深刻な高齢化問題・過疎化問題を主題にしながらも、ひたすら明るく暮らす現場の人々を描いている。
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『2組のお友達。』(にくみのおともだち)は、一條裕子の漫画作品。
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犬あそび
『犬あそび』(いぬあそび)は、一條裕子の漫画。1999年9月から2000年7月まで小学館の青年誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」にて連載された。2000年7月に単行本(小学館)が刊行されている。 主人公ヒサツグは文筆家。大家さんのところには娘のねねさん、孫娘のののちゃん、飼い犬のとぽぽんがいる。 ヒサツグは犬が飼いたくてしかたがない。犬嫌いの母の元を離れ、縁側付きの離れに間借りして、条件は整っているにも拘らず、大のネコ好きの担当編集者小出君や、自らの妄想に妨害されて、なかなか飼うことができないでいる。 実際に犬を飼うことを延々と先送りしながら、形而上の思索を奔放に展開させる本作のスタイルは、一條裕子が持つ技量の真骨頂といえる。
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『犬あそび』(いぬあそび)は、一條裕子の漫画。1999年9月から2000年7月まで小学館の青年誌「週刊ビッグコミックスピリッツ」にて連載された。2000年7月に単行本(小学館)が刊行されている。
『'''犬あそび'''』(いぬあそび)は、[[一條裕子]]の[[漫画]]。[[1999年]]9月から[[2000年]]7月まで[[小学館]]の青年誌「[[ビッグコミックスピリッツ|週刊ビッグコミックスピリッツ]]」にて連載された。[[2000年]]7月に単行本(小学館)が刊行されている。 == あらすじ == 主人公'''ヒサツグ'''は文筆家。大家さんのところには娘の'''ねねさん'''、孫娘の'''ののちゃん'''、飼い犬の'''とぽぽん'''がいる。 ヒサツグは犬が飼いたくてしかたがない。犬嫌いの母の元を離れ、縁側付きの離れに間借りして、条件は整っているにも拘らず、大のネコ好きの担当編集者小出君や、自らの妄想に妨害されて、なかなか飼うことができないでいる。 実際に犬を飼うことを延々と先送りしながら、形而上の思索を奔放に展開させる本作のスタイルは、一條裕子が持つ技量の真骨頂といえる。 {{デフォルトソート:いぬあそひ}} [[Category:漫画作品 い|ぬあそひ]] [[Category:ビッグコミックスピリッツの漫画作品]] {{manga-stub}}
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必ずお読み下さい。
『必ずお読み下さい。』(かならずおよみください)は、一條裕子著の漫画作品。マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』に2000年3月から2002年5月まで連載。単行本は2002年10月に刊行。 各種製品の取扱説明書に見られる注意書きの数々は、ある種のクリシェ(決り文句)となっている。それらを各話のタイトルに据え、主に製品向けのそれを人に対して適用することにより奇妙な話を繰り広げる。あるいは「裏ぶたを開けないでください。」をはじめとして野菜に適用する「高知の東山さんが作ったナス」シリーズ。取説の文句をテーマに、という構造の枷を自らにはめた中で見事にシュールリアリズムを展開する。その一方で、または同時に、ノスタルジックでオーソドックスな切ない話を描いてゆく。
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『必ずお読み下さい。』(かならずおよみください)は、一條裕子著の漫画作品。マガジンハウスの文芸誌『鳩よ!』に2000年3月から2002年5月まで連載。単行本は2002年10月に刊行。
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アメリカ文学
アメリカ文学(、英: American literature)とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。米国文学(べいこくぶんがく)、米文学()とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『English literature』の場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。 英語によるアメリカ文学の歴史は、1776年に独立してから本格的に始まった。それ以前の文学史は、ある程度かつての宗主国イギリスに求めることになるが、現在では移民の記録や日記、詩なども、アメリカ文学の一部として認められており、アメリカ文学の発生点は単純には決めがたい。 アメリカ文学の最も初期形態はヨーロッパ人と植民地の読者双方に対して植民地の良さを褒め称える小冊子や書き物だった。 移民の記録をアメリカ文学の発生点とみなすのであれば、1607年以降のバージニア州移民の記録が重要になってくる。ディズニー映画『ポカホンタス』で一躍有名になった、ジョン・スミス(1580年 - 1631年)による一連の著作などであり、現在ではアメリカ文学の一部として考えられている。このような部類の著者としては、ダニエル・デントン(1626年頃 - 1703年)、トマス・アッシュ、ウィリアム・ペン(1644年 -1718年)、ジョージ・パーシー(1580年 - 1632年)、ウィリアム・ストレーチー(1572年 - 1621年)、ダニエル・コックス(1640年 - 1730年)、ガブリエル・トーマスおよびジョン・ローソン(1674年? - 1711年)がいた。 アメリカの開拓を促進することになった宗教紛争も初期著作の話題になった。ジョン・ウィンスロップ(1587年あるいは1588年 - 1649年)が書いた日記はマサチューセッツ湾植民地の宗教的基盤を論じていた。ジョン・ウィンスロー(1595年 - 1655年)もメイフラワー号でアメリカに到着した最初の1年間の日記を残した。その他宗教的に影響力のあった著者としては、インクリーズ・マザー(1639年 - 1723年)や『プリマス植民地の歴史、1620年 - 1647年』として出版された日記の著者ウィリアム・ブラッドフォード(1590年 - 1657年)がいた。ロジャー・ウィリアムズ(1603年 - 1683年)やナサニエル・ウォード(1578年 - 1652年)のような者達は国と教会の分離を激しく論じた。 この時代には詩人も幾人かいた。エドワード・テイラー(1642年頃 - 1729年)も著名になった。マイケル・ウィグルスワース(1631年 - 1705年)は最後の審判の日のことを書いた詩『運命の日』(en:The Day of Doom)がベストセラーになった。ニコラス・ノイズは韻律がそろっていない詩を書いたことで知られている。特筆すべきなのは、17世紀の女性詩人、アン・ブラッドストリート(1612年 - 1672年)であり、宗教色の強いその作品はフェミニズム批評の発展もあいまって、現在注目を浴びている。 その他インディアンとの紛争や交流を後日談として書いたものでは、ダニエル・グッキン(1612年 - 1687年)、アレクサンダー・ウィタカー(1585年 - 1616年)、ジョン・メイソン(1600年頃 - 1672年)、ベンジャミン・チャーチ(1639年 -1718年)およびメアリー・ローランソン(1637年 - 1711年)がいた。伝道師ジョン・エリオット(1604年 - 1690年)はアルゴンキン語に聖書を翻訳した。 ジョナサン・エドワーズ (神学者)(1703年 - 1758年)やジョージ・ホウィットフィールド(1714年 - 1770年)は、18世紀初期に厳格なカルヴァン主義を主張した宗教的リバイバルである第一次大覚醒を言葉で表現した。その他のピューリタンや宗教的著作家としては、トマス・フッカー(1586年 - 1647年)、トマス・シェパード(1605年 - 1649年)、ジョン・ワイズ(1652年 - 1725年)およびサミュエル・ウィラード(1640年 - 1707年)がいた。それほど厳格でも深刻でもない著作家としては、サミュエル・シューワル(1652年 - 1730年)、サラ・ケンブル・ナイト(1666年 - 1727年)およびウィリアム・バード(1674年 - 1744年)がいた。 アメリカ独立戦争の時代にはサミュエル・アダムズ(1722年 - 1803年)、ジョサイア・クィンジー(1744年 - 1775年)、ジョン・ディキンソン(1732年 - 1808年)および王党派だったジョセフ・ギャロウェイ(1731年 - 1803年)など植民地人の政治的な著作もあった。この時の重要な著作家はベンジャミン・フランクリン(1706年 - 1790年) とトマス・ペイン( 1737年 - 1809年)の2人だった。フランクリンの『貧しいリチャードの暦』(Poor Richard's Almanac)と『フランクリン自伝』(The Autobiography of Benjamin Franklin)は、芽を出し掛けたアメリカ人の独自性の形成に向けてそのウィットと影響力のあった作品と見られている。ペインの小冊子『コモン・センス』(Common Sense)と『アメリカの危機』(The American Crisis)は、この時期の政治的風潮に影響する重要な役割を演じたと見られている。 革命そのものが進行している間、『ヤンキードゥードゥル』(Yankee Doodle)や『ネイサン・ヘイル』(Nathan Hale)のような詩や歌が流行った。主要な風刺作家としては、ジョン・トランブル(1750年 - 1831年)やフランシス・ホプキンソン(1737年 - 1791年)がいた。アメリカ独立の詩人と呼ばれることもあるフィリップ・モーリン・フレノー(1752年 - 1832年)は戦争の進行について詩を書いた。 独立戦争が終わると、アレクサンダー・ハミルトン(1755年あるいは1757年 - 1804年)、ジェームズ・マディソン(1751年 - 1836年)およびジョン・ジェイ(1745年 - 1829年)による『ザ・フェデラリスト』(The Federalist)の随筆がアメリカ政府の組織と共和制の価値について重要で歴史的な議論を著した。トーマス・ジェファーソン(1743年 - 1826年)が書いたアメリカ独立宣言、またアメリカ合衆国憲法に対する影響力、その自叙伝、『バージニア州に関する注釈』(Notes on the State of Virginia)および多くの手紙などは初期アメリカの最も才能ある著作家の一人としてその評価を固めている。フィッシャー・エイムズ(1758年 - 1808年)、ジェイムズ・オーティス(1725年 - 1783年)およびパトリック・ヘンリー(1736年 - 1799年)も、その政治的著作物や演説で重きを置かれている。 新しく誕生したばかりの国の初期文学の大半は既存の文学ジャンルの中でアメリカの声を独自に見出すために奮闘し、この傾向は小説にも反映された。ヨーロッパの形式とスタイルがアメリカに移されることが多く、批評家はそれらを劣っているものとみなすことが多かった。 米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でもワシントン・アーヴィング(1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789年 - 1851年)およびエドガー・アラン・ポー(1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(Salmagundi)や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(A History of New York, by Diedrich Knickerbocker、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death、1841年)、『落とし穴と振り子』(The Pit and the Pendulum、1842年)、『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher、1839年)および『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を推理小説やファンタジーにまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(Leatherstocking Tales、『モヒカン族の最後』(The Last of the Mohicans)はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。 この時代に人気のあったユーモア作家としては、ニューイングランドのセバ・スミス(1792年 - 1868年)とベンジャミン・P・シラバー(1814年 - 1890年)がおり、南部のデイヴィッド・クロケット(1786年 - 1836年)、オーガスタス・ボールドウィン・ロングストリート(1790年 - 1870年)、ジョンソン・J・フーパー(1815年 - 1863年)、トマス・バングス・ソープ(1815 - 1878年)およびジョージ・ワシントン・ハリス(1814年 - 1869年)はアメリカのフロンティアについて書いた。 ニューイングランド・ブラーマンズはハーバード大学とそれがあるマサチューセッツ州ケンブリッジを繋がりとする作家の集団だった。その中心となったのは、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(1819年 - 1891年)、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(1807年 - 1882年)およびオリバー・ウェンデル・ホームズ(1809年 - 1894年)だった。 1836年、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(Nature)と呼ぶ衝撃的なノンフィクションを出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。 エマーソンの共鳴者で最も才能豊かだったのは恐らく革新的反逆児だったヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年 - 1862年)だった。ソローは森の中の池端にあった丸太小屋で2年間ほとんど一人で暮らした後で、『ウォールデン-森の生活』(Walden、1854年)を書いた。これは本1冊分にのぼる回顧録であり、組織化された社会のお節介な指図に反抗することを奨励している。その過激な書き方はアメリカ人の性格にある個人主義に向かう深く根ざした傾向を表現している。超絶主義に影響されたその他の作家としては、ブロンソン・オルコット(1799年 - 1888年)、マーガレット・フラー(1810年 - 1850年)、ジョージ・リプリー(1802年 - 1880年)、オレステス・ブラウンソン(1803年 - 1876年)およびジョーンズ・ベリー(1813年 - 1880年)がいた。 奴隷制度廃止運動に関わる政治紛争によって、ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin、1851年)を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年 - 1896年)が続いた。 1837年、青年ナサニエル・ホーソーン(1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(Twice-Told Tales)として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『緋文字』(The Scarlet Letter、1850年)は、姦通を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。 ホーソーンの小説はその友人であるハーマン・メルヴィル(1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『白鯨』(Moby-Dick)では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(Billy Budd、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。 メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。 アメリカの近代文学の初期においては、プロットが強いが日常的な描写が貧しい男性作家たちの小説と、プロットが弱いが日常的な描写に優れた女性作家による小説という特徴が見られた。アメリカ文学者の平石貴樹は、女性作家たちの「プロット」に対する不信の背後には、「人生を一貫した計画や冒険などの展開とみなす、近代的自我の人生観そのものを、アメリカン・ドリームに支配された男性たちの『勝手な夢』(少なくとも、社会参加のままならない自分たちには『無縁な夢』)としてしりぞける思想、あるいは情緒が、ひそんでいたとも考えられる。」と評し、男女の社会的立場の差と、プロットの強弱との関係を指摘している。 19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。ウォルト・ホイットマン(1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『草の葉』(Leaves of Grass)は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(Song of Myself)では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。 ホイットマンはまた自分で「電気の身体」と呼んだように肉体の詩人でもあった。イギリスの小説家D・H・ローレンスはその『アメリカ文学古典の研究』の中で、ホイットマンは「精神の男が肉体の男よりも幾らか「優れて」「上に」あるという古い道徳観に最初に打撃を与えた」と記した。 一方、エミリー・ディキンソン(1830年 - 1886年)は、マサチューセッツ州の小さな町アマーストで上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。 ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。例えば、『私は死について考えるのを止められないから』(Because I could not stop for Death)は、「彼が親切にも私を止めさせた」で始まっている。ディキンソンの別の詩の冒頭は男性が支配する社会に生きる女性、かつ認められていない詩人としてのその立場を、「私は誰でもない!貴方は誰?貴方も誰でもないの?」と弄んでいる。 アメリカの詩は20世紀初期から半ばにそのピークを迎えたと考えられるが、その著名な詩人としては、ウォレス・スティーブンス(1879年 - 1955年)、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)、アン・セクストン(1928年 - 1974年)、エズラ・パウンド(1885年 - 1972年)、T・S・エリオット(1888年 - 1965年)、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(1883年 - 1963年)、スティーブン・ビンセント・ベネット(1898年 - 1943年)、ロバート・フロスト(1874年 - 1963年)、カール・サンドバーグ(1878年 - 1967年)、ロビンソン・ジェファーズ(1887年 - 1962年)、ハート・クレイン(1899年 - 1932年)、E・E・カミングス(1894年 - 1962年)、ジョン・ベリーマン(1914年 - 1972年)、アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)、ロバート・ローウェル(1917年 - 1977年)、エドナ・ミレイ(1892年 - 1950年)など多くいる。 マーク・トウェイン(1835年 - 1910年、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はアメリカ東海岸とは離れて(ミズーリ州の州境)生まれたアメリカ人作家としては初めての重要人物だった。その土地を舞台にする傑作は自伝『ミシシッピの生活』(Life on the Mississippi)と小説『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn)である。トウェインのスタイルはジャーナリズムの影響を受け、方言を取り入れ、直接的で飾り気が無いが高度に感情に訴えるものがあって不敬にもユーモラスである。これがアメリカ人の言語を書く方法を変えた。その登場人物は方言と新しく発明した言葉や地域のアクセントまで使って実在の人物のように話し、明らかにアメリカ人のように聞こえる。その他地域的な違いや方言で興味ある作家としては、ジョージ・W・ケーブル(1844年 - 1925年)、トマス・ネルソン・ペイジ(1853年 - 1922年)、ジョーエル・チャンドラー・ハリス(1848年 - 1908年)、メアリー・ノアイユ・マーフリー(1850年 - 1922年、筆名チャールズ・エグバート・クラドック)、サラ・オーン・ジューエット(1849年 - 1909年)、メアリー・E・ウィルキンス・フリーマン(1852年 - 1930年)、ヘンリー・カイラー・バナー(1855年 - 1896年)およびウィリアム・シドニー・ポーター(1862年 - 1910年、筆名オー・ヘンリー)がいる。 ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(The Rise of Silas Lapham)のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。 ヘンリー・ジェイムズ(1843年 - 1916年)は旧世界と新世界について直接書くことでそのジレンマに直面した。ジェイムズはニューヨーク市で生まれたが成人してからの大半はイングランドで過ごした。その小説の多くはヨーロッパに住んでいるか旅しているアメリカ人を描いている。ジェイムズの小説は、その錯綜し高度に抑えられた文章と感情と心理のあやに対する分析とで、人を怯えさせるものがある。ヨーロッパに来た魅力的なアメリカ人少女を描いた小説『デイジー・ミラー』(Daisy Miller)や謎のような怪談『ねじの回転』(The Turn of the Screw)がまだとっつきやすい作品である。 20世紀の始めにアメリカの小説家は小説の社会的領域を上流から下流まで広げていき、時にはリアリズムの自然はにも結びついた。エディス・ウォートン(1862年 - 1937年)は短編や小説で、彼女が育ったアメリカ東海岸の社会である上流階級を観察した。その傑作の中でも『無知の時代』(The Age of Innocence、1920年)は、魅力ある部外者よりも伝統的で社会的に受容される女性との結婚を選ぶ一人の男を主題にしている。これと同じ頃、南北戦争の小説『赤い武功章』(The Red Badge of Courage)で知られたスティーヴン・クレイン(1871年 - 1900年)は、『街の女マギー』(Maggie:A Girl of the Streets、1893年)でニューヨークの娼婦の生涯を描いた。またセオドア・ドライサー(1871年 - 1945年)は『シスター・キャリー』(Sister Carrie、1900年)でシカゴに移転し、愛人になる田舎娘を描いた。ハムリン・ガーランド(1861年 - 1940年)とフランク・ノリス(1870年 - 1902年)は自然主義者の観点からアメリカの農夫の抱える問題など社会的問題について書いた。 さらに直接に政治的な書物が社会問題と企業の力を論じた。エドワード・ベラミー(1850年 - 1898年)の『顧みれば』(Looking Backward)のような作品では別に考えられる政治や社会の枠組みを描いた。アプトン・シンクレア(1878年 - 1968年)は食肉加工業を題材にした小説『ジャングル』(The Jungle )で最も有名になったが社会主義を提唱した。その他この時代の政治的作家としては、エドウィン・マーカハム(1852年 - 1940年)、ウィリアム・ボーン・ムーディ(1869年 - 1910年)がいた。イーダ・ターベル(1857年 - 1944年)やリンカーン・ステフェンス(1866年 - 1936年)などジャーナリスト批評家はマクレイカー(醜聞を暴く人)と渾名された。ヘンリー・ブルックス・アダムズ(1838年 - 1918年)も教育制度と現代生活を辛辣な表現で描いた。 スタイルや形態における実験が主題における新しい自由さに加わってきた。1909年、ガートルード・スタイン(1874年 - 1946年)はパリの海外居住者となっていたが、キュビスム、ジャズなど当時の美術と音楽の動きに親しんだことで影響された革新的小説である『3人の女』(Three Lives)を出版した。 スタインは1920年代と1930年代をパリで暮らしたアメリカ文学の著名人集団を「失われた世代」と名付けた。 詩人のエズラ・パウンド(1885年 - 1972年)はアイダホ州で生まれたが、成人してからの生涯の大半をヨーロッパで過ごした。その作品は複雑であり、ときには曖昧で、西洋と東洋両方の他の芸術形態や広い範囲の文学に何度も言及している。パウンドは他の多くの詩人、特にもう一人の海外居住者だったT・S・エリオット(1888年 - 1965年)に影響を与えた。エリオットは、象徴の濃密な構造で進められる簡潔で知性に訴える詩を書いた。その作品『荒地』(The Waste Land)では、第一次世界大戦後の社会の僻んだ考え方を崩壊し悪夢に付きまとわれたイメージに表現した。パウンドの作品に似てエリオットの詩は高度に暗示的であり、『荒地』のある版は詩人その人によって補われた脚注が備えられた。1948年、エリオットはノーベル文学賞を受賞した。 アメリカの作家は第一次世界大戦後の幻滅も表現した。F・スコット・フィッツジェラルド(1896年 - 1940年)の短編や小説は1920年代の落ち着けない、喜びに飢えた反抗的なムードを捕らえていた。フィッツジェラルドの特徴的主題は『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)で痛烈に表現されており、若者の金色の夢が失敗と失望の中で消えていく風潮である。フィッツジェラルドはまた、20世紀初期の社会の圧力で酷く脅威を与えられている側面である自由、社会の統合、良い政府と平和などアメリカ独立宣言に盛り込まれていたアメリカの重要な理想の幾つかが崩壊したことも示した。シンクレア・ルイス(1885年-1951年、1930年ノーベル文学賞)とシャーウッド・アンダーソン(1876年 - 1941年)もアメリカ人の生活を批評的に表現した小説を書いた。ジョン・ドス・パソス(1896年 - 1970年)は戦争について書き、世界恐慌にまで伸びた「アメリカ合衆国三部作」も書いた。 パール・S・バック (1892年 - 1973年) は生後間もなく中国に渡った女性作家で、中国農村が舞台の大地 (1931年) でピューリツァー賞 (1932年) とノーベル賞 (1938年) を受賞した。アーネスト・ヘミングウェイ(1899年 - 1961年)は第一次世界大戦の救急車運転手として暴力と死を身近に体験し、大虐殺によって抽象的な言葉が最も空虚で人を惑わすものだと確信させられた。その著作から不要な言葉を削り、文章構造を単純化し、具体的な対象と行動に集中させた。圧力の下での優美さを強調する道徳律に固執し、その主人公は強く寡黙な男だが女性の扱いはぎこちないことが多い。『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)と『武器よさらば』(A Farewell to Arms)が一般にその傑作と考えられている。ヘミングウェイは1954年にノーベル文学賞を受賞した。 ヘミングウェイよりも5年早い1949年に、ウィリアム・フォークナー(1897年 - 1962年)がノーベル文学賞を受賞していた。フォークナーは彼が創作したミシシッピ州のヨクナパトーファ郡における非常に大きな範囲の人物模様を描き出した。「意識の流れ」と呼ばれる手法で、心理状態を表現するために長ったらしくてまとまりのないように見える登場人物の話を記録した(実際にこれらの文章は丁寧に組み立てられ、その混乱したような構造は多層の意味を隠している)。フォークナーは時間の流れもごちゃ混ぜにし、過去である奴隷を所有していた時代のディープサウスが現在にどう繋がっているかを示している。『響きと怒り』(The Sound and the Fury)、『アブサロム、アブサロム!』(Absalom, Absalom!)、『行け、モーセ』(Go Down, Moses)および『征服されざる人々』(The Unvanquished)が著名である。 世界恐慌時代の文学はその社会批判において無遠慮で直接的だった。ジョン・スタインベック(1902年 - 1968年)はカリフォルニア州サリナスで生まれ、そこを小説の多くの舞台にした。そのスタイルは単純で示唆に富み、読者の共感を呼んだが批評家はそうではなかった。スタインベックはしばしば貧しい労働者階級とまともで正直な生活を送るための奮闘を書いた。おそらく当時の最も社会的に目覚めた作家だった。傑作と考えられている『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)は、オクラホマ州出身でより良い生活を求めてカリフォルニア州に旅する貧しい家族であるジョード家の話を語る強く社会指向の小説である。その他にも『おけら部落』(Tortilla Flat)、『二十日鼠と人間』(Of Mice and Men)、『キャナリー・ロウ』(Cannery Row)および『エデンの東』(East of Eden)などを書いた。スタインベックは1962年にノーベル賞を受賞した。プロレタリアート派の一部と考えられるその他の小説家として、ナサニエル・ウェスト(1903年 - 1940年)、オリーブ・ティルフォード・ダーガン(1869年 - 1968年)、トム・クロマー(1906年 - 1969年)、ロバート・キャントウェル(1908年 - 1978年)およびエドワード・アンダーソンがいた。 ヘンリー・ミラー(1891年 - 1980年)は、パリで書いて出版した半自叙伝的小説がアメリカ合衆国で発禁になった時に、1930年代のアメリカ文学界で特異な存在となった。主要作品である『北回帰線』(Tropic of Cancer)と『暗い春』(Black Spring)は1962年までアメリカ国内での販売と出版が認められなかったが、この時点で既にその主題とスタイルの革新性はアメリカの次の世代の作家達に大きな影響を残していた。 第二次世界大戦が終わり、おおまかに1960年代後半や1970年代前半までの時代は、アメリカ史の中でも最も人気ある作品の幾つかが出版された時だった。より現実的なモダニズム文学の最後の数人と共に幅広くロマンティックなビートニクスがこの時代を支配し、アメリカが第二次世界大戦に関わったことへの直接の反応が彼らに注目すべき影響を与えた。 カナダで生まれシカゴで育ったソール・ベロー(1915年 - 2005年)が第二次世界大戦後の数十年間で最も影響力あるアメリカの小説家になった。『オーギー・マーチの冒険』(The Adventures of Augie March)や『雨の王ヘンダソン』(Henderson the Rain King)といった作品で、ベローはアメリカの都市の生き生きとした肖像とそこに住む典型的な人々を描いた。ベローは1976年にノーベル文学賞を受賞することになった。 J・D・サリンジャー(1919年 - 2010年)の『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories)と『ライ麦畑でつかまえて』 (The Catcher in the Rye)から、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)の『ベル・ジャー』(The Bell Jar)まで、アメリカの狂気は国民の文学表現の前線にまで置かれた。『ロリータ』(Lolita)を書いたウラジーミル・ナボコフ(1899年 - 1977年)のような移民作家がその主題で台頭し、ほとんど同じ頃にビートニクスはその失われた世代の先達から離れて申し合わせたような一歩を踏み出した。 ビート・ジェネレーションの詩や小説は、大半がニューヨーク市のコロンビア大学周辺に形成された知識人のサークルから生まれ、幾らか後にサンフランシスコで明確に確立され、時代のものとなった。「ビート」という言葉は全く同時にジャズシーンの反体制文化的リズムにも使われ、戦後社会の保守的ストレスに関する反逆の意味で、またドラッグ、アルコール、哲学および宗教、特に「禅」を通じた新しい形の精神的な体験における興味にも使われた。アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)はホイットマン流の作品であるその詩『吠える』(Howl)で、「私は狂気によって破壊された私の世代の最良の心を見た」で始め、この動きの調子を定めた。これと同時にその親友であるジャック・ケルアック(1922年 - 1969年)はビートのはしゃぎ回り、おおらかで気まぐれな生活様式を、多くの作品の中でも傑作で最も人気のあった小説『路上』(On the Road)で祝した。 具体的に戦争小説に関して、第二次世界大戦後の時代にアメリカでは文学的な爆発があった。ノーマン・メイラー(1923年 - 2007年)の『裸者と死者』(The Naked and the Dead、1948年)、ジョゼフ・ヘラー(1923年 - 1999年)の『キャッチ=22』(Catch-22、1961年)およびカート・ヴォネガット(1922年 - 2007年)の『スローターハウス5』(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade、1969年)などの作品が良く知られたものである。バーバラ・ガーソン(1941年 - )が書いた『マクバード』(MacBird)は戦争の愚かさを白日に曝したもう一つの作品として受け入れられた。 対照的にジョン・アップダイク(1932年 - )はアメリカ人の生活のより牧歌的な側面と呼べるものを出し、静かにだが破壊的でもある文体で迫った。その1960年に出した『走れウサギ』(Rabbit, Run)は、その性格描写とアメリカ中流階級の詳細によってその発売と同時に新しい地平を切り開いた。その叙述に現在時制を用いたことでは最初の小説の一つとされてもいる。 ラルフ・エリソン(1914年 - 1994年)の1953年の小説『見えない人間』(Invisible Man)は終戦直後の最も力にあふれ世間をあっと言わせる作品の中にあると即座に認められた。この小説は北の都会における黒人の話であり、国内でまで一般的だった抑圧されることの多かった人種問題をむき出しにし、実存的な性格描写としても成功している。 フラナリー・オコナー(1925年 - 1964年)もマーク・トウェインやアメリカ文学史の中で他の指導的作家にとって大切だったアメリカ文学における「南部」という主題を開拓し発展させた。その作品は『賢い血』(Wise Blood、1952年)、『烈しく攻むる者はこれを奪う』(The Violent Bear It Away、1960年)や最も良く知られた短編である『すべて上昇するものは一点に集まる』(Everything That Rises Must Converge)、さらに死後の1965年に出版されたオコナー短編集がある。 おおまかに言って1970年代初めから現在まで、最も良く知られた文学の分野は、ポストモダニズムであろうが、その呼び方には様々に異論がある。時代の知識人に受け入れられた(必ずしもポストモダンではない)作家としては、トマス・ピンチョン(1937年 - )、ティム・オブライエン(1946年 - )、ロバート・ストーン(1937年 - )、ドン・デリーロ(1936年 - )、ポール・オースター(1947年 - )、トニ・モリスン(1931年 - )、フィリップ・ロス(1933年 - )、コーマック・マッカーシー(1931年 - )、レイモンド・カーヴァー(1939年 - 1988年)、ジョン・チーバー(1912年 - 1982年)、ジョイス・キャロル・オーツ(1938年 - )、アニー・ディラード(1945年 - )、リチャード・パワーズ(1957年 - )らが挙げられる。一般的にポストモダニズムとされる作家達は、大衆文化とマスメディアが平均的アメリカ人の世界に冠する概念と経験に影響を与えた多くの方法を扱い、また今日でも直接扱っている。それはアメリカ政府さらには多くの場合アメリカ史であるが、特に平均的アメリカ人自身の歴史感と共に批判されることが大変多い。 多くのポストモダン作家は郊外あるいはショッピングセンターのファストフード・レストランを舞台とすることでも知られている。彼らはドラッグ、美容整形手術およびテレビのコマーシャルについて書いている。ときにはこれらの表現がほとんど称賛のようにも見える。しかし同時にこの派の作家達はその主題に対して知ったかぶり、自意識過剰、当て擦り、および(ある批評家に拠れば)へりくだった態度を取る。このような傾向にある者のなかでおそらく最も知られているのは、ブレット・イーストン・エリス(1964年 - )、デイブ・エッガーズ(1970年 - )、チャック・パラニューク(1962年 - )およびデヴィッド・フォスター・ウォレス(1962年 - 2008年)であろう。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アメリカ文学(、英: American literature)とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。米国文学(べいこくぶんがく)、米文学()とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『English literature』の場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語によるアメリカ文学の歴史は、1776年に独立してから本格的に始まった。それ以前の文学史は、ある程度かつての宗主国イギリスに求めることになるが、現在では移民の記録や日記、詩なども、アメリカ文学の一部として認められており、アメリカ文学の発生点は単純には決めがたい。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "アメリカ文学の最も初期形態はヨーロッパ人と植民地の読者双方に対して植民地の良さを褒め称える小冊子や書き物だった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "移民の記録をアメリカ文学の発生点とみなすのであれば、1607年以降のバージニア州移民の記録が重要になってくる。ディズニー映画『ポカホンタス』で一躍有名になった、ジョン・スミス(1580年 - 1631年)による一連の著作などであり、現在ではアメリカ文学の一部として考えられている。このような部類の著者としては、ダニエル・デントン(1626年頃 - 1703年)、トマス・アッシュ、ウィリアム・ペン(1644年 -1718年)、ジョージ・パーシー(1580年 - 1632年)、ウィリアム・ストレーチー(1572年 - 1621年)、ダニエル・コックス(1640年 - 1730年)、ガブリエル・トーマスおよびジョン・ローソン(1674年? - 1711年)がいた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "アメリカの開拓を促進することになった宗教紛争も初期著作の話題になった。ジョン・ウィンスロップ(1587年あるいは1588年 - 1649年)が書いた日記はマサチューセッツ湾植民地の宗教的基盤を論じていた。ジョン・ウィンスロー(1595年 - 1655年)もメイフラワー号でアメリカに到着した最初の1年間の日記を残した。その他宗教的に影響力のあった著者としては、インクリーズ・マザー(1639年 - 1723年)や『プリマス植民地の歴史、1620年 - 1647年』として出版された日記の著者ウィリアム・ブラッドフォード(1590年 - 1657年)がいた。ロジャー・ウィリアムズ(1603年 - 1683年)やナサニエル・ウォード(1578年 - 1652年)のような者達は国と教会の分離を激しく論じた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "この時代には詩人も幾人かいた。エドワード・テイラー(1642年頃 - 1729年)も著名になった。マイケル・ウィグルスワース(1631年 - 1705年)は最後の審判の日のことを書いた詩『運命の日』(en:The Day of Doom)がベストセラーになった。ニコラス・ノイズは韻律がそろっていない詩を書いたことで知られている。特筆すべきなのは、17世紀の女性詩人、アン・ブラッドストリート(1612年 - 1672年)であり、宗教色の強いその作品はフェミニズム批評の発展もあいまって、現在注目を浴びている。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "その他インディアンとの紛争や交流を後日談として書いたものでは、ダニエル・グッキン(1612年 - 1687年)、アレクサンダー・ウィタカー(1585年 - 1616年)、ジョン・メイソン(1600年頃 - 1672年)、ベンジャミン・チャーチ(1639年 -1718年)およびメアリー・ローランソン(1637年 - 1711年)がいた。伝道師ジョン・エリオット(1604年 - 1690年)はアルゴンキン語に聖書を翻訳した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ジョナサン・エドワーズ (神学者)(1703年 - 1758年)やジョージ・ホウィットフィールド(1714年 - 1770年)は、18世紀初期に厳格なカルヴァン主義を主張した宗教的リバイバルである第一次大覚醒を言葉で表現した。その他のピューリタンや宗教的著作家としては、トマス・フッカー(1586年 - 1647年)、トマス・シェパード(1605年 - 1649年)、ジョン・ワイズ(1652年 - 1725年)およびサミュエル・ウィラード(1640年 - 1707年)がいた。それほど厳格でも深刻でもない著作家としては、サミュエル・シューワル(1652年 - 1730年)、サラ・ケンブル・ナイト(1666年 - 1727年)およびウィリアム・バード(1674年 - 1744年)がいた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "アメリカ独立戦争の時代にはサミュエル・アダムズ(1722年 - 1803年)、ジョサイア・クィンジー(1744年 - 1775年)、ジョン・ディキンソン(1732年 - 1808年)および王党派だったジョセフ・ギャロウェイ(1731年 - 1803年)など植民地人の政治的な著作もあった。この時の重要な著作家はベンジャミン・フランクリン(1706年 - 1790年) とトマス・ペイン( 1737年 - 1809年)の2人だった。フランクリンの『貧しいリチャードの暦』(Poor Richard's Almanac)と『フランクリン自伝』(The Autobiography of Benjamin Franklin)は、芽を出し掛けたアメリカ人の独自性の形成に向けてそのウィットと影響力のあった作品と見られている。ペインの小冊子『コモン・センス』(Common Sense)と『アメリカの危機』(The American Crisis)は、この時期の政治的風潮に影響する重要な役割を演じたと見られている。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "革命そのものが進行している間、『ヤンキードゥードゥル』(Yankee Doodle)や『ネイサン・ヘイル』(Nathan Hale)のような詩や歌が流行った。主要な風刺作家としては、ジョン・トランブル(1750年 - 1831年)やフランシス・ホプキンソン(1737年 - 1791年)がいた。アメリカ独立の詩人と呼ばれることもあるフィリップ・モーリン・フレノー(1752年 - 1832年)は戦争の進行について詩を書いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "独立戦争が終わると、アレクサンダー・ハミルトン(1755年あるいは1757年 - 1804年)、ジェームズ・マディソン(1751年 - 1836年)およびジョン・ジェイ(1745年 - 1829年)による『ザ・フェデラリスト』(The Federalist)の随筆がアメリカ政府の組織と共和制の価値について重要で歴史的な議論を著した。トーマス・ジェファーソン(1743年 - 1826年)が書いたアメリカ独立宣言、またアメリカ合衆国憲法に対する影響力、その自叙伝、『バージニア州に関する注釈』(Notes on the State of Virginia)および多くの手紙などは初期アメリカの最も才能ある著作家の一人としてその評価を固めている。フィッシャー・エイムズ(1758年 - 1808年)、ジェイムズ・オーティス(1725年 - 1783年)およびパトリック・ヘンリー(1736年 - 1799年)も、その政治的著作物や演説で重きを置かれている。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "新しく誕生したばかりの国の初期文学の大半は既存の文学ジャンルの中でアメリカの声を独自に見出すために奮闘し、この傾向は小説にも反映された。ヨーロッパの形式とスタイルがアメリカに移されることが多く、批評家はそれらを劣っているものとみなすことが多かった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でもワシントン・アーヴィング(1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、ジェイムズ・フェニモア・クーパー(1789年 - 1851年)およびエドガー・アラン・ポー(1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(Salmagundi)や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(A History of New York, by Diedrich Knickerbocker、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(The Masque of the Red Death、1841年)、『落とし穴と振り子』(The Pit and the Pendulum、1842年)、『アッシャー家の崩壊』(The Fall of the House of Usher、1839年)および『モルグ街の殺人』(The Murders in the Rue Morgue、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を推理小説やファンタジーにまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(Leatherstocking Tales、『モヒカン族の最後』(The Last of the Mohicans)はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "この時代に人気のあったユーモア作家としては、ニューイングランドのセバ・スミス(1792年 - 1868年)とベンジャミン・P・シラバー(1814年 - 1890年)がおり、南部のデイヴィッド・クロケット(1786年 - 1836年)、オーガスタス・ボールドウィン・ロングストリート(1790年 - 1870年)、ジョンソン・J・フーパー(1815年 - 1863年)、トマス・バングス・ソープ(1815 - 1878年)およびジョージ・ワシントン・ハリス(1814年 - 1869年)はアメリカのフロンティアについて書いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ニューイングランド・ブラーマンズはハーバード大学とそれがあるマサチューセッツ州ケンブリッジを繋がりとする作家の集団だった。その中心となったのは、ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(1819年 - 1891年)、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー(1807年 - 1882年)およびオリバー・ウェンデル・ホームズ(1809年 - 1894年)だった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1836年、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(Nature)と呼ぶ衝撃的なノンフィクションを出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "エマーソンの共鳴者で最も才能豊かだったのは恐らく革新的反逆児だったヘンリー・デイヴィッド・ソロー(1817年 - 1862年)だった。ソローは森の中の池端にあった丸太小屋で2年間ほとんど一人で暮らした後で、『ウォールデン-森の生活』(Walden、1854年)を書いた。これは本1冊分にのぼる回顧録であり、組織化された社会のお節介な指図に反抗することを奨励している。その過激な書き方はアメリカ人の性格にある個人主義に向かう深く根ざした傾向を表現している。超絶主義に影響されたその他の作家としては、ブロンソン・オルコット(1799年 - 1888年)、マーガレット・フラー(1810年 - 1850年)、ジョージ・リプリー(1802年 - 1880年)、オレステス・ブラウンソン(1803年 - 1876年)およびジョーンズ・ベリー(1813年 - 1880年)がいた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "奴隷制度廃止運動に関わる政治紛争によって、ウィリアム・ロイド・ガリソン(1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『アンクル・トムの小屋』(Uncle Tom's Cabin、1851年)を書いたハリエット・ビーチャー・ストウ(1811年 - 1896年)が続いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1837年、青年ナサニエル・ホーソーン(1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(Twice-Told Tales)として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『緋文字』(The Scarlet Letter、1850年)は、姦通を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ホーソーンの小説はその友人であるハーマン・メルヴィル(1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『白鯨』(Moby-Dick)では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(Billy Budd、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アメリカの近代文学の初期においては、プロットが強いが日常的な描写が貧しい男性作家たちの小説と、プロットが弱いが日常的な描写に優れた女性作家による小説という特徴が見られた。アメリカ文学者の平石貴樹は、女性作家たちの「プロット」に対する不信の背後には、「人生を一貫した計画や冒険などの展開とみなす、近代的自我の人生観そのものを、アメリカン・ドリームに支配された男性たちの『勝手な夢』(少なくとも、社会参加のままならない自分たちには『無縁な夢』)としてしりぞける思想、あるいは情緒が、ひそんでいたとも考えられる。」と評し、男女の社会的立場の差と、プロットの強弱との関係を指摘している。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。ウォルト・ホイットマン(1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『草の葉』(Leaves of Grass)は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(Song of Myself)では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ホイットマンはまた自分で「電気の身体」と呼んだように肉体の詩人でもあった。イギリスの小説家D・H・ローレンスはその『アメリカ文学古典の研究』の中で、ホイットマンは「精神の男が肉体の男よりも幾らか「優れて」「上に」あるという古い道徳観に最初に打撃を与えた」と記した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一方、エミリー・ディキンソン(1830年 - 1886年)は、マサチューセッツ州の小さな町アマーストで上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。例えば、『私は死について考えるのを止められないから』(Because I could not stop for Death)は、「彼が親切にも私を止めさせた」で始まっている。ディキンソンの別の詩の冒頭は男性が支配する社会に生きる女性、かつ認められていない詩人としてのその立場を、「私は誰でもない!貴方は誰?貴方も誰でもないの?」と弄んでいる。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "アメリカの詩は20世紀初期から半ばにそのピークを迎えたと考えられるが、その著名な詩人としては、ウォレス・スティーブンス(1879年 - 1955年)、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)、アン・セクストン(1928年 - 1974年)、エズラ・パウンド(1885年 - 1972年)、T・S・エリオット(1888年 - 1965年)、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(1883年 - 1963年)、スティーブン・ビンセント・ベネット(1898年 - 1943年)、ロバート・フロスト(1874年 - 1963年)、カール・サンドバーグ(1878年 - 1967年)、ロビンソン・ジェファーズ(1887年 - 1962年)、ハート・クレイン(1899年 - 1932年)、E・E・カミングス(1894年 - 1962年)、ジョン・ベリーマン(1914年 - 1972年)、アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)、ロバート・ローウェル(1917年 - 1977年)、エドナ・ミレイ(1892年 - 1950年)など多くいる。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "マーク・トウェイン(1835年 - 1910年、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はアメリカ東海岸とは離れて(ミズーリ州の州境)生まれたアメリカ人作家としては初めての重要人物だった。その土地を舞台にする傑作は自伝『ミシシッピの生活』(Life on the Mississippi)と小説『ハックルベリー・フィンの冒険』(Adventures of Huckleberry Finn)である。トウェインのスタイルはジャーナリズムの影響を受け、方言を取り入れ、直接的で飾り気が無いが高度に感情に訴えるものがあって不敬にもユーモラスである。これがアメリカ人の言語を書く方法を変えた。その登場人物は方言と新しく発明した言葉や地域のアクセントまで使って実在の人物のように話し、明らかにアメリカ人のように聞こえる。その他地域的な違いや方言で興味ある作家としては、ジョージ・W・ケーブル(1844年 - 1925年)、トマス・ネルソン・ペイジ(1853年 - 1922年)、ジョーエル・チャンドラー・ハリス(1848年 - 1908年)、メアリー・ノアイユ・マーフリー(1850年 - 1922年、筆名チャールズ・エグバート・クラドック)、サラ・オーン・ジューエット(1849年 - 1909年)、メアリー・E・ウィルキンス・フリーマン(1852年 - 1930年)、ヘンリー・カイラー・バナー(1855年 - 1896年)およびウィリアム・シドニー・ポーター(1862年 - 1910年、筆名オー・ヘンリー)がいる。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(The Rise of Silas Lapham)のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ヘンリー・ジェイムズ(1843年 - 1916年)は旧世界と新世界について直接書くことでそのジレンマに直面した。ジェイムズはニューヨーク市で生まれたが成人してからの大半はイングランドで過ごした。その小説の多くはヨーロッパに住んでいるか旅しているアメリカ人を描いている。ジェイムズの小説は、その錯綜し高度に抑えられた文章と感情と心理のあやに対する分析とで、人を怯えさせるものがある。ヨーロッパに来た魅力的なアメリカ人少女を描いた小説『デイジー・ミラー』(Daisy Miller)や謎のような怪談『ねじの回転』(The Turn of the Screw)がまだとっつきやすい作品である。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "20世紀の始めにアメリカの小説家は小説の社会的領域を上流から下流まで広げていき、時にはリアリズムの自然はにも結びついた。エディス・ウォートン(1862年 - 1937年)は短編や小説で、彼女が育ったアメリカ東海岸の社会である上流階級を観察した。その傑作の中でも『無知の時代』(The Age of Innocence、1920年)は、魅力ある部外者よりも伝統的で社会的に受容される女性との結婚を選ぶ一人の男を主題にしている。これと同じ頃、南北戦争の小説『赤い武功章』(The Red Badge of Courage)で知られたスティーヴン・クレイン(1871年 - 1900年)は、『街の女マギー』(Maggie:A Girl of the Streets、1893年)でニューヨークの娼婦の生涯を描いた。またセオドア・ドライサー(1871年 - 1945年)は『シスター・キャリー』(Sister Carrie、1900年)でシカゴに移転し、愛人になる田舎娘を描いた。ハムリン・ガーランド(1861年 - 1940年)とフランク・ノリス(1870年 - 1902年)は自然主義者の観点からアメリカの農夫の抱える問題など社会的問題について書いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "さらに直接に政治的な書物が社会問題と企業の力を論じた。エドワード・ベラミー(1850年 - 1898年)の『顧みれば』(Looking Backward)のような作品では別に考えられる政治や社会の枠組みを描いた。アプトン・シンクレア(1878年 - 1968年)は食肉加工業を題材にした小説『ジャングル』(The Jungle )で最も有名になったが社会主義を提唱した。その他この時代の政治的作家としては、エドウィン・マーカハム(1852年 - 1940年)、ウィリアム・ボーン・ムーディ(1869年 - 1910年)がいた。イーダ・ターベル(1857年 - 1944年)やリンカーン・ステフェンス(1866年 - 1936年)などジャーナリスト批評家はマクレイカー(醜聞を暴く人)と渾名された。ヘンリー・ブルックス・アダムズ(1838年 - 1918年)も教育制度と現代生活を辛辣な表現で描いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "スタイルや形態における実験が主題における新しい自由さに加わってきた。1909年、ガートルード・スタイン(1874年 - 1946年)はパリの海外居住者となっていたが、キュビスム、ジャズなど当時の美術と音楽の動きに親しんだことで影響された革新的小説である『3人の女』(Three Lives)を出版した。 スタインは1920年代と1930年代をパリで暮らしたアメリカ文学の著名人集団を「失われた世代」と名付けた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "詩人のエズラ・パウンド(1885年 - 1972年)はアイダホ州で生まれたが、成人してからの生涯の大半をヨーロッパで過ごした。その作品は複雑であり、ときには曖昧で、西洋と東洋両方の他の芸術形態や広い範囲の文学に何度も言及している。パウンドは他の多くの詩人、特にもう一人の海外居住者だったT・S・エリオット(1888年 - 1965年)に影響を与えた。エリオットは、象徴の濃密な構造で進められる簡潔で知性に訴える詩を書いた。その作品『荒地』(The Waste Land)では、第一次世界大戦後の社会の僻んだ考え方を崩壊し悪夢に付きまとわれたイメージに表現した。パウンドの作品に似てエリオットの詩は高度に暗示的であり、『荒地』のある版は詩人その人によって補われた脚注が備えられた。1948年、エリオットはノーベル文学賞を受賞した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "アメリカの作家は第一次世界大戦後の幻滅も表現した。F・スコット・フィッツジェラルド(1896年 - 1940年)の短編や小説は1920年代の落ち着けない、喜びに飢えた反抗的なムードを捕らえていた。フィッツジェラルドの特徴的主題は『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)で痛烈に表現されており、若者の金色の夢が失敗と失望の中で消えていく風潮である。フィッツジェラルドはまた、20世紀初期の社会の圧力で酷く脅威を与えられている側面である自由、社会の統合、良い政府と平和などアメリカ独立宣言に盛り込まれていたアメリカの重要な理想の幾つかが崩壊したことも示した。シンクレア・ルイス(1885年-1951年、1930年ノーベル文学賞)とシャーウッド・アンダーソン(1876年 - 1941年)もアメリカ人の生活を批評的に表現した小説を書いた。ジョン・ドス・パソス(1896年 - 1970年)は戦争について書き、世界恐慌にまで伸びた「アメリカ合衆国三部作」も書いた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "パール・S・バック (1892年 - 1973年) は生後間もなく中国に渡った女性作家で、中国農村が舞台の大地 (1931年) でピューリツァー賞 (1932年) とノーベル賞 (1938年) を受賞した。アーネスト・ヘミングウェイ(1899年 - 1961年)は第一次世界大戦の救急車運転手として暴力と死を身近に体験し、大虐殺によって抽象的な言葉が最も空虚で人を惑わすものだと確信させられた。その著作から不要な言葉を削り、文章構造を単純化し、具体的な対象と行動に集中させた。圧力の下での優美さを強調する道徳律に固執し、その主人公は強く寡黙な男だが女性の扱いはぎこちないことが多い。『日はまた昇る』(The Sun Also Rises)と『武器よさらば』(A Farewell to Arms)が一般にその傑作と考えられている。ヘミングウェイは1954年にノーベル文学賞を受賞した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "ヘミングウェイよりも5年早い1949年に、ウィリアム・フォークナー(1897年 - 1962年)がノーベル文学賞を受賞していた。フォークナーは彼が創作したミシシッピ州のヨクナパトーファ郡における非常に大きな範囲の人物模様を描き出した。「意識の流れ」と呼ばれる手法で、心理状態を表現するために長ったらしくてまとまりのないように見える登場人物の話を記録した(実際にこれらの文章は丁寧に組み立てられ、その混乱したような構造は多層の意味を隠している)。フォークナーは時間の流れもごちゃ混ぜにし、過去である奴隷を所有していた時代のディープサウスが現在にどう繋がっているかを示している。『響きと怒り』(The Sound and the Fury)、『アブサロム、アブサロム!』(Absalom, Absalom!)、『行け、モーセ』(Go Down, Moses)および『征服されざる人々』(The Unvanquished)が著名である。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "世界恐慌時代の文学はその社会批判において無遠慮で直接的だった。ジョン・スタインベック(1902年 - 1968年)はカリフォルニア州サリナスで生まれ、そこを小説の多くの舞台にした。そのスタイルは単純で示唆に富み、読者の共感を呼んだが批評家はそうではなかった。スタインベックはしばしば貧しい労働者階級とまともで正直な生活を送るための奮闘を書いた。おそらく当時の最も社会的に目覚めた作家だった。傑作と考えられている『怒りの葡萄』(The Grapes of Wrath)は、オクラホマ州出身でより良い生活を求めてカリフォルニア州に旅する貧しい家族であるジョード家の話を語る強く社会指向の小説である。その他にも『おけら部落』(Tortilla Flat)、『二十日鼠と人間』(Of Mice and Men)、『キャナリー・ロウ』(Cannery Row)および『エデンの東』(East of Eden)などを書いた。スタインベックは1962年にノーベル賞を受賞した。プロレタリアート派の一部と考えられるその他の小説家として、ナサニエル・ウェスト(1903年 - 1940年)、オリーブ・ティルフォード・ダーガン(1869年 - 1968年)、トム・クロマー(1906年 - 1969年)、ロバート・キャントウェル(1908年 - 1978年)およびエドワード・アンダーソンがいた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "ヘンリー・ミラー(1891年 - 1980年)は、パリで書いて出版した半自叙伝的小説がアメリカ合衆国で発禁になった時に、1930年代のアメリカ文学界で特異な存在となった。主要作品である『北回帰線』(Tropic of Cancer)と『暗い春』(Black Spring)は1962年までアメリカ国内での販売と出版が認められなかったが、この時点で既にその主題とスタイルの革新性はアメリカの次の世代の作家達に大きな影響を残していた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦が終わり、おおまかに1960年代後半や1970年代前半までの時代は、アメリカ史の中でも最も人気ある作品の幾つかが出版された時だった。より現実的なモダニズム文学の最後の数人と共に幅広くロマンティックなビートニクスがこの時代を支配し、アメリカが第二次世界大戦に関わったことへの直接の反応が彼らに注目すべき影響を与えた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "カナダで生まれシカゴで育ったソール・ベロー(1915年 - 2005年)が第二次世界大戦後の数十年間で最も影響力あるアメリカの小説家になった。『オーギー・マーチの冒険』(The Adventures of Augie March)や『雨の王ヘンダソン』(Henderson the Rain King)といった作品で、ベローはアメリカの都市の生き生きとした肖像とそこに住む典型的な人々を描いた。ベローは1976年にノーベル文学賞を受賞することになった。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "J・D・サリンジャー(1919年 - 2010年)の『ナイン・ストーリーズ』(Nine Stories)と『ライ麦畑でつかまえて』 (The Catcher in the Rye)から、シルヴィア・プラス(1932年 - 1963年)の『ベル・ジャー』(The Bell Jar)まで、アメリカの狂気は国民の文学表現の前線にまで置かれた。『ロリータ』(Lolita)を書いたウラジーミル・ナボコフ(1899年 - 1977年)のような移民作家がその主題で台頭し、ほとんど同じ頃にビートニクスはその失われた世代の先達から離れて申し合わせたような一歩を踏み出した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ビート・ジェネレーションの詩や小説は、大半がニューヨーク市のコロンビア大学周辺に形成された知識人のサークルから生まれ、幾らか後にサンフランシスコで明確に確立され、時代のものとなった。「ビート」という言葉は全く同時にジャズシーンの反体制文化的リズムにも使われ、戦後社会の保守的ストレスに関する反逆の意味で、またドラッグ、アルコール、哲学および宗教、特に「禅」を通じた新しい形の精神的な体験における興味にも使われた。アレン・ギンズバーグ(1926年 - 1997年)はホイットマン流の作品であるその詩『吠える』(Howl)で、「私は狂気によって破壊された私の世代の最良の心を見た」で始め、この動きの調子を定めた。これと同時にその親友であるジャック・ケルアック(1922年 - 1969年)はビートのはしゃぎ回り、おおらかで気まぐれな生活様式を、多くの作品の中でも傑作で最も人気のあった小説『路上』(On the Road)で祝した。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "具体的に戦争小説に関して、第二次世界大戦後の時代にアメリカでは文学的な爆発があった。ノーマン・メイラー(1923年 - 2007年)の『裸者と死者』(The Naked and the Dead、1948年)、ジョゼフ・ヘラー(1923年 - 1999年)の『キャッチ=22』(Catch-22、1961年)およびカート・ヴォネガット(1922年 - 2007年)の『スローターハウス5』(Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade、1969年)などの作品が良く知られたものである。バーバラ・ガーソン(1941年 - )が書いた『マクバード』(MacBird)は戦争の愚かさを白日に曝したもう一つの作品として受け入れられた。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "対照的にジョン・アップダイク(1932年 - )はアメリカ人の生活のより牧歌的な側面と呼べるものを出し、静かにだが破壊的でもある文体で迫った。その1960年に出した『走れウサギ』(Rabbit, Run)は、その性格描写とアメリカ中流階級の詳細によってその発売と同時に新しい地平を切り開いた。その叙述に現在時制を用いたことでは最初の小説の一つとされてもいる。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ラルフ・エリソン(1914年 - 1994年)の1953年の小説『見えない人間』(Invisible Man)は終戦直後の最も力にあふれ世間をあっと言わせる作品の中にあると即座に認められた。この小説は北の都会における黒人の話であり、国内でまで一般的だった抑圧されることの多かった人種問題をむき出しにし、実存的な性格描写としても成功している。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "フラナリー・オコナー(1925年 - 1964年)もマーク・トウェインやアメリカ文学史の中で他の指導的作家にとって大切だったアメリカ文学における「南部」という主題を開拓し発展させた。その作品は『賢い血』(Wise Blood、1952年)、『烈しく攻むる者はこれを奪う』(The Violent Bear It Away、1960年)や最も良く知られた短編である『すべて上昇するものは一点に集まる』(Everything That Rises Must Converge)、さらに死後の1965年に出版されたオコナー短編集がある。", "title": "アメリカ文学史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "おおまかに言って1970年代初めから現在まで、最も良く知られた文学の分野は、ポストモダニズムであろうが、その呼び方には様々に異論がある。時代の知識人に受け入れられた(必ずしもポストモダンではない)作家としては、トマス・ピンチョン(1937年 - )、ティム・オブライエン(1946年 - )、ロバート・ストーン(1937年 - )、ドン・デリーロ(1936年 - )、ポール・オースター(1947年 - )、トニ・モリスン(1931年 - )、フィリップ・ロス(1933年 - )、コーマック・マッカーシー(1931年 - )、レイモンド・カーヴァー(1939年 - 1988年)、ジョン・チーバー(1912年 - 1982年)、ジョイス・キャロル・オーツ(1938年 - )、アニー・ディラード(1945年 - )、リチャード・パワーズ(1957年 - )らが挙げられる。一般的にポストモダニズムとされる作家達は、大衆文化とマスメディアが平均的アメリカ人の世界に冠する概念と経験に影響を与えた多くの方法を扱い、また今日でも直接扱っている。それはアメリカ政府さらには多くの場合アメリカ史であるが、特に平均的アメリカ人自身の歴史感と共に批判されることが大変多い。", "title": "現代のアメリカ小説" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "多くのポストモダン作家は郊外あるいはショッピングセンターのファストフード・レストランを舞台とすることでも知られている。彼らはドラッグ、美容整形手術およびテレビのコマーシャルについて書いている。ときにはこれらの表現がほとんど称賛のようにも見える。しかし同時にこの派の作家達はその主題に対して知ったかぶり、自意識過剰、当て擦り、および(ある批評家に拠れば)へりくだった態度を取る。このような傾向にある者のなかでおそらく最も知られているのは、ブレット・イーストン・エリス(1964年 - )、デイブ・エッガーズ(1970年 - )、チャック・パラニューク(1962年 - )およびデヴィッド・フォスター・ウォレス(1962年 - 2008年)であろう。", "title": "現代のアメリカ小説" } ]
アメリカ文学(アメリカぶんがく、とは、アメリカ合衆国の文学、及びそれらの作品や作家を研究する学問のこと。米国文学、米文学とも言う。また、イギリス文学と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『English literature』の場合、英国や合衆国に限らず英語による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。
{{読み仮名|'''アメリカ文学'''|アメリカぶんがく|{{lang-en-short|American literature}}}}とは、[[アメリカ合衆国]]の[[文学]]、及びそれらの作品や[[作家]]を[[研究]]する[[学問]]のこと。'''米国文学'''(べいこくぶんがく)、{{読み仮名|'''米文学'''|べいぶんがく}}とも言う。また、[[イギリス文学]]と合わせて英米文学と呼ぶこともある。『{{lang|en|English literature}}』の場合、[[イギリス|英国]]や合衆国に限らず[[英語]]による各地域の文学を含むことがある。しかし現代ではアメリカ人の特異な性格と作品の幅広さによって、イギリス文学とは別の系統と伝統が出来てきたと考えられることが多い。 == アメリカ文学史 == 英語によるアメリカ文学の歴史は、[[1776年]]に独立してから本格的に始まった。それ以前の文学史は、ある程度かつての[[宗主国]][[イギリス]]に求めることになるが、現在では[[移民]]の記録や[[日記]]、[[詩]]なども、アメリカ文学の一部として認められており、アメリカ文学の発生点は単純には決めがたい。 === 植民地時代の文学 === [[File:The Generall Historie of Virginia, New-England, and the Summer Isles by Captain John Smith.jpg|thumb|200px|[[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]の著作『バージニア、ニューイングランドおよびサマー諸島の歴史概観』表紙]] アメリカ文学の最も初期形態はヨーロッパ人と植民地の読者双方に対して植民地の良さを褒め称える小冊子や書き物だった。 移民の記録をアメリカ文学の発生点とみなすのであれば、[[1607年]]以降の[[バージニア州]]移民の記録が重要になってくる。[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]映画『ポカホンタス』で一躍有名になった、[[ジョン・スミス (探検家)|ジョン・スミス]]([[1580年]] - [[1631年]])による一連の著作<ref>『バージニアで起こったような事件や事故の真実の関係』(1608年)と『バージニア、ニューイングランドおよびサマー諸島の歴史概観』(1624年)[http://memory.loc.gov/cgi-bin/query/h?ammem/lhbcbbib:@field(NUMBER+@band(lhbcb+0262a)) full text]</ref>などであり、現在ではアメリカ文学の一部として考えられている。このような部類の著者としては、ダニエル・デントン(1626年頃 - 1703年)、トマス・アッシュ、[[ウィリアム・ペン]](1644年 -1718年)、ジョージ・パーシー(1580年 - 1632年)、ウィリアム・ストレーチー(1572年 - 1621年)、ダニエル・コックス(1640年 - 1730年)、ガブリエル・トーマスおよびジョン・ローソン(1674年? - 1711年)がいた。 アメリカの開拓を促進することになった宗教紛争も初期著作の話題になった。[[ジョン・ウィンスロップ (マサチューセッツ湾植民地知事)|ジョン・ウィンスロップ]](1587年あるいは1588年 - 1649年)が書いた日記<ref>[http://www.hup.harvard.edu/catalog/WINJOU.html Harvard University Press]</ref>はマサチューセッツ湾植民地の宗教的基盤を論じていた。ジョン・ウィンスロー(1595年 - 1655年)も[[メイフラワー号]]でアメリカに到着した最初の1年間の日記を残した。その他宗教的に影響力のあった著者としては、インクリーズ・マザー(1639年 - 1723年)や『プリマス植民地の歴史、1620年 - 1647年』<ref>*[https://books.google.co.jp/books?id=tYecOAN1cwwC&printsec=titlepage&redir_esc=y&hl=ja Full Text "Of Plymouth Plantation" provided by google book search]</ref>として出版された日記の著者ウィリアム・ブラッドフォード(1590年 - 1657年)がいた。[[ロジャー・ウィリアムズ]](1603年 - 1683年)やナサニエル・ウォード(1578年 - 1652年)のような者達は国と教会の分離を激しく論じた。 [[File:Frontispiece_for_An_Account_of_Anne_Bradstreet_The_Puritan_Poetess,_and_Kindred_Topics,_edited_by_Colonel_Luther_Caldwell_(Boston,_1898)_(cropped).jpg|left|200px|thumb|[[アン・ブラッドストリート]]]] この時代には詩人も幾人かいた。エドワード・テイラー(1642年頃 - 1729年)<ref>[http://harvardsquarelibrary.org/poets/taylor.php Poets of Cambridge]</ref>も著名になった。マイケル・ウィグルスワース(1631年 - 1705年)は最後の審判の日のことを書いた詩『運命の日』(''[[:en:The Day of Doom]]'')がベストセラーになった。ニコラス・ノイズは韻律がそろっていない詩を書いたことで知られている。特筆すべきなのは、[[17世紀]]の女性詩人、[[アン・ブラッドストリート]]([[1612年]] - [[1672年]])であり、[[宗教]]色の強いその作品は[[フェミニズム]]批評の発展もあいまって、現在注目を浴びている。 その他インディアンとの紛争や交流を後日談として書いたものでは、ダニエル・グッキン(1612年 - 1687年)、アレクサンダー・ウィタカー(1585年 - 1616年)、ジョン・メイソン(1600年頃 - 1672年)、[[ベンジャミン・チャーチ]](1639年 -1718年)およびメアリー・ローランソン(1637年 - 1711年)がいた。伝道師ジョン・エリオット(1604年 - 1690年)は[[アルゴンキン語族|アルゴンキン語]]に[[聖書]]を翻訳した。 [[ジョナサン・エドワーズ (神学者)]](1703年 - 1758年)や[[ジョージ・ホウィットフィールド]](1714年 - 1770年)は、[[18世紀]]初期に厳格な[[カルヴァン主義]]を主張した宗教的[[リバイバル]]である[[第一次大覚醒]]を言葉で表現した。その他の[[ピューリタン]]や宗教的著作家としては、トマス・フッカー(1586年 - 1647年)、トマス・シェパード(1605年 - 1649年)、ジョン・ワイズ(1652年 - 1725年)およびサミュエル・ウィラード(1640年 - 1707年)がいた。それほど厳格でも深刻でもない著作家としては、サミュエル・シューワル(1652年 - 1730年)、サラ・ケンブル・ナイト(1666年 - 1727年)およびウィリアム・バード(1674年 - 1744年)がいた。 アメリカ独立戦争の時代には[[サミュエル・アダムズ]](1722年 - 1803年)、ジョサイア・クィンジー(1744年 - 1775年)、[[ジョン・ディキンソン (政治家)|ジョン・ディキンソン]](1732年 - 1808年)および王党派だった[[ジョセフ・ギャロウェイ]](1731年 - 1803年)など植民地人の政治的な著作もあった。この時の重要な著作家は[[ベンジャミン・フランクリン]](1706年 - 1790年) と[[トマス・ペイン]]( 1737年 - 1809年)の2人だった。フランクリンの『貧しいリチャードの暦』(''Poor Richard's Almanac''<ref>[http://www.gettysburg.edu/~tshannon/his341/colonialamer.htm Scanned images of three online editions of Poor Richard's (1733, 1753, 1759)]</ref>)と『フランクリン自伝』(''The Autobiography of Benjamin Franklin''<ref>[http://www.earlyamerica.com/lives/franklin/ Text of the ''Autobiography'']</ref>)は、芽を出し掛けたアメリカ人の独自性の形成に向けてそのウィットと影響力のあった作品と見られている。ペインの小冊子『[[コモン・センス]]』(''Common Sense''<ref>[http://publicliterature.org/books/common_sense/xaa.php ''Common Sense'', complete text in various formats with audio]</ref>)と『アメリカの危機』(''The American Crisis'')は、この時期の政治的風潮に影響する重要な役割を演じたと見られている。 革命そのものが進行している間、『[[ヤンキードゥードゥル]]』(''Yankee Doodle'')や『[[ネイサン・ヘイル]]』(''Nathan Hale'')のような詩や歌が流行った。主要な風刺作家としては、ジョン・トランブル(1750年 - 1831年)や[[フランシス・ホプキンソン]](1737年 - 1791年)がいた。アメリカ独立の詩人と呼ばれることもあるフィリップ・モーリン・フレノー(1752年 - 1832年)は戦争の進行について詩を書いた<ref>[http://etc.princeton.edu/CampusWWW/Companion/freneau_philip.html Princeton Biography]</ref>。 === 独立後 === [[File:Thomas_Jefferson_by_Rembrandt_Peale,_1800.jpg|thumb|200px|left|[[トーマス・ジェファーソン]]]] 独立戦争が終わると、[[アレクサンダー・ハミルトン]](1755年あるいは1757年 - 1804年)、[[ジェームズ・マディソン]](1751年 - 1836年)および[[ジョン・ジェイ]](1745年 - 1829年)による『[[ザ・フェデラリスト]]』(''The Federalist''<ref>*[http://federali.st/ Fully Linkable version of The Federalist Papers]</ref>)の随筆がアメリカ政府の組織と共和制の価値について重要で歴史的な議論を著した。[[トーマス・ジェファーソン]](1743年 - 1826年)が書いたアメリカ独立宣言、またアメリカ合衆国憲法に対する影響力、その自叙伝、『バージニア州に関する注釈』(''Notes on the State of Virginia''<ref>[http://etext.virginia.edu/toc/modeng/public/JefVirg.html Notes on the State of Virginia] Electronic Text Center, University of Virginia Library.</ref>)および多くの手紙などは初期アメリカの最も才能ある著作家の一人としてその評価を固めている。フィッシャー・エイムズ(1758年 - 1808年)、ジェイムズ・オーティス(1725年 - 1783年)および[[パトリック・ヘンリー]](1736年 - 1799年)も、その政治的著作物や演説で重きを置かれている。 新しく誕生したばかりの国の初期文学の大半は既存の文学ジャンルの中でアメリカの声を独自に見出すために奮闘し、この傾向は小説にも反映された。ヨーロッパの形式とスタイルがアメリカに移されることが多く、批評家はそれらを劣っているものとみなすことが多かった。 === 特異なアメリカスタイル === [[File:Portrait of Washington Irving by John Wesley Jarvis in 1809.jpg|right|thumb|200px|[[ワシントン・アーヴィング]]]] [[File:Emerson by Johnson 1846.png|right|thumb|200px|[[ラルフ・ウォルドー・エマソン]]]] [[File:Herman melville.jpg|right|thumb|200px|[[ハーマン・メルヴィル]]]] 米英戦争と共にアメリカ固有の文学や文化を生み出したいという願望が増し、多くの新しい文学界の重要な人物が現れた。その中でも[[ワシントン・アーヴィング]](1783年 - 1859年)、ウィリアム・カレン・ブライアント(1794年 - 1878年)、[[ジェイムズ・フェニモア・クーパー]](1789年 - 1851年)および[[エドガー・アラン・ポー]](1809年 - 1849年)が特筆される。アーヴィングはアメリカ固有のスタイルを開発した最初の作家と考えられることが多く(ただし異論が出ている)、『サルマガンディー』(''Salmagundi'')や良く知られた風刺『ディートリヒ・ニッカーボッカーによるニューヨークの歴史』(''A History of New York, by Diedrich Knickerbocker''、1809年)でユーモアある作品を著した。ブライアントはロマンチックで自然に触発された初期の詩人であり、ヨーロッパの影響から離れた。1832年、ポーは短編小説を書き始めた。その中には『赤死病の仮面』(''The Masque of the Red Death''<ref>[http://books.eserver.org/fiction/poe/masque_of_the_red_death.html "The Masque of the Red Death"] at EServer.org</ref>、1841年)、『落とし穴と振り子』(''The Pit and the Pendulum''<ref>[http://pitandthependulum.atspace.com Pit and the Pendulum] - Fully searchable text of Edgar Allan Poe's story.</ref>、1842年)、『[[アッシャー家の崩壊]]』(''The Fall of the House of Usher<ref>[http://www.bartleby.com/195/10.html Full text] at Bartelby.com</ref>''、1839年)および『[[モルグ街の殺人]]』(''The Murders in the Rue Morgue''、1841年)があり、人間心理の以前は隠されていた面を探求し、小説の範囲を[[推理小説]]や[[ファンタジー]]にまで拡げた。クーパーのナッティ・バンポーに関する『レザーストッキング・テイルズ』(''Leatherstocking Tales''、『[[モヒカン族の最後]]』(''The Last of the Mohicans''<ref>[http://publicliterature.org/books/last_of_the_mohicans/xaa.php ''The Last of the Mohicans''] at [http://publicliterature.org PublicLiterature.org]</ref>)はその第2作)は国内でも海外でも好評を博した。 この時代に人気のあったユーモア作家としては、[[ニューイングランド]]のセバ・スミス(1792年 - 1868年)とベンジャミン・P・シラバー(1814年 - 1890年)がおり、[[アメリカ合衆国南部|南部]]の[[デイヴィッド・クロケット]](1786年 - 1836年)、オーガスタス・ボールドウィン・ロングストリート(1790年 - 1870年)、ジョンソン・J・フーパー(1815年 - 1863年)、トマス・バングス・ソープ(1815 - 1878年)およびジョージ・ワシントン・ハリス(1814年 - 1869年)はアメリカの[[フロンティア]]について書いた。 ニューイングランド・ブラーマンズは[[ハーバード大学]]とそれがある[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]を繋がりとする作家の集団だった。その中心となったのは、[[ジェイムズ・ラッセル・ローウェル]](1819年 - 1891年)、[[ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー]](1807年 - 1882年)および[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニア|オリバー・ウェンデル・ホームズ]](1809年 - 1894年)だった。 1836年、[[ラルフ・ウォルドー・エマソン]](1803年 - 1882年)は元牧師であり、『自然』(''Nature'')と呼ぶ衝撃的な[[ノンフィクション]]を出版した。その中で自然界を勉強し反応することで、既に組織化された宗教とは離れ、高い精神状態に達することが可能であると主張した。その作品は彼の周りに集まった作家達に超絶主義と呼ばれる運動を起こさせただけでなく、その講義を聞いた大衆にも影響を与えた。 エマーソンの共鳴者で最も才能豊かだったのは恐らく革新的反逆児だった[[ヘンリー・デイヴィッド・ソロー]](1817年 - 1862年)だった。ソローは森の中の池端にあった丸太小屋で2年間ほとんど一人で暮らした後で、『ウォールデン-森の生活』(''Walden''、1854年)を書いた。これは本1冊分にのぼる回顧録であり、組織化された社会のお節介な指図に反抗することを奨励している。その過激な書き方はアメリカ人の性格にある個人主義に向かう深く根ざした傾向を表現している。超絶主義に影響されたその他の作家としては、ブロンソン・オルコット(1799年 - 1888年)、マーガレット・フラー(1810年 - 1850年)、ジョージ・リプリー(1802年 - 1880年)、オレステス・ブラウンソン(1803年 - 1876年)およびジョーンズ・ベリー(1813年 - 1880年)がいた<ref>Gura, Philip F. ''American Transcendentalism: A History''. New York: Hill and Wang, 2007: 7-8. ISBN 0-8090-3477-8</ref>。 [[奴隷制度廃止運動]]に関わる政治紛争によって、[[ウィリアム・ロイド・ガリソン]](1805年 - 1879年)とその新聞「リベレーター」における作品に刺激を与え、また詩人ジョン・グリーンリーフ・ホイッティアや、世界的に有名になった『[[アンクル・トムの小屋]]』(''Uncle Tom's Cabin''<ref>[https://archive.org/search.php?query=Uncle%20Tom%27s%20Cabin%20AND%20mediatype%3Atexts ''Uncle Tom's Cabin], available at Internet Archive. Scanned, illustrated original editions.</ref>、1851年)を書いた[[ハリエット・ビーチャー・ストウ]](1811年 - 1896年)が続いた。 1837年、青年[[ナサニエル・ホーソーン]](1804年 - 1864年)が、『二度語られた話』(''Twice-Told Tales''<ref>[https://archive.org/search.php?query=title%3Atwice%20told%20tales%20AND%20mediatype%3Atexts ''Twice-Told Tales''], available at Internet Archive (scanned books original editions illustrated)</ref>)として象徴主義でオカルト的事件が豊富なその作品を集めた。ホーソーンは長編の「恋愛小説」として寓話風な小説を書くようになり、罪、誇りおよび生まれ故郷のニューイングランドにおける感情的抑圧といった主題を開拓した。その傑作『[[緋文字]]』(''The Scarlet Letter''<ref>[http://etext.lib.virginia.edu/toc/modeng/public/Eaf135.html The original text of ''The Scarlet Letter'' hosted by the University of Virginia]</ref>、1850年)は、[[姦通]]を犯し不義の子を産んだことでその地域社会から迫害される女性の過酷なドラマである。 ホーソーンの小説はその友人である[[ハーマン・メルヴィル]](1819年 - 1891年)に大きな影響を与えた。メルヴィルはその船乗り時代の経験を風変わりでセンセーショナルな海洋説話小説に変えることでその名前を残した。メルヴィルはホーソーンの主題である寓話や暗い心理描写に影響を受けて、淡々たる思索の豊富なロマンを書くようになった。『[[白鯨]]』(''Moby-Dick''<ref>[http://www.powermobydick.com ''Power Moby-Dick''], Online version with notes to help the reader.</ref>)では、冒険的捕鯨の旅が強迫観念、悪の性質、および原理に対する人間の戦いというような主題を掘り下げる舞台になった。他にも短編の傑作『ビリー・バッド』(''Billy Budd''<ref>[http://www.bibliomania.com/0/0/36/1006/frameset.html Online version of Billy Budd at Bibliomania]</ref>、1924年の死後出版)では、戦時の艦船上における義務と同情心の葛藤をドラマ化した。メルヴィルの豊富な作品は存命中にほとんど売れず、死後も暫くは忘れられた存在だった。死後30年を経た1921年に再評価の動きがおこった。 メルヴィル、ホーソーンおよびポーによる反超絶主義的作品は当時の文学界の小ジャンル、暗黒ロマン主義を構成するものである。 アメリカの近代文学の初期においては、プロットが強いが日常的な描写が貧しい男性作家たちの小説と、プロットが弱いが日常的な描写に優れた女性作家による小説という特徴が見られた{{sfn|平石|2010|p=277}}。アメリカ文学者の[[平石貴樹]]は、女性作家たちの「プロット」に対する不信の背後には、「人生を一貫した計画や冒険などの展開とみなす、近代的自我の人生観{{efn|近代的自我の人生観は、弱体化した宗教にかわって強まった現実・世俗への関心、個人主義的な独立心や主体性、目標の実現のために自分自身を鼓舞し努力する姿勢の3つを特徴とする{{sfn|平石|2010|pp=16-17}}。}}そのものを、[[アメリカン・ドリーム]]に支配された男性たちの『勝手な夢』(少なくとも、社会参加のままならない自分たちには『無縁な夢』)としてしりぞける思想、あるいは情緒が、ひそんでいたとも考えられる。」と評し{{efn|平石貴樹は、このように考えさせる作品として、[[ケイト・ショパン]]の『[[目覚め (小説)|目覚め]]』を挙げている{{sfn|平石|2010|p=277}}。}}、男女の社会的立場の差と、プロットの強弱との関係を指摘している{{sfn|平石|2010|p=277}}。 === アメリカの詩 === {{Main|アメリカ合衆国の詩}} [[File:Whitman-leavesofgrass.gif|thumb|left|[[ウォルト・ホイットマン]]、1856年]] 19世紀アメリカの二人の偉大な詩人は気質もスタイルもほとんど異なったものと言うことができる。[[ウォルト・ホイットマン]](1819年 - 1892年)は、労働者、漂泊者、南北戦争では志願看護士であり、詩の革新者だった。その代表作『[[草の葉]]』(''Leaves of Grass''<ref>[http://www.whitmanarchive.org/published/index.html The Whitman Archive--contains all editions of ''Leaves of Grass'' published in Whitman's lifetime, including text and page images.]</ref>)は、不規則な長さをもつ自由に流れる行でできており、アメリカ的民主主義の全的包括性を表している。この主題を一歩進め、自分勝手にならずに幅広いアメリカ人の体験を自身のものと同一視している。例えば、『草の葉』の中心で長い詩、『ぼく自身の歌』(''Song of Myself''<ref>[http://rpo.library.utoronto.ca/poem/2288.html The University of Toronto's full text, with line numbers]</ref>)では、「あらゆる年齢とあらゆる土地の全ての人は私にとって新しいものではないという思想が実際にある」と書いている。 ホイットマンはまた自分で「電気の身体」と呼んだように肉体の詩人でもあった。イギリスの小説家[[デーヴィッド・ハーバート・ローレンス|D・H・ローレンス]]はその『アメリカ文学古典の研究』の中で、ホイットマンは「精神の男が肉体の男よりも幾らか「優れて」「上に」あるという古い道徳観に最初に打撃を与えた」と記した。 [[File:Emily Dickinson daguerreotype (Restored).jpg|200px|thumb|right|若かりし日の[[エミリー・ディキンソン]]。[[1846年]]か[[1847年]]]] 一方、[[エミリー・ディキンソン]](1830年 - 1886年)は、[[マサチューセッツ州]]の小さな町[[アマースト (マサチューセッツ州)|アマースト]]で上品な未婚の女性として、保護された人生を送った。その詩は形式的構造の中で独創的で機知に富み、優美に練り上げられ、心理的な洞察力がある。その作品は当時としては型破りであり、生前はほとんど出版されることも無かった。 ディキンソンの詩の多くは意地の悪いひねりを伴う死について論じている。例えば、『私は死について考えるのを止められないから』(''Because I could not stop for Death''<ref>[http://academic.brooklyn.cuny.edu/english/melani/cs6/stop.html Because I could not stop for Death]</ref>)は、「彼が親切にも私を止めさせた」で始まっている。ディキンソンの別の詩の冒頭は男性が支配する社会に生きる女性、かつ認められていない詩人としてのその立場を、「私は誰でもない!貴方は誰?貴方も誰でもないの?」と弄んでいる。 アメリカの詩は20世紀初期から半ばにそのピークを迎えたと考えられるが、その著名な詩人としては、ウォレス・スティーブンス(1879年 - 1955年)、[[シルヴィア・プラス]](1932年 - 1963年)、アン・セクストン(1928年 - 1974年)、[[エズラ・パウンド]](1885年 - 1972年)、[[T・S・エリオット]](1888年 - 1965年)、ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ(1883年 - 1963年)、スティーブン・ビンセント・ベネット(1898年 - 1943年)、[[ロバート・フロスト]](1874年 - 1963年)、[[カール・サンドバーグ]](1878年 - 1967年)、ロビンソン・ジェファーズ(1887年 - 1962年)、[[ハート・クレイン]](1899年 - 1932年)、[[E・E・カミングス]](1894年 - 1962年)、[[ジョン・ベリーマン (詩人)|ジョン・ベリーマン]](1914年 - 1972年)、[[アレン・ギンズバーグ]](1926年 - 1997年)、[[ロバート・ローウェル]](1917年 - 1977年)、[[エドナ・ミレイ]](1892年 - 1950年)など多くいる。 === リアリズム、トウェインとジェームズ === [[File:MTwainAppletonsJournal4July74.jpg|left|thumb|[[マーク・トウェイン]]、1874年]] [[マーク・トウェイン]](1835年 - 1910年、本名はサミュエル・ラングホーン・クレメンズ)はアメリカ東海岸とは離れて(ミズーリ州の州境)生まれたアメリカ人作家としては初めての重要人物だった。その土地を舞台にする傑作は自伝『ミシシッピの生活』(''Life on the Mississippi''<ref>[http://www.gutenberg.org/etext/245 Life on the Mississippi]</ref>)と小説『[[ハックルベリー・フィンの冒険]]』(''Adventures of Huckleberry Finn''<ref>[https://archive.org/details/adventureshuckle00twaiiala ''Adventures of Huckleberry Finn'']. Digitized copy of the first American edition from Internet Archive.</ref>)である。トウェインのスタイルはジャーナリズムの影響を受け、方言を取り入れ、直接的で飾り気が無いが高度に感情に訴えるものがあって不敬にもユーモラスである。これがアメリカ人の言語を書く方法を変えた。その登場人物は方言と新しく発明した言葉や地域のアクセントまで使って実在の人物のように話し、明らかにアメリカ人のように聞こえる。その他地域的な違いや方言で興味ある作家としては、ジョージ・W・ケーブル(1844年 - 1925年)、トマス・ネルソン・ペイジ(1853年 - 1922年)、[[ジョーエル・チャンドラー・ハリス]](1848年 - 1908年)、メアリー・ノアイユ・マーフリー(1850年 - 1922年、筆名チャールズ・エグバート・クラドック)、サラ・オーン・ジューエット(1849年 - 1909年)、メアリー・E・ウィルキンス・フリーマン(1852年 - 1930年)、ヘンリー・カイラー・バナー(1855年 - 1896年)およびウィリアム・シドニー・ポーター(1862年 - 1910年、筆名[[オー・ヘンリー]])がいる。 ウィリアム・ディーン・ハウェルズも、『サイラス・ラパムの出世』(''The Rise of Silas Lapham'')のような小説や「アトランティック・マンスリー」の編集者としての仕事を通じてリアリストの伝統を代表する者である。 [[ヘンリー・ジェイムズ]](1843年 - 1916年)は旧世界と新世界について直接書くことでそのジレンマに直面した。ジェイムズはニューヨーク市で生まれたが成人してからの大半はイングランドで過ごした。その小説の多くはヨーロッパに住んでいるか旅しているアメリカ人を描いている。ジェイムズの小説は、その錯綜し高度に抑えられた文章と感情と心理のあやに対する分析とで、人を怯えさせるものがある。ヨーロッパに来た魅力的なアメリカ人少女を描いた小説『デイジー・ミラー』(''Daisy Miller''<ref>[http://www2.newpaltz.edu/~hathawar/daisy0.html First book version of ''Daisy Miller'' (1878)]</ref>)や謎のような怪談『ねじの回転』(''The Turn of the Screw''<ref>[http://www.online-literature.com/henry_james/turn_screw/ ''The Turn of the Screw'' reproduced online]</ref>)がまだとっつきやすい作品である。 === 世紀の変わり目 === [[File:EH2723PMilan1918.jpg|thumb|[[アーネスト・ヘミングウェイ]]、第一次世界大戦の軍服姿]] 20世紀の始めにアメリカの小説家は小説の社会的領域を上流から下流まで広げていき、時にはリアリズムの自然はにも結びついた。エディス・ウォートン(1862年 - 1937年)は短編や小説で、彼女が育ったアメリカ東海岸の社会である上流階級を観察した。その傑作の中でも『無知の時代』(''The Age of Innocence''<ref>[https://archive.org/details/ageofinnocence00wharuoft ''The Age of Innocence''], 1920 first edition, scanned book via Internet Archive</ref>、1920年)は、魅力ある部外者よりも伝統的で社会的に受容される女性との結婚を選ぶ一人の男を主題にしている。これと同じ頃、南北戦争の小説『[[赤い武功章]]』(''The Red Badge of Courage'')で知られた[[スティーヴン・クレイン]](1871年 - 1900年)は、『街の女マギー』(''Maggie:A Girl of the Streets''、1893年)でニューヨークの娼婦の生涯を描いた。また[[セオドア・ドライサー]](1871年 - 1945年)は『シスター・キャリー』(''Sister Carrie''、1900年)でシカゴに移転し、愛人になる田舎娘を描いた。ハムリン・ガーランド(1861年 - 1940年)とフランク・ノリス(1870年 - 1902年)は自然主義者の観点からアメリカの農夫の抱える問題など社会的問題について書いた。 さらに直接に政治的な書物が社会問題と企業の力を論じた。[[エドワード・ベラミー]](1850年 - 1898年)の『顧みれば』(''Looking Backward'')のような作品では別に考えられる政治や社会の枠組みを描いた。[[アプトン・シンクレア]](1878年 - 1968年)は食肉加工業を題材にした小説『ジャングル』(''The Jungle ''<ref>[https://archive.org/search.php?query=title%3Athe%20jungle%20creator%3AUpton%20Sinclair%20-contributor%3Agutenberg%20AND%20mediatype%3Atexts%20 The Jungle ]</ref>)で最も有名になったが社会主義を提唱した。その他この時代の政治的作家としては、[[エドウィン・マーカハム]](1852年 - 1940年)、ウィリアム・ボーン・ムーディ(1869年 - 1910年)がいた。[[イーダ・ターベル]](1857年 - 1944年)や[[リンカーン・ステフェンス]](1866年 - 1936年)などジャーナリスト批評家はマクレイカー(醜聞を暴く人)と渾名された。ヘンリー・ブルックス・アダムズ(1838年 - 1918年)も教育制度と現代生活を辛辣な表現で描いた。 スタイルや形態における実験が主題における新しい自由さに加わってきた。1909年、[[ガートルード・スタイン]](1874年 - 1946年)はパリの海外居住者となっていたが、[[キュビスム]]、[[ジャズ]]など当時の美術と音楽の動きに親しんだことで影響された革新的小説である『3人の女』(''Three Lives''<ref>{{gutenberg|no=15408|name=Three Lives}}</ref>)を出版した。 スタインは1920年代と1930年代をパリで暮らしたアメリカ文学の著名人集団を「[[失われた世代]]」と名付けた。 詩人の[[エズラ・パウンド]](1885年 - 1972年)は[[アイダホ州]]で生まれたが、成人してからの生涯の大半をヨーロッパで過ごした。その作品は複雑であり、ときには曖昧で、西洋と東洋両方の他の芸術形態や広い範囲の文学に何度も言及している。パウンドは他の多くの詩人、特にもう一人の海外居住者だった[[T・S・エリオット]](1888年 - 1965年)に影響を与えた。エリオットは、象徴の濃密な構造で進められる簡潔で知性に訴える詩を書いた。その作品『荒地』(''The Waste Land''<ref>{{gutenberg|no=1321|name=The Waste Land}}</ref>)では、[[第一次世界大戦]]後の社会の僻んだ考え方を崩壊し悪夢に付きまとわれたイメージに表現した。パウンドの作品に似てエリオットの詩は高度に暗示的であり、『荒地』のある版は詩人その人によって補われた脚注が備えられた。1948年、エリオットは[[ノーベル文学賞]]を受賞した。 アメリカの作家は第一次世界大戦後の幻滅も表現した。[[F・スコット・フィッツジェラルド]](1896年 - 1940年)の短編や小説は1920年代の落ち着けない、喜びに飢えた反抗的なムードを捕らえていた。フィッツジェラルドの特徴的主題は『[[グレート・ギャツビー]]』(''The Great Gatsby''<ref>[http://gutenberg.net.au/ebooks02/0200041.txt ''The Great Gatsby''], from Project Gutenberg Australia, plain text.</ref>)で痛烈に表現されており、若者の金色の夢が失敗と失望の中で消えていく風潮である。フィッツジェラルドはまた、20世紀初期の社会の圧力で酷く脅威を与えられている側面である自由、社会の統合、良い政府と平和などアメリカ独立宣言に盛り込まれていたアメリカの重要な理想の幾つかが崩壊したことも示した。[[シンクレア・ルイス]](1885年-1951年、1930年ノーベル文学賞)と[[シャーウッド・アンダーソン]](1876年 - 1941年)もアメリカ人の生活を批評的に表現した小説を書いた。[[ジョン・ドス・パソス]](1896年 - 1970年)は戦争について書き、[[世界恐慌]]にまで伸びた「アメリカ合衆国三部作」も書いた。 [[File:Francis Scott Fitzgerald 1937 June 4 (1) (photo by Carl van Vechten).jpg|thumb|left|[[F・スコット・フィッツジェラルド]]、[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]撮影、1937年]] [[パール・S・バック]] (1892年 - 1973年) は生後間もなく中国に渡った女性作家で、中国農村が舞台の[[大地 (パール・S・バック)|大地]] (1931年) でピューリツァー賞 (1932年) とノーベル賞 (1938年) を受賞した。[[アーネスト・ヘミングウェイ]](1899年 - 1961年)は第一次世界大戦の救急車運転手として暴力と死を身近に体験し、大虐殺によって抽象的な言葉が最も空虚で人を惑わすものだと確信させられた。その著作から不要な言葉を削り、文章構造を単純化し、具体的な対象と行動に集中させた。圧力の下での優美さを強調する道徳律に固執し、その主人公は強く寡黙な男だが女性の扱いはぎこちないことが多い。『[[日はまた昇る]]』(''The Sun Also Rises'')と『[[武器よさらば]]』(''A Farewell to Arms'')が一般にその傑作と考えられている。ヘミングウェイは1954年にノーベル文学賞を受賞した。 ヘミングウェイよりも5年早い1949年に、[[ウィリアム・フォークナー]](1897年 - 1962年)がノーベル文学賞を受賞していた。フォークナーは彼が創作した[[ミシシッピ州]]の[[ヨクナパトーファ郡]]における非常に大きな範囲の人物模様を描き出した。「[[意識の流れ]]」と呼ばれる手法で、心理状態を表現するために長ったらしくてまとまりのないように見える登場人物の話を記録した(実際にこれらの文章は丁寧に組み立てられ、その混乱したような構造は多層の意味を隠している)。フォークナーは時間の流れもごちゃ混ぜにし、過去である奴隷を所有していた時代のディープサウスが現在にどう繋がっているかを示している。『[[響きと怒り]]』(''The Sound and the Fury''<ref>[http://www.usask.ca/english/faulkner/ Hypertext edition of ''The Sound and the Fury'']</ref>)、『[[アブサロム、アブサロム!]]』(''Absalom, Absalom!'')、『行け、モーセ』(''Go Down, Moses'')および『征服されざる人々』(''The Unvanquished'')が著名である。 === 世界恐慌時代の文学 === 世界恐慌時代の文学はその社会批判において無遠慮で直接的だった。[[ジョン・スタインベック]](1902年 - 1968年)は[[カリフォルニア州]][[サリナス (カリフォルニア州)|サリナス]]で生まれ、そこを小説の多くの舞台にした。そのスタイルは単純で示唆に富み、読者の共感を呼んだが批評家はそうではなかった。スタインベックはしばしば貧しい労働者階級とまともで正直な生活を送るための奮闘を書いた。おそらく当時の最も社会的に目覚めた作家だった。傑作と考えられている『[[怒りの葡萄]]』(''The Grapes of Wrath'')は、[[オクラホマ州]]出身でより良い生活を求めてカリフォルニア州に旅する貧しい家族であるジョード家の話を語る強く社会指向の小説である。その他にも『おけら部落』(''Tortilla Flat'')、『[[二十日鼠と人間]]』(''Of Mice and Men'')、『キャナリー・ロウ』(''Cannery Row'')および『[[エデンの東]]』(''East of Eden'')などを書いた。スタインベックは1962年にノーベル賞を受賞した。プロレタリアート派の一部と考えられるその他の小説家として、ナサニエル・ウェスト(1903年 - 1940年)、オリーブ・ティルフォード・ダーガン(1869年 - 1968年)、トム・クロマー(1906年 - 1969年)、ロバート・キャントウェル(1908年 - 1978年)およびエドワード・アンダーソンがいた。 [[ヘンリー・ミラー]](1891年 - 1980年)は、パリで書いて出版した半自叙伝的小説がアメリカ合衆国で発禁になった時に、1930年代のアメリカ文学界で特異な存在となった。主要作品である『[[北回帰線 (小説)|北回帰線]]』(''Tropic of Cancer'')と『暗い春』(''Black Spring'')は1962年までアメリカ国内での販売と出版が認められなかったが、この時点で既にその主題とスタイルの革新性はアメリカの次の世代の作家達に大きな影響を残していた。 === 第二次世界大戦後 === [[File:Norman Mailer (1948).jpg|thumb|right|[[ノーマン・メイラー]]、カール・ヴァン・ヴェクテン撮影、1948年]] 第二次世界大戦が終わり、おおまかに1960年代後半や1970年代前半までの時代は、アメリカ史の中でも最も人気ある作品の幾つかが出版された時だった。より現実的な[[モダニズム文学]]の最後の数人と共に幅広くロマンティックな[[ビート・ジェネレーション|ビートニクス]]がこの時代を支配し、アメリカが第二次世界大戦に関わったことへの直接の反応が彼らに注目すべき影響を与えた。 カナダで生まれシカゴで育った[[ソール・ベロー]](1915年 - 2005年)が第二次世界大戦後の数十年間で最も影響力あるアメリカの小説家になった。『オーギー・マーチの冒険』(''The Adventures of Augie March'')や『雨の王ヘンダソン』(''Henderson the Rain King'')といった作品で、ベローはアメリカの都市の生き生きとした肖像とそこに住む典型的な人々を描いた。ベローは1976年にノーベル文学賞を受賞することになった。 [[J・D・サリンジャー]](1919年 - 2010年)の『[[ナイン・ストーリーズ]]』(''Nine Stories'')と『[[ライ麦畑でつかまえて]]』 (''The Catcher in the Rye'')から、[[シルヴィア・プラス]](1932年 - 1963年)の『ベル・ジャー』(''The Bell Jar'')まで、アメリカの狂気は国民の文学表現の前線にまで置かれた。『[[ロリータ]]』(''Lolita'')を書いた[[ウラジーミル・ナボコフ]](1899年 - 1977年)のような移民作家がその主題で台頭し、ほとんど同じ頃にビートニクスはその失われた世代の先達から離れて申し合わせたような一歩を踏み出した。 [[ビート・ジェネレーション]]の詩や小説は、大半が[[ニューヨーク市]]の[[コロンビア大学]]周辺に形成された知識人のサークルから生まれ、幾らか後にサンフランシスコで明確に確立され、時代のものとなった。「ビート」という言葉は全く同時にジャズシーンの反体制文化的リズムにも使われ、戦後社会の保守的ストレスに関する反逆の意味で、またドラッグ、アルコール、哲学および宗教、特に「禅」を通じた新しい形の精神的な体験における興味にも使われた。[[アレン・ギンズバーグ]](1926年 - 1997年)はホイットマン流の作品であるその詩『吠える』(''Howl'')で、「私は狂気によって破壊された私の世代の最良の心を見た」で始め、この動きの調子を定めた。これと同時にその親友である[[ジャック・ケルアック]](1922年 - 1969年)はビートのはしゃぎ回り、おおらかで気まぐれな生活様式を、多くの作品の中でも傑作で最も人気のあった小説『[[路上 (小説)|路上]]』(''On the Road'')で祝した。 具体的に戦争小説に関して、第二次世界大戦後の時代にアメリカでは文学的な爆発があった。[[ノーマン・メイラー]](1923年 - 2007年)の『[[裸者と死者]]』(''The Naked and the Dead''、1948年)、[[ジョゼフ・ヘラー]](1923年 - 1999年)の『[[キャッチ=22]]』(''Catch-22''、1961年)および[[カート・ヴォネガット]](1922年 - 2007年)の『[[スローターハウス5]]』(''Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade''、1969年)などの作品が良く知られたものである。バーバラ・ガーソン(1941年 - )が書いた『マクバード』(''MacBird'')は戦争の愚かさを白日に曝したもう一つの作品として受け入れられた。 対照的に[[ジョン・アップダイク]](1932年 - )はアメリカ人の生活のより牧歌的な側面と呼べるものを出し、静かにだが破壊的でもある文体で迫った。その1960年に出した『[[走れウサギ]]』(''Rabbit, Run'')は、その性格描写とアメリカ中流階級の詳細によってその発売と同時に新しい地平を切り開いた。その叙述に現在時制を用いたことでは最初の小説の一つとされてもいる。 [[ラルフ・エリソン]](1914年 - 1994年)の1953年の小説『[[見えない人間]]』(''Invisible Man'')は終戦直後の最も力にあふれ世間をあっと言わせる作品の中にあると即座に認められた。この小説は北の都会における黒人の話であり、国内でまで一般的だった抑圧されることの多かった人種問題をむき出しにし、実存的な性格描写としても成功している。 [[フラナリー・オコナー]](1925年 - 1964年)もマーク・トウェインやアメリカ文学史の中で他の指導的作家にとって大切だったアメリカ文学における「南部」という主題を開拓し発展させた。その作品は『賢い血』(''Wise Blood''、1952年)、『烈しく攻むる者はこれを奪う』(''The Violent Bear It Away''、1960年)や最も良く知られた短編である『すべて上昇するものは一点に集まる』(''Everything That Rises Must Converge'')、さらに死後の1965年に出版されたオコナー短編集がある。 == 現代のアメリカ小説 == おおまかに言って1970年代初めから現在まで、最も良く知られた文学の分野は、[[ポストモダン文学|ポストモダニズム]]であろうが、その呼び方には様々に異論がある。時代の知識人に受け入れられた(必ずしもポストモダンではない)作家としては、[[トマス・ピンチョン]](1937年 - )、[[ティム・オブライエン]](1946年 - )、[[ロバート・ストーン]](1937年 - )、[[ドン・デリーロ]](1936年 - )、[[ポール・オースター]](1947年 - )、[[トニ・モリスン]](1931年 - )、[[フィリップ・ロス]](1933年 - )、[[コーマック・マッカーシー]](1931年 - )、[[レイモンド・カーヴァー]](1939年 - 1988年)、[[ジョン・チーバー]](1912年 - 1982年)、[[ジョイス・キャロル・オーツ]](1938年 - )、[[アニー・ディラード]](1945年 - )、[[リチャード・パワーズ]](1957年 - )らが挙げられる。一般的にポストモダニズムとされる作家達は、大衆文化とマスメディアが平均的アメリカ人の世界に冠する概念と経験に影響を与えた多くの方法を扱い、また今日でも直接扱っている。それはアメリカ政府さらには多くの場合アメリカ史であるが、特に平均的アメリカ人自身の歴史感と共に批判されることが大変多い。 多くのポストモダン作家は郊外あるいはショッピングセンターのファストフード・レストランを舞台とすることでも知られている。彼らはドラッグ、美容整形手術およびテレビのコマーシャルについて書いている。ときにはこれらの表現がほとんど称賛のようにも見える。しかし同時にこの派の作家達はその主題に対して知ったかぶり、自意識過剰、当て擦り、および(ある批評家に拠れば)へりくだった態度を取る。このような傾向にある者のなかでおそらく最も知られているのは、[[ブレット・イーストン・エリス]](1964年 - )、[[デイブ・エッガーズ]](1970年 - )、[[チャック・パラニューク]](1962年 - )および[[デヴィッド・フォスター・ウォレス]](1962年 - 2008年)であろう。 == その他のジャンル == * [[推理小説]] * [[ホラー小説]] * [[恋愛小説]] * [[サイエンス・フィクション]]と[[ファンタジー]] * [[:en:Western fiction|西部小説]](英文) == ノーベル文学賞を受賞したアメリカ人 == * 1930年 - [[シンクレア・ルイス]] * 1936年 - [[ユージン・オニール]] * 1938年 - [[パール・S・バック]] * 1949年 - [[ウィリアム・フォークナー]] * 1954年 - [[アーネスト・ヘミングウェイ]] * 1962年 - [[ジョン・スタインベック]] * 1976年 - [[ソール・ベロー]] * 1978年 - [[アイザック・バシェヴィス・シンガー]] ([[イディッシュ語]]で創作) * 1987年 - [[ヨシフ・ブロツキー]] ([[ソヴィエト連邦]]からの亡命者。主に[[ロシア語]]で創作) * 1993年 - [[トニ・モリソン]] * 2016年 - [[ボブ・ディラン]] *2019年 - [[ルイーズ・グリュック]] == 上記以外の著名作家 == {{div col|cols=8}} * [[チャールズ・ブロックデン・ブラウン]] ([[1771年]] - [[1810年]]) * [[ルイーザ・メイ・オルコット]] ([[1832年]] - [[1888年]]) * [[ホレイショ・アルジャー]] ([[1832年]] - [[1899年]]) * [[アンブローズ・ビアス]] ([[1842年]] - [[1914年]]?) * [[ジャック・ロンドン]] ([[1876年]] - [[1916年]]) * [[ジーン・ウェブスター]] ([[1876年]] - [[1916年]]) * [[ローラ・インガルス・ワイルダー]] ([[1867年]] - [[1957年]]) * [[シャーウッド・アンダーソン]] ([[1876年]] - [[1941年]]) * [[ジョセフ・ハーガスハイマー]] ([[1880年]] - [[1954年]]) * [[デイモン・ラニアン]] ([[1884年]]) - ([[1946年]]) * [[ヒューゴー・ガーンズバック]] ([[1884年]] - [[1967年]]) * [[リング・ラードナー]] ([[1885年]] - [[1933年]]) * [[レイモンド・チャンドラー]] ([[1888年]] - [[1959年]]) * [[ユージン・オニール]] ([[1888年]] - [[1953年]]) * [[コンラッド・エイケン]] ([[1889年]] - [[1973年]]) * [[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]] ([[1890年]] - [[1937年]]) * [[キャサリン・アン・ポーター]] ([[1890年]] - [[1980年]]) * [[ゾラ・ニール・ハーストン]] ([[1891年]] - [[1960年]]) * [[ダシール・ハメット]] ([[1894年]] - [[1961年]]) * [[エドマンド・ウィルソン]] ([[1895年]] - [[1972年]]) * [[ナサニエル・ウェスト]] ([[1903年]] - [[1940年]]) * [[アースキン・コールドウェル]] ([[1903年]] - [[1987年]]) * [[エラリー・クイーン]] (フレデリック・ダネイ [[1905年]] - [[1982年]]、マンフレッド・B・リー [[1905年]] - [[1971年]]) * [[フレドリック・ブラウン]] ([[1906年]] - [[1972年]]) * [[W・H・オーデン]] ([[1907年]] - [[1973年]]) * [[ロバート・A・ハインライン]] ([[1907年]] - [[1988年]]) * [[ポール・ボウルズ]] ([[1910年]] - [[1999年]]) * [[テネシー・ウィリアムズ]] ([[1911年]] - [[1983年]]) * [[ジョン・チーヴァー]] ([[1912年]] - [[1982年]]) * [[アーウィン・ショー]] ([[1913年]] - [[1984年]]) * [[ジョン・ベリーマン]] ([[1914年]] - [[1972年]]) * [[バーナード・マラマッド]] ([[1914年]] - [[1986年]]) * [[ラルフ・エリソン]] ([[1914年]] - [[1994年]]) * [[ウィリアム・S・バロウズ]] ([[1914年]] - [[1997年]]) * [[R・A・ラファティ]] ([[1914年]] - [[2002年]]) * [[アーサー・ミラー]] ([[1915年]] - [[2005年]]) * [[シャーリイ・ジャクスン]] ([[1919年]] - [[1965年]]) * [[アイザック・アシモフ]] ([[1920年]] - [[1992年]]) * [[レイ・ブラッドベリ]] ([[1920年]] - [[2012年]]) * [[マリオ・プーゾ]] ([[1920年]] - [[1999年]]) * [[パトリシア・ハイスミス]] ([[1921年]] - [[1995年]]) * [[ウィリアム・ギャディス]]([[1922年]] - [[1998年]]) * [[アヴラム・デイヴィッドスン]] ([[1923年]] - [[1993年]]) * [[ジョーン・エイケン]] ([[1924年]] - [[2004年]]) * [[ロイド・アリグザンダー]] ([[1924年]] - [[2007年]]) * [[ウィリアム・H・ギャス]] ([[1924年]] - ) * [[ジェイムズ・ボールドウィン]] ([[1924年]] - [[1987年]]) * [[トルーマン・カポーティ]] ([[1924年]] - [[1984年]]) * [[ゴア・ヴィダル]] ([[1925年]] - ) * [[ウィリアム・スタイロン]] ([[1925年]] - [[2006年]]) * [[フィリップ・K・ディック]] ([[1928年]] - [[1982年]]) * [[フランク・マコート]] ([[1930年]] - ) * [[ゲーリー・スナイダー]] ([[1930年]] - ) * [[ジョン・バース]] ([[1930年]] - ) * [[ドナルド・バーセルミ]] ([[1931年]] - [[1989年]]) * [[ジーン・ウルフ]] ([[1931年]] - ) * [[ジャージ・コジンスキー]] ([[1933年]] - [[1991年]]) * [[スーザン・ソンタグ]] ([[1933年]] - [[2004年]]) * [[ハーラン・エリスン]] ([[1934年]] - ) * [[E・アニー・プルー]] ([[1935年]] - ) * [[リチャード・ブローティガン]] ([[1935年]] - [[1984年]]) * [[ケン・キージー]] ([[1935年]] - ) * [[スー・グラフトン]] ([[1940年]] - ) * [[アン・タイラー]] ([[1941年]] - ) * [[ジョン・アーヴィング]] ([[1942年]] - ) * [[エリカ・ジョング]] ([[1942年]] - ) * [[マイケル・クライトン]] ([[1942年]] - ) * [[スティーヴン・ミルハウザー]] ([[1943年]] - ) * [[アリス・ウォーカー]] ([[1944年]] - ) * [[トム・ジョーンズ (小説家)|トム・ジョーンズ]] ([[1945年]] - [[2016年]]) * [[トム・クランシー]] ([[1947年]] - ) * [[スティーヴン・キング]] ([[1947年]] - ) * [[ウィリアム・ギブスン]] ([[1948年]] - ) * [[ジャメイカ・キンケイド]] ([[1949年]] - ) * [[スティーヴ・エリクソン]] ([[1950年]] - ) * [[リービ英雄]] ([[1950年]] - ) * [[エイミ・タン]] ([[1952年]] - ) * [[ジョン・グリシャム]] ([[1955年]] - ) * [[キャサリン・アサロ]] ([[1955年]] - ) * [[ジェイ・マキナニー]] ([[1955年]] - ) * [[ジャック・ウォマック]] ([[1956年]] - ) * [[ジル・マコークル]] ([[1958年]] - ) * [[ウイリアム・T・ヴォルマン]] ([[1959年]] - ) * [[ニコラス・スパークス]] ([[1965年]] - ) * [[シャーマン・アレクシー]] ([[1966年]] - ) {{div col end}} == アメリカ文学の研究者 == {{div col|cols=8}} *[[エドマンド・ウィルソン]] *[[ゴア・ヴィダル]] *[[エドワード・サイード]] *[[チャールズ・スクラッグス]] *[[トニー・タナー]] *[[大橋吉之輔]] *[[大橋健三郎]] *[[小川高義]] *[[亀井俊介]] *[[佐伯彰一]] *[[柴田元幸]] *[[志村正雄]] *[[巽孝之]] *[[筒井正明]] *[[冨山太佳夫]] *[[野崎孝]] *[[畑中佳樹]] *[[波戸岡景太]] *[[原田敬一 (アメリカ文学者)|原田敬一]] *[[丸山美知代]] *[[八木敏雄]] *[[山内邦臣]] *[[若島正]] *[[渡辺利雄]] {{div col end}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * ''New Immigrant Literatures in the United States: A Sourcebook to Our Multicultural Literary Heritage'' by Alpana Sharma Knippling (Westport, Connecticut: Greenwood, 1996) * ''Asian American Novelists: A Bio-Bibliographical Critical Sourcebook'' by Emmanuel S. Nelson (Westport, Connecticut: Greenwood Press, 2000) * {{Cite book|和書|ref={{SfnRef|平石|2010}}|author=平石貴樹| authorlink=平石貴樹|title=アメリカ文学史|year=2010|publisher=松柏社}} == 関連項目 == * [[文学]] * [[小説家一覧]] * [[英語]] * [[文芸評論]] * [[短編小説]] * [[英文学]] * [[:Category:アメリカ合衆国の著作家]] * [[英米文化学会]] == 外部リンク == * [http://academicearth.org/courses/the-american-novel-since-1945 Yale University English Course] - The American Novel Since 1945 * [http://www.ernesthemingway.org.uk Ernest Hemingway Website] * [http://classiclit.about.com/library/bl-etexts/esimonds/bl-esimonds-student-1-1.htm A Student's History of American Literature (1902) by Edward Simonds] * [http://digitalcommons.unl.edu/etas/ Electronic Texts in American Studies] * {{Kotobank}} {{アメリカ合衆国}} {{世界の文学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あめりかふんかく}} [[Category:アメリカ合衆国文学|*]]
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カート・ヴォネガット
カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922年11月11日 - 2007年4月11日)は、アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。1976年の作品『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.)の名で出版されていた。 人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963年)、『スローターハウス5』(1969年)、『チャンピオンたちの朝食』(1973年)などがある。ヒューマニストとして知られており、アメリカヒューマニスト協会の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。 ヴォネガットは1922年にインディアナ州インディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。彼の誕生日は第一次世界大戦の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共にMIT出身で、Vonnegut & Bohn というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は Vonnegut Hardware Company という会社を起業した人物である。 1940年にコーネル大学に入学し生化学を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた。コーネル大学では父と同じフラタニティである Delta Upsilon に属していた。コーネル大学在学中にアメリカ陸軍に徴募される。陸軍はヴォネガットをカーネギー工科大学とテネシー大学に転校させ、機械工学を学ばせた。1944年の母の日に母のエディスが睡眠薬を過剰摂取し自殺した。生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものとされている。 カート・ヴォネガットが兵士および捕虜として戦争で経験したことは、後の作品に深い影響を与えている。1944年、アメリカ合衆国第106歩兵師団第423普通科連隊の兵卒として第二次世界大戦の欧州戦線に参加し、バルジの戦いでコートニー・ホッジス率いる第1軍から第106歩兵師団が分断され取り残された12月19日に捕虜となった。「味方のアメリカ軍とははぐれてしまった。我々はその場で戦うことを余儀なくされた。しかし銃剣は戦車には太刀打ちできない......」ドレスデンに連れて行かれたヴォネガットは、ドイツ語が少しできるということで捕虜のリーダーの1人に選ばれた。ドイツ軍守衛に「...ロシア軍がやってきたら、やってやろうと思っていること...」を話したことで打ち据えられ、リーダーの地位も剥奪された。捕虜として1945年2月の同盟軍(英米の空爆部隊)によるドレスデン爆撃を経験した。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅した。 ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を Schlachthof Fünf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記している。ヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している。 1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。 1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago で働いた。これは当時5紙あったシカゴの地方紙に記事を提供する遊軍のようなものだった。『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』によれば、彼の論文テーマ(キュビスム画家と19世紀末ネイティブ・アメリカン暴動のリーダーたちとの類似点を論じるもの)は「学術的でない」という理由で大学側に拒絶されたという。1947年、彼はシカゴからニューヨーク州スケネクタディに移り、ゼネラル・エレクトリックの広報で働くようになった(兄が開発部門で働いていた)。そのころヴォネガットはスケネクタディとは川を挟んだ対岸の町に住み、数年間はボランティアの消防団員として熱心に活動した。当時彼が住んでいたアパートには、今も彼が小説を書くのに使っていた机があり、彼が自分で名前を彫った跡が残っている。そこで『スローターハウス5』を書き始めたと言われている。なお、シカゴ大学は後に小説『猫のゆりかご』の人類学的記述をヴォネガットの論文として受理し、1971年に修士号を授与した。 1950年に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。1951年にマサチューセッツ州ケープコッドに居を移し、サーブのアメリカ初の販売店の店長をつとめた。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。 1950年代中ごろ、ヴォネガットは短期間だけスポーツ・イラストレイテッド誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットはアイオワ大学の Writers' Workshop での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィング、レナード・シュレイダーなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌や Modern Library のベスト100に選ばれている。 2007年4月11日にニューヨークにて死去。 当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは気象学者でヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発したほか、1997年度のイグノーベル賞を受賞している。 第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。 彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガットは小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した統合失調症からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていたマーク・トウェインからとった。 娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。 姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。 1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた。 2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。 ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた。 2007年、マンハッタンの自宅の階段で転倒して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去。 1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。 ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家キルゴア・トラウトが主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。 ヴォネガットの作品には慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。 なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。 また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した)。 ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている。 登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」である。 ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい」と主張しほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。それでもSFというジャンルの壁を越えて幅広く読まれたのは、単に反権威主義的だったからだけではない。例えば短編「ハリスン・バージロン」は、平等主義のような精神が行過ぎた権力と結びついたとき、どれほど恐ろしい抑圧を生むかを鮮やかに描いて見せている。 1997年の『タイムクエイク』出版に際して、ヴォネガットは同書が最後の小説になると発表し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動した。2005年にはエッセイをまとめた『国のない男』を出版し、文筆業そのものからの引退を表明した。 死の直後に出版されたエッセイ集『追憶のハルマゲドン』には、未発表の短編小説や第二次世界大戦中に家族宛てに書いた手紙などが含まれている。またヴォネガット本人の描いた絵や死の直前に書いたスピーチ原稿も含まれている。序文は息子のマーク・ヴォネガットが書いている。 ヴォネガットはハーバード大学で英文学の講師をつとめたことがあり、ニューヨーク市立大学シティカレッジでも一時期教授をつとめていた。 日本においては1960年代後半から浅倉久志、伊藤典夫等によって精力的に紹介されていた。1980年代になり日本でも主要な作品の多くが和田誠のカバーイラストと共にハヤカワ文庫SF(早川書房)より刊行された。 1984年には国際ペン大会にロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し大江健三郎とも会談している。 ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『風の歌を聴け』でヴォネガットのスタイルを模写した村上春樹や高橋源一郎、橋本治等がいる。爆笑問題の太田光は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。 ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。 ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのはリチャード・ニクソンのウォーターゲート事件が原因だが、物語の中心はそこではない。God Bless You, Dr. Kevorkian では、論争の的となった自殺幇助者ジャック・ケヴォーキアンに言及している。 In These Times 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」In These Times ではヴォネガットの言葉として「ヒトラーとブッシュの唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「キーストン・コップス」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる白人至上主義者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた。 『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の大統領選挙については全く楽観していなかった。ブッシュとジョン・ケリーについて彼は「どちらが勝ってもスカル・アンド・ボーンズの大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている。 2005年、ヴォネガットはオーストラリアン紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ......信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文はホラティウスの金言 "Dulce et decorum est pro patria mori"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、ウィルフレッド・オーエンの Dulce Et Decorum Est における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論をボストン・グローブ紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した。 2006年のローリング・ストーン誌のインタビュー記事には、「...彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある。 ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」 ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身である。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは Instruction in Morals と題した自由思想の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた。 ヴォネガットは自身を懐疑論者、自由思想家、ヒューマニスト、UU教徒、不可知論者、無神論者などと様々に言い表している。超自然的なものは信じず、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている。 ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。Council for Secular Humanism の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた。1992年にはアメリカヒューマニスト協会によりヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。友人のアイザック・アシモフからアメリカヒューマニスト協会の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。 ヴォネガットは一時期ユニテリアン主義の一派ユニテリアン・ユニヴァーサリズムに入信していた。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした William Ellery Channing に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある。 ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。イエス・キリストの神性を拒絶するにもかかわらず、イエスの祝福が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を無宗教だとも言っている。アメリカヒューマニスト協会によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた。 長編小説はすべて日本語訳されたが、そのうちいくつかは現在品切・重版未定となっている。 いずれも初期の短編を収録している。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カート・ヴォネガット(Kurt Vonnegut、1922年11月11日 - 2007年4月11日)は、アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。1976年の作品『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニア(Kurt Vonnegut Jr.)の名で出版されていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963年)、『スローターハウス5』(1969年)、『チャンピオンたちの朝食』(1973年)などがある。ヒューマニストとして知られており、アメリカヒューマニスト協会の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは1922年にインディアナ州インディアナポリスでドイツ系移民の家庭に生まれた。彼の誕生日は第一次世界大戦の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共にMIT出身で、Vonnegut & Bohn というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は Vonnegut Hardware Company という会社を起業した人物である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1940年にコーネル大学に入学し生化学を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた。コーネル大学では父と同じフラタニティである Delta Upsilon 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Fünf(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『スローターハウス5』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記している。ヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1945年5月、ヴォネガットはザクセン州とチェコスロバキアの境界線で赤軍によって送還された。アメリカに戻るとパープルハート章を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1945年に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットはシカゴ大学大学院で人類学を学び、同時に City News Bureau of Chicago 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での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中にはジョン・アーヴィング、レナード・シュレイダーなどがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、20世紀アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『スローターハウス5』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、1966年には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』はタイム誌や Modern Library のベスト100に選ばれている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "2007年4月11日にニューヨークにて死去。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄のバーナード・ヴォネガットは気象学者でヨウ化銀を用いた人工降雨法を開発したほか、1997年度のイグノーベル賞を受賞している。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。マハリシ・マヘッシ・ヨギに傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子であるマーク・ヴォネガットは小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した統合失調症からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていたマーク・トウェインからとった。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『スラップスティック』に描かれている。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1999年11月11日、小惑星 25399 Vonnegut にヴォネガットの名がつけられた。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ヴォネガットはフィルターのないポールモールを好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "2007年、マンハッタンの自宅の階段で転倒して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去。", "title": "私生活" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」でSF作家としてデビューした。処女長編はディストピア小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『タイタンの妖女』を出版。1960年代には徐々に作風が変化していった。『猫のゆりかご』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『スローターハウス5』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「デウス・エクス・マキナ」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家キルゴア・トラウトが主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ヴォネガットの作品には慈善家エリオット・ローズウォーター、ナチ宣伝員ハワード・W・キャンベル・ジュニア、ラムファード一族、トラルファマドール星人などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "なかでもスタージョンをモデルに造形されたといわれるSF作家キルゴア・トラウトはカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、SF作家フィリップ・ホセ・ファーマーはキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(Venus on the Half-Shell 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した)。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『猫のゆりかご』の「アイス・ナイン」である。", "title": "作家としての経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": 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"1984年には国際ペン大会にロブ=グリエ、巴金等と共にゲストとして来日し大江健三郎とも会談している。", "title": "日本での受容" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『風の歌を聴け』でヴォネガットのスタイルを模写した村上春樹や高橋源一郎、橋本治等がいる。爆笑問題の太田光は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「タイタン」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。", "title": "日本での受容" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは初期の社会主義労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の Powers Hapgood とユージン・V・デブスは作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアのレフ・トロツキーの名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットはアメリカ自由人権協会の会員でもあった。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのはリチャード・ニクソンのウォーターゲート事件が原因だが、物語の中心はそこではない。God Bless You, Dr. Kevorkian では、論争の的となった自殺幇助者ジャック・ケヴォーキアンに言及している。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "In These Times 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」In These Times ではヴォネガットの言葉として「ヒトラーとブッシュの唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「キーストン・コップス」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる白人至上主義者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の大統領選挙については全く楽観していなかった。ブッシュとジョン・ケリーについて彼は「どちらが勝ってもスカル・アンド・ボーンズの大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "2005年、ヴォネガットはオーストラリアン紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ......信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文はホラティウスの金言 \"Dulce et decorum est pro patria mori\"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、ウィルフレッド・オーエンの Dulce Et Decorum Est における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論をボストン・グローブ紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2006年のローリング・ストーン誌のインタビュー記事には、「...彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある。", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」", "title": "政治姿勢" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だったドイツ自由思想の家系の出身である。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは Instruction in Morals と題した自由思想の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは自身を懐疑論者、自由思想家、ヒューマニスト、UU教徒、不可知論者、無神論者などと様々に言い表している。超自然的なものは信じず、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。Council for Secular Humanism の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた。1992年にはアメリカヒューマニスト協会によりヒューマニスト・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。友人のアイザック・アシモフからアメリカヒューマニスト協会の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "ヴォネガットは一時期ユニテリアン主義の一派ユニテリアン・ユニヴァーサリズムに入信していた。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした William Ellery Channing に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。イエス・キリストの神性を拒絶するにもかかわらず、イエスの祝福が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を無宗教だとも言っている。アメリカヒューマニスト協会によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた。", "title": "宗教" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "長編小説はすべて日本語訳されたが、そのうちいくつかは現在品切・重版未定となっている。", "title": "作品" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "いずれも初期の短編を収録している。", "title": "作品" } ]
カート・ヴォネガットは、アメリカの小説家、エッセイスト、劇作家。1976年の作品『スラップスティック』より以前の作品はカート・ヴォネガット・ジュニアの名で出版されていた。 人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代アメリカ文学を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『タイタンの妖女』、『猫のゆりかご』(1963年)、『スローターハウス5』(1969年)、『チャンピオンたちの朝食』(1973年)などがある。ヒューマニストとして知られており、アメリカヒューマニスト協会の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている。
{{Expand English|Kurt Vonnegut|date=2022年7月|fa=yes}} {{Infobox 作家 | name = カート・ヴォネガット<br>Kurt Vonnegut | image = Kurt Vonnegut 1972.jpg | image_size = 230px | caption = ヴォネガット(1972年) | birth_name = [[:en:Kurt Vonnegut|Kurt Vonnegut, Jr.]] | birth_date = [[1922年]][[11月11日]] | birth_place = {{USA1912}}<br>[[インディアナ州]][[インディアナポリス]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1922|11|11|2007|4|11}} | death_place = {{USA}}<br>[[ニューヨーク州]][[ニューヨーク]] | occupation = 小説家、劇作家、随筆家 | nationality = {{USA}} | period = 1949年 – 2005年 | genre = [[SF小説]] | notable_works = 『タイタンの妖女』(1959年)<br>『猫のゆりかご』(1963年)<br>『スローターハウス5』(1969年) | influences = [[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]]、[[ジョセフ・ヘラー]]、[[マーク・トウェイン]]、[[ジョージ・オーウェル]]、[[ユージン・V・デブス]]、[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[ジェームズ・サーバー]]、[[ジェイムズ・ジョイス]] | influenced = [[ダグラス・アダムズ]]<ref>{{cite web|url= http://www.darkermatter.com/issue1/douglas_adams.php |title=Douglas Adams Dark Matter Interview |publisher=Darkermatter.com |date= |accessdate=2010-03-13}}</ref>、[[ビル・ブライソン]]、[[ポール・オースター]]、[[ジョーネン・バスケス]]、[[ルイス・サッカー]]、[[村上春樹]]、[[クーラ・シェイカー]]、[[ジョン・アーヴィング]]、[[太田光]] | website = http://vonnegut.com }} '''カート・ヴォネガット'''(Kurt Vonnegut、[[1922年]][[11月11日]] - [[2007年]][[4月11日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[小説家]]、[[エッセイスト]]、[[劇作家]]。1976年の作品『[[スラップスティック (小説)|スラップスティック]]』より以前の作品は'''カート・ヴォネガット・ジュニア'''(Kurt Vonnegut Jr.)の名で出版されていた。 人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスな筆致で描き人気を博した。現代[[アメリカ文学]]を代表する作家の一人とみなされている。代表作には『[[タイタンの妖女]]』、『[[猫のゆりかご]]』(1963年)、『[[スローターハウス5]]』(1969年)、『チャンピオンたちの朝食』(1973年)などがある。[[ヒューマニズム|ヒューマニスト]]として知られており、[[アメリカヒューマニスト協会]]の名誉会長も務めたことがある。20世紀アメリカ人作家の中で最も広く影響を与えた人物とされている<ref name="NYTObit">{{cite news|url = http://www.nytimes.com/2007/04/11/books/11cnd-vonnegut.html?_r=1&oref=slogin|title = Kurt Vonnegut, Novelist Who Caught the Imagination of His Age, Is Dead at 84|accessdate = 2007-04-12|last = Smith|first = Dinitia|date = 2007-04-12|work = The New York Times}} In print: Smith, Dinitia, "Kurt Vonnegut, Novelist Who Caught the Imagination of His Age, Is Dead at 84", ''The New York Times'', April 12, 2007, p.1</ref>。 == 生涯 == === 前半生 === ヴォネガットは1922年に[[インディアナ州]][[インディアナポリス]]で[[ドイツ系アメリカ人|ドイツ系移民]]の家庭に生まれた。彼の誕生日は[[第一次世界大戦]]の3年目の休戦記念日である。ヴォネガットはこのことを誇りとしており、後に祭日の名称が「復員軍人の日」に変更されたことについて『チャンピオンたちの朝食』の中で批判的に取り上げている。父カート・ヴォネガット・シニアと祖父は共に[[マサチューセッツ工科大学|MIT]]出身で、[[:en:Vonnegut & Bohn|Vonnegut & Bohn]] というインディアナポリスの建設会社で建築士を務めていた。曽祖父は [[:en:Vonnegut Hardware Company|Vonnegut Hardware Company]] という会社を起業した人物である<ref>{{cite web |first=Rin |last= Kelly |title='Can I Go Home Now?' |publisher=Rin Kelly Writing and Photography |date= |url= http://www.rinkelly.com/wordpress/%E2%80%98can-i-go-home-now%E2%80%99-kurt-vonnegut-and-the-loneliness-of-being-baloney/ |accessdate =2010-08-31}}</ref>。 1940年に[[コーネル大学]]に入学し[[生化学]]を学ぶ一方で学内紙の『コーネル・デイリー・サン』の副編集長も務めた<ref name="autogenerated1">http://www.news.cornell.edu/stories/April07/vonnegut.html Novelist Kurt Vonnegut Dies</ref>。コーネル大学では父と同じ[[フラタニティとソロリティ|フラタニティ]]である [[:en:Delta Upsilon|Delta Upsilon]] に属していた。コーネル大学在学中に[[アメリカ陸軍]]に徴募される<ref>{{cite web|title = Kurt Vonnegut Biography|publisher = Advameg Inc.|url = http://www.notablebiographies.com/Tu-We/Vonnegut-Kurt.html |accessdate=2010-08-31}}</ref>。陸軍はヴォネガットを[[カーネギーメロン大学|カーネギー工科大学]]と[[テネシー大学]]に転校させ、[[機械工学]]を学ばせた<ref name="NYTObit"/>。1944年の[[母の日]]に母のエディスが睡眠薬を過剰摂取し自殺した<ref>{{cite journal|title=Volume 10, Issue No. 1 of the Journal of the Fantastic in the Arts|first=Peter|last=Reed|authorlink=|publisher=Florida Atlantic University, Boca Raton, Florida|year=1999|isbn=1-85723-124-4}}</ref>。生活の困窮や息子のドイツ戦線配属を苦にしたものとされている。 === 第二次世界大戦 === [[File:Kurt-Vonnegut-US-Army-portrait.jpg|left|thumb|200px|1940年代初頭、アメリカ陸軍の肖像]] カート・ヴォネガットが兵士および捕虜として戦争で経験したことは、後の作品に深い影響を与えている。[[1944年]]、アメリカ合衆国[[第106歩兵師団 (アメリカ軍)|第106歩兵師団]]第423普通科連隊の兵卒として[[第二次世界大戦]]の[[ヨーロッパ|欧州]]戦線に参加し、[[バルジの戦い]]で[[コートニー・ホッジス]]率いる[[第1軍 (アメリカ軍)|第1軍]]から第106歩兵師団が分断され取り残された12月19日に捕虜となった。「味方のアメリカ軍とははぐれてしまった。我々はその場で戦うことを余儀なくされた。しかし銃剣は戦車には太刀打ちできない……<ref>((Vonnegut Letter May 29, 1945, http://www.lettersofnote.com/2009/11/slaughterhouse-five.html))</ref>」[[ドレスデン]]に連れて行かれたヴォネガットは、ドイツ語が少しできるということで捕虜のリーダーの1人に選ばれた。ドイツ軍守衛に「…ロシア軍がやってきたら、やってやろうと思っていること…」を話したことで打ち据えられ、リーダーの地位も剥奪された<ref name="retrospect"/>。捕虜として1945年2月の同盟軍(英米の空爆部隊)による[[ドレスデン爆撃]]を経験した。芸術品と謳われたドレスデン市街は壊滅した。 ヴォネガットを含むアメリカ人捕虜の一団は、ドイツ軍が急ごしらえの捕虜収容所に使用した屠畜場の地下の肉貯蔵室で爆撃を生き延びた。ドイツ人はその建物を ''Schlachthof Fünf''(スローターハウス5、第5屠畜場)と呼んでいたため、捕虜たちが収容所をその名で呼ぶようになっていた。ヴォネガットはその爆撃の結果を「完全な破壊」であり「計りがたい大虐殺」だと言っている。この経験が有名な長編『[[スローターハウス5]]』に反映されており、少なくとも他の6冊の本の主要なテーマとなっている。『スローターハウス5』で彼はドレスデン市街の残骸を月面に似ていたと回想し、ドイツ市民の生き残りが捕虜たちをののしり石を投げる中で、死体をまとめて埋葬するために集める仕事をさせられたことを記している<ref name="retrospect">Vonnegut, Kurt, JR. [[:en:Armageddon in Retrospect|Armageddon in Retrospect]]. New York: G.P. Putnam's Sons, 2008.</ref>。ヴォネガットはさらに「結局、埋葬するには死体が多すぎた。ドイツ軍は火炎放射器を持った部隊を送り込み、ドイツ市民の死体を全て灰になるまで燃やした」と記している<ref name="rolling">{{cite web|first = Douglas|last = Brinkley|title = Vonnegut's Apocalypse|publisher = Rolling Stone|url = http://capnmarrrrk.blogspot.com/2006/09/vonneguts-apocalypse.html|date=2006-08-24|accessdate = 2007-04-23}}</ref>。 1945年5月、ヴォネガットは[[ザクセン州]]と[[チェコスロバキア]]の境界線で[[赤軍]]によって送還された<ref name="retrospect" />。アメリカに戻ると[[パープルハート章]]を授与された。これについて彼は「滑稽なほど取るに足りない損傷」についての勲章だとしていたが<ref>Sarah Land Prakken: ''The Reader's Adviser: A Layman's Guide to Literature'', [[:en:R. R. Bowker|R. R. Bowker]] 1974, ISBN 0-83520781-1, [https://books.google.co.jp/books?id=_M8aAAAAMAAJ&q=%22ludicrously+negligible+wound%22+vonnegut&redir_esc=y&hl=ja p. 623]</ref><ref>Arthur Salm: [http://legacy.signonsandiego.com/uniontrib/20070415/news_lz1j15kurt.html Novelist Kurt Vonnegut: So it goes], ''[[:en:The San Diego Union-Tribune|The San Diego Union-Tribune]]'' April 15, 2007</ref>、後に『タイムクエイク』の中で捕虜時代の凍傷に対して授与されたものだと明かしている<ref>Vonnegut, Kurt (1997). ''[[:en:Timequake|Timequake]]''.</ref>。 === 戦後 === [[1945年]]に除隊すると幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚。ヴォネガットは[[シカゴ大学]]大学院で人類学を学び、同時に [[:en:City News Bureau of Chicago|City News Bureau of Chicago]] で働いた。これは当時5紙あったシカゴの地方紙に記事を提供する遊軍のようなものだった。『バゴンボの嗅ぎタバコ入れ』によれば、彼の論文テーマ([[キュビスム]]画家と[[19世紀]]末[[インディアン|ネイティブ・アメリカン]]暴動のリーダーたちとの類似点を論じるもの)は「学術的でない」という理由で大学側に拒絶されたという。[[1947年]]、彼はシカゴから[[ニューヨーク州]][[スケネクタディ (ニューヨーク州)|スケネクタディ]]に移り、[[ゼネラル・エレクトリック]]の広報で働くようになった(兄が開発部門で働いていた)。そのころヴォネガットはスケネクタディとは川を挟んだ対岸の町に住み、数年間はボランティアの消防団員として熱心に活動した。当時彼が住んでいたアパートには、今も彼が小説を書くのに使っていた机があり、彼が自分で名前を彫った跡が残っている。そこで『スローターハウス5』を書き始めたと言われている。なお、シカゴ大学は後に小説『[[猫のゆりかご]]』の人類学的記述をヴォネガットの論文として受理し、1971年に修士号を授与した<ref>David Hayman, David Michaelis, George Plimpton, Richard Rhodes, [http://www.theparisreview.com/viewinterview.php/prmMID/3605 "The Art of Fiction No. 64: Kurt Vonnegut"], ''Paris Review'', Issue 69, Spring 1977</ref>。 [[1950年]]に作家デビューを果たし、広告業などの職業に就きながら作品を発表してゆく。[[1951年]]に[[マサチューセッツ州]][[ケープコッド]]に居を移し<ref>{{cite news|first = Mitchel|last = Levitas|title = A Slight Case of Candor|publisher = The New York Times|date = August 19, 1968|url = http://www.nytimes.com/1968/08/19/books/vonnegut-monkey.html|accessdate = 2007-04-12}}</ref>、[[サーブ・オートモービル|サーブ]]のアメリカ初の販売店の店長をつとめた<ref>{{cite web|title = SAAB Cape Cod&nbsp;— Kurt Vonnegut’s dealership|publisher = www.saabhistory.com|date = April 15, 2007|url = http://www.saabhistory.com/2007/04/15/saab-cape-cod-kurt-vonneguts-dealership/ |accessdate = 2008-11-01}}</ref>。1952年には初の長編となる『プレイヤー・ピアノ』が刊行。 [[1950年代]]中ごろ、ヴォネガットは短期間だけ[[スポーツ・イラストレイテッド]]誌編集部で働き、柵を飛び越えて逃走しようとした競走馬についての記事を書くよう指示された。午前中ずっとタイプライタに挟まった真っ白な紙を見つめた後、彼は「馬はいまいましいフェンスを飛び越えた」とだけタイプし、編集部を去った<ref>[http://www.npr.org/templates/story/story.php?storyId=89276309 Excerpt: 'Armageddon in Retrospect'], NPR.org, June 3, 2008.</ref>。作家として評価されず、執筆をやめてしまおうとする寸前の1965年、ヴォネガットは[[アイオワ大学]]の [[:en:Iowa Writers' Workshop|Writers' Workshop]] での講師の職を得た。彼の講義を受講した学生の中には[[ジョン・アーヴィング]]、[[レナード・シュレイダー]]などがいた。講師をつとめている間に『猫のゆりかご』がベストセラーとなり、[[20世紀]]アメリカ文学の最高傑作の1つとされている『[[スローターハウス5]]』を完成させた。反体制の若者たちの間で熱狂的に支持されるようになると、[[1966年]]には絶版となっていた全作品がペーパーバックで再版された。『スローターハウス5』は[[タイム (雑誌)|タイム]]誌<ref>{{cite news|title = 100 Best Novels: Slaughterhouse-Five (1969)|publisher = Time Magazine|url = http://www.time.com/time/2005/100books/0,24459,slaughterhouse_five,00.html|accessdate = 2007-04-12 | date=2005-10-16}}</ref>や Modern Library<ref>{{cite web|title = 100 Best Novels |publisher = Modern Library|date=July 20, 1998|url = http://www.randomhouse.com/modernlibrary/100bestnovels.html|accessdate = 2007-04-12}}</ref> のベスト100に選ばれている。 2007年4月11日に[[ニューヨーク]]にて死去<ref name="NYTObit"/>。 == 私生活 == 当初、作者名として本名の「カート・ヴォネガット・ジュニア」を使っていたが、1976年の『スラップスティック』から「ジュニア」をとって単に「カート・ヴォネガット」とするようになった。兄の[[バーナード・ヴォネガット]]は[[気象学]]者で[[ヨウ化銀]]を用いた[[人工降雨]]法を開発したほか、1997年度の[[イグノーベル賞]]を受賞している。 第二次世界大戦から戻った直後に幼馴染のジェーン・マリー・コックスと結婚した。プロポーズのいきさつは何度か短編に書いている。1970年に別居したが、正式に離婚したのは1979年のことである。[[マハリシ・マヘッシ・ヨギ]]に傾倒していた妻と確信的無神論者であるヴォネガットの間の宗教上の不一致が原因とされている。ただし、別居直後に後に結婚することになる写真家・児童文学者のジル・クレメンツと同棲し始めた<ref name="NYTObit" />。クレメンツとの結婚は、前妻との離婚が成立して後のことである。 彼の7人の子供のうち、3人はジェーン・マリーとの子で、癌で早世した姉の3人の子を養子にし、さらにクレメンツの連れ子1人を養子とした。そのうちヴォネガットの唯一の実子の男子である[[マーク・ヴォネガット]]は小児科医となった。マークは自身が1960年代に経験した[[統合失調症]]からの回復の記録である『エデン特急―ヒッピーと狂気の記録』を記した。マークの名はヴォネガットがアメリカの聖人だと考えていた[[マーク・トウェイン]]からとった<ref>{{cite web|title = And The Twain Shall Meet|publisher = University of Wisconsin-Madison|date = November 21, 1997|url = http://www.news.wisc.edu/4371.html|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。 娘のエディスの名はヴォネガットの母からとったもので、彼女は後に画家になった。その妹のナネットの名はヴォネガットの父方の祖母の名をとったもので、彼女は Scott Prior という画家と結婚し、何度かモデルを務めている。 姉の子3人を引き取ったのは、姉の夫が1958年9月に列車事故で亡くなり、姉自身もその2日後に癌で亡くなったためである。その経緯は『[[スラップスティック (小説)|スラップスティック]]』に描かれている。 1999年11月11日、[[小惑星]] [[:en:25399 Vonnegut|25399 Vonnegut]] にヴォネガットの名がつけられた<ref>{{cite web|title =25399 Vonnegut (1999 VN20)|publisher = Jet Propulsion Laboratory: California Institute of Technology|url = https://ssd.jpl.nasa.gov/tools/sbdb_lookup.html#/?sstr=25399|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。 2001年1月31日、自宅の一部が火事になり、ヴォネガットは煙を吸い込んで一時危険な状態となり、4日間入院した。命に別状はなかったが、蔵書が失われた。退院後はマサチューセッツ州ノーザンプトンで療養した。 ヴォネガットはフィルターのない[[ポールモール]]を好んで吸っていた。これについて自ら「高級な自殺方法」だと語っていた<ref>{{cite news|title = I smoke, therefore I am|date = February 5, 2006|publisher = The Guardian Observer|url = http://observer.guardian.co.uk/review/story/0,,1702180,00.html|accessdate = 2007-04-12 | location=London | first=Lynn | last=Barber}}</ref>。 2007年、[[マンハッタン]]の自宅の階段で転倒して脳に損傷を負い、その数週間後の4月11日に死去<ref name="NYTObit" /><ref name="GlobeObit">{{cite web|url= http://www.boston.com/ae/books/articles/2007/04/12/counterculture_author_icon_kurt_vonnegut_jr_dies_at_84|title=Counterculture author, icon Kurt Vonnegut Jr. dies at 84|accessdate=2007-04-12|date=2007-04-12|last=Feeney|first=Mark|work=The Boston Globe}}</ref>。 == 作家としての経歴 == 1950年に短編「バーンハウス効果に関する報告書」で[[SF作家]]としてデビューした<ref>{{cite web|url= http://www.theparisreview.com/viewinterview.php/prmMID/3605 |title=The Paris Review&nbsp;— The Art of Fiction No. 64 - Interview with Kurt Vonnegut |accessdate=2009-12-06 |coauthors=David Hayman, David Michaelis, George Plimpton, Richard Rhodes |year=1977 |work=The Paris Review }}</ref>。処女長編は[[ディストピア]]小説『プレイヤー・ピアノ』(1952) で、人間の労働者が機械に置き換えられていく様を描いている。その後短編を書き続け、1959年に第2長編『[[タイタンの妖女]]』を出版<ref name="jcpn2kv">{{cite book|title=The Encyclopedia Of Science Fiction|first=Brian|last=Stableford|authorlink=ブライアン・ステイブルフォード|editor=John Clute & Peter Nicholls (eds.)|publisher=Orbit, London|year=1993|isbn=1-85723-124-4|edition=2nd|page=1289|chapter=Vonnegut, Kurt Jr.}}</ref>。1960年代には徐々に作風が変化していった。『[[猫のゆりかご]]』は比較的普通の構造だが、半ば自伝的な『[[スローターハウス5]]』ではタイムトラベルをプロット構築の道具として実験的手法を採用している。この作品から『チャンピオンたちの朝食』以降の後期作に受け継がれていく特徴的なスタイル(架空の人物の自伝的形態を採る、まえがきを持つ、イラストの多用、印象的な挿話を連ねる)が全面的に展開された。 ベストセラーとなった『チャンピオンたちの朝食』(1973) では作者本人が「[[デウス・エクス・マキナ]]」として登場する。また、ヴォネガット作品に繰り返し登場する人物たちも出てくる。特にSF作家[[キルゴア・トラウト]]が主役級で登場し、他の登場人物たちとやりとりする。 ヴォネガットの作品には慈善家'''エリオット・ローズウォーター'''、ナチ宣伝員'''ハワード・W・キャンベル・ジュニア'''、'''ラムファード'''一族、'''[[トラルファマドール星|トラルファマドール星人]]'''などの架空の固有名が複数の作品にまたがって登場する。 なかでも[[シオドア・スタージョン|スタージョン]]をモデルに造形されたといわれるSF作家[[キルゴア・トラウト]]はカート自身の分身とも言われ『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』で初登場して以来、長編ではおなじみの人物であり『タイムクエイク』では主役として活躍する。『モンキーハウスへようこそ』以降、短編を著していないヴォネガットがトラウトの小説のあらすじという形で短編用のアイデアを披露している。ヴォネガットはキルゴア・トラウトの名を借りて個人的意見を作品内で表明することが多い。 また、SF作家[[フィリップ・ホセ・ファーマー]]はキルゴア・トラウト名義で『貝殻の上のヴィーナス』(''Venus on the Half-Shell'' 1975年)を発表し話題となった。発表当時、これをヴォネガットの作品と誤解する読者が多く、後に作者が明らかにされるとヴォネガットは不快感を表明した(ヴォネガットはファーマーに執筆の許可を与えていたのだが、予想を超えた騒ぎに怒りを表明し、さらなる「トラウト作品」の刊行を拒否した<ref>『貝殻の上のヴィーナス』(ハヤカワ文庫)巻末の安田均の解説より</ref>)。 ヴォネガットは1984年に自殺未遂しており、後にいくつかのエッセイでそのことについて書いている<ref>{{cite web|title = Kurt Vonnegut dies at 84: paper|publisher = Reuters|date = April 2, 2007|url = http://www.reuters.com/article/domesticNews/idUSN1126991620070412|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。 登場人物以外にも頻繁に登場するテーマまたはアイデアがある。例えば『[[猫のゆりかご]]』の「アイス・ナイン」である。 ヴォネガット本人は「SF作家」とレッテル付けされるのを嫌ったが、一方で「現代の作家が、科学技術に無知であることはおかしい」と主張しほとんどの作品でSF的なアイデアが使用されている。それでもSFというジャンルの壁を越えて幅広く読まれたのは、単に反権威主義的だったからだけではない。例えば短編「ハリスン・バージロン」は、[[平等主義]]のような精神が行過ぎた権力と結びついたとき、どれほど恐ろしい抑圧を生むかを鮮やかに描いて見せている。 1997年の『タイムクエイク』出版に際して、ヴォネガットは同書が最後の小説になると発表し、以降はエッセイやイラストの発表、講演等を中心に活動した。2005年にはエッセイをまとめた『国のない男』を出版し、文筆業そのものからの引退を表明した<ref>{{cite news|first = Rick|last = Callahan|title = Indianapolis honors literary native son|date=January 14, 2007|accessdate = 2007-01-15|url = http://www.delawareonline.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20070114/LIFE/701140320/-1/NLETTER01|publisher = Delaware News-Journal (reprinting from the Associated Press)}}</ref>。 死の直後に出版されたエッセイ集『追憶のハルマゲドン』には、未発表の短編小説や第二次世界大戦中に家族宛てに書いた手紙などが含まれている。またヴォネガット本人の描いた絵や死の直前に書いたスピーチ原稿も含まれている。序文は息子のマーク・ヴォネガットが書いている。 ヴォネガットは[[ハーバード大学]]で英文学の講師をつとめたことがあり、[[ニューヨーク市立大学シティカレッジ]]でも一時期教授をつとめていた<ref>{{cite web|url= http://www.speakersworldwide.com/Vonnegut.html |title=Speakers Worldwide, Inc. - Kurt Vonnegut, Jr |publisher=Speakersworldwide.com |date= |accessdate=2010-03-13}}</ref>。 == 日本での受容 == 日本においては[[1960年代]]後半から[[浅倉久志]]、[[伊藤典夫]]等によって精力的に紹介されていた。[[1980年代]]になり日本でも主要な作品の多くが[[和田誠]]のカバーイラストと共に[[ハヤカワ文庫|ハヤカワ文庫SF]]([[早川書房]])より刊行された。 [[1984年]]には[[日本ペンクラブ|国際ペン大会]]に[[アラン・ロブ=グリエ|ロブ=グリエ]]、[[巴金]]等と共にゲストとして来日し[[大江健三郎]]とも会談している。 ヴォネガットから影響を受けた日本人作家としては、第一作の『[[風の歌を聴け]]』でヴォネガットのスタイルを模写した[[村上春樹]]や[[高橋源一郎]]、[[橋本治]]等がいる。[[爆笑問題]]の[[太田光]]は熱心なファンとして知られ彼らが設立した所属事務所「[[タイタン (芸能プロダクション)|タイタン]]」の名称は『タイタンの妖女』と「太田」の別読みをかけて付けられたものである。 == 政治姿勢 == ヴォネガットは初期の[[社会主義]]労働者リーダーに強く影響を受けており、特にインディアナ州の [[:en:Powers Hapgood|Powers Hapgood]] と[[ユージン・V・デブス]]は作品内でも頻繁に言及している。登場人物にもデブスの名をつけたり(『ホーカス・ポーカス』や『デッドアイ・ディック』)、ロシアの[[レフ・トロツキー]]の名をつけたり(『ガラパゴス』)している。ヴォネガットは[[アメリカ自由人権協会]]の会員でもあった。 ヴォネガットは倫理問題や政治問題を扱うことが多かったが、具体的な政治家について言及するようになったのは小説執筆から引退してからのことである。『ジェイルバード』の主人公ウォルター・スターバックが囚人となったのは[[リチャード・ニクソン]]の[[ウォーターゲート事件]]が原因だが、物語の中心はそこではない。''[[:en:God Bless You, Dr. Kevorkian|God Bless You, Dr. Kevorkian]]'' では、論争の的となった自殺幇助者[[ジャック・ケヴォーキアン]]に言及している。 ''[[:en:In These Times|In These Times]]'' 誌のコラムでは、ブッシュ政権とイラク戦争について痛烈な批判を展開した。「我々のリーダーが権力におぼれたチンパンジーだと言ったら、私は中東で戦い死んでいっている兵士たちの士気を台無しにすることになるだろうか?」とヴォネガットは書いている。「彼らの士気は多数の死体と共にすでにばらばらになっている。彼らはまるで金持ちの子がクリスマスに与えられたおもちゃのように扱われており、それは私が兵士だったときとは全く異なる」''[[:en:In These Times|In These Times]]'' ではヴォネガットの言葉として「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]と[[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ]]の唯一の違いは、ヒトラーが選挙で選ばれたという点だ」と引用している<ref>{{cite web|last=Gordon |first=Scott |url= http://www.avclub.com/content/feature/15_things_kurt_vonnegut_said |title=15 Things Kurt Vonnegut Said Better Than Anyone Else Ever Has Or Will |publisher=The A.V. Club |date= |accessdate=2010-03-13}}</ref><ref>{{cite web|first = Kurt|last = Vonnegut|title = Cold Turkey|publisher = In these Times|date = May 10, 2004|url = http://www.inthesetimes.com/site/main/article/733/|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。2003年のインタビューでヴォネガットは「わが国のためには、火星人やボディスナッチャーに侵略されて戦ったほうがましだったと思う。時々、本当にそうだったらよかったのにと思う。しかし現実に起こったのは、極めて軽薄で低級な「[[キーストン・コップス]]」のようなクーデター劇だった。そしていま連邦政府を牛耳っているのは、歴史も地理もわからないお坊ちゃん学生と、それほど閉鎖的でもない『キリスト教徒』と呼ばれる[[白人至上主義]]者と、怖がりの精神病質者すなわちPP (psychopathic personalities) だ」と述べている<ref>Political quotes http://politicalhumor.about.com/od/funnyquotes/a/vonnegutquotes.htm</ref>。2003年のインタビュー冒頭で調子を尋ねられると彼は「高齢であることに夢中で、アメリカ人であることに夢中だ。それはそれとして、OKだ」と応えた<ref name="utne.com">[http://www.utne.com/GreatWriting/Interview-with-Kurt-Vonnegut/2003-05-01/Archives.aspx Aggressively Unconventional: An Interview with Kurt Vonnegut], Utne Reader</ref>。 『国のない男』で彼は「ジョージ・W・ブッシュは、彼の周囲に歴史も地理も全く知らないお坊ちゃん学生を集めた」と書いていた。彼は2004年の[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選挙]]については全く楽観していなかった。ブッシュと[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]について彼は「どちらが勝っても[[スカル・アンド・ボーンズ]]の大統領になることに変わりはない。我々が土壌や水や大気を汚染してきたせいで、あらゆる脊椎動物が頭蓋骨(スカル)と骨(ボーンズ)だけになろうって時にだ」と述べている<ref>{{cite web|first = Kurt|last = Vonnegut|title = The End is Near|publisher = In These Times |date = October 29, 2004|url = http://www.inthesetimes.com/site/main/article/1546/|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。 2005年、ヴォネガットは[[オーストラリアン]]紙によるデイヴィッド・ネイスンのインタビューを受けた。その中で最近のテロリストについて意見を求められ、「とても勇敢な人たちだと思う」と応えた。さらに訊かれるとヴォネガットは「彼ら(自爆テロ犯)は自尊心のために死ぬ。自尊心を誰かから奪うというのはひどいことだ。それはあなたの文化や民族や全てを否定されるようなものだ……信じるもののために死ぬことは甘美で立派なことだ」と答えた。最後の文は[[ホラティウス]]の金言 "Dulce et decorum est pro patria mori"(お国のために死ぬのは甘美で適切だ)をもじったもので、[[ウィルフレッド・オーエン]]の ''[[:en:Dulce Et Decorum Est|Dulce Et Decorum Est]]'' における皮肉な引用が出典とも考えられる。ネイスンはヴォネガットのコメントに腹を立て、生きる希望をなくしテロリストを面白がっている老人だと決め付けた。ヴォネガットの息子マークはこの記事に対する反論を[[ボストン・グローブ]]紙に書いた。すなわち父の「挑発的な姿勢」の背後にある理由を説明し、「まったく無防備な83歳の英語圏の人物が公の場で思っていることをそのまま言うと誤解し見くびるような解説者は、敵が何を考えているかも理解できていないのではないかと心配すべきだ」と記した<ref>{{cite web|first = Mark|last = Vonnegut|title = Twisting Vonnegut's views on terrorism|publisher = The Boston Globe|date = December 27, 2005|url = http://www.boston.com/news/globe/editorial_opinion/oped/articles/2005/12/27/twisting_vonneguts_views_on_terrorism/|accessdate = 2007-04-12}}</ref>。 2006年の[[ローリング・ストーン]]誌のインタビュー記事には、「…彼(ヴォネガット)がイラク戦争のすべてを軽蔑することは驚くべきことではない。2500人を越えるアメリカ兵が、彼が不要な衝突と考えている状況の中で殺されているという事実は彼をうならせる。『正直なところ、ニクソンが大統領ならよかった』とヴォネガットは嘆く。『ブッシュはあまりにも無知だ』」とある<ref name="rolling" />。 ヴォネガットは常に反体制の立場だったが、アーティストが変化をもたらす力についても悲観的だった。「ベトナム戦争のとき」と2003年のあるインタビューで彼は言っている。「この国のすべてのまともなアーティストは戦争に反対だった。それはレーザービームのように一致し、みんな同じ方向を向いていた。しかしその力は6フィートの高さの脚立からカスタードパイを落とした程度だった」<ref name="utne.com"/> == 宗教 == ヴォネガットは「従来の宗教的信仰」に懐疑的だった[[ドイツ]]自由思想の家系の出身である<ref name="timequake">Timequake, by Kurt Vonnegut, New York: G.P. Putnam's, 1997.</ref>。曽祖父のクレメンス・ヴォネガットは ''Instruction in Morals'' と題した[[自由思想]]の本を書いたことがあり、自身の葬式については神の存在を否定し、死後の生を否定し、キリスト教の罪と救済の教義を否定した言葉を言い残していた。カート・ヴォネガットは『パームサンデー』の中で曽祖父の葬儀についての言葉を再現し、自由思想が「先祖代々の宗教」だとしているが、どうしてそれが自分に受け継がれたのかは謎だとしていた<ref name="palm_sunday"/>。 ヴォネガットは自身を懐疑論者<ref name="palm_sunday">Palm Sunday, by Kurt Vonnegut, 1981. Republished by The Dial Press, 2006.</ref>、[[自由思想]]家<ref name="blazejewski">[http://www.thecrimson.com/article.aspx?ref=100966 Vonnegut Unbound: The master of irreverence on life, death, God, humanism, and the souls of aspiring artists], By Christopher R. Blazejewski, The Harvard Crimson, Friday, May 12, 2000</ref>、[[ヒューマニズム|ヒューマニスト]]<ref name="blazejewski"/>、[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム|UU教徒]]<ref name="haught_287">Vonnegut, ''Fates Worse Than Death'', p. 157; Haught, ''2000 Years of Disbelief'', p. 287</ref>、[[不可知論]]者<ref name="palm_sunday"/>、[[無神論]]者<ref name="haught_287"/>などと様々に言い表している。超自然的なものは信じず<ref name="palm_sunday"/>、宗教の教義を「あまりにも独断的で明白に発明されたたわごと」だと考えており、人々が入信するのは寂しさが原因だと信じている<ref name="loneliness">Vonnegut, ''Palm Sunday'', p 196</ref>。 ヴォネガットは自由思想の現代版がヒューマニズムだと見なしており<ref name="brancaccio">[http://www.pbs.org/now/transcript/transcriptNOW140_full.html David Brancaccio: Now on PBS] (transcript), 10.07.05</ref>、作品や発言やインタビューで事あるごとにヒューマニズムへの支持を表明している。[[:en:Council for Secular Humanism|Council for Secular Humanism]] の International Academy of Humanism に名誉ヒューマニストとして参加していた<ref name="csh">[http://www.secularhumanism.org/index.php?section=iah&page=index International Academy of Humanism], published on the website of the Council for Secular Humanism</ref>。1992年には[[アメリカヒューマニスト協会]]により[[ヒューマニスト・オブ・ザ・イヤー]]に選ばれた。友人の[[アイザック・アシモフ]]から[[アメリカヒューマニスト協会]]の名誉会長の座を引き継ぎ、亡くなるまでそれを務めた<ref>Vonnegut, ''A Man without a Country'' (2005), p. 80</ref>。AHA会員への手紙でヴォネガットは「私はヒューマニストであり、それはある意味で死後の賞罰を予想することなく上品にふるまおうとすることでもある」と書いている<ref name="aha">[http://www.americanhumanist.org/press/KurtVonnegut.php Humanist President Kurt Vonnegut Mourned] American Humanists Association Press Release, April 12, 2007</ref>。 ヴォネガットは一時期[[ユニテリアン主義]]の一派[[ユニテリアン・ユニヴァーサリズム]]に入信していた<ref name="palm_sunday"/>。『パームサンデー』には、ヴォネガットがマサチューセッツ州ケンブリッジの First Parish Unitarian Church で行った説教(アメリカ合衆国にユニテリアン主義をもたらした [[:en:William Ellery Channing|William Ellery Channing]] に関するもの)が収録されている。1986年、ヴォネガットはニューヨーク州ロチェスターでユニテリアン・ユニヴァーサリズムの集会で講演し、その原稿が『死よりも悪い運命』に収録された。同書には、ニューヨーク州バッファローで行った「ミサ曲」も収録されている<ref>ヴォネガットのミサはカトリックの[[トリエント・ミサ]]への対位法として書かれた。それをラテン語に翻訳し知人に音楽にしてもらった。''Fates Worse than Death'', pp. 69-73, 223-234</ref>。ヴォネガットによれば、二度の大戦の間にアメリカ合衆国で自由思想や他のドイツ人の「宗教的狂信」の人気がなくなったとき、彼の自由思想の一族の多くがユニテリアンに改宗したという<ref name="blazejewski"/>。ヴォネガットの両親はユニテリアン式の結婚をしており、彼の息子も一時期ユニテリアンの聖職者だったことがある<ref name="palm_sunday"/>。 ヴォネガットの宗教観は単純なものではない。[[イエス・キリスト]]の神性を拒絶するにもかかわらず<ref name="haught_287"/>、イエスの[[真福九端|祝福]]が彼のヒューマニズムの根本にあると信じている<ref name="beatitudes">"I say of Jesus, as all humanists do, 'If what he said is good, and so much of it is absolutely beautiful, what does it matter if he was God or not?' But if Christ hadn't delivered the Sermon on the Mount, with its message of mercy and pity, I wouldn't want to be a human being. I'd just as soon be a rattlesnake." Vonnegut, ''A Man without a Country'', pp 80-81</ref>。彼は自分を不可知論者または無神論者だとしているが、同時に神についてよく語っている<ref name="blazejewski"/>。「先祖代々の宗教」が自由思想、ヒューマニズム、不可知論だと説明し、ユニテリアン信者であるにも関わらず、自身を[[無宗教]]だとも言っている<ref name="blazejewski"/>。[[アメリカヒューマニスト協会]]によるプレスリリースでは、彼を「完全な俗人」だとしていた<ref name="aha"/>。 == 出演経験 == * [[アラン・メッター]]が監督した1986年の映画『バック・トゥ・スクール』(1986年)では本人役で出演した。 * また自分の作品を映画化した ''[[:en:Mother Night (film)|Mother Night]]'' と『[[ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ]]』にもカメオ出演した。 * [[エンロン]]の広告に登場したことがある。 * [[:en:1 Giant Leap|1 Giant Leap]] というバンドの2002年のDVDにゲスト出演し、音楽について語っている。 * 2006年8月、[[Second Life]] 内でインタビューを受け、[[:en:The Infinite Mind|The Infinite Mind]] というラジオ番組で放送された<ref>Business Communicators in Virtuality "The Infinite Mind Radio Progam is Now Simulcasting in Second Life" http://freshtakes.typepad.com/sl_communicators/2006/08/the_infinite_mi.html</ref>。Second Life でのインタビューの模様は [http://www.youtube.com/watch?v=crPrPpAaRXo YouTube] で公開されている。 == 作品 == === 長編小説 === 長編小説はすべて日本語訳されたが、そのうちいくつかは現在品切・重版未定となっている。 * [[プレイヤー・ピアノ]](''Player Piano'' [[1952年]])、[[浅倉久志]]訳、ハヤカワ文庫SF、1975年、2005/01新装版、ISBN 978-4150115012 * [[タイタンの妖女]](''The Sirens of Titan'' [[1959年]])、浅倉久志訳、早川書房 (ハヤカワ・SF・シリーズ)、1972年、のち文庫。1973年度[[星雲賞]](海外長編部門) * [[母なる夜]](''Mother Night'' [[1961年]])、[[池澤夏樹]]訳、白水社(『新しい世界の文学62』)、1973年、のち白水Uブックス、のち[[飛田茂雄]]訳でハヤカワ文庫SF、1987/01、ISBN 978-4150107000 * [[猫のゆりかご]](''Cat's Cradle'' [[1963年]])[[伊藤典夫]]訳、早川書房 (ハヤカワ・ノヴェルズ)、1968年、のち文庫 * [[ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを]](''God Bless You, Mr. Rosewater, or Pearls Before Swine'' [[1965年]])『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを : または、豚に真珠』として浅倉久志訳、早川書房 (ハヤカワ・ノヴェルズ)、1977年。のち改題して文庫 * [[スローターハウス5]](''Slaughterhouse-Five, or The Children's Crusade: A Duty-Dance With Death'' [[1969年]])『屠殺場5号』として伊藤典夫訳、早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ)、1973年。のち改題して文庫。 * [[チャンピオンたちの朝食]](''Breakfast of Champions, or Goodbye, Blue Monday'' [[1973年]])浅倉久志 訳 早川書房(海外SFノヴェルズ) 1984年。のち文庫 * [[スラップスティック (小説)|スラップスティック]](''Slapstick, or Lonesome No More'' [[1976年]])『スラップスティック : または、もう孤独じゃない!』として浅倉久志訳、早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ)、1979年、のち改題して文庫 * [[ジェイルバード]](''Jailbird'' [[1979年]])浅倉久志 訳 早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ)、1981年、のち文庫 * [[デッドアイ・ディック]](''Deadeye Dick'' [[1982年]])浅倉久志訳 早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ) 1984年、のち文庫 * [[ガラパゴスの箱舟]](''Galápagos'' [[1985年]])浅倉久志訳 早川書房 1986年(ハヤカワ・ノヴェルズ)、のち文庫 * [[青ひげ (小説)|青ひげ]](''Bluebeard'' [[1987年]])浅倉久志訳 早川書房 1989年(ハヤカワ・ノヴェルズ)、のち文庫 * [[ホーカス・ポーカス (小説)|ホーカス・ポーカス]](''Hocus Pocus'' [[1990年]])浅倉久志訳 早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ) 1992年、のち文庫 * [[タイムクエイク]](''Timequake'' [[1997年]])『タイムクエイク : 時震』として浅倉久志訳 早川書房 1998年、のち改題して文庫 === 短編集 === いずれも初期の短編を収録している。 * ''Canary in a Cathouse''(1961年)、収められた短編の大半は『モンキーハウスにようこそ』に再録。 * モンキーハウスへようこそ(''Welcome to the Monkey House'' [[1968年]])伊藤典夫、[[吉田誠一]]、浅倉久志、他訳、早川書房 (ハヤカワ・ノヴェルズ)、1983年。のち文庫(文庫化時に2巻) * バゴンボの嗅ぎタバコ入れ(''Bagombo Snuff Box'' [[1999年]])浅倉久志, 伊藤典夫訳 早川書房 2000年、のち文庫 * はい、チーズ(''Look at the Birdie'' 2009年)[[大森望]]訳、河出書房新社、2014年 のち文庫 * 人みな眠りて(''Mortals Sleep'' 2011年)大森望訳、河出書房新社、2017年 のち文庫 * ''Complete Stories'' 2017年 全短編。日本版は4分冊で刊行中。 **カート・ヴォネガット全短篇 1 バターより銃 大森望 (監修、共訳)、早川書房 2018年 **カート・ヴォネガット全短篇 2 バーンハウス効果に関する報告書 大森望 (監修、共訳)、早川書房、2018年 **カート・ヴォネガット全短篇 3 夢の家 大森望(監修・共訳)早川書房、2019年 **カート・ヴォネガット全短篇 4 明日も明日もその明日も 大森望(監修・共訳)早川書房、2019年 === エッセイなど === * ヴォネガット、大いに語る(''Wampeters, Foma and Granfalloons'' [[1974年]])[[飛田茂雄]]訳、サンリオ文庫、1984年。のちハヤカワ文庫 * パームサンデー―自伝的コラージュ―(''Palm Sunday, An Autobiographical Collage'' [[1981年]])飛田茂雄訳、早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ) 1984年。のち文庫 * 死よりも悪い運命(''Fates Worse than Death'' [[1991年]])浅倉久志訳 早川書房(ハヤカワ・ノヴェルズ) 1993年、のち文庫 * ''God Bless You, Dr. Kevorkian''(1999年)、[[新潮社]]の[[小説誌]]「yom yom」創刊号(2006年)に一部訳が掲載 * 国のない男(''A Man Without a Country'' [[2005年]])、[[金原瑞人]]訳、[[日本放送出版協会]]、[[2007年]][[7月25日]]、ISBN 978-4140812518 のち中公文庫 * 追憶のハルマゲドン(''Armageddon in Retrospect'' [[2008年]])浅倉久志訳、早川書房 2008年 * これで駄目なら 若い君たちへ――卒業式講演集(''If This Isn't Nice, What Is?: Advice to the Young-The Graduation Speeches'' 2014年)[[円城塔]]訳 2016年 === 戯曲 === * さよならハッピー・バースデイ(''Happy Birthday, Wanda June'' [[1970年]])浅倉久志訳、晶文社、1986年 * ''Make Up Your Mind'' 1993年 * ''Miss Temptation'' 1993年 * [[兵士の物語]](''L'Histoire du Soldat'' [[1993年]]) === 絵本 === * アイヴァン・チャマイエフ絵『お日さま お月さま お星さま』 (''Sun, Moon, Star'' 1980年)浅倉久志訳、国書刊行会、2009年 == 映像化作品 == * ''Happy Birthday, Wanda June''(監督[[マーク・ロブソン]] [[1971年]]) * [[スローターハウス5]](監督[[ジョージ・ロイ・ヒル]] [[1972年]]) *: 1972年[[カンヌ国際映画祭]]審査員賞、1973年[[ヒューゴー賞]]Dramatic Presentation部門受賞。 * [[ジェリー・ルイスの双子の鶏フン大騒動]](監督[[スティーヴン・ポール]]、主演[[ジェリー・ルイス]] [[1983年]]) *: 『[[スラップスティック (小説)|スラップスティック]]』を映画化。 * [[マザーナイト]](監督[[キース・ゴードン]]、主演[[ニック・ノルティ]] [[1996年]]) *: 『母なる夜』を映画化。カートも出演。 * [[ブレックファースト・オブ・チャンピオンズ]](監督[[アラン・ルドルフ]]、主演[[ブルース・ウィリス]] 1998年) *: 『チャンピオンたちの朝食』を映画化。 == 関連文献 == *『吾が魂のイロニー カート・ヴォネガットJr.の研究読本』(1984年 [[北宋社]]) *『現代作家ガイド6 カート・ヴォネガット』巽孝之監修(2012年 [[彩流社]]) == 脚注・出典 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[ルイ=フェルディナン・セリーヌ]] *: カートはセリーヌの亡命三部作(米国[[ペンギン・ブックス]]版)に序文を寄せた。この文章は「パームサンデー」に再録。 == 外部リンク == * {{Curlie|Arts/Literature/World_Literature/American/20th_Century/Vonnegut,_Kurt}} * [http://www.vonnegut.com/ VONNEGUT.com] - 公式サイト{{En icon}} * [http://www.vonnegutlibrary.org/ The Kurt Vonnegut Memorial Library] * [http://www.vonnegutsociety.net/ vonnegutsociety.net] The Kurt Vonnegut Society website * [http://www.indiana.edu/~liblilly/lilly/mss/html/vonnegut.html Kurt Vonnegut papers] at the [[:en:Lilly Library|Lilly Library]], Indiana University Bloomington *{{C-SPAN|kurtvonnegut}} *{{Charlie Rose view|3290}} *{{imdb name|0903361}} *{{Worldcat id|lccn-n79-62641}} *{{OL author|id=OL20187A}} *{{NNDB|928/000022862}} {{カート・ヴォネガット}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うおねかつと かあと}} [[Category:カート・ヴォネガット|*]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の小説家]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の随筆家]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の随筆家]] [[Category:アメリカ合衆国のSF作家]] [[Category:アメリカ合衆国の風刺作家]] [[Category:アメリカ合衆国のアナキスト]] [[Category:第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人]] [[Category:捕虜となった人物]] [[Category:アイオワ大学の教員]] [[Category:アメリカ芸術文学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ合衆国のユニテリアン]] [[Category:ニューヨーク市立大学シティカレッジの教員]] [[Category:ハーバード大学の教員]] [[Category:ゼネラル・エレクトリックの人物]] [[Category:ポストモダン著作家]] [[Category:新保守主義への批判者]] [[Category:テネシー大学出身の人物]] [[Category:ドイツ系アメリカ人]] [[Category:インディアナポリス出身の人物]] [[Category:1922年生]] [[Category:2007年没]]
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日本文学
日本文学(にほんぶんがく)とは、日本語で書かれた文学作品、あるいは日本人が書いた文学、もしくは日本で発表された文学である。中国の古典語である漢文も、日本人によって創作されている場合、日本文学に含まれる。上記の作品やそれらを創作した小説家・詩人などを研究する学問も日本文学と呼ばれる。国文学と呼ばれることもある。 日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼる。同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは類例が少ない。平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』は世界的に高い評価を受けており、江戸時代の松尾芭蕉も現在の俳句ブームにより広く知られている。近代の日本文学においても、夏目漱石・森鷗外・谷崎潤一郎などが諸外国で認知されている。2021年までに、川端康成と大江健三郎の2名がノーベル文学賞を受賞している。 古代・中世の日本文学は中国からの文化的影響が著しく、日本が仏教を受け容れたことからインド文学の間接的影響もみられる。中国文学の影響は近世にもみられるが、いずれの時代においても日本人固有の独創性が顕著に認められる。明治維新以降は欧米の文化的影響を強く受けたが、英米文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシア文学などを短期間のうちに摂取・模倣し、日本独自の高度な近代文学を創造していった。近代日本文学は中国・朝鮮の近代文学の形成に大きな影響を与えた。第二次世界大戦の後も、三島由紀夫・安部公房・村上春樹などの作品が世界的に広く読まれており、現代の世界文学に多大な影響を与えている。 日本文学の定義を何に求めるかについては諸説あり、文学作品の言語、創作者の国籍、発表された地域、文学の形式など多くの要素が考えられる。日本語を母語としない外国人の小説家・詩人が日本語作品を書くこともあるし、日本人の小説家・詩人が日本語以外の言語で作品を書くこともある。例えば西脇順三郎は日本語と英語、多和田葉子は日本語とドイツ語の双方で作品を執筆している。このように国籍や居住地と言語とが一致しない場合もあることを考慮し、日本語文学という呼称が使われることもあるが、この場合伝統的な日本文学に根ざしてきた漢文・漢詩の扱いが曖昧になる。日本文学を国文学と呼ぶこともあるが、国文学 と日本文学との同一性には議論がある。 歴史学のように政体の変遷に注目することが必ずしも相応しいわけではないが、目安にされることが多い。また、以下のように、上代・中古・中世・近世・近現代という区分が一般になされるが、研究者によって異論もあり、中古を設定しない場合もある。近代と現代を分離するか否かについても諸説あり、定まっていない。 丸谷才一は勅撰集により日本文学史の歴史区分を行うことを提示した。 奈良時代まで。中国大陸から漢字が輸入され、漢文と、自分たちの話し言葉に漢字を当てはめた万葉仮名が使われるようになった。『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)のような史書や『万葉集』のような歌集が生まれた。 平安時代。漢詩漢文が引き続き栄えるとともに、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編纂され、和歌が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、平仮名の和文による表現が盛んにはじまり、紀貫之の『土佐日記』が書かれたのに続き、清少納言の随筆『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など古典文学の代表作と言える作品が著された。 鎌倉時代から安土桃山時代まで。藤原定家らによって華麗な技巧に特徴がある『新古今和歌集』が編まれた。また、現代日本語の直系の祖先と言える和漢混淆文によって多くの作品が書かれた。鴨長明の『方丈記』、兼好法師の『徒然草』などがこれにあたる。作者不詳のものとして『平家物語』が挙げられる。また、猿楽の発達が見られた。 江戸時代。お伽草子の流れを汲み、仮名草子や井原西鶴らの浮世草子がうまれた。また、歌舞伎や浄瑠璃が興り、近松門左衛門などが人気を博した。俳諧が盛んになり、松尾芭蕉、小林一茶といった人々が活躍した。 明治維新後、文明開化による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められ、いわゆる「文学」という概念が生まれた時代。西欧近代小説の理念が輸入され、現代的な日本語の書き言葉が生み出された。坪内逍遥の『小説神髄』の示唆を受けて創作された、二葉亭四迷の『浮雲』によって、近代日本文学が成立したとされる。日本文学は、中国・朝鮮の近代文学の成立にも大きな影響を及ぼした。なお、近代と現代を分離し、戦前の文学を「近代文学」、戦後の文学を「現代文学」として分ける場合もある。 近隣では古代から中国文学の大きな影響を受け続け、明治時代に言文一致運動が高揚するまで、漢詩や漢文も日本文学の一部として重きを置かれていた。琉球文学の活動と隣接しており、中国文学とともに日本文学は琉球文学の成立に関わっている。近代以降の日本文学は、英米文学、フランス文学、ドイツ文学、ロシア文学など欧米の文学から強く影響を受けたが、その摂取・模倣により、独自の近代文学を創造した。日本の近代文学は、辛亥革命以降の近代中国文学や、近代文学としての朝鮮文学の成立に深く関わった。 日本文学研究は、上代文学・中古文学・中世文学・近世文学・近代文学・漢文学の6つの区分のもと、研究が進められている。それぞれの分野は独立しつつも、研究対象や研究手法が共有されたり、研究者の研究対象が複数分野にまたがることも少なくない。以下、日本文学研究における時代区分と、関連する日本学術会議協力学術研究団体を挙げる。 文学研究は、作品の解釈や作風を考察する研究が一般に知られているが、20世紀後半以降、文学理論の影響で研究手法は非常に幅広いものとなっている。例えば、古典文学(上代~近世)研究では、新出資料の発見や翻刻、研究対象とする諸本の系統を明らかにする写本系統学、書籍の出版・流通過程に関する研究、書誌学を用いた研究などが行われている。近年は、くずし字解読やデータベースによる画像公開といった情報学分野、美術史的観点からの検証や芸術家による創作活動支援といった美術分野との連携も進んでいる。また、近現代文学研究では、いわゆる文豪と呼ばれる作家やその作品を研究対象とするだけでなく、ライトノベルや漫画・アニメといったサブカルチャーを研究対象とした研究も行われている。 また、日本文学作品が海外において徐々に認知される中、古典から現代文学までが幅広く研究対象となり、エドワード・サイデンステッガー、ドナルド・キーン、ロバート・キャンベル、ピーター・マクミランといった翻訳家・研究者が、多くの著作を残している。 近代以降、多くの文学賞が創設され、作家の発掘と育成に貢献している。 また、日本文学研究に関して、日本学術会議協力学術研究団体をはじめとした様々な学会で、学会賞が授与されている。
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日本文学(にほんぶんがく)とは、日本語で書かれた文学作品、あるいは日本人が書いた文学、もしくは日本で発表された文学である。中国の古典語である漢文も、日本人によって創作されている場合、日本文学に含まれる。上記の作品やそれらを創作した小説家・詩人などを研究する学問も日本文学と呼ばれる。国文学と呼ばれることもある。 日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼる。同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは類例が少ない。平安時代に紫式部によって書かれた『源氏物語』は世界的に高い評価を受けており、江戸時代の松尾芭蕉も現在の俳句ブームにより広く知られている。近代の日本文学においても、夏目漱石・森鷗外・谷崎潤一郎などが諸外国で認知されている。2021年までに、川端康成と大江健三郎の2名がノーベル文学賞を受賞している。 古代・中世の日本文学は中国からの文化的影響が著しく、日本が仏教を受け容れたことからインド文学の間接的影響もみられる。中国文学の影響は近世にもみられるが、いずれの時代においても日本人固有の独創性が顕著に認められる。明治維新以降は欧米の文化的影響を強く受けたが、英米文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシア文学などを短期間のうちに摂取・模倣し、日本独自の高度な近代文学を創造していった。近代日本文学は中国・朝鮮の近代文学の形成に大きな影響を与えた。第二次世界大戦の後も、三島由紀夫・安部公房・村上春樹などの作品が世界的に広く読まれており、現代の世界文学に多大な影響を与えている。
{{Redirect3|国文学|日本の文学|日本で発行されていた学術雑誌|國文學}} {{複数の問題 |出典の明記=2011年12月 |独自研究=2023-5}} {{ページ番号|date=2023年5月}} [[ファイル:Murasaki-Shikibu-composing-Genji-Monogatari.png|thumb|180px|紫式部]] '''日本文学'''(にほんぶんがく)とは、[[日本語]]で書かれた[[文学作品]]、あるいは[[日本人]]が書いた[[文学]]、もしくは[[日本]]で発表された文学である。[[中国]]の[[古典語]]である[[漢文]]も、日本人によって創作されている場合、日本文学に含まれる。上記の作品やそれらを創作した[[小説家]]・[[詩人]]などを[[研究]]する[[学問]]も日本文学と呼ばれる。'''国文学'''と呼ばれることもある。 [[ファイル:Natsume Soseki photo.jpg|thumb|right|180px|夏目漱石]] 日本文学の歴史は極めて永く、古くは7世紀までさかのぼる。同一言語・同一国家の文学が1400年近くにわたって書き続けられ読み続けられることは類例が少ない。[[平安時代]]に[[紫式部]]によって書かれた『[[源氏物語]]』は世界的に高い評価を受けており、[[江戸時代]]の[[松尾芭蕉]]も現在の[[俳句]]ブームにより広く知られている。[[近代]]の日本文学においても、[[夏目漱石]]・[[森鷗外]]・[[谷崎潤一郎]]などが諸外国で認知されている。[[2021年]]までに、[[川端康成]]と[[大江健三郎]]の2名が[[ノーベル文学賞]]を受賞している<ref>{{Cite web|和書|title=ノーベル賞 |url=https://www.kyoto-u.ac.jp/ja/about/history/honor/award-b/nobel |website=京都大学 |access-date=2023-05-16 |language=ja}}</ref>。 [[古代]]・[[中世]]の日本文学は[[中国]]からの文化的影響が著しく、日本が[[仏教]]を受け容れたことから[[インド文学]]の間接的影響もみられる。[[中国文学]]の影響は[[近世]]にもみられるが、いずれの時代においても日本人固有の独創性が顕著に認められる。[[明治維新]]以降は[[欧米]]の文化的影響を強く受けたが、[[英米文学]]・[[フランス文学]]・[[ドイツ文学]]・[[ロシア文学]]などを短期間のうちに摂取・模倣し、日本独自の高度な[[近代文学]]を創造していった。近代日本文学は[[中国]]・[[朝鮮]]の近代文学の形成に大きな影響を与えた。[[第二次世界大戦]]の後も、[[三島由紀夫]]・[[安部公房]]・[[村上春樹]]などの作品が世界的に広く読まれており、現代の[[世界文学]]に多大な影響を与えている。 == 定義 == 日本文学の[[定義]]を何に求めるかについては諸説あり、文学作品の[[言語]]、創作者の[[国籍]]、発表された[[地域]]、文学の形式など多くの要素が考えられる。日本語を[[母語]]としない外国人の小説家・詩人が日本語作品を書くこともあるし、日本人の小説家・詩人が日本語以外の言語で作品を書くこともある。例えば[[西脇順三郎]]は日本語と[[英語]]、[[多和田葉子]]は日本語と[[ドイツ語]]の双方で作品を執筆している。このように[[国籍]]や[[居住地]]と言語とが一致しない場合もあることを考慮し、'''日本語文学'''という呼称が使われることもあるが、この場合伝統的な日本文学に根ざしてきた[[漢文]]・[[漢詩]]の扱いが曖昧になる。日本文学を'''国文学'''と呼ぶこともあるが、国文学<ref group="注釈">[[岡部美二二]]は国文学を「国語国文に依って[[芸術家]]の心理過程の顕現せられたもの」で「[[芸術]]の一分野である」と定義した上で、「国文学が芸術の一分野として確立する以上、其研究は、作物それ自体の非芸術的価値の批評を其本質とすべき」だと論じている(『帝国文学』一九一六年二月号「国文学の研究に就て」140 - 141頁)。</ref> と日本文学との同一性には議論がある<ref>[[秋山虔]]「日本語・日本文学研究-これからの百年-」全国大学国語国文学会夏季大会 2008年6月7日 和洋女子大学 全国大学国語国文学会夏季大会基調講演</ref>。 == 時代区分による分類 == {{See also|日本史時代区分表}} [[歴史学]]のように[[政体]]の変遷に注目することが必ずしも相応しいわけではないが、目安にされることが多い。また、以下のように、[[上代]]・[[中古 (時代区分)|中古]]・[[中世]]・[[近世]]・近現代という区分が一般になされるが、[[研究者]]によって異論もあり、中古を設定しない場合もある。[[近代]]と[[現代 (時代区分)|現代]]を分離するか否かについても諸説あり、定まっていない。 [[丸谷才一]]は[[勅撰集]]により日本文学史の歴史区分を行うことを提示した。 === 上代文学(飛鳥時代・奈良時代の文学) === {{Main|日本の上代文学史}} [[奈良時代]]まで。中国大陸から[[漢字]]が輸入され、漢文と、自分たちの[[話し言葉]]に漢字を当てはめた[[万葉仮名]]が使われるようになった。『[[古事記]]』(712年)『[[日本書紀]]』(720年)のような史書や『[[万葉集]]』のような歌集が生まれた。 === 中古文学(平安時代の文学) === {{Main|日本の中古文学史}} [[平安時代]]。漢詩漢文が引き続き栄えるとともに、初の[[勅撰和歌集]]である『[[古今和歌集]]』が編纂され、[[和歌]]が漢詩と対等の位置を占めた。当時の公式文書は漢文であったが、[[平仮名]]の[[中古日本語|和文]]による表現が盛んにはじまり、[[紀貫之]]の『[[土佐日記]]』が書かれたのに続き、[[清少納言]]の随筆『[[枕草子]]』、[[紫式部]]の『[[源氏物語]]』など古典文学の代表作と言える作品が著された。 === 中世文学(鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代の文学) === {{Main|日本の中世文学史}} [[鎌倉時代]]から[[安土桃山時代]]まで。[[藤原定家]]らによって華麗な技巧に特徴がある『[[新古今和歌集]]』が編まれた。また、現代日本語の直系の祖先と言える[[和漢混淆文]]によって多くの作品が書かれた。[[鴨長明]]の『[[方丈記]]』、[[卜部兼好|兼好法師]]の『[[徒然草]]』などがこれにあたる。作者不詳のものとして『[[平家物語]]』が挙げられる。また、[[能|猿楽]]の発達が見られた。 === 近世文学(江戸時代の文学) === {{Main|日本の近世文学史}} [[江戸時代]]。[[お伽草子]]の流れを汲み、[[仮名草子]]や[[井原西鶴]]らの[[浮世草子]]がうまれた。また、[[歌舞伎]]や[[浄瑠璃]]が興り、[[近松門左衛門]]などが人気を博した。[[俳諧]]が盛んになり、[[松尾芭蕉]]、[[小林一茶]]といった人々が活躍した。 === 近現代文学(明治・大正・昭和・平成・令和時代の文学) === {{Main|日本の近現代文学史}} [[明治維新]]後、[[文明開化]]による西欧文明の輸入と近代国家の建設が進められ、いわゆる「文学」という概念が生まれた時代。西欧近代小説の理念が輸入され、現代的な日本語の[[書き言葉]]が生み出された。[[坪内逍遥]]の『[[小説神髄]]』の示唆を受けて創作された、[[二葉亭四迷]]の『[[浮雲 (二葉亭四迷の小説)|浮雲]]』によって、近代日本文学が成立したとされる。日本文学は、中国・朝鮮の近代文学の成立にも大きな影響を及ぼした。なお、近代と現代を分離し、戦前の文学を「[[近代文学]]」、戦後の文学を「[[現代文学]]」として分ける場合もある。 == 形式 == * [[散文]] ** [[物語]] - [[古物語]] - [[作り物語]] - [[歌物語]] - [[擬古物語]] - [[軍記物語]] ** [[説話]] ** [[小説]] - [[私小説]] - [[戯作]] ** [[戯曲]] - [[能]] - [[歌舞伎]] - [[文楽]](人形浄瑠璃) ** [[随筆]] ** [[日記]] ** [[紀行]] ** [[伝記]]・[[自伝]] - [[往生伝]] ** [[文芸評論]]・[[評伝]] * [[韻文]] ** [[詩]] - [[自由詩]] - [[定型詩]] - [[散文詩]] ** [[和歌]] - [[短歌]] - [[長歌]] - [[旋頭歌]] - [[仏足石歌]] ** [[連歌]] - [[俳諧連歌]] - [[狂歌]] - [[俳諧]]([[連句]]) ** [[俳句]] - [[定型]] - [[自由律俳句|自由律]] ** [[川柳]] - [[狂句]] ** [[歌謡]] - [[記紀歌謡]] - [[今様]] - [[小唄]] <!--**[[五行歌]]--> ** [[漢詩]] <!--加筆訂正希望--> == 日本文学に隣接する文学活動 == 近隣では古代から[[中国文学]]の大きな影響を受け続け、明治時代に[[言文一致]]運動が高揚するまで、漢詩や漢文も日本文学の一部として重きを置かれていた。[[琉球文学]]の活動と隣接しており、中国文学とともに日本文学は琉球文学の成立に関わっている。近代以降の日本文学は、[[英米文学]]、[[フランス文学]]、[[ドイツ文学]]、[[ロシア文学]]など欧米の文学から強く影響を受けたが、その摂取・模倣により、独自の近代文学を創造した。日本の近代文学は、[[辛亥革命]]以降の近代中国文学や、近代文学としての[[朝鮮文学]]の成立に深く関わった。 == 日本文学の研究 == {{See also|評論家一覧|比較文学|翻訳文学}} 日本文学研究は、上代文学・中古文学・中世文学・近世文学・近代文学・漢文学の6つの区分のもと、研究が進められている。それぞれの分野は独立しつつも、研究対象や研究手法が共有されたり、研究者の研究対象が複数分野にまたがることも少なくない。以下、日本文学研究における時代区分と、関連する[[日本学術会議協力学術研究団体]]を挙げる。 * [[日本の上代文学史|上代文学]] - [[上代文学会]]<ref>{{Cite web|title=上代文学会|url=http://jodaibungakukai.org/index.html|website=jodaibungakukai.org|accessdate=2019-11-15}}</ref>。[[萬葉学会]]<ref>{{Cite web|和書|title=萬葉学会|MANYO SOCIETY|url=http://manyoug.jp/|website=manyoug.jp|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * [[日本の中古文学史|中古文学]] - [[中古文学会]]<ref>{{Cite web|title=中古文学会|url=http://chukobungakukai.org/|website=chukobungakukai.org|accessdate=2019-11-15}}</ref>。和歌文学会<ref>{{Cite web|和書|title=和歌文学会 {{!}} TOP|url=http://wakabun.jp/index.html|website=wakabun.jp|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * [[中世文学]] - 中世文学会<ref>{{Cite web|title=中世文学会|url=http://www.chusei.org/|website=www.chusei.org|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * [[日本の近世文学史|近世文学]] - [[日本近世文学会]]<ref>{{Cite web|title=日本近世文学会|url=http://www.kinseibungakukai.com/|website=www.kinseibungakukai.com|accessdate=2019-11-15}}</ref>。俳文学会<ref>{{Cite web|title=俳文学会|url=http://www.haibun.org/|website=www.haibun.org|accessdate=2019-11-15}}</ref>。歌舞伎学会<ref>{{Cite web|和書|title=歌舞伎学会 {{!}} 日本学術研究支援協会|url=https://jarsa.jp/society/s5535/|website=jarsa.jp|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * [[日本の近現代文学史|近現代文学]] - [[日本近代文学会]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本近代文学会|url=https://amjls.jp/|website=amjls.jp|accessdate=2022-01-12}}</ref>。昭和文学会<ref>{{Cite web|和書|title=昭和文学会公式website. {{!}} 昭和文学会公式website.|url=http://swbg.org/wp/|accessdate=2019-11-15|language=ja}}</ref>。日本社会文学会<ref>{{Cite web|和書|title=日本社会文学会[日本社会文学会について]|url=http://ajsl.web.fc2.com/shui-sho.html|website=ajsl.web.fc2.com|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * [[漢文学]]  - 和漢比較文学会<ref>{{Cite web|title=和漢比較文学会【表紙】|url=http://wakan-jpn.org/|website=wakan-jpn.org|accessdate=2019-11-15}}</ref>。 * 文学全般 - [[日本文学協会]]<ref>{{Cite web|和書|title=日本文学協会ホームページ|url=http://nihonbungaku.server-shared.com/|website=nihonbungaku.server-shared.com|accessdate=2019-11-15}}</ref>。解釈学会<ref>{{Cite web|和書|title=解釈学会|url=http://www.kaishaku.jp/|website=解釈学会|accessdate=2019-11-15|language=ja}}</ref>。 文学研究は、作品の解釈や作風を考察する研究が一般に知られているが、20世紀後半以降、[[文学理論]]の影響で研究手法は非常に幅広いものとなっている。例えば、古典文学(上代~近世)研究では、新出資料の発見や翻刻、研究対象とする諸本の系統を明らかにする写本系統学、書籍の出版・流通過程に関する研究、[[書誌学]]を用いた研究などが行われている<ref>{{Cite web|和書|title=日本の古典研究を支える書誌学の世界:[慶應義塾]|url=https://www.keio.ac.jp/ja/keio-times/features/2019/8/|website=www.keio.ac.jp|accessdate=2019-11-15|language=ja}}</ref>。近年は、[[くずし字]]解読やデータベースによる画像公開といった[[情報学]]分野、[[美術史]]的観点からの検証や芸術家による創作活動支援といった美術分野との連携も進んでいる。また、近現代文学研究では、いわゆる[[文豪]]と呼ばれる作家やその作品を研究対象とするだけでなく、[[ライトノベル]]や[[漫画]]・[[日本のアニメーション|アニメ]]といった[[サブカルチャー]]を研究対象とした研究も行われている。 また、日本文学作品が海外において徐々に認知される中、古典から現代文学までが幅広く研究対象となり、[[エドワード・サイデンステッカー|エドワード・サイデンステッガー]]、[[ドナルド・キーン]]、[[ロバート・キャンベル]]、[[ピーター・マックミラン|ピーター・マクミラン]]といった翻訳家・研究者が、多くの著作を残している。 == 文学賞 == 近代以降、多くの[[文学賞]]が創設され、作家の発掘と育成に貢献している。 {{詳細記事|文学賞の一覧}} また、日本文学研究に関して、[[日本学術会議協力学術研究団体]]をはじめとした様々な学会で、学会賞が授与されている。 == 日本人以外の日本語文学 == *[[アーサー・ビナード]] *[[シリン・ネザマフィ]] *[[田原 (詩人)]] *[[デビット・ゾペティ]] *[[マブソン青眼]] *[[楊逸]] *[[ジェフリー・アングルス]] ([[:en:Jeffrey Angles|Jeffrey Angles]]) === 台湾に所縁のある人物の日本語の文学 === {{See also|台湾の文学}} <!--いちおう生年順--> *[[楊逵]] *[[張文環]] *[[呂赫若]] *[[陳舜臣]] *[[黄霊芝]] *[[リービ英雄]](米国出身だが、少年期の一時期を台湾で過ごした) *[[温又柔]] === 在日朝鮮人の日本語の文学 === {{See|在日朝鮮人文学}} == 日本人の日本語以外の文学 == ;日系人(1世)を含む *[[野口米次郎]] - 英語 *[[西脇順三郎]] - 英語 *[[カズオ・イシグロ]] - 英語 *[[キョウコ・モリ]] -英語 *[[多和田葉子]] - ドイツ語 *[[水村美苗]] - 英語 *[[宮本正男]] - [[エスペラント]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連文献 == * [[折口信夫]]『古代研究〈3〉国文学の発生』[[中公クラシックス]]、[[中央公論新社]] ISBN 4-12-160056-8 * [[藤井貞和]]『国文学の誕生』[[三元社]] ISBN 4-88303-066-0 * 笹沼俊暁『「国文学」の思想 その繁栄と終焉』学術叢書、学術出版会 ISBN 4-8205-2093-8 * [[安田敏朗]]『国文学の時空 久松潜一と日本文化論』三元社 ISBN 4-88303-094-6 == 関連項目 == * [[国学]] * [[国語学]] * [[歌学]] * [[書誌学]] * [[文壇]] * [[純文学]] * [[文学理論]] * [[ノーベル文学賞]] * [[青空文庫]] - [[日本語]]の[[文章]]で、[[著作権]]の切れたもの、著者がフリーにしたものが置かれている。 * [[小説家一覧]] * [[日本外国人作家一覧]] * [[オンライン作家]] * [[オンライン小説]] * [[小説投稿サイト]] * [[日本文学研究者]] * [[全国大学国語国文学会]] * [[現代日本文学の翻訳・普及事業]] * [[Japanese Literature Today]] * [[Japanese Book News]] == 外部リンク == {{Commonscat|Literature of Japan}} * [https://bunkyoken.org/72siryo_kansyosyugi/siryo_kansyosyugihronso-mokuji.html 資料:鑑賞主義論争] * [https://www.nijl.ac.jp/ 国文学研究資料館] * {{Kotobank}} {{日本関連の項目}} {{世界の文学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:にほんふんかく}} [[Category:日本文学|!]]
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筒井康隆
筒井 康隆(つつい やすたか、1934年〈昭和9年〉9月24日 -)は、日本の小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。身長166cm。兵庫県神戸市垂水区在住。 大阪市に生まれた。天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持つ。同志社大学に入学し、美学・美術史を専攻。 1965年に東京に転居し、本格的な作家活動を展開、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行した。同年、『時をかける少女』『48億の妄想』では、現実と非現実をつなぐ幻想のリアリズムによる、無気味なナンセンスSFのジャンルを開拓。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)で直木賞候補となる。 1972年に神戸へ転居し、『虚人たち』(1981年)や『虚航船団』(1984年)、『文学部唯野教授』(1990年)など、多数の作品を発表。また、メディアの言葉の自己規制に抗して一時的に断筆を宣言、話題となった。 小松左京・星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンス文学なSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。 戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。実弟の筒井之隆は安藤百福発明記念館 横浜(愛称:カップヌードルミュージアム 横浜)の館長。息子は画家筒井伸輔。 孫がいる。 1934年、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現:東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったことによるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。 1941年、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ187であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室(政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。 1947年、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。 1950年、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。 1952年2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、同志社大学文学部文化学科心理学専攻(現在は心理学部)に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイなどを愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学および芸術学専攻(現在は美学芸術学科)に転じシュルレアリスムに興味を持つ。 1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』の主人公ジョージ・ミルトンを演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。 同1957年、『シナリオ新人』創刊号に、「会長夫人萬蔵」を発表する。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。 1959年12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当、活動初期は「澱口襄」など複数のペンネームで執筆。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また毎日放送のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。さらに『NULL』創刊号は江戸川乱歩の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。これが実質的なデビュー作となった。以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。 1961年、4年間務めた乃村工藝社を退社、同志社大美学および芸術学専攻時代の先輩の後を継ぐ形で大阪市北区にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた眉村卓と知り合い、後に小松左京らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、平井和正らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年には、高校2年生の堀晃も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年)のレポートを兼ねた11号で終刊した)。 1962年、『S-Fマガジン』のハヤカワ・SFコンテストで「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、半村良がいた。翌年、同誌増刊号に「ブルドッグ」を発表し初登場。1964年、第3回日本SF大会・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「日本SF作家クラブ」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。 同1965年、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年頃、心配した小林信彦より『小説現代』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。 なお、1966年2月から、平井和正、豊田有恒、伊藤典夫、大伴昌司と共同で、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった。 筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、PTAによる悪書追放運動を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、痴漢冤罪の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『脱走と追跡のサンバ』、高度経済成長期に勃興したウーマンリブ運動やフェミニズムを揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、超能力者・火田七瀬を通して家族の裏側を書く『家族八景』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『日本沈没』のパロディ「日本以外全部沈没」(1974年)など。1970年の第1回星雲賞を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年から直木賞に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「張め。殺す。」「この源」「やいやい川〜郎め。死ね。」などの記述が断片的に見られる)スラップスティック作品『大いなる助走』(1979年)を執筆している。 1970年の『脱走と追跡のサンバ』の発表を境に自身の作品からは徐々に純SF的な作品が減っていきながらも、1971年にはジュニア向けながら「SF入門の定番」として長年知られた『SF教室』を編集・執筆。また、1975年から1976年にかけては、各年度のベスト短編を集めたアンソロジー『日本SFベスト集成』シリーズを編集した。 1972年4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちと盛んに交際した。 1973年8月には、SFファングループ「ネオ・ヌル」を山本義弘、小笠原成彦、岡本俊弥、大野万紀、水鏡子らと結成(実際のところは、1975年の日本SF大会「SHINCON」の開催の考えが先行しており、その母体となるためSFファングループを結成したのであった)。1974年の1月に『NULL』復刊第1号が発行。以降、この雑誌は、スポンサーが筒井、岡本俊弥を実質編集長として刊行されることとなる。第2期「NULL」の特色は、「会員から応募されたショート・ショートすべてに、筒井が的確な『寸評』を書いた」ことにあった。また、筒井が当時編集していた年刊傑作選『日本SFベスト集成』に、筒井は「NULL」掲載作から作品を選んでいる。 この「ネオ・ヌル」グループをスタッフとして、筒井は大会名誉委員長として1975年8月に、日本SF大会「SHINCON」を神戸で開催。この大会のテーマは後に有名になる「SFの浸透と拡散」であり、山下洋輔によるピアノ演奏、舞台『スタア』(劇団欅)の上演、桂米朝による落語「地獄八景亡者戯」など、企画の大半は筒井の人脈によるものであった。なお、「ネオ・ヌル」出身の作家には、夢枕獏、山本弘、牧野修(亜羅叉の沙名義)、西秋生、高井信、水見稜(井沢昭夫名義)、児島冬樹、林巧らがいる。また、すでに「SFマガジン」でデビューしていたかんべむさしや、第1期「NULL」に参加していた堀晃も「ネオ・ヌル」には参加していた。「NULL」は1977年4月発行の号で終刊。 「腹立半分日記」を連載していた雑誌『面白半分』の編集長を、1977年7月号から1978年6月号まで、一年間つとめた。 また、1980年には日本SF作家クラブの事務局長として、徳間書店を後援とした日本SF大賞の創設に尽力。 一方で、1971年より純文学雑誌『海』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、ガルシア・マルケス、バルガス・リョサなど中南米の作家への興味を持った。1978年には大江健三郎の紹介から『海』編集長塙嘉彦の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『虚航船団』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、谷崎潤一郎賞)、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていくウリポ的な『残像に口紅を』(1989年)など、メタフィクションの技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のためにワープロを導入し、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。 1990年代にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、パソコン通信を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『朝のガスパール』(1992年日本SF大賞)など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中にハイデガーを読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。 初期に書かれた近未来の管理社会を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『科学朝日』1965年6月号所収。のち角川文庫2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった際、作中のてんかんの記述(脳波測定器を内蔵した巡査ロボットが運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、日本てんかん協会から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、月刊誌『噂の眞相』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。 協会からの抗議が報じられた際、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという。筒井はのちに内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」「今回は家族や親戚を守るためなんです」と語っている。またこの頃、筒井の母が急性心筋梗塞で死去しており、のちの瀬戸内寂聴との対談では「(騒動に関する心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」とも述べている。 そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」 と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った。 断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こした。友人である大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している。この他、吉本隆明、金井美恵子、浅田彰、絓秀実、柄谷行人、渡部直己、村上龍、三田誠広、島田雅彦、田中康夫、志茂田景樹、中野翠などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。一方、筒井を擁護した側には、曾野綾子、瀬戸内寂聴、安岡章太郎、柳瀬尚紀、平井和正、マッド・アマノ、小林よしのり、石堂淑朗、井上ひさし、内田春菊、柘植光彦、清水良典、井沢元彦、夢枕獏、大岡玲たちがいた。しかし「筒井の尻馬に乗って表現の自由をうんぬんしている作家たち」という岡庭昇や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てきたため、小林よしのり以外はみな沈黙してしまったという。 同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。同年10月14日にはテレビ朝日「朝まで生テレビ!」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて『週刊文春』1985年5月9日号のコラム「ぴーぷる欄」における「"士農工商SF屋"というカーストがあるくらいで、SF作家が晴れの舞台を踏むことはまだ稀ですからね」との発言をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした。これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落を揶揄する意図はなかった、以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたと、この番組で筒井は小森龍邦に釈明している。 1994年(平成6年)4月1日、中野サンプラザにて山下洋輔らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。 1994年(平成6年)8月30日、岡山で開かれた部落解放西日本夏期講座(主催・部落解放研究所)のシンポジウム「差別問題と『表現の自由』」に基調講演者として出席。小林健治によると「これまで、多くの作家がその著作のなかで差別表現を指摘され、抗議を受けたが、抗議された作家が、みずから被差別運動団体の集会に出席して自分の意見をのべるというのは、初めての出来事だった」という。シンポジウムの冒頭の自己紹介で筒井は「差別者の筒井です」と言い放ち、2000人の出席者から万雷の拍手を受けたとされる。 1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表。内容の骨子は というものであった。「差別表現」に対する従来の対処は、被差別者側が気の済むまで糾弾を続け、差別者とされた側がひたすら謝罪し要求を受け入れるという硬直したやり方しかなかったところ、筒井と日本てんかん協会が双方の見解の相違を残しつつ合意と妥協に知恵をしぼった点は高く評価されたが、旧来の部落解放同盟的な糾弾路線を支持する人々からは反発を買った。日本てんかん協会との和解について、朝日新聞社社会部の本田雅和や作家の塩見鮮一郎から『朝日新聞』紙上で激しく糾弾された筒井は、「どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家」「(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる」と批判している。 断筆中の1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。 1995年11月から新潮社が断筆解除に向けて筒井にアプローチを開始。1996年12月16日、新潮社、文藝春秋社、角川書店と下記のような「覚書」を交わし、1996年12月19日、3年3ヶ月ぶりに断筆を解除すると発表(これと同じ覚書を後に中央公論社や噂の真相とも交わしている)。 その後、1997年に『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『わたしのグランパ』(1998年、読売文学賞)や『愛のひだりがわ』など、『時をかける少女』以来のジュブナイル小説を発表。還暦を過ぎたこともあり、『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。 断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。 東浩紀との交流からライトノベルに興味を持ち、2008年(平成20年)『ファウスト』にてライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』を掲載、宗田理に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。 断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『朝のガスパール』を連載していた朝日新聞社と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された。 2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、朝日新聞に小説「聖痕」が連載された。 2013年、他のベテラン作家らとともに、日本SF作家クラブの名誉会員になった。 2020年2月、息子筒井伸輔に先立たれた。 喫煙者(銘柄はヴォーグなどを愛煙)であることから、近年の「禁煙ファシズム」を批判し、喫煙者団体「Go smoking」に参加している。1987年には『健康ファシズム(当時の呼び名)』を揶揄する短編SF小説『最後の喫煙者』を執筆し、1995年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化された際には、台詞ありのカメオ出演をしている。2004年(平成16年)には泉麻人、ダンカンほかが寄稿した本『喫煙者のユーウツ - 煙草をめぐる冒言』を共著として刊行している。2011年には昨今の嫌煙運動について反発するため、すぎやまこういちや西部邁らと共に「喫煙文化研究会」を発足した。 エッセイなどにおける筆鋒は鋭く、批判の際には相手の知性や品性を端的に攻撃し、愚者として印象づけているため、敵も多い。この戦闘性は小説にも及び、2007年に発表した『巨船ベラス・レトラス』でも、実名で海賊行為を糾弾された出版社以上に、誰にでもそれと分かるような大手情報企業が手痛い描かれ方をされている。さらに、かつて『堕地獄仏法』で公明党を擬した政党が支配する恐怖の未来を描き、創価学会の猛烈な攻撃を受けるや、『末世法華経』で応酬するという騒ぎを起こした。しかし、井上ひさし、大江健三郎といった政治的発言の多い友人を持ちながら、自らは政治と距離を置いている。この立場を戯画的に描いた『旗色不鮮明』などでも明らかだが、これは意識した上でのことである。ただし1982年の反核文学者声明に名を連ねたこともある。この際に揶揄的な批判に対しては反駁を加えている。 東京での活動が多くなったことから、神戸市垂水区の他に(以前の東京居住時と同じ)原宿にも自宅を構えている。 元衆議院議員筒井信隆、俳優の筒井道隆とは名前が似ているが、縁戚関係はない。 1981年8月9日、東京日比谷野外音楽堂にて、交友のあった山下洋輔らとともに、クラリネット奏者として『ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ コンサート』に出演。このとき観客に混じっていた、アート・プロデュサーの鶴本正三(雑誌「スターログ」発行人でもあった)に原宿ラフォーレでのイベントを依頼され、これをきっかけに劇団「筒井康隆大一座」を立ち上げる。翌年3月に自作『ジーザス・クライスト・トリックスター』を上演、筒井自身が主役を演じ、14日間の全日程すべて満席となった。翌年、名古屋、京都、神戸、大阪を巡業、以降も「大一座」は筒井の作品『スイートホームズ探偵』『人間狩り』などを上演し、1989年(平成元年)まで活動が続いた。 1993年(平成5年)の断筆宣言以降は、執筆による収入が無くなることもあって俳優業に力を入れ、久世光彦演出の単発ドラマやCM出演など、それ以前よりも頻繁に映画、テレビに出演するようになった。断筆解除後の1997年(平成9年)にはタレントとしてホリプロと契約、執筆活動の傍ら映画やテレビドラマに度々出演している。1999年(平成11年)には蜷川幸雄の依頼でチェーホフの『かもめ』にトリゴーリン役で出演、2000年(平成12年)・2001年(平成13年)にも蜷川演出の三島由紀夫『弱法師』(『近代能楽集』)に主人公の義父役で藤原竜也と共演した。原作者である『文学賞殺人事件 大いなる助走』にもゲスト出演し、SF作家を演じた。 ウィキペディア日本語版の「筒井康隆」の項目は間違いだらけだと、2010年(平成22年)11月23日に開催された『筒井康隆作家生活五十周年記念〜現代語裏辞典ライブ』において、多数の観衆の見る中、ウィキペディアの「筒井康隆」の項目を開き、自身の身長から断筆宣言の経緯に至るまで本項目の間違いを指摘し内容を修正した(あまりに間違いが多いので修正は、後日、改めて行うことになった)。 2017年4月7日に、慰安婦像問題に関して、「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という記述をブログで発信した。公式ツイッターにも同様の内容を発信したがその日のうちに削除されている。インターネットでは賛否の声が上がり、韓国朝鮮日報日本語版は「衝撃的な妄言」と批判している。これについて、筒井は「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」と明かす一方、「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」とも話している。 ※『スタア』は演出:福田恆存・荒川哲生による。 なし
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "筒井 康隆(つつい やすたか、1934年〈昭和9年〉9月24日 -)は、日本の小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。身長166cm。兵庫県神戸市垂水区在住。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "大阪市に生まれた。天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持つ。同志社大学に入学し、美学・美術史を専攻。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1965年に東京に転居し、本格的な作家活動を展開、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行した。同年、『時をかける少女』『48億の妄想』では、現実と非現実をつなぐ幻想のリアリズムによる、無気味なナンセンスSFのジャンルを開拓。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)で直木賞候補となる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1972年に神戸へ転居し、『虚人たち』(1981年)や『虚航船団』(1984年)、『文学部唯野教授』(1990年)など、多数の作品を発表。また、メディアの言葉の自己規制に抗して一時的に断筆を宣言、話題となった。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "小松左京・星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンス文学なSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。実弟の筒井之隆は安藤百福発明記念館 横浜(愛称:カップヌードルミュージアム 横浜)の館長。息子は画家筒井伸輔。 孫がいる。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1934年、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江に出生。生家は住吉区山坂町(現:東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったことによるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1941年、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ187であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室(政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "1947年、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫や藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1950年、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルやトーマス・マンの作品に影響を受ける。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1952年2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、同志社大学文学部文化学科心理学専攻(現在は心理学部)に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃カフカ、アルツィバーシェフ、ヘミングウェイなどを愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学および芸術学専攻(現在は美学芸術学科)に転じシュルレアリスムに興味を持つ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』の主人公ジョージ・ミルトンを演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "同1957年、『シナリオ新人』創刊号に、「会長夫人萬蔵」を発表する。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "1959年12月に創刊された雑誌『SFマガジン』を読み衝撃を受け、1960年6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当、活動初期は「澱口襄」など複数のペンネームで執筆。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また毎日放送のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。さらに『NULL』創刊号は江戸川乱歩の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。これが実質的なデビュー作となった。以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1961年、4年間務めた乃村工藝社を退社、同志社大美学および芸術学専攻時代の先輩の後を継ぐ形で大阪市北区にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた眉村卓と知り合い、後に小松左京らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、平井和正らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年には、高校2年生の堀晃も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年)のレポートを兼ねた11号で終刊した)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1962年、『S-Fマガジン』のハヤカワ・SFコンテストで「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、半村良がいた。翌年、同誌増刊号に「ブルドッグ」を発表し初登場。1964年、第3回日本SF大会・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「日本SF作家クラブ」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『スーパージェッター』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "同1965年、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年頃、心配した小林信彦より『小説現代』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "なお、1966年2月から、平井和正、豊田有恒、伊藤典夫、大伴昌司と共同で、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、PTAによる悪書追放運動を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、痴漢冤罪の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『脱走と追跡のサンバ』、高度経済成長期に勃興したウーマンリブ運動やフェミニズムを揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、超能力者・火田七瀬を通して家族の裏側を書く『家族八景』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『日本沈没』のパロディ「日本以外全部沈没」(1974年)など。1970年の第1回星雲賞を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年から直木賞に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「張め。殺す。」「この源」「やいやい川〜郎め。死ね。」などの記述が断片的に見られる)スラップスティック作品『大いなる助走』(1979年)を執筆している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年の『脱走と追跡のサンバ』の発表を境に自身の作品からは徐々に純SF的な作品が減っていきながらも、1971年にはジュニア向けながら「SF入門の定番」として長年知られた『SF教室』を編集・執筆。また、1975年から1976年にかけては、各年度のベスト短編を集めたアンソロジー『日本SFベスト集成』シリーズを編集した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1972年4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちと盛んに交際した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1973年8月には、SFファングループ「ネオ・ヌル」を山本義弘、小笠原成彦、岡本俊弥、大野万紀、水鏡子らと結成(実際のところは、1975年の日本SF大会「SHINCON」の開催の考えが先行しており、その母体となるためSFファングループを結成したのであった)。1974年の1月に『NULL』復刊第1号が発行。以降、この雑誌は、スポンサーが筒井、岡本俊弥を実質編集長として刊行されることとなる。第2期「NULL」の特色は、「会員から応募されたショート・ショートすべてに、筒井が的確な『寸評』を書いた」ことにあった。また、筒井が当時編集していた年刊傑作選『日本SFベスト集成』に、筒井は「NULL」掲載作から作品を選んでいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "この「ネオ・ヌル」グループをスタッフとして、筒井は大会名誉委員長として1975年8月に、日本SF大会「SHINCON」を神戸で開催。この大会のテーマは後に有名になる「SFの浸透と拡散」であり、山下洋輔によるピアノ演奏、舞台『スタア』(劇団欅)の上演、桂米朝による落語「地獄八景亡者戯」など、企画の大半は筒井の人脈によるものであった。なお、「ネオ・ヌル」出身の作家には、夢枕獏、山本弘、牧野修(亜羅叉の沙名義)、西秋生、高井信、水見稜(井沢昭夫名義)、児島冬樹、林巧らがいる。また、すでに「SFマガジン」でデビューしていたかんべむさしや、第1期「NULL」に参加していた堀晃も「ネオ・ヌル」には参加していた。「NULL」は1977年4月発行の号で終刊。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「腹立半分日記」を連載していた雑誌『面白半分』の編集長を、1977年7月号から1978年6月号まで、一年間つとめた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "また、1980年には日本SF作家クラブの事務局長として、徳間書店を後援とした日本SF大賞の創設に尽力。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "一方で、1971年より純文学雑誌『海』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、ガルシア・マルケス、バルガス・リョサなど中南米の作家への興味を持った。1978年には大江健三郎の紹介から『海』編集長塙嘉彦の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『虚航船団』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、谷崎潤一郎賞)、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていくウリポ的な『残像に口紅を』(1989年)など、メタフィクションの技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のためにワープロを導入し、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1990年代にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、パソコン通信を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『朝のガスパール』(1992年日本SF大賞)など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中にハイデガーを読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "初期に書かれた近未来の管理社会を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『科学朝日』1965年6月号所収。のち角川文庫2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に角川書店発行の高校国語の教科書に収録されることになった際、作中のてんかんの記述(脳波測定器を内蔵した巡査ロボットが運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、日本てんかん協会から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、月刊誌『噂の眞相』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と断筆宣言に至った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "協会からの抗議が報じられた際、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという。筒井はのちに内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」「今回は家族や親戚を守るためなんです」と語っている。またこの頃、筒井の母が急性心筋梗塞で死去しており、のちの瀬戸内寂聴との対談では「(騒動に関する心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」とも述べている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」 と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こした。友人である大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している。この他、吉本隆明、金井美恵子、浅田彰、絓秀実、柄谷行人、渡部直己、村上龍、三田誠広、島田雅彦、田中康夫、志茂田景樹、中野翠などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。一方、筒井を擁護した側には、曾野綾子、瀬戸内寂聴、安岡章太郎、柳瀬尚紀、平井和正、マッド・アマノ、小林よしのり、石堂淑朗、井上ひさし、内田春菊、柘植光彦、清水良典、井沢元彦、夢枕獏、大岡玲たちがいた。しかし「筒井の尻馬に乗って表現の自由をうんぬんしている作家たち」という岡庭昇や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てきたため、小林よしのり以外はみな沈黙してしまったという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。同年10月14日にはテレビ朝日「朝まで生テレビ!」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて『週刊文春』1985年5月9日号のコラム「ぴーぷる欄」における「\"士農工商SF屋\"というカーストがあるくらいで、SF作家が晴れの舞台を踏むことはまだ稀ですからね」との発言をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした。これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落を揶揄する意図はなかった、以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたと、この番組で筒井は小森龍邦に釈明している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)4月1日、中野サンプラザにて山下洋輔らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)8月30日、岡山で開かれた部落解放西日本夏期講座(主催・部落解放研究所)のシンポジウム「差別問題と『表現の自由』」に基調講演者として出席。小林健治によると「これまで、多くの作家がその著作のなかで差別表現を指摘され、抗議を受けたが、抗議された作家が、みずから被差別運動団体の集会に出席して自分の意見をのべるというのは、初めての出来事だった」という。シンポジウムの冒頭の自己紹介で筒井は「差別者の筒井です」と言い放ち、2000人の出席者から万雷の拍手を受けたとされる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表。内容の骨子は", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "というものであった。「差別表現」に対する従来の対処は、被差別者側が気の済むまで糾弾を続け、差別者とされた側がひたすら謝罪し要求を受け入れるという硬直したやり方しかなかったところ、筒井と日本てんかん協会が双方の見解の相違を残しつつ合意と妥協に知恵をしぼった点は高く評価されたが、旧来の部落解放同盟的な糾弾路線を支持する人々からは反発を買った。日本てんかん協会との和解について、朝日新聞社社会部の本田雅和や作家の塩見鮮一郎から『朝日新聞』紙上で激しく糾弾された筒井は、「どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家」「(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる」と批判している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "断筆中の1995年(平成7年)に阪神・淡路大震災で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1995年11月から新潮社が断筆解除に向けて筒井にアプローチを開始。1996年12月16日、新潮社、文藝春秋社、角川書店と下記のような「覚書」を交わし、1996年12月19日、3年3ヶ月ぶりに断筆を解除すると発表(これと同じ覚書を後に中央公論社や噂の真相とも交わしている)。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "その後、1997年に『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『わたしのグランパ』(1998年、読売文学賞)や『愛のひだりがわ』など、『時をかける少女』以来のジュブナイル小説を発表。還暦を過ぎたこともあり、『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "東浩紀との交流からライトノベルに興味を持ち、2008年(平成20年)『ファウスト』にてライトノベル『ビアンカ・オーバースタディ』を掲載、宗田理に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『朝のガスパール』を連載していた朝日新聞社と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、朝日新聞に小説「聖痕」が連載された。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2013年、他のベテラン作家らとともに、日本SF作家クラブの名誉会員になった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2020年2月、息子筒井伸輔に先立たれた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "喫煙者(銘柄はヴォーグなどを愛煙)であることから、近年の「禁煙ファシズム」を批判し、喫煙者団体「Go smoking」に参加している。1987年には『健康ファシズム(当時の呼び名)』を揶揄する短編SF小説『最後の喫煙者』を執筆し、1995年に「世にも奇妙な物語」でドラマ化された際には、台詞ありのカメオ出演をしている。2004年(平成16年)には泉麻人、ダンカンほかが寄稿した本『喫煙者のユーウツ - 煙草をめぐる冒言』を共著として刊行している。2011年には昨今の嫌煙運動について反発するため、すぎやまこういちや西部邁らと共に「喫煙文化研究会」を発足した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "エッセイなどにおける筆鋒は鋭く、批判の際には相手の知性や品性を端的に攻撃し、愚者として印象づけているため、敵も多い。この戦闘性は小説にも及び、2007年に発表した『巨船ベラス・レトラス』でも、実名で海賊行為を糾弾された出版社以上に、誰にでもそれと分かるような大手情報企業が手痛い描かれ方をされている。さらに、かつて『堕地獄仏法』で公明党を擬した政党が支配する恐怖の未来を描き、創価学会の猛烈な攻撃を受けるや、『末世法華経』で応酬するという騒ぎを起こした。しかし、井上ひさし、大江健三郎といった政治的発言の多い友人を持ちながら、自らは政治と距離を置いている。この立場を戯画的に描いた『旗色不鮮明』などでも明らかだが、これは意識した上でのことである。ただし1982年の反核文学者声明に名を連ねたこともある。この際に揶揄的な批判に対しては反駁を加えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "東京での活動が多くなったことから、神戸市垂水区の他に(以前の東京居住時と同じ)原宿にも自宅を構えている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "元衆議院議員筒井信隆、俳優の筒井道隆とは名前が似ているが、縁戚関係はない。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1981年8月9日、東京日比谷野外音楽堂にて、交友のあった山下洋輔らとともに、クラリネット奏者として『ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ コンサート』に出演。このとき観客に混じっていた、アート・プロデュサーの鶴本正三(雑誌「スターログ」発行人でもあった)に原宿ラフォーレでのイベントを依頼され、これをきっかけに劇団「筒井康隆大一座」を立ち上げる。翌年3月に自作『ジーザス・クライスト・トリックスター』を上演、筒井自身が主役を演じ、14日間の全日程すべて満席となった。翌年、名古屋、京都、神戸、大阪を巡業、以降も「大一座」は筒井の作品『スイートホームズ探偵』『人間狩り』などを上演し、1989年(平成元年)まで活動が続いた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1993年(平成5年)の断筆宣言以降は、執筆による収入が無くなることもあって俳優業に力を入れ、久世光彦演出の単発ドラマやCM出演など、それ以前よりも頻繁に映画、テレビに出演するようになった。断筆解除後の1997年(平成9年)にはタレントとしてホリプロと契約、執筆活動の傍ら映画やテレビドラマに度々出演している。1999年(平成11年)には蜷川幸雄の依頼でチェーホフの『かもめ』にトリゴーリン役で出演、2000年(平成12年)・2001年(平成13年)にも蜷川演出の三島由紀夫『弱法師』(『近代能楽集』)に主人公の義父役で藤原竜也と共演した。原作者である『文学賞殺人事件 大いなる助走』にもゲスト出演し、SF作家を演じた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "ウィキペディア日本語版の「筒井康隆」の項目は間違いだらけだと、2010年(平成22年)11月23日に開催された『筒井康隆作家生活五十周年記念〜現代語裏辞典ライブ』において、多数の観衆の見る中、ウィキペディアの「筒井康隆」の項目を開き、自身の身長から断筆宣言の経緯に至るまで本項目の間違いを指摘し内容を修正した(あまりに間違いが多いので修正は、後日、改めて行うことになった)。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "2017年4月7日に、慰安婦像問題に関して、「長嶺大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という記述をブログで発信した。公式ツイッターにも同様の内容を発信したがその日のうちに削除されている。インターネットでは賛否の声が上がり、韓国朝鮮日報日本語版は「衝撃的な妄言」と批判している。これについて、筒井は「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」と明かす一方、「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」とも話している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "※『スタア』は演出:福田恆存・荒川哲生による。", "title": "受賞・叙勲歴" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "なし", "title": "出演" } ]
筒井 康隆は、日本の小説家、劇作家、俳優。ホリプロ所属。身長166cm。兵庫県神戸市垂水区在住。 大阪市に生まれた。天王寺動物園長だった父の影響を受け、幼い頃から博物的な世界に憧れを持つ。同志社大学に入学し、美学・美術史を専攻。 1965年に東京に転居し、本格的な作家活動を展開、第一短編集『東海道戦争』(1965年)を刊行した。同年、『時をかける少女』『48億の妄想』では、現実と非現実をつなぐ幻想のリアリズムによる、無気味なナンセンスSFのジャンルを開拓。『ベトナム観光会社』(1967年)と『アフリカの爆弾』(1968年)で直木賞候補となる。 1972年に神戸へ転居し、『虚人たち』(1981年)や『虚航船団』(1984年)、『文学部唯野教授』(1990年)など、多数の作品を発表。また、メディアの言葉の自己規制に抗して一時的に断筆を宣言、話題となった。 小松左京・星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンス文学なSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。 戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。実弟の筒井之隆は安藤百福発明記念館 横浜の館長。息子は画家筒井伸輔。 孫がいる。
{{存命人物の出典明記|date=2017-09}} {{Infobox 作家 |name= 筒井 康隆<br />{{small|つつい やすたか}} |image=SF-Magazine-1964-September-2.jpg |imagesize=160px |caption = {{small|『[[S-Fマガジン]]』1964年9月号([[早川書房]])}} |pseudonym = |birth_name = |birth_date = {{生年月日と年齢|1934|9|24}} |birth_place = {{JPN}}・[[大阪府]][[大阪市]] |death_date = |death_place = |occupation = [[小説家]]・[[劇作家]]・[[俳優]] |language = [[日本語]] |nationality = {{JPN}} |alma_mater = [[同志社大学文学部]]美学芸術学科 |period = 1960年 - |genre = [[サイエンス・フィクション|SF]]・[[スラップスティック・コメディ]] |subject = |movement = |notable_works = {{Plainlist| * 『[[時をかける少女]]』(1967年) * 『[[日本以外全部沈没]]』(1973年) * 『[[虚人たち]]』(1981年) * 『[[残像に口紅を]]』(1989年) * 『[[文学部唯野教授]]』(1990年) * 『[[朝のガスパール]]』(1992年) * 『[[パプリカ (小説)|パプリカ]]』(1993年) * 『[[わたしのグランパ]]』(1999年) }} |awards = {{Plainlist| * [[星雲賞]](日本長編部門)(1970年・1975年・1976年) * 星雲賞(日本短編部門)(1970年・1971年・1974年・1977年) * [[泉鏡花文学賞]](1981年) * [[谷崎潤一郎賞]](1987年) * [[川端康成文学賞]](1989年) * [[日本SF大賞]](1992年) * [[芸術文化勲章]](シュヴァリエ)(1997年) * [[読売文学賞]](2000年) * [[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]](2002年) * 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[[小松左京]]・[[星新一]]と並んで「SF御三家」とも称される<ref>[[宮崎哲弥]]『いまこそ「小松左京」を読み直す』[[NHK出版新書]]、2020年、p.7</ref>。パロディや[[スラップスティック・コメディ|スラップスティック]]な笑いを得意とし、初期には[[ナンセンス文学]]なSF作品を多数発表。1970年代より[[メタフィクション]]の手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。 戦国時代の武将[[筒井順慶]]と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている<ref>筒井康隆『ヘル』新潮文庫</ref>。父は草分け期の日本の[[動物学者|動物生態学者]]で、[[大阪市立自然史博物館]]の初代館長[[筒井嘉隆]]。実弟の[[筒井之隆]]は[[安藤百福発明記念館 横浜]](愛称:カップヌードルミュージアム 横浜)の館長。息子は画家[[筒井伸輔]]。<!--筒井順慶の子孫ではないとのこと。ノート参照--> 孫がいる<ref>https://web.kawade.co.jp/bunko/35707/</ref><ref>https://chuokoron.jp/chuokoron/backnumber/116089.html</ref>。 == 経歴 == === 生い立ち === 1934年、父・[[筒井嘉隆]]と母・八重の長男として、父方の実家である[[大阪府]][[大阪市]][[堀江 (大阪市)|北堀江]]{{Efn|八橋一郎・[[堀晃]]らにより、詳細が確認されている<ref>[http://www.jali.or.jp/hr/mad17/mad614-j.html#20151008-2 マッドサイエンティスト日記 2015年10月8日]</ref>。}}に出生。生家は住吉区山坂町(現:[[東住吉区]]山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、[[船場 (大阪市)|船場]]生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なったこと{{Efn|両親が「船場の近く」と言わずに「船場」と言っていたことと、出生地が川の近くだったことから船場生まれだと完全に思い込んでいた。1976年頃に香村菊雄の「船場ものがたり」を読んでいて間違いに気づいた<ref>国文学 解釈と鑑賞1981年8月号</ref>。}}によるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。 1941年、[[大阪市立南田辺小学校|南田辺国民学校]]に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『[[のらくろ]]』、[[榎本健一|エノケン]]に熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は[[江戸川乱歩]]を愛読した。1944年、[[吹田市]]千里山に[[学童疎開]]し、[[吹田市立千里第二小学校|千里第二国民学校]]に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年、息子の成績不振を心配した父の計らいで[[大阪市立中大江小学校]]に転校。まもなく実施された[[知能検査]]で市内トップの[[知能指数|IQ]]187であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室<ref>[https://flow2005.hatenablog.jp/entry/20101124/p1 『筒井康隆作家生活五十周年記念~現代語裏辞典ライブ』2010.11.23 18:00~20:20 東京カルチャーカルチャー]</ref>(政府設置の[[特別科学学級]]とは異なる)に在籍した。 1947年、大阪市立東第一中学校(現在は統合で[[大阪市立東中学校]])に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた{{Efn|この時期については筒井『不良少年の映画史』に詳しい。また、出演している朝日放送『ビーバップ!ハイヒール』2014年9月25日放送分でもこのエピソードが取り上げられた。}}。その一方で[[手塚治虫]]に熱中し、[[赤塚不二夫]]や[[藤子不二雄]]などとともに『[[漫画少年]]』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。 1950年、[[大阪府立春日丘高等学校]]に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている<ref>筒井『笑犬樓よりの眺望』より『女が逆セク・ハラに走るとき』(初出:『噂の眞相』1990年2月号)</ref>。また、自宅の蔵書だった[[アルトゥル・ショーペンハウエル]]の『随想録』も愛読していたという<ref>筒井『漂流 本から本へ』P74〜76</ref>。この頃[[マルクス兄弟]]の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、[[ジャン=ポール・サルトル|サルトル]]や[[トーマス・マン]]の作品に影響を受ける。 === 大学時代 === 1952年2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、[[同志社大学]][[文学部]]文化学科[[心理学]]専攻(現在は[[心理学部]]){{Efn|遠藤瓔子『青山「ロブロイ」物語』p.114(世界文化社、1987年)によると、筒井は「ぼくは心理学にいましたよ。途中で美学に移ったけど」と発言したことになっている。同志社大学心理学専攻の教授だった遠藤の父も「筒井は確かに最初心理にいた」と確認したという。}}に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃[[フランツ・カフカ|カフカ]]、[[アルツィバーシェフ]]、[[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]]などを愛読し影響を受けた。また[[潜在意識]]について興味を持ち、[[吹田市]]の実家から[[京都市]]までの電車での通学時間を利用して、[[日本教文社]]版の[[ジークムント・フロイト|フロイト]]全集を読破。その後[[美学]]および[[芸術学]]専攻(現在は美学芸術学科)に転じ[[シュルレアリスム]]に興味を持つ。 1954年、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「[[青猫座]]」に入団。初舞台は[[飯沢匡]]の『北京の幽霊』。同年[[日活]]のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年、大阪毎日会館で『[[二十日鼠と人間]]』の主人公ジョージ・ミルトンを演じた際には、「東の[[仲代達矢]]、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。 同1957年、『シナリオ新人』創刊号に、「会長夫人萬蔵」を発表する<ref>日本近代演劇史研究会編『20世紀の戯曲Ⅱ』(社会評論社)P.456</ref>。卒業後、展示装飾などを手がける[[乃村工藝社]]に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。 === 執筆活動初期 === 1959年12月に創刊された雑誌『[[S-Fマガジン|SFマガジン]]』を読み衝撃を受け、1960年6月、ボーナスをつぎ込んでSF同人誌『NULL』を創刊。父と三人の弟が同人であり、康隆、正隆、俊隆がSF短編を、父嘉隆が家族の紹介文を、四男の之隆がカットを担当、活動初期は「澱口襄」{{Efn|筒井康隆コレクションII 編者解説 日下三蔵「霊長類 南へ」の登場人物名に使用。}}など複数のペンネームで執筆。同人誌を出したのは当時SF小説を受け入れられるような新人賞がなかったためであるが<ref>八橋『評伝 筒井康隆』89頁-90頁</ref>、うまくマスコミに取り上げられ、「筒井一家」紹介記事がたびたび新聞に掲載、また[[毎日放送]]のテレビ番組に家族総出で出演したりもしている。さらに『NULL』創刊号は[[江戸川乱歩]]の目に留まり、弟の作品や父による紹介文とともに、短編「お助け」が乱歩主催の雑誌『宝石』1960年8月号に転載。これが実質的なデビュー作となった。以降注文を受けてショート・ショートを各誌に発表しながら『NULL』にナンセンスなSF短編を発表していく。 1961年、4年間務めた乃村工藝社を退社、同志社大美学および芸術学専攻時代の先輩の後を継ぐ形で[[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]]にデザイン事務所「ヌル・スタジオ」を立ち上げる。事務所の向かいの煉瓦会社で働いていた[[眉村卓]]と知り合い、後に[[小松左京]]らも加わり、「ヌル・スタジオ」はSF作家、SFファンのたまり場となっていった。また、雑誌『NULL』も筒井家以外のSFファンにも門戸を開き、小松左京、眉村卓、[[平井和正]]らのプロデビューしている作家らも参加。創刊翌年の1961年には、高校2年生の[[堀晃]]も参加した(『NULL』はのち、筒井が主宰した第三回日本SF大会「DAICON」(1964年)のレポートを兼ねた11号で終刊した)。 1962年、『[[S-Fマガジン]]』の[[ハヤカワ・SFコンテスト]]で「無機世界へ」(後の「幻想の未来」の原形)が選外佳作となる。入選三席には小松左京、[[半村良]]がいた。翌年、同誌増刊号に「ブルドッグ」を発表し初登場{{Efn|当時の『S-Fマガジン』の編集長の[[福島正実]]は筒井の作風をあまり評価しておらず、そのため『S-Fマガジン』への登場は他の作家たちと比べて遅れることとなった<ref>『60年代日本SFベスト集成』(徳間書店)の解説より</ref>。}}。1964年、第3回[[日本SF大会]]・大阪大会(DAICON)を主催、前年に創立されていた「[[日本SF作家クラブ]]」に参加し、SF作家たちとの交流を深める。1965年、前年に脚本スタッフとして参加していたテレビアニメ『[[スーパージェッター]]』の商品化権料を多額に得て、作家専業のめどが立つ。 同1965年、小松左京夫妻の仲人で光子夫人と見合い結婚。直後に東京へ行き専業作家となる。同年10月、初作品集『東海道戦争』出版。しかし、しばらくは生活が苦しく、1967年頃、心配した[[小林信彦]]より『[[小説現代]]』などの中間小説誌を紹介され、以後中間小説誌での発表が増えていった。 なお、1966年2月から、[[平井和正]]、[[豊田有恒]]、[[伊藤典夫]]、[[大伴昌司]]と共同で<ref>『THE 筒井康隆』(有楽出版社)P.60</ref>、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった<ref>『柴野拓美SF評論集』(東京創元社)巻末の[[牧眞司]]の解説P.572</ref>。 === ナンセンスから前衛文学へ === 筒井はそれまでのナンセンス、ブラックユーモアの作風に加え、1970年代から様々な文体を用いた実験的な作品を発表していき、次第に熱狂的なファンを獲得していった。初期のよく知られている作品には、[[PTA]]による[[有害コミック騒動|悪書追放運動]]を批判した『くたばれPTA』(1966年)、社会風刺からナンセンスな笑いを引き出した『ベトナム観光公社』(1967年)、[[痴漢冤罪]]の恐怖を描いた『懲戒の部屋』(1968年)、SF長編としての総決算的作品『[[脱走と追跡のサンバ]]』、高度経済成長期に勃興した[[ウーマンリブ運動]]や[[フェミニズム]]を揶揄した『女権国家の繁栄と崩壊』(ともに1970年)、超能力者・[[火田七瀬]]を通して家族の裏側を書く『[[家族八景]]』、俗物的な人間を徹底的に風刺した『俗物図鑑』(ともに1972年)、小松左京『[[日本沈没]]』のパロディ「[[日本以外全部沈没|日本{{small|以外全部}}沈没]]」(1974年)など。1970年の第1回[[星雲賞]]を長編部門、短編部門で独占してから計8度同賞を受賞した。また1968年から[[直木三十五賞|直木賞]]に3度候補として挙げられたが(1967年『ベトナム観光公社』、1968年『アフリカの爆弾』、1972年『家族八景』)落選。筒井は後にこの経験から、作家志願者が文学賞選考委員を次々に殺していく(単行本の表紙には「[[松本清張|張]]め。殺す。」「この[[源氏鶏太|源]]」「やいやい[[川口松太郎|川〜郎]]め。死ね。」などの記述が断片的に見られる)スラップスティック作品『[[大いなる助走]]』(1979年)を執筆している。 1970年の『脱走と追跡のサンバ』の発表を境に自身の作品からは徐々に純SF的な作品が減っていきながらも、1971年にはジュニア向けながら「SF入門の定番」として長年知られた『SF教室』を編集・執筆。また、1975年から1976年にかけては、各年度のベスト短編を集めたアンソロジー『日本SFベスト集成』シリーズを編集した。 1972年4月には東京から、妻の実家に近い神戸市垂水区に転居。筒井は両親と不仲であり、妻の親族たちと盛んに交際した。 1973年8月には、SFファングループ「ネオ・ヌル」を山本義弘、小笠原成彦、岡本俊弥、[[大野万紀]]、[[水鏡子]]らと結成(実際のところは、1975年の日本SF大会「SHINCON」の開催の考えが先行しており、その母体となるためSFファングループを結成したのであった<ref>[http://kobe-kobecco.com/wp-content/uploads/2015/02/19750804.pdf 「SHINCON」開催前座談会]</ref>)。1974年の1月に『NULL』復刊第1号が発行。以降、この雑誌は、スポンサーが筒井、岡本俊弥を実質編集長として刊行されることとなる。第2期「NULL」の特色は、「会員から応募された[[ショート・ショート]]すべてに、筒井が的確な『寸評』を書いた」ことにあった{{Efn|のちに刊行されたベスト集『ネオ・ヌルの時代』2巻の解説で、[[堀晃]]は、「新NULL最大の作品は、量質ともに(筒井の)『応募作寸評』だった」と書いている。}}。また、筒井が当時編集していた年刊傑作選『日本SFベスト集成』に、筒井は「NULL」掲載作から作品を選んでいる。 この「ネオ・ヌル」グループをスタッフとして、筒井は大会名誉委員長として1975年8月に、[[日本SF大会]]「SHINCON」を神戸で開催。この大会のテーマは後に有名になる「SFの浸透と拡散」であり、[[山下洋輔]]によるピアノ演奏、舞台『スタア』([[劇団欅]])の上演、[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]による落語「[[地獄八景亡者戯]]」など、企画の大半は筒井の人脈によるものであった。なお、「ネオ・ヌル」出身の作家には、[[夢枕獏]]、[[山本弘 (作家)|山本弘]]、[[牧野修]](亜羅叉の沙名義)、西秋生、[[高井信]]、[[水見稜]](井沢昭夫名義)、児島冬樹、[[林巧]]らがいる。また、すでに「SFマガジン」でデビューしていた[[かんべむさし]]や、第1期「NULL」に参加していた[[堀晃]]も「ネオ・ヌル」には参加していた。「NULL」は1977年4月発行の号で終刊。 「腹立半分日記」を連載していた雑誌『[[面白半分]]』の編集長を、1977年7月号から1978年6月号まで、一年間つとめた。 また、1980年には[[日本SF作家クラブ]]の事務局長として、[[徳間書店]]を後援とした[[日本SF大賞]]の創設に尽力。 一方で、1971年より純文学雑誌『[[海 (雑誌)|海]]』に作品の掲載をはじめ、純文学の分野にも進出。また同誌の海外作家特集を愛読し、[[ガブリエル・ガルシア=マルケス|ガルシア・マルケス]]、[[マリオ・バルガス・リョサ|バルガス・リョサ]]など中南米の作家への興味を持った。1978年には[[大江健三郎]]の紹介から『海』編集長[[塙嘉彦]]の訪問を受け、中南米の文学について教示を受けるなどして大きな影響を受けた。同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『[[虚人たち]]』で[[泉鏡花文学賞]]を受賞。これを皮切りに、擬人化した文房具が乗り込む宇宙船団の混乱した群像・鼬の惑星の歴史・双方の戦乱とその末路を描き「純文学作品として」刊行した『[[虚航船団]]』(1984年)、夢と蓋然性をモチーフに独自の文学空間を切り開いた『夢の木坂分岐点』(1987年、[[谷崎潤一郎賞]])、使用できる文字が1章ごとに1つずつ減っていく[[ウリポ]]的な『[[残像に口紅を]]』(1989年)など、[[メタフィクション]]の技法を用いた言語実験的な作品を多数執筆。なお、『残像に口紅を』の執筆のために[[ワードプロセッサ|ワープロ]]を導入し<ref>[http://www.cisco.com/web/JP/news/cisco_news_letter/mail/0207/special/index2.html ツツイ流小説作法とITの関係]</ref>、これ以降の作品はコンピュータを使用して書かれている。 [[1990年代]]にも、文芸批評と大学機構をシニカルに下敷きにした学問小説『文学部唯野教授』、[[パソコン通信]]を使って読者の意見をインタラクティヴに取り入れながら、十八番の虚実錯綜の手法を使って連載された『[[朝のガスパール]]』(1992年[[日本SF大賞]])など話題作を発表した。『残像に口紅を』『文学部唯野教授』2作連載時にはストレスで胃穿孔を起こし入院、入院中に[[マルティン・ハイデッガー|ハイデガー]]を読んで影響を受け、以後死や別れをモチーフにした作品も増えていった。 === 断筆宣言以後 === 初期に書かれた[[近未来]]の[[管理社会]]を皮肉るショートショートSF『無人警察』(『[[科学朝日]]』1965年6月号所収。のち[[角川文庫]]2016年新版『にぎやかな未来』収録)が、1993年(平成5年)に[[角川書店]]発行の高校国語の[[教科書]]に収録されることになった際、作中の[[てんかん]]の記述([[脳波]]測定器を内蔵した[[巡査]][[ロボット]]が運転手を取り締まる際、主人公が「てんかん持ちの人が異常な脳波を出していた場合もチェックされるらしいが、おれはてんかん持ちでないしなあ」と独白する)がてんかんをもつ人々への差別的な表現であるとして、[[日本てんかん協会]]から抗議を受ける(筒井個人と団体間で数度交渉を行い一時決裂したのち、和解する。後述)。団体の抗議自体にではなく、ことなかれで言い換えや削除を行おうとする出版業界の現状や、安易な批判をする、あるいは真摯な擁護を見せずにただ騒ぎに便乗するだけの同業者などに業を煮やした筒井は、1993年9月、[[月刊誌]]『[[噂の眞相]]』に連載していた日記「笑犬樓よりの眺望」上で「私、ぷっつんしちゃいました」と[[断筆]]宣言に至った<ref>差別用語の基礎知識〈'99〉―何が差別語・差別表現か? [単行本] 高木正幸(著)土曜美術社出版販売; 全面改訂版 (1999/07) ISBN 4812011876</ref>。 協会からの抗議が報じられた際、筒井の自宅には嫌がらせの電話や手紙が殺到したという<ref>『筒井康隆スピーキング』p.365(出帆新社、1996年)</ref>。筒井はのちに[[内田春菊]]との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、[[表現の自主規制|自主規制]]の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、家族にまではそれは及ばなかった。でも、今度の場合は、家族や親戚にまで波及した」<ref name="uchida">『筒井康隆スピーキング』p.364-365(出帆新社、1996年)</ref>「今回は家族や親戚を守るためなんです」{{R|uchida}}と語っている。またこの頃、筒井の母が急性心筋梗塞で死去しており、のちの[[瀬戸内寂聴]]との対談では「(騒動に関する心労が)亡くなったのにもいささか関係があったんじゃないかと思いますけれども」<ref name="setouchi">『筒井康隆スピーキング』p.346(出帆新社、1996年)</ref>とも述べている。 そして、「断筆宣言以前から、一方的に新聞にてんかん協会の抗議文が載りましたんで、文芸誌とかミニコミ誌とか読まない近所の人たちの中には、私の家族を犯罪者の家族を見るような目で見る人もいた」{{R|setouchi}} と、マスコミが抗議の声におもねって筒井側の言い分をまったく取り上げないことに憤った<ref>『筒井康隆スピーキング』p.338-339(出帆新社、1996年)</ref>。 断筆宣言は業界内でも賛否両論を起こした。友人である大江健三郎(息子の[[大江光]]は癲癇の症状を持っている)からは、[[読売新聞]]紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している<ref>『新潮』1994年1月号掲載の池澤夏樹との対談「救いとしての文学」における大江の発言。</ref><ref>『筒井康隆スピーキング』p.408(出帆新社、1996年)</ref>。この他、[[吉本隆明]]<ref name="大論争">『筒井康隆「断筆」めぐる大論争』220ページ</ref>、[[金井美恵子]]{{R|大論争}}、[[浅田彰]]<ref>『諸君!』1994年7月号「筒井康隆氏はやはり間違っている」</ref>、[[絓秀実]]{{R|大論争}}、[[柄谷行人]]{{R|大論争}}、[[渡部直己]]{{R|大論争}}、[[村上龍]]{{R|エンガッツィオ}}、[[三田誠広]]{{R|エンガッツィオ}}、[[島田雅彦]]{{R|エンガッツィオ}}、[[田中康夫]]{{R|エンガッツィオ}}、[[志茂田景樹]]{{R|エンガッツィオ}}、[[中野翠]]{{R|エンガッツィオ}}などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。去って行く者に追い打ちをかけたり、つばを吐きかけたり、反感がすごい」<ref>『筒井康隆スピーキング』p.412(出帆新社、1996年)</ref>「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」<ref name="『筒井康隆スピーキング』p.416(出帆新社、1996年)">『筒井康隆スピーキング』p.416(出帆新社、1996年)</ref>と慨嘆した。特に絓秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。一方、筒井を擁護した側には、[[曾野綾子]]、[[瀬戸内寂聴]]、[[安岡章太郎]]、[[柳瀬尚紀]]、[[平井和正]]、[[マッド・アマノ]]、[[小林よしのり]]、[[石堂淑朗]]、[[井上ひさし]]、[[内田春菊]]、[[柘植光彦]]、[[清水良典]]、[[井沢元彦]]、[[夢枕獏]]、[[大岡玲]]たちがいた<ref name="エンガッツィオ">筒井康隆『エンガッツィオ司令塔』(文春文庫)261-262頁</ref>。しかし「筒井の尻馬に乗って[[表現の自由]]をうんぬんしている作家たち」という[[岡庭昇]]や、みなみあめん坊(部落解放同盟大阪連合会池田支部代表の南健司)の発言が出てきたため、小林よしのり以外はみな沈黙してしまったという{{R|エンガッツィオ}}。 同年10月、断筆に至る経緯を記した『断筆宣言への軌跡』を刊行。同年10月14日には[[テレビ朝日]]「[[朝まで生テレビ!]]」特集「激論!表現の自由と差別」にゲストパネラーとして出演し、『無人警察』問題について自らの立場を主張すると共に、かつて『週刊文春』1985年5月9日号のコラム「ぴーぷる欄」における「"[[士農工商]][[SF作家|SF屋]]"というカーストがあるくらいで、SF作家が晴れの舞台を踏むことはまだ稀ですからね」<ref>『週刊文春』1985年5月9日号、p.141。</ref><ref>江上茂『差別用語を見直す』p.92</ref>との発言をめぐり部落解放同盟から糾弾されかけたことを明らかにした{{Efn|この時の様子を、筒井と共演した漫画家・[[小林よしのり]]が「[[ゴーマニズム宣言]]」に描いている(小林『ゴーマニズム宣言([[扶桑社]]のち[[幻冬舎]]文庫)』第4巻78章『マスコミと筒井康隆に告ぐ!』)。}}。これは日本文壇におけるSF作家への差別を自虐的に語った言い回しだが、そもそも「士農工商穢多非人」という熟語は知らなかったので部落を揶揄する意図はなかった、以前「士農工商提灯屋」という表現に接したことがあり、洒落た表現なのでいつか使ってみようと思っていたと、この番組で筒井は[[小森龍邦]]に釈明している。 1994年(平成6年)4月1日、[[中野サンプラザ]]にて[[山下洋輔]]らのジャズ演奏からなる「筒井康隆断筆祭」を開催。自身も演奏者として参加した。 1994年(平成6年)8月30日、岡山で開かれた部落解放西日本夏期講座(主催・[[部落解放研究所]])のシンポジウム「差別問題と『表現の自由』」に基調講演者として出席。[[小林健治]]によると「これまで、多くの作家がその著作のなかで差別表現を指摘され、抗議を受けたが、抗議された作家が、みずから被差別運動団体の集会に出席して自分の意見をのべるというのは、初めての出来事だった」という<ref name="小林健治">小林健治『部落解放同盟「糾弾」史』p.161</ref>。シンポジウムの冒頭の自己紹介で筒井は「差別者の筒井です」と言い放ち、2000人の出席者から万雷の拍手を受けたとされる{{R|小林健治}}。 1994年11月7日、日本てんかん協会との間で書簡の往復による「合意」にこぎつけ、記者会見で内容を発表{{R|江上}}。内容の骨子は {{quotation|筒井氏が、角川書店に対し『無人警察』を次の版の教科書から取り除くよう申し入れる代わりに、 # 将来の作品で問題があれば、協会は物理的な圧力を含まない公開の言論活動で「批判」をする。 # その場合、要求は削除や書き直しでなく「新たな表現による弁明」とし、結論は筒井氏の判断にまかせる。 # 以上のことは筒井氏だけでなく、すべての表現者に適用される。}}というものであった{{R|江上}}。「差別表現」に対する従来の対処は、被差別者側が気の済むまで糾弾を続け、差別者とされた側がひたすら謝罪し要求を受け入れるという硬直したやり方しかなかったところ、筒井と日本てんかん協会が双方の見解の相違を残しつつ合意と妥協に知恵をしぼった点は高く評価されたが、旧来の部落解放同盟的な糾弾路線を支持する人々からは反発を買った{{R|江上}}。日本てんかん協会との和解について、朝日新聞社社会部の[[本田雅和]]や作家の[[塩見鮮一郎]]から『[[朝日新聞]]』紙上で激しく糾弾された筒井は、「どんな作品書いたのか誰も知らないような塩見鮮一郎なんて作家」「(日本てんかん協会との間の)往復書簡ろくに読まないでコメントしてる。解放同盟やてんかん協会が『よし』としてることにまで反対して、自社の自主規制を正当化しようとして、被差別団体以上の激しさでぼくを糾弾してくる」{{R|『筒井康隆スピーキング』p.416(出帆新社、1996年)}}と批判している。 断筆中の1995年(平成7年)に[[阪神・淡路大震災]]で神戸市垂水区の自宅が被災する事態に見舞われる{{Efn|筒井は1995年4月25日付[[読売新聞]]夕刊掲載のインタビューで『今回の震災で五千五百もの人が死に、自分がその一人ではないという不思議さを感じる時、もう小説なんてどうでもよくなった。』と答えている。}}。断筆中は演劇活動に力を入れ、またウェブサイトを開設し未発表作品の公開などを行なった。 === 断筆解除後 === 1995年11月から新潮社が断筆解除に向けて筒井にアプローチを開始<ref name="江上">[[山中央|江上茂]]『差別用語を見直す』p.232-236</ref>。1996年12月16日、新潮社、文藝春秋社、角川書店と下記のような「覚書」を交わし、1996年12月19日、3年3ヶ月ぶりに断筆を解除すると発表(これと同じ覚書を後に[[中央公論社]]や[[噂の真相]]とも交わしている){{R|江上}}。 {{quotation| # 出版社は従前どおり筒井氏の意に反した用語の改変は行わない。 # 作品の用語に関し抗議があった場合、これに対処する権利と責任は著述者(筒井氏)にあり、出版社にも責任がある。したがって、出版社が用語に関し抗議を受けた場合、著述者と協議し、その意志を充分尊重して対処する。 # 筒井氏が抗議に対処する上で、文書の往復や直接討論が必要になった場合には、出版社が責任をもって仲介し、その内容を発表する。}} その後、1997年に『邪眼鳥』で小説家復帰を果たした。執筆再開後はこれまでの作風に加えて、『[[わたしのグランパ]]』(1998年、[[読売文学賞]])や『愛のひだりがわ』など、『[[時をかける少女]]』以来の[[ジュブナイル]]小説を発表。還暦を過ぎたこともあり、『敵』『銀齢の果て』といった老いをテーマにした作品も発表している。 断筆解除後はトレードマークであった眼鏡やサングラスをかけるのを止め、口ひげを蓄えている。さらに2000年代に入ってからは公の場では和服を着ることが多くなり、古典的な文士然とした身なりがトレードマークとなった。 === 近年の活動 === [[東浩紀]]との交流から[[ライトノベル]]に興味を持ち、2008年(平成20年)『[[ファウスト (文芸誌)|ファウスト]]』にてライトノベル『[[ビアンカ・オーバースタディ]]』を掲載、[[宗田理]]に次ぐ高齢のライトノベル執筆者となった。 断筆解除後も、筒井は各新聞社との間で覚書を取り交わせずにいたが、2009年(平成21年)3月、以前『[[朝のガスパール]]』を連載していた[[朝日新聞社]]と覚書を取り交わし、同月30日より同新聞読書欄にてエッセイ『漂流―本から本へ』が連載(日曜日のみ)された<ref>筒井ブログ『笑犬楼大通り』より『偽文士日碌』2009年3月1日</ref>。 2012年(平成24年)7月13日から2013年(平成25年)3月13日まで、[[朝日新聞]]に小説「聖痕」が連載された。 2013年、他のベテラン作家らとともに、[[日本SF作家クラブ]]の名誉会員になった<ref>『日本SF短篇50(1)』早川書房</ref>。 2020年2月、息子筒井伸輔に先立たれた。 == 人物 == <!--瑣末なエピソードを加えないこと--> [[喫煙者]](銘柄はヴォーグなどを愛煙)であることから、近年の「[[禁煙ファシズム]]」を批判し、喫煙者団体「[http://www.go-smoking.net/ Go smoking]{{リンク切れ|date=2018年11月}}」に参加している。1987年には『健康ファシズム(当時の呼び名)』を揶揄する短編[[SF小説]]『[[最後の喫煙者]]』を執筆し、1995年に「[[世にも奇妙な物語]]」でドラマ化された際には、[[台詞]]ありの[[カメオ出演]]をしている。2004年(平成16年)には[[泉麻人]]、[[ダンカン (お笑い芸人)|ダンカン]]ほかが寄稿した本『喫煙者のユーウツ - 煙草をめぐる冒言』を共著として刊行している。2011年には昨今の[[嫌煙]]運動について反発するため、[[すぎやまこういち]]や[[西部邁]]らと共に「喫煙文化研究会」を発足した。 エッセイなどにおける筆鋒は鋭く、批判の際には相手の知性や品性を端的に攻撃し、愚者として印象づけているため、敵も多い{{要出典|date=2019年3月}}。この戦闘性は[[小説]]にも及び、2007年に発表した『巨船ベラス・レトラス』でも、実名で海賊行為を糾弾された出版社以上に、誰にでもそれと分かるような大手情報企業が手痛い描かれ方をされている。さらに、かつて『堕地獄仏法』で[[公明党]]を擬した[[政党]]が支配する恐怖の未来を描き、[[創価学会]]の猛烈な攻撃を受けるや、『末世法華経』で応酬するという騒ぎを起こした。しかし、[[井上ひさし]]、[[大江健三郎]]といった政治的発言の多い友人を持ちながら、自らは[[政治]]と距離を置いている。この立場を戯画的に描いた『旗色不鮮明』などでも明らかだが、これは意識した上でのことである。ただし1982年の反核文学者声明に名を連ねたこともある。この際に揶揄的な批判に対しては反駁を加えている。 東京での活動が多くなったことから、[[神戸市]][[垂水区]]の他に(以前の[[東京]]居住時と同じ)[[原宿]]にも自宅を構えている。 元[[衆議院議員]][[筒井信隆]]、俳優の[[筒井道隆]]とは名前が似ているが、縁戚関係はない。 ;俳優としての活動 1981年8月9日、東京日比谷野外音楽堂にて、交友のあった[[山下洋輔]]らとともに、クラリネット奏者として『ジャズ大名セッション ザ・ウチアゲ コンサート』に出演。このとき観客に混じっていた、アート・プロデュサーの[[鶴本正三]](雑誌「[[スターログ]]」発行人でもあった)に原宿ラフォーレでのイベントを依頼され、これをきっかけに劇団「筒井康隆大一座」を立ち上げる。翌年3月に自作『ジーザス・クライスト・トリックスター』を上演、筒井自身が主役を演じ、14日間の全日程すべて満席となった。翌年、名古屋、京都、神戸、大阪を巡業、以降も「大一座」は筒井の作品『スイートホームズ探偵』『人間狩り』などを上演し、1989年(平成元年)まで活動が続いた。 1993年(平成5年)の断筆宣言以降は、執筆による収入が無くなることもあって俳優業に力を入れ、[[久世光彦]]演出の単発ドラマやCM出演など、それ以前よりも頻繁に映画、テレビに出演するようになった。断筆解除後の1997年(平成9年)にはタレントとして[[ホリプロ]]と契約{{Efn|それ以前は『[[新神戸オリエンタル劇場]]』にマネジメントを任せていた<ref>筒井『笑犬樓の逆襲』より『家を買う話は沙汰やみとなってしまった』</ref>。}}、執筆活動の傍ら映画やテレビドラマに度々出演している。1999年(平成11年)には[[蜷川幸雄]]の依頼で[[アントン・チェーホフ|チェーホフ]]の『[[かもめ (チェーホフ)|かもめ]]』にトリゴーリン役で出演、2000年(平成12年)・2001年(平成13年)にも蜷川演出の[[三島由紀夫]]『弱法師』(『近代能楽集』)に主人公の義父役で[[藤原竜也]]と共演した。原作者である『文学賞殺人事件 大いなる助走』にもゲスト出演し、SF作家を演じた。 ;シナリオについて * 『文藝時評』の中で[[筒井ともみ]]を批評した際、「戯曲=文学、シナリオ=非文学という線引きはもう無意味なのではないか」と書いたことがある。 * 自作の映画化作品『時をかける少女』のパロディ・シナリオ([[シナリオ・時をかける少女]]『串刺し教授』所収)を書いたが、これは映画化されることを目的としたわけではない。また、映画化されていないシナリオに『大魔神』もあるが、これは企画が頓挫したため、出版のみに終わったと言われている。 ;ウィキペディアについて [[ウィキペディア日本語版]]の「筒井康隆」の項目は間違いだらけだと、2010年(平成22年)11月23日に開催された『筒井康隆作家生活五十周年記念〜現代語裏辞典ライブ』において、多数の観衆の見る中、[[ウィキペディア]]の「筒井康隆」の項目を開き、自身の身長から断筆宣言の経緯に至るまで本項目の間違いを指摘し内容を修正した(あまりに間違いが多いので修正は、後日、改めて行うことになった)<ref>[http://tcc.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-78f3.html 超貴重!筒井康隆生朗読ライブに超満ツツイスト全員が酔いしれた!ここだけ本人本音トーク続出にハラハラドキドキ!『筒井康隆作家生活五十周年記念~現代語裏辞典ライブ』ライブレポート(10.11/23開催)]</ref>。 ;慰安婦像に対する発言 2017年4月7日に、[[慰安婦像]]問題に関して、「[[長嶺安政|長嶺]]大使がまた韓国へ行く。慰安婦像を容認したことになってしまった。あの少女は可愛いから、皆で前まで行って射精し、ザーメンまみれにして来よう」という記述をブログで発信した<ref>[http://shokenro.jp/00001452 ブログ偽文士日碌] 1037ページ</ref>。公式ツイッターにも同様の内容を発信したがその日のうちに削除されている<ref>[http://shokenro.jp/00001455 ブログ偽文士日碌] 1039ページ</ref>。インターネットでは賛否の声が上がり<ref>{{Cite web|和書|title=筒井康隆氏、慰安婦像めぐる衝撃ツイートの波紋 「あの少女は可愛いから...」 |url=https://www.j-cast.com/2017/04/07295128.html |website=J-CAST ニュース |date=2017-04-07 |accessdate=2022-06-19}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=筒井康隆氏の発言?に国内からも批判の声「差別を『タブーを破る過激な人』と称してほめそやしてきた」 |url=https://www.huffingtonpost.jp/2017/04/06/tsutsui-yasutaka_n_15845280.html |website=ハフポスト |date=2017-04-06 |accessdate=2022-06-19}}</ref>、韓国朝鮮日報日本語版は「衝撃的な妄言」と批判している{{R|asahi20170407}}。これについて、筒井は「あんなものは昔から書いています。ぼくの小説を読んでいない連中が言っているんでしょう。本当はちょっと『炎上』狙いというところもあったんです」と明かす一方、「ぼくは戦争前から生きている人間だから、韓国の人たちをどれだけ日本人がひどいめに遭わせたかよく知っています。韓国の人たちにどうこういう気持ちは何もない」とも話している<ref name="asahi20170407">[http://digital.asahi.com/articles/ASK473GJ1K47UCVL00C.html 筒井康隆氏、慰安婦像への侮辱促す? 「炎上狙った」] [[朝日新聞]] 2017年4月7日</ref>。 == 受賞・叙勲歴 == * 1970年 - 『霊長類南へ』で第1回[[星雲賞]](日本長編部門)、『フル・ネルソン』で同賞(日本短編部門)受賞。 * 1971年 - 『ビタミン』で第2回[[星雲賞]](日本短編部門)受賞。 * 1974年 - 『[[日本以外全部沈没]]』で第5回[[星雲賞]](日本短編部門)受賞。 * 1975年 - 『おれの血は他人の血』で第6回[[星雲賞]](日本長編部門)受賞。 * 1976年 - 『[[七瀬ふたたび]]』で第7回[[星雲賞]](日本長編部門)、『スタア』で同賞(映画演劇部門)受賞。 * 1977年 - 『メタモルフォセス群島』で第8回[[星雲賞]](日本短編部門)受賞。 * 1981年 - 『[[虚人たち]]』で第9回[[泉鏡花文学賞]]受賞。 * 1987年 - 『夢の木坂分岐点』で第23回[[谷崎潤一郎賞]]受賞。 * 1989年 - 『ヨッパ谷への降下』で第16回[[川端康成文学賞]]受賞。 * 1990年 - ダイヤモンド・パーソナリティー賞受賞。 * 1991年 - 日本文化デザイン賞受賞。 * 1992年 - 『[[朝のガスパール]]』で第12回[[日本SF大賞]]受賞。 * 1997年 - [[フランス]]・[[芸術文化勲章]]シュバリエ受章。[[フランス]]・パゾリーニ賞受賞。 * 1999年 - 『[[わたしのグランパ]]』で第51回[[読売文学賞]]受賞。 * 2002年 - [[紫綬褒章]]受章。 * 2010年 - 第58回[[菊池寛賞]]受賞。 * 2017年 - [[毎日芸術賞]]受賞。 * 2019年 - 『東海道戦争』で1965年度[[レトロ星雲賞]](日本短編部門)受賞<ref>[https://virtualgorillaplus.com/topic/sense-of-gender-awrads-2018 第18回センス・オブ・ジェンダー賞大賞に田中兆子『徴産制』——彩こん で各賞発表]</ref>。 * 2019年 - 『筒井康隆、自作を語る』(編集:[[日下三蔵]])で第50回星雲賞(ノンフィクション部門)受賞。 * 2022年 - [[日本芸術院賞]]・[[恩賜賞 (日本芸術院)|恩賜賞]]受賞<ref>{{Cite web|和書|author=日本放送協会 |title=日本芸術院賞に小説家の筒井康隆さんら5人 {{!}} NHK |url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220324/k10013550201000.html |website=NHKニュース |accessdate=2022-03-25 |deadlinkdate =2023-07-03}}</ref>。 ※『スタア』は演出:[[福田恆存]]・[[荒川哲生]]による。 == 著書 == === 小説(中長編) === {|class=wikitable style=text-align:left;font-size:85% !style="width:150px"|作品名!!出版年月日!!出版社!!ISBN!!備考 |- |48億の妄想||1965.12.31||[[早川書房]]→[[文春文庫]]||ISBN 978-4167181017|| |- |馬の首風雲録||1967||早川書房→[[ハヤカワ文庫]]<br />→文春文庫→[[扶桑社文庫]]|| || |- |[[霊長類南へ]]||1969.10.15||[[講談社]]→[[講談社文庫]]<br />→[[角川文庫]]||ISBN 978-4041305195|| |- |[[筒井順慶]]||1969.04.15||講談社→[[新潮文庫]]<br />→角川文庫||ISBN 978-4041305065||「筒井順慶」「あらえっさっさ」「晋金太郎」「新宿祭」 |- |緑魔の町||1970.07.20||[[毎日新聞社]]→角川文庫||ISBN 978-4041305119|| |- |[[脱走と追跡のサンバ]]||1971.10.31||早川書房→角川文庫||ISBN 978-4041305089|| |- |[[家族八景]]||1972.02.20||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171012||七瀬三部作 Part1 |- |[[俗物図鑑]]||1972.12.05||[[新潮社]]→新潮文庫||ISBN 978-4101171029|| |- |おれの血は他人の血||1974.02.20||[[河出書房新社]]→新潮文庫||ISBN 978-4101171081|| |- |[[七瀬ふたたび]]||1975.05.10||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171074||七瀬三部作 Part2 |- |[[エディプスの恋人]]||1977.10.20||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171135||七瀬三部作 Part3 <br />完結編 |- |[[富豪刑事]]||1978.05.15||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171166|| |- |[[大いなる助走]]||1979.03.15||[[文藝春秋]]→文春文庫||ISBN 978-4101171166|| |- |[[美藝公]]||1981.02.20||文藝春秋→文春文庫<br />→[[ミリオン出版]]復刻版||ISBN 978-4886722720|| |- |[[虚人たち]]||1981.04.15||中央公論社→中公文庫||ISBN 978-4122030596|| |- |[[虚航船団]]||1984.05.15||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171272||純文学書き下ろし<br />特別作品 |- |[[イリヤ・ムウロメツ]]||1985.12.20||講談社→講談社文庫||ISBN 978-4061843622|| |- |[[旅のラゴス]]||1986.09.30||[[徳間書店]]→[[徳間文庫]]<br />→新潮文庫||ISBN 978-4101171319|| |- |夢の木坂分岐点||1987.01.25||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171241|| |- |歌と饒舌の戦記||1987.04.25||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171258|| |- |驚愕の曠野||1988.02.25||河出書房新社→[[河出文庫]]||ISBN 978-4309405155|| |- |新日本探偵社報告書控||1988.04.25||[[集英社]]→[[集英社文庫]]||ISBN 978-4087497021|| |- |[[残像に口紅を]]||1989.04.20||[[中央公論社]]→[[中公文庫]]||ISBN 978-4122022874|| |- |フェミニズム殺人事件||1989.10.20||集英社→集英社文庫|| || |- |文学部唯野教授||1990.01.26||[[岩波書店]]→同時代ライブラリー<br />→[[岩波現代文庫]]||ISBN 978-4006020019|| |- |[[ロートレック荘事件]]||1990.09.25||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171333|| |- |[[朝のガスパール]]||1992.08.01||[[朝日新聞社]]→新潮文庫||ISBN 978-4101171340||朝日新聞連載 |- |[[パプリカ (小説)|パプリカ]]||1993.09.20||中央公論社→中公文庫<br />→新潮文庫||ISBN 978-4101171401|| |- |敵||1998.01.01||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171395|| |- |[[わたしのグランパ]]||1999.08.30||文藝春秋→文春文庫||ISBN 978-4167181116|| |- |恐怖||2001.01.10||文藝春秋→文春文庫||ISBN 978-4167181130|| |- |愛のひだりがわ||2002.02.21||岩波書店→新潮文庫||ISBN 978-4101171494|| |- |ヘル||2003.11.13||文藝春秋→文春文庫||ISBN 978-4167181154|| |- |銀齢の果て||2006.01.20||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171517|| |- |巨船ベラス・レトラス||2007.03.16||文藝春秋→文春文庫||ISBN 978-4163256900|| |- |ダンシング・ヴァニティ||2008.01.31||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4101171524|| |- |[[ビアンカ・オーバースタディ]]||2012.08.17||[[星海社]]→角川文庫||ISBN 978-4061388376|| |- |聖痕||2013.05.31||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4103145301||朝日新聞連載 |- |モナドの領域||2015.12.03||新潮社→新潮文庫||ISBN 978-4103145325|| |} === 小説(短編集) === {|class=wikitable style=text-align:left;font-size:85% !作品名!!発行年月日!!作品!!出版社!!ISBN |- |東海道戦争 |1965.10.15 |東海道戦争/いじめないで/しゃっくり/トーチカ/ブルドッグ/群猫/チューリップ・チューリップ/うるさがた/お紺昇天/やぶれかぶれのオロ氏/座敷ぼっこ/廃墟/堕地獄仏法 《初出》「トーチカ」「群猫」「廃墟」「座敷ぼっこ」1960年「宝石」、「ブルドッグ」1964年「SFマガジン」8月増刊号、「しゃっくり」「お紺昇天」1964年「SFマガジン」、「東海道戦争」「うるさがた」「堕地獄仏法」1965年「SFマガジン」 |早川書房→ハヤカワ文庫→中公文庫 |ISBN 978-4122022065 |- |[[時をかける少女]] |1967.03.20 |時をかける少女/悪夢の真相/果てしなき多元宇宙||盛光社→角川文庫<br />→[[角川つばさ文庫]]→[[ハルキ文庫]] |ISBN 978-4041305218 ISBN 978-4894563063 |- |ベトナム観光公社 |1967.06.15 |火星のツァラトゥストラ/ベムたちの消えた夜/トラブル/最高級有機質肥料/マグロマル/くたばれPTA/末世法華経/時越半四郎/ハリウッド・ハリウッド/カメロイド文部省/血と肉の愛情/タック健在なりや/お玉熱演/猫と真珠湾/産気/会いたい/赤いライオン/ベトナム観光公社||早川書房→ハヤカワ文庫→中公文庫 |ISBN 978-4122030107 |- |アフリカの爆弾 |1968.03.01 |台所にいたスパイ/脱出/露出症文明/メンズ・マガジン一九七七/月へ飛ぶ思い/活性アポロイド/東京諜報地図/ヒストレス ヴィラからの脱出/環状線/窓の外の戦争/寒い星から帰ってこないスパイ/アフリカの爆弾||文藝春秋→角川文庫 |ISBN 978-4041305027 |- |アルファルファ作戦 |1968.05.31 |アルファルファ作戦/近所迷惑/慶安大変記/人口九千九百億/公共伏魔殿/旅/一万二千粒の錠剤/最後のクリスマス/ほほにかかる涙/かゆみの限界/ある罪悪感/セクション/懲戒の部屋/色眼鏡の狂詩曲(ラプソディ) |早川書房→中公文庫 |ISBN 978-4122025165 |- |にぎやかな未来 |1968.08.01 |《Part1 どたばた・ファンタジィ》(解説 人間すべて),超能力/帰郷/星は生きている/怪物たちの夜/逃げろ/事業/悪魔の契約/わかれ/最終兵器の漂流/腸はどこへいった/亭主調理法,(どたばた・ファンタジィ/あとがき) 《Part2 風俗・ファンタジイ》(解説 現代と寝て),我輩の執念/幸福ですか?/人形のいる街/007入社す/踊る星/地下鉄の笑い/ながい話/スペードの女王/欲望/パチンコ必勝原理,(風俗・ファンタジイ/あとがき) 《Part3 ファンタジイ・ファンタジイ》(解説 ある女性がぼくに),マリコちゃん/ユリコちゃん/サチコちゃん/ユミコちゃん/姉弟/ラッパを吹く弟/きつね/たぬき/コドモのカミサマ/ウイスキーの神様/神様と仏さま/池猫/飛び猫/衛星一号/ミスター・サンドマン/時の女神,(ファンタジイ・ファンタジイ/あとがき) 《Part4 SF・ファンタジイ》(解説 どうせファンタジイだ),模倣空間/お助け/疑似人間/白き異邦人/ベルト・ウェーの女/火星に来た男/差別/到着/遊民の街/無人警察/にぎやかな未来 ≪初出≫「お助け」1960年「宝石」8月号、「帰郷」「超能力」1960年「宝石」、「きつね」1960年「ヒッチコック・マガジン」 |[[三一書房]]→角川文庫 |ISBN 978-4041305034 |- |幻想の未来・アフリカの血 |1968.08.30 |幻想の未来/ふたりの印度人/アフリカの血 |南北社→角川文庫 |ISBN 978-4041305010 |- |ホンキイ・トンク |1969.07.20 |君発ちて後/ワイド仇討/断末魔酔狂地獄/オナンの末裔/雨乞い小町/小説「私小説」/ぐれ健が戻った/ホンキイ・トンク |講談社→角川文庫 |ISBN 978-4041305058 |- |わが良き狼(ウルフ) |1969.07.31 |地獄図日本海因果(だんまつまさいけのくろしほ)/夜の政治と経済/わが家の戦士/わが愛の税務署/若衆胸算用/団欒の危機/走る男/わが良き狼(ウルフ) |1969年、三一書房→角川文庫 |ISBN 978-4041305041 |- |心狸学 社怪学 |1969.12.20 |《心狸学篇》条件反射/ナルシシズム/フラストレーション/優越感/サディズム/エディプス・コンプレックス/催眠暗示 《社怪学篇》ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト/原始共産制/議会制民主主義/マス・コミュニケーション/近代都市/未来都市 |講談社→講談社文庫→角川文庫 |ISBN 978-4041305188 |- |欠陥大百科 |1970.05.10 |(はじめに)(凡例),悪魔/悪口雑言罵詈讒謗/アングラ/安保/悪戯/一問一答/犬/イラストレーター/インタビュー/宇宙/午・馬/運動会/映倫/S・F/越後つついし親不知/大袈裟/おこらないおこらない/お喋り/音楽/女/90年安保の全学連(漫画)/紙・髪・神/カラーテレビ/癌/観光/歓待/機械/貴様/ギター/ギャグ・マンガ/恐竜/銀座/クイズ/経口避妊薬/軽薄/欠陥/国会/CM(コマーシャル)/作家経営学/サラリーマン/産院/自己変革/ジャズ/週刊誌/就職/乗車拒否/蒸発/食道楽/深夜族/スキャンダル/ストーリイ・マンガ/性器/生殖器/精神病院/西部劇/セックス/接着剤/セミ・ドキュメント/前衛/浅学非才/全集/騒音/創作/竹取物語/タテカン/駝鳥/狸/父親/蝶/筒井順慶(漫画)/月/筒井順慶/D・J/デパート/テレビ/同人誌/読書遍歴/とっておきの話/突拍子/ナンセンス/日記/日本列島/発言力/2001年のテレビ(漫画)/パラダイス/ハント・バー/美女/ヒッピー/船酔い/編集者/ペンパル/法螺話/麻雀/マイ・ホーム/末世/モータリゼーション/モデル/UHF/よろめき/落語/流行/レジャー/肋骨/論争/猥語/ん,(オビ= この大百科の欠陥) |河出書房 |ISBN 978-4309000923 |- |『母子像』→『革命のふたつの夜』{{Efn|改題は[[久生十蘭]]に同名の作品があったため。}} |1970.07.12 |母子像/くさり/となり組文芸/巷談アポロ芸者/コレラ/泣き語り性教育/深夜の万国博/革命のふたつの夜 |講談社→角川文庫 |ISBN 978-4041305072 |- |馬は土曜に蒼ざめる |1970.07.15 |横車の大八/息子は神様/空想の起源と進化/混同夢/逃げろや逃げろ/人類の大不調和/肥満考/馬は土曜に蒼ざめる |早川書房→ハヤカワ文庫→集英社文庫{{Efn|文庫版は『馬は土曜に蒼ざめる』(ISBN 978-4087501599)と『国境線は遠かった』(ISBN 978-4087501773)に分冊。}} | |- |発作的作品群 |1971.07.10 |《発作的ショート・ショート》客/自動ピアノ/正義/ブロークン・ハート/訓練/夫婦/帰宅/タバコ/見学/特効薬/墜落/涙の対面 《発作的エッセイ》公的タブー・私的タブー/凶暴星エクスタ市に発生したニュー・リズム、ワートホッグに関する報告及び調理法及び見通しについて/仕事と遊びの”皆既日食“/肺ガンなんて知らないよ/まったく不合理、年賀状/大地震の前に逃げ出そう/都会人のために夜を守れ/いたかつただらうな/恰好よければ/わが宣伝マン時代の犯罪/可愛い女の可愛らしさ/犯・侵・冒/人間を無気力にするコンピューター/アナロジイ/情報化時代の言語と小説 《発作的伝記》モーツァルト伝/ナポレオン対チャイコフスキー世紀の決戦 《発作的講談》岩見重太郎/児雷也 《発作的雑文》当たらぬこそ八掛──易断(昭和○○年各界気運/昭和○○年十二支の気運/黒子疵の吉凶/人相・手相の運勢判断/一月の吉凶暦)/悩みの躁談室(第一日/第二日/第三日/最終日)/レジャー狂室(パラダービー(障害ダービー)の馬券作戦/レジャー用語の解説/インディアン麻雀の打ち方)」 《発作的短篇》悪魔を呼ぶ連中/最初の混線/最後のCM/蜜のような宇宙/2001年公害の旅/遠泳/傷ついたのは誰の心/差別/猛烈社員無頼控/女権国家の繁栄と崩壊/レモンのような二人/20000トンの精液 《発作的戯曲》荒唐無稽文化財奇ッ怪陋劣ドタバタ劇-冠婚葬祭葬儀編 《発作的座談会》山下洋輔トリオ・プラス・筒井康隆 (発作的あとがき)筒井康隆作品集一覧 |徳間書店 | |- |日本列島七曲り |1971.11.15 |誘拐横丁/融合家族/陰悩録/奇ッ怪陋劣潜望鏡/郵性省/日本列島七曲り/桃太郎輪廻/わが名はイサミ/公害浦島覗機関(たいむすりっぷのぞきのからくり)/ふたりの秘書/テレビ譫妄症 |徳間書店→角川文庫 |ISBN 978-4041305096 |- |将軍が目醒めた時 |1972.09.30 |万延元年のラグビー/ヤマザキ/乗越駅の刑罰/騒春/新宿コンフィデンシャル/カンチョレ族の繁栄/註釈の多い年譜/家/空飛ぶ表具屋/将軍が目醒めた時 |河出書房新社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171043 |- |農協月へ行く |1973.11.03 |農協月へ行く/日本以外全部沈没/経理課長の放送/信仰性遅感症/自殺悲願/ホルモン/村井長庵 |角川書店→角川文庫 |ISBN 978-4041305140 |- |暗黒世界のオデッセイ<br />筒井康隆一人十人集 |1974.02.20 |レオナルド・ダ・ヴィンチの半狂乱の生涯/神戸の文化/神戸に帰る/東京→神戸引越し騒動/新しい部屋で/とろを食べる/神戸港24時間/新しいことはええことや 田辺聖子との対談/神戸『井戸のある家』/中山手・山本通り/フラワー・ロード/垂水・舞子海岸通り/トア・ロード/須磨離宮道/三宮高架商店街/傷ついたのは誰の心(漫画)/冠婚葬祭葬儀編(漫画)/カンニバリズム・フェスティバル(漫画)/サイボーグ入門(漫画)/乱調人間大研究/食事論断片/ソ連東欧への旅その一/急流(漫画)/客(漫画)/色眼鏡の狂詩曲(漫画)/ワイド仇討(漫画)/アフリカの爆弾(漫画)/アフリカの血(漫画)/わが名はイサミ(漫画)/近所迷惑(漫画)/たぬきの方程式(漫画)/超能力(漫画)/星新一論/二○○一年暗黒世界のオデッセイ/モケケ・バラリバラ戦記/『直木賞落選の弁』を書くについての弁/突然の空白/ああ青春、走り抜けた三年/記憶の断片/人間滅亡への道 筒井嘉隆との対談/映画館が私を作った! 淀川長治との対談/<われら>狂気に生きる 山下洋輔との対談/ソ連 東欧への旅その二 |晶文社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171142 |- |おれに関する噂 |1974.06.15 |蝶/おれに関する噂/養豚の実際/熊の木本線/怪奇たたみ男/だばだば杉/幸福の限界/YAH!/講演旅行/通いの軍隊/心臓に悪い |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171050 |- |男たちのかいた絵 |1974.06.30 |夜も昼も/恋とは何でしょう/星屑/嘘は罪/アイス・クリーム/あなたと夜と音楽と/二人でお茶を/素敵なあなた |徳間書店→新潮文庫 |ISBN 978-4101171067 |- |ウィークエンド・シャッフル |1974.09.24 |佇むひと/如菩薩団/「蝶」の硫黄島/ジャップ鳥/旗色不鮮明/弁天さま/モダン・シュニッツラー/その情報は暗号/生きている脳/碧い底/犬の町/さなぎ/[[ウィークエンド・シャッフル (小説)|ウィークエンド・シャッフル]] |講談社→講談社文庫→角川文庫 |ISBN 978-4041305164 |- |ミラーマンの時間 SFジュブナイル |1975.02.15 |暗いピンクの未来/デラックス狂詩曲(ラプソディ)/超能力・ア・ゴーゴー/白いペン・赤いボタン/ミラーマンの時間 |いんなあとりっぷ社→角川文庫 |ISBN 978-4041305133 |- |メタモルフォセス群島 |1976.02.20 |毟りあい/五郎八航空/走る取的/喪失の日/定年食/平行世界/母親さがし/老境のターザン/こちら一の谷/特別室/メタモルフォセス群島 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171128 |- |あるいは酒でいっぱいの海 |1977.11.25 |あるいは酒でいっぱいの海/消失/鏡よ鏡/いいえ/法外な税金/女の年齢/ケンタウルスの殺人/トンネル現象/九十年安保の全学連/代用女房始末/スパイ/妄想因子/怪段/陸族館/給水塔の幽霊/フォーク・シンガー/アル中の嘆き/電話魔/みすていく・ざ・あどれす/タイム・カメラ/体臭/善猫メダル/逆流/前世/タイム・マシン/脱ぐ/二元論の家/無限効果/底流/睡魔のいる夏/「ケンタウルスの殺人」解決編 |集英社→集英社文庫→河出文庫 | |- |バブリング創世記 |1978.02.10 |バブリング創世記/死にかた/発明後のパターン/案内人/裏小倉/鍵/上下左右/廃塾令/ヒノマル酒場/三人娘 |徳間書店→徳間文庫 |ISBN 978-4195773925 |- |宇宙衞生博覧会 |1979.10.15 |蟹甲癬/こぶ天才/急流/顔面崩壊/問題外科/関節話法/最悪の接触(ワースト・コンタクト)ポルノ惑星のサルモネラ人間」 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171159 |- |エロチック街道 |1981.10.15 |中隊長/昔はよかったなあ/日本地球ことば教える学部/インタヴューイ/寝る方法/かくれんぼをした/遍在/早口ことば/冷水シャワーを浴びる方法/遠い座敷/また何かそして別の聴くもの/一について/歩くとき/傾斜/われらの地図/時代小説/ジャズ大名/エロチック街道 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171173 |- |串刺し教授 |1985.12.10 |旦那さま留守/日本古代SF考/通過儀礼/句点と読点/東京幻視/言葉と「ずれ」/きつねのお浜/点景論/追い討ちされた日/シナリオ・時をかける少女/退場させられた男/春/妻四態/風/座右の駅/遥かなるサテライト群/串刺し教授 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171227 |- |原始人 |1987.09.20 |原始人/アノミー都市/家具/おもての行列なんじゃいな/怒るな/他者と饒舌/抑止力としての12使徒/読者罵倒/不良世界の神話/おれは裸だ/諸家寸話/筒井康隆のつくり方/屋根 |文藝春秋→文春文庫 |ISBN 978-4167181079 |- |薬菜飯店 |1988.06.15 |薬菜飯店/法子と雲界/イチゴの日/秒読み/ヨッパ谷への降下/偽魔王/[[サラダ記念日#概要|カラダ記念日]] |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171289 |- |夜のコント・冬のコント |1990.04.20 |夢の検閲官/カチカチ山事件/魚/レトリック騒動/借金の清算/上へ行きたい/箪笥/巨人たち/鳶八丈の権/火星探検/のたくり大臣/「聖(セント)ジェームス病院」を歌う猫/冬のコント/夜のコント/最後の喫煙者/CINEMAレベル9/傾いた世界/都市盗掘団 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171326 |- |最後の伝令 |1993.01.25 |人喰人種/北極王/樹木法廷に立つ/タマゴアゲハのいる里/近づいてくる時計/九死虫/公衆排尿協会/あのふたり様子が変/禽獣/最後の伝令/ムロジェクに感謝/二度死んだ少年の記録/十五歳までの名詞による自叙伝/瀕死の舞台 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171357 |- |家族場面 |1995.02.25 |九月の渇き/天の一角/猿のことゆえご勘弁/大官公庁時代/十二市場オデッセイ/妻の惑星/家族場面/天狗の落し文 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171371 |- |ジャズ小説 |1996.06.10 |ニューオーリンズの賑わい/葬送曲/はかない望み/ソニー・ロリンズのように/ラウンド・ミッドナイト/懐かしの歌声/恐怖の代役/陰謀のかたち/チュニジアの上空にて/ムーチョ・ムーチョ/ボーナスを押えろ/ライオン |文藝春秋→文春文庫 |ISBN 978-4167181109 |- |邪眼鳥 |1997.04.25 |邪眼鳥/RPG試案-夫婦遍歴 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171388 |- |満腹亭へようこそ |1998.05.30 |あるいは酒でいっぱいの海/最高級有機質肥料/薬菜飯店/蟹甲癬/アル中の嘆き/顔面崩壊/肥満考/定年食 |北宋社 |ISBN 978-4894630185 |- |エンガッツィオ司令塔 |2000.03. |エンガッツィオ司令塔/乖離/猫が来るものか/魔境山水/夢/越天楽/東天紅/ご存知七福神/俄・納涼御摂勧進帳/首長ティンブクの尊厳/附・断筆解禁宣言 |文藝春秋→文春文庫 |ISBN 978-4167181123 |- |魚籃観音記 |2000.09.30 |魚籃観音記/市街戦/馬/作中の死/ラトラス/分裂病による建築の諸相/建物の横の路地には/虚に棲むひと/ジャズ犬たち/谷間の豪族 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171456 |- |細菌人間 ジュブナイル傑作集{{Efn|1960年代に発表された5つの短編「細菌人間」「10万光年の追跡者」「四枚のジャック」「W世界の少年」「闇につげる声」が収録されている。「闇につげる声」が新潮社からの全集4に収録されている以外は初収録。}} |2000.09. |細菌人間/10万光年の追跡者/四枚のジャック/W世界の少年/闇につげる声 |出版芸術社 |ISBN 978-4882931942 |- |天狗の落し文 |2001.07.30 |全356編+∞ |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4101171463 |- |壊れかた指南 |2006.04.27 |漫画の行方/余部さん/稲荷の紋三郎/御厨木工作業所/TANUKI/迷走録/建設博工法展示館/大人になれない/可奈志耶那/遠蘇魯志耶/優待券をもった少年/犬の沈黙/出世の首/二階送り/空中喫煙者/鬼仏交替/ショートショート集(虎の肩凝り/春の小川は/長恨/恐怖合体/おれは悪魔だ/秘密/便秘の夢/土兎/取りに来い/便意を催す顔)/狼三番叟/耽読者の家/店じまい/逃げ道 |文藝春秋→文春文庫 |ISBN 978-4167181161 |- |繁栄の昭和 |2014.09.29 |迷宮入りした殺人事件と謎の小人……………「繁栄の昭和」 女装の美少年が魔都・東京をさまよう………「大盗庶幾」 人工臓器を体内に入れた名探偵………………「科学探偵帆村」 新劇の老役者がミュージカルに挑戦?………「リア王」 古い屋敷にうごめく人間たち…………………「一族散らし語り」 華やかなパーティが終わると彼女は…………「役割演技」 筒井康隆、映画で大活躍!……………………「メタノワール」 愛妻の入院中、男は……………………………「つばくろ会からまいりました」 所詮この世は欲と色、男の野望渦巻く………「横領」 これぞショート・ショート!…………………「コント二題」 戦前の女優に魅了されて………………………「高清子とその時代」||文藝春秋 |文藝春秋→文春文庫 |ISBN 978-4163901268 |- |世界はゴ冗談 |2015.04.28 |ペニスに命中/不在/教授の戦利品/アニメ的リアリズム/小説に関する夢十一夜/三字熟語の奇/世界はゴ冗談/奔馬菌/メタパラの七・五人/附・ウクライナ幻想 |新潮社→新潮文庫 |ISBN 978-4103145318 |- |ジャックポット |2021.02.17 |漸然山脈/コロキタイマイ/白笑疑/ダークナイト・ミッドナイト/蒙霧升降/ニューシネマ「バブルの塔」/レダ/南蛮狭隘族/縁側の人/一九五五年二十歳/花魁櫛/ジャックポット/ダンシングオールナイト/川のほとり |新潮社 |ISBN 978-4-10-314534-9 |- |カーテンコール |2023.11.01 |深夜便/花魁櫛/白蛇姫/川のほとり/官邸前/本質/羆/お時さん/楽屋控/夢工房/美食禍/夜は更けゆく/お咲の人生/宵興行/離婚熱/武装市民/手を振る娘/夜来香/コロナ追分/塩昆布まだか/横恋慕/文士と夜警/プレイバック/カーテンコール/附・山号寺号 |新潮社 |ISBN 978-4-10-314536-3 |} === 小説(作品集・自選集) === * 『新宿祭 初期作品集』(1972年、立風書房) * 『デマ 実験小説集』(1974年、番町書房) * 『村井長庵 歴史・時代小説集』(1975年、番町書房) * 『笑うな ショート・ショート集』(1975年、徳間書店→新潮文庫 ISBN 978-4101171111) * 『くたばれPTA』(1986年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171197) * 『鍵―自選短編集』(1994年、角川ホラー文庫 ISBN 978-4041305201) * 『懲戒の部屋 自選ホラー傑作集1』(2002年、[[新潮文庫]] ISBN 978-4101171418) * 『驚愕の曠野 自選ホラー傑作集2』(2002年、新潮文庫 ISBN 978-4101171425) * 『[[最後の喫煙者]] 自選ドタバタ傑作集1』(2002年、新潮文庫 ISBN 978-4-10-117143-2) * 『傾いた世界 自選ドタバタ傑作集2』(2002年、新潮文庫 ISBN 978-4101171449) * 『近所迷惑 自選短篇集1 ドタバタ篇』(2002年、徳間文庫 ISBN 978-4198917050) * 『怪物たちの夜 自選短篇集2 ショート・ショート篇』(2002年、徳間文庫 ISBN 978-4198917401) * 『日本以外全部沈没 自選短篇集3 パロディ篇』(2002年、徳間文庫 ISBN 978-4198917654) * 『睡魔のいる夏 自選短篇集4 ロマンチック篇』(2002年、徳間文庫 ISBN 978-4198917944) * 『カメロイド文部省 自選短篇集5 ブラック・ユーモア未来篇』(2003年、徳間文庫 ISBN 978-4198918248) * 『わが愛の税務署 自選短篇集6 ブラック・ユーモア現代篇』(2003年、徳間文庫 ISBN 978-4198918590) * 『ポルノ惑星のサルモネラ人間 自選グロテスク傑作集』(2005年、新潮文庫 ISBN 978-4101171470) * 『ヨッパ谷への降下 自選ファンタジー傑作集』(2005年、新潮文庫 ISBN 978-4101171487) * 『日本以外全部沈没 パニック短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305225) * 『陰悩録 リビドー短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305256) * 『如菩薩団 ピカレスク短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305232) * 『夜を走る トラブル短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305249) * 『佇むひと リリカル短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305263) * 『くさり ホラー短篇集』(2006年、角川文庫 ISBN 978-4041305270) * 『出世の首 ヴァーチャル短篇集』(2007年、角川文庫 ISBN 978-4041305287) === 戯曲 === * 『スタア』(1973年、新潮社) * 『[[12人の浮かれる男|筒井康隆劇場 12人の浮かれる男]]』(1979年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171180) * 『ジーザス・クライスト・トリックスター』(1982年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171203) * 『筒井歌舞伎 影武者騒動』(1986年、角川書店 ISBN 978-4048760133→新潮文庫 ISBN 978-4101171265) * 『スイート・ホームズ探偵』(1989年、新潮社 ISBN 978-4103145189→新潮文庫 ISBN 978-4101171302) * 『[[大魔神]]』(2001年、徳間書店 ISBN 978-4198613488)※シナリオ === 童話・絵本・漫画など === * 『創作S・Fどうわ かいじゅうゴミイ』(1967年、盛光社) * 『創作SFえほん 地球はおおさわぎ』(1969年、盛光社)イラスト:[[横山隆一]] * 『三丁目が戦争です』(1971年、講談社)イラスト:[[永井豪]] *: 1969年発表『心狸学・社怪学』所収「優越感」の、視点を入れ替えた作品。 ** 三丁目が戦争です(洋泉社 ISBN 978-4896918021)イラスト:永井豪 ** 三丁目が戦争です([[青い鳥文庫]])イラスト:[[熊倉隆敏]] * 『筒井康隆全童話』(1976年、角川文庫 ISBN 978-4041305126) * 『ジャングルめがね』(1977年、小学館)イラスト:[[長尾みのる]] * 『イチ、ニのサン!』(1986年、河出書房新社 ISBN 978-4309723556)イラスト:ミハエル・リューバ * 『筒井康隆漫画全集』(2004年、実業之日本社)ISBN 978-4408612393 === 随筆・評論など === * 『乱調文学大辞典』(1972年、講談社→講談社文庫→角川文庫 ISBN 978-4041305171) * 『[[狂気の沙汰も金次第]]』(1973年、[[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]]→新潮文庫 ISBN 978-4101171036)イラスト:[[山藤章二]] : イラストの山藤は、筒井の顔を「あまりに男前なので表現出来ない」の注釈と共にのっぺらぼうに描き、以降定着する。 * 『やつあたり文化論』(1975年、河出書房新社→新潮文庫 ISBN 978-4101171098) * 『私説博物誌』(1976年、毎日新聞社→新潮文庫 ISBN 978-4101171104)イラスト:大竹雄介 * 『不良少年の映画史 PART1・2』(1979-81年、文藝春秋→文春文庫 ISBN 978-4167181055)。※単行本は2巻本、文庫本は全1巻。 * 『腹立半分日記』(1979年、実業之日本社→文春文庫→角川文庫 ISBN 978-4041305157) * 『みだれ撃ち涜書ノート』(1979年、集英社→集英社文庫 ISBN 978-4087505221) * 『着想の技術』(1983年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171234 kindle版、ISBN 4-10-117123-8 文庫) * 『言語姦覚』(1983年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122013216) * 『虚航船団の逆襲』(1984年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122014978) * 『玄笑地帯』(1985年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171210) * 『日日不穏』(1987年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122018181) * 『[[ベティ・ブープ]]伝 女優としての象徴 象徴としての女優』(1988年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122019522) * 『[[ガブリエーレ・ダンヌンツィオ|ダンヌンツィオ]]に夢中』(1989年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122025752)、表題は[[三島由紀夫]]論 * 『短篇小説講義』(1990年、[[岩波新書]]→増補版2019年 ISBN 978-4004317920) * 『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(1990年、文藝春秋→文春文庫 ISBN 978-4167181093) * 『幾たびもDIARY』(1991年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122029583) * 『電脳筒井線 朝のガスパールセッション』(全3巻、1992年、朝日新聞社) * 『文学部唯野教授の女性問答』(1992年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122028890) * 『本の森の狩人』(1993年、岩波新書 ISBN 978-4004302759) * 『断筆宣言への軌跡』(1993年、光文社 ISBN 978-4334052096) * 『筒井康隆の文藝時評』(1994年、河出書房新社→河出文庫 ISBN 978-4309404752) * 『笑犬樓よりの眺望』(1994年、新潮社→新潮文庫 ISBN 978-4101171364) * 『悪と異端者』(1995年、中央公論社→中公文庫 ISBN 978-4122032576) * 『脳ミソを哲学する』(1995年、講談社→講談社+α文庫 ISBN 978-4062564441) * 『わかもとの知恵』(2001年、[[金の星社]] ISBN 978-4323070209)画:[[きたやまようこ]] * 『文学外への飛翔 俳優としての日日』(2001年、小学館→小学館文庫) * 『笑犬楼の知恵 筒井康隆トークエッセー』(2002年、金の星社 ISBN 978-4323070292) * 『小説のゆくえ』(2003年、中央公論新社 ISBN 978-4120033827→中公文庫) * 『筒井康隆の現代語裏辞典「あ〜き」』(2003年、文源庫) * 『筒井康隆の現代語裏辞典「き〜こ」』(2004年、文源庫) * 『笑犬樓の逆襲』(2004年、新潮社 ISBN 978-4103145271→新潮文庫) : 「[[噂の眞相]]」連載時の『狂犬樓の逆襲』を改題{{Efn|『笑犬樓の逆襲』収録「昔『噂の真相』という雑誌があった」によれば、書名に『狂』の字を使うと各新聞から広告の掲載を拒否される可能性があったため、筒井はやむなく改題することにしたという(初出:『噂の眞相休刊記念別冊 追悼!噂の眞相』2004年4月)。}}。 * 『アホの壁』(2010年、新潮新書 ISBN 978-4106103506) * 『現代語裏辞典』(2010年、文藝春秋 ISBN 978-4163727905→文春文庫) * 『漂流 本から本へ』(2011年、朝日新聞出版 ISBN 978-4022508331→「読書の極意と掟」講談社文庫) * 『偽文士日碌』(2013年、角川書店 ISBN 978-4041104736→角川文庫) * 『創作の極意と掟』(2014年、講談社 ISBN 978-4062188043→講談社文庫) * 『誰にもわかるハイデガー 文学部唯野教授・最終講義』(2018年、河出書房新社 ISBN 978-4309248653→河出文庫)[[大澤真幸]]解説 * 『不良老人の文学論』(2018年、新潮社 ISBN 978-4103145332) * 『老人の美学』(2019年、[[新潮新書]] ISBN 978-4106108358) * 『活劇映画と家族』(2021年、[[講談社現代新書]]、ISBN 978-4065245507) === 共著・対談など === * 『SF教室』(1971年、ポプラ社)- 編著 日本SFの歴史、作家、作品紹介を筒井、海外を[[伊藤典夫]]、映像、漫画、用語解説を[[豊田有恒]]が担当。 * 『SF作家オモロ大放談』(1976年、いんなあとりっぷ社)<br />共著:[[小松左京]]・筒井康隆・[[星新一]]・[[大伴昌司]]・[[平井和正]]・[[矢野徹]]・[[石川喬司]]・[[豊田有恒]] ** おもろ放談(1981年、角川文庫) * 『空飛ぶ冷し中華』(1977年、住宅新報社)全日本冷し中華愛好会:編 * 『空飛ぶ冷し中華〈part2〉』(1978年、住宅新報社)全日本冷し中華愛好会:編 ** 共著:[[山下洋輔]]、筒井康隆、[[奥成達]]、[[平岡正明]]、[[坂田明]]、日比野孝二、[[河野典生]]、[[上杉清文]]、山口泰、[[伊達政保]]、舎人栄一、[[岡崎英生]]、瀬里なずな、小山彰太、池上比沙之、[[堀晃]]、[[黒鉄ヒロシ]]、[[赤瀬川原平]]、[[高信太郎]]、[[長谷邦夫]]、[[南伸坊]]、[[末井昭]]、[[長谷川法世]]、[[タモリ]]、[[吉峯英虎]]、[[赤塚不二夫]]、[[高平哲郎]]、[[朝倉喬司]] * 『定本ハナモゲラの研究』(1979年、講談社) ** 共著:[[赤瀬川原平]]・[[赤塚不二夫]]・[[朝倉喬司]]・[[糸井重里]]・[[上杉清文]]・[[及川正通]]・[[岡崎英生]]・[[奥成達]]・[[鏡明]]・[[加藤芳一]]・[[高信太郎]]・小山彰太・[[坂田明]]・[[高平哲郎]]・[[タモリ]]・中原仁・[[中村誠一 (ミュージシャン)|中村誠一]]・山口泰・[[山下洋輔]]・[[湯村輝彦]]・[[横田順彌]] * 『トーク8 筒井康隆対談集』(1980年、徳間書店→徳間文庫) ** 山下洋輔トリオ([[山下洋輔]]、[[森山威男]]、[[中村誠一 (ミュージシャン)|中村誠一]])、[[河野典生]]、[[吉行淳之介]]、[[荒巻義雄]]、[[中島梓]]、[[相倉久人]]+山下洋輔、[[岸田秀]]、山下洋輔 * 『[[日本語の世界]]10 日本語を生きる』(1985年、中央公論社)共著:[[井上ひさし]]、[[中村雄二郎]]、[[佐藤信夫]] * 『ユートピア探し 物語探し』(1988年、岩波書店)共著:[[大江健三郎]]、井上ひさし * 『突然変異幻語対談 汎フィクション講義』(1988年、朝日出版社→[[河出文庫]])共著:[[柳瀬尚紀]] * 『サイバー大魔王の襲撃―パソコン通信症候群のカルテ』(1993年、中央公論社)<br />電子掲示板『電脳筒井線』に参加した早川玄との共著 * 『脳みそを哲学する』(1995年、講談社)<br />共著:[[村上陽一郎]]・[[養老孟司]]・[[中村桂子]]・[[日高敏隆]]・[[森毅]]・[[根本順吉]]・[[軽部征夫]]・[[佐藤文隆]]・[[奥谷喬司]]・[[立花隆]] * 『筒井漫画涜本』(1995年、実業之日本社) * 『筒井康隆スピーキング 対談・インタビュー集成』(1996年、出帆新社 ISBN 978-4915497209) * 『筒井康隆かく語りき』(1997年、文芸社 ISBN 978-4887370197) * 『対談 笑いの世界』(2003年、朝日選書)共著:[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]] * 『笑いの力』(2005年、岩波書店)共著:[[河合隼雄]]、[[養老孟司]] * 『筒井漫画涜本 ふたたび』(2010年、実業之日本社) * 『筒井康隆 自作を語る』(2018年、早川書房→ハヤカワ文庫)聞き手・編:[[日下三蔵]] === 編集 === * 『夢からの脱走』(1969年、新風出版) * 『異形の白昼 現代恐怖小説集』(1969年、立風書房→集英社文庫→ちくま文庫) * 『12のアップルパイ』(1970年、立風書房→集英社文庫) * 『'71日本SFベスト集成』(1975年、徳間書店→徳間文庫→ちくま文庫) * 『'74日本SFベスト集成』(1975年、徳間書店→徳間文庫→ちくま文庫) * 『'73日本SFベスト集成』(1975年、徳間書店→徳間文庫→ちくま文庫) * 『'72日本SFベスト集成』(1976年、徳間書店→徳間文庫→ちくま文庫) * 『'60年代日本SFベスト集成』(1976年、徳間書店→徳間文庫→ちくま文庫) * 『'75日本SFベスト集成』(1976年、徳間書店→徳間文庫) * 『実験小説名作選』(1980年、集英社文庫) * 『いかにして眠るか』(1980年、光文社→光文社文庫) * 『ネオ・ヌルの時代』PART1-3(1985年、中公文庫) * 『[[日本の名随筆]]41 嘘』(1986年、作品社) * 『夢探偵「光る話」の花束』(1989年、光文社) * 『人間みな病気』(1991年、福武文庫) * 『パスカルへの道』(1994年、中公文庫) * 『21世紀文学の創造1 現代世界への問い』(2001年、岩波書店) * 『21世紀文学の創造3 方法の冒険』(2001年、岩波書店) === 監修 === * 写真小説 男たちのかいた絵(1996年、徳間書店)原作・監修。文章:花田秀次郎(※花田秀次郎は本作執筆の際、筒井康隆が名乗った筆名。徳間書店よりノベライズの依頼を受けたが、断筆中であったため筆名を用い、映画を見て筒井本人が書き上げた。本人曰く「おれ自分のゴーストライターしたことあるねん」とのこと。)<ref name="be-bop">「ビーバップ!ハイヒール:ゴーストライター 〜それ、実は私が書きました〜」([[朝日放送テレビ|朝日放送]]、2015年8月27日放送回)</ref> * 科学の終焉(おわり)(1997年、徳間書店)監修。著:[[ジョン・ホーガン]] 訳:[[竹内薫]] * 続・科学の終焉(おわり) 未知なる心(2000年、徳間書店)監修。著:[[ジョン・ホーガン]] 訳:[[竹内薫]] * 筒井版 [[悪魔の辞典]]〈完全補注〉(2002年、講談社→講談社+α文庫)[[アンブローズ・ビアス]]著。意訳。 * 眠気をあやつる本(2003年、PHP研究所)監修。編著:造事務所、横田美奈子 * 哲学の冒険(2004年、集英社インターナショナル)監修。著:マーク・ローランズ 訳:石塚あおい === 著作集 === * 『筒井康隆全集』(全24巻、1983年 - 1985年、新潮社) * 『筒井康隆コレクション』(全7巻、[[日下三蔵]]・編、出版芸術社) ** コレクションI 48億の妄想(2014年) ** コレクションII 霊長類 南へ(2015年) ** コレクションIII 欠陥大百科(2015年) ** コレクションIⅤ おれの血は他人の血(2016年) ** コレクションⅤ フェミニズム殺人事件(2016年) ** コレクションⅤI 美藝公(2017年) ** コレクションⅤII 朝のガスパール(2017年) *『筒井康隆全戯曲』(日下三蔵・編、全4巻、[[復刊ドットコム]]、2016‐2017年) === 外国語訳 === ==== 英訳 ==== * ''The Girl Who Leapt Through Time''(時をかける少女)David Karashima * ''The Maid''(家族八景)[[アダム・カバット]]訳 1989 (What the Maid Saw) * ''Salmonera Men on Planet Porno''(ポルノ惑星のサルモネラ人間)Andrew Driver 2008 * ''Paprika''(パプリカ)Andrew Driver 2009 * ''Hell''(ヘル)Evan Emswiler 2010 ==== フランス語訳 ==== * ''La traversée du temps''(時をかける少女)Jean-Christian Bouvier 1991 * ''Les Cours particuliers du professeur Tadano''(文学部唯野教授)Jeanne Cotinet 1996 * ''Le censeur des rêves''(夢の検閲官)Jean-Christian Bouvier ==== ドイツ語訳 ==== * ''Mein Blut ist das Blut eines anderen''(俺の血は他人の血)Otto Putz 2006 * ''Professor Tadano an der philosophischen Fakultaet''(文学部唯野教授)Stefan Wundt 2011 * ''Man spricht über mich''おれに関する噂)Shingo Shimada 1982 ==== 中国語訳 ==== * 『穿越时空的少女』丁丁虫 上海译文出版社 2007 * 『文学部唯野教授』何晓毅 人民文学出版社 2007 * 『梦侦探』(パプリカ)丁丁虫 上海译文出版社 2010 * 『爱的左边』(愛のひだりがわ) 伏怡琳 人民文学出版社 2009 ;韓国 * 인간동물원(心狸学・社会学)양억관 2004 * 웃지마(笑うな)김영주, 이관용 2006 * 시간을달리는소녀(時をかける少女)김영주 2007 * 파프리카(パプリカ)김영주2007 * 최후의끽연자 : 츠츠이야스타카자전뒤죽박죽걸작단편집(最後の喫煙者)이규원 2008 * 인구조절구역(銀齢の果て)장점숙 2010 * 부호 형사(富豪刑事)최 고은 2011 * 모나드 의 영역(モナドの領域)이 규원 2017 ;ロシア * ''Paprika''(パプリカ)Андрей Замилов 2012 * ''Преисподняя''(ヘル)С. Логачёв 2016 ;チェコ語 * ''Peklo''(ヘル)Anna Křivánková 2009 * ''Konec stříbrného věku''(銀齢の果て)Anna Křivánková 2011 * ''Paprika''(パプリカ)Anna Křivánková 2013 ;ベトナム語 * ''Cô gái vượt thời gian''(時をかける少女)Vũ Anh 2017 * ''Kẻ trộm giấc mơ''(夢の検閲官)Hà Thương Trần 2018 ==== その他の外国語訳 ==== * ''Otto scene di famiglia''(家族八景、伊語)M. C. Migliore * ''Hombres salmonera en el planeta porno''(ポルノ惑星のサルモネラ人間、西語)Jesús Carlos Álvarez Crespo * ''Estoy desnudo'' 西語 Jesús Carlos Álvarez Crespo * ''Paprika''(パプリカ、西語) Jesús Carlos Álvarez Crespo === その他 === ==== レコード ==== * デマ(1973年) * 家(1976年) * 筒井康隆文明(1978年) * THE INNER SPACE OF YASUTAKA TSUTSUI(1985年) ** A面:活動写真、I Surrender Dear、Everyone Says I Love You、ジャズ大名 ** B面:昔はよかったなあ(朗読:筒井康隆)、Smoke Rings *** 1983 - 1985年発売 新潮社「筒井康隆全集」全巻購入者特典のLPレコード 非売品(「筒井康隆全集」の全巻購入者が応募券を全巻分揃えて応募すると送られる)。後に、CD化され市販。 ==== 作曲 ==== * [[ジャズ大名]] * 活動写真 * 銀色の真昼 ==== カセットブック ==== * 筒井康隆大一座 ジーザス・クライスト・トリックスター(1984年 中央公論社)ISBN 4-12-001272-7 ** ジーザス・クライスト・トリックスター ――山にのぼりて笑え―― *** 昭和58(1983)年8月11日、12日 東京・日本都市センターホール公演より。 * 昔はよかったなあ,おもての行列,なんじゃいな,狸,顔面崩壊―筒井康隆大一座朗読会ライブ(1987年1月 新潮社「新潮カセットブック」T-1-1)ISBN 978-4108201057 ** A面:昔はよかったなあ(朗読:筒井康隆)、おもての行列なんじゃいな(朗読:筒井康隆) ** B面:狸(朗読:納谷六郎)、顔面崩壊(朗読:納谷六郎) *** 1986年11月13日 東京・新宿安田生命ホールでのライブ収録 * カラス エロチック街道(1987年2月 新潮社「新潮カセットブック」T-1-2)ISBN 978-4108201071 ** A面:カラス(朗読:納谷六郎)、エロチック街道(1)(朗読:筒井康隆) ** B面:エロチック街道(2)(朗読:筒井康隆) * 急流 関節話法(1987年3月 新潮社「新潮カセットブック」T-1-3)ISBN 978-4108201125 ** A面:急流(朗読:角野卓造)、関節話法(1)(朗読:角野卓造) ** B面:関節話法(2)(朗読:角野卓造) * 泣き語り性教育 一について(1987年4月 中央公論社「カセット劇場」) * ショートショート・フェスティバル(1987年6月 新潮社「新潮カセットブック」Y-4-1)ISBN 978-4108201217 ** A面:また何かそして別の聴くもの(リレー朗読:筒井康隆 納谷六郎 伊沢弘 上山克彦)、きつね(朗読:納谷六郎)、客(朗読:伊沢弘)、鏡よ鏡(朗読:上山克彦)、池猫(朗読:納谷六郎)、到着(朗読:伊沢弘)、猛烈社員無頼控(朗読:納谷六郎) ** B面:自動ピアノ(朗読:伊沢弘)、逆流(朗読:上山克彦)、傾斜(朗読:伊沢弘)、見学(朗読:上山克彦)、早口言葉(リレー朗読:筒井康隆 納谷六郎 伊沢弘 上山克彦)、原始人(朗読:筒井康隆) *** 1987年4月28日 兵庫県尼崎市つかしんホールでの「筒井康隆大一座」朗読会のライブ収録。(カセット収録の作品の一部分、又は、作品の全部は、何らかの理由によってライブ収録された音声は使われず、後でスタジオで録音された音声が編集により挿入されているものもある。) * 横車の大八 最初の混戦(1987年12月 新潮社「新潮カセットブック」T-1-5)ISBN 978-4108201361 ** A面:歓待(朗読:納谷六郎)、最初の混線(納谷六郎 奥村公延)、横車の大八(1)(筒井康隆 奥村公延) ** B面:横車の大八(2)(筒井康隆 奥村公延)、超能力(朗読:納谷六郎) * 機械(1988年)[[横光利一]]作品の朗読 * 筒井康隆ショートミステリー(1988年4月 TBSブリタニカ(阪急コミュニケーションズ)「TBSブリタニカSOUNDミステリー」)ISBN 978-4484886220 ** A面: ** B面: *** ミステリーゾーン(1986年、TBSラジオ)よりのカセットブック化。*収録作品は「佇むひと」「ジャップ鳥」「その情報は暗号」「さなぎ」「生きている脳」 * 誰にもわかるハイデガー(1990年10月 新潮社「新潮カセット講演」)ISBN 978-4108029019 ==== ビデオ ==== * 筒井康隆の21600秒(1990年代末に販売 JICビデオ) ** 1997年4月6日 12:00 - 18:00放送 PerfecTV! 278ch ドキュメンタリーチャンネル“地球の声”で放送された、長時間のドキュメント番組のビデオ化。(筒井康隆のインタビューや、筒井康隆との対談(鼎談)などや、イベントで披露された、筒井康隆による朗読での「乖離」、「エンガッツィオ司令塔」を収録。劇団BIG FACEによる「筒井ワールド4」の公演より、「最高級有機質肥料」の舞台放送、など) * エンガッツィオ司令塔 LIVE!!!(1997年11月27日発売 EMIミュージック・ジャパン 収録時間:90分) ** 1997年3月2日 東京・渋谷ビデオスタジオ第3スタジオから、「筒井康隆・衛星インターネットライブ」として、インターネット生中継放送された、筒井康隆などが「エンガッツィオ司令塔」を朗読した模様などを収録。(テレビ番組「筒井康隆の21600秒」よりからのビデオ化) * 乖離 LIVE!!!(1997年12月27日発売 EMIミュージック・ジャパン 収録時間:47分) ** 1997年1月24日 兵庫県・新神戸オリエンタル劇場で行われた「The Hurly-Burly Show 〜星降る夜の神戸〜」で、筒井康隆が自作の「乖離」の朗読などを収録。(テレビ番組「筒井康隆の21600秒」よりからのビデオ化) ==== デジタルブック ==== * 筒井康隆四千字劇場(1994年) PC-9800専用 ==== 単行本装丁 ==== * [[小松左京]]『骨』(1977年)[[小松左京]]直々の依頼により ==== iTunes Store オーディオブック ==== * [[日本以外全部沈没]]・問題外科・[[時をかける少女]]・[[最後の喫煙者]]・[[平行世界]]・[[文学部唯野教授]]・緑魔の町(いずれも2010年1月1日リリース) == 著書のメディア展開 == === 漫画 === * 東海道戦争(1969年)漫画:[[長谷邦夫]] * アフリカの爆弾(1975年)漫画:[[山上たつひこ]] * 混乱列島(1977年)漫画:[[永井豪]] * ハウスジャックナナちゃん(1977年)漫画:[[赤塚不二夫]] * アクション クライマックス 霊長類 南へ(1979年)漫画:[[古城武司]] * 筒井康隆大一座公演全記録 写真漫画 ジーザス・クライスト・トリックスター 山にのぼりて笑え(1982年)漫画:[[ひさうちみちお]] * [[富豪刑事]](1985年)漫画:[[関口シュン]] * 薬菜飯店(1994年)漫画:[[萩原玲二]] * [[パプリカ (小説)|パプリカ]](1995年 - 1996年)漫画:萩原玲二 * 筒井漫画涜本(1995年)漫画:[[相原コージ]]・[[とり・みき]]など 表紙:[[ナンシー関]] * [[七瀬ふたたび|NANASE]](2001年 - 2003年)漫画:[[山崎紗也夏|山崎さやか]] * [[パプリカ (小説)|パプリカ]](2003年)漫画:萩原玲二(1995年-1996年に描いたものに加筆) * [[時をかける少女]](2004年)漫画:[[ツガノガク]] * [[時をかける少女 (アニメ映画)|時をかける少女 TOKIKAKE]](2006年)漫画:[[琴音らんまる]] * ベトナム観光公社(2006年)漫画:[[石ノ森章太郎]](少年マガジン:1971年) * [[家族八景]](2007年 - 2008年)漫画:[[清原なつの]] * 東京のたそがれ(不明)漫画:[[深井国]] === テレビドラマ === * [[タイム・トラベラー]](1972年、NHK)<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=C0010471 番組エピソード CG技術&特撮で映像化【SFドラマ特集】-NHKアーカイブス]</ref> * [[中学生日記]]「廃塾令」(1978年、NHK) * 芝生は緑(1979年、毎日放送) * 七瀬ふたたび(1979年、NHK) * おとぎの部屋「ジャングルめがね」(1980年、NHK教育) * [[時をかける少女]](1985年、フジテレビ) * 家族八景(1986年、フジテレビ) * 筒井康隆の三人娘(1986年、日本テレビ) * さんまの「おれは裸だ」(1988年、よみうりテレビ) * [[サラダ記念日#概要|カラダ記念日]](1989年、TBS){{Efn|name="Anniversary"|2022年12月時点で有料動画配信サービスの[[Paravi]]で視聴が可能({{Cite web|和書|title=カラダ記念日{{!}}Paravi(パラビ)で見る |publisher=[[Paravi]] |url=https://www.paravi.jp/watch/17833 |accessdate=2022-12-29}})}} * [[世にも奇妙な物語]](1991年 - 、フジテレビ) ** 「ユリコちゃん」(1991年) ** 「おれに関する噂」(1991年) ** 「時の女神」(1994年) ** 「[[最後の喫煙者]]」(1995年) ** 「熊の木本線」(1996年) ** 「自殺悲願」(1997年) ** 「鍵」(2003年) ** 「夢の検閲官」(2009年) ** 「走る取的」(2014年) ** 「通いの軍隊」(2016年) * 月曜・女のサスペンス「フェミニズム殺人事件」(1991年、テレビ東京) * [[時をかける少女]](1994年、フジテレビ) * 七瀬ふたたび(1995年 - 1996年、フジテレビ)[[木曜の怪談]] * 怪物たちの夜(1997年、テレビ朝日)「幻想ミッドナイト」第二夜。 * 七瀬ふたたび(1998年、テレビ東京) * [[時をかける少女]](2002年、TBS)「[[モーニング娘。]]新春!LOVEストーリーズ」第3話 * [[富豪刑事 (テレビドラマ)|富豪刑事]](2005年、テレビ朝日) * [[富豪刑事デラックス]](2006年、テレビ朝日) * 七瀬ふたたび(2008年、NHK[[ドラマ8]]) * 家族八景 Nanase, Telepathy Girl's Ballad(2012年、[[MBSテレビ|毎日放送]]) * [[時をかける少女]](2016年、日本テレビ) === テレビアニメ === * [[富豪刑事 Balance:UNLIMITED]](2020年、フジテレビ) === ラジオドラマ === * 文芸劇場(197*年 - 、NHKラジオ第1放送 毎週土曜日 21:05 - 22:00 他) ** 「幻想の未来」(1973年7月14日)(再放送 1973年10月7日 **:** - **:**「文芸劇場」NHKラジオ第1放送、1988年9月25日 **:** - **:**「ラジオ名作劇場」NHKラジオ第2放送) *** 脚色:[[山元清多]] 琵琶:押田旭窈 出演:[[伊藤牧子]] [[梅野泰靖]] [[里見京子]] 三宅康夫 他 ** 「ヒストレスヴィラからの脱出」(1978年7月28日)(再放送 1978年11月5日 17:05 - 18:00) *** 脚色:石堂淑朗 出演:山本紀彦 他 * [[音の本棚]](1976年 - 1979年、FM東京 毎週月曜日 - 金曜日 21:25 - 21:40)*放送時期により、番組の放送時間(放送される時間も)が変動していた可能性あり。 ** 「筒井康隆短編集」(1978年4月17日 - 21日)脚色:田沼雄一 出演:**** *** 第1話「バブリング創世記」(1978年4月17日) *** 第2話「マグロマル」(1978年4月18日) *** 第3話「アフリカの爆弾」(1978年4月19日) *** 第4話「わが愛の税務署」(1978年4月20日) *** 第5話「ヒノマル酒場」(1978年4月21日) ** 「富豪刑事」(1979年6月13日 - 6月15日) *** 脚色:小野勝也 出演:[[小池朝雄]] [[仲谷昇]] 他 * ラジオSFコーナー(19**年 - 、NHKラジオ第1放送 月曜日 - 金曜日 21:05 - 21:20)*放送時期により、番組の放送時間(放送される時間も)が変動していた可能性あり。 ** 怪物たちの夜/あるいは酒でいっぱいの海(1979年7月20日) * ラジオ劇場(198*年 - 、NHKラジオ 毎週*曜日 **:** - **:**) ** 「ジャズ大名」(1982年1月9日 **:** - **:**)(再放送 1982年8月15日 **:** - **:**「ラジオ劇場」NHKラジオ第1放送、1990年9月10日 **:** - **:**「ラジオ名作劇場」NHKラジオ第1放送、2008年8月31日(土)23:15-00:15「ラジオドラマ・アーカイブス」 NHKラジオ第1放送) *** 脚色:[[竹内銃一郎]] 演出:大沼悠哉 音楽:山下洋輔 音楽演奏:筒井康隆 山下洋輔 他 出演:[[立川光貴]] [[由利徹]] [[石田太郎]] [[佐藤B作]] 他 * ふたりの部屋(198*年 - 1985年、NHK-FM 月曜日 - 金曜日 22:45 - 23:00) ** 「近未来物語」(1983年12月19日 - 23日)(再放送:1984年12月17日 - 21日(再放送時の番組冒頭に、初回放送日が紹介された))脚色:能勢紘也 出演:[[ケーシー高峰]] [[岡江久美子]] [[及川ヒロヲ]] *** 第1回「ゲゼルシャフト」(1983年12月19日)(再放送:1984年12月17日) *** 第2回「サディズム」(1983年12月20日)(再放送:1984年12月18日) *** 第3回「条件反射」(1983年12月21日)(再放送:1984年12月19日) *** 第4回「未来都市」(1983年12月22日)(再放送:1984年12月20日)*オランダ国際放送協会主催 1984年度 ゴールデン・ウィンドミル賞 ラジオ番組コンクール シルバー賞受賞作品(再放送時、番組冒頭で紹介された) *** 第5回「ワースト・コンタクト」(1983年12月23日)(再放送:1984年12月21日) * [[ラジオ図書館]](1981年 - 1996年、TBSラジオ 毎週月曜日 20:00 - 21:00 など ※放送時期により放送曜日、時間は変動)* 55分番組 ** 「筒井康隆の日本の歴史〜竹中直人一人芝居」(1983年9月26日) *** 脚色:宮沢明夫 演出:戸田郁夫 出演:[[竹中尚人]] ** 「五郎八航空」(1984年7月2日) *** 脚色:山元清多 演出:北山雄一郎 出演:[[草野大吾]] [[朝比奈尚行]] [[斉藤晴彦]] 小篠一成 [[村松克己]] [[野村昭子]] 吉田重幸 ** 「筒井康隆特集」(1986年4月、5月) *** 第1回「経理課長の放送」(1986年4月13日) **** 脚色:山元清多 演出:岩沢聡 出演:朝比奈尚行 斉藤晴彦 岸田清子 劇団 時々自動 [[五味陸仁]](当時:TBSアナウンサー) *** 第2回「ワイド仇討ち」(1986年4月20日) **** 脚色:桃原弘 演出:[[川戸貞吉]] 出演:[[近石真介]] [[矢野宣]] [[今福將雄]] [[大塚道子]] [[原田清人]] 藤麻美 草野大悟 五味陸仁(当時:TBSアナウンサー) *** 第3回「短編3話」第1話「YAH!」第2話「童話 地球はおおさわぎ」 第3話「俺に関する噂」(1986年4月27日) **** 脚色:津川泉 演出:清水昌男 出演:[[秋野太作]] [[大竹宏]] [[中平良夫]] [[藤田淑子]] [[唐沢潤]] [[八奈見乗児]] [[青野武]] [[浪川大輔]] [[藤枝成子]] 五味陸仁(当時:TBSアナウンサー) *** 第4回「走る取的」(1986年5月4日) **** 脚色:佐久間隆 演出:杉浦利重 出演:[[佐々木敏]] [[丸岡奨詞]] [[柳川慶子]] 高間智子 ** 「筒井康隆短編集」(1991年6月2日) *** 第1話「信仰性遅感症」第2話「わが家の戦士」 **** 脚色:[[吉田桃子]] 演出:佐藤つかさ 出演:青野武 [[戸田恵子]] [[古川登志夫]] [[鈴木富子]] [[遠藤晴]] [[緑川光]] ** 「筒井康隆作品集」(1993年5月2日) *** 第1話「最後の伝令」第2話「瀕死の舞台」 **** 脚色:山元清多 演出:北山雄一郎 出演:斉藤晴彦 村松克己 服部吉次 長谷透 [[福原一臣]] 新井純 小篠一成 田村義明 岩井ひとみ 内沢雅彦 木野本啓 桐谷夏子 横田桂子 ** 「筒井康隆作品集」(1993年8月15日) *** 第1話「老境のターザン」第2話「通いの軍隊」 **** 脚色:山元清多 演出:北山雄一郎 出演:斉藤晴彦 村松克己 小篠一成 新井純 服部吉次 長谷透 木野本啓 横田桂子 花崎攝 田村義明 内沢雅彦 岩井ひとみ * ミステリーゾーン(1986年 - 、TBSラジオ 毎週月曜日 - 金曜日 **:** - **:**)*15分番組(当時の、夜のワイド番組内のコーナーなどで放送) ** 「[[講談社文庫]]ミステリー傑作選」筒井康隆 作「ウィークエンド・シャッフル」より(1986年**月**日 - **日放送)脚色:山元清多 音楽:沢田信男 出演:[[佐藤慶]] [[樋浦勉]] 新井純(※1988年4月「TBSブリタニカSOUNDミステリー 筒井康隆ショートミステリー」として市販された。) *** 「佇む人」(1986年**月**日) *** 「ジャップ鳥(1986年**月**日) *** 「その情報は暗号」(1986年**月**日) *** 「さなぎ」(1986年**月**日) *** 「生きている脳」(1986年**月**日) === 映画 === * 俺の血は他人の血(1974年)監督:[[舛田利雄]] * 二人でお茶を(1979年)監督:[[早川光]] * 素敵なあなた(1980年)監督:早川光 * スターダストライジング(1980年)監督:早川光 * 歪み-SCREW(1980年)監督:藤森潤 * [[ウィークエンド・シャッフル (小説)#映画|ウィークエンド・シャッフル]](1982年)監督:[[中村幻児]] *[[俗物図鑑#映画|俗物図鑑]](1982年)監督:[[内藤誠]] * [[時をかける少女 (1983年の映画)|時をかける少女]](1983年)監督:[[大林宣彦]] * 家族八景(1984年)監督:内藤誠 * [[ジャズ大名]](1986年)監督:[[岡本喜八]] * スタア(1986年)監督:内藤誠 * [[文学賞殺人事件 大いなる助走]](1989年)監督:[[鈴木則文]] * 男達の描いた絵(1990年)監督:[[友松直之]] * 怖がる人々(1994年)監督:[[和田誠]]、オムニバス映画。第3話「乗越駅の刑罰」、第5話「五郎八航空」 * 男たちのかいた絵(1996年)監督:[[伊藤秀裕]] * [[時をかける少女]](1997年)監督:[[角川春樹]] * [[わたしのグランパ]](2003年)監督:[[東陽一]] * [[時をかける少女 (アニメ映画)|時をかける少女]](2006年)監督:[[細田守]] * [[日本以外全部沈没]](2006年)監督:[[河崎実]] * [[パプリカ (アニメ映画)|パプリカ]](2006年)監督:[[今敏]] * 七瀬ふたたび(2010年)監督:[[小中和哉]] === インターネット配信ドラマ === * 筒井康隆劇場「エロティックな総理」(2006年、GyaO) ** 「信仰性遅感症」「だばだば杉」「おれは裸だ」「活性アポロイド」 ** 出演:筒井康隆 [[さとう珠緒]] [[伊藤あい]] [[森下千里]] [[小野真弓]] [[高樹マリア]] === 舞台 === * 「筒井ワールド」BIG FACE 1995年1月20日 - 22日 新宿シアター・モリエール ** 「言葉と〈ずれ〉」「陰脳録」「うるさがた」「団欒の危機」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:伊沢弘 上山克彦 桜山優 斉藤勝 渡辺真砂子 他 * 「筒井ワールド 2」BIG FACE 1995年10月13日 - 17日 [[渋谷ジァン・ジァン]] ** 「信仰性遅感症」「熊の木本線」「通いの軍隊」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:石原澄雄 村井理恵 勝田治美 桜岡あつこ 工藤順矢 他 * 「筒井ワールド 3」BIG FACE 1996年7月12日 - 13日 アメリカ・ロサンゼルス全米日系人博物館 1996年8月1日 - 5日 新宿シアター・モリエール ** 「ジス・イズ・ジャパン」「走る男」「最悪の接触(ワースト・コンタクト)」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:藤田みどり 松尾智昭 二反田雅澄 伊藤結加 小山剛志 他 * 「筒井ワールド 4」BIG FACE 1997年2月5日 - 11日 両国シアターX ** 「座敷ぼっこ」「こぶ天才」「懲戒の部屋」「最高級有機質肥料」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:千田隼生 佐藤昇 吉宮君子 名倉右喬 津川友美 他 * 「筒井ワールド 5」BIG FACE 1997年8月18日 - 24日 両国シアターX ** 「ブルドッグ」「改札口」「発明後のパターン/姉弟/傷ついたのは誰の心」「断末魔酔狂地獄」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:吉見絹 小池浩司 山崎カカト 小松さとる 他 * 「筒井ワールド コマーシャル・サーカス'98」 BIG FACE 1998年1月13日,15日 新宿シアター・モリエール ** 「最悪の接触(ワースト・コンタクト)」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:伊沢弘 上山克彦 鈴木歩己 坂下しのふ 鹿嶋優子 他 * 「筒井ワールド 6」BIG FACE 1998年2月4日 - 10日 両国シアターX ** 「さなぎ」「おれは裸だ」「ウィークエンド・シャッフル」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:倉田知美 並木愛枝 角田文 星野史帆 野原・S・ひろみ 他 * 「筒井ワールド 7」BIG FACE 1999年2月24日 - 3月2日 両国シアターX ** 「エンガッツィオ司令塔」「天の一角」「風」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:納谷悟朗 白石奈緒美 朝本紗ゆり つきよな照世 上世博及 他 * 「筒井ワールド 8」BIG FACE 1999年8月25日 - 31日 両国シアターX ** 「おれに関する噂」「かゆみの限界」「ヒノマル酒場」 *** 出演:藍ひとみ 松尾智昭 光岡湧太郎 妹尾青洸 花村宗冶 他 * 「筒井ワールド 9」BIG FACE 2000年2月23日 - 29日 両国シアターX ** 「走る取的」「老境のターザン」「妻四態」「間接話法」 *** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:桜山優 谷田川さほ 吉見絹 風間竜一 並木秀介 他 * 「筒井ワールド FINAL」BIG FACE ** 「第1ラウンド」2000年8月2日 - 6日 両国シアターX *** 「人間狩り」「おれは裸だ」「夢の検閲官」 ** 「第2ラウンド」2000年8月9日 - 13日 両国シアターX *** 「座敷ぼっこ」「最悪の接触(ワースト・コンタクト)」「熊の木本線」 ** 「第3ラウンド」2000年8月16日 - 20日 両国シアターX *** 「信仰性遅感症」「ショート・ショート」「ウィークエンド・シャッフル」 ** 「第4ラウンド」2000年8月23日 - 27日 両国シアターX *** 「通いの軍隊」「陰脳録」「ヒノマル酒場」 ** 「大阪公演」2000年9月8日 - 10日 大阪HEPHALL *** 「陰脳録」「通いの軍隊」「ヒノマル酒場」 ** 脚本、演出:伊沢弘 監修:川和孝 出演:筒井康隆 納谷悟朗 永井一郎 紅萬子 片岡貴弘 亀山忍 高田祐司 他 総勢90名 === コンピュータゲーム === * [[四八(仮)]] - 一部シナリオ書き下ろし。自身も俳優としてゲーム出演。[[ファミ通]]ロングインタビュー掲載。 * 『筒井康隆のケンタウルスの殺人』[[CSK]]、1984年、PC8801シリーズ。 === インターネット 音楽(音声)ダウンロード === * iTunes Store などの音楽ダウンロードサイトで、いくつかの朗読作品などが、有料でダウンロードできる。 == 出演 == === テレビ === * [[23時ショー]](1971年、NETテレビ)[[加賀まりこ]]とともに司会 * [[部長刑事]] 「もうひとつの動機」(1979年、朝日放送) * [[すばらしき仲間]](1980年、中部日本放送)[[山下洋輔]]、[[タモリ]]とともに出演 * [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](1985年7月) * [[部長刑事]] 「刑事たちのロンド」(1983年、朝日放送) * [[森田一義アワー 笑っていいとも!]](1985年7月11日、2001年5月14日、フジテレビ)テレフォンショッキング ゲスト出演。 * [[朝まで生テレビ!]](テレビ朝日 1993年10月14日放送「激論!表現の自由と差別」ゲストパネラー * 夢の帰る場所(1994年、関西テレビ) * [[ボクたちのドラマシリーズ#時をかける少女|時をかける少女]](1994年、フジテレビ)寺の住職 役{{Efn|役作りのため、髪を短く切った。}} * [[ソリトン 野望山馳参寺!]](1994年 - 1995年、NHK教育)- 司会 * [[世にも奇妙な物語]] ** 「最後の喫煙者」(1995年、フジテレビ) - 日下部安隆{{Efn|自身の原作で、役も作家役である。}} ** 「遠すぎた男」(2003年、フジテレビ) - 医者 役 ** 「日の出通り商店街いきいきデー」(2008年) - 医師 役 * 涙たたえて微笑せよ-明治の息子・島田清次郎(1995年、NHK) * [[十津川警部シリーズ (渡瀬恒彦)|十津川警部シリーズ8 伊豆海岸殺人ルート]](1995年、TBS)水野久明 役 * 小石川の家(1995年、テレビ東京) * [[木曜の怪談]] 七瀬ふたたび(1995年 - 1996年、フジテレビ) * 響子(1996年、TBS) * [[ドラマ新銀河]] [[結婚はいかが?]](1996年、NHK) * 女優X─伊沢蘭奢の生涯(1996年、TBS)[[森鷗外]] 役 * ゆまにて・筒井康隆の21600秒(1997年4月6日 12:00 - 18:00、PerfecTV! 278ch ドキュメンタリーチャンネル“地球の声”)(1997年6月14日 2:00 - 8:00 リピート放送)構成・演出:牛山真一 製作:地球の声 小椋事ム所 JIC ※パーフェクTV '97パーフェク大賞 企画制作賞受賞。(後に、「筒井康隆の21600秒」は、ビデオ化され市販(JICビデオ)。別に朗読部分は、1997年に「エンガッツィオ司令塔 LIVE!!!」(1997年11月27日発売 EMIミュージック・ジャパン 収録時間:90分)、「乖離 LIVE!!!」(1997年12月27日発売 EMIミュージック・ジャパン 収録時間:47分)としてビデオ化され市販。) ** 6時間のドキュメンタリー番組。(途中CMなどが入り(「PerfecTV!」、「ドキュメンタリーチャンネル“地球の声”」)、実質は約5時間半) *** 神戸の自宅でのインタビュー。(冒頭、画面下に、経歴などを字幕でスクロール表示)(執筆について、パソコン、インターネットの導入、自身のホームページのことなど(書斎にて)。)(私蔵のビデオテープより榎本健一主演の「孫悟空」の一部音声のみ(テレビ画面は権利関係などにより映されていなかった)(テレビ、ビデオデッキが置かれている和室にて)。)(約9分強) *** 番組タイトル「筒井康隆の21600秒」 題字:筒井康隆 *** 1997年1月24日 兵庫県・新神戸オリエンタル劇場での「The Hurly-Burly Show 〜星降る夜の神戸〜」より「筒井康隆&小曽根実トリオ」によるクラリネット演奏、曲目「Rose Room」の一部、自作「乖離」の筒井本人による朗読。(リハーサル、バンド演奏部分は、約5分強 朗読部分は、約34分)(合計約40分) *** 筒井康隆の略歴。(誕生から子供時代〜社会人時代の写真数枚。「NULL」創刊号の表紙や目次の画像、初期出版物の表紙の画像数点、家族との写真、自筆原稿の一部の映像、筒井康隆大一座の写真、白石加代子との写真など。)(約4分半) *** [[柳美里]]、[[大岡玲]]との「筒井康隆対談」。(実質は「鼎談」)(約43分) *** 筒井本人も観に行った、1997年2月5日収録の両国シアターXでの劇団BIG FACEによる「筒井ワールド4」の公演より(公演は同年2月5日〜11日)、「座敷ぼっこ」「こぶ天才」「懲戒の部屋」の一部の模様、同公演の構成・演出の伊沢弘のインタビュー、公演前のロビーでのサイン即売会の模様。(約9分弱)「最高級有機質肥料」の舞台放送(約29分)。(上演後 出演者全員の舞台挨拶後、「断筆を解き、執筆を再開します。筒井康隆」の垂れ幕が降ろされる)(合計約35分) *** 1997年2月5日 東京・六本木 Berホワイトにて 断筆宣言解禁を祝って親しい友人、出版関係者らとの集まりの模様。(山下洋輔の挨拶、筒井のクラリネットの公開練習の模様(山下作の楽曲)の一部など)(約5分) *** 山下洋輔との「筒井康隆対談」。(約33分半) *** 1997年3月2日 東京・渋谷ビデオスタジオ第3スタジオからの、衛星回線なども使用してのインターネットを使った生ライブ放送、「PerfecTV! Presents! 筒井康隆・衛星インターネットライブ」(演出:[[手塚眞]] 主催:PerfecTV! Presents! 制作:JIC「地球の声」 神戸セントラル開発 小椋事ム所)(インターネットを使っての生ライブ放送「衛星インターネットライブ」と同時に録画もされる 開場:15:30 開演:16:00)での「エンガッツィオ司令塔」を自身で朗読し(相手役:[[麻生えりか]])生中継した時の模様(衛星アンテナの設置やインターネットでの送信の準備、リハーサルなどの模様、約5分強。朗読、約53分)。映画「俗物図鑑」(手塚眞の出演部分)、映画「スタア」(筒井康隆の出演部分)の一部映像(約2分半)。同「衛星インターネットライブ」での[[内藤誠]]、手塚眞との「インターネットライブ 筒井康隆対談」。(前半(25分強)は、内藤誠と、後半(31分強)は手塚眞を交えての鼎談。(約57分))(合計約118分)(当日のインターネットライブには、海外も含め約2万人がアクセスしたとのこと(番組中のインポーズの文字情報より。)) *** [[中村雄二郎]]との「筒井康隆対談」。(約38分) * 京都夜の祇園殺人事件(1997年、フジテレビ) * 怪物たちの夜(1997年、テレビ朝日)「幻想ミッドナイト」第二夜。 * 町(1997年、フジテレビ) * [[ニュースの女]](1998年、フジテレビ) * [[めぐり逢い (1998年のテレビドラマ)|めぐり逢い]](1998年、TBS)中田道夫 役 * [[ガラスの仮面]](1998年 - 1999年、テレビ朝日)速水英介 役 * 七瀬ふたたび(1998年、テレビ東京)漁連平 役 * 勇気をだして(1998年、TBS) * 昼下がり・社宅奥様探偵団(1998年、フジテレビ) * [[別れたら好きな人 (漫画)#1999年のテレビドラマ版|別れたら好きな人]](1999年、テレビ東京) * [[蘇える金狼#テレビドラマ|蘇える金狼]](1999年、日本テレビ)宝竜会会長 田島一彦 役 * 同窓会へようこそ(1999年、TBS)20年前のクラスの担任教師 役 * [[作家 小日向鋭介の推理日記]](1999年、テレビ朝日)文学賞の選考委員長 役 * [[イマジン (テレビドラマ)|イマジン]](2000年、フジテレビ) * [[学校の怪談 (テレビドラマ)|学校の怪談]] 春の呪いスペシャル 第1話「恐怖心理学入門」(2000年、フジテレビ)田中教授 役 * [[ママまっしぐら!]](2000年、TBS)渡辺一途 役 * ここだけの話し「思い出せない!」(2001年、テレビ朝日) * [[フードファイト]] スペシャル 香港死闘編(2001年、日本テレビ)香港マフィアの親玉 王富城(ワン・フーシン)役 * 百萬男(2001年、フジテレビ)謎の人物 百萬男 役 * 社宅奥様探偵団2(2001年、TBS) * [[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]](2001年、NHK大河ドラマ)[[円覚寺]]開祖 [[無学祖元]] 役 * [[ママまっしぐら!]]2(2001年、TBS)渡辺一途 役 * グズ茂検事の犯罪捜査(2002年、テレビ東京) * [[陰陽師☆安倍晴明〜王都妖奇譚〜]](2002年、フジテレビ)[[賀茂忠行]] 役 * 血脈(2003年、テレビ東京) * [[海猿#テレビドラマ|海猿2〜炎の海に挑む海上保安官物語]](2003年、NHK) * [[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜]](2003年 - 、フジテレビ)[[荒俣宏]]の代わりに数回出演 * [[てるてる家族]](2003年 - 2004年、NHK)宝塚音楽学校講師 役 * [[火曜サスペンス劇場]]・箱根湯河原温泉交番(2004年、日本テレビ)小説家・今出川龍之介 役 * [[新しい風 (テレビドラマ)|新しい風]](2004年、TBS)東都新聞会長 藤森信介 役 * [[富豪刑事 (テレビドラマ)|富豪刑事]](2005年、テレビ朝日)瀬崎龍平 役 * [[赤い運命]](2005年、TBS)河野総一郎 役 * [[ビーバップ!ハイヒール]](2005年 - 2020年、[[朝日放送テレビ]])主に関西地区で放送 * [[新・京都迷宮案内3の登場人物|新・京都迷宮案内3]] 第2話「出来すぎたアリバイ! 消えた殺人犯」(2006年、テレビ朝日)筒井康隆 役 * [[芋たこなんきん]](2006年、NHK)千葉龍太郎 役{{Efn|出演時に口ひげを剃り落とした。}} * [[慶次郎縁側日記]] 第3シリーズ 第4話「蜩(ひぐらし)」(2006年、NHK) * 堂々現役〜巨匠からのメッセージ 第18回(2009年9月5日 20:00 - 20:55、BSフジ)インタビュー番組 ※同年9月、10月に数回、2010年にもリピート放送あり * [[世界を変える100人の日本人! JAPAN☆ALLSTARS]] (2008年 -2010年、テレビ東京) * [[この日本人がスゴイらしい。Brand New Japan]](2010年 - 2011年、テレビ東京) === ラジオ === * 筒井康隆のOIL SELLER HOUR(1995年~1996年頃、[[Kiss-FM KOBE]])<ref>http://www.media-forum-japan.com/abo03.html#1996</ref> === インターネット配信ドラマ === * 筒井康隆劇場「エロティックな総理」(2006年、GyaO) === 映画 === * [[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]](1966年、監督:[[山本暎一]])女奴隷市の野次馬 役(声の出演) * スタア(1986年、監督:[[内藤誠]])地震研究所長 犬神博士 役 * [[文学賞殺人事件 大いなる助走]](1989年、監督:[[鈴木則文]])文壇バーで怒鳴り散らすSF作家 役 * 怖がる人々 第2話「吉備津の釜」(1994年、監督:[[和田誠]])会社の男A 役 * 樹の上の草魚(1997年、監督:石川淳志)池貝伸一 役 * [[双生児 (1999年の映画)|双生児 GEMINI]](1999年、監督:[[塚本晋也]])大徳寺茂文 役 * [[白痴 (1999年の映画)|白痴]](1999年、監督:[[手塚眞]])メディアステーション編成部長 役 * [[金髪の草原]](2000年、監督:[[犬童一心]])(声の出演) * [[死者の学園祭]](2000年、監督:[[篠原哲雄]])手塚和彦 役 * ひっとべ(2001年、監督:[[福田哲也]])石井さん 役 * STACY(2001年、監督:[[友松直之]])犬神博士 役 * [[Jam Films]] 第3話「コールドスリープ」(2002年、監督:[[飯田譲治]]) * [[欲望 (2005年の映画)|欲望]](2005年)監督:[[篠原哲雄]] * [[エリ・エリ・レマ・サバクタニ]](2005年、監督:[[青山真治]])ミヤギ 役 * [[メゾン・ド・ヒミコ]](2005年、監督:犬童一心)(声の出演) * [[日本以外全部沈没]](2006年、監督:[[河崎実]])酒場の男 役 * [[親父 (映画)|親父]](2007年、監督:[[千葉真一]]・井出良英)山城組長 役 === 舞台 === * 筒井康隆大一座・旗揚げ公演『ジーザス・クライスト・トリックスター』(1982年)主演 * 同『ジーザス・クライスト・トリックスター』全国巡演(1983年) * 同『人間狩り』(1984年) * 同『スタア』(1985年) * 同『スタア』新神戸オリエンタル劇場2周年記念公演(1990年) * 劇書房『[[白石加代子]]・筒井康隆二人芝居』全国巡演(1995年) * 『[[かもめ (チェーホフ)|かもめ]]』[[蜷川幸雄]]演出 スタジオコクーン(1999年)トリゴーリン 役 * [[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラビンスキー]]『[[兵士の物語]]』紀伊国屋パフォーマンス(1999年) * 『[[そして誰もいなくなった]]』[[山田和也]]演出 アートソフィア(2000年)主演 * 筒井ワールドファイナル「ヒノマル酒場」シアターX(2000年) * 『[[近代能楽集]]』[[蜷川幸雄]]演出 さいたま芸術劇場ほか(2000年) * 同『近代能楽集』再演 ロンドン公演/シアターコクーンほか(2001年) * [[向田邦子]]名作劇場『冬の運動会』[[久世光彦]]演出 [[中島丈博]]脚本 新橋演舞場(2001年) * 『[[検察側の証人]]』山田和也演出 ル・テアトル銀座、大阪・近鉄劇場(2002年) === 劇場アニメ === * [[パプリカ (アニメ映画)|パプリカ]](2006年) === CM === * [[Apple|Apple Computer]]([[Macintosh]])(1995年)[[夏目漱石|「マック夏目」]]役。 * [[カタログハウス]]「通販生活」(1996年) * [[天下一品]](1996年)ナレーションは[[中山千夏]]。 * [[サントリー]]・[[モルツ]](1999年)当初、筒井は声のみの出演{{Efn|画面上での筒井は、2頭身にデフォルメされたアニメーション、本に載っている写真、コースターに描かれた似顔絵で描写されていた。(筒井『笑犬樓の逆襲』より『サントリー・モルツのCF一年契約これほど難しい(初出・『噂の眞相』1999年3月号)』)}}。『モルツ裁判編』で[[唐沢寿明]]・[[鈴木京香]]と共演。筒井は裁判官役。このCMに出た頃あたりから眼鏡をかけるのを止める。 * [[みずほインベスターズ証券]](2000年) * [[サントリー]]・[[なっちゃん]](2008年)[[堀北真希]]と共演。 * [[みずほ銀行]]・[[宝くじ]]・[[ナンバーズ (宝くじ)|ナンバーズ]](2012年)[[香取慎吾]]と共演。 * [[日本ハム]]・美ノ国(2014年)[[天海祐希]]と共演。 == 関連人物 == * [[ロジャー・パルバース]] - 筒井を「[[ユダヤ人]]以上にユダヤ的」と評する。 * [[山藤章二]] - 筒井の作品の表紙絵や挿絵を多く手掛ける[[イラストレーター]]。表紙絵や挿絵などで筒井の似顔絵を描く場合(例・『笑犬樓よりの眺望』の表紙カバー)、美男子過ぎて描けないという理由で(また表情がないほうが筒井の毒や悪意を表現できる、という理由で)目・鼻・口を省略し「[[のっぺらぼう]]」にしている{{Efn|但し、のっぺらぼうの顔にサングラスをかけている『最後の伝令』の表紙絵や、顔に『筒』の文字が書かれている『筒井康隆かく語りき』の表紙のような例外もある。}}。[[夕刊フジ]]に筒井が連載していたエッセイ「狂気の沙汰も金次第」のイラストを山藤が担当した時より続いている。 * [[真鍋博]] - 山藤同様に筒井の作品の挿絵や表紙絵を手掛けたイラストレーター。『[[富豪刑事]]』の挿絵や、『朝のガスパール』の挿絵・表紙絵などを手掛けた。 * [[柳原良平]] - イラストレーター。『あるいは酒でいっぱいの海』や『巨船 ベラス・レトラス』の表紙絵を手掛けた。 * [[しりあがり寿]] - 漫画家。短編集『傾いた世界』と『最後の喫煙者』(いずれも新潮文庫)のカバーイラストを手掛けた。 * [[小松左京]] - 長年の友人の[[SF作家]]。筒井の結婚の[[仲人]]でもある。 * [[大江健三郎]] - 長年の友人の作家の一人。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている<ref name="hanasi">別冊・[[話の特集]]『[[色川武大]]・[[阿佐田哲也]]の特集』(1989年)P.83「弟分からの弔辞」</ref>。 * [[井上ひさし]] - 長年の友人の作家の一人。筒井が1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている{{R|hanasi}}。 * [[中上健次]] - 長年の友人の作家の一人。 * [[星新一]] - 長年の友人のSF作家。SF作家たちの飲み会で星が放つ、奇想天外な馬鹿話は、筒井に大きな影響を与えた。また、『[[日本沈没]]』のヒットを祝うSF作家たちの集まりで、星新一は「『[[日本以外全部沈没]]』なんて題名もいいんじゃない?」と題名を考案。小松左京の許可を得て筒井康隆は『日本以外全部沈没』を執筆した。なお[[最相葉月]]による評伝「星新一」によると、星は、自分のブラック・ジョークに影響されて、自分より文学的に評価されていく筒井のことを、嫉妬していたという。 * [[平井和正]]、[[豊田有恒]] - 筒井より4歳年下のSF作家。二人とも筒井より先に「SFマガジン」に登場し、筒井を悔しがらせた。筒井が上京して原宿に住んだばかりの頃は、3日とあけず、3人で会うほど親密だった。 * [[河野典生]] - ハードボイルド、SF作家。ジャズ愛好、山下トリオのファンという共通点があり、一時は親密な関係だった。 * [[堀晃]] - ハードSF作家。関西在住で筒井も目をかけ、山下トリオにも筒井が紹介し、交流がある。また、1973年の筒井の傑作短編「熊の木本線」に登場する架空の民謡「熊の木節」について、作曲し振り付けを考えて、筒井ファンの前で披露した。下記「JALInet」の発起人の一人。 * [[かんべむさし]] - 過激なギャグSFを書く作家として、「筒井の後継者」とみなされたこともある作家。上記[[堀晃]]とも仲がよく、やはり筒井が山下トリオに紹介している。 * [[小林恭二]] - 第一回[[三島由紀夫賞]]選考会で、筒井は小林の作品を高く評価しておした(受賞は[[高橋源一郎]])。その後、筒井、小林、堀、[[薄井ゆうじ]]、[[佐藤亜紀]]の5名で、「JALInet」(JAPAN LITERATURE net)を、発起人として立ち上げた。 * [[小林信彦]] - 筒井同様に[[マルクス兄弟]]を愛好する作家。互いの作品をリスペクトしていた。小林のパロディ小説『唐獅子株式会社』の文庫版解説に、筒井は詳細な元ネタの注を書いた。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている{{R|hanasi}}。また、小林は筒井の短編「五郎八航空」を「ギャグだけで出来ている小説」として高く評価している。 * [[色川武大]] - 小林同様に、笑芸愛好、映画愛好と共通の趣味を持ち、互いの作品をリスペクトしていた。色川は「SF作家にならなくてよかった。なったら筒井康隆の亜流になっただろう」と、発言している。小林も含めた3人で、[[フィルムセンター]]にて、戦前の[[榎本健一|エノケン]]映画などを一緒に見たこともある。また、色川の膨大なビデオ・コレクションから、借り出しもうけた。また『不良少年の映画史』の解説も色川が担当。筒井は色川への追悼文で、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人だとし、その中でも特に色川が、「不良少年期、映画、ジャズ、狂気への傾斜、夢へのこだわり」と、もっとも共通点が多い作家であり、「5歳上の兄貴のような存在だった」と書いている{{R|hanasi}}。 * [[長部日出雄]] - 長部が「週刊読売」に勤務していた時代からのつきあい。筒井は1989年に、「全作品を読んでいる同時代の作家5人」の1人としてあげている{{R|hanasi}}。 * [[山下洋輔]] - 過激なフリー・ジャズのピアニストにてエッセイスト。筒井とは互いの作品のファンであり、長年の親交。筒井関係のイベントや筒井作品の映画化時などで、音楽を担当している。また、山下が結成した「[[全日本冷し中華愛好会]]」の二代目会長の座を、筒井に譲った。 * [[タモリ]] - テレビ司会者・タレント。山下洋輔を通じて、親交を深める。 * [[ハイヒールリンゴ]]・[[ハイヒールモモコ]] - 漫才コンビ。筒井の出演番組『[[ビーバップ!ハイヒール]]』の司会者。 * [[江川達也]] - 漫画家。筒井同様『ホリプロ』の所属。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。 * [[たむらけんじ]] - 焼肉店『[[炭火焼肉たむら]]』を経営している[[ピン芸人]]。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。 * [[ブラックマヨネーズ]]・[[チュートリアル (お笑いコンビ)|チュートリアル]] - 漫才コンビ。『ビーバップ!ハイヒール』で共演。たむらと異なり、週代わりでの出演。 * [[平岡正明]] - 筒井康隆論を多数執筆。親交も厚い。 * [[内藤誠]] - 映画監督および評論家。筒井ファンで、筒井作品を何作も映画化している。ただし、筒井ファンゆえのせいか、筒井の原作の台詞をそのまま使用している場合が多いが、筒井作品内のセリフは多くが、筒井が芝居青年だった時代の「新劇」のノリを踏襲しており、映画としては「わざとくさく感じてしまう」もので、いずれも成功作とはいえなかった。また、映画評論家の[[佐藤重臣]]が伝説の上映会「黙壷子(もっこす)フィルムアーカイブ」で使用していたと思われる、映画「[[フリークス (映画)|フリークス]]」のフィルムと16ミリの映写機を、内藤の紹介で筒井は買い取り、現在も保有している。 * [[渡部直己]] - 文芸評論家。かつては熱狂的な筒井ファンであったが、『虚航船団』に失望して批判したところ、筒井に反撃され、以降、犬猿の仲となった(著書『HELLO GOOD-BY 筒井康隆』に、誉貶、双方の文章が収録されている)。 * [[高橋留美子]] - [[漫画家]]。若い頃からの筒井ファン。高橋の『[[うる星やつら]]』の1シーンに、本棚に収められた筒井の作品群が描かれている。また、1984年公開のアニメ映画『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』の[[パンフレット]]には、『あるいは夢でいっぱいの海』(『あるいは酒でいっぱいの海』{{Efn|この題も[[エイヴラム・デイヴィッドスン]]『あるいは牡蠣でいっぱいの海』のパロディ。}})、『時をかける[[諸星あたる|あたる]]』(『[[時をかける少女]]』)などの筒井作品の[[パロディ]]が掲載されている。 * [[岡留安則]] - 『噂の眞相』編集長。筒井に熱心に連載を持ちかけ、原稿料は筒井の言い値を呑んだ。『笑犬樓よりの眺望』連載第1回目で、筒井に「秘密の暴露をたくらむ者は常にわが身に及ぶ災害を覚悟せよ」との考えで、原稿料は原稿用紙1枚1万円(連載開始当時)と暴露された。筒井から「(噂眞での)連載はいつまで続けたらよいのか?」と訊かれた際、岡留は「お前(筒井)が死ぬか、『噂眞』が休・廃刊になるまでかのどちらかだ。それまではがんばれ。そのために破格の原稿料を払っているのだ」と答えている<ref>筒井『笑犬樓よりの眺望』より『文芸書が冷遇されている』(初出:『噂の眞相』1987年5月号)</ref>。また、岡留は『笑犬樓よりの眺望』文庫版巻末の解説で(1996年当時)断筆を続けている筒井に対し「『噂眞』での連載再開はいつでもOK。金額の問題ではないが原稿用紙1枚あたり20,000〜30,000円の原稿料を出してもいい」と連載再開の秋波を送っている。 * [[堀威夫]] - [[ホリプロ]]会長。筒井にマネジメント契約を持ちかけた。当初、堀は筒井と文化人部門での契約の方針だったが、筒井の強い要望でタレント部門でのマネジメント契約となった。これはホリプロの文化人部門に[[栗本慎一郎]]がおり、筒井が栗本の下に入るのを快く思っていなかったためである<ref>筒井『笑犬樓の逆襲』より『家を買う話は沙汰やみとなってしまった』(初出:『噂の眞相』1998年9月号)</ref>。 * [[ベティ・ブープ]] - 彼女を「わが最愛の女優」と評し、評伝を書いている。筒井は彼女のファンでもあり、劇場用アニメフィルムを、ほぼコンプリートでコレクションしている。 == 参考文献 == * 評伝 筒井康隆(八橋一郎、1985年、新潮社) * 『ユリイカ』1988年5月号「特集・筒井康隆の逆襲」(青土社) * 筒井康隆「断筆」めぐる大論争(1995年、創出版) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 外部リンク == {{commonscat|Yasutaka Tsutsui}} {{ウィキプロジェクトリンク|作家|[[画像:P author.svg|34px|Project:作家]]}} * [https://www.horipro.co.jp/tsutsuiyasutaka/ 筒井康隆(ツツイ ヤスタカ) | ホリプロオフィシャルサイト] * {{Wayback |url=http://www.jali.or.jp/tti/ |title=筒井康隆 - 公式サイト|date=20190418180905}} * {{twitter|TsutsuiYasutaka}} * {{Wayback |url=http://www.jali.or.jp/index2.html |title=JAPAN LITERATURE Net|date=20180814014543}} * [https://shokenro.jp/shokenro/ 笑犬楼大通り] 2008年(平成20年)6月24日オープン [https://www.j-cast.com/2008/06/25022435.html]。 ** [https://shokenro.jp/shokenro/book-cover/ 笑犬楼大通り 偽文士日碌] - 筒井の"[[ブログ]]" * {{Wayback |url=http://www.go-smoking.net/special/ |title=Go smoking|date=20170308044832}} - 筒井が[[喫煙]]に対して「特別寄稿」を寄せている。 * [http://aienka.jp/articles/004/ 特別インタビュー筒井康隆の紫福談 ま、今日も笑って一服] - 愛煙家通信Web版・喫煙文化研究会 * {{Wayback |url=http://www.jali.or.jp/tti/index.html |title=筒井康隆ホームページ|date=20060818194150}} * {{NHK人物録|D0009071534_00000}} {{谷崎潤一郎賞|第23回}} {{泉鏡花文学賞|第9回}} {{日本SF大賞|第13回}} {{星雲賞日本長編部門|第1・6・7回}} {{星雲賞日本短編部門|第1・2・5・8回}} {{毎日芸術賞}} {{ホリプロ}} {{Portal bar|日本|大阪府|文学|書物|スペキュレイティブ・フィクション|舞台芸術|人物伝}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:つつい やすたか}} [[Category:筒井康隆|*]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本の推理作家]] [[Category:日本のライトノベル作家]] [[Category:ファンダムに関連する人物]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:20世紀日本の劇作家]] [[Category:21世紀日本の劇作家]] [[Category:日本の男優]] [[Category:日本の舞台俳優]] [[Category:日本の司会者]] [[Category:ホリプロ]] [[Category:20世紀日本の俳優]] [[Category:21世紀日本の俳優]] [[Category:日本ペンクラブ会員]] [[Category:谷崎潤一郎賞受賞者]] [[Category:菊池寛賞受賞者]] [[Category:読売文学賞受賞者]] [[Category:川端康成文学賞受賞者]] [[Category:日本藝術院賞受賞者]] [[Category:泉鏡花文学賞受賞者]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:芸術文化勲章受章者]] [[Category:レーゼシナリオを書いた作家]] [[Category:日本におけるたばこの社会的受容関連人物]] [[Category:同志社大学出身の人物]] [[Category:大阪府立春日丘高等学校出身の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1934年生]] [[Category:存命人物]]
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クラシック音楽の作曲家一覧
クラシック音楽の作曲家一覧(クラシックおんがくのさっきょくかいちらん)では、音楽史上の分類としてのクラシック、つまりバロックやロマン派に対するクラシック(古典派)ではなく、ジャンルとしてのクラシック音楽、つまりジャズやポピュラー音楽に対する「クラシック」の作曲家をまとめてある。
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クラシック音楽の作曲家一覧(クラシックおんがくのさっきょくかいちらん)では、音楽史上の分類としてのクラシック、つまりバロックやロマン派に対するクラシック(古典派)ではなく、ジャンルとしてのクラシック音楽、つまりジャズやポピュラー音楽に対する「クラシック」の作曲家をまとめてある。 中世西洋音楽の作曲家一覧 ルネサンス音楽の作曲家一覧 バロック音楽の作曲家一覧 古典派音楽の作曲家一覧 ロマン派音楽の作曲家一覧 ウィンナワルツ 国民楽派 近現代音楽の作曲家一覧 (生誕1900年以降) 印象主義音楽 新古典主義音楽 新ウィーン楽派 ポーランド楽派 スペクトル楽派 新しい複雑性 ポスト構造主義 クラシック音楽の作曲家一覧 (五十音順) - 海外のみ 日本のクラシック音楽の作曲家一覧 北中南米のクラシック音楽作曲家一覧 女性作曲家の一覧
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FORTRAN
■カテゴリ / ■テンプレート FORTRAN(Fortran、フォートラン)は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語。1954年にIBMのジョン・バッカスが考案したコンピュータ用で世界最初の高水準言語であり、その後も改訂されて使用されている。 1956年に最初のマニュアルがリリースされ、1957年にIBM 704用の最初のコンパイラがリリースされた。名前 FORTRAN は formula translation(数式の変換)に由来し、FORTRAN 77 や Fortran 90 などの末尾の数字は規格が制定された年を示している。 FORTRAN は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語であり、その長い歴史の間に開発された非常に多くの数学関数やサブルーチンを数値解析ソフトウェアとしてもっている。また、並列計算の並列性を明示的に書くことができるので最適化が行いやすく、したがって他の言語より高速であるなどの理由から、数値予報および気候モデル、構造力学における有限要素法、計算流体力学、計算物理学、計算機化学、計量経済学、動物と植物の品種改良などの大規模な計算を行う分野において、スーパーコンピュータで使われている。 ちょうどC言語に対するC++言語のように、Fortran 90/Fortran 95 の言語仕様は、FORTRAN 77 の頃と比べればかなり拡張され進歩したものとなっている。最新のソースコードは、初期のものと比較するとほとんど別の言語のように見える。初期の頃は、変数名が大文字で6文字までであり、動的な記憶領域の確保ができないなど多くの制約があったが、それらの制限はなくなり、Fortran 77 から構造化プログラミングが導入され、Fortran 90 からモジュラープログラミング、配列演算とユーザー定義総称関数が、Fortran 95 からHigh Performance Fortranが、Fortran 2003 からオブジェクト指向が、Fortran 2008 からはコンカレント・コンピューティング(並行計算)が導入された。 なお、大文字で FORTRAN と表記した場合は FORTRAN 77 以前の FORTRAN を指し、Fortranと表記した場合は Fortran 90 以降を指すことがある。 Fortran 90/95の特徴は、次のとおりに要約される。 広く使われていたFORTRAN 77 の特徴は、以下のように要約される。 ジョン・バッカスは1953年末、メインフレームコンピュータIBM 704のプログラムを開発するにあたり、アセンブリ言語に代わるものを開発することをIBMの上司に提案した。歴史的なFORTRAN開発チームはRichard Goldberg、Sheldon F. Best、Harlan Herrick、Peter Sheridan、Roy Nutt、 Robert Nelson、Irving Ziller、Lois Haibt、David Sayreというメンバーで構成された。 The IBM Mathematical Formula Translating System のドラフト仕様は1954年中旬に作成された。1956年10月にFORTRANの最初のマニュアルが作成され、コンパイラは1957年4月に完成した。顧客はアセンブリ言語で記述されたコードに匹敵するパフォーマンスが得られない限り高級言語を採用しないので、最初から最適化コンパイラが開発された。 この新しい方法がハンドアセンブルより高速に動作するかどうかには疑いの目があったが、プログラム中の命令数を1/20に削減できるので急速に受け入れられていった。IBMの社内誌であるThinkに掲載された1979年のインタビューでバッカスは「私がこの仕事をしたのは面倒くさがりだったからです。私はプログラムを書くことが好きではなかったので、IBM 701でミサイルの軌道計算プログラムを開発したときに、プログラムの開発を簡単にするためにプログラミングシステムを作り始めました。」と語っている。 FORTRANは科学者の間で数学を応用したプログラムの記述に広く用いられたことから、より高速で効率的なコードを出力しようとする原動力となった。また、ライブラリでなく言語として複素数型をサポートしたことは、電気電子工学における動的特性の計算などに代表される科学や工学分野のプログラムを書きやすくした。 1960年までに様々なバージョンのFORTRANがIBM 709、IBM 650、IBM 1620、IBM 7090で動作していた。FORTRANのユーザー数は急増し、コンピューターメーカーがFORTRANコンパイラをこぞって提供したので、1963年までには40を超えるFORTRANコンパイラが存在していた。こうしたことから、FORTRANはアーキテクチャの異なる様々なコンピュータで広くサポートされた最初の言語と言える。 FORTRAN開発の歴史は、初期のコンパイラ技術の歴史そのものといえる。FORTRANで効率的なコードを出力したいという強い要求からコンパイラによる最適化技術が大きく進歩した。 IBM 704用に開発された最初のFORTRANは32の命令をもっていた。 IBM 1401版は革新的な65パスのコンパイラであり、わずか8k語の磁気コアメモリで動作する。コアに記録されたプログラムが段階的に実行可能なコードへと変換されて上書きされる。変換されたコードは機械語ではなく、UCSD PascalのPコードが生まれるよりも20年も前ながら、中間コードを利用していた。 IBMのFORTRAN IIは1958年に開発された。主な改良点は手続き型プログラミングのサポートであり、サブルーチンや関数を定義できるようになった。 その後、FORTRAN IIのデータ型として、DOUBLE PRECISION(倍精度型)とCOMPLEX(複素数型)が追加された。 IBMは1958年にFORTRAN IIIを開発していた。いくつかの新機能に加えインラインアセンブラが可能であった。しかしながらこのバージョンは販売されなかった。704 FORTRANやFORTRAN IIと同様に、FORTRAN IIIにも移植の妨げになるような機種依存の機能があった。他のベンダーから販売されていたFORTRANも初期は同様の問題を抱えていた。 IBMは1961年に顧客の要望を受けFORTRAN IVの開発を開始した。READ INPUT TAPEのようなFORTRAN IIの機種依存部分を削除したほか、LOGICAL(論理型)、論理演算、算術IF文の代替となる論理IF文が加えられた。この時のターゲットマシンは36ビットのワードマシンだったので、整数値は2の大きさの範囲で定義されていた。また、実数の精度は2、倍精度実数の精度は2までだった。FORTRAN IVは1962年にIBM 7030(通称ストレッチ)用がリリースされ、後にIBM 7090版とIBM 7094版がリリースされた。 1965年には国家規格であるANSI X3.4.3 FORTRANに準拠した。 American Standards Association(現ANSI)がFORTRANの米国規格を委員会で制定するようになったことはFORTRANの歴史の要である。1966年に2つの異なる言語が制定された。一つは当時既にデファクトスタンダードであったFORTRAN IVを基にしたFORTRANであり、もう一つはFORTRAN IIを基にして機種依存部分を取り除いたBasic FORTRANである。最初に制定されたFORTRANの規格は後にFORTRAN 66と呼ばれた。 FORTRAN 66 規格のリリース後、コンパイラ・ベンダーは多くの拡張を"標準Fortran"に導入し、1966の規格の改訂を始めるようにANSIを促した。この改訂は1977年に制定され、最終的な改訂案は1978年4月に新しいFORTRAN標準として承認された。この新しい標準はFORTRAN 77として知られ、FORTRAN 66後の多くの変更を追加し、多くの重要な機能を加えた: この規格の改訂において、多くの機能は除去されるか変えられて、以前の標準に合致していたプログラムの多くはおそらく無効になった。この時点で除去はX3J3の代替だけが許容された。だからコンセプト "不賛成"はANSI標準においては利用できなかった。しかし、コンフリクトリストの24アイテム(Appendix A2 of X3.9-1978を見よ)ループホールスとパスロジカルケースは以前の標準規格から許容されたが、しかし滅多に使用されない。少数の機能は慎重に除去された。 一般にFortran 90 として知られている規格は、大幅に発表が遅れたもののFORTRAN 77の正当な継承者であり、最終的に1991年にISO規格、1992年にANSI規格としてリリースされた。この抜本的な改訂では1978年のFORTRAN 77規格制定からのプログラミング技術における大幅な変化を反映するために、以下の多くの新しい機能が加えられた 以前のバージョンとは異なり、Fortran 90は、何の機能も削除しなかった。(Appendix B.1には、「この規格の、削除した機能のリストは空である。」と記載されている)つまり、FORTRAN 77に準拠したプログラムは、Fortran 90にもまた準拠している。そして、両方の規格で、その動作が定義づけられた項目は使用可能でなければならない。一部の機能はFortran 95で「削除」され、また機能の小さな部分は「時代遅れ」と認定されて将来の規格で除去されることが予定された。 Fortran 95は、マイナーな改訂版である。ほとんどは、Fortran 90規格の、いくつかの大きな問題を解決するためのものである。それにもかかわらず、Fortran 95もまた年号を付加されている。それは、Fortranの拡張として定義される並列言語、HPF(High Performance Fortran:ハイ・パフォーマンスFortran)の一部導入によることは明白である。なお、本格的なHPFは、地球シミュレータ等で使用されている。 多くの内部関数は拡張された。一例としてmaxloc 内部関数にdim引数が追加された Fortran 90で時代遅れとされた、いくつかの機能はFortran 95から削除された。 Fortran 95への重要な追加は、一般にはAllocatable TRとして知られる、ISO technical report、TR-15581: Enhanced Data Type Facilitiesである。この仕様は、Fortran 2003準拠のFortran コンパイラより前に、ALLOCATABLE アレイの強化した用法を定義した。そのような用法は、プロセジャーのダミー引数リストとしての派生タイプコンポーネントALLOCATABLEアレイと、関数の返し値を含む。ALLOCATABLEアレイは、POINTER-ベース・アレイより好ましいものである。なぜなら、ALLOCATABLE アレイは、スコープから抜けたとき、Fortran 95による自動的なdeallocateを保証しメモリリークの可能性をなくすからである。 エイリアシングはarrayの参照において最適化の障害にならず、Fortranコンパイラがポインタ-ベース・アレイより高速なコードを生成することを可能にする。 他の重要なFortran 95への追加は、ISO technical report TR-15580: 浮動小数点例外ハンドリングである。一般にはIEEE TRとして知られており、この仕様はIEEE 浮動小数点演算と例外ハンドリングを定義する。 必須のベース言語(ISO/IEC 1539-1:1997に定義)以外に、Fortran 95言語も以下の2つのオプショナルなモジュールを含む。 両者は、マルチパート国際標準を構成する(ISO/IEC 1539)。規格の開発者は、「オプショナル・パートは必要なものを完備した機能を記述している、それは多くのコンパイラ・インプリメンターとユーザーから要求されてきたものである。しかし、それらは、全てのFortran標準に合致するコンパイラは十分な一般性を持たないと考えられていた。それにもかかわらず、もし標準に合致したFortranがそのようなオプションを提供するなら、『それらの機能は、標準規格の適切なパートに記述に従って提供されなければならない。』」と述べている。 Fortran 2003はメジャーな改訂であり、たくさんの新しい機能を導入した。 Fortran2003における新しい機能の包括的なサマリーは、Fortran Working Group (WG5)のオフィシャルWebサイトから得ることができる。 この記事によれば、このバージョンが含む大幅な強化は以下の通りである。 Fortran 2003 への重要な追加は、ISO technical report TR-19767である。 Fortranにおけるモジュール機能の強化。このレポートは、submodulesを提供する。これは、FortranのモジュールをよりModula-2言語のモジュールに近づける。これらは、Ada言語のプライベート・チャイルド・サブユニットに似ている。これは分離したプログラムユニットとして表現すべきモジュールの仕様と実装を可能にし、大規模なライブラリのパッケージ化を改善し、インターフェース定義を公開しても企業秘密を保持することを可能にし、コンパイレーション・カスケードを防ぐ。 最新の規格であり一般にはFortran 2008として知られているISO/IEC 1539-1:2010は2010年9月に承認された。Fortran 95と同様に、これはマイナー・アップグレードである。Fortran 2003の明確化と訂正と共に、新しい特長も導入された。新しい特長は、以下を含む ファイナル・ドラフト・スタンダード(FDIS)は、ドキュメントN1830として利用できる。 Fortran 2008における重要な追加は、ISOテクニカルスペシフィケーション(TS) 29113のFortranにおけるC言語とのより高いインターオペラビリティであり、2012年5月のISOの承認に向けてまとめられた。C言語の配列へのFortranアクセスに関してタイプとランクを無視する仕様が加えられた。 Fortran 2018の最新版は、以前はFortran 2015と呼ばれていた。大きな改訂が行われ、2018年11月28日にリリースされた。 Fortran 2018には、それ以前に公開された以下の2つの技術仕様が含まれている。 追加の変更と新機能には、ISO/IEC/IEEE 60559:2011(2019年時点のIEEE浮動小数点数仕様の最新版)のサポート、16進の入出力、IMPLICIT NONE拡張など、様々な変更が含まれている。 1968年にBASICの作者等によって書かれた専門雑誌の記事でもすでに「旧式の(old-fashioned)プログラミング言語」と記述されていたが、Fortranは現在でも数十年に渡って使用されており、特に科学や工学のコミュニティでは、Fortranで書かれたソフトウェアが日常的に幅広く利用されている。ジェイ・パサコフ(英語版)は1984年に「物理学と気象学の学生はFORTRANを必ず学ぶ必要がある。大部分の成果がFORTRANで書かれており、科学者たちがPascalやModula-2などの他の言語に移行する可能性は極めて低い。」と書いている。1993年、Cecil E. Leithは、FORTRANを「科学計算の母語」であると評し、他の言語によって置き換えられる可能性は「永遠の希望であり続けるだろう」と述べている。 FORTRAN 66以降、ISO、ANSI、JISで仕様が制定されている。Fortranの言語仕様は、年代によってかなり変化して来ている。他のプログラミング言語で実装された構造化プログラミングの機能などがどんどん取り入れられて来ているからである。 1966年にANSI X3.9-1966が制定され、JISとしては1967年に制定された。この時は、以下の3つの水準ごとに独立したJISが制定された。共通したタイトルは「電子計算機プログラム用言語 FORTRAN」だった。以下に水準間のおおよその違いを記す。 なお、1971、1976年に若干の改訂がなされている。 国際標準化機構(ISO)は、米国規格協会(ANSI)の X3J3 が作成した FORTRAN の規格 X3.9-1978 を ISO 1539-1980 として定めた。基本水準(subset language)と上位水準(full language)の2種類の水準からなっていた。これを基にして、同じく2水準の JIS C 6201-1982 が制定された。なお、1987年に、JISの分類が変更になり、この規格は JIS X 3001-1982 となった。内容には変更はない。 FORTRAN 77を基に他の言語の特徴を組み込み、言語仕様を近代化しようとしたが、そのため仕様がなかなか決まらず、1991年に ISO/IEC 1539:1991として制定された。JISではそれを受け、JIS X 3001:1994が制定された。 Fortran 90 から規格上の言語の呼称が頭文字のみを大文字とした“Fortan”に変更された。 JIS X 3001:1998では,Fortran 95と通称される規格が引用されている。該規格は一部例外を除きJIS X 3001 1-1994の上位互換拡張である。 JIS X 3001:2009では,Fortran 2003と通称される規格が引用されている。当該規格は一部の例外を除いてJIS X 3001-1:1998の上位互換拡張である。 対応するJISは制定されなかった。 JIS X 3001-1:2023(2023年現在の最新改正版)では,Fortran 2018と通称される規格が引用されている。 FORTRANは、情報処理分野で広く使われていたため、学校や会社の教育(情報処理技術者向け教育)で利用された。教育向けには、より詳細なエラー情報を出すための拡張がWaterloo大学でWATFOR(後にWATFIV)コンパイラとして実装された。この実装は日本の大学でも使われた。 Fortranは科学技術計算用の言語なので、スーパーコンピュータでのプログラミング言語としてよく用いられる。実際、多くのスーパーコンピュータでベンダーが主に注力して提供されている言語は、C/C++およびFortranである。 C言語と比較すると、Fortranはスタック等を使わずに、コンパイル時に静的に記憶領域を確保するのが基本であった。そのため、自由度が高くあらゆる状況を想定しなければならないC言語と比べるとコンパイラはコードを最適化しやすいという利点がある。 Fortranの主な用途である科学と技術用の計算では配列を用いた演算が基本であり、ベクトル型スーパーコンピュータは、Fortranを使ったプログラムで使用することが多い。そこで、スーパーコンピュータの高速演算機能を有効に使うための工夫がなされた。その1つの例としては、自動ベクトル化機能である。ベクトル型のスーパーコンピュータは、多くの演算を同時に行うベクトル演算機能がハードウェアで提供されている。この機能を有効に使うために、FortranのDOループをベクトル演算装置で演算させるために、自動的にベクトル命令にする機能が提供された。また、DOループ内のベクトル演算に適さないものをDOループ外に追い出す機能などもある。たとえば、 のようなDO構文は、ほとんどの場合、1から数個のベクトル演算命令にコンパイルされる。そのほかにもDOループの中にIF文を含むような例、たとえば、 のようなものもベクトル化できる場合がある。これは、いったんAの各要素がLIMIT以下かどうかを示すマスクベクトルを作成して、Aという配列(=ベクトル)に、変数Zの値を乗じるとき、マスクベクトルを参照するベクトル演算を行うことで、DOループをベクトル化する。 このような作業は、すべてコンパイラが行い、利用者にできるだけ負担をかけないようにしている。しかし、より高度なベクトル化を行うために、最適化を行う支援ツールが用意されている場合もある。 コンピュータ上で日本語の文字を扱えるようになると、FORTRANでも日本語を扱う需要が出てきた。そのため、各社(メインフレームを作成していたメーカ)では、独自に言語仕様に日本語の文字を扱えるように拡張した。そのため、各社で日本語の扱い方が異なる事態になった。そこで、JEIDAでは1985年に、JEIDA-42で日本語FORTRANを策定した。 FORTRANで日本語の文字を扱う場合、識別子である変数名、仮引数名、プログラム名、関数名、サブルーチン名、共通ブロック名等には日本語の文字は使えず、データとしての日本語の文字列を扱うための専用の型(日本語型)、日本語の文字列を入出力するためのFORMAT文の編集子の拡張が行われた。 FORTRAN 77が登場する前にいろいろと作られたプリプロセッサはFortranをベースとしてよりプログラムが読みやすく書きやすい言語の形式を提供するために広く使われた。プリプロセッサで処理されたコードは、標準のFORTRANコンパイラを備えた任意のマシンに対してコンパイルすることができる利点を持つ。これらのプリプロセッサは通常、構造化プログラミング、6文字よりも長い変数名、追加のデータ型、条件付きコンパイル、さらにはマクロ機能などをサポートしていた。 ポピュラーなプリプロセッサとしてFLECSとiftran、MORTRAN、SFtran、S-Fortran、Ratfor、Ratfivがあった。例えば、RatforとRatfivはCライクな言語を実装して、標準的なFORTRAN 66コードを出力した。 LRLTRANは、ローレンス放射線研究所で、ベクトル演算および動的な記憶、システムのプログラミングをサポートする他の拡張機能を提供するために開発され、ディストリビューションにはLTSSオペレーティングシステムが含まれていた。Fortran 95規格は、任意の条件付きコンパイルの機能を定義するオプションパート3を備えている。この機能は、しばしば 『CoCo』と呼ばれている。 SIMSCRIPTは、大規模な離散システムのモデリングとシミュレーションのためのアプリケーションに特化したFortranのプリプロセッサである。 また多くのFORTRANコンパイラは、Cプリプロセッサのサブセットを取り込んだ。 Fortran言語の進歩にもかかわらず、プリプロセッサは条件付きコンパイルとマクロ置換のために使用され続けている。 プログラミング言語Fは、FORTRANのEQUIVALENCE文などの、冗長、非構造化、非推奨な機能を削除したFortran 95のクリーンなサブセットとして設計された。言語FはFortran 90で追加された配列演算の機能を使い、FORTRAN 77とFortran 90で追加された制御文を用い、構造化プログラミングのために廃止された制御文を削除した。設計者は言語Fを 『特に教育や科学技術計算に適した、構造化された配列プログラミング言語である。』 と述べている。しかしサブセット言語であるから,旧来のあるいはFで除かれた機能を含むFortranのソースコードは受け付けないため、実務用には普及しなかった。 HPF(High Performance Fortran)というFortran拡張系の言語もあるが、これもほぼ廃れた。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "■カテゴリ / ■テンプレート", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "FORTRAN(Fortran、フォートラン)は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語。1954年にIBMのジョン・バッカスが考案したコンピュータ用で世界最初の高水準言語であり、その後も改訂されて使用されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1956年に最初のマニュアルがリリースされ、1957年にIBM 704用の最初のコンパイラがリリースされた。名前 FORTRAN は formula translation(数式の変換)に由来し、FORTRAN 77 や Fortran 90 などの末尾の数字は規格が制定された年を示している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "FORTRAN は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語であり、その長い歴史の間に開発された非常に多くの数学関数やサブルーチンを数値解析ソフトウェアとしてもっている。また、並列計算の並列性を明示的に書くことができるので最適化が行いやすく、したがって他の言語より高速であるなどの理由から、数値予報および気候モデル、構造力学における有限要素法、計算流体力学、計算物理学、計算機化学、計量経済学、動物と植物の品種改良などの大規模な計算を行う分野において、スーパーコンピュータで使われている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "ちょうどC言語に対するC++言語のように、Fortran 90/Fortran 95 の言語仕様は、FORTRAN 77 の頃と比べればかなり拡張され進歩したものとなっている。最新のソースコードは、初期のものと比較するとほとんど別の言語のように見える。初期の頃は、変数名が大文字で6文字までであり、動的な記憶領域の確保ができないなど多くの制約があったが、それらの制限はなくなり、Fortran 77 から構造化プログラミングが導入され、Fortran 90 からモジュラープログラミング、配列演算とユーザー定義総称関数が、Fortran 95 からHigh Performance Fortranが、Fortran 2003 からオブジェクト指向が、Fortran 2008 からはコンカレント・コンピューティング(並行計算)が導入された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "なお、大文字で FORTRAN と表記した場合は FORTRAN 77 以前の FORTRAN を指し、Fortranと表記した場合は Fortran 90 以降を指すことがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Fortran 90/95の特徴は、次のとおりに要約される。", "title": "FORTRANの特徴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "広く使われていたFORTRAN 77 の特徴は、以下のように要約される。", "title": "FORTRANの特徴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ジョン・バッカスは1953年末、メインフレームコンピュータIBM 704のプログラムを開発するにあたり、アセンブリ言語に代わるものを開発することをIBMの上司に提案した。歴史的なFORTRAN開発チームはRichard Goldberg、Sheldon F. Best、Harlan Herrick、Peter Sheridan、Roy Nutt、 Robert Nelson、Irving Ziller、Lois Haibt、David Sayreというメンバーで構成された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "The IBM Mathematical Formula Translating System のドラフト仕様は1954年中旬に作成された。1956年10月にFORTRANの最初のマニュアルが作成され、コンパイラは1957年4月に完成した。顧客はアセンブリ言語で記述されたコードに匹敵するパフォーマンスが得られない限り高級言語を採用しないので、最初から最適化コンパイラが開発された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この新しい方法がハンドアセンブルより高速に動作するかどうかには疑いの目があったが、プログラム中の命令数を1/20に削減できるので急速に受け入れられていった。IBMの社内誌であるThinkに掲載された1979年のインタビューでバッカスは「私がこの仕事をしたのは面倒くさがりだったからです。私はプログラムを書くことが好きではなかったので、IBM 701でミサイルの軌道計算プログラムを開発したときに、プログラムの開発を簡単にするためにプログラミングシステムを作り始めました。」と語っている。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "FORTRANは科学者の間で数学を応用したプログラムの記述に広く用いられたことから、より高速で効率的なコードを出力しようとする原動力となった。また、ライブラリでなく言語として複素数型をサポートしたことは、電気電子工学における動的特性の計算などに代表される科学や工学分野のプログラムを書きやすくした。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1960年までに様々なバージョンのFORTRANがIBM 709、IBM 650、IBM 1620、IBM 7090で動作していた。FORTRANのユーザー数は急増し、コンピューターメーカーがFORTRANコンパイラをこぞって提供したので、1963年までには40を超えるFORTRANコンパイラが存在していた。こうしたことから、FORTRANはアーキテクチャの異なる様々なコンピュータで広くサポートされた最初の言語と言える。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "FORTRAN開発の歴史は、初期のコンパイラ技術の歴史そのものといえる。FORTRANで効率的なコードを出力したいという強い要求からコンパイラによる最適化技術が大きく進歩した。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "IBM 704用に開発された最初のFORTRANは32の命令をもっていた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "IBM 1401版は革新的な65パスのコンパイラであり、わずか8k語の磁気コアメモリで動作する。コアに記録されたプログラムが段階的に実行可能なコードへと変換されて上書きされる。変換されたコードは機械語ではなく、UCSD PascalのPコードが生まれるよりも20年も前ながら、中間コードを利用していた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "IBMのFORTRAN IIは1958年に開発された。主な改良点は手続き型プログラミングのサポートであり、サブルーチンや関数を定義できるようになった。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "その後、FORTRAN IIのデータ型として、DOUBLE PRECISION(倍精度型)とCOMPLEX(複素数型)が追加された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "IBMは1958年にFORTRAN IIIを開発していた。いくつかの新機能に加えインラインアセンブラが可能であった。しかしながらこのバージョンは販売されなかった。704 FORTRANやFORTRAN IIと同様に、FORTRAN IIIにも移植の妨げになるような機種依存の機能があった。他のベンダーから販売されていたFORTRANも初期は同様の問題を抱えていた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "IBMは1961年に顧客の要望を受けFORTRAN IVの開発を開始した。READ INPUT TAPEのようなFORTRAN IIの機種依存部分を削除したほか、LOGICAL(論理型)、論理演算、算術IF文の代替となる論理IF文が加えられた。この時のターゲットマシンは36ビットのワードマシンだったので、整数値は2の大きさの範囲で定義されていた。また、実数の精度は2、倍精度実数の精度は2までだった。FORTRAN IVは1962年にIBM 7030(通称ストレッチ)用がリリースされ、後にIBM 7090版とIBM 7094版がリリースされた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1965年には国家規格であるANSI X3.4.3 FORTRANに準拠した。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "American Standards Association(現ANSI)がFORTRANの米国規格を委員会で制定するようになったことはFORTRANの歴史の要である。1966年に2つの異なる言語が制定された。一つは当時既にデファクトスタンダードであったFORTRAN IVを基にしたFORTRANであり、もう一つはFORTRAN IIを基にして機種依存部分を取り除いたBasic FORTRANである。最初に制定されたFORTRANの規格は後にFORTRAN 66と呼ばれた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "FORTRAN 66 規格のリリース後、コンパイラ・ベンダーは多くの拡張を\"標準Fortran\"に導入し、1966の規格の改訂を始めるようにANSIを促した。この改訂は1977年に制定され、最終的な改訂案は1978年4月に新しいFORTRAN標準として承認された。この新しい標準はFORTRAN 77として知られ、FORTRAN 66後の多くの変更を追加し、多くの重要な機能を加えた:", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この規格の改訂において、多くの機能は除去されるか変えられて、以前の標準に合致していたプログラムの多くはおそらく無効になった。この時点で除去はX3J3の代替だけが許容された。だからコンセプト \"不賛成\"はANSI標準においては利用できなかった。しかし、コンフリクトリストの24アイテム(Appendix A2 of X3.9-1978を見よ)ループホールスとパスロジカルケースは以前の標準規格から許容されたが、しかし滅多に使用されない。少数の機能は慎重に除去された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "一般にFortran 90 として知られている規格は、大幅に発表が遅れたもののFORTRAN 77の正当な継承者であり、最終的に1991年にISO規格、1992年にANSI規格としてリリースされた。この抜本的な改訂では1978年のFORTRAN 77規格制定からのプログラミング技術における大幅な変化を反映するために、以下の多くの新しい機能が加えられた", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "以前のバージョンとは異なり、Fortran 90は、何の機能も削除しなかった。(Appendix B.1には、「この規格の、削除した機能のリストは空である。」と記載されている)つまり、FORTRAN 77に準拠したプログラムは、Fortran 90にもまた準拠している。そして、両方の規格で、その動作が定義づけられた項目は使用可能でなければならない。一部の機能はFortran 95で「削除」され、また機能の小さな部分は「時代遅れ」と認定されて将来の規格で除去されることが予定された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "Fortran 95は、マイナーな改訂版である。ほとんどは、Fortran 90規格の、いくつかの大きな問題を解決するためのものである。それにもかかわらず、Fortran 95もまた年号を付加されている。それは、Fortranの拡張として定義される並列言語、HPF(High Performance Fortran:ハイ・パフォーマンスFortran)の一部導入によることは明白である。なお、本格的なHPFは、地球シミュレータ等で使用されている。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "多くの内部関数は拡張された。一例としてmaxloc 内部関数にdim引数が追加された", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Fortran 90で時代遅れとされた、いくつかの機能はFortran 95から削除された。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Fortran 95への重要な追加は、一般にはAllocatable TRとして知られる、ISO technical report、TR-15581: Enhanced Data Type Facilitiesである。この仕様は、Fortran 2003準拠のFortran コンパイラより前に、ALLOCATABLE アレイの強化した用法を定義した。そのような用法は、プロセジャーのダミー引数リストとしての派生タイプコンポーネントALLOCATABLEアレイと、関数の返し値を含む。ALLOCATABLEアレイは、POINTER-ベース・アレイより好ましいものである。なぜなら、ALLOCATABLE アレイは、スコープから抜けたとき、Fortran 95による自動的なdeallocateを保証しメモリリークの可能性をなくすからである。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "エイリアシングはarrayの参照において最適化の障害にならず、Fortranコンパイラがポインタ-ベース・アレイより高速なコードを生成することを可能にする。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "他の重要なFortran 95への追加は、ISO technical report TR-15580: 浮動小数点例外ハンドリングである。一般にはIEEE TRとして知られており、この仕様はIEEE 浮動小数点演算と例外ハンドリングを定義する。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "必須のベース言語(ISO/IEC 1539-1:1997に定義)以外に、Fortran 95言語も以下の2つのオプショナルなモジュールを含む。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "両者は、マルチパート国際標準を構成する(ISO/IEC 1539)。規格の開発者は、「オプショナル・パートは必要なものを完備した機能を記述している、それは多くのコンパイラ・インプリメンターとユーザーから要求されてきたものである。しかし、それらは、全てのFortran標準に合致するコンパイラは十分な一般性を持たないと考えられていた。それにもかかわらず、もし標準に合致したFortranがそのようなオプションを提供するなら、『それらの機能は、標準規格の適切なパートに記述に従って提供されなければならない。』」と述べている。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Fortran 2003はメジャーな改訂であり、たくさんの新しい機能を導入した。 Fortran2003における新しい機能の包括的なサマリーは、Fortran Working Group (WG5)のオフィシャルWebサイトから得ることができる。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "この記事によれば、このバージョンが含む大幅な強化は以下の通りである。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "Fortran 2003 への重要な追加は、ISO technical report TR-19767である。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Fortranにおけるモジュール機能の強化。このレポートは、submodulesを提供する。これは、FortranのモジュールをよりModula-2言語のモジュールに近づける。これらは、Ada言語のプライベート・チャイルド・サブユニットに似ている。これは分離したプログラムユニットとして表現すべきモジュールの仕様と実装を可能にし、大規模なライブラリのパッケージ化を改善し、インターフェース定義を公開しても企業秘密を保持することを可能にし、コンパイレーション・カスケードを防ぐ。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "最新の規格であり一般にはFortran 2008として知られているISO/IEC 1539-1:2010は2010年9月に承認された。Fortran 95と同様に、これはマイナー・アップグレードである。Fortran 2003の明確化と訂正と共に、新しい特長も導入された。新しい特長は、以下を含む", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "ファイナル・ドラフト・スタンダード(FDIS)は、ドキュメントN1830として利用できる。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Fortran 2008における重要な追加は、ISOテクニカルスペシフィケーション(TS) 29113のFortranにおけるC言語とのより高いインターオペラビリティであり、2012年5月のISOの承認に向けてまとめられた。C言語の配列へのFortranアクセスに関してタイプとランクを無視する仕様が加えられた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "Fortran 2018の最新版は、以前はFortran 2015と呼ばれていた。大きな改訂が行われ、2018年11月28日にリリースされた。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "Fortran 2018には、それ以前に公開された以下の2つの技術仕様が含まれている。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "追加の変更と新機能には、ISO/IEC/IEEE 60559:2011(2019年時点のIEEE浮動小数点数仕様の最新版)のサポート、16進の入出力、IMPLICIT NONE拡張など、様々な変更が含まれている。", "title": "FORTRANの歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1968年にBASICの作者等によって書かれた専門雑誌の記事でもすでに「旧式の(old-fashioned)プログラミング言語」と記述されていたが、Fortranは現在でも数十年に渡って使用されており、特に科学や工学のコミュニティでは、Fortranで書かれたソフトウェアが日常的に幅広く利用されている。ジェイ・パサコフ(英語版)は1984年に「物理学と気象学の学生はFORTRANを必ず学ぶ必要がある。大部分の成果がFORTRANで書かれており、科学者たちがPascalやModula-2などの他の言語に移行する可能性は極めて低い。」と書いている。1993年、Cecil E. Leithは、FORTRANを「科学計算の母語」であると評し、他の言語によって置き換えられる可能性は「永遠の希望であり続けるだろう」と述べている。", "title": "科学分野と工学分野での利用" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "FORTRAN 66以降、ISO、ANSI、JISで仕様が制定されている。Fortranの言語仕様は、年代によってかなり変化して来ている。他のプログラミング言語で実装された構造化プログラミングの機能などがどんどん取り入れられて来ているからである。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1966年にANSI X3.9-1966が制定され、JISとしては1967年に制定された。この時は、以下の3つの水準ごとに独立したJISが制定された。共通したタイトルは「電子計算機プログラム用言語 FORTRAN」だった。以下に水準間のおおよその違いを記す。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "なお、1971、1976年に若干の改訂がなされている。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "国際標準化機構(ISO)は、米国規格協会(ANSI)の X3J3 が作成した FORTRAN の規格 X3.9-1978 を ISO 1539-1980 として定めた。基本水準(subset language)と上位水準(full language)の2種類の水準からなっていた。これを基にして、同じく2水準の JIS C 6201-1982 が制定された。なお、1987年に、JISの分類が変更になり、この規格は JIS X 3001-1982 となった。内容には変更はない。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "FORTRAN 77を基に他の言語の特徴を組み込み、言語仕様を近代化しようとしたが、そのため仕様がなかなか決まらず、1991年に ISO/IEC 1539:1991として制定された。JISではそれを受け、JIS X 3001:1994が制定された。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Fortran 90 から規格上の言語の呼称が頭文字のみを大文字とした“Fortan”に変更された。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "JIS X 3001:1998では,Fortran 95と通称される規格が引用されている。該規格は一部例外を除きJIS X 3001 1-1994の上位互換拡張である。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "JIS X 3001:2009では,Fortran 2003と通称される規格が引用されている。当該規格は一部の例外を除いてJIS X 3001-1:1998の上位互換拡張である。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "対応するJISは制定されなかった。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "JIS X 3001-1:2023(2023年現在の最新改正版)では,Fortran 2018と通称される規格が引用されている。", "title": "言語仕様の変遷" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "FORTRANは、情報処理分野で広く使われていたため、学校や会社の教育(情報処理技術者向け教育)で利用された。教育向けには、より詳細なエラー情報を出すための拡張がWaterloo大学でWATFOR(後にWATFIV)コンパイラとして実装された。この実装は日本の大学でも使われた。", "title": "FORTRANと教育" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "Fortranは科学技術計算用の言語なので、スーパーコンピュータでのプログラミング言語としてよく用いられる。実際、多くのスーパーコンピュータでベンダーが主に注力して提供されている言語は、C/C++およびFortranである。", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "C言語と比較すると、Fortranはスタック等を使わずに、コンパイル時に静的に記憶領域を確保するのが基本であった。そのため、自由度が高くあらゆる状況を想定しなければならないC言語と比べるとコンパイラはコードを最適化しやすいという利点がある。", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "Fortranの主な用途である科学と技術用の計算では配列を用いた演算が基本であり、ベクトル型スーパーコンピュータは、Fortranを使ったプログラムで使用することが多い。そこで、スーパーコンピュータの高速演算機能を有効に使うための工夫がなされた。その1つの例としては、自動ベクトル化機能である。ベクトル型のスーパーコンピュータは、多くの演算を同時に行うベクトル演算機能がハードウェアで提供されている。この機能を有効に使うために、FortranのDOループをベクトル演算装置で演算させるために、自動的にベクトル命令にする機能が提供された。また、DOループ内のベクトル演算に適さないものをDOループ外に追い出す機能などもある。たとえば、", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "のようなDO構文は、ほとんどの場合、1から数個のベクトル演算命令にコンパイルされる。そのほかにもDOループの中にIF文を含むような例、たとえば、", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "のようなものもベクトル化できる場合がある。これは、いったんAの各要素がLIMIT以下かどうかを示すマスクベクトルを作成して、Aという配列(=ベクトル)に、変数Zの値を乗じるとき、マスクベクトルを参照するベクトル演算を行うことで、DOループをベクトル化する。", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "このような作業は、すべてコンパイラが行い、利用者にできるだけ負担をかけないようにしている。しかし、より高度なベクトル化を行うために、最適化を行う支援ツールが用意されている場合もある。", "title": "Fortranとスーパーコンピュータ" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "コンピュータ上で日本語の文字を扱えるようになると、FORTRANでも日本語を扱う需要が出てきた。そのため、各社(メインフレームを作成していたメーカ)では、独自に言語仕様に日本語の文字を扱えるように拡張した。そのため、各社で日本語の扱い方が異なる事態になった。そこで、JEIDAでは1985年に、JEIDA-42で日本語FORTRANを策定した。", "title": "FORTRANと日本語" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "FORTRANで日本語の文字を扱う場合、識別子である変数名、仮引数名、プログラム名、関数名、サブルーチン名、共通ブロック名等には日本語の文字は使えず、データとしての日本語の文字列を扱うための専用の型(日本語型)、日本語の文字列を入出力するためのFORMAT文の編集子の拡張が行われた。", "title": "FORTRANと日本語" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "FORTRAN 77が登場する前にいろいろと作られたプリプロセッサはFortranをベースとしてよりプログラムが読みやすく書きやすい言語の形式を提供するために広く使われた。プリプロセッサで処理されたコードは、標準のFORTRANコンパイラを備えた任意のマシンに対してコンパイルすることができる利点を持つ。これらのプリプロセッサは通常、構造化プログラミング、6文字よりも長い変数名、追加のデータ型、条件付きコンパイル、さらにはマクロ機能などをサポートしていた。", "title": "FORTRANベースの言語" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "ポピュラーなプリプロセッサとしてFLECSとiftran、MORTRAN、SFtran、S-Fortran、Ratfor、Ratfivがあった。例えば、RatforとRatfivはCライクな言語を実装して、標準的なFORTRAN 66コードを出力した。", "title": "FORTRANベースの言語" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "LRLTRANは、ローレンス放射線研究所で、ベクトル演算および動的な記憶、システムのプログラミングをサポートする他の拡張機能を提供するために開発され、ディストリビューションにはLTSSオペレーティングシステムが含まれていた。Fortran 95規格は、任意の条件付きコンパイルの機能を定義するオプションパート3を備えている。この機能は、しばしば 『CoCo』と呼ばれている。 SIMSCRIPTは、大規模な離散システムのモデリングとシミュレーションのためのアプリケーションに特化したFortranのプリプロセッサである。", "title": "FORTRANベースの言語" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "また多くのFORTRANコンパイラは、Cプリプロセッサのサブセットを取り込んだ。 Fortran言語の進歩にもかかわらず、プリプロセッサは条件付きコンパイルとマクロ置換のために使用され続けている。", "title": "FORTRANベースの言語" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "プログラミング言語Fは、FORTRANのEQUIVALENCE文などの、冗長、非構造化、非推奨な機能を削除したFortran 95のクリーンなサブセットとして設計された。言語FはFortran 90で追加された配列演算の機能を使い、FORTRAN 77とFortran 90で追加された制御文を用い、構造化プログラミングのために廃止された制御文を削除した。設計者は言語Fを 『特に教育や科学技術計算に適した、構造化された配列プログラミング言語である。』 と述べている。しかしサブセット言語であるから,旧来のあるいはFで除かれた機能を含むFortranのソースコードは受け付けないため、実務用には普及しなかった。", "title": "FORTRANベースの言語" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "HPF(High Performance Fortran)というFortran拡張系の言語もあるが、これもほぼ廃れた。", "title": "FORTRANベースの言語" } ]
FORTRAN(Fortran、フォートラン)は科学技術計算に向いた手続き型プログラミング言語。1954年にIBMのジョン・バッカスが考案したコンピュータ用で世界最初の高水準言語であり、その後も改訂されて使用されている。
{{脚注の不足|date=2023年9月}} {{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = FORTRAN | logo = Fortran logo.svg | logo caption = | released = {{start date and age|1954}} | latest release version = Fortran 2018 | latest release date = | typing = [[型システム|強い]][[静的型付け]] | implementations = Absoft, Cray, [[CUDA]], [[Fortran Builder]], [[GFortran]], [[G95]], [[Intel Parallel Studio|Intel]], Lahey/Fujitsu, [[Watcom C compiler|Open Watcom]], Pathscale, PGI, [[Silverfrost FTN95|Silverfrost]], Sun, XL Fortran, Visual Fortran ほか | influenced = [[ALGOL|ALGOL 58]], [[BASIC]], [[PL/I]], [[C言語|C]] | operating system = [[z/OS]], [[z/VM]], [[z/VSE]], [[Master Control Program|MCP]], [[VOS3]], [[Advanced Comprehensive Operating System|ACOS]], [[GCOS]], [[OpenVMS|VMS]], [[OS/400]], [[UNIX]], [[Linux]], [[Microsoft Windows|Windows]], [[Mac OS]], [[CP/M]], [[MS-DOS]] ほか }} {{プログラミング言語}} [[ファイル:Fortran acs cover.jpeg|サムネイル|1956年に発行された最初のFORTRAN解説書『The Fortran Automatic Coding System for the [[IBM 704]]』]] '''FORTRAN'''('''Fortran'''、'''フォートラン''')は[[計算科学|科学技術計算]]に向いた[[手続き型プログラミング]][[プログラミング言語|言語]]。[[1954年]]に[[IBM]]の[[ジョン・バッカス]]が考案した[[コンピュータ]]用で世界最初の[[高水準言語]]であり、その後も改訂されて使用されている。 == 概要 == [[1956年]]に最初のマニュアルがリリースされ、[[1957年]]に[[IBM 704]]用の最初の[[コンパイラ]]がリリースされた。名前 '''FORTRAN''' は {{lang|en|'''for'''mula '''tran'''slation}}(数式の変換)に由来し、FORTRAN 77 や Fortran 90 などの末尾の数字は規格が制定された年を示している。 FORTRAN は[[計算科学|科学技術計算]]に向いた[[手続き型プログラミング]][[プログラミング言語|言語]]であり、その長い歴史の間に開発された非常に多くの[[数学関数]]や[[サブルーチン]]を[[数値解析ソフトウェア]]としてもっている。また、[[並列計算]]の並列性を明示的に書くことができるので[[コンパイラ最適化|最適化]]が行いやすく、したがって他の言語より高速であるなどの理由から<ref>[http://www.research.kobe-u.ac.jp/csi-viz/members/kageyama/lectures/H22_FY2010_former/ComputationalScience/2_1_f95a.html 陰山聡『Fortran90/95入門』、なぜFortran90/95か?]</ref>、[[数値予報]]および[[気候モデル]]、[[構造力学]]における[[有限要素法]]、[[計算流体力学]]、[[計算物理学]]、[[計算機化学]]、[[計量経済学]]、動物と植物の[[品種改良]]などの大規模な計算を行う分野において、[[スーパーコンピュータ]]で使われている<ref name=HPF>[http://www.hpfpc.org/ HPF推進協議会 (HPFPC)]</ref>。 ちょうど[[C言語]]に対する[[C++言語]]のように、Fortran 90/Fortran 95 の言語仕様は、FORTRAN 77 の頃と比べればかなり拡張され進歩したものとなっている。最新の[[ソースコード]]は、初期のものと比較するとほとんど別の言語のように見える。初期の頃は、[[変数 (プログラミング)|変数]]名が大文字で6文字までであり、[[動的メモリ確保|動的な記憶領域の確保]]ができないなど多くの制約があったが、それらの制限はなくなり、Fortran 77 から[[構造化プログラミング]]が導入され、Fortran 90 から[[モジュール#ソフトウェア|モジュラープログラミング]]、[[ベクトル演算|配列演算]]とユーザー定義総称関数が、Fortran 95 から[[High Performance Fortran]]が、Fortran 2003 から[[オブジェクト指向]]が、Fortran 2008 からはコンカレント・コンピューティング([[並行計算]])が導入された。 なお、大文字で '''FORTRAN''' と表記した場合は FORTRAN 77 以前の FORTRAN を指し、'''Fortran'''と表記した場合は Fortran 90 以降を指すことがある。 == FORTRANの特徴 == === Fortran 90/95の特徴 === Fortran 90/95の特徴は、次のとおりに要約される{{sfn|牛島省|2020|loc=はじめに}}。 *数値計算プログラムを簡単かつ簡潔に記述できる。 *プログラムの誤りを犯しにくい言語である。 *数値計算のための便利な道具があらかじめ用意されている。 *作成したプログラムを大規模高速演算に使用できる。 *無料のコンパイラが公開されている。 === FORTRAN 77の特徴 === 広く使われていたFORTRAN 77 の特徴は、以下のように要約される。 ; 数式の計算が簡便に記述できる : ほぼ数学の数式通りに計算式を記述できる。もっともこの特徴は他に計算向きの高級言語がなかった時代の話であり、現代の水準では「プログラミング言語における標準数式表現の始祖」といった方が当たっている。 ; 入出力が容易 : 簡単に出力形式を定義できるFORMAT文や、実際の出力デバイスを意識しないで済む[[入出力]]文がある([[C言語]]の[[標準ストリーム|標準入出力]]と似た概念である)。 ; スタック指向/構造化指向の言語ではない : COMMON文、BLOCK DATA文やSAVE文など、データを静的に割り当てることを前提としている。 ; プログラムの書式が固定形式である : プログラム記述の方法がカラム位置に依存している(一部の実装では拡張されている)。 == FORTRANの歴史 == [[File:FortranCardPROJ039.agr.jpg|right|thumb|[[パンチカード]]に記されたFORTRANのコード。カラム1~5、6、73~80が制御用に確保されている。]] [[ジョン・バッカス]]は1953年末、メインフレームコンピュータ[[IBM 704]]のプログラムを開発するにあたり、[[アセンブリ言語]]に代わるものを開発することを[[IBM]]の上司に提案した。歴史的なFORTRAN開発チームはRichard Goldberg、Sheldon F. Best、Harlan Herrick、Peter Sheridan、[[Roy Nutt]]、 Robert Nelson、Irving Ziller、[[Lois Haibt]]、David Sayreというメンバーで構成された<ref>[http://www.softwarepreservation.org/projects/FORTRAN/index.html#By_FORTRAN_project_members History of FORTRAN and FORTRAN II — Software Preservation Group]</ref>。 ''The IBM Mathematical Formula Translating System'' のドラフト仕様は[[1954年]]中旬に作成された。1956年10月にFORTRANの最初のマニュアルが作成され、[[コンパイラ]]は1957年4月に完成した。顧客はアセンブリ言語で記述されたコードに匹敵するパフォーマンスが得られない限り[[高水準言語|高級言語]]を採用しないので、最初から[[コンパイラ最適化|最適化]]コンパイラが開発された。 この新しい方法がハンドアセンブルより高速に動作するかどうかには疑いの目があったが、プログラム中の命令数を1/20に削減できるので急速に受け入れられていった。IBMの社内誌であるThinkに掲載された1979年のインタビューでバッカスは「私がこの仕事をしたのは面倒くさがりだったからです。私はプログラムを書くことが好きではなかったので、[[IBM 701]]でミサイルの軌道計算プログラムを開発したときに、プログラムの開発を簡単にするためにプログラミングシステムを作り始めました。」<ref>[http://www.msnbc.msn.com/id/17704662/ Fortranの開発者ジョン・バッカスが死亡 - Gadgets - MSNBC.com]</ref>と語っている。 FORTRANは科学者の間で数学を応用したプログラムの記述に広く用いられたことから、より高速で効率的なコードを出力しようとする原動力となった。また、ライブラリでなく言語として[[複素数]][[データ型|型]]をサポートしたことは、電気電子工学における動的特性の計算などに代表される科学や工学分野のプログラムを書きやすくした。 1960年までに様々なバージョンのFORTRANが[[IBM 709]]、[[IBM 650]]、[[IBM 1620]]、[[IBM 7090]]で動作していた。FORTRANのユーザー数は急増し、コンピューターメーカーがFORTRANコンパイラをこぞって提供したので、1963年までには40を超えるFORTRANコンパイラが存在していた。こうしたことから、FORTRANはアーキテクチャの異なる様々なコンピュータで広くサポートされた最初の言語と言える。 FORTRAN開発の歴史は、初期の[[コンパイラ]]技術の歴史そのものといえる。FORTRANで効率的なコードを出力したいという強い要求からコンパイラによる最適化技術が大きく進歩した。 === FORTRAN === [[File:IBM_704_mainframe.gif|right|thumb|320px|[[IBM 704]] [[メインフレーム]] ]] IBM 704用に開発された最初のFORTRANは32の命令をもっていた。 === IBM 1401版FORTRAN === IBM 1401版は革新的な65パスのコンパイラであり、わずか8k語の[[磁気コアメモリ]]で動作する。コアに記録されたプログラムが段階的に実行可能なコードへと変換されて上書きされる。変換されたコードは[[機械語]]ではなく、[[UCSD p-System|UCSD Pascal]]のPコードが生まれるよりも20年も前ながら、中間コードを利用していた。 === FORTRAN II === IBMの''FORTRAN II''は1958年に開発された。主な改良点は[[手続き型プログラミング]]のサポートであり、サブルーチンや関数を定義できるようになった。 その後、FORTRAN IIのデータ型として、<code>DOUBLE PRECISION</code>(倍精度型)と<code>COMPLEX</code>(複素数型)が追加された。 === FORTRAN III === IBMは1958年に''FORTRAN III''を開発していた。いくつかの新機能に加えインラインアセンブラが可能であった。しかしながらこのバージョンは販売されなかった。704 FORTRANやFORTRAN IIと同様に、FORTRAN IIIにも移植の妨げになるような機種依存の機能があった。他のベンダーから販売されていたFORTRANも初期は同様の問題を抱えていた。 === FORTRAN IV === IBMは1961年に顧客の要望を受け''FORTRAN IV''の開発を開始した。<code>READ INPUT TAPE</code>のようなFORTRAN IIの機種依存部分を削除したほか、<code>LOGICAL</code>(論理型)、[[論理演算]]、算術[[If文|IF文]]の代替となる'''論理IF文'''が加えられた。この時のターゲットマシンは36ビットのワードマシンだったので、[[整数]]値は2<sup>35</sup>の大きさの範囲で定義されていた。また、[[実数]]の精度は2<sup>27</sup>、倍精度実数の精度は2<sup>54</sup>までだった。FORTRAN IVは1962年に[[IBM 7030]](通称ストレッチ)用がリリースされ、後に[[IBM 7090]]版と[[IBM 7094]]版がリリースされた。 1965年には[[国際規格|国家規格]]であるANSI X3.4.3 FORTRANに準拠した。 === FORTRAN 66 === ''American Standards Association''(現[[ANSI]])がFORTRANの米国規格を委員会で制定するようになったことはFORTRANの歴史の要である。[[1966年]]に2つの異なる言語が制定された。一つは当時既に[[デファクトスタンダード]]であったFORTRAN IVを基にした''FORTRAN''であり、もう一つはFORTRAN IIを基にして機種依存部分を取り除いた''Basic FORTRAN''である。最初に制定されたFORTRANの規格は後に''FORTRAN 66''と呼ばれた。 === FORTRAN 77 === FORTRAN 66 規格のリリース後、コンパイラ・ベンダーは多くの拡張を"標準Fortran"に導入し、1966の規格の改訂を始めるようにANSIを促した。この改訂は1977年に制定され、最終的な改訂案は1978年4月に新しいFORTRAN標準として承認された。この新しい標準は''FORTRAN 77''として知られ、FORTRAN 66後の多くの変更を追加し、多くの重要な機能を加えた: * ブロック <code>IF</code>と<code>END IF</code> ステートメント、オプショナルな<code>ELSE</code>と<code>ELSE IF</code> ステートメント。改善された言語サポートのための[[構造化プログラミング]]。 * DOループ機能拡張、パラメータ記述を含む、負の増分とゼロのトリップ・カウント(これ以前のFORTRANではDOループは繰り返しを必ず1回は行うことになっていたのを廃止した)。 * 改良されたI/Oのための<code>OPEN</code>, <code>CLOSE</code>, と <code>INQUIRE</code>文。 * ダイレクト-アクセス ファイル I/O。 * <code>IMPLICIT</code> 文。 * <code>CHARACTER</code> 型。文字の入出力と処理のための大幅な増補。(以前は、文字のデータを整数や実数などの変数や配列に格納して処理をしていた)。 * <code>PARAMETER</code> 文。定数を指定するためのステートメント。 * <code>SAVE</code> 文。明示的にローカル変数を永続的に指定する。 * 内部関数のための総称関数。 * [[ASCII]] コードの文字順序に基づいた、文字列比較のための内部命令セット(<CODE>LGE, LGT, LLE, LLT</CODE>)。 この規格の改訂において、多くの機能は除去されるか変えられて、以前の標準に合致していたプログラムの多くはおそらく無効になった。この時点で除去はX3J3の代替だけが許容された。だからコンセプト "不賛成"はANSI標準においては利用できなかった。しかし、コンフリクトリストの24アイテム(Appendix A2 of X3.9-1978を見よ)ループホールスとパスロジカルケースは以前の標準規格から許容されたが、しかし滅多に使用されない。少数の機能は慎重に除去された。 * 文字列定数をプログラム中で記述するためのホレリス記法、すなわち: :: <TT> GREET = 12HHELLO THERE! </TT> * FORMAT 記述子におけるH編集(ホレリス・フィールド)の読み込み(以前はH編集子で確保された文字列データの領域には入力文で文字列を読み込めた(データが上書きされる)そのFORMAT文を使って出力すると,書き換えられたデータが使われて出力される)。 * 配列の定義時の添字の範囲を超えたアクセス。 :: <CODE>DIMENSION A(10,5)</CODE> :: <CODE>Y= A(11,1)</CODE> * DOループの途中でいったん外に飛び出して後で戻る("エクステンデット・レンジ"(DOループの拡張範囲)として知られる)。 * 以前の規格では文字型(CHARACTER型)がなかったので、文字データや文字列データを整数や実数の変数や配列に格納することが行われていたが、Fortran77ではそれを廃止した。 === Fortran 90 === 一般に''Fortran 90'' として知られている規格は、大幅に発表が遅れたもののFORTRAN 77の正当な継承者であり、最終的に1991年にISO規格、1992年にANSI規格としてリリースされた。この抜本的な改訂では1978年のFORTRAN 77規格制定からのプログラミング技術における大幅な変化を反映するために、以下の多くの新しい機能が加えられた * フリーフォームソース入力と小文字のFortranキーワード。プログラム本文を7桁目から書かなくても良く、80桁の制限も無い。 <syntaxhighlight lang="fortran"> if (x<0) then x=0 end if </syntaxhighlight> * 最長31文字までの識別子。 <syntaxhighlight lang="fortran"> abcdefghijklmnopqrstuvwxyz12345=0.0e0 </syntaxhighlight> * インラインコメント。 <syntaxhighlight lang="fortran"> ! これは"!"を用いたコメントです </syntaxhighlight> * 配列演算(あるいは部分配列演算)。これは数学とエンジニアリングの計算を大幅に簡素化する。 *全部または部分マスクされた、配列の指定と配列の表現、例えば、 <syntaxhighlight lang="fortran"> x(1:n)=r(1:n)*cos(a(1:n)) </syntaxhighlight> *選択的配列のアサインのためのwhere文。 <syntaxhighlight lang="fortran"> integer :: a(10) real(8) :: b(10) a = f(x) where (a > 0) b = -1.0 elsewhere b = 1.0 end where </syntaxhighlight> *配列の定数と式による初期化。 *ユーザ定義の配列を返す関数と配列コンストラクタ。 <syntaxhighlight lang="fortran"> function sample(x) result(y) !配列yを返す integer, parameter :: nn = 4 real :: y(nn) = (/ 1, 2, 3, 4 /) !配列のコンストラクタと定数による初期化 !... end function sample </syntaxhighlight> * 再帰手続き。 * モジュラープログラム、すなわち関係するサブルーチンとデータのグループ化と、他のプログラムユニットで使用、モジュールの内の指定した部分だけの使用を含む。 * interface文を使用してコンパイル時に型がチェックされる大幅に改善された引数渡しメカニズム。 <syntaxhighlight lang="fortran"> module my_lib !モジュール interface function sample(x) real, intent(in) :: x(:) !コンパイル時に変数の型の整合性とデータの入出力方向がチェックされる。 !... end function sample end interface end module </syntaxhighlight> * ユーザー定義総称関数(同じ関数名で、引数の数とタイプを自動的に識別して異なる内部関数を呼び出す)のインターフェース。 * 演算子('+'、'-'、など)のオーバーローディング(多重定義)。 * 派生型データタイプ。 * 変数のデータタイプと他の属性を指定するための新たなデータタイプの宣言シンタックス、 * allocatable属性と allocateとdeallocate文を用いたダイナミックメモリアロケーション。 <syntaxhighlight lang="fortran"> real, allocatable :: temp(:) allocate(temp(nn)) deallocate(temp) </syntaxhighlight> * ポインター属性とポインターアサイン、nullify文によるダイナミックデータ構造の扱い。 * do 文の end do による終端。 * do while 文 * exit文によるdo文からの脱出と、cycle文によるdo文の次の繰り返しへの移行。 <syntaxhighlight lang="fortran"> do i = 1, nn if (b(i) /= 0) then a(i) = 1.0 / b(i) else exit end if end do </syntaxhighlight> * select文。 <syntaxhighlight lang="fortran"> select case (sw) case ('++') a = a + 1 case ('--') a = a - 1 case default a = 0 end select </syntaxhighlight> * ユーザがコントロールできる数値精度の移植性の良い指定方法。 <syntaxhighlight lang="fortran"> a = 1.0e0_kind(1.0d0) </syntaxhighlight> * 新しく導入された内部関数。それに伴い従来の文関数(statement function)は廃止予定に。 ==== 削除または時代遅れとされた機能の一覧 ==== 以前のバージョンとは異なり、Fortran 90は、何の機能も削除しなかった。(Appendix B.1には、「この規格の、削除した機能のリストは空である。」と記載されている)つまり、FORTRAN 77に準拠したプログラムは、Fortran 90にもまた準拠している。そして、両方の規格で、その動作が定義づけられた項目は使用可能でなければならない。一部の機能はFortran 95で「削除」され、また機能の小さな部分は「時代遅れ」と認定されて将来の規格で除去されることが予定された。 {| class="wikitable" |+ 削除または時代遅れとされた機能の一覧 |- style="position:sticky; top:0" ! 時代遅れの機能 ! 例 ! 状態 / Fortran 95での予定 |- | 算術 IF 文 | <syntaxhighlight lang="fortran"> IF (X) 10, 20, 30 </syntaxhighlight> | |- | 非-整数型の DO パラメータ あるいは制御変数 | <syntaxhighlight lang="fortran"> DO 9 X= 1.7, 1.6, -0.1 </syntaxhighlight> | 削除 |- | DOループの末端の共有 もしくは<br />END DO あるいはCONTINUE以外の末端<br /> &nbsp; | <syntaxhighlight lang="fortran"> DO 9 J= 1, 10 DO 9 K= 1, 10 9 L= J + K </syntaxhighlight> | |- | ブロック外部からの <br /> END IFへのブランチ | <syntaxhighlight lang="fortran"> 66 GO TO 77 ; . . . IF (E) THEN ; . . . 77 END IF </syntaxhighlight> | 削除 |- | Alternate return | <syntaxhighlight lang="fortran"> CALL SUBR( X, Y *100, *200 ) </syntaxhighlight> | |- | PAUSE文 | <syntaxhighlight lang="fortran"> PAUSE 600</syntaxhighlight> | 削除 |- | ASSIGN statement <br /> &nbsp; と assigned GO TO statement | <syntaxhighlight lang="fortran"> 100 . . . ASSIGN 100 TO H . . . GO TO H . . . </syntaxhighlight> | 削除 |- | Assigned FORMAT specifiers | <syntaxhighlight lang="fortran"> ASSIGN F TO 606 </syntaxhighlight> | 削除 |- | H 編集子 | <syntaxhighlight lang="fortran">606 FORMAT ( 9H1GOODBYE. ) </syntaxhighlight> | 削除 |- | 計算 GO TO 文 | <syntaxhighlight lang="fortran"> GO TO (10, 20, 30, 40), index </syntaxhighlight> | (時代遅れ) |- | 文関数 | <syntaxhighlight lang="fortran"> FOIL( X, Y )= X**2 + 2*X*Y + Y**2 </syntaxhighlight> | (時代遅れ) |- | DATA 文 <br /> &nbsp; among executable statements | <syntaxhighlight lang="fortran"> X= 27.3 DATA A, B, C / 5.0, 12.0. 13.0 /. . .</syntaxhighlight> | (時代遅れ) |- | CHARACTER* の形式による文字型宣言 | <syntaxhighlight lang="fortran"> CHARACTER*8 STRING ! Use CHARACTER(8) </syntaxhighlight> | (時代遅れ) |- | Assumed character length functions | <syntaxhighlight lang="fortranfixed"> CHARACTER*(*) STRING </syntaxhighlight> | |- | 固定長形式のソースコード | * 第1カラムが * あるいは ! あるいは C である行は注釈行.<br /> C &nbsp; 第6カラムが空白でなければ継続行.文番号は先頭から5桁目までに書く。 | |} ==== "Hello world"の例 ==== <syntaxhighlight lang="fortran"> program helloworld print *, "Hello, world." end program helloworld </syntaxhighlight> === Fortran 95 === [[画像:Earth_simulator_ES2.jpg|right|320px|thumb|[[地球シミュレータ]][[スーパーコンピュータ]]]] ''Fortran 95''は、マイナーな改訂版である。ほとんどは、Fortran 90規格の、いくつかの大きな問題を解決するためのものである。それにもかかわらず、Fortran 95もまた年号を付加されている。それは、Fortranの拡張として定義される並列言語、HPF([[High Performance Fortran]]:ハイ・パフォーマンスFortran)の一部導入によることは明白である。なお、本格的なHPFは、[[地球シミュレータ]]等で使用されている<ref name=HPF></ref>。 * <code>forall</code>と階層化された<code>where</code>がベクトル化のために追加された。 * ユーザ定義の <code>pure</code> と <code>elemental</code> プロセジャーが追加された。 * 派生タイプコンポーネントのデフォルト初期化、これはポインターの初期化を含むが追加された。 * データオブジェクトの初期化表記を使うための拡張が追加された。 * <code>allocatable</code> アレイがスコープから出た時に自動的に<code>deallocate</code>されることの明確な定義が追加された。 多くの内部関数は拡張された。一例として<code>maxloc</code> 内部関数に<code>dim</code>引数が追加された Fortran 90で時代遅れとされた、いくつかの機能はFortran 95から削除された。 * <code>REAL</code>と<code>DOUBLE PRECISION</code>変数を使用した<code>DO</code> ステートメントは削除された。 * <code>END IF</code>ステートメントへのブロック外部からのブランチは削除された。 * <code>PAUSE</code> ステートメントは削除された。 * <code>ASSIGN</code>と<code>ASSIGN</code>型<code>GOTO</code> ステートメント、<code>ASSIGN</code>フォーマット指定は削除された。 * <code>H</code> edit descriptor(いわゆるホレリス定数([[:en:Hollerith constant]]))は削除された。 Fortran 95への重要な追加は、一般には''Allocatable TR''として知られる、''ISO technical report、TR-15581: Enhanced Data Type Facilities''である。この仕様は、Fortran 2003準拠のFortran コンパイラより前に、<code>ALLOCATABLE</code> アレイの強化した用法を定義した。そのような用法は、プロセジャーのダミー引数リストとしての派生タイプコンポーネント<code>ALLOCATABLE</code>アレイと、関数の返し値を含む。<code>ALLOCATABLE</code>アレイは、<code>POINTER</code>-ベース・アレイより好ましいものである。なぜなら、<code>ALLOCATABLE</code> アレイは、スコープから抜けたとき、Fortran 95による自動的なdeallocateを保証しメモリリークの可能性をなくすからである。 [[エイリアシング]]はarrayの参照において最適化の障害にならず、Fortranコンパイラがポインタ-ベース・アレイより高速なコードを生成することを可能にする。 他の重要なFortran 95への追加は、ISO technical report ''TR-15580: 浮動小数点例外ハンドリング''である。一般にはIEEE TRとして知られており、この仕様はIEEE 浮動小数点演算と例外ハンドリングを定義する。 ==== 条件付コンパイルと可変長文字列 ==== 必須のベース言語(ISO/IEC 1539-1:1997に定義)以外に、Fortran 95言語も以下の2つのオプショナルなモジュールを含む。 * 可変文字列(ISO/IEC 1539-2 : 2000) * 条件付コンパイル(ISO/IEC 1539-3 : 1998) 両者は、マルチパート国際標準を構成する(ISO/IEC 1539)。規格の開発者は、「オプショナル・パートは必要なものを完備した機能を記述している、それは多くのコンパイラ・インプリメンターとユーザーから要求されてきたものである。しかし、それらは、全てのFortran標準に合致するコンパイラは十分な一般性を持たないと考えられていた。それにもかかわらず、もし標準に合致したFortranがそのようなオプションを提供するなら、『それらの機能は、標準規格の適切なパートに記述に従って提供されなければならない。』」と述べている。 === Fortran 2003 === ''Fortran 2003''はメジャーな改訂であり、たくさんの新しい機能を導入した。 Fortran2003における新しい機能の包括的なサマリーは、Fortran Working Group (WG5)のオフィシャルWebサイトから得ることができる<ref>[http://www.nag.co.uk/sc22wg5/ Fortran Working Group (WG5)].It may also be downloaded as a [ftp://ftp.nag.co.uk/sc22wg5/N1551-N1600/N1579.pdf PDF file] or [ftp://ftp.nag.co.uk/sc22wg5/N1551-N1600/N1579.ps.gz <code>gzip</code>ped PostScript file], FTP.nag.co.uk</ref>。 この記事によれば、このバージョンが含む大幅な強化は以下の通りである。 * 派生タイプの強化:使用法が進歩したコントロール、パラメータ化された[[派生型]]、改善された構造化[[コンストラクタ]]とファイナライザー。 * オブジェクト指向プログラミングのサポート:[[オブジェクト指向]]のタイプの拡張と[[インヘリタンス]]、[[ポリモーフィズム]]、ダイナミック・タイプアロケーション、タイプ-バウンド・プロセジャー。 * データマニピュレーション・エンハンスメント:allocatable コンポーネント (TR 15581の組み入れ)、遅延タイプパラメータ、ボラタイル・アトリビュート、ポインタ-の強化、初期化拡張、内蔵関数の強化。 * 入出力の強化:非同期転送、ストリーム・アクセス、派生タイプのためのユーザ定義転送オペレーション、ユーザ指定のフォーマット変換時の丸めの制御、接続前のユニットの名前付定数、<code>FLUSH</code> ステートメント、キーワードの規則化、エラーメッセージへのアクセス。 * プロセジャーのポインター。 * IEEE 浮動小数点と浮動小数点例外処理のサポート(TR 15580の組み入れ)。 * C言語との相互運用。 * 国際的な慣習のサポート:ISO 10646(国際文字セット)の4バイト文字の利用、数値形式の入出力でのデシマル(.)とコンマ(,)の選択。 * ホスト・オペレーティングシステムとの一体化の強化。コマンドライン引数、環境変数とプロセッサーエラーメッセージ。 Fortran 2003 への重要な追加は、ISO technical report TR-19767である。 Fortranにおけるモジュール機能の強化。このレポートは、''submodules''を提供する。これは、Fortranのモジュールをより[[Modula-2]]言語のモジュールに近づける。これらは、Ada言語のプライベート・チャイルド・サブユニットに似ている。これは分離したプログラムユニットとして表現すべきモジュールの仕様と実装を可能にし、大規模なライブラリのパッケージ化を改善し、インターフェース定義を公開しても企業秘密を保持することを可能にし、コンパイレーション・カスケードを防ぐ。 ===Fortran 2008=== 最新の規格であり一般にはFortran 2008として知られているISO/IEC 1539-1:2010は2010年9月に承認された<ref>N1836, Summary of Voting/Table of Replies on ISO/IEC FDIS 1539-1, Information technology - Programming languages - Fortran - Part 1: Base language {{PDFlink|ftp://ftp.nag.co.uk/sc22wg5/N1801-N1850/N1836.pdf| 101&nbsp;KiB<!-- application/pdf, 101k bytes -->}}</ref>。Fortran 95と同様に、これはマイナー・アップグレードである。Fortran 2003の明確化と訂正と共に、新しい特長も導入された。新しい特長は、以下を含む *モジュール構造の追加、ISO/IEC TR 19767:2005にとってかわるサブモジュール。 *[[Co-array Fortran]]―並列計算モデル。 *do concurrent―相互依存のないループを並列に実行するDOループ。 *メモリ上のレイアウトを指定するためのCONTIGUOUS(隣接)属性。 *コンストラクト・スコープ付のオブジェクトの宣言を含むブロック・コンストラクト。 *派生タイプにおける再帰的ポインターの代替としての再帰的アロケータブル・コンポーネント。 ファイナル・ドラフト・スタンダード(FDIS)は、ドキュメントN1830として利用できる<ref>N1830, Information technology, Programming languages, Fortran, Part 1: Base language {{PDFlink|ftp://ftp.nag.co.uk/sc22wg5/N1801-N1850/N1830.pdf| 7.9&nbsp;MiB<!-- application/pdf, 7.9M bytes -->}}</ref>。 Fortran 2008における重要な追加は、[[ISO]]テクニカルスペシフィケーション(TS) 29113のFortranにおけるC言語とのより高いインターオペラビリティであり<ref>ISO page to [http://www.iso.org/iso/iso_catalogue/catalogue_tc/catalogue_detail.htm?csnumber=45136 ISO/IEC DTS 29113, Further Interoperability of Fortran with C]</ref><ref>Draft of the Technical Specification (TS) 29113 {{PDFlink|ftp://ftp.nag.co.uk/sc22wg5/N1901-N1950/N1917.pdf| 312&nbsp;kiB<!-- application/pdf, 312k bytes -->}}</ref>、2012年5月のISOの承認に向けてまとめられた。C言語の配列へのFortranアクセスに関してタイプとランクを無視する仕様が加えられた。 === Fortran 2018 === Fortran 2018の最新版は、以前はFortran 2015と呼ばれていた<ref name="Fortran2018name">{{cite web|url=https://software.intel.com/en-us/blogs/2017/11/20/doctor-fortran-in-eighteen-is-the-new-fifteen|title=Doctor Fortran in "Eighteen is the new Fifteen"|publisher=Software.intel.com|accessdate=20 November 2017}}</ref>。大きな改訂が行われ、2018年11月28日にリリースされた<ref name="F2018">{{cite web|url=https://wg5-fortran.org/f2018.html|publisher=ISO|title=Fortran 2018|accessdate=30 November 2018}}</ref>。 Fortran 2018には、それ以前に公開された以下の2つの技術仕様が含まれている。 * ISO/IEC TS 29113:2012 Further Interoperability with C<ref name="TS29113">{{cite web|url=https://wg5-fortran.org/N1901-N1950/N1942.pdf|title=Further Interoperability with C|publisher=ISO|accessdate=20 November 2017}}</ref> * ISO/IEC TS 18508:2015 Additional Parallel Features in Fortran<ref name="TS18508">{{cite web|url=http://isotc.iso.org/livelink/livelink?func=ll&objId=17288706&objAction=Open|title=Additional Parallel Features in Fortran|publisher=ISO|accessdate=20 November 2017}}</ref> 追加の変更と新機能には、ISO/IEC/IEEE 60559:2011(2019年時点の[[IEEE 754|IEEE浮動小数点数仕様]]の最新版)のサポート、16進の入出力、IMPLICIT NONE拡張など、様々な変更が含まれている<ref name="F2015newfeat">{{cite web|url=http://isotc.iso.org/livelink/livelink?func=ll&objId=19044944&objAction=Open|publisher=ISO|title=The New Features of Fortran 2015|accessdate=23 June 2017}}</ref><ref name="Fortran2015Closes">{{cite web|url=https://software.intel.com/en-us/blogs/2015/09/04/doctor-fortran-in-one-door-closes|title=Doctor Fortran in "One Door Closes"|publisher=Software.intel.com|accessdate=21 September 2015}}</ref><ref name="Fortran2015">{{cite web|url=http://software.intel.com/en-us/blogs/2013/08/08/doctor-fortran-goes-dutch-fortran-2015|title=Doctor Fortran Goes Dutch: Fortran 2015|publisher=Software.intel.com|accessdate=19 November 2014}}</ref><ref>[http://j3-fortran.org/doc/year/18/18-007r1.pdf Fortran 2018 Interpretation Document], 9 October 2018</ref>。 == 科学分野と工学分野での利用 == 1968年に[[BASIC]]の作者等によって書かれた専門雑誌の記事でもすでに「旧式の(old-fashioned)プログラミング言語」と記述されていたが<ref name="dtss196810">{{cite journal|date=11 October 1968|title=Dartmouth Time-Sharing|url=http://dtss.dartmouth.edu/sciencearticle/index.html|journal=Science|volume=162|issue=3850|pages=223–228|doi=10.1126/science.162.3850.223|author1=Kemeny, John G.|author2=Kurtz, Thomas E.}}</ref>、Fortranは現在でも数十年に渡って使用されており、特に科学や工学のコミュニティでは、Fortranで書かれたソフトウェアが日常的に幅広く利用されている<ref>{{cite web|last=Phillips|first=Lee|title=Scientific computing's future: Can any coding language top a 1950s behemoth?|url=https://arstechnica.com/science/2014/05/scientific-computings-future-can-any-coding-language-top-a-1950s-behemoth/|publisher=Ars Technica|accessdate=8 May 2014}}</ref>。{{仮リンク|ジェイ・パサコフ|en|Jay Pasachoff}}は1984年に「物理学と気象学の学生はFORTRANを必ず学ぶ必要がある。大部分の成果がFORTRANで書かれており、科学者たちがPascalやModula-2などの他の言語に移行する可能性は極めて低い。」と書いている<ref name="pasachoff198404">{{cite news|url=https://archive.org/stream/byte-magazine-1984-04/1984_04_BYTE_09-04_Real-World_Interfacing#page/n403/mode/2up|title=Scientists: FORTRAN vs. Modula-2|work=BYTE|date=April 1984|accessdate=6 February 2015|author=Pasachoff, Jay M.|authorlink=Jay Pasachoff|pages=404|type=letter}}</ref>。1993年、[[Cecil E. Leith]]は、FORTRANを「科学計算の母語」であると評し、他の言語によって置き換えられる可能性は「永遠の希望であり続けるだろう」と述べている<ref name="Galperin">{{cite book|last=Galperin|first=Boris|title=Large Eddy Simulation of Complex Engineering and Geophysical Flows|year=1993|publisher=Cambridgey|location=London|isbn=978-0-521-43009-8|page=573|chapter=26}}</ref>。 == 言語仕様の変遷 == FORTRAN 66以降、[[国際標準化機構|ISO]]、[[ANSI]]、[[日本産業規格|JIS]]で仕様が制定されている。Fortranの言語仕様は、年代によってかなり変化して来ている。他の[[プログラミング言語]]で[[実装]]された[[構造化プログラミング]]の機能などがどんどん取り入れられて来ているからである。 *FORTRAN 66とFORTRAN 77の言語仕様の詳細は、[[FORTRAN 77の言語仕様]]を参照のこと。 *Fortran 90以降の言語仕様の詳細は、[[Fortranの言語仕様]]を参照のこと。 === 初期 (FORTRAN 66) === 1966年にANSI X3.9-1966が制定され、JISとしては1967年に制定された。この時は、以下の3つの水準ごとに独立したJISが制定された。共通したタイトルは「電子計算機プログラム用言語 FORTRAN」だった。以下に水準間のおおよその違いを記す。 * JIS C 6201(水準7000) ** [[複素数]]型と[[倍精度]][[実数]]型がある ** DATA[[文 (プログラミング)|文]]と初期値設定副プログラム(BLOCK DATA文)がある ** FORMAT文中の欄記述子にD,G,Aが定義できる ** [[変数 (プログラミング)|変数]]、[[配列]]手続き名は最大6文字 * JIS C 6202(水準5000) ** 変数、配列手続き名は最大6文字 * JIS C 6203(水準3000) ** 変数、配列、手続き名は最大5文字 ** [[論理型]]のデータ、論理式、関係式、論理[[If文|IF文]]は使えない。 ** [[データ型|型]]宣言文がない。 ** EXTERNAL文がない。 ** 3[[次元]]の配列がない。 ** 名前付きCOMMON文がない。 ** 文番号は4桁 ** COMMON文に配列宣言が使えない。 ** 整合配列がない。 なお、1971、1976年に若干の改訂がなされている。 === FORTRAN 77時代 === 国際標準化機構([[国際標準化機構|ISO]])は、米国規格協会([[ANSI]])の X3J3 が作成した FORTRAN の規格 X3.9-1978 を ISO 1539-1980 として定めた。基本水準(subset language)と上位水準(full language)の2種類の水準からなっていた。これを基にして、同じく2水準の JIS C 6201-1982 が制定された。なお、[[1987年]]に、JISの分類が変更になり、この規格は JIS X 3001-1982 となった。内容には変更はない。 === Fortran 90時代 === FORTRAN 77を基に他の言語の特徴を組み込み、言語仕様を近代化しようとしたが、そのため仕様がなかなか決まらず、1991年に ISO/[[国際電気標準会議|IEC]] 1539:1991として制定された。JISではそれを受け、JIS X 3001:1994が制定された。 Fortran 90 から規格上の言語の呼称が頭文字のみを大文字とした“Fortan”に変更された<ref>{{citation |title=ISO/IEC 1539 : 1991 (E) Fortran |publisher=ISO/IEC |date=1991-07-01 |url=https://wg5-fortran.org/N001-N1100/N692.pdf }} </ref>。 === Fortran 95時代 === {{節スタブ}} JIS X 3001:1998では,Fortran 95と通称される規格が引用されている。該規格は一部例外を除きJIS X 3001 1-1994の上位互換拡張である。 === Fortran 2003時代 === {{節スタブ}} JIS X 3001:2009<!--(2019年現在の最新改正版)-->では,Fortran 2003と通称される規格が引用されている。当該規格は一部の例外を除いてJIS X 3001-1:1998の上位互換拡張である<ref>{{cite jis|X|3001-1|2009|name=プログラム言語Fortran――第1部: 基底言語}}</ref>。 === Fortran 2008時代 === {{節スタブ}} 対応するJISは制定されなかった。 === Fortran 2018時代 === JIS X 3001-1:2023(2023年現在の最新改正版)では,Fortran 2018と通称される規格が引用されている<ref>{{cite jis|X|3001-1|2023|name=プログラム言語Fortran―第1部: 基底言語}}</ref>。 {{節スタブ}} == FORTRANと教育 == === 教育向けコンパイラ === FORTRANは、[[情報処理]]分野で広く使われていたため、学校や会社の教育(情報処理技術者向け教育)で利用された。教育向けには、より詳細なエラー情報を出すための拡張がWaterloo大学でWATFOR(後にWATFIV)[[コンパイラ]]として実装された。この実装は日本の大学でも使われた。 == Fortranとスーパーコンピュータ == Fortranは科学技術計算用の言語なので、[[スーパーコンピュータ]]での[[プログラミング言語]]としてよく用いられる。実際、多くのスーパーコンピュータでベンダーが主に注力して提供されている言語は、C/C++およびFortranである。 [[C言語]]と比較すると、Fortranは[[スタック]]等を使わずに、コンパイル時に静的に記憶領域を確保するのが基本であった。そのため、自由度が高くあらゆる状況を想定しなければならない[[C言語]]と比べると[[コンパイラ]]はコードを最適化しやすいという利点がある。 Fortranの主な用途である科学と技術用の計算では配列を用いた演算が基本であり、ベクトル型[[スーパーコンピュータ]]は、Fortranを使った[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]で使用することが多い。そこで、スーパーコンピュータの高速演算機能を有効に使うための工夫がなされた。その1つの例としては、自動[[ベクトル化]]機能である。[[ベクトル計算機|ベクトル]]型のスーパーコンピュータは、多くの演算を同時に行うベクトル演算機能が[[ハードウェア]]で提供されている。この機能を有効に使うために、FortranのDO[[ループ (プログラミング)|ループ]]をベクトル演算装置で演算させるために、自動的にベクトル[[命令 (コンピュータ)|命令]]にする機能が提供された。また、DOループ内のベクトル演算に適さないものをDOループ外に追い出す機能などもある。たとえば、 <syntaxhighlight lang="fortran"> DO I = 1, N A(I) = B(I) * C(I) END DO </syntaxhighlight> のようなDO構文は、ほとんどの場合、1から数個のベクトル演算命令に[[コンパイラ|コンパイル]]される。そのほかにもDOループの中にIF文を含むような例、たとえば、 <syntaxhighlight lang="fortran"> DO I = 1, N IF (A(I) <= LIMIT) THEN B(I) = A(I) * Z END IF END DO </syntaxhighlight> のようなものもベクトル化できる場合がある。これは、いったんAの各要素がLIMIT以下かどうかを示すマスクベクトルを作成して、Aという配列(=ベクトル)に、変数Zの値を乗じるとき、マスクベクトルを参照するベクトル演算を行うことで、DOループをベクトル化する。 このような作業は、すべて[[コンパイラ]]が行い、利用者にできるだけ負担をかけないようにしている。しかし、より高度なベクトル化を行うために、[[最適化 (情報工学)|最適化]]を行う支援ツールが用意されている場合もある。 == FORTRANと日本語 == コンピュータ上で[[日本語]]の文字を扱えるようになると、FORTRANでも日本語を扱う需要が出てきた。そのため、各社([[メインフレーム]]を作成していたメーカ)では、独自に言語仕様に日本語の文字を扱えるように拡張した。そのため、各社で日本語の扱い方が異なる事態になった。そこで、[[JEIDA]]では1985年に、JEIDA-42で日本語FORTRANを策定した。 FORTRANで日本語の文字を扱う場合、識別子である[[変数 (プログラミング)|変数]]名、仮引数名、プログラム名、関数名、サブルーチン名、共通ブロック名等には日本語の文字は使えず、データとしての日本語の文字列を扱うための専用の型(日本語型)、日本語の文字列を入出力するためのFORMAT文の編集子の拡張が行われた。 == FORTRANベースの言語 == FORTRAN 77が登場する前にいろいろと作られた[[プリプロセッサ]]はFortranをベースとしてよりプログラムが読みやすく書きやすい言語の形式を提供するために広く使われた。プリプロセッサで処理されたコードは、標準のFORTRANコンパイラを備えた任意のマシンに対してコンパイルすることができる利点を持つ。これらのプリプロセッサは通常、構造化プログラミング、6文字よりも長い変数名、追加のデータ型、条件付きコンパイル、さらにはマクロ機能などをサポートしていた。 ポピュラーなプリプロセッサとしてFLECSとiftran、MORTRAN、SFtran、S-Fortran、[[Ratfor]]、Ratfivがあった。例えば、RatforとRatfivはCライクな言語を実装して、標準的なFORTRAN 66コードを出力した。 LRLTRANは、ローレンス放射線研究所で、ベクトル演算および動的な記憶、システムのプログラミングをサポートする他の拡張機能を提供するために開発され、ディストリビューションにはLTSSオペレーティングシステムが含まれていた。Fortran 95規格は、任意の条件付きコンパイルの機能を定義するオプションパート3を備えている。この機能は、しばしば 『CoCo』と呼ばれている。 SIMSCRIPTは、大規模な離散システムのモデリングとシミュレーションのためのアプリケーションに特化したFortranのプリプロセッサである。 また多くのFORTRANコンパイラは、Cプリプロセッサのサブセットを取り込んだ。 Fortran言語の進歩にもかかわらず、プリプロセッサは条件付きコンパイルとマクロ置換のために使用され続けている。 プログラミング言語Fは、FORTRANのEQUIVALENCE文などの、冗長、非構造化、非推奨な機能を削除したFortran 95のクリーンなサブセットとして設計された。言語FはFortran 90で追加された配列演算の機能を使い、FORTRAN 77とFortran 90で追加された制御文を用い、構造化プログラミングのために廃止された制御文を削除した。設計者は言語Fを 『特に教育や科学技術計算に適した、構造化された配列プログラミング言語である。』 と述べている<ref>[http://www.fortran.com/F/index.html F Programming Language Homepage]</ref>。しかしサブセット言語であるから,旧来のあるいはFで除かれた機能を含むFortranのソースコードは受け付けないため、実務用には普及しなかった。 HPF([[High Performance Fortran]])というFortran拡張系の言語もあるが、これもほぼ廃れた。 == 主な処理系 == === Windows === ;フリーソフト *[[GFortran]] - Fortran95/77処理系、[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]のバージョン4.0.0以降より標準 *[[G95]] - [[GNU]]のFortran95処理系 *FTN95 [https://www.silverfrost.com/default.aspx Silverfrost FTN95: Fortran for Windows] *Open Watcom [http://www.openwatcom.org/index.php/Main_Page Open Watcom] ;商用ソフト *Absoft Pro Fortran *Intel Visual Fortran *NAG Fortran *Lahey Fortran === Linux === ;無償で利用できるコンパイラ * GNU Fortran ([[GFortran]])- 自由なソフトウェア(Free Software)のGNU コンパイラ・コレクションの1つ。現在 Fortran 95 に2003や2008の仕様の一部を追加。 * [[G95]] * Open Watcom [http://www.openwatcom.org/index.php/Main_Page Open Watcom] * Intel Fortran Composer XE 2011 for Linux - 非商用利用に限り無償で使用可 * Oracle developer studio - 開発向けに無期限の無償ライセンス * NVIDIA HPC SDK - ライセンス契約への同意が必要 ;有償の商用コンパイラ * Absoft Pro Fortran * Intel Visual Fortran * NAG Fortran * Open64 * PGI Fortran * un Studio === その他 === * f2c - [[ベル研究所]]のFortran77を[[C言語]]に変換するトランスレータ == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == {{Wikibooks|Fortran|Fortran}} <!-- 著者の五十音順 --> * 秋冨勝『学生のためのFORTRAN : JIS上位水準による』東京電機大学出版局、1990年。ISBN 978-4501515300。 * 新井親夫『Fortran90入門 : 基礎から再帰手続きまで』森北出版、1998年。ISBN 978-4627839816。 * 牛島省『数値計算のためのFortran 90/95プログラミング入門』[[森北出版]]、2007年。ISBN 978-4-627-84721-7。 - 第2版 2020年。 * {{Cite book |和書 |author=牛島省 |title=数値計算のためのFortran90/95プログラミング入門 |edition=第2版 |publisher=森北出版 |year=2020 |ISBN=978-4627847224 |ref={{sfnref|牛島省|2020}} }} * 牛島省『数値計算のためのFortran90/95プログラミング入門(第2版)・アンサーブック : 演習問題の解答と解説』日本電子書籍技術普及協会、2022年。{{ISBN2|978-4867538098}}。 - ペーパーバック版 * [[浦昭二]]『FORTRAN 入門』[[培風館]]、1966 (1972,1980,1983)年。 * 浦昭二、近藤頌子、土居範久、原田賢一『FORTRAN 77入門』培風館、1982年。 * 陰山聡『[http://www.research.kobe-u.ac.jp/csi-viz/members/kageyama/lectures/H22_FY2010_former/ComputationalScience/2_1_f95a.html Fortran90/95入門]』<!--神戸大学大学院システム情報学研究科計算科学専攻、教授--> * 片桐孝洋、大島聡史『C&Fortran 演習で学ぶ数値計算』共立出版、2022年。ISBN 978-4-320-12484-4. * 田口俊弘『Fortran ハンドブック』技術評論社、2015年。ISBN 978-4774175065 * 竹澤照『Fortran I 基礎』(第2版)、共立出版、2000年。ISBN 4-320-02977-1。 - 初版 1995年。 * 竹澤照『Fortran II 数値計算』共立出版、1997年。ISBN 4-320-02868-6。 * 竹澤照『Fortran III データ構造とアルゴリズム』共立出版、1999年。ISBN 4-320-02937-2。 * 田辺誠, 平山弘『実践Fortran95プログラミング : フリーソフトg95, gnuplotによるプログラミングから作図まで』第3版、共立出版、2008年。 * 冨田博之、齋藤泰洋『Fortran90/95プログラミング』培風館、1999年。 - 改訂新版 2011年。 * 冨田博之、齋藤泰洋『Fortran90/95プログラミング』改訂新版、培風館、2011年。ISBN 978-4-563-01587-9 * {{Cite book |和書 |author=[[西村恕彦]] |title=人文科学のFORTRAN 77 |publisher=[[東京大学出版]] |year=1978 |ref={{sfnref|西村恕彦|1978}} }} * 西村恕彦、[[酒井俊夫]]、高田正之『岩波FORTRAN辞典』[[岩波書店]]、1986年。ISBN 978-4000098816。 - Fortran77(まで)の規格を記述した辞典。 * [http://www.nag-j.co.jp/fortran Fortran入門]、日本NAG社。 * [http://www.nag-j.co.jp/fortran/fortran2003/index.html Fortran2003入門]、日本NAG社。 * [http://www.nag.co.uk/SC22WG5/ JTC1/SC22/WG5 The official home of Fortran Standards ]、日本NAG社。 * 日向俊二『Fortran 2008入門』カットシステム、2016年。ISBN 978-4-87783-399-2 * 藤井文夫、田中真人、佐藤維美『Fortran90/95による有限要素法プログラミング : 非線形シェル要素プログラム付』丸善出版、2014年。ISBN 978-4621087848 * 松本敏郎、野老山貴行『みんなのFortran : 基礎から発展まで』名古屋大学出版会、2022年。ISBN 978-4-8158-1087-0  * [[森正武]]『FORTRAN77数値計算プログラミング』増補版、岩波書店、1987年。 * [[森口繁一]]『JIS FORTRAN入門』上、第3版、東京大学出版会、1984年。ISBN 978-4130620307。 * 安田清和、水野正隆、小野英樹『Fortran90/95による実践プログラミング』大阪大学出版会、2014年。ISBN 978-4872594737 <!-- 著者のABC順 --> * Jeanne C. Adams, Walter S. Brainerd, Jeanne T. Martin: "Fortran 95 Handbook: Complete Iso/Ansi Reference", MIT Press, 1997年。ISBN 978-0262510967 * Jeanne C. Adams, Walter S. Brainerd, Richard A. Hendrickson, Richard E. Maine, Jeanne T. Martin, Brian T. Smith: "The Fortran 2003 Handbook : The Complete Syntax, Features and Procedures", Springer, 2009. ISBN 978-1-84628-378-9 * Ed Akin: "Object-Oriented Programming via Fortran 90/95", Cambridge Univ Press, 2003年. ISBN 978-0-521-52408-7. * Sujit Kumar Bose: "Numerical Methods of Mathematics Implemented in Fortran", Springer, 2019. * Walter S. Brainerd, Charles H. Goldberg, Jeanne C. Adams: "Programmer's Guide to Fortran 90" (3rd Ed.), Springer, 1996. * Walter S. Brainerd: "Guide to Fortran 2003 Programming", Springer, 2009. ISBN 978-1-84882-542-0 * Walter S. Brainerd: "Guide to Fortran 2008 Programming", 2nd Ed., Springer, 2015. ISBN 978-1447167587 * Ian Chivers and Jane Sleightholme: "Introduction to Programming with Fortran", 4th Ed., Springer, 2018, ISBN 978-3-319-75501-4 * Norman S. Clerman, Walter Spector: "Modern Fortran: Style and Usage", Cambridge University Press, 2012. ISBN 978-0-521-51453-8 * Milan Curcic: "Modern Fortran: Building efficient parallel applications", Manning Publications, 2020. ISBN 978-1617295287. ※ Coarrayについての例解説あり。 * Mark Jones Lorenzo: "Abstracting Away the Machine: The History of the FORTRAN Programming Language (FORmula TRANslation)", Independently published, 2019. ISBN 978-1082395949 * Arjen Markus: "Modern Fortran in Practice", Cambridge Univ. Press, 2012. ISBN 978-1-13908479-6 * M. Metcalf, J. Reid 『詳解Fortran 90』[[ビット_(曖昧さ回避)|bit]]別冊、[[共立出版]]、1993年。 - 原著 "Fortran 90 Explained"、Oxford Univ. Press、1990年。 * Michael Metcalf, John Reid, Malcolm Cohen: "Modern Fortran Explained", Numerical Mathematics and Scientific Computation, 4th Ed., Oxford Univ Press, 2011. ISBN 978-0199601417 * Michael Metcalf, John Reid, Malcolm Cohen: "Modern Fortran Explained : Incorporating Fortran 2018", 5th Ed., Oxford Univ. Press, 2018. ISBN 978-0198811886 * Valmer Norrod, et al: "[https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19700015982.pdf A self-study course in FORTRAN programing - Volume I - textbook]", Computer Science Corporation El Segundo, California, 1970. NASA(N70-25287). * Valmer Norrod, Sheldom Blecher, and Martha Horton: "[https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19700015983.pdf A self-study course in FORTRAN programing - Volume II - workbook]", NASA CR-1478, Vol. II, 1970. NASA(N70-25288). <!-- 著者不明, 五十音順, ABC順 --> * [https://qiita.com/cure_honey/items/795bd0e048ffeadc3e63 今時の Fortran 入門 (Introduction to Modern Fortran)] * [https://www.jamstec.go.jp/es/jp/simschool/f90learning/index.html Fortran90を用いたプログラミングの記述方法 (JAMSTEC)] - これはユーザー向けの解説書であって、言語規格の記述としては厳密ではないところが多少ある。 * [http://www.softwarepreservation.org/projects/FORTRAN/ History of FORTRAN and FORTRAN II ] == 関連項目 == * [[FORTRAN 77の言語仕様]] * [[Fortranの言語仕様]]-(Fortran 90以降の言語仕様) * [[Co-array Fortran]] * [[High Performance Fortran]] * [[COBOL]] * [[PL/I]] * [[:en:F_(programming_language)]] ※ F言語はFortran95のサブセット言語として主に教育用を想定して1996年頃に作成されたが普及せず。 == 外部リンク == * [http://fortranwiki.org/fortran/show/HomePage Fortran Wiki] * [https://amanotk.github.io/fortran-resume-public/index.html Fortran演習 (地球惑星物理学演習)] * [https://fortran-lang.org/ fortran-lang.org]—the new home of Fortran on the internet (2020). ** [https://fortran-lang.org/en/learn/ Learn Fortran] * [https://japan.zdnet.com/article/35170463/ 「Fortran」の人気が再燃?--専門家が考える現状と展望(ZDNET Japan、2021年5月17日掲載)] * [https://doku.lrz.de/dyn/Doku_Kurse/Fortran/basics/Fortran_3days.pdf ''An introduction to the Fortran programming language'', by Reinhold Bader, Nisarg Patel, Leibniz Supercomputing Centre]. * [https://www.matecdev.com/posts/why-fortran-still-used.html "5 Reasons Why Fortran is Still Used", blog by Martin D. Maas, Ph.D (Last updated: 2021-09-20)] * [https://www.hitachihyoron.com/jp/pdf/1962/exc/1962_exc_18.pdf 島田正三、吉村一馬、高橋延匡、中田育男、多田敬子:「HARP 103 (HIPAC 103の自動プログラミングシステム)」,日立評論1962年別冊論文集号,日立製作所中央研究所創立二十周年記念論文集(1962年)] ※ HARPは日立による初期のFORTRAN言語処理系の名称である。当時にFORTRANがIBM社の製品商標名にあたる可能性を懸念して別名称を使用したとされる。 * [https://www.youtube.com/watch?v=qQXXI5QFUfw NEW! Most Popular Programming Languages 1965 - 2022] 電子計算機の歴史の初期においてFORTRAN言語の人気は絶大であったことを示す。 * [https://fortranwiki.org/fortran/show/Object-oriented+programming Fortran Wiki : Object-oriented programming] * [https://web.corral.tacc.utexas.edu/CompEdu/pdf/isp/EijkhoutIntroSciProgramming-book.pdf Victor Eijkhout : Introduction to Scientific Programming in C++17/Fortran2008, The Art of HPC, volume 3] * [https://modern-fortran-local-user-group.connpass.com/ モダンFortran勉強会] * [https://fortran-jp.org/usergroup/usergroup.html fortran-jp.org] * [https://site.hpfpc.org/home 高性能Fortran推進協議会] * [https://www.hpci-office.jp/events/seminars/seminar_texts (RIST主催の)HPCプログラミングセミナーで使用する資料の公開ページ] ※ FortranとCによるプログラミングのチューニング法のガイド {{プログラミング言語一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:FORTRAN}} [[Category:プログラミング言語]] [[Category:JIS]] [[Category:FORTRAN|*]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/FORTRAN
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岩原裕二
岩原 裕二(いわはら ゆうじ)は、日本の漫画家、イラストレーター。北海道網走郡女満別町(現・大空町)出身。 北海道綜合美術専門学校(現北海道芸術デザイン専門学校)卒業後、株式会社ハドソンに入社し、企画とデザインを担当していた。1994年、「アフタヌーン四季賞 秋」にてデビュー。作品に『地球美紗樹』『いばらの王』など。風貌は自画像にそっくりである。 アメコミ好きであり、自身もマーベル・コミック社の『Quest』の作画に参加した経験がある(カタログ誌などにイラストは載ったものの本自体は刊行はされていない)。 スクリーントーンをほとんど使わずに、力強い線画による重厚な描き込みと、印象的なベタで全体を表現する画風が特徴的。また、カラーイラストはアクリル絵具を使った手塗りであり、先に描いた線画を消さないように、緻密に色を載せている。アクリル絵具は基本色4色(赤黄青白)のみを使い、その他の色は全て混色である。
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岩原 裕二は、日本の漫画家、イラストレーター。北海道網走郡女満別町(現・大空町)出身。
{{複数の問題 |存命人物の出典明記=2016-02-03 |単一の出典=2016-02-03 |独自研究=2016-02-03 }} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 岩原 裕二 | ふりがな = いわはら ゆうじ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = | 生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[網走郡]][[女満別町]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = | 職業 = [[漫画家]]・[[イラストレーター]] | 活動期間 = [[1996年]] - | ジャンル = | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''岩原 裕二'''(いわはら ゆうじ)は、[[日本]]の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[北海道]][[網走郡]][[女満別町]](現・[[大空町]])出身。 == 略歴・人物 == 北海道綜合美術専門学校(現[[北海道芸術デザイン専門学校]])卒業後、株式会社[[ハドソン]]に入社し、企画とデザインを担当していた。1994年、「[[アフタヌーン四季賞]] 秋」にてデビュー。作品に『地球美紗樹』『いばらの王』など。風貌は自画像にそっくりである。 [[アメリカン・コミックス|アメコミ]]好きであり、自身も[[マーベル・コミック]]社の『Quest』の作画に参加した経験がある(カタログ誌などにイラストは載ったものの本自体は刊行はされていない)。 [[スクリーントーン]]をほとんど使わずに、力強い線画による重厚な描き込みと、印象的な[[ベタ (漫画)|ベタ]]で全体を表現する画風が特徴的。また、[[カラー]][[イラストレーション|イラスト]]は[[アクリル絵具]]を使った手塗りであり、先に描いた線画を消さないように、緻密に色を載せている。アクリル絵具は基本色4色(赤黄青白)のみを使い、その他の色は全て混色である。 == 受賞歴 == * 1994年 「[[アフタヌーン四季賞]] 秋」 佳作 「9万光年のアリス」<ref name="natalie3295">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/artist/3295|title=岩原裕二|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|accessdate=2022-03-15}}</ref>(岩原ゆうじ名義、未掲載) * 1995年 「アフタヌーン四季賞 秋」 準入選 「コンクール」(未掲載) * 1996年 「アフタヌーン四季賞 夏」 四季賞 「蛇」{{R|natalie3295}}(岩原ゆうじ名義、『[[月刊アフタヌーン]]』1996年10月号に掲載) * 1996年 「アフタヌーン四季賞 秋」 四季賞 「狼の瞳」(岩原ゆうじ名義、『[[月刊アフタヌーン]]』1997年2月号に掲載) == 作品リスト == === 漫画 === * 蛇(『[[月刊アフタヌーン]]』1996年10月号掲載{{R|natalie3295}}、短編集『狼の瞳』収録) * 狼の瞳(『月刊アフタヌーン』1997年2月号掲載、短編集『狼の瞳』収録) * 鉄の世紀(『[[RPGマガジン]]』1998年7月号掲載、短編集『狼の瞳』収録) * [[クーデルカ (ゲーム)|クーデルカ]](『[[月刊エースネクスト]]』1999年7月号 - 2000年9月号連載、単行本全3巻) ** 岩原が[[キャラクターデザイン]]を担当した、同名[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]用ゲームの[[漫画化]]であるが{{R|natalie3295}}、ストーリーはゲームのエンディングから1年後の後日談であり、同一のキャラクターが登場する以外はほぼオリジナルとなっている。 * 地球美紗樹(『月刊エースネクスト』2001年1月号 - 2002年5月号連載、単行本全3巻) * [[いばらの王]](『[[コミックビーム]]』2002年10月号 - 2005年10月号連載、単行本全6巻) * Quest(未刊行) * 漂着物体X(『[[チャンピオンRED]]』2004年8月号掲載) * ようこそ! 名湯柳の湯。(『[[月刊電撃コミックガオ!]]』2005年3月号掲載) * ケイタの釣り(『コミックビーム』2006年2月号掲載) * [[学園創世 猫天!]](『チャンピオンRED』2006年7月号 - 2008年12月号掲載、単行本全5巻) * ウィルヴィレ(『[[コミックビームFellows!]]』vol.1掲載、シリーズ化の構想あり) - 表紙も担当。 * アレックス・ブラック(『[[Fellows!]]』volume4 - 、不定期連載中) * [[DARKER THAN BLACK -黒の契約者-#DARKER THAN BLACK -漆黒の花-|DARKER THAN BLACK -漆黒の花-]](原作:[[ボンズ (アニメ制作会社)|BONES]]・[[岡村天斎]]、『[[ヤングガンガン]]』2009年11号 - 2011年3号、単行本全4巻) * [[Dimension W]](『ヤングガンガン』2011年19号 - 2015年23号→『[[月刊ビッグガンガン]]』2016年Vol.01 - 2019年Vol.07、単行本全16巻) - 2016年にテレビアニメ化<ref>{{Cite web|url=https://anime.eiga.com/program/104643/|title=Dimension W|publisher=アニメハック|accessdate=2020-07-30}}</ref> * クレバテス-魔獣の王と赤子と屍の勇者-(LINE Digital Frontier『LINEマンガ』2020年8月12日<ref name="natalie20200812">{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/391747|title=「いばらの王」岩原裕二が挑む本格ハイファンタジー始動、単行本も同時発売|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-08-12|accessdate=2022-03-15}}</ref> - ) === 挿絵 === * サムライレンズマン(著:[[古橋秀之]]) * 『トライ・クロス!』シリーズ(著:[[友野詳]]) === イラスト === * トレカ・スクエア〜T.C.SQUARE〜 (2001年12月16日 [[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]) ポスターイラスト * トレカ・スクエア〜T.C.SQUARE〜2 (2002年6月16日 東京ビッグサイト) ポスターイラスト * [[まんだらけ]] 広告用イラスト * 『ヤングガンガン』2005年8月19日号 (No.16) [[スター・ウォーズ]]イラスト(コラボ企画第3弾) * 自衛官募集ポスターイラスト([[自衛隊帯広地方協力本部]])<ref>[http://otakei.otakuma.net/archives/2013050807.html 自衛隊萌えキャラ紹介―第4回 自衛隊帯広地方協力本部の“アニメ化希望”なポスター] - おたくま経済新聞</ref><ref>[https://www.mod.go.jp/pco/obihiro/4.html 自衛官募集ホームページ] - 自衛隊帯広地方協力本部</ref> === カードイラスト === * [[三国志大戦]](第2期)(EX[[龐徳]]) === キャラクターデザイン === ==== アニメ ==== * [[DARKER THAN BLACK -黒の契約者-]](キャラクター原案) * [[DARKER THAN BLACK -流星の双子-]](キャラクター原案) * [[サクガン]](キャラクター原案{{R|natalie3295}}) ==== ゲーム ==== * [[クーデルカ (ゲーム)|クーデルカ]]{{R|natalie3295}} * [[ボンバーマン'94]](グラフィックデザイナー) == 書籍 == * クーデルカ - 角川コミックス・エース [[角川書店]] *# 1999年12月1日発売 {{ISBN2|4-04-713304-3}} (絶版) *# 2000年6月1日発売 {{ISBN2|4-04-713338-8}} (絶版) *# 2000年9月30日発売 {{ISBN2|4-04-713361-2}} (絶版) * 狼の瞳 - 初期短編集。「鉄の世紀」「蛇」「狼の瞳」の3編を収録。角川コミックス・エース [[角川書店]] ** 2001年3月1日発売 {{ISBN2|4-04-713402-3}} (絶版) * 地球美紗樹 - 角川コミックス・エース [[角川書店]] *# 2001年6月1日発売 {{ISBN2|4-04-713430-9}} *# 2001年12月1日発売 {{ISBN2|4-04-713470-8}} *# 2002年6月1日発売 {{ISBN2|4-04-713498-8}} * Quest(Marvel Heroes) - (トレードペーパーバック版) Marvel Enterprises ** 2007年2月28日発売 {{ISBN2|0785112987}} * クレバテス-魔獣の王と赤子と屍の勇者- LINE Digital Frontier LINEコミックス、既刊4巻 *# 2020年8月12日発売{{R|natalie20200812}}、{{ISBN2|978-4-8019-5475-5}} *# 2021年2月15日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/416025|title=【2月15日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-02-15|accessdate=2022-03-15}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86697-146-9}} *# 2021年9月15日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/445089|title=【9月15日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-15|accessdate=2022-03-15}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86697-208-4}} *# 2022年3月15日発売<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/469375|title=【3月15日付】本日発売の単行本リスト|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-03-15|accessdate=2022-03-15}}</ref>、{{ISBN2|978-4-86697-249-7}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:いわはら ゆうし}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]] [[Category:ハドソンの人物]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%8E%9F%E8%A3%95%E4%BA%8C
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平野耕太
平野 耕太(ひらの こうた、1973年7月14日 - )は、日本の漫画家。東京都足立区出身、在住。アクション・ギャグ作品を主に手がける。愛称は「ヒラコー」。 高校時代は漫画研究部の部長を務め、その後、専門学校東京デザイナー学院アニメーション科(現東京ネットウエイブ)に入学し、中退。同校の漫画研究会に所属し、在学中に『COMICパピポ』(フランス書院)に掲載された『COYOTE』でデビュー。一時ゲーム会社に勤めていたものの数日(1週間以内)で退社しており、本人曰く「忘れたい出来事」と作品中で語っている。 デビューから暫くは成人向け漫画を執筆していたが、既にその頃からストーリー展開やギャグ部分に独特の雰囲気が存在していた。その後、一般雑誌に転向し『コミックガム』にて、同人誌に全てを賭けるオタクたちの野望と狂気を描いた『大同人物語』でカルト的な人気を得るが、連載中断のまま未完となった。打ち切りに際して、「ガム(掲載誌)? 知らねえよ。電話ひとつねえ。理不尽には無視で返すべきなのだ。故に知らねー」と、出版社との確執を吐露した。また1997年には『ファミ通PS』で『進め!!聖学電脳研究部』を連載、掲載雑誌の方向性をしばしば逸脱したゲーム紹介やストーリーの脱線などで話題を集めたが、出版関連の騒動から近年の角川書店版発売まで単行本があまり出回らなかった(角川書店版の後書きで騒動の顛末が書かれている)。1998年より『ヤングキングアワーズ』にてイギリス国教会とカトリックのヴァンパイアハンターおよびナチスの吸血鬼軍団による三つ巴の戦いを描く『HELLSING』を連載、同作は10年近い長期連載へと至る人気作となり、漫画家としての知名度を確立することになった。 2009年に『HELLSING』を完結させ、新たに各時代の武士・軍人たちが異世界で戦う『ドリフターズ』の執筆を開始した。 2022年11月20日に自身のTwitterで入院中であることを明かした。本人は「3日ほど胃痛がずーッと続いて飯を食うと12時間ほどウンウン唸る羽目になるのでなにも食えんで白湯ばかり飲んでる」とツイート。22日には「オペ終了。寝てる間に終わっていた」、「やはり胆石が胆管閉塞させてたようで、内視鏡で見た後そのまま内視鏡手術もやってくださったようで、寝てる間に終わっていた」と詳しい診断内容をツイートした。また、27日には「膵炎併発。昨日は激痛で一晩のたうちまわった。今日もう一回内視鏡手術。内視鏡手術のたびに膵炎再併発するかもて。気が重い」とツイートしている。 作品中ではナチスが登場することも多い。デビュー作の『COYOTE』ではレジスタンスとナチス・ドイツを髣髴とさせる軍事国家との戦いが描かれ、『HELLSING』では物語のキーとなる形で登場する。なお、軍服の作画には苦労するらしく「あんな描きにくい奴ら死ねばいいんですよ!」「ナチはヘドが出るほど描き過ぎた」と語っている。 ベタを多用し陰影を強調した画、特異なデッサン・ポーズ、そして芝居がかった大仰な台詞回しが特徴である。この独特の修辞法は佐藤大輔の小説やウィンストン・チャーチルの演説などから影響を受けているとされる。また、前者の描画法は日本国内では珍しいが、アメコミでの一般的なデフォルメに近い形式である。 長編作品ではシリアスな物語を基本とする一方で、ネタに走った場面や短編・エッセイ風の作品も描く。 ギャグシーンなどでゲーム、漫画、アニメ、映画、音楽などの話題が唐突に登場したり、背景としてペンギン村風の光景(山や雲などに笑顔)などパロディをさしこむこともある。 登場人物は男女を問わず手袋・眼鏡を着用しているキャラクターが多い。巨乳、メガネ、ネコ(女役)になる美少年を好む。眼鏡キャラには偏愛があり、『天空の城ラピュタ』の登場人物であるムスカ大佐が自身の精神世界で最上位に来ると『アニメージュ』で語ったことがある。おなじくふしぎの海のナディアの敵役であるガーゴイルからの影響もたびたび語る。 『HELLSING』や『ドリフターズ』の単行本巻末には、近況、ブラックジョーク、ヤクザ映画などのパロディ、筆の向くままの奇声などを描くコーナーが存在する。単行本カバーにおける著者紹介欄では、毎回ほぼ一貫して趣味「いやがらせ」「ちんこいじり」と記載している。 成年誌で活動中から女性器描画における陰毛表現についてこだわりを持っており、一般誌に移ってからも折にふれて主張。「無毛・パイパン以外認められない。魅力的なキャラクターでも陰毛が生えているだけで台無しになる」。例に挙げるのは「トップをねらえ!」の、タカヤ・ノリコなど。 また、同人誌であつかう性描写には強姦ものが多い。 現在のアシスタントは専門学校時代の同級生3名とのこと。 近況漫画に出てくる2人のうちツッコミを担当しているほうが、友人で漫画家の山田秋太郎である。 単行本の後書き・巻末コメントやTwitter、公式サイト・ブログなどのインターネット上では過激かつひょうきんな一面をあらわすことでも話題にあがる。 ただしこうした発言はあくまでオタクが定型的に用いるネタであるとしている。 掲示板などの質問には真摯な面もみせる反面、ネット上の煽りなどには激しく憤る人物である。公式サイト時代は怒りとともに閉鎖と再開を繰り返していた。 自画像では黒のサファリ帽を被り、黒いワイシャツにネクタイを締めワッペンを沢山貼ったジャケットをまとった、太った眼鏡の男として登場する。 。 補足:『新世紀エヴァンゲリオン』のいわゆる商業アンソロジーでは、他の作家とのオムニバス短編が数点確認されている。内容はスラップスティック・ギャグの体裁に仕上がっている。
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平野 耕太は、日本の漫画家。東京都足立区出身、在住。アクション・ギャグ作品を主に手がける。愛称は「ヒラコー」。
{{出典の明記|date=2022年12月}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 平野 耕太 | 画像 = Kouta Hirano 20080705 Japan Expo 04.jpg | 画像サイズ = 256px | 脚注 = [[2008年]]の[[Japan Expo]]にて | 本名 = 平野 耕太 | 生年 = {{生年月日と年齢|1973|7|14}} | 生地 = [[東京都]][[足立区]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = 1998年 - | ジャンル = [[青年漫画]] | 代表作 = 『[[HELLSING]]』<br />『[[ドリフターズ (漫画)|ドリフターズ]]』ほか | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''平野 耕太'''(ひらの こうた、[[1973年]][[7月14日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[東京都]][[足立区]]出身、在住。アクション・ギャグ作品を主に手がける。愛称は「ヒラコー」<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/14866 |title=ヒラコー新作「DRIFTERS」はアワーズ6月号から |website=コミックナタリー |publisher=ナターシャ |date=2009-03-30 |accessdate=2022-12-13}}</ref>。 == 来歴 == 高校時代は漫画研究部の部長を務め、その後、専門学校[[東京デザイナー学院]]アニメーション科(現[[専門学校東京ネットウエイブ|東京ネットウエイブ]])に入学し、中退。同校の漫画研究会に所属し、在学中に『[[COMICパピポ]]』([[フランス書院]])に掲載された『[[COYOTE]]』でデビュー。一時ゲーム会社に勤めていたものの数日(1週間以内)で退社しており、本人曰く「忘れたい出来事」と作品中で語っている。 デビューから暫くは[[成人向け漫画]]を執筆していたが、既にその頃からストーリー展開やギャグ部分に独特の雰囲気が存在していた。その後、一般雑誌に転向し『[[コミックガム]]』にて、[[同人誌]]に全てを賭ける[[おたく|オタク]]たちの野望と狂気を描いた『[[大同人物語]]』でカルト的な人気を得るが、連載中断のまま未完となった。打ち切りに際して、「ガム(掲載誌)? 知らねえよ。電話ひとつねえ。理不尽には無視で返すべきなのだ。故に知らねー」と、出版社との確執を吐露した。また[[1997年]]には『[[ファミ通PS]]』で『[[進め!!聖学電脳研究部]]』を連載、掲載雑誌の方向性をしばしば逸脱したゲーム紹介やストーリーの脱線などで話題を集めたが、出版関連の騒動から近年の角川書店版発売まで単行本があまり出回らなかった(角川書店版の後書きで騒動の顛末が書かれている)。[[1998年]]より『[[ヤングキングアワーズ]]』にて[[聖公会|イギリス国教会]]と[[カトリック教会|カトリック]]のヴァンパイアハンターおよびナチスの[[吸血鬼]]軍団による三つ巴の戦いを描く『[[HELLSING]]』を連載、同作は10年近い長期連載へと至る人気作となり、漫画家としての知名度を確立することになった。 [[2009年]]に『[[HELLSING]]』を完結させ、新たに各時代の[[武士]]・[[軍人]]たちが異世界で戦う『[[ドリフターズ (漫画)|ドリフターズ]]』の執筆を開始した。 [[2022年]]11月20日に自身のTwitterで入院中であることを明かした。本人は「3日ほど[[胃痛]]がずーッと続いて飯を食うと12時間ほどウンウン唸る羽目になるのでなにも食えんで[[白湯]]ばかり飲んでる」とツイート。22日には「[[手術|オペ]]終了。寝てる間に終わっていた」、「やはり[[胆石]]が[[胆管閉塞]]させてたようで、[[内視鏡]]で見た後そのまま[[内視鏡手術]]もやってくださったようで、寝てる間に終わっていた」と詳しい[[診断]]内容をツイートした。また、27日には「[[膵炎]]併発。昨日は激痛で一晩のたうちまわった。今日もう一回[[内視鏡手術]]。内視鏡手術のたびに[[膵炎]]再[[併発]]するかもて。気が重い」とツイートしている<ref>{{Cite web|和書|title=「ドリフターズ」漫画家・平野耕太氏が入院明かす「飯を食うと12時間ほどウンウン唸る羽目に」 |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202211270000907.html |website=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2022-11-27 |access-date=2022-11-27}}</ref>。 == 作風 == 作品中では[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]が登場することも多い。デビュー作の『COYOTE』ではレジスタンスとナチス・ドイツを髣髴とさせる軍事国家との戦いが描かれ、『HELLSING』では物語のキーとなる形で登場する。なお、軍服の作画には苦労するらしく「あんな描きにくい奴ら死ねばいいんですよ!」「ナチはヘドが出るほど描き過ぎた」と語っている<ref>HELLSING official guide bookのインタビューより</ref>。 [[ベタ (漫画)|ベタ]]を多用し陰影を強調した画、特異なデッサン・ポーズ、そして芝居がかった大仰な台詞回しが特徴である。この独特の修辞法は[[佐藤大輔]]の小説や[[ウィンストン・チャーチル]]の演説などから影響を受けているとされる。また、前者の描画法は日本国内では珍しいが、[[アメリカン・コミックス|アメコミ]]での一般的な[[デフォルメ]]に近い形式である。 長編作品ではシリアスな物語を基本とする一方で、ネタに走った場面や短編・エッセイ風の作品も描く。 ギャグシーンなどでゲーム、漫画、アニメ、映画、音楽などの話題が唐突に登場したり、背景として[[Dr.スランプ#地理|ペンギン村]]風の光景(山や雲などに笑顔)などパロディをさしこむこともある。 登場人物は男女を問わず手袋・眼鏡を着用しているキャラクターが多い。[[巨乳]]、[[メガネ]]、ネコ(女役)になる[[美少年]]を好む。眼鏡キャラには偏愛があり、『[[天空の城ラピュタ]]』の登場人物である[[ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ|ムスカ大佐]]が自身の精神世界で最上位に来ると『[[アニメージュ]]』で語ったことがある。おなじく[[ふしぎの海のナディア]]の敵役であるガーゴイルからの影響もたびたび語る。 『HELLSING』や『ドリフターズ』の単行本巻末には、近況、ブラックジョーク、ヤクザ映画などのパロディ、筆の向くままの奇声などを描くコーナーが存在する。単行本カバーにおける著者紹介欄では、毎回ほぼ一貫して趣味「[[嫌がらせ|いやがらせ]]」「[[オナニー|ちんこいじり]]」と記載している<ref>『HELLSING』『ドリフターズ』各単行本カバー折り返し参照。</ref>。 成年誌で活動中から女性器描画における陰毛表現についてこだわりを持っており、一般誌に移ってからも折にふれて主張。「無毛・パイパン以外認められない。魅力的なキャラクターでも陰毛が生えているだけで台無しになる」。例に挙げるのは「[[トップをねらえ!]]」の、タカヤ・ノリコなど。 また、同人誌であつかう性描写には[[強姦]]ものが多い。 現在のアシスタントは専門学校時代の同級生3名とのこと。 近況漫画に出てくる2人のうちツッコミを担当しているほうが、友人で漫画家の[[山田秋太郎]]である。 == 人物 == [[File:Kouta Hirano drawing.JPG|thumb|ジャパン・エキスポでのパフォーマンス(2008年)]] 単行本の後書き・巻末コメントや[[Twitter]]、公式サイト・ブログなどの[[インターネット]]上では過激かつひょうきんな一面をあらわすことでも話題にあがる。 ただしこうした発言はあくまで[[オタク]]が定型的に用いる[[ネタ]]であるとしている。 掲示板などの質問には真摯な面もみせる反面、ネット上の[[煽り]]などには激しく憤る人物である。公式サイト時代は怒りとともに閉鎖と再開を繰り返していた。 自画像では黒のサファリ帽を被り、黒い[[ワイシャツ]]に[[ネクタイ]]を締め[[ワッペン]]を沢山貼った[[ジャケット]]をまとった、太った眼鏡の男として登場する。 === エピソード === *特に自らが嫌う人・物に対するバッシングは激しく、その容赦のない文面によっても話題を集めている。 **HELLSINGがTVアニメ化された際その出来を痛烈に批判。「[[野沢那智]]がもったいねえ。以上。第一話見て期待してた俺が馬鹿だった。さっさと[[ゲームWAVE]]見たら寝ようや。馬鹿馬鹿しい。」と切り捨てた。これにより後に作者の意向を反映させた[[OVA]]版がつくられることになる<ref>公式サイト■2001/10/25 (木) 「第3話感想」{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>。 **職業を「[[江川達也]]をテレビで見るたびに舌打ちをする係」としていたこともあり、接点の薄いタレント漫画家に対して苦言が多い。 **『[[ファイアーエムブレム 暁の女神]]』を「コントローラー放り投げた」など猛烈に批判した<ref>公式サイト■2007/03/07 (水) 「ファイアーエムブレム暁の女神」{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>。 **出身地である[[足立区]]をネタにすることが多い。 ***対して区民でもない人間からの悪評には怒りの反応をしめす。「治安が悪い」などと評されたときには激怒のコメントを書きつづったこともあった。 *ブログから[[Twitter]]に移りかわり、こうした発言の頻度も活発化していった。 **2010年に入ったころ開始。フォロワーから寄せられる「思ってたより面白くない」などのツイートへ怒りを表した。「勝手に人のこと想像しといてイメージと違ったから嫌いってアホか」とアカウント削除に至る。数日後新たににアカウントを作り直し、Twitterを再開した<ref>https://twitter.com/hiranokohta からの投稿 |13:37 - 2010年05月09日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 ***2015年。ドリフターズのアニメ化に際して「友人と私的にリプライした仮定の話」を[[まとめサイト|「やらおん」「オレ的ゲーム速報@刃」]]に掲載されたことへ激怒する。掲載先を名指しで批判したのち、一時的にTwitterを退会した<ref>同上23:41 - 2015年03月28日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 **学生時代の同級生が、平野耕太と[[山田秋太郎]]の関係を「[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と[[サリエリ]]」に例えて訳知り顔で書き込みをしたところ、「学生時代に絵も漫画もろくに描かなかった奴が、なぜそんなことを言えるのか」という主旨のコメントをし、強く非難した<ref>同上17:11 - 2013年07月15日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 **[[Pixiv]]が開催した[[講談社]]まんがスカウトfesから一作をツイートし、[[すがわらくにゆき]]からの[[盗作]]だと呼びかけた。「正気かよ」「もう少し捻ろうぜ」と創作モラルに対して苦言を呈した。当該作品は数時間後に削除された<ref>同上02:26 - 2013年04月24日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 **[[大地丙太郎]]から罵りを受けたと告発した。「飲み会の席で大した面識もないのにやってきて、肥満について説教し、ダイエット法を押しつけてきた。不快な思いをした」と現場でのセリフをまじえて数ツイートにわたり描写した<ref>同上06:22 - 2010年05月30日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 **[[アニメーション]]監督の[[山本寛 (アニメ演出家)|山本寛]]をブロックしていると公言<ref>同上02:27 - 2014年01月11日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 ** 漫画の違法アップロードには強烈な嫌悪感を示しており、過去にはTwitter上で、違法アップする人間だけでなくそれをありがたがって読む人間も同罪だとした上で違法アップ者に対して「後世の医学者が頭抱えたり腹抱えて爆笑するような死に様で今生から消えて欲しいです」とツイートしている <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.j-cast.com/2010/08/23074085.html?p=all |title=違法コピーにマンガ家過激発言 「膵臓癌になれ」「隕石に当たって死ね」 |website=J-CAST ニュース |publisher=J-CAST |date=2010-08-23 |accessdate=2022-12-13}}</ref>。 *[[伊集院光]]・[[電気グルーヴ]]・[[大槻ケンヂ]]などによる深夜ラジオ、[[VOW]]・[[月刊アスキー|アスキー]]・[[月刊OUT]]など投稿雑誌の影響下にあったことを公言している<ref>同上18:40 - 2013年02月09日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。いずれも90年代前半におけるサブカルシーンの本流であり「過激なことを言ったもの勝ち」な風潮であった。 *[[人間椅子 (バンド)|人間椅子]]や[[P-MODEL]]の[[平沢進]]のファンでもあり、時折関連ツイートを行っている。Twitterの投げ銭機能導入発表時には「平沢進とか人間椅子とか早々に導入してくれ バリバリ投げたい」と語る<ref>{{Cite tweet |user=hiranokohta |author=平野耕太 |number=1390586665559752704 |title=ツイッターの投げ銭機能は、平沢進とか人間椅子とか 早々に導入してくれ バリバリ投げたい |date=2021-05-07 |accessdate=2021-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220716162016/https://twitter.com/hiranokohta/status/1390586665559752704 |archivedate=2022-07-16}}</ref>。 *[[ラブドール]]・等身大人形を複数所有している。引越しにおける扱いづらさを赤裸々に語り、笑いを誘った。[[オリエント工業]]製を愛用している<ref>同上22:05 - 2013年10月17日{{信頼性要検証|date=2022年12月}}</ref>。 == 作品リスト == === 一般誌連載作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |+ !タイトル !連載期間 !連載誌 !書籍情報 !備考 |- |[[大同人物語]] |1996年 - '''連載中断''' |[[コミックガム]]([[ワニブックス]]) | # 1998年刊 ISBN 4-8470-3280-2 <br />GUMコミックス刊 |1996年より連載<br />'''連載中断の後、未完'''<br />'''第1巻のみ刊行'''(雑誌掲載分の<br />単行本未収録あり) |- |[[進め!!聖学電脳研究部]] |1997年 - 1998年 |[[ファミ通]]PS([[アスキー (企業)|アスキー]]) | * 1999年刊 ISBN 4-88199-590-1 <br />ゲーメストコミックス<br />([[新声社]]) * 2003年刊 ISBN 4-0471-3478-3 <br />角川コミックスエースエクストラ<br />(角川書店) |全1巻<br />ゲーメストコミックス版には<br />7Pの短編「うっかりパパ」と<br />18Pの短編「東京BINGO団」<br />を併録<br />角川コミックスエース<br />エクストラ版には<br />7Pの短編「うっかりパパ」と<br />16Pの短編「進め!!聖学以下略」<br />を併録 |- |[[HELLSING]] |1997年5月 - <br />2008年11月 |[[ヤングキングアワーズ]]<br />([[少年画報社]]) | # 1998年刊 ISBN 4-7859-1870-5 # 1999年刊 ISBN 4-7859-1958-2 # 2000年刊 ISBN 4-7859-2047-5 # 2001年刊 ISBN 4-7859-2125-0 # 2003年刊 ISBN 4-7859-2286-9 # 2003年刊 ISBN 4-7859-2373-3 # 2004年刊 ISBN 4-7859-2499-3 # 2006年刊 ISBN 4-7859-2666-X # 2007年刊 ISBN 4-7859-2885-9 # 2009年刊 ISBN 4-7859-3131-0 |全10巻<br />第1巻~3巻に[[クロスファイヤー|CROSS FIRE]]<br />(コミックマスター掲載)の<br />第1話~3話をそれぞれ併録 |- |HELLSING外伝 <br />THE DAWN | |ヤングキングアワーズ増刊号<br /> (少年画報社) |'''未単行本化''' |不定期連載<br />掲載誌の休刊に伴い<br />'''第6話までの未完''' |- |[[進め!以下略]] |2000年 - 2006年 |季刊少年エース増刊桃組<br />→[[月刊コンプエース|コンプエース]](角川書店) |'''未単行本化''' |全19話 |- |[[以下略]] |2006年 - 2010年 |[[ゲーマガ]]<br />([[ソフトバンククリエイティブ]]) | # 2009年刊 ISBN 4-7973-5416-X |進め!以下略の後継作品<br />全33話<br />'''19話までを単行本1巻に収録<br />2巻以降の刊行予定はない''' |- |[[ドリフターズ (漫画)|ドリフターズ]] |2009年6月号 - <br />'''連載中''' |[[ヤングキングアワーズ]]<br />([[少年画報社]]) | # 2010年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-3407-7}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-3407-1}} # 2011年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-3714-9}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-3714-0}} # 2013年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-5043-9}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-5043-9}} # 2014年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-5436-1}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-5436-9}} # 2016年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-5790-5}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-5790-2}} # 2018年、ISBN-10 {{ISBN2|4-7859-6321-2}}<br />{{ISBN2|978-4-7859-6321-7}} | |- |[[アサシネ]] |2010年12月号 - <br />2012年6月号<br />2013年11月号 - <br />2014年10月号 |[[月刊ComicREX]]([[一迅社]])<br />⇒[[コミックバーズ]]<br />([[幻冬舎コミックス]]) |'''未単行本化''' |隔月連載<br />2014年10月号を最後に休載状態 |} === 一般誌読み切り作品 (全て単行本未収録) === <!-- 詳細がわかる方加筆お願いします --> * HIANDLOW(ヤングキングアワーズ(少年画報社)) * [[ガンマニア (漫画)|ガンマニア]]([[ウルトラジャンプ]]([[集英社]]))※全3話 * 彼らの週末(月刊アフタヌーンシーズン増刊 2001年Winter号([[講談社]])) * BE WILD!!(月刊少年ガンガン([[スクウェア・エニックス]])) * 美少年で名探偵でドエス([[電撃大王ジェネシス|電撃大王GENESIS]] 2010SUMMER([[アスキー・メディアワークス]]))※連載の予定であったが掲載は1話目のみ、翌号以降休載。 補足:『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』のいわゆる商業アンソロジーでは、他の作家とのオムニバス短編が数点確認されている。内容はスラップスティック・ギャグの体裁に仕上がっている。 === 成人作品 === {| class="wikitable" style="font-size:small;" |+ ! colspan="2" |タイトル !書籍情報 !備考 |- | colspan="2" |[[COYOTE]] |1995年刊 ISBN 4-8296-7745-7 Xコミックス |[[COMICパピポ]]([[フランス書院]])にて1994年1月号 - 10月号連載。全1巻。<!--絶版--> |- | rowspan="7" |拝Hiテンション |拝Hiテンション | rowspan="7" |1996年刊 ISBN 4-8827-1445-0 カラフルEX([[ビブロス (出版社)|ビブロス]]) | rowspan="7" |表題作を含む短編集。単巻。<!--絶版--> |- |上海遊撃隊 |- |砂漠の用心棒 |- |私の足ながパトロン |- |儂も若い頃は無茶したもんじゃ |- |テクノ番長 |- |テクノ番長SS(スーパーズ) |- | colspan="2" |ANGEL DUST | rowspan="6" |'''未単行本化''' |COMICパピポ 1996年(フランス書院):『COYOTE』の続編。全10話。※'''出版社により原稿紛失'''。 |- | colspan="2" |HELLSING〈読み切り〉 |快楽天 1996年10月号([[ワニマガジン社]]):'''同名の長編作品のパイロット版。''' |- | colspan="2" |無敵の魔法教師カワハラーZ〈読み切り〉 |快楽天 1996年7月号(ワニマガジン社) |- | colspan="2" |大総統サバサバ〈読み切り〉 |快楽天 1997年2月号(ワニマガジン社) |- | colspan="2" |ブービートラップ〈読み切り〉 |快楽天 1997年4月号(ワニマガジン社) |- | colspan="2" |イカす総統天国〈読み切り〉 |コミック零式 1998年Vol.6([[リイド社]]) |} === 挿絵 === * [[皇国の守護者]] 第8巻([[中央公論社]]、著:[[佐藤大輔]])※第1巻から第7巻までは[[塩山紀生]]、第9巻は[[獅子猿]]がカバーイラストを担当。 * [[バイオハザード3]] ラスト エスケープ 公式ガイドブック 脱出遂行編(発売:[[アスペクト (企業)|アスペクト]]、著:[[スタジオベントスタッフ]]) === その他 === * コミックマーケット52 ブロックノート使い方マンガ(大同人物語の木之下が明智にブロックノートについて訊くという体裁の1ページ漫画) * 『[[諸星大二郎]] デビュー50周年記念 トリビュート』(2021年) - イラスト寄稿<ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/news/444103|title=浦沢直樹、萩尾望都、星野之宣、山岸凉子らが描き下ろし「諸星大二郎トリビュート」|website=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2021-09-07|accessdate=2022-12-13}}</ref> == 関連項目 == 作風だけでなく作者本人の個性から、友人である漫画家たちの作品に何度かキャラクターとして登場している。 * [[学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD]](原作・[[佐藤大輔]]、作画・[[佐藤ショウジ]]) - 『[[月刊ドラゴンエイジ]]』([[富士見書房]])連載の漫画。作中に平野をモデルにしたキャラクター「'''平野コータ'''」が登場する。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|30em}} == 外部リンク == {{commons|Category:Kōta Hirano}} * {{Official blog|http://730714.at.webry.info/|平野耕太ブログ 派遣村にもっと土粥を}}{{リンク切れ|date=2022年12月}} * {{Twitter|hiranokohta}} {{コミックマーケットカタログ表紙}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ひらの こうた}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:東京都区部出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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SUEZEN
SUEZEN(スエゼン、1961年 - )は、日本の漫画家、イラストレーター、美術講師、ゲームデザイナー。東京都出身。本名の飯田史雄(いいだ ふみお)名義で原画家、作画監督としても活動する。 私立目黒高校を卒業後、タツノコアニメ技術研究所に入所、宮本貞雄に師事、画業を積んだ。同期には今川泰宏がいる。その後フリーとなり、アニメーター、原画家として多作品で活動し、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』では作画監督を務めた。その間も漫画に強い志向を持ち、1988年、「アメージングコミックス 1号 コミックロリポップ5月増刊」(笠倉出版社)に掲載の『ミステリーLIGHT』でデビュー。1992年『ヤダモン』のキャラクターデザインで衆目を集め、同年、同タイトルでアニメージュ誌に漫画化作品を発表した。 その後、漫画作品を発表しながらも書籍の表紙、イラストや、ゲームのキャラクターデザインなどでも活躍するが、2000年代では漫画家としての活動に主軸を移している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』で版権イラストを担当しており、『CONTINUE』『RollingStone(日本語版)』『少年エース』などの表紙を担当し、全て綾波レイを描いている。 青山広美(青山パセリ)と仲が良い。結城信輝、永野護、川村万梨阿と仲が良く、昔は結城の誕生日のクリスマスイヴに仲の良いメンバーでディズニーランドへ行っていた。 絵柄は少女漫画の手法を独自に昇華したもので、流れるような滑らかな描線と、キャラクターを描く際の、独特の丸いツリ目に特徴がある。ペンネームは「据え膳食わぬは男の恥」に由来するとも言われているが、アニメージュのコラム「SUEZENのモザイク通信」の中で、「最善は尽くせぬとも末善ぐらいは...」ということから、というニュアンスのコメントを残している。なお、同人誌上においてはAGEZENというペンネームも使用している。高校時代のペンネームは「てっか兄ちゃん」とも名乗っていた。 前述の『ミステリーLIGHT』に登場させた女性キャラ(前述の「ツリ目」の特徴を有している)を自画像として用いており、単行本のあとがきなどに「作者」として登場させている。そのため、彼の少女漫画色の強い流麗な画風ともあいまって、まれに女性であると思い込んでいるファンもいるが、彼は男性である。 『BSアニメ夜話/新造人間キャシャーン』(2005年3月30日放送)にゲスト(元タツノコプロ アニメーター、漫画家)として出演。
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SUEZENは、日本の漫画家、イラストレーター、美術講師、ゲームデザイナー。東京都出身。本名の飯田史雄名義で原画家、作画監督としても活動する。
{{存命人物の出典明記|date=2019年8月}} {{単一の出典|date=2019年8月}} '''SUEZEN'''(スエゼン、[[1961年]] - )は、日本の[[漫画家]]、[[イラストレーター]]、美術[[講師 (教育)|講師]]、[[ゲームデザイナー]]。[[東京都]]出身。本名の'''飯田史雄'''(いいだ ふみお)名義で[[原画|原画家]]、[[作画監督]]としても活動する。 == 人物 == 私立目黒高校を卒業後、タツノコアニメ技術研究所に入所、[[宮本貞雄]]に師事、画業を積んだ。同期には[[今川泰宏]]がいる。その後フリーとなり、[[アニメーター]]、原画家として多作品で活動し、『[[王立宇宙軍 オネアミスの翼]]』では作画監督を務めた。その間も漫画に強い志向を持ち、1988年、「アメージングコミックス 1号 コミックロリポップ5月増刊」(笠倉出版社)に掲載の『ミステリーLIGHT』でデビュー。1992年『ヤダモン』のキャラクターデザインで衆目を集め、同年、同タイトルで[[アニメージュ]]誌に漫画化作品を発表した。 その後、漫画作品を発表しながらも書籍の表紙、イラストや、ゲームのキャラクターデザインなどでも活躍するが、2000年代では漫画家としての活動に主軸を移している。 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』で版権イラストを担当しており、『CONTINUE』『RollingStone(日本語版)』『少年エース』などの表紙を担当し、全て綾波レイを描いている。 [[青山広美]](青山パセリ)と仲が良い。[[結城信輝]]、[[永野護]]、[[川村万梨阿]]と仲が良く、昔は結城の誕生日のクリスマスイヴに仲の良いメンバーでディズニーランドへ行っていた。 == 作風 == 絵柄は[[少女漫画]]の手法を独自に昇華したもので、流れるような滑らかな描線と、キャラクターを描く際の、独特の丸いツリ目に特徴がある。[[ペンネーム]]は「据え膳食わぬは男の恥」に由来するとも言われているが、アニメージュのコラム「SUEZENのモザイク通信」の中で、「最善は尽くせぬとも末善ぐらいは…」ということから、というニュアンスのコメントを残している<ref name="アニメ">『アニメージュ』1993年5月号、23頁。</ref>。なお、[[同人誌]]上においてはAGEZENというペンネームも使用している。高校時代のペンネームは「てっか兄ちゃん」とも名乗っていた。 前述の『ミステリーLIGHT』に登場させた女性キャラ<ref name="アニメ"/>(前述の「ツリ目」の特徴を有している)を自画像として用いており、単行本のあとがきなどに「作者」として登場させている。そのため、彼の少女漫画色の強い流麗な画風ともあいまって、まれに女性であると思い込んでいるファンもいるが、彼は男性である。 『BSアニメ夜話/新造人間キャシャーン』(2005年3月30日放送)にゲスト(元タツノコプロ アニメーター、漫画家)として出演。 == 主な作品 == === 漫画 === * [[ヤダモン]](前編・後編 [[徳間書店]][[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]] 「月刊[[アニメージュ]]」にて連載) * マリンカラー(全5巻 [[角川書店]] 「[[少年エース]]」にて連載) * パーコレイション(全1巻 原作:[[大塚康生]] [[竹書房]] 「[[コミックガンマ]]」にて連載されたものを[[角川書店]]が単行本化) * [[風まかせ月影蘭]] (原作:[[大地丙太郎]] 同名アニメ作品の漫画化) * 新性生活 -ネオ・ライフ- (読みは「しんせいかつ」。性と生を掛けている) * DEAD SPACE (1 - 2巻) === 画集 === * eternal * KALEIDOSCOPE ([[CD-ROM]]画集) == 関連する作品 == === ゲーム === * [[シャイニング・フォースII 古えの封印]](キャラクターデザイン) * [[バルディッシュ クロムフォードの住人たち]](キャラクターデザイン) * [[マジカルホッパーズ]](キャラクターデザイン) === アニメ === * [[ダッシュ勝平]](1981年 - 1982年、キャラクター補、飯田史雄名義) * [[超時空要塞マクロス]](1982年 - 1983年、原画、飯田史雄名義) * [[未来警察ウラシマン]](1983年、原画、飯田史雄名義) * [[王立宇宙軍 オネアミスの翼]] (1987年、作画監督・プロダクションデザイン&レイアウトデザイン、飯田史雄名義) * [[トップをねらえ!]](1988年、原画、飯田史雄名義) * [[老人Z]](1991年、作画監督、飯田史雄名義) * [[ヤダモン]] (1992年 - 1993年、キャラクターデザイン・オープニングアニメーション・エンディングタイトルバック) * [[トップをねらえ2!]](2004年 - 2006年、[[第二原画]]、飯田史雄名義) * [[天元突破グレンラガン]](2007年、原画、ノンクレジット) * [[天元突破グレンラガン#グレパラ1|グレパラ GURREN LAGANN PARALLEL WORKS]]「BafBaf!そんなに燃えるのが…好きかい?」(2008年、企画・演出・絵コンテ・原画) * [[バスカッシュ!]](2009年、キャラクターデザイン・脚本・絵コンテ・演出・作画監督)※共同 * [[ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破]](2009年、原画、飯田史雄名義) * [[はなまる幼稚園]](2010年、原画、飯田史雄名義) * [[宇宙戦艦ヤマト2199]](2013年、キャラクター作画監督協力、飯田史雄名義) * [[宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟]](2014年、作画監督、飯田史雄名義) * [[異世界チート魔術師]](2019年、絵コンテ、飯田史雄名義) * [[終末のワルキューレ]](2021年、作画監督・総作画監督、飯田史雄名義) == 脚注 == {{Reflist}} <!--== 外部リンク == [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0328230.htm 日本映画データベース飯田史雄] [http://www.gainax.co.jp/soft/suezen/interview.html CD-ROM画集発行に際してのインタビュー --> {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:すえせん}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本の男性アニメーター]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:存命人物]]
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上原きみ子
上原 きみ子(うえはら きみこ、本名:村上 君子、1946年4月25日 - )は、日本の漫画家。女性。岐阜県出身。名古屋市在住。血液型はO型。身長155cm。 デビュー作は、貸本漫画の『黒コスモスの花言葉』(本名の金田君子名義に結婚して村上姓に)。その後も東京漫画出版社の貸本漫画にて数作品を発表する一方、雑誌への投稿活動を続け、1968年に『りぼん』(集英社)11月号に掲載された「ショーケン物語」により商業誌でデビューした。 以後、上原きみこのペンネームでおもに『週刊少女コミック』などの小学館の雑誌を中心に長く活動。上原きみ子のペンネームに変わった2019年2月現在は、『フォアミセス』(秋田書店)にて『いのちの器』を連載している。 19歳のころから漫画投稿を始め、1965年に金田君子名義で貸本漫画として『黒コスモスの花言葉』を発表。1968年、『りぼん』(集英社)11月号の「ショーケン物語」にて「上原希美子」として商業誌でのデビューを果たし、『りぼん』関連誌にて計2作品を発表した。ただ、2作品はいずれもスター物語であり、ドラマも描きたいと思っていた上原は『少女コミック』(小学館)に投稿する。それが編集の目にとまり、同誌の専属で描くこととなった。そして1969年からは同誌にて本格的に作品を発表し、「上原きみこ」として活動を始める。この年の『愛馬エンゼル』が上原にとって初の連載作品であった。その後1970年から1971年まで『週刊少女コミック』にて連載された『ルネの青春』を皮切りにヒット作が続いた。『ロリィの青春』・『炎のロマンス』などはミリオンセラーになっている。 1977年、『ちゃお』(小学館)にて独立創刊号から『舞子の詩』を連載。創刊号の表紙も飾っている。さらには『学年誌』にも『「まりちゃん」シリーズ』を連載するなど、おもに小学生を対象とした雑誌にも活動の場を広げていった。 1990年代以降はペンネームを「上原きみ子」に変え、レディース誌でも執筆を始めた。なかでも、1991年から『フォアミセス』(秋田書店)にて連載が開始された『いのちの器』は、30年超の長期連載作品となり、1998年にはテレビドラマ化された。単行本も2023年11月現在で92巻を数えている。 作品に取り上げられている題材は、乗馬・フィギュアスケート・バレエなど幅広い。舞台も日本国外のものが少なくない。対象読者別では、これまでに少女漫画、児童漫画、レディースコミックを発表しており、「あとはシルバーコミックしかない」と語っている。また、小学館・集英社・講談社・秋田書店・白泉社といった日本の主要な出版社発行の漫画雑誌で執筆しており、出版された単行本の数も多い。特に、『ロリィの青春』などを発表していた1970年代には連載を数多く持っていたが、若くして結婚し3人の子供の母親になったため漫画家と育児との両立には大変苦労したという。 1990年には『「まりちゃん」シリーズ』で第35回小学館漫画賞児童部門を受賞している。 1990年代後半になると、フラワーコミックス(小学館)など上原きみことして刊行された単行本がほぼ絶版状態となり、古書店でも高い値段がついていた。しかし、2000年代に入ると数作品が文庫コミックとして復刊されたため、2014年現在は初期の単行本(貸本時代の漫画や『上原きみこ名作集』など)を除き入手はしやすくなっている。それでも復刊されていない作品はまだ多い。電子書籍化されている作品もある。
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上原 きみ子は、日本の漫画家。女性。岐阜県出身。名古屋市在住。血液型はO型。身長155cm。 デビュー作は、貸本漫画の『黒コスモスの花言葉』(本名の金田君子名義に結婚して村上姓に)。その後も東京漫画出版社の貸本漫画にて数作品を発表する一方、雑誌への投稿活動を続け、1968年に『りぼん』(集英社)11月号に掲載された「ショーケン物語」により商業誌でデビューした。 以後、上原きみこのペンネームでおもに『週刊少女コミック』などの小学館の雑誌を中心に長く活動。上原きみ子のペンネームに変わった2019年2月現在は、『フォアミセス』(秋田書店)にて『いのちの器』を連載している。
{{別人|x1=看護師の|上原貴美子}} {{Infobox 漫画家 | 名前 = 上原 きみ子 | ふりがな = うえはら きみこ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = 村上 君子{{Sfn|日外アソシエーツ編集部|2003|p=59}} | 別名義 = 金田君子([[貸本漫画]]ペンネーム/出生名{{Efn2|p.4より:ペンネームの変遷記載{{Sfn|逆瀬川マオ|2003|p=2-7}}。}}{{Sfn|日外アソシエーツ編集部|2003|p=59}})<br />上原希美子([[1968年]]『[[りぼん]]』デビュー時より)<br />上原きみこ([[1969年]]『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』デビュー時より) | 生年 = {{生年月日と年齢|1946|04|25}}{{Sfn|日外アソシエーツ編集部|2003|p=59}} | 生地 = {{JPN}}・[[岐阜県]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- {{JPN}} 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1965年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]<br />[[幼年漫画|児童漫画]]<br />[[女性漫画]] | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = [[1990年|1989年度]]第35回[[小学館漫画賞]]児童部門(『[[「まりちゃん」シリーズ]]』{{Sfn|日外アソシエーツ編集部|2003|p=59}}) | サイン = | 公式サイト = }} '''上原 きみ子'''(うえはら きみこ、本名:村上 君子{{R|mangapedia}}、[[1946年]][[4月25日]]<ref name="mangapedia">{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/上原きみ子-v73ukuiry|title=上原 きみ子(漫画家)|website=マンガペディア|accessdate=2021-11-15}}</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]{{R|mangapedia}}。女性{{R|mangapedia}}。[[岐阜県]]出身{{R|mangapedia}}。名古屋市在住。[[ABO式血液型|血液型]]はO型{{R|mangapedia}}。身長155cm。 デビュー作は、[[貸本漫画]]の『黒コスモスの花言葉』(本名の金田君子名義に結婚して村上姓に)<ref name="profile">上原きみ子 『マリーベル』6巻 [[講談社]]〈講談社漫画文庫〉 2001年2月9日初版発行 {{ISBN2|4-06-260920-7}} 巻末「上原きみ子 - スペシャル・ロングインタビュー -」。</ref>。その後も[[東京漫画出版社]]の貸本漫画にて数作品を発表する一方、雑誌への投稿活動を続け、[[1968年]]に『[[りぼん]]』([[集英社]])11月号に掲載された「ショーケン物語」により商業誌でデビューした。 以後、'''上原きみこ'''の[[ペンネーム]]でおもに『[[少女コミック|週刊少女コミック]]』などの[[小学館]]の雑誌を中心に長く活動。'''上原きみ子'''のペンネームに変わった2019年2月現在は、『[[フォアミセス]]』([[秋田書店]])にて『[[いのちの器]]』を連載している。 == 来歴 == 19歳のころから漫画投稿を始め、1965年に金田君子名義で貸本漫画として『黒コスモスの花言葉』を発表{{R|mangapedia}}。1968年、『りぼん』(集英社)11月号の「ショーケン物語」にて「上原希美子」として商業誌でのデビューを果たし、『りぼん』関連誌にて計2作品を発表した{{R|mangapedia}}。ただ、2作品はいずれもスター物語であり、ドラマも描きたいと思っていた上原は『少女コミック』(小学館)に投稿する。それが編集の目にとまり、同誌の専属で描くこととなった<ref name="profile" />。そして[[1969年]]からは同誌にて本格的に作品を発表し、「上原きみこ」として活動を始める{{R|mangapedia}}。この年の『愛馬エンゼル』が上原にとって初の連載作品であった。その後[[1970年]]から[[1971年]]まで『週刊少女コミック』にて連載された『ルネの青春』を皮切りにヒット作が続いた。『ロリィの青春』・『炎のロマンス』などはミリオンセラーになっている<ref name="profile" />。 [[1977年]]、『[[ちゃお]]』(小学館)にて独立創刊号から『舞子の詩』を連載。創刊号の表紙も飾っている。さらには『[[小学館の学年別学習雑誌|学年誌]]』にも『[[「まりちゃん」シリーズ]]』を連載するなど、おもに小学生を対象とした雑誌にも活動の場を広げていった。 [[1990年代]]以降はペンネームを「上原きみ子」に変え、[[レディースコミック|レディース誌]]でも執筆を始めた。なかでも、[[1991年]]から『フォアミセス』(秋田書店)にて連載が開始された『いのちの器』は、30年超の長期連載作品となり、[[1998年]]には[[テレビドラマ]]化された。単行本も[[2023年]]11月現在で92巻を数えている。 作品に取り上げられている題材は、[[乗馬]]・[[フィギュアスケート]]・[[バレエ]]など幅広い。舞台も日本国外のものが少なくない。対象読者別では、これまでに少女漫画、児童漫画、レディースコミックを発表しており、「あとはシルバーコミックしかない」と語っている<ref name="profile" />。また、小学館・集英社・[[講談社]]・秋田書店・[[白泉社]]といった日本の主要な出版社発行の[[日本の漫画雑誌|漫画雑誌]]で執筆しており、出版された単行本の数も多い。特に、『ロリィの青春』などを発表していた1970年代には連載を数多く持っていたが、若くして結婚し3人の子供の母親になったため漫画家と育児との両立には大変苦労したという<ref name="profile" />。 [[1990年]]には『「まりちゃん」シリーズ』で第35回[[小学館漫画賞]]児童部門を受賞している{{R|mangapedia}}。 == 主な作品 == * ショーケン物語 涙いろの想い出(<ref name="まつざきBlog">{{Cite web|和書|url=https://matsuzakiakemi.seesaa.net/article/a11044110.html |title=昭和43年「りぼん」11月号|website=Seesaaブログ|work=まつざきあけみのブログ|author=[[まつざきあけみ]] |publisher=[[Seesaa|Seesaa シーサー株式会社]] |date=2014-03-10 |accessdate=2023-12-02 }}</ref>1968年11月、商業誌デビュー作) * 愛馬エンゼル(1969年) * ルネの青春(1970年 - 1971年) * カプリの真珠(1972年) * 天使のセレナーデ([[週刊少女コミック]]・[[小学館]]、1972年第48号 - 1973年第31号、フラワーコミックス 全5巻のち再販:電子書籍 2巻) * ロリィの青春(1973年 - 1975年、フラワーコミックス 全10巻のち再販:電子書籍 6巻) * 炎のロマンス(1975年 - 1977年、フラワーコミックス 全9巻) * 舞子の詩(1977年 - 1981年)電子書籍 4巻 * [[マリーベル (上原きみ子の漫画)|マリーベル]](1978年 - 1980年) * ハーイ!まりちゃん(1980年 - 1984年、[[「まりちゃん」シリーズ]]を参照)電子書籍 2巻 * 青春白書(1981年 - 1983年) * [[夢時計]](1982年 - 1984年) * VIVA!あかねちゃん(1983年 - 1984年) * こちら愛!応答せよ(1984年 - 1986年) * ラブリーまりちゃん(1984年 - 1989年) * ハッピーまりちゃん(1986年 - 1991年)電子書籍 7巻 * 銀のトゥシューズ (1987年 - 1991年) * 天使のアラベスク(1994年 - 1995年、学年誌連載、'''上原きみこ'''名義での最後の作品) *上原きみこ 傑作選 1わが命の賛歌 2 青春のエチュード 3 柿の木ある家 4 浪漫幻夢 *上原きみ子 自選集 (1)あんずの咲く音(2)タヒチアン・ロマンス(3)スペインの花嫁(4)青春のエチュ-ド(5)コスモスの咲く季節(2002年) *愛馬エンゼル(電子書籍)(2017/12/08) *柿の木のある家(電子書籍)(2017/12/08) *あいつの四季(電子書籍)(2017/12/08) * [[いのちの器]](1991年 - 、'''上原きみ子'''名義) * [[愛のエトワール]] * [[愛のワルツ]] * [[愛のアラベスク]] * 白鳥の歌 * [[ごきげん♡チャーミィ]] * [[浪漫幻夢]] * [[夢どけい]] [[夢時計]](1982年 - 1984年)とは別作品 * [[結婚のお約束]] 電子書籍 1巻 * [[友情マーチ]] * [[あんずの咲く音]] * [[オーレ!ロマンス]] * [[はばたけエンゼル]] * [[華子さん日記]] アマゾンで確認した1巻と最終巻の3巻の発売日(1997/3/1~2000/11/1) * 鬼ころし == コミックス == {{出典の明記|section=1|date=2021年11月}} 1990年代後半になると、[[フラワーコミックス]](小学館)など'''上原きみこ'''として刊行された単行本がほぼ絶版状態となり、古書店でも高い値段がついていた。しかし、[[2000年代]]に入ると数作品が文庫コミックとして復刊されたため、2014年現在は初期の単行本(貸本時代の漫画や『上原きみこ名作集』など)を除き入手はしやすくなっている。それでも復刊されていない作品はまだ多い。電子書籍化されている作品もある。 *炎のロマンス(講談社漫画文庫) 全3巻 :{{ISBN2|978-4063705904}} *炎のロマンス(講談社漫画文庫) 全5巻 :{{ISBN2|4334760031}} *マリーベル (講談社漫画文庫) 全6巻 :{{ISBN2|4-06-260920-7}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=上原きみこ|date=1977-10-01 |title=舞子の{{Ruby|詩|うた}} |journal=[[ちゃお]] [[1977年]]10月号(創刊号)|volume=1 |issue=1 |pages=9-49 |publisher=[[小学館]] |ref={{SfnRef|上原きみこ|1977}} }}(昭和52年7月22日国鉄首都特別扱承認雑誌第3311号、通巻はなし) * {{Citation|和書|editor=渡邊静夫|date=1978-11-20 |title=まんが家訪問PART2:上原きみこのファミリー紹介(口絵)|journal=[[少女コミック|週刊少女コミック]] 1978年11月20日号(通巻440号)|volume=13 |issue=41 |pages=3-6 |publisher=[[小学館]] |ref={{SfnRef|渡邊静夫|1978}} }}(昭和41年9月10日[[第三種郵便物]]認可、昭和53年7月14日国鉄首都特別扱承認雑誌第3967号) * {{Citation|和書|author=上原きみ子|date=1991-10 |title=いのちの器 |journal=[[フォアミセス|Eve Special for Mrs.]] No.30 |pages=4-67 |publisher=[[秋田書店]] |ref={{SfnRef|上原きみ子|1991}} }} * {{Citation|和書|author=上原きみ子|date=2001-02-09 |title=マリーベル(巻末,上原きみ子:スペシャル・ロングインタビュー)|series=[[講談社漫画文庫]]:う3-11 |volume=6 |pages=362-377 |publisher=[[講談社]] |isbn=4062609207 |ref={{SfnRef|上原きみ子|2001}} }} * {{Citation|和書|author=まんがseek・日外アソシエーツ編集部 共著|date=2003-02-25 |title=漫画家人名事典|pages=59 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |isbn=4816917608 |ref={{SfnRef|日外アソシエーツ編集部|2003}}} }} * {{Citation|和書|editor=逆瀬川マオ|date=2003-04-01 |title=巻頭インタビュー:上原きみ子 私にとって、少女マンガは生き様すべて|journal=編集会議 2003年4月号(通巻25号)|pages=2-7 |publisher=[[宣伝会議]] |ref={{SfnRef|逆瀬川マオ|2003}} }} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:うえはら きみこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:1946年生]] [[Category:存命人物]] ==外部リンク== * 小学館コミック(SHOUGAKUKAN COMIC)[https://shogakukan-comic.jp/author?cd=8312#biblio 上原きみこページ] * 講談社コミックスプラス[https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000042749 炎のロマンスページ] * {{Cite web|和書|url=https://sho.jp/topics/52868 |title=今もバリバリ現役! 伝説の少女まんが『ハーイ!まりちゃん』上原きみこ先生インタビュー |website=小学館キッズ |work=『トピック』|author=長澤優美子 |publisher=[[小学館]]|date=2020-05-25 |accessdate=2023-11-24 }}
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箱田真紀
箱田 真紀(はこだ まき、本名同じ)は、日本の漫画家。広島県福山市出身。 『月刊Gファンタジー』(エニックス〈現・スクウェア・エニックス〉)で『ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣』を連載したのち、『月刊ガンガンWING』で『クロスボーン探偵団』や『ワールドエンド・フェアリーテイル』を連載。2001年のいわゆるエニックスお家騒動で『ワールドエンド・フェアリーテイル』の連載は中断し、活動場所も『月刊コミックブレイド』へ移った。しかしその後、『ワールドエンド・フェアリーテイル』の続編や『コミックブレイド』で新しく始まった『R』の連載は中断した。 『コミックブレイド』2007年5月号にて久々にイラストレーションを披露し、マッグガーデン社との作家契約が続いている事が判明。2008年12月に発刊された『コミックブレイド』増刊『コミックブレイドBROWNIE』創刊号にて『R』の連載を再開したが、同誌がその後発売されていないため、次回の掲載がいつになるかは現在のところ不明。
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箱田 真紀は、日本の漫画家。広島県福山市出身。
'''箱田 真紀'''(はこだ まき、本名同じ)は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[広島県]][[福山市]]出身。 ==人物== 『[[月刊Gファンタジー]]』([[エニックス]]〈現・[[スクウェア・エニックス]]〉)で『[[ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣 (漫画)|ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣]]』を連載したのち、『[[月刊ガンガンWING]]』で『クロスボーン探偵団』や『ワールドエンド・フェアリーテイル』を連載。[[2001年]]のいわゆる[[エニックスお家騒動]]で『ワールドエンド・フェアリーテイル』の連載は中断し、活動場所も『[[月刊コミックブレイド]]』へ移った。しかしその後、『ワールドエンド・フェアリーテイル』の続編や『コミックブレイド』で新しく始まった『R<sup>2</sup>』の連載は中断した。 『コミックブレイド』2007年5月号にて久々にイラストレーションを披露し、マッグガーデン社との作家契約が続いている事が判明。2008年12月に発刊された『コミックブレイド』増刊『[[コミックブレイドBROWNIE]]』創刊号にて『R<sup>2</sup>』の連載を再開したが、同誌がその後発売されていないため、次回の掲載がいつになるかは現在のところ不明。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣 (漫画)|ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣]](1994年 - 1999年、Gファンタジーコミックス、全12巻) * クロスボーン探偵団(1999年、ガンガンWINGコミックス、全1巻) * ワールドエンド・フェアリーテイル(2000年 - 2003年、ガンガンWINGコミックス、既刊4巻) * R<sup>2</sup> rise R to the second power(2002年 - 2003年、ブレイドコミックス、既刊2巻) * ワールドエンド・フェアリーテイル・アフター(不明 - 、休載中) * スーパーマリオ[[4コママンガ劇場]]初期に'''はこだまき'''名義で4コマを執筆。 === 画集 === * R3 R:Cubism 箱田真紀 Illustration Works([[マッグガーデン]]、2004年) === イラスト === * 夢見が丘(著:横井哲正、2002年、ガンガンWINGノベルス) * ファイアーエムブレム メモリアルブック アカネイア・クロニクル (著:電撃攻略本編集部、2010年、アスキー・メディアワークス) *ファイアーエムブレム英雄百歌 - マルスを執筆<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/fe/25th/d01_01.html |title=ファイアーエムブレム25周年記念商品 |accessdate=2017-10-01 }}</ref>。 ===TCGイラスト=== *[[ファイアーエムブレム0]](インテリジェントシステムズ / 任天堂<ref>『ファイアーエムブレム0』店頭パンフレット。</ref><ref name=FE0PC>[http://fecipher.jp/cards/ ファイアーエムブレム0 全カード一覧]</ref>) **「[[ファイアーエムブレム 暗黒竜と光の剣|暗黒竜と光の剣]]」 - 「救国の英雄 [[マルス (ファイアーエムブレム)|マルス]]」「凄腕の剣客 ナバール」のカードを執筆<ref>『週刊ファミ通』2015年7月9日号『ファイアーエムブレム0』P122。</ref><ref>徳間書店「ファイアーエムブレム0公式ガイド」P76、83、120。</ref>。 **「暗夜」 - 「カンナ」(男。下級職、上級職)のカードを執筆<ref>『電撃Nintendo』2015年11月号「ファイアーエムブレム0」P11。</ref><ref name=FE0PC />。 **「[[ファイアーエムブレム 蒼炎の軌跡|蒼炎の軌跡]]」 - 「小さき弓使い ヨファ」のカードを執筆<ref>該当するカードに名前が記述。</ref>。 **「透魔」 - 「カンナ」(男)のカードを執筆<ref name=FE0PC/>。 **「紋章の謎」- 「ウェンデルの高弟 マリク」「光の英雄王 マルス」のカードを執筆。前述のマルスのカードに箱田自身のサインを執筆<ref>徳間書店「ファイアーエムブレム0公式ガイドIV」P54、55、60。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references/></div> == 外部リンク == * [http://www.mag-garden.co.jp/officialwebc/r2/atogaki-web.htm atogaki-web R2] - 公式サイト。 {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:はこた まき}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:生年未記載]] [[Category:存命人物]]
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松浦雅也
松浦 雅也(まつうら まさや、1961年6月16日 - )は、ミュージシャン、ゲームデザイナー、プロデューサー。大阪市出身。 赤橋幼稚園、大阪市立晴明丘小学校、枚方市立殿山第二小学校、枚方市立第三中学校、大阪府立牧野高等学校を経て、1983年立命館大学産業社会学部卒業。 小学生のときから音に強い興味を持ち、親に頼んでピアノ教室に通うようになる。ただしピアノを習うのは小学校を卒業するまでと親と約束していたことから、音楽を続けるために中学では吹奏楽部に入部し、パーカッションに配属される。中学3年生のときに若い新任の音楽教師と出会い、数々のロックや、冨田勲の『展覧会の絵』といった音楽に触れる。牧野高校に入学すると同級生からの影響を受けウェザー・リポートなどを知り、ローランドのシンセサイザー「SH-3A」を購入、高校で音楽を演奏する場所を確保するために軽音楽部を創設しバンド活動を始める。高校卒業時には後輩たちのためにSH-3Aは部室に残したという。京都の立命館大学に進学後もバンド活動を続けていたが、あるとき新大阪の音楽スタジオ「TONスタジオ」でアルバイトをすることになりスタジオを運営していた東祥高と出会い、空いている時間に高価な機材を自由にいじらせてもらえるようになる。 その後松浦はアルバイトを辞めるが、東が新しく「NEW*TONスタジオ」を始めると今度は音楽制作のパートナーとして誘われ、働くようになる。あるとき1980年代初頭から輸入楽器を扱うようになったナニワ楽器の営業マンから「フェアライトCMI」というシンセサイザーを紹介され、デモテープを聞いて衝撃を受ける。当時1200万円したこの機材を購入することを決意した東と松浦は、ローン契約のためにスタジオを「株式会社ニュートンスタジオ」として法人化、松浦は共同経営者で代表取締役となる。なお契約に当たってはかつてイベントの音楽を担当したことで親交のあった小松左京の協力を受けた。その後1980年代末にMacintoshとシーケンスソフトのパフォーマーが導入されるまで、シーケンスはフェアライトのページRで行われた。 スタジオの仕事の一つとして、松浦はFM大阪でアメリカ人DJ・カトリーナによる帯番組『HIT RADIO~POP MUSIC STATION』の一コーナーを担当していた。そのコーナーで毎月新曲を録り下ろしする企画が始まり、知人から紹介されたボーカルの安則まみ(チャカ)と「プレイテックス」が結成された。このときにプレイテックスとして制作された楽曲が収録されたテープがCBSソニーの新人開発を専門とする事業部に渡ったことが、後のPSY・Sデビューの切っ掛けとなった。 打ち込み音楽の先駆け的男女ユニット「PSY・S(サイズ)」で1985年にデビューし、9枚のオリジナルアルバムと3枚のベスト盤をリリース。作曲・サウンド面をすべて担当(1996年解散)。 PSY・Sオリジナルアルバムなど (上記は全てCBS・ソニー、Sony Music Entertainment) 1996年、プレイステーション向けゲームソフト『パラッパラッパー』は、その後の音楽ゲームの先駆となり、70カ国以上でリリースされる。元々ミュージシャンで、作品制作でサンプリングを活用した経験があり、先駆的な技術にも詳しい松浦が、CD-IやCD-ROM XAの機能に着目し、ジャンルを越えたメンバーを結集して1994年頃から制作を開始していた。集まったメンバーはゲーム業界と関係の無いメンバーが多く、ゼロベースでゲームを再定義し、新ジャンルを生み出した。後に、植松伸夫が「パラッパラッパーが出てきた時が、ゲームに触れてきた中で一番の衝撃だった」と語っている。 ゲーム作品 アコースティック・ギター・デュオのゴンチチには、1983年のデビュー時から1992年のアルバム『Gravity Loves Time』まで関わっていた。 1995年、メジャーデビューを目前に控えていた川本真琴(当時のアーティスト名はLupino)の楽曲のプロデュースを担当していた。
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松浦 雅也は、ミュージシャン、ゲームデザイナー、プロデューサー。大阪市出身。
{{Infobox Musician | Name = 松浦雅也 | Img = Masaya-matsuura.jpg | Img_capt = | Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | Background = instrumentalist<!-- singer/group/bandなど --> | Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 --> | Alias = | Blood = [[ABO式血液型|AB型]]<!-- 個人のみ --> | School_background = [[立命館大学産業社会学部]]卒業<!-- 個人のみ --> | Born = {{生年月日と年齢|1961|6|16}}<!-- 個人のみ --> | Died = <!-- 個人のみ --> | Origin = [[大阪府]] | Instrument = [[シンセサイザー]]、[[ギター]]<!-- 個人のみ --> | Genre = [[J-POP]]<br>[[音楽ゲーム]] | Occupation = [[音楽家|ミュージシャン]]<br />[[プロデューサー]]<br />[[ゲームクリエイター]] | Years_active = [[1980年代]]初頭 - | Label = | Production = | Associated_acts = [[PSY・S]]<br>[[ゴンチチ]]<br>[[川本真琴]](デビュー前、Lupino時代) | Influences = | URL = | Current_members = <!-- グループのみ --> | Past_members = <!-- グループのみ --> | Notable_instruments = [[フェアライトCMI]] }} '''松浦 雅也'''(まつうら まさや、[[1961年]][[6月16日]]<ref name="djmeikan">{{Cite book|和書|title=DJ名鑑 1987|publisher=[[三才ブックス]]|date=1987-02-15|pages=141|id={{NDLJP|12276264/71}}}}</ref> - )は、[[音楽家|ミュージシャン]]、ゲームデザイナー、プロデューサー。[[大阪市]]出身。 == 来歴 == 赤橋幼稚園、[[大阪市立晴明丘小学校]]、[[枚方市立殿山第二小学校]]、[[枚方市立第三中学校]]、[[大阪府立牧野高等学校]]を経て、[[1983年]][[立命館大学]][[産業社会学部]]卒業。 === 学生時代 === 小学生のときから音に強い興味を持ち、親に頼んで[[ピアノ教室]]に通うようになる{{Sfn|田中|2001|p=548}}。ただし[[ピアノ]]を習うのは小学校を卒業するまでと親と約束していたことから、音楽を続けるために中学では[[吹奏楽部]]に入部し、[[パーカッション]]に配属される{{Sfn|田中|2001|p=548-549}}。中学3年生のときに若い新任の音楽教師と出会い、数々の[[ロック_(音楽)|ロック]]や、[[冨田勲]]の『[[展覧会の絵_(冨田勲のアルバム)|展覧会の絵]]』といった音楽に触れる{{Sfn|田中|2001|p=549}}。[[大阪府立牧野高等学校|牧野高校]]に入学すると同級生からの影響を受け[[ウェザー・リポート]]などを知り、[[ローランド]]の[[シンセサイザー]]「SH-3A」を購入、高校で音楽を演奏する場所を確保するために[[軽音楽部]]を創設し[[バンド (音楽)|バンド]]活動を始める{{Sfn|田中|2001|p=549-550}}。高校卒業時には後輩たちのためにSH-3Aは部室に残したという{{Sfn|田中|2001|p=550}}。京都の[[立命館大学]]に進学後もバンド活動を続けていたが、あるとき新大阪の音楽スタジオ「TONスタジオ」で[[アルバイト]]をすることになりスタジオを運営していた[[東祥高]]と出会い、空いている時間に高価な機材を自由にいじらせてもらえるようになる{{Sfn|田中|2001|p=550}}。 その後松浦はアルバイトを辞めるが、東が新しく「NEW*TONスタジオ」を始めると今度は音楽制作のパートナーとして誘われ、働くようになる{{Sfn|田中|2001|p=550-552}}。あるとき1980年代初頭から輸入楽器を扱うようになった[[イーフロンティア|ナニワ楽器]]の営業マンから「[[フェアライトCMI]]」というシンセサイザーを紹介され、[[デモテープ]]を聞いて衝撃を受ける{{Sfn|田中|2001|p=553}}。当時1200万円したこの機材を購入することを決意した東と松浦は、[[ローン]]契約のためにスタジオを「株式会社ニュートンスタジオ」として[[法人化]]、松浦は共同経営者で[[代表取締役]]となる{{Sfn|田中|2001|p=553-554}}。なお契約に当たってはかつてイベントの音楽を担当したことで親交のあった[[小松左京]]の協力を受けた{{Sfn|田中|2001|p=554}}。その後1980年代末に[[Macintosh]]とシーケンスソフトの[[Digital Performer|パフォーマー]]が導入されるまで、[[ミュージックシーケンサー|シーケンス]]はフェアライトのページRで行われた{{Sfn|田中|2001|p=554}}。 === PSY・S結成 === スタジオの仕事の一つとして、松浦は[[FM大阪]]でアメリカ人[[ディスクジョッキー|DJ]]・カトリーナによる[[帯番組]]『HIT RADIO~POP MUSIC STATION』の一コーナーを担当していた{{Sfn|田中|2001|p=555-556}}。そのコーナーで毎月新曲を録り下ろしする企画が始まり、知人から紹介された[[ボーカル]]の[[CHAKA (歌手)|安則まみ]](チャカ)と「プレイテックス」が結成された{{Sfn|田中|2001|p=556}}。このときにプレイテックスとして制作された楽曲が収録されたテープが[[CBSソニー]]の新人開発を専門とする事業部に渡ったことが、後のPSY・Sデビューの切っ掛けとなった{{Sfn|田中|2001|p=556}}。 == PSY・Sとしての活動 == 打ち込み音楽の先駆け的男女ユニット「[[PSY・S|PSY・S]](サイズ)」で[[1985年]]にデビューし、9枚のオリジナルアルバムと3枚のベスト盤をリリース。作曲・サウンド面をすべて担当([[1996年]]解散)。 '''PSY・Sオリジナルアルバムなど''' * 1985年、[[Different View]] * 1986年、[[PIC-NIC]] * 1987年、[[PSY・S Presents "Collection"]] (Compilation) * 1987年、[[Mint-Electric]] * 1988年、[[NON-FICTION]] * 1989年、[[ATLAS_(アルバム)|ATLAS]] * 1990年、[[SIGNAL (PSY・Sのアルバム)|SIGNAL]] * 1991年、[[TWO_HEARTS_(アルバム)|TWO_HEARTS]] * 1991年、[[HOLIDAY (アルバム)|HOLIDAY]] * 1992年、[[TWO SPIRITS]] Live PSY・S Best Selection (Live) * 1993年、THE SEVEN COLORS LEGEND OF PSY・S CITY / [[Macintosh]] [[CD-ROM]] * 1993年、[[WINDOW (PSY・Sのアルバム)|WINDOW]] * 1994年、MUSIC IN YOUR EYES / Original CG video * 1994年、[[HOME MADE (PSY・Sのアルバム)|HOME MADE]] * 1994年、[[EMOTIONAL ENGINE]] * 1996年、[[TWO BRIDGES]] * 1998年、[[Brand New Menu+Another Diary]] (Compilation) * 2012年、Psyclopedia (CD Box Set) * 2020年、[[Atlas]] (アナログ盤) (上記は全て[[CBS・ソニー]]、[[Sony Music Entertainment]]) * 2020年、vib-ribbon(アナログ盤 [[Minimum Records]] イギリス)<ref>{{Cite web|和書|author=松本隆一 |url=https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20200515118/ |title=松浦雅也氏が手がけた「ビブリボン」のLPが,イギリスのレーベルから7月末にリリース |website=4Gamer.net |publisher=Aetas株式会社 |date=2020-05-15 |accessdate=2022-03-14}}</ref> == ゲーム業界における活躍 == 1996年、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]向け[[ゲームソフト]]『[[パラッパラッパー]]』は、その後の[[音楽ゲーム]]の先駆となり、70カ国以上でリリースされる。元々[[音楽家|ミュージシャン]]で、作品制作で[[サンプリング]]を活用した経験があり、先駆的な技術にも詳しい松浦が、[[CD-I]]や[[CD-ROM XA]]の機能に着目し、ジャンルを越えたメンバーを結集して[[1994年]]頃から制作を開始していた。集まったメンバーはゲーム業界と関係の無いメンバーが多く、ゼロベースでゲームを再定義し、新ジャンルを生み出した。後に、[[植松伸夫]]が「パラッパラッパーが出てきた時が、ゲームに触れてきた中で一番の衝撃だった」と語っている<ref>{{Cite news|title=Game Designer Dreams VOL.2 『パラッパラッパー』松浦雅也が語る「音楽はもっと自由でいい」 {{!}} SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス|url=https://spice.eplus.jp/articles/132081|accessdate=2018-06-19|work=SPICE(スパイス)|エンタメ特化型情報メディア スパイス}}</ref>。 '''ゲーム作品''' * 1993年、[[メタモジュピター]] ([[NECホームエレクトロニクス|NEC]]/[[PCエンジン|PC Engine CD]]) 音楽部分のみでの参加 * 1996年、[[チューニン・グルー]] ([[Apple]] [[バンダイ|Bandai]]/[[Pippin]]) * 1996年、[[パラッパラッパー]] ([[ソニー・インタラクティブエンタテインメント|SCE]]/[[PlayStation (ゲーム機)|PS1]]),(2007, [[PlayStation Portable|PSP]]),(2017, [[PlayStation 4|PS4]]) * 1999年、[[ウンジャマ・ラミー]] (SCE/PS1) * 1999年、[[ビブリボン]] (SCE/PS1) * 2000年、[[ライムライダー・ケロリカン]] (Bandai/[[WonderSwan]]) * 2002年、[[パラッパラッパー2]] (SCE/[[PlayStation 2|PS2]]),(2015, PS4) * 2003年、[[モジブリボン]] (SCE/PS2) * 2004年、[[ビブリップル]] (SCE/PS2) * 2005年、[[たまごっちのプチプチおみせっち]] ([[BNG]]/[[ニンテンドーDS|Nintendo DS]]) * 2007年、[[Musika]] ([[Sony-BMG]]/[[IPod games]], [[iPod]]) * 2006年、たまごっちのプチプチおみせっち ごひーき2 ([[BNG]]/[[ニンテンドーDS|Nintendo DS]]) * 2007年、たまごっちのプチプチおみせっち みなサンきゅー (BNG/Nintendo DS) * 2009年、[[メジャマジ・マーチ]] ([[Majesco]][[スクウェア・エニックス|SQEX]]/[[Wii]]) * 2010年、[[WINtA]] ([[One Big Game]][[iPhone]]/[[iPod touch]]) * 2012年、[[Haunt (video game)|Haunt]] ([[マイクロソフト|MS]]/[[Xbox 360]]) * 2015年、[[Beat Sports]] ([[Hermonix]]/[[Apple TV]]) 一部音楽部分のみでの参加 == その他の活動 == === ソロ活動など === * 1984年、CGアーティストとのコラボで、[[PSY・S]]の楽曲を使用した映像など制作。 * 1987年、NHK-FM『[[サウンドストリート]]』の火曜日担当パーソナリティを務める{{Sfn|田中|2001|p=558}}。 * 1989年、[[伊丹十三]]製作総指揮[[黒沢清]]監督の映画『[[スウィートホーム (映画)|スウィートホーム]]』の音楽を手がける{{Sfn|田中|2001|p=560}}。 * 1993年、[[七音社]]を設立。 * 2003年、[[AIBO]](ERS-7)のサウンドをプロデュース<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201607/06110223.html |title=“BitSummit 4th”のステージ情報が明らかに! 松浦雅也氏や斎藤由多加氏、水口哲也氏など多彩なゲストが集う! |website=ファミ通.com |publisher=KADOKAWA |date=2016-07-06 |accessdate=2022-03-16}}</ref>。 * 2004年、NHK[[みんなのうた]]、「ありがとサンキュ〜」を作曲<ref>[https://www.nhk.or.jp/minna/songs/MIN200406_01/ ありがとサンキュ~ | NHK みんなのうた]. 2022年3月16日閲覧</ref>。 * 2012年、『[[ビブリボン]]』(1999年)が[[ニューヨーク近代美術館]] ([[MoMA]]) 初のゲーム収蔵作品14本のうちの一つに選ばれる<ref> {{Cite web|和書|url=https://current.ndl.go.jp/node/22428 |title=ニューヨーク近代美術館(MoMA)がビデオゲームの収蔵を開始 |website=カレントアウェアネス・ポータル |publisher=国立国会図書館 |date=2012-12-03 |accessdate=2022-03-16}}</ref>。 * 2014年、初のオリジナルアナログ盤『beyooond!!!』をリリースし、ライブ活動を開始。 * 現在までに、数々のゲームを制作、世界中で講演・演奏活動などを行っている。 * 現 [[Game Developers Conference|GDC]] ADVISORY BOARD EMERITUS(米ゲームディベロッパーズカンファレンス名誉理事)。 === ゴンチチ作品のサウンドアレンジ === アコースティック・ギター・デュオの[[ゴンチチ]]には、[[1983年]]のデビュー時<ref>{{Cite web|和書|title=総制作費200万円、すったもんだの「ゴンチチ」レコーディング顛末記 |url=https://reminder.top/539633700/ |website=reminder.top |accessdate=2022-04-12 |language=ja}}</ref>から[[1992年]]のアルバム『Gravity Loves Time』まで関わっていた{{Sfn|田中|2001|p=555}}。 === 川本真琴(Lupino)のプロデュース === [[1995年]]、メジャーデビューを目前に控えていた[[川本真琴]](当時のアーティスト名はLupino)の楽曲のプロデュースを担当していた。 == 主な受賞歴 == * 1981年、1981 Roland Synthesizer Tape Contest B-class 1st prize * 1982年、リットーミュージック 第一回オリジナルテープ音楽祭 敢闘賞 * 1993年、[[デジタルコンテンツグランプリ|マルチメディアグランプリ]] * 1996年、[[コンピュータエンターテインメント協会|CESA]]大賞 特別賞<ref>[https://awards.cesa.or.jp/1996/ 「CESA大賞’96」受賞作品一覧]. 一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会. 2022年3月14日閲覧</ref> * 1996年、[[日本ソフトウェア大賞]] 審査員特別賞 * 1997年、MMCA [[デジタルコンテンツグランプリ|マルチメディアグランプリ]] アーティスト賞<ref>[https://dailyportalz.jp/b/special03/12/18/ パラッパラッパーを作った人と…](2003年12月18日). デイリーポータルZ. 2022年3月14日閲覧</ref> * 1997年、米国ZDnet Electronic Gaming Monthly Editor's Choice Awards 4部門受賞 * 1998年、米国Interacive Achievement award "Outstanding achievement in Interactive Design"賞、同"Outstanding achievement in Sound & Music"賞 * 1998年、[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCEI]]プラチナディスク賞 * 1999年、SCEIゴールドディスク賞 * 2004年、[[ゲーム・デベロッパーズ・チョイス・アワード|GDCアワード]] First Penguin Award<ref>[https://www.gamechoiceawards.com/archive/penguin First Penguin Archive {{!}} Game Developers Choice Awards]. 2022年3月14日閲覧</ref> == 出演番組 == * [[サウンドストリート]](NHK-FM)<ref name="djmeikan"/> * ポップミュージックステーション(FM大阪)<ref name="djmeikan"/> == 著書 == * 『コンピュータで音楽をつくろう! - コンピュータとシンセサイザー』、ポプラ社、1994年、{{ISBN2|4591045617}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Citation|和書|author=田中雄二|date=2001-12-17|title=電子音楽 in JAPAN|publisher=アスペクト|isbn=978-4757208711|ref={{SfnRef|田中雄二|2001}} }} == 外部リンク == {{Commonscat|Masaya Matsuura}} * {{Facebook|masaya.matsuura.official|Masaya Matsuura}} * {{SoundCloud|masaya-matsuura}} * [https://www.nanaon-sha.co.jp/ 七音社] * [https://www.discogs.com/ja/artist/218276-Masaya-Matsuura 松浦雅也 ディスコグラフィー] {{PSY・S}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まつうら まさや}} [[Category:日本の作曲家]] [[Category:日本のゲームクリエイター]] [[Category:日本のシンセサイザー奏者]] [[Category:立命館大学出身の人物]] [[Category:大阪市出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]]
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FreeBSD
FreeBSD(フリービーエスディー)は、フリーでオープンソースのUnix風のオペレーティングシステム (OS) である。Research UnixをベースにしたBerkeley Software Distributionに由来しており、最初のバージョンは1993年にリリースされた。2005年には、FreeBSDは最も人気のあるオープンソースのBSDオペレーティングシステムとなり、単純に寛容にライセンスされたBSDシステムのインストール数の4分の3以上を占めていた。 FreeBSDはLinuxと似ているが、 範囲とライセンスに2つの大きな違いがある。すなわち、Linuxはカーネルとデバイスドライバのみを提供し、システムソフトウェアをサードパーティーに頼っているのに対し、FreeBSDはカーネル 、 デバイスドライバ 、 ユーザーランドユーティリティ、およびドキュメントといった完全なシステムを維持している。FreeBSDのソースコードは通常、寛容なBSDライセンスでリリースされており、Linuxで使われているコピーレフトのGPLとは対照的である。 FreeBSDプロジェクトには、ベースディストリビューションに含まれるすべてのソフトウェアを監督するセキュリティチームが含まれている。広範囲のサードパーティー製アプリケーションを追加するには、 pkgパッケージ管理システムやFreeBSD Portsを使ったり、ソースコードをコンパイルしたりしてインストールすることができる。 系譜的にはUNIX本流ともいえるOSであり、過去にはHotmailなどのサーバとして利用されていた実績を有するが、現在では多くがLinuxに置き換えられている。現在の利用状況に関しては、デスクトップOSのシェアは0.01%以下で計測不能であり、サーバOSのシェアは0.2%程度と、泡沫ともいえる厳しい状況が続いている。一方でNetflix社のようにFreeBSDサーバを積極的に活用し、1台あたり400Gbpsという規模のコンテンツ配信を行っているところもある。 FreeBSDの開発者達は、Webサイトにて安定していて高速・高性能でなおかつ安全、先進的な機能や多くのセキュリティ機能を提供していると語っていた。FreeBSD jail等の機能もレンタルサーバ等に適したシステムであるといえる。Linuxと異なりカーネルとユーザランドを含めて一つのOSであり、そしてOS側にGPLのものを含まないようにしていることも特徴の一つである。そして、堅牢性の高いBSDカーネルの設計が最大の特徴として認知されている。 1991年、ウィリアム・ジョリッツによって4.3BSD Net/2をベースとしたOS、386BSDが発表された。 しかし公開後の開発が停滞したため、386BSDのユーザらは「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作し、バグの対応などを行っていた。その後386BSDは、ほぼ1年にわたって放っておかれ、やがてパッチキットの量は膨大になってしまった。 そこで、386BSDのユーザらは「386BSDの開発の手助けのため」、パッチキットを適用した状態の「クリーンナップ」スナップショットの製作プロジェクトを進めた。しかし、Jolitzがこのプロジェクトの受け入れを拒否したことにより、プロジェクトは路線変更を余儀なくされた。結局、パッチキットの最後の取りまとめ役であったNate Williams、Rod Grimes、ジョーダン・ハバードらは、自分達で新しいOSの開発を行う事を決意し、1993年にFreeBSDプロジェクトをスタートさせた。「FreeBSD」という名前はDavid Greenmanによって考案されたもので、386BSDの最初の単語 "Three" をもじって "Free" にした命名である。1993年6月19日、ジョーダン・ハバード、Rod GrimesおよびDavid Greenmanは、FreeBSDの開発開始をアナウンスした。 FreeBSDは4.3BSD Net/2をベースに開発が行われ、1993年12月には最初のリリースであるFreeBSD 1.0が、そして、1994年5月にはFreeBSD 1.1がリリースされた。 しかしこの後、当時UNIXのソースコードの権利をもっていたノベルとカリフォルニア大学バークレー校との長期に渡った訴訟の和解が成立し、4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があることが正式に認められた。そのため、FreeBSDはそのまま開発を続けることが不可能となり、1994年7月にリリースされたFreeBSD 1.1.5.1を最後に4.3BSD Net/2をベースにした開発を停止した。 FreeBSDプロジェクトは、UNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にしてFreeBSDの開発を再開した。再開後の最初のリリースであるFreeBSD 2.0は1994年11月に発表され、その後、FreeBSDは順調に発展を続けている。 X Window Systemについては、当初XFree86を標準として採用していたが、FreeBSD 5.3からはX.Orgを標準とするように移行した。 FreeBSDのパッケージ管理システムは、ビルド済みパッケージをインストールするpackage, pkg(8)とソースをビルドするスタイルのportsがある。OS以外でpackageのインストールしたものは原則として「/usr/local」以下と「/var/db/pkg」以下に入る。つまりOS部分とほぼ分離されているので明示的な管理やバックアップもしやすいが 基本的にライブラリを共用する発想で構成されているのでWindows等でアプリごとにライブラリを用意することに慣れている人には使い辛いと感じることもある。7系から8系等、メジャーバージョンアップの際には使用ライブラリの互換性がなくなるが一部(usbを使うものなど)を除いて「compat7x」を入れることにより動作する。 packageはビルド済みのバイナリをシステムにインストールする仕組みでportsからインストールされたものも含めてバージョンやファイル構成が記録される。 サーバは本家の他日本など各地にある。自分でもpackageを作る事が出来るので複数台同一環境のPCを管理している場合にも使うことができる。 単独のpackageの個別インストールもできるが、「pkg_add -r」コマンドで上位にあるpackageを指定することにより依存packageもインストールされる。しかしpackageとPCのPerl等依存ツールやライブラリのバージョンが異なる場合、手動で修正が必要である等の問題があったり、RELEASE版では最新のpackageを取得するために環境変数「PACKAGESITE」を指定しなくてはいけない他、Web上の情報では「FreeBSDはビルドするのが当たり前」という風潮がかつては多かったため新規インストール以外にはあまり使われないように見受けられる。基本的にはports更新後一週間後程度にはstable版に最新のpackageがアップロードされているようだ。packageのバージョンアップ用のサポートツールとしてpkg_replace等がある。 portsは半自動的にソースコードからpackageのビルド及びインストールを行う方法である。特殊なパッチを当てる当てないの選択肢ダイアログ等が表示される場合もあるが、基本的にはソースコードのダウンロードからコンパイル、package生成、packageインストールまでの一連の流れを自動的に行うことができる。 ただ、実際にはシェルスクリプトだけのものやフォント、NVIDIA等メーカー品バイナリやJava等ビルド不要のものも多い。packageに比べると作業領域を明示的に指定できる長所がある。 基本的には「/usr/ports」に置かれる。portsの最新情報への更新は「portsnap」というコマンドを用いる事で最小限の更新だけで済ませられる(あるいは同portsツリーにあるdevel/gitないしnet/gitupを用いてportsツリーを更新することも可能)。portsに登録されているソフトウェアが新バージョンへ更新した時に一時的にビルドできなくなるなどの問題が発生することもあるので、Perl等の重要なportsの更新時には1週間程度様子を見る必要がある。 portsに登録されているソフトウェアは2022年1月14日の時点で46,811種が登録されており日々増加している。そのメンテナンス状況はメンテナと呼ばれる管理者の能力や意欲に左右される面がある。そのため、常時メンテナンスされて高い品質を維持しているportsも多いが、逆にソースファイルのサイトが閉じていたり、ビルドできなかったりあるいは古いバージョンのまま放置されていたりするものがあるという問題点も指摘されている。 日本人メンテナの活動により、日本語環境に関するportsは他言語に比べ比較的良く整備されており、特に日本語版LaTeXは完全な環境が容易かつ安定してインストールできることは特徴的である。 無駄なportsを増やさないために「/etc/portsnap.conf」で使わないカテゴリを指定できるがあくまでディレクトリ単位でのカテゴリ指定しかできない。安直にメタポートと呼ばれるものをビルドしようとすると依存するものを全てビルドしてしまうのでファイル構成を把握したらベーシックなライブラリから更新するとストレージ使用効率が良い。 portsからインストールしたものは、たとえpackage生成を行わないように指定したとしても、packageからインストールしたものと同等に扱われる。サポートツールとしてpkg_replaceの他portmasterとruby依存のportupgrade等が使われる。pkg_addに起因するportの依存記述には問題がありしばしインストールの妨げになることがある。 pkg(8)は、FreeBSD用の次世代のパッケージ管理システム pkgng として開発されてきたものである。従来のバイナリベースパッケージ管理システムである package よりも、手軽なバイナリアップデート、リモートパッケージ検索、依存関係の管理等の機能が強化されている。pkgは、これまでのものとはパッケージのデータベースの管理方法が異なるため現時点ではFreeBSD 9.x までのバージョンでは、pkg(8)の使用がデフォルト設定にはなっておらず、手動で pkg 管理システムに移行しなければならない。FreeBSD 10.0Rからデフォルトのパッケージ管理システムとして採用されている。 FreeBSDでは安定版であるFreeBSD-RELEASEの他FreeBSD-CURRENTとFreeBSD-STABLEの2つの開発ブランチが存在する。 CURRENTはまさに最新のFreeBSDのバージョンの開発ブランチで、作業進行中のソースがならび、開発途上のソフトウェアや過渡的な機能などが含まれている。しかし、これがリリース版に採用されるとは限らない。 STABLEは主に開発が終わったCURRENT開発ブランチに対して、分枝されてリリース版(安定版)を作成する開発ブランチである。こちらに移ってからは全ての修正はこの開発ブランチで行われる。1つのバージョン系列の開発が終わるとこのブランチからも外れ、以後一定期間は必要に応じてセキュリティアップデート等の修正が行われる。修正はパッチをあてることで行われ、8.1-RELEASE-p2などと最後尾に修正が行われた回数(pはpatch levelのこと)が示される。 いったんSTABLEとして扱われると、1つ上の開発バージョンがCURRENTとして扱われることになる。例外として、FreeBSD 5系では多くの改善や機能追加が行われたために、5.0 - 5.2の間はリリース版が出ているのにもかかわらずSTABLEとして扱われない状態が続いていたが、6.0がリリースされてからは元の体制に戻った。 FreeBSDのRELEASE版及びSTABLE版、CURRENT版は、Gitを使ってソースコードレベルでOSのバージョン管理を行う。 ソースコードの管理は、当初はConcurrent Versions Systemが採用され、更新にはかつては「csup」というコマンドが用いられたが(csupはCVSupの主要な機能をC言語で再実装したものである。これは、CVSupがプログラム言語として一般的でないModula-3で実装されており、これが理由でcsupはベースシステムに含まれるがCVSupはportsから導入する)、cvsupによる配布は2013年2月一杯で終了した。以降2020年12月まではApache Subversionが用いられていたが、現在ではGitへ移行している。 /usr/src以下に展開されたソースコードをmakeすることにより、メジャーバージョンの更新も含めてOS全体のバージョンアップができる。 バイナリで配布されたRELEASE版に対しては「freebsd-update」というコマンドが用いられ定期的なセキュリティパッチ等のバージョンアップができる。GENERICカーネルであればカーネルのアップデートも可能である。通常はセキュリティパッチが入るとカーネルの名称に「p2」等とバージョンがつくがカーネル以外だけの更新の場合カーネル名称は変わらない。 FreeBSDのSTABLE版及びRELEASE版については、リリース後一定期間、セキュリティに関する問題が発生した場合に必要なアドバイザリ及びアップデートがリリースされる保証期間が設けられる。保証期間については以下の3つの区分が存在する。CURRENT版は開発版の扱いのため、セキュリティアップデートやアドバイザリは提供されない。 ただし実際には、各RELEASE版に対しNormal及びExtendedのどちらを選択するか、その時点でのRELEASE版のコード品質等を考慮して個別に定められることが多く、時には「古いRELEASEの方が新しいRELEASEよりも保証期間が長い」という逆転現象が起こることがある。例:8.1-RELEASEの保証期間が2012年7月末までなのに対し、8.2-RELEASEの保証期間は2012年2月末まで。過去には7.1-RELEASEと7.2-RELEASEの間でも同様の逆転現象が発生した。ただし8.2-RELEASEの保守終了予定日は8.1-RELEASE同様2012年7月末まで延長されている。このため、特にサーバ等で長期に運用する予定の機器では、保証期間の終了時期を踏まえたバージョン選択を行う必要がある。 現在、セキュリティアップデートなどがサポートされている安定リリース版、及び開発ブランチは以下の通りである。 「1.0-RELEASE」は、4.3BSD Net/2を基にして1993年11月に開発された。 4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があるとして、1994年7月5日にリリースされた「1.1.5.1-RELEASE」を最後に4.3BSD Net/2を基にした開発を停止。 「2.0-RELEASE」はUNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にして1994年11月22日に発表された。バージョン2の最終版の「2.2.8-RELEASE」は1998年11月29日に発表された。 「2.0-RELEASE」は、AT&T由来のUNIXソースコードの著作権者ノベルの法的請求権から(将来に渡って)公的に解放された最初のFreeBSDのバージョンである。インターネットサーバ拡大期の始まりにおいて、広く使われた最初のバージョンでもある。 「3.0-RELEASE」は1998年10月16日に発表された。バージョン3の最終版の「3.5-RELEASE」は2000年6月24日に発表された。 「3.0-RELEASE」はジャイアントロックを用いてSMPシステムをサポートできる最初のブランチである。「3.1-RELEASE」からはUSBをサポートし、「3.2-RELEASE」からギガビット・イーサネットカードをサポートした。 「4.0-RELEASE」は2000年3月13日に発表された。2005年1月25日に出た最終版の「4.11-RELEASE」は2007年1月31日までサポートされていた。 バージョン4は、その安定性を賞賛され、最初のインターネット・バブルの時期にプロバイダとホスティングサーバから好まれたオペレーティングシステムであり、Unix系では最も安定した高いパフォーマンスのオペレーティングシステムの一つと広く見なされている。バージョン4の新機能では、「4.1-RELEASE」より、後にNetBSDやOpenBSDのシステムの一部となるkqueue(2)のシステムコールを導入した。 「5.0-RELEASE」は2003年1月14日にCURRENT(最新開発版)として発表された。バージョン5の最初の安定版のリリースは、2004年9月6日に発表された「5.3-RELEASE」である。「5.05-RELEASE」 - 「5.2.1-RELEASE」は「5-CURRENT」として一般ユーザの利用は勧められていなかった。バージョン5の最終安定版は2006年5月25日に出た「5.5-RELEASE」であった。 バージョン5の最初のブランチとして登場した「5.0-RELEASE」は、先進的なマルチプロセッサとアプリケーションスレッディング、UltraSPARCとIA-64のプラットフォーム対応等のサポートといった注目度の高い機能を手広く先取りしていた。 「6.0-RELEASE」は2005年11月4日にリリースされた。バージョン6の最終版の「6.4-RELEASE」は2008年11月11日にリリースされた。これらのバージョンは、SMPと先進的なIEEE 802.11の機能性の更なる開発の他に下記のようなものがある。 その他、プリエンプティブカーネル(タスクの置き換え)とハードウェアパフォーマンス測定ドライバ (HWPMC) のサポート等が挙げられる。 「7.0-RELEASE」は2008年2月27日にリリースされた。バージョン7の最終版の「7.4-RELEASE」は2011年2月24日にリリースされた。 新機能は下記の通り多彩に渡る。 ベンチマークは、LinuxだけでなくFreeBSDの以前のバージョンに比べても著しい速度の向上を示している。 「4.0-RELEASE」より対応していたDEC Alphaアーキテクチャへの対応は、「7.0-RELEASE」より中止となった。 「8.0-RELEASE」は2009年11月25日にリリースされた。2009年8月にトランクからバージョン8はブランチした。バージョン8の最新版は「8.4-RELEASE」で2013年6月7日にリリースされた。 主な機能は、SuperPages対応、Xenの「ドメインU (domU)」への対応、ネットワークスタックの仮想化、スタックスマッシュプロテクション、新しいTTYレイヤへの置き換え、大幅に更新され、改善されたZFSへの対応、「8.2-RELEASE」で追加されたUSB3.0とそのホストコントローラの規格であるxHCIへの対応、IGMPv3を含むマルチキャストのアップデート、(「8.2-RELEASE」で追加された)インテルCPU対応のNFSv4とAESのアクセラレータを導入しているNFSのクライアント・サーバの書き換えである。 改良されたデバイスのmmap()の拡張機能によって、x86-64プラットフォーム用の64ビットNVIDIAディスプレイドライバが実装可能となった。プラグイン対応の輻輳制御フレームワークと、Linuxのエミュレーション下で実行されるアプリケーションのシステム情報を取得するDTraceを使用可能とする機能は「8.3-RELEASE」で追加された。 「9.0-RELEASE」は2012年1月12日にリリースされた。「9.1-RELEASE」は2012年12月31日にリリースされた。「9.2-RELEASE」は2013年9月30日にリリースされた。「9.3-RELEASE」は2014年7月16日にリリースされた。 リリースの主な機能は、新しいインストーラ bsdinstall(8) の追加、UFSのFFS (Fast Filesystem) がsoftupdatesジャーナリングに対応、ZFSがバージョン28に更新、ユーザレベルDTraceの導入、NFSサブシステムが、NFSv3およびNFSv2に加えてNFSv4に対応した新しい実装に更新、ファイル保護機能Capsicumをカーネルでサポート、FreeBSD/powerpcでPlayStation 3をサポートなどである。 カーネルとベースシステムはClangを使用して構築することができるようになったが、「9.0-RELEASE」はまだデフォルトでGCC4.2を使用している。 「10.0-RELEASE」は2014年1月20日にリリースされた。「10.1-RELEASE」は2014年11月14日にリリースされた。「10.2-RELEASE」は2015年8月13日にリリースされた。 VirtIO (準仮想化)ドライバがKVMに対応、FUSEの実装などである。 「10.0-RELEASE」に実装されたBHyVe(BSDハイパーバイザ)は、まだ実験的なハイパーバイザであるが、仮想マシン内でゲストOSを稼働できる。仮想CPU数・ゲストメモリ・IOコネクティビティなどなどもコマンドラインパラメータで指定できる。 「10.3-RELEASE」より、UEFIシステムにおけるroot-on-ZFSインストールに対応した。 「11.0-RELEASE」は2016年10月10日にリリースされた。 FreeBSD 11は新しいサポートモデルの下で、少なくとも2021年9月30日までの5年間の長期サポートが行われるとしている。 FreeBSD 11.0-RELEASEのリリースエンジニアリングの終盤でOpenSSLの脆弱性が公開されたため、FreeBSDリリースエンジニアリングチームはこれを修正した「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」を新しくビルドして公開した。今回のリリース対象はこのパッチレベル1が対象となっている。アップグレードする際に「FreeBSD 11.0-RELEASE」がインストールされている場合、早期に「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」以降へアップグレードすることが望まれるとしている。 FreeBSD 11.1-RELEASEは予定通り2017年7月26日リリースされた。 「12.0-RELEASE」は2018年12月11日にリリースされた。 安定版ブランチ単位で5年間のサポートを提供することについてビジネスモデルを再評価する必要が出てきたとして、2019年3月31日まで新しいサポートモデルに関して意見を募るとしている。 「12.1-RELEASE」は2019年11月4日にリリースされた。 「12.2-RELEASE」は2020年10月27日にリリースされた。 「12.3-RELEASE」は2021年12月7日にリリースされた。 「12.4-RELEASE」は2022年12月5日にリリースされた。 2021年4月13日、「13.0-RELEASE」がリリース。 2022年5月12日、「13.1-RELEASE」がリリース。 2023年4月11日、「13.2-RELEASE」がリリース。 掲載しているのはRELEASEのアナウンスがされたバージョンのみ。 ※2006年4月1日には、エイプリルフールのネタとしてFreeBSD 2.2.9-RELEASEが発表されている。 FreeBSDでは、2023年現在、対応アーキテクチャを「Tier 1~4」までの4段階で管理している。 最新のRELEASE版について、公式サイトにてインストールイメージが配布されているアーキテクチャ。いわゆる「フルサポートアーキテクチャ」であり、ドキュメントなどもまずはこの層に属するアーキテクチャ向けに整備される。 開発・サポートプロジェクトが継続しているアーキテクチャ。公式サイトでインストールイメージも配布されているが、熟成度が低いとされて部分的なサポートのみとなっている。 試験的に開発が行われているアーキテクチャ。開発状況によっては予告なくFreeBSDのソースツリーから外される可能性がある。 完全にサポート外のアーキテクチャ。 長年、FreeBSDのロゴはBeastieとも呼ばれる通常のBSDデーモンであった。しかしながら、Beastieは、FreeBSDに特有のものではなかった。最初に現れたのは1976年のベル研究所によるUNIXTシャツであり、最も人気のあるBSDデーモンのバージョンはアニメ監督のジョン・ラセターによって1984年に描かれ始めたものである。いくつかのFreeBSDに特有のバージョンは、細川達己によって後に描かれたものである。 FreeSBIEプロジェクトは、FreeBSDベースのLive CD環境を提供している。 TrueNAS(旧FreeNAS)プロジェクトは、FreeBSDベースの、Webベースでの操作を可能としたNASファイルサーバ用OS環境を提供している。 XigmaNASプロジェクトは、FreeNASプロジェクトから分離したNASファイルサーバ用OS環境プロジェクトである。 TrueOS(旧PC-BSD)プロジェクトは、FreeBSDをデスクトップ・サーバと両方に対応したディストリビューションを提供している。 HardenedBSDは、セキュリティ対策を拡充するため2014年にフォークしたディストリビューション。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "FreeBSD(フリービーエスディー)は、フリーでオープンソースのUnix風のオペレーティングシステム (OS) である。Research UnixをベースにしたBerkeley Software Distributionに由来しており、最初のバージョンは1993年にリリースされた。2005年には、FreeBSDは最も人気のあるオープンソースのBSDオペレーティングシステムとなり、単純に寛容にライセンスされたBSDシステムのインストール数の4分の3以上を占めていた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "FreeBSDはLinuxと似ているが、 範囲とライセンスに2つの大きな違いがある。すなわち、Linuxはカーネルとデバイスドライバのみを提供し、システムソフトウェアをサードパーティーに頼っているのに対し、FreeBSDはカーネル 、 デバイスドライバ 、 ユーザーランドユーティリティ、およびドキュメントといった完全なシステムを維持している。FreeBSDのソースコードは通常、寛容なBSDライセンスでリリースされており、Linuxで使われているコピーレフトのGPLとは対照的である。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "FreeBSDプロジェクトには、ベースディストリビューションに含まれるすべてのソフトウェアを監督するセキュリティチームが含まれている。広範囲のサードパーティー製アプリケーションを追加するには、 pkgパッケージ管理システムやFreeBSD Portsを使ったり、ソースコードをコンパイルしたりしてインストールすることができる。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "系譜的にはUNIX本流ともいえるOSであり、過去にはHotmailなどのサーバとして利用されていた実績を有するが、現在では多くがLinuxに置き換えられている。現在の利用状況に関しては、デスクトップOSのシェアは0.01%以下で計測不能であり、サーバOSのシェアは0.2%程度と、泡沫ともいえる厳しい状況が続いている。一方でNetflix社のようにFreeBSDサーバを積極的に活用し、1台あたり400Gbpsという規模のコンテンツ配信を行っているところもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "FreeBSDの開発者達は、Webサイトにて安定していて高速・高性能でなおかつ安全、先進的な機能や多くのセキュリティ機能を提供していると語っていた。FreeBSD jail等の機能もレンタルサーバ等に適したシステムであるといえる。Linuxと異なりカーネルとユーザランドを含めて一つのOSであり、そしてOS側にGPLのものを含まないようにしていることも特徴の一つである。そして、堅牢性の高いBSDカーネルの設計が最大の特徴として認知されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1991年、ウィリアム・ジョリッツによって4.3BSD Net/2をベースとしたOS、386BSDが発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかし公開後の開発が停滞したため、386BSDのユーザらは「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作し、バグの対応などを行っていた。その後386BSDは、ほぼ1年にわたって放っておかれ、やがてパッチキットの量は膨大になってしまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "そこで、386BSDのユーザらは「386BSDの開発の手助けのため」、パッチキットを適用した状態の「クリーンナップ」スナップショットの製作プロジェクトを進めた。しかし、Jolitzがこのプロジェクトの受け入れを拒否したことにより、プロジェクトは路線変更を余儀なくされた。結局、パッチキットの最後の取りまとめ役であったNate Williams、Rod Grimes、ジョーダン・ハバードらは、自分達で新しいOSの開発を行う事を決意し、1993年にFreeBSDプロジェクトをスタートさせた。「FreeBSD」という名前はDavid Greenmanによって考案されたもので、386BSDの最初の単語 \"Three\" をもじって \"Free\" にした命名である。1993年6月19日、ジョーダン・ハバード、Rod GrimesおよびDavid Greenmanは、FreeBSDの開発開始をアナウンスした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "FreeBSDは4.3BSD Net/2をベースに開発が行われ、1993年12月には最初のリリースであるFreeBSD 1.0が、そして、1994年5月にはFreeBSD 1.1がリリースされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "しかしこの後、当時UNIXのソースコードの権利をもっていたノベルとカリフォルニア大学バークレー校との長期に渡った訴訟の和解が成立し、4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があることが正式に認められた。そのため、FreeBSDはそのまま開発を続けることが不可能となり、1994年7月にリリースされたFreeBSD 1.1.5.1を最後に4.3BSD Net/2をベースにした開発を停止した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "FreeBSDプロジェクトは、UNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にしてFreeBSDの開発を再開した。再開後の最初のリリースであるFreeBSD 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"portsからインストールしたものは、たとえpackage生成を行わないように指定したとしても、packageからインストールしたものと同等に扱われる。サポートツールとしてpkg_replaceの他portmasterとruby依存のportupgrade等が使われる。pkg_addに起因するportの依存記述には問題がありしばしインストールの妨げになることがある。", "title": "パッケージ管理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "pkg(8)は、FreeBSD用の次世代のパッケージ管理システム pkgng として開発されてきたものである。従来のバイナリベースパッケージ管理システムである package よりも、手軽なバイナリアップデート、リモートパッケージ検索、依存関係の管理等の機能が強化されている。pkgは、これまでのものとはパッケージのデータベースの管理方法が異なるため現時点ではFreeBSD 9.x までのバージョンでは、pkg(8)の使用がデフォルト設定にはなっておらず、手動で pkg 管理システムに移行しなければならない。FreeBSD 10.0Rからデフォルトのパッケージ管理システムとして採用されている。", "title": "パッケージ管理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "FreeBSDでは安定版であるFreeBSD-RELEASEの他FreeBSD-CURRENTとFreeBSD-STABLEの2つの開発ブランチが存在する。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "CURRENTはまさに最新のFreeBSDのバージョンの開発ブランチで、作業進行中のソースがならび、開発途上のソフトウェアや過渡的な機能などが含まれている。しかし、これがリリース版に採用されるとは限らない。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "STABLEは主に開発が終わったCURRENT開発ブランチに対して、分枝されてリリース版(安定版)を作成する開発ブランチである。こちらに移ってからは全ての修正はこの開発ブランチで行われる。1つのバージョン系列の開発が終わるとこのブランチからも外れ、以後一定期間は必要に応じてセキュリティアップデート等の修正が行われる。修正はパッチをあてることで行われ、8.1-RELEASE-p2などと最後尾に修正が行われた回数(pはpatch levelのこと)が示される。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "いったんSTABLEとして扱われると、1つ上の開発バージョンがCURRENTとして扱われることになる。例外として、FreeBSD 5系では多くの改善や機能追加が行われたために、5.0 - 5.2の間はリリース版が出ているのにもかかわらずSTABLEとして扱われない状態が続いていたが、6.0がリリースされてからは元の体制に戻った。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "FreeBSDのRELEASE版及びSTABLE版、CURRENT版は、Gitを使ってソースコードレベルでOSのバージョン管理を行う。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ソースコードの管理は、当初はConcurrent Versions Systemが採用され、更新にはかつては「csup」というコマンドが用いられたが(csupはCVSupの主要な機能をC言語で再実装したものである。これは、CVSupがプログラム言語として一般的でないModula-3で実装されており、これが理由でcsupはベースシステムに含まれるがCVSupはportsから導入する)、cvsupによる配布は2013年2月一杯で終了した。以降2020年12月まではApache Subversionが用いられていたが、現在ではGitへ移行している。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "/usr/src以下に展開されたソースコードをmakeすることにより、メジャーバージョンの更新も含めてOS全体のバージョンアップができる。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "バイナリで配布されたRELEASE版に対しては「freebsd-update」というコマンドが用いられ定期的なセキュリティパッチ等のバージョンアップができる。GENERICカーネルであればカーネルのアップデートも可能である。通常はセキュリティパッチが入るとカーネルの名称に「p2」等とバージョンがつくがカーネル以外だけの更新の場合カーネル名称は変わらない。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "FreeBSDのSTABLE版及びRELEASE版については、リリース後一定期間、セキュリティに関する問題が発生した場合に必要なアドバイザリ及びアップデートがリリースされる保証期間が設けられる。保証期間については以下の3つの区分が存在する。CURRENT版は開発版の扱いのため、セキュリティアップデートやアドバイザリは提供されない。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "ただし実際には、各RELEASE版に対しNormal及びExtendedのどちらを選択するか、その時点でのRELEASE版のコード品質等を考慮して個別に定められることが多く、時には「古いRELEASEの方が新しいRELEASEよりも保証期間が長い」という逆転現象が起こることがある。例:8.1-RELEASEの保証期間が2012年7月末までなのに対し、8.2-RELEASEの保証期間は2012年2月末まで。過去には7.1-RELEASEと7.2-RELEASEの間でも同様の逆転現象が発生した。ただし8.2-RELEASEの保守終了予定日は8.1-RELEASE同様2012年7月末まで延長されている。このため、特にサーバ等で長期に運用する予定の機器では、保証期間の終了時期を踏まえたバージョン選択を行う必要がある。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "現在、セキュリティアップデートなどがサポートされている安定リリース版、及び開発ブランチは以下の通りである。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「1.0-RELEASE」は、4.3BSD Net/2を基にして1993年11月に開発された。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があるとして、1994年7月5日にリリースされた「1.1.5.1-RELEASE」を最後に4.3BSD Net/2を基にした開発を停止。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "「2.0-RELEASE」はUNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にして1994年11月22日に発表された。バージョン2の最終版の「2.2.8-RELEASE」は1998年11月29日に発表された。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "「2.0-RELEASE」は、AT&T由来のUNIXソースコードの著作権者ノベルの法的請求権から(将来に渡って)公的に解放された最初のFreeBSDのバージョンである。インターネットサーバ拡大期の始まりにおいて、広く使われた最初のバージョンでもある。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "「3.0-RELEASE」は1998年10月16日に発表された。バージョン3の最終版の「3.5-RELEASE」は2000年6月24日に発表された。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「3.0-RELEASE」はジャイアントロックを用いてSMPシステムをサポートできる最初のブランチである。「3.1-RELEASE」からはUSBをサポートし、「3.2-RELEASE」からギガビット・イーサネットカードをサポートした。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "「4.0-RELEASE」は2000年3月13日に発表された。2005年1月25日に出た最終版の「4.11-RELEASE」は2007年1月31日までサポートされていた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "バージョン4は、その安定性を賞賛され、最初のインターネット・バブルの時期にプロバイダとホスティングサーバから好まれたオペレーティングシステムであり、Unix系では最も安定した高いパフォーマンスのオペレーティングシステムの一つと広く見なされている。バージョン4の新機能では、「4.1-RELEASE」より、後にNetBSDやOpenBSDのシステムの一部となるkqueue(2)のシステムコールを導入した。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「5.0-RELEASE」は2003年1月14日にCURRENT(最新開発版)として発表された。バージョン5の最初の安定版のリリースは、2004年9月6日に発表された「5.3-RELEASE」である。「5.05-RELEASE」 - 「5.2.1-RELEASE」は「5-CURRENT」として一般ユーザの利用は勧められていなかった。バージョン5の最終安定版は2006年5月25日に出た「5.5-RELEASE」であった。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "バージョン5の最初のブランチとして登場した「5.0-RELEASE」は、先進的なマルチプロセッサとアプリケーションスレッディング、UltraSPARCとIA-64のプラットフォーム対応等のサポートといった注目度の高い機能を手広く先取りしていた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「6.0-RELEASE」は2005年11月4日にリリースされた。バージョン6の最終版の「6.4-RELEASE」は2008年11月11日にリリースされた。これらのバージョンは、SMPと先進的なIEEE 802.11の機能性の更なる開発の他に下記のようなものがある。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "その他、プリエンプティブカーネル(タスクの置き換え)とハードウェアパフォーマンス測定ドライバ (HWPMC) のサポート等が挙げられる。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "「7.0-RELEASE」は2008年2月27日にリリースされた。バージョン7の最終版の「7.4-RELEASE」は2011年2月24日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "新機能は下記の通り多彩に渡る。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "ベンチマークは、LinuxだけでなくFreeBSDの以前のバージョンに比べても著しい速度の向上を示している。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "「4.0-RELEASE」より対応していたDEC Alphaアーキテクチャへの対応は、「7.0-RELEASE」より中止となった。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "「8.0-RELEASE」は2009年11月25日にリリースされた。2009年8月にトランクからバージョン8はブランチした。バージョン8の最新版は「8.4-RELEASE」で2013年6月7日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "主な機能は、SuperPages対応、Xenの「ドメインU (domU)」への対応、ネットワークスタックの仮想化、スタックスマッシュプロテクション、新しいTTYレイヤへの置き換え、大幅に更新され、改善されたZFSへの対応、「8.2-RELEASE」で追加されたUSB3.0とそのホストコントローラの規格であるxHCIへの対応、IGMPv3を含むマルチキャストのアップデート、(「8.2-RELEASE」で追加された)インテルCPU対応のNFSv4とAESのアクセラレータを導入しているNFSのクライアント・サーバの書き換えである。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "改良されたデバイスのmmap()の拡張機能によって、x86-64プラットフォーム用の64ビットNVIDIAディスプレイドライバが実装可能となった。プラグイン対応の輻輳制御フレームワークと、Linuxのエミュレーション下で実行されるアプリケーションのシステム情報を取得するDTraceを使用可能とする機能は「8.3-RELEASE」で追加された。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "「9.0-RELEASE」は2012年1月12日にリリースされた。「9.1-RELEASE」は2012年12月31日にリリースされた。「9.2-RELEASE」は2013年9月30日にリリースされた。「9.3-RELEASE」は2014年7月16日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "リリースの主な機能は、新しいインストーラ bsdinstall(8) の追加、UFSのFFS (Fast Filesystem) がsoftupdatesジャーナリングに対応、ZFSがバージョン28に更新、ユーザレベルDTraceの導入、NFSサブシステムが、NFSv3およびNFSv2に加えてNFSv4に対応した新しい実装に更新、ファイル保護機能Capsicumをカーネルでサポート、FreeBSD/powerpcでPlayStation 3をサポートなどである。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "カーネルとベースシステムはClangを使用して構築することができるようになったが、「9.0-RELEASE」はまだデフォルトでGCC4.2を使用している。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "「10.0-RELEASE」は2014年1月20日にリリースされた。「10.1-RELEASE」は2014年11月14日にリリースされた。「10.2-RELEASE」は2015年8月13日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "VirtIO (準仮想化)ドライバがKVMに対応、FUSEの実装などである。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "「10.0-RELEASE」に実装されたBHyVe(BSDハイパーバイザ)は、まだ実験的なハイパーバイザであるが、仮想マシン内でゲストOSを稼働できる。仮想CPU数・ゲストメモリ・IOコネクティビティなどなどもコマンドラインパラメータで指定できる。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "「10.3-RELEASE」より、UEFIシステムにおけるroot-on-ZFSインストールに対応した。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "「11.0-RELEASE」は2016年10月10日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "FreeBSD 11は新しいサポートモデルの下で、少なくとも2021年9月30日までの5年間の長期サポートが行われるとしている。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "FreeBSD 11.0-RELEASEのリリースエンジニアリングの終盤でOpenSSLの脆弱性が公開されたため、FreeBSDリリースエンジニアリングチームはこれを修正した「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」を新しくビルドして公開した。今回のリリース対象はこのパッチレベル1が対象となっている。アップグレードする際に「FreeBSD 11.0-RELEASE」がインストールされている場合、早期に「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」以降へアップグレードすることが望まれるとしている。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "FreeBSD 11.1-RELEASEは予定通り2017年7月26日リリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "「12.0-RELEASE」は2018年12月11日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "安定版ブランチ単位で5年間のサポートを提供することについてビジネスモデルを再評価する必要が出てきたとして、2019年3月31日まで新しいサポートモデルに関して意見を募るとしている。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "「12.1-RELEASE」は2019年11月4日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "「12.2-RELEASE」は2020年10月27日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "「12.3-RELEASE」は2021年12月7日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "「12.4-RELEASE」は2022年12月5日にリリースされた。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "2021年4月13日、「13.0-RELEASE」がリリース。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "2022年5月12日、「13.1-RELEASE」がリリース。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "2023年4月11日、「13.2-RELEASE」がリリース。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "掲載しているのはRELEASEのアナウンスがされたバージョンのみ。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "※2006年4月1日には、エイプリルフールのネタとしてFreeBSD 2.2.9-RELEASEが発表されている。", "title": "OSのバージョン" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "FreeBSDでは、2023年現在、対応アーキテクチャを「Tier 1~4」までの4段階で管理している。", "title": "対応アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "最新のRELEASE版について、公式サイトにてインストールイメージが配布されているアーキテクチャ。いわゆる「フルサポートアーキテクチャ」であり、ドキュメントなどもまずはこの層に属するアーキテクチャ向けに整備される。", "title": "対応アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "開発・サポートプロジェクトが継続しているアーキテクチャ。公式サイトでインストールイメージも配布されているが、熟成度が低いとされて部分的なサポートのみとなっている。", "title": "対応アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "試験的に開発が行われているアーキテクチャ。開発状況によっては予告なくFreeBSDのソースツリーから外される可能性がある。", "title": "対応アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "完全にサポート外のアーキテクチャ。", "title": "対応アーキテクチャ" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "長年、FreeBSDのロゴはBeastieとも呼ばれる通常のBSDデーモンであった。しかしながら、Beastieは、FreeBSDに特有のものではなかった。最初に現れたのは1976年のベル研究所によるUNIXTシャツであり、最も人気のあるBSDデーモンのバージョンはアニメ監督のジョン・ラセターによって1984年に描かれ始めたものである。いくつかのFreeBSDに特有のバージョンは、細川達己によって後に描かれたものである。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "FreeSBIEプロジェクトは、FreeBSDベースのLive CD環境を提供している。", "title": "関連プロジェクト、関連ディストリビューション" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "TrueNAS(旧FreeNAS)プロジェクトは、FreeBSDベースの、Webベースでの操作を可能としたNASファイルサーバ用OS環境を提供している。", "title": "関連プロジェクト、関連ディストリビューション" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "XigmaNASプロジェクトは、FreeNASプロジェクトから分離したNASファイルサーバ用OS環境プロジェクトである。", "title": "関連プロジェクト、関連ディストリビューション" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "TrueOS(旧PC-BSD)プロジェクトは、FreeBSDをデスクトップ・サーバと両方に対応したディストリビューションを提供している。", "title": "関連プロジェクト、関連ディストリビューション" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "HardenedBSDは、セキュリティ対策を拡充するため2014年にフォークしたディストリビューション。", "title": "関連プロジェクト、関連ディストリビューション" } ]
FreeBSD(フリービーエスディー)は、フリーでオープンソースのUnix風のオペレーティングシステム (OS) である。Research UnixをベースにしたBerkeley Software Distributionに由来しており、最初のバージョンは1993年にリリースされた。2005年には、FreeBSDは最も人気のあるオープンソースのBSDオペレーティングシステムとなり、単純に寛容にライセンスされたBSDシステムのインストール数の4分の3以上を占めていた。 FreeBSDはLinuxと似ているが、 範囲とライセンスに2つの大きな違いがある。すなわち、Linuxはカーネルとデバイスドライバのみを提供し、システムソフトウェアをサードパーティーに頼っているのに対し、FreeBSDはカーネル 、 デバイスドライバ 、 ユーザーランドユーティリティ、およびドキュメントといった完全なシステムを維持している。FreeBSDのソースコードは通常、寛容なBSDライセンスでリリースされており、Linuxで使われているコピーレフトのGPLとは対照的である。 FreeBSDプロジェクトには、ベースディストリビューションに含まれるすべてのソフトウェアを監督するセキュリティチームが含まれている。広範囲のサードパーティー製アプリケーションを追加するには、 pkgパッケージ管理システムやFreeBSD Portsを使ったり、ソースコードをコンパイルしたりしてインストールすることができる。 系譜的にはUNIX本流ともいえるOSであり、過去にはHotmailなどのサーバとして利用されていた実績を有するが、現在では多くがLinuxに置き換えられている。現在の利用状況に関しては、デスクトップOSのシェアは0.01%以下で計測不能であり、サーバOSのシェアは0.2%程度と、泡沫ともいえる厳しい状況が続いている。一方でNetflix社のようにFreeBSDサーバを積極的に活用し、1台あたり400Gbpsという規模のコンテンツ配信を行っているところもある。
{{出典の明記|date=2020年12月}} {{Infobox OS |name = FreeBSD |logo = FreeBSD textlogo.svg |screenshot = FreeBSD 13.1-RELEASE uefi boot screen.png |caption = アイコンが表示されたFreeBSD 13.1の[[Unified Extensible Firmware Interface|UEFI]]版[[ブート#ブートローダ|ブートローダ]] |developer = The FreeBSD Project |family = [[Berkeley Software Distribution|BSD]] |source_model = [[オープンソース]] | frequently_updated = yes <!-- バージョンを更新するときはこのページを編集せず、番号部分をクリックしてその先のテンプレートで番号と日付を更新して下さい --> |latest_test_version = |latest_test_date = daily |kernel_type = [[モノリシックカーネル]]<br/>(モジュールも使用) |ui = |license = [[BSDライセンス]] |working_state = 開発中 |supported_platforms = [[x64]], [[x86-32]], [[ARM64]], [[ARMアーキテクチャ|ARM]], [[RISC-V]], [[PowerPC]], [[PC-9800シリーズ|PC-98]], [[SPARC|SPARC64]], [[DEC Alpha|Alpha]], [[IA-64]], [[MIPSアーキテクチャ|MIPS]], [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]], [[Wii]], [[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]], [[Nintendo Switch]] |updatemodel = |package_manager = pkg, ports |website = {{URL|https://www.freebsd.org/}} }} '''FreeBSD'''(フリービーエスディー)は、[[FLOSS|フリーでオープンソースの]][[Unix系]][[オペレーティングシステム]] (OS) である。[[Research Unix]]をベースにした[[Berkeley Software Distribution]]に由来しており、最初のバージョンは1993年にリリースされた。2005年には、FreeBSDは最も人気のある[[オープンソースソフトウェア|オープンソース]]のBSDオペレーティングシステムとなり、[[BSDライセンス|単純に寛容にライセンスされた]]BSDシステムのインストール数の4分の3以上を占めていた。 FreeBSDは[[Linux]]と似ているが、 範囲とライセンスに2つの大きな違いがある。すなわち、Linuxは[[カーネル]]と[[デバイスドライバ]]のみを提供し、システムソフトウェアを[[サードパーティー]]に頼っているのに対し、FreeBSDは[[カーネル]] 、 [[デバイスドライバ]] 、 [[ユーザー空間|ユーザーランド]]ユーティリティ、および[[ドキュメンテーション|ドキュメント]]といった完全なシステムを維持している。FreeBSDの[[ソースコード]]は通常、[[パーミッシブ・ライセンス|寛容な]][[BSDライセンス]]でリリースされており、Linuxで使われている[[コピーレフト]]の[[GNU General Public License|GPL]]とは対照的である。 FreeBSDプロジェクトには、ベースディストリビューションに含まれるすべてのソフトウェアを監督する[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]チームが含まれている。広範囲のサードパーティー製[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]を追加するには、 pkg[[パッケージ管理システム]]やFreeBSD Portsを使ったり、ソースコードを[[コンパイラ|コンパイル]]したりしてインストールすることができる。 系譜的にはUNIX本流ともいえるOSであり、過去には[[Hotmail]]などのサーバとして利用されていた実績を有するが、現在では多くがLinuxに置き換えられている。現在の利用状況に関しては、デスクトップOSのシェアは0.01%以下で計測不能であり<ref name="desktopOSshare">https://news.mynavi.jp/techplus/article/20200803-1197975/</ref>、サーバOSのシェアは0.2%程度と<ref name="serverOSshare">https://w3techs.com/technologies/details/os-bsd</ref>、泡沫ともいえる厳しい状況が続いている。一方で[[Netflix]]社のようにFreeBSDサーバを積極的に活用し<ref name="netflix-open-connect">{{Cite web|和書|title=Netflix Open Connect アプライアンス |url=https://openconnect.netflix.com/ja_jp/appliances/ |accessdate=2021-10-19}}</ref>、1台あたり400Gbpsという規模のコンテンツ配信を行っているところもある<ref name="netflix-400Gbps">{{cite web |title=Serving Netflix Video at 400Gb/s on FreBSD |first=Drew |last=Gallatin |url=https://people.freebsd.org/~gallatin/talks/euro2021.pdf |format=PDF |date=2021-09-19 |accessdate=2021-10-19}}</ref>。 == 特徴 == [[file:Daemon-phk.svg|thumb|right|かつてFreeBSDのロゴとして使用された「[[BSDデーモン]]」]] FreeBSDの開発者達は、Webサイトにて安定していて高速・高性能でなおかつ安全、先進的な機能や多くのセキュリティ機能を提供していると語っていた。[[FreeBSD jail]]等の機能もレンタルサーバ等に適したシステムであるといえる。[[Linux]]と異なり[[カーネル]]とユーザランドを含めて一つのOSであり、そしてOS側に[[GNU General Public License|GPL]]のものを含まないようにしていることも特徴の一つである。そして、堅牢性の高いBSDカーネルの設計が最大の特徴として認知されている。 ;OSとしての特性 :カーネルの高負荷耐性が高く、負荷が増大しても安定して動作する特徴がある。何千ものユーザーからの同時アクセスにもすばやく応答する<ref>[https://www.freebsd.org/about.html About FreeBSD]</ref>。 ;デスクトップ環境 :初期状態でツールが一通り揃っているLinuxと違い、ガイダンスに沿って普通にインストールした状態では最小の構成に留められており、CUIからしか操作を行えない。デスクトップ環境を揃えるには[[X Window System]]や[[Lumina]]のほか日本語[[フォント]]や[[日本語入力システム|日本語入力環境]]などソフトウェアのインストールと設定の作業は必須である。GUI経由の設定よりも手作業で設定ファイルを直接書き換えて設定する事が多く、若干UNIX熟練者向きであるとされる。しかし、サーバ向けとして見た場合には、このシンプルなOSの構成は安定性に大きく寄与していると言える。 ;最適化 :ソースコードからコンパイルし直すことで、OS全体を特定のCPUに対して最適化する事が可能で、最新のLinuxが動作しないパソコンでも最新版のFreeBSDを実用的な速度で動作させることが可能である。 ;旧世代ハードウェアのサポート :ISAバスの拡張カード等、旧世代ハードウェアのドライバが豊富に含まれており、最新機種のみならず、数世代以上前のコンピュータでも動作させることが可能である。ただし、性能面での制約はより厳しいものとなる ;グラフィックスデバイスのサポート :デスクトップ環境としてみた場合、2D限定あるいは3D機能の一部は[[X.Org Server]]のドライバが多くのビデオカードに対応しており、[[Lumina]]のほか[[Xfce]]、[[GNOME]]、[[KDE]]等のデスクトップ環境を使うことができる。フリーのドライバを使う限りでは多少の対応状況の違いはあるもののLinuxとほぼ同様の環境となる。[[NVIDIA]]のビデオカードであればメーカーのドライバがサポートされていて[[OpenGL]]で完全な3Dハードウェアアクセラレーションが動作する。 ;他のプラットフォームのエミュレーション :カーネルレベルでのLinuxバイナリ互換機能(カーネル2.6.16相当)や、アプリケーションレベルでは[[Wine]]による[[Microsoft Windows|Windows]]互換環境等を用いてネイティブでないソフトウェアも使うことができる。 == システム要件 == === 最小構成 === * [[X64|amd64]]互換プロセッサ<ref name="名前なし-1">{{Cite web|和書|title=2.2. 最小ハードウェア要件|url=https://www.freebsd.org/doc/ja_JP.eucJP/books/handbook/bsdinstall-hardware.html|website=www.freebsd.org|accessdate=2020-05-18}}</ref> * 96MBの[[Random Access Memory|RAM]]<ref name="名前なし-1" /> * 1.5GBの[[ハードディスクドライブ|ハードドライブ]]空き容量<ref name="名前なし-1" /> * [[ネットワークカード]]<ref name="名前なし-1" /> === 推奨される設定 === * [[Athlon 64|AMD Athlon 64]]、[[Opteron|AMD Opteron]]、マルチコアの[[Xeon|Intel Xeon]]および[[Intel Core 2]]以降のプロセッサ<ref name="名前なし-1"/> * [[rEFInd]]をインストールするための[[EFIシステムパーティション]] * デスクトップ環境をインストールする場合は2GB - 4GBのRAMが必要<ref name="名前なし-1" /> * デスクトップ環境をインストールする場合は8GBのハードドライブ空き容量が必要<ref name="名前なし-1" /> * 3Dアクセラレーション[[ビデオカード]] * [[ネットワークカード]]<ref name="名前なし-1" /> * [[サウンドカード]] == 歴史 == [[1991年]]、[[ウィリアム・ジョリッツ]]によって[[4.3BSD Net/2]]をベースとしたOS、'''[[386BSD]]'''が発表された。 しかし公開後の開発が停滞したため、386BSDのユーザらは「Unofficial 386BSD Patchkit」を製作し、バグの対応などを行っていた。その後386BSDは、ほぼ1年にわたって放っておかれ、やがてパッチキットの量は膨大になってしまった。 そこで、386BSDのユーザらは「386BSDの開発の手助けのため」、パッチキットを適用した状態の「クリーンナップ」スナップショットの製作プロジェクトを進めた。しかし、Jolitzがこのプロジェクトの受け入れを拒否したことにより、プロジェクトは路線変更を余儀なくされた。結局、パッチキットの最後の取りまとめ役であったNate Williams、Rod Grimes、[[ジョーダン・ハバード]]らは、自分達で新しいOSの開発を行う事を決意し、[[1993年]]にFreeBSDプロジェクトをスタートさせた。「FreeBSD」という名前はDavid Greenmanによって考案されたもので、386BSDの最初の単語 "Three" をもじって "Free" にした命名である。[[1993年]][[6月19日]]、ジョーダン・ハバード、Rod GrimesおよびDavid Greenmanは、FreeBSDの開発開始をアナウンスした。 FreeBSDは'''4.3BSD Net/2'''をベースに開発が行われ、[[1993年]]12月には最初のリリースであるFreeBSD 1.0が、そして、[[1994年]]5月にはFreeBSD 1.1がリリースされた。 1994年1月、当時[[UNIX]]のソースコードの権利をもっていた[[ノベル (企業)|ノベル]]と[[カリフォルニア大学バークレー校]]との[[Berkeley_Software_Distribution#Net/2と訴訟問題|長期に渡った訴訟]]の和解が成立し、4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があることが正式に認められた。そのため、FreeBSDはそのまま開発を続けることが不可能となり、1994年7月にリリースされたFreeBSD 1.1.5.1を最後に4.3BSD Net/2をベースにした開発を停止した。 FreeBSDプロジェクトは、UNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された[[4.4BSD-Lite]]を基にしてFreeBSDの開発を再開した。再開後の最初のリリースであるFreeBSD 2.0は[[1994年]][[11月]]に発表され、その後、FreeBSDは順調に発展を続けている。 [[X Window System]]については、当初[[XFree86]]を標準として採用していたが、FreeBSD 5.3からは[[X.Org]]を標準とするように移行した。 == パッケージ管理 == FreeBSDの[[パッケージ管理システム]]は、ビルド済みパッケージをインストールするpackage, pkg(8)とソースをビルドするスタイルのportsがある。OS以外でpackageのインストールしたものは原則として「/usr/local」以下と「/var/db/pkg」以下に入る。つまりOS部分とほぼ分離されているので明示的な管理やバックアップもしやすいが 基本的にライブラリを共用する発想で構成されているのでWindows等でアプリごとにライブラリを用意することに慣れている人には使い辛いと感じることもある。7系から8系等、メジャーバージョンアップの際には使用ライブラリの互換性がなくなるが一部(usbを使うものなど)を除いて「compat7x」を入れることにより動作する。 === package === packageはビルド済みのバイナリをシステムにインストールする仕組みでportsからインストールされたものも含めてバージョンやファイル構成が記録される。 サーバは本家の他日本など各地にある。自分でもpackageを作る事が出来るので複数台同一環境のPCを管理している場合にも使うことができる。 単独のpackageの個別インストールもできるが、「pkg_add -r」コマンドで上位にあるpackageを指定することにより依存packageもインストールされる。しかしpackageとPCの[[Perl]]等依存ツールやライブラリのバージョンが異なる場合、手動で修正が必要である等の問題があったり、RELEASE版では最新のpackageを取得するために環境変数「PACKAGESITE」を指定しなくてはいけない他、Web上の情報では「FreeBSDはビルドするのが当たり前」という風潮がかつては多かったため新規インストール以外にはあまり使われないように見受けられる。基本的にはports更新後一週間後程度にはstable版に最新のpackageがアップロードされているようだ。packageのバージョンアップ用のサポートツールとしてpkg_replace等がある。 === ports === portsは半自動的にソースコードからpackageのビルド及びインストールを行う方法である。特殊なパッチを当てる当てないの選択肢ダイアログ等が表示される場合もあるが、基本的にはソースコードのダウンロードからコンパイル、package生成、packageインストールまでの一連の流れを自動的に行うことができる。 ただ、実際にはシェルスクリプトだけのものやフォント、NVIDIA等メーカー品バイナリやJava等ビルド不要のものも多い。packageに比べると作業領域を明示的に指定できる長所がある。 基本的には「/usr/ports」に置かれる。portsの最新情報への更新は「portsnap」というコマンドを用いる事で最小限の更新だけで済ませられる(あるいは同portsツリーにあるdevel/git<ref>https://www.freshports.org/devel/git</ref>ないしnet/gitup<ref>https://www.freshports.org/net/gitup</ref>を用いてportsツリーを更新することも可能)。portsに登録されているソフトウェアが新バージョンへ更新した時に一時的にビルドできなくなるなどの問題が発生することもあるので、Perl等の重要なportsの更新時には1週間程度様子を見る必要がある。 portsに登録されているソフトウェアは2022年1月14日の時点で46,811種<ref>https://www.freshports.org/categories.php 右下のStatistics</ref>が登録されており日々増加している。そのメンテナンス状況はメンテナと呼ばれる管理者の能力や意欲に左右される面がある。そのため、常時メンテナンスされて高い品質を維持しているportsも多いが、逆にソースファイルのサイトが閉じていたり、ビルドできなかったりあるいは古いバージョンのまま放置されていたりするものがあるという問題点も指摘されている。 日本人メンテナの活動により、日本語環境に関するportsは他言語に比べ比較的良く整備されており、特に日本語版[[LaTeX]]は完全な環境が容易かつ安定してインストールできることは特徴的である。 無駄なportsを増やさないために「/etc/portsnap.conf」で使わないカテゴリを指定できるがあくまでディレクトリ単位でのカテゴリ指定しかできない。安直にメタポートと呼ばれるものをビルドしようとすると依存するものを全てビルドしてしまうのでファイル構成を把握したらベーシックなライブラリから更新するとストレージ使用効率が良い。 portsからインストールしたものは、たとえpackage生成を行わないように指定したとしても、packageからインストールしたものと同等に扱われる。サポートツールとしてpkg_replaceの他portmasterとruby依存のportupgrade等が使われる。pkg_addに起因するportの依存記述には問題がありしばしインストールの妨げになることがある。 === pkg === pkg(8)は、FreeBSD用の次世代のパッケージ管理システム pkgng として開発されてきたものである。従来のバイナリベースパッケージ管理システムである package よりも、手軽なバイナリアップデート、リモートパッケージ検索、依存関係の管理等の機能が強化されている。pkgは、これまでのものとはパッケージのデータベースの管理方法が異なるため現時点ではFreeBSD 9.x までのバージョンでは、pkg(8)の使用がデフォルト設定にはなっておらず、手動で pkg 管理システムに移行しなければならない。FreeBSD 10.0Rからデフォルトのパッケージ管理システムとして採用されている。 == OSのバージョン == FreeBSDでは安定版である'''FreeBSD-RELEASE'''の他'''FreeBSD-CURRENT'''と'''FreeBSD-STABLE'''の2つの開発ブランチが存在する。 CURRENTはまさに最新のFreeBSDのバージョンの開発ブランチで、作業進行中のソースがならび、開発途上のソフトウェアや過渡的な機能などが含まれている。しかし、これがリリース版に採用されるとは限らない。 STABLEは主に開発が終わったCURRENT開発ブランチに対して、分枝されてリリース版(安定版)を作成する開発ブランチである。こちらに移ってからは全ての修正はこの開発ブランチで行われる。1つのバージョン系列の開発が終わるとこのブランチからも外れ、以後一定期間は必要に応じてセキュリティアップデート等の修正が行われる。修正はパッチをあてることで行われ、'''8.1-RELEASE-p2'''などと最後尾に修正が行われた回数(pはpatch levelのこと)が示される。 いったんSTABLEとして扱われると、1つ上の開発バージョンがCURRENTとして扱われることになる。例外として、FreeBSD 5系では多くの改善や機能追加が行われたために、5.0 - 5.2の間はリリース版が出ているのにもかかわらずSTABLEとして扱われない状態が続いていたが、6.0がリリースされてからは元の体制に戻った。 === バージョン管理 === FreeBSDのRELEASE版及びSTABLE版、CURRENT版は、[[Git]]<ref>https://git-scm.com/</ref>を使ってソースコードレベルでOSのバージョン管理を行う。 ソースコードの管理は、当初は[[Concurrent Versions System]]が採用され、更新にはかつては「csup」というコマンドが用いられたが(csupは[[CVSup]]の主要な機能を[[C言語]]で再実装したものである。これは、CVSupがプログラム言語として一般的でない[[Modula-3]]で実装されており、これが理由でcsupはベースシステムに含まれるがCVSupはportsから導入する)、cvsupによる配布は2013年2月一杯で終了した。以降2020年12月までは[[Apache Subversion]]が用いられていたが、現在<ref>2022年1月15日時点</ref>ではGitへ移行している<ref>https://www.freebsd.org/ja/developers/cvs/</ref>。 <code>/usr/src</code>以下に展開されたソースコードをmakeすることにより、メジャーバージョンの更新も含めてOS全体のバージョンアップができる。 バイナリで配布されたRELEASE版に対しては「freebsd-update」というコマンドが用いられ定期的なセキュリティパッチ等のバージョンアップができる。GENERICカーネルであればカーネルのアップデートも可能である。通常はセキュリティパッチが入るとカーネルの名称に「p2」等とバージョンがつくがカーネル以外だけの更新の場合カーネル名称は変わらない。 === セキュリティ対応と保証期間 === FreeBSDのSTABLE版及びRELEASE版については、リリース後一定期間、セキュリティに関する問題が発生した場合に必要なアドバイザリ及びアップデートがリリースされる保証期間が設けられる。保証期間については以下の3つの区分が存在する<ref>[http://security.freebsd.org/#sup Supported FreeBSD Releases] - FreeBSD Security Information</ref>。CURRENT版は開発版の扱いのため、セキュリティアップデートやアドバイザリは提供されない。 ;Early Adopter :CURRENT版から分岐した最初のRELEASE版に適用されるもの。ただし2012年現在適用例はない。保証期間はリリース後6ヶ月。 ;Normal :通常のRELEASE版でSTABLE版から分岐したものに適用されるもの。保証期間はリリース後1年。 ;Extended :原則として、メジャーバージョンに対して2番目以降のRELEASE版及びそれに対応するSTABLE版に適用されるもの。保証期間はリリース後2年。 ただし実際には、各RELEASE版に対しNormal及びExtendedのどちらを選択するか、その時点でのRELEASE版のコード品質等を考慮して個別に定められることが多く、時には「古いRELEASEの方が新しいRELEASEよりも保証期間が長い」という逆転現象が起こることがある。例:8.1-RELEASEの保証期間が2012年7月末までなのに対し、8.2-RELEASEの保証期間は2012年2月末まで。過去には7.1-RELEASEと7.2-RELEASEの間でも同様の逆転現象が発生した。ただし8.2-RELEASEの保守終了予定日は8.1-RELEASE同様2012年7月末まで延長されている。このため、特にサーバ等で長期に運用する予定の機器では、保証期間の終了時期を踏まえたバージョン選択を行う必要がある。 === 最新のバージョン === 現在、セキュリティアップデートなどがサポートされている安定リリース版、及び開発ブランチは以下の通りである。 * '''RELEASE'''(リリース版): ** '''FreeBSD 13.2-RELEASE'''([[2023年]]4月11日)<ref>https://www.freebsd.org/releases/13.2R/announce/ FreeBSD 13.2-RELEASE Announcement</ref> ** '''FreeBSD 12.4-RELEASE'''([[2022年]]12月5日)<ref>https://www.freebsd.org/releases/12.4R/announce/ FreeBSD 12.4-RELEASE Announcement</ref> * STABLE(安定開発版):FreeBSD 13-STABLE * CURRENT(最新開発版):N/A === バージョンごとの特徴 === ====FreeBSD 1==== 「1.0-RELEASE」は、4.3BSD Net/2を基にして1993年11月に開発された。 4.3BSD Net/2にUNIXのライセンスに抵触する部分があるとして、1994年7月5日にリリースされた「1.1.5.1-RELEASE」を最後に4.3BSD Net/2を基にした開発を停止。 ====FreeBSD 2==== 「2.0-RELEASE」はUNIXのライセンスに抵触していないことが公式に宣言された4.4BSD-Liteを基にして1994年11月22日に発表された。バージョン2の最終版の「2.2.8-RELEASE」は1998年11月29日に発表された。 「2.0-RELEASE」は、AT&T由来のUNIXソースコードの著作権者ノベルの法的請求権から(将来に渡って)公的に解放された最初のFreeBSDのバージョンである<ref>[[Berkeley Software Distribution#4.4BSDと派生]]</ref>。インターネットサーバ拡大期の始まりにおいて、広く使われた最初のバージョンでもある。 ====FreeBSD 3==== 「3.0-RELEASE」は1998年10月16日に発表された。バージョン3の最終版の「3.5-RELEASE」は2000年6月24日に発表された。 「3.0-RELEASE」は'''[[ジャイアントロック]]'''を用いて[[対称型マルチプロセッシング|SMP]]システムをサポートできる最初のブランチである。「3.1-RELEASE」からは'''[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]'''をサポートし、「3.2-RELEASE」から'''[[ギガビット・イーサネット]][[ネットワークカード|カード]]'''をサポートした。 ====FreeBSD 4==== 「4.0-RELEASE」は2000年3月13日に発表された。2005年1月25日に出た最終版の「4.11-RELEASE」は2007年1月31日までサポートされていた<ref>{{cite web|url=http://lists.FreeBSD.org/pipermail/freebsd-security/2006-October/004111.html |title=FreeBSD 4.x EoL announcement |publisher=lists.FreeBSD.org |date= |accessdate=2012-12-29}}</ref>。 バージョン4は、その安定性を賞賛され、最初の[[インターネット・バブル]]の時期に[[インターネットサービスプロバイダ|プロバイダ]]と[[ホスティングサーバ]]から好まれたオペレーティングシステムであり、[[Unix系]]では最も安定した高いパフォーマンスのオペレーティングシステムの一つと広く見なされている<ref>[[:en:FreeBSD#Version history|英語版:「FreeBSD」]]の記事の記述より</ref>。バージョン4の新機能では、「4.1-RELEASE」より、後に[[NetBSD]]や[[OpenBSD]]のシステムの一部となる'''kqueue(2)'''のシステムコールを導入した<ref>[http://x68000.q-e-d.net/~68user/net/c-kqueue-1.html *BSD で kqueue・kevent を使ってみよう - X68000.qed.net]</ref>。 ====FreeBSD 5==== 「5.0-RELEASE」は2003年1月14日にCURRENT(最新開発版)として発表された。バージョン5の最初の安定版のリリースは、2004年9月6日に発表された「5.3-RELEASE」である。「5.05-RELEASE」 - 「5.2.1-RELEASE」は「5-CURRENT」として一般ユーザの利用は勧められていなかった<ref>[http://slashdot.jp/story/04/11/07/1110203/FreeBSD-5.3-RELEASE-%E5%85%AC%E9%96%8B FreeBSD 5.3-RELEASE 公開 | スラッシュドット・ジャパン]</ref>。バージョン5の最終安定版は2006年5月25日に出た「5.5-RELEASE」であった。 バージョン5の最初のブランチとして登場した「5.0-RELEASE」は、先進的な[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]]と[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]][[スレッド (コンピュータ)|スレッディング]]、'''[[UltraSPARC T1|UltraSPARC]]と[[IA-64]]のプラットフォーム対応'''等のサポートといった注目度の高い機能を手広く先取りしていた。 ;カーネルロック機構の変更 :バージョン5の最大の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]に関する開発は、[[対称型マルチプロセッシング|SMP]]を改善させる為に低レベルのカーネル[[ロック (情報工学)#スレッドにおけるロック|ロック]]機構を大きく変更させた点であった。これによって、[[ジャイアントロック]]からカーネルの大部分のリソースが開放された。複数のプロセスを同時にカーネルモードで実行できるようになった。 ;KSE :'''KSE'''(カーネルスケジュールエンティティ、''"Kernel Scheduled Entities"'')は、1 個のプロセスが複数のカーネルレベルスレッドを持てるようにするための機構である<ref>[http://www.freebsd.org/ja/releases/5.0R/early-adopter.html FreeBSD 5.0-RELEASE 初期利用者のための手引き]</ref>。原理的にKSEと同様に"M:N" モデルを用いる、[[NetBSD]]に実装された[[Scheduler activations]]に似ている。KSEは「5.3-RELEASE」から安定版の実装が始まり、「7.0-RELEASE」で1個のカーネルスレッドを1個のユーザーランドスレッドが占有して利用する1:1スレッドの実装に置き換えられるまでFreeBSDのデフォルトのスレッド機構だった。 ;GEOM :Poul-Henning Kampの貢献によって作られた、ディスク[[入出力#オペレーティングシステムでの入出力|I/O]]要求を変換する[[モジュール#ソフトウェア|モジュール型]]フレームワークである[[GEOM]] を実装することで、I/O層の[[ブロック (データ)|ブロック]](記録単位)<ref name="GEOM_UFS_ZFS">{{Cite web|和書|url=http://people.allbsd.org/~hrs/FreeBSD/sato-FBSD20120720.pdf |title=ストレージの管理: GEOM, UFS, ZFS - allbsd.org|accessdate=3 March 2014 }}</ref>をかなり変更できる。GEOMは、[[ミラーリング]] (gmirror) <ref>[http://www.is.akita-u.ac.jp/pukiwiki/?FreeBSD%2FGEOM FreeBSD/GEOM - 情報科学研究室 - 秋田大学]</ref>と[[暗号|暗号化]] (GBDEとGELI) <ref>[http://www.freebsd.org/doc/ja/books/handbook/disks-encrypting.html 16.13. ディスクパーティションの暗号化]</ref>などの機能の多くを簡単に作成可能とする。このGEOMの開発は[[国防高等研究計画局|DARPA]]による支援を受けて作成されている。 ====FreeBSD 6==== 「6.0-RELEASE」は2005年11月4日にリリースされた。バージョン6の最終版の「6.4-RELEASE」は2008年11月11日にリリースされた。これらのバージョンは、SMPと先進的な[[IEEE 802.11]]の機能性の更なる開発の他に下記のようなものがある。 ;スレッド最適化 :'''[[仮想ファイルシステム|VFS]]'''の'''マルチプロセッサセーフ (MPSAFE)''' が有効となり、ジャイアントロックが最小限まで減らされた<ref>[http://news.mynavi.jp/articles/2005/11/07/freebsd/index.html システム旅譚 - FreeBSD 6.0-RELEASEの新機能と変更点を見る]</ref>。 ;著しいネットワーク[[スタック]]のパフォーマンス強化 :libthrライブラリのlibc_rのデフォルトスタックサイズ が増やされ、パフォーマンス性を高めた。32ビットプラットフォームでは、メインスレッドはデフォルトで2MBのスタックを受け取り他のスレッドではデフォルトで1MBのスタックを受け取る(64ビットプラットフォームでのデフォルトスタックサイズ は、それぞれ4MBと2MBとなる)。 ;OpenBSM :TrustedBSD<ref>[http://www.lavender.org/~mouri/pukiwiki/index.php?TrustedBSD TrustedBSD - Lavender PukiWiki]</ref>プロジェクトによって作成され[[BSDライセンス]]の下でリリースされたセキュリティイベントの監査用の'''OpenBSM'''<ref>[http://www.trustedbsd.org/openbsm.html OpenBSM: Open Source Basic Security Module (BSM) Audit Implementation]</ref>と呼ばれる基本セキュリティモジュール (BSM) 監査<ref>[http://docs.oracle.com/cd/E19227-01/821-0424/enablingusingbsmauditing/index.html Next: BSM 監査の有効化と使用 - Oracle Documentation]OracleによるSolaris OSでのBSM監査の説明でFreeBSDではないが、用語の解説はちゃんとされています。</ref>の実装をした。これは[[Apple]]の[[オープンソースソフトウェア|オープンソース]]の[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]に見出したBSM実装に基づいたものである。 その他、[[プリエンプション#ユーザーモードとカーネルモード|プリエンプティブカーネル]](タスクの置き換え)とハードウェアパフォーマンス測定ドライバ (HWPMC) <ref>[http://www.gulf.or.jp/~too/freebsd/6.0/relnotes-60j.html FreeBSD/pc98 6.0-RELEASE リリースノート]</ref>のサポート等が挙げられる。 ====FreeBSD 7==== 「7.0-RELEASE」は2008年2月27日にリリースされた。バージョン7の最終版の「7.4-RELEASE」は2011年2月24日にリリースされた。 新機能は下記の通り多彩に渡る。 * [[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]] * [[Unix File System|UFS]]の[[ジャーナリングファイルシステム|ジャーナリング]] * [[サン・マイクロシステムズ]]の'''[[ZFS]]'''[[ファイルシステム]]の実験的な移植 * [[ARMアーキテクチャ]]への改良されたサポート * jemalloc、[[Mozilla Firefox|Firefox3]]に移植された[[並列計算]]<ref>{{cite web |title=A Scalable Concurrent malloc(3) Implementation for FreeBSD |first=Jason |last=Evans |url=http://people.FreeBSD.org/~jasone/jemalloc/bsdcan2006/jemalloc.pdf |format=PDF |date=16 April 2006 |accessdate=2008-02-13}}</ref>に最適化された[[malloc]]<ref>[http://www.mew.org/~kazu/material/2008-malloc.pdf jemallocとかLD_PRELOADについて調べてみた - As a Futurist...]</ref> * ネットワーク関連やオーディオの最適化や[[対称型マルチプロセッシング|SMP]]のパフォーマンス改善<ref>{{cite web|url=http://www.onlamp.com/pub/a/bsd/2008/02/26/whats-new-in-freebsd-70.html?page=1|title=What's New in FreeBSD 7.0|first=Federico|last=Biancuzzi|date=26 February 2008|accessdate=2008-02-26|publisher=onlamp.com}}</ref> * [[GNUコンパイラコレクション|GCC]]4.2.1、X.Org 7.3、KDE 3.5.8、GNOME2.20.2、BIND9.4.2。 ベンチマークは、[[Linux]]だけでなくFreeBSDの以前のバージョンに比べても著しい速度の向上を示している<ref>{{cite web|url=http://people.FreeBSD.org/~kris/scaling/7.0%20Preview.pdf|title=Introducing FreeBSD 7.0|publisher=FreeBSD.org|accessdate=2009-01-31}}</ref>。 ;ULEスケジューラ :「5.1-RELEASE」から実験的に実装されてきた'''ULEスケジューラ'''は、「7.0-RELEASE」の新版でカーネルの構築時にスケジューラを調整できるようになるなど大きく改良されていたが、依然「4BSDスケジューラ」と呼ばれる従来のスケジューラが標準で実装されていた<ref name="ULE_scheduler ">{{Cite web|和書|url=http://news.mynavi.jp/articles/2005/01/01/ule/ |title=カーネル旅譚 - FreeBSDの新スケジューラ「ULE」|publisher=mynavi.jp|accessdate=2014-03-03}}</ref>。「7.1-RELEASE」では、AMD64/i386版で、標準でULEスケジューラが採用された<ref name="freebsd7.1_DTrace">{{Cite web|和書|url=http://www.atmarkit.co.jp/news/200901/05/freebsd.html/ |title=DTraceもサポート、FreeBSD 7.1が公開 - @IT|publisher=atmarkit.co.jp|accessdate=2014-03-03}}</ref>。 ;システム情報取得機能「DTrace」 :「7.1-RELEASE」より'''[[DTrace]]'''が実装されてシステムのダイナミックな監視やトラブルシューティングが可能になった<ref name="freebsd7.1_DTrace" />。「プローブ (probe)」と呼ばれるデータ観測ポイントに、dtraceコマンドを含む「DTraceコンシューマ」という情報所得するプログラムを使って情報を取得する。dtraceコマンドは「D」と呼ばれる[[C言語]]に似たスクリプト言語で記述することによって実行ができる。これにより、プローブからのデータを取り出したり集計することができる<ref name="DTrace_Solaris ">{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0504/22/news030.html |title=カーネル挙動を追尾する「DTrace」の実力|publisher=itmedia.co.jp|accessdate=2014-03-05}}</ref>。 ;jailによる仮想環境構築 :「7.2-RELEASE」では、'''[[FreeBSD jail|jail]]'''というOSレベルでの[[仮想化]]機構が実装された。1つのJail仮想環境に対して複数のIPv4/v6アドレスを割り当てたり、IPアドレスを割り当てないで運用したりすることが可能になった<ref name="freebsd7.2_jail">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20090508-freebsd72/ |title=FreeBSD 7.2の新機能 - Superpage、マルチIP対応Jail仮想環境、ほか|publisher=mynavi.jp|accessdate=2014-03-03}}</ref>。 「4.0-RELEASE」より対応していた[[DEC Alpha]]アーキテクチャへの対応は、「7.0-RELEASE」より中止となった<ref name=alpha-7.0>{{cite web|url=http://www.FreeBSD.org/releases/7.0R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.0-RELEASE Release Notes|publisher=FreeBSD.org|accessdate=2009-05-03}}</ref>。 ====FreeBSD 8==== 「8.0-RELEASE」は2009年11月25日にリリースされた<ref name="8release">{{cite web|url=http://www.FreeBSD.org/releases/8.0R/pressrelease.html/ |title=FreeBSD Project Announces Release of FreeBSD Version 8.0|publisher=The FreeBSD Project|date=25 November 2009|accessdate=2009-11-27}}</ref>。2009年8月にトランクからバージョン8は[[ブランチ (ソフトウェア)|ブランチ]]した。バージョン8の最新版は「8.4-RELEASE」で2013年6月7日にリリースされた<ref name="84release">{{cite web|url=http://www.FreeBSD.org/releases/8.4R/announce.html/ |title=FreeBSD 8.4-RELEASE Announcement|publisher=The FreeBSD Project|date=7 June 2013|accessdate=2013-06-07}}</ref>。 主な機能は、SuperPages対応、'''[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]]'''の「ドメインU (domU)」への対応、ネットワークスタックの仮想化、スタックスマッシュプロテクション、新しいTTYレイヤへの置き換え、大幅に更新され、改善されたZFSへの対応、「8.2-RELEASE」で追加された'''USB3.0'''とそのホストコントローラの規格である[[ユニバーサル・シリアル・バス#ホストコントローラの種類|xHCI]]への対応、[[Internet Group Management Protocol|IGMP]]v3を含む[[マルチキャスト]]のアップデート、(「8.2-RELEASE」で追加された)[[インテル]][[CPU]]対応の[[Network File System#NFS version 4|NFSv4]]と[[AES-NI|AES]]の[[ハードウェアアクセラレーション|アクセラレータ]]を導入している[[Network File System|NFS]]の[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバ]]の書き換えである。 改良されたデバイスのmmap()の拡張機能によって、x86-64プラットフォーム用の64ビット[[NVIDIA]]ディスプレイドライバが実装可能となった。プラグイン対応の[[輻輳制御]]フレームワークと、Linuxの[[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレーション]]下で実行されるアプリケーションのシステム情報を取得するDTraceを使用可能とする機能は「8.3-RELEASE」で追加された。 ====FreeBSD 9==== 「9.0-RELEASE」は2012年1月12日にリリースされた<ref name="9release">{{Cite web|和書|url=http://www.freebsd.org/ja/releases/9.0R/announce.html|title=FreeBSD 9.0-RELEASE アナウンス|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2014-03-04}}</ref>。「9.1-RELEASE」は2012年12月31日にリリースされた<ref>http://www.freebsd.org/releases/9.1R/schedule.html</ref>。「9.2-RELEASE」は2013年9月30日にリリースされた<ref>http://www.freebsd.org/releases/9.2R/schedule.html</ref>。「9.3-RELEASE」は2014年7月16日にリリースされた<ref>http://www.freebsd.org/releases/9.3R/schedule.html</ref>。 リリースの主な機能は、新しいインストーラ bsdinstall(8) の追加、[[Unix File System|UFS]]のFFS (Fast Filesystem) がsoftupdatesジャーナリングに対応、ZFSがバージョン28に更新、ユーザレベルDTraceの導入、NFSサブシステムが、NFSv3およびNFSv2に加えてNFSv4に対応した新しい実装に更新、ファイル保護機能Capsicumをカーネルでサポート<ref>[http://opensource.slashdot.jp/story/12/01/13/0157258/FreeBSD-9.0-RELEASE-%E7%99%BB%E5%A0%B4 FreeBSD 9.0-RELEASE 登場 | スラッシュドット・ジャパン オープンソース]</ref>、FreeBSD/powerpcで[[PlayStation 3]]をサポートなどである。 カーネルとベースシステムは'''[[Clang]]'''を使用して構築することができるようになったが、「9.0-RELEASE」はまだデフォルトで[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]4.2を使用している。 ;Orbis OS :'''[[PlayStation 4]]'''の[[ゲーム機]]用OSとして、「9.0-RELEASE」から[[ソニー・コンピュータエンタテインメント|SCE]]が[[フォーク (ソフトウェア開発)|フォーク]]した「'''Orbis OS'''」と呼ばれるFreeBSD派生OSが使用されている<ref name="PS4_Orbis_OS">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20130625-a037/ |title=Playstation 4のOSはFreeBSD 9.0ベース|publisher=mynavi.jp|accessdate=2014-03-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20131122-a306/ |title=PlayStation 4はFreeBSDカーネルで動作|publisher=[[マイナビニュース]] |accessdate=2014-03-04 |author=後藤大地}}</ref>。 ====FreeBSD 10==== 「10.0-RELEASE」は2014年1月20日にリリースされた<ref name="10.0R">{{cite web |url=http://lists.freebsd.org/pipermail/freebsd-announce/2014-January/001532.html |title=FreeBSD 10.0-RELEASE now available|last=Barber |first=Glen |date=20 January 2014 |work= |publisher=FreeBSD mailing list |accessdate=8 February 2014}}</ref>。「10.1-RELEASE」は2014年11月14日にリリースされた<ref name="10.1R">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/10.1R/schedule.html |title=FreeBSD 10.1 Release Process|date=26 November 2014 |work= |publisher=The FreeBSD Project |accessdate=31 August 2015}}</ref>。「10.2-RELEASE」は2015年8月13日にリリースされた<ref name="10.2R">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/10.2R/announce.html |title=FreeBSD 10.2-RELEASE Announcement|date=13 August 2015 |work= |publisher=The FreeBSD Project |accessdate=31 August 2015}}</ref>。 * 非推奨が含まれるGCCをClangに置き換えている。 * BINDをベースシステムから削除している。 * デフォルトパッケージ管理ユーティリティとしてpkg(7)を採用している。 * [[iSCSI]]規格の実装 '''VirtIO''' (準仮想化)ドライバが'''[[Kernel-based Virtual Machine|KVM]]'''に対応、'''[[Filesystem in Userspace|FUSE]]'''の実装などである<ref name="whatsnew10">{{cite web|url=https://wiki.freebsd.org/WhatsNew/FreeBSD10|title=What's new for FreeBSD 10|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2013-09-19}}</ref>。 「10.0-RELEASE」に実装された'''[[bhyve|BHyVe]]'''(BSDハイパーバイザ)は、まだ実験的なハイパーバイザであるが、仮想マシン内でゲストOSを稼働できる。仮想CPU数・ゲストメモリ・IOコネクティビティなどなどもコマンドラインパラメータで指定できる<ref>{{Cite web|和書|url=http://internetcom.jp/webtech/20140123/1.html |title=FreeBSD 10 リリース ― 新たなハイパーバイザ「BHyVe」と「ZFS」ファイルシステム |publisher=インターネットコム |accessdate=2015-10-10 |author=Sean Michael Kerner}}</ref>。 「10.3-RELEASE」より、UEFIシステムにおけるroot-on-ZFSインストールに対応した<ref name="UEFI_ZFS_install">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20160404-a141/ |title=FreeBSD 10.3-RELEASE登場 |publisher=[[マイナビニュース]] |date=2016-04-01|accessdate=2016-04-21 |author=後藤大地}}</ref>。 ====FreeBSD 11==== 「11.0-RELEASE」は2016年10月10日にリリースされた<ref name="11.0_Release_News">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/ja/news/newsflash.html#event20161010:01 |title=FreeBSD News Flash |date=10 October 2016 |work= |publisher=The FreeBSD Project |accessdate=11 October 2016}}</ref>。 FreeBSD 11は新しいサポートモデルの下で、少なくとも2021年9月30日までの5年間の長期サポートが行われるとしている<ref name="11.0R">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20161011-a206/ |title=FreeBSD 11.0-RELEASE登場、新サポートモデルで5年間サポート |author=後藤大地| date=2016/10/11 |work= |publisher=[[マイナビニュース]] |accessdate=2016/10/11}}</ref>。 FreeBSD 11.0-RELEASEのリリースエンジニアリングの終盤でOpenSSLの脆弱性が公開されたため、FreeBSDリリースエンジニアリングチームはこれを修正した「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」を新しくビルドして公開した。今回のリリース対象はこのパッチレベル1が対象となっている。アップグレードする際に「FreeBSD 11.0-RELEASE」がインストールされている場合、早期に「FreeBSD 11.0-RELEASE-p1」以降へアップグレードすることが望まれるとしている。 FreeBSD 11.1-RELEASEは予定通り2017年7月26日リリースされた。 : 更新内容と一部としては : Clang, LLVM, LLD, LLDB, libc++ がバージョン 4.0.0. へ更新された。 : Elf Tool Chain, ACPICA, libarchive(3), ntpd(8), unbound(8), などのサードパーティー・ソフトウェアが更新された。 : blacklistd(8) が [[OpenSSH]]に追加された。 ====FreeBSD 12==== 「12.0-RELEASE」は2018年12月11日にリリースされた<ref name="12.0_Release_News">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/12.0R/announce.html |title=FreeBSD 12.0-RELEASE Announcement |date=11 December 2018 |work= |publisher=The FreeBSD Project |accessdate=13 December 2016}}</ref>。 安定版ブランチ単位で5年間のサポートを提供することについてビジネスモデルを再評価する必要が出てきたとして、2019年3月31日まで新しいサポートモデルに関して意見を募るとしている<ref name="12.0R">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20181213-739666/ |title=FreeBSD 12.0登場、Jail内仮想化機能サポート |author=後藤大地| date=2018/12/13 |work= |publisher=[[マイナビニュース]] |accessdate=2018/12/13}}</ref>。 「12.1-RELEASE」は2019年11月4日にリリースされた<ref>https://mag.osdn.jp/19/11/05/173000</ref>。 「12.2-RELEASE」は2020年10月27日にリリースされた<ref>https://begi.net/news/archives/13659.html 「FreeBSD 12.2-RELEASE」リリース </ref>。 「12.3-RELEASE」は2021年12月7日にリリースされた<ref>http://uyota.asablo.jp/blog/2021/12/08/9446406 FreeBSD 12.3-RELEASE が公開: uyota 匠の一手</ref>。 「12.4-RELEASE」は2022年12月5日にリリースされた<ref>https://begi.net/news/archives/15965.html 「FreeBSD 12.4-RELEASE」正式リリース</ref>。 ====FreeBSD 13==== 2021年4月13日、「13.0-RELEASE」がリリース<ref name="13.0-RELEASE">{{Cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/13.0R/announce/ |title=FreeBSD 13.0-RELEASE Announcement |website=The FreeBSD Project |date=2021-04-13 |access-date=2021-04-16 }}</ref>。 2022年5月12日、「13.1-RELEASE」がリリース<ref>https://www.freebsd.org/ja/news/newsflash/#2022-05-12:1</ref>。 2023年4月11日、「13.2-RELEASE」がリリース<ref name="13.2-RELEASE">{{Cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/13.2R/announce/ |title=FreeBSD 13.2-RELEASE Announcement |website=The FreeBSD Project |date=203-04-11 |access-date=2022-04-18 }}</ref>。 === これまでのリリース === 掲載しているのはRELEASEのアナウンスがされたバージョンのみ。 {| class="wikitable" | colspan=4 | {{Version|l|show=111101}} |- ! バージョン<ref name="versions">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releng/|title=Release Engineering Information|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> ! リリース日<ref name="releases">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/|title=Release Information|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> ! サポート終了予定<ref name="Unsupported FreeBSD Releases">{{cite web|url=https://www.freebsd.org/security/unsupported/|title=Unsupported FreeBSD Releases|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2021-03-12}}</ref> ! 備考 |- | {{Version|o|1.0-RELEASE}} | 1993年11月1日 | | |- | {{Version|o|1.1-RELEASE}} | 1994年5月6日 | | |- | {{Version|o|1.1.5-RELEASE}} | 1994年6月30日 | | |- | {{Version|o|1.1.5.1-RELEASE}} | 1994年7月5日 | | |- | {{Version|o|2.0-RELEASE}} | 1994年11月22日 | | |- | {{Version|o|2.0.5-RELEASE}} | 1995年6月10日 | | |- | {{Version|o|2.1-RELEASE}} | 1995年11月19日 | | |- | {{Version|o|2.1.5-RELEASE}} | 1996年7月16日 | | |- | {{Version|o|2.1.6-RELEASE}} | 1996年11月15日 | | FreeBSD 2.1.6.1-RELEASEに置き換え |- | {{Version|o|2.1.6.1-RELEASE}} | 1996年11月26日 | | |- | {{Version|o|2.1.7-RELEASE}} | 1997年2月20日 | | |- | {{Version|o|2.1.7.1-RELEASE}} | 1997年3月19日 | | |- | {{Version|o|2.2-RELEASE}} | 1997年3月16日 | | |- | {{Version|o|2.2.1-RELEASE}} | 1997年3月25日 | | |- | {{Version|o|2.2.2-RELEASE}} | 1997年5月16日 | | |- | {{Version|o|2.2.5-RELEASE}} | 1997年10月22日 | | |- | {{Version|o|2.2.6-RELEASE}} | 1998年3月25日 | | |- | {{Version|o|2.2.7-RELEASE}} | 1998年7月22日 | | |- | {{Version|o|2.2.8-RELEASE}} | 1998年11月30日 | | |- | {{Version|o|3.0-RELEASE}} | 1998年10月15日 | | |- | {{Version|o|3.1-RELEASE}} | 1999年2月15日 | | |- | {{Version|o|3.2-RELEASE}} | 1999年5月18日 | | |- | {{Version|o|3.3-RELEASE}} | 1999年9月17日 | | |- | {{Version|o|3.4-RELEASE}} | 1999年12月20日 | | |- | {{Version|o|3.5-RELEASE}} | 2000年6月24日 | | |- | {{Version|o|4.0-RELEASE}} | 2000年3月13日 | | |- | {{Version|o|4.1-RELEASE}} | 2000年7月27日 | | |- | {{Version|o|4.1.1-RELEASE}} | 2000年9月27日 | | |- | {{Version|o|4.2-RELEASE}} | 2000年11月22日 | | |- | {{Version|o|4.3-RELEASE}} | 2001年4月20日 | | |- | {{Version|o|4.4-RELEASE}} | 2001年9月20日 | | |- | {{Version|o|4.5-RELEASE}} | 2002年1月29日 | 2002年12月31日 | |- | {{Version|o|4.6-RELEASE}} | 2002年6月15日 | rowspan="2" | 2003年5月 | |- | {{Version|o|4.6.2-RELEASE}} | 2002年8月15日 | |- | {{Version|o|4.7-RELEASE}} | 2002年10月10日 | 2003年12月 | |- | {{Version|o|4.8-RELEASE}} | 2003年4月3日 | 2004年3月31日 | |- | {{Version|o|4.9-RELEASE}} | 2003年10月28日 | 2004年10月31日 | |- | {{Version|o|4.10-RELEASE}} | 2004年5月27日 | 2006年5月 | |- | {{Version|o|4.11-RELEASE}} | 2005年1月25日 | 2007年1月31日 | |- | {{Version|o|5.0-RELEASE}} | 2003年1月14日 | 2003年6月30日 |rowspan="4"|6.0が出るまではCURRENT(開発ブランチ)扱いであった |- | {{Version|o|5.1-RELEASE}} | 2003年6月9日 | 2004年2月 |- | {{Version|o|5.2-RELEASE}} | 2004年1月9日 | rowspan="2" | 2004年12月31日 |- | {{Version|o|5.2.1-RELEASE}} | 2004年2月25日 |- | {{Version|o|5.3-RELEASE}} | 2004年11月6日 | rowspan="2" | 2006年10月31日 | 5.x系では初めてとなるSTABLEブランチからのリリース |- | {{Version|o|5.4-RELEASE}} | 2005年5月9日 | |- | {{Version|o|5.5-RELEASE}} | 2006年5月25日 | 2008年5月31日 | |- | {{Version|o|6.0-RELEASE}} | 2005年11月4日 | 2007年1月31日 | |- | {{Version|o|6.1-RELEASE}} | 2006年5月8日 | rowspan="2" | 2008年5月31日 | |- | {{Version|o|6.2-RELEASE}} | 2007年1月15日 | |- | {{Version|o|6.3-RELEASE}} | 2008年1月18日 | 2010年1月31日 | |- | {{Version|o|6.4-RELEASE}} | 2008年11月28日 | 2010年11月30日 | |- | {{Version|o|7.0-RELEASE}} | 2008年2月27日 | 2009年4月30日 | |- | {{Version|o|7.1-RELEASE}} | 2009年1月4日 | 2011年2月28日 | |- | {{Version|o|7.2-RELEASE}} | 2009年5月4日 | 2010年6月30日 | |- | {{Version|o|7.3-RELEASE}} | 2010年3月23日 | 2012年3月31日 | |- | {{Version|o|7.4-RELEASE}} | 2011年2月24日 | 2013年2月28日 | |- | {{Version|o|8.0-RELEASE}} | 2009年11月25日 | 2010年11月30日 | |- | {{Version|o|8.1-RELEASE}} | 2010年7月23日 | rowspan="2" | 2012年7月31日 | |- | {{Version|o|8.2-RELEASE}} | 2011年2月24日 | |- | {{Version|o|8.3-RELEASE}} | 2012年4月18日 | 2014年4月30日 | |- | {{Version|o|8.4-RELEASE}} | 2013年6月7日 | 2015年6月30日 | |- | {{Version|o|9.0-RELEASE}} | 2012年1月12日 | 2013年3月31日 | |- | {{Version|o|9.1-RELEASE}} | 2012年12月30日 | rowspan="2" | 2014年12月31日 | |- | {{Version|o|9.2-RELEASE}} | 2013年9月30日 | |- | {{Version|o|9.3-RELEASE}} | 2014年7月16日 | 2016年12月31日 | |- | {{Version|o|10.0-RELEASE}} | 2014年1月20日 | 2015年2月28日 | |- | {{Version|o|10.1-RELEASE}} | 2014年11月14日 | rowspan="2" | 2016年12月31日 | |- | {{Version|o|10.2-RELEASE}} | 2015年08月13日 | |- | {{Version|o|10.3-RELEASE}} | 2016年04月04日 | 2018年04月30日 | |- | {{Version|o|10.4-RELEASE}} | 2017年10月3日 | 2018年10月31日 | |- | {{Version|o|11.0-RELEASE}} | 2016年10月10日 | 2017年11月30日 | |- | {{Version|o|11.1-RELEASE}} | 2017年7月26日 | 2018年9月30日 | |- | {{Version|o|11.2-RELEASE}} | 2018年6月27日 | 2019年10月31日 | |- | {{Version|o|11.3-RELEASE}} | 2019年7月9日 | 2020年9月30日 | |- | {{Version|o|11.4-RELEASE}} | 2020年6月16日 | 2021年9月30日 | |- | {{Version|o|12.0-RELEASE}} | 2018年12月11日 | 2020年2月29日 | |- | {{Version|o|12.1-RELEASE}} | 2019年11月4日 | 2021年1月31日 | |- | {{Version|o|12.2-RELEASE}} | 2020年10月27日 | 2022年3月31日 | |- | {{Version|o|12.3-RELEASE}} | 2021年12月7日 | 2023年3月31日 | |- | {{Version|c|12.4-RELEASE}} | 2022年12月5日 | | 12.xのサポートは、2023年12月31日まで<ref name="Security Information" /> |- | {{Version|o|13.0-RELEASE}} | 2021年4月13日 | 2022年8月31日 | |- | {{Version|co|13.1-RELEASE}} | 2022年5月16日 | 2023年7月31日 | |- | {{Version|c|13.2-RELEASE}} | 2023年4月11日 | | 13.xのサポートは、2026年1月31日まで<ref name="Security Information">{{Cite web |url=https://www.freebsd.org/security/ |website=FreeBSD Foundation |title=FreeBSD Security Information|date=2023-04-04 |access-date=2023-04-12 }}</ref> |- | {{Version|p|14.0-RELEASE}} | 2023年10月23日 | | |- ! バージョン ! リリース日 ! サポート終了予定 ! 備考 |} ※2006年4月1日には、[[エイプリルフール]]のネタとしてFreeBSD 2.2.9-RELEASEが発表されている。 ==== バージョン別の主な機能変更 ==== <!-- これは、[[:en:History of FreeBSD]]の表の"Significant changes"の項目の内容に二次資料を加えたものです。Wikitableでは改行が非推奨の為、突出した量の"Significant changes"の項目の記載を表内に記述すると可読性が悪くなるので、分けて記述することにしました。仮に改行したとしても、他項目の記述量との差が大き過ぎて、単一の表としてバランスが悪くなってしまい見づらくなりますし。。。 --> ;1.1-RELEASE<ref name="1.1features">{{cite web|url= http://www.freebsd.org/releases/1.1/RELNOTES.FreeBSD|title=RELEASE NOTES - FreeBSD - Release 1.1|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-30}}</ref> * [[386BSD]]のインポートからいくつかの未解決のバグを修正 * [[XFree86]]を移植 * XViewを移植 * InterViewsを移植 * Elm([[電子メールクライアント|メールソフト]])を移植 * [[Network News Transfer Protocol|NNTP]]を移植 ;2.0-RELEASE<ref name="2.0features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.0/notes.html|title=FreeBSD 2.0 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * コードのベースをBSD-Lite 4.4に取り換え * 新規のインストーラ * 新規のブートマネージャ * ([[File Allocation Table|FAT]]・unionfs・kernfs等)多くのファイルシステム * 大規模ファイルシステム用に差し替えた64ビットのコード * ロード可能なファイルシステム等のコードの置き換え * [[NetBSD]]からロード可能なカーネルモジュールをインポート ;2.0.5-RELEASE<ref name="2.0.5features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.0.5R/notes.html|title=FreeBSD 2.0.5 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * VMシステムの改良 * 完全版の[[ネットワーク・インフォメーション・サービス|NIS]]の[[クライアントサーバモデル|クライアント・サーバ]]対応 * [[Transmission Control Protocol|TCP]][[トランザクション]]対応 * [[ISDN]]対応 * [[Fiber Distributed Data Interface|FDDI]]と[[100メガビット・イーサネット]]アダプタの対応 * 多言語ドキュメント * [[インストール]]用[[電子媒体|メディア]]の[[パッケージ管理システム]]のPort機能 ;2.1.5-RELEASE<ref name="2.1.5features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.1.5R/notes.html|title=FreeBSD 2.1.5 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * バグとセキュリティの修正 * [[Peripheral Component Interconnect|PCIバス]]解析 * 一部のドライバの追加 ;2.1.6-RELEASE<ref name="2.1.6features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.1.6R/notes.html|title=FreeBSD 2.1.6 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * バグとセキュリティの修正 * インストール機能の改良 ;2.1.7-RELEASE<ref name="2.1.7features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.1.7R/notes.html|title=FreeBSD 2.1.7 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * バグとセキュリティの修正 ;2.2-RELEASE<ref name="2.2features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2R/notes.html|title=FreeBSD 2.2 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[Network File System#NFS version 3|NFSv3]]の対応 * [[動的メモリ確保]]の[[サブルーチン|関数]]を[[malloc]]をphkmallocに取り換え * [[Executable and Linkable Format|ELF]]の完全なLinuxulator([[Linux]][[エミュレータ (コンピュータ)|エミュレータ]])対応 * [[カーネル]]のルーチン用の[[manページ|manページのセクション9]]の対応 ;2.2.1-RELEASE<ref name="2.2.1features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.1R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.1 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * 2.2用のバグ修正 * 「[[アダプテック|Adaptec]] 2940」と「[[インテル]]EtherExpress Pro」のドライバのアップデート * CD-ROMパッケージのインストーラの修正 ;2.2.2-RELEASE<ref name="2.2.2features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.2R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.2 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * NFSv3が標準実装 * 仮想FTPサーバ機能 ;2.2.5-RELEASE<ref name="2.2.5features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.5R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.5 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[サイリックス]]製と[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]製マイクロプロセッサの対応品目の更新 * 新しい[[Video Graphics Array|VGA]]ライブラリ ;2.2.6-RELEASE<ref name="2.2.6features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.6R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.6 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[Advanced Technology Attachment#ATAPI|ATAPI]]のフロッピーディスクドライブ * Linuxulatorの改良 * 新しいサウンドドライバの対応 * 新しい[[プラグアンドプレイ|(PnP)]]の対応 ;2.2.7-RELEASE<ref name="2.2.7features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.7R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.7 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[File Allocation Table#FAT32|FAT32]]の対応 * PC98(※[[Microsoft Windows 98|Windows 98]]や[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]向けのシステム設計のことを指しており、[[日本電気|NEC]]のPC-98シリーズのことを指しているのではない)の[[アーキテクチャ]]へのアップデート ;2.2.8-RELEASE<ref name="2.2.8features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/2.2.8R/notes.html|title=FreeBSD 2.2.8 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[ipfirewall]]のコンポーネントのdummynet traffic shaper機能 * マルチインタフェース間のブリッジ機能 * 8GB以上の[[Advanced Technology Attachment#IDE|IDE]]ドライブに対応 ;3.0-RELEASE<ref name="3.0features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.0R/notes.html|title=FreeBSD 3.0 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[対称型マルチプロセッシング|SMP]] * CAM(コモンアクセスメソッド)[[Small Computer System Interface|SCSI]]システム * 安全な[[遠隔手続き呼出し|RPC]] * ATAPI/IDE規格の[[ライティングソフトウェア|CDライティングソフト]]と[[テープドライブ]]に対応 * [[VESA]]規格のビデオモード * ベースシステムの[[Perl]]4を5に置き換え * [[ケルベロス認証|KerberosIV]] ;3.1-RELEASE<ref name="3.1features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.1R/notes.html|title=FreeBSD 3.1 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]対応 * ユーザー認証システムのPAM(Pluggable Authentication Modules)機能 ;3.2-RELEASE<ref name="3.2features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.2R/notes.html|title=FreeBSD 3.2 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * ベースシステムに[[Internet Systems Consortium]]の[[Dynamic Host Configuration Protocol|DHCP]][[クライアント (コンピュータ)|クライアント]]を追加 * USB対応の拡充 * ([[NT File System|NTFS]]へのダイレクト接続・[[ISO 9660#JolietlISO9660の拡張規格「Joliet」]]等の)改良されたファイルシステム対応 ;3.3-RELEASE<ref name="3.3features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.3R/notes.html|title=FreeBSD 3.3 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * 改良されたUSB対応 * [[RAID]]を実行できるストレージ・マネージャーの「vinum」のメジャーアップデート * [[ipfirewall|IPFW]]の改良 * [[Advanced Power Management|電源管理インタフェース「APM」]] * データリンク層インタフェース「BPF」を標準設定可能にした * 多くのドライバを追加 ;3.4-RELEASE<ref name="3.4features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.4R/notes.html|title=FreeBSD 3.4 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * Netgraph * 「vinum」のRAID-5対応 * [[Internet Control Message Protocol|ICMP]]とその他のセキュリティ修正 ;3.5-RELEASE<ref name="3.5features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/3.5R/notes.html|title=FreeBSD 3.5 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * 「vinum」の重要なアップデート * [[ミキシング・コンソール|オーディオミキサー]] * [[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]インストレーションオプション ;4.0-RELEASE<ref name="4.0features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.0R/notes.html|title=FreeBSD 4.0 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * [[KAMEプロジェクト]]によるBSD標準[[IPv6]]スタックとBSD標準[[IPsec]]スタック * ベースシステムに[[OpenSSH]]を統合 * 新しいATA/ATAPIドライバ(全てのATAに準拠したディスクとATAPI準拠の[[CD-ROM]]・[[CD-R]]・[[CD-RW]]・[[DVD#DVD-ROM|DVD-ROM]]・[[DVD-RAM]]・[[スーパーディスク|LS120]]・[[ZIP (記憶媒体)|ZIP]]・テープドライブ) * [[UNIX System V#SVR4|SVR4]][[バイナリ|バイナリファイル]]用のエミュレータ * burncdプログラム * USBイーサネットアダプタの対応 * [[ソケット (BSD)#accept()|accept()]]フィルタ * [[Telnet]]暗号化 ;4.1-RELEASE<ref name="4.1features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.1R/notes.html|title=FreeBSD 4.1 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * システムコールKqueue * IPsecの改良 * [[DEC Alpha]]対応を拡大 * 標準インストール作業でのUSB対応 ;4.1.1-RELEASE<ref name="4.1.1features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.1.1R/notes.html|title=FreeBSD 4.1.1 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * ブリッジされた環境設定での仮想イーサネットデバイスドライバ * [[ハードディスクドライブ#過去に製造を行っていた主な企業|ATA100]]のコントローラ対応 ;4.2-RELEASE<ref name="4.2features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.2R/notes.html|title=FreeBSD 4.2 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * 初期的なUSBスキャナーの対応 * USBモデムの対応 * バッファオーバーフロー時のバグ修正 * Portsの再構築 ;4.3-RELEASE<ref name="4.3features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.3R/notes.html|title=FreeBSD 4.3 Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-28}}</ref> * サウンドドライバのアップデート * TCPのバグ修正 * システムコールkqueueのデバイス層への拡張 ;4.4-RELEASE<ref name="4.4features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.4R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.4-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 新プロセッサ([[Crusoe]] ''et al.'')の検出 * [[ストリーミングSIMD拡張命令|SSE]]の対応 * smbfs([[Server Message Block|CIFS]])のカーネル対応 * [[IPv6]]スタックのアップデート ;4.5-RELEASE<ref name="4.5features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.5R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.5-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[Transmission Control Protocol|TCP]]の改良(スループット・パフォーマンス・[[DoS攻撃|サービス拒否攻撃]]の鎮静等) * 標準で[[Soft updates]]が出来るようになる * Linuxulatorの改良 * 起動ローダが16Kのディスクブロック長を持つファイルシステムからの起動に対応(それまでは8K) ;4.6-RELEASE<ref name="4.6features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.6R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.6-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[XFree86]]のバージョンを4.2.0にアップデート * ドライバの追加とアップデート ;4.6.2-RELEASE<ref name="4.6.2features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.6.2R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.6.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * ATAデバイスにアクセスした時に生じていたエラーを修正 * セキュリティ関連のバグを修正 ;4.7-RELEASE<ref name="4.7features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.7R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.7-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 新しいUSBデバイスとディスクコントローラ * (デフォルトでは無効な)[[ipfirewall|IPFW]]2が追加 ;4.8-RELEASE<ref name="4.8features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.8R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.8-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 初期的な[[IEEE 1394|Firewire]]と[[ハイパースレッディング・テクノロジー|ハイパースレッディング]]の対応 * [[OpenBSD]]由来の新しいカーネル暗号化フレームワークを統合 * ata(4)ドライバがCAMレイヤとCAMドライバ( cd(4)・da(4)・st(4)・pass(4))を経由してATAデバイスをSCSIデバイスとしてアクセスできるようにする機能に対応 ;4.9-RELEASE<ref name="4.9features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.9R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.9-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[物理アドレス拡張|PAE]]機能に対応 * [[ipfirewall|IPFW]]修正 ;4.10-RELEASE<ref name="4.10features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.10R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.10-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * USB 2.0に対応 * Portsにports/CHANGESとports/UPDATINGが追加 ;4.11-RELEASE<ref name="4.11features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/4.11R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 4.11-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[XFree86]]のバージョンを4.4.0にアップデート * インタフェース単位で制御可能なpolling(4)機能が実装されて全てのネットワークドライバは ifconfig(8) を使って制御できるようになる ;5.0-RELEASE<ref name="5.0features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.0R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 5.0-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=14 January 2003|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[UltraSPARC T1|UltraSPARC]]と[[IA-64]]のプロセッサの対応 * ([[ジャイアントロック]]からカーネルの大部分のリソースが開放された)カーネル[[ロック (情報工学)#スレッドにおけるロック|ロック]]機構を変更したSMPの対応 * GEOM * KSE(カーネルスケジュールエンティティ) * TrustedBSDから導入された [[強制アクセス制御]] * バックグラウンドで動く[[fsck]] * [[Bluetooth]] * [[Advanced Configuration and Power Interface|ACPI]] * [[PCカード|CardBus]] * [[デバイスファイル]]を実行するdevfs * [[Unix File System|UFS2]]の対応 * [[ユニバーサルディスクフォーマット]]の対応 * [[ダイレクト・レンダリング・インフラストラクチャ|DRI]]のドライバ * ユーザー認証を行うためのAPIである「Pluggable Authentication Modules」 * デフォルトカーネルでの[[Intel 80386|386]]対応削除 * kernfs[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]の除去 * 従来のBSDゲームをベースシステムからPortsに移動 * [[Perl]]をベースシステムから除去 * [[NetBSD]]から「rc.d」フレームワークを導入 * BSDPANの追加 * 標準でcdboot起動ローダを使用 ;5.1-RELEASE<ref name="5.1features">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.1R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 5.1-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=28 May 2003|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[x64|x86-64]]の実験的なサポート * マルチスレッドプロセスの為の実験的な1:1スレッド(1個のカーネルスレッドを1個のユーザーランドスレッドが占有して利用)とM:Nスレッディングライブラリ * 実験的な [[Name Service Switch]] * [[物理アドレス拡張|PAE]] * GEOMとオプションから必須機能になったdevfs * Linuxulatorでの[[IPv6]]対応 * 実験的なULEスケジューラ * 7年間正常に動作していなかった「[[ゼロックス・ネットワーク・システム|XNS(Xerox Network Systems)]]」の対応削除 * CAMレイヤが2<sup>32</sup>個以上のブロックを持つデバイスに対応 * rcNG(/etcにある起動スクリプトが削除され、[[NetBSD]]から移植された「rc.d」システムに置き換え) * [[XFree86]]のバージョンを4.3.0にアップデート * デンマーク語(da_DK.ISO8859-1)翻訳プロジェクトが発足 ;5.2-RELEASE<ref name="5.2highlights">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.2R/announce.html|title=FreeBSD 5.2-RELEASE Announcement|publisher=The FreeBSD Project|date=1 January 2004|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[x64|x86-64]]のアーキテクチャが、サポートレベル順位「Tier 1」とされ、ほぼフル対応の対象となった * swap pagerの更新 * カーネルが「Protocol Independent Multicastルーティング」(pim(4))に対応 * IPv6とIPSec修正と更新がKAMEプロジェクトから統合 * Bluetoothプロトコルスタックが更新 * (ata(4)ドライバの ジャイアントカーネルロックが外されて)ata(4)ドライバが大きく書き直された * NFSv4クライアントが実装 * トルコ語(tr_TR.ISO8859-9)翻訳プロジェクトが開始<ref name="5.2features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.2R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 5.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=1 January 2004|accessdate=2011-04-29}}</ref> * i386版で浮動小数点エミュレーションが削除<ref name="5.2features-i">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.2R/relnotes-i386.html|title=FreeBSD/i386 5.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=1 January 2004|accessdate=2011-04-29}}</ref> * IDE・[[シリアルATA|SATA]]・[[IEEE 802.11|802.11a/b/g]]デバイスのドライバ対応が追加・改善、実験的なIPトラフィックのフィルタリング機能と転送機能のマルチスレッド化 ;5.2.1-RELEASE<ref name="5.2.1announce">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.2.1R/announce.html|title=FreeBSD 5.2.1-RELEASE Announcement|publisher=The FreeBSD Project|date=1 January 2004|accessdate=2011-04-29}}</ref> * バグとセキュリティを修正 * ATA/IDEおよびSATAの処理の著しい改善 ;5.3-RELEASE<ref name="5.3features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.3R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 5.3-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=11 March 2004|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[ネットワークインタフェース]]での[[キュー (コンピュータ)|キュー]]制御をする[[ALTQ]] * ネットワークとソケットサブシステムは、マルチスレッド化され、リエントラント(再入可能)対応となる * 新しいデバッグフレームワークKDB(Kernel debugger)の追加 * [[スレッド局所記憶|TLS]]の動的・静的リンクの対応 * [[OpenBSD]]から[[PF (ファイアウォール)|PF]]導入 * GCC 3.4.2、Binutils 2.15、gdb 6.1に更新<ref name="FreeBSD_TECH">{{Cite web|和書|url=http://www.wdic.org/w/TECH/FreeBSD|title=FreeBSD ‐ 通信用語の基礎知識|publisher=wdic.org|date=2014-01-05|accessdate=2014-03-07}}</ref> * カーネルでWindows [[Network Driver Interface Specification|NDIS]]ネットワークドライバに対応。i386プラットフォームでバイナリ互換インターフェイスを導入 * [[XFree86]]に替わって、[[X Window System|X.org]] 6.7対応 * サウンドカードのドライバ再構築 * 暗号処理アクセラレータ ;5.4-RELEASE<ref name="5.4features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.4R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 5.4-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=5 May 2005|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[OpenBSD]]より[[Common Address Redundancy Protocol|CARP]](サーバ冗長化プロトコル)導入<ref name="CARP">{{Cite web|和書|url=http://d.hatena.ne.jp/nk87/20101202/1291263149|title=CARP - 夢見る大学生のはてな日記|publisher=http://d.hatena.ne.jp/|date=2010-12-02|accessdate=2014-03-07}}</ref> ;5.5-RELEASE<ref name="5.5features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/5.5R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 5.5-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=22 May 2006|accessdate=2011-04-29}}</ref> * デュアルコアプロセッサの両方のコアがカーネルを使用して標準でSMPに対応できる ;6.0-RELEASE<ref name="6.0features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/6.0R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 6.0-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=21 October 2005|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 実験的な[[PowerPC]]対応 * [[無線]]セキュリティプロトコル[[Wi-Fi Protected Access|WPA]] * wirelessアダプタのドライバ追加 * [[IEEE 802.11|802.11g/i]]・[[IEEE 802.1X|802.1X]]と[[Wireless Multimedia Extensions|WME/WMM]]完全対応 * ファイルシステムとディスクへの直接アクセスのパフォーマンスの改良 ;6.1-RELEASE<ref name="6.1features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/6.1R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 6.1-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=5 May 2006|accessdate=2011-04-29}}</ref> * ブート時の特別なオプションがなくともPS/2キーボードとUSBキーボードの共存が可能な「キーボード多重化」<ref name="keyboard">{{Cite web|和書|url=http://japan.internet.com/webtech/20060511/10.html|title=『FreeBSD 6.1』公開、主眼は安定性強化 - インターネットコム|publisher=http://japan.internet.com/|date=2006-05-11|accessdate=2014-03-07}}</ref> * ファイルシステムの安定性改善 * 多くのBluetoothデバイスの自動化された環境設定 * イーサネット対応ドライバ * [[Serial Attached SCSI|SAS]]/[[シリアルATA|SATA]]対応RAIDコントローラ ;6.2-RELEASE<ref name="6.2features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/6.2R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 6.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=11 January 2007|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]のアーキテクチャ対応 * OpenBSM * セキュリティイベント監査 * [[ipfirewall]] * セキュリティ修正とエラーパッチのバイナリアップデート * OpenIPMI(公開されたシステム管理の為のインタフェース) ;6.3-RELEASE<ref name="6.3features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/6.3R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 6.3-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=15 January 2008|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[X Window System|X.org]]のバージョンを7.3にアップデート * [[UnionFS]]の再実装 * 「freebsd-update」アップデートツール追加 * [[OpenBSD]]/N[[NetBSD]]からlagg(4)ドライバ導入<ref name="6.3lagg">{{Cite web|和書|url=http://gihyo.jp/admin/clip/01/fdt/200801/19/|title=2008年1月21日 FreeBSD 6.3-RELEASE登場,6.3と7.0の採用基準,新しいFreeBSD RSS 6つ追加|publisher=gihyo.jp|date=2008-01-19|accessdate=2014-03-08}}</ref> ;6.4-RELEASE<ref name="6.4features-a">{{cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/6.4R/relnotes-amd64.html|title=FreeBSD/amd64 6.4-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=25 November 2008|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 共通鍵ブロック暗号[[Camellia|Camellia cipher]]に対応 * 起動ローダの変更(USBデバイスからの起動と[[GUIDパーティションテーブル|GPT]]対応BIOSからのGPTラベルデバイスの起動が可能となる) * [[malloc]](9)で割り付けられたメモリのためのバッファ間違いを検出する「RedZone」 * DVDでの [[ISOイメージ]]([[x64|x86-64]]と[[Intel 80386|i386]]対応) ;7.0-RELEASE<ref name="7features">{{cite web|url=http://ivoras.net/freebsd/freebsd7.html|title=What's cooking for FreeBSD 7?|last=Voras|first=Ivan|accessdate=2011-04-27}}</ref> drop support for [[DEC Alpha]]<ref name="7.0features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.0R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.0-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=16 February 2008|accessdate=2011-04-27}}</ref> * 実験的な[[ZFS]]と[[GUID Partition Table|GPT]] * 実験的な[[Stream Control Transmission Protocol|SCTP]]を実装<ref name="SCTP">{{Cite web|和書|url=http://uyota.asablo.jp/blog/2008/04/30/3423164/|title=ストリーム型 SCTP で実験: uyota 匠の一手|publisher=gihyo.jp|date=2008-04-30|accessdate=2014-03-08}}</ref> * [[ARMアーキテクチャ]]の追加対応 * サウンドインターフェースの[[High Definition Audio|HDA]]対応 * [[malloc#FreeBSDとNetBSD|mallocの古い実装(phkmalloc)をJason Evansが開発したjemallocに置換]] * [[DEC Alpha]]対応を終了 ;7.1-RELEASE<ref name="7.1features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.1R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.1-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=31 December 2008|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[DTrace]] * ULEスケジューラが[[Intel 80386|i386]]/[[x64|x86-64]]版の標準スケジューラとなる ;7.2-RELEASE<ref name="7.2features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.2R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.2-RELEASE Release Notes: Release Highlights|publisher=The FreeBSD Project|date=30 April 2009|accessdate=2011-04-29}}</ref> * [[SPARC|UltraSPARC III]]に対応 * 仮想メモリサブシステムでのsuperpagesのトランスペアレント(利用者にソフトウェアの存在・作用が意識されない)利用 * [[FreeBSD jail|jail]]の実装 ;7.3-RELEASE<ref name="7.3features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.3R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.3-RELEASE Release Notes: Release Highlights|publisher=The FreeBSD Project|date=30 March 2010|accessdate=2011-04-29}}</ref><ref name="7.3detailed">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.3R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.3-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=30 March 2010|accessdate=2011-04-29}}</ref> * 新しいgptzfsboot起動ローダ([[GUID Partition Table|GPT]]と[[ZFS]]に対応) * ZFSのバージョンを13にアップデート * [[Perl]]のバージョンを5.10にアップデート * [[VIA Nano]]プロセッサに対応 ;7.4-RELEASE<ref name="7.4features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/7.4R/relnotes.html|title=FreeBSD 7.4-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=24 February 2011|accessdate=2011-04-27}}</ref> * [[SPARC|UltraSPARC IV/IV+]]・[[SPARC|SPARC64 V]]プロセッサに追加対応 * (miibusでの)[[イーサネット|IEEE 802.3]]全二重フローコントロール ;8.0-RELEASE<ref name="8features">{{cite web|url=http://ivoras.net/freebsd/freebsd8.html|title=What's cooking for FreeBSD 8?|last=Voras|first=Ivan|accessdate=2011-04-27}}</ref> * 新たなUSB実装「USB2」 * jailが"Vimage Jail"にアップデート<ref name="Vimage jail">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20091124-freebsd80/|title=ついに登場! FreeBSD 8.0の新機能をさっそくチェックしてみました|publisher=mynavi.jp|date=2009-11-24|accessdate=2014-03-09}}</ref> * 改善されたULE3スケジューラ * superpages対応 * NFSv4対応 ;8.1-RELEASE<ref name="8.1features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/8.1R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 8.1-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=24 February 2011|accessdate=2010-07-24}}</ref> * HAST(Highly Available STorage)フレームワーク追加<ref name="8.1_news">{{Cite web|和書|url=http://sourceforge.jp/magazine/10/07/26/038219|title=ZFS対応をさらに強化した「FreeBSD 8.1-RELEASE」リリース|publisher=sourceforge.jp/|date=2010-07-26|accessdate=2014-03-09}}</ref> * [[ipfirewall|IPFW]] and dummynet improvements * PowerPC G5でのSMPサポート(デフォルトでは無効) * MS-DOS用ファイルシステムMP-safe * ZFS版対応のブートローダzfsloader追加 * NFSv4 [[アクセス制御リスト|ACL]]が [[Unix File System|UFS]]版と[[ZFS]]版に正式対応 ;8.2-RELEASE<ref name="8.2features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/8.2R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 8.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=24 February 2011|accessdate=2011-04-27}}</ref> * LinuxulatorにVL4(Video4Linux)をインポート ;8.3-RELEASE<ref name="8.3features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/8.3R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 8.3-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=9 April 2012|accessdate=2012-05-08}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * graid(8) GEOMクラスを各種BIOSベースのソフトウェアRAIDコントローラー対応のために追加 (ataraid(4)の代替) * ZFSのバージョンを28にアップデート * [[DTrace]]がLinuxulatorバイナリに対応 * TCP/IPスタックがカーネルモジュール化された輻輳制御フレームワークmod_cc(9)に対応 ;8.4-RELEASE<ref name="8.4features">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/8.4R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 8.4-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=7 June 2013|accessdate=2013-06-07}}</ref><ref name="8.4announcement">{{Cite web|url=http://www.freebsd.org/releases/8.4R/announce.html|title=FreeBSD 8.4-RELEASE Announcement|date=9 June 2013|accessdate=2013-09-16}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * セキュリティ関連を含むバグ修正 * ZFSの強化 ;9.0-RELEASE<ref name="9features">{{cite web |url=http://www.freebsd.org/releases/9.0R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 9.0-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=2012-01-12|accessdate=2012-01-12}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * ユーザーレベルDTraceの導入 * [[GNU Compiler Collection|GCC]]に代わって[[Clang]]と[[LLVM]]をベースシステムに追加 * [[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]3.0に対応 * [[Unix File System|FFS]]がsoftupdatesジャーナリングに対応 * ATA/SATAドライバーがCAMフレームワークに統合され、AHCIサポート * ZFSのバージョンを28にアップデート * 新型インストーラーのbsdinstall(8) * FreeBSD/ppcが[[PlayStation 3]]に対応 ;9.1-RELEASE<ref name="9.1features">{{cite web |url=http://www.freebsd.org/releases/9.1R/relnotes-detailed.html|title=FreeBSD 9.1-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=2012-12-30|accessdate=2013-01-12}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * GEM/KMSをサポートする新しいIntel GPUドライバ * 高速ユーザー空間パケットI/Oフレームワークとして、netmap(4)を追加 * サウンドドライバのアップデート * IPv6の改善 * LLVM libc++とlibcxxrtを含む、新しいC++11スタック * jailがdevfs・nullfs・ZFSに対応 * sched_ule(4)によるSMTのロードのバランスの改良 ;9.2-RELEASE<ref name="9.2features">{{cite web |url=http://www.freebsd.org/releases/9.2R/relnotes.html|title=FreeBSD 9.2-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=2013-09-30|accessdate=2013-10-02}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * ZFSファイルシステムがLZ4圧縮形式に対応 * ZFSファイルシステムがSSDのTRIMに対応 * [[IEEE 1394|Firewire]]ドライバ削除 * [[Intel 80386|i386]]/[[x64|x86-64]]アーキテクチャにvirtio(4)ドライバを追加 ;10.0-RELEASE<ref name="10.0features">{{cite web |url=http://www.freebsd.org/releases/10.0R/relnotes.html|title=FreeBSD 10.0-RELEASE Release Notes|publisher=The FreeBSD Project|date=2014-01-20|accessdate=2014-01-20}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * GCCの廃止とclang/LLVMに正式移行 (C/C++コンパイラーおよびライブラリでGPLフリーの達成) * bhyve(8)やvirtio(4)の追加など、Microsoft Hyper-V向けの仮想化機能の強化 * USBをアップデート * ファイル保護機能capsicumをカーネルでサポート * pkg(7)をデフォルトのパッケージ管理ユーティリティとし、pkg_add(1)、pkg_delete(1)および関連ツールは廃止 * [[DNSサーバ]]の[[BIND]]廃止 * LDNS(DNSライブラリ)とDNSキャッシュサーバとして[[Unbound]]を採用 * [[Raspberry Pi]]・[[IEEE 802.11s]]・[[Filesystem in Userspace|FUSE]]の追加対応 * ZFSをサーバのrootファイルシステムとして利用可能 * [[GNU]]のツールを[[BSDライセンス]]版に代替 ;10.1-RELEASE<ref name="10.1features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/10.1R/relnotes.html|title=FreeBSD 10.1-RELEASE Release Notes|date=2014-11-14|accessdate=2014-12-02}}</ref><ref name="FreeBSD_TECH" /> * ユニコードをサポートし、グラフィックモードの利用を改善するシステムコンソールvt(4)の追加<ref name="10.1_vt">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20141117-a187/|title=FreeBSD 10.1-RELEASEが登場|publisher=mynavi.jp|date=2014-11-17|accessdate=2014-12-02}}</ref> * amd64のみ[[Unified Extensible Firmware Interface#セキュアブート|UEFI]]からの起動を初期サポート * [[IPv4]]および[[IPv6]][[スタック]]に対し、音声などマルチメディアに適しているとされる({{IETF RFC|3828}}<nowiki/>で定義された)[[UDP-Lite]][[プロトコル]]サポートを追加<ref name="10.1_UDP_Lite">{{Cite web|和書|url=http://sourceforge.jp/magazine/14/11/18/163300|title=UEFIブートを初期サポートした「FreeBSD 10.1-RELEASE」リリース|publisher=sourceforge.jp/|date=2014-11-18|accessdate=2014-12-02}}</ref> * [[ハイパーバイザ]]bhyve(4)にzfsファイルシステムからの起動サポート * ハイパーバイザbhyve(4)へFreeBSD/i386ゲストのサポート機能を追加 * ファイルシステムの自動マウント機能であるautofs(5)を導入 * [[ARMアーキテクチャ|armv6]]カーネルへ[[ヘテロジニアスマルチコア|SMP]]サポート機能を追加 ;10.2-RELEASE<ref name="10.2features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/10.2R/relnotes.html|title=FreeBSD 10.2-RELEASE Release Notes|date=2015-08-06|accessdate=2015-08-31}}</ref><ref name="10.2_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/15/08/18/070000|author=末岡洋子|title=予定より3か月早く登場、「FreeBSD 10.2-RELEASE」リリース|date=2015-08-17|accessdate=2015-08-31}}</ref> * [[Linux]]の[[CentOS]] 6互換環境を提供するlinux_base-c6をデフォルトで採用 * Linuxカーネル3.8.13に対応するようにDRMコードを更新し、複数の[[X.Org Server]]を同時に実行することも可能とする * [[ZFS]]のパフォーマンスと信頼性の改善 * resolvconfはプライバシー保護機能を強化したバージョン3.7.0に、[[GNOME]]は3.14.2に、[[KDE]]は4.14.3にそれぞれアップデート * ARMサポートを強化 ;10.3-RELEASE<ref name="UEFI_ZFS_install" /><ref name="10.3features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/10.3R/relnotes.html|title=FreeBSD 10.3-RELEASE Release Notes|date=2016-03-25|accessdate=2016-04-21}}</ref><ref name="10.3_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/16/04/05/140000|author=末岡洋子|title=「FreeBSD 10.3-RELEASE」が公開|date=2016-04-05|accessdate=2016-04-21}}</ref> * [[UEFI]]システムに自動モードでroot-on-ZFSインストールが作成可能となる * rerootの初期実装にrebootが追加 * [[GNOME]]は3.16.2に、[[TeX Live]]はTL2015に、[[X.Org Server]]は1.17.4にそれぞれアップデート ;10.4-RELEASE<ref name="10.4features">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20171005-a089/|title=FreeBSD 10.4-RELEASE登場 - 10系最後のバージョン|publisher=[[マイナビニュース]]|author=後藤大地|date=2017-10-05|accessdate=2017-10-05}}</ref> * eMMCストレージのフルサポート * fsck_ffs(8)ユーティリティにおけるGPTディスクラベルでのオルタネートスーパーブロックのサポート * ユーザランドコアダンプにヒューマンリーダブルなクラッシュレポートを報告するイベントを発生させることができる機能を追加(デフォルトでは無効) ;11.0-RELEASE<ref name="11.0R" /> * ZFSディスクの[[ホットスペア]]およびオートリプレースを可能にするzfsd(8)デーモンを導入 * ハイパーバイザ[[bhyve]](8)においてネイティブグラフィック機能をサポート * AArch64(arm64)アーキテクチャのサポート追加 * libblacklist(3)ライブラリおよびアプリケーションを[[NetBSD]]より移植 * 802.11nワイヤレスのサポート追加 * [[OpenSSH]]を7.2.p2へアップデート * OpenSSH DSA鍵生成をデフォルトで無効化およびプロトコル1のサポート廃止 * より多くのワイヤレスネットワークドライバを追加 * svnlite(1)をバージョン1.9.4へアップデート ;11.1-RELEASE<ref name="11.1features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/11.1R/announce.html|title=FreeBSD 11.1-RELEASE Announcement|date=2017-07-26|accessdate=2017-07-28}}</ref><ref name="11.1_News">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20170728-a059/|author=後藤大地|title= FreeBSD 11.1-RELEASE登場 - LLVM 4やHyper-V 2サポート|date=2017-07-28|accessdate=2017-07-28}}</ref> * Clang、LLVM、LLD、LLDB、libc++をバージョン4.0.0へアップデート * Microsoft Hyper-V Generation 2サポートの追加 ;11.2-RELEASE<ref name="11.2features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/11.2R/announce.html|title=FreeBSD 11.2-RELEASE Announcement|date=2018-06-27|accessdate=2018-06-29}}</ref><ref name="11.2_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/18/06/28/154500/|author=末岡洋子|title= 「FreeBSD 11.2-RELEASE」が公開|date=2018-06-28|accessdate=2018-06-29}}</ref> * Clang、LLVM、LLDB、compiler-rtをバージョン6.0.0へアップデート * 特定のDTraceプローブのトリガプロセスを見るdwatch(1)、EFIブートマネージャーの操作ができるefibootmgr(8)、El Toritoブートカタログ情報を閲覧できるetdump(1)などのユーティリティの追加 ;11.3-RELEASE<ref name="11.3_fNews">{{Cite web|和書|url=https://news.mynavi.jp/techplus/article/20190711-857471/|author=後藤大地|title=FreeBSD 11.3-RELEASE登場 |date=2019-07-11|accessdate=2019-08-20}}</ref> * clang、llvm、lld、lldb、compiler-rt、libc++のバージョンは8.0.0にアップデート * ZFSファイルシステムにパラレルマウント機能を追加 ;11.4-RELEASE<ref name="11.4features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/11.4R/announce/|title=FreeBSD 11.4-RELEASE Announcement|date=2020-06-23|accessdate=2022-01-15}}</ref><ref name="11.4_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/20/06/17/170000|author=末岡洋子|title= 「FreeBSD 11.4-RELEASE」リリース、11系最後のリリースに|date=2020-06-17|accessdate=2022-01-15}}</ref> * clang, llvm, lld, lldb, compiler-rt 各ユーティリティは、バージョン10.0.0に更新 * OpenSSLがバージョン1.0.2uに更新 * Unboundがバージョン1.9.6に更新 * pkg(8)ユーティリティがバージョン1.13.2に更新 * KDEデスクトップ環境がバージョン5.18.4.1.19.12.3に更新 * GNOMEデスクトップ環境がバージョン3.28に更新 * ZFSブックマークの名前変更のサポートが追加 * certctl(8)ユーティリティが追加 * ユーザーランドアプリケーションへのいくつかの機能の追加と更新 * 将来のリリースで廃止された機能に関する警告を促す表示開始 * ({{IETF RFC|6649}})および({{IETF RFC|8429}})で非推奨になったKerberosGSSAPIアルゴリズムの警告が追加 ;12.0-RELEASE<ref name="12.0_Release_News" /><ref name="12.0R" /><ref name="12.0_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/18/12/13/153000/|author=末岡洋子|title= 「FreeBSD 12.0-RELEASE」が公開|date=2018-12-13|accessdate=2018-12-13}}</ref> * Clang、LLVM、LLDB、compiler-rtをバージョン6.0.1へアップデート * NUMAオプションがamd64 GENERICとMINIMALカーネル設定でデフォルトで有効となった * jail(8)内部におけるbhyve(8)利用のサポート ;12.1-RELEASE<ref name="12.1features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/12.1R/announce/|title=FreeBSD 12.1-RELEASE Announcement|date=2019-11-04|accessdate=2022-01-15}}</ref> * Cで書かれたSSL/TLSプロトコル({{IETF RFC|5246}})の実装であるBearSSLをベースシステムにインポートした。OpenSSLはバージョン1.1.1dにアップデート * clang、llvm、lld、lldb、compiler-rt、libc++は最新の8.0.1となった。 * zfsでは、ブックマーク向けのsendサブコマンドと合わせて「-v」、「-n」、「-P」フラグのサポートなどが加わった。 ;12.2-RELEASE<ref name="12.2features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/12.2R/announce/|title=FreeBSD 12.2-RELEASE Announcement|date=2020-10-27|accessdate=2022-01-15}}</ref> * 802.11nおよび802.11acのサポートを向上させるために、ワイヤレスネットワークスタックとさまざまなドライバのアップデート * ice(4)ドライバーが追加され、インテル®100Gbイーサネットカードをサポート * jail(8)ユーティリティが更新され、jailされた環境でLinux®を実行可能に * OpenSSLがバージョン1.1.1hに更新 * OpenSSHがバージョン7.9p1に更新 * clang, llvm, lld, lldb, compiler-rtユーティリティはバージョン10.0.1に更新 ;12.3-RELEASE<ref name="12.3features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/12.3R/announce/|title=FreeBSD 12.3-RELEASE Announcement|date=2021-12-07|accessdate=2022-01-15}}</ref> * さまざまなネットワークドライバーの更新 * アップストリームで提供されたソフトウェアに対するいくつかの更新 * いくつかのユーザーランドアプリケーションの改善とカーネルのバグ修正 ;12.4-RELEASE<ref name="12.4features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/12.4R/announce/|title=FreeBSD 12.4-RELEASE Announcement|date=2022-12-05|accessdate=2023-03-07}}</ref> * ena(4) カーネル ドライバーが 2.6.1 に更新 * if_epair(4) ドライバーでは、複数のコアを使用してトラフィックを処理し、パフォーマンスを向上 * unbound(8) ユーティリティがバージョン 1.16.3 に更新 * telnetd(8) デーモンは廃止 * tcpdump(1) ユーティリティでは、pflog ヘッダーの一部として公開されるルールに番号を設定可能 * OpenSSL が 1.1.1q に更新 * OpenSSH が 9.1p1 に更新 * LLVM ツールチェーン スイートがバージョン 13.0.0 に更新 * dma(8) ユーティリティがスナップショット 2022-01-27 に更新 * file(1) ユーティリティがバージョン 5.43 に更新 * libarchive(3) ライブラリがバージョン 3.6.0 に更新 ;13.0-RELEASE<ref name="13.0features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/13.0R/announce/|title=FreeBSD 13.0-RELEASE Announcement|date=2021-04-13|accessdate=2022-01-15}}</ref><ref name="13.0_News">{{Cite web|和書|url=https://mag.osdn.jp/21/04/16/155000|author=末岡洋子|title= 「FreeBSD 13.0-RELEASE」が公開|date=2021-04-15|accessdate=2022-01-15}}</ref> * clang、lld、およびlldbユーティリティとcompiler-rt、llvm、libunwind、およびlibc ++ライブラリがバージョン11.0.1に更新 * crackinfo(8)で使用するために /usr/libexec にインストールされていた古いバージョンのGNUデバッガーを削除 * 廃止されたbinutils2.17とgcc(1)4.2.1をツリーから削除 * BSDバージョンのgrep(1)が標準導入、以前標準であったGNU版は削除 * libalias(3)からCU-SeeMeサポートを削除 * qat(4)ドライバーが追加 * いくつかの非推奨のドライバーが削除 * いくつかのドライバーがPowerPC64アーキテクチャーに移植 * カーネルは、TLSバージョン1.0から1.3のTCPソケットでのトランスポート層セキュリティ(TLS)データのカーネル内フレーミングと暗号化をサポート * arm64またはAArch64として知られる64ビットARMアーキテクチャは、FreeBSD13のTier-1ステータスに昇格 ;13.1-RELEASE<ref name="13.1features">{{cite web |url=https://www.freebsd.org/releases/13.1R/announce/|title=FreeBSD 13.1-RELEASE Announcement|date=2022-05-16|accessdate=2022-07-13}}</ref> * [[OpenSSH]]をバージョン8.8p1に更新 * OpenSSLをバージョン1.1.1oに更新 * sshでFIDO/U2Fハードウェア認証の使用が可能になり、新しく公開鍵タイプecdsa-skとed25519-skと、それらに対応した証明書タイプを使用するようになった * ice(4)ドライバを1.34.2-kに更新、ファームウェアのロギングと初期のDCB対応を追加 * より新しい Intel Wireless チップセット用の iwm(4) を補完するためにiwlwifi(4)ドライバと LinuxKPI 802.11 互換レイヤを追加 * [[ZFS]]をOpenZFS release 2.1.4に更新 * [[Amazon_Elastic_Compute_Cloud|EC2]]イメージは、デフォルトでレガシーなBIOSではなくUEFIを使用してブートするようにビルドされるようになった ;13.2-RELEASE<ref name="13.2features">{{Cite web|和書|url=https://codezine.jp/article/detail/17655/|title=FreeBSDプロジェクト、「FreeBSD 13.2-RELEASE」の提供を開始|work=コードジン |publisher=[[翔泳社]]|date=2023-04-13|accessdate=2023-04-16}}</ref><ref name="13.2-RELEASE" /> * [[OpenSSH]]をバージョン9.2p1に更新 * OpenSSLをバージョン1.1.1tに更新 * bhyveハイパーバイザがゲストで16を超えるvCPUをサポート * ZFSをOpenZFS release 2.1.9に更新 == 対応アーキテクチャ == FreeBSDでは、2023年現在、対応アーキテクチャを「Tier 1~4」までの4段階で管理している<ref name=handbook18>[https://www.freebsd.org/doc/en_US.ISO8859-1/articles/committers-guide/archs.html Support for Multiple Architectures]</ref>。 === Tier 1 === 最新のRELEASE版について、公式サイトにてインストールイメージが配布されている[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]。いわゆる「フルサポートアーキテクチャ」であり、ドキュメントなどもまずはこの層に属するアーキテクチャ向けに整備される。 * [[x64|AMD64]] ** [[インテル]]、[[アドバンスト・マイクロ・デバイセズ|AMD]]等のCPU向けの一般的な64ビットCPU。 * [[ARMアーキテクチャ|Arm64]]<ref>[https://www.freebsd.org/ja/platforms/arm.html FreeBSD/ARM プロジェクト]</ref> ** 64ビットシステムの ARMv8 (aarch64) をサポートしている。 ** [[Raspberry Pi]]等の多数の著名な[[シングルボードコンピュータ]]も含む。これらは公式でSDカードイメージが配布されている。 === Tier 2 === 開発・サポートプロジェクトが継続しているアーキテクチャ。公式サイトでインストールイメージも配布されているが、熟成度が低いとされて部分的なサポートのみとなっている。 * [[Intel 80386|i386]] ** 一般的な[[x86]]ベースの32ビット[[CPU]]。 * [[ARMアーキテクチャ|Arm]] ** 32ビットシステムの ARMv6 (armv6) と ARMv7 (armv7) をサポートしている。ただし、armv6 は14.xでTier 3となる。ARMv4/5 (arm) は13.x以降サポート終了。 ** [[Raspberry Pi]]等の多数の著名な[[シングルボードコンピュータ]]も含む。これらは公式でSDカードイメージが配布されている。 * [[SPARC]] ** 「sparc64」として64ビットシステムのみサポートされている。ただし、13.x以降サポート終了。 * [[PowerPC]] ** 32ビットシステムの「powerpc」と64ビットシステムの「powerpc64」の両方をサポートしている。 * [[MIPS]] ** 13.xはTier 2だが、14.x以降サポート終了。 === Tier 3 === 試験的に開発が行われているアーキテクチャ。開発状況によっては予告なくFreeBSDのソースツリーから外される可能性がある<ref name=handbook18 />。 * [[RISC-V]] ** riscv64は、12.xはTier 3だが、13.x以降Tier 2。 ** riscv64sf (soft-float)は、12.xはTier 3。13.xでTier 2に昇格したが、14.x以降サポート終了。 === Tier 4 === 完全にサポート外のアーキテクチャ<ref name=handbook18 />。 === 過去に対応していたアーキテクチャ === * [[DEC Alpha]] - 6.x系までサポート。 * [[Xbox (ゲーム機)|Xbox]] - 6.x系で一時開発されていた<ref>[https://www.freebsd.org/platforms/xbox.html FreeBSD/xbox Project]</ref>。 * [[IA-64]](インテル [[Itanium]])- 10.x系まで。 * [[PC-9800シリーズ]] - FreeBSD(98)移植チームにより、2.1.7.1から5.5まで「FreeBSD(98)」としてリリースされた<ref>[http://www.jp.freebsd.org/pc98/releases/ FreeBSD(98) リリース状況]</ref>。FreeBSD本体で「FreeBSD/pc98」として公式サポートが始まったのは5.0からである。以降8.x系までTier 1だったが、9.x系以降はTier 2になり、pc98のISO Imageはリリースされていない<ref>[https://www.freebsd.org/releases/9.0R/announce.html FreeBSD 9.0-RELEASE Announcement]</ref>。12.x系でTier 4へ移行し、pc98のソースコードは削除された<ref>[https://www.freebsd.org/ja/platforms/pc98.html FreeBSD/pc98 プロジェクト]</ref>。 == ロゴ == {{See also|BSDデーモン}} 長年、FreeBSDのロゴはBeastieとも呼ばれる通常のBSDデーモンであった。しかしながら、Beastieは、FreeBSDに特有のものではなかった。最初に現れたのは[[1976年]]の[[ベル研究所]]による[[UNIX]]Tシャツであり、最も人気のあるBSDデーモンのバージョンは[[アニメ監督]]の[[ジョン・ラセター]]によって[[1984年]]に描かれ始めたものである<ref name="saving-unix">{{cite web |publisher = minnie.tuhs.org |url = http://minnie.tuhs.org/Seminars/Saving_Unix/ |title = Saving UNIX from /dev/null |accessdate = 15 December 2007 }}</ref>。いくつかのFreeBSDに特有のバージョンは、細川達己によって後に描かれたものである<ref name="daemon">{{cite web |publisher = FreeBSD.org |url = //www.freebsd.org/copyright/daemon.html |title = The BSD Daemon |accessdate = 15 December 2007 }}</ref>。 == 関連プロジェクト、関連ディストリビューション == === FreeSBIEプロジェクト === {{main|FreeSBIE}} [[FreeSBIE]]プロジェクトは、FreeBSDベースの[[Live CD]]環境を提供している。 === TrueNAS(旧FreeNAS)プロジェクト === {{main|TrueNAS}} [[TrueNAS]](旧FreeNAS)プロジェクトは、FreeBSDベースの、Webベースでの操作を可能とした[[ネットワークアタッチトストレージ|NAS]]ファイルサーバ用OS環境を提供している。 === XigmaNAS(旧NAS4Free)プロジェクト === {{main|XigmaNAS}} [[XigmaNAS]]プロジェクトは、FreeNASプロジェクトから分離したNASファイルサーバ用OS環境プロジェクトである。 === TrueOS(旧PC-BSD)プロジェクト === {{main|TrueOS}} TrueOS(旧PC-BSD)プロジェクトは、FreeBSDをデスクトップ・サーバと両方に対応したディストリビューションを提供している。 === HardenedBSD プロジェクト === [[HardenedBSD]]は、セキュリティ対策を拡充するため[[2014年]]にフォークしたディストリビューション。 == 使用例 == * PlayStation 5 - 既知のFreeBSDの脆弱性が残った状態で出荷されたと指摘がある<ref>{{Cite web|和書|title=またFreeBSDの脆弱性 今度はPS5のカーネルexploitの可能性 {{!}} 大人のためのゲーム講座 |url=https://gamegaz.com/2022120537629/ |website=gamegaz.com |date=2022-12-04 |access-date=2023-01-11 |language=ja |last=mamosuke}}</ref>。 * [[PlayStation 4]] - 搭載されるOS「Orbis OS」はFreeBSD 9.0ベースである<ref>{{Cite web|和書|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/596857.html|title=PlayStation 4のGPUコンピュート機能|publisher=PC Watch|language=日本語|date=2013-04-22|author=後藤弘茂|accessdate=2013-05-30}}</ref>。 * [[PlayStation Vita]] - 搭載されているOSにFreeBSDが使用されている<ref>{{cite web|url=http://www.scei.co.jp/psvita-license/freebsd.html|title=FreeBSD License|publisher=Sony Computer Entertainment Inc.|language=日本語|date=2011|author=Sony Computer Entertainment Inc.|accessdate=2013-05-30}}</ref><ref name="名前なし-2">{{Cite web|和書|url=http://gihyo.jp/admin/clip/01/fdt/201301/09|title=FreeBSDが使われているハードウェア : PlayStation 3 / PlayStation Vita|publisher=技術評論社|language=日本語|date=2013-01-09|author=後藤大地|accessdate=2013-05-30}}</ref>。 * [[PlayStation 3]] - 搭載されているOSにFreeBSDが使用されている<ref>{{cite web|url=http://www.scei.co.jp/ps3-license/freebsd.html|title=FreeBSD License|publisher=Sony Computer Entertainment Inc.|language=日本語|date=2010|author=Sony Computer Entertainment Inc.|accessdate=2013-05-30}}</ref><ref name="名前なし-2"/>。 * [[Nintendo Switch]] - [[任天堂]]が公式にアナウンスをしているわけではないが、本体の知的財産表記にFreeBSDカーネルの権利表記が掲載されており、少なくともコンポーネントの一部を用いていることが確認できる<ref>{{Cite web|和書|url=https://smhn.info/201703-nintendo-switch-running-freebsd-os |title=ニンテンドースイッチ、OSはFreeBSDベースと判明。プレステ4と同じ |access-date=2023/01/11 |publisher=すまほん編集部 |date=2017/03/04}}</ref>。 * [[VIERA]] - インターネットサービス「ビエラ・コネクト」に利用されているOSはFreeBSDベースである<ref>{{Cite web|和書|url=http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20120406/1040371/|title=「スマートAVライフ」はパナソニック復活の切り札になるか?(後編)|publisher=日経BP社|language=日本語|date=2012-04-09|author=増田和夫|accessdate=2013-05-30}}</ref>。 * [[JUNOS]] - OSはFreeBSDカーネルをベースとしている。 * [[OpenServer]] - OpneServer 10よりFreeBSDベースとなった<ref>{{cite web|url=https://www.xinuos.com/menu-products/openserver-10|title=OpenServer 10|publisher=[[Xinuos]]|language=英語|date=|accessdate=2018-06-15}}</ref>。 * [[Apple]]社の[[macOS]] - 基盤となる[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]がFreeBSDの一部機能を取り入れている<ref>{{Cite web|和書|title=@IT:[Interview] Mac OS v10がBSD系UNIXでなければならなかった理由|url=https://www.atmarkit.co.jp/news/200303/01/appleosx.html|website=www.atmarkit.co.jp|accessdate=2019-03-07}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} * [[FreeBSDディストリビューション]] * [[FreeBSD jail]] * [[Berkeley Software Distribution]] * [[BSDの子孫]] * [[macOS]] * [[DragonFly BSD]] * [[NetBSD]] * [[OpenBSD]] * [[TrueOS]] * [[Lumina]] - BSD(BSDの子孫)向けに開発された軽量[[デスクトップ環境]]。 * [[Unix File System]] - FreeBSDのファイルシステム。5.xからはUFS2を採用。 * [[ZFS]] - 新しいファイルシステム。FreeBSD 8.0で正式に搭載されている。 * [[DTrace]] 7.1より採用。 * [[VIMAGE]] - Network Stack Virtualization。FreeBSD 8.2にて、「VIMAGE(virtualized network stack) is a highly experimental feature」のような「WARNING」を告げられる。FreeBSD 9.1-RELEASEでも「WARNING」は変わらず。主支援は[http://imunes.tel.fer.hr/virtnet/ The FreeBSD Network Stack Virtualization Project]にて。 * [[ジャーナリングファイルシステム]] - FreeBSD 9 以降で、FreeBSD FFSにおいて従来からのSoft Updatesに加えジャーナリング機能が追加されたJournaled Soft Updates (SU+J)が使えるようになっている。 * [[FreeBSDでKDE2にパッチをあてるにはどうすればよいですか?]] - ロシアで流行した[[インターネットスラング]] == 外部リンク == {{commonscat|FreeBSD}} *オフィシャルページ ** {{Official website|https://www.freebsd.org/ja/}} ** [https://forums.freebsd.org/ The FreeBSD Forums] ** [https://www.freebsdfoundation.org/ FreeBSD財団] ** [http://www.koganemaru.co.jp/search.html FreeBSD 日本語マニュアル検索] ** [http://www.jp.FreeBSD.org/ Japan FreeBSD Users Group] *ニュース ** [https://www.freebsd.org/ja/news/newsflash.html FreeBSD newsflash] ** [https://www.freebsd.org/ja/news/press.html FreeBSD in the Press] ** [https://gihyo.jp/admin/clip/01/fdt FreeBSD Daily Topics] ** [http://news.bsdplanet.net/ BSD Planet]{{リンク切れ|date=2020年9月}} ** [http://www.bsdnewsletter.com/ BSD Newsletter] ** [https://www.osnews.com/topic/freebsd/ OSNews.com] ** [https://bsdtalk.blogspot.com/ BSDtalk Podcasts] *ソフトウェア ** [https://www.freebsd.org/ja/ports/ FreeBSD Ports] ** 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よしづきくみち
よしづき くみち(1月26日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、埼玉県越谷市在住。左利き。 2002年に『月刊コミックドラゴン』(富士見書房)掲載の「Living Quarter」でデビュー。同年に同誌で連載開始した『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)で連載デビューし、代表作となった。2023年から「現代ビジネス」(講談社)サイト上において『南海トラフ巨大地震』(原作:biki)を連載中。 「よしづ / きくみち」と誤解(ぎなた読み)されることがあるが、氏名は「よしづき / くみち」と区切るのが正しい。 東京都で生まれる。小学生のころに姉の影響で漫画を読み始め、漫画の絵を真似して描くうちに漫然と漫画家を志すようになった。当時はとりわけ桂正和の『ウイングマン』を熱心に読んでいたという。 中学校時代はイラスト部に所属し、作品展に出品したイラストを褒められた経験から改めて「絵の仕事で食べていこう」と考える。このころ山本二三の描く背景が好きになり、これが背景にこだわりを持って描くという自分のスタイルの元になっているとして、よしづきは山本を「最も影響を受けた人」の一人に挙げている。 高校卒業後、専門学校へ進むも「自分で勉強して投稿した方が早いな」と考えて中退。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)に2回投稿したが実らず、当時好きでよく読んでいた『月刊アフタヌーン』(講談社)に投稿し、1993年と1994年にアフタヌーン四季賞佳作を受賞した。デビューに向けて短編のネームを担当編集者に見せる日々を送っていたが、「少々ネーム作りに疲れていた」ところに漫画家の藤島康介がアシスタントを必要としているという話を聞き、『ああっ女神さまっ』の作画アシスタントとなった。 アシスタントを始めてしばらくしたころ、藤島の職場にパソコンとペンタブレットが導入され、初めて使ったペイントソフトに「これ使えばもう描けない絵なんてないじゃん」と思うほどの強い衝撃を受ける。やがて自分でも購入し、2000年に自身のホームページ「つちのこ準星群」を開設。翌2001年、ホームページで公開していたイラストが富士見書房の編集者の目に留まり、「原作つきの作品をやってみないか」と誘いを受けた。その誘いを一旦保留とした上で、同社刊行の『月刊コミックドラゴン』2002年2月号にて「Living Quarter」を発表。新人賞受賞から約8年越しのデビューを果たした。 「Living Quarter」を描く中で「話の構成がいちばんむずかしい」と力不足を感じ、「原作つきで修行させてもらえるのはやっぱりありがたいな」と考えて当初の誘いを引き受ける。こうして2002年5月、藤島のアシスタントを辞めて同誌にて『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)の連載を開始し、連載デビューした。同作はアニメ化や小説化もされるヒット作となってシリーズ化。翌2003年に連載開始したシリーズ第2作『魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道』(同原作)でもよしづきが作画を担当した。 2006年の『太陽と風の坂道』連載終了後、2008年のシリーズ第3作『魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜』(同原案)ではストーリーからよしづきが担当。また同年には『夏のソラ』の連載と並行し、同名実写映画を原作とした『フレフレ少女』(原作:橋本裕志・渡辺謙作)も『スーパージャンプ』(集英社)にて連載した。 2009年、『オースーパージャンプ』(集英社)に不定期連載として発表していた『君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜』が毎号連載化し、初のオリジナル連載作品となる。2度の連載誌移籍を経て2012年に連載終了した後は、集英社の青年誌と講談社の少年誌を行き来しながら作品を発表。2017年から2018年にかけては『8畳カーニバル』を『週刊少年マガジン』(講談社)にて連載し、オリジナル作品では初の週刊連載となった。 その後、『8畳カーニバル』を読んだ編集者に声をかけられ、2019年に『月刊アフタヌーン』(講談社)にて『ああっ女神さまっ』のスピンオフ作品『ああっ就活の女神さまっ』を連載開始。アフタヌーン四季賞佳作を受賞して以来初めて同誌での連載を果たすとともに、かつて作画アシスタントを務めた『ああっ女神さまっ』に再び関わることとなった。 よしづきの作風は、「抒情派絵師」(集英社)、「叙情派作家の雄」(白泉社)など、出版社の宣伝文句においては「抒情(叙情)派」と形容されることがある。特に透明感溢れる作画には定評があり、デジタル作画ながらアナログらしさを意識した絵作りが特徴。 『月刊ニュータイプ』2003年3月号では、「藤島康介先生のアシスタント〔中略〕がいちばん勉強になりました」「カメラから学んだことってものすごくいっぱいあるんですよ」といった本人の談を紹介し、「アシスタント経験プラス趣味の幅広さが現在の作風に大きく影響したようだ」と分析している。 よしづきのイラストは、「繊細なキャラクターと光あふれる風景」という2つの要素から特徴づけて評される。よしづき自身、キャラクターと背景のバランスは「すごく気をつかう部分」であると語っている。 よしづきの描く少女は、「息吹を感じさせるやわらかな少女イラスト」(『パレッタ』2002年秋号)、「キャラクターのやわらかな表情」(『ニュータイプ』2003年3月号)など、しばしば「やわらか」という形容動詞を伴って称賛される。また、脚本家・漫画原作者の横幕智裕は、『マギの贈り物』巻末解説において「よしづき先生の描く女の子は、〔中略〕明るい表情、切ない表情、泣き顔、さまざまな表情が実に魅力的」と評している。 一方で背景の描写も評価が高く、光と大気を意識した奥行きのある風景描写を『コミックス・ドロウイング』4号では「淡い世界に広がる空気感」と表現している。その緻密さも特徴的で、よしづきのアシスタントを一時期務めていた漫画家の渡辺獏人は「よしづき氏は徹底的に背景絵にリアルさを追求していた。例えば家の掃きだし窓のサッシを描く場合でも、棧(さん)の上側と下側の幅が違う事に注意して描く」と紹介している。なお、背景の多くは資料を多用せず、自身で撮った写真や覚えているイメージを中心に描き下ろすという。 趣味はバイク、写真、天体、キャンプなど広範囲に渡るほか、交友のあるCLAMP・猫井椿から「猫ばか」と呼ばれたことがあるほどの愛猫家でもある。 特にバイクは趣味として最初に挙げられることが多い。愛機の車種はCBR600RR。16歳の時にNSR250Rを購入して以来、バイクを所有していなかった時期はないといい、「アクセルを開けばすぐにあのころの青春モードに心を乗せることができる」と語っている。 また、写真はアシスタント時代に先輩の勧めでカメラを始めて以来の趣味であり、その体験は自身の描くイラストにも活かされているという。「カメラを知って以降は、光や陰影の捉え方についてが大きく変わりました」と語り、レンズを意識した構図や光彩の表現など多くのことを学んだと述べている。 当該イラストが初出の商業媒体のみ掲載。★はイラストが『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』に収録されているもの。 全て角川書店(当時)またはKADOKAWAからの発行。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "よしづき くみち(1月26日 - )は、日本の男性漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、埼玉県越谷市在住。左利き。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2002年に『月刊コミックドラゴン』(富士見書房)掲載の「Living Quarter」でデビュー。同年に同誌で連載開始した『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)で連載デビューし、代表作となった。2023年から「現代ビジネス」(講談社)サイト上において『南海トラフ巨大地震』(原作:biki)を連載中。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「よしづ / きくみち」と誤解(ぎなた読み)されることがあるが、氏名は「よしづき / くみち」と区切るのが正しい。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "東京都で生まれる。小学生のころに姉の影響で漫画を読み始め、漫画の絵を真似して描くうちに漫然と漫画家を志すようになった。当時はとりわけ桂正和の『ウイングマン』を熱心に読んでいたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "中学校時代はイラスト部に所属し、作品展に出品したイラストを褒められた経験から改めて「絵の仕事で食べていこう」と考える。このころ山本二三の描く背景が好きになり、これが背景にこだわりを持って描くという自分のスタイルの元になっているとして、よしづきは山本を「最も影響を受けた人」の一人に挙げている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "高校卒業後、専門学校へ進むも「自分で勉強して投稿した方が早いな」と考えて中退。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)に2回投稿したが実らず、当時好きでよく読んでいた『月刊アフタヌーン』(講談社)に投稿し、1993年と1994年にアフタヌーン四季賞佳作を受賞した。デビューに向けて短編のネームを担当編集者に見せる日々を送っていたが、「少々ネーム作りに疲れていた」ところに漫画家の藤島康介がアシスタントを必要としているという話を聞き、『ああっ女神さまっ』の作画アシスタントとなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "アシスタントを始めてしばらくしたころ、藤島の職場にパソコンとペンタブレットが導入され、初めて使ったペイントソフトに「これ使えばもう描けない絵なんてないじゃん」と思うほどの強い衝撃を受ける。やがて自分でも購入し、2000年に自身のホームページ「つちのこ準星群」を開設。翌2001年、ホームページで公開していたイラストが富士見書房の編集者の目に留まり、「原作つきの作品をやってみないか」と誘いを受けた。その誘いを一旦保留とした上で、同社刊行の『月刊コミックドラゴン』2002年2月号にて「Living Quarter」を発表。新人賞受賞から約8年越しのデビューを果たした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "「Living Quarter」を描く中で「話の構成がいちばんむずかしい」と力不足を感じ、「原作つきで修行させてもらえるのはやっぱりありがたいな」と考えて当初の誘いを引き受ける。こうして2002年5月、藤島のアシスタントを辞めて同誌にて『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』(原作:山田典枝)の連載を開始し、連載デビューした。同作はアニメ化や小説化もされるヒット作となってシリーズ化。翌2003年に連載開始したシリーズ第2作『魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道』(同原作)でもよしづきが作画を担当した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "2006年の『太陽と風の坂道』連載終了後、2008年のシリーズ第3作『魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜』(同原案)ではストーリーからよしづきが担当。また同年には『夏のソラ』の連載と並行し、同名実写映画を原作とした『フレフレ少女』(原作:橋本裕志・渡辺謙作)も『スーパージャンプ』(集英社)にて連載した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2009年、『オースーパージャンプ』(集英社)に不定期連載として発表していた『君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜』が毎号連載化し、初のオリジナル連載作品となる。2度の連載誌移籍を経て2012年に連載終了した後は、集英社の青年誌と講談社の少年誌を行き来しながら作品を発表。2017年から2018年にかけては『8畳カーニバル』を『週刊少年マガジン』(講談社)にて連載し、オリジナル作品では初の週刊連載となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その後、『8畳カーニバル』を読んだ編集者に声をかけられ、2019年に『月刊アフタヌーン』(講談社)にて『ああっ女神さまっ』のスピンオフ作品『ああっ就活の女神さまっ』を連載開始。アフタヌーン四季賞佳作を受賞して以来初めて同誌での連載を果たすとともに、かつて作画アシスタントを務めた『ああっ女神さまっ』に再び関わることとなった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "よしづきの作風は、「抒情派絵師」(集英社)、「叙情派作家の雄」(白泉社)など、出版社の宣伝文句においては「抒情(叙情)派」と形容されることがある。特に透明感溢れる作画には定評があり、デジタル作画ながらアナログらしさを意識した絵作りが特徴。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『月刊ニュータイプ』2003年3月号では、「藤島康介先生のアシスタント〔中略〕がいちばん勉強になりました」「カメラから学んだことってものすごくいっぱいあるんですよ」といった本人の談を紹介し、「アシスタント経験プラス趣味の幅広さが現在の作風に大きく影響したようだ」と分析している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "よしづきのイラストは、「繊細なキャラクターと光あふれる風景」という2つの要素から特徴づけて評される。よしづき自身、キャラクターと背景のバランスは「すごく気をつかう部分」であると語っている。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "よしづきの描く少女は、「息吹を感じさせるやわらかな少女イラスト」(『パレッタ』2002年秋号)、「キャラクターのやわらかな表情」(『ニュータイプ』2003年3月号)など、しばしば「やわらか」という形容動詞を伴って称賛される。また、脚本家・漫画原作者の横幕智裕は、『マギの贈り物』巻末解説において「よしづき先生の描く女の子は、〔中略〕明るい表情、切ない表情、泣き顔、さまざまな表情が実に魅力的」と評している。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方で背景の描写も評価が高く、光と大気を意識した奥行きのある風景描写を『コミックス・ドロウイング』4号では「淡い世界に広がる空気感」と表現している。その緻密さも特徴的で、よしづきのアシスタントを一時期務めていた漫画家の渡辺獏人は「よしづき氏は徹底的に背景絵にリアルさを追求していた。例えば家の掃きだし窓のサッシを描く場合でも、棧(さん)の上側と下側の幅が違う事に注意して描く」と紹介している。なお、背景の多くは資料を多用せず、自身で撮った写真や覚えているイメージを中心に描き下ろすという。", "title": "作風" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "趣味はバイク、写真、天体、キャンプなど広範囲に渡るほか、交友のあるCLAMP・猫井椿から「猫ばか」と呼ばれたことがあるほどの愛猫家でもある。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "特にバイクは趣味として最初に挙げられることが多い。愛機の車種はCBR600RR。16歳の時にNSR250Rを購入して以来、バイクを所有していなかった時期はないといい、「アクセルを開けばすぐにあのころの青春モードに心を乗せることができる」と語っている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、写真はアシスタント時代に先輩の勧めでカメラを始めて以来の趣味であり、その体験は自身の描くイラストにも活かされているという。「カメラを知って以降は、光や陰影の捉え方についてが大きく変わりました」と語り、レンズを意識した構図や光彩の表現など多くのことを学んだと述べている。", "title": "趣味" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "当該イラストが初出の商業媒体のみ掲載。★はイラストが『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』に収録されているもの。", "title": "作品リスト" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "全て角川書店(当時)またはKADOKAWAからの発行。", "title": "作品リスト" } ]
よしづき くみちは、日本の男性漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、埼玉県越谷市在住。左利き。 2002年に『月刊コミックドラゴン』(富士見書房)掲載の「Living Quarter」でデビュー。同年に同誌で連載開始した『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』で連載デビューし、代表作となった。2023年から「現代ビジネス」(講談社)サイト上において『南海トラフ巨大地震』を連載中。 「よしづ / きくみち」と誤解(ぎなた読み)されることがあるが、氏名は「よしづき / くみち」と区切るのが正しい。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = よしづき くみち | 画像 = <!-- 画像ファイル名 --> | 画像サイズ = <!-- 空白の場合は220px --> | 脚注 = <!-- 画像の説明文 --> | 本名 = <!-- 必ず出典を付ける --> | 生年 = {{生年月日と年齢| |1|26}}<ref name="twitter_2017-01-26" /> | 生地 = [[日本]]・[[東京都]]<ref name ="eshi100_203" /> | 没年 = <!-- {{死亡年月日と没年齢| |1|26|YYYY|YY|YY}} --> | 没地 = <!-- [[日本]]・XX都道府県YY市区町村 --> | 職業 = [[漫画家]]<br>[[イラストレーター]] | 称号 = <!-- 国家からの称号・勲章。学位は取得学校名、取得年を記載 --> | 活動期間 = 2002年 - | ジャンル = [[少年漫画]]<br>[[青年漫画]] | 代表作 = 『[[魔法遣いに大切なこと]]』シリーズ<ref name="dreamnews" /><ref name="furyu" /> | 受賞 = <!-- 出版社の賞など。新人賞については基本的に記載しません --> | サイン = <!-- 画像ファイル名 --> | 公式サイト = [http://www.tuchinoko.com つちのこ準星群] }} '''よしづき くみち'''([[1月26日]]<ref name="twitter_2017-01-26" /> - )は、日本の男性<ref name ="eshi100_215" />[[漫画家]]、[[イラストレーター]]。[[東京都]]生まれ<ref name ="eshi100_203" />、[[埼玉県]][[越谷市]]在住<ref>{{Cite book|和書|editor=越谷市制施行60周年記念事業推進市民委員会記念誌・広報部会 |title=越谷市制施行60周年記念誌 |date=2018-11 |publisher=越谷市 |url=https://www.city.koshigaya.saitama.jp/kurashi_shisei/shisei/koho/guide/koshigaya60_memorialmagazine_files_koshigaya60.pdf |format=PDF |accessdate=2020-10-24 |page=96 |chapter=第5章 越谷ゆかりの著名人 |chapterurl=https://www.city.koshigaya.saitama.jp/kurashi_shisei/shisei/koho/guide/koshigaya60_memorialmagazine_files_koshigaya60_9.pdf}}</ref>。[[左利き]]<ref>[[#betsumaga 2013|『別冊少年マガジン』2013年4月号]]、241頁。</ref>。 2002年に『[[月刊コミックドラゴン]]』([[富士見書房]])掲載の「Living Quarter」でデビュー。同年に同誌で連載開始した『[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers]]』(原作:[[山田典枝]])で連載デビューし、代表作<ref name="dreamnews" /><ref name="furyu" />となった。2023年から「現代ビジネス」([[講談社]])サイト上において『南海トラフ巨大地震』(原作:biki)を連載中<ref group="注" name="as_of" />。 「'''よしづ / きくみち'''」と誤解([[ぎなた読み]])されることがあるが、氏名は「'''よしづき / くみち'''」と区切るのが正しい<ref>{{Cite web|和書|url=https://kc.kodansha.co.jp/product?item=0000017642 |title=『クーロンフィーユ(1)』(よしづき くみち) |accessdate=2019-05-30 |website=講談社コミックプラス |publisher=講談社}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://peing.net/ja/q/a12ccc1c-f73c-4ae2-82de-95524ba99fda |title=よしづ先生なのかよしづき先生なのか毎回どっちだっけ?となってしまいます。 |accessdate=2019-05-30 |date=2019-04-04 |website=Peing -質問箱-}}</ref>。 <!--漢字表記(中国語表記)、姓名の区切りを誤解される要因については、過去の議論により記事には掲載しないことになっています。同様の内容を掲載したい場合は記事を編集する前にノートで議論を再提起してください--> == 来歴 == === デビューまで === [[東京都]]で生まれる<ref name ="eshi100_203" />。小学生のころに姉の影響で[[漫画]]を読み始め、漫画の絵を真似して描くうちに漫然と漫画家を志すようになった<ref name="Calendar Film_104" />。当時はとりわけ[[桂正和]]の『[[ウイングマン]]』を熱心に読んでいたという<ref name="Calendar Film_104" />。 中学校時代はイラスト部に所属し、作品展に出品したイラストを褒められた経験から改めて「絵の仕事で食べていこう」と考える<ref name="Calendar Film_104" />。このころ[[山本二三]]の描く[[背景]]が好きになり、これが背景にこだわりを持って描くという自分のスタイルの元になっているとして、よしづきは山本を「最も影響を受けた人」の一人に挙げている<ref name="Calendar Film_104" />。 高校卒業後、[[専門学校]]へ進むも「自分で勉強して投稿した方が早いな」と考えて中退<ref name="Calendar Film_105" />。『[[週刊ビッグコミックスピリッツ]]』([[小学館]])に2回投稿したが実らず、当時好きでよく読んでいた『[[月刊アフタヌーン]]』([[講談社]])に投稿し<ref name="Calendar Film_105" />、1993年と1994年に[[アフタヌーン四季賞]]佳作を受賞した<ref name ="SS1_193" />。デビューに向けて短編の[[ネーム (漫画)|ネーム]]を担当[[漫画編集者|編集者]]に見せる日々を送っていたが、「少々ネーム作りに疲れていた」<ref name ="SS1_193" />ところに漫画家の[[藤島康介]]が[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を必要としているという話を聞き<ref name="Calendar Film_105" />、『[[ああっ女神さまっ]]』の作画アシスタントとなった<ref name ="SS1_193" />。 アシスタントを始めてしばらくしたころ、藤島の職場に[[パソコン]]と[[ペンタブレット]]が導入され、初めて使った[[ペイントソフト]]に「これ使えばもう描けない絵なんてないじゃん」と思うほどの強い衝撃を受ける<ref name ="SS1_192" />。やがて自分でも購入し、2000年に自身の[[ホームページ]]「つちのこ準星群」を開設<ref name="Paletta" />。翌2001年、ホームページで公開していたイラストが富士見書房の編集者の目に留まり、「原作つきの作品をやってみないか」と誘いを受けた<ref name="Paletta" />。その誘いを一旦保留とした上で<ref name="Paletta" />、同社刊行の『[[月刊コミックドラゴン]]』2002年2月号にて「Living Quarter」を発表。新人賞受賞から約8年越しのデビューを果たした<ref name ="SS1_192" /><ref group="注">イラストレーターとしては2000年に『カラフル萬福星』([[ビブロス (出版社)|ビブロス]])15号にてオリジナルカラーイラストを'''kojita'''名義で発表し、デビューしている。</ref>。 === 原作付き作品のヒット === 「Living Quarter」を描く中で「話の構成がいちばんむずかしい」と力不足を感じ、「原作つきで修行させてもらえるのはやっぱりありがたいな」と考えて当初の誘いを引き受ける<ref name="Paletta" />。こうして2002年5月、藤島のアシスタントを辞めて<ref name="Calendar Film_105" />同誌にて『[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers]]』(原作:[[山田典枝]])の連載を開始し、連載デビューした。同作は[[アニメ化]]や[[小説化]]もされるヒット作<ref name="natalie" />となってシリーズ化。翌2003年に連載開始したシリーズ第2作『[[魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道]]』(同原作)でもよしづきが作画を担当した<ref>{{Cite web|和書|url=https://mangapedia.com/魔法遣いに大切なこと太陽と風の坂道-9594vkadn |title=魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道(漫画) |accessdate=2020-06-18 |website=マンガペディア |publisher=百科綜合リサーチ・センター、株式会社リンクトデータ、株式会社VOYAGEGROUP}}</ref>。 2006年の『太陽と風の坂道』連載終了後、2008年のシリーズ第3作『[[魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]』(同原案)ではストーリーからよしづきが担当<ref>{{Cite book|和書|author=よしづきくみち |title=魔法遣いに大切なこと~夏のソラ~ |edition=初版 |date=2008-06-26 |publisher=[[角川書店]] |volume=1巻 |isbn=978-4-04-715073-7 |page=175}}</ref>。また同年には『夏のソラ』の連載と並行し、同名[[実写映画]]を原作とした<ref>{{Cite news |和書|title=映画で企画、漫画を作る 「コミカライズ」が隆盛 |newspaper=asahi.com |date=2008-09-10 |author=高橋昌宏 |url=https://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200809100057.html |accessdate=2020-06-18 |publisher=[[朝日新聞社]]}}</ref>『[[フレフレ少女]]』(原作:[[橋本裕志]]・[[渡辺謙作]])も『[[スーパージャンプ]]』([[集英社]])にて連載した<ref name="natalie" />。 === 初のオリジナル連載開始以降 === 2009年、『[[オースーパージャンプ]]』([[集英社]])に不定期連載として発表していた『[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]』が毎号連載化し<ref name="natalie_2009-3-6" />、初のオリジナル連載作品となる<ref name="blog_2009-12-27" />。2度の連載誌移籍を経て2012年に連載終了<ref>{{Cite news |和書|title=中国人作家がグラジャンPで初連載、次号ancouが連載で |newspaper=コミックナタリー |date=2012-06-22 |url=https://natalie.mu/comic/news/71583 |accessdate=2018-3-29 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref>した後は、集英社の[[青年漫画|青年誌]]と講談社の[[少年漫画|少年誌]]を行き来しながら作品を発表<ref group="注">具体的には、『[[別冊少年マガジン]]』([[クーロンフィーユ]]、講談社)→『[[グランドジャンプPREMIUM]]』([[マギの贈り物]]、集英社)→『[[週刊ヤングジャンプ]]』([[君と100回目の恋]]、集英社)→『[[週刊少年マガジン]]』([[8畳カーニバル]]、講談社)、という経過をたどった。</ref>。2017年から2018年にかけては『[[8畳カーニバル]]』を『[[週刊少年マガジン]]』(講談社)にて連載し<ref>{{Cite news |和書|title=よしづきくみちが描く“踊ってみた”マンガ「8畳カーニバル」週マガでスタート |newspaper=コミックナタリー |date=2017-11-15 |url=https://natalie.mu/comic/news/256848 |accessdate=2018-3-29 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref><ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|996688791409639424|4=よしづきくみちの2018年5月16日のツイート|5=2020-06-18}}</ref>、オリジナル作品では初の週刊連載となった<ref name="tuchinoko" />。 その後、『8畳カーニバル』を読んだ編集者に声をかけられ<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|1077822007700447232|4=よしづきくみちの2018年12月26日のツイート|5=2019-01-24}}</ref>、2019年に『[[月刊アフタヌーン]]』(講談社)にて『ああっ女神さまっ』のスピンオフ作品『[[ああっ就活の女神さまっ]]』を連載開始<ref>{{Cite news |和書|title=ベルダンディーが就活を頑張るスピンオフ「ああっ就活の女神さまっ」アフタで |newspaper=コミックナタリー |date=2019-01-25 |url=https://natalie.mu/comic/news/317394 |accessdate=2020-06-18 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref>。アフタヌーン四季賞佳作を受賞して以来初めて同誌での連載を果たすとともに<ref>{{Cite web|和書|url=https://afternoon.kodansha.co.jp/c/ahshukatsunomegamisama.html |title=ああっ就活の女神さまっ |accessdate=2020-06-18 |website=アフタヌーン公式サイト |publisher=講談社}}</ref>、かつて作画アシスタントを務めた『ああっ女神さまっ』に再び関わることとなった。 == 年表 == * 1993年(平成5年) - [[アフタヌーン四季賞]]佳作受賞<ref name ="SS1_193" />。 * 1994年(平成6年) - 前年に引き続き[[アフタヌーン四季賞]]佳作受賞<ref name ="SS1_193" />。 * 2000年(平成12年) - ホームページ「つちのこ準星群」を開設<ref name="Paletta" />。 * 2002年(平成14年) - 1月に「Living Quarter」でデビュー。5月に『[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers]]』で連載デビューし( - 2003年)、初の[[単行本]]となる1巻が10月に発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200208000207/ |title=魔法遣いに大切なこと1 よしづき くみち:コミック |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-03-22}}</ref>。 * 2003年(平成15年) - 『魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers』がテレビアニメ化<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jcstaff.co.jp/sakuhin/nenpyo/2003/02_mahoutsukai/mahoutsukai.htm |title=魔法遣いに大切なこと |accessdate=2021-06-05 |website=J.C.STAFF オフィシャルホームページ}}</ref>。『[[魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道]]』連載開始( - 2006年)。 * 2007年(平成19年) - 『[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]』を『[[オースーパージャンプ]]』に掲載し、初の[[青年漫画|青年誌]]掲載となる。9月に初の短編集『よしづきくみち作品集 はじまりのはこ』が発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.jive-ltd.co.jp/catalog/4861764288.html |title=商品詳細 |accessdate=2021-06-05 |publisher=ジャイブ株式会社 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180821160907/http://www.jive-ltd.co.jp/catalog/4861764288.html |archivedate=2018-08-21 |deadlinkdate=}}</ref>。 * 2008年(平成20年) - 2月に『[[魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]』、3月に『[[フレフレ少女]]』連載開始(いずれも同年終了)。9月に初の画集『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』が発売<ref name="calender" />。 * 2009年(平成21年) - 『君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜』が毎号連載化<ref name="natalie_2009-3-6" />( - 2012年)。初のオリジナル連載<ref name="blog_2009-12-27" />。 * 2013年(平成25年) - 『[[クーロンフィーユ]]』連載開始( - 2014年)。 * 2014年(平成26年) - 『[[マギの贈り物]]』連載開始(同年終了)。 * 2016年(平成28年) - 『[[君と100回目の恋]]』連載開始( - 2017年)。初の週刊連載<ref name="twitter_2016-04-21" />。 * 2017年(平成29年) - 『[[8畳カーニバル]]』連載開始( - 2018年)。初のオリジナル週刊連載<ref name="tuchinoko" />。 * 2019年(平成31年) - 『[[ああっ就活の女神さまっ]]』連載開始( - 2021年)。 * 2021年(令和3年) - 『[[金曜日のバカ飯先輩]]』連載開始( - 2022年)。初のWeb媒体での連載<ref name="twitter_2021-10-25" />。 * 2023年(令和5年) - 『南海トラフ巨大地震』連載開始(連載中<ref group="注" name="as_of" />)。 == 作風 == よしづきの作風は、「抒情派絵師<ref name="magi" />」(集英社)、「叙情派作家の雄<ref>{{Cite journal |和書|journal=ヤングアニマルあいらんど |issue=8 |publisher=[[白泉社]] |page=223}}</ref>」(白泉社)など、出版社の宣伝文句においては「抒情(叙情)派」と形容されることがある。特に透明感溢れる作画には定評があり<ref>{{Cite book |和書 |author=コミティア実行委員会|authorlink=COMITIA |year=2014 |title=コミティア30thクロニクル 第3集 |page=521 |publisher=[[双葉社]] |isbn=978-4-575-30795-5}}</ref>、デジタル作画ながらアナログらしさを意識した絵作りが特徴<ref name="comics_52" />。 『[[月刊ニュータイプ]]』2003年3月号では、「藤島康介先生のアシスタント{{Interp|中略|和文=1}}がいちばん勉強になりました」「カメラから学んだことってものすごくいっぱいあるんですよ」といった本人の談を紹介し、「アシスタント経験プラス趣味の幅広さが現在の作風に大きく影響したようだ」と分析している<ref name="Newtype" />。 === 画風 === よしづきのイラストは、「繊細な[[キャラクター]]と光あふれる風景<ref name ="Newtype" />」という2つの要素から特徴づけて評される。よしづき自身、キャラクターと背景のバランスは「すごく気をつかう部分」であると語っている<ref name="Calendar Film_106" />。 よしづきの描く少女は、「息吹を感じさせるやわらかな少女イラスト<ref name="Paletta" />」(『パレッタ』2002年秋号)、「キャラクターのやわらかな表情<ref name ="Newtype" />」(『ニュータイプ』2003年3月号)など、しばしば「やわらか」という形容動詞を伴って称賛される。また、脚本家・漫画原作者の[[横幕智裕]]は、『[[マギの贈り物]]』巻末解説において「よしづき先生の描く女の子は、{{Interp|中略|和文=1}}明るい表情、切ない表情、泣き顔、さまざまな表情が実に魅力的」と評している<ref>{{Cite book |和書 |author=横幕智裕 |year=2015 |title=[[マギの贈り物]] |page=215 |publisher=[[集英社]] |isbn=978-4-08-890139-8 |chapter=解説}}</ref>。 一方で背景の描写も評価が高く、光と大気を意識した奥行きのある風景描写<ref name="comics_51-52" />を『コミックス・ドロウイング』4号では「淡い世界に広がる空気感<ref name ="comics_54" />」と表現している。その緻密さも特徴的で、よしづきのアシスタントを一時期務めていた<ref>{{Twitter status2|bakutow2|1165121161824309248|4=渡辺獏人の2019年8月24日のツイート|5=2020-08-09}}</ref><ref>{{Twitter status2|bakutow2|1165458499565842432|4=渡辺獏人の2019年8月25日のツイート|5=2020-08-09}}</ref>漫画家の[[渡辺獏人]]は「よしづき氏は徹底的に背景絵にリアルさを追求していた。例えば家の[[窓#配置による分類|掃きだし窓]]の[[サッシ]]を描く場合でも、棧(さん)の上側と下側の幅が違う事に注意して描く」と紹介している<ref>{{Twitter status2|bakutow2|1165121163317530624|4=渡辺獏人の2019年8月24日のツイート|5=2019-09-18}}</ref>。なお、背景の多くは資料を多用せず、自身で撮った写真や覚えているイメージを中心に描き下ろすという<ref name ="comics_54" />。 == 趣味 == 趣味はバイク、写真、天体、キャンプなど広範囲に渡るほか<ref name="magi" />、交友のある[[CLAMP]]・猫井椿から「猫ばか」と呼ばれたことがある<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.clamp-net.com:80/message?page=4 |title=CLAMP公式ウェブサイト|CLAMP-NET.COM|CLAMPからの一言メッセージ |accessdate=2018年3月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20091127084130/http://www.clamp-net.com:80/message?page=4 |archivedate=2009年11月27日}}</ref>ほどの愛猫家でもある。 特にバイクは趣味として最初に挙げられることが多い<ref name="magi" /><ref name="A09.1" /><ref name="betsumaga" />。愛機の車種は[[CBR600RR]]<ref name="betsumaga" />。16歳の時に[[NSR250R]]を購入して以来、バイクを所有していなかった時期はないといい、「アクセルを開けばすぐにあのころの青春モードに心を乗せることができる」と語っている<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2017 |title=恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜 |page=67 |publisher=[[一迅社]] |isbn=978-4-7580-6681-5}}</ref>。 また、写真はアシスタント時代に先輩の勧めでカメラを始めて以来の趣味であり<ref name ="Newtype" />、その体験は自身の描くイラストにも活かされているという<ref name ="comics_53" />。「カメラを知って以降は、光や陰影の捉え方についてが大きく変わりました<ref name ="comics_53" />」と語り、レンズを意識した構図や光彩の表現など多くのことを学んだと述べている<ref name ="Newtype" />。 == 作品リスト == === 漫画 === * {{smaller|デフォルトでの表示は発表順。}} * {{smaller|〈'''種'''〉連載か読切かで2種に大別。}} * {{smaller|〈'''発行'''〉ワニマガジン社は「ワニ社」と略記。}} * {{smaller|〈'''掲載'''〉初出を記載。雑誌の場合は掲載誌名と号数、ウェブコミック配信サイトの場合はサイト名と配信日、書籍・[[同人誌]]の場合は『書名』と発行年を記載。}} ** {{smaller|掲載誌のソートは刊行頻度(週刊 etc.)を除いた名称で行う。}} * {{smaller|〈'''収'''〉'''短1''':『よしづきくみち作品集 はじまりのはこ』、'''短2''':『よしづきくみち短編集 君と僕のアシアト』、'''短3''':『恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜』、'''単''':短編集以外への収録、'''未''':単行本未収録。}} {|style="font-size:smaller" |style="background-color:#fdd;width:1em;border:1px solid gray"| |連載作品 |style="background-color:#ddf;width:1em;border:1px solid gray"| |読切作品 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" ! !!作品名!!種!!発行!!掲載!!収!!備考 |-style="text-align:center; background-color:#ccc" |{{Display none|0}}||colspan="6"|{{Display none|ン}}2000年代 |- ! style="background-color:#ddf"|1 |{{Display none|りひんくくおおたあ}}LivingQuarter||{{Display none|2}}読切||{{Display none|ふしみしよほう}}富士見書房||{{Display none|こみつくとらこん}}[[月刊コミックドラゴン]] 2002年2月号||{{Display none|01}}短1||デビュー作。 |- ! style="background-color:#fdd"|2 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと さむていすとりいまあす}}[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|ふしみしよほう}}富士見書房||{{Display none|こみつくとらこん}}[[月刊コミックドラゴン]] 2002年6月号 - 2003年2月号||{{Display none|10}}単||連載デビュー作であり、「魔法遣いに大切なこと」シリーズ第1作。原作:[[山田典枝]]。 |- ! style="background-color:#fdd"|3 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと たいようとかせのさかみち}}[[魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|ふしみしよほう}}富士見書房||{{Display none|とらこんえいし}}[[月刊ドラゴンエイジ]] 2004年1月号 - 2006年3月号||{{Display none|10}}単||「魔法遣いに大切なこと」シリーズ第2作。原作:山田典枝。 |- ! style="background-color:#ddf"|4 |てのひら||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『てのひら』(2005年)<ref name="SS2" />||{{Display none|02}}短2|| |- ! style="background-color:#ddf"|5 |なつみ||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『てのひら』(2005年)<ref name="SS2" />||{{Display none|02}}短2|| |- ! style="background-color:#ddf"|6 |すなぼし||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『すなぼし』<ref name="SS1_194" />(2006年)<ref name="dojin" />||{{Display none|01}}短1|| |- ! style="background-color:#ddf"|7 |ことのは||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『ことのは』<ref name="SS1_194" />(2006年)<ref name="dojin" />||{{Display none|01}}短1|| |- ! style="background-color:#fdd"|8 |{{Display none|きみとほくのあしあと}}[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]【不定期連載版】||{{Display none|1}}連載||{{Display none|しゆうえいしや}}集英社||{{Display none|おおすうはあしやんふ}}[[オースーパージャンプ]] 2007年4月号 - 2007年9月号||{{Display none|02}}短2||初の青年誌掲載。 |- ! style="background-color:#ddf"|9 |{{Display none|あはうとみい}}about me||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『about me』(2007年)<ref name="SS2" />||{{Display none|02}}短2|| |- ! style="background-color:#ddf"|10 |{{Display none|いらはやしさんのふあんとむああむ}}伊良林さんのファントムアーム||{{Display none|2}}読切||{{Display none|しやいふ}}ジャイブ||{{Display none|こみつくらつしゆ}}[[月刊コミックラッシュ]] 2007年9月号||{{Display none|01}}短1|| |- ! style="background-color:#ddf"|11 |おくりもの||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『かぜおと』<ref name="SS1_194" />(2007年)<ref name="dojin" />||{{Display none|01}}短1|| |- ! style="background-color:#ddf"|12 |{{Display none|かのしよのせかい}}彼女のせかい||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『ひまなつ』(2007年)<ref name="SS2" />||{{Display none|02}}短2|| |- ! style="background-color:#ddf"|13 |け・ん・か||{{Display none|2}}読切||{{Display none|はくせんしや}}白泉社||{{Display none|やんくあにまるあいらいんと}}[[ヤングアニマルあいらんど]] 2007年11月11日号||{{Display none|02}}短2|| |- ! style="background-color:#fdd"|14 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと なつのそら}}[[魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|かとかわしよてん}}角川書店||{{Display none|しようねんええす}}[[月刊少年エース]] 2008年4月号 - 2009年1月号||{{Display none|10}}単||「魔法遣いに大切なこと」シリーズ第3作。原案:山田典枝。 |- ! style="background-color:#fdd"|15 |{{Display none|ふれふれしようしよ}}[[フレフレ少女]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|しゆうえいしや}}集英社||{{Display none|すうはあしやんふ}}[[スーパージャンプ]] 2008年8号 - 21号||{{Display none|10}}単||同名実写映画の漫画化。原作:[[橋本裕志]]・[[渡辺謙作]]。 |- ! style="background-color:#ddf"|16 |{{Display none|いましなりいらいん}}Imaginary Line||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『Imaginary Line』(2008年)<ref name="SS3" />||{{Display none|03}}短3|| |- ! style="background-color:#fdd"|17 |{{Display none|きみとほくのあしあと}}[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]【毎号連載版】||{{Display none|1}}連載||{{Display none|しゆうえいしや}}集英社||{{Display none|おおすうはあしやんふ}}[[オースーパージャンプ]] 2009年4月号 - [[グランドジャンプPREMIUM]] 2012年7号||{{Display none|10}}単||初のオリジナル連載<ref name="blog_2009-12-27" />。 |- ! style="background-color:#ddf"|18 |{{Display none|すすみやはるひのせかい}}涼宮ハルヒの世界||{{Display none|2}}読切||{{Display none|かとかわしよてん}}角川書店||{{Display none|ヲ}}『[[涼宮ハルヒシリーズ#アンソロジーコミック|涼宮ハルヒの競演 ハルヒコミックアンソロジー]]』(2009年)||style="text-align:center"|{{Display none|ヲ}}—||[[涼宮ハルヒシリーズ]]のアンソロジー。 |- ! style="background-color:#ddf"|19 |{{Display none|かのしよのしあわせ}}彼女のしあわせ||{{Display none|2}}読切||{{Display none|はくせんしや}}白泉社||{{Display none|やんくあにまるあいらいんと}}[[ヤングアニマルあいらんど]] 2009年3月27日号||{{Display none|20}}未|| |- ! style="background-color:#ddf"|20 |{{Display none|ちええんおふさわーるど}}チェーン おブ ザ ワーるド||{{Display none|2}}読切||{{Display none|わにまかしんしや}}ワニ社||{{Display none|せらちん}}[[季刊GELATIN]] 2009年あき号||{{Display none|03}}短3|| |- ! style="background-color:#ddf"|21 |{{Display none|しろいみち}}白い道〜Chemin blanc〜||{{Display none|2}}読切||{{Display none|しようねんかほうしや}}少年画報社||{{Display none|やんくきんく}}[[ヤングキング]] 2009年22号||{{Display none|03}}短3|| |-style="text-align:center; background-color:#ccc" |{{Display none|21.5}}||colspan="6"|{{Display none|ン}}2010年代 |- ! style="background-color:#ddf"|22 |{{Display none|しるへ}}シルベ||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『シルベ』(2010年)<ref name="dojin" />||{{Display none|20}}未|| |- ! style="background-color:#ddf"|23 |{{Display none|こうかん}}交換||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『交換日記』(2010年)<ref name="SS3" />||{{Display none|03}}短3||原作:[[とよ田みのる]]。 |- ! style="background-color:#fdd"|24 |{{Display none|くうろんふいいゆ}}[[クーロンフィーユ]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|こうたんしや}}講談社||{{Display none|しようねんまかしん}}[[別冊少年マガジン]] 2013年2月号 - 2014年3月号||{{Display none|10}}単|| |- ! style="background-color:#ddf"|25 |{{Display none|らしおたいそうたいいち}}ラジオたいそう第一||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『ラジオたいそう』(コピー本版、2013年)<ref name="dojin" />||{{Display none|03}}短3||続編に『ラジオたいそう第二』がある。 |- ! style="background-color:#fdd"|26 |{{Display none|まきのおくりもの}}[[マギの贈り物]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|しゆうえいしや}}集英社||{{Display none|くらんとしやんふふれみあむ}}[[グランドジャンプPREMIUM]] 2014年5月号 - 2015年1月号||{{Display none|20}}単|| |- ! style="background-color:#ddf"|27 |{{Display none|らしおたいそうたいに}}ラジオたいそう第二||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『ラジオたいそう』<ref name="SS3" />([[オフセット印刷|オフセット]]版、2014年)<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|461886976593899521|4=よしづきくみちの2014年5月2日のツイート|5=2020-10-24}}</ref>||{{Display none|03}}短3||『ラジオたいそう第一』の続編。 |- ! style="background-color:#ddf"|28 |{{Display none|せいけつなかのしよ}}清潔な彼女||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『清潔な彼女』(2015年)<ref name="SS3" />||{{Display none|03}}短3||[[月刊ComicREX]] 2017年10月号にも掲載<ref>{{Cite news |和書|title=「ベン・トー」のアサウラ原作の学園ファンタジーがREXで始動 |newspaper=コミックナタリー |date=2017-8-26 |url=https://natalie.mu/comic/news/246212 |accessdate=2021-06-05 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref>。 |- ! style="background-color:#fdd"|29 |{{Display none|きみとひやくかいめのこい}}[[君と100回目の恋]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|しゆうえいしや}}集英社||{{Display none|やんくしやんふ}}[[週刊ヤングジャンプ]] 2016年22・23合併号 - 2017年10号||{{Display none|10}}単||初の週刊連載であり<ref name="twitter_2016-04-21" />、同名実写映画の漫画化。原作:Chocolate Records、構成:イナバセリ。 |- ! style="background-color:#fdd"|30 |{{Display none|はちしようかあにはる}}[[8畳カーニバル]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|こうたんしや}}講談社||{{Display none|しようねんまかしん}}[[週刊少年マガジン]] 2017年50号 - 2018年24号||{{Display none|10}}単||初のオリジナル週刊連載<ref name="tuchinoko" />。 |- ! style="background-color:#ddf"|31 |{{Display none|あらくれえむ}}あ・ら・クレーム!||{{Display none|2}}読切||{{Display none|かとかわ}}KADOKAWA||{{Display none|ヲ}}『いやされて 社畜女子のコミックアンソロジー』(2017年)||style="text-align:center"|{{Display none|ヲ}}—||「社畜女子」をテーマにしたアンソロジーの収録作品。『[[いきのこれ! 社畜ちゃん]]』3巻と同時発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/topics/1330 |title=累計30万部突破!人気コミックス『いきのこれ! 社畜ちゃん』3巻と『いやされて 社畜女子のコミックアンソロジー』11月27日(月)2冊同時発売!合同フェアも開催!!|KADOKAWA |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-12-09}}</ref>。 |- ! style="background-color:#fdd"|32 |{{Display none|ああつしゆうかつのめかみさまつ}}[[ああっ就活の女神さまっ]]||{{Display none|1}}連載||{{Display none|こうたんしや}}講談社||{{Display none|あふたぬうん}}[[月刊アフタヌーン]] 2019年3月号 - 2021年12月号||{{Display none|10}}単||『[[ああっ女神さまっ]]』のスピンオフ。原作:[[青木U平]]、協力:[[藤島康介]]。 |-style="text-align:center; background-color:#ccc" |{{Display none|32.5}}||colspan="6"|{{Display none|ン}}2020年代 |- ! style="background-color:#fdd"|33 |{{Display none|きんようひのはかめしせんはい}}金曜日のバカ飯先輩||{{Display none|1}}連載||{{Display none|こうたんしや}}講談社||{{Display none|やんまかうえふ}}[[週刊ヤングマガジン#ヤンマガWeb|ヤンマガWeb]] 2021年11月12日 - 2022年9月30日||{{Display none|10}}単||初のWeb媒体での連載<ref name="twitter_2021-10-25" />。原作:赤堀君。 |- ! style="background-color:#ddf"|34 |{{Display none|しつろくちやんねこむすめ}}実録・ちゃんねこ娘||{{Display none|2}}読切||同人誌||{{Display none|ヲ}}『実録・ちゃんねこ娘』(2023年)<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|1627122741991317509|4=よしづきくみちの2023年2月19日のツイート|5=2023-05-03}}</ref>||{{Display none|20}}未|| |- ! style="background-color:#fdd"|35 |{{Display none|なんかいとらふきよたいししん}}南海トラフ巨大地震||{{Display none|1}}連載||{{Display none|こうたんしや}}講談社||{{Display none|けんたいひしねす}}現代ビジネス 2023年5月30日<ref>{{Cite journal |和書 |date=2023-05-30 |title=【マンガ】『南海トラフ巨大地震』…そのとき日本中を襲う「衝撃的な事態」 |journal=現代ビジネス |publisher=講談社 |url=https://gendai.media/articles/-/111092 |accessdate=2023-07-15}}</ref> - ||{{Display none|10}}単||原作:biki。 |} === イラスト === {{smaller|当該イラストが初出の商業媒体のみ掲載。★はイラストが『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』に収録されているもの。}} ==== 展覧会出展 ==== {{節スタブ|1=『絵師100人展13』出展作品|date=2023年5月}} * 夏のはな(2011年、『[[絵師100人展]]』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2011 |title=絵師100人展 |publisher=産経新聞社 |oclc=962920868 |page=200}}</ref> * pray(2012年、『絵師100人展02』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2012 |title=絵師100人展 02 |publisher=産経新聞社 |oclc=962921466 |page=210}}</ref> * 初参(2013年、『絵師100人展03』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2013 |title=絵師100人展 03 |publisher=産経新聞社 |oclc=962921949 |page=208}}</ref> * Magic Idol(2014年、『絵師100人展04』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2014 |title=絵師100人展 04 |publisher=産経新聞社 |oclc=913576315 |page=202}}</ref> * 畔(2015年、『絵師100人展05』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |title=絵師100人展 05 |publisher=産経新聞社 |oclc=940679443 |page=194}}</ref> * 分光(2016年、『絵師100人展06』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2016 |title=絵師100人展 06 |publisher=産経新聞社 |oclc=952987885 |page=192}}</ref> * 時程(2017年、『絵師100人展07』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2017 |title=絵師100人展 07 |publisher=産経新聞社 |oclc=994636810 |page=196}}</ref> * 堆色(2019年、『絵師100人展09』)<ref>{{Cite news |和書|title=「絵師100人展 09」27日開幕 萌え絵の旗手が馳せる「時代」 |newspaper=産経ニュース |date=2019-04-21 |url=https://www.sankei.com/article/20190421-WWZMIKQW35JLBNEPP2RGLX6FQE/2/ |accessdate=2019-05-30 |publisher=[[産経新聞社]]}}</ref> * あゆみ(2021年、『絵師100人展11』)<ref>{{Cite book |和書 |year=2021 |title=絵師100人展 11 |publisher=産経新聞社 |oclc=1266549957 |page=198}}</ref> * ゆめ<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|1666808644774793216|4=よしづきくみちの2023年6月8日のツイート|5=2023-07-15}}</ref>(2022年、『絵師100人展12』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.eshi100.com/season12/index.html |title=絵師100人展 12 |accessdate=2023-07-15 |website=絵師100人展公式サイト}}</ref>) ==== 雑誌掲載 ==== * 『カラフル萬福星』15号([[ビブロス (出版社)|ビブロス]])<ref name="sigoto" /> - '''kojita'''名義 * 『カラフル萬福星』19号(ビブロス)<ref name="sigoto" /> - '''kojita'''名義 * ★『COCO』2002年夏号([[エンターブレイン]]) * ★『[[週刊少年マガジン#派生誌およびウェブコミック誌|マガジンワンダー]]』2004年9月11日号([[講談社]]) * ★『[[月刊少年ブラッド]]』2006年10月号([[モビーダ・ホールディングス|モビーダ・エンタテインメント]]) * ★『[[月刊ドラゴンエイジ]]』2007年3月号([[富士見書房]])付録小冊子「エイジHOT」<ref>{{Cite web|和書|url=https://dragonage-comic.com/magazine/magazine-10178.html |title=ドラゴンエイジ 19{{sic|nolink=1}}年3月号|バックナンバー|月刊 |website=ドラゴンエイジ公式サイト |publisher=KADOKAWA |accessdate=2021-06-05}}</ref> * ★『[[ヤングアニマルあいらんど]]』6号([[白泉社]]) * 『ヤングアニマルあいらんど』8号(白泉社) * 『ヤングアニマルあいらんど』10号(白泉社)付録小冊子「ローアングル探偵団」<ref>{{Cite news |和書|title=ローアングラー必見。あいらんど付録に「ローアングル探偵団」 |newspaper=コミックナタリー |date=2009-12-9 |url=https://natalie.mu/comic/news/24918 |accessdate=2021-06-05 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref> * 『[[E☆2]]』48号([[アールビバン]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://artjeuness.jp/contents/206/ |title=Vol.48 |accessdate=2022-03-21 |website=アールジュネス・軸中心派・E☆2-えつ- |publisher=アールビバン株式会社}}</ref> ==== 小説挿絵 ==== {{smaller|全て[[角川書店]](当時)または[[KADOKAWA]]からの発行。}} * ★純情FBA!(著:[[野島けんじ]]、2003年、[[角川スニーカー文庫]]) * キララの家(著:[[椎野美由貴]]、『[[ザ・スニーカー]]』2004年10月号掲載、[[角川書店]]) - 未単行本化<ref group="注" name="as_of2" /> * 真夜中のにらめっこ(著:[[赤川次郎]]、『少年探偵と4つの謎』所収、2010年、[[角川つばさ文庫]]) * 僕が七不思議になったわけ(著:[[小川晴央]]、2014年、[[メディアワークス文庫]]) * 君の声に耳をすまして(著:小川晴央、2015年、メディアワークス文庫) * やり残した、さよならの宿題(著:小川晴央、2016年、メディアワークス文庫) * ステラエアサービス(著:有馬桓次郎、2020年 - '''以下続刊'''、[[電撃の新文芸]]、既刊2巻<ref group="注" name="as_of2" />) ==== カバーイラスト ==== * ★高橋廣敏の現代文[客観問題]が面白いほどとける本(2003年、[[中経出版]]) * ★高橋廣敏の現代文[記述問題]が面白いほどとける本(2003年、中経出版) * ★大宮理の 化学[理論化学編]が面白いほどわかる本(2003年、中経出版) * ★大宮理の 化学[無機化学編]が面白いほどわかる本(2004年、中経出版) * ★高橋廣敏の 「受かる! 小論文」が面白いほど書ける本(2004年、中経出版) * ★大宮理の 化学[有機化学編]が面白いほどわかる本(2005年、中経出版) * ★『ティアズマガジン』77号(2006年、[[COMITIA|コミティア実行委員会]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.comitia.co.jp/history/history075.html |title=COMITIAヒストリー |accessdate=2020-10-24 |website=COMITIA |publisher=コミティア実行委員会}}</ref> * ★新出題傾向対応版 大宮理の 化学[理論化学編]が面白いほどわかる本(2007年、中経出版) * 新出題傾向対応版 大宮理の 化学[有機化学編]が面白いほどわかる本(2007年、中経出版) * 阿由葉勝の 文系数学最頻出テーマ[I・A・II・B]を攻略する本(2008年、中経出版) * [[アマガミ|アマガミ -Various Artists- 4]](2010年、エンターブレイン) * サウンドガール デュオ ―音響少女―(2010年、[[白夜書房]]) * ぼくは科学の力で世界を変えることに決めた(2015年、講談社) === その他 === ==== キャラクターデザイン ==== * [[ニンテンドー3DS|3DS]]・[[PlayStation Portable|PSP]]用ゲーム『[[アンチェインブレイズ レクス]]』(2011年、[[フリュー]]) - シルヴィ<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.cs.furyu.jp/ubr/character/06.html |title=キャラクター |website=アンチェインブレイズレクス |publisher=フリュー株式会社 |accessdate=2020-10-24}}</ref> ==== 漫画原作 ==== * 漫画『等価なふたり』(作画:[[とよ田みのる]]、2012年、『とよ田みのる短編集 CATCH&THROW』、[[小学館]]) ==== 出演 ==== * [[SOLiVE24]]([[ウェザーニューズ]]、2015年3月13日) - 同番組[[ニュースキャスター|キャスター]]の[[山岸愛梨]]を『[[マギの贈り物]]』ヒロインのイメージ元としたことにちなみゲスト出演<ref>{{Cite web |url=http://www.tuchinoko.com/news.htm |title=NEWS |accessdate=2019-09-18 |author=よしづきくみち |date=2015-03-13 |website=つちのこ準星群}}</ref>。 == 書籍リスト == === 漫画単行本 === * {{smaller|デフォルトでの表示は作品毎にまとめてオリジナルの発売順とし、短編集については最後にまとめた。}} * {{smaller|〈'''レーベル'''〉'''AKC''':[[アフタヌーンKC]]、'''CC''':[[CR COMICS]]、'''DC''':[[ドラゴンコミックス]]、'''IDC''':[[一迅社#コミックス|IDコミックス]]、'''JCD''':[[ジャンプ・コミックス#集英社|ジャンプ・コミックス デラックス]]、'''KC''':[[講談社コミックス]]、'''KCA''':[[角川コミックス・エース]]、'''YJC''':[[ヤングジャンプ・コミックス]]、'''YMKCSP''':[[ヤンマガKC|ヤンマガKCスペシャル]]。}} {|style="font-size:smaller" |style="background-color:#fdd;width:1em;border:1px solid gray"| |長編 |style="background-color:#ddf;width:1em;border:1px solid gray"| |短編集 |} {| class="wikitable sortable" style="font-size:smaller" ! !!書名!!発行!!レーベル!!判!!発行年!!巻 |- ! style="background-color:#fdd"|1 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと さむていすとりいまあす}}[[魔法遣いに大切なこと|魔法遣いに大切なこと - Someday's dreamers]]||{{Display none|かとかわしよてん}}[[角川書店]]||DC||{{Display none|06}}A5||2002年 - 2003年||style="text-align:right"|2 |- ! style="background-color:#fdd"|2 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと たいようとかせのさかみち}}[[魔法遣いに大切なこと 太陽と風の坂道]]||{{Display none|かとかわしよてん}}[[角川書店]]||DC||{{Display none|05}}B6||2004年 - 2006年||style="text-align:right"|5 |- ! style="background-color:#fdd"|3 |{{Display none|まほうつかいにたいせつなこと なつのそら}}[[魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]||{{Display none|かとかわしよてん}}[[角川書店]]||KCA||{{Display none|05}}B6||2008年||style="text-align:right"|2 |- ! style="background-color:#fdd"|4 |{{Display none|ふれふれしようしよ}}[[フレフレ少女]]||{{Display none|しゆうえいしや}}[[集英社]]||JCD||{{Display none|05}}B6||2008年||style="text-align:right"|2 |- ! style="background-color:#fdd"|5 |{{Display none|きみとほくのあしあと}}[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]||{{Display none|しゆうえいしや}}[[集英社]]||JCD||{{Display none|05}}B6||2010年 - 2012年||style="text-align:right"|6 |- ! style="background-color:#fdd"|6 |{{Display none|くうろんふいいゆ}}[[クーロンフィーユ]]||{{Display none|こうたんしや}}[[講談社]]||KC||{{Display none|02}}新書||2013年 - 2014年||style="text-align:right"|3 |- ! style="background-color:#fdd"|7 |{{Display none|まきのおくりもの}}[[マギの贈り物]]||{{Display none|しゆうえいしや}}[[集英社]]||YJC||{{Display none|05}}B6||2015年||style="text-align:right"|1 |- ! style="background-color:#fdd"|8 |{{Display none|きみとひやくかいめのこい}}[[君と100回目の恋]]||{{Display none|しゆうえいしや}}[[集英社]]||YJC||{{Display none|05}}B6||2017年||style="text-align:right"|3 |- ! style="background-color:#fdd"|9 |{{Display none|はちしようかあにはる}}[[8畳カーニバル]]||{{Display none|こうたんしや}}[[講談社]]||KC||{{Display none|02}}新書||2018年||style="text-align:right"|3 |- ! style="background-color:#fdd"|10 |{{Display none|ああつしゆうかつのめかみさまつ}}[[ああっ就活の女神さまっ]]||{{Display none|こうたんしや}}[[講談社]]||AKC||{{Display none|05}}B6||2019年 - 2022年||style="text-align:right"|5 |- ! style="background-color:#fdd"|11 |{{Display none|きんようひのはかめしせんはい}}金曜日のバカ飯先輩<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2022 |title=金曜日のバカ飯先輩 |publisher=講談社 |volume=1 |isbn=978-4-06-527806-2}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2022 |title=金曜日のバカ飯先輩 |publisher=講談社 |volume=2 |isbn=978-4-06-530055-8}}</ref>||{{Display none|こうたんしや}}[[講談社]]||YMKCSP||{{Display none|05}}B6||2022年||style="text-align:right"|2 |- ! style="background-color:#fdd"|12 |{{Display none|なんかいとらふきよたいししん}}南海トラフ巨大地震<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2023 |title=南海トラフ巨大地震 |publisher=講談社 |volume=1 |isbn=978-4-06-533333-4}}</ref>||{{Display none|こうたんしや}}[[講談社]]||style="text-align:center"|—||{{Display none|06}}A5変型||2023年 - ||style="text-align:right"|1<ref group="注" name="as_of" /> |- ! style="background-color:#ddf"|13 |{{Display none|よしつきくみちさくひんしゆう}}よしづきくみち作品集 はじまりのはこ<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=はじまりのはこ よしづきくみち作品集 |publisher=[[ジャイブ]] |isbn=978-4-86176-428-8}}</ref>||{{Display none|しやいふ}}[[ジャイブ]]||CC||{{Display none|05}}B6||2007年||style="text-align:right"|1 |- ! style="background-color:#ddf"|14 |{{Display none|よしつきくみちたんへんしゆう}}よしづきくみち短編集 君と僕のアシアト<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=よしづきくみち短編集 君と僕のアシアト |publisher=集英社 |isbn=978-4-08-859727-0}}</ref>||{{Display none|しゆうえいしや}}[[集英社]]||JCD||{{Display none|05}}B6||2008年||style="text-align:right"|1 |- ! style="background-color:#ddf"|15 |{{Display none|こいするほんしんとろくまほう}}恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2017 |title=恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜 |publisher=一迅社 |isbn=978-4-7580-6681-5}}</ref>||{{Display none|いちしんしや}}[[一迅社]]||IDC||{{Display none|05}}B6||2017年||style="text-align:right"|1 |} === 画集 === * 『よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜』富士見書房(2008年9月30日発行、9月17日発売<ref name="calender" />、{{ISBN2|978-4-8291-7670-2}}) - 初の画集。代表作である『[[魔法遣いに大切なこと]]』シリーズのイラストを中心に、描き下ろしを含む100点超のイラストを収録している<ref name="calender" />。 == 関連人物 == ; [[藤島康介]] : 『[[ああっ女神さまっ]]』13巻収録分から26巻収録分まで<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|446433458907545601|4=よしづきくみちの2014年3月20日のツイート|5=2017-12-07}}</ref>の約7年間<ref name="Newtype" />、よしづきがアシスタントを務めた。よしづき初のオリジナル連載作品単行本となった<ref name="blog_2009-12-27" />『[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]』1巻の[[帯 (出版)|帯]]には、藤島が推薦文を寄稿している<ref>{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2010 |title=君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜 |publisher=[[集英社]] |volume=1巻 |page=帯 |isbn=978-4-08-859816-1}}</ref>。また、『ああっ女神さまっ』のスピンオフ『ああっ就活の女神さまっ』ではよしづきが作画を担当している<ref>{{Cite news |和書|title=ああっ女神さまっ:スピンオフで復活 新連載「ああっ就活の女神さまっ」でベルダンディーが就活生に |newspaper=MANTANWEB |date=2018-12-26 |url=https://mantan-web.jp/article/20181224dog00m200010000c.html |accessdate= |publisher=株式会社MANTAN}}</ref>。 ; [[かずといずみ]] : よしづきがホームページを開設した2000年当時から交流があり<ref>{{Twitter status2|tuchinokojita|860530117377835008|4=よしづきくみちの2017年5月6日のツイート|5=2018-3-11}}</ref>、いずみの[[同人誌]]によしづきがゲストイラストを寄稿するなどしていた<ref name="Calendar Film_111" />。よしづきがデビューした後も単行本にしばしばスペシャルサンクスなどとして、いずみの名前がクレジットされていた<ref group="注">『[[魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜]]』各巻、『[[君と僕のアシアト〜タイムトラベル春日研究所〜]]』各巻など。</ref>。 ; [[とよ田みのる]] : [[同人活動]]を通じた交流がある。互いの原作ネームを交換して作画した同人誌『交換日記』を2010年に合同で発表し<ref>{{Cite web|和書|title=つちのことよ田 | 交換日記 | とよ田みのる&よしづきくみち |url=http://www.tuchinoko.com/tuchitoyo/ |accessdate=2018-3-11}}</ref>、後にその作品が互いの短編集に収録された<ref group="注">よしづき原作・とよ田作画の『等価なふたり』は『とよ田みのる短編集 CATCH&THROW』(2012年、[[小学館]])に、とよ田原作・よしづき作画の『交換』は『恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜』(2017年、[[一迅社]])に収録された。</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|colwidth=30em|refs= <ref name="as_of">2023年8月現在。</ref> <ref name="as_of2">2021年4月現在。</ref> }} === 出典 === {{Reflist|colwidth=30em|refs= <ref name="comics_51-52">[[#Comics Drawing|『コミックス・ドロウイング』4号]]、51-52頁。</ref> <ref name="comics_52">[[#Comics Drawing|『コミックス・ドロウイング』4号]]、52頁。</ref> <ref name="comics_53">[[#Comics Drawing|『コミックス・ドロウイング』4号]]、53頁。</ref> <ref name="comics_54">[[#Comics Drawing|『コミックス・ドロウイング』4号]]、54頁。</ref> <ref name="Calendar Film_104">[[#Calendar Film|『Calendar Film』]]、104頁。</ref> <ref name="Calendar Film_105">[[#Calendar Film|『Calendar Film』]]、105頁。</ref> <ref name="Calendar Film_106">[[#Calendar Film|『Calendar Film』]]、106頁。</ref> <ref name="Calendar Film_111">[[#Calendar Film|『Calendar Film』]]、111頁。</ref> <ref name="eshi100_203">[[#Eshi100|『絵師100人』]]、203頁。</ref> <ref name="eshi100_215">[[#Eshi100|『絵師100人』]]、215頁。</ref> <ref name="Newtype">[[#Newtype 2003|『月刊ニュータイプ』2003年3月号]]、210頁。</ref> <ref name="Paletta">[[#Paletta 2002|『パレッタ』2002年秋号]]、52頁。</ref> <ref name="betsumaga">[[#betsumaga 2013|『別冊少年マガジン』2013年4月号]]、242頁。</ref> <ref name="A09.1">{{Cite journal |和書 |publisher=[[角川グループパブリッシング]] |journal=月刊少年エース |volume=2009年1月号 |page=12}}</ref> <ref name="calender">{{Cite web|和書|url=https://www.kadokawa.co.jp/product/200803000084/ |title=よしづきくみち画集 ~Calendar Film~ よしづき くみち:書籍|KADOKAWA |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2018-03-04}}</ref> <ref name="SS1_193">{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=はじまりのはこ よしづきくみち作品集 |page=193 |publisher=[[ジャイブ]] |isbn=978-4-86176-428-8}}</ref> <ref name="SS1_192">{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=はじまりのはこ よしづきくみち作品集 |page=192 |publisher=[[ジャイブ]] |isbn=978-4-86176-428-8}}</ref> <ref name="SS1_194">{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=はじまりのはこ よしづきくみち作品集 |page=194 |publisher=[[ジャイブ]] |isbn=978-4-86176-428-8}}</ref> <ref name="SS2">{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2007 |title=よしづきくみち短編集 君と僕のアシアト |page=168 |publisher=集英社 |isbn=978-4-08-859727-0}}</ref> <ref name="SS3">{{Cite book |和書 |author=よしづきくみち |year=2017 |title=恋する凡人と六魔法 〜よしづきくみち短編集〜 |page=2 |publisher=一迅社 |isbn=978-4-7580-6681-5}}</ref> <ref name="natalie">{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/comic/artist/1758 |title=よしづきくみち |accessdate=2020-06-18 |website=[[コミックナタリー]] |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref> <ref name="natalie_2009-3-6">{{Cite news |和書|title=野口賢とよしづきくみち、Ohスーパージャンプで新連載 |newspaper=コミックナタリー |date=2009-3-6 |url=https://natalie.mu/comic/news/14057 |accessdate=2022-03-21 |publisher=株式会社ナターシャ}}</ref> <ref name="magi">{{Cite web|和書|url=http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/magi.html |title=マギの贈り物|集英社グランドジャンプ豪華連載陣 |accessdate=2018年1月2日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160608005952/http://grandjump.shueisha.co.jp/manga/magi.html |archivedate=2016年6月8日}}</ref> <ref name="dreamnews">{{Cite web|和書|url=https://www.dreamnews.jp/press/0000047264/ |title=「限界LOVERS」のSHOW-YA!!異色の限界コラボレーション!!板垣恵介、渡辺明夫など人気クリエイターとのコラボポスター大公開!!|株式会社マスターワークスのプレスリリース |accessdate=2020-10-24 |author=株式会社マスターワークス |date=2012-02-29 |website=ドリームニュース |publisher=グローバルインデックス株式会社}}</ref> <ref name="furyu">{{Cite web|和書|url=https://www.cs.furyu.jp/ubr/spec/#sl_06 |title=スペック&スタッフ |website=アンチェインブレイズレクス |publisher=フリュー株式会社 |accessdate=2021-06-05}}</ref> <ref name="tuchinoko">{{Cite web|和書|url=http://www.tuchinoko.com |title=つちのこ準星群 |accessdate=2020-06-18 |author=よしづきくみち}}</ref> <ref name="sigoto">{{Cite web |url=http://www.tuchinoko.com/underdirec/sigoto.htm |title=WORK LIST |accessdate=2020-06-18 |author=よしづきくみち |website=つちのこ準星群}}</ref> <ref name="dojin">{{Cite web|和書|url=http://tuchinoko.sakura.ne.jp/underdirec/dojin.htm |title=同人誌リスト |accessdate=2020-10-24 |author=よしづきくみち |website=つちのこ準星群}}</ref> <ref name="blog_2009-12-27">{{Cite web|和書|url=http://tuchinoko.sblo.jp/article/34411547.html |title=生きてます。 |accessdate=2022-03-21 |author=よしづきくみち |date=2009-12-27 |website=つちのこブログ}}</ref> <ref name="twitter_2016-04-21">{{Twitter status2|tuchinokojita|723138989767553024|4=よしづきくみちの2016年4月21日のツイート|5=2021-06-05}}</ref> <ref name="twitter_2017-01-26">{{Twitter status2|tuchinokojita|824590597126131713|4=よしづきくみちの2017年1月26日のツイート|5=2022-05-21}}</ref> <ref name="twitter_2021-10-25">{{Twitter status2|tuchinokojita|1452593370874843140|4=よしづきくみちの2021年10月25日のツイート|5=2021-11-13}}</ref> }} == 参考文献 == 主要参考文献のみを記載。この他の参考文献については脚注方式で[[#出典]]に記載している。 {{Refbegin}} * {{Cite journal |和書 |author=岩井喬 |year=2008 |title=よしづきくみち――アナログらしさを演出するために |publisher=[[誠文堂新光社]] |journal=コミックス・ドロウイング |volume=4号 |page=50-55 |ref=Comics Drawing}} * {{Cite book |和書 |editor1=志賀隆生|editor1-link=志賀隆生|editor2=市川水緒|editor3=瀧坂亮 |year=2009 |title=絵師100人 |publisher=[[ビー・エヌ・エヌ新社]] |isbn=978-4-86100-666-1 |ref=Eshi100}} * {{Cite journal |和書 |author=YUKIO KINO |title=アート探検隊 |publisher=[[角川書店]] |journal=[[月刊ニュータイプ]] |volume=2003年3月号 |page=210-211 |ref=Newtype 2003}} * {{Cite journal |和書 |publisher=[[エンターブレイン]] |journal=パレッタ |volume=2002年秋号 |page=52-55 |ref=Paletta 2002}} * {{Cite journal |和書 |title=マンガの現場 第15回 『クーロンフィーユ』よしづきくみち先生 |publisher=[[講談社]] |journal=[[別冊少年マガジン]] |volume=2013年4月号 |page=240-242 |ref=betsumaga 2013}} * {{Cite book |和書 |year=2008 |title=よしづきくみち画集 〜Calendar Film〜 |publisher=[[富士見書房]] |isbn=978-4-8291-7670-2 |ref=Calendar Film}} {{Refend}} == 外部リンク == * {{Official website|http://www.tuchinoko.com/|name=つちのこ準星群}} - 本人のホームページ <!-- Twitterや他のSNSなどのリンクを追加するのは適切ではありません。詳細はWP:ELMINを参照してください --> {{Normdaten}} {{Good article}} {{DEFAULTSORT:よしつき くみち}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:日本のイラストレーター]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:生年非公表]] [[Category:存命人物]]
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ノーム・チョムスキー
エイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky、1928年12月7日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授。妻は言語学者・教育学者のキャロル・チョムスキー。 ノーム・チョムスキーは1928年12月7日、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアのイースト・オーク・レーン(英語版)近郊で生まれた。父ウィリアム・チョムスキー(英語版)は当時ロシア帝国支配下のウクライナで生まれたが、戦乱を避けて1913年にアメリカへ渡った。メリーランド州ボルチモアの搾取工場で働き、貯蓄してジョンズ・ホプキンス大学で学んだ甲斐もあり市のヘブライ人系小学校教師の職を得た。現在のベラルーシで生まれアメリカで育ったエルシー・シモノフスキーとの結婚を期にフィラデルフィアに移り、夫妻はミクッバ・イスラエル宗教学校で教鞭を取った。「とても温和で紳士、そして魅力的な人物」と評された ウィリアムはここの校長にまで出世し、1924年にはユダヤ系教員養成大学では合衆国最古であるグラッツ大学(英語版)の教授に就任、1932年からは教授長職を勤めた。1955年からはDropsie Collegeでも教鞭を取ったウィリアムは、別に中世ヘブライ語の研究にも取り組み、一連の著作も発表した。 ノーム・チョムスキーは夫妻初の子供として生まれた。5年後に生まれた弟デビッドとは仲が良い兄弟だったが、気楽な弟に対し兄は負けず嫌いの性格だった。両親の母語はイディッシュ語だったが、それを家庭内で使う事は戒められた。夫と異なり、エルシーはごく普通のニューヨーク訛りの英語(英語版)を喋った。兄弟はユダヤ人社会で育ち、ヘブライ語を習い、アハド・ハアムの著作など労働シオニズムに影響を受けていた一家にあって、よくシオニズムの政治理論について語り合った。子供の頃からユダヤ人として、特にフィラデルフィア在住のアイルランド系やドイツ系共同体から受ける反ユダヤ主義に直面し、ナチス・ドイツのフランス侵攻を祝うドイツ人のビア・パーティは忘れられないものとなったという。 ノームは両親を、政治的にはフランクリン・ルーズベルト率いる民主党を支持する中道左派だと言及したが、彼自身は国際婦人服労働組合(英語版) (ILGWU) に所属する社会主義者の親族らから影響を受けて極左思想を持つようになった。また特に、あまり教育を受けていなかったがニューヨークで所有する新聞販売スタンドで集まった左派ユダヤ人たちと毎日のように議論を交わす彼のおじに大きく影響された。一家で街中に出かけると、ノームは左翼やアナキスト系の書店に行っては政治に関する本を熱心に読んだ。後に振り返って彼は無政府主義思想と出逢えた事は「幸運なる偶然」であり、急進党を制御して平等な社会を実現する選択肢だと信じられていたマルクス・レーニン主義という他の急進的左翼思想に対する批判的態度を形成することができたという。 ノームは初等教育を、競争をさせず生徒の興味を伸ばす事に重点を置き設立された独立系のOak Lane Country Day Schoolで受けた。ここで10歳の時、彼はスペイン内戦によるバルセロナ陥落を受けてファシズムの拡散を取り扱った初めての記事を書いた。12-13歳の頃にはそれまで以上に無政府主義政治への傾倒を強めた。12歳の時にCentral High Schoolの中等部へ進学し多くのクラブや共同体に参加したが、そこでの階層的で厳しい管理が行き届いた指導方法に当惑させられた。 高校卒業後の1945年ノーム・チョムスキーはペンシルベニア大学へ進学し、C・W・チャーチマン(英語版)やネルソン・グッドマンらから哲学を、ゼリグ・ハリスらから言語学を学んだ。ハリスの講義は、ノームに言語構造の線型写像(文章の中の部分的な集まりから他の集まりへの対応付け)といった解析法の発見をもたらした。1951年の修士論文『The Morphophonemics of Modern Hebrew (現代ヘブライ語における形態音素論)』で、彼は形態音素の規則を示した。そして1955年、ペンシルベニア大学大学院博士課程を修了し、言語学の博士号を取得した。 1951-55年にチョムスキーはハーバード大学のジュニアフェローに選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。 チョムスキーはニューヨークを訪れては、イディッシュ語の無政府主義系雑誌『フライエ・アルバイテル・シュティンメ(英語版)』の事務所へ頻繁に足を運び、同誌に寄稿していたアナルコ・サンディカリストのルドルフ・ロッカーに傾倒する。後に記したところによると、ロッカーの仕事から無政府主義と古典的自由主義の関係に気づき、後に研究の対象にしたという。他にも、政治思想家では、アナキストのディエゴ・アバド・サンティラン(英語版)や社会民主主義者のジョージ・オーウェルやバートランド・ラッセル、ドワイト・マクドナルド(英語版)、また非ボリシェヴィキマルキシストのカール・リープクネヒトやカール・コルシュ、ローザ・ルクセンブルクらの著作を精読した。これらに目を通す中で、 チョムスキーはアナルコ・サンディカリスト社会に共感し、オーウェルの著作『カタロニア讃歌』で知ったスペイン内戦の期間に結成されたアナルコ・サンディカリスト共同体に惹かれるようになった。 チョムスキーは1944年から1949年にかけてドワイト・マクドナルドが発刊した左翼系雑誌『Politics』を愛読した。当マクドナルドは当初こそマルキシストの観念を堅持していたが、1946年にこれを捨てて「無政府主義と反戦という奇妙な神に耽る」ようになった。チョムスキーは後に、無政府主義に対する興味が「応報と発達をなした」と同誌に書いた。20代の終わり頃には、マルキシスト思想家で評議会共産主義者のポール・マティック(英語版)が発行する定期刊行誌『Living Marxism』の読者になった。この雑誌はヨシフ・スターリンのソヴィエト連邦と第二次世界大戦後の発展を批判的に評した。チョムスキーはマルキシストの理論根拠を受け入れなかったが、協議会共産主義者運動からは強い影響を受け、アントン・パンネクークやカール・コルシュらなどの「生きたマルキシスト」の著作を貪欲に読み漁った。チョムスキーはマティックと個人的な知り合いになるが、後に彼を指して「私の考えにぴったりな正統派マルキシスト」と評した。また彼は、アメリカのレーニン主義者同盟(英語版)にも加わっていたジョージ・スピーロが率いた「Marlenites」という曖昧な反スターリン的なアメリカ人マルキニスト集団が持つ政治理論に大きく関心を持った。この集団は、第二次世界大戦は、西側の資本家と国家資本主義の政府であるソビエト連邦が主導し、ヨーロッパのプロレタリアートを潰そうとした「いかさま」だったと主張し、この観点にチョムスキーは同意した。 チョムスキーはミクヴェ・イスラエル学校の同門で幼馴染のキャロル・ドリス・シャッツと恋仲になり、1949年に結婚し、彼女が2006年12月に癌で亡くなるまでの59年間連れ添った。夫妻には2人の娘アビバ・チョムスキー(英語版)とダイアン、息子ハリーを得た。1953年に一時イスラエル、キブツのハゾレア(英語版)に住んだ。この滞在について聞かれた際、チョムスキーは「失望でした」と答え、「そこは好きだが、イデオロギー臭い雰囲気には我慢できなかった」と言い、1950年代初頭のキブツにあった「熱狂的愛国心」とスターリンの助けを受けたキブツ在住の多くの左翼系メンバーが、ソビエト連邦の可能性に満ちた将来と現在の関係をバラ色に染める様子も同様に見ていた。 1957年にはMITから准教授の地位を提示されており、また1957年から1958年までコロンビア大学の客員教授を務めていた。1961年にテニュアが認められ、現代語・言語学部の教授となった。 彼の業績は言語哲学、認知科学分野にとどまらず、戦争・政治・マスメディアなどに関する100冊以上の著作を発表している。1992年のA&HCIによると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは、存命中の学者としては最も多く、全体でも8番目に多い頻度で引用された。彼は人文社会科学諸分野における「巨魁」と表現され、2005年には投票で「世界最高の論客」 (world's top public intellectual) に選ばれた。 チョムスキーは「現代言語学の父」と評され、また分析哲学の第一人者と見なされる。彼は、コンピュータサイエンスや数学、心理学の分野などにも影響を与えた。 言語学関連の初の書籍を発行した後、チョムスキーはベトナム戦争の有名な批判家となり、政治批評の本を発表し続けた。彼はアメリカの外交政策国家資本主義、報道機関等の批判で有名になった。エドワード・S・ハーマン(英語版)との1988年の共著『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』など彼のマスメディア批判は、マスメディアなどにおけるプロパガンダ・モデル理論を明確に分析した。彼は自らの視点を「啓蒙主義や古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べた。 1974年、イギリス学士院客員フェローの称号を与えられた。 2002年にMITを退職したが、名誉教授としてキャンパスでの研究と講義は続けた。 チョムスキーが「仮説として」唱えた、普遍文法仮説は、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である(言語獲得装置)。 そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。 チョムスキー以前の言語学では、フェルディナン・ド・ソシュールに代表されるヨーロッパ構造主義言語学や、レナード・ブルームフィールドらのアメリカ構造主義言語学の、言語の形態を観察・記述する構造主義的アプローチが優勢であったが、これに対しチョムスキーは言語を作り出す人間の能力に着目した点(すなわち普遍文法仮説)と、そのメカニズムをフォーマルに(形式的に)記述することを目指した生成文法というアプローチを取った点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力(linguistic competence: 言語能力)と、実際に産出された言語形式(linguistic performance: 言語運用)とを区別し、前者を研究の重点としている。チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。 彼以降、言語学は認知科学や計算機科学と強い親近性を獲得した。認知科学との親近性は、普遍文法仮説のように「脳と心」についての科学的な仮説と関連づけてヒトと言語について扱ったことによるといえる。もっとも後述するように、ある意味では皮肉なことに、より認知科学に近いことを自認する認知言語学はチョムスキーの、特に普遍文法仮説に批判的な立場を取っている。計算機科学との親近性は、歴史的に見て同時代に計算言語学や自然言語処理が興ったという幸運もあるが、普遍文法仮説はさておき、生成文法が言語をフォーマルな(形式的な)ものとして取り扱うことを可能とするものだったことによる。チョムスキー自身はその後もヒトの自然言語の研究に邁進するが、形式言語の理論であるチョムスキー階層は、(自然言語処理を専門とする者を除けば)多くの計算機科学者が最も良く知っているチョムスキーの業績である。 また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論や語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 "Colorless green ideas sleep furiously." を示したのが彼である。 酒井邦嘉 は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。 一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては認知言語学からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。 社会哲学的には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判するリバタリアン社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻や、アメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。 特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラのウゴ・チャベス大統領が、国際連合総会でアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュを「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。 「ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される。クメール・ルージュ政権下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は田んぼの中で亡くなった。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。この件についてチョムスキー自身は、「私は国際連合においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして、常々非難している。 イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている。 1980年代には、ホロコースト否認論者であるロベール・フォリソン(フランス語版)がホロコースト否認を理由として大学を解雇され、チョムスキーが友人セルジュ・ティオン(フランス語版)の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている 2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した。 チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。 彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。 彼はとりわけアナルコ・サンディカリズムを政治思想の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。 彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは労働者が差し迫った問題に自ら対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)必要労働を機械に委ね、人間は自由に創造的労働に当たることができるようになると説明している。 以下、著作者名がノーム・チョムスキーの場合は著作者名を省略する。
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"言語学関連の初の書籍を発行した後、チョムスキーはベトナム戦争の有名な批判家となり、政治批評の本を発表し続けた。彼はアメリカの外交政策国家資本主義、報道機関等の批判で有名になった。エドワード・S・ハーマン(英語版)との1988年の共著『Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media』など彼のマスメディア批判は、マスメディアなどにおけるプロパガンダ・モデル理論を明確に分析した。彼は自らの視点を「啓蒙主義や古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1974年、イギリス学士院客員フェローの称号を与えられた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "2002年にMITを退職したが、名誉教授としてキャンパスでの研究と講義は続けた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "チョムスキーが「仮説として」唱えた、普遍文法仮説は、全ての人間の言語に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして生物学的な特徴であるとする言語生得説による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である(言語獲得装置)。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが「生成文法」であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": 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"また、統語論の自律性を主張したことで、かえって意味論や語用論などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーがハーバード大学でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 \"Colorless green ideas sleep furiously.\" を示したのが彼である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "酒井邦嘉 は1990年代の「ミニマリスト・プログラム」への大きな変化を「一人の人が天動説と地動説の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては認知言語学からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "社会哲学的には、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトやジョン・デューイから、思想的にはスペイン内戦時のカタルーニャ地方バルセロナにおける極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、権威主義的な国家を批判するリバタリアン社会主義(アナキズム)に関わり、アメリカに台頭するネオコン勢力によるアフガン侵攻・イラク侵攻や、アメリカ主導のグローバル資本主義を批判している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "特に2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年にベネズエラのウゴ・チャベス大統領が、国際連合総会でアメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュを「悪魔」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "「ポル・ポトを擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される。クメール・ルージュ政権下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は田んぼの中で亡くなった。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。この件についてチョムスキー自身は、「私は国際連合においてアメリカが支援していたティモールでの虐殺について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している。アメリカについては、「大義 (just cause)」の名の下に虐殺を行っているとして、常々非難している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "イスラエル政府やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、道徳的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なりキリスト教なりイスラム国家という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1980年代には、ホロコースト否認論者であるロベール・フォリソン(フランス語版)がホロコースト否認を理由として大学を解雇され、チョムスキーが友人セルジュ・ティオン(フランス語版)の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉でホロコーストを非難している」、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "2022年3月にはロシアによるウクライナ侵攻を、アメリカ主導のイラク侵攻や1939年のドイツ・ソ連によるポーランド侵攻と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃にアナキズムに魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での権威、ヒエラルキー、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の自由の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には立証責任があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "彼はとりわけアナルコ・サンディカリズムを政治思想の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは労働者が差し迫った問題に自ら対処する。つまり工場の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)必要労働を機械に委ね、人間は自由に創造的労働に当たることができるようになると説明している。", "title": "思想" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "以下、著作者名がノーム・チョムスキーの場合は著作者名を省略する。", "title": "邦訳著書" } ]
エイヴラム・ノーム・チョムスキーは、アメリカ合衆国の哲学者、言語哲学者、言語学者、認知科学者、論理学者。マサチューセッツ工科大学の言語学および言語哲学の研究所教授 兼名誉教授。妻は言語学者・教育学者のキャロル・チョムスキー。
{{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = 20世紀の哲学<br />21世紀の哲学 | image_name = Noam Chomsky portrait 2015.jpg | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = 2015年 | name = ノーム・チョムスキー<br />Noam Chomsky | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1928|12|7}} | birth_place = {{USA}}・[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]] | death_date = <!-- {{死亡年月日と没年齢||||||}} --> | death_place = | school_tradition = [[分析哲学]] | main_interests = [[言語学]]、[[心の哲学]]、[[言語哲学]]、[[科学哲学]]、[[認知科学]]、[[政治哲学]] | notable_ideas = [[Colorless green ideas sleep furiously|「無色の緑色の考えが猛烈に眠る」]]、[[:en:Axiom of categoricity|カテゴリー性の公理]]、[[:en:Bought priesthood|買収された僧侶階級]]、[[:en:Cartesian linguistics|デカルト派言語学]]([[ルネ・デカルト]])、[[チョムスキー標準形]]、[[チョムスキー階層]]、[[:en:Chomsky–Schützenberger theorem|チョムスキー・シ ュツェンベルガーの定理]]、[[認知的閉鎖]]([[心の哲学]])、[[文脈自由文法]]、[[文脈依存文法]]、[[:en:Corporate media|コーポレート・メディア]]、[[:en:Deep structure and surface structure|深層構造と表層構造]]、[[:en:Deterministic context-free grammar|決定論的文脈自由文法]]、[[:en:Digital infinity|デジタルな無限性]]、[[:en:E-language|E言語]]、[[:en:Elite media|エリート・メディア]]、[[:en:Empty category principle|空範疇の厳密原理]]、[[:en:Extended projection principle|拡大投射原理]]、[[:en:Formal democracy|形式的な民主主義]]、[[形式文法]]、[[生成文法]]、[[:en:Government and binding theory|統率束縛理論]]、[[:en:I-language|I言語]]、[[:en:Immediate constituent analysis|直接構成素分析]]、[[:en:Innateness hypothesis|生得仮説]]、[[:en:Intellectual responsibility|知的責任]]、[[言語獲得装置]]、[[:en:Levels of adequacy|妥当性のレベル]]、[[:en:Linguistic competence|言語能力]]、[[:en:Linguistic performance|言語運用]]、[[:en:Logical Form (linguistics)|論理形式]]、[[:en:m-command|Mコマンド]]、[[:en:Markedness|有標性]]、[[情報操作]](Media manipulation)、[[:en:Mentalism (philosophy)|メンタリズム(哲学)]]、[[:en:Merge (linguistics)|マージ(統合)]]、[[:en:Minimalist program|ミニマリスト・プログラム]]、[[:en:Non-configurational language|非階層言語]]、[[:en:Parasitic gap|寄生空所]]、[[音韻論]]、[[句構造文法]]、[[句構造規則]]、[[プラトンの問題]]、[[刺激の貧困]]、[[:en:Principles and parameters|原理とパラメーター]]、[[:en:Projection Principle|投射原理]]、[[プロパガンダ・モデル]]、[[生得論]]、[[:en:Recursion|言語における再帰性]]、[[:en:Scansion|韻律分析]]、[[第二言語習得]]、[[自己検閲]]、[[:en:Specified subject condition|指定主語条件]]、[[言語共同体]]、[[:en:Statistical language acquisition|統計的言語獲得]]、[[:en:Structure preservation principle|構造保存原理]]、[[:en:Subjacency|下接の条件]]、[[:en:Symbol (formal)|シンボル]]、[[:en:Tensed-S condition|時制文条件]]、[[終端記号と非終端記号]]、[[:en:Trace erasure principle|痕跡削除原理]]、[[:en:Transformational grammar|変形文法]]、[[:en:Transformational syntax|変形統語論]]、[[普遍文法]]、[[Xバー理論]] | influences = [[ジョン・L・オースティン]]、[[ミハイル・バクーニン]]、[[:en:Alex Carey|Alex Carey]]、[[:en:C. 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Ernest Lepore (2004).</ref><ref>''{{仮リンク|ケンブリッジ哲学辞典|en|The Cambridge Dictionary of Philosophy}}'' (1999), "Chomsky, Noam," [[ケンブリッジ大学出版局]], pg. 138.</ref>、[[言語哲学|言語哲学者]]、[[言語学者]]、[[認知科学|認知科学者]]、[[論理学|論理学者]]<ref>{{cite book|title=Milestones in Computer Science and Information Technology|year=2003|publisher=Greenwood Publishing Group|isbn=9781573565219|pages=43–44|author=Edwin D. Reilly|accessdate=July 15, 2012|quote=}}</ref><ref>{{cite book|title=Readings in Machine Translation|year=2003|publisher=[[マサチューセッツ工科大学]]出版局|isbn=9780262140744|author=H. L. Somers|editor=Sergei Nirenburg, H. L. Somers, Yorick Wilks|accessdate=July 15, 2012|page=68|quote=}}</ref>。[[マサチューセッツ工科大学]]の[[言語学]]および言語哲学の研究所教授 ({{en|Institute Professor}}) 兼名誉教授<ref>{{cite web|url=http://web.mit.edu/linguistics/people/faculty/chomsky/index.html |title=MIT Department of Linguistics: People: Faculty: Noam Chomsky |publisher=Web.mit.edu |date= |accessdate=August 16, 2011}}</ref>。妻は[[言語学者]]・[[教育学者]]の[[キャロル・チョムスキー]]。 == 来歴 == === 1928年の生誕から1945年まで === ノーム・チョムスキーは1928年12月7日、アメリカ合衆国[[ペンシルベニア州]][[フィラデルフィア]]の{{仮リンク|イースト・オーク・レーン|en|East Oak Lane, Philadelphia}}近郊で生まれた<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=9}}</ref><ref name="Goodman">{{cite web |url=http://www.chomsky.info/interviews/20041126.htm |title=The Life and Times of Noam Chomsky, Noam Chomsky interviewed by Amy Goodman|publisher=www.chomsky.info |accessdate=December 21, 2008|last=|first=}}</ref>。父{{仮リンク|ウィリアム・チョムスキー|en|William Chomsky}}は当時[[ロシア帝国]]支配下の[[ウクライナ]]で生まれたが、戦乱を避けて1913年にアメリカへ渡った。[[メリーランド州]][[ボルチモア]]の[[搾取工場]]で働き、貯蓄して[[ジョンズ・ホプキンス大学]]で学んだ甲斐もあり市の[[ヘブライ人]]系小学校教師の職を得た。現在の[[ベラルーシ]]で生まれアメリカで育ったエルシー・シモノフスキーとの結婚を期にフィラデルフィアに移り、夫妻はミクッバ・イスラエル宗教学校で教鞭を取った。「とても温和で紳士、そして魅力的な人物」と評された<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=11}}</ref> ウィリアムはここの校長にまで出世し、1924年にはユダヤ系教員養成大学では合衆国最古である{{仮リンク|グラッツ大学|en|Gratz College}}の教授に就任、1932年からは教授長職を勤めた。1955年からは[[:en:Dropsie College|Dropsie College]]でも教鞭を取ったウィリアムは、別に中世ヘブライ語の研究にも取り組み、一連の著作も発表した<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=9f}}</ref>。 ノーム・チョムスキーは夫妻初の子供として生まれた。5年後に生まれた弟デビッドとは仲が良い兄弟だったが、気楽な弟に対し兄は負けず嫌いの性格だった<ref name="ReferenceA">{{Harvnb|Barsky|1997|pp=11-13}}</ref>。両親の[[母語]]は[[イディッシュ語]]だったが、それを家庭内で使う事は戒められた。夫と異なり、エルシーはごく普通の{{仮リンク|ニューヨーク訛りの英語|en|New York dialect}}を喋った<ref name="Goodman"/>。兄弟は[[ユダヤ人]]社会で育ち、ヘブライ語を習い、[[アハド・ハアム]]の著作など[[労働シオニズム]]に影響を受けていた一家にあって、よく[[シオニズム]]の政治理論について語り合った<ref name="ReferenceA"/>。子供の頃からユダヤ人として、特にフィラデルフィア在住のアイルランド系やドイツ系共同体から受ける[[反ユダヤ主義]]に直面し、[[ナチス・ドイツのフランス侵攻]]を祝う[[ドイツ人]]のビア・パーティは忘れられないものとなったという<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=15}}</ref><ref name="Conversations-with-History">{{Harvnb|Kreisler|2002}}</ref>。 ノームは両親を、政治的には[[フランクリン・ルーズベルト]]率いる[[民主党 (アメリカ)|民主党]]を支持する[[中道左派]]だと言及したが、彼自身は{{仮リンク|国際婦人服労働組合|en|International Ladies' Garment Workers' Union}} (ILGWU) に所属する[[社会主義|社会主義者]]の親族らから影響を受けて[[極左]]思想を持つようになった<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=14}}</ref>。また特に、あまり教育を受けていなかったが[[ニューヨーク]]で所有する新聞販売スタンドで集まった左派ユダヤ人たちと毎日のように議論を交わす彼のおじに大きく影響された<ref name="Barksy 1997 23">{{Harvnb|Barsky|1997|p=23}}</ref><ref name="globetrotter.berkeley.edu">{{cite web|url=http://globetrotter.berkeley.edu/people2/Chomsky/chomsky-con1.html |title=Conversation with Noam Chomsky, p. 1 of 5 |publisher=Globetrotter.berkeley.edu |date= |accessdate=August 16, 2011}}</ref>。一家で街中に出かけると、ノームは[[左翼]]や[[アナキズム|アナキスト]]系の書店に行っては政治に関する本を熱心に読んだ<ref name="Barksy 1997 23"/><ref name="globetrotter.berkeley.edu"/>。後に振り返って彼は無政府主義思想と出逢えた事は「幸運なる偶然」であり、[[急進党]]を制御して平等な社会を実現する選択肢だと信じられていた[[マルクス・レーニン主義]]という他の急進的左翼思想に対する批判的態度を形成することができたという<ref name="Barksy 1997 17-19">{{Harvnb|Barsky|1997|pp=17-19}}</ref>。 ノームは初等教育を、競争をさせず生徒の興味を伸ばす事に重点を置き設立された独立系の[[:en:Oak Lane Day School|Oak Lane Country Day School]]で受けた。ここで10歳の時、彼は[[スペイン内戦]]による[[バルセロナ]]陥落を受けて[[ファシズム]]の拡散を取り扱った初めての記事を書いた。12-13歳の頃にはそれまで以上に無政府主義政治への傾倒を強めた<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=15-17}}</ref><ref>{{Harvnb|Kreisler|2002|loc=Chapter 1: Background}}</ref>。12歳の時に[[:en:Central High School (Philadelphia)|Central High School]]の中等部へ進学し多くのクラブや共同体に参加したが、そこでの階層的で厳しい管理が行き届いた指導方法に当惑させられた<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=21f}}</ref>。 === 大学時代:1945年から1955年までの10年 === {{double image|right|Rudolf Rocker.PNG|155|George Orwell press photo.jpg|150|[[アナルコ・サンディカリスト]]の[[ルドルフ・ロッカー]](左)と[[イギリス人]][[社会民主主義|社会民主主義者]][[ジョージ・オーウェル]](右)。若きチョムスキーはふたりから強い影響を受け、アナルコ・サンディカリストは実現可能かつ望ましいものという考えを持った。}} 高校卒業後の1945年ノーム・チョムスキーは[[ペンシルベニア大学]]へ進学し、{{仮リンク|C・W・チャーチマン|en|International C. West Churchman}}や[[ネルソン・グッドマン]]らから[[哲学]]を、[[ゼリグ・ハリス]]らから[[言語学]]を学んだ。ハリスの講義は、ノームに言語構造の[[線型写像]](文章の中の部分的な集まりから他の集まりへの対応付け)といった解析法の発見をもたらした。1951年の修士論文『The Morphophonemics of Modern Hebrew (現代ヘブライ語における形態音素論)』で、彼は[[形態音素]]の規則を示した<ref name="Barsky1997">{{cite book|last=Barsky|first=Robert Franklin|title=Noam Chomsky: a life of dissent|url=https://books.google.co.jp/books?id=GhwvCoZBFoYC&pg=PA47&redir_esc=y&hl=ja|accessdate=August 16, 2011|year=1997|publisher=ECW Press|isbn=978-1-55022-281-4|pages=47}}</ref>。そして1955年、[[ペンシルベニア大学]][[大学院]]博士課程を修了し、[[言語学]]の[[博士号]]を取得した。 1951-55年にチョムスキーは[[:en:Harvard Society of Fellows|ハーバード大学のジュニアフェロー]]{{efn2|3年間財政支援を受けながら何の義務無し(論文作成も講義への出席も不要)で研究できる制度。様々な人材を輩出している。}}に選ばれており、その研究が「生成文法論」に結実した。その後1955年からMITに勤務した。 チョムスキーはニューヨークを訪れては、イディッシュ語の無政府主義系雑誌『{{仮リンク|フライエ・アルバイテル・シュティンメ|en|Freie Arbeiter Stimme}}』の事務所へ頻繁に足を運び、同誌に寄稿していた[[アナルコ・サンディカリスト]]の[[ルドルフ・ロッカー]]に傾倒する。後に記したところによると、ロッカーの仕事から無政府主義と[[古典的自由主義]]の関係に気づき、後に研究の対象にしたという<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=24}}</ref>。他にも、政治思想家では、アナキストの{{仮リンク|ディエゴ・アバド・サンティラン|en|Diego Abad de Santillán}}や社会民主主義者の[[ジョージ・オーウェル]]や[[バートランド・ラッセル]]、{{仮リンク|ドワイト・マクドナルド|en|Dwight Macdonald}}、また非ボリシェヴィキマルキシストの[[カール・リープクネヒト]]や[[カール・コルシュ]]、[[ローザ・ルクセンブルク]]らの著作を精読した<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=24f}}</ref>。これらに目を通す中で、 チョムスキーはアナルコ・サンディカリスト社会に共感し、オーウェルの著作『[[カタロニア讃歌]]』で知ったスペイン内戦の期間に結成されたアナルコ・サンディカリスト共同体に惹かれるようになった<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=26}}</ref>。 チョムスキーは1944年から1949年にかけてドワイト・マクドナルドが発刊した左翼系雑誌『[[:en:Politics (journal)|Politics]]』を愛読した。当マクドナルドは当初こそマルキシストの観念を堅持していたが、1946年にこれを捨てて「無政府主義と反戦という奇妙な神に耽る」ようになった。チョムスキーは後に、無政府主義に対する興味が「応報と発達をなした」と同誌に書いた<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=34f}}</ref>。20代の終わり頃には、マルキシスト思想家で[[評議会共産主義|評議会共産主義者]]の{{仮リンク|ポール・マティック|en|Paul Mattick}}が発行する定期刊行誌『[[:en:International Council Correspondence|Living Marxism]]』の読者になった。この雑誌は[[ヨシフ・スターリン]]の[[ソヴィエト連邦]]と[[第二次世界大戦]]後の発展を批判的に評した。チョムスキーはマルキシストの理論根拠を受け入れなかったが、協議会共産主義者運動からは強い影響を受け、[[アントン・パンネクーク]]や[[カール・コルシュ]]らなどの「生きたマルキシスト」の著作を貪欲に読み漁った<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=36-40}}</ref>。チョムスキーはマティックと個人的な知り合いになるが、後に彼を指して「私の考えにぴったりな正統派マルキシスト」と評した<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=36}}</ref>。また彼は、{{仮リンク|アメリカのレーニン主義者同盟|en|Leninist League (US)}}にも加わっていたジョージ・スピーロが率いた「Marlenites」という曖昧な[[反スターリン主義|反スターリン]]的なアメリカ人マルキニスト集団が持つ政治理論に大きく関心を持った。この集団は、第二次世界大戦は、[[西側諸国|西側]]の[[資本家]]と[[国家資本主義]]の政府である[[ソビエト連邦]]が主導し、[[ヨーロッパ]]の[[プロレタリアート]]を潰そうとした「いかさま」だったと主張し、この観点にチョムスキーは同意した<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|pp=43f}}</ref>。 チョムスキーはミクヴェ・イスラエル学校の同門で幼馴染の[[キャロル・チョムスキー|キャロル・ドリス・シャッツ]]と恋仲になり<ref>{{Harvnb|Barsky|1997|p=13}}</ref>、1949年に結婚し、彼女が2006年12月に癌で亡くなるまでの59年間連れ添った<ref>{{cite web|last=Marquard|first=Bryan|title=Carol Chomsky; at 78; Harvard language professor was wife of MIT linguist|publisher=Boston Globe|date=December 20, 2008|url=http://www.boston.com/news/education/higher/articles/2008/12/20/carol_chomsky_at_78_harvard_language_professor_was_wife_of_mit_linguist/|accessdate=December 20, 2008}}</ref>。夫妻には2人の娘{{仮リンク|アビバ・チョムスキー|en|Aviva Chomsky}}とダイアン、息子ハリーを得た。1953年に一時[[イスラエル]]、[[キブツ]]の{{仮リンク|ハゾレア|en|HaZore'a}}に住んだ。この滞在について聞かれた際、チョムスキーは「失望でした」と答え、「そこは好きだが、イデオロギー臭い雰囲気には我慢できなかった」と言い、[[1950年代]]初頭のキブツにあった「熱狂的愛国心」と[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の助けを受けたキブツ在住の多くの左翼系メンバーが、ソビエト連邦の可能性に満ちた将来と現在の関係をバラ色に染める様子も同様に見ていた<ref>{{cite web|author=|url=http://www.chomsky.info/interviews/20051110.htm |title=Noam Chomsky interviewed by Shira Hadad |publisher=Chomsky.info |date= |accessdate=August 16, 2011}}</ref>。 ===研究職としてのキャリア:1955年以降=== {{節スタブ}} 1957年にはMITから准教授の地位を提示されており、また1957年から1958年まで[[コロンビア大学]]の客員教授を務めていた{{sfnm|1a1=Lyons|1y=1978|1p=xvi|2a1=Barsky|2y=1997|2p=91}}。1961年にテニュアが認められ、現代語・言語学部の教授となった{{sfnm|1a1=Barsky|1y=1997|1pp=101–102, 119|2a1=Sperlich|2y=2006|2p=23}}。 彼の業績は言語哲学、認知科学分野にとどまらず、[[戦争]]・[[政治]]・[[マスメディア]]などに関する100冊以上の著作を発表している<ref>{{cite web|url=http://www.chomsky.info/books.htm|title=Books|accessdate=August 30, 2011|publisher=chomsky.info}}</ref>。1992年の[[:en:Arts and Humanities Citation Index|A&HCI]]によると、1980年から1992年にかけてチョムスキーは、存命中の学者としては最も多く、全体でも8番目に多い頻度で引用された<ref>{{cite web|url=http://www.mnsu.edu/emuseum/information/biography/abcde/chomsky_noam.html|title=Noam Chomsky|accessdate=August 16, 2011|date=May 28, 2010|publisher=Web.archive.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100528222251/http://www.mnsu.edu/emuseum/information/biography/abcde/chomsky_noam.html|archivedate=2010年5月28日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref><ref>{{cite news|title=Chomsky is Citation Champ|date=April 15, 1992|url=http://web.mit.edu/newsoffice/1992/citation-0415.html|accessdate=September 3, 2007|publisher=[[マサチューセッツ工科大学]] News Office}} </ref><ref>{{cite news|title=Speech!|date=July/August 2001|last=Hughes|first=Samuel|url=http://www.chomsky.info/onchomsky/200107--.htm|accessdate=September 3, 2007|publisher=''The Pennsylvania Gazette''|quote=According to a recent survey by the Institute for Scientific Information, only Marx, Lenin, Shakespeare, Aristotle, the Bible, Plato, and Freud are cited more often in academic journals than Chomsky, who edges out Hegel and Cicero.|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070929095612/http://www.chomsky.info/onchomsky/200107--.htm|archivedate=2007年9月29日|deadurldate=2017年9月}}</ref><ref name="robinson">{{cite news|title=The Chomsky Problem|date=February 25, 1979|last=Robinson|first=Paul|publisher=''[[ニューヨーク・タイムズ]]''|quote=Judged in terms of the power, range, novelty and influence of his thought, Noam Chomsky is arguably the most important intellectual alive today. He is also a disturbingly divided intellectual.}}</ref>。彼は人文社会科学諸分野における「巨魁」と表現され、2005年には投票で「世界最高の論客」 ({{en|world's top public intellectual}}) に選ばれた<ref>{{Cite news |title=Chomsky is voted world's top public intellectual |newspaper=The Guardian |date=2005-10-18 |author=Duncan Campbell |url=https://www.theguardian.com/world/2005/oct/18/books.highereducation}}</ref><ref>{{Cite web |author=Matt Dellinger |date=2003-03-31 |url=https://www.newyorker.com/magazine/2003/03/31/noam-chomsky |title=Noam Chomsky |publisher=The New Yorker |accessdate=2019-03-30}}</ref>。 チョムスキーは「現代言語学の父」と評され<ref name="Fox">{{cite news|title=A Changed Noam Chomsky Simplifies|date=December 5, 1998|last=Fox|first=Margalit|url=http://select.nytimes.com/gst/abstract.html?res=F20B1FFA3A5F0C768CDDAB0994D0494D81&n=Top%2fReference%2fTimes%20Topics%2fPeople%2fC%2fChomsky%2c%20Noam|accessdate=August 2, 2008|publisher=New York Times|quote=... Noam Chomsky, father of modern linguistics and the field's most influential practitioner; ... |archiveurl=https://archive.is/eDfc |archivedate=2012-05-29}}</ref><ref>Thomas Tymoczko, Jim Henle, James M. Henle, ''Sweet Reason: A Field Guide to Modern Logic'', Birkhäuser, 2000, p. 101.</ref>、また[[分析哲学]]の第一人者と見なされる<ref name="szabo" />。彼は、[[計算機科学|コンピュータサイエンス]]や[[数学]]、[[心理学]]の分野などにも影響を与えた<ref>{{cite book|author=Michael Sipser|title=Introduction to the Theory of Computation|year=1997|publisher=PWS Publishing|isbn=0-534-94728-X}}</ref><ref name="UMN Cognitive Science">{{cite web|url=http://www.cogsci.umn.edu/OLD/calendar/past_events/millennium/final.html|title=The Cognitive Science Millennium Project|accessdate=August 16, 2011|date=|publisher=Cogsci.umn.edu|archiveurl=https://web.archive.org/web/20111011092046/http://www.cogsci.umn.edu/OLD/calendar/past_events/millennium/final.html|archivedate=2011年10月11日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。 言語学関連の初の書籍を発行した後、チョムスキーは[[ベトナム戦争]]の有名な批判家となり、政治批評の本を発表し続けた。彼はアメリカの外交政策<ref>{{Cite web |url=http://www.publishersweekly.com/pw/print/20030505/30953-the-accidental-bestseller-.html |title=The Accidental Bestseller |website=Publishers Weekly |publisher=PWxyz, LLC. |accessdate=2019-03-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121002051640/http://www.publishersweekly.com/pw/print/20030505/30953-the-accidental-bestseller-.html |archivedate=2003-05-05}}</ref>[[国家資本主義]]<ref>{{cite web|url=http://www.chomsky.info/interviews/1991----02.htm|title=On Capitalism|accessdate=2013年5月29日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130928043924/http://www.chomsky.info/interviews/1991----02.htm|archivedate=2013年9月28日|deadlinkdate=2017年9月 |author=Noam Chomsky}}</ref><ref>{{cite journal|last=Arnove|first=Anthony|month=March|year=1997|title=In Perspective: Noam Chomsky|url=http://pubs.socialistreviewindex.org.uk/isj74/arnove.htm|journal=International Socialism|accessdate=October 29, 2011}}</ref>、[[報道機関]]等の批判で有名になった。{{仮リンク|エドワード・S・ハーマン|en|Edward S. Herman}}との1988年の共著『[[:en:Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media|Manufacturing Consent: The Political Economy of the Mass Media]]』など彼の[[マスメディア]]批判は、マスメディアなどにおける[[プロパガンダ・モデル]]理論を明確に分析した。彼は自らの視点を「[[啓蒙思想|啓蒙主義]]や古典的自由主義に起源を持つ、中核的かつ伝統的なアナキズム」と述べた<ref name="Chomsky 1996, pp. 71">{{Harvnb|Chomsky|1996|p=71}}</ref>。 1974年、[[イギリス学士院フェロー|イギリス学士院客員フェロー]]の称号を与えられた{{sfn|Barsky|1997|p=156}}。 2002年にMITを退職したが<ref>{{Cite news | title = Noam Chomsky Is Leaving MIT for the University of Arizona | last = Weidenfeld | first = Lisa | magazine = Boston Magazine | url = https://www.bostonmagazine.com/news/2017/08/29/noam-chomsky-mit-arizona/ | date = August 29, 2017 | access-date = June 10, 2019 | quote = Chomsky has been at MIT since 1955, and retired in 2002. | archive-date = August 17, 2021 | archive-url = https://web.archive.org/web/20210817160616/https://www.bostonmagazine.com/news/2017/08/29/noam-chomsky-mit-arizona/ | url-status = live }}</ref>、名誉教授としてキャンパスでの研究と講義は続けた{{sfn|Sperlich|2006|p=10}}。 == 人物 == {{出典の明記|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)|section=1|title=節の前半は脚注が殆どなく、出典不明です。}} チョムスキーが'''「仮説として」'''唱えた、[[普遍文法]]仮説は、全ての[[人間]]の[[言語]]に「普遍的な特性がある」とし、その普遍的特性は人間が持って生まれた、すなわち生得的な、そして[[生物学]]的な特徴であるとする'''言語生得説'''による、言語をヒトの生物学的な仮説上の(心理上の)器官によるものと捉えた仮説である([[言語獲得装置]])。 そして、そのような仮説はいったん置くとして、その研究のために彼が導入したのが'''「[[生成文法]]」'''であった。生成文法に用いた演繹的な方法論により、チョムスキー以前の言語学に比べて飛躍的に言語研究の質と精密さを高めた。 チョムスキー以前の言語学では、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]に代表されるヨーロッパ[[構造主義]]言語学や、[[レナード・ブルームフィールド]]らのアメリカ[[構造主義言語学]]の、言語の形態を観察・記述する構造主義的アプローチが優勢であったが、これに対しチョムスキーは言語を作り出す人間の能力に着目した点(すなわち普遍文法仮説)と、そのメカニズムをフォーマルに(形式的に)記述することを目指した[[生成文法]]というアプローチを取った点が画期的であった。より具体的に言えば、適切な言語形式を産出する能力({{en|linguistic competence:}} '''言語能力''')と、実際に産出された言語形式({{en|linguistic performance:}} '''言語運用''')とを区別し、前者を研究の重点としている。チョムスキー自身はソシュールの熱烈なファンであり、熱心な読者でもある。 彼以降、言語学は[[認知科学]]や[[計算機科学]]と強い親近性を獲得した。認知科学との親近性は、普遍文法仮説のように「脳と心」についての科学的な仮説と関連づけてヒトと言語について扱ったことによるといえる。もっとも後述するように、ある意味では皮肉なことに、より認知科学に近いことを自認する[[認知言語学]]はチョムスキーの、特に普遍文法仮説に批判的な立場を取っている。計算機科学との親近性は、歴史的に見て同時代に[[計算言語学]]や[[自然言語処理]]が興ったという幸運もあるが、普遍文法仮説はさておき、生成文法が言語をフォーマルな(形式的な)ものとして取り扱うことを可能とするものだったことによる。チョムスキー自身はその後もヒトの[[自然言語]]の研究に邁進するが、[[形式言語]]の理論である[[チョムスキー階層]]は、(自然言語処理を専門とする者を除けば)多くの計算機科学者が最も良く知っているチョムスキーの業績である。 また、[[統語論]]の自律性を主張したことで、かえって[[意味論 (言語学)|意味論]]や[[語用論]]などの隣接分野も浮き彫りにする形となった。このあたりについてはチョムスキーが[[ハーバード大学]]でジュニア・フェローとして過ごした時期の考察に端を発する。派を問わずあらゆる言語学者に「統語的にはgrammaticalだが、意味的にはnonsenseな」「統語論と意味論の境界を明らかに示すような」例文として知られる文 "[[Colorless green ideas sleep furiously]]." を示したのが彼である。 [[酒井邦嘉]]<ref>酒井邦嘉『科学者という仕事』([[中公新書]] 2006年)pp.68-74.</ref> は1990年代の「[[生成文法#ミニマリスト・プログラム|ミニマリスト・プログラム]]」への大きな変化を「一人の人が[[天動説]]と[[地動説]]の両方を作り上げるようなものである」と評していて、チョムスキーの次の言葉を紹介している。 {{quote|もしあなたが孤立して、世の中の誰とも全く違っているとしたら、自分の気が変になったか、どうかしたに違いないと思い始めるでしょう。あなたが他の人々と何か違ったことを言っているという事実に負けないためには、強い自我({{en|a big ego}})が必要です。}} 一方でチョムスキー的な言語学には言語学の内外からの批判もある。特に言語学内の他派からの批判は「チョムスキアン」なる語の存在からもうかがえるものであり、チョムスキー以前の派閥としては前述の欧あるいは米の構造主義による言語学から、あるいは以後の派閥としては[[認知言語学]]からのものがある。認知言語学はヒトの言語能力について、言語に特化したものではなく他の能力も含む認知体系の一部として捉える立場をとっており、普遍文法仮説が言語だけを特別な能力であると仮定していることに特に批判的である。 [[社会哲学]]的には、[[ヴィルヘルム・フォン・フンボルト]]や[[ジョン・デューイ]]から、思想的には[[スペイン内戦]]時の[[カタルーニャ州|カタルーニャ]]地方[[バルセロナ]]における極度に民主的な労働者自治によるアナキスト革命から強い影響を受け、[[権威主義]]的な国家を批判する[[左派リバタリアニズム|リバタリアン社会主義]](アナキズム)に関わり、アメリカに台頭する[[新保守主義 (アメリカ)|ネオコン]]勢力による[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン侵攻]]・[[イラク戦争|イラク侵攻]]や、アメリカ主導の[[グローバル資本主義]]を批判している。 特に[[2001年]]の[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降は、その傾向を強めており、政治関係の著作も多数ある。2006年に[[ベネズエラ]]の[[ウゴ・チャベス]]大統領が、[[国際連合総会]]で[[アメリカ合衆国大統領]][[ジョージ・W・ブッシュ]]を「[[悪魔]]」と批判する有名な演説をおこなった際には、チョムスキーの『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』を自ら示して、「アメリカ国民は是非この本を読むべきだ」と語り、書籍の売れ行きに貢献した。 「[[ポル・ポト]]を擁護していた過去があり、そのことを隠蔽している」とよく説明される<ref>{{cite web| title=Noam Chomsky - Extremist of the Left and Right| url=http://www.jochnowitz.net/Essays/ExtremistLang.html| accessdate=2008-02-20}}</ref>。[[クメール・ルージュ|クメール・ルージュ政権]]下で父親を失い、自らもアメリカに亡命したカンボジア系米国人政治学者のソパール・イヤは、チョムスキーに対して「チョムスキーがケンブリッジの肘掛け椅子に座りながら理論を研ぎ澄ましている間、私の家族は[[強制労働|田んぼの中で亡くなった]]。」「私と生き残った家族にとって、クメール・ルージュ政権下での生活には、知的なお座敷遊びの道具ではない。」と批判している。<ref>{{Cite web |title=Cambodian Refugee Sophal Ear vs. Noam Chomsky {{!}} Arguments Worth Having |url=https://web.archive.org/web/20150812213017/http://argumentsworthhaving.com/2014/03/09/cambodian-refugee-sophal-ear-vs-noam-chomsky/ |website=web.archive.org |date=2015-08-12 |access-date=2023-06-07}}</ref>この件についてチョムスキー自身は、「私は[[国際連合]]においてアメリカが支援していた[[東ティモール|ティモール]]での[[虐殺]]について証言を行なったことがあり、そのとき、それとポル・ポトの虐殺とが類似しうることをたまたま述べた。実際それは類似していたのだ」と説明している<ref>{{cite web| title=The Treachery of the Intelligentsia: A French Travesty| url=http://www.chomsky.info/interviews/19811026.htm| accessdate=2008-02-20}}</ref>。アメリカについては、「大義 ({{en|just cause}})」の名の下に[[虐殺]]を行っているとして、常々非難している<ref>{{cite web | title=Hot Type on the Middle East | url=http://www.chomsky.info/interviews/20020416.htm | accessdate=2008-02-20}}</ref>。 [[イスラエル]][[政府]]やその支持者、同政府に対するアメリカの支援などに極めて批判的で、「イスラエルの支持者は実際の所、[[道徳]]的堕落の支持者にほかならない」とまで述べている<ref>[http://www.chomsky.info/interviews/20080606.htm On the Future of Israel and Palestine]</ref>。こうしたことから、ユダヤ人国家としてのイスラエル建国には不支持を貫き、「ユダヤ人なり[[キリスト教]]なり[[イスラム国家]]という概念が適切とは思えない。アメリカ合衆国をキリスト教国家とするのはおかしいのではないか」としている<ref>{{cite news |title=Questions for Noam Chomsky: The Professorial Provocateur |work=The New York Times Magazine |publisher=The New York Times |date=November 2, 2003 |first=Deborah |last=Solomon |url=http://www.nytimes.com/2003/11/02/magazine/way-we-live-now-11-02-03-questions-for-noam-chomsky-professorial-provocateur.html }}</ref>。 [[1980年代]]には、[[ホロコースト否認]]論者である{{仮リンク|ロベール・フォリソン|fr|Robert Faurisson}}がホロコースト否認を理由として大学を[[解雇]]され、チョムスキーが友人{{仮リンク|セルジュ・ティオン|fr|Serge Thion}}の頼みで、処分に抗議する文書に署名を行った{{sfn|松本典久|2009|p=91-92}}。その後フォリソンは自らの著書にチョムスキーの文章を序文として掲載した事が問題となった。チョムスキーは「その本の内容まで肯定したわけではない」「(過去の本で)強い言葉で[[ホロコースト]]を非難している」{{sfn|松本典久|2009|p=92-93}}、ホロコーストを否認したからといって反ユダヤ主義者とは考えられないとコメントしている<ref>{{Cite web |title=The Faurisson Affair |website=CHOMSKY.INFO |url=https://chomsky.info/1989____/ |accessdate=2019-03-30}}</ref> 2022年3月には[[2022年ロシアのウクライナ侵攻|ロシアによるウクライナ侵攻]]を、アメリカ主導の[[イラク侵攻]]や1939年のドイツ・ソ連による[[ポーランド侵攻]]と肩を並べるほどの「重大な戦争犯罪」と評価した<ref>{{cite news |title=Noam Chomsky and Jeremy Scahill on the Russia-Ukraine War, the Media, Propaganda, and Accountability |url=https://theintercept.com/2022/04/14/russia-ukraine-noam-chomsky-jeremy-scahill/ |work=The Intercept |date=April 14, 2022}}</ref>。 == 思想 == {{出典の明記|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)|section=1}} チョムスキーは自身をアナキストだと認めており、10代の頃に[[アナキズム]]に魅了されて以来その考えは変わらないと明言している。 彼はアナキズムについて「生活のあらゆる側面での[[権威]]、[[ヒエラルキー]]、支配の仕組みを探求し、特定し、それに挑戦することにおいてのみ、意味があると思っています」と言い、「これら(権威、ヒエラルキー、支配)は正当とされる理由が与えられない限りは不当なものであり、人間の[[自由]]の領域を広げるために廃絶されるべきもの」「権力には[[立証責任]]があり、それが果たせないのであれば廃絶されるべきであるという信念、これが、私のアナキズムの本質についての変わらぬ理解です」とその考えを述べている。 彼はとりわけ[[アナルコサンディカリスム|アナルコ・サンディカリズム]]を[[政治哲学|政治思想]]の中核に据え、「高度な先進産業社会にふさわしい合理的な組織化のあり方」と評価している。 彼はアナルコ・サンディカリズムの今日的な意義について「産業化と技術の進歩が広範囲な自己管理の可能性を開く」「そこでは[[労働者]]が差し迫った問題に自ら対処する。つまり[[工場]]の指揮や管理だけではなく、経済の仕組みや社会制度に関することで、地域あるいはその範囲を超えた計画の立案に関することで、重要な実質決定を行えるような地位を得るのです」と特徴づけ、手段の機械化が進んだ現代においては、(労働者が自らの工場の運営に携わることにより)[[必要労働]]を機械に委ね、人間は自由に[[創造的労働]]に当たることができるようになると説明している。 == 主な受賞歴 == * [[1988年]] - [[京都賞基礎科学部門]] * [[1996年]] - [[ヘルムホルツ・メダル]] * [[1999年]] - [[ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会)|ベンジャミン・フランクリン・メダル]] == 邦訳著書 == {{See also |ノーム・チョムスキーの著作・出演作品一覧}} 以下、著作者名がノーム・チョムスキーの場合は著作者名を省略する。 === 言語学・言語哲学関係 === *{{Cite book|和書|author=ノーム・チヨムスキー|others=[[勇康雄]] 訳|title=文法の構造|year=1963|publisher=[[研究社出版]]|ref={{Harvid|チヨムスキー|勇|1963}}}} *{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=[[川本茂雄]] 訳|title=デカルト派言語学 合理主義思想の歴史の一章|year=1970|publisher=テック|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1970}}}} - 参考書目:pp.149-155. **{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=川本茂雄 訳|title=デカルト派言語学 合理主義思想の歴史の一章|edition=新版|date=1976-09-30|isbn=4-622-01974-4|url=https://www.msz.co.jp/book/detail/01974/|publisher=[[みすず書房]]|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1976}}}} - 参考書目:pp.149-155. *{{Cite book|和書|others=[[安井稔 (英語学者)|安井稔]] 訳|title=文法理論の諸相|year=1970|publisher=研究社出版|ref={{Harvid|チョムスキー|安井|1970}}}} - 参考文献:pp.281-290. *{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|coauthors=[[モリス・ハレ|M.ハレ]]|others=[[橋本万太郎]]・[[原田信一]] 訳|title=現代言語学の基礎|year=1972|publisher=[[大修館書店]]|ref={{Harvid|チョムスキー|ハレ|橋本|原田|1972}}}} *{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=川本茂雄 訳|title=知識と自由|year=1975|publisher=番町書房|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1975}}}} *{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=川本茂雄 訳|title=言語と精神|year=1976|publisher=[[河出書房新社]]|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1976}}}} **{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=川本茂雄 訳|title=言語と精神|year=1980|month=4|publisher=河出書房新社|edition=新装版|series=現代思想選 2|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1980}}}} **{{Cite book|和書|others=川本茂雄 訳|title=言語と精神|edition=改訂版新装|date=1996-04-25|publisher=河出書房新社|series=河出・現代の名著|isbn=4-309-70620-7|url=http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309706207/|ref={{Harvid|チョムスキー|川本|1996}}}} - 原タイトル:''Language and mind''。Enl.ed. **{{Cite book|和書|others=[[町田健]] 訳|title=言語と精神|date=2011-07-14|publisher=河出書房新社|isbn=978-4-309-24556-0|url=http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309245560/|ref={{Harvid|チョムスキー|町田|2011}}}} - 原タイトル:''Language and mind''。3rd ed. *{{Cite book|和書|others=安井稔 訳|title=生成文法の意味論研究|year=1976|publisher=研究社出版|ref={{Harvid|チョムスキー|安井|1976}}}} *{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|others=[[井上和子 (言語学者)|井上和子]] ほか共訳|title=言語論 人間科学的省察|year=1979|month=4|publisher=大修館書店|ref={{Harvid|チョムスキー|井上ほか|1979}}}} - 参考文献:pp.426,431-442。 *{{Cite book|和書|others=安井稔 訳|title=形式と解釈|year=1982|month=11|publisher=研究社出版|isbn=4-327-40073-4|ref={{Harvid|チョムスキー|安井|1982}}}} - 原タイトル:''Essays on form and interpretation''。 *{{Cite book|和書|author=H.ハレ 共著|year=1983|title=生成音韻論概説|publisher=[[泰文堂]]|ref={{Harvid|チョムスキー|ハレ|1983}}}} *{{Cite book|和書|author=B・マギー|authorlink=B・マギー|others=[[磯野友彦]] 訳|date=1983-04-07|title=哲学の現在 世界の思想家十五人との対話|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4-309-24037-4|url=http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309240374/|ref={{Harvid|マギー|磯野|1983}}}} - [[ヘルベルト・マルクーゼ|マルクーゼ]]、[[ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン|クワイン]]、チョムスキー等へのインタビュー集。 *{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|others=井上和子 ほか共訳|title=ことばと認識 文法からみた人間知性|year=1984|month=4|publisher=大修館書店|isbn=4-469-21114-1|ref={{Harvid|チョムスキー|井上ほか|1984}}}} - 原タイトル:''Rules and representations''。 *{{Cite book|和書|others=安井稔・[[原口庄輔]] 訳|title=統率・束縛理論|year=1986|month=11|publisher=研究社出版|isbn=4-327-40085-8|ref={{Harvid|チョムスキー|安井|原口|1986}}}} - 原タイトル:''Lectures on government and binding''。 *{{Cite book|和書|others=安井稔・原口庄輔 訳|title=統率・束縛理論の意義と展開|year=1987|month=11|publisher=研究社出版|isbn=4-327-40090-4|ref={{Harvid|チョムスキー|安井|原口|1987}}}} - 原タイトル:''Some concepts and consequences of the theory of government and binding''。 *{{Cite book|和書|others=[[田窪行則]]・[[郡司隆男]] 訳|title=言語と知識 マナグア講義録(言語学編)|year=1989|month=10|publisher=[[産業図書]]|isbn=4-7828-0051-7|ref={{Harvid|チョムスキー|田窪|郡司|1989}}}} - 原タイトル:''Language and problems of Knowledge''。 *{{Cite book|和書|others=[[北原久嗣]] ほか訳、[[外池滋生]]・[[大石正幸]] 監訳|title=障壁理論|year=1993|month=12|publisher=研究社出版|isbn=4-327-40108-0|ref={{Harvid|チョムスキー|北原ほか|1993}}}} - 原タイトル:''Barriers''。 *{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|others=外池滋生・大石正幸 監訳|title=ミニマリスト・プログラム|year=1998|month=4|publisher=[[翔泳社]]|isbn=4-88135-511-2|ref={{Harvid|チョムスキー|外池|大石|1998}}}} - 原タイトル:''The minimalist program''。 *{{Cite book|和書|author=黒田成幸 共著|authorlink=黒田成幸|others=大石正幸 訳|title=言語と思考|year=1999|month=11|publisher=[[松柏社]]|series=松柏社叢書 言語科学の冒険 3|isbn=4-88198-928-6|url=http://www.shohakusha.com/detail.php?id=a4881989286|ref={{Harvid|チョムスキー|黒田|大石|1999}}}} - 原タイトル:''Language and thought''。 *{{Cite book|和書|others=ノーム・チョムスキー 述、[[福井直樹]]・[[辻子美保子]] 訳|title=生成文法の企て|date=2003-11-26|publisher=[[岩波書店]]|isbn=4-00-023638-5|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/5/0236380.html|ref={{Harvid|チョムスキー|福井|辻子|2003}}}} - 原タイトル:''The generative enterprise''、''Linguistics in the 21st Century''。 **{{Cite book|和書|others=福井直樹・辻子美保子 訳|title=生成文法の企て|date=2011-08-18|publisher=岩波書店|series=岩波現代文庫 G253|isbn=978-4-00-600253-4|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/X/6002530.html|ref={{Harvid|チョムスキー|福井|辻子|2011}}}} - 原タイトル:''The generative enterprise''。 *{{Cite book|和書|others=[[加藤泰彦]]・[[加藤ナツ子]] 訳|title=言語と認知 心的実在としての言語|year=2004|month=1|publisher=[[秀英書房]]|isbn=4-87957-139-3|ref={{Harvid|チョムスキー|加藤|加藤|2004}}}} - 原タイトル:''Language in a psychological setting''。 *{{Cite book|和書|editor1=アドリアナ・ベレッティ|editor1-link=アドリアナ・ベレッティ|editor2=ルイジ・リッツィ|editor2-link=ルイジ・リッツィ|others=大石正幸・[[豊島孝之]] 訳|title=自然と言語|year=2008|month=8|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4-327-40147-4|url=http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-40147-4.html|ref={{Harvid|チョムスキー|ベレッティ|リッツィ|大石|豊島|2008}}}} - 原タイトル:''On nature and language''。 *{{Cite book|和書|others=福井直樹 編訳|title=チョムスキー言語基礎論集|date=2012-01-27|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-022787-2|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0227870.html|ref={{Harvid|チョムスキー|福井|2012}}}} - 索引あり。 *{{Cite book|和書|others=福井直樹・辻子美保子 訳|title=統辞構造論 付『言語理論の論理構造』序論|date=2014-01-16|series=岩波文庫 青695-1|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-336951-7|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/3/3369510.html|ref={{Harvid|チョムスキー|福井|辻子|2014}}}} - 索引あり。 * チョムスキー(著)、福井直樹と辻井美保子(訳)「統辞理論の様相 - 方法論序説」、岩波文庫、2017年2月16日。 === 政治批評 === *{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|others=[[吉田武士]]・[[水落一朗]] 訳|title=知識人の責任|year=1969|publisher=[[太陽社]]|series=太陽選書|ref={{Harvid|チョムスキー|吉田|水落|1969}}}} - ''American power and the new mandarins''から訳出したもの。 **{{Cite book|和書|author=N.チョムスキー|others=[[木村雅次]]・水落一朗・吉田武士 訳|title=アメリカン・パワーと新官僚|year=1970|publisher=太陽社|series=太陽選書|ref={{Harvid|チョムスキー|木村|水落|吉田|1970}}}} - {{Harvtxt|チョムスキー|吉田|水落|1969}}の改題。 *{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=[[いいだもも]] 訳|title=お国のために|year=1975|publisher=河出書房新社|volume=1(ペンタゴンのお小姓たち)|ref={{Harvid|チョムスキー|いいだ|1975a}}}} *{{Cite book|和書|author=ノーアム・チョムスキー|others=いいだもも 訳|title=お国のために|year=1975|publisher=河出書房新社|volume=2(国家理由か絶対自由か)|ref={{Harvid|チョムスキー|いいだ|1975b}}}} *{{Cite book|和書|others=[[河村望]] 訳|title=知識人と国家|year=1981|month=5|publisher=[[ティビーエス・ブリタニカ]]|series=Books'80|ref={{Harvid|チョムスキー|河村|1981}}}} - 原タイトル:''Intellectuals and the state''。 *{{Cite book|和書|others=[[益岡賢]] 訳|title=アメリカが本当に望んでいること|year=1994|month=6|publisher=[[現代企画室]]|isbn=4-7738-9406-7|url=http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-9406-6|ref={{Harvid|チョムスキー|益岡|1994}}}} - 原タイトル:''What Uncle Sam really wants''。注記:ノーム・チョムスキー政治関連主要著作: pp.163-164. *{{Cite book|和書|others=[[山崎淳]] 訳|date=2001-11-30|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=4-16-358210-X|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163582108|title=9.11 アメリカに報復する資格はない!|ref={{Harvid|チョムスキー|山崎|2001}}}} - 原タイトル:''9.11''。 **{{Cite book|和書|others=山崎淳 訳|date=2002-09-03|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|isbn=4-16-765128-9|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167651282|title=9.11 アメリカに報復する資格はない!|ref={{Harvid|チョムスキー|山崎|2002}}}} - 原タイトル:''9.11''。 *{{Cite book|和書|others=益岡賢・[[大野裕]]・[[ステファニー・クープ]] 訳|title=アメリカの「人道的」軍事主義 コソボの教訓|year=2002|month=4|publisher=現代企画室|isbn=4-7738-0104-2|url=http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-0104-0|ref={{Harvid|チョムスキー|益岡|大野|クープ|2002}}}} - 原タイトル:''The New military humanism''。 *{{Cite book|和書|others=山崎淳 訳|title=金儲けがすべてでいいのか グローバリズムの正体|date=2002-09-30|publisher=文藝春秋|isbn=4-16-358970-8|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163589701|ref={{Harvid|チョムスキー|山崎|2002}}}} - 原タイトル:''Profit over people''。 *{{Cite book|和書|coauthors=[[ドゥニ・ロベール]]・[[ヴェロニカ・ザラコヴィッツ]]|others=[[田桐正彦]] 訳|title=チョムスキー、世界を語る|year=2002|month=9|publisher=[[トランスビュー]]|isbn=4-901510-09-6|url=http://www.transview.co.jp/09/top.htm|ref={{Harvid|チョムスキー|ロベール|ザラコヴィッツ|田桐|2002}}}} - 原タイトル:''Deux heures de lucidité''。 *{{Cite book|和書|others=[[塚田幸三]] 訳|title=「ならず者国家」と新たな戦争 米同時多発テロの深層を照らす|year=2002|month=1|publisher=[[荒竹出版]]|isbn=4-87043-152-1|url=http://www.dokusho-log.com/b/4870431521/|ref={{Harvid|チョムスキー|塚田|2002}}}} *{{Cite book|和書|others=ノーム・チョムスキー 述、[[鶴見俊輔]] 監修|title=ノーム・チョムスキー|year=2002|month=9|publisher=[[リトル・モア]]|isbn=4-89815-081-0|url=http://www.littlemore.co.jp/store/products/detail.php?product_id=500|ref={{Harvid|チョムスキー|鶴見|2002}}}} *{{Cite book|和書|author=浅野健一 対談|authorlink=浅野健一|title=抗う勇気 ノーム・チョムスキー+浅野健一対談|date=2003-03-17|publisher=[[現代人文社]](出版) [[大学図書]](発売)|isbn=4-87798-151-9|url=http://218.42.146.84/genjin/search.cgi?mode=detail&bnum=40037|ref={{Harvid|浅野|チョムスキー|2003}}}} *{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・バーサミアン 共著|authorlink=デイヴィッド・バーサミアン|others=[[藤田真利子]] 訳|title=グローバリズムは世界を破壊する プロパガンダと民意|date=2003-01-01|publisher=[[明石書店]]|isbn=4-7503-1674-1|url=http://www.akashi.co.jp/book/b64661.html|ref={{Harvid|チョムスキー|バーサミアン|藤田|2003}}}} - 原タイトル:''Propaganda and the public mind''。 *{{Cite book|和書|others=[[角田史幸]]・[[田中人]] 訳|title=新世代は一線を画す コソボ・東ティモール・西欧的スタンダード|date=2003-01-31|publisher=[[こぶし書房]]|series=こぶしフォーラム 7|isbn=4-87559-173-X|url=http://www.kobushi-shobo.co.jp/book/b62612.html|ref={{Harvid|チョムスキー|角田|田中|2003}}}} - 原タイトル:''A new generation draws the line''。 *{{Cite book|和書|others=[[海輪由香子]] ほか訳|title=テロの帝国アメリカ 海賊と帝王|date=2003-02-01|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1688-1|url=http://www.akashi.co.jp/book/b64675.html|ref={{Harvid|チョムスキー|海輪ほか|2003}}}} - 原タイトル:''Pirates and emperors''。 *{{Cite book|和書|others=[[寺島隆吉]] 訳|title=チョムスキー 21世紀の帝国アメリカを語る イラク戦争とアメリカの目指す世界新秩序|date=2004-04-01|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1902-3|url=http://www.akashi.co.jp/book/b64889.html|ref={{Harvid|チョムスキー|寺島|2004}}}} *{{Cite book|和書|others=[[田中美佳子]] 訳|title=秘密と嘘と民主主義|year=2004|month=7|publisher=[[成甲書房]]|isbn=4-88086-166-9|url=http://www.seikoshobo.co.jp/backlist/A/04.html#A017|ref={{Harvid|チョムスキー|田中|2004}}}} - 原タイトル:''Secrets, lies and democracy''。 *{{Cite book|和書|others=[[中野真紀子]] 訳|title=中東 虚構の和平|date=2004-08-23|publisher=[[講談社]]|isbn=4-06-212055-0|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000181867|ref={{Harvid|チョムスキー|中野|2004}}}} - 原タイトル:''Middle East illusions''。 *{{Cite book|和書|others=[[鈴木主税]] 訳|title=覇権か、生存か アメリカの世界戦略と人類の未来|date=2004-09-17|publisher=[[集英社]]|series=集英社新書|isbn=4-08-720260-7|url=https://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-720260-7&mode=1|ref={{Harvid|チョムスキー|鈴木|2004}}}} - 原タイトル:''Hegemony or survival''。 *{{Cite book|和書|author=スーザン・ジョージ 他|authorlink=スーザン・ジョージ|others=[[氷上春奈]] 訳|title=G8 G8ってナンですか?|year=2005|month=7|publisher=[[ブーマー]](出版) [[トランスワールドジャパン]](発売)|isbn=4-925112-48-1|ref={{Harvid|チョムスキー|ジョージ他|氷上|2005}}}} - 原タイトル:''Arguments against G8''。 *{{Cite book|和書|others=[[岡崎玲子]] 聞き手、鈴木主税 論文翻訳|title=チョムスキー、民意と人権を語る レイコ突撃インタビュー|date=2005-11-17|publisher=集英社|series=集英社新書|isbn=4-08-720319-0|url=https://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=4-08-720319-0&mode=1|ref={{Harvid|チョムスキー|岡崎|鈴木|2005}}}} *{{Cite book|和書|others=[[清水知子]]・[[浅見克彦]]・[[野々村文宏]] 訳|title=知識人の責任|year=2006|month=1|publisher=[[青弓社]]|isbn=4-7872-1037-8|url=http://www.seikyusha.co.jp/wp/books/isbn978-4-7872-1037-1|ref={{Harvid|チョムスキー|清水|浅見|野々村|2006}}}} - 原タイトル:''American power and the new mandarins''。(抄訳) *{{Cite book|和書|others=寺島隆吉・[[寺島美紀子]] 訳|title=チョムスキーの「教育論」|date=2006-02-01|publisher=明石書店|isbn=4-7503-2266-0|url=http://www.akashi.co.jp/book/b65253.html|ref={{Harvid|チョムスキー|寺島|寺島|2006}}}} *{{Cite book|和書|others=[[大塚まい]] 訳|title=お節介なアメリカ|date=2007-08-06|publisher=筑摩書房|series=ちくま新書|isbn=978-4-480-06382-3|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063823/|ref={{Harvid|チョムスキー|大塚|2007}}}} - 原タイトル:''Interventions''。 *{{Cite book|和書|others=岡崎玲子 訳|title=すばらしきアメリカ帝国|date=2008-05-26|publisher=集英社|isbn=978-4-08-773464-5|url=https://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-773464-5&mode=1|ref={{Harvid|チョムスキー|岡崎|2008}}}} - 原タイトル:''Imperial ambitions''。 *{{Cite book|和書|others=[[デヴィッド・バーサミアン]] インタヴュー、[[伊藤茂]] 訳|title=チョムスキー、アメリカを叱る|date=2008-10-14|publisher=[[NTT出版]]|isbn=978-4-7571-4184-1|url=http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001900|ref={{Harvid|チョムスキー|バーサミアン|伊藤|2008}}}} - 原タイトル:''What we say goes''。 *{{Cite book|和書|others=鈴木主税・[[浅岡政子]] 訳|title=破綻するアメリカ 壊れゆく世界|date=2008-12-15|publisher=集英社|isbn=978-4-08-773467-6|url=https://books.shueisha.co.jp/CGI/search/syousai_put.cgi?isbn_cd=978-4-08-773467-6&mode=1|ref={{Harvid|チョムスキー|鈴木|浅岡|2008}}}} - 原タイトル:''Failed states''。 *{{Cite book|和書|editor1=ピーター・R・ミッチェル|editor1-link=ピーター・R・ミッチェル|editor2=ジョン・ショフェル|editor2-link=ジョン・ショフェル|others=田中美佳子 訳|title=現代世界で起こったこと ノーム・チョムスキーとの対話 1989-1999|date=2008-12-22|publisher=[[日経BP社]](出版) [[日経BP出版センター]](発売)|isbn=978-4-8222-8353-7|url=http://bpstore.nikkeibp.co.jp/item/books/P83530.html|ref={{Harvid|チョムスキー|ミッチェル|ショフェル|田中|2008}}}} - 原タイトル:''Understanding power''。 *{{Cite book|和書|others=[[木下ちがや]] 訳|title=チョムスキーの「アナキズム論」|date=2009-02-01|publisher=明石書店|isbn=978-4-7503-2922-2|url=http://www.akashi.co.jp/book/b65909.html|ref={{Harvid|チョムスキー|木下|2009}}}} - 原タイトル:''Chomsky on anarchism''。 *{{Cite book|和書|others=[[松本剛史]] 訳|title=アメリカを占拠せよ!|date=2012-10-09|publisher=筑摩書房|series=ちくま新書 980|isbn=978-4-480-06685-5|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480066855/|ref={{Harvid|チョムスキー|松本|2012}}}} - 原タイトル:''OCCUPY''。 *{{Cite book|和書|author=ジャレド・ダイアモンド|authorlink=ジャレド・ダイアモンド|coauthors=ノーム・チョムスキー・[[オリバー・サックス]]・[[マービン・ミンスキー]]・[[トム・レイトン]]・[[ジェームズ・ワトソン]]|editor=吉成真由美 インタビュー|editor-link=吉成真由美|title=知の逆転|date=2012-12-08|publisher=[[NHK出版]]|series=NHK出版新書 395|isbn=978-4-14-088395-2|url=https://www.nhk-book.co.jp/shop/main.jsp?trxID=C5010101&webCode=00883952012|ref={{Harvid|チョムスキーほか|吉成|2012}}}} - 「第2章 帝国主義の終わり」(ノーム・チョムスキー)。 *[https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784909515063 『気候危機とグローバル・グリーンニューディール』]ロバート・ポーリン 共著、クロニス・J・ポリクロニュー 聞き手、早川健治 訳、Fridays For Future Japan まえがき、[http://nasu-satoyamasya.com/ 那須里山舎]、2021年12月18日。ISBN 978-4-909515-06-3。原タイトル:''Climate Crisis and the Global Green New Deal。'' === メディア論 === *{{Cite book|和書|others=鈴木主税 訳|title=メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会|date=2003-04-13|publisher=集英社|series=集英社新書|isbn=4-08-720190-2|url=https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-720190-2&mode=1|ref={{Harvid|チョムスキー|鈴木|2003}}}} - 原タイトル:''Media control''。 *{{Cite book|和書|author=エドワード・S・ハーマン 共著|authorlink=エドワード・S・ハーマン|others=[[中野真紀子]] 訳|title=マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学|year=2007|month=2|publisher=トランスビュー|isbn=978-4-901510-45-5|url=http://www.transview.co.jp/books/9784901510455/top.htm|volume=1|ref={{Harvid|チョムスキー|ハーマン|中野|2007a}}}} - 原タイトル:''Manufacturing consent''。(新版) *{{Cite book|和書|author=エドワード・S・ハーマン 共著|others=中野真紀子 訳|title=マニュファクチャリング・コンセント マスメディアの政治経済学|year=2007|month=2|publisher=トランスビュー|isbn=978-4-901510-46-2|url=http://www.transview.co.jp/books/9784901510462/top.htm|volume=2|ref={{Harvid|チョムスキー|ハーマン|中野|2007b}}}} - 原タイトル:''Manufacturing consent''。(新版) === DVD === *{{Citation|author=[[ジャン・ユンカーマン]] 監督|year=2003|title=ノーム・チョムスキー イラク後の世界を語る|publisher=[[シグロ]](制作)|url=http://www.cine.co.jp/detail/0074.html|ref={{Harvid|ユンカーマン|2003}}}} *{{Citation|author=ジャン・ユンカーマン 監督|year=2005|month=5|title=映画日本国憲法|publisher=シグロ(制作) トランスビュー(発売)|isbn=4-901510-32-0|url=http://www.transview.co.jp/books/4901510320/top.htm|ref={{Harvid|ユンカーマン|2005}}}} - [[ジョン・ダワー]]、チョムスキー、[[ダグラス・ラミス]]らへのインタビュー集。 *{{Citation|author=[[ピーター・ウィントニック]]|coauthors=[[マーク・アクバー]] 監督|year=2007|month=4|title=チョムスキーとメディア マニュファクチャリング・コンセント|publisher=シグロ(制作) トランスビュー(発売)|isbn=978-4-901510-48-6|url=http://www.transview.co.jp/books/9784901510486/top.htm|ref={{Harvid|ウィントニック|アクバー|2007}}}} *{{Citation|author=ジャン・ユンカーマン 監督|year=2007|month=4|title=チョムスキー 9.11 Power and Terror|publisher=シグロ(制作) トランスビュー(発売)|isbn=978-4-901510-49-3|url=http://www.transview.co.jp/books/9784901510493/top.htm|ref={{Harvid|ユンカーマン|2007}}}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2019年3月30日 (土) 02:45 (UTC)|section=1}} <!-- ここは本記事の出典として使われている文献名を記入するための節です。出典として使われていないものは「関連文献」節に記入してください。 --> <!--参考とするには大いに問題がある (参考 http://www4.synapse.ne.jp/nohoho/tanaka.html ) --><!--* 田中克彦著『チョムスキー』(岩波書店「岩波現代文庫」、2000年)ISBN 4-00-600035-9--> *{{Cite book|和書|editor=今井邦彦|editor-link=今井邦彦|year=1986|title=チョムスキー小辞典|publisher=[[大修館書店]]|isbn=4-469-04244-7|url=http://plaza.taishukan.co.jp/shop/Product/Detail/10043|ref={{Harvid|今井|1986}}}} *{{Cite book|和書|author=デイヴィッド・コグズウェル 文|authorlink=デイヴィッド・コグズウェル|others=[[ポール・ゴードン]] イラスト、[[佐藤雅彦 (翻訳家)|佐藤雅彦]] 訳|year=2004|month=5|title=チョムスキー|series=フォー・ビギナーズ・シリーズ 97|publisher=[[現代書館]]|isbn=4-7684-0097-3|url=http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN4-7684-0097-3.htm|ref={{Harvid|コグズウェル|ゴードン|佐藤|2004}}}} - 原タイトル:''Chomsky for beginners''。 *{{Cite book|和書|editor1=原口庄輔|editor1-link=原口庄輔|editor2=中村捷|editor2-link=中村捷|year=1992|month=6|title=チョムスキー理論辞典|publisher=研究社出版|isbn=4-327-45089-8|url=http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-327-45089-2.html|ref={{Harvid|原口|中村|1992}}}} *{{Cite book|和書|author=ジェレミー・フォックス|authorlink=ジェレミー・フォックス|others=[[坂田薫子]] 訳、[[生井英考]] 解説|date=2004-06-23|title=チョムスキーとグローバリゼーション|series=ポストモダン・ブックス|publisher=岩波書店|isbn=4-00-027075-3|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/3/0270750.html|ref={{Harvid|フォックス|坂田|生井|2004}}}} *{{Cite book|和書|author=ジョン・C・マーハ|authorlink=ジョン・C・マーハ|others=[[ジュディ・グローヴス]] イラスト、[[芦村京]] 訳|date=2004-02-01|title=チョムスキー入門|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1858-2|url=http://www.akashi.co.jp/book/b64845.html|ref={{Harvid|マーハ|グローヴス|芦村|2004}}}} * {{cite book | title = Noam Chomsky | edition = revised | last = Lyons | first = John | year = 1978 | author-link = ジョン・ライアンズ | publisher = Penguin | location = Harmondsworth | url = https://archive.org/details/noamchomsky0000lyon | url-access = registration | via = [[Internet Archive]] | isbn = 978-0-14-004370-9 |ref={{sfnref|Lyons|1978}}}} *{{Citation|last=Barsky |first=Robert F. |title=Noam Chomsky: A Life of Dissent |year=1997 |publisher=The MIT Press |location=Cambridge, MAS and London |isbn=978-0-262-02418-1}} *{{Citation|last=Chomsky |first=Noam |title=Perspectives on Power |url= |year=1996 |publisher=Black Rose |location=Montreal |isbn=978-1-55164-048-8}} *{{Citation|last=Goodman|first=Amy|date=November 26, 2004|title=The Life and Times of Noam Chomsky: A Brief History of America’s Leading Dissident|publisher=Democracy Now!|url=http://www.democracynow.org/2004/11/26/the_life_and_times_of_noam}} *{{Citation|last=Kreisler |first=Harry |title=Activism, Anarchism, and Power: Conversation with Noam Chomsky |work=Conversations with History |publisher=Institute of International Studies, [[カリフォルニア大学バークレー校]] |date=March 22, 2002 |url=http://globetrotter.berkeley.edu/people2/Chomsky/chomsky-con1.html |accessdate=September 3, 2007}} *{{Cite journal|和書|author=松本典久|authorlink=松本典久|date=2009|title=チョムスキーの憂鬱,もしくはアメリカ・グローバル支配の終焉|publisher=慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会|journal = 人文科学 |volume=24|pages= 45-108|naid=120001424242 |ref={{SfnRef|松本典久|2009}} }} *{{cite book |title = Noam Chomsky |last = Sperlich |first = Wolfgang B. |year = 2006 | publisher = Reaktion Books |url = https://archive.org/details/noamchomsky00sper/page/44 |via = [[Internet Archive]] |isbn = 978-1-86189-269-0 |ref= {{sfnref|Sperlich|2006}} }} == 関連項目 ==<!--項目の50音順--> *[[エドワード・サイード]] *[[刺激の貧困]] *[[生成文法]] **[[句構造規則]] **[[句構造文法]] **[[Xバー理論]] *[[生得論]] *[[ハワード・ジン]] *[[ミシェル・フーコー]] *[[Left 4 Dead 2]] - "ノーム・チョムスキー"(Gnome Chompski)という名前の人形が登場する。 == 外部リンク == {{Commons|Avram Noam Chomsky}} * [http://rootless.org/chomsky/ チョムスキー・アーカイヴ日本語版] * [http://www.chomsky.info/ chomsky.info : The Official Noam Chomsky Website] * [http://www.zmag.org/chomsky/index.cfm ZNet's Chomsky Archive]{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}} *[http://www.jca.apc.org/~nakanom/J/Chomsky/Chomskyfront.htm RUR55 チョムスキー・インデックス] * [http://www1.gifu-u.ac.jp/~terasima/translation_index.html 寺島研究室「別館」]{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}} * [http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/persons.html#chom 益岡賢のページ] * [http://www.cine.co.jp/media/chomsky.html SIGLO:チョムスキーとメディア−マニュファクチャリング・コンセント−]{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}} * [http://book.8oji.net/index.php?%A5%CE%A1%BC%A5%E0%A1%A6%A5%C1%A5%E7%A5%E0%A5%B9%A5%AD%A1%BC ノーム・チョムスキー・リンク集]{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}} * {{Wayback|url=http://russell.cool.ne.jp/CHOMSKY.HTM |title=N.チョムスキー(著)『知識と自由(ラッセル記念講演)』序文 |date=20100101000000}}{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}} * [https://readingchomsky.blogspot.com/ Transcribing Noam Chomsky's talks] チョムスキーの講演・インタビュー スクリプト集(英語) * [https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009010760_00000 未来への提言 思想家 ノーム・チョムスキー ~真の民主主義を育てる~ - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス] * {{Kotobank|チョムスキー}} === 映画 === * ''[http://ia311514.us.archive.org/3/items/NoamChomskyNoamChomskyManufacturingConsent_0/Noam_Chomsky___Manufacturing_consent.avi Manufacturing Consent :Noam Chomsky and the Media]''(カナダ、1992年)(邦題「[http://www.cine.co.jp/media/ チョムスキーとメディア-マニュファクチャリング・コンセント]」 - SIGLO)解説は[[:en:Manufacturing Consent: Noam Chomsky and the Media|英語版Wikipedia記事]]を参照 * 「[http://www.cine.co.jp/php/detail.php?siglo_info_seq=67 ノーム・チョムスキー イラク後の世界を語る]{{リンク切れ|date=2019年3月29日 (金) 22:36 (UTC)}}」(SIGLO、2003年) * 「[http://cine.co.jp/chomsky9.11/index2.html チョムスキー9.11]」(SIGLO、2007年) === ビデオ === * ''[http://www.democracynow.org/2002/2/14/a_democracy_now_exclusive_interview_with Exclusive Interview with Noam Chomsky in Istanbul, Turkey, Where Chomsky and His Turkish Publisher Stood Accused of Crimes Against the State]'' - Democracy Now!(February 14, 2002) * ''[http://www.democracynow.org/2002/10/24/professor_noam_chomsky_explores_the_current Professor Noam Chomsky Explores the Current Rhetoric of “Terror” and “Terrorism”]'' - Democracy Now!(October 24, 2002) * ''[http://www.democracynow.org/2003/10/22/noam_chomsky_on_hegemony_or_survival Noam Chomsky on Hegemony or Survival: America’s Quest For Global Dominance]'' - Democracy Now!(October 22, 2003) * ''[http://www.democracynow.org/2003/12/26/an_hour_with_noam_chomsky_on An Hour With Noam Chomsky on Iraq, War Profiteers & The Media]'' - Democracy Now!(December 26, 2003) * ''[http://www.democracynow.org/2004/10/21/noam_chomsky_on_the_state_of Noam Chomsky on the State of the Nation, Iraq and the Election]'' - Democracy Now!(October 21, 2004) * ''[http://www.democracynow.org/2005/2/9/noam_chomsky_u_s_might_face Noam Chomsky: U.S. Might Face “Ultimate Nightmare” in Middle East Where Shiites Control Most of World’s Oil]'' - Democracy Now!(February 09, 2005) * ''[http://www.democracynow.org/2005/12/23/noam_chomsky_v_alan_dershowitz_a Noam Chomsky v. Alan Dershowitz: A Debate on the Israeli-Palestinian Conflict]'' - Democracy Now!(December 23, 2005) * ''[http://www.democracynow.org/2006/3/31/exclusive_noam_chomsky_on_failed_states EXCLUSIVE…Noam Chomsky on Failed States: The Abuse of Power and the Assault on Democracy]'' - Democracy Now!(March 31, 2006) * ''[http://www.democracynow.org/2006/4/3/noam_chomsky_on_iraq_troop_withdrawal Noam Chomsky on Iraq Troop Withdrawal, Haiti, Democracy in Latin America and the Israeli Elections]'' - Democracy Now!(April 03, 2006) * ''[http://www.democracynow.org/2006/6/6/the_united_states_is_terrified_noam “The United States is Terrified”–Noam Chomsky on Latin America’s Move Towards “Independence and Integration”]'' - Democracy Now!(June 06, 2006) * ''[http://www.democracynow.org/2006/12/19/from_bolivia_to_baghdad_noam_chomsky From Bolivia to Baghdad: Noam Chomsky on Creating Another World in a Time of War, Empire and Devastation]'' - Democracy Now!(December 19, 2006) * ''[http://www.democracynow.org/2007/4/16/in_rare_joint_interview_noam_chomsky In Rare Joint Interview, Noam Chomsky and Howard Zinn on Iraq, Vietnam, Activism and History]'' - Democracy Now!(April 16, 2007)([http://democracynow.jp/submov/20070416-1/ チョムスキーとジン、異例の共同インタビュー ベトナムからイラクへ] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2007/4/17/noam_chomsky_accuses_alan_dershowitz_of Noam Chomsky Accuses Alan Dershowitz of Launching a “Jihad” to Block Norman Finkelstein From Getting Tenure at Depaul University]'' - Democracy Now!(April 17, 2007)([http://democracynow.jp/submov/20070417-1/ チョムスキー「ダーショウィッツはフィンケルスタインへの“聖戦”を始めた」] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2007/11/27/not_through_annapolis_noam_chomsky_says Not Through Annapolis: Noam Chomsky Says Path to Mideast Peace Lies in Popular Organizing Against U.S.-Israeli “Rejectionism”]'' - Democracy Now!(April 17, 2007)([http://democracynow.jp/submov/20071127-1/ アナポリスから中東平和は生まれない 頼みは民衆の連帯のみ ノーム・チョムスキー] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2008/2/26/noam_chomsky_why_is_iraq_missing Noam Chomsky: Why is Iraq Missing from 2008 Presidential Race?]'' - Democracy Now!(February 26, 2008)([http://democracynow.jp/days/08/0226/ スクリプト日本語概要]) * ''[http://www.democracynow.org/2008/11/24/noam_chomsky_what_next_the_elections Noam Chomsky: “What Next? The Elections, the Economy, and the World”]'' - Democracy Now!(November 24, 2008)([http://democracynow.jp/submov/20081124-2/ ノーム・チョムスキー「これからどうなる?選挙、経済、世界」] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2009/1/23/noam_chomsky_obamas_stance_on_gaza: Noam Chomsky: Obama’s Stance on Gaza Crisis “Approximately the Bush Position”]'' - Democracy Now!(January 23, 2009)([http://democracynow.jp/submov/20090123-2/ ノーム・チョムスキー「ガザ危機へのオバマの立場はブッシュと同じ」] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2010/5/31/noam_chomsky_the_center_cannot_hold: Noam Chomsky: "The Center Cannot Hold: Rekindling the Radical Imagination"]'' - Democracy Now!(May 31, 2010)([http://democracynow.jp/video/20100531-1/ ノーム・チョムスキー講演「中心の崩壊~ラディカルな想像力の再考」] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) * ''[http://www.democracynow.org/2011/2/17/democracy_uprising_in_the_usa_noam: “Democracy Uprising” in the U.S.A.? - Noam Chomsky on Wisconsin’s Resistance to Assault on Public Sector, the Obama-Sanctioned Crackdown on Activists, and the Distorted Legacy of Ronald Reagan”]'' - Democracy Now!(February 17, 2011)([http://democracynow.jp/video/20110217-4/ チョムスキー「米国にも民主化デモが必要だ」] 日本語字幕付 デモクラシーナウ!ジャパン) {{社会哲学と政治哲学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちよむすきい のおむ}} [[Category:ノーム・チョムスキー|*]] [[Category:20世紀アメリカ合衆国の哲学者]] [[Category:21世紀アメリカ合衆国の哲学者]] [[Category:20世紀の論理学者]] [[Category:21世紀の論理学者]] [[Category:アメリカ合衆国の科学哲学者]] [[Category:アメリカ合衆国の言語学者]] [[Category:アメリカ合衆国の論理学者]] [[Category:アメリカ合衆国の政治哲学者]] [[Category:アメリカ合衆国の倫理学者]] [[Category:アメリカ合衆国の無神論者]] [[Category:アメリカ合衆国のアナキスト]] [[Category:グリーン・アナキスト]] [[Category:アナルコ・サンディカリスト]] [[Category:アメリカ合衆国の反資本主義者]] [[Category:ジョン・ロック講義 講演者]] [[Category:ベンジャミン・フランクリン・メダル (フランクリン協会) 受賞者]] [[Category:言語哲学者]] [[Category:認識論の哲学者]] [[Category:心の哲学者]] [[Category:分析哲学者]] [[Category:社会哲学者]] [[Category:無神論の哲学者]] [[Category:認知科学者]] [[Category:意識の研究者と理論家]] [[Category:京都賞基礎科学部門受賞者]] [[Category:グッゲンハイム・フェロー]] [[Category:イギリス学士院客員フェロー]] [[Category:米国科学アカデミー会員]] [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:ヨーロッパ・アカデミー会員]] [[Category:国立科学アカデミー・レオポルディーナ会員]] [[Category:カナダ王立協会フェロー]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:反グローバリゼーション]] [[Category:アメリカ合衆国の反戦活動家]] [[Category:世界産業労働組合員]] [[Category:言語論的転回]] [[Category:ポストモダニズムへの批判]] [[Category:アメリカ合衆国の社会主義の人物]] [[Category:フィラデルフィア出身の人物]] [[Category:ペンシルベニア大学出身の人物]] [[Category:ベトナム戦争の人物]] [[Category:マサチューセッツ工科大学の教員]] [[Category:ユダヤ人の反シオニズム]] [[Category:ユダヤ人の哲学者]] [[Category:ユダヤ人の無神論者]] [[Category:新保守主義への批判者]] [[Category:1928年生]] [[Category:存命人物]]
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フェルディナン・ド・ソシュール
フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日)は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。 記号論を基礎付け、後の構造主義思想に影響を与えた。言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキーなど多くの思想家が、その影響を受けている。 スイスのジュネーブの名門であったソシュール家は、フェルディナン以前にも優れた学者を輩出してきた。ソシュール家はフランスロレーヌ地方のソシュール村にいたモンジャン・シュエル(1469-1543)に遡ることができる。モンジャンの息子アントワーヌ(1514-1569)は新教に改宗しユグノーとなったが、宗教改革期の混乱に揉まれ、ローザンヌへ移住した。アントワーヌの曽孫エリ(1602-1662)がジュネーブにソシュール家を開いた。 ソシュール家の学問的伝統は、ニコラ・ド・ソシュール(1709-1791)以来のものである。ニコラは農学者であり、百科全書の執筆にも携わっている。ニコラの息子オラス=ベネディクト(1740-1799)はソシュールの曽祖父にあたり、1787年のモンブランの初登頂で有名なほか、自然科学を始めとして様々な研究を行った。22歳でジュネーブアカデミーの教授となるなど、当時のスイスにおいてルソーと肩を並べる知識人であったと言われる。有機化学者・植物生理学者のニコラ・テオドール(1767-1845)はオラス・ベネディクトの息子である。 フェルディナンの父アンリ(1829-1905)はニコラ・テオドールの甥か息子にあたり、優れた昆虫学者であった。母ルイーズはジュネーブの伯爵の娘で、音楽家であった。1857年11月26日、この2人の間にフェルディナンが生まれた。メイエはその家庭環境を「最高の知的教養が長い間伝統となっている」もの、と評している。 ソシュールは幼くもドイツ語、英語、ラテン語、ギリシア語を習得した。当時のスイスの高名な言語学者であったアドルフ・ピクテ(英語版)に知り合うと彼に傾倒し、自分の知っている言語間の相互関係を明らかにしようとした。そして14歳のときに、「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に集約するための試論」を書いた。 この論文で彼は、子音を唇音(P)、口蓋音・喉音(K)、歯音(T)、L、Rの5つにグループ分けし、そのうちの2つから特徴付けられる12個の語根を求めた。ソシュールはこの12個の語根には、基底的な意味がそれぞれ存在すると考え、これを証明しようとした。この論文を送られたピクテは、ソシュールの思い込みをなだめながらも、サンスクリット語を勉強するなど今後の研究に向けた準備をするように、と助言している。この論文には誤りが含まれていたが、印欧祖語の語根の構造を把握し、ブルークマンに先立って鼻音ソナントを見抜いていたと言える。 ピクテに出した論文の失敗から、ソシュールは2年ほど言語学から離れる。1872年にコレージュ・ル・クルトルに入り、1873年からはギムナジウムに学んだ。1875年にはジュネーブ大学に入り、化学と物理学を勉強した。理科系の学生であったが、モレルによる語学の授業をとるなど、次第に言語学への興味を増していった。1876年にパリ言語学会(フランス語版)に入会し10代にして論文を投稿しているが、この頃の論文にはソシュール独自の考えはみられない。1876年に、ライプツィヒ大学に留学した。 当時のライプツィヒにはゲオルク・クルツィウスや青年文法学派のカール・ブルークマンなど当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった。 そういった経緯であったため、ソシュールは初め専門知識をもっておらず、ライプツィヒ大学での勉学には準備不足であった。だがすぐに必要な知識を修め、青年文法学派の説を吸収した。自身が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表し名声を得ていることを知ると、落胆したものの自分の考えに自信をもった。パリ言語学会への投稿もつづけ、「ラテン語のttからssへの変化は中間段階stを想定するか?」「印欧語の様々なaの区別に関する試論」の2つの論文を発表している。特に「試論」は、印欧祖語の*aを3つに区別して、印欧祖語のアプラウト研究に大きな影響を与えた。 1878年7月に、ソシュールはライプツィヒを離れベルリン大学に移った。ベルリンではウィリアム・ドワイト・ホイットニーと面会したが、ソシュールはホイットニーから生涯にわたる大きな影響を受けた。ベルリン大学に在学中の1878年12月、論文「印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き」が発表される。この論文では、1876年の「試論」を踏まえて、ソシュールは内的再建から印欧祖語の母音組織に関して、統一的な想定を提示した。このとき*aの現れを説明するために彼が考えた「ソナント的な付加音」が後の喉音理論につながり、ヒッタイト語解読によって現実的なものとなった。発表当時の評価は高くなかったが、後の印欧祖語研究に大きな影響を与えた点で、印欧祖語の研究において最も重要な発見であったと言われる。 1879年秋には再びライプツィヒ大学に戻る。1880年2月に、学位論文「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」を提出し、教授陣から全員一致で博士号を得た。この論文は、メイエによれば「単なる技術的な論文」とされるが、丸山はこれを「後年のソシュール理論の発展を予見しているもの」として評価している。 博士号を取得した後、半年の間のソシュールの行動はわかっていない。印欧語の形跡を多く残すリトアニア語を研究するため、リトアニアを訪れたのではないかと推測されているが、故郷で家族と過ごしたとも言われ、ソシュール学者の間で議論が交わされている。 1880年10月からパリの高等研究院の学生となったが、1881年10月にはブレアルにその才能を認められて、「ゴート語および古代高地ドイツ語」の講師となる。1887年から1888年にかけてはギリシア語とラテン語の比較文法を、加えて1889年にはリトアニア語を講義したが、学生数は9年で計112人に及び、ソシュールの講義の人気が伺われる。メイエの証言によれば、この頃の講義には、すでに後の言語理論を見て取ることができる。またパリ時代の講義からは、後のフランス言語学を率いたポール・パシーやモーリス・グラモン、アントワーヌ・メイエなどが育った。 17歳で入会したパリ言語学会でも活発に活動した。1882年には学会の副幹事となり、「パリ言語学会紀要」の事実上の編集長を務めた。カザン学派を開いたヤン・ボードゥアン・ド・クルトネとも学会で出会っている。カザン学派の理論はソシュールのものとの共通点が指摘されており、ソシュール自身もクルトネやその弟子クルシェフスキを高く評価している。 1889年からは1年間の休暇を取り、故郷ジュネーブへと戻っている。この期間にリトアニアを訪れたとも言われるが、はっきりしたことはわかっていない。 1891年にはブレアルがソシュールを後継者として、コレージュ・ド・フランスの正教授の座を与えようとしていた。しかし、故郷ジュネーブ大学においても教授の地位が用意されており、ソシュールは悩んだ末ジュネーブへ帰郷することに決めている。この決断の背景には、普仏戦争後の愛国主義の高揚、貴族としてのソシュール家の一員としての義務感があったと指摘される。パリを離れる際には、ブレアルやガストン・パリスの働きかけによって、フランス学士院からレジオンドヌール勲章が授与された。 1891年10月にジュネーブ大学の比較言語学特任教授となる。1892年3月にはジュネーブの資産家の娘マリー・フェッシュと結婚する。内向的なソシュールと社交的であった妻マリーとの間の性格的相違が、ソシュールの深刻な孤独感をもたらしたという説がある。マリーとの間には、1892年に長男のジャックが、1894年に次男のレーモンが生まれている。 ジュネーブ大学でのソシュールの講義は、主にサンスクリットと印欧諸語についてのものであり、有名な一般言語学についての講義は晩年の1907年、1908-1909年、1910-1911年の3回しかない。しかし1890年代前半の講義にも、アルベール・セシュエが証言するように、一般言語学の諸原理の要素が多数現れていた。事実、ソシュールが一般言語学について深く思索し、科学としての確立を試みていたのがこの時期である。 1894年にジュネーブ大学で第10回東洋語学者会議が開催され、ソシュールは事務局長をつとめた。この会議にてソシュールは後に「ソシュールの法則」と言われる比較言語学上の発見を発表しているが、これがソシュールの比較言語学の最後の業績となった。 この後から、ソシュールは言語学の研究は続けていたものの、それを形にすることは少なくなる。メイエに宛てた書簡の中で、ソシュールは一般言語学の研究が難しく苦しく、興味を持ち続けられるのは個々の言語の一面でしかない、と語っている。ゲルマン神話の研究や、地名の研究、詩のアナグラムの研究など、周辺的な分野の研究を行った資料が多数発見されている。 1906年に、それまでジュネーブ大学で言語学の教授であったヴェルトハイマーが退官すると、ソシュールは一般言語学の講義を任される。この一般言語学の講義は3回あり、これらの講義をまとめたものが、一般言語学講義として後に出版された。1912年の夏には、健康を害して療養にはいる。1913年2月22日に死去した。55歳没。 ソシュールは、言語を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの二分法的な概念を用いた。 ソシュールは、言語学を通時言語学と共時言語学に二分した。従来の比較言語学のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱うのが「共時言語学」である。ソシュールは、その両方を研究の対象とすることで、それまでのように言語の起源や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした。 共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面(ラング。語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面(パロール、「今日は暑い」とか「私は完璧に血抜きされた魚の刺身を食べたい」や「どこでもドアが欲しい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。 ソシュールは、言語(ラング)は記号(シーニュfr:signe)の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、シニフィアン(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)とシニフィエ(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、恣意的なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。 さらに、ソシュールは、音韻においても、概念においても、差異だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。 まず、音韻について言えば、たとえば日本語では、五十音で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、......)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。たとえば、日本語の音韻体系においては、英語における「r」と「l」にあたる音の区別がない。つまり、本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。 一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。たとえば、「イヌ」という言葉の概念は、「イヌ」以外のすべての概念(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球......)との差異で存立している。このように、人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。たとえば、日本語では虹の色を「七色」に切り分けているが、それを「三色」に切り分ける言語もある。つまり、色を表す言葉の数によって、虹の色の区切り方が違うのである。また、日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言葉で表現するが、英語では両方とも"tuna"である。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ」という言語相対論を提唱した。 このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、分節と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを二重分節という。なお、線引きが恣意的であることを、後に"差異の体系"と呼んだ評論家がいるが、それでは力点の置き方が異なるため、ソシュールの意図からは外れることになる。 ソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力をランガージュと呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、人類を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。 ソシュールによって、恣意的な関係性という意味の 「シーニュ」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな象徴や指標でも見出された。そして、この概念は、(ダルシャナを知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に記号論あるいは記号学と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。 たとえば、後の記号論者には、あるブランドに特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『消費社会の神話と構造』のボードリヤールがいる。 評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。 また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。 ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の1906年から1911年にかけて、ジュネーヴ大学において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になるバイイとセシュエがまとめた『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。 1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。 日本への紹介は、小林英夫による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して1928年に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、1972年刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。丸山圭三郎は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857年11月26日 - 1913年2月22日)は、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "記号論を基礎付け、後の構造主義思想に影響を与えた。言語学者のルイス・イェルムスレウ、ロマーン・ヤーコブソンのほか、クロード・レヴィ=ストロース、モーリス・メルロー=ポンティ、ロラン・バルト、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジュリア・クリステヴァ、ノーム・チョムスキーなど多くの思想家が、その影響を受けている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "スイスのジュネーブの名門であったソシュール家は、フェルディナン以前にも優れた学者を輩出してきた。ソシュール家はフランスロレーヌ地方のソシュール村にいたモンジャン・シュエル(1469-1543)に遡ることができる。モンジャンの息子アントワーヌ(1514-1569)は新教に改宗しユグノーとなったが、宗教改革期の混乱に揉まれ、ローザンヌへ移住した。アントワーヌの曽孫エリ(1602-1662)がジュネーブにソシュール家を開いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ソシュール家の学問的伝統は、ニコラ・ド・ソシュール(1709-1791)以来のものである。ニコラは農学者であり、百科全書の執筆にも携わっている。ニコラの息子オラス=ベネディクト(1740-1799)はソシュールの曽祖父にあたり、1787年のモンブランの初登頂で有名なほか、自然科学を始めとして様々な研究を行った。22歳でジュネーブアカデミーの教授となるなど、当時のスイスにおいてルソーと肩を並べる知識人であったと言われる。有機化学者・植物生理学者のニコラ・テオドール(1767-1845)はオラス・ベネディクトの息子である。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 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"ピクテに出した論文の失敗から、ソシュールは2年ほど言語学から離れる。1872年にコレージュ・ル・クルトルに入り、1873年からはギムナジウムに学んだ。1875年にはジュネーブ大学に入り、化学と物理学を勉強した。理科系の学生であったが、モレルによる語学の授業をとるなど、次第に言語学への興味を増していった。1876年にパリ言語学会(フランス語版)に入会し10代にして論文を投稿しているが、この頃の論文にはソシュール独自の考えはみられない。1876年に、ライプツィヒ大学に留学した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "当時のライプツィヒにはゲオルク・クルツィウスや青年文法学派のカール・ブルークマンなど当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "そういった経緯であったため、ソシュールは初め専門知識をもっておらず、ライプツィヒ大学での勉学には準備不足であった。だがすぐに必要な知識を修め、青年文法学派の説を吸収した。自身が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表し名声を得ていることを知ると、落胆したものの自分の考えに自信をもった。パリ言語学会への投稿もつづけ、「ラテン語のttからssへの変化は中間段階stを想定するか?」「印欧語の様々なaの区別に関する試論」の2つの論文を発表している。特に「試論」は、印欧祖語の*aを3つに区別して、印欧祖語のアプラウト研究に大きな影響を与えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"ソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力をランガージュと呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、人類を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。", "title": "ソシュールの言語理論" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ソシュールによって、恣意的な関係性という意味の 「シーニュ」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな象徴や指標でも見出された。そして、この概念は、(ダルシャナを知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に記号論あるいは記号学と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。", "title": "ソシュールの言語理論" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "たとえば、後の記号論者には、あるブランドに特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『消費社会の神話と構造』のボードリヤールがいる。", "title": "ソシュールの言語理論" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との\"差異の体系\"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァが使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。", "title": "ソシュールの言語理論" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、クロード・レヴィ=ストロースは、記号論的な考え方を文化人類学の領域に導入し、構造主義思想を確立した。そして、その影響は、20世紀の哲学、数学、精神分析学、文芸評論、マルクス主義思想、生物学にまで及んでいる。", "title": "ソシュールの言語理論" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の1906年から1911年にかけて、ジュネーヴ大学において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になるバイイとセシュエがまとめた『一般言語学講義』(仏: Cours de linguistique générale)がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。", "title": "講義ノートと原資料" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。", "title": "講義ノートと原資料" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "日本への紹介は、小林英夫による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して1928年に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、1972年刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。丸山圭三郎は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。", "title": "講義ノートと原資料" } ]
フェルディナン・ド・ソシュールは、スイスの言語学者、記号学者、哲学者。「近代言語学の父」といわれている。
{{参照方法|date=2022年9月|ソートキー=人1913年没}} {{Infobox 哲学者 | region = [[西洋哲学]] | era = [[19世紀の哲学]]<br>20世紀の哲学 | image_name = Ferdinand de Saussure by Jullien.png | image_size = 200px | image_alt = | image_caption = フェルディナン・ド・ソシュール 1857~1913 | name = フェルディナン・ド・ソシュール<br />Ferdinand de Saussure | other_names = | birth_date = {{生年月日と年齢|1857|11|26|no}} | birth_place = {{CHE}}・[[ジュネーヴ]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1857|11|26|1913|2|22}} | death_place = {{CHE}}・[[ヴォー州]] | school_tradition = [[構造主義]]<br>[[記号学]] | main_interests = [[言語哲学]]<br>[[言語学]]<br>[[記号学]] | notable_ideas = [[シニフィアンとシニフィエ]]<br>[[ラング]]と[[パロール]]<br>[[通時言語学]]と共時言語学<br>[[喉音理論]] | influences = [[エミール・デュルケーム]]<br>[[アウグスト・レスキーン]]<br>ハインリヒ・ジマー<br>[[ヘルマン・オルデンベルク]]など | influenced = [[ロラン・バルト]]<br>[[クロード・レヴィ=ストロース]]<br>[[ジャック・ラカン]]<br>[[ルイ・アルチュセール]]<br>[[ミシェル・フーコー]]<br>[[ジャック・デリダ]]<br>[[エルネスト・ラクラウ]]<br>[[レナード・ブルームフィールド]]<br>[[アントワーヌ・メイエ]]<br>[[エミール・バンヴェニスト]]<br>{{仮リンク|ロイ・ハリス(言語学者)|en|Roy Harris (linguist)}}<br>[[ロマーン・ヤーコブソン]]<br>[[モーリス・メルロー=ポンティ]]<br>[[ルイス・イェルムスレウ]]<br>[[ジョン・ルパート・ファース]]<br>[[ウィリアム・ラボフ]]<br>[[ヤン・ムカジョフスキー]]<br>{{仮リンク|ウォーカー・パーシー|en|Walker Percy}}<br>[[プラハ学派]]など | signature = | signature_alt = | website = <!-- 公式サイト{{URL|example.com}} --> }} '''フェルディナン・ド・ソシュール'''(Ferdinand de Saussure、[[1857年]][[11月26日]] - [[1913年]][[2月22日]]<ref>{{Cite web|和書|url = https://kotobank.jp/word/ソシュール-90072 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-02-12 }}</ref>)は、[[スイス]]の[[言語学者の一覧|言語学者]]、[[記号学者]]、[[哲学者]]。「'''近代言語学の父'''」<ref group="注釈">ここでいう「近代」とは、[[構造主義]]のこと、特に「ヨーロッパ構造主義言語学」を指している。「アメリカ[[構造主義言語学]]」とは区別される。また、現代の[[言語学]]の直接の起こりは第二次世界大戦後であり、ソシュールの「近代言語学」との直接の連続性は低い。</ref>といわれている。 == 人物 == '''[[記号学|記号論]]'''を基礎付け、後の[[構造主義|構造主義思想]]<ref group="注釈">{{仮リンク|ジョルジュ・ムーナン|fr|Georges Mounin}}の『ソシュール―構造主義の原点』[[大修館書店]]の原題がSaussure, ou le structuraliste sans le savoir「ソシュール、それを知らなかった構造主義者」となっているように、ソシュール自身が構造主義を標榜したのではない。</ref>に影響を与えた。言語学者の[[ルイス・イェルムスレウ]]、[[ロマーン・ヤーコブソン]]のほか、[[クロード・レヴィ=ストロース]]、[[モーリス・メルロー=ポンティ]]、[[ロラン・バルト]]、[[ジャック・ラカン]]、[[ジャン・ボードリヤール]]、[[ジュリア・クリステヴァ]]、[[ノーム・チョムスキー]]など多くの[[思想家]]が、その影響を受けている。 == 生涯 == === ソシュール家 === [[スイス]]の[[ジュネーブ]]の名門であったソシュール家は、フェルディナン以前にも優れた学者を輩出してきた。ソシュール家は[[フランス]][[ロレーヌ地方]]のソシュール村にいたモンジャン・シュエル(1469-1543)に遡ることができる{{Refnest|group="注釈"|ソシュールのミドルネームはここに由来すると考えられる{{sfn|加賀野井|2005|p=16}}。}}。モンジャンの息子アントワーヌ(1514-1569)は新教に改宗し[[ユグノー]]となったが、[[宗教改革]]期の混乱に揉まれ、ローザンヌへ移住した。アントワーヌの曽孫エリ(1602-1662)がジュネーブにソシュール家を開いた{{sfn|丸山|1985|pp=5-6}}。 ソシュール家の学問的伝統は、ニコラ・ド・ソシュール(1709-1791)以来のものである。ニコラは農学者であり、[[百科全書]]の執筆にも携わっている。ニコラの息子[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール|オラス=ベネディクト]](1740-1799)はソシュールの[[曽祖父]]にあたり、1787年の[[モンブラン]]の初登頂で有名なほか、自然科学を始めとして様々な研究を行った{{sfn|加賀野井|2004|p=17}}。22歳でジュネーブアカデミーの教授となるなど、当時のスイスにおいて[[ルソー]]と肩を並べる知識人であったと言われる{{sfn|丸山|1985|p=8}}。有機化学者・植物生理学者の[[ニコラス・テオドール・ド・ソシュール|ニコラ・テオドール]](1767-1845)はオラス・ベネディクトの息子である。 フェルディナンの父アンリ(1829-1905)はニコラ・テオドールの甥か息子にあたり、優れた昆虫学者であった。母ルイーズはジュネーブの伯爵の娘で、音楽家であった{{sfn|加賀野井|2004|p=18}}。1857年11月26日、この2人の間にフェルディナンが生まれた。[[メイエ]]はその家庭環境を「最高の知的教養が長い間伝統となっている」もの、と評している{{sfn|丸山|1985|p=8}}。 === 学生時代 === ==== 少年時代 ==== ソシュールは幼くも[[ドイツ語]]、[[英語]]、[[ラテン語]]、[[ギリシア語]]を習得した{{sfn|ブーイサック|2012|p=72}}。当時のスイスの高名な言語学者であった{{仮リンク|アドルフ・ピクテ|en|Adolphe Pictet}}に知り合うと彼に傾倒し、自分の知っている言語間の相互関係を明らかにしようとした。そして14歳のときに、「ギリシア語、ラテン語、ドイツ語の単語を少数の語根に集約するための試論」<ref group="注釈">{{lang-fr|Essai pour réduire les mots du Grec, du Latin & de l'Allemand à un petit nombre de racines}}</ref>を書いた{{sfn|丸山|1985|p=14}}。 この論文で彼は、子音を[[唇音]](P)、[[口蓋音]]・[[喉音]](K)、[[歯音]](T)、L、Rの5つにグループ分けし、そのうちの2つから特徴付けられる12個の[[語根]]を求めた。ソシュールはこの12個の語根には、基底的な意味がそれぞれ存在すると考え、これを証明しようとした<ref group="注釈">例えば、KAPは「窪んでいる」を表すなど。</ref>{{sfn|加賀野井|2004|pp=20-22}}。この論文を送られたピクテは、ソシュールの思い込みをなだめながらも、サンスクリット語を勉強するなど今後の研究に向けた準備をするように、と助言している{{sfn|ブーイサック|2012|p=73}}。この論文には誤りが含まれていたが、印欧祖語の語根の構造<ref group="注釈">印欧祖語の語根は、CeC(Cは子音、eは変化し得る母音)の形をとるとされている。詳しくは{{仮リンク|印欧祖語の語根|en|Proto-Indo-European root}}を参照。</ref>を把握し、[[カール・ブルークマン|ブルークマン]]に先立って鼻音[[成節音|ソナント]]を見抜いていたと言える{{Refnest|group="注釈"|丸山によれば、これはコレージュ時代のことである{{sfn|丸山|1985|p=17}}。}}{{sfn|神山|2006|p=80}}。 ピクテに出した論文の失敗から、ソシュールは2年ほど言語学から離れる。1872年にコレージュ・ル・クルトルに入り、1873年からは[[ギムナジウム]]に学んだ。1875年には[[ジュネーブ大学]]に入り、化学と物理学を勉強した{{sfn|丸山|1985|p=16}}。理科系の学生であったが、モレルによる語学の授業をとるなど、次第に言語学への興味を増していった。[[1876年]]に{{仮リンク|パリ言語学会|fr|Société de Linguistique de Paris}}に入会し10代にして論文を投稿しているが、この頃の論文にはソシュール独自の考えはみられない{{sfn|丸山|1985|p=18}}。1876年に、[[ライプツィヒ大学]]に留学した。 ==== 留学 ==== 当時のライプツィヒには[[ゲオルク・クルツィウス]]や[[青年文法学派]]の[[カール・ブルークマン]]など当時最先端の印欧語学研究者が多くいたが、ソシュールがライプツィヒを留学先に選んだ理由は、友人が多く両親が安心できるためであった{{sfn|ブーイサック|2012|p=78}}。 そういった経緯であったため、ソシュールは初め専門知識をもっておらず、ライプツィヒ大学での勉学には準備不足であった{{sfn|ブーイサック|2012|p=78}}。だがすぐに必要な知識を修め、青年文法学派の説を吸収した。自身が数年前に見抜いていた鼻音ソナントをブルークマンが発表し名声を得ていることを知ると、落胆したものの自分の考えに自信をもった{{sfn|丸山|1985|pp=19-20}}。パリ言語学会への投稿もつづけ、「ラテン語のttからssへの変化は中間段階stを想定するか?」「[[印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き#印欧語の様々なaの区別に関する試論|印欧語の様々なaの区別に関する試論]]」<ref group="注釈">それぞれ、{{lang-fr|La transformation latine de tt en ss suppose-t-elle un intermédiaire st?}}、{{lang-fr|Essai d'une distinction des différents a indo-européens}}</ref>の2つの論文を発表している。特に「試論」は、印欧祖語の{{PIE|*a}}を3つに区別して、印欧祖語のアプラウト研究に大きな影響を与えた{{sfn|神山|2006|p=83}}。 [[1878年]]7月に、ソシュールはライプツィヒを離れ[[ベルリン]]大学に移った。ベルリンでは[[ウィリアム・ドワイト・ホイットニー]]と面会したが、ソシュールはホイットニーから生涯にわたる大きな影響を受けた{{sfn|ブーイサック|2012|p=91}}。ベルリン大学に在学中の[[1878年]]12月、論文「[[印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き]]」<ref group="注釈">{{lang-fr|Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européenes}}。論文は[[フランス国立図書館#電子図書館「ガリカ」|ガリカ]]([[フランス国立図書館]]による[[デジタル図書館]]サイト)で公開されている。[http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k729200]</ref>が発表される。この論文では、1876年の「試論」を踏まえて、ソシュールは内的再建から[[印欧祖語]]の母音組織に関して、統一的な想定を提示した{{sfn|神山|2006|p=84}}。このとき{{PIE|*a}}の現れを説明するために彼が考えた「ソナント的な付加音」が後の[[喉音理論]]につながり、[[ヒッタイト語]]解読によって現実的なものとなった。発表当時の評価は高くなかったが、後の印欧祖語研究に大きな影響を与えた点で、印欧祖語の研究において最も重要な発見であったと言われる{{sfn|Beekes|2011|p=102}}。 [[1879年]]秋には再びライプツィヒ大学に戻る。1880年2月に、学位論文「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」<ref group="注釈">{{lang|fr|De l'emploi du génitif absolu en sanskrit}}</ref>を提出し、教授陣から全員一致で博士号を得た{{sfn|丸山|1985|p=28}}。この論文は、メイエによれば「単なる技術的な論文」とされるが、丸山はこれを「後年のソシュール理論の発展を予見しているもの」として評価している{{sfn|丸山|1985|p=29}}。 博士号を取得した後、半年の間のソシュールの行動はわかっていない。印欧語の形跡を多く残すリトアニア語を研究するため、リトアニアを訪れたのではないかと推測されているが{{sfn|ブーイサック|2012|p=95}}、故郷で家族と過ごしたとも言われ{{sfn|加賀野井|2004|p=39}}、ソシュール学者の間で議論が交わされている{{sfn|丸山|1985|p=29}}。 ===パリ=== [[1880年]]10月から[[パリ]]の[[高等研究院]]の学生となったが、1881年10月にはブレアルにその才能を認められて、「[[ゴート語]]および古代高地[[ドイツ語]]」の[[講師 (教育)|講師]]となる。1887年から1888年にかけてはギリシア語とラテン語の比較文法を、加えて1889年にはリトアニア語を講義したが、学生数は9年で計112人に及び、ソシュールの講義の人気が伺われる{{sfn|丸山|1985|p=31}}。メイエの証言によれば、この頃の講義には、すでに後の言語理論を見て取ることができる{{sfn|丸山|1985|p=32}}。またパリ時代の講義からは、後のフランス言語学を率いた[[ポール・パシー]]や[[モーリス・グラモン]]、[[アントワーヌ・メイエ]]などが育った{{sfn|加賀野井|2004|p=42}}。 17歳で入会したパリ言語学会でも活発に活動した。1882年には学会の副幹事となり、「パリ言語学会紀要」の事実上の編集長を務めた{{sfn|加賀野井|2004|p=42}}。[[カザン学派]]を開いた[[ヤン・ボードゥアン・ド・クルトネ]]とも学会で出会っている。カザン学派の理論はソシュールのものとの共通点が指摘されており、ソシュール自身もクルトネやその弟子クルシェフスキを高く評価している{{sfn|丸山|1985|p=33}}。 1889年からは1年間の休暇を取り、故郷ジュネーブへと戻っている。この期間にリトアニアを訪れたとも言われるが、はっきりしたことはわかっていない{{sfn|加賀野井|2004|p=44}}。 1891年にはブレアルがソシュールを後継者として、[[コレージュ・ド・フランス]]の正教授の座を与えようとしていた{{sfn|ブーイサック|2011|p=98}}。しかし、故郷ジュネーブ大学においても教授の地位が用意されており、ソシュールは悩んだ末ジュネーブへ帰郷することに決めている。この決断の背景には、普仏戦争後の愛国主義の高揚<ref group="注釈">コレージュ・ド・フランスの正教授となるには、スイス国籍を捨て、フランス国籍を取得する必要があった。</ref>{{sfn|丸山|1985|p=36}}、貴族としてのソシュール家の一員としての義務感{{sfn|ブーイサック|2011|p=98}}があったと指摘される。パリを離れる際には、ブレアルや[[ガストン・パリス]]の働きかけによって、フランス学士院から[[レジオンドヌール勲章]]が授与された{{sfn|丸山|1985|p=36}}。 ===ジュネーブ=== 1891年10月にジュネーブ大学の比較言語学特任教授となる。1892年3月にはジュネーブの資産家の娘マリー・フェッシュと結婚する。内向的なソシュールと社交的であった妻マリーとの間の性格的相違が、ソシュールの深刻な孤独感をもたらしたという説がある{{sfn|丸山|1985|p=38}}。マリーとの間には、1892年に長男のジャックが、1894年に次男のレーモンが生まれている。 ジュネーブ大学でのソシュールの講義は、主にサンスクリットと印欧諸語についてのものであり、有名な一般言語学についての講義は晩年の1907年、1908-1909年、1910-1911年の3回しかない{{sfn|丸山|1985|p=37}}。しかし1890年代前半の講義にも、[[アルベール・セシュエ]]が証言するように、一般言語学の諸原理の要素が多数現れていた。事実、ソシュールが一般言語学について深く思索し、科学としての確立を試みていたのがこの時期である{{sfn|丸山|1985|p=40}}。 1894年にジュネーブ大学で第10回東洋語学者会議が開催され、ソシュールは事務局長をつとめた。この会議にてソシュールは後に「ソシュールの法則」と言われる比較言語学上の発見を発表しているが、これがソシュールの比較言語学の最後の業績となった{{sfn|丸山|1985|p=44}}。 この後から、ソシュールは言語学の研究は続けていたものの、それを形にすることは少なくなる{{sfn|ブーイサック|2011|p=114}}。メイエに宛てた書簡の中で、ソシュールは一般言語学の研究が難しく苦しく、興味を持ち続けられるのは個々の言語の一面でしかない、と語っている{{sfn|丸山|1985|p=42}}。ゲルマン神話の研究や、地名の研究、詩のアナグラムの研究など、周辺的な分野の研究を行った資料が多数発見されている。 1906年に、それまでジュネーブ大学で言語学の教授であったヴェルトハイマーが退官すると、ソシュールは一般言語学の講義を任される{{sfn|丸山|1985|P=52}}。この一般言語学の講義は3回あり、これらの講義をまとめたものが、[[一般言語学講義]]として後に出版された。1912年の夏には、健康を害して療養にはいる。[[1913年]][[2月22日]]に死去した。{{没年齢|1857|11|26|1913|2|22}}。 == ソシュールの言語理論 == {{独自研究|date=2021年9月}} ソシュールは、[[言語]]を考察するに当たって、通時言語学/共時言語学、ラング/パロール、シニフィアン/シニフィエなどの[[二分法]]的な[[概念]]を用いた。 === 通時言語学と共時言語学 === ソシュールは、言語学を'''[[歴史言語学|通時言語学]]'''と'''共時言語学'''に二分した。従来の[[比較言語学]]のように、言語の歴史的側面を扱うのが「通時言語学」である。それに対して、言語の共時的(非歴史的、静態的)な構造を扱うのが「共時言語学」である。ソシュールは、その両方を研究の対象とすることで、それまでのように[[言語の起源]]や歴史的推移を問題にするだけでなく、ある一時点における言語の内的な構造も研究対象にし、それによって言語を全体的に理解しようとした<ref group="注釈">ただし、生前の研究成果のほとんどは、印欧語の比較言語学的研究に関するものである。</ref>。 === ラングとパロール === 共時言語学(記号論)においては、言語の社会的側面('''[[ラング]]'''。[[語彙]]や[[文法]]など、社会に共有される言語上の約束事。コード)と言語の個人的側面('''[[パロール]]'''、「今日は暑い」とか「私は完璧に血抜きされた魚の刺身を食べたい」や「どこでもドアが欲しい」などといった個人的な言語の運用。メッセージ)に二分し、「ラング」を共時言語学の対象とした。 === シーニュ、シニフィアンとシニフィエ === {{See also|シニフィアンとシニフィエ}} ソシュールは、言語(ラング)は'''記号'''([[シーニュ]][[:fr:signe]])の体系であるとした。ソシュールによれば、記号は、'''[[シニフィアン]]'''(たとえば、日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖など)と'''[[シニフィエ]]'''(たとえば、「イヌ」という音の表す言葉の概念)が表裏一体となって結びついたものである。そして、このシニフィアンとシニフィエの結びつきは、'''恣意的'''なものである。つまり、「イヌ」という概念は、"Dog"(英語)というシニフィアンと結びついても、"Chien"(フランス語)というシニフィアンと結びついても、どちらでもよいということである。 === 二重分節 === さらに、ソシュールは、[[音韻]]においても、概念においても、[[差異]]だけが意味を持ち、その言語独特の区切り方を行っていると主張する。 まず、音韻について言えば、たとえば[[日本語]]では、[[五十音]]で音を区切っている。そして、「ア」の音は、「ア」以外の音(イ、ウ、エ、オ、……)ではないものとして意味を持つ。そして、音の区別の仕方は、言語によって異なる。たとえば、日本語の音韻体系においては、英語における「r」と「l」にあたる音の区別がない。つまり、本来ならば、無限に分類できるさまざまな音を、有限数の音に分類する。そして、各言語の話者族は、それぞれ独自のやり方で(つまり、普遍的ではないやり方で)音を区分けしている。これは、"言語の音声面での恣意性"と表現される。 一方、音韻だけではなく、概念も言語によって区切られている。たとえば、「イヌ」という言葉の概念は、「イヌ」以外のすべての概念(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球……)との差異で存立している。このように、人間は、「シーニュ」という「概念の単位」によって、現実世界を切り分けているのである。そして、その切り分け方は、普遍的ではない。たとえば、日本語では虹の色を「七色」に切り分けているが、それを「三色」に切り分ける言語もある。つまり、色を表す言葉の数によって、虹の色の区切り方が違うのである。また、日本語では「マグロ」と「カツオ」を別の言葉で表現するが、英語では両方とも"tuna"である。これは、それぞれの言語を話す人々は、どの差異を区別し、どの差異を無視するかということを恣意的に選択しているのである。そして、その選択がその言語に固有の語体系を作るのであり、その語体系は、その言語の話者族に、現実世界を与える。ソシュールは、この語体系の固有性を作り出す側面を"価値"と呼んでいる。価値は、話者族の恣意による。たとえば、英語のsheepとフランス語のmoutonは、意義は同じであるが、価値は異なる。ここにおいて、ソシュールは、「''各民族語は、相互に異なる固有の世界像を持つ''」という[[言語相対論]]を提唱した。 このように線引きの集まりを恣意的に作るという行為は、'''分節'''と呼ばれる。そして、人間は、「現実世界の認識の体系」と「言葉を構成する音の体系」という二つの体系を"分節"によって作りあげているのである。これを'''二重分節'''という。なお、線引きが恣意的であることを、後に"差異の体系"と呼んだ評論家がいるが、それでは力点の置き方が異なるため、ソシュールの意図からは外れることになる。 === ランガージュ === ソシュールは、このように音韻や概念を分節し、言語を運用する人間の能力を'''[[ランガージュ]]'''と呼んだ。ランガージュを持つことによって、人間は「今日は暑い」とか「鰻が食べたい」といった個人的な言語を運用(パロール)することができるようになるのである。ソシュールは、「ランガージュは、[[人類]]を他の動物から弁別する印であり、人間学的あるいは社会学的といってもよい性格を持つ能力である」と述べている。 === いわゆる記号論について === ソシュールによって、'''恣意的な関係性'''という意味の 「'''シーニュ'''」の概念が指摘された。そして、このことをきっかけに、同様の恣意性が、言語学以外のさまざまな[[象徴]]や指標でも見出された。そして、この概念は、([[インド哲学|ダルシャナ]]を知らなかった)ヨーロッパの人々にも、遅ればせながら意識されるようになった。また、「シーニュ」の概念は、言語に関する理論にとどまらず、他の論者・評論家たちからも類推的・拡張的に利用され、次第に[[記号論]]あるいは[[記号学]]と呼ばれる一連の論・評論へと発展していくことになった。 たとえば、後の記号論者には、ある[[ブランド]]に特定のイメージが関連づけられる仕方は、おおむね恣意的なものであり、他の類似ブランドとの差異の体系を形成している、ということを指摘した者もいる。たとえば、『[[消費社会の神話と構造]]』の[[ボードリヤール]]がいる。 評論家たちは、映画や小説の作品を、作者の個人的な生い立ちや意図ではなく、同時代の関連作品との"差異の体系"として読み解こうとした。これは、「間テクスト性の分析」と呼ばれる分析方法であり、[[ロラン・バルト]]や[[ジュリア・クリステヴァ]]が使用した。しかし、これは、ソシュールの提示した概念に負うところが大きい。 また、[[クロード・レヴィ=ストロース]]は、記号論的な考え方を[[文化人類学]]の領域に導入し、[[構造主義]]思想を確立した。そして、その影響は、[[20世紀]]の[[哲学]]、[[数学]]、[[精神分析学]]、[[文芸評論]]、[[マルクス主義|マルクス主義思想]]、[[生物学]]にまで及んでいる。 == 講義ノートと原資料 == {{独自研究|date=2021年9月}} ソシュールは、存命中一冊の著書も出版しなかった。しかし、ソシュールには、晩年の[[1906年]]から[[1911年]]にかけて、[[ジュネーヴ大学]]において、一般言語学についての講義を計三回行ったことがあり、そのときに後にソシュールの弟子になる[[シャルル・バイイ|バイイ]]と[[アルベール・セシュエ|セシュエ]]がまとめた『[[一般言語学講義]]』({{lang-fr-short|Cours de linguistique générale}})がある。ただし、彼らはジュネーヴ大学の別の講義に出席していたため、直接聴講したわけではない。なお、直接講義を受けた学生による講義ノートが、エディット・パルクから第一回から第三回まで全て出版されている。 1954年頃から、ジュネーヴ公共大学図書館では、ソシュールの講義ノート等の資料が収集され始める。そして、1957年にゴデルが『一般言語学講義の原資料』を、1968年にはエングラーが『一般言語学講義』改訂版を刊行する。 日本への紹介は、[[小林英夫 (言語学者)|小林英夫]]による邦訳初版が、ソッスュール述『言語學原論』と題して[[1928年]]に岡書院から出版された。その後、出版元を岩波書店に変え、[[1972年]]刊行の改訳版で『一般言語学講義』と改題出版された。[[丸山圭三郎]]は「ソシュールの思想」と「ソシュールを読む」を刊行した。彼は、ソシュールが歪曲されたまま伝えられたことを指摘した。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|2|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=小林英夫|year=1928|title=言語學原論|publisher=岡書院}} ** 本書では「ソッスュール」と表記。改版新訳の初版(1940年刊)以降は岩波書店より刊行。 * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=小林英夫|year=1972|title=一般言語学講義|publisher=岩波書店}} ** 『言語学原論』を改版新訳の上改題。 * {{Cite book|和書 |author=岡茂雄|authorlink=岡茂雄|year=1972|title=本屋風情|chapter=ソッスュール『言語学原論』を繞って|publisher=[[平凡社]]|pages=129~132頁}} * {{Cite book|和書 |author=丸山圭三郎|authorlink=丸山圭三郎|year=1981|title=ソシュールの思想|publisher=岩波書店|isbn=4000012207}} ** 日本のソシュール解説として代表的なもの。 * {{Cite book|和書 |author=丸山圭三郎|authorlink=丸山圭三郎|year=1985|title=ソシュール小事典|publisher=大修館書店|isbn=4469042439}} * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=相原奈津江|others=秋津伶|year=2003|title=一般言語学第三回講義|publisher=エディット・パルク|isbn=4901188038}} * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=相原奈津江|others=秋津伶|year=2006|title=一般言語学第二回講義|publisher=エディット・パルク|isbn=4901188054}} * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=相原奈津江|others=秋津伶|year=2008|title=一般言語学第一回講義|publisher=エディット・パルク|isbn=9784901188067}} * {{Cite book|和書 |author=加賀野井秀一|authorlink=加賀野井秀一|year=2004|title=知の教科書 ソシュール|publisher=講談社|isbn=4-06-258300-3}} * {{Cite book|和書 |author=ポール・ブーイサック|authorlink=|translator=鷲尾翠|year=2012|title=ソシュール超入門|publisher=講談社|isbn=9784062585422}} * {{Cite book|和書 |author=フェルディナン・ド・ソシュール|authorlink=フェルディナン・ド・ソシュール|translator=町田健|year=2016|title=新訳 ソシュール 一般言語学講義|publisher=研究社|isbn=978-4327378226}} ** 『一般言語学講義』の新訳。 == 関連項目 == * [[シニフィアンとシニフィエ]] * [[ラング]] * [[ランガージュ]] * [[パロール]] * [[個別言語学|共時論と通時論]](特定共時性、通時性) == 外部リンク == {{Commonscat|Ferdinand de Saussure}} {{Wikisourcelang|fr|Auteur:Ferdinand de Saussure|フェルディナン・ド・ソシュール}} {{Wikiquotelang|en|Ferdinand de Saussure|フェルディナン・ド・ソシュール}} * {{DNB-Portal|118605879}} * {{Kotobank|フェルディナン・ド%20ソシュール-1625269||フェルディナン・ド・ソシュール}} * {{Internet Archive author|name=Ferdinand de Saussure}} * {{OL author}} {{Philos-stub}} {{Academic-bio-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:そしゆうる ふえるていなんと}} [[Category:フェルディナン・ド・ソシュール|*]] [[Category:19世紀スイスの哲学者]] [[Category:20世紀スイスの哲学者]] [[Category:スイスの言語学者]] [[Category:構造主義]] [[Category:言語論的転回]] [[Category:ジュネーヴ大学出身の人物]] [[Category:ライプツィヒ大学出身の人物]] [[Category:ジュネーヴ大学の教員]] [[Category:パリ大学の教員]] [[Category:ジュネーヴ出身の人物]] [[Category:ソシュール家|ふえるていなん]] [[Category:1857年生]] [[Category:1913年没]]
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記号学
記号学(きごうがく、英: semiotics、独: semiotik、仏: sémiotique)は、記号の学問である。 セミオロジー(semiologie)、セモロジー(semologie)など複数の名称が与えられてきたが、1962年のジョージ・ハーバート・ミードの提唱により、セミオティクス(semiotics)の語が定着した。 ソシュールのセミオロジー(sémiologie)とパースのセミオティクス(semiotics)を対比して、日本語でそれぞれ記号学と記号論と呼ぶことがある。 記号学(セミオロジー)は、フェルディナン・ド・ソシュールによる、「表現面 - 内容面」(シニフィアン - シニフィエ)の二項に基づく記号学である。 記号論(セミオティクス)は、チャールズ・サンダース・パースによる、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく記号学である。 記号論(セミオティクス)は、チャールズ・サンダース・パースによる、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく、記号の学。パースの記号論において、記号は物理的指示作用と図像的表示能力をもつとし、さらにこの二つの作用の総合として象徴作用という第三の意味作用が生じると考える。パースは記号のこのような三つの意味の差異を以上の三項で呼び分ける。記号とは常に低次の意味作用から高次のものへと発展する、記号は時間の中にある、と考える。ウンベルト・エーコなどが代表的な論者である。 1907年からのフェルディナン・ド・ソシュールによるジュネーブ大学における「一般言語学」は、彼の死後の1916年に彼の弟子たち、言語学的文体論を開拓したシャルル・バイイと統辞論に関心を向けたアルベール・セシュエ、によってまとめられ『一般言語学講義』の題で刊行されたが、バイイとセシュエの編纂方針は、ソシュールの講義の意図を汲み取った上で、講義全体を新たな文章で書き下ろすという大胆なものであった。そのような編纂方法であったことから、主張内容が必ずしもソシュールによるものではないという批判があるものの、その講義録の中で提唱された意味の一般学が記号学(sémiologie)である。 フランスの構造主義哲学者・文学者ロラン・バルトは、『エクリチュールの零度』『モードの体系』でソシュール記号学を援用し、中世ヨーロッパ文化史研究者で文学者のウンベルト・エーコは『記号論I・II』を著した。 日本では、浅田彰『構造と力 記号論を超えて』の大ヒットと共にニュー・アカデミズムと呼ばれる思潮が起こり、記号論もにわかに注目を集めた。この時代の日本人による著作としては、池上嘉彦の『記号論への招待』や『詩学と文化記号論』、山口昌男の『文化と両義性』などがある。
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記号学は、記号の学問である。 セミオロジー(semiologie)、セモロジー(semologie)など複数の名称が与えられてきたが、1962年のジョージ・ハーバート・ミードの提唱により、セミオティクス(semiotics)の語が定着した。
{{複数の問題|独自研究=2015年10月20日 (火) 19:00 (UTC)|出典の明記=2011年3月|正確性=2015年10月20日 (火) 19:00 (UTC)}} '''記号学'''(きごうがく、{{lang-en-short|semiotics}}、{{Lang-de-short|semiotik}}、{{Lang-fr-short|sémiotique}})は、[[記号]]の学問である。 '''[[セミオロジー]]'''(semiologie)、'''[[セモロジー]]'''(semologie)など複数の名称が与えられてきたが、1962年の[[ジョージ・ハーバート・ミード]]の提唱により、'''セミオティクス'''(semiotics)の語が定着した<ref>{{Cite book|和書|title=記号学小辞典|date=1992年11月1日|year=|publisher=同学社|page=34}}</ref>。 == 記号学と記号論の区別 == ソシュールの'''セミオロジー'''(sémiologie)とパースの'''セミオティクス'''(semiotics)を対比して、日本語でそれぞれ'''記号学'''と'''記号論'''と呼ぶことがある。 '''記号学'''(セミオロジー)は、[[フェルディナン・ド・ソシュール]]による、「表現面 - 内容面」([[シニフィアンとシニフィエ|シニフィアン]] - [[シニフィアンとシニフィエ|シニフィエ]])の二項に基づく記号学である。 '''記号論'''(セミオティクス)は、[[チャールズ・サンダース・パース]]による、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく記号学である。 == 歴史 == === パース記号論 === '''記号論'''(セミオティクス)は、[[チャールズ・サンダース・パース]]による、「表現、内容、指示対象」の三項に基づく、記号の学。パースの記号論において、記号は物理的指示作用と図像的表示能力をもつとし、さらにこの二つの作用の総合として[[象徴]]作用という第三の意味作用が生じると考える。パースは記号のこのような三つの意味の差異を以上の三項で呼び分ける。記号とは常に低次の意味作用から高次のものへと発展する、記号は時間の中にある、と考える。[[ウンベルト・エーコ]]などが代表的な論者である。 === ソシュール記号学 === {{See also|シニフィアンとシニフィエ}} 1907年からの[[フェルディナン・ド・ソシュール]]によるジュネーブ大学における「[[一般言語学講義|一般言語学]]」は<ref group="注釈">[[ジュネーブ大学]]において1906年12月8日の大学当局の決定で「一般言語学」の講義を前任者から渋々引き継ぐことになった[[フェルディナン・ド・ソシュール]]が、前任者の退職にともなって閉じられていた講義を再開したのは1907年1月16日であり、ソシュールが講義のために準備できた時間はひと月もなかった。また、対象となる学生も、言語学専攻の学生ではなかった。 *{{cite book | 和書 | title=ソシュール講義録注解 | author=フェルディナン・ド・ソシュール | editor=前田 英樹(訳・注) | series=叢書・ウニベルシタス | publisher=法政大学出版局 | year=1991 }} p.vii </ref>、彼の死後の1916年に彼の弟子たち、言語学的文体論を開拓した[[シャルル・バイイ]]と統辞論に関心を向けた[[アルベール・セシュエ]]<ref>{{cite book | 和書 | title=現代言語学とソシュール理論 | editor=谷口 勇(訳) | author=H. A. スリュサレーヴァ | publisher=而立書房 | year=1979 | ref=スリュサレーヴァ(1975) }} p.35</ref>、によってまとめられ『[[一般言語学講義]]』の題で刊行されたが、バイイとセシュエの編纂方針は、ソシュールの講義の意図を汲み取った上で、講義全体を新たな文章で書き下ろすという大胆なものであった。そのような編纂方法であったことから、主張内容が必ずしもソシュールによるものではないという批判があるものの、その講義録の中で提唱された意味の一般学が'''記号学'''(sémiologie)である。 === 記号学の現在 === フランスの[[構造主義]]哲学者・文学者[[ロラン・バルト]]は、『エクリチュールの零度』『モードの体系』でソシュール記号学を援用し、[[中世ヨーロッパ]][[文化史]]研究者で文学者の[[ウンベルト・エーコ]]は『記号論Ⅰ・Ⅱ』を著した。 日本では、[[浅田彰]]『構造と力 記号論を超えて』の大ヒットと共に[[ニュー・アカデミズム]]と呼ばれる思潮が起こり、記号論もにわかに注目を集めた。この時代の日本人による著作としては、[[池上嘉彦]]の『記号論への招待』や『[[詩学]]と文化記号論』、[[山口昌男]]の『文化と両義性』などがある。 == 主な記号学者 == * [[チャールズ・サンダース・パース]] - アメリカ合衆国。[[プラグマティズム]]。セミオティクスの創始者。 * [[フェルディナン・ド・ソシュール]] - スイス。[[ジュネーヴ学派]]。「現代言語学の父」、[[セミオロジー]]の創始者。記号の[[恣意性]]。 * [[ヤーコプ・フォン・ユクスキュル]] - ドイツ。生物記号学の創始者 * [[バレンティン・ヴォロシノフ]] - ソビエト・ロシア。文学理論、マルクス主義。反ソシュール言語学。 * [[ルイ・イェルムスレウ]] - デンマーク。[[コペンハーゲン学派 (言語学)|コペンハーゲン学派]]。[[言理学]]。 * [[チャールズ・W・モリス]] - アメリカ合衆国。[[行動主義者]]。 * [[トゥーレ・フォン・ユクスキュル]] - 「心身医学の父」。[[ヤーコプ・フォン・ユクスキュル]]の子。 * [[ロラン・バルト]] - フランス。[[構造主義|フランス構造主義]]。 * [[アルジルダス・ジュリアン・グレマス]] - リトアニア、フランス。[[生成記号学]](generative semiotics) * [[トーマス・A・セボク]] - モリスの弟子。[[動物記号学]](zoosemiotics)の提唱者。 * [[ユーリ・ロトマン]] - ソビエト・ロシア。タルトゥ=モスクワ記号学派。 * [[クリスチャン・メッツ]] - フランス。映画記号学。 * [[エリセロ・ベロン]] - アルゼンチン。Social Discourse Theory。 * [[グループμ]](ミュー) - フランス。 * [[ウンベルト・エーコ]] - イタリア。[[文化記号論]]。 * [[ジュリア・クリステヴァ]] - ブルガリア、フランス。 * [[マイケル・シルヴァスティン]] - アメリカ合衆国。 === 日本 === * [[山口昌男]] - [[東京外国語大学]] * [[池上嘉彦]] - [[東京大学教養学部]] * [[石田英敬]] - [[東京大学教養学部]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite book | 和書 | title=記号論I | author=U.エーコ | editor=池上嘉彦(訳) | year=1996 | publisher=岩波書店 | ref=エーコ(1996) }} *池上嘉彦『文化記号論』講談社学術文庫。 *[[宇波彰]]『記号論の思想』講談社学術文庫。 *[[米盛裕二]]『パースの記号学』勁草書房、1996年。 == 関連項目 == *[[言語学]] *[[哲学]] *[[言語ゲーム]] *[[プラハ学派]] - [[ローマン・ヤコブソン]] *[[ピエール・ギロー]] == 外部リンク == * [http://www.jassweb.jp/ 日本記号学会] * {{Kotobank}} * {{Kotobank|記号論}} {{科学哲学}} {{Language-stub}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:きこうかく}} [[Category:記号学|*]] [[Category:言語哲学]] [[Category:サイバネティックス]] [[Category:社会学の分野]] [[Category:科学的方法]] [[Category:言語学の分野]] [[Category:フェルディナン・ド・ソシュール]]
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統計力学
統計力学()は、系の微視的な物理法則を基に、巨視的な性質を導き出すための学問である。統計物理学、統計熱力学) とも呼ぶ。歴史的には理想気体の温度や圧力などの熱力学的な性質を気体分子運動論の立場から演繹することを目的としてルートヴィッヒ・ボルツマン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、ウィラード・ギブズらによって始められた。理想気体だけでなく、実在気体や、液体、固体やそれらの状態間の相転移、磁性体、ゴム弾性などの巨視的対象が広く扱われる。 統計力学では、膨大な数(典型的にはアボガドロ数 10 程度)の粒子により構成される力学系を対象とする。この力学系の状態を指定するには、系を構成する粒子数に比例したオーダーの膨大な自由度を必要とする。 一方で、この系を熱力学的に取り扱う場合は、系の状態は巨視的な物理量である状態量によって指定される。熱力学的な状態は温度や圧力、エネルギーや物質量などの少ない自由度で指定されることが知られている。 すなわち、熱力学的に状態が指定されたとしても、力学的には状態が完全に指定されることはなく、膨大な状態を取り得る。統計力学の基本的な取り扱いは、熱力学的な条件(巨視的な条件)の下で力学的な状態(微視的な状態)が確率的に出現するものとして考える。 系が取り得る全ての状態の集合(標本空間)を Ω とする。 系が状態 ω ∈ Ω にあるときの物理量は確率変数 O(ω) として表される。 系が状態 ω にある確率が p(ω) で与えられているとき、熱力学的な物理量としての状態量 が期待値 として実現される。特に熱力学における基本的な関数であるエントロピーが で与えられる。比例係数 k はボルツマン定数である。 統計力学で対象とする力学系が、古典力学に基づく場合は古典統計力学、量子力学に基づく場合は量子統計力学として大別される。 力学系の状態の集合である標本空間 Ω は、古典論では正準変数により張られる位相空間であり、量子論では状態ベクトルにより張られるヒルベルト空間である。 また、物理量 O は古典論では位相空間上の関数であり、量子論では状態ベクトルに作用するエルミート演算子である。 古典論においては位相空間の測度は、1対の正準変数 dp dq ごとにプランク定数 h で割る約束で、状態に対する和が で置き換えられる。ここで f は力学的自由度であり、3次元空間の N-粒子系であれば、f = 3N である。 量子論においては、量子数の組 ni の和 で置き換えられる。 力学系がある微視的な状態を取る確率は、系を熱力学的に特徴付ける条件(系のエネルギーや温度、化学ポテンシャルなどの状態変数)によって決まる。巨視的な条件は統計集団(アンサンブル)と呼ばれ、代表的なものとして が挙げられる。 平衡状態の統計力学は、等重率の原理とボルツマンの原理から導かれる。 ボルツマンの原理により微視的な確率分布が熱力学的なエントロピーと関係付けられる。 また、確率の規格化定数として現れる分配関数は確率分布の情報をもっており、完全な熱力学関数と関連付けられる。 孤立系の確率集団は {qi, pi} で指定される微視的状態が等しい確率をもつミクロカノニカル集団である。これを等重率の原理という。 孤立系(エネルギー E、体積 V、粒子数 N)のエントロピー S(E, V, N) を系の微視的状態の数 W(E, ΔE, V, N) を用いて定義する。 S = k B ln W ≃ k B ln Ω {\displaystyle S=k_{\mathrm {B} }\ln W\simeq k_{\mathrm {B} }\ln \Omega } これをボルツマンの公式という。kB はボルツマン定数と呼ばれる。W はエネルギーが [E, E+ΔE] の区間に含まれる微視的状態の数であり、ΔE は巨視的に識別不可能である微視的なエネルギー差である。つまり W は巨視的にエネルギー E を持つと見なせる状態の数である。それは等重率の原理により、 W ( E ) = ∫ E < H ( { p i } , { q i } ) < E + Δ E d Γ ≃ Ω ( E ) Δ E {\displaystyle W(E)=\int _{E<H(\{p_{i}\},\{q_{i}\})<E+\Delta {}E}\mathrm {d} \Gamma \simeq \Omega (E)\Delta {}E} で与えられる。ここで、Ω(E) はエネルギー E における状態密度と呼ばれる量である。このエントロピーを熱力学におけるエントロピーとオーダーで一致させるには、微視的状態を量子力学によって記述する必要がある。その場合の統計力学を量子統計力学といい、古典統計力学は量子統計力学の古典的極限として構築される。 エネルギー E の孤立系の物理量 A の集団平均 ⟨A⟩E は ⟨ A ⟩ E = ∫ E < H ( { p i } , { q i } ) < E + Δ E A ( { p i } , { q i } ) d Γ W {\displaystyle \left\langle A\right\rangle _{E}={\frac {\int _{E<H(\{p_{i}\},\{q_{i}\})<E+\Delta E}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }{W}}} で与えられる。 充分多数の N ≫ 1 個の粒子から成る古典的な系での任意の物理量 A の時間平均値 A は A ̄ = lim T → ∞ 1 T ∫ 0 T A ( { p i } , { q i } ) d t {\displaystyle {\bar {A}}=\lim _{T\to \infty }{\frac {1}{T}}\int _{0}^{T}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} t} と与えられる。{qi}i = 1,..., 3N, {pi}i = 1,..., 3N は系の微視的状態を指定する正準変数である。系が熱力学的平衡状態に達するならばこの値は収束する。このとき長時間平均 A は熱力学に現れる巨視的な物理量 A に一致しなければならない。系の微視的状態の(任意の)分布 ρ({qi}, {pi}, N) はリウヴィルの定理により時間に関して不変である。 d ρ d t = 0 {\displaystyle {\frac {\mathrm {d} \rho }{\mathrm {d} t}}=0} このことから、時間 t に依存しない平衡状態において、{qi}, {pi} で指定される微視的状態がある確率 dP を持つ確率集団(アンサンブル)を考えると物理量 A の集団平均 ⟨A⟩ は ⟨ A ⟩ = ∫ A ( { p i } , { q i } ) d P = ∫ A ( { p i } , { q i } ) ρ ( { p i } , { q i } ) d Γ ∫ ρ ( { p i } , { q i } ) d Γ {\displaystyle \left\langle A\right\rangle =\int {}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} P={\frac {\int {}A(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\rho {}(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }{\int {}\rho {}(\{p_{i}\},\{q_{i}\})\mathrm {d} \Gamma }}} で与えられる。この集団平均 ⟨A⟩と時間平均 A が等しいと仮定することを統計力学の原理とする仮説をエルゴード仮説と呼ぶ。ただし、エルゴード仮説は統計力学の基礎付けと無関係という主張も専門家によってなされている。 非平衡系では、熱平衡からのずれを1次の微小量(摂動)とみなしてよい線形非平衡系と、みなせない非線形非平衡系に分類できる. 場の量子論を用いた統計力学は、松原武生による温度グリーン関数の導入により始まった。
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統計力学は、系の微視的な物理法則を基に、巨視的な性質を導き出すための学問である。統計物理学、統計熱力学) とも呼ぶ。歴史的には理想気体の温度や圧力などの熱力学的な性質を気体分子運動論の立場から演繹することを目的としてルートヴィッヒ・ボルツマン、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、ウィラード・ギブズらによって始められた。理想気体だけでなく、実在気体や、液体、固体やそれらの状態間の相転移、磁性体、ゴム弾性などの巨視的対象が広く扱われる。
{{統計力学}} {{読み仮名|'''統計力学'''|とうけいりきがく、{{lang-de-short|statistische Mechanik}}、{{lang-en-short|statistical mechanics}}}}は、系の[[微視的]]な物理法則を基に、[[巨視的]]な性質を導き出すための学問である。'''統計物理学'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|statistical physics}}</ref>、'''統計熱力学'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|statistical thermodynamics}}</ref><ref>Hill, T. L. (1986). An introduction to statistical thermodynamics. Courier Corporation.</ref><ref>Fowler, R. H. (1939). Statistical thermodynamics. CUP Archive.</ref><ref>Schrödinger, E. (1989). Statistical thermodynamics. Courier Corporation.</ref>) とも呼ぶ。歴史的には[[理想気体]]の[[温度]]や[[圧力]]などの[[熱力学]]的な性質を[[気体分子運動論]]の立場から演繹することを目的として[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]、[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]、[[ウィラード・ギブズ]]らによって始められた。理想気体だけでなく、[[実在気体]]や<ref>[[伏見康治]]「[[確率論及統計論]]」第I章 数学的補助手段 1節 組合わせの理論 p.9 不完全気体の統計力学 ISBN 9784874720127 http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204</ref>、[[液体]]、[[固体]]やそれらの状態間の[[相転移]]、[[磁性体]]、[[ゴム状態|ゴム弾性]]などの巨視的対象が広く扱われる<ref name=":0" />。 == 概要 == 統計力学では、膨大な数(典型的には[[アボガドロ数]]<!-- アボガドロ定数ではない --> {{1e|23}} 程度)の粒子により構成される力学系を対象とする。この力学系の状態を指定するには、系を構成する粒子数に比例した[[ランダウの記号|オーダー]]の膨大な[[自由度]]を必要とする。 一方で、この系を熱力学的に取り扱う場合は、系の状態は巨視的な物理量である[[状態量]]によって指定される。熱力学的な状態は[[温度]]や[[圧力]]、[[エネルギー]]や[[物質量]]などの少ない自由度で指定されることが知られている。 すなわち、熱力学的に状態が指定されたとしても、力学的には状態が完全に指定されることはなく、膨大な状態を取り得る。統計力学の基本的な取り扱いは、熱力学的な条件(巨視的な条件)の下で力学的な状態(微視的な状態)が確率的に出現するものとして考える。 系が取り得る全ての状態の集合([[標本空間]])を {{mvar|&Omega;}} とする。 系が状態 {{math|''&omega;'' &in; ''&Omega;''}} にあるときの物理量は[[確率変数]] {{math|''O''(''&omega;'')}} として表される。 系が状態 {{mvar|&omega;}} にある[[確率]]が {{math|''p''(''&omega;'')}} で与えられているとき、熱力学的な物理量としての状態量 が[[期待値]] : <math>O = \langle O(\omega) \rangle =\sum_{\omega \in\Omega} O(\omega)\, p(\omega)</math> として実現される。特に熱力学における基本的な関数である[[エントロピー]]が : <math>S = -k\langle \ln p(\omega) \rangle =-k \sum_{\omega \in\Omega} p(\omega) \ln p(\omega)</math> で与えられる。比例係数 {{mvar|k}} は[[ボルツマン定数]]である。 == 古典統計と量子統計 == 統計力学で対象とする力学系が、[[古典力学]]に基づく場合は古典統計力学、量子力学に基づく場合は量子統計力学として大別される。 力学系の状態の集合である標本空間 {{mvar|&Omega;}} は、古典論では[[正準変数]]により張られる[[位相空間 (物理学)|位相空間]]であり、量子論では[[状態ベクトル]]により張られる[[ヒルベルト空間]]である。 また、物理量 {{mvar|O}} は古典論では位相空間上の関数であり、量子論では状態ベクトルに作用する[[エルミート演算子]]である。 古典論においては位相空間の[[測度]]は、1対の正準変数 {{mvar|dp dq}} ごとに[[プランク定数]] {{mvar|h}} で割る約束で、状態に対する和が :<math>\sum_{\omega\in\Omega} \to \frac{1}{h^f} \int d^fp\, d^fq</math> で置き換えられる。ここで {{mvar|f}} は力学的自由度であり、3次元空間の {{mvar|N}}-粒子系であれば、{{math|1=''f'' = 3''N''}} である。 量子論においては、[[量子数]]の組 {{mvar|n{{sub|i}}}} の和 :<math>\sum_{\omega\in\Omega} \to \sum_{n_1} \sum_{n_2} \dots \sum_{n_f}</math> で置き換えられる。 == 確率分布と統計集団 == {{main|統計集団}} 力学系がある微視的な状態を取る確率は、系を熱力学的に特徴付ける条件(系の[[エネルギー]]や[[温度]]、[[化学ポテンシャル]]などの[[状態変数]])によって決まる。巨視的な条件は[[統計集団]](アンサンブル)と呼ばれ、代表的なものとして * 孤立系に対応する'''小正準集団'''([[ミクロカノニカルアンサンブル]]) * [[等温過程|等温]]閉鎖系に対応するする'''[[正準集団]]'''(カノニカルアンサンブル) * 等温等化学ポテンシャル開放系に対応する'''[[大正準集団]]'''(グランドカノニカルアンサンブル) が挙げられる。 == 平衡系の統計力学 == 平衡状態の統計力学は、等重率の原理とボルツマンの原理から導かれる。 === ボルツマンの原理 === '''[[ボルツマンの原理]]'''により微視的な確率分布が熱力学的な[[エントロピー]]と関係付けられる。 また、確率の[[規格化]]定数として現れる'''[[分配関数]]'''は確率分布の情報をもっており、[[完全な熱力学関数]]と関連付けられる。 === 孤立系 === {{main|ミクロカノニカルアンサンブル}} [[孤立系]]の確率集団は {{Math|{''q''<sub>''i''</sub>, ''p''<sub>''i''</sub><nowiki>}</nowiki>}} で指定される微視的状態が等しい確率をもつ[[ミクロカノニカルアンサンブル|ミクロカノニカル集団]]である。これを''[[等重率の原理]]''という。 孤立系(エネルギー {{Mvar|E}}、体積 {{Mvar|V}}、粒子数 {{Mvar|N}})の[[エントロピー]] {{Math|''S''(''E'', ''V'', ''N'')}} を系の微視的状態の数 {{Math|''W''(''E'', &Delta;''E'', ''V'', ''N'')}} を用いて定義する。 {{Indent|<math>S=k_\mathrm{B}\ln W \simeq k_\mathrm{B}\ln\Omega</math>}} これを[[ボルツマンの公式]]という。{{Math|''k''<sub>B</sub>}} は[[ボルツマン定数]]と呼ばれる。{{Mvar|W}} はエネルギーが {{Math|[''E'', ''E''+&Delta;''E'']}} の区間に含まれる微視的状態の数であり、{{Math|&Delta;''E''}} は巨視的に識別不可能である微視的なエネルギー差である。つまり {{Mvar|W}} は巨視的にエネルギー {{Mvar|E}} を持つと見なせる状態の数である。それは[[等重率の原理]]により、 {{Indent|<math>W(E)=\int_{E<H(\{p_i\},\{q_i\})<E+\Delta{}E}\mathrm d\Gamma\simeq\Omega(E)\Delta{}E</math>}} で与えられる。ここで、{{Math|&Omega;(''E'')}} はエネルギー {{Mvar|E}} における[[状態密度]]と呼ばれる量である。このエントロピーを熱力学におけるエントロピーと[[ランダウの記号|オーダー]]で一致させるには、微視的状態を[[量子力学]]によって記述する必要がある。その場合の統計力学を[[量子統計力学]]といい<ref>Kadanoff, L. P. (2018). Quantum statistical mechanics. CRC Press.</ref><ref>Bogolubov, N. N., & Bogolubov Jr, N. N. (2009). Introduction to quantum statistical mechanics. World Scientific Publishing Company.</ref>、[[古典統計力学]]は量子統計力学の古典的極限として構築される。 エネルギー {{Mvar|E}} の孤立系の物理量 {{Mvar|A}} の集団平均 {{Math|&lang;''A''&rang;<sub>''E''</sub>}} は {{Indent|<math>\left\langle A \right\rangle_E=\frac{\int_{E<H(\{p_i\},\{q_i\})<E+\Delta E}A(\{p_i\},\{q_i\})\mathrm d\Gamma}{W}</math>}} で与えられる。 === エルゴード理論 === {{main|エルゴード理論}} 充分多数の {{Math|''N'' ≫ 1}} 個の粒子から成る古典的な系での任意の物理量 {{Mvar|A}} の時間平均値 {{Mvar|{{Overbar|A}}}} は {{Indent|<math>\bar{A}=\lim_{T\to\infty}\frac{1}{T}\int_0^T A(\{p_i\},\{q_i\})\mathrm dt</math>}} と与えられる。{{Math|1={''q''<sub>''i''</sub>}<sub>''i'' = 1,..., 3''N''</sub>, {''p''<sub>''i''</sub>}<sub>''i'' = 1,..., 3''N''</sub>}} は系の微視的状態を指定する[[ハミルトン力学|正準変数]]である。系が[[熱力学的平衡|熱力学的平衡状態]]に達するならばこの値は収束する。このとき長時間平均 {{Mvar|{{Overbar|A}}}} は[[熱力学]]に現れる巨視的な物理量 {{Mvar|A}} に一致しなければならない。系の微視的状態の(任意の)分布 {{Math|''&rho;''({''q''<sub>''i''</sub>}, {''p''<sub>''i''</sub>}, ''N'')}} は[[リウヴィルの定理 (物理学)|リウヴィルの定理]]により時間に関して不変である。 {{Indent|<math>\frac{\mathrm d\rho}{\mathrm dt}=0</math>}} このことから、時間 {{Mvar|t}} に依存しない平衡状態において、{{Math|{''q''<sub>''i''</sub>}, {''p''<sub>''i''</sub><nowiki>}</nowiki>}} で指定される微視的状態がある[[確率]] {{Math|d''P''}} を持つ[[確率集団]](アンサンブル)を考えると物理量 {{Mvar|A}} の集団平均 {{Math|&lang;''A''&rang;}} は {{Indent|<math>\left\langle A \right\rangle=\int{}A(\{p_i\},\{q_i\})\mathrm dP=\frac{\int{}A(\{p_i\},\{q_i\}) \rho{}(\{p_i\},\{q_i\})\mathrm d\Gamma} {\int{}\rho{}(\{p_i\},\{q_i\})\mathrm d\Gamma}</math>}} で与えられる。この'''集団平均''' {{Math|&lang;''A''&rang;}}'''と時間平均''' {{Math|{{Overbar|''A''}}}} '''が等しいと仮定すること'''を統計力学の原理とする仮説を[[エルゴード理論|エルゴード仮説]]と呼ぶ。ただし、エルゴード仮説は統計力学の基礎付けと無関係という主張も専門家によってなされている<ref name=":0">[[田崎晴明]] [[#tasakiS1|統計力学I]]。また、[[田崎晴明]]による解説 [http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/statbook/ 統計力学 I, II(培風館、新物理学シリーズ)]</ref><ref>[[大野克嗣]]による解説 [http://www.rinst.org/](Statistical Mechanics, Japanese versionというpdf)</ref>。 == 非平衡系の統計力学 == {{main|非平衡熱力学}} 非平衡系では、熱平衡からのずれを1次の微小量(摂動)とみなしてよい'''[[線形非平衡系]]'''と、みなせない'''非線形非平衡系'''に分類できる. == 量子統計力学 == {{main|量子統計力学}} == 場の量子論を用いた統計力学 == {{main|統計的場の理論}} === 平衡系 === [[場の量子論]]を用いた統計力学は、松原武生による'''[[温度グリーン関数]]'''の導入により始まった。 === 非平衡系 === == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{reflist|2}} == 関連書籍 == {{div col|rules=yes}} * {{cite|和書 |title=大学演習 熱学・統計力学 |author=[[久保亮五|久保 亮五]] |publisher=[[裳華房]] |edition=修訂 |ISBN=978-4785380328}} * {{cite|和書 |title=熱力学 平衡状態と不可逆過程の熱物理学入門(上) |author=H. B. Callen |translator=山本 常信, [[小田垣孝|小田垣 孝]] |publisher=[[吉岡書店]] |ISBN=978-4-8427-0189-9}} * {{cite|和書 |title=熱力学 平衡状態と不可逆過程の熱物理学入門(下) |author=H. B. Callen |translator=山本 常信, 小田垣 孝 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0192-9}} * {{cite|和書 |title=熱力学および統計物理入門(上) |author=H. B. Callen |translator=小田垣 孝 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0272-8}} * {{cite|和書 |title=熱力学および統計物理入門(下) |author=H. B. Callen |translator=小田垣 孝 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0273-5}} * {{cite|和書 |title=統計熱物理学の基礎(上) |author=ライフ |translator=中山 寿夫, 小林 祐次 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0335-0}} * {{cite|和書 |title=統計熱物理学の基礎(中) |author=ライフ |translator=中山 寿夫, 小林 祐次 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0348-0}} * {{cite|和書 |title=統計熱物理学の基礎(下) |author=ライフ |translator=中山 寿夫, 小林 祐次 |publisher=吉岡書店 |ISBN=978-4-8427-0306-0}} * {{cite|和書 |author=[[レフ・ランダウ|ランダウ]], [[エフゲニー・リフシッツ|リフシッツ]] |title=統計物理学(上)([[理論物理学教程|ランダウ=リフシッツ理論物理学教程]] 第 5 巻) |translator=小林 秋男, 小川 岩雄, 富永 五郎, 浜田 達二, [[横田伊佐秋|横田 伊佐秋]] |edition=3 |publisher=[[岩波書店]] |ISBN=978-4-00-005720-2}} * {{cite|和書 |author=ランダウ, リフシッツ |title=統計物理学(下)(ランダウ=リフシッツ理論物理学教程 第 5 巻) |translator=小林 秋男, 小川 岩雄, 富永 五郎, 浜田 達二, 横田 伊佐秋 |edition=3 |publisher=岩波書店 |ISBN=978-4-00-005721-9}} * {{Cite book|和書 |author=田崎晴明|authorlink=田崎晴明 |title=統計力学Ⅰ |publisher=[[培風館]] |series=新物理学シリーズ |year=2008 |isbn=978-4-563-02437-6 |ref=tasakiS1 }} * {{Cite book|和書 |author=田崎晴明 |title=統計力学Ⅱ |publisher=[[培風館]] |series=新物理学シリーズ |year=2008 |isbn=978-4-563-02438-3 |ref=tasakiS2 }} {{div col end}} == 関連項目 == * [[熱力学]] * [[古典統計力学]] * [[量子統計力学]] * [[繰り込み群]]、[[ユニバーサリティークラス]] * [[密度行列]] * [[確率論]]、[[統計学]] {{Wikibooks|統計力学I|統計力学}} {{Physics-footer}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:とうけいりきかく}} [[Category:統計力学|*]] [[Category:力学]] [[Category:物理学の分野]] [[Category:数学に関する記事]]
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石原慎太郎
石原 慎太郎(石原 愼太郎、いしはら しんたろう、1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の作家・政治家。 参議院議員(1期)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、運輸大臣(竹下内閣)、東京都知事(第14代 - 17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任。 一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。 1968年に参議院議員に当選、政治家に転ずる。福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。1995年4月に衆議院議員を辞職。 1999年東京都知事選挙に立候補し当選。2003年東京都知事選挙、2007年東京都知事選挙、2011年東京都知事選挙で再選し4選した。石原都政では新銀行東京、首都大学東京の設立、外形標準課税の導入、ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施した。2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。 趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。 父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。 北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。 一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。 湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。 公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。 慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。 『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。 慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。 — サンデー毎日1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」 石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。 一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。 その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。 戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、劇団四季は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した。1965年、日生劇場で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者のジャニーズが歌う同名の主題歌の作詞も手掛けた。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた。 1970年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟・裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。 1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。 創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。 映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。 俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。 政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。 1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた。 1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会は石原のために動員をかけた。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。 1972年9月29日、田中角栄と周恩来は日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。 1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。 1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿ではなく、石原を応援した。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った。 1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。 1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流する。 1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。 1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。 1989年、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。 議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。 2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。 衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。 同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会・衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。 都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。 石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。 日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。 さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。 2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。 7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。 2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。 2015年春の叙勲で旭日大綬章を受章。 2021年10月、病院で膵臓がんの再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている。 父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。 2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。 死因は公表されていないが、死去当日に長男の石原伸晃は会見で「膵臓がんを患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている。2014年に出版した『私の海』(幻冬舎)には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた。葬儀・告別式が2月5日、大田区の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」、先祖代々が眠る逗子市の海宝院に納骨されると報じられた。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。 「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という石原の遺言に従い、4月17日に海上散骨式が神奈川県三浦郡葉山町の名島沖で行われ、石原伸晃のYouTube公式chでも動画配信された。6月9日午前10時より、元首相・安倍晋三(その後翌月8日に銃撃死)、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサII世」のセイルが飾られた。 6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。 2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。 政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されてしまうケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。原田実は、石原の著作にみられる主張と実際の政治的主張を言行不一致・朝令暮改とし、思うに石原はその時その時に応じて世間が求める「石原」というキャラを演じ続けているのだろう、その巧みさゆえに都知事の座を守り抜けたとしている。 石原の自宅に突然押しかけてきた在日朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けたことがある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である朝鮮労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼らが日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという。 映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『日蝕の夏』、『婚約指輪』、1957年の『危険な英雄』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『異聞猿飛佐助』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『青木ヶ原』では都知事役で出演した。 1972年には裕次郎主演映画、『影狩り』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった。 『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)白泉社 1990.7
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "石原 慎太郎(石原 愼太郎、いしはら しんたろう、1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の作家・政治家。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "参議院議員(1期)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、運輸大臣(竹下内閣)、東京都知事(第14代 - 17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1968年に参議院議員に当選、政治家に転ずる。福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。1995年4月に衆議院議員を辞職。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1999年東京都知事選挙に立候補し当選。2003年東京都知事選挙、2007年東京都知事選挙、2011年東京都知事選挙で再選し4選した。石原都政では新銀行東京、首都大学東京の設立、外形標準課税の導入、ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施した。2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。 — サンデー毎日1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、劇団四季は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した。1965年、日生劇場で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者のジャニーズが歌う同名の主題歌の作詞も手掛けた。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1970年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟・裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会は石原のために動員をかけた。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "1972年9月29日、田中角栄と周恩来は日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿ではなく、石原を応援した。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流する。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1989年、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会・衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "2015年春の叙勲で旭日大綬章を受章。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "2021年10月、病院で膵臓がんの再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "死因は公表されていないが、死去当日に長男の石原伸晃は会見で「膵臓がんを患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている。2014年に出版した『私の海』(幻冬舎)には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた。葬儀・告別式が2月5日、大田区の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」、先祖代々が眠る逗子市の海宝院に納骨されると報じられた。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という石原の遺言に従い、4月17日に海上散骨式が神奈川県三浦郡葉山町の名島沖で行われ、石原伸晃のYouTube公式chでも動画配信された。6月9日午前10時より、元首相・安倍晋三(その後翌月8日に銃撃死)、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサII世」のセイルが飾られた。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。", "title": "来歴" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されてしまうケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。原田実は、石原の著作にみられる主張と実際の政治的主張を言行不一致・朝令暮改とし、思うに石原はその時その時に応じて世間が求める「石原」というキャラを演じ続けているのだろう、その巧みさゆえに都知事の座を守り抜けたとしている。", "title": "政治姿勢・発言" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "石原の自宅に突然押しかけてきた在日朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けたことがある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である朝鮮労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼らが日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという。", "title": "政治姿勢・発言" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『日蝕の夏』、『婚約指輪』、1957年の『危険な英雄』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『異聞猿飛佐助』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『青木ヶ原』では都知事役で出演した。", "title": "映画出演" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "1972年には裕次郎主演映画、『影狩り』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった。", "title": "映画出演" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)白泉社 1990.7", "title": "著書" } ]
石原 慎太郎は、日本の作家・政治家。 参議院議員(1期)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、運輸大臣(竹下内閣)、東京都知事、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任。
{{Other people|作家・政治家}} {{政治家 | 人名 = 石原 慎太郎 | 各国語表記 = いしはら しんたろう | 画像 = Shintarō Ishihara 2003.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = [[内閣広報室]]より公表された肖像([[2003年]]) | 国略称 = {{JPN}} | 生年月日 = {{生年月日|1932|9|30}} | 出生地 = {{JPN}} [[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1932|7|17|2022|2|1}} | 死没地 = {{JPN}} [[東京都]][[大田区]] | 出身校 = [[一橋大学大学院法学研究科・法学部|一橋大学法学部]]卒業 | 所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]](無派閥→[[自由革新同友会|石原G]]→[[清和政策研究会|三塚派]])→)<br />([[無所属]]→)<br />(自由民主党→)<br />(無所属→)<br />([[太陽の党]]→)<br />([[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]→)<br />[[日本のこころ (政党)|次世代の党]] | 称号・勲章 = [[正三位]]<br />[[旭日大綬章]]<br />[[学士(法学) |法学士]](一橋大学・[[1956年]]) | 配偶者 = [[石原典子]] | 親族(政治家) = 父・[[石原潔]]<br />母・[[石原光子]]<br />弟・[[石原裕次郎]] <br />義妹・[[石原まき子]]<br>長男の妻・[[田中理佐|石原里紗]] | 子女 = 長男・[[石原伸晃]]<br />次男・[[石原良純]]<br />三男・[[石原宏高]]<br />四男・[[石原延啓]] | サイン = | ウェブサイト = https://www.sensenfukoku.net/ | サイトタイトル = 石原慎太郎公式サイト | 国旗 = 東京都 | 職名 = 第14 - 17代 [[東京都知事]] | 当選回数 = 4回 | 就任日 = [[1999年]][[4月23日]] | 退任日 = [[2012年]][[10月31日]] | 国旗2 = JPN | 職名2 = 第58代 [[運輸大臣]] | 内閣2 = [[竹下内閣]] | 就任日2 = [[1987年]][[11月6日]] | 退任日2 = [[1988年]][[12月27日]] | 国旗3 = JPN | 職名3 = 第8代 [[環境大臣|環境庁長官]] | 内閣3 = [[福田赳夫内閣]] | 就任日3 = [[1976年]][[12月24日]] | 退任日3 = [[1977年]][[11月28日]] | 国旗4 = JPN | 職名4 = [[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]] | 選挙区4 = ([[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]→)<br />[[比例東京ブロック]] | 当選回数4 = 9回 | 就任日4 = [[1972年]][[12月10日]] - [[1975年]][[3月18日]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=107505254X01219750318 |title=第75回国会 衆議院 本会議 第12号 昭和50年3月18日 |publisher=国会会議録検索システム |date= |accessdate=2020-8-30}}</ref><br />[[1976年]][[12月10日]] - [[1995年]][[4月14日]]<br />[[2012年]][[12月21日]]<ref>平成24年(2012年)12月21日中央選挙管理会告示第37号(平成二十四年十二月十六日執行の衆議院比例代表選出議員の選挙における衆議院名簿届出政党等に係る得票数、当選人の数並びに当選人の住所及び氏名に関する件)</ref> | 退任日4 = [[2014年]][[11月21日]] | 国旗5 = JPN | 職名5 = [[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]] | 選挙区5 = [[全国区制|全国区]] | 当選回数5 = 1回 | 就任日5 = [[1968年]][[7月8日]] | 退任日5 = [[1972年]][[11月25日]] }} {{Infobox 作家 |occupation = [[作家]] |language = [[日本語]] |nationality = {{JPN}} |period = [[1955年]] - [[2022年]] |genre = [[小説]]・[[随筆]]・[[評論]] |subject = 不可知なもの、暴力、生と死 |movement = 怒れる若者たち |notable_works = 『[[太陽の季節]]』(1955年)<br />『[[処刑の部屋]]』(1956年)<br />『[[亀裂 (小説)|亀裂]]』(1958年)<br />『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』(1970年)<br />『[[わが人生の時の時]]』(1989年)<br />『[[弟 (小説)|弟]]』(1996年)<br />『[[天才 (石原慎太郎の作品)|天才]]』(2016年) |awards = [[文學界新人賞]](1955年)<br />[[芥川龍之介賞]](1956年)<br />[[芸術選奨]](1971年)<br />[[平林たい子文学賞]](1988年)<br />[[毎日出版文化賞]]特別賞(1996年)<br />[[文藝春秋読者賞]](1969年、2001年) |debut_works = 『灰色の教室』(1954年) |footnotes = }} '''石原 慎太郎'''(石原 愼太郎<ref name="kanpo">『官報』第686号6頁 令和4年3月3日</ref>、いしはら しんたろう、[[1932年]]〈[[昭和]]7年〉[[9月30日]] - [[2022年]]〈[[令和]]4年〉[[2月1日]]<ref name="nhk220201">{{Cite news|title=石原慎太郎氏が死去 89歳 東京都知事や運輸相など歴任|newspaper=NHK|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221009120713/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013460691000.html|archivedate=2022-10-09|date=2022-02-01|url=https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220201/k10013460691000.html|accessdate=2022-02-01}}</ref>)は、[[日本]]の[[作家]]・[[政治家]]。 [[日本の国会議員#参議院議員|参議院議員]](1期)、[[環境大臣|環境庁長官]]([[福田赳夫内閣]])、[[運輸大臣]]([[竹下内閣]])、[[東京都知事]](第14代 - 17代)、[[日本の国会議員#衆議院議員|衆議院議員]](9期)、[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]代表、共同代表、[[日本のこころ (政党)|次世代の党]]最高顧問を歴任。 == 概要 == [[画像:Ishihara Mishima.jpg|200px|thumb|[[三島由紀夫]]と。奥にいるのが石原。[[1956年]]、[[中央区 (東京都)|中央区]][[銀座]]の旧[[文藝春秋|文春ビル]]にて]] 一橋大学在学中の[[1956年]](昭和31年)に文壇デビュー作である『[[太陽の季節]]』が第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞、「[[太陽の季節#太陽族と映倫|太陽族]]」が生まれる契機となる。また、同作品の[[映画]]化では弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]をデビューさせた。作家としては他に[[芸術選奨|芸術選奨文部大臣賞]]、[[平林たい子文学賞]]などを受賞。『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-]]』([[盛田昭夫]]との共著)、裕次郎を題材にした『弟』は[[ミリオンセラー]]となった<ref name="isiharabungaku">{{Cite web|和書|url=http://210.136.153.187/nbest/nbestm.html |title=石原文学作品売り上げベスト10 |publisher=石原慎太郎公式サイト |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191222125432/http://210.136.153.187/nbest/nbestm.html|archivedate=2019-12-22|date=2003 |accessdate=2015-04-16}}</ref>。 [[1968年]]に参議院議員に当選、政治家に転ずる。[[福田赳夫内閣]]で環境庁長官を、[[1987年]]に[[竹下内閣]]で運輸大臣を歴任。[[1995年]]4月に衆議院議員を辞職。 [[1999年東京都知事選挙]]に立候補し当選。[[2003年東京都知事選挙]]、[[2007年東京都知事選挙]]、[[2011年東京都知事選挙]]で再選し4選した。[[石原都政]]では[[新銀行東京]]、[[首都大学東京]]の設立、[[外形標準課税]]の導入、[[ディーゼル自動車]]の[[排気ガス|排ガス]]規制など議論を呼ぶ政策を実施した。[[2012年]]、後継に[[東京都副知事|副知事]]の[[猪瀬直樹]]を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の[[第46回衆議院議員総選挙]]に[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の候補として[[比例東京ブロック]]で当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と[[日本のこころ (政党)|次世代の党]]の結党に参加。[[2014年]]の[[第47回衆議院議員総選挙]]では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。 [[趣味]]は[[サッカー]]、[[ヨット]]、[[テニス]]、[[スキューバダイビング]]、[[射撃]]<ref name="isiharakousiki">{{Cite web|和書|url=http://210.136.153.187/index.html |title=石原慎太郎公式サイト |accessdate=2015-04-16}}</ref>。実弟は俳優の[[石原裕次郎]]。長男は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]元衆議院議員の[[石原伸晃]]。次男は俳優・タレント・気象予報士の[[石原良純]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/202206090000479.html|title=石原慎太郎さん次男良純氏「父は皆さんの夢を託されて生きた人間」式典に先立ち4兄弟がコメント|publisher=日刊スポーツ|date=2022-06-09|accessdate=2022-06-10}}</ref>。三男は自由民主党衆議院議員の[[石原宏高]]。四男は画家の[[石原延啓]]。 == 来歴 == === 生い立ち === 父 石原潔([[山下汽船]]社員、[[愛媛県]]出身)、母光子([[広島県]][[宮島町|宮島]]の出身)<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |title=石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜 |work=グレートマザー物語 |publisher=テレビ朝日 |date=2002-02-24 |accessdate=2016-10-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021202203720/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |archivedate=2002-12-02}}</ref><ref name=":0">[[佐野眞一]]『てっぺん野郎─{{fontsize|90%|本人も知らなかった石原慎太郎}}』([[講談社]] 2003年)</ref><ref name="asahi170626">{{Cite news |author=神沢和敬 |url=https://www.asahi.com/articles/ASK2P7F2HK2PPITB00Z.html |title=飽くなき挑戦 ロータリーエンジンの半世紀 石原慎太郎氏が「一番だった」と語る愛車 国会初登院も |newspaper=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |date=2017-06-26 |accessdate=2022-02-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170626114345/https://www.asahi.com/articles/ASK2P7F2HK2PPITB00Z.html |archivedate=2017-06-26 }}</ref>のもと、[[兵庫県]][[神戸市]]で誕生{{refnest|group="注釈"|園田学園女子大学名誉教授[[田辺眞人]]によれば、「私の祖母が、そのあたり一帯のかつての[[地主]]につながる[[家柄]]だったんですが、その祖母が、石原慎太郎さんが作家デビューして有名になった頃、こんなふうにいっていたのを記憶しています。"あの人は昔、[[大手町 (神戸市)|大手]]に住んでいたんや。大手で慎太郎も[[石原裕次郎|裕次郎]]も生まれたんよ。あのへんは[[明治]]くらいまで一本松という大きな立派な[[松]]の木があって、石原一家はその松の木の南側の家に住んでいたんよ。[[山陽電気鉄道|山陽電鉄]]の[[東須磨駅]]と板宿駅の間に、昔は大手という駅があって、そのすぐそばやった。"(父親の潔さんは)そこから電車で会社に行ってはったようですよ。家は[[商船三井|山下汽船]]の社員寮で、一見[[長屋]]風だったらしい。あの辺は比較的階層が高い人が住んでいて、いわゆる[[中流階級|中産階級]]より少し上のクラスの人が住むところでした。だから社員寮もかなり立派で、造りは長屋風といっても、それぞれ独立した一軒家だったようです。もうその家はとっくにとりこわされていますし、当時のことを知る人もまずいないでしょうね」という<ref name="Sanop45">[[佐野眞一]]著『てっぺん野郎─{{fontsize|90%|本人も知らなかった石原慎太郎}}』45-46頁</ref>。}}。 北海道[[小樽市]]および神奈川県[[逗子市]]で育つ<ref>石原慎太郎著『弟』幻冬舎 1999年。ISBN 978-4877287368</ref>。[[神奈川県立湘南高等学校]]、[[一橋大学大学院法学研究科・法学部|一橋大学法学部]]卒業<ref name=":1">[http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/profile.htm 知事の部屋/知事のプロフィール|東京都] {{Wayback |url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/profile.htm |date=20100617034945}}によると、最終学歴は「一橋大学法学部卒業」となっている</ref>。 一橋大学では社会心理学の[[南博 (社会心理学者)|南博]]ゼミに所属。 湘南高校[[サッカー]]部、[[一橋大学]][[柔道]]部、サッカー部と[[体育会系]]の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の[[江藤淳]]とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者[[江口朴郎]]宅に訪問したりしていた<ref>新潮日本文学〈62〉石原慎太郎集 (1969年)譜</ref>。江藤とは作家となってから共著を出版<ref>江藤淳・石原慎太郎 著『断固「No」と言える日本 戦後日米関係の総括』光文社カッパ・ホームス、1991年。</ref>するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、[[ジャン・コクトー]]や[[レイモン・ラディゲ]]、[[アーネスト・ヘミングウェイ]]を読んでいたという<ref name="asami"/><ref name="kurihara19"/>。 [[公認会計士 (日本)|公認会計士]]になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、[[神田 (千代田区)|神田]]の一橋講堂で「[[如水会]]」(一橋大学の[[OB・OG|OB]]会)主催の公開講座にOBの[[伊藤整]]が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた<ref name="itosei">[[伊藤整]]「石原慎太郎君のこと」(『新鋭文学叢書』月報)([[筑摩書房]]、1960年)</ref>。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と[[久我山]]に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している<ref name="itosei"/>。 {{Quotation|石原君が西原君だったかもう一人の学生とやって来て、その雑誌が出来たのだが、金が足りなくて[[印刷所]]から引きとれないと言って、七千円だったか八千円だったかの金がほしいと言った。そのときも私は石原という名前を知らず、背の高い学生だな、と思っただけである。だが、そのもらい方がとてもよかったことが印象に残っている。押しつけがましくもなく、しつこく説明するのでもなく、冗談のようでもなく、素直さと大胆さが一緒になっている、特殊の印象だった。すぐ私は出してやる気になった。そのあとで私は、妙な学生だな、あれは何をやっても成功する人間かもしれない、と考えた。|[[伊藤整]]「石原慎太郎君のこと」<ref name="itosei"/>}} 慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の[[浅見淵]]に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『[[太陽の季節]]』を執筆することになる<ref name="kurihara19"/>。 『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、[[マスメディア|マスコミ]]は慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。 {{quotation| 慎太郎が高校一年の時だった。[[日本の学生運動|学生運動]]が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。[[日本共産党]]へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。|[[サンデー毎日]]1956年9月9日号「五つの道をゆく“石原慎太郎”批判」 }} 石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・[[御木白日]]との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている<ref>『てっぺん野郎』195-196頁</ref>。 === 作家として === [[File:Johnnys-1965-2.png|thumb|230px|1965年、[[ジャニーズ (グループ)|ジャニーズ]]出演のミュージカル『焔のカーブ』の演出・脚本を務め、[[焔のカーブ|主題歌]]も作詞した<ref name="eiga-story196506"/>。]] [[File:Shintaro-Ishihara-1.png|thumb|160px|1967年]] [[一橋大学]]在学中に、『[[太陽の季節]]』で、第1回(1955年度)[[文學界新人賞]]と、第34回(1955年下半期)[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を受賞した<ref>{{Citation|和書|author=上田正昭ほか監修|editor=三省堂編修所|year=2009|title=コンサイス日本人名事典 第5版|publisher=三省堂|page=105}}</ref>。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした<ref name="bungakukai">「『太陽の季節』および[[文學界新人賞]]選評」([[文學界]] 1955年7月号に掲載)</ref><ref name="akutagawa">「第34回芥川賞選評(1956年1月23日選考)」([[文藝春秋]] 1956年3月号に掲載)[http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo34.htm 芥川賞-選評の概要-第34回] {{Wayback |url=http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/senpyo/senpyo34.htm |date=20140723181525}}</ref>。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた<ref>{{kotobank|太陽族|2=デジタル大辞泉}}</ref>。 {{main|太陽の季節}} その後『[[処刑の部屋]]』(映画原作)、『[[聖餐 (小説)|聖餐]]』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。 戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、[[劇団四季]]は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した<ref>{{Cite web|和書| url=https://www.shiki.jp/limited/60th_list/opus_1960.html | title=劇団四季60年の上演作品 - 1960年 | publisher=劇団四季 | date= | accessdate=2023-11-9 }}</ref><ref name="fujinkoron20220609">{{Cite web|和書| author= 石原慎太郎、[[栗原裕一郎]]、[[豊崎由美]] | url=https://fujinkoron.jp/articles/-/5984 | title=石原慎太郎さんお別れの会 文壇のアウトサイダーが語る青春時代「弟・石原裕次郎とクラブ通いや、東宝入社1日目での退職。三島由紀夫とボクシング観戦も」 | publisher=婦人公論 | date=2022-6-9 | accessdate=2023-11-9 }}</ref>。1965年、[[日生劇場]]で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者の[[ジャニーズ (グループ)|ジャニーズ]]が歌う[[焔のカーブ|同名の主題歌]]の作詞も手掛けた<ref name="eiga-story196506">『映画ストーリー』1965年6月号、[[雄鶏社]]、224-225頁、232-233頁。</ref>。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた<ref name="fujinkoron20220609"/>。 [[1970年]]に『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』で[[芸術選奨]]文部大臣賞、[[1988年]]『生還』で[[平林たい子文学賞]]を受賞。弟・裕次郎を描いた[[1996年]]の『[[弟 (小説)|弟]]』は120万部を売り上げ、[[毎日出版文化賞]]特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』([[小田実]]と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも[[文藝春秋読者賞]]を受賞している。 [[1995年]]から[[2012年]]まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、[[又吉栄喜]]、[[辻仁成]]、[[花村萬月]]、[[町田康]]、[[青来有一]]、[[中村文則]]、[[青山七恵]]、[[西村賢太]]など強く推して受賞に至った作家もいる。また[[1992年]]から[[1999年]]まで[[三島由紀夫賞]]選考委員を務めた。 創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』([[1969年]]、70万部)、『[[「NO」と言える日本]]』([[1989年]]、125万部)、『法華経を生きる』([[1998年]]、33万部)、『老いてこそ人生』([[2002年]]、82万部)、『新・堕落論』([[2011年]]、25万部)、『[[天才 (石原慎太郎の作品)|天才]]』([[2016年]]、92万部)などがベストセラーとなっている。 映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、[[1958年]]、[[東宝]]映画『若い獣』で初[[映画監督|監督]]を務める。[[2007年]]5月には“特攻の母”と呼ばれた[[鳥濱トメ]]と特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『[[俺は、君のためにこそ死ににいく]]』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、[[内閣総理大臣|首相]]だった[[宮澤喜一]]に、鳥濱トメに[[国民栄誉賞]]を贈るよう進言したことがある<ref>[http://eiga.com/news/20050823/13/ 石原都知事が製作する特攻隊映画 ]2005年8月23日</ref>。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toei.co.jp/release/movie/1173895_979.html|title=「鳥濱トメさん顕彰碑」除幕式レポート | ]|website=|publisher=[[東映株式会社]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081121060902/http://www.toei.co.jp/release/movie/1173895_979.html|archivedate=2008-11-21|date=2007-10-05|deadlinkdate=2022年8月}}</ref>。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている<ref>{{Cite news|url=http://www.47news.jp/CI/200710/CI-20071004-10956476.html|title=「特攻の母」顕彰碑建立 知覧町|newspaper=[[西日本新聞]] 朝刊|publisher=株式会社西日本新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140331163020/http://www.47news.jp/CI/200710/CI-20071004-10956476.html|archivedate=2014-03-31|date=2007-10-04}}</ref>。 [[俳句]]については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の[[岡潔]]の「[[松尾芭蕉|芭蕉]]の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している<ref name="okakiyoshi">「【日本よ】石原慎太郎 花見の頃に」産経2009年4月7日</ref><ref group="注釈">「数学の世界で世界的な業績を残した岡潔氏が、[[ハルトークス]]の残した数学での難問の多くをわずかな時間で解いてしまったのは、岡氏自身の述懐だと芭蕉の俳句の研究に没頭し、芭蕉が名句をものしたとほぼ同じ季節を選んで『[[奥の細道]]』を旅して、芭蕉が眺めたと同じ風物を同じ季節同じ時刻に眺め彼の名句を観賞したことによるそうな」と石原は紹介している。</ref>。 政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。 ==== 評価 ==== * 作家としての石原は、[[田原総一朗]]<ref>[https://web.archive.org/web/20220525134519/http://blogos.com/article/186291/ 田原総一朗×石原慎太郎「田中角栄論」]BLOGOS 2022年5月25日のアーカイブ</ref>・[[水道橋博士]]<ref>[https://twitter.com/s_hakase/status/788001034140397568 2016年10月17日のツイート]</ref>・[[豊崎由美]]・[[栗原裕一郎]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://lite-ra.com/2014/06/post-175.html |title="同性愛嫌い"の石原慎太郎が書いた「BL小説」がすごい|publisher=[[リテラ]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180314104521/http://lite-ra.com/2014/06/post-175.html |archivedate=2018-03-14|accessdate=2022-02-04}}</ref>などのような国家観の異なる者からも高く評価されている。 * [[1957年]]10月『新潮』に発表した『[[完全な遊戯]]』について、[[高見順]]宅へ行った際、『群像』編集長の[[大久保房男]]と口論になり、『群像』には一度も執筆していない<ref>西村賢太との対談『en-taxi』2011年7月</ref>。 * [[1959年]](昭和34年)に文芸雑誌『文學界』8月号に発表した実験的[[ジャズ]]短編小説『[[ファンキー・ジャンプ]]』を[[三島由紀夫]]は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した<ref>三島由紀夫 著『美の襲撃―評論集』「石原慎太郎氏の諸作品」1961年。</ref><ref>三島由紀夫 著『決定版 三島由紀夫全集〈31〉評論 (6)』「石原慎太郎氏の諸作品」新潮社、2003年6月。</ref>。 * 文芸評論家[[福田和也]]は、日本の現役小説家を採点した自著『[[作家の値うち]]』(2000年)の中で『[[わが人生の時の時]]』に100点満点中96点と最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、「数世紀後に、20世紀日本文学をふり返った時に名前が挙がるのはこの作品ではないだろうか」と評した<ref name="fukuda">[[福田和也]] 著『作家の値うち』([[飛鳥新社]]、2000年)p.132</ref><ref name="kurihara310">『石原慎太郎を読んでみた』22頁、310-311頁</ref>{{refnest|group="注釈"|同点の最高点96点は他に、[[村上春樹]]の『[[ねじまき鳥クロニクル]]』と、[[古井由吉]]の『[[仮往生伝試文]]』を福田和也は挙げている。それぞれ216頁と199頁<ref name="fukuda"/>。}}。 * 季刊文芸誌「en-taxi」2013年11月号のインタビューで[[集英社]]の文芸誌『[[すばる]]』の女性編集長に、三国人発言を理由に、作品の掲載を拒否されたエピソードを明かしている<ref>[http://biz-journal.jp/2013/12/post_3633.html 石原慎太郎、集英社に小説売り込むも拒絶される…徳洲会事件で検察が追及の可能性も | ビジネスジャーナル]</ref>。 === 国会議員時代 === [[File:Takeo Fukuda Cabinet 19761224.jpg|thumb|右|250px|[[福田赳夫内閣]]の組閣にて撮影]] [[File:Noboru Takeshita Cabinet 19871106.jpg|thumb|右|250px|[[竹下内閣]]の組閣にて撮影]] 1967年10月3日、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた<ref>『朝日新聞』1967年10月4日付朝刊、2頁、「大松・石原氏ら20人 自民参院選で第二次公認」。</ref>。 [[1968年]]7月に[[第8回参議院議員通常選挙]]に全国区から自民党公認で立候補。[[藤原あき]]の選挙参謀だった[[飯島清]]をブレーンに引き入れ{{Sfn|飯島|1969|pp=27-33}}<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/KAIKEN/TEXT/2007/070316.htm |title=石原知事定例記者会見録 平成19年3月16日 |publisher=東京都庁 |date=2007-3-20 |accessdate=2020-6-2}}</ref>、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した<ref>河村直幸「現代日本の選挙キャンペーン広告史―草創期―」 『現代社会文化研究』N0.21、[[新潟大学]]大学院現代社会文化研究科、2001年8月。</ref>。党内の後ろ盾は運輸大臣の[[中曽根康弘]]だった{{Sfn|飯島|1969|p=58}}。反共イデオロギーを宣布する政治団体「[[国際勝共連合]]」を設立したばかりの[[世界平和統一家庭連合|統一教会]]<ref name="shakai-kagaku-jiten367">{{Cite book|和書 |editor=社会科学辞典編集委員会 |title=新版 社会科学辞典 |publisher=新日本出版社 |date=1978年9月20日 |page=367 }}</ref>は石原のために動員をかけた<ref name="ohmae20220920">{{Cite web|和書| url=https://www.ohmae.ac.jp/mbaswitch/unification_church | title=都知事選で旧統一教会との関係を疑われた大前研一 | publisher=ビジネス・ブレークスルー大学大学院 | date=2022-9-20 | accessdate=2023-10-10 }}</ref>。台東区議会議員を2年で辞職した[[深谷隆司]]が遊説で協力し<ref>{{Cite web|和書| author=深谷隆司 |url=https://blogos.com/article/49255/ | title=石原氏の決断 | publisher=BLOGOS | date=2012-10-29 | accessdate=2023-10-10 | archivedate=2022-4-19 | archiveurl=https://web.archive.org/web/20220419115745/https://blogos.com/article/49255/ }}</ref>、当時拓殖大学3年生だった[[鈴木宗男]]は飯島の紹介で選挙を手伝った<ref>{{Cite web|和書| author=鈴木宗男 | url=https://hanada-plus.jp/articles/939 | title=追悼・石原慎太郎先生 | publisher=Hanadaプラス | date=2022-2-3 | accessdate=2023-10-10 }}</ref>。作家仲間では[[藤島泰輔]]が全面支援した<ref name="current198307">藤島泰輔「衆愚の時代―あァ、参議院選挙!」 『月刊カレント』1983年7月号、潮流社、24-27頁。</ref>。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。 [[1972年]]9月29日、[[田中角栄]]と[[周恩来]]は[[日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明|日中共同声明]]を発表した。同年12月の[[第33回衆議院議員総選挙]]に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。 [[1973年]]、石原は、[[第1次田中角栄内閣|田中内閣]]が推し進めた[[日中国交正常化]]とそれに伴う[[中華民国]]と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「[[青嵐会]]」を結成した。1974年12月9日、[[三木内閣]]が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。 [[1975年]]2月6日、中曽根は石原に、[[1975年東京都知事選挙|同年4月の東京都知事選挙]]への出馬を正式に要請{{Sfn|『東京は燃えた…』|1975|pp=10-18}}。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「[[世界平和教授アカデミー]]」会長の[[松下正寿]]<ref name="pwpa-j-enkaku">{{cite web |url=https://www.pwpa-j.net/about_us/enkaku.html |title=沿革 |publisher=世界平和教授アカデミー |accessdate=2022-10-10 |archivedate=2017-4-29 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170429044354/https://www.pwpa-j.net/about_us/enkaku.html }}</ref>ではなく、石原を応援した<ref name="nikkan-gendai20220930">{{Cite web|和書| author=[[樋田毅]] | url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/312169 | title=(5)訪韓を機に大きく活動転換 「勝共思想」を武器に都知事選で石原慎太郎を応援 | publisher=日刊ゲンダイ | date=2022-9-30 | accessdate=2023-10-10 }}</ref>。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し<ref name="asahi19870113">『朝日新聞』1987年1月13日付朝刊、4頁、「国際勝共連合の足取り 『国家秘密法』制定に照準」。</ref>、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した{{refnest|group="注釈"|[[国際勝共連合]]の事務総長を務めていた[[梶栗玄太郎]]の法廷証言による<ref>{{Cite book|和書 |author=[[しんぶん赤旗|赤旗]]社会部 |title=仮面のKCIA 国際勝共連合=統一協会 |publisher=[[新日本出版社]] |date=1980年5月15日 |page=164 }}</ref>。}}。4月14日に開票が行われ、現職の[[美濃部亮吉]]が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った{{Sfn|高畠|1980|pp=126-129}}。 [[1976年]]12月の[[第34回衆議院議員総選挙]]に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]として初入閣。在任中は[[水俣病]]補償問題に取り組み、[[日本国政府|日本政府]]として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に[[土下座]]して陳謝する一幕もあった<ref>[https://biz-journal.jp/2017/03/post_18396.html 石原慎太郎が差別発言「(障害者に)人格あるのかね」「(水俣病患者の文書に)IQ低い」]</ref><ref>[https://illcomm.exblog.jp/16844759/ ▼「石原慎太郎、土下座の図」]</ref>。 [[1979年]]、青嵐会の後継団体として[[自由革新同友会]]を結成するも勢いが振るわず、[[1984年]]、[[清和政策研究会]]に合流する。 [[1987年]]、[[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。12月に[[宮崎県]]の[[リニア実験線]]に試乗した際、「[[養鶏|鶏小屋]]と[[養豚|豚小屋]]の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。 [[1988年]]5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:[[成田国際空港]])を視察する。その際、[[成田新幹線]]の[[成田空港駅]]として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線[[住民]]の建設反対運動や[[日本国有鉄道]]財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の[[国鉄分割民営化]]で事業は[[JR]]に引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、[[成田線]]と交差する位置から[[成田空港駅]]までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている[[新東京国際空港公団]]関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には[[上下分離方式]]の[[成田空港高速鉄道]]が設立され、2年半後の1991年3月には[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]と[[京成電鉄]]が成田空港駅に乗り入れを開始した<ref name="naritakukokosokutetudo">杉浦一機 著『航空「2強対決」11選』(中央書院、2004年)</ref>。 {{See also|成田空港高速鉄道|成田新幹線|京成電鉄}} [[1989年]]、[[亀井静香]]・[[平沼赳夫]]・[[園田博之]]らに推される形で、[[1989年8月自由民主党総裁選挙|総裁選挙]]に出馬するも、[[平成研究会|経世会]]が推す[[番町政策研究所|河本派]]の[[海部俊樹]]に敗れる。[[1990年]]の[[第39回衆議院議員総選挙]]で、[[東京都第4区 (中選挙区)|旧東京4区]]で長男の[[石原伸晃|伸晃]]が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。[[1995年]][[4月14日]]、議員在職25年表彰を受けての衆議院[[本会議]]場での演説中、「[[日本の政治]]は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は[[栗本慎一郎]])<ref>{{YouTube|yLrIERCzfPY|【ノーカット】石原慎太郎氏 議員辞職 国会演説と記者会見(1995年)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)</ref>。 === 東京都知事時代 === [[画像:Shintaro Ishihara, 2006-Sep-1 Rev.jpg|thumb|都知事時代([[2006年]][[9月1日]])]] {{main|石原都政}} 議員辞職から4年後の1999年4月、[[1999年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に立候補<ref>{{YouTube|9Eur9Nlt7lQ|石原慎太郎氏 1999年都知事選第一声「東京が動けば世界も動く」(1999年)【映像記録 news archive】}}(ANNnewsCH)</ref>。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。 2000年7月には元[[公設秘書]]で側近の[[浜渦武生]]を[[副知事 (日本)|副知事]]とした。[[佐々淳行]]は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。 === 衆議院議員復帰後 === ==== 国会質疑 ==== [[ファイル:20131016shu hon02.jpg|サムネイル|2013年10月16日(水曜日)、[[代表質問]]をする石原(右)]] 衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して[[国会 (日本)|国会]]での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「[[国民]]への遺言」とした<ref name="sinkanjp2013">[http://www.sinkan.jp/special/adbook/run_wildly/?link=index 西条泰 『石原慎太郎 「暴走老人」の遺言』 石原慎太郎が国民に残した「遺言」] 新刊JP</ref>。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の[[田中眞紀子|田中真紀子]]さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた<ref>{{Cite news| url = https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/02/02/kiji/20220202s00041000207000c.html | title = 石原慎太郎さん 政界で貫いた「暴走老人」 | newspaper = Sponichi Annex | publisher = [[スポーツニッポン]] | date = 2022-02-02 | accessdate = 2022-02-05 }}</ref>。 同年4月17日と12月4日には[[安倍晋三]]首相との[[党首討論]]に臨んでおり、10月16日には[[第185回国会]]・[[衆議院]][[本会議]]において[[所信表明演説]]に対する[[代表質問]]を行った。 ==== 憲法 ==== 都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている<ref>国会質疑など</ref>。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した<ref>2013年10月16日 衆議院本会議など</ref>。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。 ==== 脳梗塞発症 ==== 石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「[[菅直人]]の周辺が石原の[[脳梗塞]]発症説を漏らしている」と報じた<ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130328/plt1303281140003-n1.htm 石原慎太郎氏に脳梗塞報道 事務所は否定] {{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20130328/plt1303281140003-n1.htm |date=20130330235944}}zakzak 2013年3月28日</ref>。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う[[記者会見]]において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130330-OYT1T00594.htm 石原氏「入院は軽い脳梗塞、政治活動は継続」] {{Wayback |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130330-OYT1T00594.htm |date=20130402010127}} 読売新聞 2013年3月30日</ref>。 ==== 経済・財政 ==== ;アベノミクスに関して :[[2013年]][[2月12日]]、石原慎太郎は[[予算委員会#委員|衆院予算委員会]]において「何としても[[アベノミクス]]を成功させて欲しい」と応援する発言をした<ref>{{Cite web|和書|title=2013年2月12日(火) 予算委員会 |url=https://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php?ex=VL&deli_id=42394&media_type=fp |publisher=衆議院インターネット審議中継 |date=2013-02-12 |accessdate=2013-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title={{Nowiki|H25/2/12}} 衆院予算委員会・石原慎太郎【安倍内閣の政治姿勢集中審議】1/2 |url=http://nicoviewer.net/sm20068197 |date=2013-02-12 |accessdate=2013-02-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130510193243/http://nicoviewer.net/sm20068197 |archivedate=2013-05-10 |deadlinkdate=2020-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title={{Nowiki|H25/2/12}} 衆院予算委員会・石原慎太郎【安倍内閣の政治姿勢集中審議】2/2 |url=http://nicoviewer.net/sm20068311 |date=2013-02-12 |accessdate=2013-02-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130511004456/http://nicoviewer.net/sm20068311 |archivedate=2013-05-11 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。 ==== 国家の会計制度 ==== :[[2013年]][[2月12日]]、石原は[[衆議院|衆院]][[予算委員会]]において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全な[[貸借対照表|バランスシート]]、[[財務諸表]]がない。国は何で[[外部監査制度|外部監査]]を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と[[安倍晋三|安倍総理]]および[[麻生太郎|麻生副総理]]に、石原が都知事時代に東京都の会計に採用した複式簿記・発生主義会計制度を国家の会計制度にも導入するよう提言を行った<ref>{{Cite news |title=【石原氏の質疑詳報(下)】「子孫のために環境問題アピールを」(2/7ページ) |newspaper=産経新聞 |url=https://www.sankei.com/politics/news/130213/plt1302130026-n2.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20191228222741/https://www.sankei.com/politics/news/130213/plt1302130026-n2.html|archivedate=2019-12-28|date=2013-02-13 |accessdate=2013-02-13}}</ref><!-- アーカイブはPC以外で閲覧出来ない場合も -->。 ==== 維新の会分党、次世代の党結党へ ==== [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]では[[大阪維新の会|大阪系]]の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の[[第186回国会]]で採決予定だった[[トルコ]]などへの[[原子力発電所|原発]][[輸出]]を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の[[両院議員総会]]で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の[[浦野靖人]]衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した<ref>{{Cite news |title=維新・石原代表が原子力協定に賛成表明 大阪系「出て行け」と反発 |newspaper=産経新聞 |url=https://www.sankei.com/west/news/140306/wst1403060012-n1.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20200815175131/https://www.sankei.com/west/news/140306/wst1403060012-n1.html|archivedate=2020-08-15|date=2014-03-06 |accessdate=2014-08-08}}</ref><!-- アーカイブはPCで閲覧可 -->。 さらに[[結いの党]]との合併協議に際しては「結いの党は[[護憲]][[政党]]だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や[[松野頼久]]国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった<ref>{{Cite news |date=2014-04-10 |url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000307/20140410-OYT1T50142.html |title=「結いは護憲政党」…維新・石原氏、合流に慎重 |newspaper=読売新聞 |accessdate=2014-08-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160304130709/http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000307/20140410-OYT1T50142.html |archivedate=2016-03-04 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。 2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明<ref>{{Cite news |title=【維新分党】再び石原氏新党結成へ 結い合流めぐり橋下氏と決裂 |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140528/stt14052819010003-n1.htm |date=2014-05-28 |accessdate=2014-06-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141223051335/http://www.sankei.com/politics/news/140528/plt1405280010-n1.html |archivedate=2014-12-23 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>、同6月5日付で「新党準備会」を発足<ref>{{Cite news |date=2014-06-06 |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS05037_V00C14A6PP8000/ |title=維新、橋下系37人・石原系は23人 野党再編に一歩 |newspaper=日本経済新聞 |accessdate=2014-06-06}}</ref>。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党([[政党助成法]]上の[[分割]])という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。 7月30日までに、両者間で[[政党助成金]]の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日[[総務省]]への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に[[平沼赳夫]]を党首として新党「[[日本のこころ (政党)|次世代の党]]」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。 2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった<ref name="2014shugin">[https://www.sankei.com/article/20141129-62XE24F7QJIHRI47D7A3R5CGZE/ 次世代・石原慎太郎氏は比例名簿下位に「後輩を1人でも多く」] 産経新聞 2014年11月29日配信</ref>。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した<ref name="intaikaiken">[https://web.archive.org/web/20141216111404/http://www.sankei.com/politics/news/141216/plt1412160039-n1.html 【さらば石原慎太郎】引退会見詳報(1) - 産経ニュース] 産経新聞 2014年12月16日配信(2014年12月16日のアーカイブ)</ref><!-- アーカイブはPCで閲覧可 -->。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた<ref name="intaikaiken"/>。 2015年春の叙勲で[[旭日大綬章]]を受章<ref name="sankei 2015-04-29">{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20150429-LAHOQZLQ3NJJFEGA52CJTIWP2Q/|title=【春の叙勲】旭日大綬章に石原慎太郎氏(82)「人から愛されて死にたいね」|newspaper=産経ニュース|publisher=[[産経デジタル]]|date=2015-04-29|accessdate=2022-06-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/150508/cpd1505081301004-n1.htm|title=春の叙勲、皇居で大綬章親授式 石原慎太郎氏「お国のために力発揮し精進」|newspaper=SankeiBiz|publisher=[[産経デジタル]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220625062651/https://www.sankeibiz.jp/compliance/news/150508/cpd1505081301004-n1.htm|archivedate=2022-06-25|date=2015-05-08|accessdate=2022-06-17}}<!-- アーカイブはPCで閲覧可 --></ref><ref>{{Cite video|people=石原慎太郎|date=2015-05-08|title=「精進いたします」石原慎太郎さんらに陛下から勲章|url=https://www.youtube.com/watch?v=xGBZipqm3Ys|work=YouTube|publisher=ANNnewsCH|accessdate=2022-06-17|df=ja}}</ref>。 === 政界引退後 === ==== 豊洲市場移転裁可の住民訴訟と百条委員会 ==== {{see|築地市場移転問題#住民訴訟と百条委員会}} ==== 最晩年 ==== 2021年10月、病院で[[膵癌|膵臓がん]]の再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている<ref>[https://bunshun.jp/articles/-/52478 「この後どれほどの命ですかね」石原慎太郎の絶筆に綴られていた“余命宣告の衝撃”] - 文春オンライン 2022年3月9日</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20220309141909/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022030900659 石原慎太郎さんが遺稿 余命宣告後の心情つづる] - 時事ドットコム 2022年3月9日(2022年3月9日のアーカイブ)</ref>。 父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の[[石原良純]]は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している<ref>{{Cite news|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/05/20/kiji/20220520s00041000317000c.html|title=石原良純 石原慎太郎さんの最後の日々「死ぬぞ、3カ月で」と告白され最後の1週間は「寝るのを怖がって」|newspaper=[[スポニチアネックス]]|publisher=株式会社スポーツニッポン新聞社|date=2022-05-20|accessdate=2022-06-17}}</ref>。 ==== 死去 ==== [[2022年]][[2月1日]]午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去<ref>[https://www.asahi.com/articles/ASQ215FTRQ21UTIL03T.html 石原慎太郎氏宅に弔問続々 息子の伸晃氏や良純氏も、門の中へ] 朝日新聞2022年2月1日</ref>。享年91歳(89歳没)。 死因は公表されていないが、死去当日に長男の[[石原伸晃]]は会見で「[[膵癌|膵臓がん]]を患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている<ref>{{Cite news |url=https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202202050000056.html|title=石原良純、父慎太郎さんの最後の2週間振り返る「恐怖心みたいなのが芽生えて…」|newspaper=日刊スポーツ|date=2022-02-05|accessdate=2022-02-05}}</ref>。2014年に出版した『私の海』([[幻冬舎]])には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた<ref name="20220206sportshochi">{{Cite news |url=https://hochi.news/articles/20220205-OHT1T51226.html?page=1|title=石原慎太郎さん「墓石に『青嵐報国』と入れてほしい」思い伝えていた…家族葬で息子4人に送られ旅立つ|newspaper=[[スポーツ報知]]|publisher=[[報知新聞社]]|date=2022-02-06|accessdate=2022-02-06}}</ref>。葬儀・告別式が2月5日、[[大田区]]の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」<ref>[https://www.sanspo.com/article/20220205-IGL672OCVZMBVPAFZFVU5HS2DQ/ 石原慎太郎さんの密葬に小泉純一郎元首相が参列] - サンスポ 2022年2月5日</ref>、先祖代々が眠る逗子市の[[海宝院_(逗子市)|海宝院]]に納骨されると報じられた<ref name="20220206sportshochi" />。2月22日、政府は死没日付に遡り、[[正三位]]に叙した<ref name="kanpo"/><ref>[https://web.archive.org/web/20220223034011/https://www.jiji.com/jc/article?k=2022022201037 故石原慎太郎氏に正三位] - 時事ドットコム 2022年2月22日(2022年2月23日のアーカイブ)</ref>。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している<ref>[https://hochi.news/articles/20220309-OHT1T51220.html?page=1 石原慎太郎元東京都知事の妻・典子さん、8日に死去 84歳] - スポーツ報知 2022年3月9西</ref>。 「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という石原の遺言に従い、[[4月17日]]に海上[[散骨]]式が神奈川県[[三浦郡]][[葉山町]]の名島沖で行われ<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/article/20220417-422IXAOQ7VOGNDVX5455THMT2I/|title=故石原慎太郎さん海へ散骨 「愛した湘南に」と遺言|newspaper=産経新聞|date=2022-04-17|accessdate=2022-04-18}}</ref>、[[石原伸晃]]の[[YouTube]]公式chでも動画配信された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=HlDsq2Tfxnw&t=712s 【石原慎太郎・散骨式】伸晃1日おっかけカメラ] - YouTube 石原伸晃(のぶてる) 2022年4月21日</ref>。[[6月9日]]午前10時より、元首相・[[安倍晋三]](その後翌月8日に[[安倍晋三銃撃事件|銃撃死]])、[[読売新聞グループ本社]]代表取締役主筆・[[渡辺恒雄]]らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した<ref>{{Cite news|url=https://web.archive.org/web/20220609021146/https://nordot.app/907451942658506752|title=石原慎太郎さんお別れの会 元都知事、各界関係者ら参列|agency=共同通信|date=2022-06-09|accessdate=2022-06-09}}</ref>。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサⅡ世」の[[帆|セイル]]が飾られた<ref>{{Cite news|url=https://www.sanspo.com/article/20220609-AQHMAGDHYNDJ7OS3V6HMEGLUKE/|title=石原慎太郎さんお別れの会 祭壇は湘南の海 ゆかりの品を展示|newspaper=サンケイスポーツ|date=2022-06-09|accessdate=2022-06-09}}</ref>。 6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された<ref>{{Cite news|url=https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220616-OYT1T50002/|title=「好色だった」と愛人・隠し子の存在も明かす…慎太郎さん自伝、「夫婦没後」条件に出版|newspaper=[[読売新聞オンライン]]|publisher=株式会社[[読売新聞東京本社]]|date=2022-06-16|accessdate=2022-06-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344039605/|title=「私」という男の生涯|publisher=[[幻冬舎]]|date=2022-06|accessdate=2022-06-16}}</ref>。 2023年8月、晩年まで住んだ大田区[[田園調布]]の自宅(1981年に落成)が売却され<ref>{{Cite interview|language=ja|subject=石原延啓|subjectlink=石原延啓|date=2023-10-24|interviewer=デイリー新潮編集部|title=食卓の絨毯のシミ、『太陽の季節』の第一稿も…石原慎太郎さん、田園調布の“豪邸”解体で四男・延啓さんが語った“家じまい”|url=https://www.dailyshincho.jp/article/2023/10241103/?all=1|work=[[週刊新潮|デイリー新潮]]|publisher=[[新潮社]]|access-date=2023-11-05}}</ref>、年内に解体される<ref>{{Cite news|author=森下香枝|url=https://www.asahi.com/articles/ASRC365XCRBQOXIE03H.html|title=石原慎太郎邸が解体 東京・田園調布 長男の伸晃氏が語る父の晩年|newspaper=[[朝日新聞デジタル]]|publisher=[[朝日新聞社]]|date=2023-11-04|accessdate=2023-11-05}}</ref>。 == 略年譜 == * [[1932年]] ** [[9月30日]] - [[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]にて海運会社[[商船三井|山下汽船]]に勤める石原潔・光子の長男として生まれる。父・潔は[[愛媛県]][[喜多郡]][[長浜町 (愛媛県)|長浜町]](現:[[大洲市]])に生まれ、旧制宇和島中学(現在の[[愛媛県立宇和島東高等学校|県立宇和島東高校]])を[[退学|中退]]し[[商船三井|山下汽船]]に入社した。店童{{refnest|group="注釈"|海運会社独特の制度で、商店でいえば[[丁稚]]に相当し、宿舎と[[食事]]は確保してくれる代わりに、[[給料]]は一切なかった。[[便所]]掃除、[[社員]]の[[靴]]磨き、使い走り。店童は上司から命じられれば何でもやらなければならなかった。時には、[[質屋|質]]入れや、なじみの[[遊廓]]の[[女郎]]に[[菓子]]を届けることまでやらされた<ref name="Sanop2835">『てっぺん野郎』28-35頁</ref>。}}あがりだったにもかかわらず最後は[[関連会社]]の[[重役]]にまで出世した<ref name="Sanop2835"/>。母・光子は[[広島県]][[厳島]]の出身<ref name="asahi170626"/><ref name="tv-asahi-mother-20224">{{Cite news |url=http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |title=石原慎太郎・裕次郎の母 |work=[[グレートマザー物語]] |publisher=[[テレビ朝日]] |date=2002-02-24 |accessdate=2017-02-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20021202203720/http://www.tv-asahi.co.jp/mother/contents/100/backnumber/20224.html |archivedate=2002-12-02}}</ref><ref group="注釈">母・光子が広島県人であるのは古くから知られていた。1971年に出版された『日本人研究 <第2巻>』([[板坂康弘]]著、流動)広島県人の項、259-260頁に「石原慎太郎は父の勤務につれてあちこちで育ったが、血脈は広島である。石原も躁鬱気質の典型的な[[広島県]]人」と論じている。</ref>。なお石原自身は[[神奈川県]]を出身地としている<ref>『人事興信録』</ref>。 * [[1934年]] ** 12月28日 - 弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]が生まれる。 * [[1936年]] ** 6月 - 父の転勤に伴い、[[北海道]][[小樽市]]に転居<ref name="Sanop476">『てっぺん野郎』p.476</ref>。小樽に来て間もなくマリア幼稚園(現[[小樽藤幼稚園]])に入園<ref name="Sanop124129">『てっぺん野郎』124-129頁</ref>。 * [[1939年]] ** - [[小樽市立稲穂小学校|稲穂小学校]]に入る<ref name="Sanop124129"/>。 * [[1943年]] ** 2月 - 父の転勤に伴い、神奈川県[[逗子市]]に転居<ref name="Sanop476"/>。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者[[山下亀三郎]]の別邸<ref>『てっぺん野郎』p.180</ref>。 * [[1945年]] ** 4月 - 神奈川県立湘南中学(現:[[神奈川県立湘南高等学校]])へ進学。 * [[1946年]] ** [[極東国際軍事裁判|東京裁判]]を二度傍聴する<ref>2014年2月12日 衆議院予算委員会</ref>。 * [[1948年]] ** 立身出世主義的な校風に反撥し、胃腸の病を口実に1年間[[休学]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sensenfukoku.net/novel/novelm.html |title=石原慎太郎公式ウェブサイト 宣戦布告 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞 |accessdate=2009-12-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070927033122/http://www.sensenfukoku.net/novel/novelm.html |archivedate=2007-09-27 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。休学中は[[文学]]・[[美術]]・[[演劇]]・[[音楽]]・[[映画]]に耽溺し、[[フランス語]]を学習。 * [[1951年]] ** 10月 - 父・潔が[[脳溢血]]で急死。山下近海汽船[[社長]][[二神範蔵]]から一橋大への進学と、当時できたばかりの[[公認会計士]]の取得を強くすすめられる<ref name="Sanop217219">『てっぺん野郎』217-219頁</ref>。 * [[1952年]] ** 4月 - [[一橋大学大学院法学研究科・法学部|一橋大学法学部]]に入学<ref name="Sanop217219"/>{{refnest|group="注釈"|[[佐野眞一]]は、「ちなみに一橋大には[[一橋大学大学院経営管理研究科・商学部|商学部]]、[[一橋大学大学院経済学研究科・経済学部|経済学部]]、法学部、[[一橋大学大学院社会学研究科・社会学部|社会学部]]の四学部があり、[[入学試験]]は第二志望まで希望することができた。慎太郎は[[公認会計士 (日本)|公認会計士]]を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった」としている<ref name="Sanop217219"/>。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の1951年(昭和26年)に[[学部]]改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した<ref>([http://passnavi.evidus.com/search_univ/0330/campus.html 一橋大学/キャンパスガイド|大学受験パスナビ:旺文社])</ref>。}}。[[柔道]]部、[[サッカー]]部に入部する。[[簿記]]や[[会計学]]などの勉強に励んだが半年間やってみて向いていないと悟り公認会計士になることを断念する<ref name="Sanop217219"/>。 * [[1954年]] **学内同人誌『一橋文芸』の復刊に尽力する。 **12月 - 処女作『灰色の教室』を同人誌に発表(復刊第1号)、文芸評論家の[[浅見淵]]に評価される<ref name="asami">[[浅見淵]]『浅見淵著作集第1巻』([[河出書房新社]]、1974年)</ref><ref name="kurihara19">[[栗原裕一郎]]・[[豊崎由美]]『石原慎太郎を読んでみた』([[原書房]]、2013年)19頁、28頁</ref>。 * [[1955年]] ** 12月 - 当時17歳だった石田由美子(後に[[石原典子]]と改名)と[[結婚]]。『[[太陽の季節]]』が『[[文學界]]』に掲載され、第1回[[文學界新人賞]]を受賞。[[東宝]]の入社試験に合格し、助監督としての内定を得る。 * [[1956年]] ** 1月 - 『太陽の季節』により第34回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]を当時史上最年少で受賞、[[ベストセラー]]となる。一橋大学法学部を卒業。東宝に入社するもまもなく退社し、嘱託となる。『太陽の季節』が日活で映画化され、弟・裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たし、「[[太陽の季節#太陽族と映倫|太陽族]]」、「[[スポーツ刈り#慎太郎刈り|慎太郎刈り]]」が流行する。 **: 映画『太陽の季節』が公開された際、登場人物が[[強姦]]・[[不健全性的行為|不純異性交遊]]などを行う反社会的内容から映画を見た[[青少年]]への影響が取りざたされ、[[映画倫理委員会]](通称、映倫)が作られる契機となった<ref>「太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」『朝日新聞』1956年8月3日付朝刊。</ref>。 * [[1957年]] ** 4月19日 - 長男・[[石原伸晃|伸晃]]が誕生。 * [[1958年]] ** - [[東宝]]で映画『若い獣』の[[監督]]を務める。また、[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]、[[谷川俊太郎]]、[[寺山修司]]、[[浅利慶太]]、[[永六輔]]、[[黛敏郎]]、[[福田善之]]ら若手文化人らと「[[若い日本の会]]」を結成し、[[安保闘争|60年安保]]に反対。 * [[1960年]] ** - 隊長として、南米横断1万キロ・[[ラリー]]に[[ラビットスクーター]]で参加<ref>[https://www.ne.jp/asahi/rabbit-house/yamada/ishihara.htm ISHIHARA - ラビットハウス]</ref>。 * [[1962年]] ** 1月15日 - 二男・[[石原良純|良純]]が誕生。 * [[1963年]] ** 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。 * [[1964年]] ** 6月19日 - 三男・[[石原宏高|宏高]]が誕生。 * [[1966年]] ** 8月22日 - 四男・[[石原延啓|延啓]]が誕生。 * [[1967年]] ** - [[読売新聞社]]の依頼で、[[ベトナム戦争]]を取材。 * [[1968年]] ** 7月 - [[第8回参議院議員通常選挙]]で初当選。 * [[1969年]] ** 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。 * [[1970年]] **[[書き下ろし]]長編『[[化石の森 (石原慎太郎)|化石の森]]』を発表。第21回[[芸術選奨]]文部大臣賞を受賞。 * [[1972年]] ** 11月25日 - 参議院議員を辞職。 ** 12月10日 - [[第33回衆議院議員総選挙|衆議院選挙]]に[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]から無所属で立候補して当選。後に自民党に復党。 * [[1973年]](昭和48年) ** 7月 - 「[[青嵐会]]」を結成。 * [[1975年]](昭和50年) ** 3月18日 - 衆議院議員を辞職。 ** 4月13日 - [[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]に自民党推薦で立候補。233万票を得票するも落選。 * [[1976年]](昭和51年) ** 12月5日- 衆院選で国政に復帰。同月24日発足の[[福田赳夫内閣]]で[[環境大臣|環境庁長官]]に就任。 * [[1981年]](昭和56年) ** - 弟・裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。 * [[1983年]] ** - [[自由民主党の派閥]]、[[自由革新同友会]]を継いで代表就任、後に[[清和会]]へ合流。[[黒シール事件]]で社会的非難を浴びる。 * [[1987年]] ** 7月17日 - 弟・裕次郎が[[肝細胞癌|肝細胞がん]]で死去(52歳)。 ** 11月6日 - [[竹下内閣]]で[[運輸大臣]]に就任。 * [[1989年]] ** 8月8日 - [[1989年8月自由民主党総裁選挙|自民党総裁選挙]]に出馬、[[海部俊樹]]に敗れる。 ** 『[[「NO」と言える日本]]』を[[盛田昭夫]]と共著で出版。 * [[1995年]] ** 4月14日 - 議員辞職。 * [[1996年]] ** 7月 - 弟・裕次郎をテーマに『[[弟 (小説)|弟]]』を発表。数か月後[[ミリオンセラー]]となる。 * [[1999年]] ** 4月11日 - [[1999年東京都知事選挙]]に立候補。立候補表明の[[記者会見]]での第一声の、「石原裕次郎の兄でございます」という挨拶が話題を呼ぶ。[[鳩山邦夫]]、[[舛添要一]]、[[明石康]]、[[柿澤弘治]]ら有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。当選後の会見では「都庁で会おうぜ」という発言が話題を呼ぶ<ref>{{Cite news |title=【速報】石原慎太郎さん(89)死去 石原伸晃・良純・宏高・延啓さん4兄弟そろって会見 |newspaper=FNN.jp プライムオンライン |date=2022-2-1 |author= |url=https://www.fnn.jp/articles/-/308448 |accessdate=2022-2-21}}</ref>。 * [[2003年]] ** 4月13日 - [[2003年東京都知事選挙]]に立候補。308万票(得票率史上最高)を獲得し、[[樋口恵子]]、[[若林義春]]らを破り再選。 * [[2004年]] ** 11月17日 - 21日 - 『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』テレビドラマ化。 * [[2007年]] ** 4月8日 - [[2007年東京都知事選挙]]に立候補。投票の過半数に当たる281万票を獲得し、[[浅野史郎]]、[[吉田万三]]、[[黒川紀章]]らを破り3選。選対本部長は[[佐々淳行]]が担った<ref name="sasachosaku">佐々淳行著『軍師・佐々淳行―「反省しろよ慎太郎だけどやっぱり慎太郎」危機管理最前線〈2〉』文藝春秋、2007年10月</ref>。 * [[2010年]] ** 4月10日 [[たちあがれ日本]]の応援団長に就任する。 * [[2011年]] ** 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、[[2011年東京都知事選挙]]に出馬を決断して、立候補する。[[東国原英夫]]、[[小池晃]]らを破り、2,615,120票を獲得して四選(得票率は43.4%)。 * [[2012年]] ** 10月25日 - 15時から[[東京都庁舎|都庁]]にて緊急記者会見を行い「本日をもって([[東京都知事]]を)辞任し、新党を結成する」と表明<ref name="yomiuri20121025">[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121025-OYT1T00905.htm?from=top 石原都知事が辞任表明…新党結成、衆院選出馬へ] {{Wayback |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121025-OYT1T00905.htm?from=top |date=20121028065000}} - 読売新聞 2012年10月25日</ref><ref name="asahi20121025">[http://www.asahi.com/politics/update/1025/TKY201210250235.html 石原都知事が辞職表明、 新党結成、衆院選立候補を検討] - 朝日新聞 2012年10月25日</ref>。会見後に[[東京都議会|都議会]]議長に辞表を提出した<ref name="asahi20121025"/>。 ** 10月31日 - 午後から開催された臨時会で、都知事辞職が同意される<ref>[http://mainichi.jp/select/news/20121101k0000m010074000c.html 石原知事辞任:「マイ・ウェイ」演奏の中、都庁を去る] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/news/20121101k0000m010074000c.html |date=20121105033609}} - 毎日新聞 2012年10月31日</ref>。 ** 11月13日 - [[たちあがれ日本]]を改称する形で'''[[太陽の党]]'''を結党。共同代表に就任する<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20121113-OYT1T00988.htm 石原氏、太陽の党旗揚げ…「第3極」結集目指す] {{Wayback |url=http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/news/20121113-OYT1T00988.htm |date=20121116051326}} - 読売新聞 2012年11月13日</ref>。 ** 11月17日 - 太陽の党が[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]に合流。代表に就任<ref>[https://archive.is/YPpkL 維新と太陽 合流ありきの疑問残す]<!-- http://www.shinmai.co.jp/news/20121120/KT121119ETI090004000.php --> - 信濃毎日新聞 2012年11月20日</ref>。 ** 12月16日 - [[第46回衆議院議員総選挙]]に[[比例東京ブロック]]で当選<ref>{{Cite news |title=石原氏親子3人、全員当選 |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121702030052-n1.htm |date=2012-12-17 |accessdate=2012-12-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121219021532/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121217/elc12121702030052-n1.htm |archivedate=2012-12-19 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>。衆議院議員として、17年ぶりに国政に復帰。 * [[2014年]] ** 8月1日 - 日本維新の会から分党した新党'''[[次世代の党]]'''を設立し最高顧問に就任。 ** 12月14日 - 体力不安もあり[[第47回衆議院議員総選挙]]前の引退を示唆するが、党員に引き止められ比例単独での立候補を決断し落選。比例順位は石原の希望により最下位に当たる9位だった<ref name="2014shugin"/>。 ** 12月16日 - 政界引退を表明<ref name="intaikaiken"/>。 * [[2015年]] ** 4月29日 - 春の叙勲で[[旭日大綬章]]受章{{R|sankei 2015-04-29}}。 * [[2017年]] ** [[3月20日]] - 豊洲市場移転問題に関して都議会[[百条委員会]]にて証人喚問を受ける([[石原慎太郎#政界引退後|#政界引退後]]を参照)。 * [[2022年]] ** [[2月1日]] - 死去。戒名は「海陽院文政慎栄居士」。同日付をもって正三位に叙された。 == 選挙歴 == {{選挙歴 |参|当落1=当|選挙名1=8|年齢1=35|選挙区1=[[全国区]]|政党名1=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]|得票数1=3,012,552|得票率1=6.99%|定数1=51|得票順1=1|候補者1=93|当選数1=21 |衆|当落2=当|選挙名2=33|年齢2=40|選挙区2=[[東京都第2区 (中選挙区)|旧東京2区]]|政党名2=無所属|得票数2=118,671|得票率2=22.3%|定数2=5|得票順2=1|候補者2=9 ||当落3=落|選挙名3=[[1975年東京都知事選挙]]|年齢3=42|執行日3=[[1975年]][[4月13日]]|政党名3=無所属|得票数3=2,336,359|得票率3=43.87%|得票順3=2|候補者3=16 |衆|当落4=当|選挙名4=34|年齢4=44|選挙区4=旧東京2区|政党名4=自由民主党|得票数4=111,112|得票率4=21.9%|定数4=5|得票順4=1|候補者4=10 |衆|当落5=当|選挙名5=35|年齢5=47|選挙区5=旧東京2区|政党名5=自由民主党|得票数5=71,238|得票率5=17.3%|定数5=5|得票順5=3|候補者5=10 |衆|当落6=当|選挙名6=36|年齢6=47|選挙区6=旧東京2区|政党名6=自由民主党|得票数6=162,780|得票率6=32.8%|定数6=5|得票順6=1|候補者6=6 |衆|当落7=当|選挙名7=37|年齢7=51|選挙区7=旧東京2区|政党名7=自由民主党|得票数7=96,386|得票率7=21.0%|定数7=5|得票順7=1|候補者7=9 |衆|当落8=当|選挙名8=38|年齢8=53|選挙区8=旧東京2区|政党名8=自由民主党|得票数8=101,240|得票率8=20.9%|定数8=5|得票順8=1|候補者8=6 |衆|当落9=当|選挙名9=39|年齢9=57|選挙区9=旧東京2区|政党名9=自由民主党|得票数9=119,743|得票率9=22.6%|定数9=5|得票順9=1|候補者9=11 |衆|当落10=当|選挙名10=40|年齢10=60|選挙区10=旧東京2区|政党名10=自由民主党|得票数10=92,259|得票率10=19.0%|定数10=5|得票順10=1|候補者10=10 ||当落11=当|選挙名11=[[1999年東京都知事選挙]]|年齢11=66|執行日11=[[1999年]][[4月11日]]|政党名11=無所属|得票数11=1,664,558|得票率11=30.47%|得票順11=1|候補者11=19 ||当落12=当|選挙名12=[[2003年東京都知事選挙]]|年齢12=70|執行日12=[[2003年]][[4月13日]]|政党名12=無所属|得票数12=3,087,190|得票率12=70.21%|得票順12=1|候補者12=5 ||当落13=当|選挙名13=[[2007年東京都知事選挙]]|年齢13=74|執行日13=[[2007年]][[4月8日]]|政党名13=無所属|得票数13=2,811,486|得票率13=51.06%|得票順13=1|候補者13=14 ||当落14=当|選挙名14=[[2011年東京都知事選挙]]|年齢14=78|執行日14=[[2011年]][[4月10日]]|政党名14=無所属|得票数14=2,615,120|得票率14=43.40%|得票順14=1|候補者14=11 |衆|当落15=当|選挙名15=46|年齢15=80|選挙区15=[[比例東京ブロック|比例東京]]|政党名15=[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]|定数15=17|比例順15=1|当選数15=3 |衆|当落16=落|選挙名16=47|年齢16=82|選挙区16=比例東京|政党名16=[[日本のこころ (政党)|次世代の党]]|定数16=17|比例順16=9|当選数16=0 }} == 政治姿勢・発言 == {{wikiquote}} 政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されてしまうケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。原田実は、石原の著作にみられる主張と実際の政治的主張を言行不一致・朝令暮改とし、思うに石原はその時その時に応じて世間が求める「石原」というキャラを演じ続けているのだろう、その巧みさゆえに都知事の座を守り抜けたとしている<ref>{{Cite book|和書 |editor=と学会 |title=と学会 25thイヤーズ! |date=2017-10-15 |publisher=東京キララ社 |page=58 |isbn=978-4903883274}}</ref>。 === 尖閣・島嶼について === :[[沖ノ鳥島]]に視察上陸し、シマアジの稚魚を放流する<ref>[[沖ノ鳥島#日本の対抗措置]]</ref>など、島嶼防衛・尖閣防衛について度々言及している<ref name="sinkanjp2013"/>。 :[[尖閣諸島]]について、[[江藤淳]]との共著(1991年)<ref name="isiharaetokyocho"/>において次のように記している。「尖閣列島周辺の海底に[[油田]]があるという話が持ち上がって以来、次々と妙なことが起こった。返還前のことですが、米国の石油メジャー会社が、時の佐藤首相に、外相がらみで自分たちによる試掘を持ちかけてきた。佐藤首相は自国日本のことだからといってそれを退けた。すると彼らは、同じ話を[[中華民国|台湾]]と[[中華人民共和国|北京]]に持ち込み、『あの島々は本来なら中国の領土の筈だ』とそそのかした」<ref name="isiharaetokyocho">{{Cite book|和書|author1=石原慎太郎|author2=江藤淳|authorlink2=江藤淳|url= |title=断固「NO」と言える日本―戦後日米関係の総括 |series= |newspaper= |publisher=[[光文社]] |date=1991-05-01 |ISBN=978-4334051846 |archiveurl= |archivedate= |page=96}}</ref>。 :2009年、石原は、日中科学技術文化センター会報に掲載された対談にて、尖閣について日本の主権を棚上げにした上で共同開発すべきとの見解を示した<ref>高原明生「歴史を逆行させてはならない」新崎盛暉、岡田充、高原明生、東郷和彦、最上俊樹『「領土問題」の論じ方』岩波書店、2013年、p.33。</ref>。 :[[2010年]]、[[5月27日]]の全国知事会には、米国が尖閣防衛に消極的である例を示した上で「日本の領土を守らないなら、何のため[[沖縄本島|沖縄]]に膨大な基地を構えるのか。抑止力を現政府が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に問いたださない限り、訓練分散を論じる足場がない」と、当時の[[日本国政府]]を糾弾した。関連して同会合に出席していた、当時首相だった[[鳩山由紀夫]]に対し「総理は[[日本における外国人参政権|外国人参政権]]の問題で、『[[日本列島]]は[[日本人]]のためだけのものではない』と述べたが衝撃だ」と発言し、それら石原の問いに対し、鳩山は「日中の間で衝突があったとき、アメリカは[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保条約]]の立場で行動する。しかし(尖閣諸島の)帰属問題は日中当事者同士で議論して結論を出す、と私は理解をしている」との見解を示したため報道陣に、「日中間で尖閣諸島の帰属を協議しようって、こんな馬鹿を云う[[内閣総理大臣|総理大臣]]いるのか?正式に(米国から)返還されたんだ。馬鹿な会合だよ。ナンセンス!」と怒りを露わにしている<ref>{{Cite news |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/396540/ |title=「こんな総理、かなわんわ…」 鳩山発言に石原都知事激怒 全国知事会議 |newspaper=産経新聞 |date=2010-05-28 |accessdate=2011-01-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100530091145/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/localpolicy/396540/ |archivedate=2010-05-30}}</ref>。 :尖閣諸島の[[魚釣島]]に「[[日本青年社]]」が本格的な[[灯台]]を造ったことに対し、謝辞を述べている<ref>{{Cite news |title=【日本よ】石原慎太郎 尖閣、国家としての試練 |newspaper=産経新聞 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101004/plc1010040339002-n3.htm |date=2010-10-04 |accessdate=2010-10-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110218084430/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110110/plc11011002300027-n3.htm |archivedate=2011-02-18 |deadlinkdate=2019-02}}産経新聞社連載の「日本よ」のコラム2003年(平成15年)2月3日号や2010年(平成22年)10月4日号などで言及している。</ref>。[[2010年]]11月に起きた[[尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件|尖閣沖での中国漁船衝突事件ビデオ流出]]後の記者会見では「なんで政府が発表しないのか。国民の目に実態を見てもらいたいと思って、流出した。結構なことじゃないか」と述べ、[[海上保安官]][[一色正春]]のビデオ映像流出行為を肯定した<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0502H_V01C10A1CC1000/ 石原都知事「結構なこと」 尖閣映像流出巡り発言 ] 2010年11月5日配信</ref>。 :[[2012年]]4月には、東京都による尖閣諸島購入計画を発表したが<ref>{{Cite news |title=東京都の購入計画をめぐる石原知事の主な発言 |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120707/lcl12070719500006-n1.htm |date=2012-07-07 |accessdate=2012-07-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120731225450/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120707/lcl12070719500006-n1.htm |archivedate=2012-07-31 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>、[[9月11日]]に[[野田内閣 (第2次改造)|野田政権]]は、[[魚釣島]]、[[北小島]]、[[南小島]]の3島を[[海上保安庁]]に20億5千万円で[[埼玉県]]在住の地権者から買取らせ、所有権移転登記を完了し、[[尖閣諸島国有化|尖閣諸島を国有化]]した<ref>{{Cite news|author= |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120912/plc12091213060012-n1.htm |title=尖閣の接続水域で中国船確認せず 国への移転登記済ませる|newspaper=[[産経新聞]] |publisher= |date=2012-09-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120912081047/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120912/plc12091213060012-n1.htm |archivedate=2012-09-12 |deadlinkdate=}}</ref><ref>{{Cite news |author= |url=http://sankei.jp.msn.com/world/news/120917/chn12091719000007-n1.htm |title=襲撃被害「責任は日本が負うべき」中国外務省|newspaper=[[MSN産経ニュース]] |publisher= |date=2012-09-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120918082852/http://sankei.jp.msn.com/world/news/120917/chn12091719000007-n1.htm |archivedate=2012-09-17 |deadlinkdate=}}</ref>。この[[尖閣諸島国有化]]は、[[東京都]]による購入計画(実効支配強化のために島に様々な施設を作る)を阻止し、日本の実効支配強化が進むことへの中国の反発を抑えることを目的として行われたが、[[中華民国総統]]であった[[李登輝]]は「経済力を背景に、[[ベトナム]]から[[西沙諸島]]を奪い、[[南沙諸島]]で[[フィリピン]]が領有していた地域に手を出し、そして日本領土である[[尖閣諸島]]の領海、領空侵犯を繰り返す中国は、札束の力で威張り散らす浅ましい『[[成金]]』の姿そのものである。[[野田佳彦|野田]][[内閣総理大臣|前首相]]の時代に尖閣諸島は国有化されたが、あのような手続きを行ったところで、どれほどの効果があるのか。国が買わないなら都で買う、と表明した石原慎太郎前都知事にしても、彼の個人的な意気を示すだけの話であったように思う。もともと尖閣諸島は日本国民の領土なのだから、[[日本国政府|日本政府]]は手続き論に終始せず、中国が手を出してくるなら戦う、ぐらいの覚悟を示す必要がある」と批判している<ref name="Voice">{{Cite news |author=[[李登輝]] |url=https://books.google.co.jp/books?id=Lrxf36yn1VwC&pg=PT37#v=onepage&q&f=false |title=台湾が感動した安倍総理の友人発言 |newspaper=[[Voice (雑誌)|Voice]] |publisher=[[PHP研究所]] |date=2013-05 |archiveurl= |archivedate= |page=37}}</ref>。 === 日本国憲法について === :[[自主憲法論|自主憲法]]制定論を持論としている。現在の[[日本国憲法]]は、勝者が敗者を統治するための占領[[基本法]]で、[[連合国 (第二次世界大戦)|戦勝国]]が押し付けた占領憲法であるとしている。占領憲法は、勝者の敗者に対する統治の方法としてしか使われてなかったという事で否定したら、誰も反対する法的な根拠はないとして、議会で現行憲法の廃棄決議をした上で自主憲法を制定すべきとしている<ref>[http://www.sinkan.jp/special/adbook/run_wildly/?link=index 西条 泰 『石原慎太郎 「暴走老人」の遺言』] 石原慎太郎が国民に残した「遺言」</ref><ref>{{Cite news |title=【日本よ】石原慎太郎 歴史的に無効な憲法の破棄を |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120305/plc12030503080001-n1.htm |date=2012-11-30 |accessdate=2012-11-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120331171522/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120305/plc12030503080001-n1.htm |archivedate=2012-03-31 |deadlinkdate=2019-02}}</ref><ref>2012年11月30日記者クラブ討論会</ref>。 : [[天皇]]を日本国の元首と表現し、憲法に天皇を元首と明記すべきとの見解である<ref name="asahi19890110"/><ref>[http://sensenfukoku.net/philosophy/nation/constitution/ 石原慎太郎 『「アメリカ信仰」を捨てよ』 光文社、2001年。]「憲法改正までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか」</ref>。2002年12月11日の[[東京都議会]]で日本国憲法について「改憲手続きなんていう面倒なことはせず、衆議院で破棄決議をすればいい」と発言した。インタビューでも、目標を「日本国憲法を変えること」と明言している。 === 軍事について === ==== 自主防衛推進 ==== :「[[三木武夫]]が作った[[武器輸出三原則]]や[[防衛費1%枠]]などの政策は変えるべきだ」とする、核武装・自主[[国防]]確立論者である<ref name="名前なし-1">石原慎太郎『「日米安保」は破棄できる』文芸春秋、8月号、[[2009年]]。など</ref>。 :1971年7月19日付の朝日新聞で「([[核兵器]]が)なけりゃ、日本の外交はいよいよ貧弱なものになってね。発言権はなくなる」「だから、一発だけ持ってたっていい。日本人が何するかわからんという不安感があれば、世界は日本のいい分をきくと思いますよ」との発言が紹介された<ref>[http://dot.asahi.com/wa/2014041600065.html『週刊朝日』2014年4月25日号「キッシンジャー機密文書を入手 米国が警戒した日本の核武装、右傾化」]</ref>。[[2011年]][[6月20日]]の記者会見では、「日本は核(兵器)を持たなきゃだめですよ。持たない限り一人前には絶対扱われない」「日本が生きていく道は[[軍事政権]]を作ること。そうでなければどこかの[[属国]]になる<ref group="注釈">[[中華人民共和国]]を念頭に置いたもの。</ref>。[[徴兵制]]もやったらいい」と発言した<!--(軍事国家になるべきとの意見と、軍国主義を肯定とは意味合いが別。)[[軍国主義]]を肯定する考え方を示した。--><!--(メディアの主観的な評価は不要)この石原の発言について、[[オールニッポン・ニュースネットワーク|ANN]]は「今の政治の現状を憂う石原知事の発言でしたが、反核団体をはじめ各方面から反発を呼びそうです」とコメントした--><ref>[http://www.tv-asahi.co.jp/ann/news/web/html/210620028.html 「日本は核を持て、徴兵制やれば良い」石原都知事]</ref>。[[2011年]][[8月5日]]にも記者会見<ref>{{Cite news |url=http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011080501001085.html |title=都知事、核保有の模擬実験は可能「3カ月でできる」 |publisher=47NEWS |date=2011-08-05 |accessdate=2011-08-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20111118183308/http://www.47news.jp/CN/201108/CN2011080501001085.html |archivedate=2011-11-18}}</ref>で、また2013年4月5日にも朝日新聞とのインタビューで「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している<ref>『[http://www.asahi.com/politics/update/0404/TKY201304040453.html 橋下君を首相にしたい 軍事国家になるべきだ 石原慎太郎氏インタビュー]』朝日新聞2013年4月5日</ref>。<!-- 発言の唐突な抜き出しで文脈の分からない記述 『[[論座]]』2001年5月号において、「[[アドルフ・ヒトラー]]になりたいね、なれたら」--><!--(なりたいねというのと尊敬するは意味が違う)ヒトラーを尊敬する趣旨のと発言している。--><!--(戦に敗れた時の連帯感を賛美することは軍国主義肯定につながらない)また、2011年3月29日の記者会見において、[[東北地方太平洋沖地震]]の被災者・節電への配慮から今年は[[花見]]を自粛すべきとした上で、[[太平洋戦争]]を引き合いに出して「同胞の痛みを分かち合うことで初めて連帯感ができてくる」「戦争の時はみんな自分を抑え、こらえた。戦には敗れたが、あの時の日本人の連帯感は美しい」という考え方を示した <ref>[http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20110330/plt1103301125000-n1.htm 時代錯誤では…慎太郎“花見禁止令”戦争時の「連帯感は美しい」] [[夕刊フジ]] 2011年3月30日</ref> --> === 靖国神社参拝 === :毎年、[[8月15日]]に[[靖国神社]]に参拝していた。衆議院議員当選・都知事就任以後も、[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]共同代表就任・国政復帰以後も参拝していた。 :2013年の8月15日にも日本維新の会共同代表として参拝していた<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/676975/ 【靖国参拝】維新・石原氏、自民・野田聖氏も - MSN産経ニュース] {{Wayback |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/676975/ |date=20140329024133}}「日本維新の会の石原慎太郎共同代表は終戦の日の15日昼、東京・九段北の靖国神社を参拝した。自民党の野田聖子総務会長も同日午後、参拝した。」</ref>。 === 佐野眞一について === :[[佐野眞一]]が[[大阪市長]][[橋下徹]]の出自をめぐる[[週刊朝日]]の[[週刊朝日による橋下徹特集記事問題|連載記事で問題となった]]際に「橋下さんにも子供がおり、その子供にまで影響する。文筆を借りて、他人の家族までおとしめるという物書きは許せない」「同和や[[部落問題|被差別部落]]の問題について強い偏見を持っている」「私も被害者の一人。父親の本籍地に出かけ、石原一族は同和、部落ではないか、と誘導尋問をしていたと報告があり、あきれた」「出自や親族の職業をあげつらい、それが[[デオキシリボ核酸|DNA]]として受け継がれて危険だというのは、中傷誹謗の域を出ない卑劣な作業だ」と述べている<ref>{{Cite news |title=石原知事、出自の記事「卑劣」と批判 |newspaper=産経新聞 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121019/lcl12101918290002-n1.htm |date=2012-10-19 |accessdate=2012-10-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121101004427/http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121019/lcl12101918290002-n1.htm |archivedate=2012-11-01 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>。 === 慰安婦について === : [[日本の慰安婦問題]]について、「日本人が彼女たちを強制連行した証拠はない。生活が苦しい時期、女性が売春をすることは金をもうけるための仕事のひとつだった。彼女たちは自らこの仕事を選んだ」と発言した<ref>[http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120828-00000036-scn-kr 石原氏 従軍慰安婦は「自ら身体を売って稼いでいた」] {{Wayback |url=http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120828-00000036-scn-kr |date=20120902023750}} =韓国サーチナ 8月28日(火)14時16分配信</ref>。また[[野村秋介]]について「通夜の席で“なぜ[[朝日新聞社]]に乗り込んだ時に相手(時の社長[[中江利忠]])と刺し違えなかった”と言ってやった」、「彼は[[朝日新聞]]に対して、命がけで決着をつけるべきだったのです。そうすれば、彼らはもう少しまともな会社になっていたのではないか。朝日が[[売国|国を売った]]慰安婦報道をひっくり返した今、なおさらそう思います」、[[河野一郎邸焼き討ち事件]]を引いて「野村はそれで12年間、[[日本の刑務所|刑務所]]に入りました。もちろん[[放火]]という行為は推奨できないが、命懸けだった。少なくとも昔の言論人は命懸け、最近、そういう志の高い[[右翼]]はまったくいなくなりました。今(2014年)は、[[朝日新聞|朝日]]が何をしようと安穏と過ごせる、結局うやむやにして過ごせる時代です」と発言した<ref>「独占手記 国を貶めて新聞を売った『朝日』の罪と罰」[[週刊新潮]] 2014年10月9日号</ref>。 === 諸外国に対する見解 === ==== 国際連合 ==== :[[国際連合]]に対して、「[[国際連合憲章]]の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」<ref>2005年9月27日、都議会本会議にて、靖国神社参拝をやめるよう追及した吉田信夫([[日本共産党|共産党]])に対しての発言。[[ジョン・ボルトン]]が同様に「[[国際連合本部ビル]]の最上層10階分がなくなったとしても何ら困らない」と発言している</ref>。 ==== 中華民国・台湾 ==== :[[中国共産党]]の[[一党独裁制|一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある[[間接民主主義|議会制民主主義]]国家である[[台湾]]([[中華民国]])に対しては、日本と台湾の断交に政界で最も激しく反発していた[[青嵐会]]の事実上の創設者である代表的な[[親台派]]のため、非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている(ただし、[[親華派]]だったため、民主化まで[[中国国民党]]が[[戒厳]]を布告していた独裁政権だった史実には沈黙)。都知事初の訪台を成し遂げ、数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加し、自ら提唱した[[アジア大都市ネットワーク21]]にも北京と同時に台北を加盟させた。なお、[[2008年中華民国総統選挙]]において国民党の[[馬英九]]は、[[台北市|台北市長]]時代の[[風俗街]]の取り締まりの厳しさや、パフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と[[民主進歩党]]支持者から揶揄された<ref>2008年3月20日新聞台新聞夜視界</ref>。 ==== 中華人民共和国 ==== :[[2005年の中国における反日活動]]では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「[[支那]]」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]について「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の非常に政治的な[[1936年ベルリンオリンピック|ベルリンオリンピック]]に、ある意味似ているような気がする」<ref>[[朝日新聞]]2006年7月4日</ref>と発言した。その[[親台]][[反中]]姿勢が[[2016年東京オリンピック構想|東京でのオリンピック開催]]の実現を困難にする(中華人民共和国は、ODAを元に[[アジア]]や[[アフリカ]]の一部の[[開発途上国|発展途上国]]に影響力を持つ)という指摘もあったが<ref>『FACTA』2007年3月号</ref>、2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請し<ref name="isiharapekin"/>、中華人民共和国の招待に応じて当時の[[福田康夫]]首相とともに[[2008年北京オリンピックの開会式]]には出席した。当時は[[反日]]的なネット世論を弾圧<ref>「中国が反日サイト閉鎖「社会不安招く」と当局」共同通信2004年8月31日</ref><ref>「「反日先鋒」がサイト閉鎖声明」毎日新聞2005年5月3日</ref>していた[[胡錦濤]]政権ということもあり、この招待を「大国の度量を見せるもの」として中国のネット世論も支持した<ref name="isiharapekin">{{Cite web|和書|url=https://www.recordchina.co.jp/b14675-s0-c70-d0000.html |title=<北京五輪>「大国の度量」とネット世論も支持、批判繰り返した石原都知事の招待で―中国 |publisher=[[Record China]] |date=2008-01-15 |accessdate=2017-05-03}}</ref>。感想として「13億の人口のすごさってのはね、ひしひしと感じましたね」「一番感じたのはね、ボランティアの大学生ですね、みんな。とってもね、いいね。アメリカのボディーチェックするような空港の役人なんかと違ってね、本当に横柄で何様だっていう感じだけど、(大学生は)とっても親切で礼儀正しくてね」「やっぱり、それはね、いろいろ(政治)体制に対する批判はあるでしょうけど、私もいろいろ異論はあるけども、国家社会の前途にね、あの世代の若者が明らかに日本の大学生と違って期待を持っているということに、青春の生き甲斐を感じているということは、聞いてみてもうらやましく感じましたね」「(中国の若者と比較して)日本の若者はある意味でかわいそうだな。[[青春]]にある者として[[自己同一性|アイデンティティー]]がないから。やっぱり『[[2ちゃんねる]]』の書き込みとかそんなもんで本当の[[コミュニケーション]]ができるもんじゃないし。全部現実から逃避しているし<ref>『朝日新聞』2008年8月12日</ref>」さらには「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう」とまで述べた。これを中国メディアは「右翼の発言と思い難い中国の代弁者のようだ」と取り上げた<ref>{{Cite news |author= |title=石原知事が北京五輪開会式に痛烈ダメ出し |url=https://npn.co.jp/article/detail/27015068/ |work=リアルライブ |publisher= |date=2008-08-16 |accessdate=2016-11-06}}</ref>。2009年(平成21年)9月には「東京都と北京市の技術交流・技術協力に関わる合意書」が結ばれ、12月に北京副市長・[[黄衛]]が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べて黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた<ref>{{Cite news |author= |title=知事の部屋/知事フォトギャラリー|東京都 |url=https://www.metro.tokyo.lg.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/PHOTO/s21/211201.htm |work=東京都 |publisher= |date=2010-01-20 |accessdate=2017-05-05}}</ref>。 :日中間の領土問題において、東京都の[[沖ノ鳥島]]は岩である旨主張し続ける[[中国共産党]]政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の[[経済水域]]であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して[[日本の国旗|日章旗]]を掲げるなどのパフォーマンスを行っている。 :[[日本の中国人|在日中国人]]による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した<ref>『産經新聞』2001年5月8日</ref>。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件([[毒入り餃子事件]])に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した<ref>[https://web.archive.org/web/20080603035210/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/119502/ 「「独裁国家なんだからしっかりしろ」石原知事、毒餃子で苦言」政治も‐地方自治ニュース:イザ!] [[産経新聞]]2008年1月31日</ref>。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、[[中華人民共和国の国旗|五星紅旗]]の"六番目の星"になるだろう」と発言している<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96063&servcode=A00§code=A00 中央日報 - 石原都知事「日本が第2次大戦起こして植民地が独立」] 中央日報 2008年2月15日。なお、五星紅旗の4小星は[[アメリカ合衆国の国旗|星条旗]]と異なり、社会階層を意味する。</ref>。 :2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の[[共産主義]]」「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア (RFA) は四川省作家・[[冉雲飛]]の言葉を引用して評価した。都知事辞任会見では共産主義は嫌いと前置きしつつ学生時代に読んだ[[毛沢東]]の[[矛盾論]]は「正にその通りだと思う」として日本の抱える矛盾の解決を訴えた<ref>{{Cite news |date=2012-10-29 |url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/ARC/20121031/KAIKEN/TEXT/2012/121025.htm |title=石原知事記者会見(平成24年10月25日) |newspaper=東京都 |accessdate=2014-06-22}}</ref><ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121101/238912/?rt=nocnt 石原 慎太郎 前東京都知事の告白 「中央官僚支配を壊す」] {{Wayback |url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121101/238912/?rt=nocnt |date=20180731183601}} [[日経ビジネス]]2012年11月1日</ref>。後の橋下徹との対談でも「僕は共産主義は嫌いだが、毛沢東の矛盾論は称賛してる」と述べた<ref>【社会部プレミアム対談】石原知事×橋下市長 教育の破壊的改革を追求(産経新聞)2011年12月25日</ref>。また、インタビューで、人間にとって「自由」が最も大事と述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した<ref>[http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d22219.html 「反中ではなく反中共だ」 中国週刊誌、石原慎太郎氏インタビュー果敢報道]</ref>。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0330&f=national_0330_038.shtml 【中国BBS】石原慎太郎氏の入院に「やったあ、いい気味!」と喜びの声]</ref>。 :2014年6月22日、日本維新の会解党を正式決定した同党臨時党大会にテレビ中継で参加した際には、「日本という国家は下手をすると隣の中国の属国になりかねない危機的な状況にあり、これを防ぐために私たちは行動してきた」と発言、憲法改正や集団的自衛権行使容認などの政策が対中国戦略である旨を明言した<ref>{{Cite news |title=「中国の属国化を防ぐ」 石原氏発言要旨 |newspaper=産経新聞 |url=https://www.sankei.com/politics/news/140622/plt1406220010-n1.html |date=2014-06-22 |accessdate=2014-06-22}}</ref>。 ==== 北朝鮮 ==== :[[北朝鮮による日本人拉致問題]]が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの[[草薙厚子]]によれば、[[1998年]](平成10年)に「朝鮮民主主義人民共和国が[[ノドン]]何号かを[[京都府|京都]]へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという<ref>[http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2000_04_19/content.html 石原慎太郎都知事のふざけた「差別感覚」] {{Wayback |url=http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2000_04_19/content.html |date=20071104231400}} - [http://moura.jp/biglobe/ Web現代 MouRa BIGLOBE edition] {{Wayback |url=http://moura.jp/biglobe/ |date=20071128044104}}</ref>。[[2002年]]には『[[ニューズウィーク]]』のインタビューに応じ、映画『[[風とライオン]]』の内容([[モロッコ]]のリフ族に拉致されたアメリカ人教師を[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が[[軍艦]]を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]がそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている<ref>『[[ニューズウィーク]]』日本版 [[2002年]][[6月19日]] 第17巻23号 通巻812号 p.27</ref>。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を[[泉田裕彦]][[新潟県]][[都道府県知事|知事]]や[[上田清司]][[埼玉県]]知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち[[達増拓也]][[岩手県]]知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「[[民主党代表]]の[[小沢一郎]]さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2557594/3682076 石原都知事、「中国が北朝鮮を合併するのが一番楽」] AFP・BBニュース2009年1月13日付</ref>。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた<ref>[https://megalodon.jp/2009-0115-0836-44/www.ibaraki-np.co.jp/zenkoku/detaile.php?f_page=top&f_file=CN2009011401000923.1.N.20090114T204728.xml 韓国、石原都知事発言に反発 沈黙の政府にも批判] 茨城新聞2009年1月14日</ref><ref>[https://megalodon.jp/2009-0118-1452-37/www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20090117103.html 石原都知事発言に北朝鮮「容赦しない」] スポニチ・アネックスニュース 2009年1月17日</ref>。 ==== 在日朝鮮人の代表なる男たちから脅迫を受ける ==== 石原の自宅に突然押しかけてきた在日朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けたことがある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である[[朝鮮労働党]]の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼らが日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという<ref>石原慎太郎 『国家なる幻影』 文藝春秋、2001年10月</ref>。 ==== 朝鮮総連施設・朝鮮学校への対応 ==== ;朝鮮総連施設 :[[在日本朝鮮人総聯合会]]施設は、1972年(昭和47年)に当時の都知事だった[[美濃部亮吉]]が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、[[固定資産税]]や不動産取得税の減免措置を行ってきた。[[査証]]や[[パスポート|旅券]]発行代理業務を行うなど、朝鮮民主主義人民共和国の窓口機能があったため、「外交機関に準ずる機関」または「公民館的施設」という名目の下に課税減免措置がとられていたが、2002年(平成14年)9月の[[小泉純一郎]]首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の北朝鮮関連組織や施設への優遇措置が見直されるようになった。 :2003年(平成15年)、東京都は、朝鮮総連の関連施設について「所有者の大半が関連企業(朝鮮総連が法人ではないため)であったり、外交とは無関係なものがある」などとして方針を変更、これらの一部について固定資産税を課すこととした。他の自治体にもこれに追随して固定資産税の減免を解除する動きがあったが、この時点では従来通り減免措置を継続する自治体が多かった。 :こうした措置に対して朝鮮総連や[[北野弘久]]など一部の法学者は反発し、行政訴訟や民事訴訟で争われた。東京都にある朝鮮総連中央本部の不動産への固定資産税などの課税処分をめぐり、登記上の不動産所有者である合資会社「朝鮮中央会館管理会」が、東京都に課税処分取り消しなどを求めた民事訴訟では一審、二審とも請求を棄却。2009年8月12日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]も[[上告]]を退け総連側の敗訴が確定した。 :この固定資産税などの減免措置を巡っては、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する熊本の会」の[[加納良寛]]会長が熊本市長を相手取り、朝鮮総連施設への課税減免措置の無効確認を求めた訴訟を起こした。2005年(平成17年)4月21日、[[熊本地方裁判所]]([[永松健幹]]裁判長)は「公益性を備えた公民館類似施設と評価でき、減免に違法性はない」[[熊本市]]の主張をほぼ全面的に認め、原告の訴えを退けた。これを不服として原告側は[[控訴]]し、2006年(平成18年)2月2日に[[福岡高等裁判所]]([[中山弘幸]]裁判長)が、「朝鮮総聯の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決を出した。熊本市長はこれを不服として上告したが、2007年(平成19年)11月30日最高裁判所第二[[小法廷]](中川了滋裁判長)は、熊本市長の上告を棄却し減免措置は違法とした高裁判決が確定した。 :この最高裁判決により朝鮮総連施設に対する税減免措置の見直しは急速に進んだ。2013年(平成25年)現在、朝鮮総聯関連施設があるとみられる自治体が全国で128。通常課税の自治体が114。全額免除の自治体は0。一部減免の自治体が10。施設なしと回答した自治体が4である([[在日本朝鮮人総聯合会#課税減免措置特権撤廃の流れ]])。 ;朝鮮学校 :朝鮮学校に対しては、学校運営や教育内容などについて調査をし、2012年の東京都の予算から朝鮮学校への補助金を除外し停止した。石原は、「反日教育をしてわれわれの同胞を拉致する手助けをしていた、そういう組織がそれに連脈のある教育をこれからもするなら、援助するいわれはない」と明言していた<ref>{{Cite news |title=朝鮮学校への補助金 3氏が「支給しない」|newspaper=産経新聞 |url=https://www.sankei.com/article/20140208-57CPGKYMH5LNPLYK33FE5CPJ6U/ |date=2014-02-08 |accessdate=2019-02-27}}</ref>。2012年当時、東京都議会議員で尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」)の会長でもあった 野田数は「私は以前に都議会で、拉致問題が解決していないのだから朝鮮学校への補助金は凍結すべきと主張しました。その際も自民党から妨害を受けました」と証言している<ref>[https://web.archive.org/web/20120915053158/http://wpb.shueisha.co.jp/2012/09/13/14010/ 民主が中国寄り、自民が韓国・北朝鮮寄りな理由とは?] 2012年9月13日配信</ref>。 ==== アメリカ ==== :日米安保に反対する「若い日本の会」に[[大江健三郎]]、[[江藤淳]]らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした<ref>『芸能人別帳』ちくま文庫</ref>。政治家となって以降は、日米安保を[[安全保障]]上容認するものの、日米安保破棄について時折触れている<ref name="名前なし-1"/>。日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『[[「NO」と言える日本]]』を出版するなど、常に[[第二次世界大戦]]以降のアメリカの[[覇権主義]]的な態度には疑問を呈し続けている。[[1980年代]]の[[ジャパンバッシング]]の際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。 :都知事としてアメリカ政府に[[横田飛行場|横田基地]]を求め続け、石原の要求は[[2005年]]に見通しがついた[[2006年]]10月27日の[[横田飛行場#横田空域|横田空域]]の[[航空交通管制]]権の一部返還日米合意により部分的に実現する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2006/1027.html |title=横田空域の一部返還/一歩前進、米軍支配は続く |accessdate=2020-02-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110321061505/http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/danmen/danmen2006/1027.html |archivedate=2011-03-21 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。[[2007年]]5月17日、[[ニューヨーク]]を訪問中に講演会で日米安保条約について触れ、「台湾や尖閣諸島での有事の際に、米国が日本の防衛にどれだけ責任を持つかは極めて疑問だ」「米国が日本を守らないのなら、自分で何とかする。それは、米国が懸念する核保有につながるかもしれない」と[[日本の核武装論|核武装]]を示唆した。 :[[トヨタ自動車の大規模リコール (2009年-2010年)]]が起こった時には「アメリカのメンタリティとして自分たちの作り出した自動車を日本に抜かれた、腹立たしい気分はあるだろうね。これがフォードやGMの問題だったら、ちょっとこんな騒ぎにはならなかった気がするけどね。アメリカはそういうところはしたたか、ずるいんですよ」と発言した<ref>[http://response.jp/article/2010/02/13/136317.html 反発はアメリカの嫉妬? 石原都知事、トヨタリコールで発言] Response.</ref>。 ==== TPP反対 ==== :[[2011年]](平成23年)10月28日の記者会見で、[[環太平洋パートナーシップ協定|TPP]]について「あんなものはアメリカの策略で、みんなもうちょっと頭を冷やして考えたほうがいい」「[[国民皆保険]]や日本の寿命の高度化はおそらく基本的にぐらついてくる」と主張、TPP参加反対の姿勢を示した<ref>しんぶん赤旗 2011年10月29日 2面</ref>。 ==== 南アフリカ共和国 ==== :[[1984年]](昭和59年)6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった<ref>[http://www.h3.dion.ne.jp/~win-tom/newpage7.htm アパルトヘイトへの加担の罪] {{Wayback |url=http://www.h3.dion.ne.jp/~win-tom/newpage7.htm |date=20070206135656}} 2008年9月20日閲覧</ref>。同議連には40人が参加し、[[南アフリカ共和国]]で実施されていた[[アパルトヘイト]]政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、[[レアメタル]]などの希少金属の確保を目的とした活動を行っていた。 ==== 外国人参政権 ==== :[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]や[[公明党]]などが成立を目指す[[日本における外国人参政権|外国人地方参政権]]については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」など、反対意見をはっきり述べている<ref>{{Cite news |title=【石原知事会見詳報 (1) 】外国人参政権「危ない試み。発想おかしい」 (1/3ページ) |newspaper=産経新聞 |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100115/lcl1001152329003-n1.htm|date=2010-01-15 |accessdate=2010-01-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100118123245/http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100115/lcl1001152329003-n1.htm |archivedate=2010-01-18 |deadlinkdate=2019-02}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100115AT3B1501B15012010.html |title=石原都知事、「絶対反対」 永住外国人への地方参政権付与に |newspaper=日本経済新聞 |date=2010-01-15 |accessdate=2010-01-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100118073408/http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20100115AT3B1501B15012010.html |archivedate=2010-01-18}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010011500801 |title=外国人参政権「絶対反対」=永住するなら国籍取得を-石原都知事 |newspaper=時事通信 |date=2010-01-15 |accessdate=2010-01-15}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100115150.html |title=石原都知事 永住外国人の地方選挙権「絶対反対」 |newspaper=スポーツニッポン |date=2010-01-15 |accessdate=2010-01-15}}</ref>。[[2010年]](平成22年)[[3月3日]]、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした<ref>{{Cite news |title=外国人参政権 都議会で答弁 知事「絶対反対だ」 (1/2ページ) |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/100304/tky1003041204000-n1.htm |date=2010-03-04 |accessdate=2010-03-10}}{{リンク切れ|date=2020-02 |bot=InternetArchiveBot}}</ref>。 === 話題・問題になった発言など === ;石原発言捏造テロップ事件 {{Main|石原発言捏造テロップ事件}} :[[2003年]](平成15年)[[11月2日]]、[[TBSテレビ|TBS]]『[[サンデーモーニング]]』が「[[韓国併合|日韓併合]]を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓併合を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったものの、TBSから誠意ある回答が得られないとして[[告訴・告発|刑事告訴]]した。その結果、[[名誉毀損罪|名誉棄損]]容疑で TBSの社員ら4人が[[東京地方検察庁|東京地検]]に[[書類送検]]されたが<ref>[http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_12/g2004121501.html 慎太郎「当然だ!」…日韓発言誤報TBS社員が送検] {{Wayback |url=http://www.zakzak.co.jp/gei/2004_12/g2004121501.html |date=20071219005925}} [[夕刊フジ]] 2004年12月15日</ref>、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として、番組で謝罪した。 ;在日外国人・諸文化 :[[在日韓国・朝鮮人]]らの[[日本の外国人]]および外国文化に関する発言が政治問題化することがあるが、一方、賛同意見もある。2000年(平成12年)[[4月9日]]の[[陸上自衛隊|陸自]]記念式典において「不法入国した多くの[[第三国人|三国人]]、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害が起きた時には騒擾(そうじょう)すら想定される」<ref>『朝日新聞』2000年4月12日</ref>と発言し、三国人という言葉が取り上げられ問題とされた<ref>{{Citation |last=LARIMER |first=TIM |last2=Sakamaki |first2=Sachiko |title=Rabble Rouser |newspaper=TIMEasia |location=Tokyo |volume=155 |number=16 |date=2000-04-24 |url=http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/cover1.html |accessdate=2010-02-21}}</ref>。石原は自身のウェブサイトでこの発言について、単に外国人犯罪について言及した発言であり[[朝日新聞]]や特定組織に三国人という語の差別性だけを拡大解釈された、との考えを示している<ref>[http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no12.html 「あきれたメディア事情」石原慎太郎エッセイ『日本よ』] {{Wayback |url=http://www.sensenfukoku.net/mailmagazine/no12.html |date=20070216144907}} 2003.06.02 産経新聞</ref>。また「謝罪の必要はない」とも述べた<ref>{{Citation |title='There's No Need For an Apology' |newspaper=TIMEasia |location=Tokyo |volume=155 |number=16 |date=2000-04-24 |url=http://www.time.com/time/asia/magazine/2000/0424/int.ishihara.html |accessdate=2010-02-21}}</ref>。[[2001年]](平成13年)5月には、[[中国人]]犯罪について「民族的[[デオキシリボ核酸|DNA]]を表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した<ref>『[[産經新聞]]』2001年5月8日</ref>。[[2004年]](平成16年)10月、都庁内であった[[首都大学東京]]の支援組織設立総会で[[フランス文学]]が好きでフランス語を勉強したと述べた上で「[[フランス語]]は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」との主旨の発言をした。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した<ref>東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員一同「[http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/04-11/041101katayama-toritsu.htm 石原東京都知事に発言の撤回を求める]」 2004年10月31日、2004年11月1日更新、2010年2月21日取得。なお、同声明の中で、「相手国の言語と文化をいたずらに貶めて恥じないような人物を、東京都の長の座に、そして大学設置主体の最高責任者の座に戴いてしまったことの不幸を、良識ある東京都民、現・東京都立大学の教職員、学生諸君とともに心より嘆く」と述べ、また、「フランス語の講師が8人云々」の発言に対し、「現・東京都立大学において、フランス語を学ぶ学生は、毎年、数百人の規模で存在しており、また、人文学部フランス文学専攻に在籍する学生の数(昼間部・夜間部の上限定数、各学年それぞれ9名・3名)がゼロであった年度など、いまだかつて一度もなかった」とも述べている。</ref>。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した<ref>『[[東奥日報]]』2007年3月19日</ref>。韓国人については「[[大韓民国|韓国]]に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は[[朴正煕]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]だ」との認識をインタビューで語っている<ref>『朝日新聞』2000年4月26日</ref>。{{要出典範囲|date=2021-01|また帰化人の[[金田正一]]や在日コリアンの[[つかこうへい]]とも親交がある。また思想的に正反対でありながらも[[柳美里]]を作家として評価する発言をした事もある}}。一方、オリンピックの[[福岡県|福岡]]誘致を応援した[[姜尚中]]について「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と発言した<ref>「姜尚中氏の福岡応援に石原知事反発 『怪しげな外国人』」『朝日新聞』2006年8月30日。</ref>。 ;日本人 :「日本人には[[携帯電話]]を使って[[売春]]する子供が、[[小学生]]でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それを[[鉄道駅|駅]]の[[コインロッカー]]に隠している。こんな[[風俗]]は他の国にはまずない<ref>「石原都知事 小学生が売春で1000万円稼ぐ日本人を嘆く」『[[週刊ポスト]]』2011年2月25日号</ref>」と主張している。石原はその主張の根拠として[[読売新聞]]社会部が著した書籍『親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち』(2010年11月)を挙げている<ref>{{Cite book|和書 |title=親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち |author=読売新聞社会部 |publisher=[[中央公論新社]] |date=2010-11 |isbn=9784120041709}}</ref>。 ;東日本大震災について :[[2007年]](平成19年)[[4月8日]]の都知事選の当選確定直後、会見で「[[阪神・淡路大震災|阪神大震災]]では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の[[兵庫県]]知事・[[貝原俊民]]が「見当違い」と反論した。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「[[佐々淳行|佐々さん]]の受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言<ref>『毎日新聞』2007年4月28日</ref>。[[2011年]](平成23年)[[3月14日]]には、[[東日本大震災]]により日本の[[東北地方]]で広範囲が[[津波]]の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「アメリカのアイデンティティーは[[自由]]。[[フランス]]は[[自由、平等、友愛|自由と博愛と平等]]。日本はそんなものはない。日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした<ref>[http://www.asahi.com/national/update/0314/TKY201103140356.html 「大震災は天罰」「津波で我欲洗い落とせ」石原都知事] Asahi.com 2011年3月14日</ref>。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった<ref>[http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011031401000989.html 大震災は「天罰」と石原知事 「津波で我欲洗い落とせ」] [[共同通信]]2011/3/14 21:00</ref>。この発言に対し、津波被害を受けた[[宮城県]]の[[村井嘉浩]]知事が不快感を示したほか、[[長渕剛]]も、自身のラジオ番組『長渕剛 RUN FOR TOMORROW 〜明日に向かって〜』で「ふざけるな石原。東北の人たちが何をした」と非難。果てはメールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110315-OYT1T00633.htm 石原知事、天罰発言撤回・謝罪「深く傷つけた」] {{Wayback |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110315-OYT1T00633.htm |date=20110317042458}} YOMIURI ONLINE 2011年3月15日</ref>。この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の韓国併合は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が(今回の都知事選で)どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0316&f=national_0316_107.shtml 「自国民にまで毒舌」…石原都知事の「天罰」発言を非難=韓国]</ref>。また、[[三宅久之]]が支持をする一方、[[桂ざこば (2代目)|桂ざこば]]からは「共感できない」と苦言、[[泉谷しげる]]などは激怒しながら批判をした。 ;原子力発電所事故について :石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。東京都知事に就任した翌年の[[2000年]](平成12年)[[4月26日]]、[[東京国際フォーラム]]で開かれた日本原子力産業会議の第33回年次大会の場において、石原は「完璧な管理技術を前提とすれば、東京湾に[[原子力発電所]](原発)を造っても良いと思っている」などと発言していた<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aki11/2011-03-29/2011040104_06_0.html 石原都知事、原発で暴言数々]{{リンク切れ|date=2020年2月 |bot=InternetArchiveBot}}</ref>。ただし、石原の構想は、東京都の電力依存を軽減するために、(津波や巨大地震をやり過ごせる)フローティングシステムの上に、[[東芝]]製の[[4S (原子炉)|4S炉]]のような5万キロワットクラスの超小型原発を必要数東京湾に浮かばせるという具体的なものであった<ref>[http://www.cnfc.or.jp/pdf/Plutonium54J.pdf 『2030年に30-40%程度以上でいいのか』社団法人原子燃料政策委員会 (2006年)]</ref>。その後、[[2011年]](平成23年)[[3月11日]]に発生した[[東北地方太平洋沖地震]]の影響で[[福島第一原子力発電所]]が爆発事故を起こし、大規模な[[放射能汚染]]が[[福島県]]のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中で、石原は同年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」などと発言した<ref>{{Cite web|和書|date=2011-03-25 |url=http://www.gaylife.co.jp/?p=1775 |title=石原慎太郎知事、「原発推進論者」と発言 |author= |publisher=Gay Life Japan |accessdate=2013-05-27 |deadlink=2020-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120415112640/http://www.gaylife.co.jp/?p=1775 |archivedate=2012-04-15}}</ref>。{{要出典範囲|date=2021年7月1日 (木) 05:09 (UTC)|[[2011年東京都知事選挙]]の頃、[[東国原英夫]]・[[渡邉美樹]]・[[小池晃]]など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えていた中、選挙公約ではないが、石原は自身を原発推進論者だと語っていた。}}<ref>{{Cite news|和書 |title=石原都知事が来県、 |newspaper=朝日新聞 |date=2011-3-26 |edition=福島全県版}}</ref>。 ;首相への発言行呼びかけ :[[2010年]](平成22年)[[6月19日]]、[[札幌市]]内で開かれた[[たちあがれ日本]]の集会で、[[菅直人]]内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の[[中央観閲式|観閲式]]の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と発言した<ref>{{Cite news |url=http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/237582.html |title=「構わず首相を殴れ」 観閲式めぐり石原都知事が発言 |publisher=北海道新聞 |date=2010-06-20 |accessdate=2010-06-20}}</ref>。 ;女性専用車両 :2012年2月24日の都庁定例記者会見で、記者から「女性専用車両は差別では」との質問に際に、「混雑差はそんなにあるのか」「女性は弱者ではない」「今度俺が女性専用車両乗ってみるが痴漢扱いされたら問題提起する」と、女性専用車両にある数々の問題を厳しく指摘する見解を示された。しかし、その一方で、知事をしていた当時、[[東京都交通局]]では[[都営地下鉄]]に女性専用車両を設置している。{{Youtube|U04E6G2Cy8o|石原慎太郎都知事が記者会見で女性専用車両を問題視}} ;東京中央郵便局建替問題 :[[2009年]](平成21年)、当時の[[総務大臣]][[鳩山邦夫]]が[[東京中央郵便局]]建物の[[文化財]]的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないとして、建物の一部を保存した現行の建替え案への容認を示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める[[都市計画]]決定である[[JPタワー]]計画を行った<ref>[http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090307k0000m010100000c.html 東京中央郵便局:都が建て替え認める都市計画決定][[毎日新聞]] 2009年3月6日 {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090307k0000m010100000c.html |date=20090307114952}}</ref>。この建て替え工事は2012年5月31日に終了し、2013年3月21日にグランドオープンを迎えた。 ;賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限 :[[2012年]](平成24年)3月に、[[立川市]]の都営アパートで住民が孤立死した事件に関し、記者会見で「住んでいる人たちは権利者じゃなく使用者。管理人が合鍵で入って、元気ならああ失礼しました、お元気でって帰ればいいじゃないですか」と、管理者の都住宅供給公社の姿勢を批判した<ref>[[東京新聞]] 2012年3月10日付朝刊 したまち版 p.26「石原知事会見ファイル 9日発言」</ref>。 ;「ニート」・フリーター :ニート・フリーターについて、「[[ニート]]なんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/POLICY/TOMIN/GIRON/eif85100.htm 「次代の日本と世界を担う若者とは…」平成17年度第1回「〜東京ビッグトーク〜石原知事と議論する会」議事概要] {{Wayback |url=http://www.metro.tokyo.jp/POLICY/TOMIN/GIRON/eif85100.htm |date=20120127075706}} H17.8.5</ref>「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2006/060118.htm |title=石原知事臨時記者会見録 平成18 (2006) 年1月18日 (水) |accessdate=2007-03-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070415081247/http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2006/060118.htm |archivedate=2007-04-15 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>「[[フリーター]]とかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」<ref>{{リンク切れ|date=2010-03}}[http://www.gikai.metro.tokyo.jp/netreport5/no_4/04.htm 都議会ネットリポートno_4/04.htm]{{リンク切れ|date=2020-02 |bot=InternetArchiveBot}}</ref>との見解を示している。[[田中良 (政治家)|田中良]]都議から、石原が(働いている)フリーターも穀つぶしと非難したことは[[ワーキングプア]]に対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と反論した<ref>{{リンク切れ|date=2010-03}} [http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2007-1/d5117211.htm 東京都議会本会議議事録 2007-1/d5117211.htm] {{Wayback |url=http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2007-1/d5117211.htm |date=20071018045152}}</ref>。[[ネットカフェ難民]]について、2008年10月3日の定例会見では、「[[山谷 (東京都)|山谷]]に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した<ref>[http://www2.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20081003010006601.asp カフェ難民の報道おかしい 石原都知事]東奥日報 2008年10月3日 {{Wayback |url=http://www2.toonippo.co.jp/news_kyo/news/20081003010006601.asp |date=20160314105925}}</ref>。この発言は[[吉住弘]][[台東区長]]から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている<ref>{{リンク切れ|date=2010-03}} [http://mainichi.jp/select/today/news/20081011k0000m040079000c.html 石原都知事: 「山谷は200〜300円」発言を撤回] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/today/news/20081011k0000m040079000c.html |date=20081013165611}} 毎日新聞 2008年10月11日</ref>。[[年越し派遣村]]問題については、[[2009年]](平成21年)[[1月5日]]、年頭の挨拶において[[厚生労働省]]の対応を批判した<ref>{{リンク切れ|date=2010-03}} {{Cite news |title=石原知事、派遣村問題で国に苦言「大事な現場を知らない」|newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090105/lcl0901051820002-n1.htm |date=2009-01-05 |accessdate=2019-02-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090122054104/http://sankei.jp.msn.com/politics/local/090105/lcl0901051820002-n1.htm |archivedate=2009-01-22}}</ref>。 ;天皇 :[[2006年]]、「祭司たる天皇」というタイトルのエッセイの中で、天皇について、「天皇こそ、今日の世界に稀有となったプリースト・キング(聖職者王)だと思っている」「天皇は本質的に宗教というよりも、宗教的しきたりも含めて日本の文化の根源的な資質を保証する祭司に他ならない」という見解を示している<ref name="tenno">[http://210.136.153.187/mailmagazine/no44.html 石原慎太郎エッセイ「日本よ」「祭司たる天皇」] 産経新聞、2006年。</ref>。そして、神道が日本人の感性の表象であるとし、過去の歴史の中で[[天皇]]が政治に様々な形で組み込まれ利用されてきた一面にも触れながら、「それらの時代を通じて天皇に関わる事柄として日本人が一貫して継承してきたものは、神道が表象する日本という風土に培われた日本人の感性に他なるまい。そして天皇がその最大最高の祭司であり保証者であったはずである。私がこの現代に改めて天皇、皇室に期待することは、日本人の感性の祭司としてどうか奥まっていただきたいということだ」と書き綴っている<ref name="tenno"/>。石原の天皇に対する態度は複雑である。天皇を元首とし、[[君主]]としての行為を称えたり、天皇の[[靖国神社]]親拝を期待<ref name="yomiuri20130212">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130212-OYT1T00987.htm |title=石原氏、予算委で“独演会”…憲法や尖閣諸島で「神道の祭司である天皇陛下に、国民を代表してぜひぜひ参拝していただくことをお願いしてほしい」 |agency=[[読売新聞社]] |publisher=[[YOMIURI ONLINE]] |date=2013-02-12 |accessdate=2013-02-12 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130215100540/http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20130212-OYT1T00987.htm |archivedate=2013-02-15}}</ref>する時もあれば興味が無いと言ったりもする。[[東日本大震災]]の発生から少し経った[[2011年]](平成23年)[[3月30日]]、天皇に対し[[徳仁|皇太子徳仁親王]]夫妻と[[秋篠宮文仁親王|秋篠宮]]夫妻を名代として被災地への見舞いに差し向けることを建言するも、天皇は「東北へは私が自分でいきます」と答えた。のちに天皇は被災した各地を慰問したが、[[2012年]](平成24年)2月に天皇が[[狭心症]]と診断されたことから、石原は「私の建言なんぞの前に陛下はとうにご自分で心に決めておられていたのだと思う」としつつも「しかし陛下にじかに、余計だったかも知れぬ建言を申し立てた私としては、陛下が心臓の病で倒れられたと聞いた時密かな自責の念に囚われぬ訳にはいかなかった」と記し、「(東日本大震災一周年追悼式にて)式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下万歳を叫びたかった」「陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な[[君主]]として、そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う」と天皇を称えたり<ref>{{Cite news |title=【日本よ】石原慎太郎 天皇陛下の勇気 |newspaper=MSN産経ニュース |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/120402/imp12040203120002-n1.htm |date=2012-04-02 |accessdate=2012-10-15 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120430225917/http://sankei.jp.msn.com/life/news/120402/imp12040203120002-n1.htm |archivedate=2012-10-15 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>、「神道の祭司である天皇陛下に、国民を代表してぜひぜひ参拝して頂く事をお願いして欲しい」と天皇の[[靖国神社]]親拝を切望したり<ref>石原慎太郎 衆議院予算委員会国会議事録 2013年2月12日。</ref><ref name="yomiuri20130212"/>、運輸相だった1989年9月22日の記者会見で「天皇陛下は元首でもあるが、それ以上に、国民のおとうさんみたいなものだ」と述べて、天皇を元首とし憲法に明記すべきとの見解であるが<ref name="asahi19890110">[http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2003/01291/contents/015.htm 元首はだれか 「象徴」に揺れる解釈(政治の中の天皇:3)]1989年1月10日 朝日新聞朝刊</ref><ref>[http://sensenfukoku.net/philosophy/nation/constitution/ 『「アメリカ信仰」を捨てよ』 光文社、2000年、11月。]「[[憲法改正論議|憲法改正]]までに十年をかけるという意見が膾炙しているが、しかしそんな呑気なことでいいのだろうか」</ref>、27歳頃には『文藝春秋』1959年8月号で「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」<ref>『文藝春秋』1959年8月号</ref>、28歳頃には[[深沢七郎]]の小説『風流夢譚』が[[皇室]]への不敬とされる描写で物議をかもした折、『週刊文春』1960年12月12日号で「とても面白かった。皇室は無責任きわまるものだったし、日本に何の役にも、立たなかったのだ。そういう、皇室に対するフラストレーション(欲求不満)を、われわれ庶民は持っている。この作品の感覚は、庶民の意識としては、ぜんぜんポピュラーだ、読んでいてショックもなかった」<ref>『週刊文春』1960年12月12日号</ref>との発言が見られ、[[文學界]]の2014年3月号のインタビューで、聞き手の[[中森明夫]]から皇室について考えを尋ねられた時には「いや、皇室にはあまり興味ないね」と答え、小学生の時に、[[皇居]]の前で父親に「頭下げろ」と小突かれ、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。馬鹿じゃないか、と思ったね」と当時を回想している<ref name="名前なし-2">{{Cite news |title=石原慎太郎氏「君が代は歌詞を変えて歌う」と発言 「斉唱が義務」の教員もそんなことが許されるのか? |newspaper=J-CASTニュース |date=2012-03-04 |url=https://www.j-cast.com/2014/03/04198326.html |accessdate=2014-03-21}}</ref>。月刊ペン 1969年11月号に掲載された[[三島由紀夫]]と石原慎太郎の対談内では、三島が戦後のパーソナルな人間天皇制が一番いけないとの見解を述べて天皇の話題を切り出し、それに対し石原は「そうです。昔みたいにちっとも神秘的ではないもの」と応じている。三島は再度、天皇をパーソナルなものにするということは[[天皇制]]に対する反逆だとの見解を述べ、石原は「僕もまったくそう思う」と応じ、その後に三島は「石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、[[天皇制廃止論]]者をつくっちゃった」と述べ、石原は「僕は反対じゃない。幻滅したの」と応じている。その時に、三島は「幻滅論者というのはつまりパーソナルにしちゃったから幻滅したんですよ」と結論づけた<ref>[[三島由紀夫]]・石原慎太郎の対談『守るべきものの価値』(月刊ペン 1969年11月号に掲載)</ref><ref name="naotake">『[[尚武のこころ]] 三島由紀夫対談集』([[日本教文社]]、1970年。1986年再刊)に所収。</ref><ref name="taidan40">『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年)に所収。</ref>。[[夏季オリンピック|オリンピック]]誘致活動においては、[[皇族]]の協力を求めている。[[明仁]]天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、[[宮内庁]]に咎められたこともある<ref>『産経新聞』2002年10月21日</ref>。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した<ref>{{Cite news |title=「宮内庁ごときが決める問題ではない」石原知事が反発 五輪招致 皇太子さまご協力問題 |newspaper=産経新聞 |url=http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080704/imp0807041933001-n1.htm |date=2008-07-04 |accessdate=2008-07-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080706233619/http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080704/imp0807041933001-n1.htm |archivedate=2008-07-04 |deadlinkdate=2019-02}}</ref>。{{要出典範囲|date=2021年7月1日 (木) 05:09 (UTC)|[[2008年]](平成20年)2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として[[弾道ミサイル]]を地上から迎撃する[[航空自衛隊]]の[[パトリオットミサイル|地対空誘導弾ペトリオットPAC-3]]を[[皇居外苑|皇居前広場]]で展開すべきとの見解を示している}}。 ;日の丸・君が代 :[[毎日新聞]](1999年(平成11年)3月13日付)のインタビューにて「[[日本の国旗|日の丸]]、[[君が代]]を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の[[滅私奉公]]みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ」と答えている。一方で、都知事就任後は[[文部省]]の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し[[懲戒処分]]を行った。この処分に対し東京都立学校の教職員173人が、都に処分の取り消しと1人あたり55万円の賠償を求める訴訟を[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こしている<ref>[http://www.asahi.com/special/061213/TKY200702090332.html asahi.com: 君が代不起立で処分は違法 173人が提訴 東京地裁 - 石原都政特集] 2007年2月9日</ref>。[[文學界]]の2014年3月号で、[[中森明夫]]からインタビューを受けた時に「僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」。そして、こう歌うと周りの人たちが驚いて振り返るのだと明かしている<ref name="名前なし-2"/>。 ;靖国 :靖国神社には毎年8月15日に参拝し、総理大臣には「もし首相が靖国に行かなければ、この国は芯からガラガラと崩れていく」<ref>(2005年6月都議選応援演説)</ref>と参拝を求め、天皇の[[靖国神社]]親拝を期待する発言を行い、[[小谷喜美]]との対談の中で「日本が行った戦争がすべて[[侵略戦争|侵略]]だから靖国に参拝するななんていう[[進歩的文化人]]の連中はおかしい」と述べている。一方で<ref name="yomiuri20130212"/>、[[A級戦犯]]の靖国合祀に関しては異議を唱えたこともある<ref>『産経新聞』2005年9月5日</ref>。「靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼らを無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である」「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした[[東条英機]]より、潔く自決した[[大西滝治郎]]中将や[[阿南惟幾]]陸相を靖国へ合祀しないことに異議を唱えた。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。 ;ジェンダー・同性愛 :自著の『真実の性教育』(1972年、光文社)は、石原の大ヒットとなった子育て本『スパルタ教育』の後続を当て込んで出された本の一つであるが、「同性愛など、そうした衝動が衝動として異常とは、けっして言いきれない」「それを日々の性愛の生活のなかにいちいち体現するのは、これはアブノーマルかもしれぬ。しかしある程度のものは、じつは性生活、性愛のスパイスのようなもので、適度に用いられれば、性生活、性愛の高揚につながるはずである」といっている<ref>『真実の性教育』(1972年、光文社)</ref>。また、自身の書いた小説に同性愛をテーマにした『待伏せ』という1967年に発表された短編が存在する。現在の石原と国家観が異なる[[豊崎由美]]と[[栗原裕一郎]]は『待伏せ』を「たとえ芥川賞候補作であっても、A評価で推せるくらいの秀作ですよ」と評価し、「コワイ」「ナガイ、ヨル」などと文字を書き合って会話する描写を見た豊崎が「かーわーいーいー!」「セックスよりも濃いっ」とはしゃいだりする一幕もあった<ref>[http://lite-ra.com/2014/06/post-175_2.html "同性愛嫌い"の石原慎太郎が書いた「BL小説」がすごい]リテラ</ref>。高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』([[福島次郎]]著)が1996年(平成8年)、第115回[[芥川龍之介賞|芥川賞]]候補となった際、石原はこの小説を強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。ちなみに著者の福島は、三島由紀夫との赤裸々な同性愛関係を綴った「剣と寒紅」の著者でもある。2000年代に入った頃からは[[2010年]](平成22年)[[12月3日]]の記者会見で、「テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている」と同性愛者の露出に言及するなど、センセーショナルに報じられるようになる<ref>[http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20101204ddlk13010267000c.html 都青少年健全育成条例改正案: PTA団体など、都に成立求め要望書/東京] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/area/tokyo/news/20101204ddlk13010267000c.html |date=20101205223017}} 毎日新聞 2010年12月4日 地方版</ref>。同年12月7日、この発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・[[サンフランシスコ]]を視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した<ref>[http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html 石原都知事:同性愛者「やっぱり足りない感じ」] {{Wayback |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20101208k0000m040122000c.html |date=20101209035226}} 毎日jp 2010年12月7日</ref>。この発言は日本国外でも問題になり、国際人権団体[[ヒューマン・ライツ・ウォッチ]]は発言を撤回すべきだとする声明文を発表した<ref>[http://www.hrw.org/ja/news/2011/02/01 日本 東京都知事は同性愛者差別発言を撤回すべき | Human Rights Watch]</ref>。またWSJの日系記者は日本国内の一部のメディアしか大きく問題視しなかったことに疑問を呈した<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.wsj.com/US/Economy/node_179629 |title=【肥田美佐子のNYリポート】米人権団体が石原都知事の同性愛差別発言に「ノー」 ウォールストリートジャーナル日本版 |accessdate=2011-02-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110204214108/http://jp.wsj.com/US/Economy/node_179629 |archivedate=2011-02-04 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。また人権救済申し立てを受けた[[日本弁護士連合会]]から2度にわたり警告を受けている<ref>[http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/complaint/year/2014/140422.html 元東京都知事石原慎太郎氏宛て警告(HTML版)][http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/hr_case/data/2014/complaint_140422.pdf 元東京都知事石原慎太郎氏宛て警告(文書)] 日本弁護士連合会2014年4月22日</ref>。2010年代には、石原の同性愛に関する発言がセンセーショナルな話題になると、同年、同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards (TSSA) の「ラズベリー賞」([[ゴールデンラズベリー賞]]の[[オマージュ]])を受賞した。TSSA公式サイトによると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市およびニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として[[東京都庁舎|東京都庁]]をTSSAの授賞式に利用させたり、2007年の[[プライド・パレード|LGBT パレード]]に都として後援したりするなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた<ref>{{Cite web|和書|author= |date=2010-12-08 |url=http://www.tokyosuperstarawards.com/?p=376 |title=TSSA2010 ラズベリー賞の発表!! |work=PRESS |publisher=Tokyo SuperStar Awards |accessdate=2010-12-10}}{{リンク切れ|date=2020-02 |bot=InternetArchiveBot}}</ref><ref>{{Cite news |title=石原都知事、TSSAラスベリー賞を受賞 |author= |url=http://www.gaylife.co.jp/?p=1286 |newspaper=[[GAY LIFE JAPAN]] |publisher=コチ株式会社 |location=[[東京都]] |date=2010-12-09 |accessdate=2010-12-10 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101215013829/http://www.gaylife.co.jp/?p=1286 |archivedate=2010-12-15}}</ref>。[[ジェンダーフリー]]問題を巡り、[[フェミニスト]]とは日常的に応酬し合っている。「[[女性]]が[[生殖]]能力を失っても生きているってのは無駄で罪です <ref>NPO法人JKSK「[http://www.jksk.jp/j/matsunobu/200301.htm 異議あり-偉そうな男たちの言葉の暴力- (松信章子) ] {{Wayback |url=http://www.jksk.jp/j/matsunobu/200301.htm |date=20070301134210}}」</ref>」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、[[きんさん・ぎんさん]]の年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」<ref>『[[週刊女性]]』2001年11月6日号</ref>と識者の話を引用する形で発言をし([[ババア発言]])、[[裁判]]に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。 ; '''猥褻と表現規制について''' :猥褻性の問題については、出世作となった『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、都政でも当初は未成年者の[[性行為|性交]]を禁止する条例案には疑問を示し、必ずしも[[保守]]派と同じ歩調を取っているわけではなかった<ref>『朝日新聞』東京版 2004年9月25日付「中学生の性交渉条例で禁止せず 知事が表明」</ref>。また、『真実の性教育』(1972年)では、本が性犯罪を誘発するわけではない、いかなるタイプの本も日常的に吸収されるべきだと述べていた。ところが、多くの自治体で表現・出版規制の動きが強まると、表現規制の強化について積極的な立場をとることになり、2010年12月東京都の青少年健全育成条例は改定された。この可決直後の定例記者会見で、ある記者がこの記述について質問をぶつけたところ、「あの頃、私は間違っていた」と回答した<ref>{{Cite book|和書 |title=タブーすぎるトンデモ本の世界 |date=2013-8-11 |publisher=(株)サイゾー |pages=254-255}}</ref>。 ; 障害者について :障害者についての発言が政治問題化したのは、[[1999年]](平成11年)9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体[[障害者]]療育施設)を視察した後の記者会見での発言だった。「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している<ref>『[[朝日新聞]]』1999年9月18日</ref>。[[東京新聞]]はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。石原は自身の発言を[[差別]]発言として報道した[[朝日新聞社]]に対して、[[産経新聞]]紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。:[[文學界]]2016年10月号において精神科医の[[斎藤環]]との対談で、[[相模原障害者施設殺傷事件]]について、「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」と発言し<ref>文學界 2016年10月号 p.128</ref>、さらに、「昔、僕が[[ドイツ]]に行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、『父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません』と言った」と肯定する発言を行った<ref>文學界 2016年10月号 p.129</ref>。 ;老人の出処進退 :[[1975年]](昭和50年)、初の[[1975年東京都知事選挙|東京都知事選挙]]出馬の演説で、現職の[[美濃部亮吉]](当時71歳)について「もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように[[前頭葉]]の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言し<ref>[[沢木耕太郎]]著 沢木耕太郎ノンフィクションIII 時の廃墟 ISBN 4163648704 p.222『シジフォスの四十日』</ref>、政治家は遅くとも70歳前に引退すべきとする考えを表明した。しかしながら、石原自身は78歳になってもなお、自らの都知事4期目当選を狙って[[2011年東京都知事選挙|2011年都知事選]]に立候補し、当選した。さらに、2012年には都知事を辞任して国会へ復帰し、新たに[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の代表になるなど、80歳を過ぎても政界から引退する意志は全くない考えを示した。 ;冒険家堀江謙一の世界一周について :[[堀江謙一]]の277日間単独無寄港世界一周成功を全否定した。[[週刊プレイボーイ]]1975年11月25日号で「堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、[[イギリス]]の[[ロビン・ノックス]]が312日間、チャイ・ブロイスチャイ・ブロイス――(以下略)」<ref>[[週刊プレイボーイ]]1975年11月25日号</ref>また、朝日新聞社の取材ヘリが堀江のマーメイド号から[[航海日誌]]を吊り上げ回収したことに「国際法違反だ」と指摘した。[[本多勝一]]は、『貧困なる精神 (121)』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。 ;[[小池百合子]]について :[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・[[公明党]]・[[日本のこころ (政党)|日本のこころを大切にする党]]から推薦で[[2016年東京都知事選挙]]に立候補した[[増田寛也]]の決起集会(2016年7月27日)に長男の伸晃と共に参加した際、「とにかく[[岩手県]]で行政手腕を発揮した増田さんに任せないとね、やっぱり厚化粧の女に任せるわけにはいかないね、これは」と増田への支援を呼びかける一方、小池に対しては「大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね。」と評した<ref>{{Cite news |url=https://www.j-cast.com/2016/07/27273726.html?p=all |title=「大年増の厚化粧が...」 石原慎太郎氏の小池氏罵倒、「逆効果」の気配【都知事選2016】 |work=J-CASTニュース |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |date=2016-07-27 |accessdate=2018-03-25}}</ref>。小池が都知事に当選した翌日の8月1日、次男の良純がテレビ番組『[[モーニングショー]]』で「おそらく小池先生もご存じだとは思いますけど、石原慎太郎というのはああいう人ですので、たぶん謝らないと思いますので、私がかわりに...」と述べ、小池に謝罪した<ref>{{Cite news |url=https://www.j-cast.com/2016/08/01274112.html?p=all |title=「お父さんには大変お世話になりました」 小池百合子氏が石原良純に放った余裕の笑顔【都知事選2016】 |work=J-CASTニュース |publisher=[[ジェイ・キャスト]] |date=2016-08-01 |accessdate=2018-03-25}}</ref>。 ;[[枝野幸男]]について :[[第48回衆議院議員総選挙]]直前の[[2017年]]10月に[[民進党]]の[[希望の党 (日本 2017)|希望の党]]への合流方針に反対姿勢を示して[[立憲民主党 (日本 2017)|立憲民主党]]を結成した際には「節を通した枝野は本物の男に見える」と評した<ref>{{Cite news |url=https://m.huffingtonpost.jp/2017/10/16/shintaros-twitter_a_23245397/ |title=「枝野は本物の男に見える」 石原慎太郎氏が絶賛(衆院選2017) |publisher=[[ハフポスト]] |date=2017-10-17 |accessdate=2018-07-01}}</ref>。 ;国外メディアの反応 :[[オーストラリア放送協会|ABC]]からはフランスの[[極右]]政治家に例えて「日本の[[ジャン・マリー・ル・ペン|ル・ペン]]」<ref>[http://www.abc.net.au/worldtoday/stories/s546099.htm The World Today Archive - Japan's Le Pen] 2002.5.2 {{en icon}}</ref>、[[中央日報]]からは「極右<!-- 政治家 -->勢力の代表」<ref>[http://jpadm.joins.com/article/article.php?aid=109998&servcode=500&sectcode=500 「中国が北朝鮮と合併するのがいちばん楽」] 中央日報2009年1月14日{{ja icon}}</ref>、[[フィガロ (新聞)|フィガロ]]や[[リベラシオン]]からは「[[国家主義]]的思想の持ち主」「右翼[[ポピュリズム|ポピュリスト]]」<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-28/2006042804_03_0.html 石原都知事が「現代美術は無」-仏メディアが批判](2006.4.28 しんぶん赤旗)</ref>、[[エコノミスト]]からは「日本右翼の年老いたゴロツキ (old rogue of the Japanese right)」<ref>[http://www.economist.com/node/21564263 Nationalism in Japan:Beware the populists(日本のナショナリズム:ポピュリストを警戒せよ)] エコノミスト2012年10月6日{{en icon}}</ref>と呼ばれるなど、各国のマスコミからは極右政治家と認識されている。石原は自らを「真ん中よりちょっと[[左翼|左]]と思っている」と述べている<ref>{{Cite news |title=【単刀直言】石原慎太郎・日本維新の会共同代表「橋下氏、壮絶に空振っちゃった」「都構想、ぴんとこないね」 |newspaper=産経新聞 |url=https://www.sankei.com/article/20140324-ZTJ2ZU4JBFKTHMNVPC3QSQJR3E/3/ |date=2014-03-24 |accessdate=2019-02-27}}</ref>。 ;大相撲の八百長について :2011年に発覚した[[大相撲八百長問題]]では2月4日の定例会見で、八百長疑惑について「相撲はそういうもの。昔から当たり前のこととしてあった」と自らの持論を展開、相撲界の現状を「日本の文化、伝統を踏まえた日本の文化の神髄である国技だというのは、ちゃんちゃらおかしい」と批判した<ref>{{Cite news |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/sports/article/news/20110205-OHO1T00086.htm |title=相撲]慎太郎都知事、八百長は「昔から当たり前、だまされて見てればいい」 |newspaper=スポーツ報知(大阪) |date=2011-02-05}}</ref>。さらに、かつて就任を要請された[[横綱審議委員]]を固辞した経緯を話した<ref>{{Cite news |url=http://www.sanspo.com/sports/news/110205/spf1102050501000-n1.htm |title=石原都知事「昔から当たり前」/大相撲 |newspaper=サンケイスポーツ |date=2011-02-05}}</ref>。 :また石原は[[1963年]]9月場所千秋楽、[[柏戸剛]] - [[大鵬幸喜]]戦で4場所連続休場中だった[[横綱]]・柏戸が勝って全勝優勝を決めた際、スポーツ紙上の手記でこの一番を八百長と断じ、「いい加減にしろ」と糾弾した{{Sfn|大鵬|2001|pp=128-129}}。[[日本相撲協会]]の[[時津風 (相撲)|時津風]]理事長(元横綱[[双葉山定次|双葉山]])は大鵬に「(八百長は)絶対になかった」ことを確認した上で、石原とスポーツ紙幹部を[[東京地方検察庁|東京地検]]に名誉毀損で告訴した{{Sfn|大鵬|2001|pp=129-130}}。このとき取締(理事)であった[[出羽海]](元幕内[[出羽ノ花國市|出羽ノ花]])が石原と[[東京會舘]]で面会して真意をただしたところ、手記は新聞社から八百長ではないかと指摘があり書いたこと<!--、原稿送信後に半信半疑となり掲載の中止を依頼したこと → {{要出典|date=2022年3月}}一旦コメントアウトします---->などを認めて謝罪した<ref>時代の証言者「昭和の牛若丸 藤ノ川 豪人 30」『読売新聞』2022年2月22日。</ref>{{Sfn|大鵬|2001|p=131}}。その後、[[大映]]の[[永田雅一]]の仲介もあり、告訴は取り下げられた{{Sfn|大鵬|2001|p=131}}。 ;諸団体との関わり :1976年、[[世界平和統一家庭連合|統一協会(統一教会)]]の「希望の日晩餐会」に出席し、あいさつをした<ref>[http://dailynk.jp/archives/46963/4 【日韓国交50年】歴史問題も霊感商法も“どこ吹く風”…統一教会と蜜月「日本の大物政治家」たち] デイリーNK 2015年6月22日</ref>。 :2000年(平成12年)、犯罪被害者の権利確立を目指す[[全国犯罪被害者の会]]代表幹事の[[岡村勲]]弁護士が[[文藝春秋]]に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、[[瀬戸内寂聴]](作家)、[[奥田碩]]([[日本経済団体連合会|経団連]]会長、[[如水会]]理事長)、[[樋口廣太郎]]([[アサヒビール]]名誉会長)が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の[[高橋宏]]([[首都大学東京]]理事長、[[如水会]]副理事長)と、山本千里([[如水会]]理事兼事務局長)が就任した<ref>[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-8.html 祝辞]{{リンク切れ|date=2020-02 |bot=InternetArchiveBot}}全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会: シンポジウム】、[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-6.html 全国犯罪被害者の会を支援するフォーラム代表/首都大学東京理事長高橋宏氏]全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会: シンポジウム】。</ref>。同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年(平成16年)の[[犯罪被害者等基本法]]の成立、2007年(平成19年)の[[刑事訴訟法]]改正による[[被害者参加制度]]創設、2008年(平成20年)の[[犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律]]改正の実現などに尽力した<ref>[[松村恒夫]][https://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h20/asahikawa_giji_kicho.html 「犯罪被害者の現状と必要な支援」] {{Wayback|url=http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h20/asahikawa_giji_kicho.html|date=20120121200056}} [[内閣府]]、2008年</ref><ref>「[https://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku/osaka_contents.html 「犯罪被害者週間」国民のつどい] {{Wayback |url=http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku/osaka_contents.html |date=20120121200834}}」内閣府,2006年</ref>。{{要出典範囲|date=2021年7月1日 (木) 05:09 (UTC)|岡村は[[2007年]](平成19年)4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、[[2007年東京都知事選挙]]で再選を目指す石原を激励した。2010年(平成22年)には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが[[有楽町]]で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった}}。 :政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の[[産経新聞]]社主[[水野成夫]]を介して[[霊友会]]の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する<ref>『てっぺん野郎』</ref>自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reiyukai.or.jp/backnumber/backnumber_02_11.html |title=あした21 (2002年) 11月号のご案内 |accessdate=2007-03-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120121105625/http://www.reiyukai.or.jp/backnumber/backnumber_02_11.html |archivedate=2012-01-21 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.reiyukai.or.jp/backnumber_05_01.html |title=あした21 (2005年)1月号のご案内 |accessdate=2007-03-04 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070928230533/http://www.reiyukai.or.jp/backnumber_05_01.html |archivedate=2007-09-02 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。また、2002年(平成14年)には霊友会の新年会で挨拶している<ref>{{Cite web |url=http://www.onokiyoko.com/album/main22.html |title=霊友会 新年会 |accessdate=2007-09-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070930124420/http://www.onokiyoko.com/album/main22.html |archivedate=2007-09-30 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。石原慎太郎本人は霊友会と深い関係にあるが、子息の[[石原伸晃]]は[[崇教真光]]、[[石原宏高]]は[[幸福の科学]]に入信しいたことがあり、一族で別々の[[新宗教]]からの支援を受けていたことになる。 :[[公明党]]は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]と並んで事実上石原都政の与党である<ref>[http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-01/2007030125_01_0.html 東京都知事選 共産党が推す吉田万三氏 自公民が支える石原都政変える確かな力] 2007.3.1 しんぶん赤旗</ref>2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。[[2007年参院選]]では公明党による都知事選支援の見返りとして、[[東京都選挙区]]から出馬する公明党公認の[[山口那津男]]の応援で街頭演説するなどしている<ref>{{Cite web |url=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/69566/ |title=http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle<br />/politics/69566/ |accessdate=2007-12-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130512084213/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/69566/ |archivedate=2013-05-12 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>。[[1999年]](平成11年)の都知事選の直前の[[週刊文春]]誌における「あなたの[[池田大作]]氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた<ref>『週刊文春』2007年3月29日号</ref>。かつては[[創価学会]]に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険な[[カルト]]集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる<ref name="ISBN 4344400011">石原慎太郎『法華経を生きる』ISBN 4344400011</ref>。 :「[[戸塚ヨットスクール]]を支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である[[戸塚宏]]の教育方針の支柱をなす「[[脳幹論]]」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.totsuka-yacht.com/kaikaku.htm |title=教育改革に関する意見 戸塚ヨットスクール |accessdate=2007-03-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20070210185448/http://totsuka-yacht.com/kaikaku.htm |archivedate=2007-02-10 |deadlinkdate=2020-02}}</ref>)に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは[[脳幹]]が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」とする主張を[[産経新聞]]のコラム(『日本よ』)や、自らの公式サイト上で公開している。 :石原と同じく[[日本会議]]代表委員である「[[崇教真光]]」代表者・[[岡田恵珠]]と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において、対談を行っている30ページの記事がある<ref>[https://web.archive.org/web/20021007225344/http://www.geocities.com/Tokyo/shrine/5712/protocols.htm THE DEMON IN THE PROTOCOLS](Garry Greenwood, 英語)</ref>。長男の[[石原伸晃]]が少年の頃、[[岡田光玉]]と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露する<ref>『崇教真光』誌平成13年12月号</ref>。また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている<ref>『崇教真光』誌 平成16年12月号</ref>。 === 新党構想 === :中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが[[保守]]系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰された。2010年、都知事と並行して「たちあがれ日本」を結党し、国政にも間接的に関わるようになる。民主党政権が末期症状に陥った2012年には、「次の首相」の世論調査で大阪市長を務めていた[[橋下徹]]と首位を分け合うまでに至る。同年、石原は都知事を辞任、橋下と「日本維新の会」を結成して国政復帰を果たす<ref name="yomiuri20121025"/><ref name="asahi20121025"/>。 === 交流 === :大学同期の[[高橋宏]](後の[[日本郵政]]副社長)、[[高原須美子]](元[[内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)|経済企画庁長官]])、[[鳥海巌]](元[[丸紅]]社長)と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった<ref>1999/05/31, 日本経済新聞</ref>。のちに石原都政で、高原は[[都営地下鉄大江戸線|都営地下鉄12号線]]路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の[[外郭団体]]から[[民営化]]された[[東京国際フォーラム]]の初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された[[首都大学東京]]の初代理事長などをそれぞれ務めた。慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した<ref name="Sanop217219"/>。 === 議員連盟 === * [[憲法20条を考える会]](顧問) * [[国際観光産業振興議員連盟]](最高顧問) * [[自主憲法研究会]](顧問) * [[2020年東京オリンピック・パラリンピック大会推進議員連盟]](名誉顧問) == 映画出演 == 映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『[[日蝕の夏]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japanese-cinema-db.jp/Details?id=6264|title=日蝕の夏|publisher=日本映画情報システム|access-date=2022-8-14}}</ref>、『[[婚約指輪 (映画)|婚約指輪]]』<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.japanese-cinema-db.jp/Details?id=6371|title=婚約指輪|publisher=日本映画情報システム|access-date=2022-8-14}}</ref>、1957年の『[[危険な英雄]]』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『[[異聞猿飛佐助 (映画)|異聞猿飛佐助]]』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『[[青木ヶ原]]』では都知事役で出演した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0049291|title=映画『青木ヶ原』に心霊シーン 編集時に気付かずそのまま公開へ|publisher=シネマトウディ|date=2013-1-12|access-date=2022-8-14}}</ref>。 1972年には裕次郎主演映画、『[[影狩り (映画)|影狩り]]』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった<ref>舛田利雄、佐藤利明、高護 『映画監督 舛田利雄 アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて』ウルトラ・ヴァイヴ、2007年、260-261頁。ISBN 978-4-401-75117-4</ref>。 == 家族・親族 == === 石原家 === ;([[愛媛県]][[松山市]]・[[八幡浜市]]・[[大洲市]]、[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]、[[東京都]]) ;家系 :慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、[[広島県|広島]]への大[[旅行]]で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』p.217</ref>。 :石原家は'''潔'''(慎太郎の父)の2代前の[[石原安太夫]]の時代に絶家となった(理由は不明)<ref name="Sanop2835"/>。それを再興するため服部家から[[服部信義]]の二男の[[石原信直|信直]]が石原家に入った<ref name="Sanop2835"/>。石原家再興の当主となった[[1862年]]([[文久]]2年)生まれの信直と、[[1867年]]([[慶応]]3年)生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた<ref name="Sanop2835"/>。長男の[[石原克己]]、長女の壽万(すま)、二男の[[石原静夫]]、三男の'''潔'''、二女の美壽(みす)、四男の[[石原真砂]](まさご)の6人である<ref name="Sanop2835"/>。信直の職業は[[警察官]]だった<ref name="Sanop2835"/>。'''潔'''は[[愛媛県]][[長浜町 (愛媛県)|長浜町]](現:[[大洲市]])に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区で過ごした<ref name="Sanop19">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』p.19</ref>。 :石原本家の[[菩提寺]]は[[八幡浜市]][[保内町]]の龍潭(りょうたん)寺である<ref name="Sanop2835"/>。 :佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな[[名門|大家]]でもないけれど、元は、落魄(らくはく)<ref group="注釈" name="rakuhaku"/>した[[士族]]です。先祖は[[武田氏|武田]]の[[浪士|残党]]でそれが[[松山市|松山]]に流れて服部姓を名乗った。[[弓 (武器)|弓]]の名人だったらしく、戦(いくさ)で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが(笑)、それで七つ矢車の[[家紋]]を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った」と述べている<ref name="Sanop2835"/>。 :[[AERA]]誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の[[吉田司]]に慎太郎は「うちは[[士族]]の出でね<ref name="taizyou_p190">[[斎藤貴男]]・[[吉田司]]『石原慎太郎よ、退場せよ!』p.190</ref>。カッコいいんだ<ref name="taizyou_p190"/>。武田の[[武士]]でね、弓矢の名人でね、[[家紋]]が7つ矢の矢車なんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。武田軍団って、戦強かったでしょ<ref name="taizyou_p190"/>。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。つまり死ぬだろうと……<ref name="taizyou_p190"/>。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で[[酒]]飲み続けて、仕事で死んでいった<ref name="taizyou_p190"/>。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね(笑)<ref name="taizyou_p190"/>」と述べている。 * 祖父・'''[[石原信直]]'''([[警察官]]) : [[1862年]]([[文久]]2年)生 - [[1922年]]([[大正]]11年)没 : [[服部信義]]の二男として生まれ石原家に入った<ref name="Sanop2835"/>。 * 祖母・'''ササヨ''' : [[1867年]]([[慶応]]3年)生 - 没 * 父・'''潔'''([[商船三井|山下汽船]]社員、幹部) [[画像:Ishihara Family.jpg|300px|thumb|{{center|[[北海道]]の[[小樽市|小樽]]にて家族写真<br />(左から父・潔、弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]、母・[[石原光子|光子]]、慎太郎)}}]] : [[1899年]]([[明治]]32年)12月生 - [[1951年]]([[昭和]]26年)10月没 :;生い立ち ::[[愛媛県]][[八幡浜市|八幡浜]]に隣接する[[長浜町 (愛媛県)|長浜]]という港町に生まれた<ref name="Sanop19"/>。[[警察官]]石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の[[派出所]]を随分転々とさせられた<ref name="Sanop2835"/>。[[1922年]]([[大正]]11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという<ref name="Sanop47">『てっぺん野郎』47-58頁</ref>。 :;山下汽船へ ::[[1913年]]([[大正]]2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現:[[愛媛県立宇和島東高等学校|県立宇和島東高校]])に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を[[退学|中退]]している<ref name="Sanop2835"/>。中退の理由は分からない<ref name="Sanop2835"/>。[[1914年]]([[大正]]3年)、[[商船三井|山下汽船]]に入社。当時潔はまだ14歳の少年だった<ref name="Sanop2835"/>。潔の山下汽船入社時の身分は店童(てんどう)だった<ref name="Sanop2835"/>。 ::慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです<ref name="Sanop47"/>。家は落魄(らくはく)<ref group="注釈" name="rakuhaku">落魄(らくはく)とは、落ちぶれること。</ref>する一方だったようですからね<ref name="Sanop47"/>」という。 ::店童(てんどう)として入社してから5年目[[台湾]]赴任時代の[[1919年]]([[大正]]8年)12月正式の社員となった<ref name="Sanop173">『てっぺん野郎』173-174頁</ref>。 ::[[1942年]]([[昭和]]17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた<ref name="Sanop173"/>。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった<ref name="Sanop173"/>。慎太郎が10歳のときだった<ref name="Sanop173"/>。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは2ヵ月にも満たなかった<ref name="Sanop173"/>。同年2月15日には本社の部長、東京支店[[副支店長]]の辞令が出て、足かけ8年過ごした小樽を後にした<ref name="Sanop173"/>。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年[[山下近海汽船]]に改組改称)取締役に転出となり、山下汽船の方は[[嘱託社員|嘱託]](部長待遇)扱いとなった<ref name="Sanop173"/>。 ::店童(てんどう)上がりだったにもかかわらず、最後は[[関連会社]]の[[重役]]にまで出世した。 :;人柄 ::妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという<ref name="Sanop47"/> ::先妻は元大同海運社長[[崎山好春]]の妻の[[姪]]に当たる<ref name="Sanop47"/>。 ::[[佐野眞一]]によれば、「[[商船三井|山下汽船]]OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々と上がった<ref name="Sanop47"/>。その評価の中に仕事に関するものはほとんどなく、[[酒]]や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい<ref name="Sanop47"/>。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである<ref name="Sanop47"/>」という。 ::慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた<ref name="Sanop62">『てっぺん野郎』62-66頁</ref>。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった<ref name="Sanop62"/>。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし…(笑)<ref name="Sanop62"/>」という。 :;晩年 ::晩年には今まで家になかった[[仏壇]]をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌して[[お経]]を上げるようになったという<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』p.99</ref>。 ::慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、[[高血圧]]のせいもあって、舌がもつれて[[お経]]を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』p.100</ref>。 * 母・'''光子'''([[加藤三之助]]の娘) [[画像:Ishihara Mituko.jpg|150px|thumb|{{center|母・石原光子<br />(神戸第二高女時代)}}]] :[[1909年]]([[明治]]42年)9月生 - [[1992年]]([[平成]]4年)6月没。 :; 生い立ち ::[[2002年]](平成14年)[[2月24日]]に[[テレビ朝日]]系で放送された『[[グレートマザー物語]]』では、光子は[[広島県]]の生まれと紹介している<ref name="tv-asahi-mother-20224"/>。 :;厳島での生活 ::加藤家は[[厳島神社]]の[[参道]]で[[土産物]]屋を開いた。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない。光子は[[大正]]末期か[[昭和]]の初め頃に厳島を出ていった。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、[[継母]]との折り合いが悪かったからだろう」という。 :;神戸での生活、結婚 ::厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は[[三宮]]にあって、[[貿易]]商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、[[従姉妹]]にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな」という<ref name="Sanop62"/>。 :: 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった<ref name="Sanop62"/>。<!-- 信憑性に乏しい人物(佐野眞一)による情報源の記述を修正 -->慎太郎は、潔と光子の[[見合い]]は[[芦屋市|芦屋]]に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、と言った。 ::[[1927年]](昭和2年)3月に神戸市立第二[[高等女学校]](現:[[神戸市立須磨高等学校|神戸市立須磨高校]])を卒業した<ref name="Sanop62"/>。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した<ref name="Sanop62"/>。 * 弟・'''[[石原裕次郎|裕次郎]]'''([[俳優]]、歌手) : [[1934年]]([[昭和]]9年)12月生 - [[1987年]](昭和62年)7月没。 :* 同妻・'''[[石原まき子|まき子]]'''(元[[俳優#性別での分類|女優]]) :* 子どもはない * 妻・'''[[石原典子|典子]]'''([[石田光治]]の娘) :[[1938年]](昭和13年)1月生 - [[2022年]](令和4年)3月8日没。 :典子の父親石田光治は落下傘の[[紐]]などを製造する東洋麻糸という[[紡績]][[会社]]に勤めていた<ref name="Sanop259">『てっぺん野郎』255-259頁</ref>。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある[[広島市]]己斐町(現:[[西区 (広島市)|西区]]己斐)で生まれた<ref name="Sanop259"/><ref name="asahi170626"/>。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年(昭和13年)秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した<ref name="Sanop259"/>。 :典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという<ref name="Sanop259"/>。 :結婚について慎太郎は[[阿川佐和子]]との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ<ref name="Sanop262">『てっぺん野郎』262-263頁</ref>。今でいう[[ラブホテル]]から二人で出てくるのを[[親戚]]に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった(笑)<ref name="Sanop262"/>。それで、呼びつけられて“切れるか[[結婚]]するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ(笑)<ref name="Sanop262"/>」と述べている。 :夫の死を追うような形で、慎太郎死去の約1か月後の2022年3月8日、84歳で死去した<ref>[https://www.sankei.com/article/20220309-N2X24MRX2FLCRBZHSWD4RGX3TM/ 石原慎太郎氏妻の典子さん死去] - 産経ニュース 2022年3月9日</ref>。 * 長男・'''[[石原伸晃|伸晃]]'''(政治家) :[[1957年]](昭和32年)4月生 - :* 同妻・'''[[田中理佐|里紗]]'''(元女優・[[タレント]]) * 二男・'''[[石原良純|良純]]'''(俳優・タレント、[[気象予報士]]) : [[1962年]](昭和37年)1月生 - * 三男・'''[[石原宏高|宏高]]'''(銀行員、政治家) : [[1964年]](昭和39年)6月生 - * 四男・'''[[石原延啓|延啓]]'''([[画家]]) : [[1966年]](昭和41年)8月生 - * '''末弟'''(あるいは'''従兄弟''') : [[1940年]](昭和15年)3月生 - : 最初、潔の[[戸籍]]に入っていたが、のち他家に[[養子]]縁組した<ref name="Sanop154">『てっぺん野郎』153-154頁</ref>。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂(まさご)であるという<ref name="Sanop154"/>。なおこの男性の"父"という真砂(まさご)と"母"という女性の間に正式の[[結婚|婚姻]]関係はない<ref name="Sanop154"/>。この男性が[[養子]]縁組した祖母の家と、[[山下亀三郎]]の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚に当たる<ref name="Sanop154"/>。 * 異母兄('''小河姓''') : 父・潔が先妻との間にもうけた子。 : 潔の[[姉]]壽万(すま)夫婦に子供がなかったため[[養子]]に行った。[[1952年]]([[昭和]]27年)、神戸商大を卒業して[[山下汽船]]と同じ[[資本]]系列にある第一汽船に入社した<ref name="Sanop47"/>。 * 伯母・'''壽万'''(すま、[[教員]]) : 父・潔の姉、異母兄(小河姓)の[[養親|養母]]。 : 慎太郎によれば「壽万(すま)さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という<ref name="Sanop47"/>。 : 慎太郎の異母兄(小河姓)によれば「(壽万(すま)の夫は)一時[[獣医]]をやっていましたが、すぐにやめて[[明石市]]の[[市役所]]の公吏になりました<ref name="Sanop47"/>。仕事は[[税務]]関係です<ref name="Sanop47"/>。養母も明石小学校の[[教員]]をやっとったから、生活的には困ったことはありません<ref name="Sanop47"/>」という。 * 伯父・'''[[石原克己]]'''、'''[[石原静夫]]''' : 父・潔の兄。 : [[1944年]]([[昭和]]19年)から敗戦までは、[[家制度|本家]]である克己の石原家は[[八幡浜市|八幡浜]]から[[今治市|今治]]に[[疎開]]していた<ref name="Sanop39">『てっぺん野郎』p.39</ref>。 * 叔父・'''[[石原真砂]] '''(まさご) : [[1939年]]([[昭和]]14年)没 : 父・潔の弟。 * 叔母・'''美壽'''(みす) : 父・潔の妹。 ; 小泉家との関係 : 妻典子の従兄弟の子に当たる美枝子が政治家の[[小泉純一郎]](元首相)の実弟・[[小泉正也]]と結婚した<ref>慎太郎は小泉が首相に就任する以前のインタビューで「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、[[親戚]]筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど(笑)」と述べている(系図でみる近現代より)</ref>。 === 系図 === <div style="font-size:80%"> {{familytree/start}} {{familytree|border="1"| | | | |mata|-|yoshi| | | | |mata=[[小泉又次郎]]|yoshi=[[小泉芳江|芳江]]}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | |:| |,|zyun|v|kou|zyun=[[小泉純一郎]]|kou=[[小泉孝太郎]]}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | |:| |!| | | |!| |}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | |}|-|(| | | |`|shin|shin=[[小泉進次郎]]}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | |:| |!| |}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | |:| |`|masa|masa=[[小泉正也]]}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | |sumi| | |:| | |sumi=[[小泉純也]]}} {{familytree|border="1"| | | | | | | | | | | | | 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* 『断崖』新潮社 1962.5 のち光文社カッパ・ノベルス * 『雲に向かって起つ(一・二)』[[集英社]] 1962.5(一)1962.10(二) のちコンパクト・ブックス ** 『青年の樹』の続編。 * 『禁断』角川書店 1962.6 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、文庫 * 『日本零年』文藝春秋新社 1963.6 のち角川文庫 * 『てっぺん野郎 星雲編・昇竜編』集英社 1963.12(星雲編)1964.2(昇竜編) のちコンパクト・ブックス * 『銀色の牙』講談社 1964.4 のちロマン・ブックス、角川文庫 * 『行為と死』[[河出書房新社]] 1964.5 のちペーパーバックス『行為と死 太陽の季節』、新潮文庫、講談社ロマン・ブックス『太陽の季節・行為と死』([[第二次中東戦争|スエズ動乱]]) * 『終幕』集英社 1964.7 のちコンパクト・ブックス、講談社ロマン・ブックス、文庫 * 『青春とはなんだ』講談社 1965.2 のちロマン・ブックス、角川文庫 * 『星と舵』河出書房新社 1965.4 のち新潮文庫 * 『命の森』[[読売新聞社]] 1965.4 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫 * 『砂の花』新潮社 1965.5 のち講談社ロマン・ブックス * 『おゝい、雲!』[[産経新聞|サンケイ新聞]]出版局 1965.5 のち講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫『おゝい雲』、サンケイノベルス * 『人魚と野郎』集英社 1965.5 のちコンパクト・ブックス、講談社ロマン・ブックス、角川文庫 * 『青い殺人者』集英社 1966.10 のちコンパクト・ブックス、文庫 * 『黒い環』河出書房新社 1967.2 のち講談社ロマン・ブックス * 『怒りの像』サンケイ新聞出版局 1968.6 のちサンケイノベルス、講談社ロマン・ブックス、集英社コンパクト・ブックス、角川文庫 * 『野蛮人のネクタイ』読売新聞社 1968.7 のち集英社コンパクト・ブックス、集英社文庫 * 『化石の森(上・下)』新潮社 1970.9(上)1970.10(下) のち文庫 * 『野蛮人の大学』集英社 1971.3 のちコンパクト・ブックス、文庫 ** 『野蛮人のネクタイ』の続編。 * 『刃鋼(上・下)』文藝春秋 1976.3 のち角川文庫 * 『暗闇の声』光文社 1977.2 * 『嫌悪の狙撃者』中央公論社 1978.9 のち文庫([[少年ライフル魔事件]]) * 『亡国―日本の突然の死―(上・下)』角川書店 1982.7 のち文庫『日本の突然の死―亡国』 * 『秘祭』新潮社 1984.1 のち文庫([[アカマタ・クロマタ]]) * 『暗殺の壁画』河出書房新社 1984.7 のち[[幻冬舎文庫]]([[ベニグノ・アキノ・ジュニア|ベニグノ・アキノ・ジュニア暗殺事件]]) * 『生還』新潮社 1988.9 のち文庫 ** 併録:「院内」「孤島」 * 『肉体の天使』新潮社 1996.4 * 『弟』[[幻冬舎]] 1996.7 のち文庫([[石原裕次郎]]) * 『僕は結婚しない』文藝春秋 2001.9 のち文庫 * 『火の島』文藝春秋 2008.11 のち幻冬舎文庫 * 『再生』文藝春秋 2010.9 * 『フォアビート・ノスタルジー』文藝春秋 2015.8 * 『[[天才 (石原慎太郎の作品)|天才]]』幻冬舎 2016.1 のち文庫([[田中角栄]]) * 『救急病院』幻冬舎 2017.2 のち文庫 * 『凶獣』幻冬舎 2017.9([[附属池田小事件]]) * 『湘南夫人』講談社 2019.9 のち文庫 * 『あるヤクザの生涯 [[安藤昇]]伝』幻冬舎 2021.5 のち文庫『ある漢の生涯 安藤昇伝』 ==== 未刊行長編小説 ==== * 「若い蝶」[[週刊女性]] 1957.3.17~4.7(掲載誌休刊により、連載4回で中絶) * 「女の劇場」[[女性自身]] 1959.10.21~1960.1.27 * 「闇から来る」[[週刊サンケイ]] 1961.5.15~6.19 * 「栄光の略奪」[[宝石 (雑誌)|宝石]] 1967.10~1970.5 * 「巨聖女」[[小説宝石]] 1971.1~1972.2([[小谷喜美]]) === 連作短編小説 === * 『死の博物誌―小さき闘い―』新潮社 1963.12 ** 収録:「通りすぎたもの」「雨の夜に」「屍体」「試合」「人間たち」「腕」「小さき闘い」 * 『光より速きわれら』新潮社 1976.1([[土方巽]]) ** 収録:「甘い毒」「天体」「饗宴」「舞踏」 * 『大いなる手との黙約』文藝春秋 1976.10 ** 収録:「悪夢」「追いつめられて」「喪われた海」「少年の魂」「二人だけ」「選手」「ある航海」「僧」「山の声」「私には約束がある」(※各話間に「取り調べの途中で検事との会話」が挿入される) ** 『死の博物誌―小さき闘い―』の続編。 * 『[[わが人生の時の時]]』新潮社 1990.2 のち文庫 ** 収録:「漂流」「まだらの紐」「同じ男」「テニスコートで」「落雷」「レギュラー」「ひとだま」「窒素酔い」「彼らとの出会い」「奇跡」「キールオーバー」「水中天井桟敷」「冬のハーバーで」「ナビゲーション」「死神」「慶良間のマンタ」「危険な夏」「ケーター島の鮫檻」「落水」「生死の川」「光」「鮫と老人」「ライター」「鬼火」「路上の仏」「若い夫婦」「戦争にいきそこなった子供たち」「骨折」「人生の時を味わいすぎた男」「南島のモロコ」「チリの娼館」「私は信じるが」「新島の人食い鮫」「南の海で」「鉄路の上で」「父の死んだ日」「みえない世界」「崖の上の家」「冷たい湖で」「虹」 * 『風についての記憶』集英社 1994.4 のち幻冬舎文庫 ** 収録:「風の使徒たち」「風の罠」「風についての記憶」 * 『わが人生の時の会話』集英社 1995.9 のち幻冬舎文庫 ** 収録:「ニュー・ヘレン河のほとりで」「シャーク・ポイントにて」「[[金田正一|大投手]]」「人を殺すということ」「小網代カップで」「鮫に関するマッチョ」「[[源田実|鳥人の遺言]]」「バーカウンターで」「これは夢だ」「水中会話」「あなたは誰なんです」「交番の中で」「荒天のキャビンで」「いたずら」「[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]」「深夜のウオッチで」「零戦会会長」「男の美徳」「手打ち式」「活動屋無頼」「見えぬものとの会話」「極めて短い会話」「革命の挫折」「還らなかった少年」「鷹の心情」「串刺しにされた男」「オトコ岩の[[ロウニンアジ|ガーラ]]」「[[ベニグノ・アキノ・ジュニア|死にいく者との会話]]」「アラスカでの出会い」「失われなかった男」「鮫についての考察」「アトリエにて」「ナビゲイター会議で」「暗礁発見」「[[鳥濱トメ|知覧という町で]]」「離島の医者」「[[野村秋介|ある行為者の死]]」「コスタリカの桟橋で」「最後の会話」 === 短編小説 === * 『[[太陽の季節]]』新潮社 1956.3 ** 収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「奪われぬもの」「[[処刑の部屋]]」 * 『理由なき復讐』[[三笠書房]] 1956.4 ** 収録:「ヨットと少年」「理由なき復讐」「失われた女」「取り返せぬもの」「黒い水」「日蝕の夏」 * 『[[狂った果実 (小説)|狂った果実]]』新潮社 1956.7 ** 収録:「狂った果実」「決勝戦」「舞扇」「婚約指輪」「悪い夢」 * 『北壁』三笠書房 1956.7 ** 収録:「[[アイガー|北壁]]」「透きとおった時間」「決勝戦」「黒い水」「奪われぬもの」「青い舷燈」 * 『日蝕の夏』三笠書房 1956.8 ** 収録:「日蝕の夏」「ヨットと少年」「失われた女」「取り返せぬもの」「理由なき復讐」 * 『若い獣』新潮社 1957.2 ** 収録:「空港にて」「透きとおった時間」「青い舷燈」「傷痕」「恋の戯れ」「男だけ」「若い獣」「旅の果て」 *『太陽の季節』新潮社(新潮文庫) 1957.8 ** 収録:「太陽の季節」「灰色の教室」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「黒い水」 * 『[[完全な遊戯]]』新潮社 1958.3 ** 収録:「[[谷川岳|谷川]]」「白い翼の男」「蟷螂の庭」「それだけの世界」「完全な遊戯」「霧の夜(戯曲)」 *『太陽の季節・若い獣』角川書店(角川文庫) 1958.3 ** 収録:「北壁」「透きとおった時間」「奪われぬもの」「若い獣」「それだけの世界」「ヨットと少年」「太陽の季節」 * 『男の掟』角川書店 1959.7 ** 収録:「怒りの果実」「不死鳥」「ギンザ・ファンタジア」「接吻泥棒」「遊戯の終点」「男の掟」 * 『[[乾いた花]]』文藝春秋新社 1959.11 ** 収録:「乾いた花」「それだけの世界」「[[鱶女]]」「夜の道」「顔のない男」「太陽の餌」 *『完全な遊戯』角川書店(角川文庫) 1959.11 ** 収録:「完全な遊戯」「処刑の部屋」「灰色の教室」「男だけ」「谷川」 * 『殺人教室』新潮社 1959.12 ** 収録:「[[ファンキー・ジャンプ]]」「ともだち」「殺人教室」「殺人キッド」「男たち」 * 『見知らぬ顔』新潮社 1960.9 ** 収録:「見知らぬ顔」「黒い声」「題名のないバラード」「誰」「神立ち船」 * 『死んでいく男の肖像』角川書店 1960.9 ** 収録:「死んでいく男の肖像」「吹きっさらし」「声」「失われた道標」 *『完全な遊戯』新潮社(新潮文庫) 1960.10 ** 収録:「完全な遊戯」「若い獣」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「狂った果実(03年新装版のみ)」 *『殺人教室』角川書店(角川文庫) 1962.4 ** 収録:「ファンキー・ジャンプ」「ともだち」「殺人教室」「男たち」「乾いた花」「鱶女」「太陽の餌」 * 『密航』新潮社 1963.5 のち講談社ロマン・ブックス ** 収録:「密航」「明日に船出を」「鴨」「閉ざされた部屋」「朝の微笑」 * 『傷のある羽根』文藝春秋新社 1964.8 ** 収録:「傷のある羽根」「喪われた街」「雲の上にいた」「狼の王子」 * 『還らぬ海』講談社 1966.1 のちロマン・ブックス ** 収録:「貧しい海」「還らぬ海」「獅子の倒れた夜」「白い小さな焔」「灰波」 * 『飛べ、狼』講談社 1966.4 のちロマン・ブックス ** 収録:「飛べ、狼」「虚無と貞節」「鉛の部屋」「悪い娘」「リキとタクとルリ」 * 『野性の庭』河出書房新社 1967.11 ** 収録:「[[野生児|野性の庭]]」「水際の塑像」「天使たちの革命」「[[ベトナム戦争|待伏せ]]」 * 『鎖のついた椅子』新潮社 1969.6 ** 収録:「鎖のついた椅子」「L・S・D」「一点鐘」「沈黙」「神異」 * 『北壁』(山岳名著シリーズ)二見書房 1971.10 ** 収録:「北壁」「谷川」「それだけの世界」「失われた道標」 * 『機密報告』学藝書林 1973.11 ** 収録:「機密報告」「大計画」「聖衣」「鼓斬り」「盲目の天使」「死に神と殺し屋」「神の鎖」「フィッシングボートの日記」 *『狂った果実』角川書店(角川文庫) 1980.5 ** 収録:「冷たい顔」「日蝕の夏」「失われた女」「理由なき復讐」「婚約指輪」「狂った果実」「恋の戯れ」 * 『遭難者』新潮社 1992.9 ** 収録:「遭難者」「公人」「ある行為者の回想」「パティという娼婦」「きょうだい」 * 『[[聖餐 (小説)|聖餐]]』幻冬舎 1999.7 のち文庫 ** 収録:「聖餐」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「沢より還る」「海にはすべて」 * 『太陽の季節』幻冬舎 2002.8 ** 収録:「太陽の季節」「処刑の部屋」「完全な遊戯」「ファンキー・ジャンプ」「乾いた花」 * 『生死刻々』文藝春秋 2009.11 ** 収録:「青木ヶ原」「わが人生の時の生と死」「ブラックリング」「生死刻々」「生き残りの水兵」 *** 「わが人生の時の生と死」は連作掌編小説。 **** 収録:「ライオンと若い女」「キジムナーは必ず来る」「高射機関砲陣地にて」「不思議な旅」「死にいく者たち」「ブラックアウト」「カロリンの島々にて」「エベレスト」「傭兵になった男」「斎場にて」「再会」「幻覚」 *** 「生死刻々」は連作掌編小説。 **** 収録:「おみくじ」「サイパン」「海の獣」「海での出会い」「男の功徳」「異郷にて」 * 『やや暴力的に』文藝春秋 2014.6 ** 収録:「青木ヶ原(完全版)」「やや暴力的に」「僕らは仲が良かった」「夢々々」「世の中おかしいよ」「うちのひい祖父さん」 *** 「やや暴力的に」は連作掌編小説。 **** 収録:「救急病院にて」「計画」「リングの下で」「一途の横道」「隔絶」 *** 「夢々々」は連作掌編小説。 **** 収録:「夢(その一)」「夢(その二)」「夢(その三)」「夢(その四)」「夢(その五)」「夢(その六)」「夢(その七)」 * 『海の家族』文藝春秋 2016.7 ** 収録:「ワイルドライフ」「海の家族」「ある失踪」「[[ヤマトタケル]]伝説」「特攻隊巡礼」 * 『死者との対話』文藝春秋 2020.5 ** 収録:「暴力計画」「―ある奇妙な小説―老惨」「死者との対話」「いつ死なせますか」「噂の八話」「死線を超えて」「ハーバーの桟橋での会話」 *** 「噂の八話」は連作掌編小説。 **** 収録:「横浜の男」「僧」「海軍さん」「生き仏」「悪夢」「喋り過ぎた男」「私には約束がある」「鮫の噂」 * 『宿命(リベンジ)』幻冬舎 2021.10 のち文庫 ** 収録:「宿命(リベンジ)」「流氷の町」 * 『絶筆』文藝春秋 2022.11 ** 収録:「遠い夢」「空中の恋人」「北へ」「愛の迷路」「ある結婚」「死への道程(随筆)」 ==== 未刊行短編小説 ==== * 「栄光を白き腕に」[[小説新潮]] 1958.1 * 「ファンキーな出逢い」女性自身 1960.9.28 * 「最後の接吻 チャオ・ダンジュウロウ」女性自身 1960.10.5 * 「海は許す」女性自身 1960.10.12 * 「ある別れ」女性自身 1960.10.19 * 「紅い祭礼」小説新潮 1961.1 * 「花火」小説新潮 1961.8 * 「青い島白い波」[[別册文藝春秋]] 1962.9 * 「顔のない女」別册文藝春秋 1962.12 * 「弔鐘」[[オール讀物]] 1963.6 * 「裸の踊り子」オール讀物 1963.12 * 「歴史の外で」オール讀物 1964.7 * 「暴力」[[小説現代]] 1964.12 * 「聖書」オール讀物 1964.12 * 「錆色の塔」小説新潮 1965.5 * 「天使よ、俺を起してくれ」オール讀物 1965.11 * 「癌対策 革命の童話」オール讀物 1966.1 * 「白い肖像」[[婦人公論]] 1966.9~10 * 「失踪者」別册文藝春秋 1966.12 * 「救済」[[文學界]] 1973.7 * 「視つめている眼」別册文藝春秋 1975.6 * 「ボストンの夜」[[文藝]] 1981.8 === 戯曲 === * 『[[坂本龍馬|狼生きろ豚は死ね]]・幻影の城』新潮社 1963.3 ** 収録:「狼生きろ豚は死ね」「幻影の城」 * 『[[信長記]]』河出書房新社 1972.2 ** 収録:「信長記 殺意と憧憬」「[[大久保利通|若き獅子たちの伝説]]」 ==== 未刊行戯曲 ==== * 「名前を刻まぬ墓場」文學界 1962.11 * 「琴魂 一谷物語」文學界 1963.12 === 詩集 === * 『風の神との黙約』北洋社 1975.10 ** 収録:「青い海溝」「存在の心象」 === 詩画集 === * 『にぎやかな森』書肆ユリイカ 1958.6 (詩:[[山口洋子 (詩人)|山口洋子]] 画:石原慎太郎) * 『十代のエスキース』成瀬書房 1991.3 === 絵本 === 『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)[[白泉社]] 1990.7 === 文芸批評 === * 『[[三島由紀夫]]の日蝕』新潮社 1991.3 ** 収録:「三島由紀夫の日蝕」その他、三島由紀夫との対談3編(「新人の季節」「七年後の対話」「守るべきものの価値――われわれは何を選択するか」) === 紀行文・航海記 === * 『南米横断1万キロ』講談社 1960.7 ** 1959年12月に一橋大学自動車部の隊長として参加した南米横断スクーター旅行記。 * 『大いなる海へ』集英社 1965.7 のち海洋文庫 ** 1963年度トランスパックレース(太平洋横断ヨットレース)参加記。 * 『エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録』(共著:[[三浦雄一郎]]、日本エベレストスキー探検隊)文藝春秋 1970 * 『男の海』集英社 1973.9 * 『伯爵夫人(コンテッサ)物語 ヨットを愛する歓び』集英社 1976.6 * 『一点鐘』集英社 1979.6 * 『禁断の島へ』(写真:[[加納典明]]、大津善彦)集英社 1992.3 ** [[北マリアナ諸島]]、[[グレートバリアリーフ]]、[[カロリン諸島|カロリン群島]]、[[ヘレン環礁]]への、ダイビングを中心としたクルージング旅行記。写真集の装丁だが、全体のおよそ半分が文章で埋められている。 * 『私の海』幻冬舎 2014.6 ** 石原の歴代ヨットを中心とした詩写真集。 * 『私の海の地図』[[世界文化社]] 2015.10 ** 日本各地の島を中心にした航海記。124点のカラー写真を掲載しており、写真集の趣きも持つ。 === ノンフィクション === * 『巷の神々』サンケイ新聞出版局 1967.9 のち[[PHP研究所]] === 随筆 === * 『青春にあるものとして』河出書房 1956.9 * 『価値紊乱者の光栄』凡書房 1958.11 * 『孤独なる戴冠 石原慎太郎全エッセイ集』河出書房新社 1966.7 のち角川文庫『孤独なる戴冠』 ** 文庫本は全60編から17編を収録した抄本。 * 『光速の時代に』PHP研究所 1991.7 ==== 自叙伝・回想録 ==== * 『国家なる幻影 わが政治への反回想』文藝春秋 1999.1 のち文庫 * 『わが人生の時の人々』文藝春秋 2002.1 のち文庫 * 『オンリー・イエスタディ』幻冬舎 2008.1 のち文庫 * 『歴史の十字路に立って 戦後七十年の回顧』PHP研究所 2015.6 * 『「私」という男の生涯』幻冬舎 2022.6 のち文庫 ==== 人生哲学 ==== * 『これが恋愛だ』講談社 1960.5 * 『青春との対話』(人生のことば)番町書房 1967 * 『プレイボーイ哲学』集英社 1968.5 * 『男の世界』集英社 1971.11 * 『君に情熱を教えよう』いんなあとりっぷ社 1974.11 * 『情熱のための航海』(わが人生観34)[[大和出版]] 1976.3 * 『戦士の羽飾り 男の博物誌』角川書店 1979.5 * 『バカでスウェルな男たち 男の美学』[[プレジデント社]] 1983.6 * 『[[織田信長]]の研究 歴史に学ぶリーダーの条件』(共著)プレジデント社 1984.12 * 『[[大久保利通]] 幕末を切り裂いたリアリストの智謀』(共著:[[藤原弘達]]、[[渡部昇一]]ほか)プレジデント社 1989.11 * 『[[法華経]]を生きる』幻冬舎 1998.12 のち文庫 * 『生きるという航海』(自選箴言集)海竜社 2001.4 のち幻冬舎文庫 * 『老いてこそ人生』幻冬舎 2002.7 のち文庫 * 『人生への恋文』(共著:[[瀬戸内寂聴]])世界文化社 2003.10 のち文春文庫 * 『真の指導者とは』[[日本経営合理化協会出版局]] 2004.4 のち[[幻冬舎新書]] * 『私の好きな日本人』幻冬舎 2008.11 のち新書ゴールド ** 収録:「[[ヤマトタケル|日本武尊]]」「織田信長」「大久保利通」「[[広瀬武夫]]」「[[岡本太郎]]」「[[賀屋興宣]]」「[[横山隆一]]」「[[五島昇]]」「[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]」「[[奥野肇]]」 * 『エゴの力』幻冬舎(幻冬舎新書) 2014.10 * 『男の粋な生き方』幻冬舎 2016.4 のち文庫 * 『老いてこそ生き甲斐』幻冬舎 2020.3 のち文庫 * 『男の業の物語』幻冬舎 2020.12 のち文庫 * 『自分の頭で考えよ 石原慎太郎100の名言』プレジデント社 2022.11 ==== 教育論 ==== * 『[[スパルタ教育]] 強い子どもに育てる本』光文社 1969.11 * 『魂を植える教育 高く豊かな心を育む本』光文社 1971.9 * 『真実の性教育 学校では教えない人間の性』光文社 1972.5 * 『息子をサラリーマンにしない法 わが子よ、オレを越えて行け』光文社 1975.12 * 『拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙』光文社 1987.10 * 『「父」なくして国立たず』光文社 1997.9 * 『いま 魂の教育』光文社 2001.3 * 『息子たちと私―子供あっての親―』幻冬舎 2005.11 のち文庫『子供あっての親―息子たちと私―』 * 『父のしおり 憧憬』青志社 2022.12 ==== 政治・社会論 ==== * 『祖国のための白書』集英社 1968.6 * 『新旧の対決か調和か』(共著:[[賀屋興宣]])経済往来社 1969.7 * 『慎太郎の政治調書』講談社 1970.7 * 『いかに国を守るか』(共著:[[羽仁進]]、[[藤原弘達]])日新報道出版部 1970.8 * 『慎太郎の第二政治調書』講談社 1971.1 * 『[[青嵐会]] 血判と憂国の論理』(共著:[[玉置和郎]]、[[中尾栄一]]、[[中川一郎]]、[[中山正暉]]、[[藤尾正行]]、[[三塚博]]、[[森喜朗]]、[[渡辺美智雄]])浪漫 1973.11 * 『対極の河へ』河出書房新社 1974.11 * 『世界の中の日本 80年代政治への提言』(共著:[[河本敏夫]])山手書房 1982.2 * 『流砂の世紀に』新潮社 1985.10 * 『現代史の分水嶺』文藝春秋 1987.7 のち文庫 * 『[[「NO」と言える日本|「NO」と言える日本 新日米関係の方策]]』(共著:[[盛田昭夫]])光文社 1989.1 * 『それでも「NO」と言える日本 日米間の根本問題』(共著:渡部昇一、[[小川和久]])光文社 1990.5 * 『時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の会話』PHP研究所 1990.12 のち文庫 * 『来世紀の余韻』中央公論社 1991.3 * 『断固「NO」と言える日本 戦後日米関係の総括』(共著:[[江藤淳]])光文社 1991.5 * 『かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために』集英社1994.4 * 『「NO」と言えるアジア 対欧米への方策』(共著:[[マハティール・ビン・モハマド|マハティール]])光文社 1994.10 * 『亡国の徒に問う』文藝春秋 1996.12 のち文庫 * 『宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放』(共著:一橋総合研究所)光文社 1998.9 * 『「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略』(共著:一橋総合研究所)光文社 2000.11 * 『勝つ日本』(共著:[[田原総一朗]])文藝春秋 2000.12 のち文庫 * 『日本よ』[[産経新聞出版|産経新聞ニュースサービス]] 2002.11 のち[[扶桑社]]文庫 * 『惰眠を貪る国へ 東京をテコに国を変える挑戦』産経新聞ニュースサービス 2004.3 * 『日本の力』(共著:田原総一朗)文藝春秋 2005.3 のち文庫 * 『日本よ、再び』産経新聞出版 2006.4 * 『新・堕落論 我欲と天罰』新潮社(新潮新書) 2011.7 * 『平和の毒、日本よ』産経新聞出版 2012.8 * 『東京革命 わが都政の回顧録』幻冬舎 2015.6 * 『日本よ、完全自立を』文藝春秋(文春新書) 2018.10 === 対談 === * 『対話 日本人の原点』(対談:小谷喜美)サンケイ新聞出版局 1969.4 * 『酒杯と真剣 石原慎太郎対話集』参玄社 1973.1 * 『真の革新とはなにか 石原慎太郎対論集』読売新聞社 1973.3 * 『闘論 君は日本をどうするのか』(対談:[[野坂昭如]])文藝春秋 1975.1 * 『この日本をどうする 再生のための10の対話』文藝春秋 2001.3 のち文庫 * 『永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い』(対談:[[中曽根康弘]])PHP研究所 2001.8 のち文庫 * 『[[東京の窓から]]日本を1~3』文春ネスコ 2001.10(1) 2002.9(2) 2003.4(3) * 『東京の窓から世界を』PHP研究所 2007.11 * 『生きる自信 健康の秘密』(対談:石原結實)海竜社 2008.6 のちPHP文庫『老いを生きる自信 若さと健康の知恵』 * 『鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割』(対談:[[松平康隆]])[[小学館]] 2009.4 * 『「YES」と言わせる日本』(対談:[[亀井静香]])小学館(小学館新書) 2017.7 * 『日本よ、憚ることなく』(対談:亀井静香)WAC 2019.12 * 『昔は面白かったな 回想の文壇交遊録』(対談:[[坂本忠雄]])新潮社(新潮新書) 2019.12 * 『死という最後の未来』(対談:[[曽野綾子]])幻冬舎 2020.6 のち文庫 * 『三島由紀夫石原慎太郎全対話』(対談:三島由紀夫)中央公論新社(中公文庫) 2020.7 * 『石原慎太郎 日本よ!』(対談:亀井静香)WAC 2022.3 === 現代語訳 === * 『新[[和漢朗詠集]] 現代に息づく日本人の鼓動』いんなあとりっぷ 1973.5 のち[[牧野出版]]『声に出して詠もう和漢朗詠集』 * 『新解釈現代語訳 法華経』幻冬舎 2020.7 === 選集・全集 === * '''『石原慎太郎文庫』(全8巻)河出書房新社 1964.11-1965.7(編集:三島由紀夫、江藤淳、大江健三郎)''' # 『行為と死 太陽の季節 他』――収録:「行為と死」「太陽の季節」「灰色の教室」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「価値紊乱者の光栄」 # 『亀裂 完全な遊戯 他』――収録:「亀裂」「完全な遊戯」「乾いた花」 # 『挑戦 死の博物誌―小さき闘い―』――収録:「挑戦」「死の博物誌―小さき闘い―」 # 『青年の樹(全) 十八歳』――収録:「青年の樹」「十八歳」 # 『日本零年(全)』――収録:「日本零年」 # 『汚れた夜 傷のある羽根』――収録:「汚れた夜」「傷のある羽根」 # 『狼生きろ豚は死ね 鴨 他』――収録:「狼生きろ豚は死ね」「それだけの世界」「ファンキー・ジャンプ」「殺人教室」「鴨」「密航」「三島由紀夫氏の文体」「文学への素朴な疑問」「現代青年のエネルギー」(69年再販版より「水際の塑像」「待伏せ」が追加) # 『星と舵(全)』――収録:「星と舵」 * '''『石原慎太郎短編全集』(全2巻)新潮社 1973.6''' # ――収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「奪われぬもの」「処刑の部屋」「日蝕の夏」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「狂った果実」「恋の戯れ」「男だけ」「若い獣」「蟷螂の庭」「谷川」「完全な遊戯」「それだけの世界」「乾いた花」「鱶女」「太陽の餌」「ともだち」「ファンキー・ジャンプ」 # ――収録:「十八歳」「密航」「鴨」「十年選手」「朝の微笑」「小さき闘い」「傷のある羽根」「閉ざされた部屋」「還らぬ海」「屍体」「一点鐘」「水際の塑像」「貧しい海」「沈黙」「野性の庭」「待伏せ」「L・S・D」「鎖のついた椅子」「名月鏡」「国家についての個人的会話」「条約」 * '''『石原慎太郎の文学』<ref>{{Cite web|和書|url=http://210.136.153.187/collection/index.html |title=石原慎太郎・自選小説集 |accessdate=2022/3/22}}</ref>(全10巻)文藝春秋 2007.1-10''' # 『刃鋼』――収録:「刃鋼」 # 『化石の森』――収録:「化石の森」 # 『亀裂 死の博物誌』――収録:「亀裂」「死の博物誌」 # 『星と舵 風についての記憶』――収録:「星と舵」「風についての記憶」 # 『行為と死 暗殺の壁画』――収録:「行為と死」「嫌悪の狙撃者」「暗殺の壁画」 # 『光より速きわれら 秘祭』――収録:「光より速きわれら」「秘祭」「聖餐」「肉体の天使」 # 『生還 弟』――収録:「生還」「弟」「僕は結婚しない」 # 『わが人生の時の時』――収録:「わが人生の時の時」「わが人生の時の会話」 # 『短篇集Ⅰ 太陽の季節 完全な遊戯』――収録:「灰色の教室」「太陽の季節」「冷たい顔」「処刑の部屋」「ヨットと少年」「北壁」「透きとおった時間」「男だけ」「若い獣」「完全な遊戯」「乾いた花」「鱶女」「ファンキー・ジャンプ」「十八歳」「密航」 # 『短篇集Ⅱ 遭難者』――収録:「鴨」「閉ざされた部屋」「貧しい海」「水際の塑像」「野性の庭」「待伏せ」「鎖のついた椅子」「公人」「きょうだい」「ある行為者の回想」「遭難者」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「生き残りの水兵」「詩(五篇)」 * '''『石原慎太郎の思想と行為』<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sankei-books.co.jp/sp/ishihara/index.html |title=石原愼太郎の思想と行為|産経新聞出版 |accessdate=2022/3/22}}</ref>(全8巻)産経新聞出版 2012.10-2013.7''' # 『政治との格闘』――収録:「国家なる幻影(上)」「作家ノート 虚構と真実」「非核の神話は消えた」「民主主義の虚構」「君、国売り給うことなかれ」その他エッセイ4編 # 『「NO」と言える日本』――収録:「国家なる幻影(下)」「『NO』と言える日本」「断固『NO』と言える日本」 # 『教育の本質』――収録:「スパルタ教育」「真実の性教育」「教育は愛か、体罰か(対談:戸塚宏)」「ふたたび“輝く雲”をつかむために(対談:松平康隆)」その他エッセイ12編 # 『精神と肉体の哲学』――収録:「法華経を生きる」「老いてこそ人生」「脳死と臓器移植」その他エッセイ9編 # 『新宗教の黎明』――収録:「巷の神々」 # 『文士の肖像』――収録:「三島由紀夫の日蝕」「発射塔」その他文芸批評、対談、追悼文など45編 # 『同時代の群像』――収録:「わが人生の時の人々」「オンリー・イエスタディ」その他、[[立川談志]]との対談2編、立川談志追悼文 # 『孤独なる戴冠』――収録:「僕にも言わせてもらいたい 価値紊乱者の光栄」「男の世界」「私の天皇」「戦士への別れ 追悼石原裕次郎」「孤独なる戴冠 何が残されているか」その他エッセイ19編 * '''『石原慎太郎短編全集』(全2巻)幻冬舎 2021.12''' # ――収録:「聖餐」「山からの声」「海からの声」「空からの声」「沢より還る」「海にはすべて」「青木ヶ原」「わが人生の時の生と死」「ブラックリング」「生死刻々」「生き残りの水兵」 # ――収録:「青木ヶ原(完全版)」「やや暴力的に」「僕らは仲が良かった」「夢々々」「世の中おかしいよ」「うちのひい祖父さん」「ワイルドライフ」「海の家族」「ある失踪」「ヤマトタケル伝説」「特攻隊巡礼」「暴力計画」「―ある奇妙な小説―老惨」「死者との対話」「いつ死なせますか」「噂の八話」「死線を超えて」「ハーバーの桟橋での会話」 === 翻訳 === * 『型破りで勝つ!』(著:ロバート・J・リンガー)三笠書房 1978.12 === 外国語訳 === * ''Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy.'' John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966(太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年) * ''Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge''(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006 * ''The Japan That Can Say NO''『NOといえる日本』 * ''Le Japon sans Complexe''『NOといえる日本』フランス語 == 音楽作品 == === 作詞 === * [[狂った果実 (小説)#映画|狂った果実]](曲:[[佐藤勝]]、歌唱:石原裕次郎) * [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]](曲:[[山本直純]]、歌唱:[[三浦洸一]]) * [[青年の国をつくろう]](曲:[[小林亜星]]、歌唱:石原裕次郎) * [[さあ太陽を呼んでこい]](曲:山本直純、歌唱:[[NHK東京児童合唱団|東京放送児童合唱団]]) * [[人間の園]](旧[[ジャスコ]]株式会社・社歌)(曲:[[神津善行]]、歌唱:[[五十嵐喜芳]]、コーラス:[[ミュージカルアカデミーウィルビーズ]]) * お早う僕の町(曲:[[湯浅譲二]]、歌唱:[[マイク眞木]]) * [[焔のカーブ]](曲:[[三保敬太郎]]、歌唱:[[ジャニーズ (グループ)|ジャニーズ]]) * 母の声(曲:[[玉置和郎]]、歌唱:[[二葉百合子]]) * 思い出の川(曲:[[五木ひろし]]、歌唱:五木ひろし) === 作詞・作曲 === * 夏の終わり(歌唱:[[ペギー葉山]]&石原慎太郎) * [[泣きながら微笑んで]](歌唱:石原裕次郎) === 歌唱 === * リコール ツー マイ メモリー * DREAM == 関連作品 == === 映画 === {{Multicol}} * [[太陽の季節#映画|太陽の季節]](1956年、原作・出演) * [[処刑の部屋]](1956年、原作) * [[狂った果実 (小説)#映画|狂った果実]](1956年、脚本・原作・出演) * [[日蝕の夏]](1956年、脚本・原作・主演) * [[婚約指輪 (映画)|婚約指輪]](1956年、脚本・原作・主演) * [[月蝕 (映画)|月蝕]](1956年、原作) * [[危険な英雄]](1957年、主演) * [[穴 (1957年の映画)|穴]](1957年、唄・出演) * [[俺は待ってるぜ]](1957年、脚本) * [[錆びたナイフ]](1958年、脚本・原作) * [[霧の中の男]](1958年、脚本・原作) * [[死の壁の脱出]](1958年、脚本) * [[若い獣]](1958年、監督・脚本・原作) * [[完全な遊戯]](1958年、原作) * [[海は狂っている]](1959年、脚本・原作) * [[海の地図]](1959年、原作) * [[海底から来た女]](1959年、脚本・原作) * [[夜を探がせ]](1959年、原作) * [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]](1960年、原作) * [[接吻泥棒]](1960年、原作・出演) * [[トップ屋を殺せ]](1960年、脚本) * [[愛と炎と]](1961年、原作) * [[青い狩人]](1961年、原作) * [[雲に向かって起つ (映画)|雲に向かって起つ]](1962年、原作) * [[禁断]](1962年、原作) * [[二十歳の恋]](1962年、監督・脚本) {{Multicol-break}} * [[素晴らしい悪女]](1963年、原作) * [[狼の王子]](1963年、原作) * [[小さな冒険旅行]](1963年、原作) * [[乾いた花]](1964年、原作) * [[敗れざるもの]](1964年、原作) * [[おゝい雲! (映画)|おゝい雲!]](1965年、原作) * [[異聞猿飛佐助 (映画)|異聞猿飛佐助]] (1965年、霧隠才蔵役で出演) * [[青春とはなんだ]](1965年、原作) * [[処刑の島]](1966年、製作・脚本) * [[これが青春だ!]](1966年、脚本監修) * [[男なら振りむくな]](1967年、原作) * [[復讐の歌が聞える]](1968年、脚本・原作) * [[狂戀詩 Summer Heat]](1968年、原作) * [[野蛮人のネクタイ]](1969年、原作) * [[スパルタ教育 くたばれ親父]](1970年、原作) * [[化石の森 (1973年の映画)|化石の森]](1973年、原作) * [[青年の樹 (1977年の映画)|青年の樹]](1977年、原作) * [[秘祭]](1998年、脚本・原作) * [[俺は、君のためにこそ死ににいく]](2007年、製作総指揮・脚本) * [[宇宙戦艦ヤマト 復活篇]](2009年、原案) * [[青木ヶ原 (映画)|青木ヶ原]](2012年、製作総指揮・企画・原作・脚本・出演) {{Multicol-end}} === テレビドラマ === {{Multicol}} * [[深夜のメス]](1957年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、原作) * [[幽霊と宝石と恋]](1958年、[[日本放送協会|NHK]]、原作) * 慎太郎ミステリー 暗闇の声(1959年 - 1960年、[[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ]]、企画・監修) ** [[見知らぬ顔]](1959年、原作) ** [[分身]](1960年、脚本) * [[この情報を買ってくれ]](1959年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、脚本) * [[降霊]](1960年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]「[[夜の十時劇場]]」、脚本) * [[怒りの果実]](1960年、[[TBSテレビ|TBS]]「[[グリーン劇場]]」、原作) * [[これが恋愛だ]](1961年、TBS「日立劇場」、原作) * [[密航 (テレビドラマ)|密航]](1961年、TBS「グリーン劇場」、原作) * [[殺人キッド]](1961年、TBS「日立劇場」、原作) * [[青年の樹 (1961年のテレビドラマ)|青年の樹]](1961年、TBS「[[ナショナル劇場|ナショナルゴールデンアワー]]」、原作) * [[死んでゆく男の物語]](1961年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、脚本) * [[喪われた街 (1962年のテレビドラマ)|喪われた街]](1962年、NHK「テレビ指定席」、原作) * [[夜を探せ]](1962年、フジテレビ、原作) * [[闇から来る]](1962年、[[テレビ朝日|NET]]、原作) * [[アラスカ物語]](1962年、NHK、脚本) * [[青い糧]](1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) {{Multicol-break}} * [[断崖 (テレビドラマ)|断崖]](1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) * [[雲に向って起つ (テレビドラマ)|雲に向って起つ]](1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) * [[夜の道]](1963年、NHK、原作) * [[喪われた街 (1964年のテレビドラマ)|喪われた街]](1964年、NET、原作) * [[小さき闘い]](1964年、フジテレビ「[[一千万人の劇場]]」、原作) * [[有馬稲子アワー 喪われた街]](1965年、フジテレビ「[[シオノギテレビ劇場]]」、原作) * [[てっぺん野郎]](1965年、TBS、原作) * [[青春とはなんだ]](1965年、日本テレビ、原作) * [[おゝい雲! (テレビドラマ)|おゝい雲!]](1965年、[[毎日放送]]、原作) * [[人魚と野郎]](1967年、NET、原作) * [[おおい雲]](1971年、NHK「[[銀河ドラマ]]」、原作) * [[恐怖の人喰い鱶 鱶女]](1980年、[[テレビ朝日]]「[[土曜ワイド劇場]]」、原作) * [[太陽の季節#テレビドラマ|太陽の季節]](2002年、TBS、原作) * [[狂った果実 (小説)#テレビドラマ|狂った果実2002]](2002年、TBS、原作) * [[弟 (テレビドラマ)|弟]](2004年、テレビ朝日、原作) {{Multicol-end}} === 舞台 === * 若きハイデルベルヒ(1977年、[[日生劇場]]、潤色) == 演じた俳優 == * [[別所哲也]]『人間ドキュメント 石原裕次郎物語』([[1993年]][[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[テレビ朝日]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』(2004年11月17日 - 11月21日放送)での配役 ** [[鈴木宗太郎]](幼年期) ** [[久保海晴]](少年期) ** [[渡邉邦門]](思春期) ** [[長瀬智也]]([[TOKIO]])(青年期) ** [[渡哲也]](父・石原潔との二役)(壮年期 - 現在) * [[石原良純]]『[[裕さんの女房 もうひとりの石原裕次郎|裕さんの女房]]』([[2021年]]3月20日放送[[NHK BS4K]]ほか) == 逸話 == * かつて対談した[[数学者]]の[[岡潔]]による哲学を信奉している<ref name="okakiyoshi"/><ref>[http://hashimoto-news.com/news/2011/11/21/9000/ 「日本民族の危機」(岡潔博士)販売〜上映・講演会]</ref>。 * [[Ustream]]での放送にて、[[田原総一朗]]が[[政治献金]]をしていることが明らかになる<ref>{{Cite news |url=http://www.ustream.tv/recorded/8105327 |title=田原総一朗のタブーに挑戦! 10.07.06) |publisher=[[全国FM放送協議会|JFN]] |date=2010-07-06}}</ref>。 * 『[[正論 (雑誌)|正論]]』は、特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、石原を10点満点中9点と評価した<ref>『正論』2012年3月号 50-91頁</ref>。 * 自身が代表を務める[[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会]]の[[幹事長]]である[[松井一郎]][[大阪府知事]]が[[フリーアナウンサー]]の[[辛坊治郎]]に語った話では、石原は、基本的に、朝は遅く昼からしか働かないという<ref>[http://www.ytv.co.jp/wakeup/movie/index.html ''WAKE! UP+ 動画+'']([[読売テレビ]][[ウェークアップ!ぷらす]][[2012年]][[12月1日]]配信分(配信日に閲覧)){{リンク切れ|date=2017-09}}</ref>。 *[[三島由紀夫]]は石原を「すべての知的なものに対する侮蔑の時代を開いた」と評した<ref>{{Cite book |title=なぜ日本人は学ばなくなったのか |date= |publisher=講談社 |author=[[齋藤孝 (教育学者)|齋藤孝]]}}</ref>。 *三島由紀夫の死に関して、「三島は人為的に異常な肉体を作ることで、逆に精神を蝕まれて衰弱し、ああいう死に方をした」と発言<ref name="ishihara-yumi">{{Cite web|和書|url=http://www.ishihara-yumi.com/img/president.pdf |title=石原慎太郎vs石原結實「肉体と精神の若さを保つ秘訣」PRESIDENT 2002年8月12日号 |accessdate=2019-6-26}}</ref>。 *[[石原結實]]が主宰する断食サナトリウムに1995年ころから毎年通い、[[断食]]と発熱こそ世界の名医だと発言。石原の父も断食の愛好家で、水だけ飲む断食を10-15日間行っていたという<ref name="ishihara-yumi"/>。 *熱狂的な[[スポーツカー]][[マニア#「ひとつのことに熱中する人」としてのマニア|マニア]]で<ref name="asahi170626"/><ref name="amw">{{Cite web|和書|url=https://www.automesseweb.jp/2022/02/16/921049/2|title=熱狂的なスポーツカー愛好家の「石原慎太郎さん」が溺愛した2台の名車とは (2/2ページ)|author=高桑秀典|publisher=[[交通タイムス社#Webコンテンツ事業|Auto Messe Web]]|date=2022年2月16日|accessdate=2022年9月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220216043232/https://www.automesseweb.jp/2022/02/16/921049/2|archivedate=2022年2月16日}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://bestcarweb.jp/feature/column/380552|title=東京の空気と道路を変えよ!! 石原慎太郎が自動車業界に残した遺産|author=清水草一|publisher=[[ベストカー|ベストカーweb]]|date=2022年2月18日|accessdate=2022年9月4日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220218000701/https://bestcarweb.jp/feature/column/380552|archivedate=2022年2月18日}}</ref>、1968年の参議院初登院時には、当時の愛車、[[マツダ・コスモ#初代・コスモスポーツ(1967年 - 1972年)|初代マツダコスモスポーツ]]で乗り付け、国会の前で降りて大きなニュースになった<ref name="asahi170626"/><ref name="amw"/>。コスモスポーツが登場するレーサーが主役の[[ミュージカル]]まで作り、当時の[[松田恒次]]東洋工業(現[[マツダ]])社長に支援を頼みに広島の東洋工業本社に行き、快諾をもらい、その後、議員になってからも応援してもらったという<ref name="asahi170626"/>。「いろいろなスポーツカーに乗ったけど、コスモが一番だったな」と話している<ref name="asahi170626"/>。 *学生時代に下校中に歩いているとアメリカ兵が[[アイスキャンディー]]を食べながら歩いて来て、周りの大人が道を開ける中、石原だけはじっとアメリカ兵を見ていると、そのアメリカ兵は腹を立てたのか石原をアイスキャンディーで殴る。その後教師に呼ばれて「アメリカに迷惑かけるな」と注意とされる。戦前は「鬼畜米英」と教わり、180度違うことを言う大人に不信感を頂くきっかけとなった<ref>https://www.sankei.com/article/20160620-LQTBEAIDRNM7DD7RQMYT2FL7KA/</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注釈"}} === 出典 === {{Reflist|3}} == 参考文献 == * [[神一行]]『閨閥 改訂新版 ―特権階級の盛衰の系譜―』([[角川文庫]] 2002年)231、244頁 ** 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 [[角川文庫]]、2000年がある。 * [[佐野眞一]]『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』([[講談社]] 2003年)ISBN 4-06-211906-4 ** 増補改題 『誰も書けなかった石原慎太郎』([[講談社文庫]]、2009年) * [[斎藤貴男]]『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』([[岩波書店]] 2003年、[[ちくま文庫]] 2006年) ** [[吉田司]]との対話『石原慎太郎よ、退場せよ!』([[洋泉社]]新書 2009年) * [[江藤淳]]『石原慎太郎論』([[作品社]] 2004年) * [[鈴木斌 (文芸評論家)|鈴木斌]]『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』(菁柿堂 2008年) * [[前野徹]]『救世主石原慎太郎』([[扶桑社]]文庫、2004年) * [[別冊宝島]]編集部『石原慎太郎の値打ち』([[宝島社]]文庫 2003年) * 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』([[講談社文庫]] 2003年) * [[浅野史郎]]ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』(人物文庫・学陽書房、2002年) * [[上杉隆]]『石原慎太郎「5人の参謀」』([[小学館]]文庫、2000年) * {{Citation|和書|title=巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書|date=2001/2/19|publisher=日本経済新聞社|author=大鵬幸喜|isbn=4-532-16377-3|ref={{SfnRef|大鵬|2001}}}} * 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊>(旬報社 2004年) * [[一ノ宮美成]]+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』([[宝島社]])ISBN 978-4796676328 * [[栗原裕一郎]]・[[豊崎由美]]『石原慎太郎を読んでみた』([[原書房]]、2013年) * {{Cite book|和書 |author=[[飯島清]] |title=人の心をつかむ法 科学的選挙戦術応用 |publisher=番町書房 |date=1969年7月25日 |ref= {{SfnRef|飯島|1969}} |isbn= }} * {{Cite book|和書 |editor=太田欣三 |title=東京は燃えた… |publisher=創世記 |date=1975年7月10日 |ref= {{SfnRef|『東京は燃えた…』|1975}} }} * {{Cite book|和書 |author= [[高畠通敏]] |date= 1980-4-15 |title= 現代日本の政党と選挙|publisher = [[三一書房]] |ref= {{SfnRef|高畠|1980}} }} == 関連項目 == {{Commonscat|Shintarō Ishihara}} {{Wikiquote}} {{Wikisource|石原慎太郎在職25年演説}} * [[石原裕次郎]] * [[立川談志]] * [[渡部昇一]] * [[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]] * [[黒シール事件]] * [[新しい歴史教科書をつくる会]] * [[櫻井よしこ]] * [[渡邉恒雄]] * [[高井英樹]] * [[タカ派]] * [[マッチョ]] * [[南京の真実]] 賛同者 * [[国家基本問題研究所]] 理事 * [[日本会議]] * [[平沼赳夫]] * [[阿久津幸彦]] - 元[[公設秘書]] * [[北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]] * [[非核三原則]] - [[日本の核武装論]] * [[成田空港高速鉄道]] - 運輸大臣時代、[[成田国際空港|新東京国際空港空港]]への[[空港連絡鉄道]]の不備を感じた際「鶴の一声」で整備が決定された。 * [[未確認飛行物体|UFO]] - [[三島由紀夫]]や[[星新一]]らとともに[[日本空飛ぶ円盤研究会]]の会員であった。 * [[伝統と創造の会]] * [[曹洞宗]] * [[野中広務]] * [[戸塚宏]] * [[亀井静香]] * [[堀内政三]] - 元一橋大学助教授であり、石原は教え子になる。 == 外部リンク == * {{Official website|https://www.sensenfukoku.net/}} * {{Twitter|i_shintaro|石原 慎太郎}} {{S-start}} {{s-off}} {{Succession box |title = {{Flagicon|東京都}} [[東京都知事]] |before = [[青島幸男]] |years = 公選第14 - 17代:1999年 - 2012年 |after = [[猪瀬直樹]] }} {{Succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[運輸大臣]] |before = [[橋本龍太郎]] |years = 第59代:1987年 - 1988年 |after = [[佐藤信二]] }} {{Succession box |title = {{Flagicon|JPN}} [[環境大臣|環境庁長官]] |before = [[丸茂重貞]] |years = 第8代:1976年 - 1977年 |after = [[山田久就]] }} {{s-ppo}} {{Succession box |title = [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会共同代表]] |titlenote = [[橋下徹]]と共同 |before = 新設 |years = 初代:2013年 - 2014年 |after = [[橋下徹]] |afternote = (単独代表制) }} {{Succession box |title = [[日本維新の会 (2012-2014)|日本維新の会代表]] |before = [[橋下徹]] |years = 第2代:2012年 - 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チョムスキー
チョムスキー(Chomsky)
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チョムスキー(Chomsky) アヴィーヴァ・チョムスキー - アメリカ合衆国の歴史学者。 ウィリアム・チョムスキー - アメリカ合衆国のヘブライ語学者。ノーム・チョムスキーの父。 キャロル・チョムスキー - アメリカ合衆国の言語学者・教育学者。ノーム・チョムスキーの妻。 ノーム・チョムスキー - アメリカ合衆国の哲学者、言語学者、思想家。 マーヴィン・チョムスキー - アメリカ合衆国のテレビドラマ監督。
'''チョムスキー'''(Chomsky) * {{仮リンク|アヴィーヴァ・チョムスキー|en|Aviva Chomsky|fr|Aviva Chomsky|de|Aviva Chomsky|pl|Aviva Chomsky}} (Aviva Chomsky, 1957- ) - アメリカ合衆国の歴史学者。 * [[ウィリアム・チョムスキー]] (William Chomsky, 1896-1977) - アメリカ合衆国のヘブライ語学者。[[ノーム・チョムスキー]]の父。 * [[キャロル・チョムスキー]] (Carol Chomsky, 1930-2008) - アメリカ合衆国の言語学者・教育学者。[[ノーム・チョムスキー]]の妻。 * [[ノーム・チョムスキー]] (Noam Chomsky, 1928-) - アメリカ合衆国の哲学者、言語学者、思想家。 * [[マーヴィン・チョムスキー]] (Marvin Chomsky, 1929- ) - アメリカ合衆国のテレビドラマ監督。 {{人名の曖昧さ回避}} {{デフォルトソート:ちよむすきい}} [[Category:スラヴ語の姓]]
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ソシュール
ソシュール、ド・ソシュール (de Saussure) は16世紀のアントワーヌ・ド・ソシュール (Antoine de Saussure, 1514–1569) に始まるスイスなどに見られる姓のひとつ。 その祖先のソシュール (de Saulxures) 家は現在フランス、ナンシー近郊の小村ソシュール (Saulxures) に出自を持ちその地の領主であった。 アントワーヌは宗教改革派に与し弾圧に巻き込まれたことから1551年よりソシュール村を離れ数か所を転々とした後、1556年スイスのローザンヌへと移住し、名の綴りも de Saussure と簡素化した。 その後18世紀よりソシュール家は多くの著名な学者を輩出した。
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ソシュール、ド・ソシュール は16世紀のアントワーヌ・ド・ソシュール に始まるスイスなどに見られる姓のひとつ。
'''ソシュール'''、'''ド・ソシュール''' ({{lang|fr|de Saussure}}) は16世紀の'''アントワーヌ・ド・ソシュール''' ({{lang|fr|Antoine de Saussure}}, 1514&ndash;1569) に始まる[[スイス]]などに見られる姓のひとつ。 ==概要== その祖先のソシュール ({{lang|fr|de Saulxures}}) 家は現在[[フランス]]、[[ナンシー]]近郊の小村ソシュール ([[:en:Saulxures-lès-Nancy|Saulxures]]) に出自を持ちその地の領主であった<ref>神山孝夫「ソシュールの生涯と業績」({{cite book|和書|author=神山孝夫|coauthors= 町田健、柳沢民雄|title=ソシュールと歴史言語学|year=2017|publisher=大学教育出版|isbn=9784864294881}}第I章)</ref>。 アントワーヌは[[宗教改革]]派に与し弾圧に巻き込まれたことから1551年よりソシュール村を離れ数か所を転々とした後、1556年[[スイス]]の[[ローザンヌ]]へと移住し、名の綴りも '''de Saussure''' と簡素化した。 その後18世紀よりソシュール家は多くの著名な学者を輩出した。 ==同姓の著名人物== ;[[ニコラ・ド・ソシュール]]: ({{lang|fr|Nicolas de Saussure}}, 1709&ndash;1791) は、[[スイス]]の[[農学者]]。 オラス=ベネディクトの父。 ;[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]: ({{lang|fr|Horace-Bénédict de Saussure}}, 1740&ndash;1799) は、[[スイス]]の[[地質学者]]・[[登山家]]。 [[モンブラン|モン・ブラン]]を始めとする[[アルプス山脈|アルプス]]登山を広めるとともに、高山の地質や気象などの調査を初めて行った。 ;[[アルベルティーヌ・ネッケル・ド・ソシュール]]: ([[:en:Albertine Necker de Saussure|{{lang|fr|Albertine Necker de Saussure}}]], 1766&ndash;1841) は、スイスの[[教育者]]・[[作家]]。 いち早く女性に対する教育を推し進めた。 オラス=ベネディクトの娘。 ;[[ニコラス・テオドール・ド・ソシュール|ニコラ=テオドール・ド・ソシュール]]: ({{lang|fr|Nicolas-Théodore de Saussure}}, 1767&ndash;1845) は、スイスの[[有機化学者]]・[[植物生理学者]]。 植物が葉から[[二酸化炭素]]を取り入れること、[[光合成]]に二酸化炭素とともに[[水]]が必要なことを示した。 オラス=ベネディクトは父、アルベルティーヌは姉。 ;[[アンリ・ド・ソシュール|アンリ・ルイ・フレデリック・ド・ソシュール]]: ([[:en:Henri de Saussure|{{lang|fr|Henri Louis Frédéric de Saussure}}]], 1829&ndash;1905) は、スイスの[[鉱物学者]]・[[昆虫学者]]。 オラス=ベネディクトの孫でフェルディナン、レオポル、ルネの父。 ;[[フェルディナン・ド・ソシュール]]: ({{lang|fr|Ferdinand de Saussure}}, 1857&ndash;1913) は、スイスの[[言語学者]]。 [[比較言語学]]のような通時的観点に代えて共時的な観点に基づく言語論を示し、後の[[構造主義]]、[[記号論]]に大きな影響を与えた。 アンリの長男。 レオポルとルネは弟。 ;[[レオポル・ド・ソシュール]]: (<!--[[:en:Léopold de Saussure|-->{{lang|fr|Léopold de Saussure}}<!--]]-->, 1866&ndash;1925) は、[[中国]]研究者・[[天文学者の一覧|天文学者]]・フランス海軍の士官。 フェルディナンは兄、ルネは弟。 ;[[ルネ・ド・ソシュール]]: ([[:en:René de Saussure|{{lang|fr|René de Saussure}}]], 1868&ndash;1943) は、スイスの[[エスペランティスト]]・[[数学者]]。 フェルディナン、レオポルの弟。 ==参考文献== {{reflist}} {{人名の曖昧さ回避}} [[category:フランス語の姓]] {{DEFAULTSORT:そしゆる}}
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消滅した政権一覧
消滅した政権一覧(しょうめつしたせいけんいちらん)では、人類史上、かつて存在した国家もしくは政権を一覧する。 #チベット、#モンゴル高原、#東トルキスタンはそれぞれ東アジア内の項を参照。
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消滅した政権一覧(しょうめつしたせいけんいちらん)では、人類史上、かつて存在した国家もしくは政権を一覧する。
'''消滅した政権一覧'''(しょうめつしたせいけんいちらん)では、人類史上、かつて存在した国家もしくは政権を一覧する。{{main2|現存する国家は、[[国の一覧]]を}} == 東アジア == === 中国大陸 === ==== 漢地(本土中国) ==== {{main|中国の歴代王朝一覧}} * [[夏 (三代)|夏]] 紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃 * [[殷]](商)紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年 * [[周]] 紀元前1046年頃 - 紀元前256年 ** [[西周]] 紀元前1046年頃 - 紀元前771年頃 ** [[東周]] 紀元前771年頃 - 紀元前256年 * [[晋 (春秋)|晋]] 紀元前11世紀 - 紀元前376年 * [[嚳]]、[[堯|唐]]、[[舜|虞]] * [[春秋戦国時代]]の[[周朝諸侯国一覧|諸国]] 紀元前770年 - 紀元前221年 ** [[春秋時代]] 紀元前770年 - 紀元前5世紀 ** [[戦国時代 (中国)|戦国時代]] 紀元前5世紀 - 紀元前221年 *** [[戦国七雄]] **** [[ファイル:Inscription on Imperial Seal of China "受命於天 既壽永昌".svg|境界|20x20ピクセル]][[秦]] 紀元前778年 - 紀元前206年 **** [[楚 (春秋)|楚]] 紀元前11世紀 - 紀元前223年 **** [[田斉|斉]] 紀元前386年 - 紀元前221年 **** [[燕 (春秋)|燕]] 紀元前1100年頃 - 紀元前222年 **** [[趙 (戦国)|趙]] 紀元前403年 - 紀元前228年 **** [[魏 (戦国)|魏]] 紀元前403年 - 紀元前225年 **** [[韓 (戦国)|韓]] 紀元前403年 - 紀元前230年 * [[ファイル:King of Na gold seal imprint.svg|境界|20x20ピクセル]][[漢]] 紀元前206年 - 220年 ** [[前漢]] 紀元前206年 - 8年 ** [[後漢]] 25年 - 220年 * [[新]] 8年 - 23年 * [[仲王朝|仲]] 197年 - 199年 * [[三国時代 (中国)|三国時代]] 184年 - 280年 ** [[魏 (三国)|魏]] 220年 - 265年 ** [[呉 (三国)|呉]] 222年 - 280年 ** [[蜀]] 221年 - 263年 * [[晋 (王朝)|晋]] 265年 - 420年 ** [[西晋]] 265年 - 316年 ** [[東晋]] 317年 - 420年 *** [[桓楚]] 403年 - 404年 * [[五胡十六国時代]] 304年 - 439年 ** [[五胡]]  ***[[匈奴]]・[[鮮卑]]・[[羯]]・[[氐]]・[[羌]] **十六国 *** [[前涼]] 301年 - 376年   *** [[前趙]] 304年 - 329年 *** [[成漢]] 304年 - 347年 *** [[後趙]] 319年 - 351年 *** [[前燕]] 337年 - 370年 *** [[前秦]] 351年 - 394年 *** [[後燕]] 384年 - 409年 *** [[後秦]] 384年 - 417年 *** [[西秦]] 385年 - 431年 *** [[後涼]] 389年 - 403年 *** [[南涼]] 397年 - 414年 *** [[北涼]] 397年 - 439年 *** [[南燕]] 398年 - 410年 *** [[西涼]] 400年 - 421年 *** [[夏 (五胡十六国)|夏]] 407年 - 431年 *** [[北燕]] 409年 - 436年 **十六国以外 *** [[仇池]] 296年 - 506年    *** [[代 (五胡十六国)|代]] 315年 - 376年 *** [[冉魏]] 350年 - 352年 *** [[西燕]] 384年 - 394年   *** [[翟魏]] 388年 - 392年 *** [[後蜀 (五胡十六国)|後蜀]] 405年 - 413年 * [[南北朝時代 (中国)|南北朝時代]] 439年 - 589年 ** [[北朝 (中国)|北朝]] *** [[北魏]] 386年 - 534年 *** [[東魏]] 534年 - 550年 **** [[北斉]] 550年 - 577年 *** [[西魏]] 535年 - 556年 **** [[北周]] 556年 - 581年 ** [[南朝 (中国)|南朝]] *** [[宋 (南朝)]] 420年 - 479年 *** [[斉 (南朝)]] 479年 - 502年 *** [[梁 (南朝)]] 502年 - 557年 **** [[後梁 (南朝)]] 554年 - 587年 *** [[陳 (南朝)]] 557年 - 589年 * [[ファイル:The banner of Sui Dynasty.png|31x31ピクセル]][[隋]] 581年 - 618年 *[[隋末唐初]] 618年 - 630年 ** [[隋末唐初の群雄の一覧|隋末唐初の群雄]] * [[ファイル:Tang Flag.png|20x20ピクセル]][[唐]] 618年 - 907年 ** [[武周|周]] 690年 - 705年 *[[燕 (安史の乱)|大燕]] 756年 - 763年 * [[帰義軍]] 848年 - 1035年 * [[黄巣|斉]] 878年 -884年 * [[五代十国時代]] 907年 - 960年 ** 五代 *** [[後梁]] 907年 - 923年 *** [[後唐]] 923年 - 936年 *** [[後晋]] 936年 - 946年 *** [[後漢 (五代)|後漢]] 947年 - 950年 *** [[後周]] 951年 - 960年 ** 十国 *** [[前蜀]] 907年 - 925年 *** [[後蜀 (十国)|後蜀]] 934年 - 965年 *** [[呉 (十国)|呉]] 902年 - 937年 *** [[南唐]] 937年 - 975年 *** [[荊南]] 907年 - 963年 *** [[呉越]] 907年 - 978年 *** [[閩]] 909年 - 945年 *** [[楚 (十国)|楚]] 907年 - 951年 *** [[南漢]] 909年 - 971年 *** [[北漢]] 951年 - 979年 ** 十国以外 *** [[岐]] 907年 - 924年 *** [[桀燕]] 911年 - 913年 *** [[留従效|清源]] *** [[周行逢|武平]] * [[ファイル:Guanyin song2.png|境界|20x20ピクセル]][[宋 (王朝)|宋]] 960年 - 1279年 ** [[ファイル:Guanyin song2.png|境界|20x20ピクセル]][[北宋]] 960年 - 1127年 ** [[ファイル:Guanyin song2.png|境界|20x20ピクセル]][[南宋]] 1127年 - 1279年 * [[遼]]([[契丹]])916年 - 1125年 * [[西夏]] 1038年 - 1227年 * [[金 (王朝)|金]] 1115年 - 1234年 * [[楚 (張邦昌)]] 1127年 *[[劉斉]] 1130年 - 1137年 * [[ファイル:Flag of Yuan Dynasty.jpg|境界|20x20ピクセル]][[元 (王朝)|元]] 1271年 - 1368年 * [[夏 (元末)]] 1363年 - 1371年 * [[ファイル:Left-facing dragon pattern on Wanli Emperor's imperial robe.svg|20x20ピクセル]][[明]] 1368年 - 1644年 ** [[ファイル:Left-facing dragon pattern on Wanli Emperor's imperial robe.svg|20x20ピクセル]] [[南明]] 1644年 - 1661年 * [[順 (王朝)|順]] 1644年 - 1649年 * [[張献忠|大西]] 1644年 - 1646年 * [[ファイル:Flag of China (1889–1912).svg|border|20x20px]] [[清]] 1616年 - 1912年 * [[周 (1678年-1681年)|呉周]] 1678年 - 1681年 * [[ファイル:Dragon flag used by Du Wenxiu.svg|border|20x20px]] [[太平天国]] 1851年 - 1864年 * [[昇平天国]] 1854年 - 1857年 * [[ファイル:Flag of the Empire of China (1915–1916).svg|border|20x20px]] [[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]] 1915年 - 1916年 * [[軍閥時代]] ** [[北洋軍閥]] *** [[File:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[直隷派]] *** [[File:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[安徽派]] *** [[ファイル:Flag of the Northeast Supreme Administrative Council (1932).svg|border|20x20px]] [[奉天派]] *** [[File:Flag of the Republic of China Army.svg|border|20x20px]] [[山西派]] *** [[File:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[国民軍 (中華民国)|西北派]] **地方軍閥 *** [[雲南派]] *** [[旧広西派]] *** [[File:Flag of the Republic of China Army.svg|border|20x20px]] [[新広西派]] *** [[File:Naval Jack of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[馬家軍]] *** [[File:Flag of Xinjiang-Shicai.svg|border|20x20px]] [[新疆派]] * [[ファイル:Flag of Fujian People's Government.svg|border|20x20px]] [[中華共和国]] 1933年 - 1934年 * [[ファイル:National Flag of Chinese Soviet Republic.svg|border|20x20px]] [[中華ソビエト共和国]] 1931年 - 1935年 * [[ファイル:National Flag of Chinese Soviet Republic.svg|border|20x20px]] [[中華ソビエト共和国|中華ソビエト人民共和国]] 1935年 - 1936年 * [[ファイル:Second War Flag of Chinese Soviet Republic.svg|border|20x20px]] [[中華ソビエト共和国|中華ソビエト民主共和国]] 1936年 - 1937年 * [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[中華民国の歴史|中華民国]] 1912年 - ** [[広東政府]] *** [[ファイル:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[広東軍政府|第1次広東政府]] 1917年 - 1920年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[中華民国正式政府|第2次広東政府]] 1921年 - 1922年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[広東大元帥府|第3次広東政府]] 1923年 - 1925年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[広州国民政府 (1925年-1926年)|第4次広東政府]] 1925年 - 1926年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[広州国民政府 (1931年-1936年)|第5次広東政府]] 1931年 - 1936年 ** [[国民政府]] *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[広州国民政府 (1925年-1926年)|広州国民政府]] 1925年 - 1926年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[武漢国民政府]] 1926年 - 1927年 *** [[ファイル:Flag of the Republic of China.svg|border|20x20px]] 南京国民政府 1927年 - 1949年 ** [[ファイル:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[中華民国臨時政府 (北京)|臨時政府]] 1937年 - 1940年 ** [[ファイル:Flag of Reformed Government of the Republic of China.svg|border|20x20px]] [[中華民国維新政府|維新政府]] 1938年 - 1940年 ** [[ファイル:Flag of the Republic of China-Nanjing (Peace, Anti-Communism, National Construction).svg|border|20x20px]] [[汪兆銘政権|南京国民政府]] 1940年 - 1945年 ** [[ファイル:Flag of China (1912–1928).svg|border|20x20px]] [[冀東防共自治政府]] 1935年 - 1938年 ** [[冀察政務委員会]] 1935年 - 1937年 * [[ファイル:Flag of the Dadao Municipal Government of Shanghai.svg|border|20x20px]] [[上海市大道政府]] 1937年 - 1938年 ==== マカオ・香港==== * [[ファイル:Flag of the Government of Portuguese Macau (1976–1999).svg|border|20x20px]] [[ポルトガル領マカオ]] 1557年 - 1999年 * [[中国王朝時代の香港の歴史|中国王朝時代の香港]] * [[ファイル:Flag of Hong Kong (1959–1997).svg|border|20x20px]] [[イギリス領香港]] 1841年 - 1997年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本占領時期の香港]] 1941年 - 1945年 ==== 列強の中国租借地==== * [[File:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|大連租借地|en|Russian Dalian}} 1898年 - 1905年 * [[ファイル:Flag of Germany (1867–1918).svg|border|20x20px]] [[膠州湾租借地]] 1898年 - 1914年  * [[ファイル:British Weihaiwei flag.svg|border|20x20px]] [[威海衛租借地]] 1898年 - 1930年 * [[新界|新界租借地]] 1898年 - 1997年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[広州湾租借地]] 1900年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[関東州]] 1905年 - 1945年  ==== 雲南地域(中国西南地区) ==== * [[ファイル:King of Dian gold seal.png|border|20x20px]] <span lang="zh" xml:lang="zh">[[滇]]</span> * [[夜郎]] 前523年 - 前27年 * [[爨]] * [[六詔]] * [[南詔]] 738年 - 902年 * [[雲南三朝]] * [[大中国|大中]] 1094年 - 1096年 * [[大理国|大理]] 937年 - 1253年 * [[シップソーンパンナー]] 1180年 - 1956年 * [[梁王国]] 1256年 - 1390年 ==== 青海地域(中国西南地区)==== * [[吐谷渾]] 329年 - 663年 ==== チベット地域(中国西南地区) ==== * [[シャンシュン王国]] 紀元前 - 643年 * [[ファイル:Tibetan snow leopard.svg|border|20x20px]] [[吐蕃王朝|吐蕃]] 618年 - 842年 * [[グゲ王国]] 842年 - 1630年 * [[ファイル:Snow Lion.svg|border|20px]] [[パクモドゥパ政権]] 1358年-1480年 * [[File:Lhabzang Khan Siegel Dieter Schuh.jpg|border|20x20px]] [[グシ・ハン王朝]] 1642年 - 1724年 * [[ファイル:Flag of Tibet.svg|border|20x20px]] [[チベット (1912-1950)]] 1912年 - 1951年 ==== 満州地域(中国東北地区)==== * [[古朝鮮]] 紀元前?年 - 紀元前108年 * [[夫餘]] 紀元前1世紀頃 - 494年 * [[ファイル:Military Flag of Goguryeo (Ssangyeongchong).svg|境界|20x20ピクセル]] [[高句麗]] 紀元前1世紀頃 - 668年 * [[渤海 (国)|渤海]] 698年 - 926年 * [[東丹国|東丹]] 926年 - ?年 * 後渤海 [[後渤海|(復興)]] 926年 - 976年頃? * [[定安]] 938年 - 1003年 * [[兀惹]](烏舎)10世紀後半 * 後渤海 [[渤海 (再興)|(再興)]] 989年 - 1018年 * [[興遼]] 1029年 - 1030年 * [[大渤海]](大元)1116年 * [[金 (王朝)|金]]([[女真]])1115年 - 1234年 * [[後金]]([[満州民族|満洲]])1616年 - 1636年(1912年) * [[ファイル:Flag of the Northeast Supreme Administrative Council (1932).svg|border|20x20px]] [[奉天派]] 1912年 - 1931年 * [[ファイル:Flag of Manchukuo.svg|border|20x20px]] [[満州国|満洲国(満洲帝国)]] 1932年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the USSR (1936-1955).svg|border|20x20px]] [[ソビエト連邦による満州占領]] 1945年 - 1946年 ==== 東トルキスタン(中国西北地区) ==== * [[楼蘭]]、[[疏勒]]、[[亀茲]]、[[焉耆]]、[[車師]]、[[莎車]]、[[姑墨]]、[[于闐]]、[[烏孫]] * [[高昌]] 460年 - 640年 * [[カラハン朝]] 960年 - 11世紀半ば ** [[東カラハン朝]] 11世紀半ば - 1210年 ** [[西カラハン朝]] 11世紀半ば - 1212年 * [[天山ウイグル王国]] 856年 - 1211年 * [[西遼]](カラ・キタイ)1124年 - 1218年 * [[ファイル:Flag of Chagatai khanate.svg|border|20x20px]] [[チャガタイ・ハン国]] 1225年 - 1340年 * [[東チャガタイ・ハン国]] 1340年 - 1462年 * [[ヤルカンド・ハン国]] 1514年 - 1696年 * [[ジュンガル]] 1637年 - 1755年 * [[ハミ郡王家]] 1696年 - 1930年 * [[ファイル:Kokbayraq flag.svg|border|20x20px]] [[東トルキスタン共和国]] 1933年 - 1934年,1944年 - 1946年 === モンゴル高原 === *[[獫狁]]、[[葷粥]]、[[山戎]]、[[東胡]] * [[匈奴]] 紀元前209年 - 93年 * [[南匈奴]] 48年 - 304年 * [[鮮卑]] 紀元前209年 - 386年 * [[柔然]] 402年 - 555年 * [[高車]] 4世紀 - 6世紀 * [[突厥]] 552年 - 582年 * [[ウイグル]] 744年 - 840年 * [[契丹]]([[遼]])916年 - 1125年 * [[カムク・モンゴル]] 1147年 - 1206年  ** [[ファイル:Flag of the Mongol Empire 3.png|境界|20x20ピクセル]] [[モンゴル帝国]] 1206年 - 1634年 *** [[元 (王朝)|大元ウルス]] 1271年 - 1368年 **** [[北元]] 1368年 - 1634年 * [[オイラト]] * [[ファイル:Flag of Bogd Khaanate Mongolia.svg|border|20x20px]] [[ボグド・ハーン政権|大モンゴル国]](ボグド・ハーン政権)1911年 - 1924年 * [[File:Flag of the Tuvan People's Republic (1939-1941).svg|border|20x20px]] [[トゥヴァ人民共和国]] 1921年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of Inner Mongolian People's Republic.svg|border|20x20px]] [[内モンゴル人民共和国]] 1945年 * [[ファイル:Flag of the Mengjiang.svg|border|20x20px]] [[蒙古聯合自治政府]] 1939年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the Mongolian People's Republic (1945–1992).svg|border|20x20px]] [[モンゴル人民共和国]] 1924年 - 1992年 * [[ファイル:Flag of Inner-Mongolian Autonomous Government.svg|border|20x20px]] [[東モンゴル自治政府]] 1946年 === 朝鮮半島 === * [[古朝鮮]] ** [[檀君朝鮮]] 紀元前2333年 - 紀元前1112年 ** [[箕子朝鮮]] 紀元前12世紀? - 紀元前194年 ** [[衛氏朝鮮]] 紀元前195年? - 紀元前108年 * [[三韓]] ** [[辰韓]] 紀元前2世紀 - 356年 ** [[弁韓]] 紀元前2世紀末 - 4世紀 ** [[馬韓]] 紀元前2世紀末 - 4世紀中葉 * [[漢四郡]] ** [[楽浪郡]] 紀元前108年 - 313年  ** [[真番郡]] 紀元前108年 - 紀元前82年  ** [[臨屯郡]] 紀元前108年 - 紀元前82年  ** [[玄菟郡]] 紀元前107年 - 107年 * [[ファイル:Military Flag of Goguryeo (Ssangyeongchong).svg|境界|20x20ピクセル]] [[高句麗]] 紀元前1世紀頃 - 668年 * [[ファイル:Seal of Silla.svg|border|20x20px]] [[新羅]] 紀元前57年 - 935年 ** [[File:Military Banner of Silla.svg|border|20x20px]] [[統一新羅]] 676年 - 935年 * [[百済]] 4世紀前半頃 - 660年 * [[任那]] 4〜5世紀? - 562年 * [[報徳国]] 7世紀後半 * [[耽羅国]](済州島)3世紀頃? - 1402年 * [[于山国]](鬱陵島) *唐による支配 ** [[熊津都督府]] 660年 - 676年  ** [[安東都護府]] 668年 - 773年 ** [[鶏林州都督府]] * [[後百済]] 892年 - 936年 * [[後高句麗]] 899年 - 918年 * [[ファイル:Royal flag of Goryeo (Bong-gi).svg|border|20x20px]] [[高麗]](王氏高麗)918年 - 1392年 *元による支配 ** [[双城総管府]] 1258年 - 1356年 ** [[東寧府]] 1269年 - 1290年 * [[ファイル:Flag of the king of Joseon.svg|border|20x20px]] [[李氏朝鮮]] 1392年 - 1910年 ** [[ファイル:Flag of Korea (1899).svg|border|20x20px]] [[大韓帝国]] 1897年 - 1910年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本統治時代の朝鮮|朝鮮総督府]] 1910年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the People's Committee of Korea.svg|border|20x20px]] [[朝鮮人民共和国]] 1945年 * [[連合軍軍政期 (朝鮮史)|連合軍軍政期]] 1945年 - 1948年 ** [[ファイル:Flag of the United States (1912-1959).svg|border|20x20px]] [[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|アメリカ軍政庁]] 1945年 - 1948年 ** [[ファイル:Flag of the USSR (1936-1955).svg|border|20x20px]] [[ソビエト民政庁]] 1945年 - 1946年 *** [[ファイル:Flag of the Provisional People's Committee for North Korea.svg|border|20x20px]] [[北朝鮮人民委員会]] 1946年 - 1948年 === 日本列島(本土及び北海道) === * [[倭国]] *[[奴国]] * [[ファイル:Text of the Wei Zhi (魏志), 297.jpg|境界|20x20ピクセル]] [[邪馬台国]]、[[対馬国]]、[[一支国]]、[[末ら国|末盧国]]、[[伊都国]]、[[不弥国]]、[[投馬国]]、[[狗奴国]] * [[毛野国]]、[[筑紫国]]、[[古代出雲|出雲国]]、[[越国]]、[[吉備国]]、[[肥国]]、[[豊国]]、[[日高見国]] * [[ヤマト王権|ヤマト政権]] *[[承平天慶の乱|平将門政権]] *[[奥州藤原氏|奥州藤原氏政権]] * [[ファイル:Ageha-cho.svg|border|20x20px]] [[平氏政権]] 1167年 - 1185年 * [[幕府]] **[[ファイル:Sasa Rindo.svg|border|20x20px]] [[鎌倉幕府]] 1180~1192年 - 1333年 ** [[ファイル:Ashikaga mon.svg|border|20x20px]] [[室町幕府]] 1336年 - 1573年 ***[[越中公方]] ***[[堺公方]] ***[[鎌倉府]] ****[[篠川公方]] ****[[稲村公方]] ***[[古河公方]] ****[[小弓公方]] ***[[堀越公方]] ** [[ファイル:Mitsubaaoi.svg|border|20px]] [[江戸幕府]] 1603年 - 1867年 ***[[藩|諸藩]] * [[建武の新政|建武政権]] 1333年 - 1336年 * [[南朝 (日本)|南朝]]([[吉野朝廷]])1337年 - 1392年 ** [[後南朝]] * [[北朝 (日本)|北朝]](それぞれ分裂政権として) *[[戦国大名]] * [[ファイル:Japanese crest Matu Kasa Hishi.svg|border|20x20px]] [[細川政権 (戦国時代)|細川政権]] 1493年 - 1549年 * [[ファイル:Japanese crest Sanngai Hisi ni itutu Kuginuki.svg|border|20x20px]] [[三好政権]] 1549年 - 1568年 * [[織豊政権]] 1573年 - 1603年 ** [[ファイル:Japanese Crest Oda ka.svg|border|20x20px]] [[織田政権]] 1573年 - 1585年 ** [[ファイル:Goshichi no kiri.svg|border|20px]] [[豊臣政権]] 1585年 - 1603年 *[[喜連川藩]](形式上徳川家に臣従関係なし) * [[ナサニエル・セイヴァリー|ピール島植民政府]]([[小笠原諸島]]) * [[隠岐自治政府]]([[隠岐騒動]]) *[[薩摩琉球国勲章|日本薩摩琉球国太守政府]](1867年に[[薩摩藩]]が対外的に称した政権名) *[[ファイル:Flag of Ouetsu Reppan Domei or the Northern Alliance in Japan.svg|border|20x20px]] [[奥羽越列藩同盟]] *[[ファイル:Seal of Ezo.svg|20px]] [[蝦夷共和国]] 1868年 - 1869年 * [[臨時北部南西諸島政庁]]([[鹿児島県大島支庁]]を[[アメリカ軍]]占領下の行政機構)1946年 *[[ファイル:Flag of Allied Occupied Japan.svg|20x20px]] [[連合国軍占領下の日本]] 1945年 - 1952年 *[[ファイル:Flag of the United States (Pantone).svg|border|20x20px]] [[アメリカ施政権下の小笠原諸島]] 1945年 - 1968年   === 琉球列島 === * [[三山時代]] 1322年 - 1429年頃 ** [[北山王国]](山北)14世紀初め - 1416年 ** [[南山王国]](山南)14世紀初め - 1429年 ** [[中山王国]] 1314年頃 - 1429年頃 * [[ファイル:Hidari mitsudomoe.svg|border|20x20px]] [[琉球王国]] 1429年頃 - 1872年 ** [[第一尚氏]] 1406年 - 1469年 ** [[ファイル:Japanese Crest mitu Tomoe 1.svg|border|20x20px]] [[第二尚氏]] 1469年 - 1879年 * [[八重山自治会]] 1945年 - 1946年 * [[ファイル:Civil Ensign of the Ryukyus (1967).svg|border|20x20px]] [[琉球政府]]([[沖縄諸島]]における米軍軍政下の行政機構であり、独立政権ではない)1952年 - 1972年 * [[ファイル:Flag of the Independent State of Okinawa.svg|border|20x20px]] [[沖縄諮詢会]]→[[沖縄民政府]] * [[宮古民政府]] * [[八重山民政府]] * [[群島 (沖縄)]] === 台湾島 === * [[大肚王国]] 16世紀半ば - 1732年 * [[ファイル:Flag of the Dutch East India Company.svg|border|20x20px]] [[オランダ統治時代の台湾]] 1624年-1662年 * [[ファイル:Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg|border|20x20px]] [[スペイン領東インド]] 1626年-1642年 * [[ファイル:Flag of Ming Cheng.svg|border|20x20px]] [[鄭氏政権 (台湾)|鄭氏台湾]]([[鄭成功]]が樹立した政権)1662年 - 1683年 * [[ファイル:Flag of China (1889–1912).svg|border|20x20px]] [[清朝統治時代の台湾]] 1683年-1895年 * [[ファイル:Flag of Formosa 1895.svg|border|20x20px]] [[台湾民主国]] 1895年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本統治時代の台湾|台湾総督府]]1895年-1945年 == 東南アジア == === ベトナム === * [[文郎国]] 前2879年? - 前258年? * [[甌雒|甌雒国]] 前257年 - 前207年 * [[南越国|南越]] 前203年- 前111年 * [[第一次北属期]]([[漢]]統治)紀元前111年 - 40年 * [[チュン姉妹|徴氏]] 40年 - 42年 * [[第二次北属期]]([[六朝]]統治)43年 - 544年 ** [[士燮 (交阯太守)|士氏]] 187年 - 226年 * [[チャンパ王国]] 192年 - 1832年 * [[前李朝]] 544年 - 602年 * [[第三次北属期]]([[隋]]、[[唐]]統治)602年 - 905年 * [[曲承裕|曲氏]] 906年 - 930年 * [[楊廷芸|楊氏]] 931年 - 937年 * [[矯公羨|矯氏]] 937年 - 938年 * [[呉朝]] 939年 - 968年 * [[丁朝]] 968年 - 980年 * [[前黎朝]] 980年 - 1009年 * [[大越]] 1054年 - 1400年 ** [[李朝 (ベトナム)|李朝]] 1009年 - 1225年 ** [[陳朝]] 1225年 - 1400年 * [[胡朝]] 1400年 - 1407年 * [[後陳朝]] 1407年 - 1414年 * [[第四次北属期]] ([[明]]統治)1407年 - 1427年 * [[後陳朝]] 1426年 - 1428年 * [[大越]] 1428年 - 1804年 ** [[後黎朝]] 1428年 - 1527年 ** [[莫朝]] 1527年 - 1677年 ** [[ファイル:Flag of Later Le dynasty.svg|border|20x20px]] [[後黎朝]] 1532年 - 1789年 *** [[File:Seal of Trịnh Lords (Tĩnh Đô vương 靖都王).svg|border|20x20px]] [[鄭主|鄭氏政権]] 1545年 - 1787年 *** [[File:Seal of Nguyễn Lords.svg|border|20x20px]] [[広南国|阮氏政権]] 1558年 - 1777年 ** [[File:Triều đường chi ấn.svg|border|20px]] [[西山朝]] 1778年 - 1802年 ** [[ファイル:Fictional imperial standard attributed to the Nguyễn Dynasty (supposedly used during 1802–1885).svg|border|20x20px]] [[阮朝]] 1802年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Colonial Annam.svg|border|20x20px]] [[安南|安南保護国]] 1883年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領インドシナ]] 1887年 - 1954年 * [[ファイル:Flag of Nghe Tinh Soviet Movement.svg|border|20x20px]] [[ゲティン・ソヴィエト]] 1930年 - 1931年 * [[ファイル:Flag of the Empire of Vietnam (1945).svg|border|20x20px]] [[ベトナム帝国]] 1945年 * [[ファイル:Flag of North Vietnam (1955–1976).svg|border|20x20px]] [[ベトナム民主共和国]] 1945年 - 1976年 * [[ファイル:Flag of Republic of Cochinchina (variant).svg|border|20x20px]] [[コーチシナ共和国]] 1946年 - 1949年 * [[ファイル:Flag of South Vietnam.svg|border|20x20px]] [[ベトナム国]] 1949年 - 1955年 * [[ファイル:Flag of South Vietnam.svg|border|20x20px]] [[ベトナム共和国]] 1955年 - 1975年 * [[ファイル:FNL Flag.svg|border|20x20px]] [[南ベトナム共和国]] 1975年 - 1976年 === カンボジア === * [[扶南]] 50/68年 - 628年 * [[真臘]] 550年 - 802年 * [[File:Flag of Cambodia (pre-1863).svg|border|20x20px]] [[クメール王朝]](アンコール朝)802年 - 1431年 ** {{仮リンク|カンボジアの暗黒時代|en|Dark ages of Cambodia}} 1431年 - 1863年  * [[ファイル:Flag of Cambodia (1863–1948).svg|border|20x20px]] [[フランス保護領カンボジア]] 1863年 - 1953年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領インドシナ]] 1887年 - 1954年 * [[ファイル:Flag of Cambodia under Japanese occupation.svg|border|20x20px]] [[日本占領時期のカンボジア]] 1941年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Cambodia.svg|border|20x20px]] [[カンボジア王国 (1954年-1970年)|カンボジア王国]] 1953年 - 1970年 * [[ファイル:Flag of the Khmer Republic.svg|border|20x20px]] [[クメール共和国]]([[ロン・ノル]]政権)1970年 - 1975年 * [[ファイル:Flag of Democratic Kampuchea.svg|border|20x20px]] [[民主カンプチア]]([[ポル・ポト]]政権)1975年 - 1979年 * [[ファイル:Flag of the People's Republic of Kampuchea.svg|border|20x20px]] [[カンプチア人民共和国]]([[ヘン・サムリン]]政権)1979年 - 1989年 * [[ファイル:Flag of the State of Cambodia (1989–1992).svg|border|20x20px]] [[カンプチア人民共和国|カンボジア国]]([[ヘン・サムリン]]政権)1989年 - 1992年 === ラオス === * [[南詔]] 738年 - 902年 * [[ラーンサーン朝]] 1354年 - 1709年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Luang Phrabang (1707-1893).svg|border|20x20px]] [[ルアンパバーン王国]] 1706年 - 1949年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Vientiane (1707–1828).svg|border|20x20px]] [[ヴィエンチャン王国]] 1707年 - 1828年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Champasak (1713-1947).svg|border|20x20px]] [[チャンパーサック王国]] 1713年 - 1904年 * [[シエンクアーン王国]] 1788年 - 1899年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領インドシナ]] 1887年 - 1954年 * [[File:Flag of Laos (1893–1952).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|フランス保護領ラオス|en|French protectorate of Laos}} * [[ファイル:Flag of Laos.svg|border|20x20px]] [[ラーオ・イサラ]] 1945年 - 1946年 * [[ファイル:Flag of Laos (1952–1975).svg|border|20x20px]] [[ラオス王国]] 1949年 - 1975年 === タイ === * [[ラヴォ王国]] 450年 - 1388年 * [[ドヴァーラヴァティー王国]] 6世紀頃 - 11世紀頃 * [[シュリーヴィジャヤ王国]] 650年 - 1377年 * [[ハリプンチャイ王国]] 661年 - 1292年 * [[ファイル:Flag of Cambodia (pre-1863).svg|border|20x20px]] [[クメール王朝]](アンコール朝)802年 - 1431年 * [[パヤオ王国]] 1094年 - 1338年 * [[プレー王国]] 12世紀頃 - 1443年 * [[スコータイ王朝]] 1240年頃 - 1438年 * [[File:Seal of Lanna Kingdom.png|border|20px]] [[ラーンナータイ王朝]] 1292年 - 1775年 * [[カーオ王国]] 13世紀 - 1450年頃 * [[ファイル:Flag of Thailand (Ayutthaya period).svg|border|20x20px]] [[アユタヤ王朝]] 1351年 - 1767年 * [[ファイル:Flag of Patani Kingdom (until 1816).svg|border|20x20px]] [[パタニ王国]] 1516年 - 1902年 * [[ナーン王国]] 1727年 - 1931年 * [[ファイル:Flag of Thailand (Ayutthaya period).svg|border|20x20px]] [[トンブリー王朝]] 1767年 - 1782年 * [[File:Flag of Thailand.svg|border|20x20px]] [[タイ王国|シャム王国]] 1782年 - 1932年 === ビルマ === * {{仮リンク|タトゥン王国|en|Thaton Kingdom}} 9世紀 - 1057年 * [[パガン王朝]] 1044年 - 1314年 * [[ペグー朝]] 1287年 - 1539年 * [[アヴァ王朝]] 1364年 - 1555年 * [[タウングー王朝]] 14世紀頃 - 1752年 ** [[タウングー王朝|ニャウンヤン朝]] 1597年 - 1752年 * [[アラカン王国]] 1429年 - 1785年 * [[ファイル:Flag of the Alaungpaya Dynasty of Myanmar.svg|border|20x20px]] [[コンバウン王朝]] 1752年 - 1886年 * [[ファイル:British Raj Red Ensign.svg|border|20x20px]] [[イギリス領インド帝国]] 1858年 - 1947年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本占領時期のビルマ]] 1942年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Burma 1943.svg|border|20x20px]] [[ビルマ国]] 1943年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Burma (1948–1974).svg|border|20x20px]] [[ビルマ連邦]] 1948年 - 1974年 * [[ファイル:Flag of Myanmar (1974–2010).svg|border|20x20px]] [[ビルマ連邦社会主義共和国]] 1974年 - 1988年 * [[ファイル:Flag of Myanmar.svg|border|20x20px]] [[国家平和発展評議会|ミャンマー連邦]] 1988年 - 2011年 === マレー半島・北ボルネオ === * [[シュリーヴィジャヤ王国]] 650年 - 1377年 * [[ファイル:Old Flag of Brunei.svg|border|20x20px]] [[ブルネイ帝国]] 1368年 - 1888年 * [[ファイル:Malacca flag as shown in the Cantino Planisphere (1512).png|border|20x20px]] [[マラッカ王国]]1402年頃 - 1511年 * [[ファイル:Late 19th Century Flag of Sulu.svg|border|20x20px]] [[スールー王国]] 1405年 - 1915年 * [[ファイル:Flag of Patani Kingdom (until 1816).svg|border|20x20px]] [[パタニ王国]] 1516年 - 1902年 * [[ファイル:Flag of the British Straits Settlements (1904–1925).svg|border|20x20px]] [[海峡植民地]] 1826年 - 1946年 * [[ファイル:Flag of Sarawak (1870–1946, 1963–1973).svg|border|20x20px]] [[サラワク王国]] 1841年 - 1963年 * [[ファイル:Flag of Labuan (1912–1946).svg|border|20x20px]] [[ラブアン直轄植民地]] 1848年 - 1946年 * [[File:Flag of the United Kingdom.svg|border|20x20px]] [[イギリス領マラヤ]] 1874年 - 1946年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本占領時期のシンガポール]] 1942年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本占領時期のイギリス領ボルネオ]] 1941年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of North Borneo (1902–1946).svg|border|20x20px]] [[北ボルネオ]] 1882年 - 1963年 * [[ファイル:Flag of Malaya (1896–1950).svg|border|20x20px]] [[マラヤ連合]] 1946年 - 1948年 * [[ファイル:Flag of Malaya.svg|border|20x20px]] [[マラヤ連邦]] 1948年 - 1963年 === インドネシア・東ティモール=== * [[クタイ王国]] 4世紀 - 5世紀 * [[タルマヌガラ王国]] 358年 - 669年 * {{仮リンク|スンダ王国|en|Sunda Kingdom}} 669年 - 1579年 * [[シュリーヴィジャヤ王国]] 650年 - 1377年 * [[古マタラム王国]] 717年 - 929年 * [[シャイレーンドラ朝]] 752年頃 - 832年頃 * [[クディリ王国|クディリ朝]] 929年 - 1222年 * [[シンガサリ朝]] 1222年 - 1292年 * [[サムドラ・パサイ王国]] 1267年 - 1521年 * [[ファイル:Majapahit fictitious flag.svg|border|20x20px]] [[マジャパヒト王国]] 1293年 - 1527年 * [[ドゥマク王国]] 1475年 - 1554年 * [[ファイル:Flag of the Aceh Sultanate.png|border|20x20px]] [[アチェ王国]] 1496年 - 1903年 * [[ファイル:Flag of the Sultanate of Banten.svg|border|20x20px]] [[バンテン王国]] 1527年 - 1813年 * [[ファイル:Flag of the Sultanate of Mataram.svg|border|20x20px]] [[マタラム王国]] 1587年 - 1755年 * [[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] [[オランダ領東インド]] 1609年 - 1949年 * [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|20x20px]] [[ポルトガル領ティモール]] 1702年 - 1975年 * [[ファイル:Lanfang Republic Reconstructed Flag.svg|border|20x20px]] [[蘭芳公司|蘭芳共和国]] 1777年 - 1884年 * [[ファイル:Flag of Japan (1870–1999).svg|border|20x20px]] [[日本占領時期のインドネシア]] 1942年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Indonesia.svg|border|20x20px]] [[インドネシア連邦共和国]] 1949年 - 1950年 ** [[File:Flag of Dayak Besar.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|大ダヤク|en|Great Dayak}} ** [[ファイル:Flag of the State of East Indonesia.svg|border|20x20px]] [[東インドネシア国]] ** [[File:Flag of Various Autonomous Indonesian States.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|東ジャワ国|en|State of East Java}} ** [[File:Flag of East Sumatra.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|東スマトラ国|en|State of East Sumatra}} ** [[File:Flag of Pontianak Sultanate.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|西カリマンタン|en|Pontianak Sultanate}} ** [[ファイル:Flag of Pasundan.svg|border|20x20px]] [[パスンダン国]] ** [[ファイル:Flag of Various Autonomous Indonesian States.svg|border|20x20px]] [[マドゥラ国]] ** [[File:Flag of South Sumatra.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|南スマトラ国|en|State of South Sumatra}} === フィリピン === * [[ファイル:Flag of Maguindanao.svg|border|20x20px]] [[マギンダナオ王国]] 1515年頃 - 1888年 * [[ファイル:Late 19th Century Flag of Sulu.svg|border|20x20px]] [[スールー王国]] 1405年 - 1915年 * [[ファイル:Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg|border|20x20px]] [[スペイン領東インド]] 1565年 - 1898年 * [[ファイル:Philippines flag original.png|border|20x20px]] [[フィリピン第一共和国]] 1899年 - 1901年 * [[ファイル:Flag of the Philippines (1936–1985, 1986–1998).svg|border|20x20px]] [[フィリピン・コモンウェルス|フィリピン自治領]] 1935年 - 1946年 * [[ファイル:Philippines Flag Original.svg|border|20x20px]] [[フィリピン第二共和国|日本占領下]] 1942年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of the Philippines (1936–1985, 1986–1998).svg|border|20x20px]] [[フィリピン第二共和国]] 1943年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the Philippines (1936–1985, 1986–1998).svg|border|20x20px]] [[フィリピン|フィリピン第三共和国]] 1946年 - 1965年 * [[ファイル:Flag of the Philippines (1985–1986).svg|border|20x20px]] [[フィリピン|マルコス政権]] 1965年 - 1986年 == 南アジア == === 北インド === * [[十六大国]] 紀元前6世紀頃 - 紀元前5世紀頃 * [[マガダ国]] ? - 紀元前23年頃 ** [[シシュナーガ朝]] ? - 紀元前4世紀頃 ** [[ナンダ朝]] 紀元前4世紀頃 - 紀元前317年頃 ** [[マウリヤ朝]] 紀元前317年頃 - 紀元前180年頃 ** [[シュンガ朝]] 紀元前180年頃 - 紀元前68年頃 ** [[カーンヴァ朝]] 紀元前68年頃 - 紀元前23年頃 * [[クシャーナ朝]] 1世紀頃 - 3世紀頃 * [[グプタ朝]] 320年 - 550年頃 * [[ヴァルダナ朝]] 606年頃 - 648年頃 * [[プラティーハーラ朝]] 750年頃 - 1018年/1036年 ** [[チャーハマーナ朝]] 6世紀頃 - 1195年頃 ** [[パラマーラ朝]] 9世紀初頭 - 1305年 ** [[チャンデーラ朝]] 10世紀後半 - 1309年頃 * [[パーラ朝]] 750年 - 1174年 * [[セーナ朝]] 1070年 - 1230年 * [[ゴール朝]] 11世紀頃 - 1215年 * [[デリー・スルターン朝]] 1206年 - 1526年 ** [[奴隷王朝]] 1206年 -1290年 ** [[ハルジー朝]] 1290年 - 1320年 ** [[トゥグルク朝]] 1320年 - 1414年 ** [[サイイド朝]] 1414年 - 1451年 ** [[ローディー朝]] 1451年 - 1526年 * [[ファイル:Alam of the Mughal Empire.svg|border|20x20px]] [[ムガル帝国]] 1526年 - 1858年 * [[スール朝]] 1539年 - 1555年 * [[ファイル:British Raj Red Ensign.svg|border|20x20px]] [[イギリス領インド帝国]] 1858年 - 1947年 * インド国内の各[[藩王国]] === 南インド === * [[サータヴァーハナ朝]](アーンドラ朝)紀元前3世紀頃 - 3世紀頃 * [[前期チャールキヤ朝]](西チャールキヤ朝)543年頃 - 753年 * [[ラーシュトラクータ朝]] 753年 - 973年 * [[後期チャールキヤ朝]] 973年 - 1189年 * [[東チャールキヤ朝]] 624年 - 1279年 * [[パッラヴァ朝]] 275年 - 897年 * [[チョーラ朝]] 846年頃 - 1279年 * [[ホイサラ朝]] 1022年 - 1346年 * [[ヤーダヴァ朝]] 850年頃 - 1317年 * [[カーカティーヤ朝]] 1000年 - 1323年 * [[パーンディヤ朝]] 6世紀頃 - 1345年 * [[バフマニー朝]] 1347年 - 1527年 ** [[デカン・スルターン朝]](ムスリム5王国)1489年 - 1687年 *** [[File:Flag of the Ahmadnagar Sultanate.svg|border|20x20px]] [[アフマドナガル王国]] 1490年 - 1636年 *** [[ベラール王国]]1487年/1490年 - 1574年 *** [[ビジャープル王国]] 1490年 - 1686年 *** [[ファイル:Qutbshahi Flag.svg|border|20x20px]] [[ゴールコンダ王国]] 1518年 - 1687年 *** [[ビーダル王国]] 1528年 - 1619年 * [[ファイル:Flag of Vijayanagara Empire.png|border|20x20px]] [[ヴィジャヤナガル王国]] 1336年 - 1649年 * [[ファイル:Flag of the Maratha Empire.svg|border|20x20px]] [[マラーター王国]]([[マラーター同盟]])1674年 - 1849年 * [[ファイル:Flag of Mysore.svg|border|20x20px]] [[マイソール王国]] 1339年 - 1947年 * [[ファイル:Asafia flag of Hyderabad State.svg|border|20x20px]] [[ニザーム王国]](ハイダラーバード王国)1724年 - 1948年 === ベンガル地方 === * [[ファイル:Ahom insignia plain.svg|border|20x20px]] [[アーホーム王国]] 1226年 - 1826年 * [[ベンガル・スルターン朝]] 1342年 - 1576年 * [[ファイル:Flag of Sikkim (1967-1975).svg|border|20x20px]] [[シッキム王国]] 1642年 - 1975年 * [[ファイル:Flag of Pakistan.svg|border|20x20px]] [[パキスタン (ドミニオン)]] 1947年 - 1956年 * [[ファイル:Flag of Pakistan.svg|border|20x20px]] [[東パキスタン]] 1955年 - 1971年 * [[File:Flag of Bangladesh (1971).svg|border|20x20px]] [[:en:Provisional Government of the People's Republic of Bangladesh|バングラデシュ人民共和国臨時政府]] 1971年 - 1972年 === カシミール === * [[:en:Namgyal dynasty of Ladakh|ラダック王国]] 1460年 – 1842年 * [[ファイル:Nishan Sahib.svg|border|20x20px]] [[シク王国]] 1801年 - 1849年 * [[ファイル:Flag of Jammu and Kashmir (1936-1953).svg|border|20x20px]] [[ジャンムー・カシミール藩王国]] 1846年 - 1947年 === パキスタン === * [[ファイル:Flag of Pakistan.svg|border|20x20px]] [[パキスタン (ドミニオン)]] 1947年 - 1956年 === スリランカ === * [[ファイル:Flag of Dutthagamani.png|border|20x20px]] [[アヌラーダプラ王国]] 紀元前377年 - 1017年 * [[File:Nandi flag.png|border|20x20px]] [[ジャフナ王国]] 1215年 - 1624年 * [[ファイル:Flag of Kotte.svg|border|20x20px]] [[コーッテ王国]] 1415年 - 1597年 ** [[ファイル:Flag of Sitawaka Kingdom (1521 - 1594).png|border|20x20px]] [[シーターワカ王国]] 1521年 - 1592年 * [[ファイル:King of Kandy.svg|border|20x20px]] [[キャンディ王国]] 1469年 - 1815年 * [[ファイル:Flag of Portugal (1640).svg|border|20x20px]] [[ポルトガル領セイロン]] 1505年 - 1658年 * [[ファイル:Flag of the Dutch East India Company.svg|border|20x20px]] [[オランダ領セイロン]] 1658年 - 1796年 * [[ファイル:Flag of Ceylon (1875–1948).svg|border|20x20px]] [[イギリス領セイロン]] 1815年 - 1948年 * [[ファイル:Flag of Ceylon (1951–1972).svg|border|20x20px]] [[セイロン (ドミニオン)]] 1948年 - 1972年 === モルディブ === * [[ファイル:Flag of the United Suvadive Republic.svg|border|20x20px]] [[スバディバ連合共和国]] 1959年 - 1963年 * [[ファイル:Flag of the President of Maldives.svg|border|20x20px]] [[モルディブ・スルターン国]] 1965年 - 1968年 === ネパール === * {{仮リンク|ゴーパーラ朝|en|Gopala Dynasty}}、{{仮リンク|マヒシャパーラー朝|en|Mahisapala dynasty}}、{{仮リンク|キラータ朝|en|Kirata Kingdom}} * [[カピラ城|カピラヴァストゥ]] * [[リッチャヴィ朝]] 4世紀 - 9世紀 * {{仮リンク|デーヴァ朝|en|Deva dynasty}} 12世紀 - 13世紀 * [[マッラ朝]] 1200年 - 1769年 ** [[バクタプル・マッラ朝]] 1200年 - 1769年 ** [[カトマンズ・マッラ朝]] 1484年 - 1768年 *** [[パタン・マッラ朝]] 1619年 - 1768年 * [[File:Coat of Arms of Shah dynasty.gif|border|20px]] [[ゴルカ朝]] 1559年 - 2008年 ** [[ファイル:Flag of Nepal.svg|border|20x20px]] [[ネパール王国]] 1768年 - 2008年 * [[ファイル:Flag of Mustang.svg|border|20x20px]] [[ムスタン王国]] 1450年 - 2008年 === アフガニスタン === * [[グレコ・バクトリア王国]] 紀元前255年頃 - 紀元前130年頃 * [[クシャーナ朝]] 1世紀 - 375年 * [[ファイル:Old Ghaznavid Flag.svg|border|20x20px]] [[ガズナ朝]] 955年 - 1187年 * [[ゴール朝]] 11世紀初め頃 - 1215年 * [[ファイル:Black flag.svg|border|20x20px]] [[ホータキー朝]] 1709年 - 1738年 * [[File:Flag of Herat until 1842.svg|border|20x20px]] [[ドゥッラーニー朝]] 1747年 - 1973年 ** [[サドーザイ朝]] 1747年 - 1826年 ** [[File:Emblem of Afghanistan (1931–1973).svg|border|20px]] [[バーラクザーイー朝]] 1826年 - 1973年 *** [[ファイル:Flag of Afghanistan (1921–1926).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン首長国]] 1835年 - 1926年 *** [[ファイル:Flag of Afghanistan (1931–1973).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン王国]] 1926年 - 1973年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (1974–1978).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン共和国 (1973年-1978年)|アフガニスタン共和国]] 1973年 - 1978年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (1980–1987).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン民主共和国]] 1978年 - 1987年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (1987–1992).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン民主共和国|アフガニスタン共和国]] 1987年 - 1992年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (1992–2001).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン・イスラム国]] 1992年 - 2002年 * [[ファイル:Flag of the Taliban.svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン・イスラム首長国]] 1996年 - 2001年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (2002–2004).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン・イスラム移行国]] 2002年 - 2004年 * [[ファイル:Flag of Afghanistan (2013–2021).svg|border|20x20px]] [[アフガニスタン・イスラム共和国]] 2004年 - 2021年 == 中央アジア == [[#チベット]]、[[#モンゴル高原]]、[[#東トルキスタン]]はそれぞれ東アジア内の項を参照。 * [[スキタイ]] 紀元前9世紀 - 4世紀 * [[サルマタイ]] 紀元前4世紀 - 4世紀  * [[マッサゲタイ]]紀元前6世紀 - 紀元前1世紀 * [[康居]] 紀元前1世紀 - 5世紀 * [[クシャーナ朝]] 1世紀 - 375年 * [[フン族|フン]] 4世紀 - 6世紀 * [[アヴァール]] 5世紀 - 9世紀 * [[エフタル]] 420年 - 567年 * [[突厥]] 552年 - 582年 ** [[東突厥]] 582年 - 745年 ** [[西突厥]] 582年 - 741年頃 * [[ハザール]] 7世紀 - 10世紀 * [[カルルク]] 7世紀 - 12世紀 * [[ヴォルガ・ブルガール]] 7世紀 - 13世紀 * [[突騎施]]([[テュルギシュ]])699年 - 766年 * [[ペチェネグ]] 8世紀 - 12世紀 * [[サーマーン朝]] 873年 - 999年 * [[ファイル:Flag of the Kara-Khanids.svg|border|20x20px]] [[カラハン朝]] 960年 - 11世紀半ば ** [[東カラハン朝]] 11世紀半ば - 1210年 ** [[西カラハン朝]] 11世紀半ば - 1212年 * [[キプチャク]] 11世紀 - 13世紀 * [[ホラズム・シャー朝]] 1077年 - 1231年 * [[西遼]](カラ・キタイ)1132年 - 1218年 * [[File:Flag of the Chagatay Khanate in the Catalan Atlas (published in1375).png|border|20x20px]] [[チャガタイ・ハン国]] 1225年 - 1340年 * [[東チャガタイ・ハン国]] 1340年 - 1462年 * [[ファイル:Timurid.svg|border|20x20px]] [[ティムール朝]] 1370年 - 1507年 * [[File:Golden Horde flag 1339.svg|border|20x20px]] [[ジョチ・ウルス]](キプチャク・ハン国)1240年代 - 1502年 ** [[シャイバーニー朝]] 1428年 - 1557年 *** [[ファイル:Flag of the Emirate of Bukhara.svg|border|20x20px]] [[ブハラ・ハン国]] 1557年 - 1920年 ****[[シャイバーニー朝]] 1557年 - 1599年 **** [[ジャーン朝]] 1599年 - 1785年 **** [[マンギド朝]] 1785年 - 1920年 ** [[ファイル:Flag of Tartary.svg|border|20x20px]] [[カザン・ハン国]] 1438年 - 1552年 ** [[ファイル:Nogai flag.svg|border|20x20px]] [[ノガイ・オルダ]] 1440年代 - 1634年 ** [[ファイル:Flag of the Crimeans.svg|border|20x20px]] [[クリミア・ハン国]] 1441年 - 1783年 ** [[カシモフ・ハン国]] 1452年 - 1681年 ** [[アストラハン・ハン国]] 1466年 - 1556年 ** [[ファイル:Flag of the Kazakh Khanate.svg|border|20x20px]] [[カザフ・ハン国]] 1469年 - 1847年 ** [[ファイル:Flag of the Khanate of Khiva.svg|border|20x20px]] [[ヒヴァ・ハン国]] 1512年 - 1920年 ** [[ファイル:Flag of the Turkestan (Kokand) Autonomy.svg|border|20x20px]] [[コーカンド・ハン国]] 1709年 - 1876年 * [[File:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ステップ総督府]] 1882年 - 1917年 * [[File:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[トルキスタン総督府]] 1867年 - 1917年 ** [[ファイル:Coat of Arms of Zakaspiyskaya oblast (1890).gif|border|20x20px]] [[ザカスピ州]] 1882年 - 1921年 * [[File:Flag of the Turkestan (Kokand) Autonomy.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|自治トルキスタン臨時政府|ru|Туркестанская автономия|en|Turkestan Autonomy}} 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Proposed Flag of the Alash Autonomy.svg|border|20x20px]] [[アラシュ自治国]] 1917年 - 1920年 * [[File:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ザカスピ臨時政府|ru|Закаспийское временное правительство|en|Transcaspian Government}}(沿カスピ連合政府)1918年 - 1919年 * {{仮リンク|トルキスタン軍事連合|ru|Туркестанская военная организация}} 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Turkestan Autonomous SSR Flag.svg|border|20x20px]] [[トルキスタン自治ソビエト社会主義共和国]] 1918年 - 1924年 * {{仮リンク|臨時フェルガナ政府|ru|Временное Ферганское правительство}} 1919年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of the Bukharan People's Soviet Republic.svg|border|20x20px]] [[ブハラ人民ソビエト共和国]] 1920年 - 1924年 * [[ファイル:Flag of Khiva 1920-1923.svg|border|20x20px]] [[ホラズム人民ソビエト共和国]] 1920年 - 1925年 * {{仮リンク|カラ=キルギス自治州|en|Kara-Kirghiz Autonomous Oblast}} 1924年 - 1926年 * [[ファイル:Flag of the Tajik Autonomous Soviet Socialist Republic (1929).svg|border|20x20px]] [[タジク自治ソビエト社会主義共和国]] 1924年 - 1929年 * [[ファイル:Flag of the Turkmen Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[トルクメン・ソビエト社会主義共和国]] 1924年 - 1991年 * [[File:Flag of The Kazakh Autonomous Socialist Soviet Republic (1920-36).svg|border|20x20px]] [[カザフ自治ソビエト社会主義共和国]] 1925年 - 1936年 * {{仮リンク|カラカルパク自治州|en|Karakalpak Autonomous Oblast}} 1925年 - 1932年 * [[ファイル:Flag of Kyrgyz A.S.S.R.png|border|20x20px]] [[キルギス自治ソビエト社会主義共和国 (1926-1936)|キルギス自治ソビエト社会主義共和国]] 1926年 - 1936年 * [[ファイル:Flag of the Tajik Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[タジク・ソビエト社会主義共和国]] 1929年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Kazakh Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[カザフ・ソビエト社会主義共和国]] 1936年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Kirghiz Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[キルギス・ソビエト社会主義共和国]] 1936年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Uzbek Soviet Socialist Republic (1952–1991).svg|border|20x20px]] [[ウズベク・ソビエト社会主義共和国]] 1940年 - 1991年 == 西アジア == === イラン === * [[ファイル:Median Empire flag.png|境界|20x20ピクセル]][[メディア王国]] ? - 紀元前550年 * [[ペルシア帝国]] 紀元前550年 - ** [[ファイル:Standard of Cyrus the Great.svg|border|20x20px]] [[アケメネス朝]] 紀元前550年 - 紀元前330年 ** [[パルティア]] 紀元前247年頃? - 228年頃 ** [[File:Derafsh kaviani.png|border|20x20px]] [[サーサーン朝]] 226年 - 651年 * [[ファイル:Vergina Sun WIPO.svg|border|20px]] [[セレウコス朝]]紀元前312年 - 紀元前63年 * [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 661年 - 750年 * [[ファイル:Abbasid banner.svg|border|20x20px]] [[アッバース朝]] 750年 - 1517年 * [[ターヒル朝]] 821年 - 873年 * [[サッファール朝]] 861年 - 1003年 * [[アラヴィー朝]] 864年 - 928年 * [[サーマーン朝]] 873年 - 999年 * [[ズィヤール朝]] 927年 - 1043年 * [[ブワイフ朝]] 932年 - 1062年 * [[ファイル:Old Ghaznavid Flag.svg|border|20x20px]] [[ガズナ朝]] 955年 - 1187年 * [[ファイル:Flag of the Seljuk.png|border|20x20px]] [[セルジューク朝]] 1038年 - 1308年 ** [[ケルマーン・セルジューク朝]] 1048年 - 1187年 ** [[ファイル:Atabek of Azerbaijan.png|border|20x20px]] [[イル・ドュグュズ朝]] 1135年 - 1225年 * [[ファールス|サルグル朝]] 1148年 - 1285年 * [[ゴール朝]] 11世紀初め頃 - 1215年 * [[カラキタイ|カラキタイ朝]] 1124年 - 1218年 * [[ホラズム・シャー朝]] 1077年 - 1231年 * [[file:Flag of the Ilkhanate.svg|border|20x20px]] [[イルハン朝]] 1258年 - 1353年 * [[ムザッファル朝]] 1318年 - 1393年 * [[ジャライル朝]] 1335年 - 1492年 * [[クルト朝]] 1251年 - 1381年 * [[ファイル:Timurid.svg|border|20x20px]] [[ティムール朝]] 1370年 - 1507年 * [[ファイル:Flag of Kara Koyunlu dynasty.png|border|20x20px]] [[黒羊朝]](カラ・コユンル朝)1375年 - 1468年 * [[ファイル:Flag of Ak Koyunlu.svg|border|20x20px]] [[白羊朝]](アク・コユンル朝)1378年 - 1508年 * [[ファイル:Safavid Flag.svg|border|20x20px]] [[サファヴィー朝]] 1501年 - 1736年 * [[ファイル:Afsharid Imperial Standard (3 Stripes).svg|border|20x20px]] [[アフシャール朝]] 1736年 - 1796年 * [[ファイル:Zand Dynasty flag.svg|border|20x20px]] [[ザンド朝]] 1750年 - 1794年 * [[ファイル:State flag of Persia (1907–1933).svg|border|20x20px]] [[カージャール朝]] 1796年 - 1925年 * [[ファイル:Flag of Persian Socialist Soviet Republic.svg|border|20x20px]] [[ギーラーン共和国]] 1920年 - 1921年 * [[ファイル:State flag of Iran 1964-1980.svg|border|20x20px]] [[パフラヴィー朝]] 1925年 - 1979年 * [[ファイル:Azerbaijan people's government flag.svg|border|20x20px]] [[アゼルバイジャン国民政府]] 1945年 -1946年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Mahabad.svg|border|20x20px]] [[マハバード共和国]] 1946年 === 大シリア === * [[シュメール]] * [[エブラ]]、[[フェニキア]] * [[アッカド帝国]] 紀元前2334年 - 紀元前2020年 * [[ウル第三王朝]] 紀元前22世紀 - 紀元前21世紀 * [[ファイル:Babylonia flag.png|境界|20x20ピクセル]][[バビロニア]] 紀元前1894年 - 紀元前625年 ** [[バビロン第1王朝]] 紀元前1894年 - 紀元前1595年 ** [[海の国第1王朝]] 紀元前1732年頃 - 紀元前1460年頃 ** [[カッシート|カッシート王朝]] 紀元前1475年頃 - 紀元前1155年 ** [[イシン第2王朝]] 紀元前1157年頃 - 紀元前1025年 * [[ヒッタイト]] 紀元前1595年 - 紀元前1200年頃 * [[ミタンニ]] 紀元前16世紀頃 - 紀元前13世期頃 * [[アッシリア]] 紀元前1365年 - 紀元前625年 * [[イスラエル王国]] 紀元前1021年 - 紀元前722年 ** [[イスラエル王国|北イスラエル王国]] 紀元前922年 - 紀元前722年 ** [[ファイル:Kingdom of Judah insignia (based on LMLK).svg|20x20ピクセル]][[ユダ王国]] 紀元前930年頃 - 紀元前586年 * [[アルゲアス朝]] 紀元前700年 - 紀元前310年 * [[新バビロニア]] 紀元前625年 - 紀元前539年 * [[ファイル:Standard of Cyrus the Great.svg|border|20x20px]] [[アケメネス朝]] 紀元前550年 - 紀元前330年 * [[ファイル:Vergina Sun WIPO.svg|border|20x20px]] [[セレウコス朝]] 紀元前312年 - 紀元前63年 * [[ファイル:Flag of Ptolemaic Kingdom.png|境界|20x20ピクセル]] [[プトレマイオス朝]] 紀元前305年 - 紀元前30年 * [[ハスモン朝]] 紀元前140年頃 - 紀元前37年 * [[シリア属州]] 紀元前64年 - 637年 * [[ヘロデ朝]] 紀元前37年 - 92年頃 * [[ユダヤ属州]] 6年 - 135年 * [[パレスチナ|属州シリア・パレスチナ]] 135年 - 390年 * [[パルミラ帝国]] 260年 - 273年 * [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 661年 - 750年 * [[ファイル:Abbasid banner.svg|border|20x20px]] [[アッバース朝]] 750年 - 1517年 * [[ブワイフ朝]] 932年 - 1062年 * [[ファイル:Rectangular green flag.svg|border|20x20px]] [[ファーティマ朝]] 909年 - 1171年 * [[シリア・セルジューク朝]] 1085年 - 1117年 * [[ファイル:Banner of the Principality of Antioch.png|border|20x20px]] [[アンティオキア公国]] 1098年 - 1268年 * [[エデッサ伯国]] 1098年 - 1150年 * [[ファイル:Vexillum Regni Hierosolymae.svg|border|20x20px]] [[エルサレム王国]] 1099年 - 1291年 * [[ファイル:Banner of Arms of the House of Toulouse-Tripoli.svg|border|20x20px]] [[トリポリ伯国]] 1102年 - 1268年 * [[ザンギー朝]] 1127年 - 1250年 * [[ファイル:Flag of Ayyubid Dynasty.svg|border|20x20px]] [[アイユーブ朝]]地方政権 1169年 - 1250年 * [[ファイル:Mameluke Flag.svg|border|20x20px]] [[マムルーク朝]] 1250年 - 1517年 * [[file:Flag of the Ilkhanate.svg|border|20x20px]] [[イルハン朝]] 1258年 - 1353年 * [[ファイル:Timurid.svg|border|20x20px]] [[ティムール朝]] 1370年 - 1507年 * [[ファイル:Safavid Flag.svg|border|20x20px]] [[サファーヴィー朝]] 1501年 - 1736年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 * [[File:Flag of Kingdom of Syria (1920-03-08 to 1920-07-24).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|シリア・アラブ王国|en|Arab Kingdom of Syria}} 1919年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Iraq (1924–1959).svg|border|20x20px]] [[イギリス委任統治領メソポタミア]] 1920年 - 1932年 * [[ファイル:Flag of the French Mandate of Syria (1920).svg|border|20x20px]] [[フランス委任統治領シリア]] 1920年 - 1946年 ** [[File:Flag of the State of Damascus.svg|border|20x20px]] [[ダマスカス国]] 1920年 - 1925年 ** [[File:Flag of the State of Aleppo.svg|border|20x20px]] [[アレッポ国]] 1920年 - 1925年 ** [[File:Latakiya-sanjak-Alawite-state-French-colonial-flag.svg|border|20x20px]] [[アラウイ自治地区]] 1920年 - 1936年 ** [[ファイル:Lebanese French flag.svg|border|20x20px]] [[大レバノン|フランス委任統治領レバノン]] 1920年 - 1943年 ** [[File:Flag of Jabal ad-Druze (state).svg|border|20x20px]] [[ジャバル・ドゥルーズ地区]] 1921年 - 1936年 ** [[アレキサンドレッタ地区]] 1921年 - 1936年 * [[ファイル:Ensign of the Palestine Mandate (1927–1948).svg|border|20x20px]] [[イギリス委任統治領パレスチナ]] 1920年 - 1948年 * [[ファイル:Flag of Iraq (1924–1959).svg|border|20x20px]] [[イラク王国]] 1932年 - 1958年 * [[ファイル:Flag of Hatay.svg|border|20x20px]] [[ハタイ国|ハタイ共和国]] 1938年 - 1939年 * [[File:Flag of Syria (1930–1958, 1961–1963).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|シリア共和国 (1930年–1958年)|en|Syrian Republic (1930–1958)|label=シリア共和国}} 1946年 - 1958年 * [[ファイル:Flag of the Arab Federation.svg|border|20x20px]] [[アラブ連邦]] 1958年 * [[ファイル:Flag of the United Arab Republic (1958–1971).svg|border|20x20px]] [[アラブ連合共和国]] 1958年 - 1961年 * [[ファイル:Flag of Iraq (1991–2004).svg|border|20x20px]] [[イラク共和国]](旧) 1958年 - 2003年 * [[ファイル:Flag of Kuwait.svg|border|20x20px]] [[クウェート共和国]] 1990年 * [[ファイル:Flag of the Islamic State of Iraq and the Levant2.svg|border|20x20px]] [[ISIL|イスラム国]] 2014年- 2017年 === アラビア半島 === * [[ナブハーニ朝]] 1154年 - 1560年 * [[ヤアーリバ朝]] 1624年 - 1720年 * [[ラスール朝]] 1229年 - 1454年 * [[ファイル:Emblem of Saudi Arabia.svg|border|20x20px]] [[サウード家]] ** [[ファイル:Flag of the Third Saudi State-01.svg|border|20x20px]] [[第一次サウード王国]] 1744年 - 1818年 ** [[ファイル:Flag of the Third Saudi State-01.svg|border|20x20px]] [[第二次サウード王国]] 1824年 - 1891年 ** [[ファイル:Flag of the Emirate of Nejd and Hasa.svg|border|20x20px]] [[ナジュド及びハッサ王国]] (リヤド首長国)1902年 - 1921年 ** [[ファイル:Flag of Nejd (1921).svg|border|20x20px]] [[ナジュド・スルタン国]] 1921年 - 1926年 ** [[ファイル:Flag of the Kingdom of Hejaz and Nejd.svg|border|20x20px]] [[ナジュド及びヒジャーズ王国]] 1926年 - 1932年 * [[ファイル:Flag of Ha'il 1920.svg|border|20x20px]] [[ジャバル・シャンマル王国]] 1836年 - 1921年 * [[ファイル:Flag of Hejaz (1920).svg|border|20x20px]] [[ヒジャーズ王国]] 1916年 - 1926年 * [[ファイル:Flag of the Trucial States (1968–1971).svg|border|20x20px]] [[休戦オマーン]] 1820年 - 1971年 * [[ファイル:Flag of the Mutawakkilite Kingdom of Yemen.svg|border|20x20px]] [[イエメン王国]] 1918年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of North Yemen.svg|border|20x20px]] [[イエメン・アラブ共和国|北イエメン]] 1962年 - 1990年 * [[File:Flag of the Federation of Arab Emirates of the South.svg|border|20x20px]] [[南アラブ首長国連邦]] 1952年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of the Federation of South Arabia.svg|border|20x20px]] [[南アラビア連邦]] 1962年 - 1967年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[南アラビア保護領]] 1963年 - 1967年 * [[ファイル:Flag of South Yemen.svg|border|20x20px]] [[南イエメン]] 1967年 - 1990年 === アナトリア半島 === * [[ヒッタイト]] 紀元前16世紀 - 紀元前1180年 * [[ウラルトゥ]] 紀元前860年 - 紀元前585年 * [[フリギア]] 紀元前8世紀 - 紀元前7世紀 * [[ファイル:Median Empire flag.png|境界|20x20ピクセル]][[メディア王国]] ? - 紀元前550年 * [[リディア]] 紀元前7世紀 - 紀元前547年 * [[ファイル:Standard of Cyrus the Great.svg|border|20x20px]] [[アケメネス朝]] 紀元前550年 - 紀元前330年 * [[アルゲアス朝]] 紀元前700年 - 紀元前310年 * [[ファイル:Vergina Sun WIPO.svg|border|20x20px]] [[セレウコス朝]] 紀元前312年 - 紀元前63年 * [[ファイル:Flag of Ptolemaic Kingdom.png|境界|20x20ピクセル]] [[プトレマイオス朝]] 紀元前305年 - 紀元前30年 * [[アッタロス朝|アッタロス朝ペルガモン王国]] 紀元前282年 - 紀元前133年 * [[ポントス王国]] 紀元前281年 - 紀元前64年 * [[コンマゲネ王国]] 紀元前162年 - 72年 * [[ファイル:Standard of the Artaxiad dynasty.svg|border|20x20px]] [[アルメニア王国]] 紀元前190年 - 428年 * [[ファイル:Spqrstone.jpg|border|20x20px]] [[共和制ローマ]] 紀元前509年 - 紀元前27年 * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 * [[File:Derafsh kaviani.png|border|20x20px]] [[サーサーン朝]] 226年 - 651年 * [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[ファイル:Flag of the Seljuk.png|border|20x20px]] [[セルジューク朝]] 1038年 - 1308年 * [[ダニシュメンド朝]] 1071年 - 1178年 * [[ファイル:Flag of Sultanate of Rum.svg|border|20x20px]] [[ルーム・セルジューク朝]] 1077年 - 1308年 * [[ファイル:Flag of the Rubenid Dynasty.svg|border|20x20px]] [[キリキア・アルメニア王国]] 1080年 - 1375年 * [[ベイリク]] 1081年 -1423年 * [[ファイル:Arms of the House of Courtenay (undifferencied arms).svg|border|20x20px]] [[エデッサ伯国]] 1098年 - 1150年 * [[ファイル:Royal banner of Janus of Cyprus.svg|border|20x20px]] [[キプロス王国]] 1192年 - 1489年 * [[ファイル:Banner of the Empire of Trebizond.svg|border|20x20px]] [[トレビゾンド帝国]] 1204年 - 1461年 * [[ファイル:Lascaris-Arms.svg|border|20x20px]] [[ニカイア帝国]] 1204年 - 1261年 * [[ファイル:Latin Empire Flag.svg|border|20x20px]] [[ラテン帝国]] 1204年 - 1261年 * [[ファイル:Flag of the Mongol Empire 3.png|境界|20x20ピクセル]] [[モンゴル帝国]] 1206年 - 1634年 ** [[file:Flag of the Ilkhanate.svg|border|20x20px]] [[イルハン朝]] 1258年 - 1353年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 * [[ファイル:Timurid.svg|border|20x20px]] [[ティムール朝]] 1370年 - 1507年 * [[ファイル:Flag of Kara Koyunlu dynasty.png|border|20x20px]] [[黒羊朝]](カラ・コユンル朝)1375年 - 1468年 * [[ファイル:Flag of Ak Koyunlu.svg|border|20x20px]] [[白羊朝]](アク・コユンル朝)1378年 - 1508年 === 南コーカサス === * [[ファイル:Flag of Mihranids.svg|border|20x20px]] [[カフカス・アルバニア王国]] 紀元前2千年紀末 - 8世紀 * [[ウラルトゥ]] 紀元前860年 - 紀元前585年 * [[コルキス王国]] 紀元前6世紀 - 紀元前1世紀 * [[ファイル:Standard of Cyrus the Great.svg|border|20x20px]] [[アケメネス朝]] 紀元前550年 - 紀元前330年 * [[ファイル:Vergina Sun WIPO.svg|border|20x20px]] [[セレウコス朝]] 紀元前312年 - 紀元前63年 * [[アトロパテネ王国]] 紀元前4世紀 - 紀元前3世紀 * [[ファイル:Kartli - drosha jvari.svg|border|20x20px]] [[イベリア王国]] 紀元前302年頃 - 580年頃 * [[ポントス王国]] 紀元前281年 - 紀元前64年 * [[ファイル:Standard of the Artaxiad dynasty.svg|border|20x20px]] [[アルメニア王国]] 紀元前190年 - 428年 * [[コンマゲネ|コンマゲネ王国]] 紀元前162年 - 72年 * [[File:Derafsh kaviani.png|border|20x20px]] [[サーサーン朝]] 226年 - 651年 * [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 661年 - 750年 * [[ファイル:Abbasid banner.svg|border|20x20px]] [[アッバース朝]] 750年 - 1517年 * [[シルバン・シャー朝]] 861年 - 1538年 * [[バグラトゥニ朝アルメニア]] 885年 - 1045年 * [[シュニク王国]] 987年 - 1170年 * [[ファイル:Armenian Flag Khachen.png|border|20x20px]] [[アルツァフ王国]] 1000年 - 1261年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Georgia.svg|border|20x20px]] [[グルジア王国]] 1008年 - 1490年 * [[File:Flag of the Avars (Variant 3).svg|border|20x20px]] [[アヴァール・ハン国]] 12世紀 - 1864年 * [[ファイル:Flag of the Mongol Empire 3.png|境界|20x20ピクセル]] [[モンゴル帝国]] 1206年 - 1634年 ** [[file:Flag of the Ilkhanate.svg|border|20x20px]] [[イルハン朝]] 1256年 - 1353年 * [[ファイル:Timurid.svg|border|20x20px]] [[ティムール朝]] 1370年 - 1507年 * [[ファイル:Kartli - drosha jvari.svg|border|20x20px]] [[カルトリ王国]] 1462年 - 1762年 * [[ファイル:Safavid Flag.svg|border|20x20px]] [[サファーヴィー朝]] 1501年 - 1736年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of The Principality of Mingrelia (Portolan 1560).svg|border|20x20px]] [[サメグレロ公国]] 1557年 - 1867年 * [[ファイル:Flag of the Lak People v2.svg|border|20x20px]] [[カジクムフ・ハン国]] 1642年 - 1860年 * [[ファイル:Afsharid Imperial Standard (3 Stripes).svg|border|20x20px]] [[アフシャール朝]] 1736年 - 1796年 * [[ファイル:Zand Dynasty flag.svg|border|20x20px]] [[ザンド朝]] 1750年 - 1794年 * [[ファイル:State flag of Persia (1907–1933).svg|border|20x20px]] [[ガージャール朝]] 1796年 - 1925年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア帝国]] 1721年 - 1917年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア臨時政府]] 1917年 * [[File:Baku Commune.png|border|20x20px]] [[バクー・コミューン]] 1918年 * [[ファイル:Flag of the Transcaucasian Federation.svg|border|20x20px]] [[ザカフカース民主連邦共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Azerbaijan 1918.svg|border|20x20px]] [[アゼルバイジャン民主共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Armenia (1918–1922).svg|border|20x20px]] [[アルメニア第一共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Georgia (1918–1921, 1-2).svg|border|20x20px]] [[グルジア民主共和国]] 1918年 - 1921年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Aras.svg|border|20x20px]] [[アラス共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of the Centrocaspian Dictatorship.svg|border|20x20px]] [[カスピ海艦隊中央委員会独裁政権]] 1918年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Batumi.png|border|20x20px]] [[バトゥミ共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of the Azerbaijan Soviet Socialist Republic (1952–1991).svg|border|20x20px]] [[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国]] 1920年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Armenian Soviet Socialist Republic (1952–1990).svg|border|20x20px]] [[アルメニア・ソビエト社会主義共和国]] 1920年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Georgian Soviet Socialist Republic (1951–1990).svg|border|20x20px]] [[グルジア・ソビエト社会主義共和国]] 1921年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of Armenia (1918–1922).svg|border|20x20px]] [[山岳アルメニア共和国]] 1921年 * [[ファイル:Flag of the SSR Abkhazia.svg|border|20x20px]] [[アブハジア社会主義ソビエト共和国]] 1921年 - 1931年 * [[ファイル:Flag of Adjarian ASSR.svg|border|20x20px]] [[アジャリア自治ソビエト社会主義共和国]] 1921年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Transcaucasian SFSR.svg|border|20x20px]] [[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国]] 1922年 - 1936年 * [[ファイル:Flag of Nakhichevan ASSR.svg|border|20x20px]] [[ナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国]] 1924年 - 1990年 == アジアロシア == * [[シビル・ハン国]] 1490年代 - 1598年 * [[ファイル:Flag of Karafuto Prefecture.svg|border|20x20px]] [[樺太庁]] 1905年 - 1949年 * [[ファイル:Flag of Mongolia (1911—1921).svg|border|20x20px]] [[ブリヤート=モンゴル国]] 1917年 - 1921年 * [[ファイル:Flag of Siberia.svg|border|20x20px]] [[シベリア共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[沿海州共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Bandera de Bakio.svg|border|20x20px]] [[ザバイカル共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア東方辺境]] 1920年 * [[ファイル:Flag of Far Eastern Republic.svg|border|20x20px]] [[極東共和国]] 1920年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Green Ukraine.svg|border|20x20px]] [[緑ウクライナ|極東ウクライナ共和国]] 1920年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Tungus Republic.svg|border|20x20px]] [[暫定ツングース中央政府]] 1924年 - 1925年 == 東南ヨーロッパ == === ギリシャ === * [[古代ギリシア]]の諸[[ポリス]]([[ファイル:Insigne Athenarum.svg|24x24ピクセル]][[アテネ]]、[[ファイル:Coloured Lambda.png|21x21ピクセル]][[スパルタ]]、[[テーバイ]]、[[コリントス]]、[[シチリア島]]の[[シラクサ]]など) * [[マケドニア王国]] 紀元前808年 - 紀元前168年 ** [[アルゲアス朝]] 紀元前808年 - 紀元前310年 ** [[アンティゴノス朝]] 紀元前306年 - 紀元前168年 ** [[アンティパトロス朝]] 紀元前305年 - 紀元前294年、紀元前279年 - 紀元前277年 * [[ファイル:Spqrstone.jpg|border|20x20px]] [[共和制ローマ]] 紀元前509年 - 紀元前27年 * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 ** [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[第一次ブルガリア帝国]] 681年 - 1014年 * [[ファイル:Latin Empire Flag.svg|border|20x20px]] [[ラテン帝国]] 1204年 - 1261年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Thessalonica.png|border|20x20px]] [[テッサロニキ王国]] 1204年 - 1224年 * [[ファイル:Tocco stemma.svg|border|20x20px]] [[エピロス専制侯国]] 1204年 - 1449年 * [[ファイル:Coat of Arms of the Duchy of Athens (de la Roche family).svg|border|20x20px]] [[アテネ公国]] 1205年 - 1458年 * [[ファイル:Armoiries Achaïe.svg|border|20x20px]] [[アカイア公国]] 1205年 - 1492年 * [[ファイル:Flag of the Order of St. John (various).svg|border|20x20px]] [[聖ヨハネ騎士団|ロドス騎士団]] 1309年 - 1522年 * [[トルコクラティア]] 1453年 - 1830年 * [[ファイル:Flag of the Septinsular Republic.svg|border|20x20px]] [[イオニア七島連邦国]] 1800年 - 1815年 * [[ファイル:Flag of the United States of the Ionian Islands.svg|border|20x20px]] [[イオニア諸島合衆国]] 1815年 - 1864年 * [[ファイル:Flag of Greece (1822-1978).svg|border|20x20px]] [[ギリシャ第一共和政]] 1822年 - 1832年 * [[ファイル:State Flag of Greece (1863-1924 and 1935-1973).svg|border|20x20px]] [[ギリシャ王国]] 1832年 - 1924年 * [[ファイル:State Flag of the Republic of Greece (1924-1935).png|border|20x20px]] [[ギリシャ第二共和政]] 1924年 - 1935年 * [[ファイル:Hellenic Royal Flag 1935.svg|border|20x20px]] [[八月四日体制|ギリシャ王国]] 1936年 - 1941年 * [[ファイル:Flag of Greece (1822-1978).svg|border|20x20px]] [[第二次世界大戦時のギリシャ|ギリシャ国]] 1941年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of the Principality of the Pindus.jpg|border|20x20px]] [[ピンドス公国・マケドニア公国]] 1941年 - 1944年 *[[ファイル:Hellenic Royal Flag 1935.svg|border|20x20px]] [[ギリシャ王国]] 1944年 - 1967年 * [[ファイル:Flag of the Democratic Army of Greece (red star).svg|border|20x20px]] [[臨時民主政府]] 1947年- 1950年 * [[ファイル:Flag of Greece (1970-1975).svg|border|20x20px]] [[ギリシャ軍事政権]] 1967年 - 1974年 === ブルガリア === * [[オドリュサイ王国]] 紀元前480/470年頃 - 46年 * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 * [[ファイル:Monogram of Kubrat.svg|border|20x20px]] [[大ブルガリア (中世)]] 632年 - 668年 * [[ハザール]] 7世紀 - 10世紀 * [[第一次ブルガリア帝国]] 681年 - 971年 * [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[ブルガリア帝国|西ブルガリア帝国]] 976年 - 1018年 * [[ファイル:Flag of the Second Bulgarian Empire.svg|border|20x20px]] [[第二次ブルガリア帝国]] 1185年 - 1396年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン時代のブルガリア|オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Bulgaria.svg|border|20x20px]] [[ブルガリア公国]] 1878年 - 1908年 * [[ファイル:Flag of Eastern Rumelia.svg|border|20x20px]] [[東ルメリ自治州]] 1878年 - 1908年 * [[File:Strandzha Commune.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ストランジャ・コミューン|en|Strandzha Commune}} 1903年 * [[ファイル:Flag of Bulgaria.svg|border|20x20px]] [[ブルガリア王国 (近代)|ブルガリア王国]] 1908年 - 1946年 * [[ラドミル共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Bulgaria (1971–1990).svg|border|20x20px]] [[ブルガリア人民共和国]] 1946年 - 1990年 === ユーゴスラビア === * [[ファイル:Spqrstone.jpg|border|20x20px]] [[共和制ローマ]] 紀元前509年 - 紀元前27年 * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 * [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[File:Seal of Strojimir.gif|border|20x20px]] [[セルビア公国]] 768年 - 969年 * [[File:Flag of the Kingdom of Croatia (925).svg|border|20x20px]] [[クロアチア王国]] 925年 - 1102年 * [[File:Seal of Stefan Nemanja.svg|border|20x20px]] [[セルビア大公国]] 1101年 - 1217年 * [[ファイル:Flag of Serbia (1281).svg|border|20x20px]] [[セルビア王国 (中世)|セルビア王国]] 1217年 - 1346年 * [[ファイル:Flag of the Serbian Empire, reconstruction.svg|border|20x20px]] [[セルビア帝国]] 1346年 - 1371年 * [[ゼタ公国]] 1356年 - 1498年 * [[ファイル:St. Blaise - National Flag of the Ragusan Republic.svg|border|20x20px]] [[ラグサ共和国]] 1358年 - 1806年 * [[ファイル:Supposed Flag of the House of Crnojevic.svg|border|20x20px]] [[セルビア公国 (中世)|セルビア公国]] 1371年 - 1459年 * [[ファイル:Bosnian Royal Flag of Tvrtko I of Bosnia (rotated).svg|border|20x20px]] [[ボスニア王国]] 1377年 - 1463年 * [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor with haloes (1400-1806).svg|border|20x20px]] [[神聖ローマ帝国]] 962年 - 1806年 * [[File:Coat of arms of the Serbian Despotate.svg|border|20x20px]] [[セルビア専制公国]] 1402年 - 1459年 * [[ファイル:Flag of the Prince-Bishopric of Montenegro2.svg|border|20x20px]] [[ツルナ・ゴーラ府主教領]] 1696年 - 1852年 * [[軍政国境地帯]] 1702年- 1882年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 ** [[オスマン帝国領セルビア]] 1402年 - 1912年 ** [[ファイル:Flag of Montenegro (1860–1905).svg|border|20x20px]] [[モンテネグロ公国]] 1852年 - 1878年 * [[ファイル:Flag of Montenegro (people's flag until 1905 Constitution).svg|border|20x20px]] [[モンテネグロ公国]] 1878年 - 1910年 * [[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|border|20x20px]] [[オーストリア帝国]] 1804年 - 1867年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[イリュリア州]] 1809年 - 1816年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Illyria.svg|border|20x20px]] [[イリュリア王国]] 1816年 - 1849年 * [[ファイル:Flag of Serbia (1835–1882).svg|border|20x20px]] [[セルビア公国 (近代)|セルビア公国]] 1817年 - 1882年 * [[ファイル:Ensign of Austro-Hungarian civil fleet (1869-1918).svg|border|20x20px]] [[オーストリア=ハンガリー帝国]] 1867年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Serbia (1882–1918).svg|border|20x20px]] [[セルビア王国 (近代)|セルビア王国]] 1882年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of the State of Slovenes, Croats and Serbs.svg|border|20x20px]] [[スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国]] 1918年 * [[File:Flag of Yugoslavia (1918–1941).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア王国|セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国]] 1918年 - 1929年 * [[ファイル:Reggenza Italiana del Carnaro.jpg|border|20px]] [[カルナーロ=イタリア執政府]] 1919年-1920年 * [[ファイル:Flag of Yugoslavia (1918–1941).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア王国]] 1929年 - 1941年 * [[ファイル:Flag of Serbia (1941–1944).svg|border|20x20px]] [[セルビア救国政府]] 1941年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of Croatia (1941–1945).svg|border|20x20px]] [[クロアチア独立国]] 1941年 - 1945年 * [[File:Flag of Yugoslavia (1943–1946).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア民主連邦]] 1943年 - 1945年 ** [[ファイル:Flag of Croatia (1945–1947).svg|border|20x20px]] [[クロアチア社会主義共和国|クロアチア連邦国]] 1943年 - 1945年 ** [[ファイル:Flag of Montenegro (1946–1993), Flag of Serbia (1947–1992).svg|border|20x20px]] [[モンテネグロ社会主義共和国|モンテネグロ人民共和国]] 1943年 - 1963年 * [[File:Flag of Macedonia (1944–1946).svg|border|20x20px]] [[マケドニア社会主義共和国|民主マケドニア]] 1944年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Yugoslavia (1946-1992).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦人民共和国]] 1945年 - 1963年 * [[ファイル:Free Territory Trieste Flag.svg|border|20x20px]] [[トリエステ自由地域]] 1947年 - 1954年 * [[ファイル:Flag of Yugoslavia (1946-1992).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国]] 1963年 - 1992年 * [[ファイル:Flag of North Macedonia.svg|border|20x20px]] [[マケドニア共和国]] 1991年 - 2019年 * [[ファイル:Flag of Serbian Krajina (1991).svg|border|20x20px]] [[クライナ・セルビア人共和国]] 1991年 - 1995年 * [[ファイル:Flag of Serbia and Montenegro (1992–2006).svg|border|20x20px]] [[ユーゴスラビア連邦共和国]] 1992年 - 2003年 * [[ファイル:Flag of Serbian Krajina (1991).svg|border|20x20px]] [[東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州]] 1995年 - 1998年 * [[ファイル:Flag of Serbia and Montenegro (1992–2006).svg|border|20x20px]] [[セルビア・モンテネグロ]] 2003年 - 2006年 ** [[ファイル:Flag of Serbia (1992–2004).svg|border|20x20px]] [[セルビア共和国 (1992年-2006年)|セルビア共和国]] 2003年 - 2006年 ** [[ファイル:Flag of Montenegro (1993–2004).svg|border|20x20px]] [[モンテネグロ共和国 (1992年-2006年)|モンテネグロ共和国]] 2003年 - 2006年 **[[ユーゴスラビアの構成体一覧]] === アルバニア === * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 ** [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[第一次ブルガリア帝国]] 681年 - 1018年 * [[セルビア大公国]] 1091年 - 1217年 * [[アルバノン公国]] 1190年 - 1216年 * [[アルバニア王国]] 1272年 - 1368年 * [[オスマン帝国]] 1299年 - 1922年 * [[アルバニア・ヴェネタ]] 1420年 - 1797年 * [[スカンデルベグ|スカンデルベグによる一時的独立]] 1450年 - 1480年 * [[プリズレン連盟]] 1878年 - 1881年 * [[File:Essad Pasha's flag.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|中部アルバニア共和国|en|Republic of Central Albania}} 1913年 - 1914年 * [[ファイル:Flag of Albania (1914–1920).svg|border|20x20px]] [[アルバニア公国]] 1914年 - 1925年 * [[File:Flag of the Autonomous Republic of Northern Epirus.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|北イピロス自治共和国|en|Autonomous Republic of Northern Epirus}} 1914年 * [[ファイル:Flag of Albania (1920–1926).svg|border|20x20px]] [[アルバニア共和国 (1925年-1928年)|アルバニア共和国]] 1925年 - 1928年 * [[ファイル:Flag of Albania (1934–1939).svg|border|20x20px]] [[アルバニア王国 (近代)|アルバニア王国]] 1928年 - 1946年 * [[ファイル:Flag of Albania (1946–1992).svg|border|20x20px]] [[アルバニア人民共和国]] 1946年 - 1976年 * [[ファイル:Flag of Albania (1946–1992).svg|border|20x20px]] [[アルバニア社会主義人民共和国]] 1976年 - 1992年 === モルドバ === * [[File:Flag of Moldavia.svg|border|20x20px]] [[モルダヴィア公国|モルダヴィア]] 1359年 - 1859年 * [[ファイル:Flag of the United Principalities of Wallachia and Moldavia (1859 - 1862).svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国|連合王国]]1859年 - 1862年 * [[ファイル:Flag of the United Principalities of Romania (1862–1866).svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国|ルーマニア連合王国]] 1862年 - 1866年 * [[ファイル:Flag of Romania.svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国]] 1866年 - 1881年 * [[File:Eser flag (Въ борьбѣ обрѣтешь ты право свое!).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|コムラト共和国|en|Republica de la Comrat}} 1906年 * [[file:Flag of the Moldavian Democratic Republic.svg|border|20x20px]] [[モルダヴィア民主共和国|モルダビア民主共和国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of Romania.svg|border|20x20px]] [[ルーマニア王国]] 1881年 - 1947年 * [[ファイル:Flag of the Moldavian ASSR (1925-1932).svg|border|20x20px]] [[モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国]] 1924年 - 1940年 * [[ファイル:Flag of the Moldavian Soviet Socialist Republic (1952–1990).svg|border|20x20px]] [[モルダビア・ソビエト社会主義共和国]] 1940年 - 1990年 * [[ガガウズ・自治ソビエト社会主義共和国]] 1989年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of Moldova.svg|border|20x20px]] [[ソビエト社会主義共和国・モルドバ]] 1990年 - 1991年 * [[File:Flag of the Gagauz people.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ガガウズ共和国|en|Gagauz Republic}} 1990年 - 1995年 * [[ファイル:Flag of Transnistria (state).svg|border|20x20px]] [[沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国]] 1990年 === ルーマニア === * [[ファイル:Dacian Draco.svg|border|20x20px]] [[ダキア|ダキア王国]] 紀元前168年 - 106年 * [[ファイル:Flag of Wallachia.svg|border|20x20px]] [[ワラキア公国]] 1330年 - 1859年 * [[File:Flag of Moldavia.svg|border|20x20px]] [[モルダヴィア公国]] 1359年 - 1856年 * [[ファイル:Flag of Transylvania before 1918.svg|bordeer|20x20px]] [[トランシルヴァニア公国]] 1571年 - 1711年 * [[ファイル:Flag of the United Principalities of Wallachia and Moldavia (1859 - 1862).svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国|連合王国]]1859年 - 1862年 * [[ファイル:Flag of the United Principalities of Romania (1862–1866).svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国|ルーマニア連合王国]] 1862年 - 1866年 * [[ファイル:Flag of Romania.svg|border|20x20px]] [[ルーマニア公国]] 1866年 - 1881年 * [[ファイル:Flag of Romania.svg|border|20x20px]] [[ルーマニア王国]] 1881年 - 1947年 * [[ファイル:Flag of Romania (1965–1989).svg|border|20x20px]] [[ルーマニア人民共和国]](1965年'''ルーマニア社会主義共和国'''に改称した) 1947年 - 1989年 == ルーシ == === ヨーロッパロシア === * [[ヴォルガ・ブルガール]] 7世紀 - 1240年代 * [[ハザール]] 7世紀 - 10世紀 * [[ファイル:Kiev rus flag.png|border|20x20px]] [[キエフ大公国]] 882年 - 1240年 * [[ルーシの諸公国]] 1132年 - 1559年 ** [[トムタラカニ公国]] 988年 - 1094年 ** [[ファイル:COA of Chernihiv Principality.svg|border|20x20px]] [[チェルニーヒウ公国]] 1024年 - 1239年 ** [[File:Coat of Arms of Smolensk (1430s).svg|border|20x20px]] [[スモレンスク公国]] 1054年 - 1387年 ** [[ムーロム公国]] 1097年 - 1392年 ** [[File:Banner of the Novgorod Republic (c. 1385).svg|border|20x20px]] [[ノヴゴロド公国]] 1136年 - 1478年 ** [[ファイル:Seal of Alexander Nevsky 1236 Avers.svg|border|20x20px]] [[ウラジーミル大公国]] 1157年 - 1363年 ** [[ペレヤスラヴリ・ザレスキー公国]] 1175年 - 1302年 ** [[ファイル:Banner of the Most Merciful Savior, 1552.svg|border|20x20px]] [[モスクワ大公国]] 1263年 - 1547年 * [[ファイル:Flag of the Mongol Empire 3.png|境界|20x20ピクセル]] [[モンゴル帝国]] 1206年 - 1634年 ** [[File:Golden Horde flag 1339.svg|border|20x20px]] [[ジョチ・ウルス]] 1240年代 - 1502年 *** [[ファイル:Flag of Tartary.svg|border|20x20px]] [[カザン・ハン国]] 1438年 - 1552年 *** [[ファイル:Nogai flag.svg|border|20x20px]] [[ノガイ・オルダ]] 1440年代 - 1634年 *** [[カシモフ・ハン国]] 1452年 - 1681年 *** [[アストラハン・ハン国]] 1466年 - 1556年 * [[ファイル:Flag of Oryol ship (variant).svg|border|20x20px]] [[ロシア・ツァーリ国]] 1547年 - 1721年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア帝国]] 1721年 - 1917年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア臨時政府|ロシア共和国]] 1917年 * [[ファイル:Flag of the Russian Soviet Federative Socialist Republic (1954–1991).svg|border|20x20px]] [[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]] 1917年 - 1991年 ** [[ファイル:Flag of the Soviet Union.svg|border|20x20px]] [[ソビエト連邦|ソビエト社会主義共和国連邦]] 1922年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of Idel-Ural State.svg|border|20x20px]] [[イデル=ウラル国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Petropavlovsk-Krondstadt flag.svg|border|20x20px]] [[水兵・建設労働者ソビエト共和国]] 1917年 - 1918年 === 北コーカサス === * [[ハザール]] 7世紀 - 10世紀 * [[トムタラカニ公国]] 10世紀 - 12世紀 * [[ファイル:Flag of Adygea.svg|border|20x20px]] [[チェルケシア]] 1427年 - 1864年 * [[ファイル:Flag of the Mountain Republic.svg|border|20x20px]] [[北カフカース山岳共和国]] 1917年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Kuban People's Republic.svg|border|20x20px]] [[クバーニ人民共和国]] 1918年 - 1920年 * [[File:Red flag.svg|border|20x20px]] [[スタヴロポリ・ソビエト共和国]] 1918年 * [[File:Red flag.svg|border|20x20px]] [[黒海ソビエト共和国]] 1918年 * [[File:Red flag.svg|border|20x20px]] [[テレク・ソビエト共和国]] 1918年 - 1919年) * [[File:Red flag.svg|border|20x20px]] [[クバーニ・ソビエト共和国]] 1918年 * [[File:Socialist red flag.svg|border|20x20px]] [[クバーニ=黒海ソビエト共和国]] 1918年 * [[File:Socialist red flag.svg|border|20x20px]] [[北カフカース・ソビエト共和国]] 1918年 * [[File:Red flag.svg|border|20x20px]] [[ドン・ソビエト共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Don Cossacks.svg|border|20x20px]] [[ドン共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of North Caucasian Emirate.svg|border|20x20px]] [[北カフカース首長国]] 1919年 - 1920年 * [[File:Flag of the Mountain ASSR (1924 possible reconstruction).png|border|20x20px]] [[山岳自治ソビエト社会主義共和国]] 1921年 - 1924年 * [[ファイル:Flag of the Dagestan ASSR.svg|border|20x20px]] [[ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国]] 1921年 - 1991年 === ウクライナ === * [[ボスポロス王国]] 紀元前438年 - 376年 * [[ファイル:Monogram of Kubrat.svg|border|20x20px]] [[大ブルガリア (中世)|大ブルガリア]] 632年 - 668年 * [[ファイル:Kiev rus flag.png|border|20x20px]] [[キエフ大公国]] 882年 - 1240年 * [[ルーシの諸公国]] 1132年 - 1559年 ** [[ヴォルィーニ公国]] 987年 - 1199年 ** [[トムタラカニ公国]] 988年 - 1094年 ** [[チェルニーヒウ公国]] 1024年 - 1239年 ** [[ペレヤースラウ公国]] 1054年 - 1239年 ** [[シヴェーリア公国]] 1097年 - 1362年 ** [[ファイル:Banner of the Principality of Halych.svg|border|20x20px]] [[ハールィチ公国]] 1124年 - 1199年 ** [[キエフ公国]] 1132年 - 1270年 ** [[ファイル:Alex K Halych-Volhynia-flag.svg|border|20x20px]] [[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]] 1199年 - 1349年 * [[ファイル:Flag of the Mongol Empire 3.png|境界|20x20ピクセル]] [[モンゴル帝国]] 1206年 - 1634年 ** [[File:Golden Horde flag 1339.svg|border|20x20px]] [[ジョチ・ウルス]] 1240年代 - 1502年 *** [[ファイル:Flag of the Crimeans.svg|border|20x20px]] [[クリミア・ハン国]] 1441年 - 1783年 * [[ファイル:Flag of the Cossack Hetmanat.svg|border|20x20px]] [[ヘーチマン国家]] 1649年 - 1764年 * [[スロビツカ・ウクライナ]] 1650年 - 1765年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア帝国]] 1721年 - 1917年 * [[タヴリダ県]] 1802年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of Ukrainian People's Republic of the Soviets.svg|border|20x20px]] [[ウクライナ人民共和国 (ソビエト派)|ウクライナ人民共和国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of Ukraine (1917–1921).svg|border|20x20px]] [[ウクライナ人民共和国]] 1917年 - 1921年 * [[ファイル:Flag of Ukraine (1917–1921).svg|border|20x20px]] [[ウクライナ国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Ukraine (1917–1921).svg|border|20x20px]] [[西ウクライナ人民共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[ドネツク=クリヴォーイ・ローク・ソビエト共和国]] 1918年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[オデッサ・ソビエト共和国]] 1918年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[タヴリダ・ソビエト社会主義共和国]] 1918年 * [[ファイル:Махновское знамя.svg|border|20x20px]] [[自由地区]] 1918年 - 1921年 * [[ファイル:Flag of the Ukrainian Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国]] 1919年 - 1991年 * [[File:Volya abo smert`.jpg|border|20x20px]] {{仮リンク|ホロードヌィイ・ヤール共和国|label=ホロドノヤルスク共和国|uk|Холодноярська Республіка|ru|Холодноярская республика|en|Kholodny Yar Republic}}1919年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Ukraine.svg|border|20x20px]] [[カルパト・ウクライナ]] 1939年 * [[ファイル:Flag of Ukraine.svg|border|20x20px]] [[ウクライナ共和国 (1991年-1996年)|ウクライナ共和国]] 1991年 - 1996年 * [[ファイル:Flag of the Kharkov People's Republic.svg|border|20x20px]] [[ハリコフ人民共和国]] 2014年 === クリミア半島 === * [[ボスポロス王国]] 紀元前438年 - 376年 * [[トムタラカニ公国]] 10世紀 - 12世紀 * [[テオドロ公国]] 14世紀 - 1475年 * [[File:Golden Horde flag 1339.svg|border|20x20px]] [[ジョチ・ウルス]] 1240年代 - 1502年 ** [[ファイル:Flag of the Crimeans.svg|border|20x20px]] [[クリミア・ハン国]] 1441年 - 1783年 * [[タヴリダ県]] 1802年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of Crimean People's Republic 1917.svg|border|20x20px]] [[クリミア人民共和国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of the Crimean Regional Government.svg|border|20x20px]] [[クリミア地方政府]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[タヴリダ・ソビエト社会主義共和国]] 1918年 * [[クリミア・ソビエト社会主義共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of the Crimean ASSR (1938).svg|border|20x20px]] [[クリミア自治ソビエト社会主義共和国]] 1922年 - 1945年 * [[クリミア州]] 1945年 - 1991年 * [[File:Flag of the Ukrainian Soviet Socialist Republic.svg|border|20x20px]] [[クリミア自治ソビエト社会主義共和国]] 1991年 - 1992年 * [[ファイル:Flag of Crimea.svg|border|20x20px]] [[クリミア共和国]] 2014年 === ベラルーシ === * [[ファイル:Kiev rus flag.png|border|20x20px]] [[キエフ大公国]] 882年 - 1240年 * [[ルーシの諸公国]] 1132年 - 1559年 ** [[ポロツク公国]] 987年 - 1392年 ** [[チェルニーヒウ公国]] 1024年 - 1239年 ** [[トゥーロフ公国]] 10世紀 - 14世紀 ** [[グロドノ公国]] 1084年 - 1239年 ** [[ファイル:Alex K Halych-Volhynia-flag.svg|border|20x20px]] [[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]] 1199年 - 1349年 * [[ファイル:Royal banner of the Grand Duchy of Lithuania.svg|border|20x20px]] [[リトアニア大公国]] 1251年 - 1795年 * [[ファイル:Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg|border|20x20px]] [[ポーランド・リトアニア共和国]] 1559年 - 1795年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[ロシア帝国]] 1721年 - 1917年 * [[ファイル:Flag of Belarus (1918, 1991–1995).svg|border|20x20px]] [[ベラルーシ人民共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of the Byelorussian Soviet Socialist Republic (1919–1927).svg|border|20x20px]] [[白ロシア社会主義ソビエト共和国 (1919年)|白ロシア社会主義ソビエト共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of the Lithuanian-Byelorussian SSR.svg|border|20x20px]] [[リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of the Byelorussian Soviet Socialist Republic (1951–1991).svg|border|20x20px]] [[白ロシア・ソビエト社会主義共和国]] 1920年 - 1991年 == 中央ヨーロッパ == === ドイツ === * [[フランク王国]] 481年 - 887年 * [[東フランク王国]] 843年 - 962年 * [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor with haloes (1400-1806).svg|border|20x20px]] [[神聖ローマ帝国]] 962年 - 1806年 * [[ファイル:Flag of Brandenburg (1340-1657).svg|border|20x20px]] [[ブランデンブルク選帝侯領]] 1157年 - 1806年 * [[ブランデンブルク=プロイセン]] 1618年 - 1701年 * [[ファイル:Flag of Prussia (1892-1918).svg|border|20x20px]] [[プロイセン王国]] 1701年 - 1918年 * [[ファイル:Commemorative Medal of the Rhine Confederation.svg|border|20x20px]] [[ライン同盟]] 1806年 - 1813年 * [[ファイル:Flag of the German Confederation (war).svg|border|20x20px]] [[ドイツ連邦]] 1815年 - 1866年 * [[ファイル:Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ドイツ第一帝国|en|German Empire (1848–1849)}} 1848年 - 1849年 * [[ファイル:Flag of Germany (1867–1918).svg|border|20x20px]] [[北ドイツ連邦]] 1867年 - 1871年 * [[ファイル:Flag of Bavaria (striped).svg|border|20x20px]] [[バイエルン王国]] 1806年 - 1918年 * [[ファイル:Flagge Königreich Sachsen (1815-1918).svg|border|20x20px]] [[ザクセン王国]] 1806年 - 1918年 * [[ファイル:Flagge Königreich Württemberg.svg|border|20x20px]] [[ヴュルテンベルク王国]] 1806年 - 1918年 * [[ファイル:Flagge Großherzogtum Baden (1891–1918).svg|border|20x20px]] [[バーデン大公国]] 1806年 - 1918年 * [[ファイル:Flagge Großherzogtum Hessen ohne Wappen.svg|border|20x20px]] [[ヘッセン大公国]] 1806年 - 1918年 * [[ドイツ国]] 1871年 - 1945年 ** [[ファイル:Flag of Germany (1867–1918).svg|border|20x20px]] [[ドイツ帝国]] 1871年 - 1918年 ** [[ファイル:Flag of Germany (3-2 aspect ratio).svg|border|20x20px]] [[ヴァイマル共和国]] 1918年 - 1933年 ** [[ファイル:Flag of Germany (1935–1945).svg|border|20x20px]] [[ナチス・ドイツ]] 1933年 - 1945年 ** [[ファイル:Flag of Germany (1935–1945).svg|border|20x20px]] [[フレンスブルク政府]] 1945年 * [[ファイル:Socialist red flag.svg|border|20x20px]] [[バイエルン・レーテ共和国]] 1919年 * [[ファイル:Socialist red flag.svg|border|20x20px]] [[ブレーメン・レーテ共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of Saar 1920-1935.svg|border|20x20px]] [[ザール (国際連盟管理地域)]] 1920年 - 1935年 * [[ファイル:Merchant flag of Germany (1946–1949).svg|border|20x20px]] [[連合軍軍政期 (ドイツ)|連合軍軍政期]] 1945年 - 1949年 * [[ファイル:Flag of Saar (1947–1956).svg|border|20x20px]] [[ザール (フランス保護領)]] 1947年 - 1957年 * [[ファイル:Flag of the German Democratic Republic.svg|border|20x20px]] [[ドイツ民主共和国|東ドイツ]] 1949年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of Germany.svg|border|20x20px]] [[西ドイツ]] 1949年 - 1990年 === ポーランド === * [[ファイル:Banner of the Kingdom of Poland.svg|border|20x20px]] [[ポーランド王国]] 1025年 - 1795年 * [[オポーレ公国]] 1172年 - 1201年 * [[ラチブシュ公国]] 1172年 - 1202年 * [[ラチブシュ公国|オポーレ=ラチブシュ公国]] 1202年 - 1281年 * [[ファイル:Flag of the State of the Teutonic Order.svg|border|20x20px]][[ドイツ騎士団国]] 1224年 - 1525年 * [[ファイル:POL województwo śląskie flag formal.svg|border|20x20px]] [[オポーレ公国]] 1281年 - 1521年 * [[File:Flag of Cieszyn Silesia.svg|border|20x20px]] [[チェシン公国]] 1281年 - 1918年 * [[ラチブシュ公国]] 1281年 - 1521年 * [[ラチブシュ公国|オポーレ=ラチブシュ公国]] 1521年 - 1532年 * [[ファイル:Flag of Ducal Prussia.svg|border|20x20px]] [[プロイセン公国]] 1525年 - 1701年 * [[ポーランド・リトアニア連合]] 1401年 - 1569年 * [[ファイル:Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg|border|20x20px]] [[ポーランド・リトアニア共和国]] 1569年 - 1795年 * [[ファイル:Flag of the Duchy of Warsaw.svg|border|20x20px]] [[ワルシャワ公国]] 1807年 - 1813年 * [[ファイル:Flag of Kraków.svg|border|20x20px]] [[クラクフ共和国]] 1815年 - 1846年 * [[ファイル:Flag of Salzburg, Vienna, Vorarlberg.svg|border|20x20px]] [[ポズナン大公国]] 1815年 - 1848年 * [[ファイル:Military ensign of Vistula Flotilla of Congress Poland.svg|border|20x20px]] [[ポーランド立憲王国]] 1815年 - 1867年 * [[ファイル:Flag of Poland (1919–1927).svg|border|20x20px]] [[ポーランド王国 (1916年-1918年)|ポーランド王国]] 1916年 - 1918年 * [[ファイル:Прапор Лемко-Русинської Республіки.svg|border|20x20px]] [[レムコ=ルシン人民共和国]] 1918年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Ukraine (1917–1921).svg|border|20x20px]] [[コマンチャ共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:POL Tarnobrzeg flag.svg|border|20x20px]] [[タルノブジェク共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Poland (1927–1980).svg|border|20x20px]] [[ポーランド人民共和国]] [[ポーランド第二共和国]] 1918年 - 1939年 * [[ファイル:Flag of Poland (1919–1927).svg|border|20x20px]] [[ザコパネ共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of the Free City of Danzig.svg|border|20x20px]] [[自由都市ダンツィヒ]] 1920年 - 1939年 * [[ファイル:Flag of Germany (1935–1945).svg|border|20x20px]] [[ポーランド総督府]] 1939年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Poland (1927–1980).svg|border|20x20px]] [[ポーランド人民共和国]] 1945年–1989年 === オーストリア === * [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor with haloes (1400-1806).svg|border|20x20px]] [[神聖ローマ帝国]] 962年 - 1806年 ** [[ファイル:Flag of Carinthia.svg|border|20x20px]] [[ケルンテン公国]] 976年 - 1806年 ** [[ファイル:Flag of Styria (state).svg|border|20x20px]] [[シュタイアーマルク公国]] 1180年–1806年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[オーストリア公国]] 1156年 - 1457年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[オーストリア大公国]] 1457年 - 1804年 * [[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|border|20x20px]] [[オーストリア帝国]] 1804年 - 1867年 * [[ファイル:Ensign of Austro-Hungarian civil fleet (1869-1918).svg|border|20x20px]] [[オーストリア=ハンガリー帝国]] 1867年 - 1918年 ** [[ファイル:Flag of Carinthia.svg|border|20x20px]] [[ケルンテン公国|ケルンテン公爵領]] 1867年 - 1918年 ** [[ファイル:Flag of Styria (state).svg|border|20x20px]] [[シュタイアーマルク公国|シュタイアーマルク公爵領]] 1867年–1918年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[ドイツ=オーストリア共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア共和国]] 1919年 - 1934年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア連邦国]] 1934年 - 1938年 * [[ファイル:Flag of Germany (1935–1945).svg|border|20x20px]] [[ナチス・ドイツ統治下のオーストリア]] 1938年 - 1945年  * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[連合軍軍政期 (オーストリア)|第二共和国]] 1945年 - 1955年 === ハンガリー === * [[ファイル:Flag of Hungary (1915-1918; angels; 3-2 aspect ratio).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー王国]] 1000年 - 1918年 ** [[ファイル:Flag of Hungary (1301-1382, rectangular).svg|border|20x20px]] [[ハンガリーアンジュー朝]] 1308年 - 1395年 * [[ファイル:Flag of the Habsburg Monarchy.svg|border|20x20px]] [[王領ハンガリー]] 1526年 - 1867年 * [[東ハンガリー王国]] 1526年 - 1570年 ** [[ファイル:Flag of Transylvania before 1918.svg|border|20x20px]] [[トランシルヴァニア公国]] 1571年 - 1711年 * [[オスマン帝国領ハンガリー]] 1541年 - 1699年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1915-1918; angels; 3-2 aspect ratio).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー王冠領|オーストリア=ハンガリー帝国]] 1867年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1918–1919).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー民主共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1919).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー・ソビエト共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1915-1918, 1919-1946).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー王国 (1920年-1946年)|ハンガリー王国]] 1920年 - 1946年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1915-1918, 1919-1946).svg|border|20x20px]] [[国民統一政府 (ハンガリー)]] 1944年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of Hungary (1946-1949, 1956-1957; 1-2 aspect ratio).svg|border|20x20px]] [[ハンガリー第二共和国]] 1946年 - 1949年 * [[ファイル:Civil Ensign of Hungary.svg|border|20x20px]] [[ハンガリー人民共和国]] 1949年 - 1989年 === チェコ・スロバキア === * [[サモ王国]] 631年–658年 * [[モラヴィア王国]] 9世紀 - 10世紀初頭 * [[ボヘミア公国]] 870年頃 – 1198年 * [[ファイル:Flag of Bohemia.svg|border|20x20px]] [[ボヘミア王国]] 1198年 – 1806年 * [[ファイル:Banner of the Margraviate of Moravia.svg|border|20x20px]] [[モラヴィア辺境伯領]] 1182年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of Bohemia.svg|border|20x20px]] [[ボヘミア王冠領|ハプスブルク帝国]] 1526年 - 1804年 * [[ファイル:Flag of the Czech Republic.svg|border|20x20px]] [[チェコスロバキア共和国]] 1918年 - 1938年 * [[ファイル:Socialist red flag.svg|border|20x20px]] [[スロバキア・ソビエト共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of Slovakia (1939–1945).svg|border|20x20px]] [[スロバキア共和国 (1939年-1945年)|スロバキア共和国]] 1939年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the Protectorate of Bohemia and Moravia.svg|border|20x20px]] [[ベーメン・メーレン保護領]] 1939年 - 1945年 * [[ファイル:Flag of the Czech Republic.svg|border|20x20px]] [[チェコスロバキア社会主義共和国]] 1948年 - 1989年 ** [[ファイル:Flag of Bohemia.svg|border|20x20px]] [[チェコ社会主義共和国]] 1969年 - 1990年 ** [[ファイル:Flag of Slovakia (1939–1945).svg|border|20x20px]] [[スロバキア社会主義共和国]] 1969年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of the Czech Republic.svg|border|20x20px]] [[チェコスロバキア連邦共和国]] 1990年 - 1992年 ** [[ファイル:Flag of Bohemia.svg|border|20x20px]] [[チェコ共和国 (1990年-1992年)|チェコ共和国]] 1990年 - 1992年 ** [[ファイル:Flag of Slovakia (1939–1945).svg|border|20x20px]] [[スロバキア共和国 (1990年-1992年)|スロバキア共和国]] 1990年 - 1992年 === スイス === * [[原初同盟]] 1291年 – 1798年 * [[ファイル:Flag of the Helvetic Republic (French).svg|border|20x20px]] [[ヘルヴェティア共和国]] 1798年 - 1803年 * [[ファイル:Flag of Canton of Valais (1802–1815).svg|border|20x20px]] [[ロダン共和国]] 1802年 - 1810年 == 西ヨーロッパ == === ネーデルラント === * [[フリースラント王国]] 650年 – 734年 * [[ファイル:Ancient Flag of Burgundy.svg|border|20x20px]] [[ブルゴーニュ公国]] 843年 - 1477年 * [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor with haloes (1400-1806).svg|border|20x20px]] [[神聖ローマ帝国]] 962年 - 1648年 ** [[ファイル:Banner of the Duchy of Brabant.svg|border|20x20px]] [[ブラバント公国]] 1183年 - 1795年 ** [[ファイル:Bandera cruz de Borgoña 2.svg|border|20x20px]] [[ネーデルラント17州]] 1549年 – 1581年 * [[ファイル:Statenvlag.svg|border|20x20px]] [[ネーデルラント連邦共和国]] 1581年 - 1795年 * [[ファイル:Flag of the Brabantine Revolution.svg|border|20x20px]] [[ベルギー合衆国]] 1790年 * [[ファイル:Flag of the navy of the Batavian Republic.svg|border|20x20px]] [[バタヴィア共和国]] 1795年 - 1806年 * [[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] [[ホラント王国]] 1806年 - 1810年 * [[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] [[ネーデルラント連合王国]] 1815年 - 1839年 * [[ファイル:Flag of Moresnet.svg|border|20x20px]] [[モレネ|中立モレネ]] 1816年 - 1920年 === ガリア・フランス === * [[ガリア帝国]] 260年 - 274年 * [[フランク王国]] 481年 - 987年 ** [[西フランク王国]] 843年 - 987年 * [[ネウストリア王国]] 584年 - 987年 * [[ブルグント王国]] 411年 - 1378年 * [[ファイル:Royal Standard of the King of France.svg|border|20x20px]] [[フランス王国]] ** [[カペー朝]] 987年 – 1328年 ** [[ヴァロワ朝]] 1328年 – 1498年 ** [[ヴァロワ=オルレアン朝]] 1498年 – 1515年 ** [[ヴァロワ=アングレーム朝]] 1515年 – 1589年 ** [[ブルボン朝]] 1589年 - 1792年 ** [[ファイル:Flag of France (1790–1794).svg|border|20x20px]] [[フランス立憲王国]] 1791年 - 1792年 ** [[ファイル:Flag of France (1814–1830).svg|border|20x20px]] [[フランス復古王政]] 1814年 - 1830年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[7月王政]] 1830年 - 1848年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス|フランス共和国]] ** [[ファイル:Flag of France (1790–1794).svg|border|20x20px]] [[フランス第一共和政]] 1792年 - 1804年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス第二共和政]] 1848年 - 1852年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス第三共和政]] 1870年 - 1940年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス臨時政府]] 1944年 - 1946年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス第四共和政]] 1946年 - 1958年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス帝国]] ** [[ファイル:Royal Standard of the King of France.svg|border|20x20px]] [[フランス植民地帝国]] 16世紀 - 20世紀 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス第一帝政]] 1804年 - 1814年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス第二帝政]] 1852年 - 1870年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[パリ・コミューン]] 1871年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Alsace-Lorraine.svg|border|20x20px]] [[アルザス=ロレーヌ共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Germany (1935–1945).svg|border|20x20px]] [[ナチス・ドイツによるフランス占領]] 1940年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[ヴィシー政権]] 1940年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of Free France (1940-1944).svg|border|20x20px]] [[自由フランス]] 1940年 - 1944年 == ブリテン諸島 == === グレートブリテン島 === * [[ブリタンニア]] 43年 - 410年 * [[七王国|アングロ・サクソン七王国]] ** [[ケント王国]] 455年 - 871年 ** [[エセックス王国]] 527年 - 825年 ** [[サセックス王国]] 477年 - 825年 ** [[ウェセックス王国]] 6世紀 - 1016年 ** [[イースト・アングリア王国]] 6世紀 - 918年 ** [[ファイル:Saint Alban's cross.svg|border|20x20px]] [[マーシア王国]] 527年 - 918年 ** [[ファイル:Flag of Northumbria.svg|border|20x20px]] [[ノーサンブリア王国]] 653年 - 954年 * [[ダルリアダ王国]] 500年頃 - 846年 * [[アルバ王国]] 6世紀頃 - 1005年 * [[ファイル:Flag of Scotland (1542–2003).svg|border|20x20px]] [[スコットランド王国]] 843年 - 1707年 * [[ファイル:Flag of England.svg|border|20x20px]] [[イングランド王国]] 927年 - 1707年 ** [[ノルマン朝]] 1066年 - 1154年 ** [[プランタジネット朝]] 1154年 - 1399年 ** [[ランカスター朝]] 1399年 - 1461年 ** [[ヨーク朝]] 1461年 - 1485年 ** [[テューダー朝]] 1485年 - 1603年 ** [[ステュアート朝]] 1603年 - 1707年 * [[ファイル:Glyndwr's Banner.svg|border|20x20px]] [[ウェールズ公国]] 1216年 - 1542年 * [[ファイル:Flag of The Commonwealth.svg|border|20x20px]] [[イングランド共和国]] 1649年 - 1660年 * [[ファイル:Flag of Great Britain (1707–1800).svg|border|20x20px]] [[グレートブリテン王国]] 1707年 - 1801年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国]] 1801年 - 1927年 === アイルランド島 === * [[ファイル:Royal Standard of Ireland (1542–1801).svg|border|20x20px]] [[アイルランド王国]] 1541年 - 1800年 * [[ファイル:Flag of Leinster (bright).svg|border|20x20px]] [[アイルランド・カトリック同盟]] 1642年 - 1652年 * [[ファイル:Flag of Ireland.svg|border|20x20px]] [[アイルランド共和国 (1919-1922)|アイルランド共和国]] 1919年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of Ireland.svg|border|20x20px]] [[アイルランド自由国]] 1922年 - 1937年 == イタリア == * [[エトルリア]] 紀元前8世紀 - 紀元前1世紀頃 * [[王政ローマ|ローマ王国]] 紀元前753年 - 紀元前509年 * [[ファイル:Spqrstone.jpg|border|20x20px]] [[共和政ローマ|ローマ共和国]] 紀元前509年 - 紀元前27年 * [[ファイル:Vexilloid of the Roman Empire.svg|border|20x20px]] [[ローマ帝国]] 紀元前27年 - 1453年 ** [[ファイル:Byzantine imperial flag, 14th century.svg|border|20x20px]] [[東ローマ帝国]] 395年 - 1453年 * [[西ローマ帝国]] 285年 - 480年 * [[ヴァンダル王国]] 435年 - 534年 * [[オドアケル|オドアケルの王国]] 480年 - 497年 * [[東ゴート王国]] 497年 - 553年 * [[ランゴバルト王国]] 568年 - 774年 * [[ベネヴェント公国]] 570年 - 1077年 * [[スポレート公国]] 570年 - 1201年 * [[ファイル:Flag of Most Serene Republic of Venice.svg|border|20x20px]] [[ヴェネツィア共和国]] 697年 - 1797年 * [[ファイル:Flag of the Papal States (1825-1870).svg|border|20x20px]] [[教皇領]] 752年 - 1929年 * [[ファイル:Banner of the Holy Roman Emperor with haloes (1400-1806).svg|border|20x20px]] [[イタリア王国 (中世)|イタリア王国]] 774年 - 1797年 * [[ファイル:Flag of the Giudicato of Arborea.svg|border|20x20px]] [[アルボレア (国)|アルボレア王国]] 9世紀 - 1420年 * [[ムスリムのシチリア征服]] 827年 - 902年 * [[シチリア首長国]] 831年 - 1091年 * [[中部フランク王国]] 843年 - 855年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Amalfi.svg|border|20x20px]] [[アマルフィ公国]] 958年 - 1137年 * [[ファイル:Flag of Montferrat.svg|border|20x20px]] [[モンフェッラート侯国]] 961年 - 1708年 * [[ファイル:Flag of Genoa.svg|border|20x20px]] [[ジェノヴァ共和国]] 1005年 - 1797年 * [[File:Flag of the Prince-Bishopric of Trent (1801-1802).svg|border|20x20px]] [[トレント (イタリア)|トレント司教国]] 1027年 - 1802年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Pisa.svg|border|20x20px]] [[ピサ共和国]] 11世紀 - 1406年 * [[ファイル:Bandera de Siena.png|border|20x20px]] [[シエーナ共和国]] 11世紀 - 1555年 * [[ファイル:Flag of John the Baptist.svg|border|20x20px]] [[フィレンツェ共和国]] 1115年 - 1532年 * [[ファイル:Bandera de Nápoles - Trastámara.svg|border|20x20px]] [[ナポリ王国]] 1282年 - 1816年 * [[ファイル:Flag of Milan.svg|border|20x20px]] [[ミラノ公国]] 1395年 - 1797年 * [[ファイル:Bandiera del Regno di Sicilia 4.svg|border|20x20px]] [[シチリア王国]] 1130年 - 1816年 * [[ファイル:Flag of the Marquistate of Saluzzo (14th century-c. 1507).svg|border|20x20px]] [[サルッツォ侯国]] 1175年 - 1548年 * [[File:Flag of Lucca.svg|border|20x20px]] [[ルッカ共和国]] 1370年 - 1805年 * [[File:Bandiera Appiani.svg|border|20x20px]] [[ピオンビーノ公国]] 1398年 - 1805年 * [[ファイル:Flag of Savoie.svg|border|20x20px]] [[サヴォイア公国]] 1416年 - 1720年 * [[ファイル:Mantua Flag 1575-1707 (new).svg|border|20x20px]] [[マントヴァ公国]] 1433年 - 1797年 * [[ファイル:Flag of Duchy of Urbino.svg|border|20x20px]] [[ウルビーノ公国]] 1443年 - 1631年 * [[File:Ducado de Modena (antes de 1830).svg|border|20x20px]] [[モデナ=レッジョ公国]] 1452年 - 1796年 * [[File:Ducado de Modena (antes de 1830).svg|border|20x20px]] [[フェラーラ公国]] 1471年 - 1598年 * [[ファイル:Medici Flag of Tuscany.png|border|20x20px]] [[フィレンツェ公国]] 1532年 - 1569年 * [[カストロ公国]] 1537年 - 1649年 * [[ファイル:Flag of the Duchy of Parma (1851-1859).svg|border|20x20px]] [[パルマ公国]] 1545年 - 1860年 * [[ファイル:Flag of the Grand Duchy of Tuscany (1840).svg|border|20x20px]] [[トスカーナ大公国]] 1569年 - 1860年 * [[グアスタッラ公国]] 1621年 - 1748年 * [[ファイル:Flag of Kingdom of Sardinia (1848).svg|border|20x20px]] [[サルデーニャ王国]] 1720年 - 1861年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Alba.svg|border|20x20px]] [[アルバ共和国]] 1796年 - 1801年 * [[ファイル:Flag of the Repubblica Transpadana.svg|border|20x20px]] [[トランスパダーナ共和国]] 1796年 - 1797年 * [[ファイル:Flag of the Cispadane Republic.svg|border|20x20px]] [[チスパダーナ共和国]] 1796年 - 1797年 * [[ファイル:Flag of the Repubblica Cremasca.svg|border|20x20px]] [[クレーマ共和国]] 1797年 * [[ファイル:Flag of the Repubblica Cisalpina.svg|border|20x20px]] [[チザルピーナ共和国]] 1797年 - 1802年 * [[ファイル:Flag of the Repubblica Anconitana.svg|border|20x20px]] [[アンコーナ共和国 (18世紀)|アンコーナ共和国]] 1797年 - 1798年 * [[ファイル:Flag of Genoa.svg|border|20x20px]] [[リーグレ共和国]] 1797年 - 1805年 * [[ファイル:Flag of the Repubblica Romana (1798).svg|border|20x20px]] [[ローマ共和国 (18世紀)|ローマ共和国]] 1798年 - 1800年 * [[ファイル:Flag of the Parthenopaean Republic.svg|border|20x20px]] [[パルテノペア共和国]] 1799年 * [[ファイル:Etrurian Kingdom and War Flag with Great Royal Coat of Arms.svg|border|20x20px]] [[エトルリア王国]] 1801年 - 1807年 * [[ファイル:Flag of the Italian Republic (1802).svg|border|20x20px]] [[イタリア共和国 (1802年-1805年)|イタリア共和国]] 1802年 - 1805年 * [[ファイル:Flag of the Napoleonic Kingdom of Italy.svg|border|20x20px]] [[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア王国]] 1805年 - 1814年 * [[ファイル:Flag of the Principality of Piombino.svg|border|20x20px]] [[ルッカ・エ・ピオンビーノ公国]] 1805年 - 1814年 * [[File:Flag of the Republic of Pontecorvo.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ポンテコルウォ公国|en|Principality of Pontecorvo}} 1806年 - 1814年 * [[File:Flag of Cospaia.svg|border|20x20px]] [[コスパイア共和国]] 19世紀 * [[ファイル:State Flag of the Duchy of Modena and Reggio (1830-1859).svg|border|20x20px]] [[モデナ公国]] 1814年 - 1859年 * [[ファイル:Third Flag of the Duchy of Lucca.svg|border|20x20px]] [[ルッカ公国]] 1815年 - 1847年 * [[ファイル:Flag of Genoa.svg|border|20x20px]] [[ジェノヴァ共和国]] 1814年 - 1815年 * [[ファイル:Flag of Austria.svg|border|20x20px]] [[ロンバルド=ヴェネト王国]] 1815年 - 1866年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of the Two Sicilies (1816).svg|border|20x20px]] [[両シチリア王国]] 1816年 - 1861年 * [[File:Flag of Tavolara.svg|border|20x20px]] [[タヴォラーラ王国]] 1836年 - 1962年 * [[File:Flag of Sicilian Kingdom 1848.svg|border|20x20px]] [[シチリア革命 (1848年)|シチリア王国]] 1848年 * [[File:Flag of Augusto Anfossi.svg|border|20x20px]] [[ミラノの5日間|ミラノ暫定政府]] 1848年 * [[ファイル:Flag of the Republic of San Marco.svg|border|20x20px]] [[サン・マルコ共和国]] 1848年 - 1849年 * [[ファイル:Flag of the Roman Republic (19th century).svg|border|20x20px]] [[ローマ共和国 (19世紀)|ローマ共和国]] 1849年 * [[ファイル:Flag of Italy (1861–1946).svg|border|20x20px]] [[中央統合諸州|中央イタリア統合諸州]] 1859年 - 1860年 * [[ファイル:Flag of Italy (1861–1946).svg|border|20x20px]] [[イタリア王国]] 1861年 - 1946年 * [[ファイル:Reggenza Italiana del Carnaro.jpg|border|20x20px]] [[カルナーロ=イタリア執政府]] 1919年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Italy.svg|border|20x20px]] [[イタリア社会共和国]] 1943年 - 1945年 * [[ファイル:Free Territory Trieste Flag.svg|border|20x20px]] [[トリエステ自由地域]] 1947年 - 1954年 * [[ファイル:Rose Island Flag.svg|border|20x20px]] [[ローズ島共和国]] 1968年 - 1969年 == イベリア半島 == === スペイン === * [[タルテッソス]] 紀元前4世紀 * [[スエビ王国]] 409年 - 585年 * [[西ゴート王国]] 415年 - 711年 * [[アル=アンダルス]] 711年 - 1492年 ** [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 711年 - 750年 ** [[後ウマイヤ朝]] 756年 - 1031年 ** [[タイファ|タイファ諸王国]] 1031年 - 1492年 *** [[ファイル:Flag of Morocco 1073 1147.svg|境界|20x20ピクセル]] [[ムラービト朝]] 1040年 - 1147年 *** [[ファイル:Flag of Almohad Dynasty (1147-1269).svg|border|20x20px]] [[ムワッヒド朝]] 1130年 - 1269年 *** [[ファイル:Royal Standard of Nasrid Dynasty Kingdom of Grenade.svg|border|20x20px]] [[ナスル朝|グラナダ王国]] 1232年 - 1492年 * [[レコンキスタ]] 718年 - 1492年 * [[アストゥリアス王国]] 718年 - 925年 * [[スペイン辺境領]] 795年 - 987年 * [[ファイル:Bandera de Reino de Navarra.svg|border|20x20px]] [[ナバラ王国]] 824年 - 1620年 * [[ファイル:Banner of arms kingdom of Leon.svg|border|20x20px]] [[レオン王国]] 910年 - 1052年 * [[ファイル:Flag of Catalonia.svg|border|20x20px]] [[カタルーニャ君主国]] 987年 - 1716年 * [[ファイル:Royal Banner of the Kingdom of Castile (Variant).svg|border|20x20px]] [[カスティーリャ王国]] 1035年 - 1715年 * [[ファイル:Heraldic Emblems of the Kingdom of Aragon with supporters.svg|border|20px]] [[アラゴン王国]] 1035年 - 1715年 ** [[ファイル:Royal Banner of Aragón.svg|border|20x20px]] [[アラゴン連合王国]] 1137年 - 1716年 * [[ファイル:Bandera del Reino de Mallorca.svg|border|20x20px]] [[マヨルカ王国]] 1231年 - 1349年 * [[ファイル:Flag of the Land of Valencia (swallowtailed).svg|border|20x20px]] [[バレンシア王国]] 1237年 - 1707年 * [[カトリック両王]] 1474年 - 1504年 * [[ファイル:Flag of Cross of Burgundy.svg|border|20x20px]] [[スペイン・ハプスブルク朝]] 1504年 - 1700年 * [[ファイル:Flag of the First Spanish Republic.svg|border|20x20px]] [[スペイン第一共和政]] 1873年 - 1874年 * [[ファイル:Flag of Spain (1931–1939).svg|border|20x20px]] [[スペイン第二共和政]] 1931年 - 1939年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[アストゥリアス社会主義共和国]] 1934年 *[[ファイル:Flag of Spain (1945–1977).svg|border|20x20px]] [[フランコ体制下のスペイン|フランコ体制]] 1939年 - 1975年 === ポルトガル === * [[ファイル:PortugueseFlag1095.svg|border|20x20px]] [[ポルトゥカーレ伯領]] 868年 - 1139年 * [[ファイル:Flag of Portugal (1830–1910).svg|border|20x20px]] [[ポルトガル王国]] 1139年 - 1910年 ** [[ブルゴーニュ王朝|ブルゴーニュ朝]] 1139年 - 1385年 ** [[アヴィス朝]] 1385年 - 1580年 ** [[スペイン・ハプスブルク朝|ハプスブルク朝]] 1581年 - 1640年 ** [[ブラガンサ朝]] 1641年 - 1910年 *** [[ファイル:Flag of the United Kingdom of Portugal, Brazil, and the Algarves (1815-1825).svg|border|20x20px]] [[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]] 1815年 - 1825年 * [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|20x20px]] [[ポルトガル第一共和政]] 1910年 - 1926年 * [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|20x20px]] [[ディタドゥーラ・ナシオナル]] 1926年 - 1933年 * [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|20x20px]] [[エスタド・ノヴォ]] 1933年 - 1974年 == 北ヨーロッパ == === 北欧 === * [[ファイル:Raven Banner.svg|border|20x20px]] [[北海帝国]] 1013年 - 1042年 * [[デンマーク・ノルウェー連合王国]] 1380年 - 1396年 * [[ファイル:Flag of the Kalmar Union.svg|border|20x20px]] [[カルマル同盟]] 1397年 - 1523年 * [[ファイル:Flag of Denmark.svg|border|20x20px]] [[デンマーク=ノルウェー]] 1524年 - 1814年 * [[File:Flag of the Kingdom of Norway (1814).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ノルウェー第一王国|en|Kingdom of Norway (1814)}} 1814年 * [[ファイル:Union Jack of Sweden and Norway (1844-1905).svg|border|20x20px]] [[スウェーデン=ノルウェー]]1814年 - 1905年 * [[ファイル:Flag of Russia.svg|border|20x20px]] [[フィンランド大公国]] 1809年 - 1917年 * [[ファイル:Flag of Finland (1918–1920).svg|border|20x20px]] [[フィンランド王国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Red flag.svg|border|20x20px]] [[フィンランド社会主義労働者共和国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Iceland (1918–1944).svg|border|20x20px]] [[アイスランド王国]] 1918年 - 1944年 * [[ファイル:Flag of Karel.svg|border|20x20px]] [[北カレリア国]] 1919年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Ingrian people.svg|border|20x20px]] [[北イングリア共和国]] 1919年 - 1920年 * [[カレリア労働コミューン]] 1920年 - 1923年 * [[ファイル:Flag of Finland.svg|border|20x20px]] [[フィンランド民主共和国]] 1939年 - 1940年 * [[ファイル:Flag of Norway (3-2).svg|border|20x20px]] [[クヴィスリング政権]] 1940年 - 1945年 === バルト三国 === * [[ハンザ同盟]] 1161年 - 1669年 * [[ドイツ騎士団]] 1198年 - 1525年 * [[リヴォニア帯剣騎士団]] 1202年 - 1237年 ** [[リヴォニア騎士団]] 1237年 - 1561年 * [[ファイル:Flag of the State of the Teutonic Order.svg|border|20x20px]] [[テッラ・マリアナ]] 1207年 - 1561年 * [[リトアニア王国]] 1251年 - 1263年 * [[リトアニア公国]] 1263年 - 1413年 * [[ファイル:Royal banner of the Grand Duchy of Lithuania.svg|border|20x20px]] [[リトアニア大公国]] 1413年 - 1795年 ** [[ファイル:Chorągiew królewska króla Zygmunta III Wazy.svg|border|20x20px]] [[ポーランド・リトアニア共和国]] 1569年 - 1795年 * [[ファイル:Sweden-Flag-1562.svg|border|20x20px]] [[エストニア公国]] 1561年 - 1721年 * [[ファイル:Flag of courland.svg|border|20x20px]] [[クールラント・ゼムガレン公国]] 1562年 - 1795年 * [[File:Flag of et-Parnu.svg|border|20x20px]] [[リヴォニア王国]] 1570年 - 1578年 * [[ファイル:Iskolata karogs.svg|border|20x20px]] [[イスコラト]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Petropavlovsk-Krondstadt flag.svg|border|20x20px]] [[水兵・建設労働者ソビエト共和国]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:Eestimaa värvid.svg|border|20x20px]] [[エストニア自治政府]] 1917年 - 1918年 * [[ファイル:United Baltic Duchy flag.svg|border|20x20px]] [[バルト連合公国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Courland (civil).svg|border|20x20px]] [[クールラント・ゼムガレン公国 (1918)|クールラント・ゼムガレン公国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of Lithuania (1918).svg|border|20x20px]] [[リトアニア王国 (1918年)|リトアニア王国]] 1918年 * [[ファイル:Flag of the Commune of the Working People of Estonia.svg|border|20x20px]] [[エストニア労働コムーナ]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of Lithuania (1918–1940).svg|border|20x20px]] [[リトアニア第一共和政]] 1918年 - 1940年 * [[ファイル:Flag of Estonia.svg|border|20x20px]] [[エストニア第一共和政]] 1918年 - 1940年 * [[ファイル:Flag of Latvia.svg|border|20x20px]] [[ラトビア第一共和政]] 1918年 - 1940年 * [[ファイル:Flag of the Lithuanian-Byelorussian SSR.svg|border|20x20px]] [[リトアニア・ソビエト社会主義共和国 (1918年-1919年)|リトアニア・ソビエト社会主義共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of the Latvian Socialist Soviet Republic (1918–1920).svg|border|20x20px]] [[ラトビア社会主義ソビエト共和国]] 1918年 - 1919年 * [[ファイル:Flag of the Lithuanian-Byelorussian SSR.svg|border|20x20px]] [[リトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国]] 1919年 * [[ファイル:Flag of Central Lithuania 1920.svg|border|20x20px]] [[中部リトアニア共和国]] 1920年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of the Lithuanian Soviet Socialist Republic (1953–1988).svg|border|20x20px]] [[リトアニア・ソビエト社会主義共和国]] 1940年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of the Estonian Soviet Socialist Republic (1953–1990).svg|border|20x20px]] [[エストニア・ソビエト社会主義共和国]] 1940年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of the Latvian Soviet Socialist Republic (1953–1990).svg|border|20x20px]] [[ラトビア・ソビエト社会主義共和国]]1940年 - 1991年 == 北アフリカ == === エジプト === * [[古代エジプト|古代エジプト諸王朝]] ** [[エジプト原始王時代]] 紀元前4200年頃 - 紀元前3150年 ** [[エジプト初期王朝時代]] 紀元前3150年 - 紀元前2686年 ** [[エジプト古王国]] 紀元前2686年 - 紀元前2181年 ** [[エジプト第1中間期]] 紀元前2181年 - 紀元前2040年 ** [[エジプト中王国]] 紀元前2040年 - 紀元前1663年 ** [[エジプト第2中間期]] 紀元前1663年 - 紀元前1570年 ** [[エジプト新王国]] 紀元前1570年 - 紀元前1070年 ** [[エジプト第3中間期]] 紀元前1069年 - 紀元前525年 ** [[エジプト末期王朝]] 紀元前525年 - 紀元前332年 ** [[ファイル:Flag of Ptolemaic Kingdom.png|境界|20x20ピクセル]] [[プトレマイオス朝]] 紀元前332年 - 紀元前30年 * [[アエギュプトゥス|アエギュプトゥス属州]] 紀元前30年 – 641年 * [[イスラム帝国]] 622年 – 750年 ** [[正統カリフ]] 632年 – 661年 ** [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 661年 - 750年 * [[ファイル:Abbasid banner.svg|border|20x20px]] [[アッバース朝]] 750年 - 1517年 * [[トゥールーン朝]] 868年 - 905年 * [[イフシード朝]] 935年 - 969年お * [[ファイル:Rectangular green flag.svg|border|20x20px]] [[ファーティマ朝]] 909年 - 1171年 * [[ファイル:Flag of Ayyubid Dynasty.svg|border|20x20px]] [[アイユーブ朝]] 1169年 - 1250年 * [[ファイル:Mameluke Flag.svg|border|20x20px]] [[マムルーク朝]] 1250年 - 1517年 ** [[バフリー・マムルーク朝]] 1250年 - 1390年 ** [[ブルジー・マムルーク朝]] 1390年 - 1517年 * [[ファイル:Flag of Egypt (1844-1867).svg|border|20x20px]] [[エジプト・エヤレト]] 1517年 - 1867年 * [[ファイル:Coat of arms of Egypt (1922–1953).svg|border|20px]] [[ムハンマド・アリー朝]] 1805年 - 1953年 ** [[ファイル:Flag of Egypt (1922–1952).svg|border|20x20px]] [[エジプト王国]] 1922年 - 1953年 * [[ファイル:Flag of Egypt (1952–1958).svg|border|20x20px]] [[エジプト共和国 (1953年-1958年)|エジプト共和国]] 1953年 - 1958年 * [[ファイル:Flag of the United Arab Republic (1958–1971).svg|border|20x20px]] [[アラブ連合共和国]] 1958年 - 1971年 *[[ファイル:Flag of Egypt (1972–1984).svg|border|20x20px]] [[アラブ共和国連邦]] 1972年 - 1977年 === マグリブ === * [[ファイル:Tanit-Symbol-alternate.svg|境界|25x25ピクセル]] [[カルタゴ]] 紀元前814 - 紀元前146年 * [[マウレタニア王国]] 紀元前3世紀 - 40年 * [[ヌミディア王国]] 紀元前202年 - 紀元前46年 * [[ヴァンダル王国]] 435年 - 534年 * [[イスラム帝国]] 622年 – 750年 ** [[正統カリフ]] 632年 – 661年 ** [[ファイル:Flag map of Umayyad caliphate.png|境界|20x20ピクセル]] [[ウマイヤ朝]] 661年 - 750年 * [[ルスタム朝]] 777年 - 909年 * [[ファイル:Flag of Morocco (780 1070) (1258 1659).svg|border|20x20px]] [[イドリース朝]] 788年 - 985年 * [[アグラブ朝]] 800年 - 909年 * [[ファイル:Flag of Zirid Dynasty (1146 - 973).svg|border|20x20px]] [[ファーティマ朝]] 909年 - 1171年 * [[ファイル:Flag of Zirid Dynasty (1146 - 973).svg|border|20x20px]] [[ズィール朝]] 983年 - 1148年 * [[ハンマード朝]] 1015年 - 1152年 * [[ファイル:Flag of Morocco 1073 1147.svg|境界|20x20ピクセル]] [[ムラービト朝]] 1040年 - 1147年 * [[ファイル:Flag of Almohad Dynasty (1147-1269).svg|border|20x20px]] [[ムワッヒド朝]] 1130年 - 1269年 * [[ファイル:Flag of Marinid and Saadi Dynasty (1258-1420) (1554-1659).svg|border|20x20px]] [[マリーン朝]] 1196年 - 1465年 * [[ファイル:Flag of Hafsid Tunisia (1550).svg|border|20x20px]] [[ハフス朝]] 1229年 - 1574年 * [[ファイル:Flag of Zayyanid Dynasty.png|border|20x20px]] [[ザイヤーン朝]] 1236年 - 1550年 * [[ファイル:Fictitious Ottoman flag 3.svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国|オスマン・トリポリタニア]] 1551年 - 1711年 * [[ファイル:Flag of Marinid and Saadi Dynasty (1258-1420) (1554-1659).svg|border|20x20px]] [[フェズ王国]] 1472年 - 1554年 * [[ファイル:Flag of Marinid and Saadi Dynasty (1258-1420) (1554-1659).svg|border|20x20px]] [[サアド朝]] 1509年 - 1659年 * [[ファイル:Flag of Darfur.svg|border|20x20px]] [[ダルフール|ダルフール・スルターン国]] 1603年 - 1874年、1898年 -1916年 * [[File:Flag of the Republic of Salé (1624-1668).svg|border|20x20px]] [[サレ共和国]] 1624年 - 1668年 * [[ファイル:Flag of Morocco (1666–1915).svg|border|20x20px]] [[アラウィー朝]] 1631年 - 1915年 * [[ファイル:Bey of Tunis flag correct and revised.png|border|20x20px]] [[フサイン朝]] 1705年 - 1956年 ** [[ファイル:Flag of Tunisia with French canton.svg|border|20x20px]] [[フランス領チュニジア]] 1881年 - 1956年 * [[カラマンリー朝]] 1711年 - 1835年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領アルジェリア]] 1830年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of the Ottoman Empire (1844–1922).svg|border|20x20px]] [[オスマン帝国|オスマン・トリポリタニア]] 1835年 - 1912年 * [[ファイル:Flag of Mahdist Revolt.svg|border|20x20px]] [[マフディー国家]] 1885年 - 1899年 * [[ファイル:Flag of Anglo-Egyptian Sudan.svg|border|20x20px]] [[英埃領スーダン]] 1899年 - 1956年 * [[ファイル:Merchant flag of French Morocco.svg|border|20x20px]] [[フランス領モロッコ]] 1907年 - 1956年 * [[ファイル:Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg|border|20x20px]] [[イタリア領リビア]] 1911年 - 1943年 * [[ファイル:Flag of the Tripolitanian Republic.svg|border|20x20px]] [[トリポリタニア共和国]] 1918年 - 1922年 * [[ファイル:Flag of the Republic of the Rif.svg|border|20x20px]] [[リーフ共和国]] 1921年 - 1926年 * [[ファイル:Flag of Cyrenaica.svg|border|20x20px]] [[キレナイカ首長国|キレネイカ首長国]] 1949年 - 1951年 * [[ファイル:Flag of Libya (1951–1969).svg|border|20x20px]] [[リビア連合王国]] 1951年 - 1969年 * [[ファイル:Flag of Tunisia (1959–1999).svg|border|20x20px]] [[チュニジア王国]] 1956年 - 1957年 * [[ファイル:Flag of Sudan (1956–1970).svg|border|20x20px]] [[スーダン共和国]] 1956年 - 1969年 * [[ファイル:Flag of Sudan.svg|border|20x20px]] [[スーダン民主共和国]] 1969年 - 1985年 * [[ファイル:Flag of Egypt (1972–1984).svg|border|20x20px]] [[アラブ共和国連邦]] 1972年 - 1977年 * [[ファイル:Drapeau de la République Arabe Islamique (Union tuniso-libyenne).svg|border|20x20px]] [[アラブ・イスラム共和国]] 1974年 * [[ファイル:Flag of Libya (1977–2011).svg|border|20x20px]] [[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国]] 1977年 - 2011年 * [[ファイル:Flag of Libya.svg|border|20x20px]] [[リビア国民評議会]] 2011年 - 2012年 == 西アフリカ == * [[ガーナ王国]] 790年頃 - 1235年 * [[ガオ帝国]] 9世紀 - 1430年 * [[モシ王国]] 11世紀 - 1896年 * [[ベニン王国]] 1170年 - 1897年 * [[マリ帝国]] 1235年 - 1645年 * [[ボノ・マンソ]] 13世紀 - 17世紀 * [[ハウサ諸王国]] 13世紀 - 19世紀 * [[ファイル:Flag of Songhai Empire.png|境界|20x20ピクセル]] [[ソンガイ帝国]] 1340年 - 1591年 * [[オヨ王国]] 1400年 - 1905年 * [[ファイル:Flag of Portugal.svg|border|20x20px]] [[ポルトガル領ギニア]] 1474年 - 1974年 * [[ファイル:Flag of Marinid and Saadi Dynasty (1258-1420) (1554-1659).svg|border|20x20px]] [[サアド朝]] 1509年 - 1659年 * [[カーブ帝国]] 1537年 - 1867年 * [[ファイル:Dahomey flag 1889.svg|border|20x20px]] [[ダホメ王国]] 1600年 - 1900年 * [[ファイル:Flag of Ashanti.svg|border|20x20px]] [[アシャンティ王国]] 1670年 - 1902年 * [[バウレ王国]] 18世紀 * [[ファイル:Flag of the Sokoto Caliphate.svg|border|20x20px]] [[ソコト帝国]] 1804年 - 1903年 * [[リフレッシュメントの島]] 1811年 - ? * [[イロリン|イロリン王国]] 19世紀 - 1897年 * [[ファイル:Flag of the Gold Coast (1877–1957).svg|border|20x20px]] [[英領ゴールド・コースト]] 1821年 - 1957年 * [[File:Flag of the Republic of Maryland.svg|border|20x20px]] [[メリーランド共和国]] 1841年 - 1857年 * [[トゥクロール帝国]] 1848年 - 1890年 * [[サモリ帝国]] 1878年 - 1898年 * [[ファイル:Reichskolonialflagge.svg|border|20x20px]] [[ドイツ領トーゴラント]] 1884年 - 1916年 * [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領西アフリカ]] 1895年 - 1958年 ** [[ファイル:Flag of France (1794–1815, 1830–1974).svg|border|20x20px]] [[フランス領ダホメ]] 1904年 - 1960年 ** [[ファイル:Flag of French Sudan (1958–1959).svg|border|20x20px]] [[フランス領スーダン]] 1890年 - 1902年 1921年 - 1960年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[イギリス領トーゴランド]] 1916年 - 1956年 * [[ファイル:Flag of Mali (1959–1961).svg|border|20x20px]] [[マリ連邦]] 1959年 - 1960年 * [[ファイル:Flag of Upper Volta.svg|border|20x20px]] [[オートボルタ]] 1958年 - 1984年 * [[ファイル:Flag of Benin.svg|border|20x20px]] [[ダホメ共和国]] 1958年 - 1975年 * [[ファイル:Flag of Biafra.svg|border|20x20px]] [[ビアフラ共和国]] 1967年 - 1970年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Benin.svg|border|20x20px]] [[ベニン共和国]] 1967年 * [[ファイル:Flag of Benin (1975–1990).svg|border|20x20px]] [[ベナン人民共和国]] 1975年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of Angola.svg|border|20x20px]] [[アンゴラ人民共和国]] 1975年 - 1992年 * [[ファイル:Flag of Senegal.svg|border|20x20px]][[ファイル:Flag of The Gambia.svg|border|20x20px]] [[セネガンビア国家連合]] 1982年 - 1989年 * [[ファイル:MNLA flag.svg|border|20x20px]] [[アザワド]] 2012年 == 中部アフリカ == * [[ファイル:Kanem flag from dulcerta 1339-pt.svg|border|20x20px]] [[カネム帝国]] 700年頃 - 1376年 * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Kongo.svg|border|20x20px]] [[コンゴ王国]] 1395年 - 1914年 * [[ファイル:Bornu flag.tif|border|20x20px]] [[ボルヌ帝国]] 1396年 - 1893年 * [[ワダイ王国]] 1507年 - 1912年 * [[ンドンゴ王国]] 16世紀 - 1671年 * [[バギルミ王国]] 1522年 - 1897年 * [[File:Royal Funj "wasm" (branding mark).png|border|20px]] {{仮リンク|センナール・スルタン国|en|Sennar (sultanate)}} * [[File:Flag of the Kingdom of Loango.svg|border|20x20px]] [[ロアンゴ王国]] 1550年 - 1883年 * [[クバ王国]] 1625年 - 1900年 * [[マタンバ王国]] 1631年 - 1744年 * [[ファイル:Flag of Congo Free State.svg|border|20x20px]] [[コンゴ国際協会]] 1879年 - 1885年 * [[ファイル:Flag of French Congo 1959 proposal.png|border|20x20px]] [[フランス領コンゴ]] 1882年 - 1910年 * [[ファイル:Reichskolonialflagge.svg|border|20x20px]] [[ドイツ保護領カメルーン]] 1884年 - 1916年 * [[コンゴ自由国]] 1885年 - 1908年 * [[ファイル:Flag of Congo Free State.svg|border|20x20px]] [[ベルギー領コンゴ]] 1908年 - 1960年 * [[ファイル:Flag of French Equatorial Africa.svg|border|20x20px]] [[フランス領赤道アフリカ]] 1910年 - 1958年 ** [[ファイル:Flag of France.svg|border|20x20px]] [[フランス領ウバンギ・シャリ]] 1903年 - 1958年 * [[ファイル:Flag of British Cameroon.svg|border|20x20px]] [[イギリス領カメルーン]] 1922年 - 1961年 * [[ファイル:Flag of the Central African Republic.svg|border|20x20px]] [[中央アフリカ帝国]] 1976年 - 1979年 * [[ファイル:Flag of South Kasai.svg|border|20x20px]] [[南カサイ鉱山国]] 1960年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of Katanga.svg|border|20x20px]] [[カタンガ共和国]] 1960年 - 1963年 * [[ファイル:Flag of the Democratic Republic of the Congo (1966–1971).svg|border|20x20px]] [[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ共和国]] 1960年 - 1964年 * [[ファイル:Flag of the Democratic Republic of the Congo (1966–1971).svg|border|20x20px]] [[コンゴ共和国 (レオポルドヴィル)|コンゴ民主共和国]] 1964年 - 1971年 * [[ファイル:Flag of the People's Republic of the Congo.svg|border|20x20px]] [[コンゴ人民共和国]] 1970年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of Zaire (1971–1997).svg|border|20x20px]] [[ザイール共和国]] 1971年 - 1997年 * [[ファイル:Flag of Cabinda (FLEC propose).svg|border|20x20px]] [[ガビンダ共和国|カビンダ共和国]] 1975年 - 1976年 * [[ファイル:Flag of Angola.svg|border|20x20px]] [[アンゴラ人民共和国]] 1975年 - 1992年 == 東アフリカ == * [[ダモト王国]] 紀元前980年 - 紀元前400年 * [[アクスム王国]] 100年頃 - 940年頃 * [[マクリア王国]] 5世紀 - 15世紀後半~16世紀 * [[アロディア]] 6世紀 - 1500年 * [[ザグウェ朝]] 900年頃 - 1270年 * [[ファイル:Flag of Bunyoro, Uganda.svg|border|20x20px]] [[ブニョロ|ブニョロ王国]] 940年頃 - 1967年 * [[キルワ王国]] 10世紀半ば - 1587年 * [[ファイル:Flag of Ethiopia (1897–1974).svg|border|20x20px]] [[エチオピア帝国]] 1137年 - 1974年 * [[ミドゥリ・バリ]] 1137年 - 1890年 * [[イファト・スルタン国]] 1285年頃 - 1415年頃 * [[ファイル:Flag of Rwanda (1959–1961).svg|border|20x20px]] [[ルワンダ王国]] 14世紀頃 - 1962年 * [[ファイル:Flag of Buganda.svg|border|20x20px]] [[ブガンダ|ブガンダ王国]] 1300年初頭 - 1966年 * [[ファイル:Flag of Ankole.svg|border|20x20px]] [[アンコーレ王国]] 1300年初頭 - 1967年 * [[モノモタパ王国]] 15世紀前半 - 1917年 * [[File:Flag of Adal Sultanate.svg|border|20x20px]] [[アダル・スルタン国]] 1415年頃 - 1559年頃 * [[マラビ帝国]] 16世紀頃 - 1891年 * [[ファイル:Merina Kingdom flag.svg|border|20x20px]] [[メリナ王国]] 16世紀頃 - 1896年 * [[ファイル:Flag of Burundi (1962–1966).svg|border|20x20px]] [[ブルンジ王国]] 16世紀頃 - 1966年 * [[ヤアーリバ朝]] 1624年 - 1720年 * [[ファイル:Flag of the Dutch East India Company.svg|border|20x20px]] [[オランダ領モーリシャス]] 1638年 - 1710年 * [[ファイル:Royal Standard of the King of France.svg|border|20x20px]] [[フランス領フランス島]] 1715年 - 1810年 * [[ファイル:Red Red.svg|border|20x20px]] [[オーッサ・スルタン国]] 1734年 - 1936年 * [[ファイル:Flag of Mauritius (1923–1968).svg|border|20x20px]] [[イギリス領モーリシャス]] 1810年 - 1968年 * [[ファイル:Flag of Toro, Uganda.svg|border|20x20px]] [[トロ王国]] 1830年頃 - 1963年 * [[ファイル:Flag of the Sultanate of Zanzibar.svg|border|20x20px]] [[ザンジバル・スルターン国]] 1856年 - 1890年 * [[ファイル:Flag of British Somaliland (1950–1952).svg|border|20x20px]] [[イギリス領ソマリランド]] 1884年 - 1960年 * [[ファイル:Reichskolonialflagge.svg|border|20x20px]] [[ドイツ領東アフリカ]] 1885年 - 1918年 * [[ロシア領ソマリランド]] 1889年 * [[ファイル:Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg|border|20x20px]] [[イタリア領ソマリランド]] 1889年 - 1936年 * [[ファイル:Flag of Zanzibar Under British Rule.svg|border|20x20px]] [[ザンジバル保護国]] 1890年 - 1963年 * [[ファイル:Flag of British Central Africa Protectorate.svg|border|20x20px]] [[イギリス中央アフリカ保護領]] 1893年 - 1907年 * [[ファイル:Flag of Kenya (1921–1963).svg|border|20x20px]] [[イギリス領東アフリカ]] 1895年 - 1920年 * [[ファイル:Flag of Nyasaland (1925–1964).svg|border|20x20px]] [[ニヤサランド]] 1907年 - 1964年 * [[File:Flag of Belgium (civil).svg|border|20x20px]] [[ルアンダ=ウルンディ]] 1922年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of Southern Rhodesia (1924–1964).svg|border|20x20px]] [[南ローデシア]] 1923年 - 1980年 ** [[ファイル:Flag of Rhodesia (1968–1979).svg|border|20x20px]] [[ローデシア]] 1965年 - 1979年 ** [[ファイル:Flag of Zimbabwe Rhodesia (1979).svg|border|20x20px]] [[ジンバブエ・ローデシア]] 1979年 * [[ファイル:Flag of Northern Rhodesia (1939–1964).svg|border|20x20px]] [[北ローデシア]] 1924年 - 1964年 * [[ファイル:Flag of Italy (1861-1946) crowned.svg|border|20x20px]] [[イタリア領東アフリカ]] 1936年 - 1941年 * [[ファイル:Flag of Italy.svg|border|20x20px]] [[イタリア信託統治領ソマリア]] 1950年 - 1960年 * [[ファイル:Flag of Ethiopia (1897–1974).svg|border|20x20px]][[ファイル:Flag of Eritrea (1952-1961).svg|border|20x20px]] [[エチオピア・エリトリア連邦]] 1952年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of Rhodesia and Nyasaland (1953–1963).svg|border|20x20px]] [[ローデシア・ニヤサランド連邦]] 1953年 - 1963年 * [[File:Flag of Somalia.svg|border|20x20px]] [[ソマリランド|ソマリランド国]] 1960年 * [[ファイル:Flag of Tanganyika (1961–1964).svg|border|20x20px]] [[タンガニーカ]] 1961年 - 1962年 * [[ファイル:Flag of Tanganyika (1961–1964).svg|border|20x20px]] [[タンガニーカ共和国]] 1963年 - 1964年 * [[File:Flag of Rwenzururu.svg|border|20x20px]] [[ルウェンズルル王国]] 1963年 - 1967年 * [[ファイル:Flag of Zanzibar (December 1963-January 1964).svg|border|20x20px]] [[ザンジバル王国]] 1963年 - 1964年 * [[ファイル:Flag of Zanzibar (January-April 1964).svg|border|20x20px]] [[ザンジバル人民共和国]] 1964年 * [[ファイル:Flag of Somalia.svg|border|20x20px]] [[ソマリア民主共和国]] 1969年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of Ethiopia (1975–1987).svg|border|20x20px]] [[社会主義エチオピア]] 1974年 - 1987年 * [[ファイル:Flag of Mozambique (1975–1983) (16-9).svg|border|20x20px]] [[モザンビーク人民共和国]] 1975年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of Ethiopia (1987–1991).svg|border|20x20px]] [[エチオピア人民民主共和国]] 1987年 - 1991年 * [[ファイル:Flag of South West State of Somalia.svg|border|20x20px]] [[南西ソマリア]] 2002年 - 2006年 * [[File:Flag of Busoga (royal standard).png|border|20x20px]] [[ブソガ|ブソガ王国]] - 1967年 == 南部アフリカ == * [[ファイル:Flag of the Cape Colony (1876–1910).svg|border|20x20px]] [[ケープ植民地]] 1795年 - 1910年 * [[ファイル:Conjectural flag of Zululand (1884-1897) by Roberto Breschi taken from The South African Flag Book by A.P.Burgers.png|border|20x20px]] [[ズールー王国]] 1817年 - 1879年 * [[ポチェフストルーム国]] 1837年 - 1860年 * [[ファイル:Flag of Natalia Republic.svg|border|20x20px]] [[ナタール共和国]] 1839年 - 1843年 * [[ファイル:Flag of Transvaal.svg|border|20x20px]] [[トランスヴァール共和国]] 1852年 - 1902年 * [[ファイル:Flag of the Orange Free State.svg|border|20x20px]] [[オレンジ自由国]] 1854年 - 1902年 * [[File:FlagGriekwalandEast.svg|border|20x20px]] [[グリカランド]] 1862年 - 1879年 * [[File:Flag of the Republic of Goshen.svg|border|20x20px]] [[ゴセン国]] 1882年 - 1885年 * [[File:First flag of Stellaland.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ステラランド共和国|en|stellaland}} * [[File:Flag of Nieuwe Republiek.svg|border|20x20px]] [[ニュー共和国]] 1884年 - 1888年 * [[ファイル:Reichskolonialflagge.svg|border|20x20px]] [[ドイツ領南西アフリカ]] 1884年 - 1918年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[ベチュアナランド]] 1885年 - 1966年 * [[ファイル:Flag of Orange River Colony.svg|border|20x20px]] [[オレンジ川植民地]] 1902年 - 1910年 * [[ファイル:Flag of South Africa (1928-1982).svg|border|20x20px]] [[南アフリカ連邦]] 1910年 - 1961年 * [[ファイル:Flag of South Africa (1928-1982).svg|border|20x20px]] [[南アフリカ領南西アフリカ]] 1915年 - 1990年 * [[ファイル:Flag of Barotseland.svg|border|20x20px]] [[バロツェランド王国]] 1964年 ===バントゥースタン=== * [[ファイル:Flag of Transkei.svg|border|20x20px]][[トランスカイ]] 1963年 - 1994年 * [[File:Flag of Hereroland.svg|border|20x20px]] [[ヘレロランド]] 1968年 - 1989年 * [[File:Flag of Ovamboland.svg|border|20x20px]] [[オバンボ自治国]] 1968年 - 1989年 * [[File:Flag of Kavangoland.svg|border|20x20px]] [[カバンゴ自治国]] 1970年 - 1989年 * [[ファイル:Flag of Bophuthatswana (1972–1994).svg|border|20x20px]] [[ボプタツワナ]] 1972年 - 1994年 * [[File:Flag of Lebowa.svg|border|20x20px]] [[レボワ]] 1972年 - 1994年 * [[File:Flag of Caprivi Bantustan.svg|border|20x20px]] [[東カプリビ自治国]] 1972年 - 1989年 * [[File:Flag of Gazankulu.svg|border|20x20px]] [[ガザンクル]] 1973年 - 1994年 * [[ファイル:Flag of QwaQwa (1975–1994).svg|border|20x20px]] [[クワクワ]] 1974年 - 1994年 * [[File:Flag of Namaland.svg|border|20x20px]] [[ナマランド]] 1976年 - 1989年 * [[File:Flag of KwaZulu (1985–1994).svg|border|20x20px]] [[クワズールー]] 1977年 - 1994年 * [[ファイル:Flag of Venda (1973–1994).svg|border|20x20px]] [[ヴェンダ]] 1979年 - 1994年 * [[File:Flag of Rehoboth-Basterland.svg|border|20x20px]] [[バスターランド]] 1979年 - 1989年 * [[File:Flag of Damaraland.svg|border|20x20px]] [[ダマラランド]] 1980年 - 1989年 * [[File:Flag of South Africa (1982–1994).svg|border|20x20px]] [[ツワナランド]] 1980年 - 1989年 * [[ファイル:Flag of Ciskei.svg|border|20x20px]] [[シスカイ]] 1981年 - 1994年 * [[File:Flag of KwaNdebele.svg|border|20x20px]] [[クワンデベレ]] 1981年 - 1994年 * [[File:Flag of South Africa (1982–1994).svg|border|20x20px]] [[カングワネ]] 1984年 - 1994年 == 北アメリカ == ===カナダ=== * [[ファイル:Royal Standard of the King of France.svg|border|20x20px]] [[ヌーベルフランス]] 1534年 - 1763年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[アッパーカナダ]] 1791年 - 1841年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[ローワーカナダ]] 1791年 - 1841年 * [[ファイル:Dominion of Newfoundland Blue Ensign.svg|border|20x20px]] [[ニューファンドランド (ドミニオン)|ニューファンドランド]] 1907年 - 1949年 ===アメリカ=== * [[ファイル:Flag of Cross of Burgundy.svg|border|20x20px]] [[スペイン領フロリダ]] 1513年 - 1763年 1783年 - 1821年 * [[ファイル:Royal Standard of the King of France.svg|border|20x20px]] [[ヌーベルフランス]] 1534年 - 1763年 ** [[ファイル:Royal flag of France.svg|border|20x20px]] [[フランス領ルイジアナ]] * [[ファイル:Sweden-Flag-1562.svg|border|20x20px]] [[ニュースウェーデン]] 1638年 - 1655年 * [[ファイル:Statenvlag.svg|border|20x20px]] [[ニューネーデルランド]] 1614年 - 1674年 * [[ニューアムステルダム]] 1653年 - 1674年 * [[ファイル:English Red Ensign 1620.svg|border|20x20px]] [[マサチューセッツ湾植民地]] 1629年 - 1692年 * [[ファイル:Flag of the United States (1776–1777).svg|border|20x20px]] [[13植民地]] 1607年 - 1783年 ** [[ファイル:Flag of Great Britain (1707–1800).svg|border|20x20px]] [[ニューハンプシャー植民地]] ** [[ファイル:Flag of Massachusetts.svg|border|20x20px]] [[マサチューセッツ湾直轄植民地]] ** [[ファイル:Flag of Rhode Island.svg|border|20x20px]] [[ロードアイランド植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[コネチカット植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800).svg|border|20x20px]] [[ニューヨーク植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[ニュージャージー植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800).svg|border|20x20px]] [[ペンシルベニア植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[デラウェア植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800).svg|border|20x20px]] [[メリーランド植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[バージニア植民地]] ** [[ファイル:Flag of North Carolina.svg|border|20x20px]] [[ノースカロライナ植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[サウスカロライナ植民地]] ** [[ファイル:Red Ensign of Great Britain (1707–1800, square canton).svg|border|20x20px]] [[ジョージア植民地]] * [[ファイル:Flag of the Vermont Republic.svg|border|20x20px]] [[バーモント共和国]] 1777年 - 1791年 * [[ファイル:State of Muskogee (Florida, 1799-1803).svg|border|20x20px]] [[マスコギー国]] 1777年 - 1803年 * [[ファイル:Flag of the Russian-American Company.svg|border|20x20px]] [[ロシア領アメリカ]] 1799年 - 1867年 * [[ファイル:Bonnie Blue flag.svg|border|20x20px]] [[:en:Republic of West Florida|西フロリダ共和国]] 1810年 * [[インディアン・ストリーム共和国]] 1832年 - 1835年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Texas (1836–1839).svg|border|20x20px]] [[テキサス共和国]] 1836年 - 1845年 * [[ファイル:First Bear Flag of California (1846).svg|border|20x20px]] [[カリフォルニア共和国]] 1846年 * [[File:Alleged Mormon flag 1877.svg|border|20x20px]] [[デザレット州]] 1849年 - 1850年 * [[ファイル:Flag of the Confederate States (1865).svg|border|20x20px]] [[アメリカ連合国]] 1861年 - 1865年 * [[ファイル:1868 Lares Revolutionay Flag.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|プエルトリコ共和国|en|Grito de Lares}} 1868年、1898年 == 中部アメリカ == ===先コロンブス期=== * [[マヤ文明]] ** [[ティカル]] ** [[ウシュマル]] ** [[チチェン・イッツァ]] * [[テオティワカン]] 紀元前2世紀 - 6世紀 * [[ショチカルコ]] 650年 - 900年 * [[トルテカ帝国]] 7世紀頃 - 12世紀頃 ** [[トゥーラ・シココティトラン]] * [[テスココ王国]] * [[タラスカ王国]] * [[ファイル:Glyphs for the member States of the Aztec Triple Alliance.svg|20x20ピクセル]][[アステカ帝国]] 1428年頃 - 1521年 * [[ファイル:TlaxcalaGlyph.jpg|border|20x20px]] [[トラスカラ王国]] * [[キチェー王国]] ===メキシコ=== * [[ファイル:Bandera de la Nueva España.svg|border|20x20px]] [[ヌエバ・エスパーニャ副王領]] 1519年 - 1821年     * [[ファイル:Flag of Mexico (1821-1823).svg|border|20x20px]] [[メキシコ帝国]] ** [[ファイル:Bandera del Primer Imperio Mexicano.svg|border|20x20px]] [[メキシコ第一帝政]] 1821年 - 1823年 ** [[ファイル:Flag of Mexico (1864-1867).svg|border|20x20px]] [[メキシコ第二帝政]] 1864年 - 1867年 * [[ファイル:Flag of the Republic of Yucatan.svg|border|20x20px]] [[ユカタン共和国]] **[[ユカタン共和国|第一共和国]] 1823年 **[[ユカタン共和国|第二共和国]] 1841年 - 1848年 * [[ファイル:Bandera de la Primera República Federal de los Estados Unidos Mexicanos.svg|border|20x20px]] [[メキシコ合衆国 (19世紀)]] 1824年 - 1835年 * [[ファイル:Bandera de la República Central Mexicana.svg|border|20x20px]] [[メキシコ共和国]] 1835年 - 1846年 * [[ファイル:Flag of the Republic of the Rio Grande.svg|border|20x20px]] [[リオグランデ共和国]] 1840年 ===中央アメリカ=== * [[ファイル:Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg|border|20x20px]] [[グアテマラ総督領]] 1541年 - 1821年 * [[ファイル:Flag of British Honduras (1919–1981).svg|border|20x20px]] [[イギリス領ホンジュラス]] 1783年 - 1981年 * [[ファイル:Flag of the Federal Republic of Central America.svg|border|20x20px]] [[中央アメリカ連邦共和国]] 1823年 - 1839年 * [[ファイル:Flag of Belgium (civil).svg|border|20x20px]] [[サント・トマス・デ・カスティージャ#歴史|ベルギー領サント・トマス]] 1843年 - 1854年 * [[ファイル:Flag of the Greater Republic of Central America (1898).svg|border|20x20px]] [[中央アメリカ大共和国]] 1896年 - 1898年 * [[ファイル:Flag of the State of Los Altos.svg|border|20x20px]][[ロスアルトス (中央アメリカ)|ロスアルトス共和国]] 1838年 - 1840年 * [[ソノラ共和国]] * [[ファイル:Flag of Panama Canal Zone.svg|border|20x20px]] [[パナマ運河地帯]] 1903年 - 1979年 * [[アイレク共和国]] 1995年 == カリブ海地域 == * [[ファイル:Pavillon LouisXIV.svg|border|20x20px]] [[サン=ドマング]] 1625年 - 1804年 * [[ファイル:Pirate Flag of Jack Rackham.svg|border|20x20px]] [[海賊共和国]] 1706年 - 1718年 * [[ファイル:Flag of Haiti (1964–1986, civil).svg|border|20x20px]] [[ハイチ帝国 (1804年-1806年)|ハイチ帝国]] 1804年 - 1806年 * [[ファイル:Flag of Haiti (1806–1811).svg|border|20x20px]] [[ハイチ国]] 1806年 - 1811年 * [[ファイル:Flag of Haiti (1814–1820).svg|border|20x20px]] [[ハイチ王国]] 1811年 - 1820年 * [[ファイル:Flag of Haiti (1849-1859) - Second Empire of Haiti.svg|border|20x20px]] [[ハイチ帝国 (1849年-1859年)|ハイチ帝国]] 1849年 - 1859年 * [[ファイル:Flag of Anguilla (1967–1969).svg|border|20x20px]] [[:en:Republic of Anguilla|アンギラ共和国]] 1967年 - 1969年 == 南アメリカ == ===先コロンブス期=== * [[チムー王国]] 850年頃 - 1470年頃 * [[クスコ王国]] 1197年 - 1438年 ** [[ファイル:Banner of the Inca Empire.svg|border|20x20px]] [[インカ帝国]] 1438年 - 1533年 ===コロンビア・ベネズエラ=== * [[ファイル:Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg|border|20x20px]] [[ヌエバ・グラナダ副王領]] 1717年 - 1723年  (一時廃止) 1739年 - 1810年 * [[ファイル:Flag of Cundinamarca.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|クンディナマルカ共和国|en|Free and Independent State of Cundinamarca}} 1810年 - 1815年  * [[カルタヘナ共和国]]1811年 - 1815年 * [[ファイル:Flag of New Granada (1811-1814).svg|border|20x20px]] [[ヌエバ・グラナダ連合州]] 1810年 - 1816年 * [[File:Flag of the First Republic of Venezuela.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ベネズエラ第一共和国|en|First Republic of Venezuela}} 1810年 - 1812年 * [[File:Bandera de la Guerra a Muerte.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ベネスエラ第二共和国|en|Second Republic of Venezuela}} 1813年 - 1814年 * [[File:Bandera de la Tercera República de Venezuela, 1817-1819.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ベネスエラ第三共和国|en|Third Republic of Venezuela}} 1817年 - 1819年 * [[ファイル:Flag of the Gran Colombia.svg|border|20x20px]] [[大コロンビア]] 1819年 - 1831年 * [[ファイル:Flag of New Granada.svg|border|20x20px]] [[ヌエバ・グラナダ共和国]] 1831年 - 1858年 * [[ファイル:Flag of New Granada.svg|border|20x20px]] [[グラナダ連合]] 1858年 - 1863年 * [[ファイル:Flag of Colombia.svg|border|20x20px]] [[コロンビア合衆国]] 1863年 - 1886年 ===ギアナ地方=== * [[File:Flag of British Guiana (1955–1966).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|英領ガイアナ|en|British Guiana}} 1831 - 1966 * [[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|オランダ領スリナム|en|Surinam (Dutch colony)}} 1667年 - 1954年 ===ペルー・ボリビア=== * [[ファイル:Flag of Cross of Burgundy.svg|border|20x20px]] [[ペルー副王領]] 1542年 - 1824年 * [[ファイル:Flag of Peru (1825–1884).svg|border|20x20px]] [[北ペルー共和国]] 1836年 - 1839年 * [[ファイル:Flag of South Peru.svg|border|20x20px]] [[南ペルー共和国]] 1836年 - 1839年 * [[ファイル:Flag of the Peru-Bolivian Confederation.svg|border|20x20px]] [[ペルー・ボリビア連合]] 1836年 - 1839年 ===アルゼンチン=== * [[ファイル:Flag of Spain (1785–1873, 1875–1931).svg|border|20x20px]] [[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]] 1776年 - 1814年 * [[ファイル:Flag of Argentina (1818).svg|border|20x20px]] [[リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合]] 1810年 - 1831年 * [[ファイル:Flag of the Treinta y Tres.svg|border|20x20px]] [[東方州]] * [[ファイル:Flag of Artigas.svg|border|20x20px]] [[連邦同盟]] 1814年 - 1820年  * [[ファイル:Flag of Entre Rios (1820-1821).svg|border|20x20px]] [[エントレ・リオス共和国]] 1820年 - 1821年 * [[ファイル:Flag of the Argentine Confederation.svg|border|20x20px]] [[アルゼンチン連合]] 1835年 - 1860年 * [[File:Flag of Piratini Republic.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|リオグラデンセ共和国|en|Riograndense Republic}} * [[File:Flag of República Juliana (1839).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ジュリアナ共和国|en|Juliana Republic}} * [[ファイル:Flag of Chile.svg|border|20x20px]] [[チリ社会主義共和国]] 1932年 ===ブラジル=== * [[ファイル:Flag of Portugal (1707).svg|border|20x20px]] [[ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化|ポルトガル領ブラジル]] 1500年-1808年 * [[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|オランダ領ブラジル|en|Dutch Brazil}} 1830年 - 1854年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom of Portugal, Brazil, and the Algarves (1815-1825).svg|border|20x20px]] [[ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国]] 1815年 - 1825年 * [[ファイル:Bandeira do Império do Brasil com nó e cores corretos.svg|border|20x20px]][[ブラジル帝国]] 1822年 - 1889年 * [[フランス領クナニ]] 1886年 - 1887年 * [[ファイル:Flag of Brazil (1889–1960).svg|border|20x20px]] [[ブラジル合衆国]] 1889年- 1930年 * [[File:Flag of the Principality of Trinidad.svg|border|20x20px]] [[トリニダード公国]] 1893年 - 1895年 * [[ファイル:Bandeira da Terceira República do Acre.svg|border|20x20px]] [[アクレ共和国]] 1899年 - 1900年 1900年 1903年 === チリ === * [[ファイル:Flag of the Kingdom of Araucanía and Patagonia.svg|border|20x20px]] [[アラウカニア・パタゴニア王国]] 1860年 - 1862年 == オセアニア == * [[ファイル:Flag of Hawaii (1816).svg|border|20x20px]] [[ハワイ王国]] 1795年 - 1893年 **[[カメハメハ朝]] 1795年-1872年 **[[カラカウア朝]] 1874年-1893年 *[[ファイル:Flag of Hawaii (1896).svg|border|20x20px]] [[ハワイ共和国]] 1894年 - 1898年  *[[アベママ王国]] 1840年頃 - 1892年 * [[トンガ大首長国]] * [[ファイル:Flag of Rarotonga 1888-1893.svg|border|20x20px]] [[ラロトンガ王国]] 1858年 - 1893年 * [[バウ王国]] 1867年 - 1871年 * [[ラウ王国]] 1867年 - 1871年 *[[ファイル:Flag of the Gilbert and Ellice Islands (1937–1976).svg|border|20x20px]] [[ギルバートおよびエリス諸島]] 1892年 - 1976年 *[[ファイル:Flag of New Hebrides.svg|border|20x20px]] [[共同統治領ニューヘブリディーズ]] 1906年 - 1980年 * [[File:Flag of New South Wales.svg|border|20x20px]] {{仮リンク|ニュー・サウス・ウェールズ植民地|en|Colony of New South Wales}} 1788年 - 1900年 * {{仮リンク|スワン川植民地|en|Swan River Colony}} 1829年 - 1833年  * [[File:Flag of Queensland (1876–1901).svg|border|20x20px]] {{仮リンク|クイーンズランド植民地|en|Colony of Queensland}} 1859年 - 1901年 * [[ファイル:Flag of the United Kingdom (3-5).svg|border|20x20px]] [[イギリス領ニュージーランド]] 1841年 - 1907年 *[[ファイル:Flag of New Zealand.svg|border|20x20px]] [[ニュージーランド自治領]] 1907年 - 1947年 *[[ファイル:Flag of German New Guinea.svg|border|20x20px]] [[ドイツ領ニューギニア]] 1884年 - 1919年 *[[ファイル:Flag of the Territory of New Guinea.svg|border|20x20px]] [[ニューギニア (信託統治領)]] 1914年 - 1975年 *[[ファイル:Flag of the Netherlands.svg|border|20x20px]] [[オランダ領ニューギニア]] 1945年 - 1962年  *[[ファイル:Morning Star flag.svg|border|20x20px]] [[西パプア共和国]] 1961年 - 1969年  *[[ファイル:Flag of the Governor of the South Pacific Mandate.svg|border|20x20px]] [[南洋諸島]] 1919年 - 1947年 *[[ファイル:Flag of the Trust Territory of the Pacific Islands.svg|border|20x20px]] [[太平洋諸島信託統治領]] 1947年 - 1994年 *[[タンナ国]] 1974年 *[[ファイル:Flag of the People's Provisional Government of Vanuatu (1977-1978).svg|border|20x20px]] [[バヌア・アク党|バヌアツ人民暫定政府]] 1977年 - 1978年 *[[ベマラナ共和国]] 1980年 *[[タフェア国]] 1980年 *[[ファイル:Flag of FLNKS.svg|border|20x20px]] [[ニューカレドニア|カナキー共和国]] 1984年 *[[ファイル:Flag of Rotuma (1987-1988).svg|border|20x20px]] [[ロツマ|ロツマ共和国]] 1987年 - 1988年 == 関連項目 == * [[ソビエト#各地のソビエト|ソビエト]]の「[[ロシア革命]]後に誕生した国家組織 (1917年 - 1922年)」表中の全ての[[国家組織]]ないし政権([[統治機関]])は現在は全て存在しない。 * [[過去に独立していた国の旗一覧]] == 外部リンク == *{{Wayback|url=http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/shometsu.html |title=消滅した国々 |date=20041016013541}} {{DEFAULTSORT:しようめつしたせいけんいちらん}} [[Category:かつて存在した国家|*]] [[Category:テーマ史]] [[Category:国の一覧]] [[Category:政治地理学]]
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生成文法
生成文法(せいせいぶんぽう、英: generative grammar)は、ノーム・チョムスキーの 『言語理論の論理構造』(The Logical Structure of Linguistic Theory、1955/1975)、 『文法の構造』(Syntactic Structures、1957)といった著作や同時期の発表を契機として起こった言語学の理論である。 チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、脳の言語野に損傷を持たない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法(英: universal grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。生成文法の目標は、定常状態としての個別言語の妥当な理論を構築し(記述的妥当性)、第一次言語獲得における個別言語の獲得が成功する源泉としての初期状態であるUGの特定とそこからの可能な遷移を明らかにする(説明的妥当性)ことである。そして言語を司る「器官」を心/脳のモジュールとし、言語学を心理学/生物学の下位領域とする。 しかし、以上のような考えが根底にはあるが、テクニカルには主として句構造規則からの「生成」(数学における「生成」に由来しており、むしろ「定義」の意味に近い)による文法、句構造文法を主として言語(もっぱら自然言語だが、次に述べるように形式言語にも波及した)を扱うことを特徴とする言語学である。またチョムスキーによれば「生成」という語は明示的であるということを意味する(ただし、「生成」の意味には変化があるとしてジェームズ・マコーレーの批判がある。チョムスキーはそれを否定しており、変化は無いとしている)。 言語学的には自然言語を対象として広がった分野であるが、前述のテクニカルな面は形式言語との親和性もあり、「チョムスキー階層」などは「形式言語とオートマトンの理論」と呼ばれる数理の分野における基本概念となっている。 生成文法は音韻論、形態論、意味論、言語獲得など一般に扱うが統語論が主となっている。以下では統語論に話題を絞り、他の領域に関してはそれぞれ関連記事を参照されたい。 生成文法のうち、変換を含む言語理論は計算上非現実的として変換を含まない生成文法があり、区別して非変換(論的)生成文法ということがある。 生成文法以前にアメリカで主流であった言語学は構造主義言語学であった。ヨーロッパにおける構造主義言語学と区別してアメリカ構造主義と呼ばれることもある(ヨーロッパにおける構造主義言語学は、一般にソシュールが祖とされ、いわゆる「近代言語学」とも。なお、単に「構造主義」で特にヨーロッパの側のほうを指すことも多い)。 アメリカ構造主義言語学は、与えられた音声データから一定の手続きに従って音韻論、形態論、統語論と記述を進めるというものであるが、音素や形態素の分類が行われれば一応の目的達成とされるものであった。これはヨーロッパの言語とは系統的に無関係で、ア・プリオリに分析の方法が与えられていないネイティブ・アメリカンの言語を記述するための方法論として発展してきたことをひとつの大きな契機としている(詳細は構造主義言語学の記事を参照)。 関連事項として、当時の心理学は行動主義心理学の全盛期であり、人間の行動をすべて刺激とそれへの反応が一般化したものと捉え、直接観察可能でない心的現象行動についても観察可能な行動に還元する傾向にあったことがあげられる。心的現象に関わる意味論は心理学のこのような傾向に歩調を合わせる形で優先順位を後にされ、生成文法の萌芽期と時期的に重なる成分分析まで延期されていた。また、アメリカ構造主義は「科学的方法」を看板としていたが、科学哲学としては論理実証主義を背景として検証可能なもののみを言語学の対象としていたが、その対象を自ら狭め、また音素、形態素の認定に意味が果たす役割には無自覚であるか、あえて不問に付していた。 その結果、アメリカ構造主義においては多くの言語を対象としたデータの膨大な蓄積をもたらしたが、その一方で伝統的言語研究とは断絶状態となって多くの重要な設問は禁止された状態にあり、データの蓄積が言語に対する洞察を深めることにはならなかった。 生成文法は合理論に与し、アメリカ構造主義の経験論に対立する。生得的な知識に関しては古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇『メノン』に現れる数理的知識の議論がある。文法としては古代インドのパーニニによる文典が最古の「生成文法」とされる。チョムスキーが生成文法をデカルト的(cartesian)と冠していることからわかるように、ルネ・デカルトの思想は生成文法に大きな影響を与えている。また、アメリカ構造主義の重要な言語学者とされるレナード・ブルームフィールド、エドワード・サピアの研究に「生成文法」を先取りする考えが含まれており、また伝統的研究に属すると言えるオットー・イェスペルセンの英語の分析は現在においても重要な影響を与え続けている。 非本質的な要因の関与を排除して理想化をほどこした、個別言語の話者の脳に内在する言語機能を言語能力と呼び、それを利用した、注意力・記憶力の限界、発話意図の変更、物理的制約などの要因の影響を受ける言語使用の側面を言語運用と呼んで区別した。言語能力と言語運用の区別はしばしばソシュールのラングとパロールの区別と対比されるが、これらは社会的側面と個人における実現という区別であり、全く異質なものである。 生成文法は、言語現象のあらゆる現われをデータとするが、そこで重要なのは母語話者の判断である。母語話者の判断は、その人が持つ言語の直観を反映するが、そこには様々な要因が組み合わさって現象する。その直観を反映した判断を容認性と呼ぶ。上で述べたような事情から、容認性判断は言語能力を直接反映したものとは言えない。研究の過程で非本質的な要因を除外していくと、最終的に目的としている文法にたどり着くと考えられる。この文法に照らし合わせた構造記述の適格性を文法性と呼ぶ。究極的には、真の文法が得られた場合に限り文法性の評価が可能となる。なお、言語学の慣用として、容認不可能なデータの前に'*'(アステリスク、星印)を、容認不可能とは言えないが許容度のかなり下がるデータの前に'?'を付すことになっている。 生成文法は言語獲得を説明することも課題として掲げている。 乳幼児は第一次言語獲得において、生後半年ほどでまわりの大人の話す個別言語の弁別素性(例えば音素)を特定し、一年ほどで多くの音と意味の結びつきを覚える。さらに一語文の時期を経て二語以上の語からなる構造を持った発話を産出するころには、基本的な統語構造をほぼ獲得しているものと見られる。 言語獲得は生得的な初期状態であるUG(普遍文法)から定常状態である個別言語への遷移と理解され、生成文法は、自然言語であればどのような個別言語の状態へも遷移可能なだけ豊かで、第一次言語獲得が短期間になされること、自然言語としてあり得ない言語へと遷移できないことを保障するだけ十分に制限されたUGを特定することを課題の一つとする。この課題を達成する理論を説明的妥当性を備えた理論という。 生成文法以前には、生得的構造を仮定せずに類推によって言語は獲得されると考えられることも多かったが、類推の基礎になるデータがないにもかかわらず、自由に構造が生成されるという事実がある。これはプラトンの問題、言語獲得についての論理的な問題などと呼ばれる。また、幼児はどのようなものが正しいかという情報を得ることができないこと(否定証拠の欠如)も指摘される。 説明的妥当性を持つ理論は初期状態である普遍文法(UG)の性質を記述する。ではUGの性質を知るにはどのようにしたらよいのであろうか。以下は黒田成幸の説明に基づく。子供は、自分の周りの大人が話す個別言語Lのデータを基にして、Lを獲得する。その際の、データを入力として個別言語を出力とするものを言語獲得装置(language acquisition device、LAD)ということがある。LADを関数とし、そこに入力されるデータをlとすると、言語獲得を次のように定式化することができる。 例えば日本語(J)の獲得、英語(E)の獲得、アラビア語(A)の獲得、...、言語Lnの獲得を次のように表すことができる: ここで、言語学者には言語獲得に決定的となる情報の総体(関数LADへの入力=データ)がどのようなものかを知ることはできない。しかし記述的妥当性を備えた文法は出力としての個別言語を知っている。このようなことから、言語獲得において関数LADとそれへの入力は未知であるが、その出力である個別言語を既知として連立方程式を立てることができ、LADはその連立方程式を解くことで求めることができる。LADは、UGの定数である原理と、変数であるパラメータ、及びパラメータの指定方法によって構成されると考えることができる。 生成文法は1950年代の発足当初から理論の積み重ねを経て今日に至っているが、その積み重ねは小さな修正の集積だけではなく、非常に大きな枠組みの変革も含まれている。巨視的に見ると、生成文法はこれまでに3度の大規模な理論的変革を経験している。概念的・思想的な側面では一貫しているが、議論を進める上での技術的な側面では非常に大きな変更がなされており、変革を期に生成文法の研究を離れる研究者が現れたり、また、変革が起こるたびに「一貫性のない理論である」という批判を受けるなどしてきた。こうした大幅な理論の変革は生成文法の特徴の一つとなっている。 しかし、新たに提示される枠組みは、以前の枠組みで説明されてきたものをメタ的に説明できるようになっており、道具立て自体は破棄されても、それまでの理論的蓄積はより一般化された形で説明される。つまり、生成文法では新たな理論がまったく恣意的に作り出されるのではなく、従来の理論をより一般化するように理論が発展してきている。 生成文法の枠組みの変革は以下のようにまとめられる この理論的変遷を歴史的に見ると以下のようになる。すなわち、当初は考えられる規則を網羅的に記述していたが、規則が増えるに従い体系が煩雑になったため、1970年代の終わりごろから1980年代の終わりにかけて、可能な規則を規定するメタ規則や誤った文を排除する制約が考えられた。これは原理とパラメターのアプローチと呼ばれ、言語は普遍的な有限の原理と個別言語ごとに規定されたパラメターから成ると仮定されている。1980年代の終わりからは、言語を計算とみなし、経済性や最適性に着目した極小主義プログラム(ミニマリスト・プログラム)が提唱された。 チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(Syntactic Structures、SS、1965年)では、アメリカ構造主義言語学のIC分析と呼ばれる文の分析方法が句構造規則によって改めて捉えなおされた。 例えば、 という文には という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた構成素に分析していく書き換え規則によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。'^'は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は順序付けがなされていない。 個別言語はSの集合と見なされる。Sは文(sentence)を示唆しており、句構造の派生の端緒となるため始発記号と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは名詞(noun)、Vは動詞(verb)である。Detは限定詞(determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう冠詞のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は'a', 'girl', 'boy', 'liked'のような語彙項目である。 書き換え規則の適用は終端記号にたどり着くまで再帰的に適用される。句構造の派生は非終端記号のみからなる記号列、非終端記号と終端記号非終端記号からなる記号列、終端記号のみ非終端記号のみからなる記号列となり、上の文の派生を集合論的に示すと となる。 再帰性はしばしば人間言語のもっとも根本的な性質として挙げられる。 ところで、SSではこのように句構造規則を定式化した後、このようなタイプの規則だけでは派生できない構造が指摘された。そのような構造を派生するために、新たに導入されたタイプの規則が変換規則である。変換規則の例として受動変換がある。受動変換はおおむね次のように述べられる: 矢印の前の部分を構造分析、後の部分を構造変化という。構造分析は変換に関わる要素だけが示される。その要素以外の部分(-で示される部分)にも様々な要素が存在するので、構造分析は連続しない要素同士の関係に言及している。変換によってもたらされた構造は非連続構成素 (discontinuous constituent) を含んでいる。このような構造は文脈自由文法では導けないとされる。またこの点を無視したとしても、能動文と、それに対応する受動文をそれぞれ別の句構造規則によって導出することにした場合、重要な一般性を失うことになる。これら二つの問題を解決する装置として導入されたのが変換規則である。なお変換規則を含む文法はチョムスキー階層におけるタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力でなければならない。しかしながら、変換規則なしには自然言語を記述できないとされた。 上の例に受動化変換を適用すると次のようになる。 これに次のような接辞を動詞に添加する変換が適用される: これが音韻部門への出力となり、「be+PAST」は/waz/、「like+en」は/lîke+d/という基底構造に写像される。 標準理論はチョムスキーの『文法理論の諸相』において、SS以降の発展が整理された理論である。カッツ-ポスタルの仮説に基づき、意味は句構造規則で生成された深層構造と呼ばれる表示からのみ解釈され、この深層構造に受動化変形などの変形規則を適用して表層構造が与えられ、この表示が音声への出力となる。すなわち、変形規則で文の意味は変わらないとされた。 標準理論までの研究では記述的妥当性の達成が当面の課題とされ、その過程で様々な変形規則が提案された。この時期までは伝統文法との親和性も高かったと言える。しかし、いくつかの点で大幅な転換が必要となっていった。 まず、変形規則の適用を受けた表示で意味解釈をすると考えなければならない現象が出てきたことが上げられる。このような経験的基盤からカッツ-ポスタルの仮説は棄却された。 また、無制限に変形規則が提案される中で、その中に一般性が見出されるものがあること、あり得る変形規則というのは極めて制限されていることなどがわかってきた。Xバー理論はこのような流れの中で提案された理論である。例えばNP(名詞句)は必ずそのhead(主要部)としてNを含み、VP(動詞句)はVを含むといった内心構造に注目し、任意の範疇Xは中間投射X'を経てXPに投射される、という次のようなスキーマにまとめ、句構造規則の中の一般性を抽出した。 それと同時に、'the enemy's destruction of the city' というNPを 'The enemy destroyed the city' というSから派生する変形規則は語彙論者の仮説に基づいて棄却しながらそれらの構造のある共通性を捉えることができるようにした。1980年代後半になると、句構造規則を完全に一般化し、文を補文標識 Comp(lementizer) を主要部とする投射とし、その補部には屈折辞 Infl(exion) を主要部とする投射があり、名詞句も D(eterminer) を主要部とする投射と考えられるようになった。上に挙げた構造はXバー理論の一般化によって次のような構造に捉えなおされる: 痕跡理論(英語版)も、可能な変形規則を制限する方向を進めていった。この帰結として変形規則は、任意の要素を任意の位置へ移動させるMove α(αを移動せよ)というただ一つの変形規則に収斂した。例としてwh移動を取り上げて考えてみよう。次の構造ではCompが極めて近い(局所的)位置である指定部(SPEC(ifier))がwh要素に占められていることを必要とする。しかしwh要素は要求された位置ではなく、平叙文で動詞に要求される位置と同じ位置に留まっている。 この構造は不適格となる。それを避けるためにはwh要素がCompのSPECの位置に移動すればよい。この際、wh要素があった位置には痕跡(t)が残され、この痕跡が動詞との関係を満たす。 ただし、必要に応じてつねに移動できる、というわけではなく、境界理論によって制限される。次の例は移動によって[+wh]Compが要求する位置を占めているものの、移動が別のwh要素を越えて適用されている。wh要素は''wh''島という規則適用に対する不透明領域(opaque domain)を形成するため、このような規則適用は適格性の度合いを低くする: このような枠組みでは、「wh移動」という変換規則を立ててその性質を詳しく述べるのではなく、 Move α が必要に応じて、かつ様々な制限に抵触しないように適用される、というように捉えなおされる。 このような進展に伴い、説明的妥当性を満たす理論の構築が研究課題として浮上してきた。ここに説明的妥当性、すなわち第一次言語獲得における重要な事実を捉えられるだけ十分に制限された理論が必要であるという要請と、記述的妥当性、すなわちそれまでの研究で明らかになった個別言語の多様性を捉えるに足る変異幅を持った理論が必要であるという要請の間に強い緊張関係が生まれた。これを捉えようとして1970年代末以降整備されてきた枠組みが統率・束縛理論(英語版)(GB理論)であり、より一般的には原理とパラメターのアプローチである。 GB理論における文法の構成は次のような図式で示される。 表層構造が、PFと呼ばれる音声表示とLFと呼ばれる意味表示に結びついている、というモデルに変更された。また深層心理などの連想で誤解を呼んだ深層構造・表層構造といった用語が避けられ、位置づけの変更に伴ってD構造、S構造という名称が与えられた。この枠組みにおいて統語論における比較研究、対照研究が加速した。 ミニマリスト・プログラム(極小主義プログラム、最小主義プログラムともいう)は、原理とパラメターのアプローチの中でチョムスキーの1980年代末の講義及び論文から徐々に形成されていった研究の方針である。「極小主義者のテーゼ」(自然法則は無駄がない)に照らし合わせ、言語機能独自の装置と考えられるものを限りなくそぎ落としていき、必要最低限のものしか残さなかった場合、言語とはどのようなものになるか、ということを考えようという問題意識である。 まず音声の聴覚像、手話の視覚像、意味の三者をなくすと研究が不可能になるため、感覚-運動系と概念-意図系へのインターフェースに関わる条件は最低限必要である。これ以外に何が必要か。計算対象となる要素同士を結合する操作(併合)は必要であるが、それ以外はどうしても必要だという根拠がないかぎり採用しない、という原則をとる。 さらに従来から理論の「評価尺度」として取り入れられていた「経済性」の概念を明確化し、それが言語のどのような側面にどのように関わるか、ということを考察対象とする。また、計算の「最適性」ということも明確な問題とされ、その性質が考察されている。 このような流れの中で、「最適な言語のデザイン」という考え方が生まれ、これを帰無仮説として、決定的な経験的基盤なしにはいかなる装置も棄却されるようになった。 このようなプログラム遂行の中で今まで用いていた概念が大部分省略されることになった。例えばXバー理論は余分な句構造標識を記法として含んでいたが、主要部の選択関係と句構造構築の経過だけ見れば十分という素句構造(bare phrase structure)のもと、表示の経済性という観点から、余剰的となったXP、X'といった投射を表すための記号はすべて取り除かれた。また「統率」「束縛」というGB理論を特徴付けていた概念も、徹底的な検証によって別のものに置き換えられるか、取り除かれるかされている。 レクシコンと統語部門のインターフェイスとして派生の端緒を成していたD構造も解体され、派生の端緒としてはかつてのサイクルに相当するフェイズ(相)毎に語彙の小分けがなされたLA(語彙配列)、あるいはそれを行わないニューマレーションに置き換えられた。 このような問題意識の中で説明的妥当性ということに初めて着手できるようになったとされる。そしてこのことは言語の計算体系を他の認知体系や生物学的特性の中に位置づけうる見通しが立ちはじめている。 1970年代までには、意味部門に変形規則を適用して直接表層構造に写像する生成意味論の研究が展開された。この理論は統語論で扱うべき対象を数多く供給したが、解釈意味論との間に激しい論争があり、その後消失した(言語学戦争と呼ばれている)。かつて解釈意味論が優れた理論だったため生成意味論は棄却された、との見方があったが、ハリスやゴールドスミスなどの研究によってこの見方は否定されている。生成意味論の研究者の一人であるジョージ・レイコフは認知言語学を提案し、生成文法を批判する最大の勢力となっている。 生成文法は他のいくつかの理論と対立してきた。生成意味論との論争はその最大のものである。しかし、対立した理論を常に完全に否定するわけではなく、対峙する理論の優れた点を自己の理論に取り込むということもしばしば行われている。たとえば、原理とパラメターのアプローチにおける原理の一つであるθ理論は、フィルモアの提示する格文法における深層格(意味役割)を参考にしている。また、ミニマリスト・プログラムにおいて、ますます重要性を増すLFも、その元となるアイディアは生成意味論が多く寄与している。その他、併合と素句構造は範疇文法やHPSGに見られる単一化(unification)に相当する。 生成文法には、基底となる構造に対して変換を用いて表層的な構造を得るという多層的アプローチ(multi-stratal approach)と、変換を用いず同一の構造内での計算によって構造を得るという単層的アプローチ(mono-stratal approach)という2つのタイプがある。チョムスキーのアプローチは前者に相当する。 多層的アプローチで変換規則を用いる文法は少なく見積もってチョムスキー階層においてタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力である。現実のコンピュータに対応するのは制限されたチューリングマシンである線状有界オートマトンであり、これが扱いうるのはタイプ-1文法(文脈依存文法)までである。実際に現在のコンピュータに変換規則を実装しようとすると、可能な組み合わせが指数関数的に増加し、組み合わせ的爆発(計算論的爆発)を起こす場合がある。そこで、1980年代前後より、コンピュータへの実装という観点でより現実的な、タイプ-2文法よりやや強力であるところに押さえた単層的アプローチとしての非変換論的生成文法が提案されている。中でも一般化句構造文法(GPSG)とその発展である主辞駆動句構造文法(HPSG)、TAG(Tree-Adjoining Grammar)などがコンピュータ科学においては変換論的生成文法よりも集中的に研究されている。 HPSG(主辞駆動句構造文法)はカール・ポラードとアイヴァン・サグが唱える生成文法の一種である。この理論は一般化句構造文法の直接の継承である。コンピュータ科学(データ型理論と知識表現)のような生成文法外の分野やフェルディナン・ド・ソシュールの記号の概念も採用している。並列処理を配慮した文法構成をしているため、自然言語処理の分野によく用いられる。HPSGの理論は原理群、文法規則群と通常は文法に属するとはみなされていないレクシコンから構成されている。形式化は語彙主義に基づいて行われる。このことはレクシコンが単なる語彙項目の羅列である、ということ以上のことを意味しており、レクシコン内部が豊かな構成を持っている。各語彙項目に階層構造を成す「タイプ」を立て記号を基本的なタイプとする。「語」はPHON (音声情報)とSYNSEM(統語情報と意味情報)という二つの素性を持ち、これらはさらに下位素性から構成される。記号と規則はタイプ付けされた素性構造として形式化される。HPSGの形式化に基づくさまざまな構文解析器(パーザ)が設計され、その最適化が最近研究されている。ドイツ語の文を解析するシステムの一例がブレーメン大学から公開されている。 木接合文法(Tree-adjoining grammar、TAG) は計算言語学や自然言語処理でよく用いられているアラヴィンド・ジョーシの案出した形式言語である。文脈自由文法に類似しているが、書き換えの基本単位は記号ではなく樹である。文脈自由文法はある記号を他の記号列に書き換える規則を持つが、TAGは樹の節点を他の樹に書き換える規則を立てる。(木 (数学)及びツリーデータ構造を参照)。TAGにおける規則(「補助樹; auxiliary trees」として知られる)は「脚節点; foot node」という特殊な節点を葉とする樹状図で表される。根の節点と脚節点は同じ記号でなければならない。「始発樹」(文脈自由文法の始発記号と同じ)から始まる。書き換え操作は補助樹を(典型的には葉ではない)節点に付加(接合)することによって実行される。補助樹の根/脚のラベルは付加する節点のラベルと一致し、この操作で付加対象となる節点を上下に分割する。上方では付加している樹の根と結合し、下方では付加している脚と結合する。これがTAGのもっとも基本となるものである;もっとも一般的なTAGの変異形ではさらに「代入」と呼ばれる書き換え操作が加えられるし、また他の変異形では樹に複数の脚節点を持つ部分樹やさらなる拡張を許している。TAGは、弱生成能力に関してそれ自体を文脈自由文法よりやや強力にするような一定の特徴を備えているが、チョムスキー階層に定義されている文脈依存文法よりは弱いために、よく「やや文脈依存的な」文法であると特徴付けられる。やや文脈依存的な文法は、一般的な場合においてパーザを効率的に保ったまま自然言語のモデル構築としては十分強力である、という予想が提示されている。 認知言語学の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、経験基盤主義的立場から批判している。 個別言語を記述する立場からは、生成文法が英語圏で理論化を始めた後、その理論に都合の良い(顕在主語不可欠の英語中心に)言語や言語データを恣意的に選択していると批判される。また、生成文法の扱う構文が極めて限定的で、個別言語の体系的記述にたどり着かないという批判がある。さらに、データとして扱われる文の許容度に対する内省判断が恣意的であるとする批判もある。ただし、これは研究者の立場がやや記述寄りであるか理論寄りであるかによっても若干傾向が異なる。前者の場合は文の許容度を根拠にある程度帰納的に理論を展開するが、後者は理論から演繹的に文の許容度を示す場合もあり、計算上は矛盾が無くとも一般的な言語直観からはかけ離れたデータが示される場合がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "生成文法(せいせいぶんぽう、英: generative grammar)は、ノーム・チョムスキーの 『言語理論の論理構造』(The Logical Structure of Linguistic Theory、1955/1975)、 『文法の構造』(Syntactic Structures、1957)といった著作や同時期の発表を契機として起こった言語学の理論である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、脳の言語野に損傷を持たない人間は幼児期に触れる言語が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に言語獲得に成功するが、これは言語の初期状態である普遍文法(英: universal grammar, UG)を生得的に備えているためであると考える。生成文法の目標は、定常状態としての個別言語の妥当な理論を構築し(記述的妥当性)、第一次言語獲得における個別言語の獲得が成功する源泉としての初期状態であるUGの特定とそこからの可能な遷移を明らかにする(説明的妥当性)ことである。そして言語を司る「器官」を心/脳のモジュールとし、言語学を心理学/生物学の下位領域とする。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "しかし、以上のような考えが根底にはあるが、テクニカルには主として句構造規則からの「生成」(数学における「生成」に由来しており、むしろ「定義」の意味に近い)による文法、句構造文法を主として言語(もっぱら自然言語だが、次に述べるように形式言語にも波及した)を扱うことを特徴とする言語学である。またチョムスキーによれば「生成」という語は明示的であるということを意味する(ただし、「生成」の意味には変化があるとしてジェームズ・マコーレーの批判がある。チョムスキーはそれを否定しており、変化は無いとしている)。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "言語学的には自然言語を対象として広がった分野であるが、前述のテクニカルな面は形式言語との親和性もあり、「チョムスキー階層」などは「形式言語とオートマトンの理論」と呼ばれる数理の分野における基本概念となっている。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "生成文法は音韻論、形態論、意味論、言語獲得など一般に扱うが統語論が主となっている。以下では統語論に話題を絞り、他の領域に関してはそれぞれ関連記事を参照されたい。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "生成文法のうち、変換を含む言語理論は計算上非現実的として変換を含まない生成文法があり、区別して非変換(論的)生成文法ということがある。", "title": "概論" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "生成文法以前にアメリカで主流であった言語学は構造主義言語学であった。ヨーロッパにおける構造主義言語学と区別してアメリカ構造主義と呼ばれることもある(ヨーロッパにおける構造主義言語学は、一般にソシュールが祖とされ、いわゆる「近代言語学」とも。なお、単に「構造主義」で特にヨーロッパの側のほうを指すことも多い)。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "アメリカ構造主義言語学は、与えられた音声データから一定の手続きに従って音韻論、形態論、統語論と記述を進めるというものであるが、音素や形態素の分類が行われれば一応の目的達成とされるものであった。これはヨーロッパの言語とは系統的に無関係で、ア・プリオリに分析の方法が与えられていないネイティブ・アメリカンの言語を記述するための方法論として発展してきたことをひとつの大きな契機としている(詳細は構造主義言語学の記事を参照)。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "関連事項として、当時の心理学は行動主義心理学の全盛期であり、人間の行動をすべて刺激とそれへの反応が一般化したものと捉え、直接観察可能でない心的現象行動についても観察可能な行動に還元する傾向にあったことがあげられる。心的現象に関わる意味論は心理学のこのような傾向に歩調を合わせる形で優先順位を後にされ、生成文法の萌芽期と時期的に重なる成分分析まで延期されていた。また、アメリカ構造主義は「科学的方法」を看板としていたが、科学哲学としては論理実証主義を背景として検証可能なもののみを言語学の対象としていたが、その対象を自ら狭め、また音素、形態素の認定に意味が果たす役割には無自覚であるか、あえて不問に付していた。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "その結果、アメリカ構造主義においては多くの言語を対象としたデータの膨大な蓄積をもたらしたが、その一方で伝統的言語研究とは断絶状態となって多くの重要な設問は禁止された状態にあり、データの蓄積が言語に対する洞察を深めることにはならなかった。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "生成文法は合理論に与し、アメリカ構造主義の経験論に対立する。生得的な知識に関しては古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇『メノン』に現れる数理的知識の議論がある。文法としては古代インドのパーニニによる文典が最古の「生成文法」とされる。チョムスキーが生成文法をデカルト的(cartesian)と冠していることからわかるように、ルネ・デカルトの思想は生成文法に大きな影響を与えている。また、アメリカ構造主義の重要な言語学者とされるレナード・ブルームフィールド、エドワード・サピアの研究に「生成文法」を先取りする考えが含まれており、また伝統的研究に属すると言えるオットー・イェスペルセンの英語の分析は現在においても重要な影響を与え続けている。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "非本質的な要因の関与を排除して理想化をほどこした、個別言語の話者の脳に内在する言語機能を言語能力と呼び、それを利用した、注意力・記憶力の限界、発話意図の変更、物理的制約などの要因の影響を受ける言語使用の側面を言語運用と呼んで区別した。言語能力と言語運用の区別はしばしばソシュールのラングとパロールの区別と対比されるが、これらは社会的側面と個人における実現という区別であり、全く異質なものである。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "生成文法は、言語現象のあらゆる現われをデータとするが、そこで重要なのは母語話者の判断である。母語話者の判断は、その人が持つ言語の直観を反映するが、そこには様々な要因が組み合わさって現象する。その直観を反映した判断を容認性と呼ぶ。上で述べたような事情から、容認性判断は言語能力を直接反映したものとは言えない。研究の過程で非本質的な要因を除外していくと、最終的に目的としている文法にたどり着くと考えられる。この文法に照らし合わせた構造記述の適格性を文法性と呼ぶ。究極的には、真の文法が得られた場合に限り文法性の評価が可能となる。なお、言語学の慣用として、容認不可能なデータの前に'*'(アステリスク、星印)を、容認不可能とは言えないが許容度のかなり下がるデータの前に'?'を付すことになっている。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "生成文法は言語獲得を説明することも課題として掲げている。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "乳幼児は第一次言語獲得において、生後半年ほどでまわりの大人の話す個別言語の弁別素性(例えば音素)を特定し、一年ほどで多くの音と意味の結びつきを覚える。さらに一語文の時期を経て二語以上の語からなる構造を持った発話を産出するころには、基本的な統語構造をほぼ獲得しているものと見られる。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "言語獲得は生得的な初期状態であるUG(普遍文法)から定常状態である個別言語への遷移と理解され、生成文法は、自然言語であればどのような個別言語の状態へも遷移可能なだけ豊かで、第一次言語獲得が短期間になされること、自然言語としてあり得ない言語へと遷移できないことを保障するだけ十分に制限されたUGを特定することを課題の一つとする。この課題を達成する理論を説明的妥当性を備えた理論という。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "生成文法以前には、生得的構造を仮定せずに類推によって言語は獲得されると考えられることも多かったが、類推の基礎になるデータがないにもかかわらず、自由に構造が生成されるという事実がある。これはプラトンの問題、言語獲得についての論理的な問題などと呼ばれる。また、幼児はどのようなものが正しいかという情報を得ることができないこと(否定証拠の欠如)も指摘される。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "説明的妥当性を持つ理論は初期状態である普遍文法(UG)の性質を記述する。ではUGの性質を知るにはどのようにしたらよいのであろうか。以下は黒田成幸の説明に基づく。子供は、自分の周りの大人が話す個別言語Lのデータを基にして、Lを獲得する。その際の、データを入力として個別言語を出力とするものを言語獲得装置(language acquisition device、LAD)ということがある。LADを関数とし、そこに入力されるデータをlとすると、言語獲得を次のように定式化することができる。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "例えば日本語(J)の獲得、英語(E)の獲得、アラビア語(A)の獲得、...、言語Lnの獲得を次のように表すことができる:", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "ここで、言語学者には言語獲得に決定的となる情報の総体(関数LADへの入力=データ)がどのようなものかを知ることはできない。しかし記述的妥当性を備えた文法は出力としての個別言語を知っている。このようなことから、言語獲得において関数LADとそれへの入力は未知であるが、その出力である個別言語を既知として連立方程式を立てることができ、LADはその連立方程式を解くことで求めることができる。LADは、UGの定数である原理と、変数であるパラメータ、及びパラメータの指定方法によって構成されると考えることができる。", "title": "生成文法の基本的考え方" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "生成文法は1950年代の発足当初から理論の積み重ねを経て今日に至っているが、その積み重ねは小さな修正の集積だけではなく、非常に大きな枠組みの変革も含まれている。巨視的に見ると、生成文法はこれまでに3度の大規模な理論的変革を経験している。概念的・思想的な側面では一貫しているが、議論を進める上での技術的な側面では非常に大きな変更がなされており、変革を期に生成文法の研究を離れる研究者が現れたり、また、変革が起こるたびに「一貫性のない理論である」という批判を受けるなどしてきた。こうした大幅な理論の変革は生成文法の特徴の一つとなっている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "しかし、新たに提示される枠組みは、以前の枠組みで説明されてきたものをメタ的に説明できるようになっており、道具立て自体は破棄されても、それまでの理論的蓄積はより一般化された形で説明される。つまり、生成文法では新たな理論がまったく恣意的に作り出されるのではなく、従来の理論をより一般化するように理論が発展してきている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "生成文法の枠組みの変革は以下のようにまとめられる", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "この理論的変遷を歴史的に見ると以下のようになる。すなわち、当初は考えられる規則を網羅的に記述していたが、規則が増えるに従い体系が煩雑になったため、1970年代の終わりごろから1980年代の終わりにかけて、可能な規則を規定するメタ規則や誤った文を排除する制約が考えられた。これは原理とパラメターのアプローチと呼ばれ、言語は普遍的な有限の原理と個別言語ごとに規定されたパラメターから成ると仮定されている。1980年代の終わりからは、言語を計算とみなし、経済性や最適性に着目した極小主義プログラム(ミニマリスト・プログラム)が提唱された。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(Syntactic Structures、SS、1965年)では、アメリカ構造主義言語学のIC分析と呼ばれる文の分析方法が句構造規則によって改めて捉えなおされた。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "例えば、", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "という文には", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた構成素に分析していく書き換え規則によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。'^'は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は順序付けがなされていない。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "個別言語はSの集合と見なされる。Sは文(sentence)を示唆しており、句構造の派生の端緒となるため始発記号と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは名詞(noun)、Vは動詞(verb)である。Detは限定詞(determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう冠詞のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は'a', 'girl', 'boy', 'liked'のような語彙項目である。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "書き換え規則の適用は終端記号にたどり着くまで再帰的に適用される。句構造の派生は非終端記号のみからなる記号列、非終端記号と終端記号非終端記号からなる記号列、終端記号のみ非終端記号のみからなる記号列となり、上の文の派生を集合論的に示すと", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "となる。 再帰性はしばしば人間言語のもっとも根本的な性質として挙げられる。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "ところで、SSではこのように句構造規則を定式化した後、このようなタイプの規則だけでは派生できない構造が指摘された。そのような構造を派生するために、新たに導入されたタイプの規則が変換規則である。変換規則の例として受動変換がある。受動変換はおおむね次のように述べられる:", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "矢印の前の部分を構造分析、後の部分を構造変化という。構造分析は変換に関わる要素だけが示される。その要素以外の部分(-で示される部分)にも様々な要素が存在するので、構造分析は連続しない要素同士の関係に言及している。変換によってもたらされた構造は非連続構成素 (discontinuous constituent) を含んでいる。このような構造は文脈自由文法では導けないとされる。またこの点を無視したとしても、能動文と、それに対応する受動文をそれぞれ別の句構造規則によって導出することにした場合、重要な一般性を失うことになる。これら二つの問題を解決する装置として導入されたのが変換規則である。なお変換規則を含む文法はチョムスキー階層におけるタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力でなければならない。しかしながら、変換規則なしには自然言語を記述できないとされた。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "上の例に受動化変換を適用すると次のようになる。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "これに次のような接辞を動詞に添加する変換が適用される:", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "これが音韻部門への出力となり、「be+PAST」は/waz/、「like+en」は/lîke+d/という基底構造に写像される。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "標準理論はチョムスキーの『文法理論の諸相』において、SS以降の発展が整理された理論である。カッツ-ポスタルの仮説に基づき、意味は句構造規則で生成された深層構造と呼ばれる表示からのみ解釈され、この深層構造に受動化変形などの変形規則を適用して表層構造が与えられ、この表示が音声への出力となる。すなわち、変形規則で文の意味は変わらないとされた。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "標準理論までの研究では記述的妥当性の達成が当面の課題とされ、その過程で様々な変形規則が提案された。この時期までは伝統文法との親和性も高かったと言える。しかし、いくつかの点で大幅な転換が必要となっていった。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "まず、変形規則の適用を受けた表示で意味解釈をすると考えなければならない現象が出てきたことが上げられる。このような経験的基盤からカッツ-ポスタルの仮説は棄却された。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "また、無制限に変形規則が提案される中で、その中に一般性が見出されるものがあること、あり得る変形規則というのは極めて制限されていることなどがわかってきた。Xバー理論はこのような流れの中で提案された理論である。例えばNP(名詞句)は必ずそのhead(主要部)としてNを含み、VP(動詞句)はVを含むといった内心構造に注目し、任意の範疇Xは中間投射X'を経てXPに投射される、という次のようなスキーマにまとめ、句構造規則の中の一般性を抽出した。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "それと同時に、'the enemy's destruction of the city' というNPを 'The enemy destroyed the city' というSから派生する変形規則は語彙論者の仮説に基づいて棄却しながらそれらの構造のある共通性を捉えることができるようにした。1980年代後半になると、句構造規則を完全に一般化し、文を補文標識 Comp(lementizer) を主要部とする投射とし、その補部には屈折辞 Infl(exion) を主要部とする投射があり、名詞句も D(eterminer) を主要部とする投射と考えられるようになった。上に挙げた構造はXバー理論の一般化によって次のような構造に捉えなおされる:", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "痕跡理論(英語版)も、可能な変形規則を制限する方向を進めていった。この帰結として変形規則は、任意の要素を任意の位置へ移動させるMove α(αを移動せよ)というただ一つの変形規則に収斂した。例としてwh移動を取り上げて考えてみよう。次の構造ではCompが極めて近い(局所的)位置である指定部(SPEC(ifier))がwh要素に占められていることを必要とする。しかしwh要素は要求された位置ではなく、平叙文で動詞に要求される位置と同じ位置に留まっている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "この構造は不適格となる。それを避けるためにはwh要素がCompのSPECの位置に移動すればよい。この際、wh要素があった位置には痕跡(t)が残され、この痕跡が動詞との関係を満たす。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "ただし、必要に応じてつねに移動できる、というわけではなく、境界理論によって制限される。次の例は移動によって[+wh]Compが要求する位置を占めているものの、移動が別のwh要素を越えて適用されている。wh要素は''wh''島という規則適用に対する不透明領域(opaque domain)を形成するため、このような規則適用は適格性の度合いを低くする:", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "このような枠組みでは、「wh移動」という変換規則を立ててその性質を詳しく述べるのではなく、 Move α が必要に応じて、かつ様々な制限に抵触しないように適用される、というように捉えなおされる。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "このような進展に伴い、説明的妥当性を満たす理論の構築が研究課題として浮上してきた。ここに説明的妥当性、すなわち第一次言語獲得における重要な事実を捉えられるだけ十分に制限された理論が必要であるという要請と、記述的妥当性、すなわちそれまでの研究で明らかになった個別言語の多様性を捉えるに足る変異幅を持った理論が必要であるという要請の間に強い緊張関係が生まれた。これを捉えようとして1970年代末以降整備されてきた枠組みが統率・束縛理論(英語版)(GB理論)であり、より一般的には原理とパラメターのアプローチである。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "GB理論における文法の構成は次のような図式で示される。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "表層構造が、PFと呼ばれる音声表示とLFと呼ばれる意味表示に結びついている、というモデルに変更された。また深層心理などの連想で誤解を呼んだ深層構造・表層構造といった用語が避けられ、位置づけの変更に伴ってD構造、S構造という名称が与えられた。この枠組みにおいて統語論における比較研究、対照研究が加速した。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ミニマリスト・プログラム(極小主義プログラム、最小主義プログラムともいう)は、原理とパラメターのアプローチの中でチョムスキーの1980年代末の講義及び論文から徐々に形成されていった研究の方針である。「極小主義者のテーゼ」(自然法則は無駄がない)に照らし合わせ、言語機能独自の装置と考えられるものを限りなくそぎ落としていき、必要最低限のものしか残さなかった場合、言語とはどのようなものになるか、ということを考えようという問題意識である。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "まず音声の聴覚像、手話の視覚像、意味の三者をなくすと研究が不可能になるため、感覚-運動系と概念-意図系へのインターフェースに関わる条件は最低限必要である。これ以外に何が必要か。計算対象となる要素同士を結合する操作(併合)は必要であるが、それ以外はどうしても必要だという根拠がないかぎり採用しない、という原則をとる。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "さらに従来から理論の「評価尺度」として取り入れられていた「経済性」の概念を明確化し、それが言語のどのような側面にどのように関わるか、ということを考察対象とする。また、計算の「最適性」ということも明確な問題とされ、その性質が考察されている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "このような流れの中で、「最適な言語のデザイン」という考え方が生まれ、これを帰無仮説として、決定的な経験的基盤なしにはいかなる装置も棄却されるようになった。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "このようなプログラム遂行の中で今まで用いていた概念が大部分省略されることになった。例えばXバー理論は余分な句構造標識を記法として含んでいたが、主要部の選択関係と句構造構築の経過だけ見れば十分という素句構造(bare phrase structure)のもと、表示の経済性という観点から、余剰的となったXP、X'といった投射を表すための記号はすべて取り除かれた。また「統率」「束縛」というGB理論を特徴付けていた概念も、徹底的な検証によって別のものに置き換えられるか、取り除かれるかされている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "レクシコンと統語部門のインターフェイスとして派生の端緒を成していたD構造も解体され、派生の端緒としてはかつてのサイクルに相当するフェイズ(相)毎に語彙の小分けがなされたLA(語彙配列)、あるいはそれを行わないニューマレーションに置き換えられた。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "このような問題意識の中で説明的妥当性ということに初めて着手できるようになったとされる。そしてこのことは言語の計算体系を他の認知体系や生物学的特性の中に位置づけうる見通しが立ちはじめている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1970年代までには、意味部門に変形規則を適用して直接表層構造に写像する生成意味論の研究が展開された。この理論は統語論で扱うべき対象を数多く供給したが、解釈意味論との間に激しい論争があり、その後消失した(言語学戦争と呼ばれている)。かつて解釈意味論が優れた理論だったため生成意味論は棄却された、との見方があったが、ハリスやゴールドスミスなどの研究によってこの見方は否定されている。生成意味論の研究者の一人であるジョージ・レイコフは認知言語学を提案し、生成文法を批判する最大の勢力となっている。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "生成文法は他のいくつかの理論と対立してきた。生成意味論との論争はその最大のものである。しかし、対立した理論を常に完全に否定するわけではなく、対峙する理論の優れた点を自己の理論に取り込むということもしばしば行われている。たとえば、原理とパラメターのアプローチにおける原理の一つであるθ理論は、フィルモアの提示する格文法における深層格(意味役割)を参考にしている。また、ミニマリスト・プログラムにおいて、ますます重要性を増すLFも、その元となるアイディアは生成意味論が多く寄与している。その他、併合と素句構造は範疇文法やHPSGに見られる単一化(unification)に相当する。", "title": "変形生成文法の展開" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "生成文法には、基底となる構造に対して変換を用いて表層的な構造を得るという多層的アプローチ(multi-stratal approach)と、変換を用いず同一の構造内での計算によって構造を得るという単層的アプローチ(mono-stratal approach)という2つのタイプがある。チョムスキーのアプローチは前者に相当する。", "title": "多層的アプローチと単層的アプローチ" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "多層的アプローチで変換規則を用いる文法は少なく見積もってチョムスキー階層においてタイプ-2文法(文脈自由文法)より強力である。現実のコンピュータに対応するのは制限されたチューリングマシンである線状有界オートマトンであり、これが扱いうるのはタイプ-1文法(文脈依存文法)までである。実際に現在のコンピュータに変換規則を実装しようとすると、可能な組み合わせが指数関数的に増加し、組み合わせ的爆発(計算論的爆発)を起こす場合がある。そこで、1980年代前後より、コンピュータへの実装という観点でより現実的な、タイプ-2文法よりやや強力であるところに押さえた単層的アプローチとしての非変換論的生成文法が提案されている。中でも一般化句構造文法(GPSG)とその発展である主辞駆動句構造文法(HPSG)、TAG(Tree-Adjoining Grammar)などがコンピュータ科学においては変換論的生成文法よりも集中的に研究されている。", "title": "工学で用いられる生成文法" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "HPSG(主辞駆動句構造文法)はカール・ポラードとアイヴァン・サグが唱える生成文法の一種である。この理論は一般化句構造文法の直接の継承である。コンピュータ科学(データ型理論と知識表現)のような生成文法外の分野やフェルディナン・ド・ソシュールの記号の概念も採用している。並列処理を配慮した文法構成をしているため、自然言語処理の分野によく用いられる。HPSGの理論は原理群、文法規則群と通常は文法に属するとはみなされていないレクシコンから構成されている。形式化は語彙主義に基づいて行われる。このことはレクシコンが単なる語彙項目の羅列である、ということ以上のことを意味しており、レクシコン内部が豊かな構成を持っている。各語彙項目に階層構造を成す「タイプ」を立て記号を基本的なタイプとする。「語」はPHON (音声情報)とSYNSEM(統語情報と意味情報)という二つの素性を持ち、これらはさらに下位素性から構成される。記号と規則はタイプ付けされた素性構造として形式化される。HPSGの形式化に基づくさまざまな構文解析器(パーザ)が設計され、その最適化が最近研究されている。ドイツ語の文を解析するシステムの一例がブレーメン大学から公開されている。", "title": "工学で用いられる生成文法" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "木接合文法(Tree-adjoining grammar、TAG) は計算言語学や自然言語処理でよく用いられているアラヴィンド・ジョーシの案出した形式言語である。文脈自由文法に類似しているが、書き換えの基本単位は記号ではなく樹である。文脈自由文法はある記号を他の記号列に書き換える規則を持つが、TAGは樹の節点を他の樹に書き換える規則を立てる。(木 (数学)及びツリーデータ構造を参照)。TAGにおける規則(「補助樹; auxiliary trees」として知られる)は「脚節点; foot node」という特殊な節点を葉とする樹状図で表される。根の節点と脚節点は同じ記号でなければならない。「始発樹」(文脈自由文法の始発記号と同じ)から始まる。書き換え操作は補助樹を(典型的には葉ではない)節点に付加(接合)することによって実行される。補助樹の根/脚のラベルは付加する節点のラベルと一致し、この操作で付加対象となる節点を上下に分割する。上方では付加している樹の根と結合し、下方では付加している脚と結合する。これがTAGのもっとも基本となるものである;もっとも一般的なTAGの変異形ではさらに「代入」と呼ばれる書き換え操作が加えられるし、また他の変異形では樹に複数の脚節点を持つ部分樹やさらなる拡張を許している。TAGは、弱生成能力に関してそれ自体を文脈自由文法よりやや強力にするような一定の特徴を備えているが、チョムスキー階層に定義されている文脈依存文法よりは弱いために、よく「やや文脈依存的な」文法であると特徴付けられる。やや文脈依存的な文法は、一般的な場合においてパーザを効率的に保ったまま自然言語のモデル構築としては十分強力である、という予想が提示されている。", "title": "工学で用いられる生成文法" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "認知言語学の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、経験基盤主義的立場から批判している。", "title": "生成文法への批判" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "個別言語を記述する立場からは、生成文法が英語圏で理論化を始めた後、その理論に都合の良い(顕在主語不可欠の英語中心に)言語や言語データを恣意的に選択していると批判される。また、生成文法の扱う構文が極めて限定的で、個別言語の体系的記述にたどり着かないという批判がある。さらに、データとして扱われる文の許容度に対する内省判断が恣意的であるとする批判もある。ただし、これは研究者の立場がやや記述寄りであるか理論寄りであるかによっても若干傾向が異なる。前者の場合は文の許容度を根拠にある程度帰納的に理論を展開するが、後者は理論から演繹的に文の許容度を示す場合もあり、計算上は矛盾が無くとも一般的な言語直観からはかけ離れたデータが示される場合がある。", "title": "生成文法への批判" } ]
生成文法は、ノーム・チョムスキーの 『言語理論の論理構造』、 『文法の構造』といった著作や同時期の発表を契機として起こった言語学の理論である。
{{出典の明記|date=2012年1月}} {{言語学}} '''生成文法'''(せいせいぶんぽう、{{lang-en-short|generative grammar}})は、[[ノーム・チョムスキー]]の 『言語理論の論理構造』(''The Logical Structure of Linguistic Theory''、1955/1975)、 『文法の構造』(''Syntactic Structures''、1957)といった著作や同時期の発表を契機として起こった[[言語学]]の[[理論]]である。 == 概論 == チョムスキーの示したドグマ・ドクトリンとしては、[[脳]]の[[言語野]]に損傷を持たない[[人間]]は幼児期に触れる[[言語]]が何であるかにかかわらず驚くほどの短期間に[[言語獲得]]に成功するが、これは言語の初期状態である'''[[普遍文法]]'''({{lang-en-short|universal grammar, UG}})を生得的に備えているためであると考える。生成文法の目標は、定常状態としての[[個別言語]]の妥当な理論を構築し([[記述的妥当性]])、第一次言語獲得における個別言語の獲得が成功する源泉としての初期状態であるUGの特定とそこからの可能な遷移を明らかにする([[説明的妥当性]])ことである。そして言語を司る「器官」を[[心]]/[[脳]]のモジュールとし、言語学を[[心理学]]/[[生物学]]の下位領域とする。 しかし、以上のような考えが根底にはあるが、テクニカルには主として[[句構造規則]]からの「生成」([[数学]]における「[[生成 (数学)|生成]]」に由来しており、むしろ「定義」の意味に近い)による文法、[[句構造文法]]を主として言語(もっぱら[[自然言語]]だが、次に述べるように[[形式言語]]にも波及した)を扱うことを特徴とする言語学である。またチョムスキーによれば「生成」という語は明示的であるということを意味する(ただし、「生成」の意味には変化があるとして[[ジェームズ・マコーレー]]の批判がある。チョムスキーはそれを否定しており、変化は無いとしている)。 [[言語学]]的には[[自然言語]]を対象として広がった分野であるが、前述のテクニカルな面は[[形式言語]]との親和性もあり、「[[チョムスキー階層]]」などは「形式言語と[[オートマトン]]の理論」と呼ばれる数理の分野における基本概念となっている。 生成文法は[[音韻論]]、[[形態論]]、[[意味論 (言語学)|意味論]]、[[言語獲得]]など一般に扱うが[[統語論]]が主となっている。以下では[[統語論]]に話題を絞り、他の領域に関してはそれぞれ関連記事を参照されたい。 生成文法のうち、変換を含む言語理論は計算上非現実的として変換を含まない生成文法があり、区別して'''非変換(論的)生成文法'''ということがある。 == 生成文法の基本的考え方 == === 生成文法前史 === '''生成文法'''以前に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で主流であった[[言語学]]は[[構造主義言語学]]であった。ヨーロッパにおける[[構造主義]]言語学と区別して'''アメリカ構造主義'''と呼ばれることもある(ヨーロッパにおける構造主義言語学は、一般に[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]が祖とされ、いわゆる「近代言語学」とも。なお、単に「構造主義」で特にヨーロッパの側のほうを指すことも多い)。 アメリカ構造主義言語学は、与えられた音声データから一定の手続きに従って音韻論、形態論、統語論と記述を進めるというものであるが、音素や形態素の分類が行われれば一応の目的達成とされるものであった。これはヨーロッパの言語とは系統的に無関係で、ア・プリオリに分析の方法が与えられていない[[ネイティブ・アメリカン]]の言語を記述するための方法論として発展してきたことをひとつの大きな契機としている(詳細は[[構造主義言語学]]の記事を参照)。 関連事項として、当時の[[心理学]]は[[行動主義心理学]]の全盛期であり、人間の行動をすべて刺激とそれへの反応が一般化したものと捉え、直接観察可能でない心的現象行動についても観察可能な行動に還元する傾向にあったことがあげられる。心的現象に関わる意味論は心理学のこのような傾向に歩調を合わせる形で優先順位を後にされ、生成文法の萌芽期と時期的に重なる[[成分分析]]まで延期されていた。また、アメリカ構造主義は「科学的方法」を看板としていたが、[[科学哲学]]としては[[論理実証主義]]を背景として検証可能なもののみを言語学の対象としていたが、その対象を自ら狭め、また[[音素]]、[[形態素]]の認定に意味が果たす役割には無自覚であるか、あえて不問に付していた。 その結果、アメリカ構造主義においては多くの[[言語]]を対象としたデータの膨大な蓄積をもたらしたが、その一方で伝統的言語研究とは断絶状態となって多くの重要な設問は禁止された状態にあり、データの蓄積が言語に対する洞察を深めることにはならなかった。 === 生成文法以前の「生成文法」=== 生成文法は[[合理論]]に与し、アメリカ構造主義の[[経験論]]に対立する。生得的な知識に関しては古代ギリシアの哲学者プラトンの対話篇『[[メノン (対話篇)|メノン]]』に現れる数理的知識の議論がある。文法としては古代インドの[[パーニニ]]による文典が最古の「生成文法」とされる。チョムスキーが生成文法を'''デカルト的'''(cartesian)と冠していることからわかるように、[[ルネ・デカルト]]の思想は生成文法に大きな影響を与えている。また、アメリカ構造主義の重要な言語学者とされる[[レナード・ブルームフィールド]]、[[エドワード・サピア]]の研究に「生成文法」を先取りする考えが含まれており、また伝統的研究に属すると言える[[オットー・イェスペルセン]]の英語の分析は現在においても重要な影響を与え続けている。 === 言語能力と言語運用 === 非本質的な要因の関与を排除して[[理想化]]をほどこした、[[個別言語]]の話者の脳に内在する言語機能を'''言語能力'''と呼び、それを利用した、注意力・記憶力の限界、発話意図の変更、物理的制約などの要因の影響を受ける言語使用の側面を'''言語運用'''と呼んで区別した。言語能力と言語運用の区別はしばしば[[フェルディナン・ド・ソシュール|ソシュール]]の[[ラング]]と[[パロール]]の区別と対比されるが、これらは社会的側面と個人における実現という区別であり、全く異質なものである。 === 容認性と文法性 === 生成文法は、言語現象のあらゆる現われをデータとするが、そこで重要なのは[[母語話者]]の判断である。母語話者の判断は、その人が持つ言語の直観を反映するが、そこには様々な要因が組み合わさって現象する。その直観を反映した判断を[[容認性]]と呼ぶ。上で述べたような事情から、容認性判断は言語能力を直接反映したものとは言えない。研究の過程で非本質的な要因を除外していくと、最終的に目的としている[[文法]]にたどり着くと考えられる。この文法に照らし合わせた[[構造記述]]の適格性を[[:en:Grammaticality|文法性]]と呼ぶ。究極的には、真の文法が得られた場合に限り文法性の評価が可能となる。なお、言語学の慣用として、容認不可能なデータの前に'*'(アステリスク、星印)を、容認不可能とは言えないが許容度のかなり下がるデータの前に'?'を付すことになっている。 === 生成文法と言語獲得 === 生成文法は[[言語獲得]]を説明することも課題として掲げている。 乳幼児は第一次言語獲得において、生後半年ほどでまわりの大人の話す[[個別言語]]の[[弁別素性]](例えば[[音素]])を特定し、一年ほどで多くの音と意味の結びつきを覚える。さらに[[一語文]]の時期を経て二語以上の語からなる構造を持った発話を産出するころには、基本的な統語構造をほぼ獲得しているものと見られる。 言語獲得は生得的な初期状態であるUG([[普遍文法]])から定常状態である個別言語への遷移と理解され、生成文法は、[[自然言語]]であればどのような個別言語の状態へも遷移可能なだけ豊かで、第一次言語獲得が短期間になされること、自然言語としてあり得ない言語へと遷移できないことを保障するだけ十分に制限されたUGを特定することを課題の一つとする。この課題を達成する理論を[[説明的妥当性]]を備えた理論という。 生成文法以前には、生得的構造を仮定せずに[[類推]]によって言語は獲得されると考えられることも多かったが、類推の基礎になるデータがないにもかかわらず、自由に構造が生成されるという事実がある。これは[[プラトンの問題]]、言語獲得についての'''論理的な問題'''などと呼ばれる。また、幼児はどのようなものが正しいかという情報を得ることができないこと(否定証拠の欠如)も指摘される。 === 普遍文法の求め方 === [[説明的妥当性]]を持つ理論は初期状態である[[普遍文法]](UG)の性質を記述する。ではUGの性質を知るにはどのようにしたらよいのであろうか。以下は[[黒田成幸]]の説明に基づく。子供は、自分の周りの大人が話す[[個別言語]]''L''のデータを基にして、''L''を獲得する。その際の、データを入力として[[個別言語]]を出力とするものを[[言語獲得装置]](''l''anguage ''a''cquisition ''d''evice、LAD)ということがある。LADを[[関数 (数学)|関数]]とし、そこに入力されるデータを''l''とすると、言語獲得を次のように定式化することができる。 :<math> \operatorname{LAD} (l) = L</math> 例えば日本語(''J'')の獲得、英語(''E'')の獲得、アラビア語(''A'')の獲得、...、言語''L''nの獲得を次のように表すことができる: :<math> \operatorname{LAD} (j) = J</math> :<math> \operatorname{LAD} (e) = E</math> :<math> \operatorname{LAD} (a) = A</math> :<math>\dotsc</math> :<math> \operatorname{LAD} (l _ \operatorname{n}) = L _ \operatorname{n}</math> ここで、[[言語学者]]には言語獲得に決定的となる情報の総体(関数LADへの入力=データ)がどのようなものかを知ることはできない。しかし[[記述的妥当性]]を備えた[[文法]]は出力としての[[個別言語]]を知っている。このようなことから、言語獲得において関数LADとそれへの入力は未知であるが、その出力である個別言語を既知として[[連立方程式]]を立てることができ、LADはその連立方程式を解くことで求めることができる。LADは、UGの定数である原理と、変数であるパラメータ、及びパラメータの指定方法によって構成されると考えることができる。 == 変形生成文法の展開 == 生成文法は1950年代の発足当初から理論の積み重ねを経て今日に至っているが、その積み重ねは小さな修正の集積だけではなく、非常に大きな枠組みの変革も含まれている。巨視的に見ると、生成文法はこれまでに3度の大規模な理論的変革を経験している。概念的・思想的な側面では一貫しているが、議論を進める上での技術的な側面では非常に大きな変更がなされており、変革を期に生成文法の研究を離れる研究者が現れたり、また、変革が起こるたびに「一貫性のない理論である」という批判を受けるなどしてきた。こうした大幅な理論の変革は生成文法の特徴の一つとなっている。 しかし、新たに提示される枠組みは、以前の枠組みで説明されてきたものをメタ的に説明できるようになっており、道具立て自体は破棄されても、それまでの理論的蓄積はより一般化された形で説明される。つまり、生成文法では新たな理論がまったく恣意的に作り出されるのではなく、従来の理論をより一般化するように理論が発展してきている。 生成文法の枠組みの変革は以下のようにまとめられる *'''規則に基づく枠組み''': 言語を産出する規則を網羅する。言語記号列はすべて規則に基づいていて、誤った形は作り出されない。 *'''制約に基づく枠組み''': 誤った記号列を排除する制約を立てる。規則は存在せず、記号列は全く任意に組み合わされるが、その中で文法に適合しないものは排除される。 *'''動機に基づく枠組み''': 言語を形成する局所的な動機を明らかにする。記号は何も動機がなければ任意に組み合わさったり移動したりしないが、文法的な動機が与えられると局所的に組み合わされてゆき、全体で言語列を形成する。 この理論的変遷を歴史的に見ると以下のようになる。すなわち、当初は考えられる規則を網羅的に記述していたが、規則が増えるに従い体系が煩雑になったため、1970年代の終わりごろから1980年代の終わりにかけて、可能な規則を規定するメタ規則や誤った文を排除する制約が考えられた。これは'''原理とパラメターのアプローチ'''と呼ばれ、言語は普遍的な有限の原理と個別言語ごとに規定されたパラメターから成ると仮定されている。1980年代の終わりからは、言語を計算とみなし、経済性や最適性に着目した'''極小主義プログラム'''(ミニマリスト・プログラム)が提唱された。 === 句構造規則と変形規則 === チョムスキーの著書『文法理論の諸相』(''Syntactic Structures''、''SS''、[[1965年]])では、アメリカ構造主義言語学の[[IC分析]]と呼ばれる[[文]]の分析方法が[[句構造規則]]によって改めて捉えなおされた。 例えば、 A girl liked a boy. という文には [<sub>S</sub>[<sub>NP</sub>[<sub>D</sub> '''a'''][<sub>N</sub> '''girl'''<nowiki>]]</nowiki>[<sub>VP</sub>[<sub>V</sub> '''liked'''][<sub>NP</sub>[<sub>D</sub> '''a'''][<sub>N</sub> '''boy'''<nowiki>]]]]</nowiki> という分析が与えられ、次のような、連続し順序付けられた[[構成素]]に分析していく[[書き換え規則]]によって導出される。括弧()で括られた要素は任意要素である。'^'は範疇の結合を表すものとする。句構造規則は[[順序付け]]がなされていない。 S → NP^VP VP → V^NP NP → (D^)N V → {liked, ...} N → {girl, boy, ...} D → {a, the, my, some, every, ...} [[個別言語]]はSの集合と見なされる。Sは[[文]](sentence)を示唆しており、[[句構造]]の派生の端緒となるため[[始発記号]]と呼ばれる。NPは名詞句(noun phrase)、VPは動詞句(verb phrase)、Nは[[名詞]](noun)、Vは[[動詞]](verb)である。Detは[[限定詞]](determiner)と呼ばれ、伝統文法でいう[[冠詞]]のほか、my, some, everyなどの要素を含む。終端記号は'a', 'girl', 'boy', 'liked'のような[[語彙項目]]である。 [[書き換え規則]]の適用は[[終端記号]]にたどり着くまで再帰的に適用される。句構造の派生は[[非終端記号]]のみからなる記号列、非終端記号と終端記号非終端記号からなる記号列、終端記号のみ非終端記号のみからなる記号列となり、上の文の派生を集合論的に示すと {'''S''',NP^VP,NP^V^NP,D^N^VP,D^N^V^NP,D^N^V^D^N, D^girl^VP,a^N^VP,a^girl^VP,NP^liked^NP,a^N^liked^NP,D^girl^liked^NP,NP^V^D^N,NP^like^D^N, NP^V^a^N,NP^V^D^boy,NP^like^a^N,NP^like^D^boy,NP^like^a^boy,a^N^V^D^N,a^girl^V^D^N, a^N^liked^D^N,a^N^V^a^N,a^N^V^D^boy,D^girl^liked^D^N,D^girl^V^a^N,D^girl^V^D^boy, D^girl^V^D^N,D^N^liked^D^N,D^N^liked^a^N,D^N^liked^D^boy,D^N^V^a^N,D^N^V^a^boy,D^N^V^D^boy, a^girl^liked^D^N,a^girl^V^a^N,a^girl^V^D^boy,D^girl^liked^D^N,D^girl^like^a^N, D^girl^liked^D^boy,a^girl^liked^a^N,a^girl^liked^D^boy,D^N^V^a^N,D^N^V^D^boy, '''a^girl^liked^a^boy'''} となる。 [[再帰性]]はしばしば人間言語のもっとも根本的な性質として挙げられる。 ところで、''SS''ではこのように[[句構造規則]]を定式化した後、このようなタイプの規則だけでは派生できない構造が指摘された。そのような構造を派生するために、新たに導入されたタイプの規則が変換規則である。変換規則の例として受動変換がある。受動変換はおおむね次のように述べられる: ''Passivization'' NP-V-NP 1 - 2 - 3 → 3 - be+en - 2 (- by 1) 矢印の前の部分を'''構造分析'''、後の部分を[[構造変化 (言語学)|構造変化]]という。構造分析は変換に関わる要素だけが示される。その要素以外の部分(-で示される部分)にも様々な要素が存在するので、構造分析は連続しない要素同士の関係に言及している。変換によってもたらされた構造は[[非連続構成素]] (discontinuous constituent) を含んでいる。このような構造は文脈自由文法では導けないとされる。またこの点を無視したとしても、能動文と、それに対応する受動文をそれぞれ別の句構造規則によって導出することにした場合、重要な一般性を失うことになる。これら二つの問題を解決する装置として導入されたのが変換規則である。なお変換規則を含む文法はチョムスキー階層におけるタイプ-2文法([[文脈自由文法]])より強力でなければならない。しかしながら、変換規則なしには[[自然言語]]を記述できないとされた。 上の例に受動化変換を適用すると次のようになる。 a girl +PAST like a boy → a boy +PAST be +en like by a girl これに次のような接辞を動詞に添加する変換が適用される: ''Affix Hopping'' X-Affix-V-Y 1 - 2 - 3 - 4 → 1 - 3+2 - 4 a boy +PAST be+en like by a girl → a boy be+PAST like+en by a girl これが音韻部門への出力となり、「be+PAST」は/waz/、「like+en」は/lîke+d/という基底構造に写像される。 === 標準理論 === '''標準理論'''はチョムスキーの『文法理論の諸相』において、''SS''以降の発展が整理された理論である。[[カッツ-ポスタルの仮説]]に基づき、意味は句構造規則で生成された'''深層構造'''と呼ばれる表示からのみ解釈され、この深層構造に受動化変形などの変形規則を適用して'''表層構造'''が与えられ、この表示が音声への出力となる。すなわち、'''変形規則で文の意味は変わらない'''とされた。 <pre> 辞書 | 句構造規則 意味表示 ←→ 深層構造 | 変形規則 音声表示 ←→ 表層構造 </pre> === 原理とパラメターのアプローチ === 標準理論までの研究では[[記述的妥当性]]の達成が当面の課題とされ、その過程で様々な[[変形規則]]が提案された。この時期までは伝統文法との親和性も高かったと言える。しかし、いくつかの点で大幅な転換が必要となっていった。 まず、変形規則の適用を受けた表示で意味解釈をすると考えなければならない現象が出てきたことが上げられる。このような経験的基盤から[[カッツ-ポスタルの仮説]]は棄却された。 また、無制限に変形規則が提案される中で、その中に一般性が見出されるものがあること、あり得る変形規則というのは極めて制限されていることなどがわかってきた。[[Xバー理論]]はこのような流れの中で提案された理論である。例えばNP([[名詞句]])は必ずそのhead([[主要部]])としてNを含み、VP([[動詞句]])はVを含むといった内心構造に注目し、任意の範疇Xは中間投射X'を経てXPに投射される、という次のようなスキーマにまとめ、[[句構造規則]]の中の一般性を抽出した。 XP → (YP) X' X' → X (ZP) それと同時に、'the enemy's destruction of the city' というNPを 'The enemy destroyed the city' というSから派生する変形規則は[[語彙論者の仮説]]に基づいて棄却しながらそれらの構造のある共通性を捉えることができるようにした。1980年代後半になると、句構造規則を完全に一般化し、文を[[補部#補部の数と種類|補文標識]] Comp(lementizer) を主要部とする投射とし、その補部には[[接辞|屈折辞]] Infl(exion) を主要部とする投射があり、名詞句も D(eterminer) を主要部とする投射と考えられるようになった。上に挙げた構造はXバー理論の一般化によって次のような構造に捉えなおされる: [<sub>CP</sub> Comp<sup>0</sup> [<sub>IP</sub>[<sub>DP</sub>[<sub>D</sub> '''a''' ][<sub>NP</sub> '''girl'''<nowiki>]][</nowiki><sub>I'</sub> Infl<sup>0</sup> [<sub>VP</sub>[<sub>V</sub> '''liked''' ][<sub>DP</sub>[<sub>D</sub> '''a''' ][<sub>NP</sub> '''boy''' <nowiki>]]]]]]</nowiki> {{仮リンク|痕跡理論|en|Trace theory}}も、可能な[[変形規則]]を制限する方向を進めていった。この帰結として変形規則は、任意の要素を任意の位置へ移動させる''Move α''(αを移動せよ)というただ一つの変形規則に収斂した。例として''wh''移動を取り上げて考えてみよう。次の構造ではCompが極めて近い(局所的)位置である指定部(SPEC(ifier))が''wh''要素に占められていることを必要とする。しかし''wh''要素は要求された位置ではなく、平叙文で動詞に要求される位置と同じ位置に留まっている。 *[<sub>CP</sub> SPEC [<sub>C'</sub> Comp<sup>0</sup>[+wh] ... ''wh'' ... この構造は不適格となる。それを避けるためには''wh''要素がCompのSPECの位置に移動すればよい。この際、''wh''要素があった位置には痕跡(''t'')が残され、この痕跡が動詞との関係を満たす。 [<sub>CP</sub> ''wh''<sub>i</sub> [<sub>C'</sub> Comp<sup>0</sup>[+wh] ... ''t''<sub>i</sub> ... ただし、必要に応じてつねに移動できる、というわけではなく、[[境界理論]]によって制限される。次の例は移動によって[+wh]Compが要求する位置を占めているものの、移動が別の''wh''要素を越えて適用されている。''wh''要素は[[''wh''島]]という規則適用に対する不透明領域(opaque domain)を形成するため、このような規則適用は適格性の度合いを低くする: <sup>??</sup>[<sub>CP</sub> ''wh''<sub>i</sub> [<sub>C'</sub> Comp<sup>0</sup>[+wh] ...[<sub>CP</sub> '''wh''' [<sub>C'</sub> Comp<sup>0</sup>[+wh] ... ''t''<sub>i</sub> ... このような枠組みでは、「''wh''移動」という変換規則を立ててその性質を詳しく述べるのではなく、 ''Move α'' が必要に応じて、かつ様々な制限に抵触しないように適用される、というように捉えなおされる。 このような進展に伴い、[[説明的妥当性]]を満たす理論の構築が研究課題として浮上してきた。ここに説明的妥当性、すなわち第一次言語獲得における重要な事実を捉えられるだけ十分に制限された理論が必要であるという要請と、[[記述的妥当性]]、すなわちそれまでの研究で明らかになった[[個別言語]]の多様性を捉えるに足る変異幅を持った理論が必要であるという要請の間に強い緊張関係が生まれた。これを捉えようとして[[1970年代]]末以降整備されてきた枠組みが{{仮リンク|統率・束縛理論|en|Government and binding theory}}(<abbr title="Government and binding">GB</abbr>理論)であり、より一般的には[[原理とパラメターのアプローチ]]である。 GB理論における文法の構成は次のような図式で示される。 <pre> 辞書 | 語彙挿入 D構造 | ''Move α'' S構造 <---> PF ( form) | ''Move α'' LF(logical form) </pre> 表層構造が、PFと呼ばれる音声表示とLFと呼ばれる意味表示に結びついている、というモデルに変更された。また[[深層心理]]などの連想で誤解を呼んだ深層構造・表層構造といった用語が避けられ、位置づけの変更に伴ってD構造、S構造という名称が与えられた。この枠組みにおいて統語論における[[比較]]研究、[[対照]]研究が加速した。 === ミニマリスト・プログラム === '''ミニマリスト・プログラム'''(極小主義プログラム、最小主義プログラムともいう)は、原理とパラメターのアプローチの中でチョムスキーの1980年代末の講義及び論文から徐々に形成されていった研究の方針である。「極小主義者のテーゼ」(自然法則は無駄がない)に照らし合わせ、言語機能独自の装置と考えられるものを限りなくそぎ落としていき、必要最低限のものしか残さなかった場合、言語とはどのようなものになるか、ということを考えようという問題意識である。 まず音声の聴覚像、手話の視覚像、意味の三者をなくすと研究が不可能になるため、感覚-運動系と概念-意図系へのインターフェースに関わる条件は最低限必要である。これ以外に何が必要か。計算対象となる要素同士を結合する操作(併合)は必要であるが、それ以外はどうしても必要だという根拠がないかぎり採用しない、という原則をとる。 さらに従来から理論の「評価尺度」として取り入れられていた「[[経済性]]」の概念を明確化し、それが言語のどのような側面にどのように関わるか、ということを考察対象とする。また、計算の「[[最適性]]」ということも明確な問題とされ、その性質が考察されている。 このような流れの中で、「最適な言語のデザイン」という考え方が生まれ、これを[[帰無仮説]]として、決定的な経験的基盤なしにはいかなる装置も棄却されるようになった。 このようなプログラム遂行の中で今まで用いていた概念が大部分省略されることになった。例えば[[Xバー理論]]は余分な[[句構造標識]]を記法として含んでいたが、主要部の選択関係と句構造構築の経過だけ見れば十分という素句構造(bare phrase structure)のもと、[[表示]]の経済性という観点から、余剰的となったXP、X'といった投射を表すための記号はすべて取り除かれた。また「統率」「束縛」というGB理論を特徴付けていた概念も、徹底的な検証によって別のものに置き換えられるか、取り除かれるかされている。 [[レクシコン]]と統語部門のインターフェイスとして派生の端緒を成していたD構造も解体され、派生の端緒としてはかつてのサイクルに相当する[[フェーズ|フェイズ]](相)毎に語彙の小分けがなされたLA(語彙配列)、あるいはそれを行わないニューマレーションに置き換えられた。 このような問題意識の中で[[説明的妥当性]]ということに初めて着手できるようになったとされる。そしてこのことは言語の計算体系を他の[[認知]]体系や[[生物学]]的特性の中に位置づけうる見通しが立ちはじめている。 === 生成意味論と言語学戦争 === 1970年代までには、意味部門に変形規則を適用して直接表層構造に写像する[[生成意味論]]の研究が展開された。この理論は統語論で扱うべき対象を数多く供給したが、[[解釈意味論]]との間に激しい論争があり、その後消失した([[言語学戦争]]と呼ばれている)。かつて解釈意味論が優れた理論だったため生成意味論は棄却された、との見方があったが、ハリスやゴールドスミスなどの研究によってこの見方は否定されている。生成意味論の研究者の一人である[[ジョージ・レイコフ]]は[[認知言語学]]を提案し、生成文法を批判する最大の勢力となっている。 生成文法は他のいくつかの理論と対立してきた。生成意味論との論争はその最大のものである。しかし、対立した理論を常に完全に否定するわけではなく、対峙する理論の優れた点を自己の理論に取り込むということもしばしば行われている。たとえば、原理とパラメターのアプローチにおける原理の一つであるθ理論は、フィルモアの提示する[[格文法]]における深層格(意味役割)を参考にしている。また、ミニマリスト・プログラムにおいて、ますます重要性を増すLFも、その元となるアイディアは生成意味論が多く寄与している。その他、併合と素句構造は範疇文法やHPSGに見られる単一化(unification)に相当する。 == 多層的アプローチと単層的アプローチ == 生成文法には、基底となる構造に対して変換を用いて表層的な構造を得るという多層的アプローチ(multi-stratal approach)と、変換を用いず同一の構造内での計算によって構造を得るという単層的アプローチ(mono-stratal approach)という2つのタイプがある。チョムスキーのアプローチは前者に相当する。 == 工学で用いられる生成文法 == 多層的アプローチで変換規則を用いる文法は少なく見積もってチョムスキー階層においてタイプ-2文法([[文脈自由文法]])より強力である。現実の[[コンピュータ]]に対応するのは制限された[[チューリングマシン]]である線状有界オートマトンであり、これが扱いうるのはタイプ-1文法([[文脈依存文法]])までである。実際に現在のコンピュータに変換規則を実装しようとすると、可能な組み合わせが指数関数的に増加し、組み合わせ的爆発(計算論的爆発)を起こす場合がある。そこで、[[1980年代]]前後より、[[コンピュータ]]への実装という観点でより現実的な、タイプ-2文法よりやや強力であるところに押さえた単層的アプローチとしての非変換論的生成文法が提案されている。中でも[[一般化句構造文法]](GPSG)とその発展である主辞駆動句構造文法([[HPSG]])、TAG(Tree-Adjoining Grammar)などが[[コンピュータ科学]]においては変換論的生成文法よりも集中的に研究されている。 === HPSG === <!--英語版からの訳出--> HPSG([[主辞駆動句構造文法]])は[[カール・ポラード]]と[[アイヴァン・サグ]]が唱える生成文法の一種である。この理論は[[一般化句構造文法]]の直接の継承である。[[コンピュータ科学]]([[型システム|データ型理論]]と[[知識表現]])のような生成文法外の分野や[[フェルディナン・ド・ソシュール]]の記号の概念も採用している。[[並列処理]]を配慮した文法構成をしているため、[[自然言語処理]]の分野によく用いられる。HPSGの理論は原理群、文法規則群と通常は文法に属するとはみなされていない[[レクシコン]]から構成されている。形式化は[[語彙主義]]に基づいて行われる。このことはレクシコンが単なる語彙項目の羅列である、ということ以上のことを意味しており、レクシコン内部が豊かな構成を持っている。各語彙項目に階層構造を成す「タイプ」を立て[[言語記号|記号]]を基本的なタイプとする。「語」は''PHON'' (音声情報)と''SYNSEM''(統語情報と意味情報)という二つの素性を持ち、これらはさらに下位素性から構成される。記号と規則はタイプ付けされた素性構造として形式化される。HPSGの形式化に基づくさまざまな[[構文解析器]](パーザ)が設計され、その最適化が最近研究されている。[[ドイツ語]]の文を解析するシステムの一例がブレーメン大学から公開されている<ref>[https://hpsg.hu-berlin.de/~stefan/Babel/Interaktiv/ The Babel-System: HPSG Interactive]</ref>。 === TAG === <!--英語版からの訳出--> [[木接合文法]]('''Tree-adjoining grammar'''、TAG) は[[計算言語学]]や[[自然言語処理]]でよく用いられている[[アラヴィンド・ジョーシ]]の案出した[[形式言語]]である。[[文脈自由文法]]に類似しているが、書き換えの基本単位は記号ではなく樹である。文脈自由文法はある記号を他の記号列に書き換える規則を持つが、TAGは樹の[[節点 (言語学)|節点]]を他の樹に書き換える規則を立てる。([[木 (数学)]]及び[[木構造 (データ構造)|ツリーデータ構造]]を参照)。TAGにおける規則(「補助樹; auxiliary trees」として知られる)は「脚節点; foot node」という特殊な節点を葉とする樹状図で表される。根の節点と脚節点は同じ記号でなければならない。「始発樹」(文脈自由文法の始発記号と同じ)から始まる。書き換え操作は補助樹を(典型的には葉ではない)節点に付加(接合)することによって実行される。補助樹の根/脚のラベルは付加する節点のラベルと一致し、この操作で付加対象となる節点を上下に分割する。上方では付加している樹の根と結合し、下方では付加している脚と結合する。これがTAGのもっとも基本となるものである;もっとも一般的なTAGの変異形ではさらに「代入」と呼ばれる書き換え操作が加えられるし、また他の変異形では樹に複数の脚節点を持つ部分樹やさらなる拡張を許している。TAGは、[[弱生成能力]]に関してそれ自体を文脈自由文法よりやや強力にするような一定の特徴を備えているが、チョムスキー階層に定義されている文脈依存文法よりは弱いために、よく「やや文脈依存的な」文法であると特徴付けられる。やや文脈依存的な文法は、一般的な場合においてパーザを効率的に保ったまま[[自然言語]]のモデル構築としては十分強力である、という予想が提示されている。 == 生成文法への批判 == === 言語機能の自律性と生得性に対する批判 === [[認知言語学]]の分野から、比喩を含む語用論的な現象や他の様々な要因が、統語現象に大きな影響を及ぼしているとして、言語の自律性の仮説に批判がなされている。言語現象を、人間のあらゆる知的活動との関係の中で捉えるべきである、としている。また認知言語学は、生成文法の合理論についても、[[経験基盤主義]]的立場から批判している。 === 扱う言語データへの批判 === 個別言語を記述する立場からは、生成文法が英語圏で理論化を始めた後、その理論に都合の良い(顕在主語不可欠の英語中心に)言語や言語データを恣意的に選択していると批判される。また、生成文法の扱う構文が極めて限定的で、個別言語の体系的記述にたどり着かないという批判がある。さらに、データとして扱われる文の許容度に対する内省判断が恣意的であるとする批判もある。ただし、これは研究者の立場がやや記述寄りであるか理論寄りであるかによっても若干傾向が異なる。前者の場合は文の許容度を根拠にある程度帰納的に理論を展開するが、後者は理論から演繹的に文の許容度を示す場合もあり、計算上は矛盾が無くとも一般的な言語直観からはかけ離れたデータが示される場合がある。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[ノーム・チョムスキー]] * [[マイケル・トマセロ]] * [[句構造文法]] * [[句構造規則]] * [[Xバー理論]] * [[構成素]] * [[格文法]] * [[構造主義]] * [[認知言語学]] * [[形式言語]] * [[自然言語処理]] * [[言語獲得]] * [[最適性理論]] == 外部リンク == * [https://www.youtube.com/watch?v=e-2b3oIKTgc 言語学も同期する中心から周辺へ] - YouTube【井上逸兵・堀田隆一英語学言語学チャンネル #89 】チョムスキーの方法にちょっとだけ言及 {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいせいふんほう}} [[Category:生成文法|*]] [[Category:文法フレームワーク]] [[Category:言語学]] [[Category:ミニマリズム]] [[Category:心理学]] [[Category:言語理論]]
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映画監督一覧(えいがかんとくいちらん)は、著名な映画監督の一覧である(配列はファミリー・ネームの五十音順)。 あ行 - か行 - さ行 - た行 - な行 - は行 - ま行 - や行 - ら行 - わ行 - 関連項目
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映画監督一覧(えいがかんとくいちらん)は、著名な映画監督の一覧である(配列はファミリー・ネームの五十音順)。 日本の映画監督一覧 あ行 - か行 - さ行 - た行 - な行 - は行 - ま行 - や行 - ら行 - わ行 - 関連項目
{{Pathnav|映画|映画の一覧|frame=1}} '''映画監督一覧'''(えいがかんとくいちらん)は、著名な[[映画監督]]の一覧である(配列は[[姓|ファミリー・ネーム]]の五十音順)。 *[[日本の映画監督一覧]] __NOTOC__ [[#あ行|あ行]] - [[#か行|か行]] - [[#さ行|さ行]] - [[#た行|た行]] - [[#な行|な行]] - [[#は行|は行]] - [[#ま行|ま行]] - [[#や行|や行]] - [[#ら行|ら行]] - [[#わ行|わ行]] - [[#関連項目|関連項目]] ==あ行== *[[ジリアン・アームストロング]] - オーストラリア *[[ジェームズ・アイヴォリー]] - アメリカ合衆国 *[[ビレ・アウグスト]] - デンマーク *[[オリヴィエ・アサヤス]] - フランス *[[ハル・アシュビー]] - アメリカ合衆国 *[[イヴァン・アタル]] - フランス *[[リチャード・アッテンボロー]] - イギリス *[[ケン・アナキン]] - イギリス *[[ジャン=ジャック・アノー]] - フランス *[[テンギズ・アブラゼ]] - グルジア *[[アレハンドロ・アメナーバル]] - スペイン *[[マイケル・アプテッド]] - イギリス *[[アーシア・アルジェント]] - イタリア *[[ダリオ・アルジェント]] - イタリア *[[ロバート・アルトマン]] - アメリカ合衆国 *[[ロバート・アルドリッチ]] - アメリカ合衆国 *[[ペドロ・アルモドバル]] - スペイン *[[ウディ・アレン]] - アメリカ合衆国 *[[ダーレン・アロノフスキー]] - アメリカ合衆国 *[[テオ・アンゲロプロス]] - ギリシア *[[ウェス・アンダーソン]] - アメリカ合衆国 *[[リンゼイ・アンダーソン]] - イギリス *[[ポール・トーマス・アンダーソン]] - アメリカ合衆国 *[[ミケランジェロ・アントニオーニ]] - イタリア *[[クリント・イーストウッド]] - アメリカ合衆国 *[[ピーター・イェーツ]] - イギリス *[[アレックス・デ・ラ・イグレシア]] - スペイン *[[アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ]] - メキシコ *[[アニエス・ヴァルダ]] - フランス *[[ジャン・ヴィゴ]] - 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化学
化学(かがく、英語: chemistry ケミストリー、羅語:chemia ケーミア)とは、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する、自然科学の一部門。物質が、何から、どのような構造で出来ているか、どんな特徴や性質を持っているか、そして相互作用や反応によってどのように、何に変化するか、を研究するとも言い換えられる。 日本語では同音異義の「科学」(英: science)との混同をさけるため、化学を湯桶読みして「ばけがく」とよぶこともある。 化学は、自然科学の一部門であり、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する部門である。(少し異なった角度からの表現を紹介すると、)化学とは、物質についての学問(「物質の学問」)であり、(自然科学は自然に階層構造を見出すが)化学は自然の階層 の中で言えば、原子や分子という階層を受け持っている 、と筑波大学の齋藤一弥は説明した。日本の諸大学の化学科のHPなどでの解説も紹介すると、たとえば富山大学のHPでは、「化学とは、物質の性質を原子や分子のレベルで解明し、化学反応を用いて新しい物質(系)を作り出すことを設計、追求する学問分野である」、と説明されている。 筑波大のサイトによると、化学という学問を定義づけすることは難しく、それを無理に規定する意義もあまりない。化学は「理学」に含まれるが、数学・物理学あるいは生物学などの、自然科学の中で基礎科学または純粋科学にあたる他の「理学」と化学の相違点は、化学は有限な元素が組み合わさった無数の物質がもつ多様性を取扱い、さらに化学そのものが新たに物質を創造する役割を担う、という点である。 ・ 。化学という学問領域が取り扱う物質は、特に化学物質が中心となる。化学物質は原子・分子・イオンなどが複雑に絡み合いながら作られるため膨大な種類にわたり、その全てを含む壮大な物質世界・生命世界が対象となる。それゆえ化学は、基盤科学と定義づけられる。物質を分子やその集合体の大きさ単位で扱う化学は基礎的であるがゆえに、関連する学問は、理学や工学から医学・薬学、農業・環境分野など多岐にわたる上、特に近年にバイオテクノロジーやエレクトロニクス、新素材や高機能材料など現代科学の最先端技術に新物質や設計・製造の新手段を発明する上で欠かせないものとなっている。 原則的に近年の化学では、全ての物質が原子からできているとの仮説(あるいはフレームワーク)を採用し、物質の性質は原子自体の状態や、原子同士の結びつきかた(化学結合)で決定されると考える。したがって、繰り返しになるが、基本的に現代の化学は、原子・分子レベルでの物質の構造や性質を解明して、また新しい物質や反応を構築して、「物質とはなにか」に関する知見を積み上げる学問である。 化学は典型的な蓄積型の学問である。取り扱う物質の種類は増える一方で、1980年代には600万種を越え、しかも年平均1000種が追加されていた。これらは基本的に減ることは無いため、それに関する情報は増加の一途をたどる。数世紀前の実験で得られた基礎的なデータですら(間違いでない限り)重要性を失わない。同様に古典的な方法論も最新の量子論的手法と同じくらい高い価値を持つ。 しかしながら、学問としての化学の成立は遅い。数学、物理学、天文学などが2000年前の古代ギリシアで構築され始めたのに対し、科学の一分野として扱うことができる近代的化学のほうは、18世紀末にフランスのアントワーヌ・ラヴォアジエ(1743年 - 1794年)の質量保存の法則(1774年発見)やジョン・ドルトン(1766年 - 1844年)の原子説が正しい方向付けをした事に始まってから、まだ200年程度しか経過していない(#歴史、化学の歴史も参照)。これは近代物理学の最初の到達点であるニュートン力学がプリンキピアに書かれた年(1687年)と比べ、化学の興隆が100年程度時代が下ることを意味する。 その短い歴史の中で、化学は大きな末広がりの構造を持つに至った。化学の基礎的な部分はほとんど固められ、根底から転換がなされる余地はほとんど無い。ところが、物質に対する理解が進み、応用が広がる中で化学が担う役割はほとんど全ての生産・製造に深く関わるようになった。さらに、弱い相互作用を重視した新しい物質像の構築や、自然との調和を実現するための環境化学など、近年になって化学はさらに広がりを見せつつある。 化学では、物質の基本単位を原子として、その原子が持つさまざまな性質を抽象的概念である「元素」として把握する。原子論が確立した現代では、その特徴を理論的に掴む上で、原子核(陽子・中性子)および電子までの原子の構造から原子番号、質量数、電気素量、イオン、同位体などを決定し取扱い、各元素が持つ性質を理解する。 原子が持つ周期的性質(周期律)は初期の化学が発見した一大成果である。この物理的性質の近似を生む要因である電子配置から、各元素のイオン化エネルギー、電気陰性度、酸化数、原子半径やイオン半径などの特徴が理論づけられる。この周期律を簡略な表にまとめた周期表は化学のバイブルとまで呼ばれる。 元素の性質を記述することは、化学の中でも量子力学と統計力学が取り扱う。周期律は、量子力学の成立をもって初めてその本質が明瞭になった。原子内の電子配置はボーアの原子模型では限界があるので、波動力学のパウリの排他原理や波動関数、そして電子のエネルギー準位で説明される。統計力学は、物質の状態(三態)や性質などを巨視的に理解する上で必須の方法論を提供し、実験の結果をもたらす上で大きな役割を持つ。 物質は原子から構成されるが、その原子が結びついて分子をつくる。この結び付きを化学結合と呼び、これを理解することで化学は発展してきた。 19世紀以前、原子間の結びつきは化学反応を説明するために考えられた。基礎的な概念に当たる化学親和力や、続く電気化学的二元論や原子価説が提唱されたが、それでも一部の結合しない原子の組み合わせを説明できなかった。20世紀に入りドイツのヴァルター・コッセル(en)がイオン結合を理論化し、それでも解釈不能な水素分子など無極性分子の説明にアメリカのギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアがそれぞれ独立に共有結合の概念を提案した。量子力学は分子構造論も深化させ、二原子分子の安定を説明した交換相互作用、分子軌道や原子軌道を明らかにした波動関数、金属結合の実際を自由電子モデルから進めたバンド理論などをもたらした。 分子は、その物質が持つ特性を維持したまま分割できる最小の単位と言える。静電気力で結合するイオン結合には方向性が無いが、共有結合は異方性がある。簡単な共有結合分子は原子価殻電子対反発則で説明され、これに電子軌道の考え方を加えれば、分子やイオンの構造についての理論的根拠になる。 その一方で、同じ種類と数の元素が組み合わさった分子でも、その構造で物性に差があることが判明している。不斉炭素原子と共有結合する4つの原子団が結合する位置の違いから生じる光学異性体や立体異性体や、また炭素などの二重結合部分が回転しないために生じる幾何異性体などは、同一の構造式でありながら異なる性質を持つ分子となる。ベンゼン環に結合する置換基の位置(オルトなど)による位置異性体も一例に当たる。エタン類など回転が可能な分子においても、立体障害などによる特性の差異は生じる。さらに近年では知恵の輪のようなカテナンやサッカーボールもどきのフラーレンなど、風変わりな構造を持つ分子も発見されている。 原子や分子がある程度の量あつまると、特徴的な性質をもった集団を形成する。これを相といい、大きく分けて固体、液体、気体(物質の三態)などがある。閉鎖系において物質がこれらの相を取るには温度と圧力が影響し、相律という法則に則った状態を取る。これは物質ごとに相図というグラフで示される。 気体は反応に乏しく、体積や圧力など物理的性質や変化などを中心に扱う。しかしそれらのマクロ的なふるまいは、気体では分子が単独で存在する、というミクロな分子の構造や性質に由来する。なお、気体が電離した状態であるプラズマについても、プラズマ化学という分野で取り扱う。 液体は分子間力の点から気体と固体の中間にある。加熱や冷却によって気化・蒸発や凝固など相の変換を起こす。これは化学における重要な物質生成手段である蒸留にかかわる。また、2つ以上の成分でできた液体、溶液に関して化学では、溶媒と溶質による分散系の性質、浸透圧や粘性また表面張力・界面張力なども扱う。 固体は基本的に原子が規則的に配列する結晶質と、規則性に乏しく固体と液体の中間とも言えるアモルファス(非晶質)に分けられる。結晶質は複数の結晶構造いずれかを取り、その性質を特徴づける。また、粒子の種類や力から分類される結晶には、金属結晶・イオン結晶・分子結晶・共有結晶などがある。結晶構造を持ちながら液相的性質を持つ物質は液晶と呼ばれ、一部にベンゼン環のような平面の構造を持つ共通点がある。 複数の物質に混合・必要があれば加熱・冷却などの操作を加えると、異なる化合物ができる。これを化学反応と呼ぶ。化学反応は物質を構成する原子間の化学結合の変化によって起きる。化学反応の前後では全体の質量は変わらない。これを質量保存の法則(あるいは物質不変の法則)という。化学反応は、自然界において基本的には、ある種の自由エネルギーを最小化するほうへ向かって、エネルギーが低い位置へ向かう発熱反応と、より乱雑になろうとするエントロピーの増大という相反する反応を起こしながら、平衡に達する。化学では、これら反応の法則性や利用法の解明が課題となる。 水溶液の性質を知る手段として体系づけが始まった酸と塩基(塩が加水分解したもの)の関係は、化学では重要な項目となる。主に水に溶ける物質の性質分類が行われ、水溶液以外の状態も考慮して、 と定義される。この2つは重要な化合物の組である。互いに相反し中和反応を起こさせながら化学平衡し、水素イオン指数など溶液の性質を決める。 燃焼や金属製錬および腐食などの本質は酸化と還元で説明される。酸と塩基が反応の窓口となる電子対が原子と一体になっているのに対し、酸化と還元は電子が単独で動き反応を起こす。そのため、酸化還元は電圧と密接に関係し、電流を生じさせる機構の基本的な原理に当たる。還元の代表的な用途は卑金属の精製であり、酸化は生化学において重要なクエン酸回路に見られる。 化学合成は、単純な物質から化学反応を用いて複雑な、または特定の機能を持つ物質を生成することを指す。分子量の小さな物質をつなぎ合わせて高分子を作る化学合成の代表例には重合反応がある。これは化学工業の主要なプロセスである。機能を持たせる化学合成の例は医薬品製造やナノテクノロジーなどである。このような製造に関わる化学合成では、適切な製品を効率良く作り出すことが求められ、化学の分野としては触媒や不斉合成などが研究される。 化学には、研究手法や対象とする物質の違いによって多くの分野が存在する。しかし、各分野間には関連領域が存在するため明確に区別することは難しい。以下に例として代表的なものを挙げる。 上にあげた化学の各分野を、取り扱う対象で分類する。本項は、特に脚注がある部分を除き、筑波大学数理物質科学研究科教授・齋藤一弥の分類を出典とする。 原子核を中心に、原子核反応やそれによって合成される新元素およびその性質を取り扱う分野が核化学や放射化学であり、特に後者では放射能の測定において分析化学的な方法も利用される。 単体の分子を取り扱う分野では、量子力学や計算科学の理論および測定を用いる量子化学や、光を調査の手段に用いる物理化学の領域に含まれる分子分光学があり、無機・有機の両方を含み化合物を扱う合成化学もこの範疇に入る部分が多い。 化学反応を研究する分野には、反応機構を取り扱う化学反応論、反応速度をコントロールする手法を研究することを目的とした触媒化学などがある。合成化学では、反応機構を研究したり、新しい化学反応を創造する分野はここに含まれる。化学熱力学も反応における平衡や熱を扱う。 分子の集まりを扱う分野は、その全体構造や分子の運動について研究する構造化学や、目に見える物質としての分子集合体について分子の持つ性質から物性を説明する分野である物性化学などがある。高分子化学は特に分子量の大きな分子の集まりに見られる特殊な性質を研究の対象とする。同じ高分子に相当するが特殊なものと言える生物・生命を化学的に扱う分野が生化学、生物化学である。 物質の表面に着目し、その構造や現象などを研究する分野には表面化学や界面化学がある。これらは、固体の触媒を使用する際の触媒化学とも関連する。コロイドが持つ特徴的な性質を理解する分野はコロイド化学と呼ばれる。 環境をマクロな視点で把握し、それが地球規模の大きな化学システムとして研究する分野が環境化学である。そして、自然現象や人間活動がこのシステムにどのような影響を与えるか、人工の物質が環境に拡散しどのような事態が起こるかなどを取り扱う。 炎は有機物の酸化反応によって放出される熱エネルギーの現れであるので、化学の歴史は人類が火を扱いはじめたときから始まっているとも考えられる。金や銀以外の金属は、自然界において酸化物ないしは硫化物として産出されるので、古代人は還元反応を知らないまま青銅器・鉄器などを製造する金属精錬をしていた。 化学は古代エジプトに起源があると言われる。エジプト語で黒を意味する「chémi」がヨーロッパに伝わった化学を表す用語となり、化学は「黒の技術」とも呼ばれた。古代ギリシアにおける学問の発展は、タレスの元素論に始まりアリストテレスらにより大成された。 これらの系統とは別に、中国、アラビア、ペルシャ等でも独自に化学技術が勃興した。このうち、アラビアの科学分野では錬金術へと発展し、中世ヨーロッパにおいて天文学、数学、医学と同様にラテン語に翻訳された。金を他の物質から作ろうとする錬金術が盛んになり、様々なものを混ぜたり加熱したりすることが試みられた。結局、錬金術は不可能な前提の上で行われた徒労に終わったが、その副生物として各種薬品が生み出された。これらが化学のいしずえとされる。ただし、錬金術は秘密主義や拝金主義、そして定量的な技術を持たなかった点から、逆に化学発展の阻害になったという主張もある。 17世紀以降、化学は近代的な方法論に則った発展を始め、18世紀末頃から実験を通じて化学反応を定量的アプローチで解釈するようになり、19世紀に入ると原子・分子の組み換えが化学反応の本質であることが理解されるようになった。しかし、化学反応の中心原理が何であるかは、物理学が原子の成立ちを解明するまで待つ必要があった。すなわち19世紀後半に展開した原子核と電子に関する物理学がもたらしたアーネスト・ラザフォードの原子核モデルが、化学反応が原子と電子の相互作用に基づくことを解明した。 また20世紀に入ると、化学結合の性質が量子力学で支配される電子の挙動(分子軌道やエネルギー準位)に起因することが理解され、これが今日の化学の中心原理となる理論体系が構築された。とはいうものの、今日において物理学の根本が量子論・相対論の時代であってもニュートン力学の価値がいささかも失われていないように、近代に確立した化学当量、オクテット則や酸化数あるいは有機電子論などの古典化学理論は、今日的な意味を失うものではない。 他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった。 幕末から明治初期にかけての日本では、化学は舎密(セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味するラテン語系オランダ語 Chemie (この単語自体の意味は「科学」)の音訳である。 日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴の『舎密開宗』(せいみかいそう)である。原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1801年に出版した An Epitome of Chemistry である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。 「化学」という単語は川本幸民が著書『化学新書』(1861年)で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から中国などへ伝わった和製漢語の一つとされていたが、近年では中国語からの借入語であるとされている。中国では、「化学」という単語は墨海書館が発行した月刊誌『六合叢談(中国語版)』の1857年の号が初出である。一般には、中国語の単語「化学」は徐寿がイギリスの専門書『化学鑑原』(1871年)を翻訳する際に造ったと信じられてきた。 世界のほとんどの国では、化学の専門教育は大学を中心とした機関が担っている。その中でも理学部系の化学科や専攻は基礎的な領域を、工学部系では応用的な部分を扱うことが多い。薬学部や工学部の材料工学科などは専門性が高くなる。 研究者を横断的に繋げる学会も組織され、日本では日本化学会が全体を網羅する。研究分野ごとには化学工学会や高分子学会などの化学系学会があり、大学や企業の研究者らが加わっている。アメリカ化学会は、多様な化学物質のデータベース整備を1907年から行っており、近年ではインターネット上でアクセス可能な「Chemical Abstracts」を公開している。 国際的な学会連合は国際純正・応用化学連合 (IUPAC) が組織され、単位や記号の世界統一に関する勧告や取り決めなどを行ったり、他の科学組織との協議を行う母体となっている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "化学(かがく、英語: chemistry ケミストリー、羅語:chemia ケーミア)とは、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する、自然科学の一部門。物質が、何から、どのような構造で出来ているか、どんな特徴や性質を持っているか、そして相互作用や反応によってどのように、何に変化するか、を研究するとも言い換えられる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "日本語では同音異義の「科学」(英: science)との混同をさけるため、化学を湯桶読みして「ばけがく」とよぶこともある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "化学は、自然科学の一部門であり、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する部門である。(少し異なった角度からの表現を紹介すると、)化学とは、物質についての学問(「物質の学問」)であり、(自然科学は自然に階層構造を見出すが)化学は自然の階層 の中で言えば、原子や分子という階層を受け持っている 、と筑波大学の齋藤一弥は説明した。日本の諸大学の化学科のHPなどでの解説も紹介すると、たとえば富山大学のHPでは、「化学とは、物質の性質を原子や分子のレベルで解明し、化学反応を用いて新しい物質(系)を作り出すことを設計、追求する学問分野である」、と説明されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "筑波大のサイトによると、化学という学問を定義づけすることは難しく、それを無理に規定する意義もあまりない。化学は「理学」に含まれるが、数学・物理学あるいは生物学などの、自然科学の中で基礎科学または純粋科学にあたる他の「理学」と化学の相違点は、化学は有限な元素が組み合わさった無数の物質がもつ多様性を取扱い、さらに化学そのものが新たに物質を創造する役割を担う、という点である。 ・ 。化学という学問領域が取り扱う物質は、特に化学物質が中心となる。化学物質は原子・分子・イオンなどが複雑に絡み合いながら作られるため膨大な種類にわたり、その全てを含む壮大な物質世界・生命世界が対象となる。それゆえ化学は、基盤科学と定義づけられる。物質を分子やその集合体の大きさ単位で扱う化学は基礎的であるがゆえに、関連する学問は、理学や工学から医学・薬学、農業・環境分野など多岐にわたる上、特に近年にバイオテクノロジーやエレクトロニクス、新素材や高機能材料など現代科学の最先端技術に新物質や設計・製造の新手段を発明する上で欠かせないものとなっている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "原則的に近年の化学では、全ての物質が原子からできているとの仮説(あるいはフレームワーク)を採用し、物質の性質は原子自体の状態や、原子同士の結びつきかた(化学結合)で決定されると考える。したがって、繰り返しになるが、基本的に現代の化学は、原子・分子レベルでの物質の構造や性質を解明して、また新しい物質や反応を構築して、「物質とはなにか」に関する知見を積み上げる学問である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "化学は典型的な蓄積型の学問である。取り扱う物質の種類は増える一方で、1980年代には600万種を越え、しかも年平均1000種が追加されていた。これらは基本的に減ることは無いため、それに関する情報は増加の一途をたどる。数世紀前の実験で得られた基礎的なデータですら(間違いでない限り)重要性を失わない。同様に古典的な方法論も最新の量子論的手法と同じくらい高い価値を持つ。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかしながら、学問としての化学の成立は遅い。数学、物理学、天文学などが2000年前の古代ギリシアで構築され始めたのに対し、科学の一分野として扱うことができる近代的化学のほうは、18世紀末にフランスのアントワーヌ・ラヴォアジエ(1743年 - 1794年)の質量保存の法則(1774年発見)やジョン・ドルトン(1766年 - 1844年)の原子説が正しい方向付けをした事に始まってから、まだ200年程度しか経過していない(#歴史、化学の歴史も参照)。これは近代物理学の最初の到達点であるニュートン力学がプリンキピアに書かれた年(1687年)と比べ、化学の興隆が100年程度時代が下ることを意味する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "その短い歴史の中で、化学は大きな末広がりの構造を持つに至った。化学の基礎的な部分はほとんど固められ、根底から転換がなされる余地はほとんど無い。ところが、物質に対する理解が進み、応用が広がる中で化学が担う役割はほとんど全ての生産・製造に深く関わるようになった。さらに、弱い相互作用を重視した新しい物質像の構築や、自然との調和を実現するための環境化学など、近年になって化学はさらに広がりを見せつつある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "化学では、物質の基本単位を原子として、その原子が持つさまざまな性質を抽象的概念である「元素」として把握する。原子論が確立した現代では、その特徴を理論的に掴む上で、原子核(陽子・中性子)および電子までの原子の構造から原子番号、質量数、電気素量、イオン、同位体などを決定し取扱い、各元素が持つ性質を理解する。", "title": "化学で扱う基本的なこと" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "原子が持つ周期的性質(周期律)は初期の化学が発見した一大成果である。この物理的性質の近似を生む要因である電子配置から、各元素のイオン化エネルギー、電気陰性度、酸化数、原子半径やイオン半径などの特徴が理論づけられる。この周期律を簡略な表にまとめた周期表は化学のバイブルとまで呼ばれる。", "title": "化学で扱う基本的なこと" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": 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"単体の分子を取り扱う分野では、量子力学や計算科学の理論および測定を用いる量子化学や、光を調査の手段に用いる物理化学の領域に含まれる分子分光学があり、無機・有機の両方を含み化合物を扱う合成化学もこの範疇に入る部分が多い。", "title": "主な化学の分野" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "化学反応を研究する分野には、反応機構を取り扱う化学反応論、反応速度をコントロールする手法を研究することを目的とした触媒化学などがある。合成化学では、反応機構を研究したり、新しい化学反応を創造する分野はここに含まれる。化学熱力学も反応における平衡や熱を扱う。", "title": "主な化学の分野" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "分子の集まりを扱う分野は、その全体構造や分子の運動について研究する構造化学や、目に見える物質としての分子集合体について分子の持つ性質から物性を説明する分野である物性化学などがある。高分子化学は特に分子量の大きな分子の集まりに見られる特殊な性質を研究の対象とする。同じ高分子に相当するが特殊なものと言える生物・生命を化学的に扱う分野が生化学、生物化学である。", "title": "主な化学の分野" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "物質の表面に着目し、その構造や現象などを研究する分野には表面化学や界面化学がある。これらは、固体の触媒を使用する際の触媒化学とも関連する。コロイドが持つ特徴的な性質を理解する分野はコロイド化学と呼ばれる。", "title": "主な化学の分野" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "環境をマクロな視点で把握し、それが地球規模の大きな化学システムとして研究する分野が環境化学である。そして、自然現象や人間活動がこのシステムにどのような影響を与えるか、人工の物質が環境に拡散しどのような事態が起こるかなどを取り扱う。", "title": "主な化学の分野" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "炎は有機物の酸化反応によって放出される熱エネルギーの現れであるので、化学の歴史は人類が火を扱いはじめたときから始まっているとも考えられる。金や銀以外の金属は、自然界において酸化物ないしは硫化物として産出されるので、古代人は還元反応を知らないまま青銅器・鉄器などを製造する金属精錬をしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "化学は古代エジプトに起源があると言われる。エジプト語で黒を意味する「chémi」がヨーロッパに伝わった化学を表す用語となり、化学は「黒の技術」とも呼ばれた。古代ギリシアにおける学問の発展は、タレスの元素論に始まりアリストテレスらにより大成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "これらの系統とは別に、中国、アラビア、ペルシャ等でも独自に化学技術が勃興した。このうち、アラビアの科学分野では錬金術へと発展し、中世ヨーロッパにおいて天文学、数学、医学と同様にラテン語に翻訳された。金を他の物質から作ろうとする錬金術が盛んになり、様々なものを混ぜたり加熱したりすることが試みられた。結局、錬金術は不可能な前提の上で行われた徒労に終わったが、その副生物として各種薬品が生み出された。これらが化学のいしずえとされる。ただし、錬金術は秘密主義や拝金主義、そして定量的な技術を持たなかった点から、逆に化学発展の阻害になったという主張もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "17世紀以降、化学は近代的な方法論に則った発展を始め、18世紀末頃から実験を通じて化学反応を定量的アプローチで解釈するようになり、19世紀に入ると原子・分子の組み換えが化学反応の本質であることが理解されるようになった。しかし、化学反応の中心原理が何であるかは、物理学が原子の成立ちを解明するまで待つ必要があった。すなわち19世紀後半に展開した原子核と電子に関する物理学がもたらしたアーネスト・ラザフォードの原子核モデルが、化学反応が原子と電子の相互作用に基づくことを解明した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "また20世紀に入ると、化学結合の性質が量子力学で支配される電子の挙動(分子軌道やエネルギー準位)に起因することが理解され、これが今日の化学の中心原理となる理論体系が構築された。とはいうものの、今日において物理学の根本が量子論・相対論の時代であってもニュートン力学の価値がいささかも失われていないように、近代に確立した化学当量、オクテット則や酸化数あるいは有機電子論などの古典化学理論は、今日的な意味を失うものではない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "幕末から明治初期にかけての日本では、化学は舎密(セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味するラテン語系オランダ語 Chemie (この単語自体の意味は「科学」)の音訳である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、江戸時代の宇田川榕菴の『舎密開宗』(せいみかいそう)である。原著はイギリスの化学者ウィリアム・ヘンリーが1801年に出版した An Epitome of Chemistry である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。酸素、水素、窒素、炭素といった元素名や酸化、還元、溶解、分析といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "「化学」という単語は川本幸民が著書『化学新書』(1861年)で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から中国などへ伝わった和製漢語の一つとされていたが、近年では中国語からの借入語であるとされている。中国では、「化学」という単語は墨海書館が発行した月刊誌『六合叢談(中国語版)』の1857年の号が初出である。一般には、中国語の単語「化学」は徐寿がイギリスの専門書『化学鑑原』(1871年)を翻訳する際に造ったと信じられてきた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "世界のほとんどの国では、化学の専門教育は大学を中心とした機関が担っている。その中でも理学部系の化学科や専攻は基礎的な領域を、工学部系では応用的な部分を扱うことが多い。薬学部や工学部の材料工学科などは専門性が高くなる。", "title": "学会組織" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "研究者を横断的に繋げる学会も組織され、日本では日本化学会が全体を網羅する。研究分野ごとには化学工学会や高分子学会などの化学系学会があり、大学や企業の研究者らが加わっている。アメリカ化学会は、多様な化学物質のデータベース整備を1907年から行っており、近年ではインターネット上でアクセス可能な「Chemical Abstracts」を公開している。", "title": "学会組織" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "国際的な学会連合は国際純正・応用化学連合 (IUPAC) が組織され、単位や記号の世界統一に関する勧告や取り決めなどを行ったり、他の科学組織との協議を行う母体となっている。", "title": "学会組織" } ]
化学とは、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する、自然科学の一部門。物質が、何から、どのような構造で出来ているか、どんな特徴や性質を持っているか、そして相互作用や反応によってどのように、何に変化するか、を研究するとも言い換えられる。 日本語では同音異義の「科学」との混同をさけるため、化学を湯桶読みして「ばけがく」とよぶこともある。
{{redirectlist|ケミストリー|[[音楽ユニット]]|CHEMISTRY|BACK-ONの楽曲|CHEMY×STORY}} {{混同|科学}} '''化学'''(かがく、{{lang-en|chemistry}} ケミストリー、[[ラテン語|羅語]]:chemia ケーミア)とは、さまざまな[[物質]]の[[化学構造|構造]]・性質および物質相互の[[化学反応|反応]]を[[研究]]する、[[自然科学]]の一部門<ref>[[広辞苑]] 第五版 p.457</ref>。物質が、何から、どのような構造で出来ているか、どんな特徴や性質を持っているか、そして[[相互作用]]や反応によってどのように、何に[[変化]]するか、を研究するとも言い換えられる<ref name="Iwa94-207">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p207、【化学】]]</ref><ref>早稲田大学のHPに掲載されている文章。「化学とは、様々なモノが何からできているのか、どんな性質を持っているのか、あるいはあるモノから別のモノへどのように変化するのかを調べる学問です。」{{Cite web|和書|url=http://www.sci.waseda.ac.jp/global/faculty/advanced/index05.html|title=Outline |publisher=早稲田大学理工学術院先進理工学部・研究科 応用科学科|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}} 既存の定義文をもとにして、HP向けのやわらかい表現に改変したもの。</ref><ref name="Itoyama">{{Cite journal|和書|author=糸山東一 |date=1981-03 |url=https://kagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/1604 |title=一般化学の授業内容についての一試論 |journal=香川大学一般教育研究 |ISSN=03893006 |publisher=香川大学一般教育部 |volume=19 |pages=49-63 |CRID=1050006297347951360 |accessdate=2023-11-29}}</ref>。 [[File:Chemicals in flasks.jpg|thumb|right|180px|化学は、様々な物質の構造、性質、相互反応を研究する学問領域であり、自然科学の一部門である<ref name="kojien" />。]] [[File:VysokePece1.jpg|thumb|right|180px|化学は、物質を製造・加工そして利用するために役立つ、根本的な情報をもたらす。]] {{ウィキポータルリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキポータル 化学]]}} {{ウィキプロジェクトリンク|化学|[[File:Nuvola apps edu science.svg|32px|ウィキプロジェクト 化学]]}} 日本語では[[同音異義]]の「[[科学]]」({{lang-en-short|science}})との混同をさけるため、化学を[[湯桶読み]]して「ばけがく」とよぶこともある<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20120121094937/http://nihongo.do-bunkyodai.ac.jp/qandaList.php?os=140 |title=日本語なんでも相談室 |publisher=北海道文教大学日本語コミュニケーション学科 |language=日本語 |accessdate=2023-04-28}}</ref>。 == 概説 == 化学は、自然科学の一部門であり、さまざまな物質の構造・性質および物質相互の反応を研究する部門である<ref name="kojien">[[広辞苑]] 第五版 p.457</ref>。(少し異なった角度からの表現を紹介すると、)化学とは、物質についての[[学問]](「物質の学問」)であり、(自然科学は自然に[[階層構造]]を見出すが)化学は自然の階層 の中で言えば、[[原子]]や[[分子]]という階層を受け持っている <ref name="Saito">{{Cite web|和書|url=http://www.chem.tsukuba.ac.jp/kazuya/kazuya/Chap01.pdf|format=PDF |title=1.化学という学問|author=[[齋藤一弥]]|date=2010年|publisher=筑波大学大学院数理物質科学研究科物質創成先端科学専攻|language=日本語|accessdate=2010-11-27}} p.5</ref>、と[[筑波大学]]の[[齋藤一弥]]は説明した。日本の諸大学の化学科のHPなどでの解説も紹介すると、たとえば富山大学のHPでは、「化学とは、物質の性質を原子や分子のレベルで解明し、[[化学反応]]を用いて新しい物質(系)を作り出すことを[[設計]]、追求する学問分野である<ref>「化学とは、その一大特徴である化学反応により新しい物質(系)の創成を設計・追求し、それらの性質を原子や分子のレベルで解明する学問分野である。{{Cite web|和書|url=http://www.gse.u-toyama.ac.jp/mce/MSES.html |title=応用化学大講座|author= |publisher=富山大学大学院理工学教育部|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}」</ref>」、と説明されている。 筑波大のサイトによると、化学という学問を[[定義]]づけすることは難しく、それを無理に規定する意義もあまりない。化学は「[[理学]]」に含まれるが、[[数学]]・[[物理学]]あるいは[[生物学]]などの、自然科学の中で基礎科学または純粋科学にあたる他の「理学」と化学の相違点は、化学は有限な元素が組み合わさった無数の物質がもつ[[多様性]]を取扱い、さらに化学そのものが新たに物質を[[創造]]する役割を担う<ref name="Saito"/>、という点である。 <!--化学の最終目標は、有意義な機能を持つ物質や反応を発見し[[自然界]]から[[抽出]]したり<ref name="Fukutec">{{cite web|url=http://www.tec.fukuoka-u.ac.jp/tk/silla/S369.htm |title=化学実験 概要|author= |publisher=福岡大学工学部化学システム工学科|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{dead link|date=October 2012}}</ref>リンク切れ-->・ <ref>{{Cite journal|和書 |url=https://www.nara.kindai.ac.jp/laboratory/nat_pro_chem/pdf/click.pdf |format=PDF |title=クリックケミストリーの概念と応用:提唱者の立場から |author=M. G. Finn; Hartmuth C. Kolb; Valery V. Fokin |journal=化学と工業 |ISSN=00227684 |publisher=日本化学会 |date=2007-10 |volume=60 |issue=10 |pages=976-980 |naid=10019960594 |CRID=1520853833920955776 |accessdate=2023-11-29}}</ref>。化学という学問領域が取り扱う物質は、特に[[化学物質]]が中心となる<ref name="Iwa94-207"/>。化学物質は原子・分子・[[イオン]]などが複雑に絡み合いながら作られるため膨大な種類にわたり、その全てを含む壮大な物質世界・生命世界が対象となる<ref name="Takev">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.v-viii、化学入門コースの読者へ]]</ref>。それゆえ化学は、基盤科学と定義づけられる<!-- <ref name="Fukutec"/> リンク切れ -->。物質を分子やその集合体の大きさ単位で扱う化学は基礎的であるがゆえに、関連する学問は、理学や[[工学]]から[[医学]]・[[薬学]]、[[農業]]・[[環境]]分野など多岐にわたる上、特に近年に[[バイオテクノロジー]]や[[エレクトロニクス]]、新素材や高機能材料など現代科学の最先端技術に新物質や設計・製造の新手段を発明する上で欠かせないものとなっている<ref name="Takev"/>。 原則的に近年の化学では、全ての物質が原子からできているとの[[仮説]]<ref name="Iwasaki"/>(あるいはフレームワーク)を採用し、物質の性質は原子自体の状態や、原子同士の結びつきかた([[化学結合]])で決定されると考える<ref group="注">化学という学問を離れると、必ずしもこの仮説だけで説明しているわけではなく、(化学ではない)物理学・素粒子物理学などでは、物質の定義に、(原子や分子よりもはるかに小さな)[[レプトン (素粒子)|レプトン]]や[[クォーク]]、[[ニュートリノ]]なども加えた仮説を構築している。[http://www.phys.s.u-tokyo.ac.jp/field/field_4.html 高エネルギー物理学・素粒子物理学/東京大学理学部物理学科・大学院理学系研究科物理学専攻]。</ref>。したがって、繰り返しになるが、基本的に現代の化学は、原子・分子レベルでの物質の構造や性質を解明して、また新しい物質や反応を構築して<ref name="Takev"/>、「物質とはなにか」に関する知見を積み上げる学問である<ref name="Saito"/>。 化学は典型的な蓄積型の学問である。取り扱う物質の種類は増える一方で、1980年代には600万種を越え、しかも年平均1000種が追加されていた<ref name="Sugi1">[[#杉浦ら1987|杉浦ら (1987)、p.1]]</ref>。これらは基本的に減ることは無いため、それに関する情報は増加の一途をたどる。数世紀前の実験で得られた基礎的なデータですら(間違いでない限り)重要性を失わない。同様に古典的な方法論も最新の量子論的手法と同じくらい高い価値を持つ。<ref name="Takev"/> しかしながら、学問としての化学の成立は遅い。数学、物理学、[[天文学]]などが2000年前の[[古代ギリシア]]で構築され始めたのに対し、科学の一分野として扱うことができる近代的化学のほうは、[[18世紀]]末に[[フランス]]の[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]](1743年 - 1794年)の[[質量保存の法則]]([[1774年]]発見)<ref name="Take2">[[#竹内1996|竹内 (1996)、1.原子論の成立、pp.2-6、1.1.化学の始まり]]</ref>や[[ジョン・ドルトン]](1766年 - 1844年)の[[原子説]]{{Refnest|name="Iwasaki"|{{Cite journal|和書|author=岩崎允胤 |date=1971-03 |url=https://hdl.handle.net/2115/33347 |title=化学反応と物質構造の問題 |journal=北海道大學文學部紀要 |ISSN=04376668 |publisher=北海道大學文學部 |volume=19 |issue=1 |pages=71-93 |hdl=2115/33347 |CRID=1050564288949657088 |accessdate=2023-11-29}}<ref>[[フリードリヒ・エンゲルス]]、『自然弁証法』第2冊、訳:菅原仰、寺沢恒信、p.158</ref>}}が正しい方向付けをした<ref name="Itoyama"/>事に始まってから、まだ200年程度しか経過していない<ref name="Take2"/>([[#歴史]]、[[化学の歴史]]も参照)。これは近代物理学の最初の到達点である[[ニュートン力学]]が[[自然哲学の数学的諸原理|プリンキピア]]に書かれた年(1687年)と比べ、化学の興隆が100年程度時代が下ることを意味する。 その短い歴史の中で、化学は大きな末広がりの構造を持つに至った。化学の基礎的な部分はほとんど固められ、根底から転換がなされる余地はほとんど無い。ところが、物質に対する理解が進み、応用が広がる中で化学が担う役割はほとんど全ての生産・製造に深く関わるようになった<ref name="Takev"/>。さらに、[[弱い相互作用]]を重視した新しい物質像の構築や、自然との調和を実現するための[[環境化学]]など、近年になって化学はさらに広がりを見せつつある<ref name="Take247">[[#竹内1996|竹内 (1996)、14.21世紀の化学、p.247]]</ref>。 == 化学で扱う基本的なこと == [[ファイル:Periodic Table structure.svg|right|180px|thumb|[[周期表]]は化学のバイブルとも言われる<ref>竹内敬人 『化学入門コース 化学の基礎』 岩波書店、1996年、第1刷。ISBN 4-00-007981-6。pp.78-79</ref>。]] === 原子の種類と構造 === {{Main|原子}} 化学では、物質の基本単位を[[原子]]として、その原子が持つさまざまな性質を抽象的概念である「[[元素]]」<ref>[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊 (2010)、pp.12-13、原子と元素はどうちがうのか]]</ref>として把握する。[[原子論]]が確立した現代では、その特徴を理論的に掴む上で、[[原子核]]([[陽子]]・[[中性子]])および[[電子]]までの原子の構造から[[原子番号]]、[[質量数]]、[[電気素量]]、[[イオン]]、[[同位体]]などを決定し取扱い、各元素が持つ性質を理解する。<ref name="Take6">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.6-10、1.2 物質の構成要素]]</ref> 原子が持つ周期的性質([[周期律]])は初期の化学が発見した一大成果である<ref name="Take75">[[#竹内1996|竹内 (1996)、5.元素の周期的性質、p.75]]</ref>。この物理的性質の近似を生む要因である[[電子配置]]から、各元素の[[イオン化エネルギー]]、[[電気陰性度]]、[[酸化数]]、[[原子半径]]や[[イオン半径]]などの特徴が理論づけられる<ref name="Take83">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.83-91、5.2 単体の性質の周期性]]</ref>。この周期律を簡略な表にまとめた[[周期表]]は化学のバイブルとまで呼ばれる<ref name="Take75"/>。 元素の性質を記述することは、化学の中でも[[量子力学]]と[[統計力学]]が取り扱う。周期律は、量子力学の成立をもって初めてその本質が明瞭になった<ref name="Saito"/>。原子内の[[電子配置]]は[[ボーアの原子模型]]では限界がある<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.23-29、2.3 古典量子論の成立]]</ref>ので、[[波動力学]]の[[パウリの排他原理]]や[[波動関数]]<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.30-39、2.4 量子力学の成立]]</ref>、そして電子の[[エネルギー準位]]で説明される<ref name="Take83"/>。統計力学は、物質の状態(三態)や性質などを巨視的に理解する上で必須の方法論を提供し、実験の結果をもたらす上で大きな役割を持つ<ref name="Saito"/>。 === 化学結合 === {{Main|化学結合}} 物質は原子から構成されるが、その原子が結びついて分子をつくる。この結び付きを[[化学結合]]と呼び、これを理解することで化学は発展してきた<ref name="Take41">[[#竹内1996|竹内 (1996)、3.化学結合、p.41]]</ref>。 19世紀以前、原子間の結びつきは[[化学反応]]を説明するために考えられた。基礎的な概念に当たる[[化学親和力]]や、続く[[電気化学的二元論]]や[[原子価説]]が提唱されたが、それでも一部の結合しない原子の組み合わせを説明できなかった<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.42-44、3.1 20世紀以前の化学結合論]]</ref>。20世紀に入りドイツのヴァルター・コッセル[[:en:Walther Kossel|(en)]]が[[イオン結合]]を理論化し、それでも解釈不能な[[水素]]分子など無極性分子の説明にアメリカの[[ギルバート・ルイス]]と[[アーヴィング・ラングミュア]]がそれぞれ独立に[[共有結合]]の概念を提案した<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.45-48、3.2 ボーア模型に基づく化学結合論]]</ref>。量子力学は分子構造論も深化させ、二原子分子の安定を説明した[[交換相互作用]]、[[分子軌道]]や[[原子軌道]]を明らかにした[[波動関数]]<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.49-53、3.3 量子力学的結合理論]]</ref>、[[金属結合]]の実際を[[自由電子]]モデルから進めた[[バンド理論]]<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.53-55、3.4 その他の結合]]</ref>などをもたらした。 [[ファイル:Xylenes ja.png|right|300px|thumb|[[キシレン]]の位置異性体。左からオルト、メタ、パラ。構成する原子の数と種類はまったく同じだが、別の分子である。]] === 分子の構造 === {{Main|分子}} 分子は、その物質が持つ特性を維持したまま分割できる最小の単位と言える<ref>[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊 (2010)、pp.16-17、分子はその物質の特性を持つ最小の粒子]]</ref>。[[静電気力]]で結合するイオン結合には方向性が無いが、共有結合は[[異方性]]がある。簡単な共有結合分子は[[原子価殻電子対反発則]]で説明され、これに[[電子軌道]]の考え方を加えれば、分子やイオンの構造についての理論的根拠になる<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.58-63、4.1 簡単な化合物の構造]]</ref>。 その一方で、同じ種類と数の元素が組み合わさった分子でも、その構造で物性に差があることが判明している。[[不斉炭素原子]]と共有結合する4つの原子団が結合する位置の違いから生じる[[光学異性体]]や[[立体異性体]]や、また[[炭素]]などの[[二重結合]]部分が回転しないために生じる[[幾何異性体]]などは、同一の[[構造式]]でありながら異なる性質を持つ分子となる。[[ベンゼン環]]に結合する置換基の位置([[オルト]]など)による[[位置異性体]]も一例に当たる<ref name="Take63">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.63-70、4.2 炭素化合物の構造]]</ref>。[[エタン]]類など回転が可能な分子においても、[[立体障害]]などによる特性の差異は生じる<ref name="Take63"/>。さらに近年では知恵の輪のような[[カテナン]]やサッカーボールもどきの[[フラーレン]]など、風変わりな構造を持つ分子も発見されている<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、4.分子の形 p.74]]</ref>。 [[ファイル:Phase change - ja.svg|right|180px|thumb|気体、液体、固体、そしてプラズマ間の[[構造相転移]]の一覧]] === 物質の状態 === {{Main|物質の状態}} 原子や分子がある程度の量あつまると、特徴的な性質をもった集団を形成する。これを[[相 (物質)|相]]といい、大きく分けて[[固体]]、[[液体]]、[[気体]]([[物質の状態#三態|物質の三態]])などがある<ref name="Take120">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.120-121、7.3 相平衡と相律]]</ref>。閉鎖系において物質がこれらの相を取るには[[温度]]と[[圧力]]が影響し、[[相律]]という法則に則った状態を取る。これは物質ごとに[[相図]]という[[ダイアグラム|グラフ]]で示される<ref name="Take120"/>。 気体は反応に乏しく、体積や圧力など物理的性質や変化などを中心に扱う。しかしそれらのマクロ的なふるまいは、気体では分子が単独で存在する、というミクロな分子の構造や性質に由来する<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、p.99、6 気体]]</ref>。なお、気体が電離した状態である[[プラズマ]]についても、[[プラズマ化学]]という分野で取り扱う<ref>{{Cite web|和書|url=http://www-shinsei.jsps.go.jp/code/keyword.html |title=キーワード一覧|publisher=独立行政法人 日本学術振興会|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}</ref>。 液体は[[分子間力]]の点から気体と固体の中間にある。加熱や冷却によって[[気化]]・[[蒸発]]や[[凝固]]など相の変換を起こす。これは化学における重要な物質生成手段である[[蒸留]]にかかわる<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、p.113、7 液体]]</ref>。また、2つ以上の成分でできた液体、[[溶液]]に関して化学では、[[溶媒]]と[[溶質]]による[[分散系]]の性質、[[浸透圧]]や[[粘性]]また[[表面張力]]・[[界面張力]]なども扱う<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.121-130、7.4 溶液]]</ref>。 固体は基本的に原子が規則的に配列する[[結晶|結晶質]]と、規則性に乏しく固体と液体の中間とも言える[[アモルファス]](非晶質)に分けられる<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.134-135、8.1 結晶質とアモルファス]]</ref>。結晶質は複数の[[結晶構造]]いずれかを取り、その性質を特徴づける<ref>[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.135-142、8.2 結晶の構造]]</ref>。また、粒子の種類や力から分類される結晶には、[[金属結晶]]・[[イオン結晶]]・[[分子結晶]]・[[共有結晶]]などがある<ref name="Take142">[[#竹内1996|竹内 (1996)、pp.142-151、8.3 さまざまな結晶]]</ref>。結晶構造を持ちながら液相的性質を持つ物質は[[液晶]]と呼ばれ、一部にベンゼン環のような平面の構造を持つ共通点がある<ref name="Take142"/>。 === 化学反応 === {{Main|化学反応}} 複数の物質に混合・必要があれば加熱・冷却などの操作を加えると、異なる[[化合物]]ができる。これを[[化学反応]]と呼ぶ。化学反応は物質を構成する原子間の化学結合の変化によって起きる。化学反応の前後では全体の質量は変わらない。これを[[質量保存の法則]](あるいは物質不変の法則)という。化学反応は、自然界において基本的には、ある種の[[自由エネルギー]]を最小化するほうへ向かって、エネルギーが低い位置へ向かう[[発熱反応]]と、より乱雑になろうとする[[エントロピー]]の増大という相反する反応を起こしながら、[[化学平衡|平衡]]に達する。化学では、これら反応の法則性や利用法の解明が課題となる<ref name="Okawa117">[[#大川2002|大川 (2002)、pp117-138、自然界のバランス感覚]]</ref>。 水溶液の性質を知る手段として体系づけが始まった[[酸と塩基]]([[塩 (化学)|塩]]が[[加水分解]]したもの)の関係は、化学では重要な項目となる<ref name="Okawa138">[[#大川2002|大川 (2002)、pp138-162、非なりて似たるもの‐酸と塩基]]</ref>。主に水に溶ける物質の性質分類が行われ、水溶液以外の状態も考慮して<ref name="Okawa139"/>、 * [[酸]]とは水素イオンを生じ/与える/電子対を受け取る物質 * [[塩基]](アルカリ性)とは水酸化物イオンを生じる/水素イオンを受け取る/電子対を与える物質 と定義される。この2つは重要な化合物の組である。互いに相反し[[中和反応]]を起こさせながら化学平衡し、[[水素イオン指数]]など溶液の性質を決める。 燃焼や金属製錬および腐食などの本質は[[酸化]]と[[還元]]で説明される。酸と塩基が反応の窓口となる電子対が原子と一体になっているのに対し、酸化と還元は電子が単独で動き反応を起こす<ref name="Okawa163">[[#大川2002|大川 (2002)、pp163-194、電子は陰の立役者‐酸化と還元]]</ref>。そのため、酸化還元は[[電圧]]と密接に関係し、[[電流]]を生じさせる機構の基本的な原理に当たる<ref name="Okawa163"/>。還元の代表的な用途は卑金属の精製であり、酸化は生化学において重要な[[クエン酸回路]]に見られる。 [[化学合成]]は、単純な物質から化学反応を用いて複雑な、または特定の機能を持つ物質を生成することを指す。分子量の小さな物質をつなぎ合わせて[[高分子]]を作る化学合成の代表例には[[重合反応]]がある。これは化学工業の主要なプロセスである。機能を持たせる化学合成の例は医薬品製造やナノテクノロジーなどである。このような製造に関わる化学合成では、適切な製品を効率良く作り出すことが求められ、化学の分野としては[[触媒]]や[[不斉合成]]など<ref name="Okawa117"/>が研究される。 == 主な化学の分野 == === 諸分野の役割 === 化学には、研究手法や対象とする物質の違いによって多くの分野が存在する<ref name="Iwa94-207"/>。しかし、各分野間には関連領域が存在するため明確に区別することは難しい。以下に例として代表的なものを挙げる。 ; [[物理化学]] : 物理化学は[[物理学]]的な理論や測定方法、例えば[[熱力学]]や[[量子力学]]的な手法や視点から化学が対象をする物質を研究し、物質やその性質および反応を分類する上で基準を作り、そして分類する<ref name="Saito"/>分野である<ref name="Iwa94-1108">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p.1108、【物理化学】]]</ref>。[[ヴァルター・ネルンスト]]が著述『理論化学』({{lang|de|Theoretische Chemie}}、1893年)で唱えた[[理論化学]]もほぼ同じ概念である<ref>[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p.1378、【理論化学】]]</ref>。また、[[コンピュータ]]の進歩に伴い、理論式から計算によって物質の状態を予測する[[量子化学]]や[[計算化学]]も急速に発展している<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sist.ac.jp/~sekiyama/quchem.html |title=量子化学, 計算化学とは|author=関山秀雄|publisher=静岡理工科大学物質生命科学科|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}</ref>。物理化学の方法論で[[生物]]を対象に行われる研究は[[生物物理化学]]であり<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hokuriku-u.ac.jp/jimu/H16Syllabus/yakugaku/2nen/2-21.html |title=授業の目的|author=今井弘康|publisher=北陸大学薬学部SYLLABUS|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>、これをコンピュータによる仮想的な体系でシミュレートする[[人工化学]]も提唱されている<ref>{{cite journal|和書|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00058929/ |title=人工化学のための自動推論器の構築 |author=小泉和真, 冨永和人 |date=2007-12-21 |journal=情報処理学会研究報告バイオ情報学(BIO) |issue=128(2007-BIO-011) |volume=2007 |pages=93-96 |accessdate=2022-03-01}}</ref>。 ; [[無機化学]] : 無機化学は、[[有機化合物]]を除くすべての物質、すなわち[[単体]]と[[無機化合物]]を対象とする広い分野である<ref name="Iwa94-1271">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p1271、【無機化学】]]</ref>。広義には、[[錯体]]を扱う[[錯体化学]]、生体内の無機物を扱う[[生物無機化学]](または無機生化学)、鉱物化学や地球化学、放射化学、有機金属化学などと境界領域を共有する場合がある<ref name="Iwa94-1271"/>。 ; [[有機化学]] : 有機化学は、有機化合物を扱う分野である<ref name="Iwa94-1301">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p1301、【有機化学】]]</ref>。元々は動物や植物など生物体の組織(有機体)を構成する物質を対象として始まり、後に有機体以外から生成される有機化合物も対象に含まれて体系化された<ref name="Iwa94-1301"/>。無機化学の分野とは相互補充する関係にある<ref name="Iwa94-1271"/>。多様な反応をするため、専門的な分野として特化している。[[有機合成化学]]目的の有機化合物を得るために合成系列や反応方法などを創案する分野である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.chem.tsukuba.ac.jp/junji/ |title=有機合成化学‐分子変換をいかにして行うか‐|author=市川淳士 |publisher=筑波大学大学院数理物質科学研究科化学専攻|accessdate=2010-11-27}}</ref>。[[薬学]]とも密接なかかわりがある。生物学との境界分野は[[生物有機化学]]と呼ばれる。有機化合物の構造と性質の関係を研究する分野は[[有機構造論]]、特に立体構造に着目する領域は[[立体化学]]に分けられる<ref name="Iwa94-1301"/>。天然には存在しない物質を合成して繊維や高分子材料を製造するための研究は[[有機工業化学]]と呼ばれる<ref name="Iwa94-1301"/>。 ; [[高分子化学]] : 高分子化学は、[[分子量]]が1万から数百万にまで及ぶような非常に大きな分子である[[高分子]]を取り扱う分野であり、その化合物は有機・無機の両方を対象とする<ref name="Iwa94-436">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p436、【高分子化学】]]</ref>。しかし実際には有機化合物を取扱う割合が高い<ref name="Iwa94-436"/>。合成方法だけではなく、[[機械特性]]や[[熱物性]]なども研究対象としている。高分子の材料としての重要性から、工業とのつながりが非常に強い。 ; [[生化学]](生物化学) : 生化学または生物化学<ref>[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p681、【生物化学】]]</ref>は、生物や生命現象を化学的な理論や実験手法を導入して研究する分野であり<ref name="Iwa94-672">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p672、【生化学】]]</ref>[[生物学]]と化学の両方にまたがる領域である。[[酵素]]の研究を軸に<ref name="Iwa94-672"/>[[ホルモン]]などの[[タンパク質]]や[[糖]]、[[核酸]]、[[脂質]]などの生体内の物質群や、生体の[[エネルギー]]獲得や輸送および[[代謝]]機能などを扱うことが多い<ref name="Iwa94-672"/>。[[生体高分子]]を扱うことが多いため[[高分子化学]]とも関連する。生命現象を分子単位で研究する[[分子生物学]]や[[分子遺伝学]]を含み、[[遺伝子工学]]などに応用される<ref name="Iwa94-672"/>。また、[[組織化学]]とは細胞など[[組織 (生物学)|組織]]中の特定物質が分布する状況を、化学反応を用いて[[染色]]させ判断する技術を言い、[[免疫組織化学]]もそのひとつに含まれる<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.med.kindai.ac.jp/immuno/qanda.htm |title=免疫学Q&A |chapter=Q15. A15.|author=宮澤正顕|publisher=近畿大学医学部免疫学教室|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}</ref>。[[衛生化学]]とは、物質が[[生体]]に及ぼす影響を研究する、予防[[薬学]]分野の応用に当たる分野である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.hoshi.ac.jp/home/kyoiku/kyoushitsuhgaid/9kyoushitsu.eisei.html |title=「衛生」とは「生を守る」こと。病気にならないために、食品や環境因子のはたらきに注目! |author=福井哲也|publisher=星薬科大学衛生化学教室|accessdate=2010-11-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.dsecchi.mext.go.jp/d_0905t/pdf/toho_yakukagaku_0905t_kihon.pdf|format=PDF |title=学校法人東邦大学 研究科の専攻の設置「衛生化学特論」 |author=|pages=12|publisher=文部科学省高等教育局高等教育企画課大学設置室|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。 ; [[分析化学]]・[[機器分析化学]]・[[合成有機化学]] : 分析化学や機器分析化学は、様々な物質を測定したり分離したりすることを目的とした実験や理論を研究する分野である<ref name="Iwa94-1155">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p1155、【分析化学】]]</ref>。中でも機器分析化学は、分析化学の中で分析機器を用いた研究分野である。応用性が強く、実験室レベルの基礎化学から工業生産物・臨床検査など幅広い範囲を対象とし<ref name="Iwa94-1155"/>、[[食品]]や[[薬品]]、[[農業]]、[[工業]]などさまざまな分野で重要な役割を担っている。合成化学は、存在できる物質を知る分野であり<ref name="Saito"/>、化学反応を用いて実際に物質を作り出すことを研究・開発する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.phs.osaka-u.ac.jp/research/pdf_index/kagaku_03.pdf |format=PDF |title=分子合成化学分野|author=藤岡弘道|publisher=大阪大学大学院薬学研究科・薬学部|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}</ref>分野であり、[[触媒化学]]や[[材料化学]]を含む<ref name="Saito"/>。 ; [[応用化学]] : 応用化学は、生産に関わるさまざまな技術や工程で用いられる物質や反応などを研究する分野であり、生産する種類によって[[工業化学]]、[[農芸化学]]、[[薬化学]]などに細分化される<ref name="Iwa94-171">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p.171、【応用化学】]]</ref>。狭義では原料を化学製品へ転換し、目的の物質を得る上で必要な一連の方法を対象とする分野である工業化学を指し、日本では[[工学]]の一分野として応用化学と工業化学は同義にて用いられることが多い<ref name="Iwa94-171"/><ref name="Iwa94-417">[[#岩波理化学1994|岩波理化学辞典 (1994)、p417、【工業化学】]]</ref>。工業化学では、新しい[[化学反応|反応]]や[[触媒]]の探求から[[工場|プラント]]の設計まで、実用上必要とされる幅広い事柄を取り扱う。一方で、日本の大学に設置されている[[化学科]]と[[応用化学科]]([[生命科学部]][[生命科学科]]・[[応用生命科学部]][[応用生命科学科]])の教育内容に違いはほとんどない<ref>{{Cite web|和書|title=化学科、応用化学科、材料工学科、化学工学科の違い(学部生、高校生向け)|url=http://chemblogno1.blogspot.com/2019/10/blog-post_17.html|accessdate=2019-10-19}}</ref>。 ; [[環境化学]] : 環境化学は、環境(地球ならば[[水圏]]、[[岩石圏]]、[[大気圏]]など)における化学物質の生成、反応、移動、影響や成り行きなどを研究する分野であり{{Refnest|{{cite web|url=http://www.eoearth.org/article/Environmental_chemistry |title=Environmental chemistry |author=Randolph Larsen |publisher=The Encyclopedia of Earth |language=英語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}<ref> 1991, Manahan, Stanley E., Environmental Chemistry, 5th Ed., Lewis Publishing, Chelsea, MI</ref>}}、これらが[[生物圏]]に与える影響([[環境問題]])を化学的に説明する<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.kochi-wu.ac.jp/~isshiki/education/2002/envchem.html |title=環境化学|author=一色健司|publisher=高知女子大学 |language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。[[地球環境化学]]はこのような研究を地球規模の環境に対して行う分野である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.tsc.u-tokai.ac.jp/risyuu_syllabus/2007401983.html |title=授業内容・計画(概要)の情報|author= |publisher=東海大学理学部化学科 |accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。 === 諸分野が対象とするもの === 上にあげた化学の各分野を、取り扱う対象で分類する。本項は、特に脚注がある部分を除き、筑波大学数理物質科学研究科教授・齋藤一弥の分類を出典とする<ref name="Saito"/><!-- この一文は、他の出典が積みあがれば外し、脚注化して戴ければと存じます -->。 原子核を中心に、原子核反応やそれによって合成される新元素およびその性質を取り扱う分野が[[核化学]]や[[放射化学]]であり、特に後者では[[放射能]]の測定において分析化学的な方法も利用される。 単体の分子を取り扱う分野では、量子力学や計算科学の理論および測定を用いる[[量子化学]]や、[[光]]を調査の手段に用いる物理化学の領域に含まれる[[分子分光学]]があり、無機・有機の両方を含み化合物を扱う合成化学もこの範疇に入る部分が多い。 化学反応を研究する分野には、反応機構を取り扱う[[化学反応論]]、反応速度をコントロールする手法を研究することを目的とした[[触媒化学]]などがある。合成化学では、反応機構を研究したり、新しい化学反応を創造する分野はここに含まれる。[[化学熱力学]]も反応における平衡や熱を扱う。 分子の集まりを扱う分野は、その全体構造や分子の運動について研究する[[構造化学]]や、目に見える物質としての分子集合体について分子の持つ性質から[[物性]]を説明する分野である[[物性化学]]などがある。[[高分子化学]]は特に分子量の大きな分子の集まりに見られる特殊な性質を研究の対象とする。同じ高分子に相当するが特殊なものと言える[[生物]]・[[生命]]を化学的に扱う分野が生化学、生物化学である。 物質の[[表面]]に着目し、その構造や現象などを研究する分野には[[表面化学]]や[[界面化学]]がある。これらは、固体の触媒を使用する際の触媒化学とも関連する。[[コロイド]]が持つ特徴的な性質を理解する分野は[[コロイド化学]]と呼ばれる。 環境をマクロな視点で把握し、それが地球規模の大きな化学システムとして研究する分野が[[環境化学]]である。そして、自然現象や人間活動がこのシステムにどのような影響を与えるか、人工の物質が環境に拡散しどのような事態が起こるかなどを取り扱う<ref>{{Cite book|和書|title=地球環境化学入門|author=J.E.アンドリューズ、P.ブリンブルコム、T.D.ジッケルズ、P.S.リス、B.J.リード|translator=渡辺正|publisher=シュプリンガー・フェアラーク東京|isbn=4-431-71111-2|url=https://books.google.co.jp/books?id=FNuWSfi8grcC&printsec=frontcover&dq=化学&hl=ja#v=onepage&q&f=false|pages=11-13|chapter=1-4、人間は生物地球化学サイクルを変える? }}</ref>。 == 歴史 == [[File:William Fettes Douglas - The Alchemist.jpg|right|180px|thumb|錬金術は現代化学を生み出す元となった]] {{Main|化学の歴史}} 炎は有機物の酸化反応によって放出される熱エネルギーの現れであるので、化学の歴史は人類が火を扱いはじめたときから始まっているとも考えられる<ref name="Asi9">[[#アシモフ1967|アシモフ (1967)、pp.009-026、第1章 古代]]</ref>。[[金]]や[[銀]]以外の金属は、自然界において[[酸化物]]ないしは[[硫化物]]として産出されるので、[[古代]]人は[[還元]]反応を知らないまま[[青銅器]]・[[鉄器]]などを製造する金属精錬をしていた<ref name="Asi9"/>。 化学は[[古代エジプト]]に[[起源]]があると言われる。[[エジプト語]]で[[黒]]を意味する「chémi」がヨーロッパに伝わった化学を表す用語となり、化学は「黒の[[技術]]」とも呼ばれた<ref name="Iwa94-207"/>。[[古代ギリシア]]における学問の発展は、[[タレス]]の元素論に始まり[[アリストテレス]]らにより大成された<ref name="Asi9"/>。 これらの系統とは別に、[[中国]]、[[アラビア]]、[[ペルシャ]]等でも独自に化学技術が勃興した<ref name="Iwa94-207"/>。このうち、[[アラビア科学|アラビアの科学分野]]では[[錬金術]]へと発展し、[[中世]]ヨーロッパにおいて[[天文学]]、[[数学]]、[[医学]]と同様に[[ラテン語]]に翻訳された<ref name="Asi27">[[#アシモフ1967|アシモフ (1967)、pp.027-049、第2章 錬金術]]</ref>。金を他の物質から作ろうとする錬金術が盛んになり、様々なものを混ぜたり加熱したりすることが試みられた。結局、錬金術は不可能な前提の上で行われた徒労<ref name="Take2"/>に終わったが、その副生物として各種薬品が生み出された。これらが化学のいしずえとされる<ref name="Iwa94-207"/><ref name="Newton80">[[#ニュートン別2010|ニュートン別冊 (2010)、pp.80-81、化学のいしずえを築いた錬金術]]</ref>。ただし、錬金術は秘密主義や拝金主義、そして定量的な技術を持たなかった点から、逆に化学発展の阻害になったという主張もある<ref>{{Cite book|和書|title=化学はなぜ環境を汚染するのか|author=村田徳治|publisher=環境コミュニケーションズ|year=2001|isbn=9784874891377|url=https://books.google.co.jp/books?id=pC9uTL047QwC&printsec=frontcover&dq=化学&hl=ja#v=onepage&q&f=false|pages=11-14|chapter=1-3、化学の進歩を遅らせた錬金術の秘密主義}}</ref>。 17世紀以降、化学は近代的な方法論に則った発展を始め<ref name="Iwa94-207"/>、18世紀末頃から[[実験]]を通じて化学反応を[[定量的]]アプローチで解釈するようになり<ref name="Iwa94-207"/>、19世紀に入ると原子・分子の組み換えが化学反応の本質であることが理解されるようになった<ref name="Iwa94-207"/>。しかし、化学反応の中心原理が何であるかは、[[物理学]]が原子の成立ちを解明するまで待つ必要があった。すなわち19世紀後半に展開した原子核と電子に関する物理学がもたらした[[アーネスト・ラザフォード]]の原子核モデルが<ref name="Okawa139">[[#大川2002|大川 (2002)、pp27-55、それは古代ギリシアに始まった]]</ref>、化学反応が原子と電子の相互作用に基づくことを解明した。 また20世紀に入ると、化学結合の性質が[[量子力学]]で支配される電子の挙動([[分子軌道]]や[[エネルギー準位]])に起因することが理解され<ref name="Okawa139"/>、これが今日の化学の中心原理となる理論体系が構築された<ref name="Iwa94-207"/>。とはいうものの、今日において物理学の根本が量子論・相対論の時代であってもニュートン力学の価値がいささかも失われていないように、近代に確立した[[化学当量]]、[[オクテット則]]や[[酸化数]]あるいは[[有機電子論]]などの古典化学理論は、今日的な意味を失うものではない。 他また、有機化学と高分子化学も20世紀に発展を遂げ、一方では生物学との境界において多大な進歩をもたらし<ref name="Iwa94-207"/>、生物学を全く新しいものとした。もう一方ではそれまで存在しなかった様々な物質が合成され、工業社会の大きな発展の元になり、同時に公害問題などにも深く関わるようになった<ref name="Sugi1"/>。 [[File:SeimiKaisouChemistry.jpg|thumb|180px|right|『舎密開宗』に記された化学実験図]] === 日本における歴史 === [[幕末]]から[[明治]]初期にかけての日本では、化学は[[舎密]](セイミ)と呼ばれた。舎密は化学を意味する[[ラテン語]]系[[オランダ語]] {{lang|nl|Chemie}} (この単語自体の意味は「科学」)の音訳である<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.ryukoku.ac.jp/tenjishitsu/t2/9.html |title=稀書と大学歴史資料展1 |publisher=龍谷大学展示室|language=日本語|accessdate=2010-11-27}}{{リンク切れ|date=2019年10月}}</ref>。 日本で初めての近代化学を紹介する書となったのは、[[江戸時代]]の[[宇田川榕菴]]の『[[舎密開宗]]』(せいみかいそう)である。原著は[[イギリス]]の化学者[[ウィリアム・ヘンリー (化学者)|ウィリアム・ヘンリー]]が[[1801年]]に出版した ''An Epitome of Chemistry'' である。宇田川榕菴はこれらの出版に際し、日本語のまだ存在しなかった学術用語に新しい造語を作って翻訳した。[[酸素]]、[[水素]]、[[窒素]]、[[炭素]]といった[[元素]]名や[[酸化]]、[[還元]]、[[溶解]]、[[分析]]といった化学用語は、宇田川榕菴によって考案された造語である<ref>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=奥野久輝 |authorlink= |coauthors= |translator= |year=1980 |title=江戸の化学 (玉川選書) |publisher=玉川大学出版部 |pages=54-62 |id= |isbn=978-4472152115 |quote= }}</ref>。 「化学」という単語は[[川本幸民]]が著書『[[化学新書]]』(1861年)で初めて用い、後に明治政府が正式に採用した。これは、他の学問用語と同様に日本から[[中国]]などへ伝わった和製漢語の一つとされていたが<ref>{{cite journal|和書|url=https://kanazawa-u.repo.nii.ac.jp/records/28159 |hdl=2297/3804 |author=関崎正夫|title=マッチと清水誠:日本で初めてマッチの国産化をした人|journal=金沢大学サテライト・プラザ「ミニ講演」講演録集|publisher=金沢大学大学教育開放センター|date=2006|accessdate=2019-10-16}}</ref>、近年では中国語からの借入語であるとされている<ref>{{cite journal|和書|url=https://teapot.lib.ocha.ac.jp/records/40953 |hdl=10083/51908 |title=和製漢語と中国語|author=陳力衛|journal=比較日本学教育研究センター研究年報|volume=8|year=2012|pages=217-222|publisher=お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター}}</ref>。中国では、「化学」という単語は[[墨海書館]]が発行した月刊誌『{{仮リンク|六合叢談|zh|六合丛谈}}』の1857年の号が初出である<ref name="sheng2000">{{cite journal|author=沈国威 |title=译名“化学”的诞生 |journal=自然科学史研究 |year=2000 |volume=19 |issue=1 |pages=55-71 |url=http://www.zyslib.org:8082/reslib/400/120/040/L000000000223925.pdf |deadurl=bot: unknown |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130731124315/http://www.zyslib.org:8082/reslib/400/120/040/L000000000223925.pdf |archivedate=2013-07-31 }}</ref>。一般には、中国語の単語「化学」は[[徐寿]]がイギリスの専門書『化学鑑原』(1871年)を翻訳する際に造ったと信じられてきた。 == 学会組織 == [[File:Lab bench.jpg|right|200px|thumb|化学実験室には安全のために多数の専用設備が備えられている]] 世界のほとんどの国では、化学の専門教育は大学を中心とした機関が担っている。その中でも[[理学部]]系の化学科や専攻は基礎的な領域を、[[工学部]]系では応用的な部分を扱うことが多い。薬学部や工学部の材料工学科などは専門性が高くなる<ref name="Saito"/>。 研究者を横断的に繋げる[[学会]]も組織され、日本では[[日本化学会]]が全体を網羅する。研究分野ごとには[[化学工学会]]や[[高分子学会]]などの[[:Category:化学系学会|化学系学会]]があり、大学や企業の研究者らが加わっている<ref name="Saito"/>。[[アメリカ化学会]]は、多様な化学物質のデータベース整備を1907年から行っており、近年では[[インターネット]]上でアクセス可能な「[[Chemical Abstracts]]」を公開している<ref name="Saito"/>。 国際的な学会連合は[[国際純正・応用化学連合]] (IUPAC) が組織され、[[単位]]や[[記号]]の世界統一に関する勧告や取り決めなどを行ったり、他の科学組織との協議を行う母体となっている<ref name="Saito"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|title=岩波理化学辞典|author=編:久保亮五、長倉三郎、井口洋夫、江沢洋|publisher=[[岩波書店]]|edition=第4版第9刷|year=1994|isbn=4-00-080015-9|ref=岩波理化学1994}} * {{Cite book|和書|title=化学入門コース 化学の基礎|author=竹内敬人|publisher=岩波書店|edition=第1刷|year=1996|isbn=4-00-007981-6|ref=竹内1996}} * {{Cite book|和書|title=化学概論‐物質科学の基礎‐|author=杉浦俊男、中谷純一、山下茂、吉田壽勝|publisher=化学同人|edition=第1版|year=1987|isbn=4-7598-0159-6|ref=杉浦ら1987}} * {{Cite book|和書|title=化学の歴史|author=アイザック・アシモフ|authorlink=アイザック・アシモフ|translator=玉虫文一、竹内敬人 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経済学
経済学(けいざいがく、英: economics)とは、経済についての学問、経済現象を対象とする社会科学の一領域である。 英語圏では従来political economy(政治経済学)と呼ばれてきたが、19 世紀後半以降、economics(経済学)と呼ばれるようになった。原語であるeconomicsという語彙は、新古典派経済学者アルフレッド・マーシャルの主著『経済学原理』(英: Principles of Economics, 1890年)によって誕生・普及したとされている。 economics (エコノミクス)の語源は、古代ギリシア語で「世帯または家族の管理、質素、倹約家」「家政機関共同体のあり方」 を意味するοικονομικός (オイコノミコス) や、「家」を意味するオイコス(οἶκος)と「慣習・法」を意味するノモス(νόμος)から合成された οἰκονομία (オイコノミア) に由来する。 クセノポンによる著作『家政論(オイコノミ)』がある。 現代の経済学についての、一般的な定義では、経済現象の法則を研究する学問、人間社会における物質的な財やサービスの需要と供給の法則を研究する学問とされる。しかし、経済学者による定義は多様であり、経済学者による様々な見解を反映している。 最大の重商主義者と称される18世紀スコットランドの経済学者ジェームズ・ステュアートは、1767年の著書『An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy (政治経済学原理の研究)』で、アダム・スミスより先に、はじめて「ポリティカルーエコノミー(経済学)」という表題を用いたが、次のように定義した。 スコットランドの哲学者・経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で、政治経済学を、国民の富の性質と動機の研究と定義し、人々に十分な収入や生活費を提供すること、公共サービスのための収入を国家にもたらすことと定義した。 フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは1803年に、公共政策からは区別されるものとして、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義した。 ジョン・スチュアート・ミルは1844年に、次のように定義した。 風刺としては、トーマス・カーライルは1849年に、古典派経済学の異名として「陰気な科学」と呼んだが、これはマルサス (1798) の悲観的分析に対してのものであった。 カール・マルクスは、『資本論』(1867年)で次のように述べた。 さらに、マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスは、経済学について次のように述べた。 アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』(1890)において、次のように定義した。 マーシャルは続けて、宗教と経済は人間の歴史の二大作用であるが、人間の性格は、日々の仕事とそれによって獲得される物質的資源によって形成される、人が生計を立てるためのビジネスは、その人の心が最高の状態にある時間の大部分を満たしており、自分の能力をどう用いるか、仕事が与える考えや感情、同僚、雇用主、従業員との関係などによって、人の性格は形成されるとして、経済や仕事は人間に強い影響力をもたらすと主張した。マーシャルの定義は、富の分析を超えて、社会からミクロ経済学のレベルまで定義を拡張し、今でも広く引用されている。 その後、ライオネル・ロビンズが1932年に、過去の経済学者は、いかに富が生まれ(生産)、分配され、消費され、成長するかという富の分析に研究の中心を置いてきたと指摘したうえで、カール・メンガーやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを参照しながら次のように定義した。 ロビンズは、この定義は、特定の種類の行動を選択するという分類的なものとしてではなく、稀少性がもたらす影響によって行動の形態がいかなるものになるかということに注意を向けるような分析的なものであると説明した。 しかし、こうした定義にはジョン・メイナード・ケインズやロナルド・コースらからの批判もある。経済問題は性質上、価値観や道徳・心理といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う倫理学であって、科学ではないというものである。ロビンズの定義は、過度に広範で、市場を分析する上では失敗していると批判されたが、1960年代以降、合理的選択理論が登場し、以前は他の学問で扱われていた分野にも経済学の領域を拡大したため、そのような批判は弱まった。 ポール・サミュエルソンは、以下のように定義する。 一方で、とりわけゲーム理論の経済学への浸透を受けて、経済学の定義は変化しつつある。たとえば、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツは、トレードオフ、インセンティブ、交換、情報、分配という五つが重要な手がかりとなるとして、以下のように経済学を定義した。 また、ノーベル賞受賞者ロジャー・マイヤーソンも、今日の経済学者は自らの研究分野を以前より広く、全ての社会的な制度における個人のインセンティブの分析と定義できる、と述べた(1999年)。 ゲーリー・ベッカーは自分のアプローチを、行動、安定した選好、市場の均衡の最大化という仮定を組み合わせ、絶え間なく、大胆に使用することと説明した。 ハジュン・チャンは、経済学を商品やサービスの生産、交換、流通に関する研究とであると定義したうえで、生物学が、DNA分析、解剖学、動物の行動のゲーム理論など、さまざまな方法で研究されており、それらはすべて生物学と呼ばれるように、経済学は、方法論や理論的アプローチではなく、取り扱っている調査対象の観点から定義されるべきであると指摘する。 このように現在では、資本主義・貨幣経済における人や組織の行動を研究するものが中心となっている。広義においては、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない、価値をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は、人類学、社会学、政治学、心理学と隣接する学際領域である。 また、労働、貨幣、贈与などはしばしば哲学・思想的考察の対象となっている。ただし、経済システムの働きに深く関わる部分については経済思想史と呼ばれ、経済学の一分野として考えられることも多い。 自然科学と比べると、不確実性の大きいヒトが関わるできごとが研究対象であるゆえ、数理化・実験が困難な分野が多い人文科学・社会科学の中において、経済学では、積極的に数理化がなされ、その検証が試みられている。そうした性質に着目し、経済学は「社会科学の女王」と呼ばれることがある。 しかし、心理が関与する人間の行動、および、そうした人間が集団を構成した複雑な社会を数理モデル化することは容易ではない。 現実の経済現象の観察、モデル構築、検証という一連の循環的プロセスは、いまだ十分であるとは言えないし、本当にそうした手法が経済学の全ての対象に対して実現可能であるのかどうかも定かではない、とされることもある。また、客観的に分析しているようであっても、実際には多かれ少なかれ価値観が前提として織り込まれているということやそうでなければならないことは、上述のごとくケインズやコースが指摘している。また、経済学には多かれ少なかれ経済思想史およびイデオロギーが含まれる。 理論経済学では、数学を用いたモデルがある。関連のある数学の分野として、位相空間論、関数解析学、凸解析、微分積分学、確率論、数理最適化などが挙げられる。確率微分方程式や不動点定理など数学におけるブレイクスルーが経済学に大きく影響を与えることもある。ジョン・フォン・ノイマンやジョン・ナッシュ、デイヴィッド・ゲール、スティーヴン・スメイルなどの数学者や理論物理学者が経済学に貢献することも珍しくなく、チャリング・クープマンス、マイロン・ショールズ、宇沢弘文、二階堂副包など数学、物理学、工学出身の経済学者も少なくない。 理論経済学はミクロ経済学とマクロ経済学という2つの分野からなる。ミクロ経済学は、消費者と生産者という経済の最小単位の行動から経済現象を説明する。マクロ経済学は、国全体の経済に着目する。今日では、マクロ経済学においても、消費者・生産者の行動に基づく分析が主流であり(マクロ経済学のミクロ的基礎付け)、マクロ経済学はミクロ経済学の応用分野と見ることができる。 統計学において経済関連の統計が主流分野として立脚していること、統計学者や経済学者と統計学者を兼ねる者が両分野の発展に大きく貢献してきたことからもわかるように、古くから社会全体を実験室に見立てて統計学を使い裏付ける方法が経済学において多用され影響を与えてきた。こうした分野は計量経済学と呼ばれる。 実証の現代の新潮流にはダニエル・カーネマン、エイモス・トベルスキー、バーノン・スミスなど心理学(認知心理学)、認知科学の流れをくみ行動実験を用いて消費者行動を裏付ける方法が強力な道具として提供され急成長している。こうした分野は実験経済学と呼ばれる。この流れから、行動経済学、神経経済学という分野が、心理学者と心理学的素養を持つ経済学者によって生み出されている。 経済学は、その誕生・分析対象が社会・政治・経済問題と不可分であったことから政策への提言として社会へ関わる機会が非常に多い。19世紀以降は、社会的な判断において経済学が不可欠となった。社会問題を対象としている性質からか、社会的不幸を予測する理論も多々生まれトーマス・カーライルによって「陰鬱な学問」とも呼ばれた。先駆的政策(事実上の実験)の過程と結果から新たな学問的問題を提起したソビエト連邦による社会主義建設は失敗し「壮大な社会実験」として総括されているが、この社会主義的政策が、第二次世界大戦後日本で採られた傾斜生産方式のように社会に有益な影響を与えたのも事実である。ちなみに、主流派経済学では傾斜生産方式の有用性について疑問符を投げかけている。 1980年代からゲーム理論が積極的に取り入られるようになり、特にマーケット・デザインと呼ばれる分野における成果はめざましい。具体的には、周波数オークションの設計、電力市場の制度設計、教育バウチャー制度の設計、臓器移植の配分問題の解決といったものが挙げられる。これらはいずれも経済学なくして解決できなかった問題であり、さらに経済学が現実の制度設計において非常に重要な役割を果たしていることの好例である。 有限な事物の分配・生産が対象であり、人間が知覚できる有限性がなければ対象とはならない。例えば宇宙空間は未だに対象ではないが、東京に供給されるビル空間の量は対象である。その他にも、人間行動の心理的要素や制度的側面も重要な研究対象である。 また、事実解明的分析と規範的分析に分けられる。前者は理論的に説明・判断できる分析であり、後者は価値判断や政策決定に使われる分析である。例えば「政府支出を増やすと失業が減少する」は真偽が判明する分析であるが、「政府支出を増やして(財政赤字を増やしてでも)失業が減少したほうが良い」は価値判断が絡む分析である。 経済学は、法学、数学、哲学などと比べて、比較的新しい学問である。経済学は、近世欧州列強の著しい経済発展とともに誕生し、その後資本主義経済がもたらしたさまざまな経済現象や経済システムについての研究を積み重ね、現代に至る。 経済学の最初を遡るとすると、古代ギリシャのプラトンの国家論にまで遡る。プラトンは、民主制を否定し、ポリスのために善く生きることを求め、消費欲や財産欲を禁止し、貨幣の使用も禁止し、人口も完全に規制される国家を理想とした。これは、ペロポネソス戦争で敗北したアテネに商品経済が浸透し、格差が拡大するなか、身分制社会を維持するためにこのように主張したとされる。 続くアリストテレスは、財産の共有制を批判し、商品の売買も容認したが、金儲けのための交換(クレマティスティケ)を、ポリスのために善く生きることを忘れることになるとして批判した。 トマス・アクィナスは、私有財産を肯定しながら、困窮者の財産請求権(緊急権)を例外としてみとめた。 経済についての研究の始まりはトーマス・マン(1571年 - 1641年)によって書かれた『外国貿易によるイングランドの財宝』や、ウィリアム・ペティ(1623年 - 1687年)の『租税貢納論』、バーナード・デ・マンデヴィル(1670年 - 1733年)の『蜂の寓話』、ダニエル・デフォー(1660年 - 1731年)の『イギリス経済の構図』、デイヴィッド・ヒューム(1711年 - 1776年)の『政治論集』などに見られるような重商主義の学説である。この時代には欧州列強が海外植民地を獲得し、貿易を進めて急速に経済システムを発展させていた。 イギリスの重商主義の批判としてフランスでは重農主義が登場し、政府の介入なしでも経済は自律的に動くと主張した。フランソワ・ケネーが『経済表』(1758年)を書き、国民経済の再生産システムを解明して、経済学の体系化の発端となった。 アダム・スミスが資本主義工場生産について論じた『国富論』(1776年)が、現在の理論化された経済学の直系で最古の理論にあたる。そのため、スミスは、経済学の父と呼ばれている。経済学では、一般的に『国富論』を持って始まりとされる。また、デイヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』(1817年)、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』(1798)や『経済学原理』(1820)、J.S.ミルの『政治経済学原理』(1848)などが、英国古典派経済学の基礎を築いていった。 共産主義を主張したカール・マルクス(1818年 - 1883年)はイギリス古典派経済学を中心に当時の経済学を徹底して研究し、労働価値説を継承しつつ新たに価値論や剰余価値論を体系化し、資本の諸形態を再定義して資本主義経済の構造と運動法則の解明をおこなった。マルクスの長年にわたる経済学研究は主著『資本論』に結実した。 マルクスの後、マルクス経済学とよばれる流れは、資本主義経済の諸法則も諸概念も不変のものではなく、生成・発展・消滅する過程にあるものとしてとらえ、資本家は労働力に支払った以上の価値を労働力から取り出すという剰余価値説にもとづいて資本主義経済を分析した。 カール・カウツキー(1854年 - 1938年)の『カール・マルクスの経済学説』や『エルフルト要領解説』、ルドルフ・ヒルファーディング(1877年 - 1941年)の『金融資本論』、ローザ・ルクセンブルク(1870年 - 1919年)の『資本蓄積論』、ウラジーミル・レーニン(1870年 - 1924年)の『ロシアにおける資本主義の発達』や『帝国主義論』などの研究を通じて継承・展開された。 しかしながら、マルクスの経済理論をモデル化して検証を行うと、理論の膨大さゆえにマルクスの理論体系は不整合に陥っており、以下の3つの矛盾を説明できない。(1)剰余価値率が諸部門間で均等化する。(2)技術進歩の結果利潤率は下落する。(3)技術進歩の結果利潤率は下落すると仮に言えたとしても、実質賃金もまた下落する。 新古典派経済学と呼ばれる学派が、資本主義経済の現象を数理的に分析する手法を発展させてきた。 ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1798年 - 1855年)の『経済学の数学的一般理論の考察』や『経済学の理論』、レオン・ワルラス(1834年 - 1910年)の『純粋経済学要論』や『応用経済学研究』、カール・メンガー(1840年 - 1910年)の『国民経済原理』や『社会科学特に経済学の方法に関する研究』、アルフレッド・マーシャル(1843年 - 1924年)の『外国貿易と国内価値との純粋理論』や『経済学原理』、ヨーゼフ・シュンペーター(1883年 - 1950年)の『理論経済学の本質と主要内容』や『経済発展の理論』などの研究を通じて発展していくこととなる。 ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で、市場に任せただけでは失業が発生するので、政府による適切な市場介入(政府支出と減税)で有効需要を創出する必要があると主張し、マクロ経済学の主流となっていった。ジョン・ヒックスやポール・サミュエルソンらのネオ・ケインジアン経済学によって、発展していった。サミュエルソンは著書『経済学 第3版』(1955)で、ケインズ政策で雇用環境が改善されたあとは、従来のミクロ経済学のような民間の市場を活用した経済活動にまかせるのがよいとする混合経済を説いて、ミクロ経済学のミクロ経済学とマクロ経済学の国民所得理論を総合する新古典派総合を主張した。しかし、1970年代に、スタグフレーションが先進資本主義国を覆ったことで影響力を失っていった、 1970年代には、ロバート・ルーカス (経済学者)が、ケインズ的な財政・金融政策は家計や企業の合理的予想(期待)で相殺されて無効となるという合理的期待形成仮説を発表した。1976年にルーカスは、経済システムの中にいる国民と政府が、経済法則(期待)を知っており、それに基づいて行動すると、結果的に法則が変わり得ること、すなわち、期待(経済法則)は自己言及性を持つため、経済政策は効果を失うというルーカス批判を行った。ルーカスらはエドワード・プレスコットの『裁量よりもルール』(1977)とともに、リアルビジネスサイクル理論などを提唱し、新しい古典派 ( New classical economics )が形成され、これがマクロ経済学の主流となった。 その後、市場の失敗が起こる要因を重視し、これを是正するマクロ政策を再構築しようとするグレゴリー・マンキューやデビッド・ローマーのニュー・ケインジアンが台頭した。 主流派経済学(新古典派経済学とケインズ経済学)とマルクス経済学は、米ソ冷戦という現実政治の影響もあり、長期間にわたって対立した。ソビエト連邦の崩壊・冷戦終了時には、古典的マルクス経済学に対する否定的研究が数多く行われ、非数理的・訓古主義的な性質が批判された(マルクス主義批判)。ソ連型社会主義で実施された計画経済の誤りがソ連・東欧の崩壊で明白になり、今日では、市場という需給調整のメカニズムを数理的に扱い発展した主流派経済学が経済研究の中心となり、市場を通じて社会主義社会を目指すとしている中華人民共和国やベトナムなどでもマルクス経済学のみならず主流派経済学の研究も行われるようになった。その一方で、主流派経済学では、賃労働における搾取などの生産面での矛盾や貧富の格差の拡大、経済活動による自然破壊などを説明できないとのマルクス経済学者からの批判も続いている。 また、アメリカ合衆国を中心とした西側資本主義国で発展させられてきた主流派経済学は、非歴史的・非文化的で数理モデル一辺倒な性質をマルクス経済学者やポスト・ケインジアンなどに指摘されている。 主流派経済学における比較的新しい動きとして、ゲーム理論と行動経済学の発展がある。伝統的な主流派経済学では、完全競争の仮定ゆえ、経済主体間の相互の影響は考慮されていない。それに対して、市場が寡占の状態である場合、各企業の選択は他の企業の利潤に影響を与える。こうした相互依存を分析する道具として、ゲーム理論が主流派経済学の中心的な理論の1つとなった。伝統的な主流派経済学では、各経済主体は合理的で利己的な存在とされてきた。しかし、さまざまな実験が、この仮定が必ずしも適切ではないことを示している。こうした、合理的でなかったり、利己的でなかったりする経済主体の意思決定を定式化する分野が行動経済学であり、主流派経済学で広く受け入れられている。 異端派経済学として、近年新しい体系がさまざまに模索されている。とくに1980年代以降、進化経済学が世界的に興隆してきており、新しい主流派を形成しつつあるという評価もある。進化経済学以外にも、ポスト・ケインズ派の経済学、オーストリア学派の経済学、複雑系経済学などがある。 経済学と経営学の違いの第1は、経済学が研究方法に重きを置くのに対して、経営学は研究対象に重きを置くことである。 経済学は独自の研究方法を有しており、その方法に則ってさえすれば、研究対象が必ずしも経済に関わるものでなくとも経済学たりうる。実際、医療、教育、文化なども経済学で活発に研究されている。 経営学では企業の経営という研究対象が先にあり、その対象を研究するため、経済学、心理学、社会学などの方法が用いられる。 こうした違いは、経済学、経営学が教育・研究される組織の違いにも表れている。米国の大学では、経済学は、数学、物理学、心理学などと同様Faculty of Arts and Sciencesのdepartmentで教育・研究されるのに対し、経営学は、医学、法学などと同様個別のprofessional schoolで教育・研究されることが多い。 経済学と経営学の違いの第2は、経済学の主な研究対象が経済という大きなものであるのに対して、経営学の研究対象が企業という小さいものであることである。企業の経済活動を研究対象とする、という点では両者共通だが、マクロの経済学においては、日本の経済、アジアの経済、世界の経済といった大きなくくりでの研究となる。そこで用いられるのが「経済人」という考え方だ。すべての人間は客観的で経済合理的に行動すると考える。マクロで捉える場合、個人的な好みの差などは考えず、皆が同じ行動をすると考えるのである。これに対して、ミクロの経営学の場合は一つの企業、またはその企業の中の一つの部門、さらにはその中のグループを構成する個人、というレベルまで研究対象とする。この場合は中にいる人間が主役となるので、個人の差の問題までも考慮する。ここで用いられるのが「経営人」という考え方だ。経営人は経済人と違い、皆がすべて情報を持つのではなく、限られた情報をもとに、自ら満足・不満足、という基準で意思決定を行う限定的合理性に基づく行動をとると考える。 経済学は、存在自体が社会・政治・経済・政策と不可分であるため、学術的な論争や政策的な論争など数多の論争を生み出し消化してきた。それによって、経済学徒は、他学徒に「傲慢である」と印象を与えてしまうほど非常に攻撃的な知的スタイルを形成している。しかし、論争は、経済学にとって理論を洗練させブレイクスルーを起こす役割を担ってきた。このように、経済学と論争は、切っても切れない関係にあるといえる。ここでは、経済学において歴史的に重要な意味を持った論争を取り上げる。 これらは経済学全般の学術雑誌であり、経済学の各分野ごとにも学術雑誌がある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "経済学(けいざいがく、英: economics)とは、経済についての学問、経済現象を対象とする社会科学の一領域である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "英語圏では従来political economy(政治経済学)と呼ばれてきたが、19 世紀後半以降、economics(経済学)と呼ばれるようになった。原語であるeconomicsという語彙は、新古典派経済学者アルフレッド・マーシャルの主著『経済学原理』(英: Principles of Economics, 1890年)によって誕生・普及したとされている。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "economics (エコノミクス)の語源は、古代ギリシア語で「世帯または家族の管理、質素、倹約家」「家政機関共同体のあり方」 を意味するοικονομικός (オイコノミコス) や、「家」を意味するオイコス(οἶκος)と「慣習・法」を意味するノモス(νόμος)から合成された οἰκονομία (オイコノミア) に由来する。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "クセノポンによる著作『家政論(オイコノミ)』がある。", "title": "語源" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "現代の経済学についての、一般的な定義では、経済現象の法則を研究する学問、人間社会における物質的な財やサービスの需要と供給の法則を研究する学問とされる。しかし、経済学者による定義は多様であり、経済学者による様々な見解を反映している。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "最大の重商主義者と称される18世紀スコットランドの経済学者ジェームズ・ステュアートは、1767年の著書『An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy (政治経済学原理の研究)』で、アダム・スミスより先に、はじめて「ポリティカルーエコノミー(経済学)」という表題を用いたが、次のように定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "スコットランドの哲学者・経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で、政治経済学を、国民の富の性質と動機の研究と定義し、人々に十分な収入や生活費を提供すること、公共サービスのための収入を国家にもたらすことと定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "フランスの経済学者ジャン=バティスト・セイは1803年に、公共政策からは区別されるものとして、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "ジョン・スチュアート・ミルは1844年に、次のように定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "風刺としては、トーマス・カーライルは1849年に、古典派経済学の異名として「陰気な科学」と呼んだが、これはマルサス (1798) の悲観的分析に対してのものであった。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "カール・マルクスは、『資本論』(1867年)で次のように述べた。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "さらに、マルクスの盟友フリードリヒ・エンゲルスは、経済学について次のように述べた。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アルフレッド・マーシャルは『経済学原理』(1890)において、次のように定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "マーシャルは続けて、宗教と経済は人間の歴史の二大作用であるが、人間の性格は、日々の仕事とそれによって獲得される物質的資源によって形成される、人が生計を立てるためのビジネスは、その人の心が最高の状態にある時間の大部分を満たしており、自分の能力をどう用いるか、仕事が与える考えや感情、同僚、雇用主、従業員との関係などによって、人の性格は形成されるとして、経済や仕事は人間に強い影響力をもたらすと主張した。マーシャルの定義は、富の分析を超えて、社会からミクロ経済学のレベルまで定義を拡張し、今でも広く引用されている。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "その後、ライオネル・ロビンズが1932年に、過去の経済学者は、いかに富が生まれ(生産)、分配され、消費され、成長するかという富の分析に研究の中心を置いてきたと指摘したうえで、カール・メンガーやルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを参照しながら次のように定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "ロビンズは、この定義は、特定の種類の行動を選択するという分類的なものとしてではなく、稀少性がもたらす影響によって行動の形態がいかなるものになるかということに注意を向けるような分析的なものであると説明した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "しかし、こうした定義にはジョン・メイナード・ケインズやロナルド・コースらからの批判もある。経済問題は性質上、価値観や道徳・心理といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う倫理学であって、科学ではないというものである。ロビンズの定義は、過度に広範で、市場を分析する上では失敗していると批判されたが、1960年代以降、合理的選択理論が登場し、以前は他の学問で扱われていた分野にも経済学の領域を拡大したため、そのような批判は弱まった。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "ポール・サミュエルソンは、以下のように定義する。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "一方で、とりわけゲーム理論の経済学への浸透を受けて、経済学の定義は変化しつつある。たとえば、ノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツは、トレードオフ、インセンティブ、交換、情報、分配という五つが重要な手がかりとなるとして、以下のように経済学を定義した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "また、ノーベル賞受賞者ロジャー・マイヤーソンも、今日の経済学者は自らの研究分野を以前より広く、全ての社会的な制度における個人のインセンティブの分析と定義できる、と述べた(1999年)。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ゲーリー・ベッカーは自分のアプローチを、行動、安定した選好、市場の均衡の最大化という仮定を組み合わせ、絶え間なく、大胆に使用することと説明した。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ハジュン・チャンは、経済学を商品やサービスの生産、交換、流通に関する研究とであると定義したうえで、生物学が、DNA分析、解剖学、動物の行動のゲーム理論など、さまざまな方法で研究されており、それらはすべて生物学と呼ばれるように、経済学は、方法論や理論的アプローチではなく、取り扱っている調査対象の観点から定義されるべきであると指摘する。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "このように現在では、資本主義・貨幣経済における人や組織の行動を研究するものが中心となっている。広義においては、交換、取引、贈与や負債など必ずしも貨幣を媒介としない、価値をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は、人類学、社会学、政治学、心理学と隣接する学際領域である。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、労働、貨幣、贈与などはしばしば哲学・思想的考察の対象となっている。ただし、経済システムの働きに深く関わる部分については経済思想史と呼ばれ、経済学の一分野として考えられることも多い。", "title": "経済学の定義 " }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "自然科学と比べると、不確実性の大きいヒトが関わるできごとが研究対象であるゆえ、数理化・実験が困難な分野が多い人文科学・社会科学の中において、経済学では、積極的に数理化がなされ、その検証が試みられている。そうした性質に着目し、経済学は「社会科学の女王」と呼ばれることがある。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "しかし、心理が関与する人間の行動、および、そうした人間が集団を構成した複雑な社会を数理モデル化することは容易ではない。 現実の経済現象の観察、モデル構築、検証という一連の循環的プロセスは、いまだ十分であるとは言えないし、本当にそうした手法が経済学の全ての対象に対して実現可能であるのかどうかも定かではない、とされることもある。また、客観的に分析しているようであっても、実際には多かれ少なかれ価値観が前提として織り込まれているということやそうでなければならないことは、上述のごとくケインズやコースが指摘している。また、経済学には多かれ少なかれ経済思想史およびイデオロギーが含まれる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "理論経済学では、数学を用いたモデルがある。関連のある数学の分野として、位相空間論、関数解析学、凸解析、微分積分学、確率論、数理最適化などが挙げられる。確率微分方程式や不動点定理など数学におけるブレイクスルーが経済学に大きく影響を与えることもある。ジョン・フォン・ノイマンやジョン・ナッシュ、デイヴィッド・ゲール、スティーヴン・スメイルなどの数学者や理論物理学者が経済学に貢献することも珍しくなく、チャリング・クープマンス、マイロン・ショールズ、宇沢弘文、二階堂副包など数学、物理学、工学出身の経済学者も少なくない。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "理論経済学はミクロ経済学とマクロ経済学という2つの分野からなる。ミクロ経済学は、消費者と生産者という経済の最小単位の行動から経済現象を説明する。マクロ経済学は、国全体の経済に着目する。今日では、マクロ経済学においても、消費者・生産者の行動に基づく分析が主流であり(マクロ経済学のミクロ的基礎付け)、マクロ経済学はミクロ経済学の応用分野と見ることができる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "統計学において経済関連の統計が主流分野として立脚していること、統計学者や経済学者と統計学者を兼ねる者が両分野の発展に大きく貢献してきたことからもわかるように、古くから社会全体を実験室に見立てて統計学を使い裏付ける方法が経済学において多用され影響を与えてきた。こうした分野は計量経済学と呼ばれる。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "実証の現代の新潮流にはダニエル・カーネマン、エイモス・トベルスキー、バーノン・スミスなど心理学(認知心理学)、認知科学の流れをくみ行動実験を用いて消費者行動を裏付ける方法が強力な道具として提供され急成長している。こうした分野は実験経済学と呼ばれる。この流れから、行動経済学、神経経済学という分野が、心理学者と心理学的素養を持つ経済学者によって生み出されている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "経済学は、その誕生・分析対象が社会・政治・経済問題と不可分であったことから政策への提言として社会へ関わる機会が非常に多い。19世紀以降は、社会的な判断において経済学が不可欠となった。社会問題を対象としている性質からか、社会的不幸を予測する理論も多々生まれトーマス・カーライルによって「陰鬱な学問」とも呼ばれた。先駆的政策(事実上の実験)の過程と結果から新たな学問的問題を提起したソビエト連邦による社会主義建設は失敗し「壮大な社会実験」として総括されているが、この社会主義的政策が、第二次世界大戦後日本で採られた傾斜生産方式のように社会に有益な影響を与えたのも事実である。ちなみに、主流派経済学では傾斜生産方式の有用性について疑問符を投げかけている。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1980年代からゲーム理論が積極的に取り入られるようになり、特にマーケット・デザインと呼ばれる分野における成果はめざましい。具体的には、周波数オークションの設計、電力市場の制度設計、教育バウチャー制度の設計、臓器移植の配分問題の解決といったものが挙げられる。これらはいずれも経済学なくして解決できなかった問題であり、さらに経済学が現実の制度設計において非常に重要な役割を果たしていることの好例である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "有限な事物の分配・生産が対象であり、人間が知覚できる有限性がなければ対象とはならない。例えば宇宙空間は未だに対象ではないが、東京に供給されるビル空間の量は対象である。その他にも、人間行動の心理的要素や制度的側面も重要な研究対象である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "また、事実解明的分析と規範的分析に分けられる。前者は理論的に説明・判断できる分析であり、後者は価値判断や政策決定に使われる分析である。例えば「政府支出を増やすと失業が減少する」は真偽が判明する分析であるが、「政府支出を増やして(財政赤字を増やしてでも)失業が減少したほうが良い」は価値判断が絡む分析である。", "title": "特徴" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "経済学は、法学、数学、哲学などと比べて、比較的新しい学問である。経済学は、近世欧州列強の著しい経済発展とともに誕生し、その後資本主義経済がもたらしたさまざまな経済現象や経済システムについての研究を積み重ね、現代に至る。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "経済学の最初を遡るとすると、古代ギリシャのプラトンの国家論にまで遡る。プラトンは、民主制を否定し、ポリスのために善く生きることを求め、消費欲や財産欲を禁止し、貨幣の使用も禁止し、人口も完全に規制される国家を理想とした。これは、ペロポネソス戦争で敗北したアテネに商品経済が浸透し、格差が拡大するなか、身分制社会を維持するためにこのように主張したとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "続くアリストテレスは、財産の共有制を批判し、商品の売買も容認したが、金儲けのための交換(クレマティスティケ)を、ポリスのために善く生きることを忘れることになるとして批判した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "トマス・アクィナスは、私有財産を肯定しながら、困窮者の財産請求権(緊急権)を例外としてみとめた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "経済についての研究の始まりはトーマス・マン(1571年 - 1641年)によって書かれた『外国貿易によるイングランドの財宝』や、ウィリアム・ペティ(1623年 - 1687年)の『租税貢納論』、バーナード・デ・マンデヴィル(1670年 - 1733年)の『蜂の寓話』、ダニエル・デフォー(1660年 - 1731年)の『イギリス経済の構図』、デイヴィッド・ヒューム(1711年 - 1776年)の『政治論集』などに見られるような重商主義の学説である。この時代には欧州列強が海外植民地を獲得し、貿易を進めて急速に経済システムを発展させていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "イギリスの重商主義の批判としてフランスでは重農主義が登場し、政府の介入なしでも経済は自律的に動くと主張した。フランソワ・ケネーが『経済表』(1758年)を書き、国民経済の再生産システムを解明して、経済学の体系化の発端となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "アダム・スミスが資本主義工場生産について論じた『国富論』(1776年)が、現在の理論化された経済学の直系で最古の理論にあたる。そのため、スミスは、経済学の父と呼ばれている。経済学では、一般的に『国富論』を持って始まりとされる。また、デイヴィッド・リカードの『経済学および課税の原理』(1817年)、トマス・ロバート・マルサスの『人口論』(1798)や『経済学原理』(1820)、J.S.ミルの『政治経済学原理』(1848)などが、英国古典派経済学の基礎を築いていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "共産主義を主張したカール・マルクス(1818年 - 1883年)はイギリス古典派経済学を中心に当時の経済学を徹底して研究し、労働価値説を継承しつつ新たに価値論や剰余価値論を体系化し、資本の諸形態を再定義して資本主義経済の構造と運動法則の解明をおこなった。マルクスの長年にわたる経済学研究は主著『資本論』に結実した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "マルクスの後、マルクス経済学とよばれる流れは、資本主義経済の諸法則も諸概念も不変のものではなく、生成・発展・消滅する過程にあるものとしてとらえ、資本家は労働力に支払った以上の価値を労働力から取り出すという剰余価値説にもとづいて資本主義経済を分析した。 カール・カウツキー(1854年 - 1938年)の『カール・マルクスの経済学説』や『エルフルト要領解説』、ルドルフ・ヒルファーディング(1877年 - 1941年)の『金融資本論』、ローザ・ルクセンブルク(1870年 - 1919年)の『資本蓄積論』、ウラジーミル・レーニン(1870年 - 1924年)の『ロシアにおける資本主義の発達』や『帝国主義論』などの研究を通じて継承・展開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "しかしながら、マルクスの経済理論をモデル化して検証を行うと、理論の膨大さゆえにマルクスの理論体系は不整合に陥っており、以下の3つの矛盾を説明できない。(1)剰余価値率が諸部門間で均等化する。(2)技術進歩の結果利潤率は下落する。(3)技術進歩の結果利潤率は下落すると仮に言えたとしても、実質賃金もまた下落する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "新古典派経済学と呼ばれる学派が、資本主義経済の現象を数理的に分析する手法を発展させてきた。 ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ(1798年 - 1855年)の『経済学の数学的一般理論の考察』や『経済学の理論』、レオン・ワルラス(1834年 - 1910年)の『純粋経済学要論』や『応用経済学研究』、カール・メンガー(1840年 - 1910年)の『国民経済原理』や『社会科学特に経済学の方法に関する研究』、アルフレッド・マーシャル(1843年 - 1924年)の『外国貿易と国内価値との純粋理論』や『経済学原理』、ヨーゼフ・シュンペーター(1883年 - 1950年)の『理論経済学の本質と主要内容』や『経済発展の理論』などの研究を通じて発展していくこととなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)で、市場に任せただけでは失業が発生するので、政府による適切な市場介入(政府支出と減税)で有効需要を創出する必要があると主張し、マクロ経済学の主流となっていった。ジョン・ヒックスやポール・サミュエルソンらのネオ・ケインジアン経済学によって、発展していった。サミュエルソンは著書『経済学 第3版』(1955)で、ケインズ政策で雇用環境が改善されたあとは、従来のミクロ経済学のような民間の市場を活用した経済活動にまかせるのがよいとする混合経済を説いて、ミクロ経済学のミクロ経済学とマクロ経済学の国民所得理論を総合する新古典派総合を主張した。しかし、1970年代に、スタグフレーションが先進資本主義国を覆ったことで影響力を失っていった、", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1970年代には、ロバート・ルーカス (経済学者)が、ケインズ的な財政・金融政策は家計や企業の合理的予想(期待)で相殺されて無効となるという合理的期待形成仮説を発表した。1976年にルーカスは、経済システムの中にいる国民と政府が、経済法則(期待)を知っており、それに基づいて行動すると、結果的に法則が変わり得ること、すなわち、期待(経済法則)は自己言及性を持つため、経済政策は効果を失うというルーカス批判を行った。ルーカスらはエドワード・プレスコットの『裁量よりもルール』(1977)とともに、リアルビジネスサイクル理論などを提唱し、新しい古典派 ( New classical economics )が形成され、これがマクロ経済学の主流となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "その後、市場の失敗が起こる要因を重視し、これを是正するマクロ政策を再構築しようとするグレゴリー・マンキューやデビッド・ローマーのニュー・ケインジアンが台頭した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "主流派経済学(新古典派経済学とケインズ経済学)とマルクス経済学は、米ソ冷戦という現実政治の影響もあり、長期間にわたって対立した。ソビエト連邦の崩壊・冷戦終了時には、古典的マルクス経済学に対する否定的研究が数多く行われ、非数理的・訓古主義的な性質が批判された(マルクス主義批判)。ソ連型社会主義で実施された計画経済の誤りがソ連・東欧の崩壊で明白になり、今日では、市場という需給調整のメカニズムを数理的に扱い発展した主流派経済学が経済研究の中心となり、市場を通じて社会主義社会を目指すとしている中華人民共和国やベトナムなどでもマルクス経済学のみならず主流派経済学の研究も行われるようになった。その一方で、主流派経済学では、賃労働における搾取などの生産面での矛盾や貧富の格差の拡大、経済活動による自然破壊などを説明できないとのマルクス経済学者からの批判も続いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "また、アメリカ合衆国を中心とした西側資本主義国で発展させられてきた主流派経済学は、非歴史的・非文化的で数理モデル一辺倒な性質をマルクス経済学者やポスト・ケインジアンなどに指摘されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "主流派経済学における比較的新しい動きとして、ゲーム理論と行動経済学の発展がある。伝統的な主流派経済学では、完全競争の仮定ゆえ、経済主体間の相互の影響は考慮されていない。それに対して、市場が寡占の状態である場合、各企業の選択は他の企業の利潤に影響を与える。こうした相互依存を分析する道具として、ゲーム理論が主流派経済学の中心的な理論の1つとなった。伝統的な主流派経済学では、各経済主体は合理的で利己的な存在とされてきた。しかし、さまざまな実験が、この仮定が必ずしも適切ではないことを示している。こうした、合理的でなかったり、利己的でなかったりする経済主体の意思決定を定式化する分野が行動経済学であり、主流派経済学で広く受け入れられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "異端派経済学として、近年新しい体系がさまざまに模索されている。とくに1980年代以降、進化経済学が世界的に興隆してきており、新しい主流派を形成しつつあるという評価もある。進化経済学以外にも、ポスト・ケインズ派の経済学、オーストリア学派の経済学、複雑系経済学などがある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "経済学と経営学の違いの第1は、経済学が研究方法に重きを置くのに対して、経営学は研究対象に重きを置くことである。 経済学は独自の研究方法を有しており、その方法に則ってさえすれば、研究対象が必ずしも経済に関わるものでなくとも経済学たりうる。実際、医療、教育、文化なども経済学で活発に研究されている。 経営学では企業の経営という研究対象が先にあり、その対象を研究するため、経済学、心理学、社会学などの方法が用いられる。 こうした違いは、経済学、経営学が教育・研究される組織の違いにも表れている。米国の大学では、経済学は、数学、物理学、心理学などと同様Faculty of Arts and Sciencesのdepartmentで教育・研究されるのに対し、経営学は、医学、法学などと同様個別のprofessional schoolで教育・研究されることが多い。", "title": "経済学と経営学" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "経済学と経営学の違いの第2は、経済学の主な研究対象が経済という大きなものであるのに対して、経営学の研究対象が企業という小さいものであることである。企業の経済活動を研究対象とする、という点では両者共通だが、マクロの経済学においては、日本の経済、アジアの経済、世界の経済といった大きなくくりでの研究となる。そこで用いられるのが「経済人」という考え方だ。すべての人間は客観的で経済合理的に行動すると考える。マクロで捉える場合、個人的な好みの差などは考えず、皆が同じ行動をすると考えるのである。これに対して、ミクロの経営学の場合は一つの企業、またはその企業の中の一つの部門、さらにはその中のグループを構成する個人、というレベルまで研究対象とする。この場合は中にいる人間が主役となるので、個人の差の問題までも考慮する。ここで用いられるのが「経営人」という考え方だ。経営人は経済人と違い、皆がすべて情報を持つのではなく、限られた情報をもとに、自ら満足・不満足、という基準で意思決定を行う限定的合理性に基づく行動をとると考える。", "title": "経済学と経営学" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "経済学は、存在自体が社会・政治・経済・政策と不可分であるため、学術的な論争や政策的な論争など数多の論争を生み出し消化してきた。それによって、経済学徒は、他学徒に「傲慢である」と印象を与えてしまうほど非常に攻撃的な知的スタイルを形成している。しかし、論争は、経済学にとって理論を洗練させブレイクスルーを起こす役割を担ってきた。このように、経済学と論争は、切っても切れない関係にあるといえる。ここでは、経済学において歴史的に重要な意味を持った論争を取り上げる。", "title": "論争" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "これらは経済学全般の学術雑誌であり、経済学の各分野ごとにも学術雑誌がある。", "title": "学術雑誌" } ]
経済学とは、経済についての学問、経済現象を対象とする社会科学の一領域である。 英語圏では従来political economyと呼ばれるようになった。原語であるeconomicsという語彙は、新古典派経済学者アルフレッド・マーシャルの主著『経済学原理』によって誕生・普及したとされている。
{{経済学のサイドバー}} [[File:Photos NewYork1 032.jpg|thumb|[[ニューヨーク証券取引所]]がある[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク市]]の[[ウォールストリート]]。]] [[File:Former_London_Stock_Exchange_Building_-_geograph.org.uk_-_1501273.jpg|thumb|200px|[[イングランド]]・[[ロンドン]]の[[ロンドン証券取引所]]の建物。]] '''経済学'''(けいざいがく、{{lang-en-short|economics}})とは、[[経済]]についての[[学問]]、経済現象を対象とする[[社会科学]]の一領域である<ref name="koto-e">{{コトバンク|経済学}}</ref>。 英語圏では従来political economy(政治経済学)と呼ばれてきたが、19 世紀後半以降、economics(経済学)と呼ばれるようになった<ref>{{Cite book |last=Backhouse |first=Roger |url=https://www.worldcat.org/oclc/59475581 |title=The Penguin history of economics |date=2002 |isbn=0-14-026042-0 |location=London |pages=117 |oclc=59475581}}</ref>。原語であるeconomicsという語彙は、新古典派経済学者[[アルフレッド・マーシャル]]の主著『経済学原理』({{lang-en-short|''Principles of Economics''}}, 1890年)によって誕生・普及したとされている<ref>{{cite book|author= Viktor O. Ledenyov|author2= Dimitri O. Ledenyov|title= Business cycles in economics|publisher= LAP LAMBERT Academic Publishing|location= Dusseldorf, Germany|year= 2018|isbn= 978-613-8-38864-7}}</ref>{{sfn|井澤|2011}}。 == 語源 == economics (エコノミクス)の語源は、[[古代ギリシア語]]で「世帯または家族の管理、質素、倹約家<ref name="etymology"/>」「[[家政機関]][[共同体]]のあり方」<ref>佐藤雅彦・竹中平蔵 『経済ってそういうことだったのか会議』 日本経済新聞社学〈日経ビジネス人文庫〉、2002年、5頁。</ref><ref>{{Cite book|edition=1-han|title=Keizai-tte sō iu koto datta no ka kaigi|url=https://www.worldcat.org/oclc/45613525|publisher=Nihon Keizai Shinbunsha|date=2000|location=Tōkyō|isbn=4-532-14824-3|oclc=45613525|others=Heizō. Takenaka, 竹中平蔵.|first=Masahiko|last=Satō|last2=佐藤雅彦}}</ref> を意味する{{Lang|gr|[[wikt:en:οικονομικός|οικονομικός]]}} (オイコノミコス) や、「家」を意味するオイコス(οἶκος)と「慣習・法」を意味するノモス(νόμος)から合成された οἰκονομία (オイコノミア) に由来する<ref name="etymology">{{Cite dictionary |last=Harper |first=Douglas |author-link=Douglas Harper |date=February 2007 |title=Economy |url=http://www.etymonline.com/index.php?term=economic |access-date=27 October 2007 |archive-date=12 May 2013 |archive-url=https://web.archive.org/web/20130512162853/http://www.etymonline.com/index.php?term=economic |url-status=live |encyclopedia=Online Etymology Dictionary}}</ref><ref name="Free2010">{{Cite book |url=https://books.google.com/books?id=hRFadIRMaMsC&pg=PA8 |title=21st Century Economics: A Reference Handbook |publisher=SAGE Publications |year=2010 |isbn=978-1-4129-6142-4 |editor-last=Free |editor-first=Rhona C. |volume=1 |page=8}}</ref><ref name="MarshallMarshall1888">{{cite book |last1=Marshall |first1=Alfred |author-link1=Alfred Marshall |last2=Marshall |first2=Mary Paley |author-link2=Mary Paley Marshall |title=The Economics of Industry |url=https://archive.org/details/economicsindust00marsgoog |year=1888 |publisher=Macmillan |page=[https://archive.org/details/economicsindust00marsgoog/page/n22 2]|orig-year=1879}}</ref><ref name="Jevons1879">{{cite book |last=Jevons |first=William Stanley |author-link=William Stanley Jevons |title=The Theory of Political Economy |url=https://archive.org/details/theorypolitical00jevogoog |edition=second |year=1879 |publisher=Macmillan and Co |page=XIV}}</ref>。 [[クセノポン]]による著作『[[家政論]](オイコノミ)』がある。 == 経済学の定義 == 現代の経済学についての、一般的な定義では、経済現象の法則を研究する学問、人間社会における物質的な[[財]]や[[サービス]]の[[需要と供給]]の法則を研究する学問とされる<ref name="koto-e"/>。しかし、経済学者による定義は多様であり、経済学者による様々な見解を反映している<ref name="Backhouse">{{cite encyclopedia |author-link1=Roger E. Backhouse |last1=Backhouse |first1=Roger E. |title=The New Palgrave Dictionary of Economics |pages=720–722 |first2=Steven |last2=Medema |date=2008 |edition=second |editor-first1=Steven N. |editor-last1=Durlauf |editor-first2=Lawrence E. |editor-last2=Blume |chapter-url=http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_E000291 |doi=10.1057/9780230226203.0442 |isbn=978-0-333-78676-5 |chapter=Economics, definition of |access-date=23 December 2011 |archive-date=5 October 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171005001939/http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_E000291 |url-status=live }}</ref><ref name="BackhouseMedema2009">{{cite journal |last1=Backhouse |first1=Roger E. |first2=Steven |last2=Medema |date=Winter 2009 |title=Retrospectives: On the Definition of Economics |journal=[[Journal of Economic Perspectives]] |volume=23 |issue=1 |pages=221–233 |jstor=27648302 |doi=10.1257/jep.23.1.221}}</ref>。 最大の重商主義者と称される18世紀[[スコットランド]]の経済学者ジェームズ・ステュアートは、1767年の著書『An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy (政治経済学原理の研究)』で、アダム・スミスより先に、はじめて「ポリティカルーエコノミー(経済学)」という表題を用いたが<ref name="koto-JS">{{コトバンク|スチュアート(Sir James Denham Steuart)}}</ref>、次のように定義した。 {{quotation| この科学(経済学)の主要な目的は、全住民のために生活資料の一定のファンドを確保することであり、それを不安定にするおそれのある事情を全て取り除くことである。すなわち、社会の欲望を充足するのに必要な全ての物質を準備することであり、また住民の間で相互関係と相互依存の状態とが自ずから形成され、その結果それぞれの利益に導かれておのおのの相互的な欲望を充足させるように仕事を与えることである。」|ジェームズ・ステュアート『政治経済学原理』(1767年)<ref>James Denham-Steuart,An Inquiry into the Principles of Political Oeconomy、第一編、p1-3</ref><ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p35-36.</ref>}} [[スコットランド]]の哲学者・経済学者[[アダム・スミス]]は『[[国富論]]』(1776年)で、政治経済学を、国民の富の性質と動機の研究と定義し、人々に十分な収入や生活費を提供すること、公共サービスのための収入を国家にもたらすことと定義した<ref name="Groenwegen">{{cite book |last=Smith |first=Adam |author-link=Adam Smith |date=1776 |title=An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations|title-link=An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations }} and Book IV, as quoted in {{cite encyclopedia |first=Peter |last=Groenwegen |date=2008 |pages=476–480 |title=The New Palgrave Dictionary of Economics |edition=second |editor-first1=Steven N. |editor-last1=Durlauf |editor-first2=Lawrence E. |editor-last2=Blume |chapter-url=http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_P000114 |doi=10.1057/9780230226203.1300 |chapter=Political Economy |isbn=978-0-333-78676-5 |access-date=4 October 2017 |archive-date=5 October 2017 |archive-url=https://web.archive.org/web/20171005000524/http://www.dictionaryofeconomics.com/article?id=pde2008_P000114 |url-status=live }}</ref>。 {{quotation| [[政治経済学|政治経済学(ポリティカル・エコノミー)]]は、[[政治家]]や[[立法]]者の科学(サイエンス)の一分野として考えた場合には、二つの明確な目的がある。第一に、[[国民]]に十分な収入や食料などの生活物資を提供すること、つまり、より適切にいえば、国民が自分自身で、そのような収入や食料などの生活物資を入手できるようにすることであり、第二に、十分な[[公共サービス]]を提供するための収入を[[国家|国家(ステート)]]ないしは[[コモンウェルス|共和国(コモンウェルス)]]にもたらすことである。それが提案することは、国民と[[統治者]]の両方を豊かにすることなのである。|[[アダム・スミス]]『[[国富論]]』「第四編 政治経済学の体系についてー序論」高哲男訳<ref>アダム・スミス著 高哲男訳『国富論(上)』講談社学術文庫 2020年 614頁</ref>}} フランスの経済学者[[ジャン=バティスト・セイ]]は1803年に、公共政策からは区別されるものとして、経済学を、富の生産、分配、および消費の科学と定義した<ref name="Say1803">{{cite book|last=Say|first=Jean Baptiste|author-link=Jean-Baptiste Say|title=A Treatise on Political Economy|year=1803|publisher=Grigg and Elliot|title-link=Say's Political Economy}}</ref>。 [[ジョン・スチュアート・ミル]]は1844年に、次のように定義した。 {{quotation|富の生産のための人間の共同作業から生じる社会現象について、それらの現象が他の目的の追求によって変更されない限り、その法則を追跡する科学<ref>John Stuart Mill, [https://books.google.co.jp/books?id=c-0DAAAAQAAJ&pg=PR3&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false On the Definition of Political Economy; and on the Method of Investigation Proper to it], in Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, Essay V, M.DCCC.XLIV(1844), John W.Parker,West Strand, p.140.;The science which traces the laws of such of the phenomena of society as arise from the combined operations of mankind for the production of wealth, in so far as those phenomena are not modified by the pursuit of any other object.</ref>}} [[風刺]]としては、[[トーマス・カーライル]]は1849年に、古典派経済学の異名として「陰気な科学」と呼んだが、これはマルサス (1798) の悲観的分析に対してのものであった<ref name="Dismal">{{unbulleted list citebundle |1 = {{cite magazine |last=Carlyle |first=Thomas |author-link=Thomas Carlyle |date=1849 |title=Occasional Discourse on the Negro Question |magazine=[[Fraser's Magazine]] |title-link=Occasional Discourse on the Negro Question }} |2 = {{cite book |last=Malthus |first=Thomas Robert |author-link=Thomas Robert Malthus |date=1798 |title=An Essay on the Principle of Population |publisher=J. Johnson |location=London|title-link=An Essay on the Principle of Population }} |3 = {{cite journal |last=Persky |first=Joseph |date=Autumn 1990 |title=Retrospectives: A Dismal Romantic |journal=Journal of Economic Perspectives |volume=4 |issue=4 |pages=165–172 |jstor=1942728 |doi=10.1257/jep.4.4.165|doi-access=free }} }}</ref>。 [[カール・マルクス]]は、『[[資本論]]』(1867年)で次のように述べた。 {{quotation|問題なのは、資本主義的生産の自然諸法則そのものであり、鉄の[[必然性]]をもって作用し、自己を貫徹するこれらの傾向である。|『[[資本論]]』序言<ref>[[カール・マルクス]]『[[資本論]]』、[[岩波文庫]]版 一 序文 14頁</ref>}} さらに、マルクスの盟友[[フリードリヒ・エンゲルス]]は、経済学について次のように述べた。 {{quotation| 経済学は、最も広い意味では、人間社会における物質的な[[生活]]資料の[[生産]]と取引とを支配する諸[[法則]]についての[[科学]]である。経済学は、本質上一つの[[歴史]]的科学である。それは、歴史的な素材、すなわち、たえず変化してゆく素材を取り扱う<ref>エンゲルス『反デューリング論』第二篇 経済学、[[岩波文庫]]版 一 対象と方法 9頁および10頁</ref>。|[[フリードリヒ・エンゲルス]]「[[反デューリング論]](1878年)」}} [[アルフレッド・マーシャル]]は『経済学原理』(1890)において、次のように定義した。 {{quotation|政治経済学 (Political Economy) または経済学 (Economics) は、生活上の通常の仕事([[ビジネス]])における人間の研究であり、また、幸福であること(ウェルビーイング)を達成するために用いられる物質的な必要条件に密接に関連する個人的および社会的行動の研究である。したがって、経済学とは一方で富の研究であり、他方で、より重要な面であるが、人間の研究の一部である<ref>Political Economy or Economics is a study of mankind in the ordinary business of life; it examines that part of individual and social action which is most closely connected with the attainment and with the use of the material requisites of wellbeing. Thus it is on the one side a study of wealth; and on the other, and more important side, a part of the study of man.</ref><ref name="AM">[https://www.econlib.org/library/Marshall/marP.html?chapter_num=2#book-reader Principles of Economics](1890, 1920,8th edition), INTRODUCTION.BOOK I, CHAPTER I,PRELIMINARY SURVEY.BOOK I, § 1.(『経済学原理』第1編序論第1章1)</ref><ref>{{cite book|last=Marshall|first=Alfred|author-link=Alfred Marshall|title=Principles of Economics|url=https://archive.org/details/principlesecono00marsgoog|year=1890|publisher=Macmillan and Company|pages=[https://archive.org/details/principlesecono00marsgoog/page/n196 1]–2}}:Economics is a study of man in the ordinary business of life. It enquires how he gets his income and how he uses it. Thus, it is on the one side, the study of wealth and on the other and more important side, a part of the study of man.</ref>。}} マーシャルは続けて、宗教と経済は人間の歴史の二大作用であるが、人間の性格は、日々の仕事とそれによって獲得される物質的資源によって形成される、人が生計を立てるためのビジネスは、その人の心が最高の状態にある時間の大部分を満たしており、自分の能力をどう用いるか、仕事が与える考えや感情、同僚、雇用主、従業員との関係などによって、人の性格は形成されるとして、経済や仕事は人間に強い影響力をもたらすと主張した<ref name="AM"/>。マーシャルの定義は、富の分析を超えて、[[社会]]から[[ミクロ経済学]]のレベルまで定義を拡張し、今でも広く引用されている。 その後、[[ライオネル・ロビンズ]]が1932年に、過去の経済学者は、いかに富が生まれ(生産)、分配され、消費され、成長するかという富の分析に研究の中心を置いてきたと指摘したうえで{{sfnp|Robbins|2007|pp=4–7}}、[[カール・メンガー]]や[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]]を参照しながら<ref>[[カール・メンガー]],Grundsätze der Volkswirthschaftslehre (1871), Frank A. Fetter,Economic Principles, 1915.[[ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス]],Die Gemeinwirtshaft: Untersitchungen über den Sozialismus.(1922)</ref>次のように定義した。 {{quotation|Economics is the science which studies human behaviour as a relationship between ends and scarce means which have alternative uses.<ref>{{cite book|last=Robbins|first=Lionel|title=An Essay on the Nature and Significance of Economic Science|url=https://books.google.com/books?id=nySoIkOgWQ4C&pg=PA15|year=2007|orig-year=1932|publisher=Ludwig von Mises Institute|isbn=978-1-61016-039-1|page=15}}</ref>}} {{quotation|他の用途を持つ[[希少性]]ある経済[[資源]]と[[目的]]について[[人間]]の[[行動]]を研究する科学が、経済学である。|小峯敦・大槻忠志訳 (2016)<ref>{{Cite |和書 | author = [[ライオネル・ロビンズ]] | translator = 小峯敦・大槻忠志 | title = 経済学の本質と意義 | publisher = [[京都大学学術出版会]] | volume = | edition = 初 | date = 2016-1-25 | pages = 17 | isbn = 9784876988853 |ref = harv }}</ref>}} ロビンズは、この定義は、特定の種類の行動を選択するという分類的なものとしてではなく、稀少性がもたらす影響によって行動の形態がいかなるものになるかということに注意を向けるような分析的なものであると説明した{{sfnp|Robbins|2007|p=16}}。 しかし、こうした定義には[[ジョン・メイナード・ケインズ]]や[[ロナルド・コース]]らからの批判もある。経済問題は性質上、[[価値観]]や[[道徳]]・[[心理]]といった概念と分離する事は不可能であり、経済学は本質的に価値判断を伴う[[倫理学]]であって、[[科学]]ではないというものである<ref> {{Cite |和書 |author = 小畑二郎 |title = ケインズの思想 不確実性の倫理と貨幣・資本政策 |date = 2007-11-10 |edition = 初| pages = 320-321|publisher = 慶應義塾大学出版会株式会社 |isbn = 978-4-7664- 1441-7 |series = |ref = harv }}</ref><ref>{{Cite |和書 |author = ロナルド・H・コース | translator = 宮沢健一 後藤晃 藤垣芳文 |title =企業・市場・法 |date = 1993-2-1 |edition = 3| pages = 3-4|publisher = [[東洋経済新報社]] |isbn = 978-4-4923-1202-5 |series = |ref = harv }}</ref>。ロビンズの定義は、過度に広範で、市場を分析する上では失敗していると批判されたが、1960年代以降、[[合理的選択理論]]が登場し、以前は他の学問で扱われていた分野にも経済学の領域を拡大したため、そのような批判は弱まった<ref name="Backhouse2009Stigler">{{unbulleted list citebundle |1 = {{cite journal |last1=Backhouse |first1=Roger E. |first2=Steven G. |last2=Medema |date=October 2009 |title=Defining Economics: The Long Road to Acceptance of the Robbins Definition |journal=Economica |volume=76 |issue=s1 |pages=805–820 |doi=10.1111/j.1468-0335.2009.00789.x|s2cid=148506444 |doi-access=free }} |2 = {{cite journal |author-link=George J. Stigler |last=Stigler |first=George J. |date=1984 |title=Economics—The Imperial Science? |journal=Scandinavian Journal of Economics |volume=86 |issue=3 |pages=301–313 |jstor=3439864|doi=10.2307/3439864 }} }}</ref>。 [[ポール・サミュエルソン]]は、以下のように定義する。 {{quotation|経済学とは、さまざまの有用な[[商品]]を生産するために、社会がどのように稀少性のある資源を使い、異なる集団のあいだにそれら商品を配分するかについての研究である。|[[ポール・サミュエルソン]]  『サムエルソン 経済学 [原書第13版]上』、都留重人訳、岩波書店、1992年、p.4.}} 一方で、とりわけ[[ゲーム理論]]の経済学への浸透を受けて、経済学の定義は変化しつつある。たとえば、[[ノーベル経済学賞]]を受賞した[[ジョセフ・E・スティグリッツ]]は、[[トレードオフ]]、[[インセンティブ]]、交換、[[情報]]、分配という五つが重要な手がかりとなるとして、以下のように経済学を定義した。 {{quotation|経済学とは、個人、企業、政府、その他さまざまな組織が、どのように選択し、そうした選択によって社会の資源がどのように使われるかを研究する学問である。選択には[[トレードオフ]]が伴う。すなわち、一つのことに資源を多く使えば、他のことに使える資源は減少するのである。(略) また選択を行う際には、各個人はインセンティブ(誘因)に反応して、消費を増やしたり減らしたりする。(略)個人や企業がさまざまな財やサービスを売買するときには、各自の所有するモノやお金を他の人の所有するお金やモノと交換している。(略)賢明な選択を行うには[[情報]]を入手し、それを利用しなければならない。そして大学に進学するか高校を卒業したら就職するかという教育に関する決定や、どのような会社に勤めるかという職業選択、どのような財やサービスを購入するかという決定は、[[富の再分配]]を決定することになる。|『スティグリッツミクロ経済学 第4版』(2013年)<ref>藪下史郎・蟻川靖浩・木立力・秋山太郎・大阿久博・宮田亮・清野一治共訳、東洋経済新報社、p.4.(第1版は1995年刊)</ref>}} また、ノーベル賞受賞者[[ロジャー・マイヤーソン]]も、今日の経済学者は自らの研究分野を以前より広く、全ての社会的な[[制度]]における個人の[[インセンティブ (経済学)|インセンティブ]]の[[分析]]と定義できる、と述べた(1999年)<ref>Myreson, R. B. 1999 Nash Equilibrium and the History of Economic Theory. ''Journal of Economic Literature'', 37, no. 3, pp. 1067-1082</ref>。 [[ゲーリー・ベッカー]]は自分のアプローチを、行動、安定した選好、市場の均衡の最大化という仮定を組み合わせ、絶え間なく、大胆に使用することと説明した<ref>{{cite book|last=Becker|first=Gary S.|title=The Economic Approach to Human Behavior|url=https://books.google.com/books?id=iwEOFKSKbMgC&pg=PA5|year=1976|publisher=University of Chicago Press|isbn=978-0-226-04112-4|page=5}}</ref>。 [[ハジュン・チャン]]は、経済学を商品やサービスの生産、交換、流通に関する研究とであると定義したうえで、生物学が、DNA分析、解剖学、動物の行動のゲーム理論など、さまざまな方法で研究されており、それらはすべて生物学と呼ばれるように、経済学は、方法論や理論的アプローチではなく、取り扱っている調査対象の観点から定義されるべきであると指摘する<ref>{{cite web |url=https://www.huffpost.com/entry/ha-joon-chang-economics_n_5120030 |title=Ha-Joon Chang: Economics Is A Political Argument |author=Seung-Yoon Lee |date=4 September 2014 |website=huffpost.com |publisher=Huffington Post |access-date= |quote= |archive-date=19 October 2021 |archive-url=https://web.archive.org/web/20211019151027/https://www.huffpost.com/entry/ha-joon-chang-economics_n_5120030 |url-status=live|accessdate=2022-10-19 }}</ref>。 このように現在では、[[資本主義]]・[[貨幣経済]]における人や組織の[[行動]]を[[研究]]するものが中心となっている。広義においては、交換、[[取引]]、[[贈与]]や[[負債]]など必ずしも[[貨幣]]を媒介としない、[[価値]]をめぐる人間関係や社会の諸側面を研究する。このような分野は、[[人類学]]、[[社会学]]、[[政治学]]、[[心理学]]と隣接する[[学際]]領域である。 また、労働、貨幣、贈与などはしばしば[[哲学]]・[[思想]]的考察の対象となっている。ただし、経済システムの働きに深く関わる部分については[[経済思想史]]と呼ばれ、経済学の一分野として考えられることも多い<ref> {{Cite |和書 | author = ハンス・ブレムス | translator = 駄田井正 伊原豊實 大水善行 他 | title = 経済学の歴史 1960-1980 | publisher = 多賀出版株式会社 | volume = | edition = 初 | date = 1996-5-10 | pages = 12-16 | isbn = 4-8115-4111-1 |ref = harv }}</ref>。 == 特徴 == === 科学性と非科学性 === [[自然科学]]と比べると、[[不確実性]]の大きいヒトが関わるできごとが研究対象であるゆえ、数理化・実験が困難な分野が多い[[人文科学]]・[[社会科学]]の中において、経済学では、積極的に数理化がなされ、その検証が試みられている。そうした性質に着目し、経済学は「社会科学の女王」と呼ばれることがある<ref>[http://www.newschool.edu/nssr/het/profiles/macleod.htm Henry Dunning Macleod, 1821-1902.],</ref>。 しかし、心理が関与する人間の行動、および、そうした人間が集団を構成した複雑な社会を[[数理モデル]]化することは容易ではない。 現実の経済現象の観察、モデル構築、検証という一連の循環的プロセスは、いまだ十分であるとは言えないし、本当にそうした手法が経済学の全ての対象に対して実現可能であるのかどうかも定かではない、とされることもある。また、客観的に分析しているようであっても、実際には多かれ少なかれ[[価値観]]が前提として織り込まれているということやそうでなければならないことは、上述のごとくケインズやコースが指摘している。また、経済学には多かれ少なかれ[[経済思想史]]および[[イデオロギー]]が含まれる<ref>[[放送大学]]「もう一度みたい名講義~放送大学アーカイブス~ 近代経済思想('87)第1回 西部邁「経済思想とは何か」 」(2011.6.25 23:00~23:45放送) での[[西部邁]]の指摘</ref>。 === 理論 === 理論経済学では、[[数学]]を用いたモデルがある。関連のある数学の分野として、[[位相空間論]]、[[関数解析学]]、[[凸解析]]、[[微分積分学]]、[[確率論]]、[[数理最適化]]などが挙げられる。[[確率微分方程式]]や[[不動点定理]]など数学におけるブレイクスルーが経済学に大きく影響を与えることもある。[[ジョン・フォン・ノイマン]]や[[ジョン・ナッシュ]]、[[デイヴィッド・ゲール]]、[[スティーヴン・スメイル]]などの[[数学者]]や[[理論物理学者]]が経済学に貢献することも珍しくなく、[[チャリング・クープマンス]]、[[マイロン・ショールズ]]、[[宇沢弘文]]、[[二階堂副包]]など数学、物理学、工学出身の経済学者も少なくない。 理論経済学は[[ミクロ経済学]]と[[マクロ経済学]]という2つの分野からなる。ミクロ経済学は、消費者と生産者という経済の最小単位の行動から経済現象を説明する。マクロ経済学は、国全体の経済に着目する。今日では、マクロ経済学においても、消費者・生産者の行動に基づく分析が主流であり(マクロ経済学のミクロ的基礎付け)、マクロ経済学はミクロ経済学の応用分野と見ることができる。 === 実証 === [[統計学]]において経済関連の統計が主流分野として立脚していること、統計学者や経済学者と統計学者を兼ねる者が両分野の発展に大きく貢献してきたことからもわかるように、古くから社会全体を実験室に見立てて統計学を使い裏付ける方法が経済学において多用され影響を与えてきた。こうした分野は[[計量経済学]]と呼ばれる。 実証の現代の新潮流には[[ダニエル・カーネマン]]、[[エイモス・トベルスキー]]、[[バーノン・スミス]]など[[心理学]]([[認知心理学]])、[[認知科学]]の流れをくみ行動実験を用いて消費者行動を裏付ける方法が強力な道具として提供され急成長している。こうした分野は[[実験経済学]]と呼ばれる。この流れから、[[行動経済学]]、[[神経経済学]]という分野が、[[心理学者]]と心理学的素養を持つ経済学者によって生み出されている。 === 政策 === 経済学は、その誕生・分析対象が社会・政治・経済問題と不可分であったことから[[政策]]への提言として社会へ関わる機会が非常に多い。19世紀以降は、社会的な判断において経済学が不可欠となった。社会問題を対象としている性質からか、社会的不幸を予測する理論も多々生まれ[[トーマス・カーライル]]によって「陰鬱な学問」とも呼ばれた<ref>[[:en:The_dismal_science|The dismal science、Wikipedia]]</ref>。先駆的政策(事実上の実験)の過程と結果から新たな学問的問題を提起した[[ソビエト連邦]]による[[社会主義]]建設は失敗し「壮大な[[社会実験]]」として総括されているが、この社会主義的政策が、[[第二次世界大戦]]後日本で採られた[[傾斜生産方式]]のように社会に有益な影響を与えたのも事実である。ちなみに、[[主流派経済学]]では傾斜生産方式の有用性について疑問符を投げかけている。 1980年代から[[ゲーム理論]]が積極的に取り入られるようになり、特に[[マーケット・デザイン]]と呼ばれる分野における成果はめざましい。具体的には、周波数オークションの設計、電力市場の制度設計、教育バウチャー制度の設計、臓器移植の配分問題の解決といったものが挙げられる。これらはいずれも経済学なくして解決できなかった問題であり、さらに経済学が現実の制度設計において非常に重要な役割を果たしていることの好例である。 === 経済学の対象 === 有限な事物の分配・生産が対象であり、人間が知覚できる有限性がなければ対象とはならない。例えば宇宙空間は未だに対象ではないが、東京に供給されるビル空間の量は対象である。その他にも、人間行動の心理的要素や制度的側面も重要な研究対象である。 また、[[事実解明的分析]]と[[規範的分析]]に分けられる。前者は理論的に説明・判断できる分析であり、後者は価値判断や政策決定に使われる分析である。例えば「政府支出を増やすと失業が減少する」は真偽が判明する分析であるが、「政府支出を増やして([[財政赤字]]を増やしてでも)失業が減少したほうが良い」は価値判断が絡む分析である。 == 歴史 == {{See|経済思想史}} 経済学は、[[法学]]、[[数学]]、[[哲学]]などと比べて、比較的新しい学問である。経済学は、近世欧州列強の著しい経済発展とともに誕生し、その後[[資本主義]]経済がもたらしたさまざまな経済現象や経済システムについての研究を積み重ね、現代に至る。 === 古代 === 経済学の最初を遡るとすると、古代ギリシャの[[プラトン]]の国家論にまで遡る。プラトンは、民主制を否定し、[[ポリス]]のために善く生きることを求め、[[消費]]欲や[[財産]]欲を禁止し、[[貨幣]]の使用も禁止し、[[人口]]も完全に規制される国家を理想とした。これは、[[ペロポネソス戦争]]で敗北した[[アテネ]]に商品経済が浸透し、格差が拡大するなか、身分制社会を維持するためにこのように主張したとされる<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p8-10.</ref>。 続く[[アリストテレス]]は、財産の共有制を批判し、商品の売買も容認したが、金儲けのための交換(クレマティスティケ)を、ポリスのために善く生きることを忘れることになるとして批判した<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p10-11.</ref>。 [[トマス・アクィナス]]は、私有財産を肯定しながら、困窮者の財産請求権(緊急権)を例外としてみとめた<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p12-14.</ref>。 === 重商主義学説 === {{main|重商主義}} 経済についての研究の始まりは[[トーマス・マン (経済学者)|トーマス・マン]](1571年 - 1641年)によって書かれた『外国貿易によるイングランドの財宝』や、[[ウィリアム・ペティ]](1623年 - 1687年)の『租税貢納論』、[[バーナード・デ・マンデヴィル]](1670年 - 1733年)の『[[蜂の寓話]]』、[[ダニエル・デフォー]](1660年 - 1731年)の『イギリス経済の構図』、[[デイヴィッド・ヒューム]](1711年 - 1776年)の『政治論集』などに見られるような[[重商主義]]の学説である。この時代には欧州列強が海外[[植民地]]を獲得し、[[貿易]]を進めて急速に経済システムを発展させていた。 === 重農主義学説 === {{main|重農主義}} イギリスの重商主義の批判としてフランスでは[[重農主義]]が登場し、政府の介入なしでも経済は自律的に動くと主張した<ref>柳沢哲哉「経済学史への招待」社会評論社,2017.p45.</ref>。[[フランソワ・ケネー]]が『経済表』(1758年)を書き、国民経済の[[再生産]]システムを解明して、経済学の体系化の発端となった。 === 古典派経済学 === [[File:AdamSmith.jpg|thumb|right|200px|アダム・スミス。経済学の父とされる]] {{main|古典派経済学}} [[アダム・スミス]]が資本主義工場生産について論じた『[[国富論]]』(1776年)が、現在の理論化された経済学の直系で最古の理論にあたる。そのため、スミスは、'''経済学の父'''と呼ばれている。経済学では、一般的に『国富論』を持って始まりとされる。また、[[デイヴィッド・リカード]]の『経済学および課税の原理』(1817年)、[[トマス・ロバート・マルサス]]の『[[人口論]]』(1798)や『経済学原理』(1820)、[[ジョン・スチュアート・ミル|J.S.ミル]]の『政治経済学原理』(1848)などが、英国[[古典派経済学]]の基礎を築いていった。 === マルクス経済学 === {{main|マルクス経済学}} [[共産主義]]を主張した[[カール・マルクス]](1818年 - 1883年)はイギリス古典派経済学を中心に当時の経済学を徹底して研究し、[[労働価値説]]を継承しつつ新たに価値論や[[剰余価値]]論を体系化し、[[資本]]の諸形態を再定義して[[資本主義]]経済の構造と運動法則の解明をおこなった。マルクスの長年にわたる経済学研究は主著『[[資本論]]』に結実した。 マルクスの後、[[マルクス経済学]]とよばれる流れは、[[資本主義]]経済の諸法則も諸概念も不変のものではなく、生成・発展・消滅する過程にあるものとしてとらえ、資本家は労働力に支払った以上の[[価値#労働価値説|価値]]を労働力から取り出すという[[剰余価値]]説にもとづいて資本主義経済を分析した。 [[カール・カウツキー]](1854年 - 1938年)の『カール・マルクスの経済学説』や『エルフルト要領解説』、[[ルドルフ・ヒルファーディング]](1877年 - 1941年)の『[[金融資本論]]』、[[ローザ・ルクセンブルク]](1870年 - 1919年)の『[[資本蓄積論]]』、[[ウラジーミル・レーニン]](1870年 - 1924年)の『ロシアにおける資本主義の発達』や『[[帝国主義論]]』などの研究を通じて継承・展開された。 しかしながら、マルクスの経済理論をモデル化して検証を行うと、理論の膨大さゆえにマルクスの理論体系は不整合に陥っており、以下の3つの矛盾を説明できない。(1)[[剰余価値率]]が諸部門間で均等化する。(2)技術進歩の結果[[利潤率]]は下落する。(3)技術進歩の結果利潤率は下落すると仮に言えたとしても、[[実質賃金]]もまた下落する<ref>{{Cite |和書 | author = ハンス・ブレムス | coauthors = | translator = 駄田井正 伊原豊實 大水善行 他 | title = 経済学の歴史 1630-1980 | publisher = 多賀出版株式会社 | series = | volume = | edition = 初 | date = 1996/05/10 | pages = 128-146 | url = | doi = | id = | isbn = 4-8115-4111-1 | ncid = }}</ref>。 === 新古典派経済学 === [[File:Walrass.jpg|thumb|right|250px|レオン・ワルラス。彼は経済学への数学の導入に大きな役割を果たした]] {{main|新古典派経済学}} [[新古典派経済学]]と呼ばれる学派が、資本主義経済の現象を数理的に分析する手法を発展させてきた。 [[ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ]](1798年 - 1855年)の『経済学の数学的一般理論の考察』や『経済学の理論』、[[レオン・ワルラス]](1834年 - 1910年)の『純粋経済学要論』や『応用経済学研究』、[[カール・メンガー]](1840年 - 1910年)の『国民経済原理』や『社会科学特に経済学の方法に関する研究』、[[アルフレッド・マーシャル]](1843年 - 1924年)の『外国貿易と国内価値との純粋理論』や『経済学原理』、[[ヨーゼフ・シュンペーター]](1883年 - 1950年)の『理論経済学の本質と主要内容』や『経済発展の理論』などの研究を通じて発展していくこととなる。 === ケインズ経済学とマクロ経済学 === [[File:Keynes 1933.jpg|thumb|right|250px|ジョン・メイナード・ケインズ。彼の理論はケインズ経済学として大きな影響を与えた]] {{main|ケインズ経済学|マクロ経済思想史}} [[ジョン・メイナード・ケインズ]]は『[[雇用・利子および貨幣の一般理論]]』(1936年)で、[[市場]]に任せただけでは[[失業]]が発生するので、政府による適切な市場介入(政府支出と減税)で[[有効需要]]を創出する必要があると主張し、[[マクロ経済学]]の主流となっていった<ref name="kt-Macro">{{コトバンク|マクロ経済学}}</ref>。[[ジョン・ヒックス]]や[[ポール・サミュエルソン]]らの[[ネオ・ケインジアン経済学]]によって、発展していった。サミュエルソンは著書『経済学 第3版』(1955)で、ケインズ政策で雇用環境が改善されたあとは、従来の[[ミクロ経済学]]のような民間の市場を活用した経済活動にまかせるのがよいとする[[混合経済]]を説いて、ミクロ経済学の[[ミクロ経済学]]とマクロ経済学の[[国民所得]]理論を総合する[[新古典派総合]]を主張した<ref name="kt-ncs">{{コトバンク|新古典派総合}}</ref>。しかし、1970年代に、[[スタグフレーション]]が先進資本主義国を覆ったことで影響力を失っていった<ref name="kt-ncs"/>、 1970年代には、[[ロバート・ルーカス (経済学者)]]が、ケインズ的な財政・金融政策は家計や企業の合理的予想(期待)で相殺されて無効となるという合理的期待形成仮説を発表した<ref name="kt-Macro"/>。1976年にルーカスは、経済システムの中にいる国民と政府が、経済法則(期待)を知っており、それに基づいて行動すると、結果的に法則が変わり得ること、すなわち、期待(経済法則)は自己言及性を持つため、[[経済政策]]は効果を失うという[[ルーカス批判]]を行った<ref name="Kobayashi">小林慶一郎「[https://www.rieti.go.jp/jp/papers/contribution/kobayashi/50.html 「期待」どこまで解明?]」2013年10月21日 日本経済新聞「経済教室」、経済産業研究所</ref>。ルーカスらは[[エドワード・プレスコット]]の『裁量よりもルール』(1977)とともに、[[リアルビジネスサイクル理論]]などを提唱し、[[新しい古典派]] ( New classical economics )が形成され、これがマクロ経済学の主流となった<ref name="kt-Macro"/>。 その後、市場の失敗が起こる要因を重視し、これを是正するマクロ政策を再構築しようとする[[グレゴリー・マンキュー]]や[[デビッド・ローマー]]の[[ニュー・ケインジアン]]が台頭した<ref name="kt-Macro"/>。 === 現代 === {{main|ゲーム理論|行動経済学|進化経済学|複雑系経済学|オーストリア学派|マルクス主義批判}} [[主流派経済学]]([[新古典派経済学]]と[[ケインズ経済学]])と[[マルクス経済学]]は、米ソ[[冷戦]]という現実政治の影響もあり、長期間にわたって対立した。[[ソビエト連邦の崩壊]]・冷戦終了時には、古典的マルクス経済学に対する否定的研究が数多く行われ、非数理的・訓古主義的な性質が批判された([[マルクス主義批判]])。ソ連型社会主義で実施された[[計画経済]]の誤りがソ連・東欧の崩壊で明白になり、今日では、市場という需給調整のメカニズムを数理的に扱い発展した主流派経済学が経済研究の中心となり、市場を通じて[[社会主義]]社会を目指すとしている[[中華人民共和国]]や[[ベトナム]]などでもマルクス経済学のみならず主流派経済学の研究も行われるようになった。その一方で、主流派経済学では、賃労働における搾取などの生産面での矛盾や貧富の格差の拡大、経済活動による自然破壊などを説明できないとのマルクス経済学者からの批判も続いている{{要出典|date=2022年9月}}。 また、アメリカ合衆国を中心とした西側資本主義国で発展させられてきた主流派経済学は、非歴史的・非文化的で[[数理モデル]]一辺倒な性質をマルクス経済学者やポスト・[[ケインジアン]]などに指摘されている{{要出典|date=2022年9月}}。 主流派経済学における比較的新しい動きとして、[[ゲーム理論]]と[[行動経済学]]の発展がある。伝統的な主流派経済学では、完全競争の仮定ゆえ、経済主体間の相互の影響は考慮されていない。それに対して、市場が寡占の状態である場合、各企業の選択は他の企業の利潤に影響を与える。こうした相互依存を分析する道具として、ゲーム理論が主流派経済学の中心的な理論の1つとなった。伝統的な主流派経済学では、各経済主体は合理的で利己的な存在とされてきた。しかし、さまざまな実験が、この仮定が必ずしも適切ではないことを示している。こうした、合理的でなかったり、利己的でなかったりする経済主体の意思決定を定式化する分野が行動経済学であり、主流派経済学で広く受け入れられている。 [[異端派経済学]]として、近年新しい体系がさまざまに模索されている。とくに1980年代以降、[[進化経済学]]が世界的に興隆してきており、新しい主流派を形成しつつあるという評価もある<ref>G. Hogdson 2007 Evolutionary and Instituional Economics as the New Mainstream? ''Evolutionary and Institutional Economics Review'' '''4'''(1): 7.25. Eric D. Beinhocker 2006 ''The Origin of Wealth / Evolution, Complexity, and the Radical Remaking of Economics.'' Harvard Business School Press.</ref>。進化経済学以外にも、[[ポスト・ケインズ派経済学|ポスト・ケインズ派の経済学]]、[[オーストリア学派]]の経済学、[[複雑系経済学]]などがある。 == 経済学と経営学 == 経済学と経営学の違いの第1は、経済学が研究方法に重きを置くのに対して、経営学は研究対象に重きを置くことである<ref> {{Cite |和書 | author = 伊藤秀史 | title = ひたすら読むエコノミクス | publisher = 有斐閣 | date = 2012 | ref = harv }}</ref>。 経済学は独自の研究方法を有しており、その方法に則ってさえすれば、研究対象が必ずしも経済に関わるものでなくとも経済学たりうる。実際、医療、教育、文化なども経済学で活発に研究されている。 経営学では企業の経営という研究対象が先にあり、その対象を研究するため、経済学、[[心理学]]、[[社会学]]などの方法が用いられる。 こうした違いは、経済学、経営学が教育・研究される組織の違いにも表れている。米国の大学では、経済学は、[[数学]]、[[物理学]]、[[心理学]]などと同様Faculty of Arts and Sciencesのdepartmentで教育・研究されるのに対し、経営学は、[[医学]]、[[法学]]などと同様個別のprofessional schoolで教育・研究されることが多い。 経済学と経営学の違いの第2は、経済学の主な研究対象が経済という大きなものであるのに対して、経営学の研究対象が企業という小さいものであることである。企業の経済活動を研究対象とする、という点では両者共通だが、マクロの経済学においては、日本の経済、アジアの経済、世界の経済といった大きなくくりでの研究となる。そこで用いられるのが「[[経済人]]」という考え方だ。すべての人間は客観的で経済合理的に行動すると考える。マクロで捉える場合、個人的な好みの差などは考えず、皆が同じ行動をすると考えるのである。これに対して、ミクロの経営学の場合は一つの企業、またはその企業の中の一つの部門、さらにはその中のグループを構成する個人、というレベルまで研究対象とする。この場合は中にいる人間が主役となるので、個人の差の問題までも考慮する。ここで用いられるのが「経営人」という考え方だ。経営人は経済人と違い、皆がすべて情報を持つのではなく、限られた情報をもとに、自ら満足・不満足、という基準で意思決定を行う限定的合理性に基づく行動をとると考える。<ref>{{Cite book|title=Shinka suru nihon no keiei : Shakai toppu senryaku soshiki.|url=https://www.worldcat.org/oclc/820755015|publisher=Chikurashobo|date=2012.4|isbn=9784805109915|oclc=820755015|others=Okamoto, Daisuke, 1958-, Furukawa, Yasuhiro, 1962-, Sato, Yamato, 1963-, 岡本, 大輔, 1958-, 古川, 靖洋, 1962-, 佐藤, 和, 1963-}}</ref> == 論争 == 経済学は、存在自体が社会・政治・経済・政策と不可分であるため、学術的な論争や政策的な論争など数多の論争を生み出し消化してきた。それによって、経済学徒は、他学徒に「傲慢である」と印象を与えてしまうほど非常に攻撃的な知的スタイルを形成している。しかし、論争は、経済学にとって理論を洗練させブレイクスルーを起こす役割を担ってきた。このように、経済学と論争は、切っても切れない関係にあるといえる。ここでは、経済学において歴史的に重要な意味を持った論争を取り上げる。 * 全地球的な論争 ** [[重商主義]]・[[重農主義]]論争 ** [[穀物法]]論争 ** [[ピグー・ケインズ論争]] ** [[経済計算論争]](1920年 - 1930年) ** ケンブリッジ資本論争<ref>{{Cite web|和書 | authorlink = http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/journal/index/index.html | coauthors = | title = 「ケンブリッジ資本論争」の問題点 | work = | publisher = | date = 1989-5-30 | url = http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/pdf/jhk/J2-2-1.pdf | format = pdf | doi = | accessdate = 2016-6-1}}</ref> * 日本における論争 ** [[日本の経済論争]] == 学派 == *[[古典派経済学]] *[[マルクス経済学]] **[[数理マルクス経済学]] *[[新古典派経済学]](ケンブリッジ学派 - [[ローザンヌ学派]] - [[オーストリア学派]]) **[[マネタリスト]] **[[新しい古典派]] *[[ケインズ経済学]] **[[ポスト・ケインズ派経済学]] **[[ニュー・ケインジアン]] *その他 **[[制度派経済学]] **[[進化経済学]] **[[複雑系経済学]] **[[現代古典派経済学]] == 分野 == === 理論 === * [[ミクロ経済学]] - [[ゲーム理論]] - [[契約理論]] - [[社会選択理論]] - [[厚生経済学]] * [[マクロ経済学]] - [[経済成長理論]] * [[数理経済学]] === 実証 === * [[計量経済学]] - [[経済統計]]<ref>{{Cite web|和書| title = 経済統計学会 | url = http://www.jsest.jp/jp/ | accessdate = 2016-6-10}}</ref> * [[実験経済学]] * [[経済史]] - [[数量経済史]] === 応用 === * [[公共経済学]] - [[政治経済学]] - [[財政学]] * [[国際経済学]] - [[貿易理論]] - [[国際金融市場]] * [[産業組織論]] * [[労働経済学]] - [[人口経済学]] * [[金融経済学]] - [[数理ファイナンス]] - [[金融工学]] * [[環境経済学]] - [[天然資源]]- [[エネルギー政策]] * [[農業経済学]] * [[都市経済学]] - [[空間経済学]] - [[経済地理学]] - [[交通経済学]] - [[不動産金融]] * [[法と経済学]] * [[文化経済学]] - [[スポーツ科学]] * [[開発経済学]] * [[医療経済学]] * [[教育経済学]] === 学際 === * [[行動経済学]] * {{仮リンク|神経経済学|en|Neuroeconomics}} * [[経済物理学]] * [[複雑系経済学]] * [[進化経済学]] === 思想史 === * [[経済思想史]] == 経済学における主な用語・概念基礎的概念、または両経済学に共通の概念 == :[[財]] - [[サービス]] - [[付加価値]] - [[利子]] - [[利潤]] - [[資本]] - [[労働]] - [[賃金]] ;[[主流派経済学]] :[[選好]] - [[効用]] - [[無差別曲線]] - [[限界代替率]] - [[エンゲル係数]] - [[需要と供給]] - [[一般均衡]] - [[ジニ係数]] - [[ローレンツ曲線]] - [[有効需要]] - [[IS-LM分析]] - [[AD-AS分析|AD-AS曲線]] - [[フィリップス曲線]] - [[セイの法則]] - [[インフレーション]] - [[デフレーション]] - [[スタグフレーション]] - [[リアルビジネスサイクル理論]] - [[費用便益分析]] - [[レッセフェール]] ;[[異端派経済学]] :[[生産手段]] - [[剰余価値]] - [[絶対的剰余価値]]と[[相対的剰余価値]] - [[不変資本]]と[[可変資本]] == 学術雑誌 == * ''[[American Economic Review]]'' * ''[[Econometrica]]'' * ''{{仮リンク|Journal of Political Economy|en|Journal of Political Economy}}'' * ''{{仮リンク|Quarterly Journal of Economics|en|Quarterly Journal of Economics}}'' * ''{{仮リンク|Review of Economic Studies|en|Review of Economic Studies}}'' * ''{{仮リンク|Economic Journal|en|Economic Journal}}'' * ''{{仮リンク|Journal of the European Economic Association|en|Journal of the European Economic Association}}'' * ''{{仮リンク|International Economic Review|en|International Economic Review}}'' * ''{{仮リンク|Review of Economics and Statistics|en|Review of Economics and Statistics}}'' これらは経済学全般の学術雑誌であり、経済学の各分野ごとにも学術雑誌がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 引用文献 == * {{Citation| 和書 | last1 = 井澤 | first1 = 秀記 | year = 2011 | title = 経済と経済学の語源について | volume = 103 | journal = RIEB ニュースレター | publisher =[[神戸大学経済経営研究所]] }} *金森 久雄, 森口 親司, 荒 憲治郎 [http://www.jlogos.com/list/eco/ 『有斐閣経済辞典 第4版』]有斐閣、2002年5月 *Rita Yi Man LI [http://www.amazon.com/Everyday-Life-Application-Neo-institutional-Economics/dp/384439270X/ 『Everyday Life Application of Neo-institutional Economics: A Global Perspective』]、2011年4月 *ハンス・ブレムス著 駄田井正 伊原豊實 大水善行 他訳『経済学の歴史 1630-1980』 多賀出版株式会社 初版 1996年5月10日発行 ISBN = 4-8115-4111-1 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|経済学}} {{Commonscat|Economics}} {{wikibooks|経済学}} * [[経済学者]] * [[Econometric Society]] - [[アメリカ経済学会]] - {{仮リンク|ヨーロッパ経済学会|en|European Economic Association}} - [[日本経済学会]] * [[ノーベル経済学賞]] - [[ジョン・ベイツ・クラーク賞]] - [[ユルヨ・ヨハンソン賞]] - [[中原賞]] * [[経済学部]] * [[経済]] == 外部リンク == *{{cite encyclopedia |author-link=マーク・ブローグ|last=Blaug |first=Mark |date=15 September 2017 |title=Economics |encyclopedia=Encyclopædia Britannica |url=https://www.britannica.com/topic/economics |access-date=2022-10-19 }} * [http://www.hetwebsite.net/ The History of Economic Thought Website](英語) - 経済思想史についてのウェブサイト * [http://www.nobelprize.org/nobel_prizes/economic-sciences/laureates/index.html All Prizes in Economic Sciences](英語) - [[ノーベル経済学賞]]受賞者一覧 *{{Kotobank}} {{経済学}} {{社会科学のフッター}} {{科学技術研究}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:けいさいかく}} [[Category:経済学|*]] [[Category:経済理論]] [[Category:社会科学]] [[Category:経済]]
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成田美名子
成田 美名子(なりた みなこ、1960年3月5日 - )は、日本の漫画家。代表作は、『エイリアン通り』、『CIPHER』など。血液型はAB型。 青森県青森市出身、青森県立青森東高等学校卒業。1977年、『花とゆめ』(白泉社)掲載の『一星(いっせい)へどうぞ』でデビュー。 登場人物の前向きな姿の描写へのこだわりで知られる。マンガ評論家ヤマダトモコは、成田作品の個性を「明るさへの意思」だと評した。ジャズピアニストの成田教は実弟、作詞家の小笠原ちあきは従姉妹にあたる。
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成田 美名子は、日本の漫画家。代表作は、『エイリアン通り』、『CIPHER』など。血液型はAB型。 青森県青森市出身、青森県立青森東高等学校卒業。1977年、『花とゆめ』(白泉社)掲載の『一星(いっせい)へどうぞ』でデビュー。 登場人物の前向きな姿の描写へのこだわりで知られる。マンガ評論家ヤマダトモコは、成田作品の個性を「明るさへの意思」だと評した。ジャズピアニストの成田教は実弟、作詞家の小笠原ちあきは従姉妹にあたる。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 成田 美名子 | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = {{Flagicon|Japan}} [[青森県]][[青森市]] | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1960|3|5}} | 没年 = | 没地 = | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1977年]] - | ジャンル = [[少女漫画]]など | 代表作 = 『[[エイリアン通り]]』など | 受賞 = | 公式サイト = }} '''成田 美名子'''(なりた みなこ、[[1960年]][[3月5日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。代表作は、『[[エイリアン通り]]』、『[[CIPHER]]』など。[[ABO式血液型|血液型]]はAB型。 [[青森県]][[青森市]]出身、[[青森県立青森東高等学校]]卒業。[[1977年]]、『[[花とゆめ]]』([[白泉社]])掲載の『一星(いっせい)へどうぞ』でデビュー。 登場人物の前向きな姿の描写へのこだわりで知られる。マンガ評論家[[ヤマダトモコ]]は、成田作品の個性を「明るさへの意思」だと評した<ref>『NATURAL』1巻 白泉社文庫 解説「明るさへの意志」 p406-409 2003年9月17日発行 {{ISBN2|978-4-592-88394-4}}</ref>。<!--未確認情報--[[ウルトラマン]]の[[デザイナー]]である[[彫刻家]]の[[成田亨]]は従伯父(従叔父?)、-->ジャズピアニストの[[成田教]]は実弟、作詞家の[[小笠原ちあき]]は従姉妹にあたる。 == 作品リスト == === 漫画 === * [[みき&ユーティ]]([[1977年]] - [[1979年]]、[[LaLa]]) * [[ウェルカム (漫画)|ウェルカム]]([[1978年]]、LaLa) * [[あいつ (漫画)|あいつ]](1979年 - [[1980年]]、LaLa) * [[エイリアン通り]](1980年 - [[1984年]]、LaLa) - 単行本全8巻。 * [[CIPHER]]([[1985年]] - [[1990年]]、LaLa) - 単行本全12巻。 * [[ALEXANDRITE]]([[1991年]] - [[1994年]]、LaLa) - 単行本全7巻。 * [[NATURAL (漫画)|NATURAL]]([[1995年]] - [[2001年]]、LaLa) - 単行本全11巻。 * [[花よりも花の如く]](2001年 - 、[[月刊メロディ]]) - 単行本既刊21巻。 * 天(そら)の神話 地の神話 === イラスト&エッセイ集 === * ナチュラル ローゼス([[1998年]][[3月31日]]発行、白泉社) === イラスト集 === * 成田美名子 キャラクターブック * 成田美名子 エイリアン通り1 * 成田美名子 エイリアン通り2 * 成田美名子 みき&ユーティ 自選複製原画集 * watermark 成田美名子画集 * Cipher the collection 成田美名子CIPHER画集 * 成田美名子(春) * 成田美名子(夏) * 成田美名子(秋) * 成田美名子(冬) * サイファ・ザ・ビデオ・ブック == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:なりた みなこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:青森県出身の人物]] [[Category:1960年生]] [[Category:存命人物]]
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機械工学
機械工学(きかいこうがく、英語: mechanical engineering)とは、機械あるいは機械要素の設計、製作などから、機械の使用方法、運用などまでの全ての事項を対象とする工学の一分野である。 具体的には、熱力学、機械力学、流体力学、材料力学の四力学を基礎とした機械の設計や製作のための技術を学ぶほか、より広義には、機構学、制御工学、経営工学、材料工学(金属工学)、そして近年のコンピュータ化に対応したハードウェア及びソフトウェア技術全般を研究対象としている。
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機械工学とは、機械あるいは機械要素の設計、製作などから、機械の使用方法、運用などまでの全ての事項を対象とする工学の一分野である。 具体的には、熱力学、機械力学、流体力学、材料力学の四力学を基礎とした機械の設計や製作のための技術を学ぶほか、より広義には、機構学、制御工学、経営工学、材料工学(金属工学)、そして近年のコンピュータ化に対応したハードウェア及びソフトウェア技術全般を研究対象としている。
[[File:Volkswagen W16.jpg|thumb|right|upright=1.25|機械工学は、[[機関 (機械)|エンジン]]や[[発電所]]から…]] [[File:Supertanker AbQaiq.jpg|thumb|right|upright=1.25|…[[建築物]]や[[乗り物]]まで大小のものを設計・制作する。]] '''機械工学'''(きかいこうがく、{{lang-en|mechanical engineering}})とは、[[機械]]あるいは[[機械要素]]の[[設計]]、[[製作]]などから、機械の使用方法、[[運用]]などまでの全ての事項を対象とする[[工学]]の一分野である<ref>Jark-Heinrich, G., & Antonsson, E. K. (Eds.). (2009). Springer handbook of mechanical engineering (Vol. 10). Springer Science & Business Media.</ref><ref>Dixit, U. S., Hazarika, M., & Davim, J. P. (2017). A brief history of mechanical engineering. Switzerland: Springer.</ref><ref>Wickert, J., & Lewis, K. (2020). An introduction to mechanical engineering. Cengage learning.</ref><ref>Bird, J., & Ross, C. (2019). Mechanical engineering principles. Routledge.</ref><ref name = "世界大百科事典_474"/>。 具体的には、[[熱力学]]、[[機械力学]]、[[流体力学]]、[[材料力学]]の四力学を基礎とした機械の設計<ref>材料力学入門 (機械工学テキストライブラリ) 日下貴之 数理工学社 2016-10</ref>や製作のための技術を学ぶほか、より広義には、[[機構学]]、[[制御工学]]、[[経営工学]]、[[材料工学]]([[金属工学]])、そして近年のコンピュータ化に対応した[[ハードウェア]]及び[[ソフトウェア]]技術全般を研究対象としている<ref>Björkdahl, J. (2009). Technology cross-fertilization and the business model: The case of integrating ICTs in mechanical engineering products. Research policy, 38(9), 1468-1477.</ref>。 <!--機械工学=[[機械]]を扱う学問と解釈される傾向があるが、実際の応用範囲は必ずしも機械に限定されていない。機械工学=機械を扱う学問との根強い誤解が在るが、これは英語のmechanicalを機械と誤訳してしまったためであり、本来の意味は力学である。←要出典のためコメントアウト--> == 研究対象と分野 == *[[航空機]]--[[航空工学]] *[[自動車]]--[[自動車工学]] *[[船舶]]--[[船舶工学]] *[[メカトロニクス]]--[[ロボット]]--[[ロボット工学]] *[[ロケット]]、[[人工衛星]]--[[宇宙工学]] *[[鉄道]] *[[医療機器]] == 製造業における機械工学分野のリスト == *[[機構学]] *[[機械要素]] *[[機械材料]] **[[金属]]・[[合金]]:鉄合金や[[非鉄金属]]も含む **[[合成樹脂]] **その他の機械材料 *[[材料力学]] **塑性力学<ref>例題で学ぶはじめての塑性力学、日本塑性加工学会(編)、森北出版。</ref><ref>応用塑性力学―塑性変形の力学と有限要素解析 / 小坂田 宏造【著】、[[培風館]]。</ref><ref name="danso">弾塑性力学の基礎 / 吉田総仁 著 | [[共立出版]]</ref><ref name="suti">数値弾塑性力学、冨田佳宏、[[養賢堂 (出版社)|養賢堂]]、1994年。</ref> **弾性力学<ref name="danso"/><ref name="suti"/><ref>弾性力学入門-基礎理論から数値解法まで- 竹園茂男(著) 垰克己(著) 感本広文(著) 稲村栄次郎(著)、[[森北出版]]。</ref><ref>弾性力学入門-ていねいな数式展開で基礎をしっかり理解する-伊藤勝悦(著)、森北出版。</ref> *[[金属加工]]・[[機械加工]] **機械工作法 **[[塑性加工]] **[[切削加工]] **加工に伴う処理([[熱処理]]・[[めっき|表面処理]]・[[塗装]]) **[[工作機械]]:[[CAM]]や[[NC加工|NC]]プログラミングも扱う *設計工学<ref>大富浩一. (2009). 設計工学の目指すところ: 設計からデザインへ. 日本機械学会論文集 C 編, 75(751), 516-523.</ref><ref>現代設計工学、石川晴雄 編著、中山良一 著、井上全人 著、コロナ社。</ref><ref>基礎 機械設計工学(第4版)、兼田楨宏 著、山本雄二 著、2019年、[[オーム社]]。</ref><ref>(機械系コアテキストシリーズ E-2)機械設計工学、村上存 著、柳澤秀吉 著、2020年、コロナ社。</ref> **機械設計法 **機械設計製図<ref>長岡一三. (1998). 機械設計製図の授業における試み. 工学教育, 46(4), 2-5.</ref><ref>荒木勉. (2006). 三次元 CAD 導入に向けての―考察--機械設計製図の分かりやすい授業のために--. 図学研究, 40(Supplement1), 65-66.</ref> **機械系[[CAD]] *[[熱力学]] **[[熱機関]] **[[伝熱工学]] **[[冷凍工学]] ***冷蔵機・[[冷凍機]] **[[空気調和工学]] ***[[空気調和設備]] *[[流体力学]]、[[水理学|水力学]] *[[生産工学]]:工場の自動化、組立機械・実装機械などを扱う<ref>生産工学入門、岩田一明(監修) NEDEK研究会(編著)、森北出版。</ref><ref>(機械系 教科書シリーズ 27)生産工学- ものづくりマネジメント工学 -本位田光重 著、皆川健多郎 著、コロナ社。</ref> *[[機械力学]]:[[運動 (物理学)|運動学]]や[[振動工学]]を含む *その他の工学分野([[計測工学]]・[[制御工学]]・[[経営工学]]・[[生体工学]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2|refs= <ref name = "世界大百科事典_474">[[#世界大百科事典|「世界大百科事典」p.474]]</ref> }} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=下中邦彦|title=世界大百科事典|publisher=平凡社|date=1969-01-20|edition=初版|volume=5|ref=世界大百科事典}} *機械工学便覧([[日本機械学会]]が発行) *機械工学年鑑(日本機械学会より毎年発行) == 外部リンク == *[http://www.jsme.or.jp/ 日本機械学会] *{{kotobank}} {{Engineering fields}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:きかいこうかく}} [[Category:機械工学|*]]
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アニメ (日本のアニメーション作品)
アニメ (日本のアニメーション作品) では日本のアニメーションのうち、主にセル、もしくはセルの後継としてのデジタルで制作される日本の一般向け商業アニメーション作品(テレビアニメ、劇場アニメ、OVAなど)について記述する。日本国外ではジャパニメーション(Japanimation)、animeなどとも表記される。 アニメはアニメーションの略語であり、コマ撮りによる錯覚を利用した映像技法・映像表現全般を指し、実写作品の特殊効果や抽象映像などの実験的映像も含まれる。通俗的にはアニメと省略され、一般に商業作品として普及しているテレビアニメ、劇場アニメ、OVAなどを連想する人も多い。これらの特徴は、基本は商業作品であり、多くは絵で描かれたキャラクター作品であり、ある程度のストーリー作品である。更には、これら商業作品の強い影響を受けた自主制作作品も含まれる。また制作技法では分業のためにセルアニメが主流であったが、一部では人形アニメ等も使用され、コンピュータ・グラフィックによるアニメーション(CGアニメ)も普及している。 単に「アニメ」という場合は、セルアニメーション(セルアニメ)のことを指していることが多い。当記事では主に日本で製作された一般向け商業用セルアニメーションなど通俗的・一般的な意味での「アニメ」について記述している(デジタル化と3DCGについては記事内で後述)。 「文化芸術基本法」ではメディア芸術、関連法の「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」によるとコンテンツの一つと定義されており、いずれの法律においても「アニメ」と略されてはおらず、「アニメーション」と正式表記されている。別定義として、多角的芸術分類観点において、美術(映像を含まない)、映像、音楽、文学、芸能の総合芸術とされるときもある。 主な作品は、『アニメ作品一覧』を参照。 日本では「アニメーション」の用語は時代にもよって変遷もしており、以下の日本語の訳語も使用された。 作品制作数の増加に伴い分業化が進み、プリプロダクションの企画・製作会社と、プロダクションの作画・動画スタジオ、美術スタジオなどと、ポストプロダクションの撮影会社、音源制作など制作工程別に作業を請け負う専門スタジオと分業化されている。 また、グロス請けと呼ばれる、1話単位で制作作業を一括受注し制作業務全般を行う制作会社もある。 テレビアニメ#制作過程も参照。 大きく分けると3つの工程に別れる。なお、制作資金調達に関しては多種多様な方法があるので本項では取り上げない。 さらに詳細な工程を経て制作される。制作会社、作品に投入される各部門のスタッフ数、技術の進歩などにより役職名や工程の違いもあるが、企画から完成までの基本的な工程は以下の通りである。 複数にわたるシリーズ作品の場合、諸事情により主要スタッフや担当アニメ制作会社などが途中で変更されることも珍しくない。 ただし、諸事情により企画段階、もしくは制作途中で中止になることもあり、中にはアフレコも終えた段階でお蔵入りになったケースもある。稀に一度は中止にされた作品が時を経て再起動するケースもある。 アニメ産業と呼べるほどの規模はなく、映像制作の一分野に留まり、業界の構造としては建設業の下請け制度に類似する構造を持っているとされ、「大手制作プロダクション(元請け)」→「中堅制作プロ(子請け)」→「零細制作プロ(孫請け)」と段階ごとに、制作費の「中抜き(ピンハネ)」が存在するといわれている。 表現技法の発展と向上は、個人の感性と技術の熟練度に依存し、技量差が品質に反映される労働集約的作業に支えられているが、制作環境はアニメーターの場合、収入は新人で月額で約2 - 3万円。中堅で約7万5000円 - 10万円程度といわれ、約25%は年収100万円以下である(日本芸能実演家団体協議会、2008年調査)などの賃金や雇用環境、労働条件などの問題で、国内での人材の確保もままならない状態も恒常的に続いている。 これらの問題が長期間続いた結果、2020年ごろから国内人材の枯渇と技術を向上させた中国の台頭により、日本の白物家電と同じ道を辿るという指摘もある。 アニメーション製作のデジタル化に至るまでには、フィルム・アニメーションから、ビデオ・アニメーション、ビデオ変換装置など、さまざまなシステム開発が進められてきた。 1986年に池田宏(東映動画技術研究室長)は、「映像というメディアはこうした科学技術の基盤の上に構築されているものであり、このことは当然、これらの科学技術の発展に応じて新しい映像メディアの登場もあり得るのである。したがって映像関係者はこれら科学技術の発展にはたえず対応していかなければならないし、それを怠れば映像技術者として脱落さえ意味することになる」と語っている。 1970−1980年代後半、ビデオの普及やコンピュータの導入によってアニメーションの製作過程は大きく変わり始め、デジタル化に向かって動き始めた。 1984年に東京中央プロダクション・高橋克雄の撮影現場から、VTRでコマ撮りができるシステムVTRアニメーションシステムが登場した。 現像するまで撮影結果の分からないフィルム・アニメーションから、現場で即時に撮影結果が分かるVTRアニメーション撮影は、撮影現場の撮影期間短縮による製作コストの軽減、画質の保持、映像メディアのコンパクト化とリテイクによる経済的損失からの解放となった。 アニメーション作品以外にも広く活用され、映画やカラオケの字幕(スーパーインポーズ (映像編集))やデパートやメーカーなどの映像カタログ制作にも使用されるようになった。また、画質を落とさずに大量複製が可能になったことからOVAが普及する契機ともなった。 1985年にフィルムからビデオへの変換装置、テレシネシステムの登場で、多くのフィルムアニメーション作品がビデオ変換されテレビで放映されたこともデジタル化への指針となった。 1990年代、コンピュータの発達やソフトの開発が進み、アニメーション制作で使用される幅が広くなり活用するようになった。2010年代以降に通信網やソフトウェアが豊富になったことで、アニメ工程に直接関連するものから、連絡作業や進捗確認に至るまでデジタルツールが多用されるようになった。 1990年代後半から、着色工程がセル画に直接行うものから、原画をスキャンしてパソコン上で行うデジタル彩色に移行し、1999年頃に全面的に移行し最後までセル画で制作されていた『サザエさん』の2013年9月29日放送分を最後に、全ての商業作品はデジタル方式に移行した。仕上げ工程に導入された、デジタルペイントは訂正が容易で塗料の乾燥を待つ必要がなく、傷・ホコリなどのセル画の管理の手間も省け、また画像データとしてネットワークに載せることが可能となり、日本国内および国外などの遠隔地とのやり取りが容易化したことで、大幅な省力化・コストダウンが進んだ。また、液晶タブレットなどの普及が進むころは着色作業のみならず、作画・動画作業もペイントツール上で行うことも可能となり、原画の時点でデータとして送ることも可能になった。 映像表現においては塗料による使用色数の制限がなくなり、精密なグラデーション表現が可能となった。撮影工程でのセルの重ね合わせによる明るさの減少がなく、カメラワークの自由度が広がる他、エアブラシによる特殊効果や透過光などが簡単に施せるなどの利点がある。ただ、色の三原色ではなく光の三原色寄りにビデオ出力されるため、フィルムとビデオでは映像の質感が異なり、フィルムは柔らかい質感、ビデオはクリアな映像が特徴があり、クリアで明るすぎる発色に違和感もあった。その後、彩色補正により改善されてセルアニメを凌ぐ美しさを持つ作品もみられる。 日本国外ではディズニー映画を多く手掛けるピクサー・アニメーション・スタジオなどでフル3DCGアニメーションが制作されているが、日本国内では自動車などの機械類や魔法のエフェクトなどを描写する補完的な利用からスタートした。完成した3DCGは作画崩壊することなく自由なアングルで描写でき、完成後もソフトウェアで変形・変色が可能であるなど品質安定と省力化に貢献した。一方で単にCGを配置しただけでは手描きとの質感の差から違和感があるため、色調などを調整し違和感を軽減する手法やフルCG作品に手描きの表現手法を再現するなど、双方の技術を融合する試みが行われている。 2010年代に入るとセルアニメの質感をCGで再現する『セルルック』と呼ばれる技法が発達し、キャラクターなどにもCGを使用する作品が増加した。一方で、プロレベルの3DCGソフトウェアはライセンス料が高額でコンピュータも高性能モデルを必要することに加え、複雑な操作を習得するため専門学校でトレーニングを受けた人材が必要になるなど、手描きに比べ作画コストが上昇するためフルCG作品は少ない。 実際の業務を行うのはアニメ制作会社の一部門やCG関連業務のみを受託する小規模なスタジオが多いが、ポリゴン・ピクチュアズのような3DCGの専門会社がアニメ制作に参入する例もある。 ラテン文字のanimationの m の次は a であり e が含まれていないので、animeと略すことは出来ない。アニメーションをアニメと略せる言語は日本語に限られるため、日本国外の英語圏などで「anime」という場合は日本のアニメや日本風の表現様式のアニメに対して用いられる。日本国内では、製作国や作風に関わりなくanimeが使用される。 英語ではanimeと綴った場合の発音は「エイニム」あるいは「アニーム」のようになるが、日本語と同じ「アニメ」と発音している。animation(英)→アニメーション(日)→アニメ(日)→anime(英)として逆輸入されたものである。日本での「アニメ」読みが名詞として辞書に掲載される例もある。 フランス語には animer(動く)の過去分詞形の animé(アニメ、動いた、動かれた)があり、同用途で英語でも animé と綴られるため、フランス語由来説も存在する。 主に1970-1980年代に使用された日本製アニメーションを指す語。日本で用いられるようになった1990年代には、現地では既にほぼ死語と化しており、日本製アニメーションを指す言葉は「Anime(アニメ)」に取って代わられている。 音節的に Japan-animation から Japanimation の略語であるが、Jap(日本人の蔑称)の animation とも読めるため、日本人と文化に対する差別・偏見と、アニメーションへの偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めていた可能性もある。当時、北米に輸出された作品は、文化・習慣・表現規制の違いから、日本的・性的・暴力的な表現は削除されていた。また、アニメはまだアメリカではcartoonと呼ばれていた。 長期に渡り連続する複数の作品を1作品として編集し、制作者の意向と掛け離れた独自改変された作品を示すこともある。2000年代以降、一部のアニメーション関連のオンラインショップ で使用される場合もある。 前述の北米での発祥を受け「海外(日本の外)で視聴される、人気を呼び且つ評判になっている日本製のアニメーション」という意味で1990年代に『AKIRA』『攻殻機動隊』の原作漫画出版元である講談社をはじめメディア上で度々使用されていたが、2000年代以降は減っているものの、未だに使用されているケースも見られる。2011年には同名のアメリカの人気テレビドラマをアニメ化したOVAシリーズ『スーパーナチュラル・ジ・アニメーション』において、海外ドラマを日本のアニメ制作会社マッドハウスがアニメ化し世界で発売されたということでジャパニメーションと銘打たれていた(テレビ放送時の宣伝でも使用された)。「世界で通用する日本のアニメ」など、世界を意識した視点で作品を紹介する際に使用されている。 日本におけるアニメーション業界の意思統一、関連団体との連携、アニメーション産業の持続的発展を目的とした一般社団法人。 声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する。 声優事業社で組織。 2009年12月3日に一般社団法人化した、アニメーター及び演出家の地位向上と技術継承を目的とした一般社団法人。 2003年4月1日に設立され、「内外関連文化団体との提携及び交流。映像文化発展のための事業」。「業界の社会的地位の向上のための広報活動および出版事業」。「音声製作物に関連する権利の確立及び擁護」。「再放送使用料」の徴収、分配業務を主な事業内容とした一般社団法人。 テレビ局や制作会社に対して立場が弱い俳優が、一方的で不利な出演契約を解消を目的として結成された。声優の多くも加盟している。 メディア芸術の創造と発展を図ることを目的に、文化庁とCG-ARTS協会が主催の祭典。1997年以降、毎年実施されている。 2001年12月7日に施行され、映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術をメディア芸術と定義し、振興を図るための施策を行うようになった。 2004年5月、アニメーションや漫画など、コンテンツ産業の保護・育成に官民一体で取り組むための法律が成立した。 日本政府が行っている対外文化宣伝・輸出政策で使用されている用語で、クールジャパン戦略担当大臣や海外需要開拓支援機構(通称:クールジャパン機構)が設立されており、アニメ・漫画・ゲーム・J-POP・アイドルなどのポップカルチャー・サブカルチャーも含まれている。 文化庁の若手アニメーターなど人材育成事業の委託をうけ、日本アニメーター・演出協会(JAniCA)が2010年(平成22年)より実施しているアニメーターの人材育成事業。 漫画やアニメ作品のセル画やフィルム、原画を展示する博物館・美術館。ミュージアムショップを設置したりアニメの様々なイベントや国際アニメーション映画協会公認の映画祭、インディーズのアニメーション映画祭などを開催している所もある。『ドラえもん』の作者が生活していた川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムや、『名探偵コナン』の作者ゆかりの地鳥取県東伯郡北栄町の青山剛昌ふるさと館など、著名なアニメ作品やマンガの原作者の生誕地に地域おこしの観光拠点としても整備されることも多い。 ほとんどの博物館は特定の作家、クリエイターに特化した施設になっているが、杉並アニメーションミュージアムや秋葉原UDX内の東京アニメセンターでは制作会社や出版社などの垣根を超えた様々な企画展が行われ、アニメーションに使われる原画などの展示やグッズが販売されている。 東京都と日本動画協会などのアニメーション事業者団体で構成される「東京国際アニメフェア実行委員会」が主催の国内アニメ業界最大の見本市であった。2002年から2013年まで3月末頃に東京ビッグサイトで開催されていた展示会。アニメ作品や関係者を表彰する「東京アニメアワード」の表彰式が行われた。 2010年に東京都青少年の健全な育成に関する条例に反対する形で大手出版社(角川書店、秋田書店、講談社、集英社、小学館、新潮社、双葉社、少年画報社、白泉社、リイド社)10社が2011年の東京国際アニメフェアについて参加協力を拒否する声明を発表した。その後角川書店とアニプレックス、アニメイト、キングレコード、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン、フロンティアワークス、マーベラスエンターテイメント、メディアファクトリーの計8社が東京国際アニメフェアと同日に開催すると発表した。「アニメ コンテンツ エキスポ実行委員会」が主催し、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセで開催する、アニメーションに関する日本の展示会であった。 2014年から東京国際アニメフェアとアニメコンテンツエキスポを統合する形で実現した展示会。東京都が不参加となり、KADOKAWA、アニプレックス、日本動画協会など19社が参加する。場所を東京ビッグサイトに戻し、東館全てを使うなど分裂前の東京国際アニメフェアより大型な見本市となる。 1960年にカンヌ国際映画祭からアニメーション部門を独立した、国際アニメーション映画協会公認の国際アニメ映画祭。フレデリック・バックの『木を植えた男』などがグランプリを受賞している。 併設で世界最大規模のアニメーション見本市、MIFA(Marché international du film d'animation)が行われている。映画祭開催期間中の3日間で、世界約60か国のアニメ関係者が参加している。 広島国際アニメーションフェスティバル(2020年を最後に終了)、オタワ国際アニメーションフェスティバル、ザグレブ国際アニメーション映画祭は、上記アヌシーを含めて世界4大アニメーションフェスティバルと称されていた。 アニメ映画では「映画倫理委員会」、テレビアニメでは、放送事業者が自主的に放送基準・番組基準(放送コード)を定めて運用することが電波法、放送法で規定され、民放連加盟会員各社による任意団体「放送倫理・番組向上機構」(BPO)による自主規制がある。 OVAやWebアニメには、自主規制に関する法的規定や任意団体などは存在しないが、放送権販売の為にテレビアニメ・映画と同等程度の自主規制が行われている。アダルトビデオに類するアダルトアニメ作品は「日本ビデオ倫理協会」の審査を受けている。 テレビアニメのパッケージ化販売には自主規制が無い為、お色気や流血など刺激の強い表現をテレビ放送で規制したものを本来の状態に戻したり、より過激な映像の追加や差し替えなどが行われているものもある。 アメリカではレイティングなどの規制が厳しいこともあり、子供向けの解りやすい物語を元にしたコミカル(喜劇的)な動画を楽しませる作品が多いが、日本では『鉄腕アトム』頃から子供向けではあるが、アンダーグラウンド (文化)の影響を受けていた漫画などと密接な影響を受けていたこともあり、単純に「ヒーローが必ず勝つ」という勧善懲悪の話では無く、社会風刺など含んだ多様で複雑な物語で、主人公に内在する様々な感情や心理を描く作品が多い。 リミテッド・アニメーションが主流で、ウォルト・ディズニー・カンパニーなどのアニメ作品に見られるフル・アニメーションはあまり使われない。映画などと同様に24コマ/秒で撮影されるが、動画は、同一画で3コマ×8/秒の撮影となる。静止場面では、同一画で24コマ/秒の撮影となる。テレビ放送用の作品は演出により、1話ごとにセル画の使用量が決められている。 ウォルト・ディズニー・カンパニーの販売戦略を真似たとも言われるが、それとは別の道を歩むことになった。 テレビ番組の場合、スポンサーから提示される予算の範囲で請け負うのが通常であるが、明らかに不足する制作費で請け負い、不足部分は本業の漫画の原稿料、海外への輸出と再放送、玩具・文具・菓子メーカーにアニメキャラクターの商品化権(版権)販売による制作資金の回収システムが誕生し、後々まで続くことになる。 日本での商業用アニメーションのテレビ放送と同時に、制作費を短期間で回収するため、安価で多くの国へ輸出する販売戦略がとられた。国内で流通を前提に制作されていたものを輸出するため、輸出先の国内法や文化的事情で内容に大きな改変が行われる場合が多い。また、作品名・登場人物名やスタッフ名などは輸出先の各国に合わせて書き換えられたり、視聴者が日本製であることを知らない場合もある。 また著作権ごと(放棄した)の契約で販売された作品もある。アメリカで、『超時空要塞マクロス』・『超時空騎団サザンクロス』・『機甲創世記モスピーダ』の3作品をハーモニーゴールド USA 社(Harmony Gold USA)が翻案した『ロボテック』が制作され、さらに他国に輸出された事例も存在する。 世界的な多チャンネル化でソフト不足の中、日本アニメは安さで世界各地に広がった。現在では、北米、南米、ヨーロッパ、南アジア、東アジア、ロシア、オーストラリアなど全世界に及び、総務省の調査(2005年度)によるテレビアニメの輸出額は、国内のテレビ放送権料の412億円の15分の1程度、26億円から28億円の規模である。輸出金額では過半数を北米向けが占めるとも言われる。 日本貿易振興機構は、地域、国別にコンテンツ調査しており、その中にアニメに関する統計や傾向などのレポートがある。しかし、近年は海外におけるアニメ市場が拡大する陰で、日本製アニメのシェアは縮小傾向にある。また放映終了後に各国の言語字幕を入れて違法に配信する「海賊版アニメサイト」が増加している。 文化の違いとして、『ドラえもん』など日本の生活風景が出るものや、『ベルサイユのばら』など特定の国を扱ったものは、受け入れられるかどうかは国によって大きく異なる。『ドラえもん』は、ヒーロー的な男性を尊ぶ北米では受け入れられず2014年まで放送されなかったが、東南アジア圏では人気がある。 東南アジア圏では性的な表現を除き、日本文化的な表現も受容されつつあり、再評価されている。好まれる作品は日本とあまり変わらない。また『超電磁マシーン ボルテスV』のように、特定の国で一部の人物の間(ファン)の中でヒットする作品も存在する。またキャラクターの人気も国によって異なる。 フランスでは、1983年にジャック・ラング文化相が文化侵略だと公言し、自国のアニメーション製作者へ助成金を出すことになった。1989年には『キン肉マン』、『北斗の拳』が残酷だとバッシングされ放送中止となった。『聖闘士星矢』は暴力シーンをカットし世界中で放映されヒットし、アメリカを除き、ヨーロッパやメキシコ、南米で根強い人気がある。また、欧州製の番組を6割以上放送することを放送局に義務付けたクォータ制度があり、残りの4割の中でアメリカと日本のアニメが放送されている。 EU加盟国では、1997年にEU理事会が、ヨーロッパ製の番組が放送時間の50%以上になるように放送局に義務付けた「国境なきテレビ指令」を出してから外国製アニメの新規放送が難しくなっている。 ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発売禁止処分を受け、所持が確認された場合、児童ポルノ禁止法違反により罪に問われる。北米やオーストラリアなど多くの国でそれに準じた処分が行われている。 アメリカでは、日本のアニメは古くから名前を変えたりストーリーを編集したり改変されてアメリカ化され、非アメリカ的な発言は取り除かれるのと同時に元の日本の製作チームに関する言及は最低限しか残されなかった。1970年代にアメリカで起きた子供向けテレビ浄化運動で、増加していた日本のアニメの暴力描写と性的内容は問題視され、アメリカのテレビネットワークはアニメ放送を平日のゴールデンタイムから土曜朝に移行するが、各種保護者団体はネットワークに圧力をかけてアニメの一層の浄化を求め、日本のアニメは流せなくなった。1982年には、東映が『銀河鉄道999』をアメリカのニューワールド・ピクチャーズに売ったが、アメリカに合わせて大幅に改変され、ストーリーも破壊されたため東映はアメリカ事務所をたたんで撤退している。改変は舞台を日本ではなくアメリカの架空の場所に変えたり、人物も日本人名からアメリカ風に変えてアメリカの文化・生活が反映されたり、日本円もドル紙幣に変えられるなど、ローカライズが行われている。アメリカでは、子供向け番組のアニメでも「健康的な食生活を推進すること」が放送基準の一つであり、食に関する表現も規制され日本版からアメリカ風に編集されたり加工・変更されていた。未だにアメリカ式に改変されることもあるが、視聴者の立場としては改変を好まない層が近年増えたため、喫煙や飲酒など放送コードに抵触する部分などの改変にとどめられてもいる。 ロシアでは、サンクトペテルブルク裁判所が2021年1月に、複数の日本製のアニメを「暴力や死など過激なシーンの描写が視聴する未成年者らの成長に悪影響を与える」として、ロシア国内での放映や配布を禁止する決定を出している。インターファクス通信によると、ロシア検察当局が複数の日本製アニメの配布を禁止すべきだとする請求を裁判所に行っていた。この規制について検察当局は「過激な内容を含むアニメが未成年者に自殺などの害を及ぼすということが認められた」というコメントを出した。 中華人民共和国では、2006年に海外アニメの輸入・放送に関して、国産アニメの放送がアニメの放送全体の7割を下回ってはならない、国産アニメを制作した機関は国産アニメを制作した時間と同じ分まで海外アニメを輸入できる、17時から20時まで外国アニメーションの放送を禁止などいくつかの規定を定めた。日本作品の放送シェアが8割を超えるのは、ダンピングによる日本の文化侵略であるとして締め出しを行った。同時に、自国のアニメーション産業の保護と育成に乗り出した。内容についても検閲の対象であり、スタッフの発言により映画祭への出展が止められた事例もある。 大韓民国(韓国)では、かつて韓国での日本大衆文化の流入制限があったが、1998年に解禁された。解禁以前から日本のアニメは放送されていたが、制限をかいくぐるため前述(輸出の節参照)のように地理の実在架空を問わず舞台・人物などの韓国仕様への改変版が放送されていた。解禁後は、以前から放送されていたものはそのままだが、日本の実在地理や登場人物の日本人など日本のオリジナルのまま放送されている。聖地巡礼を意識していない架空の舞台・人物などは未だにローカライズされているものもある。 インドでは、日本でも問題視された子供への悪影響を中心とした社会現象が起きており、『クレヨンしんちゃん』を放送禁止処分にする動きもある。 アニメと、漫画・小説・アニメ雑誌・アニラジ・ゲームソフト・フィギュア(玩具) 等は、販売戦略上不可分な密接な関係にあり、様々な媒体で展開するメディアミックスを前提として企画される。 題材の幅は広く、SFアニメ、ロボットアニメ(スーパーロボット・リアルロボット)、ギャグアニメ、魔法少女アニメ(変身ヒロイン)、ラブコメディ、スポ根、萌えアニメ、空気系(日常系)、セカイ系、ハーレムものなど多種多様に渡っている。 漫画や小説・ライトノベル・コンピューターゲームなどの原作が無いオリジナルアニメの場合、放送中ないし放送後(稀にアニメ化を見越して放送前に、と言う事例もある)に漫画化や小説化される。宮崎駿や細田守、新海誠の作品は最近ほとんどオリジナルアニメとして劇場公開している。近年ではゲーム業界の著名シナリオライターを脚本家として招いて制作する傾向も見られる。 映画の場合、人気テレビアニメの総集編や続編、スピンオフとして製作されることも多く、TV本放送を視聴していなくても解りやすい、単独で完結した劇場用作品として鑑賞できるものとして制作されることがほとんどであるが、事前にTV本放送を視聴していないと理解出来ない『新世紀エヴァンゲリオン』や『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』などの作品も存在する。また、『宇宙戦艦ヤマト2199』のように映画として先行上映後に、TVシリーズとして放送される作品もある。 漫画や小説などの原作の無い、アニメの企画を原作として実写映画・テレビドラマ化されたものでは、国内では、2004年『CASSHERN』(『新造人間キャシャーン』)。2009年『ヤッターマン (映画)』2010年『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(『宇宙戦艦ヤマト』)。国外では、2008年、『スピードレーサー』(原作:『マッハGoGoGo』)などがある。 詳細は「実写」を参照。 作品に関しては、アニメ・漫画の実写映画化作品一覧・アニメ・漫画のテレビドラマ化作品一覧を参照。 実写作品の企画が原作(原案)で、アニメ化された作品では、『月光仮面』・『愛の戦士レインボーマン』・『ザ☆ウルトラマン』などがある。 かつては、劇場作品は「漫画映画」、テレビ作品は「テレビマンガ(漫画)」と表記や呼称されており、漫画とアニメは混同されたりほぼ同一視されていた。現在も漫画作品を原作とする作品は多い。 漫画原作では無いオリジナル作品を漫画にすることで、漫画化という言葉が一般的だったが、2000年頃から小説化を意味するノベライズから派生した和製英語コミカライズ(comicalize)が普及している。本編の漫画化に限らず、複数の作家による本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフのアンソロジーやオムニバス形式の作品も多い。 絵本原作でアニメ化された作品では、日本では『アンパンマン(それいけ!アンパンマン)』や、イギリスの『汽車のえほん(きかんしゃトーマス)』などがある。子供向けアニメなどでは、絵本化される作品も多い。また昔話を題材にした作品も黎明期から現在に至るまで作られている。 アニメーションのフィルムのコマを並べて作った絵本で、講談社のディズニー絵本などが典型例である。 家庭用ビデオなどの映像媒体が普及するまでは、人気アニメ映画などのフィルムブックも販売され、ドラマ音声などを記録したSP・ LP・ソノシートなどと併せて静止画ではあるが楽しむことが、一般的なアニメファンに手の届く範囲ものでもあった。 一般文芸やライトノベルのアニメ化作品も多く存在する。また、原作が小説の場合は深夜アニメや劇場アニメであることが多い。一般文芸では、過去に実写化されていた小説が新たにアニメ化されることが多い。 作品に関しては、ライトノベルのアニメ化作品一覧を参照。 TVアニメ・映画や漫画、ゲームソフトなどが原作となるノベライズも行なわれている。コミカライズと同様に本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフを展開する作品も多い。 2.5次元ミュージカルとも云われ、アニメ、漫画、ゲームなどを原作にキャラクターや物語の設定を忠実に再現し舞台(ミュージカル)化されている。 1974年の『ベルサイユのばら』が始まりとされ、1993年に8日間、31ステージ公演された『聖闘士星矢』が37万人を動員したことがミュージカル化の契機となり、その後『美少女戦士セーラームーン』や『テニスの王子様』などの人気作品が多数ミュージカル化され、観劇者数も、2013年には延べ160万人を超えている。2014年には、日本2.5次元ミュージカル協会も設立されている。 流通における大きな変革として、家庭用ビデオデッキ(VHS・βマックス)の登場・普及により、1983年にはテレビ放送や劇場公開ではないOVA作品『ダロス』が登場した。OVAはビデオソフトの販売とレンタルビデオ店から支払われる使用料により、制作費回収が可能になった結果、登場したビジネスモデルである。 玩具メーカーなどのスポンサーの意向によらずに作品制作ができるため、比較的表現の自由度があり、購買層の大多数は特定のファン層であり作品の内容は偏っているが、購買層が特定されているため商品化、販売の面において容易である利点がある。当初は、60分から90分程度のアニメ映画と同様の1話完結の作品として制作されたが、後にテレビ局に放送権の販売のため、主題歌込みで24分程度を1エピソードとした数本単位で制作されたものが主流になる。 1980年代後半以降、家庭用ビデオデッキの普及により、テレビ用映画用の作品は放映後にパッケージ化され販売されるようになった。ビデオより後発のレーザーディスク(LD)は機器本体はビデオ本体ほど一般普及はせず、高級またはマニアックな機器であったが、その再生ソフトであるLDはビデオカセットのようにコアなアニメファンの間では浸透し、LDで発売された映像作品の多くはアニメや映画であった。1990年代までのビデオやLDの時代には、ビデオデッキ本体こそ一般に広く普及していたものの、パッケージソフトは販売店も少なく後のDVD時代より格段に小規模なマニアックな市場で、1本あたりの単価も高めでビデオカセット・LD自体も後のDVDより大きいサイズのため複数所持するにもかさばり、自分でテレビから録画したのでないアニメや映画作品等はレンタルビデオ店で借りて視聴するのが主流であった。 音楽CDと同じサイズのDVDが登場・普及した2000年代以降は、パッケージ化作品数や販売店数・販売スペースなど市場規模が飛躍的に増加した。 2000年代後半に入ると地デジの浸透と共にハイビジョン制作作品が増加し、Blu-ray Disc(BD)およびBDレコーダーの登場・普及と共にBDが主流となった(過去に既にパッケージ化された作品もデジタルリマスター(HDリマスター)版などとして再発売されることもある)。 OVAの流れを受け、放送権料の安い、深夜・早朝枠やケーブルテレビ、独立テレビ局、BS・CSチャンネルで、特定のファン層をターゲットにしたテレビアニメ番組が増加した。特に深夜アニメやUHFアニメは基本的に視聴率は低いことからスポンサー料は安く、それだけで制作費回収は難しいことから、各種パッケージ販売によって収益を得るビジネスモデルが主流となった。しかしネット配信(合法違法問わず)の普及により映像媒体の販売は減少傾向にあり、初回限定版として各種グッズ類やイベントチケットなどの特典を付けて販促を行っているのが現状である。 2010年代半ばに入ると内外問わずインターネット配信による収益で補完する動きが主流となり、2020年代には配信料が収益の柱となっている。 1977年、成年向け雑誌「月刊OUT」が『宇宙戦艦ヤマト』特集を掲載し大ヒットとなり、これがアニメ誌に発展する契機となった。当時、幼年向けのテレビ情報誌「テレビランド」を発刊していた徳間書店はテレビランド増刊『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』を創刊し40万部を記録。この成功を受けて、月刊アニメ雑誌「アニメージュ」が創刊される。 その後、『機動戦士ガンダム』に続くアニメブームの間に、多数の出版社の参入と淘汰が繰り返された末、2015年現在、10日売りアニメ雑誌と称される総合誌は「アニメージュ」「アニメディア」「月刊ニュータイプ」の三誌がしのぎを削る状況にある。 その派生雑誌として萌えアニメ専門雑誌(「メガミマガジン」「娘TYPE」など)や声優専門雑誌(「声優グランプリ」「声優アニメディア」など)、アニメソング専門雑誌(「リスアニ!」など)なども登場している。 1917年の「活動之世界」9月号掲載の幸内純一の作品批評が、日本における初のアニメーションに関する批評とされる。以後、アニメーションの批評は「キネマ旬報」「映画評論」などが主要な発表の媒体となり、新作の批評という形で行われてきた。 1950年代に東映動画が設立され、年に1作のペースで長編作品が定期的に制作されるようになると、「朝日新聞」などの映画欄でも扱われるようになった。 1977年には山口且訓と渡辺泰の共著による『日本アニメーション映画史』が刊行される。日本アニメーション史の基本文献として参考資料として挙げられることが多い。日本国外のアニメーションやアートアニメーションの評論については、1966年に『アニメーション入門』を著した森卓也やおかだえみこ等が活動していた。『日本アニメーション映画史』『アニメーション入門』のいずれも『映画評論』誌の連載をまとめた単行本であった。 1970年代末にアニメブームが到来し、アニメ雑誌が多数創刊される。同人誌活動していたアニメファン出身のライターの力を借りて誌面を構成していた。氷川竜介、小黒祐一郎、原口正宏、霜月たかなか、中島紳介らは学生アルバイトに始まり、2000年以降も活動している。「アニメージュ」はクリエイターの作品歴を系統的に紹介することに力を入れ、「アニメック」と「月刊OUT」においては、評論記事と読者投稿による作品評論が一つの売り物になっていた。 批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「動画王」、1999年創刊の「アニメ批評」、2000年創刊の「アニメスタイル」などがあったが短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットに活動の場を移した。 「月刊ニュータイプ」が登場した1980年代半ば以降、アニメ雑誌はクリエイターや作品研究などの記事から、キャラクターやグラビアを重視した作りに軸足を移していき、アニメ評論を積極的に掲載するアニメ雑誌は基本的に存在しなくなっている。その一方、宮崎駿や押井守の活躍、『新世紀エヴァンゲリオン』がビジネスとして話題になるようになった1990年代から、人気作品や人気クリエイターを中心にした研究本は、継続的に発行されるようになった。 1998年10月、日本で初めてのアニメの学術的研究を趣旨とする学会「日本アニメーション学会」が設立された。 アニメラジオの略称。アニメ・ゲーム・漫画・ライトノベル・声優等のオタが主な聴取対象のラジオ番組。1979年10月、ラジオ大阪『アニメトピア』を皮切りに、多くは深夜放送番組として放送されているが、ネット環境の普及と共にインターネットラジオ番組も増えている。 黎明期にはアニメ雑誌やレコード会社による総合情報番組が多かったが、アニメやゲーム、漫画、小説(ライトノベル)などを原作にしたラジオドラマ番組、人気声優のパーソナリティ番組、アニメソングやゲームミュージック専門のリクエスト番組、アニメに関する話題をリスナーから募集して討論する番組など多岐にわたるようになっている。 劇中で使用される音楽の主題歌(テーマソング)・挿入歌・イメージソング・インスト曲・BGMなどサウンドトラックの他、ドラマやアニメの世界観を背景としたドラマ音声などを録音したSP・ LP・ソノシートなどのレコード盤やカセットテープや、現在はCDなどで販売頒布されているほか、iTunesほかインターネット配信も増加している。 かつては、映像媒体は極めて高価だったこともあり、ドラマなどの音声を記録したSP・LP・ソノシートレコード盤、カセットテープ、CDなどの音声媒体が普通の愛好家の手の届く範囲であった。 インターネットの普及と共に、ほとんどのアニメ作品は公式サイトを設置し宣伝をする形態をとっている。内容は作品・あらすじの紹介、予告編やPVなどの宣伝素材の無料配信・関連商品のPRなど。デスクトップ・携帯電話用コンテンツを提供している場合もある。特に深夜アニメの場合視聴者はほぼ限られるため、インターネットでの宣伝に頼っている場合が多い。またSNSでの宣伝は安価で、リツイート機能により時に数万人へ作品情報を発信できるという強みがある。 制作テレビ局や制作会社のウェブサイトの一部としての場合が多かったが、最近では作品・シリーズ毎に独自のドメイン名を取得し制作会社が管理する独立サイトとして設置するケースも多くなっている。ブロードバンド環境の普及により、本編や公式ラジオの配信を行っているケースもある。 2010年代に入ると、SNSの普及を受ける形でTwitterやfacebookの公式アカウントを取得し情報の発信などを行うケースが増加している。またネットユーザー同士でアニメの情報交換することで作品が話題になる例(魔法少女まどかマギカ、琴浦さんなど)や、公式サイトが話題となり終了したアニメが再び話題となる例(キルミーベイベーなど)がある。 テレビアニメの開始時から深い関係にあり、基本的に児童向けアニメのほとんどが玩具展開をすることが前提になっており、子供の興味を引く可動・合体・変形などの仕掛けがある手に取って遊べる玩具になる物を、主役として登場させることがスポンサー要望であり作品設定に影響を与えていた。素材は年代によりブリキ製、ソフトビニール製や超合金 (玩具)などの違いがある。 1960年代には、ソフトビニール製のキャラクター人形や、組み立て式のキャラクターモデルが存在していたが、1970年代後半、スケールモデルのように設定を元に忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルがヒットし、その流れに続きバンダイを模型業界のトップに押し上げた日本プラモデル史上最大のヒット商品となるガンプラが登場した。 また、消しゴムとして用をさないキャラクター消しゴムなどのカプセルトイ(ガシャガシャ、ガチャポンなど)による商品も展開され、1970年代のスーパーカーブームに乗った『サーキットの狼』などヒットにより一大ブームとなったスーパーカー消しゴムやキン肉マン消しゴム(通称、キン消し)などが登場した。 1980年代、『機動戦士ガンダム』に続くリアルロボットブームの中で、玩具の主力商品はプラモデルとなり積極的な商品展開が行われるも、ガンプラブームを越えることも無く、また『蒼き流星SPTレイズナー』はプラモデルの販売不振でメインスポンサーが撤退し放送打ち切りになるなど、ブームは終了するが、ガンプラブームによる若年層へのスケールキャラクタープラモの浸透は、原型を少数生産するガレージキットの勃興にもつながり、怪獣や美少女フィギュアなどを中心にプラモデル化しても採算に合わないとされていたものが徐々に浸透していくようになる。 1984年12月、ゼネラルプロダクツ(ガイナックスの前身)主催のプロ・アマを問わない、後に世界最大のガレージキット、模型、造形物の展示販売の最大イベントとなる、「ワンダーフェスティバル」(略称、「ワンフェス」「WF」)が開催され、主要玩具メーカの撤退に合わせるように、同人誌の即売会的な手作り模型の展示販売会のイベントが開催される。 1990年代、高価で組み立てと塗装に高度な技術と労力を要するガレージキットの中で、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイの完成品がマニアの間で高額で取引されるようになると、アニメ美少女のフィギュア化がブームとなり、他に海洋堂の精巧で安価な食玩や、バンダイがガレージキットの表現方法を吸収して従来のキャラクター消しゴムとは比べ物にならないほどリアルなカプセルトイから始まったフィギュアブームと相まってコレクションの対象となった。販売促進のため書籍・ゲームソフト・DVDなどの付録や購入特典に付属する場合もある。 深夜アニメ作品のフィギュアは、どれだけ精巧に作られているかに重点が置かれ、そのため価格も高騰している。 玩具の商品企画が原案(原作)でアニメ化された例では、『トランスフォーマー』・『ゾイド』・『超特急ヒカリアン』・『武装神姫』などがある。 アニメを中核とした大規模なメディアミックスとしては、『ベイブレードシリーズ』・『アサルトリリィ』・『新幹線変形ロボ シンカリオン』などがある。 アーケードゲーム、コンシューマーゲーム(家庭用ゲーム機)用のプログラムを記録した物理的メディア (媒体)(詳細はゲームソフトも参照)、オンラインソフトウェアで提供されるコンピュータゲームのソフトウェア。 1983年、後に社会現象となる大ヒット商品のファミリーコンピュータが発売され、プラモデルなどの玩具の販売不振に喘ぐ玩具メーカーは、主要商品を家庭用ゲーム機とゲームソフトの開発に移行する。過去の人気作品で、ゲームソフト化が比較的容易なシューティングゲーム(1985年 、『宇宙戦艦ヤマト』)、対戦型格闘ゲーム(1985年、『キン肉マン マッスルタッグマッチ』)、ウォー・シミュレーションゲーム(1987年、『SDガンダムワールド ガチャポン戦士』)などから商品展開が行われた。 後に、ロールプレイングゲーム・アドベンチャーゲームが原作でアニメ化される作品も登場する。 『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』のような推理ゲームから恋愛シミュレーションゲーム、果てにはアダルトゲームを18才未満でも視聴できるように脚本を改編したものまでアニメ化され、作品の幅は広くなっている。また、近年では『Angel Beats!』の麻枝准や『天体のメソッド』の久弥直樹などゲーム会社のシナリオライターがアニメの脚本を手掛ける場合が増えている。 携帯電話の機能が拡大し、インターネットが簡単に利用できるようになってからGREEやMobageのような基本料金無料の携帯電話向けゲームサイトがヒットするようになった。様々なアニメ作品も携帯電話ゲームとなった。アイドルマスター シンデレラガールズでは携帯電話ゲームに登場するキャラクターを元にアニメ化し、大きな話題を収めた。 またスマートフォンが普及すると今までのゲームサイトに代わってアプリケーションでのゲームがヒットするようになった。特にラブライブ! スクールアイドルフェスティバルはアニメ放映中の2カ月間で登録者数が100万人も増え、異例の登録者数増加となった。2015年3月現在で登録者数は国内700万人、全世界で1000万人を突破している。 このようにアニメ作品を題材とした携帯電話ゲームがヒットすると知名度も上がることから、深夜アニメを中心にゲームアプリ開発が激化しつつある。 作品に関してはゲームソフトのアニメ化作品一覧を参照。 ゲーム・鑑賞用のコレクションカード。1990年代末-2000年代初頭に発生した社会現象のトレーディングカードブームで普及し「トレカ」と略されることも多い。 アニメ・漫画などの関連商品として古くから存在し、めんこと呼ばれる時代から存在する。 ゲーム専用カードを用いたカードゲームはトレーディングカードゲーム (略称、TCG) と呼ばれる。通常は対戦形式の2人プレイのものが多い。 子供向けアニメのキャラクターが描かれた文房具や衣類、駄菓子などの食品類など、スーパーやショッピングセンター、コンビニなどで気軽に買える商品がほとんどであるが、一部のアニメショップやイベント会場などでは生産量が少ないグッズも販売され、希少価値の高い商品は中古市場やネットオークションで高値で取引されている。 1970年代後期 当初、アニメーションは子どものものであり、アニメを好んで見る成人がいることは知られていなかった。1977年8月、映画版『宇宙戦艦ヤマト』公開日に徹夜で並ぶファンの特異な行動をきっかけに新聞等が話題として取り上げ、成人にアニメを好んで見る趣味者がいることが一般にも知られ始めた。多くは中高生・成人であった。『宇宙戦艦ヤマト』公開の翌年にアニメ雑誌が創刊され、雑誌の文通コーナーなどを通じて連絡が可能になると、多数のファンクラブが誕生した。現在でも上の世代では、アニメは子どものものと言う印象が残っているが時代が進むにつれてその印象は薄れつつある。 本来は子供(児童)を対象としたアニメ・漫画・特撮ヒーロー番組などに夢中になっている大人のファン。 法的には、著作物をたとえパロディとして改変したものであっても、権利者に許可を得ず、不特定多数に無償配布や販売するのは著作権法に反する行為である。 ただ、著作権侵害は親告罪で、違法行為を行っている者を告訴して訴訟にまで持ち込むまでには費用がかかり、勝訴しても賠償金の支払い能力の無い場合もあり、著作側が泣き寝入り、またはファンによる応援行為として黙認しているのが現状である。 ファンクラブの誕生にあわせて会報の発行や、またファンブックを自作するという趣味を持つ者の自費出版が始まり、アニメとの繋がりの深い漫画や、他の様々な文化を巻き込み成長する。が、コミックマーケット(コミケ)などの同人誌即売会や、専門書店等の委託販売で商品化が進んでいる(詳細は、同人誌#マンガ系同人誌を取り巻く問題を参照)。 同人誌で見られるイラストの代表的な手法として、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現するアニメ絵(萌え絵)がある。 「仮装」とも呼ばれる。服や化粧により空想上のキャラクターなどに扮する行為。コスチューム・プレイを語源とする和製英語で、行う人をコスプレイヤー (Cosplayer) 、略してレイヤーと呼ぶ。単独イベントも開催され、自主制作のコスプレ写真集がコミックマーケットや、同人誌専門店で販売されている。しかし、近年は著作権の侵害としてコスプレ衣装販売業者が警察に摘発される例もある。 「萌車」とも呼ばれる。萌えアニメのキャラクターや関連する製作会社・ブランド名のロゴのステッカーを貼り付けや塗装を行ったファンの自動車。バイクは「痛単車(いたんしゃ)」、自転車は「痛チャリ(いたチャリ)」、電車の場合は痛電と呼ばれる。2008年、青島文化教材社がプラモデルの発売と商標登録に出願、同年6月27日に登録された。痛車オーナーの増加に伴いコミュニティも形成された。 近年では企業の宣伝目的でアニメ絵調のキャラクターが描かれたイラストの電車やバスが運行されることも多くなったが、それも痛車の部類に入ることが多い。 アニメ作品の舞台となった地域では、アニメファンをターゲットとした観光客誘致のために電車やバスにアニメのラッピングを施す会社も出ている。車内にはアニメのイラストやスタッフのサイン、声優による車内アナウンスを実施している所もある。 詳細な現地ロケ(ロケーション・ハンティング)による、映像演出と世界観を設定する作品の登場と共に始まった小説、映画、TVドラマなどの舞台を巡るロケ地巡り、舞台探訪などと同様の行為であるが、異なる点としてキャラクターのコスプレやアニメ作品のキャラクターが描かれた痛車で現地を訪れるファンがいることが上げられる。 ロケ地(聖地)を特定したファンがその場所を訪問(巡礼)し、現地の写真と劇中の場面(コスプレの場合、劇中の登場人物と同じポーズ)と比較する形でインターネットのファンサイトなどで公開、また同人誌形式のガイドブックが制作され同人誌即売会で頒布されるなどの形で広まった。 実写の映画やTVドラマなどと異なり、映像作品として使用された認識のない地元住民の一般住宅や学校などが含まれることも多く、日常生活に不安や迷惑を発生させる可能性を否定出来ないため、作品の発売元が聖地巡礼の自粛のお願いをした例や、口蹄疫防止のため舞台となった牧場などに訪れることを自粛することをお願いをした例もある。 一方で『君の名は。』の舞台となった飛騨市では、作品を見た観光客が飛騨市へ殺到し、ニュースなどで大きく取り上げられたことから2016年の新語・流行語大賞トップ10に聖地巡礼が選出されるなど注目を浴びた。 作品に付随し広告費が不要で、観光需要が上がるため観光振興の一助として期待も大きい。そのためアニメ、漫画のロケ地の誘致活動に力をいれる自治体や萌えキャラを製作する地域もある。しかし、ほとんどのアニメ作品のブームは一過性であり、しかも作品が話題になるかどうかも分からないことから自治体が見込んだアニメファンの観光客数を大きく下回った所もある。 詳細は巡礼 (通俗)を参照。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "アニメ (日本のアニメーション作品) では日本のアニメーションのうち、主にセル、もしくはセルの後継としてのデジタルで制作される日本の一般向け商業アニメーション作品(テレビアニメ、劇場アニメ、OVAなど)について記述する。日本国外ではジャパニメーション(Japanimation)、animeなどとも表記される。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "アニメはアニメーションの略語であり、コマ撮りによる錯覚を利用した映像技法・映像表現全般を指し、実写作品の特殊効果や抽象映像などの実験的映像も含まれる。通俗的にはアニメと省略され、一般に商業作品として普及しているテレビアニメ、劇場アニメ、OVAなどを連想する人も多い。これらの特徴は、基本は商業作品であり、多くは絵で描かれたキャラクター作品であり、ある程度のストーリー作品である。更には、これら商業作品の強い影響を受けた自主制作作品も含まれる。また制作技法では分業のためにセルアニメが主流であったが、一部では人形アニメ等も使用され、コンピュータ・グラフィックによるアニメーション(CGアニメ)も普及している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "単に「アニメ」という場合は、セルアニメーション(セルアニメ)のことを指していることが多い。当記事では主に日本で製作された一般向け商業用セルアニメーションなど通俗的・一般的な意味での「アニメ」について記述している(デジタル化と3DCGについては記事内で後述)。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「文化芸術基本法」ではメディア芸術、関連法の「コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律」によるとコンテンツの一つと定義されており、いずれの法律においても「アニメ」と略されてはおらず、「アニメーション」と正式表記されている。別定義として、多角的芸術分類観点において、美術(映像を含まない)、映像、音楽、文学、芸能の総合芸術とされるときもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "主な作品は、『アニメ作品一覧』を参照。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本では「アニメーション」の用語は時代にもよって変遷もしており、以下の日本語の訳語も使用された。", "title": "用語の変遷" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "作品制作数の増加に伴い分業化が進み、プリプロダクションの企画・製作会社と、プロダクションの作画・動画スタジオ、美術スタジオなどと、ポストプロダクションの撮影会社、音源制作など制作工程別に作業を請け負う専門スタジオと分業化されている。", "title": "製作会社と制作会社" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "また、グロス請けと呼ばれる、1話単位で制作作業を一括受注し制作業務全般を行う制作会社もある。", "title": "製作会社と制作会社" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "テレビアニメ#制作過程も参照。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "大きく分けると3つの工程に別れる。なお、制作資金調達に関しては多種多様な方法があるので本項では取り上げない。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "さらに詳細な工程を経て制作される。制作会社、作品に投入される各部門のスタッフ数、技術の進歩などにより役職名や工程の違いもあるが、企画から完成までの基本的な工程は以下の通りである。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "複数にわたるシリーズ作品の場合、諸事情により主要スタッフや担当アニメ制作会社などが途中で変更されることも珍しくない。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ただし、諸事情により企画段階、もしくは制作途中で中止になることもあり、中にはアフレコも終えた段階でお蔵入りになったケースもある。稀に一度は中止にされた作品が時を経て再起動するケースもある。", "title": "制作工程" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "アニメ産業と呼べるほどの規模はなく、映像制作の一分野に留まり、業界の構造としては建設業の下請け制度に類似する構造を持っているとされ、「大手制作プロダクション(元請け)」→「中堅制作プロ(子請け)」→「零細制作プロ(孫請け)」と段階ごとに、制作費の「中抜き(ピンハネ)」が存在するといわれている。", "title": "制作業界と環境" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "表現技法の発展と向上は、個人の感性と技術の熟練度に依存し、技量差が品質に反映される労働集約的作業に支えられているが、制作環境はアニメーターの場合、収入は新人で月額で約2 - 3万円。中堅で約7万5000円 - 10万円程度といわれ、約25%は年収100万円以下である(日本芸能実演家団体協議会、2008年調査)などの賃金や雇用環境、労働条件などの問題で、国内での人材の確保もままならない状態も恒常的に続いている。", "title": "制作業界と環境" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "これらの問題が長期間続いた結果、2020年ごろから国内人材の枯渇と技術を向上させた中国の台頭により、日本の白物家電と同じ道を辿るという指摘もある。", "title": "制作業界と環境" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "アニメーション製作のデジタル化に至るまでには、フィルム・アニメーションから、ビデオ・アニメーション、ビデオ変換装置など、さまざまなシステム開発が進められてきた。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1986年に池田宏(東映動画技術研究室長)は、「映像というメディアはこうした科学技術の基盤の上に構築されているものであり、このことは当然、これらの科学技術の発展に応じて新しい映像メディアの登場もあり得るのである。したがって映像関係者はこれら科学技術の発展にはたえず対応していかなければならないし、それを怠れば映像技術者として脱落さえ意味することになる」と語っている。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "1970−1980年代後半、ビデオの普及やコンピュータの導入によってアニメーションの製作過程は大きく変わり始め、デジタル化に向かって動き始めた。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1984年に東京中央プロダクション・高橋克雄の撮影現場から、VTRでコマ撮りができるシステムVTRアニメーションシステムが登場した。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "現像するまで撮影結果の分からないフィルム・アニメーションから、現場で即時に撮影結果が分かるVTRアニメーション撮影は、撮影現場の撮影期間短縮による製作コストの軽減、画質の保持、映像メディアのコンパクト化とリテイクによる経済的損失からの解放となった。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "アニメーション作品以外にも広く活用され、映画やカラオケの字幕(スーパーインポーズ (映像編集))やデパートやメーカーなどの映像カタログ制作にも使用されるようになった。また、画質を落とさずに大量複製が可能になったことからOVAが普及する契機ともなった。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1985年にフィルムからビデオへの変換装置、テレシネシステムの登場で、多くのフィルムアニメーション作品がビデオ変換されテレビで放映されたこともデジタル化への指針となった。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1990年代、コンピュータの発達やソフトの開発が進み、アニメーション制作で使用される幅が広くなり活用するようになった。2010年代以降に通信網やソフトウェアが豊富になったことで、アニメ工程に直接関連するものから、連絡作業や進捗確認に至るまでデジタルツールが多用されるようになった。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1990年代後半から、着色工程がセル画に直接行うものから、原画をスキャンしてパソコン上で行うデジタル彩色に移行し、1999年頃に全面的に移行し最後までセル画で制作されていた『サザエさん』の2013年9月29日放送分を最後に、全ての商業作品はデジタル方式に移行した。仕上げ工程に導入された、デジタルペイントは訂正が容易で塗料の乾燥を待つ必要がなく、傷・ホコリなどのセル画の管理の手間も省け、また画像データとしてネットワークに載せることが可能となり、日本国内および国外などの遠隔地とのやり取りが容易化したことで、大幅な省力化・コストダウンが進んだ。また、液晶タブレットなどの普及が進むころは着色作業のみならず、作画・動画作業もペイントツール上で行うことも可能となり、原画の時点でデータとして送ることも可能になった。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "映像表現においては塗料による使用色数の制限がなくなり、精密なグラデーション表現が可能となった。撮影工程でのセルの重ね合わせによる明るさの減少がなく、カメラワークの自由度が広がる他、エアブラシによる特殊効果や透過光などが簡単に施せるなどの利点がある。ただ、色の三原色ではなく光の三原色寄りにビデオ出力されるため、フィルムとビデオでは映像の質感が異なり、フィルムは柔らかい質感、ビデオはクリアな映像が特徴があり、クリアで明るすぎる発色に違和感もあった。その後、彩色補正により改善されてセルアニメを凌ぐ美しさを持つ作品もみられる。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "日本国外ではディズニー映画を多く手掛けるピクサー・アニメーション・スタジオなどでフル3DCGアニメーションが制作されているが、日本国内では自動車などの機械類や魔法のエフェクトなどを描写する補完的な利用からスタートした。完成した3DCGは作画崩壊することなく自由なアングルで描写でき、完成後もソフトウェアで変形・変色が可能であるなど品質安定と省力化に貢献した。一方で単にCGを配置しただけでは手描きとの質感の差から違和感があるため、色調などを調整し違和感を軽減する手法やフルCG作品に手描きの表現手法を再現するなど、双方の技術を融合する試みが行われている。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2010年代に入るとセルアニメの質感をCGで再現する『セルルック』と呼ばれる技法が発達し、キャラクターなどにもCGを使用する作品が増加した。一方で、プロレベルの3DCGソフトウェアはライセンス料が高額でコンピュータも高性能モデルを必要することに加え、複雑な操作を習得するため専門学校でトレーニングを受けた人材が必要になるなど、手描きに比べ作画コストが上昇するためフルCG作品は少ない。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "実際の業務を行うのはアニメ制作会社の一部門やCG関連業務のみを受託する小規模なスタジオが多いが、ポリゴン・ピクチュアズのような3DCGの専門会社がアニメ制作に参入する例もある。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "ラテン文字のanimationの m の次は a であり e が含まれていないので、animeと略すことは出来ない。アニメーションをアニメと略せる言語は日本語に限られるため、日本国外の英語圏などで「anime」という場合は日本のアニメや日本風の表現様式のアニメに対して用いられる。日本国内では、製作国や作風に関わりなくanimeが使用される。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "英語ではanimeと綴った場合の発音は「エイニム」あるいは「アニーム」のようになるが、日本語と同じ「アニメ」と発音している。animation(英)→アニメーション(日)→アニメ(日)→anime(英)として逆輸入されたものである。日本での「アニメ」読みが名詞として辞書に掲載される例もある。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "フランス語には animer(動く)の過去分詞形の animé(アニメ、動いた、動かれた)があり、同用途で英語でも animé と綴られるため、フランス語由来説も存在する。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "主に1970-1980年代に使用された日本製アニメーションを指す語。日本で用いられるようになった1990年代には、現地では既にほぼ死語と化しており、日本製アニメーションを指す言葉は「Anime(アニメ)」に取って代わられている。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "音節的に Japan-animation から Japanimation の略語であるが、Jap(日本人の蔑称)の animation とも読めるため、日本人と文化に対する差別・偏見と、アニメーションへの偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めていた可能性もある。当時、北米に輸出された作品は、文化・習慣・表現規制の違いから、日本的・性的・暴力的な表現は削除されていた。また、アニメはまだアメリカではcartoonと呼ばれていた。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "長期に渡り連続する複数の作品を1作品として編集し、制作者の意向と掛け離れた独自改変された作品を示すこともある。2000年代以降、一部のアニメーション関連のオンラインショップ で使用される場合もある。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "前述の北米での発祥を受け「海外(日本の外)で視聴される、人気を呼び且つ評判になっている日本製のアニメーション」という意味で1990年代に『AKIRA』『攻殻機動隊』の原作漫画出版元である講談社をはじめメディア上で度々使用されていたが、2000年代以降は減っているものの、未だに使用されているケースも見られる。2011年には同名のアメリカの人気テレビドラマをアニメ化したOVAシリーズ『スーパーナチュラル・ジ・アニメーション』において、海外ドラマを日本のアニメ制作会社マッドハウスがアニメ化し世界で発売されたということでジャパニメーションと銘打たれていた(テレビ放送時の宣伝でも使用された)。「世界で通用する日本のアニメ」など、世界を意識した視点で作品を紹介する際に使用されている。", "title": "製作工程の省力化とデジタル化" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "日本におけるアニメーション業界の意思統一、関連団体との連携、アニメーション産業の持続的発展を目的とした一般社団法人。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "声優事業社で組織。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "2009年12月3日に一般社団法人化した、アニメーター及び演出家の地位向上と技術継承を目的とした一般社団法人。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2003年4月1日に設立され、「内外関連文化団体との提携及び交流。映像文化発展のための事業」。「業界の社会的地位の向上のための広報活動および出版事業」。「音声製作物に関連する権利の確立及び擁護」。「再放送使用料」の徴収、分配業務を主な事業内容とした一般社団法人。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "テレビ局や制作会社に対して立場が弱い俳優が、一方的で不利な出演契約を解消を目的として結成された。声優の多くも加盟している。", "title": "業界団体" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "メディア芸術の創造と発展を図ることを目的に、文化庁とCG-ARTS協会が主催の祭典。1997年以降、毎年実施されている。", "title": "国による振興・保護政策" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "2001年12月7日に施行され、映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術をメディア芸術と定義し、振興を図るための施策を行うようになった。", "title": "国による振興・保護政策" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "2004年5月、アニメーションや漫画など、コンテンツ産業の保護・育成に官民一体で取り組むための法律が成立した。", "title": "国による振興・保護政策" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "日本政府が行っている対外文化宣伝・輸出政策で使用されている用語で、クールジャパン戦略担当大臣や海外需要開拓支援機構(通称:クールジャパン機構)が設立されており、アニメ・漫画・ゲーム・J-POP・アイドルなどのポップカルチャー・サブカルチャーも含まれている。", "title": "国による振興・保護政策" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "文化庁の若手アニメーターなど人材育成事業の委託をうけ、日本アニメーター・演出協会(JAniCA)が2010年(平成22年)より実施しているアニメーターの人材育成事業。", "title": "国による振興・保護政策" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "漫画やアニメ作品のセル画やフィルム、原画を展示する博物館・美術館。ミュージアムショップを設置したりアニメの様々なイベントや国際アニメーション映画協会公認の映画祭、インディーズのアニメーション映画祭などを開催している所もある。『ドラえもん』の作者が生活していた川崎市の藤子・F・不二雄ミュージアムや、『名探偵コナン』の作者ゆかりの地鳥取県東伯郡北栄町の青山剛昌ふるさと館など、著名なアニメ作品やマンガの原作者の生誕地に地域おこしの観光拠点としても整備されることも多い。", "title": "博物館・美術館" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "ほとんどの博物館は特定の作家、クリエイターに特化した施設になっているが、杉並アニメーションミュージアムや秋葉原UDX内の東京アニメセンターでは制作会社や出版社などの垣根を超えた様々な企画展が行われ、アニメーションに使われる原画などの展示やグッズが販売されている。", "title": "博物館・美術館" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "東京都と日本動画協会などのアニメーション事業者団体で構成される「東京国際アニメフェア実行委員会」が主催の国内アニメ業界最大の見本市であった。2002年から2013年まで3月末頃に東京ビッグサイトで開催されていた展示会。アニメ作品や関係者を表彰する「東京アニメアワード」の表彰式が行われた。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "2010年に東京都青少年の健全な育成に関する条例に反対する形で大手出版社(角川書店、秋田書店、講談社、集英社、小学館、新潮社、双葉社、少年画報社、白泉社、リイド社)10社が2011年の東京国際アニメフェアについて参加協力を拒否する声明を発表した。その後角川書店とアニプレックス、アニメイト、キングレコード、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン、フロンティアワークス、マーベラスエンターテイメント、メディアファクトリーの計8社が東京国際アニメフェアと同日に開催すると発表した。「アニメ コンテンツ エキスポ実行委員会」が主催し、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセで開催する、アニメーションに関する日本の展示会であった。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "2014年から東京国際アニメフェアとアニメコンテンツエキスポを統合する形で実現した展示会。東京都が不参加となり、KADOKAWA、アニプレックス、日本動画協会など19社が参加する。場所を東京ビッグサイトに戻し、東館全てを使うなど分裂前の東京国際アニメフェアより大型な見本市となる。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1960年にカンヌ国際映画祭からアニメーション部門を独立した、国際アニメーション映画協会公認の国際アニメ映画祭。フレデリック・バックの『木を植えた男』などがグランプリを受賞している。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "併設で世界最大規模のアニメーション見本市、MIFA(Marché international du film d'animation)が行われている。映画祭開催期間中の3日間で、世界約60か国のアニメ関係者が参加している。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "広島国際アニメーションフェスティバル(2020年を最後に終了)、オタワ国際アニメーションフェスティバル、ザグレブ国際アニメーション映画祭は、上記アヌシーを含めて世界4大アニメーションフェスティバルと称されていた。", "title": "見本市・映画祭" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アニメ映画では「映画倫理委員会」、テレビアニメでは、放送事業者が自主的に放送基準・番組基準(放送コード)を定めて運用することが電波法、放送法で規定され、民放連加盟会員各社による任意団体「放送倫理・番組向上機構」(BPO)による自主規制がある。", "title": "表現の自主規制" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "OVAやWebアニメには、自主規制に関する法的規定や任意団体などは存在しないが、放送権販売の為にテレビアニメ・映画と同等程度の自主規制が行われている。アダルトビデオに類するアダルトアニメ作品は「日本ビデオ倫理協会」の審査を受けている。", "title": "表現の自主規制" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "テレビアニメのパッケージ化販売には自主規制が無い為、お色気や流血など刺激の強い表現をテレビ放送で規制したものを本来の状態に戻したり、より過激な映像の追加や差し替えなどが行われているものもある。", "title": "表現の自主規制" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "アメリカではレイティングなどの規制が厳しいこともあり、子供向けの解りやすい物語を元にしたコミカル(喜劇的)な動画を楽しませる作品が多いが、日本では『鉄腕アトム』頃から子供向けではあるが、アンダーグラウンド (文化)の影響を受けていた漫画などと密接な影響を受けていたこともあり、単純に「ヒーローが必ず勝つ」という勧善懲悪の話では無く、社会風刺など含んだ多様で複雑な物語で、主人公に内在する様々な感情や心理を描く作品が多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "リミテッド・アニメーションが主流で、ウォルト・ディズニー・カンパニーなどのアニメ作品に見られるフル・アニメーションはあまり使われない。映画などと同様に24コマ/秒で撮影されるが、動画は、同一画で3コマ×8/秒の撮影となる。静止場面では、同一画で24コマ/秒の撮影となる。テレビ放送用の作品は演出により、1話ごとにセル画の使用量が決められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ウォルト・ディズニー・カンパニーの販売戦略を真似たとも言われるが、それとは別の道を歩むことになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "テレビ番組の場合、スポンサーから提示される予算の範囲で請け負うのが通常であるが、明らかに不足する制作費で請け負い、不足部分は本業の漫画の原稿料、海外への輸出と再放送、玩具・文具・菓子メーカーにアニメキャラクターの商品化権(版権)販売による制作資金の回収システムが誕生し、後々まで続くことになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "日本での商業用アニメーションのテレビ放送と同時に、制作費を短期間で回収するため、安価で多くの国へ輸出する販売戦略がとられた。国内で流通を前提に制作されていたものを輸出するため、輸出先の国内法や文化的事情で内容に大きな改変が行われる場合が多い。また、作品名・登場人物名やスタッフ名などは輸出先の各国に合わせて書き換えられたり、視聴者が日本製であることを知らない場合もある。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "また著作権ごと(放棄した)の契約で販売された作品もある。アメリカで、『超時空要塞マクロス』・『超時空騎団サザンクロス』・『機甲創世記モスピーダ』の3作品をハーモニーゴールド USA 社(Harmony Gold USA)が翻案した『ロボテック』が制作され、さらに他国に輸出された事例も存在する。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "世界的な多チャンネル化でソフト不足の中、日本アニメは安さで世界各地に広がった。現在では、北米、南米、ヨーロッパ、南アジア、東アジア、ロシア、オーストラリアなど全世界に及び、総務省の調査(2005年度)によるテレビアニメの輸出額は、国内のテレビ放送権料の412億円の15分の1程度、26億円から28億円の規模である。輸出金額では過半数を北米向けが占めるとも言われる。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "日本貿易振興機構は、地域、国別にコンテンツ調査しており、その中にアニメに関する統計や傾向などのレポートがある。しかし、近年は海外におけるアニメ市場が拡大する陰で、日本製アニメのシェアは縮小傾向にある。また放映終了後に各国の言語字幕を入れて違法に配信する「海賊版アニメサイト」が増加している。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "文化の違いとして、『ドラえもん』など日本の生活風景が出るものや、『ベルサイユのばら』など特定の国を扱ったものは、受け入れられるかどうかは国によって大きく異なる。『ドラえもん』は、ヒーロー的な男性を尊ぶ北米では受け入れられず2014年まで放送されなかったが、東南アジア圏では人気がある。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "東南アジア圏では性的な表現を除き、日本文化的な表現も受容されつつあり、再評価されている。好まれる作品は日本とあまり変わらない。また『超電磁マシーン ボルテスV』のように、特定の国で一部の人物の間(ファン)の中でヒットする作品も存在する。またキャラクターの人気も国によって異なる。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "フランスでは、1983年にジャック・ラング文化相が文化侵略だと公言し、自国のアニメーション製作者へ助成金を出すことになった。1989年には『キン肉マン』、『北斗の拳』が残酷だとバッシングされ放送中止となった。『聖闘士星矢』は暴力シーンをカットし世界中で放映されヒットし、アメリカを除き、ヨーロッパやメキシコ、南米で根強い人気がある。また、欧州製の番組を6割以上放送することを放送局に義務付けたクォータ制度があり、残りの4割の中でアメリカと日本のアニメが放送されている。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "EU加盟国では、1997年にEU理事会が、ヨーロッパ製の番組が放送時間の50%以上になるように放送局に義務付けた「国境なきテレビ指令」を出してから外国製アニメの新規放送が難しくなっている。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ニュージーランドでは『ぷにぷに☆ぽえみぃ』は、登場するキャラクターの容姿が幼児に見え、幼児性愛好者を増長させているとされ、政府機関により発売禁止処分を受け、所持が確認された場合、児童ポルノ禁止法違反により罪に問われる。北米やオーストラリアなど多くの国でそれに準じた処分が行われている。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "アメリカでは、日本のアニメは古くから名前を変えたりストーリーを編集したり改変されてアメリカ化され、非アメリカ的な発言は取り除かれるのと同時に元の日本の製作チームに関する言及は最低限しか残されなかった。1970年代にアメリカで起きた子供向けテレビ浄化運動で、増加していた日本のアニメの暴力描写と性的内容は問題視され、アメリカのテレビネットワークはアニメ放送を平日のゴールデンタイムから土曜朝に移行するが、各種保護者団体はネットワークに圧力をかけてアニメの一層の浄化を求め、日本のアニメは流せなくなった。1982年には、東映が『銀河鉄道999』をアメリカのニューワールド・ピクチャーズに売ったが、アメリカに合わせて大幅に改変され、ストーリーも破壊されたため東映はアメリカ事務所をたたんで撤退している。改変は舞台を日本ではなくアメリカの架空の場所に変えたり、人物も日本人名からアメリカ風に変えてアメリカの文化・生活が反映されたり、日本円もドル紙幣に変えられるなど、ローカライズが行われている。アメリカでは、子供向け番組のアニメでも「健康的な食生活を推進すること」が放送基準の一つであり、食に関する表現も規制され日本版からアメリカ風に編集されたり加工・変更されていた。未だにアメリカ式に改変されることもあるが、視聴者の立場としては改変を好まない層が近年増えたため、喫煙や飲酒など放送コードに抵触する部分などの改変にとどめられてもいる。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ロシアでは、サンクトペテルブルク裁判所が2021年1月に、複数の日本製のアニメを「暴力や死など過激なシーンの描写が視聴する未成年者らの成長に悪影響を与える」として、ロシア国内での放映や配布を禁止する決定を出している。インターファクス通信によると、ロシア検察当局が複数の日本製アニメの配布を禁止すべきだとする請求を裁判所に行っていた。この規制について検察当局は「過激な内容を含むアニメが未成年者に自殺などの害を及ぼすということが認められた」というコメントを出した。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "中華人民共和国では、2006年に海外アニメの輸入・放送に関して、国産アニメの放送がアニメの放送全体の7割を下回ってはならない、国産アニメを制作した機関は国産アニメを制作した時間と同じ分まで海外アニメを輸入できる、17時から20時まで外国アニメーションの放送を禁止などいくつかの規定を定めた。日本作品の放送シェアが8割を超えるのは、ダンピングによる日本の文化侵略であるとして締め出しを行った。同時に、自国のアニメーション産業の保護と育成に乗り出した。内容についても検閲の対象であり、スタッフの発言により映画祭への出展が止められた事例もある。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "大韓民国(韓国)では、かつて韓国での日本大衆文化の流入制限があったが、1998年に解禁された。解禁以前から日本のアニメは放送されていたが、制限をかいくぐるため前述(輸出の節参照)のように地理の実在架空を問わず舞台・人物などの韓国仕様への改変版が放送されていた。解禁後は、以前から放送されていたものはそのままだが、日本の実在地理や登場人物の日本人など日本のオリジナルのまま放送されている。聖地巡礼を意識していない架空の舞台・人物などは未だにローカライズされているものもある。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "インドでは、日本でも問題視された子供への悪影響を中心とした社会現象が起きており、『クレヨンしんちゃん』を放送禁止処分にする動きもある。", "title": "輸出" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "アニメと、漫画・小説・アニメ雑誌・アニラジ・ゲームソフト・フィギュア(玩具) 等は、販売戦略上不可分な密接な関係にあり、様々な媒体で展開するメディアミックスを前提として企画される。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "題材の幅は広く、SFアニメ、ロボットアニメ(スーパーロボット・リアルロボット)、ギャグアニメ、魔法少女アニメ(変身ヒロイン)、ラブコメディ、スポ根、萌えアニメ、空気系(日常系)、セカイ系、ハーレムものなど多種多様に渡っている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "漫画や小説・ライトノベル・コンピューターゲームなどの原作が無いオリジナルアニメの場合、放送中ないし放送後(稀にアニメ化を見越して放送前に、と言う事例もある)に漫画化や小説化される。宮崎駿や細田守、新海誠の作品は最近ほとんどオリジナルアニメとして劇場公開している。近年ではゲーム業界の著名シナリオライターを脚本家として招いて制作する傾向も見られる。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "映画の場合、人気テレビアニメの総集編や続編、スピンオフとして製作されることも多く、TV本放送を視聴していなくても解りやすい、単独で完結した劇場用作品として鑑賞できるものとして制作されることがほとんどであるが、事前にTV本放送を視聴していないと理解出来ない『新世紀エヴァンゲリオン』や『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』などの作品も存在する。また、『宇宙戦艦ヤマト2199』のように映画として先行上映後に、TVシリーズとして放送される作品もある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "漫画や小説などの原作の無い、アニメの企画を原作として実写映画・テレビドラマ化されたものでは、国内では、2004年『CASSHERN』(『新造人間キャシャーン』)。2009年『ヤッターマン (映画)』2010年『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(『宇宙戦艦ヤマト』)。国外では、2008年、『スピードレーサー』(原作:『マッハGoGoGo』)などがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "詳細は「実写」を参照。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "作品に関しては、アニメ・漫画の実写映画化作品一覧・アニメ・漫画のテレビドラマ化作品一覧を参照。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "実写作品の企画が原作(原案)で、アニメ化された作品では、『月光仮面』・『愛の戦士レインボーマン』・『ザ☆ウルトラマン』などがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "かつては、劇場作品は「漫画映画」、テレビ作品は「テレビマンガ(漫画)」と表記や呼称されており、漫画とアニメは混同されたりほぼ同一視されていた。現在も漫画作品を原作とする作品は多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "漫画原作では無いオリジナル作品を漫画にすることで、漫画化という言葉が一般的だったが、2000年頃から小説化を意味するノベライズから派生した和製英語コミカライズ(comicalize)が普及している。本編の漫画化に限らず、複数の作家による本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフのアンソロジーやオムニバス形式の作品も多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "絵本原作でアニメ化された作品では、日本では『アンパンマン(それいけ!アンパンマン)』や、イギリスの『汽車のえほん(きかんしゃトーマス)』などがある。子供向けアニメなどでは、絵本化される作品も多い。また昔話を題材にした作品も黎明期から現在に至るまで作られている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "アニメーションのフィルムのコマを並べて作った絵本で、講談社のディズニー絵本などが典型例である。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "家庭用ビデオなどの映像媒体が普及するまでは、人気アニメ映画などのフィルムブックも販売され、ドラマ音声などを記録したSP・ LP・ソノシートなどと併せて静止画ではあるが楽しむことが、一般的なアニメファンに手の届く範囲ものでもあった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "一般文芸やライトノベルのアニメ化作品も多く存在する。また、原作が小説の場合は深夜アニメや劇場アニメであることが多い。一般文芸では、過去に実写化されていた小説が新たにアニメ化されることが多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "作品に関しては、ライトノベルのアニメ化作品一覧を参照。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "TVアニメ・映画や漫画、ゲームソフトなどが原作となるノベライズも行なわれている。コミカライズと同様に本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフを展開する作品も多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "2.5次元ミュージカルとも云われ、アニメ、漫画、ゲームなどを原作にキャラクターや物語の設定を忠実に再現し舞台(ミュージカル)化されている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "1974年の『ベルサイユのばら』が始まりとされ、1993年に8日間、31ステージ公演された『聖闘士星矢』が37万人を動員したことがミュージカル化の契機となり、その後『美少女戦士セーラームーン』や『テニスの王子様』などの人気作品が多数ミュージカル化され、観劇者数も、2013年には延べ160万人を超えている。2014年には、日本2.5次元ミュージカル協会も設立されている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "流通における大きな変革として、家庭用ビデオデッキ(VHS・βマックス)の登場・普及により、1983年にはテレビ放送や劇場公開ではないOVA作品『ダロス』が登場した。OVAはビデオソフトの販売とレンタルビデオ店から支払われる使用料により、制作費回収が可能になった結果、登場したビジネスモデルである。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "玩具メーカーなどのスポンサーの意向によらずに作品制作ができるため、比較的表現の自由度があり、購買層の大多数は特定のファン層であり作品の内容は偏っているが、購買層が特定されているため商品化、販売の面において容易である利点がある。当初は、60分から90分程度のアニメ映画と同様の1話完結の作品として制作されたが、後にテレビ局に放送権の販売のため、主題歌込みで24分程度を1エピソードとした数本単位で制作されたものが主流になる。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1980年代後半以降、家庭用ビデオデッキの普及により、テレビ用映画用の作品は放映後にパッケージ化され販売されるようになった。ビデオより後発のレーザーディスク(LD)は機器本体はビデオ本体ほど一般普及はせず、高級またはマニアックな機器であったが、その再生ソフトであるLDはビデオカセットのようにコアなアニメファンの間では浸透し、LDで発売された映像作品の多くはアニメや映画であった。1990年代までのビデオやLDの時代には、ビデオデッキ本体こそ一般に広く普及していたものの、パッケージソフトは販売店も少なく後のDVD時代より格段に小規模なマニアックな市場で、1本あたりの単価も高めでビデオカセット・LD自体も後のDVDより大きいサイズのため複数所持するにもかさばり、自分でテレビから録画したのでないアニメや映画作品等はレンタルビデオ店で借りて視聴するのが主流であった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "音楽CDと同じサイズのDVDが登場・普及した2000年代以降は、パッケージ化作品数や販売店数・販売スペースなど市場規模が飛躍的に増加した。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "2000年代後半に入ると地デジの浸透と共にハイビジョン制作作品が増加し、Blu-ray Disc(BD)およびBDレコーダーの登場・普及と共にBDが主流となった(過去に既にパッケージ化された作品もデジタルリマスター(HDリマスター)版などとして再発売されることもある)。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "OVAの流れを受け、放送権料の安い、深夜・早朝枠やケーブルテレビ、独立テレビ局、BS・CSチャンネルで、特定のファン層をターゲットにしたテレビアニメ番組が増加した。特に深夜アニメやUHFアニメは基本的に視聴率は低いことからスポンサー料は安く、それだけで制作費回収は難しいことから、各種パッケージ販売によって収益を得るビジネスモデルが主流となった。しかしネット配信(合法違法問わず)の普及により映像媒体の販売は減少傾向にあり、初回限定版として各種グッズ類やイベントチケットなどの特典を付けて販促を行っているのが現状である。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "2010年代半ばに入ると内外問わずインターネット配信による収益で補完する動きが主流となり、2020年代には配信料が収益の柱となっている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "1977年、成年向け雑誌「月刊OUT」が『宇宙戦艦ヤマト』特集を掲載し大ヒットとなり、これがアニメ誌に発展する契機となった。当時、幼年向けのテレビ情報誌「テレビランド」を発刊していた徳間書店はテレビランド増刊『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』を創刊し40万部を記録。この成功を受けて、月刊アニメ雑誌「アニメージュ」が創刊される。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "その後、『機動戦士ガンダム』に続くアニメブームの間に、多数の出版社の参入と淘汰が繰り返された末、2015年現在、10日売りアニメ雑誌と称される総合誌は「アニメージュ」「アニメディア」「月刊ニュータイプ」の三誌がしのぎを削る状況にある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "その派生雑誌として萌えアニメ専門雑誌(「メガミマガジン」「娘TYPE」など)や声優専門雑誌(「声優グランプリ」「声優アニメディア」など)、アニメソング専門雑誌(「リスアニ!」など)なども登場している。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "1917年の「活動之世界」9月号掲載の幸内純一の作品批評が、日本における初のアニメーションに関する批評とされる。以後、アニメーションの批評は「キネマ旬報」「映画評論」などが主要な発表の媒体となり、新作の批評という形で行われてきた。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "1950年代に東映動画が設立され、年に1作のペースで長編作品が定期的に制作されるようになると、「朝日新聞」などの映画欄でも扱われるようになった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1977年には山口且訓と渡辺泰の共著による『日本アニメーション映画史』が刊行される。日本アニメーション史の基本文献として参考資料として挙げられることが多い。日本国外のアニメーションやアートアニメーションの評論については、1966年に『アニメーション入門』を著した森卓也やおかだえみこ等が活動していた。『日本アニメーション映画史』『アニメーション入門』のいずれも『映画評論』誌の連載をまとめた単行本であった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "1970年代末にアニメブームが到来し、アニメ雑誌が多数創刊される。同人誌活動していたアニメファン出身のライターの力を借りて誌面を構成していた。氷川竜介、小黒祐一郎、原口正宏、霜月たかなか、中島紳介らは学生アルバイトに始まり、2000年以降も活動している。「アニメージュ」はクリエイターの作品歴を系統的に紹介することに力を入れ、「アニメック」と「月刊OUT」においては、評論記事と読者投稿による作品評論が一つの売り物になっていた。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「動画王」、1999年創刊の「アニメ批評」、2000年創刊の「アニメスタイル」などがあったが短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットに活動の場を移した。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "「月刊ニュータイプ」が登場した1980年代半ば以降、アニメ雑誌はクリエイターや作品研究などの記事から、キャラクターやグラビアを重視した作りに軸足を移していき、アニメ評論を積極的に掲載するアニメ雑誌は基本的に存在しなくなっている。その一方、宮崎駿や押井守の活躍、『新世紀エヴァンゲリオン』がビジネスとして話題になるようになった1990年代から、人気作品や人気クリエイターを中心にした研究本は、継続的に発行されるようになった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1998年10月、日本で初めてのアニメの学術的研究を趣旨とする学会「日本アニメーション学会」が設立された。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "アニメラジオの略称。アニメ・ゲーム・漫画・ライトノベル・声優等のオタが主な聴取対象のラジオ番組。1979年10月、ラジオ大阪『アニメトピア』を皮切りに、多くは深夜放送番組として放送されているが、ネット環境の普及と共にインターネットラジオ番組も増えている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "黎明期にはアニメ雑誌やレコード会社による総合情報番組が多かったが、アニメやゲーム、漫画、小説(ライトノベル)などを原作にしたラジオドラマ番組、人気声優のパーソナリティ番組、アニメソングやゲームミュージック専門のリクエスト番組、アニメに関する話題をリスナーから募集して討論する番組など多岐にわたるようになっている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "劇中で使用される音楽の主題歌(テーマソング)・挿入歌・イメージソング・インスト曲・BGMなどサウンドトラックの他、ドラマやアニメの世界観を背景としたドラマ音声などを録音したSP・ LP・ソノシートなどのレコード盤やカセットテープや、現在はCDなどで販売頒布されているほか、iTunesほかインターネット配信も増加している。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "かつては、映像媒体は極めて高価だったこともあり、ドラマなどの音声を記録したSP・LP・ソノシートレコード盤、カセットテープ、CDなどの音声媒体が普通の愛好家の手の届く範囲であった。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "インターネットの普及と共に、ほとんどのアニメ作品は公式サイトを設置し宣伝をする形態をとっている。内容は作品・あらすじの紹介、予告編やPVなどの宣伝素材の無料配信・関連商品のPRなど。デスクトップ・携帯電話用コンテンツを提供している場合もある。特に深夜アニメの場合視聴者はほぼ限られるため、インターネットでの宣伝に頼っている場合が多い。またSNSでの宣伝は安価で、リツイート機能により時に数万人へ作品情報を発信できるという強みがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "制作テレビ局や制作会社のウェブサイトの一部としての場合が多かったが、最近では作品・シリーズ毎に独自のドメイン名を取得し制作会社が管理する独立サイトとして設置するケースも多くなっている。ブロードバンド環境の普及により、本編や公式ラジオの配信を行っているケースもある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "2010年代に入ると、SNSの普及を受ける形でTwitterやfacebookの公式アカウントを取得し情報の発信などを行うケースが増加している。またネットユーザー同士でアニメの情報交換することで作品が話題になる例(魔法少女まどかマギカ、琴浦さんなど)や、公式サイトが話題となり終了したアニメが再び話題となる例(キルミーベイベーなど)がある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "テレビアニメの開始時から深い関係にあり、基本的に児童向けアニメのほとんどが玩具展開をすることが前提になっており、子供の興味を引く可動・合体・変形などの仕掛けがある手に取って遊べる玩具になる物を、主役として登場させることがスポンサー要望であり作品設定に影響を与えていた。素材は年代によりブリキ製、ソフトビニール製や超合金 (玩具)などの違いがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "1960年代には、ソフトビニール製のキャラクター人形や、組み立て式のキャラクターモデルが存在していたが、1970年代後半、スケールモデルのように設定を元に忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト』のプラモデルがヒットし、その流れに続きバンダイを模型業界のトップに押し上げた日本プラモデル史上最大のヒット商品となるガンプラが登場した。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "また、消しゴムとして用をさないキャラクター消しゴムなどのカプセルトイ(ガシャガシャ、ガチャポンなど)による商品も展開され、1970年代のスーパーカーブームに乗った『サーキットの狼』などヒットにより一大ブームとなったスーパーカー消しゴムやキン肉マン消しゴム(通称、キン消し)などが登場した。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1980年代、『機動戦士ガンダム』に続くリアルロボットブームの中で、玩具の主力商品はプラモデルとなり積極的な商品展開が行われるも、ガンプラブームを越えることも無く、また『蒼き流星SPTレイズナー』はプラモデルの販売不振でメインスポンサーが撤退し放送打ち切りになるなど、ブームは終了するが、ガンプラブームによる若年層へのスケールキャラクタープラモの浸透は、原型を少数生産するガレージキットの勃興にもつながり、怪獣や美少女フィギュアなどを中心にプラモデル化しても採算に合わないとされていたものが徐々に浸透していくようになる。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "1984年12月、ゼネラルプロダクツ(ガイナックスの前身)主催のプロ・アマを問わない、後に世界最大のガレージキット、模型、造形物の展示販売の最大イベントとなる、「ワンダーフェスティバル」(略称、「ワンフェス」「WF」)が開催され、主要玩具メーカの撤退に合わせるように、同人誌の即売会的な手作り模型の展示販売会のイベントが開催される。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1990年代、高価で組み立てと塗装に高度な技術と労力を要するガレージキットの中で、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイの完成品がマニアの間で高額で取引されるようになると、アニメ美少女のフィギュア化がブームとなり、他に海洋堂の精巧で安価な食玩や、バンダイがガレージキットの表現方法を吸収して従来のキャラクター消しゴムとは比べ物にならないほどリアルなカプセルトイから始まったフィギュアブームと相まってコレクションの対象となった。販売促進のため書籍・ゲームソフト・DVDなどの付録や購入特典に付属する場合もある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "深夜アニメ作品のフィギュアは、どれだけ精巧に作られているかに重点が置かれ、そのため価格も高騰している。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "玩具の商品企画が原案(原作)でアニメ化された例では、『トランスフォーマー』・『ゾイド』・『超特急ヒカリアン』・『武装神姫』などがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "アニメを中核とした大規模なメディアミックスとしては、『ベイブレードシリーズ』・『アサルトリリィ』・『新幹線変形ロボ シンカリオン』などがある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "アーケードゲーム、コンシューマーゲーム(家庭用ゲーム機)用のプログラムを記録した物理的メディア (媒体)(詳細はゲームソフトも参照)、オンラインソフトウェアで提供されるコンピュータゲームのソフトウェア。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "1983年、後に社会現象となる大ヒット商品のファミリーコンピュータが発売され、プラモデルなどの玩具の販売不振に喘ぐ玩具メーカーは、主要商品を家庭用ゲーム機とゲームソフトの開発に移行する。過去の人気作品で、ゲームソフト化が比較的容易なシューティングゲーム(1985年 、『宇宙戦艦ヤマト』)、対戦型格闘ゲーム(1985年、『キン肉マン マッスルタッグマッチ』)、ウォー・シミュレーションゲーム(1987年、『SDガンダムワールド ガチャポン戦士』)などから商品展開が行われた。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "後に、ロールプレイングゲーム・アドベンチャーゲームが原作でアニメ化される作品も登場する。 『ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生』のような推理ゲームから恋愛シミュレーションゲーム、果てにはアダルトゲームを18才未満でも視聴できるように脚本を改編したものまでアニメ化され、作品の幅は広くなっている。また、近年では『Angel Beats!』の麻枝准や『天体のメソッド』の久弥直樹などゲーム会社のシナリオライターがアニメの脚本を手掛ける場合が増えている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "携帯電話の機能が拡大し、インターネットが簡単に利用できるようになってからGREEやMobageのような基本料金無料の携帯電話向けゲームサイトがヒットするようになった。様々なアニメ作品も携帯電話ゲームとなった。アイドルマスター シンデレラガールズでは携帯電話ゲームに登場するキャラクターを元にアニメ化し、大きな話題を収めた。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "またスマートフォンが普及すると今までのゲームサイトに代わってアプリケーションでのゲームがヒットするようになった。特にラブライブ! スクールアイドルフェスティバルはアニメ放映中の2カ月間で登録者数が100万人も増え、異例の登録者数増加となった。2015年3月現在で登録者数は国内700万人、全世界で1000万人を突破している。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "このようにアニメ作品を題材とした携帯電話ゲームがヒットすると知名度も上がることから、深夜アニメを中心にゲームアプリ開発が激化しつつある。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "作品に関してはゲームソフトのアニメ化作品一覧を参照。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "ゲーム・鑑賞用のコレクションカード。1990年代末-2000年代初頭に発生した社会現象のトレーディングカードブームで普及し「トレカ」と略されることも多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "アニメ・漫画などの関連商品として古くから存在し、めんこと呼ばれる時代から存在する。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "ゲーム専用カードを用いたカードゲームはトレーディングカードゲーム (略称、TCG) と呼ばれる。通常は対戦形式の2人プレイのものが多い。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "子供向けアニメのキャラクターが描かれた文房具や衣類、駄菓子などの食品類など、スーパーやショッピングセンター、コンビニなどで気軽に買える商品がほとんどであるが、一部のアニメショップやイベント会場などでは生産量が少ないグッズも販売され、希少価値の高い商品は中古市場やネットオークションで高値で取引されている。", "title": "商品展開とアニメ化" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "1970年代後期", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "当初、アニメーションは子どものものであり、アニメを好んで見る成人がいることは知られていなかった。1977年8月、映画版『宇宙戦艦ヤマト』公開日に徹夜で並ぶファンの特異な行動をきっかけに新聞等が話題として取り上げ、成人にアニメを好んで見る趣味者がいることが一般にも知られ始めた。多くは中高生・成人であった。『宇宙戦艦ヤマト』公開の翌年にアニメ雑誌が創刊され、雑誌の文通コーナーなどを通じて連絡が可能になると、多数のファンクラブが誕生した。現在でも上の世代では、アニメは子どものものと言う印象が残っているが時代が進むにつれてその印象は薄れつつある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "本来は子供(児童)を対象としたアニメ・漫画・特撮ヒーロー番組などに夢中になっている大人のファン。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "法的には、著作物をたとえパロディとして改変したものであっても、権利者に許可を得ず、不特定多数に無償配布や販売するのは著作権法に反する行為である。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "ただ、著作権侵害は親告罪で、違法行為を行っている者を告訴して訴訟にまで持ち込むまでには費用がかかり、勝訴しても賠償金の支払い能力の無い場合もあり、著作側が泣き寝入り、またはファンによる応援行為として黙認しているのが現状である。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "ファンクラブの誕生にあわせて会報の発行や、またファンブックを自作するという趣味を持つ者の自費出版が始まり、アニメとの繋がりの深い漫画や、他の様々な文化を巻き込み成長する。が、コミックマーケット(コミケ)などの同人誌即売会や、専門書店等の委託販売で商品化が進んでいる(詳細は、同人誌#マンガ系同人誌を取り巻く問題を参照)。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "同人誌で見られるイラストの代表的な手法として、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現するアニメ絵(萌え絵)がある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "「仮装」とも呼ばれる。服や化粧により空想上のキャラクターなどに扮する行為。コスチューム・プレイを語源とする和製英語で、行う人をコスプレイヤー (Cosplayer) 、略してレイヤーと呼ぶ。単独イベントも開催され、自主制作のコスプレ写真集がコミックマーケットや、同人誌専門店で販売されている。しかし、近年は著作権の侵害としてコスプレ衣装販売業者が警察に摘発される例もある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "「萌車」とも呼ばれる。萌えアニメのキャラクターや関連する製作会社・ブランド名のロゴのステッカーを貼り付けや塗装を行ったファンの自動車。バイクは「痛単車(いたんしゃ)」、自転車は「痛チャリ(いたチャリ)」、電車の場合は痛電と呼ばれる。2008年、青島文化教材社がプラモデルの発売と商標登録に出願、同年6月27日に登録された。痛車オーナーの増加に伴いコミュニティも形成された。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "近年では企業の宣伝目的でアニメ絵調のキャラクターが描かれたイラストの電車やバスが運行されることも多くなったが、それも痛車の部類に入ることが多い。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "アニメ作品の舞台となった地域では、アニメファンをターゲットとした観光客誘致のために電車やバスにアニメのラッピングを施す会社も出ている。車内にはアニメのイラストやスタッフのサイン、声優による車内アナウンスを実施している所もある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "詳細な現地ロケ(ロケーション・ハンティング)による、映像演出と世界観を設定する作品の登場と共に始まった小説、映画、TVドラマなどの舞台を巡るロケ地巡り、舞台探訪などと同様の行為であるが、異なる点としてキャラクターのコスプレやアニメ作品のキャラクターが描かれた痛車で現地を訪れるファンがいることが上げられる。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "ロケ地(聖地)を特定したファンがその場所を訪問(巡礼)し、現地の写真と劇中の場面(コスプレの場合、劇中の登場人物と同じポーズ)と比較する形でインターネットのファンサイトなどで公開、また同人誌形式のガイドブックが制作され同人誌即売会で頒布されるなどの形で広まった。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "実写の映画やTVドラマなどと異なり、映像作品として使用された認識のない地元住民の一般住宅や学校などが含まれることも多く、日常生活に不安や迷惑を発生させる可能性を否定出来ないため、作品の発売元が聖地巡礼の自粛のお願いをした例や、口蹄疫防止のため舞台となった牧場などに訪れることを自粛することをお願いをした例もある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "一方で『君の名は。』の舞台となった飛騨市では、作品を見た観光客が飛騨市へ殺到し、ニュースなどで大きく取り上げられたことから2016年の新語・流行語大賞トップ10に聖地巡礼が選出されるなど注目を浴びた。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "作品に付随し広告費が不要で、観光需要が上がるため観光振興の一助として期待も大きい。そのためアニメ、漫画のロケ地の誘致活動に力をいれる自治体や萌えキャラを製作する地域もある。しかし、ほとんどのアニメ作品のブームは一過性であり、しかも作品が話題になるかどうかも分からないことから自治体が見込んだアニメファンの観光客数を大きく下回った所もある。", "title": "周辺文化" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "詳細は巡礼 (通俗)を参照。", "title": "周辺文化" } ]
アニメ (日本のアニメーション作品) では日本のアニメーションのうち、主にセル、もしくはセルの後継としてのデジタルで制作される日本の一般向け商業アニメーション作品(テレビアニメ、劇場アニメ、OVAなど)について記述する。日本国外ではジャパニメーション(Japanimation)、animeなどとも表記される。
{{Otheruseslist|主に[[セルアニメ|セル]]、もしくはデジタル方式で制作される[[日本]]の[[商業]]アニメーション作品|様々な方式のアニメーション全般|アニメーション|日本におけるアニメーション使用全般|日本のアニメーション|映画におけるアニメーション|アニメーション映画|テレビ番組におけるアニメーション|テレビアニメ}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2014年1月 | 独自研究 = 2009年8月 | 雑多な内容の箇条書き = 2015年3月}} {{Pathnav|アニメーション|日本のアニメーション|frame=1}} '''アニメ (日本のアニメーション作品)''' では[[日本のアニメーション]]のうち、主に[[セルアニメ|セル]]、もしくはセルの後継としての[[デジタルアニメ|デジタルで制作]]される[[日本]]の一般向け[[商業]]アニメーション作品([[テレビアニメ]]、[[アニメーション映画|劇場アニメ]]、[[OVA]]など){{Sfn|高橋・津堅|2011|pp=4-5}}について記述する。日本国外では'''ジャパニメーション'''(Japanimation)、'''anime'''などとも表記される{{Sfn|高橋・津堅|2011|pp=9-10}}。 == 概要 == アニメは[[アニメーション]]の略語であり、[[コマ撮り]]による[[錯覚]]を利用した映像技法・映像表現全般を指し、[[実写]]作品の特殊効果や抽象映像などの実験的映像も含まれる。通俗的にはアニメと省略され、一般に[[商業]]作品として普及している[[テレビアニメ]]、[[劇場アニメ]]、[[OVA]]などを連想する人も多い。これらの特徴は、基本は商業作品であり、多くは[[絵]]で描かれた[[キャラクター]]作品であり、ある程度の[[ストーリー]]作品である。更には、これら商業作品の強い影響を受けた[[自主制作]]作品も含まれる。また制作技法では[[分業]]のために[[セルアニメ]]が主流であったが、一部では[[人形アニメ]]等も使用され、[[コンピュータ・グラフィック]]によるアニメーション(CGアニメ)も普及している<ref>『[[日経産業新聞]]』1982年11月29日8頁「[[東洋現像所]]、CGフィルム製作会社設立――初の国産システム、「[[ゴルゴ13]]」受注。」(日本経済新聞社)</ref><ref>『日経産業新聞』2001年12月5日1頁「[[セガ]]・[[東大]]、動く[[コンピュータグラフィックス|CG]]自在、「アニメ・日本」に省力化の武器――制作費削減に道。」(日本経済新聞社)</ref>。 単に「アニメ」という場合は、セルアニメーション(セルアニメ)のことを指していることが多い。当記事では主に[[日本]]で製作された一般向け商業用セルアニメーションなど[[通俗]]的・一般的な意味での「アニメ」について記述している(デジタル化と3DCGについては記事内で後述)。 「[[文化芸術基本法]]」では[[メディア芸術]]、関連法の「[[コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律]]」によると[[コンテンツ]]の一つと定義されており、いずれの法律においても「アニメ」と略されてはおらず、「アニメーション」と正式表記されている。別定義として、多角的芸術分類観点において、[[美術]](映像を含まない)、[[動画|映像]]、[[音楽]]、[[文学]]、[[芸能]]の総合[[芸術]]とされるときもある。 主な作品は、『[[アニメ作品一覧]]』を参照。 == 用語の変遷 == [[日本]]では「[[アニメーション]]」の用語は時代にもよって変遷もしており、以下の[[日本語]]の[[翻訳|訳]]語も使用された。 {|class="wikitable" !年代!!訳語!!内容 |- | nowrap="nowrap" |[[1930年代]]|| nowrap="nowrap" |[[線画]]||1930年代の[[映画]]の[[クレジットタイトル|クレジット]]は「線画」がほとんどであった。「線画」には「[[線]]」による「[[画]]」という意味があり、[[実写]]映画に使われる[[地図]]、[[統計図表|グラフ]]や[[図表]]などを意味することもあり、[[スタッフ]]はアニメーションだけでなく、地図、グラフや[[テーブル (情報)|表]]、[[字幕]]なども描くことがあった<ref>[http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0902/exh090213.html 米軍管理下での製作(せいさく)とフィルムの接収]「線画発注書」の説明参照。[[広島平和記念資料館]]バーチャル・ミュージアム内を参照</ref>。 |- | nowrap="nowrap" |[[1940年代]]以降 - 現在|| nowrap="nowrap" |[[動画]]||「動画」は[[政岡憲三]]が日本語訳として提唱。1941年に[[松竹動画研究所]]設立、1943年『[[くもとちゅうりっぷ]]』でクレジットされた。従来「線画」を使用していた[[朝日映画製作|朝日映画社]]も、1944年『フクちゃんの潜水艦』で「動画」のクレジットを入れた<ref>[http://www.jmdb.ne.jp/1944/bt000460.htm 『フクちゃんの潜水艦』日本映画データベース]([[日本映画データベース]]、映画は[[1944年]]公開)</ref>。他にも[[東映アニメーション|日本動画(東映動画)]]、[[シンエイ動画]]、[[日本動画協会]]など、更には[[商業]]用アニメの製作工程の名称([[原画]]と[[動画 (アニメーション)|動画]])を含めて業界内では「動画」が普及し、多くの[[辞書]]や[[事典]]でアニメーションの日本語訳として記載されている。 |- | nowrap="nowrap" |[[1950年代]] - 1970年代頃|| nowrap="nowrap" |[[漫画]]映画(漫画)||アニメーション(アニメ)という語が普及する以前は、[[第二次世界大戦]]の[[戦前]]・[[戦後]]を通じて特に[[児童]]向けの[[アニメーション映画]]は「漫画映画」あるいは単に「漫画」と呼ばれていた。この名称を含む作品名・シリーズ名には『[[東映まんがまつり]]』、『[[カルピスまんが劇場]]』、『[[まんが日本昔ばなし]]』などがある。 |- | nowrap="nowrap" |[[1960年代]] - 1970年代頃|| nowrap="nowrap" |テレビまんが||1964年の『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』テレビ放映開始もあり、特に[[子供]]向け作品は広く(特には[[テレビアニメ|テレビ向け]]以外も含めて)「テレビまんが」と呼ばれた。 |- | nowrap="nowrap" |1960年代以降 - 現在|| nowrap="nowrap" |アニメーション(アニメ)||『[[小型映画]]』(映像制作者向けの専門雑誌)で1965年6月号までは主に[[英語]]をそのまま[[片仮名]]にしたアニメーションという語を使用しており、アニメという略語を使用する場合はアニメーションとセットで用いられていた。7月号でアニメという語がアニメーションの略であるという断りなしで初めて使用された。絵本シリーズ『テレビ名作アニメ劇場』[[ポプラ社]]はタイトル名にアニメを使用した最初の書籍とみられる。1975年[[日本アニメーション]]設立、1978年の[[アニメージュ]]創刊、1985年の[[広島国際アニメーションフェスティバル]]開始などもあり、専門用語であったアニメーション(アニメ)が一般にも普及していった。 |- | nowrap="nowrap" |[[1968年]]|| nowrap="nowrap" |アニメート||[[絵本]]シリーズ『名作アニメート絵話』、[[偕成社]]。アニメーションを略したものではなく、{{lang|en|animation}} の動詞形の {{lang|en|animate}} を日本語読みにしたもの。一般向けにアニメを含む語をタイトルに用いた最初期の例である。 |- | nowrap="nowrap" |[[1969年]]|| nowrap="nowrap" |[[アニメラマ]]||[[虫プロ]]によるアニメーション・[[ドラマ]]・[[シネラマ]]等による[[造語]]。映画『[[千夜一夜物語 (1969年の映画)|千夜一夜物語]]』(1969年公開)『[[クレオパトラ (1970年の映画)|クレオパトラ]]』(1970年公開)で使用された。『[[哀しみのベラドンナ]]』(1973年公開)では「アニメロマネスク」が使わたが、いずれも広くは普及しなかった。 |- |} == 製作会社と制作会社 == 作品制作数の増加に伴い分業化が進み、プリプロダクションの企画・製作会社と、プロダクションの作画・動画スタジオ、美術スタジオなどと、ポストプロダクションの撮影会社、音源制作など制作工程別に作業を請け負う専門スタジオと分業化されている。 また、[[グロス請け]]と呼ばれる、1話単位で制作作業を一括受注し制作業務全般を行う制作会社もある。 {{main|アニメ制作会社|アニメ製作関係者一覧}} == 制作工程 == <gallery> ファイル:Mirai Suenaga with summer school uniform and K-on character style 20110305.jpg|[[キャラクターデザイン]]の例<ref>[[ダニー・チュー]]による番組『[[Culture:Japan]]』の[[キャラクター]] 末永みらい。『ミライミレニアム』という題でアニメが放送された。</ref> ファイル:Storyboard page.jpg|[[絵コンテ]]の例<ref>有名な[[アニメスタジオ]] [[MAPPA]]の形式で描かれた[[絵コンテ]]。キャラクターは[[ウィキペディア]]の[[ウィキペたん]]だが、同社がアニメ化したというわけではない。</ref> ファイル:Anime cel with Wikipe-tan.jpg|[[原画]]の例<ref>同社の形式でウィキペたんを描いた[[原画]]。</ref> ファイル:Best Anime Opening.jpg|総[[作監]]修正の例<ref>『Culture:Japan』『ミライミレニアム』内で使われるアニメの原画。</ref> ファイル:自主制作アニメ 結月ゆかりのアクションアニメ製作中.webm|[[原撮]]の例<ref>音声合成ソフトのキャラクター[[結月ゆかり]]を題材とした[[インディーズ|自主制作]][[同人]]アニメの作成途中。</ref>([[WebM]]動画) </gallery>[[テレビアニメ#制作過程]]も参照。 大きく分けると3つの工程に別れる。なお、制作資金調達に関しては多種多様な方法があるので本項では取り上げない。 # [[プリプロダクション]] #* 企画書をもとに、主要スタッフ編成と制作のフローを確定し、脚本・設定・絵コンテなど制作に必要な各種設定など行う作業。 # [[プロダクション]] #* 原画、動画、仕上げなどの[[アニメーション]]の作成作業。 # [[ポストプロダクション]] #* アフレコ・BGM・効果音を加える音作業やVTR編集などの作業。 さらに詳細な工程を経て制作される。制作会社、作品に投入される各部門のスタッフ数、技術の進歩などにより役職名や工程の違いもあるが、企画から完成までの基本的な工程は以下の通りである<ref group="注">『[[ボンバーマンジェッターズ]]』 [http://www.hudson.co.jp/gamenavi/gamedb/softinfo/bomb_jetters/report/report01.html シナリオ打ち合わせ アニメ ボンバーマンジェッターズ 制作現場レポート] と[[テレコム・アニメーションフィルム]]の [http://www.telecom-anime.com/telecom/oshigoto2/kouteitop.html アニメ業界の基礎知識〜アニメーションの制作の流れ〜]、[http://www.jftc.go.jp/pressrelease/09.january/090123houkokusyo01.pdf アニメーション産業に関する実態調査報告書](PDF)-2009年1月,公正取引委員会を元に記述している。</ref>。 複数にわたるシリーズ作品の場合、諸事情により主要スタッフや担当[[アニメ制作会社]]などが途中で変更されることも珍しくない。 # 企画 #* 作品の企画意図や全体像にセールスポイントなどを記述した企画書などを作成、製作側(複数の社局が[[製作委員会方式|製作委員会]]を結成することも多い)がその採否を決定する。 #* オリジナル企画と、漫画・小説など既存の著作物を原作とした企画とに二分される。後者の場合は著作権者の承諾を得るのに難航する事も珍しくない。 # スタッフ編成とワークフローの確定 #* 制作が正式に決定すると、[[監督]]・[[シリーズ構成]]・[[脚本家]]・[[声優]]・[[アニメーター]]・[[作画監督]]・[[美術監督]]・[[色彩設定]]・[[撮影監督]]・[[アニメ音楽の作曲家一覧|音楽]]・[[音響監督]]・[[プロデューサー]]・[[キャラクターデザイン]]・[[メカデザイン]]・[[制作進行]]など主要なスタッフを選定する。 # [[脚本]](シナリオ・[[本読み]]) #* ストーリーの制作作業で、柱、[[台詞]]、[[ト書き]]で構成される。 #* [[シリーズ構成]]は、脚本の監督的な立場にあり、1つの作品に複数の脚本家が担当する場合、ストーリー性のバラツキを制御する業務を行う。 # [[設定 (物語)|設定]] #* 脚本・原作・企画書を元にして、作品の主要な登場人物[[キャラクターデザイン]]や舞台背景を設定する美術設定([[美術監督]])・[[メカデザイン]](メカニカル設定)と[[クレジットタイトル|クレジット]]されることが多い。 # [[絵コンテ]] #* [[監督]]、[[演出]]([[プロデューサー]])が脚本を絵として組み立てる作業。作品の内容の流れがコマ割りの絵で描かれる。これを元に原画作業が行われる。コマ割りの状況説明・[[カメラワーク]]・効果音など、セリフ、撮影のカットの秒数が指示される。 # [[原画#アニメーション|原画]](原図・[[作画]]・[[レイアウトシステム]]) ## 原画マン(原画家、原画担当者、レイアウトマン)と呼ばれる職制が担当する。絵コンテを元に完成画面を想定し背景の構図とキャラクターのレイアウト(画面構成)を作成する。[[ペンタブレット]]などの進化で、原画作業の時点からデジタル制作に移行している。 ## 演出(プロデューサー)は、レイアウトが絵コンテの内容、演出意図との差異を確認、修正指示を入れ作画監督に渡す。 ## [[作画監督]]は動きや[[キャラクターデザイン]]を修正し、画面の統一を図る、作監修正と呼ばれる作業を行う。 # [[動画 (アニメーション)|動画]] ## 動画マンと呼ばれる職制が担当する。ラフに描かれた原画の清書作業を行い、原画の間の絵を描きおこし全ての動きを完成させる作業。中割りとも呼ばれる。 ## [[動画検査]]と呼ばれる職制が簡易撮影装置で動画をチェックし、修正を指示する。 #* 原画と動画については[[アニメーター]]も参照。 # 仕上げ(色トレス、彩色、デジタル彩色):[[色彩設定]](色彩設計)の指示・動画に指定されている色指定の通りに着色する作業。 #* [[セルアニメ]] : 動画をトレスマシンでセルに転写して、セルの裏側に彩色を行う。[[セル画]]も参照。 #* [[デジタルアニメ]] : 紙に書かれている線画をスキャナーで取り込み、線をクリンナップ。影線やハイライト線を輪郭線とは別色でトレスする。影線などの不要な線は塗りつぶされ見えなくなる。この時点でオブジェクトに [[アンチエイリアス]]は、かかっていない(かかっていると色が塗れない)。 # [[背景]] #* [[美術監督]]は、背景設定となる美術ボードを制作する。原画で指定された背景設定に合わせて、背景スタッフが背景を作成する作業。デジタルアニメも背景は絵の具で仕上げが多かったが、デジタル制作の背景も増えている。 # [[撮影]](合成):[[撮影監督]]が作業を監督し、仕上げと背景、[[3DCG]]パートなどの別工程部分を組み合わせる合成・加工工程のこと。セルアニメ時代に[[アナログ]]素材を[[フィルム]]撮影していた名残りで撮影と呼ばれる。2000年頃を境に、アニメ制作がセルアニメからデジタルアニメに移行してからは、[[デジタル・コンポジット|コンポジット]](合成)とも呼ばれる<ref name="bunshun42113_2">{{Cite web|和書|url=https://bunshun.jp/articles/-/42113?page=2 |author=高橋克則、高瀬康司 |title=『鬼滅の刃』の絵がスゴイのは、"作画"よりも〇〇の力? ジブリと正反対のアニメーション思想とは (2) |date=2020-12-13 |accessdate= 2022-11-09 |website=文春オンライン |publisher=[[文藝春秋]]}}</ref>。 #*セルアニメの場合 : セル画と背景を撮影台にセットし1コマずつ[[フィルム]]撮影し、それを繋げることで映像を作り上げる<ref name="realsound677025">{{Cite web|和書|url=https://realsound.jp/movie/2020/12/post-677025.html |author=杉本穂高 |title=『鬼滅の刃』『君の名は。』大ヒットの要因に ufotableと新海誠から探るアニメーションの"撮影"の重要性 (1) |date=2020-12-20 |accessdate= 2022-11-11|website=[[リアルサウンド (ニュースサイト)|リアルサウンド]]|publisher=株式会社blueprint}}</ref>。またこの工程で[[透過光]]、[[マルチプレーン・カメラ]]、[[多重露光]]などの[[エフェクト]]処理{{Refnest|group="注"|name="effect"|リアリティの向上や演出効果を高めるため、特殊効果を画面上の要素として付加する作業<ref name="animestyle9837">{{Cite web|和書|url=http://animestyle.jp/2016/03/07/9837/ |author=泉津井陽一 |title=もっとアニメを知るための撮影講座 第5回 エフェクトを考える (1) |date=2016-03-07 |accessdate= 2022-11-09|language=|website=WEBアニメスタイル|publisher=株式会社スタイル}}</ref>。デジタルアニメにおいては、ソフトウェアを使用したエフェクトや線画に対する[[アンチエイリアス]]・加工処理がかけられ、3DCG主体の作品では、逆に直接描く2Dエフェクトを加えることもある。}}を加える。 #*デジタルアニメの場合 : 物理的なカメラを使用せず、ソフトウェアによるデジタル処理によってコンピュータ上で原画や背景などの各工程から上がってきた各種素材を指定に合わせて合成し、カメラワークやエフェクト<ref group="注" name="effect" />などを付加して映像データとして仕上げる<ref name="bunshun42113_2"/><ref name="realsound677025"/><ref name="animestyle9775">{{Cite web|和書|url=http://animestyle.jp/2016/02/08/9775/ |author=泉津井陽一 |title=もっとアニメを知るための撮影講座 第1回 アニメの「撮影」って? |date=2016-02-08 |accessdate= 2022-11-09|language=|website=WEBアニメスタイル|publisher=株式会社スタイル}}</ref>{{Refnest|group="注"|作業内容からすれば合成もしくはコンポジットと呼んだ方が近く、そうした表記になっている作品もある。}}。 # 楽曲作成 #* 様々な場面に合わせた楽曲[[BGM]]を作成する作業。汎用的な楽曲から特徴的なシーンに向けたもの、あらかじめ演出尺や映像に合わせて楽曲するものまで様々。 # 音作業:[[音響監督]]は、[[声優]]のキャスティングと演技指導、ダビングなどの音響演出を担当する。監督や演出(プロデューサー)などが参加する場合が多い。 ## [[アフレコ]] ##* 撮影された映像に声優が[[アフレコ台本]]をもとに声を収録する作業。[[音響監督#アニメーションの場合|アフレコ演出]]と呼ばれる職制が演技指導を行う場合もある。制作スケジュールの都合上、作画が完成していない状態での収録となる事も珍しくなく、演技によってその後の作画を修正する場合もある。作品によっては、場面との親和性を高める為に挿入歌をアフレコスタジオで収録するケースもある。 ## [[プレスコ]] ##* 映像と音声との同期性を重視する場合は、アフレコと異なり先立って声を収録してから作画作業に入る、この方式を用いる。海外ではこれが主流である。 ## ダビング ##* 声にBGMや演出に合わせた効果音を加える作業。 # フィルムまたはVTR編集 #* オープニング、エンディング、CM前後の[[アイキャッチ]]を組み合わせて完成させる作業。オブジェクトの最終調整、色彩調整も行われる。 ただし、諸事情により企画段階<ref>[http://dragonbrave.blog49.fc2.com/blog-category-5.html サトウタツオ通信_diary(2005年8月10日分の日記)] [[佐藤竜雄]] 2015年4月8日閲覧。</ref>、もしくは制作途中で中止になることもあり<ref>[http://www.animeanime.biz/archives/4111 「アライブ 最終進化的少年」アニメ化中止発表 増加する製作中止] アニメ!アニメ!ビズ 2010年6月6日、2015年4月8日閲覧。</ref>、中にはアフレコも終えた段階で[[お蔵入り]]になったケースもある<ref name="excite_20141230_1">[https://www.excite.co.jp/news/article/E1419842142375/ 声優あるある漫画『それが声優!』TVアニメ化決定。原作者・あさのますみ×作画・畑健二郎、最速対談](1ページ) エキサイトレビュー 2014年12月30日、同31日閲覧。</ref>。稀に一度は中止にされた作品が時を経て再起動するケースもある<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/11/news064.html ガイナックス、「オネアミス」後の世界描く「蒼きウル」制作開始 来春に“先行短編”公開] [[ITmedia]] 2014年12月11日、2015年4月8日閲覧。</ref>。 == 流通形態 == * [[アニメーション映画]] **[[映画館]]などでの上映用に制作される作品。劇場用アニメーション映画、アニメ映画、劇場版アニメなどと呼ばれる。 *** 作品に関しては、『[[日本のアニメ映画作品一覧]]』を参照。 * [[テレビアニメ]] **[[地上波]][[テレビジョン放送局|放送局]]、[[日本における衛星放送|BS局・CSチャンネル]]などでの[[テレビジョン放送|テレビ放送]]用に制作される作品で、さらに特殊ジャンル分けとして[[深夜番組]]の[[深夜アニメ]]や、[[全国独立放送協議会]]加盟局主体で放送の[[UHFアニメ]](アナログテレビ放送当時、特に日本の[[三大都市圏]]でのUHF局は独立局が主体だったことから)などの分類もされる。 **ネットでも配信される作品もあり、基本的に配信開始から1週間以内は無料配信、或いは特定配信サイト独占契約などによる有料配信の形態が主流となっている。 **海外向けでは[[Crunchyroll]]などが著作権者の承諾を得て、台本を翻訳、字幕を付けて世界中に配信している。これらのサービスは基本的には日本国内からのアクセスは不可能となっている。 ** パッケージ販売の頭打ちから、国内外問わずネット配信による事業収益に活路を見出す動きが活発となり、テレビアニメ配信を重視するネット配信業者も相次いで誕生している。 *** 作品に関しては、『[[日本のテレビアニメ作品一覧]]』を参照。 * [[OVA]](オリジナルビデオアニメーション) **[[店舗]]販売と[[レンタルビデオ]]向けに制作される作品。各種媒体([[VHS]]、[[レーザーディスク|LD]]、[[DVD]]、[[Blu-ray Disc|Blu-ray]]など)で提供される。[[漫画]]ないし[[ライトノベル]]単行本の初回特典として同梱される事例もある([[講談社]]では独自に「OAD、ODA」と呼んでいる)。2010年代頃から下記のWebアニメに移行が進んだ。 *** 作品に関しては、『[[日本のOVA作品一覧]]』を参照。 * [[Webアニメ]] **[[インターネット]]配信用に制作される作品。国外では「Original Net Animation」('''ONA''')と呼ばれる。ネット配信会社の伸長とともに増え、テレビ局のネット参入もみられる。 *** 作品に関しては、『[[Webアニメ#Webアニメ作品一覧]]』を参照。 *[[コマーシャルメッセージ|CM]] **企業の宣伝にもアニメーションが使われている。 == 制作業界と環境 == アニメ産業と呼べるほどの規模はなく、映像制作の一分野に留まり、業界の構造としては[[建設業]]の[[下請け]]制度に類似する構造を持っているとされ、「大手制作プロダクション(元請け)」→「中堅制作プロ(子請け)」→「零細制作プロ(孫請け)」と段階ごとに、制作費の「[[中抜き]]([[ピンハネ]])」が存在するといわれている<ref>第14回 日本のアニメーション産業は大丈夫か? (2006/10/16) http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tv_iibun/061016_14th/</ref><ref>第15回 アニメ産業に忍び寄る暗い影とは (2006/11/07) http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tv_iibun/061107_15th/</ref>。 表現技法の発展と向上は、個人の感性と技術の熟練度に依存し、技量差が品質に反映される労働集約的作業に支えられているが、制作環境は[[アニメーター]]の場合、収入は新人で月額で約2 - 3万円。中堅で約7万5000円 - 10万円程度といわれ、約25%は年収100万円以下である([[日本芸能実演家団体協議会]]、2008年調査)などの賃金や雇用環境、労働条件などの問題で、国内での人材の確保もままならない状態も恒常的に続いている。 これらの問題が長期間続いた結果、2020年ごろから国内人材の枯渇と技術を向上させた中国の台頭により、日本の[[白物家電]]と同じ道を辿るという指摘もある<ref>{{Cite web|和書|title=「日本のアニメ」は家電や邦画と同じ道を歩んでしまうのか |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2111/02/news044.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |accessdate=2022-02-04 |language=ja}}</ref>。 {{main|アニメ制作の国際分業化}} == 製作工程の省力化とデジタル化 == アニメーション製作のデジタル化に至るまでには、フィルム・アニメーションから、ビデオ・アニメーション、ビデオ変換装置など、さまざまなシステム開発が進められてきた。 1986年に[[池田宏 (映画監督)|池田宏]](東映動画技術研究室長)は、「映像というメディアはこうした科学技術の基盤の上に構築されているものであり、このことは当然、これらの科学技術の発展に応じて新しい映像メディアの登場もあり得るのである。したがって映像関係者はこれら科学技術の発展にはたえず対応していかなければならないし、それを怠れば映像技術者として脱落さえ意味することになる」と語っている<ref>講座アニメーション第3巻 イメージの設計・池田宏編 / 美術出版社</ref>。 1970−1980年代後半、ビデオの普及やコンピュータの導入によってアニメーションの製作過程は大きく変わり始め、デジタル化に向かって動き始めた。 === 省力化=== 1984年に[[東京中央プロダクション]]・[[高橋克雄]]の撮影現場から、VTRでコマ撮りができるシステム[[VTRアニメーションシステム]]が登場した。 現像するまで撮影結果の分からないフィルム・アニメーションから、現場で即時に撮影結果が分かるVTRアニメーション撮影は、撮影現場の撮影期間短縮による製作コストの軽減、画質の保持、映像メディアのコンパクト化とリテイクによる経済的損失からの解放となった。 アニメーション作品以外にも広く活用され、映画やカラオケの字幕([[スーパーインポーズ (映像編集)]])やデパートやメーカーなどの映像カタログ制作にも使用されるようになった。また、画質を落とさずに大量複製が可能になったことから[[OVA]]が普及する契機ともなった。 1985年にフィルムからビデオへの変換装置、[[テレシネシステム]]の登場で、多くのフィルムアニメーション作品がビデオ変換されテレビで放映されたこともデジタル化への指針となった。 === デジタル化と3DCG === 1990年代、コンピュータの発達やソフトの開発が進み、アニメーション制作で使用される幅が広くなり活用するようになった。2010年代以降に通信網やソフトウェアが豊富になったことで、アニメ工程に直接関連するものから、連絡作業や進捗確認に至るまでデジタルツールが多用されるようになった。 1990年代後半から、着色工程が[[セル画]]に直接行うものから、原画をスキャンしてパソコン上で行うデジタル彩色に移行し、1999年頃に全面的に移行し最後までセル画で制作されていた『[[サザエさん]]』の2013年9月29日放送分を最後に<ref>『読売新聞』2013年11月29日夕刊芸能C面14頁「「サザエさん」アニメ45年 波のない磯野家」安心感」(読売新聞東京本社)</ref>、全ての商業作品はデジタル方式に移行した。仕上げ工程に導入された、デジタルペイントは訂正が容易で塗料の乾燥を待つ必要がなく、傷・ホコリなどのセル画の管理の手間も省け、また画像データとしてネットワークに載せることが可能となり、日本国内および国外などの遠隔地とのやり取りが容易化したことで、大幅な省力化・コストダウンが進んだ。また、[[液晶タブレット]]などの普及が進むころは着色作業のみならず、作画・動画作業もペイントツール上で行うことも可能となり、原画の時点でデータとして送ることも可能になった。 映像表現においては塗料による使用色数の制限がなくなり、精密なグラデーション表現が可能となった。撮影工程でのセルの重ね合わせによる明るさの減少がなく、カメラワークの自由度が広がる他、[[エアブラシ]]による[[特殊効果]]や[[透過光]]などが簡単に施せるなどの利点がある。ただ、色の三原色ではなく光の三原色寄りにビデオ出力されるため、フィルムとビデオでは映像の質感が異なり、フィルムは柔らかい質感、ビデオはクリアな映像が特徴があり、クリアで明るすぎる発色に違和感もあった。その後、彩色補正により改善されてセルアニメを凌ぐ美しさを持つ作品もみられる。 日本国外ではディズニー映画を多く手掛ける[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]などでフル[[立体映画|3D]][[CGアニメーション]]が制作されているが、日本国内では[[自動車]]などの機械類や魔法のエフェクトなどを描写する補完的な利用からスタートした。完成した3DCGは[[作画崩壊]]することなく自由なアングルで描写でき、完成後もソフトウェアで変形・変色が可能であるなど品質安定と省力化に貢献した。一方で単にCGを配置しただけでは手描きとの質感の差から違和感があるため、色調などを調整し違和感を軽減する手法やフルCG作品に手描きの表現手法を再現するなど、双方の技術を融合する試みが行われている。 2010年代に入るとセルアニメの質感をCGで再現する『セルルック』と呼ばれる技法が発達し、キャラクターなどにもCGを使用する作品が増加した。一方で、プロレベルの[[3DCGソフトウェア]]はライセンス料が高額でコンピュータも高性能モデルを必要することに加え、複雑な操作を習得するため専門学校でトレーニングを受けた人材が必要になるなど、手描きに比べ作画コストが上昇するためフルCG作品は少ない。 実際の業務を行うのは[[アニメ制作会社]]の一部門やCG関連業務のみを受託する小規模なスタジオが多いが、[[ポリゴン・ピクチュアズ]]のような3DCGの専門会社がアニメ制作に参入する例もある。 ==={{lang|en|anime}}=== ラテン文字のanimationの m の次は a であり e が含まれていないので、animeと略すことは出来ない。アニメーションをアニメと略せる言語は日本語に限られるため、日本国外の英語圏などで「{{lang|en|anime}}」という場合は日本のアニメや日本風の表現様式のアニメに対して用いられる<ref>[http://www.merriam-webster.com/dictionary/anime anime] Marian Webster dictionary</ref>。日本国内では、製作国や作風に関わりなくanimeが使用される<ref>津堅信之『日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸』NTT出版、2004年、p20</ref><ref>津堅信之『アニメ作家としての手塚治虫 その軌跡と本質』NTT出版、2007年、p.20 [http://animeanime.jp/special/archives/2008/02/1_2.html アニメ!アニメ!の勝手な用語集 第1回アニメとアニメーションの違い] [http://animeanime.jp/index.html アニメ!アニメ!] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100706055958/http://animeanime.jp/index.html |date=2010年7月6日 }} 2008年2月17日</ref><ref group="注">[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]製作作品も日本では「ディズニーアニメ」と呼ばれ、[[講談社]]ディズニーアニメブック、[[偕成社]]ディズニーアニメ小説版など、ディズニー公認の[[絵本]]やノベライズ版にも「アニメ」が使用されている。</ref>。 [[英語]]ではanimeと綴った場合の[[発音]]は「エイニム」あるいは「アニーム」のようになるが、日本語と同じ「アニメ」と発音している。{{lang|en|animation}}(英)→アニメーション(日)→アニメ(日)→anime(英)として逆輸入されたものである。日本での「アニメ」読みが名詞として辞書に掲載される例もある。 [[フランス語]]には {{lang|fr|animer}}(動く)の過去分詞形の {{lang|fr|animé}}(アニメ、動いた、動かれた)があり<ref group="注">例として[[クロード・ドビュッシー|ドビュッシー]]のピアノ曲「[[映像 (ドビュッシー)|映像]]」第3曲「ムーヴマンmouvement(動き)」冒頭のテンポ指示が「トレザニメ {{lang|fr|très animé}}(とても動いて)」など。</ref>、同用途で英語でも {{lang|en|animé}} と綴られるため、フランス語由来説も存在する。 ;アメリカ合衆国での普及 :1972年、[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]が発売されると、1976年2月には[[ファンサブ]](無断で英語字幕をつけた海賊版。[[著作権侵害]]であり、アニメDVDの販売に悪影響も出ている)活動が始まり、1977年には専門のサークルが活動を開始した。既に日本製ロボットアニメーションを指す語としてanimeという語が用いられていたが、愛好家たちの隠語か専門用語のようなもので、一般には広まらなかった<ref>フレッド・パッテン(Fred Patten)による。</ref>。1991年、{{lang|en|The Society for the Promotion of Japanese Animation}}(略称SPJA)が発足し、翌1992年から毎年「{{lang|en|[[Anime Expo]]}}」が開催されると、OTAKU([[おたく]])が増加するなど<ref>[[#Dictionary.com-Otaku|Dictionary.com-Otaku]]</ref>、animeは急速に普及していった<ref>[[#Dictionary.com-Anime|Dictionary.com-Anime]]</ref>。ただし、彼らは対価を払ってから視聴する者よりも無料なファンサブなどの海賊版でアニメを視聴している者の方が多い。 ;フランスでの普及 :日本製アニメーションは{{読み仮名|{{lang|fr|anime}}|アニメ}}と呼ばれる。英語から輸出される形で移入される。アニメーション(動画)は{{読み仮名|{{lang|fr|dessin animé}}|デサンナニメ}}(動く画) と呼ばれる。 === ジャパニメーション({{lang|en|Japanimation}}) === ; 北米 主に1970-1980年代に使用された日本製アニメーションを指す語。日本で用いられるようになった1990年代には、現地では既にほぼ死語と化しており、日本製アニメーションを指す言葉は「[[:en:Anime|Anime(アニメ)]]」に取って代わられている。 音節的に {{lang|en|Japan-animation}} から {{lang|en|Japanimation}} の[[略語]]であるが、{{lang|en|[[ジャップ|Jap]]}}([[日本人]]の蔑称)の {{lang|en|animation}} とも読めるため、日本人と文化に対する差別・偏見と、アニメーションへの偏見から、日本製アニメーションを指して「くだらないもの」あるいは「子供の教育上良くないもの」の意味を含めていた可能性もある。当時、北米に輸出された作品は、文化・習慣・表現規制の違いから、日本的・性的・暴力的な表現は削除されていた。また、アニメはまだアメリカではcartoonと呼ばれていた。 長期に渡り連続する複数の作品を1作品として編集し、制作者の意向と掛け離れた独自改変された作品を示すこともある<ref name="kinema95">[[#キネマ旬報1995|キネマ旬報1995]]</ref>。2000年代以降、一部のアニメーション関連の[[オンライン]]ショップ<ref>例としては、[http://www.japanimation.com/ <code>japanimation.com</code>] など。[http://www.animeoxide.com/ {{lang|en|Anime Oxide}}]</ref>で使用される場合もある。 ; 日本 前述の北米での発祥を受け「[[海外]](日本の外)で視聴される、人気を呼び且つ評判になっている日本製のアニメーション」という意味で1990年代に『[[AKIRA (アニメ映画)|AKIRA]]』『[[攻殻機動隊]]』の原作漫画出版元である[[講談社]]をはじめメディア上で度々使用されていたが、2000年代以降は減っているものの、未だに使用されているケースも見られる。2011年には同名のアメリカの人気テレビドラマをアニメ化したOVAシリーズ『[[スーパーナチュラル|スーパーナチュラル・ジ・アニメーション]]』において、海外ドラマを日本のアニメ制作会社[[マッドハウス]]がアニメ化し世界で発売されたということでジャパニメーションと銘打たれていた(テレビ放送時の宣伝でも使用された)<ref>[http://www.tvgroove.com/powerpush/supernatural/anime/special01.html 『スーパーナチュラル・ザ・アニメーション』海外ドラマ{{lang|en|PowerPush}}!!] <code>TVGroove.com</code></ref><ref>[http://cinema-magazine.com/news/2236 全米の大人気ドラマ『{{lang|en|SUPERNATURAL}}』を日本が完全アニメ化] <code>cinema-magazine.com</code></ref>。「世界で通用する日本のアニメ」など、世界を意識した視点で作品を紹介する際に使用されている<ref>[https://www.cinematoday.jp/page/A0003049 スタジオジブリだけじゃない!これからのジャパニメーションを占う作品に注目! - シネマトゥデイ]</ref>。 == 業界団体 == ; [[日本動画協会]](略称:AJA) 日本におけるアニメーション業界の意思統一、関連団体との連携、アニメーション産業の持続的発展を目的とした[[一般社団法人]]。 ; [[日本芸能マネジメント事業者協会]] 声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する<ref>[http://www.manekyo.com/ 日本芸能マネジメント事業者協会]。</ref>。 ; [[日本声優事業社協議会]] 声優事業社で組織<ref>[http://sei-yu.net/ 日本声優事業社協議会] 。</ref>。 ; [[日本アニメーター・演出協会]](略称:JAniCA) 2009年12月3日に一般社団法人化した、アニメーター及び演出家の地位向上と技術継承を目的とした一般社団法人。 ; [[日本音声製作者連盟]](略称:JAPA) 2003年4月1日に設立され、「内外関連文化団体との提携及び交流。映像文化発展のための事業」。「業界の社会的地位の向上のための広報活動および出版事業」。「音声製作物に関連する権利の確立及び擁護」。「再放送使用料」の徴収、分配業務を主な事業内容とした一般社団法人<ref>[http://www.onseiren.com/ 日本音声製作者連盟] 。</ref>。 ; [[日本俳優連合]] テレビ局や制作会社に対して立場が弱い俳優が、一方的で不利な出演契約を解消を目的として結成された。声優の多くも加盟している<ref>[https://www.nippairen.com/ 協同組合日本俳優連合]</ref>。 == 国による振興・保護政策 == ; [[文化庁メディア芸術祭]] メディア芸術の創造と発展を図ることを目的に、[[文化庁]]と[[CG-ARTS協会]]が主催の祭典。1997年以降、毎年実施されている<ref>文化庁メディア芸術プラザ {{Cite web|和書|url=http://plaza.bunka.go.jp/ |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2009年8月26日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090416044555/http://plaza.bunka.go.jp/ |archivedate=2009年4月16日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 ; [[文化芸術振興基本法]] 2001年12月7日に施行され、映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術をメディア芸術と定義し、振興を図るための施策を行うようになった。 ; [[コンテンツの創造、保護及び活用の促進に関する法律]](コンテンツ法) 2004年5月、アニメーションや漫画など、[[コンテンツ産業]]の保護・育成に官民一体で取り組むための法律が成立した。 ; [[クールジャパン]](Cool Japan) 日本政府が行っている対外文化宣伝・輸出政策で使用されている用語で、クールジャパン戦略担当大臣や[[海外需要開拓支援機構]](通称:クールジャパン機構)が設立されており、アニメ・漫画・ゲーム・J-POP・アイドルなどの[[ポップカルチャー]]・[[サブカルチャー]]も含まれている。 ; [[若手アニメーター育成プロジェクト]](略称:PROJECT A) 文化庁の若手アニメーターなど人材育成事業の委託をうけ、日本アニメーター・演出協会(JAniCA)が2010年(平成22年)より実施しているアニメーターの人材育成事業。 == 博物館・美術館 == 漫画やアニメ作品のセル画やフィルム、原画を展示する博物館・美術館。ミュージアムショップを設置したりアニメの様々なイベントや[[国際アニメーション映画協会]]公認の映画祭、インディーズのアニメーション映画祭などを開催している所もある。『[[ドラえもん]]』の作者が生活していた[[川崎市]]の[[藤子・F・不二雄ミュージアム]]や、『[[名探偵コナン]]』の作者ゆかりの地[[鳥取県]][[東伯郡]][[北栄町]]の[[青山剛昌ふるさと館]]など、著名なアニメ作品やマンガの原作者の生誕地に地域おこしの観光拠点としても整備されることも多い。 ほとんどの博物館は特定の作家、クリエイターに特化した施設になっているが、[[杉並アニメーションミュージアム]]や[[秋葉原UDX]]内の[[東京アニメセンター]]では制作会社や出版社などの垣根を超えた様々な企画展が行われ、アニメーションに使われる原画などの展示やグッズが販売されている。 {{see|マンガ・アニメミュージアム}} == 見本市・映画祭 == ; [[東京国際アニメフェア]] [[東京都]]と[[日本動画協会]]などのアニメーション事業者団体で構成される「東京国際アニメフェア実行委員会」が主催の国内アニメ業界最大の[[見本市]]であった。[[2002年]]から[[2013年]]まで3月末頃に[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]で開催されていた展示会。アニメ作品や関係者を表彰する「[[東京アニメアワード]]」の表彰式が行われた。 ; [[アニメ コンテンツ エキスポ]] [[2010年]]に[[東京都青少年の健全な育成に関する条例]]に反対する形で大手出版社([[角川書店]]、[[秋田書店]]、[[講談社]]、[[集英社]]、[[小学館]]、[[新潮社]]、[[双葉社]]、[[少年画報社]]、[[白泉社]]、[[リイド社]])10社が[[2011年]]の東京国際アニメフェアについて参加協力を[[拒否]]する声明を発表した。その後[[角川書店]]と[[アニプレックス]]、[[アニメイト]]、[[キングレコード]]、[[ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン]]、[[フロンティアワークス]]、[[マーベラスエンターテイメント]]、[[メディアファクトリー]]の計8社が東京国際アニメフェアと同日に開催すると発表した。「アニメ コンテンツ エキスポ実行委員会」が主催し、千葉県千葉市美浜区の幕張メッセで開催する、アニメーションに関する日本の展示会であった。 ; [[AnimeJapan]] [[2014年]]から東京国際アニメフェアとアニメコンテンツエキスポを統合する形で実現した展示会。[[東京都]]が不参加となり、[[KADOKAWA]]、[[アニプレックス]]、[[日本動画協会]]など19社が参加する。場所を[[東京国際展示場|東京ビッグサイト]]に戻し、東館全てを使うなど分裂前の東京国際アニメフェアより大型な見本市となる。 ; [[アヌシー国際アニメーション映画祭]] [[1960年]]に[[カンヌ国際映画祭]]からアニメーション部門を独立した、[[国際アニメーション映画協会]]公認の国際アニメ[[映画祭]]。[[フレデリック・バック]]の『木を植えた男』などがグランプリを受賞している。 併設で世界最大規模のアニメーション見本市、MIFA(Marché international du film d'animation)が行われている。映画祭開催期間中の3日間で、世界約60か国のアニメ関係者が参加している。 ; その他 [[広島国際アニメーションフェスティバル]](2020年を最後に終了)、[[オタワ国際アニメーションフェスティバル]]、[[ザグレブ国際アニメーション映画祭]]は、上記アヌシーを含めて世界4大アニメーションフェスティバルと称されていた。 == 表現の自主規制 == アニメ映画では「[[映画倫理委員会]]」、テレビアニメでは、[[放送事業者]]が自主的に放送基準・番組基準([[放送コード]])を定めて運用することが[[電波法]]、[[放送法]]で規定され、民放連加盟会員各社による任意団体「[[放送倫理・番組向上機構]]」(BPO)による自主規制がある<ref>『読売新聞』2011年12月24日朝刊童話面25頁「[昭和時代]30年代(35)テレビジョン=下 茶の間に浸透(連載)」(読売新聞東京本社)</ref>。 OVAやWebアニメには、自主規制に関する法的規定や任意団体などは存在しないが、放送権販売の為にテレビアニメ・映画と同等程度の自主規制が行われている。[[アダルトビデオ]]に類する[[アダルトアニメ]]作品は「[[日本ビデオ倫理協会]]」の審査を受けている。 テレビアニメのパッケージ化販売には自主規制が無い為、お色気や流血など刺激の強い表現をテレビ放送で規制したものを本来の状態に戻したり、より過激な映像の追加や差し替えなどが行われているものもある。 {{main|テレビアニメ#表現の自主規制|テレビアニメ#表現の法的規制}} == 歴史 == {{main|アニメの歴史|アニメーション映画#歴史}} ;[[1960年代]]から[[1970年代]] [[ファイル:Momotaro's Divine Sea Warriors-screeny.JPG|thumb|200px|[[桃太郎 海の神兵]]]] :[[1963年]]1月1日、手塚治虫による日本初の30分枠の商業用の毎週連続して放映(ただし毎回完結エピソード)のテレビアニメ(週一アニメ)番組『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』の放送開始。本作は放送初期の段階では国内のアニメーターからも酷評された絵の枚数の少ないアニメーション作品ではあったが、視聴率は30%を超える人気を博し世界中で放映され、他の国のアニメーションと異なる方向に発展を遂げることになる。 :1960・1970年代の国産アニメの少なかった頃には『[[トムとジェリー]]』、『[[ポパイ]]』などの[[カートゥーン|海外製アニメーション作品]]も多数放送されていたが、国産アニメも増加し、[[1965年]]に日本初の[[カラーテレビ|カラー制作]]による長期放映を前提とした連続テレビアニメ番組として『[[ジャングル大帝]]』が始まり、[[1969年]]には『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』の放送が開始、テレビまんがとして認知されるようになった。 :この頃からテレビ局への[[納品]]や交通の便がいい[[練馬区]]や[[杉並区]]などの[[西武新宿線]]沿線に制作会社が集結するようになり、日本一のアニメ企業集積地となっている。 ;[[1970年代]]後半から[[1980年代]] :[[出崎統]]や[[長浜忠夫]]らがテレビアニメの演出論を模索し、『[[宇宙戦艦ヤマト]]』・『[[銀河鉄道999]]』の[[松本零士]]、『[[機動戦士ガンダム]]』の[[富野由悠季]]、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』の[[宮崎駿]]、『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』の[[押井守]]、『[[トップをねらえ!]]』の[[庵野秀明]]など、後に日本アニメ界を牽引する著名なアニメ関係者が多数知名度を上げた。 :[[1980年代]]から[[1990年代]]にかけて[[フランス]]の子供番組で日本のテレビアニメが連続して放映され人気を博し、多くのアニメファンを育てた(この世代は、番組のパーソナリティーの名前を冠して「[[ドロテ]]世代」と呼ばれている)<ref>[http://www.47news.jp/47topics/ningenmoyou/81.html 地球人間模様@ヨーロッパ 日本を究める]</ref><ref>[https://www.youtube.com/watch?v=knqEzpblGuM#t=2801 Documentaire présentant le Japon à travers l'amitié franco-japonaise]</ref>。この人気を受けて、フランス以外でも日本のテレビアニメの放送が増えていき、日本アニメの国際的受容のきっかけとなった。 ;[[1990年代]] [[ファイル:EV2.svg|200px|right|thumb|[[新世紀エヴァンゲリオン]]の英語版ロゴ]] :『[[ちびまる子ちゃん]]』『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』『[[美少女戦士セーラームーン (テレビアニメ)|美少女戦士セーラームーン]]』『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』などが社会現象的ヒットを達成した。『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』は[[1997年]]に再放送が深夜帯に行われ、異例の視聴率5%台などの事例もあった。 ;1990年代末期から[[2000年代]]前半 [[ファイル:Sen_to_Chihiro_no_kamikakushi_title.jpg|200px|right|thumb|[[千と千尋の神隠し]]のロゴ ]] :少子化による朝夕やゴールデンタイムのアニメ放送枠の視聴率低下、[[ポケモンショック]]や[[少年犯罪]]などを理由とする自主規制により、アニメ枠はニュースや情報番組、バラエティ番組などに改変されていった。アニメは削減された放送枠を補うように、以前から[[青年]]層向けに単発で放送されていた深夜枠へ移行、国民的アニメなどと呼ばれる長寿作品と、玩具メーカーがスポンサーをする子供向けアニメ以外は、朝夕やゴールデンタイムで放送しても視聴率が取れないことから、ほぼ放送枠を失い、深夜枠の放送時間が上回るようになった。 :従来のターゲットである少年少女児童向けから、中高生や成人アニメファン向けにターゲットを絞った低予算の[[深夜アニメ]]が激増し、[[2000年]]には7本だったものが、[[2004年]]には60本制作された。一方で粗製濫造も発生し、もともと視聴者が少なく、低視聴率でスポンサーが付きにくい時間帯という事情もあるが、低予算の作品を乱発したことにより品質の低下([[作画崩壊]])なども起きた。深夜帯ゆえの注目度の低さを補う為に人気のある[[声優]]に頼った作品が増え始め、後に[[アイドル声優]]などとと呼ばれる流れとなった。 :劇場アニメでは、[[宮崎駿]]監督、[[スタジオジブリ]]制作『[[もののけ姫]]』では邦画アニメーション初となる興行収入100億円を突破し、最終的には193億円を記録した。『[[千と千尋の神隠し]]』は国内興行収入が300億円を超え世界で評価され、[[第75回アカデミー賞]][[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション映画賞]]や[[第52回ベルリン国際映画祭]][[金熊賞]]などを受賞した。ただしスタジオジブリではこの頃からメインキャラに声優ではなく[[俳優]]を使う作品が増加していき、他の劇場アニメにも波及した。[[2002年]]公開『[[ほしのこえ]]』は、[[新海誠]]が監督・脚本・演出・作画・美術・編集をほとんど一人で行ったことでも注目を集めた。フルデジタルアニメーション個人制作では 他に類を見ないほどの出来として、大きく評価され世界中で様々な賞を受賞した。 ;[[2000年代]]後半 :増加した深夜アニメであったが、地方都市では放送数が限られ偏りがあった。さらに2005年頃から、民放5大キー局は様々な事情を抱える深夜アニメ放送枠を削減、放送枠を失った深夜アニメは、首都圏や関西圏といった人口密集地域を放送地域とするローカル局の[[独立放送局]]と、全国放送ではあるが普及途上であった[[BSデジタル放送]]、有料の[[CS放送]]に追いこまれた。 :三大都市圏では深夜アニメが地上波で年間100本を超えるような地域がある一方で、1本も放送されない地方も存在した。また主要メディアでの扱いは黙殺に近かった。しかし、その頃から[[インターネット]]の大衆化により、テレビなど[[マスメディア]]では取り上げられない深夜アニメに関する情報が入手しやすくなり、じわじわとではあるが視聴者が増えていくようになった。また、情報番組でも2005年放送のドラマ『[[電車男]]』ブームで『[[萌え]]』という言葉が[[新語・流行語大賞]]のトップテンを受賞したことに便乗して、[[秋葉原]]や[[メイド喫茶]]などアニメやそれに関連する情報が批判的な物も含め出回るようになり、いわゆる[[オタク]]に興味を持つ者や、逆に偏見を持つ者が増え混沌とした状態になった。 :2006年には『[[涼宮ハルヒの憂鬱]]』『[[コードギアス 反逆のルルーシュ]]』等のヒットから[[深夜アニメ]]ブームが発生。[[京都アニメーション]]、[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]や[[ピーエーワークス]]など演出が特徴的なアニメーション制作会社が話題となり、認知度は大きく向上した。一方、その普及の立役者のひとつが[[動画サイト]]による[[海賊版]]であったという難しい側面もあった。 ;[[2010年代]] [[ファイル:Akihabara_Night.jpg|thumb|200px|[[秋葉原]](2013年)]] :一部の深夜アニメの話題作が[[スマートフォン]]の普及により[[インターネット]]でのアニメ配信や[[Twitter]]などSNS上の口コミを通じてアニメに関心の無い若者や、アニメ好きの[[芸能人]]の熱烈な支持を集め、CDや書籍などのランキングに上位にランクインするようになった。また、アニメファン特有の購買力に目を付けた[[ローソン]]など様々な企業で深夜アニメとのタイアップキャンペーンが増加し、以前と比べると深夜アニメは身近な存在となりつつある。アニメの舞台となった場所を巡る[[巡礼 (通俗)|聖地巡礼]]が注目され、地方創生の切り札としても期待されている側面がある。 :[[子供向けアニメ]]では社会現象となった『[[妖怪ウォッチ (アニメ)|妖怪ウォッチ]]』なども登場している。また近年ではインターネット動画サイトで世界中でいつでもアニメを楽しめるようになり、[[電器店]]やアニメ、漫画などサブカルチャーが集結する[[秋葉原]]はオタクの聖地から世界的な観光地となりつつあり、外国人向けツアーのルート組み込まれるようにもなっている。 :劇場アニメでは宮崎駿が[[2013年]]公開の『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』をもって長編作品からの引退を発表([[君たちはどう生きるか (映画)|後に事実上撤回]])、[[庵野秀明]]が跡継ぎに指名された<ref>[https://www.oricon.co.jp/news/2041368/ ジブリ鈴木敏夫P、宮崎駿の“跡継ぎ”に庵野秀明を指名 | ORICON NEWS]</ref>。 :宮崎の引退と前後して[[細田守]]、[[新海誠]]ら新世代の劇場映画での活躍が目立ち、新海誠の『[[君の名は。]]』では邦画アニメーション映画では宮崎駿に次いで興行収入100億円を突破し、200億円に迫る勢いとなっている。 :世界的に日本のアニメーション需要が高まる一方で、アニメーターの労働環境や賃金など慢性的に抱える問題は解消されることもなく、少子高齢化による国内市場の縮小という問題にも直面している。特にアニメ制作会社である[[A-1 Pictures]]では、作画を担当者に依頼したり、完成品を受け取ったりする「制作進行」と呼ばれる現場の調整役を務めていた男性が2010年10月に自殺し、2014年4月11日付けで新宿労働基準監督署が過労による[[うつ病]]が原因として[[労災認定]]した。通院した医療施設のカルテには「月600時間労働」との記載があったが、残業代が支払われた形跡は無いとされている。この事件がきっかけとなり、その劣悪な労働環境がマスコミに取り上げられ、『'''[[ブラック企業大賞|ブラック企業大賞2014 業界賞]]'''』を受賞することになった。 :[[全国独立放送協議会|独立テレビ局]]で放送され話題となった深夜アニメを[[日本放送協会|NHK]]が購入して放送する事例も出ている。 ;[[2020年代]] :『[[鬼滅の刃 (アニメ)|鬼滅の刃]]』などのヒット作が登場している。 :DVDが登場した2000年代は制作費をDVDで回収するビジネスモデルであったが、世界的にインターネット配信やそれを主軸とした[[サブスクリプション]]サービスが増加し、それらの配信サイトによる配信権や配信料が主な収入源となった<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=「日本人なら中国人の3分の1で済む」アニメ制作で進む“日中逆転”の深刻さ|url=https://www.sankeibiz.jp/macro/news/210408/mca2104081041014-n1.htm|website=SankeiBiz|date=2021-04-08|accessdate=2021-06-17|language=ja|first=SANKEI DIGITAL|last=INC}}</ref>。 === 物語的側面 === アメリカでは[[レイティング]]などの規制が厳しいこともあり、子供向けの解りやすい物語を元にしたコミカル([[喜劇]]的)な動画を楽しませる作品が多いが、日本では『鉄腕アトム』頃から子供向けではあるが、[[アンダーグラウンド (文化)]]の影響を受けていた漫画などと密接な影響を受けていたこともあり、単純に「ヒーローが必ず勝つ」という[[勧善懲悪]]の話では無く、[[社会風刺]]など含んだ多様で複雑な物語で、主人公に内在する様々な感情や心理を描く作品が多い<ref>大塚康生『リトル・ニモの野望』徳間書店、2004年、p.29。</ref>。 === 技術的側面 === [[リミテッド・アニメーション]]が主流で、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]などのアニメ作品に見られるフル・アニメーションはあまり使われない。[[映画]]などと同様に24[[齣|コマ]]/秒で撮影されるが、[[動画 (アニメーション)|動画]]は、同一画で3コマ×8/秒の撮影となる。静止場面では、同一画で24コマ/秒の撮影となる。テレビ放送用の作品は演出により、1話ごとにセル画の使用量が決められている。 ; 部分アニメ([[口パク]]) : 同一人物の口、目、手、足などを部分別のセル画にして撮影する手法。最近では口だけではなく、あごなども動かすようになっている。製作の手間を省くだけでなく、静止との対比で動きが鮮明になる。 ; [[バンクシステム]] : 動画を繰り返して使用する技法。連続作品あらすじの説明、ロボットアニメの合体、魔法少女等の変身、主人公などのセリフシーンで使用される。背景画を差し替え、全く別の場面として使用することもある。 ; 止め絵 : 競技場の観客席やパーティ会場や街中の雑踏など、人が多く賑やかな状態を演出するために使われる。静止画が使われる場合も多い。[[出崎統]]がよく使用する。[[新房昭之]]や[[シャフト (アニメ制作会社)|シャフト]]の場合止め絵の絵柄を独特にする作風で有名である。 ; 動線・[[集中線]]・[[漫符]] : 漫画の技法が多用される。 ; [[カメラワーク]] : セル画を、上下左右に背景の上でスクロール(パン)させる技法や、「引き絵」と呼ばれる、カメラのズームによる演出(実際は、固定カメラの下で絵の方を引っ張る)。作画枚数の節約になり、演出意図を明確にする技術である。 ; [[パカパカ]] : 背景を閃光の連続により激しく点滅させる手法で、費用をかけずに派手で見栄えのする演出効果として多用されていたが、1997年12月16日に放送された『ポケットモンスター』第38話を見た視聴者が体調不良を訴えた[[ポケモンショック]]を契機に、NHKと民放各社が[[アニメーション等の映像手法に関するガイドライン]]を策定し、パカパカの使用に関しての自主規制が行われている。 === 商業的側面 === ウォルト・ディズニー・カンパニーの販売戦略を真似たとも言われるが、それとは別の道を歩むことになった。 テレビ番組の場合、[[スポンサー]]から提示される予算の範囲で請け負うのが通常であるが、明らかに不足する制作費で請け負い、不足部分は本業の漫画の[[原稿料]]、海外への輸出と[[再放送]]、玩具・文具・菓子メーカーにアニメキャラクターの商品化権([[版権]])販売による制作資金の回収システムが誕生し、後々まで続くことになる。 == 輸出 == 日本での商業用アニメーションのテレビ放送と同時に、制作費を短期間で回収するため、安価で多くの国へ輸出する販売戦略がとられた。国内で流通を前提に制作されていたものを輸出するため、輸出先の国内法や文化的事情で内容に大きな改変が行われる場合が多い<ref group="注">アメリカ版の『カードキャプターさくら』(現地タイトルは『[[CardCaptors]]』)は主人公の姓がAVALONになっている、フランス版の『[[めぞん一刻 (アニメ)|めぞん一刻]]』(現地タイトルは『Juliette, je t'aime』)は舞台がミモザ・ペンションでヒロインの名前がジュリエットになっている、韓国版の『クレヨンしんちゃん』(現地タイトルは『짱구는 못말려』)は舞台が[[ソウル特別市]]となっている、など色々。</ref>。また、作品名・登場人物名やスタッフ名などは輸出先の各国に合わせて書き換えられたり、視聴者が日本製であることを知らない場合もある。 また[[著作権]]ごと(放棄した)の契約で販売された作品もある。アメリカで、『[[超時空要塞マクロス]]』・『[[超時空騎団サザンクロス]]』・『[[機甲創世記モスピーダ]]』の3作品を[[ハーモニーゴールド USA]] 社([[:en:Harmony Gold USA|Harmony Gold USA]])が[[翻案]]した『[[ロボテック]]』が制作され、さらに他国に輸出された事例も存在する<ref>[http://www.robotech.com/ ROBOTECH.COM(公式サイト)]:[[タツノコプロ]]とハーモニーゴールド社とのライセンス契約上の問題により、オンラインショップの発送先に日本は選択できない</ref>。 世界的な多チャンネル化でソフト不足の中、日本アニメは安さで世界各地に広がった<ref>増田弘道『アニメビジネスがわかる』NTT出版、2007年、p.148</ref>。現在では、北米、[[南アメリカ|南米]]、[[ヨーロッパ]]、[[南アジア]]、[[東アジア]]、[[ロシア]]、[[オーストラリア]]など全世界に及び、[[総務省]]の調査(2005年度)によるテレビアニメの輸出額は、国内のテレビ放送権料の412億円の15分の1程度、26億円から28億円の規模である<ref>[http://animeanime.jp/biz/archives/2007/06/30_621.html 日本のアニメ番組輸出売上高 年間30億円 総務省調] アニメ!アニメ! 2007年6月21日</ref>。輸出金額では過半数を[[北米]]向けが占めるとも言われる。 [[日本貿易振興機構]]は、地域、国別にコンテンツ調査しており、その中にアニメに関する統計や傾向などのレポートがある<ref>日本貿易振興機構 調査レポート(コンテンツ) http://www.jetro.go.jp/industry/contents/reports/</ref>。しかし、近年は海外におけるアニメ市場が拡大する陰で、日本製アニメの[[市場占有率|シェア]]は縮小傾向にある。また放映終了後に各国の言語字幕を入れて違法に配信する「海賊版アニメサイト」が増加している。 === 輸出の歴史 === * [[1961年]] - 東映動画(現:[[東映アニメーション]])の初期長編作品がアメリカへ輸出される。[[大川博]]が「東洋のディズニー」を目指し設立した東映動画は当初から国際市場を意識していた<ref>草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年、pp.30-32</ref>。 * [[1963年]] - テレビアニメとして、初輸出された『鉄腕アトム』は、放送開始から8か月後に、アメリカの[[NBC]]系列のNBCエンタープライゼスによって、全米ネットワークでなく番組販売される形で放送された<ref>草薙(2003)、p.55</ref>。続く『ジャングル大帝』は初めからアメリカ市場を意識して人種差別等を考慮して制作された<ref>[[山本暎一]]『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、p.153</ref>。 * [[1970年代]]前半 - テレビアニメの輸出が一般的になり、最初は[[香港]]と[[台湾]]向けに始まり<ref>古田尚輝『鉄腕アトムの時代 映像産業の攻防』世界思想社、2009年、p.254</ref>、[[北東アジア]]圏、[[東南アジア]]圏で放送されるようになる。 * 1970年代後半 - 最初は[[イタリア]]、次いで[[フランス]]に向けに始まり、1980年代にかけて[[ヨーロッパ]]に大量に輸出される。その背景には、ヨーロッパにおける、テレビの多チャンネル化による需要と、日本製の作品が廉価で、本数の多さがあった<ref>古田(2009)、p.258</ref><ref>清谷信一『ル・オタク フランスおたく事情』ベストセラーズ、1998年、p.33</ref>。東映動画が制作したテレビアニメのうち全体の3分の2はヨーロッパ向けで、特にフランスとイタリア向けが多かった<ref>古田(2009)、pp.254-255</ref>。アメリカ、アジア圏同様、内容が改変されることもあった。イタリアでは、最盛期には1日計7時間、日本のアニメを放送していた<ref>[http://toyokeizai.net/articles/-/13770 「ドラゴンボール」を欧州に広めた男 日本アニメ輸出の第一人者、アニマックス滝山社長に聞く]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}週刊東洋経済、2013年04月24日</ref>。 * [[1980年代]] - 中華人民共和国で放送される<ref>遠藤誉『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』日経BP社、2008年、pp.9,81</ref>。 * [[1988年]] - [[欧州委員会]]の報告によると、1988年に[[欧州諸共同体]](EC)で放映されたアニメの60%以上が日本製であった<ref>{{Cite journal|和書|title=ハリウッドから欧州文化を守れ(その2) / 宮田信一郎|journal=[https://www.kohkoku.jp 広告]|volume=33|issue=3|publisher=[[博報堂]]|date=1992-05-15|pages=39|id={{NDLJP|2679995/21}}}}<</ref>。 * [[2013年]] - [[情報通信政策研究所]]の発表によると、2013年の日本の放送コンテンツ海外輸出額は約138億円であり、このうち、アニメが62.2%を占める<ref>{{Cite web|和書|title=放送コンテンツの海外展開に関する現状分析(2013年度)|publisher=内閣官房|date=2014-11-28|accessdate=2014-12-3|url=https://www.soumu.go.jp/main_content/000324498.pdf|format=PDF }}</ref>。 *現在、[[香港]]、[[タイ王国|タイ]]、[[台湾]]などでは、ほぼ1週間程度の差で日本で放送のアニメ作品が放送されている。また[[インターネット|ネット]]では海外向けのアニメの配信が行われ、日本での放送の1時間後には全世界で日本のアニメが見られるようになった。 *近年では海外を中心に「海賊版」と呼ばれる違法アニメ配信サイトが存在しており、海外への輸出展開を難しくしている。[[経済産業省]]の試算によると海賊版による損失は中国だけで年間5600億円、米国では2兆円を超えるとされ、2014年より海賊版を配信しているサイトへ削除要請をしていく取り組みがされている。 *2020年代にはインターネットにより同時配信されるスタイルが普及した<ref name=":0" />。 === 日本国外の評価 === 文化の違いとして、『[[ドラえもん]]』など日本の生活風景が出るものや、『[[ベルサイユのばら]]』など特定の国を扱ったものは、受け入れられるかどうかは国によって大きく異なる。『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』は、ヒーロー的な男性を尊ぶ北米では受け入れられず2014年まで放送されなかったが、東南アジア圏では人気がある。 東南アジア圏では性的な表現を除き、日本文化的な表現も受容されつつあり、再評価されている。好まれる作品は日本とあまり変わらない。また『[[超電磁マシーン ボルテスV]]』のように、特定の国で一部の人物の間(ファン)の中でヒットする作品も存在する。またキャラクターの人気も国によって異なる。 === 日本国外の規制等の事例 === [[フランス]]では、1983年にジャック・ラング文化相が文化侵略だと公言し、自国のアニメーション製作者へ助成金を出すことになった<ref>清谷(1998)、p.52</ref>。1989年には『[[キン肉マン (テレビアニメ)|キン肉マン]]』、『[[北斗の拳 (テレビアニメ)|北斗の拳]]』が残酷だとバッシングされ放送中止となった。『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]』は暴力シーンをカットし世界中で放映されヒットし、アメリカを除き、ヨーロッパやメキシコ、南米で根強い人気がある<ref>清谷(1998)、pp.53-54.</ref>。また、欧州製の番組を6割以上放送することを放送局に義務付けたクォータ制度があり、残りの4割の中でアメリカと日本のアニメが放送されている<ref>[https://www.jetro.go.jp/world/reports/2011/07000626.html 我が国のコンテンツの海外における「ゲートキーパー」プロファイリング調査(フランス編)(2011年3月) | 調査レポート - 国・地域別に見る - ジェトロ]</ref>。 [[欧州連合|EU]]加盟国では、1997年にEU理事会が、ヨーロッパ製の番組が放送時間の50%以上になるように放送局に義務付けた「国境なきテレビ指令」を出してから外国製アニメの新規放送が難しくなっている。 [[ニュージーランド]]では『[[ぷにぷに☆ぽえみぃ]]』は、登場するキャラクターの容姿が[[幼児]]に見え、[[ペドフィリア|幼児性愛好者]]を増長させているとされ、政府機関により発売禁止処分を受け、所持が確認された場合、児童ポルノ禁止法違反により罪に問われる。北米や[[オーストラリア]]など多くの国でそれに準じた処分が行われている。 [[アメリカ]]では、日本のアニメは古くから名前を変えたりストーリーを編集したり改変されてアメリカ化され、非アメリカ的な発言は取り除かれるのと同時に元の日本の製作チームに関する言及は最低限しか残されなかった<ref group="注">『鉄腕アトム(Astro Boy)』『ジャングル大帝(Kimba the White Lion)』『ガッチャマン(Battle of the Planets)』『宇宙戦艦ヤマト(Star Blazers)』など多数</ref>。1970年代にアメリカで起きた子供向けテレビ浄化運動で、増加していた日本のアニメの暴力描写と性的内容は問題視され、アメリカのテレビネットワークはアニメ放送を平日のゴールデンタイムから土曜朝に移行するが、各種保護者団体はネットワークに圧力をかけてアニメの一層の浄化を求め、日本のアニメは流せなくなった。1982年には、東映が『銀河鉄道999』をアメリカのニューワールド・ピクチャーズに売ったが、アメリカに合わせて大幅に改変され、ストーリーも破壊されたため東映はアメリカ事務所をたたんで撤退している。改変は舞台を日本ではなくアメリカの架空の場所に変えたり、人物も日本人名からアメリカ風に変えてアメリカの文化・生活が反映されたり、日本円もドル紙幣に変えられるなど、ローカライズが行われている。アメリカでは、子供向け番組のアニメでも「健康的な食生活を推進すること」が放送基準の一つであり、食に関する表現も規制され日本版からアメリカ風に編集されたり加工・変更されていた。未だにアメリカ式に改変されることもあるが、視聴者の立場としては改変を好まない層が近年増えたため、喫煙や飲酒など放送コードに抵触する部分などの改変にとどめられてもいる。 [[ロシア]]では、サンクトペテルブルク裁判所が2021年1月に、複数の日本製のアニメを「暴力や死など過激なシーンの描写が視聴する未成年者らの成長に悪影響を与える」として、ロシア国内での放映や配布を禁止する決定を出している。[[インターファクス通信]]によると、ロシア検察当局が複数の日本製アニメの配布を禁止すべきだとする請求を裁判所に行っていた。この規制について検察当局は「過激な内容を含むアニメが未成年者に自殺などの害を及ぼすということが認められた」というコメントを出した<ref>[https://www.sankei.com/article/20210121-DRGZCJNAIVOHXNJ4OBD7JIV33U/ 日本アニメ人気の露、「デスノート」「いぬやしき」など国内配布禁止 過激表現理由に]</ref>。 中華人民共和国では、2006年に海外アニメの輸入・放送に関して、国産アニメの放送がアニメの放送全体の7割を下回ってはならない、国産アニメを制作した機関は国産アニメを制作した時間と同じ分まで海外アニメを輸入できる、17時から20時まで外国アニメーションの放送を禁止などいくつかの規定を定めた<ref>[http://www.jetro.go.jp/industry/contents/reports/07000133 中国コンテンツ市場調査(6分野) 2009年版(2009年10月) | 調査レポート - 国・地域別に見る - ジェトロ]</ref>。日本作品の放送シェアが8割を超えるのは、[[ダンピング]]による日本の文化侵略であるとして締め出しを行った。同時に、自国のアニメーション産業の保護と育成に乗り出した<ref>遠藤誉(2008)、p.67,91.196,206</ref>。内容についても検閲の対象であり、スタッフの発言により映画祭への出展が止められた事例もある<ref name=":0" />。 [[大韓民国]](韓国)では、かつて[[韓国での日本大衆文化の流入制限]]があったが、[[1998年]]に解禁された。解禁以前から日本のアニメは放送されていたが、制限をかいくぐるため前述([[#輸出|輸出]]の節参照)のように地理の実在架空を問わず舞台・人物などの韓国仕様への改変版が放送されていた。解禁後は、以前から放送されていたものはそのままだが、日本の実在地理や登場人物の[[日本人]]など日本のオリジナルのまま放送されている。聖地巡礼を意識していない架空の舞台・人物などは未だにローカライズされているものもある{{efn2|解禁以降は架空の地理あるいは日本の実在地理が舞台ではあるが架空の施設が主な舞台のものは、原作の名称のままだったり、地理や人名のみローカライズされたりしている}}。 [[インド]]では、日本でも問題視された子供への悪影響を中心とした[[社会現象]]が起きており、『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』を放送禁止処分にする動きもある<ref>「「しんちゃん」インドでTV放映中止? 子供への影響懸念」{{Cite web|和書|url=http://animeanime.jp/biz/archives/2008/12/post_507.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2008年12月7日 |archiveurl=https://archive.is/20081207033648/http://animeanime.jp/biz/archives/2008/12/post_507.html |archivedate=2008年12月7日 |deadlinkdate=2017年10月 }}</ref>。 == 商品展開とアニメ化== アニメと、漫画・小説・アニメ雑誌・アニラジ・ゲームソフト・フィギュア(玩具) 等は、販売戦略上不可分な密接な関係にあり、様々な媒体で展開する[[メディアミックス]]を前提として企画される。 題材の幅は広く、[[SFアニメ]]、[[ロボットアニメ]]([[スーパーロボット]]・[[リアルロボット]])、[[ギャグアニメ]]、[[魔法少女アニメ]](変身ヒロイン)、[[ラブコメディ]]、[[スポ根]]、[[萌えアニメ]]、[[空気系]](日常系)、[[セカイ系]]、[[ハーレムもの]]など多種多様に渡っている。 === オリジナルアニメ === 漫画や小説・ライトノベル・[[コンピュータゲーム|コンピューターゲーム]]などの原作が無いオリジナルアニメの場合、放送中ないし放送後(稀にアニメ化を見越して放送前に、と言う事例もある)に漫画化や小説化される。宮崎駿や細田守、新海誠の作品は最近ほとんどオリジナルアニメとして劇場公開している。近年ではゲーム業界の著名シナリオライターを脚本家として招いて制作する傾向も見られる。 ==== 映画化・テレビ化 ==== 映画の場合、人気テレビアニメの[[総集編]]や[[続編]]、[[スピンオフ]]として製作されることも多く、TV本放送を視聴していなくても解りやすい、単独で完結した劇場用作品として鑑賞できるものとして制作されることがほとんどであるが、事前にTV本放送を視聴していないと理解出来ない『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』や『[[劇場版 魔法少女まどか☆マギカ|劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語]]』などの作品も存在する。また、『[[宇宙戦艦ヤマト2199]]』のように映画として先行上映後に、TVシリーズとして放送される作品もある。 ==== 実写化 ==== 漫画や小説などの原作の無い、アニメの企画を原作として実写映画・[[テレビドラマ]]化されたものでは、国内では、[[2004年]]『[[CASSHERN]]』(『[[新造人間キャシャーン]]』)。[[2009年]]『[[ヤッターマン (映画)]]』[[2010年]]『[[SPACE BATTLESHIP ヤマト]]』(『[[宇宙戦艦ヤマト]]』)。国外では、[[2008年]]、『[[スピードレーサー]]』(原作:『[[マッハGoGoGo]]』)などがある。 詳細は「[[実写]]」を参照。 作品に関しては、[[アニメ・漫画の実写映画化作品一覧]]・[[アニメ・漫画のテレビドラマ化作品一覧]]を参照。 ==== 実写作品のアニメ化 ==== 実写作品の企画が原作(原案)で、アニメ化された作品では、『[[月光仮面]]』・『[[愛の戦士レインボーマン]]』・『[[ザ☆ウルトラマン]]』などがある。 === 漫画 === かつては、劇場作品は「漫画映画」、テレビ作品は「テレビマンガ(漫画)」と表記や呼称されており、[[日本の漫画|漫画]]とアニメは混同されたりほぼ同一視されていた。現在も漫画作品を原作とする作品は多い。 ==== コミカライズ(漫画化)==== 漫画原作では無いオリジナル作品を漫画にすることで、漫画化という言葉が一般的だったが、2000年頃から小説化を意味する[[ノベライズ]]から派生した和製英語[[コミカライズ]](comicalize)が普及している。本編の漫画化に限らず、複数の作家による本編から派生した外伝や番外編といった[[スピンオフ]]の[[アンソロジー]]や[[オムニバス]]形式の作品も多い。 === 絵本 === [[絵本]]原作でアニメ化された作品では、日本では『[[アンパンマン]]([[それいけ!アンパンマン]])』や、イギリスの『[[汽車のえほん]]([[きかんしゃトーマス]])』などがある。[[子供向けアニメ]]などでは、絵本化される作品も多い。また昔話を題材にした作品も黎明期から現在に至るまで作られている。 ==== フィルムブック ==== アニメーションのフィルムのコマを並べて作った絵本で、講談社の[[ディズニー絵本]]などが典型例である。 家庭用ビデオなどの映像媒体が普及するまでは、人気アニメ映画などの[[フィルムブック]]も販売され、ドラマ音声などを記録したSP・ LP・ソノシートなどと併せて静止画ではあるが楽しむことが、一般的なアニメファンに手の届く範囲ものでもあった。 === 小説 === 一般文芸や[[ライトノベル]]のアニメ化作品も多く存在する。また、原作が小説の場合は深夜アニメや劇場アニメであることが多い。一般文芸では、過去に実写化されていた小説が新たにアニメ化されることが多い。 作品に関しては、[[ライトノベルのアニメ化作品一覧]]を参照。 ==== ノベライズ(小説化)==== TVアニメ・映画や漫画、ゲームソフトなどが原作となる[[小説化|ノベライズ]]も行なわれている。コミカライズと同様に本編から派生した外伝や番外編といったスピンオフを展開する作品も多い。 === ミュージカル(2.5次元ミュージカル) === [[2.5次元ミュージカル]]とも云われ、アニメ、漫画、ゲームなどを原作にキャラクターや物語の設定を忠実に再現し舞台([[ミュージカル]])化されている。 1974年の『[[ベルサイユのばら]]』が始まりとされ、1993年に8日間、31ステージ公演された『[[聖闘士星矢]]』が37万人を動員したことがミュージカル化の契機となり、その後『[[美少女戦士セーラームーン]]』や『[[テニスの王子様]]』などの人気作品が多数ミュージカル化され、観劇者数も、2013年には延べ160万人を超えている。2014年には、[[日本2.5次元ミュージカル協会]]も設立されている。 === 映像媒体のパッケージ販売 === [[ファイル:Anime_DVDs.JPG|thumb|200px|店頭に陳列されたアニメのDVD]] 流通における大きな変革として、家庭用[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]([[VHS]]・[[ベータマックス|βマックス]])の登場・普及により、1983年にはテレビ放送や劇場公開ではない[[OVA]]作品『[[ダロス]]』が登場した。OVAはビデオソフトの販売と[[レンタルビデオ]]店から支払われる使用料により、制作費回収が可能になった結果、登場したビジネスモデルである。 玩具メーカーなどの[[スポンサー]]の意向によらずに作品制作ができるため、比較的表現の自由度があり、購買層の大多数は特定のファン層であり作品の内容は偏っているが、購買層が特定されているため商品化、販売の面において容易である利点がある。当初は、60分から90分程度のアニメ映画と同様の1話完結の作品として制作されたが、後に[[テレビ局]]に放送権の販売のため、主題歌込みで24分程度を1エピソードとした数本単位で制作されたものが主流になる。 {{main|OVA}} 1980年代後半以降、家庭用ビデオデッキの普及により、テレビ用映画用の作品は放映後にパッケージ化され販売されるようになった。ビデオより後発の[[レーザーディスク]](LD)は機器本体はビデオ本体ほど一般普及はせず、高級またはマニアックな機器であったが、その再生ソフトであるLDはビデオカセットのようにコアなアニメファンの間では浸透し、LDで発売された映像作品の多くはアニメや映画であった。1990年代までのビデオやLDの時代には、ビデオデッキ本体こそ一般に広く普及していたものの、パッケージソフトは販売店も少なく後のDVD時代より格段に小規模なマニアックな市場で、1本あたりの単価も高めでビデオカセット・LD自体も後のDVDより大きいサイズのため複数所持するにもかさばり、自分でテレビから録画したのでないアニメや映画作品等は[[レンタルビデオ]]店で借りて視聴するのが主流であった。 音楽CDと同じサイズの[[DVD]]が登場・普及した2000年代以降は、パッケージ化作品数や販売店数・販売スペースなど市場規模が飛躍的に増加した。 2000年代後半に入ると[[日本の地上デジタルテレビ放送|地デジ]]の浸透と共に[[ハイビジョン]]制作作品が増加し、[[Blu-ray Disc]](BD)および[[BDレコーダー]]の登場・普及と共にBDが主流となった(過去に既にパッケージ化された作品も[[デジタルリマスター]]([[HDリマスター]])版などとして再発売されることもある)。 {{Seealso|テレビアニメ#放送技術・素材の変化}} OVAの流れを受け、放送権料の安い、深夜・早朝枠や[[ケーブルテレビ]]、[[全国独立放送協議会|独立テレビ局]]、[[日本における衛星放送|BS・CSチャンネル]]で、特定のファン層をターゲットにしたテレビアニメ番組が増加した。特に[[深夜アニメ]]や[[UHFアニメ]]は基本的に視聴率は低いことから[[番組スポンサー|スポンサー]]料は安く、それだけで制作費回収は難しいことから、各種パッケージ販売によって収益を得るビジネスモデルが主流となった。しかしネット配信(合法違法問わず)の普及により映像媒体の販売は減少傾向にあり、初回限定版として各種グッズ類やイベントチケットなどの特典を付けて販促を行っているのが現状である。 {{Seealso|テレビアニメ#視聴層の二極化とパッケージ販売(ビデオソフト化)による制作費回収システム}} 2010年代半ばに入ると内外問わずインターネット配信による収益で補完する動きが主流となり、2020年代には配信料が収益の柱となっている<ref name=":0" />。 === 雑誌 === [[1977年]]、成年向け雑誌「[[月刊OUT]]」が『[[宇宙戦艦ヤマト]]』特集を掲載し大ヒットとなり、これがアニメ誌に発展する契機となった。当時、幼年向けのテレビ情報誌「[[テレビランド]]」を発刊していた[[徳間書店]]はテレビランド増刊『ロマンアルバム・宇宙戦艦ヤマト』を創刊し40万部を記録。この成功を受けて、月刊アニメ雑誌「[[アニメージュ]]」が創刊される。 その後、『[[機動戦士ガンダム]]』に続くアニメブームの間に、多数の出版社の参入と淘汰が繰り返された末、2015年現在、10日売りアニメ雑誌と称される総合誌は「アニメージュ」「[[アニメディア]]」「[[月刊ニュータイプ]]」の三誌がしのぎを削る状況にある。 その派生雑誌として[[萌えアニメ]]専門雑誌(「[[メガミマガジン]]」「[[娘TYPE]]」など)や[[声優]]専門雑誌(「[[声優グランプリ]]」「[[声優アニメディア]]」など)、[[アニメソング]]専門雑誌(「[[リスアニ!]]」など)なども登場している。 {{main|アニメ雑誌}} ==== 批評・研究 ==== [[1917年]]の「[[活動之世界]]」9月号掲載の[[幸内純一]]の作品批評が、日本における初のアニメーションに関する批評とされる。以後、アニメーションの批評は「[[キネマ旬報]]」「[[映画評論]]」などが主要な発表の媒体となり、新作の批評という形で行われてきた。 [[1950年代]]に[[東映アニメーション|東映動画]]が設立され、年に1作のペースで長編作品が定期的に制作されるようになると、「[[朝日新聞]]」などの映画欄でも扱われるようになった<ref>津堅信之『アニメーション学入門』平凡社新書、2005年、pp.108-110</ref>。 [[1977年]]には[[山口且訓]]と[[渡辺泰]]の共著による『[[日本アニメーション映画史]]』が刊行される。日本アニメーション史の基本文献として参考資料として挙げられることが多い。日本国外のアニメーションや[[アートアニメーション]]の評論については、[[1966年]]に『[[アニメーション入門]]』を著した[[森卓也]]や[[おかだえみこ]]等が活動していた<ref>津堅(2005)、pp.110-111.</ref>。『日本アニメーション映画史』『アニメーション入門』のいずれも『映画評論』誌の連載をまとめた単行本であった。 [[1970年代]]末にアニメブームが到来し、アニメ雑誌が多数創刊される。同人誌活動していたアニメファン出身のライターの力を借りて誌面を構成していた<ref>米沢嘉博「マンガと同人誌のささやかな饗宴」『別冊宝島358 私をコミケにつれてって! 巨大コミック同人誌マーケットのすべて』宝島社、1998年pp.44-45.</ref>。[[氷川竜介]]、[[小黒祐一郎]]、[[原口正宏]]、[[霜月たかなか]]、[[中島紳介]]らは学生アルバイトに始まり、2000年以降も活動している<ref>津堅(2005)、pp.111-112.</ref>。「[[アニメージュ]]」はクリエイターの作品歴を系統的に紹介することに力を入れ<ref>押井守「消息期には終息期のテーマがあるはずです 『アニメージュ』創刊200号に寄せて」『アニメージュ』1995年2月号</ref>、「[[アニメック]]」と「[[月刊OUT]]」においては、評論記事と読者投稿による作品評論が一つの売り物になっていた<ref>小牧雅伸『アニメックの頃… 編集長ま奮闘記』NTT出版、2009年、p.83</ref><ref>岡田斗司夫、山本弘、小巻雅伸「オタクの歴史徹底大研究」『空前絶後のオタク座談会1 ヨイコ』音楽専科社、2001年、p.57</ref>。 批評と研究を中心とした専門誌には、1998年創刊の「[[動画王]]」、1999年創刊の「[[アニメ批評]]」、2000年創刊の「[[アニメスタイル]]」などがあったが短命に終わり、「アニメスタイル」はインターネットに活動の場を移した。 「[[月刊ニュータイプ]]」が登場した1980年代半ば以降、アニメ雑誌はクリエイターや作品研究などの記事から、キャラクターやグラビアを重視した作りに軸足を移していき、アニメ評論を積極的に掲載するアニメ雑誌は基本的に存在しなくなっている<ref>藤津遼太『「アニメ評論家」宣言』扶桑社、2003年、pp.277-278</ref>。その一方、宮崎駿や押井守の活躍、『新世紀エヴァンゲリオン』がビジネスとして話題になるようになった1990年代から、人気作品や人気クリエイターを中心にした研究本は、継続的に発行されるようになった<ref>津堅(2007)、p.179</ref>。 [[1998年]]10月、日本で初めてのアニメの学術的研究を趣旨とする学会「[[日本アニメーション学会]]」が設立された<ref>[https://www.jsas.net/ 日本アニメーション学会] 公式サイト</ref>。 === アニラジ === アニメラジオの略称。アニメ・ゲーム・漫画・ライトノベル・声優等のオタが主な聴取対象のラジオ番組。1979年10月、[[大阪放送|ラジオ大阪]]『[[アニメトピア]]』を皮切りに、多くは[[深夜放送]]番組として放送されているが、ネット環境の普及と共にインターネットラジオ番組も増えている。 黎明期にはアニメ雑誌やレコード会社による総合情報番組が多かったが、アニメやゲーム、漫画、小説(ライトノベル)などを原作にした[[ラジオドラマ]]番組、人気声優のパーソナリティ番組、アニメソングやゲームミュージック専門のリクエスト番組、アニメに関する話題をリスナーから募集して討論する番組など多岐にわたるようになっている。 {{main|アニラジ}} === 音楽(音声媒体) === 劇中で使用される[[音楽]]の[[主題歌]](テーマソング)・挿入歌・[[イメージソング]]・インスト曲・[[背景音楽|BGM]]などサウンドトラックの他、ドラマやアニメの世界観を背景としたドラマ音声などを録音した[[SPレコード|SP]]・ [[LP盤|LP]]・[[ソノシート]]などのレコード盤や[[カセットテープ]]や、現在は[[コンパクトディスク|CD]]などで販売頒布されているほか、[[iTunes]]ほかインターネット配信も増加している。 かつては、映像媒体は極めて高価だったこともあり、ドラマなどの音声を記録したSP・LP・ソノシートレコード盤、カセットテープ、CDなどの音声媒体が普通の愛好家の手の届く範囲であった。 {{main|アニメソング}} === 公式サイト === [[インターネット]]の普及と共に、ほとんどのアニメ作品は公式サイトを設置し宣伝をする形態をとっている。内容は作品・あらすじの紹介、予告編やPVなどの宣伝素材の無料配信・関連商品のPRなど。[[デスクトップ]]・[[携帯電話]]用コンテンツを提供している場合もある。特に深夜アニメの場合視聴者はほぼ限られるため、インターネットでの宣伝に頼っている場合が多い。また[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]での宣伝は安価で、リツイート機能により時に数万人へ作品情報を発信できるという強みがある。 制作テレビ局や制作会社の[[ウェブサイト]]の一部としての場合が多かったが、最近では作品・シリーズ毎に独自の[[ドメイン名]]を取得し制作会社が管理する独立サイトとして設置するケースも多くなっている。[[ブロードバンドインターネット接続|ブロードバンド]]環境の普及により、本編や公式ラジオの配信を行っているケースもある。 [[2010年代]]に入ると、[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]の普及を受ける形で[[Twitter]]や[[facebook]]の公式アカウントを取得し情報の発信などを行うケースが増加している。またネットユーザー同士でアニメの情報交換することで作品が話題になる例([[魔法少女まどかマギカ]]、[[琴浦さん]]など)や、公式サイトが話題となり終了したアニメが再び話題となる例([[キルミーベイベー]]など)がある。 === フィギュア(玩具) === テレビアニメの開始時から深い関係にあり、基本的に児童向けアニメのほとんどが玩具展開をすることが前提になっており、子供の興味を引く可動・合体・変形などの仕掛けがある手に取って遊べる玩具になる物を、主役として登場させることがスポンサー要望であり作品設定に影響を与えていた。素材は年代により[[ブリキ]]製、[[ソフトビニール]]製や[[超合金 (玩具)]]などの違いがある。 1960年代には、ソフトビニール製のキャラクター人形や、組み立て式の[[キャラクターモデル]]が存在していたが、[[1970年代]]後半、[[スケールモデル]]のように設定を元に忠実に再現した『宇宙戦艦ヤマト』の[[プラモデル]]がヒットし、その流れに続き[[バンダイ]]を模型業界のトップに押し上げた日本プラモデル史上最大のヒット商品となる[[ガンプラ]]が登場した。 また、消しゴムとして用をさないキャラクター消しゴムなどの[[カプセルトイ]](ガシャガシャ、ガチャポンなど)による商品も展開され、1970年代の[[スーパーカー]]ブームに乗った『[[サーキットの狼]]』などヒットにより一大ブームとなった[[スーパーカー消しゴム]]や[[キン肉マン消しゴム]](通称、キン消し)などが登場した。 [[1980年代]]、『機動戦士ガンダム』に続く[[リアルロボット]]ブームの中で、玩具の主力商品はプラモデルとなり積極的な商品展開が行われるも、ガンプラブームを越えることも無く、また『[[蒼き流星SPTレイズナー]]』はプラモデルの販売不振でメインスポンサーが撤退し放送打ち切りになるなど、ブームは終了するが、ガンプラブームによる若年層へのスケールキャラクタープラモの浸透は、原型を少数生産する[[ガレージキット]]の勃興にもつながり、怪獣や美少女フィギュアなどを中心にプラモデル化しても採算に合わないとされていたものが徐々に浸透していくようになる。 [[1984年]]12月、[[ゼネラルプロダクツ]]([[ガイナックス]]の前身)主催のプロ・アマを問わない、後に世界最大の[[ガレージキット]]、模型、造形物の展示販売の最大イベントとなる、「[[ワンダーフェスティバル]]」(略称、「ワンフェス」「WF」)が開催され、主要玩具メーカの撤退に合わせるように、同人誌の即売会的な手作り模型の展示販売会のイベントが開催される。 [[1990年代]]、高価で組み立てと塗装に高度な技術と労力を要するガレージキットの中で、『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』の[[綾波レイ]]の完成品がマニアの間で高額で取引されるようになると、アニメ[[美少女]]の[[フィギュア]]化がブームとなり、他に[[海洋堂]]の精巧で安価な[[食玩]]や、バンダイがガレージキットの表現方法を吸収して従来のキャラクター消しゴムとは比べ物にならないほどリアルなカプセルトイから始まったフィギュアブームと相まって[[コレクション]]の対象となった。販売促進のため書籍・ゲームソフト・DVDなどの付録や購入特典に付属する場合もある。 深夜アニメ作品のフィギュアは、どれだけ精巧に作られているかに重点が置かれ、そのため価格も高騰している。 ==== 玩具商品のアニメ化作品 ==== 玩具の商品企画が[[原案]](原作)でアニメ化された例では、『[[トランスフォーマー]]』・『[[ゾイド]]』・『[[超特急ヒカリアン]]』・『[[武装神姫]]』などがある。 アニメを中核とした大規模な[[メディアミックス]]としては、『[[ベイブレード|ベイブレードシリーズ]]』・『[[アサルトリリィ]]』・『[[新幹線変形ロボ シンカリオン]]』などがある。 === ゲームソフト === [[アーケードゲーム]]、[[コンシューマーゲーム]]([[家庭用ゲーム機]])用の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を記録した物理的[[メディア (媒体)]](詳細は[[ゲームソフト]]も参照)、[[オンラインソフトウェア]]で提供される[[コンピュータゲーム]]の[[ソフトウェア]]。 [[1983年]]、後に社会現象となる大ヒット商品の[[ファミリーコンピュータ]]が発売され、プラモデルなどの玩具の販売不振に喘ぐ玩具メーカーは、主要商品を家庭用ゲーム機とゲームソフトの開発に移行する。過去の人気作品で、ゲームソフト化が比較的容易な[[シューティングゲーム]](1985年 、『宇宙戦艦ヤマト』)、[[対戦型格闘ゲーム]](1985年、『[[キン肉マン マッスルタッグマッチ]]』)、[[ウォー・シミュレーションゲーム]](1987年、『[[SDガンダムワールド ガチャポン戦士]]』)などから商品展開が行われた。 {{main|キャラクターゲーム}} 後に、[[ロールプレイングゲーム]]・[[アドベンチャーゲーム]]が原作でアニメ化される作品も登場する。 『[[ダンガンロンパ 希望の学園と絶望の高校生]]』のような推理ゲームから恋愛シミュレーションゲーム、果てにはアダルトゲームを18才未満でも視聴できるように脚本を改編したものまでアニメ化され、作品の幅は広くなっている。また、近年では『[[Angel Beats!]]』の[[麻枝准]]や『[[天体のメソッド]]』の[[久弥直樹]]などゲーム会社の[[ゲームシナリオライター|シナリオライター]]がアニメの脚本を手掛ける場合が増えている。 ====携帯電話向けゲーム==== 携帯電話の機能が拡大し、インターネットが簡単に利用できるようになってから[[GREE]]や[[Mobage]]のような基本料金無料の携帯電話向けゲームサイトがヒットするようになった。様々なアニメ作品も携帯電話ゲームとなった。[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]では携帯電話ゲームに登場するキャラクターを元にアニメ化し、大きな話題を収めた。 また[[スマートフォン]]が普及すると今までのゲームサイトに代わって[[アプリケーション]]でのゲームがヒットするようになった。特に[[ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル]]はアニメ放映中の2カ月間で登録者数が100万人も増え、異例の登録者数増加となった。2015年3月現在で登録者数は国内700万人、全世界で1000万人を突破している。 このようにアニメ作品を題材とした携帯電話ゲームがヒットすると知名度も上がることから、深夜アニメを中心にゲームアプリ開発が激化しつつある。 作品に関しては[[作品がアニメ化されたことがあるゲーム一覧|ゲームソフトのアニメ化作品一覧]]を参照。 === トレーディングカード === ゲーム・鑑賞用のコレクションカード。1990年代末-2000年代初頭に発生した社会現象のトレーディングカードブームで普及し「トレカ」と略されることも多い。 アニメ・漫画などの関連商品として古くから存在し、[[めんこ]]と呼ばれる時代から存在する。 {{main|トレーディングカード}} ゲーム専用カードを用いた[[カードゲーム]]はトレーディングカードゲーム (略称、TCG) と呼ばれる。通常は対戦形式の2人プレイのものが多い。 {{main|トレーディングカードゲーム}} === キャラクターグッズ === 子供向けアニメのキャラクターが描かれた[[文房具]]や衣類、[[駄菓子]]などの食品類など、スーパーやショッピングセンター、コンビニなどで気軽に買える商品がほとんどであるが、一部のアニメショップやイベント会場などでは生産量が少ないグッズも販売され、希少価値の高い商品は中古市場やネットオークションで高値で取引されている。 {{main|キャラクター|キャラクターグッズ専門店|アニメショップ}} == 周辺文化 == [[1970年代]]後期 ; アニメファン 当初、アニメーションは子どものものであり、アニメを好んで見る成人がいることは知られていなかった。1977年8月、映画版『[[宇宙戦艦ヤマト]]』公開日に徹夜で並ぶファンの特異な行動をきっかけに新聞等が話題として取り上げ、成人にアニメを好んで見る趣味者がいることが一般にも知られ始めた。多くは中高生・成人であった。『宇宙戦艦ヤマト』公開の翌年に[[アニメ雑誌]]が創刊され、雑誌の[[文通]]コーナーなどを通じて連絡が可能になると、多数の[[ファンクラブ]]が誕生した。現在でも上の世代では、アニメは子どものものと言う印象が残っているが時代が進むにつれてその印象は薄れつつある。 ; [[大きいお友達]] 本来は子供([[児童]])を対象とした'''アニメ'''・[[漫画]]・[[特撮]]ヒーロー番組などに夢中になっている大人のファン。 === 二次創作 === 法的には、著作物をたとえ[[パロディ]]として改変したものであっても、権利者に許可を得ず、不特定多数に無償配布や[[販売]]するのは[[著作権法]]に反する行為である。 ただ、著作権侵害は[[親告罪]]で、違法行為を行っている者を[[告訴]]して[[訴訟]]にまで持ち込むまでには費用がかかり、勝訴しても賠償金の支払い能力の無い場合もあり、著作側が泣き寝入り、またはファンによる応援行為として黙認しているのが現状である。 ; [[同人誌|二次創作同人誌]] ファンクラブの誕生にあわせて会報の発行や、またファンブックを自作するという趣味を持つ者の[[自費出版]]が始まり、アニメとの繋がりの深い漫画や、他の様々な文化を巻き込み成長する。が、[[コミックマーケット]](コミケ)などの[[同人誌即売会]]や、専門書店等の委託販売で商品化が進んでいる(詳細は、[[同人誌#マンガ系同人誌を取り巻く問題]]を参照)。 同人誌で見られる[[イラストレーション|イラスト]]の代表的な手法として、輪郭や境界線をはっきり線で描き、色や影のグラデーションを単純化させ段階的に表現する[[アニメ絵]]([[萌え絵]])がある。 ; [[コスプレ]] 「仮装」とも呼ばれる。服や化粧により空想上のキャラクターなどに扮する行為。[[コスチューム・プレイ]]を語源とする和製英語で、行う人をコスプレイヤー (Cosplayer) 、略してレイヤーと呼ぶ。単独イベントも開催され、自主制作のコスプレ写真集がコミックマーケットや、同人誌専門店で販売されている。しかし、近年は[[著作権]]の侵害としてコスプレ衣装販売業者が[[警察]]に摘発される例もある。 ; [[痛車]](いたしゃ) [[ファイル:Keihan600-keion2.JPG|right|thumb|200px|[[京阪電気鉄道|京阪]]「[[けいおん!]]」電車は車体広告だが、その題材と装飾様式から痛車の電車版として[[通称]]「痛電」や「痛電車」とも呼ばれた。]] 「萌車」とも呼ばれる。[[萌えアニメ]]のキャラクターや関連する製作会社・ブランド名のロゴのステッカーを貼り付けや塗装を行ったファンの自動車。バイクは「[[痛単車]](いたんしゃ)」、自転車は「[[痛チャリ]](いたチャリ)」、電車の場合は痛電と呼ばれる。2008年、青島文化教材社がプラモデルの発売と商標登録に出願、同年6月27日に登録された。痛車オーナーの増加に伴いコミュニティも形成された。 近年では企業の宣伝目的でアニメ絵調のキャラクターが描かれたイラストの電車やバスが運行されることも多くなったが、それも痛車の部類に入ることが多い。 アニメ作品の舞台となった地域では、アニメファンをターゲットとした観光客誘致のために電車やバスにアニメのラッピングを施す会社も出ている。車内にはアニメのイラストや[[スタッフ]]のサイン、[[声優]]による車内アナウンスを実施している所もある。 === 聖地巡礼 === 詳細な現地[[ロケーション撮影|ロケ]]([[ロケーション・ハンティング]])による、映像演出と世界観を設定する作品の登場と共に始まった[[小説]]、[[映画]]、[[TVドラマ]]などの舞台を巡る[[ロケ地巡り]]、舞台探訪などと同様の行為であるが、異なる点としてキャラクターのコスプレやアニメ作品のキャラクターが描かれた痛車で現地を訪れるファンがいることが上げられる。 ロケ地(聖地)を特定したファンがその場所を訪問(巡礼)し、現地の写真と劇中の場面(コスプレの場合、劇中の登場人物と同じポーズ)と比較する形で[[インターネット]]のファンサイトなどで公開、また同人誌形式のガイドブックが制作され同人誌即売会で頒布されるなどの形で広まった。 実写の映画やTVドラマなどと異なり、映像作品として使用された認識のない地元住民の一般住宅や学校などが含まれることも多く、日常生活に不安や迷惑を発生させる可能性を否定出来ないため、作品の発売元が聖地巡礼の自粛のお願いをした例や<ref>[[苺ましまろ]]:月刊コミック[[電撃大王]]2006年3月号</ref>、[[口蹄疫]]防止のため舞台となった牧場などに訪れることを自粛することをお願いをした例もある。 一方で『[[君の名は。]]』の舞台となった[[飛騨市]]では、作品を見た観光客が飛騨市へ殺到し、ニュースなどで大きく取り上げられたことから[[2016年]]の新語・流行語大賞トップ10に聖地巡礼が選出されるなど注目を浴びた。 作品に付随し広告費が不要で、観光需要が上がるため観光振興の一助として期待も大きい。そのためアニメ、漫画のロケ地の誘致活動に力をいれる自治体や萌えキャラを製作する地域もある。しかし、ほとんどのアニメ作品のブームは一過性であり、しかも作品が話題になるかどうかも分からないことから自治体が見込んだアニメファンの観光客数を大きく下回った所もある。 詳細は[[巡礼 (通俗)]]を参照。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|25em}} == 参考文献 == === 書籍 === * {{Cite book|和書|author=山口康男|year=2004|title=日本のアニメ全史|publisher=テンブックス|isbn=978-4886960115|ref=山口2004}} * {{Cite book|和書|author=大野茂|year=2009|title=サンデーとマガジン|publisher=光文社新書|isbn=978-4334035037|ref=大野2009}} * {{Cite book|和書|author1=高橋光輝|author2=津堅信之|authorlink2=津堅信之|date=2011-04-28|title=アニメ学|publisher=NTT出版株式会社|isbn=978-4757142701|ref={{SfnRef|高橋・津堅|2011}}}} === 論稿 === * <div id="キネマ旬報1995">{{Cite web|和書|author=キネマ旬報1995年月上旬号|date=1995-10|url=http://netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/single/KINEJUN.html|title=日本文化としてのアニメ|language=日本語 |accessdate=2009年7月31日 }}</div> * <div id="Dictionary.com-Anime">{{Cite web|author=dictionary.reference.com|url=http://dictionary.reference.com/browse/anime|title=dictionary.com-anime|language=英語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * <div id="Dictionary.com-Otaku">{{Cite web|author=dictionary.reference.com|url=http://dictionary.reference.com/browse/OTAKU|title=dictionary.com-OTAKU|language=英語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * <div id="山里2008">{{Cite web|和書|author=山里裕一|date=2008-10|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110007025911|title=アニメブームの形成と増幅|language=日本語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * <div id="佐野2007">{{Cite web|和書|author=佐野昌己|date=2007|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006393774|title=日本アニメの現状と将来|language=日本語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * <div id="青木2006">{{Cite web|和書|author=青木優|date=2006|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110006459187|title=日本アニメ産業の現状と課題|language=日本語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * <div id="呉2006">{{Cite web|和書|author=呉恵京|date=2006|url=https://ci.nii.ac.jp/naid/110005943733|title=日本アニメの表現形式|language=日本語 |accessdate=2009年7月31日}}</div> * [http://www.janica.jp/events/mam/nenpyou.pdf JAniCA講義 井上俊之さん小黒祐一郎さんと一緒に『もっとアニメを観よう!』配布資料:井上俊之の作画史観に基づく年表](PDF) * [https://doi.org/10.15055/00001432 アラブ社会における日本のアニメ・マンガの影響] 保坂修司、国際日本文化研究センター, 2007.12.20. * 特集「アニメ熱狂のからくり」、週刊東洋経済、2023年5月27日号。 == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|アニメ}} {{ウィキプロジェクトリンク|アニメ}} * [[テレビアニメ]] * [[アニメーション映画]] * [[アニメーション産業]] * [[アニメ制作会社]] * [[アニメーター]] * [[アニメ監督]] * [[制作進行]] * [[アニメ大全]] * [[日本のテレビアニメ作品一覧]] * [[アニメ関係者一覧]] * [[アニメの話数一覧]] * [[アニメ専門チャンネル一覧]] * [[アニメの歴史]] * [[全国総合アニメ文化知識検定試験]] * [[アニメソング]] * [[声優]] == 外部リンク == * [https://aja.gr.jp/ 日本動画協会] * [https://www.jsas.net/ 日本アニメーション学会] * [http://www.jaa.gr.jp/ 日本アニメーション協会] * [https://anime-tokyo.com/ 東京都 アニメーションビジネス海外展開支援事業] * [https://coolpfp.blogspot.com/2021/05/anime-girl-pfp.html Cool Anime Characters]{{en icon}} {{Animation}} {{美術}} {{アニメ作品一覧}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あにめ}} [[Category:日本のアニメーション|*]]
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紫堂恭子
紫堂 恭子(しとう きょうこ、本名:牛島喜代子、1961年6月9日 - )は、日本の漫画家。漫画家の牛島慶子は実の妹。 佐賀県出身。福岡市在住。長崎大学教育学部卒業後、小・中学校の非常勤教師となるが1年半で退職。23歳でまんが家になることを決意し、アルバイトをしながら投稿を続け、1988年、26歳のときに『辺境警備』(小学館『プチフラワー』)でデビュー。 1989年からは『グラン・ローヴァ物語』(潮出版社『コミックトム』)の連載を開始。大学2年生のときに読んだトールキンの『指輪物語』に影響を受けたという、壮大なファンタジー作品として静かな人気を得て、1994年に星雲賞コミック部門賞を受賞。 1990年代後半は『月刊ASUKAファンタジーDX』(角川書店)で活動、2000年代に入ると『MiChao!』『ホラー&ファンタジー倶楽部』といったウェブコミックにも活動の場を広げた。
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紫堂 恭子は、日本の漫画家。漫画家の牛島慶子は実の妹。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 紫堂 恭子 | ふりがな = しとう きょうこ | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生年 = {{生年月日と年齢|1961|6|9}} | 生地 = [[日本]]・[[佐賀県]] | 没年 = | 没地 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = [[1988年]] - | ジャンル = | 代表作 = <!-- 「代表作を挙げた出典」に基づき記載 --> | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''紫堂 恭子'''(しとう きょうこ、本名:牛島喜代子<ref>[https://web.archive.org/web/20131103175935/http://www.kbc.co.jp/radio/pao-n/isu/?dtl=isu_200904 KBCラジオ - PAO〜N パオ〜ン - カンパニー漫遊記「社長のイス」2009/4/22] - [[九州朝日放送|KBC]]公式ウェブサイト(2013年11月3日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>、[[1961年]][[6月9日]] - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。漫画家の[[牛島慶子]]は実の妹<ref name="akogare144">大井夏代『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』2014年、pp.144-145</ref>。 == 来歴・人物 == [[佐賀県]]出身<ref name="akogare140">大井夏代『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』2014年、p.140</ref>。[[福岡市]]在住<ref name="akogare144" />。[[長崎大学]]教育学部卒業後、小・中学校の非常勤教師となるが1年半で退職<ref name="akogare140" />。23歳でまんが家になることを決意し、アルバイトをしながら投稿を続け、1988年、26歳のときに『[[辺境警備]]』(小学館『[[プチフラワー]]』)でデビュー<ref name="akogare144" />。 1989年からは『[[グラン・ローヴァ物語]]』(潮出版社『[[コミックトム]]』)の連載を開始<ref name="akogare140" />。大学2年生のときに読んだ[[J・R・R・トールキン|トールキン]]の『指輪物語』に影響を受けたという<ref name="akogare149">大井夏代『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』2014年、p.149</ref>、壮大な[[ファンタジー]]作品として静かな人気を得て、1994年に[[星雲賞]]コミック部門賞を受賞<ref name="akogare140" />。 1990年代後半は『[[月刊ASUKAファンタジーDX]]』([[角川書店]])で活動、2000年代に入ると『[[MiChao!]]』『[[ホラー&ファンタジー倶楽部]]』といった[[ウェブコミック]]にも活動の場を広げた<ref name="akogare140" />。 == 作品リスト == === 漫画 === <!--連載開始順。「○○→××」表記は掲載誌が変更になった作品。「○○、××」表記は休止・完結後にエピソードが追加された作品--> * [[辺境警備]] - 『[[プチフラワー]]』(1988年 - 1992年)、『[[月刊ASUKAファンタジーDX]]』(1996年)、全7巻 * [[グラン・ローヴァ物語]] - 『[[コミックトム]]』(1989年 - 1993年)、全4巻 * エンジェリック・ゲーム {{要出典範囲|date=2023-03-06|【未完】}} - 『プチフラワー』(1992年 - 1994年)、既刊3巻 * ブルー・インフェリア - 『コミックトム』(1993年 - 1995年)、単行本書き下ろし、全4巻 * [[オリスルートの銀の小枝]] - 『月刊ASUKAファンタジーDX』(1995年 - 1997年)、全4巻 * [[癒しの葉]] - 『月刊ASUKAファンタジーDX』(1997年 - 2000年)、全8巻 * 姫神町リンク {{要出典範囲|date=2023-03-06|【未完】}} - 『[[少女帝国]]』(2001年)、既刊2巻 * [[東カール・シープホーン村]] - 『[[コミックアイズ]]』(2001年)、『Asuka増刊 紫堂恭子ファンタジーワールド』(2002年)、上下巻 * [[王国の鍵]] - 『[[月刊Asuka]]』(2002年 - 2004年)、全6巻 * [[不死鳥のタマゴ]] - 『月刊Asuka』(2005年 - 2006年)、全3巻 * [[聖なる花嫁の反乱]] - 『[[MiChao!]]』(2006年 - 2010年) →『[[FlexComixフレア]]』(2010年 - 2014年)、全10巻<!--サブタイトルは割愛--> * [[王子の優雅な生活(仮)]] - 『[[夢幻館]]』(2006年 - 2009年) →『[[ホラー&ファンタジー倶楽部]]』(2009年 - 2010年)、全3巻 * イセングリムの夜警 - 『ホラー&ファンタジー倶楽部』(2011年 - 2013年) →『[[夢幻燈]]』([[ハーレクイン (出版社)|ハーレクイン社]]、2013年 - 連載中)<!--サブタイトルは割愛--> * [[呪われた男]] - 『[[プリンセスGOLD]]』(2014年 - 2015年)、全2巻 * [[テラ・インコグニタ]] - 『[[ミステリーボニータ]]』(2016年 - 2018年)、全5巻 * 逃げる少女〜ルウム復活暦1002年〜<ref group="注釈">デビュー作「辺境警備」より2年後の物語。</ref> - 『ミステリーボニータ』(2018年 - 2020年)、全4巻 * 虚妄の女王〜辺境警備外伝〜<ref group="注釈">デビュー作「辺境警備」より5年後、ルウム復活暦1005年。北方辺境国であるエアドロム王国の代々王族の警護を務めるバンブラス一族の首長の一人娘として生を受けた少女フィアンナの物語。</ref> - 『ミステリーボニータ』(2020年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/403743|title=晴十ナツメグの中華活劇&紫堂恭子「辺境警備外伝」がボニータで、赤石路代の読切も|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2020-11-06|accessdate=2021-11-16}}</ref> - 2022年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/472871|title=シリーズ40周年「やじきた学園道中記」完結、夏には市東亮子の新シリーズ開幕|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-04-06|accessdate=2022-04-06}}</ref>)、全3巻 * 魔女の箱庭 - 『ミステリーボニータ』(2023年4月号<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/515505|title=紫堂恭子とムラマツヒロキ×川島よしお、2本の新連載がボニータでスタート|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-03-06|accessdate=2023-03-06}}</ref> - )、既刊1巻 ===イラスト集=== * みずのたからもの - 潮出版社 1993年10月5日 {{ISBN2|4-267-01295-4}} *:オールカラーで4つの物語を絵本のような感じで書きおろしたイラスト集。小冊子「しとうきょうこのまんがのひみつ」付。 * 辺境警備プレミアムブック 永遠の約束 - 角川書店 1998年7月 {{ISBN2|4-04-852954-4}} *:『辺境警備』カラーイラスト集兼設定資料集。デビュー作である読み切り版「辺境警備」収録。 * 永遠の楽園 紫堂恭子コレクション - 角川書店 2002年3月1日 {{ISBN2|4-04-853479-3}} *:カラーイラスト集。未収録コミック2編を含む。 === 挿絵 === * ムーン・ファイアー・ストーンシリーズ(著者 [[小沢淳]])[[講談社X文庫ホワイトハート]] ** 金と銀の旅 ** 銅の貴公子 ** 極彩の都 ** 月光の宝珠 ** 青い都の婚礼 * 女神の祝祭日(著者 小沢淳)講談社X文庫ホワイトハート * 魔術師の弟子(著者 小沢淳)講談社X文庫ホワイトハート == 脚注 == === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * [[大井夏代]]『あこがれの、少女まんが家に会いにいく。』けやき出版、2014年 ISBN 978-4877515140 == 外部リンク == * {{facebook|kyokoshitou}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しとう きようこ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:長崎大学出身の人物]] [[Category:佐賀県立佐賀西高等学校出身の人物]] [[Category:佐賀県出身の人物]] [[Category:1961年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:SF漫画家]]
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建築学
建築学(けんちくがく)は、建築について研究する学問である。 建築学は、建築の構造や材料等について研究する工学的な側面、制度や法規、経済活動について着目し研究アプローチする社会科学的な側面、デザインや歴史について研究する芸術的・文化的な側面を持つ。 かつての建築家があらゆる課題を各自解決する必要があったように、建築学は総合的学問であったが、建築と一口に言ってもその応用範囲は、広大かつ多岐にわたる。構造的側面、芸術的側面はもとより、都市計画などにおいては、人間社会におけるライフスタイル、ひいては、精神的分野にまで踏み込んだ形で計画され実施される。すなわち、構造分野においては、数理的解釈を必要とする理科学的知識を必要とし、芸術分野においては、精神論的解釈が求められる。またその両者を高い次元において両立させるための総合力が不可欠である。 そのためいわゆる建築学といわれる分野の知識以外にも、機械工学、電子工学、土木工学、精神論、社会学、法学、経済学、語学、環境学、エコロジー分野など、多岐にわたる知識を広く浅く知る必要がある、特殊な学問である。その学問的性質上、現代では完全な分業化が進んでおり、それぞれの分野に特化している。 日本建築学会では、論文集を構造系、計画系、環境系に分けて発行している。同様の区分は、東京大学大学院や、京都大学でも採用されており、東京大学大学院では、建築構造、材料工学、建築構法、建築生産等を構造系、建築計画、建築デザイン、建築史等を計画系、環境工学、建築設備等を環境系としている。 日本以外の大学では建築学科は工学部に属さないことが大半なので、工学部系の建築関連学部学科で取り扱うことがほとんどであるが、日本の大学では工学部に属する建築学科で学習、研究がなされている。 おもに、鉄筋コンクリート構造、鉄骨構造、木構造などの構造、および構造力学や建築物の物理的な地震災害などについてを研究する。 倒壊、消耗、破損などを防ぐべく、建築に用いられる材質について研究する。また、日本では古来より、木造建築物による火災被害が深刻視され木造建築物が密集した地域が数多く存在していた事により、火災が一度発生すると被害が拡大し、経済的に多大な損失を与えていたため、戦後は主に不燃性、難燃性素材開発を目的とした研究が重要視されてきた。 近年に至り、不燃性、難燃性素材の開発がほぼ完成形を見せる一方、現在では主に地震に対する耐震、免震素材への興味が高まりつつある。 建築計画学は、建築に求められる機能を探求し、人間の行動や心理に適した建物を計画する。 デザインについて研究する造形論をはじめ、建築のあり方や理想像を考究する建築論(建築哲学)、建築家研究を行う作家論、設計手法の理論的研究を行う設計論、図法や図面の描き方を研究する図学などの専門領域に分かれる。なお、広義では、実践的技術としての建築設計を含む。 まちづくり、グランドデザイン、都市建築法規、動線計画、農村計画、交通工学、衛生工学などを総合的に取りまとめる分野。建築設備学同様、都市計画学という学問領域はなく、やはり都市計画の実学的側面を指す俗称あるいは大学でのカリキュラムのジャンルを示すに過ぎないが、他分野にまたがって都市計画学者が存在する。日本では都市計画学者が集い日本都市計画学会が組織されている。 古代以来の各時代や社会と建築の関係、工法の発達などを研究する。造形も学ぶため建築意匠とも関連する分野となる。 建築に関わる採光、換気、排煙、暖房と冷房、空気調和工学のほか建物の断熱性能、音響性能などさまざまな事象を数理的に探究する領域である。音響に関する領域は建築音響工学と呼ばれる。 建築衛生や建築環境工学、建築音響工学の実学的側面であり、建築物に用いる設備、すなわち機械設備と電気設備を研究する。 以下のほか、建築教育研究、住宅学住居学、文化財修復などの分野や、防災(耐震補強・気象予測・震災火災等予防・避難経路の選定、研究)、海洋学、農村計画分野、近年では環境工学(計画原論)や情報システム工学の面からも研究が行われている。 建築分野にもデジタル・ファブリケーションを利活用するなど情報技術の導入は古くから存在し、建築学の各分野を横断して実戦と学術研究開発が進められている。2021年には建築という概念を情報学的視点から既存の建築学の体系を再編、再構成することを共通の出発点にした学際として、建築情報学会が発足している。 建築経済学、建築経済(building economy)とは、建築工業の内部にみられる生産関係、およびこれを基盤にして成り立つ流通上の社会的な諸関係をさし示す概念である。このような経済を研究するもので建築経済を研究対象とし、建築経済現象にみられる一般性共通性から、そこでの諸概念を確定し、これらの現象相互間の規則性を明らかにして諸法則を求め、それらの諸概念・諸法則を総合して理論体系を打ち立て、そこから建築経済の機構・運動を明らかにするものである。このようにして建築経済学は、建築学の基礎学科の一つに属している。なお、建築経済研究に際し基本的に重要な事項は、建築労働(建築工業部門に新たな価値をもたらす)、建築生産機構(建築工業部門、諸企業への価値配分のメカニズム)、建築生産手段(建設資材価格の動向の影響)などである. 建築生産"という用語が初めて登場したのは当時京都大学に在籍中の西山夘三らによる「DEZAM 7号」(1932年(昭和7年))掲載の「建築と建築生産」で、ここでは建築の工業化・合理化をテーマとして生産の後進性が指摘されている。戦後からある時期までの建築生産研究は、日本建築学会の建築経済委員会に属する研究者達によって支えられ方法論的・実証的研究に向けての研究活動を開始した。同研究会の設立の目的は (1) 建築生産に関する方法論的研究、(2) 建築生産の性格(生産関係)に関する研究、(3) 建築生産の生産力に関する研究、(4) 建築生産における施工能力、施工技術に関する経済的分析の4点であった。しかし「当時においては、建築生産という考え方は未だ一般的ではなく、研究活動形式においても模索することが多かったと思われる」と「建築学会関東支部30年史」は述べている。その後1965年(昭和40年)に徳永勇雄により「建築経済と建築生産論の発展」が発表され、ここでは生産論が建設産業論として捉えられる。このような事情を経て、1966年(昭和41年)建築経済委員会に建築生産部会が創設され(主査:古川修のちに岩下秀男に交替)、2年後に部会討論の結果を取りまとめて「建築生産論の提起」(代表執筆:巽和夫)を発表、当面の研究課題の連関関係概念図および建築生産論の研究テーマが示された。そこでは「建築研究の中に建築生産論と呼ぶべき総合的研究の必要性を提起したつもりである」と結ばれている。1975年(昭和50年)に同部会がまとめた「日本の建築生産・研究の現状その2・建築生産文献解題」では「建築生産論が従来いわゆる施工だけを意味するのではなく、設計も材料・構造・設備・経済等々を含んで建築を作る行為全体を一貫的に捉えようとするもの」と述べられている。 建築の施工に関しての学科目として、建築施工学との名称で、大学で講義が開講されているほかに、大学によっては専門とする研究室も開設されている。工業高等学校建築科などでは高等学校学習指導要領 第3章 専門教育に関する各教科 第2節 工業 で、第2款 各科目 第31 建築施工と、定められる。 明治維新に近い幕末の1862年(文久2年)に蕃書調書の堀達之助が編纂した「英和対訳袖珍辞書」の中で"Architect"に「建築術ノ斈者」、"Architecture"に「建築斈」が当てられた(「斈」は「学」の異体字)。 一方、明治時代初め、工部省などでは"Architecture"を「造家」と訳しており、1877年(明治10年)に工部大学校が開校した際には「造家学科」が設けられた。 その後、伊東忠太が「『アーキテクチュ-ル』の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」という論文を著し、「造家学」では工学的意味合いが強いため、「建築学」と改めることを提唱し、造家学会、造家学科は建築学会、建築学科などと改められた。しかし、佐野利器らの出現によって、また関東大震災などの影響下で、工学的傾向自体は変わらなかった。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "建築学(けんちくがく)は、建築について研究する学問である。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "建築学は、建築の構造や材料等について研究する工学的な側面、制度や法規、経済活動について着目し研究アプローチする社会科学的な側面、デザインや歴史について研究する芸術的・文化的な側面を持つ。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "かつての建築家があらゆる課題を各自解決する必要があったように、建築学は総合的学問であったが、建築と一口に言ってもその応用範囲は、広大かつ多岐にわたる。構造的側面、芸術的側面はもとより、都市計画などにおいては、人間社会におけるライフスタイル、ひいては、精神的分野にまで踏み込んだ形で計画され実施される。すなわち、構造分野においては、数理的解釈を必要とする理科学的知識を必要とし、芸術分野においては、精神論的解釈が求められる。またその両者を高い次元において両立させるための総合力が不可欠である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "そのためいわゆる建築学といわれる分野の知識以外にも、機械工学、電子工学、土木工学、精神論、社会学、法学、経済学、語学、環境学、エコロジー分野など、多岐にわたる知識を広く浅く知る必要がある、特殊な学問である。その学問的性質上、現代では完全な分業化が進んでおり、それぞれの分野に特化している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "日本建築学会では、論文集を構造系、計画系、環境系に分けて発行している。同様の区分は、東京大学大学院や、京都大学でも採用されており、東京大学大学院では、建築構造、材料工学、建築構法、建築生産等を構造系、建築計画、建築デザイン、建築史等を計画系、環境工学、建築設備等を環境系としている。", "title": "分類" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "日本以外の大学では建築学科は工学部に属さないことが大半なので、工学部系の建築関連学部学科で取り扱うことがほとんどであるが、日本の大学では工学部に属する建築学科で学習、研究がなされている。", "title": "構造系" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "おもに、鉄筋コンクリート構造、鉄骨構造、木構造などの構造、および構造力学や建築物の物理的な地震災害などについてを研究する。", "title": "構造系" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "倒壊、消耗、破損などを防ぐべく、建築に用いられる材質について研究する。また、日本では古来より、木造建築物による火災被害が深刻視され木造建築物が密集した地域が数多く存在していた事により、火災が一度発生すると被害が拡大し、経済的に多大な損失を与えていたため、戦後は主に不燃性、難燃性素材開発を目的とした研究が重要視されてきた。", "title": "構造系" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "近年に至り、不燃性、難燃性素材の開発がほぼ完成形を見せる一方、現在では主に地震に対する耐震、免震素材への興味が高まりつつある。", "title": "構造系" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "建築計画学は、建築に求められる機能を探求し、人間の行動や心理に適した建物を計画する。", "title": "計画系" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "デザインについて研究する造形論をはじめ、建築のあり方や理想像を考究する建築論(建築哲学)、建築家研究を行う作家論、設計手法の理論的研究を行う設計論、図法や図面の描き方を研究する図学などの専門領域に分かれる。なお、広義では、実践的技術としての建築設計を含む。", "title": "計画系" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "まちづくり、グランドデザイン、都市建築法規、動線計画、農村計画、交通工学、衛生工学などを総合的に取りまとめる分野。建築設備学同様、都市計画学という学問領域はなく、やはり都市計画の実学的側面を指す俗称あるいは大学でのカリキュラムのジャンルを示すに過ぎないが、他分野にまたがって都市計画学者が存在する。日本では都市計画学者が集い日本都市計画学会が組織されている。", "title": "計画系" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "古代以来の各時代や社会と建築の関係、工法の発達などを研究する。造形も学ぶため建築意匠とも関連する分野となる。", "title": "計画系" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "建築に関わる採光、換気、排煙、暖房と冷房、空気調和工学のほか建物の断熱性能、音響性能などさまざまな事象を数理的に探究する領域である。音響に関する領域は建築音響工学と呼ばれる。", "title": "環境系" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "建築衛生や建築環境工学、建築音響工学の実学的側面であり、建築物に用いる設備、すなわち機械設備と電気設備を研究する。", "title": "環境系" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "以下のほか、建築教育研究、住宅学住居学、文化財修復などの分野や、防災(耐震補強・気象予測・震災火災等予防・避難経路の選定、研究)、海洋学、農村計画分野、近年では環境工学(計画原論)や情報システム工学の面からも研究が行われている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "建築分野にもデジタル・ファブリケーションを利活用するなど情報技術の導入は古くから存在し、建築学の各分野を横断して実戦と学術研究開発が進められている。2021年には建築という概念を情報学的視点から既存の建築学の体系を再編、再構成することを共通の出発点にした学際として、建築情報学会が発足している。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "建築経済学、建築経済(building economy)とは、建築工業の内部にみられる生産関係、およびこれを基盤にして成り立つ流通上の社会的な諸関係をさし示す概念である。このような経済を研究するもので建築経済を研究対象とし、建築経済現象にみられる一般性共通性から、そこでの諸概念を確定し、これらの現象相互間の規則性を明らかにして諸法則を求め、それらの諸概念・諸法則を総合して理論体系を打ち立て、そこから建築経済の機構・運動を明らかにするものである。このようにして建築経済学は、建築学の基礎学科の一つに属している。なお、建築経済研究に際し基本的に重要な事項は、建築労働(建築工業部門に新たな価値をもたらす)、建築生産機構(建築工業部門、諸企業への価値配分のメカニズム)、建築生産手段(建設資材価格の動向の影響)などである.", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "建築生産\"という用語が初めて登場したのは当時京都大学に在籍中の西山夘三らによる「DEZAM 7号」(1932年(昭和7年))掲載の「建築と建築生産」で、ここでは建築の工業化・合理化をテーマとして生産の後進性が指摘されている。戦後からある時期までの建築生産研究は、日本建築学会の建築経済委員会に属する研究者達によって支えられ方法論的・実証的研究に向けての研究活動を開始した。同研究会の設立の目的は (1) 建築生産に関する方法論的研究、(2) 建築生産の性格(生産関係)に関する研究、(3) 建築生産の生産力に関する研究、(4) 建築生産における施工能力、施工技術に関する経済的分析の4点であった。しかし「当時においては、建築生産という考え方は未だ一般的ではなく、研究活動形式においても模索することが多かったと思われる」と「建築学会関東支部30年史」は述べている。その後1965年(昭和40年)に徳永勇雄により「建築経済と建築生産論の発展」が発表され、ここでは生産論が建設産業論として捉えられる。このような事情を経て、1966年(昭和41年)建築経済委員会に建築生産部会が創設され(主査:古川修のちに岩下秀男に交替)、2年後に部会討論の結果を取りまとめて「建築生産論の提起」(代表執筆:巽和夫)を発表、当面の研究課題の連関関係概念図および建築生産論の研究テーマが示された。そこでは「建築研究の中に建築生産論と呼ぶべき総合的研究の必要性を提起したつもりである」と結ばれている。1975年(昭和50年)に同部会がまとめた「日本の建築生産・研究の現状その2・建築生産文献解題」では「建築生産論が従来いわゆる施工だけを意味するのではなく、設計も材料・構造・設備・経済等々を含んで建築を作る行為全体を一貫的に捉えようとするもの」と述べられている。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "建築の施工に関しての学科目として、建築施工学との名称で、大学で講義が開講されているほかに、大学によっては専門とする研究室も開設されている。工業高等学校建築科などでは高等学校学習指導要領 第3章 専門教育に関する各教科 第2節 工業 で、第2款 各科目 第31 建築施工と、定められる。", "title": "その他" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "明治維新に近い幕末の1862年(文久2年)に蕃書調書の堀達之助が編纂した「英和対訳袖珍辞書」の中で\"Architect\"に「建築術ノ斈者」、\"Architecture\"に「建築斈」が当てられた(「斈」は「学」の異体字)。", "title": "名称の変更" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "一方、明治時代初め、工部省などでは\"Architecture\"を「造家」と訳しており、1877年(明治10年)に工部大学校が開校した際には「造家学科」が設けられた。", "title": "名称の変更" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "その後、伊東忠太が「『アーキテクチュ-ル』の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」という論文を著し、「造家学」では工学的意味合いが強いため、「建築学」と改めることを提唱し、造家学会、造家学科は建築学会、建築学科などと改められた。しかし、佐野利器らの出現によって、また関東大震災などの影響下で、工学的傾向自体は変わらなかった。", "title": "名称の変更" } ]
建築学(けんちくがく)は、建築について研究する学問である。
'''建築学'''(けんちくがく)は、[[建築]]について研究する[[学問]]である<ref>{{cite book|和書| |title=建築用語辞典 |author=n.a. |editor=建築用語辞典編集委員会 |publisher=技報堂 |date=1965-07-10 |page=369 }}</ref><ref>{{Cite web|和書 |url=https://kotobank.jp/word/%E5%BB%BA%E7%AF%89%E5%AD%A6-60869 |title=建築学 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-02-05 }}</ref>。 == 概要 == 建築学は、建築の[[構造]]や[[建築材料|材料]]等について研究する[[工学]]的な側面、[[制度]]や[[法規]]、[[経済活動]]について着目し研究アプローチする[[社会科学]]的な側面、[[デザイン]]や歴史について研究する[[芸術]]的・[[文化]]的な側面を持つ。 かつての[[建築家]]があらゆる課題を各自解決する必要があったように、建築学は総合的学問であったが、建築と一口に言ってもその応用範囲は、広大かつ多岐にわたる。構造的側面、芸術的側面はもとより、都市計画などにおいては、人間社会におけるライフスタイル、ひいては、[[精神]]的分野にまで踏み込んだ形で計画され実施される。すなわち、構造分野においては、数理的解釈を必要とする[[理科学]]的知識を必要とし、芸術分野においては、精神論的解釈が求められる。またその両者を高い次元において両立させるための総合力が不可欠である。 そのためいわゆる建築学といわれる分野の知識以外にも、[[機械]]工学、[[電子]]工学、[[土木工学]]、[[精神論]]、[[社会学]]、[[法学]]、[[経済学]]、[[語学]]、[[環境学]]、[[エコロジー]]分野など、多岐にわたる知識を広く浅く知る必要がある、特殊な学問である。その学問的性質上、現代では完全な分業化が進んでおり、それぞれの分野に特化している。 == 分類 == 日本建築学会では、論文集を構造系、計画系、環境系に分けて発行している<ref>{{Cite web|和書 |url=https://www.aij.or.jp/transaction_announce.html |title=論文・作品の募集にあたって |publisher=日本建築学会 |accessdate=2020-02-05 }}</ref>。同様の区分は、[[東京大学]]大学院<ref name="u-tokyo">{{Cite web|和書 |url=https://www.t.u-tokyo.ac.jp/soe/department/arch.html |title=専攻紹介 建築学専攻 |publisher=東京大学大学院工学系研究科 |accessdate=2020-02-05 }}</ref>や、[[京都大学]]<ref>{{Cite web|和書 |url=https://press.archi.kyoto-u.ac.jp/393/ |title=“計画系・構造系・環境系” 多岐にわたる京大建築について |work=京大建築式 |publisher=京都大学 |accessdate=2020-02-05 }}</ref>でも採用されており、東京大学大学院では、建築構造、材料工学、建築構法、建築生産等を構造系、建築計画、建築デザイン、建築史等を計画系、環境工学、建築設備等を環境系としている<ref name="u-tokyo" />。 == 構造系 == {{seealso|建築構造設計}} === 建築構造学 === 日本以外の[[大学]]では[[建築学科]]は[[工学部]]に属さないことが大半なので、工学部系の建築関連学部学科で取り扱うことがほとんどであるが、日本の大学では工学部に属する建築学科で学習、研究がなされている。 おもに、[[鉄筋コンクリート構造]]、[[鉄骨構造]]、[[木構造 (建築)|木構造]]などの構造、および[[構造力学]]や建築物の物理的な地震災害などについてを研究する。 === 建築材料学 === 倒壊、消耗、破損などを防ぐべく、建築に用いられる材質について研究する。また、日本では古来より、木造建築物による火災被害が深刻視され木造建築物が密集した地域が数多く存在していた事により、火災が一度発生すると被害が拡大し、経済的に多大な損失を与えていたため、戦後は主に不燃性、難燃性素材開発を目的とした研究が重要視されてきた。 近年に至り、不燃性、難燃性素材の開発がほぼ完成形を見せる一方、現在では主に地震に対する耐震、免震素材への興味が高まりつつある。 == 計画系 == === 建築計画学 === {{main|建築計画学}} [[建築計画学]]は、建築に求められる機能を探求し、人間の行動や心理に適した建物を計画する。 === 建築意匠学 === デザインについて研究する造形論をはじめ、建築のあり方や理想像を考究する建築論(建築哲学)、建築家研究を行う作家論、設計手法の理論的研究を行う設計論、図法や図面の描き方を研究する図学などの専門領域に分かれる。なお、広義では、実践的技術としての建築設計を含む。 === 都市計画学 === {{main|都市計画#都市計画の学問}} [[まちづくり]]、[[グランドデザイン]]、都市建築法規、[[動的計画法|動線計画]]、[[農村計画]]、[[交通工学]]、[[衛生工学]]などを総合的に取りまとめる分野。建築設備学同様、都市計画学という学問領域はなく、やはり都市計画の実学的側面を指す[[俗称]]あるいは大学での[[カリキュラム]]のジャンルを示すに過ぎないが、他分野にまたがって都市計画学者が存在する。日本では都市計画学者が集い[[日本都市計画学会]]が組織されている。 === 建築史学 === {{main|建築史}} 古代以来の各時代や社会と建築の関係、工法の発達などを研究する。造形も学ぶため建築意匠とも関連する分野となる。 == 環境系 == === 建築環境工学 === {{main|建築環境工学}} 建築に関わる[[採光]]、[[換気]]、[[排煙]]、[[暖房]]と[[冷房]]、[[空気調和工学]]のほか建物の[[断熱]]性能、[[音響]]性能などさまざまな事象を数理的に探究する領域である。音響に関する領域は[[建築音響工学]]と呼ばれる。 === 建築設備学 === [[衛生#建築衛生|建築衛生]]や建築環境工学、建築音響工学の実学的側面であり、建築物に用いる[[設備]]、すなわち機械設備と電気設備を研究する。 == その他 == 以下のほか、建築教育研究、住宅学住居学、文化財修復などの分野や、[[防災]](耐震補強・気象予測・震災火災等予防・避難経路の選定、研究)、[[海洋学]]、[[農村計画]]分野、近年では[[環境工学]](計画原論)や[[情報システム工学]]の面からも研究が行われている。 === 住居学 === {{main|住居学}} === 不動産科学 === {{main|不動産学}} === 建築情報学 === 建築分野にも[[デジタル・ファブリケーション]]を利活用するなど[[情報技術]]の導入は古くから存在し、建築学の各分野を横断して実戦と学術研究開発が進められている。2021年には建築という概念を情報学的視点から既存の建築学の体系を再編、再構成することを共通の出発点にした学際として、建築情報学会が発足している。 === 建築経済学 === 建築経済学、建築経済(building economy)とは、建築工業の内部にみられる生産関係、およびこれを基盤にして成り立つ流通上の社会的な諸関係をさし示す概念である。このような経済を研究するもので建築経済を研究対象とし、建築経済現象にみられる一般性共通性から、そこでの諸概念を確定し、これらの現象相互間の規則性を明らかにして諸法則を求め、それらの諸概念・諸法則を総合して理論体系を打ち立て、そこから建築経済の機構・運動を明らかにするものである。このようにして建築経済学は、建築学の基礎学科の一つに属している。なお、建築経済研究に際し基本的に重要な事項は、建築労働(建築工業部門に新たな価値をもたらす)、建築生産機構(建築工業部門、諸企業への価値配分のメカニズム)、建築生産手段(建設資材価格の動向の影響)などである. === 建築生産学 === 建築生産"という用語が初めて登場したのは当時[[京都大学]]に在籍中の[[西山夘三]]らによる「DEZAM 7号」(1932年(昭和7年))掲載の「建築と建築生産」で、ここでは建築の工業化・合理化をテーマとして生産の後進性が指摘されている。戦後からある時期までの建築生産研究は、日本建築学会の建築経済委員会に属する研究者達によって支えられ方法論的・実証的研究に向けての研究活動を開始した。同研究会の設立の目的は (1) 建築生産に関する方法論的研究、(2) 建築生産の性格(生産関係)に関する研究、(3) 建築生産の生産力に関する研究、(4) 建築生産における施工能力、施工技術に関する経済的分析の4点であった<ref name=":0">日本の建築生産 組織の発生・体系の合理化を解明する 彰国社 1977</ref>。しかし「当時においては、建築生産という考え方は未だ一般的ではなく、研究活動形式においても模索することが多かったと思われる」と「建築学会関東支部30年史」は述べている。その後1965年(昭和40年)に徳永勇雄により「建築経済と建築生産論の発展」が発表され、ここでは生産論が建設産業論として捉えられる。このような事情を経て、1966年(昭和41年)建築経済委員会に建築生産部会が創設され(主査:古川修のちに岩下秀男に交替)、2年後に部会討論の結果を取りまとめて「建築生産論の提起」(代表執筆:巽和夫)を発表、当面の研究課題の連関関係概念図および建築生産論の研究テーマが示された。そこでは「建築研究の中に建築生産論と呼ぶべき総合的研究の必要性を提起したつもりである」と結ばれている<ref name=":0" />。1975年(昭和50年)に同部会がまとめた「日本の建築生産・研究の現状その2・建築生産文献解題」では「建築生産論が従来いわゆる施工だけを意味するのではなく、設計も材料・構造・設備・経済等々を含んで建築を作る行為全体を一貫的に捉えようとするもの」と述べられている。 === 建築施工学 === 建築の[[施工]]に関しての学科目として、建築施工学との名称で、大学で講義が開講されているほかに、大学によっては専門とする研究室も開設されている。[[工業高等学校]][[建築科]]などでは[[高等学校学習指導要領]] 第3章 専門教育に関する各教科 第2節 工業 で、第2款 各科目 第31 建築施工<ref>[https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/cs/1320499.htm][[文部科学省]]ウェブサイト</ref><ref>教育用の教科書は、例えば[https://www.jikkyo.co.jp/book/detail/15000008 工業376建築施工] (実教出版の場合)</ref>と、定められる。 == 関連分野 == {{div col}} * [[人間居住科学]] * [[環境デザイン]] * [[造園学]]・[[庭園]]学・[[園芸学]] * [[ランドスケープ|ランドスケープデザイン]] * [[エクステリア]]・[[エクステリアデザイン]] * [[都市計画]]・[[アーバンデザイン]] * [[都市設計]] * [[都市工学]] * [[造船学]] * [[生活科学]] * [[プロダクトデザイン]] * [[社会工学]] * [[土木工学]] * [[考古学]]・[[考現学]] * [[芸術学]]・[[美学]] * [[景観]]・[[都市美]] * [[工芸]] * [[インテリア]]・[[インテリアデザイン]] * [[スペースデザイン]] {{div col end}} == 名称の変更 == <!-- 本項は「建築学」なので、「造家」から「建築」への名称の変更ではなく、「造家学」から「建築学」への名称の変更に絞って記述してください。--> 明治維新に近い幕末の[[1862年]](文久2年)に蕃書調書の[[堀達之助]]が編纂した「英和対訳袖珍辞書」の中で"Architect"に「建築術ノ斈者」、"Architecture"に「建築斈」が当てられた(「斈」は「学」の[[字体#異体字|異体字]])<ref>江口知秀「"建築"と いう熟 語 の成立 ~」 建設産業図書館通信vo1.22『EAST TIMES』、東日本建設業保証株式会社</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=菊池重郎 |title=17 文部省における「百科全書」刊行の経緯について : 文部省刊行の百科全書「建築学」に関する研究・その1 |url=https://www.aij.or.jp/paper/detail.html?productId=38969 |journal=日本建築学会論文報告集 |publisher=日本建築学会 |year=1959 |volume=61 |pages=112-119 |naid=110005052473 |doi=10.3130/aijsaxx.61.0_112 |issn=0387-1185}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=菊池重郎 |title=5035 近世に於けるARCHITECTUREの訳語について(意匠・歴史) |url=https://www.aij.or.jp/paper/detail.html?productId=38945 |journal=日本建築学会論文報告集 |issn=0387-1185 |publisher=日本建築学会 |year=1958 |volume=60 |pages=661-664 |naid=110005052452 |doi=10.3130/aijsaxx.60.2.0_661}}</ref>。 一方、明治時代初め、工部省などでは"Architecture"を「造家」と訳しており、1877年(明治10年)に[[工部大学校]]が開校した際には「造家学科」が設けられた<ref>{{cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%80%A0%E5%AE%B6%E5%AD%A6-1557305 |title=造家学 |publisher=コトバンク |accessdate=2020-02-05}}</ref>。 その後、[[伊東忠太]]が「『アーキテクチュ-ル』の本義を論じて其の訳字を選定し我が造家学会の改名を望む」という論文を著し、「造家学」では工学的意味合いが強いため、「建築学」と改めることを提唱し、造家学会、造家学科は建築学会、[[建築学科]]などと改められた。しかし、[[佐野利器]]らの出現によって、また[[関東大震災]]などの影響下で、工学的傾向自体は変わらなかった。 == 教育機関 == {{main|建築学科}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[建築]] * [[卒業制作]] * [[建築学科]] * [[建築家]] * [[建築物]] * [[建築史]] == 外部リンク == * {{CRD|2000018622|建築学に関する情報の調べ方|近畿大学中央図書館}} {{Architecture-stub}} {{建築}} {{DEFAULTSORT:けんちくかく}} [[Category:建築学|*]] [[Category:建築教育]] [[Category:建築理論|建築理論]] [[Category:工学の分野]]
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幾何学
幾何学(きかがく、古代ギリシア語: γεωμετρία)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達し、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパでユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場した。 単に幾何学と言うと、ユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学をさすことが多く、一般にも馴染みが深いが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。 クリストファー・クラヴィウスの門下生のイエズス会士マテオ・リッチと中国明王朝の徐光啓は、1607年に、クラヴィウスによる注釈付きのユークリッドの『原論』(“Euclidis elementorum libri XV”)の前半6巻を『幾何原本』に翻訳した。 また1680年頃にブーヴェとジャン=フランソワ・ジェルビヨンはIgnace-Gaston Pardies(英語版)の”Elements de geometrie”を同様の名前の『幾何原本』に翻訳した。一般に「幾何学」という語は、マテオ・リッチによる geometria の中国語訳であるとされるが、本文中では「幾何」は「量」という意味で使われている。また以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。「幾何」という漢字表記そのものは「幾らであるか」といった程度の意味であり九章算術や孫子算経には多くこの表現が見られる。訳語としての「幾何」は元はアリストテレス哲学にでてくる10の範疇うちの一つ「量」の訳語であり、「幾何学」についてはmathemathicaの訳語であった。このことはジュリオ・アレーニの『西学凡』の中で明文化されて説明されている。この語がgeometryにのみ関連付けられる習慣が定着したのは19世紀半ば以降であると思われる。 以下では様々な幾何学の発展とその概要を、歴史にのっとって時系列順に述べることとする。 幾何学(ジオメトリー)の語源は「土地測量」であり、起源は古代エジプトにまで遡ることができる。 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録では、エジプトでは毎年春になるとナイル川が氾濫し、エジプトの砂漠に農耕を可能にする河土を運んでくるが、去年の畑の境界線はすべて流れてしまう。そのため、印をつけた縄でまっ平らになった土地を元どおり区割りする「縄張り師」と呼ばれた測量専門家集団が現れ、土地測量術が発達した。現在、ピタゴラスの定理として知られている数学定理が、古代エジプトではすでに5000年前に経験則として知られ、縄張り師たちは3:4:5の比率で印をつけた縄を張って、畑の角の直角を取ったという。 幾何学が大きな進歩を遂げた最初は、他の数学の分野と同じように古代ギリシアにおいてであった。 人物としては、タレス、ピタゴラスなどが有名である。タレスは三角形の合同を間接測量に応用し、ピタゴラスらはこれらを証明により厳密に基礎づけた。彼らはそこで多くの定理を発見し、幅広くそして深く図形を研究したが、特に注記すべきなのは、彼らが証明という全く新しい手法を発見したことである。 とくにピタゴラスは後のギリシャ数学者達に影響を与え、ユークリッドもその一人であった。自明な少数の原理(公理など)から厳密に演繹を積み重ねて当たり前とは思えない事柄を示していくやり方は、ユークリッドの手により『原論』において完成され、後の数学の手本となった。ユークリッドの手により証明をもとに体系化されたギリシャ数学は、曖昧さが残るエジプトやバビロニアのものより圧倒的に優位であったといえる。 曖昧な経験の集積ではなく、それらを体系化された理論にまとめあげ少数の事実から全てを演繹するという手法は長らく精密科学の雛型とされ、後世ではニュートンの古典力学なども同様の手法で論じられている。このような手法は古代ギリシャにのみ誕生したが、それは何故かという問題は科学史の重大な問題である。 ユークリッド原論はB.C.300年ごろに出版され、全13巻からなり、幾何学以外にも量や数の理論なども記述があるが、これらも幾何学的に取り扱われた。また原論は幾何学のバイブルとしてその後2000年以上にも渡って愛読され続けた。 その後前三世紀ごろにアポロニウスによって円錐曲線論(コニカ)がまとめられ、天文学の発達により前一、二世紀ごろに三角法も誕生した。パップスは300年ごろに幾何学を中心とする古代ギリシャの数学の成果を「数学集成(Synagoge)」にまとめあげた。 とくにアポロニウスは初歩的な座標の概念をも導入し、二点からの距離の和・差・積・商が一定である曲線の集合を研究した。彼の円錐曲線の理論は、カッシーニの卵形線は17世紀に入ってから開拓されたものの他の分野のほぼ全てはアポロニウスの手によって研究された。 ヨーロッパでは長く、「幾何学的精神」という言葉が厳密さを重んじる数学の王道ともいうべきあり方とされた。「幾何学的精神」という用語はパスカルによって導入された哲学用語であり、ユークリッド幾何学に見られるように、少数の公理形から全てを演繹するような合理的精神をさし、逆に全体から個々の原理を一挙に把握するという意味の「繊細の精神」の対義語として与えられた。 また、エジプト王プトレマイオスが幾何学を学ぶのに簡単にすます道が無いかという問いに対しユークリッドはそんな方法はなく、「幾何学に王道無し」と言ったことからより一般に「学問に王道なし」との言葉も生まれた。ここで王道とは王のみが通れる近道の意である。 ヨーロッパにおいては19世紀初等までは、幾何学といえばユークリッド原論から発達した三次元以下の図形に関する数学をさしていた。ヨーロッパではルネッサンス以降はカルダノやフェラリに見られるように代数学が盛んであり、17世紀以降はニュートンやライプニッツらによって開かれた解析学も急激に発達したため、幾何学はこれらの分野とよく対比されることとなった。しかしルネサンス期においてはこれらに比べ幾何学の成果は乏しく、当時の目立った成果を上げれば15世紀に透視図の考えを応用し射影幾何学の元となる概念が登場したり、古代ギリシャでは砂に図を書いていたためか運動はタブーであったが、14世紀ごろより図形を直接動かしてその変化考察するという後に解析学へと繋がる考え方も登場したなどが上げられる。 ユークリッド原論にも見られるように、数は図形として対応させて考えることもできる。デカルトはこの考えを拡張してデカルト座標を導入し、解析幾何学を導入した。解析幾何学は平面や空間に座標を定めて数と図形との関係を与え、逆に数を幾何学的に扱うことをも可能とした。それまでは幾何学的証明に限られた幾何学の問題を代数的に解くことも可能となったのである。座標の概念はフェルマーも研究していたが、欧米ではgéométrie cartésienne(デカルト幾何学、cartésienneは「デカルトの」の意)と呼ばれるようにデカルトの影響が極めて強い。 例えば直交座標平面上の任意の点の原点からの距離はピタゴラスの定理によって与えられるが、これは解析幾何学においては公理である。 解析幾何学はデカルトの哲学体系では数と図形の統一を目指したものであるが、アポロニウスの残した未解決問題、例えば三定点からの和が一定の曲線の研究なども目的とされていた。現代においてはコンピュータの画面表示などにも座標の概念が応用されている。また、幾何学の問題は現代では線形代数すら応用されて解かれることも多い。 解析幾何学の方法はヨーロッパ数学において同時期に発達した代数学や解析学においても盛んに用いられ、とくに17世紀解析学の発達は解析幾何学抜きには語れないであろう。18世紀にはオイラーによって解析幾何学は急激に発達させられその成果がまとめられた。オイラーの手によってアポロニウスによる古典的円錐曲線論は二次曲線や二次曲面論として解析幾何的手法を用いて代数的に書き換えられることとなった。 またオイラーは当時のケーニヒスベルクの橋を、一度渡った橋は二度と渡らないで、全ての橋を一度だけ渡ることは可能であるか?という問題より、今日のトポロジーやグラフ理論の起源となる概念が生まれた。 さらに18世紀末には微積分や変分学といった解析学の成果も幾何学へ応用され、モンジュによる曲線と曲面の微分幾何学の開拓が行われた。19世紀初頭にはガウスによって曲面の曲率などが求められ、微分幾何学が本格的に研究された。 このようにデカルトによってその基礎を打ち立てられ、代数的・解析的に取り扱えるという強力な手法を提供した解析幾何学であるが、解析幾何学が幾何学研究において絶対的な方法であったかといえば必ずしもそうではなかった。解析幾何学のように座標を導入せずに、ユークリッド幾何学のように直接図形を研究する手法も解析幾何学ほどはメジャーではなかったが行われていた。このような手法を総合幾何学(synthetic geometry)、あるいは純粋幾何学(pure geometry)という。 純粋幾何学における新概念は、遠近法を発端として17世紀にデザルグとパスカルらによって始められた射影幾何学が挙げられる。18世紀にはモンジュ(画法幾何学で有名である)とポンスレらにより、射影幾何学は更に研究され、19世紀に入ってもシュタイナーは総合幾何学を重視している。20世紀に入っても総合幾何学を重視した者としてコクセターが挙げられる。ほかにも、ラングレーの問題などは20世紀に入ってから出された問題である。 長らく原論の平行線公理は幾何学において問題となったが、この公理を他の公理から導出しようとする試みは全て頓挫した。もし平行線公理が公理でなければ、ほかの公理系から導出できるはずだと試みられて失敗したわけである。19世紀に入ってようやく、他の公理はそのままに平行線公理のみをその否定命題に置換してもユークリッド幾何学に似た幾何学が成立することがボヤイ、ロバチェフスキーらによって示され、非ユークリッド幾何学が誕生した。 非ユークリッド幾何学の無矛盾性はユークリッド幾何学の無矛盾性に依存し、後者が無矛盾であれば前者も無矛盾であるとされ、両者の差異は単なる計量の違いに過ぎないことが明らかにされた。 幾何学は人間の図形的直感に基づいて研究されるが、直感のみに基づいて研究するわけにはいかない。そのためあいまいな直感ではなく明確に言葉や定義によって言い表された定義や公理に基づいて幾何学を体系化する試みは既にユークリッドによってなされたのだが、現代からみればこれは不完全なものであった。 19世紀に入って、批判的精神や数学そのものの発達によりユークリッド幾何学の公理系が実は論理的に不完全であることが指摘された。平行線公理問題や非ユークリッド幾何学の誕生などもそのような流れの一つとしてあげられるだろう。数学者にとって公理系が論理的に不完全であれば、正しい方法で証明したはずの定理からも矛盾が出てしまうため、これが恐れられ一時期盛んに矛盾しない理想の公理系の探求が行われたわけである。その探求の目的は幾何学を公理系から建設するための無矛盾な公理系の発見とその公理系によって構成される幾何学の構造、更にはそのような複数の公理系間の関係(ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との関係のような)であった。 19世紀後半よりその様々な代価案が提出されてきたが、最も決定的であったのが19世紀後半から20世紀初頭にはヒルベルトによって提唱されたものであり、その成果は著書「幾何学の基礎」にまとめられた。 ヒルベルトは論理的整合性のために感覚から完全に分離された幾何学を唱え、この本では点や線といった専門用語を机や椅子などに置換してすら成立するとまで言われたが、それにしては図が沢山あるため小平邦彦などによって批判された。図すら一切存在しない初等幾何の基礎付けはジャン・デュドネの「線形代数と初等幾何」を待たねばならないだろう。デュドネの本には図すら存在せず、ある意味専門用語ですら無意味であるというヒルベルトの精神を体現しているといえる。 このような限界までの考察によって、公理とは「誰もが認めうる真理」ではなく、「理論を構成するための根本的要請」という考えにシフトしていった。 このような極端に具体例を軽視し形式主義に走る手法は今日の公理主義的数学の先駆けと見ることができる。岡潔や小平邦彦などは極端な抽象化に警鐘を鳴らし、岡などは数学の冬の時代とまで称した。しかし具体例や数学的直感を軽視するのが悪いことではなく、あくまで公理系の無矛盾性が大多数の数学者にとって問題であり、そのため数学の基礎や証明などの根本的部分にその批判が差し向けられたのである。公理系が矛盾していたら正しくはじめたのにおかしな結果が出てくるかもしれないことが問題視され、この方法は幾何学基礎論から発端となったが同時期に問題となった集合論のパラドクスもあいまって、幾何学にとどまらず数学基礎論としてヒルベルトらにより研究が継続されることとなる。 解析幾何学では三次元ユークリッド空間の幾何学は空間幾何学(space geometry)、または立体幾何学(solid geometry)と呼ばれ、二次元ユークリッド空間の幾何学は平面幾何学(plane geometry)と呼ばれる。これを一般化し、n個の実数の組からn次元空間の点を定義し、それらの任意の二点間の距離を定めてn次元ユークリッド空間を構成することができる。同様にn次元空間は非ユークリッド幾何学や射影幾何学についても定めることができる。 これらのような様々な空間の研究は19世紀中頃に本格的に行われ、リーマンはn次元の曲がった空間から多様体の概念を導入し、計量として接ベクトル間の内積で曲率を定義した。このような様々な幾何学はアインシュタインが一般相対性理論の研究を行った際に数学的道具を提供した。より一般的には、P・フィンスラーは接ベクトルのノルムを計量とするフィンスラー空間の概念を提唱した。 クラインは幾何学に群論を応用することによって、空間Sの変換群Gによって、変換で不変な性質を研究する幾何学を提唱した。これをエルランゲン・プログラムというが、この手法で運動群がユークリッド幾何学を定めるように、射影幾何学、アフィン幾何学、共形幾何学を統一化することができる。 更に19世紀末にはポアンカレによって、連続的な変化により不変な性質を研究する位相幾何学が開拓された。 代数曲線・曲面や代数多様体が起源である代数幾何学は高度に発達し、日本でもフィールズ賞受賞者も多く盛んに研究されている。 またミンコフスキーによる凸体の研究は「数の幾何学」(注:数論幾何学とは異なる)の道を開いた。 20世紀前半には多様体は数学的に厳密に定式化され、ワイル、E・カルタンらにより多様体上の幾何学や現代微分幾何学が盛んに研究された。リーによって導入されたリー群によって、これらの様々な幾何学を不変にする変換群が与えられたが、カルタンはリー群を応用して接続の概念を導入し接続幾何学を完成させ、これらの幾何学を統一化することに成功した。これはリーマンによる多様体と、クラインによる変換群の考えを統一化したとも理解できる。これは現代では素粒子物理学などの物理学の諸分野でも常識となっている。 また、代数学や解析学の発展もともなって、多様体の代数構造と位相構造との関係を研究する大域微分幾何学、複素解析と関係する複素多様体論、古典力学の力学系と関連したシンプレクティック幾何学や接続幾何学、測度論と関連して積分幾何学や測度の幾何学的研究である幾何学的測度論の研究などもこのころにはじまった。 20世紀後半になると多様体上の微分可能構造や力学系、微分作用素なども上記の幾何学とも関係しながら研究が進められた。他にも幾何構造をなすモジュライ空間や特異点を含む空間の研究、物理学と関連した研究や四色問題に見られるようにコンピューターを用いた研究も行われた。 凸体の幾何学や組み合わせ幾何学の手法は現代ではオペレーションズ・リサーチなどの応用数理の分野でも用いられている。 現代数学では幾何学は代数学や解析学などの数学全般に広範囲に浸透しているため、これらと明確に区別して幾何学とはなにかということを論ずるのは難しいが、しかしながら図形や空間の直感的把握やそのような思考法は先端分野の研究においても重要性を失っていないといえる。
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"解析幾何学はデカルトの哲学体系では数と図形の統一を目指したものであるが、アポロニウスの残した未解決問題、例えば三定点からの和が一定の曲線の研究なども目的とされていた。現代においてはコンピュータの画面表示などにも座標の概念が応用されている。また、幾何学の問題は現代では線形代数すら応用されて解かれることも多い。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "解析幾何学の方法はヨーロッパ数学において同時期に発達した代数学や解析学においても盛んに用いられ、とくに17世紀解析学の発達は解析幾何学抜きには語れないであろう。18世紀にはオイラーによって解析幾何学は急激に発達させられその成果がまとめられた。オイラーの手によってアポロニウスによる古典的円錐曲線論は二次曲線や二次曲面論として解析幾何的手法を用いて代数的に書き換えられることとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "またオイラーは当時のケーニヒスベルクの橋を、一度渡った橋は二度と渡らないで、全ての橋を一度だけ渡ることは可能であるか?という問題より、今日のトポロジーやグラフ理論の起源となる概念が生まれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "さらに18世紀末には微積分や変分学といった解析学の成果も幾何学へ応用され、モンジュによる曲線と曲面の微分幾何学の開拓が行われた。19世紀初頭にはガウスによって曲面の曲率などが求められ、微分幾何学が本格的に研究された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "このようにデカルトによってその基礎を打ち立てられ、代数的・解析的に取り扱えるという強力な手法を提供した解析幾何学であるが、解析幾何学が幾何学研究において絶対的な方法であったかといえば必ずしもそうではなかった。解析幾何学のように座標を導入せずに、ユークリッド幾何学のように直接図形を研究する手法も解析幾何学ほどはメジャーではなかったが行われていた。このような手法を総合幾何学(synthetic geometry)、あるいは純粋幾何学(pure geometry)という。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "純粋幾何学における新概念は、遠近法を発端として17世紀にデザルグとパスカルらによって始められた射影幾何学が挙げられる。18世紀にはモンジュ(画法幾何学で有名である)とポンスレらにより、射影幾何学は更に研究され、19世紀に入ってもシュタイナーは総合幾何学を重視している。20世紀に入っても総合幾何学を重視した者としてコクセターが挙げられる。ほかにも、ラングレーの問題などは20世紀に入ってから出された問題である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "長らく原論の平行線公理は幾何学において問題となったが、この公理を他の公理から導出しようとする試みは全て頓挫した。もし平行線公理が公理でなければ、ほかの公理系から導出できるはずだと試みられて失敗したわけである。19世紀に入ってようやく、他の公理はそのままに平行線公理のみをその否定命題に置換してもユークリッド幾何学に似た幾何学が成立することがボヤイ、ロバチェフスキーらによって示され、非ユークリッド幾何学が誕生した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "非ユークリッド幾何学の無矛盾性はユークリッド幾何学の無矛盾性に依存し、後者が無矛盾であれば前者も無矛盾であるとされ、両者の差異は単なる計量の違いに過ぎないことが明らかにされた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "幾何学は人間の図形的直感に基づいて研究されるが、直感のみに基づいて研究するわけにはいかない。そのためあいまいな直感ではなく明確に言葉や定義によって言い表された定義や公理に基づいて幾何学を体系化する試みは既にユークリッドによってなされたのだが、現代からみればこれは不完全なものであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "19世紀に入って、批判的精神や数学そのものの発達によりユークリッド幾何学の公理系が実は論理的に不完全であることが指摘された。平行線公理問題や非ユークリッド幾何学の誕生などもそのような流れの一つとしてあげられるだろう。数学者にとって公理系が論理的に不完全であれば、正しい方法で証明したはずの定理からも矛盾が出てしまうため、これが恐れられ一時期盛んに矛盾しない理想の公理系の探求が行われたわけである。その探求の目的は幾何学を公理系から建設するための無矛盾な公理系の発見とその公理系によって構成される幾何学の構造、更にはそのような複数の公理系間の関係(ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との関係のような)であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "19世紀後半よりその様々な代価案が提出されてきたが、最も決定的であったのが19世紀後半から20世紀初頭にはヒルベルトによって提唱されたものであり、その成果は著書「幾何学の基礎」にまとめられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ヒルベルトは論理的整合性のために感覚から完全に分離された幾何学を唱え、この本では点や線といった専門用語を机や椅子などに置換してすら成立するとまで言われたが、それにしては図が沢山あるため小平邦彦などによって批判された。図すら一切存在しない初等幾何の基礎付けはジャン・デュドネの「線形代数と初等幾何」を待たねばならないだろう。デュドネの本には図すら存在せず、ある意味専門用語ですら無意味であるというヒルベルトの精神を体現しているといえる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このような限界までの考察によって、公理とは「誰もが認めうる真理」ではなく、「理論を構成するための根本的要請」という考えにシフトしていった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "このような極端に具体例を軽視し形式主義に走る手法は今日の公理主義的数学の先駆けと見ることができる。岡潔や小平邦彦などは極端な抽象化に警鐘を鳴らし、岡などは数学の冬の時代とまで称した。しかし具体例や数学的直感を軽視するのが悪いことではなく、あくまで公理系の無矛盾性が大多数の数学者にとって問題であり、そのため数学の基礎や証明などの根本的部分にその批判が差し向けられたのである。公理系が矛盾していたら正しくはじめたのにおかしな結果が出てくるかもしれないことが問題視され、この方法は幾何学基礎論から発端となったが同時期に問題となった集合論のパラドクスもあいまって、幾何学にとどまらず数学基礎論としてヒルベルトらにより研究が継続されることとなる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "解析幾何学では三次元ユークリッド空間の幾何学は空間幾何学(space geometry)、または立体幾何学(solid geometry)と呼ばれ、二次元ユークリッド空間の幾何学は平面幾何学(plane geometry)と呼ばれる。これを一般化し、n個の実数の組からn次元空間の点を定義し、それらの任意の二点間の距離を定めてn次元ユークリッド空間を構成することができる。同様にn次元空間は非ユークリッド幾何学や射影幾何学についても定めることができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "これらのような様々な空間の研究は19世紀中頃に本格的に行われ、リーマンはn次元の曲がった空間から多様体の概念を導入し、計量として接ベクトル間の内積で曲率を定義した。このような様々な幾何学はアインシュタインが一般相対性理論の研究を行った際に数学的道具を提供した。より一般的には、P・フィンスラーは接ベクトルのノルムを計量とするフィンスラー空間の概念を提唱した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "クラインは幾何学に群論を応用することによって、空間Sの変換群Gによって、変換で不変な性質を研究する幾何学を提唱した。これをエルランゲン・プログラムというが、この手法で運動群がユークリッド幾何学を定めるように、射影幾何学、アフィン幾何学、共形幾何学を統一化することができる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "更に19世紀末にはポアンカレによって、連続的な変化により不変な性質を研究する位相幾何学が開拓された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "代数曲線・曲面や代数多様体が起源である代数幾何学は高度に発達し、日本でもフィールズ賞受賞者も多く盛んに研究されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "またミンコフスキーによる凸体の研究は「数の幾何学」(注:数論幾何学とは異なる)の道を開いた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "20世紀前半には多様体は数学的に厳密に定式化され、ワイル、E・カルタンらにより多様体上の幾何学や現代微分幾何学が盛んに研究された。リーによって導入されたリー群によって、これらの様々な幾何学を不変にする変換群が与えられたが、カルタンはリー群を応用して接続の概念を導入し接続幾何学を完成させ、これらの幾何学を統一化することに成功した。これはリーマンによる多様体と、クラインによる変換群の考えを統一化したとも理解できる。これは現代では素粒子物理学などの物理学の諸分野でも常識となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "また、代数学や解析学の発展もともなって、多様体の代数構造と位相構造との関係を研究する大域微分幾何学、複素解析と関係する複素多様体論、古典力学の力学系と関連したシンプレクティック幾何学や接続幾何学、測度論と関連して積分幾何学や測度の幾何学的研究である幾何学的測度論の研究などもこのころにはじまった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "20世紀後半になると多様体上の微分可能構造や力学系、微分作用素なども上記の幾何学とも関係しながら研究が進められた。他にも幾何構造をなすモジュライ空間や特異点を含む空間の研究、物理学と関連した研究や四色問題に見られるようにコンピューターを用いた研究も行われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "凸体の幾何学や組み合わせ幾何学の手法は現代ではオペレーションズ・リサーチなどの応用数理の分野でも用いられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "現代数学では幾何学は代数学や解析学などの数学全般に広範囲に浸透しているため、これらと明確に区別して幾何学とはなにかということを論ずるのは難しいが、しかしながら図形や空間の直感的把握やそのような思考法は先端分野の研究においても重要性を失っていないといえる。", "title": "歴史" } ]
幾何学は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達し、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパでユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場した。 単に幾何学と言うと、ユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学をさすことが多く、一般にも馴染みが深いが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。
[[File:Table_of_Geometry,_Cyclopaedia,_Volume_1.jpg|thumb|right|300px|18世紀の百科事典の幾何学図形の表。]] [[ファイル:Calabi_yau.jpg|thumb|right|200px|最先端の物理学でも用いられる[[カラビ-ヤウ多様体]]の一種。現代幾何学では図も描けないような抽象的な分野も存在する。]] [[File:Geometry_Lessons.jpg|thumb|right|200px|20世紀における初等幾何学の授業風景。]] '''幾何学'''(きかがく、{{Lang-grc|γεωμετρία}})は、[[図形]]や[[空間_(数学)|空間]]の性質について[[研究]]する[[数学]]の分野である<ref name="g">[[広辞苑]]第六版「幾何学」より</ref><ref name="c">{{kotobank|幾何学|デジタル大辞泉}}</ref>。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに[[古代ギリシャ]]にて独自に発達し<ref name="h">ブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学」より。</ref>、これらのおもな成果は紀元前300年ごろ[[エウクレイデス|ユークリッド]]によって[[ユークリッド原論]]にまとめられた<ref name="c"/>。その後中世以降のヨーロッパで[[ユークリッド幾何学]]を発端とする様々な幾何学が登場した<ref name="h"/>。 単に幾何学と言うと、ユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学をさすことが多く、一般にも馴染みが深いが<ref name="h"/>、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し<ref name="g"/>、現代においては[[微分幾何学]]や[[代数幾何学]]、[[位相幾何学]]などの高度に抽象的な理論に発達・分化している<ref name="c"/><ref name="h"/>。 <!--幾何学と教育についても追記すべきであろう。とくに現代化運動と幾何学など--> == 語源 == [[クリストファー・クラヴィウス]]の門下生の[[イエズス会|イエズス会士]][[マテオ・リッチ]]と中国[[明王朝]]の[[徐光啓]]は、[[1607年]]に、クラヴィウスによる注釈付きの[[ユークリッド]]の『[[ユークリッド原論|原論]]』(“Euclidis elementorum libri XV”)の前半6巻を『幾何原本』に翻訳した<ref name="kikagempon">{{Cite web|和書|title=幾何原本. 第1-6巻 / 利瑪竇 口訳 ; 徐光啓 筆受 |website=早稲田大学図書館 |accessdate=December 7, 2020 |url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i16/i16_01173/index.html}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=杜石然 |date=2001-07 |title=イエズス会士と西洋数学の伝入 |url=https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_CB000100001982 |journal=中国言語文化研究 |ISSN=1346-6305 |publisher=佛教大学中国言語文化研究会 |volume=1 |pages=1-22 |id={{CRID|1050287838661758848}}}}</ref>。 また1680年頃に[[ジョアシャン・ブーヴェ|ブーヴェ]]と[[ジャン=フランソワ・ジェルビヨン]]は{{仮リンク|Ignace-Gaston Pardies|en|Ignace-Gaston Pardies}}の”Elements de geometrie”を同様の名前の『幾何原本』に翻訳した<ref>{{cite web |title=The Elements of Geometry |url=https://www.wdl.org/en/item/7103/ |website=[[ワールド・デジタル・ライブラリー|World Digital Library]] |accessdate=December 7, 2020}}</ref>。一般に「幾何学」という語は、マテオ・リッチによる geometria の中国語訳であるとされるが<ref>{{cite web |title=The first Chinese translation of the last nine books of Euclid's Elements and its source Historia Mathematica Volume 32, Issue 1 |website=[[ScienceDirect]] |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0315086003001095#BIB053 |accessdate=December 7, 2020 |author=Yabio Xu |doi=https://doi.org/10.1016/j.hm.2003.12.002}}</ref>、本文中では「幾何」は「量」という意味で使われている<ref name="kikagempon" /><ref name="watansbe">{{cite journal|和書|author=渡辺純成|title=満洲語資料からみた「幾何」の語源について (数学史の研究)|url=https://hdl.handle.net/2433/47614|journal=数理解析研究所講究録 |volume=1444|publisher=京都大学数理解析研究所|accessdate=December 7, 2020|website=Kyoto University Research Information Repository}}</ref>。また以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている<ref name="watansbe" />。「幾何」という漢字表記そのものは「幾らであるか」といった程度の意味であり[[九章算術]]や[[孫子算経]]には多くこの表現が見られる。訳語としての「幾何」は元は[[アリストテレス]]哲学にでてくる10の[[カテゴリ|範疇]]うちの一つ「量」の訳語であり、「幾何学」についてはmathemathicaの訳語であった。このことは[[ジュリオ・アレーニ]]の『西学凡』の中で明文化されて説明されている<ref name="watansbe" /><ref>{{Cite web|和書|title=西学凡 / 艾儒畧 答述 |website=早稲田大学図書館 |accessdate=December 7, 2020 |url=https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_b0059/index.html}}</ref>。この語がgeometryにのみ関連付けられる習慣が定着したのは19世紀半ば以降であると思われる<ref name="watansbe" />。 == 歴史 == 以下では様々な幾何学の発展とその概要を、歴史にのっとって時系列順に述べることとする。 === 起源 === 幾何学(ジオメトリー)の語源は「土地測量」であり{{efn|name="word"|術語「幾何」は{{Lang-grc|"γημετρεω"}} に由来し、その語義は土地測量(「{{Lang-grc|"γη"}}(ゲー):土地」および「{{Lang|grc|"μετρεω"}}(メトレオ):測定」)である。この構成は {{Lang-en|"geometry"}} でも同じ({{Lang|en|"geo"}}:土地、{{Lang|en|"metry"}}:測量)。}}、起源は[[古代エジプト]]にまで遡ることができる<ref name="a">日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「幾何学」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541 </ref>。 古代ギリシャの歴史家[[ヘロドトス]]の記録<ref name="a"/><ref name="kika">この説は古代ギリシャ末期の[[プロクロス]]によるユークリッド原論の注釈集の冒頭にあるが、近年では批判もある。一松信、『[http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0054540.html 現代に活かす初等幾何入門]』、岩波書店、〈岩波講座 応用数学〉、2003年、第1章。ISBN 4-00-005454-6</ref>では、エジプトでは毎年春になると[[ナイル川]]が氾濫し、エジプトの砂漠に農耕を可能にする河土を運んでくるが、去年の畑の境界線はすべて流れてしまう。そのため、印をつけた縄でまっ平らになった土地を元どおり区割りする「縄張り師」と呼ばれた測量専門家集団が現れ、土地測量術が発達した。現在、[[ピタゴラスの定理]]として知られている数学定理が、古代エジプトではすでに5000年前に経験則として知られ、縄張り師たちは3:4:5の比率で印をつけた縄を張って、畑の角の直角を取ったという<ref name="h"/>。 {{中央|<gallery widths="150px" heights="120px"> ファイル:Square_root_of_2_triangle.svg|直角二等辺三角形におけるピタゴラスの定理の適用。<math>\sqrt{1^2+1^2}=\sqrt{2}</math>である。 ファイル:Pythagorean.svg|古代から世界各地で知られていたピタゴラスの定理の証明の一種。下と右の正方形の面積の和は左の正方形の面積に等しい。 ファイル:Chinese_pythagoras.jpg|古代中国におけるピタゴラスの定理の証明。 ファイル:Ybc7289-bw.jpg|古代バビロニアにおけるピタゴラスの定理。 </gallery>}} === 古代ギリシャの幾何学 === 幾何学が大きな進歩を遂げた最初は、他の数学の分野と同じように[[古代ギリシア]]においてであった。 ==== 初期のギリシャ幾何学 ==== 人物としては、[[タレス]]、[[ピタゴラス]]などが有名である<ref name="a"/>。タレスは三角形の[[図形の合同|合同]]を間接測量に応用し、ピタゴラスらはこれらを[[証明 (数学)|証明]]により厳密に基礎づけた<ref name="a"/>。彼らはそこで多くの定理を発見し、幅広くそして深く図形を研究したが、特に注記すべきなのは、彼らが証明という全く新しい手法を発見したことである。 ==== 数学的意味での証明の誕生と原論の成立 ==== {{right|<gallery widths="150px" heights="150px" perrow="2"> ファイル:P._Oxy._I_29.jpg|[[パピルス]]に記録されたユークリッド原論の断片。 ファイル:Euclid statue, Oxford University Museum of Natural History, UK - 20080315.jpg|原論の著者とされるユークリッド。 </gallery>}} とくにピタゴラスは後のギリシャ数学者達に影響を与え、[[エウクレイデス|ユークリッド]]もその一人であった<ref name="h"/>。自明な少数の原理([[公理]]など)から厳密に[[演繹]]を積み重ねて当たり前とは思えない事柄を示していくやり方は、ユークリッドの手により『[[原論]]<ref>邦訳は「中村 幸四郎・寺阪 英孝・伊東 俊太郎・池田 美恵訳・解説、『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320019652][[ユークリッド]]<span>原論 追補版</span>』、共立出版、2011年。ISBN 978-4-320-01965-2」など。</ref>』において完成され、後の数学の手本となった。ユークリッドの手により証明をもとに体系化されたギリシャ数学は、曖昧さが残るエジプトやバビロニアのものより圧倒的に優位であったといえる<ref name="h"/>。 曖昧な経験の集積ではなく、それらを体系化された理論にまとめあげ少数の事実から全てを演繹するという手法は長らく[[精密科学]]の雛型とされ<ref name="kika"/>、後世ではニュートンの古典力学なども同様の手法で論じられている。このような手法は古代ギリシャにのみ誕生したが、それは何故かという問題は科学史の重大な問題である<ref name="kika"/>。 ユークリッド原論はB.C.300年ごろに出版され、全13巻からなり、幾何学以外にも[[量]]や[[数論|数の理論]]なども記述があるが、これらも幾何学的に取り扱われた<ref name="a"/>。また原論は幾何学のバイブルとしてその後2000年以上にも渡って愛読され続けた<ref name="h"/>。 ==== 後期のギリシャ幾何学 ==== {{right|<gallery widths="150px" heights="150px" perrow="2"> ファイル:Pentagon-construction.svg|正五角形の古典的作図法。ユークリッド幾何学では定規は直線を引くためだけに用い、コンパスは紙から離したらすぐに閉じねばならない(何かの長さをコンパスでとり他の何かの長さと比較するなどして他の何かの長さを推察できない)という厳格なルールがある<ref>小林昭七、『[http://www.shokabo.co.jp/mybooks/ISBN978-4-7853-1516-0.htm 円の数学]』、裳華房、1999年。ISBN 978-4-7853-1516-0</ref>。 ファイル:DandelinSpheres.png|[[円錐曲線]]論([[w:Dandelin spheres|Dandelin spheres]])に関する図。 </gallery>}} その後前三世紀ごろに[[ペルガのアポロニウス|アポロニウス]]によって[[円錐曲線]]論(コニカ)がまとめられ<ref>アポッロニオス 『[http://www.kyoiku.co.jp/syoseki.cgi?book=106 円錐曲線論]』 ポール・ヴェル・エック仏訳、竹下貞雄和訳、大学教育出版、2009年1月。ISBN 978-4-88730-880-0。</ref>、[[天文学]]の発達により前一、二世紀ごろに[[三角法]]も誕生した。[[パップス]]は300年ごろに幾何学を中心とする古代ギリシャの数学の成果を「数学集成(Synagoge)」にまとめあげた<ref name="a"/>。 とくにアポロニウスは初歩的な座標の概念をも導入し、二点からの距離の和・差・積・商が一定である曲線の集合を研究した<ref name="kika"/>。彼の円錐曲線の理論は、[[カッシーニの卵形線]]は17世紀に入ってから開拓されたものの他の分野のほぼ全てはアポロニウスの手によって研究された<ref name="kika"/>。 <!--ここから一挙に中世ヨーロッパへと飛躍するが歴史的に決して断然しているのではなく幾何学はアラビアなどにおいても発達し、これらの成果は十字軍によって持ち帰えられた成果がヨーロッパで発達する。--> === ヨーロッパにおける幾何学 === ヨーロッパでは長く、「幾何学的精神」という言葉が厳密さを重んじる数学の王道ともいうべきあり方とされた。「幾何学的精神」という用語はパスカルによって導入された哲学用語であり、ユークリッド幾何学に見られるように、少数の公理形から全てを演繹するような合理的精神をさし、逆に全体から個々の原理を一挙に把握するという意味の「繊細の精神」の対義語として与えられた<ref>大辞林「幾何学的精神」より</ref>。 また、エジプト王プトレマイオスが幾何学を学ぶのに簡単にすます道が無いかという問いに対しユークリッドはそんな方法はなく、「幾何学に王道無し」と言ったことからより一般に「学問に王道なし」との言葉も生まれた<ref name="e" >大辞林「学問に王道なし」より</ref>。ここで王道とは王のみが通れる近道の意である<ref name="e"/>。 === 中世ヨーロッパのユークリッド幾何学 === [[File:Woman_teaching_geometry.jpg|thumb|left|200px|中世ヨーロッパでユークリッド幾何学が教えられている様子。]] ヨーロッパにおいては19世紀初等までは、幾何学といえばユークリッド原論から発達した三次元以下の図形に関する数学をさしていた<ref name="a"/>。ヨーロッパではルネッサンス以降は[[ジェロラモ・カルダノ|カルダノ]]や[[ルドヴィコ・フェラーリ|フェラリ]]に見られるように[[代数学]]が盛んであり、17世紀以降はニュートンやライプニッツらによって開かれた[[解析学]]も急激に発達したため、幾何学はこれらの分野とよく対比されることとなった<ref name="a"/>。しかしルネサンス期においてはこれらに比べ幾何学の成果は乏しく<ref name="kika"/>、当時の目立った成果を上げれば15世紀に透視図の考えを応用し[[射影幾何学]]の元となる概念が登場したり<ref name="kika"/>、古代ギリシャでは砂に図を書いていたためか<ref name="kika"/>[[ゼノンのパラドックス|運動はタブー]]であったが、14世紀ごろより図形を直接動かしてその変化考察するという後に[[解析学]]へと繋がる考え方も登場した<ref name="kika"/>などが上げられる。 {{-}} === 解析幾何学誕生 === {{right|<gallery widths="150px" heights="150px" perrow="2"> ファイル:Cartesian-coordinate-system.svg|デカルトによって導入された座標平面。点と数の組が対応していることがわかる。 ファイル:Descartes_La-Geometrie_1637.png|デカルトの幾何学に関する著作のページ。 </gallery>}} {{right|<gallery widths="150px" heights="150px" perrow="2"> ファイル:Frans_Hals_-_Portret_van_René_Descartes.jpg|[[ルネ・デカルト|デカルト]] : 解析幾何学の礎となる直交座標の概念を導入。 ファイル:Leonhard_Euler_2.jpg|[[レオンハルト・オイラー|オイラー]] : 解析幾何学を発展させるにとどまらず、業績は当時の数学とその関連分野全般に渡る。 </gallery>}} ユークリッド原論にも見られるように、数は図形として対応させて考えることもできる。[[ルネ・デカルト|デカルト]]はこの考えを拡張して[[直交座標系|デカルト座標]]を導入し、[[解析幾何学]]を導入した<ref name="a"/><ref>R. Descartes, Géométrie, Paris, 1637 (Œuvres, IV, 1901)</ref>。解析幾何学は平面や空間に座標を定めて数と図形との関係を与え、逆に数を幾何学的に扱うことをも可能とした<ref name="a"/>。それまでは幾何学的証明に限られた幾何学の問題を代数的に解くことも可能となったのである<ref name="a"/>。座標の概念は[[ピエール・ド・フェルマー|フェルマー]]も研究していたが、欧米ではgéométrie cartésienne(デカルト幾何学、cartésienneは「デカルトの」の意)と呼ばれるようにデカルトの影響が極めて強い<ref name="kika"/>。 例えば直交座標平面上の任意の点の原点からの距離は[[ピタゴラスの定理]]によって与えられるが、これは解析幾何学においては公理である<ref>遠山啓、『[http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN978-4-00-603215-9 関数を考える]』、岩波書店、〈岩波現代文庫〉、2011年、149頁。ISBN 978-4-00-603215-9</ref><ref>朝永振一郎著、江沢洋編、『[https://www.msz.co.jp/book/detail/08365/ 物理学への道程]』、みすず書房、〈始まりの本〉、2012年、349頁。ISBN 978-4-622-08365-8 C1342</ref>。 解析幾何学はデカルトの哲学体系では数と図形の統一を目指したものであるが、アポロニウスの残した未解決問題、例えば三定点からの和が一定の曲線の研究なども目的とされていた<ref name="kika"/>。現代においてはコンピュータの画面表示などにも座標の概念が応用されている<ref name="kika"/>。また、幾何学の問題は現代では[[線形代数]]すら応用されて解かれることも多い<ref name="kika"/>。 解析幾何学の方法はヨーロッパ数学において同時期に発達した代数学や解析学においても盛んに用いられ、とくに17世紀解析学の発達は解析幾何学抜きには語れないであろう<ref name="a"/>。18世紀には[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]によって解析幾何学は急激に発達させられその成果がまとめられた<ref>レオンハルト・オイラー著、高瀬正仁訳『[http://www.kaimeisha.com/index.php?%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%A7%A3%E6%9E%90%E5%B9%BE%E4%BD%95 オイラーの解析幾何]』、海鳴社、2005年。ISBN 4-87525-227-7</ref>。オイラーの手によってアポロニウスによる古典的円錐曲線論は二次曲線や[[二次曲面]]論として解析幾何的手法を用いて代数的に書き換えられることとなった<ref name="a"/>。 === トポロジー・グラフ理論の起源 === {{seealso|一筆書き}} [[ファイル:Konigsberg_bridges.png|thumb|left|当時のケーニヒスベルクの橋の配置]] また[[オイラー]]は当時の[[ケーニヒスベルク]]の橋を、一度渡った橋は二度と渡らないで、全ての橋を一度だけ渡ることは可能であるか?という問題より、今日の[[トポロジー]]や[[グラフ理論]]の起源となる概念が生まれた<ref name="kika"/>。 {{-}} === 微分幾何学の黎明 === [[ファイル:Carl_Friedrich_Gauss.jpg|thumb|left|150px|ガウスも当時の数学関連分野全般に業績があるが、幾何学においては微分幾何学や非ユークリッド幾何学の初歩概念等に業績がある。とはいえ非ユークリッド幾何学については論争を恐れ公表しなかった。]] [[File:Hyperbolic_triangle.svg|thumb|right|140px|初歩的な微分幾何学では微積分が幾何学へ応用された。]] さらに18世紀末には微積分や変分学といった解析学の成果も幾何学へ応用され、[[ガスパール・モンジュ|モンジュ]]による曲線と曲面の[[微分幾何学]]の開拓が行われた<ref name="a"/>。19世紀初頭には[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]によって曲面の曲率などが求められ、微分幾何学が本格的に研究された<ref name="a"/>。 === 総合幾何学、射影幾何学 === [[File:Teorema_de_desargues.svg|thumb|right|200px|射影幾何学で重要な[[デザルグの定理]]に関する図。]] このようにデカルトによってその基礎を打ち立てられ、代数的・解析的に取り扱えるという強力な手法を提供した解析幾何学であるが、解析幾何学が幾何学研究において絶対的な方法であったかといえば必ずしもそうではなかった。解析幾何学のように座標を導入せずに、ユークリッド幾何学のように直接図形を研究する手法も解析幾何学ほどはメジャーではなかったが行われていた。このような手法を'''総合幾何学'''(synthetic geometry)、あるいは'''純粋幾何学'''(pure geometry)という<ref name="a"/>。 純粋幾何学における新概念は、[[遠近法]]を発端として17世紀に[[ジラール・デザルグ|デザルグ]]と[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]らによって始められた'''[[射影幾何学]]'''が挙げられる。18世紀にはモンジュ([[画法幾何学]]で有名である)と[[ジャン=ヴィクトル・ポンスレ|ポンスレ]]らにより、射影幾何学は更に研究され、19世紀に入っても[[ヤーコプ・シュタイナー|シュタイナー]]は総合幾何学を重視している<ref name="a"/>。20世紀に入っても総合幾何学を重視した者として[[ハロルド・スコット・マクドナルド・コクセター|コクセター]]が挙げられる<ref>シュボーン・ロバーツ著、糸川洋訳、『[http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P83820.html 多面体と宇宙の謎に迫った幾何学者]』、日経BP社、2009年。ISBN 978-4-8222-8382-7</ref><ref>コクセター著、銀林浩訳、『幾何学入門上・下』、筑摩書房、〈ちくま学芸文庫Math&Science〉、2009年。上巻ISBN 978-4-480-09241-0、下巻ISBN 978-4-480-09242-7</ref>。ほかにも、[[ラングレーの問題]]などは20世紀に入ってから出された問題である。 {{-}} === 非ユークリッド幾何学 === {{seealso|平行線公準}} {{right|<gallery widths="150px" heights="120px" perrow="2"> ファイル:Parallel_postulate_en.svg|角αと角βの和が180度より小さければ、点線の方向に線を延長していくと二つの直線はいつか必ず交わるというのが[[平行線公準|平行線公理]]。 ファイル:Euclidian_and_non_euclidian_geometry.png|ところが非ユークリッド幾何学では空間が曲がっているからそれは成り立たない。 </gallery>}} 長らく原論の[[平行線公準|平行線公理]]は幾何学において問題となったが、この公理を他の公理から導出しようとする試みは全て頓挫した<ref name="a"/>。もし平行線公理が公理でなければ、ほかの公理系から導出できるはずだと試みられて失敗したわけである。19世紀に入ってようやく、他の公理はそのままに平行線公理のみをその否定命題に置換してもユークリッド幾何学に似た幾何学が成立することが[[ボーヤイ・ヤーノシュ|ボヤイ]]、[[ニコライ・ロバチェフスキー|ロバチェフスキー]]らによって示され、[[非ユークリッド幾何学]]が誕生した<ref name="a"/>。 非ユークリッド幾何学の無矛盾性はユークリッド幾何学の無矛盾性に依存し、後者が無矛盾であれば前者も無矛盾であるとされ、両者の差異は単なる[[リーマン計量|計量]]の違いに過ぎないことが明らかにされた<ref name="a"/>。 {{-}} === 幾何学基礎論 === [[ファイル:Hilbert.jpg|thumb|150px|幾何学基礎論を研究したヒルベルト。これ以外にも広い業績がある。]] 幾何学は人間の図形的直感に基づいて研究されるが、直感のみに基づいて研究するわけにはいかない。そのためあいまいな直感ではなく明確に言葉や定義によって言い表された定義や公理に基づいて幾何学を体系化する試みは既にユークリッドによってなされたのだが、現代からみればこれは不完全なものであった<ref name="f">日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「幾何学基礎論」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541 </ref>。 19世紀に入って、批判的精神や数学そのものの発達によりユークリッド幾何学の公理系が実は論理的に不完全であることが指摘された<ref name="f"/>。平行線公理問題や非ユークリッド幾何学の誕生などもそのような流れの一つとしてあげられるだろう<ref name="f"/><ref name="i">ブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学基礎論」より。</ref>。数学者にとって公理系が論理的に不完全であれば、正しい方法で証明したはずの定理からも矛盾が出てしまうため、これが恐れられ一時期盛んに矛盾しない理想の公理系の探求が行われたわけである。その探求の目的は幾何学を公理系から建設するための無矛盾な公理系の発見とその公理系によって構成される幾何学の構造、更にはそのような複数の公理系間の関係(ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学との関係のような)であった<ref name="i"/>。 19世紀後半よりその様々な代価案が提出されてきたが<ref name="f"/>、最も決定的であったのが19世紀後半から20世紀初頭には[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]によって提唱されたものであり<ref name="f"/>、その成果は著書「幾何学の基礎<ref>D. Hilbert, Grundlagen der Geometrie, Teubner, 1899, 第 13 版 1987</ref><ref name="b">D・ヒルベルト、F・クライン著、寺阪英孝・大西正男訳、解説・正田建次郎、吉田 洋一監修、『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011601 ヒルベルト幾何学の基礎、クライン・エルランゲン・プログラム]』、共立出版、〈現代数学の系譜 7巻〉、1970年。ISBN 978-4-320-01160-1 </ref><ref>D・ヒルベルト著、中村幸四郎訳、『[http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089533/ 幾何学基礎論]』、筑摩書房、〈ちくま学芸文庫 Math&Science 〉、2005年。ISBN 978-4-480-08953-3</ref>」にまとめられた<ref name="a"/>。 {{right|<gallery widths="120px" heights="150px" perrow="2"> ファイル:Kodaira_Kunihiko.jpg|過度に抽象的な幾何学の教育への導入に抵抗し、初等幾何学の復活を唱えた<ref>小平邦彦著、上野健爾解説、『[http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/60/3/6000070.html 幾何への誘い]』、岩波書店、〈岩波現代文庫〉、2000年。ISBN 4-00-600007-3 C0141</ref>小平邦彦。 ファイル:Jean_Dieudonné.jpg|ユークリッドの教育からの追放を提唱したデュドネ。 </gallery>}} ヒルベルトは論理的整合性のために感覚から完全に分離された幾何学を唱え<ref name="h"/>、この本では点や線といった専門用語を机や椅子などに置換してすら成立するとまで言われたが、それにしては図が沢山あるため[[小平邦彦]]など<!--当時の具体的な西洋の数学者についても記述すべきである-->によって批判された。図すら一切存在しない初等幾何の基礎付けは[[ジャン・デュドネ]]の「線形代数と初等幾何」を待たねばならないだろう。デュドネの本には図すら存在せず、ある意味専門用語ですら無意味であるというヒルベルトの精神を体現しているといえる。 このような限界までの考察によって、公理とは「誰もが認めうる真理」ではなく、「理論を構成するための根本的要請」という考えにシフトしていった<ref name="kika"/>。 このような極端に具体例を軽視し形式主義に走る手法は今日の公理主義的数学の先駆けと見ることができる<ref name="a"/>。[[岡潔]]や小平邦彦などは極端な抽象化に警鐘を鳴らし、岡などは数学の冬の時代とまで称した。しかし具体例や数学的直感を軽視するのが悪いことではなく、あくまで公理系の無矛盾性が大多数の数学者にとって問題であり、そのため数学の基礎や証明などの根本的部分にその批判が差し向けられたのである。公理系が矛盾していたら正しくはじめたのにおかしな結果が出てくるかもしれないことが問題視され、この方法は幾何学基礎論から発端となったが同時期に問題となった集合論のパラドクスもあいまって<ref name="i"/>、幾何学にとどまらず[[数学基礎論]]としてヒルベルトらにより研究が継続されることとなる<ref name="h"/>。 <!--幾何学基礎論から数学基礎論への歴史は改訂の余地ありだが、幾何学基礎論や数学基礎論の記事に詳述すべきかもしれない。現時点では幾何学基礎論の日本語記事は存在しないが。--> {{-}} === 高次元幾何学 === [[ファイル:Georg_Friedrich_Bernhard_Riemann.jpeg|thumb|right|150px|[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]] : 複素解析の幾何学的概念([[リーマン球面]]など)や一般相対論の元になる微分幾何学の基礎を確立。]] 解析幾何学では三次元[[ユークリッド空間]]の幾何学は空間幾何学(space geometry)、または立体幾何学(solid geometry)と呼ばれ、二次元ユークリッド空間の幾何学は平面幾何学(plane geometry)と呼ばれる<ref name="a"/>。これを一般化し、n個の実数の組からn次元空間の点を定義し、それらの任意の二点間の[[距離空間|距離]]を定めてn次元ユークリッド空間を構成することができる<ref name="a"/>。同様にn次元空間は非ユークリッド幾何学や射影幾何学についても定めることができる。 これらのような様々な空間の研究は19世紀中頃に本格的に行われ、[[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]はn次元の曲がった空間から[[多様体]]の概念を導入し、[[計量]]として接ベクトル間の[[内積]]で[[曲率]]を定義した<ref name="a"/>。このような様々な幾何学は[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]が[[一般相対性理論]]の研究を行った際に数学的道具を提供した<ref name="a"/>。より一般的には、P・フィンスラーは接ベクトルの[[ノルム]]を計量とする[[フィンスラー空間]]の概念を提唱した。 === 現代の幾何学 === [[ファイル:Felix_Christian_Klein.jpg|thumb|150px|幾何学と群論との関係を見いだしたクライン。|左]] [[ファイル:Henri_Poincare.jpg|thumb|right|150px|トポロジーの基礎を確立したポアンカレ。]] [[File:Mug_and_Torus_morph.gif|thumb|right|150px|トポロジーにおける連続的変化の一例。]] [[フェリックス・クライン|クライン]]は幾何学に[[群論]]を応用することによって、空間Sの変換群Gによって、変換で[[不変量|不変]]な性質を研究する幾何学を提唱した。これを[[エルランゲン・プログラム]]<ref name="b"/>というが、この手法で運動群がユークリッド幾何学を定めるように、射影幾何学、[[アフィン幾何学]]、[[共形幾何学]]を統一化することができる<ref name="a"/>。 更に19世紀末には[[アンリ・ポアンカレ|ポアンカレ]]によって、連続的な変化により不変な性質を研究する[[位相幾何学]]が開拓された<ref name="a"/>。 代数曲線・曲面や代数多様体が起源である[[代数幾何学]]<ref name="a"/>は高度に発達し、日本でも[[フィールズ賞]]受賞者も多く盛んに研究されている。 また[[ヘルマン・ミンコフスキー|ミンコフスキー]]による[[凸体]]の研究は「数の幾何学」(注:[[数論幾何学]]とは異なる)の道を開いた。 20世紀前半には多様体は数学的に厳密に定式化され、[[ヘルマン・ワイル|ワイル]]、[[エリ・カルタン|E・カルタン]]らにより多様体上の幾何学や現代微分幾何学が盛んに研究された<ref name="a"/>。[[ソフス・リー|リー]]によって導入された[[リー群]]によって、これらの様々な幾何学を不変にする変換群が与えられたが、カルタンはリー群を応用して[[接続 (幾何学)|接続]]の概念を導入し[[接続幾何学]]を完成させ<ref name="h"/>、これらの幾何学を統一化することに成功した<ref name="a"/>。これはリーマンによる多様体と、クラインによる変換群の考えを統一化したとも理解できる<ref name="a"/>。これは現代では[[素粒子物理学]]などの物理学の諸分野でも常識となっている。 また、代数学や解析学の発展もともなって、多様体の[[代数構造]]と[[位相構造]]との関係を研究する[[大域微分幾何学]]、[[複素解析]]と関係する[[複素多様体]]論、[[古典力学]]の[[力学系]]と関連した[[シンプレクティック幾何学]]や接続幾何学、[[測度論]]と関連して[[積分幾何学]]や測度の幾何学的研究である[[幾何学的測度論]]の研究などもこのころにはじまった<ref name="a"/>。 20世紀後半になると多様体上の微分可能構造や力学系、[[微分作用素]]なども上記の幾何学とも関係しながら研究が進められた<ref name="a"/>。他にも幾何構造をなす[[モジュライ空間]]や特異点を含む空間の研究、物理学と関連した研究や[[四色問題]]に見られるようにコンピューターを用いた研究も行われた<ref name="a"/>。 [[凸体]]の幾何学や[[組み合わせ幾何学]]の手法は現代では[[オペレーションズ・リサーチ]]などの応用数理の分野でも用いられている<ref name="a"/>。 <!--現代幾何学の叙述ははカタストロフ理論やフラクタルなどの記述もなく強化の余地あり--> === 現代数学と幾何学 === [[File:Togliatti_surface.png|thumb|150px|代数幾何学に登場する図。]] 現代数学では幾何学は代数学や解析学などの数学全般に広範囲に浸透しているため、これらと明確に区別して幾何学とはなにかということを論ずるのは難しいが、しかしながら図形や空間の直感的把握やそのような思考法は先端分野の研究においても重要性を失っていないといえる<ref name="a"/>。 == 下位分野 == * [[綜合幾何学]] ** [[ユークリッド幾何学]] *** [[初等幾何学]] *** [[幾何学基礎論]] ** [[非ユークリッド幾何学]] *** [[楕円幾何学]] **** [[球面幾何学]] *** [[双曲幾何学]] * [[非アルキメデス幾何学]] * [[射影幾何学]] * [[アフィン幾何学]] * [[解析幾何学]] * [[代数幾何学]] ** [[数論幾何学]] ** [[ディオファントス幾何学]] * [[微分幾何学]] ** [[リーマン幾何学]] ** [[シンプレクティック幾何学]] * [[複素幾何学]] * [[有限幾何学]] * [[離散幾何学]] ** [[デジタル幾何学]] * [[凸幾何学]] * [[計算幾何学]] * [[フラクタル]] * [[インシデンス幾何学]] * [[非可換幾何学]] ** [[非可換代数幾何学]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == *[[哲学]] **[[ギリシア哲学|古代ギリシャ哲学]] **[[古代エジプト哲学]] *[[古代ギリシャ]] *[[古代エジプト]] *[[数学]] *[[測量学]] *[[幾何学構成的絵画]] *[[幾何学模様]] == 外部リンク == {{sisterlinks | commons = Category:Geometry 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解析学
解析学(かいせきがく、英語:analysis, mathematical analysis)とは、極限や収束といった概念を扱う数学の分野である。代数学、幾何学と合わせ数学の三大分野をなす。 数学用語としての解析学は要素還元主義とは異なっており、初等的には微積分や級数などを用いて関数の変化量などの性質を調べる分野と言われることが多い。これは解析学がもともとテイラー級数やフーリエ級数などを用いて関数の性質を研究していたことに由来する。 例えばある関数の変数を少しだけずらした場合、その関数の値がどのようにどのぐらい変化するかを調べる問題は解析学として扱われる。 解析学の最も基本的な部分は、微分積分学、または微積分学と呼ばれる。また微分積分学を学ぶために必要な数学はprecalculus(calculusは微積分の意、接頭辞preにより直訳すれば微積分の前といった意味になる)と呼ばれ、現代日本の高校1、2年程度の内容に相当する。また解析学は応用分野において微分方程式を用いた理論やモデルを解くためにも発達し、物理学や工学といった数学を用いる学問ではよく用いられる数学の分野の一つである。 解析学は微積分をもとに、微分方程式や関数論など多岐に渡って発達しており、現代では確率論をも含む。 現代日本においては解析学の基本的分野 は概ね高校2年から大学2年程度で習い、進度の差はあれ世界中の高校や大学などで教えられている。 解析学の起源は、エウドクソスが考案し、アルキメデスが複雑な図形の面積や体積を求める為に編み出した「取り尽くし法」にまでさかのぼれる。彼らの業績は、ある意味で今日の積分の始まりとも呼べるものであろう。しかしながら近世までは一般的理論は存在せず、あくまで個々の図形に適用されるにとどまった。 これらは16世紀からフランソワ・ヴィエト、ケプラー、カヴァリエリらによって歴史に再登場し、例えば回転体の体積を求める手法であるカヴァリエリの原理などが有名であろう。 しかし解析学が本格的な発展を遂げ始めたのは、フェルマーやデカルト、パスカル、ジョン・ウォリス、ジル・ド・ロベルヴァルらによって、曲線の接線を考える上で考え出された微分学の初歩的概念が登場してからである。とくにフェルマーは極値問題に微分学を応用した。日本において発達した数学である和算においても、ほぼ同時期に微積分の初歩的概念に到達していた。 解析学の初歩的概念である微分積分学の成立に関する決定的業績は、ニュートンおよびライプニッツらによってもたらされた。 ニュートンは、古典力学の研究から微分積分学を生み出し、微分と積分を統合して、両者がある意味で逆の関係にあることを見抜いた。これは今日では微分積分学の基本定理と呼ばれる。更に冪級数を用いて主要な関数に微分積分学を応用した。同じ時期に ライプニッツも同様な発見をした上、現代も用いられる微分積分の記号表記法を考案してその後の研究の基礎を築いた。 ライプニッツが考案した記号としては例えば曲線の接線問題を解くにあたって無限小量であるdy、dxの比dy/dxを用いたり、ラテン語のsumma(和の意)の頭文字Sから積分記号 ∫ {\displaystyle \int } を導入したりした。 彼らは微分積分学の主要な分野を開拓したものの、微分積分学の基本概念である無限や極限といった概念を明確化できなかったため、ときに厳しく批判されることもあった。また彼らの間で微分積分学の先取権争いがあったが、現代では独立に発見したとされている。 テイラーは1715年に、マクローリンは1742年に優れた研究を発表した。しかしながら、イギリスにおいては、科学者たちはニュートンの記法に固執したため、微分積分学の研究は没落していった。ニュートンの記法では微分した変数と階数しかわからず、何を何で微分したか分からないため、とくに偏微分においてはライプニッツの記法が圧倒的に優位に立っていたのである。この後イギリスの没落は長らく続き、再び大陸に対し優位を取り戻すには20世紀初頭のG・H・ハーディの登場を待たねばならなかったとすらいわれる。 これに対してライプニッツの記法を抵抗なく用いることができた大陸では、ライプニッツと繋がりのあった有名な数学者の一族であるベルヌーイ一家や、更に彼らと繋がりのあったロピタルらによって多変数の微分積分学や複雑な式の形の微分方程式、変分法といった解析学が急速に発展していった。 その後18世紀には、オイラーらによってこれらの問題は統一的に体系化され、解析学は大きな進歩を遂げた。とくに微分方程式を用いた様々な問題が生まれ、彼の著書「無限解析序説」では冒頭で関数とは解析的式 であると定義されているが、彼が解析学を関数の研究を主眼として見ていたとすれば大変興味深い内容であるといえる。 19世紀に入って解析学は、今まで直感任せであった無限小や極限、収束といったその基礎に疑いの目が向けられるようになり、それを厳密化することによって発展してゆくこととなる。 18世紀より、弦の振動を表す微分方程式から、「任意の関数は三角級数の和で表せるか?」という問題があったが、この問題で重要となったのはフーリエが熱伝導問題で用いたフーリエ級数 である。この級数は19世紀数学において主要な役割を果たし、この級数の収束について厳密に証明するために、それまでは必ずしもそこまでの厳密さが必要ではなかった級数・関数・実数などといった現代の解析学では常識と化している概念の厳密な基礎付けが行われていくこととなる。 フーリエ級数の生みの親であるフーリエは現代的厳密さでフーリエ級数の収束を研究しておらず、このためラグランジュはフーリエの論文掲載に抵抗したといわれるが、当時は級数の収束判定は困難な問題であった。オイラーやガウスですら多少であれば級数論に取り組んでいるものの一般の級数の収束に関する研究はなく、はじめて一般の級数の収束問題を論じたのはボルツァーノやコーシーらであるが、彼らの級数収束に対する理解ですら現代から見れば不完全な部分が残り、完璧ではなかったといえる。それほどまでに重要な問題を解析学に投げかけたのである。 級数の収束の厳密化は解析学の基礎付けに必須であり、フーリエ級数の収束問題の十分条件を与えたディリクレの論文 は解析学の歴史において、その厳密化の一歩を踏み出した貴重なものであるといえるであろう。 また関数概念の近代化もこのころ始まった。オイラーの著書 に見られるように、関数とはこれまでは解析的式、すなわち具体的な式で書き表せるものとの認識であったが、先にも上げたフーリエ級数に関するディリクレの論文 によって関数も値の対応としての認識に変革してゆくこととなる。厳密に対応として認識せざるをえなくなったのはこのフーリエ級数の研究によるものである。 フーリエ級数の研究が発端となり、今まで直感に任せて推進されてきた微積分などの計算が一般の関数に対しても本当にちゃんと成り立つのか疑問が向けられたため、その収束や極限に対する厳密な理論が必要となってきた。今までは無限小などという実体不明な量にたよりきっていたが、コーシーやボルツァーノらによって極限や連続、微分や積分の可能性についても厳密に論じられたのである。 例えばオイラーまでは不定積分は微分の逆算であるとの認識であったが、コーシーはまず定積分を定義したのち、不定積分を のような定理として導いたという意味で革命的であった。しかしながらコーシーですら連続と一様連続、各点収束と一様収束といった概念の区別がつかず、こういった基本概念が基礎付けられその重要性が認識されるにはワイエルシュトラスの登場を待たねばならなかった。 リーマンも1854年、フーリエ級数の研究においてコーシーの積分可能の概念を拡張し、一部の不連続の関数をも積分可能とするリーマン積分を導入したが、これですら不完全であり、実変数関数の完全な積分理論はすでに20世紀に入ってからの、1902年のルベーグ積分の登場によるものである。 収束や積分の研究はもとより、微分に関してもその厳密化が図られることとなった。18世紀以前は関数の微分可能性は当然のこととされたが、コーシーらの連続に関する厳密な概念の導入によってその基礎が揺るがされた。全ての連続関数は本当に微分可能なのかが疑われることとなったのである。19世紀前半までは「全ての連続関数は有限個の点を除き微分可能である」という定理(アンペールの定理)が無条件に成立するであろうという「神話」が信仰されていたのであるが、これが全くの嘘であると認識されるには長い時間が必要であった。これがようやく幻想であると認識されるのはワイエルシュトラスによって、連続であるが微分できない関数という反例が1875年に公表されてからであった。 数学の基礎付けにおいて忘れてはならないのは集合論であるが、本格的に導入されたのは19世紀もすでに後半、1874年カントールによるものである。とくにR・ベール、ボレル、ルベーグらの仕事には集合論は欠かせないものであった。ベールは不連続関数を分類し、ルベーグがそれを一般化してオイラーが与えた関数の定義である「解析的」の意味をはじめて明確化した。 更にルベーグはボレルの測度論を一般化しルベーグ測度を導入することによってルベーグ積分論を定式化した。これにより長さ、面積、体積などを完全に一般化することに成功し、これによって複雑な図形、例えば曲線や曲面の長さや面積などをそのような立場から論ずることが可能となった。 更にルベーグ積分論はコルモゴロフによって確率論の厳密化にも用いられ、確率論を現代解析学として扱うことを可能とした。このため純粋数学としての確率論は現代数学では解析学に分類されるわけである。 積分の理論は更に一般化され応用範囲も広まり、例えばウィーナーによりブラウン運動のような複雑な現象ですら数学的に取り扱うことすら可能となった。 解析学はその根底を実数の性質においているが、デーデキントやカントールはその実数の性質を深く研究し、実数を特徴付ける条件を見いだした。カントールもフーリエ級数の研究より実数論を展開し、その中で実数論や無限集合といった概念が形成されてゆくこととなる。カントールやデデキントらによる実数の定義は切断によるもので、高木貞治の解析概論などでも用いられている手法であるが、先にも述べたコーシー、ワイエルシュトラス、ボルツァーノなどの数学者らによって類似の様々な実数論が展開された。 このように一見、様々な定義があるようにみえる実数であるが、これらは古典論理の範囲内において全て同値であることが証明されている。 このような厳密化の流れの中で消されていった無限小という概念であるが、これを現代論理学などを用いて蘇らせたものが超準解析である。 また、19世紀に入って解析学は本格的に複素数を利用するようになった。複素数変数の関数や微積分などを扱う分野は(複素)関数論、複素解析学などと呼ばれる。コーシーは従来求められていた定積分などが複素変数の関数として扱うことでより簡単に求められることを発見した。さらにその後、ワイエルシュトラスやリーマンによって一変数の複素関数の理論が整えられ、複素関数論は独立した一つの数学として扱われるようになった。また多変数の複素関数の理論は20世紀に入ってから、アンリ・カルタンや岡潔らによって詳細が研究された。 複素解析学は楕円関数や素数定理とも関連し、幅広い応用をもち現代では物理や工学においても必須の概念となっている。 微分法は極値を求める問題であるが、これを一般化し、与えられた汎関数が極値を持つような関数を求める問題が変分法であり、物理学において広く応用されている。汎関数の解析学を更に一般化して関数を関数空間の点としてみなすことによって、関数解析学は誕生した。その起源はフレシェの1906年の抽象空間論 などに見られるが大元は積分方程式であろう。ここでディリクレ問題が重要となり、そのためにはディリクレ原理の正当化が必要となった。最初に研究したフレドホルムは失敗したが、ヒルベルトはその正当化に成功し、更に積分方程式の研究を進めるが、ノイマンはこれを更に一般化することによってヒルベルト空間を利用し量子力学の数学的基礎付けを成し遂げた。 20世紀に入ると偏微分方程式やフーリエ解析学において関数や導関数といった概念の拡張に迫られ、ローラン・シュヴァルツは超関数 (distribution) および超関数の意味での導関数を導入することによってこれを成し遂げ、フィールズ賞を受賞した。これによりある意味任意の関数が微分可能になったといえる。その後佐藤幹夫によってより一般的な佐藤の超関数 (hyperfunction) が導入された。関数とその超関数の意味での導関数に適当なノルムを導入するとソボレフ空間になるが、これも偏微分方程式において重要な概念となっている。
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"リーマンも1854年、フーリエ級数の研究においてコーシーの積分可能の概念を拡張し、一部の不連続の関数をも積分可能とするリーマン積分を導入したが、これですら不完全であり、実変数関数の完全な積分理論はすでに20世紀に入ってからの、1902年のルベーグ積分の登場によるものである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "収束や積分の研究はもとより、微分に関してもその厳密化が図られることとなった。18世紀以前は関数の微分可能性は当然のこととされたが、コーシーらの連続に関する厳密な概念の導入によってその基礎が揺るがされた。全ての連続関数は本当に微分可能なのかが疑われることとなったのである。19世紀前半までは「全ての連続関数は有限個の点を除き微分可能である」という定理(アンペールの定理)が無条件に成立するであろうという「神話」が信仰されていたのであるが、これが全くの嘘であると認識されるには長い時間が必要であった。これがようやく幻想であると認識されるのはワイエルシュトラスによって、連続であるが微分できない関数という反例が1875年に公表されてからであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "数学の基礎付けにおいて忘れてはならないのは集合論であるが、本格的に導入されたのは19世紀もすでに後半、1874年カントールによるものである。とくにR・ベール、ボレル、ルベーグらの仕事には集合論は欠かせないものであった。ベールは不連続関数を分類し、ルベーグがそれを一般化してオイラーが与えた関数の定義である「解析的」の意味をはじめて明確化した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "更にルベーグはボレルの測度論を一般化しルベーグ測度を導入することによってルベーグ積分論を定式化した。これにより長さ、面積、体積などを完全に一般化することに成功し、これによって複雑な図形、例えば曲線や曲面の長さや面積などをそのような立場から論ずることが可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "更にルベーグ積分論はコルモゴロフによって確率論の厳密化にも用いられ、確率論を現代解析学として扱うことを可能とした。このため純粋数学としての確率論は現代数学では解析学に分類されるわけである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "積分の理論は更に一般化され応用範囲も広まり、例えばウィーナーによりブラウン運動のような複雑な現象ですら数学的に取り扱うことすら可能となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "解析学はその根底を実数の性質においているが、デーデキントやカントールはその実数の性質を深く研究し、実数を特徴付ける条件を見いだした。カントールもフーリエ級数の研究より実数論を展開し、その中で実数論や無限集合といった概念が形成されてゆくこととなる。カントールやデデキントらによる実数の定義は切断によるもので、高木貞治の解析概論などでも用いられている手法であるが、先にも述べたコーシー、ワイエルシュトラス、ボルツァーノなどの数学者らによって類似の様々な実数論が展開された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "このように一見、様々な定義があるようにみえる実数であるが、これらは古典論理の範囲内において全て同値であることが証明されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "このような厳密化の流れの中で消されていった無限小という概念であるが、これを現代論理学などを用いて蘇らせたものが超準解析である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "また、19世紀に入って解析学は本格的に複素数を利用するようになった。複素数変数の関数や微積分などを扱う分野は(複素)関数論、複素解析学などと呼ばれる。コーシーは従来求められていた定積分などが複素変数の関数として扱うことでより簡単に求められることを発見した。さらにその後、ワイエルシュトラスやリーマンによって一変数の複素関数の理論が整えられ、複素関数論は独立した一つの数学として扱われるようになった。また多変数の複素関数の理論は20世紀に入ってから、アンリ・カルタンや岡潔らによって詳細が研究された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "複素解析学は楕円関数や素数定理とも関連し、幅広い応用をもち現代では物理や工学においても必須の概念となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "微分法は極値を求める問題であるが、これを一般化し、与えられた汎関数が極値を持つような関数を求める問題が変分法であり、物理学において広く応用されている。汎関数の解析学を更に一般化して関数を関数空間の点としてみなすことによって、関数解析学は誕生した。その起源はフレシェの1906年の抽象空間論 などに見られるが大元は積分方程式であろう。ここでディリクレ問題が重要となり、そのためにはディリクレ原理の正当化が必要となった。最初に研究したフレドホルムは失敗したが、ヒルベルトはその正当化に成功し、更に積分方程式の研究を進めるが、ノイマンはこれを更に一般化することによってヒルベルト空間を利用し量子力学の数学的基礎付けを成し遂げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "20世紀に入ると偏微分方程式やフーリエ解析学において関数や導関数といった概念の拡張に迫られ、ローラン・シュヴァルツは超関数 (distribution) および超関数の意味での導関数を導入することによってこれを成し遂げ、フィールズ賞を受賞した。これによりある意味任意の関数が微分可能になったといえる。その後佐藤幹夫によってより一般的な佐藤の超関数 (hyperfunction) が導入された。関数とその超関数の意味での導関数に適当なノルムを導入するとソボレフ空間になるが、これも偏微分方程式において重要な概念となっている。", "title": "歴史" } ]
解析学とは、極限や収束といった概念を扱う数学の分野である。代数学、幾何学と合わせ数学の三大分野をなす。 数学用語としての解析学は要素還元主義とは異なっており、初等的には微積分や級数などを用いて関数の変化量などの性質を調べる分野と言われることが多い。これは解析学がもともとテイラー級数やフーリエ級数などを用いて関数の性質を研究していたことに由来する。 例えばある関数の変数を少しだけずらした場合、その関数の値がどのようにどのぐらい変化するかを調べる問題は解析学として扱われる。 解析学の最も基本的な部分は、微分積分学、または微積分学と呼ばれる。また微分積分学を学ぶために必要な数学はprecalculus(calculusは微積分の意、接頭辞preにより直訳すれば微積分の前といった意味になる)と呼ばれ、現代日本の高校1、2年程度の内容に相当する。また解析学は応用分野において微分方程式を用いた理論やモデルを解くためにも発達し、物理学や工学といった数学を用いる学問ではよく用いられる数学の分野の一つである。 解析学は微積分をもとに、微分方程式や関数論など多岐に渡って発達しており、現代では確率論をも含む。 現代日本においては解析学の基本的分野 は概ね高校2年から大学2年程度で習い、進度の差はあれ世界中の高校や大学などで教えられている。
{{Calculus}} '''解析学'''(かいせきがく、[[英語]]:analysis, mathematical analysis)とは、[[極限]]や[[収束]]といった概念を扱う[[数学]]の分野である<ref name="a">日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「解析学」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541</ref><ref>小田稔ほか編、『[http://webshop.kenkyusha.co.jp/book/978-4-7674-3456-8.html 理化学英和辞典]』、研究社、1998年、項目「analysis」より。ISBN 978-4-7674-3456-8</ref>。[[代数学]]、[[幾何学]]と合わせ数学の三大分野をなす<ref>広辞苑第六版「数学」より。</ref>。 数学用語としての解析学は[[要素還元主義]]とは異なっており、初等的には[[微分積分学|微積分]]や[[級数]]などを用いて[[関数 (数学)|関数]]の[[変化]][[量]]などの性質を調べる分野と言われることが多い<ref name="a" /><ref>青本和彦、上野健爾、加藤和也、神保道夫、砂田利一、高橋陽一郎、深谷賢治、俣野博、室田一雄 編著、『[http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/08/7/0802090.html 岩波数学入門辞典]』、岩波書店、2005年、「解析学」より。ISBN 4-00-080209-7</ref>。これは解析学がもともと[[テイラー級数]]や[[フーリエ級数]]などを用いて関数の性質を研究していたことに由来する<ref name="a" />。 例えばある関数の変数を少しだけずらした場合、その関数の値がどのようにどのぐらい変化するかを調べる問題は解析学として扱われる<ref name="a" />。 解析学の最も基本的な部分は、'''[[微分積分学]]'''、または'''微積分学'''と呼ばれる。また微分積分学を学ぶために必要な数学はprecalculus(calculusは微積分の意、接頭辞preにより直訳すれば微積分の前といった意味になる)と呼ばれ、現代日本の高校1、2年程度の内容に相当する<ref>一松信、『[http://www.morikita.co.jp/books/book/127 初等関数概説]』、森北出版、1998年。ISBN 978-4-627-01751-1</ref>。また解析学は応用分野において微分方程式を用いた理論やモデルを解くためにも発達し、[[物理学]]や[[工学]]といった数学を用いる学問ではよく用いられる数学の分野の一つである。 解析学は微積分をもとに、[[微分方程式]]や[[関数論]]など多岐に渡って発達しており<ref>大辞林「解析学」より。</ref>、現代では[[確率論]]をも含む。 現代日本においては解析学の基本的分野<ref group="注釈">基本的というと基礎的分野、集合論や実数論とは異なる。解析学において19世紀から20世紀前半に厳密な基礎付けが行われたが、教育においては最初から厳密に教えられているわけではない。例えば[[サージ・ラング|S.ラング]]の「[http://www.iwanami.co.jp/search/index.html 解析入門]」のまえがきを参照。</ref> は概ね高校2年から大学2年程度で習い、進度の差はあれ世界中の高校や大学などで教えられている。<!--解析学の二大分野が確率論と微分方程式というのは削除しましたが、出典が存在するならば明記した上で差し戻しして下さい。ネット上で日本語で検索する限りは出てきませんでしたが、そもそも数学関連はネット上にない情報のが多いのでどこかの本に書いてあるのかもしれません。--> == 歴史 == === 解析学の起源 === 解析学の起源は、[[エウドクソス]]が考案し、[[アルキメデス]]が複雑な図形の面積や体積を求める為に編み出した「[[取り尽くし法]]」にまでさかのぼれる<ref name="a" />。彼らの業績は、ある意味で今日の積分の始まりとも呼べるものであろう。しかしながら近世までは一般的理論は存在せず、あくまで個々の図形に適用されるにとどまった<ref name="a" />。 === 微分積分学の黎明期 === これらは16世紀から[[フランソワ・ヴィエト]]、[[ヨハネス・ケプラー|ケプラー]]、[[ボナヴェントゥーラ・カヴァリエーリ|カヴァリエリ]]らによって歴史に再登場し<ref name="a" />、例えば回転体の体積を求める手法である[[カヴァリエリの原理]]などが有名であろう<ref>溝畑茂、『解析学小景』 岩波書店、1997年1月。ISBN 4-00-005183-0。</ref>。 しかし解析学が本格的な発展を遂げ始めたのは、[[ピエール・ド・フェルマー|フェルマー]]や[[ルネ・デカルト|デカルト]]、[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]、[[ジョン・ウォリス]]、[[ジル・ド・ロベルヴァル]]らによって<ref name="a" />、[[曲線]]の[[接線]]を考える上で考え出された微分学の初歩的概念が登場してからである<ref name="a" />。とくにフェルマーは[[極値]]問題に微分学を応用した<ref name="a" />。日本において発達した数学である[[和算]]においても、ほぼ同時期に微積分の初歩的概念に到達していた<ref name="a" />。 === 微分積分学誕生 === 解析学の初歩的概念である微分積分学の成立に関する決定的業績は、[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]および[[ゴットフリート・ライプニッツ|ライプニッツ]]らによってもたらされた。 ニュートンは、[[古典力学]]の研究から微分積分学を生み出し、微分と積分を統合して、両者がある意味で逆の関係にあることを見抜いた。これは今日では[[微分積分学の基本定理]]と呼ばれる<ref name="a" />。更に[[冪級数]]を用いて主要な関数に微分積分学を応用した<ref name="a" />。同じ時期に<ref name="a" /> ライプニッツも同様な発見をした上、現代も用いられる[[ライプニッツの記法|微分積分の記号表記法]]を考案してその後の研究の基礎を築いた。 ライプニッツが考案した記号としては例えば曲線の接線問題を解くにあたって無限小量であるdy、dxの比dy/dxを用いたり、ラテン語のsumma(和の意)の頭文字Sから積分記号<math>\int</math>を導入したりした。 彼らは微分積分学の主要な分野を開拓したものの、微分積分学の基本概念である無限や極限といった概念を明確化できなかったため、ときに厳しく批判されることもあった<ref name="a" />。また彼らの間で微分積分学の先取権争いがあったが、現代では独立に発見したとされている<ref name="a" />。 === ポスト微分積分学 === [[ブルック・テイラー|テイラー]]は1715年に、[[コリン・マクローリン|マクローリン]]は1742年に優れた研究を発表した。しかしながら、[[イギリス]]においては、科学者たちは[[ニュートンの記法]]に固執したため、微分積分学の研究は没落していった<ref name="a" />。ニュートンの記法では微分した変数と階数しかわからず、何を何で微分したか分からないため、とくに[[偏微分]]においては[[ライプニッツの記法]]が圧倒的に優位に立っていたのである<ref name="a" />。この後イギリスの没落は長らく続き、再び大陸に対し優位を取り戻すには20世紀初頭の[[ゴッドフレイ・ハロルド・ハーディ|G・H・ハーディ]]の登場を待たねばならなかったとすらいわれる<ref group="注釈">ハーディの記事参照</ref>。 これに対して[[ライプニッツの記法]]を抵抗なく用いることができた大陸では、ライプニッツと繋がりのあった有名な数学者の一族である[[ベルヌーイ家|ベルヌーイ一家]]や、更に彼らと繋がりのあった[[ギヨーム・ド・ロピタル|ロピタル]]らによって多変数の微分積分学や複雑な式の形の[[微分方程式]]、[[変分法]]といった解析学が急速に発展していった<ref name="a" />。 その後18世紀には、[[レオンハルト・オイラー|オイラー]]らによってこれらの問題は統一的に体系化され、解析学は大きな進歩を遂げた。とくに微分方程式を用いた様々な問題が生まれ、彼の著書「無限解析序説<ref name="b">高瀬正仁訳、『オイラーの無限解析』、海鳴社、2001年。ISBN 4-87525-202-1</ref>」では冒頭で関数とは解析的式<ref>解析という単語自体の意味が時代によって異なることに注意されたい。当時は初等代数の展開や因数分解のような演算のごとく、微積分も公式を用いてそのような初等代数と同様に計算できるようなものと認識されており、イプシロンデルタ論法にみられるような厳密化はまだであった。だが、オイラーも解析的(多項式で表せる函数)と[[初等関数|初等超越函数]]との区別はしていたようである。詳細な議論は( {{Cite journal|和書|author=長岡亮介 |date=2000-02 |url=https://hdl.handle.net/2433/63669 |title=17, 18, 19世紀における '幾何', '代数', '解析' : 翻訳についての一考察 (数学史の研究) |journal=数理解析研究所講究録 |ISSN=1880-2818 |publisher=京都大学数理解析研究所 |volume=1130 |pages=204-211 |hdl=2433/63669 |naid=110000164094}})などを参照。</ref> であると定義されているが、彼が解析学を関数の研究を主眼として見ていたとすれば大変興味深い内容であるといえる<ref name="a" />。 === 解析学の基礎付け === 19世紀に入って解析学は、今まで直感任せであった無限小や極限、収束といったその基礎に疑いの目が向けられるようになり、それを厳密化することによって発展してゆくこととなる。 18世紀より、弦の振動を表す微分方程式から、「任意の関数は三角級数の和で表せるか?」という問題があったが、この問題で重要となったのは[[ジョゼフ・フーリエ|フーリエ]]が[[熱伝導]]問題で用いた[[フーリエ級数]] :<math>y(x)=\frac{a_{0}}{2}+\sum^{\infty}_{k=0}(a_{k}\cos{kx}+b_{k}\sin{kx})</math> である。この級数は19世紀数学において主要な役割を果たし、この級数の収束について厳密に証明するために、それまでは必ずしもそこまでの厳密さが必要ではなかった級数・関数・実数などといった現代の解析学では常識と化している概念の厳密な基礎付けが行われていくこととなる。 <!--フーリエ級数は19世紀数学史において大変重要であり、もう少し数式を多用して詳述する必要がある--> ==== 級数論 ==== フーリエ級数の生みの親であるフーリエは現代的厳密さでフーリエ級数の収束を研究しておらず、このため[[ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ|ラグランジュ]]はフーリエの論文掲載に抵抗したといわれるが、当時は級数の収束判定は困難な問題であった<ref name="a" />。オイラーや[[カール・フリードリヒ・ガウス|ガウス]]ですら多少であれば級数論に取り組んでいるものの一般の級数の収束に関する研究はなく、はじめて一般の級数の収束問題を論じたのは[[ベルナルト・ボルツァーノ|ボルツァーノ]]や[[オーギュスタン=ルイ・コーシー|コーシー]]らであるが、彼らの級数収束に対する理解ですら現代から見れば不完全な部分が残り、完璧ではなかったといえる<ref name="a" />。それほどまでに重要な問題を解析学に投げかけたのである。 級数の収束の厳密化は解析学の基礎付けに必須であり、フーリエ級数の収束問題の十分条件を与えた[[ペーター・グスタフ・ディリクレ|ディリクレ]]の論文<ref name="c">P. G. L. Dirichlet, J. Reine Angew. Math., 4(1829), 157-169.</ref> は解析学の歴史において、その厳密化の一歩を踏み出した貴重なものであるといえるであろう<ref name="a" />。 ==== 微積分・関数の厳密化 ==== また関数概念の近代化もこのころ始まった。オイラーの著書<ref name="b" /> に見られるように、関数とはこれまでは解析的式、すなわち具体的な式で書き表せるものとの認識であったが、先にも上げたフーリエ級数に関するディリクレの論文<ref name="c" /> によって関数も値の対応としての認識に変革してゆくこととなる<ref name="a" />。厳密に対応として認識せざるをえなくなったのはこのフーリエ級数の研究によるものである。 フーリエ級数の研究が発端となり、今まで直感に任せて推進されてきた微積分などの計算が一般の関数に対しても本当にちゃんと成り立つのか疑問が向けられたため、その収束や極限に対する厳密な理論が必要となってきた。今までは無限小などという実体不明な量にたよりきっていたが、コーシーやボルツァーノらによって極限や連続、微分や積分の可能性についても厳密に論じられたのである<ref name="a" />。 例えばオイラーまでは不定積分は微分の逆算であるとの認識であったが、コーシーはまず定積分を定義したのち、不定積分を :<math>\frac{d}{dx}\int_{a}^{x}f(s)ds=f(x)</math> のような定理として導いたという意味で革命的であった<ref name="a" />。しかしながらコーシーですら連続と一様連続、各点収束と一様収束といった概念の区別がつかず、こういった基本概念が基礎付けられその重要性が認識されるには[[カール・ワイエルシュトラス|ワイエルシュトラス]]の登場を待たねばならなかった<ref name="a" />。 [[ベルンハルト・リーマン|リーマン]]も1854年、フーリエ級数の研究においてコーシーの積分可能の概念を拡張し、一部の不連続の関数をも積分可能とする[[リーマン積分]]を導入したが、これですら不完全であり、実変数関数の完全な積分理論はすでに20世紀に入ってからの、1902年の[[ルベーグ積分]]の登場によるものである<ref name="a" />。 収束や積分の研究はもとより、微分に関してもその厳密化が図られることとなった。18世紀以前は関数の微分可能性は当然のこととされたが、コーシーらの連続に関する厳密な概念の導入によってその基礎が揺るがされた<ref name="a" />。全ての連続関数は本当に微分可能なのかが疑われることとなったのである。19世紀前半までは「全ての連続関数は有限個の点を除き微分可能である」という定理([[アンペールの定理]])が無条件に成立するであろうという「神話」が信仰されていたのであるが、これが全くの嘘であると認識されるには長い時間が必要であった。これがようやく幻想であると認識されるのはワイエルシュトラスによって、連続であるが微分できない関数という反例が1875年に公表されてからであった<ref name="a" />。 ==== 集合論・測度論 ==== 数学の基礎付けにおいて忘れてはならないのは[[集合論]]であるが、本格的に導入されたのは19世紀もすでに後半、1874年[[ゲオルク・カントール|カントール]]によるものである。とくに[[R・ベール]]<!--フルネーム不詳-->、[[エミール・ボレル|ボレル]]、[[アンリ・ルベーグ|ルベーグ]]らの仕事には集合論は欠かせないものであった。ベールは不連続関数を分類し、ルベーグがそれを一般化してオイラーが与えた関数の定義である「解析的」の意味をはじめて明確化した<ref name="a" />。 更にルベーグはボレルの測度論を一般化しルベーグ測度を導入することによってルベーグ積分論を定式化した。これにより長さ、面積、体積などを完全に一般化することに成功し<ref>アンリ・ルベーグ著、吉田 耕作・松原 稔訳、解説・正田 建次郎、吉田 洋一監修、『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320011564 ルベーグ積分長さ及び面積]』、共立出版、〈現代数学の系譜3巻〉、1969年。ISBN 978-4-320-01156-4</ref>、これによって複雑な図形、例えば曲線や曲面の長さや面積などをそのような立場から論ずることが可能となった<ref name="a" />。 更にルベーグ積分論は[[アンドレイ・コルモゴロフ|コルモゴロフ]]によって確率論の厳密化にも用いられ<ref name="a" />、確率論を現代解析学として扱うことを可能とした。このため純粋数学としての確率論は現代数学では解析学に分類されるわけである。 積分の理論は更に一般化され応用範囲も広まり、例えば[[ノーバート・ウィーナー|ウィーナー]]により[[ブラウン運動]]のような複雑な現象ですら数学的に取り扱うことすら可能となった<ref name="a" />。 ==== 実数論 ==== 解析学はその根底を実数の性質においているが、[[リヒャルト・デーデキント|デーデキント]]やカントールはその実数の性質を深く研究し、実数を特徴付ける条件を見いだした。カントールもフーリエ級数の研究より実数論を展開し、その中で実数論や無限集合といった概念が形成されてゆくこととなる。カントールやデデキントらによる実数の定義は切断によるもので、[[高木貞治]]の解析概論などでも用いられている手法であるが、先にも述べたコーシー、ワイエルシュトラス、ボルツァーノなどの数学者らによって類似の様々な実数論が展開された。 このように一見、様々な定義があるようにみえる実数であるが、これらは古典論理の範囲内において全て同値であることが証明されている<ref>島内剛一、『[http://www.nippyo.co.jp/book/4132.html 数学の基礎]』、日本評論社、〈日評数学選書〉、2008年。ISBN 978-4-535-60106-2</ref>。 ==== 無限小と超準解析 ==== このような厳密化の流れの中で消されていった無限小という概念であるが、これを現代論理学などを用いて蘇らせたものが[[超準解析]]である。 === 関数論の登場 === また、19世紀に入って解析学は本格的に[[複素数]]を利用するようになった。複素数変数の関数や微積分などを扱う分野は'''(複素)関数論'''、'''[[複素解析]]学'''などと呼ばれる。コーシーは従来求められていた定積分などが複素変数の関数として扱うことでより簡単に求められることを発見した。さらにその後、ワイエルシュトラスやリーマンによって一変数の複素関数の理論が整えられ、複素関数論は独立した一つの数学として扱われるようになった。また多変数の複素関数の理論は20世紀に入ってから、[[アンリ・カルタン]]や[[岡潔]]らによって詳細が研究された。 複素解析学は[[楕円関数]]や[[素数定理]]とも関連し<ref name="a" />、幅広い応用をもち現代では物理や工学においても必須の概念となっている。 === 関数解析学 === 微分法は[[極値]]を求める問題であるが、これを一般化し、与えられた汎関数が極値を持つような関数を求める問題が変分法であり、物理学において広く応用されている<ref name="a" />。汎関数の解析学を更に一般化して関数を関数空間の点としてみなすことによって、関数解析学は誕生した。その起源は[[モーリス・ルネ・フレシェ|フレシェ]]の1906年の抽象空間論<ref>M.フレシェ 著、斎藤 正彦・森 毅・杉浦 光夫訳、『[http://www.kyoritsu-pub.co.jp/bookdetail/9784320013995 抽象空間論]』、共立出版、〈現代数学の系譜 13巻〉、1987年。ISBN 978-4-320-01399-5</ref> などに見られるが大元は[[積分方程式]]であろう<ref name="a" />。ここでディリクレ問題が重要となり、そのためにはディリクレ原理の正当化が必要となった<ref name="a" />。最初に研究した[[フレドホルム]]は失敗したが、[[ダフィット・ヒルベルト|ヒルベルト]]はその正当化に成功し、更に積分方程式の研究を進めるが、[[ジョン・フォン・ノイマン|ノイマン]]はこれを更に一般化することによって[[ヒルベルト空間]]を利用し[[量子力学]]の数学的基礎付けを成し遂げた<ref name="a" />。 === 超関数 === {{main|超関数}} 20世紀に入ると偏微分方程式やフーリエ解析学において関数や導関数といった概念の拡張に迫られ、[[ローラン・シュヴァルツ]]は[[シュワルツの超関数|超関数]] {{en|(distribution)}} および超関数の意味での導関数を導入することによってこれを成し遂げ<ref name="a" />、[[フィールズ賞]]を受賞した。これによりある意味任意の関数が微分可能になったといえる<ref name="a" />。その後[[佐藤幹夫 (数学者)|佐藤幹夫]]によってより一般的な[[佐藤の超関数]] {{en|(hyperfunction)}} が導入された<ref name="a" />。関数とその超関数の意味での導関数に適当な[[ノルム]]を導入すると[[ソボレフ空間]]になるが、これも[[偏微分方程式]]において重要な概念となっている<ref name="a" />。 <!--(純粋数学の辞典である)数学辞典ベースなので応用数理や応用解析学、例えば非線形分野などが弱いため追記すべきだろう。--> == 解析学の諸分野 == === 基本概念 === * [[数学基礎論]] * [[数理論理学]] * [[数]] ** [[自然数|自然数論]] ** [[実数|実数論]] ***[[実数の連続性]] ***[[イプシロン-デルタ論法]] * [[集合論]] ** [[公理的集合論]] * [[関数 (数学)|関数]] ** [[写像]] ** [[媒介変数]] ** [[連続関数]] ** [[初等関数]] *** [[三角関数]] *** [[指数関数]] *** [[対数関数]] ** [[特殊関数]] *** [[ガンマ関数]] *** [[エアリー関数]] *** [[ベッセル関数]] *** [[誤差関数]] *** [[楕円関数]] *** [[直交多項式]] * [[級数]] ** [[数列]] ** [[コーシー列]] ** 収束 *** [[収束半径]] *** [[絶対収束]] *** [[一様収束]] *** [[条件収束]] *** [[無条件収束]] ** 収束判定法 *** [[比較判定法]] *** [[ダランベールの収束判定法]] *** [[コーシーの収束判定法]] *** [[コーシーの冪根判定法]] * [[微分積分学]] ** [[微分法]] ***[[接線]] ***[[偏微分]] ** [[積分法]] ***[[不定積分]] ***[[定積分]] ****[[部分積分]] ****[[置換積分]] ***[[広義積分]] ** [[微分積分学の基本定理]] <!--基礎論と高校から大学教養ぐらいの基本概念。テンプレートを利用すべきかもしれない--> * [[複素解析]] **[[代数学の基本定理]] **[[コーシー・リーマンの方程式]] **[[複素積分]] ***[[コーシーの積分公式]] ***[[コーシーの積分定理]] **[[留数]] **[[ローラン展開]] **[[解析接続]] **[[リーマン球面]] **[[リーマン面]] **[[モノドロミー行列]] **[[漸近展開]] **[[等角写像]] === 現代解析学 === * [[実解析]] * [[調和解析]] * [[超準解析]] **[[無限小]] * [[大域解析学]] * [[関数解析学]] * [[代数解析学]] * [[可積分系]] <!--これらの項目は、上の歴史の中で説明を加える必要があるだろう--> == 解析学の展開 == * [[ベクトル解析]] * [[微分幾何学]] * [[解析的整数論]] *[[応用数学]] *[[数理科学]] *[[微分方程式]]と応用 **[[常微分方程式]] **[[偏微分方程式]] **[[確率微分方程式]] **[[積分方程式]] **[[関数方程式]] **[[変分法]] **[[数理モデル]] ***[[単振動]] ***[[指数関数的減衰]] ***[[解析力学]] ***[[流体力学]] ***[[非線形科学]] ***[[数理物理学]] * [[数値解析]] **[[近似]] **[[近似法]] **[[数値流体力学]] **[[:en:numerical algebraic geometry|数値代数幾何]] **[[求根アルゴリズム]] ***[[ニュートン法]] ***[[デュラン=カーナー法]] **[[数値積分]] ***[[ガウス求積]] ***[[ガウス=クロンロッド求積法]] ***[[二重指数関数型数値積分公式]] **[[:en:numerical linear algebra|数値線形代数]] ***[[クリロフ部分空間]] ***[[共役勾配法]] ***[[GMRES法]] ***[[QR法]] ***[[べき乗法]] **[[微分方程式]]の数値解法 / [[常微分方程式の数値解法]] / [[偏微分方程式の数値解法]] ***[[有限要素法]] ***[[有限体積法]] ***[[差分法]] ***[[重み付き残差法]] ***[[境界要素法]] **[[誤差]]評価の技術 ***[[精度保証付き数値計算]] ***[[計算機援用証明]] ***[[区間演算]] <!--こちらに応用数理関係をまとめるべきか。--> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics blue-p.svg|34px|Project:数学]]}} {{ウィキポータルリンク|数学|[[画像:Nuvola apps edu mathematics-p.svg|34px|Portal:数学]]}} {{Wikibooks}} {{Wikibooks|解析学基礎}} * [[近代科学]] * [[要素還元主義]] *[[数学記号の表#解析学の記号]] * [[微分積分学]] * [[原始関数の一覧]] * [[三角関数の原始関数の一覧]] * [[逆三角関数の原始関数の一覧]] * [[対数関数の原始関数の一覧]] * [[積の微分法則]] * [[商の微分法則]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} * 『増訂解析概論』高木 貞治 著の現代仮名遣い版 {{Analysis-footer}} {{数学}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かいせきかく}} [[Category:解析学|*]] [[Category:数学に関する記事]]
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考古学
考古学(こうこがく、英語: archaeology、archæology、archeology)は、人類が残した遺跡から出土した遺構などの物質文化の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。 対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。 考古学という名称は、古典ギリシャ語の ἀρχαιολογία (ἀρχαιο [古い] + λογία [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)から生まれ、それを訳して「考古学」とした。 英語ではarchaeologyという。米国を含む標準表記では -ae と綴るが、米語ではギリシア語由来の -ae の綴りを採らず、発音に合わせて単に -e と綴ることがある。 日本語の「考古学」(考古)という言葉は、明治初期には古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。 佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがシーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという説もある。 「考古」という漢語自体は古くからある。例えば、北宋の呂大臨『考古図(中国語版)』。 先史時代(文字により記録されるよりも前の時代)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時代(歴史時代)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。 考古学は、遺物の型式学的変化と、遺構の切り合い関係や土層(遺物包含層)の上下関係といった層位学的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「編年」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば土器の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。 日本では従前より日本史学、東洋史学、西洋史学と並ぶ歴史学の四分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。 アメリカでは考古学は人類学の一部であるという見解が主流である。 考古学は近代西洋に生まれた比較的新しい学問だが、前近代から世界の諸地域で考古学と類似する営みが学界内外で行われていた(好古家を参照)。 近代的な考古学は、18世紀末から19世紀にかけて、地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズ(英語版)やウイリアム・フリンダース・ペトリらによって始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラー(英語版)らに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて物理学や数学などの純粋科学(理学)を考古学に取り入れたプロセス考古学(ニューアーケオロジー)がアメリカを中心として一世を風靡した。 日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。 日本では、動物学者エドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト、シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『考古説略』によってなされた。 アジア各地へ出て行く日本人学者には、興亜院・外務省・朝鮮総督府・満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者(当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった。 宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。 また20世紀の間に、都市考古学や考古科学、後には救出考古学(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。 戦後になってからは皇国史観によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、遺伝子研究や放射性炭素年代測定などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。 2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。 現代考古学の特徴としては、 収集するデータは、人類の過去の活動や行為を示す物的証拠を収集すること。具体的には、1人類がある目的を持って製作・加工したもの、2人類によって利用された自然界の物質、3人類の活動や行為によって自然界に生じた変化を示す物的証拠があげられる。
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考古学は、人類が残した遺跡から出土した遺構などの物質文化の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。 対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。
{{人類学}} '''考古学'''(こうこがく、{{lang-en|archaeology、archæology、archeology<ref group="注">米俗称では -ae を -e と綴る。</ref>}})は、[[ヒト|人類]]が残した[[遺跡]]から出土した[[遺構]]などの[[物質文化]]の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。 対して、[[歴史学]]は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。 == 名称 == 考古学という名称は、古典[[ギリシャ語]]の {{lang|gr|ἀρχαιολογία}} ({{lang|gr|ἀρχαιο}} [古い] + {{lang|gr|λογία}} [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)から生まれ、それを訳して「考古学」とした。 英語ではarchaeologyという。米国を含む標準表記では -ae と綴るが、米語ではギリシア語由来の -ae の綴りを採らず、発音に合わせて単に -e と綴ることがある。 日本語の「'''考古学'''」(考古)という言葉は、明治初期には古き物を好むという意味で'''好古'''と記されていたが、古きを考察する学問だという考えから[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]の次男[[ハインリヒ・フォン・シーボルト]]が1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した[[吉田正春]]が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている<ref>泉森皎編『日本考古学を学ぶ人のために』([[世界思想社]]、[[2004年]])</ref>。 [[佐原真]]によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがシーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、[[1877年]](明治10)、[[大森貝塚]]の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔[[田中不二麿]]か文部少輔[[神田孝平]]かの上申書のなかであるという説もある<ref>佐原真「考古学史を語る」(金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事1 考古学への案内』岩波書店、2005年)</ref>。 「考古」という[[漢語]]自体は古くからある(例えば、[[北宋]]の[[呂大臨]]『{{仮リンク|考古図|zh|考古圖}}』<ref>{{コトバンク|考古図}}</ref>)。 == 概要 == [[先史時代]]([[文字]]により記録されるよりも前の時代)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時代([[歴史時代]])についても[[歴史学|文献史学]]を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、[[価値観]]、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、[[中世]]([[城館]]跡、廃寺など)・[[近世]]([[武家屋敷]]跡、[[市場]]跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;[[汐留駅 (国鉄)#旧新橋停車場跡|旧新橋停車場跡]]など)や、戦時中の[[防空壕]]が[[発掘調査]]されることがある。 考古学は、[[遺物]]の[[型式学的研究法|型式学]]的変化と、[[遺構]]の[[切り合い関係]]や[[土層 (考古学)|土層]]([[遺物包含層]])の上下関係といった[[層位学的研究法|層位学]]的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「[[編年]]」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば[[土器]]の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。 == 考古学の位置付け == 日本では従前より[[日本史学]]、[[東洋史学]]、[[西洋史学]]と並ぶ[[歴史学]]の四分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に[[先史時代]]を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]では考古学は[[人類学]]の一部であるという見解が主流である。 == 考古学史 == 考古学は[[近代]]西洋に生まれた比較的新しい学問だが、前近代から世界の諸地域で考古学と類似する営みが学界内外で行われていた([[好古家]]を参照)。 近代的な考古学は、18世紀末から19世紀にかけて、[[地質学者]]の{{仮リンク|オーガスタス・ピット・リバーズ|en|Augustus Pitt Rivers|label=}}<ref group="注">(1827-1901) 組織的な計画と方法、記録を伴う発掘を実施、世界初の実験考古学も試みた。</ref>や[[フリンダーズ・ピートリー|ウイリアム・フリンダース・ペトリ]]<ref group="注">1853年生、1942年没。エジプト土器編年の体系を樹立した。</ref>らによって始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、[[20世紀]]には{{仮リンク|モーティマー・ウィーラー|en|Mortimer Wheeler|label=}}らに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて[[物理学]]や[[数学]]などの純粋科学(理学)を考古学に取り入れたプロセス考古学(ニューアーケオロジー)<ref group="注">理化学的年代測定法・コンピュータと統計学・システム論・生態学の応用</ref>がアメリカを中心として一世を風靡した<ref>安斎正人『KASHIWA学術ライブラリー06 理論考古学入門』(柏書房、2004年)</ref>。 === 西洋考古学史 === {{See also|en:History of archaeology|}} === 中国考古学史 === {{See|中国考古学}} === 日本考古学史 === {{See also|好古家#日本}} [[File:Kasaishi-jinja, torii.jpg|thumb|220px|right|日本考古学発祥の地碑<br/>{{small|[[那須国造碑]]のある笠石神社。碑文の検証のため[[徳川光圀]]による日本最初の発掘調査が[[上侍塚古墳]]・[[下侍塚古墳]]で実施された。}}]] 日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法<ref group="注" name="sahara">デンマーク国立博物館に民族学部門を開設したときに三時代区分法を適用した[[クリスチャン・トムセン]]が1839年にオランダのライデンにシーボルトを訪ねている。その時、『北欧古代学入門』(独文版1837年)をシーボルトに献呈した可能性もある。佐原真「日本近代考古学の始まるころ -モールス、シーボルト、佐々木忠二郎資料によせて-」(金関恕・春成秀爾編集『佐原真の仕事1 考古学への案内』岩波書店 2005年)235ページ</ref>を適用したのが[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]である<ref>その著『日本』(1832~1858のころ)</ref><ref group="注" name="sahara" />。 日本では、動物学者[[エドワード・モース]]が[[1877年]](明治10年)[[大森貝塚]]の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある<ref>[[大森貝塚]]の項目参照</ref>。同時期に[[大森貝塚]]を発掘調査した[[ハインリヒ・フォン・シーボルト]](小シーボルト、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている{{要出典|date=2010年12月}}。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『[[考古説略]]』によってなされた。 アジア各地へ出て行く日本人学者には、[[興亜院]]・[[外務省]]・[[朝鮮総督府]]・[[満州国]]・[[南満州鉄道|満鉄]]・[[関東軍]]の援助があった。これらの調査研究も、[[皇国史観]]に抵触しない限り「自由」が保証された。[[中国学者]](当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された[[東亜考古学会]]も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった<ref>近藤義郎「戦後日本考古学の反省と課題」(考古学研究会編『日本考古学の諸問題』1964年)</ref>。 宮崎県の[[西都原古墳群]]の発掘が県知事の発案で[[1912年]](大正元年)から[[東京大学|東京帝国大学]]([[黒板勝美]])と[[京都大学|京都帝国大学]]([[喜田貞吉]]・[[浜田耕作]])の合同発掘が行われた。[[1917年]](大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の[[浜田耕作]]を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。 また20世紀の間に、[[都市考古学]]や[[考古科学]]、後には[[救出考古学]](レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。 戦後になってからは[[皇国史観]]によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、[[遺伝子]]研究や[[放射性炭素年代測定]]などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。 2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた[[旧石器捏造事件]]が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。 == 現代考古学の特徴 == 現代考古学の特徴としては、 #他の学問分野([[原子物理学]]、[[化学]]、[[地質学]]、[[土壌学]]、[[動物学]]、[[植物学]]、[[古生物学]]、[[建築学]]、[[人口統計学]]、[[冶金学]]、[[社会学]]、[[地理学]]、[[民俗学]]、[[文献学]]、[[認知科学]]など)との連携がいっそう進んでいること #考古データの急増や研究の深まりを反映し、対象とする事象・時代・地域・遺構の種別などによって考古学そのものの細分化や専門化が著しいこと、また、新しい研究領域が生まれていることであれば大丈夫だというヌワラエリがあげられる。 ==考古学の諸分野== ;{{仮リンク|プロセス考古学|en|Processual archaeology}}/ニュー・アーケオロジー :60年代にアメリカの考古学者[[ルイス・ビンフォード]]が確立させた考古学的方法論。従来の[[伝播主義]]的考古学に反論し、社会内部あるいは社会間で働いている多様なプロセスを抽出し分析する事を目指している。そこでは、社会と自然環境の関係、生業や経済活動、集団内での社会関係、これらに影響を与える[[イデオロギー]]や[[信仰]]、さらには社会単位間の相互交流の効果などが重要視されている。プロセス考古学の発展の中で、考古資料と過去に関する見解の橋渡しを行うための[[中範囲理論]]([[:en:Middle_Range_Theory|Middle Range Theory]])が登場し、その理論を実践するために[[実験考古学]]、[[民族考古学]]、[[歴史考古学]]が派生した。 ;[[実験考古学]] :過去の[[遺構]]・[[遺物]]を模式的に製作・使用・破棄する事によって、現在の遺構・遺物がどのような工程を経て現状に至ったのか考察する研究領域。例えば、原石から[[石器]]を製作して使用したり、粘土から[[土器]]を製作して調理を行ったりして[[使用痕]]を分析する。また、住居を建築した後、放火などの破棄を行ってその後の層位の堆積状況を観察する事もある。 ;[[民族考古学]](ethnoarchaeology) :現存する伝統的文化を保持する小規模な民族集団を調査し、そこで得られた知見に基づいて、過去の考古学上のデータから様々な人間の活動パターンを復元する際の比較資料やモデルを作り出そうとしたり、ある考古学上の仮説を検討する基礎にしようと試みるものである。 ;[[歴史考古学]] / 有史考古学(Historical archaeology) :考古学の研究法を、従来の文字の無かった時代だけでなく、文字史料が現存する時代にも応用しようとした研究。これにより文献資料では空白部分であった情報が、考古学資料によって補完されるようになった。日本では主に[[奈良時代]]以降を指すことが多い。遺構や遺物の存在が文献資料と食い違い、文献資料とは異なったり、また記録されていなかったり、不明瞭な記録に対して、全く違う事実が判明した例([[法隆寺#再建・非再建論争|法隆寺再建論争]]などが顕著な例)もある。 ;{{仮リンク|ポスト・プロセス考古学|en|Post-processual archaeology}} :70年代、イギリスの考古学者[[イアン・ホダー]]とアメリカの考古学者[[マーク・レオーネ]]を中心にプロセス考古学への批判から形成された。[[ポストプロセス考古学|解釈学的考古学]]とも呼称される。[[構造主義]]・[[批判理論]]・[[新マルクス主義]]的思考に影響を受けつつ、一般化を避け「個別的説明」を行う傾向がある。 ;{{仮リンク|認知考古学|en|Cognitive archaeology}} :1990年代からよく使われるようになった。認知科学<ref group="注">cognitive science 人間の認知(知的営み)にかかわる学問領域の総称 </ref><ref name=ninnti/>、心の科学などの研究成果を援用・応用した考古学的研究。過去に生きた人々の心の研究(推測や復元)は、検証可能性や実証性を保とうとすることが大変難しい<ref name=ninnti>松本直子・中園聡・時津裕子編『認知考古学』(青木書店、2003年)</ref>。 ;[[産業考古学]] {{Main|産業考古学}} ;[[戦跡考古学]] :近現代における国内の戦争の痕跡([[戦争遺跡]])を扱う我が国の近現代考古学の一分野。対象となる戦争遺跡は単に戦闘の跡に留まらず、師団司令部や航空機の墜落跡、[[掩体壕]]、水没艦船、[[防空壕]]、[[軍需工場]]、さらには現存する当時の精神的支柱([[八紘一宇]]の塔・[[忠魂碑]])などと、非常に多岐にわたる。1984年に沖縄県の[[當眞嗣一]]が提唱した。激戦地であった沖縄では、盛んに調査が行われている<ref>[http://sitereports.nabunken.go.jp/15487 瀬戸 哲也他『沖縄県の戦争遺跡 平成22~26年度戦争遺跡詳細確認調査報告書 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書75』沖縄県立埋蔵文化財センター、2015年]</ref>。戦跡考古学に対しては、[[民俗学]]や[[建築学]]など様々な方面からのアプローチが可能である。一部では外国の戦跡の研究(中国の[[虎頭要塞]]・[[731部隊]]施設の研究、南洋諸島に点在する旧日本軍の軍事兵器など)も行われている。研究者として、[[坂誥秀一]]らがあげられる。 ;[[水中考古学]]、[[海洋考古学]] :水中にある遺跡や遺物などを調査する考古学。19世紀[[スイス]]の[[杭上家屋跡]]<ref group="注">1853年~1854年にかけてフェルナンド・ケラーによる調査とその報告、ロバート・マンローによるスコットランドなど「湖上住居」の報告、名高いのは19世紀末のフロリダ州南西部キー・マルコの「杭上住居民」をフランク・カッシングが発掘したハリケーンによって倒壊した集落跡、アーサー・ブライドが1893年から1907年にかけて発掘したグラストンベリー湖の柵杭で囲まれた紀元前200年の集落跡</ref>の確認を契機に、フランスの[[クストー]]が世界各地の海底遺跡の調査を開始したのが始まりである。日本でも、地すべりで[[琵琶湖]]湖底に沈んだ古代の集落や、[[長崎県]][[鷹島 (長崎県)|鷹島]]沖の[[元寇]]の際の沈没船などの研究が行なわれている。 ;{{仮リンク|宇宙考古学|en|Space archaeology}}([[衛星考古学]]) :[[1972年]]に[[ランドサット1号]]が打ち上げられて以来、[[人工衛星]]データによる地球観測の技術は、気象、災害、環境、海洋、資源など、さまざまな分野の調査や研究に応用され、これまでに多くの成果をあげてきた。衛星に搭載されるセンサの解像力が高度化し、マイクロ波センサや赤外線により地表の状況がより明確に観測できるようになると、衛星データの応用範囲はさらに多様化し、密林や砂漠の下に埋もれた古代の都市や遺跡の検知なども可能となってきた。この宇宙からの情報技術を考古学研究に応用したのが宇宙考古学である。[[坂田俊文]]は、この方法によってエジプトの未知のピラミッドを発見している。 :なお、[[疑似科学]]の[[古代宇宙飛行士説]]も「宇宙考古学」と称することがあるが、これとは完全に別物である。 ;[[環境考古学]] :文明や歴史を、その自然環境との関係を重視して研究する分野。[[1980年]]に[[安田喜憲]]が提唱した。[[1999年]]刊行の『新編高等世界史B』<ref group="注">川北稔ほか帝国書院、時代区分は、1)自然に適応しながら生きていた時代、2)自然環境への挑戦の時代、3)環境問題の出現と社会の調和の時代。</ref>には、環境考古学の成果が採用された。[[2003年]]に入って、安田以外の研究者による環境考古学と題する本<ref>高橋学『平野の考古学』古今書院 2003年、松井章編『環境考古学マニュアル』(同友社、2003年)</ref>が刊行された。考古遺跡から出土する遺物の中でも、特に動植物遺体などの分析から、当時の食生活や漁獲対象、ひいては周辺の気候・[[植生]]を復元する考古学。分析する遺体は、[[貝殻]]・獣骨('''動物考古学'''と限定することもある)などの比較的大きなものから、土壌を選別(篩掛け)することによって得られる[[花粉]]・[[寄生虫]]卵などがある。1980年代以降、考古学における理化学研究の進展に伴い提唱された。[[渡辺誠 (考古学者)|渡辺誠]]・[[松井章]]らによる研究が詳しい。 ;[[地震考古学]] :地震の痕跡を遺跡からさぐる学問。1980年代に[[寒川旭]]らの研究者により提唱された新しい研究領域である。 ;[[第二考古学]] :五十嵐彰が提唱する方法論上のカテゴリー。従来の考古学で主流をなしている[[編年]]研究、過去についての知識ではなく、考古学独自の思考方法を探ろうという観点に立つ。名称の適切さを含めて批判もあり、研究領域としての認知度は低い。 == 考古学の方法 == # データの収集 # 年代の決定 # 総合的解釈 == 考古学の資料 == 収集するデータは、人類の過去の活動や行為を示す物的証拠を収集すること。具体的には、①人類がある目的を持って製作・加工したもの、②人類によって利用された自然界の物質、③人類の活動や行為によって自然界に生じた変化を示す物的証拠があげられる。 == 考古学の成果 == === 世界の古代文明・先史文化 === * [[世界四大文明|四大文明]] ** [[古代エジプト|古代エジプト文明]] *** [[エジプト神話]] ** [[メソポタミア|メソポタミア文明]] ** [[インダス文明]] ** 中国文明 *** [[黄河文明]] *** [[長江文明]] * [[メソアメリカ文明]] ** [[オルメカ|オルメカ文明]] ** [[テオティワカン]] ** [[マヤ文明]] ** [[トルテカ文明]] ** [[アステカ王国]] * [[アンデス文明]] ** [[チャビン文化]] ** [[モチェ文化]] ** [[ナスカ文化]] ** [[ティワナク|ティワナク文化]] ** [[ワリ文化]] ** [[チムー王国]] ** [[インカ帝国]]([[タワンティン・スウユ]]) === 日本列島 === ==== 狭義の日本列島 ==== * [[日本の旧石器時代|旧石器時代]] * [[縄文時代]] * [[弥生時代]] ** [[邪馬台国]] * [[古墳時代]] ** [[前方後円墳]] * [[歴史時代]] ==== 広義の日本列島 ==== * [[オホーツク文化]] ** [[大学合同考古学シンポジウム]] * [[沖縄県の歴史]] ** [[グスク]] === トピック === * [[巨石文化]]([[巨石記念物]]) * [[地層処分]] - 考古学から得られた知見を逆方向に活用し、危険物質が埋設されている場所に関する情報を確実に遠未来に遺す方法が研究されている<ref>[http://www.rwmc.or.jp/library/pdf/RWMC-TRJ-02001.pdf 原子力環境整備促進・資金管理センター 「地層処分にかかわる記録保存の研究」](『原環センター技術報告書』2002年)</ref>。 == 文化財の保護と活用 == * [[学術調査]]と[[緊急調査]] * [[文化財保護法]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == *[[小林達雄]]編『考古学ハンドブック』([[新書館]]、2007年)ISBN 978-4-403-25088-0 *[[コリン・レンフルー]] [[ポール・バーン]]『考古学―理論・方法・実践』([[東洋書林]]、2007年) *[[鈴木公雄]]『考古学入門』([[東京大学出版会]]、2005年) * {{Cite book|和書|ref=harv|author=文化庁|title=定本 発掘調査のてびき|date=2016-10-30|year=2016|publisher=[[同成社]]|isbn=9784886217424|authorlink=文化庁}} == 関連項目 == * [[特別:検索/intitle:考古学|「考古学」を含む記事名の一覧]] * [[文化 (考古学)]] * [[日本考古学会]] * [[日本考古学協会]] * [[考古学研究会]] * [[考古調査士]] * [[オーパーツ]] * {{ill2|考古学上の捏造|en|Archaeological forgery}} - [[旧石器捏造事件]]の[[藤村新一]]など * {{ill2|失われた発明|en|Lost inventions}} - {{ill2|フレキシブルガラス|en|Flexible glass}}、断熱材{{ill2|Starlite|en|Starlite}} * {{ill2|Portable Antiquities Scheme|en|Portable Antiquities Scheme}}(ポータブル・アンティクィティーズ・スキーム) ‐ イギリスで行われている一般の人が小型の考古学的発見を報告する政府が運営する市民自主参加プログラム。 == 外部リンク == * [http://archaeology.jp/ 一般社団法人 日本考古学協会] * [https://kokogakukenkyukai.jp/ 考古学研究会] * [https://sitereports.nabunken.go.jp/ja 全国遺跡報告総覧](国立[[奈良文化財研究所]]) {{考古学}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:こうこかく}} [[Category:考古学|*]] [[Category:人文科学]] [[Category:人類学]] [[Category:歴史学]]
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力学
力学(りきがく、英語:mechanics)とは、物体や機械(machine)の運動、またそれらに働く力や相互作用を考察の対象とする学問分野の総称。 質点(質点系)や剛体を対象とする力学を一般力学、連続体を対象とする力学を固体力学(連続体の力学)という。 力学は研究対象の力学的性質により、弾性学、塑性学、粘弾性学、クリープ力学などに分かれる。
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熱力学
熱力学(ねつりきがく、英: thermodynamics)は、物理学の一分野で、熱や物質の輸送現象やそれに伴う力学的な仕事についてを、系の巨視的性質から扱う学問。アボガドロ定数個程度の分子から成る物質の巨視的な性質を巨視的な物理量(エネルギー、温度、エントロピー、圧力、体積、物質量または分子数、化学ポテンシャルなど)を用いて記述する。 熱力学には大きく分けて「平衡系の熱力学」と「非平衡系の熱力学」がある。「非平衡系の熱力学」はまだ、限られた状況でしか成り立たないような理論しかできていないので、単に「熱力学」と言えば、普通は「平衡系の熱力学」のことを指す。両者を区別する場合、平衡系の熱力学を平衡熱力学 (equilibrium thermodynamics)、非平衡系の熱力学を非平衡熱力学 (non-equilibrium thermodynamics) と呼ぶ。 ここでいう平衡 (equilibrium) とは熱力学的平衡、つまり熱平衡、力学的平衡、化学平衡の三者を意味し、系の熱力学的(巨視的)状態量が変化しない状態を意味する。 平衡熱力学は(すなわち通常の熱力学は)、系の平衡状態とそれぞれの平衡状態を結ぶ過程とによって特徴付ける。平衡熱力学において扱う過程は、その始状態と終状態が平衡状態であるということを除いて、系の状態に制限を与えない。 熱力学と関係の深い物理学の分野として統計力学がある。統計力学は熱力学を古典力学や量子力学の立場から説明する試みであり、熱力学と統計力学は体系としては独立している。しかしながら、系の平衡状態を統計力学的に記述し、系の状態の遷移については熱力学によって記述するといったように、一つの現象や定理に対して両者の結果を援用している 18世紀後半にイギリスのジョゼフ・ブラックが熱容量と潜熱の概念を発見し、温度と熱の概念を分離したことで熱に関する本格的な研究が始まり、これを受けて18世紀末には熱学が生まれた。 一方18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで蒸気機関が発明・改良されたが、ジェームズ・ワットがブラックの影響を受けて復水器を独立させるなどの影響はあったものの、基本的には学問的成果を応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった。またこの頃気体の性質が研究され、1662年にロバート・ボイルによってボイルの法則が発表され、1787年にジャック・シャルルによって発見されたシャルルの法則が1802年にジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって発表されて、ゲイ=リュサックの法則が成立し、これらの法則がボイル=シャルルの法則(理想気体の性質)としてまとめられた。しかしこのころは、まだアントワーヌ・ラヴォアジエらによって唱えられていた、熱を物質と考える熱素説が有力であった。 なお1820年代、ジョゼフ・フーリエが熱伝導の研究を発表したが、これは熱力学とは直接関係なく、むしろフーリエ変換など後世の数学の基礎から工学的な応用に至るまで多大な影響を及ぼすこととなった。また、熱伝導に関する研究はこれ以前にニュートンによる冷却の法則がある。 1820年代になると、サディ・カルノーが熱機関の科学的研究を目的として仮想熱機関としてカルノーサイクルによる研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究が始まった。この研究結果は熱力学第二法則とエントロピー概念の重要性を示唆するものであったが、カルノーは熱素説に捉われたまま早世し、重要性が認識されるにはさらに時間がかかった。 熱をエネルギーの一形態と捉えエネルギー保存の法則、つまり熱力学第一法則をはじめて提唱したのはロベルト・マイヤーである。彼の論文は1842年に発表されたが全く注目されなかった。 一方、イギリスでは1843年にジェームズ・プレスコット・ジュールが熱が仕事へと変換可能であると考え、熱の仕事当量を求める測定を行った。この研究も当初は全く注目されなかったが、1847年にウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)の知るところとなった。トムソンは1849年にカルノーの説を再発表する一方で、ジュールの説も否定せず、むしろこの発表で脚注として取り上げることで、ジュールの論をも広く知らせることとなった。ヘルマン・フォン・ヘルムホルツは1847年の論文で、エネルギー保存の法則について示している。やがて1850年、ジュールやトムソン、ヘルムホルツの論文をもとにルドルフ・クラウジウスがカルノーとジュールの説を統合し、熱力学第一法則および熱力学第二法則を完全な形で定義した。クラウジウスによる熱力学第二法則はクラウジウスの原理と呼ばれる。1851年には、トムソンも別の表現で熱力学第二法則に到達し、トムソンの原理と呼ばれるようになった。この両原理は同一のものであると簡単に証明できたため、こうして1850年代には熱力学第二法則が確立された。 トムソンは1854年に絶対温度の概念にも到達した。1865年にはクラウジウスが、カルノーサイクルの数学的解析からエントロピーの概念の重要性を明らかにした。エントロピーの命名もクラウジウスによるものである。 19世紀後半になると、ヘルムホルツによって自由エネルギーが、またウィラード・ギブズによって化学ポテンシャルが導入され、化学平衡などを含む広い範囲の現象を熱力学で論じることが可能になった。 一方、ルートヴィッヒ・ボルツマンやジェームズ・クラーク・マクスウェルさらにはギブズによって、分子論の立場に立って、分子の挙動を平均化して扱い熱力学的なマクロの現象を説明する理論、統計力学が創始された。これにより、熱力学的諸概念と分子論をつなぎ合わせることを具体的に解釈できるようにした。 1905年のアルベルト・アインシュタインによるブラウン運動の定式化と、1908年のジャン・ペランの実験は、分子論の正当性を示し、また確率過程論や統計物理学の応用の発展にも寄与した。 1999年にエリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンは、「断熱的到達可能性」という概念を導入して熱力学を再構築した。 「状態 Y が状態 X から断熱操作で到達可能である」ことを X ≺ Y {\displaystyle X\prec Y} と表記し、この「 ≺ {\displaystyle \prec } 」の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。 このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている。 熱力学には様々なスタイルがある。同じ内容の熱力学を得るのに、理論の出発地点となる基本的要請には様々な選び方がある。例えば多くの熱力学では、熱力学の法則を最も基本的な原理として採用している。しかし他の要請を選んで熱力学を展開していくスタイルもある。 さらに熱力学で用いるマクロ変数には示量性と示強性の 2 種類がある。例として、平衡状態の系を半分に分割することを考える。それぞれの系の温度は、分割する前後で変化しないが、体積や物質量、内部エネルギーはそれぞれ元の半分になる。簡単には、温度のように、分割に対して変化しないものを示強性、エネルギーのように分割した大きさに応じて変化するものを示量性と呼ぶ。 熱力学は多くの場合に古典力学や量子力学といった通常は少数系の問題を扱う「ミクロ系の物理学」では扱うのが非常に困難な多体系、それもアボガドロ数にも及ぶような多体の問題に適用される。したがって、ミクロ系の物理学では予想できないような結果を予測する理論として機能するが、全く独立な理論かといえばそういうわけでもなく、たとえば「エネルギー」といった概念は両者で使用される共通の概念になる。また、そういった概念も名前上の共通性にとどまらず、エネルギー保存則などの物理的法則も共通して存在し、互いに矛盾しないような内容になっている。 この共通性を両者に普遍的な自然法則として解釈するのか、本来個別であるべきだが偶然共通に見えているのかといった自由がある。前者に近い立場をとり、そうした普遍性をミクロ系の物理学のものと考える立場を と、また、後者に近い立場をとって、個別なものとして議論する立場を として清水 2007, p. では紹介している。 多くの熱力学では温度、圧力、体積、物質量を基本的な変数として出発点に用いている。しかし他にもエントロピーなどを出発点に用いて、温度や圧力は用いないスタイルもある。 示量性変数だけを用いる必要性は、たとえば融点上の熱力学系の状態は、温度を用いる限り一対一で表すことができないことなどによる。 平衡状態の系が満たすべき性質から、マクロな熱力学の体系と整合するように、ミクロな(量子)力学の体系から要請される確率分布を導入したのが、平衡統計力学であると言って良い。 このように熱力学は統計力学を基礎づけるもので、統計力学は熱力学を説明しない。熱力学的現象を徹底的に整理し、熱力学法則を確立したからこそ、物質の性質をよりミクロに捉えることが可能になった。 熱力学の基本原理に関する話題として、統計力学の等確率の原理と熱力学の関係がある。等確率の原理は統計力学が熱力学の平衡状態を再現するために導入される仮定であり、熱力学を微視的な視点から基礎づける原理ではない。 平衡熱力学の範疇では、系が平衡状態から別の平衡状態へ遷移する過程(熱力学的な操作)を扱うが、一般の過程は準静的ではなく中間状態は非平衡となってもよい。一方で (現在の) 平衡統計力学は個々の平衡状態を議論することはできるが、平衡状態から別の平衡状態へ系を移す一般の過程は扱えない。 第一法則及び第二法則は、ルドルフ・クラウジウスによって定式化された。 第零法則は、温度が一意に定まることを示している。 第一法則は、閉鎖された空間では外部との物質や熱、仕事のやり取りがない限り、エネルギーの総量に変化はないということを示している。 第二法則は、エネルギーを他の種類のエネルギーに変換する際、必ず一部分が熱に変換されるということ、そして、熱を完全に他の種類のエネルギーに変換することは不可能であるということを示している。つまり、どんな種類のエネルギーも最終的には熱に変換され、どの種類のエネルギーにも変換できずに再利用が不可能になるということを示している。なお、エントロピーの意味は熱力学の枠内では理解しにくいが、微視的な乱雑さの尺度であるということが統計力学から明らかにされる。 第三法則は、絶対零度よりも低い温度はありえないことを示している。 熱力学的系とは考えている世界の一部である。現実あるいは仮想の境界が系と残りの世界を分離する。その残りの世界は外界と呼ばれる。熱力学的系は境界の特徴により分類される。 内部エネルギーのうち仕事として取り出すことのできる分として「自由エネルギー」(条件によってギブズエネルギーあるいはヘルムホルツエネルギーを用いる)が定義される。熱力学第二法則から、 ことが導かれる。このことは特に化学反応にも適用され、化学平衡定数 K は基準状態での自由エネルギー変化 ΔG と以下の関係にあることが示される。 R:気体定数、T:熱力学温度 なお、化学反応の時間的変化については別分野「反応速度論」として発展しているのでその項目を参照のこと。 平衡熱力学は、温度やエントロピーなど平衡状態の系を特徴付ける量を用いて系の状態を記述した。非平衡系においてもこのような特徴を持つ系が存在し、平衡系で与えられる量を用いて非平衡系を記述する方法が試みられた。 このような非平衡系の熱力学や統計力学は、その発展の初期には個別の現象に対してそれぞれ研究がなされていた。特に有名なものは、ブラウン運動に関するアルベルト・アインシュタインの研究や、熱雑音に関するハリー・ナイキストの仕事である。 非平衡熱力学が統一的な体系として整理されはじめたのは1930年代ごろのことで、ラルス・オンサーガー、イリヤ・プリゴジンなどの仕事が有名である。 基礎的な理論として線形非平衡熱力学がある。ここでは、「局所的平衡」(局所的には上記の平衡熱力学の理論と熱力学変数の関係式が成り立つ)を仮定する。また、時間的変化を示す流れと、流れの原因となる熱力学的力(あるポテンシャルの空間的勾配)という概念を導入する。具体的には次のようなものである: ここで熱力学的力は、流れと力の積が局所エントロピー生成(エントロピー密度の時間微分)となるようにとるものとする。すると各流れ J と力 X の間には次の比例関係が成り立つ。 これは各成分について書き下せば次のようになる。 系の微視的な状態について、時間反転対称性が成り立ち状態の遷移が「可逆」であるならば、すなわち順方向の遷移とその逆方向の遷移の確率が等しいならば、係数行列 L は対称になる。 これをオンサーガーの相反定理という。微視的可逆性の原理は、外部磁場やコリオリ力がある系に対しては成り立たなくなるため、同様に相反定理も外部磁場中の系や回転系に対しては成立しない。なお、化学反応(流れ)と親和力(反応前後での化学ポテンシャル差)の間も上記と同様の流れ・力の関係が書けるが、これはスカラーであるため、ベクトルである上記の流れ・力とは一般には交差しない(キュリーの原理)。ただし非等方的な系ではこの限りでなく、生体膜(化学反応と物質移動の共役)や界面などの例がある。 このような流れの様子が時間変化しないのが定常状態であるが、その条件として「流れによるエントロピー生成が極小である」ということがイリヤ・プリゴジンにより示されている。 その後さらにプリゴジンの『散逸構造論』など、非線形の領域に拡張された非平衡熱力学が研究されている。
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"p", "text": "熱力学には様々なスタイルがある。同じ内容の熱力学を得るのに、理論の出発地点となる基本的要請には様々な選び方がある。例えば多くの熱力学では、熱力学の法則を最も基本的な原理として採用している。しかし他の要請を選んで熱力学を展開していくスタイルもある。", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "さらに熱力学で用いるマクロ変数には示量性と示強性の 2 種類がある。例として、平衡状態の系を半分に分割することを考える。それぞれの系の温度は、分割する前後で変化しないが、体積や物質量、内部エネルギーはそれぞれ元の半分になる。簡単には、温度のように、分割に対して変化しないものを示強性、エネルギーのように分割した大きさに応じて変化するものを示量性と呼ぶ。", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "熱力学は多くの場合に古典力学や量子力学といった通常は少数系の問題を扱う「ミクロ系の物理学」では扱うのが非常に困難な多体系、それもアボガドロ数にも及ぶような多体の問題に適用される。したがって、ミクロ系の物理学では予想できないような結果を予測する理論として機能するが、全く独立な理論かといえばそういうわけでもなく、たとえば「エネルギー」といった概念は両者で使用される共通の概念になる。また、そういった概念も名前上の共通性にとどまらず、エネルギー保存則などの物理的法則も共通して存在し、互いに矛盾しないような内容になっている。", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この共通性を両者に普遍的な自然法則として解釈するのか、本来個別であるべきだが偶然共通に見えているのかといった自由がある。前者に近い立場をとり、そうした普遍性をミクロ系の物理学のものと考える立場を", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "と、また、後者に近い立場をとって、個別なものとして議論する立場を", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "として清水 2007, p. では紹介している。", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "多くの熱力学では温度、圧力、体積、物質量を基本的な変数として出発点に用いている。しかし他にもエントロピーなどを出発点に用いて、温度や圧力は用いないスタイルもある。 示量性変数だけを用いる必要性は、たとえば融点上の熱力学系の状態は、温度を用いる限り一対一で表すことができないことなどによる。", "title": "熱力学の論理展開" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "平衡状態の系が満たすべき性質から、マクロな熱力学の体系と整合するように、ミクロな(量子)力学の体系から要請される確率分布を導入したのが、平衡統計力学であると言って良い。 このように熱力学は統計力学を基礎づけるもので、統計力学は熱力学を説明しない。熱力学的現象を徹底的に整理し、熱力学法則を確立したからこそ、物質の性質をよりミクロに捉えることが可能になった。", "title": "統計力学との関係" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "熱力学の基本原理に関する話題として、統計力学の等確率の原理と熱力学の関係がある。等確率の原理は統計力学が熱力学の平衡状態を再現するために導入される仮定であり、熱力学を微視的な視点から基礎づける原理ではない。", "title": "統計力学との関係" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "平衡熱力学の範疇では、系が平衡状態から別の平衡状態へ遷移する過程(熱力学的な操作)を扱うが、一般の過程は準静的ではなく中間状態は非平衡となってもよい。一方で (現在の) 平衡統計力学は個々の平衡状態を議論することはできるが、平衡状態から別の平衡状態へ系を移す一般の過程は扱えない。", "title": "統計力学との関係" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "第一法則及び第二法則は、ルドルフ・クラウジウスによって定式化された。", "title": "熱力学の法則" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "第零法則は、温度が一意に定まることを示している。", "title": "熱力学の法則" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "第一法則は、閉鎖された空間では外部との物質や熱、仕事のやり取りがない限り、エネルギーの総量に変化はないということを示している。", "title": "熱力学の法則" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "第二法則は、エネルギーを他の種類のエネルギーに変換する際、必ず一部分が熱に変換されるということ、そして、熱を完全に他の種類のエネルギーに変換することは不可能であるということを示している。つまり、どんな種類のエネルギーも最終的には熱に変換され、どの種類のエネルギーにも変換できずに再利用が不可能になるということを示している。なお、エントロピーの意味は熱力学の枠内では理解しにくいが、微視的な乱雑さの尺度であるということが統計力学から明らかにされる。", "title": "熱力学の法則" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "第三法則は、絶対零度よりも低い温度はありえないことを示している。", "title": "熱力学の法則" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "熱力学的系とは考えている世界の一部である。現実あるいは仮想の境界が系と残りの世界を分離する。その残りの世界は外界と呼ばれる。熱力学的系は境界の特徴により分類される。", "title": "熱力学的系" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "内部エネルギーのうち仕事として取り出すことのできる分として「自由エネルギー」(条件によってギブズエネルギーあるいはヘルムホルツエネルギーを用いる)が定義される。熱力学第二法則から、", "title": "基本法則からの発展と応用" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ことが導かれる。このことは特に化学反応にも適用され、化学平衡定数 K は基準状態での自由エネルギー変化 ΔG と以下の関係にあることが示される。", "title": "基本法則からの発展と応用" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "R:気体定数、T:熱力学温度", "title": "基本法則からの発展と応用" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "なお、化学反応の時間的変化については別分野「反応速度論」として発展しているのでその項目を参照のこと。", "title": "基本法則からの発展と応用" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "平衡熱力学は、温度やエントロピーなど平衡状態の系を特徴付ける量を用いて系の状態を記述した。非平衡系においてもこのような特徴を持つ系が存在し、平衡系で与えられる量を用いて非平衡系を記述する方法が試みられた。 このような非平衡系の熱力学や統計力学は、その発展の初期には個別の現象に対してそれぞれ研究がなされていた。特に有名なものは、ブラウン運動に関するアルベルト・アインシュタインの研究や、熱雑音に関するハリー・ナイキストの仕事である。 非平衡熱力学が統一的な体系として整理されはじめたのは1930年代ごろのことで、ラルス・オンサーガー、イリヤ・プリゴジンなどの仕事が有名である。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "基礎的な理論として線形非平衡熱力学がある。ここでは、「局所的平衡」(局所的には上記の平衡熱力学の理論と熱力学変数の関係式が成り立つ)を仮定する。また、時間的変化を示す流れと、流れの原因となる熱力学的力(あるポテンシャルの空間的勾配)という概念を導入する。具体的には次のようなものである:", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "ここで熱力学的力は、流れと力の積が局所エントロピー生成(エントロピー密度の時間微分)となるようにとるものとする。すると各流れ J と力 X の間には次の比例関係が成り立つ。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "これは各成分について書き下せば次のようになる。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "系の微視的な状態について、時間反転対称性が成り立ち状態の遷移が「可逆」であるならば、すなわち順方向の遷移とその逆方向の遷移の確率が等しいならば、係数行列 L は対称になる。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "これをオンサーガーの相反定理という。微視的可逆性の原理は、外部磁場やコリオリ力がある系に対しては成り立たなくなるため、同様に相反定理も外部磁場中の系や回転系に対しては成立しない。なお、化学反応(流れ)と親和力(反応前後での化学ポテンシャル差)の間も上記と同様の流れ・力の関係が書けるが、これはスカラーであるため、ベクトルである上記の流れ・力とは一般には交差しない(キュリーの原理)。ただし非等方的な系ではこの限りでなく、生体膜(化学反応と物質移動の共役)や界面などの例がある。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "このような流れの様子が時間変化しないのが定常状態であるが、その条件として「流れによるエントロピー生成が極小である」ということがイリヤ・プリゴジンにより示されている。", "title": "非平衡熱力学" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "その後さらにプリゴジンの『散逸構造論』など、非線形の領域に拡張された非平衡熱力学が研究されている。", "title": "非平衡熱力学" } ]
熱力学は、物理学の一分野で、熱や物質の輸送現象やそれに伴う力学的な仕事についてを、系の巨視的性質から扱う学問。アボガドロ定数個程度の分子から成る物質の巨視的な性質を巨視的な物理量(エネルギー、温度、エントロピー、圧力、体積、物質量または分子数、化学ポテンシャルなど)を用いて記述する。
{{Thermodynamics sidebar}} {{Wikibooks|熱力学|熱力学}} '''熱力学'''(ねつりきがく、{{lang-en-short|thermodynamics}})は、[[物理学]]の一分野で、[[熱]]や[[物質]]の[[移動現象論|輸送現象]]やそれに伴う[[力学]]的な[[仕事 (物理学)|仕事]]についてを、[[系 (自然科学)|系]]の[[巨視的]]性質から扱う[[学問]]。[[アボガドロ定数]]個程度の[[分子]]から成る物質の巨視的な性質を巨視的な[[物理量]]([[エネルギー]]、[[温度]]、[[エントロピー]]、[[圧力]]、[[体積]]、[[物質量]]または[[分子数]]、[[化学ポテンシャル]]など)を用いて記述する。 == 概要 == 熱力学には大きく分けて「'''平衡系の熱力学'''」と「'''非平衡系の熱力学'''」がある。「非平衡系の熱力学」はまだ、限られた状況でしか成り立たないような理論しかできていないので、単に「熱力学」と言えば、普通は「平衡系の熱力学」のことを指す{{sfn|清水|2007|p={{要ページ番号|date=2022-10-23}}}}。両者を区別する場合、平衡系の熱力学を'''[[平衡熱力学]]''' ({{en|equilibrium thermodynamics}}<ref name="beyond">Öttinger, H. C. (2005). Beyond equilibrium thermodynamics. John Wiley & Sons.</ref><ref name="adkins">Adkins, C. J., & Adkins, C. J. (1983). Equilibrium thermodynamics. Cambridge University Press.</ref>)、非平衡系の熱力学を'''非平衡熱力学''' ({{en|non-equilibrium thermodynamics}}<ref name="gm">De Groot, S. R., & Mazur, P. (2013). Non-equilibrium thermodynamics. Courier Corporation.</ref><ref name="gy">Gyarmati, I. (1970). Non-equilibrium thermodynamics (pp. 1-184). Berlin: Springer.</ref><ref name="lebon">Lebon, G., Jou, D., & Casas-Vázquez, J. (2008). Understanding non-equilibrium thermodynamics (Vol. 295). Berlin: Springer.</ref>) と呼ぶ。 ここでいう'''平衡''' ({{en|equilibrium}}) とは[[熱力学的平衡]]、つまり熱平衡、力学的平衡、化学平衡の三者を意味し、系の熱力学的(巨視的)状態量が変化しない状態を意味する。 平衡熱力学は(すなわち通常の熱力学は)、系の平衡状態とそれぞれの平衡状態を結ぶ過程とによって特徴付ける。平衡熱力学において扱う過程は、その始状態と終状態が平衡状態であるということを除いて、系の状態に制限を与えない。 熱力学と関係の深い物理学の分野として[[統計力学]]がある<ref name="tolman">Tolman, R. C. (1979). The principles of statistical mechanics. Courier Corporation.</ref><ref name="ruelle">Ruelle, D. (1999). Statistical mechanics: Rigorous results. World Scientific.</ref><ref name="thompson">Thompson, C. J. (2015). Mathematical statistical mechanics. Princeton University Press.</ref>。統計力学は熱力学を[[古典力学]]や[[量子力学]]の立場から説明する試みであり、熱力学と統計力学は体系としては独立している。しかしながら、系の平衡状態を統計力学的に記述し、系の状態の遷移については熱力学によって記述するといったように、一つの現象や定理に対して両者の結果を援用している<ref>[[伏見康治]]「[[確率論及統計論]]」第VI章 物理工学に於ける揺らぎの現象 60節 熱力学の諸量の揺らぎ p.345 http://ebsa.ism.ac.jp/ebooks/ebook/204</ref> == 歴史 == {{main|熱力学・統計力学の年表}} === 前史 === [[File:Carnot engine (hot body - working body - cold body).jpg|thumb|300px|1824年のオリジナルのカルノー熱機関図に着色し注釈を加えたもの。高温体 (ボイラー)、作業体 (蒸気)、および低温体 (水) を示し、文字はカルノーサイクルの停止点に従っている。]] 18世紀後半にイギリスの[[ジョゼフ・ブラック]]が[[熱容量]]と[[潜熱]]の概念を発見し、[[温度]]と熱の概念を分離したことで熱に関する本格的な研究が始まり{{sfn|富永|2003|pp=4&ndash;6}}、これを受けて18世紀末には[[熱学]]が生まれた{{sfn|富永|2003|p=7}}。 一方18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで[[蒸気機関]]が発明・改良されたが、[[ジェームズ・ワット]]がブラックの影響を受けて[[復水器]]を独立させるなどの影響はあったものの{{sfn|富永|2003|p=12}}、基本的には学問的成果を応用したものでなく専ら経験的に進められたものであった{{sfn|セン|2021|pp=16&ndash;20}}。またこの頃[[気体]]の性質が研究され、1662年に[[ロバート・ボイル]]によって[[ボイルの法則]]が発表され{{sfn|『ニュートン別冊 ビジュアル物理』|2016|p=111}}、1787年に[[ジャック・シャルル]]によって発見された[[シャルルの法則]]が{{sfn|『ニュートン別冊 ビジュアル物理』|2016|p=108}}1802年に[[ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック]]によって発表されて、[[ゲイ=リュサックの法則]]が成立し、これらの法則が[[ボイル=シャルルの法則]]([[理想気体]]の性質)としてまとめられた{{sfn|富永|2003|p=29}}。しかしこのころは、まだ[[アントワーヌ・ラヴォアジエ]]らによって唱えられていた、熱を物質と考える[[カロリック説|熱素説]]が有力であった{{sfn|セン|2021|pp=24&ndash;25}}。 なお1820年代、[[ジョゼフ・フーリエ]]が[[熱伝導]]の研究を発表したが、これは熱力学とは直接関係なく、むしろ[[フーリエ変換]]など後世の数学の基礎から工学的な応用に至るまで多大な影響を及ぼすこととなった<ref>[[大石進一]]. フーリエ解析. [[岩波書店]].</ref><ref>Bracewell, R. N., & Bracewell, R. N. (1986). The Fourier transform and its applications (Vol. 31999). New York: McGraw-Hill.</ref><ref>Bell, R. (2012). Introductory Fourier transform spectroscopy. Elsevier.</ref>。また、熱伝導に関する研究はこれ以前に[[アイザック・ニュートン|ニュートン]]による[[ニュートンの冷却の法則|冷却の法則]]がある。 === 熱力学の成立 === [[File:Eight founding schools.png|400px|thumb|熱力学各学派の創始者。左上から順に、サディ・カルノー、ウィリアム・トムソン、ルドルフ・クラウジウス、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、ルートヴィッヒ・ボルツマン、ウィラード・ギブズ、[[グスタフ・ツォイナー]]、[[ヨハネス・ファン・デル・ワールス]]]] 1820年代になると、[[ニコラ・レオナール・サディ・カルノー|サディ・カルノー]]が[[熱機関]]の科学的研究を目的として仮想熱機関として[[カルノーサイクル]]による研究を行い、ここに本格的な熱力学の研究が始まった{{sfn|富永|2003|pp=1&ndash;2}}。この研究結果は[[熱力学第二法則]]と[[エントロピー]]概念の重要性を示唆するものであったが、カルノーは熱素説に捉われたまま早世し、重要性が認識されるにはさらに時間がかかった。 熱をエネルギーの一形態と捉え[[エネルギー保存の法則]]、つまり[[熱力学第一法則]]をはじめて提唱したのは[[ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー|ロベルト・マイヤー]]である。彼の論文は1842年に発表されたが全く注目されなかった。 一方、イギリスでは1843年に[[ジェームズ・プレスコット・ジュール]]が熱が仕事へと変換可能であると考え、[[熱の仕事当量]]を求める測定を行った。この研究も当初は全く注目されなかったが、1847年に[[ウィリアム・トムソン]](ケルヴィン卿)の知るところとなった{{sfn|セン|2021|pp=44&ndash;50}}。トムソンは1849年にカルノーの説を再発表する一方で、ジュールの説も否定せず、むしろこの発表で脚注として取り上げることで、ジュールの論をも広く知らせることとなった{{sfn|セン|2021|pp=56&ndash;60}}。[[ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ]]は1847年の論文で、[[エネルギー保存の法則]]について示している{{sfn|セン|2021|pp=69&ndash;72}}。やがて1850年、ジュールやトムソン、ヘルムホルツの論文をもとに[[ルドルフ・クラウジウス]]がカルノーとジュールの説を統合し、熱力学第一法則および熱力学第二法則を完全な形で定義した{{sfn|セン|2021|pp=75&ndash;83}}。クラウジウスによる熱力学第二法則はクラウジウスの原理と呼ばれる。1851年には、トムソンも別の表現で熱力学第二法則に到達し、トムソンの原理と呼ばれるようになった{{sfn|富永|2003|p=34}}。この両原理は同一のものであると簡単に証明できたため、こうして1850年代には熱力学第二法則が確立された{{sfn|富永|2003|p=53}}。 トムソンは1854年に[[絶対温度]]の概念にも到達した{{sfn|セン|2021|pp=88&ndash;92}}。1865年にはクラウジウスが、カルノーサイクルの数学的解析からエントロピーの概念の重要性を明らかにした。エントロピーの命名もクラウジウスによるものである{{sfn|セン|2021|pp=93&ndash;97}}。 19世紀後半になると、ヘルムホルツによって自由エネルギーが、また[[ウィラード・ギブズ]]によって化学ポテンシャルが導入され、[[化学平衡]]などを含む広い範囲の現象を熱力学で論じることが可能になった。 一方、[[ルートヴィッヒ・ボルツマン]]や[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]さらにはギブズによって、分子論の立場に立って、分子の挙動を平均化して扱い熱力学的なマクロの現象を説明する理論、[[統計力学]]が創始された{{sfn|岡部|2008|pp=2&ndash;3}}、。これにより、熱力学的諸概念と分子論をつなぎ合わせることを具体的に解釈できるようにした。 1905年の[[アルベルト・アインシュタイン]]による[[ブラウン運動]]の定式化と、1908年の[[ジャン・ペラン]]の実験は、分子論の正当性を示し、また確率過程論や統計物理学の応用の発展にも寄与した{{sfn|セン|2021|pp=198&ndash;202}}。 1999年に[[エリオット・リーブ]]と[[ヤコブ・イングヴァソン]]は、「[[断熱的到達可能性]]」という概念を導入して熱力学を再構築した{{sfn|Lieb|Yngvason|1999}}<ref>エリオット・リーブ, ヤコブ・イングヴァソン:「エントロピー再考」,[[田崎晴明]]訳,「[[パリティ (雑誌)|パリティ]]」,[[丸善雄松堂|丸善]], Vol.16, No.08, pp.4-12, (2001)</ref>。 「状態 Y が状態 X から断熱操作で到達可能である」ことを<math>X \prec Y</math>と表記し、この「<math>\prec</math>」の性質からエントロピーの存在と一意性を示した。 この公理的に基礎付けされた熱力学によって、クラウジウスの方法で用いられていた「熱い・冷たい」「熱」のような直感的で無定義な概念を基礎から排除した。温度は無定義な量ではなくエントロピーから導出される。 このリーブとイングヴァソンによる再構築以来、他にも熱力学を再構築する試みがいくつか行われている{{efn2|{{harvnb|佐々|2000}}、{{harvnb|清水|2007}}、{{harvnb|田崎|2000}}などを参照。}}。 == 熱力学の論理展開 == 熱力学には様々なスタイルがある{{sfn|清水|2007|p={{要ページ番号|date=2022-10-23}}}}。同じ内容の熱力学を得るのに、理論の出発地点となる基本的要請には様々な選び方がある。例えば多くの熱力学では、[[熱力学の法則]]を最も基本的な原理として採用している。しかし他の要請を選んで熱力学を展開していくスタイルもある。 さらに熱力学で用いるマクロ変数には[[示量性]]と[[示強性]]の 2 種類がある。例として、平衡状態の系を半分に分割することを考える。それぞれの系の温度は、分割する前後で変化しないが、体積や物質量、内部エネルギーはそれぞれ元の半分になる。簡単には、温度のように、分割に対して変化しないものを示強性、エネルギーのように分割した大きさに応じて変化するものを示量性と呼ぶ。 === ミクロ系の物理学との関係 === 熱力学は多くの場合に古典力学や量子力学といった通常は少数系の問題を扱う「ミクロ系の物理学」では扱うのが非常に困難な多体系、それもアボガドロ数にも及ぶような多体の問題に適用される。したがって、ミクロ系の物理学では予想できないような結果を予測する理論として機能するが、全く独立な理論かといえばそういうわけでもなく、たとえば「エネルギー」といった概念は両者で使用される共通の概念になる。また、そういった概念も名前上の共通性にとどまらず、エネルギー保存則などの物理的法則も共通して存在し、互いに矛盾しないような内容になっている。 この共通性を両者に普遍的な自然法則として解釈するのか、本来個別であるべきだが偶然共通に見えているのかといった自由がある。前者に近い立場をとり、そうした普遍性をミクロ系の物理学のものと考える立場を * 古典力学などのミクロ系の物理学の知識を用いる方法 と、また、後者に近い立場をとって、個別なものとして議論する立場を *ミクロ系の物理学の知識を用いず、熱力学だけで閉じた理論体系として論じる方法 として{{harvnb|清水|2007|p={{要ページ番号|date=2022-10-23}}}}では紹介している。 === 基本的な変数の選び方 === *[[示量性]]状態量だけを基本的な変数に選んで論理展開していく方法。 *基本的な変数の一部を、温度などの[[示強性]]におきかえて熱力学を展開していく方法{{sfn|清水|2007|p={{要ページ番号|date=2022-10-23}}}}。 多くの熱力学では[[温度]]、[[圧力]]、[[体積]]、[[物質量]]を基本的な変数として出発点に用いている。しかし他にも[[エントロピー]]などを出発点に用いて、温度や圧力は用いないスタイルもある{{efn2|{{harvnb|清水|2007}}や{{harvnb|Lieb| Yngvason|1999}}を参照。}}。 示量性変数だけを用いる必要性は、たとえば融点上の熱力学系の状態は、温度を用いる限り一対一で表すことができないことなどによる。 == 統計力学との関係 == 平衡状態の系が満たすべき性質から、マクロな熱力学の体系と整合するように、ミクロな(量子)力学の体系から要請される[[確率分布]]を導入したのが、平衡統計力学であると言って良い{{sfn|田崎|2008|p=81|loc=4-1-1. 平衡状態についてのマクロな経験事実}}。 このように熱力学は統計力学を基礎づけるもので、統計力学は熱力学を説明しない。熱力学的現象を徹底的に整理し、熱力学法則を確立したからこそ、物質の性質をよりミクロに捉えることが可能になった{{sfn|佐々|2000|p={{要ページ番号|date=2022-10-23}}}}。 熱力学の基本原理に関する話題として、統計力学の[[等確率の原理]]と熱力学の関係がある。等確率の原理は統計力学が熱力学の平衡状態を再現するために導入される仮定であり、熱力学を微視的な視点から基礎づける原理ではない{{sfn|田崎|2008|pp=88&ndash;90, 108}}。 平衡熱力学の範疇では、系が平衡状態から別の平衡状態へ[[遷移]]する過程(熱力学的な操作)を扱うが、一般の過程は準静的ではなく中間状態は非平衡となってもよい{{sfn|田崎|2000|p=112|loc=6-5. エントロピー増大則}}。一方で (現在の) 平衡統計力学は個々の平衡状態を議論することはできるが、平衡状態から別の平衡状態へ系を移す一般の過程は扱えない{{sfn|田崎|2000|p=14|loc=1-2. 熱力学と普遍性, 熱力学へのアプローチ}}。 == 熱力学の法則 == #[[熱力学第零法則]] #:系 A と B, B と C がそれぞれ熱平衡ならば、A と C も熱平衡にある。 #[[熱力学第一法則]]([[エネルギー保存則]]) #:系(閉鎖系)の内部エネルギー {{mvar|U}} の変化 {{math|d''U''}} は、外界から系に入った熱 {{math|&delta;''Q''}} と外界から系に対して行われた仕事{{math|&delta;''W''}} の和に等しい。 #::<math>dU=\delta{}Q+\delta{}W.</math> #:さらに一般に、外界と物質を交換しうる系(開放系)では、外界から系に物質が流入することによる系のエネルギーの増加量 {{math|&delta;''Z''}} も加わることになる。 #::<math>dU=\delta{}Q+\delta{}W+\delta{}Z.</math> #[[熱力学第二法則]] ##熱を低温の物体から高温の物体へ移動させ、それ以外に何の変化も起こさないような過程は実現不可能である。(クラウジウスの原理) ##温度の一様な一つの物体から取った熱を全て仕事に変換し、それ以外に何の変化も起こさないような過程は実現不可能である。(トムソン(ケルヴィン)の原理<ref>[http://scienceworld.wolfram.com/biography/Kelvin.html Kelvin, Lord William Thomson (1824-1907) from Wolfram science world]</ref>) ##[[永久機関|第二種永久機関]]は実現不可能である。(オストヴァルトの原理) ###厳密には第三法則(絶対零度の到達不可能)が必要。 ###第二法則は第二種永久機関が実現するためには低温熱源が絶対零度である必要があると述べているだけで、第二種永久機関が実現不可能とまでは言っていない。 ##断熱系で不可逆変化が起こるとき、エントロピーは必ず増加する。可逆的な変化ではエントロピーの増加はゼロとなる。(エントロピー増大の原理・クラウジウスの不等式) #[[熱力学第三法則]](ネルンスト・プランクの仮説) #:絶対零度でエントロピーはゼロになる。 #::<math>\lim_{T\to{}0} S = 0.</math> 第一法則及び第二法則は、[[ルドルフ・クラウジウス]]によって定式化された。 === より百科事典的な説明 === 第零法則は、温度が一意に定まることを示している。 第一法則は、閉鎖された空間では外部との物質や熱、仕事のやり取りがない限り、エネルギーの総量に変化はないということを示している。 第二法則は、エネルギーを他の種類のエネルギーに変換する際、必ず一部分が熱に変換されるということ、そして、熱を完全に他の種類のエネルギーに変換することは不可能であるということを示している。つまり、どんな種類のエネルギーも最終的には熱に変換され、どの種類のエネルギーにも変換できずに再利用が不可能になるということを示している。なお、エントロピーの意味は熱力学の枠内では理解しにくいが、微視的な'''乱雑さ'''の尺度であるということが[[統計力学]]から明らかにされる<ref name="tolman"/><ref name="ruelle"/><ref name="thompson"/>。 第三法則は、絶対零度よりも低い温度はありえないことを示している。 == 熱力学的系 == {{main|熱力学系}} 熱力学的系とは考えている[[世界]]の一部である。現実あるいは仮想の境界が系と残りの世界を分離する。その残りの世界は外界と呼ばれる。熱力学的系は境界の特徴により分類される。 *孤立系 - 外界から完全に独立した系。たとえば[[宇宙]]はその全体で一つの孤立系である。 *閉鎖系 - 系と外界との間で熱の移動は許されるが、物質の移動は許されない。[[温室]]がその例である。 *開放系 - 系と外界との間で熱と物質ともに移動が許される。 == 基本法則からの発展と応用 == 内部エネルギーのうち仕事として取り出すことのできる分として「自由エネルギー」(条件によって[[ギブズエネルギー]]あるいは[[ヘルムホルツエネルギー]]を用いる)が定義される。熱力学第二法則から、 :「自発的変化は自由エネルギーが減少する方向へ進む」 :「自由エネルギーが一定であれば系は平衡状態にある」 ことが導かれる。このことは特に[[化学反応]]にも適用され、[[平衡定数|化学平衡定数]] {{mvar|K}} は基準状態での自由エネルギー変化 {{math|&Delta;''G''}} と以下の関係にあることが示される。 :<math>\Delta G = -RT\ln K.</math> {{mvar|R}}:[[気体定数]]、{{mvar|T}}:[[熱力学温度]] なお、[[化学反応]]の時間的変化については別分野「[[反応速度論]]」<ref>Steinfeld, J. I., Francisco, J. S., & Hase, W. L. (1989). Chemical kinetics and dynamics (Vol. 3). Englewood Cliffs (New Jersey): Prentice Hall.</ref><ref>Espenson, J. H. (1995). Chemical kinetics and reaction mechanisms (Vol. 102). New York: McGraw-Hill.</ref><ref>Frank-Kamenetskii, D. A. (2015). Diffusion and heat exchange in chemical kinetics. Princeton University Press.</ref><ref>Connors, K. A. (1990). Chemical kinetics: the study of reaction rates in solution. Wiley-VCH Verlag GmbH.</ref>として発展しているのでその項目を参照のこと。 == 非平衡熱力学 == 平衡熱力学は、[[温度]]やエントロピーなど平衡状態の系を特徴付ける量を用いて系の状態を記述した<ref name="beyond"/><ref name="adkins"/>。非平衡系においてもこのような特徴を持つ系が存在し、平衡系で与えられる量を用いて非平衡系を記述する方法が試みられた<ref name="gm"/><ref name="gy"/><ref name="lebon"/>。 このような非平衡系の熱力学や統計力学は、その発展の初期には個別の現象に対してそれぞれ研究がなされていた<ref name="gm"/><ref name="gy"/><ref name="lebon"/>。特に有名なものは、[[ブラウン運動]]に関する[[アルベルト・アインシュタイン]]の研究や<ref>Knight, F. B. (1981). Essentials of Brownian motion and diffusion (No. 18). American Mathematical Soc..</ref>、[[熱雑音]]に関する[[ハリー・ナイキスト]]の仕事である。 '''非平衡熱力学'''が統一的な体系として整理されはじめたのは1930年代ごろのことで、[[ラルス・オンサーガー]]、[[イリヤ・プリゴジン]]などの仕事が有名である<ref name="gm"/><ref name="gy"/><ref name="lebon"/>。 === 線形応答理論 === {{main|線形応答理論|相反定理}} 基礎的な理論として'''[[線形非平衡熱力学]]'''がある。ここでは、「局所的平衡」(局所的には上記の平衡熱力学の理論と熱力学変数の関係式が成り立つ)を仮定する。また、時間的変化を示す'''流れ'''と、流れの原因となる'''熱力学的力'''(あるポテンシャルの空間的勾配)という概念を導入する。具体的には次のようなものである: {|class=wikitable ! 流れるもの!!「力」の原因 |- ||電気(電荷)||電位 |- ||密度(質量)||圧力(物質全体)<br />化学ポテンシャル(各物質) |- |熱||温度 |} ここで熱力学的力は、流れと力の積が局所エントロピー生成(エントロピー密度の時間微分)となるようにとるものとする。すると各流れ {{mvar|'''J'''}} と力 {{mvar|'''X'''}} の間には次の比例関係が成り立つ<ref name="reciprocal">{{cite journal|和書|author=[[ラルス・オンサーガー]]|others=井口和基 訳|title=オンサーガーの不可逆過程の熱力学|url=https://doi.org/10.14989/178097|journal=物性研究・電子版|publisher=物性研究・電子版 編集委員会|volume=2|issue=3|accessdate=2014-06-27|ref=reciprocal}}</ref>。 :<math>\boldsymbol{J} = \mathrm{L}\boldsymbol{X}.</math> これは各成分について書き下せば次のようになる。 :<math>J_i = \sum_j L_{ij}X_j\,.</math> 系の微視的な状態について、[[時間反転対称性]]が成り立ち状態の遷移が「可逆」であるならば、すなわち順方向の遷移とその逆方向の遷移の確率が等しいならば、係数行列 {{math|L}} は[[対称行列|対称]]になる<ref name="reciprocal"/>。 :<math>L_{ij}=L_{ji} \quad (\mathrm{L} = \mathrm{L}^\mathrm{T}).</math> これを[[オンサーガーの相反定理]]という。微視的可逆性の原理は、外部[[磁場]]や[[コリオリ力]]がある系に対しては成り立たなくなるため、同様に相反定理も外部磁場中の系や回転系に対しては成立しない<ref name="reciprocal"/>。なお、[[化学反応]](流れ)と親和力(反応前後での化学ポテンシャル差)の間も上記と同様の流れ・力の関係が書けるが、これは[[スカラー (物理学)|スカラー]]であるため、[[空間ベクトル|ベクトル]]である上記の流れ・力とは一般には交差しない([[キュリーの原理]])。ただし非[[等方的]]な系ではこの限りでなく、[[生体膜]](化学反応と[[物質移動]]の共役)や[[界面]]などの例がある。 このような流れの様子が時間変化しないのが'''定常状態'''であるが、その条件として「流れによるエントロピー生成が極小である」ということが[[イリヤ・プリゴジン]]により示されている。 その後さらにプリゴジンの『[[散逸構造]]論』など、非線形の領域に拡張された非平衡熱力学が研究されている<ref>Gunter, P. A. (1991). Bergson and non-linear non-equilibrium thermodynamics: An application of method. Revue internationale de philosophie, 108-121.</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == === 論文 === * {{Cite journal |last1=Lieb |first1=E. H. |last2=Yngvason |first2=J. |title=The Physics and mathematics of the second law of thermodynamics |journal=Phys. Rept. |volume=310 |pages=1 |date=1999-01-28 |arxiv=cond-mat/9708200 |doi=10.1016/S0370-1573(98)00082-9 |ref=harv}} === 書籍 === *{{Cite book |和書 |last=佐々 |first=真一 |author-link=佐々真一 |date=2000 |title=熱力学入門 |publisher=[[共立出版]] |isbn=978-4320033474 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |last=田崎 |first=晴明 |author-link=田崎晴明 |date=2000 |title=熱力学―現代的な視点から |publisher=[[培風館]] |series=新物理学シリーズ |isbn=978-4-563-02432-1 |ref=harv}} *{{Cite book |和書 |last=清水 |first=明 |author-link=清水明 |date=2007 |title=熱力学の基礎 |publisher=[[東大出版会]] |isbn=978-4-13-062609-5 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |last=田崎 |first=晴明 |author-link=田崎晴明 |date=2008 |title=統計力学 I |publisher=培風館 |isbn=978-4-563-02437-6 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |last=山本 |first=義隆 |author-link=山本義隆 |date=1987 |title=熱学思想の史的展開 |publisher=現代数学社 |isbn=4-7687-0301-1 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |last=富永 |first=昭 |date=2003-11-01 |title=誕生と変遷にまなぶ熱力学の基礎 |publisher=内田老鶴圃 |isbn=978-4753620722 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |date=2016-04-25 |title=ニュートン別冊 ビジュアル物理 |publisher=ニュートンプレス |isbn=978-4315520408 |ref={{SfnRef|『ニュートン別冊 ビジュアル物理』|2016}}}} * {{Cite book |和書 |first=ポール |last=セン |translator=水谷淳 |date=2021-06-25 |title=宇宙を解く唯一の科学 熱力学 |publisher=河出書房新社 |isbn=978-4309254289 |ref=harv}} * {{Cite book |和書 |last=岡部 |first=豊 |date=2008 |title=熱・統計力学(朝倉物理学選書4) |publisher=朝倉書店 |isbn=978-4-254-13759-0|ref=harv}} == 関連書籍 == {{div col|rules=yes}} * {{Cite book |和書 |author=久保亮五 |title=大学演習 熱学・統計力学 |publisher=裳華房 |edition=修訂版 |isbn=978-4785380328 |ref=kuboryo}} * {{Cite book |和書 |last=Callen |first=H. 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海外
海外(かいがい)とは、北極・南極・外国など「海洋の外にある場所」。国の外を総じて「国外」(こくがい)と言うが、日本・オーストラリアなど海に囲まれている国は「『国外』を『海外』」と言うのが一般的。 相当する英単語にoversea(s)がある(形容詞にも名詞にも使われるが、名詞は原則複数形)。 「海内」は漢籍には有るが現代では遣われておらず対義語としては「国内」と言うのが一般的。 「海外」という語と概念は新しいものではない。 漢籍では、『詩経・商頌・長発』に用例「相土烈烈 海外有截」がある。これは中国の文献だが、すでに「外国」の意味で使われている。 日本の文献では、『続日本紀』の天平勝宝5年(753年)に用例がある。『続日本紀』は漢文だが、日本語の文献では『九冊本宝物集』(ca.1179) がある。 英語のoverseasは古英語(5世紀〜12世紀)にさかのぼる。 現代では地球規模の地理が把握され、20世紀以降は飛行機(空路)による海外旅行が確立しているが、五大陸の把握も曖昧だった頃は外国へ渡る手段は陸路か海路しかなく、後者の場合は冒険や探検の意味合いが強かった。15世紀に始まった大航海時代を経て、帆船による航路が確立されると、大洋を隔てた海外への渡航は飛行船へと引き継がれた。上記の歴史的経緯から、ここで言う海とは多くの場合大洋を指し、海の外であっても歴史的観念上では近距離のものは含んでいなかった。 海外という概念は、未知の世界へ乗り出した帆船航路開拓時代までの名残りであり、海外への移動手段の主役が船舶から飛行機へ移った現代でも、多くの名残りがみられる。 アメリカ軍では、overseasを「Any area of the world other than the CONUS (合衆国本土以外の全世界)」と定義している。ここでの合衆国本土 (CONUS; Continental United States) とは、アラスカとハワイを除く48州1特別区である。つまり、グアムやプエルトリコなどの属領はもちろん、アラスカとハワイもoverseasである。ただし海外勤務章 (Overseas Service Ribbon) に関しては、アラスカとハワイは別の(overseasとは無関係な)規定によって特別扱いされ、アラスカやハワイでの勤務によりOSRが授与されることはない。 まれに、overseasをヨーロッパ・アジア・アフリカに限り、南北アメリカは含めないこともある。 単独島国ではないが、島国のイギリスでは、イギリスおよび、国境(英語版)を接するアイルランド以外の国々を指す。 単独島(大陸)国のオーストラリアではオーストラリア国外のことを海外という。 本土がユーラシア大陸と陸続きの大韓民国では、ユーラシア大陸内にある他のアジア・ヨーロッパ諸国への訪問は本来であれば「海外」ではないが、北朝鮮との軍事境界線により事実上陸路で他国への移動ができず、他国を訪問する際には航空機や船舶を利用して海を超える必要があることから、「海外」(ヘウェ、해외)という表現が広く使われている。 「国外」と同義に使われる。但し、香港・マカオ・台湾を含むかどうかは、場合によって異なる。 「国外」と同義に使われる場合と、より狭く「欧米諸国」と同義に使われる場合とがある。 太平洋戦争戦前または戦中は、当時日本領だった朝鮮・台湾・南樺太は海外に含めなかったが、委任統治領にすぎなかった南洋諸島は海外だった。ただし、現代の文献で当時について言及する場合、それらはすべて海外とするのが普通である(この場合「国外」や「外国」に置き換えるのは難しい)。 現代では使われないが、「畿内以外」という意味もある。また、『日葡辞書』(1603・04) には「世界の果て」という説明もある。
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海外(かいがい)とは、北極・南極・外国など「海洋の外にある場所」。国の外を総じて「国外」(こくがい)と言うが、日本・オーストラリアなど海に囲まれている国は「『国外』を『海外』」と言うのが一般的。 相当する英単語にoversea(s)がある(形容詞にも名詞にも使われるが、名詞は原則複数形)。 「海内」は漢籍には有るが現代では遣われておらず対義語としては「国内」と言うのが一般的。
{{WikipediaPage|記事が日本国内で見られているとは限らないという編集者向けの案内|Wikipedia:日本中心にならないように}} '''海外'''(かいがい)とは、[[北極]]・[[南極]]・[[外国]]など「[[海|海洋]]の外にある場所」。国の外を総じて「国外」(こくがい)と言うが、[[日本]]・[[オーストラリア]]など海に囲まれている国は「『国外』を『海外』」と言うのが一般的。 相当する[[英語|英単語]]に[[:en:wikt:oversea|{{En|oversea}}]][[:en:wikt:overseas|{{En|(s)}}]]がある([[形容詞]]にも[[名詞]]にも使われるが、名詞は原則[[複数形]])。 「海内」は[[漢籍]]には有るが現代では遣われておらず[[対義語]]としては「国内」と言うのが一般的。 == 語彙 == 「海外」という語と概念は新しいものではない。 漢籍では、『[[詩経]]・[[:zh:s:詩經/長發|商頌・長発]]』に用例「相土烈烈 海外有截」がある。これは[[中華人民共和国|中国]]の文献だが、すでに「外国」の意味で使われている<ref name="daijigen">『[[角川大字源]]』「海外」</ref>。 日本の文献では、『[[続日本紀]]』の[[天平勝宝]]5年([[753年]])に用例がある<ref name=kokugodaijiten>『[[日本国語大辞典]]』「海外」</ref><ref>[http://www.j-texts.com/jodai/shoku19.html 《巻首》続日本紀 巻第十九〈 起天平勝宝五年正月、尽八歳十二月 〉」]</ref>。『続日本紀』は[[漢文]]だが、[[日本語]]の文献では『九冊本[[宝物集]]』(ca.1179) がある<ref name=kokugodaijiten/>。 英語の{{En|overseas}}は[[古英語]](5世紀〜12世紀)にさかのぼる<ref>[http://dictionary.reference.com/browse/oversea Oversea | Define Oversea at Dictionary.com]</ref>。 == 近代 == {{出典の明記|date=2012年8月4日|section=1}} 現代では[[地球]]規模の地理が把握され、[[20世紀]]以降は[[飛行機]](空路)による[[海外旅行]]が確立しているが、[[大陸|五大陸]]の把握も曖昧だった頃は外国へ渡る手段は陸路か海路しかなく、後者の場合は[[冒険]]や[[探検]]の意味合いが強かった。[[15世紀]]に始まった大航海時代を経て、[[帆船]]による[[航路]]が確立されると、大洋を隔てた海外への渡航は[[飛行船]]へと引き継がれた。上記の歴史的経緯から、ここで言う海とは多くの場合[[大洋]]を指し、海の外であっても歴史的観念上では近距離のものは含んでいなかった{{矛盾|article=海外|section=各国にとっての海外|date=2014年8月}}。 海外という概念は、未知の世界へ乗り出した帆船航路開拓時代までの名残りであり、海外への移動手段の主役が[[船舶]]から飛行機へ移った現代でも、多くの名残りがみられる。 == 各国にとっての海外 == {{出典の明記|date=2012年8月4日|section=1}} <!--国や地域は五十音順で--> === アメリカ合衆国 === [[アメリカ軍]]では、{{En|overseas}}を「{{En|Any area of the world other than the [[アメリカ合衆国本土|CONUS]]}} (合衆国本土以外の全世界)」と定義している<ref name=navy>[http://doni.daps.dla.mil/Directives/01000%20Military%20Personnel%20Support/01-300%20Assignment%20and%20Distribution%20Services/1300.15A.PDF OPNAV INSTRUCTION 1300.15A] など各軍の同種の文書</ref>。ここでの合衆国本土 ({{En|CONUS; Continental United States)}} とは、[[アラスカ州|アラスカ]]と[[ハワイ州|ハワイ]]を除く48[[アメリカ合衆国の州|州]]1[[ワシントンD.C.|特別区]]である<ref name=navy/>。つまり、[[グアム]]や[[プエルトリコ]]などの[[アメリカ合衆国の海外領土|属領]]はもちろん、アラスカとハワイも{{En|overseas}}である。ただし[[海外勤務章]] ({{Interlang|en|Overseas Service Ribbon}}) に関しては、アラスカとハワイは別の({{En|overseas}}とは無関係な)規定によって特別扱いされ、アラスカやハワイでの勤務によりOSRが授与されることはない。 まれに、{{En|overseas}}を[[ヨーロッパ]]・[[アジア]]・[[アフリカ]]に限り、[[南北アメリカ]]は含めないこともある。 === イギリス === 単独島国ではないが、島国の[[イギリス]]では、イギリスおよび、{{仮リンク|アイルランド=イギリス国境|en|Republic of Ireland–United Kingdom border|label=国境}}を接する[[アイルランド]]以外の国々を指す{{要出典|date=2023年9月|title=英語版には同項目記事はない}}。 === オーストラリア === 単独島(大陸)国の[[オーストラリア]]ではオーストラリア国外のことを海外という。 === 韓国 === 本土が[[ユーラシア大陸]]と陸続きの[[大韓民国]]では、ユーラシア大陸内にある他のアジア・ヨーロッパ諸国への訪問は本来であれば「海外」ではないが、[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]との[[軍事境界線 (朝鮮半島)|軍事境界線]]により事実上陸路で他国への移動ができず、他国を訪問する際には[[航空機]]や船舶を利用して海を超える必要があることから{{疑問点|date=2014年8月|title=南北分断後に生まれた用法?}}、「海外」(ヘウェ、{{lang|ko|해외}})という表現が広く使われている。 === 中国大陸 === 「国外」と同義に使われる。但し、[[香港]]・[[マカオ]]・[[台湾]]を含むかどうかは、場合によって異なる。 === 日本 === 「国外」と同義に使われる場合<ref>{{Cite web |title=海外(かいがい)とは? 意味や使い方 |url=https://kotobank.jp/word/%E6%B5%B7%E5%A4%96-456849 |website=コトバンク |access-date=2023-09-20 |language=ja |first=精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,普及版 |last=字通}}</ref>と、より狭く{{要出典範囲|「欧米諸国」と同義に使われる場合|date=2023年9月}}とがある。 太平洋戦争戦前または戦中は、[[日本統治時代|当時日本領]]だった[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]・[[日本統治時代の台湾|台湾]]・[[樺太庁|南樺太]]は海外に含めなかったが、[[委任統治]]領にすぎなかった[[南洋諸島]]は海外だった。ただし、現代の文献で当時について言及する場合、それらはすべて海外とするのが普通である<ref>[https://cir.nii.ac.jp/all?q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE+%E6%B5%B7%E5%A4%96 CiNii Articles 検索&nbsp;-&nbsp;朝鮮 海外 戦前] の検索結果など</ref>(この場合「国外」や「外国」に置き換えるのは難しい)。 現代では使われないが、「[[畿内]]以外」という意味もある<ref name=daijigen/>。また、『[[日葡辞書]]』(1603・04) には「世界の果て」という説明もある<ref name=kokugodaijiten/>。 == 関連項目 == * [[世界の地理]] == 出典 == {{Reflist}} {{DEFAULTSORT:かいかい}} [[Category:社会]] [[Category:政治地理学]] [[Category:海]] [[Category:国際関係]]
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電磁気学
電磁気学(、英: electromagnetism)は、物理学の分野の1つであり、基本相互作用のひとつである電磁相互作用に関する現象を扱う学問である。工学分野では、電気磁気学と呼ばれることもある。電磁気学の基礎は、19世紀にスコットランドの科学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが導き出した、マクスウェルの方程式によって定式化された。マクスウェルの方程式は、「物理学における2番目の大きな統一」と呼ばれる。 本稿では学問としての電磁気学全般について述べるにとどめ、より詳細な理論については古典電磁気学、歴史については電磁気学の年表に譲る。 電磁気学は、電磁的現象を考察の対象とする。電磁的現象としては、 などが古来から知られている。現在では身の周りの殆ど全ての現象が電磁的現象として理解できる事が知られている。 電磁気学は、これらの電磁的現象を電荷と電磁場の相互作用として説明する理論体系である。 電荷は物質に固有の物理量であり、物質と電磁場との結び付きの強さを表す量である。また、電磁場は時空の各点が持っている物理量であり、物質間の電気的作用と磁気的作用を媒介する。 電磁場としては、スカラーポテンシャルとベクトルポテンシャルの組、もしくは電場と磁場の組を考える。特にこれらの組を区別したい場合には前者を電磁ポテンシャル、後者を電磁場と呼ぶことがある。また、電場・磁場は直接的観測が可能であるが電磁ポテンシャルは観測によって一意に定めることができない。しかし、電場・磁場では説明できないが電磁ポテンシャルでは記述できる現象が存在する(アハラノフ=ボーム効果など)ので、電磁ポテンシャルの方が本質的な物理量であると考えられている。 電磁場は電荷を帯びた物体に力を及ぼす。この力をローレンツ力という。逆に、荷電粒子の存在は電磁場に影響を与える。電磁場の振る舞い、及び電荷・電流が電磁場に与える影響はマクスウェル方程式で記述される。このローレンツ力とマクスウェル方程式は、電磁気学における最も基礎的な法則である。 マクスウェル方程式の解の1つとして、電磁場の波である電磁波が得られる。電磁波は、波長や発生機構によって呼び名が変わる。電気通信などに用いられる波長の長い電磁波は電波、それより波長が短くなると光(赤外線、可視光線、紫外線)、更に波長が短い電磁波は、X線、ガンマ線などと呼ばれる。 ローレンツ力が作用する導体中の電子の運動をオームの法則(電流は電場に比例する、という法則)で近似し、電場の時間変化による磁場の生成(マクスウェル方程式の一部)を無視すると、準定常電流の理論が得られる。この理論は、電気工学の基礎理論であり、現代のエレクトロニクスの基礎を成している。電場の強さ(電界強度)の単位は[V/m]なので、アンテナの実効長[m]または実効高[m]を掛けると、アンテナの誘起電圧 [V]になる。 電磁光学は、光は電磁波であるという立場から光の性質を論ずる学問である。ここでも電磁気学におけるマクスウェル方程式が基礎となっている。 19世紀末、多くの物理学者は「全ての物理現象はニュートン力学、ローレンツ力、マクスウェル方程式で原理的には説明できる」と考えていた。 しかしその後、ニュートン力学と電磁気学では説明できない現象が次々に発見された。光電効果、黒体放射のエネルギー密度、コンプトン効果は光を粒子であると考えると説明できるが、このことは電磁気学における「光は電磁波である」という描像に反する。また、電磁気学によればラザフォードの原子模型は安定に存在しえないことが結論づけられるが、実際の原子は安定である。 ニュートン力学・電磁気学で記述できないようなこれらの現象を記述しようと努力した結果が、量子力学という全く新しい物理学の誕生である。 1940年代には、電磁気学の量子論である量子電磁力学(QED)が完成した。量子電磁力学では、電磁場と荷電粒子の場の両方が量子化され、荷電粒子間の相互作用は電磁場の量子である光子の交換として理解される。 マクスウェル方程式によると、真空中の電磁波の速度は慣性系の選び方によらない基本的な物理定数(電気定数と磁気定数)だけで定まる。実際、真空中の光速は慣性系によらず一定であること(光速度不変の原理)は実験的に立証されている。特殊相対性理論は、この光速度不変の原理と特殊相対性原理を指導原理として、アインシュタインが構築した理論である。
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電磁気学(でんじきがく、は、物理学の分野の1つであり、基本相互作用のひとつである電磁相互作用に関する現象を扱う学問である。工学分野では、電気磁気学と呼ばれることもある。電磁気学の基礎は、19世紀にスコットランドの科学者ジェームズ・クラーク・マクスウェルが導き出した、マクスウェルの方程式によって定式化された。マクスウェルの方程式は、「物理学における2番目の大きな統一」と呼ばれる。 本稿では学問としての電磁気学全般について述べるにとどめ、より詳細な理論については古典電磁気学、歴史については電磁気学の年表に譲る。
{{物理学}} {{読み仮名|'''電磁気学'''|でんじきがく|{{Lang-en-short|electromagnetism}}<ref name="gp">Grant, I. S., & Phillips, W. R. (2013). Electromagnetism. John Wiley & Sons.</ref><ref name="jones">Jones, D. S. (2013). The theory of electromagnetism. Elsevier.</ref><ref name="sf">Slater, J. C., & Frank, N. H. (1969). Electromagnetism. Courier Corporation.</ref><ref name="lc">Lorrain, P., & Corson, D. R. (1979). Electromagnetism. WH Freeman.</ref>}}は、[[物理学]]の分野の1つであり、[[基本相互作用]]のひとつである[[電磁相互作用]]に関する現象を扱う学問である。<ref name="gp"/><ref name="jones"/><ref name="sf"/><ref name="lc"/>[[工学]]分野では、'''電気磁気学'''と呼ばれることもある。<ref>山田直平, & 桂井誠. (1983). 電気磁気学. オーム社.</ref>電磁気学の基礎は、19世紀に[[スコットランド]]の科学者[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が導き出した、[[マクスウェルの方程式]]によって定式化された。マクスウェルの方程式は、「物理学における2番目の大きな統一」と呼ばれる。<ref>{{cite journal|author=Nahin, P.J.|year=1992|title=Maxwell's grand unification|journal=IEEE Spectrum|volume=29|issue=3|page=45|doi=10.1109/6.123329|s2cid=28991366}}</ref> 本稿では学問としての電磁気学全般について述べるにとどめ、より詳細な理論については[[古典電磁気学]]、歴史については[[電磁気学の年表]]に譲る。 == 電磁気学の概要 == 電磁気学は、電磁的現象を考察の対象とする。電磁的現象としては、 * [[磁石]]が鉄を引き寄せる事 * 摩擦した[[琥珀]]が軽い物体を引き寄せる事 * [[雷]]や[[稲妻]] などが古来から知られている。<ref>杉沼義隆. (2004). 古代の伝承と歴史と雷. 電気学会誌, 124(3), 178-181.</ref><ref>Remillard, W. J. (1961). The history of thunder research. Weather, 16(8), 245-253.</ref>{{要出典範囲|現在では身の周りの殆ど全ての現象が電磁的現象として理解できる事が知られている|date=2020年1月}}。 電磁気学は、これらの電磁的現象を[[電荷]]と[[電磁場]]の[[相互作用]]として説明する理論体系である。<ref name="gp"/><ref name="jones"/><ref name="sf"/><ref name="lc"/> {{要出典範囲|電荷は[[物質]]に固有の[[物理量]]であり、物質と電磁場との結び付きの強さを表す量である|date=2020年1月}}。また、{{独自研究範囲|電磁場は[[時空]]の各点が持っている物理量であり|date=2020年1月}}、物質間の電気的作用と磁気的作用を媒介する。 電磁場としては、[[スカラーポテンシャル]]と[[ベクトルポテンシャル]]の組、もしくは[[電場]]と[[磁場]]の組を考える。特にこれらの組を区別したい場合には前者を[[電磁ポテンシャル]]、後者を[[電磁場]]と呼ぶことがある。また、電場・磁場は直接的観測が可能であるが電磁ポテンシャルは観測によって一意に定めることができない。しかし、電場・磁場では説明できないが電磁ポテンシャルでは記述できる現象が存在する([[アハラノフ=ボーム効果]]など)ので、{{要出典範囲|電磁ポテンシャルの方が本質的な物理量であると考えられている|date=2020年1月}}。 電磁場は電荷を帯びた物体に力を及ぼす。この力を[[ローレンツ力]]という。逆に、荷電粒子の存在は電磁場に影響を与える。電磁場の振る舞い、及び電荷・電流が電磁場に与える影響は[[マクスウェル方程式]]で記述される。<ref>小宮山進. (2016). マクスウェル方程式から始める電磁気学. 大学の物理教育, 22(2), 79-82.</ref><ref>北野正雄. (2009). マクスウェル方程式: 電磁気学のよりよい理解のために. [[サイエンス社]].</ref>このローレンツ力とマクスウェル方程式は、電磁気学における最も基礎的な法則である。 マクスウェル方程式の解の1つとして、電磁場の[[波動|波]]である[[電磁波]]が得られる。電磁波は、[[波長]]や発生機構によって呼び名が変わる。<ref>Staelin, D. H., Morgenthaler, A. W., & Kong, J. A. (1994). Electromagnetic waves. Pearson Education India.</ref>[[電気通信]]などに用いられる波長の長い電磁波は[[電波]]、それより波長が短くなると[[光]]([[赤外線]]、[[可視光線]]、[[紫外線]])、更に波長が短い電磁波は、[[X線]]、<ref>Als-Nielsen, J., & McMorrow, D. (2011). Elements of modern X-ray physics. John Wiley & Sons.</ref>[[ガンマ線]]などと呼ばれる。<ref>Gilmore, G. (2011). Practical gamma-ray spectroscopy. John Wiley & Sons.</ref> == 歴史 == {{See|電磁気学の年表}} == 電磁気学関連のSI単位 == {{SI電磁気単位}} == 他の分野との関連 == === 電気工学 === ローレンツ力が作用する[[電気伝導体|導体]]中の[[電子]]の運動を[[オームの法則]](電流は電場に[[比例]]する、という法則)で近似し、電場の時間変化による磁場の生成(マクスウェル方程式の一部)を無視すると、'''準定常電流の理論'''が得られる。この理論は、[[電気工学]]の基礎理論であり、現代の[[エレクトロニクス]]の基礎を成している。電場の強さ(電界強度)の単位は[V/m]なので、アンテナの実効長[m]または実効高[m]を掛けると、アンテナの誘起電圧 [V]になる。 === 電磁光学 === [[電磁光学]]は、光は電磁波であるという立場から光の性質を論ずる学問である。<ref>Born, M., & Wolf, E. (2013). Principles of optics: electromagnetic theory of propagation, interference and diffraction of light. Elsevier.</ref>ここでも電磁気学におけるマクスウェル方程式が基礎となっている。 === 量子力学 === 19世紀末、多くの物理学者は「全ての物理現象は[[ニュートン力学]]、ローレンツ力、マクスウェル方程式で原理的には説明できる」と考えていた。 しかしその後、ニュートン力学と電磁気学では説明できない現象が次々に発見された。[[光電効果]]、[[黒体放射]]のエネルギー密度、[[コンプトン効果]]は光を粒子であると考えると説明できるが、このことは電磁気学における「光は電磁波である」という描像に反する。また、電磁気学によれば[[ラザフォードの原子模型]]は安定に存在しえないことが結論づけられるが、実際の原子は安定である。 ニュートン力学・電磁気学で記述できないようなこれらの現象を記述しようと努力した結果が、[[量子力学]]という全く新しい物理学の誕生である。<ref>Sakurai, J. J., & Longman, A. W. (1976). Quantum mechanics. Addison-Wesley.</ref><ref>Flügge, S. (2012). Practical quantum mechanics. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Jammer, M. (1966). The conceptual development of quantum mechanics (pp. 96-97). New York: McGraw-Hill.</ref><ref>Ballentine, L. E. (2014). Quantum mechanics: a modern development. World Scientific Publishing Company.</ref> 1940年代には、電磁気学の量子論である[[量子電磁力学]](QED)が完成した。<ref>Greiner, W., & Reinhardt, J. (2008). Quantum electrodynamics. Springer Science & Business Media.</ref><ref>Białynicki-Birula, I., & Białynicka-Birula, Z. (2013). Quantum electrodynamics (Vol. 70). Elsevier.</ref><ref>木下東一郎. (1974). 量子電磁力学の現状. 日本物理学会誌, 29(6), 471-479.</ref>量子電磁力学では、電磁場と[[荷電粒子]]の場の両方が[[量子化 (物理学)|量子化]]され、荷電粒子間の相互作用は電磁場の[[量子]]である[[光子]]の交換として理解される。 === 特殊相対性理論 === マクスウェル方程式によると、[[自由空間|真空]]中の電磁波の速度は[[慣性系]]の選び方によらない基本的な[[物理定数]]([[電気定数]]と[[磁気定数]])だけで定まる。実際、真空中の[[光速]]は慣性系によらず一定であること('''光速度不変の原理'''<ref>安孫子誠也. (2005). 光速度不変の原理―ローレンツ-ポアンカレ理論とアインシュタイン理論の本質的相違 (< 特集> 2005 世界物理年). 大学の物理教育, 11(1), 9-13.</ref>)は実験的に立証されている。<ref>Abdo, A., Ackermann, M., Ajello, M. et al. A limit on the variation of the speed of light arising from quantum gravity effects . Nature 462, 331–334 (2009). https://doi.org/10.1038/nature08574</ref><ref>{{PDFlink|[http://www-heaf.astro.hiroshima-u.ac.jp/glast/091028press/grb090510_PR_v5.pdf 大野雅功, 高橋忠幸, & 河合誠之. ガンマ線バースト天体現象を使ってアインシュタインの光速度不変原理を検証. 宇宙航空研究開発機構・宇宙科学研究本部.]}}</ref>[[特殊相対性理論]]は、この光速度不変の原理と'''特殊相対性原理'''を指導原理として、[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]が構築した理論である。<ref>渡辺博. (2006). 学んで 100 年: 特殊相対性理論. 科学哲学, 39(2), 33-41.</ref><ref>高原文郎. (2012). 特殊相対論. [[培風館]].</ref><ref>{{Scholarpedia|url=Special_relativity:_electromagnetism|title=Special relativity: electromagnetism}}</ref> ==脚注== {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{reflist|2}} == 参考文献 == * J. D. Jackson "Classical Electrodynamics" 3rd edition Wiley * 砂川重信 「理論電磁気学」 紀伊國屋書店 * 後藤憲一、山崎修一郎 「詳解電磁気学演習」 [[共立出版]] == 関連項目 == {{Wikibooks|電磁気学|電磁気学}} * [[マクスウェルの方程式]] * [[電磁場]] * [[電磁波]] * [[電気工学]] * [[静電気学]] * [[量子電磁力学]] == 外部リンク == * {{Kotobank}} {{電磁気学}} {{電気電力}} {{Physics-footer}} {{基本相互作用}} {{Telecommunications}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:てんしきかく}} [[Category:電磁気学|*]] [[Category:物理学の分野]] [[Category:電気]]
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マウンテンバイクレース
マウンテンバイクを使用し、山間部の未舗装路などでおこなわれるのがマウンテンバイクレースである。1990年にクロスカントリーの世界選手権が初開催され、1992年にダウンヒルが加えられた。1996年のアトランタオリンピックからクロスカントリーが公式種目となっている。 レースの種類として代表的なものは以下のようなものである。 周回コースを一定距離走り、ゴール順を競う競技。1996年アトランタオリンピックから正式競技となった。オリンピック用に定められた競技形態で、現在のクロスカントリーの公式競技はこれに準拠して開催されている。1周4〜6kmの周回路を使い、エリートカテゴリで1時間30分から1時間45分の競技時間と定められている。 コースには2箇所以上のフィード/テクニカルアシスタンス・ゾーン(飲料、食糧、機材補給所)が設けられる。 マラソンクロス、クロスマウンテンとも。 60km~120kmの非常に長いオフロードコースを走破する競技。日本ではセルフディスカバリーアドベンチャー・王滝村が有名。 下りコースで構成されるデュアルスラローム/デュアル/4Xに対して、登りを含めたコースで競われるのがクロスカントリー・エリミネーター(英語版)である。4名または6名が横並びで出走し、上位2名または3名が次戦に進むトーナメント形態で行われる。競技距離は500mから1kmで、シングルトラック部分がないこと、180度を超えるコーナーはないこと、スタートとゴールは離されること、などが定められている。自然、もしくは人工の障害物をコース上に設置可能なことが特徴で、コース上に階段(上り下り)や人工的なドロップなどを設けることが出来る。 2km以内の周回コースで20-60分で競われる競技。2019年からMTBワールドカップでXCOのスタート順を決める予選として採用されている。設定当初はクロスカントリーショートサーキットと呼ばれていた。 主にスキー場に作られた下り主体のコースを1人ずつ走行し、タイムを競う競技。詳しくはダウンヒルを参照。 かつては平行した2本のコースを用いたレース(デュアルスラローム)が行われていたが、観戦の面白さを出すためコース分けを無くした2人で行うデュアルに移行し、更に2002年の世界選手権で4人でいっせいにスタートする4X(フォークロス)が開催されるに至った。デュアルは勝者、4Xは上位二名が次戦に進むトーナメント形式で行われる。なお、コースはジャンプやバンクがいたるところに設置された100~200mほどの下り斜面である。 同じく下り斜面で高度なテクニックが要求されるダウンヒルと共通し、BMX(バイシクルモトクロス)をバックグラウンドとした選手が多い。代表的なライダーとしてはブライアン・ロープス(USA)、エリック・カーター(USA)、セドリック・グラシア(FRA)などが挙げられる。 周回コースを一定時間(2時間/4時間/6時間等)で何周走行できるかを競う競技。数名からなるチームで交代しながら走行するものも多い。2014年までは日本国内で一般にエンデューロと呼ばれていたが、別にエンデューロという競技が発生したため、耐久を意味するエンデュランスに変更されている。 いくつかの繋ぎ区間とタイム計測区間を走り、タイム計測区間の合計タイムを競う競技。計測区間は基本的に下り基調だが上りを含んでも良いとされる。その為、コース設定により得意とするマウンテンバイクの種類やタイヤなどのパーツが変わるなど、趣味性の高い競技として人気がある。 オリエンテーリング競技の1つとして数えられることが多い。MTB-Oなどと略される。地図をもとに指定された場所を通過するオリエンテーリング競技をマウンテンバイクに乗りながら行うもので、ルートチョイスやナヴィゲーションの能力などが同時に問われる。
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マウンテンバイクを使用し、山間部の未舗装路などでおこなわれるのがマウンテンバイクレースである。1990年にクロスカントリーの世界選手権が初開催され、1992年にダウンヒルが加えられた。1996年のアトランタオリンピックからクロスカントリーが公式種目となっている。 レースの種類として代表的なものは以下のようなものである。
[[ファイル:Mountain-bike-racing.jpg|thumb|マウンテンバイクレース]] [[マウンテンバイク]]を使用し、山間部の[[オフロード|未舗装路]]などでおこなわれるのが'''マウンテンバイクレース'''である。1990年にクロスカントリーの世界選手権が初開催され、1992年にダウンヒルが加えられた。1996年のアトランタオリンピックからクロスカントリーが公式種目となっている。 レースの種類として代表的なものは以下のようなものである。 ==クロスカントリー(XC)== [[File:XC MTB 4 Stevage.jpg|200px|thumb|right|クロスカントリーのコース]] ===クロスカントリー・オリンピック(XCO)=== 周回コースを一定距離走り、ゴール順を競う競技。[[1996年アトランタオリンピック]]から正式競技となった。オリンピック用に定められた競技形態で、現在のクロスカントリーの公式競技はこれに準拠して開催されている。1周4〜6kmの周回路を使い、エリートカテゴリで1時間30分から1時間45分の競技時間と定められている<ref name="REG">[http://www.uci.ch/Modules/BUILTIN/getObject.asp?MenuId=&ObjTypeCode=FILE&type=FILE&id=34424&LangId=1 UCI Regulation]</ref>。 コースには2箇所以上のフィード/テクニカルアシスタンス・ゾーン(飲料、食糧、機材補給所)が設けられる。 ===クロスカントリー・マラソン(XCM)=== マラソンクロス、クロスマウンテンとも。 60km~120kmの非常に長いオフロードコースを走破する競技<ref name="REG"/>。日本では[[セルフディスカバリーアドベンチャー・王滝村]]が有名。 ===クロスカントリー・エリミネーター(XCE)=== 下りコースで構成されるデュアルスラローム/デュアル/4Xに対して、登りを含めたコースで競われるのが{{ill|クロスカントリー・エリミネーター|en|cross-country eliminator}}である。4名または6名が横並びで出走し、上位2名または3名が次戦に進むトーナメント形態で行われる。競技距離は500mから1kmで、シングルトラック部分がないこと、180度を超えるコーナーはないこと、スタートとゴールは離されること、などが定められている<ref name="REG"/>。自然、もしくは人工の障害物をコース上に設置可能なことが特徴で、コース上に階段(上り下り)や人工的なドロップなどを設けることが出来る。 ===クロスカントリー・ショートトラック(XCC)=== 2km以内の周回コースで20-60分で競われる競技。2019年からMTBワールドカップでXCOのスタート順を決める予選として採用されている。設定当初はクロスカントリーショートサーキットと呼ばれていた。<ref name="REG"/> ==ダウンヒル(DH)== 主にスキー場に作られた下り主体のコースを1人ずつ走行し、タイムを競う競技。詳しくは[[ダウンヒル (自転車競技)|ダウンヒル]]を参照。 ==デュアルスラローム/デュアル/4X== かつては平行した2本のコースを用いたレース(デュアルスラローム)が行われていたが、観戦の面白さを出すためコース分けを無くした2人で行うデュアルに移行し、更に2002年の世界選手権で4人でいっせいにスタートする4X([[フォークロス]])が開催されるに至った。デュアルは勝者、4Xは上位二名が次戦に進むトーナメント形式で行われる。なお、コースはジャンプやバンクがいたるところに設置された100~200mほどの下り斜面である<ref name="REG"/>。 同じく下り斜面で高度なテクニックが要求されるダウンヒルと共通し、[[BMX]](バイシクルモトクロス)をバックグラウンドとした選手が多い。代表的なライダーとしてはブライアン・ロープス(USA)、エリック・カーター(USA)、セドリック・グラシア(FRA)などが挙げられる。 ==エンデュランス== 周回コースを一定時間(2時間/4時間/6時間等)で何周走行できるかを競う競技。数名からなるチームで交代しながら走行するものも多い。2014年までは日本国内で一般にエンデューロと呼ばれていたが、別にエンデューロという競技が発生したため、耐久を意味するエンデュランスに変更されている。 ==エンデューロ== いくつかの繋ぎ区間とタイム計測区間を走り、タイム計測区間の合計タイムを競う競技。計測区間は基本的に下り基調だが上りを含んでも良いとされる。その為、コース設定により得意とするマウンテンバイクの種類やタイヤなどのパーツが変わるなど、趣味性の高い競技として人気がある。 ==マウンテンバイクオリエンテーリング== [[オリエンテーリング]]競技の1つとして数えられることが多い。[[マウンテンバイクオリエンテーリング|MTB-O]]などと略される。地図をもとに指定された場所を通過するオリエンテーリング競技をマウンテンバイクに乗りながら行うもので、ルートチョイスやナヴィゲーションの能力などが同時に問われる。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == *[[全日本マウンテンバイク選手権大会]] *[[JCF MTB ジャパンシリーズ]] *[[クップ ドュ ジャポンMTB]] *[[UCIマウンテンバイクワールドカップ]] *[[世界自転車選手権マウンテンバイク 同トライアル歴代優勝者|世界自転車選手権マウンテンバイク]] *[[ロードバイクレース]] *[[サイクロクロス]] *[[トラックレース]] {{スポーツ一覧}} {{sports-stub}} {{DEFAULTSORT:まうんてんはいくれす}} [[Category:マウンテンバイク|*]] [[Category:自転車競技]] [[Category:オリンピック競技]]
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超伝導
超伝導(ちょうでんどう、英: superconductivity)とは、電気伝導性物質(金属や化合物など)が、低温度下で、電気抵抗が0へ転移する現象・状態を指す(この転移温度を超伝導転移温度と呼ぶ)。1911年、オランダの物理学者ヘイケ・カメルリング・オンネスが実験で発見した。 超伝導状態下では、マイスナー効果(完全反磁性)により外部からの磁力線が遮断され(磁石と超伝導体との間には反発力が生ずる)、電気抵抗の測定によらなくとも、超伝導状態であることが判別できる。 その微視的発現機構は、電気伝導性物質内では自由電子間の引力が低エネルギーでは働き、その対が凝縮状態となることによると説明される(BCS理論)。したがって、低温度下では普遍的現象ともいえる。 この温度が室温程度の物質を得ること(室温超伝導)は、材料科学の重要な研究目標の一つである。 「超電導」と表記されることもある 。「超電導」の表記については、1926年(大正15年)の『理化学研究所彙報』(理化学研究所発行)の誤植がもとになっている可能性が指摘されている 。 金属は温度が下がると電気伝導性が上がり、逆に温度が上がると伝導性は減少する(純粋な金属の抵抗率は温度の3乗に比例する)。この原因は、温度の上昇に伴う格子振動の増大により、伝導電子がより散乱されるためである。この性質から、絶対零度に向けて純粋な金属の電気抵抗はゼロになることが昔から予想されていた。 このことを検証する過程で、1911年にヘイケ・カメルリング・オンネスによって超伝導が発見された。超伝導となる温度(臨界温度、Tc)は金属によって異なり、例えばニオブは9.22 K、アルミニウムは1.20 Kとなる。 特定の物質が超低温に冷やされた時に起こる現象は「超伝導現象」(英: superconductivity phenomenon)、超伝導現象が生じる物質のことは「超伝導物質」(英: superconductor)、超伝導物質が超伝導状態にある場合「超伝導体」と呼ばれる。 液体窒素の沸点である−196°C (77 K) 以上で超伝導現象を起こすものは特に高温超伝導物質 (英: cuprate superconductor) と呼ばれる。 物質が超伝導状態になることは相転移の一種であり、超伝導相に移り変わる温度を、(超伝導)転移温度という。超伝導に転移する前の相は常伝導という。 超伝導体には電気抵抗がゼロになる他にも、物質内部から磁力線が排除されるマイスナー効果によって「磁気浮上」現象を起こす。この時、磁力線の強度への応答の違いから第一種超伝導体 (英: type-I superconductor) と第二種超伝導体 (英: type-II superconductor) とに分類される。第二種超伝導体では磁力線の内部侵入を部分的に許すことで高強度の磁力に対してマイスナー効果が発生する。第二種超伝導体では、ピン止め効果によりゼロ抵抗を維持している。 ゼロ抵抗ではあるが電流が無限量で流れるわけではなく上限値があり飽和電流と呼ばれる。超伝導電流は伝導体の内部ではなく表面を流れるという特性により、飽和電流は伝導体径の一乗にしか比例せず、伝導体径の二乗に比例して伝導体内部を流れる常伝導電流に比べ、径の1/4に半比例して減少する。よって同じ飽和電流を得るための伝導体線径は常電導よりも非常に太くなる。 これらの現象はいずれも、量子力学的効果によって起きていると考えられ、基本的機構はBCS理論によって説明される。ただし、高温超伝導体の引力機構に対しては、BCS理論の電子・格子振動相互作用だけでは説明がつかず物理学の未解決問題の一つである。 超伝導は、日常では扱わない低温でしか発生しない現象で、その冷却には高価な液体ヘリウムが必要なことから、社会での利用は特殊な用途に限られていた。 20世紀末にようやく上限温度(転移温度)が比較的高く安価な液体窒素で冷却できる高温超伝導体が相次いで発見されてから一般への認知も大きく進んだ。今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 2019 年現在、超伝導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向上技術開発」である 。 また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 1911年、オランダのヘイケ・カメルリング・オンネスによって「純度の高い金属が容易に得られる水銀を液体ヘリウムで冷却していったとき、温度4.20 Kで突然電気抵抗が下がり4.19 Kではほぼゼロの10万分の1Ω以下になる現象」が報告された。ヘリウムの液化と超伝導の発見によって1913年にノーベル物理学賞が授与された。 1933年にドイツのヴァルター・マイスナーによって超伝導体が外部磁場を退けるマイスナー効果が発見された。これにより、超伝導体は完全導体とは異なることが決定付けられた。1935年にロンドン兄弟(フリッツ・ロンドン、ハインツ・ロンドン)が発表したロンドン方程式により、マイスナー効果は理論的に説明された。 1950年ヴィタリー・ギンツブルグとレフ・ランダウが、上記ロンドン理論より一歩進んだ現象論であるギンツブルグ-ランダウ理論を発表した。この理論には、超伝導の程度を表すオーダーパラメータが使われた。 1953年に最高転移温度17 Kを示すニオブスズ (Nb3Sn) が発見された。これは結晶構造からA15型超伝導体とよばれた。 1957年に発表されたジョン・バーディーン、レオン・クーパー、ジョン・ロバート・シュリーファーらのBCS理論により、超伝導現象の基本的な発現機構が解明された。 1980年代に発見された銅酸化物高温超伝導体や、21世紀になって見つかった二ホウ化マグネシウム (MgB2) 、2008年に報告された鉄系超伝導物質などを実用化する試みが続いている。 2020年10月14日には267GPaの高圧下ながら炭素質水素化硫黄(CH8S)が、287.7K(15°C)で超伝導状態になることをニューヨーク州ロチェスター大学のグループが発見、Nature紙で報告し、初の摂氏0°Cを超える報告となった(高温超伝導を参照)。 より高い温度で超伝導を起こす物質を探すなど、最初の発見から100年以上経った2020年現在でも超伝導についての研究が盛んに行なわれている。 超伝導現象の発見以降、超伝導を示す物質として多くの元素や化合物が発見されている。アルカリ金属、金、銀、銅などの電気伝導性の高い金属は超伝導にならない。単体の元素で最も超伝導転移温度が高いものは、ニオブの9.2 K(常圧下)である。常圧下において超伝導を示す金属は多いが、そうでない金属、あるいは非金属元素でも高圧下で金属化と同時に超伝導を示すものがある。また、重い電子系における超伝導や、高温超伝導、強磁性と超伝導が共存する物質など従来の超伝導物質と性格の異なるものも発見されている(高温超伝導を参照)。 一部の有機化合物には超伝導を示す。それらは有機超伝導体として分類される。 超伝導現象は、超高感度の磁気測定装置 (SQUID) や医療用核磁気共鳴画像撮影 (MRI) 装置など、測定用に超伝導電磁石を使用する用途においては既に広く実用されている。しかし、これらの応用例でも冷却に高価な液体ヘリウムが用いられており、普及の大きな障害となっている。産業用途では実用化の技術開発が進んでいる超伝導モーターが最も期待されている。電力貯蔵の用途では瞬間停電を補償するために高い出力、短い応答速度が着目され、実用化されるに至っているが、現状では大電力を貯蔵するには至らずバッテリーなどよりコンデンサーに近い。また送電線については、生み出された電力のうちの数%は電気抵抗による送電ロスによるものとされており、室温超伝導が実現されれば、このロスを減らすことのできる画期的なテクノロジーとして期待されている。 以下に利用例を示す。
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超伝導とは、電気伝導性物質(金属や化合物など)が、低温度下で、電気抵抗が0へ転移する現象・状態を指す(この転移温度を超伝導転移温度と呼ぶ)。1911年、オランダの物理学者ヘイケ・カメルリング・オンネスが実験で発見した。 超伝導状態下では、マイスナー効果(完全反磁性)により外部からの磁力線が遮断され(磁石と超伝導体との間には反発力が生ずる)、電気抵抗の測定によらなくとも、超伝導状態であることが判別できる。 その微視的発現機構は、電気伝導性物質内では自由電子間の引力が低エネルギーでは働き、その対が凝縮状態となることによると説明される(BCS理論)。したがって、低温度下では普遍的現象ともいえる。 この温度が室温程度の物質を得ること(室温超伝導)は、材料科学の重要な研究目標の一つである。 「超電導」と表記されることもある 。「超電導」の表記については、1926年(大正15年)の『理化学研究所彙報』(理化学研究所発行)の誤植がもとになっている可能性が指摘されている。
[[Image:Meissner effect p1390048.jpg|thumb|250px|'''[[マイスナー効果]]'''・'''[[ピン止め効果]]'''によリ、超伝導体の上に浮かぶ磁石]] '''超伝導'''(ちょうでんどう、{{lang-en-short|superconductivity}})とは、[[電気伝導]]性物質(金属や化合物など)が、[[低温度]]下で、[[電気抵抗]]が0へ転移する現象・状態を指す(この転移温度を超伝導[[転移温度]]と呼ぶ)。[[1911年]]、オランダの物理学者[[ヘイケ・カメルリング・オネス|ヘイケ・カメルリング・オンネス]]が実験で発見した。 超伝導状態下では、[[マイスナー効果]](完全[[反磁性]])により外部からの[[磁力線]]が遮断され([[磁石]]と超伝導体との間には反発力が生ずる)、電気抵抗の測定によらなくとも、超伝導状態であることが判別できる。 その微視的発現機構は、[[電気伝導]]性物質内では自由電子間の引力が低エネルギーでは働き、その対が凝縮状態となることによると説明される([[BCS理論]])。したがって、低温度下では普遍的現象ともいえる。 この温度が室温程度の物質を得ること([[室温超伝導]])は、材料科学の重要な研究目標の一つである。 「'''超電導'''」と表記されることもある<ref>[http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2014061400001.html 超「電」導のひみつ(上)――リニア新幹線、浮上せよ]、ことばマガジン(朝日新聞デジタル)、2014年6月19日。</ref> <ref>[http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2014062900001.html 超「電」導のひみつ(中) ――電気の時代にピタリ]、ことばマガジン(朝日新聞デジタル)、2014年7月3日。</ref> <ref>{{Cite web|和書|date=2021-06-24|url=https://mainichi-kotoba.jp/enq-160 |title=客の通り道は「動線」?「導線」? |website=毎日ことば 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phenomenon}})、超伝導現象が生じる物質のことは「超伝導物質」({{lang-en-short|superconductor}})、超伝導物質が超伝導状態にある場合「超伝導体」と呼ばれる。 液体窒素の沸点である−196℃ (77 [[ケルビン|K]]) 以上で超伝導現象を起こすものは特に[[高温超伝導]]物質 ({{lang-en-short|cuprate superconductor}}) と呼ばれる。 物質が超伝導状態になることは[[相転移]]の一種であり、超伝導相に移り変わる温度を、(超伝導)[[転移温度]]という。超伝導に転移する前の相は[[常伝導]]という。 超伝導体には電気抵抗がゼロになる他にも、物質内部から[[磁力線]]が排除される[[マイスナー効果]]によって「[[磁気浮上]]」現象を起こす。この時、磁力線の強度への応答の違いから[[第一種超伝導体]] ({{lang-en-short|type-I superconductor}}) と[[第二種超伝導体]] ({{lang-en-short|type-II superconductor}}) とに分類される。第二種超伝導体では磁力線の内部侵入を部分的に許すことで高強度の磁力に対してマイスナー効果が発生する。第二種超伝導体では、[[ピン止め効果]]によりゼロ抵抗を維持している。 ゼロ抵抗ではあるが電流が無限量で流れるわけではなく上限値があり飽和電流と呼ばれる。超伝導電流は伝導体の内部ではなく表面を流れるという特性により、飽和電流は伝導体径の一乗にしか比例せず、伝導体径の二乗に比例して伝導体内部を流れる常伝導電流に比べ、径の1/4に半比例して減少する。よって同じ飽和電流を得るための伝導体線径は常電導よりも非常に太くなる。 これらの現象はいずれも、[[量子力学]]的効果によって起きていると考えられ、基本的機構は[[BCS理論]]によって説明される。ただし、高温超伝導体の引力機構に対しては、BCS理論の電子・格子振動相互作用だけでは説明がつかず物理学の未解決問題の一つである。 {{Main|高温超伝導}} ===用途=== 超伝導は、日常では扱わない低温でしか発生しない現象で、その冷却には高価な[[液体ヘリウム]]が必要なことから、社会での利用は特殊な用途に限られていた。 20世紀末にようやく上限温度(転移温度)が比較的高く安価な[[液体窒素]]で冷却できる[[高温超伝導体]]が相次いで発見されてから一般への認知も大きく進んだ。今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 2019 年現在、超伝導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向上技術開発」である<ref name=":0">和泉輝郎. “[https://www.aist.go.jp/pdf/aist_j/synthesiology/vol12_01/vol12_01_p06_p18.pdf 超電導が拓く夢の世界を目指して~希土類系超伝導線材開発の現状と将来展望~]</ref> 。 * 高 Jc 基盤技術開発には、「配向基板・中間層形成技術」、「超伝導層・金属基板反応抑制技術」、「超伝導層内不純物抑制技術」、「金属基板平坦化技術」、「電気的・化学的安定化技術」と発展途中である 「大面積成膜」、「自己配向化技術」、「高速配向材料」が必要である。 * 高性能長尺線材開発には、「高 Ic 特 性長尺超伝導層形成技術」、「特性均一化技術」、「機械的高強度技術開発」、「低コスト技術開発」と発展 途中である「マルチブルームマルチターン」、「基板温度制御」、「反応機構解析」、「仕込み組成制御」、 2 「ガス流制御」が必要である。 * 機器対応特殊性能向上技術開発には、「人工ピン止め点制御技術」、「高精度スクライピング技術」、「高エンジニアリング臨界電流密度化」、「等方性線材」、「超伝導(低抵抗) 接続技術」、と発展途中である「微細人工ピン材料」、「UTOC−MOD 法」、「エキシマレーザー加工技術」が必要である。 また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が期待されている。 == 歴史 == [[1911年]]、オランダの[[ヘイケ・カメルリング・オネス|ヘイケ・カメルリング・オンネス]]によって「純度の高い金属が容易に得られる[[水銀]]を液体ヘリウムで冷却していったとき、温度4.20 Kで突然電気抵抗が下がり4.19 Kではほぼゼロの10万分の1[[オーム|Ω]]以下になる現象」が報告された。ヘリウムの液化と超伝導の発見によって[[1913年]]に[[ノーベル賞|ノーベル物理学賞]]が授与された<ref>木下淳一著 『超伝導の本』 日刊工業新聞社 2003年3月30日初版1刷発行 ISBN 4526051039</ref><ref>村上雅人著 『超伝導の謎を解く』 シーアンドアール研究所 2007年7月2日初版発行</ref>。 [[1933年]]にドイツの[[ヴァルター・マイスナー]]によって超伝導体が外部磁場を退ける[[マイスナー効果]]が発見された。これにより、超伝導体は[[完全導体]]とは異なることが決定付けられた。[[1935年]]にロンドン兄弟([[フリッツ・ロンドン]]、[[ハインツ・ロンドン]])が発表した[[ロンドン方程式]]により、マイスナー効果は理論的に説明された。 [[1950年]][[ヴィタリー・ギンツブルグ]]と[[レフ・ランダウ]]が、上記ロンドン理論より一歩進んだ[[現象論]]である[[ギンツブルグ-ランダウ理論]]を発表した。この理論には、超伝導の程度を表す[[オーダーパラメータ]]が使われた。 [[1953年]]に最高[[転移温度]]17 Kを示す[[ニオブスズ]] (Nb<sub>3</sub>Sn) が発見された。これは[[結晶構造]]から[[A15型超伝導体]]とよばれた。 [[1957年]]に発表された[[ジョン・バーディーン]]、[[レオン・クーパー]]、[[ジョン・ロバート・シュリーファー]]らの[[BCS理論]]により、超伝導現象の基本的な発現機構が解明された。 [[1980年代]]に発見された銅酸化物[[高温超伝導体]]や、[[21世紀]]になって見つかった[[二ホウ化マグネシウム]] (MgB<sub>2</sub>) 、2008年に報告された[[鉄系超伝導物質]]などを実用化する試みが続いている。 [[2020年]]10月14日には267GPaの高圧下ながら炭素質水素化硫黄(CH<sub>8</sub>S)が、287.7K(15℃)で超伝導状態になることをニューヨーク州[[ロチェスター大学]]のグループが発見、Nature紙で報告し、初の[[セルシウス度|摂氏]]0℃を超える報告となった<ref name="nature20201015">{{Cite web|和書|date=2020-10-15 |url=https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/13478?utm_source=Twitter&utm_medium=Social&utm_campaign=NatureJapan |title=物理学:水素化物の室温超伝導 |publisher=Nature Japan |accessdate=2020-11-06}}</ref>([[高温超伝導]]を参照)。 より高い温度で超伝導を起こす物質を探すなど、最初の発見から100年以上経った2020年現在でも超伝導についての研究が盛んに行なわれている。 == 特性・効果 == [[Image:Flyingsuperconductor.ogv|thumb|180px|right|「超伝導による空中浮揚」の動画(9秒程)]] [[File:Cvandrhovst.png|thumb|upright=1.5|超伝導相転移における熱容量(c<sub>v</sub>、青)と抵抗率(ρ、緑)の関係]] ; 完全導電性 : 電気抵抗がゼロとなるので、一度流れ始めた直流電流が電圧降下なしに永続するという効果。回路のすべてを超伝導体で構成すれば、流れ続ける電流によって永久電磁石となる。 ; マイスナー効果 : [[マイスナー効果]]は完全反磁性とも呼ばれ、超伝導体内部が磁場を排除して内部磁場をゼロにする効果である。超伝導体を磁石上で常伝導状態から徐々に冷やしていったとき、転移温度を超えた瞬間に浮き上がる「[[磁気浮上]]」現象もこの効果によるものである。これは超伝導によって磁束の侵入が排除されたために、物体が浮き上がるものである。単に「超伝導体の上に磁石が浮く」というだけでは、永久電流による反発か[[マイスナー効果]]によるものかの判断はできない。 ; 磁束の量子化 : 第二種超伝導体内部を通る磁束は <math>\frac{h}{2e}</math> の整数倍のとびとびの値をとる(''h'' は[[プランク定数]]、''e'' は素電荷)([[磁束#磁束の量子化]]を参照)。 ; ジョセフソン効果 : 絶縁体を間に挟んだ2つの超伝導体間を、電圧降下なしに[[トンネル効果|トンネル電流]]が流れる。2つの超伝導体の間に挟まれた[[絶縁体]]には超伝導状態を表す波動関数の位相差に比例した電流が流れる。ミクロな波動関数という概念をマクロに観測できるため超伝導を象徴する現象である([[ジョセフソン効果]]を参照のこと)。 ; 磁束格子状態 : 第二種超伝導体では、その超伝導体に固有の磁場値(下部臨界磁場)以上の磁場を印加した場合では量子化された磁束が超伝導体内部に侵入する。この状態は混合状態とも呼ばれる。磁束格子状態のときに磁束コア同士は互いに反発するため、多くの場合に最密構造、つまり三角格子を形成する([[フラストレーション (磁性体)|フラストレーション]]を参照)。ただし、[[フェルミ面]]の形状などによって四角格子を組む場合もあることが最近の研究から知られている。 ; ピン止め効果 : 磁束格子状態において、外部磁場の変化に対して磁束格子が追随して変化しない現象をピン止め、あるいは[[ピン止め効果]]と呼ぶ。実用超伝導体において重要な現象。この現象がなければ実質的に超伝導体に電流が流せないため実用化ができなくなる。ひずみや不純物などの欠陥を多く含む非理想的な第二種超伝導体を貫く磁束は、これらの欠陥に引っかかり止められて動けない([[ピン止め効果]]を参照のこと)。 ; 臨界磁場の存在 : 一定以上の強度の磁場を加えることで超伝導状態は消失する。第二種超伝導体には、この意味での臨界磁場(上部臨界磁場 ''H<sub>c2</sub>'' と呼ぶ)と[[完全反磁性]]状態から磁束格子状態への転移を意味する下部臨界磁場 ''H<sub>c1</sub>'' が存在する([[臨界磁場]]を参照のこと)。 ; 比熱の異常 : 超伝導への[[相転移]]は二次の相転移であり、常伝導状態と超伝導状態の間には[[比熱]]の“とび”が存在する。 ; クエンチ : [[超伝導電磁石]]において超伝導コイルの一部が超伝導状態から常伝導状態に戻ることを「クエンチ」({{lang-en-short|quench}}) と呼ぶ。これに続いて全面的な常伝導化が一気に進むので、電気的、磁気的、熱的、機械的に大きな変化が同時に起こる。 ; エネルギーギャップの存在 {{main article|BCS理論}} : 従来の超伝導体では、電子流体を個々の電子に分解することはできない。その代わりに、クーパー対と呼ばれる電子の結合した対で構成される。この対は、フォノン(格子振動)の交換による電子間の引力によって引き起こされる。この対は非常に弱く、小さな熱振動が結合を破壊する。量子力学により、このクーパー対流体のエネルギースペクトルはエネルギーギャップを持ち、流体を励起するために供給されなければならないエネルギーの最小量ΔEが存在することを意味する。したがって、ΔEがkT(kはボルツマン定数、Tは温度)で与えられる格子の熱エネルギーよりも大きければ、流体は格子によって散乱されることはない<ref>{{cite book |last1=Tinkham |first1=Michael |title=Introduction to Superconductivity |date=1996 |publisher=Dover Publications, Inc. |location=Mineola, New York |isbn=0486435032 |page=8}}</ref>。 ; 同位体効果 : 1950年、マクスウェルとレイノルズらは、超伝導体の臨界温度が構成元素の同位体質量に依存する[[同位体効果]]を発見した<ref>{{cite journal |author = E. Maxwell |date = 1950 |title = Isotope Effect in the Superconductivity of Mercury |journal = [[Physical Review]] |volume = 78 |issue = 4 |page = 477 |doi =10.1103/PhysRev.78.477 |bibcode = 1950PhRv...78..477M }}</ref>。 == 機序を説明する理論 == * [[ロンドン方程式]] * [[ギンツブルグ-ランダウ理論]] * [[BCS理論]] * [[クーパー対]] == 伝導物質 == [[File:Periodic_table_with_superconducting_temperatures.jpg|thumb|上:超伝導元素固体の周期表と実験的臨界温度(T)。下: 超伝導二元水素化物(0-300 GPa)の周期表。理論予測は青、実験結果は赤で示す。<ref>{{cite journal|author=José A.Flores-Livas|display-authors=et. al.|title=A perspective on conventional high-temperature superconductors at high pressure: Methods and materials|journal=Physics Reports|date=29 April 2020|volume=856 |pages=1–78 |doi=10.1016/j.physrep.2020.02.003|arxiv=1905.06693 |bibcode=2020PhR...856....1F |s2cid=155100283 }}</ref>]] 超伝導現象の発見以降、超伝導を示す物質として多くの[[元素]]や化合物が発見されている。アルカリ金属、金、銀、銅などの電気伝導性の高い金属は超伝導にならない。単体の元素で最も超伝導転移温度が高いものは、[[ニオブ]]の9.2 K(常圧下)である。常圧下において超伝導を示す[[金属]]は多いが、そうでない金属、あるいは非金属元素でも高圧下で金属化と同時に超伝導を示すものがある。また、[[重い電子系]]における超伝導や、[[高温超伝導]]、[[強磁性]]と超伝導が共存する物質など従来の超伝導物質と性格の異なるものも発見されている([[高温超伝導]]を参照)。 === 有機超伝導体 === 一部の有機化合物には超伝導を示す。それらは有機超伝導体として分類される<ref>斉藤軍治、「[https://doi.org/10.2324/gomu.61.662 有機超伝導体]」 『日本ゴム協会誌』 1988年 61巻 9号 p.662-672, {{doi|10.2324/gomu.61.662}}</ref><ref>鹿児島誠一、「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.45.249 もうひとつの超伝導: 有機超伝導]」 『日本物理学会誌』 1990年 45巻 4号 p.249-256, {{doi|10.11316/butsuri1946.45.249}}</ref><ref>守谷亨、「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.54.984 有機超伝導と高温超伝導: 起源は同じか?]」 『日本物理学会誌』 1999年 54巻 12号 p.984-987, {{doi|10.11316/butsuri1946.54.984}}</ref>。 === 重い電子系超伝導体 === {| class="wikitable" |- ! 材料!! T<sub>C</sub> (K) !! 評論!! 原文参照 |- | CeCu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub> || 0.7 || 初の非従来型超伝導体 || <ref>{{Cite journal|last=Steglich|first=F.|last2=Aarts|first2=J.|last3=Bredl|first3=C. D.|last4=Lieke|first4=W.|last5=Meschede|first5=D.|last6=Franz|first6=W.|last7=Schäfer|first7=H.|date=1979-12-17|title=<nowiki>Superconductivity in the Presence of Strong Pauli Paramagnetism: Ce${\mathrm{Cu}}_{2}$${\mathrm{Si}}_{2}$</nowiki>|url=https://link.aps.org/doi/10.1103/PhysRevLett.43.1892|journal=Physical Review Letters|volume=43|issue=25|pages=1892–1896|doi=10.1103/PhysRevLett.43.1892}}</ref> |- | [[CeCoIn5|CeCoIn<sub>5</sub>]] || 2.3 || セリウム系重い電子機器の中で最も高いT<sub>C</sub>を持つ。 || <ref>{{Cite journal|last=Petrovic|first=C|last2=Pagliuso|first2=P G|last3=Hundley|first3=M F|last4=Movshovich|first4=R|last5=Sarrao|first5=J L|last6=Thompson|first6=J D|last7=Fisk|first7=Z|last8=Monthoux|first8=P|date=2001-04-30|title=Heavy-fermion superconductivity in CeCoIn 5 at 2.3 K|url=https://iopscience.iop.org/article/10.1088/0953-8984/13/17/103|journal=Journal of Physics: Condensed Matter|volume=13|issue=17|pages=L337–L342|doi=10.1088/0953-8984/13/17/103|issn=0953-8984}}</ref> |- | CePt<sub>3</sub>Si || 0.75 || 非センタ対称結晶構造を持つ初の重い電子系超伝導体 || <ref>{{cite journal|author=E. Bauer |year=2004 |title=Heavy Fermion Superconductivity and Magnetic Order in Noncentrosymmetric CePt3Si |journal=Phys. Rev. Lett. |volume=92|issue=2 | pages=027003 |doi=10.1103/PhysRevLett.92.027003 |pmid=14753961 |display-authors=etal|arxiv=cond-mat/0308083 |bibcode=2004PhRvL..92b7003B |s2cid=20007050 }}</ref> |- | CeIn<sub>3</sub> || 0.2 || 高圧でのみ超伝導 || <ref name="Mathur1998">{{cite journal|doi=10.1038/27838|title=Magnetically mediated superconductivity in heavy fermion compounds |year=1998|last1=Mathur|first1=N.D. |last2=Grosche|first2=F.M. |last3=Julian|first3=S.R. |last4=Walker|first4=I.R. |last5=Freye|first5=D.M. |last6=Haselwimmer|first6=R.K.W. |last7=Lonzarich|first7=G.G.| journal=Nature| volume=394|issue=6688 |pages=39 |bibcode=1998Natur.394...39M|s2cid=52837444 }}</ref> |- | UBe<sub>13</sub> || 0.85 || p波超伝導体 || <ref name="Ott1983">{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevLett.50.1595 |title=UBe<sub>13</sub>: An Unconventional Actinide Superconductor|year=1983|journal=Phys. Rev. Lett.| volume=50|issue=20|pages=1595 |last1=Ott|first1=H.R. |last3=Fisk|first3=Z. |last2=Rudigier|first2=H. |last4=Smith|first4=J.L.|bibcode=1983PhRvL..50.1595O|url=http://www.escholarship.org/uc/item/18w6w653}}</ref> |- | UPt<sub>3</sub>|| 0.48 ||複数の異なる超伝導相 || <ref name="Stewart1984">{{cite journal|doi=10.1103/PhysRevLett.52.679|title=Possibility of Coexistence of Bulk Superconductivity and Spin Fluctuations in UPt<sub>3</sub> |year=1984|last1=Stewart|first1=G.R. |last2=Fisk|first2=Z. |last3=Willis|first3=J.O. |last4=Smith|first4=J.L. |journal=Phys. Rev. Lett.| volume=52|issue=8 |pages=679 |bibcode=1984PhRvL..52..679S|s2cid=73591098 |url=http://www.escholarship.org/uc/item/6px8s7q3 }}</ref> |- | URu<sub>2</sub>Si<sub>2</sub>|| 1.3 || 17K以下の謎の「隠れた秩序相 」||<ref>{{cite journal|author=Palstra, T. T. M. and Menovsky, A. A. and Berg, J. van den and Dirkmaat, A. J. and Kes, P. H. and Nieuwenhuys, G. J. and Mydosh, J. A. |year=1985|title=Superconducting and Magnetic Transitions in the Heavy-Fermion System URu2Si2 |journal=Phys. Rev. Lett. |volume=55|issue=24 | pages=2727–2730|doi=10.1103/PhysRevLett.55.2727 |pmid=10032222 |bibcode=1985PhRvL..55.2727P |url=https://research.rug.nl/en/publications/ade9b7b6-f4eb-4973-bfbe-7837626183c0 }}</ref> |- | UPd<sub>2</sub>Al<sub>3</sub>|| 2.0 || 14K以下では反強磁性 || <ref>{{cite journal|journal= Z. Phys. B | doi=10.1007/BF01453750|title=Heavy-fermion superconductivity at T<sub>c</sub>=2K in the antiferromagnet UPd<sub>2</sub>Al<sub>3</sub>| year=1991|volume=84| issue=1| pages=1|last1=Geibel|first1=C. |last2=Schank|first2=C. |last3=Thies|first3=S.|last4=Kitazawa|first4=H.| last5=Bredl|first5=C.D.| last6=Böhm|first6=A.| last7=Rau|first7=M.| last8=Grauel|first8=A.| last9=Caspary|first9=R.| last10=Helfrich|first10=R. | last11=Ahlheim|first11=U.| last12=Weber|first12=G.| last13=Steglich|first13=F.|bibcode=1991ZPhyB..84....1G| s2cid=121939561}}</ref> |- | UNi<sub>2</sub>Al<sub>3</sub> || 1.1 || 5K以下では反強磁性 || <ref>{{cite journal|journal= Z. Phys. B | doi=10.1007/BF01313397|title=A new heavy-fermion superconductor: UNi<sub>2</sub>Al<sub>3</sub>| year=1991|volume=83| issue=3| pages=305|last1=Geibel|first1=C. |last2=Thies|first2=S.|last3=Kaczorowski|first3=D.| last4=Mehner|first4=A.| last5=Grauel|first5=A.| last6=Seidel|first6=B.| last7=Ahlheim|first7=U.| last8=Helfrich|first8=R.| last9=Petersen|first9=K.| last10=Bredl|first10=C.D.| last11=Steglich|first11=F.|bibcode=1991ZPhyB..83..305G| s2cid=121206896}}</ref> |} == 利用例 == 超伝導現象は、超高感度の磁気測定装置 ([[超伝導量子干渉計|SQUID]]) や医療用[[核磁気共鳴画像法|核磁気共鳴画像撮影]] (MRI) 装置など、測定用に超伝導電磁石を使用する用途においては既に広く実用されている。しかし、これらの応用例でも冷却に高価な液体[[ヘリウム]]が用いられており、普及の大きな障害となっている。産業用途では実用化の技術開発が進んでいる[[超伝導モーター]]が最も期待されている。[[電力貯蔵]]の用途では[[瞬間停電]]を補償するために高い出力、短い応答速度が着目され、実用化されるに至っているが、現状では大電力を貯蔵するには至らずバッテリーなどよりコンデンサーに近い。また送電線については、生み出された電力のうちの数%は電気抵抗による送電ロスによるものとされており、室温超伝導が実現されれば、このロスを減らすことのできる画期的なテクノロジーとして期待されている。 以下に利用例を示す。 * [[超伝導電磁石]] * 超伝導加速器空洞 * [[超電導電力線|超伝導電力線]] ** 超伝導モーター(開発中) ** [[核磁気共鳴]] - [[核磁気共鳴画像法]] (MRI)(実用中) ** [[磁気浮上式鉄道]]([[超電導リニア|超伝導リニア]])(実証実験段階) ** [[核融合炉]](計画中) * [[超伝導量子干渉計]] (SQUID) * 磁気シールド装置 * 超伝導送電線(小規模の実証実験段階) * 磁気推進船 - 実験船 [[ヤマト1]] * 超伝導電力貯蔵装置(SMES)(瞬間停電補償用として実用化されている) * 超伝導トランジスタ - [[ジョセフソン・コンピューター]](実用は遠い) * [[超伝導転移端センサー]](超高感度な熱量センサーとして実用化されている) == 関連研究におけるノーベル賞受賞者 == # [[ヘイケ・カメルリング・オネス]] (1913) # [[ジョン・バーディーン]]、[[レオン・クーパー|レオン・N・クーパー]]、[[ジョン・ロバート・シュリーファー]] (1972) # [[江崎玲於奈]]、[[アイヴァー・ジェーバー]]、[[ブライアン・ジョゼフソン]](1973年) # [[ヨハネス・ベドノルツ]]、[[カール・アレクサンダー・ミュラー]](1987年) # [[アレクセイ・アブリコソフ]]、[[ヴィタリー・ギンツブルク]]、[[アンソニー・レゲット]](2003) == その他 == ;電気抵抗の測定 :超伝導の電気抵抗計測は、測定器自体が抵抗となるために限界がある。そのため、超伝導体の閉回路が作る磁場の測定を行う。磁場が測定されている限り、この閉回路には永久電流が流れているということになるので「閉回路は超伝導状態である」といえる。 ;軟超伝導体 :第一種超伝導体のこと。 ;硬超伝導体 :第二種超伝導体のこと。 == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=大澤直|date=2008年(初刷2006年)|edition=第一版第四刷|title=金属のおはなし|publisher=[[日本規格協会]]|isbn=978-4-542-90275-6|ref=大澤}} * {{Cite book|和書|author=齋藤勝裕|date=2009年(初版2008年)|edition=第一版第二刷|title=金属のふしぎ|publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]]|isbn=978-4-7973-4792-0|ref=齋藤}} == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[オームの法則]] * [[絶対零度]] * [[超流動]] - [[高温超伝導]] - [[マイスナー効果]] - [[ジョセフソン効果]] - [[臨界磁場]] - [[ピン止め効果]] * [[ボース=アインシュタイン凝縮]] * [[物性物理学]] - [[高温超伝導]] - [[低温物理学]] {{物質の状態}} {{Condensed matter physics topics}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ちようてんとう}} [[Category:超伝導|*]] [[Category:磁気]] [[Category:電磁気学]] [[Category:物理学]] <references group="<ref2019 年現在、超電導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向 上技術開発」である。 高 Jc 基盤技術開発には、「配向基板・中間層形成技術」、「超電導層・金属基板反応抑制技術」、「超 電導層内不純物抑制技術」、「金属基板平坦化技術」、「電気的・化学的安定化技術」と発展途中である 「大面積成膜」、自己配向化技術」、「高速配向材料」が必要である。高性能長尺線材開発には、「高 Ic 特 性長尺超電導層形成技術」、「特性均一化技術」、「機械的高強度技術開発」、「低コスト技術開発」と発展 途中である「マルチブルームマルチターン」、「基板温度制御」、「反応機構解析」、「仕込み組成制御」、 2 「ガス流制御」が必要である。機器対応特殊性能向上技術開発には、「人工ピン止め点制御技術」、「高精 度スクライピング技術」、「高エンジニアリング臨界電流密度化」、「等方性線材」、「超電導(低抵抗) 接続技術」、と発展途中である「微細人工ピン材料」、「UTOC−MOD 法」、「エキシマレーザー加工技 術」が必要である。また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が 期待されている。&gt;" /> <references group="ref 2019 年現在、超電導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向 上技術開発」である。 高 Jc 基盤技術開発には、「配向基板・中間層形成技術」、「超電導層・金属基板反応抑制技術」、「超 電導層内不純物抑制技術」、「金属基板平坦化技術」、「電気的・化学的安定化技術」と発展途中である 「大面積成膜」、自己配向化技術」、「高速配向材料」が必要である。高性能長尺線材開発には、「高 Ic 特 性長尺超電導層形成技術」、「特性均一化技術」、「機械的高強度技術開発」、「低コスト技術開発」と発展 途中である「マルチブルームマルチターン」、「基板温度制御」、「反応機構解析」、「仕込み組成制御」、 2 「ガス流制御」が必要である。機器対応特殊性能向上技術開発には、「人工ピン止め点制御技術」、「高精 度スクライピング技術」、「高エンジニアリング臨界電流密度化」、「等方性線材」、「超電導(低抵抗) 接続技術」、と発展途中である「微細人工ピン材料」、「UTOC−MOD 法」、「エキシマレーザー加工技 術」が必要である。また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が 期待されている。ref" /> <references group="< ref 2019 年現在、超電導の課題は「高 Jc 基盤技術開発」「高性能長尺線材開発」「機器対応特殊性能向 上技術開発」である。 高 Jc 基盤技術開発には、「配向基板・中間層形成技術」、「超電導層・金属基板反応抑制技術」、「超 電導層内不純物抑制技術」、「金属基板平坦化技術」、「電気的・化学的安定化技術」と発展途中である 「大面積成膜」、自己配向化技術」、「高速配向材料」が必要である。高性能長尺線材開発には、「高 Ic 特 性長尺超電導層形成技術」、「特性均一化技術」、「機械的高強度技術開発」、「低コスト技術開発」と発展 途中である「マルチブルームマルチターン」、「基板温度制御」、「反応機構解析」、「仕込み組成制御」、 2 「ガス流制御」が必要である。機器対応特殊性能向上技術開発には、「人工ピン止め点制御技術」、「高精 度スクライピング技術」、「高エンジニアリング臨界電流密度化」、「等方性線材」、「超電導(低抵抗) 接続技術」、と発展途中である「微細人工ピン材料」、「UTOC−MOD 法」、「エキシマレーザー加工技 術」が必要である。また、今後はさらに一般的な低温環境や室温で機能する実用的な超伝導体の発見が 期待されている。/ref&gt;" /> <references group="<ref name=kouJCkibanngijyutukaihatu>高 Jc 基盤技術開発。</ref>" />
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Scheme
Scheme(スキーム)はコンピュータ・プログラミング言語 LISPの方言のひとつで、静的スコープなどが特徴である。仕様(2017年現在、改7版まで存在する)を指すこともあれば、実装を指すこともある。Schemeにより、LISP方言に静的スコープが広められた。 Schemeは、MIT AIラボにて、ジェラルド・ジェイ・サスマンとガイ・スティール・ジュニアによって1975年頃に基本的な設計がなされた。動機は、カール・ヒューイットの提案によるエレガントな並行計算モデル「アクター」と、同じくその言語のPLASMA(Planner-73)を理解するためであった。 静的スコープ(ALGOL由来とされる)は、状態を持つデータであるアクタ(クロージャ)の実現以外にも、lambda 構文を用いたλ計算や末尾再帰の最適化に不可欠な機構であった。 また、プログラムの制御理論から当時出てきた継続及びアクタ理論におけるアクタへのメッセージ渡しの概念から触発された継続渡し形式と呼ばれるプログラミング手法は以後の継続の研究に大きな影響を与えた。 MIT人工知能研究所においては以下のとおりLISPに始まるいくつかの言語が作られた。 この中でカール・ヒューイットが設計した規則ベースの言語 Planner はあまりに複雑な機構を持っていたため当初設計された全機能の実装は困難であり、サスマン等はそれをサブセット言語の Micro-Planner として実現し、さらには、 Planner の流れを汲んだ独自言語として Conniver を作成した。 同じくカール・ヒューイットが設計したアクタ言語 Plasma (Planner-73) も複雑な機構を持っていたため、MacLisp による実装が存在したものの、その動作の仕組みを理解するのは困難であった。サスマン及びガイ・スティール・ジュニアは Plasma を理解するために、不要な機能を省いた LISP 構文を持つ小さな Plasma を設計した。 上記の Plasma からその小さな Plasma の設計に至る過程は Planner から Micro-Planner 及び Conniver へ至る過程を彷彿とさせるものであったため、その言語は Planner(計画する者)及び Conniver(策略を巡らす者)の次という意味で当初 Schemer(陰謀を企てる者)と名付けられた。しかし、当時のオペレーティングシステムのファイルシステムの制限からファイル名が6文字に切られたことから Scheme という名前が使われるようになった。 マッカーシーが後に回顧で、初期のLISP(LISP 1 および LISP 1.5)に関して「In modern terminology, lexical scoping was wanted, and dynamic scoping was obtained.」と書いているように、計算理論的にも静的スコープが本来は「正当」であり、動的スコープは、言ってしまえばある種の安易なインタプリタの実装手法が招く「バグ」である(有用なことも多いが)。 ガイ・スティールは、LISP 1.5 からの変更点として最初に静的スコープの採用と実装を挙げており、サスマンがAlgolに関して持っていた興味からによるもので、Algolの直接の影響だと述べている。 FUNARG問題(英語版)としてLISPの初期から既に認識され議論されていたことでもあり、必ずしもSchemeから始まったとは言えないが、Scheme以後のLISP方言に静的スコープが広まったのはSchemeからの影響と言ってよく、殊にCommon Lispは特筆される。 Scheme はcall-with-current-continuation(英語版)(略称:call/cc)と呼ばれるピーター・ランディンやジョン・レイノルズに始まる脱出オペレータの命令を提供する。 Scheme の言語仕様はIEEEによって公式に定められ、その仕様は「Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (RnRS)」と呼ばれている。2016年現在広く実装されているものは改訂第五版に当たるR5RS(1998年)である。 なお、2007年9月に「The Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (R6RS)」が成立した。4部構成となり、R5RSに比べおよそ3倍の文章量となった。R5RSまでは小さな言語仕様に対してのこだわりが見られたが、Unicode サポート等の実用的な言語として必要な要素が盛り込まれている点が特徴的である。しかし、多くの機能が盛り込まれたにもかかわらず細部の練りこみが不十分であるといった批判もあり、非公式にR5RSを拡張する形でERR5RS (Extended R5RS Scheme) という規格を検討する党派も現れている。 2009年8月、Scheme 言語運営委員会は、Scheme を大規模バージョンと、大規模バージョンのサブセットとなる小さな言語仕様のふたつの言語に分割することを推奨する意向を発表した。 2013年7月、「The Revised Report on the Algorithmic Language Scheme (R7RS)」 (small language) が成立した。 Scheme の仕様書はR5RSだと50ページにも満たないため、かなりの数の実装が存在する。 Scheme は言語機能を必要十分の最低限まで単純化することを目指した言語である。そのため仕様書が簡素な反面、実用に際して各種のライブラリが乱立し、移植性が問題になっていた。そこで実装間の統一をとるため、コミュニティ内の議論を集約しているのが「Scheme Requests for Implementation (SRFI)」である。SRFI ではライブラリ仕様、言語拡張仕様などがインデックス化されており、SRFI 準拠の実装系は「◯◯に準拠」といった形で利用者の便宜を図ることができる。 なお、Scheme では言語機能とライブラリ機能は分けて考えられているため、SRFI と Scheme 言語仕様のコミュニティは原則分離している。 Scheme はしばしば他のアプリケーションの拡張用言語として使われる。代表的なアプリケーションには以下のようなものがある。 より専門的な応用としては、映画ファイナルファンタジーのために3Dレンダリングエンジンに Scheme インタプリタを組み込んだ例や、リトルウイングのピンボールコンストラクションシステムの記述に Scheme を使った例がある。 Android 用の App Inventor では、Scheme コンパイラである Kawa を使ってJava仮想マシン用のバイトコードを生成している。
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Scheme(スキーム)はコンピュータ・プログラミング言語 LISPの方言のひとつで、静的スコープなどが特徴である。仕様(2017年現在、改7版まで存在する)を指すこともあれば、実装を指すこともある。Schemeにより、LISP方言に静的スコープが広められた。
{{otheruses2|プログラミング言語|その他の語句|スキーム (曖昧さ回避)|スキーマ (曖昧さ回避)}} {{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = Scheme | released = {{start date and age|1975}} | designer = [[ガイ・スティール・ジュニア|ガイ・L・スティール・ジュニア]]、[[ジェラルド・ジェイ・サスマン]] | typing = 強い、[[動的型付け]] | implementations = {{lang|en|Gauche}}、{{lang|en|Racket}}、{{lang|en|MIT/GNU Scheme}}、{{lang|en|Scheme 48}}、{{lang|en|Guile}}、{{lang|en|Chez Scheme}} | website = {{ConditionalURL}} }} '''Scheme'''(スキーム)はコンピュータ・[[プログラミング言語]] [[LISP]]の[[方言 (プログラミング言語)|方言]]のひとつで、[[静的スコープ]]などが特徴である。仕様(2017年現在、改7版まで存在する)を指すこともあれば、実装を指すこともある。Schemeにより、LISP方言に静的スコープが広められた。 ==概要== Schemeは、[[MIT人工知能研究所|MIT AIラボ]]にて、[[ジェラルド・ジェイ・サスマン]]と[[ガイ・スティール・ジュニア]]によって1975年頃に基本的な設計がなされた。動機は、[[カール・ヒューイット]]の提案によるエレガントな並行計算モデル「[[アクターモデル|アクター]]」と、同じくその言語のPLASMA(Planner-73)を理解するためであった。 [[静的スコープ]]([[ALGOL]]由来とされる<ref group="注釈">元々のALGOLには関数引数等が無いためFUNARG問題なども無く、静的スコープの歴史としてALGOLをあまり強調する意味は無い。</ref>)は、状態を持つデータであるアクタ([[クロージャ]]<ref group="注釈">{{lang-en-short|closure}}</ref>)の実現以外にも、<code>lambda</code> 構文を用いた'''[[λ計算]]'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|lambda calculus}}</ref>や'''[[末尾再帰]]'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|tail-recursion}}</ref>の最適化に不可欠な機構であった。 また、プログラムの制御理論から当時出てきた'''[[継続]]'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|continuation}}</ref>及びアクタ理論におけるアクタへの'''メッセージ渡し'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|message passing}}</ref>の概念から触発された'''[[継続渡しスタイル|継続渡し形式]]'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|continuation passing style}}、CPS</ref><ref group="注釈">継続渡し形式は一連のλ論文において導入された。ただし、体系として確立されてはいないものの、同様の手法は「{{lang|en|{{Citation|author=John C. Reynolds|year=1972|title=Denitional Interpreters for Higher-Order Programming Languages|url=http://cs.au.dk/~hosc/local/HOSC-11-4-pp363-397.pdf}}}}」にもみられる。</ref>と呼ばれるプログラミング手法は以後の継続の研究に大きな影響を与えた。 ==歴史== [[MIT人工知能研究所]]においては以下のとおりLISPに始まるいくつかの言語が作られた。 {| class=wikitable !年!!言語!!作者 |- |1958年||{{lang|en|LISP}}||マッカーシー、他 |- |1964年||{{lang|en|Meteor}}||ボブロウ |- |1969年||{{lang|en|Convert}}||ガズマン |- |1969年||{{lang|en|Planner}}||ヒューイット |- |1970年||{{lang|en|Muddle}}||サスマン、ヒューイット、他 |- |1971年||{{lang|en|Micro-Planner}}||サスマン、他 |- |1972年||{{lang|en|Conniver}}||サスマン、他 |- |1973年||{{lang|en|Plasma}}||ヒューイット、他 |- |1975年||{{lang|en|Schemer}}||サスマン、スティール |} この中でカール・ヒューイットが設計した規則ベースの言語 [[Planner]] はあまりに複雑な機構を持っていたため当初設計された全機能の実装は困難であり<ref group="注釈">後の完全な Planner の実装として、エジンバラ大学の Julian Davies が POP-2 で実装した Popler がある。</ref>、サスマン等はそれをサブセット言語の {{lang|en|Micro-Planner}} として実現し、さらには、 Planner の流れを汲んだ独自言語として {{lang|en|Conniver}} を作成した。 同じくカール・ヒューイットが設計したアクタ言語 {{lang|en|Plasma}} ({{lang|en|Planner}}-73) も複雑な機構を持っていたため、{{lang|en|MacLisp}} による実装が存在したものの、その動作の仕組みを理解するのは困難であった。サスマン及びガイ・スティール・ジュニアは {{lang|en|Plasma}} を理解するために、不要な機能を省いた {{lang|en|LISP}} 構文を持つ小さな {{lang|en|Plasma}} を設計した。 上記の {{lang|en|Plasma}} からその小さな {{lang|en|Plasma}} の設計に至る過程は {{lang|en|Planner}} から {{lang|en|Micro-Planner}} 及び {{lang|en|Conniver}} へ至る過程を彷彿とさせるものであったため、その言語は {{lang|en|Planner}}(計画する者)及び {{lang|en|Conniver}}(策略を巡らす者)の次という意味で当初 {{lang|en|Schemer}}(陰謀を企てる者)と名付けられた。しかし、当時のオペレーティングシステムのファイルシステムの制限からファイル名が6文字に切られたことから {{lang|en|Scheme}} という名前が使われるようになった。 ==機能== ===静的スコープ=== {{main|静的スコープ}} {{seealso|動的スコープ}} マッカーシーが後に回顧で、初期のLISP(LISP 1 および LISP 1.5)に関して「In modern terminology, lexical scoping was wanted, and dynamic scoping was obtained.」と書いているように<ref>http://www-formal.stanford.edu/jmc/history/lisp/node4.html</ref>、計算理論的にも[[静的スコープ]]が本来は「正当」であり、[[動的スコープ]]は、言ってしまえばある種の安易なインタプリタの実装手法が招く「バグ」である(有用なことも多いが)。 ガイ・スティールは、LISP 1.5 からの変更点として最初に静的スコープの採用と実装を挙げており、サスマンが[[Algol]]に関して持っていた興味からによるもので、Algolの直接の影響だと述べている。<ref>「Scheme 過去◇現在◇未来 前編」『bit』(共立出版)Vol. 28, No.4(1996年4月号) pp. 4~9</ref> {{ill|FUNARG問題|en|Funarg problem}}としてLISPの初期から既に認識され議論されていたことでもあり、必ずしもSchemeから始まったとは言えないが、Scheme以後のLISP方言に静的スコープが広まったのはSchemeからの影響と言ってよく、殊に[[Common Lisp]]は特筆される。 ===継続=== ====<code>call-with-current-continuation</code>==== {{lang|en|Scheme}} は<code>{{仮リンク|call-with-current-continuation|en|call-with-current-continuation}}</code>(略称:<code>call/cc</code>)と呼ばれる<ref group="注釈">当初は <code>CATCH</code> という名称であった。</ref>ピーター・ランディンやジョン・レイノルズに始まる脱出オペレータ<ref group="注釈">{{lang-en-short|escape operator}}</ref>の命令を提供する。 ==言語仕様== {{lang|en|Scheme}} の言語仕様は[[IEEE]]によって公式に定められ<ref name="ieee1178">{{lang|en|1178-1990 (Reaff 2008) IEEE Standard for the Scheme Programming Language. IEEE part number STDPD14209, [http://standards.ieee.org/board/rev/308minutes.html unanimously reaffirmed] at a meeting of the IEEE-SA Standards Board Standards Review Committee (RevCom), March 26, 2008 (item 6.3 on minutes), reaffirmation minutes accessed October 2009. NOTE: this document is only available for purchase from IEEE and is not available online at the time of writing (2009).}}</ref>、その仕様は「{{lang|en|Revised<sup>n</sup> Report on the Algorithmic Language Scheme (R''n''RS)}}」と呼ばれている。2016年現在広く実装されているものは改訂第五版に当たるR5RS(1998年)である。 なお、2007年9月に「{{lang|en|The Revised<sup>6</sup> Report on the Algorithmic Language Scheme (R6RS)}}」<ref>{{Cite web |author=Michael Sperber ほか |url=http://www.r6rs.org/ |title={{lang|en|The Revised<sup>6</sup> Report on the Algorithmic Language Scheme}} |language=英語 |accessdate=2009-02-02 }}</ref>が成立した。4部構成となり、R5RSに比べおよそ3倍の文章量となった。R5RSまでは小さな言語仕様に対してのこだわりが見られたが、{{lang|en|Unicode}} サポート等の実用的な言語として必要な要素が盛り込まれている点が特徴的である。しかし、多くの機能が盛り込まれたにもかかわらず細部の練りこみが不十分であるといった批判もあり、非公式にR5RSを拡張する形でERR5RS ({{lang|en|Extended R5RS Scheme}}) という規格を検討する党派も現れている。 2009年8月、{{lang|en|Scheme}} 言語運営委員会は、{{lang|en|Scheme}} を大規模バージョンと、大規模バージョンのサブセットとなる小さな言語仕様のふたつの言語に分割することを推奨する意向を発表した<ref>{{Cite web |url=http://scheme-reports.org/2009/position-statement.html |title={{lang|en|Position statement}} |language=英語 |accessdate=2013-12-16 }}</ref>。 2013年7月、「{{lang|en|The Revised<sup>7</sup> Report on the Algorithmic Language Scheme (R7RS)}}」<ref>{{Cite web |url=http://trac.sacrideo.us/wg/wiki |title={{lang|en|Scheme Working Groups}} |language=英語 |accessdate=2013-12-16 }}</ref> ({{lang|en|small language}}) が成立した。 ===仕様の決定=== {{節スタブ}} ==実装== {{lang|en|Scheme}} の仕様書はR5RSだと50ページにも満たないため、かなりの数の実装が存在する。 *[http://www-sop.inria.fr/mimosa/fp/Bigloo/ {{lang|en|Bigloo}}] - 高速な実行ファイルを作るコンパイラ。 *[http://www.biwascheme.org/ {{lang|en|BiwaScheme}}] - {{lang|en|[[JavaScript]]}} による実装。ブラウザ上で動作する。 *[http://www.scheme.com/ {{lang|en|Chez Scheme}}] - もと商用だったが、現在はオープンソースの高速な実装。 *[[Chicken (Scheme)|{{lang|en|Chicken}}]] - 可搬性の高い実用的コンパイラ。 *{{lang|en|[[Gauche]]}} - インタプリタ。多言語への対応、{{lang|en|STklos}} を発展させた(メタ)オブジェクトシステムを持つ。 *[[:en:Gambit_(scheme_implementation)|{{lang|en|Gambit}}]](英語版) - Schemeインタプリタ及びScheme→Cコンパイラ。 *{{lang|en|[[GNU Guile]]}} - {{lang|en|[[GNU]]}} の公式な拡張用言語。{{lang|en|Scheme}} を元にしている。 *[http://hscheme.sourceforge.net/ {{lang|en|HScheme}}] *[http://www.codeplex.com/IronScheme {{lang|en|IronScheme}}] *[http://www.norvig.com/jscheme.html {{lang|en|Jscheme}}] *[http://www.yuasa.kuis.kyoto-u.ac.jp/~yuasa/jakld/index-j.html {{lang|en|JAKLD}}] - {{lang|en|[[Java]]}} アプリケーション組み込み用の{{lang|en|LISP}}ドライバ *[http://www.gnu.org/software/kawa/ {{lang|en|Kawa}}] - [[GNUプロジェクト|{{lang|en|GNU}}プロジェクト]]のひとつ。{{lang|en|Scheme}} プログラムを {{lang|en|Java}} 仮想機械用にコンパイル可能。 *[http://www.larcenists.org/ {{lang|en|Larceny}}] - [[IA-32]]、{{lang|en|[[SPARC]]}} の機械語を出力。IEEE/ANSI、R5RS、ERR5RS, R6RS準拠。 *[http://www.lispme.de/ {{lang|en|LispMe}}] - {{lang|en|[[Palm OS]]}} 用の実装。無料。 *[http://www.swiss.ai.mit.edu/projects/scheme/ {{lang|en|MIT Scheme}}] - [[x86]]アーキテクチャ用の {{lang|en|Scheme}} 実装。無料。 *[https://github.com/higepon/mosh&#x20;Mosh Mosh] - R6RS準拠の高速なインタプリタFFI、ソケットなどの拡張も。 *[http://will.iki.fi/software/ocs/ {{lang|en|Ocs}}] *[http://www.mazama.net/scheme/pscheme.htm {{lang|en|PocketScheme}}] - {{lang|en|[[Windows CE]]}} 用の実装。 *{{lang|en|[[Racket]]}} - 旧称 {{lang|en|PLT Scheme}}。教育用の豪華な開発環境、柔軟なシステムで広く使われる。 *[http://www.sof.ch/dan/qscheme/index-e.html {{lang|en|QScheme}}] *[http://www.kt.rim.or.jp/~qfwfq/rhiz-pi/index.html {{lang|en|rhizome/pi}}] *[http://s48.org/ {{lang|en|Scheme48}}] *[http://www.maroon.dti.ne.jp/nagar17/mulasame/ {{lang|en|SECDR-Scheme}}] - {{lang|en|Lispkit Lisp}} 拡張による(並列){{lang|en|Scheme}}。 *[https://code.google.com/archive/p/sigscheme {{lang|en|SigScheme}}] - アプリケーション組み込みを目的としたR5RS準拠の実装。[[uim]]で使用されている。 *[http://sisc-scheme.org/ {{lang|en|SISC}}] - {{lang|en|Second Interpreter of Scheme Code}}。{{lang|en|Java}} 仮想機械上で動作するR5RS準拠の実装。{{lang|en|Java}} オブジェクトを {{lang|en|Scheme}} 上から利用することが可能。 *[http://tinyscheme.sourceforge.net/ {{lang|en|TinyScheme}}] - 非常に小さい実装。[[ザウルス|{{lang|en|Zaurus}}]]などでも走る。正規表現やソケット通信もサポート。 *[https://code.google.com/archive/p/vx-scheme {{lang|en|Vx-scheme}}] - {{lang|en|[[VxWorks]]}} 用の実装。 *[https://code.google.com/archive/p/ypsilon {{lang|en|Ypsilon}}] - R6RSに準拠するリアルタイムアプリケーション向けの実装。 ===SRFI(サーフィ)=== {{lang|en|Scheme}} は言語機能を必要十分の最低限まで単純化することを目指した言語である。そのため仕様書が簡素な反面、実用に際して各種のライブラリが乱立し、移植性が問題になっていた。そこで実装間の統一をとるため、コミュニティ内の議論を集約しているのが「{{lang|en|Scheme Requests for Implementation ([[SRFI]])}}」である。{{lang|en|SRFI}} ではライブラリ仕様、言語拡張仕様などがインデックス化されており、{{lang|en|SRFI}} 準拠の実装系は「◯◯に準拠」といった形で利用者の便宜を図ることができる。 なお、{{lang|en|Scheme}} では言語機能とライブラリ機能は分けて考えられているため、{{lang|en|SRFI}} と {{lang|en|Scheme}} 言語仕様のコミュニティは原則分離している。 ==応用== {{lang|en|Scheme}} はしばしば他のアプリケーションの拡張用言語として使われる。代表的なアプリケーションには以下のようなものがある。 *{{lang|en|[[GIMP]]}} の {{lang|en|Script-Fu}} *[[uim]] *[[GNU LilyPond|{{lang|en|LilyPond}}]] より専門的な応用としては、映画[[ファイナルファンタジー (映画)|ファイナルファンタジー]]のために3Dレンダリングエンジンに {{lang|en|Scheme}} インタプリタを組み込んだ例<ref>{{cite web |url=http://practical-scheme.net/docs/ILC2002.html |author=川合史朗 |title={{lang|en|Gluing Things Together - Scheme in the Real-time CG Content Production}} |date=2002年10月 |accessdate=2014-06-20 }}</ref>や、[[リトルウイング]]のピンボールコンストラクションシステムの記述に {{lang|en|Scheme}} を使った例<ref>{{cite web |url=http://www.littlewingpinball.com/doc/ja/ypsilon/ |author=藤田善勝 |title={{lang|en|YPSILON}} |accessdate=2014-06-20 }}</ref>がある。 {{lang|en|[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]}} 用の {{lang|en|[[App Inventor]]}} では、{{lang|en|Scheme}} コンパイラである {{lang|en|Kawa}} を使って[[Java仮想マシン|{{lang|en|Java}}仮想マシン]]用のバイトコードを生成している。 ==出典== ===ラムダ論文一覧=== {{lang|en|Scheme}} が発表された一連の論文は、ラムダ論文と呼ばれている<ref name="readscheme_lambda">{{PDFlink|[http://library.readscheme.org/page1.html {{lang|en|Online version of the Lambda Papers}}]}}</ref>。 {|class=wikitable !年!!題名 |- |nowrap|1975年||{{lang|en|Scheme: An Interpreter for Extended Lambda Calculus}} |- |nowrap|1976年||{{lang|en|Lambda: The Ultimate Imperative}} |- |nowrap|1976年||{{lang|en|Lambda: The Ultimate Declarative}} |- |nowrap|1977年||{{lang|en|Debunking the 'Expensive Procedure Call' Myth, or, Procedure Call Implementations Considered Harmful, or, Lambda: The Ultimate GOTO}} |- |nowrap|1978年||{{lang|en|The Art of the Interpreter or, the Modularity Complex (Parts Zero, One, and Two)}} |- |nowrap|1978年||{{lang|en|RABBIT: A Compiler for SCHEME}} |- |nowrap|1979年||{{lang|en|Design of LISP-based Processors, or SCHEME: A Dielectric LISP, or Finite Memories Considered Harmful, or LAMBDA: The Ultimate Opcode}} |- |nowrap|1980年||{{lang|en|Compiler Optimization Based on Viewing LAMBDA as RENAME + GOTO}} |- |nowrap|1980年||{{lang|en|Design of a Lisp-based Processor}} |} ===参考文献=== * {{Citation|author=ガイ・スティール・ジュニア|year=1996|title={{lang|en|Scheme}} 過去◇現在◇未来 前編・後編|url=http://www010.upp.so-net.ne.jp/okshirai/scheme-20070402222203.txt}} * {{Citation|author=ガイ・スティール・ジュニア|year=2006|title={{lang|en|The History of Scheme}}|url=http://deptinfo.unice.fr/~roy/JAOO-SchemeHistory-2006public.pdf}} * {{Citation|author=ジェラルド・サスマン、ガイ・スティール・ジュニア|year=1975|title={{lang|en|Scheme: An Interpreter for Extended Lambda Calculus}}|url=ftp://publications.ai.mit.edu/ai-publications/pdf/AIM-349.pdf}} * {{Citation|author=ジェラルド・サスマン、ガイ・スティール・ジュニア|year=1976|title={{lang|en|Lambda: The Ultimate Imperative}}|url=http://repository.readscheme.org/ftp/papers/ai-lab-pubs/AIM-353.pdf}} * {{Citation|author=ガイ・スティール・ジュニア|year=1976|title={{lang|en|Lambda: The Ultimate Declarative}}|url=http://repository.readscheme.org/ftp/papers/ai-lab-pubs/AIM-379.pdf}} * {{Citation|author=ガイ・スティール・ジュニア|year=1977|title={{lang|en|Debunking the 'Expensive Procedure Call' Myth, or, Procedure Call Implementations Considered Harmful, or, Lambda: The Ultimate GOTO}}|url=http://repository.readscheme.org/ftp/papers/ai-lab-pubs/AIM-443.pdf}} * {{Citation|author=ジェラルド・サスマン、ガイ・スティール・ジュニア|year=1978|title={{lang|en|The Art of the Interpreter or, the Modularity Complex (Parts Zero, One, and Two)}}|url=http://repository.readscheme.org/ftp/papers/ai-lab-pubs/AIM-453.pdf}} * {{Citation|author=ガイ・スティール・ジュニア|year=1978|title={{lang|en|Rabbit: A Compiler for Scheme}}|url=ftp://publications.ai.mit.edu/ai-publications/pdf/AITR-474.pdf}} * {{Citation|author=ジェラルド・サスマン、ガイ・スティール・ジュニア|year=1979|title={{lang|en|Design of LISP-based Processors, or SCHEME: A Dielectric LISP, or Finite Memories Considered Harmful, or LAMBDA: The Ultimate Opcode}}|url=http://repository.readscheme.org/ftp/papers/ai-lab-pubs/AIM-514.pdf}} * {{Citation|author=カール・ヒューイット|year=1967|title={{lang|en|PLANNER A Language for Proving Theorem}}|url=https://hdl.handle.net/1721.1/6144}} * {{Citation|author=ジェラルド・サスマン、テリー・ビノグラード|year=1970|title={{lang|en|Micro-Planner Reference Manual}}|url=https://hdl.handle.net/1721.1/5833}} * {{Citation|author=V・マクダモット、ジェラルド・サスマン|year=1972|title={{lang|en|The CONNIVER Reference Manual}}|url=https://hdl.handle.net/1721.1/6204}} * {{Citation|author=アイリーン・グライフ、カール・ヒューイット|year=1974|title={{lang|en|Actor Semantics of PLANNER-73}}|url=https://hdl.handle.net/1721.1/41116}} * {{Citation|author=ピーター・J・ランディン|year=1965|title={{lang|en|A Generalization of Jumps and Labels}}|url=http://mirrors.csl.sri.com/www.brics.dk/%257Ehosc/local/HOSC-11-2-pp125-143.pdf}} * {{Citation|author=ヘイヨー・シーレッケ|year=1998|title={{lang|en|An Introduction to Landin’s “A Generalization of Jumps and Labels”}}|url=http://cs.au.dk/~hosc/local/HOSC-11-2-pp117-123.pdf}} * {{Citation|author=ジョン・C・レイノルズ|year=1972|title={{lang|en|Denitional Interpreters for Higher-Order Programming Languages}}|url=http://cs.au.dk/~hosc/local/HOSC-11-4-pp363-397.pdf}} * {{Citation|author=ジョエル・モーゼス|year=1970|title={{lang|en|The Function of FUNCTION in LISP, or Why the FUNARG Problem Should be Called the Environment Problem}}|url=https://hdl.handle.net/1721.1/5854}} [http://kreisel.fam.cx/webmaster/clog/img/www.ice.nuie.nagoya-u.ac.jp/~h003149b/lang/p/funarg/funarg.html 和訳] ==脚注== ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== {{Reflist}} ==関連項目== *[[アクターモデル]] *[[継続]] *[[末尾再帰]] *{{lang|en|[[SRFI]]}} *[[計算機プログラムの構造と解釈]] - {{lang|en|Scheme}} を用いた計算機科学分野の古典的な教科書。 ==外部リンク== {{Wikibooks|Scheme|Scheme}} *[http://schemers.org/ <code>schemers.org</code>] *[http://www.r6rs.org/ <code>R6RS.org</code>] *[http://srfi.schemers.org/ {{lang|en|Scheme Requests for Implementation}}] *[http://www.sci.u-toyama.ac.jp/~iwao/Scheme/scheme.html プログラミング言語 {{lang|en|Scheme}}] *[http://www.swiss.ai.mit.edu/~jaffer/r5rs_toc.html R5RS] *[http://www.swiss.ai.mit.edu/~jaffer/r5rsj_toc.html R5RS日本語版] *[http://scheme-punks.cyber-rush.org/wiki/index.php?title=Main_Page {{lang|en|SchemePunks}}] *[http://www.sampou.org/scheme/t-y-scheme/t-y-scheme.html 独習 {{lang|en|Scheme}} 三週間] *[http://practical-scheme.net/ {{lang|en|Practical Scheme}}] *[http://www.shido.info/lisp/idx_scm.html もうひとつの Scheme 入門] {{LISP系言語}} {{プログラミング言語一覧}} {{authority control}} [[Category:Scheme|*]] [[Category:LISP|SCHEME]] [[Category:プログラミング言語]] [[Category:関数型プログラミング言語]]
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シド
シド (syd, sid, Šid, cid)とは、英語圏の男性名。 シドニーの愛称とされている。
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シドとは、英語圏の男性名。 シドニーの愛称とされている。
'''シド''' (syd, sid, Šid, cid)とは、英語圏の男性名。 [[シドニー (曖昧さ回避)|シドニー]]の愛称とされている。 == 英語の人名 == * [[シド・ヴィシャス]] - イギリスのパンクロッカー。 * [[シド・バレット]] - イギリスのミュージシャン。 * [[シド・ミード]] - アメリカの工業デザイナー。 * [[シド・マイヤー]] - アメリカのゲームデザイナー。 * [[シド・ワトキンス]] - イギリスの医師。 * [[シド (歌手)]] - アメリカの歌手、[[ジ・インターネット (バンド)|ジ・インターネット]]のヴォーカル。 == 架空の人名 == * シド- 特撮テレビドラマ『[[仮面ライダー鎧武/ガイム|仮面ライダー鎧武]]』の登場人物。 * [[シド (ファイナルファンタジー)]] - コンピュータRPG『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]』の登場人物。 * シド・デイビス - コンピュータRPG『[[真・女神転生デビルサマナー]]』の登場人物。 * シド・バミック - 特撮テレビドラマ『[[海賊戦隊ゴーカイジャー]]』の登場人物。 * シド・フィリップス - 映画『[[トイ・ストーリー]]』の登場人物。 * シド・マイティ・ゼン - 冒険小説『[[怪盗クイーンシリーズ|怪盗クイーン]]』の登場人物。 * シド・ミューラァ - テレビアニメ『[[銀河漂流バイファム]]』の登場キャラクター。ククト軍[[少佐]]。 * シド・ムンザ - テレビアニメ『[[∀ガンダム]]』の登場人物。[[∀ガンダムの登場人物#シド・ムンザ]]を参照。 * ゼータ星ミザールのシド - テレビアニメ『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢 アスガルド編]]』の登場人物。[[神闘士#ゼータ星ミザールのシド]]を参照。 * テレビ番組『[[セサミストリート]]』に登場する[[クッキーモンスター]]の本名。 == 架空の名称 == * S.I.D - 特撮テレビドラマ『[[謎の円盤UFO]]』に登場するコンピュータ衛星。 * シド - テレビアニメ『[[機動戦士ガンダムAGE]]』及び漫画『[[機動戦士ガンダムAGE#機動戦士ガンダムAGE 〜追憶のシド〜|機動戦士ガンダムAGE 〜追憶のシド〜]]』に登場する巨大無人モビルスーツ。[[機動戦士ガンダムAGEの登場兵器#シド]]を参照。 * シド - [[ゲームボーイアドバンス]]用ソフト『[[ボンバーマンストーリー]]』に登場する[[キャラボン]]合成マシーン。ゲーム中に登場する「キャラボン」を合成させ、新たなキャラボンを生み出すことができる。 == その他の名称 == * [[Unix系]]オペレーティングシステムの[[Debian]]における、開発中の最新バージョン(リリース)のコードネーム (sid) 。上記のシド・フィリップスにちなむ。 * シド - [[セルビア]]、[[ヴォイヴォディナ]]の地名。 * [[シド (バンド)]] - [[日本]]の[[ヴィジュアル系]][[ロックバンド]]。 == 関連項目 == *[[SYD (曖昧さ回避)]] *[[SID (曖昧さ回避)]] *[[CID (曖昧さ回避)]] {{Aimai}} {{DEFAULTSORT:しと}} [[Category:英語の男性名]]
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エドガー・ダイクストラ
エドガー・ダイクストラ(Edsger Wybe Dijkstra, 1930年5月11日 - 2002年8月6日)は、オランダ人の計算機科学者。1972年、プログラミング言語の基礎研究への貢献に対してチューリング賞を受賞。構造化プログラミングの提唱者。1984年から2002年に亡くなるまでテキサス大学オースティン校の計算機科学の Schlumberger Centennial Chair を務めた。 2002年の死の直前、プログラム計算の自己安定化(英語版)についての仕事に対して ACM PODC Influential Paper Award を授与された。この賞は翌年からダイクストラを称えてダイクストラ賞(英語版)と呼ばれるようになった。 エズガー・ダイクストラと表記されることもある。オランダ語での発音は、IPA表記で /ˈɛtsxər ˈwibə ˈdɛɪkstra/ で、エツハー・ウィベ・デイクストラに近い。 ロッテルダム生まれ。ライデン大学で理論物理学を学んだが、コンピュータ科学の方に興味があることに気が付くのに時間はかからなかった。最初にアムステルダムの国立数学研究所 (Mathematisch Centrum) に職を得たが、オランダのアイントホーフェン工科大学で教授職を得る。1970年代初期にはバロースのフェローとしても働いた。その後、アメリカのテキサス大学オースティン校に移り、2000年に引退した。 彼のコンピュータ科学に関する貢献としては、グラフ理論の最短経路問題におけるダイクストラ法、逆ポーランド記法とそれに関連する操車場アルゴリズム、初期の階層型システムの例であるTHEマルチプログラミングシステム、銀行家のアルゴリズム、排他制御のためのセマフォの考案などがある。分散コンピューティング分野では自己安定化(英語版)というシステムの信頼性を保証する手法を提案した。ダイクストラ法は SPF (Shortest Path First) で使われており、それがOSPFやIS-ISといったルーティングプロトコルで使われている。操車場アルゴリズムやセマフォ(鉄道でかつて使われた腕木式信号機)に代表されるが、鉄道を使用した説明でも知られる。 1950年代には、当時の他のコンピュータ科学者やプログラマたちと同様、機械語ないし、FORTRANのような当時一般的だった非構造的な言語によってプログラミングをしていたが、その後早くから大規模なプログラムをバグが無いように書くことの困難さについて警鐘を鳴らした一人であった。1960年代後半に「構造化プログラミング」を掲げ、プログラミングの改善について多くの文献や発言を残した。当時のプログラミングでは、ループや条件分けなどの、あらゆる制御構造を「goto文一本槍」で書くしかなかったわけだが、その問題点を指摘した "A Case against the GO TO Statement" という文章をしたためる(注: ダイクストラには、ホーアやクヌースなど、似た問題意識を持っていた他のコンピュータ科学者らとの手紙や学会関係の集まりでの交流にもとづき、改訂を重ねたことにより、いくつかのバージョンのある文章が多い)。 しかしその主張は「goto文除去運動」といったように単純化されて捉えられることも多く、クヌースによれば1971年には、情報処理国際連合(IFIP)の国際会議で会った後藤英一(Eiichi Goto)が、いつも「除去」されて困るとジョークを言っていた、という(ほどに、単純化された解釈が広まっていた、ということ)。 前述の "A Case against the GO TO Statement" はコンピュータ科学の国際学会ACMに投稿され、『Go To 文は有害とみなされる』("Go To Statement Considered Harmful") という刺激的な題名で学会誌(CACM)にレターとして掲載された(この出来事は、やはりクヌースによれば「go to文除去の話の二番目の場面は,多くの人たちが第一幕だと思っている事実」となった)。刺激的な題名はダイクストラ本人が付けたものではなく、当時編集を担当していたニクラウス・ヴィルトが付けたもので、すぐに掲載できるレター扱いを決めたのもヴィルトである。これは後に、"considered harmful" というフレーズが業界の定番となった原点でもある。1972年には、アントニー・ホーアとオーレ=ヨハン・ダールとの共著で、"Structured Programming" という題名の書籍に、3人のそれぞれの主要分野(ホーアはホーア論理が著名なように形式手法、ダールはSimulaの設計者の一人であり、データ抽象(後のオブジェクト指向につながる)に関して解説した)に基づく、よりよいプログラミングについてまとめた。 以上のような立場から、BASICを教育に使うことにも強く反対し、(マイコン普及以前の1975年の時点で既に)mentally mutilated beyond hope of regeneration(回復の望みがないほどに精神をダメにされる)といった強い調子で否定する言葉を残している。ほぼ同じことをマイコン普及初期の1984年にも述べている(EWD898)。これも、当時に少年期を過ごし、BASICを使っていた現代のコンピュータ科学者などが、「私は無事だったようです」等とネタにすることがある。 ダイクストラは ALGOL 60 のファンとしても知られ、最初のコンパイラを実装したチームにも参加していた。そのコンパイラ開発に関わった Jaap Zonneveld とダイクストラはプロジェクトが完了するまで髭を剃らないという誓いを立てた。それは、世界初の再帰をサポートしたコンパイラの1つである(現代では戻り番地や引数をスタックに積む、という再帰できるようにするための処理は、空気のように当たり前のことになっているので特記事項である意味がわからないかもしれないが、それ以前にあったコンパイラ、例えば「世界最初のコンパイラ」と言われることのあるひとつである、IBMによるFORTRANコンパイラは、理由あって最適化等は追求していたものの、実行時に関数を再帰呼出しすることはサポートしていなかった)。 1968年には、THEと呼ばれるマルチプログラミング方式のオペレーティングシステムの構造に関する論文と、"Cooperating Sequential Processes" についての論文を発表している。 1970年代になると、ダイクストラの主要な興味は形式的検証に移っていった。当時の一般的手法は、とりあえずプログラムを書いてからその正当性を数学的に証明するというものであった。ダイクストラはこれに対して、検証に時間がかかって面倒であるし、プログラムの開発手法に何ら洞察を与えない点が問題であるとした。一方「検証とプログラミングを同時に行う」のが「プログラム導出」と呼ばれる別の手法である。まず、プログラムの動作に関する数学的な「仕様」を記述し、その仕様に数学的な変換を加えて最終的にプログラムを導き出す。このように作成されたプログラムは「構造上正しい」ことが知られている。ダイクストラの後期の仕事は、この数学的手法を効率化することに関係している。2001年のインタビューで彼は「優雅さ」への渇望について述べていた。すなわち、完全さを求めるのではなく、思考を精神的に処理することが正しいアプローチであると。彼はたとえ話としてモーツァルトとベートーヴェンの作曲法を対比させている。 ダイクストラは分散コンピューティングの先駆者の1人でもある。例えば、彼の "Self-stabilizing Systems in Spite of Distributed Control" という論文は自己安定化(英語版)というサブフィールドを創始した。 コンピュータ科学やプログラミングについての彼の意見は広範囲に及んだ。例えば、あるデータ構造の複数のインスタンスを処理している場合、経験則としてそのロジックをループ内にカプセル化すべきだと示唆し、また、プログラミングが本来非常に難しく複雑であり、プログラマはその複雑性をうまく管理するために可能な限り技巧と抽象化を利用する必要がある、という主張をした。 「コンピュータ科学」という用語が、(情報理論などといった)実際には必要な抽象的性質について当を得ていない、とする以下のような発言もあった(EWD924、なお日本では「情報科学」など、ある程度それを補うような語が併用されている)。 A confusion of even longer standing came from the fact that the unprepared included the electronic engineers that were supposed to design, build, and maintain the machines. The job was actually beyond the electronic technology of the day, and, as a result, the question of how to get and keep the physical equipment more or less in working condition became in the early days the all-overriding concern. As a result, the topic became —primarily in the USA— prematurely known as "computer science" —which, actually is like referring to surgery as "knife science"— and it was firmly implanted in people's minds that computing science is about machines and their peripheral equipment. Quod non. (訳)(コンピュータを操作するという)仕事は実のところ当時の電子工学技術の域を超えていて、物理的装置を動作可能にしてその状態を保つことが当初は何にも増して重要な課題だった。結果として特にアメリカでは「コンピュータ科学」という用語が時期尚早な形で使われるようになり(実際、それは外科を「ナイフ科学」と呼ぶようなものである)、それが計算機と周辺機器についての科学であるという概念が人々の心に強く植えつけられた。Quod non(ラテン語で「それは正しくない」) 長年の癌との戦いの末、2002年8月6日、オランダのニューネンで亡くなった。 以下の言葉は、「ダイクストラの箴言」として引用されることが多い。 彼はまた、万年筆で慎重に原稿を書く習慣があることでも知られていた。ダイクストラは原稿に自分のイニシャルである EWDという記号と番号を付与したため、彼の原稿は一般に EWD と呼ばれている。ダイクストラ自身によれば、アムステルダムの数学研究所を離れてアイントホーフェン工科大学に移った後、この習慣が始まったという。アイントホーフェンに移った後、ダイクストラは1年以上何も書けない状態が続いた。自分を省みたダイクストラは、数学研究所の元同僚が理解するようなことを書けばアイントホーフェンの同僚には理解されず、アイントホーフェンの同僚が望むようなことを書けば数学研究所の元同僚に軽蔑されるという懸念があることを発見する。そこで彼は自分自身のためだけに書くことを決め、EWDが生まれた。ダイクストラは新たに EWD を書き上げると、そのコピーを同僚に配布した。それがさらにコピーされて世界中に配布されていき、計算機科学界全体に広がったのである。主題は計算機科学か数学であるが、一部は旅行記だったり、手紙だったり、講演記録だったりする。1300以上のEWDが電子化され、テキサス大学のダイクストラのアーカイブで検索・入手可能である。 ダイクストラの空想上の副業として、空想上の企業 Mathematics Inc. の会長という仕事があった。この企業はコンピュータのプログラム製造を商業化したソフトウェア企業のように、数学の定理を製造することを商業化した会社である。彼は Mathematics Inc. の様々な活動や課題を考案し、それをEWDシリーズのいくつかの文書で発表している。この空想上の企業はリーマン予想の証明を製造したが、リーマン予想が正しいと仮定して様々な証明を行ってきた数学者たちからロイヤルティーを徴収するという難題に直面する。証明そのものは企業秘密 (trade secret) である。同社の証明の多くは急いで生産され、同社はそれらの保守に追われることになった。より成功した成果として、ピタゴラスの定理の標準的証明があり、100以上存在した既存の証明群を置換した。ダイクストラは Mathematics Inc. について「これまでに考案された最もエキサイティングで最もみじめなビジネス」と評した。EWD 443 (1974) では彼の想像した会社が世界の75%のシェアを獲得したとされている。 ダイクストラはソフトウェアについて様々な発明をしたが、自分のコンピュータを所有したのは比較的遅く、しかもめったに使わなかった。1972年以降のEWDはほとんどが手書きである。講義の際は黒板にチョークで書き、オーバーヘッドプロジェクタも滅多に使わなかった。アップルのMacintoshを購入してからも、電子メールとWebブラウザ以外には使わなかった。 以下のような賞と栄誉を受けている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "エドガー・ダイクストラ(Edsger Wybe Dijkstra, 1930年5月11日 - 2002年8月6日)は、オランダ人の計算機科学者。1972年、プログラミング言語の基礎研究への貢献に対してチューリング賞を受賞。構造化プログラミングの提唱者。1984年から2002年に亡くなるまでテキサス大学オースティン校の計算機科学の Schlumberger Centennial Chair を務めた。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "2002年の死の直前、プログラム計算の自己安定化(英語版)についての仕事に対して ACM PODC Influential Paper Award を授与された。この賞は翌年からダイクストラを称えてダイクストラ賞(英語版)と呼ばれるようになった。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "エズガー・ダイクストラと表記されることもある。オランダ語での発音は、IPA表記で /ˈɛtsxər ˈwibə ˈdɛɪkstra/ で、エツハー・ウィベ・デイクストラに近い。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ロッテルダム生まれ。ライデン大学で理論物理学を学んだが、コンピュータ科学の方に興味があることに気が付くのに時間はかからなかった。最初にアムステルダムの国立数学研究所 (Mathematisch Centrum) に職を得たが、オランダのアイントホーフェン工科大学で教授職を得る。1970年代初期にはバロースのフェローとしても働いた。その後、アメリカのテキサス大学オースティン校に移り、2000年に引退した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "彼のコンピュータ科学に関する貢献としては、グラフ理論の最短経路問題におけるダイクストラ法、逆ポーランド記法とそれに関連する操車場アルゴリズム、初期の階層型システムの例であるTHEマルチプログラミングシステム、銀行家のアルゴリズム、排他制御のためのセマフォの考案などがある。分散コンピューティング分野では自己安定化(英語版)というシステムの信頼性を保証する手法を提案した。ダイクストラ法は SPF (Shortest Path First) で使われており、それがOSPFやIS-ISといったルーティングプロトコルで使われている。操車場アルゴリズムやセマフォ(鉄道でかつて使われた腕木式信号機)に代表されるが、鉄道を使用した説明でも知られる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1950年代には、当時の他のコンピュータ科学者やプログラマたちと同様、機械語ないし、FORTRANのような当時一般的だった非構造的な言語によってプログラミングをしていたが、その後早くから大規模なプログラムをバグが無いように書くことの困難さについて警鐘を鳴らした一人であった。1960年代後半に「構造化プログラミング」を掲げ、プログラミングの改善について多くの文献や発言を残した。当時のプログラミングでは、ループや条件分けなどの、あらゆる制御構造を「goto文一本槍」で書くしかなかったわけだが、その問題点を指摘した \"A Case against the GO TO Statement\" という文章をしたためる(注: ダイクストラには、ホーアやクヌースなど、似た問題意識を持っていた他のコンピュータ科学者らとの手紙や学会関係の集まりでの交流にもとづき、改訂を重ねたことにより、いくつかのバージョンのある文章が多い)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "しかしその主張は「goto文除去運動」といったように単純化されて捉えられることも多く、クヌースによれば1971年には、情報処理国際連合(IFIP)の国際会議で会った後藤英一(Eiichi Goto)が、いつも「除去」されて困るとジョークを言っていた、という(ほどに、単純化された解釈が広まっていた、ということ)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "前述の \"A Case against the GO TO Statement\" はコンピュータ科学の国際学会ACMに投稿され、『Go To 文は有害とみなされる』(\"Go To Statement Considered Harmful\") という刺激的な題名で学会誌(CACM)にレターとして掲載された(この出来事は、やはりクヌースによれば「go to文除去の話の二番目の場面は,多くの人たちが第一幕だと思っている事実」となった)。刺激的な題名はダイクストラ本人が付けたものではなく、当時編集を担当していたニクラウス・ヴィルトが付けたもので、すぐに掲載できるレター扱いを決めたのもヴィルトである。これは後に、\"considered harmful\" というフレーズが業界の定番となった原点でもある。1972年には、アントニー・ホーアとオーレ=ヨハン・ダールとの共著で、\"Structured Programming\" という題名の書籍に、3人のそれぞれの主要分野(ホーアはホーア論理が著名なように形式手法、ダールはSimulaの設計者の一人であり、データ抽象(後のオブジェクト指向につながる)に関して解説した)に基づく、よりよいプログラミングについてまとめた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "以上のような立場から、BASICを教育に使うことにも強く反対し、(マイコン普及以前の1975年の時点で既に)mentally mutilated beyond hope of regeneration(回復の望みがないほどに精神をダメにされる)といった強い調子で否定する言葉を残している。ほぼ同じことをマイコン普及初期の1984年にも述べている(EWD898)。これも、当時に少年期を過ごし、BASICを使っていた現代のコンピュータ科学者などが、「私は無事だったようです」等とネタにすることがある。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "ダイクストラは ALGOL 60 のファンとしても知られ、最初のコンパイラを実装したチームにも参加していた。そのコンパイラ開発に関わった Jaap Zonneveld とダイクストラはプロジェクトが完了するまで髭を剃らないという誓いを立てた。それは、世界初の再帰をサポートしたコンパイラの1つである(現代では戻り番地や引数をスタックに積む、という再帰できるようにするための処理は、空気のように当たり前のことになっているので特記事項である意味がわからないかもしれないが、それ以前にあったコンパイラ、例えば「世界最初のコンパイラ」と言われることのあるひとつである、IBMによるFORTRANコンパイラは、理由あって最適化等は追求していたものの、実行時に関数を再帰呼出しすることはサポートしていなかった)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "1968年には、THEと呼ばれるマルチプログラミング方式のオペレーティングシステムの構造に関する論文と、\"Cooperating Sequential Processes\" についての論文を発表している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1970年代になると、ダイクストラの主要な興味は形式的検証に移っていった。当時の一般的手法は、とりあえずプログラムを書いてからその正当性を数学的に証明するというものであった。ダイクストラはこれに対して、検証に時間がかかって面倒であるし、プログラムの開発手法に何ら洞察を与えない点が問題であるとした。一方「検証とプログラミングを同時に行う」のが「プログラム導出」と呼ばれる別の手法である。まず、プログラムの動作に関する数学的な「仕様」を記述し、その仕様に数学的な変換を加えて最終的にプログラムを導き出す。このように作成されたプログラムは「構造上正しい」ことが知られている。ダイクストラの後期の仕事は、この数学的手法を効率化することに関係している。2001年のインタビューで彼は「優雅さ」への渇望について述べていた。すなわち、完全さを求めるのではなく、思考を精神的に処理することが正しいアプローチであると。彼はたとえ話としてモーツァルトとベートーヴェンの作曲法を対比させている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "ダイクストラは分散コンピューティングの先駆者の1人でもある。例えば、彼の \"Self-stabilizing Systems in Spite of Distributed Control\" という論文は自己安定化(英語版)というサブフィールドを創始した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "コンピュータ科学やプログラミングについての彼の意見は広範囲に及んだ。例えば、あるデータ構造の複数のインスタンスを処理している場合、経験則としてそのロジックをループ内にカプセル化すべきだと示唆し、また、プログラミングが本来非常に難しく複雑であり、プログラマはその複雑性をうまく管理するために可能な限り技巧と抽象化を利用する必要がある、という主張をした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "「コンピュータ科学」という用語が、(情報理論などといった)実際には必要な抽象的性質について当を得ていない、とする以下のような発言もあった(EWD924、なお日本では「情報科学」など、ある程度それを補うような語が併用されている)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "A confusion of even longer standing came from the fact that the unprepared included the electronic engineers that were supposed to design, build, and maintain the machines. The job was actually beyond the electronic technology of the day, and, as a result, the question of how to get and keep the physical equipment more or less in working condition became in the early days the all-overriding concern. As a result, the topic became —primarily in the USA— prematurely known as \"computer science\" —which, actually is like referring to surgery as \"knife science\"— and it was firmly implanted in people's minds that computing science is about machines and their peripheral equipment. Quod non.", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "(訳)(コンピュータを操作するという)仕事は実のところ当時の電子工学技術の域を超えていて、物理的装置を動作可能にしてその状態を保つことが当初は何にも増して重要な課題だった。結果として特にアメリカでは「コンピュータ科学」という用語が時期尚早な形で使われるようになり(実際、それは外科を「ナイフ科学」と呼ぶようなものである)、それが計算機と周辺機器についての科学であるという概念が人々の心に強く植えつけられた。Quod non(ラテン語で「それは正しくない」)", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "長年の癌との戦いの末、2002年8月6日、オランダのニューネンで亡くなった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "以下の言葉は、「ダイクストラの箴言」として引用されることが多い。", "title": "ダイクストラの箴言" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "彼はまた、万年筆で慎重に原稿を書く習慣があることでも知られていた。ダイクストラは原稿に自分のイニシャルである EWDという記号と番号を付与したため、彼の原稿は一般に EWD と呼ばれている。ダイクストラ自身によれば、アムステルダムの数学研究所を離れてアイントホーフェン工科大学に移った後、この習慣が始まったという。アイントホーフェンに移った後、ダイクストラは1年以上何も書けない状態が続いた。自分を省みたダイクストラは、数学研究所の元同僚が理解するようなことを書けばアイントホーフェンの同僚には理解されず、アイントホーフェンの同僚が望むようなことを書けば数学研究所の元同僚に軽蔑されるという懸念があることを発見する。そこで彼は自分自身のためだけに書くことを決め、EWDが生まれた。ダイクストラは新たに EWD を書き上げると、そのコピーを同僚に配布した。それがさらにコピーされて世界中に配布されていき、計算機科学界全体に広がったのである。主題は計算機科学か数学であるが、一部は旅行記だったり、手紙だったり、講演記録だったりする。1300以上のEWDが電子化され、テキサス大学のダイクストラのアーカイブで検索・入手可能である。", "title": "EWD と手書き文書" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ダイクストラの空想上の副業として、空想上の企業 Mathematics Inc. の会長という仕事があった。この企業はコンピュータのプログラム製造を商業化したソフトウェア企業のように、数学の定理を製造することを商業化した会社である。彼は Mathematics Inc. の様々な活動や課題を考案し、それをEWDシリーズのいくつかの文書で発表している。この空想上の企業はリーマン予想の証明を製造したが、リーマン予想が正しいと仮定して様々な証明を行ってきた数学者たちからロイヤルティーを徴収するという難題に直面する。証明そのものは企業秘密 (trade secret) である。同社の証明の多くは急いで生産され、同社はそれらの保守に追われることになった。より成功した成果として、ピタゴラスの定理の標準的証明があり、100以上存在した既存の証明群を置換した。ダイクストラは Mathematics Inc. について「これまでに考案された最もエキサイティングで最もみじめなビジネス」と評した。EWD 443 (1974) では彼の想像した会社が世界の75%のシェアを獲得したとされている。", "title": "EWD と手書き文書" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ダイクストラはソフトウェアについて様々な発明をしたが、自分のコンピュータを所有したのは比較的遅く、しかもめったに使わなかった。1972年以降のEWDはほとんどが手書きである。講義の際は黒板にチョークで書き、オーバーヘッドプロジェクタも滅多に使わなかった。アップルのMacintoshを購入してからも、電子メールとWebブラウザ以外には使わなかった。", "title": "EWD と手書き文書" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "以下のような賞と栄誉を受けている。", "title": "栄誉・受賞歴" } ]
エドガー・ダイクストラは、オランダ人の計算機科学者。1972年、プログラミング言語の基礎研究への貢献に対してチューリング賞を受賞。構造化プログラミングの提唱者。1984年から2002年に亡くなるまでテキサス大学オースティン校の計算機科学の Schlumberger Centennial Chair を務めた。 2002年の死の直前、プログラム計算の自己安定化についての仕事に対して ACM PODC Influential Paper Award を授与された。この賞は翌年からダイクストラを称えてダイクストラ賞と呼ばれるようになった。 エズガー・ダイクストラと表記されることもある。オランダ語での発音は、IPA表記で で、エツハー・ウィベ・デイクストラに近い。
{{Infobox Scientist | name = エドガー・ダイクストラ | image = Edsger Wybe Dijkstra.jpg | caption = Edsger Wybe Dijkstra (1930-2002) | birth_date = {{生年月日と年齢|1930|05|11|no}} | birth_place = {{NED}} [[ロッテルダム]] | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1930|05|11|2002|8|6}} | death_place = {{NED}} [[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]] | residence = | citizenship = | nationality = | ethnicity = | field = [[計算機科学]] | work_institutions = {{仮リンク|オランダ国立情報数学研究所|en|Centrum Wiskunde & Informatica}}<br/>[[アイントホーフェン工科大学]]<br/>[[テキサス大学オースティン校]] | alma_mater = | doctoral_advisor = [[:nl:Adriaan van Wijngaarden|Adriaan van Wijngaarden]] | doctoral_students = [[:en:Nico Habermann|Nico Habermann]]<br/>[[:nl:Jan L.A. van de Snepscheut|Jan L.A. van de Snepscheut]] | known_for = [[ダイクストラ法]]<br/>[[構造化プログラミング]]<br/>[[THEマルチプログラミングシステム]]<br/>[[セマフォ]] | prizes = [[チューリング賞]] | footnotes = }} '''エドガー・ダイクストラ'''('''Edsger Wybe Dijkstra''', [[1930年]][[5月11日]] - [[2002年]][[8月6日]])は、[[オランダ|オランダ人]]の[[計算機科学]]者。[[1972年]]、プログラミング言語の基礎研究への貢献に対して[[チューリング賞]]を受賞。[[構造化プログラミング]]の提唱者。1984年から2002年に亡くなるまで[[テキサス大学オースティン校]]の計算機科学の Schlumberger Centennial Chair を務めた。 2002年の死の直前、プログラム計算の{{仮リンク|自己安定化|en|self-stabilization}}についての仕事に対して [[Association for Computing Machinery|ACM]] PODC Influential Paper Award を授与された。この賞は翌年からダイクストラを称えて{{仮リンク|ダイクストラ賞|en|Dijkstra Prize}}と呼ばれるようになった。 '''エズガー・ダイクストラ'''と表記されることもある。オランダ語での発音は、[[国際音声記号|IPA]]表記で {{IPA|/ˈɛtsxər ˈwibə ˈdɛɪkstra/}} で、エツハー・ウィベ・デイクストラに近い。 == 生涯 == [[ロッテルダム]]生まれ。[[ライデン大学]]で[[理論物理学]]を学んだが、[[コンピュータ科学]]の方に興味があることに気が付くのに時間はかからなかった。最初にアムステルダムの国立数学研究所 (Mathematisch Centrum) に職を得たが、オランダの[[アイントホーフェン工科大学]]で教授職を得る。[[1970年代]]初期には[[バロース]]の[[フェロー]]としても働いた。その後、アメリカの[[テキサス大学オースティン校]]に移り、[[2000年]]に引退した。 彼のコンピュータ科学に関する貢献としては、[[グラフ理論]]の[[最短経路問題]]における[[ダイクストラ法]]、[[逆ポーランド記法]]とそれに関連する[[操車場アルゴリズム]]、初期の階層型システムの例である[[THEマルチプログラミングシステム]]、[[銀行家のアルゴリズム]]、[[排他制御]]のための[[セマフォ]]の考案などがある。[[分散コンピューティング]]分野では{{仮リンク|自己安定化|en|Self-stabilization}}というシステムの信頼性を保証する手法を提案した。ダイクストラ法は SPF (Shortest Path First) で使われており、それが[[Open Shortest Path First|OSPF]]や[[IS-IS]]といった[[ルーティングプロトコル]]で使われている。操車場アルゴリズムやセマフォ(鉄道でかつて使われた腕木式信号機)に代表されるが、[[鉄道]]を使用した説明でも知られる。 1950年代には、当時の他のコンピュータ科学者やプログラマたちと同様、[[機械語]]ないし、[[FORTRAN]]のような当時一般的だった非構造的な言語によってプログラミングをしていたが、その後早くから大規模なプログラムをバグが無いように書くことの困難さについて警鐘を鳴らした一人であった。1960年代後半に「[[構造化プログラミング]]」を掲げ、プログラミングの改善について多くの文献や発言を残した。当時のプログラミングでは、ループや条件分けなどの、あらゆる制御構造を「[[goto文]]一本槍」で書くしかなかったわけだが、その問題点を指摘した "A Case against the GO TO Statement"<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = A Case against the GO TO Statement (EWD-215) | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd02xx/EWD215.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD02xx/EWD215.html transcription])</ref> という文章をしたためる(注: ダイクストラには、ホーアやクヌースなど、似た問題意識を持っていた他のコンピュータ科学者らとの手紙や学会関係の集まりでの交流にもとづき、改訂を重ねたことにより、いくつかのバージョンのある文章が多い)。 しかしその主張は「[[goto文]]除去運動」といったように単純化されて捉えられることも多く、クヌースによれば1971年には、[[情報処理国際連合]](IFIP)の国際会議で会った[[後藤英一]](Eiichi Goto)が、いつも「除去」されて困るとジョークを言っていた、という<ref>『文芸的プログラミング』 p. 43</ref>(ほどに、単純化された解釈が広まっていた、ということ)。 前述の "A Case against the GO TO Statement" はコンピュータ科学の国際学会[[Association for Computing Machinery|ACM]]に投稿され、『Go To 文は有害とみなされる』("Go To Statement Considered Harmful") という刺激的な題名で学会誌(CACM)にレターとして掲載された(この出来事は、やはりクヌースによれば「<code>go to</code>文除去の話の二番目の場面は,多くの人たちが第一幕だと思っている事実」<ref>『文芸的プログラミング』 p. 45</ref>となった)。刺激的な題名はダイクストラ本人が付けたものではなく、当時編集を担当していた[[ニクラウス・ヴィルト]]が付けたもので、すぐに掲載できるレター扱いを決めたのもヴィルトである。これは後に、"[[:en:considered harmful|considered harmful]]" というフレーズが業界の定番となった原点でもある。1972年には、[[アントニー・ホーア]]と[[オーレ=ヨハン・ダール]]との共著で、"Structured Programming" という題名の書籍に、3人のそれぞれの主要分野(ホーアは[[ホーア論理]]が著名なように[[形式手法]]、ダールは[[Simula]]の設計者の一人であり、データ抽象(後の[[オブジェクト指向]]につながる)に関して解説した)に基づく、よりよいプログラミングについてまとめた。 以上のような立場から、[[BASIC]]を教育に使うことにも強く反対し、(マイコン普及以前の1975年の時点で既に)mentally mutilated beyond hope of regeneration(回復の望みがないほどに精神をダメにされる)といった強い調子で否定する言葉を残している<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = How do we tell truths that might hurt? (EWD-498) | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd04xx/EWD498.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD04xx/EWD498.html transcription])</ref>。ほぼ同じことをマイコン普及初期の1984年にも述べている(EWD898)。これも、当時に少年期を過ごし、BASICを使っていた現代のコンピュータ科学者などが、「私は無事だったようです」等とネタにすることがある。 ダイクストラは [[ALGOL|ALGOL 60]] のファンとしても知られ、最初のコンパイラを実装したチームにも参加していた。そのコンパイラ開発に関わった Jaap Zonneveld とダイクストラはプロジェクトが完了するまで髭を剃らないという誓いを立てた<ref>{{Cite web| url= http://vanemden.wordpress.com/2008/05/06/i-remember-edsger-dijkstra-1930-2002/ | title=I remember Edsger Dijkstra (1930–2002) | accessdate=2010-12-22 | author=van Emden, Maarten | date=2008-05-06}}</ref>。それは、世界初の[[再帰]]をサポートしたコンパイラの1つである<ref>{{Cite journal |url= http://www.dijkstrascry.com/node/4 |title=Dijkstra's Rallying Cry for Generalization: the Advent of the Recursive Procedure, late 1950s - early 1960s |last=Daylight |first=E. G. |journal=The Computer Journal |year=2011 |doi=10.1093/comjnl/bxr002}}</ref>(現代では戻り番地や引数をスタックに積む、という再帰できるようにするための処理は、空気のように当たり前のことになっているので特記事項である意味がわからないかもしれないが、それ以前にあったコンパイラ、例えば「世界最初のコンパイラ」と言われることのあるひとつである、IBMによるFORTRANコンパイラは、理由あって<ref group="※">IBMという企業という立場上、顧客に(あるいは社内的にも)「コンパイラの有用性を示す」という目標が絶対であったため、最初から最適化を目指すという普通は無謀と思われるような開発を行わねばならなかった。そのために言語自体の設計から始めたとは言え多大の工数を必要としたが(1954年〜1957年)、目標は無事達成された。</ref>最適化等は追求していたものの、実行時に関数を再帰呼出しすることはサポートしていなかった)。 1968年には、[[THEマルチプログラミングシステム|THE]]と呼ばれるマルチプログラミング方式の[[オペレーティングシステム]]の構造に関する論文と、"Cooperating Sequential Processes" についての論文<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = Cooperating sequential processes (EWD-123) | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd01xx/EWD123.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD01xx/EWD123.html transcription])</ref>を発表している。 [[1970年代]]になると、ダイクストラの主要な興味は[[形式的検証]]に移っていった。当時の一般的手法は、とりあえずプログラムを書いてからその[[正当性 (計算機科学)|正当性]]を[[証明 (数学)|数学的に証明]]するというものであった。ダイクストラはこれに対して、検証に時間がかかって面倒であるし、プログラムの開発手法に何ら洞察を与えない点が問題であるとした。一方「検証とプログラミングを同時に行う」のが「[[プログラム導出]]」と呼ばれる別の手法である。まず、プログラムの動作に関する数学的な「仕様」を記述し、その仕様に数学的な変換を加えて最終的にプログラムを導き出す。このように作成されたプログラムは「構造上正しい」ことが知られている。ダイクストラの後期の仕事は、この数学的手法を効率化することに関係している。2001年のインタビューで<ref>{{Cite web |url= https://web.archive.org/web/20110614060420/http://video.google.com/videoplay?docid=-6873628658308030363 |title=Edsger Dijkstra - Discipline in Thought (visit www.catonmat.net for notes) |publisher=Video.google.com |accessdate=2012-04-20}}</ref>彼は「優雅さ」への渇望について述べていた。すなわち、完全さを求めるのではなく、思考を精神的に処理することが正しいアプローチであると。彼はたとえ話として[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]と[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の作曲法を対比させている。 ダイクストラは[[分散コンピューティング]]の先駆者の1人でもある。例えば、彼の "Self-stabilizing Systems in Spite of Distributed Control" という論文は{{仮リンク|自己安定化|en|self-stabilization}}というサブフィールドを創始した。 コンピュータ科学やプログラミングについての彼の意見は広範囲に及んだ。例えば、あるデータ構造の複数のインスタンスを処理している場合、経験則としてそのロジックをループ内にカプセル化すべきだと示唆し、また、プログラミングが本来非常に難しく複雑であり、プログラマはその[[複雑性]]をうまく管理するために可能な限り技巧と抽象化を利用する必要がある、という主張をした。 「コンピュータ科学」という用語が、([[情報理論]]などといった)実際には必要な抽象的性質について当を得ていない、とする以下のような発言もあった(EWD924、なお日本では「[[情報科学]]」など、ある程度それを補うような語が併用されている)。 <blockquote> A confusion of even longer standing came from the fact that the unprepared included the electronic engineers that were supposed to design, build, and maintain the machines. The job was actually beyond the electronic technology of the day, and, as a result, the question of how to get and keep the physical equipment more or less in working condition became in the early days the all-overriding concern. As a result, the topic became —primarily in the USA— prematurely known as "computer science" —which, actually is like referring to surgery as "knife science"— and it was firmly implanted in people's minds that computing science is about machines and their peripheral equipment. Quod non.<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = On a cultural gap (EWD-924) | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd09xx/EWD924.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD09xx/EWD924.html transcription]) {{Cite journal |last=Dijkstra |first=E.W. |title=On a cultural gap |journal=The Mathematical Intelligencer |year=1986 |volume=8 |issue=1 |pages=48–52 |url= http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD09xx/EWD924.html}}</ref> (訳)(コンピュータを操作するという)仕事は実のところ当時の電子工学技術の域を超えていて、物理的装置を動作可能にしてその状態を保つことが当初は何にも増して重要な課題だった。結果として特にアメリカでは「コンピュータ科学」という用語が時期尚早な形で使われるようになり(実際、それは外科を「ナイフ科学」と呼ぶようなものである)、それが計算機と周辺機器についての科学であるという概念が人々の心に強く植えつけられた。Quod non(ラテン語で「それは正しくない」) </blockquote> 長年の[[癌]]との戦いの末、[[2002年]][[8月6日]]、[[オランダ]]の[[ニューネン・ヘルヴェン・エン・ネーデルヴェテン|ニューネン]]で亡くなった<ref>{{Cite news| url= http://news.cnet.com/2100-1001-949023.html | title=Computer science pioneer Dijkstra dies | accessdate=2010-12-22 | author=Goodwins, Rupert | date=2002-08-08}}</ref>。 == ダイクストラの箴言 == 以下の言葉は、「ダイクストラの箴言」として引用されることが多い。{{Quotation|Program testing can be a very effective way to show the presence of bugs, but is hopelessly inadequate for showing their absence. Edsger W. Dijkstra "The Humble Programmer (1972)"|}} == EWD と手書き文書 == 彼はまた、[[万年筆]]で慎重に原稿を書く習慣があることでも知られていた。ダイクストラは原稿に自分のイニシャルである ''EWD''という記号と番号を付与したため、彼の原稿は一般に EWD と呼ばれている。ダイクストラ自身によれば、アムステルダムの数学研究所を離れてアイントホーフェン工科大学に移った後、この習慣が始まったという。アイントホーフェンに移った後、ダイクストラは1年以上何も書けない状態が続いた。自分を省みたダイクストラは、数学研究所の元同僚が理解するようなことを書けばアイントホーフェンの同僚には理解されず、アイントホーフェンの同僚が望むようなことを書けば数学研究所の元同僚に軽蔑されるという懸念があることを発見する。そこで彼は自分自身のためだけに書くことを決め、EWDが生まれた。ダイクストラは新たに EWD を書き上げると、そのコピーを同僚に配布した。それがさらにコピーされて世界中に配布されていき、計算機科学界全体に広がったのである。主題は計算機科学か数学であるが、一部は旅行記だったり、手紙だったり、講演記録だったりする。1300以上のEWDが電子化され、テキサス大学のダイクストラのアーカイブで検索・入手可能である。 <ref>{{Citation| publisher = University of Texas | url = http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ | title = Online EWD archive}}.</ref> ダイクストラの空想上の副業として、空想上の企業 Mathematics Inc. の会長という仕事があった。この企業はコンピュータのプログラム製造を商業化したソフトウェア企業のように、数学の[[定理]]を製造することを[[商業]]化した会社である。彼は Mathematics Inc. の様々な活動や課題を考案し、それをEWDシリーズのいくつかの文書で発表している。この空想上の企業は[[リーマン予想]]の証明を製造したが、リーマン予想が正しいと仮定して様々な証明を行ってきた数学者たちから[[ロイヤルティー]]を徴収するという難題に直面する。証明そのものは[[企業秘密]]{{enlink|trade secret}}である<ref name="Cite EWD|475">{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = EWD-475 | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd04xx/EWD475.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD04xx/EWD475.html transcription])</ref>。同社の証明の多くは急いで生産され、同社はそれらの[[ソフトウェア保守|保守]]に追われることになった<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = EWD-539 | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd05xx/EWD539.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD05xx/EWD539.html transcription])</ref>。より成功した成果として、[[ピタゴラスの定理]]の標準的証明があり、100以上存在した既存の証明群を置換した<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = EWD-427 | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd04xx/EWD427.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD04xx/EWD427.html transcription])</ref>。ダイクストラは Mathematics Inc. について「これまでに考案された最もエキサイティングで最もみじめなビジネス」と評した<ref name= "Cite EWD|475"/>。EWD 443 (1974) では彼の想像した会社が世界の75%のシェアを獲得したとされている<ref>{{cite book | last = Dijkstra | first = Edsger W | title = EWD-433 | publisher = Center for American History, University of Texas at Austin | series = E.W. Dijkstra Archive}} ([http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd04xx/EWD433.PDF original]; [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD04xx/EWD433.html transcription])</ref><ref>{{Cite book| last = Dijkstra | first = Edsger W | title = Selected Writings on Computing: A Personal Perspective | publisher = Springer-Verlag | location = Berlin | year = 1982 | isbn = 978-0-387-90652-2 }}</ref>。 [[ファイル:Edsger Dijkstra 1994.jpg|thumb |[[チューリッヒ工科大学]]でのカンファレンスで黒板に向かっているダイクストラ (1994)]] ダイクストラはソフトウェアについて様々な発明をしたが、自分のコンピュータを所有したのは比較的遅く、しかもめったに使わなかった。1972年以降のEWDはほとんどが手書きである。講義の際は黒板にチョークで書き、[[オーバーヘッドプロジェクタ]]も滅多に使わなかった。アップルの[[Macintosh]]を購入してからも、[[電子メール]]とWebブラウザ以外には使わなかった<ref name = "UTx">{{Citation| publisher = University of Texas | type = memorial | url = http://www.utexas.edu/faculty/council/2002-2003/memorials/Dijkstra/dijkstra.html | title = In Memoriam Edsger Wybe Dijkstra}}.</ref>。 == 栄誉・受賞歴 == 以下のような賞と栄誉を受けている<ref name = "UTx"/>。 * 1971年 - [[オランダ王立芸術科学アカデミー]]会員 * 1971年 - [[英国コンピュータ学会]]特別フェロー * 1972年 - [[チューリング賞]] ([[Association for Computing Machinery]])<ref>{{Cite web|url= http://awards.acm.org/homepage.cfm?srt=all&awd=140 |title=A. M. Turing Award |publisher=[[Association for Computing Machinery]] |accessdate=2011-02-05}}</ref> * 1975年 - [[アメリカ芸術科学アカデミー]] 海外名誉会員 * 1976年 - [[名誉学位]]([[クイーンズ大学ベルファスト]]) * 1982年 - [[IEEE Computer Society]] [[コンピュータパイオニア賞]] * 1994年 - [[Association for Computing Machinery]] フェロー<ref>{{Cite web|url= http://fellows.acm.org/homepage.cfm?alpha=D&srt=alpha |title=ACM Fellows - D |publisher=[[Association for Computing Machinery]] |accessdate=2011-02-15}}</ref> * 2001年 - 名誉博士号(ギリシャの [[:en:Athens University of Economics & Business|Athens University of Economics & Business]]) * 2002年 - [[C&C賞]] == 著作 == * (March 1968). “Letters to the editor: go to statement considered harmful”<ref group="※">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd02xx/EWD215.PDF ewd215] "A Case against the GO TO Statement."</ref>. ''Communications of the ACM'' '''11''' (3): 147–148. {{doi|10.1145/362929.362947}}. {{ISSN|0001-0782}}. (EWD215) - Go To 文は有害だと考えられる * (Aug 1972). “The Humble Programmer”<ref group="※">http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd03xx/EWD340.PDF "The Humble Programmer."</ref>. ''Communications of the ACM'' '''15''' (10): 859–866. {{doi|10.1145/355604.361591}}. (EWD340) PDF, 1972年のチューリング賞講演 * (May 1982). “How do we tell truths that might hurt?”<ref group="※">[http://www.cs.virginia.edu/~evans/cs655/readings/ewd498.html Edsger Dijkstra - How do we tell truths that might hurt?]</ref>. SIGPLAN Notice 17 (5): 13–15. {{doi|10.1145/947923.947924}}. {{ISSN|0362-1340}}. (EWD498)<!-- I found this copy of the above paper with a copyright notice in it at http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd04xx/EWD498.PDF, so I don't think that the set of quotes should be lifted from it. Bubba73 --> * ''From My Life''<ref group="※">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/transcriptions/EWD11xx/EWD1166.html E.W.Dijkstra Archive: "From my Life" (EWD 1166)]</ref> (EWD1166) * (August 1975), ''Guarded commands, nondeterminacy and formal derivation of program''. ''Communications of the ACM'', 18(8):453–457. <ref group="※">[http://doi.acm.org/10.1145/360933.360975 Guarded commands, nondeterminacy and formal derivation of programs | Communications of the ACM]</ref> * (1976), ''A Discipline of Programming'', Prentice-Hall Series in Automatic Computation, ISBN 0-13-215871-X — [[Guarded Command Language]] * ''Selected Writings on Computing: A Personal Perspective'', Texts and Monographs in Computer Science, Springer-Verlag, 1982, ISBN 0-387-90652-5 * ''A Method of Programming'', E.W. Dijkstra, W.H.J. Feijen, trsl. by J. Sterringa, Addison Wesley 1988, ISBN 0-201-17536-3 * Carel S. Scholten との共著 (1990). ''Predicate Calculus and Program Semantics''. Springer-Verlag ISBN 0-387-96957-8 — [[述語変換意味論]] * [[オーレ=ヨハン・ダール|O.-J. Dahl]], [[アントニー・ホーア|C. A. R. Hoare]] との共著 ''Structured Programming''<ref group="※">[http://dl.acm.org/citation.cfm?id=1243380&jmp=cit&coll=portal&dl=GUIDE#CIT Structured programming: | Guide books]</ref>, Academic Press, London, 1972 ISBN 0-12-200550-3 ** ''Notes on Structured Programming'' (EWD249)<ref group="※">[http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ewd02xx/EWD249.PDF ewd249] "NOTES ON STRUCTURED PROGRAMMING"</ref>がベースになっている。また、[[エイト・クイーン]]を[[バックトラッキング]]を使って解く構造化された例がある。 == 注釈 == {{Reflist|group="※"}} == 出典 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [https://web.archive.org/web/20041206193322/www.digidome.nl/edsger_wybe_dijkstra.htm Biography] Digidome * [http://homepages.cwi.nl/~apt/ps/dijkstra.pdf ''Edsger Wybe Dijkstra (1930–2002): A Portrait of a Genius''] ([[Portable Document Format|PDF]]) ''Formal Aspects of Computing'' の死亡記事(伝記的記述あり) * [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/memorial/gries.html ''How can we explain Edsger W. Dijkstra to those who didn't know him?''] by David Gries * [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/memorial/moore.html Opening Remarks] by J Strother Moore * [http://www.cs.rutgers.edu/~szegedy/dijkstra.html In Memoriam Edsger Wybe Dijkstra] by Mario Szegedy * [http://www.adeptis.ru/vinci/m_part7.html Photos of Edsger Dijkstra] * [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/misc/vanVlissingenInterview.html 1985 Interview with Edsger Dijkstra, which he considered the best of his life] == 関連項目 == * [[ダイクストラ法]] * [[食事する哲学者の問題]] * [[銀行家のアルゴリズム]] * [[Guarded Command Language]] と[[述語変換意味論]] * [[セマフォ]] == 外部リンク == {{Commonscat|Edsger Wybe Dijkstra}} * [http://www.ijinden.com/_c_04/Edsger_Wybe_Dijkstra.html エズガー・ダイクストラ] ちえの和Web * [http://purl.umn.edu/107247 Oral history interview with Edsger W. Dijkstra], [[チャールズ・バベッジ研究所|Charles Babbage Institute]], University of Minnesota, Minneapolis. * [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/ E. W. Dijkstra Archive] * [http://purl.umn.edu/40969 Burroughs Corporation Records - Edsger W. Dijkstra Papers], Charles Babbage Institute, University of Minnesota. - ダイクストラは1973年から[[バロース]]で研究者として働いていた。 * [http://www.cs.utexas.edu/users/EWD/video-audio/NoorderlichtVideo.html Noorderlicht: Discipline in Thought] Video interview, 2001-04-10 * {{Scopus}} {{チューリング賞}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:たいくすとら えとかあ}} [[Category:エドガー・ダイクストラ|*]] [[Category:オランダの計算機科学者]] [[Category:オランダのシステム科学者]] [[Category:オランダのオペレーションズ・リサーチャー]] [[Category:オランダのプログラマ]] [[Category:プログラミング言語設計者]] [[Category:プログラミング言語研究者]] [[Category:並行・並列・分散コンピューティング関連の研究者]] [[Category:計算機科学教育者]] [[Category:チューリング賞受賞者]]<!-- 1972年 --> [[Category:ハリー・H・グッド記念賞の受賞者]]<!-- 1974年 --> [[Category:コンピュータパイオニア賞の受賞者]]<!-- 1982年 --> [[Category:ダイクストラ賞の受賞者]]<!-- 2002年 --> [[Category:C&C賞の受賞者]]<!-- 2002年 --> [[Category:形式手法の人物]] [[Category:テキサス大学オースティン校の教員]] [[Category:アイントホーフェン工科大学の教員]] [[Category:ACMフェロー]] [[Category:在アメリカ合衆国オランダ人]] [[Category:ロッテルダム出身の人物]] [[Category:1930年生]] [[Category:2002年没]] [[Category:オランダ王立芸術科学アカデミー会員]]
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バンド理論
固体物理学における固体のバンド理論(バンドりろん、英: band theory)または帯理論とは、結晶などの固体物質中に分布する電子の量子力学的なエネルギーレベルに関する理論を言う。1920年代後半にフェリックス・ブロッホ、ルドルフ・パイエルス、レオン・ブリルアンらによって確立された。なお、価電子帯の最高部(英: valence band maximum, VBM)と伝導帯の最低部(英: conduction band minimum, CBM)とのエネルギー差をバンドギャップといい、価電子帯での電子が占める最高エネルギー準位をフェルミ準位という 量子力学によると、束縛状態の電子が取りうるエネルギー準位は、特定の準位のみに限定され飛び飛びに(離散的に)なる。しかし、固体中の外殻電子は、隣接する原子の電子との相互作用によって、電子の取りうるエネルギー準位の幅が広がって連続的(バンド構造)になる。 一方で、電子が取りえないエネルギー準位も依然として存在し、バンドとバンドの間の空隙(ギャップ)となる。これをエネルギーバンドギャップという。 ブロッホの定理によると、結晶中の電子の波動関数(結晶中の電子の電子状態)は、波数と呼ばれる量子数によって指定される。このことが、エネルギーと波数の関係式が原理的に書き下せることを保障している。 エネルギーバンドの特徴は、絶縁体と金属の違いを説明することができる。絶縁体や半導体では、フェルミ準位は価電子帯と伝導帯の間のギャップの中に存在するため、自由電子が存在しない。一方、金属はエネルギーバンドの中にフェルミ準位が存在するため、バンドギャップを超えることなく電子がエネルギーを得ることができる、すなわち、わずかなエネルギーで電子を動かすことができる(電流が流れる)。このような絶縁体、金属の分類の描像は20世紀の半ばには確立されていた。しかし単純なバンド理論では説明できない絶縁状態(モット絶縁体)も存在し、強相関電子系と呼ばれる分野で研究されている。
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固体物理学における固体のバンド理論または帯理論とは、結晶などの固体物質中に分布する電子の量子力学的なエネルギーレベルに関する理論を言う。1920年代後半にフェリックス・ブロッホ、ルドルフ・パイエルス、レオン・ブリルアンらによって確立された。なお、価電子帯の最高部と伝導帯の最低部とのエネルギー差をバンドギャップといい、価電子帯での電子が占める最高エネルギー準位をフェルミ準位という
[[固体物理学]]における固体の'''バンド理論'''(バンドりろん、{{lang-en-short|band theory}})または'''帯理論'''とは、結晶などの固体物質中に分布する[[電子]]の[[量子力学]]的なエネルギーレベルに関する理論を言う。1920年代後半に[[フェリックス・ブロッホ]]、[[ルドルフ・パイエルス]]、[[レオン・ブリルアン]]らによって確立された<ref>[[#久保(1989)|久保(1989)]] p.2</ref>。なお、[[価電子帯]]の最高部({{lang-en-short|valence band maximum, VBM}})と[[伝導帯]]の最低部({{lang-en-short|conduction band minimum, CBM}})とのエネルギー差を[[バンドギャップ]]といい、価電子帯での電子が占める最高エネルギー準位を[[フェルミ準位]]という == 概要 == 量子力学によると、[[束縛状態]]の電子が取りうる[[エネルギー準位]]は、特定の準位のみに限定され飛び飛びに(離散的に)なる。しかし、固体中の外殻電子は、隣接する原子の電子との相互作用によって、電子の取りうるエネルギー準位の幅が広がって連続的([[バンド構造]])になる。 一方で、電子が取りえないエネルギー準位も依然として存在し、バンドとバンドの間の空隙(ギャップ)となる。これをエネルギーバンドギャップという。 [[ブロッホの定理]]によると、結晶中の電子の[[波動関数]](結晶中の電子の[[電子状態]])は、[[波数]]と呼ばれる[[量子数]]によって指定される。このことが、エネルギーと波数の関係式が原理的に書き下せることを保障している。 [[画像:BandGap-Comparison-withfermi-J.PNG|thumb|250px|right|[[金属]]、および[[半導体]]・[[絶縁体]]の[[バンド構造]]の簡単な模式図]] エネルギーバンドの特徴は、絶縁体と金属の違いを説明することができる。[[絶縁体]]や[[半導体]]では、[[フェルミエネルギー|フェルミ準位]]は[[価電子帯]]と[[伝導帯]]の間のギャップの中に存在するため、自由電子が存在しない。一方、[[金属]]はエネルギーバンドの中にフェルミ準位が存在するため、バンドギャップを超えることなく電子がエネルギーを得ることができる、すなわち、わずかなエネルギーで電子を動かすことができる(電流が流れる)。このような絶縁体、金属の分類の描像は20世紀の半ばには確立されていた。しかし単純なバンド理論では説明できない絶縁状態([[モット絶縁体]])も存在し、[[強相関電子系]]と呼ばれる分野で研究されている。 == 方法 == {{main|バンド計算}} * [[ほとんど自由な電子]](NFE) * [[自由電子]] * [[擬ポテンシャル]] * [[直交化された平面波]](OPW) * [[強結合近似]](TB近似) * [[マフィンティンポテンシャル]] * [[密度汎関数理論]] * [[グリーン関数法]] * [[グリーン-久保公式]] * [[モット絶縁体]] * [[クローニッヒ・ペニーのモデル]] * [[ハバードモデル]] == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * {{cite book | 和書 | author=J.N.シャイヴ | editor=神山 雅英, 小林 秋男, 青木 昌治, 川路 紳治(共訳) | title=半導体工学 | year=1961 | publisher=岩波書店 | ref=シャイヴ(1961) }} * {{cite book | 和書 | title=トランジスタ・集積回路の技術史 | author=久保 脩治 | publisher=オーム社 | year=1989 | ref=久保(1989) }} ==関連項目== *[[第一原理バンド計算]] ** [[擬ポテンシャル]] ** [[LMTO法]] ** NMTO法 ** [[APW法]] ** [[LAPW法]] ** [[KKR法]] ** [[PAW法]] ** [[コヒーレントポテンシャル近似]](→KKR-CPA) ** [[カー・パリネロ法]](≒第一原理分子動力学法) ** [[第一原理経路積分分子動力学法]] ** [[実空間法]] ** [[DFPT法]] {{半導体}} {{デフォルトソート:はんとりろん}} [[Category:固体物理学]] [[Category:理論]] [[Category:電子状態]] [[ko:띠 이론]]
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スラッシュ (記号)
スラッシュ (slash)、スラント (slant)、ソリドゥス (solidus)、または斜線(しゃせん)は、約物の一つで、「/」と書き表される。 ただし、斜線と言う場合には、いわゆるバックスラッシュ(\)や、約物以外のさまざまな斜めの線が含まれるので、一般にはスラッシュと呼ばれることが多い。 算用数字で表した年月日または月日の区切りとして用いる。日付の順序は国・言語によって異なり、これを「エンディアン」という。 例えば、2010年11月8日は次のとおりである。()内の表記は年を省略した11月8日を表す。 日付と時間の国際規格であるISO 8601では、ビッグエンディアンのみが認められており、かつ区切りにはスラッシュは用いず、「-」(ハイフン)を用いる。なお、年を省略した「11-08」のような記法は存在しない。 西暦を下二桁で表記する慣用もあり、また2桁になるように0(ゼロ)を先行させる場合もある(ISO 8601では4桁が必須)。その場合は、 ISO 8601では、スラッシュは期間を表す。例えば、「2004-01-31/2005-01-30」は「2004年1月31日から2005年1月30日」を表す(ISO 8601#期間、時間間隔)。 ヨーロッパ諸国では、ユリウス暦からグレゴリオ暦への移行時期に、混乱を防ぐため、ユリウス暦とグレゴリオ暦の日付をスラッシュを挟んで併記していた。 現代のコンピュータキーボードには標準的に装備されている。
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スラッシュ (slash)、スラント (slant)、ソリドゥス (solidus)、または斜線(しゃせん)は、約物の一つで、「/」と書き表される。 ただし、斜線と言う場合には、いわゆるバックスラッシュ(\)や、約物以外のさまざまな斜めの線が含まれるので、一般にはスラッシュと呼ばれることが多い。
{{混同|x1=母体となる文字の上に重ねて発音を区別する|ストローク符号}} {{redirect|斜線|[[表計算ソフト]]のセルに引かれるもの|罫線}} {{記号文字|/}} '''[[スラッシュ]]''' (slash)、'''スラント''' (slant)、'''[[ソリドゥス]]'''<ref name="IBMLocaleSymbolMapping">{{Cite web|和書|url=https://www.ibm.com/support/knowledgecenter/ja/ssw_i5_54/nls/rbagslocalesymbolmapnames.htm|title=ロケール記号名のマッピグ|publisher=IBM|accessdate=2017-07-22}}</ref> (solidus)、または'''斜線'''(しゃせん)は、[[約物]]の一つで、「'''/'''」と書き表される。 ただし、斜線と言う場合には、いわゆる[[バックスラッシュ]]({{backslash}})や、約物以外のさまざまな斜めの線が含まれるので、一般にはスラッシュと呼ばれることが多い。 == 国際的な用法 == === 日付 === [[算用数字]]で表した[[年月日]]または月日の区切りとして用いる。[[日付#年月日の順序の混乱|日付の順序]]は国・言語によって異なり、これを「[[エンディアン#日付の方式での使い方|エンディアン]]」という。 例えば、[[2010年]][[11月8日]]は次のとおりである。()内の表記は年を省略した11月8日を表す。 * 2010/11/8 (11/8) - [[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|ビッグエンディアン]]) * 11/8/2010 (11/8) - [[アメリカ合衆国]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|ミドルエンディアン]]) * 8/11/2010 (8/11) - [[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[イスラエル]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|リトルエンディアン]]) * 8.11.2010 (8.11) - [[ドイツ]] [[日付]]と時間の国際規格である[[ISO 8601]]では、[[エンディアン#日付の方式での使い方|ビッグエンディアン]]のみが認められており、かつ区切りにはスラッシュは用いず、「-」([[ハイフン]])を用いる。なお、年を省略した「11-08」のような記法は存在しない。 * 2010-11-08 - [[ISO 8601]]  西暦を下二桁で表記する慣用もあり、また2桁になるように0(ゼロ)を先行させる場合もある(ISO 8601では4桁が必須)。その場合は、 * 10/11/8 (11/8) または 10/11/08 (11/08)- [[日本]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[大韓民国|韓国]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|ビッグエンディアン]]) * 11/8/10 (11/8) または 11/08/10 (11/08)- [[アメリカ合衆国]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|ミドルエンディアン]]) * 8/11/10 (8/11) または 08/11/10 (08/11)- [[イギリス]]、[[フランス]]、[[イタリア]]、[[イスラエル]]など([[エンディアン#日付の方式での使い方|リトルエンディアン]]) * 8.11.10 (8.11) または 08.11.10 (08.11)- [[ドイツ]] * ISO 8601には西暦を下二桁で表記する記法は存在しない。 [[ISO 8601]]では、スラッシュは期間を表す。例えば、「2004-01-31/2005-01-30」は「2004年1月31日から2005年1月30日」を表す([[ISO 8601#期間、時間間隔]])。 [[ヨーロッパ]]諸国では、[[ユリウス暦]]から[[グレゴリオ暦]]への移行時期に、混乱を防ぐため、ユリウス暦とグレゴリオ暦の日付をスラッシュを挟んで併記していた。 === 科学・数学・比率 === *[[分数]]で、縦のスペースを節約したいときや、分数形式だと式が読みづらくなるときなど、<math>\textstyle \frac{1}{3}</math> = {{分数|1|3}} = 1/3 (3分の1)のように書く。 **日本語圏や英語圏などでは[[除法|割り算]]の[[演算子]]記号を「[[÷]]」で表すが<ref>「[[コロン (記号)|:]]」を使う文化圏もある</ref>、コンピュータなどでは「÷」が基本的な[[文字セット]]([[ASCII]]など)に含まれていないため、分数として捉えて代わりに「/」を使う。多くの[[プログラミング言語]]でこの記法が採用されている(下記[[#コンピュータにおけるスラッシュ]]参照)。 **[[SI組立単位]]の[[単位記号]]で、割り算を表す。例えば、m/s([[メートル毎秒]])。 *数学において、それ以外にも各種の割り算([[商 (数学)|商]])を表す。場合によっては、2つ以上のスラッシュを並べる(例えば {{仮リンク|GIT 商|en|GIT quotient}})。 *他の記号に重ねて書いて、「[[否定|〜でない]]」を表す。たとえば、「[[≠]]」(イコールでない)。 *[[グラフ (関数)|グラフ]]や[[統計図表]]においてスケールが大きく異なる値を同じ図面上に掲載したい時、軸を割る形で記号を2つ繋げて「―//―」と書き、実際には大きく間が空いているにもかかわらず軸の途中が省略されていることを示す。 *[[為替レート]]で例えば「USD/JPY」と書いたときは、「1USD([[アメリカドル|USドル]])が何JPY([[円 (通貨)|日本円]])か」、すなわち1USDの価値を1JPYの価値で割った値を示す。(2012年時点では、USD/JPY ≒ 80。<ref>[http://www.boj.or.jp/statistics/market/forex/fxdaily/ 外国為替市況(日次)]、日本銀行</ref>)[[組立単位]](1 USD毎JPY)だと考えてはいけない<ref>[http://system-trading.jp/toyoshima/index.php?ID=70 FXレートの単位]、基礎から学ぶシステムトレード</ref>。 === 接続詞的用法(結びつき) === *文脈によって「または」か「および」を表す。以下の例は英語の場合であるが、多くの言語で使われる。 **green and/or small car = 緑色でかつ(and)小さい車、または、緑色であるかもしくは(or)小さい車。要するに、緑色の車と小さい車の両方(緑色かつ小さい車を含む)を指す。 **the Ernest Hemingway/William Faulkner generation = [[アーネスト・ヘミングウェイ]]や[[ウィリアム・フォークナー]]の世代 **[[F/A-18 (航空機)|F/A-18]] = [[戦闘機]](F)兼[[攻撃機]](A) *[[両A面シングル]]の曲タイトルを連記するのに使われる。たとえば、「[[ガラスの林檎/SWEET MEMORIES]]」。 *航空券における出発地・到着地の表記や[[コードシェア]]便の表記。同一都市に複数の[[空港]]が含まれる場合は「都市名'''/'''空港名」と表記される場合があり、「東京/[[東京国際空港|羽田]]」「東京/[[成田国際空港|成田]]」「大阪/[[大阪国際空港|伊丹]]」「大阪/[[関西国際空港|関空]]」などと表記される (他には都市名、空港名いずれかが括弧書される場合がある<ref name="A">[http://flyteam.jp/airline_route/nrt_ord/flight_schedule#nrt_ord 成田(東京) - シカゴ 時刻表(2016年11月)] </ref>ほか、「東京 - 成田」のようにハイフンで結ばれる場合もある<ref name="C">[http://www.delta.com/content/www/en_US/traveling-with-us/airports-and-aircraft/airports/tokyo.html]([[デルタ航空]]、英語)</ref>)。コードシェア便についても同様に、「[[アメリカン航空|AA]]154/[[日本航空|JL]]7010<ref name="A" /><ref name="B">[http://www.fukuekuko.jp/user_data/timetable/ 福江空港ターミナルビル株式会社 / フライト時刻表]など。(他にも空港・飛行場の掲示板など)</ref>」などの表記が見られる。 === 記号的用法 === * 何かに重ねて書いて、取り消しを表す。 * [[チェックマーク]]がスラッシュのような字形で書かれることがある。 * [[ボウリング]]でスペアを表す。ただし、手書き以外では、右下を塗りつぶし黒い直角三角形にすることが多い。 * [[アマチュア無線]]では、常置場所とは異なる場所で運用する無線局(移動運用局)であることを示すために、[[呼出符号]]に「/」を付け、運用地を示す英数字を加える<ref>[http://qtc-japan.net/2001/03_news&topics/image_5/ja0sc.pdf 『移動運用における呼出符号(コールサイン)』]</ref>。この際の発音は、世界的には「ストローク」(stroke)が一般的であるが、日本国内では「ポータブル」(portable)と読まれることが多い。なお、この用法以外にも、呼出符号に情報を付加するために「/」を用いるケースもある。 === 文章 === * 詩行や歌詞の行を区切るのに、改行のかわりに用いる。[[チェス]]の[[Forsyth-Edwards Notation|FEN記法]]でも使われている。 === 文字 === *[[ダイアクリティカルマーク]]としてスラッシュを重ねた文字がさまざまな言語で使われる。代表的なのは、[[デンマーク語]]などの「[[&oslash;]]」。[[Unicode]] では STROKE と呼んでいる。[[ストローク符号]]を参照。 *0(ゼロ)とO(オー)の区別のために、ゼロにスラッシュを付けた[[斜線付きゼロ]]で表す場合がある。 === 名称 === *[[スラッシュドット]] (/.) は[[電子掲示板]]。 *[[グレッグ・ベア]]の小説のタイトル『/』(日本語題『斜線都市』)。 == 特定の言語圏での用法 == === 日本語 === * 音楽CDのタイトルとアーティストを連記するのに使う。たとえば、「[[勝手にシンドバッド]]/[[サザンオールスターズ]]」。この記法は両A面シングルの曲名表記と紛らわしいことがある。 *[[西日本旅客鉄道|JR西日本]]の[[駅名標]]は、隣の駅が2方向以上ある駅については、スラッシュで分けている。 * [[インターネットスラング]]で、[[顔文字]]の一種。文末に使用して恥ずかしさや照れを表す。「例:だめっ///」 * [[競技クイズ]]で、[[早押しクイズ]]の記録集において、問題文中で[[早押しボタン]]が押されたところを表す{{Sfn|伊沢|2021|p=473}}。「例:日本で一番高い山/は何?」 === 英語 === * [[頭字語]]を表す。たとえば、B/S=Balance Sheet([[貸借対照表]])。 * [[シリング]]と[[ペニー]]の区切りに使う。たとえば、「1/6」は1シリング6ペンス。 * 例えば「7/8 May」は5月7日から5月8日にかけての[[夜]]。 * 金額で、「/-」で[[通貨の補助単位|補助通貨]]の桁が0であることを示す。たとえば「$10/-」は「10ドル0セント」。 * 同人創作活動において、[[カップリング (同人)]]を表す際に、日本語の「[[×#カップリング|×]]」の代わりに用いられる。 == コンピュータにおけるスラッシュ == 現代の[[コンピュータ]][[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]には標準的に装備されている。 *106キーボードや109キーボードにおいて、「[[・]]」(「[[?]]」「[[め]]」がともに印字されているキーボード)を入力した状態で変換すると半角および全角の「/」が候補に現れる。 *[[除算]]の[[演算子]]記号として用いる。例えば6を2で割る場合は <code>6/2</code> のように記す。 *いくつかの[[プログラミング言語]]で、次の形で[[コメント (コンピュータ)|コメント]]を表す。 **「/* 〜 */」で、その間がコメントであることを表す。[[C言語]]など。 **「// 〜」で、そこから行末までがコメントであることを表す。[[C++]]など。 *[[Python]]や[[Perl]](バージョン5.10以降)のように、ダブルスラッシュ<code>//</code>をひとつの演算子として扱う言語もある。 *[[UNIX]][[オペレーティングシステム]]において、[[パス (コンピュータ)|パス]]区切り記号として、[[ディレクトリ]](パーソナルコンピュータの[[ディレクトリ|フォルダ]]と類似の概念)を表し、ディレクトリ名の後(あるいは、ネットワーク内のコンピュータ名の後)に置かれる。また、「//」で、ネットワーク全体を表す。UNIXではないが[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]上でUNIXのように振る舞っているコンピュータもこれに準じ、したがって、インターネットの[[Uniform Resource Locator|URL]]でも同様である。 *[[スーパーユーザー]]を表す。 *[[Internet Relay Chat]]など、環境によっては[[コマンド (コンピュータ)|コマンド]]の識別子として用いられる。また、[[MS-DOS]]のように、コマンドに与えるオプションの[[区切り文字]](開始記号)としてスラッシュを用いる場合もある。 *[[IPアドレス]]において、アドレスの後にスラッシュと数値をつなげることで、あるアドレス範囲を示す。[[Classless Inter-Domain Routing|CIDR]]も参照のこと。 == 符号位置 == {| class="wikitable" style="text-align:center;" !記号!![[Unicode]]!![[JIS X 0213]]!![[文字参照]]!!名称 {{CharCode|47|002F|0x2F ([[JIS X 0201]])<br/>1-1-31|solidus}} {{CharCode|823|0337|-|combining short solidus overlay}} {{CharCode|824|0338|-|combining long solidus overlay}} {{CharCode|8260|2044|-|fraction slash|frasl}} {{CharCode|8725|2215|-|division slash}} {{CharCode|9585|2571|-|box drawing light diagonal upper right to lower left}} {{CharCode|65295|FF0F|1-1-31 ([[全角と半角|代替名称]])|fullwidth solidus}} |} == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book |和書 |author = 伊沢拓司 |authorlink= 伊沢拓司 |date = 2021年10月30日 |title = クイズ思考の解体 |isbn = 978-4-023-31983-7 |ref={{SfnRef|伊沢|2021}} |publisher=朝日新聞社 }} == 関連項目 == * [[バックスラッシュ]](\) * [[円記号]](&yen;記号) * [[シリング#シリング記号]] * [[ソリドゥス金貨]] * [[斜線制限]] - [[建築基準法]]などによる建物の形状の制限の規定。 {{Punctuation marks|/}} {{デフォルトソート:すらつしゆ}} [[category:約物]]
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地衣類
地衣類(ちいるい)は、菌類(主に子嚢菌や担子菌)のうち、藻類(主にシアノバクテリアあるいは緑藻)を共生させることで自活できるようになった生物である。一見ではコケ類(苔類)などにも似て見えるが、形態的にも異なり、構造は全く違うものである。 地衣類は、陸上性で、肉眼で見えるが、ごく背の低い光合成生物である。その点でコケ植物に共通点があり、生育環境も共通している。それゆえ多くの言語において同一視され(日本語でも地衣類の和名の多くが「○○ゴケ」である)、生物学の分野においても、1868年にスイスの植物学者であるジーモン・シュヴェンデナーが菌類と藻類とが共生しているとする説を提唱するまでコケ植物とされていた(生物学の用語としての「共生」が生まれたのも地衣類の研究からとされる)。 しかし地衣類の場合、その構造を作っているのは菌類である。大部分は子嚢菌に属するものであるが、それ以外の場合もある。菌類は光合成できないので独り立ちできないのだが、地衣類の場合、菌糸で作られた構造の内部に藻類が共生しており、藻類の光合成産物によって菌類が生活するものである。藻類と菌類は融合しているわけではなく、それぞれ独立に培養することも不可能ではない。したがって、2種の生物が一緒にいるだけと見ることもできる。ただし、菌類単独では形成しない特殊な構造や、菌・藻類単独では合成しない地衣成分がみられるなど共生が高度化している。 このようなことから、地衣類を単独の生物のように見ることも出来る。かつては独立した分類群として扱うこともあり、地衣植物門を認めたこともある。しかし、地衣の形態はあくまでも菌類のものであり、例えば重要な分類的特徴である子実体の構造は完全に菌類のものである。また同一の地衣類であっても藻類は別種である例もあり、地衣類は菌類に組み込まれる扱いがされるようになった。現在の判断では「特殊な栄養獲得形式を確立した菌類」である。国際植物命名規約では1952年の改訂から、地衣類に与えられた学名はそれを構成する菌類に与えられたものとみなすと定めている。 菌類が藻類を確保することを地衣化という。地衣を構成する菌類は子嚢菌類のいくつかの分類群にまたがっており、さらに担子菌類にも存在する。したがって独立して何度かの地衣類化が起こったのだと考えられている。また、子嚢胞子など有性胞子の形成が見られないものもあり、そのようなものは不完全地衣類と呼ばれていたが、現在は分子系統解析により科以上の上位分類群を推定できるようになり、大多数の不完全地衣類は子嚢地衣類に属することが明らかになった。 繁殖は有性生殖と無性生殖がある。 有性生殖は菌の所属する群に特有の胞子による。多くは子嚢菌なのでこれについて説明する。 子嚢胞子は小さなキノコ状の子実体を作り、そこに形成される。子実体の形は、大きくは3通りあり、皿状の裸子器(らしき)、壺状の被子器(ひしき)、溝状に細長いリレラである。胞子はその内部の子嚢の中に減数分裂によって形成され、上に放出される。胞子が好適な場で発芽すると、藻類を取り込んで成長する。従って地衣体を構成する菌糸は単相である。 また、無性生殖のための器官として、地衣体の一部を粒状や粉状の構造として、これを分離して散布するものがある。これを芽子という。このようなものは内部に藻類を持って分散するので、すぐに成長を始めることができる。 地衣類はその形態から、葉状地衣類、痂状地衣類、樹状地衣類に大別される。この分け方は必ずしも分類体系を反映するものではないが、同定する上では参考になる。 これらとは異なる形態として、希少な担子菌地衣類の一つであるカレエダタケ科のシラウオタケ(Multiclavula mucida)が挙げられる。シラウオタケは、主にブナ林において倒木上に発生するが、倒木上に緑藻を伴っており、地衣化している。 見かけがコケと同じようなものであるのと同様、生育環境もコケと共通するものが多い。背の高いものが少ない点も共通である。 地表、岩の上、樹皮上などに着生するものが多い。樹皮についていても樹木から栄養を得ているわけではない。霧のかかるような所では種類が多いことも同様である。日本の温帯林では、サルオガセが樹上から垂れ下がるのが、よく目立つ森林がある。都会でもコンクリートの表面に出るものがある。 他の植物が生育できないような厳しい環境に進出できる。低温、高温、乾燥、湿潤などの環境をはじめとして、極地など寒冷な地域や、火山周辺など有毒ガスの出る地域にも特殊なものが生育する。この点、地衣類は菌類と藻類の共生体だが、そのどちらよりも厳しい環境に耐えることができる。 他方、水中や雪の上、室内や光の届かない洞窟などには生育しない。光合成や空気中の水分に依存するため大気汚染に弱いことも指摘されている。樹皮上に着生するウメノキゴケなどの地衣類は、自動車の排気ガスに弱く、樹木に着生する地衣類は大気汚染の良い指標となることが知られ、たとえば公園の樹木を見ても、大通り側の樹木には地衣類が着生していない、といった現象がたやすく観察される。国立科学博物館などが1970年代から静岡市清水区でウメノキゴケを調査したところ、二酸化硫黄の年間平均濃度が0.02ppm以上になると弱って減り、工場の排煙規制が進むと工業地帯の清水港周辺で回復し、一方で自動車が多い国道1号沿道で確認できない調査地点が増えた。また東京都などによるディーゼル車規制で、皇居で見つかる地衣類の種類が21世紀に入って増えた。そういった意味では指標生物としても利用される。 地衣類は成長が遅く(年数ミリメートル程度)、寿命が長い。個々の部分は特定の季節に急に出てきたりすることはなく、だいたいどの季節も同じような姿をしている。従って、観察はどの時期にでも出来る。 地衣類は基本的には菌類ではあるがそのような感覚では培養が難しく、また成長が非常に遅いため、そういった方法では扱い難い。大きさはコケ並みであるから野外での観察採集が可能であるから、実際には野外で探しながら採集するのが普通の収集方法である。しかし、コケと異なり、その構造が菌糸であり、一回り細かい。たとえば痂状地衣は基質に完全に密着している。樹皮につくものなら樹皮ごと削り取れば採集できるが、岩に張り付いているものはかち割らねば取れない。さらにその構造はコケより単純であり、肉眼でも虫眼鏡でも届かないレベルである。その一部は化学物質でしか区別するのは困難である。 10種類ほどが漢方薬の原料になるほか、抗生物質など有用成分を抽出する研究が1950年代以降進められている。サルオガセ(Usnea)属のナガサルオガセ(Usnea longissima)、ヨコワサルオガセ(Usnea diffracta Vain.)は、マツ(松)類によく着生することから松蘿(しょうら)ともいい、中国や韓国では、乾燥したものを漢方薬として用いている。利尿作用や強壮作用があるという。 酸性アルカリ性の判定に使うリトマス紙は地衣類であるリトマスゴケから得られる。また、ヨーロッパにおいては古くから多くの地衣類が染色用として用いられてきた。さらにロウソクゴケは鮮やかな黄色を蝋燭の染色に用いたためこの名がある。防虫や腐食防止などの効果を持つ、地衣類から得られるこうした成分を「地衣成分」と呼ぶ。 イワタケ、バンダイキノリは食用にされる。 中国ではムシゴケ(Thamnolia vermicularis)を乾燥させたものが茶として利用されている。この「雪茶」を大量に摂取したためと疑われる肝機能障害が報告されている。 ハナゴケ類などがトナカイゴケと呼ばれ、北極圏ではトナカイなど家畜の餌に利用されることもある。また、ハナゴケの仲間はそのままの形で緑に染めて、鉄道模型やジオラマの樹木として用いられることもある。 外見が似ており共通する性質もあるコケ植物(蘚苔類)とよく混同されるが、上記の通り、菌類と藻類の共生生物であるため全く異なる生物である。 見分け方として以下のようなものがある。 地球上に生育する地衣類は世界で約1万4,000種とも約2万種ともいわれ、現在でも多くの新種や新産種が発見される一方、多くの種名がシノニムとして整理されることも多いため、正確な種数は把握しにくいが、2018年時点で約1,800種が日本から記録されている。
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"p", "text": "また、無性生殖のための器官として、地衣体の一部を粒状や粉状の構造として、これを分離して散布するものがある。これを芽子という。このようなものは内部に藻類を持って分散するので、すぐに成長を始めることができる。", "title": "生殖" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "地衣類はその形態から、葉状地衣類、痂状地衣類、樹状地衣類に大別される。この分け方は必ずしも分類体系を反映するものではないが、同定する上では参考になる。", "title": "形態による分類" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "これらとは異なる形態として、希少な担子菌地衣類の一つであるカレエダタケ科のシラウオタケ(Multiclavula mucida)が挙げられる。シラウオタケは、主にブナ林において倒木上に発生するが、倒木上に緑藻を伴っており、地衣化している。", "title": "形態による分類" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "見かけがコケと同じようなものであるのと同様、生育環境もコケと共通するものが多い。背の高いものが少ない点も共通である。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "地表、岩の上、樹皮上などに着生するものが多い。樹皮についていても樹木から栄養を得ているわけではない。霧のかかるような所では種類が多いことも同様である。日本の温帯林では、サルオガセが樹上から垂れ下がるのが、よく目立つ森林がある。都会でもコンクリートの表面に出るものがある。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "他の植物が生育できないような厳しい環境に進出できる。低温、高温、乾燥、湿潤などの環境をはじめとして、極地など寒冷な地域や、火山周辺など有毒ガスの出る地域にも特殊なものが生育する。この点、地衣類は菌類と藻類の共生体だが、そのどちらよりも厳しい環境に耐えることができる。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "他方、水中や雪の上、室内や光の届かない洞窟などには生育しない。光合成や空気中の水分に依存するため大気汚染に弱いことも指摘されている。樹皮上に着生するウメノキゴケなどの地衣類は、自動車の排気ガスに弱く、樹木に着生する地衣類は大気汚染の良い指標となることが知られ、たとえば公園の樹木を見ても、大通り側の樹木には地衣類が着生していない、といった現象がたやすく観察される。国立科学博物館などが1970年代から静岡市清水区でウメノキゴケを調査したところ、二酸化硫黄の年間平均濃度が0.02ppm以上になると弱って減り、工場の排煙規制が進むと工業地帯の清水港周辺で回復し、一方で自動車が多い国道1号沿道で確認できない調査地点が増えた。また東京都などによるディーゼル車規制で、皇居で見つかる地衣類の種類が21世紀に入って増えた。そういった意味では指標生物としても利用される。", "title": "生育環境" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "地衣類は成長が遅く(年数ミリメートル程度)、寿命が長い。個々の部分は特定の季節に急に出てきたりすることはなく、だいたいどの季節も同じような姿をしている。従って、観察はどの時期にでも出来る。", "title": "性質の一側面" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "地衣類は基本的には菌類ではあるがそのような感覚では培養が難しく、また成長が非常に遅いため、そういった方法では扱い難い。大きさはコケ並みであるから野外での観察採集が可能であるから、実際には野外で探しながら採集するのが普通の収集方法である。しかし、コケと異なり、その構造が菌糸であり、一回り細かい。たとえば痂状地衣は基質に完全に密着している。樹皮につくものなら樹皮ごと削り取れば採集できるが、岩に張り付いているものはかち割らねば取れない。さらにその構造はコケより単純であり、肉眼でも虫眼鏡でも届かないレベルである。その一部は化学物質でしか区別するのは困難である。", "title": "性質の一側面" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "10種類ほどが漢方薬の原料になるほか、抗生物質など有用成分を抽出する研究が1950年代以降進められている。サルオガセ(Usnea)属のナガサルオガセ(Usnea longissima)、ヨコワサルオガセ(Usnea diffracta Vain.)は、マツ(松)類によく着生することから松蘿(しょうら)ともいい、中国や韓国では、乾燥したものを漢方薬として用いている。利尿作用や強壮作用があるという。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "酸性アルカリ性の判定に使うリトマス紙は地衣類であるリトマスゴケから得られる。また、ヨーロッパにおいては古くから多くの地衣類が染色用として用いられてきた。さらにロウソクゴケは鮮やかな黄色を蝋燭の染色に用いたためこの名がある。防虫や腐食防止などの効果を持つ、地衣類から得られるこうした成分を「地衣成分」と呼ぶ。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "イワタケ、バンダイキノリは食用にされる。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "中国ではムシゴケ(Thamnolia vermicularis)を乾燥させたものが茶として利用されている。この「雪茶」を大量に摂取したためと疑われる肝機能障害が報告されている。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ハナゴケ類などがトナカイゴケと呼ばれ、北極圏ではトナカイなど家畜の餌に利用されることもある。また、ハナゴケの仲間はそのままの形で緑に染めて、鉄道模型やジオラマの樹木として用いられることもある。", "title": "利用" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "外見が似ており共通する性質もあるコケ植物(蘚苔類)とよく混同されるが、上記の通り、菌類と藻類の共生生物であるため全く異なる生物である。", "title": "コケ植物との見分け方" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", 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地衣類(ちいるい)は、菌類(主に子嚢菌や担子菌)のうち、藻類(主にシアノバクテリアあるいは緑藻)を共生させることで自活できるようになった生物である。一見ではコケ類(苔類)などにも似て見えるが、形態的にも異なり、構造は全く違うものである。
{{脚注の不足|date=2017年1月29日 (日) 13:55 (UTC)}} [[ファイル:Beech Lichen.JPEG|thumb|250px|地衣類が付き、独特な模様を持つ[[ブナ]]]] '''地衣類'''(ちいるい)は、[[菌類]](主に[[子嚢菌門|子嚢菌]]や[[担子菌門|担子菌]])のうち、[[藻類]](主に[[シアノバクテリア]]あるいは[[緑藻]])を[[共生]]させることで自活できるようになった[[生物]]である{{sfn|柏谷博之|2009|p=10}}。一見では[[コケ類]](苔類)などにも似て見えるが、形態的にも異なり、構造は全く違うものである。 == 特徴 == [[file:File-Meyers b6 s0351a.jpg|thumb|地衣体横断模式図(典型的な異層状地衣類)a:上皮層、b:藻類層、c:髄層、d:下皮層、e:偽根]] 地衣類は、陸上性で、[[肉眼]]で見えるが、ごく背の低い[[光合成]]生物である。その点で[[コケ植物]]に共通点があり、生育環境も共通している。それゆえ多くの言語において同一視され([[日本語]]でも地衣類の[[和名]]の多くが「○○ゴケ」である)、[[生物学]]の分野においても、[[1868年]]に[[スイス]]の[[植物学|植物学者]]である[[ジーモン・シュヴェンデナー]]が菌類と藻類とが共生しているとする説を提唱するまで[[コケ植物]]とされていた([[生物学]]の用語としての「共生」が生まれたのも地衣類の研究からとされる)<ref>{{Cite book|和書|title=奇妙な菌類 ミクロ世界の生存戦略|date=2016-04-09|publisher=[[NHK出版]]|isbn=9784140884843|language=日本語|author=白水貴|authorlink=白水貴}}</ref>。 しかし地衣類の場合、その構造を作っているのは[[菌類]]である。大部分は[[子嚢菌]]に属するものであるが、それ以外の場合もある。菌類は光合成できないので独り立ちできないのだが、地衣類の場合、[[菌糸]]で作られた構造の内部に[[藻類]]が共生しており、藻類の光合成産物によって菌類が生活するものである。藻類と菌類は融合しているわけではなく、それぞれ独立に培養することも不可能ではない。したがって、2種の生物が一緒にいるだけと見ることもできる。ただし、菌類単独では形成しない特殊な構造や、菌・藻類単独では合成しない地衣成分がみられるなど共生が高度化している。 このようなことから、地衣類を単独の生物のように見ることも出来る。かつては独立した分類群として扱うこともあり、地衣植物門を認めたこともある。しかし、地衣の形態はあくまでも菌類のものであり、例えば重要な分類的特徴である[[子実体]]の構造は完全に菌類のものである。また同一の地衣類であっても藻類は別種である例もあり、地衣類は菌類に組み込まれる扱いがされるようになった。現在の判断では「特殊な栄養獲得形式を確立した菌類」{{sfn|杉山純多|岩槻邦男|馬渡峻輔|2005|p=308}}である。[[国際藻類・菌類・植物命名規約|国際植物命名規約]]では[[1952年]]の改訂から、地衣類に与えられた[[学名]]はそれを構成する菌類に与えられたものとみなすと定めている。 菌類が藻類を確保することを地衣化という。地衣を構成する菌類は子嚢菌類のいくつかの分類群にまたがっており、さらに[[担子菌]]類にも存在する。したがって独立して何度かの地衣類化が起こったのだと考えられている。また、子嚢[[胞子]]など有性胞子の形成が見られないものもあり、そのようなものは不完全地衣類と呼ばれていたが、現在は[[分子系統解析]]により科以上の上位分類群を推定できるようになり、大多数の不完全地衣類は子嚢地衣類に属することが明らかになった<ref>{{Cite book|和書|title=地衣類のふしぎ コケでないコケとはどういうこと? 道ばたで見かけるあの“植物”の正体とは?|date=2009年10月24日|publisher=SBクリエイティブ|author=柏谷博之}}</ref>。 == 生殖 == 繁殖は[[有性生殖]]と[[無性生殖]]がある。 有性生殖は菌の所属する群に特有の胞子による。多くは子嚢菌なのでこれについて説明する。 子嚢胞子は小さな[[キノコ]]状の子実体を作り、そこに形成される。子実体の形は、大きくは3通りあり、皿状の'''裸子器'''(らしき)、壺状の'''被子器'''(ひしき)、溝状に細長い'''リレラ'''である。胞子はその内部の子嚢の中に減数分裂によって形成され、上に放出される。胞子が好適な場で発芽すると、藻類を取り込んで成長する。従って地衣体を構成する菌糸は単相である。 また、無性生殖のための[[器官]]として、地衣体の一部を粒状や粉状の構造として、これを分離して散布するものがある。これを[[芽子]]という。このようなものは内部に藻類を持って分散するので、すぐに成長を始めることができる。 == 形態による分類 == 地衣類はその形態から、'''葉状地衣類'''、'''痂状地衣類'''、'''樹状地衣類'''に大別される。この分け方は必ずしも分類体系を反映するものではないが、同定する上では参考になる。 ; 葉状地衣類 :[[ファイル:Lichen Parmotrema tinctorum P4271771.jpg|thumb|[[ウメノキゴケ]]]] :薄い膜状の地衣類。コケ植物の苔類に見られる[[葉状体]]に似ている。表面には菌糸による上皮層があり、その下には藻類を含む藻類層がある。藻類層の下には菌糸からなる髄層があり、下皮層によって下面が区切られる。基質上には下皮層から生じる偽根という根に似た構造で固着する。成長は地衣体の周辺から外に向かって伸びることで行われ、不規則な雲状の形になることが多い。子実体は地衣体表面に上向きに付くことが多い。 ; 痂状地衣類 :[[ファイル:Kajyoutii.jpg|thumb|多数の痂状地衣が樹皮についている。白っぽい斑紋に見えるのはほとんどが地衣類。左の大きいものはモジゴケの一種、黒い線は子実体。]] :[[ファイル:痂状地衣類 チズゴケ.JPG|thumb|痂状地衣類 チズゴケの一種で(フジヤマチズゴケ)高山の岩肌に張り付いている。地衣体が非常に硬いため乾燥状態では細かくひび割れている。]] :葉状地衣に似ているが、裏面に下皮層がなく、地衣体が基質に密着、あるいはとけ込んでいるように見える[[痂状]]と呼ばれる状態のものである。[[砂岩]]などの基質の上では、地衣体が基質と完全に一体化していることもある。多少色があることでその形がやっとわかる場合や、子実体だけが並んでいるように見えることもある。全体は円形で、外に向かって成長する。子実体は、表面に上向きに並ぶ。 ; 樹状地衣類 :[[ファイル:樹状地衣類 ヤマヒコノリ.jpg|thumb|ヤマヒコノリの一種。吸盤のように見えるのは形成中の子実体。]] :[[ファイル:樹状地衣類 ヒメレンゲゴケ.jpg|thumb|ヒメレンゲゴケの一種。挙げた手のようにも見える。]] :前記2つとは全く異なり、枝状になって基質から立ち上がるものである。垂れ下がったり、這い回ったりするものもある。[[茎]]状の軸は皮層に囲まれ、その内側に藻類層がある。形は様々であるが、細かい枝に分かれたり、傘状になったりするものはあるが、コケ植物の茎葉体や高等植物のように、葉のような構造を作ることはない。子実体は枝先などにつく。 [[File:Multiclavula mucida (4501220851).jpg|thumb|シラウオタケ。発生している倒木上に緑藻が見える]] これらとは異なる形態として、希少な[[担子菌]]地衣類の一つである[[カレエダタケ科]]の[[シラウオタケ]](''[[:w:Multiclavula|Multiclavula]] mucida'')が挙げられる。シラウオタケは、主に[[ブナ]]林において倒木上に発生するが、倒木上に緑藻を伴っており、地衣化している。 == 生育環境 == 見かけがコケと同じようなものであるのと同様、生育環境もコケと共通するものが多い。背の高いものが少ない点も共通である。 地表、岩の上、[[樹皮]]上などに着生するものが多い。樹皮についていても樹木から栄養を得ているわけではない<ref name="毎日新聞20171220">[https://mainichi.jp/articles/20171220/ddm/013/040/030000c 【イチからオシえて】不思議な生き物「地衣類」大気汚染、ヒートアイランド現象の指標にも]『[[毎日新聞]]』朝刊2017年12月20日くらしナビ面(2022年11月20日閲覧)</ref>。[[霧]]のかかるような所では種類が多いことも同様である。日本の温帯林では、[[サルオガセ]]が樹上から垂れ下がるのが、よく目立つ[[森林]]がある。都会でも[[コンクリート]]の表面に出るものがある。 他の植物が生育できないような厳しい環境に進出できる。低温、高温、乾燥、湿潤などの環境をはじめとして、[[極地]]など寒冷な地域や、[[火山]]周辺など有毒ガスの出る地域にも特殊なものが生育する。この点、地衣類は菌類と藻類の共生体だが、そのどちらよりも厳しい環境に耐えることができる。 他方、水中や[[雪]]の上、室内や光の届かない[[洞窟]]などには生育しない。光合成や空気中の水分に依存するため[[大気汚染]]に弱いことも指摘されている<ref name="毎日新聞20171220"/>。樹皮上に着生する[[ウメノキゴケ]]などの地衣類は、自動車の[[排気ガス]]に弱く、樹木に着生する地衣類は大気汚染の良い指標となることが知られ、たとえば公園の樹木を見ても、大通り側の樹木には地衣類が着生していない、といった現象がたやすく観察される。[[国立科学博物館]]などが1970年代から[[静岡市]][[清水区]]でウメノキゴケを調査したところ、[[二酸化硫黄]]の年間平均濃度が0.02[[ppm]]以上になると弱って減り、工場の排煙規制が進むと工業地帯の[[清水港]]周辺で回復し、一方で自動車が多い[[国道1号]]沿道で確認できない調査地点が増えた<ref name="毎日新聞20171220"/>。また[[東京都]]などによる[[ディーゼル車]]規制で、[[皇居]]で見つかる地衣類の種類が21世紀に入って増えた<ref name="毎日新聞20171220"/>。そういった意味では[[指標生物]]としても利用される。 == 性質の一側面 == 地衣類は成長が遅く(年数ミリメートル程度)<ref name="毎日新聞20171220"/>、寿命が長い。個々の部分は特定の季節に急に出てきたりすることはなく、だいたいどの季節も同じような姿をしている。従って、観察はどの時期にでも出来る。 地衣類は基本的には菌類ではあるがそのような感覚では[[培養]]が難しく、また成長が非常に遅いため、そういった方法では扱い難い。大きさはコケ並みであるから野外での観察採集が可能であるから、実際には野外で探しながら採集するのが普通の収集方法である。しかし、コケと異なり、その構造が菌糸であり、一回り細かい。たとえば痂状地衣は基質に完全に密着している。樹皮につくものなら樹皮ごと削り取れば採集できるが、岩に張り付いているものはかち割らねば取れない。さらにその構造はコケより単純であり、肉眼でも[[レンズ#ルーペ|虫眼鏡]]でも届かないレベルである。その一部は[[化学物質]]でしか区別するのは困難である。 == 利用 == === 薬用 === 10種類ほどが[[漢方薬]]の原料になるほか、[[抗生物質]]など有用成分を抽出する研究が1950年代以降進められている<ref name="毎日新聞20171220"/>。[[サルオガセ]](''Usnea'')属のナガサルオガセ(''Usnea longissima'')、ヨコワサルオガセ(''Usnea diffracta'' Vain.)は、[[マツ]](松)類によく着生することから松蘿(しょうら)ともいい、[[中国]]や[[韓国]]では、乾燥したものを漢方薬として用いている。利尿作用や強壮作用があるという<ref name="サルオガセ" />。 === 染料 === [[酸性]][[アルカリ性]]の判定に使う[[リトマス]]紙は地衣類である[[リトマスゴケ]]から得られる。また、ヨーロッパにおいては古くから多くの地衣類が[[染色]]用として用いられてきた。さらに[[ロウソクゴケ]]は鮮やかな黄色を[[蝋燭]]の染色に用いたためこの名がある。防虫や腐食防止などの効果を持つ、地衣類から得られるこうした成分を「地衣成分」と呼ぶ<ref name="毎日新聞20171220"/>。 === 食用 === [[イワタケ]]<ref name="毎日新聞20171220"/>、[[バンダイキノリ]]は食用にされる。 中国では[[ムシゴケ]](Thamnolia vermicularis)を乾燥させたものが[[茶外茶|茶]]として利用されている{{sfn|黒川逍|1996|pp=12-13}}。この「雪茶」を大量に摂取したためと疑われる肝機能障害が報告されている<ref name="雪茶障害" />。 === その他 === [[ハナゴケ]]類などがトナカイゴケと呼ばれ、[[北極圏]]では[[トナカイ]]など[[家畜]]の餌に利用されることもある。また、ハナゴケの仲間はそのままの形で緑に染めて、[[鉄道模型]]や[[ジオラマ]]の樹木として用いられることもある。 == コケ植物との見分け方 == 外見が似ており共通する性質もある[[コケ植物]](蘚苔類)とよく混同されるが、上記の通り、[[菌類]]と藻類の共生生物であるため全く異なる生物である。 見分け方として以下のようなものがある。[[ファイル:Lisajcrni7.jpg|thumb|[[藍藻]]を持つ地衣類の例<br />[[カワホリゴケ]]の一種]] * 色:[[緑藻]]を持つものは、銀色を帯びた白っぽい緑色か薄い青緑色をしている。[[藍藻類]]を持つものは青みを帯びた黒っぽい色となる。それに対してコケ植物はたいてい深緑から黄緑色をしている。 * 形:地衣類には規則的な葉のような形をもつものはほとんどない。コケ植物のほとんどは茎と葉を持っている。 ** 葉状地衣は葉状体の[[苔類]]([[ゼニゴケ]]など)に似ているが、地衣類は、たいていははるかに薄く、また、周辺全体で伸びるので、成長する先端が明確でない。葉状の苔類は主軸があり、二又分枝がはっきりしている。 * コケ植物は胞子を柄の上の袋(さく)に作るが、地衣類では胞子は地衣体の表面か内部に埋もれた子器([[子実体]])に作る。 == 地衣類の種類 == [[地球]]上に生育する地衣類は世界で約1万4,000種とも約2万種<ref name="毎日新聞20171220"/>ともいわれ、現在でも多くの新種や新産種が発見される一方、多くの種名が[[シノニム]]として整理されることも多いため、正確な種数は把握しにくいが、[[2018年]]時点で約1,800種が日本から記録されている<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.lichenology-jp.org/ja/about_lichen/lichen |title=地衣類とは |access-date=2022-08-18 |publisher=日本地衣学会}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://lichenjapan.jp/ |title=地衣類とは |access-date=2022-08-18 |publisher=地衣類研究会}}</ref>。 === チャシブゴケ菌綱 === ; [[チャシブゴケ菌綱]] * [[チャシブゴケ目]] {{sname||Lecanorales}} ** [[ウメノキゴケ科]] {{sname||Parmeliaceae}} *** ウメノキゴケ属 **** [[ウメノキゴケ]] **** ナミガタウメノキゴケ *** ヒメウメノキゴケ属 **** トゲウメノキゴケ **** コナヒウメノキゴケ *** キウメノキゴケ属 **** キウメノキゴケ *** ウチキウメノキゴケ属 **** ウチキウメノキゴケ *** フクロゴケ属 *** センシゴケ属 **** センシゴケ *** ゴヘイゴケ属  *** エイランタイ属 *** トコブシゴケ属 *** ウスバトコブシゴケ属 *** コガネトコブシゴケ属 *** カラクサゴケ属 **** カラクサゴケ *** ハクテンゴケ属 **** ハクテンゴケ *** マツゲゴケ属 **** マツゲゴケ **** ニセマツゲゴケ *** ゴンゲンゴケ属 **** ウチキアワビゴケ **** タカハシウメノキゴケ ** [[サルオガセ科]](ウメノキゴケ科) *** カラタチゴケ属 **** ササクレカラタチゴケ **** イワカラタチゴケ **** カラタチゴケ **** オガサワラカラタチゴケ *** サルオガセ属 **** [[サルオガセ]] **** アカサルオガセ **** フジサルオガセ **** ホンドサルオガセ **** ナガサルオガセ **** クシロサルオガセ *** ヤマヒコノリ属 **** ヤマヒコノリ *** ホネキノリ属 *** ナヨナヨサガリ属 ** [[イワタケ科]] {{sname||Umbilicariaceae}} *** イワタケ属 {{sname||Rock tripe}} **** ヒメイワタケ **** [[イワタケ]] ** [[ハナゴケ科]] {{sname||Cladoniaceae}} *** ハナゴケ属 **** ミヤマハナゴケ **** [[ハナゴケ]] {{sname||Cladonia rangiferina}} **** コアカミゴケ *** フクレヘラゴケ属 **** フクレヘラゴケ ** [[キゴケ科]] {{sname||Stereocaulaceae}} *** キゴケ属 **** [[キゴケ]] **** ヤマトキゴケ **** コナボウズゴケ **** オオキゴケ *** カムリゴケ属 **** [[カムリゴケ]] ** [[ヘリトリゴケ科]] {{sname||Lecideaceae}} *** [[ヘリトリゴケ]] ** [[チャシブゴケ科]] {{sname||Lecanoraceae}} *** チャシブゴケ *** ナミチャシブゴケ *** コナイボゴケ *** モエギイボゴケ ** [[サンゴゴケ科]] {{sname||Sphaerophoraceae}} *** [[サンゴゴケ]] * [[ダイダイキノリ目]] {{sname||Teloschistales}} ** [[ムカデゴケ科]] {{sname||Physciaceae}} *** ムカデゴケ属 **** アカハラムカデゴケ **** シラゲムカデゴケ **** シロムカデゴケ **** クロウラムカデゴケ *** フィスコニア属 *** ヂリナリア属 **** コフキヂリナリア *** クロボシゴケ属 **** オオアカハラムカデゴケ **** クロボシゴケ *** ヒメゲジゲジゴケ属 **** ヒメゲジゲジゴケ **** トゲヒメゲジゲジゴケ *** ゲジゲジゴケ属 **** コフキゲジゲジゴケ **** キウラゲジゲジゴケ * [[ツメゴケ目]] {{sname||Peltigerales}} ** [[イワノリ科]] {{sname||Collemataceae}} *** イシバイイワノリ *** トゲカワホリゴケ *** コバノアオキノリ ** [[クロサビゴケ科]] {{sname||Placynthiaceae}} *** [[クロサビゴケ]] * [[ピンタケ目]] {{sname||Ostropales}} ** [[モジゴケ科]] {{sname||Graphidaceae}} *** [[モジゴケ]] *** クロイシガキモジゴケ *** [[ボンジゴケ]] *** シロコナモジゴケ *** コモジゴケ *** アミモジゴケ *** エダマタモジゴケ *** クロモジゴケ *** カバイロイワモジゴケ *** コフキモジゴケ *** エダモジゴケ *** ヘリトリモジゴケ *** ホソモジゴケ *** ミチノクモジゴケ *** セスジモジゴケ *** オシオモジゴケ ** [[サラゴケ科]] {{sname||Gyalectaceae}} *** ダイダイサラゴケ ** [[フジゴケ科]] {{sname||Thelotremataceae}} *** ホソフジゴケ * [[トリハダゴケ目]] {{sname||Pertusariales}} ** [[トリハダゴケ科]] {{sname||Pertusariaceae}} *** イワニクイボゴケ *** クサビラゴケ *** ヒメニクイボゴケ *** アカギニクイボゴケ *** コブトリハダゴケ *** ヒメコブトリハダゴケ *** オリーブトリハダゴケ *** ホソクチトリハダゴケ *** オシオトリハダゴケ *** コトリハダゴケ *** モエギトリハダゴケ *** オオカノコゴケ *** オオトリハダゴケ *** ヒメトリハダゴケ *** ヒメサンゴトリハダゴケ *** サンゴトリハダゴケ === クロイボタケ綱 === ; [[クロイボタケ綱]] * [[トリペテリウム目]] ** [[ニセサネゴケ科]] {{sname||Trypetheliaceae}} *** チクビゴケ *** マメゴケ === ホシゴケ菌綱 === ; [[ホシゴケ菌綱]] * [[ホシゴケ目]] {{sname||Arthoniales}} ** [[キゴウゴケ科]] {{sname||Roccellaceae}} *** カシゴケ === ユーロチウム菌綱=== ; [[ユーロチウム菌綱]] * [[サネゴケ目]] {{sname||Pyrenulales}} ** [[サネゴケ科]] {{sname||Pyrenulaceae}} *** [[サネゴケ]] * [[アナイボゴケ目]] {{sname||Verrucariales}} ** [[アナイボゴケ科]] {{sname||Verrucariaceae}} *** イワウロコゴケ *** ノルマンゴケ {{節スタブ|date=2018年1月}} *(分類不明) ** [[ヨロイゴケ科]] *** エビラゴケ ** [[ハナビラゴケ科]] *** ヌマジリゴケ ** [[カワヒジキ科]] *** カワヒジキ ** [[カワラゴケ科]] *** シラチャカワラゴケ ** [[アオシモゴケ科]] *** シロツノゴケ *** コバノシロツノゴケ *** コナセンニンゴケ *** チチサネゴケ ** [[イワボシゴケ科]] *** スキスマトンマ == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="サルオガセ"> {{Cite web|和書 |author=嶋田英誠 |url=http://www.atomigunpofu.jp/ch5-wild%20flowers/saruogase.htm |title=野草譜 サルオガセ |website=跡見群芳譜 |accessdate=2021-01-29 }} </ref> <ref name="雪茶障害"> {{Cite web|和書 |url=https://hfnet.nibiohn.go.jp/contents/detail185.html |title=「雪茶」との関連が疑われる肝障害の事例 |website=「健康食品」の安全性・有効性情報 |publisher=[[国立健康・栄養研究所]] |accessdate=2021-01-29 }} </ref> }} == 参考文献 == *{{Cite |和書 |author=柏谷博之 |title=地衣類のふしぎ-コケでないコケとはどういうこと?道ばたで見かけるあの”植物”の正体とは? |publisher=[[ソフトバンククリエイティブ]] |series=サイエンス・アイ新書 |date=2009-10-19 |isbn=978-4797341539 |ref=harv }} *{{Cite |和書 |editor=[[国立科学博物館]] |title=菌類のふしぎ-形とはたらきの驚異の多様性 |publisher=[[東海大学出版会]] |date=2008-09-01 |isbn=978-4486017936 |ref=harv }} *{{Cite |和書 |author1=杉山純多 |author2=岩槻邦男 |authorlink2=岩槻邦男 |author3=馬渡峻輔監修 |authorlink3=馬渡峻輔 |title=菌類・細菌・ウイルスの多様性と系統 |publisher=[[裳華房]] |date=2005-11 |isbn=978-4785358273 |ref=harv }} *{{Cite journal|和書 |author=黒川逍 |authorlink=黒川逍 |title=雪茶に関する追記 |journal=地衣類研究会誌『ライケン』 |volume=10 |issue=1 |publisher=地衣類研究会 |url=https://lichenjapan.jp/?page_id=637 |date=1996-05-31 |accessdate=2021-01-29 |ref=harv }} == 関連項目 == {{Commonscat|Lecanorales}} * [[地衣類学]] == 外部リンク == * [http://lichenjapan.jp/ 地衣類研究会] * [http://www.lichenology-jp.org/ja 日本地衣学会] * [https://www.kahaku.go.jp/research/db/botany/chii/ -地衣類の探究-]国立科学博物館 * [http://jlichen.com/ 地衣類ネットワーク-地衣類観察会-] * [https://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/special/chii_nani/chii-top.html 地衣類って何?][[千葉県立中央博物館]] {{Fungi-stub}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:ちいるい}} [[Category:地衣類|*]] [[Category:菌類]]
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関数型プログラミング
関数型プログラミング(かんすうがたプログラミング、英: functional programming)とは、数学的な意味での関数を主に使うプログラミングのスタイルである。 functional programming は、関数プログラミング(かんすうプログラミング)などと訳されることもある。 関数型プログラミング言語(英: functional programming language)とは、関数型プログラミングを推奨しているプログラミング言語である。略して関数型言語(英: functional language)ともいう。 関数型プログラミングは、関数を主軸にしたプログラミングを行うスタイルである。ここでの関数は、数学的なものを指し、引数の値が定まれば結果も定まるという参照透過性を持つものである。 参照透過性とは、数学的な関数と同じように同じ値を返す式を与えたら必ず同じ値を返すような性質である。次の square 関数は、 2 となるような式を与えれば必ず 4 を返し、 3 となるような式を与えれば必ず 9 を返し、いかなる状況でも別の値を返すということはなく、これが参照透過性を持つ関数の一例となる。 次の countup 関数は、同じ 1 を渡しても、それまでに countup 関数がどのような引数で呼ばれていたかによって、返り値が 1, 2, 3, ... と変化するため、引数の値だけで結果の値が定まらないような参照透過性のない関数であり、数学的な関数とはいえない。 関数型プログラミングは、参照透過性を持つような数学的な関数を使って組み立てた式が主役となる。別の箇所に定義されている処理を利用することを、手続き型プログラミング言語では「関数を実行する」や「関数を呼び出す」などと表現するが、関数型プログラミング言語では「式を評価する」という表現も良く使われる。 参照透過性とは、同じ値を与えたら返り値も必ず同じになるような性質である。参照透過性を持つことは、その関数が状態を持たないことを保証する。状態を持たない数学的な関数は、並列処理を実現するのに適している。関数型プログラミング言語の内で、全ての関数が参照透過性を持つようなものを純粋関数型プログラミング言語という。 関数型プログラミングでは、数学的な関数を組み合わせて計算を表現するが、それだけではファイルの読み書きのような外界とのやり取りを要する処理を直接的に表現できない。このような外界とのやり取りを I/O (入出力) と呼ぶ。数学的な計算をするだけ、つまり 1 + 1 のようなプログラム内で完結する処理ならば、入出力を記述できなくても問題ないが、現実的なプログラムにおいてはそうでない。 非純粋な関数型プログラミング言語においては、式を評価すると同時に I/O が発生する関数を用意することで入出力を実現する。たとえば、 F# 言語では、printfn "Hi." が評価されると、 () という値が戻ってくると同時に、画面に Hi. と表示される I/O が発生する。 Haskell では、評価と同時に I/O が行われる関数は存在しない。たとえば、 putStrLn "Hi." という式が評価されると IO () 型を持つ値が返されるが画面には何も表示されず、この値が Haskell の処理系によって解釈されて初めて画面に Hi. と表示される。 I/O アクションとは、ファイルの読み書きやディスプレイへの表示などのような I/O を表現する式のことである。 IO a という型は、コンピュータへの指示を表す I/O アクションを表現している。ここでの IO はモナドと呼ばれるものの一つである。 Clean では、一意型を用いて入出力を表す。 最初に解の集合となる候補を生成し、それらの要素に対して1つ(もしくは複数)の解にたどり着くまで関数の適用とフィルタリングを繰り返す手法は、関数型プログラミングでよく用いられるパターンである。 Haskell では、関数合成の二項演算子を使ってポイントフリースタイルで関数を定義することができる。関数をポイントフリースタイルで定義すると、データより関数に目が行くようになり、どのようにデータが移り変わっていくかではなく、どんな関数を合成して何になっているかということへ意識が向くため、定義が読みやすく簡潔になることがある。関数が複雑になりすぎると、ポイントフリースタイルでは逆に可読性が悪くなることもある。 関数型プログラミング言語とは、関数型プログラミングを推奨しているプログラミング言語である。略して関数型言語ともいう。全ての関数が参照透過性を持つようなものを、特に純粋関数型プログラミング言語(英語版)という。そうでないものを非純粋であるという。 関数型プログラミング言語の多くは、言語の設計において何らかの形でラムダ計算が関わっている。ラムダ計算はコンピュータの計算をモデル化する体系の一つであり、記号の列を規則に基づいて変換していくことで計算が行われるものである。 C 言語や Java 、 JavaScript 、 Python 、 Ruby などの2017年現在に使われている言語の多くは、手続き型の文法を持っている。そのような言語では、文法として式 (expression) と文 (statement) を持つ。ここでの式は、計算を実行して結果を得るような処理を記述するための文法要素であり、加減乗除や関数呼び出しなどから構成されている。ここでの文は、何らかの動作を行うようにコンピュータへ指示するための文法要素であり、条件分岐の if 文やループの for 文と while 文などから構成されている。手続き型の文法では、式で必要な計算を進め、その結果を元にして文でコンピュータ命令を行うという形で、プログラムを記述する。このように、手続き型言語で重要なのは文である。 それに対して、関数型言語で重要なのは式である。関数型言語のプログラムはたくさんの式で構成され、プログラムそのものも一つの式である。たとえば、 Haskell では、プログラムの処理の記述において文は使われず、外部の定義を取り込む import 宣言も処理の一部として扱えない。関数型言語におけるプログラムの実行とは、プログラムを表す式の計算を進めて、その結果として値 (value) を得ることである。式を計算することを、評価する (evaluate) という。 手続き型言語ではコンピュータへの指示を文として上から順に並べて書くのに対して、関数型言語では数多く定義した細かい式を組み合わせてプログラムを作る。手続き型言語では文が重要であり、関数型言語では式が重要である。 式と文の違いとして、型が付いているかどうかというのがある。式は型を持つが、文は型を持たない。プログラム全てが式から構成されていて、強い静的型付けがされているのならば、プログラムの全体が細部まで型付けされることになる。このように細部まで型付けされているようなプログラムは堅固なものになる。 関数型言語の開発において、アロンゾ・チャーチが1932年と1941年に発表したラムダ計算の研究ほど基本的で重要な影響を与えたものはない。ラムダ計算は、それが考え出された当時はプログラムを実行するようなコンピュータが存在しなかったためにプログラミング言語として見なされなかったにも関わらず、今では最初の関数型言語とされている。1989年現在の関数型言語は、そのほとんどがラムダ計算に装飾を加えたものとして見なせる。 1950年代後半にジョン・マッカーシーが発表した LISP は関数型言語の歴史において重要である。ラムダ計算は LISP の基礎であると言われるが、マッカーシー自身が1978年に説明したところによると、匿名関数を表現したいというのが最初にあって、その手段としてマッカーシーはチャーチのラムダ計算を選択したに過ぎない。 歴史的に言えば、 LISP に続いて関数型プログラミングパラダイムへ刺激を与えたのは、1960年代半ばのピーター・ランディン(英語版)の成果である。ランディンの成果はハスケル・カリーとアロンゾ・チャーチに大きな影響を受けていた。ランディンの初期の論文は、ラムダ計算と、機械および高級言語 (ALGOL 60) との関係について議論している。ランディンは、1964年に、 SECD マシンと呼ばれる抽象的な機械を使って機械的に式を評価する方法を論じ、1965年に、ラムダ計算で ALGOL 60 の非自明なサブセットを形式化した。1966年にランディンが発表した ISWIM(If You See What I Mean の略)という言語(群)は、間違いなく、これらの研究の成果であり、構文や意味論において多くの重要なアイデアを含んでいた。 ISWIM は、ランディン本人によれば、「 LISP を、その名前にも表れたリストへのこだわり、手作業のメモリ割り当て、ハードウェアに依存した教育方法、重い括弧、伝統への妥協、から解放しようとする試みとして見ることができる」。関数型言語の歴史において ISWIM は次のような貢献を果たした。 ランディンは「それをどうやって行うか」ではなく「それの望ましい結果とは何か」を表現することに重点を置いており、そして、 ISWIM の宣言的なプログラミング・スタイルは命令的なプログラミング・スタイルよりも優れているというランディンの主張は、今日まで関数型プログラミングの賛同者たちから支持されてきた。その一方で、関数型言語への関心が高まるまでは、さらに10年を要した。その理由の一つは、 ISWIM ライクな言語の実用的な実装がなかったことであり、実のところ、この状況は1980年代になるまで変わらなかった。 ケネス・アイバーソンが1962年に発表した APL は、純粋な関数型プログラミング言語ではないが、その関数型的な部分を取り出したサブセットがラムダ式に頼らずに関数型プログラミングを実現する方法の一例であるという点で、関数型プログラミング言語の歴史を考察する際に言及する価値はある。実際に、アイバーソンが APL を設計した動機は、配列のための代数的なプログラミング言語を開発したいというものであり、アイバーソンのオリジナル版は基本的に関数型的な記法を用いていた。その後の APL では、いくつかの命令型的な機能が追加されている。
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60 の非自明なサブセットを形式化した。1966年にランディンが発表した ISWIM(If You See What I Mean の略)という言語(群)は、間違いなく、これらの研究の成果であり、構文や意味論において多くの重要なアイデアを含んでいた。 ISWIM は、ランディン本人によれば、「 LISP を、その名前にも表れたリストへのこだわり、手作業のメモリ割り当て、ハードウェアに依存した教育方法、重い括弧、伝統への妥協、から解放しようとする試みとして見ることができる」。関数型言語の歴史において ISWIM は次のような貢献を果たした。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "ランディンは「それをどうやって行うか」ではなく「それの望ましい結果とは何か」を表現することに重点を置いており、そして、 ISWIM の宣言的なプログラミング・スタイルは命令的なプログラミング・スタイルよりも優れているというランディンの主張は、今日まで関数型プログラミングの賛同者たちから支持されてきた。その一方で、関数型言語への関心が高まるまでは、さらに10年を要した。その理由の一つは、 ISWIM ライクな言語の実用的な実装がなかったことであり、実のところ、この状況は1980年代になるまで変わらなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "ケネス・アイバーソンが1962年に発表した APL は、純粋な関数型プログラミング言語ではないが、その関数型的な部分を取り出したサブセットがラムダ式に頼らずに関数型プログラミングを実現する方法の一例であるという点で、関数型プログラミング言語の歴史を考察する際に言及する価値はある。実際に、アイバーソンが APL を設計した動機は、配列のための代数的なプログラミング言語を開発したいというものであり、アイバーソンのオリジナル版は基本的に関数型的な記法を用いていた。その後の APL では、いくつかの命令型的な機能が追加されている。", "title": "歴史" } ]
関数型プログラミングとは、数学的な意味での関数を主に使うプログラミングのスタイルである。 functional programming は、関数プログラミング(かんすうプログラミング)などと訳されることもある。 関数型プログラミング言語とは、関数型プログラミングを推奨しているプログラミング言語である。略して関数型言語ともいう。
{{複数の問題}} {{プログラミング・パラダイム}} '''関数型プログラミング'''(かんすうがたプログラミング、{{lang-en-short|functional programming}})とは、[[関数 (数学)|数学的な意味での関数]]を主に使うプログラミングのスタイルである<ref name="名前なし-1">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=3}}</ref>。 functional programming は、'''関数プログラミング'''(かんすうプログラミング)などと訳されることもある<ref name="名前なし-2">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=2}}</ref>。 {{Visible anchor|'''関数型プログラミング言語'''|関数型言語|FP}}({{lang-en-short|functional programming language}})とは、関数型プログラミングを推奨している[[プログラミング言語]]である<ref name="名前なし-1"/>。略して'''関数型言語'''({{lang-en-short|functional language}})ともいう<ref name="名前なし-1"/>。 == 概要 == 関数型プログラミングは、[[関数 (数学)|関数]]を主軸にしたプログラミングを行うスタイルである<ref name="名前なし-1"/>。ここでの関数は、数学的なものを指し、引数の値が定まれば結果も定まるという[[参照透過性]]を持つものである<ref name="名前なし-1"/>。 '''参照透過性'''とは、数学的な関数と同じように同じ値を返す式を与えたら必ず同じ値を返すような性質である<ref name="名前なし-1"/>。次の <code>square</code> 関数は、 <code>2</code> となるような式を与えれば必ず <code>4</code> を返し、 <code>3</code> となるような式を与えれば必ず <code>9</code> を返し、いかなる状況でも別の値を返すということはなく、これが参照透過性を持つ関数の一例となる<ref name="名前なし-1"/>。 <syntaxhighlight lang="python" > def square(n): return n ** 2 </syntaxhighlight> 次の <code>countup</code> 関数は、同じ <code>1</code> を渡しても、それまでに <code>countup</code> 関数がどのような引数で呼ばれていたかによって、返り値が <code>1</code>, <code>2</code>, <code>3</code>, ... と変化するため、引数の値だけで結果の値が定まらないような参照透過性のない関数であり、数学的な関数とはいえない<ref name="名前なし-1"/>。 <syntaxhighlight lang="python" > counter = 0 def countup(n): global counter counter += n return counter </syntaxhighlight> 関数型プログラミングは、参照透過性を持つような数学的な関数を使って組み立てた'''式'''が主役となる<ref name="名前なし-1"/>。別の箇所に定義されている処理を利用することを、手続き型プログラミング言語では「関数を実行する」や「関数を呼び出す」などと表現するが、関数型プログラミング言語では「式を評価する」という表現も良く使われる<ref name="名前なし-3">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=4}}</ref>。 === 参照透過性 === {{main|参照透過性}} 参照透過性とは、同じ値を与えたら返り値も必ず同じになるような性質である<ref name="名前なし-1"/>。参照透過性を持つことは、その関数が'''状態を持たない'''ことを保証する<ref name="名前なし-4">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=5}}</ref>。状態を持たない数学的な関数は、並列処理を実現するのに適している<ref name="名前なし-4"/>。関数型プログラミング言語の内で、全ての関数が参照透過性を持つようなものを純粋関数型プログラミング言語という<ref name="名前なし-4"/>。 === 入出力 === 関数型プログラミングでは、数学的な関数を組み合わせて計算を表現するが、それだけではファイルの読み書きのような外界とのやり取りを要する処理を直接的に表現できない<ref name="名前なし-5">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=6}}</ref>。このような外界とのやり取りを '''I/O (入出力)''' と呼ぶ<ref name="名前なし-5"/>。数学的な計算をするだけ、つまり <code>1 + 1</code> のようなプログラム内で完結する処理ならば、入出力を記述できなくても問題ないが、現実的なプログラムにおいてはそうでない<ref name="名前なし-5"/>。 非純粋な関数型プログラミング言語においては、式を評価すると同時に I/O が発生する関数を用意することで入出力を実現する<ref name="名前なし-5"/>。たとえば、 [[F Sharp|F# 言語]]では、<code>printfn "Hi."</code> が評価されると、 <code>()</code> という値が戻ってくると同時に、画面に <code>Hi.</code> と表示される I/O が発生する<ref name="名前なし-5"/>。 [[Haskell]] では、評価と同時に I/O が行われる関数は存在しない<ref name="名前なし-5"/>。たとえば、 <code>putStrLn "Hi."</code> という式が評価されると <code>IO ()</code> 型を持つ値が返されるが画面には何も表示されず、この値が Haskell の処理系によって解釈されて初めて画面に <code>Hi.</code> と表示される<ref name="名前なし-5"/>。 '''I/O アクション'''とは、ファイルの読み書きやディスプレイへの表示などのような I/O を表現する式のことである<ref name="名前なし-5"/><ref>{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=23}}</ref>。 <code>IO a</code> という型は、コンピュータへの指示を表す I/O アクションを表現している<ref name="名前なし-5"/><ref>{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=31}}</ref>。ここでの <code>IO</code> は[[モナド (プログラミング)|モナド]]と呼ばれるものの一つである<ref>{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=32}}</ref>。 [[Clean]] では、一意型を用いて入出力を表す。 === 手法 === {{節スタブ|1=[[モナド]]・[[永続データ構造]]|date=2021年3月}} 最初に解の集合となる候補を生成し、それらの要素に対して1つ(もしくは複数)の解にたどり着くまで関数の適用とフィルタリングを繰り返す手法は、関数型プログラミングでよく用いられるパターンである<ref name="名前なし-6">{{harvnb|Lipovača|2012|p=22}}</ref>。 Haskell では、関数合成の二項演算子を使って'''ポイントフリースタイル'''で関数を定義することができる<ref name="名前なし-6"/>。関数をポイントフリースタイルで定義すると、データより関数に目が行くようになり、どのようにデータが移り変わっていくかではなく、どんな関数を合成して何になっているかということへ意識が向くため、定義が読みやすく簡潔になることがある<ref name="名前なし-6"/>。関数が複雑になりすぎると、ポイントフリースタイルでは逆に可読性が悪くなることもある<ref name="名前なし-6"/>。 === 言語 === 関数型プログラミング言語とは、関数型プログラミングを推奨している[[プログラミング言語]]である<ref name="名前なし-1"/>。略して関数型言語ともいう<ref name="名前なし-1"/>。全ての関数が参照透過性を持つようなものを、特に{{仮リンク|純粋関数型プログラミング言語|en|purely functional programming language}}という<ref name="名前なし-4"/>。そうでないものを非純粋であるという<ref name="名前なし-5"/>。 関数型プログラミング言語の多くは、言語の設計において何らかの形で[[ラムダ計算]]が関わっている<ref name="名前なし-3"/>。ラムダ計算はコンピュータの計算をモデル化する体系の一つであり、記号の列を規則に基づいて変換していくことで計算が行われるものである<ref name="名前なし-3"/>。 {| class="wikitable sortable" |+ 関数型プログラミング言語 |- ! 名前 ! 型付け ! 純粋性 ! 評価戦略 ! 理論的背景 |- | [[Clean]] | 静的型付け | 純粋 | 遅延評価 | |- | [[Clojure]] | 動的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[Erlang]] | 動的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[F Sharp|F#]] | 静的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[Haskell]]<ref name="名前なし-2"/> | 静的型付け<ref name="名前なし-2"/> | 純粋<ref name="名前なし-2"/> | 遅延評価<ref name="名前なし-2"/> | 型付きラムダ計算<ref name="名前なし-3"/> |- | [[Idris]] | 静的型付け | 純粋 | 正格評価 | 型付きラムダ計算 |- | [[Lazy K]] | 型なし | 純粋 | 遅延評価 | コンビネータ論理 |- | [[LISP]]<ref name="名前なし-3"/> | 動的型付け | 非純粋 | 方言による | 型無しラムダ計算<ref name="名前なし-3"/> |- | [[Miranda]] | 静的型付け | 純粋 | 遅延評価 | |- | [[ML (プログラミング言語)|ML]] | 静的型付け | 非純粋 | 先行評価 | |- | [[Standard ML|SML]] | 静的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[OCaml]] | 静的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[Scala]] | 静的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[Scheme]] | 動的型付け | 非純粋 | 正格評価 | |- | [[Unlambda]] | 型なし | 非純粋 | 正格評価 | コンビネータ論理 |} === 手続き型プログラミングとの比較 === [[C|C 言語]]や [[Java]] 、 [[JavaScript]] 、 [[Python]] 、 [[Ruby]] などの2017年現在に使われている言語の多くは、手続き型の文法を持っている<ref name="名前なし-7">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|p=22}}</ref>。そのような言語では、文法として式 (expression) と文 (statement) を持つ<ref name="名前なし-7"/>。ここでの式は、計算を実行して結果を得るような処理を記述するための文法要素であり、加減乗除や関数呼び出しなどから構成されている<ref name="名前なし-7"/>。ここでの文は、何らかの動作を行うようにコンピュータへ指示するための文法要素であり、条件分岐の [[if文|if 文]]やループの [[for文|for 文]]と [[while文|while 文]]などから構成されている<ref name="名前なし-7"/>。手続き型の文法では、式で必要な計算を進め、その結果を元にして文でコンピュータ命令を行うという形で、プログラムを記述する<ref name="名前なし-7"/>。このように、[[手続き型言語]]で重要なのは文である<ref name="名前なし-7"/>。 それに対して、[[関数型言語]]で重要なのは式である<ref name="名前なし-7"/>。関数型言語のプログラムはたくさんの式で構成され、プログラムそのものも一つの式である<ref name="名前なし-7"/>。たとえば、 Haskell では、プログラムの処理の記述において文は使われず、外部の定義を取り込む import 宣言も処理の一部として扱えない<ref name="名前なし-7"/>。関数型言語におけるプログラムの実行とは、プログラムを表す式の計算を進めて、その結果として値 (value) を得ることである<ref name="名前なし-7"/>。式を計算することを、'''評価する''' (evaluate) という<ref name="名前なし-7"/>。 手続き型言語ではコンピュータへの指示を文として上から順に並べて書くのに対して、関数型言語では数多く定義した細かい式を組み合わせてプログラムを作る<ref name="名前なし-7"/>。手続き型言語では文が重要であり、関数型言語では式が重要である<ref name="名前なし-8">{{harvnb|本間|類地|逢坂|2017|pp=22–23}}</ref>。 式と文の違いとして、型が付いているかどうかというのがある<ref name="名前なし-8"/>。式は型を持つが、文は型を持たない<ref name="名前なし-8"/>。プログラム全てが式から構成されていて、強い静的型付けがされているのならば、プログラムの全体が細部まで型付けされることになる<ref name="名前なし-8"/>。このように細部まで型付けされているようなプログラムは堅固なものになる<ref name="名前なし-8"/>。 == 歴史 == === 1930年代 === 関数型言語の開発において、[[アロンゾ・チャーチ]]が1932年<ref group="注釈">{{harv|Church|1932}}</ref>と1941年<ref group="注釈">{{harv|Church|1941}}</ref>に発表した[[ラムダ計算]]の研究ほど基本的で重要な影響を与えたものはない<ref name="名前なし-9">{{harvnb|Hudak|1989|p=363}}</ref>。ラムダ計算は、それが考え出された当時は[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を実行するような[[コンピュータ]]が存在しなかったために[[プログラミング言語]]として見なされなかったにも関わらず、今では最初の関数型言語とされている<ref name="名前なし-9"/>。1989年現在の関数型言語は、そのほとんどがラムダ計算に装飾を加えたものとして見なせる<ref name="名前なし-9"/>。 === 1950年代 === 1950年代後半に[[ジョン・マッカーシー]]が発表した [[LISP]] は関数型言語の歴史において重要である<ref>{{harvnb|Hudak|1989|p=367}}</ref>。ラムダ計算は LISP の基礎であると言われるが、マッカーシー自身が1978年<ref group="注釈">{{harv|McCarthy|1978}}</ref>に説明したところによると、[[匿名関数]]を表現したいというのが最初にあって、その手段としてマッカーシーはチャーチのラムダ計算を選択したに過ぎない<ref>{{harvnb|Hudak|1989|pp=367–368}}</ref>。 === 1960年代 === 歴史的に言えば、 [[LISP]] に続いて関数型プログラミングパラダイムへ刺激を与えたのは、1960年代半ばの{{仮リンク|ピーター・ランディン|en|Peter Landin}}の成果である<ref name="名前なし-10">{{harvnb|Hudak|1989|p=371}}</ref>。ランディンの成果は[[ハスケル・カリー]]と[[アロンゾ・チャーチ]]に大きな影響を受けていた<ref name="名前なし-10"/>。ランディンの初期の論文は、ラムダ計算と、機械および高級言語 ([[ALGOL 60]]) との関係について議論している<ref name="名前なし-10"/>。ランディンは、1964年<ref group="注釈">{{harv|Landin|1964}}</ref>に、 [[SECDマシン|SECD マシン]]と呼ばれる抽象的な機械を使って機械的に式を評価する方法を論じ、1965年<ref group="注釈">{{harv|Landin|1965}}</ref>に、ラムダ計算で ALGOL 60 の非自明なサブセットを形式化した<ref name="名前なし-10"/>。1966年<ref group="注釈">{{harv|Landin|1966}}</ref>にランディンが発表した [[ISWIM]](If You See What I Mean の略)という言語(群)は、間違いなく、これらの研究の成果であり、[[構文]]や[[プログラム意味論|意味論]]において多くの重要なアイデアを含んでいた<ref name="名前なし-10"/>。 ISWIM は、ランディン本人によれば、「 LISP を、その名前にも表れた[[リスト (抽象データ型)|リスト]]へのこだわり、手作業のメモリ割り当て、ハードウェアに依存した教育方法、[[S式|重い括弧]]、伝統への妥協、から解放しようとする試みとして見ることができる」<ref name="名前なし-10"/>。関数型言語の歴史において ISWIM は次のような貢献を果たした<ref name="名前なし-11">{{harvnb|Hudak|1989|pp=371–372}}</ref>。 * 構文についての革新<ref name="名前なし-10"/> ** 演算子を前置記法で記述するのをやめて中置記法を導入した<ref name="名前なし-10"/>。 ** let 節と where 節を導入して、さらに、関数を順序なく同時に定義でき、相互再帰も可能なようにした<ref name="名前なし-10"/>。 ** 宣言などを記述する構文に、インデントに基づいたオフサイドルールを使用した<ref name="名前なし-10"/>。 * 意味論についての革新<ref name="名前なし-11"/> ** 非常に小さいが表現力があるコア言語を使って、構文的に豊かな言語を定義するという戦略を導入した<ref name="名前なし-10"/>。 ** 等式推論 (equational reasoning) を重視した<ref name="名前なし-10"/>。 ** 関数によるプログラムを実行するための単純な抽象機械としての SECD マシンを導入した<ref name="名前なし-11"/>。 ランディンは「それをどうやって行うか」ではなく「それの望ましい結果とは何か」を表現することに重点を置いており、そして、 ISWIM の宣言的なプログラミング・スタイルは命令的なプログラミング・スタイルよりも優れているというランディンの主張は、今日まで関数型プログラミングの賛同者たちから支持されてきた<ref name="名前なし-12">{{harvnb|Hudak|1989|p=372}}</ref>。その一方で、関数型言語への関心が高まるまでは、さらに10年を要した<ref name="名前なし-12"/>。その理由の一つは、 ISWIM ライクな言語の実用的な実装がなかったことであり、実のところ、この状況は1980年代になるまで変わらなかった<ref name="名前なし-12"/>。 [[ケネス・アイバーソン]]が1962年<ref group="注釈">{{harv|Iverson|1962}}</ref>に発表した [[APL]] は、純粋な関数型プログラミング言語ではないが、その関数型的な部分を取り出したサブセットがラムダ式に頼らずに関数型プログラミングを実現する方法の一例であるという点で、関数型プログラミング言語の歴史を考察する際に言及する価値はある<ref name="名前なし-12"/>。実際に、アイバーソンが APL を設計した動機は、配列のための代数的なプログラミング言語を開発したいというものであり、アイバーソンのオリジナル版は基本的に関数型的な記法を用いていた<ref name="名前なし-12"/>。その後の APL では、いくつかの命令型的な機能が追加されている<ref name="名前なし-12"/>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite Q|Q55890017|last=Church|first=Alonzo}} * {{Cite Q|Q105884272|last=Church|first=Alonzo}} * {{Cite Q|Q55871443|last=Hudak|first=Paul}} * {{Cite Q|Q105954505|last=Iverson|first=Kenneth}} * {{Cite Q|Q56048080|last=McCarthy|first=John}} * {{Cite Q|Q30040385|last=Landin|first=Peter}} * {{Cite Q|Q105941120|last=Landin|first=Peter}} * {{Cite Q|Q54002422|last=Landin|first=Peter}} * {{Cite Q|Q105845956|edition=1st (1st printing)|last=Lipovača|first=Miran}} * {{Cite Q|Q105833610|edition=1st (1st printing)|last=本間|first=雅洋|last2=類地|first2=孝介|last3=逢坂|first3=時響}} == 外部リンク == * [http://www.sampou.org/haskell/article/whyfp.html なぜ関数プログラミングは重要か] * [http://www.topxml.com/xsl/articles/fp/ {{lang|en|The Functional Programming Language XSLT - A proof through examples}}]{{リンク切れ|date=2021年3月}} == 関連項目 == * [[カリー化]] {{プログラミング言語の関連項目}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かんすうかたふろくらみんく}} [[Category:関数型プログラミング|*]] [[Category:プログラミングパラダイム]]
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Haskell
■カテゴリ / ■テンプレート Haskell(ハスケル)は非正格な評価を特徴とする純粋関数型プログラミング言語である。名称は数学者であり論理学者であるハスケル・カリーに由来する。 Haskell は高階関数や静的多相型付け、定義可能な演算子、例外処理といった多くの言語で採用されている現代的な機能に加え、パターンマッチングやカリー化、リスト内包表記、ガードといった多くの特徴的な機能を持っている。また、遅延評価や再帰的な関数や代数的データ型もサポートしているほか、独自の概念として圏論のアイデアを利用し参照透過性を壊すことなく副作用のある操作(例えば 代入、入出力、配列など)を実現するモナドを含む。このような機能の組み合わせにより、手続き型プログラミング言語では記述が複雑になるような処理がしばしば簡潔になるばかりではなく、必要に応じて手続き型プログラミングを利用できる。 Haskell は関数型プログラミングの研究対象として人気が高い。あわせて Parallel Haskell と呼ばれるマサチューセッツ工科大学やグラスゴー大学によるものをはじめ、他にも Distributed Haskell や Eden といった分散バージョン、Eager Haskell と呼ばれる投機的実行バージョン、Haskell++ や O'Haskell、Mondrian といったオブジェクト指向バージョンも複数存在しているなど、いくつもの派生形が開発されてきている。 GUI開発向けサポートの新しい方法を提供する、Concurrent Clean と呼ばれる Haskell に似た言語もある。Haskell と Concurrent Clean の最大の違いは、モナドを代用する一意型の採用である。 Haskell は比較的小規模なユーザコミュニティを持つが、その力はいくつかのプロジェクトで十分に生かされてきた。オードリー・タンによる Pugs は Perl6 のインタプリタとコンパイラの実装で、書くのにたったの数ヶ月しかかからなかったなど Haskell の有用性を証明するものである(現在は開発停止)。Darcs はさまざまな革新的な機能を含むリビジョンコントロールシステムである。Linspire Linux は Haskell をシステムツール開発に選択した。 Haskell の急速な進化は今も継続しており、Glasgow Haskell Compiler(GHC)は現在の事実上の標準の処理系であるといえる。 ICFP Programming Contestでは2001、2004、2005、2010、2013、2014、2015、2016年に最優秀賞に選ばれている。 Cabal(英語版) は Haskell 用のビルドおよびパッケージングシステムである。Cabal を利用して Haskell ライブラリのアーカイブである Hackage を参照して、新たなパッケージを簡単にインストールすることもできる。しばしばパッケージの依存地獄(英語版)が発生しがちだが、それらを解決するため、Stack(英語版)という環境も有志によって提供されている。 1985年、遅延関数言語である Miranda がリサーチ・ソフトウェア社によって発表された。1987年にはこのような非正格な純粋関数型プログラミング言語が十二以上存在していたが、そのうち最も広く使われていた Miranda はパブリックドメインではなかった。オレゴン州ポートランドで開催された Functional Programming Languages and Computer Architecture (FPCA '87) において開かれた会議中に、遅延関数型言語のオープンな標準を作成するための委員会が発足されるべき、という強い合意が参加者のあいだで形成された。委員会の目的は、関数型言語のデザインにおける将来の研究のための基礎として役立つ共通のものへと、既存の関数型言語を統合することであった。 最初の版の Haskell(Haskell 1.0)は1990年に作成された。委員会の活動は一連の言語仕様を結果に残し、1997年後半にそのシリーズは、安定しており小さく可搬なバージョンの言語仕様と、学習用および将来の拡張の基礎としての基本ライブラリなどを定義したHaskell 98 に到達した。実験的な機能の付加や統合を通じて Haskell98 の拡張や派生物を作成することを、委員会ははっきりと歓迎した。 1999年2月、Haskell 98 言語標準は最初に The Haskell 98 Report として発表された。2003年1月、改定されたバージョンが Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report として発表された。GHC に代表されるように、Haskell は急速に発達しつづけている。 2006年前半、非公式に Haskell′(Haskell Prime)と呼ばれている Haskell 98 standard の後継の作成プロセスが開始された。このプロセスは Haskell 98 のマイナーバージョンアップを目的としている。 Haskell 2010 は他のプログラミング言語とのバインディングを可能にする Foreign Function Interface(FFI)を Haskell に追加し, いくつかの構文上の問題を修正する(正式な構文を変更する)。「n + k パターン」と呼ばれる構文を削除し, fak (n+1) = (n+1) * fak nというような形式の定義はもはや許されない。Haskell に Haskell 2010 のソースかどうかや, いくつかの必要な拡張の指定を可能にする言語プラグマ構文拡張を導入する。Haskell 2010 に導入された拡張の名前は, DoAndIfThenElse, HierarchicalModules(階層化ライブラリ), EmptyDataDeclarations, FixityResolution, ForeignFunctionInterface, LineCommentSyntax, PatternGuards, RelaxedDependencyAnalysis, LanguagePragma, NoNPlusKPatterns である。 ここでは以降の解説を読む上で必要な Haskell の文法規則を簡単に説明する。Haskell の構文は数学で用いられるものによく似せられていることに注意されたい。 Haskell の型名は先頭が大文字でなければならない。標準で存在する単純なデータ型としては、Bool(真偽値)型、Int(整数)型、Float(単精度浮動小数点数)型、Char(文字)型、String(文字列)型などが予め定義されている。任意の式の型を定義するには、式と型の間に :: 記号をおく。また、変数などのシンボルを定義する際に変数名を式に指定して書くことで、その変数の型を指定することができる。例えば、次は円周率およびネイピア数を定数として定義し、さらにその型も浮動小数点型として指定している。 関数の型は、各引数の間を -> 記号で区切って表記する。関数は引数をひとつ適用するたびに、その型は -> で区切られたうちの一番左が消えた型となると考えればよい。例えば、ふたつの整数を引数にとりその最大公約数を返す関数 gcd の型は次のように定義される。 型変数を使い、型を抽象化することもできる。これは C++ のテンプレートや Java のジェネリクスに相当するが、様々な種(型の型)に適用できるためより柔軟である。例えば、a 型の値をとり、それをそのまま返す恒等関数 id を型の指定とともに定義すると以下のようになる。ここで任意の型を示す型名 a が定義に使われているが、このように先頭が小文字で始まっている型名は具体的な型名ではなく型変数である。この関数はあらゆる型の値を引数にとることができる。 また、データ型はパラメータとして型変数を持つことができる。例えば、スタックやハッシュテーブルなどのデータ型は、その要素の型を型変数として定義する。ハッシュテーブルを実装するデータ型 HashMap :: * -> * -> * があり、キーに文字列(String)、値に整数(Int)を持つハッシュテーブル hashtable の型は次のようになる。 そのほか、特殊な表記を持つ型としてリストとタプル、文字列がある。リストは Haskell で極めて頻繁に用いられるため、特別な構文が用意されている。リストは要素の型を角括弧で囲む。次は Char(文字)のリストを束縛する変数 text の定義である。文字のリストは文字列と等価である。2行目にあるように、文字列は殆どのプログラミング言語と同じように二重引用符で囲む。コメントにHaskellでのリストの表記を添えた。最後にデシュガー(糖衣構文を元の表記に戻すこと)したリストの表記法を示した。textもhelloも等価である。 タプルは要素の型をカンマで区切り、括弧で囲む。次は Float(浮動小数点数)の値をもつ2次元座標のタプルが束縛される変数 point の定義である。 タプルは2以上ならいくつでも要素を持つことができる。1要素のタプルは優先順位の括弧と表記が衝突し、また用途がないので存在しない。要素数がゼロのタプルは特に「ユニット」(Unit) と呼ばれ、有効な値を持たないなどの時に使われる。 type キーワードを用いて、型に別名をつけることができる。次は [Char] に String という別名をつけている。 Haskellの型は型構築子(型コンストラクタ、type constructor)から構築される。型構築子Tに型変数(Type variables)v1 v2 vNを与え型式(type expression)T v1 v2 vNとして評価することで型が構築される。型構築子の例には以下が挙げられる。 例えば型構築子Maybeに型変数Intを渡し、Maybe Intとすることで型が構築される。 関数名は先頭が小文字でなければならず、記号を含むことはできない。演算子名は記号のみで構成されていなければならない。関数の定義ではC言語のような引数を囲む括弧や区切りのカンマは使われず、単に引数を空白文字で区切って表記する。次は先程示した恒等関数 id に、型の定義に加えて本体の定義もした例である。 関数の適用も同様で、単に関数に続いて空白文字で区切った引数を並べればよい。以下では上記の恒等関数 id を(ここでは使う必要はないが)適用して、別の変数を定義した例である。 引数がつねに2個であることや引数の間に演算子をおくことなどを除けば、演算子についても関数の定義や適用と同様である。標準で定義されている算術演算子を使って、BMIを計算する関数 bmi を定義してみる。 この定義では Float を引数にとり Float で結果を返すが、この関数では Double を引数に使うことはできない。どの浮動小数点数型でも扱えるような関数にするには、次のように型変数を使えばよい。 このバージョンの関数 bmi では引数や返り値の型が a とされているが、これにさらに a は Floating であるとの制約をつけている。Floating は Float や Double を抽象化する型クラスであり / や ^ といった演算子を適用できるので、bmi の定義においてこれらの演算子を使うことができている。また、整数などの値は引数に取れないし、返り値は引数に与えた型で戻ってくる。 関数と演算子は新たに定義し直さなくても相互に変換可能である。関数を演算子として使うには、関数を ` (バッククォート)で囲む。逆に、演算子を関数として使うには括弧で囲む。例えば、整数を除算する関数 div はよく演算子として使われる。 なお、関数適用の優先順位はすべての演算子の優先順位よりも高い。 ここではあまり他の言語では見られない Haskell 特有の機能を中心に解説する。ここでは説明していないが、現代的な実用言語では常識となっているガーベジコレクション、例外処理、モジュール、外部関数の呼び出し、正規表現ライブラリなどの機能は、Haskell にも当然存在している。 Haskell は遅延評価を基本的な評価戦略とする。ほとんどの言語では関数の呼び出しにおいて引数に与えられたすべての式を評価してから呼び出された関数に渡す先行評価を評価戦略とするが、これに対し Haskell ではあらゆる式はそれが必要になるまで評価されない。次の定数 answer は評価すると常に 42 を返すが、その定義には未定義の式を含む。 ここで、const は常に第1引数を返す定数関数である。また、`div` は整数の除算を行う演算子であり、1 `div` 0 は 1 / 0 に相当し、この値は未定義であり、この部分を評価すればエラーになる。正格評価をする言語でこのような式を評価しようとすると、ゼロ除算によるエラーになるであろう。しかし 上記の定数 answer を評価してもエラーにはならない。const は第1引数をつねに返すので第2引数を評価する必要はなく、第2引数に与えられた式 1 `div` 0 は無視されるので評価されないからである。遅延評価がデフォルトで行われることにより、不要な計算は省かれ、参照透過性により同じ式を複数回評価する必要もなくなるため、Haskell では最適化によって計算効率の向上が期待できる場合がある。ただし、頻繁に新たな値を計算する場合は正格評価のほうが効率がよく、必要に応じてseq関数やBangPatterns拡張による明示により正格評価もできる。 Haskell では関数のデータ型を明示しなくても処理系が自動的に型を推論する。以下は型の宣言を省略し、本体のみを宣言した引数の平方を返す関数 square である。 この場合 square の型は型推論され、次のように明示的に型を宣言したのと同じになる。 この宣言は、「Numのインスタンスである a の型の値を引数にとり、a の型の値を返す」と読める。ここでは「*」演算子が適用可能な最も広い型である Num a が選択されており、整数や浮動小数点数、有理数のような Num のインスタンスであるあらゆる型の値を渡すことができる。外部に公開するような関数を定義するときは、型推論によって自動的に選択される最も広い型では適用可能な範囲が広すぎる場合もある。Integer のみを渡せるように制限する場合は、次のように明示的に型を宣言すればよい。 型推論のため、Haskell は型安全でありながらほとんどの部分で型宣言を省略できる。なお、次のコードは型宣言が必要な例である。read は文字列をその文字列があらわすデータ型に変換する抽象化された関数である。 このコードはコンパイルエラーになる。read は複数のインスタンスで実装されており、数値なら数値型に変換する read、リストならリストに変換する read というように型ごとに実装が存在する。Haskell の型は総て静的に決定されなければならない。このコード場合、プログラマは という型をもつ実装の read が選択されると期待しているであろうが、これはコンパイラによる静的な型検査では決定できない。つまり、Haskell コンパイラは read の返り値を受け取っている関数 print の型を検査し多数の実装の中から適切な read を選択しようとするが、print は Show のインスタンスが存在するあらゆる型を引数にとるため、型推論によっても read の型を一意に決定できない。これを解消するひとつの方法は、:: によって型を明示することである。 また、そもそも read の返り値を整数型しか取らない関数に与えていればあいまいさは生じず、型推論は成功する。 他の言語、たとえば Java でこのような抽象的な関数を書こうとしても、Java では返り値の値の型によって関数を選択するようなことはできない(引数の型によって選択するメソッドのオーバーロードは存在する)。そのため、関数の実装ごとに別の名前をつけてプログラマに明示的に選択させて解決させることになる。この方法は簡潔でわかりやすいが、抽象性の高さに基づく再利用性という点では Haskell のような多相には劣ってしまう。 Haskell のデータ型には代数的データ型と呼ばれる、C言語などでいう構造体や列挙体の性質を兼ね備えたものが用いられる。次の例は二つのInt型の値をフィールドに持つ二次元の座標、Point2D 型を定義したもので、これは代数的データ型の構造体的な性質を示す。先頭のトークン「data」は代数的データ型の宣言であることを示す予約語である。ここで最初の Point2D はデータ型名を表し、次の Point2D はデータコンストラクタ名を示す。 データコンストラクタは値を定義するための特殊な関数といえる。データコンストラクタは後述するパターンマッチによって値を取り出す際にも用いられる。 次の例はトランプの4つのスーツを示す Suit 型を定義したものである。Spade、Heart、Club、Diamond の4つのデータコンストラクタが定義されており、Suit 型の式は Spade、Heart、Club、Diamond のいずれかの値をとる。 次の例は String 型の値を格納する二分木の型である。Leaf(葉)は String 型の値を持ち、Branch(枝)は Leaf もしくは Branch である Tree 型の変数を二つ持つ。これは代数的データ型の構造体的な性質と列挙体的な性質の両方が現れている。 GADTと呼ばれる機能を使うと、コンストラクタの型を明示してデータ型を定義することもできる。 Haskell は第一級関数をサポートしており、高階関数を定義することができる。つまり、関数の引数として関数を与えたり、返り値として関数を返すことができる。無名関数は \ (バックスラッシュ)から始まり、それに続いて引数となる変数、引数と本体のあいだに -> 記号をおく。List モジュールに定義されているリストのソートを行う関数 sortBy は、二つの要素に大小関係を与える関数を引数にとるが、無名関数を使うと例えばリストをその長さの短い順にソートする関数 sortList は次のように定義できる。 Haskell において、2つの引数を持つ関数は、1つの引数をとり「1つの引数をとる関数」を返す関数と同義である。このように、関数を返すことで全ての関数を1つの引数の関数として表現することをカリー化という。(あえてタプルを使うことで複数の引数を渡すような見かけにすることもできるが。)次の例は2つの引数をとり、そのうち値が大きい値を返す関数 max である。 この関数maxは無名関数を用いて次のように書き換えることができる。先ほどの表現とまったく同様に動作するが、この表現では関数を返す様子がより明らかになっている。 さらに、次のようにも書き換えることができる。 あるいは、f x = ... x ... は、 f = (\x -> ... x ...) の糖衣構文であるとも言える。このため、Haskell の定義は変数に束縛するのが定数であるか関数であるかにかかわらず、「変数 = 値」という一貫した形でも定義できる。 カリー化によって、Haskell のあらゆる関数は引数を部分適用することができる。つまり、関数の引数の一部だけを渡すことで、一部の変数だけが適用された別の関数を作り出すことができる。また、Haskell では演算子を部分適用することすら可能であり、演算子の部分適用をとくにセクションと呼ぶ。 任意のリストをとり、その要素から条件にあう要素のみを取り出す関数 filter が標準ライブラリに定義されている。 この関数では第一引数に残す要素を判定する関数をとるが、このときに部分適用を使えばそのような関数を簡潔に書くことができる。整数のリストから正の値のみを取り出す関数 positives は次のように定義できる。 ここで、positives および filter の第2引数はソースコード上に現れずに記述できているが、このように単純に書けるのもカリー化の恩恵によるものである。 Haskell では関数の引数を様々な形で受け取ることができる。 次は整数の要素をもつリストの全要素の合計を返す関数 total である。 total の関数本体の定義がふたつあるが、このうち引数の実行時の値と適合する本体が選択され呼び出される。上の本体定義では、引数が空のリストであるときのみ適合し、呼び出される。下の本体定義では、引数が少なくともひとつの要素を持つとき適合し、x に先頭の要素が束縛され、xs に残りのリストが束縛される。この例の場合はパターンに漏れはないが、もし適合するパターンが見つからない場合はエラーになる。 複数の返り値を扱うのもタプルなどを利用して極めて簡明に書くことができる。 このとき、定義される変数は x および y で、それぞれ x は 10 に、y は 20 に定義される。 Haskell で順序付けられた複数の値を扱うのにもっとも柔軟で簡潔な方法はリストを用いることである。次は四季の名前のリストである。 次は初項10、公差4の等差数列のリストである。このリストは無限リストであり、その長さは無限大である。 次の式は先ほどの数列の先頭20項を要素に持つリストである。take n l はリスト l の先頭 n 個の項を要素に持つリストを返す関数である。 もし正格な動作を持つ言語でこのような定義をしようとすると関数 take に値を渡す前に無限リストを生成することになるが、長さが無限のため無限リストの生成が終わることはなく関数 take がいつまでも呼び出されなくなってしまう。Haskell は遅延評価されるため、このようなリストを定義しても必要になるまで必要な項の値の生成は遅延される。このように無限リストを扱えるのは Haskell の大きな強みである。次は素数列をリスト内包表記を用いて定義した一例である。 リストはその柔軟性から再帰的な関数での値の受け渡しに向いているが、任意の位置の要素にアクセスするためには参照を先頭からたどる必要があるのでランダムアクセスが遅い、要素を変更するたびにリストの一部を作り直さなければならないなどの欠点がある。このため Haskell にも配列が用意されており、高速な参照や更新が必要なプログラムではリストの代わりに配列を用いることでパフォーマンスを改善できる可能性がある。 型クラスは相異なるデータ型に共通したインターフェイスを持つ関数を定義する。例えば、順序づけることができる要素をもつリストをソートできる関数 sort を定義することを考える。リストの要素のデータ型は関数 sort を定義するときには不明であり、その要素をどのように順序付けるかを予め決定しておくことはできない。数値型も文字列型もそれぞれのデータを順序付けることができるであろうが、共通してデータの順序を返す抽象的な関数 order を定義することができれば、それを用いてソートすることができる。 まず型クラス Comparer を定義して、順序付ける関数 order の形式を定義する。値の順序を調べる関数 order x y は x → y が昇順のときは負の値、降順の時は正の値、x と y が等しいときは 0 を返すものとする。ここで class は型クラスの宣言であることを示す予約語である。 型クラスを実装するには、対象のデータ型に対してインスタンス宣言を行う。次は型 a の型クラス Comparer に対するインスタンスを宣言したものである。このインスタンス宣言により、Enum のインスタンスである任意の型のリストを辞書順に比較できる。例えば、文字列 Char は Enum のインスタンスの Char のリストであり、このインスタンス定義により order を適用することができるようになる。ここで関数 fromEnum c は文字 c を数値に変換する関数である。Comparer のインスタンスを定義する型 a を Eq および Enum のインスタンスを持つものに限定しているので((Eq a, Enum a) => の部分)、インスタンス定義の内部で Eq の関数である (/=) や Enum の関数である fromEnum を使うことができている。 次にリストをクイックソートする関数 sort を示す。型クラスを用いて順序付ける関数 order を抽象化したため、このように型クラス Comparer のインスタンスを持つ全ての型の値に適用できる一般化されたソート関数を定義できるのである。 この関数 sort は次のように使う。 Haskell のインスタンス宣言は複数の型に共通する操作を定義するという点で Java や C# の「インターフェイス」と似ているが、Haskell では既存の任意の型についてもインスタンスを定義できる点でもインターフェイスに比べて柔軟である。 すべての式が参照透過である Haskell においては、副作用を式の評価そのものでは表現できない。そのため、Haskell では圏論のアイデアを利用したモナドによって入出力が表現されており、Haskell でも最も特徴的な部分となっている。次は Haskell による Hello world の一例である。実際に単独で実行可能形式にコンパイルできる、小さいが完全なプログラムの一例にもなっている。 Haskell は純粋関数型言語であり、main もやはり参照透過である(副作用はない)。しかし処理系は main として定義された IO () 型の値をそのプログラムの動作を示す値として特別に扱う。putStrLn は標準出力に文字列を出力する動作を表す IO () 型の値を返す関数であり、実行すると引数として渡された Hello,World! を出力する。次に標準入力から一行読み込み、そのまま標準出力に出力するエコープログラムを考える。次のような、C言語などのような表記はできない。getLine 関数は標準入力から一行読み取る関数である。 getLine と putStrLn はそれぞれ次のような型を持っている。 純粋関数型である Haskell では getLine もやはり副作用はなく、getLine は一行読み込むという動作を表す値を常に返す。このように入出力の動作を表す値をアクションと呼ぶ。getLine が返すのは String そのものではなくあくまで IO String という型を持ったアクションであって、それを putStrLn の引数に与えることはできない。正しいエコープログラムの一例は次のようになる。 ここでは演算子 >>= によってふたつのアクションを連結している。このとき、main は一行読み込みそれを出力するというアクションとなり、このプログラムを実行すると処理系は main が持つアクションの内容を実行する。このアクションを実行すると、getLine は一行読み込み、それを putStrLn に渡す。このとき、読み込まれたデータにこれらのアクションの外側からアクセスすることはできない。このため、この式は参照透過性を保つことができる。 モナドは、Freeモナド、Operationalモナドと呼ばれる構造により、より単純なデータ型から導出することもできる。これにより、非常に強力な依存性の注入が実現できる。 以下の単純な例は関数型言語としての構文の実例にしばしば用いられるもので、Haskell で示された階乗関数である。 階乗を単一の条件による終端を伴う再帰的関数として表現している。これは数学の教科書でみられる階乗の表現に似ている。Haskell コードの大半は、その簡潔さと構文において基本的な数学的記法と似通っている。 この階乗関数の1行目は関数の型を示すもので、省略可能である。これは「関数 fac は Integer から Integer へ(Integer -> Integer)の型を持つ(::)」と読める。これは整数を引数としてとり、別の整数を返す。もしプログラマが型注釈を与えない場合、この定義の型は自動的に推測される。 2行目では Haskell の重要な機能であるパターンマッチングに頼っている。関数の引数が 0であれば、これは 1 を返す。その他の場合は3行目が試される。これは再帰的な呼び出しで、nが0に達するまで繰り返し関数が実行される。 ガードは階乗が定義されない負の値から3行目を保護している。このガードが無ければこの関数は0の終端条件に達することなく、再帰してすべての負の値を経由してしまう。実際、このパターンマッチングは完全ではない。もし関数facに負の整数が引数として渡されると、このプログラムは実行時エラーとともに落ちるであろう。fac _ = error "negative value"のように定義を追加すれば適切なエラーメッセージを出力することができる。 引数 f を伴う高階関数で表現された単純な逆ポーランド記法評価器が、パターンマッチングと型クラス Read を用いた where 節で定義されている。 空リストを初期状態とし、f を使って一語ずつ文字列を解釈していく。f は、注目している語が演算子ならばその演算を実行し、それ以外ならば浮動小数点として計算スタックに積んでいる。 次はフィボナッチ数列のリストである。ある値nに対するfib(n)は一回しか計算しないようになっており、その点ではナイーブなフィボナッチと異なる効率の良いコードとなっている。 無限リストは 余再帰(リストの後ろの値は要求があったときに 0 と 1 の二つの初期要素から開始され算出される)によって実現される。このような定義は遅延評価の実例で、Haskell プログラミングでも重要な部分である。 ただし、フィボナッチ数列の生成の場合は、ある要素の値が必要であれば、その要素より前にある要素の値は全て必要である。従って、遅延させた上で結局は後から全てその値を求めることになり、むしろ無駄であるので、この場合は遅延させない組込関数seqを使用したほうが効率は良くなり、fib 1000000 といったような値を計算するような場合には差が見えてくる。あるいはリストの先に出る値から順番に計算させるとそのほうが速い、といったことが起きる。(さらに、フィボナッチ数はnに対して2と大きな値になるので、そのようなBigIntegerの加算のコストも掛かり、以前にこの場所に書かれていたような「線形時間でのフィボナッチ数列の生成」は、大きい値では不可能である) どのように評価が進行するかの例示のために、次は6つの要素の計算の後の fibs と tail fibs の値と、どのようにzipWith (+) が4つの要素を生成し、次の値を生成し続けるかを図示したものである。 次はGHCで使える言語拡張で、リスト内包表記を並列的な生成を記述できるよう拡張するParallelListCompを用いて書いた同様の式である。(GHCの拡張は特別なコマンドラインフラグ、またはLANGUAGEプラグマによって有効にしなければならない。詳しくはGHCのマニュアルを参照のこと) 先に見た階乗の定義は、次のように関数の列を内包表記で生成して書く事もできる。 特に簡潔に書ける例として、ハミング数が順番に並ぶリストを返す以下のような関数がある。 上に示されたさまざまな fibs の定義のように、これはオンデマンドに数のリストを実現するために無限リストを使っており、1 という先頭要素から後続の要素を生成している。 ここでは、後続要素の構築関数は where 節内の記号 # で表現された中置演算子で定義されている。 各|は、等号の前半の条件部分と、後半の定義部分からなるガード節を構成する。 parsec は Haskell で書かれたパーサコンビネータである。パーサの一種であるがコンパイラコンパイラとは異なり、Parsec はパーサのソースコードを出力するのではなく、純粋に Haskell の関数としてパーサを構成する。yacc のようにプログラミング言語と異なる言語を新たに習得する必要がなく、高速でかつ堅牢で、型安全で、演算子の結合性や優先順位を考慮したパーサを自動的に構成したり、動的にパーサを変更することすらできる。 派生として、大幅に高速なパースが可能なattoparsec、高機能でより洗練されたtrifectaがある。 Template Haskell は Haskell のメタプログラミングを可能にする拡張である。Haskell ソースコードの構文木を直接 Haskell から操作することができ、C、C++ のマクロやテンプレートを上回る極めて柔軟なプログラミングを行うことができる。 QuickCheck はデータ駆動型のテストを行うモジュールである。自動的にテストデータを作成してプログラムの正当性をテストすることができる。 lensはアクセサの概念を一般化するライブラリであり、様々なデータ構造に対して共通のインタフェースを与える。Getter、Setterは一つの関数として表現されており、それらを合成することもできる。JSONやXMLや、JSONやXML以外の処理にも応用できる。 Haskell は他のプログラミング言語には見られない多くの先進的機能を持っているが、これらの機能のいくつかは言語を複雑にしすぎており、理解が困難であると批判されてきた。とりわけ、関数型プログラミング言語と主流でないプログラミング言語に対する批判は Haskell にもあてはまる。加えて、Haskell の潔癖さとその理論中心の起源に起因する不満がある。 2002年に Jan-Willem Maessen、2003年にサイモン・ペイトン・ジョーンズが遅延評価に関連するこの問題を議論し、その上でこの理論的動機を認識した。彼らは実行時のオーバーヘッドの悪化に加え、遅延はコードのパフォーマンスの推察をより困難にすると言及した。 2003年に Bastiaan Heeren と Daan Leijen、Arjan van IJzendoorn は Haskell の学習者にとってのつまづきに気がついた。これを解決するために、彼らは Helium と呼ばれる新たなインタプリタを開発し、この中でいくつかの型クラスのサポートを取り除き、Haskell の機能の一般化を制限することによってエラーメッセージのユーザ親和性を改善した。 以下は Haskell 98 仕様を完全に満たす、または仕様に非常に近く、オープンソースライセンスの下で配布されているものである。ここには現在のところ商用のHaskell実装は含まれない。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "■カテゴリ / ■テンプレート", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "Haskell(ハスケル)は非正格な評価を特徴とする純粋関数型プログラミング言語である。名称は数学者であり論理学者であるハスケル・カリーに由来する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "Haskell は高階関数や静的多相型付け、定義可能な演算子、例外処理といった多くの言語で採用されている現代的な機能に加え、パターンマッチングやカリー化、リスト内包表記、ガードといった多くの特徴的な機能を持っている。また、遅延評価や再帰的な関数や代数的データ型もサポートしているほか、独自の概念として圏論のアイデアを利用し参照透過性を壊すことなく副作用のある操作(例えば 代入、入出力、配列など)を実現するモナドを含む。このような機能の組み合わせにより、手続き型プログラミング言語では記述が複雑になるような処理がしばしば簡潔になるばかりではなく、必要に応じて手続き型プログラミングを利用できる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "Haskell は関数型プログラミングの研究対象として人気が高い。あわせて Parallel Haskell と呼ばれるマサチューセッツ工科大学やグラスゴー大学によるものをはじめ、他にも Distributed Haskell や Eden といった分散バージョン、Eager Haskell と呼ばれる投機的実行バージョン、Haskell++ や O'Haskell、Mondrian といったオブジェクト指向バージョンも複数存在しているなど、いくつもの派生形が開発されてきている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "GUI開発向けサポートの新しい方法を提供する、Concurrent Clean と呼ばれる Haskell に似た言語もある。Haskell と Concurrent Clean の最大の違いは、モナドを代用する一意型の採用である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "Haskell は比較的小規模なユーザコミュニティを持つが、その力はいくつかのプロジェクトで十分に生かされてきた。オードリー・タンによる Pugs は Perl6 のインタプリタとコンパイラの実装で、書くのにたったの数ヶ月しかかからなかったなど Haskell の有用性を証明するものである(現在は開発停止)。Darcs はさまざまな革新的な機能を含むリビジョンコントロールシステムである。Linspire Linux は Haskell をシステムツール開発に選択した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "Haskell の急速な進化は今も継続しており、Glasgow Haskell Compiler(GHC)は現在の事実上の標準の処理系であるといえる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ICFP Programming Contestでは2001、2004、2005、2010、2013、2014、2015、2016年に最優秀賞に選ばれている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Cabal(英語版) は Haskell 用のビルドおよびパッケージングシステムである。Cabal を利用して Haskell ライブラリのアーカイブである Hackage を参照して、新たなパッケージを簡単にインストールすることもできる。しばしばパッケージの依存地獄(英語版)が発生しがちだが、それらを解決するため、Stack(英語版)という環境も有志によって提供されている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "1985年、遅延関数言語である Miranda がリサーチ・ソフトウェア社によって発表された。1987年にはこのような非正格な純粋関数型プログラミング言語が十二以上存在していたが、そのうち最も広く使われていた Miranda はパブリックドメインではなかった。オレゴン州ポートランドで開催された Functional Programming Languages and Computer Architecture (FPCA '87) において開かれた会議中に、遅延関数型言語のオープンな標準を作成するための委員会が発足されるべき、という強い合意が参加者のあいだで形成された。委員会の目的は、関数型言語のデザインにおける将来の研究のための基礎として役立つ共通のものへと、既存の関数型言語を統合することであった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最初の版の Haskell(Haskell 1.0)は1990年に作成された。委員会の活動は一連の言語仕様を結果に残し、1997年後半にそのシリーズは、安定しており小さく可搬なバージョンの言語仕様と、学習用および将来の拡張の基礎としての基本ライブラリなどを定義したHaskell 98 に到達した。実験的な機能の付加や統合を通じて Haskell98 の拡張や派生物を作成することを、委員会ははっきりと歓迎した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1999年2月、Haskell 98 言語標準は最初に The Haskell 98 Report として発表された。2003年1月、改定されたバージョンが Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report として発表された。GHC に代表されるように、Haskell は急速に発達しつづけている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "2006年前半、非公式に Haskell′(Haskell Prime)と呼ばれている Haskell 98 standard の後継の作成プロセスが開始された。このプロセスは Haskell 98 のマイナーバージョンアップを目的としている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Haskell 2010 は他のプログラミング言語とのバインディングを可能にする Foreign Function Interface(FFI)を Haskell に追加し, いくつかの構文上の問題を修正する(正式な構文を変更する)。「n + k パターン」と呼ばれる構文を削除し, fak (n+1) = (n+1) * fak nというような形式の定義はもはや許されない。Haskell に Haskell 2010 のソースかどうかや, いくつかの必要な拡張の指定を可能にする言語プラグマ構文拡張を導入する。Haskell 2010 に導入された拡張の名前は, DoAndIfThenElse, HierarchicalModules(階層化ライブラリ), EmptyDataDeclarations, FixityResolution, ForeignFunctionInterface, LineCommentSyntax, PatternGuards, RelaxedDependencyAnalysis, LanguagePragma, NoNPlusKPatterns である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ここでは以降の解説を読む上で必要な Haskell の文法規則を簡単に説明する。Haskell の構文は数学で用いられるものによく似せられていることに注意されたい。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "Haskell の型名は先頭が大文字でなければならない。標準で存在する単純なデータ型としては、Bool(真偽値)型、Int(整数)型、Float(単精度浮動小数点数)型、Char(文字)型、String(文字列)型などが予め定義されている。任意の式の型を定義するには、式と型の間に :: 記号をおく。また、変数などのシンボルを定義する際に変数名を式に指定して書くことで、その変数の型を指定することができる。例えば、次は円周率およびネイピア数を定数として定義し、さらにその型も浮動小数点型として指定している。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "関数の型は、各引数の間を -> 記号で区切って表記する。関数は引数をひとつ適用するたびに、その型は -> で区切られたうちの一番左が消えた型となると考えればよい。例えば、ふたつの整数を引数にとりその最大公約数を返す関数 gcd の型は次のように定義される。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "型変数を使い、型を抽象化することもできる。これは C++ のテンプレートや Java のジェネリクスに相当するが、様々な種(型の型)に適用できるためより柔軟である。例えば、a 型の値をとり、それをそのまま返す恒等関数 id を型の指定とともに定義すると以下のようになる。ここで任意の型を示す型名 a が定義に使われているが、このように先頭が小文字で始まっている型名は具体的な型名ではなく型変数である。この関数はあらゆる型の値を引数にとることができる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "また、データ型はパラメータとして型変数を持つことができる。例えば、スタックやハッシュテーブルなどのデータ型は、その要素の型を型変数として定義する。ハッシュテーブルを実装するデータ型 HashMap :: * -> * -> * があり、キーに文字列(String)、値に整数(Int)を持つハッシュテーブル hashtable の型は次のようになる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "そのほか、特殊な表記を持つ型としてリストとタプル、文字列がある。リストは Haskell で極めて頻繁に用いられるため、特別な構文が用意されている。リストは要素の型を角括弧で囲む。次は Char(文字)のリストを束縛する変数 text の定義である。文字のリストは文字列と等価である。2行目にあるように、文字列は殆どのプログラミング言語と同じように二重引用符で囲む。コメントにHaskellでのリストの表記を添えた。最後にデシュガー(糖衣構文を元の表記に戻すこと)したリストの表記法を示した。textもhelloも等価である。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "タプルは要素の型をカンマで区切り、括弧で囲む。次は Float(浮動小数点数)の値をもつ2次元座標のタプルが束縛される変数 point の定義である。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "タプルは2以上ならいくつでも要素を持つことができる。1要素のタプルは優先順位の括弧と表記が衝突し、また用途がないので存在しない。要素数がゼロのタプルは特に「ユニット」(Unit) と呼ばれ、有効な値を持たないなどの時に使われる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "type キーワードを用いて、型に別名をつけることができる。次は [Char] に String という別名をつけている。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Haskellの型は型構築子(型コンストラクタ、type constructor)から構築される。型構築子Tに型変数(Type variables)v1 v2 vNを与え型式(type expression)T v1 v2 vNとして評価することで型が構築される。型構築子の例には以下が挙げられる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "例えば型構築子Maybeに型変数Intを渡し、Maybe Intとすることで型が構築される。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "関数名は先頭が小文字でなければならず、記号を含むことはできない。演算子名は記号のみで構成されていなければならない。関数の定義ではC言語のような引数を囲む括弧や区切りのカンマは使われず、単に引数を空白文字で区切って表記する。次は先程示した恒等関数 id に、型の定義に加えて本体の定義もした例である。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "関数の適用も同様で、単に関数に続いて空白文字で区切った引数を並べればよい。以下では上記の恒等関数 id を(ここでは使う必要はないが)適用して、別の変数を定義した例である。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "引数がつねに2個であることや引数の間に演算子をおくことなどを除けば、演算子についても関数の定義や適用と同様である。標準で定義されている算術演算子を使って、BMIを計算する関数 bmi を定義してみる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "この定義では Float を引数にとり Float で結果を返すが、この関数では Double を引数に使うことはできない。どの浮動小数点数型でも扱えるような関数にするには、次のように型変数を使えばよい。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "このバージョンの関数 bmi では引数や返り値の型が a とされているが、これにさらに a は Floating であるとの制約をつけている。Floating は Float や Double を抽象化する型クラスであり / や ^ といった演算子を適用できるので、bmi の定義においてこれらの演算子を使うことができている。また、整数などの値は引数に取れないし、返り値は引数に与えた型で戻ってくる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "関数と演算子は新たに定義し直さなくても相互に変換可能である。関数を演算子として使うには、関数を ` (バッククォート)で囲む。逆に、演算子を関数として使うには括弧で囲む。例えば、整数を除算する関数 div はよく演算子として使われる。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "なお、関数適用の優先順位はすべての演算子の優先順位よりも高い。", "title": "主な構文" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "ここではあまり他の言語では見られない Haskell 特有の機能を中心に解説する。ここでは説明していないが、現代的な実用言語では常識となっているガーベジコレクション、例外処理、モジュール、外部関数の呼び出し、正規表現ライブラリなどの機能は、Haskell にも当然存在している。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Haskell は遅延評価を基本的な評価戦略とする。ほとんどの言語では関数の呼び出しにおいて引数に与えられたすべての式を評価してから呼び出された関数に渡す先行評価を評価戦略とするが、これに対し Haskell ではあらゆる式はそれが必要になるまで評価されない。次の定数 answer は評価すると常に 42 を返すが、その定義には未定義の式を含む。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "ここで、const は常に第1引数を返す定数関数である。また、`div` は整数の除算を行う演算子であり、1 `div` 0 は 1 / 0 に相当し、この値は未定義であり、この部分を評価すればエラーになる。正格評価をする言語でこのような式を評価しようとすると、ゼロ除算によるエラーになるであろう。しかし 上記の定数 answer を評価してもエラーにはならない。const は第1引数をつねに返すので第2引数を評価する必要はなく、第2引数に与えられた式 1 `div` 0 は無視されるので評価されないからである。遅延評価がデフォルトで行われることにより、不要な計算は省かれ、参照透過性により同じ式を複数回評価する必要もなくなるため、Haskell では最適化によって計算効率の向上が期待できる場合がある。ただし、頻繁に新たな値を計算する場合は正格評価のほうが効率がよく、必要に応じてseq関数やBangPatterns拡張による明示により正格評価もできる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "Haskell では関数のデータ型を明示しなくても処理系が自動的に型を推論する。以下は型の宣言を省略し、本体のみを宣言した引数の平方を返す関数 square である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "この場合 square の型は型推論され、次のように明示的に型を宣言したのと同じになる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "この宣言は、「Numのインスタンスである a の型の値を引数にとり、a の型の値を返す」と読める。ここでは「*」演算子が適用可能な最も広い型である Num a が選択されており、整数や浮動小数点数、有理数のような Num のインスタンスであるあらゆる型の値を渡すことができる。外部に公開するような関数を定義するときは、型推論によって自動的に選択される最も広い型では適用可能な範囲が広すぎる場合もある。Integer のみを渡せるように制限する場合は、次のように明示的に型を宣言すればよい。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "型推論のため、Haskell は型安全でありながらほとんどの部分で型宣言を省略できる。なお、次のコードは型宣言が必要な例である。read は文字列をその文字列があらわすデータ型に変換する抽象化された関数である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "このコードはコンパイルエラーになる。read は複数のインスタンスで実装されており、数値なら数値型に変換する read、リストならリストに変換する read というように型ごとに実装が存在する。Haskell の型は総て静的に決定されなければならない。このコード場合、プログラマは", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "という型をもつ実装の read が選択されると期待しているであろうが、これはコンパイラによる静的な型検査では決定できない。つまり、Haskell コンパイラは read の返り値を受け取っている関数 print の型を検査し多数の実装の中から適切な read を選択しようとするが、print は Show のインスタンスが存在するあらゆる型を引数にとるため、型推論によっても read の型を一意に決定できない。これを解消するひとつの方法は、:: によって型を明示することである。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "また、そもそも read の返り値を整数型しか取らない関数に与えていればあいまいさは生じず、型推論は成功する。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "他の言語、たとえば Java でこのような抽象的な関数を書こうとしても、Java では返り値の値の型によって関数を選択するようなことはできない(引数の型によって選択するメソッドのオーバーロードは存在する)。そのため、関数の実装ごとに別の名前をつけてプログラマに明示的に選択させて解決させることになる。この方法は簡潔でわかりやすいが、抽象性の高さに基づく再利用性という点では Haskell のような多相には劣ってしまう。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Haskell のデータ型には代数的データ型と呼ばれる、C言語などでいう構造体や列挙体の性質を兼ね備えたものが用いられる。次の例は二つのInt型の値をフィールドに持つ二次元の座標、Point2D 型を定義したもので、これは代数的データ型の構造体的な性質を示す。先頭のトークン「data」は代数的データ型の宣言であることを示す予約語である。ここで最初の Point2D はデータ型名を表し、次の Point2D はデータコンストラクタ名を示す。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "データコンストラクタは値を定義するための特殊な関数といえる。データコンストラクタは後述するパターンマッチによって値を取り出す際にも用いられる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "次の例はトランプの4つのスーツを示す Suit 型を定義したものである。Spade、Heart、Club、Diamond の4つのデータコンストラクタが定義されており、Suit 型の式は Spade、Heart、Club、Diamond のいずれかの値をとる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "次の例は String 型の値を格納する二分木の型である。Leaf(葉)は String 型の値を持ち、Branch(枝)は Leaf もしくは Branch である Tree 型の変数を二つ持つ。これは代数的データ型の構造体的な性質と列挙体的な性質の両方が現れている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "GADTと呼ばれる機能を使うと、コンストラクタの型を明示してデータ型を定義することもできる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "Haskell は第一級関数をサポートしており、高階関数を定義することができる。つまり、関数の引数として関数を与えたり、返り値として関数を返すことができる。無名関数は \\ (バックスラッシュ)から始まり、それに続いて引数となる変数、引数と本体のあいだに -> 記号をおく。List モジュールに定義されているリストのソートを行う関数 sortBy は、二つの要素に大小関係を与える関数を引数にとるが、無名関数を使うと例えばリストをその長さの短い順にソートする関数 sortList は次のように定義できる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Haskell において、2つの引数を持つ関数は、1つの引数をとり「1つの引数をとる関数」を返す関数と同義である。このように、関数を返すことで全ての関数を1つの引数の関数として表現することをカリー化という。(あえてタプルを使うことで複数の引数を渡すような見かけにすることもできるが。)次の例は2つの引数をとり、そのうち値が大きい値を返す関数 max である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "この関数maxは無名関数を用いて次のように書き換えることができる。先ほどの表現とまったく同様に動作するが、この表現では関数を返す様子がより明らかになっている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "さらに、次のようにも書き換えることができる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "あるいは、f x = ... x ... は、 f = (\\x -> ... x ...) の糖衣構文であるとも言える。このため、Haskell の定義は変数に束縛するのが定数であるか関数であるかにかかわらず、「変数 = 値」という一貫した形でも定義できる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "カリー化によって、Haskell のあらゆる関数は引数を部分適用することができる。つまり、関数の引数の一部だけを渡すことで、一部の変数だけが適用された別の関数を作り出すことができる。また、Haskell では演算子を部分適用することすら可能であり、演算子の部分適用をとくにセクションと呼ぶ。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "任意のリストをとり、その要素から条件にあう要素のみを取り出す関数 filter が標準ライブラリに定義されている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "この関数では第一引数に残す要素を判定する関数をとるが、このときに部分適用を使えばそのような関数を簡潔に書くことができる。整数のリストから正の値のみを取り出す関数 positives は次のように定義できる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "ここで、positives および filter の第2引数はソースコード上に現れずに記述できているが、このように単純に書けるのもカリー化の恩恵によるものである。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "Haskell では関数の引数を様々な形で受け取ることができる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "次は整数の要素をもつリストの全要素の合計を返す関数 total である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "total の関数本体の定義がふたつあるが、このうち引数の実行時の値と適合する本体が選択され呼び出される。上の本体定義では、引数が空のリストであるときのみ適合し、呼び出される。下の本体定義では、引数が少なくともひとつの要素を持つとき適合し、x に先頭の要素が束縛され、xs に残りのリストが束縛される。この例の場合はパターンに漏れはないが、もし適合するパターンが見つからない場合はエラーになる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "複数の返り値を扱うのもタプルなどを利用して極めて簡明に書くことができる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "このとき、定義される変数は x および y で、それぞれ x は 10 に、y は 20 に定義される。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "Haskell で順序付けられた複数の値を扱うのにもっとも柔軟で簡潔な方法はリストを用いることである。次は四季の名前のリストである。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "次は初項10、公差4の等差数列のリストである。このリストは無限リストであり、その長さは無限大である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "次の式は先ほどの数列の先頭20項を要素に持つリストである。take n l はリスト l の先頭 n 個の項を要素に持つリストを返す関数である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "もし正格な動作を持つ言語でこのような定義をしようとすると関数 take に値を渡す前に無限リストを生成することになるが、長さが無限のため無限リストの生成が終わることはなく関数 take がいつまでも呼び出されなくなってしまう。Haskell は遅延評価されるため、このようなリストを定義しても必要になるまで必要な項の値の生成は遅延される。このように無限リストを扱えるのは Haskell の大きな強みである。次は素数列をリスト内包表記を用いて定義した一例である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "リストはその柔軟性から再帰的な関数での値の受け渡しに向いているが、任意の位置の要素にアクセスするためには参照を先頭からたどる必要があるのでランダムアクセスが遅い、要素を変更するたびにリストの一部を作り直さなければならないなどの欠点がある。このため Haskell にも配列が用意されており、高速な参照や更新が必要なプログラムではリストの代わりに配列を用いることでパフォーマンスを改善できる可能性がある。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "型クラスは相異なるデータ型に共通したインターフェイスを持つ関数を定義する。例えば、順序づけることができる要素をもつリストをソートできる関数 sort を定義することを考える。リストの要素のデータ型は関数 sort を定義するときには不明であり、その要素をどのように順序付けるかを予め決定しておくことはできない。数値型も文字列型もそれぞれのデータを順序付けることができるであろうが、共通してデータの順序を返す抽象的な関数 order を定義することができれば、それを用いてソートすることができる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "まず型クラス Comparer を定義して、順序付ける関数 order の形式を定義する。値の順序を調べる関数 order x y は x → y が昇順のときは負の値、降順の時は正の値、x と y が等しいときは 0 を返すものとする。ここで class は型クラスの宣言であることを示す予約語である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "型クラスを実装するには、対象のデータ型に対してインスタンス宣言を行う。次は型 a の型クラス Comparer に対するインスタンスを宣言したものである。このインスタンス宣言により、Enum のインスタンスである任意の型のリストを辞書順に比較できる。例えば、文字列 Char は Enum のインスタンスの Char のリストであり、このインスタンス定義により order を適用することができるようになる。ここで関数 fromEnum c は文字 c を数値に変換する関数である。Comparer のインスタンスを定義する型 a を Eq および Enum のインスタンスを持つものに限定しているので((Eq a, Enum a) => の部分)、インスタンス定義の内部で Eq の関数である (/=) や Enum の関数である fromEnum を使うことができている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "次にリストをクイックソートする関数 sort を示す。型クラスを用いて順序付ける関数 order を抽象化したため、このように型クラス Comparer のインスタンスを持つ全ての型の値に適用できる一般化されたソート関数を定義できるのである。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "この関数 sort は次のように使う。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "Haskell のインスタンス宣言は複数の型に共通する操作を定義するという点で Java や C# の「インターフェイス」と似ているが、Haskell では既存の任意の型についてもインスタンスを定義できる点でもインターフェイスに比べて柔軟である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "すべての式が参照透過である Haskell においては、副作用を式の評価そのものでは表現できない。そのため、Haskell では圏論のアイデアを利用したモナドによって入出力が表現されており、Haskell でも最も特徴的な部分となっている。次は Haskell による Hello world の一例である。実際に単独で実行可能形式にコンパイルできる、小さいが完全なプログラムの一例にもなっている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "Haskell は純粋関数型言語であり、main もやはり参照透過である(副作用はない)。しかし処理系は main として定義された IO () 型の値をそのプログラムの動作を示す値として特別に扱う。putStrLn は標準出力に文字列を出力する動作を表す IO () 型の値を返す関数であり、実行すると引数として渡された Hello,World! を出力する。次に標準入力から一行読み込み、そのまま標準出力に出力するエコープログラムを考える。次のような、C言語などのような表記はできない。getLine 関数は標準入力から一行読み取る関数である。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "getLine と putStrLn はそれぞれ次のような型を持っている。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "純粋関数型である Haskell では getLine もやはり副作用はなく、getLine は一行読み込むという動作を表す値を常に返す。このように入出力の動作を表す値をアクションと呼ぶ。getLine が返すのは String そのものではなくあくまで IO String という型を持ったアクションであって、それを putStrLn の引数に与えることはできない。正しいエコープログラムの一例は次のようになる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "ここでは演算子 >>= によってふたつのアクションを連結している。このとき、main は一行読み込みそれを出力するというアクションとなり、このプログラムを実行すると処理系は main が持つアクションの内容を実行する。このアクションを実行すると、getLine は一行読み込み、それを putStrLn に渡す。このとき、読み込まれたデータにこれらのアクションの外側からアクセスすることはできない。このため、この式は参照透過性を保つことができる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "モナドは、Freeモナド、Operationalモナドと呼ばれる構造により、より単純なデータ型から導出することもできる。これにより、非常に強力な依存性の注入が実現できる。", "title": "特徴的な機能" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "以下の単純な例は関数型言語としての構文の実例にしばしば用いられるもので、Haskell で示された階乗関数である。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "階乗を単一の条件による終端を伴う再帰的関数として表現している。これは数学の教科書でみられる階乗の表現に似ている。Haskell コードの大半は、その簡潔さと構文において基本的な数学的記法と似通っている。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "この階乗関数の1行目は関数の型を示すもので、省略可能である。これは「関数 fac は Integer から Integer へ(Integer -> Integer)の型を持つ(::)」と読める。これは整数を引数としてとり、別の整数を返す。もしプログラマが型注釈を与えない場合、この定義の型は自動的に推測される。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "2行目では Haskell の重要な機能であるパターンマッチングに頼っている。関数の引数が 0であれば、これは 1 を返す。その他の場合は3行目が試される。これは再帰的な呼び出しで、nが0に達するまで繰り返し関数が実行される。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "ガードは階乗が定義されない負の値から3行目を保護している。このガードが無ければこの関数は0の終端条件に達することなく、再帰してすべての負の値を経由してしまう。実際、このパターンマッチングは完全ではない。もし関数facに負の整数が引数として渡されると、このプログラムは実行時エラーとともに落ちるであろう。fac _ = error \"negative value\"のように定義を追加すれば適切なエラーメッセージを出力することができる。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "引数 f を伴う高階関数で表現された単純な逆ポーランド記法評価器が、パターンマッチングと型クラス Read を用いた where 節で定義されている。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "空リストを初期状態とし、f を使って一語ずつ文字列を解釈していく。f は、注目している語が演算子ならばその演算を実行し、それ以外ならば浮動小数点として計算スタックに積んでいる。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "次はフィボナッチ数列のリストである。ある値nに対するfib(n)は一回しか計算しないようになっており、その点ではナイーブなフィボナッチと異なる効率の良いコードとなっている。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "無限リストは 余再帰(リストの後ろの値は要求があったときに 0 と 1 の二つの初期要素から開始され算出される)によって実現される。このような定義は遅延評価の実例で、Haskell プログラミングでも重要な部分である。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "ただし、フィボナッチ数列の生成の場合は、ある要素の値が必要であれば、その要素より前にある要素の値は全て必要である。従って、遅延させた上で結局は後から全てその値を求めることになり、むしろ無駄であるので、この場合は遅延させない組込関数seqを使用したほうが効率は良くなり、fib 1000000 といったような値を計算するような場合には差が見えてくる。あるいはリストの先に出る値から順番に計算させるとそのほうが速い、といったことが起きる。(さらに、フィボナッチ数はnに対して2と大きな値になるので、そのようなBigIntegerの加算のコストも掛かり、以前にこの場所に書かれていたような「線形時間でのフィボナッチ数列の生成」は、大きい値では不可能である)", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "どのように評価が進行するかの例示のために、次は6つの要素の計算の後の fibs と tail fibs の値と、どのようにzipWith (+) が4つの要素を生成し、次の値を生成し続けるかを図示したものである。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "次はGHCで使える言語拡張で、リスト内包表記を並列的な生成を記述できるよう拡張するParallelListCompを用いて書いた同様の式である。(GHCの拡張は特別なコマンドラインフラグ、またはLANGUAGEプラグマによって有効にしなければならない。詳しくはGHCのマニュアルを参照のこと)", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "先に見た階乗の定義は、次のように関数の列を内包表記で生成して書く事もできる。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "特に簡潔に書ける例として、ハミング数が順番に並ぶリストを返す以下のような関数がある。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "上に示されたさまざまな fibs の定義のように、これはオンデマンドに数のリストを実現するために無限リストを使っており、1 という先頭要素から後続の要素を生成している。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "ここでは、後続要素の構築関数は where 節内の記号 # で表現された中置演算子で定義されている。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "各|は、等号の前半の条件部分と、後半の定義部分からなるガード節を構成する。", "title": "実例" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "parsec は Haskell で書かれたパーサコンビネータである。パーサの一種であるがコンパイラコンパイラとは異なり、Parsec はパーサのソースコードを出力するのではなく、純粋に Haskell の関数としてパーサを構成する。yacc のようにプログラミング言語と異なる言語を新たに習得する必要がなく、高速でかつ堅牢で、型安全で、演算子の結合性や優先順位を考慮したパーサを自動的に構成したり、動的にパーサを変更することすらできる。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "派生として、大幅に高速なパースが可能なattoparsec、高機能でより洗練されたtrifectaがある。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "Template Haskell は Haskell のメタプログラミングを可能にする拡張である。Haskell ソースコードの構文木を直接 Haskell から操作することができ、C、C++ のマクロやテンプレートを上回る極めて柔軟なプログラミングを行うことができる。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "QuickCheck はデータ駆動型のテストを行うモジュールである。自動的にテストデータを作成してプログラムの正当性をテストすることができる。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "lensはアクセサの概念を一般化するライブラリであり、様々なデータ構造に対して共通のインタフェースを与える。Getter、Setterは一つの関数として表現されており、それらを合成することもできる。JSONやXMLや、JSONやXML以外の処理にも応用できる。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "Haskell は他のプログラミング言語には見られない多くの先進的機能を持っているが、これらの機能のいくつかは言語を複雑にしすぎており、理解が困難であると批判されてきた。とりわけ、関数型プログラミング言語と主流でないプログラミング言語に対する批判は Haskell にもあてはまる。加えて、Haskell の潔癖さとその理論中心の起源に起因する不満がある。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "2002年に Jan-Willem Maessen、2003年にサイモン・ペイトン・ジョーンズが遅延評価に関連するこの問題を議論し、その上でこの理論的動機を認識した。彼らは実行時のオーバーヘッドの悪化に加え、遅延はコードのパフォーマンスの推察をより困難にすると言及した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "2003年に Bastiaan Heeren と Daan Leijen、Arjan van IJzendoorn は Haskell の学習者にとってのつまづきに気がついた。これを解決するために、彼らは Helium と呼ばれる新たなインタプリタを開発し、この中でいくつかの型クラスのサポートを取り除き、Haskell の機能の一般化を制限することによってエラーメッセージのユーザ親和性を改善した。", "title": "批判" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "以下は Haskell 98 仕様を完全に満たす、または仕様に非常に近く、オープンソースライセンスの下で配布されているものである。ここには現在のところ商用のHaskell実装は含まれない。", "title": "実装" } ]
Haskell(ハスケル)は非正格な評価を特徴とする純粋関数型プログラミング言語である。名称は数学者であり論理学者であるハスケル・カリーに由来する。
{{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = Haskell | typing = 強い[[静的型付け]] | implementations = [[Glasgow Haskell Compiler|GHC]]、[[Hugs]]、[http://www.cs.york.ac.uk/fp/nhc98/ NHC]、[http://repetae.net/john/computer/jhc/ JHC]、[[Yhc]] | influenced = [[Factor]] | website = {{ConditionalURL}} }} {{プログラミング言語}} {{lang|en|'''Haskell'''}}(ハスケル)は[[評価戦略#正格でない評価|非正格]]な評価を特徴とする[[関数型言語|純粋関数型プログラミング言語]]である。名称は[[数学者]]であり[[論理学者]]である[[ハスケル・カリー]]に由来する。 == 概要 == {{lang|en|Haskell}} は[[高階関数]]や[[静的型付け|静的]][[ポリモーフィズム|多相型付け]]、[[定義]]可能な[[演算子#プログラミングにおける演算子|演算子]]、例外処理といった多くの言語で採用されている現代的な機能に加え、[[パターンマッチング]]や[[カリー化]]、リスト内包表記、[[ガード (プログラミング)|ガード]]といった多くの特徴的な機能を持っている。また、[[遅延評価]]や[[再帰]]的な[[サブルーチン#関数|関数]]や[[代数的データ型]]もサポートしているほか、独自の概念として[[圏論]]のアイデアを利用し[[参照透過性]]を壊すことなく副作用のある操作(例えば [[変数 (プログラミング)#代入|代入]]、[[入出力#コンピュータ処理における入出力|入出力]]、[[配列]]など)を実現する[[モナド (プログラミング)|モナド]]を含む。このような機能の組み合わせにより、[[手続き型プログラミング言語]]では記述が複雑になるような処理がしばしば簡潔になるばかりではなく、必要に応じて手続き型プログラミングを利用できる。 {{lang|en|Haskell}} は関数型プログラミングの研究対象として人気が高い。あわせて {{lang|en|Parallel Haskell}} と呼ばれる[[マサチューセッツ工科大学]]や[[グラスゴー大学]]によるものをはじめ、他にも {{lang|en|Distributed Haskell}}<ref>かつては {{lang|en|Goffin}} と呼ばれていた。</ref> や {{lang|en|Eden}} といった分散バージョン、{{lang|en|Eager Haskell}} と呼ばれる[[投機的実行]]バージョン、{{lang|en|Haskell++}} や {{lang|en|O'Haskell}}、{{lang|en|Mondrian}} といった[[オブジェクト指向]]バージョンも複数存在しているなど、いくつもの派生形が開発されてきている。 [[グラフィカルユーザインターフェース|GUI]]開発向けサポートの新しい方法を提供する、{{lang|en|[[Clean|Concurrent Clean]]}} と呼ばれる {{lang|en|Haskell}} に似た言語もある。{{lang|en|Haskell}} と {{lang|en|Concurrent Clean}} の最大の違いは、[[モナド (プログラミング)|モナド]]を代用する一意型の採用である。 {{lang|en|Haskell}} は比較的小規模なユーザコミュニティを持つが、その力はいくつかのプロジェクトで十分に生かされてきた。[[オードリー・タン]]による {{lang|en|Pugs}} は [[Raku|Perl6]] の[[インタプリタ]]と[[コンパイラ]]の実装で、書くのにたったの数ヶ月しかかからなかったなど {{lang|en|Haskell}} の有用性を証明するものである(現在は開発停止)。Darcs はさまざまな革新的な機能を含むリビジョンコントロールシステムである。{{lang|en|[[Linspire]] Linux}} は {{lang|en|Haskell}} をシステムツール開発に選択した。 {{lang|en|Haskell}} の急速な進化は今も継続しており、[[Glasgow Haskell Compiler]](GHC)は現在の[[デファクトスタンダード|事実上の標準]]の処理系であるといえる。 {{lang|en|[[:en:ICFP Programming Contest|ICFP Programming Contest]]}}では2001、2004、2005、2010、2013、2014、2015、2016年に最優秀賞に選ばれている。 {{仮リンク|Cabal (ソフトウェア)|en|Cabal (software)|label=Cabal}} は {{lang|en|Haskell}} 用のビルドおよびパッケージングシステムである。{{lang|en|Cabal}} を利用して {{lang|en|Haskell}} ライブラリのアーカイブである {{lang|en|Hackage}} を参照して、新たなパッケージを簡単にインストールすることもできる。しばしばパッケージの{{仮リンク|依存地獄|en|Dependency hell}}が発生しがちだが、それらを解決するため、{{ill2|Stack (Haskell)|en|Stack (Haskell)|label=Stack}}という環境も有志によって提供されている。 == 歴史 == [[1985年]]、遅延関数言語である {{lang|en|Miranda}} がリサーチ・ソフトウェア社によって発表された。[[1987年]]にはこのような非正格な純粋関数型プログラミング言語が十二以上存在していたが、そのうち最も広く使われていた {{lang|en|Miranda}} は[[パブリックドメイン]]ではなかった。[[ポートランド (オレゴン州)|オレゴン州ポートランド]]で開催された {{lang|en|Functional Programming Languages and Computer Architecture}} ({{lang|en|FPCA '87}}) において開かれた会議中に、遅延関数型言語のオープンな標準を作成するための委員会が発足されるべき、という強い合意が参加者のあいだで形成された。委員会の目的は、関数型言語のデザインにおける将来の研究のための基礎として役立つ共通のものへと、既存の関数型言語を統合することであった<ref name="Pref 98">{{cite web|url=http://haskell.org/onlinereport/preface-jfp.html|title=Preface|work=Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report|year=2002|month=December|accessdate=2009-06-23}}</ref>。 ==={{lang|en|Haskell}} 1.0=== 最初の版の {{lang|en|Haskell}}({{lang|en|Haskell}} 1.0)は[[1990年]]に作成された<ref>{{cite web|url=http://www.haskell.org/haskell-history.html|title=The History of Haskell|accessdate=2009-06-23}}</ref>。委員会の活動は一連の言語仕様を結果に残し、[[1997年]]後半にそのシリーズは、安定しており小さく可搬なバージョンの言語仕様と、学習用および将来の拡張の基礎としての基本ライブラリなどを定義した{{lang|en|Haskell}} 98 に到達した。実験的な機能の付加や統合を通じて {{lang|en|Haskell}}98 の拡張や派生物を作成することを、委員会ははっきりと歓迎した<ref name="Pref 98" />。 ==={{lang|en|Haskell}} 98=== [[1999年]]2月、{{lang|en|Haskell}} 98 言語標準は最初に {{lang|en|The Haskell 98 Report}} として発表された<ref name="Pref 98" />。[[2003年]]1月、改定されたバージョンが {{lang|en|Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report}} として発表された<ref name="Revised report">{{cite web|url=http://haskell.org/onlinereport/|title=Haskell 98 Language and Libraries: The Revised Report|year=2002|month=December|author=Simon Peyton Jones (編)|authorlink=Simon Peyton Jones|accessdate=2009-06-23}}</ref>。GHC に代表されるように、{{lang|en|Haskell}} は急速に発達しつづけている。 ==={{lang|en|Haskell′}}=== [[2006年]]前半、非公式に {{lang|en|'''Haskell′'''}}({{lang|en|Haskell Prime}})と呼ばれている {{lang|en|Haskell}} 98 {{lang|en|standard}} の後継の作成プロセスが開始された<ref>{{cite web|url=http://haskell.org/haskellwiki/Future|title=Future development of Haskell|accessdate=2009-06-23}}</ref>。このプロセスは {{lang|en|Haskell}} 98 のマイナーバージョンアップを目的としている<ref>{{cite web|url=http://hackage.haskell.org/trac/haskell-prime|title=Welcome to Haskell'|work=The Haskell' Wiki|accessdate=2009-06-23}}</ref>。 ==={{lang|en|Haskell}} 2010=== {{lang|en|Haskell}} 2010 は他のプログラミング言語とのバインディングを可能にする {{lang|en|Foreign Function Interface}}(FFI)を {{lang|en|Haskell}} に追加し, いくつかの構文上の問題を修正する(正式な構文を変更する)。「<code>n + k</code> パターン」と呼ばれる構文を削除し, <code>fak (n+1) = (n+1) * fak n</code>というような形式の定義はもはや許されない。{{lang|en|Haskell}} に {{lang|en|Haskell}} 2010 のソースかどうかや, いくつかの必要な拡張の指定を可能にする言語プラグマ構文拡張<ref>{{lang-en-short|language-pragma-syntax-extension}}</ref>を導入する。{{lang|en|Haskell}} 2010 に導入された拡張の名前は, <code>DoAndIfThenElse</code>, <code>HierarchicalModules</code>(階層化ライブラリ), <code>EmptyDataDeclarations</code>, <code>FixityResolution</code>, <code>ForeignFunctionInterface</code>, <code>LineCommentSyntax</code>, <code>PatternGuards</code>, <code>RelaxedDependencyAnalysis</code>, <code>LanguagePragma</code>, <code>NoNPlusKPatterns</code> である。 == 主な構文 == ここでは以降の解説を読む上で必要な {{lang|en|Haskell}} の文法規則を簡単に説明する。{{lang|en|Haskell}} の構文は数学で用いられるものによく似せられていることに注意されたい。 === 型 === {{lang|en|Haskell}} の型名は先頭が大文字でなければならない。標準で存在する単純なデータ型としては、<code>Bool</code>(真偽値)型、<code>Int</code>(整数)型、<code>Float</code>(単精度浮動小数点数)型、<code>Char</code>(文字)型、<code>String</code>(文字列)型などが予め定義されている。任意の式の型を定義するには、式と型の間に <code>::</code> 記号をおく。また、変数などのシンボル<ref>「変数」は実際にはその値を動的に変更することはできないなど、C言語など手続き型言語の変数とは明らかに異なるものである。</ref>を定義する際に変数名を式に指定して書くことで、その変数の型を指定することができる。例えば、次は[[円周率]]および[[ネイピア数]]を定数として定義し、さらにその型も浮動小数点型として指定している。<ref>ここでは説明のため単に Float としているが、標準ライブラリで定義されている円周率 <code>pi</code> は浮動小数点数型の抽象的な型クラスである <code>Floating a</code> で定義されており、<code>Float</code> のみならず 倍精度浮動小数点数型 <code>Double</code> の値としても取得できる。</ref> <syntaxhighlight lang="haskell">pi :: Float pi = 3.1415926535 e = 2.7182818284 :: Float -- 式の中でその型を指定している </syntaxhighlight> 関数の型は、各引数の間を <code>-&gt;</code> 記号で区切って表記する。関数は引数をひとつ適用するたびに、その型は <code>-&gt;</code> で区切られたうちの一番左が消えた型となると考えればよい。<ref>{{lang|en|Haskell}} はカリー化によりすべての関数を 1 引数の関数として表現できるが、これにしたがって <code>-&gt;</code> は右結合であるとして読むこともできる。上記の関数の型の定義は、括弧を明示した次の定義と同等である。 <syntaxhighlight lang="haskell">gcd :: Int -> (Int -> Int)</syntaxhighlight> 関数を引数にとる関数は、引数の型を括弧で囲んで -> 記号の優先順位を指定すればよい。次は関数を二つとり、その合成関数を返す演算子 . の定義である。 <syntaxhighlight lang="haskell">(.) :: (b -> c) -> (a -> b) -> a -> c</syntaxhighlight> </ref>例えば、ふたつの整数を引数にとりその最大公約数を返す関数 <code>gcd</code> の型は次のように定義される。<ref>式の外で演算子の型を指定するときは、演算子を括弧で囲めばよい。以下の関数と演算子の相互変換を参照のこと。</ref> <syntaxhighlight lang="haskell">gcd :: Int -> Int -> Int -- 関数名 :: 引数1の型 -> 引数2の型 -> 返り値の型</syntaxhighlight> 型変数を使い、型を抽象化することもできる。これは {{lang|en|C++}} のテンプレートや {{lang|en|Java}} のジェネリクスに相当するが、様々な種(型の型)に適用できるためより柔軟である。例えば、<code>a</code> 型の値をとり、それをそのまま返す恒等関数 <code>id</code> を型の指定とともに定義すると以下のようになる。ここで任意の型を示す型名 <code>a</code> が定義に使われているが、このように先頭が小文字で始まっている型名は具体的な型名ではなく型変数である。この関数はあらゆる型の値を引数にとることができる。 <syntaxhighlight lang="haskell">id :: a -> a id x = x </syntaxhighlight> また、データ型はパラメータとして型変数を持つことができる。例えば、スタックやハッシュテーブルなどのデータ型は、その要素の型を型変数として定義する。ハッシュテーブルを実装するデータ型 <code>HashMap :: * -> * -> *</code> があり、キーに文字列(<code>String</code>)、値に整数(<code>Int</code>)を持つハッシュテーブル <code>hashtable</code> の型は次のようになる。<ref> これは、{{lang|en|C++}} や {{lang|en|Java}} のような言語では次のようなコードに相当する。 <syntaxhighlight lang="Java">Hashtable<String,Int> hashtable;</syntaxhighlight> </ref> <syntaxhighlight lang="haskell">hashtable :: HashMap String Int</syntaxhighlight> そのほか、特殊な表記を持つ型として[[リスト (抽象データ型)|リスト]]と[[タプル]]、[[文字列]]がある。リストは {{lang|en|Haskell}} で極めて頻繁に用いられるため、[[糖衣構文|特別な構文]]が用意されている。リストは要素の型を角括弧で囲む。次は <code>Char</code>(文字)のリストを束縛する変数 <code>text</code> の定義である。<ref>当然ながら、リストの要素としてリストを持つこともできる。例えば、文字リスト(文字列)のリストの型は <code>&#91;&#91;Char&#93;&#93;</code> となるであろう。</ref>文字のリストは文字列と等価である。2行目にあるように、文字列は殆どのプログラミング言語と同じように二重引用符で囲む。コメントにHaskellでのリストの表記を添えた。最後にデシュガー(糖衣構文を元の表記に戻すこと)したリストの表記法を示した。textもhelloも等価である。 <syntaxhighlight lang="haskell">text :: [Char] text = "Hello" -- ['H','e','l','l','o'] の糖衣構文 hello :: [Char] hello = 'H':'e':'l':'l':'o':[]</syntaxhighlight> タプルは要素の型をカンマで区切り、括弧で囲む。次は <code>Float</code>(浮動小数点数)の値をもつ2次元座標のタプルが束縛される変数 <code>point</code> の定義である。 <syntaxhighlight lang="haskell">point :: (Float,Float) point = (3, 7)</syntaxhighlight> タプルは2以上ならいくつでも要素を持つことができる。1要素のタプルは優先順位の括弧と表記が衝突し、また用途がないので存在しない。要素数がゼロのタプルは特に「ユニット」(<code>Unit</code>) と呼ばれ、有効な値を持たないなどの時に使われる。<ref>ユニットはC言語や {{lang|en|Java}} などでいう <code>void</code> のような使われ方をする。</ref> <code>type</code> キーワードを用いて、型に別名をつけることができる。<ref>言い換えれば、単純な型名に見えても何か複雑な別の型の別名である可能性がある。</ref>次は <code>&#91;Char&#93;</code> に <code>String</code> という別名をつけている。<ref>実際に標準ライブラリでは <code>String</code> は <code>&#91;Char&#93;</code> の別名であり、<code>String</code> にはあらゆるリストの操作が可能である。</ref> <syntaxhighlight lang="haskell">type String = [Char] text :: String </syntaxhighlight>Haskellの型は'''型構築子'''(型コンストラクタ、'''''type constructor''''')から構築される<ref>type values are built from type constructors. [https://www.haskell.org/onlinereport/haskell2010/haskellch4.html#x10-680004.2 haskell2010]</ref>。型構築子<code>T</code>に型変数(Type variables)<code>v1 v2 vN</code>を与え型式(type expression)<code>T v1 v2 vN</code>として評価することで型が構築される。型構築子の例には以下が挙げられる。 {| class="wikitable" |+表: 型構築子の分類と例 ![[カインド (型理論)|カインド]] !総称 !例 !出典 |- |* |nullary type constructors, type constants |<code>Int</code>, <code>Bool</code> |<ref>Char, Int, Integer, Float, Double and Bool are type constants with kind ∗. [https://www.haskell.org/onlinereport/haskell2010/haskellch4.html#x10-680004.2 haskell2010]</ref> |- |* -> * |unary type constructors |<code>Maybe</code>, <code>IO</code> |<ref>Maybe and IO are unary type constructors, and treated as types with kind ∗→∗. [https://www.haskell.org/onlinereport/haskell2010/haskellch4.html#x10-680004.2 haskell2010]</ref> |- |* -> * -> * |binary type constructors |<code>Either</code> | |} 例えば型構築子<code>Maybe</code>に型変数<code>Int</code>を渡し、<code>Maybe Int</code>とすることで型が構築される。 === 関数と演算子 === 関数名は先頭が小文字でなければならず、記号を含むことはできない。演算子名は記号のみで構成されていなければならない。関数の定義ではC言語のような引数を囲む括弧や区切りのカンマは使われず、単に引数を空白文字で区切って表記する。次は先程示した恒等関数 <code>id</code> に、型の定義に加えて本体の定義もした例である。 <syntaxhighlight lang="haskell">id :: a -> a id x = x -- 関数名 仮引数1 仮引数2 &hellip; = 関数本体の式 </syntaxhighlight> 関数の適用も同様で、単に関数に続いて空白文字で区切った引数を並べればよい。以下では上記の恒等関数 <code>id</code> を(ここでは使う必要はないが)適用して、別の変数を定義した例である。 <syntaxhighlight lang="haskell">hoge = id "piyo" -- hoge == "piyo" となる。 </syntaxhighlight> 引数がつねに2個であることや引数の間に演算子をおくことなどを除けば、演算子についても関数の定義や適用と同様である。標準で定義されている算術演算子を使って、[[ボディマス指数|BMI]]を計算する関数 <code>bmi</code> を定義してみる。 <syntaxhighlight lang="haskell">bmi :: Float -> Float -> Float bmi weight height = weight / height ^ 2</syntaxhighlight> この定義では <code>Float</code> を引数にとり <code>Float</code> で結果を返すが、この関数では <code>Double</code> を引数に使うことはできない。どの浮動小数点数型でも扱えるような関数にするには、次のように型変数を使えばよい。 <syntaxhighlight lang="haskell">bmi :: Floating a => a -> a -> a bmi weight height = weight / height ^ 2</syntaxhighlight> このバージョンの関数 <code>bmi</code> では引数や返り値の型が <code>a</code> とされているが、これにさらに <code>a</code> は <code>Floating</code> であるとの制約をつけている。<code>Floating</code> は <code>Float</code> や <code>Double</code> を抽象化する型クラスであり <code>/</code> や <code>^</code> といった演算子を適用できるので、<code>bmi</code> の定義においてこれらの演算子を使うことができている。また、整数などの値は引数に取れないし、返り値は引数に与えた型で戻ってくる。 関数と演算子は新たに定義し直さなくても相互に変換可能である。関数を演算子として使うには、関数を <code>`</code> (バッククォート)で囲む。逆に、演算子を関数として使うには括弧で囲む。例えば、整数を除算する関数 <code>div</code> はよく演算子として使われる<ref>除算する演算子 <code>/</code> は存在するが、これは <code>Float</code> などを除算する演算子であり整数ではない。他の言語のように自動的に値を変換する(int → float など)ような動作は {{lang|en|Haskell}} では意図的に排除されている。</ref>。 <syntaxhighlight lang="haskell">aspectRatio = width `div` height</syntaxhighlight> なお、関数適用の優先順位はすべての[[演算子の優先順位]]よりも高い。 == 特徴的な機能 == ここではあまり他の言語では見られない {{lang|en|Haskell}} 特有の機能を中心に解説する。ここでは説明していないが、現代的な実用言語では常識となっている[[ガーベジコレクション]]、[[例外処理]]、[[モジュール]]、外部関数の呼び出し、[[正規表現]]ライブラリなどの機能は、{{lang|en|Haskell}} にも当然存在している。 ===遅延評価=== {{lang|en|Haskell}} は[[遅延評価]]を基本的な評価戦略とする。ほとんどの言語では関数の呼び出しにおいて引数に与えられたすべての式を評価してから呼び出された関数に渡す[[先行評価]]を評価戦略とするが、これに対し {{lang|en|Haskell}} ではあらゆる式はそれが必要になるまで評価されない。次の定数 <code>answer</code> は評価すると常に <code>42</code> を返すが、その定義には未定義の式を含む。 <syntaxhighlight lang="haskell"> answer = const 42 (1 `div` 0) </syntaxhighlight> ここで、<code>const</code> は常に第1[[引数]]を返す[[定数]]関数である。また、<code>`div`</code> は整数の除算を行う演算子であり、<code>1 `div` 0</code> は <code>1 / 0</code> に相当し、この値は未定義であり、この部分を評価すればエラーになる。正格評価をする言語でこのような式を評価しようとすると、[[ゼロ除算]]によるエラーになるであろう。しかし 上記の定数 <code>answer</code> を評価してもエラーにはならない。<code>const</code> は第1引数をつねに返すので第2引数を評価する必要はなく、第2引数に与えられた式 <code>1 `div` 0</code> は無視されるので評価されないからである。遅延評価がデフォルトで行われることにより、不要な計算は省かれ、[[参照透過性]]により同じ式を複数回評価する必要もなくなるため、{{lang|en|Haskell}} では最適化によって計算効率の向上が期待できる場合がある。ただし、頻繁に新たな値を計算する場合は正格評価のほうが効率がよく、必要に応じて<code>seq</code>関数やBangPatterns拡張による明示により正格評価もできる。 === 型推論 === {{lang|en|Haskell}} では[[サブルーチン#関数|関数]]の[[データ型]]を明示しなくても処理系が自動的に型を推論する。以下は型の宣言を省略し、本体のみを宣言した引数の平方を返す関数 <code>square</code> である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> square x = x * x </syntaxhighlight> この場合 <code>square</code> の型は型推論され、次のように明示的に型を宣言したのと同じになる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> square :: (Num a) => a -> a square x = x * x </syntaxhighlight> この宣言は、「<code>Num</code>のインスタンス<ref>{{lang|en|Haskell}} の型システムにおける汎用型が実体化されたもの。オブジェクト指向におけるインスタンスとは異なる。</ref>である <code>a</code> の型の値を引数にとり、<code>a</code> の型の値を返す」と読める。ここでは「<code>*</code>」[[演算子#プログラミングにおける演算子|演算子]]が適用可能な最も広い型である <code>Num a</code> が選択されており、整数や浮動小数点数、有理数のような <code>Num</code> のインスタンスであるあらゆる型の値を渡すことができる。外部に公開するような関数を定義するときは、型推論によって自動的に選択される最も広い型では適用可能な範囲が広すぎる場合もある。<code>Integer</code> のみを渡せるように制限する場合は、次のように明示的に型を宣言すればよい。 <syntaxhighlight lang="haskell"> square :: Integer -> Integer square x = x * x </syntaxhighlight> 型推論のため、{{lang|en|Haskell}} は型安全でありながらほとんどの部分で型宣言を省略できる<ref>ただし、型を明示することは可読性を向上したり問題の発見に役立つため、常に省略するのがよいとは限らない。</ref>。なお、次のコードは型宣言が必要な例である。<code>read</code> は文字列をその文字列があらわすデータ型に変換する抽象化された関数である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main = print (read "42") -- コンパイルエラー! </syntaxhighlight> このコードはコンパイルエラーになる。<code>read</code> は複数のインスタンスで実装されており、数値なら数値型に変換する <code>read</code>、リストならリストに変換する <code>read</code> というように型ごとに実装が存在する。{{lang|en|Haskell}} の型は総て静的に決定されなければならない。このコード場合、プログラマは <syntaxhighlight lang="haskell"> read :: String -> Int </syntaxhighlight> という型をもつ実装の <code>read</code> が選択されると期待しているであろうが、これはコンパイラによる静的な型検査では決定できない。つまり、{{lang|en|Haskell}} コンパイラは <code>read</code> の返り値を受け取っている関数 <code>print</code> の型を検査し多数の実装の中から適切な <code>read</code> を選択しようとするが、<code>print</code> は <code>Show</code> のインスタンスが存在するあらゆる型を引数にとるため、型推論によっても <code>read</code> の型を一意に決定できない。これを解消するひとつの方法は、<code>::</code> によって型を明示することである。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main = print ((read "42") :: Int) -- コンパイル成功!read の返り値を Int と明示している </syntaxhighlight> また、そもそも <code>read</code> の返り値を整数型しか取らない関数に与えていればあいまいさは生じず、型推論は成功する。 <syntaxhighlight lang="haskell"> printIntOnly :: Int -> IO () printIntOnly x = print x main = printIntOnly (read "42") -- コンパイル成功! </syntaxhighlight> 他の言語、たとえば {{lang|en|Java}} でこのような抽象的な関数を書こうとしても、{{lang|en|Java}} では返り値の値の型によって関数を選択するようなことはできない(引数の型によって選択するメソッドのオーバーロードは存在する)。そのため、関数の実装ごとに別の名前をつけてプログラマに明示的に選択させて解決させることになる<ref><code>java.lang.Integer.parseInt</code>、<code>java.lang.Double.parseDouble</code> など</ref>。この方法は簡潔でわかりやすいが、抽象性の高さに基づく再利用性という点では {{lang|en|Haskell}} のような多相には劣ってしまう。 === 代数的データ型 === {{lang|en|Haskell}} のデータ型には[[代数的データ型]]<ref>{{lang-en-short|algebraic data type}}</ref>と呼ばれる、C言語などでいう構造体や列挙体の性質を兼ね備えたものが用いられる。次の例は二つのInt型の値をフィールドに持つ二次元の座標、<code>Point2D</code> 型を定義したもので、これは代数的データ型の構造体的な性質を示す。先頭のトークン「<code>data</code>」は代数的データ型の宣言であることを示す予約語である。ここで最初の <code>Point2D</code> はデータ型名を表し、次の <code>Point2D</code> はデータコンストラクタ名を示す<ref>データ型名とデータコンストラクタ名は同じでも構わない。このような単純な代数的データ型であれば型名とデータコンストラクタ名を同じにすることも多い。</ref>。<syntaxhighlight lang="haskell"> data Point2D = Point2D Int Int origin :: Point2D origin = Point2D 0 0 -- データコンストラクタは関数のように適用できる </syntaxhighlight> データコンストラクタは値を定義するための特殊な関数といえる。データコンストラクタは後述するパターンマッチによって値を取り出す際にも用いられる。 次の例は[[トランプ]]の4つの[[スート|スーツ]]を示す <code>Suit</code> 型を定義したものである。<code>Spade</code>、<code>Heart</code>、<code>Club</code>、<code>Diamond</code> の4つのデータコンストラクタが定義されており、<code>Suit</code> 型の式は <code>Spade</code>、<code>Heart</code>、<code>Club</code>、<code>Diamond</code> のいずれかの値をとる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> data Suit = Spade | Heart | Club | Diamond </syntaxhighlight> 次の例は <code>String</code> 型の値を格納する[[二分木]]の型である。<code>Leaf</code>(葉)は <code>String</code> 型の値を持ち、<code>Branch</code>(枝)は <code>Leaf</code> もしくは <code>Branch</code> である <code>Tree</code> 型の変数を二つ持つ。これは代数的データ型の構造体的な性質と列挙体的な性質の両方が現れている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> data Tree = Leaf String | Branch Tree Tree organisms :: Tree organisms = Branch animals plants -- Branch (Branch (Branch (Leaf "Lion") (Leaf "Tiger")) (Leaf "Wolf")) (Leaf "Cherry") animals = Branch cats (Leaf "Wolf") cats = Branch (Leaf "Lion") (Leaf "Tiger") plants = Leaf "Cherry" </syntaxhighlight> GADTと呼ばれる機能を使うと、コンストラクタの型を明示してデータ型を定義することもできる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> {-# LANGUAGE GADTs #-} data Male data Female data Person s where Adam :: Person Male Eve :: Person Female Child :: Person Male -> Person Female -> Int -> Person a </syntaxhighlight> === 無名関数 === {{lang|en|Haskell}} は[[第一級関数]]をサポートしており、[[高階関数]]を定義することができる。つまり、関数の引数として関数を与えたり、返り値として関数を返すことができる。無名関数は <code>\</code> (バックスラッシュ)から始まり、それに続いて引数となる変数、引数と本体のあいだに <code>-&gt;</code> 記号をおく。<code>List</code> モジュールに定義されているリストのソートを行う関数 <code>sortBy</code> は、二つの要素に大小関係を与える関数を引数にとるが、無名関数を使うと例えばリストをその長さの短い順にソートする関数 <code>sortList</code> は次のように定義できる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> sortList xs = sortBy (\as bs -> compare (length as) (length bs)) xs </syntaxhighlight> === 関数のカリー化と部分適用 === {{lang|en|Haskell}} において、2つの引数を持つ関数は、1つの引数をとり「1つの引数をとる関数」を返す関数と同義である。このように、関数を返すことで全ての関数を1つの引数の関数として表現することを[[カリー化]]という。(あえてタプルを使うことで複数の引数を渡すような見かけにすることもできるが。)次の例は2つの引数をとり、そのうち値が大きい値を返す関数 <code>max</code> である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> max a b = if a > b then a else b </syntaxhighlight> この関数maxは無名関数を用いて次のように書き換えることができる。先ほどの表現とまったく同様に動作するが、この表現では関数を返す様子がより明らかになっている。<syntaxhighlight lang="haskell"> max a = \b -> if a > b then a else b </syntaxhighlight> さらに、次のようにも書き換えることができる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> max = \a -> \b -> if a > b then a else b </syntaxhighlight> あるいは、<code>f x = ... x ... </code>は、<code> f = (\x -> ... x ...) </code>の[[糖衣構文]]であるとも言える。このため、{{lang|en|Haskell}} の定義は変数に束縛するのが定数であるか関数であるかにかかわらず、「変数 = 値」という一貫した形でも定義できる。 カリー化によって、{{lang|en|Haskell}} のあらゆる関数は引数を部分適用することができる。つまり、関数の引数の一部だけを渡すことで、一部の変数だけが適用された別の関数を作り出すことができる。また、{{lang|en|Haskell}} では演算子を部分適用することすら可能であり、演算子の部分適用をとくにセクション<ref>{{lang-en-short|section}}</ref>と呼ぶ。 任意のリストをとり、その要素から条件にあう要素のみを取り出す関数 <code>filter</code> が標準ライブラリに定義されている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> filter :: (a -> Bool) -> [a] -> [a] </syntaxhighlight> この関数では第一引数に残す要素を判定する関数をとるが、このときに部分適用を使えばそのような関数を簡潔に書くことができる。整数のリストから正の値のみを取り出す関数 <code>positives</code> は次のように定義できる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> positives :: [Int] -> [Int] positives = filter (> 0) ps = positives [-4, 5, 0, 3, -1, 9] -- [5, 3, 9] </syntaxhighlight> ここで、<code>positives</code> および <code>filter</code> の第2引数はソースコード上に現れずに記述できているが、このように単純に書けるのもカリー化の恩恵によるものである。 === パターンマッチ === {{lang|en|Haskell}} では関数の引数を様々な形で受け取ることができる。 次は整数の要素をもつリストの全要素の合計を返す関数 <code>total</code> である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> total :: [Int] -> Int total [] = 0 total (x:xs) = x + total xs </syntaxhighlight> <code>total</code> の関数本体の定義がふたつあるが、このうち引数の実行時の値と適合する本体が選択され呼び出される。上の本体定義では、引数が空のリストであるときのみ適合し、呼び出される。下の本体定義では、引数が少なくともひとつの要素を持つとき適合し、<code>x</code> に先頭の要素が束縛され、<code>xs</code> に残りのリストが束縛される。この例の場合はパターンに漏れはないが、もし適合するパターンが見つからない場合はエラーになる。 複数の返り値を扱うのもタプルなどを利用して極めて簡明に書くことができる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> (x, y) = (10, 20) </syntaxhighlight> このとき、定義される変数は <code>x</code> および <code>y</code> で、それぞれ <code>x</code> は <code>10</code> に、<code>y</code> は <code>20</code> に定義される。 === リストとリスト内包表記 === {{lang|en|Haskell}} で順序付けられた複数の値を扱うのにもっとも柔軟で簡潔な方法は[[リスト (抽象データ型)|リスト]]を用いることである。次は四季の名前のリストである。 <syntaxhighlight lang="haskell"> ["Spring", "Summer", "Autumn", "Winter"] </syntaxhighlight> 次は初項10、公差4の等差数列のリストである。このリストは無限リストであり、その長さは無限大である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> [10, 14..] </syntaxhighlight> 次の式は先ほどの数列の先頭20項を要素に持つリストである。<code>take n l</code> はリスト <code>l</code> の先頭 <code>n</code> 個の項を要素に持つリストを返す関数である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> take 20 [10, 14..] </syntaxhighlight> もし正格な動作を持つ言語でこのような定義をしようとすると関数 <code>take</code> に値を渡す前に無限リストを生成することになるが、長さが無限のため無限リストの生成が終わることはなく関数 <code>take</code> がいつまでも呼び出されなくなってしまう。{{lang|en|Haskell}} は遅延評価されるため、このようなリストを定義しても必要になるまで必要な項の値の生成は遅延される。このように無限リストを扱えるのは {{lang|en|Haskell}} の大きな強みである。次は[[素数]]列を[[リスト内包表記]]を用いて定義した一例である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> primes :: [Int] primes = [x | x <- [2..], and [rem x y /= 0 | y <- [2 .. x - 1]]] </syntaxhighlight> リストはその柔軟性から再帰的な関数での値の受け渡しに向いているが、任意の位置の要素にアクセスするためには参照を先頭からたどる必要があるのでランダムアクセスが遅い、要素を変更するたびにリストの一部を作り直さなければならないなどの欠点がある。このため {{lang|en|Haskell}} にも[[配列]]が用意されており、高速な参照や更新が必要なプログラムではリストの代わりに配列を用いることでパフォーマンスを改善できる可能性がある。 === 型クラスとインスタンス === <!-- 例としてやや複雑すぎるか? --> 型クラス<ref>{{lang-en-short|type class}}</ref>は相異なるデータ型に共通したインターフェイスを持つ関数を定義する。例えば、順序づけることができる要素をもつリストを[[ソート]]できる関数 <code>sort</code> を定義することを考える。リストの要素のデータ型は関数 <code>sort</code> を定義するときには不明であり、その要素をどのように順序付けるかを予め決定しておくことはできない。数値型も文字列型もそれぞれのデータを順序付けることができるであろうが、共通してデータの順序を返す抽象的な関数 <code>order</code> を定義することができれば、それを用いてソートすることができる。 まず型クラス <code>Comparer</code> を定義して、順序付ける関数 <code>order</code> の形式を定義する。値の順序を調べる関数 <code>order x y</code> は <code>x</code> → <code>y</code> が昇順のときは負の値、降順の時は正の値、<code>x</code> と <code>y</code> が等しいときは <code>0</code> を返すものとする。ここで <code>class</code> は型クラスの宣言であることを示す予約語である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> class Comparer a where order :: a -> a -> Int </syntaxhighlight> 型クラスを実装するには、対象のデータ型に対してインスタンス宣言を行う。次は型 <code>a</code> の型クラス <code>Comparer</code> に対するインスタンスを宣言したものである。このインスタンス宣言により、<code>Enum</code> のインスタンスである任意の型のリストを辞書順に比較できる。例えば、文字列 <code>Char</code> は <code>Enum</code> のインスタンスの <code>Char</code> のリストであり、このインスタンス定義により <code>order</code> を適用することができるようになる。ここで関数 <code>fromEnum c</code> は文字 <code>c</code> を数値に変換する関数である。<code>Comparer</code> のインスタンスを定義する型 <code>a</code> を <code>Eq</code> および <code>Enum</code> のインスタンスを持つものに限定しているので(<code>(Eq a, Enum a) =&gt;</code> の部分)、インスタンス定義の内部で <code>Eq</code> の関数である <code>(/=)</code> や <code>Enum</code> の関数である <code>fromEnum</code> を使うことができている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> instance (Eq a, Enum a) => Comparer [a] where order [] [] = 0 order _ [] = 1 order [] _ = -1 order (x:xs) (y:ys) | x /= y = fromEnum x - fromEnum y | otherwise = order xs ys </syntaxhighlight> 次にリストをクイックソートする関数 <code>sort</code> を示す。型クラスを用いて順序付ける関数 <code>order</code> を抽象化したため、このように型クラス <code>Comparer</code> のインスタンスを持つ全ての型の値に適用できる一般化されたソート関数を定義できるのである。 <syntaxhighlight lang="haskell"> sort :: Comparer a => [a] -> [a] sort [] = [] sort (x:xs) = sort [e | e <- xs, order e x < 0] ++ [x] ++ sort [e | e <- xs, order e x >= 0] </syntaxhighlight> この関数 <code>sort</code> は次のように使う。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main = do print (sort ["foo", "bar", "baz"]) -- ["bar", "baz", "foo"] と出力される。 print (sort [[5, 9], [1, 2], [5, 6]]) -- [[1, 2], [5, 6], [5, 9]] と出力される。 </syntaxhighlight> {{lang|en|Haskell}} のインスタンス宣言は複数の型に共通する操作を定義するという点で {{lang|en|Java}} や {{lang|en|C#}} の「インターフェイス」と似ているが、{{lang|en|Haskell}} では既存の任意の型についてもインスタンスを定義できる点でもインターフェイスに比べて柔軟である。 === 入出力 === すべての式が[[参照透過性|参照透過]]である {{lang|en|Haskell}} においては、[[副作用 (プログラム)|副作用]]を式の評価そのものでは表現できない。そのため、{{lang|en|Haskell}} では[[圏論]]のアイデアを利用した[[モナド (プログラミング)|モナド]]によって入出力が表現されており、{{lang|en|Haskell}} でも最も特徴的な部分となっている。次は {{lang|en|Haskell}} による {{lang|en|[[Hello world]]}} の一例である。実際に単独で実行可能形式にコンパイルできる、小さいが完全なプログラムの一例にもなっている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main :: IO () main = putStrLn "Hello,World!" </syntaxhighlight> {{lang|en|Haskell}} は純粋関数型言語であり、<code>main</code> もやはり参照透過である(副作用はない)。しかし処理系は <code>main</code> として定義された <code>IO ()</code> 型の値をそのプログラムの動作を示す値として特別に扱う。<code>putStrLn</code> は標準出力に文字列を出力する動作を表す <code>IO ()</code> 型の値を返す関数であり、実行すると引数として渡された <code>Hello,World!</code> を出力する。次に標準入力から一行読み込み、そのまま標準出力に出力する[[エコー (コンピュータ)|エコープログラム]]を考える。次のような、C言語などのような表記はできない。<code>getLine</code> 関数は標準入力から一行読み取る関数である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main = putStrLn getLine --コンパイルエラー! </syntaxhighlight> <code>getLine</code> と <code>putStrLn</code> はそれぞれ次のような型を持っている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> getLine :: IO String putStrLn :: String -> IO () </syntaxhighlight> 純粋関数型である {{lang|en|Haskell}} では <code>getLine</code> もやはり副作用はなく、<code>getLine</code> は一行読み込むという動作を表す値を常に返す。このように入出力の動作を表す値をアクション<ref>{{lang-en-short|action}}</ref>と呼ぶ。<code>getLine</code> が返すのは <code>String</code> そのものではなくあくまで <code>IO String</code> という型を持ったアクションであって、それを <code>putStrLn</code> の引数に与えることはできない。正しいエコープログラムの一例は次のようになる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> main :: IO () main = getLine >>= putStrLn </syntaxhighlight> ここでは演算子 <code>&gt;&gt;=</code> によってふたつのアクションを連結している。このとき、<code>main</code> は一行読み込みそれを出力するというアクションとなり、このプログラムを実行すると処理系は <code>main</code> が持つアクションの内容を実行する。このアクションを実行すると、<code>getLine</code> は一行読み込み、それを <code>putStrLn</code> に渡す。このとき、読み込まれたデータにこれらのアクションの外側からアクセスすることはできない。このため、この式は参照透過性を保つことができる。<ref>GHC には <code>System.IO.Unsafe</code> モジュールに <code>unsafePerformIO</code> という関数があり、副作用を持ちながらアクションでない型を返すことができる。これは参照透過性に対する[[バックドア]]であり、{{lang|en|Haskell}} の参照透過性を破壊する恐れがあるので、注意深く使わなければならない。</ref> モナドは、Freeモナド、Operationalモナドと呼ばれる構造により、より単純なデータ型から導出することもできる。これにより、非常に強力な[[依存性の注入]]が実現できる。 == 実例 == 以下の単純な例は関数型言語としての構文の実例にしばしば用いられるもので、{{lang|en|Haskell}} で示された[[階乗]]関数である。 <syntaxhighlight lang="haskell"> fac :: Integer -> Integer fac 0 = 1 fac n | n > 0 = n * fac (n-1) </syntaxhighlight> 階乗を単一の条件による終端を伴う再帰的関数として表現している。これは[[数学]]の[[教科書]]でみられる階乗の表現に似ている。{{lang|en|Haskell}} コードの大半は、その簡潔さと構文において基本的な数学的記法と似通っている。 この階乗関数の1行目は関数の型を示すもので、省略可能である。これは「関数 <code>fac</code> は <code>Integer</code> から <code>Integer</code> へ(<code>Integer -> Integer</code>)の型を持つ(<code>::</code>)」と読める。これは整数を引数としてとり、別の整数を返す。もしプログラマが型注釈を与えない場合、この定義の型は自動的に推測される。 2行目では {{lang|en|Haskell}} の重要な機能であるパターンマッチングに頼っている。<!-- 関数のパラメータが丸括弧で囲まれておらず、しかし[[スペース|空白]]で区切られていることに注意されたい。-->関数の[[引数]]が <code>0</code>であれば、これは <code>1</code> を返す。その他の場合は3行目が試される。これは再帰的な呼び出しで、nが0に達するまで繰り返し関数が実行される。 ガードは階乗が定義されない[[正の数と負の数|負]]の値から3行目を保護している。このガードが無ければこの関数は0の終端条件に達することなく、再帰してすべての負の値を経由してしまう。実際、このパターンマッチングは完全ではない。もし関数facに負の整数が引数として渡されると、このプログラムは実行時[[エラー]]とともに落ちるであろう。<code>fac _ = error "negative value"</code>のように定義を追加すれば適切な[[エラーメッセージ]]を出力することができる。<!-- 「<code>Prelude</code>」は基本[[ライブラリ]]であり、小規模な関数群を提供する。<code>Prelude</code> を用いて変数を利用しないポイントフリースタイルで書くと、先ほどの関数は次のようになる。 <syntaxhighlight language="haskell">fac = product . enumFromTo 1</syntaxhighlight> 完全な {{lang|en|Haskell}} プログラムを書いて[[コンパイル]]せずに、{{lang|en|Hugs}} インタプリタでこのような[[ソフトウェアテスト|テスト]]を簡単に行う方法は、「<code>where</code>」節を用いることである。関数名とパラメータに続けて <code>where</code> とこの関数定義を入力する。 <syntaxhighlight language="haskell">fac 5 where fac = product . enumFromTo 1</syntaxhighlight> 上記は <math>f = g \circ h</math>(関数合成を参照)のような数学的な定義に近く、[[変数]]への値の割り当てとはまったく異なる。--> === より複合的な例 === 引数 <code>f</code> を伴う[[高階関数]]で表現された単純な[[逆ポーランド記法]]評価器が、[[パターンマッチング]]と型クラス <code>Read</code> を用いた <code>where</code> 節で定義されている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> calc :: String -> [Float] calc = foldl f [] . words where f (x:y:zs) "+" = y+x:zs f (x:y:zs) "-" = y-x:zs f (x:y:zs) "*" = y*x:zs f (x:y:zs) "/" = y/x:zs f xs y = read y : xs </syntaxhighlight> 空リストを初期状態とし、<code>f</code> を使って一語ずつ文字列を解釈していく。<code>f</code> は、注目している語が演算子ならばその演算を実行し、それ以外ならば浮動小数点として計算スタックに積んでいる。 次は[[フィボナッチ数列]]のリストである。ある値nに対するfib(n)は一回しか計算しないようになっており、その点ではナイーブなフィボナッチと異なる効率の良いコードとなっている。 <syntaxhighlight lang="haskell"> fibs = 0 : 1 : zipWith (+) fibs (tail fibs) </syntaxhighlight> [[無限]]リストは 余再帰<ref>{{lang-en-short|corecursion}}</ref>(リストの後ろの値は要求があったときに <code>0</code> と <code>1</code> の二つの初期要素から開始され算出される)によって実現される。このような定義は遅延評価の実例で、{{lang|en|Haskell}} プログラミングでも重要な部分である。 ただし、フィボナッチ数列の生成の場合は、ある要素の値が必要であれば、その要素より前にある要素の値は全て必要である。従って、遅延させた上で結局は後から全てその値を求めることになり、むしろ無駄であるので、この場合は遅延させない組込関数seqを使用したほうが効率は良くなり<ref>[http://d.hatena.ne.jp/kazu-yamamoto/20100624/1277348961 Haskellの神話 - あどけない話]</ref>、fib 1000000 といったような値を計算するような場合には差が見えてくる。あるいはリストの先に出る値から順番に計算させるとそのほうが速い、といったことが起きる。(さらに、フィボナッチ数はnに対して2<sup>n</sup>と大きな値になるので、そのようなBigIntegerの加算のコストも掛かり、以前にこの場所に書かれていたような「線形時間でのフィボナッチ数列の生成」は、大きい値では不可能である) どのように評価が進行するかの例示のために、次は6つの要素の計算の後の <code>fibs</code> と <code>tail fibs</code> の値と、どのように<code>zipWith (+)</code> が4つの要素を生成し、次の値を生成し続けるかを図示したものである。 <syntaxhighlight lang="haskell"> fibs = 0 : 1 : 1 : 2 : 3 : 5 : ... + + + + + + tail fibs = 1 : 1 : 2 : 3 : 5 : ... = = = = = = zipWith ... = 1 : 2 : 3 : 5 : 8 : ... fibs = 0 : 1 : 1 : 2 : 3 : 5 : 8 : ... </syntaxhighlight> 次はGHCで使える言語拡張で、リスト内包表記を並列的な生成を記述できるよう拡張するParallelListCompを用いて書いた同様の式である。(GHCの拡張は特別な[[コマンドライン]][[フラグ (コンピュータ)|フラグ]]、またはLANGUAGEプラグマによって有効にしなければならない。詳しくはGHCのマニュアルを参照のこと) <syntaxhighlight lang="haskell"> {-# LANGUAGE ParallelListComp #-} fibs = 0 : 1 : [ a+b | a <- fibs | b <- tail fibs ] </syntaxhighlight> 先に見た階乗の定義は、次のように関数の列を内包表記で生成して書く事もできる。 <syntaxhighlight lang="haskell"> fac n = foldl (.) id [(*k) | k <- [1..n]] 1 </syntaxhighlight> 特に簡潔に書ける例として、ハミング数が順番に並ぶリストを返す以下のような関数がある。 <syntaxhighlight lang="haskell"> hamming = 1 : map (*2) hamming # map (*3) hamming # map (*5) hamming where xxs@(x:xs) # yys@(y:ys) | x==y = x : xs # ys | x<y = x : xs # yys | x>y = y : xxs # ys </syntaxhighlight> 上に示されたさまざまな <code>fibs</code> の定義のように、これはオンデマンドに数のリストを実現するために無限リストを使っており、<code>1</code> という先頭要素から後続の要素を生成している。 ここでは、後続要素の構築関数は <code>where</code> 節内の記号 <code>#</code> で表現された中置演算子で定義されている。<!-- 適用の構文は異なるが、演算子は識別子が記号からなる関数である。--> 各|は、[[等号]]の前半の条件部分と、後半の定義部分からなるガード節を構成する。 == ライブラリ == === parsec === parsec は {{lang|en|Haskell}} で書かれたパーサコンビネータである。[[パーサ]]の一種であるが[[コンパイラコンパイラ]]とは異なり、<code>Parsec</code> はパーサのソースコードを出力するのではなく、純粋に {{lang|en|Haskell}} の関数としてパーサを構成する。{{lang|en|[[yacc]]}} のようにプログラミング言語と異なる言語を新たに習得する必要がなく、高速でかつ堅牢で、型安全で、演算子の結合性や優先順位を考慮したパーサを自動的に構成したり、動的にパーサを変更することすらできる。 派生として、大幅に高速なパースが可能な'''attoparsec'''<ref>[http://hackage.haskell.org/package/attoparsec attoparsec: Fast combinator parsing for bytestrings and text]</ref>、高機能でより洗練された'''trifecta'''<ref>[http://hackage.haskell.org/package/trifecta trifecta: A modern parser combinator library with convenient diagnostics]</ref>がある。 ==={{lang|en|Template Haskell}}=== {{lang|en|Template Haskell}} は {{lang|en|Haskell}} の[[メタプログラミング]]を可能にする拡張である。{{lang|en|Haskell}} ソースコードの構文木を直接 {{lang|en|Haskell}} から操作することができ、C、{{lang|en|C++}} のマクロやテンプレートを上回る極めて柔軟なプログラミングを行うことができる。 === QuickCheck === <code>[[QuickCheck]]</code> はデータ駆動型のテストを行うモジュールである。自動的にテストデータを作成してプログラムの正当性をテストすることができる。 === lens === lensはアクセサの概念を一般化するライブラリであり、様々なデータ構造に対して共通のインタフェースを与える。Getter、Setterは一つの関数として表現されており、それらを合成することもできる。[[JavaScript Object Notation|JSON]]や[[Extensible Markup Language|XML]]や、JSONやXML以外の処理にも応用できる。 == 批判 == {{lang|en|Haskell}} は他の[[プログラミング言語]]には見られない多くの先進的機能を持っているが、これらの機能のいくつかは言語を複雑にしすぎており、理解が困難であると批判されてきた。とりわけ、関数型プログラミング言語と主流でないプログラミング言語に対する批判は {{lang|en|Haskell}} にもあてはまる。加えて、{{lang|en|Haskell}} の潔癖さとその理論中心の起源に起因する不満がある。 [[2002年]]に Jan-Willem Maessen、[[2003年]]に[[サイモン・ペイトン・ジョーンズ]]が遅延評価に関連するこの問題を議論し、その上でこの理論的動機を認識した。彼らは実行時のオーバーヘッドの悪化に加え、遅延はコードのパフォーマンスの推察をより困難にすると言及した。 2003年に Bastiaan Heeren と Daan Leijen、Arjan van IJzendoorn は {{lang|en|Haskell}} の学習者にとってのつまづきに気がついた。これを解決するために、彼らは {{lang|en|Helium}} と呼ばれる新たなインタプリタを開発し、この中でいくつかの型クラスのサポートを取り除き、{{lang|en|Haskell}} の機能の一般化を制限することによってエラーメッセージのユーザ親和性を改善した。 == 実装 == 以下は {{lang|en|Haskell}} 98 仕様を完全に満たす、または仕様に非常に近く、[[オープンソース]]ライセンスの下で配布されているものである。ここには現在のところ商用のHaskell実装は含まれない。 ;{{lang|en|Glasgow Haskell Compiler}} :[[Glasgow Haskell Compiler|The Glasgow Haskell Compiler]] は異なる複数の[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]のネイティブコードにコンパイルできるほか、C言語にコンパイルすることもできる。おそらくGHCは最も知られた {{lang|en|Haskell}} コンパイラで、現在のところGHCのみで動く言語拡張が実装されており、かなり便利ないくつかのライブラリはGHCのみで動作する(たとえは {{lang|en|[[OpenGL]]}} の[[言語バインディング|バインディング]]など)。<ref>[https://www.haskell.org/ghc/ Home — The Glasgow Haskell Compiler]</ref> ;{{lang|en|Gofer}} :初期(Haskell 1.2)の仕様をベースとした、等式推論に向いた<ref>{{lang-en-short|good for equational reasoning}}</ref>方言およびインタプリタの実装。当時の {{lang|en|Haskell}} より {{lang|en|Miranda}} に似た構文、標準の機能をいくつか満たさない、逆に標準にないいくつかの機能の追加、などの特徴があった。マーク・ジョーンズにより開発された。その役割の多くは {{lang|en|Hugs}} に譲られた。{{lang|en|Hugs}} の「{{lang|en|g}}」は {{lang|en|Gofer}} に由来する。 ;HBC :これは別のネイティブコード {{lang|en|Haskell}} コンパイラ。{{要出典範囲|これはしばらくの間開発が活発ではなくなっているが、未だに利用可能である。|date=2020年2月}}<ref>http://www.cs.chalmers.se/~augustss/hbc/hbc.html (リンク切れ)</ref> ;{{lang|en|Helium}} :これは新しい {{lang|en|Haskell}} の方言である。開発の際の焦点は、明瞭なエラーメッセージを提供し学習を容易にすることである。Heliumは型クラスをサポートせず、多くのHaskellプログラムとは互換性のない実装である。<ref>http://foswiki.cs.uu.nl/foswiki/Helium</ref> ;{{lang|en|Hugs}} :これはバイトコードインタプリタである。これは速いプログラム編集とそれなりの実行スピードを提供する。これは単純なグラフィックスライブラリを含む。多くの人が {{lang|en|Haskell}} の基本を学ぶのによいが、これはオモチャ的な実装であるということではない。これは最も可搬で軽量な {{lang|en|Haskell}} 実装である。<ref>[https://www.haskell.org/hugs/ Hugs 98]</ref> ;jhc :これは新しいプログラム変換の研究用としてのみならず、スピードと生成されるプログラムの効率を重視した John Meacham によって書かれた {{lang|en|Haskell}} コンパイラである。<ref>[http://repetae.net/john/computer/jhc/ jhc]</ref> ;nhc98 :これは別のバイトコードコンパイラであるが、そのバイトコードは {{lang|en|Hugs}} より顕著に速く走る。Nhc98は省メモリ使用に焦点を絞っており、古いマシンや遅いマシンにはとりわけよい選択肢となる。<ref>[https://www.cs.york.ac.uk/fp/nhc98/ nhc98]</ref> ;yhc :これはnhc98の派生物で、単純かつ可搬で効率的、{{lang|en|integrating Hat}} のサポートを目標とする。<ref>[https://wiki.haskell.org/Yhc Yhc - HaskellWiki]</ref> == 代表的なアプリケーション == * {{仮リンク|Darcs|en|Darcs}} - 分散[[バージョン管理システム]]。 * Monadius - [[グラディウス (ゲーム)|グラディウス]]・クローンのシューティングゲーム。 * [[Pandoc]] - [[Markdown]]などを変換するドキュメント・コンバータ。 * [[xmonad]] - [[X Window System]]の[[ウィンドウマネージャ]]。 * {{仮リンク|Yesod|en|Yesod (web framework)}} - [[Webアプリケーションフレームワーク]]。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == *Simon Peyton Jones. [http://research.microsoft.com/~simonpj/papers/haskell-retrospective ''Wearing the hair shirt: a retrospective on Haskell''] 2003年の[[:en:POPL]]での招待演説。 *Jan-Willem Maessen. ''Eager Haskell: Resource-bounded execution yields efficient iteration''. 2002年の[[Association for Computing Machinery|ACM]] SIGPLAN workshopでのHaskellの記録。 *Bastiaan Heeren, Daan Leijen, Arjan van IJzendoorn. [http://www.cs.uu.nl/~bastiaan/heeren-helium.pdf ''Helium, for learning Haskell'']. 2003年の ACM SIGPLAN workshop でのHaskellの記録。 == 学習用参考図書 == * 向井淳:「入門Haskell―はじめて学ぶ関数型言語」、毎日コミュニケーションズ、 ISBN 978-4839919627(2006年3月1日)。 * 青木 峰郎, 山下 伸夫 (監修):「ふつうのHaskellプログラミング ふつうのプログラマのための関数型言語入門」、 ソフトバンククリエイティブ、ISBN 978-4797336023(2006年6月1日)。 * Bryan O'Sullivan, John Goerzen, Don Stewart:「Real World Haskell―実戦で学ぶ関数型言語プログラミング」、オライリージャパン、ISBN 978-4873114231 (2009年10月26日)。 * Grahum Hutton、山本和彦 (訳):「プログラミングHaskell」、オーム社、ISBN 978-4274067815(2009年11月11日)※第2版が2019年に出版。 * Miran Lipovača、田中英行 (訳), 村主崇行 (訳):「すごいHaskellたのしく学ぼう!」、オーム社、ISBN 978-4274068850(2012年5月23日)。 * Richard Bird、山下伸夫(訳):「関数プログラミング入門 ―Haskellで学ぶ原理と技法―」、オーム社、ISBN 978-4274068966 (2012年10月26日)。 * Richard Bird、山下伸夫 (訳):「Haskellによる関数プログラミングの思考法」、KADOKAWA、 ISBN 978-4048930536(2017年2月27日)。 * 重城良国:「Haskell 教養としての関数型プログラミング」、秀和システム、ISBN 978-4798048062(2017年4月15日)。 * Will Kurt、株式会社クイープ (監訳):「入門Haskellプログラミング」、翔泳社、ISBN 978-4798158662(2019年7月31日)。 * Grahum Hutton、山本和彦 (訳):「プログラミングHaskell 第2版」、ラムダノート、ISBN 978-4908686078(2019年8月2日)。 * 本間雅洋、類地孝介、逢坂時響:「Haskell入門 関数型プログラミング言語の基礎と実践」、技術評論社、ISBN 978-4774192376(2017年9月27日)。 == 関連項目 == *[[Atom (ハードウェア記述言語)|Atom]] - Haskell言語ベースのハードウェア記述言語 *[[Bluespec]] - Haskell言語ベースのハードウェア記述言語 *[[Hydra]] - Haskell言語ベースのハードウェア記述言語 *{{仮リンク|Idris|en|Idris}} - Haskellに似た構文を持つ、[[依存型]]を持つ、正格な純粋関数型言語 *[[Elm (プログラミング言語)|Elm]] - JavaScriptのコードを生成するリアクティブなプログラミング言語 *[[Fay]] - JavaScriptのコードを生成するHaskellのサブセット <!-- *[[O'Haskell]]([[:en:O'Haskell|en]])はオブジェクト指向と並列プログラミングを提供するHaskellの拡張である。--> * [[オフサイドルール]] == 外部リンク == *{{Official website}} **[http://haskell.org/hawiki/ Old HaWiki] - Haskellのいくつかの古い話題の議論 **[http://haskell.org/haskellwiki/Humor Haskell Humor] **[http://www.haskell.org/~pairwise/intro/intro.html Haskell Tutorial for C Programmers] by Eric Etheridge **[http://haskell.org/tutorial/ A Gentle Introduction to Haskell 98] - ([http://www.haskell.org/tutorial/haskell-98-tutorial.pdf]) **[http://haskell.cs.yale.edu/wp-content/uploads/2011/03/HaskellVsAda-NSWC.pdf Haskell vs. Ada vs. C++ vs. Awk vs. ... An Experiment in Software Prototyping Productivity] - ([[PDF]]ファイル) *[http://www.umiacs.umd.edu/~hal/docs/daume02yaht.pdf Yet Another Haskell Tutorial] - Hal Daume IIIによるよいHaskellチュートリアル。公式チュートリアルに先立つより厳選された知識。 *[http://www.willamette.edu/~fruehr/haskell/evolution.html The Evolution of a Haskell Programmer] - Haskellで使える異なるプログラミングスタイルのちょっとユーモラスな概説。 *[http://haskell.readscheme.org An Online Bibliography of Haskell Research] {{プログラミング言語一覧}} {{Computer-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:HASKELL}} [[Category:プログラミング言語]] [[Category:関数型プログラミング言語]] [[Category:エポニム]]
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アタリショック
アタリショック(英語: Video game crash of 1983)とは、1982年のアメリカ合衆国における年末商戦を発端とする、北米のゲーム市場で起こった家庭用ゲーム機の売上不振のことである。 この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。パソコンゲーム市場や、欧州や日本など北米以外のゲーム市場は含まれない。 北米における家庭用ゲームの売上高は、1982年の時点で約32億ドル(同年末の日本円で約7520億円)に達していたが、1985年には1億ドル(同年末の日本円で約200億円)にまで減少した。北米の家庭用ゲーム市場は崩壊し、ゲーム機やホビーパソコンを販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれた。ゲーム市場最大手であったアタリ社も崩壊、分割された。 1980年代後半には、ヒット作の発売や新型ゲーム機の投入が相次ぎ、低迷した北米の家庭用ゲーム市場は徐々に回復していった。 その背景について、1983年に当時の任天堂社長山内博は講演会で「新型ゲーム機の出現によるAtari 2600の陳腐化、アーケード・ゲームの劣化移植、サード・パーティーが大量に駄作を投入したことから、消費者がゲーム機に失望、新しいカートリッジを買う意欲を失ったため」と語っている。また、1984年にはファミコンのサードパーティーに対して、米国ゲーム市場の教訓から「粗悪なソフトが氾濫しないように任天堂の承認を受けたものだけを作るように注文している 」と経済誌のインタビューに答えている。 また、山内は1986年にも海外紙において、「サードパーティーによる低品質ゲームソフト(俗に言う「クソゲー」)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」という趣旨でその原因に対する自身の認識を述べている。これは後世まで業界の共通認識となっており、2010年当時の任天堂社長である岩田聡は、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」と定義している。ここから転じて、ハードやジャンルに関わらずゲームソフトの供給過剰や粗製濫造により、ユーザーがゲームに対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を「アタリショックの再来」または単に「アタリショック」と呼ぶこともある。 日本では1996年にNHKで放送された『新・電子立国』で取り上げられて広く知られるようになった。ただし、番組で述べられたように1982年のクリスマス商戦でいきなり市場が崩壊したわけではなく、以下に示すように1982年から1985年にかけて複雑な経過をたどった。 また、アタリショック後に売れ残った大量の不良在庫を埋葬したとされる「ビデオゲームの墓場」が存在するという都市伝説があったが、これは2014年に真実であったことが証明された。 1977年にアメリカでアタリ社から発売されたテレビゲーム機「Atari 2600(発売当初はVideo Computer Systemと呼ばれた。以下、一般略称のVCSと表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていたゲームソフトのプログラムROMを、カートリッジに収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した。しかし、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。 以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。 アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『バトルゾーン(英語版)』などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、人気に火が付いた。 アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、ロイヤリティを支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数のサードパーティーメーカーが参入した。 これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。 それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。 当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機であるマテル・インテレビジョンの開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから産業スパイの疑いで訴えられた)。 しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がないことから、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入したクエーカーオーツ(朝食シリアルのメーカー)やピュリナ(ペットフードのメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。 この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も台頭しておらず、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった。 こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。 この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。 それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった。 生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである。 なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた(ビデオゲームの墓場)、と当時ニューヨーク・タイムズで報道されている。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については当該項目の記載を参照)。 1983年当時、市場にはAtari 2600(VCS)の他にも、Atari 5200、バリー・アストロケード、コレコ・コレコビジョン、コレコジェミニ、エマーソン・アルカディア、フェアチャイルド・チャンネルF、マグナボックス・オデッセイ2、マテル・インテレビジョン、Sears Tele-Games systems、Tandyvision、Vectrexなどのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3やAtari 7800と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発され、供給過剰の状態であった。 Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。 1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤〜1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400・Atari 800(1979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、コモドール64が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、TI-99/4Aが199.95米ドル(約5万5千円)であった。 これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクやカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。 ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。 また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。 こうして迎えた1982年のクリスマス商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。業界では1982年度のゲーム業界の市場規模は38億ドルに達するとの市場予測で、極めて楽観的であった。しかし現実は前述のような状態で、北米ゲーム市場を握っていたアタリは自社の極めて楽観的な業績予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りのトイザらスなどの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。 一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『スペランカー』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。 この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。 1983年、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。 1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、1983年6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すこともなく、ゲームそのものを止めてしまった。 販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。 さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。 「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータ“NES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム機市場は最悪の氷河期を迎える。 一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。 1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。日本におけるファミコンの販売台数は1984年の時点で44万台と人気はそれほどでもなく、日本でもこれからはMSXのようなホビーパソコンの時代が来るとの憶測が広がっており、ましてやホビーパソコンの販売競争がピークを迎えていたさなかの北米の小売りからは全く相手にされなかった。北米小売り大手のトイザらスの担当者が「任天堂VS.システム」を気に入ってくれていたため、NESの北米発売までこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使える」などの付加価値をアピールせざるを得なかった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという。 マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、ハードメーカーの許認可を得なくてもサードパーティが合法的に低品質ゲームソフトをリリース出来たり、また違法な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリVCSでは、低品質ではあっても一応は合法的な「クソゲー」の他にも、例えば『カスターズ・リベンジ』(エロゲー)などといった違法なゲームが販売され、全米でニュースとなったためにアタリにまで大量の苦情が来て、これもVCSの評判を落とした一因となった。アタリショックの再来を防ぐため、NESではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていなかったため、日本では「ダビング機」(現代でいうマジコン)などと呼ばれる違法な機器が出回り、違法なエロゲーも出た)また、品質的にも厳しく管理されており、NESではサードパーティ製ソフトに対して任天堂社内で「ロットチェック」と呼ばれる工程が行われ、任天堂の制作ガイドラインに適合しないソフトウェアの販売はできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規版であることと、高品質であることを証明する「Original Nintendo Seal of Quality 」と書かれたシールが貼られている。 高品質なゲームを保証するためにサードパーティが年間にリリースできるソフトの数を制限する「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社を作って作品をリリースする会社が現れるなどの回避例が一部にあったものの(有名な例では、原作者が「クソ」と言い切ったNES版『メタルギア』と、これをリリースしたコナミのダミー会社「ウルトラゲームズ」)、結果としてはNESでは低品質ソフトウェアによる市場崩壊は起こらなかった。一方、海賊版ゲームソフトは、1980年代後半から1990年代にかけて東南アジアや南米で大きな問題となったが、日本やアメリカでは1980年代には著作権法が整備されていたこともあり、プロテクトチップが搭載されていない日本版ファミコンや北米版アタリVCSでも懸念されたほどの被害はなく、違法なエロゲーもすぐに販売が禁止されている。 1985年にはファミコン(NES)のキラーソフトとして『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、人気に火が付いた。当初は日本製ゲームが主だったNESも、1987年頃より北米サードパーティが続々と参入し、北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。 ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している。 ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトの氾濫=アタリショックの再来を防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、一時的には成功したと考えられ、SNESやNINTENDO 64など、その後に任天堂が発売した全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。しかし、その強権的な姿勢がエレクトロニック・アーツやテンゲンといった大手サードパーティとの確執を生み(特にテンゲンとは親会社のアタリをも巻き込んで裁判沙汰となった)、1990年にはこれらのメーカーの支持を受けたセガ・メガドライブがNESやSNESに代わって北米市場シェアを握る結果となり、その後もソニー・プレイステーションなどが北米市場を支配することとなった。 アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、アタリ・ジャガーを最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年のXboxを待たねばならない。 21世紀に入るとアタリショックの記憶は薄れ、「アタリショックは無かった」「ビデオゲームの墓場は都市伝説だ」などと考える者も現れている。そこで2014年4月、Xbox Entertainment Studiosの企画でビデオゲームの墓場が掘り返され、『E.T.』などのカートリッジが実際に発掘された。これに絡めてアタリ関係者にも改めて取材がなされ、ザック・ペン監督によって『Atari: Game Over』として映画化され、11月にXbox Liveで配信された。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証人としてスミソニアン博物館群の国立アメリカ歴史博物館に収蔵されている。 欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。Atari VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ではNESが普及する1980年代後半から1990年にかけて急激に人気を減らしていったが、一方で北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で人気を博し、欧州で「ゲームパソコン」として1990年代中頃まで生きながらえることが出来たのが、ある意味で間接的な影響である。 1983年当時、VCSはアメリカからの輸入と言うこともあって高価なため、当時のヨーロッパではあまり普及していなかった。一方、欧州では1982年にイギリスでホビーパソコンのZX Spectrumが発売され、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、「ゲーム用ホビーパソコン」としてヨーロッパ中で爆発的な人気を得ていた。欧州ではNESの発売が1987年と遅く、しかもマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続くこととなった。 1990年代、時代遅れとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能で16ビット機より安くてゲームが揃っていたため、東欧ではまだまだ人気だった。 日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体が一般に広くは普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さからMSXを筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である。北米でアタリショックが起こっていた1983年には、ちょうど日本では家庭用ゲーム機の発売ブームとなり、各社から多数の家庭用ゲーム機が発売されている。最終的にファミコンが人気を独占するが、この時点ではスーパーカセットビジョンやセガ・SG-1000なども日本でそこそこ売れていた。 北米では1984年から1985年にかけて家庭用ゲーム市場が急激に縮小しているが、日本では1985年にファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、逆に家庭用ゲーム市場が爆発的に拡大している。しかし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の今西紘史が証言しており、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。北米ではアタリ以外の各社が既にゲーム機から撤退した1985年から1986年にかけて、逆に任天堂とセガは北米に進出し、中でも任天堂がアタリショック後の北米家庭用ゲーム機市場をほぼ独占した。 アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。 それ以外の地域への影響もほとんどなかった。アタリショック後、1985年には北米の家庭用ゲーム機市場が底を打ち、1986年よりNESの普及が始まるが、一方1986年にはAtari VCSの廉価版(通称 Atari 2600 Jr.)が発売され、アジアや南米では逆にこの頃よりAtari VCSの普及期に入る。
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"以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、1980年よりキラーソフトとして、『スペースインベーダー』、『パックマン』、『バトルゾーン(英語版)』などの人気ゲームが、アーケードゲームから数多く移植され、人気に火が付いた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興したアクティビジョン社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、ロイヤリティを支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数のサードパーティーメーカーが参入した。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機であるマテル・インテレビジョンの開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから産業スパイの疑いで訴えられた)。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がないことから、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入したクエーカーオーツ(朝食シリアルのメーカー)やピュリナ(ペットフードのメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も台頭しておらず、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の倒産」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト定価ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『パックマン』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『E.T.』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。1982年に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "なお、後にアタリショック最大の戦犯にしてクソゲーの象徴ともされることになる『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた(ビデオゲームの墓場)、と当時ニューヨーク・タイムズで報道されている。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば都市伝説化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については当該項目の記載を参照)。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1983年当時、市場にはAtari 2600(VCS)の他にも、Atari 5200、バリー・アストロケード、コレコ・コレコビジョン、コレコジェミニ、エマーソン・アルカディア、フェアチャイルド・チャンネルF、マグナボックス・オデッセイ2、マテル・インテレビジョン、Sears Tele-Games systems、Tandyvision、Vectrexなどのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3やAtari 7800と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発され、供給過剰の状態であった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1970年代後半までは、パソコンは主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは2007年時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤〜1980年代初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンはホームコンピュータと呼ばれ、Atari 400・Atari 800(1979年)が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、1982年10月の段階での市場小売価格は、VIC-20が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、コモドール64が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、TI-99/4Aが199.95米ドル(約5万5千円)であった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、ワープロや会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、フロッピーディスクやカセットテープのゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "ホームコンピュータを販売した各社の中でも、コモドール社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。アタリ社やマテル社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。モステクノロジー社という半導体企業を傘下に収め、MOS 6502 CPUを始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "こうして迎えた1982年のクリスマス商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。業界では1982年度のゲーム業界の市場規模は38億ドルに達するとの市場予測で、極めて楽観的であった。しかし現実は前述のような状態で、北米ゲーム市場を握っていたアタリは自社の極めて楽観的な業績予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社であるワーナー・コミュニケーションズまで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りのトイザらスなどの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『スペランカー』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1983年、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、1983年6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すこともなく、ゲームそのものを止めてしまった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、ジャック・トラミエルである。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していたマグナボックス社及びコレコ社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであったアクティビジョン社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版ファミリーコンピュータ“NES”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム機市場は最悪の氷河期を迎える。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。日本におけるファミコンの販売台数は1984年の時点で44万台と人気はそれほどでもなく、日本でもこれからはMSXのようなホビーパソコンの時代が来るとの憶測が広がっており、ましてやホビーパソコンの販売競争がピークを迎えていたさなかの北米の小売りからは全く相手にされなかった。北米小売り大手のトイザらスの担当者が「任天堂VS.システム」を気に入ってくれていたため、NESの北米発売までこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使える」などの付加価値をアピールせざるを得なかった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.(ファミコンロボット)までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、ハードメーカーの許認可を得なくてもサードパーティが合法的に低品質ゲームソフトをリリース出来たり、また違法な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリVCSでは、低品質ではあっても一応は合法的な「クソゲー」の他にも、例えば『カスターズ・リベンジ』(エロゲー)などといった違法なゲームが販売され、全米でニュースとなったためにアタリにまで大量の苦情が来て、これもVCSの評判を落とした一因となった。アタリショックの再来を防ぐため、NESではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていなかったため、日本では「ダビング機」(現代でいうマジコン)などと呼ばれる違法な機器が出回り、違法なエロゲーも出た)また、品質的にも厳しく管理されており、NESではサードパーティ製ソフトに対して任天堂社内で「ロットチェック」と呼ばれる工程が行われ、任天堂の制作ガイドラインに適合しないソフトウェアの販売はできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規版であることと、高品質であることを証明する「Original Nintendo Seal of Quality 」と書かれたシールが貼られている。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "高品質なゲームを保証するためにサードパーティが年間にリリースできるソフトの数を制限する「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社を作って作品をリリースする会社が現れるなどの回避例が一部にあったものの(有名な例では、原作者が「クソ」と言い切ったNES版『メタルギア』と、これをリリースしたコナミのダミー会社「ウルトラゲームズ」)、結果としてはNESでは低品質ソフトウェアによる市場崩壊は起こらなかった。一方、海賊版ゲームソフトは、1980年代後半から1990年代にかけて東南アジアや南米で大きな問題となったが、日本やアメリカでは1980年代には著作権法が整備されていたこともあり、プロテクトチップが搭載されていない日本版ファミコンや北米版アタリVCSでも懸念されたほどの被害はなく、違法なエロゲーもすぐに販売が禁止されている。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1985年にはファミコン(NES)のキラーソフトとして『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、人気に火が付いた。当初は日本製ゲームが主だったNESも、1987年頃より北米サードパーティが続々と参入し、北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「ニクソン・ショック」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトの氾濫=アタリショックの再来を防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、一時的には成功したと考えられ、SNESやNINTENDO 64など、その後に任天堂が発売した全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。しかし、その強権的な姿勢がエレクトロニック・アーツやテンゲンといった大手サードパーティとの確執を生み(特にテンゲンとは親会社のアタリをも巻き込んで裁判沙汰となった)、1990年にはこれらのメーカーの支持を受けたセガ・メガドライブがNESやSNESに代わって北米市場シェアを握る結果となり、その後もソニー・プレイステーションなどが北米市場を支配することとなった。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、アタリ・ジャガーを最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年のXboxを待たねばならない。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "21世紀に入るとアタリショックの記憶は薄れ、「アタリショックは無かった」「ビデオゲームの墓場は都市伝説だ」などと考える者も現れている。そこで2014年4月、Xbox Entertainment Studiosの企画でビデオゲームの墓場が掘り返され、『E.T.』などのカートリッジが実際に発掘された。これに絡めてアタリ関係者にも改めて取材がなされ、ザック・ペン監督によって『Atari: Game Over』として映画化され、11月にXbox Liveで配信された。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証人としてスミソニアン博物館群の国立アメリカ歴史博物館に収蔵されている。", "title": "事象" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。Atari VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ではNESが普及する1980年代後半から1990年にかけて急激に人気を減らしていったが、一方で北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で人気を博し、欧州で「ゲームパソコン」として1990年代中頃まで生きながらえることが出来たのが、ある意味で間接的な影響である。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1983年当時、VCSはアメリカからの輸入と言うこともあって高価なため、当時のヨーロッパではあまり普及していなかった。一方、欧州では1982年にイギリスでホビーパソコンのZX Spectrumが発売され、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、「ゲーム用ホビーパソコン」としてヨーロッパ中で爆発的な人気を得ていた。欧州ではNESの発売が1987年と遅く、しかもマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続くこととなった。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "1990年代、時代遅れとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能で16ビット機より安くてゲームが揃っていたため、東欧ではまだまだ人気だった。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体が一般に広くは普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さからMSXを筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である。北米でアタリショックが起こっていた1983年には、ちょうど日本では家庭用ゲーム機の発売ブームとなり、各社から多数の家庭用ゲーム機が発売されている。最終的にファミコンが人気を独占するが、この時点ではスーパーカセットビジョンやセガ・SG-1000なども日本でそこそこ売れていた。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "北米では1984年から1985年にかけて家庭用ゲーム市場が急激に縮小しているが、日本では1985年にファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、逆に家庭用ゲーム市場が爆発的に拡大している。しかし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の今西紘史が証言しており、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。北米ではアタリ以外の各社が既にゲーム機から撤退した1985年から1986年にかけて、逆に任天堂とセガは北米に進出し、中でも任天堂がアタリショック後の北米家庭用ゲーム機市場をほぼ独占した。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。", "title": "世界的な影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "それ以外の地域への影響もほとんどなかった。アタリショック後、1985年には北米の家庭用ゲーム機市場が底を打ち、1986年よりNESの普及が始まるが、一方1986年にはAtari VCSの廉価版(通称 Atari 2600 Jr.)が発売され、アジアや南米では逆にこの頃よりAtari VCSの普及期に入る。", "title": "世界的な影響" } ]
アタリショックとは、1982年のアメリカ合衆国における年末商戦を発端とする、北米のゲーム市場で起こった家庭用ゲーム機の売上不振のことである。 この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。パソコンゲーム市場や、欧州や日本など北米以外のゲーム市場は含まれない。
{{複数の問題 |出典の明記=2022年12月9日 (金) 14:55 (UTC) |独自研究=2012年12月19日 (水) 00:51 (UTC) }} [[File:Atari-2600-Wood-4Sw-Set.png|thumb|[[Atari VCS]]([[1977年]])。北米の家庭用ゲーム市場を勃興させ、そして崩壊させた。]] '''アタリショック'''({{lang-en|Video game crash of 1983}})とは、[[1982年]]の[[アメリカ合衆国]]における年末商戦を発端とする、北米のゲーム市場で起こった[[コンシューマーゲーム|家庭用ゲーム機]]の売上不振のことである<ref name="山田"/>。 この崩壊にはAtari VCS以外のゲーム機の家庭用ゲーム市場も含まれる。[[パソコンゲーム]]市場や、[[ヨーロッパ|欧州]]や[[日本]]など北米以外のゲーム市場は含まれない。 == 概要 == [[北アメリカ|北米]]における家庭用ゲームの売上高は、1982年の時点で約32億[[ドル]](同年末の日本円で約7520億円)に達していたが、1985年には1億ドル(同年末の日本円で約200億円)にまで減少した。北米の家庭用ゲーム市場は崩壊し、[[ゲーム機]]や[[ホビーパソコン]]を販売していた大手メーカーのいくつかが破産に追い込まれた。ゲーム市場最大手であった[[アタリ社]]も崩壊、分割された。 1980年代後半には、ヒット作の発売や新型ゲーム機の投入が相次ぎ、低迷した北米の家庭用ゲーム市場は徐々に回復していった。 その背景について、1983年に当時の[[任天堂]]社長[[山内博]]は講演会で「新型ゲーム機の出現によるAtari 2600の陳腐化、[[アーケードゲーム|アーケード・ゲーム]]の劣化移植、[[サードパーティー|サード・パーティー]]が大量に駄作を投入したことから、消費者がゲーム機に失望、新しいカートリッジを買う意欲を失ったため」と語っている。また、1984年には[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]のサードパーティーに対して、米国ゲーム市場の教訓から「粗悪なソフトが氾濫しないように任天堂の承認を受けたものだけを作るように注文している 」と経済誌のインタビューに答えている<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=アタリショックと任天堂|date=|year=2020|publisher=kindle個人出版|last=|author=広田哲也}}</ref>。 また、山内は1986年にも海外紙において、「サードパーティーによる低品質ゲームソフト(俗に言う「[[クソゲー]]」)の乱発がアタリの市場崩壊を招いた」という趣旨でその原因に対する自身の認識を述べている<ref> "Video Games Gain In Japan, Are Due For Assault On U.S.". The Vindicator. June 20, 1986。海外紙の記事なので元の日本語は不明だが、山内本人の言葉として"Atari collapsed because they gave too much freedom to third-party developers and the market was swamped with rubbish games."とある。</ref>。これは後世まで業界の共通認識となっており、2010年当時の任天堂社長である[[岩田聡]]は、「粗悪なソフトが粗製濫造されたことで、お客さんからの信頼を失ってしまった」と定義している<ref name="マリオ"/>。ここから転じて、ハードやジャンルに関わらず[[ゲームソフト]]の供給過剰や粗製濫造により、ユーザーが[[ビデオゲーム|ゲーム]]に対する興味を急速に失い、市場需要および市場規模が急激に縮退する現象を「'''アタリショックの再来'''」または単に「アタリショック」と呼ぶこともある。 日本では1996年に[[日本放送協会|NHK]]で放送された『[[新・電子立国]]』で取り上げられて広く知られるようになった。ただし、番組で述べられたように1982年の[[クリスマス]]商戦でいきなり市場が崩壊したわけではなく、以下に示すように1982年から1985年にかけて複雑な経過をたどった。 <!--CO、[[特別:差分/52628227]]で加筆されているが出典の信頼性に疑問あり--><!--なお、「アタリショック」という言葉そのものは米国最大の玩具小売業者[[トイザらス]]の副社長だったハワード・ムーア(Howard Moore、発言時は同社役員)の発言として1990年の『[[日経エレクトロニクス]]』に初めて登場した<ref>[http://ninten-blog.at.webry.info/201407/article_1.html “アタリショック”という言葉を初めて使ったのは米トイザらスの副社長さんです] 日経エレクトロニクス1990年9月3日号(no.508)の記事の紹介</ref>。その後、経済誌やゲーム業界本を中心に急速に広まったが、任天堂社長の[[山内溥]]が「アタリショック」という言葉を使っているのが確認されるのは1996年になってからのことである<ref name=":0" />。--> また、アタリショック後に売れ残った大量の[[不良在庫]]を埋葬したとされる「[[ビデオゲームの墓場]]」が存在するという[[都市伝説]]があったが、これは2014年に真実であったことが証明された<ref name="CNN">{{Cite web|和書|url=http://www.cnn.co.jp/fringe/35047235.html|title=都市伝説の「E.T.」ゲーム、30年ぶりに発掘|publisher=[[CNN (アメリカの放送局)|CNN]]|date=2014-04-29|accessdate=2014-05-11}}</ref>。 == 事象 == [[1977年]]にアメリカで[[アタリ (企業)|アタリ]]社から発売された[[テレビゲーム]]機「[[Atari 2600]](発売当初はVideo Computer Systemと呼ばれた。以下、一般略称の'''VCS'''と表記)」は、それまでゲーム機のハードウェア本体に内蔵されていた[[ゲームソフト]]の[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]][[Read Only Memory|ROM]]を、[[ロムカセット|カートリッジ]]に収めて外部から供給できるようにし、これが爆発的な人気を博した<ref name="山田"/>。しかし、同ゲーム機のブームは、発売開始から5年ほどで終わる。 以下に、VCSとその関連商品の市場が辿った状況を、順を追って示す。 === VCSの成功 === [[File:Activisionheadquarters.jpg|thumb|初のサードパーティとしてActivision設立(1979年)。名作も多い。]] アタリ社は、外部からソフトウェアを入れ替えられるAtari VCSを1977年に発売。当初はさっぱり売れなかったが、[[1980年]]より[[キラーソフト]]として、『[[スペースインベーダー]]』、『[[パックマン]]』、『{{仮リンク|バトルゾーン|en|Battlezone (1980 video game)}}』などの人気ゲームが、[[アーケードゲーム]]から数多く[[移植 (ソフトウェア)|移植]]され、人気に火が付いた。 アタリ社の上層部と対立して独立したゲーム製作者たちが興した[[アクティビジョン]]社が1979年に設立され、家庭用ゲーム史上初のサードパーティとしてVCS用のソフトをリリースした。アタリは当初サードパーティを認めず、アクティビジョンに対して販売差し止めの裁判を起こしたが、[[ロイヤリティ]]を支払うことで1982年に和解。サードパーティ製ソフトの制作が合法であると認められ、それをきっかけに多数の[[サードパーティー]]メーカーが参入した。 これにより売り上げはさらに急加速、アタリに対してロイヤリティさえ払えば基本的に何処の誰でも・自由に・アタリ社に関係なく、同機で動作するソフトウェアを開発し、販売する事が可能になった<ref name="山田"/>。このため、市場には様々なゲームソフトが流通し、様々なゲームメーカーが勃興、多くの人に楽しまれるゲームソフトを発売していったのである。 それらゲームソフトを再生するためのゲーム機本体の売上も華々しく、出荷台数は最終的に1400万台を超えた。 当時VCSをはじめ、各ハードのプログラム仕様などは公開されていなかったが、各サードパーティはファーストパーティから開発者を引き抜いたり、リバースエンジニアリングなどをしてゲームを開発していた。アタリ自身も競合ゲーム機である[[マテル]]・[[インテレビジョン]]の開発者を引き抜いて雇用していたほどである(そのためマテルから[[産業スパイ]]の疑いで訴えられた)。 === 粗製濫造の影 === [[File:Quaker Oats (3092914571).jpg|thumb|北米ではラリーおじさんのパッケージでお馴染みのシリアル食品メーカー、クエーカーオーツがVCSに参入(1982年)。]] しかし1982年頃より、家庭用ゲーム市場の急激な拡大に釣られて、ゲームを作ったこともない他業種のメーカーがVCSのサードパーティとして参入した。それらのメーカーの雇った開発者は、アタリやアクティビジョンなどの開発者とは違ってまともにゲームを作る能力がないことから、非常に質の低いソフトまでもが市場に溢れ返った。極端な例として、VCSに参入した[[クエーカーオーツカンパニー|クエーカーオーツ]]([[朝食シリアル]]のメーカー)や[[ネスレピュリナペットケア|ピュリナ]]([[ペットフード]]のメーカー)などが知られる。それらのメーカーは低品質ゲームソフトに大きな宣伝を打ち、家庭用ゲーム市場全体の信用を損なわせた。 この当時、アタリ社は発売されているゲームの内容は一切把握していなかった。また、ユーザーサイドに立ったゲームレビュー雑誌も台頭しておらず{{efn2|ゲーム雑誌自体は存在した。特に1982年末から1983年にかけては複数の雑誌が創刊されている<ref>[http://www.digitpress.com/library/magazines/index.htm ウェブサイト「Digital Press」]を参照。</ref>。また、『[[ビルボード]]』誌には家庭用ゲームソフトのセールスチャートが掲載されており、ソフト購入の参考にすることができた<ref>参考として[https://books.google.co.jp/books?id=BSQEAAAAMBAJ&printsec=frontcover&dq=billboard+video+games&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjg5q3-zOndAhXBjFQKHSfxDmQQ6AEIRTAF#v=onepage&q=%22video%20games%22&f=false 『ビルボード』1982年11月20日号、p.26の「Top 15 Video Games」]([[Google ブックス]])。</ref>。}}、基本的にユーザーは玩具店の店頭で、ゲームソフトのパッケージから、中身の質を推察するしかなかった<ref name="樺島"/>。 こうして、ユーザーは「買って自宅のVCSに挿し込むまで、本当に面白いかどうか判らない」ような状況にまでなり、ユーザーの購買意欲減退を招いた。 この一方で、ゲームを製造・販売していた弱小の製作会社が勃興と衰退を繰り返し、その激しい新陳代謝の中で「開発企業の[[倒産]]」・「在庫の捨て値処分」・「市場にそれらが流れて、ゲームソフト[[定価]]ラインを崩壊させる」といった現象を多発させる事となった。つまり、倒産流れのソフトが安価に販売されている隣にあって、新作ソフトの販売価格はいかにも高価に映り、ユーザーの買い控えを招いたのである。 <!-- 英語版記事より抜粋 --> それに加えて、アタリ社が発売したビッグタイトルにも大きな失敗作があった。たとえばアーケードの大人気タイトル『[[パックマン]]』のVCS移植版は良い出来ではなく、映画『[[E.T. (アタリ2600)|E.T.]]』を題材としたゲームは非常に評判が悪かった。[[1982年]]に発売されたこれらのビッグタイトルはそれなりの売り上げがあったものの、極端な生産過剰であったため、アタリ社にとって大きな損失になっただけでなく、ユーザーの信用を失う結果にもなった<ref>{{cite web|url=http://www.gamasutra.com/view/feature/3551/a_history_of_gaming_platforms_.php?page=5 |title=A History of Gaming Platforms: Atari 2600 Video Computer System/VCS|author=Matt Barton, Bill Loguidice|publisher=Gamasutra|date=2008-02-28|accessdate=2014-05-22|language=英語}}</ref>。 生産過剰の背景には、1981年10月当時、売上の増大に生産が追いつかないことを問題視していたアタリが、各販売代理店に対し翌年分の一括発注を求めたことがある。代理店は在庫切れを避けるために大量の水増し発注を行い、アタリはそれを鵜呑みにして需要予測を誤ったまま生産を行った。そしていざ1982年になると発注の多くがキャンセルされてしまい、大量の売れ残りを抱える羽目になったのである<ref name="藤田直樹">{{Cite journal |和書 |author = 藤田直樹 |title = 米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)― |date = 1998-11 |publisher = 京都大學經濟學會 |journal = 經濟論叢 |volume = 162 |number = 5-6 |naid = 120000904860 |pages = 54-71 |ref = harv |url = https://hdl.handle.net/2433/45249}}</ref>。 なお、後に{{独自研究範囲|アタリショック最大の要因にしてクソゲーの象徴ともされることになる|date=2023年12月}}『E.T.』は、アタリショック後の1983年9月に14台のトラックに満載されてニューメキシコ州アラモゴルド市の砂漠に埋められた([[ビデオゲームの墓場]])、と当時[[ニューヨーク・タイムズ]]で報道されている<ref>[http://www.nytimes.com/1983/09/28/business/atari-parts-are-dumped.html Atari Parts Are Dumped]ニューヨーク・タイムズ</ref>。この「ビデオゲームの墓場」はアタリショックとクソゲーの象徴として半ば[[都市伝説]]化して後世に語られていたが、2014年4月に当該の地域で「発掘調査」が行われ、実際に『E.T.』が発掘されたことにより実在したことが確認された(詳細については[[E.T. (アタリ2600)#アタリの埋立用地|当該項目]]の記載を参照)。 === 市場飽和・供給過剰 === [[File:Intellivision-Console-Set.png|thumb|マテル・インテレビジョン(1980年)。他にも多数のゲーム機が存在した。]] 1983年当時、市場には[[Atari 2600]](VCS)の他にも、[[Atari 5200]]、[[バリー]]・[[アストロケード]]、コレコ・[[コレコビジョン]]、[[コレコジェミニ]]、[[アルカディア (ゲーム機)|エマーソン・アルカディア]]、[[フェアチャイルド・チャンネルF]]、[[マグナボックス]]・[[オデッセイ2]]、[[マテル]]・[[インテレビジョン]]、[[Sears Tele-Games systems]]、[[Tandyvision]]、[[光速船|Vectrex]]などのゲーム機が存在しており、さらにOdyssey3や[[Atari 7800]]と言った次世代機も発表されていた。各ゲーム機はそれぞれが豊富なゲームソフトのライブラリとサードパーティを抱えていたが、ソフトのラインナップを埋め合わせるために粗製の低品質ゲームソフトが乱発され、供給過剰の状態であった。 Atari VCSに限って言うと、発売から6年目に入ったVCSは既に旧世代機になりつつあるとともに、北米で普及しきっており、ハード的にはこれ以上シェアを伸ばすのは難しかった。既に市場は飽和しており、北米市場の限られたパイを各ハードで奪い合う状態となっていた。 === 低価格パソコンとの競争 === [[File:Commodore-64-Computer-FL.png|thumb|コモドール64(1982年)。ホビーパソコンのマーケティング戦略は、ゲーム機のイメージを損なわせた。]] <!-- 基本的にWikipedia英語版項目 "North American video game crash of 1983" からの翻訳だが、少し整理してある --> [[1970年代]]後半までは、[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]は主にパソコン専門店において1,000米ドル程度の価格で流通していた。これは[[2007年]]時点においては、約2,500米ドルに相当する。しかし1970年代終盤〜[[1980年代]]初頭には、カラーグラフィックス機能を持ち、サウンド機能も強化された、テレビに接続するタイプのパソコンが登場。このようなパソコンは[[ホビーパソコン|ホームコンピュータ]]と呼ばれ、[[Atari 8ビット・コンピュータ|Atari 400]]・[[Atari 8ビット・コンピュータ|Atari 800]]([[1979年]])が初の製品であったが、すぐに各社から競合機種が登場し、販売競争が始まった。激しい価格競争により低価格化が進み、[[1982年]]10月の段階での市場小売価格は、[[VIC-1001|VIC-20]]が259.95米ドル(当時の日本円で約7万2千円)、[[コモドール64]]が595.00米ドル(約16万5千円)、Atari 400・Atari 800がそれぞれ167.95米ドル(約4万7千円)と649.95米ドル(約18万円)、[[TI-99/4A]]が199.95米ドル(約5万5千円)であった<ref>[http://www.thepcmuseum.net/ The Freeman PC Museum] - [http://www.thepcmuseum.net/timeline.php PC Timeline]</ref>。 これらのホームコンピュータは、VCSよりも多くのメモリを搭載し、グラフィックやサウンド機能でもVCSを凌駕していたため、VCSより高度なゲームが実現できた。加えて、[[ワードプロセッサ|ワープロ]]や会計処理といった、ゲーム以外の用途にも使用可能であった。また、これらのパソコンの多くは、ROMカートリッジによるソフトウェア流通を広く用いていたものの、[[フロッピーディスク]]や[[カセットテープ]]のゲームも流通され、これらのゲームはROMカートリッジのゲームに比べてずっと容易にコピーできた。 ホームコンピュータを販売した各社の中でも、[[コモドール]]社はゲームユーザーを狙ったマーケッティング戦略を採り、広告において、コモドール64の購入の際に、他のホームコンピュータやゲーム機の下取りを行なうことや、大学進学を目指す子供はゲーム機よりホームコンピュータを購入すべき、と謳った。[[アタリ (企業)|アタリ]]社や[[マテル]]社の調査では、この広告戦略により、両社の家庭用ゲーム機のイメージや販売に大きなダメージがあったことが確認されている(※下取り戦略は1983年になってからである点には注意)。 また、コモドール社は、他のホームコンピュータ・メーカーとは異なり、ホームコンピュータを、ディスカウント・ストアやデパート、玩具店など、家庭用ゲーム機と同様の流通ルートで販売した。[[モステクノロジー]]社という半導体企業を傘下に収め、[[MOS 6502]] [[CPU]]を始めとする同社製半導体を数多くコモドール社製ホームコンピュータに採用するという垂直統合戦略により、大胆な低価格化が実現できていた。 === 市場崩壊 === [[File:Warner Bros.jpg|thumb|アタリの市場崩壊が親会社のワーナーをも直撃(1982年)。経営が悪化したアタリは1984年に分割・売却される。]] こうして迎えた[[1982年]]の[[クリスマス]]商戦では、かつてないほどの莫大な数のゲーム・ゲーム機が販売されることとなり、流通・販売側も強気な在庫確保に奔走した。業界では1982年度のゲーム業界の市場規模は38億ドルに達するとの市場予測で、極めて楽観的であった。しかし現実は前述のような状態で、北米ゲーム市場を握っていたアタリは自社の極めて楽観的な業績予測を満たせる見込みが12月の時点でなくなったため、12月8日、アタリは1982年度の第4半期の業績予測を下方修正。これは投資家に衝撃を与え、当時のアタリ社の親会社である[[ワーナーメディア|ワーナー・コミュニケーションズ]]まで巻き込み、12月8日から翌12月9日にかけて、株価の大幅下落を誘発している。マテル・コレコなどの競合他社、コモドールなどのホビーパソコンメーカー、小売りの[[トイザらス]]などの関連銘柄も煽りを食って軒並み株価を下げた。 一方、供給過剰の状態であった小売店では、店頭に並べられなくなったゲームを販売元に返品しようとしたが、経営の苦しい販売元にはその対価として小売店に返金するキャッシュがなかった。1982年のクリスマス商戦が終わった直後に、後に『[[スペランカー]]』を制作するティム・マーティンが在籍したGames by Apollo社や、クエーカーオーツ傘下として低品質ソフトウェアを乱発したUS Games社を含む、複数の中小メーカーが倒産。 この1982年のクリスマスがアタリショックの発端とされている。ただし1982年度の市場規模は30億ドルを超えるなど市場は依然大きく、この時点ではまだ市場崩壊と言える状態ではなかった。 [[1983年]]、全米の小売店の多くは不良在庫のゲームソフトを大量に抱えていた。倒産した弱小メーカーのソフトはメーカーに返品することができなかったため、小売店は在庫処分価格でこれらのソフトを販売した。在庫処分ではない正規のソフトの価格もそれにつられて下げざるを得なくなり、アタリも値下げに追随。業界は値下げラッシュに入った。それまで大体30ドル(約7千円)だったソフトの販売価格は一気に5ドル(約1,200円)にまで下がり、2ドル(約480円)で販売されるゲームすら登場した。 1983年に入っても市場は依然活発で、発売タイトルも販売本数もかなり多かったが、[[1983年]]6月までには正規価格のソフト市場は大幅に縮小しており、ユーザーは在庫処分価格のソフトを主に買い求めるようになっていた。ゲームが低価格化したことは当初はユーザーに歓迎されたようだが、やがて買ったソフトがどれも低品質という現実に直面する。そして、低品質なこれらのソフトにうんざりしたユーザーの多くは、高価だがクオリティの高いソフトを見直すこともなく、ゲームそのものを止めてしまった。 販売価格が下がったうえにゲームの売り上げが一気に落ち、各ゲームメーカーの経営は一気に悪化したが、特にアタリを直撃した。アタリの経営は1983年の第2四半期には極端に悪化していた。赤字の止まらないアタリのコンシューマ部門は1984年に分割、売却された。買収したのはアタリを崩壊させた一因であるコモドールの創業者、[[ジャック・トラミエル]]である。 <!-- 英語版記事から抜粋 --> さらに、影響はアタリ社以外のゲーム関連企業にも広く及び、アタリ社のゲーム機に競合するゲーム機を製造していた[[マグナボックス]]社及び[[コレコ]]社は、本業がゲームではないこともあり、市場崩壊に巻き込まれるのを恐れてゲーム事業から撤退した。また、大手ゲームソフトメーカーであるImagic社は、新規株式公開を断念せざるを得ず、この何年か後には倒産に追い込まれた。最大手のゲームソフトメーカーであった[[アクティビジョン]]社は、パソコンゲーム市場での成功などにより生き残ることに成功したものの、VCSに参入していたほとんどの中小ゲームソフトメーカーは倒産してしまった。 「ゲーム機の時代は終わった」と考えた北米の小売業者も、ゲーム機の取り扱いをやめてしまった。そしてこの後、後述のアメリカ版[[ファミリーコンピュータ]]“[[Nintendo Entertainment System|NES]]”が発売されるまで、アメリカの家庭用ゲーム機市場は最悪の氷河期を迎える。 一方、アタリショックによって倒産したゲームメーカーの開発者がホビーパソコン用ゲーム市場に参入。北米でNESがブームとなる1988年ごろまで北米ホビーパソコン用ゲーム市場は隆盛を迎える事となった。 === NESによる復興 === [[File:NES-Console-Set.png|thumb|任天堂・NESが北米家庭用ゲーム市場を復興した(1985年)。]] 1985年の北米版ファミコンであるNintendo Entertainment System(NES)の発売に当たっては、ゲーム機に抵抗感を持つ小売業者の説得が最大の障壁となった。日本におけるファミコンの販売台数は1984年の時点で44万台と人気はそれほどでもなく、日本でもこれからは[[MSX]]のようなホビーパソコンの時代が来るとの憶測が広がっており、ましてやホビーパソコンの販売競争がピークを迎えていたさなかの北米の小売りからは全く相手にされなかった<ref name="GAME Watch">[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/742615.html ファミコンの生みの親とスーパーマリオのデザイナーが登場! - GAME Watch]</ref>。北米小売り大手のトイザらスの担当者が「[[任天堂VS.システム]]」を気に入ってくれていたため、NESの北米発売までこぎつけたものの、ゲームだけでなく「BASICが使える」などの付加価値をアピールせざるを得なかった。console(ゲーム機)ではなくEntertainment System(エンターテイメントシステム)と命名されたのもそれが理由であり、小売業者の求めに応じてR.O.B.([[ファミコンロボット]])までバンドルして「ゲーム機ではない」ことを納得させたという<ref> "NES". [[:en:Icons (TV series)|Icons]]. Season 4. Episode 5010</ref>。 マテルやコレコのゲーム機にはサードパーティを防止するプロテクトが施してあった一方で、アタリVCSはプロテクトが施されておらず、ハードメーカーの許認可を得なくてもサードパーティが合法的に低品質ゲームソフトをリリース出来たり、また違法な海賊版が野放しになったことは業界の教訓となった。アタリVCSでは、低品質ではあっても一応は合法的な「クソゲー」の他にも、例えば『[[カスターズ・リベンジ]]』([[エロゲー]])などといった違法なゲームが販売され、全米でニュースとなったためにアタリにまで大量の苦情が来て、これもVCSの評判を落とした一因となった。アタリショックの再来を防ぐため、NESではハードウェアプロテクトが厳しくなり、カートリッジにロックアウトチップが搭載されるようになった(アタリショック以前に発売された日本のファミコンには搭載されていなかったため、日本では「ダビング機」(現代でいう[[マジコン]])などと呼ばれる違法な機器が出回り、違法なエロゲーも出た)また、品質的にも厳しく管理されており、NESではサードパーティ製ソフトに対して任天堂社内で「ロットチェック」と呼ばれる工程が行われ、任天堂の制作ガイドラインに適合しないソフトウェアの販売はできなくなっている。NESのゲームのパッケージには、正規版であることと、高品質であることを証明する「'''Original Nintendo Seal of Quality '''」と書かれたシールが貼られている。 高品質なゲームを保証するためにサードパーティが年間にリリースできるソフトの数を制限する「Seal of Quality」のシステムは、それでもクソゲーがリリースされたり、ダミー会社を作って作品をリリースする会社が現れるなどの回避例が一部にあったものの(有名な例では、原作者が「クソ」と言い切ったNES版『[[メタルギア]]』と、これをリリースしたコナミのダミー会社「ウルトラゲームズ」)、結果としてはNESでは低品質ソフトウェアによる市場崩壊は起こらなかった。一方、海賊版ゲームソフトは、1980年代後半から1990年代にかけて東南アジアや南米で大きな問題となったが、日本やアメリカでは1980年代には著作権法が整備されていたこともあり、プロテクトチップが搭載されていない日本版ファミコンや北米版アタリVCSでも懸念されたほどの被害はなく、違法なエロゲーもすぐに販売が禁止されている。 1985年にはファミコン(NES)のキラーソフトとして『[[スーパーマリオブラザーズ]]』が発売され、人気に火が付いた。当初は日本製ゲームが主だったNESも、1987年頃より北米サードパーティが続々と参入し、北米家庭用ゲーム市場は1988年に23億ドル(同年末の日本円で約2875億円)、1989年に50億ドル(同年末の日本円で約7150億円)にまで達し、ようやくアタリショックからの復興が成し遂げられた。 ここまでが、今日言われている「アタリショック=Video game crash of 1983」の概要である。この名称は「[[ニクソン・ショック]]」をもじったものである。ただし、アタリショックの評価については「神話」が含まれていることを、ファミコンの設計者である上村雅之が指摘している<ref name="GAME Watch" />。 === その後 === [[File:Sega-Genesis-Mod1-Set.png|thumb|right|NESの獲得した市場は5年でSega Genesisに奪われた(1990年)。そのセガも5年でソニーに市場を奪われた]] ファミコン(NES)において低品質ゲームソフトの氾濫=アタリショックの再来を防ぐためとの名目で任天堂の取った強権的なサードパーティ管理方式は、一時的には成功したと考えられ、SNESやNINTENDO 64など、その後に任天堂が発売した全てのゲーム機でおおむね踏襲されている。しかし、その強権的な姿勢が[[エレクトロニック・アーツ]]や[[テンゲン]]といった大手サードパーティとの確執を生み(特にテンゲンとは親会社のアタリをも巻き込んで裁判沙汰となった)、1990年にはこれらのメーカーの支持を受けたセガ・[[メガドライブ]]がNESやSNESに代わって北米市場シェアを握る結果となり、その後も[[ソニー]]・[[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]などが北米市場を支配することとなった。 アタリはゲーム機市場でVCSのような人気を得られないまま、[[アタリ・ジャガー]]を最後に1996年にゲーム機市場から撤退した。NESの成功以降、北米のゲーム市場は長らく日本製ゲーム機が席巻し、北米のゲーム機市場で人気を得る北米発のゲーム機は2001年の[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]を待たねばならない。 21世紀に入るとアタリショックの記憶は薄れ、「アタリショックは無かった」「ビデオゲームの墓場は都市伝説だ」などと考える者も現れている。そこで2014年4月、Xbox Entertainment Studiosの企画でビデオゲームの墓場が掘り返され、『E.T.』などのカートリッジが実際に発掘された。これに絡めてアタリ関係者にも改めて取材がなされ、[[ザック・ペン]]監督によって『Atari: Game Over』として映画化され、11月にXbox Liveで配信された。発掘された『E.T.』のうち一本はアタリショックの証人として[[スミソニアン博物館]]群の[[国立アメリカ歴史博物館]]に収蔵されている。 == 世界的な影響 == === ヨーロッパ === [[File:ZXSpectrum48k.jpg|thumb|アタリショックと同時期に欧州で流行していたZX Spectrum(1982年)。1990年代初めまで人気が続いた。]] 欧州へのアタリショックの影響はほとんどなかった。Atari VCS市場の崩壊によって一時的に北米ゲーム市場の覇者となったアタリやコモドールのホビーパソコンは、北米ではNESが普及する1980年代後半から1990年にかけて急激に人気を減らしていったが、一方で北米ゲーム市場での成功を足掛かりに欧州で人気を博し、欧州で「ゲームパソコン」として1990年代中頃まで生きながらえることが出来たのが、ある意味で間接的な影響である。 1983年当時、VCSはアメリカからの輸入と言うこともあって高価なため、当時のヨーロッパではあまり普及していなかった。一方、欧州では1982年にイギリスでホビーパソコンの[[ZX Spectrum]]が発売され、北米でアタリショックが起こった1983年の時点で、「ゲーム用ホビーパソコン」としてヨーロッパ中で爆発的な人気を得ていた。欧州ではNESの発売が1987年と遅く、しかもマーケティングが失敗したこともあり、1990年代初めまでホビーパソコンの時代が続くこととなった。 1990年代、時代遅れとなったはずのAtari 8ビットシリーズも、ZX Spectrumより高性能で16ビット機より安くてゲームが揃っていたため、東欧ではまだまだ人気だった。 === 日本 === [[File:Nintendo-Famicom-Console-Set-FL.png|thumb|アタリショックと同時期に日本で流行していたファミコン(1983年)。]] 日本へのアタリショックの影響もほとんどなかった。当時の日本はVCSはおろかゲーム機自体が一般に広くは普及していなかった。アタリショック後に北米でホビーパソコンのブームが起こった結果、その層の厚さから[[MSX]]を筆頭とする日本のパソコンメーカーによる北米ホビーパソコン市場への進出が阻まれたのがある意味で間接的な影響である{{efn2|欧州製ホビーパソコンも北米進出は叶わなかった。また、日本のホビーパソコンは欧州へは進出しており、シャープ・MZシリーズなどが人気を得ている。}}。北米でアタリショックが起こっていた1983年には、ちょうど日本では家庭用ゲーム機の発売ブームとなり、各社から多数の家庭用ゲーム機が発売されている。最終的にファミコンが人気を独占するが、この時点では[[スーパーカセットビジョン]]やセガ・[[SG-1000]]なども日本でそこそこ売れていた。 北米では1984年から1985年にかけて家庭用ゲーム市場が急激に縮小しているが、日本では1985年にファミコンでキラーソフトとなる『スーパーマリオブラザーズ』が発売され、逆に家庭用ゲーム市場が爆発的に拡大している。しかし当時の任天堂内部ではアタリショックの再来を非常に恐れていたことを当時の任天堂経理部長の[[今西紘史]]が証言しており<ref name="マリオ"/>、1986年には確立されるファミコンの厳しいライセンス制度の背景となっている。北米ではアタリ以外の各社が既にゲーム機から撤退した1985年から1986年にかけて、逆に任天堂とセガは北米に進出し、中でも任天堂がアタリショック後の北米家庭用ゲーム機市場をほぼ独占した。 アタリショックを経験しなかった日本では欧米ほどホビーパソコンは普及しなかったが、パソコン用ゲーム市場ではロールプレイングゲーム、シミュレーションゲーム、テキストアドベンチャーゲームのジャンルを中心に多数の作品が生まれ、それらのソフトがゲーム機に移植されることでゲーム機用ソフトの多様性が高まり、ゲーム機の価値が一層増すことになった。 === それ以外の地域 === [[File:Atari-2600-Jr-FL.png|thumb|アタリショック後に発売されたAtari 2600Jr(1986年)。途上国などではこの頃よりVCSの普及期に入る。]] それ以外の地域への影響もほとんどなかった。アタリショック後、1985年には北米の家庭用ゲーム機市場が底を打ち、1986年よりNESの普及が始まるが、一方1986年にはAtari VCSの廉価版(通称 Atari 2600 Jr.)が発売され、アジアや南米では逆にこの頃よりAtari VCSの普及期に入る。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|refs= <ref name="山田">{{citation|和書|last=山田|first=真司|title=<特集>音楽制作と情報処理の友好関係|contribution=ゲーム・ケータイの音楽|journal=システム/制御/情報|volume=56|issue=5|pages=226 - 231|year=2012|publisher=システム制御情報学会}}</ref> <ref name="樺島">{{citation|和書|last=樺島|first=榮一郎|title=コンテンツ産業の段階発展理論からみる一九七二〜八三年の北米ビデオ・ゲーム産業─いわゆる「アタリ・ショック」をどう解釈するか|journal=コンテンツ文化史研究|publisher=コンテンツ文化史学会|year=2010|issue=4|pages=24 - 42}}</ref> <ref name="マリオ">[https://www.nintendo.co.jp/n10/interview/mario25th/vol2/index3.html 社長が訊く「スーパーマリオ25周年」]ファミコン発売当時の関係者へのインタビュー。当時の任天堂内部のアタリショックへの恐怖が語られている。</ref> }} == 関連項目 == [[File:Atari E.T. Dig- Alamogordo, New Mexico (14036097792).jpg|thumb|「[[ビデオゲームの墓場]]」から発掘された『E.T.』(2014年)。]] * [[Atari 2600]] (Atari VCS) * [[Nintendo Entertainment System|NES]] - アタリショックで崩壊した北米家庭用ゲーム市場は任天堂のNESによって復興された。 * マテル・[[インテレビジョン]] - Atari VCSの競合機。アタリショックに巻き込まれて市場が崩壊し、マテルは大きな損失を出したが倒産は免れた。 * コレコ・[[コレコビジョン]] - Atari VCSの競合機。[[コレコ]]はアタリショックによる損失は少なかったが、ゲーム事業を見限って本業のおもちゃ事業に打ち込んだ結果、[[キャベツ畑人形]]ブームへの過剰投資が原因で倒産した。 * [[アクティビジョン]] - アタリショックを乗り切った数少ないサードパーティの一つ。 {{デフォルトソート:あたりしよつく}} [[Category:コンピュータゲーム用語]] [[Category:アタリ]] [[Category:1982年の北アメリカ]] [[Category:1983年の北アメリカ]]
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計算物理学
計算物理学(けいさんぶつりがく、英語: computational physics)は、解析的に解けない物理現象の基礎方程式を計算機(コンピュータ)を用いて数値的に解くことを目的とする物理学の一分野である。 計算物理学では、ナヴィエ・ストークス方程式やマクスウェル方程式のような物理学での基礎方程式を計算機を用いてひたすら数値的に解く、という手法が用いられる。 流体力学でのナヴィエ・ストークス方程式やプラズマ物理学での磁気流体方程式のような微分方程式では、解析解が得られることはきわめてまれであり、理論物理学では多くの場合断熱過程や線形性など近似を用いて物理現象を説明する。 ここ100年ほどの計算機とアルゴリズムの発達によって、大胆な近似を導入しなくても、「数値的に解く」ことで物理量のおおよその振る舞いを調べることが可能となった。この計算機で得た数値的な解から新たな物理現象を発見することがこの分野の目的である。この数値的に解くことは一般には「シミュレーション」などと呼ばれる。 この分野は一般には、理論物理学に属すると考えることができるが、一方で、このような数値的な解析を「計算機実験」と称することもあるように、実験的な側面も存在する。このため、物理学における理論、実験以外の第三の分野として、この「計算物理学」を捉える考え方も存在する。たとえば、さまざまな条件下で基礎方程式を解くことで、新たな現象、効果の存在が示唆されることもあり、理論物理学者はそこから理論モデルを構築する。一方で大規模な実験の前にはほとんど必ずシミュレーションが行われており、実験を行う根拠として数値解析の結果が使われる。
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計算物理学は、解析的に解けない物理現象の基礎方程式を計算機(コンピュータ)を用いて数値的に解くことを目的とする物理学の一分野である。
{{計算物理学}} {{pathnav|科学|計算科学}} '''計算物理学'''(けいさんぶつりがく、{{lang-en|computational physics}})は、[[解析]]的に解けない物理現象の[[基礎方程式]]を計算機([[コンピュータ]])を用いて数値的に解くことを目的とする[[物理学]]の一分野である。 == 概要 == 計算物理学では、[[ナヴィエ・ストークス方程式]]<ref>Temam, R. (2001). Navier-Stokes equations: theory and numerical analysis (Vol. 343). American Mathematical Soc..</ref><ref>Marion, M., & Temam, R. (1998). Navier-Stokes equations: Theory and approximation. Handbook of numerical analysis, 6, 503-689.</ref><ref>Girault, V., & Raviart, P. A. (2012). Finite element methods for Navier-Stokes equations: theory and algorithms (Vol. 5). Springer Science & Business Media.</ref><ref>Moser, R. D., Moin, P., & Leonard, A. (1983). A spectral numerical method for the Navier-Stokes equations with applications to Taylor-Couette flow. Journal of Computational Physics, 52(3), 524-544.</ref>や[[マクスウェル方程式]]<ref>Monk, P. (2003). Finite element methods for Maxwell's equations. Oxford University Press.</ref><ref>Makridakis, C. G., & Monk, P. (1995). Time-discrete finite element schemes for Maxwell's equations. ESAIM: Mathematical Modelling and Numerical Analysis, 29(2), 171-197.</ref><ref>Cockburn, B., Li, F., & Shu, C. W. (2004). Locally divergence-free discontinuous Galerkin methods for the Maxwell equations. Journal of Computational Physics, 194(2), 588-610.</ref>のような物理学での基礎方程式を計算機を用いてひたすら数値的に解く、という手法が用いられる。 [[流体力学]]でのナヴィエ・ストークス方程式や[[プラズマ物理学]]での磁気流体方程式のような微分方程式では、解析解が得られることはきわめてまれであり<ref>Constantin, P., & Foias, C. (1988). Navier-stokes equations. University of Chicago Press.</ref><ref>Foias, C., Manley, O., Rosa, R., & Temam, R. (2001). Navier-Stokes equations and turbulence (Vol. 83). Cambridge University Press.</ref>、[[理論物理学]]では多くの場合[[断熱過程]]や[[線形性]]など近似を用いて物理現象を説明する。 ここ100年ほどの計算機とアルゴリズムの発達によって、大胆な近似を導入しなくても、「数値的に解く」ことで物理量のおおよその振る舞いを調べることが可能となった<ref>Brezinski, C., & Wuytack, L. (2012). Numerical analysis: Historical developments in the 20th century. Elsevier.</ref>。この計算機で得た数値的な解から新たな物理現象を発見することがこの分野の目的である。この数値的に解くことは一般には「シミュレーション」などと呼ばれる。 この分野は一般には、[[理論物理学]]に属すると考えることができるが、一方で、このような数値的な解析を「計算機実験」と称することもあるように、[[実験]]的な側面も存在する。このため、物理学における[[理論]]、実験以外の第三の分野として、この「計算物理学」を捉える考え方も存在する。たとえば、さまざまな条件下で基礎方程式を解くことで、新たな現象、効果の存在が示唆されることもあり、理論物理学者はそこから理論モデルを構築する。一方で大規模な実験の前にはほとんど必ずシミュレーションが行われており、実験を行う根拠として[[数値解析]]の結果が使われる。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==参考文献== * 夏目雄平、小川建吾、鈴木敏彦、計算物理 (全三巻)、[[朝倉書店]]。 * Thijssen, Jos (2007). Computational Physics. [[:en:Cambridge University Press]]. {{ISBN2|978-0521833462}}. * Landau, Rubin H.; Páez, Manuel J.; Bordeianu, Cristian C. (2015). Computational Physics: Problem Solving with Python. John Wiley & Sons. * Landau, Rubin H.; Paez, Jose; Bordeianu, Cristian C. (2011). A survey of computational physics: introductory computational science. [[:en:Princeton University Press]]. * Steven E. Koonin, Computational Physics, [[:en:Addison-Wesley]] (1986) * T. Pang, An Introduction to Computational Physics, [[:en:Cambridge University Press]] (2010) * B. Stickler, E. Schachinger, Basic concepts in computational physics, [[:en:Springer Verlag]] (2013). {{ISBN2|9783319024349}}. * [https://www.youtube.com/channel/UC7zQqYdH0qH4FPrhiutRAvQ 計算物理 春の学校 2023 (YouTube Channel)] == 関連記事 == {{div col|rules=yes}} * [[電磁界解析]] * [[物理学]] * [[モンテカルロ法]] * [[分子動力学法]] * [[第一原理計算]] * [[数理物理学]] * [[MCMC]] * [[高性能計算]] * [[R言語]] * [[GNU Octave]] {{div col end}} {{Physics-footer}} {{authority control}} {{DEFAULTSORT:けいさんふつりかく}} [[Category:計算物理学|*けいさんふつりかく]] [[Category:研究の計算分野]] [[Category:物理学の分野]] [[Category:シミュレーション]]
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ML (プログラミング言語)
ML(えむえる、Meta-Language)は、関数型言語のひとつである。現代風の関数型言語としては歴史が古いほうで、型推論機能などを持つが、デフォルトの評価戦略は遅延評価ではなく先行評価で、書き換えが可能なレコード型を持つなど、いわゆる「純粋関数型」でない特徴や機能を持つ。 自動定理証明系において、証明の道筋を関数として記述するためのメタ言語として生まれたという経緯を持ち(#歴史の節を参照)、名前はそのことに由来する。構文はISWIMの影響を受けている。 MLによってプログラマに知られるようになった機能に、型推論がある。これは、明示的に型の宣言を行わなくても、データの利用のされ方から、引数や関数の返す型を自動的に推論してくれる機能である。これにより、プログラマの負担が著しく軽減される。 標準(ないし一方言)としてStandard ML (SML) があり、その実装には、Standard ML of New Jersey(英語版) (SML/NJ) や、東北大学電気通信研究所大堀研究室が開発を進めているSML#などがある。標準以外の仕様の実装としてはOCamlなどがある。詳細仕様は実装ごとに異なっており、各実装での仕様をそれぞれのMLの方言と捉える場合もある。 SMLの詳細とその実装の一覧はStandard MLを参照のこと。 以降の記法や名前はSMLのものである。OCamlなどその他の実装については、SMLと差異があるため各実装の記事を参照のこと。 MLの基本的な演算子は以下の通り MLの関数の定義は と書く。Haskellと同様なパターンマッチングがある。複数のパターンはガード記法 | をセパレータとする。 例として階乗を求めるプログラムを以下に示す。 MLでの関数の評価は関数が定義されたときに行われる。このためMLでは関数定義の順序が無視できない。例として のような関数がある場合は必ず b の方が先に定義されていないといけない。しかしこの場合はお互いを呼ぶような再帰呼び出しの実装が不可能である。そこでMLではそのような関数のために二つの関数を and でつなぐことによってこれを実装することができる。 例を挙げると これは take が与えられたリストの奇数番目の要素を返し、skip が偶数番目の要素を返す関数である。 デイナ・スコットの提案したPPLAMBDAという論理体系を利用し、ロビン・ミルナーはLogic for Computable Functions(英語版) (LCF) という証明のチェックや定理の自動証明をするシステムを実装した。1973年に発足したEdinburgh LCFのプロジェクトにおいて、証明の道筋を関数として記述するためのメタ言語として開発されたのが、MLの最初であり、強い型付きの言語として設計された。 Edinburgh LCFとMLは、1975~76年にエディンバラ大学で実装された。特に1980年代以降、汎用プログラミング言語として多数の機能やライブラリが追加されている。 (この節 参考文献『新しいプログラミング・パラダイム』(ISBN 4-320-02493-1) pp. 120-121)
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ML(えむえる、Meta-Language)は、関数型言語のひとつである。現代風の関数型言語としては歴史が古いほうで、型推論機能などを持つが、デフォルトの評価戦略は遅延評価ではなく先行評価で、書き換えが可能なレコード型を持つなど、いわゆる「純粋関数型」でない特徴や機能を持つ。
{{Infobox プログラミング言語 | fetchwikidata = ALL | onlysourced = false | name = ML | released = {{start date and age|1973}} | designer = [[ロビン・ミルナー]]およびその他の[[エディンバラ大学]]の人物 | dialects = [[Standard ML|SML]], [[OCaml]] | typing = 型推論をもつ、<br />強い[[静的型付け]] | influenced = [[F Sharp|F#]],[[Miranda]], [[Haskell]], [[Cyclone]], [[Nemerle]] }} '''ML'''(えむえる、Meta-Language)は、[[関数型言語]]のひとつである。現代風の関数型言語としては歴史が古いほうで、[[型推論]]機能などを持つが、デフォルトの[[評価戦略]]は[[遅延評価]]ではなく[[先行評価]]で、書き換えが可能なレコード型を持つなど、いわゆる「純粋関数型」でない特徴や機能を持つ。 == 概要 == [[自動定理証明]]系において、証明の道筋を関数として記述するための[[メタ言語]]として生まれたという経緯を持ち([[#歴史]]の節を参照)、名前はそのことに由来する。構文は[[ISWIM]]の影響を受けている。 MLによってプログラマに知られるようになった機能に、[[型推論]]がある。これは、明示的に型の宣言を行わなくても、データの利用のされ方から、引数や関数の返す型を自動的に推論してくれる機能である。これにより、プログラマの負担が著しく軽減される。 標準(ないし一方言)として[[Standard ML]] (SML) があり、その実装には、{{仮リンク|Standard ML of New Jersey|en|Standard ML of New Jersey}} (SML/NJ) や、東北大学電気通信研究所大堀研究室が開発を進めているSML#<ref>[http://www.pllab.riec.tohoku.ac.jp/smlsharp/ja/ SML#プロジェクト]</ref>などがある。標準以外の仕様<ref group="注釈">OCamlは、表層文法 (surface grammar) すなわち綴りや字句的構文 (lexical syntax) の違いが目立つので差異が大きいと思われやすいが、{{要出典範囲|表層以外の言語の本体はそう違うわけではない。|date=2020年3月}}</ref>の実装としては[[OCaml]]などがある。詳細仕様は実装ごとに異なっており、各実装での仕様をそれぞれのMLの方言と捉える場合もある。 SMLの詳細とその実装の一覧は[[Standard ML]]を参照のこと。 == 言語仕様 == {{See also|Standard ML}} 以降の記法や名前はSMLのものである。[[OCaml]]などその他の実装については、SMLと差異があるため各実装の記事を参照のこと。 === 演算子 === MLの基本的な演算子は以下の通り * + 加算, - 減算, * 乗算 * / 実数での除算, div 整数での除算, mod 剰余 * :: [[線形リスト|リスト]]に要素を追加, @ [[線形リスト|リスト]]の結合 * ^ [[文字列]]の連結, if~then~else if文(扱いは3項演算子) === 関数の定義 === MLの関数の定義は fun (関数名)(引数) = (内容); と書く。[[Haskell]]と同様な[[パターンマッチング]]がある。複数のパターンはガード記法 | をセパレータとする。 例として[[階乗]]を求めるプログラムを以下に示す。 fun factorial(1) = 1 | factorial(n) = n * factorial(n-1); MLでの関数の評価は関数が定義されたときに行われる。このためMLでは関数定義の順序が無視できない。例として fun a(x) = b(x-1) + x; fun b(x) = x * x; のような関数がある場合は必ず b の方が先に定義されていないといけない。しかしこの場合はお互いを呼ぶような[[再帰呼び出し]]の実装が不可能である。そこでMLではそのような関数のために二つの関数を and でつなぐことによってこれを実装することができる。 例を挙げると fun take(nil) = nil | take(x::xs) = x::skip(xs) and skip(nil) = nil | skip(x::xs) = take(xs); これは take が与えられたリストの奇数番目の要素を返し、skip が偶数番目の要素を返す関数である。 == 歴史 == [[デイナ・スコット]]の提案したPPLAMBDAという論理体系を利用し、[[ロビン・ミルナー]]は{{仮リンク|Logic for Computable Functions|en|Logic for Computable Functions}} (LCF) という証明のチェックや定理の自動証明をするシステムを実装した。1973年に発足したEdinburgh LCFのプロジェクトにおいて、証明の道筋を関数として記述するための[[メタ言語]]として開発されたのが、MLの最初であり、強い型付きの言語として設計された。 Edinburgh LCFとMLは、1975~76年に[[エディンバラ大学]]で実装された。特に1980年代以降、汎用プログラミング言語として多数の機能やライブラリが追加されている。 (この節 参考文献『新しいプログラミング・パラダイム』(ISBN 4-320-02493-1) pp. 120-121) == 脚注 == ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references/> == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |first = Jeffrey |last = Ullman |others = 神林 靖 訳 |year = 1996 |month = 3 |title = プログラミング言語ML |publisher = アスキー |location = 東京 |isbn = 4-7561-1641-8 }} == 外部リンク == * [http://www.smlnj.org/ Standard ML of New Jersey] * [http://caml.inria.fr/ The Caml language: Home] * [http://lang.x0.com/func/ml/sml.htm Standard ML リンク集] {{プログラミング言語一覧}} {{Computer-stub}}{{authority control}} [[Category:プログラミング言語|ML]] [[Category:関数型プログラミング言語|ML]]
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ガベージコレクション
ガベージコレクション(英: garbage collection、GC)とは、コンピュータプログラムが動的に確保したメモリ領域のうち、不要になった領域を自動的に解放する機能である。1959年ごろ、LISPにおける問題を解決するためジョン・マッカーシーによって発明された。 メモリの断片化を解消する機能はコンパクション(英: memory compaction)と呼ばれ、実現方法によってはガベージコレクションと共にコンパクションも行う仕組みになっている。そのためコンパクションを含めてガベージコレクションと呼ぶ場合もあるが、厳密には区別される。 また、ガベージコレクションを行う主体はガベージコレクタ(英: garbage collector)と呼ばれる。ガベージコレクタはタスクやスレッドとして実装される場合が多い。 「ガベージコレクション」を直訳すれば「ゴミ集め」「ごみ拾い」となる。JISでは「廃品回収」や「ゴミ集め」などという直訳が割り当てられている規格もあるが、一般的な意味での「ゴミ集め」と紛らわしく、プログラミングの分野ではかえって意味が通じなくなるため、ごく一部の学会誌や論文などを除き、実際に使われることはほとんどなく、外来語として各種カナ表記やGCという略記が使われることが一般的である。 従来のメモリ管理では、プログラマがプログラムの実行中においてメモリが必要となる期間を考え、必要となった時点でメモリを確保するコードを記述し、不要となった時点で解放するコードを記述していた。 ガベージコレクションを使用する場合、メモリを確保するコードはプログラマが明示的に記述するが、メモリの解放については明示的に記述する必要がなく、ガベージコレクタが不要と判断した時に、自動的にメモリを解放する。確保したメモリが不要かどうかは、プログラムが今後そのメモリにアクセスするかどうかで決まり、スタックや変数テーブルなどから参照をたどってメモリに到達可能かどうかによって判断される。 ガベージコレクションの機能は、初めからプログラミング言語の言語機能や言語処理系あるいはフレームワークに組み込まれている場合や、外部ライブラリなどによって提供される場合がある。 ガベージコレクションはプログラマが明示的にメモリの解放を行う必要が無いため、以下に示すメモリ管理に関連する陥りやすいバグを回避することができる。 ただしガベージコレクションにおいても、今後使用することのないオブジェクトへのポインタをいつまでも保持しているようなコードでは、いつまでもオブジェクトが解放されず、メモリ不足を起こしてしまう。これは論理的な設計の問題であり、ガベージコレクションを持つ処理系においてもこの種のメモリリークは発生する。 メモリ管理に関するバグを回避する以外に、プログラミングスタイルの選択肢を広げる効果も持つ。型変換などのために一時的なオブジェクトを生成する、マルチスレッドを利用したプログラムでスレッド間でオブジェクトを共有して使用する、といった処理はメモリ確保・解放の処理の記述が煩雑となることが多い。しかし、ガベージコレクションを持つ言語処理系においては煩雑な記述を省略することができ、これらの処理をより自然に記述することができる。 多くの実装では、入れ違いにより誤って到達可能なメモリが不可能と判断されないように、ガベージコレクトが開始されると他の処理を止め、本処理が中断される(Stop-the-world ガベージコレクタ)。CPUを長時間(数百ミリ秒から数十秒)占有することもある。ガベージコレクションの動作タイミングの予測やCPUの占有時間の事前予測などが困難なことから、デッドラインが決められているリアルタイムシステムに使用することは難しい。リアルタイム性を改善したGCとして、インクリメンタルGCやコンカレントGCがある。 ガベージコレクションは、Javaのように言語処理系に組み込まれたものと、C言語のように言語処理系に組み込まれていない物がある。組み込まれていない場合は独自に記述したり、ライブラリを使用することで実現できるものがある。 ガベージコレクションは、プログラム本来の動作とは別に時間のかかる処理である。そこで、ガベージコレクションには本来のプログラムの動作に対して影響が少ないことが求められる。 一般に、デスクトップアプリケーションでは、応答時間を短くするため、ガベージコレクションによるプログラムの停止時間を最小にすることが要求される。また、サーバアプリケーションでは、応答時間よりもスループットを求められることが多く、ガベージコレクションにもスループット性能が高いものが求められる。さらに、機器組み込みアプリケーションでは、機器に搭載されるCPUの能力の低さやメモリ容量の小ささから、リソース消費が小さいものが求められる。また、リアルタイムシステムでは、プログラム動作時間のばらつきを最小にしたいという要求もある。 これらの要求をすべて満たすようなアルゴリズムは存在しないため、さまざまな手法が提案されている。代表的なガベージコレクションアルゴリズムには、以下のものがある。 これらのアルゴリズムは複合して使用することもあり、世代別ガベージコレクションではコピーGCとマーク・アンド・スイープの両方のアルゴリズムを使用している。 また、アプリケーション動作への影響の観点から、アプリケーション動作をすべて止めるストップ・ザ・ワールド方式と、アプリケーション動作と並行して動作するコンカレント方式に分類することができる。 一般論として、高レベルな言語ほどガベージコレクションを言語の標準機能として備えていることが多い。言語に組み込まれていない場合でも、C言語/C++向けのBoehm GCのように、ライブラリとして実装されていることもある。ライブラリベースのアプローチは、オブジェクトの生成と破棄のメカニズムを変更する必要があるなど、欠点もある。 MLやHaskell、APLなどの関数型言語の多くはガベージコレクションが組み込まれている。特に、関数型言語の先駆けとなったLISPは最初にガベージコレクションを取り入れた言語でもある。 Rubyなどといった動的言語も、ガベージコレクションを備えていることが多い(ただしPerl 5やPHP 5.2以前には参照カウント方式のものしかない)。Smalltalk、Java、ECMAScriptのようなオブジェクト指向言語には、たいていガベージコレクションが組み込まれている。C#やVisual Basic .NETなどの.NET言語は.NET Framework/.NET Compact Framework/Monoといった実行環境下において、実装形態に差はあれどいずれもガベージコレクションを利用可能である。特筆すべき例外はC++とDelphiで、それらはデストラクタがその代わりとなっている。 古典的なBASICインタープリタ(N88-BASIC、F-BASICなど)においてもガベージコレクションが備えられており、文字列の連結操作の結果使われなくなった領域を再度BASICが使えるようにする処理が行われた。その処理の間、BASICがフリーズしたかのようになることから、ガベージコレクションが発生しないようにする方法として、文字列の連結を極力行わず、最大文字数が格納できる領域を持った文字列変数に対して MID$、LEFT$、RIGHT$ 関数を使用することで代用することが推奨されていた。 Objective-Cには参照カウントベースのオブジェクト寿命管理機能が組み込まれており、元々ガベージコレクションはなかったが、AppleのObjective-C 2.0では、Mac OS X 10.5以降に限り保守的な世代別GCベースのランタイムコレクタが使用可能である。ただしiOSではこのGCを利用できない。なお、macOSに関しても、NSGarbageCollectorはOS X 10.8から廃止予定扱いとなり、SDK 10.10を最後に廃止されており、またOS X 10.11を最後にこのGCは搭載されなくなり、macOS 10.12で廃止された。2015年5月以降、Mac App Storeで新規登録/更新されるアプリはGCを使えなくなっている。代替として、自動参照カウント (Automatic Reference Counting; ARC) によるメモリ管理が推奨されている。一方で、GNUstepはBoehm GCを使用している。 Pythonは主に参照カウント方式のガベージコレクションを用いているが、補助的に(伝統的なマーク&スイープとは逆順の探索アルゴリズムによる)世代別GCを併用している。 C++/CLIでは、gcnewで生成したCLIオブジェクトは.NET Frameworkのガベージコレクションにより管理される。 C++/CX(英語版)では、ref newで生成したWindowsランタイムオブジェクトはCOMベースの参照カウントにより管理される。 なお、C言語で参照カウント方式のガベージコレクションを利用する場合、通常煩雑なコーディングを必要とするが、C++では以下のようなRAIIを活用したスマートポインタ(英語版)を利用することで緩和できる。 分散コンピューティング環境では、あるホスト内のオブジェクトだけではなく、リモートホスト上に存在するオブジェクトとメッセージのやり取りが行われることがある。このような環境においてローカルなガベージコレクションと同様、不要なオブジェクトを破棄する手法が分散ガベージコレクションである。リモートホストからの参照状態の検出、通信が切れた場合の処理などローカルホストのガベージコレクションとは異なる課題を解決する必要がある。 従来のGCは、対象となるメモリ領域がいっぱいになった時に一気にGCを行なうものであり、この方法では、メモリ領域のサイズが大きくなるに従い、GC時間が長くなっていく欠点がある。この問題に対処するために世代別ガベージコレクションが考案された。 世代別GCでは新領域と古い領域にメモリ領域が分けられ、新規に作成されたオブジェクトは、新領域に配置され、新領域がいっぱいになった時点で、新領域内部だけのGCが走る。このGCはメモリ全体に対するGCに比べると当然のことながら低負荷・高速になる。新領域に対するGCを一定回数生き残ったオブジェクトは、古領域に移動し、古領域がいっぱいになった時に、初めて全てのメモリ領域を対象とするFULL GCが行われる。
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ARC) によるメモリ管理が推奨されている。一方で、GNUstepはBoehm GCを使用している。", "title": "言語による利用可能性" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "Pythonは主に参照カウント方式のガベージコレクションを用いているが、補助的に(伝統的なマーク&スイープとは逆順の探索アルゴリズムによる)世代別GCを併用している。", "title": "言語による利用可能性" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "C++/CLIでは、gcnewで生成したCLIオブジェクトは.NET Frameworkのガベージコレクションにより管理される。", "title": "言語による利用可能性" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "C++/CX(英語版)では、ref newで生成したWindowsランタイムオブジェクトはCOMベースの参照カウントにより管理される。", "title": "言語による利用可能性" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、C言語で参照カウント方式のガベージコレクションを利用する場合、通常煩雑なコーディングを必要とするが、C++では以下のようなRAIIを活用したスマートポインタ(英語版)を利用することで緩和できる。", "title": "ライブラリ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "分散コンピューティング環境では、あるホスト内のオブジェクトだけではなく、リモートホスト上に存在するオブジェクトとメッセージのやり取りが行われることがある。このような環境においてローカルなガベージコレクションと同様、不要なオブジェクトを破棄する手法が分散ガベージコレクションである。リモートホストからの参照状態の検出、通信が切れた場合の処理などローカルホストのガベージコレクションとは異なる課題を解決する必要がある。", "title": "分散ガベージコレクション" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "従来のGCは、対象となるメモリ領域がいっぱいになった時に一気にGCを行なうものであり、この方法では、メモリ領域のサイズが大きくなるに従い、GC時間が長くなっていく欠点がある。この問題に対処するために世代別ガベージコレクションが考案された。 世代別GCでは新領域と古い領域にメモリ領域が分けられ、新規に作成されたオブジェクトは、新領域に配置され、新領域がいっぱいになった時点で、新領域内部だけのGCが走る。このGCはメモリ全体に対するGCに比べると当然のことながら低負荷・高速になる。新領域に対するGCを一定回数生き残ったオブジェクトは、古領域に移動し、古領域がいっぱいになった時に、初めて全てのメモリ領域を対象とするFULL GCが行われる。", "title": "世代別ガベージコレクション" } ]
ガベージコレクションとは、コンピュータプログラムが動的に確保したメモリ領域のうち、不要になった領域を自動的に解放する機能である。1959年ごろ、LISPにおける問題を解決するためジョン・マッカーシーによって発明された。 メモリの断片化を解消する機能はコンパクションと呼ばれ、実現方法によってはガベージコレクションと共にコンパクションも行う仕組みになっている。そのためコンパクションを含めてガベージコレクションと呼ぶ場合もあるが、厳密には区別される。 また、ガベージコレクションを行う主体はガベージコレクタと呼ばれる。ガベージコレクタはタスクやスレッドとして実装される場合が多い。 「ガベージコレクション」を直訳すれば「ゴミ集め」「ごみ拾い」となる。JISでは「廃品回収」や「ゴミ集め」などという直訳が割り当てられている規格もあるが、一般的な意味での「ゴミ集め」と紛らわしく、プログラミングの分野ではかえって意味が通じなくなるため、ごく一部の学会誌や論文などを除き、実際に使われることはほとんどなく、外来語として各種カナ表記やGCという略記が使われることが一般的である。
'''ガベージコレクション'''{{efn|英単語 {{en|garbage}} の仮名表記には多くの表記揺れがあるが、本項では「ガベージ」に統一する。<!-- 表記揺れはリダイレクト作成済み -->}}({{lang-en-short|garbage collection}}、'''GC''')とは、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]が[[動的メモリ確保|動的に確保]]した[[主記憶装置|メモリ]]領域のうち、不要になった領域を自動的に解放する機能である。[[1959年]]ごろ、[[LISP]]における問題を解決するため[[ジョン・マッカーシー]]によって発明された<ref>[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=367177.367199 Recursive functions of symbolic expressions and their computation by machine, Part I]</ref><ref>[http://www-formal.stanford.edu/jmc/recursive.html RECURSIVE FUNCTIONS OF SYMBOLIC EXPRESSIONS AND THEIR COMPUTATION BY MACHINE (Part I) (12-May-1998)]</ref>。 メモリの[[フラグメンテーション|断片化]]を解消する機能は'''コンパクション'''({{lang-en-short|memory compaction}})と呼ばれ、実現方法によってはガベージコレクションと共にコンパクションも行う仕組みになっている。そのためコンパクションを含めてガベージコレクションと呼ぶ場合もあるが、厳密には区別される。 また、ガベージコレクションを行う主体は'''ガベージコレクタ'''({{lang-en-short|garbage collector}})と呼ばれる。ガベージコレクタはタスクやスレッドとして実装される場合が多い。 「ガベージコレクション」を直訳すれば「ゴミ集め」「ごみ拾い」となる。[[日本産業規格|JIS]]では「廃品回収」{{sfn|JISX3002|2011|at=9.3.14.2}}や「ゴミ集め」{{sfn|JISX3015|2008}}などという直訳が割り当てられている規格もあるが、一般的な意味での「ゴミ集め」と紛らわしく、プログラミングの分野ではかえって意味が通じなくなるため、ごく一部の学会誌や論文など<ref>{{cite journal|和書|title=分散記憶並列計算機における局所ごみ集めのスケジュール方式について|author=田浦 健次朗|coauthors=米澤 明憲|publisher=情報処理学会|date=2000-05-15|issn=1882-7764|url=http://id.nii.ac.jp/1001/00012308/|format=|accessdate=2021-05-09|language=日本語|journal=情報処理学会論文誌|volume=41|issue=5|pages=1490 - 1499}}</ref>を除き、実際に使われることはほとんどなく、外来語として各種カナ表記やGCという略記が使われることが一般的である<ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110007867048/ CiNii 論文 - Java-AS におけるガベージコレクション対策に関する一考察]</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110002722020 CiNii 論文 - 相補型ガーベジコレクタ]</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110002772184/ CiNii 論文 - 三世代ガーベッジコレクションの圧縮方式による実装について]</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110006291067 CiNii 論文 - 世代管理を保守的に行う世代別GCアルゴリズムの提案およびRuby への実装と評価]</ref><ref>[https://ci.nii.ac.jp/naid/110009806011/ CiNii 論文 - GC実行時のポインタ判別コストを削減するハードウェア支援手法の検討 (コンピュータシステム)]</ref>。 == 動作 == 従来の[[メモリ管理]]では、[[プログラマ]]が[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の実行中においてメモリが必要となる期間を考え、必要となった時点でメモリを確保するコードを記述し、不要となった時点で解放するコードを記述していた。 ガベージコレクションを使用する場合、メモリを確保するコードはプログラマが明示的に記述するが、メモリの解放については明示的に記述する必要がなく、ガベージコレクタが不要と判断した時に、自動的にメモリを解放する。確保したメモリが不要かどうかは、プログラムが今後そのメモリにアクセスするかどうかで決まり、スタックや変数テーブルなどから参照をたどってメモリに到達可能かどうかによって判断される。 ガベージコレクションの機能は、初めから[[プログラミング言語]]の言語機能や言語処理系あるいはフレームワークに組み込まれている場合や、外部ライブラリなどによって提供される場合がある。 == 特徴 == ガベージコレクションはプログラマが明示的にメモリの解放を行う必要が無いため、以下に示すメモリ管理に関連する陥りやすいバグを回避することができる。 ;[[メモリリーク]]の回避 :ガベージコレクションは、[[オブジェクト (プログラミング)|オブジェクト]](データを格納したメモリ領域)とそれを指し示す[[ポインタ (プログラミング)|ポインタ]]を管理するため、オブジェクトは存在しているがそれを指すポインタが無い状態を回避することができる。 ;オブジェクトの二重解放の回避 :いったん解放したオブジェクトをさらに解放することを防ぐ。 ;無効なポインタの回避 :例えば、メモリを動的に割り当てる[[サブルーチン]]([[C言語]]の<code>[[malloc]]</code>関数や[[Pascal]]の<code>New</code>手続きなど)で確保したメモリ領域を指すポインタだったが、メモリを解放するサブルーチン(C言語の<code>free</code>関数やPascalの<code>Dispose</code>手続きなど)に渡し解放した直後のポインタや、[[サブルーチン]]内の自動変数(非静的な[[ローカル変数]])のアドレスを指すポインタだったが、戻り値などによって誤ってサブルーチンの呼び出し元に返却されてしまったポインタ、などが該当する。これらのポインタにはあるアドレスが代入されているが、そのアドレスには有効なオブジェクトがすでに存在せず、ポインタは無効なメモリアドレスを指している。このような無効なポインタを[[ダングリング・ポインタ]] (dangling pointer) といい、ガベージコレクションはこの問題を回避する。 ただしガベージコレクションにおいても、今後使用することのないオブジェクトへのポインタをいつまでも保持しているようなコードでは、いつまでもオブジェクトが解放されず、メモリ不足を起こしてしまう。これは論理的な設計の問題であり、ガベージコレクションを持つ処理系においてもこの種のメモリリークは発生する。 メモリ管理に関するバグを回避する以外に、プログラミングスタイルの選択肢を広げる効果も持つ。[[型変換]]などのために一時的なオブジェクトを生成する、[[スレッド (コンピュータ)|マルチスレッド]]を利用したプログラムでスレッド間でオブジェクトを共有して使用する、といった処理はメモリ確保・解放の処理の記述が煩雑となることが多い。しかし、ガベージコレクションを持つ言語処理系においては煩雑な記述を省略することができ、これらの処理をより自然に記述することができる。 多くの実装では、入れ違いにより誤って到達可能なメモリが不可能と判断されないように、ガベージコレクトが開始されると他の処理を止め、本処理が中断される(Stop-the-world ガベージコレクタ)。[[CPU]]を長時間(数百ミリ秒から数十秒)占有することもある。ガベージコレクションの動作タイミングの予測やCPUの占有時間の事前予測などが困難なことから、デッドラインが決められている[[リアルタイムシステム]]に使用することは難しい。リアルタイム性を改善したGCとして、インクリメンタルGCやコンカレントGCがある。 == 実装 == ガベージコレクションは、[[Java]]のように言語処理系に組み込まれたものと、[[C言語]]のように言語処理系に組み込まれていない物がある。組み込まれていない場合は独自に記述したり、[[ライブラリ]]を使用することで実現できるものがある。 ガベージコレクションは、プログラム本来の動作とは別に時間のかかる処理である。そこで、ガベージコレクションには本来のプログラムの動作に対して影響が少ないことが求められる。 一般に、デスクトップアプリケーションでは、[[応答時間]]を短くするため、ガベージコレクションによるプログラムの停止時間を最小にすることが要求される。また、サーバアプリケーションでは、応答時間よりも[[スループット]]を求められることが多く、ガベージコレクションにもスループット性能が高いものが求められる。さらに、機器組み込みアプリケーションでは、機器に搭載されるCPUの能力の低さやメモリ容量の小ささから、リソース消費が小さいものが求められる。また、リアルタイムシステムでは、プログラム動作時間のばらつきを最小にしたいという要求もある。 これらの要求をすべて満たすような[[アルゴリズム]]は存在しないため、さまざまな手法が提案されている。代表的なガベージコレクションアルゴリズムには、以下のものがある。 ;[[参照カウント]] :オブジェクトを参照するポインタの数を数え、参照するポインタの数がゼロになったら解放する方法。[[循環参照]]の問題がある。解放が集中したときに、単純な実装だと停止時間が長くなる。 ;[[マーク・アンド・スイープ]] :オブジェクトから別のオブジェクトへの参照をたどり、到達できないオブジェクトを破棄する方法。 ;[[コピーGC]] :通常使用するメモリ領域と同じ容量のメモリ領域をもうひとつ用意し、ガベージコレクションの際に有効なオブジェクトのみをもう一方のメモリ領域にコピーする方法。メモリ領域をデータ保持に必要な容量の2倍消費すること、コピーの際にオブジェクトのアドレスが変更されることなどの欠点があるが、ガベージコレクションとコンパクションが同時に行える利点がある。 これらのアルゴリズムは複合して使用することもあり、[[世代別ガベージコレクション]]ではコピーGCとマーク・アンド・スイープの両方のアルゴリズムを使用している。 また、アプリケーション動作への影響の観点から、アプリケーション動作をすべて止める'''ストップ・ザ・ワールド方式'''と、アプリケーション動作と並行して動作する'''コンカレント方式'''に分類することができる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.infoq.com/jp/articles/understand-classic-java-garbage-collection/ |title=古典的Javaガベージコレクションを理解する |accessdate=2020-09-15}}</ref>。 == 言語による利用可能性 == 一般論として、高レベルな言語ほどガベージコレクションを言語の標準機能として備えていることが多い。言語に組み込まれていない場合でも、[[C言語]]/[[C++]]向けの[[Boehm GC]]のように、ライブラリとして実装されていることもある。ライブラリベースのアプローチは、オブジェクトの生成と破棄のメカニズムを変更する必要があるなど、欠点もある。 [[ML (プログラミング言語)|ML]]や[[Haskell]]、[[APL]]などの[[関数型言語]]の多くはガベージコレクションが組み込まれている。特に、関数型言語の先駆けとなった[[LISP]]は最初にガベージコレクションを取り入れた言語でもある。 [[Ruby]]などといった動的言語も、ガベージコレクションを備えていることが多い(ただし[[Perl]] 5や[[PHP (プログラミング言語)|PHP]] 5.2以前には参照カウント方式のものしかない)。[[Smalltalk]]、Java、[[ECMAScript]]のようなオブジェクト指向言語には、たいていガベージコレクションが組み込まれている。[[C Sharp|C#]]や[[Visual Basic .NET]]などの.NET言語は[[.NET Framework]]/[[.NET Compact Framework]]/[[Mono (ソフトウェア)|Mono]]といった実行環境下において、実装形態に差はあれどいずれもガベージコレクションを利用可能である。特筆すべき例外はC++と[[Delphi]]で、それらは[[デストラクタ]]がその代わりとなっている。 古典的な[[BASIC]]インタープリタ({{lang|en|N88-BASIC}}、{{lang|en|F-BASIC}}など)においてもガベージコレクションが備えられており、文字列の連結操作の結果使われなくなった領域を再度BASICが使えるようにする処理が行われた。その処理の間、BASICがフリーズしたかのようになることから、ガベージコレクションが発生しないようにする方法として、文字列の連結を極力行わず、最大文字数が格納できる領域を持った文字列変数に対して <code>MID$</code>、<code>LEFT$</code>、<code>RIGHT$</code> 関数を使用することで代用することが推奨されていた。 [[Objective-C]]には参照カウントベースのオブジェクト寿命管理機能が組み込まれており、元々ガベージコレクションはなかったが、[[Apple]]のObjective-C 2.0では、[[Mac OS X 10.5]]以降に限り<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atmarkit.co.jp/ait/articles/0908/05/news096_2.html |title=メモリ管理を理解する(後編) (2/2):Cocoaの素、Objective-Cを知ろう(8) - @IT |accessdate=2019-02-14}}</ref>保守的な世代別GCベースのランタイムコレクタが使用可能である。ただし[[iOS]]ではこのGCを利用できない。なお、[[macOS]]に関しても、<code>NSGarbageCollector</code>は[[OS X Mountain Lion|OS X 10.8]]から廃止予定扱いとなり、SDK 10.10を最後に廃止されており<ref>{{Cite web|url=https://developer.apple.com/documentation/foundation/nsgarbagecollector?language=occ |title=NSGarbageCollector - Foundation {{!}} Apple Developer Documentation |language=en |accessdate=2019-02-14}}</ref>、また[[OS X El Capitan|OS X 10.11]]を最後に<ref>{{Cite web|url=https://developer.apple.com/library/archive/releasenotes/DeveloperTools/RN-Xcode/Chapters/Introduction.html#//apple_ref/doc/uid/TP40001051-CH1-SW160 |title=Xcode Release Notes {{!}} Xcode 8.3 |language=en |accessdate=2019-02-14}}</ref>このGCは搭載されなくなり、[[macOS Sierra|macOS 10.12]]で廃止された。2015年5月以降、[[Mac App Store]]で新規登録/更新されるアプリはGCを使えなくなっている<ref>{{Cite web|url=https://www.macobserver.com/tmo/article/apple-warns-developers-garbage-collection-is-dead-move-to-arc |title=Apple Warns Developers Garbage Collection is Dead, Move to ARC – The Mac Observer |language=en |accessdate=2019-02-14}}</ref>。代替として、自動参照カウント (Automatic Reference Counting; ARC) によるメモリ管理が推奨されている。一方で、[[GNUstep]]はBoehm GCを使用している。 [[Python]]は主に参照カウント方式のガベージコレクションを用いているが、補助的に(伝統的なマーク&スイープとは逆順の探索アルゴリズムによる)世代別GCを併用している<ref>{{Cite web|和書|url=https://docs.python.jp/3/library/gc.html#module-gc |title=29.11. gc — ガベージコレクタインターフェース — Python 3.6.5 ドキュメント |accessdate=2019-02-10}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://arctrix.com/nas/python/gc/ |title=Garbage Collection for Python |language=en |accessdate=2019-02-10}}</ref>。 [[C++/CLI]]では、<code>gcnew</code>で生成した[[共通言語基盤|CLI]]オブジェクトは[[.NET Framework]]のガベージコレクションにより管理される。 {{仮リンク|C++/CX|en|C++/CX}}では、<code>ref new</code>で生成した[[Windowsランタイム]]オブジェクトは[[Component Object Model|COM]]ベースの参照カウントにより管理される。 == ライブラリ == * [http://www.hpl.hp.com/personal/Hans_Boehm/gc/ Boehm-Demers-Weiser conservative garbage collector] - C/C++向け。[[マーク・アンド・スイープ]]。 === スマートポインタ === なお、[[C言語]]で[[参照カウント]]方式のガベージコレクションを利用する場合、通常煩雑なコーディングを必要とするが、[[C++]]では以下のような[[RAII]]を活用した{{仮リンク|スマートポインタ|en|Smart pointer|preserve=1}}を利用することで緩和できる。 * [[Boost C++ライブラリ]]の<code>boost::shared_ptr</code>および<code>boost::shared_array</code>。 ** 参照カウントの増減処理をカスタマイズできる<code>boost::intrusive_ptr</code>もある。 * [[C++11]]以降の<code>std::shared_ptr</code> * [[Active Template Library]]の<code>ATL::CComPtr</code> - [[Component Object Model|COM]]オブジェクトのスマートポインタ。 * [[Windowsランタイム|Windows Runtime Library]]の<code>Microsoft::WRL::ComPtr</code> - [[Windowsランタイム]]オブジェクトのスマートポインタ。COMオブジェクトにも使用可能。 == 分散ガベージコレクション == [[分散コンピューティング]]環境では、あるホスト内のオブジェクトだけではなく、リモートホスト上に存在するオブジェクトと[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]]のやり取りが行われることがある。このような環境においてローカルなガベージコレクションと同様、不要なオブジェクトを破棄する手法が分散ガベージコレクションである。リモートホストからの参照状態の検出、通信が切れた場合の処理などローカルホストのガベージコレクションとは異なる課題を解決する必要がある。 == 世代別ガベージコレクション == {{see also|世代別ガベージコレクション}} 従来のGCは、対象となるメモリ領域がいっぱいになった時に一気にGCを行なうものであり、この方法では、メモリ領域のサイズが大きくなるに従い、GC時間が長くなっていく欠点がある。この問題に対処するために[[世代別ガベージコレクション]]が考案された。 世代別GCでは新領域と古い領域にメモリ領域が分けられ、新規に作成されたオブジェクトは、新領域に配置され、新領域がいっぱいになった時点で、新領域内部だけのGCが走る。このGCはメモリ全体に対するGCに比べると当然のことながら低負荷・高速になる。新領域に対するGCを一定回数生き残ったオブジェクトは、古領域に移動し、古領域がいっぱいになった時に、初めて全てのメモリ領域を対象とするFULL GCが行われる。 == SSDにおけるガベージコレクション == {{main|ライトアンプリフィケーション#SSDにおけるガベージコレクション(GC)}} == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist}} === 出典 === {{reflist}} == 参考文献 == * {{cite jis|X|3002|2011|name=電子計算機プログラム言語COBOL}} * {{cite jis|X|3015|2008|name=プログラム言語C#}} == 関連項目 == * [[動的メモリ確保]] * [[弱い参照]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:かへえしこれくしよん}} [[Category:自動メモリ管理|*]] [[Category:プログラミング]]
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任天堂
任天堂株式会社(にんてんどう、英: Nintendo Co., Ltd.)は、日本の代表的なグローバル企業の一社であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行っている。本社所在地は京都府京都市南区。TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。 1889年に創業した老舗企業で娯楽に関するさまざまな事業を展開している。創業以来、多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造、販売を続けている。 1970年代後期に家庭用と業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。1983年発売の据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のゲームソフトとして1985年に発売した『スーパーマリオブラザーズ』が世界的にヒットしたことでゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。 『スーパーマリオブラザーズ』(マリオシリーズ)の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的に認知されているものが多く、2010年代からはキャラクターIPのゲーム外での活用を進めている。 当時は会社の形態ではないが便宜上「社長」と表記している。 任天堂はハードウェアとソフトウェアの開発を共に手がけるビジネスを展開している。元代表取締役社長の岩田聡は『Game Developers Conference 2011』の講演で、「任天堂は、『ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくものだ』と考えています。ご存じのように任天堂は、他社製プラットフォーム向けにゲームを提供しません。お客様にいい意味で驚いてもらうためには、自社ハードと自社ソフトをマッチさせることが最も確実な方法だと考えるからです。当社はまず第一にゲームクリエーターであり、その次にハードウェア製造者なのです」と語っている。「ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくもの」という言葉は山内溥の発言の一つであり、それを引用したものとされる。 ハードウェアに関しては堅牢性と耐久性を重視している。かつてハードウェア開発責任者を務めていた竹田玄洋によると、それは子供ユーザーに配慮したものであり、ゲーム機が壊れてしまったときに「僕が壊した」ではなく、「勝手に壊れた」となってしまう事態を見越したうえでの設計文化ができ上がっているのだという。任天堂ハードウェアの頑丈さを顕著に示す事例として、湾岸戦争で爆撃に巻き込まれたゲームボーイが正常に動作した事例がある。 なお、任天堂名義での外部向け開発はフジテレビジョンの『夢工場ドキドキパニック』(任天堂情報開発本部)ぐらいである。他には『サンリオカーニバル2』も任天堂情報開発本部が担当した外部向け開発作品であり、実際は1990年代初頭に外部向けの開発を専業とした電通との合弁子会社として設立していた「株式会社マリオ」の名義を借りており、同作のパブリッシャーで、サンリオ子会社のゲーム会社であるキャラクターソフトぐらいしか株式会社マリオへの開発依頼が来ず、他には『ハローキティワールド』(パックスソフトニカ)とといったゲームタイトルも株式会社マリオの名義を借りていた。 2000年代中期のニンテンドーDSとWiiの時代からは「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として、幅広い年代を対象としたハードウェアとソフトウェアの開発を行っている。岩田聡は2004年の経営方針説明会の中でユーザーのゲーム離れによるゲーム市場縮小の現状と熟練者、初心者間の意識の乖離について触れ、その打開策としてタッチパネルや音声認識機能を搭載したニンテンドーDSを制作して全員が同じスタートラインに立てることを目指したと語っている。なお、近年は「ゲーム人口の拡大」の定義を広げて「任天堂IP(知的財産)に触れる人口を拡大する」とし、後述のようにIPの活用にも注力している。 任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。代表取締役社長を務めていた岩田の時代では高額課金を誘発する「ガチャ課金」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため、「ガチャ課金」は行わないとしていた。 任天堂は自社を娯楽企業であるとしているが2014年以降は、その娯楽の定義を「QOL(Quality of Life、生活の質)を楽しく向上させるもの」と再定義して事業領域の拡大を目指している。これは自社内だけで完結するものではなく、アイデアを持っているさまざまなパートナーが参加できるようにしたいとしている。 事業の第1弾として「健康」をテーマに掲げている。この事業では「QOLセンサー」という装置を用いる。この装置を用いて睡眠や疲労状態に関するデータをクラウドサーバーに送信し、その分析結果に基づいてQOL改善のための提案がなされる。これを日々続けることで傾向を探り、QOLの向上を目指すことを目的としている。 2016年配信の『Miitomo』より、スマートデバイスでのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現したうえで、ゲーム専用機事業との相乗効果を生み出して任天堂の事業全体の最大化を目指している。 ゲームアプリの販売方式については「売り切り型」「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「Free to Play(プレイ無料、無料で遊べる)」という言葉が用いられるが、任天堂はゲームの価値を維持したいという観点から「Free to Start(始めるのは無料)」という呼称を用いている。 任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、2014年以降はその方針を転換して積極的に活用するようになった。 活用例の一つとして、さまざまなゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年12月より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。 また、ユニバーサル・パークス&リゾーツが展開しているテーマパークへの登用、映像コンテンツ化、商品化などさまざまな計画を予定している。 花札、トランプ、かるた(百人一首)、麻雀(麻雀牌)、将棋(将棋盤、駒)、囲碁(碁盤、碁石)の製造、販売を行っている。 上記の玩具のほか、以前にはウルトラハンド、ウルトラマシン(英語版)、ラブテスター、光線銃シリーズ、テンビリオンなどの独自製品や、ルーレット、野球盤、ボードゲーム、ツイスター(ライセンス生産)、組立式コースター、組立ブロック、トランシーバー、ラジコンカー、人形といった玩具を製造・販売していた。 玩具以外では、家庭用綿あめ製造機、ベビーカー「ママベリカ」、簡易コピー機「NCMコピラス」、電気時計、電子楽器、無線式簡易掃除機など多種多様な製品の製造、販売、タクシー、食品事業などの経営も行っていた。 2015年1月、YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「Nintendo Creators Program」の提供を開始。YouTubeでは新ガイドラインができるまでは自社のゲーム動画の広告収益は任天堂が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、ニコニコ動画における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている。 2018年11月、任天堂は「Nintendo Creators Program」を終了すると発表。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した。 「Nintendo Creators Program」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して、新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。 新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、YouTuberの事務所(MCN)である UUUMのように包括的許諾をとる所もある。また、タレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人で行う場合はガイドライン対象となるが、業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる。 2017年10月、任天堂は海外で盛り上がりを見せているeスポーツの取り組みについて、「ユーザーの関心が広がっており世界的にも広がりを見せていることは認識している。任天堂のゲームを使って『任天堂らしい』と多くの皆様から感じていただけ、勝った方に喜んでいただける、そんな『ご褒美のようなものは一体何なのか』そういうことを考えながらいろんな活動に取り組んできている」としている。現在eスポーツ団体「日本eスポーツ連合」にはさまざまなゲームメーカーが加盟して賞金大会を開いているが、任天堂は加盟していない。 2018年7月、日本野球機構(NPB)がeスポーツに参入し、第2弾で「NPB eスポーツシリーズ スプラトゥーン2」を開催するにあたって任天堂は協力をしている。大会では成績に応じて賞金がもらえる大会ではないが一律参稼手当有りである。他には好成績をあげているプロのスマブラプレイヤーを集めた「スマブラSP 東西リーグ大会(スマッシュボール杯 東西リーグ)」を任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信している。賞金は出ないが一律参稼手当有りである。現状は賞金こそ出ないものの優勝商品や一律参稼手当有りという形でのeスポーツ参加をしている。 Wii以降の任天堂のゲーム機には子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(保護者による使用制限)という機能がある。 ただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「ニンテンドー3DS」のソフトウェアである『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳 3D』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて任天堂は該当サービスの中止を発表。 任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解してもらえるよう務めるとして、「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DS LL」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除にはクレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている(現在は一度解除した人のみ解除可能。)。 2017年3月2日、Nintendo Switch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ『Nintendo みまもり Switch』(英名:Nintendo Switch Parental Controls)を配信している。 2020年4月24日、ニンテンドー3DSシリーズやWii Uで使用しているニンテンドーネットワークID(以下「NNID」)に約16万件の不正ログインが発生。不正ログインを受けたNNIDから「ニックネーム、生年月日、国 / 地域、メールアドレス」が第三者に閲覧された可能性があるという。また、NNIDを経由したニンテンドーアカウントへの不正ログインも発覚。これに対して任天堂は不正ログインの被害拡大を防止するため、NNID経由でニンテンドーアカウントにログインする機能を廃止。加えて不正アクセスされた可能性のあるNNIDやニンテンドーアカウントに対して順次パスワードリセットを行う措置をとった。今回の不正ログインにより発生した不正購入に対しては、個別に調査した上で購入の取り消しなどの対応を行うという。 一部のメディアやまとめサイトにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂はすべてに反応してしまうとデマの拡散につながりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また、対策としてインターネットプレゼンテーションNintendo DirectやSNSなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。 2012年2月20日、日本経済新聞が報じた記事について岩田はTwitterで、「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。6月5日、日本経済新聞は「『Wii U』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載。これに対して任天堂が同日に否定した。 2012年6月8日、朝日新聞の記事の中で岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページの動画から岩田の発言部分を抜き出してインタビューのように仕立てて掲載した。これに対して任天堂は朝日新聞に抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているが、その時点では記事を訂正せず、2014年9月14日の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した。 2015年1月、任天堂が開始したサービス「Nintendo Creators Program」について、一部で「YouTubeで同プログラムに登録していない任天堂のゲーム動画は削除される」というデマが広まっていたが、そうした規約はない。2014年5月27日、サービス開始前の任天堂公式Twitterでは「任天堂は以前より、不適切なものを除いて、YouTube上の任天堂の著作物を含む映像を正式に許諾しています」とコメントしている。 2016年10月20日、任天堂が公開したNintendo Switchの紹介動画の中でベセスダ・ソフトワークスのゲームソフト『The Elder Scrolls V: Skyrim(以下「スカイリム」)』の映像を用いた際、すでにベセスダが公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、あるまとめサイトは「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げたBuzzFeed Japanの取材に対し、任天堂広報は「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、まとめサイトの記事を否定している。10月21日、まとめサイトは捏造を認めて記事を訂正した。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "任天堂株式会社(にんてんどう、英: Nintendo Co., Ltd.)は、日本の代表的なグローバル企業の一社であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行っている。本社所在地は京都府京都市南区。TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1889年に創業した老舗企業で娯楽に関するさまざまな事業を展開している。創業以来、多くの種類の玩具を製作しており、特に花札やトランプは創業初期から現在に至るまで製造、販売を続けている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1970年代後期に家庭用と業務用のコンピュータゲーム機の開発を開始した。1983年発売の据え置き型ゲーム機「ファミリーコンピュータ」のゲームソフトとして1985年に発売した『スーパーマリオブラザーズ』が世界的にヒットしたことでゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "『スーパーマリオブラザーズ』(マリオシリーズ)の主人公「マリオ」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的に認知されているものが多く、2010年代からはキャラクターIPのゲーム外での活用を進めている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "当時は会社の形態ではないが便宜上「社長」と表記している。", "title": "沿革" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "任天堂はハードウェアとソフトウェアの開発を共に手がけるビジネスを展開している。元代表取締役社長の岩田聡は『Game Developers Conference 2011』の講演で、「任天堂は、『ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくものだ』と考えています。ご存じのように任天堂は、他社製プラットフォーム向けにゲームを提供しません。お客様にいい意味で驚いてもらうためには、自社ハードと自社ソフトをマッチさせることが最も確実な方法だと考えるからです。当社はまず第一にゲームクリエーターであり、その次にハードウェア製造者なのです」と語っている。「ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくもの」という言葉は山内溥の発言の一つであり、それを引用したものとされる。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ハードウェアに関しては堅牢性と耐久性を重視している。かつてハードウェア開発責任者を務めていた竹田玄洋によると、それは子供ユーザーに配慮したものであり、ゲーム機が壊れてしまったときに「僕が壊した」ではなく、「勝手に壊れた」となってしまう事態を見越したうえでの設計文化ができ上がっているのだという。任天堂ハードウェアの頑丈さを顕著に示す事例として、湾岸戦争で爆撃に巻き込まれたゲームボーイが正常に動作した事例がある。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "なお、任天堂名義での外部向け開発はフジテレビジョンの『夢工場ドキドキパニック』(任天堂情報開発本部)ぐらいである。他には『サンリオカーニバル2』も任天堂情報開発本部が担当した外部向け開発作品であり、実際は1990年代初頭に外部向けの開発を専業とした電通との合弁子会社として設立していた「株式会社マリオ」の名義を借りており、同作のパブリッシャーで、サンリオ子会社のゲーム会社であるキャラクターソフトぐらいしか株式会社マリオへの開発依頼が来ず、他には『ハローキティワールド』(パックスソフトニカ)とといったゲームタイトルも株式会社マリオの名義を借りていた。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2000年代中期のニンテンドーDSとWiiの時代からは「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として、幅広い年代を対象としたハードウェアとソフトウェアの開発を行っている。岩田聡は2004年の経営方針説明会の中でユーザーのゲーム離れによるゲーム市場縮小の現状と熟練者、初心者間の意識の乖離について触れ、その打開策としてタッチパネルや音声認識機能を搭載したニンテンドーDSを制作して全員が同じスタートラインに立てることを目指したと語っている。なお、近年は「ゲーム人口の拡大」の定義を広げて「任天堂IP(知的財産)に触れる人口を拡大する」とし、後述のようにIPの活用にも注力している。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。代表取締役社長を務めていた岩田の時代では高額課金を誘発する「ガチャ課金」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため、「ガチャ課金」は行わないとしていた。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "任天堂は自社を娯楽企業であるとしているが2014年以降は、その娯楽の定義を「QOL(Quality of Life、生活の質)を楽しく向上させるもの」と再定義して事業領域の拡大を目指している。これは自社内だけで完結するものではなく、アイデアを持っているさまざまなパートナーが参加できるようにしたいとしている。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "事業の第1弾として「健康」をテーマに掲げている。この事業では「QOLセンサー」という装置を用いる。この装置を用いて睡眠や疲労状態に関するデータをクラウドサーバーに送信し、その分析結果に基づいてQOL改善のための提案がなされる。これを日々続けることで傾向を探り、QOLの向上を目指すことを目的としている。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "2016年配信の『Miitomo』より、スマートデバイスでのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現したうえで、ゲーム専用機事業との相乗効果を生み出して任天堂の事業全体の最大化を目指している。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ゲームアプリの販売方式については「売り切り型」「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「Free to Play(プレイ無料、無料で遊べる)」という言葉が用いられるが、任天堂はゲームの価値を維持したいという観点から「Free to Start(始めるのは無料)」という呼称を用いている。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、2014年以降はその方針を転換して積極的に活用するようになった。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "活用例の一つとして、さまざまなゲームと連動させることができるフィギュア「amiibo」の販売を2014年12月より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、ユニバーサル・パークス&リゾーツが展開しているテーマパークへの登用、映像コンテンツ化、商品化などさまざまな計画を予定している。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "花札、トランプ、かるた(百人一首)、麻雀(麻雀牌)、将棋(将棋盤、駒)、囲碁(碁盤、碁石)の製造、販売を行っている。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "上記の玩具のほか、以前にはウルトラハンド、ウルトラマシン(英語版)、ラブテスター、光線銃シリーズ、テンビリオンなどの独自製品や、ルーレット、野球盤、ボードゲーム、ツイスター(ライセンス生産)、組立式コースター、組立ブロック、トランシーバー、ラジコンカー、人形といった玩具を製造・販売していた。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "玩具以外では、家庭用綿あめ製造機、ベビーカー「ママベリカ」、簡易コピー機「NCMコピラス」、電気時計、電子楽器、無線式簡易掃除機など多種多様な製品の製造、販売、タクシー、食品事業などの経営も行っていた。", "title": "事業" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "2015年1月、YouTubeにゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「Nintendo Creators Program」の提供を開始。YouTubeでは新ガイドラインができるまでは自社のゲーム動画の広告収益は任天堂が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、ニコニコ動画における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている。", "title": "ゲーム実況" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2018年11月、任天堂は「Nintendo Creators Program」を終了すると発表。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した。", "title": "ゲーム実況" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "「Nintendo Creators Program」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して、新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった。", "title": "ゲーム実況" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、YouTuberの事務所(MCN)である UUUMのように包括的許諾をとる所もある。また、タレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人で行う場合はガイドライン対象となるが、業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる。", "title": "ゲーム実況" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2017年10月、任天堂は海外で盛り上がりを見せているeスポーツの取り組みについて、「ユーザーの関心が広がっており世界的にも広がりを見せていることは認識している。任天堂のゲームを使って『任天堂らしい』と多くの皆様から感じていただけ、勝った方に喜んでいただける、そんな『ご褒美のようなものは一体何なのか』そういうことを考えながらいろんな活動に取り組んできている」としている。現在eスポーツ団体「日本eスポーツ連合」にはさまざまなゲームメーカーが加盟して賞金大会を開いているが、任天堂は加盟していない。", "title": "eスポーツ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2018年7月、日本野球機構(NPB)がeスポーツに参入し、第2弾で「NPB eスポーツシリーズ スプラトゥーン2」を開催するにあたって任天堂は協力をしている。大会では成績に応じて賞金がもらえる大会ではないが一律参稼手当有りである。他には好成績をあげているプロのスマブラプレイヤーを集めた「スマブラSP 東西リーグ大会(スマッシュボール杯 東西リーグ)」を任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信している。賞金は出ないが一律参稼手当有りである。現状は賞金こそ出ないものの優勝商品や一律参稼手当有りという形でのeスポーツ参加をしている。", "title": "eスポーツ" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Wii以降の任天堂のゲーム機には子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できるペアレンタルコントロール(保護者による使用制限)という機能がある。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "ただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「ニンテンドー3DS」のソフトウェアである『いつの間に交換日記』や『うごくメモ帳 3D』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて任天堂は該当サービスの中止を発表。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解してもらえるよう務めるとして、「Newニンテンドー3DS」と「Newニンテンドー3DS LL」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除にはクレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている(現在は一度解除した人のみ解除可能。)。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "2017年3月2日、Nintendo Switch本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できるスマートフォン向けの無料アプリ『Nintendo みまもり Switch』(英名:Nintendo Switch Parental Controls)を配信している。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "2020年4月24日、ニンテンドー3DSシリーズやWii Uで使用しているニンテンドーネットワークID(以下「NNID」)に約16万件の不正ログインが発生。不正ログインを受けたNNIDから「ニックネーム、生年月日、国 / 地域、メールアドレス」が第三者に閲覧された可能性があるという。また、NNIDを経由したニンテンドーアカウントへの不正ログインも発覚。これに対して任天堂は不正ログインの被害拡大を防止するため、NNID経由でニンテンドーアカウントにログインする機能を廃止。加えて不正アクセスされた可能性のあるNNIDやニンテンドーアカウントに対して順次パスワードリセットを行う措置をとった。今回の不正ログインにより発生した不正購入に対しては、個別に調査した上で購入の取り消しなどの対応を行うという。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "一部のメディアやまとめサイトにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある。こうした状況について任天堂はすべてに反応してしまうとデマの拡散につながりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている。また、対策としてインターネットプレゼンテーションNintendo DirectやSNSなどで情報を直接発信する取り組みを行っている。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2012年2月20日、日本経済新聞が報じた記事について岩田はTwitterで、「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している。6月5日、日本経済新聞は「『Wii U』にカーナビゲーションや電子書籍などの機能を搭載」という憶測記事を掲載。これに対して任天堂が同日に否定した。", "title": "過去の問題" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": 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任天堂株式会社は、日本の代表的なグローバル企業の一社であり、主に玩具やコンピュータゲームの開発・製造・販売を行っている。本社所在地は京都府京都市南区。TOPIX Core30およびJPX日経インデックス400の構成銘柄の一つ。
{{pp-vandalism|small=yes}} {{特殊文字|説明=[[Microsoftコードページ932]]([[はしご高]])}} {{基礎情報 会社 | 社名 = 任天堂株式会社 | 英文社名 = Nintendo Co., Ltd. | ロゴ = [[ファイル:Nintendo.svg|250px]] | 画像 = [[ファイル:Headquarters of Nintendo Co., Ltd.jpg|250px]] | 画像説明 = 任天堂本社 | 種類 = [[株式会社 (日本)|株式会社]]<ref name="nintendo-gaiyou">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/outline/|title=会社情報:会社概要|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-20}}</ref> | 機関設計 = [[監査等委員会設置会社]]<ref>[https://www.nintendo.co.jp/ir/management/governance.html コーポレート・ガバナンス] - 任天堂</ref> | 市場情報 = {{上場情報|東証プライム|7974|[[1983年]][[7月21日]]}}{{OTC Pink|NTDOY}}{{上場情報|BMV|NTDOYN}}{{上場情報|FWB|NTOA}}{{上場情報|WBAG|NTO}} | 国籍 = {{JPN}} | 本社郵便番号 = 601-8501<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/offices/map_kyoto.html|title=会社情報:事業所案内 - 本社|publisher=任天堂|accessdate=2018-06-30}}</ref><ref name="nikkei">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/nkd/company/gaiyo/?scode=7974|title=任天堂(株)企業プロフィール|publisher=[[日本経済新聞]]|accessdate=2014-10-10}}</ref> | 本社所在地 = [[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]上鳥羽鉾立町11番地1<ref name="nintendo-gaiyou"/> | 本社緯度度 = 34 | 本社緯度分 = 58 | 本社緯度秒 = 11 | 本社N(北緯)及びS(南緯) = N | 本社経度度 = 135 | 本社経度分 = 45 | 本社経度秒 = 22.3 | 本社E(東経)及びW(西経) = E | 本社地図国コード = JP | 本店郵便番号 = | 本店所在地 = | 設立 = [[1947年]](昭和22年)[[11月20日]]<ref name="nikkei"/><br />(創業:[[1889年]](明治22年)[[9月23日]]) | 業種 = その他製品<ref name="nikkei"/> | 統一金融機関コード = | SWIFTコード = | 事業内容 = 家庭用レジャー機器の製造・販売<ref name="nintendo-gaiyou"/> | 代表者 = {{Plainlist| * 代表取締役社長 [[古川俊太郎]] * 代表取締役フェロー [[宮本茂]] }} | 資本金 = * 100億6500万円 (2023年3月31日現在)<ref name="fy">{{Cite report |和書 |author=任天堂 |date=2023-06-26|title=第83期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書}}</ref><!--数値を更新する際は出典を修正してください。--> | 発行済株式総数 = * 12億9869万0000株 (2023年3月31日現在)<ref name="fy"/><!--数値を更新する際は出典を修正してください。--> | 売上高 = * 連結: 1兆6016億7700万円 * 単独: 1兆4095億0300万円 (2023年3月期)<ref name="fy"/><!--数値を更新する際は出典を修正してください。--> | 営業利益 = * 連結: 5043億7500万円 * 単独: 4294億8400万円 (2023年3月期)<ref name="fy"/><!--数値を更新する際は出典を修正してください。--> | 経常利益 = * 連結: 6010億7000万円 * 単独: 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385781 1.20% * SSBTC CLIENT OMNIBUS ACCOUNT 1.19% * ステート ストリート バンク アンド トラスト カンパニー 505223 1.09% * (自己保有株式を除く) * (2023年3月31日現在)<ref name="fy"/><!-- 数値を更新する際は出典を修正してください --><!-- 有価証券報告書提出会社は上位10名の株主を記載してください --><!-- 常任代理人、再信託受託者の記載は不要 --><!-- 自己株式には議決権がないため記載しないでください --><!-- 公式発表がない時点では報道によって株主構成の変動を逐一追わないでください --> }} | 主要部門 = {{Plainlist| * 技術開発本部 * [[任天堂企画制作本部|企画制作本部]] * ビジネス開発本部 * 開発総務本部 * 経営統括本部 * 総務本部<ref name="kimisima">{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLMSJJ60101_V10C15A9000000/|title=人事、任天堂:日本経済新聞|publisher=日本経済新聞|date=2015-09-15|accessdate=2015-09-15}}</ref> }} | 主要子会社 = 詳しくは「[[#連結子会社|連結子会社]]」を参照 | 関係する人物 = | 外部リンク = {{Official URL}} | 特記事項 = }} '''任天堂株式会社'''(にんてんどう、{{Lang-en-short|Nintendo Co., Ltd.}}<ref>任天堂株式会社 定款 第1章第1条</ref><!-- 英文社名は定款で明確に定義されています。出典を消さないでください。 -->)は、[[日本]]の代表的な[[グローバル企業]]の一社であり{{Sfn|宮下|2022|p=7}}{{Sfn|Consalvo|2006|pp=132-133}}、主に[[玩具]]や[[コンピュータゲーム]]の開発・製造・販売を行っている。本社所在地は[[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]。[[TOPIX Core30]]および[[JPX日経インデックス400]]の構成銘柄の一つ<ref>{{PDFlink|[https://www.jpx.co.jp/news/1044/nlsgeu0000050uqm-att/mei_12_size.pdf 「TOPIXニューインデックスシリーズ」の定期選定結果及び構成銘柄一覧]}} jpx.co.jp 2020年10月7日公表 2021年10月8日閲覧。</ref><ref>[https://www.jpx.co.jp/markets/indices/jpx-nikkei400/00-01.html JPX日経400・JPX日経中小型] jpx.co.jp 2021年10月8日閲覧。</ref>。 == 概要 == [[1889年]]に創業した[[老舗]]企業で娯楽に関するさまざまな事業を展開している。創業以来、多くの種類の玩具を製作しており、特に[[花札]]や[[トランプ]]は創業初期から現在に至るまで製造、販売を続けている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=父「任天堂のゲーム買ってあるぞ!」→そっちかよ! まさかのチョイスに「伝説のゲーム」「ある意味マリオ以上の先輩」と話題に |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2301/28/news030.html |website=ねとらぼ |access-date=2023-01-30 |date=2023-01-29 |author=植木鉢}}</ref>。 [[1970年代]]後期に家庭用と業務用の[[ゲーム機|コンピュータゲーム機]]の開発を開始した。[[1983年]]発売の据え置き型[[ゲーム機]]「[[ファミリーコンピュータ]]」の[[ゲームソフト]]として[[1985年]]に発売した『[[スーパーマリオブラザーズ]]』が世界的にヒットしたことでゲーム機やゲームソフトを開発する会社として広く認知されるようになった。 [[ファイル:Supermario_Kungsbacka.jpg|サムネイル|333x333ピクセル|[[スウェーデン]]の[[ハッランド県]]にあるマリオの像。]] 『スーパーマリオブラザーズ』([[マリオシリーズ]])の主人公「[[マリオ (ゲームキャラクター)|'''マリオ''']]」など、任天堂のゲームソフトに登場するキャラクターは世界的に認知されているものが多く、[[2010年代]]からはキャラクター[[知的財産権|IP]]のゲーム外での活用を進めている。 == 沿革 == === 山内房治郎社長時代(1889年 - 1929年) === 当時は会社の形態ではないが便宜上「社長」と表記している。 * [[1889年]][[9月23日]] - [[山内房治郎]]が[[京都府]][[京都市]][[下京区]]で'''任天堂骨牌'''(山内房治郎商店)を創業。[[花札]]の製造を始める<ref name="nintendo-enkaku">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/history/|title=会社概要:会社の沿革|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-10}}</ref>。 * [[1902年]] - [[日本]]で初めてとなる[[トランプ]]の製造を開始<ref name="nintendo-enkaku"/>。 === 山内積良社長時代(1929年 - 1949年) === * [[1929年]] - 任天堂骨牌(山内房治郎商店)2代目店主に[[山内積良]]が就任。 * [[1930年]] - 本社となる鉄筋コンクリート4階建てのビルが完成<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/articles/ASN1B4VGLN1BPLZB00V.html|title=任天堂の旧本社ビル、来年夏にホテルへ 昭和初期に完成|author=佐藤秀男|publisher=朝日新聞|date=2020-01-10|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 * [[1947年]]11月 - 京都市[[東山区]]今熊野東瓦町に'''株式会社丸福'''を設立<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1">{{Cite report |和書|author=任天堂|date=2020-06-29|title=第80期(2019年4月1日 - 2020年3月31日)有価証券報告書 4頁}}</ref>。 === 山内溥社長時代(1949年 - 2002年) === * [[1949年]]9月 - 代表取締役社長に[[山内溥]]が就任<ref name="nintendo-enkaku"/>。'''丸福かるた販売株式会社'''に商号変更<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1950年]]3月 - '''任天堂かるた株式会社'''に商号変更<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。合名会社山内任天堂(現・株式会社山内)よりかるた製造業務を継承<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1951年]]7月 - '''任天堂骨牌株式会社'''に商号変更<ref name="nintendo-enkaku"/>。 * [[1952年]]10月 - 京都府京都市東山区福稲上高松町に工場(現・京都リサーチセンター)を設置<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1953年]] - 日本初となるプラスチックトランプの製造に成功<ref name="nintendo-enkaku"/>。 * [[1959年]]9月 - 工場のある京都市東山区福稲上高松町に本社を移転<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1961年]] - [[東京都]][[千代田区]]に東京支店を設置<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1962年]]1月 - [[大阪証券取引所]]市場第二部、[[京都証券取引所]]に株式上場(現在は市場統合)<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1963年]]10月 - '''任天堂株式会社'''に商号変更<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1970年]] - 大阪証券取引所市場第一部に指定<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1971年]] - 簡易[[複写機]]「[[コピラス]]」を発売。10万台以上を出荷するヒット商品になる<ref name="高野2008-02">{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/trn/special/20080925/1019049/?P=2|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第2回:電卓をあきらめてゲーム機ヘ|author=高野雅晴|publisher=[[日経BP]]|date=2008-09-30|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 * [[1973年]] - 業務用レジャーシステム「レーザークレー射撃システム」を開発<ref name="nintendo-enkaku"/>。 * [[1975年]] - 業務用[[メダルゲーム]]機「[[EVRレース]]」を開発<ref name="社長が訊くPUNCH-OUT!!">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/r7pj/vol1/|title=社長が訊く『PUNCH-OUT!!』|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-24}}</ref>。 * [[1976年]][[4月23日]] - 任天堂レジャーシステムがアミューズメント業界の団体である、全日本遊園協会{{Efn|日本アミューズメントマシン工業協会以前に存在<ref>{{Cite news |和書|title=JAA ついに解散 7年半の役目終える |newspaper=ゲームマシン |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19810101p.pdf |agency=アミューズメント通信社 |issue=157 |page=10 |date=1981-01-01 |accessdate=2022-09-26}}</ref>}}へ加入<ref>{{Cite news|和書|title=任天堂レジャー加入 業界発展に大きな力 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19760515p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=98 |agency=アミューズメント通信社 |date=1978-06-15 |page=3 |accessdate=2022-09-26}}</ref>。 * [[1977年]][[7月1日]] - [[三菱電機]]と共同開発した据置型[[テレビゲーム|ビデオゲーム]]機「[[カラーテレビゲーム15]]」と「[[カラーテレビゲーム15|カラーテレビゲーム6]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1978年]] - 業務用ビデオゲーム機を開発し、販売を開始<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1980年]] ** 4月 - [[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ニューヨーク州]]に現地法人「Nintendo of America Inc.」を設立<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1" />。 ** [[4月28日]] - [[携帯型ゲーム]]機「[[ゲーム&ウオッチ]]」を発売。その後、8年間で約70機種を展開して4,800万台以上を販売する<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtrend.nikkei.com/atcl/trn/special/20080929/1019224/|title=【任天堂「ファミコン」はこうして生まれた】第4回:携帯型ゲーム機を発想|author=田中正晴、高野雅晴|publisher=日経BP|date=2008-09-30|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 * [[1981年]][[7月9日]] - [[アーケードゲーム]]版『[[ドンキーコング]]』の稼動を開始。この中でのちに任天堂を代表するキャラクターとなる「[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]」が初めて登場している<ref name="dk">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/aytj/pop_history.html|title=ドンキーコング リターンズ 3D:What's DK?|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2009-11-13|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/smnj/vol1/|title=社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』 その1(1/9)|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-19}}</ref>。 * [[1982年]] ** 2月 - アメリカの[[ワシントン州]]に現地法人「Nintendo of America Inc.」を設立。既存のニューヨーク州法人を吸収合併<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 ** 業績が前年の約3倍に拡大して8月連結決算の売上高は661億4,100万円、営業利益は227億200万円の黒字になる<ref name="損益計算書">{{Cite web|和書|date=|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/historical_data/pdf/consolidated_pl1312.pdf|format=PDF|title=任天堂 連結損益計算書推移表|publisher=任天堂|accessdate=2014-02-01|language=日本語|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140201195709/https://www.nintendo.co.jp/ir/library/historical_data/pdf/consolidated_pl1312.pdf|archivedate=2014-02-01|deadlinkdate=2017-09}}</ref>。 * [[1983年]] ** 7月 - [[東京証券取引所]]市場第一部に株式を上場<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 ** [[7月15日]] - 据え置き型[[ゲーム機]]「[[ファミリーコンピュータ]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 ** 京都府[[宇治市]]に宇治工場を設置<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1985年]] ** [[8月14日]] - アーケードゲーム機のリースおよび直営店の閉鎖を発表、業務用からの撤退は否定<ref>{{Cite news |和書|title=任天堂「ありえない業務用からの撤退」ゲーム場経営、リースのみ撤退 |newspaper=[[ゲームマシン]] |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19850915p.pdf |agency=[[アミューズメント通信社]] |issue=268 |date=1985-09-15 |page=6}}</ref>。 ** [[9月13日]] - ファミリーコンピュータ用[[ゲームソフト]]『[[スーパーマリオブラザーズ]]』を発売。のちに世界でもっとも売り上げたゲームソフトとして[[ギネス世界記録]]に認定された。 * [[1989年]] ** [[2月28日]] - アミューズメント業界の団体である、[[日本アミューズメントマシン協会|日本アミューズメントマシン工業協会]]から脱退。アーケード業界から既に撤退していることを受けたもの<ref>{{Cite news |和書|title=コンシューマー家庭用部会を新設 JAMMA総会前の緊急理事会で一時紛糾 |newspaper=ゲームマシン |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19890401p.pdf |agency=アミューズメント通信社 |issue=353 |date=1989-04-01 |page=2}}</ref>。 ** [[4月21日]] - 携帯型ゲーム機「[[ゲームボーイ]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[1990年]] ** 2月 - [[ドイツ]]に現地法人「Nintendo of Europe GmbH」を設立<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 ** [[11月21日]] - 据え置き型ゲーム機「[[スーパーファミコン]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku"/>。 * [[1993年]]2月 - [[フランス]]に現地法人「Nintendo France S.A.R.L.」を設立<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[1995年]][[7月21日]] - [[3次元映像|3D]]ゲーム機「[[バーチャルボーイ]]」を発売。 * [[1996年]] ** [[6月21日]] - 任天堂公式サイトを開設。 ** [[6月23日]] - 据え置き型ゲーム機「[[NINTENDO64]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku"/>。 * [[1997年]] - 任天堂製品の流通問屋親睦団体「初心会」が日本の流通環境の変化にともない解散<ref name="wada2003">{{Cite journal|url=http://www.gbrc.jp/journal/amr/AMR2-11.html|author=和田剛明|title=家庭用テレビゲームソフトの流通―リスクとリターンの構造と市場への影響―|journal=赤門マネジメント・レビュー|volume=2|number=11|pages=563-580|publisher=特定非営利活動法人グローバルビジネスリサーチセンター|date=2003-11-25}}</ref>。 * [[2000年]]11月 - 京都府京都市[[南区 (京都市)|南区]]上鳥羽鉾立町11番地1(現在地)に本社を移転<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 * [[2001年]] ** [[3月21日]] - 携帯型ゲーム機「[[ゲームボーイアドバンス]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 ** [[9月14日]] - 据え置き型ゲーム機「[[ニンテンドーゲームキューブ]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku"/>。 === 岩田聡社長時代(2002年 - 2015年) === * [[2002年]][[5月31日]] - 代表取締役社長に[[岩田聡]]が就任。代表取締役増員による集団指導体制を開始<ref>[https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2002/020524.html 代表取締役の異動について] 2002年5月24日任天堂</ref><ref>[https://www.nikkei.com/news/print-article/?ng=DGXNASDD1009J_Q3A710C1XX1000 任天堂ファミコン30年 中年「マリオ」再び跳べるか 脱・集団指導体制、岩田流でスピード経営] 2013/7/15 7:00日本経済新聞</ref>。 * [[2004年]] ** 8月 - 前代表取締役社長の山内溥が個人で出資していた[[シアトル・マリナーズ]]の持分すべてが、Nintendo of America Inc.へ移転されてNOAが球団の筆頭オーナーとなる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2016/160428.pdf|title=シアトルマリナーズ運営会社の持分の一部を売却する交渉の開始について|format=PDF|publisher=任天堂|date=2016-04-28|accessdate=2016-10-29}}</ref>。 ** [[11月21日]] - 携帯型ゲーム機「[[ニンテンドーDS]]」を発売。世界で1億5,000万台あまりを売り上げ、最も普及した携帯型ゲーム機となった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/finance/hard_soft/|title=株主・投資家向け情報:販売データ - ハード・ソフト販売実績|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-20}}</ref><ref name="kessan2015">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/events/150217/|title=2015年2月17日(火)第3四半期決算説明会|publisher=任天堂|date=2015-02-17|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 * [[2006年]] ** 7月 - [[大韓民国|韓国]]に現地法人「韓国任天堂株式会社」を設立<ref name="nintendo-enkaku-yuho1"/>。 ** [[11月19日]] - アメリカで据置型ゲーム機「[[Wii]]」を発売(日本では[[12月2日]]に発売)。同日発売のWii専用ゲームソフト『[[Wii Sports]]』は本体同梱版を含めると世界でもっとも売れたゲームソフトとなった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rztj/vol1/index4.html|title=社長が訊く『Wii Sports Resort』|publisher=任天堂|date=2009-6-4|accessdate=2014-10-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/sales/software/wii.html|title=株主・投資家向け情報:販売データ - 主要ソフト販売実績 Wii用ソフト|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-18}}</ref>。 * [[2008年]][[11月1日]] - ニンテンドーDSの上位モデルに当たる携帯型ゲーム機「[[ニンテンドーDSi]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 * [[2009年]] ** [[5月7日]] - 3月期決算で売上高1兆8,386億2,200万円、営業利益5,552億6,300万円の過去最高益を記録したことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/048/G004865/20090507060/|title=ゲーム業界は不況知らず? 過去最高益を記録した任天堂の決算発表|publisher=Aetas, Inc.|work=4Gamer.net|date=2009-05-07|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 ** 10月 - 世界の[[グローバル]]企業2,500社を対象とした調査で、2009年の「グローバルチャンピオン」に任天堂が選出<ref>{{Cite web|和書|date=2009-10-20|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0910/20/news011.html|title=2009年の「グローバルチャンピオン」、任天堂に|publisher=ITmedia NEWS|accessdate=2020-04-19}}</ref>。 * [[2011年]][[2月26日]] - [[液晶ディスプレイ#新たな技術|裸眼3D液晶ディスプレイ]]を搭載した携帯型ゲーム機「[[ニンテンドー3DS]]」を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201009/29034166.html|title=ニンテンドー3DSの発売は2011年2月26日|publisher=[[ファミ通]]|date=2010-09-29|accessdate=2014-10-10}}</ref>。 * [[2012年]] ** 2月 - 「ニンテンドー3DS」が日本における販売台数が500万台を突破。ゲームプラットフォームとしては史上最速の記録になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2012/120220.html|title=「ニンテンドー3DS」国内販売500万台突破|publisher=任天堂|date=2012-02-20|accessdate=2014-10-10}}</ref>。 ** 「ニンテンドー3DS」の価格値下げによる[[逆ザヤ]]状態や[[円高]]などの影響により、3月期の決算で377億円の営業[[黒字と赤字|赤字]]を計上<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/events/110729summary/|title=平成24年3月期 第1四半期会計期間の連結業績 第2四半期累計期間及び通期の連結業績予想の修正の説明|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 ** [[11月18日]] - アメリカで据え置き型ゲーム機「[[Wii U]]」を発売(日本では[[12月8日]]に発売)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201209/13021095.html|title=Wii Uは2012年12月8日(土)発売!価格はベーシックセットが26250円(税込)、プレミアムセットが31500円(税込)!|publisher=|website=ファミ通|date=2012-09-13|accessdate=2014-10-10}}</ref>。 * [[2014年]] ** [[1月30日]] - [[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]]事業への参入を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/140130/04.html|title=2014年1月30日(木)経営方針説明会/第3四半期決算説明会 (4/5)|publisher=任天堂|date=2014-01-30|accessdate=2016-10-16}}</ref>。 ** [[10月11日]] - ニンテンドー3DSの上位モデルに当たる携帯型ゲーム機「[[Newニンテンドー3DS]]」を発売<ref name="nintendo-enkaku" />。 ** 7月から12月までの半年間で「ニンテンドー3DS」用ソフトのダブルミリオン達成ソフトが5本生まれる。これは日本のゲーム市場において初めての記録となる<ref name="kessan2015" />。 * [[2015年]] ** [[3月17日]] - [[ディー・エヌ・エー]]と業務、資本提携して[[スマートデバイス]]向けのゲームソフトを開発することを発表<ref>{{Cite web|和書|date=2015-03-17|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2015/150317.pdf|title=任天堂株式会社と株式会社ディー・エヌ・エーの業務・資本提携合意のお知らせ|format=PDF|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-16}}</ref>。また、新型家庭用ゲーム機「NX(コードネーム。のちの「[[Nintendo Switch]]」)」を開発中であることを発表<ref name="ip">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2015/150317/03.html|title=任天堂株式会社 株式会社ディー・エヌ・エー 業務、資本提携共同記者発表(3/5)|publisher=任天堂|date=2015-03-17|accessdate=2015-03-21}}</ref>。 ** [[5月8日]] - 3月期決算で4期ぶりに営業黒字回復<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/events/150508/|title=2015年5月8日(金)決算説明会(1/4)|publisher=任天堂|date=2015-05-08|accessdate=2015-05-08}}</ref>。 ** [[7月11日]] - 代表取締役社長の岩田が[[胆管癌|胆管腫瘍]]のため死去<ref>{{Cite web|和書|date=2015-07-13|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2015/150713.pdf|title=代表取締役社長の逝去および異動に関するお知らせ(訃報)|format=PDF|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-13}}</ref>。 === 君島達己社長時代(2015年 - 2018年) === * 2015年[[9月15日]] - 代表取締役社長に[[君島達己]]が就任。組織再編により、統合開発本部とシステム開発本部を統合して技術開発本部を、[[任天堂情報開発本部|情報開発本部]]と[[任天堂企画開発本部|企画開発本部]]を統合して[[任天堂企画制作本部|企画制作本部]]を設立し、ビジネス開発本部を新設<ref name="kimisima"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://mainichi.jp/premier/business/entry/index.html?id=20150713biz00m010005000c|title=「ゲームにささげた人生」岩田・任天堂社長の早すぎる死|経済プレミア・トピックス|駅義則|毎日新聞「経済プレミア」|publisher=[[毎日新聞]]|date=2015-07-13|accessdate=2015-07-13}}{{リンク切れ|date=2023-02}}</ref><ref name="idou">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2015/150914.pdf|title=代表取締役の異動及び役員の委嘱、管掌、担当変更に関するお知らせ|format=pdf|date=2015-09-14|accessdate=2015-09-14}}</ref>。 * [[2016年]] ** [[6月29日]] - 組織再編により、[[監査等委員会設置会社]]に移行して執行役員制度を導入。外国人役員として[[レジナルド・フィサメィ]]が執行役員に就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gamebusiness.jp/article/2016/05/02/12259.html|title=任天堂、執行役員制度を導入へ|企業動向 人事|土本学|GameBusiness.jp|publisher=[[イード (企業)|イード]]|date=2016-05-02|accessdate=2016-11-14}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/stock/meeting/160629qa/|title=2016年6月29日(水)第76期 定時株主総会 質疑応答|publisher=任天堂|date=2016-06-29|accessdate=2016-11-14}}</ref>。 ** [[7月6日]] - 海外で[[ポケモン (企業)|ポケモン]](開発、配信、運営は[[Niantic, Inc.]])からゲーム[[モバイルアプリケーション|アプリ]]『[[Pokémon GO]]』をリリース。その爆発的な人気から以降約半月にわたり任天堂の株価が高騰する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL14HLL_U6A710C1000000/|title=任天堂、売買代金トヨタの6倍超 ポケモノミクス狂騒曲|publisher=日本経済新聞|date=2016-07-14|accessdate=2016-10-16}}</ref>。 ** [[7月22日]] - ポケモンが任天堂の[[持分法]]適用関連会社であることを発表して以降は株価が落ち着いた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2016/160722.pdf|title=『Pokémon GO』の配信による当社の連結業績予想への影響について|publisher=任天堂|date=2016-07-22|accessdate=2016-10-16}}</ref>。 ** [[8月22日]] - Nintendo of America Inc.が保有している[[シアトルマリナーズ]]運営会社の持分の一部を売却<ref>{{Cite web|和書|date=2016-08-22|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2016/160822.pdf|title=シアトルマリナーズ運営会社の持分の一部の売却に関するお知らせ|format=PDF|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-11}}</ref>。 ** [[8月25日]] - 2017年4月3日付でジェスネットを子会社化と同時にジェスネットがアジオカより、ビデオゲーム卸売事業を譲受することを取締役会において決議<ref name="release20160825">{{Cite web|和書|date=2016-08-25|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2016/160825.pdf|title=ジェスネット株式会社の子会社化及び株式会社アジオカからの事業譲受に関するお知らせ|format=PDF|publisher=任天堂|accessdate=2017-01-16}}</ref>。 ** [[10月20日]] - 据え置き型ゲーム機「Nintendo Switch」の情報を公開<ref name="NS">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2016/161020.html|title=ニュースリリース : 2016年10月20日|publisher=任天堂|date=2016-10-20|accessdate=2016-10-26}}</ref>。 ** [[11月29日]] - [[ユニバーサル・パークス&リゾーツ]]が運営している[[ユニバーサル・スタジオ・ジャパン]]、[[ユニバーサル・オーランド・リゾート]]、[[ユニバーサル・スタジオ・ハリウッド]]で任天堂のテーマパークを展開することを発表<ref name="us">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2016/161129.html|title=ニュースリリース : 2016年11月29日|publisher=任天堂|date=2016-11-29|accessdate=2016-11-29}}</ref><ref group="注釈">[[2015年]][[5月8日]]に行われた [https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/150508/04.html 決算説明会] の中で、[[ユニバーサル・パークス&リゾーツ]]と合意し、任天堂[[知的財産|IP]]を用いたテーマパークを展開している計画があることを発表。</ref>。 ** [[12月15日]] - [[iOS]]向けゲームアプリ『[[SUPER MARIO RUN]]』を150の国と地域の[[App Store]]で配信開始。開始4日間のダウンロード数が4,000万を超え、App Storeにおける最速記録になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2016/161221.html|title=ニュースリリース : 2016年12月21日|publisher=任天堂|date=2016-12-21|accessdate=2017-01-05}}</ref>。 * [[2017年]] ** [[3月3日]] - 日本、アメリカ、[[ヨーロッパ]]などで携帯型ゲーム機としても利用できる据え置き型ゲーム機「[[Nintendo Switch]]」を発売<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKASDZ03H2X_T00C17A3EAF000/|title=任天堂「スイッチ」発売 据え置き型 4年半ぶり|work=日本経済新聞|date=2017-03-03|accessdate=2017-03-04}}</ref>。 ** [[4月3日]] - ジェスネットを子会社化し、任天堂販売株式会社に商号変更<ref name="release20160825"/><ref>{{Cite web|url=https://www.nintendo-sales.co.jp/corporate/history.html|title=沿革|publisher=任天堂販売|accessdate=2017-08-01}}</ref>。 * [[2018年]] ** [[2月1日]] - [[ユニバーサル・スタジオ]]との共同出資により、ユニバーサルの傘下である[[イルミネーション・エンターテインメント]]と共同でスーパーマリオの[[アニメーション映画]]の製作を開始したことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2018/180201.html|title=イルミネーションと任天堂 「スーパーマリオ」アニメ映画の企画開発を開始|publisher=任天堂|date=2018-02-01|accessdate=2018-02-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/illumination-nintendo-supermario-idJPKBN1FL3NO|title=任天堂、「スーパーマリオ」アニメ映画製作へ=経営方針説明会|publisher=[[ロイター]]|accessdate=2017-02-06}}</ref>。 ** 4月 - 3月期決算で7年ぶりに売上高1兆円超を計上<ref>{{Cite web|和書|url=https://mainichi.jp/articles/20180427/k00/00m/020/104000c|title=任天堂売上高7年ぶり1兆円超え スイッチ、業績けん引|publisher=[毎日新聞|accessdate=2023-02-20}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jiji.com/jc/article?k=2018042601325|title=任天堂社長に古川氏=売上高7年ぶり1兆円|publisher=[[時事通信社]]|accessdate=2017-04-27}}</ref>。 ** [[4月27日]] - 株式会社[[サイバーエージェント]]の傘下である株式会社[[Cygames]]の発行済み株式数の約5%を取得し、[[スマートデバイス]]向けゲーム事業での業務提携を行うことを発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkei.com/article/DGXLASFL27HQS_27042018000000/|title=任天堂、Cygamesとゲームアプリで提携発表 株5%取得|publisher=日本経済新聞|accessdate=2017-04-27}}</ref>。 === 古川俊太郎社長時代(2018年 - ) === *2018年 **[[6月28日]] - 代表取締役社長を務めていた君島の退任により、代表取締役社長に[[古川俊太郎]]が就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2018/180426_5.pdf|title=代表取締役等の異動に関するお知らせ|accessdate=2020-05-23|publisher=}}</ref><ref>{{Cite news|title=任天堂次期社長 古川俊太郎氏(46)硬軟使い分ける経理マン|newspaper=日本経済新聞|date=2018-04-27|url=https://www.nikkei.com/article/DGKKZO29908640W8A420C1TJ1000/|accessdate=2018-04-27}}</ref><ref>{{Cite news|title=任天堂、「脱カリスマ」へ集団経営 社長に古川氏|newspaper=日本経済新聞|date=2018-04-27|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2988534026042018TJ1000/|accessdate=2018-04-27}}</ref>。 * [[2019年]] ** [[4月16日]] - Nintendo of America Inc.代表取締役社長および任天堂執行役員を務めていたフィサメィの退任により、Nintendo of America Inc.代表取締役社長および任天堂執行役員に{{仮リンク|ダグ・バウザー|en|Doug Bowser}}が就任<ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.ign.com/nintendo/33372/news/4|title=米任天堂社長のレジー・フィサメィが4月に引退へ|publisher=[[IGN|IGN JAPAN]]|date=2019-02-22|accessdate=2019-04-26}}</ref>。 ** [[11月22日]] - [[渋谷パルコ|渋谷PARCO]]([[東京都]][[渋谷区]])に日本初のオフィシャルショップ「Nintendo TOKYO」がオープン<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201911/20187287.html|title=ニンテンドートウキョウ詳細リポート。『マリオ』や『スプラトゥーン』、『どうぶつの森』など大人気作の限定グッズが目白押し!【11/22オープン】|accessdate=2020-05-22|publisher=}}</ref>。 * [[2020年]] ** [[1月30日]] - 取締役会の諮問機関として「指名等諮問委員会」の設置を取締役会で決議<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2020/200130_4.pdf|title=指名等諮問委員会の設置に関するお知らせ|accessdate=2020-05-22|publisher=}}</ref>。 ** [[10月16日]] - ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに「マリオ・カフェ&ストア」がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=ユニバーサル・スタジオ・ジャパン|USJ|url=https://www.usj.co.jp/web/ja/jp/restaurants/mario-cafe-and-store-new-open|website=Universal Studios Japan|accessdate=2020-11-04|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=世界にここだけの「マリオ・カフェ&ストア」がUSJにオープン!可愛い限定グッズ&シャレたフード満載で楽しすぎか!?【写真77枚】|url=https://www.inside-games.jp/article/2020/10/16/129820.html|website=インサイド|accessdate=2020-11-04|language=ja}}</ref>。 * [[2021年]] ** [[3月1日]] - [[Next Level Games]]を子会社化<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2021/210105.pdf|title=カナダのソフトウェア開発会社Next Level Games Inc.の子会社化に関するお知らせ|accessdate=2021年1月5日|publisher=}}</ref>。 ** [[3月18日]] - ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに「[[スーパー・ニンテンドー・ワールド]]」がオープン<ref>{{Cite web|和書|title=USJ"スーパーニンテンドーワールド"がついにグランドオープン。セレモニーには宮本茂氏やマリオたちも駆け付けた!|url=https://www.famitsu.com/news/amp/202103/18216137.php|website=ファミ通|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-18|language=ja}}</ref>。 ** [[6月2日]] - 宇治小倉工場を改修し資料館施設にすることを発表<ref>{{Cite web|和書|title=ニュースリリース :2021年6月2日 - 任天堂宇治小倉工場用地の利用について|任天堂|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2021/210602.html|website=任天堂|accessdate=2021-06-02}}</ref>。 *[[2022年]] **[[2月24日]] - 2022年4月1日付で[[SRD (ゲーム会社)|SRD]]を子会社化することを発表<ref name="nintendo220224">{{Cite press release |和書 |title=株式会社SRDの子会社化に関するお知らせ |format=PDF |publisher=任天堂|date=2022-02-24 |url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2022/220224.pdf |accessdate=2022-03-05}}</ref>。 **[[4月4日]] - 東京証券取引所の市場区分の見直しにより、市場第一部からプライム市場へ移行。 **[[4月12日]] - 京都市が2021年12月8日に公募型プロポーザルにより募集していた市有地の有効活用事業者に選定され取得。2027年12月に本社第2開発棟(仮称)として竣工予定<ref>{{Cite news|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2022/220412.html|title=本社隣接私有地の取得について|work=任天堂|date=2022年4月12日|accessdate=2022年4月13日}}</ref>。 **[[7月14日]] - 2022年10月3日付で、独立系のCGプロダクション会社[[ダイナモピクチャーズ]]を子会社化し、商号を「[[ニンテンドーピクチャーズ]]株式会社」に変更する予定であることを発表<ref name="nintendo220714">{{Cite press release |和書 |title=株式会社ダイナモピクチャーズの子会社化に関するお知らせ |format=PDF |publisher=任天堂|date=2022-07-14 |url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2022/220714.pdf |accessdate=2022-07-14}}</ref>。 **[[11月11日]] - 二店目のオフィシャルショップとなる「Nintendo OSAKA」を[[大丸梅田店]]13Fにオープン<ref>{{Cite web|和書|title=「Nintendo OSAKA」が11月11日、大丸梅田店にグランドオープン。抽選でプレオープンにご招待。 |url=https://topics.nintendo.co.jp/article/fc5a4a4b-6a02-4389-9dce-e71bac75d97c |website=任天堂 |access-date=2023-02-03 |language=ja}}</ref>。 *[[2023年]] **[[4月3日]] - DeNAとの合弁子会社としてニンテンドーシステムズを設立<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=任天堂、DeNAとの合弁会社「ニンテンドーシステムズ株式会社」を2023年4月に設立すると発表。任天堂のビジネスのデジタル化強化を目的とした研究開発および運用と付加価値創造のため |url=https://news.livedoor.com/article/detail/23163449/ |website=ライブドアニュース |access-date=2022-11-08 |language=ja}}</ref>。 **[[7月3日]] - 欧州子会社のNintendo of Europe GmbHにNintendo France S.A.R.LとNintendo Benelux B.V.を吸収合併<ref name=":0" />。 **[[10月17日]] - 三店目となるオフィシャルショップ「Nintendo KYOTO」を京都[[髙島屋]]S.C.の新しい専門ゾーン「T8(ティーエイト)」の開業に合わせてオープン。 * [[2024年]] **1月 - Nintendo of Europe GmbHの社名をNintendo of Europe AGに変更予定<ref name=":0" />。 **3月 - 京都府宇治市に[[ニンテンドーミュージアム]]が完成予定。 **8月 - Nintendo of Europe AGにNintendo Ibérica, S.A.を吸収合併する他、Nintendo of Europe AGの商号を Nintendo of Europe SE に変更予定<ref name=":0" />。 <gallery> File:Nintendo 1889.jpg|創業当時の任天堂本店 File:Nintendo Former Headquarters Building.jpg|旧合名会社山内任天堂本社(京都府京都市下京区鍵屋町){{refnest|group="注釈"|[[2020年]]現在は創業家資産管理会社の株式会社山内が所有、現存建物の改修と一部新築を行い、[[2022年]]4月に18室のホテル「[[丸福樓]]」として開業されている<ref>[https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/1228524.html 任天堂の旧本社ビルがホテルとして生まれ変わる!2021年夏開業予定],GAME Watch,2020年1月10日</ref><ref>{{Cite press release|title=(仮称)かぶやまProjectのお知らせ|format=PDF|publisher=Plan・Do・See|date=2020-01-06|url=https://plandosee.co.jp/img/kabuyama-project.pdf|accessdate=2020-01-10}}</ref><ref>[https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1382112.html 任天堂旧本社社屋、ホテル「丸福樓」として4月オープン。宿泊予約、受付開始] - トラベルWatch 2022年1月20日(2022年1月24日閲覧)</ref>。}} File:Nintendo former headquarter plate Kyoto.jpg|旧合名会社山内任天堂本社ビルに掲げられた看板 </gallery> == 事業 == === ゲームソフト事業 === 任天堂は[[ハードウェア]]と[[ソフトウェア]]の開発を共に手がけるビジネスを展開している。元代表取締役社長の岩田聡は『[[Game Developers Conference]] 2011』の講演で、「任天堂は、『ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくものだ』と考えています。ご存じのように任天堂は、他社製プラットフォーム向けにゲームを提供しません。お客様にいい意味で驚いてもらうためには、自社ハードと自社ソフトをマッチさせることが最も確実な方法だと考えるからです。当社はまず第一にゲームクリエーターであり、その次にハードウェア製造者なのです」と語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/event/gdc2011/index08.html|title=岩田聡 GDC講演内容|publisher=任天堂|date=2011-03-02|accessdate=2022-04-20}}</ref>。「ゲーム機は、どうしても遊びたいソフトを楽しんでいただくために仕方なく買っていただくもの」という言葉は[[山内溥]]の発言の一つであり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/hardware/vol5/|title=社長が訊く『ニンテンドー3DS』|publisher=任天堂|date=2011-02-25|accessdate=2022-04-20}}</ref>、それを引用したものとされる。 ハードウェアに関しては堅牢性と耐久性を重視している。かつてハードウェア開発責任者を務めていた[[竹田玄洋]]によると、それは子供ユーザーに配慮したものであり、ゲーム機が壊れてしまったときに「僕が壊した」ではなく、「勝手に壊れた」となってしまう事態を見越したうえでの設計文化ができ上がっているのだという<ref>{{Cite book|和書|author=武田亨|year=2000|title=It's The NINTENDO|publisher=[[ティーツー出版]]|pages=115-116|isbn=4887497164|quote=}}</ref>。任天堂ハードウェアの頑丈さを顕著に示す事例として、[[湾岸戦争]]で爆撃に巻き込まれたゲームボーイが正常に動作した事例がある<ref>{{Cite web|和書|title=湾岸戦争で爆撃を受けて、ボロボロになったゲームボーイのムービー|url=https://gigazine.net/news/20070103_gulf_gb/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-03-15|language=ja}}</ref>。 なお、任天堂名義での外部向け開発は[[フジテレビジョン]]の『[[夢工場ドキドキパニック]]』([[任天堂情報開発本部]])ぐらいである。他には『サンリオカーニバル2』も任天堂情報開発本部が担当した外部向け開発作品であり、実際は[[1990年代]]初頭に外部向けの開発を専業とした[[電通]]との[[合弁事業|合弁子会社]]として設立していた「株式会社マリオ」の名義を借りており、同作の[[パブリッシャー]]で、[[サンリオ]][[子会社]]のゲーム会社である[[キャラクターソフト]]ぐらいしか株式会社マリオへの開発依頼が来ず、他には『[[バルーンファイトGB|ハローキティワールド]]』([[パックスソフトニカ]])とといったゲームタイトルも株式会社マリオの名義を借りていた。 [[2000年代]]中期の[[ニンテンドーDS]]と[[Wii]]の時代からは「ゲーム人口の拡大」を基本戦略として、幅広い年代を対象としたハードウェアとソフトウェアの開発を行っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/topics/wii_preview/presentation/|title=Wii Preview 社長プレゼン全文|publisher=任天堂|date=2006-09-14|accessdate=2017-10-07}}</ref>。岩田聡は[[2004年]]の経営方針説明会の中でユーザーのゲーム離れによるゲーム市場縮小の現状と熟練者、初心者間の意識の乖離について触れ、その打開策として[[タッチパネル]]や[[音声認識]]機能を搭載したニンテンドーDSを制作して全員が同じスタートラインに立てることを目指したと語っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/game/news/2004/06/09/103,1086771887,27284,0,0.html|accessdate=2017-01-13|title=【任天堂経営方針説明会】ゲーム業界の現状、問題点を岩田社長が語る|publisher=ファミ通|date=2004-06-09}}</ref>。なお、近年は「ゲーム人口の拡大」の定義を広げて「任天堂IP([[知的財産]])に触れる人口を拡大する」とし、[[#知的財産の活用|後述]]のようにIPの活用にも注力している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/management/message.html|title=株主・投資家向け情報:経営方針 - 社長メッセージ|publisher=任天堂|accessdate=2017-10-07}}</ref>。 任天堂は有料追加コンテンツというビジネスを否定していない。代表取締役社長を務めていた岩田の時代では高額課金を誘発する「[[アイテム課金#有料ガチャ|ガチャ課金]]」については、一時的に高い収益が得られたとしてもユーザーとの関係が長続きするとは考えていないため、「ガチャ課金」は行わないとしていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/120427/05.html|title=2012年4月27日(金)決算説明会|publisher=任天堂|date=2012-04-27|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 === QOL事業 === 任天堂は自社を娯楽企業であるとしているが[[2014年]]以降は、その娯楽の定義を「[[クオリティ・オブ・ライフ|QOL]](Quality of Life、生活の質)を楽しく向上させるもの」と再定義して事業領域の拡大を目指している<ref name="ir141030_5">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/141030/05.html|title=2014年10月30日(木)経営方針説明会/第2四半期決算説明会 5/6|publisher=任天堂|date=2014-10-30|accessdate=2014-10-30}}</ref>。これは自社内だけで完結するものではなく、アイデアを持っているさまざまなパートナーが参加できるようにしたいとしている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/141030qa/04.html|title=2014年10月30日(木)経営方針説明会/第2四半期決算説明会/質疑応答 4/4|publisher=任天堂|date=2014-11-01|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 事業の第1弾として「健康」をテーマに掲げている。この事業では「QOLセンサー」という装置を用いる。この装置を用いて睡眠や疲労状態に関するデータを[[クラウドコンピューティング|クラウド]]サーバーに送信し、その分析結果に基づいてQOL改善のための提案がなされる。これを日々続けることで傾向を探り、QOLの向上を目指すことを目的としている<ref name="ir141030_5"/>。 === スマートデバイス事業 === [[2016年]]配信の『[[Miitomo]]』より、[[スマートデバイス]]でのゲームビジネスを展開している。この事業単体での収益化を実現したうえで、ゲーム専用機事業との相乗効果を生み出して任天堂の事業全体の最大化を目指している<ref name="ip"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/151029/06.html|title=2015年10月29日(木)経営方針説明会/第2四半期決算説明会 (6/6)|publisher=任天堂|date=2015-10-29|accessdate=2015-10-30}}</ref>。 ゲームアプリの販売方式については「売り切り型」「アイテム課金型」とあるがゲームの種類によって使い分けていくとしている。なお、「アイテム課金型」のゲームについて一般的には「Free to Play(プレイ無料、無料で遊べる)」という言葉が用いられるが、任天堂はゲームの価値を維持したいという観点から「Free to Start(始めるのは無料)」という呼称を用いている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/stock/meeting/150626qa/03.html|title=2015年6月26日(金)第75期 定時株主総会 質疑応答|publisher=任天堂|date=2015-06-26|accessdate=2016-03-10}}</ref>。 === 知的財産の活用 === 任天堂にとって、世界で支持される豊富なIP(知的財産)を抱えていることは強みの一つである。以前まではそうしたキャラクターIPをゲーム外で用いることに消極的な立場をとっていたが、[[2014年]]以降はその方針を転換して積極的に活用するようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/140130/03.html|title=2014年1月30日(木) 経営方針説明会/第3四半期決算説明会 (3/5)|publisher=任天堂|date=2014-01-30|accessdate=2016-10-13}}</ref>。 活用例の一つとして、さまざまなゲームと連動させることができる[[フィギュア]]「[[amiibo]]」の販売を2014年12月より展開している。このamiiboが店頭に並ぶことで任天堂キャラクターの存在感を維持する効果も期待されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/141030/04.html|title=2014年10月30日(木)経営方針説明会/第2四半期決算説明会 (4/6)|publisher=任天堂|date=2014-10-30|accessdate=2014-10-30}}</ref>。 また、[[ユニバーサル・パークス&リゾーツ]]が展開している[[テーマパーク]]への登用<ref name="us"/>、映像コンテンツ化、商品化などさまざまな計画を予定している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2015/150317/02.html|title=任天堂株式会社 株式会社ディー・エヌ・エー 業務、資本提携共同記者発表(2/5)|publisher=任天堂|date=2015-03-17|accessdate=2015-03-21}}</ref>。 === 玩具の製造・販売 === [[ファイル:NintendoCards.jpg|任天堂の花札|thumb|200px]] [[花札]]、[[トランプ]]、[[かるた]]([[百人一首]])、[[麻雀]]([[麻雀牌]])、[[将棋]]([[将棋盤]]、[[駒 (将棋)|駒]])、[[囲碁]]([[碁盤]]、[[碁石]])の製造、販売を行っている<ref name=":1" /><ref name="other">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/|title=その他の商品|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-16}}</ref>。 === 以前行っていた事業 === 上記の玩具のほか、以前には[[ウルトラハンド]]、{{仮リンク|ウルトラマシン|en|Ultra Machine}}、[[ラブテスター]]、[[光線銃シリーズ]]、[[テンビリオン]]などの独自製品や、[[ルーレット]]、[[野球盤]]、[[ボードゲーム]]、[[ツイスター (ゲーム)|ツイスター]]([[ライセンス]]生産)、組立式コースター、組立ブロック、[[トランシーバー (無線機)|トランシーバー]]、[[ラジコン|ラジコンカー]]、[[人形]]といった玩具を製造・販売していた。 玩具以外では、家庭用[[綿あめ]]製造機、[[ベビーカー]]「[[ママベリカ]]」、簡易[[複写機|コピー機]]「[[コピラス|NCMコピラス]]」、電気[[時計]]、電子[[楽器]]、無線式簡易[[掃除機]]など多種多様な製品の製造、販売、[[タクシー]]、食品事業などの経営も行っていた<ref name="高野2008-02"/><ref name="Before Mario">{{Cite book|last=Voskuil|first=Erik|year=2014|title=Before Mario|pages=18, 24, 44, 50, 66, 72, 91, 94, 98, 106, 110, 122, 134, 138|publisher=Omaké Books|location=France|isbn=978-2-919603-10-7}}</ref>。 == 製品 == === 据置型ゲーム機 === {{columns-list|30em| * [[カラーテレビゲーム15]](1977年) * [[カラーテレビゲーム15|カラーテレビゲーム6]](1977年) * [[カラーテレビゲーム15#レーシング112|レーシング112]](1978年)<ref name="9volt">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/azwj/9volt/collection.html|title=ナインボルトの『ニンテンドー昔のレア商品紹介!』|publisher=任天堂|accessdate=2016-11-04}}</ref> * [[カラーテレビゲーム15#ブロック崩し|ブロック崩し]](1979年)<ref name="武宗">{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/guc/blog/tvgame/11170.html|title=テレビゲームファーストジェネレーション 〜日本の据え置き型ゲーム機のはじまり〜 第1回:TVゲームグラフティー[1970年代日本編]|author=武宗しんきろう|publisher=KADOKAWA Corporation|date=2012-12-11|accessdate=2014-11-01}}</ref> * [[カラーテレビゲーム15#コンピュータTVゲーム|コンピュータTVゲーム]](1980年)<ref name="武宗"/> * [[ファミリーコンピュータ]](1983年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[スーパーファミコン]](1990年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[ファミリーコンピュータ#AV仕様ファミリーコンピュータ|AV仕様ファミリーコンピュータ]](1993年) * [[NINTENDO64]](1996年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[スーパーファミコン#バリエーション|スーパーファミコンジュニア]](1998年) * [[ニンテンドーゲームキューブ]](2001年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[Wii]](2006年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[Wii#周辺機器|Wii Family Edition]](2011年)※日本未発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.engadget.com/2011/08/17/wii-gc/|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160412154406/http://japanese.engadget.com/2011/08/17/wii-gc/|archivedate=2016-04-12|title=任天堂、新デザインのWii を年末発売へ。GC互換を廃止|publisher=engadget|date=2011-08-18|accessdate=2014-10-11}}{{リンク切れ|date=2022-05}}</ref> * [[Wii U]](2012年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[Wii Mini]](2012年)※日本未発売<ref>{{Cite web|和書|url=http://japanese.engadget.com/2012/11/27/wii-mini-100-12-07/|title=任天堂 Wii mini 正式発表、ネット接続なしで100ドルの廉価版。カナダで年末限定商品|publisher=engadget|date=2012-11-27|accessdate=2014-10-11}}{{リンク切れ|date=2022-05}}</ref> * [[Nintendo Switch]](2017年)<ref name="nintendo-enkaku"/><ref group="注釈" name="switch">公式の分類は「家庭用据置型テレビゲーム機」だが、従来の携帯型ゲーム機のように屋外に持ち出して遊ぶこともできる。</ref> * [[Nintendo Switch(有機ELモデル)]](2021年)<ref group="注釈" name="switch"/> }} <gallery> Color TV-Game 15 (Cut out).jpg|カラーテレビゲーム15 Nintendo Color TV game 6 (Cut out).jpg|カラーテレビゲーム6 Nintendo - Color TV Racing 112.jpg|レーシング112 Nintendo-Color-TV-Game-Blockbreaker-FL.png|ブロック崩し Nintendo-TV-Game-Computer.jpg|コンピュータTVゲーム Nintendo-Famicom-Console-Set-FL.png|ファミリーコンピュータ Nintendo-Super-Famicom-Set-FL.png|スーパーファミコン New Famicom.jpg|AV仕様ファミリーコンピュータ N64-Console-Set.png|NINTENDO64 SuperFamicom_jr.jpg|スーパーファミコンジュニア GameCube-Console-Set.png|ニンテンドーゲームキューブ Wii console.png|Wii WiiFamilyEdition.svg|Wii Family Edition Wii U Console and Gamepad.png|Wii U Wii-Mini-Console-Set-H.jpg|Wii Mini Nintendo-Switch-Console-Docked-wJoyConRB.jpg|Nintendo Switch Nintendo Switch – OLED-Modell mit gedockter Konsole 20230506 HOF01624 RAW-Export.png|Nintendo Switch(有機ELモデル) </gallery> === 携帯型ゲーム機 === {{columns-list|30em| * [[ゲーム&ウオッチ]](1980年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[ゲームボーイ]](1989年)<ref name="nintendo-enkaku"/> * [[ゲームボーイポケット]](1996年) * [[ゲームボーイライト]](1998年) * [[ゲームボーイカラー]](1998年) * [[ゲームボーイアドバンス]](2001年) * [[ゲームボーイアドバンスSP]](2003年) * [[ニンテンドーDS]](2004年) * [[ゲームボーイミクロ]](2005年) * [[ニンテンドーDS Lite]](2006年) * [[ニンテンドーDSi]](2008年) * [[ニンテンドーDSi|ニンテンドーDSi LL]](2009年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/series/|title=ニンテンドーDSシリーズ本体|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref> * [[ニンテンドー3DS]](2011年)<ref name="nintendo-enkaku"/><ref name="3ds">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/3dsseries/|title=ニンテンドー3DSシリーズ|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-20}}</ref> * [[ニンテンドー3DS|ニンテンドー3DS LL]](2012年)<ref name="3ds"/> * [[ニンテンドー2DS]](2013年)※日本では2016年に発売<ref name="3ds"/> * [[Newニンテンドー3DS]](2014年)<ref name="3ds"/> * [[Newニンテンドー3DS|Newニンテンドー3DS LL]](2014年)<ref name="3ds"/> * [[Newニンテンドー2DS LL]](2017年) * [[Nintendo Switch Lite]](2019年) }} <gallery> Game_%26_Watch.png|ゲーム&ウオッチ Game-Boy-FL.png|ゲームボーイ Game-Boy-Pocket-FL.png|ゲームボーイポケット Game-Boy-Light-FL.png|ゲームボーイライト Nintendo-Game-Boy-Color-FL.png|ゲームボーイカラー Nintendo-Game-Boy-Advance-Purple-FL.png|ゲームボーイアドバンス Game-Boy-Advance-SP-Mk1-Blue.png|ゲームボーイアドバンスSP Nintendo DS Trans.png|ニンテンドーDS Game-Boy-Micro.png|ゲームボーイミクロ Nintendo-DS-Lite-Black-Open.png|ニンテンドーDS Lite Nintendo-DSi-Bl-Open.png|ニンテンドーDSi Nintendo-DSi-XL-Burg.png|ニンテンドーDSi LL Nintendo-3DS-AquaOpen.png|ニンテンドー3DS Nintendo-3DS-XL-angled.png|ニンテンドー3DS LL Nintendo-2DS-angle.png|ニンテンドー2DS New Nintendo 3DS.png|Newニンテンドー3DS New-3DS-XL-Black-Transparent-Fixed.png|Newニンテンドー3DS LL New Nintendo 2ds XL.png|Newニンテンドー2DS LL Nintendo Switch Lite representation.png|Nintendo Switch Lite </gallery> === 業務用ゲーム機 === {{Main2|ビデオゲーム|アーケードゲームのタイトル一覧#任天堂}} {{columns-list|30em| * [[レーザークレー]](1973年) * [[ワイルドガンマン]](1974年)<ref name=GameMachine19750901>{{Cite news|和書|title=好稼働の「スマッシュ」 任天堂レジャーシステム |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19750901p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=31 |agency=アミューズメント通信社 |date=1975-09-01 |page=3 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * シューティングトレーナー(1974年){{R|GameMachine19750901}} * スマッシュマティック(1974年){{R|GameMachine19750901}} * [[EVRレース]](1975年)<ref name="社長が訊くPUNCH-OUT!!"/> * ミニレーザークレー(1976年) - 第14回アミューズメントマシンショーに「レーザークレー」として出品<ref>{{Cite news|和書|title=14th Amusement Machine Show |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19761015p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=58 |agency=アミューズメント通信社 |date=1976-10-15 |page=14 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * [[EVRレース#EVRベースボール|EVRベースボール]](1976年) * スカイホーク(1976年)<ref>{{Cite news|和書|title=実写で野球EVR 強烈な「スカイ・ホーク」の迫力 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19761115p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=60 |agency=アミューズメント通信社 |date=1976-11-15 |page=12 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * バトルシャーク(1977年)<ref name=GameMachine19770801>{{Cite news|和書|title=任天堂レ 迫力の実写フィルム バトル・シャーク デッドライン/ファンシーボールも近日発売 |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19770801p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=77 |agency=アミューズメント通信社 |date=1977-08-01 |page=14 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * デッドライン(1977年){{R|GameMachine19770801}} * ファンシーボール(1977年){{R|GameMachine19770801}} * ニューシューティングトレーナー(1978年) - 販売:エスコ貿易<ref>{{Cite news|和書|title=求めやすくなったニュー・シューティング 新機種「ゲームツリー」もエスコから |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780415p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=94 |agency=アミューズメント通信社 |date=1978-04-15 |page=25 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * テストドライバー(1978年)<ref>{{Cite news|和書|title=任天堂から「テストドライバー」新発売 実写ムービーで運転 3種類の遊び「ブロック・フィーバー」も |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19781201p.pdf |newspaper=ゲームマシン |issue=109 |agency=アミューズメント通信社 |date=1978-12-01 |page=10 |accessdate=2022-09-28}}</ref> * [[ファミリーコンピュータ#ファミコンボックス|ファミコンボックス]](1986年) }} <!-- 以下は任天堂のIPを使用し、かつ任天堂も開発に関わっているものもあるが、あくまで他社の製品であるのでコメントアウト(2022年9月18日) * [[F-ZERO AX]](2003年)※[[セガ]]が開発<ref>{{cite web|url=http://www.am.sega.jp/utop/closeup/fzero_ax.html|title=F-ZERO AX(アーカイブ)|publisher=[[セガ]]|accessdate=2016-10-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030801221940/http://www.am.sega.jp/utop/closeup/fzero_ax.html|archivedate=2003-08-01}}</ref> * [[マリオカート アーケードグランプリ]](2005年)※[[バンダイナムコアミューズメント|ナムコ]]が開発<ref>{{cite web|url=https://product.bandainamco-am.co.jp/am/vg/mariokart/|title=アミューズメントマシン|マリオカート アーケードグランプリ|publisher=[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス]]|accessdate=2016-10-27}}</ref> * [[マリオカート アーケードグランプリ2]](2007年)※[[バンダイナムコエンターテインメント|バンダイナムコゲームス]]が開発<ref>{{cite web|url=https://product.bandainamco-am.co.jp/am/vg/mariokart2/|title=アミューズメントマシン|マリオカート アーケードグランプリ2|publisher=バンダイナムコゲームス|accessdate=2016-10-27}}</ref> * [[リズム天国#アーケード版|リズム天国]](2007年)※[[セガ・インタラクティブ|セガ]]が開発<ref>{{cite web|url=http://rhythm-tengoku.sega.jp/|title=リズム天国 (アーカイブ)|publisher=セガ|accessdate=2016-12-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131216011233/http://rhythm-tengoku.sega.jp/|archivedate=2013-12-16}}</ref> * [[マリオカート アーケードグランプリ#アーケードグランプリDX|マリオカート アーケードグランプリ デラックス]](2013年)※バンダイナムコゲームスが開発<ref>{{cite web|url=https://mariokart-acgpdx.bngames.net/|title=マリオカート アーケードグランプリ デラックス|publisher=バンダイナムコゲームス|accessdate=2016-10-27}}</ref> * [[ルイージマンション2#アーケード版|ルイージマンション アーケード]](2015年)※[[カプコン]]が開発<ref>{{cite web|url=https://www.capcom.co.jp/arcade/luigimansion-ac/|title=ルイージマンション アーケード|publisher=[[カプコン]]|accessdate=2017-01-31}}</ref> * [[マリオ&ソニック AT リオオリンピック|マリオ&ソニック AT リオオリンピック アーケードゲーム]](2016年)※[[セガ・インタラクティブ]]との共同開発<ref>{{cite web|url=http://mariosonic.sega.jp/|title=マリオ&ソニック AT リオオリンピック アーケードゲーム|publisher=セガ|accessdate=2018-02-15}}</ref> * [[マリオカート アーケードグランプリVR]](2017年)※[[バンダイナムコエンターテインメント]]が開発<ref>{{Cite web|url=https://bandainamco-am.co.jp/others/vrzone-portal/activity/mariokart.html|title=マリオカート アーケードグランプリVR - VR ZONE Portal|publisher=[[バンダイナムコアミューズメント]]|accessdate=2019-01-24}}</ref> * [[マリオ&ソニック AT 東京2020オリンピック|マリオ&ソニック AT 東京2020オリンピック アーケードゲーム]](2020年 - )※セガ・インタラクティブとの共同開発 --> === ゲーム周辺機器 === {{columns-list|30em| * [[ファミリーベーシック]](1984年) * [[ファミリーコンピュータ ロボット]](1985年) * [[ファミリーコンピュータ ディスクシステム]](1986年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/0408/what/|title=ディスクシステムとは?|publisher=Nintendo Online Magazine 2004.08|accessdate=2016-10-26}}</ref> * [[ファミコン3Dシステム]](1987年) * [[スーパーファミコンマウス]](1992年) * [[スーパースコープ]](1993年) * [[スーパーゲームボーイ]](1994年) * [[サテラビュー]](1995年) * [[振動パック]](1997年) * [[スーパーゲームボーイ|スーパーゲームボーイ2]](1998年) * [[ポケットカメラ]](1998年) * [[ポケットプリンタ]](1998年) * [[64GBパック]](1998年) * [[メモリー拡張パック]](1999年) * [[64DD]](1999年) * [[通信ケーブル (ゲームボーイ)|通信ケーブル]](2001年) * [[モバイルアダプタGB]](2001年) * [[カードeリーダー]](2001年) * [[GBAケーブル]](2001年) * [[ゲームボーイプレーヤー]](2003年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/acce/gbplayer/|title=周辺機器/ゲームボーイプレーヤー詳細情報|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref> * [[カードeリーダー|カードeリーダー+]](2003年) * [[タルコンガ]](2003年) * [[ゲームボーイアドバンス専用ワイヤレスアダプタ]](2004年) * [[プレイやん]](2005年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n08/playan/|title=プレイやん|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref> * [[プレイやん|PLAY-YAN micro]](2005年) * [[DS振動カートリッジ]](2006年) * [[DS振動カートリッジ#DS Lite振動カートリッジ|DS Lite振動カートリッジ]](2006年) * [[ニンテンドーDSブラウザー]](2006年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/browser/|title=ニンテンドーDSブラウザー|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref> * [[ワンセグ受信アダプタ DSテレビ]](2007年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ds/unsj/|title=ワンセグ受信アダプタ DSテレビ|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref> * [[ニンテンドーDSiブラウザー]](2008年) * [[バランスWiiボード]](2013年) * [[amiibo]](2014年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/event/e3_2014/lineup/amiibo/|title=amiibo(アミーボ)|任天堂 E3 2014情報|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140713061500/https://www.nintendo.co.jp/event/e3_2014/lineup/amiibo/|archivedate=2014-07-13|deadlink=2023-02}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/amiibo/|title=amiibo(アミーボ)|publisher=任天堂|accessdate=2023-02-20}}</ref> * ニンテンドー3DS NFCリーダー/ライター(2015年) * [[Nintendo Labo]](2018年 - ) }} === 主なゲームソフトウェア === {{main|任天堂発売のゲームタイトル一覧}} {{columns-list|30em| * [[マリオシリーズ]](1981年 - ) ** [[ドンキーコングシリーズ]](1981年 - )<ref name="dk"/> ** [[スーパーマリオシリーズ]](1985年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ngc/sms/history/sm1/|title=スーパーマリオブラザーズ|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-27}}</ref> ** [[マリオゴルフ]]シリーズ(1987年 - ) ** [[ドクターマリオ]]シリーズ(1990年 - ) ** [[ヨッシーシリーズ]](1991年 - ) ** [[マリオカートシリーズ]](1992年 - ) ** [[ワリオシリーズ]](1994年 - ) ** [[ゲームボーイギャラリー]]シリーズ(1997年 - ) ** [[マリオパーティシリーズ]](1998年 - ) ** [[マリオテニス]]シリーズ(2000年 - ) ** [[ペーパーマリオシリーズ]](2000年 - ) ** [[ルイージマンションシリーズ]](2001年 - ) ** [[マリオ&ルイージRPGシリーズ]](2003年 - ) ** [[マリオvs.ドンキーコング]]シリーズ(2004年 - ) ** [[スーパーマリオスタジアム (ゲームソフト)|スーパーマリオスタジアム]]シリーズ(2005年 - ) ** [[マリオストライカーズ]]シリーズ(2006年 - ) ** [[マリオ&ソニック]]シリーズ(2007年 - ) ** [[マリオ+ラビッツ キングダムバトル|マリオ+ラビッツ]]シリーズ(2018年 - ) * [[エキサイトバイク]]シリーズ(1984年 - ) * [[バルーンファイト]]シリーズ(1985年 - ) * [[ゼルダの伝説シリーズ]](1986年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/eshop/vc/taej/|title=ゼルダの伝説1|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[メトロイドシリーズ]](1986年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/0303/1/|title=もう一度おさらい! 「メトロイド」シリーズの歴史|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[パルテナの鏡シリーズ]](1986年 - ) * [[パンチアウト!!]]シリーズ(1987年 - ) * [[ファミコン探偵倶楽部]]シリーズ(1988年 - ) * [[ファミコンウォーズ]]シリーズ(1988年 - ) * [[役満 (任天堂)|役満]]シリーズ(1989年 - ) * [[MOTHERシリーズ]](1989年 - 2006年) * [[ファイアーエムブレム]]シリーズ(1990年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/fe/series/series01.html|title=ファイアーエムブレムワールド 【FIRE EMBLEM WORLD】|publisher=INTELLIGENT SYSTEMS|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[F-ZEROシリーズ]](1990年 - ) * [[パイロットウイングス]]シリーズ(1990年 - ) * [[星のカービィシリーズ]](1992年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/s72j/|title=星のカービィ 20周年スペシャルコレクション|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[X (ゲーム)|X]]シリーズ(1992年 - ) * [[ウェーブレース]]シリーズ(1992年 - ) * [[スターフォックスシリーズ]](1993年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/anrj/vol1/|title=社長が訊く『スターフォックス64 3D』 1. 「京都で働きたい」|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[ピクロス (ゲームソフト)|ピクロス]]シリーズ(1995年 - ) * [[パネルでポン]]シリーズ(1995年 - ) * [[ポケットモンスター (ゲームシリーズ)|ポケットモンスター]]シリーズ(1996年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/pokemon/history/|title=ポケモンゲームス:ヒストリー 『ポケットモンスター』シリーズ|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[テン・エイティ スノーボーディング|テン・エイティ]]シリーズ(1998年 - ) * [[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]](1999年 - ) * [[カスタムロボ]]シリーズ(1999年 - ) * [[巨人のドシン]]シリーズ(1999年 - ) * [[トレード&バトル カードヒーロー|カードヒーロー]]シリーズ(2000年 - ) * [[罪と罰 〜地球の継承者〜|罪と罰]]シリーズ(2000年 - ) * [[くるくるくるりんシリーズ]](2001年 - ) * [[黄金の太陽]]シリーズ(2001年 - ) * [[どうぶつの森シリーズ]](2001年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/ruuj/vol1/index4.html|title=社長が訊く『街へいこうよ どうぶつの森』 4. リビングとリビングの空気がつながる|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[ピクミンシリーズ]](2001年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/hardware/vol2/index3.html|title=社長が訊く『Wii U』 Wii U GamePad篇 4. 「最後はガッツ」|publisher=任天堂|accessdate=2015-07-15}}</ref> * [[マジカルバケーション]]シリーズ(2001年 - ) * [[伝説のスタフィーシリーズ]](2002年 - ) * [[大合奏!バンドブラザーズ]]シリーズ(2004年 - ) * [[直感ヒトフデ|ヒトフデ]]シリーズ(2004年 - ) * [[nintendogs]]シリーズ(2005年 - ) * [[ちびロボ!]]シリーズ(2005年 - ) * [[押忍!闘え!応援団]]シリーズ(2005年 - ) * [[瞬感パズループ|パズループ]]シリーズ(2006年 - ) * [[カルチョビット]]シリーズ(2006年 - ) * [[リズム天国]]シリーズ(2006年 - ) * [[Wii Sports シリーズ]](2006年 - ) * [[FOREVER BLUE]]シリーズ(2007年 - ) * [[Wii Fit]]シリーズ(2007年 - 2014年) * [[ぼくらはカセキホリダー|カセキホリダー]]シリーズ(2008年 - ) * [[通信対局 早指将棋三段|通信対局]]シリーズ(2008年 - ) * [[ガールズモード|GIRLS MODE]]シリーズ(2008年 - ) * [[トモダチコレクション]]シリーズ(2009年 - ) * [[ゼノブレイド]]シリーズ(2010年 - ) * [[Wii Party]]シリーズ(2010年 - ) * [[すりぬけアナトウス]]シリーズ(2010年 - ) * [[スティールダイバー]]シリーズ(2011年 - ) * [[引ク押スシリーズ]](2011年 - ) * [[ザ・ローリング・ウエスタン]]シリーズ(2012年 - ) * [[ファミコンリミックス]]シリーズ(2013年 - ) * [[ハコボーイ!]]シリーズ(2015年 - ) * [[スプラトゥーン]]シリーズ(2015年 - ) }} === その他 === {{出典の明記|date=2021年7月|section=1}} {{columns-list|30em| * ラビットコースターゲーム(組立式)(1964年) * ラビットコースターゲーム(1965年) * ニューコースターゲーム(1965年) * マイカーレース(1965年) * ピクチャーカッター(1965年) * ウルトラコースターゲーム(1966年) * [[ウルトラハンド]](1966年) * ドライブゲーム(1966年) * コンパニオン(1966年) * ニューピクチャーカッター(1966年) * ピクチャーカッター ウルトラマン(1966年) * キャプテンウルトラコースター(1967年) * ウルトラマシン(1968年)<ref name="9volt"/><ref name="横井・牧野">{{Cite book|和書|author1=横井軍平|authorlink1=横井軍平|author2=牧野武文|title=横井軍平ゲーム館 Returns|publisher=フィルムアート社|year=2010}}</ref> * ピープルハウス(1968年) * [[N&Bブロック]](1969年) * チャレンジダイス(1969年) * ヒップフリップ(1969年) * [[ラブテスター]](1969年)<ref name="横井・牧野"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2010/06/23/42818.html|title=昔懐かしい任天堂の玩具「ラブテスター」が41年ぶりに復刻、テンヨーより6月24日発売|publisher=IID, Inc.|work=Inside|date=2010-06-23|accessdate=2014-11-01}}</ref> * 運命ゲーム(1969年) * キャンデーマシン(1970年) * [[光線銃シリーズ]] (1970年 - 1976年、1984年)<ref group="注釈">[[1970年代]]には玩具として発売。[[1984年]]には[[ファミリーコンピュータ]]の周辺機器として発売。</ref><ref name="横井・牧野"/> * マッハライダー(1970年) * チャレンジボール(1970年) * [[コピラス]](1971年)<ref name="高野2008-02"/> * ツインス(1971年) * ウルトラスコープ(1971年)<ref group="注釈">ウルトラコープの名称で販売されたこともある。</ref> * スペースボール(1971年) * パワーリフト(1971年) * 光線電話LT(1971年) * 電気時計(1971年) * [[コピラス|コピラスドライ]](1972年) * [[コピラス|フォトコピラス]](1972年) * エレコンガ(1972年) * エレコンガ オートプレイヤー(1972年) * ユニラック(1972年) * [[ママベリカ]](1972年)<ref name="高野2008-02"/> * 任天堂マーキングペン ノンドライ(1972年) * [[タイムショック (玩具)|タイムショック]](1972年) * [[コピラス|コピラスST]](1973年) * ニンテンドー ペーパーモデル(1974年) * レフティRX(1973年) * ショットレーサー(1974年) * ミスターマジシャン(1975年) * パンチブイ(1975年) * [[チリトリー]](1979年) * [[テンビリオン]](1980年) * 偏光スクリーン クロスオーバー(1981年) * [[役満 (任天堂)#コンピュータマージャン役満|コンピュータマージャン役満]](1983年)<ref name="横井・牧野"/> * [[バーチャルボーイ]](1995年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/vue/|title=バーチャルボーイ|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref> * [[ポケモンミニ]](2001年) * ポケモーション(2003年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/p_motion/|title=ポケモーション|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-27}}</ref> * ニンテンドークラシックミニシリーズ ** [[ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ]](2016年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/clv/|title=ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref> ** [[スーパーファミコン#ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン|ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン]](2017年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/clvs/|title=ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン|publisher=任天堂|accessdate=2017-10-04}}</ref> ** [[ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ#週刊少年ジャンプ50周年記念バージョン|ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ 週刊少年ジャンプ50周年記念バージョン]](2018年) * カードゲーム ** [[花札]]、[[株札]](1889年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/hana-kabu_items/|title=花札・株札|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-19}}</ref><ref name="trump">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9909/|title=テレビゲームと言えば任天堂、任天堂と言えば……トランプ!|publisher=Nintendo Online Magazine 1999年9月号|accessdate=2016-11-06}}</ref> ** [[かるた]]、[[百人一首]](1890年 - )<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/hyaku/hyaku.html|title=百人一首|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-19}}</ref> ** [[トランプ]](1902年 - )<ref name="other"/><ref name="trump"/> ** [[ドンキーコングカードゲーム]](1999年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/9912/dkcard/|title=ドンキーコングカードゲーム|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-27}}</ref> ** カードヒーロー トレーディングカード(2000年 - 2001年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n02/dmg/ahhj/card/|title=カードヒーロー トレーディングカード トップページ|publisher=任天堂|accessdate=2021-8-15}}</ref> ** [[ファイアーエムブレム0]](2015年 - 2020年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://fecipher.jp|title=TCGファイアーエムブレム0(サイファ)|publisher=INTELLIGENT SYSTEMS|accessdate=2016-10-19}}</ref> * ボードゲーム ** [[碁盤]]、[[碁石]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/igo/igo.html|title=囲碁|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-19}}</ref> ** [[将棋盤]]、[[駒 (将棋)|将棋駒]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/syougi/syougi.html|title=将棋|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-19}}</ref> ** [[麻雀牌]]、麻雀マット<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/mahjong/|title=麻雀|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-1}}</ref> * テーブルゲーム ** [[ドミノ]] * 歩数計 ** [[ポケットピカチュウ]](1998年)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/n09/pokepika/|title=ポケットピカチュウ|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref> ** ポケットハローキティ(1998年) ** ポケットピカチュウカラー 金・銀といっしょ!(1999年) }} <gallery> Virtual-Boy-Set.png|バーチャルボーイ </gallery> == サービス == ; [[ニンテンドーネットワーク]] : 「[[Miiverse]]」や「[[ニンテンドーeショップ]]」などのネットワークサービスの総称。利用には「ニンテンドーネットワークID(NNID)」を登録(無料)する必要がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/nintendo_network/about/|title=ニンテンドーネットワークとは?|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-13}}</ref>。 ; [[ニンテンドーアカウント]] : [[2015年]][[12月1日]]に登録がスタートしたアカウントサービス。従来のNNIDのほかに[[Google+]]、[[Twitter]]、[[facebook]]のアカウントを用いた登録も可能<ref name="151029setsumei">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/151029/04.html|title=2015年10月29日(木)経営方針説明会 / 第2四半期決算説明会(4/6)|publisher=任天堂|date=2015-10-29|accessdate=2015-10-30}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/library/events/151029/05.html|title=2015年10月29日(木)経営方針説明会/第2四半期決算説明会(5/6)|publisher=任天堂|date=2015-10-29|accessdate=2015-10-30}}</ref>。後述の「マイニンテンドー」を利用する際に用いられる。 ; [[マイニンテンドー]] : [[2016年]][[3月17日]]に開始された任天堂の会員制サービス。ログイン時にはニンテンドーアカウントを利用する。登録費、会費は無料<ref name="151029setsumei"/><ref name="mynintendo">{{Cite web|和書|url=https://my.nintendo.com/getting_started|title=「マイニンテンドー」ポイントプログラムとは?|publisher=任天堂|accessdate=2017-10-09}}</ref>。ゲームソフトの購入や対応ソフトのプレイなどによりポイントが付与され、そのポイントをさまざまな景品と交換できる。また、登録されたプロフィールやゲームのプレイ状況に応じた通知が任天堂から届くほか、任天堂ホームページからのゲームソフトのダウンロード購入や体験版のダウンロード、任天堂が運営している[[ECサイト|販売サイト]]「マイニンテンドーストア」の利用が可能になる<ref name="mynintendo"/>。 ; [[クラブニンテンドー]] : [[2003年]][[10月1日]]に開始されたマイニンテンドーの開始以前に行われていた会員制サービス。登録費、会費は無料。ゲームソフト購入時に得られたポイントをさまざまな景品と交換できたほか、ポイントを多くためた会員は「ゴールド会員」「プラチナ会員」となり、任天堂から特別な景品が贈られていた。[[2015年]][[9月30日]]にサービスを終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2015/0120.html|title=「クラブニンテンドー」サービス終了のお知らせ|publisher=任天堂|date=2015-01-20|accessdate=2015-03-21}}</ref>。 ; 修理 : 故障したゲーム機の修理は任天堂ホームページで受け付けている。以前は任天堂サービスセンターへの持ち込みにも応じていたが[[2016年]][[8月31日]]に受付を終了<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2016/0701.html|title=任天堂サービスセンターへの持ち込み修理受付終了のお知らせ|publisher=任天堂|date=2016-07-01|accessdate=2016-07-01}}</ref>。 == 情報発信の取り組み == ; [[Nintendo Direct]]<span style="font-weight:normal">(ニンテンドーダイレクト)</span> : [[2011年]][[10月21日]]に開始された[[YouTube]]、[[ニコニコ生放送]]でゲームの最新情報を紹介する番組<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/direct_links/|title=会社情報:Nintendo Direct リンク集|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref>。代表取締役社長(当時)の岩田聡によると、開始当時は情報を公式に発表する前に歪んだ形で拡散されてしまうことが大きな問題になっていたため、ゲームの情報を直接発信すべきと考えたことがきっかけだという<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/events/121025qa/|title=2012年10月25日(木)第2四半期決算説明会 質疑応答|publisher=任天堂|date=2012-10-25|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 ; [[ニャニャニャ! ネコマリオタイム]]<span style="font-weight:normal">({{Lang-en-short|The Cat Mario Show}})</span> : [[2014年]][[2月26日]]に開始された[[ニンテンドーeショップ]]、[[Nintendo Switch]]、[[YouTube]]で[[パペット]]のネコマリオとネコピーチが進行役を務めてゲームの最新情報を紹介する番組<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/kids/nekomariotime/|title=ニャニャニャ! ネコマリオタイム|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-26}}</ref>。 ; Indie World<span style="font-weight:normal">(インディーワールド)</span> : [[2018年]][[5月11日]]に開始された[[YouTube]]で[[インディーゲーム]]の最新情報を任天堂の担当者が紹介する番組<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/software/feature/indieworld/|title=Hello! Indie World(インディーワールド)|publisher=任天堂|accessdate=2018-05-13}}</ref>。北米では「Nindies Showcase」、欧州では「Indie Highlights」の名称で同様の配信を行っていたが、[[2019年]][[8月19日]]から名称を「Indie World」に改称<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/3d1d603b-b99d-11e9-b641-063b7ac45a6d|title=インディーゲームを紹介する動画の海外版「Indie World - 19.08.19」 を公開|publisher=任天堂|date=2019-08-20|accessdate=2019-08-20}}</ref>。 ; 社長が訊く<span style="font-weight:normal">({{Lang-en-short|Iwata Asks}})</span> : [[2006年]][[9月8日]]に開始された元代表取締役社長の岩田が開発者にさまざまなプロジェクトの裏話を訊いていたインタビュー企画。[[2015年]][[6月24日]]まで更新していた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/links/|title=会社情報:社長が訊く リンク集|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 ; トピックス : 2015年[[12月1日]]に開始された任天堂に関するさまざまな情報を[[ブログ]]形式で伝えるサービス<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/f1815e6f-9195-11e5-b940-0a6d14145cb1|title=「トピックス」ページがオープンしました!|publisher=任天堂|date=2015-12-01|accessdate=2017-10-09}}</ref>。 ; Nintendo News<span style="font-weight:normal">(ニンテンドーニュース)</span> : 子ども層を対象に任天堂の情報などを伝えていたページ<ref>{{Cite web|url=https://www.nintendo.co.jp/nintendo_news/|title=NIntendo News|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 ; ニンテンドーキッズスペース : 2015年[[12月2日]]に「Nintendo News」がリニューアルして子ども層を対象に任天堂の情報などを伝えていたページ。2017年[[1月13日]]に「トピックス」に統合された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/kids/170113/moving/|title=ニンテンドーキッズスペース|publisher=任天堂|accessdate=2017-01-14}}</ref>。 ; [[ニンテンドーゲームフロント]] : [[パナソニックセンター東京]]と[[関西空港]]にある任天堂のゲームを自由にプレイできる常設ショールーム<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/etc/gamefron/|title=ニンテンドーゲームフロント|publisher=任天堂|accessdate=2015-12-04}}</ref><ref>[https://www.kyoto-np.co.jp/economy/article/20170619000147 任天堂、関空に無料ゲームスペース]</ref><ref>[https://topics.nintendo.co.jp/article/b78f06f5-4f3e-11e7-8f53-063b7ac45a6d 関西国際空港にゲーム体験スペース『Nintendo Check In』が6/23よりオープン! 国際線到着通路ではマリオファミリーのお出迎えも!]</ref>。 ; [[任天堂スペースワールド]] : かつて任天堂が[[幕張メッセ]]で開催していたゲームイベント。グッズ販売やゲーム大会などが行われた<ref>{{Cite book|書籍|author=NINTENDO SPACEWORLD 2001 オフィシャルガイドブック|publisher=任天堂/[[双葉社]]|pages=36-45}}</ref>。 ; [[月刊任天堂店頭デモ]] : [[2002年]]4月に「ゲームは動いてるものを見ないとわからない」などの声に応えて店頭に設置されていた「[[ニンテンドーゲームキューブ]]」の試遊台。ゲーム内容は毎月更新されていた<ref>ニンテンドーブック 2002・冬</ref>。[[2006年]]に設置を終了。 ; ニンテンドーブック : [[2002年]]前後に店頭で配布されていた季刊の無料冊子。当時の新作ゲームや[[Electronic Entertainment Expo|E3]]の情報などが載っているほか開発者のインタビューの収録されているDVDなどが同梱していた<ref>ニンテンドーブック2002<br />{{Cite web|和書|url=https://dengekionline.com/data/news/2002/9/24/42f0e23b404c5d99eeffe422705a113d.html|title=任天堂、DVD付き「ニンテンドーブック2002・秋」を全国のゲームショップで無料配布|publisher=[[電撃オンライン]]|accessdate=2015-12-13}}</ref>。 ; [[:en:Nintendo Power|Nintendo Power]]<span style="font-weight:normal">(ニンテンドーパワー)</span> : [[アメリカ合衆国|アメリカ]]でかつて刊行されていた任天堂公式のゲーム雑誌。[[1987年]]から7号が発行された「Nintendo Entertainment System」購入者向けの会報「Nintendo Fun Club News」の後を受けて<ref>{{cite web|url=https://kotaku.com/remembering-nintendos-other-1980s-magazine-the-nintend-5936766|title=Remembering Nintendo's Other 1980's Magazine, The Nintendo Fun Club|author=Luke Plunkett|publisher=Kotaku|date=2012-08-22|accessdate=2014-11-26}}</ref> 1988年に「Nintendo Power」が隔月刊誌として創刊<ref>''Nintendo Power July/August 1988'', p.5, Nintendo of America Inc.</ref><ref name="Kotaku20120821">{{cite web|url=https://kotaku.com/report-nintendo-power-shutting-down-5936628|title=Report: Nintendo Power Shutting Down|author=Evan Narcisse|publisher=Kotaku|date=2012-08-21|accessdate=2014-11-26}}</ref>。2007年にFutureが刊行を引き継いだが<ref name="Kotaku20120821"/>[[2012年]]12月に刊行を終了<ref>{{cite web|url=https://kotaku.com/nintendo-confirms-the-end-of-the-nintendo-power-era-5936942|title=Nintendo Confirms the End of the Nintendo Power Era|author=Evan Narcisse|publisher=Kotaku|date=2012-08-22|accessdate=2014-11-26}}</ref>。創刊号には『[[スーパーマリオブラザーズ]]』の高得点獲得者として少年時代の[[クリフ・ブレジンスキー]]の名が掲載されている<ref>''Nintendo Power July/August 1988'', p.99, Nintendo of America Inc.</ref><ref>{{cite web|url=https://kotaku.com/cliff-bleszinski-s-perfect-eulogy-for-nintendo-power-5936841|title=Cliff Bleszinski’s Perfect Eulogy for Nintendo Power|author=Stephen Totilo|publisher=Kotaku|date=2012-08-22|accessdate=2014-11-26}}</ref>。 == ゲーム実況 == [[2015年]]1月、[[YouTube]]にゲーム動画をアップロードした制作者が広告収益を任天堂とシェアできるサービス「[[Nintendo Creators Program]]」の提供を開始<ref>{{Cite web|和書|url=https://r.ncp.nintendo.net/guide/|title=Nintendo Creators Programとは|publisher=任天堂|accessdate=2015-01-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2014/05/27/77064.html|title=任天堂、同社著作物を利用した動画投稿者に向けたアフィリエイトプログラムを準備中|publisher=inside|date=2014-05-27|accessdate=2014-11-18}}<br />{{Cite web|和書|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/443445/|accessdate=2014-11-18|title=任天堂がゲーム実況を認めたら|publisher=All About|date=2014-11-18}}</ref>。YouTubeでは新ガイドラインができるまでは自社のゲーム動画の広告収益は任天堂が付与されていたが、この仕組みにより動画制作者側も利益が得られるようになる。また、[[ニコニコ動画]]における同様のサービス「クリエイター奨励プログラム」にも参加している<ref>{{Cite web|url=https://japan.cnet.com/article/35056701/|accessdate=2014-11-18|title=任天堂、ニコ動の実況プレイ動画を公認--岩田社長「ゲーム文化の裾野を広げるため」|publisher=CNET Japan|date=2014-11-18}}</ref>。OPENREC.tvでも任天堂タイトルの動画配信が可能になっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://openrec.zendesk.com/hc/ja/articles/115000284212-任天堂タイトルの動画配信について|title=任天堂タイトルの動画配信について|publisher=OPENREC.tv|accessdate=2018-03-28}}</ref>。 [[2018年]]11月、任天堂は「Nintendo Creators Program」を終了すると発表。そして新たな任天堂の著作物の利用に関するガイドラインを発表した<ref name="新ガイドライン">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/networkservice_guideline/ja/|title=ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン|publisher=任天堂|date=2019-11-29|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 === 新ガイドライン === 「Nintendo Creators Program」では広告収益を受け取るには動画の審査が必須だったのに対して、新ガイドライン「ネットワークサービスにおける任天堂の著作物の利用に関するガイドライン」は動画の審査が不要で実況できる任天堂ソフトの制限もなくなった<ref name="新ガイドライン"/>。 新ガイドラインは個人を対象にしているため法人は対象外であるが、[[YouTuber]]の事務所(MCN)である [[UUUM]]のように包括的許諾をとる所もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.uuum.co.jp/news/28513|title=任天堂株式会社の著作物の取り扱いに関する包括的許諾の継続のお知らせ|publisher=[[UUUM]]|accessdate=2018-11-29}}</ref>。また、タレント事務所に所属するタレントやMCNに所属するYouTuberなどが個人で行う場合はガイドライン対象となるが、業務として投稿する場合はガイドライン対象外となる<ref name="yahoo個人">{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/osamuinoue/20181130-00106057/|title=話題の任天堂「著作物ガイドライン」、ファンや法曹関係者の評価とは|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|accessdate=2018-11-30}}</ref>。 == eスポーツ == [[2017年]]10月、任天堂は海外で盛り上がりを見せている[[eスポーツ]]の取り組みについて、「ユーザーの関心が広がっており世界的にも広がりを見せていることは認識している。任天堂のゲームを使って『任天堂らしい』と多くの皆様から感じていただけ、勝った⽅に喜んでいただける、そんな『ご褒美のようなものは⼀体何なのか』そういうことを考えながらいろんな活動に取り組んできている」としている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2017/171101.pdf|title=2018年3⽉期第2四半期決算説明会|publisher=任天堂|date=2017-10-19|accessdate=2019-09-19}}</ref>。現在eスポーツ団体「[[日本eスポーツ連合]]」にはさまざまなゲームメーカーが加盟して賞金大会を開いているが、任天堂は加盟していない。 [[2018年]]7月、[[日本野球機構]](NPB)がeスポーツに参入し、第2弾で「NPB eスポーツシリーズ [[スプラトゥーン2]]」を開催するにあたって任天堂は協力をしている。大会では成績に応じて賞金がもらえる大会ではないが一律参稼手当有りである<ref>{{Cite web|和書|url=http://npb.jp/news/detail/20180727_01.html|title=「NPB eスポーツシリーズ スプラトゥーン2」の開催について|publisher=[[日本野球機構|NPB]]|date=2018-07-27|accessdate=2019-09-19}}</ref>。他には好成績をあげているプロのスマブラプレイヤーを集めた「[[大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL|スマブラSP]] 東西リーグ大会(スマッシュボール杯 東西リーグ)」を任天堂公式大会として毎月開催してWeb番組で配信している<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/c/article/bd4569d3-a2f9-11e9-b641-063b7ac45a6d.html|title=「「スマブラSP 東西リーグ 第2期」開幕直前!ナンバーワンは誰の手に?|publisher=任天堂|date=2018-07-27|accessdate=2019-09-19}}</ref>。賞金は出ないが一律参稼手当有りである。現状は賞金こそ出ないものの優勝商品や一律参稼手当有りという形でのeスポーツ参加をしている。 == 事業拠点 == ; 事業所<ref>{{Cite report |和書|author=任天堂|date=2023-06-26|title=第83期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書 設備の状況}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/offices/|title=会社情報:事業所案内|publisher=任天堂|accessdate=2022-06-30}}</ref><ref group="注釈">かつては[[大阪府]][[大阪市]]に支店、[[北海道]][[札幌市]]、[[愛知県]][[名古屋市]]、[[岡山県]][[岡山市]]、[[福岡県]][[福岡市]]に営業所を設けていた。</ref><ref group="注釈">[[2017年]][[4月3日]]、宇治大久保工場並びに大阪支店に任天堂販売株式会社京都物流センター並びに大阪支店が入居。同社が任天堂から賃借して使用している。</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! 事業所名 !! 事業内容 !! 所在地 |- | 本社 || 管理・販売・開発・製造 || [[京都府]][[京都市]][[南区 (京都市)|南区]]上鳥羽鉾立町 |- | 本社開発棟 || 開発 || 京都府京都市南区[[東九条]]南松田町 |- | 宇治工場 || 製造 || 京都府[[宇治市]][[槇島町]] |- | 東京支店 || 管理・販売・開発 || [[東京都]][[千代田区]][[神田錦町]] |} == 関連会社 == ; {{Anchors|連結子会社}}連結子会社<ref>{{Cite report |和書|author=任天堂|date=2023-06-26|title=第83期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書 関係会社の状況|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2023/security_q2303.pdf#page=07}}</ref><ref>{{Cite web|date=2014-04-07|url=https://www.nintendo.tw/pressrelease/customer_notice20140407.htm|title=顧客重要通知|publisher=任天堂溥天股份有限公司/任天堂(香港)有限公司|accessdate=2017-01-16}}</ref><ref group="注釈">[[台湾]]に現地法人「任天堂溥天股份有限公司」を置いていたが、[[2014年]]に任天堂(香港)有限公司へ業務を移管している。</ref><ref group="注釈">フランスに現地法人「Nintendo France S.A.R.L」、オランダに現地法人「Nintendo Benelux B.V.」を置いていたが、2023年7月3日にNintendo of Europe GmbHに吸収合併された。</ref><ref group="注釈">Nintendo of Canada Ltd.、Nintendo Ibérica, S.A.、Nintendo RU LLC.、 Nintendo European Research and Development SAS、神游科技有限公司は間接所有。</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! scope="col" | 名称 ! scope="col" | 事業内容 ! scope="col" | 所在地 ! scope="col" | 取得日 ! scope="col" class="unsortable" | 出典 |- | Nintendo of America Inc. | style="text-align:center;" rowspan="9"| 販売 | [[アメリカ合衆国]] [[ワシントン州]] [[レドモンド (ワシントン州)|レドモンド]] | | |- | Nintendo of Canada Ltd. | [[カナダ]] [[ブリティッシュコロンビア州]] [[バンクーバー (ブリティッシュコロンビア州)|バンクーバー]] | | |- | Nintendo of Europe GmbH | [[ドイツ|ドイツ連邦共和国]] [[ヘッセン州]] [[フランクフルト・アム・マイン]] | | |- | Nintendo Ibérica, S.A. | [[スペイン|スペイン王国]] [[マドリード州]] [[アルコベンダス]] | | |- | Nintendo RU LLC. | [[ロシア|ロシア連邦]] [[モスクワ]] | | |- | Nintendo Australia Pty Limited | [[オーストラリア|オーストラリア連邦]] [[ビクトリア州]] スコアーズビー | | |- | 韓国任天堂株式会社 | [[大韓民国]] [[ソウル特別市]] | | |- | 任天堂(香港)有限公司 | [[中華人民共和国]] [[香港|香港特别行政区]] | | |- | 任天堂販売株式会社 | 東京都千代田区神田錦町 | | |- | Nintendo Technology Development Inc. | style="text-align:center;" rowspan="13"| 開発 | アメリカ合衆国 ワシントン州 レドモンド | | <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/hardware/vol2/index.html |title=社長が訊く『Wii U』 Wii U GamePad篇 |publisher=任天堂 |accessdate=2023-06-27}}</ref> |- | [[Nintendo Software Technology|Nintendo Software Technology Corporation]] | アメリカ合衆国 ワシントン州 レドモンド | | <ref name="Iwata asks">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/hardware/vol5/index3.html |title=社長が訊く『Wii U』 インターネットブラウザー篇 |publisher=任天堂 |accessdate=2014-11-01}}</ref> |- | [[レトロスタジオ|Retro Studios, Inc.]] | アメリカ合衆国 [[テキサス州]] [[オースティン (テキサス州)|オースティン]] | | <ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/sf8j/vol1/ |title=社長が訊く『ドンキーコング リターンズ』 |publisher=任天堂 |accessdate=2014-11-01}}</ref> |- | [[Next Level Games|Next Level Games Inc.]] | カナダ ブリティッシュコロンビア州 バンクーバー | 2021年3月1日 | <ref>{{cite press release |和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2021/210105.pdf |title=カナダのソフトウェア開発会社 Next Level Games Inc.の子会社化に関するお知らせ |format=PDF |publisher=任天堂 |date=2021-01-05| accessdate=2023-04-05}}</ref> |- | Nintendo European Research and Development SAS(旧Mobiclip) | フランス共和国 パリ県 [[パリ]] | 2011年 | <ref name="Iwata asks"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2012/02/11/54502.html |title=任天堂、ビデオコーデックのMobiclipを買収 |website=インサイド |date=2012-02-11 |accessdate=2023-04-05}}</ref> |- | [[神游科技]]有限公司(iQue Ltd.) | 中華人民共和国 [[江蘇省]] [[蘇州市]] [[蘇州工業園区]] | | |- | [[エヌディーキューブ]]株式会社 | 東京都[[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]] | | <ref>[https://www.ndcube.co.jp/company COMPANY {{!}} エヌディーキューブ株式会社]</ref> |- | 株式会社[[モノリスソフト]] | 東京都[[目黒区]][[上目黒]] | 2007年5月1日 | <ref>[https://www.monolithsoft.co.jp/company/ COMPANY {{!}} モノリスソフト]</ref> |- | [[1-UPスタジオ]]株式会社 | 東京都千代田区神田錦町 | | <ref>[https://1-up-studio.jp/company/outline.html 会社概要 {{!}} 1-UP Studio Inc.]</ref> |- | [[ニンテンドーシステムズ]]株式会社 | 東京都[[渋谷区]][[渋谷]] | | <ref>{{Cite press release |和書 |url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2022/221108_4.pdf |title=株式会社ディー・エヌ・エーとの合弁会社設立 及び特定子会社の異動に関するお知らせ |format=PDF |publisher=任天堂 |date=2022-11-08 |accessdate=2023-04-05}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/0419d34b-0617-4d16-8623-973641afffe7 |title=株式会社ディー・エヌ・エーとの合弁会社、「ニンテンドーシステムズ株式会社」のホームページを公開。 |website=トピックス |publisher=任天堂 |date=2023-04-03 |accessdate=2023-04-05}}</ref> |- | [[マリオクラブ]]株式会社 | 京都府京都市[[東山区]] | | |- | 株式会社[[SRD (ゲーム会社)|SRD]] | 京都府京都市[[下京区]] | 2022年4月1日 | <ref name="nintendo220224"/> |- | [[ニンテンドーピクチャーズ]]株式会社 | 東京都千代田区[[神田淡路町]] | 2022年10月3日 | <ref name="nintendo220714"/> |} <!--任天堂溥天股份有限公司は2014年に任天堂(香港)有限公司へ業務を移管。https://www.nintendo.tw/corporate/を参照。--> ; 持分法適用関連会社(保有比率20%以上)<ref>{{Cite report |和書|author=任天堂|date=2023-06-26|title=第83期(2022年4月1日 - 2023年3月31日)有価証券報告書 関係会社の状況 持分法適用関連会社|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2023/security_q2303.pdf#page=08}}</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! scope="col" | 名称 ! scope="col" | 所在地 ! scope="col" | 議決権所有割合(%) ! scope="col" class="unsortable" | 出典 |- | 株式会社[[ワープスター#株式会社ワープスター|ワープスター]] | 東京都千代田区神田錦町 | 50 | |- | 株式会社[[ポケモン (企業)|ポケモン]] | 東京都[[港区 (東京都)|港区]][[六本木]] | 32 | <ref>[https://corporate.pokemon.co.jp/aboutus/history/ あゆみ|株式会社ポケモン]</ref> |- | PUX株式会社 | [[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]] | 27 | <ref>[https://www.pux.co.jp/%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E6%A6%82%E8%A6%81/ 会社概要 - PUX株式会社]</ref> |} <gallery> Nintendo Co., Ltd. Headquarter Development Center.jpg|任天堂本社開発棟 Nintendo Kyoto Research Center (Former headquarters) - panoramio.jpg|任天堂京都リサーチセンター(旧任天堂本社、京都市[[東山区]]福稲上高松町) ファイル:KANDA SQUARE-1.jpg|東京支店が入居する[[KANDA SQUARE]] 任天堂東京支店ビル.jpg|旧任天堂東京支店(東京都[[台東区]][[浅草橋 (台東区)|浅草橋]]) Nintendo of America Headquarters.jpg|Nintendo of America Frankfurt Herriotstraße 4.20130511.jpg|Nintendo of Europe </gallery> == 人物 == {{main|Category:任天堂の人物}} === 歴代社長 === {| class="wikitable" style="middle;" style="font-size:small;" ! 代数 !! 氏名 !! 在職期間 |- ! 1 | [[山内房治郎]]<ref group="注釈">個人商店・山内房治郎商店初代店主として。</ref> || 1889年 - 1929年 |- ! 2 | [[山内積良]]<ref group="注釈">個人商店・山内房治郎商店2代目店主として。</ref> || 1929年 - 1949年 |- ! 3 | [[山内溥]] || 1949年 - 2002年 |- ! 4 | [[岩田聡]] || 2002年 - 2015年 |- ! 5 | [[君島達己]] || 2015年 - 2018年 |- ! 6 | [[古川俊太郎]] || 2018年 - 現職 |} === 役員 === ; 取締役<ref name="officer">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/officer/|title=会社情報:役員一覧|accessdate=2023-06-26|publisher=任天堂}}</ref><ref name="officer2">{{Cite report |和書|author=任天堂|date=2023-06-26|title=有価証券報告書 第83期(2022年4月1日 - 2023年3月31日) 役員の状況|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2023/security_q2303.pdf#page=35}}</ref><ref name="idou2">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/pdf/2023/230509.pdf#page=17|title=2023年3月期 決算短信 執行役員の異動|date=2023-05-09|accessdate=2023-06-26|format=PDF|publisher=任天堂}}</ref> {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! style="width: 7em" | 役名 ! style="width: 6em" | 職名 ! style="width: 10em" | 氏名 ! その他の職名、兼職 ! 備考 |- ! 代表取締役社長 | || 古川俊太郎 || || |- ! 代表取締役 ! フェロー<ref name="idou"/> | [[宮本茂]] || || 『[[ドンキーコングシリーズ]]』、『[[マリオシリーズ]]』、『[[ゼルダの伝説シリーズ]]』の生みの親<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.inside-games.jp/article/2012/11/16/61450.html|title=マリオの生みの親・宮本茂氏、60歳の誕生日を迎える|publisher=[[インサイド (ニュースサイト)|iNSIDE]]|date=2012-11-16|accessdate=2014-10-31}}</ref> |- ! rowspan="3"| 取締役 ! 専務執行役員 | [[高橋伸也 (ゲームクリエイター)|高橋伸也]] || [[任天堂企画制作本部|企画制作本部長]]、開発総務本部管掌 || |- ! 常務執行役員 | 柴田聡 || 営業本部長、業務本部長、[[ポケモン (企業)|ポケモン]]社外取締役 || |- ! 上席執行役員 | 塩田興 || 技術開発本部長 || |- ! 社外取締役 | || [[クリス・メレダンドリ]] || [[イルミネーション (企業)|イルミネーション]] CEO | |- ! 取締役<br />(監査等委員) | || 吉村卓哉 || 常勤監査等委員 || |- ! rowspan="3"| 社外取締役<br />(監査等委員) | rowspan="3"| || 梅山克啓 || 梅山税理士法人 代表社員、梅山公認会計士事務所 所長、[[クラウディアホールディングス]]社外取締役 || |- | 山嵜正雄 || 山嵜正雄税理士事務所 所長 || |- | 新川麻 || 西村あさひ法律事務所 パートナー、[[東京電力ホールディングス]]社外取締役 || |} ; 執行役員<ref name="officer"/><ref name="officer2"/><ref name="idou2"/> {| class="wikitable" style="font-size:small;" ! style="width: 6em" | 職名 ! style="width: 10em" | 氏名 ! style="width: 18em" | その他の職名、兼職 ! 備考 |- ! rowspan="3"| 上席執行役員 | 進士仁一 || 製造本部長 || |- | [[小泉歓晃]] || 企画制作本部副本部長 || 『[[スーパーマリオシリーズ]]』、『ゼルダの伝説シリーズ』などの開発に関わる |- | 別府裕介 || 経営企画室長 || |- ! rowspan="6"| 執行役員 | [[手塚卓志]] || 企画制作本部上席統括 || 『スーパーマリオシリーズ』、『ゼルダの伝説シリーズ』、『[[ヨッシーシリーズ]]』、『[[どうぶつの森シリーズ]]』などの開発に関わる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/abej/vol1/|title=社長が訊く『Newスーパーマリオブラザーズ2』|publisher=任天堂|date=2012-07-24|accessdate=2015-01-05}}</ref> |- | 村上元 || 管理本部長、IR担当 || |- | 山岸健太郎 || 総務本部長、品質保証部担当 || |- | 倉恒良彰 || グローバルコミュニケーション本部長 || |- | [[:en:Doug Bowser|Doug Bowser]] || Nintendo of America 代表取締役社長 || |- | Stephan Bole || Nintendo of Europe 代表取締役社長 || |} === 開発者 === [[ファイル:Takashi Tezuka, Shigeru Miyamoto and Kōji Kondō.jpg|thumb|250px|左から[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]、手塚卓志、宮本茂、[[近藤浩治]](2015年撮影)]] ; [[任天堂企画制作本部|企画制作本部]](旧[[任天堂情報開発本部|情報開発本部]]及び旧[[任天堂企画開発本部|企画開発本部]])<ref name="kimisima"/> * [[坂本賀勇]] - 企画開発本部企画開発部統括。『[[メトロイドシリーズ]]』『[[メイド イン ワリオシリーズ]]』『[[リズム天国]]シリーズ』『[[トモダチコレクション]]シリーズ』などのプロデューサー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.1101.com/nintendo/miitomo2016/2016-06-30.html|title=Miitomoのポテンシャル!坂本賀勇×糸井重里|publisher=[[ほぼ日刊イトイ新聞]]|date=2016-06-30|accessdate=2019-01-28}}</ref>。 * [[江口勝也]] - 企画制作本部副本部長。『どうぶつの森シリーズ』『[[Wii Sports]]シリーズ』『[[Nintendo Land]]』などのプロデューサー<ref name="kimisima"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/interview/egdj/vol1/|title=社長が訊く『とびだせ どうぶつの森』|publisher=任天堂|date=2012-10-31|accessdate=2014-11-02}}</ref>。 * [[青沼英二]] - 情報開発本部制作部<ref group="注釈" name="position">[[2015年]]に実施の組織改編以前の所属。</ref>。『ゼルダの伝説シリーズ』のプロデューサー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wiiu/interview/bczj/vol1/|title=社長が訊く『ゼルダの伝説 風のタクト HD』|publisher=任天堂|date=2013-09-08|accessdate=2014-11-02}}</ref>。 * [[紺野秀樹]] - 情報開発本部制作部<ref group="注釈" name="position"/>。『[[マリオカートシリーズ]]』のプロデューサー<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/wii/interview/rmcj/vol1/|title=社長が訊く『マリオカートWii』|publisher=任天堂|date=2008-04-03|accessdate=2014-11-02}}</ref>。 ; 社外 * [[桜井政博]] - 有限会社[[ソラ (ゲーム会社)|ソラ]] 代表取締役社長。『[[星のカービィシリーズ]]』『[[大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ]]』の生みの親<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.smashbros.com/wii/jp/info/info06.html|title=更新終了のお知らせ|publisher=[[スマブラ拳!!]]|date=2008-04-14|accessdate=2014-11-02}}<br />{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/nom/0003/miryoku/page03.html|title=人気キャラ・カービィの魅力に迫る!|publisher=任天堂|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 == 訴訟一覧 == ; ドンキーコング裁判([[ユニバーサル・シティ・スタジオ対任天堂裁判]]) : [[1982年]]、[[ユニバーサル・スタジオ]]は任天堂の『[[ドンキーコング]]』が『[[キングコング]]』の[[商標権]]と[[著作権]]を侵害しているとして訴訟を起こした。[[1975年]]、ユニバーサル・スタジオと[[RKO]]との訴訟で『キングコング』の[[プロット (物語)|プロット]]は[[パブリックドメイン]]<ref group="注釈">[[知的財産権]]が発生していない状態。</ref> にあると判示されていることから、ユニバーサル・スタジオは商標権と著作権を持っていないことが判明。[[1984年]]、消費者が『ドンキーコング』と『キングコング』を混同することもないとして、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した<ref>{{cite web|url=https://law.justia.com/cases/federal/appellate-courts/F2/746/112/30961/|title=Universal City Studios, Inc., Plaintiff-appellant, v. Nintendo Co., Ltd., Nintendo of America, Inc., Defendants-appellees, 746 F.2d 112(1984)|publisher=JUSTIA|accessdate=2014-11-01}}</ref>。また、任天堂からユニバーサル・スタジオに対する反訴となる損害賠償請求訴訟についても、[[1986年]]にアメリカ連邦控訴裁判所が任天堂勝訴の判決を下している<ref>{{cite web|url=https://law.resource.org/pub/us/case/reporter/F2/797/797.F2d.70.86-7099.86-7077.1221.1335.html|title=UNIVERSAL CITY STUDIOS, INC., Plaintiff-Appellant, Cross-Appellee, v. NINTENDO CO., LTD. and Nintendo of America, Inc., Defendants-Appellees, Cross- Appellants., 797 F.2d 70(1986)|publisher=Resource.org|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 ; [[アタリ (企業)|アタリ]]・[[テンゲン]]裁判<span style="font-weight:normal"><small>([[:en:Atari Games Corp. v. Nintendo of America Inc.|英語版]])</small></span> : [[Nintendo Entertainment System]]には、任天堂の[[ライセンス]]を受けていないソフトウェアの動作を防ぐ[[ロックアウト]]機構が搭載されていたが、[[1988年]]に著作権局から[[ソースコード]]を得たアタリはロックアウト機構の[[リバースエンジニアリング]]を行って、ライセンス外のソフトウェアの動作を可能にしている。任天堂はアタリの著作権侵害を主張してアタリは[[フェアユース]]<ref group="注釈">公正な利用。</ref> を主張して訴訟を行った。[[1992年]]、任天堂の主張が認められてアメリカ連邦控訴裁判所は任天堂勝訴の判決を下した<ref>{{cite web|url=https://scholar.google.com/scholar_case?case=15866317401594691669|title=Atari Games Corp. v. Nintendo of America Inc., 975 F. 2d 832 - Court of Appeals, Federal Circuit 1992|publisher=[[Google]]|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 ; 競争法抵触 : [[1983年]]、任天堂は[[日本]]における[[1980年]]から1982年ごろの電子玩具の販売活動<ref group="注釈">小売価格の維持。</ref> について[[私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律]](独占禁止法)違反として[[公正取引委員会]]の排除勧告審決を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=http://snk.jftc.go.jp/JDSWeb/jds/dc005/DC005?selectedDocumentKey=S580420S58J02000009_ |title=任天堂(株)に対する件 昭和58年(勧)第9号 勧告審決|publisher=[[公正取引委員会]]|date=1983-04-20|accessdate=2014-11-01}}</ref>。[[2002年]]、[[ヨーロッパ]]で任天堂と現地の卸売業7社がゲーム機とゲームソフトの並行輸入を妨害したとして、[[欧州委員会]]が任天堂らに対して合計1億6,780万ユーロの課徴金の支払いを命じた。首謀者と認定された任天堂は、このうち1億4,912万8,000ユーロの支払いが課せられた<ref>{{Cite press release|title=Commission fines Nintendo and seven of its European distributors for colluding to prevent trade in low-priced products|url=https://ec.europa.eu/commission/presscorner/detail/en/IP_02_1584|publisher=[[欧州連合]]|date=2002-10-30|accessdate=2014-11-01}}</ref>。 ; [[ゲームジニー]]裁判<span style="font-weight:normal"><small>([[:en:Lewis Galoob Toys, Inc. v. Nintendo of America, Inc.|英語版]])</small></span> : [[1990年]]、Nintendo of Americaは「Nintendo Entertainment System」用の[[チート]]機である「ゲームジニー」が任天堂の著作権を侵害しているとして、製造元であるLewis Galoob Toys, Inc.に販売差し止めを求める訴訟を起こした。アメリカ連邦地裁は仮差し止めを認めたが、[[1991年]]にゲームジニーは著作権を侵害していないとして仮差し止め命令を破棄。連邦控訴裁判所も地裁を支持して任天堂の訴えを退けた<ref>{{cite web|url=https://law.justia.com/cases/federal/appellate-courts/F2/964/965/341457/|title=964 F.2d 965: Lewis Galoob Toys, Inc., v. Nintendo of America, Inc.,|work=law.justia.com|accessdate=2014-05-24|language=英語}}</ref>。また、仮差し止めによる損失の賠償としてLewis Galoob Toys, Inc.に対する1,500万ドルの支払いを命じられた任天堂は、この金額についても争ったが、連邦控訴裁判所は再び退けた<ref>{{cite web|url= https://openjurist.org/16/f3d/1032/nintendo-of-america-inc-v-lewis-galoob-toys-inc|title=16 F3d 1032 Nintendo Of America Inc V. Lewis Galoob Toys Inc|accessdate=2014-11-01|language=英語}}</ref>。 ; [[マジコン]]による著作権侵害被害 : [[ニンテンドーDS]]で不正に[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]を動作させる「マジコン」と呼ばれる装置について、任天堂およびソフトメーカー49社は販売業者に対して各地で著作権被害を訴えて訴訟を起こした<ref name="nintendo-news">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2013/130709.html|title=ニンテンドーDS用装置(マジコン)に対する差止等請求訴訟に関する東京地裁判決について|publisher=任天堂|date=2013-07-09|accessdate=2014-10-11}}</ref>。被害総額は全世界で4兆円近くとも試算されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://gigazine.net/news/20101011_majikon/|title=被害額4兆円近く終わらないマジコンの製造と販売に刑事罰の導入を検討へ|publisher=Gigazine|date=2010-10-11|accessdate=2014-10-11}}</ref>。[[2013年]]7月、東京地裁で任天堂の勝訴が下された<ref name="nintendo-news"/>。[[2016年]]1月、最高裁で上告が棄却されて任天堂の勝訴が確定<ref>{{Cite web|和書|date=2016-01-19|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2016/160119.html|title=ニンテンドーDS用装置(マジコン)に対する不正競争行為差止・損害賠償等請求訴訟に関する最高裁決定について|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-13}}</ref>。 ; マリカー訴訟 : [[2017年]][[2月24日]]、任天堂は公道[[レーシングカート|カート]]のレンタルサービスを行うマリカー(現商号:MARIモビリティ開発)に対して賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した。任天堂はマリカーが[[マリオカートシリーズ|マリオカート]]の略称として知られる「マリカー」の標章を会社名に用いていることに加えて、[[マリオ (ゲームキャラクター)|マリオ]]などの衣装の貸与やその衣装の宣伝、営業利用などを任天堂に無断で行っていることが不正競争行為及び著作権侵害行為にあたると主張している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2017/170224.html|title=公道カートのレンタルサービスに伴う当社知的財産の利用行為に対する訴訟提起について|publisher=任天堂|date=2017-02-24|accessdate=2017-03-01}}</ref>。[[2018年]][[9月27日]]、地裁判決で被告会社に対して衣装の貸与の禁止など不正競争行為の差止と損害賠償金の支払いなどが命じられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2018/180927.html|title=公道カートのレンタルサービスに伴う当社知的財産の利用行為に関する東京地裁判決について|publisher=任天堂|date=2018-09-27|accessdate=2018-09-28}}</ref>。[[2020年]][[1月29日]]、[[知的財産高等裁判所]]において5,000万円の損害賠償金の支払いと不正競争行為の差止などを被告会社に命じて[[終局判決]]が下された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2020/200129.html|title=公道カートのレンタルサービスに伴う当社知的財産の利用行為に関する知財高裁判決(終局判決)について|publisher=任天堂|date=2020-01-29|accessdate=2020-01-29}}</ref>。その後、[[控訴審]]判決に対して被告らから上告受理の申し立てがなされたが、[[2020年]][[12月24日]]に最高裁判所第一小法廷において本件を[[上告審]]として受理しないとする決定が下された。これにより、知的財産高等裁判所において被告会社に対する不正競争行為の差止等および被告らに対する5,000万円の損害賠償金の支払いを命じた控訴審判決が確定<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2020/201228.html|title=公道カートのレンタルサービスに伴う当社知的財産の利用行為に関する最高裁決定(勝訴確定)について|publisher=任天堂|date=2020-12-28|accessdate=2020-12-28}}</ref>。 ; [[コロプラ]]訴訟 : 2018年[[1月10日]]、任天堂はスマートフォンアプリ『[[白猫プロジェクト]]』を開発、運営しているコロプラに対して「タッチパネル上でジョイスティック操作を行う際に使用される特許技術」などの、合計5件の特許侵害があるとして『白猫プロジェクト』のサービス停止と44億円の賠償を求める訴訟を東京地裁に提起した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1801/10/news106.html|title=任天堂、コロプラを提訴 「白猫プロジェクト」特許侵害で差し止め・賠償請求|publisher=ITmedia NEWS|date=2018-01-10|accessdate=2018-01-10}}</ref>。2016年10月、任天堂は特許侵害を指摘し、交渉していたが決裂したという。時間経過を理由に請求額は5.5億円増額され49.5億円となっていたが、コロプラは[[2021年]][[4月21日]]に任天堂が時間経過を理由にさらに請求金額が96.99億円に引き上げられたと発表<ref>{{Cite web|和書|date=2021-02-12|url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20210212-151909/|title=任天堂、『白猫プロジェクト』をめぐるコロプラに対する損害賠償請求金を5億5000万円増額。提訴後の時間経過による増額|work=Automaton|accessdate=2021-02-13}}</ref><ref>{{Cite web|和書|date=2021-04-21|url= https://www.itmedia.co.jp/business/spv/2104/21/news119.html|title=任天堂、コロプラへの請求金額を49億5000万円から96億9900万円に大幅増額 |publisher=ITmediaビジネス|accessdate=2021-04-21}}</ref>。その後、2021年8月4日にコロプラが今後のライセンス使用も含めた和解金33億円を支払ったことを発表し、本件の和解が成立した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2108/04/news128.html|title=任天堂とコロプラが和解、「白猫プロジェクト」の特許権侵害訴訟で 和解金33億円|publisher=ITmedia|date=2021-08-04|accessdate=2021-08-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://ssl4.eir-parts.net/doc/3668/tdnet/2009006/00.pdf|title=和解による訴訟の解決及び特別損失の計上に関するお知らせ|publisher=コロプラ|date=2021-08-04|accessdate=2021-08-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20210804062517/https://colopl.co.jp/news/info/2021080401.php|title=特許権侵害訴訟の和解成立のお知らせ|publisher=コロプラ|date=2021-08-04|accessdate=2021-08-04}}</ref>。 ; 違法ROM配布サイト訴訟 : 2018年[[7月19日]]、任天堂およびNintendo of Americaは海外のゲーム用[[Read only memory|ROM]]配布サイト「LoveROMS.com」と、「LoveRETRO.co」の運営者に対する訴訟をアメリカの[[アリゾナ州]]にある[[アメリカ合衆国連邦裁判所#地方裁判所|合衆国地方裁判所]]に提起した。当該サイトでは歴代の任天堂ハード用ROMやハードの[[Basic Input/Output System|BIOS]]を無断で配布しており、任天堂は著作権侵害、商標権侵害、不正競争を提訴の理由に挙げている。侵害されたゲームごとに15万ドル、各商標の侵害にあたり最高200万ドルの賠償金を求めており、損害賠償金は1億ドル規模になるとみられている<ref>{{Cite web|和書|url=https://automaton-media.com/articles/newsjp/20180721-72544/|title=任天堂が、海外の大手ROM配布サイトの訴訟に踏み切る。損害賠償請求額は100億円規模になる可能性も|publisher=automaton|date=2018-07-21|accessdate=2023-02-20}}</ref>。 ; 派遣労働者からの正規雇用をめぐる訴訟 : 2018年から任天堂に[[労働者派遣事業#紹介予定派遣|紹介予定派遣]]として派遣され、総務部で保健師として勤務していた女性2人が、上司にあたる産業医からの[[パワーハラスメント]]で関係が悪化したのを理由として正規雇用されなかったとして、2020年[[9月8日]]に任天堂を相手取り地位確認や損害賠償などを求めて[[京都地方裁判所]]に提訴した。紹介予定派遣における雇用拒否をめぐる訴訟は日本国内では初のこととなる<ref>[https://mainichi.jp/articles/20200908/k00/00m/040/177000c 「パワハラ放置、雇用拒まれた」と任天堂を提訴 紹介予定派遣の保健師2人] 毎日新聞(2020年9月8日)</ref>。 == 過去の問題 == === ペアレンタルコントロール === [[Wii]]以降の任天堂のゲーム機には子供にふさわしくないコンテンツの使用を保護者が制限できる[[ペアレンタルコントロール]](保護者による使用制限)という機能がある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/parents/|title=任天堂から保護者のみなさまへ、大切なお願いです。|publisher=任天堂|accessdate=2016-10-13}}</ref>。 ただ、子供がその機能を設定することなく利用している場合があり、「[[ニンテンドー3DS]]」のソフトウェアである『[[いつの間に交換日記]]』や『[[うごくメモ帳 3D]]』において、一部の子供ユーザーがインターネットでフレンドコードを交換して公序良俗に反する画像をやり取りしてしまう問題が発生していた。こうした事態を受けて任天堂は該当サービスの中止を発表<ref name="nintendo-news2">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2013/1101.html|title=ニンテンドー3DSソフト『いつの間に交換日記』、『うごくメモ帳 3D(フレンドうごメモギャラリー)』サービス停止のおしらせ|publisher=任天堂|date=2013-11-01|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 任天堂は、ペアレンタルコントロール機能をユーザーに理解してもらえるよう務めるとして<ref name="nintendo-news2"/>、「[[Newニンテンドー3DS]]」と「[[Newニンテンドー3DS#Newニンテンドー3DS LL|Newニンテンドー3DS LL]]」において、子供が安心して利用できるよう最初からフィルタリング機能が有効の状態で販売している。解除にはクレジットカードでの認証と手数料30円(税別)が必要となっている(現在は一度解除した人のみ解除可能。)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/3ds/new/features/|title=Newニンテンドー3DS|publisher=任天堂|accessdate=2014-10-11}}</ref>。 [[2017年]][[3月2日]]、[[Nintendo Switch]]本体と連動してゲームのプレイ状況を管理できる[[スマートフォン]]向けの無料[[モバイルアプリケーション|アプリ]]『[[Nintendo_Switch#Nintendo_みまもり_Switch|Nintendo みまもり Switch]]』(英名:Nintendo Switch Parental Controls)を配信している<ref>{{Cite web|和書|url=https://topics.nintendo.co.jp/article/72d11c71-f8b3-11e6-9aaf-063b7ac45a6d|title=お子さまのゲームプレイをサポートするスマートフォンアプリ『Nintendo みまもり Switch』配信開始!|トピックス|publisher=任天堂|date=2017-03-02|accessdate=2017-05-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/hardware/switch/parentalcontrols/|title=Nintendo みまもり Switch|publisher=任天堂|accessdate=2017-05-29}}</ref>。 === 不正ログインの発生 === [[2020年]][[4月24日]]、[[ニンテンドー3DS]]シリーズや[[Wii U]]で使用しているニンテンドーネットワークID(以下「NNID」)に約16万件の不正ログインが発生<ref>{{Cite news|title=任天堂、個人情報16万件が流出 不正ログインで購入も|newspaper=朝日新聞|date=2020-04-24|url=https://www.asahi.com/articles/ASN4S72LMN4SPLFA01F.htmllinenews|accessdate=2023-02-20}}</ref>。不正ログインを受けたNNIDから「ニックネーム、生年月日、国 / 地域、メールアドレス」が第三者に閲覧された可能性があるという。また、NNIDを経由したニンテンドーアカウントへの不正ログインも発覚。これに対して任天堂は不正ログインの被害拡大を防止するため、NNID経由でニンテンドーアカウントにログインする機能を廃止。加えて不正アクセスされた可能性のあるNNIDやニンテンドーアカウントに対して順次パスワードリセットを行う措置をとった<ref>{{Cite web|和書|title=「ニンテンドーネットワークID」に対する不正ログイン発生のご報告と「ニンテンドーアカウント」を安全にご利用いただくためのお願い|サポート情報|Nintendo|url=https://www.nintendo.co.jp/support/information/2020/0424.html|website=任天堂|accessdate=2020-04-24}}</ref>。今回の不正ログインにより発生した不正購入に対しては、個別に調査した上で購入の取り消しなどの対応を行うという。 === メディアやインターネットでの風評被害 === 一部のメディアやまとめサイトにより、任天堂が公式に発表したわけではない情報を公式のように報じられたり、関係者の発言を歪めた形で伝えられたりすることがある<ref name="nega">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/events/110426qa/02.html|title=2011年4月26日(火)決算説明会 質疑応答|publisher=任天堂|date=2011-04-26|accessdate=2023-02-16}}</ref>。こうした状況について任天堂はすべてに反応してしまうとデマの拡散につながりかねないため、会社や株主に迷惑がかかると判断した場合に機動的に対応するとしている<ref name="fu">{{Cite web|和書|url=https://www.nintendo.co.jp/ir/stock/meeting/130627qa/04.html|title=2013年6月27日(木) 第73期 定時株主総会 質疑応答|publisher=任天堂|date=2014-06-27|accessdate=2023-02-16}}</ref>。また、対策としてインターネットプレゼンテーション[[Nintendo Direct]]や[[ソーシャル・ネットワーキング・サービス|SNS]]などで情報を直接発信する取り組みを行っている。 [[2012年]][[2月20日]]、日本経済新聞が報じた記事について岩田は[[Twitter]]で、「月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています」と言及している<ref>{{Cite tweet|user=Nintendo|author=任天堂|number=172300946716639232|title=[岩田]ところで、月曜日に電子版媒体で当社に対する不正確な報道がありました。このようなことが何度か続いていますが、文脈を無視して恣意的に言葉を抜き出したり、事実と憶測を混ぜて書いたり、まるでゴシップ誌のような手法を採られていることに驚いています。|date=2012-02-22|accessdate=2023-02-16}}</ref>。[[6月5日]]、日本経済新聞は「『Wii U』に[[カーナビゲーション]]や[[電子書籍]]などの機能を搭載」という憶測記事を掲載<ref>{{Cite news|date=2012-06-05|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNZO42206210V00C12A6TJ0000/|title=任天堂、新型Wii多機能に カーナビ・電子書籍|newspaper=日本経済新聞}}</ref>。これに対して任天堂が同日に否定した<ref>{{Cite web|和書|date=2012-06-05|url=https://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2012/120605.html|title=本日の日本経済新聞の報道について|publisher=任天堂|website=ニュースリリース|accessdate=2023-02-16}}</ref>。 2012年[[6月8日]]、[[朝日新聞]]の記事の中で岩田がインタビューを受けていないにもかかわらず、任天堂ホームページの動画から岩田の発言部分を抜き出してインタビューのように仕立てて掲載した。これに対して任天堂は朝日新聞に抗議した。朝日新聞は抗議に対して謝罪したとしているが、その時点では記事を訂正せず、[[2014年]][[9月14日]]の紙面に任天堂と新聞読者に対する謝罪文を掲載した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1409/14/news009.html|title=朝日新聞、任天堂に謝罪 公式動画の岩田社長発言をインタビューしたかのように記事に|publisher=[[ITmedia]]|date=2014-09-14|accessdate=2014-10-11}}</ref><ref>{{Cite news|date=2014-09-14|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S11350303.html|title=任天堂と読者の皆様におわびします|newspaper=朝日新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140913232022/http://www.asahi.com/articles/DA3S11350303.html|archivedate=2014-09-13}}{{リンク切れ|date=2023-02}}</ref>。 [[2015年]]1月、任天堂が開始したサービス「[[Nintendo Creators Program]]」について、一部で「[[YouTube]]で同プログラムに登録していない任天堂のゲーム動画は削除される」というデマが広まっていた{{要出典|date = 2020年8月}}が、そうした規約はない。2014年[[5月27日]]、サービス開始前の任天堂公式Twitterでは「任天堂は以前より、不適切なものを除いて、YouTube上の任天堂の著作物を含む映像を正式に許諾しています」とコメントしている<ref>{{Cite tweet|user=Nintendo|author=任天堂|number=471260005702709248|title=【YouTube映像に関するお知らせ】任天堂は以前より、不適切なものを除いて、YouTube上の任天堂の著作物を含む映像を正式に許諾しています。許諾した映像には広告がつくことがあり、その広告収益は従来のポリシー同様、Googleと任天堂で分配されます。(1/2)|date=2014-05-27|accessdate=2023-02-16}}</ref>。 [[2016年]][[10月20日]]、任天堂が公開したNintendo Switchの紹介動画の中で[[ベセスダ・ソフトワークス]]のゲームソフト『[[The Elder Scrolls V: Skyrim]](以下「スカイリム」)』の映像を用いた際、すでにベセスダが公式に歓迎のコメントを出していたにもかかわらず、ある[[まとめサイト]]は「スカイリム映像、無断使用だった」と報じた。この問題を取り上げた[[BuzzFeed Japan]]の取材に対し、任天堂広報は「今回の映像で使用されているゲームはすべて許可をとっております」と、まとめサイトの記事を否定している。[[10月21日]]、まとめサイトは捏造を認めて記事を訂正した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/matomematadema|title=ニンテンドースイッチの記事で「はちま起稿」がデマ、任天堂が完全否定|publisher=BuzzFeed News|date=2016-10-21|accessdate=2023-04-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20230216044948/https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/matomematadema|archivedate=2023-02-16}}</ref>。 == 提供番組 == === 現在 === ; [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]系列 * [[世界まる見え!テレビ特捜部]] * [[ザ!鉄腕!DASH!!]] * [[月曜から夜ふかし]](2023年4月から) * [[ZIP!]](火曜・木曜7時台前半→2022年10月から隔日7時台中盤) * [[THE突破ファイル]] * [[有吉の壁]] ; [[テレビ朝日]]系列 * [[ドラえもん (2005年のテレビアニメ)|ドラえもん(2005年版)]](2022年4月から) * [[プリキュアシリーズ]]([[朝日放送テレビ|ABCテレビ]]制作、2022年10月から) ; [[テレビ東京]]系列 * [[ポケットモンスター (アニメ)|ポケットモンスターシリーズ]] ; [[フジテレビジョン|フジテレビ]]系列 * [[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]](2021年10月から) * [[めざましテレビ]](2021年10月から・隔日6時台後半) === 過去 === ==== 1社提供 ==== ; 日本テレビ系列 * [[少年シンドバッド]] ; テレビ東京系列 * [[スーパーマリオクラブ (テレビ番組)|スーパーマリオクラブ]] ** [[スーパーマリオスタジアム (テレビ番組)|スーパーマリオスタジアム]] ** [[64マリオスタジアム]] ** [[マリオスクール]] * [[マジック王国]] * [[Mr.マリック魔法の時間]] ; フジテレビ系列 * [[遠山の金さん捕物帳 (夏目俊二)|遠山の金さん捕物帳]] * [[紫頭巾#テレビドラマ|紫頭巾]] ; その他 * [[恋のカイトウ!?トモコレ2世]]([[東京メトロポリタンテレビジョン|TOKYO MX]]制作) ==== 複数社提供 ==== ; 日本テレビ系列 * [[オバケのQ太郎 (アニメ)|新オバケのQ太郎]] * [[ドラえもん (1973年のテレビアニメ)|ドラえもん(1973年版)]] * [[マジカル頭脳パワー!!]] * [[ぐるぐるナインティナイン]](番組自体は継続中) * [[踊る!さんま御殿!!]](番組自体は継続中) * [[行列のできる相談所]](番組自体は継続中) * [[世界一受けたい授業]](番組自体は継続中) * [[しゃべくり007]](番組自体は継続中) * [[嵐にしやがれ]] * [[夜遊び三姉妹|ゲーマーズTV 夜遊び三姉妹 〜今夜も上上下下左右左右BA〜]] * [[沸騰ワード10]](番組自体は継続中) * [[ザ!世界仰天ニュース]](番組自体は継続中) ; テレビ朝日系列 * [[名探偵ホームズ]] * [[ミュージックステーション]](番組自体は継続中) * [[釣りバカ日誌]] * [[シルシルミシルさんデー|知って見て得する情報バラエティ シルシルミシル]] * [[シルシルミシルさんデー#シルシルミシルさんデー|知って見て得する情報バラエティ シルシルミシルさんデー]] ; [[TBSテレビ|TBS]]系列 * [[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ]] * [[KATO&KENテレビバスターズ]] * [[関口宏の東京フレンドパークII]] * [[星のカービィ (アニメ)|星のカービィ]]([[CBCテレビ|CBC]]制作) * [[リンカーン (テレビ番組)|リンカーン]] * [[ひみつの嵐ちゃん!]] * [[飛び出せ!科学くん]] * [[奇跡ゲッター ブットバース!!]] * [[世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー]] * [[ニンゲン観察バラエティ モニタリング]](番組自体は継続中) * [[水曜日のダウンタウン]](番組自体は継続中) ; テレビ東京系列 * [[おはスタ]](番組自体は継続中) * [[ドンキーコング (アニメ)|ドンキーコング]] * [[とっとこハム太郎 (アニメ)|とっとこハム太郎シリーズ]] * [[週刊ポケモン放送局]] ** [[ポケモン☆サンデー]] ** [[ポケモンスマッシュ!]] ** [[ポケモンゲット☆TV]] ** [[ポケモンの家あつまる?]] ** [[ポケモンとどこいく!?]](番組自体は継続中) * [[F-ZERO ファルコン伝説]] * [[ピラメキーノ]] ; フジテレビ系列 * [[火曜ワイドスペシャル]] * [[オレたちひょうきん族]] * [[うる星やつら (アニメ)|うる星やつら]] * [[森田一義アワー 笑っていいとも!|森田一義アワー笑っていいとも!]] ** [[笑っていいとも!増刊号]] * [[志村けんのだいじょうぶだぁ]] * [[ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!]] * [[平成教育委員会]] ** [[平成教育予備校]] ** [[熱血!平成教育学院]] * [[HEY!HEY!HEY! 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博物学
博物学(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:自然史)は、自然に存在するものについて研究する学問。 広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物(岩石)など(博物学における「界」は動物界・植物界・鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。そのため、東アジアに博物学の伝統は存在しないが、慣例的・便宜的に「本草学」が博物学と同一視される。 自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、古代ギリシアではアリストテレスの『動物誌』、テオフラストス『植物誌』、古代ローマではディオスコリデスの『薬物誌』、プリニウスの『博物誌』などがある。 東アジアの本草学は、伝統中国医学における医薬(漢方薬)、または錬丹術における不死の霊薬(仙丹)の原材料の研究として発達した。明の時代に李時珍が書いた『本草綱目』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。 フランシス・ベーコンは自然史と自然哲学とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。 ヨーロッパの大航海時代以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・茶・ゴム・コショウなど、経済的に有用な植物を確保するため、プラントハンターと呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、東南アジアのフウチョウなどの標本がヨーロッパにもたらされた。 カール・リンネとジョルジョールイ・ルクレール・コント・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学の発展を促した。 リンネは、動物界、植物界、鉱物界という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。ビュフォンは『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。 1755年にはカントが『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。 地質学の領域などで、次第に歴史的な研究が活発化すると、こういった研究については、記述することに重点がある自然史とは区別して考えようとする動きが出てきた。歴史的な考察に力点がある分野を、カントは「自然考古学」とすることを1790年に提唱。だが定着せず、歴史的な分析も含めて、自然史と呼ばれつづけた。 19世紀になると、ラマルクやトレヴィラヌスが「biology(生物学)」という学問名の領域を提案した。これは簡単に言えば、生物に関する自然哲学を意味していた。そして、これは自然史とは異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。自然史の領域は領域で、知識の集積が進み、もはやひとりの人間が自然三界の全部について専門的な研究を進めるのは困難な状況になっていった。そして、19世紀後半(主にチャールズ・ダーウィン以降)に入ると学問が細分化し、博物学は動物学・植物学・鉱物学・地質学などに細分化された。そして「自然史」や「博物学」という言葉は、それらをまとめて指す総称ということになっていった。 近年では博物学、自然史という言葉は多義的に用いられており、例えば1958年の日本学術会議によって用いられた表現「(博物学は)いわば、自然界の国勢調査」に見られる理解のしかたがある。動物分類学や植物分類学だけを指すためにこの言葉が用いられることもある。また、アマチュア的な生物研究を指すためにこの言葉が用いられることもある。 博物学の作業としては、自然物の採集とその同定が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその分類に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。 素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。 自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな分類法が編み出された。たとえば、人間-高等動物-下等動物-植物-鉱物-火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。 一方、生物の分類についてはリンネが形式的には二名法による学名を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における分類学が大きく進んだ。 その後、19世紀後期にダーウィンが『種の起源』を著して進化論を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、系統分類(もしくは分岐分類)の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。 また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。元素の発見、化合物の研究が進み、メンデレーエフの周期律表に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を化学物質として研究することが可能になった。 さらに化学と物理の発展した20世紀には、分子生物学によって、生物進化の分岐はゲノムの類似性として直接に検討されるようになった。鉱物には化学的組成と結晶構造による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになった。以上のような分析手段の獲得によって直接に一般化・体系化が可能になったことにより、博物学の手段であった収集と比較と記述という手法は、生物の種の同定などといった手続きには厳として残るものの(タイプ (分類学) の記事などを参照)、科学のメインストリームとしては博物学はその使命を終えつつある。 現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。これは、直接フィールド(野山など)に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、牧野富太郎が行った植物研究や、南方熊楠が行った変形菌研究などがその例となる。 またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている(いわゆる市民科学)。たとえば昆虫などは、各地の昆虫採集好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「ナチュラリスト」と呼ばれている。 このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、プラントハンターを詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、シミュレーションや分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。 天文学の分野でも、スーパーコンピュータを駆使する天体物理学や最先端の物理学による宇宙論など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、天体観測などアマチュア天文学と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、彗星や新星の発見が今でも盛んである。 日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。 江戸時代には、1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した徳川家康もこの年から本格的な本草研究を始めている。林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が活動した。1738年には稲生若水が『庶物類纂』を編纂した。小野蘭山らは採薬使として各地の自然物を採集した。藍水門下の平賀源内は、物産会を開いたり、石綿や鉱山の殖産に携わったりした。 江戸時代中後期には、色鮮やかな図譜(図鑑・博物画)の制作も盛んになった。すなわち、魚介類・鳥類・植物などを『~図譜』『~譜』と題した書物にまとめることが流行した。図譜の多くは美術的にも評価が高い。図譜はまた、実在する動植物だけでなく河童などの妖怪を扱うことも多いため、妖怪研究の要素ももつ。図譜は徳川吉宗や増山正賢ら、各地の殿様たちの命令で作られることが多く、ときには殿様自身が制作に携わることもあった。 杉田玄白らによって蘭学が成立すると、ヨーロッパから渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の野呂元丈がすでに行っていたが、これは一般に広まらなかった)。大槻玄沢や司馬江漢がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学書の知識は、幕府が危険視するような思想性が薄く実用的な知識でもあったため、積極的に受容され、本草学にも影響を与えた。 江戸時代には、以上のような本草学だけでなく、古典園芸植物の研究や、『詩経』や『万葉集』に出てくる動植物の同定(名物学)も流行した。また、寺島良安が図解百科事典『和漢三才図会』を著したり、木内石亭や佐藤中陵が石の分類体系を構築したり、木村蒹葭堂がイッカクの角を研究したりした。 日本は島国であり、地形の起伏に富むため、固有種が多い。そのため大航海時代以降、ヨーロッパの学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は鎖国政策を取っていたため入国ができなかった。そのようななかで、わずかにオランダ商人だけが出島への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは「出島の三学者」と呼ばれるケンペル、ツンベリー、シーボルトである。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。 この出島の三学者によって、西洋の博物学の手法が日本に紹介された。ケンペルは出島に薬草園を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また中川淳庵・桂川甫周らに植物標本の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつであるアジサイの一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。 幕末の黒船来航の際には、博物図鑑の大著『アメリカの鳥類』が幕府に献上された。開国後には、ロバート・フォーチュンら多くのプラントハンターが日本に訪れた。 明治に入ってから、伊藤圭介や田中芳男、お雇い外国人のモースらによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ華族・皇族が博物学に打ち込んだ(昭和天皇#生物学研究、明仁#科学者として)。 以上のような日本博物学史の詳細な研究は、1970年代頃から始まった。初期の主な研究者として、上野益三・木村陽二郎・磯野直秀・西村三郎・荒俣宏らがいる。 「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には政治学・神学などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち物理学と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。 Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。 現在、各国の博物館に「自然史博物館」がある。これは「Natural History Museum」の直訳である。この場合の「Natural history」の意味は広義の博物学、つまり自然科学一般を指す。 日本語では「Museum」を「博物館」と訳しているため、「Natural History Museum」を「博物学博物館」とするわけにいかず直訳して「自然史博物館」としたと思われる。ロンドン自然史博物館、スミソニアン博物館の一部である国立自然史博物館、カーネギー自然史博物館などがある。 近年では、日本国内でも「自然史博物館」と名づけられた「Natural History Museum」が増えてきている。
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"このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、プラントハンターを詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、シミュレーションや分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。", "title": "現在の博物学" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "天文学の分野でも、スーパーコンピュータを駆使する天体物理学や最先端の物理学による宇宙論など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、天体観測などアマチュア天文学と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、彗星や新星の発見が今でも盛んである。", "title": "現在の博物学" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。", "title": "日本と博物学" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "江戸時代には、1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した徳川家康もこの年から本格的な本草研究を始めている。林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『大和本草』(1708年)を著わした貝原益軒や、田村藍水などの著名な本草学者が活動した。1738年には稲生若水が『庶物類纂』を編纂した。小野蘭山らは採薬使として各地の自然物を採集した。藍水門下の平賀源内は、物産会を開いたり、石綿や鉱山の殖産に携わったりした。", "title": "日本と博物学" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": 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博物学は、自然に存在するものについて研究する学問。 広義には自然科学のすべて。狭義には動物・植物・鉱物(岩石)など(博物学における「界」は動物界・植物界・鉱物界の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。そのため、東アジアに博物学の伝統は存在しないが、慣例的・便宜的に「本草学」が博物学と同一視される。
{{出典の明記|date=2019年9月}} [[File:Table of Natural History, Cyclopaedia, Volume 2.jpg|thumb| 1728年の[[サイクロペディア|Cyclopaedia]]に掲載された自然史についての図版]] '''博物学'''(はくぶつがく、Natural history, 場合によっては直訳的に:'''自然史''')は、自然に存在するものについて研究する[[学問]]。 広義には[[自然科学]]のすべて。狭義には[[動物]]・[[植物]]・[[鉱物]]([[岩石]])など([[界 (分類学)#博物学での三界|博物学における「界」]]は'''動物界'''・'''植物界'''・'''鉱物界'''の「3界」である)、自然物についての収集および分類の学問。英語の"Natural history" の訳語として明治期に作られた。そのため、[[東アジア]]に博物学の伝統は存在しないが、慣例的・便宜的に「[[本草学]]」が博物学と同一視される<ref>{{Cite book|和書|title=怪異をつくる 日本近世怪異文化史|year=2020|last=木場|first=貴俊|publisher=文学通信|isbn=978-4909658227|page=100f}}</ref>。 == 歴史 == 自然界に存在するものを収集・分類する試みは太古から行われてきた。自然に対する知識を体系化した書物としては、[[古代ギリシア]]では[[アリストテレス]]の『[[動物誌 (アリストテレス)|動物誌]]』、[[テオフラストス]]『植物誌』、[[古代ローマ]]では[[ペダニウス・ディオスコリデス|ディオスコリデス]]の『薬物誌』、[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]の『[[博物誌]]』などがある。 東アジアの[[本草学]]は、[[伝統中国医学]]における医薬([[漢方薬]])、または[[錬丹術]]における不死の[[霊薬]](仙丹)の原材料の研究として発達した。[[明]]の時代に[[李時珍]]が書いた『[[本草綱目]]』はその集大成とも呼べる書物であり、日本にも大きな影響を与えた。 [[フランシス・ベーコン (哲学者)|フランシス・ベーコン]]は自然史と[[自然哲学]]とを対比して、自然史は記憶により記述する分野であると規定、それに対し自然哲学は理性によって原因を探求する分野、とした(『学問の進歩』)。 ヨーロッパの[[大航海時代]]以降、世界各地で新種の動物・植物・鉱物の発見が相次ぎ、それを分類する手段としての博物学が発達した。薬用植物・[[茶]]・[[ゴム]]・[[コショウ]]など、経済的に有用な植物を確保するため、[[プラントハンター]]と呼ばれる植物採集者たちが世界中に散り、珍奇な植物を探して回った。また動物や鉱物なども採集された。動物の例で言えば、[[東南アジア]]の[[フウチョウ科|フウチョウ]]などの標本がヨーロッパにもたらされた。 [[カール・リンネ]]とジョルジョールイ・ルクレール・コント・ド・ビュフォンはヨーロッパの博物学の発展を促した<ref>{{Cite|和書|author=河原啓子| title=芸術受容の近代的パラダイム:日本における見る欲望と価値観の形成 |publisher=美術年鑑社|year=2001|pages=30 }}</ref>。 リンネは、[[動物界]]、[[植物界]]、[[鉱物界]]という自然三界の全ての種についての目録作りを自然史と見なした。[[ビュフォン]]は『自然史』において、自然三界を体系的に記述しようとした。 [[1755年]]には[[カント]]が『天界の一般自然史と理論』を著し、自然史の名のもとに、太陽系の生成についても記述した。 地質学の領域などで、次第に歴史的な研究が活発化すると、こういった研究については、記述することに重点がある自然史とは区別して考えようとする動きが出てきた。歴史的な考察に力点がある分野を、カントは「自然考古学」とすることを[[1790年]]に提唱。だが定着せず、歴史的な分析も含めて、自然史と呼ばれつづけた。 19世紀になると、[[ジャン=バティスト・ラマルク|ラマルク]]や[[ゴットフリート・ラインホルト・トレヴィラヌス|トレヴィラヌス]]が「biology([[生物学]])」という学問名の領域を提案した。これは簡単に言えば、生物に関する[[自然哲学]]を意味していた。そして、これは自然史とは異なった分野として独自の方法論を展開するようになった。自然史の領域は領域で、知識の集積が進み、もはやひとりの人間が自然三界の全部について専門的な研究を進めるのは困難な状況になっていった。そして、19世紀後半(主に[[チャールズ・ダーウィン]]以降)に入ると学問が細分化し、博物学は[[動物学]]・[[植物学]]・[[鉱物学]]・[[地質学]]などに細分化された。そして「自然史」や「博物学」という言葉は、それらをまとめて指す総称ということになっていった。 近年では博物学、自然史という言葉は多義的に用いられており、例えば[[1958年]]の[[日本学術会議]]によって用いられた表現「(博物学は)いわば、自然界の国勢調査」に見られる理解のしかたがある。[[動物分類学]]や[[植物分類学]]だけを指すためにこの言葉が用いられることもある。また、アマチュア的な生物研究を指すためにこの言葉が用いられることもある。 ==分類== 博物学の作業としては、自然物の[[採集]]とその[[同定]]が最初になる。しかしそれと同じくらい、博物学者たちはその[[分類]]に情熱を傾けた。採集と分類は科学としての博物学を支える両輪であった。 素朴な分類法はすでに編み出されていた。たとえば動物を「有用な動物-家畜」と「それ以外の動物-獣」に分類する方法など。しかし、これらの分類は人間の都合や、見た目によるものが多く、科学的な分類法としては採用することができなかった。 自然界にある多種多様のものを分類するために、さまざまな[[分類法]]が編み出された。たとえば、人間-高等動物-下等動物-植物-鉱物-火や空気という順に並んでいる「存在の階梯」という分類体系がある。これ以外にも、二分法による体系。三分法による体系など、さまざまな思弁的な分類法が考案された。これらについては荒俣宏著『目玉と脳の大冒険』に詳しい。 一方、[[生物の分類]]については[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]が形式的には[[二名法]]による[[学名]]を考案し、分類の基準としては類縁性を元にした自然分類の観点を持ち込んだ。これによって、その後生物における[[分類学]]が大きく進んだ。 その後、19世紀後期に[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]が『[[種の起源]]』を著して[[進化論]]を唱える。学会に進化論が認知されるまでにもだいぶ時間がかかったが、やがてそれは科学的な事実として受け入れられるようになった。進化論は必然的に、[[系統分類]](もしくは[[分岐分類]])の分類法を要請する。つまり、類縁性は進化的な近縁性に置き換えられた。生物においては、それ以外の分類法は捨て去られるか、あるいは系統分類に統合されることとなった。 また、非生物の分野でも、分類法の革新があった。[[元素]]の発見、[[化合物]]の研究が進み、[[ドミトリ・メンデレーエフ|メンデレーエフ]]の[[周期表|周期律表]]に代表されるように化学的知識が整理されてくると、鉱物を[[化学物質]]として研究することが可能になった。 さらに化学と物理の発展した20世紀には、[[分子生物学]]によって、生物進化の分岐は[[ゲノム]]の類似性として直接に検討されるようになった。鉱物には化学的組成と結晶構造による分類、岩石には組成・成因による分類が適用されるようになった。以上のような分析手段の獲得によって直接に一般化・体系化が可能になったことにより、博物学の手段であった収集と比較と記述という手法は、生物の種の同定などといった手続きには厳として残るものの([[タイプ (分類学)]] の記事などを参照)、科学のメインストリームとしては博物学はその使命を終えつつある。 ==現在の博物学== [[File:Minakata Kumagusu.JPG|thumb|220px|left|[[南方熊楠]]]] 現在、博物学は学問分野としては残っていないが、自然科学研究のひとつの方法として博物学的研究というのがある。これは、直接フィールド(野山など)に向かい、動物・植物・鉱物などを収集・同定・分類する研究である。たとえば、[[牧野富太郎]]が行った植物研究や、[[南方熊楠]]が行った[[粘菌|変形菌]]研究などがその例となる。 またこの分野ではアマチュアの活動も大きい役割を担っている(いわゆる[[市民科学]])。たとえば[[昆虫]]などは、各地の[[昆虫採集]]好きのアマチュアが新種を発見することも多い。あるいは、野生生物の不思議な特徴や珍しい行動がアマチュアによって発見され、新たな発展が行われた例もある。ヨーロッパでは、博物学的研究の趣味が伝統的にあって、それを楽しむ人は「[[ナチュラリスト]]」と呼ばれている。 このように自然科学の基礎として欠かすことのできない手法であったが、現在では生物の分類は目視ではなく分子生物学による分類が主流になり、鉱物の分類も正確な元素同定が簡単に行えることから、現在では科学史のトピックとしての学習や教養科目、個人の趣味としての要素が強くなっている。かつては製薬会社などが、[[プラントハンター]]を詳しい調査が行われていない地域に派遣して植物などの収集に努めていたが、[[シミュレーション]]や分子合成手法の発達により大規模な調査は下火になっている。 [[天文学]]の分野でも、[[スーパーコンピュータ]]を駆使する[[天体物理学]]や最先端の物理学による[[宇宙論]]など、理学系の分野においてはアマチュアの参加が難しいが、[[天体観測]]など[[アマチュア天文学]]と呼ばれる分野では、個人で購入できる望遠鏡の高性能化に伴い、[[彗星]]や[[新星]]の発見が今でも盛んである。 ==日本と博物学== ===本草学=== [[File:Yamato Honzo.jpg|thumb|240px|right|『大和本草』([[国立科学博物館]]の展示)]] [[Image:The insect quire (summer version) by Masuyama Sessai.jpg|thumb|240px|虫豸帖(夏帖)[[増山雪斎]]筆 [[東京国立博物館]]]] [[ファイル:Wasabi,_Iwasaki_Kanen_1828.jpg|代替文=|サムネイル|202x202ピクセル|[[岩崎灌園]]『本草図譜』の[[ワサビ]]]] 日本では[[奈良時代]]以来、本草学に関する書物が読まれており、[[10世紀]]には『[[本草和名]]』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。 [[江戸時代]]には、[[1607年]]の『[[本草綱目]]』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。この本草綱目を入手した[[徳川家康]]もこの年から本格的な本草研究を始めている<ref>[[宮本義己]]「徳川家康と本草学」(笠谷和比古編『徳川家康―その政治と文化・芸能―』宮帯出版社、2016年)</ref>。[[林羅山]]は[[1612年]]に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した。以後さらに研究が進められ、『[[大和本草]]』([[1708年]])を著わした[[貝原益軒]]や、[[田村藍水]]などの著名な[[本草学者]]が活動した。[[1738年]]には[[稲生若水]]が『[[庶物類纂]]』を編纂した。[[小野蘭山]]らは[[採薬使]]として各地の自然物を採集した。藍水門下の[[平賀源内]]は、[[物産会]]を開いたり、[[石綿]]や[[鉱山]]の殖産に携わったりした。 江戸時代中後期には、色鮮やかな図譜([[図鑑]]・[[博物画]])の制作も盛んになった。すなわち、魚介類・鳥類・植物などを『~図譜』『~譜』と題した書物にまとめることが流行した。図譜の多くは美術的にも評価が高い{{Sfn|今橋|2017|p=序章 「花鳥画」研究への新たな光}}。図譜はまた、実在する動植物だけでなく[[河童]]などの[[妖怪]]を扱うことも多いため、妖怪研究の要素ももつ<ref>[https://iwasebunko.jp/stock/collection/entry-167.html 水虎考略] - [[岩瀬文庫]]コレクション</ref>。図譜は[[徳川吉宗]]や[[増山正賢]]ら、各地の[[殿様]]たちの命令で作られることが多く、ときには殿様自身が制作に携わることもあった<ref>{{Cite web|和書|title=殿様の博物学 {{!}} コラム {{!}} 描かれた動物・植物|url=https://www.ndl.go.jp/nature/column/column_2.html|website=www.ndl.go.jp|accessdate=2020-10-07|publisher=[[国立国会図書館]]}}</ref><ref name=":0">{{Cite book|和書|title=殿様生物学の系譜|year=1991|publisher=朝日新聞社|author=科学朝日編、[[磯野直秀]]ほか著|date=}}</ref>。 [[杉田玄白]]らによって[[蘭学]]が成立すると、[[ヨーロッパ]]から渡ってきた博物学書の翻訳が行われた(翻訳自体は、その一世代前の[[野呂元丈]]がすでに行っていたが、これは一般に広まらなかった)。[[大槻玄沢]]や[[司馬江漢]]がオランダ渡りの図鑑をいくつか翻訳して公刊した。博物学書の知識は、幕府が危険視するような思想性が薄く実用的な知識でもあったため、積極的に受容され、本草学にも影響を与えた。 江戸時代には、以上のような本草学だけでなく、[[古典園芸植物]]の研究や、『[[詩経]]』や『[[万葉集]]』に出てくる動植物の同定([[名物学]])も流行した。また、[[寺島良安]]が図解百科事典『[[和漢三才図会]]』を著したり<!--<ref>寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻本)、吉川弘文館、明治39年</ref>-->、[[木内石亭]]や[[佐藤中陵]]が石の分類体系を構築したり<ref>{{Cite book|和書|title=古生物学者、妖怪を掘る|year=2018|last=荻野|first=慎諧|publisher=[[NHK出版]]〈[[NHK出版新書]]〉|isbn=978-4140885567}}(第二章四節「奇石考『雲根志』『怪石志』を読む」)</ref>、[[木村蒹葭堂]]が[[イッカク#角について|イッカクの角]]を研究したりした。 ===西洋の博物学の移入=== 日本は島国であり、地形の起伏に富むため、[[固有種]]が多い。そのため大航海時代以降、ヨーロッパの学者は日本の動植物の研究を希望していたが、当時日本は[[鎖国]]政策を取っていたため入国ができなかった。そのようななかで、わずかに[[オランダ]]商人だけが[[出島]]への寄港を許されていたので、彼らに混じってやってきた学者たちがいた。代表的なのは「[[出島の三学者]]」と呼ばれる[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]、[[カール・ツンベルク|ツンベリー]]、[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]である。彼らはいずれもオランダ人ではなかった。 この出島の三学者によって、西洋の博物学の手法が日本に紹介された。ケンペルは出島に[[植物園|薬草園]]を作った。ツンベリーはリンネの弟子であり、多数の植物を採集し、また[[中川淳庵]]・[[桂川甫周]]らに植物[[標本]]の作成法を教授した。シーボルトは動植物のみならず日本の文物を大量にオランダに送った。その中のひとつである[[アジサイ]]の一種を、日本での妻タキにちなんで「オタクサ(おタキさん)」と名付けた。 幕末の[[黒船来航]]の際には、博物図鑑の大著『[[アメリカの鳥類]]』が幕府に献上された{{Sfn|今橋|2017|p=終章 海を渡った禽鳥帖―西欧と江戸時代博物図譜}}。[[開国]]後には、[[ロバート・フォーチュン]]ら多くのプラントハンターが日本に訪れた。 明治に入ってから、[[伊藤圭介 (理学博士)|伊藤圭介]]や[[田中芳男]]、[[お雇い外国人]]の[[エドワード・S・モース|モース]]らによって、博物学が正式な形で日本に移入された。また、明治以降は上述のアマチュア博物学も盛んになった。とりわけ[[華族]]・[[皇族]]が博物学に打ち込んだ<ref name=":0" />([[昭和天皇#生物学研究]]、[[明仁#科学者として]])。 === 日本博物学史の研究 === 以上のような日本博物学史の詳細な研究は、[[1970年代]]頃から始まった{{Sfn|今橋|2017|p=序章 「花鳥画」研究への新たな光}}。初期の主な研究者として、[[上野益三]]・[[木村陽二郎]]・[[磯野直秀]]・[[西村三郎]]・[[荒俣宏]]らがいる。 ==博物学の語== 「博物学」の言葉は「Natural history」の訳語として作り出されたものである。英語での意味は、広義には[[政治学]]・[[神学]]などに対立する自然科学一般を指し、狭義には上で説明した博物学のことを指す。この中間の意味として、「Natural philosophy」すなわち[[物理学]]と対立する学問を指すことがある。「自然」の内容がNatural history、形式がNatural philosophyとなるわけである。 Natural historyは、「博物誌」「自然史」「自然史学」などと訳されることもある。 ===自然史博物館=== 現在、各国の[[博物館]]に「自然史博物館」がある。これは「Natural History Museum」の直訳である。この場合の「Natural history」の意味は広義の博物学、つまり自然科学一般を指す。 日本語では「Museum」を「博物館」と訳しているため、「Natural History Museum」を「博物学博物館」とするわけにいかず直訳して「自然史博物館」としたと思われる。[[ロンドン自然史博物館]]、[[スミソニアン博物館]]の一部である[[国立自然史博物館 (アメリカ)|国立自然史博物館]]、[[カーネギー自然史博物館]]などがある。 近年では、日本国内でも「自然史博物館」と名づけられた「Natural History Museum」が増えてきている。 ==脚注== {{Commonscat|Natural history}} <references /> ==関連項目== {{Div col}} *[[動物学]] *[[植物学]] *[[昆虫学]] *[[鉱物学]] *[[岩石学]] *[[地質学]] *[[古生物学]] *[[博物館学]] *[[本草学]] *[[ビュフォン]] *[[リンネ]] *[[貝原益軒]] *[[南方熊楠]] *[[牧野富太郎]] *[[平賀源内]] *[[小野蘭山]] *[[木村蒹葭堂]] *[[大高元恭]] *[[荒俣宏]] *[[標本 (分類学)|標本]] *[[コレクション]] *[[好古家]] {{Div col end}} == 関連文献 == * {{Citation|和書|title=江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象|year=2017|last=今橋|first=理子|publisher=講談社〈講談社学術文庫〉|isbn=978-4062924122|origyear=1995年スカイドア|authorlink=今橋理子}} * {{Citation|和書|title=日本博物学史|year=1989|last=上野|first=益三|publisher=[[講談社]]〈[[講談社学術文庫]]〉|isbn=978-4061588592|origyear=1948年星野書店 ; 1973年平凡社|author-link=上野益三}} * {{Citation|和書|title=文明のなかの博物学 西欧と日本 上|year=1999a|last=西村|first=三郎|publisher=[[紀伊國屋書店]]|isbn=978-4314008501|author-link=西村三郎}} * {{Citation|和書|title=文明のなかの博物学 西欧と日本 下|year=1999b|last=西村|first=三郎|publisher=紀伊國屋書店|isbn=978-4314008518}} ==外部リンク== *[http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/ 京都大学所蔵資料でみる博物学の時代] {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:はくふつかく}} [[Category:博物学|*]] [[Category:自然史]] [[Category:科学史]] [[Category:分類学]]
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荒俣宏
荒俣 宏(あらまた ひろし、1947年7月12日 -)は、日本の博物学研究家、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学研究家、妖怪評論家、翻訳家、タレント。元玉川大学客員教授、武蔵野美術大学造形学部客員教授、サイバー大学客員教授、京都国際マンガミュージアム館長、日本SF作家クラブ会員、世界妖怪協会会員。 日本大学藝術学部芸術研究所教授なども歴任している。翻訳家としての筆名に団 精二(だん せいじ)を用いていた。また、雑誌『BOOKMAN』における筆名に本野 虫太郎を用いていた。 東京都出身。中学生にして平井呈一に弟子入りし、平井と交流していた紀田順一郎を紹介されさらに兄事した。幻想小説や怪奇小説に魅かれ、野村芳夫と同人誌を発行するとともに、鏡明と国外作品の翻訳に取り組み、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトやロバート・E・ハワードらの作品を手掛けた。「英雄コナン」シリーズの翻訳を通じて、日本に初めてヒロイック・ファンタジーを紹介したことでも知られている。翻訳の過程で生み出された「魔道」や「魔道士」といった訳語は、のちに日本の幻想小説においても広く用いられるようになった。大学卒業後は日魯漁業(のちのマルハニチロ)でプログラマとして勤務する傍ら、旺盛な執筆活動を続けた。小説家として独立後、伝奇小説の「帝都物語」シリーズがベストセラーとなった。著作で陰陽道や風水を取り上げたことから、それらが広く一般に認知されるきっかけとなった。また、博物学についても関心を持ち、「世界大博物図鑑」シリーズを完成させた。そのほか、神秘学や民俗学などにも関心を持ち、特に妖怪研究では水木しげるに師事した。 元来は漫画家志望で、主に少女マンガを描いていた(『漫画と人生』に、萩尾望都ばりの幻想短編漫画が収録されている)。慶應義塾大学在学中、野村芳夫と同人誌『リトル・ウィアード』を刊行した。さらに、紀田順一郎と『怪奇幻想の文学』の編集、翻訳、解説を担当するとともに、鏡明とヒロイック・ファンタジーの翻訳活動を開始した。 1970年、日魯漁業(のちのマルハニチロ)に入社。同年、初の翻訳書となる『征服王コナン』を団精二名義(ロード・ダンセイニに由来)で刊行した。日魯漁業での勤務の傍ら、紀田順一郎と『幻想と怪奇』の編集に携わるとともに『世界幻想文学大系』の監修に携わった。1977年、初の著書である『別世界通信』を刊行した。 日魯漁業を退社後、平凡社の社屋に半ば住み着きつつ『世界大百科事典』の改訂版の編集に参加し、自らも記事、特に各項目の民俗的コスモロジーに関わる記述を執筆したが、同時期に書いた長編小説『帝都物語』が日本SF大賞を受賞し、一躍、小説家としての道を歩み始める。 世界大博物図鑑の資料として博物学の古書を購入し、1億4000万円の借金を背負うが、『帝都物語』により得た印税1億5000万円で返済する。この古書の図版を基に近代初頭の博物学の黄金時代を紹介する多くの手彩色博物学研究書を編集・出版。博物学書ブームを起こした。これらの博物学研究書の多くを平凡社から出版している。このライフワークから「博物学者」と呼ばれる機会が多いが、自ら自然物の収集を手がけて動植物、鉱物等の研究に携わるのではなく、黄金時代の博物学者の残した遺産を収集、研究の対象としている事を考えると、「博物学研究家」あるいは「博物学史学者」と呼ぶ方が的確であろう。名品・珍品収集の為に、ebayを始めとする世界中の様々な競売に参加している。サラリーマン時代、書籍や名品・珍品を購入する為食事は1日1食で(しかもインスタントラーメン)、出勤時に着用するスーツは10年間同じ物1着で通した。また毎日三食饅頭(まんじゅう)だけで過ごし健康を害しかかったこともよく知られる。 幼少期の夜逃げの記憶が今でもトラウマとなり、本人の心に深く影と傷を残している。夜逃げ生活の中でよく食べていた魚の缶詰を愛好しておりそれが縁で日魯に入社したという逸話もある。幼少の頃より長身で低身長の同学年のなかでも目立つため上級生によくいじめられた。それゆえ厭世的になり隠居に憧れたり、一般からは外れたマイナーなものに目が行く現在の素養ができた。子供時代より体格がよく恰幅もあったため、相撲部屋からのスカウトを受けた経験もある。 博識ぶりに裏打ちされた活動や、蒐集家としての活動はよく知られている。富士通のパソコンFM TOWNSのCMに本人役で出演したことがある。その博覧強記の人というイメージを生かしてマルチメディア電子図鑑への可能性をアピールする内容で、当時、同社のレギュラーCMタレントだった宮沢りえが図鑑の中の恐竜に扮する趣向であった。また、「博物学者、作家、評論家など、幅広い分野で活躍されるとともに、様々な資料等の蒐集を行われ、現代の『生き字引』にふさわしい博識でもって社会に貢献している」 との理由により、2013年2月2日に水木十五堂賞を受賞している。 神秘学・妖怪研究に於いては水木しげるに師事しており、培ってきた幅広く深い知識量は自身の著作に独特の持ち味を与えるほど。水木の漫画の中では、荒俣をモデルとした怪人物「アリャマタコリャマタ」が登場することがある。この「アリャマタコリャマタ」氏は、出版社に住み着いている作家・博物学者であり、神秘世界に通じ、タイ焼きが大好物。普段は人間の仮面を被っているが、その正体は三つ目の妖怪である、という設定がなされている。 各メディアに登場する機会も増え、自他共に「日本オカルト界に荒俣あり」と認められるまでになった(オカルト番組にも頻繁にキャスティングされる)。ただし、妖怪を含め、オカルト的・神秘的な事項に関しては、興味はあるが、その実在性には否定的立場である(この点で師である水木とは一線を画している)。ある番組で女性タレントが「私はUFOを見たことがあるんです」と発言したところ、「平田篤胤が天狗少年の寅吉を自宅に住まわせ、何年もその言動を観察した」という例を出し、「あなたをじっと何十年も観察すれば、その目撃証言が本当かどうかわかるかもしれません」と切り返した。 翻訳活動においては、活動初期にヒロイック・ファンタジーを中心に翻訳し、「魔道」「魔道士」「召喚」「追儺」といった造語を生み出した。 それまで、ごく一部の学者によって学術的に研究されるのみであった風水を、日本で一般向けに紹介し、ブームを生み出したのも荒俣である。 イベントの企画、プロデュースを手掛けることも多く、インターネット博覧会では編集長を務め、2005年日本国際博覧会ではグローバルハウスの監修を担当した。群馬県立自然史博物館での企画展示が評価され、2007年12月26日、長谷川善和とともに科学技術政策研究所により「ナイスステップな研究者」の成果普及・理解増進部門にて顕彰されている。 元々左利きであるが、現在は箸と筆記の際は右手を使っている。また、たびたび目をしばたたく癖もよく指摘されている。身長185cm。戸籍上の誕生日は7月17日である。少年期から様々なジャンルに興味を持ち吸収、その多忙さから予習や復習などの学業に時間が割かれる事が煩わしくテスト一週間前に教科書を丸暗記して凌いだ 。 渾名はマタンゴ。 翻訳活動期に使用していた筆名に団 精二があるが、これはイギリスの幻想作家ダンセイニ卿の名を捩ったものである。 子供の頃の夢は隠居。 幼い頃から海洋生物に興味を持っていた。現在も熱帯魚や死滅回遊魚(海流に乗って水温の低い地域まで流れて来たために冬を越せないで死滅する海水魚)の飼育が趣味。 ビブリオマニア(書籍収集マニア)である。本を買う為に消費者金融に頼った事もある(当時無職だった為融資は断られる)。今まで書籍に費やした費用は約5億円。現在でも毎日本を3 - 4冊読んでいる。また『帝都物語』のヒットによって得た印税1億数千万円のほとんどを古本収集に費やしたという桁外れのエピソードを持つ(本人曰く「古書店丸々一軒分の本を買うのが以前からの夢だった」とのこと)。なお、有名なパルプ・マガジンである「ウィアード・テイルズ」は、学生時代からずっとコレクションし続けているが、著書『パルプマガジン―娯楽小説の殿堂』(2001年)によると、その時点では、まだコンプリートにはなっていないとのこと。 極度の甘党としても知られており、「若い頃には深鍋に15杯分の汁粉を作って食べていた」「時間を惜しむあまり普通の食事をせず、代わりに編集者の持参するお菓子が主食状態となっていた」「中華料理屋に行っても杏仁豆腐しか食べない」等の逸話を持つ。夏目房之介は、デッドラインを迎えた荒又が女性編集者の自室を大量のアイスクリーム持参で深夜に訪問、手土産と思って冷蔵庫に入れようとするのを制し、机を借りて原稿を仕上げながら一人で完食し帰っていったエピソードをイラストで描いている(『夏目房之介の学問』)。 妹は漫画家の志村みどり。弟は メガロパ海洋生物研究所 所長の荒俣幸男。親戚に日本カイトフォトグラフィー協会の会長の室岡克孝がいる。 最初の妻は杉浦日向子。結婚当初は『美女と野獣』と比喩された。2人を知る知人は「男勝りな性格の杉浦と女性的な性格の荒俣はピッタリだ」と話したが、結婚生活は半年で破綻し、1年で離婚。 二番目の妻は元JALの客室乗務員だった一般人。妻は美的感覚が変わっており、子供の頃からイボガエルを「かわいい」と思っており、客室乗務員時代は高学歴で顔も良いエリートの乗客にこっそり電話番号を渡されても「好みじゃない」と平気で破り捨てていたという。荒俣と初対面した際に一目惚れし、「この人しかいない!」と猛アタックし、結婚。バラエティ番組で特集された際に、本人は「夫の顔は気持ち悪い。仕事も気持ち悪い。でもそこが大好き。一生ついていく」と満面の笑みで語った。
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荒俣 宏は、日本の博物学研究家、図像学研究家、小説家、収集家、神秘学研究家、妖怪評論家、翻訳家、タレント。元玉川大学客員教授、武蔵野美術大学造形学部客員教授、サイバー大学客員教授、京都国際マンガミュージアム館長、日本SF作家クラブ会員、世界妖怪協会会員。 日本大学藝術学部芸術研究所教授なども歴任している。翻訳家としての筆名に団 精二を用いていた。また、雑誌『BOOKMAN』における筆名に本野 虫太郎を用いていた。
{{存命人物の出典明記|date=2016年8月21日 (日) 01:55 (UTC)}} {{Infobox 作家 | name = <!--氏名-->{{ruby|荒俣 宏|あらまた ひろし}} | image = <!--写真、肖像画等のファイル名-->Hiroshi Aramata 2005.jpg | image_size = <!--画像サイズ-->250px | caption = <!--画像説明-->[[感どうする経済館]][[プロデューサー]]<br />就任に際して公表された肖像写真 | pseudonym = <!--ペンネーム-->{{ruby|団 精二|だん せいじ}}<br />{{ruby|本野 虫太郎|ほんの むしたろう}} | birth_name = <!--出生名-->{{ruby|荒俣 宏|あらまた ひろし}} | birth_date = <!--{{生年月日と年齢|XXXX|XX|XX}}(省略不可)。-->{{生年月日と年齢|1947|7|12}} | birth_place = <!--生誕地、出身地-->{{Flagicon|JPN}} [[東京都]][[台東区]] | death_date = <!--{{死亡年月日と没年齢|XXXX|XX|XX|YYYY|YY|YY}}--> | death_place = <!--死亡地--> | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = <!--職種-->[[博物学|博物学研究家]]、[[図像学|図像学研究家]]、<br />[[小説家]]、[[収集家]]、[[神秘学|神秘学研究家]]、<br />[[評論家|妖怪評論家]]、[[翻訳|翻訳家]]、[[タレント]] | language = <!--著作時の言語-->[[日本語]] | nationality = <!--国籍-->{{JPN}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->[[学士(法学)|法学士]]([[慶應義塾大学]]) | alma_mater = <!--出身校、最終学歴-->[[慶應義塾大学大学院法学研究科・法学部|慶應義塾大学法学部]]卒業 | period = <!--作家としての活動期間、処女作出版から最終出版まで-->[[1970年]] - | genre = <!--全執筆ジャンル-->[[幻想文学|幻想小説]]、[[伝奇小説]]、[[サイエンス・フィクション|SF小説]] | subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)--> | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = <!--代表作-->『[[帝都物語]]』([[1985年]])<br />『世界大博物図鑑』([[1987年]])<br />『[[帝都幻談]]』([[1997年]])<br />『[[新帝都物語]]』([[1999年]]) | spouse = <!--配偶者-->[[杉浦日向子]](元妻)<br />荒俣泰子(妻) | partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)--> | children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する--> | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->[[志村みどり]](妹) | influences = <!--影響を受けた作家名-->[[平井呈一]]<br />[[紀田順一郎]]<br />[[水木しげる]] | influenced = <!--影響を与えた作家名-->[[山形浩生]] | awards = <!--主な受賞歴-->[[日本SF大賞]]([[1987年]])<br />[[サントリー学芸賞]]([[1989年]])<br />ナイスステップな研究者([[2007年]])<br />[[水木十五堂賞]]([[2013年]])<br />[[キネマ旬報読者賞]]([[2014年]]) | debut_works = <!--処女作-->訳書としての処女作:<br />『[[征服王コナン]]』([[1970年]])<br />単著としての処女作:<br />『別世界通信』([[1977年]]) | signature = <!--署名・サイン--> | website = <!--本人の公式ウェブサイト-->[https://web.archive.org/web/20051028033748/http://blogs.yahoo.co.jp/aramata_hiroshi 荒俣宏のオークション博物誌 - Yahoo!ブログ] <!--| footnotes = --> }} {{読み仮名_ruby不使用|'''荒俣 宏'''|あらまた ひろし|[[1947年]][[7月12日]] - }}は、[[日本]]の[[博物学|博物学研究家]]、[[図像学|図像学研究家]]、[[小説家]]、[[コレクション|収集家]]、[[神秘学|神秘学研究家]]、[[評論家|妖怪評論家]]、[[翻訳|翻訳家]]、[[タレント]]。元[[玉川大学]][[客員教授]]、[[武蔵野美術大学]][[造形学部]]客員教授、[[サイバー大学]]客員教授、[[京都国際マンガミュージアム]]館長、[[日本SF作家クラブ]][[会員]]、[[世界妖怪協会]]会員。 [[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学藝術学部]]芸術研究所[[教授]]なども歴任している。翻訳家としての[[ペンネーム|筆名]]に{{読み仮名_ruby不使用|'''団 精二'''|だん せいじ}}を用いていた。また、雑誌『BOOKMAN』における筆名に'''本野 虫太郎'''を用いていた。 == 概要 == [[東京都]]出身。中学生にして[[平井呈一]]に[[弟子]]入りし、平井と交流していた[[紀田順一郎]]を紹介されさらに兄事した。[[幻想小説]]や[[怪奇小説]]に魅かれ、[[野村芳夫]]と[[同人誌]]を発行するとともに、[[鏡明]]と国外作品の翻訳に取り組み、[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト]]や[[ロバート・E・ハワード]]らの作品を手掛けた。「[[英雄コナン]]」シリーズの翻訳を通じて、[[日本]]に初めて[[ヒロイック・ファンタジー]]を紹介したことでも知られている。翻訳の過程で生み出された「[[魔道]]」や「[[魔道士]]」といった[[訳語]]は、のちに日本の幻想小説においても広く用いられるようになった。大学卒業後は[[日魯漁業]](のちの[[マルハニチロ]])で[[プログラマ]]として勤務する傍ら、旺盛な執筆活動を続けた。[[小説家]]として独立後、[[伝奇小説]]の「[[帝都物語]]」シリーズが[[ベストセラー]]となった。著作で[[陰陽道]]や[[風水]]を取り上げたことから、それらが広く一般に認知されるきっかけとなった。また、[[博物学]]についても関心を持ち、「世界大博物図鑑」シリーズを完成させた。そのほか、[[神秘学]]や[[民俗学]]などにも関心を持ち、特に[[妖怪]][[研究]]では[[水木しげる]]に師事した。 == 来歴 == === 生い立ち === 元来は漫画家志望で、主に少女マンガを描いていた(『漫画と人生』に、[[萩尾望都]]ばりの幻想短編漫画が収録されている)。[[慶應義塾大学]]在学中、[[野村芳夫]]と[[同人誌]]『リトル・ウィアード』を刊行した。さらに、[[紀田順一郎]]と『怪奇幻想の文学』の編集、翻訳、解説を担当するとともに、[[鏡明]]と[[ヒロイック・ファンタジー]]の[[翻訳]]活動を開始した。 [[1970年]]、日魯漁業(のちのマルハニチロ)に入社。同年、初の翻訳書となる『[[征服王コナン]]』を団精二名義([[ロード・ダンセイニ]]に由来)で刊行した。日魯漁業での勤務の傍ら、紀田順一郎と『[[幻想と怪奇]]』の編集に携わるとともに『世界幻想文学大系』の監修に携わった。[[1977年]]、初の著書である『別世界通信』を刊行した。 === 小説家として === [[ファイル:Hiroshi Aramata cropped 2 Hiroshi Aramata 20150428.jpg|thumb|200px|[[2015年]][[4月28日]]、[[八重洲ブックセンター]]での『サイエンス異人伝』刊行記念講演会にて]] 日魯漁業を退社後、[[平凡社]]の社屋に半ば住み着きつつ『[[世界大百科事典]]』の改訂版の編集に参加し、自らも記事、特に各項目の民俗的コスモロジーに関わる記述を執筆したが、同時期に書いた長編小説『[[帝都物語]]』が[[日本SF大賞]]を受賞し、一躍、小説家としての道を歩み始める。 [[世界大博物図鑑]]の資料として博物学の古書を購入し、1億4000万円の借金を背負うが、『帝都物語』により得た印税1億5000万円で返済する。この古書の図版を基に近代初頭の博物学の黄金時代を紹介する多くの手彩色博物学研究書を編集・出版。博物学書ブームを起こした。これらの博物学研究書の多くを平凡社から出版している。このライフワークから「博物学者」と呼ばれる機会が多いが、自ら自然物の収集を手がけて動植物、鉱物等の研究に携わるのではなく、黄金時代の博物学者の残した遺産を収集、研究の対象としている事を考えると、「博物学研究家」あるいは「博物学史学者」と呼ぶ方が的確であろう。名品・珍品収集の為に、[[ebay]]を始めとする世界中の様々な競売に参加している。サラリーマン時代、書籍や名品・珍品を購入する為食事は1日1食で(しかも[[インスタントラーメン]])、出勤時に着用する[[背広|スーツ]]は10年間同じ物1着で通した。また毎日三食饅頭(まんじゅう)だけで過ごし健康を害しかかったこともよく知られる。 幼少期の夜逃げの記憶が今でもトラウマとなり、本人の心に深く影と傷を残している。夜逃げ生活の中でよく食べていた魚の缶詰を愛好しておりそれが縁で日魯に入社したという逸話もある。幼少の頃より長身で低身長の同学年のなかでも目立つため上級生によくいじめられた。それゆえ厭世的になり隠居に憧れたり、一般からは外れたマイナーなものに目が行く現在の素養ができた。子供時代より体格がよく恰幅もあったため、相撲部屋からのスカウトを受けた経験もある。 博識ぶりに裏打ちされた活動や、蒐集家としての活動はよく知られている。[[富士通]]のパソコン[[FM TOWNS]]のCMに本人役で出演したことがある。その博覧強記の人というイメージを生かしてマルチメディア電子図鑑への可能性をアピールする内容で、当時、同社のレギュラーCMタレントだった[[宮沢りえ]]が図鑑の中の恐竜に扮する趣向であった。また、「博物学者、作家、評論家など、幅広い分野で活躍されるとともに、様々な資料等の蒐集を行われ、現代の『生き字引』にふさわしい博識でもって社会に貢献している」<ref>「選考理由」『[https://web.archive.org/web/20210125015550/https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/govt/torikumi/mizuki/003027.html 第1回 水木十五堂賞 受賞者の紹介 | 大和郡山市のホームページ]』[[大和郡山市|大和郡山市役所]]。</ref> との理由により、[[2013年]][[2月2日]]に[[水木十五堂賞]]を受賞している<ref>「第1回水木十五堂賞について(平成24年度)」『[https://web.archive.org/web/20131016213037/https://www.city.yamatokoriyama.nara.jp/govt/torikumi/mizuki/002904.html 水木十五堂賞 | 大和郡山市のホームページ]』[[大和郡山市|大和郡山市役所]]。</ref>。 [[神秘学]]・[[妖怪]]研究に於いては[[水木しげる]]に師事しており、培ってきた幅広く深い知識量は自身の著作に独特の持ち味を与えるほど。水木の漫画の中では、荒俣をモデルとした怪人物「アリャマタコリャマタ」が登場することがある。この「アリャマタコリャマタ」氏は、出版社に住み着いている作家・博物学者であり、神秘世界に通じ、タイ焼きが大好物。普段は人間の仮面を被っているが、その正体は三つ目の妖怪である、という設定がなされている。 各メディアに登場する機会も増え、自他共に「'''日本オカルト界に荒俣あり'''」と認められるまでになった(オカルト番組にも頻繁にキャスティングされる)。ただし、妖怪を含め、オカルト的・神秘的な事項に関しては、興味はあるが、その実在性には否定的立場である(この点で師である水木とは一線を画している)。ある番組で女性タレントが「私は[[未確認飛行物体|UFO]]を見たことがあるんです」と発言したところ、「[[平田篤胤]]が天狗少年の寅吉を自宅に住まわせ、何年もその言動を観察した」という例を出し、「あなたをじっと何十年も観察すれば、その目撃証言が本当かどうかわかるかもしれません」と切り返した。 翻訳活動においては、活動初期に[[ヒロイック・ファンタジー]]を中心に翻訳し、「'''魔道'''」「'''魔道士'''」「召喚」「追儺」といった[[造語]]を生み出した。 それまで、ごく一部の学者によって学術的に研究されるのみであった[[風水]]を、日本で一般向けに紹介し、ブームを生み出したのも荒俣である。 イベントの企画、プロデュースを手掛けることも多く、[[インターネット博覧会]]では[[編集長]]を務め、[[2005年日本国際博覧会]]ではグローバルハウスの監修を担当した。[[群馬県立自然史博物館]]での企画展示が評価され、[[2007年]][[12月26日]]、[[長谷川善和]]とともに科学技術政策研究所により「ナイスステップな研究者」の成果普及・理解増進部門にて顕彰されている<ref>科学技術政策研究所『[http://www.nistep.go.jp/wp/wp-content/uploads/press2007.pdf 科学技術への顕著な貢献2007(ナイスステップな研究者)]』[[2007年]][[12月26日]]、14頁。</ref>。 == 人物 == 少年期から様々なジャンルに興味を持ち吸収、その多忙さから予習や復習などの学業に時間が割かれる事が煩わしくテスト一週間前に教科書を丸暗記して凌いだ<!-- 0点主義 新しい知的生産の技術57 講談社--> 。 === 渾名(あだな)・筆名 === 渾名は[[マタンゴ]]。 翻訳活動期に使用していた[[ペンネーム|筆名]]に'''団 精二'''があるが、これはイギリスの幻想作家[[ロード・ダンセイニ|ダンセイニ卿]]の名を捩ったものである。 === 趣味・嗜好 === 子供の頃の夢は[[隠居]]。 幼い頃から海洋生物に興味を持っていた。現在も熱帯魚や[[回遊#死滅回遊|死滅回遊魚]](海流に乗って水温の低い地域まで流れて来たために冬を越せないで死滅する海水魚)の飼育が趣味。 ビブリオマニア(書籍収集マニア)である。本を買う為に[[消費者金融]]に頼った事もある(当時無職だった為融資は断られる)。今まで書籍に費やした費用は約5億円。現在でも毎日本を3 - 4冊読んでいる。また『帝都物語』のヒットによって得た[[印税]]1億数千万円のほとんどを古本収集に費やしたという桁外れのエピソードを持つ<ref>{{Cite web|和書|title=荒俣宏「あっという間になくなった」 1億超える印税の驚くべき使い道 〈週刊朝日〉|url=https://dot.asahi.com/articles/-/9588|website=AERA dot. (アエラドット)|date=20120727T160000+0900|accessdate=2019-10-19|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=ほぼ日刊イトイ新聞 -荒俣宏、インターネット荒野への旅|url=https://www.1101.com/marugoto5/05.html|website=www.1101.com|accessdate=2019-10-19}}</ref>(本人曰く「古書店丸々一軒分の本を買うのが以前からの夢だった」とのこと)。なお、有名な[[パルプ・マガジン]]である「[[ウィアード・テイルズ]]」は、学生時代からずっとコレクションし続けているが、著書『パルプマガジン―娯楽小説の殿堂』(2001年)によると、その時点では、まだコンプリートにはなっていないとのこと。 極度の[[甘党]]としても知られており、「若い頃には深鍋に15杯分の[[汁粉]]を作って食べていた」「時間を惜しむあまり普通の食事をせず、代わりに編集者の持参するお菓子が主食状態となっていた」「中華料理屋に行っても[[杏仁豆腐]]しか食べない」等の逸話を持つ。夏目房之介は、デッドラインを迎えた荒又が女性編集者の自室を大量のアイスクリーム持参で深夜に訪問、手土産と思って冷蔵庫に入れようとするのを制し、机を借りて原稿を仕上げながら一人で完食し帰っていったエピソードをイラストで描いている(『夏目房之介の学問』)。 == 家族・親族 == 妹は漫画家の[[志村みどり]]。弟は [http://www5d.biglobe.ne.jp/~MKS/ メガロパ海洋生物研究所] 所長の[[荒俣幸男]]。親戚に日本カイトフォトグラフィー協会の会長の[[室岡克孝]]がいる。 最初の妻は[[杉浦日向子]]。結婚当初は『[[美女と野獣]]』と比喩された。2人を知る知人は「男勝りな性格の杉浦と女性的な性格の荒俣はピッタリだ」と話したが、結婚生活は半年で破綻し、1年で離婚。 二番目の妻は元[[日本航空|JAL]]の[[客室乗務員]]だった一般人。妻は美的感覚が変わっており、子供の頃から[[イボガエル]]を「'''かわいい'''」と思っており、客室乗務員時代は高学歴で顔も良いエリートの乗客にこっそり電話番号を渡されても「好みじゃない」と平気で破り捨てていたという。荒俣と初対面した際に[[一目惚れ]]し、「この人しかいない!」と猛アタックし、結婚。バラエティ番組で特集された際に、本人は「夫の顔は気持ち悪い。仕事も気持ち悪い。でもそこが大好き。一生ついていく」と満面の笑みで語った。 == 略歴 == *1947年7月 - [[東京都]][[台東区]][[鶯谷]]にて金属卸業の父一男、母ミツの長男として生まれる。 *[[キリスト教主義学校|ミッション系幼稚園]]に入園。 *1952年 - 非鉄金属卸しの家業が傾いた為、一家揃って東京都[[板橋区]]に[[夜逃げ]]。アパートの大家と雑貨屋を始める。 *1953年 - 弟、荒俣幸男誕生。 *1954年 - [[板橋区立板橋第七小学校]]入学。 *1959年 - 2度目の夜逃げ。東京都練馬区へ移る。 *1960年 - [[日本大学第二中学校・高等学校|日本大学第二学園中学校]]入学。 **下町育ちのため江戸弁を使っており、山の手出身の友達に「おせぇてやるよ」と当たり前にしゃべって笑われたという<ref>KAWADE道の手帖『[[安藤鶴夫]]』河出書房新社</ref>。 **既に身長が180cmを超えていたため、相撲の[[花籠部屋]]から誘いが来た事がある。 **『世界恐怖小説全集』と出会い、同誌で翻訳を担当した中の一人、[[平井呈一]]に師事する。 *1963年 - [[日本大学第二中学校・高等学校|日本大学第二学園高等学校]]入学。 *1966年 - 私淑していた[[紀田順一郎]]の出身校である[[慶應義塾大学]][[法学部]]に入学。 **在学中、[[野村芳夫]]と怪奇幻想文学についての同人誌『リトル・ウィアード』を刊行。 *1969年から、紀田順一郎とともに『怪奇幻想の文学』の編集・翻訳・解説を担当。 *1970年、- [[鏡明]]とともに[[ヒロイック・ファンタジー]]の翻訳活動を開始。 *1970年 - [[ニチロ|日魯漁業]](現在の[[マルハニチロ]])入社。魚と触れ合う事を目的とした入社だったが、プログラマーとしての雇用だったため、9年で退社する(ただし、当時はコンピュータ黎明期で、電算室を一任された[[システムエンジニア|SE]]としての仕事も楽しかったと、後に語っている)。また、この年、'''団精二'''名義で、初の翻訳書『征服王コナン』([[ロバート・E・ハワード]]著)を刊行。 **サラリーマンとして働きつつ昼夜兼行で翻訳など学術にも精を出し、雑誌『[[幻想と怪奇]]』の編集に携わる。この頃は睡眠時間を2 - 3時間に削って時間を捻出していた。 *1975年 - 紀田順一郎との責任監修で、[[国書刊行会]]から『[[世界幻想文学大系]]』(全45巻)の刊行が始まる(1986年に完結)。また、[[伊藤典夫]]、[[鏡明]]、[[横田順彌]]と一緒に、初めての渡米。NSFIC(北米SF大会)に参加し、また、「ミスターSF」こと、[[フォレスト・J・アッカーマン]]宅を訪ねる。なお、鏡と荒俣はスペイン人に間違われた。また、一同でポルノ映画を観たのだが、よりにもよってそれは[[ラス・メイヤー]]監督の「スーパー・ビクセン」だった。 *1977年 - 初の著書にして、幻想文学研究の定番的作品となった『別世界通信』を刊行。 *1979年 - 日魯漁業退社。[[埼玉県]][[狭山市]]に引っ越す。 *1981年 -『理科系の文学誌』を刊行。異色の文学史、SF史として話題となる(のちに[[山形浩生]]は、この本に大きく影響を受けたと語っている)。 *1982年 -『大博物学時代』を刊行し、[[博物学]]の復権を訴える。この本以降は、従来の「幻想文学・SF関係の論者」から、踏み出した活動を始める。 *1985年 - 初の小説『[[帝都物語]]』シリーズを刊行開始。ベストセラーとなる。 *1986年 - [[路上観察学会]]の設立に参加。 *1987年 - 平凡社から、ライフワークである『[[世界大博物図鑑]]』(5巻+別巻2巻)の刊行を開始(1994年完結)。 *1988年2月 - 路上観察学会で知り合った、[[漫画家]]の[[杉浦日向子]]と結婚。「[[美女と野獣]]」と揶揄される。1箇月後に破局、半年後に離婚。 *この頃、長年のファンであった[[水木しげる]]宅を訪問し、「弟子にしてください」と頼む。なお、水木も荒俣の『世界大博物図鑑』などを購入しており「すごいヤツがいる」と感嘆しており、「互いにファン」であった。のち、水木の漫画に荒俣が、「アリャマタコリャマタ」というキャラクターとして、頻繁に登場するようになる。 *1994年8月 - 元[[日本航空|JAL]]の[[客室乗務員]]の原泰子と再婚。彼女は以降、マネージャー役もつとめる、2009年には'''荒俣泰子'''名義で共著「ヨーロッパ・レンタカー旅行完全ガイド イタリア編」を刊行した。『風水先生 地相占術の驚異』を刊行し、のちの[[風水]]ブームに影響を与える。また、『漫画と人生』を刊行し、「図像学」的観点から、漫画における「絵」の位置づけ、由来などを論じた。 *1995年 - 水木しげるが設立した[[世界妖怪協会]]に入会。 *1996年8月 - 境港市において、世界妖怪協会主催の「世界妖怪会議」が開催され、参加する。 *1997年 - 第1回[[手塚治虫文化賞]]選考委員(第12回の2008年まで)。 *2005年11月から翌年にかけて、荒俣宏・[[京極夏彦]]プロデュースにより、「大(Oh!)水木しげる展 なまけものになりなさい」が開催される。 *2007年4月 - [[武蔵野美術大学]]客員教授に就任。 *2009年12月 - [[レーシック]]手術を受け、視力1.2まで回復するが、公の場では[[伊達眼鏡]]を着用。 *2017年4月 - [[京都国際マンガミュージアム]]館長に就任<ref>{{Cite news|url=http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20170329000135|title=荒俣新館長を任命、漫画愛熱く 京都マンガミュージアム|newspaper =[[京都新聞]]|date=2017-03-29|accessdate=2017-03-31}}</ref>。 == 主な受賞歴 == * 1976年度 [[日本翻訳出版文化賞]]、[[紀田順一郎]]と共同編集委員『[[世界幻想文学大系]]』第1期15巻 国書刊行会 * 1987年 [[日本SF大賞]] - 『[[帝都物語]]』 * 1989年 [[サントリー学芸賞]] - 『世界大博物図鑑 第2巻 魚類』 * 2007年 ナイスステップな研究者 - 「サイエンスとアートの融合した展示の企画」 * 2013年 [[水木十五堂賞]] * 2014年 [[キネマ旬報読者賞]]「百年の闇、キネマの幻」 ==主な著書== ===著作=== {{columns-list|2| *「別世界通信」[[月刊ペン社]] 1977.5、[[ちくま文庫]] 1987、新編・イースト・プレス 2002 *『世界幻想作家事典』[[国書刊行会]] 1979.9 *「理科系の文学誌」([[工作舎]] 1981年1月 ISBN 4-87502-065-1) *「大博物学時代―進化と超進化の夢」(工作舎 1982年12月 ISBN 4-87502-090-2) *『図鑑の博物誌』[[リブロポート]] 1984.3 のち[[集英社文庫]] *「パラノイア創造史」([[筑摩書房]] 1985年11月)のち文庫 *「本朝幻想文學縁起―震えて眠る子らのために」(工作舎 1985年12月)のち集英社文庫 *「99万年の叡智―近代非理性的運動史を解く」([[平河出版社]] 1985年9月) *『帝都物語』全10冊 [[角川書店]]・角川ノベルズ 1985 - 1987 のち文庫 *「図像観光―近代西洋版画を読む」([[朝日新聞社]] 1986年11月) *「目玉と脳の大冒険―博物学者たちの時代」(筑摩書房 1987年4月)のち文庫 *「異都発掘―新東京物語」(集英社文庫 1987年6月) *『世界大博物図鑑』全5巻別巻2 [[平凡社]]、1987-94 *『絵のある本の歴史』平凡社、1987 「ブックス・ビューティフル」ちくま文庫 *「歌舞伎キャラクター事典」([[新書館]] 1987年12月)のち[[PHP文庫]] *『地球暗黒記』1 - 3 [[角川文庫]]、1988 - 1989 *『標の周辺』[[日本アイ・ビー・エム]]、1988 「「しるし」の百科」[[河出書房新社]] *『ジンクス 恋愛・結婚篇』角川文庫、1988 *『ジンクス ギャンブル篇』角川文庫、1988 *「奇っ怪紳士録」(平凡社 1988)のちライブラリー *『日本妖怪巡礼団』[[集英社]]、1989 のち文庫 *「広告図像の伝説―フクスケもカルピスも名作!」(平凡社 1989年8月)のちライブラリー *『海覇王』角川書店、1989 のち文庫 *「帝都大戦」(角川書店 1989年9月) *「帯をとくフクスケ―複製・偽物図像解読術」([[中央公論社]] 1990年1月)のち文庫 *「花譜博覧」(平凡社 1990年4月) *「黄金伝説 「近代成金たちの夢の跡」探訪記」 (集英社 1990年4月)のち文庫 *「ゑびす殺し」([[徳間書店]] 1990年12月)のち文庫 *『花の王国』1 - 4 平凡社、1990 *『愛情生活白樺記』[[新潮社]] 1990.10 のち集英社文庫「白樺記」 *「開化異国(おつくに)助っ人奮戦記」([[小学館]] 1991年2月)のちライブラリー *「稀書自慢紙の極楽」(中央公論社 1991年9月)のち文庫 *『大東亜科学綺譚』筑摩書房 1991.5 のち文庫 *『解剖の美学』リブロポート 1991.9 *『開かずの間の冒険―日本全国お宝蔵めぐり』須田一政写真 平凡社 1991.11 のちライブラリー *『荒俣宏の図像学入門』マドラ出版 1992.12 のち集英社文庫 *「図像探偵―眼で解く推理博覧会」([[光文社文庫]] 1992年1月) *「データベース夜明け前」(ジャストシステム 1992年10月) *「なつかしのハワイ旅行」([[マガジンハウス]] 1992年12月) *「花空庭園」(平凡社 1992年7月)のちライブラリー *『ブックライフ自由自在』[[太田出版]] 1992.6 のち集英社文庫 *『二色人の夜』角川ホラー文庫、1993 *「ビジネス裏極意」(マガジンハウス 1993年6月)のち集英社文庫 *「文明移動説 フェイク・アース・トラベラー」(集英社 1993年9月) *「地球観光旅行―博物学の世紀」(角川選書 1993年11月)「想像力の地球紀行」文庫 *『ワタシnoイエ』角川ホラー文庫、1993 *『'''荒俣宏コレクション'''』全17冊 集英社文庫、1994 - 1998 *『木精狩り』安井仁写真 [[文藝春秋]] 1994.4 *「図の劇場」(朝日新聞社 1994年7月)のち文庫 *「本読みまぼろし堂目録―店主推奨700冊ブックガイド」(工作舎 1994年7月 ISBN 4-87502-236-0) *「アクアリストの楽園」(角川書店 1994年10月) *『新宿[[チャンスン]]』角川ホラー文庫、1995 *『ホア・ホア 南洋光彩紀行』小西康夫写真 新潮社 1995.1 *「屋根裏の読書虫―今宵の書林の水先案内」([[ダイヤモンド社]] 1995年2月) *「空想文学千一夜―いつか魔法のとけるまで」(工作舎 1995年2月) *「機関(からくり)童子―帝都物語外伝」(角川文庫 1995年6月 ISBN 978-4041690284) *「夢の痕跡―20世紀科学のワンダーランドに遊ぶ」([[講談社]] 1995年11月) *「遠近術―CD-ROMによる荒俣宏の奇想天外な遠近法」([[アスキー (企業)|アスキー]] 1995年12月) *「魔書―アントライオン」(メディアワークス 1996年1月) *「VR冒険記―バーチャル・リアリティは夢か悪夢か」(ジャストシステム 1996年3月) *『幻想皇帝 アレクサンドロス戦記』1 - 3 [[角川春樹事務所]]、1996-97「アレクサンダー戦記」文庫 *「ファッション画の歴史 肌か衣か」(平凡社 1996年12月) *「ヨーロッパ・ホラー紀行ガイド」講談社 1996 「ヨーロッパホラー&ファンタジー・ガイド」+α文庫 *「決戦下のユートピア」[[文藝春秋]] 1996年8月 のち文庫 *『妖しの秘湯案内 アラマタ版』小学館 1996.12 *「TV博物誌」(小学館 1997年1月) *「衛生博覧会を求めて」([[ぶんか社]] 1997年6月)のち角川文庫 *「レックス・ムンディ」(集英社 1997年5月)のち文庫 *『闇吹く夏』角川書店、1997 のちホラー文庫 *「歌伝枕説」[[世界文化社]] 1998年10月)「「歌枕」謎ときの旅―歌われた幻想の地へ」光文社知恵の森文庫 *「20世紀雑誌の黄金時代」(平凡社 1998年10月) *『アラマタ図像館』全6冊 [[小学館文庫]]、1998-99 *「江戸の快楽-下町抒情散歩」(文藝春秋 1999年5月)「江戸の醍醐味」光文社知恵の森文庫 *「花の図譜ワンダーランド」([[八坂書房]] 1999年9月) *「どおまん・せいまん奇談―鳥羽ミステリー紀行」(ゼスト 1999年10月)「絶の島事件」角川ホラー文庫 *「ホラー小説講義」(角川書店 1999年7月) *「Girl Art―ピンナップの女神たち」(集英社 1999年6月) *「万博とストリップ―知られざる二十世紀文化史」([[集英社新書]] 2000年1月 ISBN 978-4087200119) *「風水先生「四門の謎」を解く」(世界文化社 2000年1月 ISBN 978-4418005031) *「アラマタ珍奇館―ヴンダーカマーの快楽」(集英社 2000年4月) *「荒俣宏のデジタル新世界探検」([[日本経済新聞社]] 2000年4月) *「荒俣宏の「イーベイ」お宝コレクション術」(平凡社 2000年8月) *「[[荒俣宏の博物探検史|年表で読む荒俣宏の博物探検史―あの珍種この珍種が発見された探検航海を年表で辿る]]」(平凡社 2000年9月) *「アジアまぼろし画報―『ASIA』で見るニッポン」(平凡社 2000年9月) *「セクシーガールの起原」朝日新聞社 2000年9月) *「奇想の20世紀」([[日本放送出版協会]] 2000年)のちライブラリー *「[[プロレタリア文学]]はものすごい」([[平凡社新書]] 2000年) *「髪の文化史」([[潮出版社]] 2000年) *「夢々―陰陽師鬼談」(角川書店 2000年)のち文庫(改題「陰陽師鬼談 安倍晴明物語」) *「パルプマガジン―娯楽小説の殿堂」(平凡社 2001年) *「[[陰陽師]]ロード―[[安倍晴明]]名所案内」(平凡社 2001年) *「荒俣宏の20世紀世界ミステリー遺産」(集英社 2001年)のち祥伝社黄金文庫 *「読み忘れ[[三国志]]」(小学館 2002年)のち文庫 *「ヨコオ論タダノリ」(平凡社 2002年) *「陰陽師―安倍晴明の末裔たち」(集英社新書 2002年) *「イギリス魔界紀行―ハリーポッターの故郷へ」([[NHK出版]] 2003年)のち角川文庫 *「想像力の地球旅行―荒俣宏の博物学入門」(角川書店 2004年) *「男に生まれて―江戸鰹節商い始末」(朝日新聞社 2004年)のち文庫 *「荒俣宏の不思議歩記」([[毎日新聞社]] 2004年) *『妖怪大戦争』(角川書店 2005年)のち文庫 *『帝都幻談』文藝春秋、2007 のち文庫 *「新帝都物語 維新国生み篇」(角川書店 2007年)のち文庫 *「アラマタ大事典」(講談社 2007年) *「磯魚ワンダー図鑑」(新書館 2007年) * {{Cite book|和書|year=2010|title=[[フリーメイソン]] 「秘密」を抱えた謎の結社|series=角川ONEテーマ21|isbn=978-4-04-710227-9}} *『アラマタ美術誌』新書館、2010 *『0点主義 新しい知的生産の技術57』講談社 2012 *『すごい人のすごい話』イースト・プレス 2013 *『江戸の幽明 東京境界めぐり』2014 (朝日新書) *『喰らう読書術 一番おもしろい本の読み方』ワニブックスPLUS 2014 *『サイエンス異人伝 科学が残した「夢の痕跡」』講談社 (ブルーバックス)2015 *『脳内異界美術誌 幻想と真相のはざま』KADOKAWA([怪BOOKS])2016 *『女流画家ゲアダ・ヴィーイナと「謎のモデル」 アール・デコのうもれた美女画』新書館 2016 *『お化けの愛し方 なぜ人は怪談が好きなのか』2017 (ポプラ新書) *『ハゲの文化史』ポプラ新書 2018 *『アラマタヒロシの妖怪にされちゃったモノ事典』[[秀和システム]] 2019 *『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』角川書店 2021 *『[[妖怪大戦争 ガーディアンズ#ノベライズ|小説妖怪大戦争 ガーディアンズ]]』角川文庫 2021 *妖怪は海にいる! ? アラマタ式 海の博物教室 偕成社(みんなの研究) 2022 }} ===共著=== *「大衆小説の世界―幻想怪奇・探偵・SF」([[九芸出版]] 1978年5月) *:[[石上三登志]]・[[小隅黎]]・[[谷口高夫]]との共著 *「世界の恐怖怪談」([[学研ホールディングス|学習研究社]] 1977年5月) *:[[武内孝夫]]との共著。 *「月と幻想科学」([[工作舎]] 1979年10月) *:[[松岡正剛]]との共談。 *「平安鬼道絵巻―ヒーローファンタジー 九つの鬼絵草紙」([[東京三世社]] 1986年2月 ISBN 978-4885704956) *:[[中山星香]]との共著。 *「虫魚の交わり」([[平凡社]] 1986年11月 ISBN 978-4582745030) *:[[奥本大三郎]]との共著。 *「東京路上博物誌」([[鹿島出版会]] 1987年7月 ISBN 978-4306093034) *:[[藤森照信]]との共著。 *「神秘学カタログ」([[河出書房新社]] 1987年9月 ISBN 978-4309717524) *:[[鎌田東二]]との共編。 *「歌舞伎キャラクター事典」([[新書館]] 1987年2月 ISBN 978-4403220302) *:イラスト[[いまいかおる]]。 *「妖怪草紙―あやしきものたちの消息」([[工作舎]] 1987年11月 ISBN 978-4875021391) *:[[小松和彦]]との共著。 *「風力の学派―門坂流作品集」([[ぎょうせい]] 1988年5月 ISBN 978-4324012178) *:[[門坂流]]、[[池澤夏樹]]、[[伊藤俊治]]と共著。 *「黄金伝説―「近代成金たちの夢の跡」探訪記」([[集英社]] 1990年4月 ISBN 978-4087727319) *:写真[[高橋昇]]。 *「日本トイレ博物誌」([[INAX]] 1990年4月 ISBN 978-4809910012) *:[[阿木香]]、[[遠州敦子]]、[[林丈二]]、[[本間都]]、[[谷直樹]]、[[舟杉真理子]]、[[伊奈英次]]との共著。 *「繁昌図案(エコノグラフィー)―北原照久コレクション」([[マガジンハウス]] 1991年3月 ISBN 978-4838702084) *:[[北原照久]]との共著。 *「[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]の天使―はじめに落下ありき」([[マガジンハウス]] 1991年4月 ISBN 978-4886790491) *:[[金子務]]との共著。 *「開かずの間の冒険」([[平凡社]] 1991年10月 ISBN 4582828523) *:写真[[須田一政]]。 *「[[南方熊楠]]の図譜」([[青弓社]] 1991年12月 ISBN 978-4787290588) *:荒俣宏、[[環栄賢]]編。[[赤坂憲雄]]、[[萩原博光]]、[[環栄賢]]、[[鎌田東二]]、[[後藤正人]]、[[松枝到]]、[[村岡空]]、[[神坂次郎]]との共著。 *「神秘学オデッセイ―精神史の解読」([[平河出版社]] 1991年12月 ISBN 978-4892030550) *:[[高橋巖 (美学者)|高橋巖]]との共著。 *「異彩天才伝―東西奇人尽し」([[福武書店]] 1991年12月 ISBN 978-4828832302) *:荒俣宏選。[[日本ペンクラブ]]編。 *「ダークマドンナ」([[みき書房]] 1994年11月 ISBN 978-4073020431) *:[[柴田文明]]との共著。 *「想像力博物館」([[作品社]] 1993年1月 ISBN 978-4878931727) *:[[鈴木一誌]]、[[春井裕]]との共著。 *「コンピューターの宇宙誌―きらめく知的探求者たち」([[ジャストシステム]] 1992年11月 ISBN 978-4883090273) *:[[紀田順一郎]]との共著。 *「日本の秘地・魔界と聖域」([[ベストセラーズ]] 1992年11月 ISBN 978-4584303559) *:[[小松和彦]]との共著。 *「マルチメディア―未知なるメディアへの挑戦」([[ジャストシステム]] 1993年11月 ISBN 978-4883090440) *:[[紀田順一郎]]、[[西垣通]]との共著。 *「[[福助]]さん」([[筑摩書房]] 1993年11月 ISBN 978-4480872340) *:[[林丈二]]との共著。 *「あなたの知らない戦慄の超能力―あなたを襲う超自然現象の恐怖と怪奇!」([[日本文芸社]] 1994年5月 ISBN 978-4537063127) *:[[金森誠也]]との共著。 *「荒俣宏の少年マガジン大博覧会」([[講談社]] 1994年5月 ISBN 978-4062067027) *:[[高山宏]]との共著。 *「楽園考古学」([[マガジンハウス]] 1994年5月 ISBN 978-4582512274) *:[[篠遠喜彦]]との共著。 *「[[ガラパゴス諸島|ガラパゴス]]の海へ―ダーウィンも見なかった世界 中村庸夫写真集」([[講談社]] 1994年6月 ISBN 978-4062070669) *:荒俣宏文。写真[[中村庸夫]]。 *「燐寸図案―北原照久コレクション」([[マガジンハウス]] 1994年8月 ISBN 978-4838705214) *:[[北原照久]]との共著。 *「ホア・ホア―南洋光彩紀行」([[新潮社]] 1995年1月 ISBN 978-4103778028) *:[[小西康夫]]との共著。 *「図説 人体博物館」([[筑摩書房]] 1995年10月 ISBN 978-4480860415) *:[[養老孟司]]、[[坂井建雄]]、[[吉田 穣]]との共著。 *「南方熊楠―奇想天外の巨人」([[平凡社]] 1995年10月 ISBN 978-4582633047) *:[[田中優子]]、[[中沢新一]]、[[中瀬喜陽]]との共著。 *「ドラゴン殺し」([[メディアワークス]] 1996年1月 ISBN 978-4073041771) *:[[中村うさぎ]]、[[鳥海永行]]、[[山本弘 (作家)|山本弘]]、[[小沢章友]]著。 *「滝狂―横尾忠則Collection中毒」([[新潮社]] 1996年3月 ISBN 978-4104110018) *:[[横尾忠則]]との共著。 *「マタさんクラさん―世紀末でたとこ膝栗毛」([[講談社]] 1996年5月 ISBN 978-4062066440) *:[[倉本四郎]]との共著。 *「アラマタ版 妖しの秘湯案内」([[小学館]] 1996年11月 ISBN 978-4093663816) *:写真[[安井仁]]。 *「開運!招福縁起物大図鑑―ラッキーゴッドたち 福を招く神々」([[ワールドマガジン社]] 1997年1月 ISBN 978-4882968047) *:荒俣宏監修。[[日本招福縁起物研究会]]編。 *「デジタル・イメージ」([[フォトプラネット]] 1997年2月 ISBN 978-4309901589) *:[[小檜山賢二]]、[[中川政昭]]、[[金村修]]、[[瀬戸正人]]との共著。[[フォトプラネット]]編。 *「文化退国、日本。」([[ジャストシステム]] 1997年3月 ISBN 978-4883094394) *:[[紀田順一郎]]、[[柏木博]]との共著。 *「鬼から聞いた遷都の秘訣―地震・風水・ネットワーク」([[工作舎]] 1997年5月 ISBN 978-4875022817) *:[[小松和彦]]との共著。 *「チョウチョウウオの地球」([[エムピージェー]] 1997年6月 ISBN 978-4895122238) *:[[中村庸夫]]との共著。 *「ゴシック幻想」([[書苑新社]] 1997年8月 ISBN 978-4915125911) *:[[深田甫]]、[[麻原雄]]、[[秋山和夫 (フランス文学者)|秋山和夫]]との共著。[[紀田順一郎]]編。 *「招猫画報―吉祥招福」([[エージー出版]] 1997年12月 ISBN 978-4900874152) *:荒俣宏監修。[[板東寛司]]、[[左古文男]]、[[荒川千尋]]著。[[日本招猫倶楽部]]編。 *「形を遊ぶ」([[工作舎]] 1998年1月 ISBN 978-4875022909) *:[[杉浦康平]]、[[小長谷一之]]、[[あだちがびん]]、[[鈴木邦雄]]著。[[形の文化会『形の文化誌』編委員会]]編。 *「七人の安倍晴明」([[桜桃書房]] 1998年7月 ISBN 978-4756705471) *:[[高橋克彦]]、[[内藤正敏]]、[[岡野玲子]]、[[夢枕獏]]、[[加門七海]]、[[田辺聖子]]、[[小松和彦]]との共著。 *「これは凄い東京大学コレクション」([[新潮社]] 1998年8月 ISBN 978-4106020728) *:[[黒田日出男]]、[[養老孟司]]、[[西野嘉章]]との著。 *「小説[[始皇帝暗殺]]」([[角川書店]] 1998年8月 ISBN 978-4047912953) *:[[陳凱歌]]、[[王培公]]原作。 *「死の本」([[光琳社出版]] 1998年12月 ISBN 978-4771302976) *:[[京極夏彦]]、[[石堂藍]]、[[小阪修平]]、[[宮元啓一]]、[[田沼靖一]]との共著。[[小池寿子]]図像監修。 *「江戸の快楽―下町抒情散歩」([[文藝春秋]] 1999年5月 ISBN 978-4163552101) *:[[安井仁]]との著。 *「伝説探訪 東京妖怪地図」([[祥伝社]] 1999年7月 ISBN 978-4396311254) *:荒俣宏監修。[[田中聡(ライター)|田中聡]]著。 *「もういちど考えたい母の生きかた・父の生きかた」([[ポプラ社]] 1999年10月 ISBN 978-4591061985) *:[[生島ヒロシ]]、[[大林宣彦]]、[[鎌田慧]]、[[小林亜星]]、[[田辺聖子]]ほかとの著。 *「楽園考古学―[[ポリネシア]]を掘る」([[平凡社]] 2000年1月 ISBN 978-4582763164) *:[[篠遠喜彦]]との著。 *「獅子―王権と魔除けのシンボル」([[集英社]] 2000年12月 ISBN 978-4081990061) *:写真[[大村次郷]]。 *「よみがえるカリスマ平田篤胤」([[論創社]] 2000年12月 ISBN 978-4846001810) *:[[米田勝安]]との共著。 *「陰陽師伝奇大全」([[白泉社]] 2001年1月 ISBN 978-4592760917) *:[[東雅夫]]、[[岡野玲子]]、[[浅井了意]]、[[池田雅之]]、[[小沢章友]]との共著。 *「王様の勉強法」([[メディアワークス]] 2001年3月 ISBN 978-4840218122) *:[[中谷彰宏]]との著。 *「人生の錬金術」([[メディアワークス]] 2001年6月 ISBN 978-4840218313) *:中谷彰宏との著。 *「陰陽夜話」([[朝日新聞社]] 2001年9月 ISBN 978-4022576811) *:[[夢枕獏]]、[[岡野玲子]]、[[旭堂小南陵]]、[[河合隼雄]]、[[小松和彦]]との共著。 *「夢々陰陽師鬼談」([[角川書店]] 2001年12月 ISBN 978-4048534451) *:コミック[[九後奈緒子]]著。 *「水木しげる80の秘密」([[角川書店]] 2002年8月 ISBN 978-4048837637) *:[[水木しげる]]、[[多田克己]]、[[村上健司]]、[[佐野史郎]]、[[南伸坊]]、[[南條竹則]]、[[呉智英]]、[[武良布枝]]、[[京極夏彦]]、[[大泉実成]]との共著。 *「安倍晴明公」([[講談社]] 2002年9月 ISBN 978-4062109833) *:[[千宗守]]、[[京極夏彦]]、[[山口喜堂]]、[[岡野玲子]]との著。[[晴明神社]]監修。 *「江戸東京をつくった偉人鉄人」([[平凡社]] 2002年11月 ISBN 978-4582831238) *:[[榎本了壱]]との共編。 *「南海文明グランドクルーズ―南太平洋は古代史の謎を秘める」([[平凡社]] 2003年3月 ISBN 978-4582512298) *:[[篠遠喜彦]]との著。 *「磯採集ガイドブック―死滅回遊魚を求めて」([[阪急コミュニケーションズ]] 2004年8月 ISBN 978-4484044019) *:[[荒俣幸男]]、[[さとう俊]]との著。 *「きっずジャポニカ」([[小学館]] 2006年6月 ISBN 978-4092195110) *:[[江崎玲於奈]]、[[隂山英男]]との共著。 *「電球1個のエコロジー―環境単位=2000kcalで何でも測ってみよう」([[中央法規出版]] 2006年7月 ISBN 978-4805846759) *:荒俣宏監修。[[ガイアプレスプロジェクト]]著。 *「磯あそびハイパーガイドブック―海とあそぶ、自然がわかる、地球に生きる」([[小学館]] 2006年7月 ISBN 978-4093876629) *:[[さとう俊]]との共著。 *「ヨーロッパ・レンタカー旅行完全ガイド イタリア編」(角川書店 2009年5月) *:荒俣泰子との共著。 *『荒俣宏・高橋克彦の岩手ふしぎ旅』高橋克彦共編著 実業之日本社 2010 *「戦争と読書 : 水木しげる出征前手記」KADOKAWA 2015 (角川新書) *:水木しげるとの共著 *『荒俣宏妖怪探偵団ニッポン見聞録 東北編』学研プラス 2017 *:[[荻野慎諧]], [[峰守ひろかず]]との共著 ===翻訳=== *「征服王コナン : 英雄コナン・シリーズ」団精二名義訳 早川書房 1970 (ハヤカワSF文庫) *:[[ロバート・E・ハワード]]著 *「冒険者コナン」団精二名義訳 早川書房 1971 (ハヤカワSF文庫) *:[[ロバート・E・ハワード]]著 *「黄金郷の蛇母神」団精二 訳 早川書房 1971 (ハヤカワSF文庫) *:[[A.メリット]]著, *「不死鳥コナン」団精二 訳 早川書房 1971 (ハヤカワSF文庫) *:[[ロバート・E・ハワード]]著, *「復讐鬼コナン : 英雄コナン・シリーズ別巻1」団精二 訳 早川書房 1971 (ハヤカワSF文庫) *:[[ディ・キャンプ]]&[[ニューベリイ]]著, *「恐るべき魔女」団精二 訳,金森達 絵 朝日ソノラマ 1972 (少年少女世界恐怖小説 ; 3) *:[[A.メリット]]原作, *「大帝王コナン」団精二, 鏡明 訳 早川書房 1972 (ハヤカワSF文庫) *:[[ロバート・E.ハワード]]著, *ダンセイニ幻想小説集 荒俣宏 訳編 創土社 1972 (ブックスメタモルファス) *:ダンセイニ 著, *「冒険王コナン」団精二 訳,南村喬之 絵 朝日ソノラマ 1974 (少年少女冒険小説 ; 8) *:[[ロバート・E.ハワード]]原作, *「大宇宙の守護者」,団精二 訳 早川書房 1975 (ハヤカワ文庫) *:[[クリフォード・D・シマック]]著 *ラヴクラフト小説全集 1 (短篇 1) 荒俣宏 訳 創土社 1975 (ブックスメタモルファス) *:ラヴクラフト著 *[[ペガーナの神々]] 荒俣宏 訳 創土社 1975 *:ロード・ダンセイニ 著, *「[[クトゥルフ神話|ク・リトル・リトル神話]]集」([[国書刊行会]] 1976年11月 ISBN 978-4336025807) *:[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|H・P・ラヴクラフト]]ほか著。 *リリス 荒俣宏 訳 月刊ペン社 1976 (妖精文庫) *:[[ジョージ・マクドナルド]] 著, *「[[J・R・R・トールキン|トールキン]]の世界」([[晶文社]] 1977年1月 ISBN 978-4794958730) *:[[リン・カーター]]著。 *「ロイガーの復活」団精二 訳 ([[早川書房]] 1977年5月 ISBN 978-4150401405)(ハヤカワ文庫. NV) *:[[コリン・ウィルソン]]著, *ジャンビー 荒俣宏 訳 国書刊行会 1977 (ドラキュラ叢書 ; 第9巻) *: H.S.ホワイトヘッド 著, *「時のはざま」,団精二 訳 早川書房 1977 (ハヤカワ文庫. SF) *:[[ドナルド・A・ウォルハイム]], [[テリー・カー]] 編 *「ペガーナの神々」([[早川書房]] 1979年3月 ISBN 978-4150200053) *:[[ロード・ダンセイニ]]著。 *「五つの壷」([[早川書房]] 1979年6月 ISBN 978-4150200077) *:[[M・R・ジェイムズ]]著。[[紀田順一郎]]との共訳。 *「犯罪オンライン」([[早川書房]] 1981年6月 ISBN 978-4152074768) *:[[ジョン・マクニール]]著。 *「イシュタルの船」([[早川書房]] 1982年4月 ISBN 978-4150200398) *:[[エイブラハム・メリット|A・メリット]]著。 *「魔法の国の旅人」([[早川書房]] 1982年12月 ISBN 978-4150200473) *:[[ロード・ダンセイニ]]著。 *「マッド・サイエンティスト」([[東京創元社]] 1982年4月 ISBN 978-4488672010) *:[[スチュアート・デイヴィッド・シフ]]編。 *「地霊―聖なる大地との対話―イメージの博物誌 14」([[平凡社]] 1982年1月 ISBN 978-4582284140) *:[[ジョン・ミシェル]]著。 *「ボアズ・ヤキンのライオン」([[早川書房]] 1984年11月 ISBN 978-4150200695) *:[[ラッセル・ホーバン]]著。 *「フローラの神殿」([[リブロポート]] 1985年4月 ISBN 978-4845701599) *:[[ロバート・ジョン・ソーントン|R・J・ソーントン]]著。 *「フローラの神殿」([[早川書房]] 1985年4月 ISBN 978-4845701599) *:R・J・ソーントン著。 *:新装版([[早川書房]] 1990年5月 ISBN 978-4845704736)。 *「黄金の鳥」([[リブロポート]] 1986年2月 ISBN 978-4845702138) *:[[ジャン・バプティスト・オードベール|J・B・オードベル]]、[[ルイ・ジャン・ピエール・ヴィエイヨー|L・J・P・ヴィエイヨー]]著。 *「リリス」([[筑摩書房]] 1986年10月 ISBN 978-4480020918) *:[[ジョージ・マクドナルド]]著。 *「鉄の夢」([[早川書房]] 1986年12月 ISBN 978-4150106980) *:[[ノーマン・スピンラッド]]著。 *「妖精族のむすめ」([[筑摩書房]] 1987年7月 ISBN 978-4480021519) *:[[ロード・ダンセイニ]]著。 *「妖精詩集」([[筑摩書房]] 1988年6月 ISBN 978-4480022318) *:[[ウォルター・デ・ラ・メア|W・デ・ラ・メア]]著。 *「異時間の色彩」([[どうぶつ社]] 1990年2月 ISBN 978-4150201357) *:[[マイクル・シェイ]]著。[[栗原知代]]との共訳。 *「ジョン・グールド鳥人伝説」([[どうぶつ社]] 1990年2月 ISBN 978-4886222534) *:[[モゥリーン・ランボルン]]著。 *「ケルト民話集」([[筑摩書房]] 1991年9月 ISBN 978-4480025647) *:[[フィオナ・マクラウド]]著。 *「黒魔術の帝国―第二次世界大戦はオカルト戦争だった」([[徳間書店]] 1992年7月 ISBN 978-4193549027) *:[[マイケル・フィッツジェラルド]]著。 *「ラヴクラフト―恐怖の宇宙史」([[角川書店]] 1993年7月 ISBN 978-4041690192) *:荒俣宏編。[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|H・P・ラヴクラフト]]、[[コリン・ウィルソン]]著。 *「ゴードン・スミスのニッポン仰天日記」([[小学館]] 1993年5月 ISBN 978-4093870481) *:[[リチャード・ゴードン・スミス]]著。[[大橋悦子]]との共訳。 *「魔法使いの弟子」([[筑摩書房]] 1994年5月 ISBN 978-4480028662) *:[[ロード・ダンセイニ]]著。 *「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」([[小学館]] 1995年3月 ISBN 978-4093871167) *:[[ウィリアム・N・アームストロング]]著。[[樋口あやこ]]との共訳。 *「タオの言葉」([[紀伊國屋書店]] 1996年8月 ISBN 978-4314007344) *:[[マルク・ドゥ・スメト]]著。 *「聖なる大地」([[創元社]] 1996年12月 ISBN 978-4422215020) *:荒俣宏監修。[[ブライアン・リー・モリノー]]著。[[月村澄枝]]訳。 *「古代エジプトの言葉」([[紀伊國屋書店]] 1996年11月 ISBN 978-4314007412) *:[[フランソワ=グザヴィエ・エリー]]著。 *「必携風水学」([[角川書店]] 1997年2月 ISBN 978-4042751014) *:[[デレク・ウォルターズ]]著。 *「図説オカルト全書」([[原書房]] 1997年11月 ISBN 978-4562030279) *:[[オーエン・S・ラクレフ]]著。[[藤田美砂子]]との共訳。 *「隠された聖地―マグダラのマリアの生地を巡る謎を解く」([[河出書房新社]] 1997年12月 ISBN 978-4309202679) *:[[ヘンリー・リンカーン]]著。[[平石律子]]との共訳。 *「シリウス・コネクション―人類文明の隠された起源」([[徳間書店]] 1998年3月 ISBN 978-4198608248) *:[[マリー・ホープ]]著。 *「本の歴史」([[創元社]] 1998年12月 ISBN 978-4422211404) *:[[ブリュノ・ブラセル]]著。[[木村恵一]]との共訳。 *「ゴードン・スミスの日本怪談集」([[角川書店]] 2001年8月 ISBN 978-4047913752) *:[[リチャード・ゴードン・スミス]]著。 *「ロード・オブ・ザ・リング―『[[指輪物語]]』完全読本」([[角川書店]] 2002年2月 ISBN 978-4047914070) *:[[リン・カーター]]著。 *「ナイトランド」([[原書房]] 2002年5月 ISBN 978-4562035106) *:[[ウィリアム・ホープ・ホジスン]]著。 *「JOBUTSU PROJECT:Listen in clear light from Tibetan book of the dead」([[長崎出版]] 2002年11月 ISBN 978-4860950019) *:[[フユェン]]著。写真[[高田淳生]]。 *「ホワイトプルームマウンテン」([[アスキー (企業)|アスキー]] 2006年7月 ISBN 978-4756147820) *:[[ポール・キッド]]著。 *『[[シャルル・ペロー|ペロー]]童話集』ハリー・クラーク 絵 新書館 2010 *[[ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ]]作 ハリー・クラーク絵『ファウスト』新書館 2011 *『[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]童話集』文春文庫、2012 *[[チャールズ・ダーウィン|チャールズ・R・ダーウィン]]『新訳[[ビーグル号航海記]]』平凡社 2013 *『イマジン』荒俣宏 訳 講談社 2013 (講談社の翻訳絵本) *:ノーマン・メッセンジャー 作, *『異次元を覗く家』アトリエサード (ナイトランド叢書) 2015 *:[[ウィリアム・ホープ・ホジスン]] 著, *『魔術師の帝国 1』[[安田均]] 編,安田均, 鏡明共訳 アトリエサード (ナイトランド叢書 2017 *:[[クラーク・アシュトン・スミス]] 著, *フロールチェ・ズウィヒトマン 文, ルトウィヒ・フォルベーダ 絵『世界幻妖図鑑 ドラゴンから妖怪〈YOKAI〉まで』日本語版監修. フレーベル館, 2020 ===著書集=== *「地球暗黒記」([[角川書店]]) *:1:ナナ・ヌウ(1988年7月 ISBN 978-4041690130) *:2:パリウリ(1988年12月 ISBN 978-4041690154) *:3:アルカ・ノアエ(1989年4月 ISBN 978-4041690161) *「ジンクス」([[角川書店]]) *:恋愛・結婚篇(1988年5月 ISBN 978-4041690123) *:ギャンブル篇(1988年10月 ISBN 978-4041690147) *「花の王国」([[平凡社]]) *:1:園芸植物(1990年1月 ISBN 978-4582543117) *:2:薬用植物(1989年5月 ISBN 978-4582543124) *:3:有用植物(1990年7月 ISBN 978-4582543131) *:4:珍奇植物(1990年11月 ISBN 978-4582543148) *「海覇王」([[角川書店]]) *:上:海の巻(1989年3月 ISBN 978-4048725613) *:中:覇の巻(1989年9月 ISBN 978-4048725620) *:下:王の巻(1993年10月 ISBN 978-4048725637) *「世界大博物図鑑」([[平凡社]]) *:第1巻:虫類(1990年7月 ISBN 978-4582518214) *:第2巻:魚類(1989年5月 ISBN 9784582518221)→1989年サントリー学芸賞受賞。[http://www.suntory.co.jp/sfnd/gakugei/sha_fu0023.html 関連サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} *:第3巻:生・爬虫類(1990年7月 ISBN 978-4582518238) *:第4巻:鳥類(1987年5月 ISBN 978-4582518245) *:第5巻:哺乳類 (1988年4月 ISBN 9784582518252) *:別巻1:絶滅・希少鳥類(1993年5月 ISBN 978-4582518269) *:別巻2:水生無脊椎動物(1993年6月 ISBN 978-4582518276) *「帝都物語」([[角川書店]]) *:1:神霊篇(1985年1月 ISBN 978-4047778016) *:2:魔都篇(1985年4月 ISBN 978-4047778023) *:3:大震災篇(1986年1月 ISBN 978-4047778030) *:4:龍動篇(1986年2月 ISBN 978-4047778047) *:5:魔王篇(1986年3月 ISBN 978-4047778054) *:6:不死鳥篇(1986年7月 ISBN 978-4047778061) *:7:百鬼夜行篇(1986年10月 ISBN 978-4047778078) *:8:未来宮篇(1987年2月 ISBN 978-4047778085) *:9:喪神篇(1987年5月 ISBN 978-4047778092) *:10:復活篇(1987年7月 ISBN 978-4047778108) *:11:戦争篇(1989年1月 ISBN 978-4041690116) *:12:大東亜篇(1989年7月 ISBN 978-4041690178) *:漫画[[藤原カムイ]]([[角川書店]] 1999年12月 ISBN 978-4047132870)。 *「ブックス・ビューティフル―絵のある本の歴史」([[筑摩書房]]) *:単行本([[平凡社]] 1987年3月 ISBN 978-4582253023) *:文庫:1(1995年12月 ISBN 978-4480030962) *:文庫:2(1995年12月 ISBN 978-4480030979) *「荒俣宏コレクション」([[集英社]]) *:黄金伝説(1994年5月 ISBN 978-4087481716) *:怪物の友―モンスター博物館(1994年4月 ISBN 978-4087481587) *:風水先生―地相占術の驚異(1994年4月 ISBN 978-4087481594) *:図鑑の博物誌―増補版(1994年6月 ISBN 978-4087481792) *:神秘学マニア(1994年7月 ISBN 978-4087481921) *:南方に死す(1994年8月 ISBN 978-4087482058) *:短編小説集(1994年11月 ISBN 978-4087482485) *:日本仰天起源(1994年9月 ISBN 978-4087482195) *:漫画と人生(1994年10月 ISBN 978-4087482379) *:本朝幻想文学縁起―コンパクト版(1994年12月 ISBN 978-4087482638) *「荒俣宏コレクションII」([[集英社]]) *:バッドテイスト―悪趣味の復権のために(1998年12月 ISBN 978-4087486612) *:風水先生レイラインを行く―神聖地相学世界編(1997年2月 ISBN 978-4087486568) *:本の愛し方人生の癒し方 ブックライフ自由自在(1997年10月 ISBN 978-4087486575) *:愛情生活 虚構の告白―白樺記(1997年11月 ISBN 978-4087486551) *:エキセントリック―奇人は世界を征す(1998年5月 ISBN 978-4087486629) *:エロトポリス―性愛人類史観(1998年2月 ISBN 978-4087486599) *:神の物々交換―文明の大陸移動説(1998年3月 ISBN 978-4087486582) *:図像学入門―目玉の思想と美学(1998年4月 ISBN 978-4087486605) *:新日本妖怪巡礼団―怪奇の国ニッポン(1997年8月 ISBN 978-4087486537) *:商神の教え―ビジネス裏極意(1997年9月 ISBN 978-4087486544) *「アレクサンダー戦記」([[角川春樹事務所]]) *:1:魔王誕生(1998年11月 ISBN 978-4894564541) *:2:覇王狂乱(1999年11月 ISBN 978-4894565746) *:3:神王転生(1999年11月 ISBN 978-4894565869) *:コミック[[田中正仁]]([[メディアファクトリー]] 2000年9月 ISBN 978-4889917598)。 *「アラマタ図像館」([[小学館]]) *:1:怪物(1999年5月 ISBN 978-4094031119) *:2:解剖(1999年6月 ISBN 978-4094031126) *:3:海底(1999年7月 ISBN 978-4094031133) *:4:庭園(1999年9月 ISBN 978-4094031140) *:5:エジプト(1999年10月 ISBN 978-4094031157) *:6:花蝶(1999年11月 ISBN 978-4094031164) *「幻想皇帝―アレクサンドロス戦記」([[角川春樹事務所]]) *:1(1996年11月 ISBN 978-4894560628) *:2(1997年3月 ISBN 978-4894560635) *:3(1997年11月 ISBN 978-4894560642) *「シム・フースイ」([[角川書店]]) *:Version1.0:ワタシnoイエ(1993年4月 ISBN 978-4041690185) *:Version2.0:二色人(ニイルピト)の夜(1993年12月 ISBN 978-4041690222) *:Version3.0:新宿チャンスン(1995年8月 ISBN 978-4041690239) *:Version4.0:闇吹く夏(1999年4月 ISBN 978-4041690338) *:Version5.0:絶の島事件(2001年9月 ISBN 978-4041690352) *「二十世紀イリュストレ大全―少女まんがのルーツをもとめて」([[長崎出版]]) *:1:ロマンティックドリーム(2004年4月 ISBN 978-4860950316) *:2:アメージングファンタジー(2004年7月 ISBN 978-4860950323) *:3:セクシービューティーズ(2004年11月 ISBN 978-4860950330) ===翻訳集=== *「アンデルセン童話集」([[新書館]] 2005年7月 ISBN 978-4403270031) *:[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン]]著。 *:新装版:1:雪の女王(1983年10月 ISBN 978-4403031014) *:新装版:2:人魚姫(1983年12月 ISBN 978-4403031021) *:新装版:3:空飛ぶトランク(1984年1月 ISBN 978-4403031038) *「ラヴクラフト小説全集」([[創土社]]) *:[[ハワード・フィリップス・ラヴクラフト|H・P・ラヴクラフト]]著。 *:1(1975年) *:4(1978年) *「ダーウィン先生地球航海記」([[平凡社]]) *:[[チャールズ・ダーウィン]]著。 *:1:絶滅動物の墓場をほるの巻(1995年6月 ISBN 978-4582541311) *:2:落ちかけた大岩に肝を冷やすの巻(1995年10月 ISBN 978-4582541328) *:3:地球最悪の岬をぬけるの巻(1995年11月 ISBN 978-4582541335) *:4:ゾウガメにふりおとされるの巻(1996年1月 ISBN 978-4582541342) *:5:しずむ南海島のなぞをとくの巻(1996年2月 ISBN 978-4582541359) *「シャドウデイル・サーガ」([[富士見書房]]) *:[[リチャード・オーリンソン]]著。[[樋口竹美]]との共訳。 *:1:神界への階段(1991年6月 ISBN 978-4829141298) *:2:不死鳥の神殿(1991年8月 ISBN 978-4829141304) *:3:天翔ける妖馬(1991年12月 ISBN 978-4829141311) *:4:死霊を吸う魔像(1992年5月 ISBN 978-4829141328) *:5:意志をもつ邪剣(1992年12月 ISBN 978-4829141335) *:6:神々の帰還(1993年3月 ISBN 978-4829141342) *「ムーンシェイ・サーガ」([[富士見書房]]) *:[[ダグラス・ナイルズ]]著。 *:1:魔獣よみがえる(1989年1月 ISBN 978-4829141168) *:2:竪琴と一角獣(1989年4月 ISBN 978-4829141175) *:3:七人の黒魔術師(1989年7月 ISBN 978-4829141182) *:4:死せる王妃の預言(1989年10月 ISBN 978-4829141199) *:5:猫の爪・豹の牙(1990年4月 ISBN 978-4829141212) *:6:暗黒の解放(1990年7月 ISBN 978-4829141205) ===編集=== *「世界幻想文学大系」([[国書刊行会]])[[紀田順一郎]]との責任編集 1975 - 1986 *怪奇幻想の文学 全7巻([[新人物往来社]]) **1巻から4巻までは[[平井呈一]]、[[中島河太郎]]、[[紀田順一郎]]が、5巻から7巻は[[紀田順一郎]]と荒俣が共同編集。 *「美花選」([[学研ホールディングス|学研]]) *:[[ピエール・ジョゼフ・ルドゥーテ]]著。 *:春(1986年5月 ISBN 978-4051506117) *:夏・秋(1986年7月 ISBN 978-4051506124) *「東洋文庫ふしぎの国」([[平凡社]]) *:1:妖怪・怪物(1989年7月 ISBN 978-4582837018) *:3:諸国国尽し(1989年5月 ISBN 978-4582837032) *:12:事物珍起源(1989年10月 ISBN 978-4582837124)。 *「WONDER BOOKS」([[みき書房]]) *:1.恋するアールヌーヴォー(1994年9月 ISBN 978-4895212731) *:2.不思議のアールデコ(1994年8月 ISBN 978-4895212724) *:3.おとぎの遊園地(1995年1月 ISBN 978-4895212793) *:4.天使のワードローブ(1995年3月 ISBN 978-4895212816) *:5.虹色草紙(1994年11月 ISBN 978-4895212779) *「Fantastic Dozen」([[リブロポート]]) *:[[ヨハン・ヤーコプ・ショイヒツァー|J・J・ショイヒツァー]]著。 *:1:水中の驚異(1990年10月 ISBN 978-4845705375) *:2:神聖自然学(1990年10月 ISBN 978-4845705382) *:3:エジプト大遺跡(1990年12月 ISBN 978-4845705399) *:4:民族博覧会(1990年12月 ISBN 978-4845705405) *:5:地球の驚異(1991年2月 ISBN 978-4845705412) *:6:悪夢の猿たち(1991年3月 ISBN 978-4845705429) *:7:熱帯幻想(1991年6月 ISBN 978-4845705436) *:8:昆虫の劇場(1991年10月 ISBN 978-4845705443) *:9:極楽の魚たち(1991年5月 ISBN 978-4845705450) *:10:バロック科学の驚異(1991年7月 ISBN 978-4845705467) *:11:解剖の美学(1991年9月 ISBN 978-4845705474) *:12:怪物誌(1991年4月 ISBN 978-4845705481) *「世界神秘学事典」([[平河出版社]] 1981年11月) *「アメリカ怪談集」([[河出書房新社]] 1989年5月 ISBN 978-4309460604) *:[[デヴィッド・ヘンリー・ケラー|D・H・ケラー]]ほか著。 *「新編魔法のお店」([[筑摩書房]] 1989年9月 ISBN 978-4480023469) *「かぎりなく死に近い生―命の思想、死の思想」([[角川書店]] 1994年7月 ISBN 978-4048410113) *:[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]、[[R・A・ラファティ]]、[[稲垣足穂]]、[[ハーバート・ジョージ・ウェルズ|H・G・ウェルズ]]、[[ウォルター・デ・ラ・メア]]、[[ハーヴィ・ジェイコブズ]]、[[ヤン・ヴァイス]]ほか著。 *「知識人99人の死に方―もうひとつの戦後史」([[角川書店]] 1994年12月 ISBN 978-4048410120) *:[[関川夏央]]、[[神保龍太]]、[[末藤浩一郎]]、[[猪瀬直樹]]、[[都築響一]]、[[武田徹]]、[[大曲正幸]]ほか著。 *「20世紀の妖怪の正体―共産主義とは何なのか」([[角川書店]] 1995年2月 ISBN 978-4048410137) *「平田篤胤 知のネットワークの先覚者」([[平凡社]] 2004年4月 ISBN 978-4582944686) *:[[米田勝安]]との共編。[[別冊太陽]]の[[ムック (出版)|ムック]]。 *「怪奇文学大山脈 = Das größte Gebirge der Gespenstergeschichten」 全3巻 東京創元社 2014 *「日本まんが」全3巻 東海大学出版部 2015 *[[平井呈一]] 生涯とその作品 紀田順一郎監修、荒俣宏 (編さん) 松籟社 2021 *新編 怪奇幻想の文学 全4巻 紀田順一郎・荒俣宏 (監修), 牧原勝志『幻想と怪奇』編集室 (編集) 新紀元社 2022 - 2023 ===雑誌=== *[[紀田順一郎]]と共同編集『[[幻想と怪奇]]』[[三崎書房]] 1973年 - 1974年(12号) *『文學季刊 牧神』創刊号(特集 ゴシック・ロマンス 暗黒小説の系譜)(1975年、寄稿) *責任編集『[[ボーダーランド (日本の雑誌)|ボーダーランド]]』[[角川春樹事務所]] 1996年6月号 - 1997年9月号 ===その他=== *『[[ダ・ヴィンチ・コード]]』([[角川書店]]) *:荒俣宏解説。[[ダン・ブラウン]]著。[[越前敏弥]]訳。 *:上(2004年5月 ISBN 978-4047914742) *:下(2004年5月 ISBN 978-4047914759) * 「SFを読むことが冒険だった頃」 - 『未来力養成教室』([[日本SF作家クラブ]]/編、[[岩波ジュニア新書]]、2013年7月 ISBN 978-4-00-500750-9) * 『喰らう読書術 一番おもしろい本の読み方』([[ワニブックス]]PLUS新書、2014年6月 ISBN 978-4-8470-6550-7) == 主なその他の活躍 == ===映画=== *[[帝都物語]](配給 [[東宝]] 1988年1月) 原作。監督[[実相寺昭雄]]。 *[[帝都大戦]](配給 [[東宝]] 1989年9月) 原作。総監督[[藍乃才]]、監督[[一瀬隆重]]。 *[[真夏の地球]](配給 [[松竹富士]] 1991年6月)<ref>{{Movie Walker|mv26538|真夏の地球}}</ref> 出演。監督[[村上修]]。 *[[帝都物語外伝|帝都物語-外伝]](配給 [[東宝]] 1995年7月) 原作。監督[[橋本以蔵]]。 *[[シム・フースイ#映画|東京龍-TOKYO DRAGON]](配給 [[アスミック・エース エンタテインメント|エースピクチャーズ]] 1997年11月) 原作。監督[[片岡敬司]]。「シム・フースイ」シリーズの映画化。 *[[アレクサンダー戦記]](配給 エースピクチャーズ 2000年10月) 原作。監督[[兼森義則]]、[[りんたろう]]。 *[[ノロイ]](配給 [[ザナドゥー (企業)|ザナドゥー]] 2005年8月) 出演(劇中番組のコメンテーター)。監督[[白石晃士]]。 *[[妖怪大戦争 (2005年の映画)|妖怪大戦争]](配給 [[松竹]] 2005年8月) プロデュース(『怪』のメンバー)及び[[山本五郎左衛門|山ン本五郎左衛門]]役で出演。監督[[三池崇史]]。 *[[妖怪大戦争 ガーディアンズ]](配給 [[松竹]] 2021年8月) 製作総指揮及び[[雨降小僧]]役で出演。監督三池崇史。また、朗読劇『風の聲 ~妖怪大戦争 外伝~』でもスーパーバイザーを務める。 ===テレビ番組=== :出演初期は「奇人変人」扱いであったが、最近はテレビなれして、一見「普通の人」化しつつある。 *品)では、大臣役を務めた。 *[[ブロードキャスター]]([[TBSテレビ|TBS]]、1991年4月 - ) - コメンテーター出演。 *[[いつみても波瀾万丈]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、1992年3月 - ) - ゲスト出演(1997年7月20日)。 *[[世界超偉人伝説#10万人伝説(1994年1月8日放送)|たけし・さんま世紀末特別番組!! 世界超偉人10万人伝説]](日本テレビ、1994年1月8日) - パネラーとして出演。以後超偉人伝説の各シリーズの常連。 *[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]([[MBSテレビ|毎日放送]]、1999年10月 - ) - ぷいぷい顧問団。 * [[巷説百物語シリーズ#京極夏彦「怪」|京極夏彦 「怪」]] 第4話「福神ながし」(2000年9月15日、WOWOW) - 出演(福助)。原作[[京極夏彦]]。監督[[酒井信行]]。[http://www.fjmovie.com/horror/j/t8/37.html 参照サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} * [[カスミン]]([[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、2001年10月 - 2003年10月) - ヘナモン指南(妖怪監修)。 *[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]、2002年10月 - ) - コメンテーター出演。「トリビアの泉今夜復活踊る大へぇへぇ祭り!!」(2007年1月27日)のドラマ「[[警護官 内田晋三]]」(「[[踊る大捜査線]]」スピンオフ作 *[[今夜は恋人気分 〜とっておき夫婦物語〜|今夜は恋人気分]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合]]、2004年4月 - 2005年3月) - 夫婦ゲスト出演(2003年12月26日)。 *[[ウォッチ!]](TBS、2003年3月 - 2005年3月) - コメンテーター出演。 *[[どっちの料理ショー]](YTV、2006年3月 - ) *[[なごやテイスト]]([[東海テレビ放送|東海テレビ]]) - ゲスト出演(2007年1月17日)。[http://www.tokai-tv.com/nagoyataste/main/oa/ 公式サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} *[[今田ハウジング]](日本テレビ) - ゲスト出演(2007年3月7日)。 *[[世界の果てまでイッテQ!]](日本テレビ) - コメンテーター出演(準レギュラー)。 *[http://www.gaga.ne.jp/mizuki/top.html 水木サン大全]{{リンク切れ|date=2015年4月}} ([[GYAO!#GyaO|GyaO]]) - [[水木しげる]]との対談。 *[[アニマムンディ]]([[TBSテレビ|TBS]]) - 「アリャマタコリャマタ先生」としてレギュラー出演。 *[[ザ・ベストハウス123]](フジテレビ) *[[中川ブロードウェイ・ストリート]]([[テレビ朝日]]、2008年6月20日) *[[鶴瓶の家族に乾杯]](NHK)[[石垣島]]のフルーツを求める旅にゲスト出演(2008年9月1日、9月8日) *[[飛び出せ!科学くん]]([[TBSテレビ|TBS]]、2009年11月9日) - ゲスト出演 *[[ザ!鉄腕!DASH!!]](日本テレビ) - 不定期に歴史探偵シリーズの出題者として出演。 *緊急警告!! 2012年人類破滅!?[[ノストラダムス]]最後の大予言SP(日本テレビ、2009年12月22日) - ゲスト出演 *[[ボクらの時代]](フジテレビ、2010年8月15日) - トーク相手は水木しげる夫妻。 *[[人志松本の○○な話]](フジテレビ、2010年9月4日) - ゲスト出演 *[[土曜スペシャル (テレビ東京)|土曜スペシャル]]「なるほど再発見!明治〜昭和の写真でめぐる東京散歩」(テレビ東京、2010年10月30日) *日本の未確認モンスターを追え!〜ツチノコ〜([[ヒストリーチャンネル]]、2010年11月27日) - ナビゲーター *[[爆笑問題のニッポンの教養]](NHK総合) - ゲスト出演(2011年6月16日) *真実発掘ミステリー「歴史はこうして作られる」(日本テレビ) - ゲスト出演(2011年9月23日) *日本の未確認モンスターを追え!〜河童〜(ヒストリーチャンネル、2011年12月17日) - ナビゲーター *日本語カーナビ 大活躍!気ままに「CAR旅」荒俣宏夫妻 レンタカーとカーナビ ([[BSフジ]] 2012年10月27日、2014年1月25日) *[[プレミアムよるドラマ]]「[[嘆きの美女]]」第5回([[NHK BSプレミアム]]、2013年2月9日) - 本人役 *[[木曜スペシャル]]「探訪!京都巡礼団〜結界に守られし都の秘密〜」#7([[BS日テレ]]、2014年7月3日) - レギュラー出演 *木曜スペシャル「探訪!京都巡礼団2〜朝廷 vs 武家 権力者が信じた秘密の力〜」#18(BS日テレ、2014年12月4日) - レギュラー出演 *オトナの社会見学「あなたの知らない[[東京駅]]」(2015年2月5日、NHK BSプレミアム) * [[水木しげる]]93歳の探検記〜妖怪と暮らした出雲国〜(2015年9月、山陰放送、JNN中四国ブロック(9月5日)・BS-TBS(9月6日)) *[[COOL JAPAN〜発掘!かっこいいニッポン〜]]([[NHK BS1]]) * 荒俣宏トラベルミステリー[[ドン・キホーテ]]400年目の真実([[BSフジ]] 2017年1月4日) * [[出没!アド街ック天国|出没!アド街ック天国]]([[テレビ東京]]) - 不定期にゲスト出演。 * [[大江戸もののけ物語]](2020年7月17日 - 、NHK BSプレミアム) - 妖怪監修 * 探検! 博物館ワンダーランド(2021年6月11日、NHK BSプレミアム) * [[ザ・バックヤード]](2023年8月9日、NHK、教育テレビジョン) - 京都マンガミュージアム館長として === CM === * [[富士通]]・[[FM TOWNS]](1991年、[[宮沢りえ]]と共演) * [[ウィルコム]](2005年1月)[http://www.willcom-inc.com/ja/corporate/press/2005/01/24/index.html 参照サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} * [[通販生活]][http://www.cataloghouse.co.jp/cm/ 公式サイト]{{リンク切れ|date=2015年4月}} * [[大和ハウス工業|ダイワハウス]] (2008年7月) * [[マニュライフ生命]](2014年12月 - ) === ゲーム === * [[闇吹く夏 帝都物語ふたたび]]([[PlayStation (ゲーム機)|プレイステーション]]用ソフト) * [[風水先生]]([[セガサターン]]用ソフト) ===イベント=== *[[世界妖怪協会|世界妖怪会議]] *[[インターネット博覧会|インターネット博覧会〜楽網楽座(らくもうらくざ)」]](2000年12月31日-2001年12月31日) [[糸井重里]]との協同編集長。 *第16回貴重書展示「[http://www.koho.keio.ac.jp/event/media_exhibition/rarebooks_exhibition.htm 繁殖する自然-博物図鑑の世界展]{{リンク切れ|date=2015年4月}}」(慶應義塾図書館 2003年1月27日-2月1日) *大(OH!)水木しげる展(鳥取県立博物館ほか) 2004年4月29日-2006年1月9日(会場により異なる)。[http://www.asahi.com/event/mizuki/ 参照サイト] *[[愛知万博|2005年日本国際博覧会]](愛・地球博)(2005年3月-9月) 会場の中心パビリオン「[[グローバルハウス]]」のナビゲーター。 *名古屋開府400年祭ジェネラルプロデューサー ===講演=== *[https://web.archive.org/web/20050227235450/http://www.dentsu.co.jp/news/release/2000/20000351023.html 電通コミュニケーション・ワークショップ 2000]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(電通 2000年11月22日) *[https://web.archive.org/web/20130511181805/http://www.printing-museum.org/exhibition/lecture/index.html 引札の図像]([[印刷博物館]] 2001年6月2日) *[https://web.archive.org/web/20070609173736/http://www.mec.co.jp/j/group/news/release/020812_2.htm 江戸・東京 都市文化を発信した400人展]{{リンク切れ|date=2015年4月}}([[三菱地所]]株式会社 2002年9月6日-29日) *[https://web.archive.org/web/20160304125258/http://www.soi.wide.ad.jp/class/20020000/slides/07/intro.html インターネット社会の成熟にむけて](WIDE University 2002年3月1日) *[https://web.archive.org/web/20070927001506/http://www2.pref.shimane.jp/ginzan/news/n150316.html 世界遺産候補 石見銀山遺跡シンポジウム―世界遺産を語る]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(島根県、島根県教育委員会 2003年3月16日) *[https://web.archive.org/web/20040219092614/http://www.toyama.hokkoku.co.jp/f-mail/back/takaoka/20031010.txt 利長の思い入れ残る街]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(伝産青年会 2003年10月6日) *[http://www.geo-site.jp/project/pro01.html 地底能楽堂計画]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(東京ジオサイトプロジェクト 2003年11月18日) *[http://www.pref.gifu.lg.jp/pref/gib/3_news/0401/3d21.htm 遷都と首都機能移転の考え方]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(JPNIC 2004年1月27日) *第十回睡眠文化フォーラム「[http://www.miraikan.jst.go.jp/j/event/2004/0314_other_01.html ねむりを楽しむ夢学ことはじめ]{{リンク切れ|date=2015年4月}}」(睡眠文化研究所 2004年3月14日) *[http://www.parco-art.com/web/archives/logos/aramata_2005/ 荒俣宏コレクション―博物画の至宝・幻の名作図譜](ロゴスギャラリー 2005年3月1日-3月14日) *[http://www.tokyodoshoten.co.jp/event9.htm 紀田順一郎+荒俣宏ワールド](東京堂書店神田本店 2005年6月10日) *[http://www.nishinippon.co.jp/news/museum/event/050920_3.html 九州国立博物館開館記念シンポジウム]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(西日本新聞 2005年9月19日) *第25回企画展「[http://www.wunderkammer.nua.jp/ ニッポン・ヴンダーカマー―荒俣宏の驚異宝物館]」(群馬県立自然博物館 2005年10月1日-11月27日) *[http://yushodo.co.jp/pinus/62/aramata/index.html 発見された古代エジプト―世界最大の本 ナポレオン『エジプト誌』](雄松堂 2005年12月2日) *[http://www.dankaiac.com/member/kickoff/index.html DAIKAN日本橋アカデミー―キックオフ・セミナー]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(日本経済新聞社 2006年3月17日) *{{Wayback|url=http://www.h2.dion.ne.jp/~mda/honmaru/talk_ss.htm |title=名古屋城本丸御殿トークセッション |date=20111213001206}}(2006年3月23日) *第6回「[http://katsuji.yomiuri.co.jp/seikatsu/seikatsu_20060629-1.htm 新!読書生活…知への旅立ち]{{リンク切れ|date=2015年4月}}」(21世紀活字文化プロジェクト 2006年6月29日) *[http://www.koshi-no-murasaki.co.jp/w/009/0005/2.html#1 荒俣宏講演会](醸造の町摂田屋町おこしの会 2006年11月10日) *[http://www.at-s.com/bin/even/EVEN0030.asp?event_no_i=M678429605 大御所スタイルシンポジウム]{{リンク切れ|date=2015年4月}}(大御所四百年祭実行委員会 2007年3月11日) *[https://hida.keizai.biz/headline/31/ 高山はおもしろい](高山市 2011年11月8日) ===漫画=== * [[水木しげる]]の漫画作品 - 「アリャマタコリャマタ」として度々登場している。 ===WEB=== ====インタビュー==== *[https://www.atp.or.jp/modules/interview/index.php?id=5 インタビューシリーズ―テレビ、お前は…(第3回)]{{リンク切れ|date=2015年4月}}」([https://www.atp.or.jp 全日本テレビ番組制作連盟]) *[http://www.cisco.com/jp/news/cisco_news_letter/mail/0205/special/index.shtml?PC=1319_08_0006_CC2 自分流「検索エンジン」づくりのススメ:荒俣宏] (Cisco Systems) ====対談==== *[http://www.chunichi.co.jp/banpaku/topics/2001/1227-1.html お化けの森つくって]{{リンク切れ|date=2015年4月}}([[中日新聞]] 対談:[[坂本春生]]) *[https://www.1101.com/marugoto5/ 荒俣宏、インターネット荒野への旅]([[ほぼ日刊イトイ新聞]] 対談:[[糸井重里]]) *[https://www.1101.com/fujin-ido/101index.html ハレのちケの性愛論]([[ほぼ日刊イトイ新聞]]) ====コラム==== * [http://www.ntt.com/bizit/contents/work/aramata/01.html 荒俣宏のITコラム]{{リンク切れ|date=2015年4月}}([http://www.ntt.com/bizit/index.html Biz-IT]{{リンク切れ|date=2015年4月}}) * [http://www.food.maruha-nichiro.co.jp/salmon/culture/01.html 荒俣宏の「超博物誌」](nichiro サーモンミュージアム) * [http://www.japanknowledge.com/guest/login/aramata/index.html 荒俣宏の新・想像力博物館]{{リンク切れ|date=2015年4月}} (JapanKnowledge) * [https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec47.html 首都機能移転によって世の中を良くしてきた日本人]([[国土交通省]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[澁澤龍彦]] * [[紀田順一郎]] * [[高山宏]] * [[松岡正剛]] * [[水木しげる]] * [[園田博之]] * [[妖怪大戦争 (2005年の映画)]] * [[京極夏彦]] * [[幻想文学]] * [[百科事典]] * [[蜂須賀正氏]] == 外部リンク == * [https://kyotomm.jp/greeting/ 京都国際マンガミュージアム>館長ごあいさつ] * {{Wayback|url=http://blogs.yahoo.co.jp/aramata_hiroshi |title=Yahoo!ブログ - 荒俣宏のオークション博物誌 |date=20191101000000}} - ブログ * [http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2004/12/post_7.html たけくまメモ : 荒俣宏先生の引越しを手伝ったこと (1)] * [https://www.1101.com/aramata_hiroshi/index.html ほぼ日刊イトイ新聞 荒俣宏さんにいざなわれる目眩く愛書家の世界] * {{NHK人物録|D0009071142_00000}} {{先代次代|[[京都国際マンガミュージアム]]<br/>第2代館長|2017 - 現職|[[養老孟司]]|}} {{日本SF大賞|第8回}} {{ロバート・E・ハワード}} {{クトゥルフ神話}} {{Normdaten}} {{デフォルトソート:あらまた ひろし}} [[Category:荒俣宏|*]]<!-- 一概に何作家とは言い切れない気がするので下二つと重複しますが取り敢えず残しておきます --> [[Category:妖怪研究家]] [[Category:20世紀日本の小説家]] [[Category:21世紀日本の小説家]] [[Category:日本のSF作家]] [[Category:日本のファンタジー作家]] [[Category:20世紀日本の翻訳家]] [[Category:21世紀日本の翻訳家]] [[Category:サントリー学芸賞受賞者]] [[Category:平凡社]] [[Category:日本のコレクター]] [[Category:日本の蔵書家]] [[Category:ホラーに関連する人物]] [[Category:玉川大学の教員]] 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PostScript
PostScript(ポストスクリプト)は、アドビが開発している、1984年に発表したページ記述言語。 スタック指向型のプログラミング言語で、様々な計算・処理と共に描画命令を実行することができる。事前にデータをスタックに格納し、後の命令がデータを処理するというモデルで実行される。そのために記述法が逆ポーランド記法で一貫しており、名前は「追伸」の英語「post script」に後置記法といった意味を掛けている。 PostScriptは1985年にApple Computerのレーザープリンター、LaserWriterに採用された。モトローラ68000プロセッサと1.5メガバイトのRAMを搭載したこのプリンターは、プリンターでありながら当時のパーソナルコンピュータと同等の計算能力を持ち、それ自身が PostScript インタプリタを実行してページを生成した。同じ年、ライノタイプによりPostScriptを採用したイメージセッタが発表された。 当時はコンピュータとプリンター間の通信速度の遅さが、印刷物の品質向上のネックになっていた。しかし、プリンター自身に高い計算能力を持たせて、プログラミング言語を実行するという大胆な発想により、一気に問題は解決された。PostScript以前は、伝統的な手法より品質が劣るとされてきた電子印刷が、一気に商業印刷のレベルでも使われるようになり、今日では当たり前になっているDTPが普及するきっかけとなった。 後に印刷以外の用途でも使われ、ワークステーションである「NeXT」は、描画エンジンとしてDisplay PostScriptを採用していた。 今日では、パーソナルコンピュータの性能が上がると同時に、コンピュータ・プリンター間の接続速度が向上したため、個人レベルでパーソナルコンピュータにPostScriptインタプリタを搭載し、生成されたイメージをプリンターに送るということも行われる。 ほとんどは、レーザープリンターに実装されている。「PSプリンター」と呼ばれ、PDFベースとなったMac OS Xより前のMacintoshの標準的プリンターであり、Windowsでも利用されることがあるが、アドビへのライセンス料が高額なためか、価格が数十万 - 百万円以上と一般のレーザープリンターに比べ高価で、専らDTP用途に限られている。 ソフトウェアによる実装では、アドビからライセンスを受けたラスターイメージプロセッサ (RIP) がエプソンなどいくつかのメーカーから自社製プリンターのために販売されていたが、PSプリンターの価格低下もあり、あまり普及していない。なお互換フリーソフトウェアとしてGhostscriptがある。 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、文字列「Hello World!」が印刷される。 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、長方形と文字列が印刷される。また、テキストファイルとして保存し、Adobe Illustratorなどで開くこともできる。
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PostScript(ポストスクリプト)は、アドビが開発している、1984年に発表したページ記述言語。 スタック指向型のプログラミング言語で、様々な計算・処理と共に描画命令を実行することができる。事前にデータをスタックに格納し、後の命令がデータを処理するというモデルで実行される。そのために記述法が逆ポーランド記法で一貫しており、名前は「追伸」の英語「post script」に後置記法といった意味を掛けている。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Infobox file format |name = PostScript |icon = |extension = .ps |mime = application/postscript |type code = |uniform type = com.adobe.postscript |magic = <code>%!</code> |owner = [[アドビ]] |genre = [[ページ記述言語]] |released = {{initial release|1985}} |latest release version = 3 |latest release date = 1996年 |container for = |contained by = |extended from = |extended to = [[Encapsulated PostScript]] |standard = }} '''PostScript'''(ポストスクリプト)は、[[アドビ]]が開発している、[[1984年]]に発表した[[ページ記述言語]]。 [[スタック]]指向型の[[プログラミング言語]]で、様々な計算・処理と共に描画命令を実行することができる。事前にデータを[[スタック]]に格納し、後の命令がデータを処理するというモデルで実行される。そのために記述法が[[逆ポーランド記法]]で一貫しており、名前は「[[追伸]]」の英語「post script」に後置記法といった意味を掛けている。 == バージョン == *[[1985年]] - PostScript Level 1。初期バージョン。 *[[1990年]] - PostScript Level 2。[[日本語]]やカラー化対応。 *[[1996年]] - PostScript 3。PDF形式への対応。(Level 3は正式名称ではない) == 概要 == PostScriptは[[1985年]]に[[Apple|Apple Computer]]の[[レーザープリンター]]、[[LaserWriter]]に採用された<ref>{{Cite web|和書|title=印刷と出版を変革したPostScript {{!}} 大塚商会|url=https://mypage.otsuka-shokai.co.jp/contents/business-oyakudachi/it-history/chapter001/postscript.html|website=mypage.otsuka-shokai.co.jp|accessdate=2022-08-06|language=ja}}</ref>。[[モトローラ]][[MC68000|68000]]プロセッサと1.5[[メガ]][[バイト (情報)|バイト]]の[[Random Access Memory|RAM]]を搭載したこのプリンターは、プリンターでありながら当時の[[パーソナルコンピュータ]]と同等の計算能力を持ち、それ自身が PostScript [[インタプリタ]]を実行してページを生成した。同じ年、[[ライノタイプ (企業)|ライノタイプ]]によりPostScriptを採用した[[イメージセッタ]]が発表された。 当時はコンピュータとプリンター間の通信速度の遅さが、印刷物の品質向上のネックになっていた。しかし、プリンター自身に高い計算能力を持たせて、プログラミング言語を実行するという大胆な発想により、一気に問題は解決された。PostScript以前は、伝統的な手法より品質が劣るとされてきた電子印刷が、一気に商業印刷のレベルでも使われるようになり、今日では当たり前になっている[[DTP]]が普及するきっかけとなった。 後に印刷以外の用途でも使われ、[[ワークステーション]]である「[[NeXT]]」は、描画エンジンとして[[Display PostScript]]を採用していた。 今日では、パーソナルコンピュータの性能が上がると同時に、コンピュータ・プリンター間の接続速度が向上したため、個人レベルでパーソナルコンピュータにPostScriptインタプリタを搭載し、生成されたイメージをプリンターに送るということも行われる。 == 実装 == ほとんどは、[[レーザープリンター]]に実装されている。「PSプリンター」と呼ばれ、[[Quartz|PDFベース]]となった[[macOS|Mac OS X]]より前の[[Macintosh]]の標準的プリンターであり、[[Microsoft Windows|Windows]]でも利用されることがあるが、アドビへのライセンス料が高額なためか、価格が数十万 - 百万円以上と一般のレーザープリンターに比べ高価で、専らDTP用途に限られている。 [[ソフトウェア]]による実装では、アドビからライセンスを受けた[[ラスターイメージプロセッサ]] (RIP) が[[セイコーエプソン|エプソン]]などいくつかのメーカーから自社製プリンターのために販売されていたが、PSプリンターの価格低下もあり、あまり普及していない。なお互換[[フリーソフトウェア]]として[[Ghostscript]]がある。 == サンプルプログラム == 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、文字列「Hello World!」が印刷される。 <syntaxhighlight lang="postscript"> /font /Courier findfont 24 scalefont def font setfont 100 100 moveto (Hello World!) show showpage </syntaxhighlight> 以下の内容をPostScriptプリンターに送信すると、長方形と文字列が印刷される。また、テキストファイルとして保存し、Adobe Illustratorなどで開くこともできる。 <syntaxhighlight lang="postscript"> %! % macro (draw rectangle) ; usage: left top width height RRECT /RRECT { newpath 4 copy pop pop moveto dup 0 exch rlineto exch 0 rlineto neg 0 exch rlineto closepath pop pop } def 100 100 100 150 RRECT .5 setgray fill 100 300 moveto /Helvetica findfont 12 scalefont setfont .5 0 .5 0 setcmykcolor (test string) show showpage </syntaxhighlight> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <references/> == 参考文献 == *{{Cite book|和書 |author = アドビシステムズ |others = 野中浩一 |year = 1998 |title = ページ記述言語 PostScriptチュートリアル&クックブック |publisher = [[アスキー・メディアワークス|アスキー出版局]] |series = ASCII電子出版シリーズ |id = ISBN 978-4-7561-0005-4 }} *{{Cite book|和書 |author = アドビシステムズ |others = 桑沢清志 |year = 2001 |edition = 第3版 |title = PostScriptリファレンスマニュアル |publisher = アスキー出版局 |series = ASCII電子出版シリーズ |id = ISBN 978-4-7561-3822-4 }} *{{Cite book|和書 |author = アドビシステムズ |others = 松村 邦仁、アスキー出版技術部 |year = 1990 |title = ページ記述言語 PostScriptプログラム・デザイン |publisher = アスキー出版局 |series = ASCII電子出版シリーズ |id = ISBN 978-4-7561-0047-4 }} == 関連項目 == *[[Encapsulated PostScript]] (EPS) *[[Forth]] *[[Portable Document Format]] (PDF) *[[ラスターイメージプロセッサ]] *[[NeWS]] *[[PostScriptフォント]] *[[追伸]] - 名称の語源 *[[ページ記述言語]] *[[Scalable Vector Graphics]] (SVG) - 他のベクタ形式の画像フォーマット *[[Windows Metafile]] (WMF, EMF) - 他のベクタ形式の画像フォーマット == 外部リンク == *[http://www.adobe.com/jp/print/postscript/ Adobe Printing Technologies -About PostScript 3](アドビ) *[https://www.adobe.com/jp/print/postscript/pdfs/PLRM.pdf Adobe PostScript language reference third edition](アドビ、 英語) *[http://wwwnucl.ph.tsukuba.ac.jp/~inakura/ps/postscript.html How to Edit PostScript]{{リンク切れ|date=2019年10月}}(日本語) *{{Cite web|和書|url=http://tutorial.jp/graph/ps/psman.pdf |title=PostScript実習マニュアル |filetype=PDF |author=大黒学 |accessdate=2020-09-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170519061941/http://tutorial.jp/graph/ps/psman.pdf |archivedate=2017-05-19|deadlinkdate= 2020年9月}} {{アドビ}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:PostScript}} [[Category:PostScript|*]] [[Category:ページ記述言語]] [[Category:アドビ]] [[Category:オープンフォーマット]] [[Category:ベクターグラフィックス]]
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逆ポーランド記法
逆ポーランド記法(ぎゃくポーランドきほう、英語: Reverse Polish Notation, RPN)は、数式やプログラムの記法の一種。演算子を被演算子の後にすることから、後置記法 (Postfix Notation) とも言う。 その他の記法として、演算子を被演算子の中間に記述する中置記法、前に記述する前置記法(ポーランド記法)がある。 名称の由来は、演算子と被演算子の順序がポーランド記法の逆になっていることによる。 例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。 一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。 逆ポーランド記法による表現は日本語などSOV型の言語の語順とある程度似ており、上式程度であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使うForthの影響を受けているプログラミング言語Mindでは、「3と 4とを 足す」と書く。 もう少し複雑な例として、中置記法による以下の式は、 逆ポーランド記法で記述すると以下の通りとなる。 つまり、逆ポーランド記法では後で使われる演算子ほど、右に位置することになる(ポーランド記法では逆になり、左に位置する演算子ほど後で使われる)。ちなみに上式を日本語で読み下すと「3 と 4 を足したものに 1 から 2 を引いたものをかけ合わせる」となる。 その他、逆ポーランド記法の特徴として区切り文字の必要性などがあるが、これらについてはポーランド記法と同様のため、そちらの項を参照のこと。 逆ポーランド記法を使えば、式の計算をする(評価)には、先頭からひとつずつ順番に記号を読み込み、その記号が演算子以外であればスタックに値を積み、演算子であればスタックから値を取り出して演算し結果をスタックに積む、という簡単な操作の繰り返しだけでよい。そのため、プログラミング初心者の練習課題として、逆ポーランド記法の電卓を作ることがよく行われる。 前述の手順であれば、スタックに積むのは値(たとえば後述する例では整数値)だけである。もしこれが他の順序だったとしたら、演算子に相当するものを記憶するか、順番に読むだけでは済まず行きつ戻りつするか、などしなければならない。 プログラミング言語にForthやPostScriptなどのこの記法を採用したものがある。 ヒューレット・パッカード社の電卓(HP-35など)が有名で、他いくつかの電卓(特に関数電卓に採用がある)にもあるが、逆ポーランド記法順による入力方法を採用している電卓がある(近年の関数電卓のような数式入力ではなく、計算機械としてスタックモデルであり、それを直接操作しているという形なので、厳密なことを言うと逆ポーランド記法「順」ということになる)。 (このような動作をベースとしている計算モデルやコンピュータを、スタックマシンと言う) 例題として以下の式を考える。スタックの他に1個のアキュムレータを持つ計算機だとする。 []はスタックの内容。左から右に積む。最初は空である。 このように だけで計算動作が可能である。 スタックトップの直接演算が可能な構造ならば、例えば最初の部分は と簡略化される。
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逆ポーランド記法は、数式やプログラムの記法の一種。演算子を被演算子の後にすることから、後置記法 とも言う。 その他の記法として、演算子を被演算子の中間に記述する中置記法、前に記述する前置記法(ポーランド記法)がある。 名称の由来は、演算子と被演算子の順序がポーランド記法の逆になっていることによる。
{{Infobox notation |logo=[[Image:Postfix-dia.svg|125px]] }} '''逆ポーランド記法'''(ぎゃくポーランドきほう、{{Lang-en|Reverse Polish Notation, RPN}})は、数式やプログラムの記法の一種。[[演算子]]を[[被演算子]]の後にすることから、'''後置記法''' (Postfix Notation) とも言う。 その他の記法として、演算子を被演算子の中間に記述する'''[[中置記法]]'''、前に記述する'''[[ポーランド記法|前置記法]]'''(ポーランド記法)がある。 名称の由来は、演算子と被演算子の順序が[[ポーランド記法]]の逆になっていることによる。 == 概要 == 例えば、「3 と 4 を加算する」という演算を、一般的に数式の表記に用いられる中置記法で記述すると、以下のようになる。 3 + 4 一方、逆ポーランド記法では、加算を表す演算子 + を、被演算子である 3 と 4 の後(右)に置いて、以下のよう記述する。 3 4 + 逆ポーランド記法による表現は[[日本語]]など[[SOV型]]の言語の[[語順]]とある程度似ており、上式程度であれば「3 と 4 を加算する」とそのままの順序で読み下せる。逆ポーランド記法を使う[[Forth]]の影響を受けている[[プログラミング言語]][[Mind (プログラミング言語)|Mind]]では、「<code>3と 4とを 足す</code><!--「3 と 4 とを」というように離すと、Mindでは構文エラーのはず-->」と書く。 もう少し複雑な例として、中置記法による以下の式は、 (3 + 4) * (1 - 2) 逆ポーランド記法で記述すると以下の通りとなる。 3 4 + 1 2 - * つまり、逆ポーランド記法では後で使われる演算子ほど、右に位置することになる(ポーランド記法では逆になり、左に位置する演算子ほど後で使われる)。ちなみに上式を日本語で読み下すと「3 と 4 を足したものに 1 から 2 を引いたものをかけ合わせる」となる。 その他、逆ポーランド記法の特徴として[[区切り文字]]の必要性などがあるが、これらについては[[ポーランド記法]]と同様のため、そちらの項を参照のこと。 == コンピュータへの応用 == 逆ポーランド記法を使えば、式の[[計算]]をする(評価)には、先頭からひとつずつ順番に記号を読み込み、その記号が演算子以外であれば[[スタック]]に値を積み、演算子であればスタックから値を取り出して演算し結果をスタックに積む、という簡単な操作の繰り返しだけでよい。そのため、プログラミング初心者の練習課題として、逆ポーランド記法の電卓を作ることがよく行われる。 前述の手順であれば、スタックに積むのは値(たとえば後述する例では整数値)だけである。もしこれが他の順序だったとしたら、演算子に相当するものを記憶するか、順番に読むだけでは済まず行きつ戻りつするか、などしなければならない。 [[プログラミング言語]]に[[Forth]]や[[PostScript]]などのこの記法を採用したものがある。 [[ヒューレット・パッカード]]社の[[電卓]]([[HP-35]]など)が有名で、他いくつかの電卓(特に[[関数電卓]]に採用がある)にもあるが、逆ポーランド記法'''順'''による入力方法を採用している電卓がある(近年の関数電卓のような数式入力ではなく、計算機械としてスタックモデルであり、それを直接操作しているという形なので、厳密なことを言うと逆ポーランド記法'''「順」'''ということになる)。 === 計算動作の例 === (このような動作をベースとしている計算モデルやコンピュータを、[[スタックマシン]]と言う) 例題として以下の式を考える。スタックの他に1個の[[アキュムレータ (コンピュータ)|アキュムレータ]]を持つ計算機だとする。 3 4 + 1 2 - * <tt>[]</tt>は[[スタック]]の内容。左から右に積む。最初は空である。 # 3をスタックに積む <tt>[3]</tt> # 4をスタックに積む <tt>[3 4]</tt> # <tt>+</tt>が押されたら、 ## スタックからデータを下ろしアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← 4) <tt>[3]</tt> ## スタックからデータを下ろしアキュムレータを足してアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← POPした値 + アキュムレータ) <tt>[]</tt> ## アキュムレータの内容は 7 になる <tt>(3 + 4 = 7)</tt> ## アキュムレータの内容をスタックに積む <tt>[7]</tt> # 1をスタックに積む <tt>[7 1]</tt> # 2をスタックに積む <tt>[7 1 2]</tt> # <tt>-</tt>が押されたら、 ## スタックからデータを下ろしアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← 2) <tt>[7 1]</tt> ## スタックからデータを下ろしアキュムレータを引いてアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← POPした値 - アキュムレーター) <tt>[7]</tt> ## アキュムレータの内容は -1 になる <tt>(1 - 2 = -1)</tt> ## アキュムレータの内容をスタックに積む <tt>[7 -1]</tt> # <tt>*</tt>が押されたら、 ## スタックからデータを下ろしアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← -1) <tt>[7]</tt> ## スタックからデータを下ろしアキュムレータを掛けてアキュムレータに入れる(アキュムレータ ← POPした値 * アキュムレーター) <tt>[]</tt> ## アキュムレータの内容は -7 になる <tt>(7 * -1 = -7)</tt> ## アキュムレータの内容をスタックに積む <tt>[-7]</tt> このように * スタックにデータを積む (PUSH) 操作 * スタックからデータを下ろす (POP) 操作 * 二つのオペランド間の演算 だけで計算動作が可能である。 スタックトップの直接演算が可能な構造ならば、例えば最初の部分は # 3をスタックに積む <tt>[3]</tt> # 4をスタックに積む <tt>[3 4]</tt> # +が押されたら、 ## スタックからデータを下ろしレジスタに入れる(レジスタ←4) <tt>[3]</tt> ## スタックトップにレジスタの値を加算する <tt>[7]</tt> と簡略化される。 == 文献 == * [[水谷静夫]] 「日本語の語順と逆ポーランド記法」 第7回 プログラミング・シンポジウム (1966) * [[水谷静夫]] 「和文の語順と逆ポーランド記法」 『国語学』第61集 (1965年6月30日) * [[斎藤正彦]] 『数のコスモロジー』、[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]Math&Science〉、2007年、189から192頁。 == 関連項目 == * [[操車場アルゴリズム]] * [[Intel 8087]] == 外部リンク == * [http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/~kato/HP48/rpn.html RPNとRPL(Kato Takenori)] [[Category:数学の表記法|きやくほおらんときほう]] [[Category:プログラミング言語の構文|きやくほおらんときほう]] [[Category:数学に関する記事|きやくほおらんときほう]]
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Mind (プログラミング言語)
■カテゴリ / ■テンプレート Mind(マインド)は、Forthの影響を受けた、(プログラミング言語としては)日本語っぽい自然な見掛け(と主張されている)が特徴であるプログラミング言語で、いわゆる日本語プログラミング言語のひとつである。しかしあくまで「プログラミング言語としては日本語っぽい」ということであり、(時折誤解されているが)自然言語プログラミング(w:en:Natural language programming)言語ではない。 Forthのワードに相当する「単語」の他、全ての識別子に、日本語の文字(かな・漢字・他)が使える。Forthと同様に逆ポーランド記法ベースであるが、逆ポーランド記法と日本語の語順の類似性を活用している。 設計者は現在スクリプツ・ラボの片桐明で、MS-DOS時代には同社の前身のリギーコーポレーションからの販売であった。MS-DOS版は今はフリーウェア扱いになっている。2013年現在、Windows版(商用。評価版ダウンロードあり)とUNIX版(GPL)があり、スクリプツ・ラボが販売・提供している。他に、第三者によりUNIX版をB-right/V(超漢字)で動くようにしたものがある。 また、2012年4月から、2013年現在、Android版の実験が進められている。 外部リンク1のページより、プログラム例を引用する。 このように、基本はForthである。数値以外のほぼ全てに日本語の文字や日本語の記法を使う。たとえば、Forthでは ; である定義の終了が「。」である。以下、Forthと異なる特徴の主なものを挙げる。まず、文字種の違いをトークンの認識に積極的に使う。「12より」を数値の 12 であると認識する。「時刻を得て」のうち識別子として有効なのは「時刻得」であり、平仮名を基本的に無視することで自然な表現を助けている(おそらく助詞か活用語尾のような部分だが、単に字種に基づいて判断しているだけであり、自然言語処理的な扱いにより助詞ないし活用語尾として認識しているわけではない)。なお一方、単語の定義の「〜とは」のように、平仮名がキーワード的に重要な意味を持つ場合もある。 Forthと同様に、単語を定義し、それを以降の単語の定義で使用するといったスタイルをとる。すなわち、Mindのプログラムは、Forthと同様に単語の定義の集まりである。また、引数が表面に表れない。他言語のプログラマが最も驚くのはこの点かもしれない。最初は違和感があるが、慣れるとForthと同様に非常に簡潔にプログラムを書くことができる。 インデントなどのレイアウトには見やすさのため以上の意味はない。 同じ外部リンク1のページのある他プログラム例のメイン部分を引用する。 このように、プログラムがそのまま、動作記述のドキュメントとして読めると主張される。 Mindは、従来「日本語プログラミング言語」と主張されたような、既存のプログラミング言語の予約語などを日本語化し、識別子に日本語の文字を使えるようにして、トランスレータを通すようなものとは、日本語プログラミング言語として言語仕様が設計されているという点で、一線を画している(日本語によるプログラミングは、研究レベルでは以前にもある。また、代表的なところでなでしこなど後続も現れている)。 一見すると、自然言語によるプログラミングと誤解されることがあるが、自然言語処理は(その手法を取り入れている部分はあるが)おこなっていない。たとえば基本的にわかち書きが必須であり、Mindのルールに従った分割が必要であることが挙げられよう(日本語の自然言語処理において、わかち書きされていない普通の自然な文字列からの文節の切り分けは一大テーマである。また、膠着語である日本語は、本来的には語順と意味との結びつきは弱く、逆ポーランド記法との類似性は偶々であり、類似しない構文もあることが古くに指摘されている)。自然言語でプログラミングするのではなく、基本的には普通のプログラミングと同じようにコーディングする、手続き型プログラミング言語で、ただしForthのようにスタック指向である。 識別子には日本語の文字が使えるが、活用語尾のように見えるひらがなの部分を基本的には無視するという仕様である。これは単純に機械的にやっている。このため、識別子は漢字もしくはカタカナの部分で、識別できるようにしなければならない。ひらがなは無視されるばかりではなく、逆に、単語の定義の「〜とは」のように日本語の助詞に「標識」(言語学の用語)のような意味を持たせている場合もあり、「3から 2を 引く」と「2を 3から 引く」(こちらは標準的でないとされているが)はどちらも日本語としての直感通り 1 になる(Forthとしては、普通ではないと思えるだろう)。 Mindに限らずForth系一般の特徴であるが、プログラミング中はスタックの使用状況を強く意識する必要がある。特に単語(ワード)の呼び出し前後のスタックの変化をつかんでいないと、たちまちスタックの状態を混乱させてしまう。また、プログラムを書く時ではなく読む段においては、表面上一見すっきりと見えるのとは裏腹に、その裏側でスタックの状態がどうなっているのかを把握しなければ、デバッグなどができない。Forthでよくおこなわれている、単語の定義にスタックの状態変化を説明するコメントなどは是非付けたいところだろう。 低水準の操作のための単語もありシステム周りの記述も行なえる。クラシックなForthではあまり一般的でないものを、言語仕様に取り入れている点もあり、局所変数や、四則演算が中置記法で書ける数式表現などがある。 Mindが発表される前に、Fifth86という製品があった。Version5までのMindはFifth86で書かれていた。Forthにはたまに見られるが、Fifthはインラインアセンブラの機能を持っていた。Fifthという名称はForthの次、といったようなものである(Forthは、4番めFourthに由来する)。 MS-DOS時代のVersion5まではインタプリタ的な対話環境と、コマンドライン版と言語中からも使える(単語「コンパイル」でコンパイルができる)コンパイラがあり、この時代のコンパイラは機械語コードを生成していた。1989年からOS/2への移植(リリースされず)に備え、この時に「Mコード」と呼んでいる中間表現方式を採用した。UNIXに移植したコードネームS6では、コア部分の実装をアセンブリ言語(機械語)からC言語に変更し、同時にコンパイラの出力を機械語出力から環境非依存な中間表現のバイナリコードの出力に変更した。これらは評価版リリースであった。UNIX版のVersion7がプロダクトとしてリリースされ、ソースの多くを共通にしたWindows版も同じバージョン番号系列でリリースした。現在は中間表現を実行するコア部分と、Mindで実装されたコンパイラ、さらにWindows版ではGUI版ランタイムと、それらのフロントエンドのGUI環境を提供している。 ぐるなびの全文検索に2004年5月から使われているスクリプツ・ラボのMindSearchIIはMindで開発をしている。 マイクロソフトウェアアソシエイツから発売されていたMS-DOS向け日本語ワードプロセッサ「キムラ太郎」はMindで実装されていた。(この名前は一太郎と木村太郎の駄洒落) 富士通から発売されていた「FM秘書」のソースコードはMindで記述されていた。また、日本語ワードプロセッサ専用機の『OASYS-30シリーズ』のMS-DOS起動システムには、プログラミング言語としてMindが添付されていた。
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Mind(マインド)は、Forthの影響を受けた、(プログラミング言語としては)日本語っぽい自然な見掛け(と主張されている)が特徴であるプログラミング言語で、いわゆる日本語プログラミング言語のひとつである。しかしあくまで「プログラミング言語としては日本語っぽい」ということであり、(時折誤解されているが)自然言語プログラミング言語ではない。 Forthのワードに相当する「単語」の他、全ての識別子に、日本語の文字(かな・漢字・他)が使える。Forthと同様に逆ポーランド記法ベースであるが、逆ポーランド記法と日本語の語順の類似性を活用している。 設計者は現在スクリプツ・ラボの片桐明で、MS-DOS時代には同社の前身のリギーコーポレーションからの販売であった。MS-DOS版は今はフリーウェア扱いになっている。2013年現在、Windows版(商用。評価版ダウンロードあり)とUNIX版(GPL)があり、スクリプツ・ラボが販売・提供している。他に、第三者によりUNIX版をB-right/V(超漢字)で動くようにしたものがある。 また、2012年4月から、2013年現在、Android版の実験が進められている。
{{Infobox プログラミング言語 | name = Mind | logo = | caption = | file ext = | paradigm = [[日本語プログラミング言語]] | released = 1985年頃か<ref>添付ドキュメント中の著作権表示で「1985-」となっている。</ref> | designer = 片桐明 | developer = | latest release version = | latest release date = | latest preview version = | latest preview date = <!-- {{start date and age|YYYY|MM|DD}} --> | typing = | implementations = | dialects = | influenced by = [[Forth]] | influenced = | programming language = | operating system = [[MS-DOS]], [[Microsoft Windows|Windows]], [[UNIX]] | license = | website = [http://www.scripts-lab.co.jp/mind/whatsmind.html www.scripts-lab.co.jp/mind/whatsmind.html] | wikibooks = }} {{プログラミング言語}} '''Mind'''('''マインド''')は、[[Forth]]の影響を受けた、([[プログラミング言語]]としては)[[日本語]]っぽい自然な見掛け(と主張されている)が特徴であるプログラミング言語で、'''いわゆる'''[[日本語プログラミング言語]]のひとつである。しかしあくまで「プログラミング言語としては日本語っぽい」ということであり、(時折誤解されているが)'''[[自然言語]]プログラミング'''([[w:en:Natural language programming]])言語'''ではない'''。 Forthのワードに相当する「単語」の他、全ての識別子に、日本語の[[文字]](かな・漢字・他)が使える。Forthと同様に[[逆ポーランド記法]]ベースであるが、逆ポーランド記法と日本語の語順の類似性を活用している。 設計者は現在スクリプツ・ラボの片桐明で、[[MS-DOS]]時代には同社の前身のリギーコーポレーションからの販売であった。MS-DOS版は今はフリーウェア扱いになっている。2013年現在、[[Microsoft Windows|Windows]]版(商用。評価版ダウンロードあり)と[[UNIX]]版([[GNU General Public License|GPL]])があり、スクリプツ・ラボが販売・提供している。他に、第三者によりUNIX版をB-right/V([[超漢字]])で動くようにしたものがある。 また、2012年4月から、2013年現在、[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]版の実験が進められている<ref>[http://uemon3511.cocolog-nifty.com/nihongoprogram/ ココログ「キリーのAndroidで日本語プログラミング」] 2013年7月17日閲覧</ref>。 == プログラムの例 == 外部リンク1のページより、プログラム例を引用する。 <pre> 午前?とは   時刻を得て   時が 12より 小さいこと。 メインとは   午前?     ならば 「おはよう」を       さもなければ         「こんにちは」を       つぎに   表示し 改行すること。 </pre> このように、基本はForthである。数値以外のほぼ全てに日本語の文字や日本語の記法を使う。たとえば、Forthでは <code>;</code> である定義の終了が「<code>。</code>」である。以下、Forthと異なる特徴の主なものを挙げる。まず、文字種の違いをトークンの認識に積極的に使う。「12より」を数値の 12 であると認識する。「時刻を得て」のうち[[識別子]]として有効なのは「時刻得」であり、平仮名を基本的に無視することで自然な表現を助けている(おそらく助詞か活用語尾のような部分だが、単に字種に基づいて判断しているだけであり、自然言語処理的な扱いにより助詞ないし活用語尾として認識しているわけではない)。なお一方、単語の定義の「〜とは」のように、平仮名がキーワード的に重要な意味を持つ場合もある。 Forthと同様に、単語を定義し、それを以降の単語の定義で使用するといったスタイルをとる。すなわち、Mindのプログラムは、Forthと同様に'''単語の定義の集まり'''である。また、引数が表面に表れない。他言語のプログラマが最も驚くのはこの点かもしれない。最初は違和感があるが、慣れるとForthと同様に非常に簡潔にプログラムを書くことができる。 インデントなどのレイアウトには見やすさのため以上の意味はない。 <pre> 4と 5を 加え 表示する。 </pre> 同じ外部リンク1のページのある他プログラム例のメイン部分を引用する。 <pre> メインとは     接続処理し     送信処理すること。 </pre> このように、プログラムがそのまま、動作記述のドキュメントとして読めると主張される。 == 解説 == Mindは、従来「[[日本語プログラミング言語]]」と主張されたような、既存のプログラミング言語の[[予約語]]などを日本語化し、識別子に日本語の文字を使えるようにして、トランスレータを通すようなものとは、日本語プログラミング言語として言語仕様が設計されているという点で、一線を画している(日本語によるプログラミングは、研究レベルでは以前にもある。また、代表的なところで[[なでしこ (プログラミング言語)|なでしこ]]など後続も現れている)。 一見すると、[[自然言語]]によるプログラミングと誤解されることがあるが、[[自然言語処理]]は(その手法を取り入れている部分はあるが)おこなっていない<ref>『プログラミング言語Mind』(書籍は[[翔泳社]]。「プログラミング言語Mind 基本文法」としてソフトウェアに添付)の「はじめに」で、自然言語処理の難しさに足をとられることについて「ドロ沼」という表現を作者の片桐は使っている。</ref>。たとえば基本的に[[わかち書き]]が必須であり、Mindのルールに従った分割が必要であることが挙げられよう(日本語の自然言語処理において、わかち書きされていない普通の自然な文字列からの[[文節]]の切り分けは一大テーマである。また、[[膠着語]]である日本語は、本来的には[[語順]]と意味との結びつきは弱く、逆ポーランド記法との類似性は偶々であり、類似しない構文もあることが古くに指摘されている<ref>[[水谷静夫]]「日本語の語順と逆ポーランド記法」</ref>)。自然言語でプログラミングするのではなく、基本的には普通のプログラミングと同じようにコーディングする、[[手続き型プログラミング]]言語で、ただし[[Forth]]のように[[スタック]]指向である。 [[識別子]]には日本語の文字が使えるが、活用語尾のように見えるひらがなの部分を基本的には無視するという仕様である。これは単純に機械的にやっている。このため、識別子は漢字もしくはカタカナの部分で、識別できるようにしなければならない。ひらがなは無視されるばかりではなく、逆に、単語の定義の「〜とは」のように日本語の[[助詞]]に「[[標識 (言語学)|標識]]」(言語学の用語)のような意味を持たせている場合もあり、「3から 2を 引く」と「2を 3から 引く」(こちらは標準的でないとされているが)はどちらも日本語としての直感通り 1 になる(Forthとしては、普通ではないと思えるだろう)。 Mindに限らずForth系一般の特徴であるが、プログラミング中はスタックの使用状況を強く意識する必要がある。特に単語(ワード)の呼び出し前後のスタックの変化をつかんでいないと、たちまちスタックの状態を混乱させてしまう。また、プログラムを書く時ではなく読む段においては、表面上一見すっきりと見えるのとは裏腹に、その裏側でスタックの状態がどうなっているのかを把握しなければ、デバッグなどができない。Forthでよくおこなわれている、単語の定義にスタックの状態変化を説明するコメントなどは是非付けたいところだろう。 低水準の操作のための単語もありシステム周りの記述も行なえる。クラシックなForthではあまり一般的でないものを、言語仕様に取り入れている点もあり、[[ローカル変数|局所変数]]や、四則演算が中置記法で書ける数式表現などがある。 Mindが発表される前に、[[Fifth86]]という製品があった。Version5までのMindはFifth86で書かれていた<ref>添付の s-string.docm より</ref>。Forthにはたまに見られるが、Fifthは[[インラインアセンブラ]]の機能を持っていた。Fifthという名称はForthの次、といったようなものである(Forthは、4番めFourthに由来する)。 MS-DOS時代のVersion5までは[[インタプリタ]]的な対話環境と、コマンドライン版と言語中からも使える(単語「コンパイル」でコンパイルができる)[[コンパイラ]]があり、この時代のコンパイラは[[機械語]]コードを生成していた。1989年から[[OS/2]]への移植(リリースされず)に備え、この時に「Mコード」と呼んでいる[[中間表現]]方式を採用した。UNIXに移植したコードネームS6では、コア部分の実装をアセンブリ言語(機械語)からC言語に変更し、同時にコンパイラの出力を機械語出力から環境非依存な中間表現のバイナリコードの出力に変更した。これらは評価版リリースであった。UNIX版のVersion7がプロダクトとしてリリースされ、ソースの多くを共通にしたWindows版も同じバージョン番号系列でリリースした<ref>README.txt より</ref>。現在は中間表現を実行するコア部分と、Mindで実装されたコンパイラ、さらにWindows版ではGUI版ランタイムと、それらのフロントエンドのGUI環境を提供している。 == アプリケーション例 == [[ぐるなび]]の全文検索に2004年5月から使われているスクリプツ・ラボのMindSearchIIはMindで開発をしている。 [[マイクロソフトウェアアソシエイツ]]から発売されていた<ref>『[[Oh!FM|Oh!FM TOWNS]]』1993年9月号、144頁。<!--発売元の出典--></ref>MS-DOS向け日本語ワードプロセッサ「[[キムラ太郎]]」はMindで実装されていた。(この名前は[[一太郎]]と木村太郎の駄洒落) [[富士通]]から発売されていた「[[FM秘書]]」の[[ソースコード]]はMindで記述されていた。また、日本語ワードプロセッサ専用機の『[[OASYS]]-30シリーズ』のMS-DOS起動システムには、プログラミング言語としてMindが添付されていた。 == 注釈 == <references/> == 外部リンク == * {{Official website|name=日本語プログラミング言語 Mind}} 公式ウェブサイト {{DEFAULTSORT:まいんと}} [[Category:プログラミング言語|Mind]] [[Category:日本語プログラミング言語]]
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百科事典
百科事典(ひゃっかじてん、羅: encyclopedia)とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順あるいはいろは順に並べ、解説を記した書物のことである。「百科」と表記されることもある。 広辞苑第七版によれば、百科事典は「学術・技芸・社会・家庭その他あらゆる科目にわたる知識を集め記し、これを部門別あるいは五十音順などに配列し、解説を加えた書物」のことであると定義しており、大辞泉では「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物」であると定義されている。 「百科事典」の「百科」とはおおむね「さまざまな分野」といった意味である。かつては「百科辞典」とも表記されたが、1931年に平凡社が『大百科事典』を出版し、それ以後「百科事典」の表記が定着した。 「百科全書」(ひゃっかぜんしょ)とも言うが、この呼称はやや古風な呼び方である。特に、後述するフランスの百科全書派の手によるものを指して百科全書と呼ばれることが多い。中国語では「類書」と称するが、これは「百科全書」が正式の表記である。 なお、百科事典を意味する英語: encyclopedia は、ギリシャ語のコイネーの"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから「一般的な知識」の意味で使われていた。 大型百科事典では数十冊もの大部となるが、記述をコンパクトにまとめた一巻本のものもある。非常に大部のものの場合、索引が独立した一巻となっているものも存在する。索引のほか、地図も単独巻として存在させているものがある。 これら以外にも、定期的に刊行される分冊百科が存在する。分冊百科は映画、医薬、英語、日本史、世界遺産など様々なテーマで刊行され、完結時にファイルするとそのテーマの百科事典が成立する。 百科事典の媒体は2000年頃までは紙の書物(印刷物)が主流であったが、それ以降は書籍以外にも、電子辞書(携帯型の専用装置で内蔵のICに記録されたもの)、CD-ROM/DVD-ROM、メモリーカード、USBメモリ、ウェブとさまざまな形態で登場している。『ブリタニカ百科事典』など本来は紙媒体であった伝統のある百科事典も、現在はWeb上でサービスが展開されていることが多い。初めからWeb専業で展開された百科事典サービスとしては、ウィキペディアが有名なサービスの内の一つである。 百科事典というのは、広辞苑・大辞泉などの説明にもあるように基本的に、さまざまな分野、あるいはあらゆる分野の知識を集めたものである。百科全書派の百科全書や『ブリタニカ百科事典』などもそのような範囲の知識を扱っている。(これが一般的であるが、次に説明するものとあえて区別する時は「総合百科」と呼ばれることがある)。ただし、あらかじめ特定の専門領域に絞ったうえで、その領域内のさまざまな知識を集めた百科事典もある。たとえば『薬学百科事典』、『哲学百科事典』等で、これらの百科事典は「専門百科事典」などと呼ばれることがある。 百科事典の構成・配列方法としては、各項目を分野ごとに分類して編成する方法と、各項目の名称で配列する方法(西欧ではアルファベット順、日本語の百科事典の場合は五十音順など)がある。各項目において、その事典に記事のある単語に印が振られ、相互参照が可能になっている場合も多い。オンライン百科事典においてもそれは変わらず、たとえばウィキペディアでは、内部に記事のある単語にハイパーリンクが付され、相互参照を容易なものとしている。なお、中国語では機械的な配列ができないため、ほとんどの辞書・百科事典が分類配列となっている。 百科事典の項目の立てかたには、おおまかに分類すると大項目主義と小項目主義の二方式がある。大項目主義は、たとえば日本の文学でいうと、「近代文学」など大きなテーマの項目名のもとに、文芸の潮流や著名な作家・作品などについて一つの項目内で概観できるようにまとめたものである。項目は数ページから数十ページにもわたる長大なものになることもある。小項目主義は、「夏目漱石」「芥川龍之介」「自然主義」「吾輩は猫である」など個々の細かいテーマや事物ごとに網羅的に項目を立て、それぞれ別個に簡潔な解説を加えたものである。『ブリタニカ百科事典』の初版は大項目主義であった。一方『ブロックハウス百科事典』は小項目主義の徹底で有名である。 どちらの方式にも一長一短がある。大項目主義では全体を体系的に捉えることができる一方で、特定の作品や作家について調べるには不向きである。小項目主義では個々の項目について調べやすい一方で、全体としてのまとまりに欠ける。ただし、この二つの方式は必ずしも対立するものではない。折衷的な方式(中項目主義)を採る百科事典も珍しくない。利点や欠点は取り上げるテーマにおける向き不向きや編者の立場、利用者の目的等によるところが大きい。 百科事典に掲載された記事は、情勢の変化や新理論の発見などによって常に古くなり、役に立たなくなる危険性が存在するため、定期的な改訂と新版の発行が不可欠となる。ただし、それには多額の資金と労力が必要となるため、容易に行えない。この改訂のコストが、紙の百科事典の多くがオンライン版のものへと移行した要因の一つである。また紙の百科事典の場合、改訂に長い時間を必要とし、新しい情報に対してタイムラグが発生してしまう。これはCD-ROM版も同様である。しかし、オンライン版は内容の変更が即座に反映されるため、紙やCD-ROMに比べて情報の更新が迅速であり、この点はオンライン版の優位性の一つに挙げられる。 古代の百科事典はほとんどが個人の手によるものであったが、18世紀後半には知識の全体量の増大からこのようなことは非常に困難となり、「百科全書」の発行以後は複数の執筆者が専門分野において執筆を行い、それを編集者が編纂して事典に仕立てる方法が主流となった。執筆者は、19世紀前半ごろまでは学界に身を置いていないアマチュアも存在していたが、学問の高度化・専門化に伴いそうしたアマチュアは姿を消し、各分野の学者や専門家が自らの専門分野について寄稿するのがほとんどとなった。知識量の増大と百科事典自体の巻数の増加からこの執筆者の数は一貫して増加する傾向にあり、「百科全書」においては140人ほどだった執筆者は、1911年の「ブリタニカ百科事典」第11版においては1507人にまで増加していた。この傾向はその後も続き、たとえば2007年に発行された平凡社の「改訂新版 世界大百科事典」においては、執筆者数は約7000人に上っている。さらにインターネット上のオープンコンテンツの百科事典においては執筆者の多くは再び専門家ですらなくなり、それに伴って執筆者数も激増した。ウィキペディアにおいては、2022年5月1日の時点で、英語版の登録者数は約4348万人、一か月以内に編集を行ったユーザーだけでも126,197人にのぼる。同日の日本語版のデータは、登録者数が約192万人、一か月以内に編集を行ったユーザーが15,296人である。 一般に「世界最初の百科事典」と呼ばれているのは、フランスのダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した『百科全書』 (L'Encyclopédie)である。ただし厳密に言えば、それ以前に、百科全書に類似した、様々な分野の知識を集めて項目別に整理した書物が全く無かったわけではないので、それらも含めて解説する。 ヨーロッパではすでに紀元前2世紀頃から古い書物を収集し、その内容をまとめることが行われた。代表的なものにプリニウスの博物誌がある。 しかし今日のような辞書形式のものは、10世紀末の東ローマ帝国中期「マケドニア朝ルネサンス」の時代に生まれた。皇帝コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”はギリシアやラテンの古典から歴史や思想についてのさまざまな話題を集め、統治の参考書として編纂した。この流れでヨハネス1世ツィミスケス(在位969年-976年)の治下にはギリシア語の辞書『スーダ辞典』(スダ)が完成している。現在の百科事典と語義辞書の両方の性格を持ち、現在に伝わるもっとも古いアルファベット順配列による事典と考えられている。『スーダ辞典』には誤伝も見られるが、現在は失われた古代の諸作家の作品の膨大な引用によって、現在でも文献学研究の上で意義を認められている。『スーダ辞典』の編集者の名はスイダス(Suidas)であると長く考えられ、そこから辞典類を指す接尾辞 -das が生じた。(例:イミダス=Imidas) 一方アジアでは、歴史上、百科事典に近いものとしては中国で古くより類書が存在してはいたが、これはまだ用語集的な色合いが強く、本格的なものとしては明の時代の中国に、14部構成・全106巻に及ぶ『三才図会(さんさいずえ)』という図入りの百科事典があり、1607年に完成、二年後に刊行された。日本ではこれに倣い、江戸時代の1712年、寺島良安によって『和漢三才図会』がまとめられた。こちらも図解書で、解説は漢文で書かれた。これらも広義の百科事典と呼べる。なお、(現代の百科事典も現代の世界観の反映だが)これらも執筆された時代の世界観を反映しているので、現代人にとっては空想上のものと見なされる「不死国」「長脚国」などに関する記述も含んでいる。 ルネサンス以後、あまたある知識や語彙を集積した書物が各国において徐々に発行されるようになった。17世紀初頭には、それまで分野別になっていた各項目の配列がアルファベット順に並べられるようになった。これにより、百科事典は編集者の価値観に秩序付けられる概念の関係によらず、アルファベットによる機械的で一律な構成となった。1695年から1697年にはピエール・ベールによって「歴史批評辞典」が書かれた。またイギリスのイーフレイム・チェンバーズが1728年に『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』を出版している。サイクロペディアにおいては各項目間の相互参照が初めて導入されており、のちの百科事典に大きな影響を与えた。また、サイクロペディアはそれまでの事典が人文系に片寄っていたのに対し、科学や技術系の記述を大幅に増やしたのも特徴である。 しかし、一般に世界最初の百科事典と呼ばれているのは、フランス革命前夜の1751年に開始された、フランス啓蒙思想運動の一環としてダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した分冊の『百科全書』(L'Encyclopédie)である。彼らは予約購読者を募り、分冊販売としてそれを刊行した(販売形態は今日よく見られる「月刊○○百科」のようにあるテーマで定期刊行される分冊百科を思わせる)。この企てにより彼らは「百科全書派」と呼ばれている。ただし、それぞれの項目の執筆姿勢などで意見の食い違いが生じ、内紛から離脱者が絶えなかった。 この百科全書の特徴は、「美」、「愛」、「音楽」といった大項目の他に、近代に登場した新しい技術を断面図などを含む絵入りの図解で分かりやすく解説、新知識を広く一般の共有財産にしようとしたことにある。良く知られる項目では、「農機具」、「石炭の露天掘り」、「洗濯船」、「廻り舞台」などがある。これ以後、百科事典という語は知の一切を叙述する企ての異称としても用いられる。代表的な例としてヘーゲルの『エンチクロペディー』(ドイツ語で「百科事典」の意)が挙げられる。また、それまでの百科事典が編集者個人の著作、あるいはその傾向が濃いものであったのに対し、百科全書は名高い一流の学者たちがそれぞれ専門分野において寄稿を行い、それを集積して一つの巨大な事典を作るという方向性を明確に示し、以後百科事典はこのスタイルによって作成されていくようになった。 百科全書の刊行後、これに刺激を受けて各国で百科事典が刊行されるようになった。1768年にはスコットランドのエディンバラにおいて「ブリタニカ百科事典」の刊行が開始され、1796年にはドイツのライプツィヒでブロックハウス百科事典が刊行を開始した。1829年にはフィラデルフィアでアメリカ大百科事典の刊行が始まるなど、19世紀中はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどで百科事典の刊行が行われるようになった。こうした百科事典の編纂はしばしば強力な個性を持つ編纂者によって推進された。たとえばフランスにおいては、ピエール・ラルースが1863年から1876年にかけて「19世紀大百科事典」を刊行したが、これはほぼ自らの一生をかけたものであり、ラルース自身は刊行が完了する前の1875年に死亡した。この19世紀百科事典は彼の名を取ってラルースと呼ばれるようになり、以後もこのラルース百科事典は大規模な百科事典の一つとして長く存続している。 20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかったスペインや日本、イタリアなどの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した。 近代の日本では、明治の文明開化の時期に西周によって『百学連環』という日本初の百科事典が作られた。他に小中村清矩らの尽力で成立した『古事類苑』がある。1879年、当時の文部省により編纂が開始され、後には神宮司庁が引き継いで1914年に完成された。各時代の事物についての古文献を集成したため、資料的価値が高い。 しかし、西洋式の近代的な百科事典としては、明治末に三省堂から刊行が開始された『日本百科大辞典』(全10巻、齋藤精輔の編纂で1907年刊行開始、1919年完結)が最も早いものである。ついで昭和初期からは平凡社の『大百科事典』(1955年に『世界大百科事典』へ改題)(全28巻、1931年刊行開始、1934年完結)などが発刊された。新たに「辞典」ではなく「事典」という語を作り出して書名に使用したのは、この平凡社のものが最初で、以後「百科事典」という漢字表記が一般化する。さらに昭和期の高度経済成長を経ると1960年代頃には各家庭に分冊の百科事典が置かれているのは珍しい風景ではなくなり、大衆化を果たした。小学館からは、1962年に『日本百科大事典』(13巻、別冊)、続いて1965年に『世界原色百科事典』(全8巻)、さらに1967年には『大日本百科事典ジャポニカ』(18巻、別巻4)が発行された。各社から次々と百科事典が刊行され人々もそれを求めたこの時期を指して、百科事典ブームと呼ぶ。 こうした百科事典は書店の店頭販売だけではなく、セールスマンによる訪問販売も盛んに行われた。1970年前後には、強引な百科事典の販売が社会問題となり、このことがきっかけに夜間訪問の禁止など訪問販売のルールの原型が作られた。この時代、百科事典は実用面よりも応接間の飾りやステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、場所を取ることもあり、百科事典ブームが終息した後では大部の百科事典はあまり家庭では歓迎されなくなり、廃棄処分されることが多くなった。 百科事典と比較すれば一つの項目あたりの記述の内容も簡易で文字数も少ないが広く各分野にわたる用語の辞典と呼べる出版物として、1948年に自由国民社から『現代用語の基礎知識』が毎年発行されるようになり、流行・世相をふんだんに取り入れた時代風俗を映す年刊の資料集的なものも市場に現れるようになった。のちに1986年には集英社から『イミダス』が発行され、1989年には朝日新聞社から『知恵蔵』という同コンセプトの年刊資料集が現れ、この三誌が鼎立(ていりつ)するようになったが、『イミダス』『知恵蔵』は、インターネットの普及に伴う販売部数の減少により2007年版をもって紙媒体を廃止し、ウェブ版に完全移行したため、紙媒体のこうした年刊資料集は「現代用語の基礎知識」を残すのみとなっている。その「現代用語の基礎知識」も2020年版からは大幅なリニューアルがなされ、2019年版が1226ページなのに対して、296ページとコンパクト化が図られた。 1983年には、講談社インターナショナルより『英文日本大百科事典(英語版)』が刊行された。同書は、日本を英文で体系的に紹介するものであり、全9巻、英単語数400万語に及び、執筆者は27カ国、1300名以上で、費用はおよそ1500万ドル(出版当時の為替レートで34億円以上)かかった。 1990年以降は、パーソナルコンピュータの普及と大容量光学ドライブ搭載に伴い、百科事典はCD-ROMなどの光学メディアによるコンピュータソフトウェアとしても出回るようになった。当初はこうした動きは弱いもので、1990年には紙の百科事典である『ブリタニカ』の売り上げは過去最高を記録していた。しかし1993年に発売が開始されたマイクロソフトの「エンカルタ」などのCD-ROM版の百科事典の急成長によって紙の百科事典の売り上げは激減し、『ブリタニカ』の売り上げは数年で5分の1にまで減少した。こうした動きに対し、1994年には『ブリタニカ』もCD-ROM版を発売開始するなど、多くの百科事典がこの流れに追随した。しかし、この時点においてすでに百科事典の売り上げは急減しており、結果的にCD-ROM/DVD-ROM版の発行は新規参入者を含めどの発行者にも利益をもたらさなかった。2000年の百科事典全体の売り上げは1990年に比べ10分の1にまで落ち込んでいた。 上記の動きはパソコン同士が有機的にリンクされていない時代からの話であったが、2000年ごろからはインターネットの発達と普及に伴い、ウェブ版も作られるようになってきた。こうしたウェブ版の百科事典はインターネット百科事典と呼ばれるようになり、百科事典の一つの大きな流れとなった。1999年には『ブリタニカ』がウェブ上での無料公開を開始し、『ラルース』などの伝統的な百科事典は書籍と同時にオンライン版を展開するなど、新たな対応に着手した。2005年の段階で、携帯電話・PHSのウェブブラウザでアクセスできる百科事典も存在しており、誰でも、使いたい時に、どこでも百科事典の知識にアクセスできる環境になりつつあった。紙媒体の百科事典は、刊行後時間が経つと時事的な内容に関しては記述が陳腐化してしまいがちであるが、ウェブ版の百科事典では、項目内容の随時更新が可能であり、改訂が容易である。ウェブ版およびCD-ROM等の電子媒体を用いた百科事典は、検索や相互参照機能などの使い勝手が紙製の書籍より一般的に優れている。こうした流れはさらに加速し、2012年には百科事典の代表格であった『ブリタニカ百科事典』が書籍版の発行を取りやめ、ウェブ版へと完全移行することを表明した。また2009年には、朝日新聞社、講談社、小学館、朝日新聞出版の4社が共同で参加各社の百科事典をインターネット上で参照することのできるコトバンクをスタートさせた。 1990年代から多くの百科事典がCD版やウェブ版へと移行するようになったものの、それらの百科事典はいまだ専門家によって執筆・監修され、出版社によって発行される一方向からのものであることにかわりはなかった。しかし2001年に、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーによってウィキペディアが設立されると、この流れは大きく変わった。ウィキペディアはそれまでの百科事典とは異なり、「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とし、実際にこれによってウィキペディアは大きく成長を遂げ、規模としては世界最大の百科事典となった。またこの成功を受け、ウィキペディアのほかにもいくつかの読者参加型のインターネット百科事典が編纂されるようになった。こうした百科事典の新しい潮流のひとつである、ウィキペディアなどの「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とするプロジェクトに関しては、従来の百科事典のように専門家や研究者が編纂する体系的書物と比較して、信頼性に問題があるとする指摘がある。同時に、多くのサービスが無料で提供されていることから伝統的な出版業者にとって経営上の不利益をもたらすという指摘もなされている。一方で、ウィキペディアの質を擁護する識者の評価もある。 百科事典は「調べる」本であって、「読む」本ではないが、読むことを目的とすることもある。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "百科事典(ひゃっかじてん、羅: encyclopedia)とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順あるいはいろは順に並べ、解説を記した書物のことである。「百科」と表記されることもある。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "広辞苑第七版によれば、百科事典は「学術・技芸・社会・家庭その他あらゆる科目にわたる知識を集め記し、これを部門別あるいは五十音順などに配列し、解説を加えた書物」のことであると定義しており、大辞泉では「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物」であると定義されている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "「百科事典」の「百科」とはおおむね「さまざまな分野」といった意味である。かつては「百科辞典」とも表記されたが、1931年に平凡社が『大百科事典』を出版し、それ以後「百科事典」の表記が定着した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "「百科全書」(ひゃっかぜんしょ)とも言うが、この呼称はやや古風な呼び方である。特に、後述するフランスの百科全書派の手によるものを指して百科全書と呼ばれることが多い。中国語では「類書」と称するが、これは「百科全書」が正式の表記である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "なお、百科事典を意味する英語: encyclopedia は、ギリシャ語のコイネーの\"ἐγκυκλοπαιδεία\"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「教育」や「子供の育成」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから「一般的な知識」の意味で使われていた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "大型百科事典では数十冊もの大部となるが、記述をコンパクトにまとめた一巻本のものもある。非常に大部のものの場合、索引が独立した一巻となっているものも存在する。索引のほか、地図も単独巻として存在させているものがある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "これら以外にも、定期的に刊行される分冊百科が存在する。分冊百科は映画、医薬、英語、日本史、世界遺産など様々なテーマで刊行され、完結時にファイルするとそのテーマの百科事典が成立する。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "百科事典の媒体は2000年頃までは紙の書物(印刷物)が主流であったが、それ以降は書籍以外にも、電子辞書(携帯型の専用装置で内蔵のICに記録されたもの)、CD-ROM/DVD-ROM、メモリーカード、USBメモリ、ウェブとさまざまな形態で登場している。『ブリタニカ百科事典』など本来は紙媒体であった伝統のある百科事典も、現在はWeb上でサービスが展開されていることが多い。初めからWeb専業で展開された百科事典サービスとしては、ウィキペディアが有名なサービスの内の一つである。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"tag": "p", "text": "しかし今日のような辞書形式のものは、10世紀末の東ローマ帝国中期「マケドニア朝ルネサンス」の時代に生まれた。皇帝コンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”はギリシアやラテンの古典から歴史や思想についてのさまざまな話題を集め、統治の参考書として編纂した。この流れでヨハネス1世ツィミスケス(在位969年-976年)の治下にはギリシア語の辞書『スーダ辞典』(スダ)が完成している。現在の百科事典と語義辞書の両方の性格を持ち、現在に伝わるもっとも古いアルファベット順配列による事典と考えられている。『スーダ辞典』には誤伝も見られるが、現在は失われた古代の諸作家の作品の膨大な引用によって、現在でも文献学研究の上で意義を認められている。『スーダ辞典』の編集者の名はスイダス(Suidas)であると長く考えられ、そこから辞典類を指す接尾辞 -das が生じた。(例:イミダス=Imidas)", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "一方アジアでは、歴史上、百科事典に近いものとしては中国で古くより類書が存在してはいたが、これはまだ用語集的な色合いが強く、本格的なものとしては明の時代の中国に、14部構成・全106巻に及ぶ『三才図会(さんさいずえ)』という図入りの百科事典があり、1607年に完成、二年後に刊行された。日本ではこれに倣い、江戸時代の1712年、寺島良安によって『和漢三才図会』がまとめられた。こちらも図解書で、解説は漢文で書かれた。これらも広義の百科事典と呼べる。なお、(現代の百科事典も現代の世界観の反映だが)これらも執筆された時代の世界観を反映しているので、現代人にとっては空想上のものと見なされる「不死国」「長脚国」などに関する記述も含んでいる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ルネサンス以後、あまたある知識や語彙を集積した書物が各国において徐々に発行されるようになった。17世紀初頭には、それまで分野別になっていた各項目の配列がアルファベット順に並べられるようになった。これにより、百科事典は編集者の価値観に秩序付けられる概念の関係によらず、アルファベットによる機械的で一律な構成となった。1695年から1697年にはピエール・ベールによって「歴史批評辞典」が書かれた。またイギリスのイーフレイム・チェンバーズが1728年に『サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典』を出版している。サイクロペディアにおいては各項目間の相互参照が初めて導入されており、のちの百科事典に大きな影響を与えた。また、サイクロペディアはそれまでの事典が人文系に片寄っていたのに対し、科学や技術系の記述を大幅に増やしたのも特徴である。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "しかし、一般に世界最初の百科事典と呼ばれているのは、フランス革命前夜の1751年に開始された、フランス啓蒙思想運動の一環としてダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した分冊の『百科全書』(L'Encyclopédie)である。彼らは予約購読者を募り、分冊販売としてそれを刊行した(販売形態は今日よく見られる「月刊○○百科」のようにあるテーマで定期刊行される分冊百科を思わせる)。この企てにより彼らは「百科全書派」と呼ばれている。ただし、それぞれの項目の執筆姿勢などで意見の食い違いが生じ、内紛から離脱者が絶えなかった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "この百科全書の特徴は、「美」、「愛」、「音楽」といった大項目の他に、近代に登場した新しい技術を断面図などを含む絵入りの図解で分かりやすく解説、新知識を広く一般の共有財産にしようとしたことにある。良く知られる項目では、「農機具」、「石炭の露天掘り」、「洗濯船」、「廻り舞台」などがある。これ以後、百科事典という語は知の一切を叙述する企ての異称としても用いられる。代表的な例としてヘーゲルの『エンチクロペディー』(ドイツ語で「百科事典」の意)が挙げられる。また、それまでの百科事典が編集者個人の著作、あるいはその傾向が濃いものであったのに対し、百科全書は名高い一流の学者たちがそれぞれ専門分野において寄稿を行い、それを集積して一つの巨大な事典を作るという方向性を明確に示し、以後百科事典はこのスタイルによって作成されていくようになった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "百科全書の刊行後、これに刺激を受けて各国で百科事典が刊行されるようになった。1768年にはスコットランドのエディンバラにおいて「ブリタニカ百科事典」の刊行が開始され、1796年にはドイツのライプツィヒでブロックハウス百科事典が刊行を開始した。1829年にはフィラデルフィアでアメリカ大百科事典の刊行が始まるなど、19世紀中はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどで百科事典の刊行が行われるようになった。こうした百科事典の編纂はしばしば強力な個性を持つ編纂者によって推進された。たとえばフランスにおいては、ピエール・ラルースが1863年から1876年にかけて「19世紀大百科事典」を刊行したが、これはほぼ自らの一生をかけたものであり、ラルース自身は刊行が完了する前の1875年に死亡した。この19世紀百科事典は彼の名を取ってラルースと呼ばれるようになり、以後もこのラルース百科事典は大規模な百科事典の一つとして長く存続している。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかったスペインや日本、イタリアなどの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "近代の日本では、明治の文明開化の時期に西周によって『百学連環』という日本初の百科事典が作られた。他に小中村清矩らの尽力で成立した『古事類苑』がある。1879年、当時の文部省により編纂が開始され、後には神宮司庁が引き継いで1914年に完成された。各時代の事物についての古文献を集成したため、資料的価値が高い。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "しかし、西洋式の近代的な百科事典としては、明治末に三省堂から刊行が開始された『日本百科大辞典』(全10巻、齋藤精輔の編纂で1907年刊行開始、1919年完結)が最も早いものである。ついで昭和初期からは平凡社の『大百科事典』(1955年に『世界大百科事典』へ改題)(全28巻、1931年刊行開始、1934年完結)などが発刊された。新たに「辞典」ではなく「事典」という語を作り出して書名に使用したのは、この平凡社のものが最初で、以後「百科事典」という漢字表記が一般化する。さらに昭和期の高度経済成長を経ると1960年代頃には各家庭に分冊の百科事典が置かれているのは珍しい風景ではなくなり、大衆化を果たした。小学館からは、1962年に『日本百科大事典』(13巻、別冊)、続いて1965年に『世界原色百科事典』(全8巻)、さらに1967年には『大日本百科事典ジャポニカ』(18巻、別巻4)が発行された。各社から次々と百科事典が刊行され人々もそれを求めたこの時期を指して、百科事典ブームと呼ぶ。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "こうした百科事典は書店の店頭販売だけではなく、セールスマンによる訪問販売も盛んに行われた。1970年前後には、強引な百科事典の販売が社会問題となり、このことがきっかけに夜間訪問の禁止など訪問販売のルールの原型が作られた。この時代、百科事典は実用面よりも応接間の飾りやステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、場所を取ることもあり、百科事典ブームが終息した後では大部の百科事典はあまり家庭では歓迎されなくなり、廃棄処分されることが多くなった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "百科事典と比較すれば一つの項目あたりの記述の内容も簡易で文字数も少ないが広く各分野にわたる用語の辞典と呼べる出版物として、1948年に自由国民社から『現代用語の基礎知識』が毎年発行されるようになり、流行・世相をふんだんに取り入れた時代風俗を映す年刊の資料集的なものも市場に現れるようになった。のちに1986年には集英社から『イミダス』が発行され、1989年には朝日新聞社から『知恵蔵』という同コンセプトの年刊資料集が現れ、この三誌が鼎立(ていりつ)するようになったが、『イミダス』『知恵蔵』は、インターネットの普及に伴う販売部数の減少により2007年版をもって紙媒体を廃止し、ウェブ版に完全移行したため、紙媒体のこうした年刊資料集は「現代用語の基礎知識」を残すのみとなっている。その「現代用語の基礎知識」も2020年版からは大幅なリニューアルがなされ、2019年版が1226ページなのに対して、296ページとコンパクト化が図られた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1983年には、講談社インターナショナルより『英文日本大百科事典(英語版)』が刊行された。同書は、日本を英文で体系的に紹介するものであり、全9巻、英単語数400万語に及び、執筆者は27カ国、1300名以上で、費用はおよそ1500万ドル(出版当時の為替レートで34億円以上)かかった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1990年以降は、パーソナルコンピュータの普及と大容量光学ドライブ搭載に伴い、百科事典はCD-ROMなどの光学メディアによるコンピュータソフトウェアとしても出回るようになった。当初はこうした動きは弱いもので、1990年には紙の百科事典である『ブリタニカ』の売り上げは過去最高を記録していた。しかし1993年に発売が開始されたマイクロソフトの「エンカルタ」などのCD-ROM版の百科事典の急成長によって紙の百科事典の売り上げは激減し、『ブリタニカ』の売り上げは数年で5分の1にまで減少した。こうした動きに対し、1994年には『ブリタニカ』もCD-ROM版を発売開始するなど、多くの百科事典がこの流れに追随した。しかし、この時点においてすでに百科事典の売り上げは急減しており、結果的にCD-ROM/DVD-ROM版の発行は新規参入者を含めどの発行者にも利益をもたらさなかった。2000年の百科事典全体の売り上げは1990年に比べ10分の1にまで落ち込んでいた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "上記の動きはパソコン同士が有機的にリンクされていない時代からの話であったが、2000年ごろからはインターネットの発達と普及に伴い、ウェブ版も作られるようになってきた。こうしたウェブ版の百科事典はインターネット百科事典と呼ばれるようになり、百科事典の一つの大きな流れとなった。1999年には『ブリタニカ』がウェブ上での無料公開を開始し、『ラルース』などの伝統的な百科事典は書籍と同時にオンライン版を展開するなど、新たな対応に着手した。2005年の段階で、携帯電話・PHSのウェブブラウザでアクセスできる百科事典も存在しており、誰でも、使いたい時に、どこでも百科事典の知識にアクセスできる環境になりつつあった。紙媒体の百科事典は、刊行後時間が経つと時事的な内容に関しては記述が陳腐化してしまいがちであるが、ウェブ版の百科事典では、項目内容の随時更新が可能であり、改訂が容易である。ウェブ版およびCD-ROM等の電子媒体を用いた百科事典は、検索や相互参照機能などの使い勝手が紙製の書籍より一般的に優れている。こうした流れはさらに加速し、2012年には百科事典の代表格であった『ブリタニカ百科事典』が書籍版の発行を取りやめ、ウェブ版へと完全移行することを表明した。また2009年には、朝日新聞社、講談社、小学館、朝日新聞出版の4社が共同で参加各社の百科事典をインターネット上で参照することのできるコトバンクをスタートさせた。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1990年代から多くの百科事典がCD版やウェブ版へと移行するようになったものの、それらの百科事典はいまだ専門家によって執筆・監修され、出版社によって発行される一方向からのものであることにかわりはなかった。しかし2001年に、ジミー・ウェールズとラリー・サンガーによってウィキペディアが設立されると、この流れは大きく変わった。ウィキペディアはそれまでの百科事典とは異なり、「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とし、実際にこれによってウィキペディアは大きく成長を遂げ、規模としては世界最大の百科事典となった。またこの成功を受け、ウィキペディアのほかにもいくつかの読者参加型のインターネット百科事典が編纂されるようになった。こうした百科事典の新しい潮流のひとつである、ウィキペディアなどの「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とするプロジェクトに関しては、従来の百科事典のように専門家や研究者が編纂する体系的書物と比較して、信頼性に問題があるとする指摘がある。同時に、多くのサービスが無料で提供されていることから伝統的な出版業者にとって経営上の不利益をもたらすという指摘もなされている。一方で、ウィキペディアの質を擁護する識者の評価もある。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "百科事典は「調べる」本であって、「読む」本ではないが、読むことを目的とすることもある。", "title": "概説" } ]
百科事典とは、あらゆる科目にわたる知識を集め、これを部門別やアルファベット順・五十音順あるいはいろは順に並べ、解説を記した書物のことである。「百科」と表記されることもある。
[[File:Encyclopaedia Britannica 15 with 2002.jpg|thumb|250px|[[ブリタニカ百科事典]]第15版]] '''百科事典'''(ひゃっかじてん、{{Lang-la-short|encyclopedia}})とは、あらゆる[[科目]]にわたる[[知識]]を集め、これを部門別や[[アルファベット順]]・[[五十音順]]あるいは[[いろは順]]に並べ、[[解説]]を記した[[書物]]のことである<ref name="kohjien_5" >[[広辞苑]] 第七版 「百科辞典・百科事典」</ref>。「'''百科'''」と表記されることもある。 == 概説 == {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} [[広辞苑]]第七版によれば、百科事典は「[[学術]]・[[技術|技]][[芸術|芸]]・[[社会]]・[[家庭]]その他あらゆる科目にわたる知識を集め記し、これを部門別あるいは五十音順などに配列し、解説を加えた書物<ref name="kohjien_5" />」のことであると定義しており、[[大辞泉]]では「[[人類]]の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物<ref name="daijisen">大辞泉</ref>」であると定義されている。 === 呼称 === 「百科事典」の「百科」とはおおむね「さまざまな分野」といった意味である<ref group="注">数や種類が多いことを象徴するのに中国語や日本語では「百」「千」「万」などの数字を用いて表す。例えば、広辞苑の「百」の項目の解説には「多くのもの、種々のもの」とある。(広辞苑 第五版 p.2270「百」)。「百」「千」「万」などの数字を用いているからといって、ちょうどその数になっているという意味ではない。</ref><ref group="注">「科」は「一定の基準を立てて区分した一つ一つ」(出典:[[広辞苑]] 第五版 p.423「科」、第六版「科」)</ref><ref group="注">一つの分野だけの場合は「単科」や「専科」などと呼ぶ。</ref><ref group="注">「事典」という名称は、[[平凡社]]の創業社長・[[下中弥三郎]]の造語である(出典:[[石山茂利夫]],『裏読み深読み国語辞典』,98ページ,[[草思社]])。もっぱら[[言葉]]とその用法を解説する[[辞典]]([[辞書]])とは異なり、事典は[[写真]]や[[図面|図]]も用いて総合的な解説を行うことを特徴とする。字典(字書)を「もじてん」、辞典(辞書)を「ことばてん」というのと区別して、事典を「ことてん」という。</ref>。かつては「百科'''辞典'''」とも表記されたが、[[1931年]]に[[平凡社]]が『[[世界大百科事典|大百科事典]]』を出版し、それ以後「百科'''事典'''」の表記が定着した。 「'''百科全書'''」(ひゃっかぜんしょ)とも言うが、この呼称はやや古風な呼び方である。特に、後述するフランスの[[百科全書派]]の手によるものを指して[[百科全書]]と呼ばれることが多い。[[中国語]]では「類書」と称するが、これは「百科全書」が正式の表記である。 なお、百科事典を意味する{{Lang-en|encyclopedia}} は、[[ギリシャ語]]の[[コイネー]]の"ἐγκυκλοπαιδεία"から派生した言葉で、「輪になって」の意味であるἐγκύκλιος(enkyklios:en + kyklios、英語で言えば「in circle」)と、「[[教育]]」や「[[子育て|子供の育成]]」を意味するπαιδεία(paideia パイデイア)を組み合わせた言葉であり、ギリシャ人達が街で話し手の周りに集まり聴衆となって伝え聞いた教育知識などから「一般的な[[知識]]」の意味で使われていた<ref>[http://www.etymonline.com/index.php?term=encyclopedia Encyclopaedia] online etymology dictionary</ref><ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3De%29gkuklopaidei%2Fa ἐγκυκλοπαιδεία] Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, at Perseus project</ref><ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3De%29gku%2Fklios ἐγκύκλιος] Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, at Perseus project</ref><ref>[http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aentry%3Dpaidei%2Fa Παιδεία] Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon, at Perseus project</ref>。 === 体裁 === ==== 巻数 ==== 大型百科事典では数十冊もの大部となるが、記述をコンパクトにまとめた一巻本のものもある。非常に大部のものの場合、[[索引]]が独立した一巻となっているものも存在する。索引のほか、[[地図]]も単独巻として存在させているものがある。 これら以外にも、定期的に刊行される[[分冊百科]]が存在する。分冊百科は[[映画]]、[[医薬]]、[[英語]]、[[日本史]]、[[世界遺産]]など様々なテーマで刊行され、完結時にファイルするとそのテーマの百科事典が成立する。 ==== 媒体 ==== 百科事典の[[メディア (媒体)|媒体]]は2000年頃までは[[紙]]の[[書物]]([[印刷物]])が主流であったが、それ以降は書籍以外にも、[[電子辞書]]([[携帯機器|携帯]]型の専用装置で内蔵の[[集積回路|IC]]に[[記録]]されたもの)、[[CD-ROM]]/[[DVD-ROM]]、[[メモリーカード]]、[[USB]]メモリ、[[World Wide Web|ウェブ]]とさまざまな形態で登場している。『[[ブリタニカ百科事典]]』など本来は紙媒体であった伝統のある百科事典も、現在はWeb上でサービスが展開されていることが多い。初めからWeb専業で展開された百科事典サービスとしては、[[ウィキペディア]]が有名なサービスの内の一つである<ref group="注">ウィキペディアの前身は、専門家だけが執筆・編集する[[Nupedia|ヌーペディア]]だったが、ボランティア執筆者の不足によって廃止となった。</ref>。 === 分野 === 百科事典というのは、広辞苑・大辞泉などの説明にもあるように基本的に、さまざまな分野、あるいはあらゆる分野の知識を集めたものである。百科全書派の[[百科全書]]や『ブリタニカ百科事典』などもそのような範囲の知識を扱っている。(これが一般的であるが、次に説明するものとあえて区別する時は「総合百科」と呼ばれることがある)。ただし、あらかじめ特定の専門領域に絞ったうえで、その領域内のさまざまな知識を集めた百科事典もある。たとえば『薬学百科事典』<ref>{{Cite journal|author=東京薬科大学教授 [[川瀬 清]]|year=1984年|title=薬学専門の辞典類|url=https://doi.org/10.14894/faruawpsj.20.2_152|journal=[[日本薬学会]]会誌 ファルマシア|volume=VoL 20、No.2|page=p.152}}</ref>、『哲学百科事典』<ref>{{Cite web |url=https://www.google.com/search?q=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%99%BE%E7%A7%91%E4%BA%8B%E5%85%B8&oq=%E5%93%B2%E5%AD%A6%E7%99%BE%E7%A7%91%E4%BA%8B%E5%85%B8&aqs=edge..69i57&sourceid=chrome&ie=UTF-8 |title=哲学百科事典 |access-date=2023/1/26}}</ref>等で、これらの百科事典は「専門百科事典」などと呼ばれることがある。 === 構成・配列 === 百科事典の構成・配列方法としては、各項目を分野ごとに分類して編成する方法と、各項目の名称で配列する方法(西欧ではアルファベット順、日本語の百科事典の場合は五十音順など)がある。各項目において、その事典に記事のある単語に印が振られ、相互参照が可能になっている場合も多い。オンライン百科事典においてもそれは変わらず、たとえばウィキペディアでは、内部に記事のある単語に[[ハイパーリンク]]が付され、相互参照を容易なものとしている。なお、中国語では機械的な配列ができないため、ほとんどの辞書・百科事典が分類配列となっている。 === 立項 === 百科事典の項目の立てかたには、おおまかに分類すると[[大項目主義と小項目主義|'''大項目主義'''と'''小項目主義''']]の二方式がある。大項目主義は、たとえば日本の文学でいうと、「近代文学」など大きなテーマの項目名のもとに、文芸の潮流や著名な作家・作品などについて一つの項目内で概観できるようにまとめたものである。項目は数ページから数十ページにもわたる長大なものになることもある。小項目主義は、「夏目漱石」「芥川龍之介」「自然主義」「吾輩は猫である」など個々の細かいテーマや事物ごとに網羅的に項目を立て、それぞれ別個に簡潔な解説を加えたものである。『ブリタニカ百科事典』の初版は大項目主義であった。一方『[[ブロックハウス百科事典]]』は小項目主義の徹底で有名である。 どちらの方式にも一長一短がある。大項目主義では全体を体系的に捉えることができる一方で、特定の作品や作家について調べるには不向きである。小項目主義では個々の項目について調べやすい一方で、全体としてのまとまりに欠ける。ただし、この二つの方式は必ずしも対立するものではない。折衷的な方式(中項目主義)を採る百科事典も珍しくない。利点や欠点は取り上げるテーマにおける向き不向きや編者の立場、利用者の目的等によるところが大きい。 === 改訂 === 百科事典に掲載された記事は、情勢の変化や新理論の発見などによって常に古くなり、役に立たなくなる危険性が存在するため、定期的な改訂と新版の発行が不可欠となる。ただし、それには多額の資金と労力が必要となるため、容易に行えない。この改訂のコストが、紙の百科事典の多くがオンライン版のものへと移行した要因の一つである。また紙の百科事典の場合、改訂に長い時間を必要とし、新しい情報に対してタイムラグが発生してしまう。これはCD-ROM版も同様である。しかし、オンライン版は内容の変更が即座に反映されるため、紙やCD-ROMに比べて情報の更新が迅速であり、この点はオンライン版の優位性の一つに挙げられる。 === 執筆者 === 古代の百科事典はほとんどが個人の手によるものであったが、18世紀後半には知識の全体量の増大からこのようなことは非常に困難となり、「百科全書」の発行以後は複数の執筆者が専門分野において執筆を行い、それを編集者が編纂して事典に仕立てる方法が主流となった。執筆者は、19世紀前半ごろまでは学界に身を置いていないアマチュアも存在していたが、学問の高度化・専門化に伴いそうしたアマチュアは姿を消し、各分野の学者や専門家が自らの専門分野について寄稿するのがほとんどとなった。知識量の増大と百科事典自体の巻数の増加からこの執筆者の数は一貫して増加する傾向にあり、「百科全書」においては140人ほどだった執筆者は、[[1911年]]の「ブリタニカ百科事典」第11版においては1507人にまで増加していた<ref>『知識の社会史2――百科事典からウィキペディアまで』p280-281 ピーター・バーク著 井山弘幸訳 新曜社 2015年7月15日初版第1刷</ref>。この傾向はその後も続き、たとえば[[2007年]]に発行された平凡社の「改訂新版 [[世界大百科事典]]」においては、執筆者数は約7000人に上っている<ref>[http://www.heibonsha.co.jp/book/b157277.html 改訂新版 世界大百科事典 全34巻 5訂版便覧入り] 平凡社 2016年6月9日閲覧</ref>。さらにインターネット上のオープンコンテンツの百科事典においては執筆者の多くは再び専門家ですらなくなり、それに伴って執筆者数も激増した。ウィキペディアにおいては、[[2022年]]5月1日の時点で、英語版の登録者数は約4348万人、一か月以内に編集を行ったユーザーだけでも126,197人にのぼる。同日の日本語版のデータは、登録者数が約192万人、一か月以内に編集を行ったユーザーが15,296人である<ref>[[Wikipedia:全言語版の統計]]</ref>。 === 歴史 === 一般に「世界最初の百科事典」と呼ばれているのは、フランスのダランベール、ディドロ、ヴォルテール、ルソーらが企画した『[[百科全書]]』 (L'Encyclopédie)である。ただし厳密に言えば、それ以前に、百科全書に類似した、様々な分野の知識を集めて項目別に整理した書物が全く無かったわけではないので、それらも含めて解説する。 === 起源 === {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} [[ヨーロッパ]]ではすでに[[紀元前]]2世紀頃から古い書物を収集し、その内容をまとめることが行われた。代表的なものに[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]の[[博物誌]]がある。 しかし今日のような辞書形式のものは、10世紀末の[[東ローマ帝国]]中期「[[マケドニア朝ルネサンス]]」の時代に生まれた。[[皇帝]][[コンスタンティノス7世]]“ポルフュロゲネトス”はギリシアやラテンの古典から歴史や思想についてのさまざまな話題を集め、統治の参考書として編纂した。この流れで[[ヨハネス1世ツィミスケス]](在位969年-976年)の治下にはギリシア語の辞書『[[スーダ辞典]]』(スダ)が完成している。現在の百科事典と語義辞書の両方の性格を持ち、現在に伝わるもっとも古いアルファベット順配列による事典と考えられている。『スーダ辞典』には誤伝も見られるが、現在は失われた古代の諸作家の作品の膨大な引用によって、現在でも文献学研究の上で意義を認められている。『スーダ辞典』の編集者の名はスイダス(Suidas)であると長く考えられ、そこから辞典類を指す接尾辞 -das が生じた。(例:[[イミダス]]=Imi''das'') 一方アジアでは、歴史上、百科事典に近いものとしては[[中国]]で古くより[[類書]]が存在してはいたが、これはまだ用語集的な色合いが強く、本格的なものとしては[[明]]の時代の中国に、14部構成・全106巻に及ぶ『[[三才図会]](さんさいずえ)』という図入りの百科事典があり、1607年に完成、二年後に刊行された。[[日本]]ではこれに倣い、[[江戸時代]]の1712年、寺島良安によって『[[和漢三才図会]]』がまとめられた。こちらも図解書で、解説は漢文で書かれた。これらも広義の百科事典と呼べる。なお、(現代の百科事典も現代の世界観の反映だが)これらも執筆された時代の世界観を反映しているので、現代人にとっては空想上のものと見なされる「[[不死人|不死国]]」「[[長股人|長脚国]]」などに関する記述も含んでいる<ref group="注">『[[山海経]]』との共通が指摘される。</ref>。 === 近代的百科事典の成立 === [[Image:Encyclopedie de D'Alembert et Diderot - Premiere Page - ENC 1-NA5.jpg|thumbnail|200px|right|百科全書の表紙]] [[ルネサンス]]以後、あまたある知識や[[語彙]]を集積した書物が各国において徐々に発行されるようになった。17世紀初頭には、それまで分野別になっていた各項目の配列が[[アルファベット]]順に並べられるようになった。これにより、百科事典は編集者の価値観に秩序付けられる概念の関係によらず、アルファベットによる機械的で一律な構成となった<ref>「大英帝国の大事典作り」p39 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷</ref>。[[1695年]]から[[1697年]]には[[ピエール・ベール]]によって「歴史批評辞典」が書かれた<ref>「世界を変えた100の本の歴史図鑑 古代エジプトのパピルスから電子書籍まで」p159 ロデリック・ケイヴ、サラ・アヤド著 樺山紘一日本語版監修 大山晶訳 原書房 2015年5月25日第1刷</ref>。またイギリスの[[イーフレイム・チェンバーズ]]が[[1728年]]に『[[サイクロペディア|サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典]]』を出版している<ref name=":0">「ビジュアル版 本の歴史文化図鑑 5000年の書物の力」p170 マーティン・ライアンズ著 蔵持不三也監訳 三芳康義訳 柊風舎 2012年5月22日第1刷</ref>。サイクロペディアにおいては各項目間の相互参照が初めて導入されており、のちの百科事典に大きな影響を与えた<ref>「大英帝国の大事典作り」p34 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷</ref>。また、サイクロペディアはそれまでの事典が人文系に片寄っていたのに対し、科学や技術系の記述を大幅に増やしたのも特徴である。 しかし、一般に世界最初の百科事典と呼ばれているのは、[[フランス革命]]前夜の[[1751年]]に開始された、フランス[[啓蒙思想]]運動の一環として[[ジャン・ル・ロン・ダランベール|ダランベール]]、[[ドゥニ・ディドロ|ディドロ]]、[[ヴォルテール]]、[[ジャン=ジャック・ルソー|ルソー]]らが企画した分冊の『[[百科全書]]』(L'Encyclopédie)である。彼らは予約購読者を募り、分冊販売としてそれを刊行した(販売形態は今日よく見られる「月刊○○百科」のようにあるテーマで定期刊行される分冊百科を思わせる)。この企てにより彼らは「[[百科全書派]]」と呼ばれている。ただし、それぞれの項目の執筆姿勢などで意見の食い違いが生じ、内紛から離脱者が絶えなかった。 この百科全書の特徴は、「[[美]]」、「[[愛]]」、「[[音楽]]」といった大項目の他に、近代に登場した新しい技術を断面図などを含む絵入りの図解で分かりやすく解説、新知識を広く一般の共有財産にしようとしたことにある<ref>「図説 本の歴史」p62 樺山紘一編 河出書房新社 2011年7月30日初版発行</ref>。良く知られる項目では、「農機具」、「石炭の露天掘り」、「洗濯船」、「廻り舞台」などがある。これ以後、百科事典という語は知の一切を叙述する企ての異称としても用いられる。代表的な例として[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル|ヘーゲル]]の『[[エンチクロペディー]]』(ドイツ語で「百科事典」の意)が挙げられる。また、それまでの百科事典が編集者個人の著作、あるいはその傾向が濃いものであったのに対し、百科全書は名高い一流の学者たちがそれぞれ専門分野において寄稿を行い、それを集積して一つの巨大な事典を作るという方向性を明確に示し<ref>「大英帝国の大事典作り」p26 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷</ref>、以後百科事典はこのスタイルによって作成されていくようになった。 === 百科事典の発展 === {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} 百科全書の刊行後、これに刺激を受けて各国で百科事典が刊行されるようになった。[[1768年]]には[[スコットランド]]の[[エディンバラ]]において「[[ブリタニカ百科事典]]」の刊行が開始され<ref name=":0" />、[[1796年]]には[[ドイツ]]の[[ライプツィヒ]]で[[ブロックハウス百科事典]]が刊行を開始した。[[1829年]]には[[フィラデルフィア]]で[[アメリカ大百科事典]]の刊行が始まるなど、19世紀中はアメリカ、イギリス、フランス、[[オランダ]]、ドイツなどで百科事典の刊行が行われるようになった。こうした百科事典の編纂はしばしば強力な個性を持つ編纂者によって推進された。たとえばフランスにおいては、[[ピエール・ラルース]]が[[1863年]]から[[1876年]]にかけて「19世紀大百科事典」を刊行したが、これはほぼ自らの一生をかけたものであり、ラルース自身は刊行が完了する前の[[1875年]]に死亡した<ref>「ビジュアル版 本の歴史文化図鑑 5000年の書物の力」p171 マーティン・ライアンズ著 蔵持不三也監訳 三芳康義訳 柊風舎 2012年5月22日第1刷</ref>。この19世紀百科事典は彼の名を取ってラルースと呼ばれるようになり、以後もこの[[ラルース百科事典]]は大規模な百科事典の一つとして長く存続している。 20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかった[[スペイン]]や日本、[[イタリア]]などの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した<ref>『知識の社会史2――百科事典からウィキペディアまで』p302-303 ピーター・バーク著 井山弘幸訳 新曜社 2015年7月15日初版第1刷</ref>。 === 近代以後の日本の百科事典 === [[File:平凡社 世界大百科事典 (15116731558).jpg|thumb|250px|平凡社 世界大百科事典]] 近代の日本では、[[明治]]の文明開化の時期に[[西周 (啓蒙家)|西周]]によって『[[百学連環]]』という日本初の百科事典が作られた。他に小中村清矩らの尽力で成立した『[[古事類苑]]』がある。[[1879年]]、当時の文部省により編纂が開始され、後には神宮司庁が引き継いで[[1914年]]に完成された。各時代の事物についての古文献を集成したため、資料的価値が高い。 しかし、西洋式の近代的な百科事典としては、明治末に[[三省堂]]から刊行が開始された『日本百科大辞典』(全10巻、[[齋藤精輔]]の編纂で[[1907年]]刊行開始、[[1919年]]完結)が最も早いものである<ref>「[http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2013/06/12/%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%A0%82%E8%BE%9E%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%99%BE%E7%A7%91%E5%A4%A7%E8%BE%9E%E5%85%B8/ 三省堂辞書の歩み 日本百科大辞典]」三省堂書店 境田稔信 2013年6月12日 2016年6月4日閲覧</ref>。ついで[[昭和]]初期からは[[平凡社]]の『[[世界大百科事典|大百科事典]]』(1955年に『世界大百科事典』へ改題)(全28巻、[[1931年]]刊行開始、[[1934年]]完結)などが発刊された。新たに「辞典」ではなく「事典」という語を作り出して書名に使用したのは、この平凡社のものが最初で、以後「百科事典」という漢字表記が一般化する。さらに昭和期の高度経済成長を経ると1960年代頃には各家庭に分冊の百科事典が置かれているのは珍しい風景ではなくなり、大衆化を果たした。小学館からは、1962年に『日本百科大事典』<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books?op_id=1&any=日本百科大事典|title=日本百科大事典|accessdate=2020-06-23|publisher=国立国会図書館}}</ref>(13巻、別冊)、続いて1965年に『世界原色百科事典』<ref>{{Cite web|和書|url=https://iss.ndl.go.jp/books?op_id=1&any=世界原色百科事典&display=|title=世界原色百科事典|accessdate=2020-06-23|publisher=国立国会図書館}}</ref>(全8巻)、さらに1967年には『[[大日本百科事典|大日本百科事典ジャポニカ]]』(18巻、別巻4)が発行された。各社から次々と百科事典が刊行され人々もそれを求めたこの時期を指して、百科事典ブームと呼ぶ<ref> 「[http://100th.heibonsha.co.jp/history.html 平凡社のこれまで]」平凡社 2016年5月16日閲覧</ref>。 こうした百科事典は書店の店頭販売だけではなく、セールスマンによる[[訪問販売]]も盛んに行われた。1970年前後には、強引な百科事典の販売が[[社会問題]]となり<ref>「弁護士まで加担 強引商法まだ横行」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月14日朝刊、13版、22面</ref>、このことがきっかけに夜間訪問の禁止など訪問販売のルールの原型が作られた<ref>「ブリタニカ全面降伏 配本後の解約のむ 夜間訪問も禁止」『朝日新聞』1970年(昭和45年)12月6日朝刊 12版 3面</ref>。この時代、百科事典は実用面よりも応接間の飾りやステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、場所を取ることもあり、百科事典ブームが終息した後では大部の百科事典はあまり家庭では歓迎されなくなり、廃棄処分されることが多くなった。 百科事典と比較すれば一つの項目あたりの記述の内容も簡易で文字数も少ないが広く各分野にわたる[[用語]]の[[辞典]]と呼べる出版物として、[[1948年]]に[[自由国民社]]から『[[現代用語の基礎知識]]』が毎年発行されるようになり<ref>「[http://gendaiyougo.jp/about.html 現代用語の基礎知識とは]」2016年6月9日閲覧</ref>、流行・世相をふんだんに取り入れた時代風俗を映す年刊の資料集的なものも市場に現れるようになった。のちに1986年には[[集英社]]から『[[イミダス]]』が発行され、[[1989年]]には[[朝日新聞社]]から『[[知恵蔵]]』という同コンセプトの年刊資料集が現れ、この三誌が鼎立(ていりつ)するようになったが、『[[イミダス]]』『[[知恵蔵]]』は、[[インターネット]]の普及に伴う販売部数の減少により[[2007年]]版をもって紙媒体を廃止し、ウェブ版に完全移行した<ref> 『[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0708/31/news107.html 「イミダス」「知恵蔵」休刊 ネットに移行]』 ITmediaニュース 2007年08月31日 2016年6月9日閲覧</ref>ため、紙媒体のこうした年刊資料集は「現代用語の基礎知識」を残すのみとなっている。その「現代用語の基礎知識」も2020年版からは大幅なリニューアルがなされ、2019年版が1226ページなのに対して、296ページとコンパクト化が図られた。 1983年には、講談社インターナショナルより『{{仮リンク|英文日本大百科事典|en|Kodansha Encyclopedia of Japan}}』が刊行された。同書は、日本を英文で体系的に紹介するものであり、全9巻、英単語数400万語に及び、執筆者は27カ国、1300名以上で、費用はおよそ1500万ドル(出版当時の為替レートで34億円以上)かかった<ref>[https://www.kandagaigo.ac.jp/memorial/interview/10/interview_10_5.html 英文日本大百科事典を編纂する日々に出会った「異文化コミュニケーション」という新しい学問。]神田外語グループ</ref>。 === 電子化 === ====CD-ROM/DVD-ROM版==== [[1990年]]以降は、[[パーソナルコンピュータ]]の普及と大容量[[光学ドライブ]]搭載に伴い、百科事典は[[CD-ROM]]などの[[光学メディア]]によるコンピュータ[[ソフトウェア]]としても出回るようになった。当初はこうした動きは弱いもので、[[1990年]]には紙の百科事典である『ブリタニカ』の売り上げは過去最高を記録していた<ref name="WJPP_7000-408343">「[http://jp.wsj.com/public/page/0_0_WJPP_7000-408343.html ブリタニカ百科事典、書籍出版を終了へ]」ウォールストリートジャーナル日本版 2012年3月15日 2016年6月9日閲覧</ref>。しかし[[1993年]]に発売が開始されたマイクロソフトの「[[エンカルタ]]」などのCD-ROM版の百科事典の急成長によって紙の百科事典の売り上げは激減し、『ブリタニカ』の売り上げは数年で5分の1にまで減少した<ref>「大英帝国の大事典作り」p225 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷</ref>。こうした動きに対し、[[1994年]]には『ブリタニカ』もCD-ROM版を発売開始するなど、多くの百科事典がこの流れに追随した。しかし、この時点においてすでに百科事典の売り上げは急減しており、結果的に[[CD-ROM]]/[[DVD-ROM]]版の発行は新規参入者を含めどの発行者にも利益をもたらさなかった。2000年の百科事典全体の売り上げは1990年に比べ10分の1にまで落ち込んでいた<ref>「大英帝国の大事典作り」p227 本田毅彦 講談社 2005年11月10日第1刷</ref>。 ====ウェブ版==== {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} 上記の動きは[[パソコン]]同士が有機的にリンクされていない時代からの話であったが、[[2000年]]ごろからは[[インターネット]]の発達と普及に伴い、[[World Wide Web|ウェブ]]版も作られるようになってきた。こうしたウェブ版の百科事典は[[インターネット百科事典]]と呼ばれるようになり、百科事典の一つの大きな流れとなった。[[1999年]]には『ブリタニカ』がウェブ上での無料公開を開始し、『ラルース』などの伝統的な百科事典は書籍と同時にオンライン版を展開するなど、新たな対応に着手した。2005年の段階で、[[携帯電話]]・[[PHS]]の[[ウェブブラウザ]]でアクセスできる百科事典も存在しており、誰でも、使いたい時に、どこでも百科事典の知識にアクセスできる環境になりつつあった。紙媒体の百科事典は、刊行後時間が経つと時事的な内容に関しては記述が陳腐化してしまいがちであるが、ウェブ版の百科事典では、項目内容の随時更新が可能であり、改訂が容易である。ウェブ版およびCD-ROM等の電子媒体を用いた百科事典は、検索や相互参照機能などの使い勝手が紙製の書籍より一般的に優れている<ref>「ビジュアル版 本の歴史文化図鑑 5000年の書物の力」p172 マーティン・ライアンズ著 蔵持不三也監訳 三芳康義訳 柊風舎 2012年5月22日第1刷</ref>。こうした流れはさらに加速し、[[2012年]]には百科事典の代表格であった『ブリタニカ百科事典』が書籍版の発行を取りやめ、ウェブ版へと完全移行することを表明した<ref name="WJPP_7000-408343" />。また[[2009年]]には、朝日新聞社、講談社、小学館、朝日新聞出版の4社が共同で参加各社の百科事典をインターネット上で参照することのできる[[コトバンク]]をスタートさせた<ref>ITmedia News「[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0904/22/news049.html 信頼性でWikipedia対抗 朝日新聞、講談社、小学館など無料辞書サイト]」2009年4月22日 2016年6月9日閲覧</ref>。 ==== 読者参加型 ==== 1990年代から多くの百科事典がCD版やウェブ版へと移行するようになったものの、それらの百科事典はいまだ専門家によって執筆・監修され、出版社によって発行される一方向からのものであることにかわりはなかった。しかし[[2001年]]に、[[ジミー・ウェールズ]]と[[ラリー・サンガー]]によって[[ウィキペディア]]が設立されると、この流れは大きく変わった。ウィキペディアはそれまでの百科事典とは異なり、「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とし、実際にこれによってウィキペディアは大きく成長を遂げ、規模としては世界最大の百科事典となった。またこの成功を受け、ウィキペディアのほかにもいくつかの読者参加型のインターネット百科事典が編纂されるようになった。こうした百科事典の新しい潮流のひとつである、ウィキペディアなどの「誰でも」執筆や編集に参加できることを特徴とするプロジェクトに関しては、従来の百科事典のように専門家や研究者が編纂する体系的書物と比較して、信頼性に問題があるとする指摘がある<ref>[https://web.archive.org/web/20070926225255/http://media.www.dukechronicle.com/media/storage/paper884/news/2007/03/28/News/Several.Colleges.Push.To.Ban.Wikipedia.As.Resource-2809247.shtml The Chronicle Online: "SEVERAL COLLEGES PUSH TO BAN WIKIPEDIA AS RESOURCE"](2007年9月26日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref><ref>[http://vermonttoday.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/20070401/FEATURES/70330002 Vermont Today: "WIKIPEDIA: What do they know; when do they know it, and when can we trust it?"]</ref><ref>[http://www.theregister.co.uk/2005/12/12/wikipedia_no_responsibility/page2.html The Register: "There's no Wikipedia entry for 'moral responsibility'"]</ref><ref>[http://www.roughtype.com/archives/2005/10/the_amorality_o.php Rough Type: "The Amorality of Web 2.0" ]</ref><ref>ピエール・アスリーヌ/〔ほか〕著 佐々木勉/訳 『ウィキペディア革命 そこで何が起きているのか?』 [[岩波書店]](2008年)(ISBN 978-4-00-022205-1)</ref><ref>山本まさき・古田雄介著 『ウィキペディアで何が起こっているのか 変わり始める[[ソーシャルメディア]]信仰』 [[オーム社]](2008年)(ISBN 978-4-274-06731-0)</ref><ref>[[ハッカージャパン]]2007年7月号</ref>。同時に、多くのサービスが無料で提供されていることから伝統的な出版業者にとって経営上の不利益をもたらすという指摘もなされている<ref group="注">クイッド(フランス)の売り上げが70%以上も減ったとの記述がある。出典:ピエール・アスリーヌ/〔ほか〕著 佐々木勉/訳 『ウィキペディア革命 そこで何が起きているのか?』岩波書店の第5章百科事典の興亡</ref>。一方で、ウィキペディアの質を擁護する識者の評価もある<ref>[http://www.nature.com/nature/journal/v438/n7070/full/438900a.html nature: Special Report Internet encyclopaedias go head to head]</ref><ref>[https://wired.jp/2005/12/19/%E3%80%8E%E3%83%8D%E3%82%A4%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%80%8F%E8%AA%8C%E3%80%81%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%A3%E7%A2%BA%E3%81%95%E3%82%92%E8%A9%95/ 『ネイチャー』誌、ウィキペディアの正確さを評価] [[WIRED.jp]]VISION2005年12月19日</ref><ref>[http://wired.jp/wv/archives/2006/03/27/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%80%81%E3%80%8C%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%9A%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E9%81%8E%E5%A4%A7%E8%A9%95%E4%BE%A1%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%83%8D%E3%82%A4/ ブリタニカ、「ウィキペディア過大評価」とネイチャー誌に抗議] [[WIRED.jp]]VISION2006年3月27日</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0603/24/news061.html 「Wikipediaはブリタニカ並みに正確」記事に反論] [[ITmedia]] News</ref>。 === 読書としての百科事典 === {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} 百科事典は「調べる」本であって、「読む」本ではないが、読むことを目的とすることもある。 * [[井上ひさし]](『[[吉里吉里人]]』[[新潮社]] 1981年)- 百科事典をフォトコピーして記憶する男が出てくる * A.J.ジェイコブズ(『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!』[[文春文庫]] 2005年)- ブリタニカを全巻読破するノンフィクション * [[小川洋子]]「百科事典少女」(『[[最果てアーケード]]』[[講談社]] 2012年) == 主な百科事典 == {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} === 印刷物 === ;世界各国のもの * ''Encyclopædia Britannica''([[ブリタニカ百科事典]]、大英百科事典) - 英語 * ''Encyclopedia Americana''([[アメリカ大百科事典]]、大米百科事典) - 英語 * ''La Grande Encyclopédie''(大百科事典) - フランス語 * ''Brockhaus Enzyklopädie''([[ブロックハウス百科事典]]) - ドイツ語 * ''Enciclopedia Italiana''([[イタリア百科事典]]、大伊百科事典) - イタリア語 * ''Enciclopedia universal ilustrada europeo-americana''(欧米国際教養百科事典) - スペイン語 * ''Ottův slovník naučný''([[オットー百科事典]])<ref>{{Cite book|和書|author=ピエール・ボヌール、山本俊朗訳|year=1993|month=2|title=チェコスロヴァキア史|publisher=[[白水社]]|chapter=民族主義思想の勝利をめざす闘争(一八四八~一九一八)|isbn=4-560-05450-9|pages=p. 90}}</ref> - チェコ語 * ''{{lang|ru|Большая Советская Энциклопедия}}''([[ソビエト大百科事典]]) - ロシア語 * ''{{lang|ru|Большая Российская энциклопедия}}''([[ロシア大百科事典]]) - ロシア語 * {{lang|zh|《中国大百科全书》}}([[中国大百科全書]]) - 中国語 ;日本語 * [[世界大百科事典]]([[平凡社]]) - 書籍、CD-ROM、Web(Web版は終了) ::あらゆる分野をバランスよく記載。 * [[日本大百科全書]]([[小学館]]) - 「ニッポニカ」書籍、CD-ROM、電子ブック、Internet、i-Mode ::日本についてを中心として、他のあらゆることも記載。 * [[ブリタニカ国際大百科事典]]([[ブリタニカ]]) - 書籍、CD-ROM、Internet(最新版は英語) ::Encyclopaedia Britannica の和訳事典。英国についてを中心として、他のあらゆることも記載。 * [[マイペディア]](平凡社) - 書籍、CD-ROM、電子辞書、メモリーカード、インターネット ::平凡社から出版される、世界大百科事典より小型の百科事典。 * 世界原色百科事典、[[大日本百科事典]]「ジャポニカ」、万有百科事典「ジャンル・ジャポニカ」 - いずれも小学館、書籍 ::小学館より販売されていた百科事典。既に絶版。 * 国民百科大辞典([[冨山房]]) - 書籍 * 日本家庭大百科事彙([[冨山房]]) - 書籍 * [[ポプラディア]]([[ポプラ社]]) - 書籍、DVD-ROM、Internet * [[エンカルタ]]([[マイクロソフト]]) - CD-ROM、DVD-ROM、Internet(終了) === オンライン版 === ;[[イギリス]] : [[ブリタニカ百科事典]] ;[[アメリカ合衆国]] : [[カトリック百科事典]] - 「カトリック百科事典」とはなっているが、実際には様々な記事があり、非常に詳細。 ;[[オーストリア]] : AEIOU - The Austrian Cultural Information System<ref group="注">[http://www.aeiou.at/;internal&action=_setlanguage.action?LANGUAGE=en AEIOU - The Austrian Cultural Information System]</ref> (すべての記事が英訳されている) ;[[大韓民国]] : EnCyber - [[斗山世界大百科事典]](斗山東亜)のオンライン版 ;[[ハンガリー]] : Pallas Nagy Lexikona<ref group="注">[http://www.mek.iif.hu/porta/szint/egyeb/lexikon/pallas/html/ Pallas Nagy Lexikona] (Keresesで検索、Bongeszesで閲覧)</ref> ;[[ドイツ]] : Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL)<ref group="注">[http://www.bbkl.de/ Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL) - T.Bautz-Verlag]</ref> - 神学関係の事典。ユダヤ教にも詳しい。 ;[[ノルウェー]] : Store norske leksikon(SNL)ノルウェーの公用語の一つ[[ブークモール]]で書かれた百科事典。[[ノルウェー百科事典]]も参照。 ;[[ユダヤ教]]・[[ユダヤ人]] : [[ジューイッシュ・エンサイクロペディア]] : [[エンサイクロペディア・ジュダイカ]] === 年刊の用語事典 === * [[現代用語の基礎知識]]([[自由国民社]]) * [[イミダス]]([[集英社]]) * [[知恵蔵]]([[朝日新聞社]]) <!-- 創刊順 --> == インターネット上の百科事典 == {{出典の明記|date=2021年8月|section=1}} {{See also|インターネット百科事典|Category:オンライン百科事典}} * [[ウィキペディア]]([[ウィキペディア日本語版]]) - [[ウィキメディア財団]]が運営している[[インターネット百科事典]]である。 * [[Citizendium]] - ウィキペディア設立者の一人で後に手を引いた[[ラリー・サンガー]]によって立ち上げられた。執筆者は実名登録が求められる。 * [[Yahoo!百科事典]] - [[日本大百科全書]]([[小学館]])が無料で使えていた。[[2013年]][[12月3日]]をもってサービス終了。 * [[はてなのサービス一覧#はてなキーワード|はてなキーワード]] - 旧はてなダイアリーキーワード * [[近代デジタルライブラリー]] (分類:00総記-031百科事典)[[国立国会図書館]] - 200種類以上の百科事典がWEB上で公開された。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === 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アルゴリズム
アルゴリズム(英: algorithm)とは、解が定まっている「計算可能」問題に対して、その解を正しく求める手続きをさす。あるいはそれを形式的(formal)に表現したもの。 岩波国語辞典「算法」に、まず「計算の方法」とした後に2番目の詳細な語義でalgorithmの訳として、 とある。一見では国語辞典らしい平易な日本語で書かれた説明だが、例えば解が無いと無限ループに陥るといったようなものは除外されるし、「アルゴリズムの視覚的表現」としてよく使われるフローチャートのようなもので書いてあっても、基本的操作がはっきりと書いてなければそれはアルゴリズムではない、というわけである。これは、#形式化の節で述べるような、理論計算機科学での「アルゴリズム」の扱いに沿っている。 記録に残る最古のアルゴリズムは、エウクレイデスの原論のものである。その中でも、二つの整数の最大公約数を求めるユークリッドの互除法は、典型的なアルゴリズムとして知られている。 「アルゴリズム」という名称は、現在のイラクのバグダードにおける9世紀の数学者アル=フワーリズミーの名前から来ているといわれている。彼がインド数学を紹介した著作『インドの数の計算法』(825年)が、12世紀にチェスターのロバート(あるいはバースのアデラード)によってラテン語に翻訳され、『algoritmi de numero Indorum アルゴリトミ・デ・ヌーメロ・インドルム』(直訳すると「インドの数におけるアルゴリトミ」)という題で、以後500年間にわたってヨーロッパ各国の大学で数学の主要な教科書として用いられた。この書は、冒頭に「algoritmi dicti(アル・フワリズミーに曰く)」という一節があるので『algoritmi()』と呼ばれていた。 1920〜30年代、計算可能性のための数学モデル(計算モデル)がいくつも提案された(チューリングマシン、帰納的関数、ラムダ計算など)。後にこれらの定義はすべて同等であることがわかり、それらにより同値な概念を「計算可能」とすることが提案された(チャーチ=チューリングのテーゼ、提案者はスティーヴン・コール・クリーネ。なお、チューリングのほうを先とする専門家もいる)。したがって、現在では「これらによって『計算可能なもの』を計算する手続き」をアルゴリズムと呼ぶ。 ここではまず非形式的にアルゴリズムについて述べた後で、停止性など形式的(フォーマル)な議論を続ける。 アルゴリズムはコンピュータが情報を処理する基盤である。すなわち、プログラムは本質的にはアルゴリズムであり、コンピュータが特定のタスク(従業員の給与計算、学生の成績表の印刷など)を(指定された順序で)実行するためのステップをコンピュータに指示する。したがって、アルゴリズムはチューリング完全なシステムで実行可能な操作の並びとみなすこともできる。 アルゴリズムは情報処理と結びついていることが多く、データは何らかの入力源(機器)から読み込まれ、結果は何らかの出力先(機器)に書かれるか、次の処理の入力となるよう保持される。保持されたデータはアルゴリズムを実行する実体の内部状態の一部とみなされる。実際、コンピュータでは状態をデータ構造に保持したりする。 このような計算過程について、アルゴリズムは厳密に定義されなければならず、ありうる全ての状況に適用可能な形で指定される。すなわち、どのような条件のステップでも、ケースバイケースで体系的に扱わなければならず、各ケースの扱い方は明確で(計算可能で)なければならない。 アルゴリズムは明確なステップの明確なリストなので、その計算順序は最も重要である。命令列は、先頭から最後尾に向かって逐次的に実行されるよう記述される。この考え方をより形式的にしたものが制御構造である。 以上の説明は、命令型プログラミングを前提としてアルゴリズムを定式化する場合である。これは、最も典型的な概念であり、タスクを離散的かつ機械的なものとして表すものである。その場合に特有の操作として、変数に値を設定する「代入」がある。これは、直観的にはメモリをメモ帳のようなものとみなすところから生まれた。 これ以外のアルゴリズムの概念化として、関数型プログラミングや論理プログラミングがある。 プログラマは擬似コードなどを使うことが多いが、理論計算機科学での形式的で厳密な議論には計算モデルを使う。もちろん相互に得失があり、必要であれば互いにどちらも使う。 アルゴリズムは最終的に必ず停止しなければならないとする定義もある。というより形式的で厳密な議論では停止するものだけがアルゴリズムである(チャーチ=チューリングのテーゼも参照)。 そのため、そうでないものと呼び分ける必要があることもあり、クリーネは停止性のあるアルゴリズムを「decision procedure for the question」「decision method for the question」「algorithm for the question」とした。停止しない可能性のある手続きについては、クヌースは「computational method」と呼び、クリーネは「calculation procedure」「algorithm」と呼んでいる。 ミンスキーは、(特定の状態から開始された)アルゴリズムの停止性について次のように述べている。 アラン・チューリングが停止性問題として提起したとおり、任意のプロシージャと初期状態が与えられたとき、それが停止するかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない(この前半を「任意のアルゴリズムと初期状態が」としてはいけない。この記事の他の部分では完全に混用されているが、この文の後半の「アルゴリズムは」という表現は、必ず停止するもののみを指してそう言っているのだから。せめて1文の中では混用はまずい)。 不完全な(あるいは間違った)アルゴリズムは、次のいずれかの結果となる。 クリーネはこれらをアルゴリズム内で検出してエラーメッセージを返すか、可能ならば無限ループに入らせることを提案した。また、結果が真理値である場合についてクリーネは第三の論理記号「 u {\displaystyle u} 」を使うことも提案している。そうすれば、命題を扱うアルゴリズムで何らかの値を常に生成できるとした。誤った答えを返す問題は、帰納法を使ったアルゴリズムに関する個別の「証明」で解決される。 アルゴリズムには様々な記法があり、自然言語、擬似コード、フローチャート、プログラミング言語などがある。アルゴリズムの自然言語表現は冗長であいまいになる傾向があり、複雑なアルゴリズムや技術的な場面では単独ではほとんど使用されない。擬似コードやフローチャートはアルゴリズムを構造的に表現でき、自然言語のようなあいまいさもほとんどない。プログラミング言語でアルゴリズムを示すこともよくある。 アルゴリズムの記述は、例えばチューリング機械を使ったならば、として次の3つに分類している書籍などがある。 (以上の2つのような内容では、そもそも概要で説明したように「はっきり」していない可能性もあるし、詳細が無ければ無限ループに陥らないことを証明することもできない。従ってそもそも実際には「アルゴリズムを記述」してはいない) 多くのアルゴリズムは、コンピュータプログラムとして実装されることを意図している。しかし、アルゴリズムの実装手段はほかにもあり、電気回路で実装したり、機械で実装したりすることもある。人間が算術を覚えるのも、脳内の神経網にアルゴリズムが実装されたものと見ることもできる。 簡単なアルゴリズムの例として、(整列されていない)有限長の数列(リスト)に含まれる(大きさが一定値以下の整数の)最大の数を見つけ出すアルゴリズムを考える。ここでは、リストに含まれる全ての数を調べる必要があるが、一度に調べらることができるのは1つだけであるとする。ここから得られるアルゴリズムを、日本語で記述すると次のようになる。 次に、プログラミング言語的にやや形式的に記述すると、次のような擬似コードになる(「←」は代入を表し、「return」はその後に記された値を返してアルゴリズムが終了することを意味する)。 入力: 空でない数リスト L、出力: リスト L 内の最大(largest)の数。 あるアルゴリズムの実行に必要な計算資源(時間や記憶領域)の量を見積もることは重要である。そのような量を定量的に求める分析法はアルゴリズム解析と呼ばれ、研究がなされてきた。例えば、上記のアルゴリズムの実行に必要な時間はリストの長さを n {\displaystyle n} とするときO記法を用いて表せば O ( n ) {\displaystyle O(n)} となる。このアルゴリズムでは、(与えられたリスト以外には)常に(その時点での最大の数と、現在見ているリスト上の位置)2つの値だけを記憶しておけばよい。したがって、必要となる記憶領域の量は O ( 1 ) {\displaystyle O(1)} となるが、リストの長さnを記憶して入力として与える場合にはそのための領域も含めるとすると O ( log n ) {\displaystyle O(\log n)} になる。 同じ問題であっても、アルゴリズムが異なれば、必要とする時間や記憶領域の量も異なる。例えば、ソートには様々なアルゴリズムがあり、それぞれ必要な時間や記憶領域の量が異なる。 アルゴリズム解析は計算機科学の一部であり、特定のプログラミング言語や実装を前提とせずに、抽象的に解析を行うことも多いが、特定のプログラミング言語や実装を前提として、具体的に解析を行うことも多い。これは、アルゴリズムの様々な属性に注目した他の数学的分野とも共通する。 アルゴリズムには様々な分類方法があり、それぞれに利点がある。 アルゴリズム分類の1つの方法として、実装手段による分類がある。 別の分類方法として、アルゴリズムの設計方法論やパラダイムで分類する方法がある。それぞれ異なるいくつかのパラダイムが存在する。さらに、個々のパラダイムの中にも様々な異なる形式のアルゴリズムが含まれている。以下に主なパラダイムを挙げる。 科学のどんな分野にも固有の問題があり、効率的なアルゴリズムが必要とされている。ある分野の問題はまとめて研究されることが多い。そのような分類として、探索アルゴリズム、ソートアルゴリズム、マージアルゴリズム、数値アルゴリズム、グラフアルゴリズム、文字列アルゴリズム、計算幾何アルゴリズム、組合せアルゴリズム、機械学習、暗号理論、データ圧縮アルゴリズム、構文解析などがある。 各分野はオーバーラップしており、ある分野でのアルゴリズムの進歩が、時には全く異なる分野での改善につながることがある。例えば、動的計画法は、本来、産業における資源消費の最適化のために発明されたが、現在では様々な分野での各種問題に適用されている。 アルゴリズムは、入力長に対する計算時間で分類される。あるアルゴリズムは入力長に対して線形時間で完了する。また別のアルゴリズムは指数時間以上かかるし、場合によっては完了しないこともある。さらに、問題によっては計算量の異なる複数のアルゴリズムが存在するし、効率的なアルゴリズムが全く知られていない問題もある。問題によっては、別の問題への写像が存在する。以上のようなことから、計算量による分類は、アルゴリズムについてではなく、問題について行うのが適当とされている。つまり、問題を解く最善のアルゴリズムの計算量に基づいて、問題を分類する。 アルゴリズムは計算能力によっても分類される。一般にアルゴリズムは計算能力によって階層的に分類される。「再帰的クラス」とは、全てのチューリング計算可能関数についてのアルゴリズムを含むクラスである。このような階層化によって、計算に必要とされる計算資源(時間とメモリ)を制限できる可能性が生じる。「部分再帰クラス」は、全てのチューリング計算可能な関数を得ることはできない。例えば、多項式時間で実行されるアルゴリズムには多くの重要な計算が含まれるが、チューリング計算可能な関数全体を含むことはない。原始再帰関数で実装されるアルゴリズムのクラスは、別の部分再帰的クラスの例である。 Burgin (2005, p. 24) は、関数を計算するアルゴリズムは有限ステップ後に必ず出力が決定されなければならないという一般的条件を緩めたアルゴリズムの汎用的定義を行った。彼は「超再帰的クラス」を「チューリングマシンで計算可能でない関数を計算可能なアルゴリズムのクラス」と定義した(Burgin 2005, p. 107)。これはハイパーコンピュータの手法の研究と密接に関係している。 アルゴリズム自体は一般に特許化できない。アメリカ合衆国では、抽象概念、数、信号の単純な操作だけから成る請求項は「プロセス」を構成しないとされるので、アルゴリズムは特許化できない。 しかし、アルゴリズムの具体的応用は特許化可能な場合がある。例えば、Diamond v. Diehrのケースでは、単純なフィードバックアルゴリズムを使った合成ゴムの硬化処理が特許として認められた。 データ圧縮アルゴリズムの分野では、ソフトウェア特許が論争の元になることが多く、例えばユニシスのLZWアルゴリズムの特許問題が有名である。 圧縮アルゴリズムで有名な特許問題は他に算術符号も挙げられる。算術符号で取得されている特許の範囲は3点であるとされている。算術符号によって断念されたソフトウェアやファイル形式は多く、代替品が相次いで開発された。 線型計画問題の解法であるカーマーカーのアルゴリズムは日本において特許無効審判がなされたが、2000年12月11日付けで特許庁に当該特許の放棄による特許権抹消の登録が行われたため、最終的に審判が却下された。 著作権の観点では、日本において著作権法10条3項にて明示的にアルゴリズムが同法の保護対象外であることが定められている。ただしアルゴリズムを記した文書や、アルゴリズムを実装したプログラムは著作物として保護対象となる(文書やプログラムを通して「アルゴリズムが保護」されるわけではない。つまりこの文章は、アルゴリズムについて書いてあるわけではない)。 アルゴリズム自体が保護される訳では無いが、商標の基準を満たしていればアルゴリズム名称を商標として登録することはできる。ただしアルゴリズム名称はその性質上から通常は一般名詞として通用するものであり、一般名詞と同じ語について商標の基準を満たして商標として登録しても、一般名詞の一般名詞としての(すなわちごく当然の)使用を妨げるという通念に反するような権利の濫用はできないような商標法上の制限があるため、通常の、商品名などを登録した場合と違い権利は制限される。 暗号アルゴリズムには輸出規制されているものもある(アメリカでの例)。
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Diehrのケースでは、単純なフィードバックアルゴリズムを使った合成ゴムの硬化処理が特許として認められた。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "データ圧縮アルゴリズムの分野では、ソフトウェア特許が論争の元になることが多く、例えばユニシスのLZWアルゴリズムの特許問題が有名である。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "圧縮アルゴリズムで有名な特許問題は他に算術符号も挙げられる。算術符号で取得されている特許の範囲は3点であるとされている。算術符号によって断念されたソフトウェアやファイル形式は多く、代替品が相次いで開発された。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "線型計画問題の解法であるカーマーカーのアルゴリズムは日本において特許無効審判がなされたが、2000年12月11日付けで特許庁に当該特許の放棄による特許権抹消の登録が行われたため、最終的に審判が却下された。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "著作権の観点では、日本において著作権法10条3項にて明示的にアルゴリズムが同法の保護対象外であることが定められている。ただしアルゴリズムを記した文書や、アルゴリズムを実装したプログラムは著作物として保護対象となる(文書やプログラムを通して「アルゴリズムが保護」されるわけではない。つまりこの文章は、アルゴリズムについて書いてあるわけではない)。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "アルゴリズム自体が保護される訳では無いが、商標の基準を満たしていればアルゴリズム名称を商標として登録することはできる。ただしアルゴリズム名称はその性質上から通常は一般名詞として通用するものであり、一般名詞と同じ語について商標の基準を満たして商標として登録しても、一般名詞の一般名詞としての(すなわちごく当然の)使用を妨げるという通念に反するような権利の濫用はできないような商標法上の制限があるため、通常の、商品名などを登録した場合と違い権利は制限される。", "title": "法的問題" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "暗号アルゴリズムには輸出規制されているものもある(アメリカでの例)。", "title": "法的問題" } ]
アルゴリズムとは、解が定まっている「計算可能」問題に対して、その解を正しく求める手続きをさす。あるいはそれを形式的(formal)に表現したもの。 また、それを実行した際の効率性(要する時間や記憶領域)が優れていることも重要となり、大量の入力データなどに対する計算の際にも、より高速に(短時間に)実行可能となる。 このようなアルゴリズムを、コンピュータへソフトウェア的に実装するものがコンピュータプログラムである。
{{Wikiversity|アルゴリズム}} '''アルゴリズム'''({{lang-en-short|algorithm}}{{efn2|{{IPA-en|ˈælgəˌrɪð''ə''m|}}}})とは、[[解]]が定まっている「[[計算可能性理論|計算可能]]」問題に対して、その[[解]]を正しく求める手続きをさす<ref group="注">解が存在しない問題に対しては、それを正しく判定できなければならない。</ref>。あるいはそれを形式的に表現したもの。 実用上は、アルゴリズムの実行に要する記憶領域の大きさや完了までに要する時間([[計算複雑性理論|空間計算量と時間計算量]])が小さいこと、特に問題の規模を大きくした際に必要な記憶領域や計算量が急激に大きくならないことが重要となる。 アルゴリズムの実行は形態によらない。[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]は[[コンピュータ]]上に実装されたアルゴリズムの例である。 == 概要 == [[画像:LampFlowchart.svg|thumb|right|[[フローチャート]]はアルゴリズムの視覚的表現としてよく使われる。これはランプがつかない時のフローチャート。]] [[岩波書店|岩波]]国語辞典「算法」に、まず「計算の方法」とした後に2番目の詳細な語義でalgorithmの訳として、 {{quotation|特に、同類の問題一般に対し、有限回の基本的操作を、指示の順を追って実行すれば、解がある場合にはその解が得られ、解がない場合にはそのことが確かめられるように、はっきりと仕組んである手順。}} とある。一見では国語辞典らしい平易な日本語で書かれた説明だが、例えば解が無いと[[無限ループ]]に陥るといったようなものは除外されるし、「アルゴリズムの視覚的表現」としてよく使われる[[フローチャート]]のようなもので書いてあっても、基本的操作がはっきりと書いてなければそれはアルゴリズムではない、というわけである。これは、[[#形式化]]の節で述べるような、[[理論計算機科学]]での「アルゴリズム」の扱いに沿っている。 == 歴史 == 記録に残る最古のアルゴリズムは、[[エウクレイデス]]の[[ユークリッド原論|原論]]のものである。その中でも、二つの整数の[[最大公約数]]を求める[[ユークリッドの互除法]]<ref>ユークリッド『[[ユークリッド原論|原論]]』第 7 巻「数論」、命題 1〜3。</ref>は、典型的なアルゴリズムとして知られている。 「アルゴリズム」という名称は、現在の[[イラク]]の[[バグダード]]における9世紀の数学者[[フワーリズミー|アル=フワーリズミー]]{{efn2|{{Rtl翻字併記|ar|الخوارزمي|al-Khwarizmi}}}}の名前から来ているといわれている。彼が[[インド数学]]を紹介した著作『[[インドの数の計算法]]』([[825年]])が、12世紀に[[チェスターのロバート]](あるいは[[バースのアデラード]])によってラテン語に翻訳され、『{{lang|la|algoritmi de numero Indorum}} アルゴリトミ・デ・ヌーメロ・インドルム』<ref>{{Cite web |url=https://www.britannica.com/science/algorithm |title=Britannica Encyclopedia - Algorithm: Definition, Types, & Facts |access-date=2023年1月14日 |first=The Editors of Encyclopaedia Britannica |editor=Erik Gregersen |language=英語}}</ref>(直訳すると「インドの数における<!--についての?-->アルゴリトミ」)という題で、以後500年間にわたってヨーロッパ各国の大学で数学の主要な教科書として用いられた。この書は、冒頭に「{{lang|la|algoritmi dicti}}(アル・フワリズミーに曰く)」という一節があるので『{{読み仮名|{{lang|la|algoritmi}}|アルゴリトミ}}』と呼ばれていた。 1920〜30年代、計算可能性のための数学モデル([[計算模型|計算モデル]])がいくつも提案された([[チューリングマシン]]、[[帰納的関数]]、[[ラムダ計算]]など)。後にこれらの定義はすべて同等であることがわかり、それらにより同値な概念を「計算可能」とすることが提案された([[チャーチ=チューリングのテーゼ]]、提案者は[[スティーヴン・コール・クリーネ]]。なお、[[アラン・チューリング|チューリング]]のほうを先とする専門家もいる)。したがって、現在では「これらによって『計算可能なもの』を計算する手続き」をアルゴリズムと呼ぶ。 == 形式化 == ここではまず非形式的にアルゴリズムについて述べた後で、停止性など形式的(フォーマル)な議論を続ける。 アルゴリズムは[[コンピュータ]]が情報を処理する基盤である。すなわち、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]は本質的にはアルゴリズムであり、コンピュータが特定のタスク(従業員の給与計算、学生の成績表の印刷など)を(指定された順序で)実行するためのステップをコンピュータに指示する。したがって、アルゴリズムは[[チューリング完全]]なシステムで実行可能な操作の並びとみなすこともできる。 {{quotation|&hellip;チューリングの命題についての非形式的な論証から、より強い命題が正当化される。すなわち、全てのアルゴリズムはチューリング機械でシミュレート可能である&hellip;Savage <nowiki>[1987]</nowiki> によれば、アルゴリズムはチューリング機械によって定義される計算過程である。<ref>Yuri Gurevich「[http://research.microsoft.com/~gurevich/Opera/141.pdf {{lang|en|Sequential Abstract State Machines Capture Sequential Algorithms}}]」{{lang|en|ACM Transactions on Computational Logic}}、第1巻、no 1 (2000年7月)、pages 77–111</ref>}} アルゴリズムは[[情報処理]]と結びついていることが多く、データは何らかの入力源(機器)から読み込まれ、結果は何らかの出力先(機器)に書かれるか、次の処理の入力となるよう保持される。保持されたデータはアルゴリズムを実行する実体の内部状態の一部とみなされる。実際、コンピュータでは状態を[[データ構造]]に保持したりする。 このような計算過程について、アルゴリズムは厳密に定義されなければならず、ありうる全ての状況に適用可能な形で指定される。すなわち、どのような条件のステップでも、ケースバイケースで体系的に扱わなければならず、各ケースの扱い方は明確で(計算可能で)なければならない。 アルゴリズムは明確なステップの明確なリストなので、その計算順序は最も重要である。命令列は、先頭から最後尾に向かって逐次的に実行されるよう記述される。この考え方をより形式的にしたものが[[制御構造]]である。 以上の説明は、[[命令型プログラミング]]を前提としてアルゴリズムを定式化する場合である。これは、最も典型的な概念であり、タスクを離散的かつ機械的なものとして表すものである。その場合に特有の操作として、変数に値を設定する「代入」がある。これは、直観的にはメモリをメモ帳のようなものとみなすところから生まれた。 これ以外のアルゴリズムの概念化として、[[関数型言語|関数型プログラミング]]や[[論理プログラミング]]がある。 === アルゴリズムの記述 === プログラマは[[擬似コード]]などを使うことが多いが、[[理論計算機科学]]での形式的<ref group="注">{{lang-en-short|formal}}</ref>で厳密<ref group="注">{{lang-en-short|rigorous}}</ref>な議論には[[計算モデル]]を使う。もちろん相互に得失があり、必要であれば互いにどちらも使う。 === 停止性 === {{seealso|計算可能性理論}} アルゴリズムは最終的に必ず停止しなければならないとする定義もある。というより形式的で厳密な議論では停止するものだけがアルゴリズムである([[チャーチ=チューリングのテーゼ]]も参照)。 そのため、そうでないものと呼び分ける必要があることもあり、[[スティーヴン・コール・クリーネ|クリーネ]]は停止性のあるアルゴリズムを「{{lang|en|decision procedure for the question}}」「{{lang|en|decision method for the question}}」「{{lang|en|algorithm for the question}}」とした<ref name="Kleene1952">{{cite book|last=クリーネ|first=ステフェン|authorlink=ステフェン・コール・クリーネ|title={{lang|en|Introduction to Metamathematics}}|edition=第10版 1991年|publisher=ノースホーランド出版|date=1952年(初版)}}</ref>。停止しない可能性のある手続きについては、[[ドナルド・クヌース|クヌース]]は「{{lang|en|computational method}}」<ref>{{cite book|last=クヌース|first=ドナルド|authorlink=ドナルド・クヌース|title={{lang|en|Fundamental Algorithms, Third Edition}}|publisher=アジソン・ウェスレイ|location=米国マサチューセッツ州リーディング|date=1997年|ISBN 0-201-89683-4}}</ref>と呼び、クリーネは「{{lang|en|calculation procedure}}」「{{lang|en|algorithm}}」<ref name="Kleene1952"/>と呼んでいる。 [[マービン・ミンスキー|ミンスキー]]は、(特定の状態から開始された)アルゴリズムの停止性について次のように述べている。 {{quotation|しかしもし実行中のプロセスの長さが不明ならば、それを試すことは得策ではないかもしれない。何故なら、もしプロセスが永遠に続くなら、我々は答えを得られないかもしれないのだから。<ref name="Minsky1967">{{cite book|last=ミンスキー|first=マービン|authorlink=マービン・ミンスキー|title={{lang|en|Computation: Finite and Infinite Machines}}|edition=初版|publisher=プレンティスホール、米国ニュージャージー州|date=1967年}}</ref>}} [[アラン・チューリング]]が[[停止性問題]]として提起したとおり、任意のプロシージャと初期状態が与えられたとき、それが停止するかどうかを判定するアルゴリズムは存在しない(この前半を「任意のアルゴリズムと初期状態が」としてはいけない。この記事の他の部分では完全に混用されているが、この文の後半の「アルゴリズムは」という表現は、必ず停止するもののみを指してそう言っているのだから。せめて1文の中では混用はまずい)。 不完全な(あるいは間違った)アルゴリズムは、次のいずれかの結果となる。 *停止しない。 *解の範囲を逸脱した値を返して停止する。 *誤った解を返して停止する。 *解を返さずに停止する。 *これらの組合せ。 クリーネはこれらをアルゴリズム内で検出してエラーメッセージを返すか、可能ならば無限ループに入らせることを提案した<ref name="Kleene1952"/>。また、結果が真理値である場合についてクリーネは第三の論理記号「<math>u</math>」<ref group="注">{{lang-en-short|undecided}}、不定</ref>を使うことも提案している<ref name="Kleene1952"/>。そうすれば、命題を扱うアルゴリズムで何らかの値を常に生成できるとした。誤った答えを返す問題は、帰納法を使ったアルゴリズムに関する個別の「証明」で解決される。 {{quotation|通常、これ(アルゴリズムが[[μ再帰関数]]を正しく定義しているかという問題)には補助的な証拠を必要とする。それは例えば、個々の引数の値について、計算が一意な値で終了するかという帰納的証明の形式で示される。<ref name="Minsky1967"/>}} === その他の表現 === アルゴリズムには様々な記法があり、[[自然言語]]、[[擬似コード]]、[[フローチャート]]、[[プログラミング言語]]などがある。アルゴリズムの自然言語表現は冗長であいまいになる傾向があり、複雑なアルゴリズムや技術的な場面では単独ではほとんど使用されない。擬似コードやフローチャートはアルゴリズムを構造的に表現でき、自然言語のようなあいまいさもほとんどない。プログラミング言語でアルゴリズムを示すこともよくある。 アルゴリズムの記述は、例えば[[チューリングマシン|チューリング機械]]を使ったならば、として次の3つに分類している書籍などがある<ref>{{cite book|last=Sipser|first=Michael|title={{lang|en|Introduction to the Theory of Computation}}|publisher=PWS出版社|date=2006年}}</ref>。 ;高レベルな記述 :自然言語でアルゴリズムを説明したもの。実装の詳細は省かれている。このレベルでは、チューリング機械のテープやヘッドの動きまでは説明しない。 ;実装レベルの記述 :チューリング機械のヘッドの動きやテープへのデータ格納方法を自然言語で説明する。このレベルでは機械の状態や遷移関数の詳細は説明しない。 (以上の2つのような内容では、そもそも概要で説明したように「はっきり」していない可能性もあるし、詳細が無ければ無限ループに陥らないことを証明することもできない。従ってそもそも実際には「アルゴリズムを記述」してはいない) ;形式的記述 :[[チューリングマシン#形式的な定義]]を参照。 === 実装 === 多くのアルゴリズムは、[[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]として実装されることを意図している。しかし、アルゴリズムの実装手段はほかにもあり、[[電気回路]]で実装したり、機械で実装したりすることもある。人間が[[算術]]を覚えるのも、[[脳]]内の神経網にアルゴリズムが実装されたものと見ることもできる。 == 例 == {{出典の明記| date = 2021年7月| section = 1}} 簡単なアルゴリズムの例として、(整列されていない)有限長の数列(リスト)に含まれる(大きさが一定値以下の整数の)最大の数を見つけ出すアルゴリズムを考える。ここでは、リストに含まれる全ての数を調べる必要があるが、一度に調べらることができるのは1つだけであるとする。ここから得られるアルゴリズムを、日本語で記述すると次のようになる。 ===概念的記述=== #最初の要素(数)が最大と仮定する。 #残りのリスト上の数を順に見ていき、最大の数よりも大きい数が見つかったら、それを新たな最大として記憶する。 #最後に記憶した数がそのリストでの最大の数であり、これで処理が完了する。 次に、プログラミング言語的にやや形式的に記述すると、次のような[[擬似コード]]になる(「←」は代入を表し、「'''return'''」はその後に記された値を返してアルゴリズムが終了することを意味する)。 ===擬似形式的記述=== 入力: 空でない数リスト <var>L</var>、出力: リスト <var>L</var> 内の最大(<var>largest</var>)の数。 <code>'''algorithm''' 最大値を求める '''is''' ''largest'' ← <var>L<sub>0</sub></var> '''for each''' <var>item</var> '''∈''' リスト <var>L<sub>≧1</sub></var> '''do''' '''if''' <var>largest</var> < <var>item</var> '''then''' <var>largest</var> ← <var>item</var> '''end''' '''end''' '''return''' <var>largest</var> '''end'''</code> ==アルゴリズム解析== {{出典の明記| date = 2021年7月| section = 1}} あるアルゴリズムの実行に必要な計算資源(時間や記憶領域)の量を見積もることは重要である。そのような量を定量的に求める分析法は[[アルゴリズム解析]]と呼ばれ、研究がなされてきた。例えば、上記のアルゴリズムの実行に必要な時間はリストの長さを <math>n</math> とするとき[[ランダウの記号|O記法]]を用いて表せば <math>O(n)</math> となる。このアルゴリズムでは、(与えられたリスト以外には)常に(その時点での最大の数と、現在見ているリスト上の位置)2つの値だけを記憶しておけばよい。したがって、必要となる記憶領域の量は <math>O(1)</math> となるが、リストの長さ''n''を記憶して入力として与える場合にはそのための領域も含めるとすると <math>O(\log n)</math> になる。 同じ問題であっても、アルゴリズムが異なれば、必要とする時間や記憶領域の量も異なる。例えば、[[ソート]]には様々なアルゴリズムがあり、それぞれ必要な時間や記憶領域の量が異なる。 [[アルゴリズム解析]]は[[計算機科学]]の一部であり、特定の[[プログラミング言語]]や実装を前提とせずに、抽象的に解析を行うことも多いが、特定のプログラミング言語や実装を前提として、具体的に解析を行うことも多い。これは、アルゴリズムの様々な属性に注目した他の数学的分野とも共通する。 == 分類 == {{出典の明記| date = 2021年7月| section = 1}} アルゴリズムには様々な分類方法があり、それぞれに利点がある。 === 実装による分類 === アルゴリズム分類の1つの方法として、実装手段による分類がある。 ; 再帰 / 反復 : [[再帰アルゴリズム]]は、ある条件が成り立つまで自身を再帰的に呼び出すものであって、[[関数型言語]]でよく使われる。[[ループ (プログラミング)|反復]]アルゴリズムは、ループのような反復構造と場合によっては[[スタック]]などの[[データ構造]]を補助的に使い、問題を解く。一部の問題は、どちらか一方の実装が自然である。例えば、[[ハノイの塔]]は再帰的実装の方が分かりやすい。再帰アルゴリズムは全て反復アルゴリズムでも実装可能であり、逆も同じである(ただし、複雑さは変化する)。 ; 論理 : アルゴリズムは、制御された[[演繹]]であるとも言われる。これを '''アルゴリズム = 論理 + 制御''' と表現することもある<ref>{{cite journal|last=Kowalski|first=Robert|authorlink=|title=Algorithm=Logic+Control|journal=Communications of the ACM|volume=22|issue=7|pages=424–436|publisher= ACM Press|date=1979年|id=ISSN 0001-0782|doi=10.1145/359131.359136}}</ref>。論理部分は計算で使われる公理を表し、制御部分は公理に演繹が適用される方法を決定する。これは[[論理プログラミング]]というパラダイムの基本である。純粋な論理プログラミングでは、制御部分が固定されていて、アルゴリズムは論理部分だけで指定される。この手法の魅力は、[[プログラム意味論]]的なエレガントさがある点である。公理の変化は定式化されたアルゴリズムの変更を伴う。 ; 逐次 / 並列 / 分散 : アルゴリズムは通常、コンピュータが一度に1つのアルゴリズム内の1つの命令だけを実行するものと仮定して議論される。このようなコンピュータは、シリアル・コンピュータなどと呼ばれることもある。そういった環境向けに設計されたアルゴリズムは逐次アルゴリズムと呼ばれ、それとは対照的な分類として[[並列アルゴリズム]]や[[分散アルゴリズム]]がある。並列アルゴリズムは、複数のプロセッサが同時並行して同じ問題を解くのに使える[[コンピュータアーキテクチャ]]で有効である。また、分散アルゴリズムは、複数のマシンが[[コンピュータネットワーク]]で相互接続された環境で使われる。並列/分散アルゴリズムは、問題を分割して解き、その結果を集めて最終的な結果を得る。その場合、個々のプロセッサの計算時間(実行命令数)だけでなく、プロセッサ間の通信オーバーヘッドも[[計算資源]]の消費量として問題になる。例えば、[[ソート]]アルゴリズムは効率的に並列化できるものもあるが、通信オーバーヘッドは高くつく(部分数列をソートした結果を集めるには、結局部分数列そのものをやりとりしなくてはならない)。反復アルゴリズムは一般に並列化可能である。並列アルゴリズムがない問題は、本質的に逐次的な問題である。 ; 決定性 / 非決定性 : [[決定的アルゴリズム|決定性アルゴリズム]]<!--すぐ下に「決定性」がある-->では解法の全ステップが常に正確に決定されるが、非決定性アルゴリズムはいわば推量や推測で問題を解くものであり、[[ヒューリスティクス]]を使ってより正確に推測する。 ; 正解 / 近似解 : 一般にアルゴリズムは正解を得るものだが、[[近似アルゴリズム]]は近似解を求め、その近似性に一定の根拠があれば、これも広義のアルゴリズムとして含めて考えることができる。近似には、決定性の戦略もあれば、乱択の戦略もある。多くの難しい問題では、近似アルゴリズムしか実用的な解法が存在しない。近似アルゴリズムはその近似解の近似性能も評価・保証などがされる必要がある。 === 設計パラダイムによる分類 === 別の分類方法として、アルゴリズムの設計方法論やパラダイムで分類する方法がある。それぞれ異なるいくつかのパラダイムが存在する。さらに、個々のパラダイムの中にも様々な異なる形式のアルゴリズムが含まれている。以下に主なパラダイムを挙げる。 ;[[分割統治法]] :分割統治法は、問題を(通常[[再帰呼び出し|再帰的]]に)複数または単一の同じ種類のもっと小さい問題に還元していき、最終的に容易に解ける程度の大きさにする。分割統治の例としては[[マージソート]]がある。ソートは入力データを分割してそれぞれに対して行われ、統治フェーズではそれらの結果をマージする。分割統治法を単純化したものとして {{lang|en|'''decrease and conquer algorithm'''}} がある。これは、問題を全く同じ複数の部分問題に分割し、その解をより大きな問題を解くのに利用する。分割統治法では一般に分割された個々の部分問題は全く同じではないため、統治フェーズは {{lang|en|decrease and conquer algorithm}} よりも複雑になる。{{lang|en|decrease and conquer algorithm}} の例として[[二分探索]]がある。 ;[[動的計画法]] :部分問題の最適解から全体の最適解が得られるような構造の問題や、同じ部分問題の最適解が様々な問題の解法に有効であるような問題の場合、動的計画法を使って既に計算済みの解を再計算するのを避けることができ、解法を効率化できる。例えば重み付けのある[[グラフ理論|グラフ]]での最短経路を求める場合、始点に隣接する全ての頂点について最短経路が分かっていれば、容易に最短経路が求められる。動的計画法と[[メモ化]]は密接な関係がある。分割統治法との違いは、分割統治法では部分問題は多少なりとも独立しているのに対して、動的計画法では部分問題が重複している。単純な再帰との違いは、再帰部分をキャッシュ化またはメモ化する点である。部分問題が互いに独立している場合、メモ化は何の役にも立たない。したがって、動的計画法はあらゆる複雑な問題の解法とはならない。動的計画法では、メモ化あるいは既に解かれた部分問題の表を使うことによって、指数関数的性質をもつ問題を多項式レベルの[[複雑性]]に削減することができる。 ;[[貪欲法]] :貪欲法は[[動的計画法]]に似ているが、部分問題の解を各段階では知る必要がないという点が異なる。その代わりに、各時点で最もよい選択と思われるものを選んでいく。貪欲法では、それまでの選択と現時点の局所最適解から最適と思われる解を構築していくのであって、考えられるあらゆる解を評価することはない。したがって網羅的ではなく、必ずしも正解にたどり着けるわけではない。しかし、性能は非常によい。貪欲法としてよく知られている例として、[[スパニング木|最短経路木]]を求める[[クラスカル法]]、[[プリム法]]、[[ダイクストラ法]]などがある。 ;[[線型計画問題|線型計画法]] :線型計画法で解ける問題では、制約条件として入力に関する線型の[[不等式]]があり、入力に関するある線型の関数を最大化(または最小化)する値の組合せを求めるものである。有向[[グラフ理論|グラフ]]に関する[[最大フロー問題]]など、多くの問題が線型計画問題として記述でき、[[シンプレックス法]]などの汎用アルゴリズムで解くことができる。線型計画法の解空間を[[整数]]に限定したものを整数計画法と呼ぶ。 ;[[還元 (計算複雑性理論)|還元]] :この技法は、難しい問題をほぼ最適なアルゴリズムが既知の別の問題に変換するものである。例えば、ソートされていない数列から中央値を求める[[選択アルゴリズム]]として、まずその数列を[[ソート]]し、そこから真ん中に位置する値を取り出すという方式がある。 ;[[探索]]と数え上げ :[[チェス]]の手を考えるなどといった問題は、[[グラフ理論|グラフ]]問題としてモデル化できる。そのような問題では、比較的よく研究されているグラフ探索アルゴリズムを使うことができる。このカテゴリーには、[[探索|探索アルゴリズム]]、[[分枝限定法]]、[[バックトラッキング]]も含まれる。 ;確率的パラダイムとヒューリスティクス :ここに分類されるのは広義のアルゴリズム、ないし、[[遺伝的アルゴリズム]]のように(名前に反して)アルゴリズムではないものである。 :*[[乱択アルゴリズム]] - 選択を無作為(あるいは擬似無作為)的に行う。問題によっては、[[ランダム|無作為性]]をもった解法が最も性能がよいと証明されているものもある。 :*[[遺伝的アルゴリズム]] - 生物の[[進化]]過程をまねた手法で解を求めるもの。無作為な突然変異を加えて、次世代の解を生成していく。自然淘汰と自己複製をエミュレートしているものと看做す視点から「遺伝的」という命名がされた。 :*[[ヒューリスティクス]] - [[計算資源]]が限られている状況での近似解を求めることを目的としている。正解を求めるのには適さない。例えば、[[局所探索法]]、[[タブーサーチ]]、[[焼きなまし法]]といった、何らかの無作為性を導入して確率的に解を発見しようとするアルゴリズムがある。例えば焼きなまし法という名前は、冶金学の[[焼きなまし]]に由来する。加熱と冷却によって金属結晶の欠陥がなくなるように、無作為性を与えて局所的な最適解に陥るのを防ぎ、徐々に無作為性を小さくすることによって最終的に1つの解に落ち着くという手法である。 === 研究分野による分類 === 科学のどんな分野にも固有の問題があり、効率的なアルゴリズムが必要とされている。ある分野の問題はまとめて研究されることが多い。そのような分類として、[[探索|探索アルゴリズム]]、[[ソート|ソートアルゴリズム]]、[[マージ|マージアルゴリズム]]、[[数値解析|数値アルゴリズム]]、[[グラフ理論|グラフアルゴリズム]]、[[文字列|文字列アルゴリズム]]、[[計算幾何学|計算幾何アルゴリズム]]、[[組合せ数学|組合せアルゴリズム]]、[[機械学習]]、[[暗号理論]]、[[データ圧縮]]アルゴリズム、[[構文解析]]などがある。 各分野はオーバーラップしており、ある分野でのアルゴリズムの進歩が、時には全く異なる分野での改善につながることがある。例えば、動的計画法は、本来、産業における資源消費の最適化のために発明されたが、現在では様々な分野での各種問題に適用されている。 === 計算量による分類 === {{See also|複雑性クラス}} アルゴリズムは、入力長に対する計算時間で分類される。あるアルゴリズムは入力長に対して線形時間で完了する。また別のアルゴリズムは指数時間以上かかるし、場合によっては完了しないこともある。さらに、問題によっては計算量の異なる複数のアルゴリズムが存在するし、効率的なアルゴリズムが全く知られていない問題もある。問題によっては、別の問題への写像が存在する。以上のようなことから、計算量による分類は、アルゴリズムについてではなく、問題について行うのが適当とされている。つまり、問題を解く最善のアルゴリズムの計算量に基づいて、問題を分類する。 === 計算能力による分類 === アルゴリズムは計算能力によっても分類される。一般にアルゴリズムは計算能力によって階層的に分類される。「再帰的クラス」とは、全てのチューリング計算可能関数についてのアルゴリズムを含むクラスである。このような階層化によって、計算に必要とされる[[計算資源]](時間とメモリ)を制限できる可能性が生じる。「部分再帰クラス」は、全てのチューリング計算可能な関数を得ることはできない。例えば、[[P (計算複雑性理論)|多項式時間]]で実行されるアルゴリズムには多くの重要な計算が含まれるが、チューリング計算可能な関数全体を含むことはない。[[原始再帰関数]]で実装されるアルゴリズムのクラスは、別の部分再帰的クラスの例である。 Burgin (2005, p. 24)<ref name="Burgin2005">Burgin, M. ''Super-recursive algorithms'', Monographs in computer science, Springer, 2005. ISBN 0387955690</ref> は、関数を計算するアルゴリズムは有限ステップ後に必ず出力が決定されなければならないという一般的条件を緩めたアルゴリズムの汎用的定義を行った。彼は「超再帰的クラス」を「チューリングマシンで計算可能でない関数を計算可能なアルゴリズムのクラス」と定義した(Burgin 2005, p. 107)<ref name="Burgin2005"/>。これは[[ハイパーコンピュータ]]の手法の研究と密接に関係している。 == 法的問題 == === 特許 === {{See also|ソフトウェア特許}} アルゴリズム自体は一般に特許化できない。[[アメリカ合衆国]]では、抽象概念、数、信号の単純な操作だけから成る請求項は「プロセス」を構成しないとされるので<ref>[[米国特許商標庁]] (2006), [http://www.uspto.gov/web/offices/pac/mpep/documents/2100_2106_02.htm ''2106.02 **>Mathematical Algorithms< - 2100 Patentability''], Manual of Patent Examining Procedure (MPEP).</ref>、アルゴリズムは特許化できない。 しかし、アルゴリズムの具体的応用は特許化可能な場合がある。例えば、[[:en:Diamond v. Diehr|Diamond v. Diehr]]のケースでは、単純な[[フィードバック]]アルゴリズムを使った合成ゴムの硬化処理が特許として認められた。 [[データ圧縮]]アルゴリズムの分野では、ソフトウェア特許が論争の元になることが多く、例えば[[ユニシス]]の[[Graphics Interchange Format#特許問題とその顛末|LZWアルゴリズムの特許問題]]が有名である。 圧縮アルゴリズムで有名な特許問題は他に算術符号も挙げられる。算術符号で取得されている特許の範囲は3点であるとされている。算術符号によって断念されたソフトウェアやファイル形式は多く、代替品が相次いで開発された。 {{main|算術符号}} [[線型計画問題]]の解法である[[カーマーカーのアルゴリズム]]は日本において特許無効審判がなされたが、2000年12月11日付けで特許庁に当該特許の放棄による特許権抹消の登録が行われたため、最終的に審判が却下された。 {{main|カーマーカーのアルゴリズム}} === 著作権 === [[著作権]]の観点では、[[日本]]において[[著作権法]][[b:著作権法第10条|10条]]3項にて明示的にアルゴリズムが同法の保護対象外であることが定められている<ref>[http://chosakuken.bunka.go.jp/naruhodo/answer.asp?Q_ID=0000033 著作権なるほど質問箱] - 文化庁</ref>。ただしアルゴリズムを記した文書や、アルゴリズムを実装したプログラムは著作物として保護対象となる<ref>[http://www.fe-siken.com/kakomon/24_haru/q78.html 基本情報技術者 平成24年春期 午前問78] - 基本情報技術者試験ドットコム</ref>(文書やプログラムを通して「アルゴリズムが保護」されるわけではない。つまりこの文章は、アルゴリズムについて書いてあるわけではない)。 === 登録商標 === アルゴリズム自体が保護される訳では無いが、商標の基準を満たしていればアルゴリズム名称を商標として登録することはできる。ただしアルゴリズム名称はその性質上から通常は一般名詞として通用するものであり、一般名詞と同じ語について商標の基準を満たして商標として登録しても、一般名詞の一般名詞としての(すなわちごく当然の)使用を妨げるという通念に反するような権利の濫用はできないような商標法上の制限があるため、通常の、商品名などを登録した場合と違い権利は制限される。 === その他 === 暗号アルゴリズムには輸出規制されているものもある([[アメリカ合衆国からの暗号の輸出規制|アメリカでの例]])。 == 代表的なアルゴリズム == {{seealso|en:List_of_algorithms}} * [[探索]] ** [[線型探索]]、[[二分探索]] ** [[幅優先探索]]、[[深さ優先探索]] ** [[文字列探索]] ** [[ハッシュ関数]] * [[ソート]] ** [[挿入ソート]] ** [[バブルソート]] ** [[クイックソート]] ** [[マージソート]] ** [[ヒープソート]] * [[選択アルゴリズム|選択]] * [[マージ]] === 数学の問題に対するアルゴリズム === * [[筆算]] - かけ算(尾乗法)、わり算(長除法) * [[ユークリッドの互除法]] - [[最大公約数]]を求める * [[ガウスの消去法]] - [[線型方程式系]](連立方程式)の解を求める * [[ニュートン法]] - 繰り返し計算により解の精度を高める方法で非線型方程式の数値解を1つ求める * [[ガウス=ルジャンドルのアルゴリズム]] - [[円周率]]を求める * [[素数判定|素数判定法]] - 与えられた[[自然数]]が素数かどうかを判定する * [[素因数分解]] - 与えられた自然数を素因数分解する * [[高速フーリエ変換]](FFT) - 離散フーリエ変換を計算機上で計算する。工学、理学、医療工学などに広く応用されている。例えば、波形データが含む周波数成分を算出するなど。 === 設計パラダイム === * [[力まかせ探索]](ブルートフォース) - 全ての要素を片っ端から調べて探す方法。単純だが非常に汎用的な計算機科学の問題解決法 * [[分割統治法]] * [[動的計画法]] * [[近似アルゴリズム]] ** [[貪欲法]] ** [[局所探索法]] * [[乱択アルゴリズム]](確率的アルゴリズム) ** [[ラスベガス法]] ** [[モンテカルロ法]] *** [[ブートストラップ法]] * [[遺伝的アルゴリズム]] * [[ヒューリスティクス]] === 各分野の固有の問題に対するアルゴリズム === * [[線型計画問題]] ** [[シンプレックス法]] - [[線型計画法]]の1つ ** [[カーマーカーのアルゴリズム|カーマーカー法]] * [[グラフ理論]]における[[最短経路問題]] ** [[ダイクストラ法]] ** [[ベルマン-フォード法]] ** [[A*]] - 推定値つきの場合のダイクストラ法。 * [[グラフ理論]]における最小全域木問題 ** [[クラスカル法]] - 貪欲法の一種 ** [[プリム法]] * [[データ圧縮]](デジタル圧縮) ** ファイル圧縮(ZIP)、画像圧縮(JPEG、GIF)、音声圧縮(MP3)、動画圧縮(MPEG-4、H.264)。 * [[暗号]] ** [[RSA暗号]] - インターネットセキュリティにおける重要な技術。素因数分解の計算の困難さを利用した[[公開鍵暗号]]方式。[[デジタル署名]]にも応用されている。 * [[誤り検出訂正]] ** [[リード・ソロモン符号]] - 最も実用化されている誤り訂正符号の一つ。身近なところではQRコードに使われている。アルゴリズムには有限体の理論が応用されている。 ** [[ターボ符号]] - 第三世代携帯電話の規格や、宇宙探査機での通信などに使われている。 ** [[低密度パリティ検査符号|LDPC符号]] - 最も効率的な誤り訂正符号の一つ。復号法に[[確率伝播|確率伝播法]]が応用されているところが特徴。実用化も進められていて、デジタルテレビの衛星通信の標準として採用されている。 * [[擬似乱数|擬似乱数生成法]] ** [[線形合同法]] ** [[メルセンヌ・ツイスタ]] * [[二人零和有限確定完全情報ゲーム|完全情報ゲーム]]における思考法 ** [[ミニマックス法]] ** [[アルファ・ベータ法]] - ミニマックス法の改良 * [[パターン認識]] ** [[サポートベクターマシン]] ** [[カーネル法]] * [[確率伝播法]] - [[ベイジアンネットワーク]]上の計算アルゴリズム。人工知能学習や情報理論の分野などに応用されている。 * [[ページランク]] - Google社が開発したウェブページの重要度の判定技術 * [[顔認識システム]] * [[音声認識]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 関連項目 == * [[逐次アルゴリズム]] * [[並列アルゴリズム]] * [[分散アルゴリズム|分散アルゴリズム/分散プロトコル]] * [[近似アルゴリズム]] * [[確率的アルゴリズム]] * [[オンラインアルゴリズム]] * [[進化的計算]] * [[アルゴリズム作曲法]]([[:en:Algorithmic composition|en]]) === 計算可能性と複雑性の理論の関連 === * [[計算可能性理論]] * [[計算複雑性理論]](計算量理論) === 計算モデル関連 === * [[チューリングマシン]] * [[帰納的関数]] * [[λ計算]] * [[チャーチの提唱]] == 外部リンク == * {{MathWorld | urlname=Algorithm | title=Algorithm}} * [http://everydaymath.uchicago.edu/educators/Algorithms_final.pdf Algorithms in Everyday Mathematics] * {{Curlie|Computers/Algorithms/|Algorithms}} * [https://algs4.cs.princeton.edu/home/ The web site of the textbook Algorithms, 4th edition by Robert Sedgewick and Kevin Wayne] * {{Kotobank}} {{アルゴリズム}}{{コンピュータ科学}}{{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:あるこりすむ}} [[Category:アルゴリズム|*]] [[Category:離散数学]] [[Category:数理論理学]] [[Category:理論計算機科学]] [[Category:数学に関する記事]] [[Category:アラビア語の語句]] [[Category:数学のエポニム]]
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UNIX
UNIX (ユニックス、Unix、英語発音: [júːniks])は、コンピュータ用のマルチタスク・マルチユーザーのオペレーティングシステムの一種である。公式な商標は「UNIX」だが、商標以外の意味として「Unix」、またはスモールキャピタルを使用して「Unix」などとも書かれる。Unixは1969年、AT&Tのベル研究所にて、ケン・トンプソン、デニス・リッチーらが開発を開始した。現代的なOSの始祖であり、あらゆる後発OSがUNIXで発明・実証された設計を参考にしている。開発開始から半世紀以上に渡る技術の進歩やプロジェクトの変遷により、オリジナルのUNIXのソースコードは既に使われなくなったが、現在でも派生OSの開発は続けられており、特にシステムのバックエンドで動くスーパーコンピュータやサーバ向けの市場では圧倒的な存在感を示している。 当初はアセンブリ言語のみで開発されたが、1973年にほぼ全体をC言語で書き直した。このため、Unixは歴史上、初めて高水準言語で書かれたOSであると言われることがある。 1973年の段階ではPDP-11に依存したコードが多く、移植性は低かったが、その後徐々にPDP-11に依存したコードを減少させ、1978年にInterdata 8/32への移植に成功して以降、徐々に他のプラットフォームにも移植されていった。 2021年現在では「Unix」という語は、Unix標準に準拠するあらゆるオペレーティングシステムの総称でもある。既にUnixシステムは多数の系統に分かれており、AT&Tの開発停止後も、多数の商用ベンダーや非営利組織などによって開発が続けられている。 1970年代から1980年代の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特にカリフォルニア大学バークレー校をオリジナルとするBSD系統が誕生した。また Version 7 Unix や UNIX System V の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。 2007年に、「UNIX」の商標の所有者である標準化団体のThe Open Groupは、Single UNIX Specificationを完全に満たすと認証を受けたシステムのみが「UNIX」の商標を得られるとした。このためそれ以外のシステムは(ずっと以前から、AT&T版およびBSD以外を指して使われていた用語だが)「Unixシステムライク」または「Unixライク(Unix系)」と呼ばれるようになった。ただし The Open Groupはその呼称を気に入っていない。 現在では多く使われているUnixとしてはmacOS、AIX、HP-UX、Solarisなどがある(いずれも商用)。また認証を受けていないUnix系としてはLinux(派生OSにAndroid他)やMINIX、BSDの派生OS(FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、DragonFly BSDなど)がある。 Unixオペレーティングシステムは、サーバやワークステーションだけでなく、携帯機器でも広く使われている。またUnix環境とクライアントサーバモデルは、個々のコンピュータによるコンピュータ処理を、コンピュータネットワークで連係されたコンピュータ処理に変革し、インターネット構築の重要な要素ともなった。 もともとUnixはベル研究所内部の開発プロジェクトであった。1973年のOSに関するシンポジウム以降、このOSはベル研究所外部にも知られるようになる。特に1980年代には、教育機関等でUnixが広がり、ユーザーが自前のツールをその上で作り、それを同僚などと共有する形が定着した。 Unixは当初は、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクOSであった。当初はパイプの概念もなかった。その後の発展の中で、徐々に「パイプ」「マルチタスク」などが実装されていった。また、Unixは当初は移植性は低かったが、徐々に特定のプラットフォームへの依存性を減少させ、1978年には、PDP-11以外のプラットフォームで動作するようになった。その後移植が徐々に進み、Unixが動作するプラットフォームが増えていった。 Multicsで用いられていたコンピュータであるGE-645は約2MBのメモリを有していたが、最初にUnixが動作したコンピュータであるPDP-7は約16KBのメモリしか有していなかった。このため、Unixの実装にあたっては、メモリ上に載せられる機能は制限され、当初Multicsで予定されていた多くの機能を諦めざるをえなかった。また、メモリ上でUnixのカーネルが占める領域を除くと、各種のユーティリティやアプリケーションが使えるメモリは数KBしか残っていなかった。このため、高機能でサイズの大きいアプリケーションを動かすことは不可能であり、単機能で小さいアプリケーションを作成し、それらを順につないでいく方法をとらざるをえなかった。 このような、簡単なプログラムをコマンドラインインタプリタのパイプ等を使ってつないでいくという方法は、単一の多機能プログラムで同等機能を実装するのとは逆の発想である。これらのコンセプトはUNIX哲学という言葉で表現されることがある。しかしながら、Unixの開発者であるトンプソンやリッチーは、Unixの開発にあたって何らかの「哲学」や「開発理念」があったとは語っていない。むしろ、理念が先にあったのではなく、メモリ制約等の現実的問題があり、それに適合するために、そのような方法にならざるをえなかったという側面が強い。 また、商用Unixの中には、単一で多機能なアプリケーションも見られ、"Unix哲学"が一貫してUnixに関するすべての関係者で共有・実現されていたわけでもない。 その後、メモリの低価格化・大容量化によって、Unixは多くの機能を実現することが可能となった。今日のUnixは移植性、マルチタスク、タイムシェアリング方式によるマルチユーザなどを重視して設計されている。Unixでは、「オペレーティングシステム」は主となる制御プログラムであるカーネルと、多数のユーティリティより構成される。カーネルは、プログラムの開始や停止、ファイルシステムの取り扱い、他の多くのプログラムが共用する共通的な「低レベル」のタスク、そして重要なスケジューリングなどのサービスを提供する。これらのアクセスを調停するために、カーネルはシステムへの特権を持ち、システムは「ユーザー領域」と「カーネル領域」に分けられる。 カーネルの肥大化の潮流を逆転させ、より少ないユーティリティで最大のタスクを実行できるシステムに戻る目的で、マイクロカーネルのコンセプトが登場した。またコンピュータが1つのハードディスクと入出力用の端末から構成されていた時代には、Unixのファイルモデル(ストリーミングデータ)は最適な入出力として働いた。しかし現代のシステムではネットワークや新しい装置が求められ、グラフィカルユーザインタフェースが開発され、ファイルモデルはマウスなどが発生させる非同期イベントの取り扱いのタスクには不適当と判明し、1980年代には非同期入出力やIPCのメカニズムに加えて、ソケット、共有メモリ、メッセージキュー、セマフォなどが追加された。また通信プロトコルなどの機能はカーネルの外に移動した。 Unixは現在では、サーバやパーソナルコンピュータの一部に加え、携帯電話などの組み込みシステムから、メインフレームやスーパーコンピュータなどの一部にも使われている。 Unixの歴史は、1960年代中ごろに、マサチューセッツ工科大学 (MIT)、ベル研究所、General Electric (GE) がGEのメインフレームコンピュータGE-645用にMulticsと呼ばれるタイムシェアリングオペレーティングシステムを共同開発していたことにさかのぼる。Multicsは多くの革新的技術を導入したが、同時に、多くの問題を抱えてもいた。Multics の目指すものに賛同しても、巨大で複雑なものになっていくことに嫌気がさしたベル研究所は、プロジェクトから徐々に距離をおくようになった。 最後までMulticsに関与していたケン・トンプソン等はファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装されていない段階であった。トンプソン等は、実際にファイルシステムを実装してみたいと考えた。この作業は、当時ベル研究所内に使われない状態でおいてあったPDP-7を借りて行われた。ファイルシステムが完成すると、それを活用するためのユーティリティを作成していった。こうして、おおむねOSの機能を有するものができあがった。この時点では、OSの開発はベル研究所に認知されたものではなく、彼らの私的な活動であった。研究所からの資金提供はなく、OSには名前も付けられていなかった。 できあがったOSは、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、後のMS-DOSのような、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクのOSであった。この特徴から、新しいOSは、ブライアン・カーニハンによって、MulticsのMulti(多数の)をUni(単一の)に変えてUnicsと名付けられた。後につづりがUnixと変更された。このつづりの変更の経緯について、カーニハンは「思い出せない」と言っているが、当時の開発グループ内では比較的年長者であったピーター・ノイマンは「法務上の理由であろう」と語っている。 PDP-7は古いマシンであり問題が多かった。このため、開発グループでは、当時の最新機種であったPDP-11を購入し、その上でUnixが動作するようになった。1971年のUnixバージョン1はPDP-11/20上で動作した。バージョン3までのUnixはアセンブリ言語で開発された。1973年に公開されたバージョン4において、UnixはC言語で書き直された。この時点でのUnixはPDP-11に依存したコードが多く含まれており、移植性は低かった。UnixがPDP-11以外のコンピュータに移植されるまでには5年間を要し、1978年に、Interdata 8/32上で動作するようになった。 ベル研究所ではその後もUnixの改良が続けられ、パイプやマルチタスクなどの機能が追加されていった。これらの、ベル研究所で開発された初期のUnixは、現在ではResearch Unixと呼ばれている。 1970年代末から1980年代初頭にかけて、Unixは学術分野だけではなく産業分野でも使われるようになっていき、HP-UX, SunOS/Solaris, AIX, Xenix等のOSが作られた。 1980年代の末には、AT&T Unixシステムズ・ラボラトリーズとサン・マイクロシステムズが共同でUNIX System V Release 4 (SVR4) を開発した。これは、後の多くの商用Unixの母体となった。 1990年代には、BSDやLinuxといったUnixあるいはUnix系OSが、コンピュータ・ネットワークを通じて世界中の開発者の協力を得て開発され、人気を得ることになった。2000年には、AppleがUnixに基づいてDarwinというコアに基づくMac OS Xを開発した。 今日、Unixはサーバ、ワークステーション、モバイル機器などで広く使われている。 1980年代後半から始まったオペレーティングシステム標準化の動きはPOSIXとなって結実し、あらゆるオペレーティングシステムの共通のベースラインとなっている。IEEEは主要なUnixシステムに共通する構造からPOSIXを作り、1988年に最初のPOSIX標準を公表した。1990年代初め、よく似た標準化が業界団体Common Open Software Environment (COSE) イニシアティブによって開始され、The Open Groupの管理するSingle UNIX Specificationとなった。1998年、POSIXとSingle UNIX Specificationの共通定義を提供するため、IEEEとThe Open GroupはAustin Groupを立ち上げた。 1999年、互換性を達成するため、いくつかのUnixシステムベンダーはSVR4のExecutable and Linkable Format (ELF) をオブジェクトファイルおよび実行ファイルの標準規格とすることに合意した。これによって、同一CPUアーキテクチャでの各種Unixシステムでバイナリ互換性の大部分が確保されることになった。 Unix系オペレーティングシステム(特にLinux)におけるディレクトリ構成の標準としてはFilesystem Hierarchy Standardがある。 Unixシステムは複数のコンポーネントから成っている。カーネルに加えて、開発環境、ライブラリ群、文書、ソースコードなどが含まれる。Unixは自己完結的ソフトウェアシステムだった。そのため重要な学習ツールとして頭角を現し、幅広い影響を及ぼすことになった。 各種コンポーネントを含めても初期のシステムは大きくはなかった。V7 UNIXの場合、全バイナリと全ソースにマニュアルなどの文書を含めても10MB以下であり、9トラックの磁気テープ一本で事足りた。文書を印刷したものも2巻にまとまっていた。 Unixコンポーネントの名前やファイルシステム上の位置は歴史と共に変化している。それでもV7の実装は多くの場合初期の正規な構造と見なされている。 Unixシステムは他のオペレーティングシステムに大きな影響を及ぼした。成功の要因は以下の通りである。 初期の実装では必須とされていたアセンブリ言語ではなく高水準言語で書かれている。先例として Multics や バロース B5000 があるが、このアイデアを一般化したのはUnixである。 当時の他のOSに比べて大幅に単純化したファイルモデルを採用しており、あらゆるファイルを単純なバイト列として扱っている。ファイルシステムの階層にサービスやデバイス(プリンター、端末、ディスクドライブなど)が含まれており、一様なインタフェースを提供しているが、単純なバイトストリームモデルに適さないハードウェア機能にアクセスする場合は、ioctlとモードフラグなどの追加機構を必要とすることがある。なおPlan 9ではこのモデルをさらに推し進め、追加機構を不要にしている。 Unixはまた、Multicsで導入された階層型ファイルシステムを一般化させた。当時の主要なOSでもストレージを複数のディレクトリやセクションに分割していたが、その階層レベルは固定で、1レベルということが多かった。いくつかの主要OSもMulticsにならってサブディレクトリを再帰的に追加する機能を備えるようになった。DECのRSX-11Mは "group, user" 型階層を採用し、それがVMSのディレクトリに進化した。CP/Mではボリューム単位であってディレクトリ階層がなかったが、MS-DOS 2.0 以降でサブディレクトリが利用可能となった。HPのMPEにおける group.account 型階層や、IBMのSSPやOS/400のライブラリシステムもある。それらシステムがまとめられ、より広範囲なPOSIXのファイルシステム仕様となった。 Multicsはまた、コマンドラインインタプリタを通常のユーザーレベルのプログラムとし追加コマンドを個別のプログラムで提供したが、Unixがその方式を一般化させた。Unixシェルはコマンドの対話的使用にもスクリプト言語としても使える(シェルスクリプト。IBMのJCLのようなジョブ制御専用言語は存在しない)。シェルもOSコマンド群もそれぞれ独立したプログラムなので、ユーザーはシェルを選べるし、自分で書くこともできる。新たなコマンドを追加してもシェルを修正する必要はない。また、Unixの独創的なコマンドライン構文により、パイプでコマンド同士を連結して使用することが可能となった。後のコマンドラインインタプリタの多くはUnixシェルに触発されている。 Unixの根本的な単純化想定は、ほぼあらゆるファイルフォーマットに改行コードで分割されたASCIIテキストを採用した点である。初期のUnixにはバイナリエディタはなく、システムの設定は全てシェルスクリプトというテキストファイルで行われていた。入出力もバイト単位が基本であり、Record-oriented filesystemとは異なる。ほとんどあらゆるものをテキストで表したことでパイプの有効性が高まり、単純で汎用的なツール群を開発するだけで、それらを連結して複雑な処理が可能となった。テキストとバイトに集中したことで、他のシステムよりもスケーラビリティと移植性が遥かに向上した。その後、テキストに基づくインタフェースは様々に応用可能と判明し、印刷言語(PostScriptやODF)やインターネット・プロトコル・スイート上のアプリケーション層のプロトコル(FTP、SMTP、HTTP、SOAP、SIPなど)に採用されている。 Unixは正規表現を一般化させるのにも一役買っており、今では様々な場面で正規表現が見られる。 C言語はUnix以上に広がり、今ではシステムプログラミングやアプリケーションプログラミングで広く使われている。 初期のUnix開発者らは、モジュール性と再利用性の概念をソフトウェア工学に導入する重要な役目を果たし、「ソフトウェアツール」という考え方を生み出すことになった。 Unixは比較的安価なコンピュータにTCP/IPプロトコルをもたらし、それがインターネットの爆発的な広がりに貢献するとともに、他のプラットフォームへのTCP/IP実装の手本となった。これによりネットワークの実装における多数のセキュリティホールが明らかとなった。 当初からUnixがオンライン文書を揃え、ソースコードへのアクセスを可能にしていたことは、プログラマの期待を高めることにつながり、1983年のフリーソフトウェア運動立ち上げに貢献した。 Unixの主要な開発者ら(およびUnix上で開発されたプログラム群)は、ソフトウェア開発の文化的規範を徐々に確立していき、その規範群がUnixのテクノロジー自体と同じくらい重要で有力なものとなっていった。それをUNIX哲学と呼ぶ。 UNIXが商用の「閉じた」OSとなっていく中で、現在につながるフリーソフトウェア/オープンソースのムーブメントが勃興し、UNIX同様の操作性と機能を提供するフリーなOSが生み出された。 多くのUNIX系OSがオープンソースで開発されているが、以下に挙げるOSは、ライセンスなどの問題からUNIXとは公称しない。 1983年にリチャード・ストールマンはフリーソフトウェア財団 (Free Software Foundation; FSF) を設立し、GNU (Gnu's Not Unix) プロジェクトを開始した。このプロジェクトの目的は、再配布自由・改変自由なUNIXクローンのOSを作成することであった。このプロジェクトにより、多くのUNIXシステム上で動作するソフトウェア、例えばEmacsやGCC等が作成され、これらソフトウェアは多くのUNIXシステムで使用されるようになった。しかしながら、OSの中核をなす "Hurd" の完成に手間取った(Hurdは現在も開発中)。 1991年にリーナス・トーバルズがLinuxカーネルを開発した。Linuxカーネルの特徴として、POSIXに準拠するように設計されたこと、GNUプロジェクトによって開発された様々なツールが動作するように作成されたこと、またライセンスにGPLが採用されたこと等が挙げられる。その結果、GNUプロジェクトの開発したソフトウェア等と共に、完全フリーのUNIXクローンとして利用されるようになった。有名な商用ディストリビューションとしてかつてRed Hat Linuxが存在し、現在ではRed Hat Enterprise LinuxやSUSE Linux等がある。 なおLinuxという名称は本来カーネルのみの名称にすぎず、OSとして完成させるための他のシステムの多くはGNUプロジェクトの産物である。そのためFSF側ではOSとしての名称は「GNU/Linux」とすべきだと主張しており、この名称を採用した最も有名かつ完全にフリーなディストリビューションのひとつとして「Debian GNU/Linux」、およびそこから派生した「Ubuntu」などがある。ただし、そのようなディストリビューションの多くは、FSF の唱えるフリーソフトウェアの精神と相容れない仕様を含むものが多いため、FSF からは「不自由」なディストリビューションと見なされている。 Linuxカーネルを利用した派生OSにAndroid他がある。 4.3BSD Network Release 2 (Net/2) に起源を持つのがFreeBSD・NetBSD・OpenBSD・DragonFly BSD・TrueOSのいわゆるBSD系Unixである。FreeBSDは安定性重視、NetBSDは新機能対応と移植性に優れ、OpenBSDはセキュリティを重視し、DragonFly BSDはマルチCPU構成での高性能という特徴を有し、TrueOSはカジュアルユーザにおいて簡単に導入して使えることを目指しており、特にFreeBSDはウェブ・ホスティングなどで標準的に使用されている。 USLとの和解以降これらBSD系UNIXはライセンス問題を排除した4.4BSD-Lite2をベースに移行し、いずれもフリーなOSとなっている。 オープンソース系BSDをベースとした商用OSとしてはAppleの「macOS」が知られており、中核部分を「Darwin」としてソース公開している。 Unixでは、システム時刻の値を1970年1月1日の午前0時0分0秒からの秒数で表しており、これをUNIX時間と呼ぶ。この値のデータ型は time_t で、歴史的に「符号つき long」と定義されている。32ビットのシステムでは、2038年1月19日にこの値が1個の0に31個の1が続く最大値 (0x7FFFFFFF) となり、1秒後には1個の1と31個の0が続く値 (0x80000000) となる。するとシステム時刻は、実装によって(符号ビットを無視するか否かによって)1901年または1970年にリセットされる。 1970年より前の時刻をUNIX時間で表すことは滅多にないため、time_t を符号なし32ビット整数と定義し直すという対策が考えられる。しかし、それでは単に問題を2106年2月7日に遅延させるだけであり、時刻の差を計算するソフトウェアでバグを生じる可能性がある。 この問題に対処しているバージョンもある。例えば、SolarisやLinuxの64ビット版では、time_t は64ビットとなっており、OS自身も64ビットのアプリケーション群も約2920億年間正しく動作する。64ビット版Solarisで既存の32ビットアプリケーションを動作させることもできるが、その場合は問題が残ったままである。一部ベンダーは標準の time_t はそのままにして、64ビットの代替データ型とそれを使用するAPIを別途用意している。NetBSDでは、次のメジャーバージョンである 6.x で32ビット版でも time_t を64ビットに拡張することを決定した。従来の32ビットの time_t を使用しているアプリケーションは、バイナリ互換性レイヤーを作って対応する。 1975年5月、DARPAは、ARPANETで使用するOSとしてなぜUnixが選ばれたのかを詳細に説明するRFC 681を文書化している。評価過程も文書化されている。当時のUnixのライセンス料は教育機関以外には2万ドル、教育機関には150ドルとなっていた。ARPAネットワーク全体でライセンス供与を受けるという提案に対して、ベル研究所はそういった示唆についてオープンだったと記されている。 その中で特に長所とされたのは、以下の点である。 1993年10月、Unix System Vのソースについての権利を保有していたノベルは、登録商標の権利をX/Open(現在のThe Open Group)に移管し、1995年にはUNIX関連事業をSCOに売却した。ノベルが実際のソフトウェアの著作権もSCOに売却したのかについては2006年に裁判となり、最終的にノベルが勝利した。SCO側は控訴したが、2011年8月30日に裁判所が棄却したため、裁判は終結した。 アメリカなどで、登録商標としてのUNIXはThe Open Group が保有している。現在、日本における「UNIX」という商標は複数の区分で登録されており、電子計算機関連においてアメリカン テレフォン アンド テレグラム カムパニーやエックス/オープン・カンパニー・リミテッドの登録もある。 日本では、日本マランツ(現在は合併してディーアンドエムホールディングス)が、電気機器分野でUNIXという名前で先行して商標登録を行なっていたため、UNIXという商標の権利関係がはっきりしていなかったことがあった。このことから、書籍などでの商品名などの登録商標についての断り書き一覧などで「UNIXオペレーティングシステムは,AT&Tのベル研究所が開発し,AT&Tがライセンスしています.」(『Life with UNIX』邦訳版での例)などのように書かれたことがあった。現在も日本マランツは音響機器用に「unix」を使用している。他の国でも同様に分野を限定して同じ商標を別の意味で登録することができ、本棚、インクペン、瓶詰めの膠(にかわ)、おむつ、ヘアドライヤー、食品コンテナなどで登録された例がある。 Single UNIX Specificationに完全に準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムだけがUNIXを名乗ることができる。そのため認証を受けていないシステムは「Unix系」と呼ばれる。 The Open Groupは "UNIX" を特定のOS実装ではなく、OSのクラスを指すものと定義している。すなわち、Single UNIX Specificationに準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムのみがUNIX 98やUNIX 03といった登録商標を付けることを許されており、そのためにベンダーは認証料と毎年のロイヤルティを支払わなければならない。認証を受けたOSとしては、AIX、HP-UX、IRIX、Solaris、Tru64(かつての "Digital UNIX")、A/UX、macOS、z/OSの一部などがある。 認証を受けていないシステムを表すため、(また、ジャーゴンファイルのUN*Xの項目によれば、商標であることを標示するための「」を避けるために)、「UN*X」のようにグロブ記法を使って表記されることがある。ジャーゴンファイルの記述によれば、法的にはUNIXと書いてもを付けることは強制されないのだが、この記法は広く使われてしまっている(ジャーゴンファイル訳本の『ハッカーズ大辞典』初版にある「逆にアスタリスクを使うと権利侵害になるらしい」という記述は誤訳なので注意)。 The Open Groupは商標の普通名称化を防ぐため、UNIX という語には常に「システム」などの語をつけて使って欲しいとしている。 本来の形は "Unix" なのだが、Unix という形もよく使われている。これについてデニス・リッチーは、Association for Computing Machinery (ACM) の開催した第3回OSシンポジウムにUnixの論文を送る際「troffと新たな組版システムを開発したばかりでスモールキャピタルを印字できることに興奮して、それを使ってしまったため」だとしている。当時の多くのOSは大文字のみで名称を記述するのが一般的だったため、多くの人は習慣的に大文字のみで "UNIX" と記述した。 UnixやUnix系の複数のブランドを総称するため、Unixの複数形が時折使われることがある。最も一般的な複数形は Unixes だが、Unixをラテン語の名詞の第3格変化として扱い複数形を Unices とする例もよく見られる。古英語的に Unixen とする例はまれだが、ときおり見かける。 OSではないが、UNIXに相当する環境を提供するソフトウェア。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "UNIX (ユニックス、Unix、英語発音: [júːniks])は、コンピュータ用のマルチタスク・マルチユーザーのオペレーティングシステムの一種である。公式な商標は「UNIX」だが、商標以外の意味として「Unix」、またはスモールキャピタルを使用して「Unix」などとも書かれる。Unixは1969年、AT&Tのベル研究所にて、ケン・トンプソン、デニス・リッチーらが開発を開始した。現代的なOSの始祖であり、あらゆる後発OSがUNIXで発明・実証された設計を参考にしている。開発開始から半世紀以上に渡る技術の進歩やプロジェクトの変遷により、オリジナルのUNIXのソースコードは既に使われなくなったが、現在でも派生OSの開発は続けられており、特にシステムのバックエンドで動くスーパーコンピュータやサーバ向けの市場では圧倒的な存在感を示している。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "当初はアセンブリ言語のみで開発されたが、1973年にほぼ全体をC言語で書き直した。このため、Unixは歴史上、初めて高水準言語で書かれたOSであると言われることがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "1973年の段階ではPDP-11に依存したコードが多く、移植性は低かったが、その後徐々にPDP-11に依存したコードを減少させ、1978年にInterdata 8/32への移植に成功して以降、徐々に他のプラットフォームにも移植されていった。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "2021年現在では「Unix」という語は、Unix標準に準拠するあらゆるオペレーティングシステムの総称でもある。既にUnixシステムは多数の系統に分かれており、AT&Tの開発停止後も、多数の商用ベンダーや非営利組織などによって開発が続けられている。", "title": null }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "1970年代から1980年代の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特にカリフォルニア大学バークレー校をオリジナルとするBSD系統が誕生した。また Version 7 Unix や UNIX System V の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "2007年に、「UNIX」の商標の所有者である標準化団体のThe Open Groupは、Single UNIX Specificationを完全に満たすと認証を受けたシステムのみが「UNIX」の商標を得られるとした。このためそれ以外のシステムは(ずっと以前から、AT&T版およびBSD以外を指して使われていた用語だが)「Unixシステムライク」または「Unixライク(Unix系)」と呼ばれるようになった。ただし The Open Groupはその呼称を気に入っていない。", "title": null }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "現在では多く使われているUnixとしてはmacOS、AIX、HP-UX、Solarisなどがある(いずれも商用)。また認証を受けていないUnix系としてはLinux(派生OSにAndroid他)やMINIX、BSDの派生OS(FreeBSD、NetBSD、OpenBSD、DragonFly BSDなど)がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "Unixオペレーティングシステムは、サーバやワークステーションだけでなく、携帯機器でも広く使われている。またUnix環境とクライアントサーバモデルは、個々のコンピュータによるコンピュータ処理を、コンピュータネットワークで連係されたコンピュータ処理に変革し、インターネット構築の重要な要素ともなった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "もともとUnixはベル研究所内部の開発プロジェクトであった。1973年のOSに関するシンポジウム以降、このOSはベル研究所外部にも知られるようになる。特に1980年代には、教育機関等でUnixが広がり、ユーザーが自前のツールをその上で作り、それを同僚などと共有する形が定着した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "Unixは当初は、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクOSであった。当初はパイプの概念もなかった。その後の発展の中で、徐々に「パイプ」「マルチタスク」などが実装されていった。また、Unixは当初は移植性は低かったが、徐々に特定のプラットフォームへの依存性を減少させ、1978年には、PDP-11以外のプラットフォームで動作するようになった。その後移植が徐々に進み、Unixが動作するプラットフォームが増えていった。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Multicsで用いられていたコンピュータであるGE-645は約2MBのメモリを有していたが、最初にUnixが動作したコンピュータであるPDP-7は約16KBのメモリしか有していなかった。このため、Unixの実装にあたっては、メモリ上に載せられる機能は制限され、当初Multicsで予定されていた多くの機能を諦めざるをえなかった。また、メモリ上でUnixのカーネルが占める領域を除くと、各種のユーティリティやアプリケーションが使えるメモリは数KBしか残っていなかった。このため、高機能でサイズの大きいアプリケーションを動かすことは不可能であり、単機能で小さいアプリケーションを作成し、それらを順につないでいく方法をとらざるをえなかった。 このような、簡単なプログラムをコマンドラインインタプリタのパイプ等を使ってつないでいくという方法は、単一の多機能プログラムで同等機能を実装するのとは逆の発想である。これらのコンセプトはUNIX哲学という言葉で表現されることがある。しかしながら、Unixの開発者であるトンプソンやリッチーは、Unixの開発にあたって何らかの「哲学」や「開発理念」があったとは語っていない。むしろ、理念が先にあったのではなく、メモリ制約等の現実的問題があり、それに適合するために、そのような方法にならざるをえなかったという側面が強い。 また、商用Unixの中には、単一で多機能なアプリケーションも見られ、\"Unix哲学\"が一貫してUnixに関するすべての関係者で共有・実現されていたわけでもない。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "その後、メモリの低価格化・大容量化によって、Unixは多くの機能を実現することが可能となった。今日のUnixは移植性、マルチタスク、タイムシェアリング方式によるマルチユーザなどを重視して設計されている。Unixでは、「オペレーティングシステム」は主となる制御プログラムであるカーネルと、多数のユーティリティより構成される。カーネルは、プログラムの開始や停止、ファイルシステムの取り扱い、他の多くのプログラムが共用する共通的な「低レベル」のタスク、そして重要なスケジューリングなどのサービスを提供する。これらのアクセスを調停するために、カーネルはシステムへの特権を持ち、システムは「ユーザー領域」と「カーネル領域」に分けられる。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "カーネルの肥大化の潮流を逆転させ、より少ないユーティリティで最大のタスクを実行できるシステムに戻る目的で、マイクロカーネルのコンセプトが登場した。またコンピュータが1つのハードディスクと入出力用の端末から構成されていた時代には、Unixのファイルモデル(ストリーミングデータ)は最適な入出力として働いた。しかし現代のシステムではネットワークや新しい装置が求められ、グラフィカルユーザインタフェースが開発され、ファイルモデルはマウスなどが発生させる非同期イベントの取り扱いのタスクには不適当と判明し、1980年代には非同期入出力やIPCのメカニズムに加えて、ソケット、共有メモリ、メッセージキュー、セマフォなどが追加された。また通信プロトコルなどの機能はカーネルの外に移動した。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Unixは現在では、サーバやパーソナルコンピュータの一部に加え、携帯電話などの組み込みシステムから、メインフレームやスーパーコンピュータなどの一部にも使われている。", "title": "概説" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "Unixの歴史は、1960年代中ごろに、マサチューセッツ工科大学 (MIT)、ベル研究所、General Electric (GE) がGEのメインフレームコンピュータGE-645用にMulticsと呼ばれるタイムシェアリングオペレーティングシステムを共同開発していたことにさかのぼる。Multicsは多くの革新的技術を導入したが、同時に、多くの問題を抱えてもいた。Multics の目指すものに賛同しても、巨大で複雑なものになっていくことに嫌気がさしたベル研究所は、プロジェクトから徐々に距離をおくようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "最後までMulticsに関与していたケン・トンプソン等はファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装されていない段階であった。トンプソン等は、実際にファイルシステムを実装してみたいと考えた。この作業は、当時ベル研究所内に使われない状態でおいてあったPDP-7を借りて行われた。ファイルシステムが完成すると、それを活用するためのユーティリティを作成していった。こうして、おおむねOSの機能を有するものができあがった。この時点では、OSの開発はベル研究所に認知されたものではなく、彼らの私的な活動であった。研究所からの資金提供はなく、OSには名前も付けられていなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "できあがったOSは、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、後のMS-DOSのような、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクのOSであった。この特徴から、新しいOSは、ブライアン・カーニハンによって、MulticsのMulti(多数の)をUni(単一の)に変えてUnicsと名付けられた。後につづりがUnixと変更された。このつづりの変更の経緯について、カーニハンは「思い出せない」と言っているが、当時の開発グループ内では比較的年長者であったピーター・ノイマンは「法務上の理由であろう」と語っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "PDP-7は古いマシンであり問題が多かった。このため、開発グループでは、当時の最新機種であったPDP-11を購入し、その上でUnixが動作するようになった。1971年のUnixバージョン1はPDP-11/20上で動作した。バージョン3までのUnixはアセンブリ言語で開発された。1973年に公開されたバージョン4において、UnixはC言語で書き直された。この時点でのUnixはPDP-11に依存したコードが多く含まれており、移植性は低かった。UnixがPDP-11以外のコンピュータに移植されるまでには5年間を要し、1978年に、Interdata 8/32上で動作するようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "ベル研究所ではその後もUnixの改良が続けられ、パイプやマルチタスクなどの機能が追加されていった。これらの、ベル研究所で開発された初期のUnixは、現在ではResearch Unixと呼ばれている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1970年代末から1980年代初頭にかけて、Unixは学術分野だけではなく産業分野でも使われるようになっていき、HP-UX, SunOS/Solaris, AIX, Xenix等のOSが作られた。 1980年代の末には、AT&T Unixシステムズ・ラボラトリーズとサン・マイクロシステムズが共同でUNIX System V Release 4 (SVR4) を開発した。これは、後の多くの商用Unixの母体となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1990年代には、BSDやLinuxといったUnixあるいはUnix系OSが、コンピュータ・ネットワークを通じて世界中の開発者の協力を得て開発され、人気を得ることになった。2000年には、AppleがUnixに基づいてDarwinというコアに基づくMac OS Xを開発した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "今日、Unixはサーバ、ワークステーション、モバイル機器などで広く使われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1980年代後半から始まったオペレーティングシステム標準化の動きはPOSIXとなって結実し、あらゆるオペレーティングシステムの共通のベースラインとなっている。IEEEは主要なUnixシステムに共通する構造からPOSIXを作り、1988年に最初のPOSIX標準を公表した。1990年代初め、よく似た標準化が業界団体Common Open Software Environment (COSE) イニシアティブによって開始され、The Open Groupの管理するSingle UNIX Specificationとなった。1998年、POSIXとSingle UNIX Specificationの共通定義を提供するため、IEEEとThe Open GroupはAustin Groupを立ち上げた。", "title": "標準化" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1999年、互換性を達成するため、いくつかのUnixシステムベンダーはSVR4のExecutable and Linkable Format (ELF) をオブジェクトファイルおよび実行ファイルの標準規格とすることに合意した。これによって、同一CPUアーキテクチャでの各種Unixシステムでバイナリ互換性の大部分が確保されることになった。", "title": "標準化" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Unix系オペレーティングシステム(特にLinux)におけるディレクトリ構成の標準としてはFilesystem Hierarchy Standardがある。", "title": "標準化" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "Unixシステムは複数のコンポーネントから成っている。カーネルに加えて、開発環境、ライブラリ群、文書、ソースコードなどが含まれる。Unixは自己完結的ソフトウェアシステムだった。そのため重要な学習ツールとして頭角を現し、幅広い影響を及ぼすことになった。", "title": "コンポーネント" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "各種コンポーネントを含めても初期のシステムは大きくはなかった。V7 UNIXの場合、全バイナリと全ソースにマニュアルなどの文書を含めても10MB以下であり、9トラックの磁気テープ一本で事足りた。文書を印刷したものも2巻にまとまっていた。", "title": "コンポーネント" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "Unixコンポーネントの名前やファイルシステム上の位置は歴史と共に変化している。それでもV7の実装は多くの場合初期の正規な構造と見なされている。", "title": "コンポーネント" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "Unixシステムは他のオペレーティングシステムに大きな影響を及ぼした。成功の要因は以下の通りである。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "初期の実装では必須とされていたアセンブリ言語ではなく高水準言語で書かれている。先例として Multics や バロース B5000 があるが、このアイデアを一般化したのはUnixである。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "当時の他のOSに比べて大幅に単純化したファイルモデルを採用しており、あらゆるファイルを単純なバイト列として扱っている。ファイルシステムの階層にサービスやデバイス(プリンター、端末、ディスクドライブなど)が含まれており、一様なインタフェースを提供しているが、単純なバイトストリームモデルに適さないハードウェア機能にアクセスする場合は、ioctlとモードフラグなどの追加機構を必要とすることがある。なおPlan 9ではこのモデルをさらに推し進め、追加機構を不要にしている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "Unixはまた、Multicsで導入された階層型ファイルシステムを一般化させた。当時の主要なOSでもストレージを複数のディレクトリやセクションに分割していたが、その階層レベルは固定で、1レベルということが多かった。いくつかの主要OSもMulticsにならってサブディレクトリを再帰的に追加する機能を備えるようになった。DECのRSX-11Mは \"group, user\" 型階層を採用し、それがVMSのディレクトリに進化した。CP/Mではボリューム単位であってディレクトリ階層がなかったが、MS-DOS 2.0 以降でサブディレクトリが利用可能となった。HPのMPEにおける group.account 型階層や、IBMのSSPやOS/400のライブラリシステムもある。それらシステムがまとめられ、より広範囲なPOSIXのファイルシステム仕様となった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Multicsはまた、コマンドラインインタプリタを通常のユーザーレベルのプログラムとし追加コマンドを個別のプログラムで提供したが、Unixがその方式を一般化させた。Unixシェルはコマンドの対話的使用にもスクリプト言語としても使える(シェルスクリプト。IBMのJCLのようなジョブ制御専用言語は存在しない)。シェルもOSコマンド群もそれぞれ独立したプログラムなので、ユーザーはシェルを選べるし、自分で書くこともできる。新たなコマンドを追加してもシェルを修正する必要はない。また、Unixの独創的なコマンドライン構文により、パイプでコマンド同士を連結して使用することが可能となった。後のコマンドラインインタプリタの多くはUnixシェルに触発されている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "Unixの根本的な単純化想定は、ほぼあらゆるファイルフォーマットに改行コードで分割されたASCIIテキストを採用した点である。初期のUnixにはバイナリエディタはなく、システムの設定は全てシェルスクリプトというテキストファイルで行われていた。入出力もバイト単位が基本であり、Record-oriented filesystemとは異なる。ほとんどあらゆるものをテキストで表したことでパイプの有効性が高まり、単純で汎用的なツール群を開発するだけで、それらを連結して複雑な処理が可能となった。テキストとバイトに集中したことで、他のシステムよりもスケーラビリティと移植性が遥かに向上した。その後、テキストに基づくインタフェースは様々に応用可能と判明し、印刷言語(PostScriptやODF)やインターネット・プロトコル・スイート上のアプリケーション層のプロトコル(FTP、SMTP、HTTP、SOAP、SIPなど)に採用されている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "Unixは正規表現を一般化させるのにも一役買っており、今では様々な場面で正規表現が見られる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "C言語はUnix以上に広がり、今ではシステムプログラミングやアプリケーションプログラミングで広く使われている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "初期のUnix開発者らは、モジュール性と再利用性の概念をソフトウェア工学に導入する重要な役目を果たし、「ソフトウェアツール」という考え方を生み出すことになった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Unixは比較的安価なコンピュータにTCP/IPプロトコルをもたらし、それがインターネットの爆発的な広がりに貢献するとともに、他のプラットフォームへのTCP/IP実装の手本となった。これによりネットワークの実装における多数のセキュリティホールが明らかとなった。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "当初からUnixがオンライン文書を揃え、ソースコードへのアクセスを可能にしていたことは、プログラマの期待を高めることにつながり、1983年のフリーソフトウェア運動立ち上げに貢献した。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Unixの主要な開発者ら(およびUnix上で開発されたプログラム群)は、ソフトウェア開発の文化的規範を徐々に確立していき、その規範群がUnixのテクノロジー自体と同じくらい重要で有力なものとなっていった。それをUNIX哲学と呼ぶ。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "UNIXが商用の「閉じた」OSとなっていく中で、現在につながるフリーソフトウェア/オープンソースのムーブメントが勃興し、UNIX同様の操作性と機能を提供するフリーなOSが生み出された。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "多くのUNIX系OSがオープンソースで開発されているが、以下に挙げるOSは、ライセンスなどの問題からUNIXとは公称しない。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "1983年にリチャード・ストールマンはフリーソフトウェア財団 (Free Software Foundation; FSF) を設立し、GNU (Gnu's Not Unix) プロジェクトを開始した。このプロジェクトの目的は、再配布自由・改変自由なUNIXクローンのOSを作成することであった。このプロジェクトにより、多くのUNIXシステム上で動作するソフトウェア、例えばEmacsやGCC等が作成され、これらソフトウェアは多くのUNIXシステムで使用されるようになった。しかしながら、OSの中核をなす \"Hurd\" の完成に手間取った(Hurdは現在も開発中)。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "1991年にリーナス・トーバルズがLinuxカーネルを開発した。Linuxカーネルの特徴として、POSIXに準拠するように設計されたこと、GNUプロジェクトによって開発された様々なツールが動作するように作成されたこと、またライセンスにGPLが採用されたこと等が挙げられる。その結果、GNUプロジェクトの開発したソフトウェア等と共に、完全フリーのUNIXクローンとして利用されるようになった。有名な商用ディストリビューションとしてかつてRed Hat Linuxが存在し、現在ではRed Hat Enterprise LinuxやSUSE Linux等がある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "なおLinuxという名称は本来カーネルのみの名称にすぎず、OSとして完成させるための他のシステムの多くはGNUプロジェクトの産物である。そのためFSF側ではOSとしての名称は「GNU/Linux」とすべきだと主張しており、この名称を採用した最も有名かつ完全にフリーなディストリビューションのひとつとして「Debian GNU/Linux」、およびそこから派生した「Ubuntu」などがある。ただし、そのようなディストリビューションの多くは、FSF の唱えるフリーソフトウェアの精神と相容れない仕様を含むものが多いため、FSF からは「不自由」なディストリビューションと見なされている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "Linuxカーネルを利用した派生OSにAndroid他がある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "4.3BSD Network Release 2 (Net/2) に起源を持つのがFreeBSD・NetBSD・OpenBSD・DragonFly BSD・TrueOSのいわゆるBSD系Unixである。FreeBSDは安定性重視、NetBSDは新機能対応と移植性に優れ、OpenBSDはセキュリティを重視し、DragonFly BSDはマルチCPU構成での高性能という特徴を有し、TrueOSはカジュアルユーザにおいて簡単に導入して使えることを目指しており、特にFreeBSDはウェブ・ホスティングなどで標準的に使用されている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "USLとの和解以降これらBSD系UNIXはライセンス問題を排除した4.4BSD-Lite2をベースに移行し、いずれもフリーなOSとなっている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "オープンソース系BSDをベースとした商用OSとしてはAppleの「macOS」が知られており、中核部分を「Darwin」としてソース公開している。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "Unixでは、システム時刻の値を1970年1月1日の午前0時0分0秒からの秒数で表しており、これをUNIX時間と呼ぶ。この値のデータ型は time_t で、歴史的に「符号つき long」と定義されている。32ビットのシステムでは、2038年1月19日にこの値が1個の0に31個の1が続く最大値 (0x7FFFFFFF) となり、1秒後には1個の1と31個の0が続く値 (0x80000000) となる。するとシステム時刻は、実装によって(符号ビットを無視するか否かによって)1901年または1970年にリセットされる。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "1970年より前の時刻をUNIX時間で表すことは滅多にないため、time_t を符号なし32ビット整数と定義し直すという対策が考えられる。しかし、それでは単に問題を2106年2月7日に遅延させるだけであり、時刻の差を計算するソフトウェアでバグを生じる可能性がある。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "この問題に対処しているバージョンもある。例えば、SolarisやLinuxの64ビット版では、time_t は64ビットとなっており、OS自身も64ビットのアプリケーション群も約2920億年間正しく動作する。64ビット版Solarisで既存の32ビットアプリケーションを動作させることもできるが、その場合は問題が残ったままである。一部ベンダーは標準の time_t はそのままにして、64ビットの代替データ型とそれを使用するAPIを別途用意している。NetBSDでは、次のメジャーバージョンである 6.x で32ビット版でも time_t を64ビットに拡張することを決定した。従来の32ビットの time_t を使用しているアプリケーションは、バイナリ互換性レイヤーを作って対応する。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "1975年5月、DARPAは、ARPANETで使用するOSとしてなぜUnixが選ばれたのかを詳細に説明するRFC 681を文書化している。評価過程も文書化されている。当時のUnixのライセンス料は教育機関以外には2万ドル、教育機関には150ドルとなっていた。ARPAネットワーク全体でライセンス供与を受けるという提案に対して、ベル研究所はそういった示唆についてオープンだったと記されている。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その中で特に長所とされたのは、以下の点である。", "title": "影響" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1993年10月、Unix System Vのソースについての権利を保有していたノベルは、登録商標の権利をX/Open(現在のThe Open Group)に移管し、1995年にはUNIX関連事業をSCOに売却した。ノベルが実際のソフトウェアの著作権もSCOに売却したのかについては2006年に裁判となり、最終的にノベルが勝利した。SCO側は控訴したが、2011年8月30日に裁判所が棄却したため、裁判は終結した。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "アメリカなどで、登録商標としてのUNIXはThe Open Group が保有している。現在、日本における「UNIX」という商標は複数の区分で登録されており、電子計算機関連においてアメリカン テレフォン アンド テレグラム カムパニーやエックス/オープン・カンパニー・リミテッドの登録もある。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "日本では、日本マランツ(現在は合併してディーアンドエムホールディングス)が、電気機器分野でUNIXという名前で先行して商標登録を行なっていたため、UNIXという商標の権利関係がはっきりしていなかったことがあった。このことから、書籍などでの商品名などの登録商標についての断り書き一覧などで「UNIXオペレーティングシステムは,AT&Tのベル研究所が開発し,AT&Tがライセンスしています.」(『Life with UNIX』邦訳版での例)などのように書かれたことがあった。現在も日本マランツは音響機器用に「unix」を使用している。他の国でも同様に分野を限定して同じ商標を別の意味で登録することができ、本棚、インクペン、瓶詰めの膠(にかわ)、おむつ、ヘアドライヤー、食品コンテナなどで登録された例がある。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "Single UNIX Specificationに完全に準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムだけがUNIXを名乗ることができる。そのため認証を受けていないシステムは「Unix系」と呼ばれる。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "The Open Groupは \"UNIX\" を特定のOS実装ではなく、OSのクラスを指すものと定義している。すなわち、Single UNIX Specificationに準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムのみがUNIX 98やUNIX 03といった登録商標を付けることを許されており、そのためにベンダーは認証料と毎年のロイヤルティを支払わなければならない。認証を受けたOSとしては、AIX、HP-UX、IRIX、Solaris、Tru64(かつての \"Digital UNIX\")、A/UX、macOS、z/OSの一部などがある。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "認証を受けていないシステムを表すため、(また、ジャーゴンファイルのUN*Xの項目によれば、商標であることを標示するための「」を避けるために)、「UN*X」のようにグロブ記法を使って表記されることがある。ジャーゴンファイルの記述によれば、法的にはUNIXと書いてもを付けることは強制されないのだが、この記法は広く使われてしまっている(ジャーゴンファイル訳本の『ハッカーズ大辞典』初版にある「逆にアスタリスクを使うと権利侵害になるらしい」という記述は誤訳なので注意)。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "The Open Groupは商標の普通名称化を防ぐため、UNIX という語には常に「システム」などの語をつけて使って欲しいとしている。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "本来の形は \"Unix\" なのだが、Unix という形もよく使われている。これについてデニス・リッチーは、Association for Computing Machinery (ACM) の開催した第3回OSシンポジウムにUnixの論文を送る際「troffと新たな組版システムを開発したばかりでスモールキャピタルを印字できることに興奮して、それを使ってしまったため」だとしている。当時の多くのOSは大文字のみで名称を記述するのが一般的だったため、多くの人は習慣的に大文字のみで \"UNIX\" と記述した。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "UnixやUnix系の複数のブランドを総称するため、Unixの複数形が時折使われることがある。最も一般的な複数形は Unixes だが、Unixをラテン語の名詞の第3格変化として扱い複数形を Unices とする例もよく見られる。古英語的に Unixen とする例はまれだが、ときおり見かける。", "title": "ブランディング" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "OSではないが、UNIXに相当する環境を提供するソフトウェア。", "title": "UNIX環境を提供するソフトウェア" } ]
UNIX (ユニックス、Unix、)は、コンピュータ用のマルチタスク・マルチユーザーのオペレーティングシステムの一種である。公式な商標は「UNIX」だが、商標以外の意味として「Unix」、またはスモールキャピタルを使用して「Unix」などとも書かれる。Unixは1969年、AT&Tのベル研究所にて、ケン・トンプソン、デニス・リッチーらが開発を開始した。現代的なOSの始祖であり、あらゆる後発OSがUNIXで発明・実証された設計を参考にしている。開発開始から半世紀以上に渡る技術の進歩やプロジェクトの変遷により、オリジナルのUNIXのソースコードは既に使われなくなったが、現在でも派生OSの開発は続けられており、特にシステムのバックエンドで動くスーパーコンピュータやサーバ向けの市場では圧倒的な存在感を示している。 当初はアセンブリ言語のみで開発されたが、1973年にほぼ全体をC言語で書き直した。このため、Unixは歴史上、初めて高水準言語で書かれたOSであると言われることがある。 1973年の段階ではPDP-11に依存したコードが多く、移植性は低かったが、その後徐々にPDP-11に依存したコードを減少させ、1978年にInterdata 8/32への移植に成功して以降、徐々に他のプラットフォームにも移植されていった。 2021年現在では「Unix」という語は、Unix標準に準拠するあらゆるオペレーティングシステムの総称でもある。既にUnixシステムは多数の系統に分かれており、AT&Tの開発停止後も、多数の商用ベンダーや非営利組織などによって開発が続けられている。 1970年代から1980年代の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特にカリフォルニア大学バークレー校をオリジナルとするBSD系統が誕生した。また Version 7 Unix や UNIX System V の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。 2007年に、「UNIX」の商標の所有者である標準化団体のThe Open Groupは、Single UNIX Specificationを完全に満たすと認証を受けたシステムのみが「UNIX」の商標を得られるとした。このためそれ以外のシステムは(ずっと以前から、AT&T版およびBSD以外を指して使われていた用語だが)「Unixシステムライク」または「Unixライク(Unix系)」と呼ばれるようになった。ただし The Open Groupはその呼称を気に入っていない。 現在では多く使われているUnixとしてはmacOS、AIX、HP-UX、Solarisなどがある(いずれも商用)。また認証を受けていないUnix系としてはLinux(派生OSにAndroid他)やMINIX、BSDの派生OSがある。
{{Otheruses|オペレーティングシステム|日本マランツのブランド「unix」|日本マランツ#ブランドの変遷}} {{複数の問題 | 出典の明記 = 2021年3月 | 更新 = 2021年3月 }} {{Infobox OS |name = Unix |logo = |screenshot = [[ファイル:Unix history-simple.svg|250px]] |caption = UNIXおよび[[Unix系]]システムの系統図 |website = [http://opengroup.org/unix opengroup.org/unix] |developer = [[ケン・トンプソン]], [[デニス・リッチー]], [[ブライアン・カーニハン]], [[ダグラス・マキルロイ]], {{仮リンク|ジョー・オサンナ|en|Joe Ossanna}}([[ベル研究所]]) |source_model = 歴史的にはある時期から[[クローズドソース]]となったが、近年のUnix系プロジェクトの一部は[[オープンソース]]である。 |kernel_type = [[モノリシックカーネル|モノリシック]] |ui = [[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインインタフェース]] & [[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]] ([[X Window System]]) |family = Unix |released = {{Start date and age|df=yes|1969}} |license = [[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]] |working_state = 開発継続中 }} '''UNIX''' (ユニックス、'''Unix'''、{{IPA-en|júːniks}}<ref>英語の発音は「U」にアクセントを置くので、「'''ユー'''ニクス」に近い発音となる。『[[ジャーゴンファイル]]』でも「U」にアクセントを置いて発音するとしている(→Eric S. Raymond (ed.) (2004年10月4日). “[http://www.catb.org/%7Eesr/jargon/html/U/Unix.html Unix]”. ''The Jargon File, version 4.4.7''. 2010年12月15日閲覧)。しかし日本人のアクセントは異なることがある(「ニ」にアクセント)。</ref>)は、[[コンピュータ]]用の[[マルチタスク]]・[[マルチユーザー]]の[[オペレーティングシステム]]の一種である。公式な[[商標]]は「UNIX」だが、商標以外の意味として「Unix」、または[[スモールキャピタル]]を使用して「<span style="font-variant: small-caps;">Unix</span>」などとも書かれる。Unixは[[1969年]]、[[AT&T]]の[[ベル研究所]]にて、[[ケン・トンプソン]]、[[デニス・リッチー]]らが開発を開始した<ref>{{Cite book|和書 | author1=村井 純 | author2=井上 尚司 | author3=砂原 秀樹 | title= プロフェッショナルUNIX | publisher= アスキー出版局 | date=1986-1-15 | page=14-15 | isbn=4-87148-184-0 }}</ref>。現代的なOSの始祖であり、あらゆる後発OSがUNIXで発明・実証された設計を参考にしている{{要出典|date=2020年8月|title=UnixをWindows系のOSの始祖というためには出典が必要}}。開発開始から半世紀以上に渡る技術の進歩やプロジェクトの変遷により、オリジナルのUNIXのソースコードは既に使われなくなったが、現在でも派生OSの開発は続けられており、特にシステムのバックエンドで動くスーパーコンピュータやサーバ向けの市場では圧倒的な存在感を示している。 当初は[[アセンブリ言語]]のみで開発されたが、1973年にほぼ全体を[[C言語]]で書き直した。このため、Unixは歴史上、初めて'''[[高水準言語]]で書かれたOS'''であると言われることがある<ref>実際にはMulticsを書くのにPL/I(のサブセット)が使われた、といったような先行例はある。</ref>。 1973年の段階では[[PDP-11]]に依存したコードが多く、移植性は低かったが、その後徐々にPDP-11に依存したコードを減少させ、1978年に[[Interdata 8/32]]への移植に成功して以降、徐々に他のプラットフォームにも移植されていった。 2021年現在では「Unix」という語は、[[POSIX|Unix標準]]に準拠するあらゆるオペレーティングシステムの総称でもある。既にUnixシステムは多数の系統に分かれており、AT&Tの開発停止後も、多数の商用ベンダーや[[非営利団体|非営利組織]]などによって[[ソフトウェア開発|開発]]が続けられている。 [[1970年代]]から[[1980年代]]の初期にかけて、Unixは大学や研究所などの教育機関で広範囲に採用され、特に[[カリフォルニア大学バークレー校]]をオリジナルとする[[Berkeley Software Distribution|BSD]]系統が誕生した。また [[Version 7 Unix]] や [[UNIX System V]] の特徴を持つオペレーティングシステムは「伝統的なUNIX」(traditional Unix)とも呼ばれる。 [[2007年]]に、「UNIX」の商標の所有者である[[標準化団体]]の[[The Open Group]]は、[[Single UNIX Specification]]を完全に満たすと認証を受けたシステムのみが「UNIX」の商標を得られるとした。このためそれ以外のシステムは(ずっと以前から、AT&T版およびBSD以外を指して使われていた用語だが)「Unixシステムライク」または「'''[[Unix系|Unixライク(Unix系)]]'''」と呼ばれるようになった。ただし The Open Groupはその呼称を気に入っていない<ref>[http://www.unix.org/questions_answers/faq.html#7a What is a "Unix-like" operating system?] Unix.org FAQ</ref>。 現在では多く使われているUnixとしては[[macOS]]、[[AIX]]、[[HP-UX]]、[[Solaris]]などがある(いずれも商用)。また認証を受けていない[[Unix系]]としては[[Linux]](派生OSに[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]他)や[[MINIX]]、[[BSDの子孫|BSDの派生]]OS([[FreeBSD]]、[[NetBSD]]、[[OpenBSD]]、[[DragonFly BSD]]など)がある<ref>{{Cite web|url= http://marketshare.hitslink.com/operating-system-market-share.aspx?qprid=8&qpcustomd=0 |title=Operating system market share |publisher=Marketshare.hitslink.com |date= |accessdate=2012-08-22}}</ref>。 == 概説 == [[Image:Unix-history.svg|thumb|right|300px|Unix系統の系統図]] Unixオペレーティングシステムは、[[サーバ]]や[[ワークステーション]]だけでなく、[[携帯機器]]でも広く使われている<ref>{{Cite web|author=8:30 AM |url= http://www.asymco.com/2010/09/29/unixs-revenge/ |title=Unix's Revenge |publisher=asymco |date=29 September 2010 |accessdate=2010-11-09}}</ref>。またUnix環境と[[クライアントサーバモデル]]は、個々のコンピュータによるコンピュータ処理を、[[コンピュータネットワーク]]で連係されたコンピュータ処理に変革し、[[インターネット]]構築の重要な要素ともなった。 もともとUnixはベル研究所内部の開発プロジェクトであった。1973年のOSに関するシンポジウム以降、このOSはベル研究所外部にも知られるようになる。特に1980年代には、教育機関等でUnixが広がり、ユーザーが自前のツールをその上で作り、それを同僚などと共有する形が定着した<ref>{{Cite book| last1 = Powers | first1 = Shelley | last2 = Peek | first2 = Jerry | last3 = O'Reilly | first3 = Tim | last4 = Loukides | first4 = Mike | title = Unix Power Tools | year = 2002 | isbn = 0-596-00330-7}}</ref>。 Unixは当初は、[[Multics]]のようなマルチタスクOSではなく、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクOSであった。当初はパイプの概念もなかった。その後の発展の中で、徐々に「パイプ」「マルチタスク」などが実装されていった。また、Unixは当初は移植性は低かったが、徐々に特定のプラットフォームへの依存性を減少させ、1978年には、PDP-11以外のプラットフォームで動作するようになった。その後移植が徐々に進み、Unixが動作するプラットフォームが増えていった。 Multicsで用いられていたコンピュータであるGE-645は約2MBのメモリを有していたが、最初にUnixが動作したコンピュータである[[PDP-7]]は約16KBのメモリしか有していなかった。このため、Unixの実装にあたっては、メモリ上に載せられる機能は制限され、当初Multicsで予定されていた多くの機能を諦めざるをえなかった。また、メモリ上でUnixの[[カーネル]]が占める領域を除くと、各種の[[ユーティリティソフトウェア|ユーティリティ]]やアプリケーションが使えるメモリは数KBしか残っていなかった<ref name="Evolution" />。このため、高機能でサイズの大きいアプリケーションを動かすことは不可能であり、単機能で小さいアプリケーションを作成し、それらを順につないでいく方法をとらざるをえなかった。 このような、簡単なプログラムを[[コマンドラインインタプリタ]]の[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]等を使ってつないでいくという方法は、単一の多機能プログラムで同等機能を実装するのとは逆の発想である。これらのコンセプトは[[UNIX哲学]]という言葉で表現されることがある。しかしながら、Unixの開発者であるトンプソンやリッチーは、Unixの開発にあたって何らかの「哲学」や「開発理念」があったとは語っていない。むしろ、理念が先にあったのではなく、メモリ制約等の現実的問題があり、それに適合するために、そのような方法にならざるをえなかったという側面が強い。 また、商用Unixの中には、単一で多機能なアプリケーションも見られ、"Unix哲学"が一貫してUnixに関するすべての関係者で共有・実現されていたわけでもない。 その後、メモリの低価格化・大容量化によって、Unixは多くの機能を実現することが可能となった。今日のUnixは[[移植性]]、[[マルチタスク]]、[[タイムシェアリングシステム|タイムシェアリング]]方式による[[マルチユーザ]]などを重視して設計されている。Unixでは、「オペレーティングシステム」は主となる制御プログラムであるカーネルと、多数のユーティリティより構成される。カーネルは、プログラムの開始や停止、[[ファイルシステム]]の取り扱い、他の多くのプログラムが共用する共通的な「低レベル」のタスク、そして重要な[[スケジューリング]]などのサービスを提供する。これらのアクセスを調停するために、カーネルはシステムへの特権を持ち、システムは「ユーザー領域」と「カーネル領域」に分けられる。 カーネルの肥大化の潮流を逆転させ、より少ないユーティリティで最大のタスクを実行できるシステムに戻る目的で、[[マイクロカーネル]]のコンセプトが登場した。またコンピュータが1つの[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]と入出力用の[[端末]]から構成されていた時代には、Unixのファイルモデル(ストリーミングデータ)は最適な入出力として働いた。しかし現代のシステムではネットワークや新しい装置が求められ、[[グラフィカルユーザインタフェース]]が開発され、ファイルモデルは[[マウス (コンピュータ)|マウス]]などが発生させる非同期イベントの取り扱いのタスクには不適当と判明し、[[1980年代]]には[[非同期IO|非同期入出力]]や[[プロセス間通信|IPC]]のメカニズムに加えて、[[ソケット (BSD)|ソケット]]、[[共有メモリ]]、[[メッセージキュー]]、[[セマフォ]]などが追加された。また[[通信プロトコル]]などの機能はカーネルの外に移動した。 Unixは現在では、[[サーバ]]や[[パーソナルコンピュータ]]の一部に加え、[[携帯電話]]などの[[組み込みシステム]]から、[[メインフレーム]]や[[スーパーコンピュータ]]などの一部にも使われている。 == 歴史 == {{main|Unixの歴史}} [[File:Ken Thompson (sitting) and Dennis Ritchie at PDP-11 (2876612463).jpg|thumb|[[PDP-11]]で作業している[[ケン・トンプソン]] (座っている人物)と[[デニス・リッチー]]]] Unixの歴史は、1960年代中ごろに、[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT)、[[ベル研究所]]、[[General Electric]] (GE) がGEの[[メインフレーム]]コンピュータ[[GE-600シリーズ|GE-645]]用に[[Multics]]と呼ばれる[[タイムシェアリング]]オペレーティングシステムを共同開発していたことにさかのぼる<ref> {{cite book |title=Principles of operating systems: design & applications |last=Stuart |first=Brian L. |year=2009 |publisher=Thompson Learning |location=Boston, Massachusetts |isbn=1-4188-3769-5 |page=23}}</ref>。Multicsは多くの[[Multics#Nove|革新的技術]]を導入したが、同時に、多くの問題を抱えてもいた。Multics の目指すものに賛同しても、巨大で複雑なものになっていくことに嫌気がさしたベル研究所は、プロジェクトから徐々に距離をおくようになった。 最後までMulticsに関与していた[[ケン・トンプソン]]等はファイルシステムを担当していたが、設計が行われただけで実装されていない段階であった。トンプソン等は、実際にファイルシステムを実装してみたいと考えた。この作業は、当時ベル研究所内に使われない状態でおいてあった[[PDP-7]]を借りて行われた。ファイルシステムが完成すると、それを活用するためのユーティリティを作成していった。こうして、おおむねOSの機能を有するものができあがった<ref name="Evolution">{{cite journal |first=Dennis M. |last=Ritchie |title=The Evolution of the Unix Time-sharing System |url=http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/hist.html ||journal=AT&T Bell Laboratories Technical Journal |volume=63 |number=6 Part 2 |year=1984 |pages=1577–93 | accessdate=2018-09-02}}</ref>。この時点では、OSの開発はベル研究所に認知されたものではなく、彼らの私的な活動であった。研究所からの資金提供はなく、OSには名前も付けられていなかった。 できあがったOSは、MulticsのようなマルチタスクOSではなく、後の[[MS-DOS]]のような、一度に一つのプログラムしか動かせないシングルタスクのOSであった<ref name="Evolution" />。この特徴から、新しいOSは、[[ブライアン・カーニハン]]によって、MulticsのMulti(多数の)をUni(単一の)に変えてUnicsと名付けられた<ref name="Evolution" /><ref>{{cite web |website=[[Linux Journal]] |first=Aleksey |last=Dolya |date=29 July 2003 |url=http://www.linuxjournal.com/article/7035 |title=Interview with Brian Kernighan |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171018090033/https://www.linuxjournal.com/article/7035 |archivedate=18 October 2017 |df=dmy-all|accessdate=2018-09-02 }}</ref><ref name="reader">{{cite techreport |first1=M. D. |last1=McIlroy |year=1987 |url=http://www.cs.dartmouth.edu/~doug/reader.pdf |title=A Research Unix reader: annotated excerpts from the Programmer's Manual, 1971–1986 |series=CSTR |number=139 |institution=Bell Labs |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20171111151817/http://www.cs.dartmouth.edu/~doug/reader.pdf |archivedate=11 November 2017 |df=dmy-all }}</ref><ref name="neumann">{{cite journal|url=https://www.usenix.org/system/files/login/issues/login_winter17_issue.pdf|title=An Interview with Peter G. Neumann|author=Rik Farrow|journal=[[:en:;login:|;login:]]|volume=42|issue=4|page=38|quote=That then led to Unics (the castrated one-user Multics, so- called due to Brian Kernighan) later becoming UNIX (probably as a result of AT&T lawyers).}}</ref>。後につづりがUnixと変更された。このつづりの変更の経緯について、カーニハンは「思い出せない」と言っているが、当時の開発グループ内では比較的年長者であったピーター・ノイマンは「法務上の理由であろう」と語っている<ref name="neumann" />。 PDP-7は古いマシンであり問題が多かった。このため、開発グループでは、当時の最新機種であった[[PDP-11]]を購入し、その上でUnixが動作するようになった。1971年のUnixバージョン1はPDP-11/20上で動作した。バージョン3までのUnixは[[アセンブリ言語]]で開発された。1973年に公開されたバージョン4において、Unixは[[C言語]]で書き直された<ref name="Evolution" />。この時点でのUnixはPDP-11に依存したコードが多く含まれており、移植性は低かった。UnixがPDP-11以外のコンピュータに移植されるまでには5年間を要し、1978年に、[[Interdata 8/32]]上で動作するようになった<ref>{{cite web|url=http://www.bell-labs.com/usr/dmr/www/portpap.html |title=Portability of C Programs and the UNIX System |publisher=Bell-labs.com | accessdate=2018-08-24}}</ref>。 ベル研究所ではその後もUnixの改良が続けられ、パイプやマルチタスクなどの機能が追加されていった。これらの、ベル研究所で開発された初期のUnixは、現在では[[Research Unix]]と呼ばれている。 1970年代末から1980年代初頭にかけて、Unixは学術分野だけではなく産業分野でも使われるようになっていき、[[HP-UX]], [[SunOS]]/[[Solaris]], [[AIX]], [[Xenix]]等のOSが作られた。 1980年代の末には、[[UNIX Systems Laboratories|AT&T Unixシステムズ・ラボラトリーズ]]と[[サン・マイクロシステムズ]]が共同で[[Unix System V|UNIX System V Release 4]] (SVR4) を開発した。これは、後の多くの商用Unixの母体となった。 1990年代には、[[Berkeley Software Distribution|BSD]]や[[Linux]]といったUnixあるいはUnix系OSが、コンピュータ・ネットワークを通じて世界中の開発者の協力を得て開発され、人気を得ることになった。2000年には、[[Apple]]がUnixに基づいて[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]というコアに基づくMac OS Xを開発した<ref>{{cite web |url = https://developer.apple.com/library/mac/#documentation/MacOSX/Conceptual/OSX_Technology_Overview/SystemTechnology/SystemTechnology.html#//apple_ref/doc/uid/TP40001067-CH207-BCICAIFJ |title = Loading |publisher = Developer.apple.com |accessdate = 2012-08-22 |deadurl = no |archiveurl = https://webcitation.org/68BcbgbEj?url=http://developer.apple.com/library/mac/#documentation/MacOSX/Conceptual/OSX_Technology_Overview/SystemTechnology/SystemTechnology.html |archivedate = 5 June 2012 |df = dmy-all }}</ref>。 今日、Unixは[[サーバ]]、[[ワークステーション]]、[[モバイル機器]]などで広く使われている<ref>{{cite web |author= |url=http://www.asymco.com/2010/09/29/unixs-revenge/ |title=Unix’s Revenge |publisher=asymco |date=29 September 2010 |accessdate=2010-11-09 |deadurl=no |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101109010117/http://www.asymco.com/2010/09/29/unixs-revenge/ |archivedate=9 November 2010 |df=dmy-all }}</ref>。 == 標準化 == 1980年代後半から始まったオペレーティングシステム標準化の動きは[[POSIX]]となって結実し、あらゆるオペレーティングシステムの共通のベースラインとなっている。[[IEEE]]は主要なUnixシステムに共通する構造からPOSIXを作り、1988年に最初のPOSIX標準を公表した。1990年代初め、よく似た標準化が業界団体[[Common Open Software Environment]] (COSE) イニシアティブによって開始され、[[The Open Group]]の管理する[[Single UNIX Specification]]となった。1998年、POSIXとSingle UNIX Specificationの共通定義を提供するため、IEEEとThe Open Groupは[[:en:Austin Group|Austin Group]]を立ち上げた。 1999年、互換性を達成するため、いくつかのUnixシステムベンダーはSVR4の[[Executable and Linkable Format]] (ELF) を[[オブジェクトファイル]]および[[実行ファイル]]の標準規格とすることに合意した。これによって、同一CPUアーキテクチャでの各種Unixシステムでバイナリ互換性の大部分が確保されることになった。 Unix系オペレーティングシステム(特に[[Linux]])におけるディレクトリ構成の標準としては[[Filesystem Hierarchy Standard]]がある。 == コンポーネント == Unixシステムは複数のコンポーネントから成っている。[[カーネル]]に加えて、開発環境、ライブラリ群、文書、ソースコードなどが含まれる。Unixは自己完結的ソフトウェアシステムだった。そのため重要な学習ツールとして頭角を現し、幅広い影響を及ぼすことになった。 各種コンポーネントを含めても初期のシステムは大きくはなかった。V7 UNIXの場合、全バイナリと全ソースにマニュアルなどの文書を含めても10MB以下であり、9トラックの[[磁気テープ]]一本で事足りた。文書を印刷したものも2巻にまとまっていた。 Unixコンポーネントの名前やファイルシステム上の位置は歴史と共に変化している。それでもV7の実装は多くの場合初期の正規な構造と見なされている。 *'''カーネル''' – /usr/sys配下にソースコードがあり、以下のようなサブコンポーネントから成る。 **''conf'' – ブート用コードを含む、コンフィギュレーションとマシン依存の部分 **''dev'' – ハードウェア(及び擬似ハードウェア)の制御用[[デバイスドライバ]]群 **''sys'' – カーネル本体。[[メモリ管理]]、[[スケジューリング]]、[[システムコール]]など。 **''h'' – [[ヘッダファイル]]群。システム内のデータ構造やシステム定数を定義している。 *'''開発環境''' – 初期のUnixには、ソースコードからシステム全体を作りなおせる程度の開発環境が含まれていた。 **''cc'' – [[C言語]]コンパイラ(V3 UNIXから) **''as'' – アセンブラ **''ld'' – リンカ([[リンケージエディタ]]) **''lib'' – [[ライブラリ]](/libまたは/usr/libにインストールされる)。''[[標準Cライブラリ|libc]]''はC言語のランタイムをサポートするシステムライブラリ。他に数学ライブラリ (''libm'') などの各種用途のライブラリがある。V7 UNIX では、システムライブラリの一部として標準入出力ライブラリ''stdio''が初めて導入された。その後機能が追加されるにしたがってライブラリの数も膨大なものになっていった。 **''[[make (UNIX)|make]]'' – [[ビルド (ソフトウェア)|ビルド]]マネージャ([[PWB/UNIX]]から)。 **''include'' – ソフトウェア開発用[[ヘッダファイル]]群。標準インタフェースとシステム定数を定義している。 **''その他の言語'' – V7 UNIXには、[[FORTRAN|FORTRAN 77]]コンパイラ、[[任意精度演算]]言語([[bc (UNIX)|bc]]、dc)、[[スクリプト言語]][[AWK]]が含まれており、その後のバージョンでさらに言語処理系が追加されていった。初期のBSDでは[[Pascal]]関連のツール群があり、最近のシステムでは[[GNUコンパイラコレクション]]がある。 **''他のツール群'' – ファイルアーカイバ ([[ar (UNIX)|ar]])、[[シンボルテーブル]]を表示するツール ([[nm (UNIX)|nm]])、コンパイラ開発ツール ([[lex]], [[yacc]])、デバッグ用ツールなどがある。 *'''コマンド''' – コマンドはUnixにおけるユーザープログラムの総称で、システム管理用([[crontab|cron]]など)、汎用ユーティリティ([[grep]]など)、テキストフォーマットや組版のパッケージといったアプリケーションに近いものなどが含まれる。 **''[[Bourne Shell|sh]]'' – 「[[Unixシェル|シェル]]」はプログラム可能な[[コマンドラインインタプリタ]]であり、ウィンドウシステムが登場する以前はUnixの主たるユーザインタフェースだった。GUIが主流となってからもよく使われている。 **''ユーティリティ'' – [[cp (UNIX)|cp]]、[[ls (UNIX)|ls]]、[[grep]]、[[find (UNIX)|find]] などUnixの中心的ツール群。さらに以下のように分類される。 ***''システムユーティリティ'' – {{仮リンク|mkfs|en|mkfs}}、[[fsck]] などのシステム管理ツール群 ***''ユーザーユーティリティ'' – [[passwd]]、[[kill]] などの環境管理ツール群 **''文書整形'' – Unixは当初から文書作成と組版のシステムとして使われてきた。[[nroff]]、[[troff]]、{{仮リンク|tbl|en|tbl}}、{{仮リンク|eqn|en|eqn (software)}}''、{{仮リンク|refer|en|refer (software)}}''、[[Pic言語|pic]] といったコマンドがある。最近のUnixシステムでは、[[TeX]]や[[Ghostscript]]のパッケージもある。 **''グラフィックス'' – ''plot''サブシステムは単純なベクター描画をデバイスに依存しない形で生成し、デバイス対応のインタプリタが実際の描画を行う。現代のUnixシステムでは標準ウィンドウシステムおよび[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]として[[X Window System|X11]]を含んでいることが多く、また[[OpenGL]]をサポートしていることも多い。 **''通信'' – 初期のUnixシステムにはシステム間通信機能は含まれていなかったが、ユーザー間の通信機能として ''mail'' と ''write'' があった。V7 UNIX でシステム間通信のための[[Unix to Unix Copy Protocol|UUCP]]が導入され、BSD 4.1c で[[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]ユーティリティが追加された。 *'''文書''' – Unix は付随する文書を全てオンラインの機械が読める形で含めた最初のOSである。 **''[[Manページ|man]]'' – 各コマンド、ライブラリ関数、[[システムコール]]、[[ヘッダファイル]]などのマニュアル。 **''doc'' – 主要サブシステムについての長めの文書。C言語やtroffに関するものなどがある。 == 影響 == Unixシステムは他のオペレーティングシステムに大きな影響を及ぼした。成功の要因は以下の通りである。 * 直接的な対話 * IBMやDECといった大きなベンダーの支配下にならなかった点 * 当初、AT&Tが無料で提供していた点 * 安価なハードウェアで動作する点 * 採用が容易で、他のマシンへの移行が容易 初期の実装では必須とされていた[[アセンブリ言語]]ではなく高水準言語で書かれている。先例として [[Multics]] や [[バロース B5000]] があるが、このアイデアを一般化したのはUnixである。 当時の他のOSに比べて大幅に単純化したファイルモデルを採用しており、あらゆるファイルを単純なバイト列として扱っている。ファイルシステムの階層にサービスやデバイス([[プリンター]]、[[端末]]、[[ディスクドライブ]]など)が含まれており、一様なインタフェースを提供しているが、単純なバイトストリームモデルに適さないハードウェア機能にアクセスする場合は、[[ioctl]]とモードフラグなどの追加機構を必要とすることがある。なお[[Plan 9 from Bell Labs|Plan 9]]ではこのモデルをさらに推し進め、追加機構を不要にしている。 Unixはまた、Multicsで導入された階層型ファイルシステムを一般化させた。当時の主要なOSでもストレージを複数のディレクトリやセクションに分割していたが、その階層レベルは固定で、1レベルということが多かった。いくつかの主要OSもMulticsにならってサブディレクトリを再帰的に追加する機能を備えるようになった。DECの[[RSX-11]]Mは "group, user" 型階層を採用し、それが[[OpenVMS|VMS]]のディレクトリに進化した。[[CP/M]]ではボリューム単位であってディレクトリ階層がなかったが、[[MS-DOS]] 2.0 以降でサブディレクトリが利用可能となった。HPの[[MPE]]における group.account 型階層や、IBMの[[:en:System Support Program|SSP]]や[[OS/400]]のライブラリシステムもある。それらシステムがまとめられ、より広範囲なPOSIXのファイルシステム仕様となった。 Multicsはまた、[[コマンドラインインタプリタ]]を通常のユーザーレベルのプログラムとし追加コマンドを個別のプログラムで提供したが、Unixがその方式を一般化させた。[[Unixシェル]]はコマンドの対話的使用にも[[スクリプト言語]]としても使える([[シェルスクリプト]]。IBMの[[Job Control Language|JCL]]のようなジョブ制御専用言語は存在しない)。シェルもOSコマンド群もそれぞれ独立したプログラムなので、ユーザーはシェルを選べるし、自分で書くこともできる。新たなコマンドを追加してもシェルを修正する必要はない。また、Unixの独創的なコマンドライン構文により、[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]でコマンド同士を連結して使用することが可能となった。後のコマンドラインインタプリタの多くはUnixシェルに触発されている。 Unixの根本的な単純化想定は、ほぼあらゆるファイルフォーマットに[[改行コード]]で分割された[[ASCII]]テキストを採用した点である。初期のUnixにはバイナリエディタはなく、システムの設定は全てシェルスクリプトというテキストファイルで行われていた。入出力もバイト単位が基本であり、[[Record-oriented filesystem]]とは異なる。ほとんどあらゆるものをテキストで表したことでパイプの有効性が高まり、単純で汎用的なツール群を開発するだけで、それらを連結して複雑な処理が可能となった。テキストとバイトに集中したことで、他のシステムよりもスケーラビリティと移植性が遥かに向上した。その後、テキストに基づくインタフェースは様々に応用可能と判明し、印刷言語([[PostScript]]や[[OpenDocument|ODF]])や[[インターネット・プロトコル・スイート]]上のアプリケーション層のプロトコル([[File Transfer Protocol|FTP]]、[[Simple Mail Transfer Protocol|SMTP]]、[[Hypertext Transfer Protocol|HTTP]]、[[SOAP (プロトコル)|SOAP]]、[[Session Initiation Protocol|SIP]]など)に採用されている。 Unixは[[正規表現]]を一般化させるのにも一役買っており、今では様々な場面で正規表現が見られる。 [[C言語]]はUnix以上に広がり、今ではシステムプログラミングやアプリケーションプログラミングで広く使われている。 初期のUnix開発者らは、[[モジュール]]性と再利用性の概念を[[ソフトウェア工学]]に導入する重要な役目を果たし、「ソフトウェアツール」という考え方を生み出すことになった。 Unixは比較的安価なコンピュータにTCP/IPプロトコルをもたらし、それが[[インターネット]]の爆発的な広がりに貢献するとともに、他のプラットフォームへのTCP/IP実装の手本となった。これによりネットワークの実装における多数のセキュリティホールが明らかとなった。 当初からUnixがオンライン文書を揃え、ソースコードへのアクセスを可能にしていたことは、プログラマの期待を高めることにつながり、1983年の[[フリーソフトウェア運動]]立ち上げに貢献した。 Unixの主要な開発者ら(およびUnix上で開発されたプログラム群)は、ソフトウェア開発の文化的規範を徐々に確立していき、その規範群がUnixのテクノロジー自体と同じくらい重要で有力なものとなっていった。それを[[UNIX哲学]]と呼ぶ。 === フリーなUnix系OS === UNIXが商用の「閉じた」OSとなっていく中で、現在につながる[[フリーソフトウェア]]/[[オープンソース]]のムーブメントが勃興し、UNIX同様の操作性と機能を提供するフリーなOSが生み出された。 多くのUNIX系OSがオープンソースで開発されているが、以下に挙げるOSは、ライセンスなどの問題からUNIXとは公称しない。 ==== GNU/Linux ==== [[1983年]]に[[リチャード・ストールマン]]は[[フリーソフトウェア財団]] (Free Software Foundation; FSF) を設立し、[[GNUプロジェクト|GNU ('''G'''nu's '''N'''ot '''U'''nix) プロジェクト]]を開始した。このプロジェクトの目的は、再配布自由・改変自由なUNIXクローンのOSを作成することであった。このプロジェクトにより、多くのUNIXシステム上で動作するソフトウェア、例えば[[Emacs]]や[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]等が作成され、これらソフトウェアは多くのUNIXシステムで使用されるようになった。しかしながら、OSの中核をなす "[[GNU Hurd|Hurd]]" の完成に手間取った(Hurdは現在も開発中)。 [[1991年]]に[[リーナス・トーバルズ]]が[[Linuxカーネル]]を開発した。Linuxカーネルの特徴として、[[POSIX]]に準拠するように設計されたこと、GNUプロジェクトによって開発された様々なツールが動作するように作成されたこと、またライセンスに[[GNU General Public License|GPL]]が採用されたこと等が挙げられる。その結果、GNUプロジェクトの開発したソフトウェア等と共に、完全フリーのUNIXクローンとして利用されるようになった。有名な商用[[Linuxディストリビューション|ディストリビューション]]としてかつて[[Red Hat Linux]]が存在し、現在では[[Red Hat Enterprise Linux]]や[[SUSE Linux]]等がある。 なおLinuxという名称は本来カーネルのみの名称にすぎず、OSとして完成させるための他のシステムの多くはGNUプロジェクトの産物である。そのためFSF側ではOSとしての名称は「[[GNU/Linux]]」とすべきだと主張しており、この名称を採用した最も有名かつ完全に[[フリーソフトウェア|フリー]]なディストリビューションのひとつとして「[[Debian]] GNU/Linux」、およびそこから派生した「[[Ubuntu]]」などがある。ただし、そのようなディストリビューションの多くは、FSF の唱えるフリーソフトウェアの精神と相容れない仕様を含むものが多いため、FSF からは「不自由」なディストリビューションと見なされている。<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.gnu.org/distros/free-distros.ja.html |title=自由なGNU/Linuxディストリビューション |accessdate=2020-07-22}}</ref> Linuxカーネルを利用した派生OSに[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]他がある。 ==== オープンソース系BSD ==== 4.3BSD Network Release 2 (Net/2) に起源を持つのが[[FreeBSD]]・[[NetBSD]]・[[OpenBSD]]・[[DragonFly BSD]]・[[TrueOS]]のいわゆる[[BSDの子孫|BSD系]]Unixである。FreeBSDは安定性重視、NetBSDは新機能対応と移植性に優れ、OpenBSDはセキュリティを重視し、DragonFly BSDはマルチCPU構成での高性能という特徴を有し、TrueOSはカジュアルユーザにおいて簡単に導入して使えることを目指しており、特にFreeBSDは[[ウェブ・ホスティング]]などで標準的に使用されている。 USLとの和解以降これらBSD系UNIXはライセンス問題を排除した4.4BSD-Lite2をベースに移行し、いずれもフリーなOSとなっている。 オープンソース系BSDをベースとした商用OSとしては[[Apple]]の「[[macOS]]」が知られており、中核部分を「[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]」としてソース公開している。 === 2038年問題 === {{Main|2038年問題}} Unixでは、[[システム時刻]]の値を1970年1月1日の午前0時0分0秒からの秒数で表しており、これを[[UNIX時間]]と呼ぶ。この値のデータ型は <code>time_t</code> で、歴史的に「符号つき long」と定義されている。[[32ビット]]のシステムでは、2038年1月19日にこの値が1個の0に31個の1が続く最大値 (<code>0x7FFFFFFF</code>) となり、1秒後には1個の1と31個の0が続く値 (<code>0x80000000</code>) となる。するとシステム時刻は、実装によって(符号ビットを無視するか否かによって)1901年または1970年にリセットされる。 1970年より前の時刻を[[UNIX時間]]で表すことは滅多にないため、<code>time_t</code> を符号なし32ビット整数と定義し直すという対策が考えられる。しかし、それでは単に問題を2106年2月7日に遅延させるだけであり、時刻の差を計算するソフトウェアでバグを生じる可能性がある。 この問題に対処しているバージョンもある。例えば、SolarisやLinuxの64ビット版では、<code>time_t</code> は64ビットとなっており、OS自身も64ビットのアプリケーション群も約2920億年間正しく動作する。64ビット版Solarisで既存の32ビットアプリケーションを動作させることもできるが、その場合は問題が残ったままである。一部ベンダーは標準の <code>time_t</code> はそのままにして、64ビットの代替データ型とそれを使用する[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を別途用意している。[[NetBSD]]では、次のメジャーバージョンである 6.x で32ビット版でも <code>time_t</code> を64ビットに拡張することを決定した。従来の32ビットの <code>time_t</code> を使用しているアプリケーションは、バイナリ互換性レイヤーを作って対応する。 === ARPANET === 1975年5月、[[国防高等研究計画局|DARPA]]は、[[ARPANET]]で使用するOSとしてなぜUnixが選ばれたのかを詳細に説明する{{IETF RFC|681}}を文書化している。評価過程も文書化されている。当時のUnixのライセンス料は教育機関以外には2万ドル、教育機関には150ドルとなっていた。ARPAネットワーク全体でライセンス供与を受けるという提案に対して、ベル研究所はそういった示唆についてオープンだったと記されている。 その中で特に長所とされたのは、以下の点である。 * ローカルな処理ファシリティ * [[コンパイラ]] * [[テキストエディタ]] * [[roff]] * 効率的なファイルシステムとアクセス制御 * パーティションのマウント機能 * [[デバイスファイル]]による周辺機器の抽象化 * [[Network Control Program]] (NCP) が統合されている点 * ネットワークコネクションをスペシャルファイルとして扱え、標準的なI/O用[[システムコール]]でアクセスできる点 * プログラム終了時に、オープンしていたファイルが全て自動的にクローズされる点 == ブランディング == 1993年10月、Unix System Vのソースについての権利を保有していた[[ノベル (企業)|ノベル]]は、登録[[商標]]の権利を[[X/Open]](現在の[[The Open Group]])に移管し<ref>{{Cite web |author=Chuck Karish &nbsp; View profile &nbsp; &nbsp;More options |url= https://groups.google.com/g/comp.std.unix/c/Jblvq9RejzI/m/-IQoAvBMl8kJ |title=The name UNIX is now the property of X/Open – comp.std.unix &#124; Google Groups |publisher=Groups.google.com |date= |accessdate=2010-11-09}}</ref>、1995年にはUNIX関連事業を[[SCO]]に売却した<ref>{{Cite web |url= http://www.novell.com/news/press/archive/1995/09/pr95220.html |title=HP, Novell and SCO To Deliver High-Volume UNIX OS With Advanced Network And Enterprise Services |publisher=Novell.com |date=20 September 1995 |accessdate=2010-11-09}}</ref>。ノベルが実際のソフトウェアの[[著作権]]もSCOに売却したのかについては2006年に裁判となり、最終的にノベルが勝利した。SCO側は控訴したが、2011年8月30日に裁判所が棄却したため、裁判は終結した<ref>{{Cite web |last=Jones |first=Pamela |title=SCO Files Docketing Statement and We Find Out What Its Appeal Will Be About |url= http://groklaw.net/article.php?story=20100723230825165 |work=Groklaw |publisher=Groklaw.net |accessdate= 2011-04-12}}</ref>。 アメリカなどで、登録商標としてのUNIXは[[The Open Group]] が保有している。現在、日本における「UNIX」という商標は複数の区分で登録されており、電子計算機関連において[[AT&T|アメリカン テレフォン アンド テレグラム カムパニー]]やエックス/オープン・カンパニー・リミテッドの登録もある。 日本では、[[日本マランツ]](現在は合併して[[ディーアンドエムホールディングス]])が、電気機器分野でUNIXという名前で先行して商標登録を行なっていたため、UNIXという商標の権利関係がはっきりしていなかったことがあった。このことから、書籍などでの商品名などの登録商標についての断り書き一覧などで「UNIXオペレーティングシステムは,AT&Tのベル研究所が開発し,AT&Tがライセンスしています.」(『Life with UNIX』邦訳版での例)などのように書かれたことがあった。現在も日本マランツは音響機器用に「unix」を使用している。他の国でも同様に分野を限定して同じ商標を別の意味で登録することができ、本棚、インクペン、瓶詰めの膠(にかわ)、おむつ、ヘアドライヤー、食品コンテナなどで登録された例がある<ref>{{Cite web |url= http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/otherunix.html |title=Autres Unix, autres moeurs (OtherUnix) |publisher=Cm.bell-labs.com |date=1 April 2000 |accessdate=2010-11-09}}</ref>。 [[Single UNIX Specification]]に完全に準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムだけが''UNIX''を名乗ることができる。そのため認証を受けていないシステムは「[[Unix系]]」と呼ばれる。 The Open Groupは "UNIX" を特定のOS実装ではなく、OSのクラスを指すものと定義している。すなわち、Single UNIX Specificationに準拠しているとThe Open Groupに認められたシステムのみが[[Single UNIX Specification|UNIX 98]]や[[Single UNIX Specification|UNIX 03]]といった登録商標を付けることを許されており、そのためにベンダーは認証料と毎年のロイヤルティを支払わなければならない<ref>{{Cite web |author=The Open Group |title= The Open Brand Fee Schedule |url= http://www.opengroup.org/openbrand/Brandfees.htm |accessdate= 2011-12-26 |quote=The right to use the UNIX Trademark requires the Licensee to pay to The Open Group an additional annual fee, calculated in accordance with the fee table set out below.}}</ref>。認証を受けたOSとしては、[[AIX]]、[[HP-UX]]、[[IRIX]]、[[Solaris]]、[[Tru64 UNIX|Tru64]](かつての "Digital UNIX")、[[A/UX]]、[[macOS]]<ref>{{Cite web |author=The Open Group |title=Mac OS X v10.5 Leopard on Intel-based Macintosh computers certification |url= http://www.opengroup.org/openbrand/register/brand3555.htm |accessdate=2007-06-12}}</ref><ref>{{Cite web |author=The Open Group |title=Mac OS X v10.6 Snow Leopard certification |url= http://www.opengroup.org/openbrand/register/brand3581.htm |accessdate=2012-10-16}}</ref>、[[z/OS]]の一部などがある。 認証を受けていないシステムを表すため、(また、[[ジャーゴンファイル]]のUN*Xの項目によれば、商標であることを標示するための「<sup>TM</sup>」を避けるために)、「UN*X」のように[[グロブ]]記法を使って表記されることがある。ジャーゴンファイルの記述によれば、法的にはUNIXと書いても<sup>TM</sup>を付けることは強制されないのだが、この記法は広く使われてしまっている(ジャーゴンファイル訳本の『ハッカーズ大辞典』初版にある「逆にアスタリスクを使うと権利侵害になるらしい」という記述は誤訳なので注意)。 The Open Groupは[[商標の普通名称化]]を防ぐため、''UNIX'' という語には常に「システム」などの語をつけて使って欲しいとしている。 本来の形は "Unix" なのだが、<span style="font-variant: small-caps;">Unix</span> という形もよく使われている。これについて[[デニス・リッチー]]は、[[Association for Computing Machinery]] (ACM) の開催した第3回OSシンポジウムにUnixの論文を送る際「[[roff|troff]]と新たな組版システムを開発したばかりでスモールキャピタルを印字できることに興奮して、それを使ってしまったため」だとしている<ref>{{Cite web |url= http://catb.org/jargon/html/U/Unix.html |title=Unix |publisher=Catb.org |date= |accessdate=2010-11-09}}</ref>。当時の多くのOSは大文字のみで名称を記述するのが一般的だったため、多くの人は習慣的に大文字のみで "UNIX" と記述した。 UnixやUnix系の複数のブランドを総称するため、Unixの複数形が時折使われることがある。最も一般的な複数形は ''Unixes'' だが、Unixを[[ラテン語]]の名詞の第3格変化として扱い複数形を ''Unices'' とする例もよく見られる。[[古英語]]的に ''Unixen'' とする例はまれだが、ときおり見かける。 == 主なUnix系OS == === フリーなもの === ; [[Berkeley Software Distribution]] (BSD) および[[BSDの子孫]] : 現在主要なものに、[[FreeBSD]]、[[NetBSD]]がある。いずれも[[386BSD]]から生まれた。 :; [[FreeBSD]] :: [[BSDの子孫]]。多くの[[FreeBSDディストリビューション|派生版]]がある(中には有償のものも含まれる)。 ::; [[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]] ::: [[Apple]]がDarwinプロジェクトによってオープンソース化したmacOSの中核。FreeBSDのソースコードをベースとし、中核には[[Mach]]が使われている。 ::; [[DragonFly BSD]] ::: FreeBSDから派生した[[BSDの子孫]]。[[ハイブリッドカーネル]]を採用している。 :; [[NetBSD]] :: [[BSDの子孫]]。58以上のアーキテクチャに対応している。 ::; [[OpenBSD]] ::: NetBSDから派生した[[BSDの子孫]]。 ; [[GNU/Linux]] : [[Linux]]カーネルから派生した、[[Linuxディストリビューション]]全般やELIKS{{enlink|Embeddable Linux Kernel Subset||en}}を言う。中には有償のものも含まれる。Linux Standard Base仕様を元に設計されるため、ほぼ[[POSIX]]準拠となる。Linuxカーネルを利用した派生OSに[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]他がある。 ; [[GNU Hurd|GNU/Hurd]] : [[GNUプロジェクト]]の公式OSとして現在開発中である。中核には[[Mach]]が使われている。 ; [[Solaris]]/[[OpenSolaris]] : サン・マイクロシステムズのOS。現在、最新版のSolaris 11が提供されているが、以前の版も最終リリースのものがダウンロード可能である([http://www.sun.com/software/solaris/8/ Solaris 8], [http://www.sun.com/software/solaris/9/ Solaris 9])。もともとは有償版しかなかったが、[[SPARC]]版が無償化され、ついで[[x86]]版も(一度有償に戻ったが)無償化された。また、カーネル等の主要コンポーネントをオープンソース化した[[OpenSolaris]]もリリースされ、そこから多くの派生ディストリビューションも生まれている。 ; [[MINIX]] : [[IBM PC]]でも動作すること目的に開発された教育用Unix系OS。[[Intel 80386|80386]]の仮想記憶には対応していなかったため、Linuxに仮想記憶が実装されるきっかけとなった事でも有名{{Sfn|MOODY|2002|p=56}}。なお、当初はフリーではないライセンスでリリースされていたが、[[2000年]]にバージョン 2.0.2 が [[BSDライセンス]]のもとでリリースされ、フリーなOSとなった。 ; [[Haiku (オペレーティングシステム)|Haiku]] : [[BeOS]]互換のオープンソースOS。[[POSIX]]に準拠するよう開発されている。 === フリーではないもの === ; [[AIX]] : [[IBM]]の、SVR4とBSD4.4をベースとしたUNIX。現在、最新版のAIX 7.2が提供されている。 ; {{仮リンク|ACIS|en|ACIS}} : [[IBM]]が6100RT/PCシリーズ用に提供していた4.2BSDベースのOS。アカデミック分野の顧客にのみ提供された。AT&T UNIXと[[Berkeley Software Distribution|BSD]]のライセンスを持つ顧客にはソースコードも提供された。 ; [[AOS]] : [[IBM]]が6100RT/PCシリーズ用に4.3BSDを移植したもの。アカデミック分野の顧客にのみ提供された。AT&T UNIXとBSDのライセンスを持つ顧客にはソースコードも提供された。 ; [[Domain/OS]] : [[アポロコンピュータ]]が開発したワークステーションに搭載されたUNIXの機能も持つ独自OS。マイクロカーネル上のOS MiddlewareとしてBSD4.3とSVR3を搭載し同時独立動作を可能とした。[[ヒューレット・パッカード]] (HP) に買収されたその後は市場から姿を消した。 ; [[Ultrix]] : [[ディジタル・イクイップメント・コーポレーション|DEC]]が同社の[[VAX]]やDECstation向けに出していた4.2BSD/4.3BSDベースのOS。初の[[64ビット]]実装を行ったUNIXとしても知られている ; [[Tru64 UNIX]] : DECが開発した、[[DEC Alpha|Alpha]]アーキテクチャのサーバ/ワークステーション用のOS。当初は「OSF/1」と呼ばれ「Digital UNIX」を経て Tru64 UNIX となった。DECの買収とともに、[[コンパック]]、[[ヒューレット・パッカード]] (HP) へと引き継がれ、現在も販売されている。 ; [[DG/UX]] : DataGeneralのサーバ/ワークステーション用のOS製品の商標。System-V系をベースにしているが、一部BSD系の機能を付加 ; [[HP-UX]] : ヒューレット・パッカード (HP) の[[PA-RISC]]アーキテクチャによるサーバ/ワークステーション用のOS製品の商標。[[Tru64 UNIX#OSF/1|OSF/1]]への移行を前提にSVR3系をベースに実装されたが、そのまま発展したOS。HP-UX V10以降はSVR4ベースとなる。2002年リリースのHP-UX 11i v1.6では業界で初めて[[インテル]][[Itanium]]プロセッサに対応する商用OSを提供した ; [[OpenServer]] : [[SCO]]がマイクロソフトから引き継いだ[[XENIX]]を発展させた[[IBM PC]]用のUNIX。一時期はPC用UNIXのトップシェアを誇っていた。 ; [[OS/390]], [[z/OS]] : [[メインフレーム]]専用OSであるOS/390およびz/OSはPOSIX準拠OSである。通常UNIXと呼ばれないが、標準のUNIX環境(Unix System Services - USS)により、OS/390やz/OSのネイティブアプリケーションとPOSIX準拠アプリケーションを同時稼働できる。 ; [[macOS]] : 独自改良の[[Mach]]マイクロカーネルと[[FreeBSD]]のユーザランドによって実現されたOS (Darwin) 上に[[Cocoa (API)|Cocoa]], [[Carbon (API)|Carbon]], [[Core Foundation]]などを実装した[[Mac (コンピュータ)|Mac]]用OS。なお、2007年10月に出荷された[[Mac OS X v10.5]]以降は、The Open Groupの認証を受けたUNIXである<ref>[http://www.opengroup.org/openbrand/register/apple.htm The Open GroupのOS XへのUNIX 03製品認証]</ref>。また、同じくDarwinを実装した派生OSに[[iOS]]がある。 ; [[A/UX]] : [[Apple|Apple Computer]]が開発した、SVR2ベースの[[Macintosh]]用OS。X11やコンソールのほかに、Mac OSによく似たインターフェイスのウィンドウシステムを備えていた。当時のMacintoshはMac OS以外をブートできないため、いったんSystem7が起動する。 ; [[MachTen]] : MachマイクロカーネルとFreeBSDをベースとした、Mac OS内で起動するOS。 ; [[BeOS]] : BeのワークステーションであるBeBox、またはPower Mac、[[PC/AT互換機]]で動作するUNIX互換OS。メディアOSとしてマルチメディアを扱うのに長けた。マイクロカーネルにはMachを使用しているが、ユーザカーネルなどのソースコードはオリジナルUNIXは使用せず、POSIX仕様をベースに新しくフルスクラッチされた。 ; [[BSD/OS]] : 初期BSDから分岐し商業プロダクトとなったUNIX。[[BSDi]]が開発、後に組込み系でリアルタイム制御に対応したUNIX互換OS「LINX」を開発・販売していたWind Riverがソフトウェア部門ごと買収。当初の名前はBSD/386 ; [[XENIX]] : [[マイクロソフト]]がSVR2をベースに開発・販売していた[[IBM PC]]向けUNIX。仮想メモリをもたない[[Intel 8086|8086]]とFDで動作するシンプルなシステム。教育用および安価なUNIX環境として高いインストールベースを誇った。[[1983年]]、[[SCO]]から販売されていたが、マイクロソフトがサーバOS戦略を独自路線([[OS/2]] → Windows NT)へ切り替えたため、後にSCOへ売却された。 ; [[PANIX]] : エー・アイ・ソフトが、SVR4をPC/AT互換機・[[PC-9800シリーズ]]に移植して発売していたもの ; [[UnixWare]] : USLの純正SVR4が[[ノベル (企業)|ノベル]]に売却され、ノベルの技術(Netwareのサポートなど)を取り入れられたUNIX。その後SCOへ売却される。 ; [[IRIX]] : [[シリコン・グラフィックス]] (SGI) のUNIX。GUIに優れる。映像製作分野でのシェアが高い。SVR4.2系 ; [[NeXT|NeXTSTEP/OPENSTEP]] : NeXT ComputerのOS。当初は同社のワークステーション専用のOSで、Machに4.3BSD相当の機能を搭載したものであった。後にPC/AT互換機などで動作するOSとして単体販売もされた。 ; {{仮リンク|Coherent|en|Coherent (operating system)}} : Marc Williams製。UNIXライクなOS。 ; [[UNICOS]] : Crayのスーパーコンピュータ用のUNIX。 ; [[RISC/os]] : [[ミップス・テクノロジーズ|ミップス・コンピュータシステムズ]]のUNIXワークステーション/サーバ専用のUNIX。日本ではクボタコンピュータ(株)が代理店をしていた。 ; [[Σプロジェクト|Σ]] : 通産省主導の国策プロジェクトとして開発されたOS。開発当初はBSD系だったが後にSystem V (Release2) 系に路線変更。プロジェクト的には失敗に終わったとされ、また、その後も少なからず他の国策プロジェクトに悪影響を与えたとされる。 ; [[HI-UX]] : [[日立製作所]]のワークステーション、サーバで動作する。当初は68000系ワークステーションで稼働したSystem V系独自OSであったが、後にハードウェアアーキテクチャの変更(PA-RISC)に伴い、HP-UXをベースとした製品へ変更となった。 ; [[NEWS (ソニー)|NEWS-OS]] : [[ソニー]]製の[[NEWS (ソニー)|NEWS]]ワークステーション専用のUNIX。当初は4.2BSDベースであったが、後に4.3BSDベースとなる。終末期にはSVR4.2ベースとなった(NEWS-OS6.x)。 ; [[OA/UX]] : [[シャープ]]製のOAシリーズ、IXシリーズのオフコン/ワークステーション専用のUNIX。当初はSystemIIIベースであったが、後にSystemVベースとなる。コンソール画面での漢字表示、オンボードの辞書ROMを用いたかな漢変換など独自の日本語化が行われていた。 ; [[UniOS-U]]/[[UniOS-B]]/[[UniOS-Σ]] : [[オムロン]]が開発・販売していた[[Luna (ワークステーション)|LUNAワークステーション]]のうちMC68030を用いたモデル専用のUNIX。SystemV系、BSD系、Σ準拠の3種類が供給された。MC88000を搭載したLUNA88k-WSのOSは[[Mach]]マイクロカーネル(ユーザカーネルは4.xBSD)であった。 ; [[EWS-UX]]([[UX/4800]]) : [[日本電気]] (NEC) 製の[[EWS4800]]ワークステーション専用のUNIX。SVR3系の[[CISC]]版とSVR4(当初は、SVR4.0,後にSVR4.2、4.2MP)系の[[RISC]]版が存在する。その後、[[UP-UX]]をOSとするUP4800サーバ・シリーズが発売になり、これらが統合されて[[UX/4800]]に名前が変更となった。CPUをR10000シリーズ(64ビット)としたモデルの発売に伴い、32ビット版と64ビット版が提供されている。 ; [[PC/UX]] : [[日本電気|NEC]]製[[PC-9800シリーズ]]([[Intel 80286|80286]]ベースのもの)専用のUNIX。SVR2ベース。 ; [[SUPER-UX]] : NEC製[[SXシリーズ|SX]]スーパーコンピュータ向けのUNIX。なお、[[地球シミュレータ]]向けには、このOSを地球シミュレータ向けに拡張したものが利用されている。 ; [[SX/A]] : [[富士通]]製[[ミニコン]]の[[FACOM Aシリーズ]](A30など)・[[Σ-Station]](Σプロジェクトとは無関係)シリーズ専用のUNIX。純正SVR3をベースに4.2BSDのTCP/IP機能を盛り込まれていた。 ; [[SX/G]] : [[富士通]]製[[ワークステーション]]の[[FACOM Gシリーズ]]や後継の[[FMGシリーズ]]のUNIX。Unix System Vをベースにしていた。 ; [[UXP/DS]] : 富士通[[DS/90]]・[[GP7000D]]シリーズ専用のUNIX、USL純正のSVR4をベースに開発された。 ; [[UXP/M]] : 富士通製汎用機([[FACOM]]後継機であるMシリーズ、GS (Gloval Server) シリーズ)で動作するSVR4互換のUNIX。他の富士通汎用機のOS (MSP/VSP) と同様に、VM上で稼動する。 ; [[RTU]] : {{仮リンク|MASSCOMP|en|MASSCOMP}}製リアルタイムUNIX、世界で初めてUNIXをリアルタイム化したUNIX。SVR3系カーネルをベースに4.2BSDのTCP/IPを利用していた。[[コンカレント・コンピュータ]]に買収後名前は消えるが、機能性は現在も継承されている。 ; [[CX/UX]] : [[ハリスコンピュータ]]製NHxxxxシリーズで動作する、SVR3系リアルタイムUNIX。SVR3系カーネルをベースに4.2BSDのTCP/IPを利用していた。[[コンカレント・コンピュータ]]に買収後名前は消えるが、機能性は現在も継承されている。 ; [[PowerMAX OS]] : [[コンカレント・コンピュータ]]製PowerHawk、NightHawk、TurboHawkシリーズで動作する。SVR4ES/MP純正カーネル(USLのカーネルベース)に[[POSIX1003.1b]](リアルタイム)、POSIX1003.1c([[POSIXスレッド]])の拡張を行い、XPG4の認定も受けている。事実上、最後の商用UNIXにおけるリアルタイムUNIXである。(2011年現在、販売中) ; [[NCR UNIX]] : [[NCR (企業)|NCR]]の発売するUNIX。 == UNIX環境を提供するソフトウェア == OSではないが、UNIXに相当する環境を提供するソフトウェア。 * [[BSD on Windows]] * [[Cygwin]] * [[Interix]] ([[Services for UNIX]]) * [[Windows NT系]] *: Windows NT系はPOSIX準拠のサブシステムをもつ。[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]では[[Interix]]サブシステムを導入することで、UNIX環境を構築することができる。[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]および[[Microsoft Windows Server 2003|Windows Server 2003]]ではPOSIXサブシステムが[[Services for UNIX]]として別配布である。Windows Server 2003 R2、[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]] (Ultimate、Enterprise) および[[Microsoft Windows Server 2008|Windows Server 2008]]では、Subsystem for Unix-based Applications として、標準搭載されている。Windows 10 Anniversary Update以降は[[Windows Subsystem for Linux]]として搭載されている。<ref>{{Cite web|和書|date=2016-04-13 |url=http://ascii.jp/elem/000/001/148/1148878/ |title=ズバッと解決! Windows 10探偵団 ― 第97回 ネイティブで動作するWindows上でLinuxが使えるようになった!(ASCII.jp) |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2016-04-25}}</ref> == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite book|和書|ref={{Sfnref|レッシグ|2002}}|author1=ローレンス・レッシグ|authorlink1=ローレンス・レッシグ|translator=山形浩生|title=コモンズ―ネット上の所有権強化は技術革新を殺す |year=2002 |publisher=翔泳社 |isbn=4-7981-0204-0 }} * Ritchie, D.M.; Thompson, K., ''[http://pdos.csail.mit.edu/6.828/2004/readings/ritchie74unix.pdf The UNIX Time-Sharing System]'' (The Bell System Technical Journal, July–August 1978, Vol. 57, No. 6, Part 2) * {{Cite web| url= http://www.levenez.com/unix/ | title=UNIX History | accessdate= 2005-03-17 | work=www.levenez.com }} - Unix系オペレーティングシステムの詳細な系図、関係する人物の公式サイトや関連資料へのリンクなど * {{Cite web| url= http://www.unixguide.net/ | title=AIX, FreeBSD, HP-UX, Linux, Solaris, Tru64 | accessdate= 2005-03-17 | work=UNIXguide.net }} * {{Cite web| url= http://lwn.net/2002/0221/bigpage.php3 | title=Linux Weekly News, February 21, 2002 | accessdate = 2006-04-07 | work=lwn.net }} * Lions, John: ''Lions' [http://www.lemis.com/grog/Documentation/Lions/ Commentary on the Sixth Edition UNIX Operating System] with Source Code'', Peer-to-Peer Communications, 1996; ISBN 1-57398-013-7 {{Refend}} * {{cite book | 和書 | title=UNIXシステム | author=S.R. Bourne | editor=三好 彰, 木下 恂(共訳) | year=1985 | publisher=マイクロソフトウェア | ref=Bourne(1982) }} * {{Cite book|和書 | author= GLYN MOODY 小山祐司監訳 | title= ソースコードの反逆 | year=2002 | date=2002-6-11 | publisher=[[アスキー (企業)|株式会社アスキー]]|isbn = |ref={{Sfnref|MOODY|2002}} }} == 関連文献 == ;書籍 * Salus, Peter H.: ''A Quarter Century of UNIX'', Addison Wesley, 1 June 1994; ISBN 0-201-54777-5 ;映像 * Computer Chronicles (1985). "[https://archive.org/details/UNIX1985 UNIX]". * Computer Chronicles (1989). "[https://archive.org/details/unix_2 Unix]". == 関連項目 == {{Commonscat|UNIX}} {{Wikibooks|UNIX/Linux入門|UNIX}} {{ウィキポータルリンク|オペレーティングシステム|[[ファイル:Alternative virtual machine host.svg|36px|ウィキポータル オペレーティングシステム]]}} * [[POSIX]] * [[Mach]] * [[C言語]] * [[UNIX時間]] * [[Plan 9 from Bell Labs]] == 外部リンク == * [http://www.unix.org The UNIX System]{{deadlink|date=2020年1月}}, at [[The Open Group]]. * [http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/hist.html The Evolution of the Unix Time-sharing System] * [http://www.bell-labs.com/history/unix/ The Creation of the UNIX Operating System] * [http://minnie.tuhs.org/UnixTree/ The Unix Tree: files from historic releases] * {{Curlie|Computers/Software/Operating_Systems/Unix/}} * [http://man.cat-v.org/unix-1st/ The Unix 1st Edition Manuals]. * [http://techchannel.att.com/play-video.cfm/2012/2/22/AT&T-Archives-The-UNIX-System The UNIX System] - 1982年のUNIXに関する映画。デニス・リッチー、ケン・トンプソン、ブライアン・カーニハン、アルフレッド・エイホらが出演している。 * [http://www.darwinsys.com/history/hist.html A History of UNIX before Berkeley: UNIX Evolution: 1975-1984] * [http://www.unix.com Unix and Linux Forums] - free technical support for unix and linux operating systems {{Unixコマンド}} {{Unix-like}} {{オペレーティングシステム}} {{Normdaten}} [[Category:UNIX|*]] [[Category:オペレーティングシステム|UNIX]] [[Category:アセンブリ言語]] [[Category:1969年のソフトウェア]] [[Category:OSファミリ]] [[Category:ケン・トンプソン]] [[Category:デニス・リッチー]]
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OS
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{{WikipediaPage||Wikipedia:オーバーサイトの方針}} ==OS== *[[オペレーティングシステム]] ('''O'''perating '''S'''ystem) の略 *[[オープンソース]] ('''O'''pen '''S'''ource) の頭文字 *オプティカル・スタビライザーの略。[[写真レンズ]]などに搭載される[[手ブレ補正]]機構の一種で、光学的(オプティカル)なエレメントの移動により像のブレをキャンセルするタイプを指す。 *医療用語で、[[全生存期間]] ('''O'''verall '''S'''urvival) *[[サッカー]]や[[ラグビーフットボール]]の競技上の概念[[オフサイド]] ('''O'''ff'''s'''ide) の略 *[[バレーボール]]のポジションとして、[[オポジット]]スパイカー ('''O'''pposite '''S'''piker) の略 *'''O'''fficemen & '''S'''tudents Carの略で「OSカー」。[[長野電鉄]]の[[通勤形車両 (鉄道)|通勤形電車]]である[[長野電鉄0系電車|0系・10系電車]]の愛称 *[[オーストリア航空]]の[[国際航空運送協会|IATA]][[航空会社コード]] *自動車の[[日本のナンバープレート|ナンバープレート]]で、[[国際ナンバー]]につけられる地名のひとつ。日本の地名の「大」にあたる *[[漁船]]の[[漁船登録番号|登録番号]]において[[大阪府]]を表す識別標(漁船法施行規則13条・付録第二) *ストリップ劇場。「大阪[[ストリップティーズ|ストリップ]]」の略とされる。[[九条OS]]・新宿OSなど 固有名詞として、 *[[オーエス]]株式会社。[[阪急東宝グループ]]の映画事業等の企業 *[https://jp.os-worldwide.com/ 株式会社オーエス]<!--[[オーエス (映像機器メーカー)|オーエス]]--> - 日本の映像機器メーカー *[[小川精機]]株式会社が販売している模型用エンジンのブランド「O.S.」 *[http://www.osgiken.co.jp/company/index.html 株式会社オーエス技研] - 自動車のチューニングパーツを製造・販売するメーカー また創作物に登場するものとして、 *[[ウィリアム・ギブスン]]作の「[[ニューロマンサー]]」等の小説中にたびたび登場する架空のコンピュータ企業「オノ・センダイ」の、作中での略称 *漫画「[[シャーマンキング]]」に登場する霊的能力の一種、「オーバーソウル」の作中での略称 *[[オーガノイドシステム]]。[[タカラトミー]]から販売されている[[玩具]]シリーズの架空の生物[[ゾイド]]に関し、その心臓・脳のような器官を強化するというシステム == Os == *[[オスミウム]]の元素記号 ('''Os''') == os == *[[オセト語]]の[[ISO 639|ISO 639-1言語コード]] == オーエス == *[[綱引き#掛け声|綱引きの掛け声]]。フランス語における同様の掛け声「オー・イッス (Oh, hisse) (それ引け)」に由来するという説も見られる。 *[[オーエス]]株式会社(前述) *[[オーエス オーエス]] - 1984年発売の[[矢野顕子]]のアルバム。 {{aimai}}
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Clean
■カテゴリ / ■テンプレート Clean(クリーン)は、プログラミング言語の一つで、純粋関数型言語である。Haskell とよく似ている。 一意型(英語版)により、参照透過性を保ちつつ、ファイルの破壊的な更新などができる。これは、参照透過性を保つためには値を複製した上で結果として返す必要があるが、その後複製元を二度と使用しない(参照しない)ことが保証できるのであれば、わざわざ複製せずとも直接破壊的に値を更新しても構わない、という考え方に基づく。例えば、変数aに1を加算するには のようにして、以降a2を使用する。もし今後もa = 1という前提で使用するならばこの方法しかないが、そうでなければaは無駄になる。しかし、プログラマはa = 1を二度と使用しないとわかっていても処理系にはわからない。それを処理系に知らせる手段が一意型(一意性型属性)である。処理系がa = 1という定義を二度と使用しないとわかりさえすればa2は不要となり、aを破壊的に更新していけばよい。無論a = 1であることを期待してaを使用すると期待通りに動かなくなるが、それは最初に処理系と交わした約束を破ったということにほかならず、コンパイラの型推論システムはaを一意型に型付けしない。つまり、aの管理はコンパイラの型推論システムが責任を持って行うことになる。
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Clean(クリーン)は、プログラミング言語の一つで、純粋関数型言語である。Haskell とよく似ている。 一意型により、参照透過性を保ちつつ、ファイルの破壊的な更新などができる。これは、参照透過性を保つためには値を複製した上で結果として返す必要があるが、その後複製元を二度と使用しない(参照しない)ことが保証できるのであれば、わざわざ複製せずとも直接破壊的に値を更新しても構わない、という考え方に基づく。例えば、変数aに1を加算するには のようにして、以降a2を使用する。もし今後もa = 1という前提で使用するならばこの方法しかないが、そうでなければaは無駄になる。しかし、プログラマはa = 1を二度と使用しないとわかっていても処理系にはわからない。それを処理系に知らせる手段が一意型(一意性型属性)である。処理系がa = 1という定義を二度と使用しないとわかりさえすればa2は不要となり、aを破壊的に更新していけばよい。無論a = 1であることを期待してaを使用すると期待通りに動かなくなるが、それは最初に処理系と交わした約束を破ったということにほかならず、コンパイラの型推論システムはaを一意型に型付けしない。つまり、aの管理はコンパイラの型推論システムが責任を持って行うことになる。
{{Otheruses|プログラミング言語|その他|クリーン}} {{Infobox programming language |name={{lang|en|Clean}} |logo= |paradigm=[[関数型言語]] |year=1987 |designer={{lang|en|Software Technology Research Group of Radboud University Nijmegen}} |developer= |latest_release_version=3.0 |latest_release_date={{release_date|2018|10|02}} |typing=[[強い型付け]], [[静的型付け]], [[動的型付け]] |implementations= |dialects= |influenced_by={{lang|en|[[Lean]]}}、{{lang|en|[[Miranda]]}}、{{lang|en|[[Haskell]]}} |influenced= |file_ext=<code>.icl</code>、<code>.dcl</code>、<code>.abc</code>、<code>.obj</code> }} {{プログラミング言語|lang = 関数型言語|index = Clean}}{{lang|en|'''Clean'''}}(クリーン)は、[[プログラミング言語]]の一つで、純粋[[関数型言語]]である。{{lang|en|[[Haskell]]}} とよく似ている。 {{仮リンク|一意型|en|Uniqueness type}}により、[[参照透過性]]を保ちつつ、ファイルの破壊的な更新などができる。これは、参照透過性を保つためには値を複製した上で結果として返す必要があるが、その後複製元を二度と使用しない(参照しない)ことが保証できるのであれば、わざわざ複製せずとも直接破壊的に値を更新しても構わない、という考え方に基づく。例えば、変数aに1を加算するには <pre> a = 1 a2 = a + 1 </pre> のようにして、以降a2を使用する。もし今後もa = 1という前提で使用するならばこの方法しかないが、そうでなければaは無駄になる。しかし、プログラマはa = 1を二度と使用しないとわかっていても処理系にはわからない。それを処理系に知らせる手段が一意型(一意性型属性)である。処理系がa = 1という定義を二度と使用しないとわかりさえすればa2は不要となり、aを破壊的に更新していけばよい。無論a = 1であることを期待してaを使用すると期待通りに動かなくなるが、それは最初に処理系と交わした約束を破ったということにほかならず、コンパイラの型推論システムはaを一意型に型付けしない。つまり、aの管理はコンパイラの型推論システムが責任を持って行うことになる。 ==外部リンク== *{{Official website|name=Clean}} 公式ウェブサイト *[http://sky.zero.ad.jp/~zaa54437/programming/clean/ 純粋遅延関数型言語Concurrent Clean]{{リンク切れ|date = 2015年1月}} {{Computer-stub}} [[Category:関数型プログラミング言語|CLEAN]]
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コンシューマーゲーム
コンシューマーゲーム(英:console game)とは、市販されている家庭用ゲーム機でのプレイを前提として作られるコンピュータゲームを指す用語。「家庭用ゲーム」とも呼ばれる。 コンシューマーゲーム、およびコンシューマーゲーム機とは、消費者(コンシューマー)である個人や一般家庭が直接購入(BtoC)するという意味で名付けられた和製英語で、英語ではそれぞれ「コンソールゲーム(en:console game)」「ゲームコンソール(en:video game console)」と呼ばれる。据え置き型のテレビ接続型ゲーム専用機(テレビゲーム)だけを指す言葉として用いられる場合もあるが、携帯型ゲームも含む場合も多い。企業が購入し運営する形態(BtoB)のアーケードゲーム(業務用向けゲーム)は含まれない。 日本では家庭用ゲーム機市場がパソコンゲーム市場を大きく上回り、アーケードメインの企業からみてコンシューマーからパソコン市場が外れ、1988年設立のコンシューマ・ソフト・グループが業界と消費者向けの新作ゲームのプロモーション展示会を開催したことで若い一般プレイヤーにも存在が知られ、団体名のコンシューマソフトが家庭用ゲーム機向けソフトの意味で広まった。 携帯型ゲーム機のゲームボーイが登場すると「家庭用」という言葉がいまひとつ当てはまらず、電子ゲームというとゲーム&ウオッチとの性能差が大きくいためこれも合わず、同じく携帯型のゲームギアは家庭用に該当し得るため細分化した結果、ゲーム機が携帯型と据置型とで区別されるようになったが、据置型は後から命名されたレトロニムと感じられたとみられ、プレイヤーの多くは家庭用を据置型の意味で使った。そして1990年代から携帯型と据置型、個人と家庭向けをまとめて表す「コンシューマー」が使われるようになった。英語のコンソールゲームと同じ意味で単にコンソールの言葉が広まったのは1990年代後半以降にインターネットが普及し始めてからで、オンラインゲームの人気やXboxなど新しい据置型ゲーム機が登場したことで日本国外のゲーム情報も広まるようになったからであったとみられている。2006年に任天堂が過去のハードで発売されたゲームを配信するバーチャルコンソールが登場したことでマニア以外にも個人、家庭用向けゲーム機をコンソールと呼ぶことが広まった。 以上の挙げた言葉はいずれも何かしら難点があり何でも使えるとはいえず、家庭用ゲーム機は携帯型も含むかどうかで注釈が必要で混同すると考えられ、コンシューマーは単にConsumerと訳すと意味が通じず、Consumer Gameでも別の意味にとれる、コンソールはゲームや英語もよく知らない人には意味が分かり難いのである。 1972年のマグナボックスによる「オデッセイ」が、世界初の「コンシューマーゲーム機」スタイルの市販製品とされている。この当時はゲームソフトをハードウェアに内蔵した機種しかなく、1つのゲーム機では内蔵されたゲームしかプレイできなかった。しかし、アタリの「Atari 2600」に代表されるゲーム機とゲームソフトを物理的に分離し、ゲームソフトをロムカセットで供給することが可能になると、1つの機種でもロムカセットを交換すれば別のゲームをプレイできるゲーム機が登場した。これが大ヒットしたことによりゲームソフトの販売市場が形成され、ゲーム機は爆発的に普及することとなった。 日本では1983年の任天堂による「ファミリーコンピュータ」の影響が大きく、その後も「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」と海外でも大成功を収めた。また、コンソールゲームのビジネスモデルも変化し、マルチプラットフォーム化やプラットフォームの枠を越えたクロスプレイも増えた。 ドリームキャストのインターネット(ウェブブラウザ)やPlayStation 2のDVD-Video再生機能が付いていたことをはじめ、デジタルカメラの画像表示などのAV機能を搭載するようになった。ハードディスク搭載DVDレコーダーとしての機能を持つPSXのように、家電製品の色彩を帯びた製品も珍しくなくなった。また、家庭用ゲームはゲーム専用機と呼ばれることもあるが「優れたUIを持つ多機能な総合的なエンタテインメント機器」としても提唱された。欧米ではHuluやNetflixなどセットトップボックスやスマートテレビとして利用された。 主な日本国内で見るゲームソフトの供給媒体と対応ゲーム機としては、以下の通りである。 インターネットインフラの発達に伴い、ダウンロードコンテンツやダウンロード販売、クラウドゲーミングで提供されるストリーミングもある。 広義においては、家電製品でもある。ゲームを含む家電製品のカテゴリーとして、娯楽家電(情報娯楽家電ないしデジタル家庭電化製品とも)という分野がある。電気(→電力)を消費して娯楽を提供する装置であり、家庭内にあるために電気保安上の制約として電気用品安全法の適用対象となっているが、2006年4月からはPSEマークのないものを発売できないという規制が、段階を追って発効されている。
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コンシューマーゲームとは、市販されている家庭用ゲーム機でのプレイを前提として作られるコンピュータゲームを指す用語。「家庭用ゲーム」とも呼ばれる。
{{コンピュータゲームのサイドバー}} {{コンピュータゲーム産業}} '''コンシューマーゲーム'''(英:console game)とは、市販されている家庭用[[ゲーム機]]でのプレイを前提として作られる[[コンピュータゲーム]]を指す用語<ref name="e-words">{{Cite web|和書|url=http://e-words.jp/w/E5AEB6E5BAADE794A8E382B2E383BCE383A0E6A99F.html|title=家庭用ゲーム機 【 consumer game machine 】 コンシューマゲーム機|accessdate=2014-6-3 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140802133707/http://e-words.jp/w/E5AEB6E5BAADE794A8E382B2E383BCE383A0E6A99F.html |archivedate=2014-08-02}}</ref><ref name="sophia-it">{{Cite web|和書|url=http://www.sophia-it.com/content/%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E7%94%A8%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%A9%9F|title=家庭用ゲーム機とは|accessdate=2014-6-3|publisher=[[IT用語辞典バイナリ]]([[Weblio]])}}</ref>。「'''家庭用ゲーム'''」とも呼ばれる。 == 名称 == コンシューマーゲーム、およびコンシューマー[[ゲーム機]]とは、[[消費者]](コンシューマー)である個人や一般家庭が直接購入([[小売|BtoC]])するという意味で名付けられた[[和製英語]]で、[[英語]]ではそれぞれ「コンソールゲーム([[:en:console game]])」<ref name="denfami1">{{Cite news|date=2021-03-26|title=「コンシューマー」? 「コンソール」? それとも……? 「家庭用ゲーム機」を指す言葉のちょっとややこしい歴史を徹底的に調べてみた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/210326a |accessdate=2021-07-03 |page=1 }}</ref>「ゲームコンソール([[:en:video game console]])」と呼ばれる。据え置き型のテレビ接続型ゲーム専用機([[テレビゲーム]])だけを指す言葉として用いられる場合もあるが<ref name="e-words" />、[[携帯型ゲーム]]も含む場合も多い<ref name="garbagenews2181665">{{Cite web|和書|url=http://www.garbagenews.net/archives/2181665.html|title=ソフトハード合わせて国内市場規模は3147億円、プラスダウンロードが79億円…CESA、2016年分の国内外家庭用ゲーム産業状況発表(最新)|accessdate=2017-08-29}}</ref>。企業が購入し運営する形態([[企業間取引|BtoB]])の[[アーケードゲーム]]([[業務用]]向けゲーム)は含まれない<ref name="e-words" /><!--他にも後述のように、本来はパソコンゲームとかとも対置された語なので、出典に書かれてることが間違ってる-->。 日本では家庭用ゲーム機市場がパソコンゲーム市場を大きく上回り、アーケードメインの企業からみてコンシューマーからパソコン市場が外れ、1988年設立の[[コンシューマ・ソフト・グループ]]が業界と消費者向けの新作ゲームのプロモーション展示会を開催したことで若い一般プレイヤーにも存在が知られ、団体名のコンシューマソフトが家庭用ゲーム機向けソフトの意味で広まった<ref name="denfami1" />。 携帯型ゲーム機の[[ゲームボーイ]]が登場すると「家庭用」という言葉がいまひとつ当てはまらず、電子ゲームというと[[ゲーム&ウオッチ]]との性能差が大きくいためこれも合わず、同じく携帯型の[[ゲームギア]]は家庭用に該当し得るため細分化した結果、ゲーム機が携帯型と据置型とで区別されるようになったが、据置型は後から命名された[[レトロニム]]と感じられたとみられ、プレイヤーの多くは家庭用を据置型の意味で使った<ref name="denfami2">{{Cite news|date=2021-03-26|title=「コンシューマー」? 「コンソール」? それとも……? 「家庭用ゲーム機」を指す言葉のちょっとややこしい歴史を徹底的に調べてみた |newspaper=電ファミニコゲーマー |publisher=マレ |url=https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/210326a/2 |accessdate=2021-07-03 |page=2 }}</ref>。そして1990年代から携帯型と据置型、個人と家庭向けをまとめて表す「コンシューマー」が使われるようになった<ref name="denfami2" />。英語のコンソールゲームと同じ意味で単にコンソールの言葉が広まったのは1990年代後半以降にインターネットが普及し始めてからで、[[オンラインゲーム]]の人気や[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]など新しい据置型ゲーム機が登場したことで日本国外のゲーム情報も広まるようになったからであったとみられている<ref name="denfami2" />。2006年に[[任天堂]]が過去のハードで発売されたゲームを配信する[[バーチャルコンソール]]が登場したことでマニア以外にも個人、家庭用向けゲーム機をコンソールと呼ぶことが広まった<ref name="denfami2" />。 以上の挙げた言葉はいずれも何かしら難点があり何でも使えるとはいえず、家庭用ゲーム機は携帯型も含むかどうかで注釈が必要で混同すると考えられ、コンシューマーは単にConsumerと訳すと意味が通じず、Consumer Gameでも別の意味にとれる、コンソールはゲームや英語もよく知らない人には意味が分かり難いのである<ref name="denfami2" />。 == 分類 == {{Main|ゲーム機|ゲーム機一覧}} ; [[テレビゲーム]](据え置き型ゲーム) : 狭義における典型的な「家庭用」ゲーム機であり、1台で複数人が遊ぶ、1人で遊ぶゲームであっても家族で別々に[[セーブポイント (ゲーム)|セーブ]]できる、バラエティーやパーティグッズとしてのゲームで使える、携帯型より大型にできるために比較的高性能にできる、などが挙げられる。[[バーチャルリアリティ]]<ref>{{Cite web|和書|title=SCE WWSプレジデント吉田修平をインタビュー、「ゲームの定義を広げたい」|url=https://www.inside-games.jp/article/2014/08/20/79652.html|accessdate=2014-10-11}}</ref> が楽しめる機種や、[[Nintendo Switch]]のように携帯型ゲーム機として持ち出せるハイブリッド型もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201704/18131325.html |title=“熱狂人口”の拡大によって実現するゲームマーケットの最大化とは? カドカワ 浜村弘一取締役の講演“ゲーム産業の現状と展望<2017年春季>”リポート |accessdate=2017-06-27}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.4gamer.net/games/990/G999026/20170302001/ |title=任天堂は今,何を“Switch”しようとしているのか。取締役常務執行役員の高橋伸也氏と,Nintendo Switch総合プロデューサーの小泉歓晃氏に聞く |accessdate=2017-06-27}}</ref>。 ; [[携帯型ゲーム]] : 元来ゲームを「携帯する」という意図の元に市場を開拓していったが、通信機能など個人ごとに所有するゲーム機という方向で市場が広がった。 == 略歴 == [[File:Nintendo-Famicom-Console-Set-FL.png|thumb|[[任天堂]]の[[ファミリーコンピュータ]]]] {{Main|コンピュータゲームの歴史}} 1972年の[[マグナボックス]]による「[[オデッセイ (ゲーム機)|オデッセイ]]」が、世界初の「コンシューマー[[ゲーム機]]」スタイルの市販製品とされている<ref name="famitsu_tvgame">{{Cite web|和書|author=武宗しんきろう|date=2012-12-11|url=https://www.famitsu.com/guc/blog/tvgame/|title=テレビゲーム・ファーストジェネレーション|work=[[ファミ通]]|publisher=[[KADOKAWA]]/[[エンターブレイン]]|accessdate=2014-6-3}}</ref>。この当時は[[ゲームソフト]]を[[ハードウェア]]に内蔵した機種しかなく、1つのゲーム機では内蔵されたゲームしかプレイできなかった<ref name="famitsu_tvgame" />。しかし、[[アタリ (企業)|アタリ]]の「[[Atari 2600]]」に代表されるゲーム機とゲームソフトを物理的に分離し、ゲームソフトを[[ロムカセット]]で供給することが可能になると、1つの機種でもロムカセットを交換すれば別のゲームをプレイできるゲーム機が登場した<ref name="famitsu_tvgame" />。これが大ヒットしたことによりゲームソフトの販売市場が形成され、ゲーム機は爆発的に普及することとなった<ref name="famitsu_tvgame" />。 [[日本]]では1983年の[[任天堂]]による「[[ファミリーコンピュータ]]」の影響が大きく、その後も「[[ゲームボーイ]]」「[[スーパーファミコン]]」と海外でも大成功を収めた<ref>{{Cite news|url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/835a0077649013aa484070ee4f176393fd40209a|title=日本ゲーム産業の父、任天堂・山内溥前社長死去|accessdate=2013-09-21|newspaper=[[Yahoo!ニュース]]|publisher=[[Yahoo! JAPAN]]|author=[[平林久和]]|date=2013-09-20}}</ref>。<!--『[[スペースインベーダー]]』が流行した当時、非行の温床といった[[社会問題]]が起きていたことからゲームは社会の害悪と見られており<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.com/article/DGXBZO60821020Y3A001C1000000/|title=任天堂・山内溥氏が守った「ゲームの品格」|accessdate=2013-10-18|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2013-10-09}}{{リンク切れ|date=2014年6月}}</ref>、その後も同様な意見が起こった<ref>{{Cite news|url=http://agora-web.jp/archives/1563912.html|title=勉強しなくなった日本人|accessdate=2013-10-18|author=[[辻元 (数学者)|辻元]]|newspaper=アゴラ 言論プラットフォーム|publisher=アゴラ研究所|date=2013-10-17}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://toyokeizai.net/articles/-/43793|title=「子どもにスマホを渡すな」は時代遅れ!?|accessdate=2014-7-31|author=[[夏野剛]]|newspaper=東洋経済オンライン|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2014-7-26}}</ref>。-->また、'''コンソールゲーム'''のビジネスモデルも変化し<ref>{{Cite news|date=2013-01-16|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/column/kaigai/581782.html|title=後藤弘茂のWeekly海外ニュース NVIDIAフアンCEOインタビュー 〜SHIELDはゲームのビジネスモデルの変化で産まれた|publisher=[[Impress Watch]]|accessdate=2013-06-10|newspaper=PC Watch}}</ref>、[[クロスプラットフォーム|マルチプラットフォーム]]化やプラットフォームの枠を越えた[[クロスプレイ (コンピュータゲーム)|クロスプレイ]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.automaton.am/articles/newsjp/20170626-49462/ |title=ニンテンドースイッチとXbox Oneが交わる時。クロスプラットフォームプレイに関する議論は加速化、PS4への期待の声続く |accessdate=2017-06-27}}</ref>も増えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201610/17118225.html |title=VRや『ポケモンGO』が業界を変え、ハード戦争はコミュニティ戦争に変わる――カドカワ 浜村弘一取締役の講演“ゲーム産業の現状と展望<2016年秋季>”リポート|accessdate=2016-10-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.famitsu.com/news/201610/21118298.html |title=Xbox事業のトップ、フィル・スペンサー氏独占インタビュー「Xbox Oneの日本市場での成功のために、継続して努力することを約束します」 |accessdate=2016-10-30}}</ref>。 <!-- 出典付いてますが、この表現では意味がロクに取れないですのでコメントにします。「3DCGが特殊だった当時」「ゼロからゲーム機を」という表現は、元記事では初代プレステの末期、プレステ2のハードウェアを開発していた頃の状況と、EEやGSというLSIの開発に要したコスト、といったものを指している、というフォローがありますが、この記事に今書かれているような表現だけでは、いつの時代のことか全くわかりません。例えば、「3DCGが特殊だった」というのが1980年代初期で、「ゼロから作った」ゲーム機が「[[光速船]]」だという意味にも解釈できます。私には改善するつもりはないですからコメントにします。 --> [[ドリームキャスト]]の[[インターネット]]([[ウェブブラウザ]])や[[PlayStation 2]]の[[DVD-Video]]再生機能が付いていたことをはじめ、[[デジタルカメラ]]の画像表示などのAV機能を搭載するようになった<ref>{{Cite web|和書|title=Xbox360、PS3、Wii─、「ゲーム機」の枠を出てどこへ向かうのか|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20070606/126617/|accessdate=2014-10-11}}</ref><ref name="stereosound28/28458">{{Cite web|和書|url=http://www.stereosound.co.jp/column/av_trends/article/2014/02/28/28458.html|title=第21回 いよいよ日本で発売されたPlayStation4は、AV的にどこまで使えるか? 2014年2月28日/麻倉怜士|accessdate=2014-6-3}}</ref>。ハードディスク搭載[[DVDレコーダー]]としての機能を持つ[[PSX]]のように、家電製品の色彩を帯びた製品も珍しくなくなった<ref>{{Cite web|和書|url=http://nasne.com/|title=nasne(ナスネ)&trade; オフィシャルサイト|accessdate=2014-6-3}}</ref>。また、家庭用ゲームはゲーム専用機と呼ばれることもあるが「優れたUIを持つ多機能な総合的なエンタテインメント機器」としても提唱された<ref>{{Cite news|url=https://www.4gamer.net/games/990/G999024/20130919098/|title=[TGS 2013]PlayStation 4が創り出すゲームの新しい楽しさをSCEのキーマンがアピール。TGS 2013基調講演【第一部】レポート|accessdate=2013-09-21|newspaper=[[4Gamer.net]]|publisher=Aetas|date=2013-09-19}}</ref><ref>{{Cite news|url=https://game.watch.impress.co.jp/docs/news/616069.html|title=アンドリュー・ハウス氏らが語る「『プレイステーション 4』が創造する世界」|accessdate=2013-09-21|publisher=[[Impress Watch]]|newspaper=GAME Watch|date=2013-09-19}}</ref>。欧米では[[Hulu]]や[[Netflix]]など[[セットトップボックス]]や[[スマートテレビ]]として利用された<ref name="famitsu16041655">{{Cite news|url=https://www.famitsu.com/news/201310/16041655.html|title=浜村弘一 ファミ通グループ代表による講演“ゲーム産業の現状と展望<2013年秋季>”詳報|accessdate=2013-10-18|newspaper=[[ファミ通]]|publisher=[[KADOKAWA]]/[[エンターブレイン]]|date=2013-10-16}}</ref>。 == ソフトの供給媒体 == {{Main|ゲームソフト|ゲームのタイトル一覧}} 主な日本国内で見るゲームソフトの供給媒体と対応[[ゲーム機]]としては、以下の通りである。 * [[ロムカセット]]([[ファミリーコンピュータ]]/[[スーパーファミコン]]/[[NINTENDO64]]/[[ゲームボーイ]]/[[ゲームギア]]/[[ゲームボーイアドバンス]]/[[セガ・マークIII]]&[[セガ・マスターシステム]]/[[メガドライブ]]/[[スーパー32X]] 他) * カード(セガ・マークIII&セガ・マスターシステム([[マイカード]])/[[PCエンジン]]([[Huカード]])/[[ニンテンドーDS]]/[[ニンテンドー3DS]]/[[Nintendo Switch]]/[[PlayStation Vita]]) * [[光ディスク]] ** [[CD-ROM]]([[CD-ROM2|CD-ROM<sup>2</sup>]]/[[SUPER CD-ROM2|SUPER CD-ROM<sup>2</sup>]]/[[メガCD]]/[[セガサターン]]/[[3DO]]/[[ネオジオCD]]/[[プレイディア]]/[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]/[[PlayStation 2]]) ** LD-ROM([[レーザーアクティブ]](LD-ROM<sup>2</sup>,MEGA-LD)) ** [[DVD|DVD-ROM]](PlayStation 2/[[Xbox (ゲーム機)|Xbox]]/[[Xbox 360]]) ** [[GD-ROM]]([[ドリームキャスト]]) ** [[Blu-ray Disc|BD-ROM]]([[PlayStation 3]]/[[PlayStation 4]]/[[Xbox One]]/[[PlayStation 5]]) ** [[ユニバーサル・メディア・ディスク|UMD]]([[PlayStation Portable]]) * 独自規格([[ニンテンドーゲームキューブ]]/[[Wii]]/[[Wii U]]) インターネットインフラの発達に伴い、[[ダウンロードコンテンツ]]や[[ダウンロード販売]]<ref name="getnews271630">{{Cite web|和書|url=http://getnews.jp/archives/271630|title=『とびだせ どうぶつの森』 パッケージ版とダウンロード版はどちらがお得か?|accessdate=2014-6-3}}</ref>、[[クラウドゲーム|クラウドゲーミング]]で提供される[[ストリーミング]]もある<ref>{{Cite web|和書|url=https://xtech.nikkei.com/it/article/COLUMN/20140519/557725/|title=ゲーム業界を変えるクラウド化の波|accessdate=2014-6-3}}</ref>。 == 電化製品として == 広義においては、[[家庭用電気機械器具|家電]]製品でもある。ゲームを含む家電製品のカテゴリーとして、[[娯楽家電]](情報娯楽家電ないし[[デジタル家庭電化製品]]とも)という分野がある。[[電気]](→[[電力]])を消費して娯楽を提供する装置であり、家庭内にあるために電気保安上の制約として[[電気用品安全法]]の適用対象となっているが、[[2006年]]4月からはPSEマークのないものを発売できないという規制が、段階を追って発効されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <!--=== 注釈 === {{notelist2}}--> === 出典 === {{Reflist|2}} {{コンピュータゲームのジャンル}} {{DEFAULTSORT:こんしゆうまあけえむ}} [[Category:コンピュータゲームプラットフォーム]] [[Category:和製英語]]
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Classic Mac OS
Classic Mac OS(クラシック マック オーエス)、Mac OS(マック オーエス)、System(システム)は、Appleが開発・販売していたオペレーティングシステム (OS)。1984年、Macintoshと共に登場し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の普及に大きく貢献した。 元々はSystem、Mac OSと称されてきたが、Appleは、Mac OS 9までをClassic Mac OSと総称している。なお、現行のmacOS (OS X, Mac OS X) はClassic Mac OSを基盤としたものではなく、NEXTSTEPの技術を基にしている。 当初のMacintoshは、ハードウェアの一部として提供されるToolbox ROM(現在は通常OSで提供される高レベルなAPIを含む)とOSとが、一体化したシステムソフトウェアとして扱われ、Systemと呼んでいた。 Macintosh互換機の登場によりApple自身もMac OSという呼称を使うようになり、System 7.5.1からは起動画面で Mac OSロゴが表示されるようになった。Mac OSという呼び名が通称から正式なものになったのは、1997年1月、Mac OS 7.6がリリースされた時である。互換機の普及とともに、MacintoshのハードウェアとOSを明確に区分する必要が生じたことによる。その後Appleの方針転換により互換機は市場から姿を消したが、Mac OSという名前はその後のAppleのOS製品に引き継がれている。1998年に発売されたiMac以降のMacintoshでは、Toolbox ROMの内容の大半がMac OS側に移されたNew World ROMマシンとなって、ほぼハードウェアから独立したOSとなった。 ビットマップディスプレイとマウスの利用を前提としていること、オーバーラップするマルチウインドウやメニュー操作、マルチスタイルフォントに代表される WYSIWYG 表示など、ゼロックスで1970年代に研究開発されていた暫定Dynabook環境(SmalltalkをOSとして動作するAlto)の多くを盗んだが、Altoでは3つあったマウスボタンをMacintoshでは1つに限って、操作体系を分かりやすく構築し直した。ファイルシステムやドラッグ・アンド・ドロップのファイル操作、国際化に必要な情報を保存するためのリソースとコードの分離、ファイルとアプリケーションソフトウェア(アプリケーション)との関連付け、データ形式に依存しないクリップボード、プルダウンメニューやゴミ箱を発明するなど、今日でも使われている多くの独自のアレンジを加えることで使い勝手を向上させた。暫定Dynabook環境では部分的に隠れたウインドウの再描画もできなかったが、QuickDrawの実装により、これを実現させた。こうした改良により、GUIというものをコンピュータの世界に広く浸透させた。 Macintoshに追随してマウスが付き始めた他のパーソナルコンピュータでは、アプリケーションごとにGUIのデザインの統一性が全くない時代が長く続いた。これは統一されたインフラストラクチャが存在しなかったことによる点が大きい。一方、Macintosh はインフラの提供にとどまらず、「作法」とでも言うべきヒューマン・インタフェース・ガイドライン(英語版)を定めることで、ひとつのソフトが使えれば、他のソフトも使えるというコンピュータ利用の形態を、パーソナルコンピュータで実現したさきがけとなった。 Mac OSは組版・デザイン・写真・イラストレーションといった分野で好んで利用された。これは、PC/AT互換機では多色高解像度へ満足のいく対応が行われた時期が遅く、それまではMacintoshが事実上唯一の存在であったことが最大の理由である。また、色調管理など多色画像処理に必須とされている機能にも早くから対応しており、完成度の高い WYSIWYG を当初から実現していたことも大きい。 さらにDTPのジャンルに特化したソフトが早くから多く開発・販売されたことが、印刷・出版業界におけるMacの普及に大きく貢献した。アドビシステムズからはPhotoshopやIllustrator、アルダスからはAldus PageMaker(のちにアルダスごとアドビシステムズが買収)、Quark社からはQuarkXPressといった、業務用ソフトウェアがそろっていた。 画像処理を得意とする理由としては、Lisaのためにビル・アトキンソンが中心となって開発したグラフィックルーチンLisaGrafがMacintoshに移植され、 QuickDrawとして初めの機種からROMの状態で搭載された点が大きい。また当初よりある程度先を見て広いメモリ空間を確保しており、いわゆる「640KBの壁」に悩まされていたMS-DOS系システムに比べて大きな画像を扱いやすかったという要素も挙げられる。グラフィックルーチンはMac OS XからPDFをベースとしたQuartzに替わったが、互換性を考慮してMac OS X v10.3まではQuickDraw関連の開発が続行され、Mac OS X v10.4で非推奨となった。 また、サウンド関連の機能が比較的充実していたこともあり(Sound Managerによるところも大きい)、Cubase、Logic Studio、Vision、Digital Performer、Pro Toolsなどのさまざまなソフトや周辺機器(Apple自身も MIDIインタフェースを発売)が発売され、プロのミュージシャンに盛んに利用された。ヤマハやローランドも初心者向けパッケージを発売し、アマチュアの愛用者も多かった。 デスクアクセサリ (Desk Accessory, DA) は、Systemと呼ばれていた頃のMac OSにおいて、使用中のアプリケーションとは別に起動しておける小物的なアプリケーションのことである。 初期のMacintoshはシングルタスクであったため、別のアプリケーションを使用するには一旦終了させなければならない。これは、搭載していたメモリが少なかったことに起因する。 デスクアクセサリは起動と終了の手間を省くための手段として用意された。わずかなメモリしか使わないため、使用中のアプリケーションとは別に起動しておくことができ、このころのMacintoshには欠かせないものだった。サードパーティーからは小物の位置づけであるにもかかわらず多機能なデスクアクセサリが多数開発された。Mac OSにあらかじめ搭載されていたデスクアクセサリもある。Mac OS 9まで残された「計算機」や「スクラップブック」がそうである。 デスクアクセサリを使用するためには、まず「Font/DA Mover」と呼ばれるユーティリティソフトウェアでシステムにインストールする。インストールしたデスクアクセサリはAppleメニューから起動できるようになる。 System 7でMacが疑似マルチタスクになるとデスクアクセサリは単なる一アプリケーションとなり、Font/DA Moverも姿を消した。Appleメニューはアプリケーションやファイルを起動するためのランチャーとなった。Mac OS 9まではデスクアクセサリのランチャーであったことの名残だということがうかがえる。 ジェフ・ラスキンは1978年後半に普通の一般人をターゲットにした使いやすくて安いコンピュータを目標にMacintoshプロジェクトを立ち上げた。ラスキンは1979年9月にプロトタイプを開発できるエンジニアを探した。リサのチームに所属していたビル・アトキンソンは、その年の上旬に入社していたサービス技術者のバレル・スミスを紹介した。 AppleはMacintoshのコンセプトとして、ユーザーがオペレーティングシステムの存在をなるべく意識しなくても済むことを目指していた。他のOSではOSに対する知識がなければできないような基本的なタスクを、Macintoshではマウスとアイコンの操作により実現できた。MS-DOSなどの当時のOSはテキスト入力形式のコマンドラインインターフェイスを採用しており、これとは一線を画していた。 1981年1月にスティーブジョブズがMachintoshプロジェクトを引き継いだ。LisaとMachintoshのプロジェクトが始まってから3か月後の1979年12月に、ジョブズとAppleのエンジニアたちはXeroxのパロアルト研究所を訪問した。パロアルト研究所で斬新なGUI技術を開発しているとの話をラスキンらパロアルト研究所の元研究者たちから聞いたジョブズは、Appleの株を提供する見返りとして、Xerox Altoの実物と、Smalltalkの開発環境を視察する約束を取り付けた。商品化されたLisaやMacintoshはXerox Altoのコンセプトをベースにしているが、メニューバー、プルダウンメニュー、ドラッグアンドドロップ、ドラッグによるウィンドウサイズ変更などの直感的な操作など、グラフィカルユーザーインターフェイスの要素の大半はAppleが独自に開発した。 IBM PCには起動テスト (POST) や基本入出力システム (BIOS) のために8KBのROMが搭載されていたが、MacのROMは64KBとかなり大きく、OSのコアとなるコードを格納していた。オリジナルのMac ROMの大半は、Machintosh開発初期メンバーの1人であるアンディ・ハーツフェルドが開発した。天才的なプログラミングのトリックとハッキングにより最適化されたプログラムをアセンブリ言語で記述し、貴重なROMスペースを節約した。彼はROM以外にも、カーネル、 Macintosh Toolbox、複数のデスクトップアクセサリ (DA) も開発した。フォルダやアプリケーションのアイコンは、後にマイクロソフトでWindows 3.0のアイコンをデザインしたスーザン・ケアがデザインした。ブルース・ホーンとスティーブ・キャップスはMacintosh Finderの他にも、たくさんのMacintoshシステムユーティリティを開発した。 Appleはこのマシンを積極的に売り込んだ。発売されるとニューズウィーク誌の1984年11月/12月号で39ページ全ての広告スペースを買い切った。洗練されているが高額な前期種のLisaを売り上げですぐに超えた。AppleはすぐにMacWorksを開発した。これはLisa用のMacintoshエミュレーターで、Macintosh XLとして販売されて開発が終了するまでにSystem 3までのアプリケーションを使用できた。LisaのOSに含まれていた先進的な機能の多くはMachintoshのOSがSystem 7になるまで実現されなかった。 Mac OSの初期バージョンは、モトローラ68000系のMacintoshでのみ動作した。AppleはPowerPCハードウェアを搭載したコンピュータを開発し、OSもPowerPCに移植された。Mac OS 8.1は68000プロセッサ (68040) で動作する最後のバージョンだった。 PowerPC G3ベースのシステムより前は、システムのコア部分がマザーボード上の物理ROMに格納されていた。初代Machintoshに搭載されていたRAMはわずか128KBだけで、OSがこれを使い切ってしまわないようにすることがROMを実装した元々の目的だった。またテキストオンリーのコンソールやコマンドラインがなくてもグラフィカルユーザーインターフェイスだけで低レベルな操作ができるように設計されていた。ディスクドライブが見つからないなどのエラーが起動時に生じると、アイコン、ビットマップフォントのChicago、チャイム音、ビープ音などでユーザーに通知した。対照的にMS-DOS機やCP/M機では黒地の等幅フォントでメッセージが表示され、入力としてマウスではなくキーボードが求められた。このような優れた機能をハードに近い低レベルのレイヤーから利用するため、初期のMac OSはマザーボードに搭載されたROMに含まれるシステムソフトウェアに依存する形になっており、これはまたApple純正のコンピュータや、Appleの著作物であるROMを用いた正規の互換機のみでMac OSが動作することを保障するのにも役立った。 複数の互換機メーカーがMac OSを実行できるMacintosh互換機を数年にわたり開発した。1995年から1997年にAppleはMacintosh ROMをPower Computing、UMAX、モトローラなどの企業へライセンス供与した。これらのマシンでは通常はカスタム版のMac OSが動作した。スティーブ・ジョブズが1997年にAppleへ復帰すると互換ライセンスの提供は終了した。 Macintosh互換機のサポートはSystem 7.5.1で最初に発表され、オリジナルの起動アイコンであるHappy MacをもとにしたMac OSのロゴが初めて使われた。Mac OS 7.6からは名称をSystemからMac OSに変更した。この名称変更はOSがApple純正のMachintosh専用ではないことを示すために実施された。 Macintoshが最初に採用したMachintosh File System (MFS) はサブフォルダのないフラットなファイルシステムだった。発売直後の1985年にはきちんとディレクトリに対応したHierarchical File System (HFS)に置き換えられた。両者には互換性があった。改良版であるHFS Plus("HFS+"または"Mac OS Extended")が1997年に発表されて1998年に提供された。 DOS、Windows、Unixなどのほとんどのファイルシステムにはフォークが1つだけしかない。一方MFSやHFSにはファイルにフォークが2つある。データフォークには、ドキュメントのテキストや画像ファイルのビットマップなど、他のファイルシステムのファイル内容にあたる情報が含まれる。リソースフォークには、メニュー定義、グラフィック、サウンド、他のシステムのファイル形式に組み込まれるコードセグメントなど、構造化されたデータが含まれる。実行可能ファイルは空のデータフォークを持つリソースのみ、データファイルはリソースフォークのないデータフォークのみとなる場合がある。ワードプロセッサのファイルは、データフォークにテキストを、リソースフォークにスタイリング情報を含めることができるため、スタイリング情報を読めないアプリケーションでもテキストデータを読むことができる。 一方でこのようなフォークを使った仕組みは他のOSとのデータ共有に問題が生じた。Mac OSのファイルをMacintosh以外のOSにコピーすると、デフォルトではファイルからリソースフォークが失われる。大半のデータファイルは、ウィンドウのサイズや位置など欠落しても大きな支障がない情報しかリソースフォークに保存していないが、実行ファイルはリソースフォークが失われると動作しなくなる。BinHexやMacBinaryなどのエンコード処理により、ユーザーは複数のフォークを1つのデータにしたり、逆に1つのデータから複数のフォークに展開してMac OSで使えるようにしたりできた。 1986年のMacintosh Plusの登場から、1997年にMac OSに名称変更されるまで、Systemのアプリケーション群を日本語表示に対応させ、日本語フォントや日本語入力システム(当初はFEPであり、インプットメソッドではない)を同梱するなど日本市場向けに設計されたオペレーティングシステムを漢字Talk(かんじトーク)と呼称した。 技術の進歩に伴いMac OSも様々な変化を遂げている。その系譜は概ねSystem 6までと、System 7、Mac OS 8およびMac OS 9の3つの時期に分かれる。 Appleは家電製品のようなシンプルなコンピュータを開発することを目指しており、OSとハードを明確に区別していなかった。このためOSの初期バージョンには明確な名前がなかった。ソフトウェアはユーザーから見て、システムファイルと、デスクトップの表示も担うファイル管理ツールのファインダーの2つで構成されているように見える。この2つのファイルはシステムフォルダというラベルが付いたディレクトリに入っている。このディレクトリにはプリンタドライバなどシステムの操作に必要なリソースファイルが含まれている。OSのバージョンナンバーはこれら2つのファイルのバージョンナンバーに基づいている。 画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSであり、QuickDrawの採用により、ハードウェアによるアクセラレーションなしでGUI OS環境を実用的な速度で動作させることができた。ファイルシステムは、初期ではMacintosh File Systemであったが、512KeやPlusに搭載された 128KBのToolbox ROMおよびSystem 3.1よりHFSを採用した。今から見れば非常に貧弱な機能しか持たないが、それでも驚くべきことに初代 MacintoshのToolbox ROMはわずか64KBにおさめられ、128KBのメインメモリ上ですべての機能が動作した(もっとも128KBでは実用上厳しいほどメモリが不足していたため、すぐに512KB モデルへのアップデートが行われた)。当時の限られたハードウェア上で動作させるため性能的には多くの制約があり、メモリを節約するために完全なシングルタスクを前提として設計されたToolbox APIは後のMac OSの発展の足枷となることになる。 これらのバージョンではデスクアクセサリーを除き1度に1つのアプリケーションしか実行できない。Multi-MacやSwitcherなどの特別なアプリケーションシェルを使えば複数のアプリを走らせることが可能だった。見た目が進化している場合はFinderのバージョンナンバーも変更されており、1.x、4.x、5.x、6.xなどのメジャーバージョンアップ時に大きな差がみられた。 Appleは1990年代後半になってこれらの古いリリースにバージョンナンバーを遡及して割り当てた。 1987年後期にAppleはApple Macintosh System Software Update 5.0のタイトルでパッケージを公開した。49ドルの価格で800KBのフロッピーディスク4枚の形態で販売され、MachintoshのOSが小売販売されたのはこの時が初めてだった。ソフトウェアはユーザーグループやネットの掲示板などでも引き続き無料で配布された。製品の箱にはバージョン 5.0と表記されていたが、このバージョンナンバーは画面のどこにも表示されなかった。4枚のディスクのうち、システムツール1、システムツール2、ユーティリティ1の3枚はいずれも起動可能で、ユーザーは使いたいツールが含まれているディスクから起動できた。例えばプリンタドライバが入っているのはシステムツール2だけであり、Disk First AidやApple HD SC Setupが入っているのはシステムツール1だけだった。これらのディスクにはシステムツールズと書かれていたことから、ユーザーやマスコミはこのバージョンをシステムツールズ5.0と呼ぶことが多かった。 System 5の最も大きな変更点は複数のプログラムを同時に実行できる機能拡張のMultiFinderを搭載したことだった。OSはノンプリエンプティブな設計だった。この設計ではフォアグラウンドアプリケーションが制御を返した時だけバックグラウンドアプリケーションが動作できた。アプリケーションはイベントを処理するためにOSの関数を呼び出しており、OSの関数が勝手に制御を返すようにすることで、既存のアプリケーションの大半は修正せずとも自動的にバックグラウンドのアプリケーションとCPU時間を共有できた。MultiFinderを使用しない選択も可能だった。この場合は複数のアプリケーションを同時に実行できなかった。1990年にInfoWorld誌が実施したテストでは、PCとMacで4つのマルチタスク処理をテストし、MultiFinderを高く評価したが、一方でSystem 6上のMultiFinderを使わないシングルタスク構成と比べてファイルの転送や印刷の速度が半分になったことを指摘した。 商品パッケージ名称のSystem Softwareのバージョン表記と、Systemファイルのバージョンが(日本語版は漢字Talk のバージョンも)同一になった。System 4までと同じく、画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSだが、MultiFinderが用意され、疑似マルチタスク環境が利用できるようになる。32ビットQuickDrawの登場により、24ビットフルカラーが扱えるようになる。TrueTypeが採用され、QuickTimeの登場によりマルチメディアデータを扱う環境が整う。ちなみにSystem 5というバージョンはない。これはSystem 6において、FinderとSystem自体のメジャーバージョンを統一するという方針によるものであった 。2011年にはシステムクロックの表示がリセットされてしまう。最終バージョンは、System 7リリース後に配付されたSystem 6.0.8Lである。 コードネーム:Blue, Big Bang。システム全般が大幅に改良・強化され、Macは本格的なマルチメディア時代に踏み出した。システムが32ビットクリーンになった(機能拡張〈INIT〉ファイル等には24ビットアドレッシングが残ったものもあった)。32ビットQuickDrawやMultiFinderの疑似マルチタスク機能がシステムに全面統合され、QuickTimeも標準で付属するようになった。画面のデザインがカラー化され、ラベル機能など色を生かしたインタフェースが搭載された。多言語対応が始まり、中国語や韓国語など「漢字Talk」として既に対応していた日本語以外のCJKVマルチバイト言語にもMac OSとして対応した、なお漢字文化圏ではあるがMac OSとしての対応であり漢字Talkの名称は用いられていない。仮想メモリの搭載により最大 4GB のメモリ空間にアクセスできるようになり、巨大な画像データや動画ファイルを扱う条件が整う。Open Scripting Architectureの採用によりアプリケーション間通信の機構が整備され、AppleScriptによる自動操作を実現した。ファイル共有やドラッグ・アンド・ドロップの標準化も行われ、その後のMac OSの原型となったバージョンである。 Mac OS 7.6.1 1996年12月20日のAppleがNeXT買収発表後のWWDC '97で発表されたRhapsody計画(後のMac OS X Server 1.0)を経て、2000年のMacworld Expo/San FranciscoでMac OS X(後のOS X)が発表され、それまでのつなぎとしてシステムの近代化、インターネットへの親和性強化が図られる。Coplandプロジェクトで開発されたもののうち、使えそうな技術から順次採用を進め、半年ごとにマイナーアップデートとメジャーアップデートを繰り返すという方針が発表された。 Mac OS 8.5.1 Mac OS Xへの橋渡しの役割を担ったバージョンであり、アプリケーションパッケージや Carbonlib など、Mac OS Xとの互換性を意識した機能が盛り込まれた。最後のバージョンとなった Mac OS 9.2.xはMac OS直系の到達点として高い完成度を持っている。 なお、Mac OS 9.0はMac OS 9.2.2までアップデートできる。2012年5月現在、日本語版の 9.0.4 へのアップデータは入手可能だが、それ以外はダウンロードページへのリンクが正常に機能しなくなっていて入手不可能になっている。 macOS (当初はMac OS X、2012年から2016年まではOS X)は、Appleの2021年1月時点のMac用OSであり、2001年にClassic Mac OSの後継OSとして登場した。Mac OSのバージョン10として宣伝されていたが、Classic Mac OSとは全く別のOSである。 Classic Mac OSの設計を引き継いだ後継OSはMac OS 9であり、そのさらなる後継は存在しない。Classic Mac OSと異なりUnixベースのOSで、AppleがNeXT社を買収してスティーブ・ジョブズがAppleのCEOに復帰した際に、1980年代後半から1997年までに開発されたNeXTがNeXTSTEPを経てからmacOSになった。macOSはBSDのコードやXNUカーネルも利用しており、そのコア部分はAppleのオープンソースプロジェクトであるOSのDarwinがベースになっている。 最初はサーバ用OSのMacOS X Server 1.0として1999年にリリースされた。このバージョンから初めてAquaユーザインタフェースが採用された一方で、Classic Mac OSのプラチナスタイルも残されており、部分的にはOPENSTEPの名残もあった。デスクトップ版のMacOS X 10.0が続けて2001年3月24日にリリースされ、Aquaユーザインタフェースがサポートされた。これ以来複数のバージョンがリリースされている。Mac OS Xは2012年にOS Xに、2016年にmacOSに改名された。 従来のMacユーザーの多くがMac OS Xへアップグレードしたが、ユーザーフレンドリーではない部分がある、旧Mac OSの機能が完全に再現されていない、同じハード(特に旧機種)で遅い、旧OSとの互換性が不完全など、最初の数年は批判に晒された。旧Mac OS用のドライバ(プリンタ、スキャナ、タブレットなど)はMac OS Xと互換性がなく、Mac OS Xで古いOS用のプログラムを動かすためのClassic Environmentがきちんとサポートされず、1997年以前のマシンをサポートしておらず、Macintoshユーザーの一部はMac OS Xがリリースされた後も数年間にわたりClassic Mac OSを使い続けた。スティーブ・ジョブズは2002年のWWDCでMac OS 9の葬式を開催してMac OS Xへのアップグレードを人々に促した。 Mac OS XのPowerPC版は旧Macのアプリを動かす互換レイヤーであるClassic EnvironmentをMac OS X 10.4 Tigerまでサポートしていた。元々はブルーボックスのコードネームで開発され、Mac OS Xのアプリケーションとして動作し、Mac OS 9のバージョン9.1以降の実行環境をほぼ再現していた。Mac OS XのCarbon APIに移植されていないアプリケーションをMac OS Xで実行できた。ほぼシームレスに動作したが、ClassicアプリケーションはMac OS 9の見た目のままで、Mac OS XのAquaな外観にはならなかった。 New World ROMを搭載したPowerPCベースのMacは当初、Mac OS 9.2に加えてMac OS Xを同梱した。Mac OS X 10.4以降からは旧OSがプリインストールされなくなり、旧OSを使いたいユーザーはMac OS 9.2を別途手動でインストールする必要があった。Classic Mac OS用に書かれたアプリケーションで行儀のよいものは新OSでもほぼ動作し、ハードウェアに依存した処理がなく、全てOSを通してハードを操作するソフトウェアだけが互換性を保証された。Mac OS 9はx86で動作しないため、IntelベースのMacではClassic環境を使用できない。
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"text": "Mac OSの初期バージョンは、モトローラ68000系のMacintoshでのみ動作した。AppleはPowerPCハードウェアを搭載したコンピュータを開発し、OSもPowerPCに移植された。Mac OS 8.1は68000プロセッサ (68040) で動作する最後のバージョンだった。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "PowerPC G3ベースのシステムより前は、システムのコア部分がマザーボード上の物理ROMに格納されていた。初代Machintoshに搭載されていたRAMはわずか128KBだけで、OSがこれを使い切ってしまわないようにすることがROMを実装した元々の目的だった。またテキストオンリーのコンソールやコマンドラインがなくてもグラフィカルユーザーインターフェイスだけで低レベルな操作ができるように設計されていた。ディスクドライブが見つからないなどのエラーが起動時に生じると、アイコン、ビットマップフォントのChicago、チャイム音、ビープ音などでユーザーに通知した。対照的にMS-DOS機やCP/M機では黒地の等幅フォントでメッセージが表示され、入力としてマウスではなくキーボードが求められた。このような優れた機能をハードに近い低レベルのレイヤーから利用するため、初期のMac OSはマザーボードに搭載されたROMに含まれるシステムソフトウェアに依存する形になっており、これはまたApple純正のコンピュータや、Appleの著作物であるROMを用いた正規の互換機のみでMac OSが動作することを保障するのにも役立った。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "複数の互換機メーカーがMac OSを実行できるMacintosh互換機を数年にわたり開発した。1995年から1997年にAppleはMacintosh ROMをPower Computing、UMAX、モトローラなどの企業へライセンス供与した。これらのマシンでは通常はカスタム版のMac OSが動作した。スティーブ・ジョブズが1997年にAppleへ復帰すると互換ライセンスの提供は終了した。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "Macintosh互換機のサポートはSystem 7.5.1で最初に発表され、オリジナルの起動アイコンであるHappy MacをもとにしたMac OSのロゴが初めて使われた。Mac OS 7.6からは名称をSystemからMac OSに変更した。この名称変更はOSがApple純正のMachintosh専用ではないことを示すために実施された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "Macintoshが最初に採用したMachintosh File System (MFS) はサブフォルダのないフラットなファイルシステムだった。発売直後の1985年にはきちんとディレクトリに対応したHierarchical File System (HFS)に置き換えられた。両者には互換性があった。改良版であるHFS Plus(\"HFS+\"または\"Mac OS Extended\")が1997年に発表されて1998年に提供された。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "DOS、Windows、Unixなどのほとんどのファイルシステムにはフォークが1つだけしかない。一方MFSやHFSにはファイルにフォークが2つある。データフォークには、ドキュメントのテキストや画像ファイルのビットマップなど、他のファイルシステムのファイル内容にあたる情報が含まれる。リソースフォークには、メニュー定義、グラフィック、サウンド、他のシステムのファイル形式に組み込まれるコードセグメントなど、構造化されたデータが含まれる。実行可能ファイルは空のデータフォークを持つリソースのみ、データファイルはリソースフォークのないデータフォークのみとなる場合がある。ワードプロセッサのファイルは、データフォークにテキストを、リソースフォークにスタイリング情報を含めることができるため、スタイリング情報を読めないアプリケーションでもテキストデータを読むことができる。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "一方でこのようなフォークを使った仕組みは他のOSとのデータ共有に問題が生じた。Mac OSのファイルをMacintosh以外のOSにコピーすると、デフォルトではファイルからリソースフォークが失われる。大半のデータファイルは、ウィンドウのサイズや位置など欠落しても大きな支障がない情報しかリソースフォークに保存していないが、実行ファイルはリソースフォークが失われると動作しなくなる。BinHexやMacBinaryなどのエンコード処理により、ユーザーは複数のフォークを1つのデータにしたり、逆に1つのデータから複数のフォークに展開してMac OSで使えるようにしたりできた。", "title": "仕様" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1986年のMacintosh Plusの登場から、1997年にMac OSに名称変更されるまで、Systemのアプリケーション群を日本語表示に対応させ、日本語フォントや日本語入力システム(当初はFEPであり、インプットメソッドではない)を同梱するなど日本市場向けに設計されたオペレーティングシステムを漢字Talk(かんじトーク)と呼称した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "技術の進歩に伴いMac OSも様々な変化を遂げている。その系譜は概ねSystem 6までと、System 7、Mac OS 8およびMac OS 9の3つの時期に分かれる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "Appleは家電製品のようなシンプルなコンピュータを開発することを目指しており、OSとハードを明確に区別していなかった。このためOSの初期バージョンには明確な名前がなかった。ソフトウェアはユーザーから見て、システムファイルと、デスクトップの表示も担うファイル管理ツールのファインダーの2つで構成されているように見える。この2つのファイルはシステムフォルダというラベルが付いたディレクトリに入っている。このディレクトリにはプリンタドライバなどシステムの操作に必要なリソースファイルが含まれている。OSのバージョンナンバーはこれら2つのファイルのバージョンナンバーに基づいている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSであり、QuickDrawの採用により、ハードウェアによるアクセラレーションなしでGUI OS環境を実用的な速度で動作させることができた。ファイルシステムは、初期ではMacintosh File Systemであったが、512KeやPlusに搭載された 128KBのToolbox ROMおよびSystem 3.1よりHFSを採用した。今から見れば非常に貧弱な機能しか持たないが、それでも驚くべきことに初代 MacintoshのToolbox ROMはわずか64KBにおさめられ、128KBのメインメモリ上ですべての機能が動作した(もっとも128KBでは実用上厳しいほどメモリが不足していたため、すぐに512KB モデルへのアップデートが行われた)。当時の限られたハードウェア上で動作させるため性能的には多くの制約があり、メモリを節約するために完全なシングルタスクを前提として設計されたToolbox APIは後のMac OSの発展の足枷となることになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "これらのバージョンではデスクアクセサリーを除き1度に1つのアプリケーションしか実行できない。Multi-MacやSwitcherなどの特別なアプリケーションシェルを使えば複数のアプリを走らせることが可能だった。見た目が進化している場合はFinderのバージョンナンバーも変更されており、1.x、4.x、5.x、6.xなどのメジャーバージョンアップ時に大きな差がみられた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "Appleは1990年代後半になってこれらの古いリリースにバージョンナンバーを遡及して割り当てた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "1987年後期にAppleはApple Macintosh System Software Update 5.0のタイトルでパッケージを公開した。49ドルの価格で800KBのフロッピーディスク4枚の形態で販売され、MachintoshのOSが小売販売されたのはこの時が初めてだった。ソフトウェアはユーザーグループやネットの掲示板などでも引き続き無料で配布された。製品の箱にはバージョン 5.0と表記されていたが、このバージョンナンバーは画面のどこにも表示されなかった。4枚のディスクのうち、システムツール1、システムツール2、ユーティリティ1の3枚はいずれも起動可能で、ユーザーは使いたいツールが含まれているディスクから起動できた。例えばプリンタドライバが入っているのはシステムツール2だけであり、Disk First AidやApple HD SC Setupが入っているのはシステムツール1だけだった。これらのディスクにはシステムツールズと書かれていたことから、ユーザーやマスコミはこのバージョンをシステムツールズ5.0と呼ぶことが多かった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "System 5の最も大きな変更点は複数のプログラムを同時に実行できる機能拡張のMultiFinderを搭載したことだった。OSはノンプリエンプティブな設計だった。この設計ではフォアグラウンドアプリケーションが制御を返した時だけバックグラウンドアプリケーションが動作できた。アプリケーションはイベントを処理するためにOSの関数を呼び出しており、OSの関数が勝手に制御を返すようにすることで、既存のアプリケーションの大半は修正せずとも自動的にバックグラウンドのアプリケーションとCPU時間を共有できた。MultiFinderを使用しない選択も可能だった。この場合は複数のアプリケーションを同時に実行できなかった。1990年にInfoWorld誌が実施したテストでは、PCとMacで4つのマルチタスク処理をテストし、MultiFinderを高く評価したが、一方でSystem 6上のMultiFinderを使わないシングルタスク構成と比べてファイルの転送や印刷の速度が半分になったことを指摘した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "商品パッケージ名称のSystem Softwareのバージョン表記と、Systemファイルのバージョンが(日本語版は漢字Talk のバージョンも)同一になった。System 4までと同じく、画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSだが、MultiFinderが用意され、疑似マルチタスク環境が利用できるようになる。32ビットQuickDrawの登場により、24ビットフルカラーが扱えるようになる。TrueTypeが採用され、QuickTimeの登場によりマルチメディアデータを扱う環境が整う。ちなみにSystem 5というバージョンはない。これはSystem 6において、FinderとSystem自体のメジャーバージョンを統一するという方針によるものであった 。2011年にはシステムクロックの表示がリセットされてしまう。最終バージョンは、System 7リリース後に配付されたSystem 6.0.8Lである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "コードネーム:Blue, Big Bang。システム全般が大幅に改良・強化され、Macは本格的なマルチメディア時代に踏み出した。システムが32ビットクリーンになった(機能拡張〈INIT〉ファイル等には24ビットアドレッシングが残ったものもあった)。32ビットQuickDrawやMultiFinderの疑似マルチタスク機能がシステムに全面統合され、QuickTimeも標準で付属するようになった。画面のデザインがカラー化され、ラベル機能など色を生かしたインタフェースが搭載された。多言語対応が始まり、中国語や韓国語など「漢字Talk」として既に対応していた日本語以外のCJKVマルチバイト言語にもMac OSとして対応した、なお漢字文化圏ではあるがMac OSとしての対応であり漢字Talkの名称は用いられていない。仮想メモリの搭載により最大 4GB のメモリ空間にアクセスできるようになり、巨大な画像データや動画ファイルを扱う条件が整う。Open Scripting Architectureの採用によりアプリケーション間通信の機構が整備され、AppleScriptによる自動操作を実現した。ファイル共有やドラッグ・アンド・ドロップの標準化も行われ、その後のMac OSの原型となったバージョンである。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "Mac OS 7.6.1", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "1996年12月20日のAppleがNeXT買収発表後のWWDC '97で発表されたRhapsody計画(後のMac OS X Server 1.0)を経て、2000年のMacworld Expo/San FranciscoでMac OS X(後のOS X)が発表され、それまでのつなぎとしてシステムの近代化、インターネットへの親和性強化が図られる。Coplandプロジェクトで開発されたもののうち、使えそうな技術から順次採用を進め、半年ごとにマイナーアップデートとメジャーアップデートを繰り返すという方針が発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "Mac OS 8.5.1", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "Mac OS Xへの橋渡しの役割を担ったバージョンであり、アプリケーションパッケージや Carbonlib など、Mac OS Xとの互換性を意識した機能が盛り込まれた。最後のバージョンとなった Mac OS 9.2.xはMac OS直系の到達点として高い完成度を持っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "なお、Mac OS 9.0はMac OS 9.2.2までアップデートできる。2012年5月現在、日本語版の 9.0.4 へのアップデータは入手可能だが、それ以外はダウンロードページへのリンクが正常に機能しなくなっていて入手不可能になっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "macOS (当初はMac OS X、2012年から2016年まではOS X)は、Appleの2021年1月時点のMac用OSであり、2001年にClassic Mac OSの後継OSとして登場した。Mac OSのバージョン10として宣伝されていたが、Classic Mac OSとは全く別のOSである。", "title": "Mac OS Xへの移行" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "Classic Mac OSの設計を引き継いだ後継OSはMac OS 9であり、そのさらなる後継は存在しない。Classic Mac OSと異なりUnixベースのOSで、AppleがNeXT社を買収してスティーブ・ジョブズがAppleのCEOに復帰した際に、1980年代後半から1997年までに開発されたNeXTがNeXTSTEPを経てからmacOSになった。macOSはBSDのコードやXNUカーネルも利用しており、そのコア部分はAppleのオープンソースプロジェクトであるOSのDarwinがベースになっている。", "title": "Mac OS Xへの移行" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "最初はサーバ用OSのMacOS X Server 1.0として1999年にリリースされた。このバージョンから初めてAquaユーザインタフェースが採用された一方で、Classic Mac OSのプラチナスタイルも残されており、部分的にはOPENSTEPの名残もあった。デスクトップ版のMacOS X 10.0が続けて2001年3月24日にリリースされ、Aquaユーザインタフェースがサポートされた。これ以来複数のバージョンがリリースされている。Mac OS Xは2012年にOS Xに、2016年にmacOSに改名された。", "title": "Mac OS Xへの移行" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "従来のMacユーザーの多くがMac OS Xへアップグレードしたが、ユーザーフレンドリーではない部分がある、旧Mac OSの機能が完全に再現されていない、同じハード(特に旧機種)で遅い、旧OSとの互換性が不完全など、最初の数年は批判に晒された。旧Mac OS用のドライバ(プリンタ、スキャナ、タブレットなど)はMac OS Xと互換性がなく、Mac OS Xで古いOS用のプログラムを動かすためのClassic Environmentがきちんとサポートされず、1997年以前のマシンをサポートしておらず、Macintoshユーザーの一部はMac OS Xがリリースされた後も数年間にわたりClassic Mac OSを使い続けた。スティーブ・ジョブズは2002年のWWDCでMac OS 9の葬式を開催してMac OS Xへのアップグレードを人々に促した。", "title": "Mac OS Xへの移行" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "Mac OS XのPowerPC版は旧Macのアプリを動かす互換レイヤーであるClassic EnvironmentをMac OS X 10.4 Tigerまでサポートしていた。元々はブルーボックスのコードネームで開発され、Mac OS Xのアプリケーションとして動作し、Mac OS 9のバージョン9.1以降の実行環境をほぼ再現していた。Mac OS XのCarbon APIに移植されていないアプリケーションをMac OS Xで実行できた。ほぼシームレスに動作したが、ClassicアプリケーションはMac OS 9の見た目のままで、Mac OS XのAquaな外観にはならなかった。", "title": "Mac OS Xへの移行" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "New World ROMを搭載したPowerPCベースのMacは当初、Mac OS 9.2に加えてMac OS Xを同梱した。Mac OS X 10.4以降からは旧OSがプリインストールされなくなり、旧OSを使いたいユーザーはMac OS 9.2を別途手動でインストールする必要があった。Classic Mac OS用に書かれたアプリケーションで行儀のよいものは新OSでもほぼ動作し、ハードウェアに依存した処理がなく、全てOSを通してハードを操作するソフトウェアだけが互換性を保証された。Mac OS 9はx86で動作しないため、IntelベースのMacではClassic環境を使用できない。", "title": "Mac OS Xへの移行" } ]
Classic Mac OS、Mac OS、System(システム)は、Appleが開発・販売していたオペレーティングシステム (OS)。1984年、Macintoshと共に登場し、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) の普及に大きく貢献した。 元々はSystem、Mac OSと称されてきたが、Appleは、Mac OS 9までをClassic Mac OSと総称している。なお、現行のmacOS はClassic Mac OSを基盤としたものではなく、NEXTSTEPの技術を基にしている。
{{出典の明記|date=2021年5月}} {{Otheruses|1984年から2001年までMacintoshに搭載されたオペレーティングシステム|その他|Mac OS}} {{Infobox OS |name=Classic Mac OS |released={{Start date and age|1984|1|24}}<ref name="appleconfidential2">{{cite book|last=Linzmayer|first=Owen W.|title=Apple Confidential 2.0|publisher=[[No Starch Press]]|year=2004|url=https://www.nostarch.com/apple2.htm|accessdate=2016-09-23|archive-url=https://web.archive.org/web/20161113144250/https://www.nostarch.com/apple2.htm|archive-date=November 13, 2016|url-status=live}}</ref><ref name=strategy_83>{{cite web|url= http://library.stanford.edu/mac/primary/docs/pip83.html|title=The Macintosh Product Introduction Plan|website=Stanford University Libraries & Academic Information Resources|archive-url=https://web.archive.org/web/20100721013724/http://library.stanford.edu/mac/primary/docs/pip83.html|archive-date=July 21, 2010|accessdate=2010-07-21}}</ref> |succeeded_by=[[macOS]] (Mac OS X、OS X) |release_url={{cite web|title=Mac OS 9.2.2 Document and 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オーエス)、'''System'''(システム)は、[[Apple]]が開発・販売していた[[オペレーティングシステム]] (OS)。[[1984年]]、[[Macintosh]]と共に登場し、[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) の普及に大きく貢献した。 元々はSystem、Mac OSと称されてきたが、[[Apple]]は、Mac OS 9までをClassic Mac OSと総称している<ref>https://discussionsjapan.apple.com/community/mac_os</ref>。なお、現行の[[macOS]] (OS X, Mac OS X) はClassic Mac OSを基盤としたものではなく、[[NEXTSTEP]]の技術を基にしている。 == 概要 == 当初のMacintoshは、[[ハードウェア]]の一部として提供されるToolbox ROM(現在は通常OSで提供される高レベルな[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を含む)とOSとが、一体化した[[システムソフトウェア]]として扱われ、'''System'''と呼んでいた。 [[Macintosh互換機]]の登場によりApple自身もMac OSという呼称を使うようになり、System 7.5.1からは起動画面で Mac OSロゴが表示されるようになった。Mac OSという呼び名が通称から正式なものになったのは、[[1997年]]1月、Mac OS 7.6がリリースされた時である。互換機の普及とともに、MacintoshのハードウェアとOSを明確に区分する必要が生じたことによる。その後Appleの方針転換により互換機は市場から姿を消したが、Mac OSという名前はその後のAppleのOS製品に引き継がれている。1998年に発売された[[iMac]]以降のMacintoshでは、Toolbox ROMの内容の大半がMac OS側に移された[[New World ROM]]マシンとなって、ほぼハードウェアから独立したOSとなった。 [[ビットマップ画像|ビットマップ]][[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]と[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の利用を前提としていること、オーバーラップするマルチウインドウやメニュー操作、マルチスタイルフォントに代表される [[WYSIWYG]] 表示など、[[ゼロックス]]で[[1970年代]]に研究開発されていた[[暫定Dynabook]]環境([[Smalltalk]]をOSとして動作する[[Alto]])の多くを盗んだが、Altoでは3つあったマウスボタンをMacintoshでは1つに限って、操作体系を分かりやすく構築し直した。[[ファイルシステム]]や[[ドラッグ・アンド・ドロップ]]の[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]操作、国際化に必要な情報を保存するための[[計算資源|リソース]]と[[ソースコード|コード]]の分離、ファイルと[[アプリケーションソフトウェア]](アプリケーション)との関連付け、データ形式に依存しない[[クリップボード]]、[[メニュー (コンピュータ)|プルダウンメニュー]]や[[ごみ箱 (GUI)|ゴミ箱]]を発明するなど、今日でも使われている多くの独自のアレンジを加えることで使い勝手を向上させた。暫定Dynabook環境では部分的に隠れたウインドウの再描画もできなかったが、[[QuickDraw]]の実装により、これを実現させた。こうした改良により、GUIというものをコンピュータの世界に広く浸透させた。 Macintoshに追随してマウスが付き始めた他の[[パーソナルコンピュータ]]では、アプリケーションごとにGUIのデザインの統一性が全くない時代が長く続いた。これは統一されたインフラストラクチャが存在しなかったことによる点が大きい。一方、Macintosh はインフラの提供にとどまらず、「作法」とでも言うべき{{仮リンク|ヒューマン・インタフェース・ガイドライン|en|Human interface guidelines}}を定めることで、'''ひとつのソフトが使えれば、他のソフトも使える'''というコンピュータ利用の形態を、パーソナルコンピュータで実現したさきがけとなった。 == 特徴 == Mac OSは[[組版]]・[[デザイン]]・[[写真]]・[[イラストレーション]]といった分野で好んで利用された。これは、[[PC/AT互換機]]では多色高解像度へ満足のいく対応が行われた時期が遅く、それまではMacintoshが事実上唯一の存在であったことが最大の理由である。また、色調管理など多色画像処理に必須とされている機能にも早くから対応しており、完成度の高い [[WYSIWYG]] を当初から実現していたことも大きい。 さらに[[DTP]]のジャンルに特化したソフトが早くから多く開発・販売されたことが、[[印刷]]・[[出版]]業界におけるMacの普及に大きく貢献した。[[アドビ|アドビシステムズ]]からは[[Adobe Photoshop|Photoshop]]や[[Adobe Illustrator|Illustrator]]、[[アルダス]]からは[[Aldus PageMaker]](のちにアルダスごとアドビシステムズが買収)、[[Quark, Inc.|Quark社]]からは[[QuarkXPress]]といった、業務用ソフトウェアがそろっていた。 画像処理を得意とする理由としては、[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]のために[[ビル・アトキンソン]]が中心となって開発したグラフィックルーチンLisaGrafがMacintoshに移植され、 [[QuickDraw]]として初めの機種から[[Read Only Memory|ROM]]の状態で搭載された点が大きい。また当初よりある程度先を見て広いメモリ空間を確保しており、いわゆる「[[容量の壁#x86 16ビットから32ビット|640KBの壁]]」に悩まされていた[[MS-DOS]]系システムに比べて大きな画像を扱いやすかったという要素も挙げられる。グラフィックルーチンはMac OS Xから[[Portable Document Format|PDF]]をベースとした[[Quartz]]に替わったが、互換性を考慮して[[Mac OS X v10.3]]まではQuickDraw関連の開発が続行され、[[Mac OS X v10.4]]で非推奨となった。 また、サウンド関連の機能が比較的充実していたこともあり(Sound Managerによるところも大きい)、[[Cubase]]、[[Logic Studio]]、[[Vision (ソフトウェア)|Vision]]、[[Digital Performer]]、[[Pro Tools]]などのさまざまなソフトや周辺機器(Apple自身も [[MIDI]]インタフェースを発売)が発売され、プロのミュージシャンに盛んに利用された。[[ヤマハ]]や[[ローランド]]も初心者向けパッケージを発売し、アマチュアの愛用者も多かった。 デスクアクセサリ (Desk Accessory, DA) は、Systemと呼ばれていた頃のMac OSにおいて、使用中のアプリケーションとは別に起動しておける小物的なアプリケーションのことである。 初期のMacintoshはシングルタスクであったため、別のアプリケーションを使用するには一旦終了させなければならない。これは、搭載していた[[記憶装置|メモリ]]が少なかったことに起因する。 デスクアクセサリは起動と終了の手間を省くための手段として用意された。わずかなメモリしか使わないため、使用中のアプリケーションとは別に起動しておくことができ、このころのMacintoshには欠かせないものだった。[[サードパーティー]]からは小物の位置づけであるにもかかわらず多機能なデスクアクセサリが多数開発された。Mac OSにあらかじめ搭載されていたデスクアクセサリもある。Mac OS 9まで残された「[[計算機 (ソフトウェア)|計算機]]」や「スクラップブック」がそうである。 デスクアクセサリを使用するためには、まず「Font/DA Mover」と呼ばれる[[ユーティリティソフトウェア]]でシステムに[[インストール]]する。インストールしたデスクアクセサリはAppleメニューから起動できるようになる。 System 7でMacが疑似マルチタスクになるとデスクアクセサリは単なる一アプリケーションとなり、Font/DA Moverも姿を消した。Appleメニューはアプリケーションやファイルを起動するための[[ランチャー]]となった。Mac OS 9まではデスクアクセサリのランチャーであったことの名残だということがうかがえる。 == 開発 == [[ジェフ・ラスキン]]は1978年後半に普通の一般人をターゲットにした使いやすくて安いコンピュータを目標にMacintoshプロジェクトを立ち上げた。ラスキンは1979年9月にプロトタイプを開発できるエンジニアを探した。[[Lisa (コンピュータ)|リサ]]のチームに所属していた[[ビル・アトキンソン]]は、その年の上旬に入社していたサービス技術者のバレル・スミスを紹介した。 AppleはMacintoshのコンセプトとして、ユーザーがオペレーティングシステムの存在をなるべく意識しなくても済むことを目指していた。他のOSではOSに対する知識がなければできないような基本的なタスクを、Macintoshではマウスとアイコンの操作により実現できた。MS-DOSなどの当時のOSはテキスト入力形式の[[キャラクタユーザインタフェース|コマンドラインインターフェイス]]を採用しており、これとは一線を画していた。 1981年1月に[[スティーブ・ジョブズ|スティーブジョブズ]]がMachintoshプロジェクトを引き継いだ。LisaとMachintoshのプロジェクトが始まってから3か月後の1979年12月に、ジョブズとAppleのエンジニアたちはXeroxの[[パロアルト研究所]]を訪問した。パロアルト研究所で斬新な[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]技術を開発しているとの話をラスキンらパロアルト研究所の元研究者たちから聞いたジョブズは、Appleの株を提供する見返りとして、[[Alto|Xerox Alto]]の実物と、[[Smalltalk]]の開発環境を視察する約束を取り付けた<ref>{{Cite web|url=https://www.sitepoint.com/real-history-gui/|title=The Real History of the GUI|author=Mike Tuck|date=2001-08-12|accessdate=July 23, 2020}}</ref>。商品化されたLisaやMacintoshはXerox Altoのコンセプトをベースにしているが、メニューバー、プルダウンメニュー、[[ドラッグ・アンド・ドロップ|ドラッグアンドドロップ]]、ドラッグによるウィンドウサイズ変更などの直感的な操作など、グラフィカルユーザーインターフェイスの要素の大半はAppleが独自に開発した<ref>{{Cite web|url=http://www.folklore.org/StoryView.py?project=Macintosh&story=On_Xerox,_Apple_and_Progress.txt|title=On Xerox, Apple and Progress|author=Bruce Horn|accessdate=September 1, 2009|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090826104052/http://www.folklore.org/StoryView.py?project=Macintosh&story=On_Xerox,_Apple_and_Progress.txt|archivedate=August 26, 2009}}</ref>。 [[IBM PC]]には起動テスト ([[Power On Self Test|POST]]) や基本入出力システム ([[Basic Input/Output System|BIOS]]) のために8KBの[[Read only memory|ROM]]が搭載されていたが、MacのROMは64KBとかなり大きく、OSのコアとなるコードを格納していた。オリジナルのMac ROMの大半は、Machintosh開発初期メンバーの1人である[[アンディ・ハーツフェルド]]が開発した。天才的なプログラミングのトリックとハッキングにより最適化されたプログラムを[[アセンブリ言語]]で記述し、貴重なROMスペースを節約した<ref>{{Cite web|url=http://www.folklore.org/StoryView.py?story=Were_Not_Hackers!.txt|title=Folklore.org: We're Not Hackers!|website=www.folklore.org|accessdate=September 26, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160927135205/http://www.folklore.org/StoryView.py?story=Were_Not_Hackers!.txt|archivedate=September 27, 2016}}</ref>。彼はROM以外にも、[[カーネル]]、 Macintosh Toolbox、複数のデスクトップアクセサリ (DA) も開発した。[[ディレクトリ|フォルダ]]や[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の[[アイコン]]は、後に[[マイクロソフト]]で[[Microsoft Windows 3.x|Windows 3.0]]のアイコンをデザインした[[スーザン・ケア]]がデザインした。ブルース・ホーンと[[スティーブ・キャップス]]は[[Finder|Macintosh Finder]]の他にも、たくさんのMacintoshシステムユーティリティを開発した。 Appleはこのマシンを積極的に売り込んだ。発売されると[[ニューズウィーク]]誌の1984年11月/12月号で39ページ全ての広告スペースを買い切った。洗練されているが高額な前期種の[[Lisa (コンピュータ)|Lisa]]を売り上げですぐに超えた。AppleはすぐにMacWorksを開発した。これはLisa用のMacintoshエミュレーターで、[[Macintosh XL]]として販売されて開発が終了するまでにSystem 3までのアプリケーションを使用できた。LisaのOSに含まれていた先進的な機能の多くはMachintoshのOSがSystem 7になるまで実現されなかった。 == 仕様 == === 互換性 === Mac OSの初期バージョンは、モトローラ[[MC68000|68000]]系のMacintoshでのみ動作した。Appleは[[PowerPC]]ハードウェアを搭載したコンピュータを開発し、OSもPowerPCに移植された。Mac OS 8.1は[[MC68000|68000]]プロセッサ ([[MC68040|68040]]) で動作する最後のバージョンだった。 [[PowerPC G3]]ベースのシステムより前は、システムのコア部分がマザーボード上の物理[[Read only memory|ROM]]に格納されていた。初代Machintoshに搭載されていたRAMはわずか128KBだけで、OSがこれを使い切ってしまわないようにすることがROMを実装した元々の目的だった。またテキストオンリーのコンソールやコマンドラインがなくてもグラフィカルユーザーインターフェイスだけで低レベルな操作ができるように設計されていた。ディスクドライブが見つからないなどのエラーが起動時に生じると、アイコン、ビットマップフォントの[[Chicago (書体)|Chicago]]、チャイム音、ビープ音などでユーザーに通知した。対照的に[[MS-DOS|MS-DOS機]]や[[CP/M]]機では黒地の等幅フォントでメッセージが表示され、入力としてマウスではなくキーボードが求められた。このような優れた機能をハードに近い低レベルのレイヤーから利用するため、初期のMac OSはマザーボードに搭載されたROMに含まれるシステムソフトウェアに依存する形になっており、これはまたApple純正のコンピュータや、Appleの著作物であるROMを用いた正規の互換機のみでMac OSが動作することを保障するのにも役立った。 ==== Macintosh互換機 ==== 複数の互換機メーカーがMac OSを実行できる[[Macintosh互換機]]を数年にわたり開発した。1995年から1997年にAppleはMacintosh ROMをPower Computing、[[UMAX]]、[[モトローラ]]などの企業へライセンス供与した。これらのマシンでは通常はカスタム版のMac OSが動作した。[[スティーブ・ジョブズ]]が1997年にAppleへ復帰すると互換ライセンスの提供は終了した。 Macintosh互換機のサポートはSystem 7.5.1で最初に発表され、オリジナルの起動アイコンであるHappy MacをもとにしたMac OSのロゴが初めて使われた。Mac OS 7.6からは名称をSystemからMac OSに変更した。この名称変更はOSがApple純正のMachintosh専用ではないことを示すために実施された<ref>{{Cite web|url=http://lowendmac.com/2014/system-7-5-and-mac-os-7-6-the-beginning-and-end-of-an-era/|title=System 7.5 and Mac OS 7.6: The Beginning and End of an Era|quote=Mac OS 7.6 deserves some special mention. The most obvious difference is the name change; this was for the Mac clone manufacturers, who weren’t making Macintoshes but “Mac OS Computers”.|date=2014-06-27|accessdate=September 23, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160924184918/http://lowendmac.com/2014/system-7-5-and-mac-os-7-6-the-beginning-and-end-of-an-era/|archivedate=September 24, 2016}}</ref>。 === ファイルシステム === Macintoshが最初に採用したMachintosh File System (MFS) はサブフォルダのないフラットな[[ファイルシステム]]だった。発売直後の1985年にはきちんとディレクトリに対応した[[Hierarchical File System]] (HFS)に置き換えられた。両者には互換性があった。改良版である[[HFS Plus]]("HFS+"または"Mac OS Extended")が1997年に発表されて1998年に提供された<ref>{{Cite web|url=https://developer.apple.com/adcnews/pastissues/devnews090597.html|title=New Mac OS Extended Format (HFS+) Available|year=1997|website=Apple Developer News|accessdate=March 28, 2007|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080512151811/http://developer.apple.com/adcnews/pastissues/devnews090597.html|archivedate=May 12, 2008}}</ref>。 [[PC-DOS|DOS]]、[[Microsoft Windows|Windows]]、[[UNIX|Unix]]などのほとんどのファイルシステムには[[フォーク (ファイルシステム)|フォーク]]が1つだけしかない。一方MFSやHFSにはファイルにフォークが2つある。データフォークには、ドキュメントのテキストや画像ファイルのビットマップなど、他のファイルシステムのファイル内容にあたる情報が含まれる。[[リソースフォーク]]には、メニュー定義、グラフィック、サウンド、他のシステムの[[ファイルフォーマット|ファイル形式]]に組み込まれるコードセグメントなど、構造化されたデータが含まれる。[[実行ファイル|実行可能ファイル]]は空のデータフォークを持つリソースのみ、データファイルはリソースフォークのないデータフォークのみとなる場合がある。[[ワードプロセッサ]]のファイルは、データフォークにテキストを、リソースフォークにスタイリング情報を含めることができるため、スタイリング情報を読めないアプリケーションでもテキストデータを読むことができる。 一方でこのようなフォークを使った仕組みは他のOSとのデータ共有に問題が生じた。Mac OSのファイルをMacintosh以外のOSにコピーすると、デフォルトではファイルからリソースフォークが失われる。大半のデータファイルは、ウィンドウのサイズや位置など欠落しても大きな支障がない情報しかリソースフォークに保存していないが、実行ファイルはリソースフォークが失われると動作しなくなる。[[BinHex]]や[[Macバイナリ|MacBinary]]などのエンコード処理により、ユーザーは複数のフォークを1つのデータにしたり、逆に1つのデータから複数のフォークに展開してMac OSで使えるようにしたりできた。 == 歴史 == 1986年のMacintosh Plusの登場から、1997年にMac OSに名称変更されるまで、Systemのアプリケーション群を日本語表示に対応させ、日本語[[フォント]]や[[日本語入力システム]](当初は[[フロントエンドプロセッサ|FEP]]であり、[[インプットメソッド]]ではない)を同梱するなど日本市場向けに設計されたオペレーティングシステムを'''[[漢字Talk]]'''(かんじトーク)と呼称した<ref name="KanjiTalk">{{cite web | title = KanjiTalk: Frequently Asked Questions | publisher = [[Apple]] | date = 2000-05-25 | url = http://docs.info.apple.com/article.html?artnum=17293 | accessdate = 2010-11-09}}</ref>。 技術の進歩に伴いMac OSも様々な変化を遂げている。その系譜は概ねSystem 6までと、System 7、Mac OS 8およびMac OS 9の3つの時期に分かれる。 === System 1 - 4 === Appleは家電製品のようなシンプルなコンピュータを開発することを目指しており、OSとハードを明確に区別していなかった。このためOSの初期バージョンには明確な名前がなかった。ソフトウェアはユーザーから見て、システムファイルと、[[デスクトップ環境|デスクトップ]]の表示も担うファイル管理ツールの[[Finder|ファインダー]]の2つで構成されているように見える。この2つのファイルはシステムフォルダというラベルが付いたディレクトリに入っている。このディレクトリには[[プリンター|プリンタ]][[デバイスドライバ|ドライバ]]などシステムの操作に必要なリソースファイルが含まれている<ref name="versionhistory">{{Cite web|title=Macintosh: System Software Version History|publisher=[[Apple]]|date=August 7, 2001|url=https://support.apple.com/kb/TA31885|accessdate=September 25, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140310055815/http://support.apple.com/kb/ta31885|archivedate=March 10, 2014}}</ref>。OSのバージョンナンバーはこれら2つのファイルのバージョンナンバーに基づいている。 画面は白黒ベースで基本的に[[シングルタスク]]のOSであり、[[QuickDraw]]の採用により、ハードウェアによるアクセラレーションなしでGUI OS環境を実用的な速度で動作させることができた。ファイルシステムは、初期ではMacintosh File Systemであったが、512KeやPlusに搭載された 128[[キロバイト|KB]]のToolbox ROMおよびSystem 3.1より[[Hierarchical File System|HFS]]を採用した。今から見れば非常に貧弱な機能しか持たないが、それでも驚くべきことに[[Macintosh 128K|初代 Macintosh]]のToolbox ROMはわずか64KBにおさめられ、128KBのメインメモリ上ですべての機能が動作した(もっとも128KBでは実用上厳しいほどメモリが不足していたため、すぐに[[Macintosh 512K|512KB モデル]]へのアップデートが行われた)。当時の限られたハードウェア上で動作させるため性能的には多くの制約があり、メモリを節約するために完全なシングルタスクを前提として設計されたToolbox APIは後のMac OSの発展の足枷となることになる。 * System 1.0、1.1、2.0ではMachintosh File System (MFS) というディレクトリのないファイルシステムを採用していた。Finderにはファイルを整理できるフォルダがあるが、このフォルダは仮想的なものであり、他のアプリケーションからは見えず、実際にはディスク上に存在していなかった。 * System 2.0では、[[AppleTalk]]をサポートし、これを用いた[[LaserWriter]]が新たに導入された。 * System 2.1 (Finder 5.0) ではディレクトリ機能を持つ[[Hierarchical File System]] (HFS) が採用された。Hard Disk 20をサポートする目的で開発され、HFSは[[Random Access Memory|RAM]]上に実装された。起動ディスクやほとんどのフロッピーディスクは400KBのMFSのままだった。 * System 3.0 (Finder 5.1) が[[Macintosh Plus]]から導入された。公式にHFSが採用され、起動ディスクは800KBで、[[Small Computer System Interface|SCSI]]や[[AppleShare]]などの新技術が導入されたほか、削除したいファイルをドロップされたゴミ箱のアイコンが膨らむようになった。Mac OSという名称ではなく[[漢字Talk]]として日本語版に対応した。 * System 4.0が[[Macintosh SE]]で採用され、System 4.1が[[Macintosh II]]で採用された。これらの新機種では初めて[[拡張カード|拡張スロット]]の[[Apple Desktop Bus]] (ADB) が搭載され、ハードディスクが内蔵されたほか、Macintosh IIは外付けカラーディスプレイに対応し、モトローラの[[MC68020|68020]]プロセッサを採用した<ref>{{Cite web|url=http://www.mactech.com/articles/mactech/Vol.03/03.05/MacII,SE/index.html|title=MacTech|accessdate=21 September 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080416050906/http://www.mactech.com/articles/mactech/Vol.03/03.05/MacII,SE/index.html|archivedate=April 16, 2008}}</ref>。 これらのバージョンではデスクアクセサリーを除き1度に1つのアプリケーションしか実行できない。''Multi-Mac''<ref>{{Cite web|url=http://joshburker.com/servant_page/servant_multimac.html|title=Multi-Mac|author=Josh Burker|date=2002|accessdate=December 23, 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160822190737/http://joshburker.com/servant_page/servant_multimac.html|archivedate=August 22, 2016}}</ref>や''Switcher''などの特別なアプリケーションシェルを使えば複数のアプリを走らせることが可能だった。見た目が進化している場合は[[Finder]]のバージョンナンバーも変更されており、1.x、4.x、5.x、6.xなどのメジャーバージョンアップ時に大きな差がみられた。 Appleは1990年代後半になってこれらの古いリリースにバージョンナンバーを遡及して割り当てた。 === System 5 === 1987年後期にAppleはApple Macintosh System Software Update 5.0のタイトルでパッケージを公開した。49ドルの価格で800KBのフロッピーディスク4枚の形態で販売され、MachintoshのOSが小売販売されたのはこの時が初めてだった。ソフトウェアはユーザーグループやネットの掲示板などでも引き続き無料で配布された。製品の箱にはバージョン 5.0と表記されていたが、このバージョンナンバーは画面のどこにも表示されなかった。4枚のディスクのうち、システムツール1、システムツール2、ユーティリティ1の3枚はいずれも起動可能で、ユーザーは使いたいツールが含まれているディスクから起動できた。例えばプリンタドライバが入っているのはシステムツール2だけであり、Disk First AidやApple HD SC Setupが入っているのはシステムツール1だけだった。これらのディスクにはシステムツールズと書かれていたことから、ユーザーやマスコミはこのバージョンをシステムツールズ5.0と呼ぶことが多かった。 System 5の最も大きな変更点は複数のプログラムを同時に実行できる機能拡張のMultiFinderを搭載したことだった。OSは[[ノンプリエンプティブ]]な設計だった。この設計ではフォアグラウンドアプリケーションが制御を返した時だけバックグラウンドアプリケーションが動作できた。アプリケーションはイベントを処理するためにOSの関数を呼び出しており、OSの関数が勝手に制御を返すようにすることで、既存のアプリケーションの大半は修正せずとも自動的にバックグラウンドのアプリケーションとCPU時間を共有できた。MultiFinderを使用しない選択も可能だった。この場合は複数のアプリケーションを同時に実行できなかった。1990年にInfoWorld誌が実施したテストでは、PCとMacで4つのマルチタスク処理をテストし、MultiFinderを高く評価したが、一方でSystem 6上のMultiFinderを使わないシングルタスク構成と比べてファイルの転送や印刷の速度が半分になったことを指摘した。 === System 6 === 商品パッケージ名称のSystem Softwareのバージョン表記と、Systemファイルのバージョンが(日本語版は[[漢字Talk]] のバージョンも)同一になった。System 4までと同じく、画面は白黒ベースで基本的にシングルタスクのOSだが、MultiFinderが用意され、疑似[[マルチタスク]]環境が利用できるようになる。[[32ビット]]QuickDrawの登場により、[[24ビット]]フルカラーが扱えるようになる。[[TrueType]]が採用され、[[QuickTime]]の登場により[[マルチメディア]]データを扱う環境が整う。ちなみにSystem 5というバージョンはない。これはSystem 6において、FinderとSystem自体のメジャーバージョンを統一するという方針によるものであった <ref group="注釈">Systemが4.xのうちにFinderは6.0になっていた。この方針においてもSystemが6.0.x、Finderは6.1.xであった。SystemとFinderのバージョンが揃ったのは次のSystem 7.0の際である</ref>。[[2011年]]にはシステムクロックの表示がリセットされてしまう。最終バージョンは、System 7リリース後に配付されたSystem 6.0.8Lである<ref>{{Cite web|title=System 6.0.8L: ReadMe File (8/95)|url=https://web.archive.org/web/20120426172514/http://support.apple.com/kb/TA28558?viewlocale=en_US#|website=web.archive.org|date=2012-04-26|accessdate=2021-04-07}}</ref>。 === System 7 === [[コードネーム]]:{{en|''Blue'', ''Big Bang''}}。システム全般が大幅に改良・強化され、Macは本格的なマルチメディア時代に踏み出した。システムが[[MC68000#アドレスバス|32ビットクリーン]]になった(機能拡張〈INIT〉ファイル等には24ビットアドレッシングが残ったものもあった)。32ビットQuickDrawやMultiFinderの疑似マルチタスク機能がシステムに全面統合され、[[QuickTime]]も標準で付属するようになった。画面のデザインがカラー化され、[[ラベル]]機能など色を生かしたインタフェースが搭載された。[[国際化と地域化|多言語対応]]が始まり、中国語や韓国語など「漢字Talk」として既に対応していた日本語以外の[[CJKV]][[マルチバイト文字|マルチバイト言語]]にもMac OSとして対応した、なお[[漢字文化圏]]ではあるがMac OSとしての対応であり漢字Talkの名称は用いられていない。[[仮想記憶|仮想メモリ]]の搭載により最大 4[[ギガバイト|GB]] のメモリ空間にアクセスできるようになり、巨大な画像データや動画ファイルを扱う条件が整う。[[Open Scripting Architecture]]の採用によりアプリケーション間通信の機構が整備され、[[AppleScript]]による自動操作を実現した。ファイル共有やドラッグ・アンド・ドロップの標準化も行われ、その後のMac OSの原型となったバージョンである。 ;System 7.1 :コードネーム:{{en|''Cube-E'', ''I Tripoli''}}。{{仮リンク|WorldScript|en|WorldScript}}が搭載され2バイト言語が利用出来るようになった他、フォント管理は[[Font/DA Mover]]からフォントフォルダによる管理に移行し、日本語版にあたる漢字Talk 7 リリース 7.1では[[ことえり]]の最初のバージョンが搭載された。中国語や韓国語のなどCJKVのフォントが追加された。その後は機能拡張ファイルを追加することにより、音声認識、テキスト読み上げ、発行と引用などの最新技術が順次投入された。 System 7.1.2では[[PowerPC]]への対応をはたし、従来の68000コードを動的に変換して実行する機構 (Dynamic Recompilation Emulator) を搭載、PowerPCへのスムーズな移行を実現した。 ;System 7.5 :コードネーム:{{en|''Mozart'', ''Capone''}}。ウインドウシェードやメニューバーの時計、コントロールバーなどサードパーティーのアクセサリで実現されていた機能が標準で付属するようになった。日本語版の「漢字Talk」の最終バージョンでもある。また、ネットワーク機能も強化され [[インターネット・プロトコル・スイート|TCP/IP]]クライアント機能を標準で備えるようになり、[[PowerTalk]]による柔軟なネットワーク機能を実現した。その後のマイナーアップデートでは、次世代の [[Copland]] OSをにらんでQuickDraw GX、QuickDraw 3D、[[OpenDoc]]、[[Java仮想マシン]]といった新技術が次々盛り込まれた。こうした機能の強化のうち多くはシステムフォルダ内の機能拡張・コントロールパネルフォルダに新しいファイルを追加されることで行われ、システムは[[ソフトウェアの肥大化|肥大化]]した。680x0からPowerPCへの橋渡しの役目を担う System 7.5.2は、改良されたコード変換機構を搭載し 68000コードの実行性能が向上した半面、新機能の [[Open Transport]] をはじめとして[[バグ]]が多くシステムが不安定であった(その後のSystem 7.5.3、System 7.5.3 Release 2とSystem 7.5.5<ref>{{Cite web |title=TidBITS#346: Apple Releases System 7.5.5 Update |url=https://www.nzdl.org/cgi-bin/library.cgi?e=d-00000-00---off-0tidbits--00-0----0-10-0---0---0direct-10---4-------0-1l--11-en-50---20-about---00-0-1-00-0-0-11-1-0utfZz-8-00&a=d&c=tidbits&cl=CL1.1&d=HASH011da4427147d071a5359625.5 |website=www.nzdl.org |access-date=2023-06-09}}</ref>にて不具合の多くは解消される)。 ;Mac OS 7.6<ref>[http://developer.apple.com/jp/technotes/tn1090.html Technote 1090 Mac OS 7.6]</ref> :1997年1月発表、コードネーム:{{en|''Harmony''}}<ref>[http://yougo.ascii.jp/caltar/Mac_OS_7.6 Mac OS 7.6 - デジタル用語辞典]</ref>。それまでの通称であったMac OSという名称が正式な製品名となった。また、日本語版の「漢字Talk」という独自名称も廃止されMac OSに統合された。仮想メモリシステムが改良され、最大4TBのボリュームがサポートされた。OpenDocやOpen Transportのアップデート、インストーラや機能拡張マネージャの機能強化も行われた。 '''Mac OS 7.6.1''' :1997年5月1日から配付されたMac OS 7.6用のアップデータである<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=アップル、「Mac OS 7.6.1 アップデート」を発表、5月1日から無償配布を開始|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/970422/apple.htm|website=pc.watch.impress.co.jp|accessdate=2021-09-23}}</ref>。無償ダウンロード以外に[[クラリス (企業)|クラリス株式会社]]からCD-ROMも販売された<ref name=":0" />。 === Mac OS 8 === {{Main|Mac OS 8}} [[1996年]][[12月20日]]のAppleが[[NeXT]]買収発表後の[[Worldwide Developers Conference|WWDC '97]]で発表されたRhapsody計画(後のMac OS X Server 1.0)を経て、[[2000年]]のMacworld Expo/San FranciscoでMac OS X(後のOS X)が発表され<ref>[http://www.apple.com/jp/news/2000/jan/06macosx.html アップル、「Mac OS X」を発表 新たなユーザインターフェイス「AQUA(アクア)」を備えた、次世代のオペレーティングシステム]</ref>、それまでのつなぎとしてシステムの近代化、[[インターネット]]への親和性強化が図られる。Coplandプロジェクトで開発されたもののうち、使えそうな技術から順次採用を進め、半年ごとにマイナーアップデートとメジャーアップデートを繰り返すという方針が発表された。 ;Mac OS 8.0 :コードネーム:{{en|''Tempo''}}。[[Finder]]が刷新され、[[デスクトップの背景|デスクトップピクチャ]]の実装、プラチナアピアランス化により、インタフェースがCoplandとほぼ同様のものに変わった。Finderは[[マルチスレッド]]化され、ゴミ箱を空にしたりファイルをコピーしている最中でも、Finderでほかの作業ができるようになった。また、フォルダナビゲーション、ポップアップウインドウといった Copland由来の機能がインタフェースに追加され、[[コンテキストメニュー]]が標準採用された。インターネットへの接続アシスタントや[[Webサーバ]]機能、[[インターネットスイート]]の[[Cyberdog]] 2.0が付属するようになった。根本的な機能の刷新は先送りにされたものの、久々の新OSの登場はCoplandを待ち望んでいたユーザに歓迎された。プラチナアピアランスはMac OS最後のバージョン9.2.2まで引き継がれた。 ;Mac OS 8.1 :コードネーム:{{en|''Bride of Buster''}}。新しいファイルシステムとして [[HFS Plus]] が利用できるようになり、[[Internet Explorer for Mac]]が標準ブラウザ、[[Outlook Express]]が標準メールクライアントとなった。 ;Mac OS 8.5 :コードネーム:{{en|''Allegro''}}。PowerPC専用となり、よりPowerPCへ最適化された。開く/保存ダイアログの刷新(ナビゲーションサービス)、[[Sherlock (ソフトウェア)|Sherlock]] によるファイル内容の検索、[[Apple Type Services for Unicode Imaging|ATSUI]]<ref group="注釈">前述のQuickDraw GXとほぼ同等の技術。フォントさえ読み込めば、世界中の言語の入力・表示に対応する。</ref>によるフォント環境の改善、新しいヘルプビューアなどの機能が搭載された。新しいアピアランスマネージャを搭載し、画面上の文字表示に[[アンチエイリアス]]がかかるようになり(アンチエイリアスをオフにすることも可能)、フルカラーのアイコンもサポート、より重厚なアピアランスとなった。 '''Mac OS 8.5.1''' :1998年12月21日 から配付されたMac OS 8.5用のアップデータである<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アップル、Mac OS 8.5.1アップデータ公開|url=https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/981221/apple.htm|website=pc.watch.impress.co.jp|accessdate=2021-09-23}}</ref>。メモリーエラ−やメモリーリークなどの修正を含む<ref name=":1" />。 ;Mac OS 8.6<ref>[http://developer.apple.com/jp/technotes/tn1163.html Technote 1163 Mac OS 8.6]</ref> :コードネーム:{{en|''Veronica''}}。省エネルギー機能の向上、マルチプロセッサ対応の改善など、様々な機能の改良が行われた。[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]のサポートも強化された。 === Mac OS 9 === {{Main|Mac OS 9}} Mac OS Xへの橋渡しの役割を担ったバージョンであり、[[アプリケーションパッケージ]]や [[Carbon (API)|Carbon]]lib など、Mac OS Xとの互換性を意識した機能が盛り込まれた。最後のバージョンとなった Mac OS 9.2.xはMac OS直系の到達点として高い完成度を持っている。 なお、Mac OS 9.0はMac OS 9.2.2までアップデートできる<ref>[http://support.apple.com/kb/HT1387?viewlocale=ja_JP Mac OS 9: 利用可能なアップデートについて]</ref>。2012年5月現在、日本語版の 9.0.4 へのアップデータは入手可能だが、それ以外はダウンロードページへのリンクが正常に機能しなくなっていて入手不可能になっている。 ;Mac OS 9<ref>[http://developer.apple.com/jp/technotes/tn1176.html Technote 1176 Mac OS 9]</ref> :コードネーム:{{en|''Sonata''}}。特にインターネットを意識した機能強化がなされた。TCP/IPによるファイル共有、キーチェーン、ファイルの[[暗号|暗号化]]、[[音声認識]]による[[ログイン]]、ソフトウェアの自動アップデート、疑似マルチユーザ機能、Language Kit による多言語サポートの強化など 50 以上の新機能を搭載した。 ;Mac OS 9.0.x :コードネーム:{{en|''Duet'', ''Minuet''}}。iMac (slot-loading) 向けの対応とバグフィックスが中心のリリース。9.0.4 へのアップデータも公開され、9.0.2、9.0.3の存在が知られている<ref>[http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/macos_9.0.4_update.html Mac OS 9.0.4 アップデート]</ref>。 ;Mac OS 9.1 :コードネーム:{{en|''Fortissimo''}}。旧Mac OSとして最後の単体パッケージ販売された製品。アップデータも公開された<ref>[http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/macos_9.1_update.html Mac OS 9.1 アップデート]</ref>。Finder のメニューバーに「ウィンドウ」メニューが追加され、ディスクアクセススピードが向上するなどシステム内部に多くの改良がされた。 ;Mac OS 9.2 :コードネーム:{{en|''Moonlight''}}。 ;Mac OS 9.2.1<ref>[http://support.apple.com/kb/TA20533?viewlocale=ja_JP Mac OS 9.2.1: システム条件]</ref> :コードネーム:{{en|''Limelight''}}。旧Mac OSとして最後の単体インストール[[CD-ROM]]が [[Mac OS X v10.1]] のバンドルとしてリリースされた。アップデータも公開された<ref>[http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/macos_9.2.1_update.html Mac OS 9.2.1 アップデート]</ref><ref>[http://support.apple.com/kb/DL1120?viewlocale=ja_JP Mac OS 9.2.1 に関する情報とソフトウェアのダウンロード]</ref>。 ;Mac OS 9.2.2 :コードネーム:{{en|''Starlight''}}。Power Mac G4 (Mirrored Drive Doors 2003) を起動できる<ref>[http://support.apple.com/kb/SP106 Power Mac G4 (Mirrored Drive Doors 2003) - Technical Specifications]</ref>旧Mac OSであり、Classic環境向けとしても最後のリリース。アップデータも公開された<ref>[http://www.apple.com/jp/ftp-info/reference/macos_9.2.2_update.html Mac OS 9.2.2 アップデート]</ref><ref>[http://support.apple.com/kb/DL1293?viewlocale=ja_JP Mac OS 9.2.2 に関する情報とソフトウェアのダウンロード]</ref>。 == Mac OS Xへの移行 == [[macOS]] (当初はMac OS X、2012年から2016年まではOS X<ref name="ten_not_x">{{Cite web|date=July 15, 2004|title=What is an operating system (OS)?|url=http://support.apple.com/kb/TA22541?viewlocale=en_US|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100722104618/http://support.apple.com/kb/TA22541?viewlocale=en_US|archivedate=July 22, 2010|publisher=Apple, Inc.|accessdate=September 6, 2014}}</ref>)は、Appleの2021年1月時点のMac用OSであり、2001年にClassic Mac OSの後継OSとして登場した。Mac OSのバージョン10として宣伝されていたが、Classic Mac OSとは全く別のOSである。 Classic Mac OSの設計を引き継いだ後継OSは[[Mac OS 9]]であり、そのさらなる後継は存在しない。Classic Mac OSと異なりUnixベースのOSで<ref>{{Cite web|url=https://images.apple.com/macosx/pdf/MacOSX_UNIX_TB_v2.pdf|title=Mac OS X and Unix – Apple|accessdate=February 5, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090530001035/http://images.apple.com/macosx/pdf/MacOSX_UNIX_TB_v2.pdf|archivedate=May 30, 2009}}</ref>、Appleが[[NeXT]]社を買収してスティーブ・ジョブズがAppleのCEOに復帰した際に、1980年代後半から1997年までに開発されたNeXTが[[NEXTSTEP|NeXTSTEP]]を経てからmacOSになった<ref name="apple-acquisition">{{Cite web|title=Apple Computer, Inc. Agrees to Acquire NeXT Software Inc.|url=http://product.info.apple.com/pr/press.releases/1997/q1/961220.pr.rel.next.html|archivedate=January 16, 1999|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990116225648/http://product.info.apple.com/pr/press.releases/1997/q1/961220.pr.rel.next.html|author=Apple Computer|date=December 20, 1996|accessdate=February 23, 2017}}</ref>。macOSは[[Berkeley Software Distribution|BSD]]のコードや[[XNU]]カーネルも利用しており<ref name="OS X also makes use of the BSD code">{{Cite web|title=Mac OS X: What is BSD?|url=http://support.apple.com/kb/TA25633|accessdate=September 23, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130219084258/http://support.apple.com/kb/TA25633|archivedate=February 19, 2013}}</ref>、そのコア部分はAppleの[[オープンソースソフトウェア|オープンソース]]プロジェクトであるOSの[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]がベースになっている。 最初はサーバ用OSの[[Mac OS X Server 1.0|MacOS X Server 1.0]]として1999年にリリースされた。このバージョンから初めて[[Aqua (コンピュータ)|Aquaユーザインタフェース]]が採用された一方で、Classic Mac OSのプラチナスタイルも残されており、部分的にはOPENSTEPの名残もあった。デスクトップ版の[[Mac OS X v10.0|MacOS X 10.0]]が続けて2001年3月24日にリリースされ、Aquaユーザインタフェースがサポートされた。これ以来複数のバージョンがリリースされている。Mac OS Xは2012年に[[MacOS|OS X]]に、2016年に[[macOS]]に改名された。 従来のMacユーザーの多くがMac OS Xへアップグレードしたが、ユーザーフレンドリーではない部分がある、旧Mac OSの機能が完全に再現されていない、同じハード(特に旧機種)で遅い、旧OSとの互換性が不完全など、最初の数年は批判に晒された<ref>{{Cite web|url=https://arstechnica.com/apple/reviews/2001/10/macosx-10-1.ars|title=OS X 10.1|date=2001-10-15|accessdate=June 14, 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120119131002/http://arstechnica.com/apple/reviews/2001/10/macosx-10-1.ars|archivedate=January 19, 2012}}</ref>。旧Mac OS用のドライバ(プリンタ、スキャナ、タブレットなど)はMac OS Xと互換性がなく、Mac OS Xで古いOS用のプログラムを動かすためのClassic Environmentがきちんとサポートされず、1997年以前のマシンをサポートしておらず、Macintoshユーザーの一部はMac OS Xがリリースされた後も数年間にわたりClassic Mac OSを使い続けた。[[スティーブ・ジョブズ]]は2002年の[[Worldwide Developers Conference|WWDC]]でMac OS 9の葬式を開催してMac OS Xへのアップグレードを人々に促した<ref>{{Cite web|url=http://www.macworld.com/article/1001445/06wwdc.html|title=Jobs: OS 9 is Dead, Long Live OS X – Macworld|date=May 2002|accessdate=September 23, 2016|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160924022203/http://www.macworld.com/article/1001445/06wwdc.html|archivedate=September 24, 2016}}</ref>。 === Classic === Mac OS Xの[[PowerPC]]版は旧Macのアプリを動かす[[互換レイヤー]]であるClassic Environmentを[[Mac OS X v10.4|Mac OS X 10.4 Tiger]]までサポートしていた。元々はブルーボックスのコードネームで開発され、Mac OS Xのアプリケーションとして動作し、Mac OS 9のバージョン9.1以降の実行環境をほぼ再現していた。Mac OS Xの[[Carbon (API)|Carbon API]]に移植されていないアプリケーションをMac OS Xで実行できた。ほぼシームレスに動作したが、ClassicアプリケーションはMac OS 9の見た目のままで、Mac OS XのAquaな外観にはならなかった。 New World ROMを搭載したPowerPCベースのMacは当初、Mac OS 9.2に加えてMac OS Xを同梱した。Mac OS X 10.4以降からは旧OSがプリインストールされなくなり、旧OSを使いたいユーザーはMac OS 9.2を別途手動でインストールする必要があった。Classic Mac OS用に書かれたアプリケーションで行儀のよいものは新OSでもほぼ動作し、ハードウェアに依存した処理がなく、全てOSを通してハードを操作するソフトウェアだけが互換性を保証された。[[Mac OS 9]]は[[x86]]で動作しないため、[[Intel Mac|IntelベースのMac]]ではClassic環境を使用できない。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist}} == 参考文献 == {{参照方法|date=2021年5月|section=1}} * {{Cite book|和書 |author=[[アンディ・ハーツフェルド]] |coauthors= |others=柴田文彦(訳) |year=2005 |title=レボリューション・イン・ザ・バレー 開発者が語るMacintosh誕生の舞台裏 |publisher=[[オライリーメディア|オライリー・ジャパン]] |id=ISBN 4-87311-245-1 }} * {{Cite book|和書 |author=[[斎藤由多加]] |coauthors= |others= |year=2003 |title=マッキントッシュ誕生の真実 |publisher=[[マイナビ出版|毎日コミュニケーションズ]] |id=ISBN 4-8399-0975-X }} == 関連項目 == * [[macOS Server]] * [[Classic (ソフトウェア)]] (OS X上のMac OS互換環境) * [[AppleShare]] * [[Dashboard]] - デスクアクセサリに似たウィジェットという小さなアプリケーションを実行するmacOS付属のソフトウェア。 * [[漢字Talk]] {{Apple software}}{{オペレーティングシステム}} {{DEFAULTSORT:Mac OS}} [[Category:Classic Mac OS|*]] [[Category:1984年のソフトウェア]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/Classic_Mac_OS
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写真
写真(しゃしん、古くは寫眞)とは、人類史上初めて登場した機械映像である。 英語の “photograph” という語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した。photo- は「光の」、-graph は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味で、日本語で「光画」とも訳される。“photograph” から、略して「フォト」と呼ぶこともある。 日本語の「写真」という言葉は、中国語の「真を写したもの」からである。 カメラという暗箱の中に、開口部(レンズ)を通じて一定時間の間に入ってくる光によって、外界の像が感光性をもったフィルムの上に自然と描かれていくというシンプルな原理である。 一般に、被写体に光が当たると、その表面の各点において乱反射(光の散乱)が起きる。ピンホールや凸レンズなど(正のパワーを持つ光学系)を利用して、被写体の各点に対応する光線を像面の各点に写像することで、実像が得られる。精密な像を得るために特に写真用に設計された光学系(レンズ系)を俗に写真レンズという。カメラは、以上の光学系に加えてシャッターなどの補助的な機構を備えた暗箱であり、さらに撮像素子によって電子的に像を得たり、乾板や写真フィルムなどの感光材を感光させて潜像とする。銀塩写真では、その後に現像・引き伸ばしなどのプロセスを経て写真(いわゆる「プリント」)が得られる。 銀塩写真の原理も語も以前と何ら変わるものではないが、デジタルカメラの普及以降、レトロニム的に単に「写真」ではなく銀塩写真と明示的に言うこともある。なお、「アナログ写真」という語は撮影から現像、あるいは印刷に関してデジタル技術をほとんど用いないものに用いられる(近年は逆転し、プロセスのどこかでデジタル技術を回避したものをそう呼んでいることもある)。 ハロゲン化銀は光が当たると銀イオンが還元され、金属銀微粒子の核ができる。感光して銀粒子核の潜像となってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀粒子を成長させて可視化する必要がある。これは現像処理で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分のハロゲン化銀は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。 ハロゲン化銀は感光するとき、波長を吸収する領域が青色に寄っている。そこで可視領域に渡って感光させるために感光色素を用いて本来の吸収波長以外にも反応が起こるように設定する。まず感光色素が光に反応し、色素の電子がハロゲン化銀へ移動することによってハロゲン化銀の直接の感光と同様の変化が成立する。可視的な電磁波の特定の波長領域にのみ感光するようにし、三原色に対応するように感光層を重ねるとカラーフィルムになる。 デジタルカメラやテレビカメラ、ビデオカメラでは、撮像素子として、撮像管などを使ったものでないものは、固体撮像素子を使っている。固体撮像素子は、微小なフォトダイオードが規則的にびっしりと並んだものであり、光子がpn接合に入ると電子を叩き出して電荷が発生するというものである。量子効率は銀塩写真のハロゲン化銀の場合よりもはるかに高いため、高感度である。これを走査して信号として取り出し、AD変換器へ送る。あるいは電子スチルビデオカメラなどではアナログ信号のまま直接FM変調などによって磁気テープ等に記録する。 撮像管の場合は、光電効果による電荷を、磁界ないし電界によって走査される電子ビームによって読み取り、電子信号とする。 写真の感光量は光の量(単位時間あたりの光の量×光が当たった時間)によって基本的に決まる。これを相反則(ソウハンソク)という。ただし、感光量は入射した光の量にどこまでも比例するのではない。未露光部はベースフィルム以上淡色にはならないし、感光するハロゲン化銀は限られているから一定以上の光を当ててもそれ以上濃くならない。したがって、光の入射量と画像の濃さをグラフにするとシグモイド関数のようになる。変化の中間部は直線的であり、この部分の傾きのことをガンマという。 露光時間が極端に短かったり長かったりする場合には、相反則が成立しないことがある。これを相反則不軌という。カラーフィルムでは色ごとに相反則不軌の状態が異なるため、カラーバランスが崩れる問題がある。短いほうは通常のカメラの、数千分の1秒程度では顕在化しないため通常は気にされることはない。一方長い方は、夜間や天体の撮影で問題になる。1977年ごろには長時間露光時の相反則不軌対策や分光感度を調整した天体撮影用のスペクトロスコピック感光材料が市販されていたほどである。なおフィルムの場合、冷却することで長時間露光時の相反則不軌を低減できることが経験的に知られている。 なお、長時間露光においては相反則不軌とはまた別の問題もある。現在利用可能なオプトロニクスによるデジタルカメラでは、画像に熱雑音と製作不良から発生するランダムノイズが乗る。一部のデジタルカメラでは長時間露出する際のノイズを軽減する機能がついている。非常に長い時間露光する場合、ノイズが最終的な画像に影響しないように撮像素子を低温で動作させる必要がある。天文撮影や科学機器では冷却機構が最初から設計に含まれているものもある。 写真撮影(しゃしんさつえい、英: Photo shoot、フォトグラフィ、英: photography)とは、カメラによって静止画(スチル写真)を記録する行為のこと。 カメラおよびカメラ・オブスクラは撮影機器である。写真フィルムまたは電子的記録カードが記録媒体であるが、ほかの方法がとられることもある。たとえば、光学コピーや乾式コピー(ゼロコピー)は長期的に使用可能な画像を作るが、写真フィルムではなく静電気の移動を使っているため、電子複写(静電複写)という。マン・レイの刊行したレイヨグラフなどのフォトグラムは印画紙に投影された影でできた画像であり、カメラを用いない。スキャナのガラス面に直接撮影対象を置くことによって、電子複写を行うことも可能である。 撮影者は記録媒体を必要な量の光に露出する目的で、カメラとレンズを選択・操作できる(記録媒体として通常は、写真フィルムか固体撮像素子を使う)。 選択・操作の対象には以下のものなどがあると思われる。カメラの操作は互いに関係する。 フィルム面に到達する光の総量は露出時間、レンズの絞りによって変わる。このうちどちらかを変えれば、露出が変わる。(物理的なシャッターがないカメラであっても)露光時間はシャッター速度で表される。露光時間が1秒より短い場合は通常分子が1の分数で表記され、それはカメラのシャッター速度設定ダイヤルに明記されている場合、秒の逆数で表示されている場合が多い。絞りはF値で表示されているが、これはレンズの明るさを表している。Fは焦点比(focal ratio)のFである。F値がルート2分の1倍になるごとに絞りの直径はルート2倍大きくなり、絞りの面積は2倍になる。典型的なレンズに刻まれたF値は、2.8、4、5.6、8、11、16、22、32などであるが、これは数字が大きくなるごとに光の量が半分になっていくことを意味する。 特定の露出のシャッター速度と絞り値は、さまざまな組み合わせが成立する。たとえば、125分の1秒でF8と500分の1秒でF4では同じ量の光が得られる。当然ながら、どの組み合わせを選んだかは最終的な仕上がりに影響する。シャッター速度の変化は対象とカメラの動き(ぶれなど)の反映の度合いを変える。絞りの変化は被写界深度を変える。 被写界深度は焦点の前後に広がるピントがあっているように見える範囲のことである。たとえば長焦点レンズ(望遠レンズ)を絞りを開いて使用した場合、対象の目には鋭く焦点が合うとき、鼻の頭はピントが合って見えないということが起こる。反対に短焦点レンズ(広角レンズ)を使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせて使えば、対象の目にも鼻にもピントが合って見える写真を撮影することは容易である。 長焦点レンズを使用し、絞りを開いて近距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に浅くなる。反対に短焦点レンズを使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に深くなる。絞り値、焦点距離、焦点の位置が同じでも、レンズのF値(絞り開放時のF値)によって被写界深度は異なる。また、レンズのF値が同じでも設計・表記と実際との差などにより被写界深度は異なる。また、十分に小さい絞りを使うとかなり広い範囲にピントを合わせることができる。これはパンフォーカスと呼ばれる。 材質にかかわらず、カメラがとらえた像を最終的な写真作品にするには、何らかの工程が必要である。この工程には現像と焼きつけなどがある。 焼きつけ工程では、いくつかの調整によって結果を変えることができる。こうした調整の多くはイメージキャプチャーなどで行われる調整に似ているが、引き伸ばし機を用いた焼きつけ工程に固有のものもある。大部分はデジタルによく似た調整であるが、大きく異なる効果をもたらすものもある。 調整には次のものなどがある。 100%コットンなどのバライタ印画紙、RCコート紙、水彩紙を応用したインクジェットプリンター用紙(デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはさまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である。 カラー写真は1800年代にアレクサンドル・エドモン・ベクレルらにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルによって撮影された。彼は3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回タータンのリボンの写真を撮影し、3原色中1色のフィルターをかけた3つのスライドプロジェクタで画像を投影してスクリーン上で合成することにより、撮影時の色を再現することに成功した。しかし、赤色の再現に問題があったうえ(画像では紫を帯びている)、この試みは1890年代になるまで忘れられてしまっていた。 マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。当時は必要な色に対する適当な感度を持つ乳剤が知られておらずカラーフィルムを製造することができなかったため、ロシアの写真家セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーは3枚のカラー写真乾板を連続して素早く撮影する技法を開発した。 1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。 1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開けた。 1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。 1904年、フランスのリュミエール兄弟によって最初のカラー乾板である「オートクローム」が発明され市場に現れた。これは染色したジャガイモのデンプンで作られたスクリーン板フィルターに基づいたもので、ドイツのアグフア(のちのアグフア・ゲバルト)が1916年に染色したアラビアゴムの細粒で作られたフィルターを使用する「アグフア・ファルベン・プラッテン」を発明するまでは市場における唯一のカラー乾板だった。 1930年、アメリカ合衆国のジョージ・イーストマンは100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家のレオポルド・D・マンネス(英語版)とレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(英語版)は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募してコダックに入社、同社の研究陣と協力して1935年、最初の近代的なカラーフィルムである「コダクローム」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。日本の最初のカラーフィルムは1940年に小西六写真工業(現・コニカミノルタホールディングス)が発表したコダクロームと同方式の「さくら天然色フヰルム」であり、続いて富士写真フィルムも「富士発色フィルム」を公表している。 1936年にはアグフアの「アグフアカラーノイ」が追従した。アグファカラーノイはIG・ファルベンインドゥストリーにより開発された発色剤を乳剤層に含有させたもので、発色現像が1回で完結されるなどフィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグフアカラーノイの技術に基づいている。 インスタントカラーフィルムは1963年にポラロイドから発売された。 カラー写真は、スライドプロジェクタで使うための陽画の透過フィルムとして像を撮ることも、陽画の焼きつけを作るためのカラー陰画を作ることもできる。自動プリント機器の登場によって、現在では後者がもっとも大衆的なフィルムである。 感光材料にハロゲン化銀を使用せずほかの材料を使用する写真の総称で写真技術の黎明期から開発が進められ、青写真やジアゾタイプが実用化された。シルバーショック後に脱銀化が加速したが、従来の銀塩写真を置き換える用途においては感度、貯蔵性に劣るといった弱点がある。 広義には、アナログ式の電子カメラである電子スチルビデオカメラや、デジタルカメラによる写真も非銀塩写真の(広義には)一種といえる。なお「電子写真」という語は、普通紙用複写機(Plain Paper Copier)の静電方式、いわゆるゼログラフィを指して以前は広く使われた語であった。 デジタル写真は画像を電子データとして記録するためにCCDイメージセンサやCMOSイメージセンサといった固体撮像素子を用いる。携帯電話などにもデジタルカメラ機能がついているものがある(カメラ付き携帯電話)。デジタル写真を写真と認めない人もいるが、デジタルカメラでとらえた像は見ることもプリントすることもできる。動画撮影や録音など、フィルムカメラにはない機能を持っている機種もあるほか、従来の中判カメラに相当する大きさの撮像素子を持つレンズ交換式デジタルカメラもある。 写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、テレビジョンとの競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このため遠隔地で仕事をする新聞記者達は一時期小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となっていた。 1981年、ソニーが画像撮影にCCDを使い、フィルムを用いない最初のコンシューマ用カメラ「マビカ」を発表した。マビカは画像をディスクに保存し画像自体はテレビに表示するものであった。次いで1990年にコダックが初の市販デジタルカメラDCS100を発表した。その価格は業務用でもなければ手が出ないものであった。商業的なデジタル写真がこのとき生まれたのである。 2000年代から2010年代にかけて、デジタルの自動露出・自動焦点カメラは一般に広まり、フィルムカメラをほぼ駆逐した。小型化できることからカメラ付き携帯電話など様々なものにカメラが搭載され、2010年代にはカメラの付いたスマートフォンの普及により、廉価なコンパクトタイプのデジタルカメラも市場が縮小した。 写真の性質はフィルムとデジタルで異なるが、共通した観点が存在する。以下、観点をいくつかの性質に分けて紹介する。フィルムとデジタルのどちらが優れているかという議論があるが、すべての観点において一方がもう一方よりも優れているとは言えず、どちらもそれぞれのよさがある。 ここでの再現性は画質とほぼ同義である。写真の画質を判断する基準は多数あるが、分解能、コントラスト、色再現性が骨子と考えられる。ここでは分解能をとりあげる。これについて、その写真が何個の画像セル(ピクセル)で構築されるかで計ろうとする試みがある。 フィルム写真とデジタル写真を比較するとき、フィルムを撮像素子の画素数に換算するとどの程度かと考えがちだが、何よりもまず両者はあまりに異なる。そのため、フィルムとデジタルで分解能を比較をするのは容易でない。分解能の測定はさまざまな条件に依存する。フィルムの場合、フィルムの寸法・サイズ、粒状性などのフィルムの性能、用いたレンズの性能に依存する。フィルムにはピクセルが存在しないため、フィルムにピクセルが存在するものとして計測した分解能は目安に過ぎない。デジタルカメラではセンサー画像の補間に用いる画像処理アルゴリズム、センサフィルタのバイヤーパターン(Bayer pattern)の効果、記録画質などが関係する。加えて、デジタルカメラの撮像素子や表示装置の画素の配列は、規則正しい繰り返しパターンを持つため、モアレを生じる場合があるが、フィルムの感光粒子は不規則に並んでいるためこのような現象は起こらない。24×36mm(ライカ)判カメラで撮影した写真の解像度評価はまちまちである。たとえば、10メガピクセルという評価がある。より粒子の細かいフィルムを使うと、この数字は上がり、低級の光学系の使用や劣悪な照明や不適切な現像がこの数字を下げることもあり得る。この評価は2007年の最新鋭デジタルカメラはライカ判カメラよりも優れているという評価を含意している。ただし、35mmフィルムは一般消費者向けのフォーマットである。プロ向けフィルムカメラとして中判カメラ、大判カメラがある。これらに先の数値を単純にあてがうと、2007年現在の最新鋭デジタルカメラより優れた分解能を持つことになる。具体的には、6×4.5cm判のフィルム写真は約36メガピクセル、4×5in判は約130メガピクセルである。8×10in判は約540メガピクセルになる。しかし、20メガピクセルや7メガピクセルという評価もある。ライカ判フイルムはISO50クラスの低感度で20メガピクセル相当というのは銀粒子のサイズなどから計算されたものであり、実効的には空間周波数的にみて、色調的・階調的に平坦な特性を有するのはそのおおむね40%程度であり、それ以下の細部描写は空間周波数に比例して劣化してくることから、およそ8メガピクセル程度とみるのが正しい。やはりフイルム感光粒子の並びやサイズの不均一性や分散性・乳剤層の厚みによる焦点のにじみなどの物理的限界からみてもこれは疑いようがないといえる。 高性能レンズを用い理想的な露出で撮影した現代の超微粒子白黒フィルムの分解能は、30メガピクセル以上のファイルサイズにおいて適当な細かさが得られる。一般消費者向けライカ判カラーフィルムでは12メガピクセル以上に、安価なライカ判フィルムカメラ(コンパクトカメラ)でも8メガピクセル以上に価し得る。 画像の表示に用いる媒体も考慮に入れる必要がある。たとえば、せいぜい2メガピクセル程度のものが主流であるテレビやコンピュータのディスプレイで写真を表示するのみであれば、ローエンドのデジタルカメラで出せる解像度でさえ十分と言える。4×6inのプリントに出力する場合に限っても、デジタルとフィルムの間に知覚できる差はある。出力媒体が大きな広告板なのであれば、高い解像度をもった媒体か大きな判が必要になるだろう。 現在ではまだ、融通性に関してはフィルムがデジタルに勝ると言える。露出寛容度とゴミ・ほこりに対しての比較を挙げる。 露出寛容度は、露出過多または露出不足のネガから良い画像を得る度合いのことである。デジタル画像ではわずかでも露出過多になると、ハイライトが飛んでしまう。露出不足では陰影の細部が失われがちである。しかしフィルム、特にネガフィルムであれば、少々露出過多ないし露出不足のフィルムを使っても、正常の範囲内と言える画像が得られる。 結像面に乗ったちりは、撮影者につきまとう問題である。デジタルカメラのセンサーは固定であり、デジタル一眼レフではちりを除くのが困難である。ただし、一部のデジタルカメラにはイメージセンサーのちりを検知しセンサー上のゴミ・ほこりをある程度除去する機構がついている。フィルムカメラでは画像ごとにフィルムを交換するため、ちりに対処するのは容易である。その代わり、フィルムの現像工程以降でゴミ・ほこりが混入する危険が存在するが、いずれも正しい手順で清潔に扱えばほとんど問題は起きない。 利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影したうえで現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができ、またその場で不要な写真の削除が可能である。 デジタルカメラの画像はパソコンで加工することが容易である。多くのデジタルカメラは画像を、センサーからの出力を画像に変換せずそのまま保存するRAWフォーマットで保存することができる。適当なソフトウェアと組み合わせれば、最終的な画像に「現像」する前に、撮った写真のパラメータ(シャープネスなど)を調整することができる。記録された画像自体を加工したり書き換えるという選択肢も存在する。 フィルムもスキャニングという工程を経てデジタル化できる。つまり、銀塩写真をデジタル写真に変換できる。 NASAでは、スペースシャトルなどの打ち上げ直前の記録写真の撮影に、現在でも限定的にフィルムカメラを使用している。これは規格外の超大型フィルムを用いて、1枚の遠景写真からボルト1本まで確認できるほどのもので、トラブルが起きた時に写真を検証し、打ち上げ前から異常があったのかどうかを後で確認するために使われている。フィルムカメラではどんなにフィルムが大きくても、露光にかかる時間は大きく変わらないが、デジタルカメラではデータ量に比例して保存に時間がかかる。また、巨大なCCDや、保存装置にかかる電力が増え、バッテリーや冷却装置も含めると機器はさらに大型・重量化してしまう。このため、一人の写真技師が徒歩で数か所から打ち上げ点を撮影するという任務には、デジタルカメラは不向きであった。 同様の欠点は初期の民生用デジタルカメラでもあり、高解像度の撮影をすると、保存に時間をとられてシャッターチャンスを逃したり、バッテリーが減ったりしやすかった。その後の技術革新でこうした問題は改善されてきた。 フィルムが不要なデジタル写真は経済性が高い。かつては記録媒体のぶん高価だったが、価格が下がったことで経済性が高まった。 他方、フィルム写真ではフィルムの取得と画像処理(プリントなど)にコストがかかり続ける。フィルムは撮影直後に画像を見ることができないので、最終的な写真を知ることなく撮影したすべてのフィルムを現像処理するのが通例である。写真の出来に応じて現像するか否かをコマごとに決めることはできない。 フィルムが作るのは一次画像であり、これは撮影レンズを通った情報を含んでいる。オルソクロマチックのように特定の周波数領域に限られた感度またはパンクロマチックの幅広い感度といった違いはあっても、色(波長)によって対象をとらえる点は同様である。現像方法の違いにより最終的なネガやポジに差は出るが、現像が終われば画像はほとんど変化しない。理想的な状態で処理・保存されたフィルムは実質的に100年以上変わらず性能を発揮する。プラチナの化合物によって発色するプリントは基本的にベースの寿命に制限されるのみであり、数百年ほどは持つ。高い保存性を欲するならば調色が必須であるという因襲があった。調色されたプリントの保存性は高い。しかし現在では、調色せずとも保存性を高める薬品が販売されている。 デジタルは保存性について圧倒的に有利である一方、記録媒体の物理的特性の問題がある。コンピュータを中心としたデジタル媒体が登場してから100年も経っていないため、記録媒体の特性はフィルムほどには分かっていない。しかし保存に関して乗り越えなければならない点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な可読性、保存に使ったファイルフォーマットの将来的な可読性である。 多くのデジタル媒体は長期的にデータを保管する能力はほぼない。たとえば、多くのフラッシュメモリは10年から数十年でデータを失うし、一般的な光ディスクは長いものでも100年程度である(例外あり)。MOなどの光磁気ディスクは保存性の高い記録媒体であるが、将来的な可読性という面で劣る。クラウドストレージなど業者が管理するストレージに任せる方法もあるが、今度はサービス終了の恐れがある。 さらに、記録媒体が長期間データを保持できたとしても、デジタル技術のライフスパンは短いため、メディアを読み取るドライブがなくなることがある。たとえば5.25インチフロッピーディスクは1976年に初めて発売されたものであるが、それを読めるドライブは、30年も経たない1990年代後半にはすでに珍品となっていた。後継の3.5インチフロッピーディスクも、2012年現在、ドライブを装備するパソコンは少ない。Zipは1994年の発売開始後数年で売れ行きが落ち、2007年時点ではメディア・ドライブとも入手困難になっている。 データをデコードできるソフトウェアの存続も関係する。特に複数が並立し、互換性に乏しいRAWフォーマットの問題がある。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。メーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。 デジタル写真におけるこれらのデメリットにも対策がうてる。たとえば、ビットマップ形式、JPG形式、PNG形式など、汎用性の高いファイルフォーマットを選ぶことによって、ソフトウェアがそのファイルを読解できる将来の可能性が増す。また、将来読めなくなるかサポートされなくなる可能性がある記録媒体にデータを保存していたものを、品質を低下させることなく新しいメディアにコピーすることが可能である。このことはデジタルメディアの大きな特徴の一つである。ただし科学文明が崩壊するレベルの事象が起きた場合はデジタル写真は確認不可能となる。 デジタル写真は画像編集ソフトウェアで、フィルム写真では膨大な時間を費やす必要があった、色・コントラスト・シャープネス(輪郭の鋭さ)の調整や、いらないものを消すなどの画像加工を初心者でも簡単かつ即座にできる。フィルム画像の合成は難しい。 逆に言えばデジタル画像は簡単に改変できてしまうため、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも好まれる。なお、日本のパスポートには2006年3月よりICチップにデジタル化された顔写真が埋め込まれている。 なお、裁判などの証拠としてデジタル画像を使用することは認められる場合もあるが、アメリカでは21世紀初頭の時点で以下のような条件を満たす必要があるとされていた。 どのような経緯で撮影された、並びに提出される前にどのような処置をしたのかも説明する必要があるが、それはデジタルに限らず写真全般に問われる事で、画像修正がある場合、証拠物件として提出する際にその点を注記し、修正前のデータも閲覧できるようにしなければならない。また、捜査官たちは画像を検索できねば捜査に使用できないが、彼らはどのような意味でも証拠に変更を加えることは許されないので、提出物には読み出し専用(リードオンリー)の記憶媒体が望ましい。また、画像のフォーマットを変換するとデータが壊れることがあるので、最終的な画像や提出するプリントは記録するときに使ったオリジナルのフォーマットを使用しなければならない。 実際に裁判で証拠不十分とされた例に、提出されたデータのファイルの保存された日付が「撮影した日の9日後(=撮影後に何かの変更を行っている)」であった理由を撮影者が説明できなかったというものがある。 フィルムカメラ写真のアスペクト比はカメラ・写真フィルムの規格や印画紙のフォーマットに倣う場合が多い。カメラと印画紙の主要なものを挙げる。 デジタルカメラ写真のアスペクト比については次のものが主である。長辺が短辺に比してより長いものから挙げる。以前はパソコンのディスプレイとの整合性から「4:3」の機種が多かった。 DPE店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではなく、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多い。 アスペクト比が長辺が短辺に比してより長いものほど写真に緊張感が生まれるとされる。 写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。写真の起源は、紀元前、古代中国春秋時代の墨子や、アリストテレスの頃から知られていた、ピンホール現象にまでさかのぼる。この現象を利用したカメラ・オブスクラの開発と、像を固定させる化学的処理のプロセスの発見が組み合わされ、写真術が誕生することになる。 画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するために、デッサンの補助具としてカメラ・オブスクラを活用した。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して暗くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」だった。18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。 19世紀初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。このとき美術は新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。 現存する世界最古の写真は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男」(Un cheval et son conducteur)である。 現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニエプスによる最初の写真のあと、1839年にはダゲレオタイプが発表された。写真の誕生は同年、パリの科学と芸術の合同アカデミーで、科学者のフランソワ・アラゴーによって公式に宣言された。直後にカロタイプも発表された。 写真の普及は肖像写真の流行、1851年の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続いた。1884年、ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラが「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901年にはコダック・ブローニーの登場により写真は市場に乗った。1925年、ライカなどの登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運びやすさ)、機動性、フィルム交換のしやすさが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦:ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の電子記録も広まっている。 現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、もっぱらマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年にライカが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。2004年1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックのフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。2006年1月、ニコンも同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年5月25日、キヤノンは新しいフィルム一眼レフカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルム一眼レフカメラが1機種になったのは2008年になってからであり、2004年1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルム一眼レフカメラを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である。 写真の誕生以来、自然科学者などの多くの学者や芸術家が写真に関心を示してきた。学者は写真を記録と研究に利用した。軍隊や警察も偵察、調査、捜査、裁判などのデータ記録に写真を利用する。写真は商業目的でも撮影される。写真を必要とする団体における写真の利用法には、選択肢がある。その団体の誰かが撮影を担当する、外部のカメラマンを雇う、写真を利用する権利を取得する、写真を公募するなどである。 エドワード・マイブリッジは連続写真を使って人間の動きに関する研究(1887年)を行った。それまで人の目がとらえることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。 アメリカでは西部開拓期に写真が導入され、政府公認の西部調査に写真家が派遣され、画家とともに記録を担った。さらにパリでは、セーヌ県知事オスマンの都市改造に伴う歴史記録が写真によってなされている。 また19世紀後半以降撮影された世界各地での探検や人類学的調査や遺跡調査などの記録写真、あるいは天体写真や顕微鏡写真は、人類の知識に変化を与えた。 ジャーナリストは写真を使って、事件や戦争、人の暮らしぶりなどを記録してきた。報道写真の萌芽は写真発明直後のクリミア戦争の戦場記録写真などに現れている。 現在では、スナップ写真を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。 写真と絵画は本来性質が異なる。しかし、カメラ・オブスクラが絵画のデッサンの補助具として用いられてきたため、写真映像は、文化的に長らく絵画との比較において読み解かれてきた。写真と絵画の関係は、写真の誕生以降、組んず解れつ展開してきた。 ドミニク・アングルなどの画家は写真の再現性に驚いたとされる。ただし、写真は平面的な再現を得意としていても絵画のように空間感や形態感を描き出すことはできない。アングルは表向き写真を批判していながら実際には写真を絵画制作に利用していたのだが、これは彼が伝統的に絵画の根本を支えて来たものがこのように写真に流出しないものであると知っていたからだと考えられる。このことに関して画家のフェルナン・クノップフは光源やライティングをどれほど工夫しても、覆い焼き・焼き込みなどを駆使しても絵画に見られるような卓越したバルール(色価)を構成することはできないといった旨のことを述べている。このことはピクトリアリスムおよびその延長にある写真に或る影を落とす。なお、クノップフは着色写真・着彩写真も手がけており、そこには代表作のバリアントとでも言うべきものも含まれている。写真との関係について言及される画家は他に、エドガー・ドガ、フランシス・ベーコン、ゲルハルト・リヒター、デイヴィッド・ホックニー、チャック・クロース(英語版)などがいる。また、17世紀のオランダの画家フェルメールはカメラ・オブスクラに着想を得ていたといわれる。 写真術が誕生した最初期、写真と絵画の関係において争点となったのは、肖像のジャンルである。かつて肖像画を持つことは階級の高い者や富裕層の特権だった。しかし、写真が誕生すると、絵画より安価で精緻な描写性を持つことが注目され、肖像写真が社会現象になった。歴史画家ポール・ドラローシュは写真の誕生を受け、「今日を限りに絵画は死んだ」と叫んだという逸話があるように、当時、多くの画家が写真の登場によって職業写真家に転身した。 一方で、写真が絵画より劣るとみなされる場合もあった。ピクトリアリスム運動は絵画の影響を強く受けた活動であり、写真は古くは絵画そのものを期待されていた。ピクトリアリスム運動で、写真家たちは、主題や表現性で絵画を模倣、追随し、写真を芸術として認知させようとした。他方で、鮮明な物の形の記録が写真本来の持ち味であるとしてストレートフォトグラフィも現れた。 現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向きもあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるために制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう。 写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張する者もいる。 20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられてきた。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯をかけた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。 「芸術写真」は1920年代の日本においても最新動向として紹介され、1921年に東京では福原信三が写真芸術社を、それに先立ち大阪では上田竹翁(別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の手塚治虫の父親・手塚粲もこうした写真倶楽部のひとつ「丹平写真倶楽部」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していた。 写真を積極的に自らの作品に取り入れる美術家もいる。たとえば日本の場合、森村泰昌は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。澤田知子は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。今道子は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。 写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。 しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある(報道写真、Wikipedia向きの写真など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えられる媒体であるからである。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。鉛筆で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。カメラ類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。 現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、描き手()の調子の構築、筆致・筆さばきその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと解釈できる。 こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。
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"銀塩写真の原理も語も以前と何ら変わるものではないが、デジタルカメラの普及以降、レトロニム的に単に「写真」ではなく銀塩写真と明示的に言うこともある。なお、「アナログ写真」という語は撮影から現像、あるいは印刷に関してデジタル技術をほとんど用いないものに用いられる(近年は逆転し、プロセスのどこかでデジタル技術を回避したものをそう呼んでいることもある)。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ハロゲン化銀は光が当たると銀イオンが還元され、金属銀微粒子の核ができる。感光して銀粒子核の潜像となってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀粒子を成長させて可視化する必要がある。これは現像処理で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分のハロゲン化銀は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "ハロゲン化銀は感光するとき、波長を吸収する領域が青色に寄っている。そこで可視領域に渡って感光させるために感光色素を用いて本来の吸収波長以外にも反応が起こるように設定する。まず感光色素が光に反応し、色素の電子がハロゲン化銀へ移動することによってハロゲン化銀の直接の感光と同様の変化が成立する。可視的な電磁波の特定の波長領域にのみ感光するようにし、三原色に対応するように感光層を重ねるとカラーフィルムになる。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": 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"露光時間が極端に短かったり長かったりする場合には、相反則が成立しないことがある。これを相反則不軌という。カラーフィルムでは色ごとに相反則不軌の状態が異なるため、カラーバランスが崩れる問題がある。短いほうは通常のカメラの、数千分の1秒程度では顕在化しないため通常は気にされることはない。一方長い方は、夜間や天体の撮影で問題になる。1977年ごろには長時間露光時の相反則不軌対策や分光感度を調整した天体撮影用のスペクトロスコピック感光材料が市販されていたほどである。なおフィルムの場合、冷却することで長時間露光時の相反則不軌を低減できることが経験的に知られている。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "なお、長時間露光においては相反則不軌とはまた別の問題もある。現在利用可能なオプトロニクスによるデジタルカメラでは、画像に熱雑音と製作不良から発生するランダムノイズが乗る。一部のデジタルカメラでは長時間露出する際のノイズを軽減する機能がついている。非常に長い時間露光する場合、ノイズが最終的な画像に影響しないように撮像素子を低温で動作させる必要がある。天文撮影や科学機器では冷却機構が最初から設計に含まれているものもある。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "写真撮影(しゃしんさつえい、英: Photo shoot、フォトグラフィ、英: photography)とは、カメラによって静止画(スチル写真)を記録する行為のこと。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "カメラおよびカメラ・オブスクラは撮影機器である。写真フィルムまたは電子的記録カードが記録媒体であるが、ほかの方法がとられることもある。たとえば、光学コピーや乾式コピー(ゼロコピー)は長期的に使用可能な画像を作るが、写真フィルムではなく静電気の移動を使っているため、電子複写(静電複写)という。マン・レイの刊行したレイヨグラフなどのフォトグラムは印画紙に投影された影でできた画像であり、カメラを用いない。スキャナのガラス面に直接撮影対象を置くことによって、電子複写を行うことも可能である。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "撮影者は記録媒体を必要な量の光に露出する目的で、カメラとレンズを選択・操作できる(記録媒体として通常は、写真フィルムか固体撮像素子を使う)。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "選択・操作の対象には以下のものなどがあると思われる。カメラの操作は互いに関係する。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "フィルム面に到達する光の総量は露出時間、レンズの絞りによって変わる。このうちどちらかを変えれば、露出が変わる。(物理的なシャッターがないカメラであっても)露光時間はシャッター速度で表される。露光時間が1秒より短い場合は通常分子が1の分数で表記され、それはカメラのシャッター速度設定ダイヤルに明記されている場合、秒の逆数で表示されている場合が多い。絞りはF値で表示されているが、これはレンズの明るさを表している。Fは焦点比(focal ratio)のFである。F値がルート2分の1倍になるごとに絞りの直径はルート2倍大きくなり、絞りの面積は2倍になる。典型的なレンズに刻まれたF値は、2.8、4、5.6、8、11、16、22、32などであるが、これは数字が大きくなるごとに光の量が半分になっていくことを意味する。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "特定の露出のシャッター速度と絞り値は、さまざまな組み合わせが成立する。たとえば、125分の1秒でF8と500分の1秒でF4では同じ量の光が得られる。当然ながら、どの組み合わせを選んだかは最終的な仕上がりに影響する。シャッター速度の変化は対象とカメラの動き(ぶれなど)の反映の度合いを変える。絞りの変化は被写界深度を変える。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "被写界深度は焦点の前後に広がるピントがあっているように見える範囲のことである。たとえば長焦点レンズ(望遠レンズ)を絞りを開いて使用した場合、対象の目には鋭く焦点が合うとき、鼻の頭はピントが合って見えないということが起こる。反対に短焦点レンズ(広角レンズ)を使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせて使えば、対象の目にも鼻にもピントが合って見える写真を撮影することは容易である。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "長焦点レンズを使用し、絞りを開いて近距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に浅くなる。反対に短焦点レンズを使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に深くなる。絞り値、焦点距離、焦点の位置が同じでも、レンズのF値(絞り開放時のF値)によって被写界深度は異なる。また、レンズのF値が同じでも設計・表記と実際との差などにより被写界深度は異なる。また、十分に小さい絞りを使うとかなり広い範囲にピントを合わせることができる。これはパンフォーカスと呼ばれる。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "材質にかかわらず、カメラがとらえた像を最終的な写真作品にするには、何らかの工程が必要である。この工程には現像と焼きつけなどがある。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "焼きつけ工程では、いくつかの調整によって結果を変えることができる。こうした調整の多くはイメージキャプチャーなどで行われる調整に似ているが、引き伸ばし機を用いた焼きつけ工程に固有のものもある。大部分はデジタルによく似た調整であるが、大きく異なる効果をもたらすものもある。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "調整には次のものなどがある。", "title": "写真の原理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "100%コットンなどのバライタ印画紙、RCコート紙、水彩紙を応用したインクジェットプリンター用紙(デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはさまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "カラー写真は1800年代にアレクサンドル・エドモン・ベクレルらにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高耐光性のカラー写真は1861年に物理学者のジェームズ・クラーク・マクスウェルによって撮影された。彼は3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回タータンのリボンの写真を撮影し、3原色中1色のフィルターをかけた3つのスライドプロジェクタで画像を投影してスクリーン上で合成することにより、撮影時の色を再現することに成功した。しかし、赤色の再現に問題があったうえ(画像では紫を帯びている)、この試みは1890年代になるまで忘れられてしまっていた。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。当時は必要な色に対する適当な感度を持つ乳剤が知られておらずカラーフィルムを製造することができなかったため、ロシアの写真家セルゲイ・プロクジン=ゴルスキーは3枚のカラー写真乾板を連続して素早く撮影する技法を開発した。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1868年にフランスのルイ・デュコ・デュ・オーロンはカーボンプリントに減法混合を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1873年、ドイツの化学者ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲルによりついに赤と緑に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開けた。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "1891年、ルクセンブルクのガブリエル・リップマンは3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により1908年にノーベル物理学賞を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在ではホログラフに応用されている。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1904年、フランスのリュミエール兄弟によって最初のカラー乾板である「オートクローム」が発明され市場に現れた。これは染色したジャガイモのデンプンで作られたスクリーン板フィルターに基づいたもので、ドイツのアグフア(のちのアグフア・ゲバルト)が1916年に染色したアラビアゴムの細粒で作られたフィルターを使用する「アグフア・ファルベン・プラッテン」を発明するまでは市場における唯一のカラー乾板だった。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "1930年、アメリカ合衆国のジョージ・イーストマンは100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家のレオポルド・D・マンネス(英語版)とレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(英語版)は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募してコダックに入社、同社の研究陣と協力して1935年、最初の近代的なカラーフィルムである「コダクローム」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。日本の最初のカラーフィルムは1940年に小西六写真工業(現・コニカミノルタホールディングス)が発表したコダクロームと同方式の「さくら天然色フヰルム」であり、続いて富士写真フィルムも「富士発色フィルム」を公表している。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1936年にはアグフアの「アグフアカラーノイ」が追従した。アグファカラーノイはIG・ファルベンインドゥストリーにより開発された発色剤を乳剤層に含有させたもので、発色現像が1回で完結されるなどフィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグフアカラーノイの技術に基づいている。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "インスタントカラーフィルムは1963年にポラロイドから発売された。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "カラー写真は、スライドプロジェクタで使うための陽画の透過フィルムとして像を撮ることも、陽画の焼きつけを作るためのカラー陰画を作ることもできる。自動プリント機器の登場によって、現在では後者がもっとも大衆的なフィルムである。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "感光材料にハロゲン化銀を使用せずほかの材料を使用する写真の総称で写真技術の黎明期から開発が進められ、青写真やジアゾタイプが実用化された。シルバーショック後に脱銀化が加速したが、従来の銀塩写真を置き換える用途においては感度、貯蔵性に劣るといった弱点がある。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "広義には、アナログ式の電子カメラである電子スチルビデオカメラや、デジタルカメラによる写真も非銀塩写真の(広義には)一種といえる。なお「電子写真」という語は、普通紙用複写機(Plain Paper Copier)の静電方式、いわゆるゼログラフィを指して以前は広く使われた語であった。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "デジタル写真は画像を電子データとして記録するためにCCDイメージセンサやCMOSイメージセンサといった固体撮像素子を用いる。携帯電話などにもデジタルカメラ機能がついているものがある(カメラ付き携帯電話)。デジタル写真を写真と認めない人もいるが、デジタルカメラでとらえた像は見ることもプリントすることもできる。動画撮影や録音など、フィルムカメラにはない機能を持っている機種もあるほか、従来の中判カメラに相当する大きさの撮像素子を持つレンズ交換式デジタルカメラもある。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、テレビジョンとの競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このため遠隔地で仕事をする新聞記者達は一時期小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となっていた。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "1981年、ソニーが画像撮影にCCDを使い、フィルムを用いない最初のコンシューマ用カメラ「マビカ」を発表した。マビカは画像をディスクに保存し画像自体はテレビに表示するものであった。次いで1990年にコダックが初の市販デジタルカメラDCS100を発表した。その価格は業務用でもなければ手が出ないものであった。商業的なデジタル写真がこのとき生まれたのである。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "2000年代から2010年代にかけて、デジタルの自動露出・自動焦点カメラは一般に広まり、フィルムカメラをほぼ駆逐した。小型化できることからカメラ付き携帯電話など様々なものにカメラが搭載され、2010年代にはカメラの付いたスマートフォンの普及により、廉価なコンパクトタイプのデジタルカメラも市場が縮小した。", "title": "写真の種類" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "写真の性質はフィルムとデジタルで異なるが、共通した観点が存在する。以下、観点をいくつかの性質に分けて紹介する。フィルムとデジタルのどちらが優れているかという議論があるが、すべての観点において一方がもう一方よりも優れているとは言えず、どちらもそれぞれのよさがある。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "ここでの再現性は画質とほぼ同義である。写真の画質を判断する基準は多数あるが、分解能、コントラスト、色再現性が骨子と考えられる。ここでは分解能をとりあげる。これについて、その写真が何個の画像セル(ピクセル)で構築されるかで計ろうとする試みがある。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "フィルム写真とデジタル写真を比較するとき、フィルムを撮像素子の画素数に換算するとどの程度かと考えがちだが、何よりもまず両者はあまりに異なる。そのため、フィルムとデジタルで分解能を比較をするのは容易でない。分解能の測定はさまざまな条件に依存する。フィルムの場合、フィルムの寸法・サイズ、粒状性などのフィルムの性能、用いたレンズの性能に依存する。フィルムにはピクセルが存在しないため、フィルムにピクセルが存在するものとして計測した分解能は目安に過ぎない。デジタルカメラではセンサー画像の補間に用いる画像処理アルゴリズム、センサフィルタのバイヤーパターン(Bayer pattern)の効果、記録画質などが関係する。加えて、デジタルカメラの撮像素子や表示装置の画素の配列は、規則正しい繰り返しパターンを持つため、モアレを生じる場合があるが、フィルムの感光粒子は不規則に並んでいるためこのような現象は起こらない。24×36mm(ライカ)判カメラで撮影した写真の解像度評価はまちまちである。たとえば、10メガピクセルという評価がある。より粒子の細かいフィルムを使うと、この数字は上がり、低級の光学系の使用や劣悪な照明や不適切な現像がこの数字を下げることもあり得る。この評価は2007年の最新鋭デジタルカメラはライカ判カメラよりも優れているという評価を含意している。ただし、35mmフィルムは一般消費者向けのフォーマットである。プロ向けフィルムカメラとして中判カメラ、大判カメラがある。これらに先の数値を単純にあてがうと、2007年現在の最新鋭デジタルカメラより優れた分解能を持つことになる。具体的には、6×4.5cm判のフィルム写真は約36メガピクセル、4×5in判は約130メガピクセルである。8×10in判は約540メガピクセルになる。しかし、20メガピクセルや7メガピクセルという評価もある。ライカ判フイルムはISO50クラスの低感度で20メガピクセル相当というのは銀粒子のサイズなどから計算されたものであり、実効的には空間周波数的にみて、色調的・階調的に平坦な特性を有するのはそのおおむね40%程度であり、それ以下の細部描写は空間周波数に比例して劣化してくることから、およそ8メガピクセル程度とみるのが正しい。やはりフイルム感光粒子の並びやサイズの不均一性や分散性・乳剤層の厚みによる焦点のにじみなどの物理的限界からみてもこれは疑いようがないといえる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "高性能レンズを用い理想的な露出で撮影した現代の超微粒子白黒フィルムの分解能は、30メガピクセル以上のファイルサイズにおいて適当な細かさが得られる。一般消費者向けライカ判カラーフィルムでは12メガピクセル以上に、安価なライカ判フィルムカメラ(コンパクトカメラ)でも8メガピクセル以上に価し得る。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "画像の表示に用いる媒体も考慮に入れる必要がある。たとえば、せいぜい2メガピクセル程度のものが主流であるテレビやコンピュータのディスプレイで写真を表示するのみであれば、ローエンドのデジタルカメラで出せる解像度でさえ十分と言える。4×6inのプリントに出力する場合に限っても、デジタルとフィルムの間に知覚できる差はある。出力媒体が大きな広告板なのであれば、高い解像度をもった媒体か大きな判が必要になるだろう。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "現在ではまだ、融通性に関してはフィルムがデジタルに勝ると言える。露出寛容度とゴミ・ほこりに対しての比較を挙げる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "露出寛容度は、露出過多または露出不足のネガから良い画像を得る度合いのことである。デジタル画像ではわずかでも露出過多になると、ハイライトが飛んでしまう。露出不足では陰影の細部が失われがちである。しかしフィルム、特にネガフィルムであれば、少々露出過多ないし露出不足のフィルムを使っても、正常の範囲内と言える画像が得られる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "結像面に乗ったちりは、撮影者につきまとう問題である。デジタルカメラのセンサーは固定であり、デジタル一眼レフではちりを除くのが困難である。ただし、一部のデジタルカメラにはイメージセンサーのちりを検知しセンサー上のゴミ・ほこりをある程度除去する機構がついている。フィルムカメラでは画像ごとにフィルムを交換するため、ちりに対処するのは容易である。その代わり、フィルムの現像工程以降でゴミ・ほこりが混入する危険が存在するが、いずれも正しい手順で清潔に扱えばほとんど問題は起きない。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影したうえで現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができ、またその場で不要な写真の削除が可能である。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "デジタルカメラの画像はパソコンで加工することが容易である。多くのデジタルカメラは画像を、センサーからの出力を画像に変換せずそのまま保存するRAWフォーマットで保存することができる。適当なソフトウェアと組み合わせれば、最終的な画像に「現像」する前に、撮った写真のパラメータ(シャープネスなど)を調整することができる。記録された画像自体を加工したり書き換えるという選択肢も存在する。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "フィルムもスキャニングという工程を経てデジタル化できる。つまり、銀塩写真をデジタル写真に変換できる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "NASAでは、スペースシャトルなどの打ち上げ直前の記録写真の撮影に、現在でも限定的にフィルムカメラを使用している。これは規格外の超大型フィルムを用いて、1枚の遠景写真からボルト1本まで確認できるほどのもので、トラブルが起きた時に写真を検証し、打ち上げ前から異常があったのかどうかを後で確認するために使われている。フィルムカメラではどんなにフィルムが大きくても、露光にかかる時間は大きく変わらないが、デジタルカメラではデータ量に比例して保存に時間がかかる。また、巨大なCCDや、保存装置にかかる電力が増え、バッテリーや冷却装置も含めると機器はさらに大型・重量化してしまう。このため、一人の写真技師が徒歩で数か所から打ち上げ点を撮影するという任務には、デジタルカメラは不向きであった。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "同様の欠点は初期の民生用デジタルカメラでもあり、高解像度の撮影をすると、保存に時間をとられてシャッターチャンスを逃したり、バッテリーが減ったりしやすかった。その後の技術革新でこうした問題は改善されてきた。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "フィルムが不要なデジタル写真は経済性が高い。かつては記録媒体のぶん高価だったが、価格が下がったことで経済性が高まった。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "他方、フィルム写真ではフィルムの取得と画像処理(プリントなど)にコストがかかり続ける。フィルムは撮影直後に画像を見ることができないので、最終的な写真を知ることなく撮影したすべてのフィルムを現像処理するのが通例である。写真の出来に応じて現像するか否かをコマごとに決めることはできない。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "フィルムが作るのは一次画像であり、これは撮影レンズを通った情報を含んでいる。オルソクロマチックのように特定の周波数領域に限られた感度またはパンクロマチックの幅広い感度といった違いはあっても、色(波長)によって対象をとらえる点は同様である。現像方法の違いにより最終的なネガやポジに差は出るが、現像が終われば画像はほとんど変化しない。理想的な状態で処理・保存されたフィルムは実質的に100年以上変わらず性能を発揮する。プラチナの化合物によって発色するプリントは基本的にベースの寿命に制限されるのみであり、数百年ほどは持つ。高い保存性を欲するならば調色が必須であるという因襲があった。調色されたプリントの保存性は高い。しかし現在では、調色せずとも保存性を高める薬品が販売されている。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "デジタルは保存性について圧倒的に有利である一方、記録媒体の物理的特性の問題がある。コンピュータを中心としたデジタル媒体が登場してから100年も経っていないため、記録媒体の特性はフィルムほどには分かっていない。しかし保存に関して乗り越えなければならない点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な可読性、保存に使ったファイルフォーマットの将来的な可読性である。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "多くのデジタル媒体は長期的にデータを保管する能力はほぼない。たとえば、多くのフラッシュメモリは10年から数十年でデータを失うし、一般的な光ディスクは長いものでも100年程度である(例外あり)。MOなどの光磁気ディスクは保存性の高い記録媒体であるが、将来的な可読性という面で劣る。クラウドストレージなど業者が管理するストレージに任せる方法もあるが、今度はサービス終了の恐れがある。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "さらに、記録媒体が長期間データを保持できたとしても、デジタル技術のライフスパンは短いため、メディアを読み取るドライブがなくなることがある。たとえば5.25インチフロッピーディスクは1976年に初めて発売されたものであるが、それを読めるドライブは、30年も経たない1990年代後半にはすでに珍品となっていた。後継の3.5インチフロッピーディスクも、2012年現在、ドライブを装備するパソコンは少ない。Zipは1994年の発売開始後数年で売れ行きが落ち、2007年時点ではメディア・ドライブとも入手困難になっている。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "データをデコードできるソフトウェアの存続も関係する。特に複数が並立し、互換性に乏しいRAWフォーマットの問題がある。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。メーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "デジタル写真におけるこれらのデメリットにも対策がうてる。たとえば、ビットマップ形式、JPG形式、PNG形式など、汎用性の高いファイルフォーマットを選ぶことによって、ソフトウェアがそのファイルを読解できる将来の可能性が増す。また、将来読めなくなるかサポートされなくなる可能性がある記録媒体にデータを保存していたものを、品質を低下させることなく新しいメディアにコピーすることが可能である。このことはデジタルメディアの大きな特徴の一つである。ただし科学文明が崩壊するレベルの事象が起きた場合はデジタル写真は確認不可能となる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "デジタル写真は画像編集ソフトウェアで、フィルム写真では膨大な時間を費やす必要があった、色・コントラスト・シャープネス(輪郭の鋭さ)の調整や、いらないものを消すなどの画像加工を初心者でも簡単かつ即座にできる。フィルム画像の合成は難しい。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "逆に言えばデジタル画像は簡単に改変できてしまうため、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも好まれる。なお、日本のパスポートには2006年3月よりICチップにデジタル化された顔写真が埋め込まれている。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "なお、裁判などの証拠としてデジタル画像を使用することは認められる場合もあるが、アメリカでは21世紀初頭の時点で以下のような条件を満たす必要があるとされていた。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "どのような経緯で撮影された、並びに提出される前にどのような処置をしたのかも説明する必要があるが、それはデジタルに限らず写真全般に問われる事で、画像修正がある場合、証拠物件として提出する際にその点を注記し、修正前のデータも閲覧できるようにしなければならない。また、捜査官たちは画像を検索できねば捜査に使用できないが、彼らはどのような意味でも証拠に変更を加えることは許されないので、提出物には読み出し専用(リードオンリー)の記憶媒体が望ましい。また、画像のフォーマットを変換するとデータが壊れることがあるので、最終的な画像や提出するプリントは記録するときに使ったオリジナルのフォーマットを使用しなければならない。 実際に裁判で証拠不十分とされた例に、提出されたデータのファイルの保存された日付が「撮影した日の9日後(=撮影後に何かの変更を行っている)」であった理由を撮影者が説明できなかったというものがある。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "フィルムカメラ写真のアスペクト比はカメラ・写真フィルムの規格や印画紙のフォーマットに倣う場合が多い。カメラと印画紙の主要なものを挙げる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "デジタルカメラ写真のアスペクト比については次のものが主である。長辺が短辺に比してより長いものから挙げる。以前はパソコンのディスプレイとの整合性から「4:3」の機種が多かった。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "DPE店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではなく、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多い。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "アスペクト比が長辺が短辺に比してより長いものほど写真に緊張感が生まれるとされる。", "title": "写真の性質(フィルム写真とデジタル写真)" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "写真が発明される19世紀以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。写真の起源は、紀元前、古代中国春秋時代の墨子や、アリストテレスの頃から知られていた、ピンホール現象にまでさかのぼる。この現象を利用したカメラ・オブスクラの開発と、像を固定させる化学的処理のプロセスの発見が組み合わされ、写真術が誕生することになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "画家達は、16世紀頃には立体の風景を平面に投影するために、デッサンの補助具としてカメラ・オブスクラを活用した。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して暗くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きなピンホールカメラにしたもの」だった。18世紀には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるというヨハン・ハインリヒ・シュルツェによる1724年の発見をはじめとして塩化銀やハロゲン化銀など銀化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "19世紀初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された。このとき美術は新古典主義とロマン主義の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、石版画の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "現存する世界最古の写真は、1825年にニセフォール・ニエプスが撮影した「馬引く男」(Un cheval et son conducteur)である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "現代の写真処理は1840年から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニエプスによる最初の写真のあと、1839年にはダゲレオタイプが発表された。写真の誕生は同年、パリの科学と芸術の合同アカデミーで、科学者のフランソワ・アラゴーによって公式に宣言された。直後にカロタイプも発表された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "写真の普及は肖像写真の流行、1851年の湿式コロジオン法の発明、1871年のゼラチン乾板の発明へと続いた。1884年、ニューヨークのジョージ・イーストマンは紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラが「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。1901年にはコダック・ブローニーの登場により写真は市場に乗った。1925年、ライカなどの登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運びやすさ)、機動性、フィルム交換のしやすさが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦:ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の電子記録も広まっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、もっぱらマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年にライカが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。2004年1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックのフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。2006年1月、ニコンも同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年5月25日、キヤノンは新しいフィルム一眼レフカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルム一眼レフカメラが1機種になったのは2008年になってからであり、2004年1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルム一眼レフカメラを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "写真の誕生以来、自然科学者などの多くの学者や芸術家が写真に関心を示してきた。学者は写真を記録と研究に利用した。軍隊や警察も偵察、調査、捜査、裁判などのデータ記録に写真を利用する。写真は商業目的でも撮影される。写真を必要とする団体における写真の利用法には、選択肢がある。その団体の誰かが撮影を担当する、外部のカメラマンを雇う、写真を利用する権利を取得する、写真を公募するなどである。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "エドワード・マイブリッジは連続写真を使って人間の動きに関する研究(1887年)を行った。それまで人の目がとらえることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "アメリカでは西部開拓期に写真が導入され、政府公認の西部調査に写真家が派遣され、画家とともに記録を担った。さらにパリでは、セーヌ県知事オスマンの都市改造に伴う歴史記録が写真によってなされている。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "また19世紀後半以降撮影された世界各地での探検や人類学的調査や遺跡調査などの記録写真、あるいは天体写真や顕微鏡写真は、人類の知識に変化を与えた。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "ジャーナリストは写真を使って、事件や戦争、人の暮らしぶりなどを記録してきた。報道写真の萌芽は写真発明直後のクリミア戦争の戦場記録写真などに現れている。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "現在では、スナップ写真を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "写真と絵画は本来性質が異なる。しかし、カメラ・オブスクラが絵画のデッサンの補助具として用いられてきたため、写真映像は、文化的に長らく絵画との比較において読み解かれてきた。写真と絵画の関係は、写真の誕生以降、組んず解れつ展開してきた。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "ドミニク・アングルなどの画家は写真の再現性に驚いたとされる。ただし、写真は平面的な再現を得意としていても絵画のように空間感や形態感を描き出すことはできない。アングルは表向き写真を批判していながら実際には写真を絵画制作に利用していたのだが、これは彼が伝統的に絵画の根本を支えて来たものがこのように写真に流出しないものであると知っていたからだと考えられる。このことに関して画家のフェルナン・クノップフは光源やライティングをどれほど工夫しても、覆い焼き・焼き込みなどを駆使しても絵画に見られるような卓越したバルール(色価)を構成することはできないといった旨のことを述べている。このことはピクトリアリスムおよびその延長にある写真に或る影を落とす。なお、クノップフは着色写真・着彩写真も手がけており、そこには代表作のバリアントとでも言うべきものも含まれている。写真との関係について言及される画家は他に、エドガー・ドガ、フランシス・ベーコン、ゲルハルト・リヒター、デイヴィッド・ホックニー、チャック・クロース(英語版)などがいる。また、17世紀のオランダの画家フェルメールはカメラ・オブスクラに着想を得ていたといわれる。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "写真術が誕生した最初期、写真と絵画の関係において争点となったのは、肖像のジャンルである。かつて肖像画を持つことは階級の高い者や富裕層の特権だった。しかし、写真が誕生すると、絵画より安価で精緻な描写性を持つことが注目され、肖像写真が社会現象になった。歴史画家ポール・ドラローシュは写真の誕生を受け、「今日を限りに絵画は死んだ」と叫んだという逸話があるように、当時、多くの画家が写真の登場によって職業写真家に転身した。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "一方で、写真が絵画より劣るとみなされる場合もあった。ピクトリアリスム運動は絵画の影響を強く受けた活動であり、写真は古くは絵画そのものを期待されていた。ピクトリアリスム運動で、写真家たちは、主題や表現性で絵画を模倣、追随し、写真を芸術として認知させようとした。他方で、鮮明な物の形の記録が写真本来の持ち味であるとしてストレートフォトグラフィも現れた。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向きもあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるために制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張する者もいる。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界とギャラリー業界に受け入れられてきた。アメリカ合衆国では、少数の学芸員が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯をかけた。中でも傑出した学芸員・編集者はアルフレッド・スティーグリッツ、エドワード・スタイケン、ジョン・シャーカフスキー、およびヒュー・エドワードである。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "「芸術写真」は1920年代の日本においても最新動向として紹介され、1921年に東京では福原信三が写真芸術社を、それに先立ち大阪では上田竹翁(別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の手塚治虫の父親・手塚粲もこうした写真倶楽部のひとつ「丹平写真倶楽部」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していた。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "写真を積極的に自らの作品に取り入れる美術家もいる。たとえば日本の場合、森村泰昌は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。澤田知子は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。今道子は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある(報道写真、Wikipedia向きの写真など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えられる媒体であるからである。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。鉛筆で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。カメラ類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、描き手()の調子の構築、筆致・筆さばきその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと解釈できる。", "title": "写真の使用" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。", "title": "写真の使用" } ]
写真(しゃしん、古くは寫眞)とは、人類史上初めて登場した機械映像である。 狭義には、穴やレンズを通して、被写体から発される光線を再構成して実像を結ばせ、感光剤に焼きつけたのち、現像処理をして可視化したもの。このとき、感光剤に焼きつけるまでを行う機器は、基本的にカメラと呼ばれる。 広義には、電磁波、粒子線などによって成立する、弁別可能で存続性の高い像。 英語の “photograph” という語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した。photo- は「光の」、-graph は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味で、日本語で「光画」とも訳される。“photograph” から、略して「フォト」と呼ぶこともある。 日本語の「写真」という言葉は、中国語の「真を写したもの」からである。
{{Redirect|フォト|照度の単位|フォト (単位)}} {{WikipediaPage||Wikipedia:ファイルのアップロード}} {{出典の明記|date=2019年2月}} {{Wiktionary|写真|寫真|寫眞}} [[File:Carandini.jpg|thumb|[[1875年]]ごろの白黒写真を彩色した{{ill2|彩色写真|en|Hand-colouring of photographs}}]] '''写真'''(しゃしん、古くは'''寫眞''')とは、人類史上初めて登場した機械映像である{{Sfn|日高優 編|2016|p=24}}。 * 狭義には、[[ピンホールカメラ|穴]]や[[レンズ]]を通して、被写体から発される光線を再構成して[[実像]]を結ばせ、感光剤に焼きつけたのち、[[現像]]処理をして[[可視化]]したもの。このとき、感光剤に焼きつけるまでを行う機器は、基本的に[[カメラ]]と呼ばれる。 * 広義には、[[電磁波]]、[[粒子線]]などによって成立する、弁別可能で存続性の高い[[像]]。 [[英語]]の “{{en|photograph}}” という語は、[[イギリス]]の[[天文学者の一覧|天文学者]][[ジョン・ハーシェル]]が創案した。{{en|photo-}} は「光の」、{{en|-graph}} は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味で、日本語で「'''光画'''」とも訳される。“{{en|photograph}}” から、略して「フォト」と呼ぶこともある。 [[File:Self portrait in the darkroom JPG01.jpg|thumb|[[暗室]]の[[セルフポートレイト]]]] [[日本語]]の「'''写真'''」という言葉は、中国語の「'''真を写したもの'''」からである<ref>増井金典『日本語源広辞典』ミネルヴァ書房</ref>。 == 写真の原理 == [[カメラ]]という暗箱の中に、開口部(レンズ)を通じて一定時間の間に入ってくる光によって、外界の像が感光性をもったフィルムの上に自然と描かれていく{{Sfn|日高優 編|2016|p=27}}というシンプルな原理である。 一般に、被写体に[[光]]が当たると、その表面の各点において乱反射(光の散乱)が起きる。[[ピンホールカメラ|ピンホール]]や凸レンズなど(正のパワーを持つ光学系)を利用して、被写体の各点に対応する光線を像面の各点に写像することで、[[実像]]が得られる。精密な像を得るために特に写真用に設計された光学系(レンズ系)を俗に[[写真レンズ]]という。カメラは、以上の光学系に加えて[[シャッター (カメラ)|シャッター]]などの補助的な機構を備えた暗箱であり、さらに[[撮像素子]]によって電子的に像を得たり、[[写真乾板|乾板]]や[[写真フィルム]]などの感光材を感光させて[[潜像]]とする。[[銀塩写真]]では、その後に[[現像]]・[[引き伸ばし]]などのプロセスを経て写真(いわゆる「プリント」)が得られる。 === 銀塩写真の原理 === {{see also|銀塩写真}} [[銀塩写真]]の原理も語も以前と何ら変わるものではないが、[[デジタルカメラ]]の普及以降、[[レトロニム]]的に単に「写真」ではなく銀塩写真と明示的に言うこともある。なお、「アナログ写真」という語は撮影から現像、あるいは印刷に関してデジタル技術をほとんど用いないものに用いられる(近年は逆転し、プロセスのどこかでデジタル技術を回避したものをそう呼んでいることもある)。 [[ハロゲン化銀]]は光が当たると[[銀]]イオンが[[還元]]され、金属[[銀]]微粒子の核ができる。感光して銀粒子核の[[潜像]]となってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀粒子を成長させて可視化する必要がある。これは現像処理で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分のハロゲン化銀は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。 ハロゲン化銀は感光するとき、波長を吸収する領域が[[青色]]に寄っている。そこで可視領域に渡って感光させるために感光色素を用いて本来の吸収波長以外にも反応が起こるように設定する。まず感光色素が光に反応し、色素の電子がハロゲン化銀へ移動することによってハロゲン化銀の直接の感光と同様の変化が成立する。可視的な電磁波の特定の波長領域にのみ感光するようにし、三[[原色]]に対応するように感光層を重ねると[[写真フィルム|カラーフィルム]]になる。 === 撮像素子の原理 === [[デジタルカメラ]]や[[テレビカメラ]]、[[ビデオカメラ]]では、[[撮像素子]]として、[[撮像管]]などを使ったものでないものは、[[固体撮像素子]]を使っている。固体撮像素子は、微小な[[フォトダイオード]]が規則的にびっしりと並んだものであり、[[光子]]が[[pn接合]]に入ると[[電子]]を叩き出して電荷が発生するというものである。量子効率は銀塩写真のハロゲン化銀の場合よりもはるかに高いため、[[高感度]]である。これを走査して信号として取り出し、[[アナログ-デジタル変換回路|AD変換器]]へ送る。あるいは[[電子スチルビデオカメラ]]などではアナログ信号のまま直接FM変調などによって磁気テープ等に記録する。 [[撮像管]]の場合は、光電効果による電荷を、磁界ないし電界によって走査される電子ビームによって読み取り、電子信号とする。 === 相反則と相反則不軌 === 写真の感光量は光の量(単位時間あたりの光の量×光が当たった時間)によって基本的に決まる。これを相反則(ソウハンソク)という。ただし、感光量は入射した光の量にどこまでも比例するのではない。未露光部はベースフィルム以上淡色にはならないし、感光するハロゲン化銀は限られているから一定以上の光を当ててもそれ以上濃くならない。したがって、光の入射量と画像の濃さをグラフにすると[[シグモイド関数]]<!--「習熟曲線(?)」と記載されていました。「学習曲線」と編集してもよかったのですが、以下のガンマの言及を考慮するとこの方が適切でしょう。-->のようになる。変化の中間部は直線的であり、この部分の傾きのことを[[ガンマ値|ガンマ]]という。 露光時間が極端に短かったり長かったりする場合には、相反則が成立しないことがある。これを相反則不軌という。カラーフィルムでは色ごとに相反則不軌の状態が異なるため、カラーバランスが崩れる問題がある。短いほうは通常のカメラの、数千分の1秒程度では顕在化しないため通常は気にされることはない。一方長い方は、夜間や天体の撮影で問題になる。[[1977年]]ごろには長時間露光時の相反則不軌対策や分光感度を調整した天体撮影用の[[スペクトロスコピック感光材料]]が市販されていたほどである。なおフィルムの場合、冷却することで長時間露光時の相反則不軌を低減できることが経験的に知られている<ref>{{Cite journal|和書 |year = 1977 |title = 星男ルポ 冷却カメラひとすじ古田俊正さん |journal = [[天文ガイド]]別冊 天体写真NOW |issue = 1 |pages = 54頁 |publisher = [[誠文堂新光社]] }}</ref>。 なお、長時間露光においては相反則不軌とはまた別の問題もある。現在利用可能なオプトロニクスによるデジタルカメラでは、画像に[[熱雑音]]と製作不良から発生するランダムノイズが乗る。一部のデジタルカメラでは長時間露出する際のノイズを軽減する機能がついている。非常に長い時間露光する場合、ノイズが最終的な画像に影響しないように撮像素子を低温で動作させる必要がある。天文撮影や科学機器では冷却機構が最初から設計に含まれているものもある。<!-- これに対し、フィルム(銀塩の光化学反応による写真)による長時間露光では、粒状性は変化しない。 --><!-- 似ているが、撮像素子におけるノイズと、フィルムの粒状性の問題は、別の問題では? (敢えて言うなら、増感プロセスによって粒状性は悪化するし) --> === 写真の撮影 === [[File:Lens Canon EF 50mm f1.4.jpg|thumb|250px|35mm[[一眼レフ]]用交換[[レンズ]] (50mmF1.4)]] '''写真撮影'''(しゃしんさつえい、{{Lang-en-short|[[w:Photo shoot|Photo shoot]]}}、フォトグラフィ、英: {{en|[[w:photography|photography]]}})とは、[[カメラ]]によって[[静止画]]([[スチル写真]])を記録する行為のこと。 カメラおよび[[カメラ・オブスクラ]]は撮影機器である。写真フィルムまたは電子的記録カードが[[電子媒体|記録媒体]]であるが、ほかの方法がとられることもある。たとえば、光学コピーや[[複写機#その他の方式|乾式コピー]](ゼロコピー)は長期的に使用可能な画像を作るが、写真フィルムではなく[[静電気]]の移動を使っているため、電子複写(静電複写)という。[[マン・レイ]]の刊行した[[レイヨグラフ]]などの[[フォトグラム]]は[[印画紙]]に投影された影でできた画像であり、カメラを用いない。スキャナのガラス面に直接撮影対象を置くことによって、電子複写を行うことも可能である。 撮影者は記録媒体を必要な量の光に露出する目的で、カメラと[[レンズ]]を選択・操作できる(記録媒体として通常は、写真フィルムか[[固体撮像素子]]を使う)。 選択・操作の対象には以下のものなどがあると思われる。カメラの操作は互いに関係する。 * レンズの種類(単焦点、ズーム・バリフォーカル、一般撮影用、高倍率撮影用、ティルト/シフト、ソフトフォーカスなど) * レンズの[[焦点距離]](超広角、広角、標準、望遠、超望遠) * 合焦点(フォーカスが合っている点) * 絞り値([[F値]]) * [[シャッター速度]] * [[ISO感度]] * [[レンズフィルター]]、覆い・[[ディフューザー]] * 記録画質など(デジタルカメラにおいて) [[File:Diaphragme Photo.svg|thumb|250px|絞り<br>左側は[[F値]]が小さく、右側はF値が大きい。]] フィルム面に到達する光の総量は露出時間、レンズの絞りによって変わる。このうちどちらかを変えれば、露出が変わる。(物理的なシャッターがないカメラであっても)露光時間はシャッター速度で表される。露光時間が1秒より短い場合は通常分子が1の分数で表記され、それはカメラのシャッター速度設定ダイヤルに明記されている場合、秒の[[逆数]]で表示されている場合が多い。絞りは[[F値]]で表示されているが、これはレンズの明るさを表している。Fは焦点比({{en|focal ratio}})のFである。F値がルート2分の1倍になるごとに絞りの直径はルート2倍大きくなり、絞りの面積は2倍になる。典型的なレンズに刻まれたF値は、2.8、4、5.6、8、11、16、22、32などであるが、これは数字が大きくなるごとに光の量が半分になっていくことを意味する。 特定の露出のシャッター速度と絞り値は、さまざまな組み合わせが成立する。たとえば、125分の1秒でF8と500分の1秒でF4では同じ量の光が得られる。当然ながら、どの組み合わせを選んだかは最終的な仕上がりに影響する。シャッター速度の変化は対象とカメラの動き(ぶれなど)の反映の度合いを変える。絞りの変化は[[被写界深度]]を変える。 被写界深度は焦点の前後に広がる[[ピント]]があっているように見える範囲のことである。たとえば長焦点レンズ([[望遠レンズ]])を[[絞り]]を開いて使用した場合、対象の目には鋭く焦点が合うとき、鼻の頭はピントが合って見えないということが起こる。反対に短焦点レンズ([[広角レンズ]])を使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせて使えば、対象の目にも鼻にもピントが合って見える写真を撮影することは容易である。 長焦点レンズを使用し、絞りを開いて近距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に浅くなる。反対に短焦点レンズを使用し、絞りこんで(絞り値を大きくして)遠距離に焦点を合わせれば、被写界深度は極端に深くなる。絞り値、焦点距離、焦点の位置が同じでも、レンズの[[F値]](絞り開放時のF値)によって被写界深度は異なる。また、レンズのF値が同じでも設計・表記と実際との差などにより被写界深度は異なる。また、十分に小さい<ref group="注">ピンホールのように絞ってしまうと、像の絶対的な暗さのために、回折現象による像のボケ(いわゆる[[小絞りボケ]])によって結局ピンボケ的な像になってしまうため、この目的のための適切な絞りは各種の諸元に基づいた、ある程度の値となる。目安の一つは、多くの製品ではそれに組み込まれている絞りの最小設定値である(顕微鏡など、絞らない状態で最適になるよう設計される機器もある)。一般的には、フォーカスを適切に設定した上で、ピントを合わせたい範囲の最近接距離と無限遠における錯乱円が、意図する許容範囲に入る所まで絞り込む。</ref>絞りを使うとかなり広い範囲にピントを合わせることができる。これは[[パンフォーカス]]と呼ばれる。 === 写真の出力 === 材質にかかわらず、カメラがとらえた像を最終的な写真作品にするには、何らかの工程が必要である。この工程には[[現像]]と[[焼き付け|焼きつけ]]などがある。 焼きつけ工程では、いくつかの調整によって結果を変えることができる。こうした調整の多くはイメージキャプチャーなどで行われる調整に似ているが、引き伸ばし機を用いた焼きつけ工程に固有のものもある。大部分はデジタルによく似た調整であるが、大きく異なる効果をもたらすものもある。 調整には次のものなどがある。 * フィルム現像の内容 * [[印画紙]]の種類(光沢の程度や質感など) * 引き伸ばし機の方式や性能 * 露光時間 * レンズの絞り * [[コントラスト]] * 覆い焼き(焼きつけの一部だけ露出を減らす) * 焼き込み(一部だけ露出を増やす) == 写真の種類 == === フィルム写真 === ==== モノクローム写真 ==== {{See also|モノクロフィルム|印画紙}} 100%[[木綿|コットン]]などの[[印画紙#構造による分類|バライタ印画紙]]、RCコート紙、[[水彩]]紙を応用した[[インクジェットプリンター#インクジェットプリンター用紙|インクジェットプリンター用紙]](デジタル用)などは独特の風合いがあり、黒や紙の白の発色、色合いはさまざまである。プリンターの高性能化に伴い、デジタルでのモノクロームプリントが多くなった。デジタル写真・デジタル化された写真においては、「カラー」から「モノクローム」への変換は容易である。 ==== カラー写真 ==== [[File:Tartan Ribbon.jpg|thumb|1861年に[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]が撮影した世界初のカラー写真。被写体は[[タータン]]の[[リボン]]。カラーの印画紙は当時は存在せず、この画像自体は乾板を基にコンピューター合成により再現したものである。]] [[File:Duhauron1877.jpg|thumb|ルイ・オーロンにより[[1877年]]に撮影された、紙として現存する最古のカラー写真。映っているのは[[アジャン]]の街並み。]] [[File:The Monastery of St. Nil on Stolobnyi Island in Lake Seliger in Tver Province (Gorskii 03973).jpg|thumb|[[1910年]]に撮られた、[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー|プロクジン=ゴルスキー]]によるカラー写真。[[1910年代]]にロシア帝国各地で撮られたもののひとつ。写真は[[セリゲル湖]]の島にある、[[正教会]]の聖ニル[[修道院]]。]] カラー写真は[[1800年代]]に[[アレクサンドル・エドモン・ベクレル]]らにより開発が始まった。初期のカラー実験では像を定着させることができず、さらに退色しやすかった。初期の高[[耐光性]]のカラー写真は[[1861年]]に物理学者の[[ジェームズ・クラーク・マクスウェル]]によって撮影された。彼は3原色のフィルターを1枚ずつかけて3回タータンのリボンの写真を撮影し、3原色中1色のフィルターをかけた3つの[[スライドプロジェクタ]]で画像を投影してスクリーン上で合成することにより、撮影時の色を再現することに成功した<ref>{{Cite web |author = Benjamin S. Beck |date = 2011-12-14 |url = http://benbeck.co.uk/firsts/photo3.htm |title = First colour photo |language = en |accessdate = 2012-01-08 }}</ref>。しかし、赤色の再現に問題があったうえ(画像では紫を帯びている)、この試みは1890年代になるまで忘れられてしまっていた。 マクスウェルが手法を確立した初期のカラー写真は、それぞれ異なるカラーフィルターレンズを前面に持った3つのカメラを使うものであった。この技法は暗室や画像処理工程に3系統の処理設備を必要とし、カラー用の印画紙がまだなかったため観賞はスライドで見るのにとどまり、実用化までにはいかなかった。当時は必要な色に対する適当な感度を持つ乳剤が知られておらずカラーフィルムを製造することができなかったため、[[ロシア]]の写真家[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー|セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]は3枚のカラー写真乾板を連続して素早く撮影する技法を開発した。 [[1868年]]にフランスの[[ルイ・デュコ・デュ・オーロン]]は[[カーボンプリント]]に[[減法混合]]を用いることにより初めてカラー写真を紙に定着させることに成功した。この原理は現在も印刷技術に用いられている。 [[1873年]]、ドイツの化学者[[ヘルマン・ヴィルヘルム・フォーゲル]]によりついに[[赤]]と[[緑]]に適当な感度を持つ乳剤が開発され、カラーフィルムへの道が開けた。 [[1891年]]、[[ルクセンブルク]]の[[ガブリエル・リップマン]]は3色干渉によるカラー写真を開発し、この功績により[[1908年]]に[[ノーベル物理学賞]]を受賞した。この技術は実用化こそされなかったものの、現在では[[ホログラフ]]に応用されている。 [[1904年]]、[[フランス]]の[[リュミエール兄弟]]によって最初のカラー乾板である「[[オートクローム]]」が発明され市場に現れた。これは染色した[[ジャガイモ]]の[[デンプン]]で作られたスクリーン板フィルターに基づいたもので、[[ドイツ]]のアグフア(のちの[[アグフア・ゲバルト]])が[[1916年]]に染色した[[アラビアゴム]]の細粒で作られたフィルターを使用する「[[アグフア・ファルベン・プラッテン]]」を発明するまでは市場における唯一のカラー乾板だった。 [[1930年]]、[[アメリカ合衆国]]の[[ジョージ・イーストマン]]は100万ドルの賞金をかけてカラー写真の簡易方法を募集した。音楽家の{{仮リンク|レオポルド・D・マンネス|en|Leopold Damrosch}}と{{仮リンク|レオポルド・ゴドフスキー・ジュニア|en|Leopold Godowsky, Jr.}}<ref group="注">[[ジョージ・ガーシュウィン]]の従兄弟で、[[レオポルド・ゴドフスキー]]の息子である。</ref>は、多層乳剤方式のカラーフィルムを考案し応募して[[コダック]]に入社、同社の研究陣と協力して[[1935年]]、最初の近代的なカラーフィルムである「[[リバーサルフィルム#コダクローム|コダクローム]]」を発売した。コダックは当初コダクロームを「神と人により創られた」と宣伝していた。[[日本]]の最初のカラーフィルムは[[1940年]]に小西六写真工業(現・[[コニカミノルタホールディングス]])が発表したコダクロームと同方式の「さくら天然色フヰルム」であり、続いて[[富士フイルム|富士写真フィルム]]も「富士発色フィルム」を公表している。 [[1936年]]にはアグフアの「アグフアカラーノイ」が追従した。アグファカラーノイは[[IG・ファルベンインドゥストリー]]により開発された発色剤を乳剤層に含有させたもので、発色現像が1回で完結されるなどフィルムの処理が大幅に簡略化されていた。コダクロームを除くほとんどの近代的カラーフィルムは、アグフアカラーノイの技術に基づいている。 インスタントカラーフィルムは[[1963年]]に[[ポラロイド]]から発売された。 カラー写真は、[[スライドプロジェクタ]]で使うための陽画の透過フィルムとして像を撮ることも、陽画の焼きつけを作るためのカラー陰画を作ることもできる。自動プリント機器の登場によって、現在では後者がもっとも大衆的なフィルムである。 ==== 非銀塩写真 ==== {{main|非銀塩写真}} 感光材料に[[ハロゲン化銀]]を使用せずほかの材料を使用する写真の総称で写真技術の黎明期から開発が進められ、[[青写真]]や[[ジアゾ式複写機|ジアゾタイプ]]が実用化された<ref>{{Citation | 和書 | editor=[[日本写真学会]] | title=写真工学の基礎 | edition=非銀塩写真編 | publisher=[[コロナ社 (出版社)|コロナ社]] | date=1982年12月 | asin= B000J7IV3C | ncid=BN0137506X | id={{ISBN2|4-339-06564-1}}、ISBN-13:978-4-339-06564-0、{{全国書誌番号|83010853}} }}</ref><ref>菊池眞一、「[https://hdl.handle.net/2261/32201 電気化学と写真化学の間]」『生産研究』 1969年 21巻 8号 479-486頁, 東京大学生産技術研究所</ref><ref>{{Citation | 和書 | title=有機系非銀塩感光材料 | publisher=学会出版センター | date=1992年1月 | id=ISBN 4-7622-5711-7、ISBN-13:978-4-7622-5711-7 }}</ref><ref>{{Citation | 和書 | editor=[[高分子学会]] | title=光機能材料 | publisher=[[共立出版]] | series=高分子機能材料シリーズ ; 第6巻 | date=1991年6月 | id=ISBN 4-320-04281-6、ISBN-13:978-4-320-04281-0 }}</ref>。[[シルバーショック]]後に脱銀化が加速したが<ref>笹井明、「[https://doi.org/10.3169/itej1954.19.795 非銀塩写真の動向]」 『テレビジョン』 1965年 19巻 11号 p.795-799, {{doi|10.3169/itej1954.19.795}}</ref>、従来の銀塩写真を置き換える用途においては感度、貯蔵性に劣る<ref group="注">感光樹脂は貯蔵中に劣化が避けられない。</ref>といった弱点がある。 広義には、アナログ式の電子カメラである[[電子スチルビデオカメラ]]や、[[デジタルカメラ]]による写真も非銀塩写真の(広義には)一種といえる。なお「電子写真」という語は、普通紙用[[複写機]](Plain Paper Copier)の静電方式、いわゆる[[ゼログラフィ]]を指して以前は広く使われた語であった。 === デジタル写真 === {{Main|デジタル写真}} デジタル写真は画像を電子データとして記録するために[[CCDイメージセンサ]]や[[CMOSイメージセンサ]]といった[[固体撮像素子]]を用いる。[[携帯電話]]などにもデジタルカメラ機能がついているものがある([[カメラ付き携帯電話]])。デジタル写真を写真と認めない人もいるが、デジタルカメラでとらえた像は見ることもプリントすることもできる。[[動画]]撮影や[[録音]]など、フィルムカメラにはない機能を持っている機種もあるほか、従来の中判カメラに相当する大きさの撮像素子を持つレンズ交換式デジタルカメラもある。 写真処理施設からの遠隔地で仕事をする新聞記者などのカメラマンにとって、[[テレビ|テレビジョン]]との競争が激化するにつれ、新聞に載せる画像を短い時間で送付しなければならなくなった。このため遠隔地で仕事をする新聞記者達は一時期小型の写真現像セットと電話線で画像を送るための道具を持ち歩くのが当たり前で、大きな負担となっていた。 [[1981年]]、[[ソニー]]が画像撮影にCCDを使い、フィルムを用いない最初のコンシューマ用カメラ「[[電子スチルビデオカメラ|マビカ]]」を発表した。マビカは画像をディスクに保存し画像自体はテレビに表示するものであった。次いで[[1990年]]にコダックが初の市販デジタルカメラDCS100を発表した。その価格は業務用でもなければ手が出ないものであった。商業的なデジタル写真がこのとき生まれたのである。 2000年代から2010年代にかけて、デジタルの自動露出・自動焦点カメラは一般に広まり、フィルムカメラをほぼ駆逐した。小型化できることから[[カメラ付き携帯電話]]など様々なものにカメラが搭載され、2010年代にはカメラの付いた[[スマートフォン]]の普及により、廉価なコンパクトタイプのデジタルカメラも市場が縮小した。 == 写真の性質(フィルム写真とデジタル写真) == {{出典の明記|date=2015年5月|section=1}} 写真の性質はフィルムとデジタルで異なるが、共通した観点が存在する。以下、観点をいくつかの性質に分けて紹介する。フィルムとデジタルのどちらが優れているかという議論があるが、すべての観点において一方がもう一方よりも優れているとは言えず、どちらもそれぞれのよさがある。 === 再現性 === ここでの再現性は画質とほぼ同義である。写真の画質を判断する基準は多数あるが、分解能、コントラスト、色再現性が骨子と考えられる。ここでは分解能をとりあげる。これについて、その写真が何個の画像セル([[ピクセル]])で構築されるかで計ろうとする試みがある。 フィルム写真とデジタル写真を比較するとき、フィルムを撮像素子の画素数に換算するとどの程度かと考えがちだが、何よりもまず両者はあまりに異なる。そのため、フィルムとデジタルで分解能を比較をするのは容易でない。分解能の測定はさまざまな条件に依存する。フィルムの場合、フィルムの寸法・サイズ、[[粒状性]]などのフィルムの性能、用いたレンズの性能に依存する。フィルムにはピクセルが存在しないため、フィルムにピクセルが存在するものとして計測した分解能は目安に過ぎない。デジタルカメラではセンサー画像の補間に用いる画像処理アルゴリズム、センサフィルタの[[CCDイメージセンサ#CCDイメージセンサによるカラー撮像|バイヤーパターン]](''Bayer pattern'')の効果、記録画質などが関係する。加えて、デジタルカメラの[[撮像素子]]や[[表示装置]]の[[画素]]の配列は、規則正しい繰り返しパターンを持つため、[[モアレ]]を生じる場合があるが、フィルムの感光粒子は不規則に並んでいるためこのような現象は起こらない。24×36mm(ライカ)判カメラで撮影した写真の解像度評価はまちまちである。たとえば、10メガピクセルという評価がある<ref name="asahi0606">{{Cite journal|和書 |author = |year = 2006 |month = 6 |title = |journal = [[アサヒカメラ]] |volume = |issue = |pages = |publisher = [[朝日新聞社]] |issn = |doi = |naid = <!-- NII論文ID --> |id = |url = }}</ref>。より粒子の細かいフィルムを使うと、この数字は上がり、低級の光学系の使用や劣悪な照明や不適切な現像がこの数字を下げることもあり得る。この評価は2007年の最新鋭デジタルカメラはライカ判カメラよりも優れているという評価を含意している。ただし、35mmフィルムは一般消費者向けのフォーマットである。プロ向けフィルムカメラとして[[中判カメラ]]、[[大判カメラ]]がある。これらに先の数値を単純にあてがうと、2007年現在の最新鋭デジタルカメラより優れた分解能を持つことになる。具体的には、6×4.5cm判のフィルム写真は約36メガピクセル、4×5in判は約130メガピクセルである。8×10in判は約540メガピクセルになる。しかし、20メガピクセルや7メガピクセルという評価もある<ref name="asahi0606"/>。ライカ判フイルムはISO50クラスの低感度で20メガピクセル相当というのは銀粒子のサイズなどから計算されたものであり、実効的には空間周波数的にみて、色調的・階調的に平坦な特性を有するのはそのおおむね40%程度であり、それ以下の細部描写は空間周波数に比例して劣化してくることから、およそ8メガピクセル程度とみるのが正しい。やはりフイルム感光粒子の並びやサイズの不均一性や分散性・乳剤層の厚みによる焦点のにじみなどの物理的限界からみてもこれは疑いようがないといえる。 高性能レンズを用い理想的な露出で撮影した現代の超微粒子白黒フィルムの分解能は、30メガピクセル以上のファイルサイズにおいて適当な細かさが得られる。一般消費者向けライカ判カラーフィルムでは12メガピクセル以上に、安価なライカ判フィルムカメラ([[コンパクトカメラ]])でも8メガピクセル以上に価し得る。 画像の表示に用いる媒体も考慮に入れる必要がある。たとえば、せいぜい2メガピクセル程度のものが主流であるテレビやコンピュータのディスプレイで写真を表示するのみであれば、ローエンドのデジタルカメラで出せる解像度でさえ十分と言える。4×6inのプリントに出力する場合に限っても、デジタルとフィルムの間に知覚できる差はある。出力媒体が大きな広告板なのであれば、高い解像度をもった媒体か大きな判が必要になるだろう。 === 融通性 === 現在ではまだ、融通性に関してはフィルムがデジタルに勝ると言える。露出寛容度とゴミ・ほこりに対しての比較を挙げる。 露出寛容度は、露出過多または露出不足のネガから良い画像を得る度合いのことである。デジタル画像ではわずかでも露出過多になると、ハイライトが飛んでしまう。露出不足では陰影の細部が失われがちである。しかしフィルム、特にネガフィルムであれば、少々露出過多ないし露出不足のフィルムを使っても、正常の範囲内と言える画像が得られる。 結像面に乗ったちりは、撮影者につきまとう問題である。デジタルカメラのセンサーは固定であり、デジタル一眼レフではちりを除くのが困難である。ただし、一部のデジタルカメラにはイメージセンサーのちりを検知しセンサー上のゴミ・ほこりをある程度除去する機構がついている。フィルムカメラでは画像ごとにフィルムを交換するため、ちりに対処するのは容易である。その代わり、フィルムの現像工程以降でゴミ・ほこりが混入する危険が存在するが、いずれも正しい手順で清潔に扱えばほとんど問題は起きない。 === 利便性 === 利便性はデジタルカメラが普及した要因の一つである。フィルムカメラでは一連のフィルムを撮影したうえで現像しなければならない。そして現像を終えて初めて写真を見ることができる。他方、ほとんどのデジタルカメラは液晶ディスプレイを備えており、撮った直後に写真を見ることができ、またその場で不要な写真の削除が可能である。 デジタルカメラの画像はパソコンで加工することが容易である。多くのデジタルカメラは画像を、センサーからの出力を画像に変換せずそのまま保存する[[RAW画像|RAWフォーマット]]で保存することができる。適当なソフトウェアと組み合わせれば、最終的な画像に「現像」する前に、撮った写真の[[パラメータ]]{{要曖昧さ回避|date=2018年10月5日 (金) 06:27 (UTC)}}(シャープネスなど)を調整することができる。記録された画像自体を加工したり書き換えるという選択肢も存在する。 フィルムも[[走査|スキャニング]]という工程を経てデジタル化できる。つまり、銀塩写真をデジタル写真に変換できる。 NASAでは、スペースシャトルなどの打ち上げ直前の記録写真の撮影に、現在でも限定的にフィルムカメラを使用している。これは規格外の超大型フィルムを用いて、1枚の遠景写真からボルト1本まで確認できるほどのもので、トラブルが起きた時に写真を検証し、打ち上げ前から異常があったのかどうかを後で確認するために使われている。フィルムカメラではどんなにフィルムが大きくても、露光にかかる時間は大きく変わらないが、デジタルカメラではデータ量に比例して保存に時間がかかる。また、巨大なCCDや、保存装置にかかる電力が増え、バッテリーや冷却装置も含めると機器はさらに大型・重量化してしまう。このため、一人の写真技師が徒歩で数か所から打ち上げ点を撮影するという任務には、デジタルカメラは不向きであった。 同様の欠点は初期の民生用デジタルカメラでもあり、高解像度の撮影をすると、保存に時間をとられてシャッターチャンスを逃したり、バッテリーが減ったりしやすかった。その後の技術革新でこうした問題は改善されてきた。 === 経済性 === フィルムが不要なデジタル写真は経済性が高い。かつては記録媒体のぶん高価だったが、価格が下がったことで経済性が高まった。 他方、フィルム写真ではフィルムの取得と画像処理(プリントなど)にコストがかかり続ける。フィルムは撮影直後に画像を見ることができないので、最終的な写真を知ることなく撮影したすべてのフィルムを現像処理するのが通例である。写真の出来に応じて現像するか否かをコマごとに決めることはできない。 <!--2つのフォーマットにおける経済的優越性は撮影のスタイルによって大きく変化するため、一概にどちらがより経済的だとは言えない。デジタルカメラは概して、似たカテゴリーのフィルムカメラより高価である。これは撮影自体と画像の短期的な保存にほとんどまったくコストがかからないということで相殺され得る。しかし、デジタル写真にもランニングコストはある。長期的に多数の画像を保存するなら(フィルムと同じく)記録メディアなどに関する費用は甚大である。デジタルカメラにフィルムは不要だが、画像を記録する[[SDメモリーカード]]や[[メモリースティック]]などを必要とする。フィルムにも言えるが、それらは限られた寿命しかない。そして、ハードディスクや光ディスクなど、デジタル画像を保存するメディアを用意しなければならない。これもフィルムにも言えるが、プリントが欲しいなら自分で印刷するか業者に依頼しなければならない。さらに、これもまたフィルム式のカメラにも言えるが、デジタルカメラはバッテリーを使う。バッテリーは使うごとに劣化するものであり、充電式であっても定期的に買い替えるものである。機材の価格については、製造撤退や機種の生産整理などが進めばデジタルカメラより相対的に高価になる可能性はあるが、中古市場での流通量も多く、一概には言えない。また多くのフィルムカメラもバッテリーを使い、程度の差はあれデジタル同様の消耗品出費は避けられない。--> === 保存性 === フィルムが作るのは一次画像であり、これは撮影レンズを通った情報を含んでいる。オルソクロマチックのように特定の周波数領域に限られた感度またはパンクロマチックの幅広い感度といった違いはあっても、色(波長)によって対象をとらえる点は同様である。現像方法の違いにより最終的なネガやポジに差は出るが、現像が終われば画像はほとんど変化しない。理想的な状態で処理・保存されたフィルムは実質的に100年以上変わらず性能を発揮する。プラチナの[[化合物]]によって[[発色]]するプリントは基本的にベースの寿命に制限されるのみであり、数百年ほどは持つ。高い保存性を欲するならば調色が必須であるという因襲があった。調色されたプリントの保存性は高い。しかし現在では、調色せずとも保存性を高める薬品が販売されている。 デジタルは保存性について圧倒的に有利である一方、記録媒体の物理的特性の問題がある。[[コンピュータ]]を中心とした[[電子媒体|デジタル媒体]]が登場してから100年も経っていないため、記録媒体の特性はフィルムほどには分かっていない。しかし保存に関して乗り越えなければならない点が少なくとも3つ存在する。記録媒体の物理的耐久性、記録媒体の将来的な[[可読性]]、保存に使った[[ファイルフォーマット]]の将来的な可読性である。 多くのデジタル媒体は長期的にデータを保管する能力はほぼない。たとえば、多くの[[フラッシュメモリ]]は10年から数十年でデータを失うし、一般的な[[光ディスク]]は長いものでも100年程度である(例外あり<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0604/19/news051.html 300年データを保つゴールドディスク - ITmedia NEWS]</ref><ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0802/28/news117.html 金の反射膜で寿命2倍 長期保存用DVD-R、三菱化学メディアが発売 - ITmedia NEWS]</ref>)。MOなどの[[光磁気ディスク]]は保存性の高い記録媒体であるが、将来的な可読性という面で劣る。クラウドストレージなど業者が管理するストレージに任せる方法もあるが、今度はサービス終了の恐れがある。 さらに、記録媒体が長期間データを保持できたとしても、デジタル技術のライフスパンは短いため、メディアを読み取るドライブがなくなることがある。たとえば5.25インチ[[フロッピーディスク]]は[[1976年]]に初めて発売されたものであるが、それを読めるドライブは、30年も経たない1990年代後半にはすでに珍品となっていた。後継の3.5インチフロッピーディスクも、2012年現在、ドライブを装備するパソコンは少ない。[[ZIP (記憶媒体)|Zip]]は[[1994年]]の発売開始後数年で売れ行きが落ち、2007年時点ではメディア・ドライブとも入手困難になっている。 データを[[デコード]]できるソフトウェアの存続も関係する。特に複数が並立し、[[互換性]]に乏しい[[RAW画像|RAW]]フォーマットの問題がある。これらのフォーマットの一部は暗号化されたデータまたは特許で保護された専用データが含まれているが、突然メーカーがフォーマットを放棄する可能性がある。メーカーがRAWフォーマットの情報を開示しないならば、この状況は今後も続く。 デジタル写真におけるこれらのデメリットにも対策がうてる。たとえば、ビットマップ形式、JPG形式、PNG形式など、汎用性の高いファイルフォーマットを選ぶことによって、ソフトウェアがそのファイルを読解できる将来の可能性が増す。また、将来読めなくなるかサポートされなくなる可能性がある記録媒体にデータを保存していたものを、品質を低下させることなく新しいメディアにコピーすることが可能である。このことはデジタルメディアの大きな特徴の一つである。ただし科学文明が崩壊するレベルの事象が起きた場合はデジタル写真は確認不可能となる。<!--たとえば現代のデジタルカメラの多くは画像を[[JPEG]]フォーマットで保存するが、このフォーマットは1990年代初頭に登場した([[国際標準化機構]](ISO)・[[国際電気標準会議]](IEC)で規格化されたのが1994年)ものである。現在、膨大な数のJPEG画像が生み出されているが、文明が崩壊した遠い未来においてもJPEGフォーマットを読むことができるかという問題がある。--> === 像の真正性 === デジタル写真は[[グラフィックソフトウェア|画像編集ソフトウェア]]で、フィルム写真では膨大な時間を費やす必要があった、[[色]]・[[コントラスト]]・[[シャープネス]](輪郭の鋭さ)の調整や、いらないものを消すなどの画像加工を初心者でも簡単かつ即座にできる。フィルム画像の合成は難しい。 逆に言えばデジタル画像は簡単に改変できてしまうため、像の真正性を重視する場合(パスポートや査証の写真など)、フィルムはデジタルよりも好まれる。なお、日本のパスポートには2006年3月よりICチップにデジタル化された顔写真が埋め込まれている。 なお、裁判などの証拠としてデジタル画像を使用することは認められる場合もあるが、アメリカでは21世紀初頭の時点で以下のような条件を満たす必要があるとされていた。 ;事件に関する画像である ;出所が明らかな画像である :誰が撮影したのか分かっていること。 :撮影者は自分が撮影したと証言できること。 どのような経緯で撮影された<ref group="注">例:レンズが通常のものだったか広角だったか、どのフィルターを使ったかなど。</ref>、並びに提出される前にどのような処置をしたのか<ref group="注">例:撮影時にカメラが斜め視点から撮影してたので、プリント時に修正した。</ref>も説明する必要があるが、それはデジタルに限らず写真全般に問われる事で、画像修正がある場合、証拠物件として提出する際にその点を注記し、修正前のデータも閲覧できるようにしなければならない<ref group="注">アナログ写真でプリントだけではなく「ネガフィルムの提出」を求められるのと同様である。</ref>。また、捜査官たちは画像を検索できねば捜査に使用できないが、彼らはどのような意味でも証拠に変更を加えることは許されないので、提出物には読み出し専用(リードオンリー)の記憶媒体が望ましい。また、画像のフォーマットを変換するとデータが壊れることがあるので、最終的な画像や提出するプリントは記録するときに使ったオリジナルのフォーマットを使用しなければならない<ref>N・E・ゲンジ(N,E.Genge) 著、安原和見 訳 『犯罪現場は語る 完全科学捜査マニュアル』株式会社河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-20394-9、p.275-277、300-301「デジタル写真を法廷証拠にするための注意事項」</ref>。 実際に裁判で証拠不十分とされた例に、提出されたデータのファイルの保存された日付が「撮影した日の9日後(=撮影後に何かの変更を行っている)」であった理由を'''撮影者が説明できなかった'''というものがある<ref>N・E・ゲンジ(N,E.Genge) 著、安原和見 訳 『犯罪現場は語る 完全科学捜査マニュアル』株式会社河出書房新社、2003年、ISBN 4-309-20394-9、p.280-285</ref>。 === アスペクト比 === フィルムカメラ写真の[[アスペクト比]]はカメラ・[[写真フィルム]]の規格や[[印画紙]]のフォーマットに倣う場合が多い。カメラと印画紙の主要なものを挙げる。 ; カメラ(呼称/寸法) :* [[ハーフサイズ]](シネ版) - 18×24mm<ref group="注">元々35mmフィルムは映画用フィルムであり、このフォーマットは映画フィルムの1フレームサイズであるため「シネマ版=シネ版」であったが35mmフィルムを写真用として定着させたライカ版を「35mmフルサイズ」とする考え方から写真用途においては「ハーフサイズ」として定着している。</ref> :* ライカ判([[35mmフルサイズ]]) - 24×36mm :* 6×4.5cm判 - 41.5×56mm :* 6×6cm判 - 56×56mm :* 6×7cm判 - 56×70mm :* 6×9cm判 - 56×83mm :* 4×5in判 - 94×120mm :* 5×7in判 - 121×170mm :* 8×10in判 - 193×243mm :* 10×12in判 - 245×295mm :* 11×14in判 - 270×345mm ; 印画紙(呼称/寸法) :* 名刺判 - 2.5×3.5in(62.5×89mm) :* 手札判 - 3.5×5in(89×119mm) :* 大手札判 - 4×5in(94×119mm) :* 大キャビネ判 - 5×7in(119×170mm) :* 八切判 - 6×8in(157×207mm) :* 六切判 - 8×10in(194×244mm) :* 四切判 - 10×12in(240×290mm) :* 大四切判 - 11×14in(265×340mm) :* 半切判 - 14×17in(343×417mm) :* 小全紙判 - 16×20in(393×492mm) :* 全紙判 - 18×22in(447×550mm) :* 大全紙判 - 20×24in(490×590mm) デジタルカメラ写真の[[アスペクト比]]については次のものが主である。長辺が短辺に比してより長いものから挙げる。以前は[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の[[ディスプレイ]]との整合性から「4:3」の機種が多かった。 * 16:9 - [[ハイビジョン]]テレビの画面に同じ。[[パノラマ写真]]の一種。[[アドバンストフォトシステム]]の規格 (APS-H)。 * 3:2 - [[写真フィルム#規格別|35ミリフィルム]]のほとんどを占める規格。 * 4:3 - 一般的なテレビ画面([[NTSC]])やコンピュータの[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]に同じ。コンパクトデジタルカメラなどで主流。 [[DPE]]店などで「フロンティア」や「QSS」によって印刷される写真の用紙の規格は以下のものなどがある。DPE店の店頭でフィルムから印刷された写真が銀塩写真の限界ではなく、DPE店の(恣意的な)色補正や濃度決定は不適切な場合も多い。 * DSCサイズ(89×119mm)…デジタルカメラの大衆的なプリントサイズ。Digital Still Cameraの略。Lサイズに相当。 * Lサイズ(89×127mm)…フィルムカメラの大衆的なプリントサイズ。 * HVサイズ(89×158mm)…DSCサイズの横幅を伸ばしたもの。16:9の写真のプリントなどに使う。 * KGサイズ(102×152mm)…欧米で一般的なプリントサイズ。アスペクト比3:2で、[[はがき]]サイズに近い。 * DSCWサイズ(127×169mm)…デジタルカメラで利用される。2Lサイズに相当。 * 2Lサイズ(127×178mm)…Lサイズの面積を倍にしたサイズ。 アスペクト比が長辺が短辺に比してより長いものほど写真に緊張感が生まれるとされる。 == 歴史 == [[File:Camera obscura box.jpg|thumb|カメラ・オブスクラの原理]] {{Main|写真史}} === 写真発明以前 === 写真が発明される[[19世紀]]以前にも、光を平面に投影する試みは行われていた。写真の起源は、紀元前、[[古代中国]][[春秋時代]]の[[墨子]]や、[[アリストテレス]]の頃から知られていた、[[ピンホール]]現象にまでさかのぼる{{Sfn|日高優 編|2016|p=28}}。この現象を利用した[[カメラ・オブスクラ]]の開発と、像を固定させる化学的処理のプロセスの発見が組み合わされ、写真術が誕生することになる{{Sfn|日高優 編|2016|p=29}}。 画家達は、[[16世紀]]頃には立体の風景を平面に投影するために、デッサンの補助具としてカメラ・オブスクラを活用した{{Sfn|日高優 編|2016|p=29}}。これらの初期の「カメラ」は像を定着(写真用語の「定着」ではない)することはできず、単に壁に開いた開口部を通して暗くした部屋の壁に像を投影するだけのもの、つまり部屋を「大きな[[ピンホールカメラ]]にしたもの」だった。[[18世紀]]には、銀とチョークの混合物に光を当てると黒くなるという[[ヨハン・ハインリヒ・シュルツェ]]による[[1724年]]の発見をはじめとして[[塩化銀]]やハロゲン化銀など[[銀]]化合物の一部は感光すると色が変わることが知られており遊戯などに用いられていたものの、これとカメラ・オブスクラなどを組み合わせる発想はなかった。 === 写真発明以降 === [[File:Nicéphore Niépce Oldest Photograph 1825.jpg|thumb|“Un cheval et son conducteur”(馬引く男)、[[ニセフォール・ニエプス]]、1825年ごろに版画を撮影したものとされる]] [[File:View from the Window at Le Gras, Joseph Nicéphore Niépce.jpg|thumb|ニセフォール・ニエプスによって撮影された写真のひとつ(1826年〜1827年ごろ)]] [[19世紀]]初めに、カメラ・オブスクラの映像と感光剤とを組み合わせ映像を定着させる写真の技術は、ほぼ同時に多数発明された{{Sfn|日高優 編|2016|p=31}}。このとき美術は[[新古典主義]]と[[ロマン主義]]の並存する時期であった。また、大勢誕生した中産階級によって肖像画の需要が高まっていた。そして、[[石版画]]の技術が新聞図版や複製画などに活用され、広まりつつあった。 現存する世界最古の写真は、[[1825年]]に[[ニセフォール・ニエプス]]が撮影した「馬引く男」(''Un cheval et son conducteur'')である。 現代の写真処理は[[1840年]]から最初の20年の一連の改良を基底とする。ニエプスによる最初の写真のあと、[[1839年]]には[[ダゲレオタイプ]]が発表された。写真の誕生は同年、パリの科学と芸術の合同アカデミーで、科学者の[[フランソワ・アラゴー]]によって公式に宣言された{{Sfn|日高優 編|2016|p=25}}。直後に[[カロタイプ]]も発表された。 写真の普及は肖像写真の流行、[[1851年]]の[[写真湿板|湿式コロジオン法]]の発明、[[1871年]]の[[写真乾板|ゼラチン乾板]]の発明へと続いた。[[1884年]]、ニューヨークの[[ジョージ・イーストマン]]は紙に乾燥ゲルを塗布する方式を開発し、もはや写真家は乾板の箱や有毒な化学物質を持ち歩かなくて済むようになった。[[1888年]]7月、イーストマンの設立した[[コダック]]カメラが「あなたはボタンを押すだけ、あとはコダックが全部やります」との触れ込みで市場に参入した。こうして現像サービス企業が登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなった。[[1901年]]にはコダック・[[ブローニー]]の登場により写真は市場に乗った。[[1925年]]、[[ライカ]]などの登場で一般性、可搬性(カメラの持ち運びやすさ)、機動性、フィルム交換のしやすさが高まってスナップ写真が広まるなどした。20世紀以降、カラーフィルム(多色フィルム)やオートフォーカス(自動合焦:ただし必ず自動で合焦するわけではない)やオートエキスポーズ(自動露出)が広まった。画像の[[電子記録]]も広まっている。 現在ではデジタルカメラの液晶画面によるインスタントプレビューが可能であり、高画質機種の解像度は高品質の35mmフィルムのそれを越えているとも言われるようになった。コンパクトデジタルカメラの価格は大幅に低下し、写真を撮ることはより容易になった。しかし、もっぱらマニュアル露出、マニュアルフォーカスのカメラと白黒フィルムを使う撮影者にとって、1925年にライカが登場して以来、変わった点はほとんどないとも言える。[[2004年]]1月、コダックは「2004年末をもって35mmリローダブルカメラの生産を打ち切る」と発表した。フィルム写真の終焉と受け止められたが、当時のコダックのフィルムカメラ市場での役割は小さなものであった。[[2006年]]1月、[[ニコン]]も同様にハイエンド機F6とローエンド機FM10を除いたフィルムカメラの生産を打ち切ると発表した。同年[[5月25日]]、[[キヤノン]]は新しいフィルム一眼レフカメラの開発を中止すると発表したものの、販売するフィルム一眼レフカメラが1機種になったのは2008年になってからであり、[[2004年]]1月のニコンの発表以降も4機種ものフィルム一眼レフカメラを供給していた。35mmカメラおよびAPSコンパクトカメラの値段は下落してきた。恐らく直接的なデジタルカメラとの競争と中古フィルムカメラ市場拡大が原因である{{要出典|date=2021年10月|title=独自研究?}}。 == 写真の使用 == [[File:The Earth seen from Apollo 17.jpg|thumb|「[[ザ・ブルー・マーブル]]」と呼ばれるもっとも有名な[[地球]]の写真。[[1972年]][[12月7日]]、[[アポロ17号]]のミッション中に[[ハッセルブラッド]]のVシステムで撮影されたものである。]] 写真の誕生以来、[[自然科学者]]などの多くの[[学者]]や[[芸術家]]が写真に関心を示してきた。[[学者]]は写真を記録と研究に利用した。[[軍隊]]や[[警察]]も偵察、調査、捜査、裁判などのデータ記録に写真を利用する。写真は商業目的でも撮影される。写真を必要とする団体における写真の利用法には、選択肢がある。その団体の誰かが撮影を担当する、外部のカメラマンを雇う、写真を利用する権利を取得する、写真を公募するなどである。 [[エドワード・マイブリッジ]]は連続写真を使って人間の動きに関する研究(1887年)を行った。それまで人の目がとらえることができなかった一瞬の動きを写し出しており、人々に与えた影響は大きかった。 アメリカでは西部開拓期に写真が導入され、政府公認の西部調査に写真家が派遣され、画家とともに記録を担った{{Sfn|日高優 編|2016|p=36}}。さらにパリでは、セーヌ県知事オスマンの都市改造に伴う歴史記録が写真によってなされている{{Sfn|日高優 編|2016|p=36}}。 また19世紀後半以降撮影された世界各地での探検や人類学的調査や遺跡調査などの記録写真、あるいは[[天体写真]]や[[顕微鏡]]写真は、人類の知識に変化を与えた。 [[ジャーナリスト]]は写真を使って、事件や戦争、人の暮らしぶりなどを記録してきた。報道写真の萌芽は写真発明直後の[[クリミア戦争]]の戦場記録写真などに現れている。 現在では、[[スナップ写真]]を撮ったり、行事や日常の場面を撮影する人も多い。 === 写真と絵画 === 写真と絵画は本来性質が異なる。しかし、カメラ・オブスクラが絵画のデッサンの補助具として用いられてきたため、写真映像は、文化的に長らく絵画との比較において読み解かれてきた{{Sfn|日高優 編|2016|p=31-32}}。写真と絵画の関係は、写真の誕生以降、組んず解れつ展開してきた{{Sfn|日高優 編|2016|p=33}}。 {{要出典|範囲=[[ドミニク・アングル]]などの画家は写真の再現性に驚いたとされる。ただし、写真は平面的な再現を得意としていても絵画のように空間感や形態感を描き出すことはできない。アングルは表向き写真を批判していながら実際には写真を絵画制作に利用していたのだが、これは彼が伝統的に絵画の根本を支えて来たものがこのように写真に流出しないものであると知っていたからだと考えられる。このことに関して画家の[[フェルナン・クノップフ]]は光源やライティングをどれほど工夫しても、覆い焼き・焼き込みなどを駆使しても絵画に見られるような卓越した[[バルール]](色価)を構成することはできないといった旨のことを述べている。このことは[[ピクトリアリスム]]およびその延長にある写真に或る影を落とす。なお、クノップフは着色写真・着彩写真も手がけており、そこには代表作のバリアントとでも言うべきものも含まれている。写真との関係について言及される画家は他に、[[エドガー・ドガ]]<ref group="注">ドガはアングルを尊敬していたことも知られている。</ref>、[[フランシス・ベーコン (芸術家)|フランシス・ベーコン]]、[[ゲルハルト・リヒター]]、[[デイヴィッド・ホックニー]]、{{仮リンク|チャック・クロース|en|Chuck Close}}などがいる|date=2021年10月}}。また、17世紀の[[オランダ]]の画家[[ヨハネス・フェルメール|フェルメール]]はカメラ・オブスクラに着想を得ていたといわれる{{Sfn|日高優 編|2016|p=30}}。 写真術が誕生した最初期、写真と絵画の関係において争点となったのは、肖像のジャンルである{{Sfn|日高優 編|2016|p=32}}。かつて肖像画を持つことは階級の高い者や富裕層の特権だった。しかし、写真が誕生すると、絵画より安価で精緻な描写性を持つことが注目され、肖像写真が社会現象になった{{Sfn|日高優 編|2016|p=32}}。歴史画家[[ポール・ドラローシュ]]は写真の誕生を受け、「今日を限りに絵画は死んだ」と叫んだという逸話があるように、当時、多くの画家が写真の登場によって職業写真家に転身した{{Sfn|日高優 編|2016|p=35}}。 一方で、写真が絵画より劣るとみなされる場合もあった。[[ピクトリアリスム]]運動は絵画の影響を強く受けた活動であり、写真は古くは絵画そのものを期待されていた<ref>{{Cite book|和書|author= 写真工業出版社|authorlink=写真工業出版社|title = ファインプリントテクニック:高品質モノクロプリントのすべて|year =1992|publisher = [[写真工業出版社]]|series = Photo expert|id = {{全国書誌番号|93030321}}|isbn = 4-87956-029-4|oclc = 675466171 |page =}}</ref>。ピクトリアリスム運動で、写真家たちは、主題や表現性で絵画を模倣、追随し、写真を芸術として認知させようとした{{Sfn|日高優 編|2016|p=33}}。他方で、鮮明な物の形の記録が写真本来の持ち味であるとして[[ストレートフォトグラフィ]]も現れた。 {{要出典|範囲=現代では画家が写真を制作に使用することを批判する向き|date=2021年10月}}もあるが、現代における写真やカメラの使用と、カメラ・オブスクラを昔の画家が用いたこととは、本質的・根本的に事態の質が異なるものではない。そして、写真を制作における図像の基底に用いる画家は多い。一般的に言って、画家などの作家が撮影できる写真は写真家が撮影する写真に比して限定的なものであり、実景よりも平板であるために制作が困難なものになる場合もあるが、写真が本人の制作にとって利用価値が高いならば、作家は臆することなく写真を制作に用いるべきだろう{{要出典|date=2021年10月|title=独自研究?}}。 === 写真と芸術 === {{要出典|範囲=写真が芸術かどうかは、しばしば議論されるところである。こうした議論は、写真の初期から存在していた。写真はしばしば「ただの記録技術であり、芸術ではない」という攻撃を受けてきた。単なる画像の機械的生産に過ぎないと主張する者もいる|date=2021年10月}}。 20世紀の間に、芸術写真とドキュメンタリー写真の両方が英語圏の美術界と[[美術商|ギャラリー]]業界に受け入れられてきた。アメリカ合衆国では、少数の[[学芸員]]が、写真をそうした業界に取り込ませるために生涯をかけた。中でも傑出した学芸員・編集者は[[アルフレッド・スティーグリッツ]]、[[エドワード・スタイケン]]、[[ジョン・シャーカフスキー]]、および[[ヒュー・エドワード]]である。 「芸術写真」は[[1920年代]]の日本においても最新動向として紹介され、[[1921年]]に東京では[[福原信三]]が写真芸術社を、それに先立ち大阪では[[上田竹翁]](別名:上田寅之助、箸尾寅之助、竹軒楽人)が次男の箸尾文雄や写真家の不動健治らとともに芸術写真社を興し、雑誌を発行して盛んに宣伝した。東京だけでなく、この時期には大阪も芸術写真の一つの中心地であり、数多くの「写真倶楽部」が活動していた。漫画家の[[手塚治虫]]の父親・[[手塚粲]]もこうした写真倶楽部のひとつ「[[丹平写真倶楽部]]」に参加し、アマチュア写真家として作品を発表していた。 写真を積極的に自らの作品に取り入れる美術家もいる。たとえば日本の場合、[[森村泰昌]]は名画の中などに(ときには複数の)自分が「侵入」することで、新たな表現スタイルを獲得している。[[澤田知子]]は自動証明写真機で撮影した自分の姿に始まり、セルフポートレイトを駆使した写真活動を展開している。[[今道子]]は魚や野菜や衣類を使った造形を写真に収めている。3人ともその活動は「画像の機械的生産」の範囲内かもしれないが、いずれも写真家や美術家若しくは芸術家に含まれている。 写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を反映する。写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段である。そして同時に印画紙出力などで介在する技術者の手腕の産物でもある。また撮影対象や画像加工技術などにより著作者(創作者)の発想や手腕が写真を確実に芸術(美術:視覚芸術)に属するものといえる。 しかし、だからといって「すべての写真が絵画や彫刻のような芸術である」ということは記録手段伝達手段としての価値が他の表現手段よりもある([[報道写真]]、[[Wikipedia:百科事典向け写真撮影のガイド|Wikipedia向きの写真]]など)以上、あり得ない。それは「法律や取扱説明書が文芸・文学ではない」ということと同じであり、写真がある程度「中立性」「検証可能性」に耐えられる[[媒体]]であるからである。言い換えれば、「写真は芸術に留まらない存在である」ということである。[[筆記用具|鉛筆]]で、小説も詩も規則もマニュアルも書けるし、略図も絵も描くことができる。[[カメラ]]類も同じような広がりを持つ機能を果たすことができるということである。 現在も情報伝達の手段としての「絵」はあるが、むしろ、写真の発達によって客観性・写実性では写真に一歩譲る絵画が、{{読み仮名|描き手|えがきて、かきて}}の調子の構築、筆致・筆さばきその他で創作者の主観を反映することが望まれる芸術に特化するようになったと解釈できる。 こういった点で、「写真は芸術かどうか」は「落書きの絵が芸術かどうか」という問題とは根本的に異なる。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == * {{Cite |和書 | author = 日高優 編 | title = 映像と文化 : 知覚の問いに向かって | date = 2016 | publisher = 京都造形芸術大学東北芸術工科大学出版局藝術学舎 | isbn = 978-4-344-95302-4 | ref = harv }} == 関連項目 == {{ウィキポータルリンク|写真}} * [[写真史]] ** [[日本写真史]] ** [[中国・台湾の写真史]] ** [[韓国・朝鮮の写真史]] * 写真年表 ([[:en:Timeline of photography technology]]) * [[カメラの歴史]] * [[写真家]] * 小西寫眞専門学校(現[[東京工芸大学]])- 日本初の写真学校([[1923年]]設立) == 外部リンク == {{Commonscat}} * {{Kotobank}} {{写真}} {{美術}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しやしん}} [[Category:写真|*]] [[Category:美術の技法]] [[Category:記録]]
2003-02-13T02:51:22Z
2023-10-26T14:43:20Z
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F
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弐瓶勉
弐瓶 勉(にへい つとむ、1971年2月26日 – )は日本の漫画家。男性。福島県郡山市出身。 代表作は『BLAME!』、『シドニアの騎士』。 福島県立郡山北工業高等学校を卒業後、上京し現場監督の見習いや施工図の製図など建築関係の仕事に就くが、組織の一員として働くことに向かないと感じ退職。単身渡米し絵の勉強をしながら1年ほど日本の出版社へ漫画を投稿するもデビュー出来ないまま帰国したが、1995年にアフタヌーン四季賞夏のコンテストで短編作品の『BLAME』が審査員(谷口ジロー)特別賞を受賞。その後、髙橋ツトムの専属アシスタントを5ヶ月ほど経験し、1997年より『月刊アフタヌーン』で長編作品『BLAME!』の連載を開始。 2009年から連載を開始した『シドニアの騎士』では、雑誌連載第2話より用語の説明やあらすじを書いたページが用意された。複数の作品において、「東亜重工」という企業や「奇居子(がうな)」と称される存在をスターシステムなガジェットとして使用している。「東亜重工」は、自身がデザインしたグッズのロゴや、スタンド花の贈り主名、他作家とのコラボレーション企画、自身が関わった有限責任事業組合の名称などに利用している。 海外での評価が高くエンキ・ビラルなどから賞賛を受けている。村上隆によるアート展『「SUPER FLAT」at 渋谷パルコギャラリー』(2000年)にもイラストを出品した。また、単行本『シドニアの騎士』第2巻では椎名誠が帯文を寄せた。 原稿にはコピックマルチライナーと筆ペンを使用(単行本『ABARA』発売時点)。カラー原稿は初期にはアクリルを使っていたが、『BLAME!』中期よりデジタル環境(フォトショップ)に移行した模様。また『BIOMEGA』や『シドニアの騎士』では、作画時の参考資料として登場メカの立体模型を自作している。背景にまで個性を出せるとしてアシスタントは使っていない。 『シドニアの騎士』以降、Twitterのアイコンや自画像にクワガタを使用している。 『シドニアの騎士』第11巻からは赤松健が提唱している同人マークを赤松以外の著作物では初めて付けるなど、常識範囲内の二次創作についても寛容な姿勢を見せている。 『シドニアの騎士』で2015年に第39回講談社漫画賞・一般部門を、2016年に第47回星雲賞コミック部門を受賞。 影響を受けた作品として、『AKIRA』、『風の谷のナウシカ』、『攻殻機動隊』、『遊星からの物体X』などをあげている。
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弐瓶 勉は日本の漫画家。男性。福島県郡山市出身。 代表作は『BLAME!』、『シドニアの騎士』。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 弐瓶 勉 | ふりがな = にへい つとむ | 画像 = Tsutomu Nihei - Lucca Comics & Games 2015.JPG | 画像サイズ = 220px | 脚注 = <small>2015年[[ルッカコミックス&ゲームズ]]にて</small> | 本名 = | 生地 = | 国籍 = {{JPN}} | 生年 = {{生年月日と年齢|1971|2|26}} | 没年 = | ジャンル = [[青年漫画]] | 活動期間 = [[1995年]] - | 代表作 = 『[[BLAME!]]』<br />『[[BIOMEGA]]』<br />『[[シドニアの騎士]]』 | 受賞 = [[インクポット賞]] | }} '''弐瓶 勉'''(にへい つとむ、[[1971年]][[2月26日]]<ref>[https://twitter.com/SIDONIA_anime/status/570845062113792000 ◆祝御生誕‼︎◆本日2月26日は「シドニアの騎士」という素晴らしい作品を生み出された我らが弐瓶勉先生の生誕日でございます!]TVアニメ「シドニアの騎士」の公式Twitter</ref>{{ndash}})は[[日本]]の[[漫画家]]。男性。[[福島県]][[郡山市]]出身<ref name=fuku >[http://www.minyu-net.com/news/news/0610/news14.html 講談社漫画賞で本県出身2人受賞 世界観、高い評価] - [[福島民友]]</ref>。 代表作は『[[BLAME!]]』、『[[シドニアの騎士]]』。 == 概要 == [[福島県立郡山北工業高等学校]]を卒業後<ref name=fuku />、上京し[[現場監督]]の見習いや[[施工図]]の製図など建築関係の仕事に就くが、組織の一員として働くことに向かないと感じ退職。単身渡米し絵の勉強をしながら1年ほど日本の出版社へ漫画を投稿するもデビュー出来ないまま帰国したが<ref name=fuku />、1995年に[[アフタヌーン四季賞]]夏のコンテストで短編作品の『[[BLAME!#短編作品『BLAME』|BLAME]]』が審査員([[谷口ジロー]])特別賞を受賞。その後、[[髙橋ツトム]]の専属[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]を5ヶ月ほど経験し、1997年より『[[月刊アフタヌーン]]』で長編作品『[[BLAME!]]』の連載を開始。 2009年から連載を開始した『[[シドニアの騎士]]』では、雑誌連載第2話より用語の説明やあらすじを書いたページが用意された。複数の作品において、「東亜重工」という企業や「奇居子(がうな)」と称される存在を[[スター・システム (小説・アニメ・漫画)|スターシステム]]なガジェットとして使用している。「東亜重工」は、自身がデザインしたグッズのロゴや、スタンド花の贈り主名<ref name="ex2">[[今井寿]]の公式ブログ[http://blog.buck-tick.com/blog/?m=20111217]</ref>、他作家とのコラボレーション企画<ref>[[銀盤騎士]]で選手のスポンサー企業として登場している。</ref>、自身が関わった[[有限責任事業組合]]の名称<ref>[http://www.ppi.co.jp/news_release/ppipr20180110_toa-heavy-industries/ ポリゴン・ピクチュアズ・ホールディングス、弐瓶勉氏と共同で東亜重工LLPを設立]</ref>などに利用している。 海外での評価が高く[[エンキ・ビラル]]などから賞賛を受けている。[[村上隆]]によるアート展『「SUPER FLAT」at 渋谷パルコギャラリー』(2000年)にもイラストを出品した。また、単行本『シドニアの騎士』第2巻では[[椎名誠]]が帯文を寄せた。 原稿には[[ミリペン|コピックマルチライナー]]と[[筆ペン]]を使用(単行本『[[ABARA]]』発売時点)。カラー原稿は初期には[[アクリル絵具|アクリル]]を使っていたが、『BLAME!』中期よりデジタル環境([[Adobe Photoshop|フォトショップ]])に移行した模様<ref name="ex1">[[アニメイト]]配布の[[フリーペーパー]]『シドニア制作記』より。</ref>。また『BIOMEGA』や『シドニアの騎士』では、作画時の参考資料として登場メカの立体模型を自作している<ref name="ex1"></ref>。背景にまで個性を出せるとして[[アシスタント (漫画)|アシスタント]]は使っていない<ref name=fuku />。 『シドニアの騎士』以降、Twitterのアイコンや自画像に[[クワガタムシ|クワガタ]]を使用している。 『シドニアの騎士』第11巻からは[[赤松健]]が提唱している[[同人マーク]]を赤松以外の著作物では初めて付ける<ref>{{Cite web|和書|publisher=アフタヌーン公式サイト「モアイ」(講談社)|title=弐瓶勉『シドニアの騎士』に「同人OK」マークが付きました!|url=http://afternoon.moae.jp/news/553|accessdate=2013-10-232}} なお、同人マークの有効範囲は本作第1巻に遡って全話で適用される。</ref>など、常識範囲内の二次創作についても寛容な姿勢を見せている。 『シドニアの騎士』で2015年に第39回[[講談社漫画賞]]・一般部門<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/news/2052728/full/|title=『講談社漫画賞』決定 少年部門は『七つの大罪』&『弱ペダ』|publisher=[[オリコン|ORICON]]|date=2015-05-13|accessdate=2015-05-13}}</ref>を、2016年に第47回[[星雲賞]]コミック部門を<ref>[https://animeanime.jp/article/2016/07/09/29406.html 第47回星雲賞に「ガルパン」や「シドニアの騎士」 日本SF大会で受賞作発表],アニメ!アニメ!,2016年7月9日</ref>受賞。 == 影響 == 影響を受けた作品として、『[[AKIRA (漫画)|AKIRA]]』、『[[風の谷のナウシカ]]』、『[[攻殻機動隊]]』、『[[遊星からの物体X]]』などをあげている<ref>[https://bookwalker.jp/ex/feature/niheiworld/ 弐瓶先生に11の質問]</ref><ref name="BL">{{Cite web|和書|url=https://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma1406|author=[[田中圭一 (漫画家)|田中圭一]]|title=『シドニアの騎士』弐瓶先生インタビュー|date=2014-06-13|accessdate=2016-08-06|publisher=[[BookLive]]}}</ref>。 == 作品リスト == === 連載作品 === {| class="wikitable" !タイトル !連載 !巻数 !備考 |- |[[BLAME!]] |1997年 - 2003年、『[[月刊アフタヌーン]]』掲載、[[講談社]] |全10巻<br>全6巻(新装版) |新装版ではサイズが[[B5判]]に変更され、加筆修正が加えられた |- |[[NOiSE]] |『[[アフタヌーンシーズン増刊]]』第2号-第7号掲載、講談社 |全1巻 |読み切り版『BLAME』(月刊アフタヌーン、1995年10月号、講談社)収録 |- |[[BIOMEGA]] |2004年 - 2009年、『[[週刊ヤングマガジン]]』掲載、講談社<br>→『ウルトラジャンプ』掲載、集英社 |全6巻<br />既刊3巻(新装版) |新装版は講談社より刊行 |- |[[ABARA]] |2005年 - 2006年、『[[ウルトラジャンプ]]』掲載、[[集英社]] |全2巻(上下巻)<br />全1巻(新装版) |下巻に『DIGIMORTAL』前後編(ウルトラジャンプ、2005年1月号・2月号、集英社)収録 新装版のサイズはB5判に変更され、弐瓶自身による解説が追加された |- |[[シドニアの騎士]] |2009年 - 2015年、『月刊アフタヌーン』掲載、講談社 |全15巻<br>全7巻(新装版) |新装版のサイズはB5判に変更されている |- |[[人形の国]] |2017年 - 2021年、『[[月刊少年シリウス]]』掲載、講談社 |全9巻 | |- |[[BLAME!|BLAME! 電基漁師危険階層脱出作戦]] |2017年、『月刊少年シリウス』掲載、講談社 |全1巻 |作画は[[関根光太郎]]が担当し、弐瓶は監修を担当する |- |[[大雪海のカイナ]] |2022年 - 、『月刊少年シリウス』掲載、講談社 | |作画は[[武本糸会]]が担当し、弐瓶は原作を担当する<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/467278|title=弐瓶勉×武本糸会「大雪海のカイナ」始動、大地が消えかけた世界で出会う少年と少女|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-26|accessdate=2022-02-26}}</ref> |- |タワーダンジョン |2023年<ref>{{Cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/546606|title=弐瓶勉の新連載「タワーダンジョン」がシリウスで、剣と魔法と迷宮探索の物語|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2023-10-26|accessdate=2023-10-26}}</ref> - 、『月刊少年シリウス』掲載、講談社 | |} === 短編作品 === {| class="wikitable" !短編 !掲載誌 !収録単行本 !発売日 |- |BLAME (読切版) |月刊アフタヌーン、1995年10月号、講談社 |[[NOiSE]] |2001年10月23日 |- |DEADHEADS |アフタヌーンシーズン増刊、2002年、通巻第12号、講談社<br>(第1話発表後、掲載誌休刊) |BLAME! and so on 弐瓶勉画集 |2003年10月24日 |- |[[ウルヴァリン (コミック作品)|Wolverine: Snikt!]] |[[マーベル・コミック]]、2003年<br>[[アメコミ]]作品『[[X-メン]]』の[[ウルヴァリン]]を主人公にした[[スピンオフ]]作品。 |[[ウルヴァリン (コミック作品)|Wolverine: Snikt!]] 全5冊 |2003年 |- |DIGIMORTAL |ウルトラジャンプ、2005年1月号・2月号、集英社 |[[ABARA]]下巻 |2006年5月24日 |- |ZEB-NOID |[[チャンピオンRED]]、2004年7月号掲載、秋田書店 |rowspan="10"|ブラム学園! アンドソーオン 弐瓶勉作品集<br>新装版 ブラム学園! 弐瓶勉フルカラー作品集 |rowspan="10"|2008年9月19日<br>2018年2月9日 |- |ブラム学園 |月刊アフタヌーン、2004年5月号、講談社 |- |ブラム学園!京都奈良相合傘 |月刊アフタヌーン、2007年10月号、講談社 |- |ブラム学園!桜咲く塔の下で |月刊アフタヌーン、2008年5月号、講談社 |- |小包 |[[同人誌]] 『赤い牙4』(2003年、商業誌未発表作品) |- |ネットスフィアエンジニア |別冊[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]、2005年、通巻第4号、講談社 (第1話発表後、掲載誌休刊) |- |ポンプ |[[同人誌]] 『赤い牙5』(2004年、商業誌未発表作品) |- |BLAME ! 2 第八系子体プセルの都市構造体脱出記 |[[モーニング (漫画雑誌)|モーニング]]増刊マンダラ、2008年、通巻第2号、講談社 |- |沼の神 |月刊アフタヌーン 2008年10月、講談社(初出は[[同人誌]] 『赤い牙3』) |- |戦翅甲蟲・天蛾 |[[ヤングガンガン]]、2007年第3号、[[スクウェア・エニックス]] |- |シドニアの騎士 つむぎ、『ブラム!』にハマる。の巻 |Blu-ray『シドニアの騎士 第九惑星戦役 一』初回生産限定盤 特典小冊子、2015年、キングレコード |rowspan="1"|新装版 ブラム学園! 弐瓶勉フルカラー作品集 |rowspan="1"|2018年2月9日 |- |[[人形の国]] (読切版) |[[週刊ヤングマガジン]]、2016年23号(5月9日発売)、講談社 |人形の国 第9巻 小冊子付き特装版 |2021年12月9日 |- |サブリナ |[[同人誌]] 『赤い牙1』(2002年) | colspan="2" rowspan="3" |単行本未収録 |- |アイダホ |[[同人誌]] 『赤い牙2』(2002年) |- |ビビビビ |[[同人誌]] 『赤い牙6』(2006年) |- |BLAME! 珪素生物の砦 |Blu-ray『[[BLAME!#BLAME!(2017年劇場アニメ版)|BLAME!]]』初回限定版特典、2017年、キングレコード |} === 短編集 === * ブラム学園! アンドソーオン 弐瓶勉作品集 (2008年、講談社) ** 新装版 ブラム学園! 弐瓶勉フルカラー作品集 (2018年、講談社、フルカラー再発版) === 画集 === * BLAME! and so on 弐瓶勉画集(2003年、講談社) === その他 === * Halo Graphic Novel - [[マイクロソフト]]のPCゲーム『[[HALO (ビデオゲームシリーズ)|HALO]]』の世界観を題材とした、さまざまな作家による[[グラフィックノベル]]の[[オムニバス]]作品集。[[ジャン・ジロー|メビウス]]や[[サイモン・ビズレー]]などが参加しており、弐瓶は唯一の日本人作家として参加した。 * [[BUCK-TICK]]の新レーベル「Lingua Sounda」のロゴデザインを担当<ref name="ex2"></ref>。 * [[大雪海のカイナ]] - アニメーション作品。原作・キャラクター原案。 == 書誌情報 == * 弐瓶勉『ブラム学園! アンドソーオン 弐瓶勉作品集』〈[[アフタヌーンKC]]〉講談社 # 2008年9月22日発売 {{ISBN2|978-4-06-314531-1}} * 弐瓶勉『BLAME! and so on 弐瓶勉画集』講談社 # 2003年10月23日発売 {{ISBN2|978-4-06-364528-6}} * 共著『Halo Graphic Novel』[[マーベル・コミック|Marvel Comics]](英語版) # 2006年8月9日発売 {{ISBN2|978-0-7851-2372-9}} == メディア出演 == === インタビュー掲載 === * 電撃ホビーマガジン2013年9月号 弐瓶勉氏が語る『シドニアの騎士』<ref>{{Cite web|和書|publisher=電撃ホビーウェブ|title=電ホビ9月号では『シドニアの騎士』特集を決行!|url=http://hobby.dengeki.com/news/824/|accessdate=2013-07-22}}</ref> * BookLive!インタビュー『わが生涯に一片のコマあり!』 第三回;弐瓶勉先生<ref>{{Cite web|和書|publisher=電子書籍ストア BookLive!|title=『シドニアの騎士』弐瓶先生インタビュー|url=http://booklive.jp/feature/index/id/wagakoma1406|accessdate=2014-06-23}}</ref> === ラジオ === * WEBラジオ シドニアの騎士〜綾と綾音の秘密の光合成〜(ゲスト出演<ref>{{Cite web|和書|publisher=[[音泉]]|title=ラジオ シドニアの騎士〜綾と綾音の秘密の光合成〜|url=http://onsen.ag/program/sidonia/|accessdate=2015-03-18}}</ref>) === アニメ === * [[シドニアの騎士|シドニアの騎士 第九惑星戦役]](ノコギリクワガタ役) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 外部リンク == * [https://toahi.net/ 東亜重工HP] * {{Twitter|tsutomu_nihei|弐瓶勉}} * {{facebook|touaheavyindustry|東亜重工}} {{Manga-artist-stub}} {{Authority control}} {{DEFAULTSORT:にへい つとむ}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:SF漫画家]] [[Category:日本のロゴデザイナー]] [[Category:福島県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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Mach
Mach(マーク)とは、カーネギーメロン大学のリチャード・ラシッド教授(実際の実装はアビー・テバニアンが中心)らのMachプロジェクトにより開発されたマイクロカーネルタイプのオペレーティングシステム (OS) を言う。名前は「複数非同期通信ホスト」を意味する英語「multiple asynchronously communication hosts」に由来している。 1980年代中頃、アメリカ国防総省高等研究計画局によって開発されていた実験用マルチプロセッサコンピュータ用のOSをアメリカ国防総省に提案、採用されたことにより 1985年からMachの開発は始まった。当初はスーパーコンピュータ・ワークベンチ・プロジェクト(supercomputer workbench project)と呼ばれていた。 当時、米国の研究機関で主に用いられていた 4.2BSD UNIXの設計は、古く効率の悪い仮想記憶機構、マルチプロセッサマシンに対して非効率な構造、移植性の悪い冗長なコードなど、当初のUNIXでは想定していない様々な機能をカーネルに追加したため、非常に見通しの悪い構造となっていた。これを解決することがMachの目的であった。 これらを実現することを目標に開発が行われた。 当初から4.3BSD UNIXと互換であることが決定されていたこともあり、4.3BSDのカーネルソースコードを元に修正を加えることで実装を行った。実際には3.0からがマイクロカーネルであり、Mach 2.5まではマイクロカーネルではない。 リチャード・ラシッド教授が1991年にマイクロソフトへ移籍した後も1994年までカーネギーメロン大学でMachプロジェクトは続いた。以後、Machの開発はユタ大学のMach 4プロジェクト、Free Software FoundationのHurdプロジェクト、カーネギーメロン大学の ARTプロジェクトなどに引き継がれていった。ユタ大学で Mach 4として分散環境を考慮したスレッドおよびメッセージの改良、Linuxデバイスドライバインターフェースの実装を行った。GNUプロジェクトではこのMach 4をベースに改良を加え、GNU Machとして公開している。ARTプロジェクトでは分散リアルタイムOS実現のため、実時間駆動型スケジューラなどがMach に組み込まれ、Real-Time Machとして公開された。これらの研究開発はMachのみならずBSDにもフィードバックされ、仮想記憶システムを含むいくつかの機能は4.4BSD Liteにも利用されている。 これらのMach生まれの基本概念は、その後のUNIXのみならず、数多くのOSに多大な影響を及ぼした。 この新しいOSの名前をどうするのかという雑談の中で出た MUCK (multiprocessor universal communication kernel) というアイディアを、リチャード・ラシッド教授の同僚のイタリア人 Darlo Giuse がMachと聞き間違えたことに由来する。最終的にはコインの裏表で決定した。従って原則英語読みの「マーク」という発音が正しい。
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Mach(マーク)とは、カーネギーメロン大学のリチャード・ラシッド教授(実際の実装はアビー・テバニアンが中心)らのMachプロジェクトにより開発されたマイクロカーネルタイプのオペレーティングシステム (OS) を言う。名前は「複数非同期通信ホスト」を意味する英語「multiple asynchronously communication hosts」に由来している。
{{参照方法|date=2021年6月}} {{otheruses|OS|その他|マッハ (曖昧さ回避)}} {{Infobox OS | name = Mach | logo = <!-- examplelogo.svg --> | logo_size = <!-- x40px --> | screenshot = <!-- example.png --> | screenshot_size = <!-- 280px --> | caption = | developer = [[カーネギーメロン大学]] | programmed_in = | family = [[Unix系]] | working_state = 開発終了 | source_model = | released = <!-- {{Start date and age|年|月|日}} --> | RTM_date = | GA_date = | latest_release_version = 3.0 | latest_release_date = {{Start date and age|1989}} | latest_preview_version = | latest_preview_date = <!-- {{Start date and age|年|月|日}} --> | frequently_updated = | repo = <!-- {{URL|https://example.com}} --> | marketing_target = | language = | update_model = | package_manager = | supported_platforms = | kernel_type = [[マイクロカーネル]] | userland = | ui = | license = | preceded_by = | succeeded_by = | website = {{URL|http://www-2.cs.cmu.edu/afs/cs/project/mach/public/www/mach.html }} | support_status = | other_articles = }} '''Mach'''('''マーク'''<ref>哲学者の[[エルンスト・マッハ]]と同じスペル Machであることから'''マッハ'''と呼ばれることもあるが、正式にはマークと呼ぶのが正しいとされる。</ref>)とは、[[カーネギーメロン大学]]の[[リチャード・ラシッド]]教授(実際の実装は[[アビー・テバニアン]]が中心<ref>[http://www.opensource.apple.com/darwinsource/ Darwin Releases] Sourceのリスト内からダウンロード出来るxnuのソースコードを参照</ref>)らのMachプロジェクトにより開発された[[マイクロカーネル]]タイプの[[オペレーティングシステム]] (OS) を言う。名前は「複数非同期通信ホスト」を意味する英語「{{lang|en|'''m'''ultiple '''a'''synchronously '''c'''ommunication '''h'''osts}}」に由来している。 == 開発の経緯 == 1980年代中頃、[[アメリカ国防総省]][[国防高等研究計画局|高等研究計画局]]によって開発されていた実験用[[マルチプロセッシング|マルチプロセッサ]][[コンピュータ]]用のOSを[[アメリカ国防総省]]に提案、採用されたことにより 1985年からMachの開発は始まった。当初は[[スーパーコンピュータ]]・ワークベンチ・プロジェクト({{lang|en|supercomputer workbench project}})と呼ばれていた。 当時、米国の研究機関で主に用いられていた 4.2[[Berkeley Software Distribution|BSD]] [[UNIX]]の設計は、古く効率の悪い仮想記憶機構、マルチプロセッサマシンに対して非効率な構造、移植性の悪い冗長なコードなど、当初のUNIXでは想定していない様々な機能をカーネルに追加したため、非常に見通しの悪い構造となっていた。これを解決することがMachの目的であった。 *マルチプロセッサ対応(100プロセッサ程度が想定された) *高価で少ない実メモリを想定するのではなく、巨大なメモリ空間と十分な実メモリを有効利用する *分散システムをサポートし、高速でネットワーク透過な[[プロセス間通信]] (IPC) をサポート *移植性の高い構造 *4.3BSDと完全な互換性 これらを実現することを目標に開発が行われた。 == 歴史 == 当初から4.3BSD UNIXと互換であることが決定されていたこともあり、4.3BSDの[[カーネル]][[ソースコード]]を元に修正を加えることで実装を行った。実際には3.0からがマイクロカーネルであり、Mach 2.5まではマイクロカーネルではない。 ;Mach 1.0 :1986年リリース。研究開発の進捗報告として発表された。新しい仮想記憶とIPCは実装されていたが、タスクとスレッドはまだ実装されていなかった。 ;Mach 2.0 :1988年リリース。タスクとスレッドの実装、いくつかの改善。初期の[[NeXTSTEP]]のカーネルとして利用された。 ;Mach 2.5 :NFS の実装、{{lang|en|Open Software Foundation}}の[[OSF/1]]のカーネルとして利用された。 ;Mach 3.0 :1989年リリース。マイクロカーネル化。MkLinuxのカーネルとしても使われた。Mach 3.0は、[[macOS]]のカーネル''[[XNU]]''にも用いられているが、実装はマイクロカーネルではない。 [[リチャード・ラシッド]]教授が1991年に[[マイクロソフト]]へ移籍した後も1994年まで[[カーネギーメロン大学]]でMachプロジェクトは続いた。以後、Machの開発はユタ大学のMach 4プロジェクト、{{lang|en|Free Software Foundation}}のHurdプロジェクト、[[カーネギーメロン大学]]の ARTプロジェクトなどに引き継がれていった。ユタ大学で Mach 4として分散環境を考慮したスレッドおよびメッセージの改良、Linuxデバイスドライバインターフェースの実装を行った。[[GNUプロジェクト]]ではこのMach 4をベースに改良を加え、[[GNU Mach]]として公開している。ARTプロジェクトでは分散リアルタイムOS実現のため、実時間駆動型スケジューラなどがMach に組み込まれ、{{lang|en|Real-Time Mach}}として公開された。これらの研究開発はMachのみならずBSDにもフィードバックされ、仮想記憶システムを含むいくつかの機能は4.4BSD Liteにも利用されている。 == Mach の基本概念 == ;タスク :UNIXの[[プロセス]]は計算処理とそれに必要な[[計算資源|リソース]]を一体化しているのに対し、Machは計算処理とそのリソースを分離するとともに、独立に制御できるようにした。タスクは[[CPU]]実行時間([[スレッド (コンピュータ)|スレッド]])やメモリオブジェクト、[[アドレス空間]]、ポート等のリソースの集合体である。 ;スレッド :UNIXのプロセスから、CPU実行時間をリソースとして分離、抽象化したもの。スレッドはCPUの処理単位であり、並列に動作することができる。スレッドは必ず一つのタスクに属し、そのタスクの全てのリソースにアクセスできる。タスクは複数のスレッドを持つこともできる。リソースの保護はタスクを単位として行われるため、UNIXプロセスと異なりメモリ空間などのリソースと直接関連しない。結果としてスレッドの生成や切り換えは高速に行われるとともに、マルチプロセッサにも最適化される。 ;ポート :初期のUNIXでは[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]機能が主なIPCの手法であったが、[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]を抽象化したパイプ機能では、様々な形態のデータの受け渡しを十分に抽象化できなくなっていた。UNIXでは様々なデータの受け渡しを実現するため、様々な方法で拡張を行ったが<ref>共有メモリ、4.2BSD以降でのSocket、SystemVでの msgrop() など</ref>、Machではそれらを統合して新たにポートという概念を実装した。ポートはデータ受け渡しのために使われる通信チャネルである。構造化されたメッセージを受け渡す枠組みを実現し、ネットワーク越しの通信も含めて抽象化するとともに、高速、効率的なメッセージの送受信(out-of-lineデータ)が可能となった。 ;メッセージ :カーネルが管理するIPCのデータオブジェクト。メッセージは複数の型づけされたデータの集まりである。メッセージはカーネルによって管理され、ポートを通じてプロセス間の通信に用いられる。 ;メモリオブジェクト :MachはUNIXと異なり、仮想記憶を管理する機能をカーネル内部に実装(内部ページャ)しているだけではなく、ユーザーレベルにも開放している(外部ページャ)。ページャが操作するメモリの基本的な抽象概念をメモリオブジェクトと呼ぶ。4.3BSDでは実現できなかった[[コピーオンライト|copy-on-write]]やmap-on-referenceといった[[遅延評価]]のメカニズム<ref>メモリを要求された時点で確保するのではなく、使用された時点で確保する方式。メモリがコピーされた場合も、実際の動作としてはコピーではなく仮想記憶機構を利用して多重参照するだけとし、実際にコピーを行うのは、書き換えられた領域のみとなる。結果として必要最小限のメモリ確保、メモリコピーしか行われないというメリットを持つ</ref>が実装され、効率よくメモリ資源を利用できるようになった。 これらのMach生まれの基本概念は、その後のUNIXのみならず、数多くのOSに多大な影響を及ぼした。 == 読み方 == この新しいOSの名前をどうするのかという雑談の中で出た MUCK ({{lang|en|multiprocessor universal communication kernel}}) というアイディアを、[[リチャード・ラシッド]]教授の同僚のイタリア人 Darlo Giuse がMachと聞き間違えたことに由来する。最終的にはコインの裏表で決定した<ref>[[#Mach(1993)|Mach(1993)]] p.v</ref>。従って原則英語読みの「マーク」という発音が正しい。 == Machを採用したOS == *[[OSF/1]] *[[NEXTSTEP]] - Mach用[[OPENSTEP]] *[[GNU Hurd]] ([[GNU Mach]]) *[[MkLinux]] *[[macOS]] ([[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]), [[iOS]], [[iPadOS]], [[tvOS]], [[watchOS]](ただし、実行効率を得るために実行レベルでは単一バイナリになっている) == 関連項目 == * [[分散オペレーティングシステム]] * [[マイクロカーネル]] * [[Berkeley Software Distribution]] (BSD) == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * {{cite book | 和書 | title=Machオペレーティングシステム -プログラミングと概念- | author=J.ボイキン, D.カーション, A.ランガーマン, S.ロゥバーソ | publisher=トッパン | editor=岩本信一(訳) | year=1994 | ref=Mach(1993) }} * {{cite book | 和書 | title=分散OS Machがわかる本 | author=乾 和志,菅原 圭資 | publisher=日刊工業新聞社 | year=1992 | series=LUNAの本シリーズ | ref=分散OS(1992) }} {{Computer-stub}} {{Unix-like}} {{FOSS}} [[Category:OSのカーネル]] [[Category:1986年のソフトウェア]]
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DOS
DOS
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DOS コンピュータ用のディスク・オペレーティングシステム。 メインフレーム用 - DOS/360、DOS/VSE、z/VSEなど パーソナルコンピュータ用 - PC DOS、MS-DOS、DR-DOSなど DoS攻撃 - Denial of Service (attack)の略。 dos - 小室哲哉プロデュースの音楽ユニット。「dance of sound」の略。 DOS - オランダのサッカークラブ、FCユトレヒトの前身となったクラブの1つ。 DOS - マテルのカードゲーム。『UNO_(ゲーム)』の兄弟作。 Density of states(状態密度)の略。 『ファイナルファンタジーI・II アドバンス』の北米版のタイトル「Dawn of Souls from Final Fantasy」の略。
{{Wiktionary|dos}} '''DOS''' * コンピュータ用の[[DOS (OS)|ディスク・オペレーティングシステム]]。 ** [[メインフレーム]]用 - [[DOS/360|DOS/360、DOS/VSE]]、[[z/VSE]]など ** [[パーソナルコンピュータ]]用 - [[IBM PC DOS|PC DOS]]、[[MS-DOS]]、[[DR-DOS]]など * [[DoS攻撃]] - Denial of Service (attack)の略。 * [[dos (音楽ユニット)|dos]] - [[小室哲哉]]プロデュースの音楽ユニット。「dance of sound」の略。 * DOS - [[オランダ]]のサッカークラブ、[[FCユトレヒト]]の前身となったクラブの1つ。 * [[UNO_(ゲーム)#関連商品|DOS]] - [[マテル]]のカードゲーム。『[[UNO_(ゲーム)]]』の兄弟作。 * Density of states([[状態密度]])の略。 * 『[[ファイナルファンタジーI・II]] アドバンス』の北米版のタイトル「Dawn of Souls from Final Fantasy」の略。 {{aimai}}
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リチャード・ストールマン
リチャード・マシュー・ストールマン(Richard Matthew Stallman、1953年3月16日 - )は、アメリカ合衆国のプログラマー、フリーソフトウェア活動家。コピーレフトの強力な推進者として知られ、現在にいたるまでフリーソフトウェア運動において中心的な役割を果たしている。また、プログラマーとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねるソフトウェアにはEmacsやGCCなどがある。なお、名前の頭文字を取って RMS と表記されることもある。 最終的には、AI研のプログラマとなる道を選び、博士研究を断念することになるものの、ストールマンは研究者としてもいくつか重要な業績を残している。例えば、1977年には、Gerald Jay Sussman と TMS (Truth maintenance system) に関する論文を発表しており、これはある種の先駆的な業績とされている。 ストールマンはハーバード大学在学中から、MITのAI研にてプログラマをしていた。AI研での活動はMITの院生となってからも続き、1984年にMITの職を辞すまで続くことになる。ここでの重要な実績としては、TECO、Emacs、LISPマシンOSの開発が挙げられる。 1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。 1977年、MIT CS研はパスワード制を導入し、これまで自由であった匿名アクセスを禁止する。これに対しストールマンはパスワードを解読する方法を見つけた上で、パスワードを空白文字に変更するよう促す(実質的に旧来通りの匿名アクセスを可能にできる)メッセージを付け、パスワードの入ったメッセージを各人に送りつけるという反対運動を行う。パスワード制を覆すまでには至らなかったものの、これにより全体の20%がストールマンに賛同し、パスワードを変更する。 同時期に、ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表がScribeであり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)人道に対する罪(crime against humanity)である」 と痛烈に批判する。 そして、1980年代に入ると、LISPマシンの開発を巡り、AI研内部がベンチャーキャピタルの融資を拒否するLMI社と融資を受け入れるSymbolics社に分裂。両社ともプロプライエタリなソフトウェアを提供していたが、ストールマンはハッカーコミュニティに親和的であった前者を支持し、1982年から1983年にかけてSymbolics社のプログラムのクローンをする作業に取り組む。 1983年9月、GNU OS計画の概要をARPANET上の複数のメーリングリストとUSENETで公表。1985年にはGNU宣言を発表し、「GNU」という名前の自由なUNIX互換OSの開発を正式に提唱する。同年10月に非営利団体のフリーソフトウェア財団を創設し、1989年にはプログラミング自由連盟を共同設立する。 GNUプロジェクトは、まもなくして多くの成果をもたらすことになった。実際に、1990年までに多くのGNUシステムの開発が完了し、ストールマン自身が開発に携わったものだけでもEmacs・GCC・GDB・gmakeといったソフトウェアが生み出されている。ただし、本来の目的であったカーネル自体の開発は遅れ、2020年現在も未だに一般的に利用できるまでに成熟していない。 さらに、このプロジェクトの中で、ソフトウェアの変更と再配布の権利を法的に保護するコピーレフトの概念が広まったことも成果の一つに数えられる。このコピーレフトの概念は、GNU Emacs General Public License において初めて実装されたが、1989年にはどのソフトウェアにも用いることのできるライセンスとして GNU General Public License がストールマンの手で書かれている。 一方で、GNUプロジェクトは、特に思想面において数々の論争を引き起こすプロジェクトでもあった。例えば、1992年前後には、GNU EmacsをめぐりLucid社の開発者との対立が表面化し、結果的にXEmacsの分岐を招いた。また、1991年にリーナス・トーバルズがGNUの開発ツールを採用して以来、GNUのプログラムはLinuxに移植されて広く用いられるようになったが、これは今日まで続く GNU/Linux という名前を巡る論争を引き起こすことになる。ここでプロジェクトの理念的な側面を重視して、GNUの名前を用いることを強固に主張したのは他ならぬストールマンであった。 このストールマンの強い思想性に対する評価は分かれている。ジャーナリストのアンドリュー・レオナルドは、ストールマンの「決して妥協しない頑固さ」を才能ある有能なプログラマに共通に見られる特徴だとする。 ストールマンの妥協しない姿勢には、何か安心させてくれるものがある。勝つにせよ負けるにせよ、ストールマンは決してあきらめない。彼は死ぬまで農場の最も頑固なロバでありつづけることだろう。これを「決意が固い」と言うにせよ、あるいは「単に意固地なだけ」と呼ぶにせよ、彼のひたむきな姿勢や厳格なまでの誠実さは、調子のよいことばかりを言う広報担当や何億円もの金をかけたマーケティングが跳梁する世界における、一服の清涼剤のようなものなのである。 —アンドリュー・レオナルド,Salon.com 2004年、ストールマンはベネズエラでフリーソフトウェアの採用を訴える講演を行い、チャベス大統領から好意的な反応を得ている。また、2006年にはインドのケーララ州政府との交渉の場を持ち、同州にある一万校余りの高校のコンピューターのOSをWindowsからGNU/Linuxに切り替えさせることに成功している。 ストールマンは質素な生活で知られる。たとえば、彼は、リサーチ・アフィリエイトとしてMITに在籍しているが無給である。また、同大学のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)にオフィスを構えている以外には、定住のための住居を持っていない。彼は、この生活について「私はいつも安上がりな生活をしてきた......つまり学生みたいにね。私はそういう生活が好きなんだ。そういう生活なら、カネの言いなりになる必要がないからね」 としている。 また、プライバシーの問題に強い意識を抱いていることでも知られている。たとえば、追跡を受けることで重大なプライバシー侵害が生じうるという理由 で携帯電話を持たないことを推奨している。また、同様に入室の時間と回数の追跡が可能になるという理由で、オフィスのある建物のカードキーを使うことを避けている。さらに、「個人的な理由」から、GNUやFSFの自分のページかそれに関連するページ以外は自分のコンピューターから直接ブラウズすることはないと述べている。そして、その代わりとして、wgetを動かしているサーバーにメールを送り、見たいページをメールで送らせるという方法を用いているという。 彼はLibreboot(英語版)と呼ばれるBIOSの自由ソフトウェアな実装を導入したThinkpad X200を使用し、GNU FSDGに適合する完全に自由なGNUディストリビューションであるTrisquel GNU/Linuxを使用している。 キーボードはHappy Hacking Keyboardを愛用していることで知られる。 ストールマンは、多言語話者でもある。彼の母国語は英語であるが、彼はそれに加えてスペイン語とフランス語も流暢に話すことができる。実際にこれらの言語で二時間のスピーチも行っている。本人によれば、カタコトではあるが、インドネシア語も使えるという。 ストールマンはコンロン・ナンカロウ からフォーク音楽 に至るまでの幅広い音楽を好んでいる。ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズやウィアード・アル・ヤンコビックも好きであると述べている。 彼は作曲も行っており、ブルガリアのフォークダンス音楽「サディ・モマ」の替え歌としてフリーソフトウェアの歌を作っている。最近では、キューバのフォークソング「グアンタナメラ(英語)」を元に、グアンタナモ米軍基地の囚人のことを歌った歌を書き上げ、キューバにて現地の音楽家とともにレコーディングしている また、ストールマンはSFのファンでもあり、グレッグ・イーガンの作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。 1999年の記事の注釈によれば「私は無神論者なので、どの宗教的指導者にも従おうとは思わないが、ときに彼らの言ったことには尊敬の念を覚える」としている。 なお、ストールマンは12月25日をクリスマスではなくGrav-massとして祝うことを提唱している。これは万有引力(universal gravitation)の法則を発見したアイザック・ニュートンを祝う日であり、彼がユリウス暦の12月25日に生まれたことにちなむものである。 影響を受けた人物について、ストールマンは、マハトマ・ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラ、アウンサンスーチー、ラルフ・ネーダー、デニス・クシニッチの名前を挙げたうえ、「フランクリン・ルーズベルトやウィンストン・チャーチルも尊敬しているよ。彼らの行ったことの一部には批判的なんだけどね」と述べている。また、ストールマンは、緑の党の支持者であり、国民投票による立法制度の実現を目指すナショナル・イニシアティブ運動の支持者でもある。 ストールマンは、電子投票の反対者でもある。実際に、2008年3月1日に行われたマンチェスターでの講演の中で、投票用紙のコピーさえあれば再集計がより容易であるという理由で、ストールマンは紙による投票を擁護している。
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"人物" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "また、プライバシーの問題に強い意識を抱いていることでも知られている。たとえば、追跡を受けることで重大なプライバシー侵害が生じうるという理由 で携帯電話を持たないことを推奨している。また、同様に入室の時間と回数の追跡が可能になるという理由で、オフィスのある建物のカードキーを使うことを避けている。さらに、「個人的な理由」から、GNUやFSFの自分のページかそれに関連するページ以外は自分のコンピューターから直接ブラウズすることはないと述べている。そして、その代わりとして、wgetを動かしているサーバーにメールを送り、見たいページをメールで送らせるという方法を用いているという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "彼はLibreboot(英語版)と呼ばれるBIOSの自由ソフトウェアな実装を導入したThinkpad X200を使用し、GNU FSDGに適合する完全に自由なGNUディストリビューションであるTrisquel GNU/Linuxを使用している。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "キーボードはHappy Hacking Keyboardを愛用していることで知られる。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "ストールマンは、多言語話者でもある。彼の母国語は英語であるが、彼はそれに加えてスペイン語とフランス語も流暢に話すことができる。実際にこれらの言語で二時間のスピーチも行っている。本人によれば、カタコトではあるが、インドネシア語も使えるという。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "ストールマンはコンロン・ナンカロウ からフォーク音楽 に至るまでの幅広い音楽を好んでいる。ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズやウィアード・アル・ヤンコビックも好きであると述べている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "彼は作曲も行っており、ブルガリアのフォークダンス音楽「サディ・モマ」の替え歌としてフリーソフトウェアの歌を作っている。最近では、キューバのフォークソング「グアンタナメラ(英語)」を元に、グアンタナモ米軍基地の囚人のことを歌った歌を書き上げ、キューバにて現地の音楽家とともにレコーディングしている", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "また、ストールマンはSFのファンでもあり、グレッグ・イーガンの作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1999年の記事の注釈によれば「私は無神論者なので、どの宗教的指導者にも従おうとは思わないが、ときに彼らの言ったことには尊敬の念を覚える」としている。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "なお、ストールマンは12月25日をクリスマスではなくGrav-massとして祝うことを提唱している。これは万有引力(universal gravitation)の法則を発見したアイザック・ニュートンを祝う日であり、彼がユリウス暦の12月25日に生まれたことにちなむものである。", "title": "人物" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "影響を受けた人物について、ストールマンは、マハトマ・ガンディー、キング牧師、ネルソン・マンデラ、アウンサンスーチー、ラルフ・ネーダー、デニス・クシニッチの名前を挙げたうえ、「フランクリン・ルーズベルトやウィンストン・チャーチルも尊敬しているよ。彼らの行ったことの一部には批判的なんだけどね」と述べている。また、ストールマンは、緑の党の支持者であり、国民投票による立法制度の実現を目指すナショナル・イニシアティブ運動の支持者でもある。", "title": "人物" 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リチャード・マシュー・ストールマンは、アメリカ合衆国のプログラマー、フリーソフトウェア活動家。コピーレフトの強力な推進者として知られ、現在にいたるまでフリーソフトウェア運動において中心的な役割を果たしている。また、プログラマーとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねるソフトウェアにはEmacsやGCCなどがある。なお、名前の頭文字を取って RMS と表記されることもある。
{{Redirect|ストールマン|この人物に因み命名された小惑星|ストールマン (小惑星)}} {{加筆|2019年に発生したFSF代表理事辞任に至った一連の騒動およびその際の発言について|date=2023年9月}} {{Infobox Engineer |氏名 = リチャード・ストールマン |別名 = |画像 = Richard Stallman - Fête de l'Humanité 2014 - 010.jpg |画像のサイズ = |画像の説明 = リチャード・ストールマン(2014年<!--場所不明、フランス?-->) |国籍 = {{USA}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1953|3|16}} |出生地 = {{USA1912}} [[ニューヨーク]] |死没日 = <!-- {{死亡年月日と没年齢|1953|3|16|xxxx|xx|xx}} --> |死没地 = |最終学歴 = [[ハーバード大学]]、[[MIT]](1975年中退) |配偶者 = |両親 = ダニエル・ストールマン(父)<br />アリス・リップマン(母) |子供 = |専門分野 = [[フリーソフトウェア運動]]、[[GNU]]、[[Emacs]]、[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]、[[GNU General Public License|GPL]]、[[コピーレフト]] |所属機関 = [[フリーソフトウェア財団|FSF]]理事・有議決権メンバー |勤務先 = |雇用者 = |プロジェクト = |設計 = |成果 = |受賞歴 = |署名 = }} '''リチャード・マシュー・ストールマン'''('''Richard Matthew Stallman'''、[[1953年]][[3月16日]] - )は、[[アメリカ合衆国]]の[[プログラマー]]、[[フリーソフトウェア]]活動家。[[コピーレフト]]の強力な推進者として知られ、現在にいたるまで[[フリーソフトウェア運動]]において中心的な役割を果たしている。また、プログラマーとしても著名な存在であり、開発者としてその名を連ねる[[ソフトウェア]]には[[Emacs]]や[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]などがある。なお、名前の頭文字を取って '''RMS''' と表記されることもある。 == 年表 == * 1953年 - ダニエル・ストールマンとアリス・リップマンの子としてニューヨークに生まれる<ref>"Richard Stallman's mother, Alice Lippman, still remembers the moment she realized her son had a special gift." Chapter 3, ''[[Free as in Freedom]]'' http://oreilly.com/openbook/freedom/ch03.html</ref>。 * 1971年 - [[ハーバード大学]]に入学。Math55で好成績を残し<ref>{{cite book|last=Williams|first=Sam|title=Free as in Freedom: Richard Stallman's Crusade for Free Software|publisher=O'Reilly|year=2002|page=41|isbn=0596002874}}</ref>、MIT AI研のプログラマとなりハッカーコミュニティに加わる。 * 1974年 - 物理学の学位を取得し<ref>http://www.stallman.org/</ref>、最優等の成績で大学を卒業。これに続いてMITの大学院に入学するが、MIT AI研でプログラマとしての活動を続けるうちに、物理学の研究をやめ、博士号をとることを放棄する。 * 1983年 - [[GNUプロジェクト]]を創始。 * 1984年 - GNUプロジェクトに専念するためMITを退職。 * 1985年 - [[GNU宣言]]の発表。 * 1990年 - [[グレース・ホッパー賞]]受賞。 * 1996年 - [[スウェーデン王立工科大学]]名誉博士号。 * 1998年 - [[電子フロンティア財団|EFF]]パイオニア賞<ref>[https://www.eff.org/ja/awards/pioneer/past-winners Past Pioneer Award Winners] Electronic Frontier Foundation</ref>。 * 1999年 - オンラインの百科事典プロジェクト{{仮リンク|GNUPedia|en|GNE (encyclopedia)}}の開発を提唱。[[ユーリ・ルビンスキー記念賞]]受賞。 * 2001年 - [[武田賞]]を受賞。[[グラスゴー大学]]名誉博士号。 * 2002年 - 全米技術アカデミー会員。 * 2007年 - パビア大学名誉博士号。 * 2009年 - レイクヘッド大学名誉博士号。 *2019年 - [[MITコンピュータ科学・人工知能研究所|CSAIL]]と[[フリーソフトウェア財団|FSF]]代表理事辞任<ref>{{Cite web|title=Computer scientist Richard Stallman resigns from MIT after defending Jeffrey Epstein|url=https://www.cnet.com/news/computer-scientist-richard-stallman-resigns-from-mit-after-defending-jeffrey-epstein/|website=CNET|accessdate=2019-09-17|language=en|first=Steven|last=Musil}}</ref> *2021年 - FSF理事復帰<ref>{{Cite web|和書|title=リチャード・ストールマン氏がフリーソフトウェア財団の理事に復帰|url=https://japan.zdnet.com/article/35168218/|website=ZDNet Japan|date=2021-03-23|accessdate=2021-03-30|language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=たった一通のメールで代表辞任に追い込まれたリチャード・ストールマンがフリーソフトウェア財団に復帰|url=https://gigazine.net/news/20210322-richard-stallman-back-free-software-foundation/|website=GIGAZINE|accessdate=2021-03-30|language=ja}}</ref>。 == MITでの活動 == === 大学院生として === 最終的には、AI研のプログラマとなる道を選び、博士研究を断念することになるものの、ストールマンは研究者としてもいくつか重要な業績を残している。例えば、1977年には、Gerald Jay Sussman と TMS (Truth maintenance system) に関する論文を発表しており<ref>{{cite web | last = Stallman | first = Richard M | coauthors = Sussman, Gerald J | year = 1977 | title = Forward Reasoning and Dependency-Directed Backtracking In a System for Computer-Aided Circuit analysis | publisher = Artificial Intelligence 9 | accessdate = 2011/4/11 | pages = 135–196 | url = http://citeseer.ist.psu.edu/mcallester90truth.html }}</ref>、これはある種の先駆的な業績とされている。 === プログラマとして === ストールマンはハーバード大学在学中から、MITのAI研にてプログラマをしていた。AI研での活動はMITの院生となってからも続き、1984年にMITの職を辞すまで続くことになる。ここでの重要な実績としては、[[TECO]]、[[Emacs]]、[[LISPマシン]]OSの開発が挙げられる。 === ハッカー文化の旗手として === 1970年代の後半から1980年代の初めにかけて、MITのハッカー文化は徐々に解体していったが、ストールマンはこの衰退に対する熱烈な批判者として活躍した。 1977年、MIT CS研はパスワード制を導入し、これまで自由であった匿名アクセスを禁止する。これに対しストールマンはパスワードを解読する方法を見つけた上で、パスワードを空白文字に変更するよう促す(実質的に旧来通りの匿名アクセスを可能にできる)メッセージを付け、パスワードの入ったメッセージを各人に送りつけるという反対運動を行う。パスワード制を覆すまでには至らなかったものの、これにより全体の20%がストールマンに賛同し、パスワードを変更する。 同時期に、ソースコードを配布するという文化が廃れ、コピーライトを用いてコピーや再配布を制限するのが一般化した。この代表が[[Scribe]]であり、1979年にはこのソフトウェアに一種の「時限装置」が組み込まれ、ライセンス無しのアクセスが強力に禁止されるに至る。この制約に対して、ストールマンは「(ユーザーの自由を制限することは)[[人道に対する罪]](crime against humanity)である」<ref name=freeasinfreedom-Chap6>{{cite book|author=Williams, Sam|title=Free as in Freedom: Richard Stallman's Crusade for Free Software|publisher=O'Reilly Media|year=2002|isbn=0-596-00287-4}} Chapter 6. Available under the [[GFDL]] in both the initial [http://www.oreilly.com/openbook/freedom/ch06.html O'Reilly edition] (accessed on 27 October 2006) and the updated [http://www.faifzilla.org/ch06.html FAIFzilla edition] . Retrieved 27 October 2006.</ref> と痛烈に批判する。 そして、1980年代に入ると、LISPマシンの開発を巡り、AI研内部がベンチャーキャピタルの融資を拒否するLMI社と融資を受け入れる[[シンボリックス|Symbolics]]社に分裂。両社ともプロプライエタリなソフトウェアを提供していたが、ストールマンはハッカーコミュニティに親和的であった前者を支持し、1982年から1983年にかけてSymbolics社のプログラムのクローンをする作業に取り組む。 == GNUプロジェクト == === プロジェクトの創設 === 1983年9月、GNU OS計画の概要を[[ARPANET]]上の複数のメーリングリストと[[USENET]]で公表。1985年には[[GNU宣言]]を発表し、「GNU」という名前の自由な[[UNIX]]互換OSの開発を正式に提唱する。同年10月に非営利団体の[[フリーソフトウェア財団]]を創設し、1989年には[[プログラミング自由連盟]]を共同設立する。 === プロジェクトの成果 === [[GNUプロジェクト]]は、まもなくして多くの成果をもたらすことになった。実際に、1990年までに多くのGNUシステムの開発が完了し、ストールマン自身が開発に携わったものだけでも[[Emacs]]・[[GCC]]・[[GNUデバッガ|GDB]]・[[gmake]]といったソフトウェアが生み出されている。ただし、本来の目的であったカーネル自体の開発は遅れ、2024年現在も未だに一般的に利用できるまでに成熟していない。 さらに、このプロジェクトの中で、ソフトウェアの変更と再配布の権利を法的に保護する[[コピーレフト]]の概念が広まったことも成果の一つに数えられる。このコピーレフトの概念は、GNU Emacs General Public License において初めて実装されたが、1989年にはどのソフトウェアにも用いることのできるライセンスとして [[GNU General Public License]] がストールマンの手で書かれている。 === 論争 === 一方で、GNUプロジェクトは、特に思想面において数々の論争を引き起こすプロジェクトでもあった。例えば、1992年前後には、[[GNU Emacs]]をめぐりLucid社の開発者との対立が表面化し、結果的に[[XEmacs]]の分岐を招いた。また、1991年に[[リーナス・トーバルズ]]がGNUの開発ツールを採用して以来、GNUのプログラムは[[Linux]]に移植されて広く用いられるようになったが、これは今日まで続く [[GNU/Linux]] という名前を巡る論争を引き起こすことになる。ここでプロジェクトの理念的な側面を重視して、GNUの名前を用いることを強固に主張したのは他ならぬストールマンであった。 このストールマンの強い思想性に対する評価は分かれている。ジャーナリストのアンドリュー・レオナルドは、ストールマンの「決して妥協しない頑固さ」を才能ある有能なプログラマに共通に見られる特徴だとする<ref>{{cite web|url=http://dir.salon.com/story/tech/books/2002/04/02/stallman/print.html |last=Leonard |first=Andrew |title=Code free or die|work=[[Salon.com]] |accessdate=2011-04-13}}</ref>。 {{Bquote|ストールマンの妥協しない姿勢には、何か安心させてくれるものがある。勝つにせよ負けるにせよ、ストールマンは決してあきらめない。彼は死ぬまで農場の最も頑固なロバでありつづけることだろう。これを「決意が固い」と言うにせよ、あるいは「単に意固地なだけ」と呼ぶにせよ、彼のひたむきな姿勢や厳格なまでの誠実さは、調子のよいことばかりを言う広報担当や何億円もの金をかけたマーケティングが跳梁する世界における、一服の清涼剤のようなものなのである。|||アンドリュー・レオナルド|Salon.com}} === 海外での活動 === 2004年、ストールマンは[[ベネズエラ]]でフリーソフトウェアの採用を訴える講演を行い、[[ウゴ・チャベス|チャベス大統領]]から好意的な反応を得ている<ref>Stallman, Richard. [http://www.fsf.org/blogs/rms/entry-20041206 "Encounter with President Chavez (2004-12-01 to 2004-12-06)"]. ''Richard Stallman Travel and Free Software Activities Journal''.</ref><ref>{{cite web|url=http://www.stallman.org/archives/2007-may-aug.html#27%20July%202007%20(Chavez%20threatens%20dignitaries)|title=Chavez threatens dignitaries| accessdate=2011-04-23}}</ref>。また、2006年には[[インド]]の[[ケーララ州]]政府との交渉の場を持ち、同州にある一万校余りの高校のコンピューターのOSを[[Microsoft Windows|Windows]]から[[GNU/Linux]]に切り替えさせることに成功している<ref>{{cite web|url=http://www.financialexpress.com/fe_full_story.php?content_id=138464 |title=Kerala logs Microsoft out |publisher=The Financial Express |date= |accessdate=2011-04-23}}</ref>。 == 人物 == === 私生活 === ストールマンは質素な生活で知られる。たとえば、彼は、リサーチ・アフィリエイトとしてMITに在籍しているが無給である。また、同大学のCSAIL(コンピュータ科学・人工知能研究所)にオフィスを構えている以外には、定住のための住居を持っていない。彼は、この生活について「私はいつも安上がりな生活をしてきた……つまり学生みたいにね。私はそういう生活が好きなんだ。そういう生活なら、カネの言いなりになる必要がないからね」<ref name="nyu-2001-05-29">{{cite web |last=Stallman |first=Richard |title=Transcript of Richard M. Stallman’s speech |publisher=Free Software Foundation |date=2001-05-29 |url=http://www.gnu.org/events/rms-nyu-2001-transcript.txt |accessdate=2006-11-26}}</ref> としている。 また、[[プライバシー]]の問題に強い意識を抱いていることでも知られている。たとえば、追跡を受けることで重大なプライバシー侵害が生じうるという理由<ref>{{cite web | url = http://www.accessdataservices.com/blog/richard-stallman-a-rare-glimpse-into-richard-stallmans-world/ | title = A Rare Glimpse Into Richard Stallman's World | accessdate=2011-05-09 }}</ref> で[[携帯電話]]を持たないことを推奨している<ref>{{cite web | url = http://www.fsfeurope.org/projects/gplv3/barcelona-rms-transcript.ca.html#draft2-preview | title = Transcript of Richard Stallman at the 3rd international GPLv3 conference; 22nd June 2006 | accessdate=2011-05-09}}</ref>。また、同様に入室の時間と回数の追跡が可能になるという理由で、オフィスのある建物のカードキーを使うことを避けている<ref>{{cite web | url = http://www.bostonmagazine.com/articles/the_shaggy_god/ | title = The Shaggy God | accessdate=2011-05-09}}</ref>。さらに、「個人的な理由」から、[[GNU]]や[[フリーソフトウェア財団|FSF]]の自分のページかそれに関連するページ以外は自分のコンピューターから直接ブラウズすることはないと述べている。そして、その代わりとして、[[wget]]を動かしているサーバーにメールを送り、見たいページをメールで送らせるという方法を用いているという<ref>{{cite web |url=http://thread.gmane.org/gmane.os.openbsd.misc/134336/focus=134979 |title=Real men don't attack straw men |accessdate=2009-03-24 |author=Stallman, Richard |date=2007-12-15 |publisher=OpenBSD 'misc' Mailing List |quote=For personal reasons, I do not browse the web from my computer}}</ref><ref name="computing"> {{cite web |url=http://stallman.org/stallman-computing.html |title=How I do my computing |accessdate=2023-09-03}}</ref>。 彼は{{仮リンク|Libreboot|label=Libreboot|en|Libreboot}}と呼ばれる[[BIOS]]の自由ソフトウェアな実装を導入した[[ThinkPad X#ThinkPad X20x系|Thinkpad X200]]を使用し、[[GNU FSDG]]に適合する完全に自由な[[GNUディストリビューション]]である[[Trisquel GNU/Linux]]を使用している<ref name="computing"/>。 キーボードは[[Happy Hacking Keyboard]]を愛用していることで知られる<ref>{{Cite web|和書|url=https://akiba-pc.watch.impress.co.jp/docs/event/1083181.html|title=「HHKB 20周年記念ユーザーミートアップ」イベントレポート|publisher=AKIBA PC Hotline!|accessdate=2019-12-16|date=2017-10-02|author=関根慎一}}</ref>。 ストールマンは、多言語話者でもある。彼の母国語は[[英語]]であるが、彼はそれに加えて[[スペイン語]]と[[フランス語]]も流暢に話すことができる。実際にこれらの言語で二時間のスピーチも行っている。本人によれば、カタコトではあるが、[[インドネシア語]]も使えるという<ref>http://mail.gnome.org/archives/foundation-list/2011-January/msg00043.html</ref>。 === 趣味 === ストールマンは[[コンロン・ナンカロウ]]<ref>{{cite web | url = http://slashdot.org/interviews/99/10/08/1147217.shtml | title = Bruce Sterling interview | accessdate=2011-05-09}}</ref> から[[フォークソング|フォーク音楽]]<ref>{{cite web | url = http://stallman.org/#humorousbio | title = Humorous bio | accessdate=2011-05-09}}</ref> に至るまでの幅広い音楽を好んでいる。[[:en:Béla Fleck and the Flecktones|ベラ・フレック&ザ・フレックトーンズ]]や[[アル・ヤンコビック|ウィアード・アル・ヤンコビック]]も好きであると述べている<ref>{{cite web | url = http://web.mit.edu/echemi/www/040324.html | title = Richard Stallman Playlist | accessdate=2011-05-09}}</ref>。 彼は作曲も行っており、[[ブルガリア]]のフォークダンス音楽「サディ・モマ」の替え歌として[[フリーソフトウェアの歌]]を作っている。最近では、キューバのフォークソング「グアンタナメラ[[:en:Guantanamera|(英語)]]」を元に、グアンタナモ米軍基地の囚人のことを歌った歌を書き上げ、キューバにて現地の音楽家とともにレコーディングしている<ref>{{cite web | last = Stallman | first = Richard M | title = Guantanamero | url = http://stallman.org/guantanamero.html | accessdate = 2007-05-04}}</ref> また、ストールマンは[[サイエンス・フィクション|SF]]のファンでもあり、[[グレッグ・イーガン]]の作品を好んでいるという。ストールマン自身、「The Right to Read」と「Jinnetic Engineering」という二つのSF作品を書き上げている。 === 宗教 === 1999年の記事の注釈によれば「私は無神論者なので、どの宗教的指導者にも従おうとは思わないが、ときに彼らの言ったことには尊敬の念を覚える」としている<ref name=OpenSources>{{cite book|author=Various|title=Open Sources: Voices from the Open Source Revolution|publisher=O'Reilly Media|year=1999|isbn=1-56592-582-3|chapter=Stallman chapter|chapterurl=http://www.oreilly.com/catalog/opensources/book/stallman.html|accessdate=2006-12-09}}</ref>。 なお、ストールマンは[[12月25日]]をクリスマスではなくGrav-massとして祝うことを提唱している。これは[[万有引力]]({{en|universal '''grav'''itation}})の法則を発見した[[アイザック・ニュートン]]を祝う日であり、彼が[[ユリウス暦]]の12月25日に生まれたことにちなむものである。 === 政治 === 影響を受けた人物について、ストールマンは、[[マハトマ・ガンディー]]、[[マーティン・ルーサー・キング・ジュニア|キング牧師]]、[[ネルソン・マンデラ]]、[[アウンサンスーチー]]、[[ラルフ・ネーダー]]、[[デニス・クシニッチ]]の名前を挙げたうえ、「[[フランクリン・ルーズベルト]]や[[ウィンストン・チャーチル]]も尊敬しているよ。彼らの行ったことの一部には批判的なんだけどね」と述べている。また、ストールマンは、[[緑の党]]の支持者であり、国民投票による立法制度の実現を目指すナショナル・イニシアティブ運動の支持者でもある<ref>{{cite web|url=http://www.stallman.org|title=Richard Stallman's Personal Page|quote=Long Term Action Items: Support the National Initiative for Democracy | accessdate = 2011-05-09 }}</ref>。 ストールマンは、[[電子投票]]の反対者でもある。実際に、2008年3月1日に行われたマンチェスターでの講演の中で、投票用紙のコピーさえあれば再集計がより容易であるという理由で、ストールマンは紙による投票を擁護している<ref>{{cite speech | title = Free Software in Ethics and Society | author = Stallman, Richard | date = 2008-05-01 | location = Manchester, England | url = http://www.youtube.com/watch?v=MlAGFScFXYk | accessdate = 2011-05-09 }}</ref>。 == 関連項目 == {{Portal|FLOSS|[[ファイル:FLOSS logo.svg|41px]]}} *[[ハッカー]] *[[フリーソフトウェア運動]] *[[著作権]] *[[聖イグヌチウス]] == 参考文献 == {{Reflist}} == 外部リンク == {{Commons|Richard Stallman}} * {{公式サイト|name=Richard Stallman's Personal Page}} 公式ウェブサイト * インタビュー ** [http://www.yamdas.org/column/technique/rmsonp2pj.html Richard Stallman、P2Pを語る] (コピーレフトで公開) ** [https://srad.jp/story/03/04/13/0919240/ スラッシュドット・ジャパンでのリチャード・M・ストールマンへのインタビューの翻訳] ** [https://web.archive.org/web/20070531175827/http://hotwired.goo.ne.jp/matrix/9709/2_1.html 山形浩生によるインタビュー(1997年)] ** [http://think-gnu-distribution.appspot.com/html/tgb03.html 「copyleft」は賢いジョークの王様だ] ([http://think-gnu-distribution.appspot.com/html/tga00.html Think GNU] より) * [http://www.linuxdevcenter.com/pub/a/linux/2004/12/22/rms_interview.html Freedom, Innovation, and Convenience: The RMS Interview (2004年)] * [https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/0503/09/news039.html ITmedia Sunの無意味な発表 (2005年)] * [https://japan.cnet.com/article/20080206/ 見直しがすすむGPL (2005年)] * [http://sourceforge.jp/magazine/05/04/28/0243241 BitKeeperとの決別はハッピーエンド (2005年)] japan.linux.com ([[SourceForge.JP]] Magazine) * {{青空文庫著作者|335|ストールマン リチャード}} * [http://sourceforge.jp/magazine/06/05/09/0226237 Stallmanの理念に準じたサイン販売 (2006年)] japan.linux.com ([[SourceForge.JP]] Magazine) * [https://japan.cnet.com/article/35142760/ リチャード・ストールマン氏がフリーソフトウェア財団とMITの役職辞任--疑惑の投資家関連コメント巡り (Cnet Japan 2019年9月17日記事)] {{Linux}} {{GNU}} {{フリーソフトウェア財団}} {{典拠管理}} {{DEFAULTSORT:すとおるまん りちやあと}} [[Category:アメリカ合衆国のプログラマ]] [[Category:アメリカ合衆国の計算機科学者]] [[Category:アメリカ合衆国の活動家]] [[Category:グレース・ホッパー賞の受賞者]]<!-- 1990年 --> [[Category:EFFパイオニア賞の受賞者]]<!-- 1998年 --> [[Category:ユーリ・ルビンスキー記念賞の受賞者]]<!-- 1999年 --> [[Category:ACMソフトウェアシステムアワードの受賞者]]<!-- 2015年 --> [[Category:アメリカ芸術科学アカデミー会員]] [[Category:全米技術アカデミー会員]] [[Category:マッカーサー・フェロー]] [[Category:フリーソフトウェア財団]] [[Category:コンピュータの文化]] [[Category:ハッカー]] [[Category:UNIXに関係する人物]] [[Category:MITコンピュータ科学・人工知能研究所の人物]] [[Category:東欧ユダヤ系アメリカ人]] [[Category:ニューヨーク市出身の人物]] [[Category:1953年生]] [[Category:存命人物]]
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GNU Hurd
GNU Hurd(グヌー ハード)は、GNU Mach上で動作し、オペレーティングシステム (OS) の機能を提供するサーバ群。GNUプロジェクトによって開発されている。 Hurdはカーネルと説明されることが多いが、厳密にはマイクロカーネルであるMachと、その上で動くサーバ群であるHurdの組合せによって、一般的なカーネルのサービスを提供する。 Hurdは、「Hird of Unix Replacing Daemons.」の頭文字であり、さらにHirdは、「Hurd of Interfaces Representing Depth.」の頭文字である。また、「herd of gnus」(ヌーの群れ)とも掛けている。 リチャード・ストールマンが提唱し、1990年から開発が始まった。UNIX代替品の開発を目標とするGNUプロジェクトにとって、カーネルに相当するHurd(及びMach)の開発は最重要課題とも言えるが、その開発スピードは遅く、2011年現在でも正式版のリリースには至っていない。また、Hurdを採用したディストリビューションとして、Debian GNU/Hurdによる開発版が存在するが、これについても公式版のリリース時期は未定である。 開発の遅れにより、UNIX互換のフリーなカーネルとしては、GNUプロジェクトによるものではないLinuxがデファクトスタンダードとなっている。Linuxとの開発スピードの違いについて、エリック・レイモンドは『伽藍とバザール』で、カテドラル方式(伽藍方式)とバザール方式の違いによると主張している。一方、ストールマンは、開発の遅れはマイクロカーネルのデバッグが予想以上に難しかったためであり、LinuxがHurdに比べ早く開発できたのは、Linuxがモノリシックカーネルであることによるとし、自分の戦略的なミスであったと述べている。 特に断らない限りGNUプロジェクト自身によるドキュメントを出典とする。 1986年2月、リチャード・ストールマンがGNUの公式カーネルとしてマサチューセッツ工科大学で開発されたTRIX(英語版)を使用すると表明し、同年12月までにフリーソフトウェア財団(以下FSF)はTRIXの改良を開始した。 1987年〜1988年ごろ、FSFは自分でTRIXを改良するよりも、別の人の手によるカーネルを使いたいと考え始める。当時の候補としてはTRIXを改良し続けることの他にカリフォルニア大学バークレー校で開発されたspriteを使うこと、そしてカーネギーメロン大学で開発され後に公式カーネルとなるMachを使うことがあった。 1990年、Machが4.3BSDに関する部分をカーネルからユーザランドへ除出することでGNUの再配布ライセンスに適合するようになると、FSFはMachの上で動くHurdの開発を開始した。ここにMachがGNUの公式カーネルとなった。 1994年4月にブートができ、ファイルシステム、認証サーバ、initなどを動かすことに成功する。同年7月にはemacsを、11月にはgccを動かすことにも成功した。 1996年4月に、バージョン0.0(テスト版)のソースコード及びi386アーキテクチャ上で動くバイナリが公開される。 1997年6月、他のGNUソフトウェアと組み合わせて完全なOSとして利用できるバージョン0.2がリリースされた。またDebianプロジェクトによるコンパイル済みバイナリDebian GNU/Hurdも配布されている。しかし、製品レベルのシステムと比べて期待されるようなパフォーマンスや安定性を達成できていない状態であり、現在も開発中で正規版をリリースするには至っていない。 多くのUNIX系カーネルと違って、Hurdはマイクロカーネルの上に構築された、サーバ-クライアントアーキテクチャを採用している。このマイクロカーネルは、もっとも基本的なカーネルのサービスを提供するのに用いられており、それはハードウェアへのアクセスを調整することである。これには、CPU(プロセスマネジメントとスケジューリングを通じて)、RAM(メモリ管理を通じて)、音声、グラフィックス、マスストレージなど、その他多様なインプット/アウトプットデバイス(I/Oスケジューリングを通して)の調整が含まれる。マイクロカーネルの設計理論は、全てのデバイスドライバに、ユーザースペースで動くサーバーとしてビルトされることを許すが、今日多くのドライバーは依然としてGNU Machのカーネルスペースに含まれている。 Hurdの開発者によると、マイクロカーネルベースの設計の利点は、システムを拡張することができることである。これは、新しいモジュールを開発するとき、残りの部分のカーネルに関する深い知識を必要とせず、ひとつのモジュールにあるバグがシステム全体をクラッシュさせることもない。Hurdはtranslatorsという概念を提供しており、これは機能的にファイルシステムを拡張するモジュールのフレームワークである。 2004年以降、Hurdをさらにモダンなマイクロカーネルにポートする努力が行われている。これにはL4マイクロカーネルやCoyotosマイクロカーネルなどを含む。 Debianのドキュメンテーションによると、18のコアサーバと6のファイルシステムサーバからなる24のサーバが存在している。それは以下の通りである。 サーバは、集合的にPOSIX APIを実装しており、それぞれのサーバがインターフェースの一部の実装となっている。例として、様々なファイルシステムサーバは、ファイルシステムコールの実装となっている。ストレージサーバは、ラッピングレイヤーとして機能する。これはLinuxのブロックレイヤーのようなものである。LinuxのVFSと同様のものが、libdiskfsとlibpagerによって達成されている。
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GNU Hurdは、GNU Mach上で動作し、オペレーティングシステム (OS) の機能を提供するサーバ群。GNUプロジェクトによって開発されている。 Hurdはカーネルと説明されることが多いが、厳密にはマイクロカーネルであるMachと、その上で動くサーバ群であるHurdの組合せによって、一般的なカーネルのサービスを提供する。 Hurdは、「Hird of Unix Replacing Daemons.」の頭文字であり、さらにHirdは、「Hurd of Interfaces Representing Depth.」の頭文字である。また、「herd of gnus」(ヌーの群れ)とも掛けている。
{{Infobox OS |name = GNU Hurd | logo = Hurd-logo.png | logo_size = 100px | logo_caption = GNU Hurd logo | screenshot = Debian GNU HURD text mode screenshot.png | screenshot_size = 300px | caption = Software running on Hurd. |developer = [[GNU|GNUプロジェクト]]<br />({{仮リンク|トーマス・ブッシュネル|en|Thomas Bushnell}}<br />ローランド・マクグラス<br />Marcus Brinkmann<br />他) | programmed_in = [[アセンブリ言語]]・[[C言語]] |family = [[Unix系]] |working_state = 開発中 |source_model = [[フリーソフトウェア]] |latest_release_version = 0.9 |latest_release_date = {{Release_date|2016|12|18}} | repo = {{URL|http://git.savannah.gnu.org/cgit/hurd}} | supported platforms = [[x86-64]], [[IA-32]], [[P6 (microarchitecture)|i686]] |kernel_type = [[マイクロカーネル]] |license = [[GNU General Public License]] |website = {{URL|https://www.gnu.org/software/hurd/}} |support_status = 有 }} '''GNU Hurd'''(グヌー ハード)は、[[GNU Mach]]上で動作し、[[オペレーティングシステム]] (OS) の機能を提供する[[マイクロカーネル#サーバ|サーバ]]<ref>[[UNIX]]で言う[[デーモン (ソフトウェア)|デーモン]]</ref>群。[[GNUプロジェクト]]によって開発されている。 Hurdは[[カーネル]]と説明されることが多いが、厳密には[[マイクロカーネル]]であるMachと、その上で動くサーバ群であるHurdの組合せによって、一般的なカーネルのサービスを提供する。 '''Hurd'''は、「'''H'''ird of '''U'''nix '''R'''eplacing '''D'''aemons.」の頭文字であり、さらに'''Hird'''は、「'''H'''urd of '''I'''nterfaces '''R'''epresenting '''D'''epth.」の頭文字である。また、「herd of gnus」([[ヌー]]の群れ)とも掛けている。 == 概要 == [[リチャード・ストールマン]]が提唱し、[[1990年]]から開発が始まった<ref>現在ストールマン自身は開発に加わっていない</ref>。UNIX代替品の開発を目標とするGNUプロジェクトにとって、カーネルに相当するHurd(及びMach)の開発は最重要課題とも言えるが、その開発スピードは遅く、2011年現在でも正式版のリリースには至っていない。また、Hurdを採用した[[ディストリビューション]]として、[[Debian GNU/Hurd]]による開発版が存在するが、これについても公式版のリリース時期は未定である。 開発の遅れにより、UNIX互換の[[フリーソフトウェア|フリー]]なカーネルとしては、GNUプロジェクトによるものではない[[Linux]]が[[デファクトスタンダード]]となっている。Linuxとの開発スピードの違いについて、[[エリック・レイモンド]]は『[[伽藍とバザール]]』で、[[カテドラル方式]](伽藍方式)と[[バザール方式]]の違いによると主張している。一方、ストールマンは、開発の遅れは[[マイクロカーネル]]のデバッグが予想以上に難しかったためであり、LinuxがHurdに比べ早く開発できたのは、Linuxが[[モノリシックカーネル]]であることによるとし、自分の戦略的なミスであったと述べている<ref>ed. Joshua Gay, ''Free Software, Free Society: Selected Essays of Richard Stallman'', Boston: GNU Press, 2002.</ref>。 == 歴史 == 特に断らない限りGNUプロジェクト自身によるドキュメント<ref>{{Cite web |url=http://www.gnu.org/software/hurd/history.html |title=GNU Hurd/ history |publisher=Free Software Foundation, Inc. |accessdate=2015-11-29}}</ref>を出典とする。 1986年2月、リチャード・ストールマンが[[GNU]]の公式カーネルとして[[マサチューセッツ工科大学]]で開発された{{仮リンク|TRIX (カーネル)|en|Trix (operating system)|label=TRIX}}を使用すると表明し、同年12月までに[[フリーソフトウェア財団]](以下FSF)はTRIXの改良を開始した。 1987年〜1988年ごろ、FSFは自分でTRIXを改良するよりも、別の人の手によるカーネルを使いたいと考え始める。当時の候補としてはTRIXを改良し続けることの他に[[カリフォルニア大学バークレー校]]で開発されたspriteを使うこと、そして[[カーネギーメロン大学]]で開発され後に公式カーネルとなる[[Mach]]を使うことがあった。 1990年、Machが4.3BSDに関する部分をカーネルからユーザランドへ除出することでGNUの再配布ライセンスに適合するようになる<ref>4.3BSDのライセンス問題については[[Berkeley Software Distribution]] (BSD) を参照のこと。</ref>と、FSFはMachの上で動くHurdの開発を開始した。ここにMachがGNUの公式カーネルとなった。 {{See also|[[:en:Mach_(kernel)#Development]]}} 1994年4月にブートができ、ファイルシステム、認証サーバ、[[init]]などを動かすことに成功する。同年7月にはemacsを、11月にはgccを動かすことにも成功した。 1996年4月に、バージョン0.0(テスト版)のソースコード及びi386アーキテクチャ上で動くバイナリが公開される。 1997年6月、他のGNUソフトウェアと組み合わせて完全なOSとして利用できるバージョン0.2がリリースされた。また[[Debianプロジェクト]]によるコンパイル済みバイナリ[[Debian GNU/Hurd]]も配布されている。しかし、製品レベルのシステムと比べて期待されるようなパフォーマンスや安定性を達成できていない状態<ref>{{Cite web |url=http://www.debian.org/ports/hurd/ |title=Debian GNU/Hurd |publisher=Software in the Public Interest, Inc. and others |accessdate=2015-11-29}}</ref>であり、現在も開発中で正規版をリリースするには至っていない。 == アーキテクチャ == 多くの[[UNIX系]]カーネルと違って、Hurdは[[マイクロカーネル]]の上に構築された、サーバ-クライアントアーキテクチャを採用している。このマイクロカーネルは、もっとも基本的なカーネルのサービスを提供するのに用いられており、それは[[ハードウェア]]へのアクセスを調整することである。これには、[[CPU]]([[プロセス]]マネジメントとスケジューリングを通じて)、[[Random Access Memory|RAM]]([[メモリ]]管理を通じて)、音声、グラフィックス、マスストレージなど、その他多様なインプット/アウトプットデバイス(I/Oスケジューリングを通して)の調整が含まれる。マイクロカーネルの設計理論は、全てのデバイスドライバに、ユーザースペースで動くサーバーとしてビルトされることを許すが、今日多くのドライバーは依然として[[GNU Mach]]のカーネルスペースに含まれている<ref name="device-drivers-in-mach" />。 Hurdの開発者によると、マイクロカーネルベースの設計の利点は、システムを拡張することができることである。これは、新しいモジュールを開発するとき、残りの部分のカーネルに関する深い知識を必要とせず、ひとつのモジュールにあるバグがシステム全体をクラッシュさせることもない。Hurdは''translators''という概念を提供しており、これは機能的に[[ファイルシステム]]を拡張するモジュールのフレームワークである<ref name="Doeppner2010">{{cite book |last=Doeppner |first=Thomas W. |date=20 December 2010 |title=Operating Systems In Depth: Design and Programming |publisher=John Wiley & Sons |isbn=978-0-471-68723-8 |page=160 |url=https://books.google.com/books?id=xX5tfrAQQ8cC |accessdate=29 November 2012 }}</ref>。 === 他のマイクロカーネル === [[2004年]]以降、Hurdをさらにモダンなマイクロカーネルにポートする努力が行われている。これにはL4マイクロカーネルやCoyotosマイクロカーネルなどを含む<ref name="l4-and-coyotos-mess" />。 === サーバ群のアーキテクチャ === [[Debian]]のドキュメンテーションによると、18のコアサーバと6のファイルシステムサーバからなる24のサーバが存在している。それは以下の通りである<ref name="debian-hurd-doc" />。 ==== コアサーバ ==== *'''auth'''(authentication sever): プログラムからの要求とパスワードを受け取り、それらのプログラムにシステムの権限を変更するIDを与える。 *'''crash'''(crash server): 致命的なエラーをハンドルする *'''eieio'''(translation server): TODO *'''exec'''(execution server): 実行可能(executable)なイメージ(現在は[[Executable and Linkable Format|ELF]]と[[a.out]]がサポートされている)をメモリ上の実行可能なイメージ(runnable)に変換する *'''fifo'''([[FIFO]] translator): 命名済みパイプを実装する *'''new-fifo'''(new FIFO server): 命名済みパイプに対する異なるサーバ *'''firmlink'''(the firmlink translator): firmlinksの実装 *'''fwd'''(forward server): 要求を他のサーバに伝える、fifoとsymlinkサーバによって利用される *'''hostmux'''(host multiplexer sever) *'''ifsock'''(server for sockets interface): UNIXドメインのソケットアドレスを補助する *'''init'''([[init]] server): 基本的なシステムのブートと設定 *'''magic'''(magic server): プロセスの状態に結果が関係するときに、プロセスによって内部的に行われる必要のある名前解決をシグナルする *'''null'''(null server): /dev/nullと/dev/zeroの実装 *'''pfinet'''(pifnet server): PF_INETプロトコルファミリの実装 *'''pflocal'''(pflocal server): UNIXドメインソケットの実装 *'''proc'''(process server): PIDを割り当て、プロセスレベルのアクションを管理する *'''symlink'''(symbolic link translator): ファイルシステムによってサポートされていない場合の[[シンボリックリンク]]の実装 *'''term'''(terminal server): [[POSIX]]のターミナル *'''usermux'''(user multiplexer server): ユーザ特有のトランスレータを発動する ==== ファイルシステムサーバ ==== ;'''ext2fs''' :[[ext2]]ファイルシステムのトランスレータ。ディスクブロックをマイクロカーネルから受け取り、ファイルとディレクトリをアプリケーションに与える。 ;'''isofs''' :[[ISO 9660]]ファイルシステムのトランスレータ。CDやDVDのブロックを、アプリケーションのためのファイルやディレクトリに変換する。 ;'''nfs''' :[[NFS]]を参照のこと。 ;'''ufs''' :BSDにおける同名のファイルシステム([[UFS]])のためのトランスレータ。 ;'''ftpfs''' :[[FTP]]プロトコルファイルシステムのトランスレータ ;'''storeio''' :ストレージトランスレータ サーバは、集合的に[[POSIX]] [[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を実装しており、それぞれのサーバがインターフェースの一部の実装となっている。例として、様々なファイルシステムサーバは、ファイルシステムコールの実装となっている。ストレージサーバは、ラッピングレイヤーとして機能する。これは[[Linux]]のブロックレイヤーのようなものである。Linuxの[[VFS]]と同様のものが、libdiskfsとlibpagerによって達成されている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2|refs= <ref name="device-drivers-in-mach">{{cite mailing list | url = http://lists.gnu.org/archive/html/bug-hurd/2007-03/msg00089.html | title = Re: Device drivers in Mach? | first = Constantine | last = Kousoulos | mailinglist = bug-hurd | date = 2007-03-21 }}</ref> <ref name="l4-and-coyotos-mess">{{cite mailing list | url = http://lists.gnu.org/archive/html/l4-hurd/2006-07/msg00004.html | title = Re: seL4, L4.sec and coyotos mess | first = Tom | last = Bachmann | mailinglist = l4-hurd | date = 2006-07-07 }}</ref> <ref name="debian-hurd-doc">{{cite web |title=Preliminary GNU/Hurd User Interface Description |work=[[Debian]] |date=1996-10-10 |url=http://www.debian.org/ports/hurd/hurd-doc-server |accessdate=2010-03-04}}</ref> }} == 関連項目 == * [[GNU Mach]] * [[Linuxカーネル]] == 外部リンク == {{Commons}} * {{Official website}} - GNU Hurd {{En icon}} * [http://www.hurd.jp/ Hurd-JP プロジェクト]{{Ja icon}} * [https://www.debian.org/ports/hurd/index.ja.html Debian -- Debian GNU/Hurd]{{Ja icon}} {{GNU}} {{Unix-like}} {{FLOSS-stub}} [[Category:フリーソフトウェアOS]] [[Category:OSのカーネル]] [[Category:Unix系オペレーティングシステム]] [[Category:GNUプロジェクト]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU_Hurd
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GNU
GNU(グヌー、[ɡnuː] ( 音声ファイル))とはオペレーティングシステム であり、かつコンピュータソフトウェアの広範囲に渡るコレクションである。GNUは完全にフリーソフトウェアから構成されている。 GNUは"GNU's Not Unix!"(「GNUはUNIXではない」)の再帰的頭字語である。この名称が選ばれたのは、GNUはUnix系の設計ではあるがUNIXとは違いフリーソフトウェアでありUNIXに由来するソースコードを全く使っていないことを示すためである。GNUの正式な発音は「グヌー」である。一般的な英語では、gnuは「ヌー」と発音し、ウシカモシカまたはヌーと呼ばれる動物をさす言葉である。GNUプロジェクトは自らの名称の呼び方について「it is pronounced g-noo, as one syllable with no vowel sound between the g and the n.(gとnの間に母音がない1音節として、g-nooと発音する)」と要請している。 GNUプロジェクトには、元々フリーソフトウェア財団が重点を置いていたオペレーティングシステムのカーネルであるGNU Hurdが含まれている。しかしながらGNU Hurd以外のカーネルもGNUソフトウェアと共に利用できる。そのようなカーネルとして最も有名なものはLinuxカーネルである。GNUのカーネルにLinuxカーネルを用いるのが一般的な理由は、GNUのカーネルがGNUの中で最も成熟していない部分のためである。GNUソフトウェアとLinuxカーネルを組み合わせたものが一般的に知られるLinuxである(あまり一般的ではないがGNU/Linuxと呼ばれることがある。この呼称についてはGNU/Linux名称論争を参照すること)。 GNUには人間が容易にコンピュータにインストールして利用可能な完全なオペレーティングシステムとするためのコンポーネントである、完全な機能を持ったカーネルが未だに欠けたままである。実際には、使用可能なGNUベースオペレーティングシステムのほとんどがLinuxディストリビューションである。LinuxディストリビューションにはLinuxカーネル、GNUコンポーネント、およびGNUプロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトによるソフトウェアが多く含まれている。 プロジェクトの創設者であるリチャード・ストールマンは、GNUを「社会的目的のための技術的手段」として考えている。 GNUオペレーティングシステムの開発はマサチューセッツ工科大学 (MIT) 人工知能研究所でリチャード・ストールマンによりGNUプロジェクトとして開始され、1983年9月27日にnet.unix-wizardsおよびnet.usoftというニュースグループで彼が公式に発表した。ソフトウェア開発が始まったのは1984年1月5日であり、この日はそれまでストールマンが勤務していたMIT人工知能研究所が、GNUの所有権を主張することやフリーソフトウェアとしての配布へ干渉することを阻止するために彼が同研究所を辞めた日でもある。ストールマンが選んだGNUという名称には様々な言葉遊びが含まれており、その中にはThe Gnu(英語版)という歌も含まれている。 GNUの目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを実現することであった。ストールマンは1960年代や1970年代のコンピュータユーザーのように、ユーザーを自由にしたいと考えていた。その自由とは、使っているソフトウェアのソースコードを使って研究できる自由であり、ソフトウェアを他の人々と共有できる自由であり、ソフトウェアを修正できる自由であり、修正版を配布できる自由である。この哲学は後にGNU宣言として1985年3月に公表された。 GNU宣言の中でストールマンは「基本的カーネルは存在するが、Unixをエミュレートするにはより多くの機能が必要だ」としている。ここでストールマンが想定したカーネルは、マサチューセッツ工科大学が開発したRPC型カーネルTrix(英語版)である。これは作者がフリーソフトウェアとして配布しており、Version 7 Unixと互換性があった。そして1986年12月、開発者らはこのカーネルに修正を加える作業を開始しようとした。しかし、開発者らはこれが出発点としてはふさわしくないと判断した。何故ならTRIXは「不明確で高価な68000マシン」でしか動作せず、使用するにはまず他のアーキテクチャへの移植が必須だったからである。 ストールマンはIncompatible Timesharing System (ITS) に関わっていた。ITSはPDP-10コンピュータアーキテクチャ用にアセンブリ言語で書かれた初期のオペレーティングシステムだが、PDP-10自体が開発・製造されなくなったために消えていった。このためストールマンは移植性のあるソフトウェアが必要だと考えていた。そのため、GNUの開発にはシステムプログラミング言語としてCとLISPを使用し、さらにGNUをUNIX互換にする決定がなされた。当時UNIXは既にプロプライエタリなオペレーティングシステムとして広く使われていた。UNIXの設計はモジュール性が高く、部分ごとに再実装することが可能だった。 GNUに必要なソフトウェアの大部分は一から書かれたが、TeX組版システムやX Window System、さらにMachマイクロカーネルといった共有可能なサードパーティーフリーソフトウェアコンポーネントは既存のものを流用した。なおMachは(GNUの公式カーネルである)GNU Hurdの、GNU Machコアの基礎を形成している。前述したサードパーティーコンポーネントを除くGNUのコードの大部分はボランティアが書いたものであり、具体的には個人が余暇時間内や会社の業務内で書いた部分、および教育機関や非営利団体が書いた部分で構成されている。1985年10月、ストールマンはフリーソフトウェア財団 (FSF) を創設した。1980年代後半から1990年代にはFSFがソフトウェア開発者を雇い、GNUで必要となるソフトウェア作成を行わせた。 GNUプロジェクトの初期の計画では、BSD 4.4-Liteのカーネルを採用することになっていた。しかし、バークレーのプログラマの協力が得られなかったため、ストールマンは1988年にカーネギーメロン大学が開発したMachカーネルを採用することにした。ただし、MachにはAT&T由来のコードが使われていたため、それを取り除いてフリーソフトウェアとして使えるようになったのは1990年である。HurdのアーキテクトだったThomas Bushnellは後に、BSDカーネルの採用を見送ったことでプロジェクトは大きく後退しており、そういう意味でもBSDカーネルを採用すべきだったと述べている。 カーネルの設計は、GNUの中でもUNIXから最も大きく異なる部分である。GNUのカーネルはマルチサーバ型マイクロカーネルであり、従来のUNIXカーネルの持つ機能をサーバと呼ばれる複数のプログラムで構成している。Machのマイクロカーネルは非常に低レベルのカーネル機能しか提供していないため、GNUプロジェクトではカーネルの上位レベルの部分を一種のユーザープログラムの集合体として開発しなければならなかった。この集合体を当初Alixと呼んでいたが、Thomas BushnellはHurdと呼ぶことを好み、Alixの名はそのサブコンポーネントに移され、最終的には使われなくなった。その後、Hurdの開発は技術的問題がいくつも発生し、なかなか進展しない状況になった。 GNUが有名になるにつれて、GNUに興味を持つ企業が現れはじめた。それらの企業は開発援助をしたり、GNUのソフトウェアや技術サポートを組み合わせて商売するようになっていった。その中で最も成功した企業としてはシグナスソリューションズが知られている(同社は現在、レッドハットの一部となっている)。 1992年、最重要コンポーネントであるカーネルのGNU Hurdを除く全てのコンポーネントが完成した。1991年にはリーナス・トーバルズが独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxのバージョン0.12がGNU General Public Licenseライセンスでリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、その開発にはGCCなどのGNU製プログラミングツールが使われている。 2002年にストールマンはGNU/Hurdのリリースについて楽観的声明を発表したが、開発は2016年現在も続いている。Hurdの最新リリースはバージョン0.9である。動作はそれなりに安定しており、重要なアプリケーションを使うのでなければ十分使えるレベルである。 GNUシステムの基本コンポーネントにはGNUコンパイラコレクション (GCC)、GNU Cライブラリ (glibc) およびGNU Core Utilities (Coreutils) だけでなく、GNUデバッガ (GDB)、GNU Binutils (binutils)、GNU Bashシェル、およびGNOMEデスクトップ環境も含まれる。GNUの開発者はGNUアプリケーションやユーティリティのLinuxへの移植に貢献しており、それらのアプリケーションやユーティリティはBSDの派生、SolarisそしてmacOSといったLinux以外のオペレーティングシステムでも広く利用されている。 GNUのプログラムの多くは、Microsoft WindowsやmacOSといったプロプライエタリプラットフォームを含む他のオペレーティングシステムに移植されている。GNUのプログラムはプロプライエタリUNIX上の相当するソフトウェアよりも信頼性が高いことが示されている。 2015年11月の時点で、公式GNU開発サイトにホストされたGNUのパッケージ数は合計で466個存在する(終了したパッケージも含む。それらを除くと383個である)。 GNUプロジェクトの公式カーネルはGNU Hurdマイクロカーネルである。しかしながら、2012年の時点でLinuxカーネルがLinux-libreという形で公式にGNUプロジェクトの一部となった。Linux-libreは、Linuxカーネルから全てのプロプライエタリコンポーネントを削除した派生物である。 FreeBSDのカーネルのようなLinux以外のカーネルも、実用的なオペレーティングシステムを構成するGNUソフトウェアと連携して機能する。FSFはGNUツールやユーティリティと共に利用されるLinuxはGNUの派生とみなすべきであると主張しており、そのようなシステムをGNU/Linuxという用語で表現するよう奨励している(なおこのことがGNU/Linux名称論争の原因となっている)。GNUプロジェクトはgNewSense、TrisquelおよびParabola GNU/Linux-libreといったLinuxを用いた派生を支持している。カーネルとしてHurdを使用しない派生でLinux以外のカーネルを用いるものとしては、BSDカーネル上にGNUの初期計画を実現した、Debian GNU/kFreeBSDやDebian GNU/NetBSDがある。さらにGNUをNetBSDやOpenSolarisなどのカーネルで動作させる移植プロジェクトもある。 フリーソフトウェア財団は既存のプロジェクトへの小規模な変更のリリースをパブリックドメインとすることが無難だと考えているが、GNUプロジェクトでは、その貢献者に対してGNUパッケージの著作権をフリーソフトウェア財団に譲渡することを推奨している。ただしこれは必須ではない。パッケージのメンテナは自身が維持するGNUパッケージの著作権を維持することができるが、使用される(GNU GPLのような)ライセンスは著作権保持者しか強制させることができないので、この場合はフリーソフトウェア財団ではなく著作権保持者がライセンスを強制する。 GNUに必要なソフトウェアの開発のため、ストールマンはユーザーがフリーソフトウェアを共有し変更する自由を保障することを目的とした、GNU General Public Licenseと呼ばれるライセンスを書いた(最初はEmacs General Public Licenseと呼ばれた)。彼はジェームズ・ゴスリンとのUniPressと呼ばれるプログラムに対するGNU Emacsプログラムにおけるソフトウェアコードの使用についての論争をめぐる経験をふまえてこのライセンスを書いた。1980年代のほとんどの期間において、Emacs General Public LicenseやGCC General Public LicenseのようにGNUパッケージごとに個別のライセンスが存在した。1989年にFSFはGNUプロジェクトのソフトウェアだけでなく全てのソフトウェアに使用できる単一のライセンスであるGNU General Public License (GPL) を発表した。 現在GPLはGNUソフトウェアのほとんどで使われており、GNUプロジェクトとは関係のないフリーソフトウェアでもよく使われている。GPLは最も一般的に使用されるフリーソフトウェアライセンスである。GPLでは、著作物の受領者はそれを実行し、複製し、修正し、再配布できるが、その再配布物のライセンスに制限を加えることを許さない。この思想はコピーレフトと呼ばれることが多い。 1991年、GNU CライブラリをプロプライエタリソフトウェアとリンクできるようにするためにLibrary General Public Licenseとして知られるGNU Lesser General Public License (LGPL) が書かれ、さらにGNU GPLのバージョン2がリリースされた。2000年には文書用にGNU Free Documentation Licenseが書かれた。GPLとLGPLは2007年にバージョン3に修正され、ユーザーが自身のデバイスで修正されたソフトウェアの実行を妨げるハードウェアの制限(英語版)からユーザーを保護するための条項が追加された。 GNUプロジェクトのライセンスは、GNU独自のソフトウェアパッケージだけではなく、GNUが直接的には作成していないソフトウェアプロジェクト(あるいはパッケージ)でも使用されている。GNUソフトウェアと組み合わせて使用されることが多いソフトウェア、例えば、Linuxカーネルなどがその代表である。一方、対照的に、Unix系のGUI環境を構築するX Window Systemは、Linuxディストリビューションでも標準的に使用されてきたソフトウェアパッケージであるが、こちらはGNUライセンスではなく、パーミッシブ・ライセンスに基づいてライセンスされる。前者が多数派であり、後者は少数派である。 GNUのロゴはヌーの頭である。元々はEtienne Suvasaによって描かれ、現在ではAurelio Heckertがデザインした大胆でシンプルなバージョンが好まれている。これはGNUソフトウェアや印刷されたり電子化されたGNUプロジェクトの文書に表示され、フリーソフトウェア財団のマテリアルにも使われる。 なお本章で示したGNU30周年記念ロゴは公式ロゴの修正バージョンであり、2013年9月にGNUプロジェクト30周年記念としてフリーソフトウェア財団によって作成されたものである。
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Documentation Licenseが書かれた。GPLとLGPLは2007年にバージョン3に修正され、ユーザーが自身のデバイスで修正されたソフトウェアの実行を妨げるハードウェアの制限(英語版)からユーザーを保護するための条項が追加された。", "title": "コピーライト、GNUライセンスと管理" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "GNUプロジェクトのライセンスは、GNU独自のソフトウェアパッケージだけではなく、GNUが直接的には作成していないソフトウェアプロジェクト(あるいはパッケージ)でも使用されている。GNUソフトウェアと組み合わせて使用されることが多いソフトウェア、例えば、Linuxカーネルなどがその代表である。一方、対照的に、Unix系のGUI環境を構築するX Window Systemは、Linuxディストリビューションでも標準的に使用されてきたソフトウェアパッケージであるが、こちらはGNUライセンスではなく、パーミッシブ・ライセンスに基づいてライセンスされる。前者が多数派であり、後者は少数派である。", "title": "コピーライト、GNUライセンスと管理" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "GNUのロゴはヌーの頭である。元々はEtienne Suvasaによって描かれ、現在ではAurelio Heckertがデザインした大胆でシンプルなバージョンが好まれている。これはGNUソフトウェアや印刷されたり電子化されたGNUプロジェクトの文書に表示され、フリーソフトウェア財団のマテリアルにも使われる。", "title": "ロゴ" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "なお本章で示したGNU30周年記念ロゴは公式ロゴの修正バージョンであり、2013年9月にGNUプロジェクト30周年記念としてフリーソフトウェア財団によって作成されたものである。", "title": "ロゴ" } ]
GNUとはオペレーティングシステム であり、かつコンピュータソフトウェアの広範囲に渡るコレクションである。GNUは完全にフリーソフトウェアから構成されている。 GNUは"GNU's Not Unix!"(「GNUはUNIXではない」)の再帰的頭字語である。この名称が選ばれたのは、GNUはUnix系の設計ではあるがUNIXとは違いフリーソフトウェアでありUNIXに由来するソースコードを全く使っていないことを示すためである。GNUの正式な発音は「グヌー」である。一般的な英語では、gnuは「ヌー」と発音し、ウシカモシカまたはヌーと呼ばれる動物をさす言葉である。GNUプロジェクトは自らの名称の呼び方について「it is pronounced g-noo, as one syllable with no vowel sound between the g and the n.(gとnの間に母音がない1音節として、g-nooと発音する)」と要請している。 GNUプロジェクトには、元々フリーソフトウェア財団が重点を置いていたオペレーティングシステムのカーネルであるGNU Hurdが含まれている。しかしながらGNU Hurd以外のカーネルもGNUソフトウェアと共に利用できる。そのようなカーネルとして最も有名なものはLinuxカーネルである。GNUのカーネルにLinuxカーネルを用いるのが一般的な理由は、GNUのカーネルがGNUの中で最も成熟していない部分のためである。GNUソフトウェアとLinuxカーネルを組み合わせたものが一般的に知られるLinuxである(あまり一般的ではないがGNU/Linuxと呼ばれることがある。この呼称についてはGNU/Linux名称論争を参照すること)。 GNUには人間が容易にコンピュータにインストールして利用可能な完全なオペレーティングシステムとするためのコンポーネントである、完全な機能を持ったカーネルが未だに欠けたままである。実際には、使用可能なGNUベースオペレーティングシステムのほとんどがLinuxディストリビューションである。LinuxディストリビューションにはLinuxカーネル、GNUコンポーネント、およびGNUプロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトによるソフトウェアが多く含まれている。 プロジェクトの創設者であるリチャード・ストールマンは、GNUを「社会的目的のための技術的手段」として考えている。
{{Otheruses|OS|フリーソフトウェアプロジェクト|GNUプロジェクト|その他}} {{Infobox OS | logo = [[File:Heckert GNU white.svg|128px]] | screenshot = HURD Live CD.png | caption = [[Debian GNU/Hurd]]コンソールスタートアップとログイン | family = [[Unix系]] | developer = コミュニティ | source model = [[フリーソフトウェア]] | marketing target = パーソナルコンピュータ、モバイルデバイス、組み込みデバイス、サーバ、メインフレーム、スーパーコンピュータ | language = <!--Exactly which?--> | kernel_type = [[マイクロカーネル]] ([[GNU Hurd]]) または [[モノリシックカーネル]]([[Linuxカーネル|Linux]]のフォークであるGNU [[Linux-libre]]) | license = [[GNU General Public License|GNU GPL]], [[GNU Lesser General Public License|GNU LGPL]], [[GNU Affero General Public License|GNU AGPL]], [[GNU Free Documentation License|GNU FDL]], [[GNUプロジェクト#GNU FSDG|GNU FSDG]]<ref>{{cite web | url = https://www.gnu.org/licenses/ |title = GNU Licenses|accessdate=2016-01-14}}</ref><ref>{{cite web | url = https://www.gnu.org/distros/free-system-distribution-guidelines.html |title = GNU FSDG|accessdate=2016-01-14}}</ref> | programmed in = 多数の言語(主に[[C言語|C]]と[[アセンブリ言語]]) | working_state = 開発中 | supported_platforms = Hurdカーネルのみサポートされるものは[[IA-32]]、Linux-libreカーネルのみサポートされるものは[[DEC Alpha|Alpha]]、[[シノプシス|ARC]]、[[ARMアーキテクチャ|ARM]]、{{仮リンク|AVR32|en|AVR32}}、[[Blackfin]]、{{仮リンク|C6x|en|Texas Instruments TMS320}}、{{仮リンク|ETRAX CRIS|en|ETRAX CRIS}}、[[FR-V]]、[[H8|H8/300]]、{{仮リンク|Qualcomm Hexagon|label=Hexagon|en|Qualcomm Hexagon}}、[[Itanium]]、[[M32R]]、[[MC68000|m68k]]、{{仮リンク|META|en|Imagination META}}、[[MicroBlaze]]、[[MIPSアーキテクチャ|MIPS]]、{{仮リンク|MN103|en|MN103}}、[[OpenRISC]]、[[PA-RISC]]、[[PowerPC]]、[[ESA/390|s390]]、{{仮リンク|S+core|en|S+core}}、[[SuperH]]、[[SPARC]]、{{仮リンク|TILE64|en|TILE64}}、{{仮リンク|Unicore32|en|Unicore}}、[[x86]]、[[Tensilica|Xtensa]] <!-- Do not include 64 bit extensions of 32 bit ISAs, e.g. sparc64, ppc64, x86-64 &c. --> }} '''GNU'''(グヌー、{{IPAc-en|audio =En-gnu.ogg|ɡ|n|uː}}<ref>{{cite web | url = https://www.gnu.org/ |title = What is GNU? |work = The GNU Operating System | date = 2009-09-04 | publisher = [[Free Software Foundation]] |accessdate=2009-10-09 | quote =The name ‘GNU’ is a recursive acronym for ‘GNU's Not Unix‘; it is pronounced ''g-noo'', as one syllable with no vowel sound between the ''g'' and the ''n''.}}</ref><!-- /gnu:/ is not a possible English pronunciation--><ref name="rms-zagreb-talk" />{{rp|at=[https://web.archive.org/web/20100802123312/https://fsfe.org/freesoftware/transcripts/rms-fs-2006-03-09.en.html#the-name-gnu Section: The name "GNU"]}})とは[[オペレーティングシステム]]<ref> {{cite journal|author1=Yi Peng|author2=Fu Li|author3=Ali Mili|title=Modeling the evolution of operating systems: An empirical study|journal=Journal of Systems and Software|date=January 2007|volume=80|issue=1|pages=1-15|doi=10.1016/j.jss.2006.03.049|url=https://web.njit.edu/~mili/pdf/oss.pdf|accessdate=2016-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160111035552/https://web.njit.edu/~mili/pdf/oss.pdf|archivedate=2009-05-09|publisher=Elsevier|format=PDF|quote=''...we have selected a set of fifteen operating systems: Unix, Solaris/Sun OS, BSD, Windows, MS-DOS, MAC OS, Linux, Net Ware, HP UX, GNU Hurd, IBM Aix, Compaq/ DEC VMS, OS/2.''}} </ref><ref> {{cite journal|author1=M. R. M. Torres|author2=Federico Barrero|author3=M. Perales|author4=S. L. Toral|title=Analysis of the Core Team Role in Open Source Communities|journal=Complex, Intelligent and Software Intensive Systems (CISIS), 2011 International Conference on|date=June 2011|pages=109-114|doi=10.1109/CISIS.2011.25|url=https://www.researchgate.net/profile/Federico_Barrero/publication/221328676_Analysis_of_the_core_team_role_in_open_source_communities/links/5464a5fb0cf2cb7e9dab30fe.pdf|accessdate=2016-01-11|publisher=IEEE Computer Society|format=PDF|quote=''Debian port to Hurd...: The GNU Hurd is a totally new operating system being put together by the GNU group.''}} </ref><ref> {{cite journal|author1=Neal H. Walfield|author2=Marcus Brinkmann|title=A critique of the GNU hurd multi-server operating system|journal=ACM SIGOPS Operating Systems Review|date=2007-07-04|volume=41|issue=4|pages=30-39|doi=10.1145/1278901.1278907|url=http://walfield.org/papers/200707-walfield-critique-of-the-GNU-Hurd.pdf|accessdate=2016-01-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151105213752/http://www.walfield.org/papers/200707-walfield-critique-of-the-GNU-Hurd.pdf|archivedate=2015-11-05|publisher=[[Association for Computing Machinery]]|location=New York, NY, USA|format=PDF}}</ref> であり、かつコンピュータソフトウェアの広範囲に渡るコレクションである。GNUは完全に[[フリーソフトウェア]]から構成されている<ref name = "handbookonopensource" /><ref>{{cite web | url =https://www.gnu.org/gnu/manifesto.html | title = GNU Manifesto |publisher = FSF | work = GNU project |accessdate= 2011-07-27}}</ref><ref>{{cite book | url= https://books.google.com/books?id=F6qgFtLwpJgC | title = The Cathedral & the Bazaar: Musings on Linux and Open Source by an Accidental Revolutionary | pages = 10-12 | isbn= 978-0-59600108-7 | last = Raymond | first =Eric | date = 2001-02-01}}</ref>。 ''GNU''は''"GNU's Not Unix!"''(「GNUはUNIXではない」)の[[再帰的頭字語]]である。この名称が選ばれたのは、GNUは[[Unix系]]の設計ではあるが[[UNIX]]とは違いフリーソフトウェアでありUNIXに由来する[[ソースコード]]を全く使っていないことを示すためである<ref name = handbookonopensource>{{cite book |first1 = Kirk |last1=St. Amant |first2=Brian |last2 = Still |title=Handbook of Research on Open Source Software: Technological, Economic, and Social Perspectives |isbn= 1-59140999-3}}</ref><ref>{{cite web | publisher = FSF | work = GNU project | url = https://www.gnu.org/ | title = The GNU Operating system | accessdate = 2008-08-18}}</ref><ref>{{cite web|last=Marshall |first = Rosalie | place = [[Australia|AU]] | url = http://www.pcauthority.com.au/News/128513,qa-richard-stallman-founder-of-the-gnu-project-and-the-free-software-foundation.aspx |title = Q&A: Richard Stallman, founder of the GNU Project and the Free Software Foundation | publisher = PC & Tech Authority |date = 2008-11-17 |accessdate = 2012-09-22}}</ref>。GNUの正式な発音は「グヌー」である<ref>{{cite web|url= http://www.gnu.org/ |title=The GNU Operating System - What is GNU? |date=2009-09-04 |publisher=[[フリーソフトウェア財団|Free Software Foundation]] |accessdate=2009-10-09 |quote=The name "GNU" is a recursive acronym for "GNU's Not Unix!"; it is pronounced ''g-noo'', as one syllable with no vowel sound between the ''g'' and the ''n''.}}</ref>。一般的な英語では、gnuは「ヌー」と発音し、ウシカモシカまたは'''[[ヌー]]'''と呼ばれる動物をさす言葉である。GNUプロジェクトは自らの名称の呼び方について「it is pronounced g-noo, as one syllable with no vowel sound between the g and the n.(gとnの間に[[母音]]がない1[[音節]]として、g-nooと発音する)」と要請している。 GNUプロジェクトには、元々[[フリーソフトウェア財団]]が重点を置いていたオペレーティングシステムの[[カーネル]]である[[GNU Hurd]]が含まれている<ref name = "handbookonopensource" /><ref name = computerworld>Vaughan-Nichols, Steven J. "[http://www.computerworld.com/s/article/9131178/Opinion_The_top_10_operating_system_stinkers Opinion: The top 10 operating system stinkers]", ''{{仮リンク|Computerworld|en|Computerworld}}'', April 9, 2009: "…after more than 25 years in development, GNU remains incomplete: its kernel, Hurd, has never really made it out of the starting blocks. […] Almost no one has actually been able to use the OS; it's really more a set of ideas than an operating system."</ref><ref name= Hillesley>{{Citation | last = Hillesley | first = Richard | newspaper = The H | url = http://www.h-online.com/open/features/GNU-HURD-Altered-visions-and-lost-promise-1030942.html | edition = online | title = GNU HURD: Altered visions and lost promise | date = June 30, 2010 | page = [http://www.h-online.com/open/features/GNU-HURD-Altered-visions-and-lost-promise-1030942.html?page=3 3] | quote = Nearly twenty years later the HURD has still to reach maturity, and has never achieved production quality. […] Some of us are still wishing and hoping for the real deal, a GNU operating system with a GNU kernel.}}</ref><ref>Lessig, Lawrence. ''The Future of Ideas: The Fate of the Commons in a Connected World'', p. 54. Random House, 2001. ISBN 978-0-375-50578-2. About Stallman: "He had mixed all of the ingredients needed for an operating system to function, but he was missing the core."</ref>。しかしながらGNU Hurd以外のカーネルもGNUソフトウェアと共に利用できる。そのようなカーネルとして最も有名なものは[[Linuxカーネル]]である。GNUのカーネルにLinuxカーネルを用いるのが一般的な理由は、GNUのカーネルがGNUの中で最も成熟していない部分のためである<ref>{{Citation | url = http://oreilly.com/openbook/debian/book/ch01_02.html |title= Debian open book | chapter = 1.2 What is Linux? |publisher = O’Reilly |date=1991-10-05 |accessdate = 2012-09-22}}</ref><ref>{{Citation | edition = 12.4 | contribution-url = https://help.ubuntu.com/lts/installation-guide/armhf/ch01s03.html | contribution =What is GNU/Linux? |publisher= Canonical | series = Ubuntu | title = Ubuntu Installation Guide | accessdate = 2015-06-22}}</ref>。GNUソフトウェアとLinuxカーネルを組み合わせたものが一般的に知られる[[Linux]]である(あまり一般的ではないが[[GNU/Linux]]と呼ばれることがある。この呼称については[[GNU/Linux名称論争]]を参照すること)。 GNUには人間が容易にコンピュータにインストールして利用可能な完全なオペレーティングシステムとするためのコンポーネントである、完全な機能を持ったカーネルが未だに欠けたままである。実際には、使用可能なGNUベースオペレーティングシステムのほとんどが[[Linuxディストリビューション]]である。LinuxディストリビューションにはLinuxカーネル、GNUコンポーネント、およびGNUプロジェクト以外のフリーソフトウェアプロジェクトによるソフトウェアが多く含まれている。 プロジェクトの創設者である[[リチャード・ストールマン]]は、GNUを「社会的目的のための技術的手段」として考えている<ref>{{Citation | contribution = KTH | publisher = FSF | title = Philosophy | series = GNU | contribution-url = https://www.gnu.org/philosophy/stallman-kth.html | first = Richard | last = Stallman | type = speech | place = Stockholm, Sweden | year = 1986}}.</ref>。 == 歴史 == [[File:Richard Stallman - Fête de l'Humanité 2014 - 010.jpg|thumb|GNUプロジェクトの創設者である[[リチャード・ストールマン]]]] GNUオペレーティングシステムの開発は[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) [[MITコンピュータ科学・人工知能研究所|人工知能研究所]]でリチャード・ストールマンにより[[GNUプロジェクト]]として開始され、1983年9月27日にnet.unix-wizardsおよびnet.usoftという[[ニュースグループ]]で彼が公式に発表した<ref>{{cite newsgroup |title=new UNIX implementation |first=Richard |last=Stallman |author-link=リチャード・ストールマン| date=1983-09-27 |newsgroup=net.unix-wizards |message-id=771@mit-eddie.UUCP |url=https://groups.google.com/group/net.unix-wizards/msg/4dadd63a976019d7 |accessdate=2008-08-18 }}</ref><ref name="internethist">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=qi-ItIG6QLwC |title=The Internet: A Historical Encyclopedia. Biographies, Volume 1 |first=Laura |last=Lambert |editor-first=Hilary |editor-last=Poole |publisher=ABC-CLIO |publication-place=Santa Barbara, California |year=2005 |isbn=1-85109-664-7|pages=215-216}}</ref>。ソフトウェア開発が始まったのは1984年1月5日であり、この日はそれまでストールマンが勤務していたMIT人工知能研究所が、GNUの所有権を主張することやフリーソフトウェアとしての配布へ干渉することを阻止するために彼が同研究所を辞めた日でもある<ref name="intervention">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=jXC6H8lRjlUC |title=Inter/vention: Free Play in the Age of Electracy |first1=Jan Rune |last1=Holmevik |first2=Ian |last2=Bogost |first3=Gregory |last3=Ulmer |publisher=MIT Press |date=March 2012 |isbn=978-0-262-01705-3|pages=69-71}}</ref>。ストールマンが選んだGNUという名称には様々な言葉遊びが含まれており、その中には''{{仮リンク|The Gnu|en|The Gnu}}''という歌も含まれている<ref name="rms-zagreb-talk" />{{rp|at=[https://web.archive.org/web/20100802123312/https://fsfe.org/freesoftware/transcripts/rms-fs-2006-03-09.en.html#the-name-gnu 00:46:00]}}。 GNUの目標は、完全にフリーソフトウェアで構成されるオペレーティングシステムを実現することであった。ストールマンは[[1960年代]]や[[1970年代]]のコンピュータユーザーのように、ユーザーを自由にしたいと考えていた。その自由とは、使っているソフトウェアのソースコードを使って研究できる自由であり、ソフトウェアを他の人々と共有できる自由であり、ソフトウェアを修正できる自由であり、修正版を配布できる自由である。この哲学は後に[[GNU宣言]]として1985年3月に公表された<ref name="internethist" />。 GNU宣言の中でストールマンは「基本的カーネルは存在するが、Unixをエミュレートするにはより多くの機能が必要だ」としている。ここでストールマンが想定したカーネルは、マサチューセッツ工科大学が開発した[[遠隔手続き呼出し|RPC]]型カーネル{{仮リンク|Trix|en|Trix (operating system)}}である{{要出典|date=2009年10月}}。これは作者がフリーソフトウェアとして配布しており、[[Version 7 Unix]]と互換性があった。そして1986年12月、開発者らはこのカーネルに修正を加える作業を開始しようとした。しかし、開発者らはこれが出発点としてはふさわしくないと判断した。何故ならTRIXは「不明確で高価な68000マシン」でしか動作せず、使用するにはまず他のアーキテクチャへの[[移植 (ソフトウェア)|移植]]が必須だったからである。 ストールマンは[[Incompatible Timesharing System]] (ITS) に関わっていた。ITSは[[PDP-10]]コンピュータアーキテクチャ用に[[アセンブリ言語]]で書かれた初期のオペレーティングシステムだが、PDP-10自体が開発・製造されなくなったために消えていった。このためストールマンは移植性のあるソフトウェアが必要だと考えていた<ref name="rms-zagreb-talk" />{{rp|at=[https://fsfe.org/freesoftware/transcripts/rms-fs-2006-03-09.en.html#choosing-the-unix-design 00:43:15]}}<ref name="opensource2.0">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=q9GnNrq3e5EC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false |title=Open Sources 2.0: The Continuing Evolution |first1=Chris |last1=DiBona |first2=Mark |last2=Stone |first3=Danese |last3=Cooper |date=October 2005 |pages=38-40 |isbn=9780596008024}}</ref>。そのため、GNUの開発にはシステムプログラミング言語として[[C言語|C]]と[[LISP]]を使用し<ref>{{cite web|url=http://laurel.datsi.fi.upm.es/~ssoo/IG/download/timeline.html|title=Timeline of GNU/Linux and Unix|quote=Both C and Lisp will be available as system programming languages.|accessdate=2016-01-14}}</ref>、さらにGNUをUNIX互換にする決定がなされた<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=53zaxy423xcC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=Beginning Portable Shell Scripting: From Novice to Professional (Expert's Voice in Open Source)|date=November 2008|pages=177-178 |isbn=9781430210436 |author1=Seebach |first1=Peter}}</ref>。当時UNIXは既に[[プロプライエタリソフトウェア|プロプライエタリ]]なオペレーティングシステムとして広く使われていた。UNIXの設計はモジュール性が高く、部分ごとに再実装することが可能だった<ref name="opensource2.0" />。 GNUに必要なソフトウェアの大部分は一から書かれたが、[[TeX]][[組版]]システムや[[X Window System]]<ref name="internethist" />、さらに[[Mach]][[マイクロカーネル]]といった共有可能な[[サードパーティー]]フリーソフトウェアコンポーネントは既存のものを流用した。なおMachは(GNUの公式カーネルである)GNU Hurdの、[[GNU Mach]]コアの基礎を形成している<ref name="linuxinterface">{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=Ps2SH727eCIC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=The Linux Programming Interface: A Linux and UNIX System Programming Handbook|pages=5-6|date=October 2010 |isbn=9781593272203 |author1=Kerrisk |first1=Michael}}</ref>。前述したサードパーティーコンポーネントを除くGNUのコードの大部分はボランティアが書いたものであり、具体的には個人が余暇時間内や会社の業務内で書いた部分<ref name="cygnus">{{cite book |url=http://oreilly.com/catalog/opensources/book/tiemans.html |title=Open Sources: Voices from the Open Source Revolution |publisher=O'Reilly & Associates, Inc. |date=January 1999 |isbn=1-56592-582-3}}</ref>、および教育機関や非営利団体が書いた部分で構成されている。1985年10月、ストールマンは[[フリーソフトウェア財団]] (FSF) を創設した。[[1980年代]]後半から[[1990年代]]にはFSFがソフトウェア開発者を雇い、GNUで必要となるソフトウェア作成を行わせた<ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=LlCnYt2snHYC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false |title=The Software Industry | pages=187-196 |isbn=9783642315091 |author1=Buxmann |first1=Peter |last2=Diefenbach |first2=Heiner |last3=Hess |first3=Thomas |date=2012-09-30}}</ref><ref>{{cite book |url=https://books.google.com/?id=50maN7VmpusC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false | title=Practical UNIX and Internet Security, 3rd Edition | publisher=O'Reilly & Associates, Inc. |date=February 2003 | page=18 |isbn=9781449310127}}</ref>。 GNUプロジェクトの初期の計画では、[[Berkeley Software Distribution|BSD]] 4.4-Liteのカーネルを採用することになっていた。しかし、[[カリフォルニア大学バークレー校|バークレー]]のプログラマの協力が得られなかったため{{要出典|date=2009年10月}}、ストールマンは1988年に[[カーネギーメロン大学]]が開発した[[Mach]]カーネルを採用することにした。ただし、Machには[[AT&T]]由来のコードが使われていたため、それを取り除いてフリーソフトウェアとして使えるようになったのは1990年である{{要出典|date=2009年10月}}。HurdのアーキテクトだったThomas Bushnellは後に、BSDカーネルの採用を見送ったことでプロジェクトは大きく後退しており、そういう意味でもBSDカーネルを採用すべきだったと述べている<ref>{{cite web | url = http://www.groklaw.net/article.php?story=20050727225542530 | title = The Hurd and BSDI|accessdate = 2008-08-18 | author = Peter H. Salus | work = The Daemon, the GNU and the Penguin | quote = It is now perfectly obvious to me that this would have succeeded splendidly and the world would be a very different place today. }}</ref>。 カーネルの設計は、GNUの中でもUNIXから最も大きく異なる部分である。GNUのカーネルはマルチサーバ型マイクロカーネルであり、従来のUNIXカーネルの持つ機能をサーバと呼ばれる複数のプログラムで構成している。Machのマイクロカーネルは非常に低レベルのカーネル機能しか提供していないため、GNUプロジェクトではカーネルの上位レベルの部分を一種のユーザープログラムの集合体として開発しなければならなかった。この集合体を当初Alixと呼んでいたが、Thomas BushnellはHurdと呼ぶことを好み、Alixの名はそのサブコンポーネントに移され、最終的には使われなくなった<ref>[http://www.gnu.org/gnu/thegnuproject.html About the GNU Project - GNU Project - Free Software Foundation (FSF)]</ref>。その後、Hurdの開発は技術的問題がいくつも発生し、なかなか進展しない状況になった<ref>{{Cite web |url=http://fsfeurope.org/documents/rms-fs-2006-03-09.en.html#gnu-and-linux |title=Stallman describing Hurd progress |accessdate=2009-10-25 |last=Stallman |first=Richard |authorlink=リチャード・ストールマン |work=The Free Software Movement and the Future of Freedom; March 9th 2006 |publisher=[[Free Software Foundation|FSF Europe]] |quote=it took many many many years to get this kernel to run at all, and it still doesn't run well, and it looks like there may be fundamental problems with this design, which nobody knew about back in 1990. |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100802123312/https://fsfe.org/freesoftware/transcripts/rms-fs-2006-03-09.en.html#gnu-and-linux |archivedate=2010-08-02 |deadlinkdate=2022-03-28 |location=Zagreb, Croatia}}</ref>{{rp|at=00:51:23}}。 GNUが有名になるにつれて、GNUに興味を持つ企業が現れはじめた。それらの企業は開発援助をしたり、GNUのソフトウェアや技術サポートを組み合わせて商売するようになっていった。その中で最も成功した企業としては[[シグナスソリューションズ]]が知られている<ref name="cygnus" />(同社は現在、[[レッドハット]]の一部となっている<ref>[http://news.cnet.com/2100-1001-232971.html Red Hat buys software firm, shuffles CEO - CNET News<!-- Bot generated title -->]</ref>)。 1992年、最重要コンポーネントであるカーネルのGNU Hurdを除く全てのコンポーネントが完成した。1991年には[[リーナス・トーバルズ]]が独自にLinuxカーネルの開発を始めており、1992年にはLinuxのバージョン0.12が[[GNU General Public License]]ライセンスでリリースされ、この最後の空白を埋めた。LinuxとGNUを組み合わせることで、世界初の完全にフリーソフトウェアで構成されたオペレーティングシステムとなった。LinuxカーネルはGNUプロジェクトの一部ではないが、その開発には[[GNUコンパイラコレクション|GCC]]などのGNU製プログラミングツールが使われている<ref>[https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/dlNtH7RRrGA What would you like to see most in minix?] Linus Benedict Torvalds (Aug 26 1991, 2:12 am) - comp.os.minix | Google Groups</ref>。 2002年にストールマンはGNU/Hurdのリリースについて楽観的声明を発表したが<ref>{{cite web | url = http://www.pcworld.com/article/88464/free_software_sees_gnu_loose_of_linux.html | title = Free Software Sees Gnu Loose of Linux | accessdate = 2006-08-08 | author = John Ribeiro | publisher = PC World |date=2002-03-11}}</ref>、開発は2016年現在も続いている。Hurdの最新リリースはバージョン0.9である。動作はそれなりに安定しており、重要なアプリケーションを使うのでなければ十分使えるレベルである。 == コンポーネント == {{Main|GNUパッケージ一覧}} GNUシステムの基本コンポーネントには[[GNUコンパイラコレクション]] (GCC)、[[GNU Cライブラリ]] (glibc) および[[GNU Core Utilities]] (Coreutils) だけでなく、[[GNUデバッガ]] (GDB)、[[GNU Binutils]] (binutils)<ref>{{cite web|url=http://developer.amd.com/tools-and-sdks/archive/gcc-and-gnu-toolchains-for-amd-platforms/ |title=GCC & GNU Toolchains - AMD |publisher=Developer.amd.com |date= |accessdate=2015-09-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150316191013/http://developer.amd.com/tools-and-sdks/archive/gcc-and-gnu-toolchains-for-amd-platforms/ |archivedate=2015-03-16 }}</ref>、[[Bash|GNU Bash]][[シェル]]<ref name="linuxinterface" /><ref>{{cite book| url=https://books.google.com/books?id=vvuzDziOMeMC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=Beginning Linux Programming|chapter=The GNU Project and the Free Software Foundation| isbn=9781118058619| author1=Matthew| first1=Neil| last2=Stones| first2=Richard| date=2011-04-22}}</ref>、および[[GNOME]][[デスクトップ環境]]も含まれる<ref>{{cite book| url=https://books.google.com/books?id=7MhTb9X4aYgC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=Emerging Free and Open Source Software Practices|pages=262-264|date=May 2007| isbn=9781599042107| author1=Sowe| first1=Sulayman K| last2=Stamelos| first2=Ioannis G| last3=Samoladas| first3=Ioannis M}}</ref>。GNUの開発者はGNUアプリケーションやユーティリティのLinuxへの移植に貢献しており、それらのアプリケーションやユーティリティは[[Berkeley Software Distribution|BSD]]の派生、[[Solaris]]そして[[macOS]]といったLinux以外のオペレーティングシステムでも広く利用されている<ref>{{cite web|url=http://www.buzzle.com/articles/linux-history-and-introduction.html |title=Linux: History and Introduction |publisher=Buzzle.com |date=1991-08-25 |accessdate=2012-09-22}}</ref>。 GNUのプログラムの多くは、[[Microsoft Windows]]<ref>{{cite book| url=https://books.google.com/books?id=0SM3PEH9gagC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=Integrating Linux and Windows|page=30|date=December 2000| isbn=9780130306708| author1=McCune| first1=Mike}}</ref>やmacOS<ref>{{cite book| url=https://books.google.com/books?id=o9K8KEQic5sC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false|title=A Practical Guide To Unix For Mac Os X Users|page=4|year=2005| isbn=9780131863330| author1=Sobell| first1=Mark G| last2=Seebach| first2=Peter}}</ref>といったプロプライエタリプラットフォームを含む他のオペレーティングシステムに移植されている。GNUのプログラムはプロプライエタリUNIX上の相当するソフトウェアよりも信頼性が高いことが示されている<ref>[http://ftp.cs.wisc.edu/pub/paradyn/technical_papers/fuzz-revisited.ps Fuzz Revisited: A Re-examination of the Reliability of UNIX Utilities and Services] - October 1995 - Computer Sciences Department,University of Wisconsin</ref>。 2015年11月の時点で、公式GNU開発サイトにホストされたGNUのパッケージ数は合計で466個存在する(終了したパッケージも含む。それらを除くと383個である)<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/software/software.html |title=Software - GNU Project - Free Software Foundation |publisher=Free Software Foundation, Inc |date=2016-01-13 |accessdate=2016-01-13}}</ref>。 [[File:GNewSense screenshot.png|thumb|FSF認定ディストリビューションの例である[[gNewSense]]]] [[File:Parabola12.png|thumb|[[ローリングリリース]]モデルを用いるFSF認定ディストリビューションの例である[[Parabola GNU/Linux-libre]]]] == GNUの派生 == {{Main|GNUの派生}} GNUプロジェクトの公式カーネルは[[GNU Hurd]]マイクロカーネルである。しかしながら、2012年の時点でLinuxカーネルが[[Linux-libre]]という形で公式にGNUプロジェクトの一部となった。Linux-libreは、Linuxカーネルから全てのプロプライエタリコンポーネントを削除した派生物である<ref>{{cite web | url= https://directory.fsf.org/wiki/GNU_Linux-libre |title = GNU Linux-libre | date = 2012-12-17 | accessdate = 2013-02-09}}</ref>。 [[FreeBSD]]のカーネルのようなLinux以外のカーネルも、実用的なオペレーティングシステムを構成するGNUソフトウェアと連携して機能する<ref>{{cite book|url=https://books.google.com/books?id=CHkHNChvPqIC |title=Open Source Software: Implementation and Management| page = 129| isbn= 978-1-55558320-0| last1 = Kavanagh | first1 = Paul| date = 2004-07-26}}</ref>。FSFはGNUツールやユーティリティと共に利用されるLinuxはGNUの派生とみなすべきであると主張しており、そのようなシステムを''GNU/Linux''という用語で表現するよう奨励している(なおこのことが[[GNU/Linux名称論争]]の原因となっている)<ref>{{cite newsgroup | url = https://groups.google.com/group/comp.os.linux.misc/msg/1241a2919efc4bc3 | title = Linux is a GNU system and the DWARF support | newsgroup = comp.os.linux.misc | date = 1994-09-08 | first = Matt | last = Welsh | accessdate = 2008-02-03 | quote = RMS's idea (which I have heard first-hand) is that Linux systems should be considered GNU systems with Linux as the kernel.}}</ref><ref>{{cite web|last=Proffitt |first = Brian |url=http://www.itworld.com/it-managementstrategy/285750/debian-gnulinux-seeks-alignment-free-software-foundation | title =Debian GNU/Linux seeks alignment with Free Software Foundation | work =ITworld | date =2012-07-12 |accessdate= 2012-09-22}}</ref><ref>{{cite web|url= http://www.tldp.org/LDP/sag/html/gnu-or-not.html |title= 1.1. Linux or GNU/Linux, that is the question | work = SAG | publisher= TLDP | accessdate = 2012-09-22}}</ref>。GNUプロジェクトは[[gNewSense]]、[[Trisquel GNU/Linux|Trisquel]]および[[Parabola GNU/Linux-libre]]といったLinuxを用いた派生を支持している<ref>{{Citation | contribution-url = https://www.gnu.org/distros/free-distros.html | contribution = List of Free GNU/Linux Distributions | title = GNU Project | publisher = Free Software Foundation (FSF)}}.</ref>。カーネルとしてHurdを使用しない派生でLinux以外のカーネルを用いるものとしては、BSDカーネル上にGNUの初期計画を実現した、Debian GNU/kFreeBSDやDebian GNU/NetBSDがある。さらにGNUを[[NetBSD]]や[[OpenSolaris]]などのカーネルで動作させる移植プロジェクトもある。 == コピーライト、GNUライセンスと管理 == フリーソフトウェア財団は既存のプロジェクトへの小規模な変更のリリースを[[パブリックドメイン]]とすることが無難だと考えている<ref>{{cite web | work = GNU | url = https://www.gnu.org/licenses/license-recommendations.html |publisher = Free Software Foundation |title=How to choose a license for your own work |deadurl=no | accessdate =2012-07-12}}</ref>が、GNUプロジェクトでは、その貢献者に対してGNUパッケージの著作権をフリーソフトウェア財団に譲渡することを推奨している<ref>{{cite web| url = https://www.gnu.org/prep/maintain/html_node/Copyright-Papers.html |title=Copyright Papers | work = Information For Maintainers of GNU Software |publisher= FSF |date=2011-06-30 | accessdate =2011-07-27}}</ref><ref>{{cite web | work = GNU | url= https://www.gnu.org/licenses/why-assign.html |title=Why the FSF gets copyright assignments from contributors | publisher = FSF | date= 2011-07-15 | accessdate = 2011-07-27}}</ref>。ただしこれは必須ではない。パッケージのメンテナは自身が維持するGNUパッケージの著作権を維持することができるが、使用される(GNU GPLのような)ライセンスは著作権保持者しか強制させることができないので、この場合はフリーソフトウェア財団ではなく著作権保持者がライセンスを強制する<ref>{{cite web| last = Raymond | first = Eric S | url = http://www.catb.org/esr/Licensing-HOWTO.html |title = Licensing HOWTO | publisher= CatB |date = 2002-11-09 | accessdate = 2012-09-22}}</ref>。 GNUに必要なソフトウェアの開発のため、ストールマンはユーザーがフリーソフトウェアを共有し変更する自由を保障することを目的とした、[[GNU General Public License]]と呼ばれるライセンスを書いた(最初はEmacs General Public Licenseと呼ばれた)<ref>{{Citation | title = Old licenses | series = GNU | publisher = FSF | contribution-url = https://www.gnu.org/licenses/old-licenses/gpl-1.0.txt | contribution = GPL 1.0}}.</ref>。彼は[[ジェームズ・ゴスリン]]とのUniPressと呼ばれるプログラムに対するGNU Emacsプログラムにおけるソフトウェアコードの使用についての論争をめぐる経験をふまえてこのライセンスを書いた<ref name = "twobits">{{cite book|url= https://books.google.com/books?id=MEmMl-tY8jEC | title = Two Bits: The Cultural Significance of Free Software | chapter = Writing Copyright Licenses | date =June 2008|isbn = 978-0-82234264-9 | last = Kelty | first = Christopher M}}</ref><ref>{{Citation | url = http://www.free-soft.org/gpl_history/ | title = The History of the GNU General Public License | publisher = Free Software}}.</ref>。1980年代のほとんどの期間において、Emacs General Public LicenseやGCC General Public LicenseのようにGNUパッケージごとに個別のライセンスが存在した。1989年にFSFはGNUプロジェクトのソフトウェアだけでなく全てのソフトウェアに使用できる単一のライセンスであるGNU General Public License (GPL) を発表した<ref name="twobits" /><ref>{{Citation | url = https://www.gnu.org/bulletins/bull5.html#SEC7 | date = Jun 11, 1998 | title = GNU’s flashes | newspaper = GNU's Bulletin | volume = 1 | number = 5 | series = GNU Project | publisher = Free Software Foundation (FSF)}}.</ref>。 現在GPLはGNUソフトウェアのほとんどで使われており、GNUプロジェクトとは関係のないフリーソフトウェアでもよく使われている。GPLは最も一般的に使用される[[フリーソフトウェアライセンス]]である<ref>{{cite web |url = http://osrc.blackducksoftware.com/data/licenses/ |title=Open Source License Data | work =Open Source Resource Center | publisher = [[Black Duck Software]] |accessdate = 2012-09-24 }}</ref>。GPLでは、著作物の受領者はそれを実行し、複製し、修正し、再配布できるが、その再配布物のライセンスに制限を加えることを許さない。この思想は[[コピーレフト]]と呼ばれることが多い<ref>{{cite book|url= https://books.google.com/books?id=c7ppFih2mSwC | title = Decoding Liberation: The Promise of Free and Open Source Software|pages= 46-52|date = August 2007|isbn=978-0-41597893-4| last1 = Chopra |first1 = Samir| last2 = Dexter | first2 = Scott}}</ref>。 1991年、[[GNU Cライブラリ]]を[[プロプライエタリソフトウェア]]とリンクできるようにするためにLibrary General Public Licenseとして知られる[[GNU Lesser General Public License]] (LGPL) が書かれ<ref>{{Citation | publisher = Free BSD | url = https://www.freebsd.org/doc/en_US.ISO8859-1/articles/bsdl-gpl/origins-lgpl.html | title = The origins of Linux and the LGPL}}.</ref>、さらにGNU GPLのバージョン2がリリースされた。2000年には文書用に[[GNU Free Documentation License]]が書かれた<ref>{{cite book|url= https://books.google.com/books?id=2VElII9QeakC | title = Innovation Happens Elsewhere: Open Source as Business Strategy| pages = 133-34| date = April 2005 | isbn = 978-1-55860889-4| last1 = Goldman | first1 = Ron| last2= Gabriel | first2 = Richard P}}</ref>。GPLとLGPLは2007年にバージョン3に修正され、ユーザーが自身のデバイスで修正されたソフトウェアの実行を妨げる{{仮リンク|ハードウェアの制限|en|Hardware restriction}}からユーザーを保護するための条項が追加された<ref>{{cite book |url= https://books.google.com/books?id=gmfFsdIAejkC | title = Linux Essentials |chapter = Free Software and the GPL |year=2012 |isbn = 978-1-11819739-4 |author1=Smith |first1 = Roderick W}}</ref>。 GNUプロジェクトのライセンスは、GNU独自のソフトウェアパッケージだけではなく、GNUが直接的には作成していないソフトウェアプロジェクト(あるいはパッケージ)でも使用されている。GNUソフトウェアと組み合わせて使用されることが多いソフトウェア、例えば、Linuxカーネルなどがその代表である。一方、対照的に、Unix系のGUI環境を構築するX Window Systemは、Linuxディストリビューションでも標準的に使用されてきたソフトウェアパッケージであるが、こちらはGNUライセンスではなく、[[パーミッシブ・ライセンス]]に基づいてライセンスされる。前者が多数派であり、後者は少数派である。 == ロゴ == GNUのロゴは[[ヌー]]の[[頭]]である。元々はEtienne Suvasaによって描かれ、現在ではAurelio Heckertがデザインした大胆でシンプルなバージョンが好まれている<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/graphics/agnuhead.html |title=A GNU Head |publisher= Free Software Foundation (FSF)|date=2011-07-13 |accessdate=2011-07-27}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/graphics/heckert_gnu.html |title=A Bold GNU Head |publisher= Free Software Foundation (FSF)|date=2011-07-13 |accessdate=2011-07-27}}</ref>。これはGNUソフトウェアや印刷されたり電子化されたGNUプロジェクトの文書に表示され、フリーソフトウェア財団のマテリアルにも使われる。 なお本章で示したGNU30周年記念ロゴは公式ロゴの修正バージョンであり、2013年9月にGNUプロジェクト30周年記念としてフリーソフトウェア財団によって作成されたものである<ref>{{cite web|url=https://www.gnu.org/gnu30/ |title=GNU 30th Anniversary |publisher= Free Software Foundation (FSF)|date=2013-10-08 |accessdate=2014-12-15}}</ref>。 <gallery> File:Heckert GNU white.svg|主にGNUの[[ロゴタイプ|ロゴ]]として用いられる「上品(Handsome)な」ヌー File:Philosophical-gnu-sm.png|主にGNUの思想を論じる際に用いられる「冷静(Philosophical)な」ヌー File:Gnu-30-banner-without-background.svg|GNU30周年記念ロゴ </gallery> == 脚注 == {{reflist|30em|refs= <ref name="rms-zagreb-talk">{{Cite AV media |title=The Free Software Movement and the Future of Freedom |date=2006-03-09 |last=Stallman |first=Richard |authorlink=リチャード・ストールマン |url=http://mjesec.ffzg.hr/~dpavlin/stallman2006/free_software_movement_and_the_future_of_freedom_zagreb_09_march_2006.ogg |accessdate=2007-02-20 |location=Zagreb, Croatia |publisher=[[Free Software Foundation|FSF Europe]] |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100802123312/https://fsfe.org/freesoftware/transcripts/rms-fs-2006-03-09.en.html |archivedate=2010-08-02}}</ref><!-- オリジナルのリンクはまだ生きてる。 2022/03/28 --> }} == 関連項目 == {{Portal|FLOSS}} {{Commons}} * [[クリエイティブ・コモンズ]] * [[フリーソフトウェア財団]] * [[フリーソフトウェア運動]] * {{仮リンク|FLOSSの歴史|en|History of free and open-source software}} * [[GNUパッケージ一覧]] == 外部リンク == * {{Official website}} * [http://unxutils.sourceforge.net/ Microsoft Windows用のGNUユーティリティの移植] * [http://www.verbumvanum.org/pesalus/ The daemon, the GNU and the penguin] {{Unix-like}} {{GNU}} {{FOSS}} {{オペレーティングシステム}} {{Normdaten}} [[Category:Unix系オペレーティングシステム]] [[Category:GNUプロジェクト]] [[Category:フリーソフトウェアOS]]
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https://ja.wikipedia.org/wiki/GNU
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真鍋昌平
真鍋 昌平(まなべ しょうへい、1971年 - )は、日本の漫画家。神奈川県茅ヶ崎市出身。代表作に『闇金ウシジマくん』がある。 小学校のころに『ドラえもん』を読んで感動し、漫画家を目指す。1993年に渋谷パルコのフリーペーパー『GOMES』主催のGOMES漫画グランプリで『ハトくん』が、しりあがり寿賞を受賞しデビュー。その後、グラフィックデザインのアルバイトを経て、1998年に『憂鬱滑り台』がアフタヌーン四季賞夏のコンテストの四季大賞を受賞し再デビュー。2000年より『月刊アフタヌーン』に『スマグラー』『THE END』を連載する。 2004年から2019年までビッグコミックスピリッツで『闇金ウシジマくん』を連載。同作品は社会の底辺にいる人々の生活や心理を克明に描き注目を集め、第56回(平成22年(2010年))小学館漫画賞一般向け部門、第23回(2020年)文化庁メディア芸術祭マンガ部門ソーシャル・インパクト賞を受賞した。 デビュー以来、八方塞がりの人間を主眼に置いた作品を描き続けている。過剰な暴力表現と、繊細な心理描写とが同居する特異な作風である。絵柄では吹き出しの中に入れた独特の擬音(「ニギ・・・ニギ・・・」など)により、人物の動作音と周囲の喧噪感を醸し出すことが多い。これに対比させるように陰影を際立たせた静寂な一枚絵によって、人物の絶望感を出す手法を用いている。 ウシジマくんの中後期まではコメディテイストがあり、どこか笑える債務者などの一人語りや珍妙な振る舞いが作品の魅力でもあった。 ウシジマくん最終章や九条の大罪においてはコメディテイストはなくなり、ハードボイルド一色になっている。 ストーリーに合わせてキャラクターの設定変更を行うことは躊躇なく行っており、こちらはデビュー以来一貫している。 2021年7月に発売された『AV女優ちゃん』第2巻では作者の峰なゆかと対談し、クズな人間に惹かれる理由やモラルについて語っている。
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真鍋 昌平は、日本の漫画家。神奈川県茅ヶ崎市出身。代表作に『闇金ウシジマくん』がある。
{{Infobox 漫画家 | 名前 = 真鍋 昌平 | ふりがな = まなべ しょうへい | 画像 = | 画像サイズ = | 脚注 = | 本名 = | 生地 = [[日本]]・[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]] | 生年 = {{生年と年齢|1971}} | 没年 = | 国籍 = <!-- [[日本]] 出生地から推定できない場合のみ指定 --> | 職業 = [[漫画家]] | 活動期間 = | ジャンル = | 代表作 = 『[[闇金ウシジマくん]]』{{R|bros}} | 受賞 = | サイン = | 公式サイト = }} '''真鍋 昌平'''(まなべ しょうへい、[[1971年]]<ref> {{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP2V3V9MP2MPTFC00V.html|title=「ウシジマくんの次、作れるか」 真鍋昌平、新作語る |publisher=朝日新聞DIGITAL |accessdate=2021-06-07}} </ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[神奈川県]][[茅ヶ崎市]]出身<ref>『闇金ウシジマくん 心に突き刺さる名言・迷言100』のインタビューページ</ref>。代表作に『[[闇金ウシジマくん]]』がある<ref name="bros">{{Cite web|和書|url=https://bigcomicbros.net/author/6716/|title=真鍋昌平 作品一覧|website=ビッグコミックBROS.NET|publisher=小学館|accessdate=2022-07-29}}</ref>。 == 来歴 == 小学校のころに『[[ドラえもん]]』を読んで感動し、漫画家を目指す。[[1993年]]に渋谷[[パルコ]]のフリーペーパー『GOMES』主催のGOMES漫画グランプリで『ハトくん』が、[[しりあがり寿]]賞を受賞しデビュー。その後、[[グラフィックデザイン]]のアルバイトを経て、[[1998年]]に『憂鬱滑り台』が[[アフタヌーン四季賞]]夏のコンテストの四季大賞を受賞し再デビュー。[[2000年]]より『[[月刊アフタヌーン]]』に『スマグラー』『THE END』を連載する。 [[2004年]]から[[2019年]]まで[[ビッグコミックスピリッツ]]で『[[闇金ウシジマくん]]』を連載。同作品は社会の底辺にいる人々の生活や心理を克明に描き注目を集め、第56回(平成22年(2010年))[[小学館漫画賞]]一般向け部門、第23回(2020年)[[文化庁メディア芸術祭マンガ部門]]ソーシャル・インパクト賞を受賞した<ref> {{Cite web|和書|url=http://archive.j-mediaarts.jp/festival/2020/manga/works/Yamikin_Ushijima_kun/ |title= 第23回文化庁メディア芸術祭マンガ部門ソーシャル・インパクト賞-闇金ウシジマくん|publisher=文化庁 |accessdate=2021-06-07 }} </ref>。 デビュー以来、八方塞がりの人間を主眼に置いた作品を描き続けている。過剰な暴力表現と、繊細な心理描写とが同居する特異な作風である。絵柄では[[吹き出し]]の中に入れた独特の[[擬音]](「ニギ・・・ニギ・・・」など)により、人物の動作音と周囲の喧噪感を醸し出すことが多い。これに対比させるように陰影を際立たせた静寂な一枚絵によって、人物の絶望感を出す手法を用いている。 ウシジマくんの中後期まではコメディテイストがあり、どこか笑える債務者などの一人語りや珍妙な振る舞いが作品の魅力でもあった。 ウシジマくん最終章や九条の大罪においてはコメディテイストはなくなり、ハードボイルド一色になっている。 ストーリーに合わせてキャラクターの設定変更を行うことは躊躇なく行っており、こちらはデビュー以来一貫している。 2021年7月に発売された『AV女優ちゃん』第2巻では作者の[[峰なゆか]]と対談し、クズな人間に惹かれる理由やモラルについて語っている<ref>{{Cite news|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|url=https://natalie.mu/comic/news/435253|title=AV女優ちゃん2巻に峰なゆか×真鍋昌平対談、“クズ”を描く2人が考えるモラルとは|date=2021-07-02|accessdate=2021-07-02}}</ref>。 == 人物 == * [[インタビュー]]などメディアで自分の姿が出る時は、ファッショナブルなサングラスをかけたり<ref>[http://woman.infoseek.co.jp/news/entertainment/shupure_13695# 『闇金ウシジマくん』作者・真鍋昌平が語る“洗脳のテクニック,,]</ref>、カメラの角度で、素顔を出さないようにしている<ref>[http://modernfart.jp/2012/12/9509/ 何歳まで生きますか?]</ref>。ただし初期の頃は、普通に顔出ししている<ref>雑誌『コミックH』(ロッキンオン・ジャパン)</ref>。 * [[Twitter]]などでは、激辛カレーが好物と発言している。 ** 生年月日は2016年9月14日放送の『[[せいこうユースケトーク!]]』([[ABEMA|Abema TV]])番組内にて45歳と明言。雑誌インタビューや2021年2月26日公開の『[[朝日新聞デジタル]]』のインタビューにて1971年生まれと公表されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.asahi.com/sp/articles/ASP2V3V9MP2MPTFC00V.html|title=「ウシジマくんの次、作れるか」 真鍋昌平、新作語る |publisher=朝日新聞DIGITAL |accessdate=2021-06-07}}</ref>。2019年には69歳として誤った報道がされた<ref>{{Cite web|和書|date=2019-05-07 |url=https://hochi.news/articles/20190507-OHT1T50121.html |title=「ウシジマくん」真鍋昌平氏、夫婦の不仲解消へ「一枚300万のイラスト断って、娘の…」 |publisher=報知新聞 |accessdate=2019-05-07}}</ref>。 == 作品リスト == === 漫画作品 === * 憂鬱滑り台(1998年、『[[月刊アフタヌーン]]』、[[講談社]])「[[四季賞クロニクル]]」収録<ref>のちに、『青空の果てまで』に収録されている。</ref> * [[スマグラー]](2000年、『月刊アフタヌーン』、講談社、全1巻) * 片隅ノ外(2000年 - 2001年、『[[QuickJapan]]』、[[太田出版]]) - 全6話、単行本未収録 * 遠くの世界(2001年、『コミックH (Vol.2)』、[[ロッキング・オン]]) * THE END(2001年 - 2002年、『月刊アフタヌーン』、講談社、全4巻) * 暴力ポコペン(2003年、『[[週刊ヤングマガジン]]』、講談社) - 全3話、短編集『青空のはてのはて』(KCDX、講談社刊)に収録 * [[闇金ウシジマくん]](2004年 - 2019年、『[[ビッグコミックスピリッツ]]』、[[小学館]]、全46巻) * アガペー(2015年、『週刊ヤングマガジン』31号、講談社) - ヤングマガジン35周年記念企画『BULLET』の読み切り掲載 * ピックアップ(漫画:福田博一、2020年 - 、『[[月刊ヤングマガジン]]』、講談社、既刊2巻) * [[九条の大罪]](2020年 - 、『ビッグコミックスピリッツ』、[[小学館]]、既刊10巻) === イラスト === * 姫君([[山田詠美]]著、[[文藝春秋]]) - 表紙イラスト * 遭難フリーター(岩淵弘樹著、[[太田出版]]) - 表紙イラスト * 「その族の名は『家族』」〜「て」改題〜(2011年4月13日 - 4月28日、青山劇場) - イラスト * [[空気階段]]第5回単独公演「fart」(2022年) - グッズイラスト描きおろし<ref>{{cite news|url=https://natalie.mu/comic/news/464966|title=真鍋昌平が鈴木もぐら&水川かたまりを描き下ろし、空気階段の単独公演グッズ|newspaper=コミックナタリー|publisher=ナターシャ|date=2022-02-08|accessdate=2022-02-08}}</ref> == 出典 == <references /> == 外部リンク == *{{Twitter|shoheimanabe}} {{Manga-artist-stub}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:まなへ しようへい}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1971年生]] [[Category:存命人物]]
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ユーザインタフェース
ユーザインタフェース(英: User Interface、 UI)または使用者インタフェースは、機械、特にコンピュータとその機械の利用者(通常は人間)の間での情報をやりとりするためのインタフェースである。これには長音符の有無などによる表記ゆれが見られるが、本記事では「ユーザインタフェース」で統一する。ユーザインタフェースは以下の手段を提供する。 システムを使う場合、ユーザーはそのシステムを制御でき、システムの状態を知ることができる必要がある。例えば、自動車を運転する際、運転手はハンドルを操作して進行方向を制御し、アクセルとブレーキとシフトレバーで速度を制御する。運転手は窓を通して外界を見ることで自動車の位置を把握し、速度計で正確な速度を知ることができる。自動車のユーザインタフェースは以上のような機器群で構成されており、全体として自動車の運転に必要なものを全て提供している。 ユーザインタフェースという語は、機械類等とそれの利用者、という関係を前提としている所がある。利用者という立場よりもより一般的に人間をとらえ、またそれと対峙するのが機械であることを意識・強調した語としてはヒューマンマシンインタフェース(HMI)がある。 ユーザーの種類によって異なるユーザインタフェースが用意されることも多い。例えば、図書館のシステムは、一般利用者向けの「とっつきやすさ」を重視したユーザインタフェースと、館員のための熟練を前提としたユーザインタフェースを持っているであろう。 場合によっては、コンピューターはユーザの振る舞いを観察し、特定のコマンドを入力しなくても何らかの反応を返すことがある。肉体の各部分の動きを追う手段が必要とされ、頭部の位置を把握するセンサーや視線の方向を把握するセンサーが実験的に使われている。これらは没入型インタフェースと呼ばれるものと深く関係している。 ユーザインタフェースのデザインは、ユーザーの入力に要する労力の量や出力を解釈するのに要する労力の量、さらには使い方の学習にかかる労力に深く関わっている。ユーザビリティ (usability) とは、特定のユーザインタフェース設計でユーザーの心理学的側面や生理学的側面をどの程度考慮しているかを測り、またそれによってそのシステムを利用する際の効率/効果/満足度を測る尺度である。 ユーザビリティは主にユーザインタフェースの特性だが、製品の機能そのものとも関係している。それは、ある製品が意図された目的に対して対象ユーザーによってどの程度効率よく、効果的かつ満足して使われるかを示すと同時に、利用時の状況から生じる要求を考慮しているかどうかにも関係する。これらの機能や特徴は常にユーザインタフェースの一部とは限らないが、製品のユーザビリティの重要な要素である。 UIデザインのための原則の中でも、ベン・シュナイダーマンや、ヤコブ・ニールセンによるものは最も著名である。国家試験である情報処理技術者試験でも、2010年に「ヤコブニールセンのユーザーインターフェースに関する10か条のヒューリスティックス」として出題されている。シュナイダーマン、ニールセン共にその原則に「一貫性の保持」や「エラーの防止」が含まれ、同じでなくとも類似したものも含まれている。 コンピュータプログラムのユーザインタフェースとは、プログラムがユーザーに提示するグラフィカルな情報、テキストによる情報、音声による情報と、ユーザーがプログラムを操作 (operate) するときに使う制御シーケンス(キーボードによるキー押下、マウスの動き、タッチパネルにおける選択など)を指す。以下ではプログラム(ソフトウェア)についての他、デバイス(ハードウェア)等についても触れる。 2008年現在、ユーザインタフェースには主に以下のような種類がある。 その他のユーザインタフェースの種類として、以下のものがある。 ユーザインタフェースの歴史は、支配的なユーザインタフェースの種類によって以下のように分けることができる。 1990年代以降に勃興したユーザインタフェースとして、以下のものがある。 ユーザインタフェースにおけるモダリティとは、入出力に使用されるコミュニケーションの経路である。例えば、 ユーザインタフェースは複数の冗長なモダリティを備えることがあり、ユーザーがいずれかを選択して使うことができるようになっている。 一方、モードはこれとは異なる概念で、プログラムの状態が異なると同じ入力を与えても異なる結果を生じることを意味する。モードを多用するとユーザーは常に現在の状態を覚えておく必要があるため、ユーザビリティの低下を招く。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェース(英: User Interface、 UI)または使用者インタフェースは、機械、特にコンピュータとその機械の利用者(通常は人間)の間での情報をやりとりするためのインタフェースである。これには長音符の有無などによる表記ゆれが見られるが、本記事では「ユーザインタフェース」で統一する。ユーザインタフェースは以下の手段を提供する。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "システムを使う場合、ユーザーはそのシステムを制御でき、システムの状態を知ることができる必要がある。例えば、自動車を運転する際、運転手はハンドルを操作して進行方向を制御し、アクセルとブレーキとシフトレバーで速度を制御する。運転手は窓を通して外界を見ることで自動車の位置を把握し、速度計で正確な速度を知ることができる。自動車のユーザインタフェースは以上のような機器群で構成されており、全体として自動車の運転に必要なものを全て提供している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェースという語は、機械類等とそれの利用者、という関係を前提としている所がある。利用者という立場よりもより一般的に人間をとらえ、またそれと対峙するのが機械であることを意識・強調した語としてはヒューマンマシンインタフェース(HMI)がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "ユーザーの種類によって異なるユーザインタフェースが用意されることも多い。例えば、図書館のシステムは、一般利用者向けの「とっつきやすさ」を重視したユーザインタフェースと、館員のための熟練を前提としたユーザインタフェースを持っているであろう。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "場合によっては、コンピューターはユーザの振る舞いを観察し、特定のコマンドを入力しなくても何らかの反応を返すことがある。肉体の各部分の動きを追う手段が必要とされ、頭部の位置を把握するセンサーや視線の方向を把握するセンサーが実験的に使われている。これらは没入型インタフェースと呼ばれるものと深く関係している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェースのデザインは、ユーザーの入力に要する労力の量や出力を解釈するのに要する労力の量、さらには使い方の学習にかかる労力に深く関わっている。ユーザビリティ (usability) とは、特定のユーザインタフェース設計でユーザーの心理学的側面や生理学的側面をどの程度考慮しているかを測り、またそれによってそのシステムを利用する際の効率/効果/満足度を測る尺度である。", "title": "ユーザビリティ" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "ユーザビリティは主にユーザインタフェースの特性だが、製品の機能そのものとも関係している。それは、ある製品が意図された目的に対して対象ユーザーによってどの程度効率よく、効果的かつ満足して使われるかを示すと同時に、利用時の状況から生じる要求を考慮しているかどうかにも関係する。これらの機能や特徴は常にユーザインタフェースの一部とは限らないが、製品のユーザビリティの重要な要素である。", "title": "ユーザビリティ" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "UIデザインのための原則の中でも、ベン・シュナイダーマンや、ヤコブ・ニールセンによるものは最も著名である。国家試験である情報処理技術者試験でも、2010年に「ヤコブニールセンのユーザーインターフェースに関する10か条のヒューリスティックス」として出題されている。シュナイダーマン、ニールセン共にその原則に「一貫性の保持」や「エラーの防止」が含まれ、同じでなくとも類似したものも含まれている。", "title": "ユーザビリティ" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "コンピュータプログラムのユーザインタフェースとは、プログラムがユーザーに提示するグラフィカルな情報、テキストによる情報、音声による情報と、ユーザーがプログラムを操作 (operate) するときに使う制御シーケンス(キーボードによるキー押下、マウスの動き、タッチパネルにおける選択など)を指す。以下ではプログラム(ソフトウェア)についての他、デバイス(ハードウェア)等についても触れる。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "2008年現在、ユーザインタフェースには主に以下のような種類がある。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "その他のユーザインタフェースの種類として、以下のものがある。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェースの歴史は、支配的なユーザインタフェースの種類によって以下のように分けることができる。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1990年代以降に勃興したユーザインタフェースとして、以下のものがある。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェースにおけるモダリティとは、入出力に使用されるコミュニケーションの経路である。例えば、", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "ユーザインタフェースは複数の冗長なモダリティを備えることがあり、ユーザーがいずれかを選択して使うことができるようになっている。", "title": "コンピュータ" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "一方、モードはこれとは異なる概念で、プログラムの状態が異なると同じ入力を与えても異なる結果を生じることを意味する。モードを多用するとユーザーは常に現在の状態を覚えておく必要があるため、ユーザビリティの低下を招く。", "title": "コンピュータ" } ]
ユーザインタフェースまたは使用者インタフェースは、機械、特にコンピュータとその機械の利用者(通常は人間)の間での情報をやりとりするためのインタフェースである。これには長音符の有無などによる表記ゆれが見られるが、本記事では「ユーザインタフェース」で統一する。ユーザインタフェースは以下の手段を提供する。 入力 - ユーザーがシステムを操作する手段 出力 - ユーザーが操作した結果システムが生成したものを提示する集団
'''ユーザインタフェース'''({{lang-en-short|User Interface}}、 '''UI''')または'''使用者インタフェース'''は、[[機械]]、特に[[コンピュータ]]とその機械の利用者(通常は[[人間]])の間での情報をやりとりするための[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]である。これには[[長音符#長音符を付ける流儀・付けない流儀|長音符の有無]]などによる[[表記ゆれ]]が見られるが、本記事では「ユーザインタフェース」で統一する。ユーザインタフェースは以下の手段を提供する。 * [[入力]] - ユーザーが[[システム]]を操作する手段 * [[出力]] - ユーザーが操作した結果システムが生成したものを提示する手段 ==概要== [[システム]]を使う場合、ユーザーはそのシステムを制御でき、システムの状態を知ることができる必要がある。例えば、[[自動車]]を運転する際、運転手はハンドルを操作して進行方向を制御し、アクセルとブレーキとシフトレバーで速度を制御する。運転手は窓を通して外界を見ることで自動車の位置を把握し、[[速度計]]で正確な速度を知ることができる。自動車のユーザインタフェースは以上のような機器群で構成されており、全体として自動車の運転に必要なものを全て提供している。 ユーザインタフェースという語は、機械類等とそれの利用者、という関係を前提としている所がある。利用者という立場よりもより一般的に人間をとらえ、またそれと対峙するのが機械であることを意識・強調した語としては[[ヒューマンマシンインタフェース]](HMI)がある。 ユーザーの種類によって異なるユーザインタフェースが用意されることも多い。例えば、[[図書館]]のシステムは、一般利用者向けの「とっつきやすさ」を重視したユーザインタフェースと、館員のための熟練を前提とした{{efn2|「熟練しないと使いにくい」という意味ではない。例えば、とっつきやすさを重視すると、熟練したときにはいちいち冗長でうっとうしくなる、というデザインになることなどがあり、そうではないデザインという意味である。}}ユーザインタフェースを持っているであろう。 場合によっては、コンピューターはユーザの振る舞いを観察し、特定のコマンドを入力しなくても何らかの反応を返すことがある。肉体の各部分の動きを追う手段が必要とされ、頭部の位置を把握するセンサーや視線の方向を把握する[[センサ|センサー]]が実験的に使われている。これらは[[没入型デジタル環境|没入型インタフェース]]と呼ばれるものと深く関係している。 ==ユーザビリティ== ユーザインタフェースの[[デザイン]]は、ユーザーの入力に要する労力の量や出力を解釈するのに要する労力の量、さらには使い方の学習にかかる労力に深く関わっている。'''[[ユーザビリティ]]''' (usability) とは、特定のユーザインタフェース設計でユーザーの[[心理学]]的側面や[[生理学]]的側面をどの程度考慮しているかを測り、またそれによってそのシステムを利用する際の効率/効果/満足度を測る尺度である。 ユーザビリティは主にユーザインタフェースの特性だが、製品の機能そのものとも関係している。それは、ある製品が意図された目的に対して対象ユーザーによってどの程度効率よく、効果的かつ満足して使われるかを示すと同時に、利用時の状況から生じる要求を考慮しているかどうかにも関係する。これらの機能や特徴は常にユーザインタフェースの一部とは限らないが、製品のユーザビリティの重要な要素である。 {{see also|メンタルモデル}} UIデザインのための原則の中でも、[[ベン・シュナイダーマン]]や、[[ヤコブ・ニールセン]]によるものは最も著名である<ref name="UIデザインの心理学">{{Cite book |和書 |author=Jeff Johnson |translator=武舎広幸、武舎るみ |date=2015 |title=UIデザインの心理学―わかりやすさ・使いやすさの法則 |publisher=インプレス |page=3-5 |isbn=978-4844337713 }}</ref>。国家試験である[[情報処理技術者試験]]でも、2010年に「ヤコブニールセンのユーザーインターフェースに関する10か条のヒューリスティックス」として出題されている<ref>松原敬二 『情報処理教科書 [秋期]高度試験午前I・II 2014年版』翔泳社、2014年、73頁、ISBN 9784798136325。松原敬二 『情報処理教科書 [秋期]高度試験午前I・II 2015年版 単行本』翔泳社、2015年、73頁、ISBN 978-4798140988</ref>。シュナイダーマン、ニールセン共にその原則に「一貫性の保持」や「エラーの防止」が含まれ、同じでなくとも類似したものも含まれている<ref name="UIデザインの心理学"/>。 ==コンピュータ== [[File:Window (windowing system).svg|thumb|グラフィカルユーザインタフェースの主要な要素であるウィンドウ]] [[プログラム (コンピュータ)|コンピュータプログラム]]のユーザインタフェースとは、プログラムがユーザーに提示するグラフィカルな情報、テキストによる情報、音声による情報と、ユーザーがプログラムを操作 (operate) するときに使う制御シーケンス([[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]によるキー押下、[[マウス (コンピュータ)|マウス]]の動き、[[タッチパネル]]における選択など)を指す。以下ではプログラム(ソフトウェア)についての他、デバイス(ハードウェア)等についても触れる。 ===分類=== 2008年現在、ユーザインタフェースには主に以下のような種類がある。 ;[[グラフィカルユーザインタフェース]] (GUI) :入力として[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]や[[マウス (コンピュータ)|マウス]]といったデバイスを用い、[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]]上にグラフィカルな出力を提示する方式。 <!--GUI設計においては、2つの異なる設計原則が主に採用されている。ひとつは[[オブジェクト指向]]型ユーザインタフェース (OOUI)、もうひとつは[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]指向インタフェースである{{要出典|date=2008年4月}}。--> :マウスを使った入力方式は[[Microsoft Windows|Windows]]や[[Mac OS]]のものが一般的だが、他にも境界線と交差するマウスポインタの動作で何らかの情報を入力する方式 (Crossing Based Interface)、[[マウスジェスチャー]]で制御する方式などもある。 ;[[ウェブユーザインタフェース]] (WUI) :[[ウェブページ]]生成によって入出力を行い、それを[[インターネット]]上で転送し、[[ウェブブラウザ]]でユーザーがそれを表示する。既存の[[HyperText Markup Language|HTML]]ベースのウェブブラウザを使うことができ、制御は[[Java]]・[[Ajax]]・[[Adobe Flash]]・[[.NET Framework|Microsoft .NET]]といった比較的新しい技術で実装される。 ; [[キャラクタユーザインタフェース]] (CUI) :ユーザーがキーボードからコマンドを入力し、ディスプレイ上に文字を表示することで出力とする方式。[[マウス (コンピュータ)|マウス]]など[[ポインティングデバイス]]を使用しないシステム管理作業などで使われる。 ;[[ハプティクス|触覚インタフェース]] :補助的な出力として[[皮膚感覚#触覚|触覚]][[フィードバック]]を用いる方式。コンピューター[[シミュレーション]]や[[バーチャルリアリティ]]で使われる。 ;タッチインタフェース :[[タッチパネル]]とGUIを入出力に使う方式。工業機械やセルフサービス型機械([[現金自動預け払い機|ATM]]など)または[[タブレット (コンピュータ)|タブレット]]などでよく使われる。 その他のユーザインタフェースの種類として、以下のものがある。 ;バッチインタフェース :[[バッチ処理]]で使われる対話型でないユーザインタフェース。ユーザーはバッチジョブとして処理の詳細をまとめて入力し、全ての処理が完了した時点で出力結果を得る。処理が始まると、システムはさらなる入力を求めることはない。 ;[[パーセプチュアルユーザインタフェース]] ({{lang-en-short|perceptual user interface}}, PUI) :ユーザーは従来的なコマンド入力を行わず、身振り手振りや音声を使って意思を伝達し、出力は映像や音声で行われる方式。[[Kinect]]や[[Siri]]/[[Cortana]]などが挙げられる。 ;[[リフレクシブユーザインタフェース]] ({{lang-en-short|reflexive user interface}}) :ユーザインタフェース全体をユーザーが再定義可能な方式。主に非常にリッチなGUIでのみ可能。 ;[[タンジブルユーザインタフェース]] ({{lang-en-short|tangible user interface}}, TUI) :物理的な接触を重視したユーザインタフェース。 ;[[テキストユーザインタフェース]] :出力はテキスト形式だが、入力はコマンド入力以外の方式も可能なユーザインタフェース。テキスト方式のメニュー操作などを指す。 ;{{疑問点範囲|音声ユーザインタフェース|date=2016年6月}}<!-- 音声UIというのは、SiriやCortanaなどのマイク入力・音声認識およびAIによる自動応答方式などを想起するので、電話を使った音声ガイダンスとは違うのでは? --> :[[電話]]において、音声で案内し、ユーザーは[[電話機]]のプッシュボタンで入力する方式。音声ガイダンス。 ;[[ズーミングユーザインタフェース]] :GUIの一種で、情報オブジェクト群が異なる詳細さレベルで表示され、ユーザーがその中からオブジェクトを選ぶとさらに詳細が表示されるという方式。[[Microsoft Windows 8]]で導入された[[Modern UI]]スタイルのアプリケーションでは、「セマンティックズーム」と呼ばれる。 ===歴史=== ユーザインタフェースの歴史は、支配的なユーザインタフェースの種類によって以下のように分けることができる。 *バッチインタフェースの時代([[1940年代]]-[[1960年代]]) *キャラクタユーザインタフェースの時代([[1960年代]]-[[1980年代]]) *グラフィカルユーザインタフェースの時代([[1980年代]]-現在) 1990年代以降に勃興したユーザインタフェースとして、以下のものがある。 * [[タンジブルユーザインタフェース]] (TUI) / [[Perceptual User Interface|パーセプチュアルユーザインタフェース]] (PUI) * [[マルチタッチ]] * [[音声ユーザーインターフェース]] ([[VUI]]) ===モダリティとモード=== ユーザインタフェースにおける'''[[モダリティ]]'''とは、入出力に使用されるコミュニケーションの経路である。例えば、 *入力 - キーボードによりユーザーはテキストを打ち込むことができ、[[ペンタブレット]]によりユーザーは自由に線を描くことができる。 *出力 - ディスプレイによりシステムはテキストやグラフィックスを表示でき(視覚モダリティ)、[[スピーカー]]によりシステムは音を生成することができる(聴覚モダリティ)。 ユーザインタフェースは複数の冗長なモダリティを備えることがあり、ユーザーがいずれかを選択して使うことができるようになっている。 一方、'''[[モード]]'''はこれとは異なる概念で、プログラムの状態が異なると同じ入力を与えても異なる結果を生じることを意味する。モードを多用するとユーザーは常に現在の状態を覚えておく必要があるため、ユーザビリティの低下を招く。 ===入力機器=== *[[開閉器|スイッチ]] *[[キーボード (コンピュータ)|キーボード]] *[[ポインティングデバイス]] **[[マウス (コンピュータ)|マウス]] **[[トラックボール]] **[[ペンタブレット]] **[[タッチパネル]] **[[ライトペン]] **[[ジョイスティック]] *[[音声]] **[[マイクロフォン]] *[[動画|映像]] **[[ビデオカメラ]] ===出力機器=== *[[ディスプレイ (コンピュータ)|ディスプレイ]] **[[ブラウン管|CRT]] **[[液晶ディスプレイ|LCD]] *[[点字ディスプレイ]] *[[プリンター]] **[[プリンター#ドットインパクト方式|ドットインパクト]] **[[サーマルプリンター|熱転写プリンター]] **[[インクジェットプリンター]] **[[レーザープリンター]] *[[音声出力]] **[[スピーカー]] **[[音声合成]] **[[FM音源]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{notelist2}} === 出典 === {{reflist}} ==関連項目== {{columns-list|colwidth=20em| *[[ヒューマンマシンインタフェース]] *[[ヒューマン・インタフェース・デバイス]] *[[ブレイン・マシン・インタフェース]] *[[ユースケース]] *[[ユーザインタフェース設計]] *[[アクセシビリティ]]と[[コンピュータアクセシビリティ]] *[[人間工学]] *[[インタフェース (情報技術)]] *[[ユーザビリティ]] *[[ユーザーエクスペリエンスデザイン]] *[[インフォグラフィック]] }} ==外部リンク== *[http://www.catb.org/~esr/writings/taouu/html/ch02.html {{lang|en|Chapter 2. History: A Brief History of User Interfaces}}] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうさいんたふええす}} [[Category:ユーザインタフェース|*]] [[Category:人間工学]]
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小池田マヤ
小池田 マヤ(こいけだ マヤ、1969年5月4日 - )は、日本の漫画家。山口県光市虹ヶ丘生まれ、大阪府出身。京都市立芸術大学版画科卒業。女性。 本名「山田佳子」(やまだけいこ)。逆に読むと「こいけだまや」となる。 専門学校での非常勤講師経験あり。
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小池田 マヤは、日本の漫画家。山口県光市虹ヶ丘生まれ、大阪府出身。京都市立芸術大学版画科卒業。女性。 本名「山田佳子」(やまだけいこ)。逆に読むと「こいけだまや」となる。 専門学校での非常勤講師経験あり。
{{Infobox 漫画家 |名前 = 小池田 マヤ(こいけだ マヤ) |生年 = {{生年月日と年齢|1969|5|4}} |生地 = {{JPN}}[[山口県]][[光市]] |国籍 = [[日本]] |職業 = [[漫画家]] |活動期間 = [[1991年]] - |ジャンル = [[四コマ]]、[[恋愛漫画]]、[[青年漫画]] |代表作 = [[バーバーハーバー]]<br>[[聖★高校生]]<br>[[…すぎなレボリューション]] 他 |受賞 = 第1回理容チョキちゃん大賞 |公式サイト = [http://koikeda.blog.fc2.com/ 羽と毛玉の漫画家日記 《 オカメ&黒虎秋田 》] }} '''小池田 マヤ'''(こいけだ マヤ、[[1969年]][[5月4日]]<ref name="aa">日外アソシエーツ発行『漫画家人名事典』(2003年2月)ISBN 9784816917608、P144</ref> - )は、[[日本]]の[[漫画家]]。[[山口県]][[光市]]虹ヶ丘生まれ、[[大阪府]]<ref name="aa" />出身。[[京都市立芸術大学]]版画科卒業<ref name="aa" />。女性。 本名「山田佳子」(やまだけいこ)<ref name="aa" />。逆に読むと「こいけだまや」となる。 専門学校での非常勤講師経験あり<ref>本人単行本「僕のかわいい上司さま」2巻巻末あとがき漫画など参考。</ref>。 == 作風・特徴など == * [[1991年]]、大学在学中に[[芳文社]]『[[まんがホーム]]』8月号「女流新人4コマまんが展」に「愛ラブうずらチャン」で入選。翌月9月号より「すいーとキッチン」<ref>後に「おかえりまーさん」に改題。</ref>の連載が開始された。その後芳文社の各誌に連載を持ち、「僕のかわいい上司さま」などで再録4コマ誌『まんがタイムコレクション』が数回発売されるなど同社の主力作家の1人として活躍した。後に芳文社から全作品の出版契約を引き上げ、現在は非4コマ誌や青年誌など各社の[[漫画雑誌]]に活動の場を拡げている。 * [[4コマ漫画]]に連続性を持たせながら第1話から最終回に至る大きな話を描く、「ストーリー4コマ」の手法を得意とする<ref>中野渡淳一著「漫画家誕生 169人の漫画道」135頁 新潮社、2006年</ref>。「僕のかわいい上司さま」「すーぱータムタム」「[[バーバーハーバー]]」などの著作では、連続する複数の4コマを1つのストーリーとして関連づけるのみならず、コマ枠外部への書き込み、1つのエピソードを異なる視点から2本の4コマ漫画に仕立てる、4コマの後に見開きを配置するなど多様な表現法が使われている。 <!-- * 単行本「[[聖★高校生]]」内で、自らが[[同性愛者]]・[[トランスベスタイト]]であることを[[カミングアウト]]したが、2009年の私立男装学園に関するインタビューで、同性愛者であると思ってきたがそうではないことに気付いたと語っている。--> == 主な作品リスト == === 単行本化作品リスト === <!-- 単行本の初巻発行順にソートしています。また、一旦リンク先のない作品のリンクを外しましたので、作品の記事を新たに作られた場合以下にリンクをつけてください --> * [[僕のかわいい上司さま]](芳文社、全4巻)、完結編([[双葉社]])、双葉社より文庫版が上下巻で発行。まんがタイムオリジナル平成8年5月号、まんがタイムスペシャル平成9年2月号でそれぞれ連載開始。 * ときめき まっくん!(芳文社、全3巻)、双葉社より文庫版として全1巻が発行。まんがタイム平成7年5月号で連載開始。 *#ISBN 9784832260832(1996年12月) *# ISBN 9784832261198(1998年10月) *# ISBN 9784832261631(2000年3月) ** 文庫版 ISBN 978-4-575-72693-0(2008年11月) * すーぱータムタム(芳文社、全3巻)、完結編([[講談社]])、双葉社より文庫版が上下巻で発行。まんがタイムラブリー平成7年1月号で連載開始。 *#ISBN 9784832260948(1997年9月) *# ISBN 9784832260986(1997年11月) *# ISBN 9784832261242(1998年12月) *# 完結編 ISBN 9784063374711(2001年7月) ** 文庫版 上 ISBN 9784575727340(2009年10月20日) ** 文庫版 下 ISBN 9784575727357(2009年10月20日) * うららかな日々(芳文社、全1巻)ISBN 9784832261037(1998年1月)、わんにゃんCLUB平成6年7月号 - 平成8年7月号で連載。 * [[おかえり まーさん]](芳文社、全3巻)。まんがホーム平成3年9月号、まんがタイムオリジナル平成4年4月号、まんがタイムジャンボ平成4年11月号、まんがタイム平成5年9月号で連載開始。 * 零子が行く!(芳文社、全2巻)まんがタイムスペシャル平成6年4月号 - 平成8年3月号で連載。 *#ISBN 9784832261327(1999年4月) *# ISBN 9784832261372(1999年6月) * [[聖★高校生]](少年画報社)全11巻 * [[…すぎなレボリューション]](講談社、全8巻、新装版全3巻) * マイペース! ゆず★らん(双葉社、全5巻、文庫版2巻) *#ISBN 978-4-575-93638-4(1999年8月) *# ISBN 978-4-575-93695-7(2000年6月) *# ISBN 978-4-575-93753-4(2001年8月) *# ISBN 978-4-575-93820-3(2003年3月) *# ISBN 978-4-575-93915-6(2004年11月) ** 文庫版 上 ISBN 9784575727104(2009年4月) ** 文庫版 下 ISBN 9784575727111(2009年4月) * バツイチ30ans([[竹書房]]、全2巻)、[[祥伝社]]より新装版で全1巻発行。 *#ISBN 9784812453209(1999年9月) *# ISBN 9784812454459(2000年11月) ** 新装版 ISBN 9784396763695(2005年10月) * [[バーバーハーバー]](講談社、全7巻) ** [[バーバーハーバー|バーバーハーバーNG]](講談社、全1巻) * いちごオフィス([[大都社]]、全4巻)、芳文社『まんがホーム』平成6年4月号で連載開始。 *#ISBN 9784886534545(2002年7月) *# ISBN 9784886534552(2002年7月) *# ISBN 9784886534569(2002年8月) *# ISBN 9784886534576(2002年8月) * Cactus,Go to Heaven(略称CGH!)(祥伝社、全5巻) *#ISBN 9784396763619(2005年6月) *# ISBN 9784396763787(2006年6月) *# ISBN 9784396764050(2007年4月) *# ISBN 9784396764326(2008年4月) *# ISBN 9784396764470(2008年12月) * ひのたまLOVE (双葉社、全1巻)ISBN 9784575940824(2007年4月)『まんがタイムスペシャル』平成8年4月号 - 平成9年1月号連載の「葵さまが好き♥」同時収録 * [[うめぼし]]([[スクウェア・エニックス]]、全2巻) * [[不思議くんJAM]](旧題「ミルククラウンの王子様」)(双葉社、全3巻) *#ISBN 9784575941555(2008年4月) *# ISBN 9784575942507(2009年10月) *# ISBN 9784575943252(2011年7月) * 家政婦さんシリーズ(1~3巻[[祥伝社]]、4巻〜双葉社)2021年8月現在、既刊7巻 *# 放浪の家政婦さん ISBN 9784396764630(2009年7月) *# ピリ辛の家政婦さん ISBN 9784396765118(2010年12月) *# 誰そ彼の家政婦さん ISBN 9784396765644 (2012年11月) *# 颯爽な家政婦さん ISBN 9784575336092(2015年10月17日) *# 波飛沫せし家政婦さん ISBN 9784575336634 (2017年4月) *# 令和の家政婦さん1(2020年9月17日) *# 令和の家政婦さん2(2020年11月17日) * やさぐれ人魚伝説 マーメイドブルース(旧題「マーメイドブルース」)<!--まんがくらぶ 2007年6月号・7月号・2008年2月号ゲスト、2008年7月号 - 2009年10月号-->(竹書房 全1巻) ISBN 9784812471913(2009年11月) * 私立男装学園(講談社、全2巻) *#ISBN 9784063758368(2009年11月) *# ISBN 9784063758825(2010年2月) * 女と猫シリーズ(双葉社) *# 女と猫は呼ばない時にやってくる ISBN 9784575334807 (2012年5月) *# 老いた鷲でも若い鳥より優れている ISBN 9784575335514(2013年4月17日) *# 鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす ISBN 9784575335514(2014年5月17日) *# カラスと書き物机はなぜ似てる? (2015年10月17日) *# 仕事は狼ではなく森へは逃げない 上(2018年4月17日) *# 仕事は狼ではなく森へは逃げない 下(2018年5月17日) * あさひごはん([[リイド社]]『[http://www.leed.co.jp/cafe/ webまんがリイドカフェ]』2014年4月1日配信開始) *#ISBN 9784845841837(2014年12月25日) * いもうとは秋田犬 ([[青泉社]]LGAコミックス) *# いもうとは秋田犬(2016年4月20日) *# いもうとは秋田犬〜悩めるビギナー編〜(2017年10月20日) *# いもうとは秋田犬〜にぎやかイベント編〜(2018年6月20日) * 釣りとごはんと、恋は凪(ぶんか社) *#{{ISBN2|978-4-8211-3607-0}} (2018年4月1日) *#{{ISBN2|978-4-8211-3821-0}}(2019年8月1日)     *#{{ISBN2|978-4-8211-3821-0}}(2020年8月17日) *#{{ISBN2|978-4-8211-2956-0}}(2022年5月13日) === 主な単行本未収録作品リスト === * おさななじみ(芳文社『まんがタイムスペシャル』1992年 - 1994年) * くぇいるリコーダー(講談社『[[なかよし]]』2009年5月号) * ドMな極妻姐さん([[日本文芸社]]『[[週刊漫画ゴラク]]』不定期掲載) == 受賞歴 == *第1回理容チョキちゃん大賞:[[全国理容生活衛生同業組合連合会]]主催 **受賞作品:『バーバーハーバー』 == 出典・注釈 == {{Reflist}} == 外部リンク == * [http://koikeda.blog.fc2.com/ 羽と毛玉の漫画家日記 《 オカメ&黒虎秋田 》] - オフィシャルブログ * {{twitter|koikedama|小池田マヤ}}<!-- * {{twitter|koikeda_pink|濃い毛玉屋}} - R18裏アカウント、非公開--> * [https://web.archive.org/web/20120605083902/http://www.shodensha.co.jp/fy/special/post_6.php 小池田マヤインタビュー!] {{Normdaten}} {{Manga-artist-stub}} {{DEFAULTSORT:こいけた まや}} [[Category:日本の漫画家]] [[Category:京都市立芸術大学出身の人物]] [[Category:大阪府出身の人物]] [[Category:1969年生]] [[Category:存命人物]]
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カーネル
カーネル(英: kernel)は、階層型に設計されたオペレーティングシステム (OS) の中核となる部分で、アプリケーションとハードウェアの架け橋である。具体的には、システムのリソースや、ハードウェアとソフトウェアの連携を管理する。そのほか、通信制御を行うことが多い。 オペレーティングシステムの基本コンポーネントとして、カーネルはメモリ、CPU、入出力を中心としたハードウェアを抽象化し、ハードウェアとソフトウェアがやり取りできるようにする。また、ユーザープログラムのための機能として、プロセスの抽象化、プロセス間通信、システムコールなどを提供する。 これらのタスクはカーネルによって方式が異なり、設計や実装も異なる。モノリシックカーネルは全てを一つの仮想アドレス空間に格納されたコードで実行して性能を向上させようとする。マイクロカーネルはサービスの大部分をユーザー空間で実行し、コードの保守性とモジュール性を向上させようとする。多くのカーネルはこの二つのカテゴリのいずれか、あるいは中間である。 全てではないが、多くのオペレーティングシステム (OS) はカーネルを内包する。ハードウェアとソフトウェアの間の通信を管理するソフトウェアとしてのカーネルは、性能、メモリ効率、セキュリティ、プロセッサのアーキテクチャなどが複雑に絡んだ問題への妥協的解答である。 多くの場合、ブートローダーがカーネルを特権モードのプロセスとして起動する。しかし、初期化が完了すると、カーネルはいわゆるプロセスとしては存在せず、ディスクアクセスなどの高い特権レベルを必要とする処理を必要としたときにユーザプログラムから呼び出される機能の集合体として存在することになる。カーネルの処理の流れはユーザープロセスの処理の流れの延長上にあり、システムコールによってカーネルに処理がわたり、終了するとユーザーに戻っていく。初期化時のコンテキストはそのまま消えるようにする設計もあるが、「アイドルプロセス」とか「collects」と呼ばれる、プロセッサが何もすることがないときに実行されるコードに流用される設計とすることもある。省電力のため、プロセッサが「休む」ような命令を繰り返すようなコードとすることも多い。 カーネル開発はプログラミングの中でも複雑で難しいタスクのひとつと考えられる。オペレーティングシステムの中核部であるということは、高い性能を要求される最重要なソフトウェアであり、正しく設計し実装することは難しい。カーネルはユーザプログラムの互換性や移植性を考慮する必要などから、設計が制限されることがあり、そのことがさらに開発を難しくしている。 カーネルの仕事はコンピュータのリソースを管理し、他のプログラムがそれらのリソースを使って動作できるようにすることである。典型的なリソースとしては以下のものがある。 リソース管理に必要な重要な観点は、実行領域(アドレス空間)の定義とその領域内のリソースへのアクセスを調停する保護機構である。 また、カーネルは一般にプロセス同士の同期と通信の手段も提供しており、プロセス間通信 (IPC) と呼ぶ。 カーネルは自前でそれらの機能を実装していることもあるし、何らかのプロセスに委任していることもあるが、後者の場合はプロセス間で機能へのアクセスを可能にするIPCを提供する必要がある。 最後に、カーネルはそれら機能群へのアクセスを要求する手段をプログラムに提供しなければならない。 カーネルの主な仕事はアプリケーションの実行を許可し、ハードウェア抽象化などの機能によってそれをサポートすることである。 プロセスは、アプリケーションがアクセスできるメモリの範囲を定義する。カーネルのプロセス管理は、ハードウェアの持つメモリ保護機構を考慮しなければならない。 カーネルはアプリケーションを実行するためアドレス空間を設定し、アプリケーションのコードを含むファイルをメモリにロードし、プログラムのためのコールスタックを設定し、そのプログラムの所定の位置に制御をわたすことで実行を開始する。 マルチタスク可能なカーネルは、ユーザーから見て実際にそのコンピュータが同時実行できるプロセス数よりも、多数のプロセスが同時並行して実行されているかのようにみせかける。一般にシステムが同時並行して実行できるプロセス数は、そのシステムの持つCPU数に等しい(同時マルチスレッディングをサポートしている場合はそのかぎりではない)。 プリエンプティブ・マルチタスクシステムでは、カーネルは各プログラムにタイムスライス(そのプログラムがCPU上で実行される連続時間)を与え、プロセスからプロセスへと高速に切り換えていくので、ユーザーから見ればそれらのプロセスが同時並行して実行されているように見えるのである。カーネルは次に実行すべきプロセスを決定し、タイムスライスの長さを決定するスケジューリングアルゴリズムを持つ。一般にプロセスには優先度が設定される。カーネルはそれらのプロセス間の通信手段も提供する。これはプロセス間通信 (IPC) と呼ばれ、パイプ、共有メモリ、メッセージ、RPC、ソフトウェア割り込みなどがある。 ほかに協調型マルチタスクもあり、各プロセスは自らカーネルに制御を戻すまで割り込まれずに実行を続けることができる。制御をカーネルに戻すことを "yielding" と呼び、プロセス間通信の際や何らかのイベントを待つ際に行われ、そのときにカーネルが別のプロセスを動作させる。古い Windows や Mac OS はこの方式だったが、コンピュータの性能向上に伴ってプリエンプティブ方式に切り換えた。 オペレーティングシステムは、マルチプロセッシング(SMPやNUMA)をサポートすることもある。この場合、複数のプログラムやスレッドが複数のプロセッサ上で動作する。そのようなシステムでカーネルを動作させる場合、「リエントラント(再入可能)」あるいは「割り込み可能」になるよう大幅な改造が必要となる。これはつまり、何か処理をしている最中にほかからも要求を受け付けるということである。この改造ができれば、異なるプロセッサ上で動作するプログラムが同時にカーネルを呼び出しても大丈夫になる。カーネルは複数のプロセッサからのメモリアクセスを同期させる方法(スピンロックなど)も提供しなければならない。これはメモリ管理とプロセス管理にまたがる問題である。 カーネルはシステムの全メモリへの無制限のアクセスが可能で、ユーザープロセスの要求に応じて安全なメモリアクセスを提供しなければならない。このための第一歩はページング方式やセグメント方式による仮想アドレッシングである。仮想記憶方式では、カーネルは物理アドレスを別のアドレス、つまり仮想アドレスに変換する。これにより、各プログラムは(カーネル以外では)仮想空間上唯一のコードに見え、プログラムが互いに他のプログラムを破壊することを防止する。 多くのシステムで、あるプログラムの仮想アドレスはメモリ上にないデータを指していることがある。仮想アドレッシングによるインダイレクション層は、本来なら主記憶 (RAM) になければならないデータをハードディスクなどの補助記憶装置に退避させることを可能にする。結果としてOSは物理的な容量以上のメモリをプログラム群に提供可能となる。RAMにないデータがあるプログラムで必要になった場合、CPUはカーネルにそれを知らせ(ページフォールト)、(必要なら)カーネルが使われていないメモリブロックの内容をディスクに退避させ、必要なデータをそのメモリブロックに復帰させる(ページ置換アルゴリズム)。すると、プログラムは要求を行った時点から処理を再開させることができる。これをデマンドページングと呼ぶ。 仮想アドレッシング方式では、仮想空間をカーネル用の部分(カーネル空間)とアプリケーション用の部分(ユーザー空間)に分けることができる。アプリケーションはカーネル用メモリにアクセスできないので、アプリケーションにバグがあったとしてもカーネルにダメージを与えることはない。この根本的な分離は多くの汎用カーネルで実際に使われているが、別の方式を採用したカーネルの研究も行われている(たとえば、Singularity)。 メモリ管理のもうひとつの機能として、カーネル内の各モジュールやデバイスドライバが使用するメモリの割り当てがある(動的メモリアロケーション)。 実際に何らかの作業をするには、OSはコンピュータに接続された周辺機器にアクセスする必要があり、周辺機器はその開発元などが書いたデバイスドライバを通して制御される。デバイスドライバはOSがハードウェアデバイスとやりとりするためのプログラムであり、OSに対して何らかのハードウェアを制御・通信するための情報を提供する。ドライバはアプリケーションにとっても重要で不可欠である。ドライバの設計目標は抽象化である。ドライバの機能はOSの定めたインタフェースからデバイス固有のインタフェースに変換することである。理論上、デバイスは適当なドライバがあれば正しく動作する。デバイスドライバは、ビデオカード、サウンドカード、プリンター、スキャナー、モデム、LANカードなどに対応して存在する。一般的なデバイスドライバの抽象化レベルを次に示す。 たとえば、ユーザー向けに何かを画面に表示する場合、アプリケーションがカーネルに要求し、その要求がディスプレイドライバに送られ、ディスプレイドライバが実際の文字やピクセルの描画を行う。 カーネルは使用可能なデバイスの一覧を保持しなければならない。この一覧は、事前に知られている場合(たとえば、組み込みシステムでは利用可能なハードウェアが変われば、カーネルを書き換える)、ユーザーが設定する場合(古いPCや個人用に設計されていないシステムなど)、OSが実行時に検出する場合(プラグアンドプレイ)がある。プラグアンドプレイのシステムでは、デバイス管理は最初にさまざまなバス(PCIやUSB)上をスキャンして実装されたデバイスを検出し、対応するドライバを探す。 デバイス管理は各OS固有の部分であり、カーネルの設計によってドライバの扱い方は異なるが、一般にカーネルはドライバが物理的にデバイスにアクセスするための入出力ポートやメモリ空間を用意する必要がある。デバイスへのアクセスはコンテキストスイッチを引き起こしたり、CPUを浪費したりすることになりやすく、性能オーバヘッドの元となるため、デバイス管理の設計は重要である。 意味のある作業を実行するには、ユーザプログラムはカーネルの提供する全サービスにアクセスできなければならない。これはカーネルによって実装が異なるが、多くは標準CライブラリやAPIが提供され、そこから対応するカーネル機能が呼び出される。 カーネル機能を呼び出す方法は主にCPUがどのような機能を提供しているかに依存する。カーネル空間とユーザー空間が分離されている場合、ユーザープロセスが直接カーネルを呼び出すことはできない。たとえば以下のような技法を採用する。 カーネル設計において重要な観点として、障害(フォールトトレラント性)と悪意ある動作(セキュリティ)からの保護(プロテクション)サポートがある。この2つは通常明確には区別されず、明確に区別しようとするとリングプロテクションでは対応できなくなる。 カーネルが提供する機構または方針は、いくつかの基準で分類できる。 などである。 階層型プロテクションは、一般に「CPUモード」でサポートされる。ハードウェアサポートによる単純で効率的な方法は、MMUにメモリアクセスのたびにその妥当性をチェックさせるもので、その機構をケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)と呼ぶ。ただし、多くの商用コンピュータアーキテクチャではMMUがケイパビリティをサポートしていない。 代替手法は、階層型プロテクションでケイパビリティをシミュレートするものである。この場合、保護されたオブジェクトはアプリケーションがアクセスできないアドレス空間になければならない。カーネルもそのようなメモリ空間のケイパビリティのリストを保持する。ケイパビリティによって保護されたオブジェクトにアプリケーションがアクセスしたい場合、システムコールを行い、カーネルが実際のアクセスを代行する。これにはアドレス空間の切り替えを必要とするため、オブジェクト間で複雑なやりとりが必要なシステムでは性能が低下するが、現代のOSはアクセス頻度が低いオブジェクトや性能を要求されないオブジェクトについてはこの方式を採用している。保護機構をより高い階層でシミュレートする方式も可能だが(たとえば、直接サポートされていないハードウェアについてのページテーブルを操作してケイパビリティをシミュレートするなど)、性能上の問題がある。言語ベースの保護を選択するシステムでは、ハードウェアサポートがなくても問題にならない。 カーネル設計における重要な点として、セキュリティの機構と方針を実装する抽象化レベルの選択がある。カーネルのセキュリティ機構は、高度なセキュリティをサポートする上で重要である。 1つの方式として、ファームウェアとカーネルでフォールトトレラント性をサポートする方式があり、その上に悪意ある動作に対するセキュリティ方針を構築し(必要に応じて暗号機構を追加する)、一部の責任をコンパイラに委任する。コンパイラやアプリケーションレベルへのセキュリティ方針の責任委譲の方式を一般に「言語ベースのセキュリティ」と呼ぶ。 現代の主流のOSの多くは重要なセキュリティ機構が欠如しているため、アプリケーションの抽象化レベルでの適切なセキュリティ方針実装ができないことがある。一般にカーネルサポートがどうであれ、アプリケーションで任意のセキュリティ方針を実装可能だとされているが、間違いである。 現代の一般的コンピュータは、ハードウェアが強制した規則を使ってプログラムのデータへのアクセスを許可している。プロセッサは動作を監視し、規則に違反したプログラムを停止させる(たとえば、カーネル空間のメモリを読み書きしようとしたユーザプロセスを停止させるなど)。ケイパビリティをサポートしていないシステムでは、プロセスは相互に隔離されたアドレス空間で動作する。ユーザプロセスがカーネルを呼び出すことは、上述したシステムコールの技法を使って統制されている。 代替手法として言語ベースの保護(プロテクション)がある。言語ベースのプロテクションシステムでは、カーネルは信頼されている言語コンパイラが生成したコードのみ実行を許可する。そしてその言語は、セキュリティに違反するようなコードをプログラマが書けないように設計されている。 この方式には次のような長所がある。 一方、次のような短所がある。 言語ベースのプロテクションを採用したシステムとしては、JXやマイクロソフトのSingularityがある。 エドガー・ダイクストラは論理的観点から、バイナリセマフォにおける不可分なロックとアンロック操作だけで、プロセス間の任意の協調作動を実現できることを証明した。しかしそのような方式は一般に安全性や効率性が欠如しており、メッセージパッシング方式の方が柔軟性が高い。他の方式もいくつかあり、現代のカーネルでは共有メモリやRPCなどのシステムをサポートしていることが多い。 入出力デバイスを並行して協調作動する他のプロセス群から一様に扱えるようにするというカーネルの考え方は、Per Brinch Hansen が提唱し実装したのが最初である(似たような考え方は1967年にも示唆されていた)。Hansen はその説明で、「共通の」プロセス群を「内部プロセス」、入出力デバイスを「外部プロセス」と呼んでいる。 物理メモリと同様、アプリケーションがコントローラのポートやレジスタに直接アクセスすることを許可すると、コントローラが不正作動したり、システムがクラッシュすることになる。それに加えて、デバイスの複雑さに応じて対応するプログラムは非常に複雑化することがあり、しかも複数の異なるコントローラを使うことがある。そのため、デバイスを管理するためのより抽象化されたインタフェースを提供することが重要である。この抽象化を提供するのは一般にデバイスドライバや Hardware Abstraction Layer (HAL) である。アプリケーションは必要なら頻繁にデバイスへのアクセスを要求する。カーネルはシステムに接続されたデバイスの一覧を何らかの方法で保持しなければならない。これはBIOSや各種システムバスの機能(PCI/PCIeやUSB)を使ってなされる。あるアプリケーションがあるデバイス操作を要求すると(たとえばディスプレイに文字を表示する)、カーネルは対応するドライバ(たとえばビデオドライバ)に要求を送らなければならない。するとそのドライバがデバイスに対して必要な処理を行う。マイクロカーネルの場合、この際にプロセス間通信 (IPC) が使われる。 もちろん、上述したタスク群や機能群の提供方法は設計や実装の面でさまざまである。 「機構と方針の分離」の原則は、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの哲学の間でかなり大きな相違がある。ここで、「機構」はさまざまな「方針」の実装を可能とするものであり、「方針」は特定の「操作のモード」である。たとえば「機構」面では、ユーザーがログインしようとしたとき認証サーバを呼び出してアクセスを認めるべきか否かを決定するということが考えられる。一方「方針」面では、認証サーバがパスワードを要求し、データベース内の暗号化されたパスワードと照合するかもしれない。機構が汎用的であれば、機構と方針が同一モジュールに統合されている場合よりも方針の変更(たとえば、パスワードの代わりにセキュリティトークンを使うなど)がより容易になる。 最小のマイクロカーネルでは非常に基本的な方針のみが含まれ、その機構はカーネル上で動作させるもの(OSの残りの部分やアプリケーション群)自身がどのような方針(メモリ管理、高度なプロセススケジューリング、ファイルシステム管理など)を採用するか決定することを可能にする。一方モノリシックカーネルは方針の大部分をカーネル内に含む傾向があり、結果としてその上の部分の自由度は制限される。 Per Brinch Hansen は機構と方針の分離のための主張を展開した。すなわち、この分離が不適切であることが既存のOSで本質的技術革新が見られないことの主要因だとし、コンピュータアーキテクチャにおける共通課題だとした。モノリシック設計は、従来の商用システムで一般的な保護技法である「カーネルモード」と「ユーザーモード」に分離するアーキテクチャ(いわゆるリングプロテクション)から生まれた。そのアーキテクチャでは、保護(プロテクション)を必要とするモジュールを可能な限りカーネルに含めようとする。このようなモノリシック設計と特権モードの関係が機構と方針の分離における重要な問題として再注目されている。実際「特権モード」のアーキテクチャ技法は保護機構とセキュリティ方針を融合させる傾向があるが、これとは大きく異なるアーキテクチャ技法であるケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)ではその2つを明確に区別し、自然にマイクロカーネル設計が可能となる。 モノリシックカーネルはカーネルの全コードを同じアドレス空間(カーネル空間)で実行するが、マイクロカーネルでは多くのサービスをユーザー空間で実行しようとし、コードベースの保守性とモジュール性を向上させようとしている。多くのカーネルは明確にどちらかに分類できるわけではなく、その中間の実装ともいうべきハイブリッドカーネルになっている。さらに特殊な設計としてナノカーネルやエクソカーネルが研究されているが、広く使われるまでには至っていない。エクソカーネルの例としてXenハイパーバイザがある。 モノリシックカーネルでは、全OSサービスはひとつのカーネル空間内に存在し、カーネルスレッド上で実行される。この手法は強力なハードウェアアクセスを提供する。UNIXの開発者ケン・トンプソンは、モノリシックカーネルの方がマイクロカーネルより実装が容易だとしている。主な欠点はシステム構成要素間の依存関係の複雑さである。たとえば、デバイスドライバにバグがあっただけでシステム全体がクラッシュするし、大きなカーネルは保守が非常に困難である。 Unix系OSが伝統的に採用してきたモノリシックカーネルは、OS中核機能とデバイスドライバを全て含んでいた。デバイスドライバ、スケジューラ、メモリ管理、ファイルシステム、ネットワークのプロトコルスタックなど、多くのプログラムが必要とするがライブラリとしてユーザー空間で実行することができない機能は、全てカーネル空間に置かれた。それら全サービスへのアクセスを可能にするため、数多くのシステムコールがアプリケーションに対して提供されている。 必要とされないサブシステムを伴って最初からロードされるモノリシックカーネルは、より汎用的な意味ではあるが、特定ハードウェア向けに設計されたものよりもチューニングが可能である。LinuxやFreeBSDなどの現代のモノリシックカーネルはUnix系OSであり、実行時にモジュールをロードする機能を備えており、必要に応じて容易に機能を拡張でき、同時にカーネル空間で動作するコード量をなるべく最小に抑えることができる。モノリシックカーネルには次のような長所がある。 モノリシックカーネルはシステムコールの延長で動作する部分がほとんどである。システムコールは一般にテーブル構造で保持されるインタフェースであり、ディスク操作などのカーネル内サブシステムへのアクセスを行う。プログラム内でライブラリルーチンを呼び出すと、その中で要求をチェックしてコピーし、システムコールにわたす。したがって、それほど重い呼び出しではない。Linuxカーネルはモノリシックだがかなり小さくできる。これは、ローダブル・カーネル・モジュール機能と、カスタマイズが容易なためである。実際、フロッピーディスク1枚にカーネルだけでなく多数のユーティリティを搭載し、それだけで完動するOSとすることもできる(最も有名な例として muLinux(英語版) がある)。このカーネルを小型化できる能力があるため、Linuxは組み込みシステムで急速に採用が増えている(組み込みLinux)。 このようなカーネルはOSの中核機能とデバイスドライバからなり、実行時にモジュールをロードする機能を備えている。それらによって、下層のハードウェアについての豊富で強力な抽象化を提供する。それらは単純なハードウェア抽象化の小さなセットを提供し、サーバと呼ばれるアプリケーションを使ってさらなる機能を提供する。この特定の手法でハードウェア上の高度な仮想インタフェースを定義し、プロセス管理、並行性管理、メモリ管理といったスーパーバイザモードで動作するいくつかのモジュールでOSサービスを実装し、システムコールでそれらを呼び出せるようにしている。しかし、このような設計には以下のような短所や制約がある。 マイクロカーネルとは、伝統的な「カーネル」から「サーバ」群に機能を移転するOS設計方針を意味し、最小化したカーネルだけをカーネル空間に残し、サーバ群を可能なかぎりユーザ空間で動作させる。マイクロカーネルでは、ハードウェアの単純な抽象化と最小のプリミティブ(システムコール)で最小のOSサービスを実装する(メモリ管理、マルチタスク、プロセス間通信など)。他の全てのサービス(ネットワークなど)は「サーバ」としてユーザ空間に実装される。マイクロカーネルはモノリシックカーネルよりも保守が容易だが、システムコール回数やコンテキストスイッチ回数が増大するために性能が低下する傾向がある。 どうしても特権モードでなければならない部分だけがカーネル空間に置かれる。それは、IPC(プロセス間通信)、基本スケジューラ(スケジューリング・プリミティブ)、基本メモリハンドラ、基本I/Oプリミティブなどである。スケジューラ本体やメモリ管理、ファイルシステム、ネットワークスタックといった大部分はユーザ空間で動作する。マイクロカーネルは、システム機能全体がプロセッサのシステムモードで動作する1つのプログラムになっているモノリシックカーネルの設計方針への反発から生まれた。マイクロカーネルを採用したOSとしては、QNXや GNU Hurd がある。マイクロカーネルは基本的に次のような長所を持つ。 多くのマイクロカーネルは、何らかのメッセージパッシングシステムを採用しており、サーバからサーバへの要求の転送を行う。一般にマイクロカーネルがそのためのポートを用意している。たとえばメモリ追加要求を送ると、マイクロカーネルのあるポートが開き、そこを通して要求が転送される。マイクロカーネルにメッセージが受信されると、その後はシステムコールのように処理される。これによってシステムアーキテクチャのモジュール性が高まり、システムがより整理され、デバッグや動的変更が容易になり、ユーザーのニーズに従ったカスタマイズが可能となる。AIX、BeOS、Hurd、macOS、MINIX、QNX といったOSは多かれ少なかれマイクロカーネルの設計方針を取り入れている。マイクロカーネル自体は非常に小さいが、システム機能全体を構成するコードを全て集めると、モノリシックカーネルよりも大きいことが多い。モノリシックカーネル支持派はまた、マイクロカーネル方式の2層構造によりOSの大部分がハードウェアと直接相互作用できなくなるため、決して小さくないコストが上乗せされ、システムの効率を低下させると主張している。マイクロカーネルは通常、アドレス空間定義部、プロセス間通信 (IPC)、プロセス管理といった最小限のサービスだけを提供する。ハードウェア処理といった他の機能はマイクロカーネルで直接扱うことはない。マイクロカーネル支持派は、モノリシックカーネルでのエラー(バグ)がシステム全体のクラッシュを引き起こすという欠点を指摘する。しかしマイクロカーネルでは、サーバがクラッシュしてもそのサービスを再起動することでシステム全体のクラッシュを防ぐ可能性がある。しかし、現にLinuxなどのモノリシックカーネルは年単位で安定動作している実績があり、このようなマイクロカーネルの利点がどれほど重要かは疑わしい。 ネットワーキングなどのカーネルサービスは「サーバ」と呼ばれるユーザ空間のプログラムとして実装される。サーバを停止・再起動するだけでOSを更新可能である。たとえばネットワークをサポートしていないマシンで、ネットワークサーバは起動する必要がない。サーバ群やカーネルの間でデータをやり取りする作業があるため、モノリシックカーネルにはないオーバヘッドが生じ、効率が低下する。 マイクロカーネルの短所はたとえば次のようなものがある。 マイクロカーネル方式では、OSの他の部分を通常のアプリケーションのように高水準言語で書くことができ、同一のカーネル上で異なるOS(のインタフェース)を使用することができる。また動的にOSを切り換えたり、複数のOSを同時に使用することもできる。 カーネルが巨大化するにつれて、さまざまな問題が明らかになってきた。最も明らかな問題はカーネルの大きさ(メモリ使用量)の増大である。これは仮想記憶をカーネル空間にも適用することである程度まで和らげられるが、全てのコンピュータ・アーキテクチャが仮想記憶をサポートできるわけではない。カーネルのサイズを削減するため、不要なコードを削除するなどの改善が必要となるが、これはカーネルの各モジュール間の明らかにされていない依存関係があるために非常に困難である。 マイクロカーネルと比較したときのモノリシックカーネルのさまざまな欠点から、1990年代の初期までにモノリシックカーネルは時代遅れと考えられるに至った。結果としてLinuxがモノリシックカーネルを採用したことでリーナス・トーバルズとアンドリュー・タネンバウムの間で有名な論争が発生した(アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論)。この議論では、両者の言い分にそれぞれメリットがある。 モノリシックカーネルは設計が容易で、マイクロカーネルよりも迅速に成長することが期待できる。しかし、モノリシックカーネル内のバグは一般にシステムクラッシュを引き起こすのに対して、マイクロカーネルでは一部のサーバに問題が限定される。モノリシックカーネルの支持者は、不正なコードがカーネルになければマイクロカーネルの利点はほとんどないと論じる。どちらの側にも成功例がある。マイクロカーネルはロボットや医療用システムで使われており、各コンポーネントが別々の保護されたメモリ空間で動作する。これは最新のモジュールロード方式であってもモノリシックカーネルには不可能であろう。モノリシックカーネルは共有型カーネルメモリを使用するよう最適化されていて、マイクロカーネルのような低速なメッセージわたしとは異なる。 モノリシックカーネルはコード全体を同じアドレス空間(カーネル空間)に置くよう設計されており、一部の開発者はシステム性能向上に必須の特徴だとしている。一部の開発者はうまく書けばモノリシックカーネルは極めて高効率になるとしている。 1980年代から1990年代初めにかけてのマイクロカーネルの性能は低かった。そういった初期のマイクロカーネルの性能を実測する研究が行われたが、性能が低い原因を深く分析することはなかった。そういったデータが一人歩きし、カーネルモードとユーザモードの切り替え回数が増え、プロセス間通信の回数が増え、コンテキストスイッチの回数が増えたためだ とみなされた。 そして1995年、マイクロカーネルの性能が低い原因として以下のことが推測されている。 この時点でマイクロカーネルを効率化する方法はまだ研究途上であり、正しい技法の構築が求められていた。 一方でモノリシックカーネルの設計の基盤となっている階層型プロテクション でも、プロテクションの階層間でのやりとりには値(メッセージ)のコピーが必要であり、そのやりとりが増えるほど性能が低下することがわかっていた。 近年、L4 やK42(英語版)といった新世代のマイクロカーネルが登場し、上述の性能問題をある程度解決している。 Windows NT系などの商用OSでよく見られる。Appleの macOS も、カーネギーメロン大学のMachとFreeBSDのモノリシックカーネルのコードをベースとしたXNUというハイブリッドカーネルを採用している。マイクロカーネルの性能オーバヘッドを削減するため一部のサービス(通信プロトコルスタックやファイルシステム)をカーネル空間で動作させるが、一部のカーネルコード(デバイスドライバなど)はサーバとしてユーザ空間で実行する。これは、純粋なマイクロカーネルが高性能を提供できると示される以前、妥協的に考案された技法であり、マイクロカーネルにモノリシックカーネルの特性を一部取り入れて拡張したものといえる。 ハイブリッドカーネルではカーネルがモジュール化されているが、モジュールの大部分は同じカーネル空間内にロードされる。そのため、バグを含むモジュールをロードするとカーネルの動作が不安定になる可能性がある。マイクロカーネルの場合、カーネルとは全く別の空間でモジュールを動作させることができ、安全に評価することができる。モノリシックカーネルと比較したハイブリッドカーネルの長所を以下に挙げる。 モジュール群は何らかのモジュールインタフェースを使ってカーネルとやりとりする。そのインタフェースはOS固有ではあるが汎用化されており、常にモジュールとして分離実装できるわけではない。デバイスドライバにはモジュールインタフェース以上の柔軟性が必要なことが多い。基本的にモノリシックカーネルではカーネルとの呼び出しが1回で済むところを、ハイブリッドカーネルでは2回呼び出す必要がある。モジュール化の短所として次の事柄が挙げられる。 ナノカーネルは全てのサービスをデバイスドライバとして分離する。これにはたとえば最も基本的な割り込みコントローラやタイマーの制御も含まれる。これによりカーネルメモリはマイクロカーネルよりもさらに小さくなる。 エクソカーネル (exokernel) はまだ実験段階のOS設計技法である。他のカーネルとの違いは、物理ハードウェアのプロテクションと多重化に機能を限定している点で、アプリケーションに対して全くハードウェアの抽象化を提供しない。このようにハードウェアのプロテクションをハードウェア管理から分離することで、利用可能なハードウェアを最大限に生かすように個々のプログラムを開発できるという利点が生じる。 エクソカーネル自体は非常に小さい。しかし、通常のOSの持つ機能をアプリケーション開発者に提供するためのライブラリ型OSを伴う。エクソカーネル型システムの最大の利点は、このライブラリ型OS機能を複数用意できるという点で、それぞれが異なるAPIを提供できる。たとえば同じシステム上で、高度なUIを持つアプリケーションを開発し、同時にリアルタイムシステム制御を行うアプリケーションも開発できる。 厳密にいえば、オペレーティングシステム(とカーネル)はコンピュータを動作させるのに必須ではない。プログラムはマシン上に直接ロードされ実行されることも可能であり、そのようなプログラムはOSのサービスや抽象化なしで記述しなければならない。多くの初期のコンピュータではそのような手法が一般的であり、プログラムを入れ替えるときにリセットとリロードが必要だった。その後、プログラムローダーやデバッガといった補助的な小さなプログラムがメモリに常駐したり、ROMからロードされるようになった。これらが初期のオペレーティングシステムのカーネルの元となった。直接実行の手法は今日でもゲーム機や組み込みシステムで使われているが、一般に最近のコンピュータではオペレーティングシステムとカーネルが使われている。 1969年の RC 4000 Multiprogramming System では、小さな中核部の上で異なる目的のOS群を整然とした方法で構築するというシステム設計哲学を導入しており、マイクロカーネル方式のさきがけとなっている。 UNIX以前の10年間、コンピュータは劇的に能力を向上させ、マシンの未使用時間を使う手法が求められた。この期間の主な開発のひとつがタイムシェアリングシステム (TSS) である。TSSは何人かのユーザーがCPUのタイムスライスをそれぞれ割り当てられる。 タイムシェアリングシステムの開発は多くの問題を発生させた。ひとつの問題は大学のユーザーはCPU時間が欲しいというよりもシステムをハックしたがっているという点である。このためセキュリティやアクセス制御が1965年のMulticsプロジェクトの重要な課題となった。もうひとつの問題は計算リソースの正しい扱い方である。ユーザーは計算リソースを使わずに画面を凝視することにほとんどの時間を費やしており、タイムシェアリング方式ではそのようなCPU時間を他のユーザーに与えるべきと考えられた。最終的に、メモリ階層の多層化が進み、リソースの分割が仮想記憶システムの開発へと繋がっていったのである。 UNIXの設計段階で、全ての高レベルのデバイスをファイルとして抽象化することが決定された。なぜならUNIX設計者は情報処理の目的をデータの変換であると考えていたからである。 たとえば、プリンターもファイルとして抽象化され、データをそのファイルにコピーすると印字が行われる。他のシステムでは同様の機能を提供するにあたって、デバイスを低レベルに抽象化する傾向があった。デバイスもファイルも何らかの低レベルの概念の実体化である。システムをファイルのレベルで仮想化したことにより、ユーザは既存のファイル管理機能と概念で全てを扱うことができるようになり、操作が大幅に簡略化された。同じパラダイムを拡張して、UNIXはファイルを複数の小さなプログラムで操作するパイプの概念を可能とした。最終的な結果は同じであっても、このような小さなプログラム群を使うことで柔軟性が劇的に向上しただけでなく、開発も利用も容易になった。 UNIXでは、オペレーティングシステムは2つの部分で構成される。さまざまな操作を実行するユーティリティプログラム群とカーネルである。プログラミングの観点から見ると両者の違いは小さい。カーネルは特権モードで動作するプログラムであり、プログラムローダーとしての役割とシステムの残りの部分を構成するユーティリティプログラム群を監督する役割を持つ。そして、それらプログラムにロックと入出力サービスを提供する。つまり、カーネルはあらゆる場面に介在しているわけではなかった。 その後、計算モデルが変化し、UNIXの何でもファイルで表す手法が常に適用可能な方法ではなくなってきた。端末はファイルで表せるが(どちらも文字列を読み書きできる)、GUIはそのように扱うことはできない。コンピュータネットワークは別の問題を提起した。ネットワーク経由の通信はファイルアクセスに対応させることができるが、低レベルのパケット指向アーキテクチャはファイルというよりも離散的なデータの塊として扱う必要がある。コンピュータの機能が拡大するにつれ、UNIXのコードは増大していった。それはまた、UNIXカーネルのモジュール性が非常にスケーラブルなためでもあった。初期のカーネルのソースは10万行ほどだったが、Linuxカーネルなどでは1300万行にもなっている。 現代のUnix系OSは、モノリシックカーネルにモジュールローディング機能を加えたものとなっている。たとえば、Linuxカーネルを採用した各種Linuxディストリビューションや、BSDの子孫である FreeBSD、DragonFly BSD、OpenBSD、NetBSD、macOS などがある。 Appleは1984年、最初のMac OSを同社のパーソナルコンピュータMacintoshに同梱して発売した。後継のmacOSはDarwinをベースとしており、4.4BSDユーザーランドとMachカーネルを統合したXNUと呼ばれるハイブリッドカーネルを採用している。 Microsoft Windowsは1985年、MS-DOSへのアドオンとしてリリースされた。他のOSに依存していたため、Windows 95までのリリースはOSではなくオペレーティング環境とみなされている。その製品ラインは発展して、Windows 9x系となり(32ビット化やプリエンプティブ・マルチタスクといった強化を経て)、最終的に2000年にWindows Meがリリースされた。マイクロソフトはまた、ハイエンド向けにWindows NT のラインも1993年の Windows NT 3.1からスタートさせ、こちらは2000年以降も続いている。 2001年10月にリリースされたWindows XPでWindows 9x系を置換して一般ユーザー向けOSが一新された。Windows NT系のカーネルはWindow ManagerやIPC Managerとクライアント・サーバ型階層型サブシステムモデルを採用しており、ハイブリッドカーネルとみなされている。 汎用マイクロカーネルとしてはカーネギーメロン大学が1985年から1994年まで開発したMachが有名だが、特定用途向けにもいくつかのマイクロカーネルが開発された。L4はマイクロカーネルの性能が悪くないことを実証するために作られた。ここから派生した新たな実装の Fiasco や Pistachio はLinuxをその上で動作させることができる。 QNXはマイクロカーネル設計を採用したリアルタイムオペレーティングシステムであり、1980年代初期に開発され、Machよりもはるかに成功している。ソフトウェアが不正作動することが致命的な状況で使われることが多く、スペースシャトルのロボットアームの制御やガラスを精密に磨く機械の制御で使われている。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "カーネル(英: kernel)は、階層型に設計されたオペレーティングシステム (OS) の中核となる部分で、アプリケーションとハードウェアの架け橋である。具体的には、システムのリソースや、ハードウェアとソフトウェアの連携を管理する。そのほか、通信制御を行うことが多い。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムの基本コンポーネントとして、カーネルはメモリ、CPU、入出力を中心としたハードウェアを抽象化し、ハードウェアとソフトウェアがやり取りできるようにする。また、ユーザープログラムのための機能として、プロセスの抽象化、プロセス間通信、システムコールなどを提供する。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "これらのタスクはカーネルによって方式が異なり、設計や実装も異なる。モノリシックカーネルは全てを一つの仮想アドレス空間に格納されたコードで実行して性能を向上させようとする。マイクロカーネルはサービスの大部分をユーザー空間で実行し、コードの保守性とモジュール性を向上させようとする。多くのカーネルはこの二つのカテゴリのいずれか、あるいは中間である。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "全てではないが、多くのオペレーティングシステム (OS) はカーネルを内包する。ハードウェアとソフトウェアの間の通信を管理するソフトウェアとしてのカーネルは、性能、メモリ効率、セキュリティ、プロセッサのアーキテクチャなどが複雑に絡んだ問題への妥協的解答である。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "多くの場合、ブートローダーがカーネルを特権モードのプロセスとして起動する。しかし、初期化が完了すると、カーネルはいわゆるプロセスとしては存在せず、ディスクアクセスなどの高い特権レベルを必要とする処理を必要としたときにユーザプログラムから呼び出される機能の集合体として存在することになる。カーネルの処理の流れはユーザープロセスの処理の流れの延長上にあり、システムコールによってカーネルに処理がわたり、終了するとユーザーに戻っていく。初期化時のコンテキストはそのまま消えるようにする設計もあるが、「アイドルプロセス」とか「collects」と呼ばれる、プロセッサが何もすることがないときに実行されるコードに流用される設計とすることもある。省電力のため、プロセッサが「休む」ような命令を繰り返すようなコードとすることも多い。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "カーネル開発はプログラミングの中でも複雑で難しいタスクのひとつと考えられる。オペレーティングシステムの中核部であるということは、高い性能を要求される最重要なソフトウェアであり、正しく設計し実装することは難しい。カーネルはユーザプログラムの互換性や移植性を考慮する必要などから、設計が制限されることがあり、そのことがさらに開発を難しくしている。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "カーネルの仕事はコンピュータのリソースを管理し、他のプログラムがそれらのリソースを使って動作できるようにすることである。典型的なリソースとしては以下のものがある。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "リソース管理に必要な重要な観点は、実行領域(アドレス空間)の定義とその領域内のリソースへのアクセスを調停する保護機構である。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "また、カーネルは一般にプロセス同士の同期と通信の手段も提供しており、プロセス間通信 (IPC) と呼ぶ。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "カーネルは自前でそれらの機能を実装していることもあるし、何らかのプロセスに委任していることもあるが、後者の場合はプロセス間で機能へのアクセスを可能にするIPCを提供する必要がある。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "最後に、カーネルはそれら機能群へのアクセスを要求する手段をプログラムに提供しなければならない。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "カーネルの主な仕事はアプリケーションの実行を許可し、ハードウェア抽象化などの機能によってそれをサポートすることである。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "プロセスは、アプリケーションがアクセスできるメモリの範囲を定義する。カーネルのプロセス管理は、ハードウェアの持つメモリ保護機構を考慮しなければならない。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "カーネルはアプリケーションを実行するためアドレス空間を設定し、アプリケーションのコードを含むファイルをメモリにロードし、プログラムのためのコールスタックを設定し、そのプログラムの所定の位置に制御をわたすことで実行を開始する。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "マルチタスク可能なカーネルは、ユーザーから見て実際にそのコンピュータが同時実行できるプロセス数よりも、多数のプロセスが同時並行して実行されているかのようにみせかける。一般にシステムが同時並行して実行できるプロセス数は、そのシステムの持つCPU数に等しい(同時マルチスレッディングをサポートしている場合はそのかぎりではない)。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "プリエンプティブ・マルチタスクシステムでは、カーネルは各プログラムにタイムスライス(そのプログラムがCPU上で実行される連続時間)を与え、プロセスからプロセスへと高速に切り換えていくので、ユーザーから見ればそれらのプロセスが同時並行して実行されているように見えるのである。カーネルは次に実行すべきプロセスを決定し、タイムスライスの長さを決定するスケジューリングアルゴリズムを持つ。一般にプロセスには優先度が設定される。カーネルはそれらのプロセス間の通信手段も提供する。これはプロセス間通信 (IPC) と呼ばれ、パイプ、共有メモリ、メッセージ、RPC、ソフトウェア割り込みなどがある。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "ほかに協調型マルチタスクもあり、各プロセスは自らカーネルに制御を戻すまで割り込まれずに実行を続けることができる。制御をカーネルに戻すことを \"yielding\" と呼び、プロセス間通信の際や何らかのイベントを待つ際に行われ、そのときにカーネルが別のプロセスを動作させる。古い Windows や Mac OS はこの方式だったが、コンピュータの性能向上に伴ってプリエンプティブ方式に切り換えた。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "オペレーティングシステムは、マルチプロセッシング(SMPやNUMA)をサポートすることもある。この場合、複数のプログラムやスレッドが複数のプロセッサ上で動作する。そのようなシステムでカーネルを動作させる場合、「リエントラント(再入可能)」あるいは「割り込み可能」になるよう大幅な改造が必要となる。これはつまり、何か処理をしている最中にほかからも要求を受け付けるということである。この改造ができれば、異なるプロセッサ上で動作するプログラムが同時にカーネルを呼び出しても大丈夫になる。カーネルは複数のプロセッサからのメモリアクセスを同期させる方法(スピンロックなど)も提供しなければならない。これはメモリ管理とプロセス管理にまたがる問題である。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "カーネルはシステムの全メモリへの無制限のアクセスが可能で、ユーザープロセスの要求に応じて安全なメモリアクセスを提供しなければならない。このための第一歩はページング方式やセグメント方式による仮想アドレッシングである。仮想記憶方式では、カーネルは物理アドレスを別のアドレス、つまり仮想アドレスに変換する。これにより、各プログラムは(カーネル以外では)仮想空間上唯一のコードに見え、プログラムが互いに他のプログラムを破壊することを防止する。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "多くのシステムで、あるプログラムの仮想アドレスはメモリ上にないデータを指していることがある。仮想アドレッシングによるインダイレクション層は、本来なら主記憶 (RAM) になければならないデータをハードディスクなどの補助記憶装置に退避させることを可能にする。結果としてOSは物理的な容量以上のメモリをプログラム群に提供可能となる。RAMにないデータがあるプログラムで必要になった場合、CPUはカーネルにそれを知らせ(ページフォールト)、(必要なら)カーネルが使われていないメモリブロックの内容をディスクに退避させ、必要なデータをそのメモリブロックに復帰させる(ページ置換アルゴリズム)。すると、プログラムは要求を行った時点から処理を再開させることができる。これをデマンドページングと呼ぶ。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "仮想アドレッシング方式では、仮想空間をカーネル用の部分(カーネル空間)とアプリケーション用の部分(ユーザー空間)に分けることができる。アプリケーションはカーネル用メモリにアクセスできないので、アプリケーションにバグがあったとしてもカーネルにダメージを与えることはない。この根本的な分離は多くの汎用カーネルで実際に使われているが、別の方式を採用したカーネルの研究も行われている(たとえば、Singularity)。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "メモリ管理のもうひとつの機能として、カーネル内の各モジュールやデバイスドライバが使用するメモリの割り当てがある(動的メモリアロケーション)。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "実際に何らかの作業をするには、OSはコンピュータに接続された周辺機器にアクセスする必要があり、周辺機器はその開発元などが書いたデバイスドライバを通して制御される。デバイスドライバはOSがハードウェアデバイスとやりとりするためのプログラムであり、OSに対して何らかのハードウェアを制御・通信するための情報を提供する。ドライバはアプリケーションにとっても重要で不可欠である。ドライバの設計目標は抽象化である。ドライバの機能はOSの定めたインタフェースからデバイス固有のインタフェースに変換することである。理論上、デバイスは適当なドライバがあれば正しく動作する。デバイスドライバは、ビデオカード、サウンドカード、プリンター、スキャナー、モデム、LANカードなどに対応して存在する。一般的なデバイスドライバの抽象化レベルを次に示す。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "たとえば、ユーザー向けに何かを画面に表示する場合、アプリケーションがカーネルに要求し、その要求がディスプレイドライバに送られ、ディスプレイドライバが実際の文字やピクセルの描画を行う。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "カーネルは使用可能なデバイスの一覧を保持しなければならない。この一覧は、事前に知られている場合(たとえば、組み込みシステムでは利用可能なハードウェアが変われば、カーネルを書き換える)、ユーザーが設定する場合(古いPCや個人用に設計されていないシステムなど)、OSが実行時に検出する場合(プラグアンドプレイ)がある。プラグアンドプレイのシステムでは、デバイス管理は最初にさまざまなバス(PCIやUSB)上をスキャンして実装されたデバイスを検出し、対応するドライバを探す。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "デバイス管理は各OS固有の部分であり、カーネルの設計によってドライバの扱い方は異なるが、一般にカーネルはドライバが物理的にデバイスにアクセスするための入出力ポートやメモリ空間を用意する必要がある。デバイスへのアクセスはコンテキストスイッチを引き起こしたり、CPUを浪費したりすることになりやすく、性能オーバヘッドの元となるため、デバイス管理の設計は重要である。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "意味のある作業を実行するには、ユーザプログラムはカーネルの提供する全サービスにアクセスできなければならない。これはカーネルによって実装が異なるが、多くは標準CライブラリやAPIが提供され、そこから対応するカーネル機能が呼び出される。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "カーネル機能を呼び出す方法は主にCPUがどのような機能を提供しているかに依存する。カーネル空間とユーザー空間が分離されている場合、ユーザープロセスが直接カーネルを呼び出すことはできない。たとえば以下のような技法を採用する。", "title": "カーネルの機能" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "カーネル設計において重要な観点として、障害(フォールトトレラント性)と悪意ある動作(セキュリティ)からの保護(プロテクション)サポートがある。この2つは通常明確には区別されず、明確に区別しようとするとリングプロテクションでは対応できなくなる。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "カーネルが提供する機構または方針は、いくつかの基準で分類できる。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "などである。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "階層型プロテクションは、一般に「CPUモード」でサポートされる。ハードウェアサポートによる単純で効率的な方法は、MMUにメモリアクセスのたびにその妥当性をチェックさせるもので、その機構をケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)と呼ぶ。ただし、多くの商用コンピュータアーキテクチャではMMUがケイパビリティをサポートしていない。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "代替手法は、階層型プロテクションでケイパビリティをシミュレートするものである。この場合、保護されたオブジェクトはアプリケーションがアクセスできないアドレス空間になければならない。カーネルもそのようなメモリ空間のケイパビリティのリストを保持する。ケイパビリティによって保護されたオブジェクトにアプリケーションがアクセスしたい場合、システムコールを行い、カーネルが実際のアクセスを代行する。これにはアドレス空間の切り替えを必要とするため、オブジェクト間で複雑なやりとりが必要なシステムでは性能が低下するが、現代のOSはアクセス頻度が低いオブジェクトや性能を要求されないオブジェクトについてはこの方式を採用している。保護機構をより高い階層でシミュレートする方式も可能だが(たとえば、直接サポートされていないハードウェアについてのページテーブルを操作してケイパビリティをシミュレートするなど)、性能上の問題がある。言語ベースの保護を選択するシステムでは、ハードウェアサポートがなくても問題にならない。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "カーネル設計における重要な点として、セキュリティの機構と方針を実装する抽象化レベルの選択がある。カーネルのセキュリティ機構は、高度なセキュリティをサポートする上で重要である。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1つの方式として、ファームウェアとカーネルでフォールトトレラント性をサポートする方式があり、その上に悪意ある動作に対するセキュリティ方針を構築し(必要に応じて暗号機構を追加する)、一部の責任をコンパイラに委任する。コンパイラやアプリケーションレベルへのセキュリティ方針の責任委譲の方式を一般に「言語ベースのセキュリティ」と呼ぶ。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "現代の主流のOSの多くは重要なセキュリティ機構が欠如しているため、アプリケーションの抽象化レベルでの適切なセキュリティ方針実装ができないことがある。一般にカーネルサポートがどうであれ、アプリケーションで任意のセキュリティ方針を実装可能だとされているが、間違いである。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "現代の一般的コンピュータは、ハードウェアが強制した規則を使ってプログラムのデータへのアクセスを許可している。プロセッサは動作を監視し、規則に違反したプログラムを停止させる(たとえば、カーネル空間のメモリを読み書きしようとしたユーザプロセスを停止させるなど)。ケイパビリティをサポートしていないシステムでは、プロセスは相互に隔離されたアドレス空間で動作する。ユーザプロセスがカーネルを呼び出すことは、上述したシステムコールの技法を使って統制されている。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "代替手法として言語ベースの保護(プロテクション)がある。言語ベースのプロテクションシステムでは、カーネルは信頼されている言語コンパイラが生成したコードのみ実行を許可する。そしてその言語は、セキュリティに違反するようなコードをプログラマが書けないように設計されている。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "この方式には次のような長所がある。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "一方、次のような短所がある。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "言語ベースのプロテクションを採用したシステムとしては、JXやマイクロソフトのSingularityがある。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "エドガー・ダイクストラは論理的観点から、バイナリセマフォにおける不可分なロックとアンロック操作だけで、プロセス間の任意の協調作動を実現できることを証明した。しかしそのような方式は一般に安全性や効率性が欠如しており、メッセージパッシング方式の方が柔軟性が高い。他の方式もいくつかあり、現代のカーネルでは共有メモリやRPCなどのシステムをサポートしていることが多い。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "入出力デバイスを並行して協調作動する他のプロセス群から一様に扱えるようにするというカーネルの考え方は、Per Brinch Hansen が提唱し実装したのが最初である(似たような考え方は1967年にも示唆されていた)。Hansen はその説明で、「共通の」プロセス群を「内部プロセス」、入出力デバイスを「外部プロセス」と呼んでいる。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "物理メモリと同様、アプリケーションがコントローラのポートやレジスタに直接アクセスすることを許可すると、コントローラが不正作動したり、システムがクラッシュすることになる。それに加えて、デバイスの複雑さに応じて対応するプログラムは非常に複雑化することがあり、しかも複数の異なるコントローラを使うことがある。そのため、デバイスを管理するためのより抽象化されたインタフェースを提供することが重要である。この抽象化を提供するのは一般にデバイスドライバや Hardware Abstraction Layer (HAL) である。アプリケーションは必要なら頻繁にデバイスへのアクセスを要求する。カーネルはシステムに接続されたデバイスの一覧を何らかの方法で保持しなければならない。これはBIOSや各種システムバスの機能(PCI/PCIeやUSB)を使ってなされる。あるアプリケーションがあるデバイス操作を要求すると(たとえばディスプレイに文字を表示する)、カーネルは対応するドライバ(たとえばビデオドライバ)に要求を送らなければならない。するとそのドライバがデバイスに対して必要な処理を行う。マイクロカーネルの場合、この際にプロセス間通信 (IPC) が使われる。", "title": "カーネル設計の観点" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "もちろん、上述したタスク群や機能群の提供方法は設計や実装の面でさまざまである。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「機構と方針の分離」の原則は、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの哲学の間でかなり大きな相違がある。ここで、「機構」はさまざまな「方針」の実装を可能とするものであり、「方針」は特定の「操作のモード」である。たとえば「機構」面では、ユーザーがログインしようとしたとき認証サーバを呼び出してアクセスを認めるべきか否かを決定するということが考えられる。一方「方針」面では、認証サーバがパスワードを要求し、データベース内の暗号化されたパスワードと照合するかもしれない。機構が汎用的であれば、機構と方針が同一モジュールに統合されている場合よりも方針の変更(たとえば、パスワードの代わりにセキュリティトークンを使うなど)がより容易になる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "最小のマイクロカーネルでは非常に基本的な方針のみが含まれ、その機構はカーネル上で動作させるもの(OSの残りの部分やアプリケーション群)自身がどのような方針(メモリ管理、高度なプロセススケジューリング、ファイルシステム管理など)を採用するか決定することを可能にする。一方モノリシックカーネルは方針の大部分をカーネル内に含む傾向があり、結果としてその上の部分の自由度は制限される。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "Per Brinch Hansen は機構と方針の分離のための主張を展開した。すなわち、この分離が不適切であることが既存のOSで本質的技術革新が見られないことの主要因だとし、コンピュータアーキテクチャにおける共通課題だとした。モノリシック設計は、従来の商用システムで一般的な保護技法である「カーネルモード」と「ユーザーモード」に分離するアーキテクチャ(いわゆるリングプロテクション)から生まれた。そのアーキテクチャでは、保護(プロテクション)を必要とするモジュールを可能な限りカーネルに含めようとする。このようなモノリシック設計と特権モードの関係が機構と方針の分離における重要な問題として再注目されている。実際「特権モード」のアーキテクチャ技法は保護機構とセキュリティ方針を融合させる傾向があるが、これとは大きく異なるアーキテクチャ技法であるケイパビリティベースドアドレッシング(英語版)ではその2つを明確に区別し、自然にマイクロカーネル設計が可能となる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "モノリシックカーネルはカーネルの全コードを同じアドレス空間(カーネル空間)で実行するが、マイクロカーネルでは多くのサービスをユーザー空間で実行しようとし、コードベースの保守性とモジュール性を向上させようとしている。多くのカーネルは明確にどちらかに分類できるわけではなく、その中間の実装ともいうべきハイブリッドカーネルになっている。さらに特殊な設計としてナノカーネルやエクソカーネルが研究されているが、広く使われるまでには至っていない。エクソカーネルの例としてXenハイパーバイザがある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "モノリシックカーネルでは、全OSサービスはひとつのカーネル空間内に存在し、カーネルスレッド上で実行される。この手法は強力なハードウェアアクセスを提供する。UNIXの開発者ケン・トンプソンは、モノリシックカーネルの方がマイクロカーネルより実装が容易だとしている。主な欠点はシステム構成要素間の依存関係の複雑さである。たとえば、デバイスドライバにバグがあっただけでシステム全体がクラッシュするし、大きなカーネルは保守が非常に困難である。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "Unix系OSが伝統的に採用してきたモノリシックカーネルは、OS中核機能とデバイスドライバを全て含んでいた。デバイスドライバ、スケジューラ、メモリ管理、ファイルシステム、ネットワークのプロトコルスタックなど、多くのプログラムが必要とするがライブラリとしてユーザー空間で実行することができない機能は、全てカーネル空間に置かれた。それら全サービスへのアクセスを可能にするため、数多くのシステムコールがアプリケーションに対して提供されている。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "必要とされないサブシステムを伴って最初からロードされるモノリシックカーネルは、より汎用的な意味ではあるが、特定ハードウェア向けに設計されたものよりもチューニングが可能である。LinuxやFreeBSDなどの現代のモノリシックカーネルはUnix系OSであり、実行時にモジュールをロードする機能を備えており、必要に応じて容易に機能を拡張でき、同時にカーネル空間で動作するコード量をなるべく最小に抑えることができる。モノリシックカーネルには次のような長所がある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "モノリシックカーネルはシステムコールの延長で動作する部分がほとんどである。システムコールは一般にテーブル構造で保持されるインタフェースであり、ディスク操作などのカーネル内サブシステムへのアクセスを行う。プログラム内でライブラリルーチンを呼び出すと、その中で要求をチェックしてコピーし、システムコールにわたす。したがって、それほど重い呼び出しではない。Linuxカーネルはモノリシックだがかなり小さくできる。これは、ローダブル・カーネル・モジュール機能と、カスタマイズが容易なためである。実際、フロッピーディスク1枚にカーネルだけでなく多数のユーティリティを搭載し、それだけで完動するOSとすることもできる(最も有名な例として muLinux(英語版) がある)。このカーネルを小型化できる能力があるため、Linuxは組み込みシステムで急速に採用が増えている(組み込みLinux)。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "このようなカーネルはOSの中核機能とデバイスドライバからなり、実行時にモジュールをロードする機能を備えている。それらによって、下層のハードウェアについての豊富で強力な抽象化を提供する。それらは単純なハードウェア抽象化の小さなセットを提供し、サーバと呼ばれるアプリケーションを使ってさらなる機能を提供する。この特定の手法でハードウェア上の高度な仮想インタフェースを定義し、プロセス管理、並行性管理、メモリ管理といったスーパーバイザモードで動作するいくつかのモジュールでOSサービスを実装し、システムコールでそれらを呼び出せるようにしている。しかし、このような設計には以下のような短所や制約がある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "マイクロカーネルとは、伝統的な「カーネル」から「サーバ」群に機能を移転するOS設計方針を意味し、最小化したカーネルだけをカーネル空間に残し、サーバ群を可能なかぎりユーザ空間で動作させる。マイクロカーネルでは、ハードウェアの単純な抽象化と最小のプリミティブ(システムコール)で最小のOSサービスを実装する(メモリ管理、マルチタスク、プロセス間通信など)。他の全てのサービス(ネットワークなど)は「サーバ」としてユーザ空間に実装される。マイクロカーネルはモノリシックカーネルよりも保守が容易だが、システムコール回数やコンテキストスイッチ回数が増大するために性能が低下する傾向がある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "どうしても特権モードでなければならない部分だけがカーネル空間に置かれる。それは、IPC(プロセス間通信)、基本スケジューラ(スケジューリング・プリミティブ)、基本メモリハンドラ、基本I/Oプリミティブなどである。スケジューラ本体やメモリ管理、ファイルシステム、ネットワークスタックといった大部分はユーザ空間で動作する。マイクロカーネルは、システム機能全体がプロセッサのシステムモードで動作する1つのプログラムになっているモノリシックカーネルの設計方針への反発から生まれた。マイクロカーネルを採用したOSとしては、QNXや GNU Hurd がある。マイクロカーネルは基本的に次のような長所を持つ。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "多くのマイクロカーネルは、何らかのメッセージパッシングシステムを採用しており、サーバからサーバへの要求の転送を行う。一般にマイクロカーネルがそのためのポートを用意している。たとえばメモリ追加要求を送ると、マイクロカーネルのあるポートが開き、そこを通して要求が転送される。マイクロカーネルにメッセージが受信されると、その後はシステムコールのように処理される。これによってシステムアーキテクチャのモジュール性が高まり、システムがより整理され、デバッグや動的変更が容易になり、ユーザーのニーズに従ったカスタマイズが可能となる。AIX、BeOS、Hurd、macOS、MINIX、QNX といったOSは多かれ少なかれマイクロカーネルの設計方針を取り入れている。マイクロカーネル自体は非常に小さいが、システム機能全体を構成するコードを全て集めると、モノリシックカーネルよりも大きいことが多い。モノリシックカーネル支持派はまた、マイクロカーネル方式の2層構造によりOSの大部分がハードウェアと直接相互作用できなくなるため、決して小さくないコストが上乗せされ、システムの効率を低下させると主張している。マイクロカーネルは通常、アドレス空間定義部、プロセス間通信 (IPC)、プロセス管理といった最小限のサービスだけを提供する。ハードウェア処理といった他の機能はマイクロカーネルで直接扱うことはない。マイクロカーネル支持派は、モノリシックカーネルでのエラー(バグ)がシステム全体のクラッシュを引き起こすという欠点を指摘する。しかしマイクロカーネルでは、サーバがクラッシュしてもそのサービスを再起動することでシステム全体のクラッシュを防ぐ可能性がある。しかし、現にLinuxなどのモノリシックカーネルは年単位で安定動作している実績があり、このようなマイクロカーネルの利点がどれほど重要かは疑わしい。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "ネットワーキングなどのカーネルサービスは「サーバ」と呼ばれるユーザ空間のプログラムとして実装される。サーバを停止・再起動するだけでOSを更新可能である。たとえばネットワークをサポートしていないマシンで、ネットワークサーバは起動する必要がない。サーバ群やカーネルの間でデータをやり取りする作業があるため、モノリシックカーネルにはないオーバヘッドが生じ、効率が低下する。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "マイクロカーネルの短所はたとえば次のようなものがある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "マイクロカーネル方式では、OSの他の部分を通常のアプリケーションのように高水準言語で書くことができ、同一のカーネル上で異なるOS(のインタフェース)を使用することができる。また動的にOSを切り換えたり、複数のOSを同時に使用することもできる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "カーネルが巨大化するにつれて、さまざまな問題が明らかになってきた。最も明らかな問題はカーネルの大きさ(メモリ使用量)の増大である。これは仮想記憶をカーネル空間にも適用することである程度まで和らげられるが、全てのコンピュータ・アーキテクチャが仮想記憶をサポートできるわけではない。カーネルのサイズを削減するため、不要なコードを削除するなどの改善が必要となるが、これはカーネルの各モジュール間の明らかにされていない依存関係があるために非常に困難である。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "マイクロカーネルと比較したときのモノリシックカーネルのさまざまな欠点から、1990年代の初期までにモノリシックカーネルは時代遅れと考えられるに至った。結果としてLinuxがモノリシックカーネルを採用したことでリーナス・トーバルズとアンドリュー・タネンバウムの間で有名な論争が発生した(アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論)。この議論では、両者の言い分にそれぞれメリットがある。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "モノリシックカーネルは設計が容易で、マイクロカーネルよりも迅速に成長することが期待できる。しかし、モノリシックカーネル内のバグは一般にシステムクラッシュを引き起こすのに対して、マイクロカーネルでは一部のサーバに問題が限定される。モノリシックカーネルの支持者は、不正なコードがカーネルになければマイクロカーネルの利点はほとんどないと論じる。どちらの側にも成功例がある。マイクロカーネルはロボットや医療用システムで使われており、各コンポーネントが別々の保護されたメモリ空間で動作する。これは最新のモジュールロード方式であってもモノリシックカーネルには不可能であろう。モノリシックカーネルは共有型カーネルメモリを使用するよう最適化されていて、マイクロカーネルのような低速なメッセージわたしとは異なる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "モノリシックカーネルはコード全体を同じアドレス空間(カーネル空間)に置くよう設計されており、一部の開発者はシステム性能向上に必須の特徴だとしている。一部の開発者はうまく書けばモノリシックカーネルは極めて高効率になるとしている。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "1980年代から1990年代初めにかけてのマイクロカーネルの性能は低かった。そういった初期のマイクロカーネルの性能を実測する研究が行われたが、性能が低い原因を深く分析することはなかった。そういったデータが一人歩きし、カーネルモードとユーザモードの切り替え回数が増え、プロセス間通信の回数が増え、コンテキストスイッチの回数が増えたためだ とみなされた。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "そして1995年、マイクロカーネルの性能が低い原因として以下のことが推測されている。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "この時点でマイクロカーネルを効率化する方法はまだ研究途上であり、正しい技法の構築が求められていた。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "一方でモノリシックカーネルの設計の基盤となっている階層型プロテクション でも、プロテクションの階層間でのやりとりには値(メッセージ)のコピーが必要であり、そのやりとりが増えるほど性能が低下することがわかっていた。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "近年、L4 やK42(英語版)といった新世代のマイクロカーネルが登場し、上述の性能問題をある程度解決している。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "Windows NT系などの商用OSでよく見られる。Appleの macOS も、カーネギーメロン大学のMachとFreeBSDのモノリシックカーネルのコードをベースとしたXNUというハイブリッドカーネルを採用している。マイクロカーネルの性能オーバヘッドを削減するため一部のサービス(通信プロトコルスタックやファイルシステム)をカーネル空間で動作させるが、一部のカーネルコード(デバイスドライバなど)はサーバとしてユーザ空間で実行する。これは、純粋なマイクロカーネルが高性能を提供できると示される以前、妥協的に考案された技法であり、マイクロカーネルにモノリシックカーネルの特性を一部取り入れて拡張したものといえる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "ハイブリッドカーネルではカーネルがモジュール化されているが、モジュールの大部分は同じカーネル空間内にロードされる。そのため、バグを含むモジュールをロードするとカーネルの動作が不安定になる可能性がある。マイクロカーネルの場合、カーネルとは全く別の空間でモジュールを動作させることができ、安全に評価することができる。モノリシックカーネルと比較したハイブリッドカーネルの長所を以下に挙げる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "モジュール群は何らかのモジュールインタフェースを使ってカーネルとやりとりする。そのインタフェースはOS固有ではあるが汎用化されており、常にモジュールとして分離実装できるわけではない。デバイスドライバにはモジュールインタフェース以上の柔軟性が必要なことが多い。基本的にモノリシックカーネルではカーネルとの呼び出しが1回で済むところを、ハイブリッドカーネルでは2回呼び出す必要がある。モジュール化の短所として次の事柄が挙げられる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "ナノカーネルは全てのサービスをデバイスドライバとして分離する。これにはたとえば最も基本的な割り込みコントローラやタイマーの制御も含まれる。これによりカーネルメモリはマイクロカーネルよりもさらに小さくなる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "エクソカーネル (exokernel) はまだ実験段階のOS設計技法である。他のカーネルとの違いは、物理ハードウェアのプロテクションと多重化に機能を限定している点で、アプリケーションに対して全くハードウェアの抽象化を提供しない。このようにハードウェアのプロテクションをハードウェア管理から分離することで、利用可能なハードウェアを最大限に生かすように個々のプログラムを開発できるという利点が生じる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "エクソカーネル自体は非常に小さい。しかし、通常のOSの持つ機能をアプリケーション開発者に提供するためのライブラリ型OSを伴う。エクソカーネル型システムの最大の利点は、このライブラリ型OS機能を複数用意できるという点で、それぞれが異なるAPIを提供できる。たとえば同じシステム上で、高度なUIを持つアプリケーションを開発し、同時にリアルタイムシステム制御を行うアプリケーションも開発できる。", "title": "カーネル全体の設計方針" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "厳密にいえば、オペレーティングシステム(とカーネル)はコンピュータを動作させるのに必須ではない。プログラムはマシン上に直接ロードされ実行されることも可能であり、そのようなプログラムはOSのサービスや抽象化なしで記述しなければならない。多くの初期のコンピュータではそのような手法が一般的であり、プログラムを入れ替えるときにリセットとリロードが必要だった。その後、プログラムローダーやデバッガといった補助的な小さなプログラムがメモリに常駐したり、ROMからロードされるようになった。これらが初期のオペレーティングシステムのカーネルの元となった。直接実行の手法は今日でもゲーム機や組み込みシステムで使われているが、一般に最近のコンピュータではオペレーティングシステムとカーネルが使われている。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1969年の RC 4000 Multiprogramming System では、小さな中核部の上で異なる目的のOS群を整然とした方法で構築するというシステム設計哲学を導入しており、マイクロカーネル方式のさきがけとなっている。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "UNIX以前の10年間、コンピュータは劇的に能力を向上させ、マシンの未使用時間を使う手法が求められた。この期間の主な開発のひとつがタイムシェアリングシステム (TSS) である。TSSは何人かのユーザーがCPUのタイムスライスをそれぞれ割り当てられる。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "タイムシェアリングシステムの開発は多くの問題を発生させた。ひとつの問題は大学のユーザーはCPU時間が欲しいというよりもシステムをハックしたがっているという点である。このためセキュリティやアクセス制御が1965年のMulticsプロジェクトの重要な課題となった。もうひとつの問題は計算リソースの正しい扱い方である。ユーザーは計算リソースを使わずに画面を凝視することにほとんどの時間を費やしており、タイムシェアリング方式ではそのようなCPU時間を他のユーザーに与えるべきと考えられた。最終的に、メモリ階層の多層化が進み、リソースの分割が仮想記憶システムの開発へと繋がっていったのである。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "UNIXの設計段階で、全ての高レベルのデバイスをファイルとして抽象化することが決定された。なぜならUNIX設計者は情報処理の目的をデータの変換であると考えていたからである。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "たとえば、プリンターもファイルとして抽象化され、データをそのファイルにコピーすると印字が行われる。他のシステムでは同様の機能を提供するにあたって、デバイスを低レベルに抽象化する傾向があった。デバイスもファイルも何らかの低レベルの概念の実体化である。システムをファイルのレベルで仮想化したことにより、ユーザは既存のファイル管理機能と概念で全てを扱うことができるようになり、操作が大幅に簡略化された。同じパラダイムを拡張して、UNIXはファイルを複数の小さなプログラムで操作するパイプの概念を可能とした。最終的な結果は同じであっても、このような小さなプログラム群を使うことで柔軟性が劇的に向上しただけでなく、開発も利用も容易になった。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "UNIXでは、オペレーティングシステムは2つの部分で構成される。さまざまな操作を実行するユーティリティプログラム群とカーネルである。プログラミングの観点から見ると両者の違いは小さい。カーネルは特権モードで動作するプログラムであり、プログラムローダーとしての役割とシステムの残りの部分を構成するユーティリティプログラム群を監督する役割を持つ。そして、それらプログラムにロックと入出力サービスを提供する。つまり、カーネルはあらゆる場面に介在しているわけではなかった。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "その後、計算モデルが変化し、UNIXの何でもファイルで表す手法が常に適用可能な方法ではなくなってきた。端末はファイルで表せるが(どちらも文字列を読み書きできる)、GUIはそのように扱うことはできない。コンピュータネットワークは別の問題を提起した。ネットワーク経由の通信はファイルアクセスに対応させることができるが、低レベルのパケット指向アーキテクチャはファイルというよりも離散的なデータの塊として扱う必要がある。コンピュータの機能が拡大するにつれ、UNIXのコードは増大していった。それはまた、UNIXカーネルのモジュール性が非常にスケーラブルなためでもあった。初期のカーネルのソースは10万行ほどだったが、Linuxカーネルなどでは1300万行にもなっている。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "現代のUnix系OSは、モノリシックカーネルにモジュールローディング機能を加えたものとなっている。たとえば、Linuxカーネルを採用した各種Linuxディストリビューションや、BSDの子孫である FreeBSD、DragonFly BSD、OpenBSD、NetBSD、macOS などがある。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "Appleは1984年、最初のMac OSを同社のパーソナルコンピュータMacintoshに同梱して発売した。後継のmacOSはDarwinをベースとしており、4.4BSDユーザーランドとMachカーネルを統合したXNUと呼ばれるハイブリッドカーネルを採用している。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "Microsoft Windowsは1985年、MS-DOSへのアドオンとしてリリースされた。他のOSに依存していたため、Windows 95までのリリースはOSではなくオペレーティング環境とみなされている。その製品ラインは発展して、Windows 9x系となり(32ビット化やプリエンプティブ・マルチタスクといった強化を経て)、最終的に2000年にWindows Meがリリースされた。マイクロソフトはまた、ハイエンド向けにWindows NT のラインも1993年の Windows NT 3.1からスタートさせ、こちらは2000年以降も続いている。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "2001年10月にリリースされたWindows XPでWindows 9x系を置換して一般ユーザー向けOSが一新された。Windows NT系のカーネルはWindow ManagerやIPC Managerとクライアント・サーバ型階層型サブシステムモデルを採用しており、ハイブリッドカーネルとみなされている。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "汎用マイクロカーネルとしてはカーネギーメロン大学が1985年から1994年まで開発したMachが有名だが、特定用途向けにもいくつかのマイクロカーネルが開発された。L4はマイクロカーネルの性能が悪くないことを実証するために作られた。ここから派生した新たな実装の Fiasco や Pistachio はLinuxをその上で動作させることができる。", "title": "カーネル開発史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "QNXはマイクロカーネル設計を採用したリアルタイムオペレーティングシステムであり、1980年代初期に開発され、Machよりもはるかに成功している。ソフトウェアが不正作動することが致命的な状況で使われることが多く、スペースシャトルのロボットアームの制御やガラスを精密に磨く機械の制御で使われている。", "title": "カーネル開発史" } ]
カーネルは、階層型に設計されたオペレーティングシステム (OS) の中核となる部分で、アプリケーションとハードウェアの架け橋である。具体的には、システムのリソースや、ハードウェアとソフトウェアの連携を管理する。そのほか、通信制御を行うことが多い。 オペレーティングシステムの基本コンポーネントとして、カーネルはメモリ、CPU、入出力を中心としたハードウェアを抽象化し、ハードウェアとソフトウェアがやり取りできるようにする。また、ユーザープログラムのための機能として、プロセスの抽象化、プロセス間通信、システムコールなどを提供する。 これらのタスクはカーネルによって方式が異なり、設計や実装も異なる。モノリシックカーネルは全てを一つの仮想アドレス空間に格納されたコードで実行して性能を向上させようとする。マイクロカーネルはサービスの大部分をユーザー空間で実行し、コードの保守性とモジュール性を向上させようとする。多くのカーネルはこの二つのカテゴリのいずれか、あるいは中間である。
{{参照方法|date=2021年9月}} {{Otheruses|コンピュータ用語}} [[ファイル:Kernel Layout.svg|thumb|カーネルはアプリケーションソフトウェアとコンピュータのハードウェアを結び付ける。]] '''カーネル'''({{lang-en-short|kernel}})は、階層型に設計された[[オペレーティングシステム]] (OS) の中核となる部分で、[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]とハードウェアの架け橋である。具体的には、システムの[[計算資源|リソース]]や、[[ハードウェア]]と[[ソフトウェア]]の連携を管理する<ref name="Wulf74">{{Harvnb|Wulf|1974|pp=337–345}}</ref>。そのほか、通信制御を行うことが多い。 オペレーティングシステムの基本コンポーネントとして、カーネルは[[Random Access Memory|メモリ]]、[[CPU]]、[[入出力]]を中心としたハードウェアを[[抽象化レイヤー|抽象化]]し、ハードウェアとソフトウェアがやり取りできるようにする。また、ユーザープログラムのための機能として、プロセスの抽象化、[[プロセス間通信]]、[[システムコール]]などを提供する。 これらのタスクはカーネルによって方式が異なり、設計や[[実装]]も異なる。[[モノリシックカーネル]]は全てを一つの仮想アドレス空間に格納されたコードで実行して性能を向上させようとする。[[マイクロカーネル]]はサービスの大部分を[[アドレス空間#ユーザー空間|ユーザー空間]]で実行し、コードの保守性と[[モジュール性]]を向上させようとする<ref name="mono-micro">[http://osdever.net/tutorials/pdf/comparison.pdf An overview of Monolithic and Micro Kernels], by K.J.</ref><ref name="Roch04">{{Harvnb|Roch|2004}}</ref>。多くのカーネルはこの二つのカテゴリのいずれか、あるいは中間である。 == 概要 == 全てではないが、多くの[[オペレーティングシステム]] (OS) はカーネルを内包する。[[ハードウェア]]と[[ソフトウェア]]の間の通信を管理するソフトウェアとしてのカーネルは、性能、メモリ効率、セキュリティ、プロセッサの[[コンピュータ・アーキテクチャ|アーキテクチャ]]などが複雑に絡んだ問題への妥協的解答である。 多くの場合、[[ブート|ブートローダー]]がカーネルを[[特権モード]]のプロセスとして起動する<ref group="注釈" name="supervisor">最上位の特権レベルは、スーパーバイザーモード、カーネルモード、CPL0、リング0など様々な呼称がある。</ref>。しかし、初期化が完了すると、カーネルはいわゆる[[プロセス]]としては存在せず、ディスクアクセスなどの高い特権レベルを必要とする処理を必要としたときに[[ユーザプログラム]]から呼び出される機能の集合体として存在することになる。カーネルの処理の流れはユーザープロセスの処理の流れの延長上にあり、[[システムコール]]によってカーネルに処理がわたり、終了するとユーザーに戻っていく。初期化時のコンテキストはそのまま消えるようにする設計もあるが、「アイドルプロセス」とか「collects」と呼ばれる、プロセッサが何もすることがないときに実行されるコードに流用される設計とすることもある。省電力のため、プロセッサが「休む」ような命令を繰り返すようなコードとすることも多い。 カーネル開発はプログラミングの中でも複雑で難しいタスクのひとつと考えられる。オペレーティングシステムの中核部であるということは、高い性能を要求される最重要なソフトウェアであり、正しく設計し実装することは難しい。カーネルはユーザプログラムの互換性や移植性を考慮する必要などから、設計が制限されることがあり、そのことがさらに開発を難しくしている。<!-- 英語版はかなり奥歯に物が挟まったような書き方だったので、思い切って意訳してみた --> == カーネルの機能 == カーネルの仕事はコンピュータのリソースを管理し、他のプログラムがそれらのリソースを使って動作できるようにすることである<ref name="Wulf74"/>。典型的なリソースとしては以下のものがある。 * [[CPU]](プロセッサ)。コンピュータの中心となる部分で、[[プログラム (コンピュータ)|プログラム]]の実行を分担する。カーネルは、多数のプログラムの中からプロセッサ(群)を割り当てるべきものを選択する。基本的にプロセッサは一度に1つのプロセスしか実行できない(複数実行できる場合、カーネルは複数のプロセッサとして認識する)。 * [[Random Access Memory|メモリ]]。メモリにはプログラムとデータの両方が格納される<ref>[http://osdever.net/bkerndev/index.php?the_id=90 Bona Fide OS Development - Bran's Kernel Development Tutorial], by Brandon Friesen</ref><ref group="注釈">CPU時間は理論上無限だが、メモリ容量とそのアクセス速度は有限であることに注意すべきである。</ref>。一般にプログラムを実行するには、プログラムとデータの両方がメモリ上になければならない。複数のプログラムがメモリへのアクセスを要求すると、実際に搭載している以上のメモリが必要とされる場合がある。カーネルは各プロセスにメモリを割り当て、全体としてメモリが不足した場合の対処を決定する。 * コンピュータには何らかの[[入出力]]デバイスがある([[キーボード (コンピュータ)|キーボード]]、[[ハードディスクドライブ|HDD]]、[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]]など)。カーネルはアプリケーションから入出力要求を受け付け、適切なデバイス(あるいはデバイスの一部、たとえば[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]や[[ウィンドウ]]など)に対して入出力を実行し、デバイスを使用するための便利な方法を提供する(一般に、アプリケーションがデバイスの実装の詳細を知らなくてもすむように抽象化する)<ref group="注釈">[[デバイスドライバ]]をカーネルの一部とみなさない考え方もあるが、たとえば[[リアルタイムクロック]]などはカーネル自身が管理する。</ref>。 リソース管理に必要な重要な観点は、実行領域([[アドレス空間]])の定義とその領域内のリソースへのアクセスを調停する保護機構である<ref name="Wulf74" />。 また、カーネルは一般にプロセス同士の[[同期 (計算機科学)|同期]]と通信の手段も提供しており、[[プロセス間通信]] (IPC) と呼ぶ。 カーネルは自前でそれらの機能を実装していることもあるし、何らかのプロセスに委任していることもあるが、後者の場合はプロセス間で機能へのアクセスを可能にするIPCを提供する必要がある。 最後に、カーネルはそれら機能群へのアクセスを要求する手段をプログラムに提供しなければならない。 ===プロセス管理=== {{Main|プロセス管理}} カーネルの主な仕事は[[アプリケーションソフトウェア|アプリケーション]]の実行を許可し、[[Hardware Abstract Layer|ハードウェア抽象化]]などの機能によってそれをサポートすることである。 [[プロセス]]は、アプリケーションがアクセスできるメモリの範囲を定義する<ref name="Levy84">{{Harvnb|Levy|1984|p=5}}</ref>。カーネルの[[プロセス管理]]は、ハードウェアの持つ[[メモリ保護]]機構を考慮しなければならない<ref>Needham, R.M., Wilkes, M. V. ''[http://comjnl.oxfordjournals.org/cgi/content/abstract/17/2/117 Domains of protection and the management of processes]'', Computer Journal, vol. 17, no. 2, May 1974, pp 117–120.</ref>。 カーネルはアプリケーションを実行するため[[アドレス空間]]を設定し、アプリケーションのコードを含む[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]をメモリにロードし、プログラムのための[[コールスタック]]を設定し、そのプログラムの所定の位置に制御をわたすことで実行を開始する<ref name="OS-Concepts">{{Harvnb|Silberschatz|1991}}</ref>。 [[マルチタスク]]可能なカーネルは、ユーザーから見て実際にそのコンピュータが同時実行できるプロセス数よりも、多数のプロセスが同時並行して実行されているかのようにみせかける。一般にシステムが同時並行して実行できるプロセス数は、そのシステムの持つCPU数に等しい([[同時マルチスレッディング]]をサポートしている場合はそのかぎりではない)。 [[プリエンプション|プリエンプティブ・マルチタスク]]システムでは、カーネルは各プログラムにタイムスライス(そのプログラムがCPU上で実行される連続時間)を与え、プロセスからプロセスへと高速に切り換えていくので、ユーザーから見ればそれらのプロセスが同時並行して実行されているように見えるのである。カーネルは次に実行すべきプロセスを決定し、タイムスライスの長さを決定する[[スケジューリング]]アルゴリズムを持つ。一般にプロセスには優先度が設定される。カーネルはそれらのプロセス間の通信手段も提供する。これは[[プロセス間通信]] (IPC) と呼ばれ、[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]、[[共有メモリ]]、[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージ]]、[[遠隔手続き呼出し|RPC]]、[[割り込み (コンピュータ)|ソフトウェア割り込み]]などがある。 ほかに[[マルチタスク|協調型マルチタスク]]もあり、各プロセスは自らカーネルに制御を戻すまで割り込まれずに実行を続けることができる。制御をカーネルに戻すことを "yielding" と呼び、プロセス間通信の際や何らかのイベントを待つ際に行われ、そのときにカーネルが別のプロセスを動作させる。古い [[Microsoft Windows|Windows]] や [[Mac OS]] はこの方式だったが、コンピュータの性能向上に伴ってプリエンプティブ方式に切り換えた<ref>http://www.answers.com/topic/operating-system</ref>。 オペレーティングシステムは、[[マルチプロセッシング]]([[対称型マルチプロセッシング|SMP]]や[[NUMA]])をサポートすることもある。この場合、複数のプログラムやスレッドが複数のプロセッサ上で動作する。そのようなシステムでカーネルを動作させる場合、「[[リエントラント]](再入可能)」あるいは「割り込み可能」になるよう大幅な改造が必要となる。これはつまり、何か処理をしている最中にほかからも要求を受け付けるということである。この改造ができれば、異なるプロセッサ上で動作するプログラムが同時にカーネルを呼び出しても大丈夫になる。カーネルは複数のプロセッサからのメモリアクセスを[[同期 (計算機科学)|同期]]させる方法([[スピンロック]]など)も提供しなければならない。これはメモリ管理とプロセス管理にまたがる問題である。 ===メモリ管理=== {{Main|メモリ管理}} カーネルはシステムの全メモリへの無制限のアクセスが可能で、ユーザー[[プロセス]]の要求に応じて安全なメモリアクセスを提供しなければならない。このための第一歩は[[ページング方式]]や[[セグメント方式]]による仮想アドレッシングである。[[仮想記憶]]方式では、カーネルは物理アドレスを別のアドレス、つまり仮想アドレスに変換する。これにより、各プログラムは(カーネル以外では)仮想空間上唯一のコードに見え、プログラムが互いに他のプログラムを破壊することを防止する<ref name="OS-Concepts"/>。 多くのシステムで、あるプログラムの仮想アドレスはメモリ上にないデータを指していることがある。仮想アドレッシングによるインダイレクション層は、本来なら主記憶 ([[Random Access Memory|RAM]]) になければならないデータを[[ハードディスクドライブ|ハードディスク]]などの[[補助記憶装置]]に退避させることを可能にする。結果としてOSは物理的な容量以上のメモリをプログラム群に提供可能となる。RAMにないデータがあるプログラムで必要になった場合、CPUはカーネルにそれを知らせ([[ページフォールト]])、(必要なら)カーネルが使われていないメモリブロックの内容をディスクに退避させ、必要なデータをそのメモリブロックに復帰させる([[ページ置換アルゴリズム]])。すると、プログラムは要求を行った時点から処理を再開させることができる。これを[[デマンドページング]]と呼ぶ。 仮想アドレッシング方式では、仮想空間をカーネル用の部分([[アドレス空間#カーネル空間|カーネル空間]])とアプリケーション用の部分([[アドレス空間#ユーザー空間|ユーザー空間]])に分けることができる。アプリケーションはカーネル用メモリにアクセスできないので、アプリケーションにバグがあったとしてもカーネルにダメージを与えることはない。この根本的な分離は多くの汎用カーネルで実際に使われているが、別の方式を採用したカーネルの研究も行われている(たとえば、[[Singularity]])。 メモリ管理のもうひとつの機能として、カーネル内の各[[モジュール]]や[[デバイスドライバ]]が使用するメモリの割り当てがある([[動的メモリアロケーション]])。 ===デバイス管理=== 実際に何らかの作業をするには、OSは[[コンピュータ]]に接続された[[周辺機器]]にアクセスする必要があり、周辺機器はその開発元などが書いた[[デバイスドライバ]]を通して制御される。デバイスドライバはOSがハードウェアデバイスとやりとりするためのプログラムであり、OSに対して何らかのハードウェアを制御・通信するための情報を提供する。ドライバはアプリケーションにとっても重要で不可欠である。ドライバの設計目標は抽象化である。ドライバの機能はOSの定めた[[インタフェース (情報技術)|インタフェース]]からデバイス固有のインタフェースに変換することである。理論上、デバイスは適当なドライバがあれば正しく動作する。デバイスドライバは、[[ビデオカード]]、[[サウンドカード]]、[[プリンター]]、[[スキャナー]]、[[モデム]]、[[ネットワークカード|LANカード]]などに対応して存在する。一般的なデバイスドライバの抽象化レベルを次に示す。 * ハードウェア側から見て ** 直接インタフェースする。 ** 高度なインタフェースを使用する(ビデオ[[Basic Input/Output System|BIOS]]など)。 ** 低レベルなデバイスドライバを使用する(ディスクドライバを使用するファイルシステムドライバなど) ** ハードウェアとともにシミュレーションを行う。すなわち、実際には全く異なる何かを行う(廃れたデバイスの代わりに最新のデバイスを使用するなど)。 * ソフトウェア側から見て ** OSがハードウェア資源に直接アクセスできるようにする。 ** ドライバとして基本的な部分だけを実装。 ** ドライバ以外のソフトウェアとのインタフェースを実装(たとえば、[[TWAIN]])。 ** 何らかの高度な言語を実装(たとえば[[PostScript]])。 たとえば、ユーザー向けに何かを画面に表示する場合、アプリケーションがカーネルに要求し、その要求がディスプレイドライバに送られ、ディスプレイドライバが実際の文字やピクセルの描画を行う<ref name="OS-Concepts"/>。 カーネルは使用可能なデバイスの一覧を保持しなければならない。この一覧は、事前に知られている場合(たとえば、組み込みシステムでは利用可能なハードウェアが変われば、カーネルを書き換える)、ユーザーが設定する場合(古いPCや個人用に設計されていないシステムなど)、OSが実行時に検出する場合([[プラグアンドプレイ]])がある。プラグアンドプレイのシステムでは、デバイス管理は最初にさまざまな[[バス (コンピュータ)|バス]]([[Peripheral Component Interconnect|PCI]]や[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]])上をスキャンして実装されたデバイスを検出し、対応するドライバを探す。 デバイス管理は各OS固有の部分であり、カーネルの設計によってドライバの扱い方は異なるが、一般にカーネルはドライバが物理的にデバイスにアクセスするための[[入出力]]ポートやメモリ空間を用意する必要がある。デバイスへのアクセスは[[コンテキストスイッチ]]を引き起こしたり、CPUを浪費したりすることになりやすく、性能オーバヘッドの元となるため、デバイス管理の設計は重要である。 ===システムコール=== {{Main|システムコール}} 意味のある作業を実行するには、ユーザプログラムはカーネルの提供する全サービスにアクセスできなければならない。これはカーネルによって実装が異なるが、多くは[[標準Cライブラリ]]や[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]が提供され、そこから対応するカーネル機能が呼び出される<ref>{{Cite book|last= Tanenbaum|first=Andrew S.|authorlink=アンドリュー・タネンバウム |title=Modern Operating Systems |edition=3rd |series= |date= |year=2008 |publisher=Prentice Hall |isbn=0-13-600663-9 |pages=50–51 |quote=. . . nearly all system calls [are] invoked from C programs by calling a library procedure . . . The library procedure . . . executes a TRAP instruction to switch from user mode to kernel mode and start execution . . . }}</ref>。 カーネル機能を呼び出す方法は主に[[CPU]]がどのような機能を提供しているかに依存する。カーネル空間とユーザー空間が分離されている場合、ユーザープロセスが直接カーネルを呼び出すことはできない。たとえば以下のような技法を採用する。 * [[例外処理]]や[[割り込み (コンピュータ)|割り込み]]を明示的に発生する命令(トラップ命令、ソフトウェア割り込み)を使用。多くのハードウェアで実装されている技法である。 * [[コールゲート]]を使用。[[x86]]で採用されている。 * 特別な[[システムコール]]命令を使用。最近の[[x86]]で実装された。 * メモリ上の[[キュー (コンピュータ)|キュー]]を使用。仮想空間の所定の位置にユーザープロセスが要求を投入できるキューを用意し、カーネルがそこから定期的に要求を読み取って実行する。即時性が要求されない場合で、プロセスから複数の要求を行う場合に便利である。 == カーネル設計の観点 == === 保護(プロテクション)のサポート === カーネル設計において重要な観点として、障害([[フォールトトレラント設計|フォールトトレラント性]])と悪意ある動作([[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]])からの保護(プロテクション)サポートがある。この2つは通常明確には区別されず、明確に区別しようとすると[[リングプロテクション]]では対応できなくなる<ref name="Wulf74" />。 カーネルが提供する機構または方針は、いくつかの基準で分類できる。 * 静的([[コンパイラ|コンパイル]]時に決定)か動的(実行時に決定)か * [[プリエンプション|プリエンプティブ]]か事後検出か * それらが満足する保護原理による分類([[ピーター・J・デニング|デニング]]<ref name="Denning76">{{Harvnb|Denning|1976}}</ref><ref name="Swift05Denning76">{{Harvnb|Swift|2005|p=29}} quote: "isolation, resource control, decision verification (checking), and error recovery."</ref>) * ハードウェアサポートによる保護か言語サポートによる保護か * オープンな機構によるものか、方針と密に結合しているか などである。 階層型プロテクションは<ref name="Schroeder72">{{Harvnb|Schroeder|1972}}</ref>、一般に「[[CPUモード]]」でサポートされる。ハードウェアサポートによる単純で効率的な方法は、[[メモリ管理ユニット|MMU]]にメモリアクセスのたびにその妥当性をチェックさせるもので、その機構を{{仮リンク|ケイパビリティベースドアドレッシング|en|capability-based addressing}}と呼ぶ<ref name="LindenCapabilityAddressing">{{Harvnb|Linden|1976}}</ref>。ただし、多くの商用コンピュータアーキテクチャではMMUがケイパビリティをサポートしていない。 代替手法は、階層型プロテクションでケイパビリティをシミュレートするものである。この場合、保護されたオブジェクトはアプリケーションがアクセスできないアドレス空間になければならない。カーネルもそのようなメモリ空間のケイパビリティのリストを保持する。ケイパビリティによって保護されたオブジェクトにアプリケーションがアクセスしたい場合、システムコールを行い、カーネルが実際のアクセスを代行する。これにはアドレス空間の切り替えを必要とするため、オブジェクト間で複雑なやりとりが必要なシステムでは性能が低下するが、現代のOSはアクセス頻度が低いオブジェクトや性能を要求されないオブジェクトについてはこの方式を採用している<ref name="EranianMosberger">Stephane Eranian and David Mosberger, [http://www.informit.com/articles/article.aspx?p=29961 Virtual Memory in the IA-64 Linux Kernel], Prentice Hall PTR, 2002</ref><ref>{{Harvnb|Silberschatz|1993|pp=445,446}}</ref>。保護機構をより高い階層でシミュレートする方式も可能だが(たとえば、直接サポートされていないハードウェアについての[[ページテーブル]]を操作してケイパビリティをシミュレートするなど)、性能上の問題がある<ref name="HochBrowne">{{Cite journal| last = Hoch | first = Charles | coauthors = J. C. Browne (University of Texas, Austin) | year = 1980| month = July | title = An implementation of capabilities on the PDP-11/45 | journal = ACM SIGOPS Operating Systems Review | volume = 14 | issue = 3 | pages = 22–32 | doi = 10.1145/850697.850701 | url = http://portal.acm.org/citation.cfm?id=850701&dl=acm&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618 | format = PDF | accessdate = 2007-01-07 }}</ref>。言語ベースの保護を選択するシステムでは、ハードウェアサポートがなくても問題にならない<ref name="Schneider">[http://www.cs.cmu.edu/~rwh/papers/langsec/dagstuhl.pdf A Language-Based Approach to Security], Schneider F., Morrissett G. (Cornell University) and Harper R. (Carnegie Mellon University)</ref>。 カーネル設計における重要な点として、セキュリティの機構と方針を実装する抽象化レベルの選択がある。カーネルのセキュリティ機構は、高度なセキュリティをサポートする上で重要である<ref name="LindenCapabilityAddressing" /><ref name="Loscocco98"/><ref>J. Lepreau et al. ''[http://dl.acm.org/citation.cfm?doid=504450.504477 The Persistent Relevance of the Local Operating System to Global Applications]''. Proceedings of the 7th ACM SIGOPS European workshop, 1996.</ref><ref>J. Anderson, ''[http://csrc.nist.gov/publications/history/ande72.pdf Computer Security Technology Planning Study], Air Force Elect. Systems Div., ESD-TR-73-51, October 1972.</ref><ref>{{Cite journal| author = Jerry H. Saltzer, Mike D. Schroeder| title = The protection of information in computer systems| journal = Proceedings of the IEEE| volume = 63| issue = 9| pages = 1278–1308| date = September 1975| url = http://web.mit.edu/Saltzer/www/publications/protection/| doi = 10.1109/PROC.1975.9939 }}</ref>。 1つの方式として、ファームウェアとカーネルでフォールトトレラント性をサポートする方式があり、その上に悪意ある動作に対するセキュリティ方針を構築し(必要に応じて暗号機構を追加する)、一部の責任を[[コンパイラ]]に委任する。コンパイラやアプリケーションレベルへのセキュリティ方針の責任委譲の方式を一般に「言語ベースのセキュリティ」と呼ぶ。 現代の主流のOSの多くは重要なセキュリティ機構が欠如しているため、アプリケーションの[[抽象化レイヤー|抽象化レベル]]での適切なセキュリティ方針実装ができないことがある<ref name="Loscocco98">P. A. Loscocco, S. D. Smalley, P. A. Muckelbauer, R. C. Taylor, S. J. Turner, and J. F. Farrell. ''[http://csrc.nist.gov/nissc/1998/proceedings/paperF1.pdf The Inevitability of Failure: The Flawed Assumption of Security in Modern Computing Environments]''. In Proceedings of the 21st National Information Systems Security Conference, pages 303–314, Oct. 1998.</ref>。一般にカーネルサポートがどうであれ、アプリケーションで任意のセキュリティ方針を実装可能だとされているが、間違いである<ref name="Loscocco98"/>。 ==== ハードウェアによる保護と言語による保護 ==== 現代の一般的コンピュータは、ハードウェアが強制した規則を使ってプログラムのデータへのアクセスを許可している。プロセッサは動作を監視し、規則に違反したプログラムを停止させる(たとえば、カーネル空間のメモリを読み書きしようとしたユーザプロセスを停止させるなど)。ケイパビリティをサポートしていないシステムでは、プロセスは相互に隔離されたアドレス空間で動作する<ref>{{Cite journal |doi=10.1145/319344.319163 |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?doid=319151.319163 |title=EROS: a fast capability system |author=Jonathan S. Shapiro; Jonathan M. Smith; David J. Farber |journal=Proceedings of the seventeenth ACM symposium on Operating systems principles |volume=33 |issue=5 |pages=170–185 |year=1999}}</ref>。ユーザプロセスがカーネルを呼び出すことは、上述したシステムコールの技法を使って統制されている。 代替手法として言語ベースの保護(プロテクション)がある。言語ベースのプロテクションシステムでは、カーネルは信頼されている言語[[コンパイラ]]が生成したコードのみ実行を許可する。そしてその言語は、セキュリティに違反するようなコードをプログラマが書けないように設計されている<ref name="Schneider"/>。 この方式には次のような長所がある。 * アドレス空間を分離する必要がない。アドレス空間の切り替えは低速な操作であり、オーバーヘッドになっているため、現代のOSではその切り替えをなるべく減らすような最適化に多大な労力を費やしている。言語ベースのプロテクションシステムではそのような切り替えが全く不要であり、全コードを同一アドレス空間に置いても安全に運用可能である。 * 柔軟性がある。プログラミング言語でプロテクション機構を表現できるよう設計すれば、この方式ではそれらを実装することが可能である。言語ベースのプロテクションを実現するのにハードウェアを新たに設計する必要はない。 一方、次のような短所がある。 * アプリケーションの起動に時間がかかる。アプリケーションを起動する際に正しいコンパイラで生成されたものか、あるいはソースコードや[[バイトコード]]から再コンパイルが必要でないかをチェックする必要がある。 * [[型システム]]が固定される。従来のシステムでは、アプリケーションは{{仮リンク|型安全性|en|type safety|label=型安全}}でない操作を頻繁に実行する。言語ベースのプロテクションシステムではそのような操作は許されないので、アプリケーションを書き換える必要があり、場合によっては性能が低下することになる。 言語ベースのプロテクションを採用したシステムとしては、[[JX (オペレーティングシステム)|JX]]や[[マイクロソフト]]の[[Singularity]]がある。 === プロセスの協調作動 === [[エドガー・ダイクストラ]]は論理的観点から、[[セマフォ|バイナリセマフォ]]における[[不可分操作|不可分]]な[[ロック (情報工学)|ロック]]とアンロック操作だけで、プロセス間の任意の協調作動を実現できることを証明した<ref name="Dijkstra65">Dijkstra, E. W. ''Cooperating Sequential Processes''. Math. Dep., Technological U., Eindhoven, Sept. 1965.</ref>。しかしそのような方式は一般に安全性や効率性が欠如しており、[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージパッシング]]方式の方が柔軟性が高い<ref name="Hansen70">{{Harvnb|Hansen|1970|pp=238–241}}</ref>。他の方式もいくつかあり、現代のカーネルでは[[共有メモリ]]や[[遠隔手続き呼出し|RPC]]などのシステムをサポートしていることが多い。 === 入出力デバイス管理 === 入出力デバイスを並行して協調作動する他のプロセス群から一様に扱えるようにするというカーネルの考え方は、[[:en:Per Brinch Hansen|Per Brinch Hansen]] が提唱し実装したのが最初である(似たような考え方は1967年にも示唆されていた<ref>{{Cite web| title=SHARER, a time sharing system for the CDC 6600 | work= | url= http://dl.acm.org/citation.cfm?id=363778&dl=ACM&coll=GUIDE | accessdate=2007-01-07}}</ref><ref>{{Cite web| title=Dynamic Supervisors – their design and construction | work= | url= http://dl.acm.org/citation.cfm?id=811675&dl=ACM&coll=GUIDE | accessdate=2007-01-07}}</ref>)。Hansen はその説明で、「共通の」プロセス群を「内部プロセス」、入出力デバイスを「外部プロセス」と呼んでいる<ref name="Hansen70" />。 物理メモリと同様、アプリケーションがコントローラのポートやレジスタに直接アクセスすることを許可すると、コントローラが不正作動したり、システムがクラッシュすることになる。それに加えて、デバイスの複雑さに応じて対応するプログラムは非常に複雑化することがあり、しかも複数の異なるコントローラを使うことがある。そのため、デバイスを管理するためのより抽象化されたインタフェースを提供することが重要である。この抽象化を提供するのは一般に[[デバイスドライバ]]や [[Hardware Abstract Layer|Hardware Abstraction Layer]] (HAL) である。アプリケーションは必要なら頻繁にデバイスへのアクセスを要求する。カーネルはシステムに接続されたデバイスの一覧を何らかの方法で保持しなければならない。これは[[Basic Input/Output System|BIOS]]や各種[[バス (コンピュータ)|システムバス]]の機能([[Peripheral Component Interconnect|PCI]]/[[PCI Express|PCIe]]や[[ユニバーサル・シリアル・バス|USB]])を使ってなされる。あるアプリケーションがあるデバイス操作を要求すると(たとえばディスプレイに文字を表示する)、カーネルは対応するドライバ(たとえばビデオドライバ)に要求を送らなければならない。するとそのドライバがデバイスに対して必要な処理を行う。マイクロカーネルの場合、この際にプロセス間通信 (IPC) が使われる。 == カーネル全体の設計方針 == もちろん、上述したタスク群や機能群の提供方法は設計や実装の面でさまざまである。 「[[機構と方針の分離]]」の原則は、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの哲学の間でかなり大きな相違がある<ref>{{Harvnb|Baiardi|1988}}</ref><ref name="Levin75">{{Harvnb|Levin|1975}}</ref>。ここで、「機構」はさまざまな「方針」の実装を可能とするものであり、「方針」は特定の「操作のモード」である。たとえば「機構」面では、ユーザーがログインしようとしたとき認証サーバを呼び出してアクセスを認めるべきか否かを決定するということが考えられる。一方「方針」面では、認証サーバがパスワードを要求し、データベース内の暗号化されたパスワードと照合するかもしれない。機構が汎用的であれば、機構と方針が同一モジュールに統合されている場合よりも方針の変更(たとえば、パスワードの代わりに[[セキュリティトークン]]を使うなど)がより容易になる。 最小のマイクロカーネルでは非常に基本的な方針のみが含まれ<ref name="Levin75" />、その機構はカーネル上で動作させるもの(OSの残りの部分やアプリケーション群)自身がどのような方針(メモリ管理、高度なプロセススケジューリング、[[ファイルシステム]]管理など)を採用するか決定することを可能にする<ref name="Wulf74" /><ref name="Hansen70" />。一方モノリシックカーネルは方針の大部分をカーネル内に含む傾向があり、結果としてその上の部分の自由度は制限される。 [[:en:Per Brinch Hansen|Per Brinch Hansen]] は機構と方針の分離のための主張を展開した<ref name="Wulf74" /><ref name="Hansen70" />。すなわち、この分離が不適切であることが既存のOSで本質的技術革新が見られないことの主要因だとし<ref name="Wulf74" />、コンピュータアーキテクチャにおける共通課題だとした<ref name="Denning80">{{Harvnb|Denning|1980}}</ref><ref name="Nehmer91">Jürgen Nehmer ''[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=723612 The Immortality of Operating Systems, or: Is Research in Operating Systems still Justified?]'' Lecture Notes In Computer Science; Vol. 563. Proceedings of the International Workshop on Operating Systems of the 90s and Beyond. pp. 77–83 (1991) ISBN 3-540-54987-0 [http://www.sigmod.org/dblp/db/conf/dagstuhl/os1991.html] quote: "The past 25 years have shown that research on operating system architecture had a minor effect on existing main stream systems." [http://www.soe.ucsc.edu/~brucem/soft_ins/dissert.html]</ref><ref>{{Harvnb|Levy|1984|p=1}} quote: "Although the complexity of computer applications increases yearly, the underlying hardware architecture for applications has remained unchanged for decades."</ref>。モノリシック設計は、従来の商用システムで一般的な保護技法である「カーネルモード」と「ユーザーモード」に分離するアーキテクチャ(いわゆる[[リングプロテクション]])から生まれた<ref name="Levy84privilegedmode">{{Harvnb|Levy|1984|p=1}} quote: "Conventional architectures support a single privileged mode of operation. This structure leads to monolithic design; any module needing protection must be part of the single operating system kernel. If, instead, any module could execute within a protected domain, systems could be built as a collection of independent modules extensible by any user."</ref>。そのアーキテクチャでは、保護(プロテクション)を必要とするモジュールを可能な限りカーネルに含めようとする<ref name="Levy84privilegedmode"/>。このようなモノリシック設計と特権モードの関係が機構と方針の分離における重要な問題として再注目されている<ref name="Wulf74"/>。実際「特権モード」のアーキテクチャ技法は保護機構とセキュリティ方針を融合させる傾向があるが、これとは大きく異なるアーキテクチャ技法である{{仮リンク|ケイパビリティベースドアドレッシング|en|capability-based addressing}}ではその2つを明確に区別し、自然にマイクロカーネル設計が可能となる<ref name="Wulf74"/>。 [[モノリシックカーネル]]はカーネルの全コードを同じアドレス空間([[カーネル空間]])で実行するが、[[マイクロカーネル]]では多くのサービスをユーザー空間で実行しようとし、コードベースの保守性とモジュール性を向上させようとしている<ref name="mono-micro"/>。多くのカーネルは明確にどちらかに分類できるわけではなく、その中間の実装ともいうべきハイブリッドカーネルになっている。さらに特殊な設計としてナノカーネルやエクソカーネルが研究されているが、広く使われるまでには至っていない。エクソカーネルの例として[[Xen (仮想化ソフトウェア)|Xen]][[ハイパーバイザ]]がある。 ===モノリシックカーネル=== {{main|モノリシックカーネル}} [[File:Kernel basic.svg|thumb|right|モノリシックカーネルの概念図]] モノリシックカーネルでは、全OSサービスはひとつのカーネル空間内に存在し、カーネルスレッド上で実行される。この手法は強力なハードウェアアクセスを提供する。[[UNIX]]の開発者[[ケン・トンプソン]]は、モノリシックカーネルの方がマイクロカーネルより実装が容易だとしている<ref name="Linuxisobsoletedebate">[http://oreilly.com/catalog/opensources/book/appa.html Open Sources: Voices from the Open Source Revolution]</ref>。主な欠点はシステム構成要素間の依存関係の複雑さである。たとえば、デバイスドライバにバグがあっただけでシステム全体がクラッシュするし、大きなカーネルは保守が非常に困難である。 [[Unix系]]OSが伝統的に採用してきたモノリシックカーネルは、OS中核機能と[[デバイスドライバ]]を全て含んでいた。デバイスドライバ、スケジューラ、メモリ管理、[[ファイルシステム]]、ネットワークの[[プロトコルスタック]]など、多くのプログラムが必要とするが[[ライブラリ]]としてユーザー空間で実行することができない機能は、全てカーネル空間に置かれた。それら全サービスへのアクセスを可能にするため、数多くの[[システムコール]]がアプリケーションに対して提供されている。 必要とされないサブシステムを伴って最初からロードされるモノリシックカーネルは、より汎用的な意味ではあるが、特定ハードウェア向けに設計されたものよりもチューニングが可能である。[[Linux]]や[[FreeBSD]]などの現代のモノリシックカーネルは[[Unix系]]OSであり、実行時にモジュールをロードする機能を備えており、必要に応じて容易に機能を拡張でき、同時にカーネル空間で動作するコード量をなるべく最小に抑えることができる。モノリシックカーネルには次のような長所がある。 * 関係するソフトウェアが少ないので、より高速である。 * カーネルは1つのソフトウェアであるため、ソースコード量もコンパイル後の実行ファイルの大きさも小さくなる。 * コードが少ないのでバグも少なく、結果としてセキュリティ問題も比較的少ない。 モノリシックカーネルは[[システムコール]]の延長で動作する部分がほとんどである。システムコールは一般にテーブル構造で保持されるインタフェースであり、ディスク操作などのカーネル内サブシステムへのアクセスを行う。プログラム内でライブラリルーチンを呼び出すと、その中で要求をチェックしてコピーし、システムコールにわたす。したがって、それほど重い呼び出しではない。Linuxカーネルはモノリシックだがかなり小さくできる。これは、[[ローダブル・カーネル・モジュール]]機能と、カスタマイズが容易なためである。実際、[[フロッピーディスク]]1枚にカーネルだけでなく多数のユーティリティを搭載し、それだけで完動するOSとすることもできる(最も有名な例として {{仮リンク|muLinux|en|muLinux}} がある)。このカーネルを小型化できる能力があるため、Linuxは[[組み込みシステム]]で急速に採用が増えている([[組み込みLinux]])。 このようなカーネルはOSの中核機能とデバイスドライバからなり、実行時にモジュールをロードする機能を備えている。それらによって、下層のハードウェアについての豊富で強力な抽象化を提供する。それらは単純なハードウェア抽象化の小さなセットを提供し、サーバと呼ばれるアプリケーションを使ってさらなる機能を提供する。この特定の手法でハードウェア上の高度な仮想インタフェースを定義し、プロセス管理、並行性管理、メモリ管理といったスーパーバイザモードで動作するいくつかのモジュールでOSサービスを実装し、システムコールでそれらを呼び出せるようにしている。しかし、このような設計には以下のような短所や制約がある。 * カーネル内のコーディングは難しい。[[標準Cライブラリ]]が使えず、[[デバッグ]]には[[GNUデバッガ]]などのソースレベルのデバッガを必要とするためである。そのため、開発中はコンピュータを頻繁に[[リブート]]する必要がある。これは単に開発者だけの問題ではない。デバッグが難しいということはバグをつぶすのが難しいということであり、カーネル内にバグが残存しやすいということでもある。 * カーネル内のバグは重大な副作用を引き起こす。カーネル内の関数はどれも特権状態で動作するので、全く無関係なデータ構造を(カーネル空間内でもユーザー空間内でも)容易に壊すことができる。モジュール群は同一[[アドレス空間]]で動作するので、バグによってシステム全体をダウンさせることがある。 * カーネルは肥大化しやすく、肥大化すると保守が困難になる。 * コードの[[結合度]]が強く、モジュール化して分離したとしても、その分離を正しく行うのは困難である。 * 移植性が低い。動作させるアーキテクチャごとに書き直しが必須となる。 ===マイクロカーネル=== {{main|マイクロカーネル}} [[ファイル:Kernel-microkernel.svg|thumb|260px|[[マイクロカーネル]]方式では、カーネルは[[サーバ]]の実行に必要な最小限の機能をカーネルに持たせ、それ以外のカーネル機能(デバイスドライバ、GUIなど)はサーバという別個のプログラムで実装する。]] マイクロカーネルとは、伝統的な「カーネル」から「サーバ」群に機能を移転するOS設計方針を意味し、最小化したカーネルだけをカーネル空間に残し、サーバ群を可能なかぎりユーザ空間で動作させる。マイクロカーネルでは、[[ハードウェア]]の単純な[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]と最小のプリミティブ([[システムコール]])で最小のOSサービスを実装する([[メモリ管理]]、[[マルチタスク]]、[[プロセス間通信]]など)。他の全てのサービス([[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]など)は「サーバ」として[[ユーザ空間]]に実装される。マイクロカーネルはモノリシックカーネルよりも保守が容易だが、システムコール回数や[[コンテキストスイッチ]]回数が増大するために性能が低下する傾向がある。 どうしても特権モードでなければならない部分だけがカーネル空間に置かれる。それは、IPC(プロセス間通信)、基本スケジューラ(スケジューリング・プリミティブ)、基本メモリハンドラ、基本I/Oプリミティブなどである。スケジューラ本体やメモリ管理、ファイルシステム、ネットワークスタックといった大部分はユーザ空間で動作する。マイクロカーネルは、システム機能全体がプロセッサのシステムモードで動作する1つのプログラムになっているモノリシックカーネルの設計方針への反発から生まれた。マイクロカーネルを採用したOSとしては、[[QNX]]や [[GNU Hurd]] がある。マイクロカーネルは基本的に次のような長所を持つ。 * 保守は相対的に容易である。 * [[パッチ]]の評価が容易である。 * すばやく開発でき、多くの場合カーネルを再起動しなくとも評価可能。 * サーバで障害が発生しても、運用上のミラーで代行可能なことが多く、バグへの耐性が高い。 多くのマイクロカーネルは、何らかのメッセージパッシングシステムを採用しており、サーバからサーバへの要求の転送を行う。一般にマイクロカーネルがそのためのポートを用意している。たとえばメモリ追加要求を送ると、マイクロカーネルのあるポートが開き、そこを通して要求が転送される。マイクロカーネルにメッセージが受信されると、その後はシステムコールのように処理される。これによってシステムアーキテクチャのモジュール性が高まり、システムがより整理され、デバッグや動的変更が容易になり、ユーザーのニーズに従ったカスタマイズが可能となる。[[AIX]]、[[BeOS]]、[[GNU Hurd|Hurd]]、[[macOS]]、[[MINIX]]、[[QNX]] といったOSは多かれ少なかれマイクロカーネルの設計方針を取り入れている。マイクロカーネル自体は非常に小さいが、システム機能全体を構成するコードを全て集めると、モノリシックカーネルよりも大きいことが多い。モノリシックカーネル支持派はまた、マイクロカーネル方式の2層構造によりOSの大部分がハードウェアと直接相互作用できなくなるため、決して小さくないコストが上乗せされ、システムの効率を低下させると主張している。マイクロカーネルは通常、アドレス空間定義部、プロセス間通信 (IPC)、プロセス管理といった最小限のサービスだけを提供する。ハードウェア処理といった他の機能はマイクロカーネルで直接扱うことはない。マイクロカーネル支持派は、モノリシックカーネルでのエラー(バグ)がシステム全体のクラッシュを引き起こすという欠点を指摘する。しかしマイクロカーネルでは、サーバがクラッシュしてもそのサービスを再起動することでシステム全体のクラッシュを防ぐ可能性がある。しかし、現にLinuxなどのモノリシックカーネルは年単位で安定動作している実績があり、このようなマイクロカーネルの利点がどれほど重要かは疑わしい。 ネットワーキングなどのカーネルサービスは「サーバ」と呼ばれるユーザ空間のプログラムとして実装される。サーバを停止・再起動するだけでOSを更新可能である。たとえばネットワークをサポートしていないマシンで、ネットワークサーバは起動する必要がない。サーバ群やカーネルの間でデータをやり取りする作業があるため、モノリシックカーネルにはないオーバヘッドが生じ、効率が低下する。 マイクロカーネルの短所はたとえば次のようなものがある。 * 全体としてメモリをより多く使用する。 * インタフェースを持つソフトウェアの数が多く、性能低下の可能性がある。 * サーバ群とカーネル間のメッセージングにバグがあると、検出が困難である。 * プロセス管理は一般に非常に複雑になりうる。 * 使用状況によってはマイクロカーネルは不利になる。単一用途のシステムでは動作するプロセス数が小さいため、マイクロカーネルがよく機能し、プロセス管理の複雑さもあまり問題にならない。 マイクロカーネル方式では、OSの他の部分を通常のアプリケーションのように[[高水準言語]]で書くことができ、同一のカーネル上で異なるOS(のインタフェース)を使用することができる<ref name="Hansen70" />。また動的にOSを切り換えたり、複数のOSを同時に使用することもできる<ref name="Hansen70" />。 ===モノリシックカーネルとマイクロカーネル=== カーネルが巨大化するにつれて、さまざまな問題が明らかになってきた。最も明らかな問題はカーネルの大きさ(メモリ使用量)の増大である。これは[[仮想記憶]]をカーネル空間にも適用することである程度まで和らげられるが、全ての[[コンピュータ・アーキテクチャ]]が仮想記憶をサポートできるわけではない<ref group="注釈">仮想アドレッシングは通常、[[メモリ管理ユニット]] (MMU) に内蔵された機能を使用して実現される。</ref>。カーネルのサイズを削減するため、不要なコードを削除するなどの改善が必要となるが、これはカーネルの各モジュール間の明らかにされていない依存関係があるために非常に困難である<ref group="注釈">そもそも何故カーネルが大きくなるとまずいのか? 一般にOSはある程度のハードウェアシリーズで動作するが、その最小メモリサイズは最も安価なハードウェアの最小構成まで考慮する必要があり、そのようなメモリ容量でもある程度の機能が動作しなければならない。このため、少なくとも一般的な構成のカーネルがその最小メモリ容量内に収まって、アプリケーションをそれなりの性能で実行できるだけの空きメモリ容量を確保しなければならないという事情があった。最近ではメモリチップの急速な大容量化によって、このような問題は減りつつある。</ref>。 マイクロカーネルと比較したときのモノリシックカーネルのさまざまな欠点から、[[1990年代]]の初期までにモノリシックカーネルは時代遅れと考えられるに至った。結果として[[Linux]]がモノリシックカーネルを採用したことで[[リーナス・トーバルズ]]と[[アンドリュー・タネンバウム]]の間で有名な論争が発生した([[アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論]])<ref name="TorvaldsTanenbaum">[http://www.dina.dk/~abraham/Linus_vs_Tanenbaum.html Linus vs. Tanenbaum] や [https://groups.google.com/g/comp.os.minix/c/wlhw16QWltI#f447530d082cd95d LINUX is obsolete - comp.os.minix] や [http://www.oreilly.com/catalog/opensources/book/appa.html Appendix A The Tanenbaum-Torvalds Debate] に議論の記録がある</ref>。この議論では、両者の言い分にそれぞれメリットがある。 モノリシックカーネルは設計が容易で、マイクロカーネルよりも迅速に成長することが期待できる。しかし、モノリシックカーネル内のバグは一般にシステムクラッシュを引き起こすのに対して、マイクロカーネルでは一部のサーバに問題が限定される。モノリシックカーネルの支持者は、不正なコードがカーネルになければマイクロカーネルの利点はほとんどないと論じる。どちらの側にも成功例がある。マイクロカーネルはロボットや医療用システムで使われており、各コンポーネントが別々の保護されたメモリ空間で動作する。これは最新のモジュールロード方式であってもモノリシックカーネルには不可能であろう。モノリシックカーネルは共有型カーネルメモリを使用するよう最適化されていて、マイクロカーネルのような低速なメッセージわたしとは異なる。 ==== 性能 ==== [[モノリシックカーネル]]はコード全体を同じアドレス空間([[カーネル空間]])に置くよう設計されており、一部の開発者はシステム性能向上に必須の特徴だとしている<ref name="MatthewRussell"/>。一部の開発者はうまく書けばモノリシックカーネルは極めて高効率になるとしている<ref name="MatthewRussell">{{Cite web |url= http://oreilly.com/pub/a/mac/2005/09/27/what-is-darwin.html?page=2 |title=What Is Darwin (and How It Powers Mac OS X) |author=Matthew Russell |publisher=[[オライリーメディア|O'Reilly Media]] |accessdate=2012-09-30}} quote: "The tightly coupled nature of a monolithic kernel allows it to make very efficient use of the underlying hardware [...] Microkernels, on the other hand, run a lot more of the core processes in userland. [...] Unfortunately, these benefits come at the cost of the microkernel having to pass a lot of information in and out of the kernel space through a process known as a context switch. Context switches introduce considerable overhead and therefore result in a performance penalty."</ref>。 1980年代から1990年代初めにかけてのマイクロカーネルの性能は低かった<ref name="Liedtke95">{{Harvnb|Liedtke|1995}}</ref><ref name="Hartig97">{{Harvnb|Härtig|1997}}</ref>。そういった初期のマイクロカーネルの性能を実測する研究が行われたが、性能が低い原因を深く分析することはなかった<ref name="Liedtke95"/>。そういったデータが一人歩きし、カーネルモードとユーザモードの切り替え回数が増え<ref name="Liedtke95"/>、[[プロセス間通信]]の回数が増え<ref name="Liedtke95"/>、[[コンテキストスイッチ]]の回数が増えたためだ<ref name="Liedtke95"/> とみなされた。 そして1995年、マイクロカーネルの性能が低い原因として以下のことが推測されている<ref name="Liedtke95"/>。 # マイクロカーネル「方式」全体が実際には非効率 # マイクロカーネルで実装された「コンセプト」が非効率 # それらコンセプトの特定の「実装」が非効率 この時点でマイクロカーネルを効率化する方法はまだ研究途上であり、正しい技法の構築が求められていた<ref name="Liedtke95"/>。 一方でモノリシックカーネルの設計の基盤となっている[[リングプロテクション|階層型プロテクション]]<ref name="Levy84privilegedmode"/> でも、プロテクションの階層間でのやりとりには値(メッセージ)のコピーが必要であり、そのやりとりが増えるほど性能が低下することがわかっていた<ref name="Hansen73SupervisorMode">{{Harvnb|Hansen|1973|loc=section 7.3 p.233}} "''interactions between different levels of protection require transmission of messages by value''"</ref>。 近年、[[L4マイクロカーネルファミリー|L4]]<ref name="l4">[http://os.inf.tu-dresden.de/L4/overview.html The L4 microkernel family – Overview]</ref> や{{仮リンク|K42|en|K42}}といった新世代のマイクロカーネルが登場し、上述の性能問題をある程度解決している{{要出典|date=2012年9月}}。 === ハイブリッドカーネル === [[ファイル:Kernel-hybrid.svg|thumb|260px|モノリシックカーネルの高速性・単純性とマイクロカーネルのモジュール性・拡張性を組み合わせたのがハイブリッドカーネルである。]] [[Windows NT系]]などの商用OSでよく見られる。[[Apple]]の [[macOS]] も、[[カーネギーメロン大学]]の[[Mach]]と[[FreeBSD]]の[[モノリシックカーネル]]のコードをベースとした[[XNU]]というハイブリッドカーネルを採用している。マイクロカーネルの性能オーバヘッドを削減するため一部のサービス([[通信プロトコル]]スタックや[[ファイルシステム]])をカーネル空間で動作させるが、一部のカーネルコード(デバイスドライバなど)はサーバとしてユーザ空間で実行する。これは、純粋なマイクロカーネルが高性能を提供できると示される以前、妥協的に考案された技法であり、マイクロカーネルにモノリシックカーネルの特性を一部取り入れて拡張したものといえる。 ハイブリッドカーネルではカーネルがモジュール化されているが、モジュールの大部分は同じカーネル空間内にロードされる。そのため、バグを含むモジュールをロードするとカーネルの動作が不安定になる可能性がある。マイクロカーネルの場合、カーネルとは全く別の空間でモジュールを動作させることができ、安全に評価することができる。モノリシックカーネルと比較したハイブリッドカーネルの長所を以下に挙げる。 * モジュールの開発期間が短い。(カーネルが不安定にならない限り)評価の際にリブートが不要である。カーネル全体の再コンパイルが不要である。 * [[サードパーティー]]のテクノロジーを素早く統合できる。 モジュール群は何らかのモジュールインタフェースを使ってカーネルとやりとりする。そのインタフェースはOS固有ではあるが汎用化されており、常にモジュールとして分離実装できるわけではない。デバイスドライバにはモジュールインタフェース以上の柔軟性が必要なことが多い。基本的にモノリシックカーネルではカーネルとの呼び出しが1回で済むところを、ハイブリッドカーネルでは2回呼び出す必要がある。モジュール化の短所として次の事柄が挙げられる。 * インタフェースを通る回数が増えるため、バグを作りこむ可能性も増加する(セキュリティホールも多い可能性がある)。 * システム管理者はモジュール群の保守において混乱をきたす可能性がある。 ===ナノカーネル=== ナノカーネルは全てのサービスを[[デバイスドライバ]]として分離する。これにはたとえば最も基本的な[[Programmable Interrupt Controller|割り込みコントローラ]]や[[タイマー]]の制御も含まれる。これによりカーネルメモリはマイクロカーネルよりもさらに小さくなる<ref>[http://www.cis.upenn.edu/~KeyKOS/NanoKernel/NanoKernel.html KeyKOS Nanokernel Architecture]</ref>。 === エクソカーネル === エクソカーネル (exokernel) はまだ実験段階のOS設計技法である。他のカーネルとの違いは、物理ハードウェアのプロテクションと多重化に機能を限定している点で、アプリケーションに対して全くハードウェアの抽象化を提供しない。このようにハードウェアのプロテクションをハードウェア管理から分離することで、利用可能なハードウェアを最大限に生かすように個々のプログラムを開発できるという利点が生じる。 エクソカーネル自体は非常に小さい。しかし、通常のOSの持つ機能をアプリケーション開発者に提供するためのライブラリ型OSを伴う。エクソカーネル型システムの最大の利点は、このライブラリ型OS機能を複数用意できるという点で、それぞれが異なる[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]を提供できる。たとえば同じシステム上で、高度な[[ユーザインタフェース|UI]]を持つアプリケーションを開発し、同時に[[リアルタイムシステム]]制御を行うアプリケーションも開発できる。 ==カーネル開発史== ===初期のOSカーネル=== {{Main|オペレーティングシステムの歴史}} 厳密にいえば、オペレーティングシステム(とカーネル)はコンピュータを動作させるのに必須ではない。プログラムはマシン上に直接ロードされ実行されることも可能であり、そのようなプログラムはOSのサービスや[[抽象化 (計算機科学)|抽象化]]なしで記述しなければならない。多くの初期のコンピュータではそのような手法が一般的であり、プログラムを入れ替えるときにリセットとリロードが必要だった。その後、プログラムローダーや[[デバッガ]]といった補助的な小さなプログラムがメモリに常駐したり、[[Read Only Memory|ROM]]からロードされるようになった。これらが初期のオペレーティングシステムのカーネルの元となった。直接実行の手法は今日でも[[ゲーム機]]や[[組み込みシステム]]で使われているが<ref name="Ball2002">{{Harvnb|Ball|2002|p=129}}</ref>、一般に最近のコンピュータではオペレーティングシステムとカーネルが使われている。 1969年の [[:en:RC 4000 Multiprogramming System|RC 4000 Multiprogramming System]] では、小さな中核部の上で異なる目的のOS群を整然とした方法で構築するというシステム設計哲学を導入しており<ref name="Hansen2001RC4k">{{Harvnb|Hansen|2001|pp=17–18}}</ref>、マイクロカーネル方式のさきがけとなっている。 ===タイムシェアリングOS=== {{main|タイムシェアリングシステム}} [[UNIX]]以前の10年間、コンピュータは劇的に能力を向上させ、マシンの未使用時間を使う手法が求められた。この期間の主な開発のひとつが[[タイムシェアリングシステム]] (TSS) である。TSSは何人かのユーザーがCPUのタイムスライスをそれぞれ割り当てられる<ref>[http://cm.bell-labs.com/cm/cs/who/dmr/cacm.html BSTJ version of C.ACM Unix paper]</ref>。 タイムシェアリングシステムの開発は多くの問題を発生させた。ひとつの問題は[[大学]]のユーザーは[[CPU]]時間が欲しいというよりもシステムを[[ハッカー|ハック]]したがっているという点である。このため[[コンピュータセキュリティ|セキュリティ]]や[[アクセス制御]]が1965年の[[Multics]]プロジェクトの重要な課題となった<ref>[http://www.multicians.org/fjcc1.html Introduction and Overview of the Multics System], by F. J. Corbató and V. A. Vissotsky.</ref>。もうひとつの問題は計算リソースの正しい扱い方である。ユーザーは計算リソースを使わずに画面を凝視することにほとんどの時間を費やしており、タイムシェアリング方式ではそのようなCPU時間を他のユーザーに与えるべきと考えられた。最終的に、メモリ階層の多層化が進み、リソースの分割が[[仮想記憶]]システムの開発へと繋がっていったのである。 ===UNIX=== {{Main|UNIX}} [[ファイル:Unix-history.svg|300px|thumb|[[Unix系]]システムの系譜]] [[UNIX]]の設計段階で、全ての高レベルのデバイスを[[ファイル (コンピュータ)|ファイル]]として抽象化することが決定された。なぜならUNIX設計者は情報処理の目的をデータの変換であると考えていたからである<ref name="unix">[http://www.unix.org/what_is_unix/single_unix_specification.html The UNIX System — The Single Unix Specification]</ref>。 たとえば、[[プリンター]]もファイルとして抽象化され、データをそのファイルにコピーすると印字が行われる。他のシステムでは同様の機能を提供するにあたって、デバイスを低レベルに抽象化する傾向があった。デバイスもファイルも何らかの低レベルの概念の実体化である。システムをファイルのレベルで[[仮想化]]したことにより、ユーザは既存のファイル管理機能と概念で全てを扱うことができるようになり、操作が大幅に簡略化された。同じパラダイムを拡張して、UNIXはファイルを複数の小さなプログラムで操作する[[パイプ (コンピュータ)|パイプ]]の概念を可能とした。最終的な結果は同じであっても、このような小さなプログラム群を使うことで柔軟性が劇的に向上しただけでなく、開発も利用も容易になった。 UNIXでは、オペレーティングシステムは2つの部分で構成される。さまざまな操作を実行するユーティリティプログラム群とカーネルである<ref name="unix"/>。プログラミングの観点から見ると両者の違いは小さい。カーネルは特権モードで動作するプログラムであり<ref group="注釈" name="supervisor" />、プログラムローダーとしての役割とシステムの残りの部分を構成するユーティリティプログラム群を監督する役割を持つ。そして、それらプログラムに[[ロック (情報工学)|ロック]]と[[入出力]]サービスを提供する。つまり、カーネルはあらゆる場面に介在しているわけではなかった。 その後、計算モデルが変化し、UNIXの何でもファイルで表す手法が常に適用可能な方法ではなくなってきた。[[端末]]はファイルで表せるが(どちらも文字列を読み書きできる)、[[グラフィカルユーザインタフェース|GUI]]はそのように扱うことはできない。[[コンピュータネットワーク]]は別の問題を提起した。ネットワーク経由の通信はファイルアクセスに対応させることができるが、低レベルのパケット指向アーキテクチャはファイルというよりも離散的なデータの塊として扱う必要がある。コンピュータの機能が拡大するにつれ、UNIXのコードは増大していった。それはまた、UNIXカーネルのモジュール性が非常にスケーラブルなためでもあった<ref>[http://www.asymco.com/2010/09/29/unixs-revenge/ Unix’s Revenge by Horace Dediu]</ref>。初期のカーネルのソースは10万[[LOC|行]]ほどだったが、[[Linuxカーネル]]などでは1300万行にもなっている<ref>[http://www.dwheeler.com/essays/linux-kernel-cost.html Linux Kernel 2.6: It's Worth More!], by David A. Wheeler, 2004年10月12日。</ref>。 現代の[[Unix系]]OSは、モノリシックカーネルにモジュールローディング機能を加えたものとなっている。たとえば、[[Linuxカーネル]]を採用した各種[[Linuxディストリビューション]]や、[[BSDの子孫]]である [[FreeBSD]]、[[DragonFly BSD]]、[[OpenBSD]]、[[NetBSD]]、[[macOS]] などがある。 ===Mac OS=== [[Apple]]は1984年、最初の[[Classic Mac OS|Mac OS]]を同社の[[パーソナルコンピュータ]][[Macintosh]]に同梱して発売した。後継の[[macOS]]は[[Darwin (オペレーティングシステム)|Darwin]]をベースとしており、[[Berkeley Software Distribution#4.4BSDと派生|4.4BSD]]ユーザーランドと[[Mach]]カーネルを統合した[[XNU]]と呼ばれるハイブリッドカーネルを採用している<ref>[http://osxbook.com/book/bonus/ancient/whatismacosx/arch_xnu.html XNU: The Kernel]</ref>。 ===Microsoft Windows=== [[Microsoft Windows]]は1985年、[[MS-DOS]]へのアドオンとしてリリースされた。他のOSに依存していたため、[[Microsoft Windows 95|Windows 95]]までのリリースはOSではなく'''オペレーティング環境'''とみなされている。その製品ラインは発展して、[[Windows 9x系]]となり(32ビット化やプリエンプティブ・マルチタスクといった強化を経て)、最終的に2000年に[[Microsoft Windows Millennium Edition|Windows Me]]がリリースされた。マイクロソフトはまた、ハイエンド向けに[[Microsoft Windows NT|Windows NT]] のラインも1993年の [[Microsoft Windows NT 3.1|Windows NT 3.1]]からスタートさせ、こちらは2000年以降も続いている。 2001年10月にリリースされた[[Microsoft Windows XP|Windows XP]]でWindows 9x系を置換して一般ユーザー向けOSが一新された。[[Windows NT系]]のカーネルはWindow ManagerやIPC Managerとクライアント・サーバ型階層型サブシステムモデルを採用しており、ハイブリッドカーネルとみなされている<ref>[http://www.microsoft.com/windows/WinHistoryDesktop.mspx Windows History: Windows Desktop Products History]</ref>。 ===マイクロカーネルの開発=== 汎用マイクロカーネルとしては[[カーネギーメロン大学]]が1985年から1994年まで開発した[[Mach]]が有名だが、特定用途向けにもいくつかのマイクロカーネルが開発された。[[L4マイクロカーネルファミリー|L4]]はマイクロカーネルの性能が悪くないことを実証するために作られた<ref name="l4"/>。ここから派生した新たな実装の Fiasco や Pistachio は[[Linux]]をその上で動作させることができる<ref>[http://os.inf.tu-dresden.de/fiasco/overview.html The Fiasco microkernel - Overview]</ref><ref>[http://www.l4ka.org L4Ka - The L4 microkernel family and friends]</ref>。 [[QNX]]はマイクロカーネル設計を採用した[[リアルタイムオペレーティングシステム]]であり、[[1980年代]]初期に開発され、Machよりもはるかに成功している<ref>[http://www.qnx.com/products/rtos/microkernel.html QNX Realtime Operating System Overview]</ref>。ソフトウェアが不正作動することが致命的な状況で使われることが多く、[[スペースシャトル]]の[[シャトル・リモート・マニピュレータ・システム|ロボットアーム]]の制御やガラスを精密に磨く機械の制御で使われている。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 == {{Refbegin}} * {{Cite web|url= http://www.vmars.tuwien.ac.at/courses/akti12/journal/04ss/article_04ss_Roch.pdf |title=Monolithic kernel vs. Microkernel |accessdate=2006-10-12 |year=2004 |format=PDF |ref=harv|last=Roch |first=Benjamin }} * {{Cite book|ref={{SfnRef|Silberschatz|1991}} |last=Silberschatz |first=Abraham |title=Operating system concepts |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=95329&dl=acm&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618 |edition=3rd |year=1991 |publisher=Addison-Wesley |page=696 |location=[[ボストン|Boston, Massachusetts]] |coauthors=James L. Peterson, Peter B. Galvin |isbn=0-201-51379-X }} * {{Cite book|ref={{SfnRef|Silberschatz|1993}} |last=Silberschatz |first=Abraham |title=Operating system concepts |url= http://dl.acm.org/citation.cfm?id=562353 |edition=4th |year=1993 |publisher=Addison-Wesley |location=[[ボストン|Boston, Massachusetts]] |coauthors=Peter B. Galvin |isbn=0-201-50480-4 }} * {{Cite book|ref=harv|last=Ball |first=Stuart R. |title=Embedded Microprocessor Systems: Real World Designs |edition=first |year=2002 |publisher=Elsevier Science |isbn=0-7506-7534-9 }} * {{Cite journal|last=Denning|first=Peter J.|month = December|year=1976|title=Fault tolerant operating systems|url = http://portal.acm.org/citation.cfm?id=356680&dl=ACM&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618|journal = ACM Computing Surveys|volume =8|issue = 4|pages=359–389|ref=harv|authorlink= ピーター・J・デニング|id={{ISSN|0360-0300}}|doi=10.1145/356678.356680}} * {{Cite journal|last=Denning|first=Peter J.|month=April|year=1980|title=Why not innovations in computer architecture?|url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=859506&coll=&dl=ACM&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618|journal=ACM SIGARCH Computer Architecture News|volume=8|issue=2|pages=4–7|ref=harv|authorlink=ピーター・J・デニング|id=ISSN 0163-5964|doi=10.1145/859504.859506}} * {{Cite journal|last=Hansen|first=Per Brinch|month=April|year=1970|title=The nucleus of a Multiprogramming System|url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=362278&dl=ACM&coll=GUIDE&CFID=11111111&CFTOKEN=2222222|journal=Communications of the ACM|volume=13|issue=4|pages=238–241|ref=harv|id= ISSN 0001-0782|doi=10.1145/362258.362278}} * {{Cite book|ref=harv|last=Hansen |first=Per Brinch |title=Operating System Principles |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=540365 |year=1973 |publisher=Prentice Hall |language= |page=496 |location=Englewood Cliffs |isbn=0-13-637843-9 }} * {{Cite journal|last=Hansen|first= Per Brinch|date = 2001|title = The evolution of operating systems|url = http://brinch-hansen.net/papers/2001b.pdf|accessdate = 2006-10-24|format = PDF|ref=harv}} included in book: {{Cite book|editor=Per Brinch Hansen |title=Classic operating systems: from batch processing to distributed systems |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=360596&dl=ACM&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618 |year=2001|publisher=Springer-Verlag |pages=1–36 |chapter=1 |location= New York, |chapterurl= http://brinch-hansen.net/papers/2001b.pdf |isbn=0-387-95113-X }} * {{Cite journal|last= Härtig|first= Hermann|year=1997|title=The performance of μ-kernel-based systems|url= http://doi.acm.org/10.1145/268998.266660|journal=ACM SIGOPS Operating Systems Review|volume=31|issue=5|pages=66-77|accessdate=2010-06-19|ref={{SfnRef|Härtig|1997}}|coauthors=Michael Hohmuth, Jochen Liedtke, Sebastian Schönberg, Jean Wolter}} * {{Cite journal|last=Levin|first=R.|year=1975|title=Policy/mechanism separation in Hydra|url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=806531&dl=ACM&coll=&CFID=15151515&CFTOKEN=6184618|journal=ACM Symposium on Operating Systems Principles / Proceedings of the fifth ACM symposium on Operating systems principles|volume=9|issue=5|pages=132–140|ref={{SfnRef|Levin|1975}}|doi=10.1145/1067629.806531|coauthors=E. Cohen, W. Corwin, F. Pollack,William Wulf}} * {{Cite book|ref={{SfnRef|Levy|1984}} |author=Levy, Henry M. |title=Capability-based computer systems |url= http://www.cs.washington.edu/homes/levy/capabook/index.html |year=1984 |publisher=Digital Press |pages= |location=Maynard, Mass |oclc= |doi= |isbn=0-932376-22-3 }} * {{Cite journal|last=Liedtke|first=Jochen|date=1995-12|title=On µ-Kernel Construction|url= http://os.ibds.kit.edu/65_1029.php|journal=Proc. 15th ACM Symposium on Operating System Principles (SOSP)|ref=harv}} * {{Cite journal|last=Linden|first=Theodore A.|month = December|year=1976|title=Operating System Structures to Support Security and Reliable Software|url = http://dl.acm.org/citation.cfm?id=356682&coll=&dl=ACM|journal = ACM Computing Surveys|volume =8|issue = 4|pages=409–445|ref=harv|id=ISSN 0360-0300|doi=10.1145/356678.356682}}, {{Cite web|url= http://csrc.nist.gov/publications/history/lind76.pdf |title=Operating System Structures to Support Security and Reliable Software |accessdate=2010-06-19|date= |format=PDF }} * {{Cite journal|last=Schroeder|first=Michael D.|month=March|year=1972|title=A hardware architecture for implementing protection rings|url= http://dl.acm.org/citation.cfm?id=361275&dl=ACM&coll=|journal=Communications of the ACM|volume=15|issue=3|pages=157–170|ref={{SfnRef|Schroeder|1972}}|coauthors=Jerome H. Saltzer|id=ISSN 0001-0782|doi=10.1145/361268.361275}} * {{Cite journal|last=Wulf|first=W.|month=June|year=1974|title=HYDRA: the kernel of a multiprocessor operating system|journal=Communications of the ACM|volume=17|issue=6|pages=337–345|ref={{SfnRef|Wulf|1974}}|coauthors=E. Cohen, W. Corwin, A. Jones, R. Levin, C. Pierson, F. Pollack|id=ISSN 0001-0782|doi=10.1145/355616.364017}} * {{Cite book|ref={{SfnRef|Baiardi|1988}} |last=Baiardi |first=F. |title=Architettura dei Sistemi di Elaborazione, volume 1 |url= http://www.pangloss.it/libro.php?isbn=882042746X&id=4357&PHPSESSID=9da1895b18ed1cda115cf1c7ace9bdf0 |year=1988 |publisher=Franco Angeli |language=Italian |coauthors=A. Tomasi, [http://www.di.unipi.it/~vannesch/ M. Vanneschi] |isbn=88-204-2746-X }} * {{Cite journal|last=Swift|first=Michael M.|month=February|year=2005|title=Improving the reliability of commodity operating systems|url= http://nooks.cs.washington.edu/nooks-tocs.pdf|journal=ACM Transactions on Computer Systems|volume=23|issue=1|pages=77-110|ref={{SfnRef|Swift|2005}}|coauthors=Brian N. Bershad, Henry M. Levy|doi=10.1002/spe.4380201404}} {{Refend}} == 関連文献 == * {{Cite book|last= Tanenbaum |first=Andrew S. |authorlink=アンドリュー・タネンバウム |title=Structured Computer Organization |year=1979 |publisher=Prentice-Hall |location=Englewood Cliffs, New Jersey |isbn=0-13-148521-0}} * [[アンドリュー・タネンバウム|Andrew Tanenbaum]], ''Operating Systems – Design and Implementation (Third edition)''; * Andrew Tanenbaum, ''Modern Operating Systems (Second edition)''; * Daniel P. Bovet, Marco Cesati, ''The Linux Kernel''; * David A. Peterson, Nitin Indurkhya, Patterson, ''Computer Organization and Design'', Morgan Koffman <small>(ISBN 1-55860-428-6)</small>; * B.S. Chalk, ''Computer Organisation and Architecture'', Macmillan P.(ISBN 0-333-64551-0). * {{Cite book|last=Deitel |first=Harvey M. |title=An introduction to operating systems |origyear=1982 |url= http://portal.acm.org/citation.cfm?id=79046&dl=GUIDE&coll=GUIDE |edition=revisited first |year=1984 |publisher=Addison-Wesley |isbn=0-201-14502-2 |page=673}} * Houdek, M. E., Soltis, F. G., and Hoffman, R. L. 1981. ''[http://portal.acm.org/citation.cfm?id=800052.801885 IBM System/38 support for capability-based addressing]''. In Proceedings of the 8th ACM International Symposium on Computer Architecture. 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物性物理学
物性物理学(ぶっせいぶつりがく)は、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から研究する物理学の分野。量子力学や統計力学を理論的基盤とし、その理論部門を物性論(ぶっせいろん)と呼ぶことも多い。これらは日本の物理学界独特の名称であるが、しばしば凝縮系物理学に比定される。狭義には固体物理学を指し、広義には固体物理学(結晶・アモルファス・合金)およびソフトマター物理学・表面物理学・物理化学、プラズマ・流体力学などの周辺分野を含む。 18世紀以前において、物理学は物体の運動や天体の運行など解析学や幾何学によって説明できる分野を中心としていた。これに対して化学は物質の性質をあるがままに、すなわち博物学的に記述することが一般的であった。 18世紀に発展した熱力学は、物質としての気体の性質を巨視的な観点から現象論的に体系づけたものであり、これが物性物理学の基礎となった。19世紀後半になると物質の熱力学特性を、より微視的な立場から体系的に記述する統計力学の考え方が本格的に導入され、現象論に過ぎなかった熱力学に基礎付けがなされた。さらに20世紀前半には量子力学が確立し、固体の結晶構造や化学反応を記述できるようになった。 また最近では高分子や液晶、コロイド等を対象とするソフトマター物理学も物性物理学の一つの分野となっている。ただし、日本において物性論あるいは物性物理学という言葉が使われるようになったのは1940年代以降である。 物性理論は、理論モデルを用いた物質状態の性質の理解と関連する分野である。これには、固体の電子状態モデルの研究、例えば、ドルーデモデル・バンド構造・密度汎関数理論といったものが含まれる。また、相転移の物理の理論モデルの研究(例えば臨界指数の理論やギンツブルグ-ランダウ理論など)や、量子場の理論や繰り込み群に使われる数学的手法を応用するといった分野も発展している。現代的な理論研究は、電子状態の数値計算や、高温超伝導・トポロジカル秩序(英語版)・ゲージ対称性等の現象理解のための数学の利用とも関係している。 物性実験は、実験装置を用いて物質の新しい性質を発見することに関連する分野である。例えば、電磁場を作用させて周波数特性や熱伝導特性、温度を測定したりする。よく用いられる実験手法には、X線や赤外線、非弾性中性子散乱を利用した(広義の)分光法や、熱的応答の研究、つまり比熱や伝導による輸送熱の測定といったものがある。 物性物理学の研究は、様々なデバイスへの応用を生み出した。例えば、トランジスタ、レーザー技術、ナノテクノロジーで研究される様々な現象が挙げられる。走査型トンネル顕微鏡の技法はナノスケールでの制御過程に応用され、ナノリソグラフィという研究分野を生んだ。 量子コンピュータの分野では、情報は量子ビット(またはキュービット)で表される。量子ビットは、計算が終わるより前に素早く量子デコヒーレンスを起こしてしまうかもしれない。この重大な問題は量子コンピュータが実用化される前に解決されなければならない。ジョセフソン接合による量子ビット、磁性体のスピン配向を用いたスピントロニカル量子ビット、分数量子ホール効果状態から得られるトポロジカル非アーベルエニオン等、問題解決のためのいくつかの有望なアプローチが物性物理学の分野から提案されている。 物性物理学は生物物理学の分野にも重要な応用がある。例えば、核磁気共鳴画像法は医療診断の現場で広く使用されている。
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物性物理学(ぶっせいぶつりがく)は、物質のさまざまな巨視的性質を微視的な観点から研究する物理学の分野。量子力学や統計力学を理論的基盤とし、その理論部門を物性論(ぶっせいろん)と呼ぶことも多い。これらは日本の物理学界独特の名称であるが、しばしば凝縮系物理学に比定される。狭義には固体物理学を指し、広義には固体物理学(結晶・アモルファス・合金)およびソフトマター物理学・表面物理学・物理化学、プラズマ・流体力学などの周辺分野を含む。
{{出典の明記|date=2011年6月}} {{物性物理学}} {{物理学}} '''物性物理学'''(ぶっせいぶつりがく)は、[[物質]]のさまざまな[[巨視的]]性質を[[微視的]]な観点から研究する[[物理学]]の分野。[[量子力学]]や[[統計力学]]を理論的基盤とし、その[[理論]]部門を'''物性論'''(ぶっせいろん)と呼ぶことも多い。これらは日本の物理学界独特の名称であるが、しばしば'''凝縮系物理学'''<ref group="注釈">{{lang-en-short|condensed matter physics}}</ref>に比定される。狭義には[[固体物理学]]を指し、広義には固体物理学([[結晶]]・[[アモルファス]]・[[合金]])および[[ソフトマター物理学]]・[[表面物理学]]・[[物理化学]]、[[プラズマ]]・[[流体力学]]などの周辺分野を含む。 == 歴史 == 18世紀以前において、物理学は物体の運動や[[天体]]の運行など[[解析学]]や[[幾何学]]によって説明できる分野を中心としていた。これに対して[[化学]]は[[物質]]の性質をあるがままに、すなわち[[博物学]]的に記述することが一般的であった。 18世紀に発展した[[熱力学]]は、物質としての[[気体]]の性質を巨視的な観点から現象論的に体系づけたものであり、これが物性物理学の基礎となった。19世紀後半になると物質の熱力学特性を、より微視的な立場から体系的に記述する[[統計力学]]の考え方が本格的に導入され、現象論に過ぎなかった熱力学に基礎付けがなされた。さらに20世紀前半には[[量子力学]]が確立し、固体の結晶構造や化学反応を記述できるようになった。 また最近では高分子や液晶、[[コロイド]]等を対象とする[[ソフトマター物理学]]も物性物理学の一つの分野となっている。ただし、日本において物性論あるいは物性物理学という言葉が使われるようになったのは1940年代以降である。 == 理論 == '''物性理論'''は、理論モデルを用いた物質状態の性質の理解と関連する分野である。これには、固体の電子状態モデルの研究、例えば、[[ドルーデモデル]]・[[バンド構造]]・[[密度汎関数理論]]といったものが含まれる。また、[[相転移]]の物理の理論モデルの研究(例えば[[臨界指数]]の理論や[[ギンツブルグ-ランダウ理論]]など)や、[[量子場の理論]]や[[繰り込み群]]に使われる数学的手法を応用するといった分野も発展している。現代的な理論研究は、電子状態の[[数値計算]]や、[[高温超伝導]]・{{仮リンク|トポロジカル秩序|en|Topological order}}・[[ゲージ対称性]]等の現象理解のための数学の利用とも関係している。 == 実験 == '''物性実験'''は、実験装置を用いて物質の新しい性質を発見することに関連する分野である。例えば、[[電磁場]]を作用させて[[周波数特性]]や熱伝導特性、温度を測定したりする<ref name=exptcm>{{cite book|last=Richardson|first=Robert C.|title=Experimental methods in Condensed Matter Physics at Low Temperatures|year=1988|publisher=Addison-Wesley|isbn=978-0-201-15002-5}}</ref>。よく用いられる実験手法には、[[X線]]や[[赤外線]]、[[非弾性中性子散乱]]を利用した(広義の)[[分光法]]や、熱的応答の研究、つまり[[比熱]]や[[熱伝導|伝導]]による輸送熱の測定といったものがある。 == 関連分野 == * [[物理化学]]:気体、[[液体]]の性質を記述する。 * [[固体物理学]]:[[固体]]の性質を記述する。 * [[表面物理学]]:[[表面]]・[[界面]]の性質を記述する。 * [[ソフトマター物理学]]:[[ソフトマター]]の性質を記述する。 == 応用 == <small>[[File:Fullerene Nanogears - GPN-2000-001535.jpg|thumb|right|[[フラーレン]]分子でできた'''ナノ歯車'''のコンピュータ・シミュレーション。ナノ科学の進歩による分子スケールで動く機械の登場が期待されている。]] {{Nanotechnology}}</small> 物性物理学の研究は、様々なデバイスへの応用を生み出した。例えば、[[トランジスタ]]<ref name=marvincohen2008>{{cite journal|last=Cohen|first=Marvin L.|title=Essay: Fifty Years of Condensed Matter Physics|journal=Physical Review Letters|year=2008|volume=101|issue=25|doi=10.1103/PhysRevLett.101.250001|url=http://prl.aps.org/edannounce/PhysRevLett.101.250001|access-date=31 March 2012|bibcode= 2008PhRvL.101y0001C|pmid=19113681|page=250001}}</ref>、[[レーザー]]技術<ref name=NRC1986>{{cite book |title=Condensed-Matter Physics, Physics Through the 1990s|publisher=National Research Council|year=1986|url=http://www.nap.edu/catalog/626/an-overview-physics-through-the-1990s|isbn=978-0-309-03577-4}}</ref>、[[ナノテクノロジー]]<ref name="2010Committee2007">{{cite book|author=Committee on CMMP 2010; Solid State Sciences Committee; Board on Physics and Astronomy; Division on Engineering and Physical Sciences, National Research Council|title=Condensed-Matter and Materials Physics: The Science of the World Around Us|url=http://www.nap.edu/catalog/11967/condensed-matter-and-materials-physics-the-science-of-the-world|date=21 December 2007|publisher=National Academies Press|isbn=978-0-309-13409-5}}</ref>{{rp|111ff}}で研究される様々な現象が挙げられる。[[走査型トンネル顕微鏡]]の技法は[[ナノメートル|ナノスケール]]での制御過程に応用され、[[ナノリソグラフィ]]という研究分野を生んだ<ref name=yeh-perspective>{{cite journal|last=Yeh|first=Nai-Chang|title=A Perspective of Frontiers in Modern Condensed Matter Physics|journal=AAPPS Bulletin|year=2008|volume=18|issue=2|url=https://yehgroup.caltech.edu/files/2016/08/AAPPS_v18_no2_pg11.pdf|access-date=19 June 2018}}</ref>。 [[量子コンピュータ]]の分野では、情報は[[量子ビット]](またはキュービット)で表される。量子ビットは、計算が終わるより前に素早く[[量子デコヒーレンス]]を起こしてしまうかもしれない。この重大な問題は量子コンピュータが実用化される前に解決されなければならない。[[ジョセフソン効果|ジョセフソン接合]]による量子ビット、磁性体の[[スピン角運動量|スピン]]配向を用いた[[スピントロニクス|スピントロニカル]]量子ビット、[[量子ホール効果#分数量子ホール効果|分数量子ホール効果]]状態から得られるトポロジカル非アーベル[[エニオン]]<ref name=yeh-perspective />等、問題解決のためのいくつかの有望なアプローチが物性物理学の分野から提案されている。 物性物理学は[[生物物理学]]の分野にも重要な応用がある。例えば、[[核磁気共鳴画像法]]は医療診断<ref name=yeh-perspective />の現場で広く使用されている。 == 物性論を扱う高等教育機関 == * 日本の[[大学]]では、物性物理学は[[理学部]]の物理学科の一講座として研究がなされることが多い。国立大学では[[京都大学]]理学部の物理学第一教室と[[東京工業大学]]の理学部物理学科・大学院物性物理学専攻、公立大学では[[大阪市立大学]]理学部の物理学教室、私立大学では[[京都産業大学]]理学部物理科学科などがカバーしている。 * また、[[工学部]]の物理工学科、材料工学科、電気電子工学科など、理学部以外で物性物理学を扱っている所も多い。 * かつては、物理第二学科([[東北大学]]、[[名古屋大学]])、物性学科([[広島大学]])として、独立の学科組織を持ったところもあった。 ** [[1963年]]に創設された[[広島大学]]の物性学科は、物性物理学以外に、[[生物物理学]]といった化学との境界領域の研究、教育が行われたが、物理系講座の増加で独立学科としての存在意義を失って学科募集を停止し、講座は物理科学科と化学科([[生物物理化学]]系のみ)に吸収された。 * [[東京大学]]では理学部・工学部・[[教養学部]]の他、[[大学院]][[東京大学大学院新領域創成科学研究科|新領域創成科学研究科]]、[[東京大学物性研究所|物性研究所]]でも物性物理学の研究が行われている。この中で物性研究所は、[[文部省]]と[[科学技術庁]]が[[日本学術会議]]の勧告を元に共同で設立した物性物理学分野の全国共同利用研究所であり、理論・実験の両分野にわたって幅広く教育研究が行われている。この他の全国共同利用研究所では、[[東北大学金属材料研究所]]、[[京都大学基礎物理学研究所]]に物性物理学関連の研究室がある。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} ===注釈=== {{Notelist}} ===出典=== <references/> == 参考文献 == *『電気学会大学講座 物性論』(第二次改訂版)  [[電気学会]] 1983年。 == 関連項目 == * [[誘電体]] * [[磁性体]] * [[プラズマ]] * [[強相関電子系]] == 外部リンク == *[http://div.jps.or.jp/ 日本物理学会 領域Web] *[http://arxiv.org/archive/cond-mat arXiv.org > cond-mat] {{Physics-stub}} {{Physics-footer}} {{Condensed matter physics topics}} <!-- {{半導体}} --> {{DEFAULTSORT:ふつせいふつりかく}} [[Category:物性物理学|*]] [[Category:物理学の分野]] [[Category:物質科学]] [[Category:ナノテクノロジー]] [[Category:量子情報科学]]
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磁性体
磁性体(じせいたい)とは、一般には磁性を帯びることが可能な物質であり、専門的には反磁性体・常磁性体・強磁性体の3つに分けられる。このため、すべての物質が磁性体であるといえるが、通常は強磁性体のみを磁性体と呼ぶ。比較的簡単に磁極が消えたり反転してしまう磁性体は軟質磁性体と呼ばれ、そうでない磁性体は硬質磁性体と呼ばれる。 代表的な磁性体に酸化鉄・酸化クロム・コバルト・フェライト・非酸化金属磁性体(オキサイド)などがある。 固体状態のものは磁石として、電動機の界磁として使用される。 硬質材料の円盤上に磁性粉を塗布あるいは蒸着したものがハードディスクドライブ(のプラッタ)に用いられる。柔軟な合成ゴムにまぜて板状にするとマグネットシートになり、液体にコロイド分散させると磁性流体となる。医療分野では強力な磁力を使ったMRIやごく微弱な磁力を利用するSQUIDの形で実用化されている。新しい情報記憶素子のMRAMなどを含むスピントロニクスと呼ばれる科学研究分野が注目されている。 磁性材料の評価は、磁場を正負の磁場に掃引させることに得られるヒステリシスカーブによる解析が主だが、測定結果は、測定対象物の磁気モーメントの平均値となるので、対象物中の磁気相互作用や保磁力の分布に対する情報は得ることができない。近年では、ナノスケールの磁性材料やナノコンポジット磁石などの研究も盛んになっており、磁気特性を評価するためには、平均化された特性だけでなく、材料中の構成物質間の相互作用などについての評価も重要になってきている。 磁化された磁性体を磁化されていない状態に戻すために必要な反対向きの外部磁場の強度。 飽和磁化は材料固有の磁気物性値で強磁性物質を磁界中に置いて磁界を増加させていくとある磁界以上で磁化が一定となる。この磁化を飽和磁化という。温度の上昇とともに、飽和磁化は減少する。 磁石が持つエネルギーの大きさは、B-H減磁曲線上の磁束密度Bと磁場Hの積に比例する。このBxHの最大値を最大エネルギー積(BH)maxと呼び、kJ/m3(MGOe)で表す。 あらゆる形の磁石には磁化と磁化の大きさに比例する反対方向の磁場(反磁場)Hdが必ず発生する。 この反磁場Hdは下記のように表される。 Hd = -NJ (N : 反磁場係数) このときNは反磁場係数と呼ばれ、磁石(磁性体)の形状によって決まる数値で、反磁場係数Nの代わりに、次式で定義されるパーミアンス係数Pcを使って磁場解析をすることが多い。 Pc = -Bd/Hd 一般的には磁化方向と垂直な断面積が大きいほど、また磁化方向の厚みが薄いほど反磁場Nは大きくなり、逆にパーミアンス係数Pcは小さくなる。 パーミアンス係数Pcと反磁場係数Nの間には、次のような関係が成立つ 。 Pc = (1-N)/N 結晶磁気異方性定数は材料固有の磁気物性値で、磁石特性のひとつである保磁力と関連しており、この定数が大きければ大きいほど保磁力を大きくすることが可能で磁化しやすい結晶軸方向に磁化させるエネルギーと磁化しにくい結晶軸方向に磁化させるエネルギーの差を表す。 着磁済みの磁石は周囲の温度が変化すると、熱エネルギーの関係で磁気特性が変化する。 元の温度に戻ると磁気特性も同じ値に戻る可逆温度変化と温度が戻っても磁気特性が戻らない不可逆温度変化がある。 温度が起因する着磁後の減磁は一般的には不可逆温度変化によるもので、これには初期減磁に起因するものと経時変化に起因するものがある。 可逆温度変化(可逆減磁)、不可逆温度変化(不可逆減磁)については、特にHcjの温度係数に注意する必要があり、磁石形状によるパーミアンス係数も重要な要素になる。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "磁性体(じせいたい)とは、一般には磁性を帯びることが可能な物質であり、専門的には反磁性体・常磁性体・強磁性体の3つに分けられる。このため、すべての物質が磁性体であるといえるが、通常は強磁性体のみを磁性体と呼ぶ。比較的簡単に磁極が消えたり反転してしまう磁性体は軟質磁性体と呼ばれ、そうでない磁性体は硬質磁性体と呼ばれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "代表的な磁性体に酸化鉄・酸化クロム・コバルト・フェライト・非酸化金属磁性体(オキサイド)などがある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "固体状態のものは磁石として、電動機の界磁として使用される。 硬質材料の円盤上に磁性粉を塗布あるいは蒸着したものがハードディスクドライブ(のプラッタ)に用いられる。柔軟な合成ゴムにまぜて板状にするとマグネットシートになり、液体にコロイド分散させると磁性流体となる。医療分野では強力な磁力を使ったMRIやごく微弱な磁力を利用するSQUIDの形で実用化されている。新しい情報記憶素子のMRAMなどを含むスピントロニクスと呼ばれる科学研究分野が注目されている。", "title": null }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "磁性材料の評価は、磁場を正負の磁場に掃引させることに得られるヒステリシスカーブによる解析が主だが、測定結果は、測定対象物の磁気モーメントの平均値となるので、対象物中の磁気相互作用や保磁力の分布に対する情報は得ることができない。近年では、ナノスケールの磁性材料やナノコンポジット磁石などの研究も盛んになっており、磁気特性を評価するためには、平均化された特性だけでなく、材料中の構成物質間の相互作用などについての評価も重要になってきている。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "磁化された磁性体を磁化されていない状態に戻すために必要な反対向きの外部磁場の強度。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "飽和磁化は材料固有の磁気物性値で強磁性物質を磁界中に置いて磁界を増加させていくとある磁界以上で磁化が一定となる。この磁化を飽和磁化という。温度の上昇とともに、飽和磁化は減少する。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "磁石が持つエネルギーの大きさは、B-H減磁曲線上の磁束密度Bと磁場Hの積に比例する。このBxHの最大値を最大エネルギー積(BH)maxと呼び、kJ/m3(MGOe)で表す。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "あらゆる形の磁石には磁化と磁化の大きさに比例する反対方向の磁場(反磁場)Hdが必ず発生する。 この反磁場Hdは下記のように表される。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "Hd = -NJ (N : 反磁場係数)", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "このときNは反磁場係数と呼ばれ、磁石(磁性体)の形状によって決まる数値で、反磁場係数Nの代わりに、次式で定義されるパーミアンス係数Pcを使って磁場解析をすることが多い。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "Pc = -Bd/Hd", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "一般的には磁化方向と垂直な断面積が大きいほど、また磁化方向の厚みが薄いほど反磁場Nは大きくなり、逆にパーミアンス係数Pcは小さくなる。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "パーミアンス係数Pcと反磁場係数Nの間には、次のような関係が成立つ 。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "Pc = (1-N)/N", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "結晶磁気異方性定数は材料固有の磁気物性値で、磁石特性のひとつである保磁力と関連しており、この定数が大きければ大きいほど保磁力を大きくすることが可能で磁化しやすい結晶軸方向に磁化させるエネルギーと磁化しにくい結晶軸方向に磁化させるエネルギーの差を表す。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "着磁済みの磁石は周囲の温度が変化すると、熱エネルギーの関係で磁気特性が変化する。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "元の温度に戻ると磁気特性も同じ値に戻る可逆温度変化と温度が戻っても磁気特性が戻らない不可逆温度変化がある。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "温度が起因する着磁後の減磁は一般的には不可逆温度変化によるもので、これには初期減磁に起因するものと経時変化に起因するものがある。", "title": "磁性体材料の評価" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "可逆温度変化(可逆減磁)、不可逆温度変化(不可逆減磁)については、特にHcjの温度係数に注意する必要があり、磁石形状によるパーミアンス係数も重要な要素になる。", "title": "磁性体材料の評価" } ]
磁性体(じせいたい)とは、一般には磁性を帯びることが可能な物質であり、専門的には反磁性体・常磁性体・強磁性体の3つに分けられる。このため、すべての物質が磁性体であるといえるが、通常は強磁性体のみを磁性体と呼ぶ。比較的簡単に磁極が消えたり反転してしまう磁性体は軟質磁性体と呼ばれ、そうでない磁性体は硬質磁性体と呼ばれる。 代表的な磁性体に酸化鉄・酸化クロム・コバルト・フェライト・非酸化金属磁性体(オキサイド)などがある。 固体状態のものは磁石として、電動機の界磁として使用される。 硬質材料の円盤上に磁性粉を塗布あるいは蒸着したものがハードディスクドライブ(のプラッタ)に用いられる。柔軟な合成ゴムにまぜて板状にするとマグネットシートになり、液体にコロイド分散させると磁性流体となる。医療分野では強力な磁力を使ったMRIやごく微弱な磁力を利用するSQUIDの形で実用化されている。新しい情報記憶素子のMRAMなどを含むスピントロニクスと呼ばれる科学研究分野が注目されている。
'''磁性体'''(じせいたい)とは、一般には[[磁性]]を帯びることが可能な物質であり、専門的には[[反磁性体]]・[[常磁性体]]・[[強磁性体]]の3つに分けられる。このため、すべての物質が磁性体であるといえるが、通常は強磁性体のみを磁性体と呼ぶ。比較的簡単に磁極が消えたり反転してしまう磁性体は[[軟質磁性体]]と呼ばれ、そうでない磁性体は[[硬質磁性体]]と呼ばれる<ref name="したしむ磁性">「したしむ磁性」 [[朝倉書店]] ISBN 4-254-22764-7</ref>。 代表的な磁性体に[[酸化鉄]]・[[酸化クロム]]・[[コバルト]]・[[フェライト (磁性材料)|フェライト]]・非酸化金属磁性体([[オキサイド]])などがある。 [[固体]]状態のものは[[磁石]]として、[[電動機]]の[[界磁]]として使用される。 硬質材料の円盤上に磁性粉を塗布あるいは[[蒸着]]したものが[[ハードディスクドライブ]](の[[プラッタ]])に用いられる。柔軟な[[合成ゴム]]にまぜて板状にするとマグネットシートになり、[[液体]]に[[コロイド|コロイド分散]]させると[[磁性流体]]となる。医療分野では強力な磁力を使った[[核磁気共鳴画像法|MRI]]やごく微弱な磁力を利用する[[超伝導量子干渉計|SQUID]]の形で実用化されている。新しい情報記憶素子の[[MRAM]]などを含む[[スピントロニクス]]と呼ばれる科学研究分野が注目されている。 == 磁性体材料の評価 == 磁性材料の評価は、磁場を正負の磁場に掃引させることに得られる[[ヒステリシスカーブ]]による解析が主だが、測定結果は、測定対象物の[[磁気モーメント]]の平均値となるので、対象物中の磁気相互作用や保磁力の分布に対する情報は得ることができない。近年では、[[ナノスケール]]の磁性材料や[[ナノコンポジット]]磁石などの研究も盛んになっており、磁気特性を評価するためには、平均化された特性だけでなく、材料中の構成物質間の相互作用などについての評価も重要になってきている<ref>[http://www.toyo.co.jp/material/casestudy/detail/id=7003 AGM・VSMの原理・特長と磁性材料の評価]</ref>。 === 保磁力 === {{main|保磁力}} 磁化された磁性体を磁化されていない状態に戻すために必要な反対向きの外部磁場の強度。 === 飽和磁化 === 飽和磁化は材料固有の磁気物性値で強磁性物質を磁界中に置いて磁界を増加させていくとある磁界以上で磁化が一定となる。この磁化を飽和磁化という。温度の上昇とともに、飽和磁化は減少する<ref name="ZZ0523A">[http://www.nedo.go.jp/news/press/ZZ0523A.html 世界初、レアアースレス磁石(強磁性窒化鉄)粉末の単相分離・生成に成功]</ref>。 === 最大エネルギー積 === 磁石が持つエネルギーの大きさは、B-H減磁曲線上の[[磁束密度]]Bと[[磁場]]Hの積に比例する。このBxHの最大値を最大エネルギー積(BH)maxと呼び、kJ/m3(MGOe)で表す<ref>[https://www.neomag.jp/mag_navi/bhcurves/mame_bhcurves_info2.php 最大エネルギー積]</ref>。 === パーミアンス係数 === あらゆる形の磁石には磁化と磁化の大きさに比例する反対方向の磁場(反磁場)Hdが必ず発生する。 この反磁場Hdは下記のように表される<ref name="bhcurves_info3"/>。 Hd = -NJ (N : 反磁場係数) このときNは反磁場係数と呼ばれ、磁石(磁性体)の形状によって決まる数値で、反磁場係数Nの代わりに、次式で定義されるパーミアンス係数Pcを使って磁場解析をすることが多い<ref name="bhcurves_info3"/>。 Pc = -Bd/Hd 一般的には磁化方向と垂直な断面積が大きいほど、また磁化方向の厚みが薄いほど反磁場Nは大きくなり、逆にパーミアンス係数Pcは小さくなる<ref name="bhcurves_info3"/>。 パーミアンス係数Pcと反磁場係数Nの間には、次のような関係が成立つ<ref name="bhcurves_info3">[https://www.neomag.jp/mag_navi/bhcurves/mame_bhcurves_info3.php 最大エネルギー積]</ref> 。 Pc = (1-N)/N === 結晶磁気異方性定数 === 結晶磁気異方性定数は材料固有の磁気物性値で、磁石特性のひとつである[[保磁力]]と関連しており、この定数が大きければ大きいほど保磁力を大きくすることが可能で磁化しやすい結晶軸方向に磁化させるエネルギーと磁化しにくい結晶軸方向に磁化させるエネルギーの差を表す<ref name="ZZ0523A"/>。 === 熱減磁、低温減磁 === 着磁済みの磁石は周囲の温度が変化すると、[[熱エネルギー]]の関係で磁気特性が変化する<ref name="bhcurves_info4"/>。 元の温度に戻ると磁気特性も同じ値に戻る可逆温度変化と温度が戻っても磁気特性が戻らない不可逆温度変化がある<ref name="bhcurves_info4"/>。 温度が起因する着磁後の減磁は一般的には不可逆温度変化によるもので、これには初期減磁に起因するものと経時変化に起因するものがある<ref name="bhcurves_info4"/>。 可逆温度変化(可逆減磁)、不可逆温度変化(不可逆減磁)については、特にHcjの温度係数に注意する必要があり、磁石形状によるパーミアンス係数も重要な要素になる<ref name="bhcurves_info4">[http://www.neomag.jp/mag_navi/bhcurves/mame_bhcurves_info4.php 磁気特性の温度変化(熱減磁、低温減磁)]</ref>。 == 電気機器用磁性材料 == {{出典の明記|section=1|date=2007年8月}} * 圧粉心 ** 純鉄・[[パーマロイ]]・[[センダスト]][[合金]]などの磁性材料を粉砕した後、圧縮形成したもので、粉体間の[[電気抵抗]]が大きく、[[うず電流損]]が小さい。 * [[アモルファス合金]] ** [[変圧器]]の鉄心圧延したものである。 ** 大型回転機に使用される。 *小型電動機用磁性鋼帯 ** 鉄損が大きい。 ** 小型回転機に使用される。 *磁極用鋼帯 ** 機械的強度が大きい。 ** 回転機の回転子に使用される。 *磁気記録用磁性材料 ** [[酸化鉄#酸化物|酸化鉄(III)]]([[赤鉄鉱|ヘマタイト]]) ** クロム酸化鉄(フェリクロム、FeCr) ** コバルト酸化鉄 ** メタル磁性体 ** [[バリウム]]フェライト(BaFe)磁性体 == 出典 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[常磁性]] * [[強磁性]] * [[反強磁性]] * [[フェリ磁性]] * [[スピングラス]] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:しせいたい}} [[Category:磁気]] [[Category:物質]] [[ko:자성체]]
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誘電体
誘電体(ゆうでんたい、英: dielectric)とは、導電性よりも誘電性が優位な物質である。広いバンドギャップを有し、直流電圧に対しては電気を通さない絶縁体としてふるまう。身近に見られる誘電体の例として、多くのプラスチック、セラミックス、雲母(マイカ)、油などがある。 誘電体は電子機器の絶縁材料、コンデンサの電極間挿入材料、半導体素子のゲート絶縁膜などに用いられている。また、高い誘電率を有することは光学材料として極めて重要であり、光ファイバー、レンズの光学コーティング、非線形光学素子などに用いられている。 誘電分極 を参照 誘電率は電界の周波数に依存する。これを誘電分散と呼ぶ。 空間電荷分極と配向分極は緩和型、イオン分極と電子分極は共鳴型の誘電分散を示す。 誘電緩和とは、物質の誘電率の瞬間的な遅れのこと。 通常これは誘電媒質(コンデンサ内部や2つの大きな導体表面間など)の変動電場による分子分極の遅れによって起こる。 変動電場による誘電緩和は、(インダクタや変圧器における)変動磁場によるヒステリシスと同様に考えることができる。 一般的に緩和は線形応答の遅れであるため、誘電緩和は期待された線形定常状態(平衡)誘電率について測定される。 物理学における誘電緩和は、誘電媒質の外部からの振動電場への緩和応答を意味する。 この緩和は誘電率の周波数依存性で記述され、理想系ではデバイ式で表される。 一方で、イオン分極や電子分極についての歪みは共鳴型または振動子型のふるまいを示す。 歪み過程の特性は、試料の構造・組成・環境に依存する。 デバイ緩和とは、外部電場が与えられたときの理想的な相互作用のない双極子集団の誘電緩和応答である。 場の周波数ωを変数とした複素誘電率εで表される。 ここでε∞高周波上限での誘電率、Δε = εs − ε∞、εsは静的な低周波誘電率、τは媒質の緩和時間である。 この緩和モデルは物理学者ピーター・デバイによって1913年に導出された。 誘電体には最も基本的な常誘電体および圧電体・焦電体・強誘電体の全4種類に分類され、以下のような性質を示す。なお、強誘電体はこれら全ての特徴を兼ね備え、焦電体は圧電体・常誘電体の性質も示すなど、右の図のような関係にある。 強誘電体以外の誘電体のことをいう。 応力を加えることにより分極(および電圧)が生じる誘電体を圧電体と呼ぶ。 また、逆に電圧を印加することで応力および変形が生じる。これらの性質は圧電性と呼ばれ、ソナーなどに利用されている。 圧電体のうち、外から電界を与えなくても自発的な分極を有しているものを特に焦電体と呼ぶ。微小な温度変化に応じて誘電分極(およびそれによる起電力)が生じる性質が名称の由来である。この性質は赤外線センサなどに応用されている。 焦電体のうち、これを外部からの電界によって方向を反転させることのできるものを特に強誘電体と呼ぶ。 強誘電体の特徴として、分極が外部電場に対するヒステリシス特性を有することが挙げられる。この特性は不揮発性メモリの1種であるFeRAMに応用されている。 半導体素子の微細化、低消費電力化のために、トランジスタのゲート絶縁膜を薄膜化し、静電容量を大きくすることで高性能化を計ってきたが、量子力学的なトンネル効果等によるリーク電流の増大を招き、デバイスの信頼性を著しく低下させている。薄膜化に代わる静電容量を増大させる方法として、ゲート絶縁膜を従来の誘電率が低いSiO2系材料から高誘電率絶縁膜(High-κ絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な高誘電率絶縁膜としてHfO2系材料などが挙げられる。 同時に半導体素子の微細化は、多層配線間でコンデンサ容量(寄生容量)を形成してしまい、これによる配線遅延が問題になってきている。寄生容量を低減させるために層間絶縁膜を低誘電率絶縁膜(Low-κ絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な低誘電率絶縁膜としてSiOF(酸化シリコンにフッ素を添加したもの)、SiOC(酸化シリコンに炭素を添加したもの)、有機ポリマー系の材料などがある。
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誘電体とは、導電性よりも誘電性が優位な物質である。広いバンドギャップを有し、直流電圧に対しては電気を通さない絶縁体としてふるまう。身近に見られる誘電体の例として、多くのプラスチック、セラミックス、雲母(マイカ)、油などがある。 誘電体は電子機器の絶縁材料、コンデンサの電極間挿入材料、半導体素子のゲート絶縁膜などに用いられている。また、高い誘電率を有することは光学材料として極めて重要であり、光ファイバー、レンズの光学コーティング、非線形光学素子などに用いられている。
'''誘電体'''(ゆうでんたい、{{lang-en-short|dielectric}})とは、導電性よりも誘電性が優位な物質である。広い[[バンドギャップ]]を有し、[[直流]]電圧に対しては[[電気]]を通さない[[絶縁体]]としてふるまう。身近に見られる誘電体の例として、多くの[[プラスチック]]、[[セラミックス]]、[[雲母]](マイカ)、[[油]]などがある。 誘電体は電子機器の絶縁材料、[[コンデンサ]]の電極間挿入材料、[[半導体素子]]のゲート絶縁膜などに用いられている。また、高い誘電率を有することは光学材料として極めて重要であり、[[光ファイバー]]、[[レンズ]]の光学コーティング、[[非線形光学]][[素子]]などに用いられている。 ==誘電分極== '''[[誘電分極]]''' を参照 ==誘電分散== [[誘電率]]は電界の周波数に依存する。これを誘電分散と呼ぶ。 空間電荷分極と配向分極は緩和型、イオン分極と電子分極は共鳴型の誘電分散を示す。 ==誘電緩和== 誘電緩和とは、物質の誘電率の瞬間的な遅れのこと。 通常これは誘電媒質(コンデンサ内部や2つの大きな導体表面間など)の変動電場による分子分極の遅れによって起こる。 変動電場による誘電緩和は、([[インダクタ]]や[[変圧器]]における)変動磁場による[[ヒステリシス]]と同様に考えることができる。 一般的に緩和は[[線形応答]]の遅れであるため、誘電緩和は期待された線形定常状態(平衡)誘電率について測定される。 物理学における誘電緩和は、誘電媒質の外部からの振動電場への緩和応答を意味する。 この緩和は誘電率の周波数依存性で記述され、理想系ではデバイ式で表される。 一方で、イオン分極や電子分極についての歪みは共鳴型または振動子型のふるまいを示す。 歪み過程の特性は、試料の構造・組成・環境に依存する。 ===デバイ緩和=== {{main|デバイ緩和}} デバイ緩和とは、外部電場が与えられたときの理想的な相互作用のない双極子集団の誘電緩和応答である。 場の周波数''ω''を変数とした複素誘電率''ε''で表される。 :<math>\hat{\varepsilon}(\omega) = \varepsilon_{\infty} + \frac{\Delta\varepsilon}{1+i\omega\tau}</math> ここで''ε<sub>∞</sub>''高周波上限での誘電率、{{nowrap|Δ''ε'' {{=}} ''ε<sub>s</sub>'' &minus; ''ε<sub>∞</sub>''}}、''ε<sub>s</sub>''は静的な低周波誘電率、''τ''は媒質の緩和時間である。 この緩和モデルは物理学者[[ピーター・デバイ]]によって1913年に導出された<ref>P. Debye (1913), Ver. Deut. Phys. Gesell. 15, 777; reprinted 1954 in collected papers of Peter J.W. Debye Interscience, New York</ref>。 ===デバイ式の他の表式=== * [[コール・コール式]] *:誘電ロスピークが対称的であるときに用いられる。 * [[コール・ダビッドソン式]] *:誘電ロスピークが非対称的であるときに用いられる。 * [[Havriliak–Negamiの関係]] *:対称的であるときも非対称であるときも考慮されている。 * Kohlrausch–Williams–Watts関数([[引き延ばされた指数関数]]のフーリエ変換) ==誘電体の分類== [[画像:Dielectric.JPG|thumb|200px|誘電体の分類とその関係]]誘電体には最も基本的な常誘電体および圧電体・焦電体・強誘電体の全4種類に分類され、以下のような性質を示す。なお、強誘電体はこれら全ての特徴を兼ね備え、焦電体は圧電体・常誘電体の性質も示すなど、右の図のような関係にある。 ===常誘電体=== 強誘電体以外の誘電体のことをいう<ref>物理測定技術4 電気的測定,朝倉</ref>。 ===圧電体=== [[応力]]を加えることにより分極(および電圧)が生じる誘電体を'''[[圧電効果|圧電体]]'''と呼ぶ。 また、逆に電圧を印加することで[[応力]]および変形が生じる。これらの性質は[[圧電効果|圧電性]]と呼ばれ、[[ソナー]]などに利用されている。 ===焦電体=== 圧電体のうち、外から[[電界]]を与えなくても自発的な分極を有しているものを特に'''[[焦電素子|焦電体]]'''と呼ぶ。微小な温度変化に応じて[[誘電分極]](およびそれによる[[起電力]])が生じる性質が名称の由来である。この性質は[[赤外線]][[センサ]]などに応用されている。 ===強誘電体=== 焦電体のうち、これを外部からの電界によって方向を反転させることのできるものを特に'''[[強誘電体]]'''と呼ぶ。 強誘電体の特徴として、分極が外部電場に対する[[ヒステリシス]]特性を有することが挙げられる。この特性は[[半導体メモリ|不揮発性メモリ]]の1種である[[FeRAM]]に応用されている。 ==高誘電率材料と低誘電率材料== [[半導体素子]]の微細化、低消費電力化のために、[[トランジスタ]]のゲート絶縁膜を薄膜化し、静電容量を大きくすることで高性能化を計ってきたが、[[量子力学]]的な[[トンネル効果]]等による[[リーク電流]]の増大を招き、デバイスの信頼性を著しく低下させている。薄膜化に代わる静電容量を増大させる方法として、ゲート絶縁膜を従来の誘電率が低いSiO<sub>2</sub>系材料から高誘電率絶縁膜({{lang|en|High}}-&kappa;絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な高誘電率絶縁膜としてHfO<sub>2</sub>系材料などが挙げられる。 同時に[[半導体素子]]の微細化は、多層配線間でコンデンサ容量([[寄生容量]])を形成してしまい、これによる配線遅延が問題になってきている。寄生容量を低減させるために層間絶縁膜を低誘電率絶縁膜({{lang|en|Low}}-&kappa;絶縁膜)にする必要性が高まってきている。有望な低誘電率絶縁膜としてSiOF([[酸化]][[シリコン]]に[[フッ素]]を添加したもの)、SiOC(酸化シリコンに[[炭素]]を添加したもの)、有機[[ポリマー]]系の材料などがある。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:ゆうてんたい}} [[Category:誘電体|*]] [[Category:材料]] [[Category:物質]] [[Category:電磁気学]]
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プロセス間通信
プロセス間通信(プロセスかんつうしん、IPC、英: interprocess communication)はコンピュータの動作において、複数プロセス(の複数スレッド)間でデータをやりとりする仕組み。通信プロセスは、同一コンピュータ内で帰結するローカル、ネットワーク接続された別のコンピュータと相互にリモート、などのほかに多様な観点で分類され、スレッド間の通信帯域幅とレイテンシや扱うデータの種類も多種多様である。メッセージパッシング、同期、共有メモリ、RPCなどのメカニズムやプリミティブがある。 プロセス間通信の目的と理由は であり、「スレッド間通信」や「アプリケーション間通信」と呼ぶこともある。 IPCとアドレス空間のコンセプトの組合せは、アドレス空間分離の基盤である。 IPCとして使われているAPIはいくつかある。プラットフォームに依存しない主なAPIの例を挙げる。 以下は、プラットフォーム固有またはプログラミング言語固有のAPIの例である。
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プロセス間通信はコンピュータの動作において、複数プロセス(の複数スレッド)間でデータをやりとりする仕組み。通信プロセスは、同一コンピュータ内で帰結するローカル、ネットワーク接続された別のコンピュータと相互にリモート、などのほかに多様な観点で分類され、スレッド間の通信帯域幅とレイテンシや扱うデータの種類も多種多様である。メッセージパッシング、同期、共有メモリ、RPCなどのメカニズムやプリミティブがある。 プロセス間通信の目的と理由は 情報の共有 計算の高速化 モジュール性の向上 利便性 特権分離 であり、「スレッド間通信」や「アプリケーション間通信」と呼ぶこともある。 IPCとアドレス空間のコンセプトの組合せは、アドレス空間分離の基盤である。
{{出典の明記|date=2021年7月}} '''プロセス間通信'''(プロセスかんつうしん、IPC、{{lang-en-short|interprocess communication}})は[[コンピュータ]]の動作において、複数[[プロセス]](の複数[[スレッド (コンピュータ)|スレッド]])間でデータをやりとりする仕組み。通信プロセスは、同一コンピュータ内で帰結するローカル、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]接続された別のコンピュータと相互にリモート、などのほかに多様な観点で分類され、スレッド間の通信帯域幅と[[レイテンシ]]や扱うデータの種類も多種多様である。[[メッセージ (コンピュータ)|メッセージパッシング]]、[[同期 (計算機科学)|同期]]、[[共有メモリ]]、[[遠隔手続き呼出し|RPC]]などのメカニズムや[[プリミティブ型|プリミティブ]]がある。 プロセス間通信の目的と理由は * 情報の共有 * 計算の高速化 * モジュール性の向上 * 利便性 * {{仮リンク|特権分離|en|Privilege separation}} であり、「スレッド間通信」や「アプリケーション間通信」と呼ぶこともある。 IPCと[[アドレス空間]]のコンセプトの組合せは、アドレス空間分離の基盤である<ref>Jochen Liedtke. ''[http://os.ibds.kit.edu/65_1029.php On µ-Kernel Construction]'', ''Proc. 15th ACM Symposium on Operating System Principles (SOSP)'', December 1995</ref>。 == 主なIPC技法 == {| class="wikitable" ! 技法 !! 提供しているオペレーティングシステムや環境 |- | [[ファイル (コンピュータ)|ファイル]] || 多くの[[オペレーティングシステム|OS]] |- | [[シグナル (Unix)|シグナル]] || 多くのOS。[[Microsoft Windows|Windows]]では[[C言語|C]]の[[ランタイムライブラリ]]でのみ実装しており、IPCとしての利用は推奨していない{{要出典|date=2011年11月}}。 |- | [[メッセージキュー]] || 多くのOS |- | [[ソケット (BSD)|ソケット]] || 多くのOS |- | [[UNIXドメインソケット]] || [[POSIX]]準拠システム |- | [[パイプ (コンピュータ)|パイプ]] || POSIX準拠システム、Windows |- | [[名前付きパイプ]] || POSIX準拠システム、Windows |- | [[セマフォ]] || POSIX準拠システム、Windows |- | [[共有メモリ]] || POSIX準拠システム、Windows |- | [[メモリマップトファイル]] || POSIX準拠システム、Windows |- | [[メッセージ (コンピュータ)|メッセージパッシング]]<br />(shared nothing) || [[Message Passing Interface|MPI]] パラダイム、[[Java Remote Method Invocation|Java RMI]]、[[Common Object Request Broker Architecture|CORBA]]、{{仮リンク|Microsoft Message Queuing|en|Microsoft Message Queuing|label=MSMQ}}, {{仮リンク|MailSlot|en|MailSlot}}、[[QNX]]、その他 |- | Binder || [[Android (オペレーティングシステム)|Android]] |} == 実装例 == IPCとして使われている[[アプリケーションプログラミングインタフェース|API]]はいくつかある。プラットフォームに依存しない主なAPIの例を挙げる。 * {{仮リンク|無名パイプ|en|Anonymous pipe}}と[[名前付きパイプ]] * [[Common Object Request Broker Architecture]] (CORBA) * [[Freedesktop.org]]の[[D-Bus]] * [[Distributed Computing Environment]] (DCE) * メッセージバス (Mbus) - {{IETF RFC|3259}} にて規定 * [[:en:MCAPI|MCAPI]] (Multicore Communications API) * [https://code.google.com/archive/p/lcm Lightweight Communications and Marshalling] (LCM) * [[Open Network Computing Remote Procedure Call|ONC RPC]] * [[UNIXドメインソケット]] * [[Extensible Markup Language|XML]]: [[XML-RPC]] や [[SOAP (プロトコル)|SOAP]] * [[JavaScript Object Notation|JSON]]: [[JSON-RPC]] * [[Apache Thrift|Thrift]] * TIPC{{enlink|TIPC}} * [[:en:ZeroC|ZeroC]]の [[:en:Internet Communications Engine|Internet Communications Engine]] (ICE) 以下は、プラットフォーム固有またはプログラミング言語固有のAPIの例である。 * [[Apple]]の [[Apple event]](従来は Interapplication Communications、IAC と呼ばれていた) * [[:en:ENEA AB|Enea]]の [[:en:LINX (IPC)|LINX]] - Linux向け(オープンソース)と [[Enea OSE]] で動作するバージョンがある。 * [[カーネギーメロン大学|CMU]]によるIPC実装<ref>{{Cite web|url= http://www.cs.cmu.edu/~ipc/ |title=Inter Process Communication (IPC) |publisher=[[カーネギーメロン大学|CMU]] |accessdate=2012-10-04}}</ref> * [[Java]]の [[Java Remote Method Invocation|Remote Method Invocation]] (RMI) * [[KDE]]の [[DCOP|Desktop Communications Protocol]] (DCOP) * [[:en:Libt2n|Libt2n]] - Linux上の[[C++]]でのみ動作。複雑なオブジェクトや例外を扱える。 * [[Mach|Machカーネル]]の Mach ポート * [[マイクロソフト]]の [[ActiveX]]、[[Component Object Model]] (COM)、[[Microsoft Transaction Server]] ([[Component Object Model|COM+]])、[[Distributed Component Object Model]] (DCOM)、[[動的データ交換]] (DDE)、[[Object Linking and Embedding]] (OLE)、{{仮リンク|匿名パイプ|en|Anonymous pipe}}、[[名前付きパイプ]]、{{仮リンク|Local Procedure Call|en|Local Procedure Call}}、{{仮リンク|MailSlot|en|MailSlot}}、{{仮リンク|メッセージループ (Windows)|en|Message loop in Microsoft Windows|label=メッセージループ}}、{{仮リンク|Microsoft RPC|en|Microsoft RPC|label=MSRPC}}、[[.NET Remoting]]、[[Windows Communication Foundation]] (WCF) * [[ノベル (企業)|ノベル]]の [[IPX/SPX|SPX]] * [[PHP (プログラミング言語)|PHP]]のセッション * [[POSIX]]: [[mmap]]、[[メッセージキュー]]、[[セマフォ]]、[[共有メモリ]] * [[RISC OS]]のメッセージ * [[Solaris]] [[:en:Doors (computing)|Doors]] * [[UNIX System V|System V]]: [[メッセージキュー]]、[[セマフォ]]、[[共有メモリ]] * [[:en:Distributed Ruby|Distributed Ruby]] * [[:en:Distributed Inter-Process Communication|DIPC]] (Distributed Inter-Process Communication) - Linux上で [[UNIX System V|System V]] 系IPCをネットワークにまで拡張する仕組み * [[:en:OpenBinder|OpenBinder]] - [[BeOS]]が起源で、最近では[[Android (オペレーティングシステム)|Android]]で使われている。 * [[:en:Solace systems|Solace Systems]] の IPC Shared Memory Messaging<ref>[http://www.solacesystems.com/solutions/messaging-middleware/ipc-shared-memory-messaging IPC Shared Memory Messaging]</ref> * [[QNX]]のPPS (Persistant Publish/Subscribe) サービス * [[:en:SIMPL|SIMPL]] (Synchronous Interprocess Messaging Project for [[Linux]]) - [[QNX]]風IPCをLinuxに実装するプロジェクト == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[W・リチャード・スティーヴンス|Stevens, Richard]]. ''UNIX Network Programming, Volume 2, Second Edition: Interprocess Communications.'' Prentice Hall, 1999. ISBN 0-13-081081-9 * U. Ramachandran, M. Solomon, M. Vernon ''[http://dl.acm.org/citation.cfm?id=30371&coll=portal&dl=ACM Hardware support for interprocess communication]'' Proceedings of the 14th annual international symposium on Computer architecture. Pittsburgh, Pennsylvania, United States. Pages: 178 - 188. Year of Publication: 1987 ISBN 0-8186-0776-9 * Crovella, M. Bianchini, R. LeBlanc, T. Markatos, E. Wisniewski, R. ''[http://ieeexplore.ieee.org/xpls/abs_all.jsp?arnumber=242738 Using communication-to-computation ratio in parallel program designand performance prediction]'' 1–4 December 1992. pp.&nbsp;238–245 ISBN 0-8186-3200-3 == 関連項目 == * [[Communicating Sequential Processes]] (CSP) * [[Data Distribution Service]] (DDS) * [[マイクロカーネル]] == 外部リンク == * [http://www.wlug.org.nz/ipc(5) Linux ipc(5) man page] - System V IPC の解説 * [http://msdn.microsoft.com/en-us/library/aa365574(VS.85).aspx Windows IPC] * [http://beej.us/guide/bgipc/ Beej's Guide to Unix IPC] * [http://www.yendor.com/programming/unix/unp/unp.html Unix Network Programming (Vol 2: Interprocess Communications)] by W. Richard Stevens [[Category:OSのプロセス管理|ふろせすかんつうしん]] [[Category:プロセス間通信|*]]
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モノリシックカーネル
モノリシックカーネル(monolithic kernel、一枚岩(モノリス)のような、一体のカーネルの意)とは、オペレーティングシステム(以下、OSと略記)におけるカーネルの構造、および設計思想を指す。「入出力機能やネットワーク機能、デバイスのサポートなどOSの一般的な機能」をカーネルと同一のメモリ空間に実装・実行する手法を言う。 代表的なモノリシックカーネルOSとしては、古典的なUNIXとその派生OSがあげられる。 モノリス(monolith)とは「一枚岩」の意であり、モノリシック(monolithic)とは「一枚板の」という形容詞である。「モノシリックカーネル」は誤り。 OSの構成要素を単一のメモリ空間で実行するモノリシックカーネルに対し、OSを構成する幾つかの要素・機能をカーネル空間から切り離し、外部モジュール化するなどで実装する手法をマイクロカーネルと呼ぶ。 モノリシックカーネルの設計思想および概念それ自体は旧来より存在するが、モノリシックカーネルというタームの成立は、このマイクロカーネルという概念・実装の登場(による対概念として要請され、命名されたこと)による(レトロニム)。 モノリシックカーネル方式は、より近代的な設計手法とされるマイクロカーネル方式のOSに比べ、OSの機能のほとんどすべてが単一のメモリ空間で行なわれるゆえ、同一の処理を行う際に費やされるコンテキストスイッチやプロセス間通信などによるオーバーヘッドは相対的に少ないものとなり、実効パフォーマンスにおいて有利であるといった見解がある。実際にプロセッサの動作クロックが数MHz - 数十MHz程度に留まっていた時代には、乱発されるコンテキストスイッチなどの実行コストの問題は深刻なものであった。1980年代にデビューした商用UNIXは、そのほとんどがモノリシックカーネル方式を採用している。 しかし、プロセッサの処理速度は20世紀末から21世紀初頭にかけて長足の進歩を遂げた。また、マイクロカーネル側の実装における高速化技法の進展、必要に応じて一部パフォーマンスを要求されるサブシステムのみカーネル空間に取り込む実装も登場し、モノリシックカーネルのパフォーマンスにおける原理上の優位性は小さくなった。 2005年現在では、純然たるモノリシックカーネル方式で開発する利点は少ないとする意見に収束して来ている。しかし、同等の機能を実装した場合にその原理上実行時の(コンピュータのメモリ上の)OSカーネルのフットプリントを比較的小さなものに留めておきやすいこと、ノンプリエンプティブ (non-preemptive) 制約を付加すれば、サービス実装を行う時に考慮するべきことが減り、開発が楽になることなどが利点として挙げられる。 一方、モノリシックなカーネルにさまざまな機能を取り込むことで巨大化することによる欠点・弊害としては、OSの機能を動的に切り替えたり更新したりすることが(マイクロカーネルと比較した場合に)困難なものになりやすいことなどが挙げられる。 研究開発の世界では、カーネルの機能を最小限にとどめるマイクロカーネルが主流になった1990年代当初、モノリシックカーネルは時代遅れとされてきた。しかし、実装レベルでの差が動作上の致命的な設計問題であるはずもなく、現在では必要な機能を必要な性能レベルで提供できれば問題ないという形での議論終結が図られている。 Solaris / HP-UX / AIXや日本の国産UNIXの系統も全てモノリシックカーネルを基礎とするカーネルを使用している。また、x86系PCでのUNIX互換機能提供を目指して作られたLinuxでは基本的にモノリシックカーネルを採用しているが、実行時に読み込むカーネルモジュールを設けるなど、実行時の柔軟性を高めている。 Windows NTは、当初よりマイクロカーネル方式での実装を模索していたが、オーバーヘッドを削減するためにNT 4.0でWindowsサブシステムとグラフィクスデバイスドライバがカーネル空間から直接見える様に修正された。さらにWindows 2000以降では、ハードウェア管理機能の一部をマイクロカーネル直轄のモジュールとしての外部モジュールからカーネル制御部本体による制御方式に切り替えており、純粋なマイクロカーネルから外れた実装になっている。NT4.0では800キロバイト弱だったNTOSKRNL(Windows NT系のカーネルシステム)のフットプリントは、Windows XPでは2メガバイト強にまで肥大している(但しWindows Vistaにおいては、動作の安定性やシステム全体の堅牢性に対する配慮から一部「先祖返り」を起こしている)。 マイクロカーネルとしての構造は依然残されているため、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの折衷をとったハイブリッドカーネルとでも呼ぶべき実装になっている。 またMachから派生したmacOSも、BSDサブシステムやファイルシステム、ネットワークなどをカーネル空間に統合しており、純粋なマイクロカーネルから離れた実装になっている。Windowsと同様、マイクロカーネルとモノリシックカーネル両方の利点を活かした設計である。 モノリシックカーネルとマイクロカーネルについては、Linuxの作者リーナス・トーバルズとMINIX(ミニックス)の作者アンドリュー・タネンバウムの1992年の論争が有名である。
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モノリシックカーネルとは、オペレーティングシステム(以下、OSと略記)におけるカーネルの構造、および設計思想を指す。「入出力機能やネットワーク機能、デバイスのサポートなどOSの一般的な機能」をカーネルと同一のメモリ空間に実装・実行する手法を言う。 代表的なモノリシックカーネルOSとしては、古典的なUNIXとその派生OSがあげられる。 モノリス(monolith)とは「一枚岩」の意であり、モノリシック(monolithic)とは「一枚板の」という形容詞である。「モノシリックカーネル」は誤り。
{{脚注の不足|date=2021-08-20 11:27(UTC)}} [[Image:Kernel-monolithic.svg|thumb|250px|モノリシックカーネルの概念図]] '''モノリシックカーネル'''({{En|monolithic kernel}}、一枚岩([[モノリス]])のような、一体の[[カーネル]]の意)とは、[[オペレーティングシステム]](以下、OSと略記)におけるカーネルの構造、および設計思想を指す。「[[入出力]]機能や[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]機能、[[デバイス]]のサポートなどOSの一般的な機能」をカーネルと同一のメモリ空間に実装・実行する手法を言う。 代表的なモノリシックカーネルOSとしては、古典的な[[UNIX]]と[[Unix系|その派生OS]]があげられる。 [[モノリス]](monolith)とは「一枚岩」の意であり、モノリシック(monolithic)とは「一枚板の」という形容詞である。「モノシリックカーネル」は誤り。 ==モノリシックカーネルとマイクロカーネル== OSの構成要素を単一のメモリ空間で実行するモノリシックカーネルに対し、OSを構成する幾つかの要素・機能をカーネル空間から切り離し、外部モジュール化するなどで実装する手法を[[マイクロカーネル]]と呼ぶ。 モノリシックカーネルの設計思想および概念それ自体は旧来より存在するが、モノリシックカーネルというタームの成立は、このマイクロカーネルという概念・実装の登場(による対概念として要請され、命名されたこと)による([[レトロニム]])。 == カーネル実装方式とその議論 == モノリシックカーネル方式は、より近代的な設計手法とされる[[マイクロカーネル]]方式のOSに比べ、OSの機能のほとんどすべてが単一の[[記憶装置|メモリ]]空間で行なわれるゆえ、同一の処理を行う際に費やされる[[コンテキストスイッチ]]や[[プロセス間通信]]などによる[[オーバーヘッド]]は相対的に少ないものとなり、実効パフォーマンスにおいて有利であるといった見解がある。実際にプロセッサの動作クロックが数MHz - 数十MHz程度に留まっていた時代には、乱発されるコンテキストスイッチなどの実行コストの問題は深刻なものであった。[[1980年代]]にデビューした商用[[UNIX]]は、そのほとんどがモノリシックカーネル方式を採用している。 しかし、プロセッサの処理速度は20世紀末から21世紀初頭にかけて長足の進歩を遂げた。また、マイクロカーネル側の実装における高速化技法の進展、必要に応じて一部パフォーマンスを要求されるサブシステムのみカーネル空間に取り込む実装も登場し、モノリシックカーネルのパフォーマンスにおける原理上の優位性は小さくなった。 {{要出典|date = 2015年1月|範囲 = 2005年現在では、純然たるモノリシックカーネル方式で開発する利点は少ないとする意見に収束して来ている}}。しかし、同等の機能を実装した場合にその原理上実行時の(コンピュータのメモリ上の)OSカーネルのフットプリントを比較的小さなものに留めておきやすいこと、[[ノンプリエンプティブ]] ([[:en:non-preemptive|non-preemptive]]) 制約を付加すれば、サービス実装を行う時に考慮するべきことが減り、開発が楽になることなどが利点として挙げられる。 一方、モノリシックなカーネルにさまざまな機能を取り込むことで巨大化することによる欠点・弊害としては、OSの機能を動的に切り替えたり更新したりすることが(マイクロカーネルと比較した場合に)困難なものになりやすいことなどが挙げられる。 研究開発の世界では、カーネルの機能を最小限にとどめる[[マイクロカーネル]]が主流になった[[1990年代]]当初、モノリシックカーネルは時代遅れとされてきた。しかし、実装レベルでの差が動作上の致命的な設計問題であるはずもなく、現在では必要な機能を必要な性能レベルで提供できれば問題ないという形での議論終結が図られている。 [[Solaris]] / [[HP-UX]] / [[AIX]]や日本の国産UNIXの系統も全てモノリシックカーネルを基礎とするカーネルを使用している。また、[[x86]]系PCでのUNIX互換機能提供を目指して作られた[[Linux]]<ref>初期のLinuxは、モジュールとなるコードをオブジェクトファイルの形でカーネルから分離することができる。ただし、カーネル側に受け皿となるインターフェースがモジュール毎に用意されている必要がある。現在はモジュールのインターフェースに対する抽象化が行われ、モジュールをカーネルの構築状態に依存することなく追加できる。</ref>では基本的にモノリシックカーネルを採用しているが、実行時に読み込む[[カーネルモジュール]]を設けるなど、実行時の柔軟性を高めている。 [[Microsoft Windows NT|Windows NT]]は、当初よりマイクロカーネル方式での実装を模索していたが、オーバーヘッドを削減するためにNT 4.0でWindowsサブシステムとグラフィクスデバイスドライバがカーネル空間から直接見える様に修正された。さらに[[Microsoft Windows 2000|Windows 2000]]以降では、ハードウェア管理機能の一部をマイクロカーネル直轄のモジュールとしての外部モジュールからカーネル制御部本体による制御方式に切り替えており、純粋なマイクロカーネルから外れた実装になっている。NT4.0では800キロバイト弱だったNTOSKRNL([[Windows NT系]]のカーネルシステム)のフットプリントは、Windows XPでは2メガバイト強にまで肥大している(但し[[Microsoft Windows Vista|Windows Vista]]においては、動作の安定性やシステム全体の堅牢性に対する配慮から一部「先祖返り」を起こしている)。 マイクロカーネルとしての構造は依然残されているため、マイクロカーネルとモノリシックカーネルの折衷をとった[[ハイブリッドカーネル]]とでも呼ぶべき実装になっている。 また[[Mach]]から派生した[[macOS]]も、BSDサブシステムやファイルシステム、[[コンピュータネットワーク|ネットワーク]]などをカーネル空間に統合しており、純粋なマイクロカーネルから離れた実装になっている。Windowsと同様、マイクロカーネルとモノリシックカーネル両方の利点を活かした設計である。 ==有名な論争== {{Main|アンドリュー・タネンバウムとリーナス・トーバルズの議論}} モノリシックカーネルとマイクロカーネルについては、Linuxの作者[[リーナス・トーバルズ]]と[[MINIX]](ミニックス)の作者[[アンドリュー・タネンバウム]]の[[1992年]]の論争が有名である。 == モノリシックカーネルの採用例 == *[[Linuxカーネル]] *[[Classic Mac OS]](8.6まで。以降はナノカーネル) *[[MS-DOS]] *[[OpenVMS]] *[[UNIX]]カーネル *[[Windows 9x系]] ([[Microsoft Windows 95|Windows 95]] / [[Microsoft Windows 98|98]] / [[Microsoft Windows Millennium Edition|Me]]) * [[IBM i]] == 脚注 == <references /> ==外部リンク== * [https://www.oreilly.com/openbook/opensources/book/appa.html Linux is obsolete](英語) - リーナス・トーバルズとアンドリュー・タネンバウムの論争 * [https://www.oreilly.co.jp/BOOK/osp/OpenSource_Web_Version/appen_A/appen_A.html ディベート:リナックスは時代遅れだ] {{オペレーティングシステム}} {{デフォルトソート:ものりしつくかあねる}} [[Category:OSのカーネル]]
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大瀧詠一
大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年〈昭和23年〉7月28日 - 2013年〈平成25年〉12月30日)は、日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。 岩手県江刺郡梁川村(のちの江刺市、現在の奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から遠野。中学生時代には遠野から釜石)。 小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。 そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聞いていた。特にクレージーキャッツの植木等が歌う「スーダラ節」には非常に影響を受けたとされる。 1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドでドラムを担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。 1967年に上京、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという。同年夏に、布谷文夫と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。 1968年に早稲田大学第二文学部に入学。布谷を通じて交友があった中田佳彦から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。 「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「はっぴいえんど」に改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。 はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。 この頃、1972年発売の山下達郎の自主制作アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を偶然耳にした伊藤銀次が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。 1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。 1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。 『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。 1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には安堵したという。 1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。 1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売上が低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。 1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月シングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。 プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、1985年には小林旭の「熱き心に」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃のアイドル的人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「実年行進曲」を作曲・編曲、五万節のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。 1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。 1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニー・レコードのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、さくらももこの依頼により、『ちびまる子ちゃん』のアニメ主題歌を作曲。渡辺満里奈の『うれしい予感』で7年ぶりに作曲家として復帰する。 そして1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌として制作されたこの曲はミリオンセラーを達成。当時『大滝詠一のオールナイトニッポンDX』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、市川実和子のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。 2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。 2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。 2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていた。 2005年、とんねるずの新曲の企画が立ち上がり、作詞に糸井重里を起用した『ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) 』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる。この曲の制作にあたり、2005年12月12日に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている。 2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。 2013年12月30日 17時50分頃、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁福生警察署などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)。65歳没。 突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、桑野信義らが追悼のコメントを発表した。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている。 2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「夢で逢えたら」が流され、柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。 3月21日の「EACH TIME」発売を前に、3月19日からは過去音源のiTunes Storeにおける一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていたシリア・ポールによる「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「LET'S ONDO AGAIN」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている。 お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、チアノーゼも起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は看護師だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。 死後約1年経った2014年12月3日には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイム・ベスト『Best Always』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『Niagara CD Book II』も遅れて2015年3月21日に発売された。 2020年10月1日からは、出身地に近い東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線水沢江刺駅において、「君は天然色」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている。 2021年3月21日、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲のサブスクリプションを解禁。またYouTubeでは「君は天然色」のミュージック・ビデオが3月3日12:00に公開された。これは「A LONG VACATION」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた永井博によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの依田伸隆が担当した。 2023年10月25日にリリースされた松田聖子のベストアルバム『Bible -milky blue-』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせるエディットを施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された。 1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、ノベルティタイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。 以上の経緯から「渋谷系のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。 発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「ミュージック・ステディ」の大滝詠一特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を予定している」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。 また、他者への提供曲のセルフカバーを発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。 当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、沢田研二の「あの娘にご用心」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。 それ以外ではスラップスティックの「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「恋するカレン」としてセルフカバーされている。 「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に太田裕美への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「木綿のハンカチーフ」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。 「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で稲垣潤一に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。 「夢で逢えたら」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。 自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。 松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「FUN」より)。 デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」。恐らくはデモをガッチリ作るとそれに満足してしまうからと敢えて鼻唄メロディーのデモを製作すると思われる。 なお、『A LONG VACATION』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルでアン・ルイスに書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。 独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧がフォーク時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、ジョニ・ミッチェルの「チェルシーの朝 (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。 ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。 だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、音頭を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは1973年に伊藤銀次から薦められた中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。 その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR』収録)、「ビックリハウス音頭」、片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や角川博の「うさぎ温泉音頭」、更に金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」(編曲: 萩原哲晶)のプロデュース等がある。 1973年から1979年まではレコーディング・エンジニア、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子をもじったもの。 また、1974年にははちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク) / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。 福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。 その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。 過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては吉田保を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『幸せな結末』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。 テレビ嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、1983年3月24日の「笑っていいとも」への電話出演や、1986年10月15日放映の第6回日本作曲大賞に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「佐野元春のザ・ソングライターズ」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。 ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半-1990年代前半は自宅にビデオデッキが20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に大相撲中継を好んでいたが、テレビドラマに関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「ラブジェネレーション (1997年)」だった。その後、宮藤官九郎作品にはまっていたという。 メディア出演はほぼラジオに限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、1984年から2011年まで山下達郎と行なっていた新春放談。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。 諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。 大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。 ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、CMソングをミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。 また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系等への影響を指摘する声もある。 ※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『LET'S ONDO AGAIN』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。 娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家でバート・バカラック研究家の坂口修。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "大瀧 詠一、大滝 詠一(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、1948年〈昭和23年〉7月28日 - 2013年〈平成25年〉12月30日)は、日本のミュージシャン。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "岩手県江刺郡梁川村(のちの江刺市、現在の奥州市)生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から遠野。中学生時代には遠野から釜石)。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "小学5年の夏、親戚の家で聴いたコニー・フランシスの「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 (FEN) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、エルヴィス・プレスリーやビーチ・ボーイズなどの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "そのため、1962年夏から1966年までにチャートインした曲はすべて覚えているというほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には小林旭や三橋美智也なども好んで聞いていた。特にクレージーキャッツの植木等が歌う「スーダラ節」には非常に影響を受けたとされる。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1964年、岩手県立花巻北高等学校に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、岩手県立釜石南高等学校(現:岩手県立釜石高等学校)に編入。入学直前、FENでビートルズを知り、以降リバプール・サウンド全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドでドラムを担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある鉄の歴史館館長を務める佐々木諭がいた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "1967年に上京、小岩の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で退職。その数日前、船橋ヘルスセンターで会社の慰安会があり、余興でビートルズの「ガール」をアカペラで歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという。同年夏に、布谷文夫と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "1968年に早稲田大学第二文学部に入学。布谷を通じて交友があった中田佳彦から細野晴臣を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が\"腕試し\"としてヤングブラッズの「ゲット・トゥゲザー」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。1969年、細野が参加していたバンド「エイプリル・フール」の解散直前に、細野と松本隆によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「はっぴいえんど」に改名し、アルバム『はっぴいえんど』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会(日本語ロック論争)に参加。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "はっぴいえんど活動中の1971年にソロ活動を開始し、アルバム『大瀧詠一』(1972年)を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例であるCMソングの制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "この頃、1972年発売の山下達郎の自主制作アルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を偶然耳にした伊藤銀次が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "1974年9月には自らが作詞・作曲・編曲・プロデュース・エンジニア・原盤制作・原盤管理などをこなすプライベートレーベル「ナイアガラ・レーベル」を設立し、エレックレコードと契約。翌1975年にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『NIAGARA MOON』を発表。また、ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)で、DJをつとめる番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "1976年、日本コロムビアにナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルのマルチトラックレコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』『GO! GO! NIAGARA』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。1977年の『NIAGARA CALENDAR』はチャート入りさえしなかった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "1978年の『LET'S ONDO AGAIN』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、1980年にコロムビア主導で『TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA』が発売された時には安堵したという。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1979年からプロデュース業を手掛け、翌1980年にプロデュースの仕事で出入りすることが多かったCBS・ソニーに移籍。旧友である松本隆と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「さらばシベリア鉄道」を太田裕美に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1981年3月に『A LONG VACATION』を発表。当初は売上が低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた西城秀樹のアルバム「ポップンガール・ヒデキ」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)1983年まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの松田聖子の シングル『風立ちぬ』で初のチャート1位を記録。うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。森進一の『冬のリヴィエラ』では歌謡曲の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1984年のアルバム『EACH TIME』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。1985年6月のはっぴいえんど再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月シングルカットした「フィヨルドの少女」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、1985年には小林旭の「熱き心に」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃のアイドル的人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「実年行進曲」を作曲・編曲、五万節のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた萩原哲晶の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1980年代後期以降、ナイアガラレコードの旧譜のリマスタリングや、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、1983年に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、1991年にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1988年に小泉今日子に提供した『快盗ルビイ』以降作曲から遠ざかっていたが、1994年からソニー・レコードのOo Recordsに取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、さくらももこの依頼により、『ちびまる子ちゃん』のアニメ主題歌を作曲。渡辺満里奈の『うれしい予感』で7年ぶりに作曲家として復帰する。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "そして1997年には12年ぶりとなる新曲『幸せな結末』を発表。月9ドラマ『ラブジェネレーション』の主題歌として制作されたこの曲はミリオンセラーを達成。当時『大滝詠一のオールナイトニッポンDX』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、市川実和子のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "2000年代に入ると再び旧譜のリマスタリング、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "2003年には6年ぶりのシングル『恋するふたり』を発表。月9ドラマ『東京ラブ・シネマ』主題歌としてヒットする。また、竹内まりやのアルバム『Longtime Favorites』でフランク・シナトラ & ナンシー・シナトラの「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) をデュエット。これらが最後の作品発表となった。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "2004年末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。2005年から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。2014年3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命であるイギリスのポップス伝に移行するものと目されていた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "2005年、とんねるずの新曲の企画が立ち上がり、作詞に糸井重里を起用した『ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) 』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる。この曲の制作にあたり、2005年12月12日に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "2011年3月11日に起きた東日本大震災後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "2013年12月30日 17時50分頃、東京都西多摩郡瑞穂町の自宅で家族と夕食後のデザートにリンゴを食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁福生警察署などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという。救急隊がかけつけた時は既に心肺停止状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された。死因は解離性動脈瘤とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)。65歳没。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、吉田美奈子、桑野信義らが追悼のコメントを発表した。また長年の盟友だった松本隆は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「さらばシベリア鉄道」にかけた追悼の辞を捧げている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "2014年1月4日、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「夢で逢えたら」が流され、柩ははっぴいえんどメンバーだった松本隆、鈴木茂、細野晴臣の3人らによって抱えられた。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった3月21日に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "3月21日の「EACH TIME」発売を前に、3月19日からは過去音源のiTunes Storeにおける一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていたシリア・ポールによる「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「LET'S ONDO AGAIN」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、チアノーゼも起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は看護師だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "死後約1年経った2014年12月3日には生前に山下達郎へ構想を語っていたオールタイム・ベスト『Best Always』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『Niagara CD Book II』も遅れて2015年3月21日に発売された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "2020年10月1日からは、出身地に近い東日本旅客鉄道(JR東日本)東北新幹線水沢江刺駅において、「君は天然色」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "2021年3月21日、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲のサブスクリプションを解禁。またYouTubeでは「君は天然色」のミュージック・ビデオが3月3日12:00に公開された。これは「A LONG VACATION」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた永井博によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの依田伸隆が担当した。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "2023年10月25日にリリースされた松田聖子のベストアルバム『Bible -milky blue-』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせるエディットを施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された。", "title": "生涯" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "1950年代から1970年代にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスのリバプールサウンド、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、ノベルティタイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの剽窃ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話(山下達郎がしばしばラジオでする話)や伊藤銀次がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "以上の経緯から「渋谷系のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「ミュージック・ステディ」の大滝詠一特集で「1988年に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、1989年に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、1991年にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。1994年には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、2000年に『ナイアガラトライアングルVol.5』、2001年に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を予定している」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "また、他者への提供曲のセルフカバーを発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、沢田研二の「あの娘にご用心」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "それ以外ではスラップスティックの「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「恋するカレン」としてセルフカバーされている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に太田裕美への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「木綿のハンカチーフ」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で稲垣潤一に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "「夢で逢えたら」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "松任谷正隆曰く、今田耕司を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「FUN」より)。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」。恐らくはデモをガッチリ作るとそれに満足してしまうからと敢えて鼻唄メロディーのデモを製作すると思われる。 なお、『A LONG VACATION』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルでアン・ルイスに書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧がフォーク時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、ジョニ・ミッチェルの「チェルシーの朝 (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特にメレンゲ(ドミニカ共和国のダンスミュージック)(英語版)は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズのガンボミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。細野晴臣に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、音頭を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは1973年に伊藤銀次から薦められた中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『NIAGARA CALENDAR』収録)、「ビックリハウス音頭」、片岡鶴太郎の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や角川博の「うさぎ温泉音頭」、更に金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」(編曲: 萩原哲晶)のプロデュース等がある。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "1973年から1979年まではレコーディング・エンジニア、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は吉野金次、伊藤銀次と来て次は「銅次」だということで、笛吹童子をもじったもの。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "また、1974年にははちみつぱい唯一のシングル盤「君と旅行鞄(トランク) / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、2000年代以降はラジオ番組をリマスタリングするようになり、2004年には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては吉田保を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『幸せな結末』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "テレビ嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、1983年3月24日の「笑っていいとも」への電話出演や、1986年10月15日放映の第6回日本作曲大賞に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「佐野元春のザ・ソングライターズ」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、1980年代後半-1990年代前半は自宅にビデオデッキが20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に大相撲中継を好んでいたが、テレビドラマに関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「ラブジェネレーション (1997年)」だった。その後、宮藤官九郎作品にはまっていたという。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "メディア出演はほぼラジオに限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、1984年から2011年まで山下達郎と行なっていた新春放談。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強をライフワークとしているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに近田春夫がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧はラジオ放送をメインの発表の場としている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、CMソングをミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、渋谷系等への影響を指摘する声もある。", "title": "人物・作風" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『LET'S ONDO AGAIN』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。", "title": "ディスコグラフィ" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家でバート・バカラック研究家の坂口修。", "title": "家族・姻戚" } ]
大瀧 詠一、大滝 詠一は、日本のミュージシャン。 シンガーソングライター、作曲家、アレンジャー、音楽プロデューサー、レコードレーベルのオーナー、ラジオDJ、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、著述家、元Oo Records取締役など、多くの顔を持つ。
{{otheruses||[[スタジオ・アルバム|アルバム]]|大瀧詠一 (アルバム)}} {{複数の問題|ソートキー=人2013年没 | 独自研究 = 2008年3月22日 (土) 04:02 (UTC) }} {{画像提供依頼|近影写真|date=2018-10-25|cat=人物}} {{Infobox Musician <!--プロジェクト:音楽家を参照--> | 名前 = 大瀧 詠一 | 画像 = | 画像説明 = | 画像サイズ = <!-- サイズが幅250ピクセルに満たない場合のみ記入 --> | 画像補正 = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 --> | 背景色 = maker<!-- singer/group/bandなど --> | 出生名 = 大瀧 榮一 | 別名 = [[#主な別名・変名|別記]]を参照 | 出生 = {{生年月日|1948|7|28}} | 出身地 = {{JPN1947}}・[[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](現・[[奥州市]][[江刺市|江刺]]梁川) | 死没 = {{死亡年月日と没年齢|1948|7|28|2013|12|30}}<ref name="asahi131231">{{Cite news |title=大瀧詠一さん急死 65歳 「幸せな結末」などヒット曲 |newspaper=[[朝日新聞|朝日新聞デジタル]] |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html |archiveurl=https://archive.is/20131231152541/http://www.asahi.com/articles/ASF0TKY201312310018.html |archivedate=2013年12月31日 |accessdate=2014-01-02 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref><ref name="nikkei131231">{{Cite news |title=歌手の大滝詠一さん急死 65歳、「君は天然色」 |newspaper=[[日本経済新聞]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31008_R31C13A2000000/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101015953/http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG31008_R31C13A2000000/ |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref name="sponichi131231">{{Cite news |title=大滝詠一さん急死 65歳 達郎、聖子プロデュース「幸せな結末」が大ヒット |newspaper=[[スポーツニッポン|スポニチAnnex]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/31/kiji/K20131231007299560.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102022344/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2013/12/31/kiji/K20131231007299560.html |archivedate=2014-01-02 |accessdate=2014-01-02}}</ref><ref name="nikkansports131231">{{Cite news |title=大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に|newspaper=[[日刊スポーツ]](インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |author= |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140102031206/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238243.html |archivedate=2014-01-02 |accessdate=2014-01-02}}</ref> | 学歴 = [[早稲田大学第二文学部]]中退<ref name="nichigai">{{Cite book |author1=細川周平 |author2=片山杜秀 |和書 |title=日本の作曲家: 近現代音楽人名事典 |publisher=[[日外アソシエーツ]] |year=2008 |isbn=4-8169-2119-2 |page=134 }}</ref> | ジャンル = {{Hlist-comma|[[J-POP]]<ref>{{Cite web|和書|title=大滝詠一(オオタキエイイチ)の情報まとめ |url=https://okmusic.jp/%E5%A4%A7%E6%BB%9D%E8%A9%A0%E4%B8%80 |website=OKMusic |publisher=ジャパンミュージックネットワーク株式会社 |accessdate=2021-05-27 }}</ref>|[[シティ・ポップ]]<ref>{{Cite web|和書|author=栗本斉 |title=シティ・ポップス NOW & THEN |url=https://www.billboard-japan.com/special/detail/808 |website=[[Billboard JAPAN]] |publisher=[[阪神コンテンツリンク]] |accessdate=2021-05-27 }}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=松永尚久 |title=当時の“シティポップ”は、人間の鳴らす楽器だけで高い完成度を実現した。 ──原田夏樹が語る、大滝詠一の世代を超えた影響力。 |url=https://www.pen-online.jp/article/007722.html |website=[[Pen (雑誌)|Pen Online]] |publisher=[[CCCメディアハウス]] |date=2021-03-30 |accessdate=2021-03-30 }}</ref>}} | 職業 = {{Hlist-comma|[[シンガーソングライター]]|[[音楽プロデューサー]]}} | 担当楽器 = {{Hlist-comma|[[ボーカル]]|[[ギター]]}} | 活動期間 = [[1969年]] - [[2013年]] | レーベル = {{Hlist-comma|[[キングレコード]]|[[ナイアガラ・レーベル|ナイアガラ]]/[[エレックレコード|エレック]]|[[日本コロムビア]]|[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBSソニー]]}} | 事務所 = ザ・ナイアガラ・エンタープライズ | 共同作業者 = [[はっぴいえんど]](1969年 - 1972年) | 公式サイト = [http://www.fussa45.net/ 大瀧詠一 アミーゴ・ガレージ] | 著名使用楽器 = }} '''大瀧 詠一'''、'''大滝 詠一'''(おおたき えいいち、本名:大瀧 榮一、[[1948年]]〈[[昭和]]23年〉[[7月28日]] - [[2013年]]〈[[平成]]25年〉[[12月30日]]<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>)は、[[日本]]の[[音楽家|ミュージシャン]]。 [[シンガーソングライター]]、[[作曲家]]、[[編曲家|アレンジャー]]、[[音楽プロデューサー]]、[[レコードレーベル]]のオーナー、ラジオ[[ディスクジョッキー|DJ]]、[[レコーディング・エンジニア]]、[[マスタリング・エンジニア]]、[[著述家]]、元[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]取締役など、多くの顔を持つ。 == 生涯 == === 生い立ちと学生時代 === [[岩手県]][[江刺郡]][[梁川村 (岩手県)|梁川村]](のちの[[江刺市]]、現在の[[奥州市]])生まれ。母子家庭で育ち、母親が公立学校の教師だったため、小学校・中学校でそれぞれ転校を経験している(小学生の頃には江刺から[[遠野市|遠野]]。中学生時代には遠野から[[釜石市|釜石]])。 小学5年の夏、親戚の家で聴いた[[コニー・フランシス]]の「カラーに口紅」(Lipstick On Your Collar) に衝撃を受けて以降、アメリカンポップスに傾倒。中学入学後ラジオクラブに入り、ラジオを自作し、米軍極東放送 ([[AFN|FEN]]) やニッポン放送の番組を聴くようになる。間もなくレコード収集を始め、[[エルヴィス・プレスリー]]や[[ビーチ・ボーイズ]]などの音楽を分析的に聴くようになり、独自の研究を深める。 そのため、[[1962年]]夏から[[1966年]]までにチャートインした曲はすべて覚えている<ref group="注">時期的には中学2年から高校3年の期間に当たる。レコード屋に入り浸り、レコード屋の店員より音楽に詳しいことから助言をしていた。そのおかげで買えないレコードも全部聴けていたという。</ref>というほど精通している。洋楽面のみで語られがちだが、同時期には[[小林旭]]や[[三橋美智也]]なども好んで聞いていた。特に[[ハナ肇とクレージーキャッツ|クレージーキャッツ]]の[[植木等]]が歌う「[[スーダラ節]]」には非常に影響を受けたとされる。 [[1964年]]、[[岩手県立花巻北高等学校]]に入学。下宿で一人暮らしをするが、学費を全部レコードにつぎ込んでいたために学費未納により1年で退学させられ、[[岩手県立釜石南高等学校]](現:[[岩手県立釜石高等学校]])に編入。入学直前、FENで[[ビートルズ]]を知り、以降[[リバプール・サウンド]]全般を買いまくっていた。釜石南高編入後、初めてバンドを組む。「スプレンダーズ」というバンドで[[ドラマー|ドラム]]を担当。本来ならコミックバンドをやりたかったが同志が見つからず、やむなくビートルズタイプのバンドを組んだ。メンバーには現在釜石市にある[[釜石市立鉄の歴史館|鉄の歴史館]]館長を務める佐々木諭がいた。 [[1967年]]に上京、[[小岩]]の製鉄会社に就職するも、出社約20日、在籍期間3ヶ月で[[退職#自己都合退職|退職]]。その数日前、[[船橋ヘルスセンター]]で会社の慰安会があり、余興でビートルズの「[[ガール (ビートルズの曲)|ガール]]」を[[アカペラ]]で歌ったところ、上司から「うん、キミはこういう所にいるべき人間ではない」と諭されたという<ref>『総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史』</ref>。同年夏に、[[布谷文夫]]と知り合い「タブー」というバンドを結成。ドラムを担当していたが、同年末に解散。 [[1968年]]に[[早稲田大学第二文学部]]に入学<ref name="nichigai" />。布谷を通じて交友があった中田佳彦<ref group="注">[[中田喜直]]の甥で、[[はっぴいえんど]]にもかかわりが深かった人物。</ref>から[[細野晴臣]]を紹介されて意気投合。なお両者の初対面は細野の家に大瀧が招かれる形で行われた。その際、細野が"腕試し"として[[ヤングブラッズ (1960年代のバンド)|ヤングブラッズ]]の「[[ゲット・トゥゲザー (1964年の曲)|ゲット・トゥゲザー]]」(シングル盤)を見えるように置いておいた。部屋に入りしなの大瀧がそれに気付き「おっゲット・トゥゲザー」と言い、細野を感心させた。その後、大瀧・中田・細野の3人で定期的にポップスの研究会を開く。[[1969年]]、細野が参加していたバンド「[[エイプリル・フール (バンド)|エイプリル・フール]]」の解散直前に、細野と[[松本隆]]によって計画されていた新バンドに加入を要請され受諾。 === 1970年代 === 「ヴァレンタイン・ブルー」は翌1970年「[[はっぴいえんど]]」に改名し、アルバム『[[はっぴいえんど (アルバム)|はっぴいえんど]]』でデビュー。この時期、「新宿プレイマップ」での座談会([[日本語ロック論争]])に参加。 はっぴいえんど活動中の[[1971年]]にソロ活動を開始し、アルバム『[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]』([[1972年]])を発表。はっぴいえんど解散後はソロ活動に移行せず、当時のシンガーソングライターとしては異例である[[コマーシャルソング|CMソング]]の制作と、ごまのはえ、布谷文夫など若手のプロデュースを始める。 この頃、1972年発売の[[山下達郎]]の自主制作アルバム『[[ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY]]』を偶然耳にした[[伊藤銀次]]が大瀧宅に『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を持参し、アルバムを聞いて山下のボーカルを耳にした大瀧はアルバムに連絡先が記載されていたので連絡を取り山下を自宅に招く。アメリカのポップス好きという共通の趣味を持つことから意気投合し、「はっぴいえんどの解散コンサートでコーラスを手伝ってもらえないか?」と依頼したことが山下がプロデビューする切っ掛けとなる。伊藤銀次が山下の自主制作アルバムを大瀧宅に持参したことが切っ掛けだったが、最終的に山下達郎のプロデビューの切っ掛けは大瀧との出会いであることから山下達郎を見出だした人物といえる。その後山下との交流は大瀧が他界する2013年まで続いた。 [[1974年]]9月には自らが[[作詞]]・[[作曲]]・[[編曲]]・[[プロデューサー|プロデュース]]・[[エンジニア]]・[[マスタリング#原盤制作|原盤制作]]・[[音楽出版|原盤管理]]などをこなすプライベートレーベル「[[ナイアガラレコード|ナイアガラ・レーベル]]」を設立し、[[エレックレコード (オリジナル)|エレックレコード]]と契約。翌[[1975年]]にははっぴいえんど解散後初となるソロアルバム『[[NIAGARA MOON]]』を発表。また、ラジオ関東(現在の[[アール・エフ・ラジオ日本]])で、DJをつとめる番組『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』を開始し、学生層のコアなファンを獲得するなど、精力的にソロ活動を開始するが、その矢先、エレックレコードが事業縮小し、契約破棄される。 [[1976年]]、[[日本コロムビア]]にナイアガラごと移籍。その際の契約は福生45スタジオに当時最新鋭の16チャンネルの[[マルチトラック]]レコーダーを提供してもらう代わりに、3年でアルバム12枚を製作するという内容だった。後に「3年間何処にも出ないでスタジオにこもりっきりだった」、「3年間での激務は笛吹銅次(エンジニアとして別名)のエンジニアで、歌を作ったり詞を書くのは得意ですが、エンジニアは素人ですから」とコロムビア所属のハードな契約を結んだ3年間を振り返っている。 『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はヒットを記録<ref>『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』『[[GO! GO! NIAGARA]]』についてはゴールデン・ディスクとしてコロムビアからヒット賞を受けており、『NIAGARA CM SPECIAL Vol.1』はチャート入りしている</ref>したものの、趣味性の強すぎる楽曲が災いして以降作品の完成度と裏腹に売上が低迷。[[1977年]]の『[[NIAGARA CALENDAR]]』はチャート入りさえしなかった。 [[1978年]]の『[[LET'S ONDO AGAIN]]』を最後にコロムビアとの契約を解消。福生45スタジオの機材も売却。ナイアガラレコードも休業状態に陥る。以降レコードの販売権の契約が残っている2年間の間、ソロ作が発表できない状況に陥る。この年にはアルバムを3作しか作っておらず、本来ならばもう1枚作らないといけない契約になっていたための自主規制であり、[[1980年]]にコロムビア主導で『[[TATSURO YAMASHITA FROM NIAGARA]]』が発売された時には安堵したという。 === 1980年代前期 === [[1979年]]からプロデュース業を手掛け、翌[[1980年]]にプロデュースの仕事で出入りすることが多かった[[ソニー・ミュージックレコーズ|CBS・ソニー]]に移籍。旧友である[[松本隆]]と組んで、ナイアガラサウンドの集大成となる作品のレコーディングに取り掛かる。このレコーディングの最中に、女性向きと考えた「[[さらばシベリア鉄道]]」を[[太田裕美]]に提供。同曲は大瀧の曲で初めてのヒットシングルになった。 [[1981年]]3月に『[[A LONG VACATION]]』を発表。当初は売上が低迷していたが、徐々にセールスを伸ばし、夏にはチャート2位を記録。「[[第23回日本レコード大賞]]・ベストアルバム賞」を受賞。同年7月にリリースされた[[西城秀樹]]のアルバム「[[ポップンガール・ヒデキ]]」に収録されている「スポーツ・ガール」「ロンサム・シティー」を提供。(作詞は松本隆)[[1983年]]まで精力的に楽曲提供・プロデュースを続け、松本とコンビでの[[松田聖子]]の シングル『[[風立ちぬ (松田聖子の曲)|風立ちぬ]]』で初のチャート1位を記録。[[うなずきトリオ]]のシングル「うなずきマーチ」では大滝作詞曲で初のチャート入りを果たすなど、多くのアイドルソング・コミックソングを手掛け一躍名声が高まる。[[森進一]]の『[[冬のリヴィエラ]]』では[[歌謡曲]]の王道路線歌手の幅を拡げるポップス楽曲を提供し歌手の新たな側面を開拓。 [[1984年]]のアルバム『[[EACH TIME]]』制作時に、いわゆる「曲が出なくなる」状態に陥ったことや、独自のポップス音楽の歴史を研究する中で、オリジナル作品をコンスタントに発表していく意味を見いだせなくなった大滝はこのアルバムを持って音楽制作活動の休止を決断。[[1985年]]6月の[[はっぴいえんど]]再結成ライブが最後のライブへの出演となり、同年11月[[シングルカット]]した「[[フィヨルドの少女/バチェラー・ガール|フィヨルドの少女]]」を最後に1997年まで新譜発表は途絶えた。 === 1980年代後期 - 1990年代 === プロデューサー・作曲家としては80年代後半も引き続き活動、[[1985年]]には[[小林旭]]の「[[熱き心に]]」では、ポップス王道楽曲提供により、旧知のリスナーには往年のマイトガイの活躍を再び思い起こさせ、また小林の若かりし頃のアイドル的人気を知らない若いリスナーにも小林という存在を知らしめた。翌年には自身が少年期からのファンであるクレージーキャッツの30周年記念作を手掛け、新曲「[[実年行進曲]]」を作曲・編曲、[[五万節]]のリメイク「新五万節」を編曲(クレジットでは編々曲)した。クレージーキャッツの楽曲を数多く手掛けた[[萩原哲晶]]の愛好家でもある大瀧は萩原に敬意を表して、彼の名前を「原編曲」としてクレジットし、「実年行進曲」と「新五万節」に過去の楽曲のフレーズを挿入している。 [[1980年代]]後期以降、ナイアガラレコードの旧譜の[[リマスタリング]]や、大瀧が影響を受けた先人の音源復刻「LEGENDARY REMASTER SERIES」の監修やライナー執筆、ラジオの特別番組のDJなどを手掛ける。また、1979年から本格的に取り組み始めたポップス史の研究は、[[1983年]]に「分母分子論」としてその一端が明らかにされていたが、[[1991年]]にはそれを更に発展させた「普動説」として結実させている。 [[1988年]]に[[小泉今日子]]に提供した『[[快盗ルビイ (曲)|快盗ルビイ]]』以降作曲から遠ざかっていたが、[[1994年]]からソニー・レコードの[[ダブル・オーレコード|Oo Records]]に取締役兼プロデューサーとして参加。翌年、[[さくらももこ]]の依頼により、『[[ちびまる子ちゃん]]』のアニメ主題歌を作曲。[[渡辺満里奈]]の『[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]』で7年ぶりに作曲家として復帰する。 そして[[1997年]]には12年ぶりとなる新曲『[[幸せな結末]]』を発表。[[フジテレビ月曜9時枠の連続ドラマ|月9ドラマ]]『[[ラブジェネレーション]]』の主題歌として制作されたこの曲は[[ミリオンセラー]]を達成。当時『[[オールナイトニッポンDX|大滝詠一のオールナイトニッポンDX]]』にて1985年からの12年間について「引退していた」と語った。ちょくちょく楽曲提供やプロデュース業はしていたので、歌手としては引退していたと言う事になる。『幸せな結末』に続き、[[市川実和子]]のシングル「ポップスター」のプロデュースも手掛ける。 === 2000年代 - 2010年代 === [[2000年代]]に入ると再び旧譜の[[リマスタリング]]、音源復刻監修を再開。また昔の自分のラジオ番組をリマスターして再放送したり、昔の自分のラジオ番組の新シリーズを開始するなど、独自の試みを行うようになった。 [[2003年]]には6年ぶりのシングル『[[恋するふたり (大滝詠一の曲)|恋するふたり]]』を発表。月9ドラマ『[[東京ラブ・シネマ]]』主題歌としてヒットする。また、[[竹内まりや]]のアルバム『[[Longtime Favorites]]』で[[フランク・シナトラ]] & [[ナンシー・シナトラ]]の「恋のひとこと」(SOMETHING STUPID) を[[デュエット]]。これらが最後の作品発表となった。 [[2004年]]末には自宅にマスタリング用の器材を導入、福生45スタジオが復活。[[2005年]]から最後のリマスターとしてナイアガラ旧譜の30周年アニバーサリー盤の発表を順次開始。[[2014年]]3月には最終作となる「EACH TIME」の発表を控えていた。またラジオ『[[大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝]]』も佳境にさしかかっており、2014年春もしくは夏に完結し、本命である[[イギリス]]のポップス伝に移行するものと目されていた。 [[2005年]]、[[とんねるず]]の新曲の企画が立ち上がり、作詞に[[糸井重里]]を起用した『[[大滝詠一_NOVELTY_SONG_BOOK/NIAGARA_ONDO_BOOK#収録曲_2|ゆうがたフレンド (USEFUL SONG) ]]』が制作されたが、とんねるずサイドが希望していたイメージと相違したことから未発表となる<ref>{{Cite news |title=とんねるず」石橋貴明、大瀧詠一さんが作曲した「とんねるず」の幻の曲を明かす「多分、大瀧さんの家のライブラリーにあります」 |newspaper=スポーツ報知|date=2020-09-02 |url=https://hochi.news/articles/20200902-OHT1T50036.html |accessdate=2023-04-29}}</ref>。この曲の制作にあたり、[[2005年]][[12月12日]]に本人による歌唱も録音されており、これが大瀧最後の公式歌唱レコーディング音源となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakahisakatsu/20230330-00343069|title=大滝詠一 日本ポップス界の巨人の尽きない探究心、好奇心が結実した“ノベルティ・ソング”【前編】|accessdate=2022-04-29}}</ref>。 [[2011年]][[3月11日]]に起きた[[東日本大震災]]後には、地元の同級生に電話を掛けて安否確認をする等、震災にあった地元に思いを寄せ続け、被災者となった同級生にサインを入れた自身のCDを贈っている。 === 65歳での急死 === [[2013年]][[12月30日]] 17時50分頃<ref>{{Cite news |title=ミュージシャンの大瀧詠一さん死去、65歳 |newspaper=[[TBSテレビ|TBS]] News i (インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31 |url=https://web.archive.org/web/20140102235114/http://news.tbs.co.jp/20131231/newseye/tbs_newseye2093139.html |accessdate=2014-01-02}}</ref>、[[東京都]][[西多摩郡]][[瑞穂町]]の自宅で家族と夕食後のデザートに[[リンゴ]]を食べている時に倒れ、救急搬送された。警視庁[[福生警察署]]などによると、家族は「リンゴを食べていてのどに詰まらせた」と説明していたという<ref>{{Cite news |title=〈速報〉大滝詠一さん急死 リンゴ食べている時に |newspaper=朝日新聞デジタル(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2013-12-31 |url=http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101074229/http://www.asahi.com/and_M/interest/entertainment/NIK201312310074.html |archivedate=2014-01-01 |accessdate=2014-01-02}}</ref>。救急隊がかけつけた時は既に[[心肺停止]]状態であり、病院に搬送後19時頃に死亡が確認された<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。死因は[[動脈瘤|解離性動脈瘤]]とされた(報道では発症部位など詳細については発表されていない)<ref name="asahi131231"/><ref name="nikkei131231"/><ref name="sponichi131231"/><ref name="nikkansports131231"/>。{{没年齢|1948|7|28|2013|12|30}}。 突然の訃報は音楽関係者に大きな衝撃を与え、[[佐野元春]]<ref>{{Cite news|title=佐野元春「ひとつの大きな星を失った」|newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2013-12-31|url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101102239/http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131231-1238284.html|archivedate=2014年1月1日|accessdate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>、[[山下達郎]]<ref>{{Cite web |url=http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140101220017/http://www.tatsuro.co.jp/news/ |archivedate=2014-01-01 |title=NEWS/TOP|publisher=山下達郎 OFFCIAL WEB SITE([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ) |accessdate=2014-01-05}}</ref>、[[大貫妙子]]、[[吉田美奈子]]<ref>{{Cite web |url=http://www.la-la-bells.com/well.html |title=well|publisher=YOSHIDA MINAKO official web site |date=2014-01-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140719220608/http://la-la-bells.com/well.html |archivedate=2014-07-19 |accessdate=2014-11-12}}</ref>、[[桑野信義]]らが追悼のコメントを発表した<ref>{{Cite news|title=大瀧詠一さん音楽仲間ら追悼 佐野元春「日本の音楽界はひとつの大きな星を失った」|newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]]|url=http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|date=2013-12-31|accessdate=2014-01-05|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140105112053/http://www.oricon.co.jp/news/2032625/full|archivedate=2014-01-05|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。また長年の盟友だった[[松本隆]]は自身のTwitterにて「北へ還る十二月の旅人よ」と大瀧の曲「[[さらばシベリア鉄道]]」にかけた追悼の辞を捧げている<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419377483574550529}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。 [[2014年]][[1月4日]]、都内で葬儀が営まれ、約100人の関係者が参列した。式場には未発表である自身の声による「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」が流され、[[柩]]ははっぴいえんどメンバーだった[[松本隆]]、[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]、[[細野晴臣]]の3人らによって抱えられた<ref>{{Twitter status|takashi_mtmt|419375696025096192}} 2014年1月3日閲覧。</ref>。また、多くのスタッフ・関係者からの要望により、「A LONG VACATION」の発売日で、最期のアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日でもあった[[3月21日]]に「お別れの会」が執り行われ、一般参列者向けの献花台も設けられた<ref>{{Cite news |title=大滝詠一さん葬儀に細野晴臣ら100人参列 |newspaper=日刊スポーツ(インターネット・アーカイブのキャッシュ) |date=2014-01-05 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-01-05}}</ref><ref>{{Cite news |title=大滝詠一を偲ぶ<お別れ会>開催。鈴木茂「大滝さんとの対話は幸せな時間だった」 |newspaper=BARKS |date=2014-03-21 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101692 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。 3月21日の「EACH TIME」発売を前に、[[3月19日]]からは過去音源の[[iTunes Store]]における一斉配信がスタートし、その中には廃盤になり入手困難となっていた[[シリア・ポール]]による「夢で逢えたら」のカバーや単独でCD販売されていなかった「DEBUT」、30周年リイシューから除外された「[[LET'S ONDO AGAIN]]」といった貴重な音源も含まれている。ただし周年CD化記念時のボーナス・トラック類は除外され、オリジナル収録曲のみの内容となっている<ref>{{Cite news |title=大滝詠一、不朽の名作がiTunesで |newspaper=BARKS |date=2014-03-19 |url=https://www.barks.jp/news/?id=1000101577 |accessdate=2014-03-21}}</ref>。 お別れ会の場で、妻から最期の言葉が「ママありがとう」だったことが明かされ、直後に意識を失い、[[チアノーゼ]]も起こしていたという。救急隊の到着まで心臓マッサージを続けた(妻は[[日本の看護師|看護師]]だった)が、意識を取り戻すことがなくそのまま死亡したと臨終の状況が明かされている<ref>{{Cite news |url=https://www.oricon.co.jp/news/2035450/full/ |title=大瀧詠一さん、死去直前に妻に感謝の言葉 “最期の日”も仕事していた |newspaper=[[オリコン|ORICON STYLE]] |date=2014-03-21 |accessdate=2023-04-27}}</ref>。続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした<ref>{{Cite news |url=https://kogotokoub.exblog.jp/22989787/|title= 一周忌で想う、大瀧詠一と“お笑い”のこと-KAWADE夢ムック、などより。|date=2014-12-30 |accessdate=2014-12-30}}</ref>。 === 死後 === 死後約1年経った[[2014年]][[12月3日]]には生前に山下達郎へ構想を語っていた[[オールタイム・ベスト]]『[[Best Always]]』が発売。これには大瀧が密かにレコーディングしていた「夢で逢えたら」のセルフカバーが収録。大瀧の歌声による「新作」が発売されるのは実に11年ぶりとなった。また、発売が望まれていた『[[Niagara CD Book II]]』も遅れて[[2015年]][[3月21日]]に発売された<ref>{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/10/14/kiji/K20141014009099250.html |title=大滝詠一さん遺品の中に幻の音源…本人が歌う「夢で逢えたら」 |newspaper=[[スポーツニッポン]] |date=2014-10-14 |accessdate=2014-10-14}}</ref>。 [[2020年]][[10月1日]]からは、出身地に近い[[東日本旅客鉄道]](JR東日本)[[東北新幹線]][[水沢江刺駅]]において、「[[君は天然色]]」をアレンジしたものが発車メロディとして使用されている<ref>{{Cite news |url=https://www.city.oshu.iwate.jp/site/mayor/35377.html |title=定例記者会見(令和2年9月9日) |newspaper=[[奥州市]]公式ホームページ |date=2020-09-09 |accessdate=2010-10-01}}</ref><ref>{{Cite news |url=https://www.iwate-np.co.jp/article/2020/10/1/85635 |title=大滝サウンド 出発進行 新幹線水沢江刺駅発車メロディー |newspaper=[[岩手日報]] |date=2020-10-01 |accessdate=2010-10-01|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201002152753/https://www.iwate-np.co.jp/article/2020/10/1/85635|archivedate=2020-10-02}}</ref>。 [[2021年]][[3月21日]]、ナイアガラ・レーベルにおけるソロ名義の全楽曲の[[サブスクリプション]]を解禁<ref>{{Cite web|和書|title=大滝詠一の全楽曲サブスク解禁(コメントあり)|url=https://natalie.mu/music/news/418492|website=音楽ナタリー|accessdate=2021-03-07|language=ja|first=Natasha|last=Inc}}</ref>。また[[YouTube]]では「[[君は天然色]]」の[[ミュージック・ビデオ]]が3月3日12:00に公開された。これは「[[A LONG VACATION]]」のリリース40周年を記念して制作された同曲初のMV作品。同アルバムのジャケットを手掛けた[[永井博 (イラストレーター)|永井博]]によるイラストが立体的に表現された映像で構成されており、制作は大滝の大ファンであるアニメ映像ディレクターの[[依田伸隆]]が担当した。 [[2023年]][[10月25日]]にリリースされた松田聖子のベストアルバム『[[Bible -milky blue-]]』に「風立ちぬ(duet version)」が収録された。この音源は1981年に松田が同曲をレコーディングした際に立ち会った大瀧が遊び心で、松田の歌唱と自身の歌唱を繋ぎ合わせる[[編集|エディット]]を施しデュエットソングに仕立てたものである。永らく表に出すことのない音源であったが、大瀧の没後10年という節目に解禁された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/SeikoMatsuda/info/555478|title=松田聖子ベスト盤「Bible」シリーズ新作:秘蔵音源「風立ちぬ(duet version)/大滝詠一×松田聖子」初収録の完全生産限定アナログ盤、2023年10月25日(水)発売決定! 数々のヒット曲満載のCDも同時発売!|website=ソニーミュージック|publisher=ソニー・ミュージックエンタテインメント|data=2023-09-01|accessdate=2023-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://natalie.mu/music/news/541724|title=松田聖子ベスト盤はオリジナルライトブルー2枚組、大滝詠一との「風立ちぬ」デュエット音源を初収録|website=音楽ナタリー|publisher=ナターシャ|data=2023-09-21|accessdate=2023-10-29}}</ref>。 == 人物・作風 == [[1950年代]]から[[1970年代]]にかけてのアメリカのポップス・ロック、イギリスの[[リバプールサウンド]]、日本の歌謡曲・演芸についての豊富な知識を持ち、それらを駆使して制作される音楽トラックは、普通に聴こえても分析すると実は非常にマニアックであり、また、自作詞に関しては独特のおふざけが入っている。『[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]]』時代にリスナーから「あなたには悩みというものがないのですか?」という投稿が送られてきたという。なお、作品はおおまかに分けると、メロディタイプといわれる歌もの、[[コミックソング|ノベルティ]]タイプといわれるサウンド偏重ものの2種類に分かれる。 楽曲制作の綿密さを語る一例として、ある人物が大瀧に「あの曲は3つの曲からの[[盗作|剽窃]]ですね」と指摘し訊ねたところ、「その3つと、あと2曲の5曲からできてるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と大滝が言い返したという逸話([[山下達郎]]がしばしばラジオでする話)や[[伊藤銀次]]がレコーディングに参加した際、有名曲のフレーズを音符を逆にして弾くのを強要されて唖然としたという。 以上の経緯から「[[渋谷系]]のように過去の作品のいいところをつまみ食いしながら楽曲を作っている」と思われがちだが、本人曰く「最終的には+αのインスピレーションがないと曲が完成しない」とのことで、『EACH TIME』のレコーディング期には既にそのインスピレーションが尽きかけていたという。 発言に関しても独特のジョークが多々入っているのが特徴。ふざけているようで真面目だったり、真面目なようでふざけている発言を淡々とするタイプの人間であり、単純に発言を文字起こししてはいけない人物だった。特に有名なのが「2001年ナイアガラの旅」に纏わるものであり、1984年に「[[ミュージック・ステディ]]」の大滝詠一特集で「[[1988年]]に『ナイアガラトライアングル Vol.3』、[[1989年]]に『ナイアガラカレンダー '89(復刻版)』、[[1991年]]にはソロでの新作『1991』でレコード番号も1991を予約。[[1994年]]には『ナイアガラトライアングル Vol.4』、[[2000年]]に『ナイアガラトライアングルVol.5』、[[2001年]]に再びソロの新作として『2001年ナイアガラの旅』を発表、以上を'''予定している'''」という発言。この発言を真に受けて泣いたファンは数多い。1990年代までは同様の発言を繰り返していたが、大瀧にその気は全くなく、山下達郎などに、いざ追及される側になると「予定は未定だからね」「それより君の作品はどうなの?」とはぐらかしたり、新曲と称してドラムのカウント部分だけをレコーディングしたものを放送したりしていた。 また、他者への提供曲の[[セルフカバー]]を発表することに消極的で、ラジオ番組でリスナーにあるかどうか問われても、ないと上手くその存在をうやむやにしていた。また、出しても歌詞を改作したり、新たなメロディーを追加して発表する例が多かった。 当初から他者への提供曲として製作されたものに限定すれば、歌詞の改作をしなかったセルフカバーは、[[沢田研二]]の「[[いくつかの場面|あの娘にご用心]]」だけであり、セルフカバーを作った理由も「曲数が足りなかったから」という不本意なものだった。 それ以外では[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]の「デッキ・チェア」を歌詞を新たに松本隆に依頼し「スピーチ・バルーン」として、「海辺のジュリエット」は歌詞を新たに松本に依頼しただけでなく、新たにサビの部分のパートを作り「[[恋するカレン]]」としてセルフカバーされている。 「さらばシベリア鉄道」は自身の曲として製作中に[[太田裕美]]への提供を思いつき、それを実行したもので、2015年3月29日にNHK BSプレミアムで放送された「大瀧詠一ソングブック」で太田が、アルバム録音中にディレクターが同じ(白川隆三)だったこともあり、同時期に同じスタジオの別ブースで録音中だった大滝の元に挨拶に行った時に「太田裕美に良いじゃないかと思う曲がある」と言われ提供されたと「さらばシベリア鉄道」提供の経緯を語っている。偶然にも「[[木綿のハンカチーフ]]」と同じ松本隆作詞で女性詞と男性詞が交互に出て来る構成の歌詞だった。 「Bachelor Girl」は一旦自身の録音が完成しながら歌詞の内容への疑問から発表を見送り、疑問点が解決した後で[[稲垣潤一]]に提供したため、結果的に自身のバージョンがセルフカバーとして発表された経緯がある。 「[[夢で逢えたら (大瀧詠一の曲)|夢で逢えたら]]」は生前、セルフカバーのマスターテープの存在は家族にしか明かしておらず、死後、関係者がスタジオの整理をしている中、本人がないと言っていたセルフカバーのテープが次々発見されCD化されている。 自身のラジオ番組で、自分の作品を特集する場合は「我田引水くんにお願いする」というように別名を用いて大滝詠一として直接自分の作品を取り上げない演出をしていた。 [[松任谷正隆]]曰く、[[今田耕司]]を1000倍暗くしたのが大滝詠一とのこと(「[[FUN]]」より)。 デモバージョンは詞先の楽曲のデモは提供された歌詞を歌うが、曲先の作品は殆ど仮詞は付けず鼻唄でメロディーを歌って提出している。『[[A LONG VACATION 40th Anniversary Edition]]』のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』にて1978年から3年間に出した曲のデモバージョンがそれぞれ一部収録されて聞くことができる。 大瀧曰く「デモをガッチリ作ると本番が駄目になる」。恐らくはデモをガッチリ作るとそれに満足してしまうからと敢えて鼻唄メロディーのデモを製作すると思われる。 なお、『[[A LONG VACATION]]』収録曲の「Velvet Motel」は当初「Summer Breeze」のタイトルで[[アン・ルイス]]に書いていた曲で、「A LONG VACATION 40th Anniversary Edition」のDisc-2の『Road to A LONG VACATION』で仮詞か正式に提供する歌詞だったかの言及はなかったが、大瀧による歌詞が付いているデモテープの一部が公開された。 === 主な別名・変名 === 独特のおふざけは数多くの変名にも反映されている。最初に名乗ったのは「ちぇるしぃ」で、大瀧が[[フォークソング|フォーク]]時代の細野晴臣と一緒に、「細野晴臣+α」名義でステージに上がった際に、[[ジョニ・ミッチェル]]の「[[チェルシーの朝]] (Chelsea Morning)」を歌ったところ、観客の中にいた「ジョン・セバスチャンとフォークロックを守る会」のメンバーから「チェルシー」と呼ばれるようになったのがきっかけ。 * 大滝栄一(デビュー当初のミュージシャン名。本名を[[常用漢字]]表記にしたもの) * 大滝詠一(ミュージシャン名) * イーチ大滝 ([[ディスクジョッキー|DJ]]) * [[多羅尾伴内]](アレンジャー、CM音楽作曲、ピアニスト、パーカッショニスト、ドラマー、作詞家、作曲家) * ちぇるしぃ (CHELSEA)(アレンジャー) * 笛吹銅次(レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニア。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だということで、[[笛吹童子]]をもじったもの) * RINKY O'HEN(アレンジャー。「臨機応変」のもじり) * 多幸福(テレビドラマ関係者との共同ペンネーム) * 南部半九郎(ベーシスト、[[タンクタンクロー]]と[[ハンク・ウィリアムス]]のもじり) * イーハトヴ・田五三九(ドラマー) * Jack Tones(多重録音コーラス時の一人コーラスグループ。グループ名は楽曲提供した[[キングトーンズ]]と、アメリカのコーラスグループQuin-tones、{{仮リンク|The Teen Queens|en|The Teen Queens}}から) *: ・宿霧十軒 (Bass)(やどぎりじゅうけん。「がんばれば愛」「Rock'n'Roll退屈男」コーラス・アレンジ、[[スティーブ・マックイーン|スティーヴ・マックイーン]]主演のTV映画「[[拳銃無宿 (テレビドラマ)|拳銃無宿]]」から) *: ・[[我田引水]] (Baritone) *: ・ちぇるしぃ (1st Tenor) *: ・金田一幸助 (2nd Tenor、[[金田一耕助]]のもじり) * 遠山“桜吹雪”金五郎(「お花見[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]」(『[[NIAGARA CALENDAR]]』)ヴォーカル、[[遠山景元|遠山金四郎]]のもじり) * [[国定公園]](「名月赤坂マンション」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[国定忠治]]のもじり)<ref group="注">読み方は“くにさだきみその”となっている。</ref> * 二宮損損(「座 読書」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[二宮尊徳]]のもじり) * 坂本八(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[坂本九]]のもじり) * トランク短井(「お正月」(『NIAGARA CALENDAR』)ヴォーカル、[[フランク永井]]のもじり) * 厚家羅漢(評論家、解説者、あっけらかん) * 鬼野盗作("ナイアガラ俳句友の会") * 馬耳東風("信じられる耳を持つ努力をしよう会"会長) * 吉川詠一 * ヤング大滝(ハナ肇とクレイジーキャッツ「実年行進曲」におけるクレジット) * 桶二歌八(「邦子のアンアン小唄」スーパーバイザー) * ニークロ大滝(「恋のナックルボール 前田幸長 Ver.」歌手名) === リズムへの傾倒 === ソロになって以降、ノベルティタイプの楽曲を製作する中で数多くのリズムを導入。特に[[メレンゲ (音楽)|メレンゲ]]([[ドミニカ共和国]]のダンスミュージック){{small|([[:en:Merengue (dance)|英語版]])}}は気に入ったようで、数度曲名にも使用されている。また、ニューオリンズの[[ガンボ]]ミュージックに関しても日本においては、かなり早い時期に着目。[[細野晴臣]]に勧めて、細野のキャリアに強い影響を与えている。 だが、最終的に日本のダンスミュージックなら音頭だろうという考えに辿り着き、[[音頭]]を積極的に発表するようになった。この考えに辿り着くまでは紆余曲折あり、きっかけは[[1973年]]に[[伊藤銀次]]から薦められた中原弓彦([[小林信彦]])の『日本の喜劇人』を読み、日本の喜劇史に興味を持ったこと。その後、大瀧は『ゴー・ゴー・ナイアガラ』時代に事務所に集うナイアガラマニアの若者に同書を必読書として勧めていた。その影響もあり、「音頭を作っては?」というハガキがラジオに送られてくるようになり、前々から興味としてはあったものを実行に移した。 その後もコンスタントに音頭を製作。代表的なものに「ナイアガラ音頭」(アルバム『[[NIAGARA TRIANGLE Vol.1]]』収録)、「クリスマス音頭」(アルバム『[[NIAGARA CALENDAR]]』収録)、「[[ビックリハウス]]音頭」、[[片岡鶴太郎]]の『スリラー音頭』と『ビート・イット音頭』や[[角川博]]の「うさぎ温泉音頭」、更に[[金沢明子]]の「[[イエロー・サブマリン音頭]]」([[編曲]]: [[萩原哲晶]])のプロデュース等がある。 === レコーディング・エンジニアとして === [[1973年]]から[[1979年]]までは[[レコーディング・エンジニア]]、ミキサー笛吹銅次としても活動。名前は[[吉野金次]]、[[伊藤銀次]]と来て次は「銅次」だということで、[[笛吹童子]]をもじったもの。 また、[[1974年]]には[[はちみつぱい]]唯一のシングル盤「君と旅行鞄{{small|(トランク)}} / 酔いどれダンスミュージック」にもレコーディング・エンジニアとして参加している。 福生45スタジオを拠点にしていたこともあり、ソニー移籍後はエンジニア業から一旦離れたが、[[2000年代]]以降はラジオ番組を[[リマスタリング]]するようになり、[[2004年]]には福生45スタジオをリマスタリングの場として活用。 その後発表された30th Anniversary盤は、久々に笛吹銅次がエンジニアを手掛けている。 過去の作品は全て大瀧がエンジニアをしていると誤解されていることが多いが、ソニー移籍後はCD制作に関しては[[吉田保 (レコーディングエンジニア)|吉田保]]を中心とした外部のエンジニアを起用した。その他の音源に関してはその限りではなく、福生45スタジオに録音テープを持ち帰り、自らオーバーダビングする作業を度々行なっていた。『[[幸せな結末]]』のストリングスバージョン等は福生45スタジオで制作されたものである。 === メディア出演 === [[テレビ]]嫌いとして知られており、はっぴいえんど時代こそ数度テレビ出演したものの、ソロになって以降は1970年代のエレック-コロムビア時代に歌番組以外の取材・インタビューに応じる形で数回出演しただけで、1981年にCBS・ソニーに移籍後、活動再開以降は、顔出しでテレビに出ることは全くなく、[[1983年]][[3月24日]]の「[[笑っていいとも]]」への電話出演や、[[1986年]][[10月15日]]放映<ref>{{Cite web|和書|url=http://columbia.jp/artist-info/hibari/COBA-6761-70.html |title=美空ひばり 宙(そらから) |publisher=日本コロンビア |archiveurl=https://archive.vn/Sp1Dh |archivedate=2015-11-13 |accessdate=2021-04-24}}</ref>の第6回[[日本作曲大賞]]に音声のみのコメントを残した程度であった(テレビ番組「[[佐野元春のザ・ソングライターズ]]」の佐野からの直接の出演オファーも辞退)。 ただし、「テレビに出演するのが嫌い」という意味でのテレビ嫌いで、テレビを見るのは大好きであり、[[1980年代]]後半-[[1990年代]]前半は自宅に[[ビデオテープレコーダ|ビデオデッキ]]が20台以上あり、それが常時動いているというほどのテレビマニアだった。主に[[大相撲中継]]を好んでいたが、[[テレビドラマ]]に関しては長年興味がなく、初めて全部見たテレビドラマは「[[ラブジェネレーション]] (1997年)」だった。その後、[[宮藤官九郎]]作品にはまっていたという。 メディア出演はほぼ[[ラジオ]]に限られる。1980年代前半まではレギュラープログラムを持っていたが、1980年代後半以降は単発的な特別番組の出演がメインになった。交友のある人物がDJ、若しくはパーソナリティを務める番組へのゲスト出演も多数あり、その中でも一番有名なのは、[[1984年]]から[[2011年]]まで山下達郎と行なっていた[[山下達郎のサンデー・ソングブック|新春放談]]。この企画は当初の番組が無くなっても、交友の深いミュージシャンや音楽評論家の番組を間借りして急場をしのぎ、四半世紀以上続いた。 === 勉強家として === 諸芸能を始めとした様々な分野についての深い見識を持ち、交友関係が広いことでも有名である。自身は音楽の系譜についての勉強を[[ライフワーク]]としているが(『分母分子論』『ポップス伝』のように紙上・ラジオ上で、その成果を垣間みることができる)、音楽のみにとどまらず、広い分野にまで“関連性”を基底に置いて研究していることが「勉強家」と称する所以である。 大瀧と同様に、日本の大衆音楽を研究しているミュージシャンに[[近田春夫]]がいるが、近田が多数の著書を発表しているのに対し、大瀧は<!--(こう記述する根拠を示せ)「後に残らず消えてしまう」-->ラジオ放送をメインの発表の場としている。 === その後の音楽界に与えた影響 === ミュージシャン主導で自主レーベルを持つ、プロデュースのクレジットを入れる、[[CMソング]]をミュージシャンとして本格的に作る、シングルにカラオケバージョンを入れる等、先進的な活動を行ない、これらは後にスタンダードになっている。 また、日本のポピュラー音楽に与えた影響に少なからぬものがあり、特に、山下達郎の一部の作品、[[渋谷系]]等への影響を指摘する声もある<ref name="リアルサウンド">{{Cite news |title=さようなら大瀧詠一さん 日本のポップ史を変えた偉大な功績を振り返る |newspaper=リアルサウンド(インターネット・アーカイブのキャッシュ)|date=2014-01-01 |author= |url=http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140116101850/http://realsound.jp/2014/01/post-232.html |archivedate=2014-01-16}}</ref>。 == ディスコグラフィ == {{作品一覧|大瀧詠一の作品一覧}} ※オリジナル・アルバムに絞って記載。“NIAGARA TRIANGLEシリーズ”と“NIAGARA CM SPECIALシリーズ”、『[[LET'S ONDO AGAIN]]』、インストゥルメンタル・アルバムは除外。 {|class="wikitable" style="width:100%;font-size:small" |- ! タイトル !! 発売日 !! [[オリコンチャート]]最高位 |- ! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|[[ベルウッド・レコード|Bellwood]] ⁄ [[キングレコード|KING]] |- | '''[[大瀧詠一 (アルバム)|大瀧詠一]]''' || {{Start date|1972|11|25}} || 75位 |- ! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|[[ナイアガラ・レーベル|NIAGARA]] ⁄ [[エレックレコード|ELEC]] |- | '''[[NIAGARA MOON]]''' || {{Start date|1975|5|30}} || 77位 |- ! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|NIAGARA ⁄ [[日本コロムビア|COLUMBIA]] |- | '''[[GO! GO! NIAGARA]]''' || {{Start date|1976|10|25}} || 41位 |- | '''[[NIAGARA CALENDAR]]''' || {{Start date|1977|12|25}} || 60位(1996年盤、オリジナル盤は不明) |- ! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|NIAGARA ⁄ [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS/SONY]] |- | '''[[A LONG VACATION]]''' || {{Start date|1981|3|21}} || 2位 |- | '''[[EACH TIME]]''' || {{Start date|1984|3|21}} || 1位 |- ! colspan="3" style="background-color:##e6e6e6;"|NIAGARA ⁄ Sony Music Labels Inc. |- | '''[[DEBUT AGAIN]]''' || {{Start date|2016|3|21}} || 3位 |} == トリビュート・アルバム == * 『[[ナイアガラで恋をして Tribute to EIICHI OHTAKI]]』 * 『A LONG VACATION from Ladies』 == 大瀧に影響を受けた著名人 == * [[鈴木雅之 (歌手)|鈴木雅之]]、[[ラッツ&スター]] - 彼らがアマチュアの頃から大瀧の自宅へ行ったり親交がある。1996年の[[NHK紅白歌合戦|紅白歌合戦]]で「夢で逢えたら」を披露した時は、[[田代まさし]]の間奏の台詞に大瀧が感動し泣いていたこともあった。 * [[岩崎元是]] - 元[[岩崎元是&WINDY]]のメンバー。現在、[[アレンジャー]]、[[作曲家]]、[[キーボーディスト]]。大瀧が影響を受けたフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」というアレンジ手法を用いている。 * 山口隆 - [[サンボマスター]]のボーカル・ギター。大瀧をリスペクトしており、対談したことがある。 * [[萩原健太]] - 音楽評論家、作曲家、プロデューサー。大瀧を敬愛しており、「ナイアガラ祭り」なるイベントを行っている。 * [[いとうせいこう]] - 2015年3月29日に[[NHK BSプレミアム]]で放送された「大瀧詠一ソングブック」で萩原と共にMCを務めた。 * [[さくらももこ]] - 大滝の長年のファン(最初の夫であった[[宮永正隆]]の影響も大きい)で「[[ちびまる子ちゃん]]」のアニメが再開されるに当たりテーマソングを依頼。作られたのが渡辺満里奈の「[[うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール|うれしい予感]]」である。 ==家族・姻戚== 娘婿は音楽プロデューサー・音楽評論家で[[バート・バカラック]]研究家の坂口修<ref>[https://web.archive.org/web/20170922024028/http://www.mishimaga.com/gaihu/020.html 内田樹 第20回 凱風館日乗(2013年を振り返って) - みんなのミシマガジン]</ref>。 == 参考資料 == *『増補改訂版 All About Niagara』[[白夜書房]]、2005年12月 * 各アルバムのライナー・ノーツ == 出演 == === ラジオ === *[[ゴー・ゴー・ナイアガラ (ラジオ番組)|ゴー・ゴー・ナイアガラ]](ラジオ関東【現・[[アール・エフ・ラジオ日本|ラジオ日本]]】:[[1975年]][[6月23日]] ‐ [[1978年]][[9月25日]] / [[TBSラジオ]]:[[1979年]][[10月14日]] ‐ [[1980年]][[4月6日]]・[[1981年]][[10月10日]] ‐ [[1983年]][[3月29日]]) ‐ [https://web.archive.org/web/20181223124122/http://www.jorf.co.jp/?program=niagara ラジオ日本の開局60周年記念特番として、2018年12月23日 ‐ 2019年3月31日までの全13回、同番組のセレクションが毎週日曜深夜25時00分に再放送された]。 *ニューミュージックフォーラム(1981年4月 ‐ 1982年9月、[[エフエム大阪|FM大阪]]制作[[全国FM放送協議会|JFN]]系)日曜日 13:00~13:55 **番組自体は以前より女性パーソナリティが担当していたが、1981年4月から大瀧が担当することになり、アシスタントは[[西岡幸子]]が務めた。番組内の一コーナーとして、大瀧とゆかりのあるゲストと対談する「大滝詠一のスピーチ・バルーン」があったが、別録音のためアシスタントは加わっていない。この当時レコードのクレジットに大滝詠一を使用していたこともあり、タイトルも大瀧ではなく大滝となっていた。 *[[オールナイトニッポンDX]](1997年11月28日 、[[ニッポン放送]])金曜日 19:00~21:00 **「イーチ・大滝のオールナイトニッポンDX(デラックス) ゴーゴー隅田川」という番組タイトルで、週替わりの金曜パーソナリティとして一日のみ担当。番組進行は放送当時ニッポン放送のアナウンサーだった[[桜庭亮平]]が務めた。 *大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2001年10月6日 ‐ 2002年、[[BSデジタル音声放送|BSデジタルラジオ]] [[LFX488]])土曜日 21:00~22:00 **20年前に放送された番組「ニューミュージックフォーラム」内の一コーナーとしてあった「大滝詠一のスピーチ・バルーン」を発展的に独立させたもの。 *サンデー ズバリ!ラジオ 大瀧詠一のスピーチ・バルーン(2012年1月15日 ‐ 、[[ニッポン放送]])日曜日 19:30~20:30 **BSデジタルラジオで放送されていた「大瀧詠一のスピーチ・バルーン」を再編集したもの。 *新春放談(1984年 ‐ 2011年) **1月の第一週と二週に放送される[[山下達郎]]とのトークコーナー。[[NHK-FM放送|NHK-FM]]「山下達郎の[[サウンドストリート]]」でスタートしたのを皮切りに、山下降板後は[[佐野元春]]や[[萩原健太]]の番組を間借りして続けられ、JFN系の「プレミアム3」を経て、「山下達郎のサンデーソングブック」まで続けられたが、2012年は諸事情のため放送されず、一旦幕が下ろされた。そして、2013年12月30日の大瀧の他界により、四半世紀に渡った山下との放談は完全に幕を閉じた。大瀧が表舞台を去り、自身のアルバムのリマスターに徹する半隠居生活になって以降、唯一のラジオ出演であったため、これを聞かなければ、近況や一年何をして過ごしていたか等、大瀧の動向を知ることはできなかった。 *[[大瀧詠一のアメリカン・ポップス伝]](NHK-FM、第1期 2012年3月27日 ‐ 3月31日、第2期 2012年8月28日 ‐ 9月1日、第3期 2013年3月26日 ‐ 3月30日、第4期 2012年8月13日 ‐ 3月17日)放送時間はいずれも0:00~0:50 === 映画 === *[[僕は天使ぢゃないよ]](脚本、監督:[[あがた森魚]])(1974年) == 監修ビデオ・DVD == * 『[[クレージー映画|クレージーキャッツ]]・デラックス』[[東宝]]、1984年。DVD化、2005年。 == 受賞 == * [[第23回日本レコード大賞]](1981年) - ベスト・アルバム賞『[[A LONG VACATION]]』 * [[第56回日本レコード大賞]](2014年) - 特別功労賞 == 書籍 == *『All about Niagara 1973-1979』八曜社、1982年1月。 *『テレビの黄金時代』[[小林信彦]]編、[[キネマ旬報社]]、1983年5月。のち復刻版、1987年11月。 - クレージー・キャッツ本。[[谷啓]]、小林信彦、大瀧詠一による座談会も収録。 **同題名の小林信彦の著作『テレビの黄金時代』([[文芸春秋]]、2002年10月。のち[[文春文庫]]、2005年11月。)は、別内容の書籍。 *『いちど話してみたかった:小林信彦デラックストーク』[[情報センター出版局]]、1983年6月。 - 小林・大瀧の対談が収録。 *『All About Niagara 1973-1979+α』[[白夜書房]]、2001年3月。のち増補改訂版、2005年。 *『小林旭読本:歌う大スターの伝説』小林信彦と共同責任編集、[[キネマ旬報社]]〈キネ旬ムック〉、2002年3月。 * [[竹内義和]]、[[北野誠 (タレント)|北野誠]]『聖戦 サイキック 15thアニバーサリー』[[文藝春秋]]、2003年8月。 <!--ISBN 4163652604--> - ゲスト参加。 *『大瀧詠一:大瀧詠一と大滝詠一のソロ活動40年史』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢ムック〉、2005年11月。のち増補新版、2012年。 * [[サンボマスター#メンバー|山口隆]]『叱り叱られ』[[幻冬舎]]、2008年2月。 - 山口と大瀧の対談が収録。 *『大滝詠一 Talks About Niagara コンプリート・エディション』[[ミュージック・マガジン]]〈[[レコード・コレクターズ]]別冊〉、2014年3月。 *『大滝詠一読本 完全保存版 2017 EDITION』[[ステレオサウンド]]〈別冊ステレオサウンド〉、2017年3月。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Notelist2}} === 出典 === {{Reflist}} == 関連項目 == * [[岩手県出身の人物一覧]] * [[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)]] * [[ダブル・オーレコード|Oo Records]] - 大瀧詠一が取締役を務めたレコード会社。1997年にソニー・ミュージックエンタテインメントに吸収。 == 外部リンク == * {{Official website|www.fussa45.net/|大瀧詠一 アミーゴ・ガレージ}} - 公式サイト * [https://www.sonymusic.co.jp/artist/EiichiOhtaki/ 大滝詠一] - ソニーミュージックによる公式ページ * [https://www.radiodays.jp/artist/show/137 ラジオデイズ] - 2008年から、大滝と[[内田樹]]、ライヴカフェ「Again」店主[[石川茂樹]]、ラジオデイズプロデューサー[[平川克美]]による対談を毎年有料配信していた。現在も一部無料で試聴可能。 {{はっぴいえんど}} {{大瀧詠一}} {{CDショップ大賞}} {{薬師丸ひろ子}} {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:おおたき えいいち}} [[Category:大瀧詠一|*]] [[Category:ナイアガラ|*]] [[Category:はっぴいえんどのメンバー]] [[Category:日本のフォークシンガー]] [[Category:日本の男性作曲家]] [[Category:日本の男性シンガーソングライター]] [[Category:日本の男性ロック歌手]] [[Category:日本の音楽プロデューサー]] [[Category:日本の音響技術者]] [[Category:日本のラジオパーソナリティ]] [[Category:日本のコレクター]] [[Category:キングレコードのアーティスト]] [[Category:日本コロムビアのアーティスト]] [[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]] [[Category:エレックレコードのアーティスト]] [[Category:CDショップ大賞受賞者]] [[Category:日本のサブカルチャーに関する人物]] [[Category:岩手県出身の人物]] [[Category:1948年生]] [[Category:2013年没]]
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バンド計算
バンド計算(バンドけいさん)とは、系の電子状態を求める計算及びその手法のこと。 電子状態とは、具体的にはバンド構造、電荷密度、状態密度などのことを指す。手法には経験的なものから非経験的(第一原理的)なものまで多数存在する。バンド計算が扱う系は、主に結晶のような固体が対象であることが多いが、表面系や、液体などが計算対象となることもある。 代表的な手法としては、擬ポテンシャル+平面波基底によるもの、APW法、KKR法のような全電子手法、第一原理分子動力学法、タイトバインディング法(Tight-binding method)などがある。第一原理分子動力学手法では、電子状態と共に対象となる系の構造最適化、つまり(準)安定構造を求めることができる。 バンド計算は、元々は結晶のような周期的境界条件のある系が計算対象であったが、その後、表面系や不規則二元合金などのような非周期系に対しても計算がなされるようになっていった。表面系に関してはスラブ近似を用いて計算するのが最も標準的である。不規則二元合金のようなポテンシャルがランダムな系には、コヒーレントポテンシャル近似が用いられることが多い。また実空間法のような、境界条件に縛られない計算手法も出現している。
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バンド計算(バンドけいさん)とは、系の電子状態を求める計算及びその手法のこと。 電子状態とは、具体的にはバンド構造、電荷密度、状態密度などのことを指す。手法には経験的なものから非経験的(第一原理的)なものまで多数存在する。バンド計算が扱う系は、主に結晶のような固体が対象であることが多いが、表面系や、液体などが計算対象となることもある。 代表的な手法としては、擬ポテンシャル+平面波基底によるもの、APW法、KKR法のような全電子手法、第一原理分子動力学法、タイトバインディング法などがある。第一原理分子動力学手法では、電子状態と共に対象となる系の構造最適化、つまり(準)安定構造を求めることができる。 バンド計算は、元々は結晶のような周期的境界条件のある系が計算対象であったが、その後、表面系や不規則二元合金などのような非周期系に対しても計算がなされるようになっていった。表面系に関してはスラブ近似を用いて計算するのが最も標準的である。不規則二元合金のようなポテンシャルがランダムな系には、コヒーレントポテンシャル近似が用いられることが多い。また実空間法のような、境界条件に縛られない計算手法も出現している。
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マーガレットとご主人の底抜け珍道中
『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』(マーガレットとごしゅじんのそこぬけちんどうちゅう)は、坂田靖子の漫画作品で、著者の代表作のひとつ。『プチフラワー』(小学館)において1985年9月号から1990年9月号まで掲載された。プチフラワーコミックス全5巻と、ハヤカワ文庫(早川書房)として「旅情編」「望郷編」の2分冊での単行本がある。 好奇心が旺盛で天真爛漫なマーガレットと、その突拍子もない行動力に振り回される夫タルカム氏が、英国内から世界各国まで広く旅して回る中で珍妙な騒動を繰り広げる1話完結の全30話の短編集シリーズ。 シリーズ初期には思いつきでいきなり旅に出てしまうマーガレットをタルカム氏があわてて追いかけるといったパターンが多かったが、後期になるにつれ、二人で旅行する他に、タルカム氏が単独で出張旅行をしたり、旅には出ずに地元での日常生活を描くもの、タルカム氏の子供のころの記憶をたどる話などが占めるようになっていく。 イギリス及び世界各地の文化、歴史、博物学、民俗学の知識が多く織り込まれており、著者の知的好奇心と博学ぶりが反映されている。ユーモアあふれるエピソードの中に描かれる夫婦愛とほのぼのとした画風から、心温まる作品として人気が高い。
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『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』(マーガレットとごしゅじんのそこぬけちんどうちゅう)は、坂田靖子の漫画作品で、著者の代表作のひとつ。『プチフラワー』(小学館)において1985年9月号から1990年9月号まで掲載された。プチフラワーコミックス全5巻と、ハヤカワ文庫(早川書房)として「旅情編」「望郷編」の2分冊での単行本がある。
『'''マーガレットとご主人の底抜け珍道中'''』(マーガレットとごしゅじんのそこぬけちんどうちゅう)は、[[坂田靖子]]の[[漫画]]作品で、著者の代表作のひとつ。『[[プチフラワー]]』([[小学館]])において1985年9月号から1990年9月号まで掲載された。プチフラワーコミックス全5巻と、[[ハヤカワ文庫]]([[早川書房]])として「旅情編」「望郷編」の2分冊での単行本がある。 == 概要 == 好奇心が旺盛で天真爛漫なマーガレットと、その突拍子もない行動力に振り回される夫タルカム氏が、英国内から世界各国まで広く旅して回る中で珍妙な騒動を繰り広げる1話完結の全30話の短編集シリーズ。 シリーズ初期には思いつきでいきなり旅に出てしまうマーガレットをタルカム氏があわてて追いかけるといったパターンが多かったが、後期になるにつれ、二人で旅行する他に、タルカム氏が単独で出張旅行をしたり、旅には出ずに地元での日常生活を描くもの、タルカム氏の子供のころの記憶をたどる話などが占めるようになっていく。 [[イギリス]]及び世界各地の文化、歴史、博物学、民俗学の知識が多く織り込まれており、著者の知的好奇心と博学ぶりが反映されている。ユーモアあふれるエピソードの中に描かれる夫婦愛とほのぼのとした画風から、心温まる作品として人気が高い。 == 登場人物 == ;マーガレット・オブライエン :[[ロンドン]]郊外の町に住む料理上手な主婦。作中ではマーガレット奥さんと呼ばれている。さまざまな物事に興味を持ち、特に外国に興味をひかれるとそれがどこであろうと迷わずに旅立ってしまう癖がある。異文化から小さな生き物まで何に対しても偏見なくあるがままに受け入れる。子供はない模様で夫婦二人暮らし。 ;タルカム・オブライエン :そんな妻を心から愛する夫。自宅からバスで40分かかる会社に勤務し、国内、海外への出張も多い。人の良い常識人だが、あわて者で自らトラブルを招くことが多い。趣味は園芸。 ;ティム坊や :マーガレットがボーイフレンドと呼ぶお隣の小学生。マーガレットの好奇心を刺激する役目をになう。チェスが強い。 == 書籍 == * 坂田靖子『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』小学館〈プチフラワーコミックス〉 *# *#* 収録話 *#** 南極北極大冒険/描き下ろし『おみやげ観測隊』付き(初出『プチフラワー』1985年9月号) *#** 大ネッシー探検(1985年12月号) *#** ジャパン・ライフ/描き下ろし『サクラ前線』付き(1986年5月号) *#** ドーバー海峡殺人事件(1986年7月号) *#** オルメカの手(1986年9月号) *#**アンモナイトの記憶/描き下ろし『三葉虫』付き(1986年11月号) *# *#* 収録話 *#** ひだりまき大陸(1987年1月号) *#** ミイラの呪い(1987年3月号) *#** 地上30cmの亡霊(1987年5月号) *#** インドの虎がり(1987年7月号) *#** ハタリ!(1987年9月号) *#** テントウ虫(1987年11月号) *# *#* 収録話 *#** ポリネシアン・パーティー(1988年10月号) *#** 旅情(1988年1月号) *#** 親指姫(1988年3月号) *#** 草原の輝き(1988年4月号) *#** 失われた都(1988年6月号) *#** 吸血の森(1988年8月号) *# *#* 収録話 *#** 海のセーター(1988年12月号) *#** 名犬ナポレオン(1989年1月号) *#** オリーブ・グリーンの春/初出時タイトルは『霧の街』(1989年3月号) *#** 庭のたのしみ/初出時タイトルは『オリーブ・グリーンの春』(1989年5月号) *#** 訪問者たち/初出時タイトルは『庭のたのしみ』(1989年7月号) *#** 時間の森(1989年9月号) *# *#* 収録話 *#** プディング(1989年11月号) *#** 氷河期(1990年1月号) *#** 雪の日(1990年3月号) *#** 歩く思い出たち(1990年5月号) *#** 真夏の夜の夢(1990年7月号) *#** アラウンド・ザ・クロック(1990年9月号) * 坂田靖子『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』早川書房〈ハヤカワ文庫〉 *# 『旅情編』ISBN 978-4150305819 *# 『望郷編』ISBN 978-4150305840 {{DEFAULTSORT:まあかれつととこしゆしんの}} [[Category:漫画作品 ま|あかれつととこしゆしんの]] [[Category:月刊フラワーズ]] [[Category:ハヤカワ文庫]] [[Category:1985年の漫画]] {{Manga-stub}}
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第一原理計算
第一原理計算(だいいちげんりけいさん、英: first-principles calculation、ab initio calculation)とは第一原理に基づいて行われる計算(手法)の総称である。 IUPACゴールドブックによれば、第一原理計算(英: ab initio calculations)の定義はab initio quantum mechanical methodsの項目に置き換えられている。その定義は「基礎物理定数以外の実験値に依存しない量子力学に基づいた計算手法」である。また、非経験的量子力学的計算(英: non-empirical quantum mechanical methods)が同義語として挙げられている。 いわゆる第一原理による電子状態計算手法によって扱える原子の数は2003年現在でも100~1000個程度までであり、アボガドロ定数に遠く及ばない。1000原子のオーダーでようやく最も簡単な構造のたんぱく質(或いはアミノ酸)が扱えるかもしれないというレベルである。 実際に計算で扱う時間の問題も存在する。第一原理分子動力学法で扱える時間は、最大でも数ピコから数十ピコ秒程度の分子動力学しか扱えない。実時間での1秒間を実際に計算の上で再現させることは現実問題として不可能に近い。更に、電子状態を解くために用いる近似手法(密度汎関数法、局所密度近似、一電子近似、断熱近似等)は、現実の化学反応を正確には記述できているとは言い難く、ましてや生体内の代謝反応やDNAの複製過程、植物の光合成のような大規模で複雑な反応を第一原理計算だけで再現することは著しく困難と言わざるを得ない。 そのため、こうした困難を乗り越えるための努力が行われている。オーダーN法や、ハイブリッド法は、1000原子より一桁以上大きなサイズの系を扱えるようにすることを目標としており、それを可能としつつある。ただ、方法論として未だ発展途上で、精度に関しての十分な検証が必要である。一方、現実の化学反応等をより精度良く記述するために、断熱近似を越えるような試みや局所密度近似を越える試みなどがなされている。光化学反応などでは、電子励起状態が関与する。こうした現象を密度汎関数法の枠内で取り扱うため、時間依存を含めた形式(TDDFT)も展開されている。
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第一原理計算とは第一原理に基づいて行われる計算(手法)の総称である。
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声優
声優(せいゆう)もしくはVA(ボイスアクター)または声の出演(こえのしゅつえん)もしくはCV(キャラクターボイス)は、ラジオの放送劇、テレビ・映画の吹き替え、アニメーションなど、音声作品や映像作品に、自身の姿を見せず声だけで出演する俳優である。広義にはナレーターも含まれる。 音声・映像作品の役割・職能を表す場合と職業を示す意味で使われる場合がある。 声のみで演技する実演家であり、その出演形態はメディアの発展と共に、レコード・ラジオ、さらにはテレビなどへ拡大した。 1910年(明治43年)、日本初のレコード会社が発足する。歌舞音曲など演芸の録音が普及した。1925年(大正14年)には、日本初のラジオ放送が開始する。舞台劇、映画劇、放送劇などが届けられた。 声優の命名由来は『読売新聞』の芸能記者・小林徳三郎によるものと、日本放送協会(NHK)の演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男によるものの2説があるが、未だに明確にはなっていない。この年には早くも、『朝日新聞』が「いはゆる『聲の女優』――ラジオ・ドラマの女優」とした報道を行い、翌年の1926年(大正15年)には、『読売新聞』が声優の呼称を使用している。 1941年(昭和16年)、NHKがラジオドラマを専門に行う東京放送劇団を設立する。1956年(昭和31年)には、ラジオ・テレビ兼営局であるラジオ東京(現:TBS)が海外テレビドラマの吹き替え放送を実施する。声優は当初、ラジオドラマに出演する舞台俳優や映画俳優、次いで放送局の劇団員であるラジオ俳優を指し、テレビ時代になって吹き替え、さらにアニメを行う役者を指す用語として定着して行った。 こう言った経緯などから放送劇団員は声優という呼称を酷く嫌い、自らを俳優と称する者も少なくない。また、山田康雄や内海賢二らも声優は声を演じる俳優、役者がやっている色々なジャンルの一部分であると考えており、『声優』という呼称を好まなかったという。 文化庁の委託事業である『演劇年鑑』(発行:日本演劇協会)では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として2022年版では、若山弦蔵が「声優、俳優」、森山周一郎が「俳優、声優」と掲載されている。また、2022年(令和4年)度の日本芸術院会員選定の際、黒柳徹子が『俳優』と紹介された。 日本で声優の専業化が進んだ理由は、 などが考えられる。 日本の声優の多くが加盟する協同組合・日本俳優連合には、外画・動画部会も設置され、「俳優・声優・その他の実演家」を加入対象としている。後述のフィックス制度により性格俳優としての側面もある。また、アテレコ論争などを経て、ニュースで原稿を読み上げるキャスターやアナウンサーなど、放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。 日本国外では俳優の仕事の一部という側面が大きく、吹き替えではスタンリー・キューブリック監督作品『スパルタカス』において、故人となっていたローレンス・オリヴィエの声の代役を門下のアンソニー・ホプキンスが担当したエピソードなどがある。その一方で、アメリカでは声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある。 アニメーション作品ではしばしばキャラクターボイス(character voice)、略してCVという和製英語が使われる。これは1980年代後半にアニメ雑誌『アニメック』で副編集長だった井上伸一郎が提唱した用語で、その後、井上が角川書店で創刊した『月刊ニュータイプ』でも用いられている。昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットで「声の出演」と表記されることが多かった。 平成から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、ウォルト・ディズニー・カンパニーで翻訳・吹き替えを担当するディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル(Disney Character Voices International)などがある。 黎明期には顔出しNGの声優も少なくなかったが、時代が下るにつれて歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えて顔出しOKの声優が増えてきている。その一方で2000年ごろからの#バーチャルYouTuber活動でみられる、他のキャラクターとして匿名的に活動する声優も出現していく。なお、現代においてはアニメ作品や特撮ドラマ作品のキャラクターの声を担当する割合が増えている点やテレビゲーム・オンラインゲームに登場する特定のキャラクターの声を専門的に演じることが中心となっている点から「担当声優」と呼称される場合がある。 1877年(明治10年)12月6日、アメリカでトーマス・エジソンが世界初の録音・再生式の蓄音機を発明する。 1880年代になると、日本では言文一致運動などソフト面での文明開化の運動が勃興する。1885年(明治18年)、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。 1886年(明治19年)には、歌舞伎の近代化を志向した演劇改良会が結成されている。1888年(明治21年)、角藤定憲らが大日本壮士改良演劇会を結成する。1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場する。 坪内逍遥はシェイクスピア戯曲の翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森鷗外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した。演劇改良運動に取り組んでいた市川團十郎との初対面では、『ハムレット』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。 1891年(明治24年)、伊井蓉峰が依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。 1900年(明治33年)、欧米を洋行中であった川上音二郎一座は、訪問先のパリ万国博覧会で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『オッペケペー節』をはじめとする多種多様な演目を録音した。 1902年(明治35年)、文部省が国語国字問題の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。 1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する。せりふとしぐさを主とするストレートプレイは新劇運動の萌芽となった。 1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。 1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月が文芸協会を設立している。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。 1909年(明治42年)、小山内薫と市川左團次が自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。 明治の末になるとハード面での近代化が進む。1910年(明治43年)、日本で最初のレコード会社が設立される。 1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。 1913年(大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する。1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。 同年10月、シェイクスピア戯曲『アントニーとクレオパトラ』が抱月の改作により上演され、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみのオーディオドラマであり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された。 1916年(大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の規範文法を提示した。 大正時代(1912年〜1926年)には中村鴈治郎、松本幸四郎、市村羽左衛門、成美団、曾我廼家一座、宝塚少女歌劇、浅草オペラなども音源を残している。 1924年(大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場が開場する。創立同人に小山内薫、土方与志、浅利鶴雄、友田恭助ほか。研究生1期生(座員)に千田是也、山本安英、田村秋子、丸山定夫、後に滝沢修、杉村春子、東山千栄子、薄田研二らを輩出した。 小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に菊池寛、久保田万太郎、岸田國士などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる。 1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する。 そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である。 7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精の音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。 8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄、長田秀雄、吉井勇の6人を主要メンバーとした。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見弴、松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三、中村吉蔵、岡本綺堂の11人であった。 9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた。 初期のラジオドラマには汐見洋や東山千栄子など、この前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた。 1930年(昭和5年)、新興芸術派倶楽部が結成されている。芸術価値の自律性を擁護して、『文学』からは小林秀雄、神西清、蝙蝠座からは今日出海など32名が参加した。また、蝙蝠座の院外団員には小林の他に菊池寛、岸田國士も参加していた。 1931年(昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花、ルナールやユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎、村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している。1938年(昭和13年)8月、退任。 文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている。ラジオドラマの総放送回数は1938年(昭和13年)までの13年で750回を数えるまでに成長した。 この頃(おもに1930年代)に活躍していた者として舞台女優の飯島綾子が挙げられる。彼女はラジオドラマのほかに日本舞踊家や歌手(流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。 1932年(昭和7年)、日本初のアクセント専門の辞書である『国語発音アクセント辞典』が刊行されている。この頃、ラジオの普及率は10%前後であり、東京語に不慣れな全国の国語教員を主な対象として、話し言葉の統一、発音統一を目指して編纂された。執筆者の一人であった言語学者の神保格は、後述の調査委員会の委員や東京放送劇団の講師も担当している。 1934年(昭和9年)、NHKが放送用語並発音改善調査委員会(現:放送用語委員会)を設置する。イギリスの英国放送協会(BBC)を範に取り、その調査方針については「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して、大体、帝都の教養ある社会層において普通に用ひられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」ことが定められている。 1941年(昭和16年)4月、国民学校令が施行されている。音声言語教育については、「話し方に於ては児童の自由なる発表より始め次第に之を醇正ならしめ併せて聴き方の練習を為すべし」と位置付けた。6月、情報局が監督する日本移動演劇連盟が結成されている。 さらに同月、NHKが東京放送劇団を設立している。ラジオドラマ専門の俳優を養成する東京中央放送局専属劇団俳優養成所の研究生を公募した。1943年(昭和18年)1月、NHKが『日本語アクセント辞典』を編纂し、5月には、養成を終えた東京放送劇団の第1期生がデビューを果たした。これが声優第2号とみなされ、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある。 1950年(昭和25年)、岸田國士が文学立体化運動を提唱し、雲の会を主宰する。会員の三島由紀夫は、「自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ」と指摘した。そして、築地小劇場論争以来の混迷を正常化する最初の機会として、今回の文壇、劇壇の連帯の意義を説いている。 1951年(昭和26年)、日本での民間放送が開始する。対日占領政策の転換から民放が解禁された結果、戦前からのNHK独占体制が崩れている。民放各局はNHKに倣う形で中部日本放送放送劇団など専属の放送劇団を設立して行く。 同年、雲の会の一箇年の活動を振り返る座談会が開催され、機関紙である『演劇』が掲載している。文壇側からは鉢の木会のメンバーでもあった神西清、中村光夫、大岡昇平、福田恆存、三島由紀夫が選出された。「劇壇に直言す」として、新劇独自の固定観念を指摘し、既成新劇への問い直しを求めている。劇壇側からは内村直也、田村秋子、千田是也、杉村春子、菅原卓が選出された。「『直言』に答う」として、反省する点を認める一方、俳優術による演劇表現のアカデミズム確立や現代劇の樹立を重視する意見が出されている。 これを受けて『演劇』は、会員の小林秀雄と福田恆存の対談を企画した。その中では声音メディアの未来への示唆も語られている。 小林 純粋な観念としては音楽だから。......一般に人間の耳っていうのは、よくないと思うんですよ。みんな悪いんです、耳っていうものは。 福田 ほかの感覚に比べて? テレビ放送がなく、ラジオがマスメディアで主要な地位を占めていたラジオドラマ時代の声優は決して日陰の存在ではなく、二枚目の主役の声を多く演じた名古屋章には月に何十通ものファンレターが届いたという。1957年(昭和32年)に放送した連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』は当時の子供たちから絶大な支持を得た。ラジオドラマは全盛期を迎え、声優の紹介記事が新聞のラジオ欄に掲載されるようになると、声優へのファンレターと同時に声優に憧れ、声優志願者も急増した。 1953年(昭和28年)のNHK東京放送劇団の第5期生募集には、合格者が10名程度のところへ6,000名の応募が殺到したという。東京放送劇団出身の勝田久は、この時代を第1期声優黄金時代としている。日本でのテレビ放送が開始された1953年(昭和28年)2月当時、NHK専属の放送劇団員は、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌の7劇団で合計137名を数えた。 劇場アニメでは、1933年(昭和8年)には日本初のトーキーの短編アニメーション映画『力と女の世の中』が公開。アニメキャラクターに声をあてたのは、喜劇役者の古川ロッパをはじめとする映画俳優達だった。1942年(昭和17年)には中国の長編アニメーション映画『西遊記・鉄扇姫の巻(鉄扇公主)』が日本で公開され、活動弁士出身の徳川夢声、山野一郎などが声をあてた。第二次世界大戦後に発足した東映動画により日本でもコンスタントにアニメ映画が製作されるようになると、映画俳優、コメディアン、放送劇団員が使われた。 洋画の吹き替えでは、1931年の米映画『再生の港』が初の日本語吹き替え作品だが、起用された在米邦人の広島訛りが不評で後が続かなかったという。 1953年(昭和28年)、日本でのテレビ放送が開始する。 1955年(昭和30年)、福田恆存が翻訳と演出を担当して、『ハムレット』を上演する。ハムレット役は芥川比呂志が担当した。当時の福田は文学座の文芸部員でもあり、幹事の岩田豊雄(獅子文六)が新劇が傾倒する近代劇の在り方に疑問を持つようになっていた事も上演を後援した。舞台芸術として最高度の文学性と演劇性を両立したという評価から、「シェイクスピアに還れ」とした基調は、後の新劇運動の方針にも反映された。また、札幌放送劇団に所属していた若山弦蔵はこの公演を観劇し、演技のヒントを得たことを明かしている。 6月、菊田一夫が『「大盗大助」の公演』を『放送文化』に発表する。今回の東京放送劇団の舞台公演で、脚本と演出を担当した経緯について解説した。NHKで『鐘の鳴る丘』や『君の名は』を手掛けるなど放送劇でも活躍していた菊田は、ラジオ俳優に舞台公演の必要があるかどうかという問題はかなり重要な事であると指摘し、「マイク前の声技にも、その演技の奥行を深め、幅をひろげる意味で、絶対に必要だからである」との見解を示している。その理由については、「私はラジオ・ドラマの稽古に立会っていて、いつも『君、君のセリフには動きがともなっていないよ』と、いう言葉で、声優を叱りつける」と述べており、責任上から実際の体験を提供したと説明を行った。 1956年(昭和31年)4月8日、日本テレビが海外テレビアニメ『テレビ坊やの冒険』の放送を開始する。録音方式の日本語吹き替え番組の第1号であり、番町スタジオの安井治兵衛に依頼して制作された。4月28日、TBSの前身であるKRTテレビが海外ドラマ『カウボーイGメン』を放送する。10月9日には、海外テレビアニメ『スーパーマン』を放送する。出演者の滝口順平、大平透は、いずれもラテ兼営の同局のラジオ東京放送劇団に所属する放送劇団員であった。これらKRTテレビでの吹き替え放送は生放送で行われている。 民放テレビの草創期には、同年10月の五社協定でテレビ局への日本映画の供給停止が決まったことなどによるソフト不足から、海外ドラマやテレビ映画、洋画などのいわゆる外画の日本語吹き替え版が数多く放送された。テレビや映画の俳優は五社協定とギャラの問題で吹き替えをしなかったため、テレビでの吹き替えは、ラジオ時代からの放送劇団出身者や戦後の新劇ブームで増加した舞台役者やその研究生が多く行った。海外アニメにおいては、落語家や浅草出身のコメディアンなどもキャラクターの声をあてたという例がある。 吹き替えの開始当初は生放送でも行われ、後にテープレコーダーを利用した録音方式となるも、未だ編集は不可能であった。声優陣は狭いスタジオに存在する1つのスクリーンと1本のマイクに臨み、効果音や音楽も同時に録音していた。1ロール28分間の収録では、誰かが間違えて失敗すれば最初から録り直すという負担の大きいものであり、さらにせりふの悪訳も輪をかけ、「アテレコ調」の出現を招いている。 江崎プロダクションの創業者である江崎加子男は、舞台や映像で仕事がある役者がアテレコに好んで出演しなかった理由として、ギャラ問題の他にアテレコ調の存在を挙げている。「カラーフィルムにキズを付けないためにリハーサルは3回くらいしか見せられなかった。したがって不器用なものはなかなか口が合わない。“トチラズ” 口を合わせるために台詞が一本調子になる。当時言われた言葉がアテレコ調。」。 また、前述の若山弦蔵は当時の吹き替えに参入してきた新劇俳優について、「大部分の連中にとっては片手間の仕事でしかなかった」「日本語として不自然な台詞でも疑問も持たず、台本どおりにしか喋らない連中が多くて、僕はそれがすごく腹立たしかった」と語っている。当初、NHKは基本的に字幕スーパーで日本国外の作品を放送していたため、日本語吹き替え版は民放が中心となっていた。以後、日本国外の作品は1960年代前半をピークとして放送された。 1957年(昭和32年)には早くも、大岡昇平が吹き替えの社会的影響を論考し、『藝術新潮』に発表している。築地小劇場の観劇歴を有する大岡は、テレビから流れるテレビドラマや舞台中継、海外ドラマなどに見られる「新劇調」の存在を指摘した。これは築地小劇場の翻訳体やそれに起因した悪癖であり、さらに固定された俳優達が今や指導する側に回ったことで、後進が不本意に継承している構図であるとも解説した。その上で、大勢の人の目に留まることによって、芸風が矯正されるチャンスになるのではないかと説き、若い世代には旧弊を壊すことを奨励している。 さらに10月には、福田恆存が新聞紙面上で論議が展開された吹き替えの是非を論考し、『CBCレポート』(発行:中部日本放送)に寄稿した。 1959年(昭和34年)、NHKが放送劇団員の専属制を解消している。各放送劇団は個人契約者の任意の団体に移行する。 労働環境や待遇は恵まれていなかったことから権利向上のために結束しようという動きがあり、久松保夫は清水昭の太平洋テレビジョンに参加するが同社で労働争議が発生。これを受けて1960年(昭和35年)には東京俳優生活協同組合(俳協)が誕生したが、前述の若山弦蔵のように所属せず独立した者もいた。のちに俳協から分かれて多くの声優プロダクションが結成された。 この時代にはまだ声優という言葉は一般には認知されておらず、別称として、吹き替えを主にしたことから吹き替えタレント、吹きかえ屋、声をあてることからアテ師、アテレコ・タレントというものがあった。また、アテレコ調が蔓延する状況から役者論、演技論を巡るアテレコ論争が展開されたのもこの時期であった。 1961年(昭和36年)、音声制作会社である東北新社が設立されている。1963年(昭和38年)には、グロービジョンが設立された。 同年、日本放送芸能家協会(現:日本俳優連合)が発足している。代表には徳川夢声が就任し、設立総会では「著作権制度と放送法の改正を前にして日本放送文化の向上という公益のために結成」した事を宣言した。 同年、国産初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(主演声優:清水マリ)の放送が開始された。1958年(昭和33年)の『白蛇伝』(主演声優:森繁久彌)以来、劇場用アニメーション映画を手掛けて来た東映動画(現:東映アニメーション)も参入した。プレスコ方式が主流であった従来の劇場用アニメ市場とは異なる、アフレコ方式を採用したテレビアニメ市場が形成されて行く。 同年、文部省が公示した学習指導要領が実施され、高等学校課程に現代国語が創設されている。改定委員となった国語学者の時枝誠記の下で、経験主義から能力主義への転換が図られている。言語過程説を提唱した時枝は後述の福田の師に当たった。 同年、財団法人・現代演劇協会と劇団雲が設立されている。雲の会の会員であった福田恆存、芥川比呂志、小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、今日出海らが役員に就任し、その継承を志向した。築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、日本における正統劇(せりふ劇)の確立を目指す事を謳った。また、同協会は設立趣旨の一つとして、役者に存在する「学校の違い」などの縄張り意識の追放を挙げている。 1964年(昭和39年)、日本テレビが『バークにまかせろ』の放送を開始する。翻訳は篠原慎、演出は左近允洋、主演は若山弦蔵が担当した。前述の勝田久の見解によると、アテレコ調からの脱却はこの番組の頃からであり、その路線は翌年の『0011ナポレオン・ソロ』にも踏襲されたとしている。後述の野沢那智も出演者の一人であった。 1966年(昭和41年)に『土曜洋画劇場』(現:『日曜洋画劇場』)の放送が始まり、この番組によってスターの声を特定の声優に固定する持ち役制(フィックス制度)が始まった。 1967年(昭和42年)、放芸協の常務理事・久松保夫が『テアトロ』に『俳優ユニオンの提唱--劇団経営の合理化を含めて』を寄稿する。 1968年(昭和43年)、文部省の外局として文化庁が設置されている。初代長官には今日出海が就任した。 同年、読売テレビがテレビアニメ『巨人の星』(演出:長浜忠夫、主演:古谷徹)の放送を開始する。長浜は作品作りにおいて声優のディレクションを重要視した。その影響を受けた一人である富野由悠季は「人形劇をやっていらっしゃった方とは聞いていたが、ダイナミックに動き回り、アフレコ前のラッシュに自分で科白をあてて台本をチェックする監督なぞ、長浜監督をして初めて知った」と記している。 1969年(昭和44年)、声優に特化した俳優事務所として青二プロダクションが設立されている。俳協のマネージャー出身の久保進が、東映動画の要請を受け創業した。当時、アニメへの出演者は権利問題などを抱えていた事もあり、その出演交渉は困難な状況にあった。 1970年代になると、声優ブームの状況が出現した。ブームの中心人物はアラン・ドロンを持ち役とした野沢那智で、追っかけまでいたという。 1970年(昭和45年)、著作権法の全面改正が行われ、著作隣接権として実演家の権利が制定されている。 1971年(昭和46年)、日本俳優連合(日俳連)と、音声制作会社7社で構成された紫水会(現:日本音声製作者連盟)が結成される。また、この年には映画会社の五社協定も自然消滅を迎えている。 日本のテレビアニメの放送開始から8年後のこの年、大人向けアニメ番組への挑戦がなされ、『ルパン三世』が制作された。放送局は前述の読売テレビ、主演は山田康雄が担当した(なお、山田は声優の呼称を嫌った)。本放送時は失敗に終わったが再放送の度に評価が高まり、1977年(昭和52年)には、続編として第2シリーズが制作され、さらに本作の放送中には、劇場用アニメーションとして『ルパン三世 ルパンVS複製人間』、『ルパン三世 カリオストロの城』の2作品も公開されて、アニメブームを牽引した。 1972年(昭和47年)、NHKが海外ドラマ『西部二人組』の放送を開始する。アテレコの世界のイメージを変えようという目論見があり、当時の若手俳優であった新克利、江守徹が起用された。日本語吹替版の製作は東北新社が担当している。さらに同時期、NHKは海外ドラマ『刑事コロンボ』も放送しているが、同作品のアテレコには『パパは何でも知っている』などへの出演歴がある俳優の小池朝雄が起用された。こちらの日本語吹替版の製作はグロービジョンが担当している。また、最初に認知されたアニメ声優として、当時子役ながらテレビアニメ『海のトリトン』(1972年)で主役を演じた塩屋翼が知られている。 1973年(昭和48年)、日俳連において、「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会」が開催された。吹き替えの仕事をする俳優全員の70%に当たる158名が参加し、さらに抗議団には187名が参加した。紫水会との間で交渉が行われ、業界の正常化と公正なルール確立のため、共同で対処する事が合意された。これにより出演料は平均3.14倍の増額となっている。 1974年(昭和49年)、読売テレビがテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の放送を開始する。同作でヒーロー役の古代進を担当した富山敬は、後述の声優ブームにおいて、個人名義での音楽アルバム『富山敬ロマン』(1979年)を出した初の声優アーティストとなった。 1975年(昭和50年)、TBSが『刑事コジャック』の放送を開始する。翻訳は額田やえ子、演出は岡本知、主演は森山周一郎が担当した。額田は前述の『刑事コロンボ』も担当しており、翻訳面でも更なる進展が見られた。また、同番組のファンであったアニメ演出家の宮崎駿は、1992年(平成4年)に公開した『紅の豚』において森山を起用している。 1976年(昭和51年)、『毎日新聞』が『テレビ洋画の吹替え〝声の主役たち〟』を掲載し、声の吹き替えの歴史について報じた。初期は説明調、弁士調であったが、やがて台本の翻訳に細かい注意が払われるようになり、現在はセリフに感情を乗せ、そして画面と口も合わせるまでに技術が高度化されたと解説した。また、声優の人選も拡大し、『日曜洋画劇場』放送の『野にかける白い馬のように』では、戦前から活躍する宇野重吉を起用している。英国俳優のジョン・ミルズを担当した宇野は、初の吹き替え出演の後、「作品のオリジナリティーを無視しては悪い、と思っていた。だから吹替えイコール説明だと考えていたんだが、この認識はすでに古いんだね」と自己批判を行った。 第二次声優ブームは1977年(昭和52年)に公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによるアニメブームと並行して起こった。 1978年(昭和53年)には、外画協定が締結されている。この当時、日俳連に加盟する約2500名の俳優のうち、外画・動画部会は530名を数えるまでになり、15年以上のキャリアを持つ200名を中心としていた。また、日本脚本家連盟も協定書を締結している。 この時代はアニメ雑誌が創刊され始めた時代でもあり、『アニメージュ』の創刊編集長である尾形英夫は、声優のアイドル化を編集方針のひとつとして打ち出した。『アニメージュ』以外のアニメ誌も同様に誌面に声優コーナーを設けて、定期的に声優の情報を発信した。 アニメブームに押される形で声優業と並行した音楽活動も盛んになり、神谷明、古谷徹、古川登志夫などのアニメの美男子キャラクターを持ち役とする人気声優によるバンド「スラップスティック」を結成してライブ活動を行ったほか、多くの声優がレコードを出すなどした。当時万単位のレコードを売り上げる声優として、潘恵子、戸田恵子、神谷明、水島裕、スラップスティックの名が挙げられている。 また『宇宙戦艦ヤマト』で森雪を担当した麻上洋子(現:講談師・一龍斎春水)はアニメが好きで声優になりたくて声優になったことが知られ、声優養成所が輩出した初の声優とされるだけでなく、アイドル声優の始祖といえる存在で、その系譜が小山茉美、潘恵子へと続く。自身のアルバムを4枚出した潘恵子は元祖アイドルと呼ばれた。 1979年(昭和54年)に放送開始した『アニメトピア』など、アニメ声優がパーソナリティを務めるラジオ番組なども誕生。ラジオドラマでは声優人気を背景にした『夜のドラマハウス』があり、アマチュア声優コンテストも開催されていた。 同年、アニメ演出家の富野由悠季は『機動戦士ガンダム』の制作中、『ファンタスティックコレクション』から依頼されて、声優論を展開している。アニメ制作のスタッフの立場から、声優志望者に向けて声優観が表明された。 なぜ?なぜだろう?......そう。声一つとっても、肉体があるから、人格があるから、多種多様の声があるのだ。人格(人としての)のあらわれが声である。声だけで人間は存在しないということなのだ。これを、当たり前と感じた瞬間から、あなたは声優入門の第一歩を見失なうだろう。(中略) 1980年(昭和55年)、日俳連は通商産業省の認可を受けて、団体交渉権を有した協同組合へと改組している。同年、日本映画界の『男はつらいよ』シリーズが第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』からオール同時録音方式を採用する。これにより出演俳優は基本的にアフレコ無しの制作環境に変容している。 1981年(昭和56年)2月、富野由悠季が『アニメ新世紀宣言』を提唱する。同年6月、福田恆存が『演劇入門』を編纂している。 また同年9月には、日俳連の外画・動画部会の交渉委員であった永井一郎が『ガンダムセンチュリー』誌上で、アテレコ論争(1962年)への反論を行う。永井は『月刊OUT』(1977年創刊)の編集部から、声優と舞台の演技の違いについての寄稿を依頼され、声優論を展開した。序文においては、「でもはっきり断っておくけど、僕は、アイドル声優やタレントの仕事について書く気はない。そういう人たちがそれなりに生きていくことを僕は決して否定しない。だけど、ここでは本来の俳優、本来の声優の仕事についてまじめに書くつもりだ。アイドル声優になりたいと思っている人は、このへんで読むのをやめて下さい」とその経緯を説明している。 同年10月、動画協定が締結されている。文書による出演契約の明確化が実現し、業界ルールの健全化が進んだ。 1982年(昭和57年)、NHKが海外ドラマ『遥かなる西部 わが町センテニアル』の吹替放送を実施している。アメリカ建国200周年を記念して制作された全12話には、多彩な出演者が揃い踏みし、中尾彬、滝田裕介、今井和子、小林清志、里居正美、寺田農、樋浦勉、勝部演之、千葉耕市、福田豊土、瑳川哲朗、金内吉男、宍戸錠、天田俊明、鳳八千代、大塚周夫、小原乃梨子、内藤武敏、田口計、寺田路恵、中島葵、小林昭二などが参加している。 この時期のアニメブームも後期に突入すると、新たな人材の採用志向が強まり、レコード会社と歌手契約を結んだアーティスト、アイドルがアニメ声優として起用され、話題を呼んでいる。1982年(昭和57年)に放送された『超時空要塞マクロス』では飯島真理が、1983年(昭和58年)に放送された『魔法の天使クリィミーマミ』では太田貴子が、キャラクターソングなども担当した。 「1983年春のアニメ映画興行戦争」と注目を集めるまでになった劇場用アニメーション映画では、テレビアニメとは趣向を変えた起用も見られるようになっている。角川映画がアニメに進出した『幻魔大戦』では、江守徹、美輪明宏、穂積隆信、林泰文、原田知世、白石加代子などが名を連ねた。また、『クラッシャージョウ』では、ハンフリー・ボガートのフィックス声優でもあった久米明が、さらに『宇宙戦艦ヤマト 完結編』では、仲代達矢、石田太郎などが起用されている。 1984年(昭和59年)、アニメブームの到達点として記録された劇場用アニメーション映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の3作品が公開されている。各作品でヒロイン役を担当した平野文、島本須美、土井美加は、いずれも公開当時20代であり、大学の演劇科や劇団の演劇学校の出身者であった。同年、現代演劇協会が『ハムレット』を上演しているが、福田恆存が29年前と同じく演出をした本作品で、前述の土井美加はオフィーリア役を担当していた。 人材の供給・育成面では、声優専門プロダクションが分裂することによって次第に数が増え始める。1979年(昭和54年)には、ぷろだくしょんバオバブが、1981年(昭和56年)には、81プロデュースが、1984年(昭和59年)には、大沢事務所、賢プロダクション、アーツビジョンが設立された。同時に各プロダクションにより声優養成所が設けられた。1982年(昭和57年)には、青二塾が設立され、日俳連の副理事長でもあった久松保夫が初代塾長に就任した。久松は「優れた声優は、優れた俳優でもある」という理念の下で後進の育成に乗り出すが、その矢先に急逝する。 これらにより、放送劇団出身者や舞台役者などの俳優活動の一環や余技としての声優業ではなく、最初からアニメ声優を目指した声優が登場し始めた。一連の声優ブームは、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がり、現在に至る声優像の多様化の原点となった。このブームはおおむね1980年代前半ごろまでとされている。 この時期はアニメブームの後に訪れたアニメ冬の時代で、OVAや劇場アニメでの進展が見られている。 1987年(昭和62年)、大手新聞社・テレビ局が製作した劇場用アニメーション映画『紫式部 源氏物語』が公開されている。登場人物の作画において、ライブアクションが採用された本作では、風間杜夫、梶三和子、田島令子、風吹ジュン、萩尾みどり、横山めぐみ、矢崎滋、津嘉山正種、大方斐紗子、大塚周夫、野沢那智、田村錦人、納谷悟朗、常田富士男、大原麗子らが声の出演をしている。 1988年(昭和63年)、OVAを中心に展開された『銀河英雄伝説』(1988年 - 2000年)が開始する。600名を超える登場人物を描き分ける困難から一人一役が採用され、当時の男性声優の大半が出演した。その後、会話劇が魅力の作品という事もあり、芝居に携わる人間が最適ではないかとの検討が行われる。これによりアニメとは疎遠気味であった、外画系で主役級を務める劇団出身者にまで人選が拡大した。 1980年代後半から「声優のアイドル化」あるいはアニメ・イベント(ショー)への出演による「顔出し」が一般的になった。例えば1980年代末のテレビアニメ『鎧伝サムライトルーパー』に出演した5人の男性声優で1989年に結成したユニット「NG5」が人気を集め、ニュース番組で取り上げられるほどであった。声優がマルチ活動をするようになった先駆け的グループであるとも言われている。1993年(平成5年)からのOVAシリーズ『アイドル防衛隊ハミングバード』以後に急速に見られるようになった、アニメ作中のキャラクターと実在の声優を様々な形で相互に連想させるようなメディア的な演出によって、表舞台に立つ存在になった。こうして、アイドル的なイメージ構築によるアイドルファンのアニメファンへの取り込みがなされるようになる。 そして、林原めぐみなどの女性声優がレコード会社と契約を行って歌手活動をする例が増えてくる。 さらに、1990年代になって、吹き替え作品が、地上波放送のほかにも、DVDなどのパッケージやCS放送などさまざまな形態で発信されるようになると、同じ作品でも複数の吹き替えが作られる例が増加した。このため、従来の持ち役制度はほぼなくなったとする指摘もあるが、現在もトム・クルーズ本人からの公認で専属吹き替えを務めている森川智之(2001年以降。森川が担当する前は鈴置洋孝が多く担当していた)のように、同一の声優が同じ役者を吹き替え続ける慣習は残っている。 1991年(平成3年)、日俳連の外画動画部会は出演条件の改定交渉に臨み、合意書に調印している。これにより出演料は平均1.7倍の増額となっている。出演料の高騰は新人声優の登用など、この後の業界構造に影響を与えた。 同年、ウォルト・ディズニー・カンパニーが劇場用アニメーション映画『リトル・マーメイド』を日本で公開する。日本語吹替版の声優には、すずきまゆみ、井上和彦、大友大輔、上條恒彦、久米明、森公美子、森山周一郎らが起用された。また、この後のディズニー・ルネサンスにおいては、スタジオジブリとの事業提携も実施している(1996年)。 用語として、おおむね1990年代半ばから後半にかけて、頻繁に用いられていたが、明確な定義は存在していない。第一次、第二次という使い方も、この用語から逆算的に使用されたもので、こちらも明確な定義は存在していない。この時期の特徴として、「新人声優のデビューラッシュ」「声優の音声入りのテレビゲームやパソコンゲームの登場による仕事の増加」とともに、「声優のマルチ活動化や歌手活動への進出によるアイドル化」「声優がパーソナリティを務めるラジオ番組の普及」などが挙げられる。このことから、声の演技力のほかにも、特にアニメ・ゲームで活躍するには容姿のよさや歌唱力などといったようなことも声優に求められるようになったとされる。 1994年(平成6年)に初めての声優専門誌となる『声優グランプリ』と『ボイスアニメージュ』が相次いで創刊された。同年、ステージ制作業務を手掛けるネルケプランニングが設立され、アニメ作品のキャスティング業務にも参入している。 1995年(平成7年)には初の声優専門のテレビ番組『声♥遊倶楽部』が放送された。そして清水香里や坂本真綾などが、当時中学生でテレビアニメの主人公に抜擢される例もあり、アイドル的な注目を受けた。同年、東北新社が創立35周年記念事業として映像テクノアカデミアを開校し、映像翻訳や声優の教育事業を開始する。 1996年(平成8年)、NHKと東北新社は海外ドラマである『ER緊急救命室』の吹き替え放送に先立って、声優オーディションを開催している。文学座、円、昴、俳優座、青年座の各劇団に所属する俳優陣がごぞって参加し、その中から山像かおり、井上倫宏、平田広明、小山力也、野沢由香里が合格した。同作品は15年間に及び、全332話の出演者数は延べで約3200名を数えている。 1997年(平成9年)、大手出版社・テレビ局・広告代理店が製作した劇場用アニメーション映画である『もののけ姫』が公開されている。当時の日本映画の歴代興行収入第一位となった本作では、声の仕事を主戦場とはしない人間を中心に、松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、西村雅彦、上條恒彦、島本須美、渡辺哲、佐藤允、名古屋章、美輪明宏、森光子、森繁久彌らが声の出演をしている。 なお同年には、椎名へきるが声優として初めて日本武道館で単独コンサートを開催した。椎名は声優が必ずしもアニメや外国映画吹き替えなどの、映像中のキャラクターの影という声の代行者という役割ではなく、声優そのものがスター性を持った存在となり得ることを最初に示した先駆者とみられている。 1998年(平成10年)、アニメ演出家の庵野秀明は、『月刊ニュータイプ』(発行:角川書店)が企画した野田秀樹との対談において、自身の声優観に言及し、その変化を告白している。庵野は前述のアニメブーム以来、アニメ制作に携わっており、直近の監督作であったテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と劇場版(1995年〜1997年)では、若手声優を数多く起用していた。 庵野 僕、声優さんの肉声ってアニメの中で、唯一生だと信じてたんですよ。でもある日突然逆じゃないかと思ったんです。声優さんのお芝居は技術なんですよ。 野田 とってもよくわかる。肉を使ってるはずなのに、肉じゃない。 庵野 ええ。そこにあるのは記号なんですよ。キャラクターを統一するための。人の声をした記号。 野田 肉じゃないものに合わせようとするんだからね。 庵野 そうなんです。それでアニメーションっていうものに、ガターっときたんです。だから実写や舞台がいいなぁって思ったんです。肉体と声がひとつだから。 野田 じゃぁ、声優を使わずに、最初に声をとってから、アニメをつくれば? 庵野 それが理想です。プレスコ(注2)っていう方法。高畑勲さんはやってるし、ディズニー、アメリカでは当たり前なのに、日本ではシステムの問題でなかなかできない。こんどのアニメ(『彼氏彼女の事情』)では声優オーディションをやるんです。型にはまってない役者さんがいいですね。 この時期、アニメ作品で声を担当した声優が舞台公演などでその担当したキャラクターを演じる例の先駆として、サクラ大戦シリーズ#歌謡ショウが始まる。これは1997年(平成9年)から2007年(平成19年)まで続くが、サクラ大戦帝国歌劇団花組のキャラクターの声を演じている声優が、実際に舞台上でそのキャラクターを演じるミュージカル仕立ての公演で、それまでアニメ原作の舞台では俳優が演じていたが、アニメとの声の違いを指摘した子供がいたことで、サクラ大戦シリーズの総合プロデューサーである広井王子は、キャラクターの担当声優を決める際に、舞台公演も視野に入れてキャスティングしていた。 1990年代より活動していた水樹奈々、田村ゆかりや、舞台俳優から転向した宮野真守などの「声優アーティスト」としての成功や、2005年(平成17年)から開催されているAnimelo Summer Liveなどのアニメソング系の合同フェス的なライブの普及などにより、声優と歌手活動を両立させる声優がこの時期以降ますます増加するようになった。水樹は、声優として初のドームツアーやNHK紅白歌合戦への出場など、音楽活動の活躍も目立った。 2007年(平成19年)、同年、一般社団法人・日本声優事業社協議会が設立されている。 2010年代半ば以後、音楽活動に傾倒する声優の増加傾向が年々顕著になり、歌手としての日本武道館での単独公演を実現させる声優が、ほぼ毎年のように現れるようになっている(一例として、内田彩、東山奈央、内田真礼など。特に東山は、自身初めての単独公演が日本武道館での開催であった)。 2000年代後半ごろから、一部のマスコミで「第4次声優ブーム」という表現が用いられるようになった(ただし、明確な定義はない)。このころから、子どもの「なりたい職業ランキング」の上位に「声優」がランクインするようになった。 2000年代後半以降、深夜アニメの本数が急速に増加。これにより、いわゆる「アニメバブル」という状況が生まれ、新人声優デビューは増加の一途をたどる。資格制度があるわけではないので実数の把握は困難であるが、声優専門誌である『声優グランプリ』の声優名鑑に記載されている声優の人数は2001年版は370人だったのに対し、2022年版は21年前と比べて約4.5倍の1658人に増加していることからも窺える。こうして花澤香菜、 悠木碧、 神木隆之介、 日高里菜、 佐倉綾音、 瀬戸麻沙美、 小倉唯、 石原夏織、 諸星すみれ、 伊藤美来、 夏川椎菜、水瀬いのり、 富田美憂、林鼓子、楠木ともり、 近藤玲奈、 菱川花菜など当時10代でテレビアニメの主演を務める例も、以前よりみられるようになった。 なおこの当時の10代デビュー組のうち 大坪由佳、 MAKO、 矢作紗友里、 小見川千明、 福原遥、 黒沢ともよ、 田所あずさ、 伊波杏樹、 武藤志織、 茜屋日海夏、 片平美那、 松永あかね、 石橋陽彩、 増田里紅 らは、声優デビュー作で主役である。 さらに、『ラブライブ!』や『アイドルマスター』『けいおん!』『BanG Dream!』『あんさんぶるスターズ!』など、ゲームやアニメ番組から派生した企画による声優ユニットが男女を問わず人気を博すことも多くなっていく。 特に『ラブライブ!』のμ'sは、東京ドーム公演やNHK紅白歌合戦への出場するなど人気を獲得した。このため、現在の声優は演技だけではなくアイドルのように、ルックス、歌唱力、ダンススキルが求められる例もある。逆に田野アサミ(元BOYSTYLE)や仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)など、アイドルから声優に転身する例も増えているとされている。 2010年代には小宮有紗、美山加恋、福原遥のように声優・俳優・歌手を兼業する者も目立った。 2010年代後半にはバーチャルなキャラクターを製作し、それに声優が声をあててYouTubeなど動画配信を利用して配信するVTuberが出現するが、このキャラクターを「声優」として、YTuberがほかのアニメ・ゲーム作品などに声をあてるという現象が開始されている(バーチャルYouTuber活動も参照)。 2023年10月から「インボイス制度」(正式名称:適格請求書等保存方式)が施行予定となり、声優業界に与えるインパクトを憂慮し、有志グループ「VOICTION」が発足し、本制度への反対運動を行なっている。同グループはアンケート調査を実施し、その結果によると72%は声優としての年収が300万円以下であると回答しており、同グループの一人甲斐田裕子によると、2022年時点での声優のギャラは20年前(2000年ごろ)から変わっていないという(経済環境も参照)。 2023年(令和5年)、日俳連が「生成系AI技術の活用に関する提言」を行う。 アニメ、オリジナルビデオアニメ(OVA)、ラジオドラマ、ドラマCD、ゲーム、テレビ、映画、洋画や海外ドラマの日本語吹き替え、ボイスドラマ、ナレーション、アナウンス、番組内の語り手、朗読などがある。 声による演技以外にも、出演作の関連イベントや宣伝など付随して顔出し出演があるが、事前契約はせずその都度の協議で決定することが多いなど、俳優とは出演料のシステムが異なる。 仕事の取り方はオーディションによる選考、制作側による指名、出資によるキャスティング権の確保であるが、仕事の種類ごとに異なる。 画面を見ながら台詞を吹き込むアフレコと、事前に台詞を収録し、それに合わせて後から動画を制作するプレスコの2種類の方法がある。日本ではアフレコが主流である。近年のアニメ制作のデジタル化により、アフレコ後に絵を修正する例も多い。なお、声をあてることからアテレコとも言う。収録はスタジオに声優を集めて一度に行うのが主流だが、芸人や歌手などの非声優を起用する場合は、個別に別録りすることが多い。 出演料はランク制の適用を受ける。 役は原作者や制作サイドからイメージに適合した声(声質)や演技力を持つ人物が指名されることもあったり、昨今はアニメに対する出資会社によって出演枠を確保する方法がとられることもあり、オーディションによる出演ではない者も混在しているが、通常は選考オーディションを受けて得るというシステムが主流である。 オーディションについても、予定しているキャラクターの役柄に合うであろう声優を指名して受けてもらうケース(その結果で、別のキャラクターの配役になるケースもある)もあるが、通常は制作会社などから声優事務所の庶務にオーディションのお知らせが通達され、事務所は役柄に合うと判断した所属声優を数人選び、その選ばれた者だけがオーディションを受けられるというのが通例である。そのため大人数の声優を抱える大手事務所では、まず事務所内での競争を勝ち抜かないとオーディションを受ける機会すらない。そして、たとえオーディションを受けられたとしても、60本に1本受かればいいというほどの競争率と言われる。 古川登志夫は『ポプテピピック』に出演した際、「大御所なんだから仕事選べ」という一部視聴者の声が出たことに対して「冗談ではない。アニメのキャラ声は本職だ。第一仕事を選べるほど偉い立場にない」「一本の仕事を取るのにマネージャーさんが何度頭を下げるかご存知か!」と反論している。 何人かで一緒にブースに入って実際に芝居をして、そのバランスを見て決められたりもある。このとき受けた役は落ちたが、他の役で決まることもある。これはオーディションで「このセリフを読んでください」と言われて別のキャラクターのセリフを読むこともあって、その役に決まるなどの他、あとから追加されるキャラクターの役をもらうこともある。 その他、『けんぷファー』のように原作で声優名が設定されていたので、アニメ化に際しても、一部の登場人物の声にその声優本人を起用している例もある。 公募形式とする例もあり、2005年(平成17年)の『SPEED GRAPHER』ではヒロイン役を公募オーディションとしたが、第1次・第2次審査で絞り込んでからウェブの一般投票も加味される形式で行われた(新人の真堂圭が選ばれた)。2013年(平成25年)にはテレビアニメ『ふたりはミルキィホームズ』の主人公役を決める公募オーディションが行われた(新人の伊藤彩沙が選ばれた)。2018年(平成30年)放送の『からくりサーカス』では主役の1人をプロアマ不問の公募オーディションにより決定すると発表したが、応募総数は2,500人超だったという(新人の植田千尋が選ばれた)。2021年(令和3年)の『ワッチャプリマジ!』では公募オーディションの審査を各段階で公開している。 #一般公募も参照。 CMやPV、パチンコのリーチアクションなどアニメ映像を使う場面でも、声優が声を担当している。 基本的に、かけ合いではなく一人ずつ個別に収録する。 CD-ROMの普及し始めた1980年代末から増えた仕事である。1990年代に、PlayStationなどの家庭用ゲーム機器やパチンコなどの遊戯機器などで高性能なゲーム機が次々に登場し、ソフトウェアに既存作品にはないオリジナルストーリーを展開する作品の導入が可能となると、そのキャラクターに声を当てる声優が起用されることが一般的になった。そして『ときめきメモリアル』(1994年〈平成6年〉 - )から人気に火のついた男性向け恋愛ゲームは美少女ばかりが登場するゲームから「ギャルゲー」とも呼ばれ始め、他のジャンルにも美少女キャラクターとその担当声優が付くゲームが増加した。 出演料については、当初は明確な基準がなかったが、1998年(平成10年)に日本俳優連合(日俳連)と社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)の間で協議が持たれてからは、一般向けのゲームでは、アニメと同様にランク制が適用されるようになった。 アニメと同じく、オーディションや指名によって選出される。 アダルトゲーム(エロゲー)・アダルトアニメなどの年齢制限のある作品に声をあてる。この場合、声優名を非公表とするか、別の芸名を使うことがほとんどであるが、まれに普段使用している声優名のままでクレジットされていることもあり、石田彰や一条和矢、大野まりな、こおろぎさとみなど、一般作と同じ名義で出演する声優もいる。 ダイナマイト亜美や静木亜美、長崎みなみなど、アダルト作品を専門としている声優もおり、ゲームのアニメ化に合わせて一般作での活動を行なう例も多い。 ComicFestaアニメでは成人向けの描写をカットした一般向けと、すべての描写を入れた完全版の2種類を用意しており、それぞれ声優も異なっている。 特撮番組では、顔出し出演のほかにスーツアクターが演じる怪人などの声を担当するという仕事もある。『アクマイザー3』や『宇宙戦隊キュウレンジャー』、『機界戦隊ゼンカイジャー』など、着ぐるみが中心のヒーロー物など、また昨今のウルトラマンシリーズではウルトラマンが言葉を発するため、特に声を当てる声優が必要となる。 ヒーロー物番組ではさらに、変身などでの音声(かけ声など)を担当することも多い。 通常は、動きはスーツアクターが担当してそれに合わせて声を当てる作業であるが、中には声とアクターを兼任する場合もあり、愛川欽也による『おはよう!こどもショー』のロバくん、チョー(俳優)が担当する 『いないいないばあっ!』でのワンワン、大竹宏が担当していた『ママとあそぼう!ピンポンパン』のカッパのカータン、千葉繁が扮した『深夜秘宝館』Dr.シーゲル・バーチーらは、それぞれスーツアクターも兼任し直接声をあてていることが知られている。 鈴田美夜子のように公の場で顔出ししない手段として、着ぐるみを着ているというケースもある。 ほかに『ウルトラマン』でザラブ星人の声をあてることになった青野武はそれに飽き足らず、雰囲気をつかむため実際に着ぐるみの中に入ってザラブ星人を演じている、『ウルトラセブン誕生35周年“EVOLUTION”5部作』(2002年〈平成14年〉)に出演の関智一はガルド星人として声だけでなく、星人の普段の姿も演じている、上坂すみれは『ウルトラマントリガー』でカルミラの声あてとともに同キャラの地球人・人間態として本人出演をしている...などのケースがある。 人形劇はキャラクターの演技とタイミングを合わせながらセリフを言うか、事前に収録した映像を見ながらアフレコする。NHKの人形劇はプレスコ形式が多い。また1人で複数役を兼任するスタイルが多く、『連続人形活劇 新・三銃士』では30人近い役を7名で演じており、『人形劇 三国志』ではメインキャラクターを演じる役者は5名以上の役を兼任している。 着ぐるみショーでは上記#着ぐるみのアテレコにあるとおり生で声を合わせることもあるが、基本的には事前に声を収録してそれに合わせて着ぐるみの演者(スーツアクター)が演技を行う。 劇団飛行船の公演は「マスクプレイ」という、着ぐるみをきたアクターが声優によって吹き込まれた声に合わせて演じる手法をとっている。 海外ドラマ・外国映画などの登場人物の声を俳優に代わって演じる。 フィックス制度により役が特定の声優に固定されていることもあるが、放送版とセル版では異なる声優となる例もある。 ニュースやドキュメンタリーなどのボイスオーバーの仕事もある。 アニメ同様、ランク制の対象となる。 アニメとは異なりオーディションはほとんど行われず、プロデューサーやディレクターなどが声優を指名して決めることがほとんどとされる。ただし、外画の場合でも録った声を本国に送って向こうのスタッフが判断して選ぶこともあったり、ディズニー作品、スティーヴン・スピルバーグ作品、ジョージ・ルーカス作品などでは指名ではなく、アニメ同様オーディションが行われるという。 ラジオドラマ・ドラマCDなど音声のみのドラマ作品でキャラクターの声を演じる。 ドラマCDの場合、売上を考慮して、すでに知名度のある声優を起用することが多いが、逆に新人やアマチュアをオーディションによって選ぶ例もある。 アニメ・ゲーム・ライトノベル・ラジオ番組のDJ・ドラマCD・玩具などメディアミックスが行われる作品でのアテレコ・アフレコ。作品CMがアニメドラマ形式でつくられ、そのアテレコを担当することもある。以前に出演していた媒体、例えばゲームが運よくアニメ化される、アニメの新しいシリーズが始まる、ドラマCDがアニメ化するなどの形で仕事が発生するなど、仕事の幅が意外にも広がるのである。 基本的には同一の声優が同じ役に固定されるが、諸事情により変わることもある。 語り手、朗読とは別に、声や語りかけるなどの音声作品をレコードやカセットテープ、コンパクトディスクなど音声記録媒体に記録してボイス集などとして販売するもので、2010年代からはさらに音響技術によりASMR作品・バイノーラル録音での音声作品が登場し、主にインターネットを通してダウンロード販売などがなされている。こうした音声作品のダウンロード販売に2020年代から名の知られる声優も続々と参入している。 また、家電やイヤホンといった音響機器、パソコンソフトの起動や操作時など各種機器のシステム起動音などやボタン操作音などで音声を組み込み製造販売される際の声を担当するなどのケースもある。 この他に、自身の声を初音ミクといったバーチャルアイドルなどに代表される二次元媒体を中心とした架空キャラクターの声に、音源データとして活用される仕事などがある。VOCALOID初期から試みられてきたが、声優の声や表現を活用すべくAIの音声に声優の声を導入して提供するサービスが始められており、こうした声優の個性、表現や「声」そのものをコンテンツとして提供する仕事が生じている。 テレビ番組・テレビやラジオのCM・PRビデオ、解説ビデオなどの朗読、イベントのアナウンスやリングアナウンサー、番号案内の録音されたメッセージ、デパートやスーパーマーケットなどでの小売店舗の録音案内、駅や路線バスなどの公共交通機関のアナウンス(自動放送)など。 ナレーションやアナウンスもAI音声として、本職のナレーター、アナウンサーとそん色ないニュース原稿を読み上げる人造アナウンサーなども出現している。 ランク制の対象外の仕事で、ギャラはアニメ・日本語吹き替え・ゲームよりもはるかに高額とされ、特にテレビCMが高額とされている。ただし基本的に単発かつ不定期の仕事であり、安定した収入にはなりにくい。また本業のナレーターやアナウンサーとも競合する。 日本語吹き替え同様、オーディションはほとんど行われず、指名で決まることがほとんどとされる。 前述のように、舞台俳優が声優を兼ねる例は創成期から多い。松本忍、かぬか光明、松岡文雄、中村太亮のように劇団に所属していた、北島善紀、志賀克也、置鮎龍太郎など劇団に所属しながら並行して活動する者も多いが、野沢那智、坂口候一、関智一、緒方賢一、伊藤健太郎、菅谷勇、金光宣明、大西健晴、目黒光祐、大黒和広、関俊彦や中尾隆聖などのように劇団を創立したり主宰する者、筈見純のように演出家として活動する者もおり、声優で舞台公演に演者として出演するケースは多い。 劇団の中ではもともとテアトル・エコーは声の仕事に積極的なことで知られ、安原義人、小宮和枝、納谷悟朗、多田野曜平、雨蘭咲木子、竹若拓磨ら同劇団所属俳優らの多くが声優を兼ねているし、劇団21世紀FOXにも声優が多数所属していた。 #俳優・舞台役者も参照。 そして#第3次声優ブーム時のサクラ大戦歌謡ショウや、2000年以降には、漫画・アニメ・ゲームなどを原作・原案とした舞台芸術である2.5次元ミュージカルでは『テニスの王子様』『刀剣乱舞』など、声優が演者となって出演することが多い。 通常の舞台劇とは別に、台本を持って音読するスタイルで上演される朗読劇(リーディング)もあり、メディアミックスとしての上演もある。 映画やテレビドラマで俳優活動を行う者もおり、近年ではバラエティ番組などへの出演もある。 戸田恵子が1998年の『ショムニ(テレビドラマ)』からテレビドラマやテレビCMに出演し始めていくが、2010年以降にはドラマ『満福少女ドラゴネット』(2010年)の久保ユリカ、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2015年)NHK連続テレビ小説『あまちゃん』(2013年)の水瀬いのり、NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の高木渉、NHK連続テレビ小説「エール」(2020年)の津田健次郎、「麒麟がくる」(2020年)の大塚明夫、『半沢直樹』(2020年)の宮野真守、『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』(2021年)の花江夏樹、『青天を衝け』(2021年)の置鮎龍太郎、『リコカツ』(2021年)の三石琴乃の例がみられる。 2010年代後半から『声ガール!』(2018年)や『劇団スフィア』(2019年)、『声優探偵』(2021年)といった声優をテーマにして声優が俳優として出演する実写ドラマが制作されている。 映画出演についても『バトル・ロワイアル』(2000年)の宮村優子、『包帯クラブ』(2007年)の小野賢章、『モノクロームの少女』(2009年)の入野自由、『君がいなくちゃだめなんだ』(2015年)の花澤香菜、『小野寺の弟・小野寺の姉』(2014年)『-X-マイナス・カケル・マイナス』(2011年)の寿美菜子、『縁-enishi-』(2011年)の谷山紀章、『寄性獣医・鈴音 EVOLUTION』(2011年)『猫カフェ』(2018年)の久保ユリカ、『図書館戦争』(2013年)の鈴木達央らの例がある。 このほか映画『第2写真部』(2009年)、実写『ヤッターマン』(2009年)、『腐女子彼女。』(2009年)、『私の優しくない先輩』(2010年)、『Wonderful World』(2010年)、『ライトノベルの楽しい書き方』(2010年)、『神☆ヴォイス 〜THE VOICE MAKES A MIRACLE〜』(2011年)、『死ガ二人ヲワカツマデ... 第一章 色ノナイ青』『死ガ二人ヲワカツマデ... 第二章 南瓜花-nananka-』(2012年)、特撮ドラマ『非公認戦隊アキバレンジャー』『非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛』(2012年 - 2013年)、『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013年 - 2014年)最終話やエンディングのダンス、『Green Flash』(2015年)など、声優が複数人が顔出しで出演している作品も多い。 水樹奈々、内田真礼、竹達彩奈などのように、CMで顔出し出演をする声優も増えている。CMは広告代理店担当者査定などに該当しランク制対象外である。 2010年代後半には、梶裕貴のようにニュース番組のコメンテーターとして出演する声優もいる。 この他にお笑い活動もあり、山寺宏一のようにものまね番組に出演してものまねを披露したり、2019年7月に「ラッシュスタイル」というコンビを組んでいた速水奨と野津山幸宏がM-1グランプリ2019にエントリーしている。 2010年代後半からは『ラフラフ!』『Warahibi!』といった声優×二次元芸人プロジェクトが進行している。その中でも『GET UP! GET LIVE!』は声優が芸人の役を演じるだけでなく、実際にイベントで漫才やコントのリーディングライブに挑戦。芸人役を演じている花江夏樹、西山宏太朗、阿座上洋平、熊谷健太郎らがイベントで実際に漫才やコントを披露している。 #声優による他分野での活動も参照。 音楽CDを発売したり、コンサートを開催したりするなど、歌手として活動をおこなう。逆に、アイドル歌手が声優に転身することもある。 アニメ・ゲームにおいては、出演声優が、個人またはユニットとして、その作品の主題歌を歌うことがある。また、キャラクターが歌っているという設定にして、声優本人の名義ではなく、キャラクター名義でキャラクターソングをリリースすることがある。 林原めぐみが声優として初めてキングレコードスターチャイルドレーベルと専属契約を結んだ1991年(平成3年)3月以後、声優がレコード会社との専属契約を結び、本格的に歌手活動をする例が一般化している。 数名の声優が音楽ユニットを結成して、歌手(音楽)活動をすることもあり、これは声優ユニットと称されることが多い。『アイドルマスター』や『ラブライブ!』などのように、ドーム球場でライブを行う人気作品もある。 オリコンなどのヒットチャートにおいては、かつてアニメソングは児童向けの曲として別に集計されていた。また、アニメ専門店や家電量販店は集計の対象外だった。これらが修正された1990年代半ばごろから、声優の歌のCDがランキング上位になることが増えた。 1997年(平成9年)2月に椎名へきるが声優初となる日本武道館単独コンサートを開催したのを皮切りに、声優が武道館のような大きな会場で単独コンサートを開催するようになっていった。2011年12月には水樹奈々が声優初となる東京ドーム単独コンサートを開催した。 アニメソングが一般層にも浸透するにつれ、声優が音楽テレビ番組に出演して歌を歌うことも増えている。1997年(平成9年)には椎名へきるが「ミュージックステーション」に、2009年(平成21年)には、水樹奈々がNHK紅白歌合戦(第60回NHK紅白歌合戦)に、それぞれ声優として初めて出演している。 水樹奈々や茅原実里、蒼井翔太、柴本浩行のように、元来歌手を志望していた人物が声優となり、のちに歌手としてもデビューするということもある。 #アイドル声優と#声優アーティストも参照。 声優によるラジオ番組のパーソナリティは、古くから存在するが、1990年代以降は文化放送やラジオ大阪、ラジオ関西がアニラジ専門の放送枠を設けるなど、番組数が急増した。そしてアニラジパーソナリティの一般公募などもあり、例えば井澤美香子は養成課程修了後、声優になりたいという夢のもとでアニラジのパーソナリティの一般公募へ応募したという。 2000年代以降は、地上波放送だけでなく、動画配信サイトを使ったインターネットラジオ番組も増えている。こうしたラジオ番組では声優個人の冠番組の他、現在進行系でテレビ放送中のアニメ番組に因んだラジオ番組が放送期間中設けられて、当該アニメ番組に出演する声優がパーソナリティを務めるなどがある。 2010年代後半からYouTuberが人気を博しはじめて、アニメファンや声優ファンの間ではバーチャルYouTuber(VTuber)も熱い支持を得ていく。キズナアイを筆頭とするバーチャルYouTuberたちが一大ジャンルとして着実に市民権を得ていくが、その中でも顔出しのYouTuberを凌ぐほどの人気を誇るバーチャルYouTuberたちも多い。 バーチャルYouTuberはYouTuberとして動画配信を行うCGキャラクターのことであるが、アバターを使って動画配信をする専用機器を装着した演者の表情や動きを読み取るモーションキャプチャー技術と3DCGで作られたキャラクターをアニメーション化して声をあてることで、キャラクターが実在しているかのように見せている。 そして#音声作品にあるキャラクターの声に活用するデータ音源の仕事とは違い、自身の喋りをリアルタイムで伝えており、このために"声での演技力"が求められるため、キャラクターに声をあてている人物は声優であることが多いことが知られる。かなりの割合でプロの声優がその演者として声や体の動きを担当しバーチャルな存在として活動していくが、VTuberはキャラクター自身が動画を投稿しているという設定となっており、声をあてている人に言及することはファンの間で一種タブー視もされている。 VTuberには企業などの運営者と声優などの演者が関わっているため、声優がVTuberになる方法として、まず運営者から声優事務所に演者を募集するオーディションの話が来て、声優がそれを受ける。 ただし一般的に声が認知されていて人物が特定されるような人気声優が務めることは少数であるが、これはアニメのアフレコやナレーションなどの一般的な声優仕事よりも報酬が少ないためで、人気声優ではなく知名度でなくあまり売れていない声優やキャリアの少ない新人声優が起用されるケースが多い。個人がかろうじて食べていける金額にはなってもモーションアクターなど、通常の声優の仕事ではない業務を含むなど台本通りにキャラクターを演じる仕事ではなく、台本なしで自分の話をする配信者の役割を担うことなど、声優仕事の中では所属事務所が儲けを得るほどにはならない職ともいえる。 VTuberの演者への報酬は台詞の量にもよるが、その業界に相場が無いのでピンキリとされ、声優が行う仕事とは金額に大きな差があり報酬が合わず、VTuberの演者は声優の仕事よりも報酬が落ちるとされる。またそもそもVTuber自体が厳しいYouTubeの世界で生き残るのは難しいことも知られる。 長期シリーズを中心に、担当声優の引退や逝去・降板以外に、諸般の事情による交代も時折起こる。また同じく病気や産休・事故などによる療養や、海外留学などによる休業により「一時的に」別の声優が代役を担当する例も多く見られる。さらにメディアミックスの媒体ごとで声優が交代することは頻繁にある。 メディアミックスの場合、舞台公演などで身体的な負担が大きくなったため、他の作品への出演は続けるが、当該作品は降板するような場合もいくつかある。また『Fate/staynight』などメディアミックスや派生作品ごとキャラクターが数回変更になる作品もある。 また『ウマ娘 プリティーダービー』のように当初予定していた声優から大幅入れ替えした例もある。 このほかに『サザエさん』や『ドラえもん』(テレビ朝日版)など、長く続いているアニメで、世代交代的にメインキャストが交代するケースもある。声優交代には様々なパターンがあり、『ドラえもん』のように全面的に変えてしまうケース、『サザエさん』のように声優の死去・引退までなるべく同じ声優を維持し段階的にキャスト交代を実施するケース、『ルパン三世』や『サムライスピリッツ』など声優交代をしてみたが前任者らの演技イメージが強く結局次作制作時に前任者が起用されるケース、『天才バカボン』のバカボンのママのように他の声優が代わっても交代しないよう指名されているケースなどがある。同作では他作品の客演とメディアミックス発表の際に段階的に一部キャスト変更し、新シリーズの際にキャストが交代するという形となった。 年月を経てリメイクされるアニメ作品の場合、大半のキャストが変更される場合が多い。『銀河英雄伝説』『フルーツバスケット』『ヤッターマン』『ゲゲゲの鬼太郎』などや『るろうに剣心』や『うる星やつら』などの名作のリメイクで声優が交代したのを始め、『シャーマンキング』などは2001年のアニメ化後、20年後の2021年に再アニメ化の際に原作者の意向もあってキャストの大半が同じとなっているが、一部キャストはスケジュール上の都合や死去などの理由で変更されている。逆に原作者の要請により声優交代が求められた作品に『聖闘士星矢』があり、後に騒動となっている。また『SLAM DUNK』の2022年公開のアニメ映画『THE FIRST SLAM DUNK』でも従来のキャストを一新したことに賛否の声が挙がっている。 洋画吹き替えなどでは、担当俳優の声を当てる専属声優が時代と共に変更される例も多く、また映像ソフトに収録される場合の他、放送するテレビ局ごとに日本語版制作される際に声優が変更されることも多い。 技術の進歩から、AIが不祥事を起こした声優の仕事を代役として担当した例がある(中国で映画などの吹き替えを行った姜広涛(中国語版)のケースなど)。 交代の一例を以下に示す。 中でも冨永みーなは降板後の声優を担当することが多い。 なお交代と関連したケースとして、同一のキャラクターに演出上の意図で別の声優を起用するという事も多い。 演出上の意図で声優が複数割り当てられた作品もある。例えば『彼岸島X』においては、1話につき一人の声優がその回登場の全キャラクターを担当し、各話ごとそれぞれ声優が割り当てられた。『100万の命の上に俺は立っている』のテレビアニメ版においては、主要キャストは固定されたが、登場人物のゲームマスターについては各話登場毎に別べつの声優が当てられた。また、『ポプテピピック』に関してはメインキャラクターの声優が毎回異なる。 ほかに身分隠しの変装などで人相や人格が変わることを表現するためや、キャラクターで少年期と青年期以降で別声優が担当するケースなど、演出都合で作中の月日や時間が大きく進んで、特定のキャラクターが歳をとっていくことで別の声優を起用するケースは多い。これは下記のとおり男性キャラクターで少年期を女性声優が担当し、青年期以降は男性声優が担当するケースなどはよく知られる。ただし男性キャラクターでも孫悟空などのように少年期を演じた女性声優が青年期も演じることもあるし、また男性キャラクターでも『ジョジョの奇妙な冒険』のジョセフ・ジョースターは、少年期から青年期→中年期から老年期で男性声優で変更、女性キャラクターの場合でも、映画『秒速5センチメートル』の篠原明里など少女時代と大人時代で声優が変更となることはある。 男性と女性とでは声質が違うため、通常は男性が女性の役(またはその逆)を演じることはないが、女性は基本的に地声が高いため、アニメのアフレコや洋画の吹き替えなどで、女性が男性(中学生くらいまでの少年。特に変声前の幼い男の子)の声を演じるという例はよくある。一方、男性は基本的に地声が低いため、特に変声前の子供を演じることは聞き手に違和感を感じさせるため難しく、子役以外の男性が子役を演じる例は石田彰や代永翼、梶裕貴など僅かである。また同様に、男性が女性(特に少女)の声を演じるという例は声優の地声が高くないと務まらないため極めて少なく、蒼井翔太や村瀬歩、山本和臣などごく僅かである。 日本で大人が子供の役を演じた最初例として、1954年(昭和29年)のNHKラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』が知られるが、子供の役に子役を起用するのは、演技指導などで難しい面があった。ただし少数ではあるが子役が台詞の多い主要キャラクターとして起用の例は、『ばらかもん』、『夢色パティシエール』、『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』などがある。 ハリウッド映画で、子供が主人公の映画が流行した1980年代には、日本でも吹き替え版で少年役を子役に演じさせようとする傾向が多く見られた。当時児童劇団に所属していた者が子役の吹き替えを担当しており、浪川大輔のように声優になった者もいる。 日本以外では、子供の役は子供に担当させることが主流である。脚本家のブレイク・スナイダーは、8歳のころにTVプロデューサーだった父親の手伝いとして、スターリング・ホロウェイらとともに子供の役を演じていたが、変声により解雇されている。 諸外国では、日本のように専業の声優が確立している国は少ないとも言われる。ただ、アメリカでは代表的な人物だけでも200人以上おり、近年では日本アニメの吹き替えや音声入りゲームの増加により、声優業がメインの役者も増えている。 韓国では、放送局が放送劇団(声優劇会)を持っている。 劉セイラ、ジェーニャ、Liyuuなどのように、日本国外出身の外国人であるため日本語が母語ではないが、一から日本語を習得して日本国内で声優として活動している例も僅かに存在する。外国人の場合は日本語の読み書きはもちろんのこと、大概は母語に由来する訛り(●●語訛り)が出てしまい視聴者に違和感を感じさせてしまうため、日本国内で声優として活動を続けることは非常にハードルが高い。ただし、日本のコンテンツであっても、外国人役としてであれば需要はある。 声優の経歴としては、以下のような例がある。 NHKと民放が組織した劇団で、局のアナウンサーとは別個に、芸能を担当するために放送局で養成され、おもにラジオドラマを担当した放送タレントであり、彼らを指す言葉として「声優」が生まれた。芸能事務所などの台頭で現在ではすべて解散している。 NHKの東京放送劇団からは、巖金四郎、加藤道子、中村紀子子、大木民夫など、NHK札幌放送劇団出身の若山弦蔵、NHK九州放送劇団出身の内海賢二など多数。 民放ではのちのTBSにあたるラジオ東京放送劇団からは大平透、中村正、滝口順平、田中信夫、朝戸鉄也、向井真理子など。 地方局では、CBC中部日本放送劇団出身の中江真司、RKB毎日放送劇団出身の八奈見乗児など。 地方局で活動していたのはラジオドラマの全盛期までのことで、テレビ時代になると海外作品の日本語吹き替えなどの声優の仕事は東京に集中していった。 声優プロダクション付属の声優養成所、声優になるためのレッスン指導を主とする養成所、声優関連の学校(声優養成学科がある専修学校)などの出身。 声優になることを目指すには、声優の養成所や専門学校に通うのがもっとも一般的である。養成期間はおおむね1年から3年で、養成期間修了後に行われる所属オーディションに合格するとプロダクション所属となる。この時点では「新人」「ジュニア」「仮所属」などと称される見習い期間となる。見習い期間が終了し、内部審査を経て、認められた者だけが正所属(正規に所属する)となる。 学生時代のうちもしくは卒業してから養成所に通う人間もいれば、社会人になってから養成所に通う人間もいる。また、学生時代でも中高生から通うことができる養成所もあり、10代もしくは20代前半でデビューしている声優には、子役出身や一般公募の他に中高生から通っていた者が多くみられる。 多くは学生時代のうちもしくは卒業してからの例だが、上記の大平透もフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターをへてTBS劇団に所属したように、養成所から声優になった者にも、他業種を経てもしくは並行して養成所に通う例は多い。若本規夫、茅野愛衣、金田朋子などは社会人を経て養成所に通うようになり、その後に声優となった。なお若本は元警視庁機動隊員で除隊後、茅野はセラピストをしながら、金田は製菓会社から銀行員に転職してから、それぞれ通っていた。岸尾だいすけは学校卒業後就職した半導体工場で3交代勤務、デビュー後も付き人やアルバイト生活後、井上和彦はプロボウラーを目指して、ボウリング場に就職した後、三木眞一郎はパティシエ、三宅健太はデパートのパン屋勤務を経て、木村亜希子は大学卒業後、就職しながら、こおろぎさとみは幼稚園教諭を4年間勤めて後、高橋直純は寿司職人見習いとアイドルユニットを兼務の後に、小林裕介は大手家電メーカーをへて、山崎和佳奈は大手電子機器メーカー勤務と並行して、近藤孝行は関西の鉄道会社勤務の後、楠田敏之は石油会社をへて、高森奈津美は声優になるため養成所に通う以前はJR東日本の駅員、中井和哉、永塚拓馬、掛川裕彦、原由実らは公務員務めと並行して、養成所へ通っている。 三石琴乃、高山みなみ、中原麻衣、田中敦子、皆川純子、洲崎綾、ファイルーズあいらは就職してOL時代並行してもしくは退職後に養成所に通い声優へとなる。 橘田いずみが養成所に通う前にはレースクイーンの経歴がある。原奈津子はローカルタレントをへて養成所に通った。生天目仁美などは声優の専門学校から劇団(東京乾電池)を経て養成所に通ってデビューしている。販売店員(無印良品)と併業での女優をしていた小原好美も養成の学校を出て当初芸能事務所に所属してのちに声優事務所に移籍し声優業に転じた。女優・歌手の神田沙也加は後に声優としても活動し始めるが、それ以前から声優の養成学校に通って準備をしていた。佐々木李子も歌手としてデビューしてから、声優の専門学校へ進学し、その後声優も始める。石上静香も既に漫画家として連載を抱えていたが、後に養成所に通うようになって声優となる。 稲田徹は養成所と並行してプロレスラー志望でもあったが、そちらは怪我により断念している。 地方で他キャリアを積んでから上京して養成所に通う例もあり、今野宏美は高校生のころに地元の北海道でラジオのパーソナリティーをへて上京して、田村ゆかりも地元声優学校在籍中には地元KBCラジオでの番組内アシスタントを担当と並行してサラリーマン生活を経て上京してというケースである。 異色の経緯に児童劇団にいたことや特待生オーディションを受けた経歴をもつ大原めぐみの場合がある。彼女はすでに結婚し子供も出産して専業主婦をしていたが、27歳のときに養成所に通い始めている。 81プロデュースや賢プロダクションなどのプロダクションによる、専門学校や養成所からだけでなく一般からも募集する一般公開形式のオーディションも開かれているが、こうしたオーデションのグランプリ受賞者は特待生として経営する養成スタジオでのレッスンのほか、デビューだけではなくその後の長期的な声優活動をバックアックもなされる場合がある。 日本大学芸術学部、桐朋学園芸術短期大学、玉川大学、大阪芸術大学などの大学教育機関の出身者。広川太一郎、柴田秀勝、平野文、榊原良子、かないみか、うえだゆうじ、潘めぐみなどがいる。小山力也などは別の大学を卒業してからこれらの大学に進学した。 子役が進学した例としては冨永みーな、平野綾、宮本佳那子など、在学中または卒業後に声優養成所に通う例としては石田彰、川上とも子、宮村優子などがいる。 舞台演劇やミュージカルで活動する舞台役者が、その後声優として長く活動するようになる例は、声優という職業が成立する時期から多く存在しており、大塚明夫、納谷悟朗など#舞台劇で紹介されたような面々らがこれに該当する。 吹き替えを中心に、俳優として活動してきた役者が声優としても長く活動するようになる例もあり、津嘉山正種、磯部勉などがこれに該当する。日野聡も児童劇団から舞台俳優となり、吹き替えを多く担当していた。 劇団や舞台での経験が声優業にも良い影響を与えているという意見もある。 内田夕夜や各務立基は劇団俳優座、折笠愛は文芸座や劇団創演、島本須美は劇団青年座出身の舞台女優、折笠富美子もSET劇団員をへて、緒方恵美や玄田哲章、三森すずこなどミュージカル俳優をへて声優に、大川透も声優になる前に10年間舞台活動を行っている。 朴璐美のように劇団所属中に、オーディションで役を射止めて声の仕事を得た例もある。劇団HIROZに所属していた小松昌平、劇団青年座研究所に所属していた島形麻衣奈らは新人発掘オーディションにて、松本梨香も大衆演劇の舞台女優から、舞台で共演した名古屋章の勧めでアニメ『新・おそ松くん』のオーディションを受け、声優となった。劇団にいた天麻ゆうきは、東京ミュウミュウ にゅ〜♡の一般公募オーディションに合格した事をきっかけに、芸能事務所に所属している。 社会人経験や他分野から舞台演劇の世界を経て声優として活動するケースもある。たとえば大塚周夫は、ダンサーから劇団をへている。麻生かほ里は、日本銀行勤務を経て舞台・ミュージカル女優から転進。一条和矢は、大学時代のアマチュア放送劇団、サラリーマンをしながら素人劇団に所属しボイスドラマの自主制作などの経歴がある。緒方賢一は、板前修行の傍らで喜劇役者を目指し、舞台出演していた。竹内順子は、アルバイトでの政治秘書と並行して劇団に所属してから、千葉繁は、電気会社工場勤務から劇団に所属後に転進しアクション俳優やスーツアクターもこなしていたという。矢島晶子は勤めていた和菓子屋退職後に、頼み込んで出演することになった舞台を見に来ていたたてかべ和也にスカウトされ、その後テレビアニメのオーディションで選ばれ声優デビューすることになった。 速水奨は貿易会社勤務の傍ら劇団四季の研究所などに所属していた。劇団四季出身声優には速水の他に江原正士、増山江威子、遠藤晴、内田莉紗、石毛翔弥らがおり、吹き替えを多く手がける石波義人は現役団員である。 タカラジェンヌ出身の声優には太田淑子、葛城七穂、水城レナ、涼風真世、七海ひろき、森なな子などがいる。 児童劇団などに所属する子役が、アテレコ・声優の仕事をするようになったことがきっかけで、そのまま声優業を中心に活躍する例は、声優という職業が成立する時期から多く存在している。池田秀一、古谷徹、古川登志夫、吉田理保子、玉川砂記子、三ツ矢雄二、塩屋浩三・翼兄弟、岩田光央、本名陽子、愛河里花子、などがこれに該当する。近年では、宮野真守、内山昂輝、木村良平、入野自由、三瓶由布子、木村昴、飯田里穂、悠木碧、喜多村英梨、小野賢章、豊永利行、花澤香菜、日高里菜、小倉唯、白石晴香、宮本侑芽、諸星すみれ、黒沢ともよなどがこれに該当する。 通常は児童劇団出身が大半であるが、千葉紗子や南里侑香、小林晃子、滝田樹里、中山理奈など南青山少女歌劇団や、キッズモデルから歌手活動を経て声優になった小林愛香、主に少女モデル業をしていて、事務所内で声優部門に移籍した上坂すみれのケースなどもある。春川芽生もニコモになって所属した事務所内で後に声優部へ移動している。 直接声優を募集するコンテストで入選したことがきっかけで、声優として活動するようになった例もある。 声優志望者のオーディションでは、全国からオーディションで人材を集める。実際、声優事務所とアニメ制作会社や雑誌社が組んで行う、主役声優の一般公募、事務所独自で行うオーディションもある。 一般公募であれば、全国から人を集められるほか、オーディションに応募するというモチベーションが高い人材が集まることで、そこから優秀な人が出てくる確率がかなり高いとみている。 大橋歩夕、真堂圭、曽田光星、沢城みゆき、小坂井祐莉絵、今井麻美、井上麻里奈、佐々木未来、井口裕香、伊藤彩沙、後藤沙緒里、榊原ゆい、三澤紗千香、豊田萌絵、伊藤美来、斉藤朱夏、高本めぐみ、進藤あまねら、高校で演劇部や放送部などで鍛えておいて、または興味で直接公募された一般公募オーディションに出場して合格し声優になる例のほか、声優志望者からなる福岡県のローカルアイドルユニット小梅伍の経験があったが保育士から転じた阿澄佳奈は2005年(平成17年)での公開オーディションで、ジュニアアイドルの経験はあった水瀬いのりも公開オーディションであるソニー主催のアニストテレス入賞によって、声優になっている。アニストテレス出身者のうち、伊波杏樹は専門の学校出身者であるが、声優教育を受けていない楠木ともり、たけだまりこ(現・武田真理子)らは歌手志望でコンテストに臨んでいる。 種田梨沙は通っていた学校の都合もあって結果として養成所に通わず、なる足がかりとして『智一・美樹のラジオビッグバン』のアシスタント募集に一般応募し、アシスタントを1年間勤めた。その後、所属事務所が実施していた研修生オーディションを経て事務所に所属して、栗林みえは1996年にコナミが開催した『ときめきメモリアル』のイメージガールを決定する「ときめきティーンズコンテスト」で、鈴木みのりは2014年に行われたマクロスシリーズ新作テレビアニメの「新歌姫・声優オーディション」合格をきっかけに声優となる。 ミュージックレイン所属で同事務所主催の公募オーディションで選出されたメンバーによる声優ユニットのうち、スフィアでは戸松遥以外は寿美菜子は子役や学校に、高垣彩陽は大学で声楽を専攻していた、豊崎愛生は高校時代から地元のTV番組やCMなどで芸能活動していたが、一方でTrySailの3名は、実績など無く同オーディションに応募し合格し声優となっている。 エイベックス と 81プロデュースが組んで、行われた「アニソン・ヴーカルオーディション」でメンバーを選んで結成した声優ユニットのうち、i☆Risでは山北早紀、芹澤優、若井友希らは養成所などに通っていたが、茜屋日海夏、久保田未夢、澁谷梓希らは養成所などを経ず上記オーディションでの選出。またWUGのうち、吉岡茉祐は子役の実績はあったが、他のメンバーら(永野愛理、田中美海、青山吉能、奥野香耶、山下七海、高木美佑)同様、養成所など経ず上記オーディションでの選出である。81プロデュースでは近年同事務所所属の人気声優は軒並み毎年一般公募で8月に開催されている81オーディションでデビューしている。2022年には81プロデュースは合格者は同プロダクションの所属とユニバーサルミュージックからのアーティストデビューが約束される、声優ガールズユニット発掘プロジェクト「SUN AUDITION」を実施。 スターダストに所属するサンドリオンのメンバーも黒木ほの香や劇団にいた小山百代の他は、事務所が主催したオーディションをへて事務所に所属してから演技経験を積んでいる。 2011年度の「第36回ホリプロタレントスカウトキャラバン 次世代声優アーティストオーディション」出身のうち、大橋彩香は子役経験があったが、高橋花林は遠藤ゆりか、花守ゆみり、加地綾乃らも輩出した「ぽにきゃん声たまグランプリ」、木戸衣吹は『天才てれびくんMAX』の視聴者参加型企画「全国声優オーディション こえたまごっ!」など複数の公募オーディションを経て、田所あずさ、Machico、山崎エリイに至っては他未経験での参加であった。富田美憂も未経験者の前田佳織里、夏吉ゆうこ、三浦千幸らも輩出した「声優アーティスト育成プログラムセレクション」や小田紗弓を輩出した「アニソンスター☆誕生!(アニ☆たん!)」などに応募し声優になっている。 2017年に行われた声優アーティストオーディション「ANISONG STARS」ではアクターズスクール広島出身の吉武千颯のほかは熊田茜音、後本萌葉らを輩出。 声優アワード#新人発掘オーディション出身者では鴨池彩乃、拝師みほ、三川華月、織江珠生、岩川拓吾、土師亜文、青木瑠璃子らが直接である。 他にも「全日本アニソングランプリ」、国際声優育成協会主催のオーディション声優コンテスト『声優魂』、博報堂による声優オーディション企画「全日本美声女コンテスト」など、一般公募のコンテストが開催されている。こうしたコンテスト出場・入賞をきっかけに、養成所に入所する例や、出場がきっかけで直接プロダクションに所属する例もある。 花江夏樹は直接プロダクションにアプローチしたが、こうした例はレアケースとして知られる。ただし研音など事務所側で募集をしている場合も実際に存在する。他にスターダストプロモーションが声優オーディションを、大沢事務所が研究生募集のオーディションを手掛ける。 子役や劇団所属の舞台俳優からの転身の他は、アイドル、グラビアアイドル、歌手、モデル、特撮番組系俳優、お笑いタレント、レポーター、コスプレイヤーなどといった経歴のタレントが、声優の仕事をするようになったことがきっかけで、もしくはオーディションで役を得て、そのまま声優業を中心に活躍する例がある。例えば養成所で芝居は学んでいる原田ひとみは歌手としてスカウトされ、当初は歌手活動をしていた。高槻かなこはアニソン歌手を目指して配信などの活動を経て歌手デビューし、後に声優デビューしている。仲村宗悟は声優アーティストになる前は音楽活動のみをしていた。桃井はるこはマニア向けのアイドル活動からラジオパーソナリティも行い始め、のち誘いを受けて声優の活動も開始していった。近藤玲奈は声優になるまではラブベリーナ、久保ユリカはニコモを経ており、久保はグラビアアイドルをしていた。飯田里穂も子役からグラビアアイドルを経ている。小林晃子はアニラジのがやオーディション、宮本佳那子は挿入歌の歌唱オーディションから、松井菜桜子、千葉千恵巳、落合祐里香、大野まりな、柚木涼香らもなるまでには映画女優、ヌードモデルなど、山本彩乃はグラビアアイドル、小林ゆうは高校時代の雑誌モデル、工藤晴香はファッション誌モデルであった。中島愛、明坂聡美、小松未可子らも選出オーディションはアイドルオーディションで、ゆりんはホリプロ時代はタレント業、MAKOはガールズバンドグループ活動休止の後、後藤友香里はAAAの追加メンバーから声優ユニット「Trefle」へ、飯島綾子や岩男潤子はアイドルから童謡歌手を経て、森田成一は俳優を経て2001年から、声優へと転進している。藤村知可は、レポーターなどのタレントをへて、2006年以降に声優業が中心になる。小岩井ことりは知人から頼まれてメイクのモデルをしたのをきっかけに声の仕事(ナレーション)を紹介され、その後声優になるきっかけを掴むために地元関西でテレビ番組やCMのナレーションなど様々な仕事をしていたし、立花理香は大学院在学中に芸能事務所にスカウトされて、声優になるまではタレント業を行っていた、儀武ゆう子は高校2年生の時から地元沖縄で戦隊ヒーローものの子供ショーの司会やまつりのアナウンスも担当し、上京後もイベントのMCや地方ケーブルテレビのリポーターなどの仕事をしていたという。 アイドルから声優への転身は前述の飯島や岩男(いわお潤)、小松のほかは山本百合子、日髙のり子や佐久間レイ、岡谷章子(岡寛恵)、松本裕美(大野まりな)、宍戸留美、桜井智、千葉千恵巳、徳永愛、水野奈央子(水野愛日)、千葉紗子、高橋美佳子、平田裕香の例が知られるが、特に2010年代になって以後は、現役アイドルのまま声優としても活動する人間が登場、増加するようになっている。一例として、仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)、佐武宇綺(9nine)などが挙げられる。 一方で、声優になるための足がかりとして、アイドルをしていた例や、歌手(#声優アーティスト)になるための足がかりとして、声優を目指す例もみられる。福井裕佳梨は最初芸能事務所に所属して仕事を始めたので、キャリア初期にはものまねやグラビアアイドル活動などのアイドルタレント業を多くこなしていた。秦佐和子はアキバ関連を扱う雑誌に載っていたオーディションの募集だということで、SKE48になるのが声優への近道と思っていた。夜道雪は地元で10代の時にスカウトされたことをきっかけにローカルアイドルとして活動の傍ら、配信ゲームで声を当て、上京した後も養成所に通いながら独力でYouTube活動とコスプレーヤーをしながら声優への道に進んでいる。 異色の例に、郷田ほづみ、竹内幸輔のように芸人や、相羽あいなのように女子プロレスラーという異例の経歴をもって声優を行っている者なども知られる。また清水愛は声優界初の兼任女子プロレスラーとして知られる。 エリック・ケルソーは元々映像監督であったが、来日後にナレーター、英語吹き替え、ラジオパーソナリティと活動分野を広げアニメやゲームの声優としても活動している。 俳優・歌手・音楽家・アイドル・グラビアアイドル・モデル・お笑いタレント・スポーツ選手・著名人が、声優活動をすることや、作品によって声優に起用されることがある。 アニメーション作品においても、本人役という手段で作品に登場させ、本人にアテレコをさせる例は多い。 もともと、専業の声優が確立されていなかった時代、東映動画の長編作品のころから、長編アニメーション映画において、ほかの芸能人・著名人などを声優に起用することは珍しくない。1990年代以降のスタジオジブリ制作作品、2000年代以降のスタジオ地図制作作品に至るまで、こうした傾向は現在でも続いている。スタジオジブリの鈴木敏夫はジブリが本職の声優ではない人物を使う理由について、『ジブリの教科書3 となりのトトロ』では、プロの声優について「『わたし、かわいいでしょ』みたいな」声への違和感、そしてプロの声優を使わないことについては『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』にて、『耳をすませば』で月島雫のお父さん役をつとめた立花隆との対談で、『となりのトトロ』のオーディションの際に声優であるとやっぱり普通のお父さんになってしまうため、おとうさんっぽくない感じを求めて糸井重里を、『耳をすませば』の雫のお父さんも同様の見解で立花を選出しており、声優の芝居はハレとケにわけると「ハレ」であるが、日常芝居が多いジブリ映画で実際にほしいのは「ケ」であるとしている。 なお、副業でできる声優としてオーディオブック、朗読のアルバイトなど、声で稼げる仕事として求人サイトやバイト情報、クラウドソーシングで募っていることがある。 第1次声優ブームに行われたアテレコ論争では、声優の地位問題が提議されている。アテレコの演技性を巡っては、俳優の起用は暫定的なものに過ぎず、「落語家でもアナウンサーでも、観光案内係でも、声を使う職業の人の中から選ばれてもよいことだ」という意見も示されている。 「吹き替え・アテレコ調」を「新劇調」「翻訳劇調」と並んで嫌う演劇家も存在する。 アニメ監督の高畑勲は、プレスコを採用した『平成狸合戦ぽんぽこ』で落語家の柳家小さん、アナウンサーの福澤朗などを起用している。 ミッキーマウスの声優をつとめていた青柳隆志は、大学教授が本業であり声優は副業であった。小鳩くるみ時代役者や司会者であった鷲津名都江も大学教員となってからも自身が演じた『アタックNo.1』の鮎原こずえ 役やディズニー映画『白雪姫』の白雪姫 役の声をのちにゲーム機(CRぱちんこアタックNo.1(2007年)やキングダム ハーツ バース バイ スリープ(2010年)やKinect: ディズニーランド・アドベンチャーズ(2011年))でも声を担当した。 アニメ監督の宮崎駿は、「映画は実際時間のないところで作りますから、声優さんの器用さに頼ってるんです。でもやっぱり、どっかで欲求不満になるときがある。存在感のなさみたいなところにね。」という見解を示した事があり、『となりのトトロ』ではコピーライターの糸井重里を起用している。直近の長編作品である『風立ちぬ』においてもアニメ監督の庵野秀明を起用し、「逆に庵野(秀明)もスティーブン・アルパートも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、その方が僕は映画にぴったりだったと思いました。」とその意図を説明している。 劇中でテレビニュースが映る場合は、リアリティを重視して放送局に所属する本業のアナウンサーを起用する例があり、フリーアナウンサーの松澤千晶はアナウンサーやレポーター役としてのみ出演している。 なお、ナレーションやアナウンスも声優の仕事の一部であるが、フリーアナウンサーが声優という肩書きで活動することはない。黎明期には局のアナウンサーが声をあてた事例もあるが、現代では演技を行わないアナウンサーと声優は、別の職業としてとらえられている。 まれに制作スタッフや原作者などの関係者がエキストラやゲストキャラクター役の声優として起用されることもある(カメオ出演)。 劇中に楽曲、歌唱が重要な役に抜擢されることもある。 前述1980年代初頭のリン・ミンメイ役の飯島真理、『魔法の天使クリィミーマミ』の太田貴子のほか、『竜とそばかすの姫』の中村佳穂、『魔法のスターマジカルエミ』の小幡洋子などのケースがみられる。 ディズニー公式動画配信サービスの『ソウルフル・ワールド』ではグラミー賞アーティストが声優参加しており、日本語版も瑛人がストリートミュージシャン役の日本版声優としてカメオ出演する。 『とっとこハム太郎』のミニハムずや『ゾンビランドサガ』のホワイト竜のように、本人らをイメージしたキャラクターを当てる手段や、山崎ハコが『ちびまる子ちゃん』に本人役で出たケースもある。 『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのうち、RAISE A SUILENに参加するRaychell、夏芽は他グループのバックバンドもつとめていたミュージシャン、小原莉子は並行してバンド活動をしていた。Morfonicaに参加する西尾夕香もDJなどの音楽活動、mikaはドラマー、Ayasaはバイオリニストである。 役者ではないため本格的な声優業は無理という意見もあるため、歌唱シーンだけ歌手が担当するダブルキャスト方式もある。 ぴえろ魔法少女シリーズのように歌手に声優を担当させている作品など、1980年代前半には新人女性歌手をアニメとタイアップさせて主題歌を歌わせ、役も与えるという手法が派生していた。前述の飯島や太田らだけでなく、志賀真理子や宮里久美らも同時期に同様のスタンスでデビューを飾っており、このことがのちの#アイドル声優の先駆けとして紹介されることもある。1990年代でも当時歌手デビューしていた仲間由紀恵などが『HAUNTEDじゃんくしょん』出演をきっかけに「女子高生アイドル声優」という売り出し方をされていた。 テレビ人形劇では声優の仕事が確立される以前から放送されたこともあり、俳優や劇団員が起用された。その後俳優が選ばれることが多く、2014年(平成26年)に放送された人形劇『シャーロック ホームズ』では俳優と声優が混在して起用された。海外ドラマの吹替においても、最初からアニメ声優を目指した声優を生み出し、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がっていた第二次声優ブーム以後も、前述のとおり1982年の海外ドラマ『遥かなる西部 わが町センテニアル』の吹替放や第三次声優ブーム期1996年『ER緊急救命室』吹き替え放送で劇団に所属する俳優の起用など、俳優が起用されるケースはいくつかみられた。 映画では、前述の『幻魔大戦』『紫式部 源氏物語』『もののけ姫』以後も、俳優が起用されることが多い。 俳優を多く起用するアニメ監督もおり、原恵一は他の芸能人や劇団の子役・俳優を声優に起用している。富野由悠季は、声優の演技は型にはまっていると批判したことがあり、主役に劇団出身者や新人声優を多く起用している。押井守は、存在感と新鮮さが声優に勝ることがあるとして、複数の作品に俳優の竹中直人を起用しており、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』ではメインキャラクターに俳優を起用した。 テレビアニメ作品では『ムーミン』(1969年〈昭和44年〉)の岸田今日子、NHK版『スヌーピーとチャーリー・ブラウン』(1972年〈昭和47年〉)の谷啓やうつみみどりなどが選ばれ、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ『坊っちゃん』『姿三四郎』(1980年〈昭和55年〉)では西城秀樹がつとめた。長期にわたり放送された『まんが日本昔ばなし』では市原悦子と常田富士男が、『まんが世界昔ばなし』では宮城まり子と名古屋章らが声優を務めていた。 その後も監督が抜擢するなどして、俳優が選ばれる例がある。『ノブナガ・ザ・フール』では原作・シリーズ構成の河森正治が宝塚歌劇団を取材した際、現役タカラジェンヌである七海ひろきの舞台を見て抜擢した。七海は宝塚退団後も俳優兼声優として活動している。『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』では監督の伊藤智彦が有名声優を使うことよりも作品のオリジナリティを重視したことや、大富豪である主人公の存在感を際立たせるため、イメージに合う声としてダンサー兼俳優の大貫勇輔を抜擢した。『彼氏彼女の事情』で声優に起用された本谷有希子はのち劇団を主宰する舞台女優かつ劇作家、芥川賞作家である。 上述の俳優が声優に起用されることに関して、アニメを多く手がける脚本家の首藤剛志は「マイクの前で声を出しているだけの声優よりも、声優としての技量が劣っても、実際に観客の前で芝居をする俳優が買われているのではないか」と述べている。 俳優の納谷悟朗は舞台も声優も同じであるとし、その上でアテレコの難しさとは声を当てる対象が行う芝居の把握にあると説いている。声優を目指す者に対しては「基本でしょう。さっき言った、いわゆる舞台という演技の基本をきちんとしないとだめだっていうことですね」と述べている。 俳優の矢島正明は声だけで入ると己で役を肉体化する基本が抜け落ちるとし、声の仕事を目指す者に対しては「『声だけだから簡単だわい』、と思わないでほしいなということがまず第一です。声優を志すならば、やはり芝居から入ってほしいと思います」と説いている。また、後進たちに対しては「このごろの吹き替えの世界で、芝居の人たちが席巻してきているということは、声優として純粋に育ってきた人たちは何か危機感を感じなければならないと思うんですよね」とも述べている。 俳優の野沢那智はハリウッド映画の俳優・女優が百戦錬磨の役者である事を強調し、「だから、役者として必死に修行しないと、アテレコなんてやっちゃいけないんだと思うんだよね」と述べ、アテレコの心構えを彼らと同じだけの芝居ができるようになる事に求めている。 女優の戸田恵子は自身の声優観を「役者として怠っていることがなければ、それは声優としてもOKということ。私は『声優であるために』と思ってしていることは、一つもありません」とし、役者の仕事と何ら隔たりはないと述べている。 声優の難波圭一は「いいですよね。ぼくは声優という小さな世界がなくなることを望んでいます」と肯定的な考えを持っている。 俳優などを多く起用するゲームシリーズ『龍が如く』では、ある有名俳優を起用したが事前準備もされずに収録に臨まれ、演技がなかなか上達せず横山昌義の指示で何度もリテイクが行われ、時間をかけてその場面の距離感や感情を説明して及第点といえるところまで収録できたが「同じ苦労をした別の役者に申し訳ない、妥協はしたくない」として仕方なく降板してもらったという事例もある。 女優の吉岡里帆は声優は完全に別職業であるとして、「今後、もし万が一『吉岡里帆の声でなくては成立しない』というような話があれば、それはとてもうれしいですし、ちゃんと勉強して挑みたいです」と述べている。 女優の夏木マリは声の仕事を音のテンポや高低や強弱など、いろいろなものを体をつけてやる全身運動だとする見解を示している。俳優として巡りあったことは非常にラッキーであり、「俳優さん、全員がやられたほうがいいと思うくらい、勉強になるいい仕事だと思います」と述べ、吉岡里帆にも勧めている。 東映の特撮変身ヒーロー作品、とりわけ「仮面ライダーシリーズ」の「昭和ライダー」最終作にあたる『仮面ライダーBLACK RX』および「スーパー戦隊シリーズ」では、『炎神戦隊ゴーオンジャー』に至るまで長きにわたりオールアフレコで制作されてきた。 いわゆる「平成ライダー」第1作にあたる『仮面ライダークウガ』および『侍戦隊シンケンジャー』から、俳優が顔出しで演じるシーンは基本的に一般的なドラマと同様の撮影同時録音方式に切り替えられたものの、現在でもスーツアクターが演じる変身後のシーンなど番組制作の各所でアフレコが多用されているため、特撮番組に出演経験のある俳優は、声優としての演技経験を事実上しているとも言える。特撮番組で出演経験のある俳優がアニメなどの声あてをすることもあり、中には松風雅也、土田大、中田譲治、市道真央など、声優を本業として転向した者もいる。 特撮に登場する怪人など人間の姿ではないキャラクターの声には、最初から声優が起用されることもある。 曽我町子、内田直哉、西凜太朗、小川輝晃、岸祐二、菊地美香、五代高之、植村喜八郎、望月祐多、池田純矢、相葉裕樹など、特撮番組を経験した俳優には声優と両立する者が多い。 お笑い芸人としては、ルパン三世の物真似から山田康雄の死去に伴いルパン役の声優をやることになった栗田貫一、『アイシールド21』(2005年〈平成17年〉〜2008年〈平成20年〉)の田村淳、『天体戦士サンレッド』(2008年〈平成20年〉)の山田ルイ53世、アニメ版『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のコント赤信号の二人(ラサール石井や小宮孝泰)などが知られる。また、声優も務める山本高広などは、もともと声優を目指していた。アメリカザリガニの柳原哲也は、特徴的な声質を活かし、多くのアニメ作品で声優を務める。またこうした面々がコメディアンやお笑い芸人役で起用される例もある。 アニメ映画では俳優同様のゲスト出演が大半であるが、コメディアンは元々コントや漫才でさまざまな役柄を使い分けることもある。このため、俳優やタレントに比して優れた演技力を持つものが多く、違和感なくすんなり作品を楽しめることが多いという声もある。 声優と講談師を兼業する一龍斎貞友、六代桂文枝門下でラジオパーソナリティDJ・ナレーションを本業で声優業もこなす高杉’Jay’二郎(亭号は初代三枝亭二郎)、声優芸人という肩書きで活動する、元声優のよしもと芸人あつひろなども知られる。 金谷ヒデユキも漫談家と声優を並行している。 2010年代から歌い手のそらるがタイアップでいくつか起用されているほか、2018年(平成30年)にはバーチャルタレントを対象に、声優出演・アニメエンディング曲担当の権利をかけたオーディションを実施したTVアニメ『賢者の孫』ではオーディションを勝ち抜いた吉七味。が声優およびEDテーマを担当、また特別賞を受賞した雛乃木まやが声優として出演する。 『ジャヒー様はくじけない!』では動画配信者たちがキャスト出演や主題歌アーティストなどを務めている。 『100万の命の上に俺は立っている』に、にじさんじの樋口楓と静凛が出演し、さらに樋口楓がOPテーマ「Baddest」の歌唱に起用されている。 『ルパン三世PART6』や『邪神ちゃんドロップキック』の3期にもバーチャルYouTuber(VTuber)が声優として出演。 2020年(令和2年)以降、ホロライブなどに属するVTuberの声優業進出が盛んとなっている。 その他テレビアニメ『探偵はもう、死んでいる。』では白上フブキと夏色まつりがそのままの役としての出演を果たしている。こうしたアニメでの活躍もアニメキャラクターがまるで実在しているかのような設定で活動しているのではなく本人役でのアニメ出演は実在のタレントが本人役として登場する形に近い。基本的にVTuberは、バーチャルタレントであるライバーの姿そのものが本人という設定である。このため存在としては実在の声優やアーティスト、YouTuberに近い。 図式としては、すでにキャラクターを演じているVTuberが、アニメやゲームのキャラクターを演じることになる。VTuberというバーチャルタレントには中の人と呼ばれる演者(モーションキャプチャーなどの際)と声をあてる人物がおり、声優が行っている場合もある。 AI音声も2020年代には技術的により人に近い音声読み上げが実現可能になっており、上記のボイスドラマもすべてAIの音声合成技術を使用して実行する「オトシネマAI」シリーズ、さらに『れいぞうこのつけのすけ!』のように、テレビアニメとして初めて全キャラクターの声をAI(コエステーション)にした作品も出現、多くの声が必要なコンテンツにAIが利用されている。 映画では作品の質よりも話題性を狙って芸能人・著名人などを声優に起用するということも多いため、芸能人・著名人などの声優起用に批判が出ることもある。 2007年公開のアニメ映画『ザ・シンプソンズ MOVIE』や2012年(平成24年)公開の映画『アベンジャーズ』などで、これまでのシリーズで日本語吹き替えを担当していた声優を、新作映画で俳優・タレントに交代する事態が発生しており、企業への批判が殺到した。『ザ・シンプソンズ MOVIE』『TAXi4』『エクリプス/トワイライト・サーガ』ではソフト化に伴い、劇場公開版に加え、もともと担当していた声優陣による新たな吹き替え版が同時収録された。しかし、ソフト化の際に劇場公開版のみが収録される作品が大半である。特に『アベンジャーズ』ではキャスティングの変更などに対する批判のコメントがAmazon.co.jpの本作品のレビュー欄に殺到する事態となった。2012年(平成24年)公開の映画『プロメテウス』の主人公エリザベス・ショウ役の吹き替えにタレントの剛力彩芽が起用された際、ソフト化に際して変更もなかったため『エイリアン』シリーズのファンなどから酷評され、Amazon.co.jpのレビューが炎上した。 劇場公開版では芸能人や芸人が吹き替えを担当した作品のうち、『じゃりン子チエ』のように、テレビアニメ化の際に一部キャストは声優に変更しているものや、『ターミネーター3』や『サイレントヒル: リベレーション3D』のように、ソフト版では声優に差し替えて収録する場合もある。また、『X-MEN:フューチャー&パスト』のように、新規バージョンをソフト化する際に収録し直す例もある。 2004年(平成16年)公開のアニメ映画『イノセンス』では、プロデューサーの鈴木敏夫が大物俳優の起用を立案し、草薙素子役を田中敦子から山口智子に変更しようとしていたが、スケジュールの都合に加えて「できあがっているイメージを変えるべきではない」と出演を固辞した山口と、監督や声優陣の反対により田中が続投したということがあった。 オリコンスタイルで「タレント(芸能人や著名人など)を声優に起用するべきか、それともしないべきか」というアンケート調査を2014年(平成26年)に行ったところ、ほぼ半々に意見が分かれた。 2020年(令和2年)に大ヒットを記録した『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』では、新登場したキャラクターも含め全員を声優で固めているが、前述の『THE FIRST SLAM DUNK』も声優で固めており、これらがタレントを起用せずともヒットすることを示した。 2000年代以後、声優が歌手や俳優(特に舞台)など、ほかの分野での芸能活動をすることが特に顕著になった。 声優がほかの分野での芸能活動をする例のひとつとして、俳優活動が挙げられる。理由として「声優さんには『ああ、あの声の人だ』という知名度ならぬ『知声度』があるので、仮に顔がいまいちわからなくても、『声』がわかったときの感動や話題性があるから」が挙げられる。 ただし、キャラクターと声優の間に相関性を構築し、その結びつけをする役割を果たす媒介として、これまでは声が最も大きな役割を果たしてきたが、2007年(平成19年)のブシロードなど、後にメディアミックスを展開する企業も設立されて以降はさらに進んで、アニメやコンピュータゲーム作品そのもの単体で行われるのではなく、作品に関わるイベント出演(顔出し)やラジオなどの要素も色々用いて結びつけが行なわれていく。アニメの視聴者はキャラクターの声を演じる声優であるという認識をしていることが前提となることで、以降から声優とキャラクターを結びつける要素は声だけではなく、視覚的要素と特定の声優個人についての認識に依るものになっている。 他方、俳優活動の中でも、舞台での活動と両立する声優が少なくないが、理由として「舞台はやり直しができず、実際にその芝居や息づかいが観客に見られていることで、それが声の芝居に生きるから」などが挙げられている。 田中真弓は現在も舞台を手がけており、てらそままさきも俳優活動と並行して特撮キャラクターのアテレコを行っていたほか、中田譲司も元々俳優業に力を入れていた。 また、声優が歌手などの活動と両立させる例が、特に2000年代以後に顕著になっているが、これについては下記の節にて述べる。 2014年(平成26年)にはオスカープロモーションと青二プロダクションが共同で開催した容姿と声の2つの要素に ""「美しさ」を兼ね備えた女優・声優を発掘する"" 「第1回全日本美声女コンテスト」が開催された。おもな出身者に漫画家、アイドルとして活動する辻美優、花房里枝にピアニスト、ファッションモデルなどの活動をする入江麻衣子が挙げられる。 栗林みな実、桃井はるこ、牧野由依など、他の声優に楽曲を提供するソングライターをしている例、白壁爽子、伊藤しずなはグラビアアイドル活動と、榊原ゆいや能登有沙は振付師、モーションアクターとしても活躍している。 この他、野村道子、豊崎愛生や斉藤朱夏などが務めた、朝の情報番組でのお天気お姉さんというのもある。 また声優は#ナレーション・アナウンスにあるとおりCMの仕事も従来は当然ながら「声」を使ったものが主であったが、演者としての顔出し出演や白井悠介のようにダンスをするキャストとして起用されるなどの場合もある。 お笑い方面へは、声優としてデビューした後芸人に転向しつつ声優活動もこなす、こやまきみこ(お笑い芸人としてネタ見せをする際には「きみきみ」名義)の例があった。NSCに入学し、2010年(平成22年)には吉本興業に移籍するなどで2011年(平成23年)まで芸人活動を行なっていた。また六代目三遊亭円楽を父に持ち、落語家活動も行っているが青二プロに所属し声優業をする会一太郎(高座名は三遊亭一太郎)もおり、塩屋翼や木村昴も噺家の高座名を持っている。 声優もSNS活動の他、YouTuber活動として専用チャンネルを開設し配信を行っているものも幾人かある。例えば花江夏樹や杉田智和のチャンネルは登録者数も数百万人を超えているほど人気を博す。 歌手などの活動と両立させる声優について、「アイドル声優」あるいは「声優アーティスト」と表現する例が多い。 アイドル声優とは、第3次声優ブームと称されていた1990年代半ばごろから出てきた俗称。このころにはボイスアイドルとも呼ばれた。 本業にとどまらず、歌を通してそのCDを発売、ライブを開催するなど歌手活動をする、声優専門誌や漫画雑誌などのグラビアに登場する、写真集やイメージビデオを発売しCMに出演する(これはいわゆる「Web CM」を含む)プロモーションビデオを制作するなどといったアイドル的活動を行う声優を指すことが多い。 戦前に遡るとラジオドラマで活躍した飯島綾子も流行歌・童謡などレコードを何枚か出していて、日本舞踊家でもあった。その後の横山智佐、氷上恭子、國府田マリ子、宮村優子など、1990年代にデビューしそうした活動を行う声優らも、その多くは前述の声優養成所で養成された声優が、それ以前にアイドルとしての活動経験/アイドルからの転進組などではない。しかし、こうした声優がマス・メディアに広く露出をしたことによって、1990年代の声優人気の受容は、それ以前の受容とは異なる状況を呈したが、特にこの時期から養成所を出たばかりの新人声優の報酬を安定させることを目的のひとつに声優の活動するメディアの拡大が計られ、その商業的な戦略のひとつとして様々な媒体を介した声優の顔出しがはじまったものとも推測されている。「VOICE Newtype」誌の吉本隆彦は、声優はキャラクターに声を吹き込むほかにキャラクターソングを歌うことになれば作品の顔となっており、必然的に声優も注目されうるが、こうした状況下でアイドル声優は90年代後半から2000年代にかけてブームという状態を経て、ひとつのジャンルとして確立されたとし、それは当時からオリコンチャート上位にもランクインする音楽シーンをみても明らかとしている。そしてこのことが時代のニーズに応えているとし、加えて何万人もの聴衆を魅了できるのも、キャラクターに声を吹き込む声優はエンターテナーとしての資質と、アーティストとしてのポテンシャルが高いためであるとしている。もとのブームからの傾向としては女性声優が台頭したが、流れで男性声優も女性ファンの心もつかんでいき人気になっていったとしている。 2010年代半ば以後には宮野真守、平野綾、内田真礼、竹達彩奈、戸松遥、三森すずこ、佐倉綾音、逢田梨香子、斉藤朱夏、小倉唯などのように、マニア向けでない一般の漫画雑誌などでのグラビアに登場する、アイドルのような立ち位置で顔出しでCMに出演する例やバラエティ番組やクイズ番組のゲストとして出演する例が増加するようになっている。 さらには、アイドル主体のアニメ・ゲーム作品における担当アイドル(キャラクター。つまりアイドル役)を、そのまま実際のライブで再現する声優ユニットも登場し、専業のアイドルと比べても遜色のない例も存在する。例えば『きらりん☆レボリューション』の月島きらり starring 久住小春 (モーニング娘。)、アイドルマスターシリーズ(『THE IDOLM@STER』・『アイドルマスター シンデレラガールズ』・『アイドルマスター ミリオンライブ!』・『アイドルマスター SideM』)、ラブライブ!シリーズのμ's・Aqours、Wake Up, Girls!、プリパラのi☆Risなどがある。 特に「ラブライブ!」シリーズのキャストは歌唱力やダンス力を重視したオーディションにより、それまで声優経験が皆無であった(女優などの他業種出身のメンバーに加えて、芸能界での活動経験自体がなかったメンバーもいる。楠田亜衣奈、降幡愛などがこれに該当)起用者も多くいる。 実際、i☆Ris、Wake Up, Girls!のほかに22/7などのように、「声優とアイドルの両立を謳うグループ」が増加するようになっている。上智大学のミスコン優勝の鳥部万里子、ミス日本コンテスト2020・ミス着物に選ばれた青木胡杜音など、容姿に自身のある人物が声優を目指す例も増えた。 浅川悠が自身のブログで、アイドル化が進んでいるとも言われる声優界に苦言を呈し、関連して桑島法子は「アイドル声優は旬を過ぎたら使ってもらえなくなる」と述べているなど、演技とは関係の無い評価基準に疑問を呈す業界人も存在する。実際、1990年代から2000年代にかけての椎名へきるは歌手としての活動で人気を博し、相当数のコンサート公演を全国を巡業していたが、アフレコや吹き替えの仕事から遠ざける要因となり、アニメのレギュラー出演は年間で数本に過ぎない状況で、同業の職業声優を含むアニメ制作者の間でも声優として異端視されていたことが知られる。花守ゆみりなどはインタビューで自身についてアイドル声優に見られたくないと述べている。浅野真澄がパーソナリティを務めた「低俗霊DAYDREAM 深小姫のMIDNIGHT DREAM」ではしばしばアイドル声優に対する批判がなされていた。専門学校などでもそうしたアイドルを育成する的なニュアンスも押し出して生徒集めをしているところが少なからずみうけられるが、第一線で活躍している実際のアイドルたちは天分に恵まれた上で競争にももまれ、トレーニングを重ねており、こうしたアイドルたちと、学校に通ったくらいでの自分とライバルというのは、あまりにおこがましいと指摘されている。 一方で、やまとなでしこ結成時のインタビューで堀江由衣は声優になってからアイドル的な仕事があって驚いたというが、アイドルについてはその人自身に魅力があるわけで見てるだけで楽しくなれる、元気になれる存在とし、「それを悪く言うのって、変だと思う。見る人の心を潤すための仕事をしていて、そうならない方が困るんじゃないかな」と見解を述べている。芹澤優のように声優であることにもアイドルであることにもプライドを持ち、両立していると自認している者もおり、中川亜紀子もデビュー当初アイドル的な売り方がなされており、彼女はこの事にはなにかと批判的であったが、「今となっては『なんて贅沢なことを!』と思いますけど」と当時を振り返っている。 声優アーティストとは、上記のアイドル声優に代わって2000年代半ばごろから出てきた俗称であり、おもに声優業と歌手業を両立させている声優を指すことが多い。 この名称は椎名へきるが1994年(平成6年)のラジオ番組の開始にあたって、「アーティストと声優をしている」と自己紹介をしている点や、彼女の出身養成機関の広告フレーズからうかがい知れ、マネージメントをする者を含む制作者の影響が強く表れている。 近年では歌手としての独立した活動までには至らずとも、アニメに出演する場合、主題歌などを担当したり、各種関連番組(アニラジ、ニコニコ生放送など)やイベントへの出演など、タレント活動を求められる例が一般的になっている。 TARAKO、坂本真綾、MoeMiのように並行してシンガーソングライターとして活動する者もおり、近年は沼倉愛美、鈴木みのり、早見沙織、楠木ともり、小岩井ことり、雨宮天ら自身の手による楽曲の作詞作曲を手掛ける声優アーティストも多くなった。小野友樹のミニアルバム「Winter Voice Friends」では自身の声優仲間らの楽曲提供により構成されている。 他にバンドを組んでいる者もおり、鈴木達央はOLDCODEXというバンド、近藤孝行と小野大輔は、テクノロジック・ヴォーカルユニット“TRD”、前述の小岩井ことりはメタルバンドDAW、田村ゆかりもメタルユニット120600mAh、谷山紀章は音楽ユニットのGRANRODEOで活動している。なお谷山はGRANRODEOではKISHOW名義で、同様のケースでは二ノ宮ゆいが声優時には二ノ宮ゆい、アーティスト時にはニノミヤユイと名義を分けて活動している。 『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのように、劇中で声を担当したキャラクターの音楽バンドを、実際においてもバンド活動を行うといったケースがあり、大塚紗英のようにシンガーソングライター活動がメインになっている者もいる。他にも女子高生ロックバンド漫画『ガールズフィスト!!!!』に登場するキャラクター4人と連動するかたちで活動中の、若手女性声優のロックバンドの南松本高校パンクロック同好会、会える声優ガールズロックバンドのHoneysComin'などがある。 ヒーラーガールズのようなコーラスユニットと謳ったグループもある。 「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれの場合も、女性声優に特に多いといわれる。声優の男女比率の反映に加えて女性声優が数人在籍するアイドルユニットや声優アーティストユニット自体生み出される数が男性のそれより非常に多い。さらに演じる女性声優も多数出演するタレントゲーム、恋愛シミュレーションゲームが非常に多く発売され、こうしたゲーム出演で多数の女性声優が歌手デビューやアイドル声優化する傾向も続いている。 「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれであれ、声優の顔出しでの活動が増えた理由として、声優の社会的地位の向上のほかに、声優の役割やイメージの変化(「裏方的な仕事」とされてきたのが「ルックスや若さが重視される」ように変化した)が背景としてあると指摘されている。 声優も、現役で声優をしながら一方で芸能活動ではない他の仕事を持つ者もしばしばみられる。例として、養成所で講師をつとめたり、事務所を経営している者、音響監督などもしている声優は多い。 他には、以下のようなケースがある。 声優が所属するプロダクションには通常の芸能プロダクションの声優部門の他に、声優が多く所属する声優プロダクションとがある。 声優プロダクションは、声優から手数料を徴収し、音響制作会社や放送局などに対して、アニメ・日本語吹替・ナレーションなど得意分野ごとに配置されたマネージャーが営業活動や声優の売り込みなどを行う。専門の養成所を持ったり専門学校と提携して新人の育成も行う。 もともと制作会社の関連会社に位置していて連携の強いプロダクションが存在し、特に2000年代は特に新たに創業される例が見られたが、2010年代以降は制作会社の一部門として直営され、より連携が強固なプロダクションも存在する。特定の制作会社との連携が強くとも、ほかの制作会社が手がける仕事も請ける。また、もともと音楽系のプロダクションでも声優のマネージメントを行う例が近年あり、この場合は本業を生かして歌手活動も積極的に行われることが多い。他分野中心の芸能プロダクションが声優部門に力を入れるようになる例も見られる。 声優界は「『芸能界で最も古い体質』を今も残している」として当該業界への批判が相次いでいる問題もあり、その一部としてはプロデューサーなど役職の地位が高い人物からのセクハラを代表とするハラスメント行為が横行しているという点が挙げられ、過去には実際に関係事件で逮捕される事件も起きている。 声優は所属事務所からの基本給というものは存在せず、各人の仕事実績によるギャランティ(報酬金)が収入となる個人事業者である。所属事務所とは通常1年更新のマネジメント契約を締結し、売込みやマネジメントの対価として業界平均で出演料の約20%から30%を事務手数料として事務所へ支払い、源泉徴収も10%引かれ、この残りが声優の手取りの報酬となる。歌手や俳優などと同じくシステムの競争社会であり、経済的に自立できずに脱落していく者も多い。 日本語吹き替えが始まった1960年代には、声の仕事は顔出し出演の7割の出演料「顔出しの七掛け」とされ、低い位置にある仕事とみなされ、舞台俳優がアルバイトのような形でやっていた。舞台や実写の仕事と比較して、吹き替えの仕事は拘束時間が少なくかけ持ち出演が可能なため、数をこなせば収入を増やすこともでき、演技力を生かせることから不満に持つ者は少なかった。 声優の賃金待遇改善については、声優の多くが日本俳優連合(日俳連)に所属しており、日俳連は音響制作会社の集合体である日本音楽制作者連盟(音声連)、声優のマネージメントを行う事業者で組織する日本芸能マネージメント事業者協会(マネ協)と「三団体実務小委員会」を設けて、出演ルールの改定や待遇の改善を申し入れて来た。ときにはストライキ(1973年〈昭和48年〉8月8日)や街頭デモ活動を行うなどして、1973年(昭和48年)には報酬が約3倍アップ、1980年(昭和55年)には再放送での利用料の認定、1991年(平成3年)には報酬が約1.7倍上昇するなどの成果を勝ち取ってきた。 業界に対してのみならず、1973年(昭和48年)と2001年(平成13年)にはデモ行進、1988年(昭和63年)には永井一郎が『オール讀物』(文藝春秋)において『磯野波平ただいま年収164万円』と題して、アニメ出演料の安さを訴える記事を寄せて、世間一般への理解を求める行動を起こしている。 日俳連・マネ協・音声連による協議の結果、外画動画出演規定・新人登録制度・CS番組に関する特別規定・ゲーム出演規定などを締結した。アニメでは、放送局と、アニメ制作会社で組織される日本動画製作者連盟も加わって、団体協約が締結されている。これにより、仕事1作品あたりの報酬は作品のジャンル・放送時間帯・放送回数・ソフト化などによる2次利用、そして経験実績などの条件によって受け取る額が算出される方法を取られており、音響制作会社の一方的な言い値で手取りを決定されるということはない。 以上の協定は、声優・マネジメント事業者・音声製作事業者がそれぞれの団体に所属しなければ縛られることはない。たとえば、石原裕次郎は映画『わが青春のアルカディア』の出演料が1,000万円だったと言われている。 日俳連では組織率を高めるために、音声連が製作する作品に出演する人数について「日俳連に属さない出演者の数は全体の20%以内」とし、日俳連に属さない出演者については加盟を推奨することが音声連には課せられている。逆にマネ協・日俳連側は、音声連に入っていない製作会社へ音声連への加盟を奨めることとなっている。 これらの協定を嫌う日本アドシステムズなどの製作者側もあり、日俳連に所属しない声優を起用する例が1990年代半ばより増加したが、東映アカデミーやラムズのように事業を停止した例もある。音声連に属していない事業者としては神南スタジオや脱退した音響映像システム(現・サンオンキョー)などがあり、マネ協に属していない事業者としてはネルケプランニングなどがある。 日俳連に所属する声優が、アニメ・日本語吹き替え作品・社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)に加盟するゲーム会社の作品に声をあてる際の出演料についての規定で、この制度での報酬は「ランク」と呼ばれる出演料によって支払われることになっている。担当する内容や、台詞の多少は関係しない。ランクの設定は毎年4月に更新され、人気が上がったりキャリアを重ねると、マネ協や音声連との協議のうえでランクが上がっていき、またランクが上がるごとに出演料が高くなっていく。例外として、60歳以上の者はランクを上げることはできても下げることはできない。 1991年(平成3年)に出演料が約1.7倍アップしたこともあり、予算の限られたアニメや吹き替えにはランクの高い(出演料が高い)ベテラン声優が起用されなくなる弊害が生じるようになった。それにより、2001年(平成13年)から2年の期間限定でランク下げを認める特例期間が設けられた。 30分枠作品の最低ランクの出演料が1万5,000円で、最高ランクが4万5,000円、その上に上限なしのノーランクが設定されており、これが基本出演料となる。またその基本出演料に「目的使用料」として、アニメは1.8倍が加算され、吹き替えは1.7倍が加算される。予告編の台詞をやった場合、基本出演料のランクをもとにしたギャラが加算される。放送時間枠が60分や120分の場合は「時間割増」となり、その分のギャラが支払われる。出演作品がソフト化されたり再放送された場合、規定に基づいて「転用料(2次使用料)」が支払われる。これらの合計が声優の総出演料となるのだが、そこから事務手数料や税金などで約30%から40%引かれる。 音声作品の報酬の相場は拘束時間もワード数によって数時間から数日までさまざまで、声優のランクにもよるが、だいたい数百ワードあたり2 - 3万円ぐらいとされ、有名声優がソーシャルゲームに出るときの単価などとは比べものにならない。 声優だけで安定収入を得るのはほんの一握りなのは売上の大半を事務所が持っていくこともあって、事務所声優でも声優業のみで生活できる人は少ない。しかしながらそれでも仕事を取るためには事務所に所属するのが基本で、イベント、コンサートやライブなどで収益を得る事務所声優が安定して仕事をすることになる。主役声優であればイベント出演で1回20 - 30万円程度もらえる他、物販で稼げるという。 声優学校や声優養成所を卒業して、日本芸能マネージメント事業者協会(マネ協)加盟の声優事務所のオーディションに合格した新人声優は、まず「預かり」という身分から声優業をスタートする。この時点ではまだ声優個人としての日本俳優連合(日俳連)への加盟はできない。預かりは声優業の最初のステップとして、ランク制の事実上の番外とでもいうべき存在である。預かり期間修了後はジュニア(新人)ランクとなり、ジュニアランクでいられる期間は3年間ないし所定の起用率に到達するまでで、それを終了したあとは日俳連へ加盟し通常のランクの声優になる。 出演料が安すぎるという理由で1990年(平成2年)に一度ジュニアランクを撤廃したことがあったが、1994年(平成6年)から新たな形で再び導入された。 預かりとジュニアランクの声優の出演料は1万5,000円で、ランクがついた声優とは違い、上述の「目的使用料」「予告編の台詞代」「時間割増料」「転用料」は支払われない。 声優としてベテランになり日俳連のランク(出演料)が高くなっていくと、予算の関係からアニメ・ゲーム・吹き替えの仕事は自然と減る場合もあり、これを補うのにCMやテレビ番組などでのナレーションの仕事を行う場合もみられる。ナレーションは日俳連の協定によるランクの縛りがなく、また、ギャラはアニメ・ゲーム・吹き替えよりもはるかに高額とされる。新人・若手声優だったころはアニメに多く出演していたが、のちに中堅・ベテラン格になるにつれてアニメの仕事が徐々に減っていき、ナレーションが中心になるという傾向にある。なおベテラン声優を1回のみ登場、台詞が少ないなど収録時間が短い役に起用する例もあり、アニメやゲームの出演が無くなるわけではない。 ベテラン声優の中には前述のとおり本業の傍ら、声優事務所の経営、声優の養成所や専門学校の講師、カルチャースクールの喋り方教室の講師、音響監督などといった業を副業として、収入の少なさを補うためにしている者もいる。また、ベテランになると、経済的にはむしろそのような副業のほうが本業という声優も珍しくないといわれている。 声優を目指す人々は増加傾向にあるが、職業としての声優として第一線で活躍できる者は少ない。オーディションでほかの声優との競争に勝てず、仕事がもらえずに無名のまま脱落し、経済的に自立できずにわずかな期間でやめる、またはプロダクションから「今後、第一線級の声優として売れる見込みがない」と判断されて契約を解除されるという新人・若手声優が多いという。実際、一例として内田彩は、2015年(平成27年)9月のインタビューにて「声優の仕事一本で食べていけるようになる2、3年くらい前まで、声優の仕事が空いているときは派遣のアルバイトをやっていました」と打ち明けている。内山夕実のように(家の都合で)一度引退後に復帰する例もある。 1996年(平成8年)発売のキネマ旬報刊『声優名鑑』には約2,400人の声優が掲載されていたが、この時代でも声優としての地位が確立されている者は約300人だけで、しかもそのうち声優業だけで食べていける者は約半数であるという。 ある程度の知名度、出演本数、活動年数があったにもかかわらず、声優業で生計を立てていくことが難しいという理由で引退した者も少なくなく、継続して仕事を維持するのも厳しい世界である。
[ { "paragraph_id": 0, "tag": "p", "text": "声優(せいゆう)もしくはVA(ボイスアクター)または声の出演(こえのしゅつえん)もしくはCV(キャラクターボイス)は、ラジオの放送劇、テレビ・映画の吹き替え、アニメーションなど、音声作品や映像作品に、自身の姿を見せず声だけで出演する俳優である。広義にはナレーターも含まれる。", "title": null }, { "paragraph_id": 1, "tag": "p", "text": "音声・映像作品の役割・職能を表す場合と職業を示す意味で使われる場合がある。", "title": null }, { "paragraph_id": 2, "tag": "p", "text": "声のみで演技する実演家であり、その出演形態はメディアの発展と共に、レコード・ラジオ、さらにはテレビなどへ拡大した。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 3, "tag": "p", "text": "1910年(明治43年)、日本初のレコード会社が発足する。歌舞音曲など演芸の録音が普及した。1925年(大正14年)には、日本初のラジオ放送が開始する。舞台劇、映画劇、放送劇などが届けられた。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 4, "tag": "p", "text": "声優の命名由来は『読売新聞』の芸能記者・小林徳三郎によるものと、日本放送協会(NHK)の演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男によるものの2説があるが、未だに明確にはなっていない。この年には早くも、『朝日新聞』が「いはゆる『聲の女優』――ラジオ・ドラマの女優」とした報道を行い、翌年の1926年(大正15年)には、『読売新聞』が声優の呼称を使用している。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 5, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)、NHKがラジオドラマを専門に行う東京放送劇団を設立する。1956年(昭和31年)には、ラジオ・テレビ兼営局であるラジオ東京(現:TBS)が海外テレビドラマの吹き替え放送を実施する。声優は当初、ラジオドラマに出演する舞台俳優や映画俳優、次いで放送局の劇団員であるラジオ俳優を指し、テレビ時代になって吹き替え、さらにアニメを行う役者を指す用語として定着して行った。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 6, "tag": "p", "text": "こう言った経緯などから放送劇団員は声優という呼称を酷く嫌い、自らを俳優と称する者も少なくない。また、山田康雄や内海賢二らも声優は声を演じる俳優、役者がやっている色々なジャンルの一部分であると考えており、『声優』という呼称を好まなかったという。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 7, "tag": "p", "text": "文化庁の委託事業である『演劇年鑑』(発行:日本演劇協会)では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として2022年版では、若山弦蔵が「声優、俳優」、森山周一郎が「俳優、声優」と掲載されている。また、2022年(令和4年)度の日本芸術院会員選定の際、黒柳徹子が『俳優』と紹介された。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 8, "tag": "p", "text": "日本で声優の専業化が進んだ理由は、", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 9, "tag": "p", "text": "などが考えられる。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 10, "tag": "p", "text": "日本の声優の多くが加盟する協同組合・日本俳優連合には、外画・動画部会も設置され、「俳優・声優・その他の実演家」を加入対象としている。後述のフィックス制度により性格俳優としての側面もある。また、アテレコ論争などを経て、ニュースで原稿を読み上げるキャスターやアナウンサーなど、放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 11, "tag": "p", "text": "日本国外では俳優の仕事の一部という側面が大きく、吹き替えではスタンリー・キューブリック監督作品『スパルタカス』において、故人となっていたローレンス・オリヴィエの声の代役を門下のアンソニー・ホプキンスが担当したエピソードなどがある。その一方で、アメリカでは声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 12, "tag": "p", "text": "アニメーション作品ではしばしばキャラクターボイス(character voice)、略してCVという和製英語が使われる。これは1980年代後半にアニメ雑誌『アニメック』で副編集長だった井上伸一郎が提唱した用語で、その後、井上が角川書店で創刊した『月刊ニュータイプ』でも用いられている。昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットで「声の出演」と表記されることが多かった。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 13, "tag": "p", "text": "平成から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、ウォルト・ディズニー・カンパニーで翻訳・吹き替えを担当するディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル(Disney Character Voices International)などがある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 14, "tag": "p", "text": "黎明期には顔出しNGの声優も少なくなかったが、時代が下るにつれて歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えて顔出しOKの声優が増えてきている。その一方で2000年ごろからの#バーチャルYouTuber活動でみられる、他のキャラクターとして匿名的に活動する声優も出現していく。なお、現代においてはアニメ作品や特撮ドラマ作品のキャラクターの声を担当する割合が増えている点やテレビゲーム・オンラインゲームに登場する特定のキャラクターの声を専門的に演じることが中心となっている点から「担当声優」と呼称される場合がある。", "title": "概要" }, { "paragraph_id": 15, "tag": "p", "text": "1877年(明治10年)12月6日、アメリカでトーマス・エジソンが世界初の録音・再生式の蓄音機を発明する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 16, "tag": "p", "text": "1880年代になると、日本では言文一致運動などソフト面での文明開化の運動が勃興する。1885年(明治18年)、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 17, "tag": "p", "text": "1886年(明治19年)には、歌舞伎の近代化を志向した演劇改良会が結成されている。1888年(明治21年)、角藤定憲らが大日本壮士改良演劇会を結成する。1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 18, "tag": "p", "text": "坪内逍遥はシェイクスピア戯曲の翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森鷗外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した。演劇改良運動に取り組んでいた市川團十郎との初対面では、『ハムレット』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 19, "tag": "p", "text": "1891年(明治24年)、伊井蓉峰が依田學海の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。寛永6年(1629年)に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 20, "tag": "p", "text": "1900年(明治33年)、欧米を洋行中であった川上音二郎一座は、訪問先のパリ万国博覧会で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『オッペケペー節』をはじめとする多種多様な演目を録音した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 21, "tag": "p", "text": "1902年(明治35年)、文部省が国語国字問題の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 22, "tag": "p", "text": "1903年(明治36年)、新派劇の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『オセロ』、『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの翻案劇を上演する。せりふとしぐさを主とするストレートプレイは新劇運動の萌芽となった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 23, "tag": "p", "text": "1905年(明治38年)、中村翠娥、市川九女八、千歳米坡、若柳燕嬢らが女優大会を興行する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 24, "tag": "p", "text": "1906年(明治39年)、坪内逍遥と島村抱月が文芸協会を設立している。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。1908年(明治41年)、川上貞奴が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、藤沢浅二郎が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 25, "tag": "p", "text": "1909年(明治42年)、小山内薫と市川左團次が自由劇場を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 26, "tag": "p", "text": "明治の末になるとハード面での近代化が進む。1910年(明治43年)、日本で最初のレコード会社が設立される。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 27, "tag": "p", "text": "1911年(明治44年)、帝国劇場が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には夏目漱石も招待された。11月には、イプセン戯曲『人形の家』が上演されている。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 28, "tag": "p", "text": "1913年(大正2年)、島村抱月と松井須磨子が芸術座を結成する。1914年(大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 29, "tag": "p", "text": "同年10月、シェイクスピア戯曲『アントニーとクレオパトラ』が抱月の改作により上演され、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみのオーディオドラマであり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 30, "tag": "p", "text": "1916年(大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の規範文法を提示した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 31, "tag": "p", "text": "大正時代(1912年〜1926年)には中村鴈治郎、松本幸四郎、市村羽左衛門、成美団、曾我廼家一座、宝塚少女歌劇、浅草オペラなども音源を残している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 32, "tag": "p", "text": "1924年(大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である築地小劇場が開場する。創立同人に小山内薫、土方与志、浅利鶴雄、友田恭助ほか。研究生1期生(座員)に千田是也、山本安英、田村秋子、丸山定夫、後に滝沢修、杉村春子、東山千栄子、薄田研二らを輩出した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 33, "tag": "p", "text": "小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に菊池寛、久保田万太郎、岸田國士などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 34, "tag": "p", "text": "1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 35, "tag": "p", "text": "そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 36, "tag": "p", "text": "7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)が、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精の音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 37, "tag": "p", "text": "8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄、長田秀雄、吉井勇の6人を主要メンバーとした。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見弴、松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三、中村吉蔵、岡本綺堂の11人であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 38, "tag": "p", "text": "9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 39, "tag": "p", "text": "初期のラジオドラマには汐見洋や東山千栄子など、この前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 40, "tag": "p", "text": "1930年(昭和5年)、新興芸術派倶楽部が結成されている。芸術価値の自律性を擁護して、『文学』からは小林秀雄、神西清、蝙蝠座からは今日出海など32名が参加した。また、蝙蝠座の院外団員には小林の他に菊池寛、岸田國士も参加していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 41, "tag": "p", "text": "1931年(昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花、ルナールやユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎、村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している。1938年(昭和13年)8月、退任。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 42, "tag": "p", "text": "文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている。ラジオドラマの総放送回数は1938年(昭和13年)までの13年で750回を数えるまでに成長した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 43, "tag": "p", "text": "この頃(おもに1930年代)に活躍していた者として舞台女優の飯島綾子が挙げられる。彼女はラジオドラマのほかに日本舞踊家や歌手(流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 44, "tag": "p", "text": "1932年(昭和7年)、日本初のアクセント専門の辞書である『国語発音アクセント辞典』が刊行されている。この頃、ラジオの普及率は10%前後であり、東京語に不慣れな全国の国語教員を主な対象として、話し言葉の統一、発音統一を目指して編纂された。執筆者の一人であった言語学者の神保格は、後述の調査委員会の委員や東京放送劇団の講師も担当している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 45, "tag": "p", "text": "1934年(昭和9年)、NHKが放送用語並発音改善調査委員会(現:放送用語委員会)を設置する。イギリスの英国放送協会(BBC)を範に取り、その調査方針については「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して、大体、帝都の教養ある社会層において普通に用ひられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」ことが定められている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 46, "tag": "p", "text": "1941年(昭和16年)4月、国民学校令が施行されている。音声言語教育については、「話し方に於ては児童の自由なる発表より始め次第に之を醇正ならしめ併せて聴き方の練習を為すべし」と位置付けた。6月、情報局が監督する日本移動演劇連盟が結成されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 47, "tag": "p", "text": "さらに同月、NHKが東京放送劇団を設立している。ラジオドラマ専門の俳優を養成する東京中央放送局専属劇団俳優養成所の研究生を公募した。1943年(昭和18年)1月、NHKが『日本語アクセント辞典』を編纂し、5月には、養成を終えた東京放送劇団の第1期生がデビューを果たした。これが声優第2号とみなされ、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 48, "tag": "p", "text": "1950年(昭和25年)、岸田國士が文学立体化運動を提唱し、雲の会を主宰する。会員の三島由紀夫は、「自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ」と指摘した。そして、築地小劇場論争以来の混迷を正常化する最初の機会として、今回の文壇、劇壇の連帯の意義を説いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 49, "tag": "p", "text": "1951年(昭和26年)、日本での民間放送が開始する。対日占領政策の転換から民放が解禁された結果、戦前からのNHK独占体制が崩れている。民放各局はNHKに倣う形で中部日本放送放送劇団など専属の放送劇団を設立して行く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 50, "tag": "p", "text": "同年、雲の会の一箇年の活動を振り返る座談会が開催され、機関紙である『演劇』が掲載している。文壇側からは鉢の木会のメンバーでもあった神西清、中村光夫、大岡昇平、福田恆存、三島由紀夫が選出された。「劇壇に直言す」として、新劇独自の固定観念を指摘し、既成新劇への問い直しを求めている。劇壇側からは内村直也、田村秋子、千田是也、杉村春子、菅原卓が選出された。「『直言』に答う」として、反省する点を認める一方、俳優術による演劇表現のアカデミズム確立や現代劇の樹立を重視する意見が出されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 51, "tag": "p", "text": "これを受けて『演劇』は、会員の小林秀雄と福田恆存の対談を企画した。その中では声音メディアの未来への示唆も語られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 52, "tag": "p", "text": "小林 純粋な観念としては音楽だから。......一般に人間の耳っていうのは、よくないと思うんですよ。みんな悪いんです、耳っていうものは。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 53, "tag": "p", "text": "福田 ほかの感覚に比べて?", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 54, "tag": "p", "text": "テレビ放送がなく、ラジオがマスメディアで主要な地位を占めていたラジオドラマ時代の声優は決して日陰の存在ではなく、二枚目の主役の声を多く演じた名古屋章には月に何十通ものファンレターが届いたという。1957年(昭和32年)に放送した連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』は当時の子供たちから絶大な支持を得た。ラジオドラマは全盛期を迎え、声優の紹介記事が新聞のラジオ欄に掲載されるようになると、声優へのファンレターと同時に声優に憧れ、声優志願者も急増した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 55, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)のNHK東京放送劇団の第5期生募集には、合格者が10名程度のところへ6,000名の応募が殺到したという。東京放送劇団出身の勝田久は、この時代を第1期声優黄金時代としている。日本でのテレビ放送が開始された1953年(昭和28年)2月当時、NHK専属の放送劇団員は、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌の7劇団で合計137名を数えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 56, "tag": "p", "text": "劇場アニメでは、1933年(昭和8年)には日本初のトーキーの短編アニメーション映画『力と女の世の中』が公開。アニメキャラクターに声をあてたのは、喜劇役者の古川ロッパをはじめとする映画俳優達だった。1942年(昭和17年)には中国の長編アニメーション映画『西遊記・鉄扇姫の巻(鉄扇公主)』が日本で公開され、活動弁士出身の徳川夢声、山野一郎などが声をあてた。第二次世界大戦後に発足した東映動画により日本でもコンスタントにアニメ映画が製作されるようになると、映画俳優、コメディアン、放送劇団員が使われた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 57, "tag": "p", "text": "洋画の吹き替えでは、1931年の米映画『再生の港』が初の日本語吹き替え作品だが、起用された在米邦人の広島訛りが不評で後が続かなかったという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 58, "tag": "p", "text": "1953年(昭和28年)、日本でのテレビ放送が開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 59, "tag": "p", "text": "1955年(昭和30年)、福田恆存が翻訳と演出を担当して、『ハムレット』を上演する。ハムレット役は芥川比呂志が担当した。当時の福田は文学座の文芸部員でもあり、幹事の岩田豊雄(獅子文六)が新劇が傾倒する近代劇の在り方に疑問を持つようになっていた事も上演を後援した。舞台芸術として最高度の文学性と演劇性を両立したという評価から、「シェイクスピアに還れ」とした基調は、後の新劇運動の方針にも反映された。また、札幌放送劇団に所属していた若山弦蔵はこの公演を観劇し、演技のヒントを得たことを明かしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 60, "tag": "p", "text": "6月、菊田一夫が『「大盗大助」の公演』を『放送文化』に発表する。今回の東京放送劇団の舞台公演で、脚本と演出を担当した経緯について解説した。NHKで『鐘の鳴る丘』や『君の名は』を手掛けるなど放送劇でも活躍していた菊田は、ラジオ俳優に舞台公演の必要があるかどうかという問題はかなり重要な事であると指摘し、「マイク前の声技にも、その演技の奥行を深め、幅をひろげる意味で、絶対に必要だからである」との見解を示している。その理由については、「私はラジオ・ドラマの稽古に立会っていて、いつも『君、君のセリフには動きがともなっていないよ』と、いう言葉で、声優を叱りつける」と述べており、責任上から実際の体験を提供したと説明を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 61, "tag": "p", "text": "1956年(昭和31年)4月8日、日本テレビが海外テレビアニメ『テレビ坊やの冒険』の放送を開始する。録音方式の日本語吹き替え番組の第1号であり、番町スタジオの安井治兵衛に依頼して制作された。4月28日、TBSの前身であるKRTテレビが海外ドラマ『カウボーイGメン』を放送する。10月9日には、海外テレビアニメ『スーパーマン』を放送する。出演者の滝口順平、大平透は、いずれもラテ兼営の同局のラジオ東京放送劇団に所属する放送劇団員であった。これらKRTテレビでの吹き替え放送は生放送で行われている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 62, "tag": "p", "text": "民放テレビの草創期には、同年10月の五社協定でテレビ局への日本映画の供給停止が決まったことなどによるソフト不足から、海外ドラマやテレビ映画、洋画などのいわゆる外画の日本語吹き替え版が数多く放送された。テレビや映画の俳優は五社協定とギャラの問題で吹き替えをしなかったため、テレビでの吹き替えは、ラジオ時代からの放送劇団出身者や戦後の新劇ブームで増加した舞台役者やその研究生が多く行った。海外アニメにおいては、落語家や浅草出身のコメディアンなどもキャラクターの声をあてたという例がある。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 63, "tag": "p", "text": "吹き替えの開始当初は生放送でも行われ、後にテープレコーダーを利用した録音方式となるも、未だ編集は不可能であった。声優陣は狭いスタジオに存在する1つのスクリーンと1本のマイクに臨み、効果音や音楽も同時に録音していた。1ロール28分間の収録では、誰かが間違えて失敗すれば最初から録り直すという負担の大きいものであり、さらにせりふの悪訳も輪をかけ、「アテレコ調」の出現を招いている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 64, "tag": "p", "text": "江崎プロダクションの創業者である江崎加子男は、舞台や映像で仕事がある役者がアテレコに好んで出演しなかった理由として、ギャラ問題の他にアテレコ調の存在を挙げている。「カラーフィルムにキズを付けないためにリハーサルは3回くらいしか見せられなかった。したがって不器用なものはなかなか口が合わない。“トチラズ” 口を合わせるために台詞が一本調子になる。当時言われた言葉がアテレコ調。」。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 65, "tag": "p", "text": "また、前述の若山弦蔵は当時の吹き替えに参入してきた新劇俳優について、「大部分の連中にとっては片手間の仕事でしかなかった」「日本語として不自然な台詞でも疑問も持たず、台本どおりにしか喋らない連中が多くて、僕はそれがすごく腹立たしかった」と語っている。当初、NHKは基本的に字幕スーパーで日本国外の作品を放送していたため、日本語吹き替え版は民放が中心となっていた。以後、日本国外の作品は1960年代前半をピークとして放送された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 66, "tag": "p", "text": "1957年(昭和32年)には早くも、大岡昇平が吹き替えの社会的影響を論考し、『藝術新潮』に発表している。築地小劇場の観劇歴を有する大岡は、テレビから流れるテレビドラマや舞台中継、海外ドラマなどに見られる「新劇調」の存在を指摘した。これは築地小劇場の翻訳体やそれに起因した悪癖であり、さらに固定された俳優達が今や指導する側に回ったことで、後進が不本意に継承している構図であるとも解説した。その上で、大勢の人の目に留まることによって、芸風が矯正されるチャンスになるのではないかと説き、若い世代には旧弊を壊すことを奨励している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 67, "tag": "p", "text": "さらに10月には、福田恆存が新聞紙面上で論議が展開された吹き替えの是非を論考し、『CBCレポート』(発行:中部日本放送)に寄稿した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 68, "tag": "p", "text": "1959年(昭和34年)、NHKが放送劇団員の専属制を解消している。各放送劇団は個人契約者の任意の団体に移行する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 69, "tag": "p", "text": "労働環境や待遇は恵まれていなかったことから権利向上のために結束しようという動きがあり、久松保夫は清水昭の太平洋テレビジョンに参加するが同社で労働争議が発生。これを受けて1960年(昭和35年)には東京俳優生活協同組合(俳協)が誕生したが、前述の若山弦蔵のように所属せず独立した者もいた。のちに俳協から分かれて多くの声優プロダクションが結成された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 70, "tag": "p", "text": "この時代にはまだ声優という言葉は一般には認知されておらず、別称として、吹き替えを主にしたことから吹き替えタレント、吹きかえ屋、声をあてることからアテ師、アテレコ・タレントというものがあった。また、アテレコ調が蔓延する状況から役者論、演技論を巡るアテレコ論争が展開されたのもこの時期であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 71, "tag": "p", "text": "1961年(昭和36年)、音声制作会社である東北新社が設立されている。1963年(昭和38年)には、グロービジョンが設立された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 72, "tag": "p", "text": "同年、日本放送芸能家協会(現:日本俳優連合)が発足している。代表には徳川夢声が就任し、設立総会では「著作権制度と放送法の改正を前にして日本放送文化の向上という公益のために結成」した事を宣言した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 73, "tag": "p", "text": "同年、国産初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』(主演声優:清水マリ)の放送が開始された。1958年(昭和33年)の『白蛇伝』(主演声優:森繁久彌)以来、劇場用アニメーション映画を手掛けて来た東映動画(現:東映アニメーション)も参入した。プレスコ方式が主流であった従来の劇場用アニメ市場とは異なる、アフレコ方式を採用したテレビアニメ市場が形成されて行く。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 74, "tag": "p", "text": "同年、文部省が公示した学習指導要領が実施され、高等学校課程に現代国語が創設されている。改定委員となった国語学者の時枝誠記の下で、経験主義から能力主義への転換が図られている。言語過程説を提唱した時枝は後述の福田の師に当たった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 75, "tag": "p", "text": "同年、財団法人・現代演劇協会と劇団雲が設立されている。雲の会の会員であった福田恆存、芥川比呂志、小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、今日出海らが役員に就任し、その継承を志向した。築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、日本における正統劇(せりふ劇)の確立を目指す事を謳った。また、同協会は設立趣旨の一つとして、役者に存在する「学校の違い」などの縄張り意識の追放を挙げている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 76, "tag": "p", "text": "1964年(昭和39年)、日本テレビが『バークにまかせろ』の放送を開始する。翻訳は篠原慎、演出は左近允洋、主演は若山弦蔵が担当した。前述の勝田久の見解によると、アテレコ調からの脱却はこの番組の頃からであり、その路線は翌年の『0011ナポレオン・ソロ』にも踏襲されたとしている。後述の野沢那智も出演者の一人であった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 77, "tag": "p", "text": "1966年(昭和41年)に『土曜洋画劇場』(現:『日曜洋画劇場』)の放送が始まり、この番組によってスターの声を特定の声優に固定する持ち役制(フィックス制度)が始まった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 78, "tag": "p", "text": "1967年(昭和42年)、放芸協の常務理事・久松保夫が『テアトロ』に『俳優ユニオンの提唱--劇団経営の合理化を含めて』を寄稿する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 79, "tag": "p", "text": "1968年(昭和43年)、文部省の外局として文化庁が設置されている。初代長官には今日出海が就任した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 80, "tag": "p", "text": "同年、読売テレビがテレビアニメ『巨人の星』(演出:長浜忠夫、主演:古谷徹)の放送を開始する。長浜は作品作りにおいて声優のディレクションを重要視した。その影響を受けた一人である富野由悠季は「人形劇をやっていらっしゃった方とは聞いていたが、ダイナミックに動き回り、アフレコ前のラッシュに自分で科白をあてて台本をチェックする監督なぞ、長浜監督をして初めて知った」と記している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 81, "tag": "p", "text": "1969年(昭和44年)、声優に特化した俳優事務所として青二プロダクションが設立されている。俳協のマネージャー出身の久保進が、東映動画の要請を受け創業した。当時、アニメへの出演者は権利問題などを抱えていた事もあり、その出演交渉は困難な状況にあった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 82, "tag": "p", "text": "1970年代になると、声優ブームの状況が出現した。ブームの中心人物はアラン・ドロンを持ち役とした野沢那智で、追っかけまでいたという。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 83, "tag": "p", "text": "1970年(昭和45年)、著作権法の全面改正が行われ、著作隣接権として実演家の権利が制定されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 84, "tag": "p", "text": "1971年(昭和46年)、日本俳優連合(日俳連)と、音声制作会社7社で構成された紫水会(現:日本音声製作者連盟)が結成される。また、この年には映画会社の五社協定も自然消滅を迎えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 85, "tag": "p", "text": "日本のテレビアニメの放送開始から8年後のこの年、大人向けアニメ番組への挑戦がなされ、『ルパン三世』が制作された。放送局は前述の読売テレビ、主演は山田康雄が担当した(なお、山田は声優の呼称を嫌った)。本放送時は失敗に終わったが再放送の度に評価が高まり、1977年(昭和52年)には、続編として第2シリーズが制作され、さらに本作の放送中には、劇場用アニメーションとして『ルパン三世 ルパンVS複製人間』、『ルパン三世 カリオストロの城』の2作品も公開されて、アニメブームを牽引した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 86, "tag": "p", "text": "1972年(昭和47年)、NHKが海外ドラマ『西部二人組』の放送を開始する。アテレコの世界のイメージを変えようという目論見があり、当時の若手俳優であった新克利、江守徹が起用された。日本語吹替版の製作は東北新社が担当している。さらに同時期、NHKは海外ドラマ『刑事コロンボ』も放送しているが、同作品のアテレコには『パパは何でも知っている』などへの出演歴がある俳優の小池朝雄が起用された。こちらの日本語吹替版の製作はグロービジョンが担当している。また、最初に認知されたアニメ声優として、当時子役ながらテレビアニメ『海のトリトン』(1972年)で主役を演じた塩屋翼が知られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 87, "tag": "p", "text": "1973年(昭和48年)、日俳連において、「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会」が開催された。吹き替えの仕事をする俳優全員の70%に当たる158名が参加し、さらに抗議団には187名が参加した。紫水会との間で交渉が行われ、業界の正常化と公正なルール確立のため、共同で対処する事が合意された。これにより出演料は平均3.14倍の増額となっている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 88, "tag": "p", "text": "1974年(昭和49年)、読売テレビがテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』の放送を開始する。同作でヒーロー役の古代進を担当した富山敬は、後述の声優ブームにおいて、個人名義での音楽アルバム『富山敬ロマン』(1979年)を出した初の声優アーティストとなった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 89, "tag": "p", "text": "1975年(昭和50年)、TBSが『刑事コジャック』の放送を開始する。翻訳は額田やえ子、演出は岡本知、主演は森山周一郎が担当した。額田は前述の『刑事コロンボ』も担当しており、翻訳面でも更なる進展が見られた。また、同番組のファンであったアニメ演出家の宮崎駿は、1992年(平成4年)に公開した『紅の豚』において森山を起用している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 90, "tag": "p", "text": "1976年(昭和51年)、『毎日新聞』が『テレビ洋画の吹替え〝声の主役たち〟』を掲載し、声の吹き替えの歴史について報じた。初期は説明調、弁士調であったが、やがて台本の翻訳に細かい注意が払われるようになり、現在はセリフに感情を乗せ、そして画面と口も合わせるまでに技術が高度化されたと解説した。また、声優の人選も拡大し、『日曜洋画劇場』放送の『野にかける白い馬のように』では、戦前から活躍する宇野重吉を起用している。英国俳優のジョン・ミルズを担当した宇野は、初の吹き替え出演の後、「作品のオリジナリティーを無視しては悪い、と思っていた。だから吹替えイコール説明だと考えていたんだが、この認識はすでに古いんだね」と自己批判を行った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 91, "tag": "p", "text": "第二次声優ブームは1977年(昭和52年)に公開された劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによるアニメブームと並行して起こった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 92, "tag": "p", "text": "1978年(昭和53年)には、外画協定が締結されている。この当時、日俳連に加盟する約2500名の俳優のうち、外画・動画部会は530名を数えるまでになり、15年以上のキャリアを持つ200名を中心としていた。また、日本脚本家連盟も協定書を締結している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 93, "tag": "p", "text": "この時代はアニメ雑誌が創刊され始めた時代でもあり、『アニメージュ』の創刊編集長である尾形英夫は、声優のアイドル化を編集方針のひとつとして打ち出した。『アニメージュ』以外のアニメ誌も同様に誌面に声優コーナーを設けて、定期的に声優の情報を発信した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 94, "tag": "p", "text": "アニメブームに押される形で声優業と並行した音楽活動も盛んになり、神谷明、古谷徹、古川登志夫などのアニメの美男子キャラクターを持ち役とする人気声優によるバンド「スラップスティック」を結成してライブ活動を行ったほか、多くの声優がレコードを出すなどした。当時万単位のレコードを売り上げる声優として、潘恵子、戸田恵子、神谷明、水島裕、スラップスティックの名が挙げられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 95, "tag": "p", "text": "また『宇宙戦艦ヤマト』で森雪を担当した麻上洋子(現:講談師・一龍斎春水)はアニメが好きで声優になりたくて声優になったことが知られ、声優養成所が輩出した初の声優とされるだけでなく、アイドル声優の始祖といえる存在で、その系譜が小山茉美、潘恵子へと続く。自身のアルバムを4枚出した潘恵子は元祖アイドルと呼ばれた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 96, "tag": "p", "text": "1979年(昭和54年)に放送開始した『アニメトピア』など、アニメ声優がパーソナリティを務めるラジオ番組なども誕生。ラジオドラマでは声優人気を背景にした『夜のドラマハウス』があり、アマチュア声優コンテストも開催されていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 97, "tag": "p", "text": "同年、アニメ演出家の富野由悠季は『機動戦士ガンダム』の制作中、『ファンタスティックコレクション』から依頼されて、声優論を展開している。アニメ制作のスタッフの立場から、声優志望者に向けて声優観が表明された。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 98, "tag": "p", "text": "なぜ?なぜだろう?......そう。声一つとっても、肉体があるから、人格があるから、多種多様の声があるのだ。人格(人としての)のあらわれが声である。声だけで人間は存在しないということなのだ。これを、当たり前と感じた瞬間から、あなたは声優入門の第一歩を見失なうだろう。(中略)", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 99, "tag": "p", "text": "1980年(昭和55年)、日俳連は通商産業省の認可を受けて、団体交渉権を有した協同組合へと改組している。同年、日本映画界の『男はつらいよ』シリーズが第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』からオール同時録音方式を採用する。これにより出演俳優は基本的にアフレコ無しの制作環境に変容している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 100, "tag": "p", "text": "1981年(昭和56年)2月、富野由悠季が『アニメ新世紀宣言』を提唱する。同年6月、福田恆存が『演劇入門』を編纂している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 101, "tag": "p", "text": "また同年9月には、日俳連の外画・動画部会の交渉委員であった永井一郎が『ガンダムセンチュリー』誌上で、アテレコ論争(1962年)への反論を行う。永井は『月刊OUT』(1977年創刊)の編集部から、声優と舞台の演技の違いについての寄稿を依頼され、声優論を展開した。序文においては、「でもはっきり断っておくけど、僕は、アイドル声優やタレントの仕事について書く気はない。そういう人たちがそれなりに生きていくことを僕は決して否定しない。だけど、ここでは本来の俳優、本来の声優の仕事についてまじめに書くつもりだ。アイドル声優になりたいと思っている人は、このへんで読むのをやめて下さい」とその経緯を説明している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 102, "tag": "p", "text": "同年10月、動画協定が締結されている。文書による出演契約の明確化が実現し、業界ルールの健全化が進んだ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 103, "tag": "p", "text": "1982年(昭和57年)、NHKが海外ドラマ『遥かなる西部 わが町センテニアル』の吹替放送を実施している。アメリカ建国200周年を記念して制作された全12話には、多彩な出演者が揃い踏みし、中尾彬、滝田裕介、今井和子、小林清志、里居正美、寺田農、樋浦勉、勝部演之、千葉耕市、福田豊土、瑳川哲朗、金内吉男、宍戸錠、天田俊明、鳳八千代、大塚周夫、小原乃梨子、内藤武敏、田口計、寺田路恵、中島葵、小林昭二などが参加している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 104, "tag": "p", "text": "この時期のアニメブームも後期に突入すると、新たな人材の採用志向が強まり、レコード会社と歌手契約を結んだアーティスト、アイドルがアニメ声優として起用され、話題を呼んでいる。1982年(昭和57年)に放送された『超時空要塞マクロス』では飯島真理が、1983年(昭和58年)に放送された『魔法の天使クリィミーマミ』では太田貴子が、キャラクターソングなども担当した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 105, "tag": "p", "text": "「1983年春のアニメ映画興行戦争」と注目を集めるまでになった劇場用アニメーション映画では、テレビアニメとは趣向を変えた起用も見られるようになっている。角川映画がアニメに進出した『幻魔大戦』では、江守徹、美輪明宏、穂積隆信、林泰文、原田知世、白石加代子などが名を連ねた。また、『クラッシャージョウ』では、ハンフリー・ボガートのフィックス声優でもあった久米明が、さらに『宇宙戦艦ヤマト 完結編』では、仲代達矢、石田太郎などが起用されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 106, "tag": "p", "text": "1984年(昭和59年)、アニメブームの到達点として記録された劇場用アニメーション映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』、『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の3作品が公開されている。各作品でヒロイン役を担当した平野文、島本須美、土井美加は、いずれも公開当時20代であり、大学の演劇科や劇団の演劇学校の出身者であった。同年、現代演劇協会が『ハムレット』を上演しているが、福田恆存が29年前と同じく演出をした本作品で、前述の土井美加はオフィーリア役を担当していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 107, "tag": "p", "text": "人材の供給・育成面では、声優専門プロダクションが分裂することによって次第に数が増え始める。1979年(昭和54年)には、ぷろだくしょんバオバブが、1981年(昭和56年)には、81プロデュースが、1984年(昭和59年)には、大沢事務所、賢プロダクション、アーツビジョンが設立された。同時に各プロダクションにより声優養成所が設けられた。1982年(昭和57年)には、青二塾が設立され、日俳連の副理事長でもあった久松保夫が初代塾長に就任した。久松は「優れた声優は、優れた俳優でもある」という理念の下で後進の育成に乗り出すが、その矢先に急逝する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 108, "tag": "p", "text": "これらにより、放送劇団出身者や舞台役者などの俳優活動の一環や余技としての声優業ではなく、最初からアニメ声優を目指した声優が登場し始めた。一連の声優ブームは、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がり、現在に至る声優像の多様化の原点となった。このブームはおおむね1980年代前半ごろまでとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 109, "tag": "p", "text": "この時期はアニメブームの後に訪れたアニメ冬の時代で、OVAや劇場アニメでの進展が見られている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 110, "tag": "p", "text": "1987年(昭和62年)、大手新聞社・テレビ局が製作した劇場用アニメーション映画『紫式部 源氏物語』が公開されている。登場人物の作画において、ライブアクションが採用された本作では、風間杜夫、梶三和子、田島令子、風吹ジュン、萩尾みどり、横山めぐみ、矢崎滋、津嘉山正種、大方斐紗子、大塚周夫、野沢那智、田村錦人、納谷悟朗、常田富士男、大原麗子らが声の出演をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 111, "tag": "p", "text": "1988年(昭和63年)、OVAを中心に展開された『銀河英雄伝説』(1988年 - 2000年)が開始する。600名を超える登場人物を描き分ける困難から一人一役が採用され、当時の男性声優の大半が出演した。その後、会話劇が魅力の作品という事もあり、芝居に携わる人間が最適ではないかとの検討が行われる。これによりアニメとは疎遠気味であった、外画系で主役級を務める劇団出身者にまで人選が拡大した。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 112, "tag": "p", "text": "1980年代後半から「声優のアイドル化」あるいはアニメ・イベント(ショー)への出演による「顔出し」が一般的になった。例えば1980年代末のテレビアニメ『鎧伝サムライトルーパー』に出演した5人の男性声優で1989年に結成したユニット「NG5」が人気を集め、ニュース番組で取り上げられるほどであった。声優がマルチ活動をするようになった先駆け的グループであるとも言われている。1993年(平成5年)からのOVAシリーズ『アイドル防衛隊ハミングバード』以後に急速に見られるようになった、アニメ作中のキャラクターと実在の声優を様々な形で相互に連想させるようなメディア的な演出によって、表舞台に立つ存在になった。こうして、アイドル的なイメージ構築によるアイドルファンのアニメファンへの取り込みがなされるようになる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 113, "tag": "p", "text": "そして、林原めぐみなどの女性声優がレコード会社と契約を行って歌手活動をする例が増えてくる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 114, "tag": "p", "text": "さらに、1990年代になって、吹き替え作品が、地上波放送のほかにも、DVDなどのパッケージやCS放送などさまざまな形態で発信されるようになると、同じ作品でも複数の吹き替えが作られる例が増加した。このため、従来の持ち役制度はほぼなくなったとする指摘もあるが、現在もトム・クルーズ本人からの公認で専属吹き替えを務めている森川智之(2001年以降。森川が担当する前は鈴置洋孝が多く担当していた)のように、同一の声優が同じ役者を吹き替え続ける慣習は残っている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 115, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)、日俳連の外画動画部会は出演条件の改定交渉に臨み、合意書に調印している。これにより出演料は平均1.7倍の増額となっている。出演料の高騰は新人声優の登用など、この後の業界構造に影響を与えた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 116, "tag": "p", "text": "同年、ウォルト・ディズニー・カンパニーが劇場用アニメーション映画『リトル・マーメイド』を日本で公開する。日本語吹替版の声優には、すずきまゆみ、井上和彦、大友大輔、上條恒彦、久米明、森公美子、森山周一郎らが起用された。また、この後のディズニー・ルネサンスにおいては、スタジオジブリとの事業提携も実施している(1996年)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 117, "tag": "p", "text": "用語として、おおむね1990年代半ばから後半にかけて、頻繁に用いられていたが、明確な定義は存在していない。第一次、第二次という使い方も、この用語から逆算的に使用されたもので、こちらも明確な定義は存在していない。この時期の特徴として、「新人声優のデビューラッシュ」「声優の音声入りのテレビゲームやパソコンゲームの登場による仕事の増加」とともに、「声優のマルチ活動化や歌手活動への進出によるアイドル化」「声優がパーソナリティを務めるラジオ番組の普及」などが挙げられる。このことから、声の演技力のほかにも、特にアニメ・ゲームで活躍するには容姿のよさや歌唱力などといったようなことも声優に求められるようになったとされる。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 118, "tag": "p", "text": "1994年(平成6年)に初めての声優専門誌となる『声優グランプリ』と『ボイスアニメージュ』が相次いで創刊された。同年、ステージ制作業務を手掛けるネルケプランニングが設立され、アニメ作品のキャスティング業務にも参入している。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 119, "tag": "p", "text": "1995年(平成7年)には初の声優専門のテレビ番組『声♥遊倶楽部』が放送された。そして清水香里や坂本真綾などが、当時中学生でテレビアニメの主人公に抜擢される例もあり、アイドル的な注目を受けた。同年、東北新社が創立35周年記念事業として映像テクノアカデミアを開校し、映像翻訳や声優の教育事業を開始する。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 120, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)、NHKと東北新社は海外ドラマである『ER緊急救命室』の吹き替え放送に先立って、声優オーディションを開催している。文学座、円、昴、俳優座、青年座の各劇団に所属する俳優陣がごぞって参加し、その中から山像かおり、井上倫宏、平田広明、小山力也、野沢由香里が合格した。同作品は15年間に及び、全332話の出演者数は延べで約3200名を数えている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 121, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)、大手出版社・テレビ局・広告代理店が製作した劇場用アニメーション映画である『もののけ姫』が公開されている。当時の日本映画の歴代興行収入第一位となった本作では、声の仕事を主戦場とはしない人間を中心に、松田洋治、石田ゆり子、田中裕子、小林薫、西村雅彦、上條恒彦、島本須美、渡辺哲、佐藤允、名古屋章、美輪明宏、森光子、森繁久彌らが声の出演をしている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 122, "tag": "p", "text": "なお同年には、椎名へきるが声優として初めて日本武道館で単独コンサートを開催した。椎名は声優が必ずしもアニメや外国映画吹き替えなどの、映像中のキャラクターの影という声の代行者という役割ではなく、声優そのものがスター性を持った存在となり得ることを最初に示した先駆者とみられている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 123, "tag": "p", "text": "1998年(平成10年)、アニメ演出家の庵野秀明は、『月刊ニュータイプ』(発行:角川書店)が企画した野田秀樹との対談において、自身の声優観に言及し、その変化を告白している。庵野は前述のアニメブーム以来、アニメ制作に携わっており、直近の監督作であったテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と劇場版(1995年〜1997年)では、若手声優を数多く起用していた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 124, "tag": "p", "text": "庵野 僕、声優さんの肉声ってアニメの中で、唯一生だと信じてたんですよ。でもある日突然逆じゃないかと思ったんです。声優さんのお芝居は技術なんですよ。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 125, "tag": "p", "text": "野田 とってもよくわかる。肉を使ってるはずなのに、肉じゃない。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 126, "tag": "p", "text": "庵野 ええ。そこにあるのは記号なんですよ。キャラクターを統一するための。人の声をした記号。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 127, "tag": "p", "text": "野田 肉じゃないものに合わせようとするんだからね。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 128, "tag": "p", "text": "庵野 そうなんです。それでアニメーションっていうものに、ガターっときたんです。だから実写や舞台がいいなぁって思ったんです。肉体と声がひとつだから。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 129, "tag": "p", "text": "野田 じゃぁ、声優を使わずに、最初に声をとってから、アニメをつくれば?", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 130, "tag": "p", "text": "庵野 それが理想です。プレスコ(注2)っていう方法。高畑勲さんはやってるし、ディズニー、アメリカでは当たり前なのに、日本ではシステムの問題でなかなかできない。こんどのアニメ(『彼氏彼女の事情』)では声優オーディションをやるんです。型にはまってない役者さんがいいですね。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 131, "tag": "p", "text": "この時期、アニメ作品で声を担当した声優が舞台公演などでその担当したキャラクターを演じる例の先駆として、サクラ大戦シリーズ#歌謡ショウが始まる。これは1997年(平成9年)から2007年(平成19年)まで続くが、サクラ大戦帝国歌劇団花組のキャラクターの声を演じている声優が、実際に舞台上でそのキャラクターを演じるミュージカル仕立ての公演で、それまでアニメ原作の舞台では俳優が演じていたが、アニメとの声の違いを指摘した子供がいたことで、サクラ大戦シリーズの総合プロデューサーである広井王子は、キャラクターの担当声優を決める際に、舞台公演も視野に入れてキャスティングしていた。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 132, "tag": "p", "text": "1990年代より活動していた水樹奈々、田村ゆかりや、舞台俳優から転向した宮野真守などの「声優アーティスト」としての成功や、2005年(平成17年)から開催されているAnimelo Summer Liveなどのアニメソング系の合同フェス的なライブの普及などにより、声優と歌手活動を両立させる声優がこの時期以降ますます増加するようになった。水樹は、声優として初のドームツアーやNHK紅白歌合戦への出場など、音楽活動の活躍も目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 133, "tag": "p", "text": "2007年(平成19年)、同年、一般社団法人・日本声優事業社協議会が設立されている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 134, "tag": "p", "text": "2010年代半ば以後、音楽活動に傾倒する声優の増加傾向が年々顕著になり、歌手としての日本武道館での単独公演を実現させる声優が、ほぼ毎年のように現れるようになっている(一例として、内田彩、東山奈央、内田真礼など。特に東山は、自身初めての単独公演が日本武道館での開催であった)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 135, "tag": "p", "text": "2000年代後半ごろから、一部のマスコミで「第4次声優ブーム」という表現が用いられるようになった(ただし、明確な定義はない)。このころから、子どもの「なりたい職業ランキング」の上位に「声優」がランクインするようになった。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 136, "tag": "p", "text": "2000年代後半以降、深夜アニメの本数が急速に増加。これにより、いわゆる「アニメバブル」という状況が生まれ、新人声優デビューは増加の一途をたどる。資格制度があるわけではないので実数の把握は困難であるが、声優専門誌である『声優グランプリ』の声優名鑑に記載されている声優の人数は2001年版は370人だったのに対し、2022年版は21年前と比べて約4.5倍の1658人に増加していることからも窺える。こうして花澤香菜、 悠木碧、 神木隆之介、 日高里菜、 佐倉綾音、 瀬戸麻沙美、 小倉唯、 石原夏織、 諸星すみれ、 伊藤美来、 夏川椎菜、水瀬いのり、 富田美憂、林鼓子、楠木ともり、 近藤玲奈、 菱川花菜など当時10代でテレビアニメの主演を務める例も、以前よりみられるようになった。 なおこの当時の10代デビュー組のうち 大坪由佳、 MAKO、 矢作紗友里、 小見川千明、 福原遥、 黒沢ともよ、 田所あずさ、 伊波杏樹、 武藤志織、 茜屋日海夏、 片平美那、 松永あかね、 石橋陽彩、 増田里紅 らは、声優デビュー作で主役である。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 137, "tag": "p", "text": "さらに、『ラブライブ!』や『アイドルマスター』『けいおん!』『BanG Dream!』『あんさんぶるスターズ!』など、ゲームやアニメ番組から派生した企画による声優ユニットが男女を問わず人気を博すことも多くなっていく。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 138, "tag": "p", "text": "特に『ラブライブ!』のμ'sは、東京ドーム公演やNHK紅白歌合戦への出場するなど人気を獲得した。このため、現在の声優は演技だけではなくアイドルのように、ルックス、歌唱力、ダンススキルが求められる例もある。逆に田野アサミ(元BOYSTYLE)や仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)など、アイドルから声優に転身する例も増えているとされている。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 139, "tag": "p", "text": "2010年代には小宮有紗、美山加恋、福原遥のように声優・俳優・歌手を兼業する者も目立った。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 140, "tag": "p", "text": "2010年代後半にはバーチャルなキャラクターを製作し、それに声優が声をあててYouTubeなど動画配信を利用して配信するVTuberが出現するが、このキャラクターを「声優」として、YTuberがほかのアニメ・ゲーム作品などに声をあてるという現象が開始されている(バーチャルYouTuber活動も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 141, "tag": "p", "text": "2023年10月から「インボイス制度」(正式名称:適格請求書等保存方式)が施行予定となり、声優業界に与えるインパクトを憂慮し、有志グループ「VOICTION」が発足し、本制度への反対運動を行なっている。同グループはアンケート調査を実施し、その結果によると72%は声優としての年収が300万円以下であると回答しており、同グループの一人甲斐田裕子によると、2022年時点での声優のギャラは20年前(2000年ごろ)から変わっていないという(経済環境も参照)。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 142, "tag": "p", "text": "2023年(令和5年)、日俳連が「生成系AI技術の活用に関する提言」を行う。", "title": "歴史" }, { "paragraph_id": 143, "tag": "p", "text": "アニメ、オリジナルビデオアニメ(OVA)、ラジオドラマ、ドラマCD、ゲーム、テレビ、映画、洋画や海外ドラマの日本語吹き替え、ボイスドラマ、ナレーション、アナウンス、番組内の語り手、朗読などがある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 144, "tag": "p", "text": "声による演技以外にも、出演作の関連イベントや宣伝など付随して顔出し出演があるが、事前契約はせずその都度の協議で決定することが多いなど、俳優とは出演料のシステムが異なる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 145, "tag": "p", "text": "仕事の取り方はオーディションによる選考、制作側による指名、出資によるキャスティング権の確保であるが、仕事の種類ごとに異なる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 146, "tag": "p", "text": "画面を見ながら台詞を吹き込むアフレコと、事前に台詞を収録し、それに合わせて後から動画を制作するプレスコの2種類の方法がある。日本ではアフレコが主流である。近年のアニメ制作のデジタル化により、アフレコ後に絵を修正する例も多い。なお、声をあてることからアテレコとも言う。収録はスタジオに声優を集めて一度に行うのが主流だが、芸人や歌手などの非声優を起用する場合は、個別に別録りすることが多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 147, "tag": "p", "text": "出演料はランク制の適用を受ける。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 148, "tag": "p", "text": "役は原作者や制作サイドからイメージに適合した声(声質)や演技力を持つ人物が指名されることもあったり、昨今はアニメに対する出資会社によって出演枠を確保する方法がとられることもあり、オーディションによる出演ではない者も混在しているが、通常は選考オーディションを受けて得るというシステムが主流である。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 149, "tag": "p", "text": "オーディションについても、予定しているキャラクターの役柄に合うであろう声優を指名して受けてもらうケース(その結果で、別のキャラクターの配役になるケースもある)もあるが、通常は制作会社などから声優事務所の庶務にオーディションのお知らせが通達され、事務所は役柄に合うと判断した所属声優を数人選び、その選ばれた者だけがオーディションを受けられるというのが通例である。そのため大人数の声優を抱える大手事務所では、まず事務所内での競争を勝ち抜かないとオーディションを受ける機会すらない。そして、たとえオーディションを受けられたとしても、60本に1本受かればいいというほどの競争率と言われる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 150, "tag": "p", "text": "古川登志夫は『ポプテピピック』に出演した際、「大御所なんだから仕事選べ」という一部視聴者の声が出たことに対して「冗談ではない。アニメのキャラ声は本職だ。第一仕事を選べるほど偉い立場にない」「一本の仕事を取るのにマネージャーさんが何度頭を下げるかご存知か!」と反論している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 151, "tag": "p", "text": "何人かで一緒にブースに入って実際に芝居をして、そのバランスを見て決められたりもある。このとき受けた役は落ちたが、他の役で決まることもある。これはオーディションで「このセリフを読んでください」と言われて別のキャラクターのセリフを読むこともあって、その役に決まるなどの他、あとから追加されるキャラクターの役をもらうこともある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 152, "tag": "p", "text": "その他、『けんぷファー』のように原作で声優名が設定されていたので、アニメ化に際しても、一部の登場人物の声にその声優本人を起用している例もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 153, "tag": "p", "text": "公募形式とする例もあり、2005年(平成17年)の『SPEED GRAPHER』ではヒロイン役を公募オーディションとしたが、第1次・第2次審査で絞り込んでからウェブの一般投票も加味される形式で行われた(新人の真堂圭が選ばれた)。2013年(平成25年)にはテレビアニメ『ふたりはミルキィホームズ』の主人公役を決める公募オーディションが行われた(新人の伊藤彩沙が選ばれた)。2018年(平成30年)放送の『からくりサーカス』では主役の1人をプロアマ不問の公募オーディションにより決定すると発表したが、応募総数は2,500人超だったという(新人の植田千尋が選ばれた)。2021年(令和3年)の『ワッチャプリマジ!』では公募オーディションの審査を各段階で公開している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 154, "tag": "p", "text": "#一般公募も参照。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 155, "tag": "p", "text": "CMやPV、パチンコのリーチアクションなどアニメ映像を使う場面でも、声優が声を担当している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 156, "tag": "p", "text": "基本的に、かけ合いではなく一人ずつ個別に収録する。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 157, "tag": "p", "text": "CD-ROMの普及し始めた1980年代末から増えた仕事である。1990年代に、PlayStationなどの家庭用ゲーム機器やパチンコなどの遊戯機器などで高性能なゲーム機が次々に登場し、ソフトウェアに既存作品にはないオリジナルストーリーを展開する作品の導入が可能となると、そのキャラクターに声を当てる声優が起用されることが一般的になった。そして『ときめきメモリアル』(1994年〈平成6年〉 - )から人気に火のついた男性向け恋愛ゲームは美少女ばかりが登場するゲームから「ギャルゲー」とも呼ばれ始め、他のジャンルにも美少女キャラクターとその担当声優が付くゲームが増加した。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 158, "tag": "p", "text": "出演料については、当初は明確な基準がなかったが、1998年(平成10年)に日本俳優連合(日俳連)と社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)の間で協議が持たれてからは、一般向けのゲームでは、アニメと同様にランク制が適用されるようになった。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 159, "tag": "p", "text": "アニメと同じく、オーディションや指名によって選出される。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 160, "tag": "p", "text": "アダルトゲーム(エロゲー)・アダルトアニメなどの年齢制限のある作品に声をあてる。この場合、声優名を非公表とするか、別の芸名を使うことがほとんどであるが、まれに普段使用している声優名のままでクレジットされていることもあり、石田彰や一条和矢、大野まりな、こおろぎさとみなど、一般作と同じ名義で出演する声優もいる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 161, "tag": "p", "text": "ダイナマイト亜美や静木亜美、長崎みなみなど、アダルト作品を専門としている声優もおり、ゲームのアニメ化に合わせて一般作での活動を行なう例も多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 162, "tag": "p", "text": "ComicFestaアニメでは成人向けの描写をカットした一般向けと、すべての描写を入れた完全版の2種類を用意しており、それぞれ声優も異なっている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 163, "tag": "p", "text": "特撮番組では、顔出し出演のほかにスーツアクターが演じる怪人などの声を担当するという仕事もある。『アクマイザー3』や『宇宙戦隊キュウレンジャー』、『機界戦隊ゼンカイジャー』など、着ぐるみが中心のヒーロー物など、また昨今のウルトラマンシリーズではウルトラマンが言葉を発するため、特に声を当てる声優が必要となる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 164, "tag": "p", "text": "ヒーロー物番組ではさらに、変身などでの音声(かけ声など)を担当することも多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 165, "tag": "p", "text": "通常は、動きはスーツアクターが担当してそれに合わせて声を当てる作業であるが、中には声とアクターを兼任する場合もあり、愛川欽也による『おはよう!こどもショー』のロバくん、チョー(俳優)が担当する 『いないいないばあっ!』でのワンワン、大竹宏が担当していた『ママとあそぼう!ピンポンパン』のカッパのカータン、千葉繁が扮した『深夜秘宝館』Dr.シーゲル・バーチーらは、それぞれスーツアクターも兼任し直接声をあてていることが知られている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 166, "tag": "p", "text": "鈴田美夜子のように公の場で顔出ししない手段として、着ぐるみを着ているというケースもある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 167, "tag": "p", "text": "ほかに『ウルトラマン』でザラブ星人の声をあてることになった青野武はそれに飽き足らず、雰囲気をつかむため実際に着ぐるみの中に入ってザラブ星人を演じている、『ウルトラセブン誕生35周年“EVOLUTION”5部作』(2002年〈平成14年〉)に出演の関智一はガルド星人として声だけでなく、星人の普段の姿も演じている、上坂すみれは『ウルトラマントリガー』でカルミラの声あてとともに同キャラの地球人・人間態として本人出演をしている...などのケースがある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 168, "tag": "p", "text": "人形劇はキャラクターの演技とタイミングを合わせながらセリフを言うか、事前に収録した映像を見ながらアフレコする。NHKの人形劇はプレスコ形式が多い。また1人で複数役を兼任するスタイルが多く、『連続人形活劇 新・三銃士』では30人近い役を7名で演じており、『人形劇 三国志』ではメインキャラクターを演じる役者は5名以上の役を兼任している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 169, "tag": "p", "text": "着ぐるみショーでは上記#着ぐるみのアテレコにあるとおり生で声を合わせることもあるが、基本的には事前に声を収録してそれに合わせて着ぐるみの演者(スーツアクター)が演技を行う。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 170, "tag": "p", "text": "劇団飛行船の公演は「マスクプレイ」という、着ぐるみをきたアクターが声優によって吹き込まれた声に合わせて演じる手法をとっている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 171, "tag": "p", "text": "海外ドラマ・外国映画などの登場人物の声を俳優に代わって演じる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 172, "tag": "p", "text": "フィックス制度により役が特定の声優に固定されていることもあるが、放送版とセル版では異なる声優となる例もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 173, "tag": "p", "text": "ニュースやドキュメンタリーなどのボイスオーバーの仕事もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 174, "tag": "p", "text": "アニメ同様、ランク制の対象となる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 175, "tag": "p", "text": "アニメとは異なりオーディションはほとんど行われず、プロデューサーやディレクターなどが声優を指名して決めることがほとんどとされる。ただし、外画の場合でも録った声を本国に送って向こうのスタッフが判断して選ぶこともあったり、ディズニー作品、スティーヴン・スピルバーグ作品、ジョージ・ルーカス作品などでは指名ではなく、アニメ同様オーディションが行われるという。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 176, "tag": "p", "text": "ラジオドラマ・ドラマCDなど音声のみのドラマ作品でキャラクターの声を演じる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 177, "tag": "p", "text": "ドラマCDの場合、売上を考慮して、すでに知名度のある声優を起用することが多いが、逆に新人やアマチュアをオーディションによって選ぶ例もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 178, "tag": "p", "text": "アニメ・ゲーム・ライトノベル・ラジオ番組のDJ・ドラマCD・玩具などメディアミックスが行われる作品でのアテレコ・アフレコ。作品CMがアニメドラマ形式でつくられ、そのアテレコを担当することもある。以前に出演していた媒体、例えばゲームが運よくアニメ化される、アニメの新しいシリーズが始まる、ドラマCDがアニメ化するなどの形で仕事が発生するなど、仕事の幅が意外にも広がるのである。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 179, "tag": "p", "text": "基本的には同一の声優が同じ役に固定されるが、諸事情により変わることもある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 180, "tag": "p", "text": "語り手、朗読とは別に、声や語りかけるなどの音声作品をレコードやカセットテープ、コンパクトディスクなど音声記録媒体に記録してボイス集などとして販売するもので、2010年代からはさらに音響技術によりASMR作品・バイノーラル録音での音声作品が登場し、主にインターネットを通してダウンロード販売などがなされている。こうした音声作品のダウンロード販売に2020年代から名の知られる声優も続々と参入している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 181, "tag": "p", "text": "また、家電やイヤホンといった音響機器、パソコンソフトの起動や操作時など各種機器のシステム起動音などやボタン操作音などで音声を組み込み製造販売される際の声を担当するなどのケースもある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 182, "tag": "p", "text": "この他に、自身の声を初音ミクといったバーチャルアイドルなどに代表される二次元媒体を中心とした架空キャラクターの声に、音源データとして活用される仕事などがある。VOCALOID初期から試みられてきたが、声優の声や表現を活用すべくAIの音声に声優の声を導入して提供するサービスが始められており、こうした声優の個性、表現や「声」そのものをコンテンツとして提供する仕事が生じている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 183, "tag": "p", "text": "テレビ番組・テレビやラジオのCM・PRビデオ、解説ビデオなどの朗読、イベントのアナウンスやリングアナウンサー、番号案内の録音されたメッセージ、デパートやスーパーマーケットなどでの小売店舗の録音案内、駅や路線バスなどの公共交通機関のアナウンス(自動放送)など。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 184, "tag": "p", "text": "ナレーションやアナウンスもAI音声として、本職のナレーター、アナウンサーとそん色ないニュース原稿を読み上げる人造アナウンサーなども出現している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 185, "tag": "p", "text": "ランク制の対象外の仕事で、ギャラはアニメ・日本語吹き替え・ゲームよりもはるかに高額とされ、特にテレビCMが高額とされている。ただし基本的に単発かつ不定期の仕事であり、安定した収入にはなりにくい。また本業のナレーターやアナウンサーとも競合する。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 186, "tag": "p", "text": "日本語吹き替え同様、オーディションはほとんど行われず、指名で決まることがほとんどとされる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 187, "tag": "p", "text": "前述のように、舞台俳優が声優を兼ねる例は創成期から多い。松本忍、かぬか光明、松岡文雄、中村太亮のように劇団に所属していた、北島善紀、志賀克也、置鮎龍太郎など劇団に所属しながら並行して活動する者も多いが、野沢那智、坂口候一、関智一、緒方賢一、伊藤健太郎、菅谷勇、金光宣明、大西健晴、目黒光祐、大黒和広、関俊彦や中尾隆聖などのように劇団を創立したり主宰する者、筈見純のように演出家として活動する者もおり、声優で舞台公演に演者として出演するケースは多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 188, "tag": "p", "text": "劇団の中ではもともとテアトル・エコーは声の仕事に積極的なことで知られ、安原義人、小宮和枝、納谷悟朗、多田野曜平、雨蘭咲木子、竹若拓磨ら同劇団所属俳優らの多くが声優を兼ねているし、劇団21世紀FOXにも声優が多数所属していた。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 189, "tag": "p", "text": "#俳優・舞台役者も参照。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 190, "tag": "p", "text": "そして#第3次声優ブーム時のサクラ大戦歌謡ショウや、2000年以降には、漫画・アニメ・ゲームなどを原作・原案とした舞台芸術である2.5次元ミュージカルでは『テニスの王子様』『刀剣乱舞』など、声優が演者となって出演することが多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 191, "tag": "p", "text": "通常の舞台劇とは別に、台本を持って音読するスタイルで上演される朗読劇(リーディング)もあり、メディアミックスとしての上演もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 192, "tag": "p", "text": "映画やテレビドラマで俳優活動を行う者もおり、近年ではバラエティ番組などへの出演もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 193, "tag": "p", "text": "戸田恵子が1998年の『ショムニ(テレビドラマ)』からテレビドラマやテレビCMに出演し始めていくが、2010年以降にはドラマ『満福少女ドラゴネット』(2010年)の久保ユリカ、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2015年)NHK連続テレビ小説『あまちゃん』(2013年)の水瀬いのり、NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)の高木渉、NHK連続テレビ小説「エール」(2020年)の津田健次郎、「麒麟がくる」(2020年)の大塚明夫、『半沢直樹』(2020年)の宮野真守、『オー!マイ・ボス!恋は別冊で』(2021年)の花江夏樹、『青天を衝け』(2021年)の置鮎龍太郎、『リコカツ』(2021年)の三石琴乃の例がみられる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 194, "tag": "p", "text": "2010年代後半から『声ガール!』(2018年)や『劇団スフィア』(2019年)、『声優探偵』(2021年)といった声優をテーマにして声優が俳優として出演する実写ドラマが制作されている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 195, "tag": "p", "text": "映画出演についても『バトル・ロワイアル』(2000年)の宮村優子、『包帯クラブ』(2007年)の小野賢章、『モノクロームの少女』(2009年)の入野自由、『君がいなくちゃだめなんだ』(2015年)の花澤香菜、『小野寺の弟・小野寺の姉』(2014年)『-X-マイナス・カケル・マイナス』(2011年)の寿美菜子、『縁-enishi-』(2011年)の谷山紀章、『寄性獣医・鈴音 EVOLUTION』(2011年)『猫カフェ』(2018年)の久保ユリカ、『図書館戦争』(2013年)の鈴木達央らの例がある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 196, "tag": "p", "text": "このほか映画『第2写真部』(2009年)、実写『ヤッターマン』(2009年)、『腐女子彼女。』(2009年)、『私の優しくない先輩』(2010年)、『Wonderful World』(2010年)、『ライトノベルの楽しい書き方』(2010年)、『神☆ヴォイス 〜THE VOICE MAKES A MIRACLE〜』(2011年)、『死ガ二人ヲワカツマデ... 第一章 色ノナイ青』『死ガ二人ヲワカツマデ... 第二章 南瓜花-nananka-』(2012年)、特撮ドラマ『非公認戦隊アキバレンジャー』『非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛』(2012年 - 2013年)、『獣電戦隊キョウリュウジャー』(2013年 - 2014年)最終話やエンディングのダンス、『Green Flash』(2015年)など、声優が複数人が顔出しで出演している作品も多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 197, "tag": "p", "text": "水樹奈々、内田真礼、竹達彩奈などのように、CMで顔出し出演をする声優も増えている。CMは広告代理店担当者査定などに該当しランク制対象外である。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 198, "tag": "p", "text": "2010年代後半には、梶裕貴のようにニュース番組のコメンテーターとして出演する声優もいる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 199, "tag": "p", "text": "この他にお笑い活動もあり、山寺宏一のようにものまね番組に出演してものまねを披露したり、2019年7月に「ラッシュスタイル」というコンビを組んでいた速水奨と野津山幸宏がM-1グランプリ2019にエントリーしている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 200, "tag": "p", "text": "2010年代後半からは『ラフラフ!』『Warahibi!』といった声優×二次元芸人プロジェクトが進行している。その中でも『GET UP! GET LIVE!』は声優が芸人の役を演じるだけでなく、実際にイベントで漫才やコントのリーディングライブに挑戦。芸人役を演じている花江夏樹、西山宏太朗、阿座上洋平、熊谷健太郎らがイベントで実際に漫才やコントを披露している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 201, "tag": "p", "text": "#声優による他分野での活動も参照。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 202, "tag": "p", "text": "音楽CDを発売したり、コンサートを開催したりするなど、歌手として活動をおこなう。逆に、アイドル歌手が声優に転身することもある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 203, "tag": "p", "text": "アニメ・ゲームにおいては、出演声優が、個人またはユニットとして、その作品の主題歌を歌うことがある。また、キャラクターが歌っているという設定にして、声優本人の名義ではなく、キャラクター名義でキャラクターソングをリリースすることがある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 204, "tag": "p", "text": "林原めぐみが声優として初めてキングレコードスターチャイルドレーベルと専属契約を結んだ1991年(平成3年)3月以後、声優がレコード会社との専属契約を結び、本格的に歌手活動をする例が一般化している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 205, "tag": "p", "text": "数名の声優が音楽ユニットを結成して、歌手(音楽)活動をすることもあり、これは声優ユニットと称されることが多い。『アイドルマスター』や『ラブライブ!』などのように、ドーム球場でライブを行う人気作品もある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 206, "tag": "p", "text": "オリコンなどのヒットチャートにおいては、かつてアニメソングは児童向けの曲として別に集計されていた。また、アニメ専門店や家電量販店は集計の対象外だった。これらが修正された1990年代半ばごろから、声優の歌のCDがランキング上位になることが増えた。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 207, "tag": "p", "text": "1997年(平成9年)2月に椎名へきるが声優初となる日本武道館単独コンサートを開催したのを皮切りに、声優が武道館のような大きな会場で単独コンサートを開催するようになっていった。2011年12月には水樹奈々が声優初となる東京ドーム単独コンサートを開催した。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 208, "tag": "p", "text": "アニメソングが一般層にも浸透するにつれ、声優が音楽テレビ番組に出演して歌を歌うことも増えている。1997年(平成9年)には椎名へきるが「ミュージックステーション」に、2009年(平成21年)には、水樹奈々がNHK紅白歌合戦(第60回NHK紅白歌合戦)に、それぞれ声優として初めて出演している。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 209, "tag": "p", "text": "水樹奈々や茅原実里、蒼井翔太、柴本浩行のように、元来歌手を志望していた人物が声優となり、のちに歌手としてもデビューするということもある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 210, "tag": "p", "text": "#アイドル声優と#声優アーティストも参照。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 211, "tag": "p", "text": "声優によるラジオ番組のパーソナリティは、古くから存在するが、1990年代以降は文化放送やラジオ大阪、ラジオ関西がアニラジ専門の放送枠を設けるなど、番組数が急増した。そしてアニラジパーソナリティの一般公募などもあり、例えば井澤美香子は養成課程修了後、声優になりたいという夢のもとでアニラジのパーソナリティの一般公募へ応募したという。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 212, "tag": "p", "text": "2000年代以降は、地上波放送だけでなく、動画配信サイトを使ったインターネットラジオ番組も増えている。こうしたラジオ番組では声優個人の冠番組の他、現在進行系でテレビ放送中のアニメ番組に因んだラジオ番組が放送期間中設けられて、当該アニメ番組に出演する声優がパーソナリティを務めるなどがある。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 213, "tag": "p", "text": "2010年代後半からYouTuberが人気を博しはじめて、アニメファンや声優ファンの間ではバーチャルYouTuber(VTuber)も熱い支持を得ていく。キズナアイを筆頭とするバーチャルYouTuberたちが一大ジャンルとして着実に市民権を得ていくが、その中でも顔出しのYouTuberを凌ぐほどの人気を誇るバーチャルYouTuberたちも多い。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 214, "tag": "p", "text": "バーチャルYouTuberはYouTuberとして動画配信を行うCGキャラクターのことであるが、アバターを使って動画配信をする専用機器を装着した演者の表情や動きを読み取るモーションキャプチャー技術と3DCGで作られたキャラクターをアニメーション化して声をあてることで、キャラクターが実在しているかのように見せている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 215, "tag": "p", "text": "そして#音声作品にあるキャラクターの声に活用するデータ音源の仕事とは違い、自身の喋りをリアルタイムで伝えており、このために\"声での演技力\"が求められるため、キャラクターに声をあてている人物は声優であることが多いことが知られる。かなりの割合でプロの声優がその演者として声や体の動きを担当しバーチャルな存在として活動していくが、VTuberはキャラクター自身が動画を投稿しているという設定となっており、声をあてている人に言及することはファンの間で一種タブー視もされている。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 216, "tag": "p", "text": "VTuberには企業などの運営者と声優などの演者が関わっているため、声優がVTuberになる方法として、まず運営者から声優事務所に演者を募集するオーディションの話が来て、声優がそれを受ける。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 217, "tag": "p", "text": "ただし一般的に声が認知されていて人物が特定されるような人気声優が務めることは少数であるが、これはアニメのアフレコやナレーションなどの一般的な声優仕事よりも報酬が少ないためで、人気声優ではなく知名度でなくあまり売れていない声優やキャリアの少ない新人声優が起用されるケースが多い。個人がかろうじて食べていける金額にはなってもモーションアクターなど、通常の声優の仕事ではない業務を含むなど台本通りにキャラクターを演じる仕事ではなく、台本なしで自分の話をする配信者の役割を担うことなど、声優仕事の中では所属事務所が儲けを得るほどにはならない職ともいえる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 218, "tag": "p", "text": "VTuberの演者への報酬は台詞の量にもよるが、その業界に相場が無いのでピンキリとされ、声優が行う仕事とは金額に大きな差があり報酬が合わず、VTuberの演者は声優の仕事よりも報酬が落ちるとされる。またそもそもVTuber自体が厳しいYouTubeの世界で生き残るのは難しいことも知られる。", "title": "仕事" }, { "paragraph_id": 219, "tag": "p", "text": "長期シリーズを中心に、担当声優の引退や逝去・降板以外に、諸般の事情による交代も時折起こる。また同じく病気や産休・事故などによる療養や、海外留学などによる休業により「一時的に」別の声優が代役を担当する例も多く見られる。さらにメディアミックスの媒体ごとで声優が交代することは頻繁にある。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 220, "tag": "p", "text": "メディアミックスの場合、舞台公演などで身体的な負担が大きくなったため、他の作品への出演は続けるが、当該作品は降板するような場合もいくつかある。また『Fate/staynight』などメディアミックスや派生作品ごとキャラクターが数回変更になる作品もある。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 221, "tag": "p", "text": "また『ウマ娘 プリティーダービー』のように当初予定していた声優から大幅入れ替えした例もある。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 222, "tag": "p", "text": "このほかに『サザエさん』や『ドラえもん』(テレビ朝日版)など、長く続いているアニメで、世代交代的にメインキャストが交代するケースもある。声優交代には様々なパターンがあり、『ドラえもん』のように全面的に変えてしまうケース、『サザエさん』のように声優の死去・引退までなるべく同じ声優を維持し段階的にキャスト交代を実施するケース、『ルパン三世』や『サムライスピリッツ』など声優交代をしてみたが前任者らの演技イメージが強く結局次作制作時に前任者が起用されるケース、『天才バカボン』のバカボンのママのように他の声優が代わっても交代しないよう指名されているケースなどがある。同作では他作品の客演とメディアミックス発表の際に段階的に一部キャスト変更し、新シリーズの際にキャストが交代するという形となった。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 223, "tag": "p", "text": "年月を経てリメイクされるアニメ作品の場合、大半のキャストが変更される場合が多い。『銀河英雄伝説』『フルーツバスケット』『ヤッターマン』『ゲゲゲの鬼太郎』などや『るろうに剣心』や『うる星やつら』などの名作のリメイクで声優が交代したのを始め、『シャーマンキング』などは2001年のアニメ化後、20年後の2021年に再アニメ化の際に原作者の意向もあってキャストの大半が同じとなっているが、一部キャストはスケジュール上の都合や死去などの理由で変更されている。逆に原作者の要請により声優交代が求められた作品に『聖闘士星矢』があり、後に騒動となっている。また『SLAM DUNK』の2022年公開のアニメ映画『THE FIRST SLAM DUNK』でも従来のキャストを一新したことに賛否の声が挙がっている。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 224, "tag": "p", "text": "洋画吹き替えなどでは、担当俳優の声を当てる専属声優が時代と共に変更される例も多く、また映像ソフトに収録される場合の他、放送するテレビ局ごとに日本語版制作される際に声優が変更されることも多い。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 225, "tag": "p", "text": "技術の進歩から、AIが不祥事を起こした声優の仕事を代役として担当した例がある(中国で映画などの吹き替えを行った姜広涛(中国語版)のケースなど)。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 226, "tag": "p", "text": "交代の一例を以下に示す。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 227, "tag": "p", "text": "中でも冨永みーなは降板後の声優を担当することが多い。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 228, "tag": "p", "text": "なお交代と関連したケースとして、同一のキャラクターに演出上の意図で別の声優を起用するという事も多い。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 229, "tag": "p", "text": "演出上の意図で声優が複数割り当てられた作品もある。例えば『彼岸島X』においては、1話につき一人の声優がその回登場の全キャラクターを担当し、各話ごとそれぞれ声優が割り当てられた。『100万の命の上に俺は立っている』のテレビアニメ版においては、主要キャストは固定されたが、登場人物のゲームマスターについては各話登場毎に別べつの声優が当てられた。また、『ポプテピピック』に関してはメインキャラクターの声優が毎回異なる。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 230, "tag": "p", "text": "ほかに身分隠しの変装などで人相や人格が変わることを表現するためや、キャラクターで少年期と青年期以降で別声優が担当するケースなど、演出都合で作中の月日や時間が大きく進んで、特定のキャラクターが歳をとっていくことで別の声優を起用するケースは多い。これは下記のとおり男性キャラクターで少年期を女性声優が担当し、青年期以降は男性声優が担当するケースなどはよく知られる。ただし男性キャラクターでも孫悟空などのように少年期を演じた女性声優が青年期も演じることもあるし、また男性キャラクターでも『ジョジョの奇妙な冒険』のジョセフ・ジョースターは、少年期から青年期→中年期から老年期で男性声優で変更、女性キャラクターの場合でも、映画『秒速5センチメートル』の篠原明里など少女時代と大人時代で声優が変更となることはある。", "title": "担当声優の交代" }, { "paragraph_id": 231, "tag": "p", "text": "男性と女性とでは声質が違うため、通常は男性が女性の役(またはその逆)を演じることはないが、女性は基本的に地声が高いため、アニメのアフレコや洋画の吹き替えなどで、女性が男性(中学生くらいまでの少年。特に変声前の幼い男の子)の声を演じるという例はよくある。一方、男性は基本的に地声が低いため、特に変声前の子供を演じることは聞き手に違和感を感じさせるため難しく、子役以外の男性が子役を演じる例は石田彰や代永翼、梶裕貴など僅かである。また同様に、男性が女性(特に少女)の声を演じるという例は声優の地声が高くないと務まらないため極めて少なく、蒼井翔太や村瀬歩、山本和臣などごく僅かである。", "title": "異性の役・子役" }, { "paragraph_id": 232, "tag": "p", "text": "日本で大人が子供の役を演じた最初例として、1954年(昭和29年)のNHKラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』が知られるが、子供の役に子役を起用するのは、演技指導などで難しい面があった。ただし少数ではあるが子役が台詞の多い主要キャラクターとして起用の例は、『ばらかもん』、『夢色パティシエール』、『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』などがある。", "title": "異性の役・子役" }, { "paragraph_id": 233, "tag": "p", "text": "ハリウッド映画で、子供が主人公の映画が流行した1980年代には、日本でも吹き替え版で少年役を子役に演じさせようとする傾向が多く見られた。当時児童劇団に所属していた者が子役の吹き替えを担当しており、浪川大輔のように声優になった者もいる。", "title": "異性の役・子役" }, { "paragraph_id": 234, "tag": "p", "text": "日本以外では、子供の役は子供に担当させることが主流である。脚本家のブレイク・スナイダーは、8歳のころにTVプロデューサーだった父親の手伝いとして、スターリング・ホロウェイらとともに子供の役を演じていたが、変声により解雇されている。", "title": "異性の役・子役" }, { "paragraph_id": 235, "tag": "p", "text": "諸外国では、日本のように専業の声優が確立している国は少ないとも言われる。ただ、アメリカでは代表的な人物だけでも200人以上おり、近年では日本アニメの吹き替えや音声入りゲームの増加により、声優業がメインの役者も増えている。", "title": "日本以外の声優" }, { "paragraph_id": 236, "tag": "p", "text": "韓国では、放送局が放送劇団(声優劇会)を持っている。", "title": "日本以外の声優" }, { "paragraph_id": 237, "tag": "p", "text": "劉セイラ、ジェーニャ、Liyuuなどのように、日本国外出身の外国人であるため日本語が母語ではないが、一から日本語を習得して日本国内で声優として活動している例も僅かに存在する。外国人の場合は日本語の読み書きはもちろんのこと、大概は母語に由来する訛り(●●語訛り)が出てしまい視聴者に違和感を感じさせてしまうため、日本国内で声優として活動を続けることは非常にハードルが高い。ただし、日本のコンテンツであっても、外国人役としてであれば需要はある。", "title": "日本以外の声優" }, { "paragraph_id": 238, "tag": "p", "text": "声優の経歴としては、以下のような例がある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 239, "tag": "p", "text": "NHKと民放が組織した劇団で、局のアナウンサーとは別個に、芸能を担当するために放送局で養成され、おもにラジオドラマを担当した放送タレントであり、彼らを指す言葉として「声優」が生まれた。芸能事務所などの台頭で現在ではすべて解散している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 240, "tag": "p", "text": "NHKの東京放送劇団からは、巖金四郎、加藤道子、中村紀子子、大木民夫など、NHK札幌放送劇団出身の若山弦蔵、NHK九州放送劇団出身の内海賢二など多数。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 241, "tag": "p", "text": "民放ではのちのTBSにあたるラジオ東京放送劇団からは大平透、中村正、滝口順平、田中信夫、朝戸鉄也、向井真理子など。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 242, "tag": "p", "text": "地方局では、CBC中部日本放送劇団出身の中江真司、RKB毎日放送劇団出身の八奈見乗児など。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 243, "tag": "p", "text": "地方局で活動していたのはラジオドラマの全盛期までのことで、テレビ時代になると海外作品の日本語吹き替えなどの声優の仕事は東京に集中していった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 244, "tag": "p", "text": "声優プロダクション付属の声優養成所、声優になるためのレッスン指導を主とする養成所、声優関連の学校(声優養成学科がある専修学校)などの出身。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 245, "tag": "p", "text": "声優になることを目指すには、声優の養成所や専門学校に通うのがもっとも一般的である。養成期間はおおむね1年から3年で、養成期間修了後に行われる所属オーディションに合格するとプロダクション所属となる。この時点では「新人」「ジュニア」「仮所属」などと称される見習い期間となる。見習い期間が終了し、内部審査を経て、認められた者だけが正所属(正規に所属する)となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 246, "tag": "p", "text": "学生時代のうちもしくは卒業してから養成所に通う人間もいれば、社会人になってから養成所に通う人間もいる。また、学生時代でも中高生から通うことができる養成所もあり、10代もしくは20代前半でデビューしている声優には、子役出身や一般公募の他に中高生から通っていた者が多くみられる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 247, "tag": "p", "text": "多くは学生時代のうちもしくは卒業してからの例だが、上記の大平透もフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターをへてTBS劇団に所属したように、養成所から声優になった者にも、他業種を経てもしくは並行して養成所に通う例は多い。若本規夫、茅野愛衣、金田朋子などは社会人を経て養成所に通うようになり、その後に声優となった。なお若本は元警視庁機動隊員で除隊後、茅野はセラピストをしながら、金田は製菓会社から銀行員に転職してから、それぞれ通っていた。岸尾だいすけは学校卒業後就職した半導体工場で3交代勤務、デビュー後も付き人やアルバイト生活後、井上和彦はプロボウラーを目指して、ボウリング場に就職した後、三木眞一郎はパティシエ、三宅健太はデパートのパン屋勤務を経て、木村亜希子は大学卒業後、就職しながら、こおろぎさとみは幼稚園教諭を4年間勤めて後、高橋直純は寿司職人見習いとアイドルユニットを兼務の後に、小林裕介は大手家電メーカーをへて、山崎和佳奈は大手電子機器メーカー勤務と並行して、近藤孝行は関西の鉄道会社勤務の後、楠田敏之は石油会社をへて、高森奈津美は声優になるため養成所に通う以前はJR東日本の駅員、中井和哉、永塚拓馬、掛川裕彦、原由実らは公務員務めと並行して、養成所へ通っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 248, "tag": "p", "text": "三石琴乃、高山みなみ、中原麻衣、田中敦子、皆川純子、洲崎綾、ファイルーズあいらは就職してOL時代並行してもしくは退職後に養成所に通い声優へとなる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 249, "tag": "p", "text": "橘田いずみが養成所に通う前にはレースクイーンの経歴がある。原奈津子はローカルタレントをへて養成所に通った。生天目仁美などは声優の専門学校から劇団(東京乾電池)を経て養成所に通ってデビューしている。販売店員(無印良品)と併業での女優をしていた小原好美も養成の学校を出て当初芸能事務所に所属してのちに声優事務所に移籍し声優業に転じた。女優・歌手の神田沙也加は後に声優としても活動し始めるが、それ以前から声優の養成学校に通って準備をしていた。佐々木李子も歌手としてデビューしてから、声優の専門学校へ進学し、その後声優も始める。石上静香も既に漫画家として連載を抱えていたが、後に養成所に通うようになって声優となる。 稲田徹は養成所と並行してプロレスラー志望でもあったが、そちらは怪我により断念している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 250, "tag": "p", "text": "地方で他キャリアを積んでから上京して養成所に通う例もあり、今野宏美は高校生のころに地元の北海道でラジオのパーソナリティーをへて上京して、田村ゆかりも地元声優学校在籍中には地元KBCラジオでの番組内アシスタントを担当と並行してサラリーマン生活を経て上京してというケースである。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 251, "tag": "p", "text": "異色の経緯に児童劇団にいたことや特待生オーディションを受けた経歴をもつ大原めぐみの場合がある。彼女はすでに結婚し子供も出産して専業主婦をしていたが、27歳のときに養成所に通い始めている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 252, "tag": "p", "text": "81プロデュースや賢プロダクションなどのプロダクションによる、専門学校や養成所からだけでなく一般からも募集する一般公開形式のオーディションも開かれているが、こうしたオーデションのグランプリ受賞者は特待生として経営する養成スタジオでのレッスンのほか、デビューだけではなくその後の長期的な声優活動をバックアックもなされる場合がある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 253, "tag": "p", "text": "日本大学芸術学部、桐朋学園芸術短期大学、玉川大学、大阪芸術大学などの大学教育機関の出身者。広川太一郎、柴田秀勝、平野文、榊原良子、かないみか、うえだゆうじ、潘めぐみなどがいる。小山力也などは別の大学を卒業してからこれらの大学に進学した。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 254, "tag": "p", "text": "子役が進学した例としては冨永みーな、平野綾、宮本佳那子など、在学中または卒業後に声優養成所に通う例としては石田彰、川上とも子、宮村優子などがいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 255, "tag": "p", "text": "舞台演劇やミュージカルで活動する舞台役者が、その後声優として長く活動するようになる例は、声優という職業が成立する時期から多く存在しており、大塚明夫、納谷悟朗など#舞台劇で紹介されたような面々らがこれに該当する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 256, "tag": "p", "text": "吹き替えを中心に、俳優として活動してきた役者が声優としても長く活動するようになる例もあり、津嘉山正種、磯部勉などがこれに該当する。日野聡も児童劇団から舞台俳優となり、吹き替えを多く担当していた。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 257, "tag": "p", "text": "劇団や舞台での経験が声優業にも良い影響を与えているという意見もある。 内田夕夜や各務立基は劇団俳優座、折笠愛は文芸座や劇団創演、島本須美は劇団青年座出身の舞台女優、折笠富美子もSET劇団員をへて、緒方恵美や玄田哲章、三森すずこなどミュージカル俳優をへて声優に、大川透も声優になる前に10年間舞台活動を行っている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 258, "tag": "p", "text": "朴璐美のように劇団所属中に、オーディションで役を射止めて声の仕事を得た例もある。劇団HIROZに所属していた小松昌平、劇団青年座研究所に所属していた島形麻衣奈らは新人発掘オーディションにて、松本梨香も大衆演劇の舞台女優から、舞台で共演した名古屋章の勧めでアニメ『新・おそ松くん』のオーディションを受け、声優となった。劇団にいた天麻ゆうきは、東京ミュウミュウ にゅ〜♡の一般公募オーディションに合格した事をきっかけに、芸能事務所に所属している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 259, "tag": "p", "text": "社会人経験や他分野から舞台演劇の世界を経て声優として活動するケースもある。たとえば大塚周夫は、ダンサーから劇団をへている。麻生かほ里は、日本銀行勤務を経て舞台・ミュージカル女優から転進。一条和矢は、大学時代のアマチュア放送劇団、サラリーマンをしながら素人劇団に所属しボイスドラマの自主制作などの経歴がある。緒方賢一は、板前修行の傍らで喜劇役者を目指し、舞台出演していた。竹内順子は、アルバイトでの政治秘書と並行して劇団に所属してから、千葉繁は、電気会社工場勤務から劇団に所属後に転進しアクション俳優やスーツアクターもこなしていたという。矢島晶子は勤めていた和菓子屋退職後に、頼み込んで出演することになった舞台を見に来ていたたてかべ和也にスカウトされ、その後テレビアニメのオーディションで選ばれ声優デビューすることになった。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 260, "tag": "p", "text": "速水奨は貿易会社勤務の傍ら劇団四季の研究所などに所属していた。劇団四季出身声優には速水の他に江原正士、増山江威子、遠藤晴、内田莉紗、石毛翔弥らがおり、吹き替えを多く手がける石波義人は現役団員である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 261, "tag": "p", "text": "タカラジェンヌ出身の声優には太田淑子、葛城七穂、水城レナ、涼風真世、七海ひろき、森なな子などがいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 262, "tag": "p", "text": "児童劇団などに所属する子役が、アテレコ・声優の仕事をするようになったことがきっかけで、そのまま声優業を中心に活躍する例は、声優という職業が成立する時期から多く存在している。池田秀一、古谷徹、古川登志夫、吉田理保子、玉川砂記子、三ツ矢雄二、塩屋浩三・翼兄弟、岩田光央、本名陽子、愛河里花子、などがこれに該当する。近年では、宮野真守、内山昂輝、木村良平、入野自由、三瓶由布子、木村昴、飯田里穂、悠木碧、喜多村英梨、小野賢章、豊永利行、花澤香菜、日高里菜、小倉唯、白石晴香、宮本侑芽、諸星すみれ、黒沢ともよなどがこれに該当する。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 263, "tag": "p", "text": "通常は児童劇団出身が大半であるが、千葉紗子や南里侑香、小林晃子、滝田樹里、中山理奈など南青山少女歌劇団や、キッズモデルから歌手活動を経て声優になった小林愛香、主に少女モデル業をしていて、事務所内で声優部門に移籍した上坂すみれのケースなどもある。春川芽生もニコモになって所属した事務所内で後に声優部へ移動している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 264, "tag": "p", "text": "直接声優を募集するコンテストで入選したことがきっかけで、声優として活動するようになった例もある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 265, "tag": "p", "text": "声優志望者のオーディションでは、全国からオーディションで人材を集める。実際、声優事務所とアニメ制作会社や雑誌社が組んで行う、主役声優の一般公募、事務所独自で行うオーディションもある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 266, "tag": "p", "text": "一般公募であれば、全国から人を集められるほか、オーディションに応募するというモチベーションが高い人材が集まることで、そこから優秀な人が出てくる確率がかなり高いとみている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 267, "tag": "p", "text": "大橋歩夕、真堂圭、曽田光星、沢城みゆき、小坂井祐莉絵、今井麻美、井上麻里奈、佐々木未来、井口裕香、伊藤彩沙、後藤沙緒里、榊原ゆい、三澤紗千香、豊田萌絵、伊藤美来、斉藤朱夏、高本めぐみ、進藤あまねら、高校で演劇部や放送部などで鍛えておいて、または興味で直接公募された一般公募オーディションに出場して合格し声優になる例のほか、声優志望者からなる福岡県のローカルアイドルユニット小梅伍の経験があったが保育士から転じた阿澄佳奈は2005年(平成17年)での公開オーディションで、ジュニアアイドルの経験はあった水瀬いのりも公開オーディションであるソニー主催のアニストテレス入賞によって、声優になっている。アニストテレス出身者のうち、伊波杏樹は専門の学校出身者であるが、声優教育を受けていない楠木ともり、たけだまりこ(現・武田真理子)らは歌手志望でコンテストに臨んでいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 268, "tag": "p", "text": "種田梨沙は通っていた学校の都合もあって結果として養成所に通わず、なる足がかりとして『智一・美樹のラジオビッグバン』のアシスタント募集に一般応募し、アシスタントを1年間勤めた。その後、所属事務所が実施していた研修生オーディションを経て事務所に所属して、栗林みえは1996年にコナミが開催した『ときめきメモリアル』のイメージガールを決定する「ときめきティーンズコンテスト」で、鈴木みのりは2014年に行われたマクロスシリーズ新作テレビアニメの「新歌姫・声優オーディション」合格をきっかけに声優となる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 269, "tag": "p", "text": "ミュージックレイン所属で同事務所主催の公募オーディションで選出されたメンバーによる声優ユニットのうち、スフィアでは戸松遥以外は寿美菜子は子役や学校に、高垣彩陽は大学で声楽を専攻していた、豊崎愛生は高校時代から地元のTV番組やCMなどで芸能活動していたが、一方でTrySailの3名は、実績など無く同オーディションに応募し合格し声優となっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 270, "tag": "p", "text": "エイベックス と 81プロデュースが組んで、行われた「アニソン・ヴーカルオーディション」でメンバーを選んで結成した声優ユニットのうち、i☆Risでは山北早紀、芹澤優、若井友希らは養成所などに通っていたが、茜屋日海夏、久保田未夢、澁谷梓希らは養成所などを経ず上記オーディションでの選出。またWUGのうち、吉岡茉祐は子役の実績はあったが、他のメンバーら(永野愛理、田中美海、青山吉能、奥野香耶、山下七海、高木美佑)同様、養成所など経ず上記オーディションでの選出である。81プロデュースでは近年同事務所所属の人気声優は軒並み毎年一般公募で8月に開催されている81オーディションでデビューしている。2022年には81プロデュースは合格者は同プロダクションの所属とユニバーサルミュージックからのアーティストデビューが約束される、声優ガールズユニット発掘プロジェクト「SUN AUDITION」を実施。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 271, "tag": "p", "text": "スターダストに所属するサンドリオンのメンバーも黒木ほの香や劇団にいた小山百代の他は、事務所が主催したオーディションをへて事務所に所属してから演技経験を積んでいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 272, "tag": "p", "text": "2011年度の「第36回ホリプロタレントスカウトキャラバン 次世代声優アーティストオーディション」出身のうち、大橋彩香は子役経験があったが、高橋花林は遠藤ゆりか、花守ゆみり、加地綾乃らも輩出した「ぽにきゃん声たまグランプリ」、木戸衣吹は『天才てれびくんMAX』の視聴者参加型企画「全国声優オーディション こえたまごっ!」など複数の公募オーディションを経て、田所あずさ、Machico、山崎エリイに至っては他未経験での参加であった。富田美憂も未経験者の前田佳織里、夏吉ゆうこ、三浦千幸らも輩出した「声優アーティスト育成プログラムセレクション」や小田紗弓を輩出した「アニソンスター☆誕生!(アニ☆たん!)」などに応募し声優になっている。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 273, "tag": "p", "text": "2017年に行われた声優アーティストオーディション「ANISONG STARS」ではアクターズスクール広島出身の吉武千颯のほかは熊田茜音、後本萌葉らを輩出。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 274, "tag": "p", "text": "声優アワード#新人発掘オーディション出身者では鴨池彩乃、拝師みほ、三川華月、織江珠生、岩川拓吾、土師亜文、青木瑠璃子らが直接である。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 275, "tag": "p", "text": "他にも「全日本アニソングランプリ」、国際声優育成協会主催のオーディション声優コンテスト『声優魂』、博報堂による声優オーディション企画「全日本美声女コンテスト」など、一般公募のコンテストが開催されている。こうしたコンテスト出場・入賞をきっかけに、養成所に入所する例や、出場がきっかけで直接プロダクションに所属する例もある。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 276, "tag": "p", "text": "花江夏樹は直接プロダクションにアプローチしたが、こうした例はレアケースとして知られる。ただし研音など事務所側で募集をしている場合も実際に存在する。他にスターダストプロモーションが声優オーディションを、大沢事務所が研究生募集のオーディションを手掛ける。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 277, "tag": "p", "text": "子役や劇団所属の舞台俳優からの転身の他は、アイドル、グラビアアイドル、歌手、モデル、特撮番組系俳優、お笑いタレント、レポーター、コスプレイヤーなどといった経歴のタレントが、声優の仕事をするようになったことがきっかけで、もしくはオーディションで役を得て、そのまま声優業を中心に活躍する例がある。例えば養成所で芝居は学んでいる原田ひとみは歌手としてスカウトされ、当初は歌手活動をしていた。高槻かなこはアニソン歌手を目指して配信などの活動を経て歌手デビューし、後に声優デビューしている。仲村宗悟は声優アーティストになる前は音楽活動のみをしていた。桃井はるこはマニア向けのアイドル活動からラジオパーソナリティも行い始め、のち誘いを受けて声優の活動も開始していった。近藤玲奈は声優になるまではラブベリーナ、久保ユリカはニコモを経ており、久保はグラビアアイドルをしていた。飯田里穂も子役からグラビアアイドルを経ている。小林晃子はアニラジのがやオーディション、宮本佳那子は挿入歌の歌唱オーディションから、松井菜桜子、千葉千恵巳、落合祐里香、大野まりな、柚木涼香らもなるまでには映画女優、ヌードモデルなど、山本彩乃はグラビアアイドル、小林ゆうは高校時代の雑誌モデル、工藤晴香はファッション誌モデルであった。中島愛、明坂聡美、小松未可子らも選出オーディションはアイドルオーディションで、ゆりんはホリプロ時代はタレント業、MAKOはガールズバンドグループ活動休止の後、後藤友香里はAAAの追加メンバーから声優ユニット「Trefle」へ、飯島綾子や岩男潤子はアイドルから童謡歌手を経て、森田成一は俳優を経て2001年から、声優へと転進している。藤村知可は、レポーターなどのタレントをへて、2006年以降に声優業が中心になる。小岩井ことりは知人から頼まれてメイクのモデルをしたのをきっかけに声の仕事(ナレーション)を紹介され、その後声優になるきっかけを掴むために地元関西でテレビ番組やCMのナレーションなど様々な仕事をしていたし、立花理香は大学院在学中に芸能事務所にスカウトされて、声優になるまではタレント業を行っていた、儀武ゆう子は高校2年生の時から地元沖縄で戦隊ヒーローものの子供ショーの司会やまつりのアナウンスも担当し、上京後もイベントのMCや地方ケーブルテレビのリポーターなどの仕事をしていたという。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 278, "tag": "p", "text": "アイドルから声優への転身は前述の飯島や岩男(いわお潤)、小松のほかは山本百合子、日髙のり子や佐久間レイ、岡谷章子(岡寛恵)、松本裕美(大野まりな)、宍戸留美、桜井智、千葉千恵巳、徳永愛、水野奈央子(水野愛日)、千葉紗子、高橋美佳子、平田裕香の例が知られるが、特に2010年代になって以後は、現役アイドルのまま声優としても活動する人間が登場、増加するようになっている。一例として、仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)、佐武宇綺(9nine)などが挙げられる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 279, "tag": "p", "text": "一方で、声優になるための足がかりとして、アイドルをしていた例や、歌手(#声優アーティスト)になるための足がかりとして、声優を目指す例もみられる。福井裕佳梨は最初芸能事務所に所属して仕事を始めたので、キャリア初期にはものまねやグラビアアイドル活動などのアイドルタレント業を多くこなしていた。秦佐和子はアキバ関連を扱う雑誌に載っていたオーディションの募集だということで、SKE48になるのが声優への近道と思っていた。夜道雪は地元で10代の時にスカウトされたことをきっかけにローカルアイドルとして活動の傍ら、配信ゲームで声を当て、上京した後も養成所に通いながら独力でYouTube活動とコスプレーヤーをしながら声優への道に進んでいる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 280, "tag": "p", "text": "異色の例に、郷田ほづみ、竹内幸輔のように芸人や、相羽あいなのように女子プロレスラーという異例の経歴をもって声優を行っている者なども知られる。また清水愛は声優界初の兼任女子プロレスラーとして知られる。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 281, "tag": "p", "text": "エリック・ケルソーは元々映像監督であったが、来日後にナレーター、英語吹き替え、ラジオパーソナリティと活動分野を広げアニメやゲームの声優としても活動している。", "title": "経歴" }, { "paragraph_id": 282, "tag": "p", "text": "俳優・歌手・音楽家・アイドル・グラビアアイドル・モデル・お笑いタレント・スポーツ選手・著名人が、声優活動をすることや、作品によって声優に起用されることがある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 283, "tag": "p", "text": "アニメーション作品においても、本人役という手段で作品に登場させ、本人にアテレコをさせる例は多い。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 284, "tag": "p", "text": "もともと、専業の声優が確立されていなかった時代、東映動画の長編作品のころから、長編アニメーション映画において、ほかの芸能人・著名人などを声優に起用することは珍しくない。1990年代以降のスタジオジブリ制作作品、2000年代以降のスタジオ地図制作作品に至るまで、こうした傾向は現在でも続いている。スタジオジブリの鈴木敏夫はジブリが本職の声優ではない人物を使う理由について、『ジブリの教科書3 となりのトトロ』では、プロの声優について「『わたし、かわいいでしょ』みたいな」声への違和感、そしてプロの声優を使わないことについては『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』にて、『耳をすませば』で月島雫のお父さん役をつとめた立花隆との対談で、『となりのトトロ』のオーディションの際に声優であるとやっぱり普通のお父さんになってしまうため、おとうさんっぽくない感じを求めて糸井重里を、『耳をすませば』の雫のお父さんも同様の見解で立花を選出しており、声優の芝居はハレとケにわけると「ハレ」であるが、日常芝居が多いジブリ映画で実際にほしいのは「ケ」であるとしている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 285, "tag": "p", "text": "なお、副業でできる声優としてオーディオブック、朗読のアルバイトなど、声で稼げる仕事として求人サイトやバイト情報、クラウドソーシングで募っていることがある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 286, "tag": "p", "text": "第1次声優ブームに行われたアテレコ論争では、声優の地位問題が提議されている。アテレコの演技性を巡っては、俳優の起用は暫定的なものに過ぎず、「落語家でもアナウンサーでも、観光案内係でも、声を使う職業の人の中から選ばれてもよいことだ」という意見も示されている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 287, "tag": "p", "text": "「吹き替え・アテレコ調」を「新劇調」「翻訳劇調」と並んで嫌う演劇家も存在する。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 288, "tag": "p", "text": "アニメ監督の高畑勲は、プレスコを採用した『平成狸合戦ぽんぽこ』で落語家の柳家小さん、アナウンサーの福澤朗などを起用している。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 289, "tag": "p", "text": "ミッキーマウスの声優をつとめていた青柳隆志は、大学教授が本業であり声優は副業であった。小鳩くるみ時代役者や司会者であった鷲津名都江も大学教員となってからも自身が演じた『アタックNo.1』の鮎原こずえ 役やディズニー映画『白雪姫』の白雪姫 役の声をのちにゲーム機(CRぱちんこアタックNo.1(2007年)やキングダム ハーツ バース バイ スリープ(2010年)やKinect: ディズニーランド・アドベンチャーズ(2011年))でも声を担当した。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 290, "tag": "p", "text": "アニメ監督の宮崎駿は、「映画は実際時間のないところで作りますから、声優さんの器用さに頼ってるんです。でもやっぱり、どっかで欲求不満になるときがある。存在感のなさみたいなところにね。」という見解を示した事があり、『となりのトトロ』ではコピーライターの糸井重里を起用している。直近の長編作品である『風立ちぬ』においてもアニメ監督の庵野秀明を起用し、「逆に庵野(秀明)もスティーブン・アルパートも存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、その方が僕は映画にぴったりだったと思いました。」とその意図を説明している。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 291, "tag": "p", "text": "劇中でテレビニュースが映る場合は、リアリティを重視して放送局に所属する本業のアナウンサーを起用する例があり、フリーアナウンサーの松澤千晶はアナウンサーやレポーター役としてのみ出演している。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 292, "tag": "p", "text": "なお、ナレーションやアナウンスも声優の仕事の一部であるが、フリーアナウンサーが声優という肩書きで活動することはない。黎明期には局のアナウンサーが声をあてた事例もあるが、現代では演技を行わないアナウンサーと声優は、別の職業としてとらえられている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 293, "tag": "p", "text": "まれに制作スタッフや原作者などの関係者がエキストラやゲストキャラクター役の声優として起用されることもある(カメオ出演)。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 294, "tag": "p", "text": "劇中に楽曲、歌唱が重要な役に抜擢されることもある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 295, "tag": "p", "text": "前述1980年代初頭のリン・ミンメイ役の飯島真理、『魔法の天使クリィミーマミ』の太田貴子のほか、『竜とそばかすの姫』の中村佳穂、『魔法のスターマジカルエミ』の小幡洋子などのケースがみられる。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 296, "tag": "p", "text": "ディズニー公式動画配信サービスの『ソウルフル・ワールド』ではグラミー賞アーティストが声優参加しており、日本語版も瑛人がストリートミュージシャン役の日本版声優としてカメオ出演する。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 297, "tag": "p", "text": "『とっとこハム太郎』のミニハムずや『ゾンビランドサガ』のホワイト竜のように、本人らをイメージしたキャラクターを当てる手段や、山崎ハコが『ちびまる子ちゃん』に本人役で出たケースもある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 298, "tag": "p", "text": "『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのうち、RAISE A SUILENに参加するRaychell、夏芽は他グループのバックバンドもつとめていたミュージシャン、小原莉子は並行してバンド活動をしていた。Morfonicaに参加する西尾夕香もDJなどの音楽活動、mikaはドラマー、Ayasaはバイオリニストである。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 299, "tag": "p", "text": "役者ではないため本格的な声優業は無理という意見もあるため、歌唱シーンだけ歌手が担当するダブルキャスト方式もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 300, "tag": "p", "text": "ぴえろ魔法少女シリーズのように歌手に声優を担当させている作品など、1980年代前半には新人女性歌手をアニメとタイアップさせて主題歌を歌わせ、役も与えるという手法が派生していた。前述の飯島や太田らだけでなく、志賀真理子や宮里久美らも同時期に同様のスタンスでデビューを飾っており、このことがのちの#アイドル声優の先駆けとして紹介されることもある。1990年代でも当時歌手デビューしていた仲間由紀恵などが『HAUNTEDじゃんくしょん』出演をきっかけに「女子高生アイドル声優」という売り出し方をされていた。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 301, "tag": "p", "text": "テレビ人形劇では声優の仕事が確立される以前から放送されたこともあり、俳優や劇団員が起用された。その後俳優が選ばれることが多く、2014年(平成26年)に放送された人形劇『シャーロック ホームズ』では俳優と声優が混在して起用された。海外ドラマの吹替においても、最初からアニメ声優を目指した声優を生み出し、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がっていた第二次声優ブーム以後も、前述のとおり1982年の海外ドラマ『遥かなる西部 わが町センテニアル』の吹替放や第三次声優ブーム期1996年『ER緊急救命室』吹き替え放送で劇団に所属する俳優の起用など、俳優が起用されるケースはいくつかみられた。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 302, "tag": "p", "text": "映画では、前述の『幻魔大戦』『紫式部 源氏物語』『もののけ姫』以後も、俳優が起用されることが多い。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 303, "tag": "p", "text": "俳優を多く起用するアニメ監督もおり、原恵一は他の芸能人や劇団の子役・俳優を声優に起用している。富野由悠季は、声優の演技は型にはまっていると批判したことがあり、主役に劇団出身者や新人声優を多く起用している。押井守は、存在感と新鮮さが声優に勝ることがあるとして、複数の作品に俳優の竹中直人を起用しており、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』ではメインキャラクターに俳優を起用した。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 304, "tag": "p", "text": "テレビアニメ作品では『ムーミン』(1969年〈昭和44年〉)の岸田今日子、NHK版『スヌーピーとチャーリー・ブラウン』(1972年〈昭和47年〉)の谷啓やうつみみどりなどが選ばれ、フジテレビ「日生ファミリースペシャル」枠のアニメ『坊っちゃん』『姿三四郎』(1980年〈昭和55年〉)では西城秀樹がつとめた。長期にわたり放送された『まんが日本昔ばなし』では市原悦子と常田富士男が、『まんが世界昔ばなし』では宮城まり子と名古屋章らが声優を務めていた。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 305, "tag": "p", "text": "その後も監督が抜擢するなどして、俳優が選ばれる例がある。『ノブナガ・ザ・フール』では原作・シリーズ構成の河森正治が宝塚歌劇団を取材した際、現役タカラジェンヌである七海ひろきの舞台を見て抜擢した。七海は宝塚退団後も俳優兼声優として活動している。『富豪刑事 Balance:UNLIMITED』では監督の伊藤智彦が有名声優を使うことよりも作品のオリジナリティを重視したことや、大富豪である主人公の存在感を際立たせるため、イメージに合う声としてダンサー兼俳優の大貫勇輔を抜擢した。『彼氏彼女の事情』で声優に起用された本谷有希子はのち劇団を主宰する舞台女優かつ劇作家、芥川賞作家である。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 306, "tag": "p", "text": "上述の俳優が声優に起用されることに関して、アニメを多く手がける脚本家の首藤剛志は「マイクの前で声を出しているだけの声優よりも、声優としての技量が劣っても、実際に観客の前で芝居をする俳優が買われているのではないか」と述べている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 307, "tag": "p", "text": "俳優の納谷悟朗は舞台も声優も同じであるとし、その上でアテレコの難しさとは声を当てる対象が行う芝居の把握にあると説いている。声優を目指す者に対しては「基本でしょう。さっき言った、いわゆる舞台という演技の基本をきちんとしないとだめだっていうことですね」と述べている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 308, "tag": "p", "text": "俳優の矢島正明は声だけで入ると己で役を肉体化する基本が抜け落ちるとし、声の仕事を目指す者に対しては「『声だけだから簡単だわい』、と思わないでほしいなということがまず第一です。声優を志すならば、やはり芝居から入ってほしいと思います」と説いている。また、後進たちに対しては「このごろの吹き替えの世界で、芝居の人たちが席巻してきているということは、声優として純粋に育ってきた人たちは何か危機感を感じなければならないと思うんですよね」とも述べている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 309, "tag": "p", "text": "俳優の野沢那智はハリウッド映画の俳優・女優が百戦錬磨の役者である事を強調し、「だから、役者として必死に修行しないと、アテレコなんてやっちゃいけないんだと思うんだよね」と述べ、アテレコの心構えを彼らと同じだけの芝居ができるようになる事に求めている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 310, "tag": "p", "text": "女優の戸田恵子は自身の声優観を「役者として怠っていることがなければ、それは声優としてもOKということ。私は『声優であるために』と思ってしていることは、一つもありません」とし、役者の仕事と何ら隔たりはないと述べている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 311, "tag": "p", "text": "声優の難波圭一は「いいですよね。ぼくは声優という小さな世界がなくなることを望んでいます」と肯定的な考えを持っている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 312, "tag": "p", "text": "俳優などを多く起用するゲームシリーズ『龍が如く』では、ある有名俳優を起用したが事前準備もされずに収録に臨まれ、演技がなかなか上達せず横山昌義の指示で何度もリテイクが行われ、時間をかけてその場面の距離感や感情を説明して及第点といえるところまで収録できたが「同じ苦労をした別の役者に申し訳ない、妥協はしたくない」として仕方なく降板してもらったという事例もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 313, "tag": "p", "text": "女優の吉岡里帆は声優は完全に別職業であるとして、「今後、もし万が一『吉岡里帆の声でなくては成立しない』というような話があれば、それはとてもうれしいですし、ちゃんと勉強して挑みたいです」と述べている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 314, "tag": "p", "text": "女優の夏木マリは声の仕事を音のテンポや高低や強弱など、いろいろなものを体をつけてやる全身運動だとする見解を示している。俳優として巡りあったことは非常にラッキーであり、「俳優さん、全員がやられたほうがいいと思うくらい、勉強になるいい仕事だと思います」と述べ、吉岡里帆にも勧めている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 315, "tag": "p", "text": "東映の特撮変身ヒーロー作品、とりわけ「仮面ライダーシリーズ」の「昭和ライダー」最終作にあたる『仮面ライダーBLACK RX』および「スーパー戦隊シリーズ」では、『炎神戦隊ゴーオンジャー』に至るまで長きにわたりオールアフレコで制作されてきた。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 316, "tag": "p", "text": "いわゆる「平成ライダー」第1作にあたる『仮面ライダークウガ』および『侍戦隊シンケンジャー』から、俳優が顔出しで演じるシーンは基本的に一般的なドラマと同様の撮影同時録音方式に切り替えられたものの、現在でもスーツアクターが演じる変身後のシーンなど番組制作の各所でアフレコが多用されているため、特撮番組に出演経験のある俳優は、声優としての演技経験を事実上しているとも言える。特撮番組で出演経験のある俳優がアニメなどの声あてをすることもあり、中には松風雅也、土田大、中田譲治、市道真央など、声優を本業として転向した者もいる。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 317, "tag": "p", "text": "特撮に登場する怪人など人間の姿ではないキャラクターの声には、最初から声優が起用されることもある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 318, "tag": "p", "text": "曽我町子、内田直哉、西凜太朗、小川輝晃、岸祐二、菊地美香、五代高之、植村喜八郎、望月祐多、池田純矢、相葉裕樹など、特撮番組を経験した俳優には声優と両立する者が多い。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 319, "tag": "p", "text": "お笑い芸人としては、ルパン三世の物真似から山田康雄の死去に伴いルパン役の声優をやることになった栗田貫一、『アイシールド21』(2005年〈平成17年〉〜2008年〈平成20年〉)の田村淳、『天体戦士サンレッド』(2008年〈平成20年〉)の山田ルイ53世、アニメ版『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のコント赤信号の二人(ラサール石井や小宮孝泰)などが知られる。また、声優も務める山本高広などは、もともと声優を目指していた。アメリカザリガニの柳原哲也は、特徴的な声質を活かし、多くのアニメ作品で声優を務める。またこうした面々がコメディアンやお笑い芸人役で起用される例もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 320, "tag": "p", "text": "アニメ映画では俳優同様のゲスト出演が大半であるが、コメディアンは元々コントや漫才でさまざまな役柄を使い分けることもある。このため、俳優やタレントに比して優れた演技力を持つものが多く、違和感なくすんなり作品を楽しめることが多いという声もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 321, "tag": "p", "text": "声優と講談師を兼業する一龍斎貞友、六代桂文枝門下でラジオパーソナリティDJ・ナレーションを本業で声優業もこなす高杉’Jay’二郎(亭号は初代三枝亭二郎)、声優芸人という肩書きで活動する、元声優のよしもと芸人あつひろなども知られる。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 322, "tag": "p", "text": "金谷ヒデユキも漫談家と声優を並行している。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 323, "tag": "p", "text": "2010年代から歌い手のそらるがタイアップでいくつか起用されているほか、2018年(平成30年)にはバーチャルタレントを対象に、声優出演・アニメエンディング曲担当の権利をかけたオーディションを実施したTVアニメ『賢者の孫』ではオーディションを勝ち抜いた吉七味。が声優およびEDテーマを担当、また特別賞を受賞した雛乃木まやが声優として出演する。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 324, "tag": "p", "text": "『ジャヒー様はくじけない!』では動画配信者たちがキャスト出演や主題歌アーティストなどを務めている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 325, "tag": "p", "text": "『100万の命の上に俺は立っている』に、にじさんじの樋口楓と静凛が出演し、さらに樋口楓がOPテーマ「Baddest」の歌唱に起用されている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 326, "tag": "p", "text": "『ルパン三世PART6』や『邪神ちゃんドロップキック』の3期にもバーチャルYouTuber(VTuber)が声優として出演。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 327, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)以降、ホロライブなどに属するVTuberの声優業進出が盛んとなっている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 328, "tag": "p", "text": "その他テレビアニメ『探偵はもう、死んでいる。』では白上フブキと夏色まつりがそのままの役としての出演を果たしている。こうしたアニメでの活躍もアニメキャラクターがまるで実在しているかのような設定で活動しているのではなく本人役でのアニメ出演は実在のタレントが本人役として登場する形に近い。基本的にVTuberは、バーチャルタレントであるライバーの姿そのものが本人という設定である。このため存在としては実在の声優やアーティスト、YouTuberに近い。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 329, "tag": "p", "text": "図式としては、すでにキャラクターを演じているVTuberが、アニメやゲームのキャラクターを演じることになる。VTuberというバーチャルタレントには中の人と呼ばれる演者(モーションキャプチャーなどの際)と声をあてる人物がおり、声優が行っている場合もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 330, "tag": "p", "text": "AI音声も2020年代には技術的により人に近い音声読み上げが実現可能になっており、上記のボイスドラマもすべてAIの音声合成技術を使用して実行する「オトシネマAI」シリーズ、さらに『れいぞうこのつけのすけ!』のように、テレビアニメとして初めて全キャラクターの声をAI(コエステーション)にした作品も出現、多くの声が必要なコンテンツにAIが利用されている。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 331, "tag": "p", "text": "映画では作品の質よりも話題性を狙って芸能人・著名人などを声優に起用するということも多いため、芸能人・著名人などの声優起用に批判が出ることもある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 332, "tag": "p", "text": "2007年公開のアニメ映画『ザ・シンプソンズ MOVIE』や2012年(平成24年)公開の映画『アベンジャーズ』などで、これまでのシリーズで日本語吹き替えを担当していた声優を、新作映画で俳優・タレントに交代する事態が発生しており、企業への批判が殺到した。『ザ・シンプソンズ MOVIE』『TAXi4』『エクリプス/トワイライト・サーガ』ではソフト化に伴い、劇場公開版に加え、もともと担当していた声優陣による新たな吹き替え版が同時収録された。しかし、ソフト化の際に劇場公開版のみが収録される作品が大半である。特に『アベンジャーズ』ではキャスティングの変更などに対する批判のコメントがAmazon.co.jpの本作品のレビュー欄に殺到する事態となった。2012年(平成24年)公開の映画『プロメテウス』の主人公エリザベス・ショウ役の吹き替えにタレントの剛力彩芽が起用された際、ソフト化に際して変更もなかったため『エイリアン』シリーズのファンなどから酷評され、Amazon.co.jpのレビューが炎上した。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 333, "tag": "p", "text": "劇場公開版では芸能人や芸人が吹き替えを担当した作品のうち、『じゃりン子チエ』のように、テレビアニメ化の際に一部キャストは声優に変更しているものや、『ターミネーター3』や『サイレントヒル: リベレーション3D』のように、ソフト版では声優に差し替えて収録する場合もある。また、『X-MEN:フューチャー&パスト』のように、新規バージョンをソフト化する際に収録し直す例もある。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 334, "tag": "p", "text": "2004年(平成16年)公開のアニメ映画『イノセンス』では、プロデューサーの鈴木敏夫が大物俳優の起用を立案し、草薙素子役を田中敦子から山口智子に変更しようとしていたが、スケジュールの都合に加えて「できあがっているイメージを変えるべきではない」と出演を固辞した山口と、監督や声優陣の反対により田中が続投したということがあった。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 335, "tag": "p", "text": "オリコンスタイルで「タレント(芸能人や著名人など)を声優に起用するべきか、それともしないべきか」というアンケート調査を2014年(平成26年)に行ったところ、ほぼ半々に意見が分かれた。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 336, "tag": "p", "text": "2020年(令和2年)に大ヒットを記録した『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』では、新登場したキャラクターも含め全員を声優で固めているが、前述の『THE FIRST SLAM DUNK』も声優で固めており、これらがタレントを起用せずともヒットすることを示した。", "title": "他分野の芸能人・著名人などの声優活動" }, { "paragraph_id": 337, "tag": "p", "text": "2000年代以後、声優が歌手や俳優(特に舞台)など、ほかの分野での芸能活動をすることが特に顕著になった。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 338, "tag": "p", "text": "声優がほかの分野での芸能活動をする例のひとつとして、俳優活動が挙げられる。理由として「声優さんには『ああ、あの声の人だ』という知名度ならぬ『知声度』があるので、仮に顔がいまいちわからなくても、『声』がわかったときの感動や話題性があるから」が挙げられる。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 339, "tag": "p", "text": "ただし、キャラクターと声優の間に相関性を構築し、その結びつけをする役割を果たす媒介として、これまでは声が最も大きな役割を果たしてきたが、2007年(平成19年)のブシロードなど、後にメディアミックスを展開する企業も設立されて以降はさらに進んで、アニメやコンピュータゲーム作品そのもの単体で行われるのではなく、作品に関わるイベント出演(顔出し)やラジオなどの要素も色々用いて結びつけが行なわれていく。アニメの視聴者はキャラクターの声を演じる声優であるという認識をしていることが前提となることで、以降から声優とキャラクターを結びつける要素は声だけではなく、視覚的要素と特定の声優個人についての認識に依るものになっている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 340, "tag": "p", "text": "他方、俳優活動の中でも、舞台での活動と両立する声優が少なくないが、理由として「舞台はやり直しができず、実際にその芝居や息づかいが観客に見られていることで、それが声の芝居に生きるから」などが挙げられている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 341, "tag": "p", "text": "田中真弓は現在も舞台を手がけており、てらそままさきも俳優活動と並行して特撮キャラクターのアテレコを行っていたほか、中田譲司も元々俳優業に力を入れていた。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 342, "tag": "p", "text": "また、声優が歌手などの活動と両立させる例が、特に2000年代以後に顕著になっているが、これについては下記の節にて述べる。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 343, "tag": "p", "text": "2014年(平成26年)にはオスカープロモーションと青二プロダクションが共同で開催した容姿と声の2つの要素に \"\"「美しさ」を兼ね備えた女優・声優を発掘する\"\" 「第1回全日本美声女コンテスト」が開催された。おもな出身者に漫画家、アイドルとして活動する辻美優、花房里枝にピアニスト、ファッションモデルなどの活動をする入江麻衣子が挙げられる。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 344, "tag": "p", "text": "栗林みな実、桃井はるこ、牧野由依など、他の声優に楽曲を提供するソングライターをしている例、白壁爽子、伊藤しずなはグラビアアイドル活動と、榊原ゆいや能登有沙は振付師、モーションアクターとしても活躍している。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 345, "tag": "p", "text": "この他、野村道子、豊崎愛生や斉藤朱夏などが務めた、朝の情報番組でのお天気お姉さんというのもある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 346, "tag": "p", "text": "また声優は#ナレーション・アナウンスにあるとおりCMの仕事も従来は当然ながら「声」を使ったものが主であったが、演者としての顔出し出演や白井悠介のようにダンスをするキャストとして起用されるなどの場合もある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 347, "tag": "p", "text": "お笑い方面へは、声優としてデビューした後芸人に転向しつつ声優活動もこなす、こやまきみこ(お笑い芸人としてネタ見せをする際には「きみきみ」名義)の例があった。NSCに入学し、2010年(平成22年)には吉本興業に移籍するなどで2011年(平成23年)まで芸人活動を行なっていた。また六代目三遊亭円楽を父に持ち、落語家活動も行っているが青二プロに所属し声優業をする会一太郎(高座名は三遊亭一太郎)もおり、塩屋翼や木村昴も噺家の高座名を持っている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 348, "tag": "p", "text": "声優もSNS活動の他、YouTuber活動として専用チャンネルを開設し配信を行っているものも幾人かある。例えば花江夏樹や杉田智和のチャンネルは登録者数も数百万人を超えているほど人気を博す。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 349, "tag": "p", "text": "歌手などの活動と両立させる声優について、「アイドル声優」あるいは「声優アーティスト」と表現する例が多い。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 350, "tag": "p", "text": "アイドル声優とは、第3次声優ブームと称されていた1990年代半ばごろから出てきた俗称。このころにはボイスアイドルとも呼ばれた。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 351, "tag": "p", "text": "本業にとどまらず、歌を通してそのCDを発売、ライブを開催するなど歌手活動をする、声優専門誌や漫画雑誌などのグラビアに登場する、写真集やイメージビデオを発売しCMに出演する(これはいわゆる「Web CM」を含む)プロモーションビデオを制作するなどといったアイドル的活動を行う声優を指すことが多い。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 352, "tag": "p", "text": "戦前に遡るとラジオドラマで活躍した飯島綾子も流行歌・童謡などレコードを何枚か出していて、日本舞踊家でもあった。その後の横山智佐、氷上恭子、國府田マリ子、宮村優子など、1990年代にデビューしそうした活動を行う声優らも、その多くは前述の声優養成所で養成された声優が、それ以前にアイドルとしての活動経験/アイドルからの転進組などではない。しかし、こうした声優がマス・メディアに広く露出をしたことによって、1990年代の声優人気の受容は、それ以前の受容とは異なる状況を呈したが、特にこの時期から養成所を出たばかりの新人声優の報酬を安定させることを目的のひとつに声優の活動するメディアの拡大が計られ、その商業的な戦略のひとつとして様々な媒体を介した声優の顔出しがはじまったものとも推測されている。「VOICE Newtype」誌の吉本隆彦は、声優はキャラクターに声を吹き込むほかにキャラクターソングを歌うことになれば作品の顔となっており、必然的に声優も注目されうるが、こうした状況下でアイドル声優は90年代後半から2000年代にかけてブームという状態を経て、ひとつのジャンルとして確立されたとし、それは当時からオリコンチャート上位にもランクインする音楽シーンをみても明らかとしている。そしてこのことが時代のニーズに応えているとし、加えて何万人もの聴衆を魅了できるのも、キャラクターに声を吹き込む声優はエンターテナーとしての資質と、アーティストとしてのポテンシャルが高いためであるとしている。もとのブームからの傾向としては女性声優が台頭したが、流れで男性声優も女性ファンの心もつかんでいき人気になっていったとしている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 353, "tag": "p", "text": "2010年代半ば以後には宮野真守、平野綾、内田真礼、竹達彩奈、戸松遥、三森すずこ、佐倉綾音、逢田梨香子、斉藤朱夏、小倉唯などのように、マニア向けでない一般の漫画雑誌などでのグラビアに登場する、アイドルのような立ち位置で顔出しでCMに出演する例やバラエティ番組やクイズ番組のゲストとして出演する例が増加するようになっている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 354, "tag": "p", "text": "さらには、アイドル主体のアニメ・ゲーム作品における担当アイドル(キャラクター。つまりアイドル役)を、そのまま実際のライブで再現する声優ユニットも登場し、専業のアイドルと比べても遜色のない例も存在する。例えば『きらりん☆レボリューション』の月島きらり starring 久住小春 (モーニング娘。)、アイドルマスターシリーズ(『THE IDOLM@STER』・『アイドルマスター シンデレラガールズ』・『アイドルマスター ミリオンライブ!』・『アイドルマスター SideM』)、ラブライブ!シリーズのμ's・Aqours、Wake Up, Girls!、プリパラのi☆Risなどがある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 355, "tag": "p", "text": "特に「ラブライブ!」シリーズのキャストは歌唱力やダンス力を重視したオーディションにより、それまで声優経験が皆無であった(女優などの他業種出身のメンバーに加えて、芸能界での活動経験自体がなかったメンバーもいる。楠田亜衣奈、降幡愛などがこれに該当)起用者も多くいる。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 356, "tag": "p", "text": "実際、i☆Ris、Wake Up, Girls!のほかに22/7などのように、「声優とアイドルの両立を謳うグループ」が増加するようになっている。上智大学のミスコン優勝の鳥部万里子、ミス日本コンテスト2020・ミス着物に選ばれた青木胡杜音など、容姿に自身のある人物が声優を目指す例も増えた。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 357, "tag": "p", "text": "浅川悠が自身のブログで、アイドル化が進んでいるとも言われる声優界に苦言を呈し、関連して桑島法子は「アイドル声優は旬を過ぎたら使ってもらえなくなる」と述べているなど、演技とは関係の無い評価基準に疑問を呈す業界人も存在する。実際、1990年代から2000年代にかけての椎名へきるは歌手としての活動で人気を博し、相当数のコンサート公演を全国を巡業していたが、アフレコや吹き替えの仕事から遠ざける要因となり、アニメのレギュラー出演は年間で数本に過ぎない状況で、同業の職業声優を含むアニメ制作者の間でも声優として異端視されていたことが知られる。花守ゆみりなどはインタビューで自身についてアイドル声優に見られたくないと述べている。浅野真澄がパーソナリティを務めた「低俗霊DAYDREAM 深小姫のMIDNIGHT DREAM」ではしばしばアイドル声優に対する批判がなされていた。専門学校などでもそうしたアイドルを育成する的なニュアンスも押し出して生徒集めをしているところが少なからずみうけられるが、第一線で活躍している実際のアイドルたちは天分に恵まれた上で競争にももまれ、トレーニングを重ねており、こうしたアイドルたちと、学校に通ったくらいでの自分とライバルというのは、あまりにおこがましいと指摘されている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 358, "tag": "p", "text": "一方で、やまとなでしこ結成時のインタビューで堀江由衣は声優になってからアイドル的な仕事があって驚いたというが、アイドルについてはその人自身に魅力があるわけで見てるだけで楽しくなれる、元気になれる存在とし、「それを悪く言うのって、変だと思う。見る人の心を潤すための仕事をしていて、そうならない方が困るんじゃないかな」と見解を述べている。芹澤優のように声優であることにもアイドルであることにもプライドを持ち、両立していると自認している者もおり、中川亜紀子もデビュー当初アイドル的な売り方がなされており、彼女はこの事にはなにかと批判的であったが、「今となっては『なんて贅沢なことを!』と思いますけど」と当時を振り返っている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 359, "tag": "p", "text": "声優アーティストとは、上記のアイドル声優に代わって2000年代半ばごろから出てきた俗称であり、おもに声優業と歌手業を両立させている声優を指すことが多い。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 360, "tag": "p", "text": "この名称は椎名へきるが1994年(平成6年)のラジオ番組の開始にあたって、「アーティストと声優をしている」と自己紹介をしている点や、彼女の出身養成機関の広告フレーズからうかがい知れ、マネージメントをする者を含む制作者の影響が強く表れている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 361, "tag": "p", "text": "近年では歌手としての独立した活動までには至らずとも、アニメに出演する場合、主題歌などを担当したり、各種関連番組(アニラジ、ニコニコ生放送など)やイベントへの出演など、タレント活動を求められる例が一般的になっている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 362, "tag": "p", "text": "TARAKO、坂本真綾、MoeMiのように並行してシンガーソングライターとして活動する者もおり、近年は沼倉愛美、鈴木みのり、早見沙織、楠木ともり、小岩井ことり、雨宮天ら自身の手による楽曲の作詞作曲を手掛ける声優アーティストも多くなった。小野友樹のミニアルバム「Winter Voice Friends」では自身の声優仲間らの楽曲提供により構成されている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 363, "tag": "p", "text": "他にバンドを組んでいる者もおり、鈴木達央はOLDCODEXというバンド、近藤孝行と小野大輔は、テクノロジック・ヴォーカルユニット“TRD”、前述の小岩井ことりはメタルバンドDAW、田村ゆかりもメタルユニット120600mAh、谷山紀章は音楽ユニットのGRANRODEOで活動している。なお谷山はGRANRODEOではKISHOW名義で、同様のケースでは二ノ宮ゆいが声優時には二ノ宮ゆい、アーティスト時にはニノミヤユイと名義を分けて活動している。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 364, "tag": "p", "text": "『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのように、劇中で声を担当したキャラクターの音楽バンドを、実際においてもバンド活動を行うといったケースがあり、大塚紗英のようにシンガーソングライター活動がメインになっている者もいる。他にも女子高生ロックバンド漫画『ガールズフィスト!!!!』に登場するキャラクター4人と連動するかたちで活動中の、若手女性声優のロックバンドの南松本高校パンクロック同好会、会える声優ガールズロックバンドのHoneysComin'などがある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 365, "tag": "p", "text": "ヒーラーガールズのようなコーラスユニットと謳ったグループもある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 366, "tag": "p", "text": "「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれの場合も、女性声優に特に多いといわれる。声優の男女比率の反映に加えて女性声優が数人在籍するアイドルユニットや声優アーティストユニット自体生み出される数が男性のそれより非常に多い。さらに演じる女性声優も多数出演するタレントゲーム、恋愛シミュレーションゲームが非常に多く発売され、こうしたゲーム出演で多数の女性声優が歌手デビューやアイドル声優化する傾向も続いている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 367, "tag": "p", "text": "「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれであれ、声優の顔出しでの活動が増えた理由として、声優の社会的地位の向上のほかに、声優の役割やイメージの変化(「裏方的な仕事」とされてきたのが「ルックスや若さが重視される」ように変化した)が背景としてあると指摘されている。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 368, "tag": "p", "text": "声優も、現役で声優をしながら一方で芸能活動ではない他の仕事を持つ者もしばしばみられる。例として、養成所で講師をつとめたり、事務所を経営している者、音響監督などもしている声優は多い。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 369, "tag": "p", "text": "他には、以下のようなケースがある。", "title": "声優による他分野での活動" }, { "paragraph_id": 370, "tag": "p", "text": "声優が所属するプロダクションには通常の芸能プロダクションの声優部門の他に、声優が多く所属する声優プロダクションとがある。", "title": "声優プロダクション" }, { "paragraph_id": 371, "tag": "p", "text": "声優プロダクションは、声優から手数料を徴収し、音響制作会社や放送局などに対して、アニメ・日本語吹替・ナレーションなど得意分野ごとに配置されたマネージャーが営業活動や声優の売り込みなどを行う。専門の養成所を持ったり専門学校と提携して新人の育成も行う。", "title": "声優プロダクション" }, { "paragraph_id": 372, "tag": "p", "text": "もともと制作会社の関連会社に位置していて連携の強いプロダクションが存在し、特に2000年代は特に新たに創業される例が見られたが、2010年代以降は制作会社の一部門として直営され、より連携が強固なプロダクションも存在する。特定の制作会社との連携が強くとも、ほかの制作会社が手がける仕事も請ける。また、もともと音楽系のプロダクションでも声優のマネージメントを行う例が近年あり、この場合は本業を生かして歌手活動も積極的に行われることが多い。他分野中心の芸能プロダクションが声優部門に力を入れるようになる例も見られる。", "title": "声優プロダクション" }, { "paragraph_id": 373, "tag": "p", "text": "声優界は「『芸能界で最も古い体質』を今も残している」として当該業界への批判が相次いでいる問題もあり、その一部としてはプロデューサーなど役職の地位が高い人物からのセクハラを代表とするハラスメント行為が横行しているという点が挙げられ、過去には実際に関係事件で逮捕される事件も起きている。", "title": "声優プロダクション" }, { "paragraph_id": 374, "tag": "p", "text": "声優は所属事務所からの基本給というものは存在せず、各人の仕事実績によるギャランティ(報酬金)が収入となる個人事業者である。所属事務所とは通常1年更新のマネジメント契約を締結し、売込みやマネジメントの対価として業界平均で出演料の約20%から30%を事務手数料として事務所へ支払い、源泉徴収も10%引かれ、この残りが声優の手取りの報酬となる。歌手や俳優などと同じくシステムの競争社会であり、経済的に自立できずに脱落していく者も多い。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 375, "tag": "p", "text": "日本語吹き替えが始まった1960年代には、声の仕事は顔出し出演の7割の出演料「顔出しの七掛け」とされ、低い位置にある仕事とみなされ、舞台俳優がアルバイトのような形でやっていた。舞台や実写の仕事と比較して、吹き替えの仕事は拘束時間が少なくかけ持ち出演が可能なため、数をこなせば収入を増やすこともでき、演技力を生かせることから不満に持つ者は少なかった。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 376, "tag": "p", "text": "声優の賃金待遇改善については、声優の多くが日本俳優連合(日俳連)に所属しており、日俳連は音響制作会社の集合体である日本音楽制作者連盟(音声連)、声優のマネージメントを行う事業者で組織する日本芸能マネージメント事業者協会(マネ協)と「三団体実務小委員会」を設けて、出演ルールの改定や待遇の改善を申し入れて来た。ときにはストライキ(1973年〈昭和48年〉8月8日)や街頭デモ活動を行うなどして、1973年(昭和48年)には報酬が約3倍アップ、1980年(昭和55年)には再放送での利用料の認定、1991年(平成3年)には報酬が約1.7倍上昇するなどの成果を勝ち取ってきた。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 377, "tag": "p", "text": "業界に対してのみならず、1973年(昭和48年)と2001年(平成13年)にはデモ行進、1988年(昭和63年)には永井一郎が『オール讀物』(文藝春秋)において『磯野波平ただいま年収164万円』と題して、アニメ出演料の安さを訴える記事を寄せて、世間一般への理解を求める行動を起こしている。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 378, "tag": "p", "text": "日俳連・マネ協・音声連による協議の結果、外画動画出演規定・新人登録制度・CS番組に関する特別規定・ゲーム出演規定などを締結した。アニメでは、放送局と、アニメ制作会社で組織される日本動画製作者連盟も加わって、団体協約が締結されている。これにより、仕事1作品あたりの報酬は作品のジャンル・放送時間帯・放送回数・ソフト化などによる2次利用、そして経験実績などの条件によって受け取る額が算出される方法を取られており、音響制作会社の一方的な言い値で手取りを決定されるということはない。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 379, "tag": "p", "text": "以上の協定は、声優・マネジメント事業者・音声製作事業者がそれぞれの団体に所属しなければ縛られることはない。たとえば、石原裕次郎は映画『わが青春のアルカディア』の出演料が1,000万円だったと言われている。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 380, "tag": "p", "text": "日俳連では組織率を高めるために、音声連が製作する作品に出演する人数について「日俳連に属さない出演者の数は全体の20%以内」とし、日俳連に属さない出演者については加盟を推奨することが音声連には課せられている。逆にマネ協・日俳連側は、音声連に入っていない製作会社へ音声連への加盟を奨めることとなっている。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 381, "tag": "p", "text": "これらの協定を嫌う日本アドシステムズなどの製作者側もあり、日俳連に所属しない声優を起用する例が1990年代半ばより増加したが、東映アカデミーやラムズのように事業を停止した例もある。音声連に属していない事業者としては神南スタジオや脱退した音響映像システム(現・サンオンキョー)などがあり、マネ協に属していない事業者としてはネルケプランニングなどがある。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 382, "tag": "p", "text": "日俳連に所属する声優が、アニメ・日本語吹き替え作品・社団法人コンピュータエンターテインメント協会(CESA)に加盟するゲーム会社の作品に声をあてる際の出演料についての規定で、この制度での報酬は「ランク」と呼ばれる出演料によって支払われることになっている。担当する内容や、台詞の多少は関係しない。ランクの設定は毎年4月に更新され、人気が上がったりキャリアを重ねると、マネ協や音声連との協議のうえでランクが上がっていき、またランクが上がるごとに出演料が高くなっていく。例外として、60歳以上の者はランクを上げることはできても下げることはできない。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 383, "tag": "p", "text": "1991年(平成3年)に出演料が約1.7倍アップしたこともあり、予算の限られたアニメや吹き替えにはランクの高い(出演料が高い)ベテラン声優が起用されなくなる弊害が生じるようになった。それにより、2001年(平成13年)から2年の期間限定でランク下げを認める特例期間が設けられた。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 384, "tag": "p", "text": "30分枠作品の最低ランクの出演料が1万5,000円で、最高ランクが4万5,000円、その上に上限なしのノーランクが設定されており、これが基本出演料となる。またその基本出演料に「目的使用料」として、アニメは1.8倍が加算され、吹き替えは1.7倍が加算される。予告編の台詞をやった場合、基本出演料のランクをもとにしたギャラが加算される。放送時間枠が60分や120分の場合は「時間割増」となり、その分のギャラが支払われる。出演作品がソフト化されたり再放送された場合、規定に基づいて「転用料(2次使用料)」が支払われる。これらの合計が声優の総出演料となるのだが、そこから事務手数料や税金などで約30%から40%引かれる。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 385, "tag": "p", "text": "音声作品の報酬の相場は拘束時間もワード数によって数時間から数日までさまざまで、声優のランクにもよるが、だいたい数百ワードあたり2 - 3万円ぐらいとされ、有名声優がソーシャルゲームに出るときの単価などとは比べものにならない。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 386, "tag": "p", "text": "声優だけで安定収入を得るのはほんの一握りなのは売上の大半を事務所が持っていくこともあって、事務所声優でも声優業のみで生活できる人は少ない。しかしながらそれでも仕事を取るためには事務所に所属するのが基本で、イベント、コンサートやライブなどで収益を得る事務所声優が安定して仕事をすることになる。主役声優であればイベント出演で1回20 - 30万円程度もらえる他、物販で稼げるという。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 387, "tag": "p", "text": "声優学校や声優養成所を卒業して、日本芸能マネージメント事業者協会(マネ協)加盟の声優事務所のオーディションに合格した新人声優は、まず「預かり」という身分から声優業をスタートする。この時点ではまだ声優個人としての日本俳優連合(日俳連)への加盟はできない。預かりは声優業の最初のステップとして、ランク制の事実上の番外とでもいうべき存在である。預かり期間修了後はジュニア(新人)ランクとなり、ジュニアランクでいられる期間は3年間ないし所定の起用率に到達するまでで、それを終了したあとは日俳連へ加盟し通常のランクの声優になる。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 388, "tag": "p", "text": "出演料が安すぎるという理由で1990年(平成2年)に一度ジュニアランクを撤廃したことがあったが、1994年(平成6年)から新たな形で再び導入された。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 389, "tag": "p", "text": "預かりとジュニアランクの声優の出演料は1万5,000円で、ランクがついた声優とは違い、上述の「目的使用料」「予告編の台詞代」「時間割増料」「転用料」は支払われない。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 390, "tag": "p", "text": "声優としてベテランになり日俳連のランク(出演料)が高くなっていくと、予算の関係からアニメ・ゲーム・吹き替えの仕事は自然と減る場合もあり、これを補うのにCMやテレビ番組などでのナレーションの仕事を行う場合もみられる。ナレーションは日俳連の協定によるランクの縛りがなく、また、ギャラはアニメ・ゲーム・吹き替えよりもはるかに高額とされる。新人・若手声優だったころはアニメに多く出演していたが、のちに中堅・ベテラン格になるにつれてアニメの仕事が徐々に減っていき、ナレーションが中心になるという傾向にある。なおベテラン声優を1回のみ登場、台詞が少ないなど収録時間が短い役に起用する例もあり、アニメやゲームの出演が無くなるわけではない。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 391, "tag": "p", "text": "ベテラン声優の中には前述のとおり本業の傍ら、声優事務所の経営、声優の養成所や専門学校の講師、カルチャースクールの喋り方教室の講師、音響監督などといった業を副業として、収入の少なさを補うためにしている者もいる。また、ベテランになると、経済的にはむしろそのような副業のほうが本業という声優も珍しくないといわれている。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 392, "tag": "p", "text": "声優を目指す人々は増加傾向にあるが、職業としての声優として第一線で活躍できる者は少ない。オーディションでほかの声優との競争に勝てず、仕事がもらえずに無名のまま脱落し、経済的に自立できずにわずかな期間でやめる、またはプロダクションから「今後、第一線級の声優として売れる見込みがない」と判断されて契約を解除されるという新人・若手声優が多いという。実際、一例として内田彩は、2015年(平成27年)9月のインタビューにて「声優の仕事一本で食べていけるようになる2、3年くらい前まで、声優の仕事が空いているときは派遣のアルバイトをやっていました」と打ち明けている。内山夕実のように(家の都合で)一度引退後に復帰する例もある。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 393, "tag": "p", "text": "1996年(平成8年)発売のキネマ旬報刊『声優名鑑』には約2,400人の声優が掲載されていたが、この時代でも声優としての地位が確立されている者は約300人だけで、しかもそのうち声優業だけで食べていける者は約半数であるという。", "title": "経済環境" }, { "paragraph_id": 394, "tag": "p", "text": "ある程度の知名度、出演本数、活動年数があったにもかかわらず、声優業で生計を立てていくことが難しいという理由で引退した者も少なくなく、継続して仕事を維持するのも厳しい世界である。", "title": "経済環境" } ]
声優(せいゆう)もしくはVA(ボイスアクター)または声の出演(こえのしゅつえん)もしくはCV(キャラクターボイス)は、ラジオの放送劇、テレビ・映画の吹き替え、アニメーションなど、音声作品や映像作品に、自身の姿を見せず声だけで出演する俳優である。広義にはナレーターも含まれる。 音声・映像作品の役割・職能を表す場合と職業を示す意味で使われる場合がある。
{{内容過剰|date=2023年2月}} [[File:Kappei Yamaguchi (23800209463).jpg|thumb|260px|[[日本]]の声優である[[山口勝平]]]] '''声優'''(せいゆう)もしくは'''VA'''(ボイスアクター)または'''声の出演'''(こえのしゅつえん)もしくは'''CV'''(キャラクターボイス)は、[[ラジオ]]の[[放送劇]]、[[テレビ]]・[[映画]]の[[吹き替え]]、[[アニメーション]]など、[[音声]]作品や[[動画|映像]]作品に、自身の姿を見せず[[声]]だけで出演する[[俳優]]である<ref>{{Cite book|和書|title=広辞苑 第七版|date=2018年1月|publisher=岩波書店}}</ref>。広義には[[語り手|ナレーター]]も含まれる。 音声・映像作品の[[役割]]・[[職能]]を表す場合と[[職業]]を示す意味で使われる場合がある。 == 概要 == 声のみで演技する[[実演家]]であり、その出演形態は[[メディア (媒体)|メディア]]の発展と共に、[[レコード]]・[[ラジオ]]、さらには[[テレビ]]などへ拡大した。 [[1910年]]([[明治]]43年)、日本初の[[レコード会社]]が発足する。歌舞音曲など[[演芸]]の[[録音]]が普及した。[[1925年]]([[大正]]14年)には、日本初のラジオ放送が開始する。舞台劇、映画劇、放送劇などが届けられた。 声優の命名由来は『[[読売新聞]]』の芸能記者・小林徳三郎によるものと、[[日本放送協会]](NHK)の演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男によるものの2説があるが<ref>[[勝田久]]「声優の歴史」『声優名鑑 アニメーションから洋画まで…』ジ・アニメ特別編集、近代映画社、1985年、174頁。</ref>、未だに明確にはなっていない。この年には早くも、『[[朝日新聞]]』が「いはゆる『聲の女優』――ラジオ・ドラマの女優」とした報道を行い<ref>{{Cite web|和書|title=目指せラジオ女優! 大正時代のオーディション - ことばマガジン:朝日新聞デジタル |url=http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/mukashino/2014100700001.html |website=朝日新聞デジタル |access-date=2023-03-13 |language=ja |first=The Asahi Shimbun |last=Company}}</ref>、翌年の[[1926年]](大正15年)には、『読売新聞』が声優の呼称を使用している<ref>『読売新聞』1926年4月4日朝刊、p.10。</ref>。 [[1941年]]([[昭和]]16年)、NHKが[[ラジオドラマ]]を専門に行う[[東京放送劇団]]を設立する。[[1956年]](昭和31年)には、[[ラテ兼営|ラジオ・テレビ兼営局]]である[[ラジオ東京]](現:[[TBSホールディングス|TBS]])が[[海外ドラマ|海外テレビドラマ]]の吹き替え放送を実施する<ref>{{Cite journal|和書|author=古田尚輝|date=2006-09|title=テレビジョン放送における「映画」の変遷|url=https://seijo.repo.nii.ac.jp/records/4185|journal=成城文藝|issue=196|pages=266–213|id={{CRID|1050001202589575424}}|publisher=成城大学文芸学部}}</ref>。声優は当初、ラジオドラマに出演する舞台俳優や映画俳優、次いで[[放送局]]の[[劇団員]]であるラジオ俳優を指し<ref>{{Cite web|和書|title=講座・展示|新国立劇場情報センター|新国立劇場 |url=https://www.nntt.jac.go.jp/library/library/theater_talk06_03.html |website=www.nntt.jac.go.jp |accessdate=2021-08-29}}</ref>、テレビ時代になって[[吹き替え]]、さらに[[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]を行う役者を指す用語として定着して行った。 こう言った経緯などから放送劇団員は声優という呼称を酷く嫌い、自らを俳優と称する者も少なくない。また、[[山田康雄]]や[[内海賢二]]らも声優は声を演じる俳優、役者がやっている色々なジャンルの一部分であると考えており、『声優』という呼称を好まなかったという<ref>{{Cite news |title=役者としては半ちく仕事 ブーム見すえるクールな目 山田康雄 |agency=静岡新聞 |date=1979-05-27}}</ref>。 [[文化庁]]の委託事業である『演劇年鑑』(発行:[[日本演劇協会]])では、演劇の関係者を紹介する際に、「俳優」「俳優、声優」「声優、俳優」「声優」を並列している。一例として[[2022年]]版では、[[若山弦蔵]]が「声優、俳優」、[[森山周一郎]]が「俳優、声優」と掲載されている<ref>{{Cite web|和書|title=主な事業 {{!}} 公益社団法人日本演劇協会 |url=http://www.jtaa.or.jp/concept2.html |website=www.jtaa.or.jp |access-date=2023-02-19}}</ref>。また、2022年([[令和]]4年)度の[[日本芸術院会員]]選定の際、[[黒柳徹子]]が『俳優』と紹介された<ref>{{Cite web|和書|title=令和4年度 日本芸術院会員候補者の決定について |url=https://geijutuin.go.jp/info/202302000255.html |website=geijutuin.go.jp |access-date=2023-03-11 |publisher=日本芸術院}}</ref>。 日本で声優の専業化が進んだ理由は、 * ラジオドラマ全盛期に、NHKと[[民間放送|民放]]が自前の放送劇団を組織して専門職のラジオ俳優を育成したこと * テレビの黎明期は、番組コンテンツ不足のため、[[アメリカ合衆国]]から[[テレビドラマ]]や[[アニメーション]](日本での「アニメ」とは異なる)が大量に輸入され、声優による日本語吹き替えの需要が増大したこと * アニメやゲームの人気の高まりにより、最初から声優専門の演技者を志望する者が増えたこと などが考えられる。 日本の声優の多くが加盟する[[協同組合]]・[[日本俳優連合]]には、外画・動画部会も設置され、「俳優・声優・その他の実演家」を加入対象としている<ref>[https://www.nippairen.com/form/join.html 加入案内のご請求] - 日本俳優連合の加盟申請ページ。「俳優・声優・その他[[実演家]]」と表記している。</ref>。後述のフィックス制度により[[性格俳優]]としての側面もある。また、[[アテレコ論争]]などを経て、ニュースで原稿を読み上げる[[ニュースキャスター|キャスター]]や[[アナウンサー]]など、放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。 日本国外では俳優の仕事の一部という側面が大きく、吹き替えでは[[スタンリー・キューブリック]]監督作品『[[スパルタカス (映画)|スパルタカス]]』において、故人となっていた[[ローレンス・オリヴィエ]]の声の代役を門下の[[アンソニー・ホプキンス]]が担当したエピソードなどがある。その一方で、アメリカでは声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある<ref>{{Cite web|和書|url=https://forbesjapan.com/articles/detail/25021 |title=アメリカの有名声優に日本アニメの人気や声優事情を聞いた |accessdate=2020年8月6日 |publisher=フォーブスJAPAN}}</ref>。 アニメーション作品ではしばしば'''キャラクターボイス'''(character voice)、略して'''CV'''という[[和製英語]]が使われる。これは[[1980年代]]後半に[[アニメ雑誌]]『[[アニメック]]』で副編集長だった[[井上伸一郎]]が提唱した用語で、その後、井上が[[角川書店]]で創刊した『[[月刊ニュータイプ]]』でも用いられている<ref>{{Cite|和書|ref=harv|title=アニメックの頃…―編集長(ま)奮闘記|author=[[小牧雅伸]]|date=2009|publisher=[[NTT出版]]|pages=210|isbn=4757142161}}</ref>。昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットで「声の出演」と表記されることが多かった。 [[平成]]から令和にかけての現在では、「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多くなっている。日本国外でのCVの使用例には、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]で翻訳・吹き替えを担当する[[ディズニー・キャラクター・ボイス・インターナショナル]](Disney Character Voices International)などがある。 [[黎明期]]には顔出しNGの声優も少なくなかったが、時代が下るにつれて歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えて顔出しOKの声優が増えてきている。その一方で2000年ごろからの[[#バーチャルYouTuber活動]]でみられる、他のキャラクターとして匿名的に活動する声優も出現していく。なお、現代においてはアニメ作品や[[特撮ドラマ]]作品のキャラクターの声を担当する割合が増えている点や[[テレビゲーム]]・[[オンラインゲーム]]に登場する特定のキャラクターの声を専門的に演じることが中心となっている点から「'''担当声優'''」と呼称される場合がある。 == 歴史 == === 言文一致・演劇改良運動 === [[1877年]]([[明治]]10年)12月6日、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で[[トーマス・エジソン]]が世界初の[[録音]]・再生式の[[蓄音機]]を発明する<ref>{{Cite web|和書|title=一般社団法人 日本オーディオ協会 {{!}} カテゴリー {{!}} 音の日 |url=https://www.jas-audio.or.jp/events_cat/sound-day |website=www.jas-audio.or.jp |access-date=2023-08-10}}</ref>。 [[1880年代]]になると、[[日本]]では[[言文一致運動]]などソフト面での[[文明開化]]の運動が勃興する。[[1885年]](明治18年)、[[坪内逍遥]]が『[[小説神髄]]』を著し、[[日本の近現代文学史]]の本格的な始まりを告げた。 [[1886年]](明治19年)には、[[歌舞伎]]の[[近代化]]を志向した[[演劇改良運動|演劇改良会]]が結成されている。[[1888年]](明治21年)、[[角藤定憲]]らが大日本壮士改良演劇会を結成する。[[1889年]](明治22年)、[[歌舞伎座]]が開場する。 坪内逍遥は[[シェイクスピア]][[戯曲]]の[[翻訳]]や歌舞伎演目『[[桐一葉]]』の創作、[[森鷗外]]との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した<ref name="bunzin" />。演劇改良運動に取り組んでいた[[市川團十郎 (9代目)|市川團十郎]]との初対面では、『[[ハムレット]]』を引き合いに出して、西洋演劇におけるエロキューションの効能を紹介している。 {{Quotation|ハムレットのやうな怖しく葛藤つた胸の惱みを言ひあらはす白は、言ひかたによつては非常に趣味も深く、感動も强からうと思ふ。實際は口へ出して言はぬ事を獨白で言はせ、そして自然らしく見せる所に演劇の本領がある。劇は必ずしも寫實を要しない。尤も、只素讀をするやうに一本調子で言つてしまへば、何の含蓄もなからうが、一語々々の深い意味を十分に味はせるやうに、且つ如何にも自然らしく言ひ廻すことが出來たなら、そこにこそ眞に微妙な演技があるので、その複雑な、精緻な味ひは迚も思入れだけでは現せるものではあるまい。外國でエロキューションに重きを置くのは是れが爲である。|坪内逍遥『九世市川團十郞、五世菊五郞』<ref name="syouyou">{{Cite book|和書|author=坪内逍遥, 逍遥協会 |title=逍遙選集. 第12巻 |publisher=第一書房 |year=1977 |edition=復刻 |NCID=BN01432061 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174903 |pages=397-404}}</ref>}} [[1891年]](明治24年)、[[伊井蓉峰]]が[[依田學海]]の後援を得て、男女合同改良演劇・済美館を興す。[[寛永]]6年([[1629年]])に女性芸能が禁止されて以来、262年ぶりに男女共演が実現し、千歳米坡が女優として公演した。 [[1900年]](明治33年)、欧米を洋行中であった[[川上音二郎]]一座は、訪問先の[[パリ万国博覧会 (1900年)|パリ万国博覧会]]で日本人最古となる録音盤の収録を行う。書生芝居の幕間に演じられた『[[オッペケペー節]]』をはじめとする多種多様な演目を録音した<ref>{{Cite journal|和書|author=都家歌六 |year=2000 |url=https://doi.org/10.1541/ieejjournal.120.133 |title=日本人最古の録音盤発見記 |journal=電気学会誌 |ISSN=1340-5551 |publisher=電気学会 |volume=120 |issue=3 |page=133 |doi=10.1541/ieejjournal.120.133 |naid=10005310269 |CRID=1390001204996067456}}</ref>。 [[1902年]](明治35年)、[[文部省]]が[[国語国字問題]]の解決を目的として、国語調査委員会を設置する。 [[1903年]](明治36年)、[[新派劇]]の父である川上音二郎が正劇運動と称して、『[[オセロー|オセロ]]』、『ハムレット』、『[[ヴェニスの商人]]』などの翻案劇を上演する<ref>{{Cite web|和書|title=No.151 川上音二郎とその時代 {{!}} アーカイブズ {{!}} 福岡市博物館 |url=http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/151/index.html |website=museum.city.fukuoka.jp |access-date=2023-03-18}}</ref>。せりふとしぐさを主とする[[ストレートプレイ]]は[[新劇運動]]の萌芽となった。 [[1905年]](明治38年)、中村翠娥、[[市川九女八]]、千歳米坡、[[若柳燕嬢]]らが女優大会を興行する。 [[1906年]](明治39年)、坪内逍遥と[[島村抱月]]が[[文芸協会]]を設立している<ref name="bunzin">坪内逍遥 文人の世界、[[植田重雄]]、垣文社、1998年、pp.113-128。</ref>。同年、市川九女八、若柳燕嬢らが女優学校を設立。[[1908年]](明治41年)、[[川上貞奴]]が帝国女優養成所(後:帝国劇場付属技芸学校)を、[[藤沢浅二郎]]が東京俳優養成所(後:東京俳優学校)を設立した。 [[1909年]](明治42年)、[[小山内薫]]と[[市川左團次 (2代目)|市川左團次]]が[[自由劇場]]を設立している。同年、男女共学の文芸協会付属演劇研究所が設立されている。 === レコード演芸 === 明治の末になると[[ハード]]面での近代化が進む。[[1910年]](明治43年)、日本で最初の[[レコード会社]]が設立される。 [[1911年]](明治44年)、[[帝国劇場]]が開場する。5月、文芸協会がシェイクスピア戯曲『ハムレット』を上演した。日本初の全幕上演となった本公演には[[夏目漱石]]も招待された<ref>{{Cite web|和書|title=漱石全集 第9巻(小品・評論・雑篇) |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/957313/1/440 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-03-18 |publisher=国立国会図書館デジタルコレクション}}</ref>。11月には、[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]戯曲『[[人形の家]]』が上演されている<ref>{{Cite web|和書|title=東宝(株)帝国劇場『帝劇の五十年』(1966.09) {{!}} 渋沢社史データベース|url=https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=14940|website=shashi.shibusawa.or.jp|accessdate=2021-02-11}}</ref>。好評を博した新劇女優の[[松井須磨子]]は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であった<ref>{{Cite web|和書|title=松井須磨子 {{!}} 近代日本人の肖像|url=https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/332/|website=www.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-11|language=ja}}</ref>。また、2期生からは[[新国劇]]の創設者となる[[澤田正二郎]]が輩出されている。 [[1913年]]([[大正]]2年)、島村抱月と松井須磨子が[[芸術座 (劇団)|芸術座]]を結成する<ref name="higeki">逍遥、抱月、須磨子の悲劇 新劇秘録、[[河竹繁俊]]、毎日新聞社、1966年、pp.139-156。</ref>。[[1914年]](大正3年)の第3回公演では、抱月の再脚色において[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の小説『[[復活 (小説)|復活]]』を上演した<ref>{{Cite book|和書|author=トルストイ 作, アンリ・バタイユ 脚色, 島村抱月 再脚色 |title=復活 |publisher=新潮社 |year=1914 |doi=10.11501/947563 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947563 |accessdate=2022-11-22}}</ref>。須磨子が歌唱した劇中歌『[[カチューシャの唄]]』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった<ref>{{Cite web|和書|title=「カチューシャの唄」100年 - ことばマガジン:朝日新聞デジタル|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-02-11|language=ja|first=The Asahi Shimbun|last=Company}}</ref>。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。 同年10月、シェイクスピア戯曲『[[アントニーとクレオパトラ]]』が抱月の改作により上演され<ref>{{Cite web|和書|title=クレオパトラ : シヱイクスピア作 - 国立国会図書館デジタルコレクション|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/985928|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-11|language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=水野義一 |title=本邦上演の英国劇(二) |journal=英学史研究 |issn=0386-9490 |publisher=日本英学史学会 |year=1972 |volume=1972 |issue=4 |pages=91-103 |naid=130003624670 |doi=10.5024/jeigakushi.1972.91 |url=https://doi.org/10.5024/jeigakushi.1972.91}}</ref>、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみの[[オーディオドラマ]]であり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された<ref>{{Cite web|和書|title=元祖「歌う女優」 松井須磨子、幻の音源 研究家発見 107年前収録:東京新聞 TOKYO Web|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/81134|website=東京新聞 TOKYO Web|accessdate=2021-02-11|language=ja}}</ref>。 [[1916年]](大正5年)、文部省が『口語法』(編纂:国語調査委員会)を公刊する。話し言葉の[[規範文法]]を提示した<ref>{{Cite web|和書|title=口語法 - 国立国会図書館デジタルコレクション |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1870063/1/1 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-06-24 |publisher=国立国会図書館}}</ref>。 大正時代(1912年〜1926年)には[[中村鴈治郎 (初代)|中村鴈治郎]]、[[松本幸四郎 (7代目)|松本幸四郎]]、[[市村羽左衛門 (15代目)|市村羽左衛門]]、[[成美団]]、[[曾我廼家五郎|曾我廼家一座]]、[[宝塚少女歌劇]]、[[浅草オペラ]]なども音源を残している<ref>{{Cite web|和書|title=参考文献 - 「本の万華鏡」第10回「はやり病あれこれ」 |url=https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/10/3.html#anchor3 |website=「本の万華鏡」第10回「大正デモクラシーとメディア」 |access-date=2022-04-17 |language=ja |publisher=国立国会図書館}}</ref><ref>{{Cite journal |和書|author=大西秀紀 |title=東洋蓄音器( オリエントレコード) の社史調査とディスコグラフィの作成 |publisher=京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター |date=2018-04 |url=http://id.nii.ac.jp/1290/00000126/}}</ref>。 [[1924年]](大正13年)、日本初の新劇の常設劇場である[[築地小劇場]]が開場する。創立同人に小山内薫、[[土方与志]]、[[浅利鶴雄]]、[[友田恭助]]ほか。研究生1期生(座員)に[[千田是也]]、[[山本安英]]、[[田村秋子]]、[[丸山定夫]]、後に[[滝沢修]]、[[杉村春子]]、[[東山千栄子]]、[[薄田研二]]らを輩出した<ref>{{Cite web|和書|title=Web資料集〈要点〉日本演劇史〜明治から現代へ〜 |url=https://www.nntt.jac.go.jp/centre/library/list/ |website=新国立劇場 |accessdate=2023-03-19 |language=ja}}</ref>。 小山内薫の方針は既成の劇文壇の反発を招き、築地小劇場論争が勃発する。『演劇新潮』の同人を中心に[[菊池寛]]、[[久保田万太郎]]、[[岸田國士]]などが参加した。この一件は、その後の日本文学史、演劇史のみならず、さらには映画史、放送史などにも影響を与えて行く事となる<ref>{{Cite journal|和書|author=曽田秀彦|date=1997-03-26|title=幻の『蝙蝠座』覚書-小山内薫とニキタ・バリエフ-|url=https://hdl.handle.net/10291/15978|journal=大正演劇研究|volume=6|pages=2 - 18|id={{CRID|1050294584547928704}}|publisher=明治大学大正演劇研究会}}</ref>。 {{Quotation|築地小劇場は――総ての劇場がそうであるように――演劇の為に存在する。<br>築地小劇場は演劇の為に存在する。そして、戯曲の為には存在しない。<br>戯曲は文学である。文学の為に存在する機関は新聞である、雑誌である、単行本である――印刷である。<br>文学の為に存在するものは劇場ではない。<br>戯曲――即ち文学――を味わうには、閑寂な書斎ほど好いところはない。|小山内薫『築地小劇場は何の為に存在するか』<ref name="osanai">小山内薫 演劇新潮八月号 1924年、小山内薫演劇論全集 第2巻、[[未來社]]、1965年、pp.48-49。</ref>}} === ラジオドラマ === [[1925年]](大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局が日本初のラジオ放送を開始する<ref>{{Cite thesis|和書|author=西沢実 |url=https://doi.org/10.11501/3165139 |title=創始期ラジオドラマとラジオドラマの「ことば」研究 |volume=日本大学 |series=博士(芸術学) 乙第5623号 |year=2000 |doi=10.11501/3165139 |id={{naid|500000186018}}}}</ref>。 そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内で[[サイレント映画]]『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の[[井上正夫]]、女優の[[栗島すみ子]]などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である<ref>[https://web.archive.org/web/20130719071508/http://www12.ocn.ne.jp/~kanedoko/syh.htm “声優”の歴史をひもとく頁]「いにしへの声優列伝」内。</ref><ref group="注">ただし、これは無声映画作品に声をつけたものとして放送されており、本格的なラジオドラマとは質が異なる。</ref>。 7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:[[中村歌右衛門 (5代目)|中村歌右衛門(5代目)]]など)が、さらに日本初の本格的な[[ラジオドラマ]]として『大尉の娘』(出演:井上正夫、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]])が放送される。8月に小山内薫の演出、[[和田精]]の[[音響効果]]で放送された『炭鉱の中』とする説もある<ref>{{Cite web|和書|title=炭坑の中|url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009060004_00000|website=テレビ60年 特選コレクション {{!}} NHKアーカイブス|accessdate=2021-02-11|language=ja|last=NHK}}</ref>。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。 8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。[[長田幹彦]]、小山内薫、久保田万太郎、[[久米正雄]]、[[長田秀雄]]、[[吉井勇]]の6人を主要メンバーとした<ref>{{Cite web|和書|title=春陽堂とラジオドラマ 第二回 春陽堂とラジオドラマ研究会 {{!}} 春陽堂書店|url=https://www.shunyodo.co.jp/blog/2018/10/radio-drama_2/|website=www.shunyodo.co.jp|date=2018-10-12|accessdate=2021-02-14|language=ja|last=春陽堂書店編集部|publisher=}}</ref>。さらに聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり<ref>{{Cite web|和書|title=港区ゆかりの人物データベースサイト 文士とラジオドラマ?放送局に集った若き才能|url=https://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/j/trivia-detail.cgi?id=14|website=www.lib.city.minato.tokyo.jp|accessdate=2021-02-14}}</ref>、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは[[里見弴]]、[[松居松翁]]、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、[[山本有三]]、[[中村吉蔵]]、[[岡本綺堂]]の11人であった<ref>{{Cite web|和書|title=平成22年度 日本脚本アーカイブズ特別委員会 調査・研究報告書|url=http://www.hosakkyo2012.jp/協会のこれまでの活動/日本脚本アーカイブズ/過去の活動報告/|website=一般社団法人 日本放送作家協会|accessdate=2021-02-14|language=ja-JP|publisher=}}</ref>。 9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募<ref>{{Cite web|和書|title=目指せラジオ女優! 大正時代のオーディション - ことばマガジン:朝日新聞デジタル|url=http://www.asahi.com/special/kotoba/|website=朝日新聞デジタル|accessdate=2021-11-11|language=ja|first=The Asahi Shimbun|last=Company}}</ref>。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた{{Refnest|group="注"|後述するように『読売新聞』では1926年の時点で「声優」という言葉が使われていた。}}。 初期のラジオドラマには[[汐見洋]]や東山千栄子など、この前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた<ref>{{Cite journal|和書|author=森川友義, 辻谷耕史 |date=2002-11 |title=声優の誕生とその発展 |journal=メディア史研究 |ISSN=13438107 |publisher=ゆまに書房 |volume=13 |page=62 |naid=40005556004 |CRID=1521136280619311360}}</ref>。 [[1930年]]([[昭和]]5年)、[[新興芸術派倶楽部]]が結成されている。芸術価値の自律性を擁護して、『文学』からは[[小林秀雄 (批評家)|小林秀雄]]、[[神西清]]、蝙蝠座からは[[今日出海]]など32名が参加した。また、蝙蝠座の院外団員には小林の他に菊池寛、岸田國士も参加していた<ref>{{Cite journal|和書|author=中野正昭|date=1999-09-30|title=蝙蝠座-演劇と昭和モダニズム-|url=https://hdl.handle.net/10291/7310|journal=文学研究論集(文学・史学・地理学)|volume=11|pages=119 - 137|issn=1340-9174|id={{CRID|1050576059523566720}}|publisher=明治大学大学院}}</ref>。 [[1931年]](昭和6年)、久保田万太郎が日本放送協会の文芸課長に就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や[[泉鏡花]]、[[ジュール・ルナール|ルナール]]や[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]などの国内外の[[文学]]のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、[[喜多村緑郎 (初代)|喜多村緑郎]]、[[村瀬幸子]]、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している<ref>{{Cite web|和書|title=春陽堂とラジオドラマ 第一回 娯楽としてのドラマ {{!}} 春陽堂書店|url=https://www.shunyodo.co.jp/blog/2018/09/radio-drama_1/|website=www.shunyodo.co.jp|date=2018-09-28|accessdate=2021-02-14|language=ja|last=春陽堂書店編集部|publisher=}}</ref>。[[1938年]](昭和13年)8月、退任。 文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている<ref>{{Cite journal|和書|author=本間理絵 |title=近代メディアミックスの形成過程:―春陽堂書店とラヂオドラマ研究会との連携を中心に |journal=出版研究 |issn=0385-3659 |publisher=日本出版学会 |year=2017 |volume=48 |issue=0 |pages=85-108 |naid=130007932126 |doi=10.24756/jshuppan.48.0_85 |url=https://doi.org/10.24756/jshuppan.48.0_85}}</ref>。ラジオドラマの総放送回数は1938年(昭和13年)までの13年で750回を数えるまでに成長した。 この頃(おもに[[1930年代]])に活躍していた者として舞台女優の[[飯島綾子]]が挙げられる{{Refnest|group="注"|村田美弥子(当時は村田美禰子)、村田竹子(いずれも女優・[[村田嘉久子]]の妹)とともに「スター」として取り上げられていた<ref>読売新聞 1930年(昭和5年)1月6日付朝刊。</ref>。}}。彼女はラジオドラマのほかに[[日本舞踊家]]や[[歌手]](流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。 [[1932年]](昭和7年)、日本初のアクセント専門の辞書である『国語発音アクセント辞典』が刊行されている。この頃、ラジオの普及率は10%前後であり、東京語に不慣れな全国の国語教員を主な対象として、話し言葉の統一、発音統一を目指して編纂された<ref>{{Cite web|和書|title=アクセント辞典の誕生|NHK放送文化研究所 |url=https://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/20080130_5.html |website=NHK放送文化研究所 |access-date=2022-12-02 |language=ja}}</ref>。執筆者の一人であった[[言語学者の一覧|言語学者]]の[[神保格]]は、後述の調査委員会の委員や東京放送劇団の講師も担当している。 [[1934年]](昭和9年)、NHKが放送用語並発音改善調査委員会(現:[[放送用語|放送用語委員会]])を設置する。[[イギリス]]の[[英国放送協会]](BBC)を範に取り、その調査方針については「共通用語は、現代の国語の大勢に順応して、大体、帝都の教養ある社会層において普通に用ひられる語彙・語法・発音・アクセント(イントネーションを含む)を基本とする」ことが定められている<ref>{{Cite web|和書|title=最初の放送用語基準 {{!}} 調査・研究成果 - ことばの研究 {{!}} NHK放送文化研究所 |url=https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/research/kotoba/009.html |website=www.nhk.or.jp |access-date=2023-03-27}}</ref>。 [[1941年]](昭和16年)4月、[[国民学校令]]が施行されている。音声言語教育については、「話し方に於ては児童の自由なる発表より始め次第に之を醇正ならしめ併せて聴き方の練習を為すべし」と位置付けた<ref>{{Cite web|和書|title=小学校令施行規則改正(抄)(昭和十六年三月十四日文部省令第四号):文部科学省 |url=https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318024.htm |website=www.mext.go.jp |access-date=2023-03-02}}</ref>。6月、[[情報局]]が監督する[[日本移動演劇連盟]]が結成されている。 さらに同月、NHKが[[東京放送劇団]]を設立している。ラジオドラマ専門の俳優を養成する東京中央放送局専属劇団俳優養成所の研究生を公募した。[[1943年]](昭和18年)1月、NHKが『日本語アクセント辞典』を編纂し、5月には、養成を終えた東京放送劇団の第1期生がデビューを果たした<ref>「“声優”誕生」『放送夜話-座談会による放送史』日本放送協会、1968年、p.113。</ref>。これが声優第2号とみなされ<ref>西澤實『ラジオドラマの黄金時代』河出書房新社、2002年、18-19頁。</ref>{{Refnest|group="注"|第1期生の[[加藤道子]]が死去した際、読売新聞は「声優の草分け」と紹介<ref>読売新聞 2004年2月1日。</ref>。}}、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある<ref>浦崎浩實「映画人、逝く 七尾伶子」『[[キネマ旬報]]』2006年10月上旬号、[[キネマ旬報社]]。</ref>。 [[1950年]](昭和25年)、岸田國士が文学立体化運動を提唱し、[[雲の会]]を主宰する<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=「雲の会」論——文学立体化運動の再考 - 学会誌『身体表象』第3号公開 |url=https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~guscscvr/notice/journal03/ |website=www-cc.gakushuin.ac.jp |accessdate=2021-03-06 |publisher=学習院大学身体表象文化学会}}</ref>。会員の[[三島由紀夫]]は、「自由劇場以後の日本の新劇は、大ざつぱにいふと、築地小劇場の飜訳劇中心主義から、左翼演劇への移りゆきとともに、技術的基礎づけに誤差を生じ、また政治的偏向を生んだ」と指摘した。そして、築地小劇場論争以来の混迷を正常化する最初の機会として、今回の[[文壇]]、劇壇の連帯の意義を説いている。 [[1951年]](昭和26年)、日本での民間放送が開始する。対日占領政策の転換から民放が解禁された結果、戦前からのNHK独占体制が崩れている。民放各局はNHKに倣う形で[[中部日本放送放送劇団]]など専属の放送劇団を設立して行く。 同年、雲の会の一箇年の活動を振り返る座談会が開催され、機関紙である『演劇』が掲載している。文壇側からは[[鉢の木会]]のメンバーでもあった神西清、[[中村光夫]]、[[大岡昇平]]、[[福田恆存]]、三島由紀夫が選出された。「劇壇に直言す」として、新劇独自の固定観念を指摘し、既成新劇への問い直しを求めている。劇壇側からは[[内村直也]]、田村秋子、千田是也、杉村春子、[[菅原卓]]が選出された。「『直言』に答う」として、反省する点を認める一方、俳優術による演劇表現のアカデミズム確立や[[現代劇]]の樹立を重視する意見が出されている<ref name=":4" />。 これを受けて『演劇』は、会員の小林秀雄と福田恆存の対談を企画した。その中では声音メディアの未来への示唆も語られている。 {{Quotation| 小林 純粋な観念としては音楽だから。……一般に人間の耳っていうのは、よくないと思うんですよ。みんな悪いんです、耳っていうものは。 福田 ほかの感覚に比べて? 小林 ええ。眼に比べてね。特に耳を訓練している少数の人々をのぞけば。だからまだラジオ・ドラマをちゃんと聴ける耳を持っている人はいないと思うんですよ。人の声っていうものは、非常に表情に富んだものでしょう。見ないで、声で人間がわかる、そこまで耳の訓練が出来ている人はいないんだよ。ラジオ・ドラマが非常に発達すると、そういう訓練ができるかも知れない。そうすると、見なくても、声のほうがよっぽど表情的でね、ラジオ・ドラマ専門の名優というものが出てくる。……ぼくら、眼を開けて暮しているから、耳はおろそかになっている。芝居っていうやつは、眼と耳と両方で鑑賞しているしね。まあ、はなし家や講釈師になるとどうかな。例えば落語だって、話術の生命はやっぱり物語を追ってるんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょ? 何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつの声の音楽なんだよ。そいつを聴いて楽しんでるわけだな。|小林秀雄、福田恆存『芝居問答』 音・耳・放送劇<ref name="kobayashi">『[[雲の会|演劇]]』11月 1951年、直観を磨くもの 小林秀雄対話集、[[新潮社]]、[[新潮文庫]]、2014年、pp.287-291。</ref>}}テレビ放送がなく、ラジオがマスメディアで主要な地位を占めていたラジオドラマ時代の声優は決して日陰の存在ではなく、二枚目の主役の声を多く演じた[[名古屋章]]には月に何十通ものファンレターが届いたという<ref>[[能村庸一]]『実録テレビ時代劇史 ちゃんばらクロニクル1953-1998』[[東京新聞]]出版局、1999年、20-21頁。</ref>。[[1957年]](昭和32年)に放送した連続ラジオドラマ『[[赤胴鈴之助]]』は当時の子供たちから絶大な支持を得た。ラジオドラマは全盛期を迎え、声優の紹介記事が新聞のラジオ欄に掲載されるようになると、声優へのファンレターと同時に声優に憧れ、声優志願者も急増した。 [[1953年]](昭和28年)のNHK東京放送劇団の第5期生募集には、合格者が10名程度のところへ6,000名の応募が殺到したという。東京放送劇団出身の[[勝田久]]は、この時代を第1期声優黄金時代としている<ref>勝田久「声優の歴史」『声優名鑑 アニメーションから洋画まで…』ジ・アニメ特別編集、近代映画社、1985年、175頁。</ref>。日本での[[テレビ放送]]が開始された1953年(昭和28年)2月当時、NHK専属の放送劇団員は、東京・大阪・名古屋・広島・福岡・仙台・札幌の7劇団で合計137名を数えた。 === 映画 === 劇場アニメでは、[[1933年]](昭和8年)には日本初の[[トーキー]]の短編アニメーション映画『力と女の世の中』が公開。アニメキャラクターに声をあてたのは、喜劇役者の[[古川ロッパ]]をはじめとする映画俳優達だった。[[1942年]](昭和17年)には[[中国]]の長編アニメーション映画『[[西遊記 鉄扇公主の巻|西遊記・鉄扇姫の巻]](鉄扇公主)』が日本で公開され、[[活動弁士]]出身の[[徳川夢声]]、[[山野一郎]]などが声をあてた。[[第二次世界大戦]]後に発足した[[東映アニメーション|東映動画]]により日本でもコンスタントにアニメ映画が製作されるようになると、映画俳優、コメディアン、放送劇団員が使われた。 洋画の吹き替えでは、[[1931年]]の米映画『再生の港』が初の日本語吹き替え作品だが、起用された在米邦人の広島訛りが不評で後が続かなかったという<ref>清水俊二 『映画字幕五十年』早川書房、1987年、p.76。</ref>。 === テレビ初期 === 1953年(昭和28年)、日本でのテレビ放送が開始する。 [[1955年]](昭和30年)、福田恆存が翻訳と演出を担当して、『ハムレット』を上演する。[[ハムレット (キャラクター)|ハムレット]]役は[[芥川比呂志]]が担当した。当時の福田は[[文学座]]の文芸部員でもあり、幹事の[[岩田豊雄]](獅子文六)が新劇が傾倒する近代劇の在り方に疑問を持つようになっていた事も上演を後援した<ref>{{Cite journal|和書|author=井上優|year=2020|title=岩田豊雄の中のシェイクスピア--1955年 福田恆存演出『ハムレット』成立の一背景|url=https://doi.org/10.7141/ctr.19.23|journal=西洋比較演劇研究|volume=19|issue=1|pages=23-37|publisher=西洋比較演劇研究会|doi=10.7141/ctr.19.23|naid=130007825948|ISSN=1347-2720}}</ref>。舞台芸術として最高度の文学性と演劇性を両立したという評価から、「シェイクスピアに還れ」とした基調は、後の新劇運動の方針にも反映された<ref>{{Cite web|和書|title=創立聲明書 昭和三十八年二月三日 現代演劇協会 デジタルアーカイヴ |url=https://onceuponatimedarts.com/%E5%89%B5%E7%AB%8B%E8%81%B2%E6%98%8E%E6%9B%B8/ |website=onceuponatimedarts.com |accessdate=2023-03-20}}</ref>。また、札幌放送劇団に所属していた[[若山弦蔵]]はこの公演を観劇し、演技のヒントを得たことを明かしている<ref name="wakayama">20世紀グレーテスト・ヒッツ : ポピュラー音楽をめぐる記憶から、音楽出版社、2007年、pp.78-79。</ref>。 6月、[[菊田一夫]]が『「大盗大助」の公演』を『[[NHK出版|放送文化]]』に発表する。今回の東京放送劇団の舞台公演で、脚本と演出を担当した経緯について解説した。NHKで『[[鐘の鳴る丘]]』や『[[君の名は]]』を手掛けるなど放送劇でも活躍していた菊田は、ラジオ俳優に舞台公演の必要があるかどうかという問題はかなり重要な事であると指摘し、「マイク前の声技にも、その演技の奥行を深め、幅をひろげる意味で、絶対に必要だからである」との見解を示している。その理由については、「私はラジオ・ドラマの稽古に立会っていて、いつも『君、君のセリフには動きがともなっていないよ』と、いう言葉で、声優を叱りつける」と述べており、責任上から実際の体験を提供したと説明を行った<ref>{{Cite book|和書 |author=菊田一夫 |title=菊田一夫:芝居つくり四十年 |publisher=日本図書センター |year= |pages=147-150 |isbn=4820557718 |date=1999.12}}</ref>。 [[1956年]](昭和31年)4月8日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]が海外テレビアニメ『[[テレビ坊やの冒険]]』の放送を開始する。録音方式の日本語吹き替え番組の第1号であり、番町スタジオの安井治兵衛に依頼して制作された<ref>{{Cite web|和書|title=番町スタジオ KOEOTO > 【音響監督】田中英行さん |url=https://onseiren.com/koeoto/volume-04/bancho-st |access-date=2023-07-13 |publisher=日本音声製作者連盟 - アニメ音響制作 外国映画・海外ドラマ日本語版制作}}</ref>。4月28日、[[TBSテレビ|TBS]]の前身であるKRTテレビが[[海外ドラマ]]『カウボーイGメン』を放送する。10月9日には、海外テレビアニメ『[[スーパーマン]]』を放送する。出演者の[[滝口順平]]、[[大平透]]は、いずれも[[ラテ兼営]]の同局のラジオ東京放送劇団に所属する放送劇団員であった。これらKRTテレビでの吹き替え放送は[[生放送]]で行われている<ref>{{Cite thesis|和書|author=木下浩一 |url=https://doi.org/10.14989/doctor.k22198 |title=商業教育局における社会教育と教養の系譜 |volume=京都大学 |series=博士(教育学) 甲第22198号 |year=2020 |doi=10.14989/doctor.k22198 |hdl=2433/253033 |id={{naid|500001416559}}}}</ref>。 民放テレビの草創期には、同年10月の[[五社協定]]でテレビ局への日本映画の供給停止が決まったことなどによるソフト不足から、海外ドラマや[[テレビ映画]]、[[映画|洋画]]などのいわゆる外画の日本語吹き替え版が数多く放送された<ref>乾直明『外国テレビフィルム盛衰史』[[晶文社]]、1990年、60頁、118頁、557頁。</ref><ref>串間努『少年ブーム 昭和レトロの流行もの』晶文社、2003年、41頁。</ref><ref>引田惣彌『全記録テレビ視聴率50年戦争 そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、38頁。</ref>。テレビや映画の俳優は五社協定とギャラの問題で吹き替えをしなかったため、テレビでの吹き替えは、ラジオ時代からの放送劇団出身者や戦後の新劇ブームで増加した舞台役者やその[[研究生]]が多く行った{{Sfn|野村道子|2009|p=24}}。海外アニメにおいては、落語家や浅草出身のコメディアンなどもキャラクターの声をあてたという例がある。 吹き替えの開始当初は生放送でも行われ、後に[[テープレコーダー]]を利用した録音方式となるも、未だ編集は不可能であった。声優陣は狭いスタジオに存在する1つのスクリーンと1本のマイクに臨み、効果音や音楽も同時に録音していた。1ロール28分間の収録では、誰かが間違えて失敗すれば最初から録り直すという負担の大きいものであり、さらにせりふの悪訳も輪をかけ、「アテレコ調」の出現を招いている<ref>{{Cite web|和書|title=声優・羽佐間道夫が語る、吹き替え最初期の思わぬ苦労(#4)著:大野裕之 |url=https://honsuki.jp/series/souseiki/3817/index.html |website=honsuki.jp |date=2018-06-08 |accessdate=2023-07-06 |language=ja |publisher=本がすき}}</ref>。 [[江崎プロダクション]]の創業者である江崎加子男は、舞台や映像で仕事がある役者がアテレコに好んで出演しなかった理由として、ギャラ問題の他にアテレコ調の存在を挙げている。「カラーフィルムにキズを付けないためにリハーサルは3回くらいしか見せられなかった。したがって不器用なものはなかなか口が合わない。“トチラズ” 口を合わせるために台詞が一本調子になる。当時言われた言葉がアテレコ調。」<ref>{{Cite web |title=協会会報 vol.19 |url=http://www.manekyo.com/newsletter/ |website=www.manekyo.com |access-date=2023-07-06 |publisher=マネ協}}</ref>。 また、前述の若山弦蔵は当時の吹き替えに参入してきた新劇俳優について、「大部分の連中にとっては片手間の仕事でしかなかった」「日本語として不自然な台詞でも疑問も持たず、台本どおりにしか喋らない連中が多くて、僕はそれがすごく腹立たしかった」と語っている<ref>とり・みき 『別冊映画秘宝Vol.3 とり・みきの映画吹替王』 洋泉社、2004年、275頁。</ref>。当初、NHKは基本的に字幕スーパーで日本国外の作品を放送していたため、日本語吹き替え版は民放が中心となっていた。以後、日本国外の作品は[[1960年代]]前半をピークとして放送された。 [[1957年]](昭和32年)には早くも、大岡昇平が吹き替えの社会的影響を論考し、『[[芸術新潮|藝術新潮]]』に発表している。築地小劇場の観劇歴を有する大岡は、テレビから流れる[[テレビドラマ]]や舞台中継、海外ドラマなどに見られる「新劇調」の存在を指摘した。これは築地小劇場の翻訳体やそれに起因した悪癖であり、さらに固定された俳優達が今や指導する側に回ったことで、後進が不本意に継承している構図であるとも解説した。その上で、大勢の人の目に留まることによって、芸風が矯正されるチャンスになるのではないかと説き、若い世代には旧弊を壊すことを奨励している。{{Quotation|新劇節は元来俳優になる素質のない人間に無理に台詞をしゃべらせる必要から生れたものである。地方なまり一つ直す熱心も時間もないままに、時代の必要に応じて、西欧の近代化を輸入しなければならぬという、やむにやまれぬ事情の産物だが、新劇二十年の歴史は、欠点の克服には向っていなかったのである。(中略)<br> 映画でもいずれこの手のものは、全部日本語に吹き替えられると思われるので、声優の需要は増し、新劇俳優の卵では間に合わなくなるだろう。台詞を外国の茶の間劇の流儀で、早くいう声優も出て来ている。やたらに早いばかりで、意味はかえって取りにくい傾向があるが、まあ過渡期の現象で止むを得まい。新しい必要が放送局や映画配給会社の方から生まれて、「新劇節」も、過渡期の夢となる日が早く来てほしいものだ。|大岡昇平『新劇節に悩む』<ref name="Ooka">大岡昇平 [[芸術新潮]]五月号 1957年5月1日、大岡昇平全集14 評論Ⅰ、[[筑摩書房]]、1996年、pp.719-724。</ref>}} さらに10月には、福田恆存が新聞紙面上で論議が展開された吹き替えの是非を論考し、『CBCレポート』(発行:[[中部日本放送]])に寄稿した。{{Quotation|本質論からいへば、「吹きかへ」にけちをつける理由はどこにもない。私たちの文化そのものが「吹きかへ」文化なのだから。いひかへれば、生活のあらゆる部分がばらばらに存在してゐるといふことだ。問題はただそれを統一する技術の面にある。あるいは態度に問題がある。私たちは不調和を前提として、それをいくらかでも埋める努力をすべきではないか。さきに例をあげたやくざ言葉や、女言葉の場合でもさうである。西洋人の肉體や身ぶり表情に適合する「せりふ」の抑揚や、いひまはしを研究してはどうか。それがやがて私たちの言葉や生きかたを變へてくるであらう。<br />もつと最惡の場合、私はその努力なしでもいいと思つてゐる。不調和を不調和のまま、放つておいてもいい。着物に靴の明治文化も、時がたてば、現在のやうになるし、現在もなほ似つかぬ洋服姿もやがては、身についてくるであらう。現在の亂雑のまま聲の「吹きかへ」を、もつと「藝術的」な本格映畫にも適用したはうがいい。さうなれば、みな否應なくその不調和に文句をいひだし、いづれ改善されるであらう。すくなくとも、西洋人の肉體と日本語との不調和は、「意味」と「聲音」との分離、觀念と感覺との分離を強要するスーパー・インポーズよりは精神衞生にいい。それだけはたしかだ。|福田恆存『「吹きかへ」文化』<ref name="fukuda">福田恆存 「CBCレポート 1957年10月號」、『私の演劇教室』、[[新潮社]]、1961年、pp.77-85。</ref>}} [[1959年]](昭和34年)、NHKが放送劇団員の専属制を解消している。各放送劇団は個人契約者の任意の団体に移行する。 労働環境や待遇は恵まれていなかったことから権利向上のために結束しようという動きがあり、[[久松保夫]]は清水昭の[[太平洋テレビジョン]]に参加するが同社で労働争議が発生。これを受けて[[1960年]](昭和35年)には[[東京俳優生活協同組合]](俳協)が誕生したが、前述の若山弦蔵のように所属せず独立した者もいた<ref group="注">「太平洋テレビジョンの労働争議」について若山は実名を避けながらも証言をした数少ない一人である。</ref>。のちに俳協から分かれて多くの声優プロダクションが結成された。 この時代にはまだ声優という言葉は一般には認知されておらず<ref>高田城、千葉節子『声優になるには』ぺりかん社、1983年初版、1994年改定版、47頁。</ref>、別称として、吹き替えを主にしたことから'''吹き替えタレント'''<ref>{{Cite journal|和書|date =1962-03|title = やぶにらみ鑑賞講座アテレコ編|journal = 新週刊|volume = 3月29日号|page = 80|publisher = 新週刊社|}}</ref>、'''吹きかえ屋'''<ref name="写楽祭">{{Cite journal|和書|anchor=成宗五郎|date = 1963-05|title = 11:15 人気番組ウラばなし|journal = 写楽祭|volume = 9|page = <!--ページ数表記無し-->|publisher = [[富士写真フィルム]]}}</ref>、声をあてることから'''アテ師'''{{Sfn|松田咲實|2000|p=43}}<ref>『テレビ黄金時代の立役者12人の告白 あの日、夢の箱を開けた!』小学館、2003年、190頁。</ref>{{R|写楽祭}}、'''アテレコ・タレント'''{{R|写楽祭}}というものがあった。また、アテレコ調が蔓延する状況から役者論、演技論を巡る[[アテレコ論争]]が展開されたのもこの時期であった。 [[1961年]](昭和36年)、[[音声制作会社]]である[[東北新社]]が設立されている。[[1963年]](昭和38年)には、[[グロービジョン]]が設立された。 同年、日本放送芸能家協会(現:[[日本俳優連合]])が発足している。代表には徳川夢声が就任し、設立総会では「著作権制度と放送法の改正を前にして日本放送文化の向上という公益のために結成」した事を宣言した。 同年、国産初の30分テレビアニメシリーズ『[[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]』(主演声優:[[清水マリ]])の放送が開始され[[た]]<ref>{{Cite web|和書|title=豊島区立トキワ荘マンガミュージアム 特別企画展「鉄腕アトム ―国産初の30分テレビアニメシリーズ―」|豊島区公式ホームページ |url=https://www.city.toshima.lg.jp/toshimanow/new/2112231505.html |website=www.city.toshima.lg.jp |access-date=2022-11-17}}</ref>。[[1958年]](昭和33年)の『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』(主演声優:[[森繁久彌]])以来、劇場用アニメーション映画を手掛けて来た東映動画(現:[[東映アニメーション]])も参入した。[[プレスコ]]方式が主流であった従来の劇場用アニメ市場とは異なる、[[アフレコ]]方式を採用したテレビアニメ市場が形成されて行く<ref>{{Cite web|和書|title=声優界のレジェンド「鉄腕アトム」の清水マリ、手塚治虫との思い出語る : 映画ニュース |url=https://eiga.com/news/20160921/18/ |website=映画.com |access-date=2022-11-17 |language=ja}}</ref>。 同年、文部省が公示した[[学習指導要領]]が実施され、高等学校課程に[[現代国語]]が創設されている。改定委員となった[[国語学者]]の[[時枝誠記]]の下で、経験主義から能力主義への転換が図られている。[[言語過程説]]を提唱した時枝は後述の福田の師に当たった<ref>{{Cite journal|和書|author=大滝一登 |date=2021-09 |url=https://doi.org/10.20555/kokugoka.90.0_17 |title=高等学校「現代国語」新設における能力主義的教育観の具現化に関する一考察――「作文の能力」の重視に関する経緯と到達点―― |journal=国語科教育 |ISSN=02870479 |publisher=全国大学国語教育学会 |volume=90 |pages=17-25 |doi=10.20555/kokugoka.90.0_17 |naid=130008106354 |CRID=1390852724619169024}}</ref>。 同年、財団法人・[[現代演劇協会]]と[[劇団雲]]が設立されている。雲の会の会員であった福田恆存、芥川比呂志、小林秀雄、大岡昇平、中村光夫、今日出海らが役員に就任し、その継承を志向した。築地小劇場以来の新劇の亡霊を排し、日本における正統劇(せりふ劇)の確立を目指す事を謳った。また、同協会は設立趣旨の一つとして、役者に存在する「学校の違い」などの縄張り意識の追放を挙げている<ref name="11kan">{{Cite book|和書|author=福田恆存 |title=福田恆存評論集 |series=第11卷 (醒めて踊れ) |publisher=麗澤大學出版會, 廣池學園事業部 (發賣) |year=2007 |ISBN=9784892055515 |id={{全国書誌番号|21535165}} |NCID=BA84261088 |url=https://id.ndl.go.jp/bib/000009996895 |page=130}}</ref>。 [[1964年]](昭和39年)、日本テレビが『[[バークにまかせろ]]』の放送を開始する。翻訳は[[篠原慎]]、演出は[[左近允洋]]、主演は若山弦蔵が担当した。前述の勝田久の見解によると、アテレコ調からの脱却はこの番組の頃からであり、その路線は翌年の『[[0011ナポレオン・ソロ]]』にも踏襲されたとしている<ref name="katsuta2">見えない主役・声優のすべて : 声優入門テキスト・声優オール名鑑、1979年、勝田久、集英社、pp.86-88。</ref>。後述の[[野沢那智]]も出演者の一人であった。 [[1966年]](昭和41年)に『土曜洋画劇場』(現:『[[日曜洋画劇場]]』)の放送が始まり、この番組によってスターの声を特定の声優に固定する持ち役制(フィックス制度)が始まった<ref>酒井広「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・六本木」『映画はブラウン管の指定席で』淀川長治監修、[[テレビ朝日]]編著、[[テレビ朝日|全国朝日放送株式会社]]、1986年、p.38</ref>。 [[1967年]](昭和42年)、放芸協の常務理事・久松保夫が『[[テアトロ]]』に『俳優ユニオンの提唱--劇団経営の合理化を含めて』を寄稿する。 [[1968年]](昭和43年)、文部省の外局として[[文化庁]]が設置されている。初代長官には今日出海が就任した。 同年、[[読売テレビ]]がテレビアニメ『[[巨人の星 (アニメ)|巨人の星]]』(演出:[[長浜忠夫]]、主演:[[古谷徹]])の放送を開始する。長浜は作品作りにおいて声優のディレクションを重要視した。その影響を受けた一人である[[富野由悠季]]は「人形劇をやっていらっしゃった方とは聞いていたが、ダイナミックに動き回り、アフレコ前のラッシュに自分で科白をあてて台本をチェックする監督なぞ、長浜監督をして初めて知った」と記している<ref>{{Cite book|和書 |author=富野喜幸 |year=1981.3 |title=だから僕は… 「ガンダム」への道 |publisher=徳間書店 |page=212}}</ref>。 [[1969年]](昭和44年)、声優に特化した俳優事務所として[[青二プロダクション]]が設立されている。俳協のマネージャー出身の久保進が、東映動画の要請を受け創業した。当時、アニメへの出演者は権利問題などを抱えていた事もあり、その出演交渉は困難な状況にあった<ref>{{Cite web|和書|title=声優・柴田秀勝に聞く『タイガーマスク』ミスターX誕生前夜 |url=https://otocoto.jp/interview/shibatahidekatu-1/ |website=otocoto {{!}} こだわりの映画エンタメサイト |access-date=2023-04-12 |language=ja}}</ref>。 === 第一次声優ブーム期 === 1970年代になると、声優ブームの状況が出現した<ref>{{Cite web|和書|title=Synapse編集部が行く!日本アニメの現状 Vol.8 「声優の歴史」 {{!}} メディア応援マガジンSynapse(シナプス) |url=https://synapse-magazine.jp/television/2020anime08/ |website=Synapse(シナプス) {{!}} ビデオリサーチ |date=2020-10-22 |access-date=2023-03-17 |language=ja}}</ref>。ブームの中心人物は[[アラン・ドロン]]を持ち役とした野沢那智で<ref>ハイパーボイス監修『すごい!アニメの音づくりの現場』雷鳥社、2007年、79頁。音響スタッフだった[[田中英行]]の証言。</ref>、[[追っかけ]]までいたという{{Sfn|松田咲實|2000|p=15}}。 [[1970年]](昭和45年)、[[著作権法]]の全面改正が行われ、[[著作隣接権]]として[[実演家人格権|実演家]]の権利が制定されている<ref>{{Cite web|和書|title=TPPによる実演家の権利への影響 |url=https://www.cpra.jp/cpra_article/ |website=CPRA Article |access-date=2022-11-17 |language=ja |publisher=芸団協CPRA 実演家著作隣接権センター}}</ref>。 [[1971年]](昭和46年)、日本俳優連合(日俳連)と、音声制作会社7社で構成された紫水会(現:[[日本音声製作者連盟]])が結成される<ref>{{Cite web|和書|title=沿革 - アニメ音響制作 外国映画・海外ドラマ日本語版制作 |url=https://onseiren.com/about/enkaku |access-date=2022-11-17 |publisher=日本音声製作者連盟}}</ref>。また、この年には映画会社の五社協定も自然消滅を迎えている。 日本のテレビアニメの放送開始から8年後のこの年、大人向けアニメ番組への挑戦がなされ、『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』が制作された。放送局は前述の読売テレビ、主演は[[山田康雄]]が担当した(なお、山田は声優の呼称を嫌った)。本放送時は失敗に終わったが再放送の度に評価が高まり、[[1977年]](昭和52年)には、続編として[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|第2シリーズ]]が制作され、さらに本作の放送中には、劇場用アニメーションとして『[[ルパン三世 ルパンVS複製人間]]』、『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』の2作品も公開されて、アニメブームを牽引した<ref>{{Cite web|和書|title=映画『ルパン三世』1stTVシリーズ - ライブラリー事業室 |url=https://www.ghibli-museum.jp/lupin/comment/library/ |website=www.ghibli-museum.jp |access-date=2022-11-17 |publisher=公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団}}</ref>。 [[1972年]](昭和47年)、NHKが海外ドラマ『[[西部二人組]]』の放送を開始する。アテレコの世界のイメージを変えようという目論見があり、当時の若手俳優であった[[新克利]]、[[江守徹]]が起用された。日本語吹替版の製作は東北新社が担当している<ref name="seiyuhakusyo">声優白書、[[松田咲實]]、オークラ出版、2000年、p.253。</ref>。さらに同時期、NHKは海外ドラマ『[[刑事コロンボ]]』も放送しているが、同作品のアテレコには『[[パパは何でも知っている]]』などへの出演歴がある俳優の[[小池朝雄]]が起用された。こちらの日本語吹替版の製作はグロービジョンが担当している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.jp/p/columbo/ts/G9L4P3ZXJP/ |title=刑事コロンボ |access-date=2022/11/17 |publisher=NHK}}</ref>。また、最初に認知されたアニメ声優として、当時子役ながらテレビアニメ『[[海のトリトン]]』(1972年)で主役を演じた[[塩屋翼]]が知られている{{R|"naito"}}。 [[1973年]](昭和48年)、日俳連において、「外国映画日本語版の権利を護るための俳優集会」が開催された。吹き替えの仕事をする俳優全員の70%に当たる158名が参加し、さらに抗議団には187名が参加した。紫水会との間で交渉が行われ、業界の正常化と公正なルール確立のため、共同で対処する事が合意された。これにより出演料は平均3.14倍の増額となっている<ref>{{Cite web|和書|title=1973年 {{!}} 日本俳優連合30年史 |url=https://www.nippairen.com/progress/30his/30his010.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |access-date=2022-11-17 |language=ja}}</ref>。 [[1974年]](昭和49年)、読売テレビがテレビアニメ『[[宇宙戦艦ヤマト]]』の放送を開始する。同作でヒーロー役の[[古代進]]を担当した[[富山敬]]は、後述の声優ブームにおいて、個人名義での[[音楽アルバム]]『富山敬ロマン』(1979年)を出した初の声優アーティストとなった<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤桂一 |year=2019 |title=「第一次・第二次声優ブーム」(1960年代・1970〜1980年代)を通して見る声優業の進化と分化 -現代日本における声優の歴史(2)- |url=https://hdl.handle.net/10291/20363 |journal=文学研究論集 |ISSN=1340-9174 |publisher=明治大学大学院 |volume=51 |pages=95-115 |naid=120006727195 |hdl=10291/20363 |access-date=2022-11-22}}</ref>。 [[1975年]](昭和50年)、TBSが『[[刑事コジャック]]』の放送を開始する。翻訳は[[額田やえ子]]、演出は[[岡本知]]、主演は[[森山周一郎]]が担当した。額田は前述の『刑事コロンボ』も担当しており、翻訳面でも更なる進展が見られた。また、同番組のファンであったアニメ演出家の[[宮崎駿]]は、[[1992年]](平成4年)に公開した『[[紅の豚]]』において森山を起用している。 [[1976年]](昭和51年)、『[[毎日新聞]]』が『テレビ洋画の吹替え〝声の主役たち〟』を掲載し、声の吹き替えの歴史について報じた。初期は説明調、弁士調であったが、やがて台本の翻訳に細かい注意が払われるようになり、現在はセリフに感情を乗せ、そして画面と口も合わせるまでに技術が高度化されたと解説した。また、声優の人選も拡大し、『日曜洋画劇場』放送の『[[野にかける白い馬のように]]』では、戦前から活躍する[[宇野重吉]]を起用している。英国俳優の[[ジョン・ミルズ]]を担当した宇野は、初の吹き替え出演の後、「作品のオリジナリティーを無視しては悪い、と思っていた。だから吹替えイコール説明だと考えていたんだが、この認識はすでに古いんだね」と自己批判を行った<ref>{{Cite news|title=土曜レポート テレビ洋画の吹替え〝声の主役たち〟|newspaper=毎日新聞 東京夕刊|date=1976-09-11}}</ref>。 === 第二次声優ブーム期 === 第二次声優ブームは1977年(昭和52年)に公開された劇場版『[[宇宙戦艦ヤマト]]』のヒットによるアニメブームと並行して起こった。 [[1978年]](昭和53年)には、外画協定が締結されている。この当時、日俳連に加盟する約2500名の俳優のうち、外画・動画部会は530名を数えるまでになり、15年以上のキャリアを持つ200名を中心としていた<ref name="katsuta">[[勝田久]] 「声優の権利擁護と俳優運動」『見えない主役・声優のすべて:声優入門テキスト・声優オール名鑑』、1979年10月15日、[[集英社]]、p.268</ref><ref name="abe">阿部邦雄 『TV洋画の人気者 声のスターのすべて : 人気声優インタビュー60人集つき』、1979年5月30日、[[近代映画社]]</ref>。また、[[日本脚本家連盟]]も協定書を締結している。 この時代は[[アニメ雑誌]]が創刊され始めた時代でもあり、『[[アニメージュ]]』の創刊編集長である[[尾形英夫]]は、声優の[[アイドル]]化を編集方針のひとつとして打ち出した<ref>尾形英夫『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』オークラ出版、2004年、60頁、120頁。</ref>。『アニメージュ』以外のアニメ誌も同様に誌面に声優コーナーを設けて、定期的に声優の情報を発信した。 アニメブームに押される形で声優業と並行した音楽活動も盛んになり、[[神谷明]]、古谷徹、[[古川登志夫]]などのアニメの美男子キャラクターを持ち役とする人気声優によるバンド「[[スラップスティック (バンド)|スラップスティック]]」を結成してライブ活動を行ったほか<ref>{{Cite book|和書|author=[[上野修 (ラジオプロデューサー)|上野修]] 著|title=ミスター・ラジオが通る|publisher=[[実業之日本社]]|date=1986-06-20|pages=152|id={{NDLJP|12276169/79}}}}</ref>、多くの声優がレコードを出すなどした。当時万単位のレコードを売り上げる声優として、[[潘恵子]]、[[戸田恵子]]、神谷明、[[水島裕 (声優)|水島裕]]、スラップスティックの名が挙げられている<ref>『ジ・アニメ』1982年3月号、108頁。</ref>。 また『宇宙戦艦ヤマト』で[[森雪]]を担当した麻上洋子(現:[[講談師]]・[[一龍斎春水]])はアニメが好きで声優になりたくて声優になったことが知られ<ref>[https://www.ytv.co.jp/anime/suwa_wp/4998.html 『アニ民354人目』声優で講談師の一龍斎春水さん] 2019.09.26</ref>、声優養成所が輩出した初の声優とされる<ref name="naito" />だけでなく、アイドル声優の始祖といえる存在で、その系譜が[[小山茉美]]、潘恵子へと続く。自身のアルバムを4枚出した潘恵子は元祖アイドルと呼ばれた<ref name="ORICON">[https://web.archive.org/web/20111105060700/http://www.oricon.co.jp/entertainment/interview/2011/hunter1003/index.html HUNTER×HUNTER特集『“リアル親子”共演の2人に直撃』-ORICON STYLE エンタメ]</ref>。 [[1979年]](昭和54年)に放送開始した『[[アニメトピア]]』など、アニメ声優が[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]を務めるラジオ番組なども誕生。ラジオドラマでは声優人気を背景にした『[[夜のドラマハウス]]』があり、アマチュア声優コンテストも開催されていた<ref>藤井青銅『ラジオな日々 80's RADIO DAYS』小学館、2007年、24頁。</ref>。 同年、アニメ演出家の富野由悠季は『[[機動戦士ガンダム]]』の制作中、『[[ファンタスティックコレクション]]』から依頼されて、声優論を展開している。アニメ制作の[[スタッフ]]の立場から、声優志望者に向けて声優観が表明された。{{Quotation| アニメ流行の当節ならば〝声優〟というのは独立した職業のようにきこえもする。しかし、本来、声優という職能は、演技者(俳優)の持つ才能の一部でしかない。演技者であってこそ声優という部分の才能も発揮される。現に、声優だけを職業として、その人気だけで自分の実力を楽しんでいる声優は少ない。声だけで演技をするという事は、単なる発声の訓練ですむものではない。つまり、演技者(俳優)としての能力があって、初めてなし得るという事を忘れないで欲しいのだ。<br /> なぜ?なぜだろう?……そう。声一つとっても、肉体があるから、人格があるから、多種多様の声があるのだ。人格(人としての)のあらわれが声である。声だけで人間は存在しないということなのだ。これを、当たり前と感じた瞬間から、あなたは声優入門の第一歩を見失なうだろう。(中略)<br /> そして、最後に具体的に指針を示そう。本当に声優になりたいあなたなら、まず〝演技〟という単語を辞書で調べることぐらいやってごらんなさい。次にこの稿の中の知らない単語も調べなさい。そして、本当の最後です。〝さ、し、す、せ、そ〟と叫んでごらんなさい。あなたの声に、表情がありますか? なければ、表情をつけてごらんなさい。あなたの俳優修行の始まりです。|富野善幸『声優へのスタート』<ref name="tomino">『完全保存版 [[ファンタスティックコレクション]]別冊 声優の世界 アニメーションから外国映画まで』、1979年10月30日、[[朝日ソノラマ]]、pp.44-45。</ref>}} [[1980年]](昭和55年)、日俳連は[[通商産業省]]の[[認可]]を受けて、[[団体交渉権]]を有した[[協同組合]]へと改組している<ref>{{Cite web|和書|title=1980年 {{!}} 日本俳優連合30年史 |url=https://www.nippairen.com/progress/30his/30his014.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |access-date=2022-11-16 |language=ja}}</ref>。同年、日本映画界の『[[男はつらいよ]]』シリーズが第25作『[[男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花]]』からオール同時録音方式を採用する。これにより出演俳優は基本的にアフレコ無しの制作環境に変容している<ref>{{Cite web|和書|title=監督・スタッフ|松竹映画『男はつらいよ』公式サイト{{!}} 松竹株式会社|url=https://www.cinemaclassics.jp/tora-san/html/tora-san/supported/yamada_gumi.html|website=『男はつらいよ』公式サイト {{!}} 松竹株式会社|accessdate=2023-03-22|language=ja}}</ref>。 [[1981年]](昭和56年)2月、富野由悠季が『アニメ新世紀宣言』を提唱する<ref>{{Cite web|和書|title=あのとき「アニメ」が変わった 1981年アニメ新世紀宣言 |url=https://www.asahi.com/showbiz/manga/TKY200910170173.html |website=www.asahi.com |accessdate=2021-05-22 |publisher=朝日新聞社}}</ref>。同年6月、福田恆存が『[[演劇入門]]』を編纂している。 また同年9月には、日俳連の外画・動画部会の交渉委員であった[[永井一郎]]が『[[ガンダムセンチュリー]]』誌上で、アテレコ論争(1962年)への反論を行う。永井は『[[月刊OUT]]』(1977年創刊)の編集部から、声優と舞台の演技の違いについての寄稿を依頼され、声優論を展開した。序文においては、「でもはっきり断っておくけど、僕は、[[アイドル声優]]や[[タレント]]の仕事について書く気はない。そういう人たちがそれなりに生きていくことを僕は決して否定しない。だけど、ここでは本来の俳優、本来の声優の仕事についてまじめに書くつもりだ。アイドル声優になりたいと思っている人は、このへんで読むのをやめて下さい」とその経緯を説明している。{{Quotation|声優になりたい諸君!! どのジャンルの仕事も本質は同じなのだが、結果に於て舞台の演技を勉強することをおすすめする。余程の才能の持主でない限り、マイク前で声の演技だけを続けながら、体中の細胞のベクトルが揃うのを学ぶのはむつかしすぎる。<br> 舞台の演技の訓練で、まず、人の目の前では、ただでもバラバラになる細胞のベクトルを、「揃えて行動すること」を覚える。次にイメージした人間の細胞のベクトルに自分の細胞のベクトルを合せて行動することを覚える。こうして、演技することの基礎を体で覚えてから、声の仕事に入っていただきたい。イメージに従って意識的に体中の細胞を揃えるってむつかしいことだ。きっとオリンピック体操選手に匹敵する訓練が必要だ。しかし、これがやれなければ、長く生き残る本当にいい声優にはなれない。演技の訓練は、舞台の方が効率がいい。|永井一郎『細胞でとらえた演技』<ref name="nagai">永井一郎 「細胞でとらえた演技」『GUNDAM CENTURY―宇宙翔ける戦士達―RENEWAL VERSION』 樹想社、2000年、pp.89-96。</ref>}} 同年10月、動画協定が締結されている。文書による出演契約の明確化が実現し、業界ルールの健全化が進んだ<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=1981年・1982年 {{!}} 日本俳優連合30年史 |url=https://www.nippairen.com/progress/30his/30his015.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |accessdate=2021-05-22 |language=ja}}</ref>。 [[1982年]](昭和57年)、NHKが海外ドラマ『[[遥かなる西部|遥かなる西部 わが町センテニアル]]』の吹替放送を実施している。アメリカ建国200周年を記念して制作された全12話には、多彩な出演者が揃い踏みし、[[中尾彬]]、[[滝田裕介]]、[[今井和子]]、[[小林清志]]、[[里居正美]]、[[寺田農]]、[[樋浦勉]]、[[勝部演之]]、[[千葉耕市]]、[[福田豊土]]、[[瑳川哲朗]]、[[金内吉男]]、[[宍戸錠]]、[[天田俊明]]、[[鳳八千代]]、[[大塚周夫]]、[[小原乃梨子]]、[[内藤武敏]]、[[田口計]]、[[寺田路恵]]、[[中島葵]]、[[小林昭二]]などが参加している<ref>{{Cite web|和書|title=遙かなる西部〜わが町センテニアル |url=https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009040940_00000 |website=テレビ60年 特選コレクション {{!}} NHKアーカイブス |access-date=2022-11-16 |language=ja |last=NHK}}</ref>。 この時期のアニメブームも後期に突入すると、新たな人材の採用志向が強まり、[[レコード会社]]と歌手契約を結んだ[[アーティスト]]、[[アイドル]]が[[#役者以外を声優に起用すること|アニメ声優として起用され]]、話題を呼んでいる。1982年(昭和57年)に放送された『[[超時空要塞マクロス]]』では[[飯島真理]]が、[[1983年]](昭和58年)に放送された『[[魔法の天使クリィミーマミ]]』では[[太田貴子]]が、[[キャラクターソング]]なども担当した<ref>{{Cite web|和書|title=「魔法の天使 クリィミーマミ」太田貴子さん(森沢優・クリィミーマミ役)インタビュー 前編 今も、実生活が優ちゃんで、仕事がマミちゃん。 |url=https://animeanime.jp/article/2014/05/26/18822.html |website=アニメ!アニメ! |access-date=2022-11-16 |language=ja}}</ref>。 「1983年春のアニメ映画興行戦争」と注目を集めるまでになった劇場用アニメーション映画では、テレビアニメとは趣向を変えた起用も見られるようになっている。[[角川映画]]がアニメに進出した『[[幻魔大戦 (映画)|幻魔大戦]]』では、江守徹、[[美輪明宏]]、[[穂積隆信]]、[[林泰文]]、[[原田知世]]、[[白石加代子]]などが名を連ねた。また、『[[クラッシャージョウ]]』では、[[ハンフリー・ボガート]]のフィックス声優でもあった[[久米明]]が、さらに『[[宇宙戦艦ヤマト 完結編]]』では、[[仲代達矢]]、[[石田太郎]]などが起用されている<ref>{{Cite web|和書|title=クラッシャージョウBD-BOX発売記念、安彦良和氏インタビュー {{!}} アニメイトタイムズ |url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1480664204 |website=クラッシャージョウBD-BOX発売記念、安彦良和氏インタビュー {{!}} アニメイトタイムズ |access-date=2022-11-16 |language=ja}}</ref>。 [[1984年]](昭和59年)、アニメブームの到達点として記録された劇場用アニメーション映画『[[うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー]]』、『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』、『[[超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか]]』の3作品が公開されている。各作品でヒロイン役を担当した[[平野文]]、[[島本須美]]、[[土井美加]]は、いずれも公開当時20代であり、[[#大学芸術学部・演劇学科|大学の演劇科]]や[[#俳優・舞台役者|劇団の演劇学校の出身者]]であった<ref>{{Cite web|和書|title=アニメ評論はなぜ「無いように見える」のか? アニメ雑誌と評論の歩み――アニメ評論家・藤津亮太インタビュー |url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2003/22/news004.html |website=ねとらぼ |access-date=2022-11-16 |language=ja}}</ref>。同年、現代演劇協会が『ハムレット』を上演しているが、福田恆存が29年前と同じく演出をした本作品で、前述の土井美加は[[オフィーリア]]役を担当していた。 人材の供給・育成面では、声優専門プロダクションが分裂することによって次第に数が増え始める。1979年(昭和54年)には、[[ぷろだくしょんバオバブ]]が、1981年(昭和56年)には、[[81プロデュース]]が、1984年(昭和59年)には、[[大沢事務所]]、[[賢プロダクション]]、[[アーツビジョン]]が設立された。同時に各プロダクションにより[[#声優養成所・声優学校|声優養成所]]が設けられた。1982年(昭和57年)には、[[青二塾]]が設立され、日俳連の副理事長でもあった久松保夫が初代塾長に就任した。久松は「優れた声優は、優れた俳優でもある」という理念の下で後進の育成に乗り出すが、その矢先に急逝する<ref>{{Cite web|和書|title=久松 保夫 {{!}} 株式会社青二プロダクション |url=https://www.aoni.co.jp/search/hisamatsu-yasuo.html |website=www.aoni.co.jp |access-date=2022-11-16}}</ref>。 これらにより、放送劇団出身者や舞台役者などの俳優活動の一環や余技としての声優業ではなく、最初からアニメ声優を目指した声優が登場し始めた。一連の声優ブームは、声優に特化した[[芸能事務所]]や声優養成所の伸長に繋がり、現在に至る声優像の多様化の原点となった<ref>{{Cite web|和書|title=【ザ・プロデューサーズ】第20回・南沢道義氏〜声優になるために大切なこととは〜【前編】 |url=https://spice.eplus.jp/articles/152601 |website=SPICE(スパイス) |accessdate=2021-05-22}}</ref>。このブームはおおむね[[1980年代]]前半ごろまでとされている<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=声優試論――「アニメブーム」に見る職業声優の転換点―― |url=http://database.jsas.net/mapping/items/ar0022015001 |website=Database for Animation Studies |accessdate=2021-05-28 |language=ja |publisher=日本アニメーション学会}}</ref>。 ==== 1990年前後 ==== この時期はアニメブームの後に訪れたアニメ冬の時代で、[[OVA]]や劇場アニメでの進展が見られている。 [[1987年]](昭和62年)、大手新聞社・テレビ局が製作した劇場用アニメーション映画『[[紫式部 源氏物語]]』が公開されている。登場人物の作画において、[[ライブアクション]]<ref>{{Cite web|和書|title=10-11月 展覧会連携 国産アニメーション100周年記念《スクリーンに蘇る!アニメーション傑作選》 - 川崎市市民ミュージアム |url=https://www.kawasaki-museum.jp/cinema/8631/ |access-date=2022-12-11 |language=ja}}</ref>が採用された本作では、[[風間杜夫]]、[[梶三和子]]、[[田島令子]]、[[風吹ジュン]]、[[萩尾みどり]]、[[横山めぐみ]]、[[矢崎滋]]、[[津嘉山正種]]、[[大方斐紗子]]、大塚周夫、野沢那智、[[田村錦人]]、[[納谷悟朗]]、[[常田富士男]]、[[大原麗子]]らが声の出演をしている<ref>{{Cite web|和書|title=紫式部 源氏物語|日本の映画情報を検索 日本映画情報システム |url=http://www.japanese-cinema-db.jp/Details?id=14715 |website=www.japanese-cinema-db.jp |access-date=2022-12-11}}</ref>。 [[1988年]](昭和63年)、OVAを中心に展開された『[[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]]』(1988年 - 2000年)が開始する。600名を超える登場人物を描き分ける困難から一人一役が採用され、当時の男性声優の大半が出演した。その後、会話劇が魅力の作品という事もあり、芝居に携わる人間が最適ではないかとの検討が行われる。これによりアニメとは疎遠気味であった、外画系で主役級を務める劇団出身者にまで人選が拡大した<ref>{{Cite web|和書|title=【明田川進の「音物語」】第5回 “銀河声優伝説”と呼ばれたOVA「銀河英雄伝説」のキャスティング |url=https://anime.eiga.com/news/column/aketagawa_oto/106374/ |website=アニメハック |accessdate=2023-06-14 |language=ja}}</ref>。 1980年代後半から「声優のアイドル化」あるいはアニメ・イベント(ショー)への出演による「顔出し」が一般的になった<ref name="naito"/>。例えば1980年代末のテレビアニメ『[[鎧伝サムライトルーパー]]』に出演した5人の男性声優で[[1989年]]に結成したユニット「'''[[NG5]]'''」が人気を集め、ニュース番組で取り上げられるほどであった。声優がマルチ活動をするようになった先駆け的グループであるとも言われている<ref>アニメージュ編集部・編『声優になりたいあなたへ』徳間書店、1994年、p.46</ref>。1993年(平成5年)からのOVAシリーズ『[[アイドル防衛隊ハミングバード]]』以後に急速に見られるようになった、アニメ作中のキャラクターと実在の声優を様々な形で相互に連想させるようなメディア的な演出によって、表舞台に立つ存在になった。こうして、アイドル的なイメージ構築によるアイドルファンのアニメファンへの取り込みがなされるようになる。 そして、[[林原めぐみ]]などの女性声優がレコード会社と契約を行って歌手活動をする例が増えてくる<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20190330075742/https://lineblog.me/megumi_hayashibara/archives/1549137.html|title=林原めぐみオフィシャルブログ/私らしく(超長文)|accessdate=2020年8月6日|publisher=ameblo}}</ref>。 さらに、[[1990年代]]になって、吹き替え作品が、地上波放送のほかにも、DVDなどのパッケージやCS放送などさまざまな形態で発信されるようになると、同じ作品でも複数の吹き替えが作られる例が増加した。このため、[[#日本語吹き替え|従来の持ち役制度]]はほぼなくなったとする指摘もある{{Sfn|松田咲實|2000|p=16}}が、現在も[[トム・クルーズ]]本人からの公認で専属吹き替えを務めている[[森川智之]](2001年以降。森川が担当する前は[[鈴置洋孝]]が多く担当していた)のように、同一の声優が同じ役者を吹き替え続ける慣習は残っている<ref>{{Cite web|和書|url=https://hominis.media/category/voiceActor/post4202/|title=トム・クルーズ公認の声優・森川智之「トム本人からの吹き替えチェックに驚きました!」|accessdate=2020年8月6日|publisher=ホムニス}}</ref>。 [[1991年]](平成3年)、日俳連の外画動画部会は出演条件の改定交渉に臨み、合意書に調印している。これにより出演料は平均1.7倍の増額となっている<ref>{{Cite web|和書|title=1990年 {{!}} 日本俳優連合30年史 |url=https://www.nippairen.com/progress/30his/30his023.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=1991年 {{!}} 日本俳優連合30年史 |url=https://www.nippairen.com/progress/30his/30his024.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |access-date=2022-12-23 |language=ja}}</ref>。出演料の高騰は新人声優の登用など、この後の業界構造に影響を与えた<ref>{{Cite web|和書|title=第32回 1994年(平成6年)2大「りぼん」アニメの登場と『ガンダム』シリーズの転機 {{!}} WEBアニメスタイル |url=http://animestyle.jp/2013/02/26/4072/ |website=WEBアニメスタイル {{!}} もっとアニメの話をしよう。 |access-date=2022-12-23 |language=ja |last=アニメスタイル編集部}}</ref>。 同年、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]が劇場用アニメーション映画『[[リトル・マーメイド]]』を日本で公開する。日本語吹替版の声優には、[[すずきまゆみ]]、[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]、大友大輔、[[上條恒彦]]、久米明、[[森公美子]]、森山周一郎らが起用された。また、この後の[[ディズニー・ルネサンス]]においては、[[スタジオジブリ]]との事業提携も実施している(1996年)。 === 第三次声優ブーム期 === 用語として、おおむね1990年代半ばから後半にかけて、頻繁に用いられていたが、明確な定義は存在していない。第一次、第二次という使い方も、この用語から逆算的に使用されたもので、こちらも明確な定義は存在していない。この時期の特徴として、「新人声優のデビューラッシュ」<ref group="注">特に新人女性声優向けに同時期文化放送の『[[SOMETHING DREAMS マルチメディアカウントダウン]]』内のプロジェクト『ドリカンクラブ』(1996年発足)や、バンプレスト、ニッポン放送、AICによるメディアミックス声優ユニット企画『[[Kirakira☆メロディ学園]]』(1999年〜2001年)などの大人数グループが誕生していた。</ref>「声優の音声入りの[[テレビゲーム]]やパソコンゲームの登場による仕事の増加」とともに、「声優のマルチ活動化や歌手活動への進出によるアイドル化」「声優がパーソナリティを務めるラジオ番組の普及」などが挙げられる。このことから、声の演技力のほかにも、特にアニメ・ゲームで活躍するには容姿のよさや歌唱力などといったようなことも声優に求められるようになったとされる。 [[1994年]](平成6年)に初めての声優専門誌となる『[[声優グランプリ]]』と『ボイスアニメージュ』が相次いで創刊された<ref>{{Cite web|和書|url=https://seigura.com/news/42375/|title=【声グラヒストリー第1回】高まる声優人気を受け、待望の声優専門誌がついに創刊! 1994年Vol.1(創刊号)|accessdate=2020年8月6日|publisher=声グラ}}</ref>。同年、ステージ制作業務を手掛ける[[ネルケプランニング]]が設立され、アニメ作品のキャスティング業務にも参入している。 [[1995年]](平成7年)には初の声優専門のテレビ番組『[[声♥遊倶楽部]]』が放送された。そして[[清水香里]]や[[坂本真綾]]などが、当時[[中学生]]でテレビアニメの主人公に抜擢される例もあり、アイドル的な注目を受けた<ref>{{Cite web|和書|url=https://ameblo.jp/shimizu-kaori/entry-10716925755.html|title=lain|清水香里オフィシャルブログ|accessdate=2020年8月6日|publisher=ameblo}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1592373301|title=TVアニメ『天空のエスカフローネ』坂本真綾「約束はいらない」【毎日1曲おすすめのアニソンをあなたに 塚越淳一のアニソントラベラーvol.47】|accessdate=2020年8月6日|publisher=アニメイトタイムズ}}</ref>。同年、東北新社が創立35周年記念事業として映像テクノアカデミアを開校し、映像翻訳や声優の教育事業を開始する。 [[1996年]](平成8年)、NHKと東北新社は海外ドラマである『[[ER緊急救命室]]』の吹き替え放送に先立って、声優オーディションを開催している。[[文学座]]、[[演劇集団 円|円]]、[[劇団昴|昴]]、[[劇団俳優座|俳優座]]、[[劇団青年座|青年座]]の各劇団に所属する俳優陣がごぞって参加し、その中から[[山像かおり]]、[[井上倫宏]]、[[平田広明]]、[[小山力也]]、[[野沢由香里]]が合格した<ref>{{Cite web|和書|title=小山力也インタビュー 吹替の帝王 -日本語吹替版専門映画サイト- |url=https://web.archive.org/web/20200809175507/https://video.foxjapan.com/library/fukikae/interview/interview45/ |website=web.archive.org |date=2020-08-09 |accessdate=2023-03-10 |publisher=20世紀フォックス ホーム エンターテイメント}}</ref>。同作品は15年間に及び、全332話の出演者数は延べで約3200名を数えている<ref>{{Cite web|和書|title=「ER緊急救命室」大納会、お疲れさまでした! |url=http://www.vta.tfc.co.jp/techno_voice/2011/01/post-20.html |website=Techno Voice |accessdate=2023-03-10}}</ref>。 [[1997年]](平成9年)、大手出版社・テレビ局・広告代理店が製作した劇場用アニメーション映画である『[[もののけ姫]]』が公開されている。当時の[[日本歴代興行成績上位の映画一覧#日本歴代興行収入ランキング|日本映画の歴代興行収入]]第一位となった本作では、声の仕事を主戦場とはしない人間を中心に、[[松田洋治]]、[[石田ゆり子]]、[[田中裕子]]、[[小林薫]]、[[西村まさ彦|西村雅彦]]、上條恒彦、島本須美、[[渡辺哲]]、[[佐藤允]]、名古屋章、美輪明宏、[[森光子]]、森繁久彌らが声の出演をしている<ref>{{Cite web|和書|title=なぜ僕?『もののけ姫』主人公アシタカ松田洋治の“葛藤”「超有名俳優でも声優でもない中途半端な存在」だったのに… |url=https://bunshun.jp/articles/-/47830 |website=文春オンライン |access-date=2022-12-17 |first= |last= |author=平田裕介}}</ref>。 なお同年には、[[椎名へきる]]が声優として初めて日本武道館で単独コンサートを開催した。椎名は声優が必ずしもアニメや外国映画吹き替えなどの、映像中のキャラクターの影という声の代行者という役割ではなく、声優そのものがスター性を持った存在となり得ることを最初に示した先駆者とみられている<ref name="naito"/>。 [[1998年]](平成10年)、アニメ演出家の[[庵野秀明]]は、『[[月刊ニュータイプ]]』(発行:[[角川書店]])が企画した[[野田秀樹]]との対談において、自身の声優観に言及し、その変化を告白している。庵野は前述のアニメブーム以来、アニメ制作に携わっており、直近の監督作であったテレビアニメ『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』と劇場版(1995年〜1997年)では、若手声優を数多く起用していた。 {{Quotation| 庵野 僕、声優さんの肉声ってアニメの中で、唯一生だと信じてたんですよ。でもある日突然逆じゃないかと思ったんです。声優さんのお芝居は技術なんですよ。 野田 とってもよくわかる。肉を使ってるはずなのに、肉じゃない。 庵野 ええ。そこにあるのは記号なんですよ。キャラクターを統一するための。人の声をした記号。 野田 肉じゃないものに合わせようとするんだからね。 庵野 そうなんです。それでアニメーションっていうものに、ガターっときたんです。だから実写や舞台がいいなぁって思ったんです。肉体と声がひとつだから。 野田 じゃぁ、声優を使わずに、最初に声をとってから、アニメをつくれば? 庵野 それが理想です。プレスコ(注2)っていう方法。高畑勲さんはやってるし、ディズニー、アメリカでは当たり前なのに、日本ではシステムの問題でなかなかできない。こんどのアニメ(『彼氏彼女の事情』)では声優オーディションをやるんです。型にはまってない役者さんがいいですね。  注2 プレスコ…アフレコの反対語。最初に声をとって、それに合わせてアニメをつくる方法。役者の演技が優先される。|庵野秀明、野田秀樹『2次元からの屹立』声は生を感じさせる大切な存在である<ref name="annonoda">『Newtype 1998年5月号』、p.83。</ref>}} この時期、アニメ作品で声を担当した声優が舞台公演などでその担当したキャラクターを演じる例の先駆として、[[サクラ大戦シリーズ#歌謡ショウ]]が始まる。これは1997年(平成9年)から2007年(平成19年)まで続くが、[[サクラ大戦]]帝国歌劇団花組のキャラクターの声を演じている声優が、実際に舞台上でそのキャラクターを演じるミュージカル仕立ての公演で、それまでアニメ原作の舞台では俳優が演じていたが、アニメとの声の違いを指摘した子供がいたことで、サクラ大戦シリーズの総合プロデューサーである[[広井王子]]は、キャラクターの担当声優を決める際に、舞台公演も視野に入れてキャスティングしていた。 === 第四次声優ブーム === 1990年代より活動していた[[水樹奈々]]、[[田村ゆかり]]や、舞台俳優から転向した[[宮野真守]]などの「[[声優アーティスト]]」としての成功や、2005年(平成17年)から開催されている[[Animelo Summer Live]]などの[[アニメソング]]系の[[演奏会|合同フェス的なライブ]]<ref group="注">他には、[[ANIMAX MUSIX]](2009年開始)、[[リスアニ!|リスアニ! LIVE]](2010年開始)など。</ref>の普及などにより、声優と歌手活動を両立させる声優がこの時期以降ますます増加するようになった。水樹は、声優として初のドームツアーや[[NHK紅白歌合戦]]への出場など、音楽活動の活躍も目立った。 [[2007年]](平成19年)、同年、[[一般社団法人]]・[[日本声優事業社協議会]]が設立されている。 2010年代半ば以後、音楽活動に傾倒する声優の増加傾向が年々顕著になり、歌手としての[[日本武道館]]での単独公演を実現させる声優が、ほぼ毎年のように現れるようになっている(一例として、[[内田彩]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=SPICE|url=https://spice.eplus.jp/articles/73713|title=内田彩、熱狂のツアーファイナル! 9000人の歓声につつまれ日本武道館を激震させた3時間をレポート|date=2016-08-27|accessdate=2019-06-21}}</ref>、[[東山奈央]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=リスアニ!WEB|url=https://www.lisani.jp/0000070679/?show_more=1|title=武道館が七色にきらめく!「東山奈央 1st LIVE“Rainbow”at 日本武道館」ライブレポート|date=2018-02-12|accessdate=2019-06-21}}</ref>、[[内田真礼]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=リスアニ!WEB|url=https://www.lisani.jp/0000123135/?show_more=1|title=2019年も内田真礼が優勝!さまざまな演出で魅せた武道館ライブ“UCHIDA MAAYA New Year LIVE 2019 「take you take me BUDOKAN!!」”レポート!|date=2019-02-24|accessdate=2019-06-21}}</ref>など。特に東山は、自身初めての単独公演が日本武道館での開催であった)。 2000年代後半ごろから、一部のマスコミで「第4次声優ブーム」という表現が用いられるようになった(ただし、明確な定義はない)<ref name="oricon20150208">{{Cite web|和書|url=https://www.oricon.co.jp/special/47663/|title=声優ブームが生んだ功罪 今の声優に求められるものとは?|work=ORICON STYLE|publisher=[[オリコン|オリコン株式会社]]|date=2015-02-08|accessdate=2015-08-09}}</ref><ref>『週刊プレイボーイ』集英社、2013年7月1日号、70頁。</ref>。このころから、子どもの「なりたい職業ランキング」の上位に「声優」がランクインするようになった<ref name="oricon20150208" />。 2000年代後半以降、[[深夜アニメ]]の本数が急速に増加<ref group="注">2007年に、[[日本BS放送|BS11]]による『[[アニメ+]]』が創設されて以後、この傾向が年々顕著になってきている。</ref>。これにより、いわゆる「アニメバブル」という状況が生まれ、新人声優デビューは増加の一途をたどる。資格制度があるわけではないので実数の把握は困難であるが、声優専門誌である『声優グランプリ』の声優名鑑に記載されている声優の人数は2001年版は370人<ref name=":0" group="注">男女合計。</ref>だったのに対し、2022年版は21年前と比べて約4.5倍の1658人<ref name=":0" group="注" />に増加していることからも窺える<ref>{{Cite web|和書|title=三ツ矢雄二「“声優は裏方”という根本に使う側が戻ってもらいたい」 相次ぐ声優の体調不良、業界を変えるには“ブームの終息”が必要? |url=https://times.abema.tv/articles/-/10053552 |website=ABEMA TIMES |access-date=2022-12-01 |author=ABEMA Prime |date=2022-11-30}}</ref>。こうして[[花澤香菜]]<!--(2007年『スケッチブック 〜full color's〜』梶原空役)-->、 [[悠木碧]]<!--(2009年『あにゃまる探偵 キルミンずぅ』御子神リコ役と『夢色パティシエール』天野いちご役)-->、 [[神木隆之介]]<!--2009年、アニメ映画『サマーウォーズ』に小磯健二役)-->、 [[日高里菜]]<!--(2009年『こんにちは アン 〜Before Green Gables』アン・シャーリー役)-->、 [[佐倉綾音]]<!--(2011年『夢喰いメリー』(メリー・ナイトメア役)-->、 [[瀬戸麻沙美]]<!--(2011年『ちはやふる』綾瀬千早役)-->、 [[小倉唯]]<!--(2011年『神様のメモ帳』アリス役)-->、 [[石原夏織]]<!--(2012年『輪廻のラグランジェ』京乃まどか役)-->、 [[諸星すみれ]]<!--(2012年『アイカツ!』星宮いちご役)-->、 [[伊藤美来]]<!--(2014年『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』宇佐美奈々子役)-->、 [[夏川椎菜]]<!--(2014年『天体のメソッド』古宮乃々香役)-->、[[水瀬いのり]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=Nizista|url=https://nizista.com/views/article2?id=2af53010aca011e697d82117f50e05bd|title=こんなに楽しいことがあるのに、二番目はいらないんじゃないかなとー水瀬いのりインタビュー③|date=2016-11-21|accessdate=2019-06-21}}</ref><!--(2015年『がっこうぐらし!』丈槍由紀役)-->、 [[富田美憂]]<!--(2016年『アイカツスターズ!』虹野ゆめ役)-->、[[林鼓子]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=アニメ!アニメ!|url=https://animeanime.jp/article/2019/06/05/45954.html|title=Run Girls, Run!・林鼓子、水樹奈々に憧れた幼少期からデビューまでを振り返る【インタビュー】|date=2019-06-05|accessdate=2019-06-21}}</ref><!--(2018年『キラッとプリ☆チャン』桃山みらい役)-->、[[楠木ともり]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=週プレNEWS|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2017/11/17/95170/|title=17歳が歩むシンデレラ・ストーリー! 注目新人声優・楠木ともりインタビュー「まだ現実に追いつけていません(苦笑)」|date=2017-11-17|accessdate=2019-06-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=週プレNEWS|url=https://wpb.shueisha.co.jp/news/entertainment/2017/11/18/95163/|title=初オーディションで主演に大抜擢! 17歳の注目声優・楠木ともりが意外な学生生活を告白|date=2017-11-18|accessdate=2019-06-21}}</ref><!--(2018年『メルヘン・メドヘン』の鍵村葉月役-->、 [[近藤玲奈]]<!--(2018年「スロウスタート」一之瀬花名役)-->、 [[菱川花菜]]<!--(2022年『デリシャスパーティプリキュア』和実ゆい / キュアプレシャス役)-->など当時10代でテレビアニメの主演を務める例も、以前よりみられるようになった<ref group="注">[[昭和]]では[[古谷徹]]<!--(『海賊王子』キッド 役、1968年『巨人の星』星飛雄馬役)-->、[[塩屋翼]]<!--(1969年『海のトリトン』トリトン役)-->、[[鶴ひろみ]]<!--(1977年『ペリーヌ物語』ペリーヌ・パンダボアヌ 役)-->、[[松野太紀]](当時松野達也)<!--1967年生 1978年『星の王子さまプチ・プランス』王子 役)-->、[[長谷有洋]]<!--(1965年生、1982年『超時空要塞マクロス』一条輝 役)-->、[[宮崎一成]]<!--(1971年生、1983年『はだしのゲン』中岡元 役)-->、[[笠原弘子]]<!--(1983年『銀河漂流バイファム』のカチュア・ピアスン役)-->、[[冨永みーな]]<!--(1983年『綿の国星』チビ猫役)-->、[[浪川大輔]]<!--(1988年吹替版『E.T.』エリオット役)-->(うち古谷、塩屋、鶴、松野、長谷、宮崎、浪川らは声優デビュー作で主役)、 [[平成]]からは2000年以前でも第三次ブームでの[[坂本真綾]]<!--(1993年OVA『リトルツインズ』のチフル役)-->、[[清水香里]]<!--(1998年『serial experiments lain』岩倉玲音役)-->の他、[[阪口大助]]<!--(1993年『機動戦士Vガンダム』でウッソ・エヴィン役)-->、[[増田裕生]]<!--(1979年生、1990年『RPG伝説ヘポイ』ヘポイ・ド・プー 役)-->、[[本名陽子]]<!--(1979年生、1991年『おもひでぽろぽろ』岡島タエ子(少女期) 役)-->、[[ゆかな]](当時野上ゆかな)<!--(1975年 1993年OVA『モルダイバー』大宇宙未来役)-->、[[榎本温子]]<!--(1979年生、1998年『彼氏彼女の事情』宮沢雪野 役)-->、[[齋藤彩夏]]<!--(1988年生、1996年『劇場版トイレの花子さん』花子さん 役)-->、[[仙台エリ]]<!--(1981年生、1997年OVA『ジャングルDEいこう!』六道那柘美/ミイ 役)-->、[[山本麻里安]]<!--(1981年 1998年ゲーム『etude prologue 〜揺れ動く心のかたち〜』佐伯瞳 役)-->(うち阪口、増田、本名、ゆかな、榎本、齋藤、仙台、清水、山本らは声優デビュー作で主役)、 2000年代前半でも[[名塚佳織]]と[[三瓶由布子]]<!--(2000年「だぁ!だぁ!だぁ!」の主役コンビ) -->、[[沢城みゆき]]<!--(2001年『しあわせソウのオコジョさん』コジョピー役)-->、 [[入野自由]]<!--(2001年『パラッパラッパー』パラッパ(初代)役)-->、[[小野賢章]]<!--(1989年生、2001年『ハリー・ポッターシリーズ』ハリー・ポッター 役)-->、 [[上村祐翔]]<!--(1993年生、2002年『ぼのぼの クモモの木のこと』ぼのぼの 役)-->、[[小清水亜美]]<!--(1986年生、2003年、『明日のナージャ』ナージャ・アップルフィールド 役)-->、 [[井上麻里奈]]<!--(1985年生、2004年『コゼットの肖像』コゼット・ドーヴェルニュ 役)-->、[[新名彩乃]](当時松本彩乃)<!--(1988年生、2004年『流星戦隊ムスメット』三色紅 役)-->、 [[平野綾]]<!--(2005年OVA『いつだってMyサンタ!』マイ役)-->(うち小野、上村、小清水、井上、新名らは声優デビュー作で主役)などが、過去に10代で主役を演じた声優として知られる。</ref>。 なおこの当時の10代デビュー組のうち [[大坪由佳]]、 [[MAKO]]<!--(1986年生、2005年『かみちゅ!』一橋ゆりえ 役)-->、 [[矢作紗友里]]<!--(1986年生、2005年『かりん』真紅果林 役)-->、 [[小見川千明]]<!--(1989年生、2008年『ソウルイーター』マカ=アルバーン 役)-->、 [[福原遥]]<!--(2009年『クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!』柊まいん役)-->、 [[黒沢ともよ]]<!--(1996年生、2010年『宇宙ショーへようこそ』小山夏紀 役)-->、 [[田所あずさ]]<!--(1993生、2012年頃、エスエスケイフーズの宣伝用アニメ『サラダの国のサラ』サラ役)-->、 [[伊波杏樹]]<!--(1996年生、2013年『陽なたのアオシグレ』陽向 役)-->、 [[武藤志織]]<!--(1997年生、2014年『ノブナガン』小椋しお 役)-->、 [[茜屋日海夏]]<!--(1994年生、2013年デジタルコミック『東京シャッターガール』夢路歩 役)-->、 [[片平美那]]<!--(1999年生、2017年『きみの声をとどけたい』行合なぎさ 役)-->、 [[松永あかね]]<!--(2001年生、2018年『アイカツフレンズ!』友希あいね 役)-->、 [[石橋陽彩]]<!--(2004年生、2018年『リメンバー・ミー』ミゲル・リヴェラ 役)-->、 [[増田里紅]]<!--(2002年生、2021年『プラオレ!』水沢愛佳 役)--> らは、声優デビュー作で主役である。 さらに、『[[ラブライブ! (テレビアニメ)|ラブライブ!]]』や『[[アイドルマスター]]』『[[けいおん!]]』『[[BanG Dream!]]』『[[あんさんぶるスターズ!]]』など、ゲームやアニメ番組から派生した企画による[[声優ユニット]]が男女を問わず人気を博すことも多くなっていく。 特に『ラブライブ!』の[[μ's]]は、東京ドーム公演やNHK紅白歌合戦への出場するなど人気を獲得した。このため、現在の声優は演技だけではなくアイドルのように、[[容貌|ルックス]]、歌唱力、ダンススキルが求められる例もある。逆に[[田野アサミ]](元[[BOYSTYLE]])や[[仲谷明香]](元[[AKB48]])、[[前島亜美]](元[[SUPER☆GiRLS]])など、アイドルから声優に転身する例も増えているとされている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.news-postseven.com/archives/20200802_1582843.html?DETAIL|title=声優に転身するアイドルが増加 芸能界でも兼業ブームか|accessdate=2020年8月6日|publisher=NESポストセブン}}</ref>。 2010年代には[[小宮有紗]]、[[美山加恋]]、福原遥のように声優・俳優・歌手を兼業する者も目立った<ref>[https://realsound.jp/movie/2021/06/post-784169.html 声優としての活躍も際立つ福原遥 今後のアニメシーンで重要な役者の1人に]</ref><ref>[https://www.cyzo.com/2021/08/post_289818_entry.html 福原遥、女優と声優の両輪で「セカンドブレイク」に王手! 人気上昇のカギは「美声」にあり?]</ref><!--小宮は2010年に女優デビューし、2012年には戦隊ヒロインを務め、2015年から声優としても活動し始める。[[キラキラ☆プリキュアアラモード]]で声優をつとめた子役出身女優としても知られる美山と福原のうち、美山加恋は子役期から吹き替えなどの経験があり、プリキュア後も[[アイカツフレンズ!]]や同作出演声優による音楽ユニット「BEST FRIENDS!」のメンバーもつとめる。[[仮面ライダーゼロワン]]では声優ヒューマギアの役を演じた。一方の福原遥は所属事務所に移籍の際に声優アーティスト部門ができ、事務所の紹介でも女優と声優アーティスト両方の部門に属している。声優を目指すテレビドラマ『[[声ガール]]』では主人公を演じた。福原は、前述のサクラ大戦の例や2006年のアニメ映画『時をかける少女』で主人公の声を担当の後2010年の実写版映画でも主演の[[芳山あかり]]役を演じた[[仲里依紗]]のように、子役時代に主人公を担当した[[クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!]](2009年〜2012年)や、[[かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜]](2021年)と、アニメで声を担当したキャラクターを実写版においても、同じ登場人物を演じることが知られている。-->。 2010年代後半にはバーチャルなキャラクターを製作し、それに声優が声をあてて[[YouTube]]など動画配信を利用して配信する[[バーチャルYouTuber|VTuber]]が出現するが、このキャラクターを「声優」として、YTuberがほかのアニメ・ゲーム作品などに声をあてるという現象が開始されている([[#バーチャルYouTuber活動|バーチャルYouTuber活動]]も参照)。 2023年10月から「[[インボイス制度]]」(正式名称:適格請求書等保存方式)が施行予定となり、声優業界に与えるインパクトを憂慮し、有志グループ「VOICTION」が発足し、本制度への反対運動を行なっている。同グループはアンケート調査を実施し、その結果によると72%は声優としての年収が300万円以下であると回答しており<ref>[https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000109174.html 声優の7割以上は年収300万円以下、2割強がインボイス制度導入で廃業を検討] 22年9月実施声優の収入実態調査及びインボイスに関するアンケートのまとめ VOICTION 2022年9月29日 10時06分]</ref>、同グループの一人[[甲斐田裕子]]によると、2022年時点での声優のギャラは20年前(2000年ごろ)から変わっていないという<ref>{{Cite web|和書|title=インボイス制度で声優の2割が廃業も? インボイス反対のVOICTION甲斐田裕子氏に聞く |url=https://www.itmedia.co.jp/business/articles/2209/26/news026_2.html |website=ITmedia ビジネスオンライン |access-date=2022-09-28 |language=ja}}</ref>([[#経済環境|経済環境]]も参照)。 [[2023年]](令和5年)、日俳連が「生成系AI技術の活用に関する提言」を行う<ref>{{Cite web|和書|title=生成系AI技術の活用に関する提言 |url=https://www.nippairen.com/about/post-14576.html |website=日本俳優連合 オフィシャルウェブサイト |date=2023-06-13 |access-date=2023-06-14 |language=ja}}</ref>。 == 仕事 == [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]、[[OVA|オリジナルビデオアニメ(OVA)]]、[[ラジオドラマ]]、[[ドラマCD]]、[[コンピュータゲーム|ゲーム]]、[[テレビ]]、[[映画]]、洋画や[[海外ドラマ]]の日本語[[吹き替え]]、ボイスドラマ、ナレーション、アナウンス、番組内の語り手、[[朗読]]などがある。 声による演技以外にも、出演作の関連イベントや宣伝など付随して顔出し出演があるが、事前契約はせずその都度の協議で決定することが多いなど、俳優とは出演料のシステムが異なる<ref>{{Cite web|和書|title=炭治郎役・花江夏樹「天狗」記事に、緒方恵美が「彼のせいではありません」 業界の事情を解説...なお、本人はテングジャーキー写真で反応|url=https://www.j-cast.com/2020/11/13398798.html|website=J-CAST ニュース|date=2020-11-13|accessdate=2021-01-07|language=ja}}</ref>。 仕事の取り方はオーディションによる選考、制作側による指名、出資によるキャスティング権の確保であるが、仕事の種類ごとに異なる。 === アニメ === 画面を見ながら[[台詞]]を吹き込む[[アフレコ]]と、事前に台詞を収録し、それに合わせて後から動画を制作する[[プレスコ]]の2種類の方法がある。[[日本]]ではアフレコが主流である。近年のアニメ制作のデジタル化により、アフレコ後に絵を修正する例も多い。なお、声をあてることから[[アテレコ]]とも言う。収録はスタジオに声優を集めて一度に行うのが主流だが、芸人や歌手などの非声優を起用する場合は、個別に別録りすることが多い。 出演料は[[#ランク制|ランク制]]の適用を受ける。 役は原作者や制作サイドからイメージに適合した声(声質)や演技力を持つ人物が指名されることもあったり<ref>{{Cite web|和書|title=「新規の仕事の依頼がない」サザエさん穴子役・若本規夫が声優歴25年目で“すべてを捨てる決意”をした理由 |url=https://bunshun.jp/articles/-/53561 |website=文春オンライン |access-date=2022-04-24 |first=規夫 |last=若本}}</ref>、昨今はアニメに対する出資会社によって出演枠を確保する方法がとられることもあり、オーディションによる出演ではない者も混在しているが、通常は選考オーディションを受けて得るというシステムが主流である<ref name="nareru120">市原光敏『声優になれる本』世界文化社、1996年、p.120。当時江崎プロダクションの社長だった江崎加子男の証言</ref><ref name=zac>[https://news.livedoor.com/article/detail/10534169/?p=7 土屋礼央の「ざっくり聞くと」(第11回)~声優ってどんな仕事?野中藍さん・白石涼子さんインタビュー~] 2015年9月1日 11時1分</ref>。 オーディションについても、予定しているキャラクターの役柄に合うであろう声優を指名して受けてもらうケース(その結果で、別のキャラクターの配役になるケースもある)もあるが、通常は制作会社などから声優事務所の庶務にオーディションのお知らせが通達され、事務所は役柄に合うと判断した所属声優を数人選び、その選ばれた者だけがオーディションを受けられるというのが通例である。そのため大人数の声優を抱える大手事務所では、まず事務所内での競争を勝ち抜かないとオーディションを受ける機会すらない{{Sfn|野村道子|2009|p=130}}<ref name=zac/>。そして、たとえオーディションを受けられたとしても、60本に1本受かればいいというほどの競争率と言われる<ref>橋本崇宏、柳谷杞一郎・著『声優になる!』雷鳥社、2008年、p.157。こおろぎさとみインタビュー</ref><ref name=zac/>。 [[古川登志夫]]は『[[ポプテピピック]]』に出演した際、「大御所なんだから仕事選べ」という一部視聴者の声が出たことに対して「冗談ではない。アニメのキャラ声は本職だ。第一仕事を選べるほど偉い立場にない」「一本の仕事を取るのにマネージャーさんが何度頭を下げるかご存知か!」と反論している<ref>[https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1802/28/news129.html 「大御所なんだから、仕事選べよ」に反論 声優・古川登志夫、ポプテピ出演への批判に言及] ねとらぼ</ref><ref>{{cite tweet|number=969076953150976001|user=TOSHIO_FURUKAWA|title=「大御所なんだから、仕事選べよ、なんでこんなクソアニメに!」とのリプがいまだにたっくさん。①「お気遣いありがとうございます」②「アニメのキャラ声は本職です」③そもそも大御所と思っていない」|date=2018年3月1日|accessdate=2018年6月22日}}</ref>。 何人かで一緒にブースに入って実際に芝居をして、そのバランスを見て決められたりもある。このとき受けた役は落ちたが、他の役で決まることもある。これはオーディションで「このセリフを読んでください」と言われて別のキャラクターのセリフを読むこともあって、その役に決まるなどの他、あとから追加されるキャラクターの役をもらうこともある<ref name=zac/>。 その他、『[[けんぷファー]]』のように原作で声優名が設定されていたので、アニメ化に際しても、一部の登場人物の声にその声優本人を起用している例もある。 公募形式とする例もあり、2005年(平成17年)の『[[SPEED GRAPHER]]』ではヒロイン役を公募オーディションとしたが、第1次・第2次審査で絞り込んでからウェブの一般投票も加味される形式で行われた(新人の[[真堂圭]]が選ばれた)。[[2013年]](平成25年)にはテレビアニメ『[[探偵オペラ ミルキィホームズ (アニメ)|ふたりはミルキィホームズ]]』の主人公役を決める公募オーディションが行われた(新人の[[伊藤彩沙]]が選ばれた)。2018年(平成30年)放送の『[[からくりサーカス]]』では主役の1人をプロアマ不問の公募オーディションにより決定すると発表したが、応募総数は2,500人超だったという<ref name="natalie180801">{{Cite news|publisher=ナターシャ|work=コミックナタリー|url=https://natalie.mu/comic/news/293521|title=アニメ「からくりサーカス」10月放送開始!キャスト5人やアニメ映像のPV解禁|date=2018-08-01|accessdate=2018-08-01}}</ref>(新人の[[植田千尋]]が選ばれた)。2021年(令和3年)の『[[ワッチャプリマジ!]]』では公募オーディションの審査を各段階で公開している<ref>{{Cite web|和書|title=「ワッチャプリマジ!」庄司宇芽香、相良茉優らが演じる新キャラ公開 オーディション優勝者担当キャラも決定 : 映画ニュース|url=https://eiga.com/news/20210903/40/|website=映画.com|accessdate=2021-09-27|language=ja}}</ref>。 [[#一般公募]]も参照。 CMやPV、[[パチンコ]]のリーチアクションなどアニメ映像を使う場面でも、声優が声を担当している。 === ゲーム === 基本的に、かけ合いではなく一人ずつ個別に収録する。 [[CD-ROM]]の普及し始めた[[1980年代]]末から増えた仕事である<ref group="注">[[日本電気ホームエレクトロニクス|NECホームエレクトロニクス]]の発売した家庭用[[ゲーム機]][[PCエンジン]]のCD-ROMドライブの発売は1988年12月。</ref>。[[1990年代]]に、[[PlayStation (ゲーム機)|PlayStation]]などの家庭用ゲーム機器やパチンコなどの遊戯機器などで高性能なゲーム機が次々に登場し、ソフトウェアに既存作品にはないオリジナルストーリーを展開する作品の導入が可能となると、そのキャラクターに声を当てる声優が起用されることが一般的になった。そして『[[ときめきメモリアル]]』(1994年〈平成6年〉 - )から人気に火のついた男性向け[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛ゲーム]]は美少女ばかりが登場するゲームから「[[ギャルゲー]]」とも呼ばれ始め、他のジャンルにも美少女キャラクターとその担当声優が付くゲームが増加した。 出演料については、当初は明確な基準がなかったが、[[1998年]](平成10年)に[[日本俳優連合]](日俳連)と社団法人[[コンピュータエンターテインメント協会]](CESA)の間で協議が持たれてからは、一般向けのゲームでは、アニメと同様にランク制が適用されるようになった。 アニメと同じく、オーディションや指名によって選出される。 === アダルト作品への出演 === [[アダルトゲーム]](エロゲー)・[[アダルトアニメ]]などの年齢制限のある作品に声をあてる。この場合、声優名を非公表とするか、別の芸名を使うことがほとんどであるが<ref>上崎よーいち「開封!18禁アニメの世界」『ビデオボーイ』英知出版、1998年4月号、p.105-106</ref>、まれに普段使用している声優名のままでクレジットされていることもあり、[[石田彰]]や[[一条和矢]]、[[大野まりな]]、[[こおろぎさとみ]]など、一般作と同じ名義で出演する声優もいる。 [[ダイナマイト亜美]]や[[静木亜美]]、[[長崎みなみ]]など、アダルト作品を専門としている声優もおり、ゲームのアニメ化に合わせて一般作での活動を行なう例も多い。 [[ComicFesta|ComicFestaアニメ]]では成人向けの描写をカットした一般向けと、すべての描写を入れた完全版の2種類を用意しており、それぞれ声優も異なっている。 === 着ぐるみのアテレコ === [[特撮]]番組では、顔出し出演のほかに[[スーツアクター]]が演じる怪人などの声を担当するという仕事もある。『[[アクマイザー3]]』や『[[宇宙戦隊キュウレンジャー]]』、『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』など、着ぐるみが中心のヒーロー物など、また昨今の[[ウルトラマンシリーズ]]ではウルトラマンが言葉を発するため、特に声を当てる声優が必要となる。 ヒーロー物番組ではさらに、変身などでの音声(かけ声など)を担当することも多い。 通常は、動きはスーツアクターが担当してそれに合わせて声を当てる作業であるが、中には声とアクターを兼任する場合もあり、[[愛川欽也]]による『[[おはよう!こどもショー]]』のロバくん<ref>[https://miyearnzzlabo.com/archives/24743 愛川欽也 おはよう!こどもショー ロバくん時代の思い出を語る]</ref>、[[チョー (俳優)|チョー(俳優)]]が担当する 『[[いないいないばあっ!]]』でのワンワン、[[大竹宏]]が担当していた『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』のカッパのカータン、[[千葉繁]]が扮した『深夜秘宝館』Dr.シーゲル・バーチーらは、それぞれスーツアクターも兼任し直接声をあてていることが知られている。 [[鈴田美夜子]]のように公の場で顔出ししない手段として、着ぐるみを着ているというケースもある。 ほかに『[[ウルトラマン]]』でザラブ星人の声をあてることになった[[青野武]]はそれに飽き足らず、雰囲気をつかむため実際に着ぐるみの中に入ってザラブ星人を演じている、『[[ウルトラセブン]]誕生35周年“EVOLUTION”5部作』(2002年〈平成14年〉)に出演の[[関智一]]はガルド星人として声だけでなく、星人の普段の姿も演じている、[[上坂すみれ]]は『[[ウルトラマントリガー]]』でカルミラの声あてとともに同キャラの地球人・人間態として本人出演をしている...などのケースがある。 === 人形劇・着ぐるみショー === 人形劇はキャラクターの演技とタイミングを合わせながらセリフを言うか、事前に収録した映像を見ながらアフレコする。NHKの人形劇はプレスコ形式が多い。また1人で複数役を兼任するスタイルが多く、『[[連続人形活劇 新・三銃士]]』では30人近い役を7名で演じており、『[[人形劇 三国志]]』ではメインキャラクターを演じる役者は5名以上の役を兼任している。 [[着ぐるみ]]ショーでは上記[[#着ぐるみのアテレコ]]にあるとおり生で声を合わせることもあるが、基本的には事前に声を収録してそれに合わせて着ぐるみの演者([[スーツアクター]])が演技を行う。 [[劇団飛行船]]の公演は「マスクプレイ」という、着ぐるみをきたアクターが声優によって吹き込まれた声に合わせて演じる手法をとっている。 === 日本語吹き替え === 海外ドラマ・外国映画などの登場人物の声を俳優に代わって演じる。 [[フィックス]]制度により役が特定の声優に固定されていることもあるが、[[#担当声優の交代|放送版とセル版では異なる声優となる例]]もある。 ニュースやドキュメンタリーなどの[[ボイスオーバー]]の仕事もある。 アニメ同様、ランク制の対象となる。 アニメとは異なりオーディションはほとんど行われず、プロデューサーやディレクターなどが声優を指名して決めることがほとんどとされる<ref name="nareru120" /><ref>山本健翔『声優になるには』ぺりかん社、2007年、p.136</ref>。ただし、外画の場合でも録った声を本国に送って向こうのスタッフが判断して選ぶこともあったり<ref name=zac/>、[[ウォルト・ディズニー・カンパニー|ディズニー]]作品、[[スティーヴン・スピルバーグ]]作品、[[ジョージ・ルーカス]]作品などでは指名ではなく、アニメ同様オーディションが行われるという<ref>高田城、中川奈美『声優になるには』ぺりかん社、1997年、p.135。加藤敏音響監督インタビュー</ref>。 === ボイスドラマ === [[ラジオドラマ]]・[[ドラマCD]]など音声のみのドラマ作品でキャラクターの声を演じる。 ドラマCDの場合、売上を考慮して、すでに知名度のある声優を起用することが多い<ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20140324/enn1403241928030-n1.htm 【カズゾウの絶対音監】ドラマCDの魅力ってナニ!?]</ref>が、逆に新人やアマチュアをオーディションによって選ぶ例もある。 ===メディアミックス=== アニメ・ゲーム・ライトノベル・ラジオ番組のDJ・ドラマCD・[[玩具]]など[[メディアミックス]]が行われる作品でのアテレコ・アフレコ。作品CMがアニメドラマ形式でつくられ、そのアテレコを担当することもある。以前に出演していた媒体、例えばゲームが運よくアニメ化される、アニメの新しいシリーズが始まる、ドラマCDがアニメ化するなどの形で仕事が発生するなど、仕事の幅が意外にも広がるのである<ref name=zac/>。 基本的には同一の声優が同じ役に固定されるが、[[#担当声優の交代|諸事情により変わること]]もある。 === 音声作品 === 語り手、朗読とは別に、声や語りかけるなどの音声作品をレコードや[[カセットテープ]]、[[コンパクトディスク]]など音声記録媒体に記録してボイス集などとして販売するもので、2010年代からはさらに音響技術により[[ASMR]]作品・[[バイノーラル録音]]での音声作品が登場し、主にインターネットを通してダウンロード販売などがなされている。こうした音声作品のダウンロード販売に2020年代から名の知られる声優も続々と参入している。 また、家電やイヤホンといった音響機器、パソコンソフトの起動や操作時など各種機器のシステム起動音などやボタン操作音などで音声を組み込み製造販売される際の声を担当するなどのケースもある。 この他に、自身の声を[[初音ミク]]といった[[バーチャルアイドル]]などに代表される二次元媒体を中心とした架空キャラクターの声に、音源データとして活用される仕事などがある。[[VOCALOID]]初期から試みられてきたが、声優の声や表現を活用すべく<ref>[https://www.mitsubishielectric.co.jp/corporate/special/hello-ai/06/ 第6回その1ボイスアクトのプロ × AIのプロ 対談「AIと言語表現」] 「AIによる音声というのはかなりリアルなところまできているのですが、キャラクターの背景までは考えることは極めて難しいです。AIにシリーズ全話の脚本を見せたとしても、福山さんのように作品の世界観全体を理解しながら発声することは現時点ではまずできないと思いますね。」</ref>AIの音声に声優の声を導入して提供するサービスが始められており<ref>[https://www.docomo.ne.jp/binary/pdf/corporate/technology/rd/topics/2020/topics_201106_00.pdf 人気声優の声を収録無しでアプリやゲームに導入できる音声サービスの提供を開始~花江夏樹さん、金田朋子さん、内田彩さんなど人気声優の声が導入可能に!~]</ref>、こうした声優の[[個性]]、[[表現]]や「声」そのものをコンテンツとして提供する仕事が生じている。 === ナレーション・アナウンス === テレビ番組・テレビやラジオのCM・PRビデオ、解説ビデオなどの朗読、イベントのアナウンスや[[リングアナウンサー]]、番号案内の録音されたメッセージ、[[デパート]]や[[スーパーマーケット]]などでの小売店舗の録音案内、駅や路線バスなどの公共交通機関のアナウンス(自動放送)など。 ナレーションやアナウンスもAI音声として<ref>[https://www.technologyreview.jp/s/250340/ai-voice-actors-sound-more-human-than-ever-and-theyre-ready-to-hire/ ひっそりと浸透する「AI声優」、人間の仕事を奪うか? by Karen Hao2021.10.12]</ref>、本職のナレーター、アナウンサーとそん色ないニュース原稿を読み上げる人造アナウンサー<ref>[https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1803/26/news127.html NHKの人造アナウンサー「ニュースのヨミ子」さんはどうやって作られた?]</ref><ref>[https://ainow.ai/2019/08/29/174974/ AI×アナウンサーって何?その魅力や活用例、今後まで一挙紹介!] 2019.08.29</ref>なども出現している。 ランク制の対象外の仕事<ref group="注">ただし、アニメ・日本語吹き替え・ゲームのナレーションはランク制の対象となる。</ref>で、ギャラはアニメ・日本語吹き替え・ゲームよりもはるかに高額とされ、特にテレビCMが高額とされている<ref>大栄出版編集部・編『なりたい!!声優』大栄出版、1998年、p.152</ref>。ただし基本的に単発かつ不定期の仕事であり、安定した収入にはなりにくい。また本業のナレーターやアナウンサーとも競合する。 日本語吹き替え同様、オーディションはほとんど行われず、指名で決まることがほとんどとされる{{Sfn|松田咲實|2000|pp=121-122}}<ref>大栄出版編集部・編『なりたい!!声優』大栄出版、1998年</ref>。 === 舞台劇 === 前述のように、舞台俳優が声優を兼ねる例は創成期から多い。[[松本忍]]、[[かぬか光明]]、[[松岡文雄]]、[[中村太亮]]のように劇団に所属していた、[[北島善紀]]、[[志賀克也]]、[[置鮎龍太郎]]など劇団に所属しながら並行して活動する者も多いが、[[野沢那智]]、[[坂口候一]]、[[関智一]]、[[緒方賢一]]、[[伊藤健太郎 (声優)|伊藤健太郎]]、[[菅谷勇]]、[[金光宣明]]、[[大西健晴]]、[[目黒光祐]]、[[大黒和広]]、[[関俊彦]]や[[中尾隆聖]]などのように劇団を創立したり主宰する者、[[筈見純]]のように演出家として活動する者もおり、声優で舞台公演に演者として出演するケースは多い。 劇団の中ではもともと[[テアトル・エコー]]は声の仕事に積極的なことで知られ、[[安原義人]]、[[小宮和枝]]、[[納谷悟朗]]、[[多田野曜平]]、[[雨蘭咲木子]]、[[竹若拓磨]]ら同劇団所属俳優らの多くが声優を兼ねているし、[[劇団21世紀FOX]]にも声優が多数所属していた。 [[#俳優・舞台役者]]も参照。 そして[[#第3次声優ブーム]]時のサクラ大戦歌謡ショウや、2000年以降には、漫画・アニメ・ゲームなどを原作・原案とした舞台芸術である[[2.5次元ミュージカル]]では『[[テニスの王子様]]』『刀剣乱舞』など、声優が演者となって出演することが多い。 通常の舞台劇とは別に、台本を持って音読するスタイルで上演される朗読劇(リーディング)もあり、メディアミックスとしての上演もある<ref>{{Cite web|和書|title=【イベントレポート】朗読劇「佐々木と宮野」、距離が縮まっていく2人を白井悠介&斉藤壮馬が繊細に表現|url=https://natalie.mu/comic/news/444860|website=コミックナタリー|accessdate=2021-09-27|publisher=ナターシャ}}</ref>。 === 俳優・タレント活動 === 映画やテレビドラマで俳優活動を行う者もおり、近年ではバラエティ番組などへの出演もある。 戸田恵子が1998年の『[[ショムニ (テレビドラマ)|ショムニ(テレビドラマ)]]』からテレビドラマやテレビCMに出演し始めていくが、2010年以降にはドラマ『[[満福少女ドラゴネット]]』(2010年)の[[久保ユリカ]]、『[[あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。]]』(2015年)[[NHK連続テレビ小説]]『[[あまちゃん]]』(2013年)の[[水瀬いのり]]、NHK[[大河ドラマ]]『[[真田丸 (NHK大河ドラマ)|真田丸]]』(2016年)の[[高木渉]]、NHK連続テレビ小説「エール」(2020年)の[[津田健次郎]]、「[[麒麟がくる]]」(2020年)の[[大塚明夫]]、『[[半沢直樹]]』(2020年)の宮野真守、『[[オー!マイ・ボス!恋は別冊で]]』(2021年)の花江夏樹、『[[青天を衝け]]』(2021年)の置鮎龍太郎、『[[リコカツ]]』(2021年)の[[三石琴乃]]の例がみられる。 2010年代後半から『[[声ガール!]]』(2018年)や『[[劇団スフィア]]』(2019年)、『[[声優探偵]]』(2021年)といった声優をテーマにして声優が俳優として出演する実写ドラマが制作されている。 映画出演についても『[[バトル・ロワイアル (映画)|バトル・ロワイアル]]』(2000年)の[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]、『[[包帯クラブ]]』(2007年)の[[小野賢章]]、『[[モノクロームの少女]]』(2009年)の入野自由、『[[君がいなくちゃだめなんだ]]』(2015年)の花澤香菜、『[[小野寺の弟・小野寺の姉]]』(2014年)『[[-X-マイナス・カケル・マイナス]]』(2011年)の[[寿美菜子]]、『[[縁-enishi-]]』(2011年)の[[谷山紀章]]、『[[寄性獣医・鈴音]] EVOLUTION』(2011年)『猫カフェ』(2018年)の久保ユリカ、『[[図書館戦争]]』(2013年)の[[鈴木達央]]らの例がある。 このほか映画『[[第2写真部]]』(2009年)、実写『[[ヤッターマン]]』(2009年)、『[[腐女子彼女。]]』(2009年)、『[[私の優しくない先輩]]』(2010年)、『[[Wonderful World]]』(2010年)、『[[ライトノベルの楽しい書き方]]』(2010年)、『[[神☆ヴォイス]] 〜THE VOICE MAKES A MIRACLE〜』(2011年)、『[[死ガ二人ヲワカツマデ…]] 第一章 色ノナイ青』『死ガ二人ヲワカツマデ… 第二章 南瓜花-nananka-』(2012年)、特撮ドラマ『[[非公認戦隊アキバレンジャー]]』『非公認戦隊アキバレンジャー シーズン痛』(2012年 - 2013年)、『[[獣電戦隊キョウリュウジャー]]』(2013年 - 2014年)最終話やエンディングのダンス、『[[Green Flash]]』(2015年)など、声優が複数人が顔出しで出演している作品も多い。 水樹奈々、内田真礼、[[竹達彩奈]]などのように、[[コマーシャルメッセージ|CM]]で顔出し出演をする声優も増えている。CMは広告代理店担当者査定などに該当しランク制対象外である<ref>{{Cite web|和書|title=梶裕貴、花江夏樹、宮野真守…広告代理店担当者が査定する「男性声優CMギャラ」は高騰中 |url=https://smart-flash.jp/entame/146122/ |website=Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌] |date=2021-06-21 |access-date=2022-09-28 |language=ja}}</ref>。 [[2010年]]代後半には、[[梶裕貴]]のようにニュース番組のコメンテーターとして出演する声優もいる。 この他にお笑い活動もあり、[[山寺宏一]]のようにものまね番組に出演してものまねを披露したり、2019年7月に「ラッシュスタイル」というコンビを組んでいた[[速水奨]]と[[野津山幸宏]]が[[M-1グランプリ]]2019にエントリーしている<ref group="注">M-1グランプリ参加資格はプロアマ問わず結成15年以内のコンビにあり、二人は事務所に所属するプロとしてエントリーした模様である。</ref>。 2010年代後半からは『[[ラフラフ!]]』『[[Warahibi!]]』といった声優×二次元芸人プロジェクトが進行している。その中でも『[[GET UP! GET LIVE!]]』は声優が芸人の役を演じるだけでなく、実際にイベントで漫才やコントのリーディングライブに挑戦。芸人役を演じている花江夏樹、[[西山宏太朗]]、[[阿座上洋平]]、[[熊谷健太郎]]らがイベントで実際に[[漫才]]や[[コント]]を披露している。 [[#声優による他分野での活動]]も参照。 === 歌手活動 === [[CD-DA|音楽CD]]を発売したり、[[演奏会|コンサート]]を開催したりするなど、[[歌手]]として活動をおこなう。逆に、[[アイドル]]歌手が声優に転身することもある。 [[アニメ (日本のアニメーション作品)|アニメ]]・[[ゲーム]]においては、出演声優が、個人またはユニットとして、その作品の[[主題歌]]を歌うことがある。また、[[キャラクター]]が歌っているという設定にして、声優本人の名義ではなく、キャラクター名義で[[キャラクターソング]]をリリースすることがある。 [[林原めぐみ]]が声優として初めてキングレコードスターチャイルドレーベルと専属契約を結んだ1991年(平成3年)3月以後、声優が[[レコード会社]]との専属契約を結び、本格的に歌手活動をする例が一般化している。 数名の声優が[[音楽ユニット]]を結成して、歌手(音楽)活動をすることもあり、これは'''[[声優ユニット]]'''と称されることが多い。『[[THE IDOLM@STER|アイドルマスター]]』や『[[ラブライブ!]]』などのように、[[ドーム球場]]で[[演奏会|ライブ]]を行う人気作品もある<ref group="注">特に「ラブライブ!」から生まれた[[μ's]]は、2016年3月31日・4月1日に声優ユニットとしては初めて東京ドームでの単独コンサートを開催し、両日とも満席であった。</ref>。 [[オリコン]]などの[[ヒットチャート]]においては、かつて[[アニメソング]]は[[児童]]向けの曲として別に集計されていた。また、アニメ専門店や[[家電量販店]]は集計の対象外だった。これらが修正された1990年代半ばごろから、声優の歌のCDが[[ランキング]]上位になることが増えた<ref name="1997nen6gatu">[https://web.archive.org/web/20010217045451/http://ent.nikkeibp.co.jp/ent/bn/9706/special/seiyu.html 椎名へきる、林原めぐみ、國府田マリ子 ヒットチャートは声優だらけ!!]、『[[日経エンタテインメント!]]』1997年6月号より([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)。</ref>。 [[1997年]](平成9年)2月に椎名へきるが声優初となる[[日本武道館]]単独コンサートを開催したのを皮切りに、声優が武道館のような大きな会場で単独コンサートを開催するようになっていった。[[2011年]]12月には[[水樹奈々]]が声優初となる[[東京ドーム]]単独コンサートを開催した<ref group="注">2016年にも東京ドームでの単独コンサートを開催したほか、同じ年には声優だけでなくソロ歌手としても初となる[[阪神甲子園球場]]でのコンサートを実現している。水樹は[[阪神タイガース]]の[[ファン]]として知られており、甲子園球場でのコンサートは自身の念願の一つでもあった。</ref><ref group="注">声優として初めて野球場・ドーム球場での単独コンサートを開催したのも水樹奈々であり、2009年に[[西武ドーム]]で開催したのが初めての例となる。東京ドーム・西武ドーム・阪神甲子園球場のほか、[[横浜スタジアム]]・[[千葉マリンスタジアム]]でも開催した。なお、野球場・ドーム球場での単独コンサートを開催した声優は2023年6月現在、水樹奈々以外には存在しない。</ref>。 アニメソングが一般層にも浸透するにつれ、声優が音楽テレビ番組に出演して歌を歌うことも増えている。1997年(平成9年)には椎名へきるが「ミュージックステーション」に、[[2009年]](平成21年)には、水樹奈々が[[NHK紅白歌合戦]]([[第60回NHK紅白歌合戦]])に、それぞれ声優として初めて出演している<ref group="注">水樹はその後も毎年出場を続け、2009年から2014年の計6回にわたり連続出場した。</ref><ref group="注">声優ユニットのμ'sが2015年に、水樹に次いで声優2組目となる紅白出場を果たした。</ref>。 水樹奈々や[[茅原実里]]、[[蒼井翔太]]、[[柴本浩行]]のように、元来歌手を志望していた人物が声優となり、のちに歌手としてもデビューするということもある。 [[#アイドル声優]]と[[#声優アーティスト]]も参照。 === ラジオパーソナリティ === 声優による[[ラジオ]]番組のパーソナリティは、古くから存在するが、1990年代以降は[[文化放送]]や[[大阪放送|ラジオ大阪]]、[[ラジオ関西]]が[[アニラジ]]専門の放送枠を設けるなど、番組数が急増した。そしてアニラジパーソナリティの一般公募などもあり、例えば[[井澤美香子]]は養成課程修了後、声優になりたいという夢のもとでアニラジのパーソナリティの一般公募へ応募したという。 2000年代以降は、地上波放送だけでなく、動画配信サイトを使った[[インターネットラジオ]]番組も増えている。こうしたラジオ番組では声優個人の冠番組の他、現在進行系でテレビ放送中のアニメ番組に因んだラジオ番組が放送期間中設けられて、当該アニメ番組に出演する声優がパーソナリティを務めるなどがある。 === バーチャルYouTuber活動 === {{出典の明記|section=1|date=2023年11月}} 2010年代後半からYouTuberが人気を博しはじめて、アニメファンや声優ファンの間では[[バーチャルYouTuber]](VTuber)も熱い支持を得ていく。[[キズナアイ]]を筆頭とするバーチャルYouTuberたちが一大ジャンルとして着実に[[市民権]]を得ていくが、その中でも顔出しのYouTuberを凌ぐほどの人気を誇るバーチャルYouTuberたちも多い。 バーチャルYouTuberはYouTuberとして動画配信を行うCGキャラクターのことであるが、[[アバター]]を使って動画配信をする専用機器を装着した演者の表情や動きを読み取るモーションキャプチャー技術と[[3DCG]]で作られたキャラクターをアニメーション化して声をあてることで、キャラクターが実在しているかのように見せている。 そして[[#音声作品]]にあるキャラクターの声に活用するデータ音源の仕事とは違い、自身の喋りをリアルタイムで伝えており、このために"声での演技力"が求められるため、キャラクターに声をあてている人物は声優であることが多いことが知られる。かなりの割合でプロの声優がその演者として声や体の動きを担当しバーチャルな存在として活動していくが、VTuberはキャラクター自身が動画を投稿しているという設定となっており、声をあてている人に言及することはファンの間で一種タブー視もされている。 VTuberには企業などの運営者と声優などの演者が関わっているため、声優がVTuberになる方法として、まず運営者から声優事務所に演者を募集するオーディションの話が来て、声優がそれを受ける。 ただし一般的に声が認知されていて人物が特定されるような人気声優が務めること{{efn2|阿澄佳奈とされるVTuberのなちょこや鈴村健一とされるなんでも屋の29歳りんくろーなどのケースなど、いくつか謁見される。}}は少数であるが、これはアニメのアフレコやナレーションなどの一般的な声優仕事よりも報酬が少ないためで、人気声優ではなく知名度でなくあまり売れていない声優やキャリアの少ない新人声優が起用されるケースが多い。個人がかろうじて食べていける金額にはなってもモーションアクターなど、通常の声優の仕事ではない業務を含むなど台本通りにキャラクターを演じる仕事ではなく、台本なしで自分の話をする配信者の役割を担うことなど、声優仕事の中では所属事務所が儲けを得るほどにはならない職ともいえる。 VTuberの演者への報酬は台詞の量にもよるが、その業界に相場が無いのでピンキリとされ、声優が行う仕事とは金額に大きな差があり報酬が合わず、VTuberの演者は声優の仕事よりも報酬が落ちるとされる。またそもそもVTuber自体が厳しいYouTubeの世界で生き残るのは難しいことも知られる。 == 担当声優の交代 == {{出典の明記|section=1|date=2023年11月}} 長期シリーズを中心に、担当声優の[[引退]]や[[逝去]]・[[降板]]以外に、諸般の事情による交代も時折起こる。また同じく[[病気]]や[[産休]]・[[事故]]などによる療養や、[[海外留学]]などによる休業により「一時的に」別の声優が代役を担当する例も多く見られる。さらにメディアミックスの媒体ごとで声優が交代することは頻繁にある<ref group="注">中には『[[スパイラル 〜推理の絆〜]]』ではドラマCDで主人公の声を担当した男性声優がTVアニメではライバルのリーダー格となる少年へ配役転換され、ドラマCDでライバル役をしていた声優が降板するなどの変更があった。</ref>。 メディアミックスの場合、舞台公演などで身体的な負担が大きくなったため、他の作品への出演は続けるが、当該作品は降板するような場合もいくつかある。また『[[Fate/staynight]]』などメディアミックスや派生作品ごとキャラクターが数回変更になる作品もある。 また『[[ウマ娘 プリティーダービー]]』のように当初予定していた声優から大幅入れ替えした例もある。 このほかに『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』や『[[ドラえもん (1979年のテレビアニメ)|ドラえもん]]』(テレビ朝日版)など、長く続いているアニメで、世代交代的にメインキャストが交代するケースもある。声優交代には様々なパターンがあり、『ドラえもん』のように全面的に変えてしまうケース、『[[サザエさん (テレビアニメ)|サザエさん]]』のように声優の死去・引退までなるべく同じ声優を維持し段階的にキャスト交代を実施するケース、『[[ルパン三世]]』や『[[サムライスピリッツ]]』など声優交代をしてみたが前任者らの演技イメージが強く結局次作制作時に前任者が起用されるケース、『[[天才バカボン]]』のバカボンのママのように他の声優が代わっても交代しないよう指名されているケースなどがある。同作では他作品の客演とメディアミックス発表の際に段階的に一部キャスト変更し、新シリーズの際にキャストが交代するという形となった。 年月を経てリメイクされるアニメ作品の場合、大半のキャストが変更される場合が多い。『[[銀河英雄伝説 (アニメ)|銀河英雄伝説]]』『[[フルーツバスケット (漫画)|フルーツバスケット]]』『[[ヤッターマン]]』『[[ゲゲゲの鬼太郎]]』などや『[[るろうに剣心]]』や『[[うる星やつら]]』などの名作のリメイクで声優が交代したのを始め、『[[シャーマンキング]]』などは2001年のアニメ化後、20年後の2021年に再アニメ化の際に原作者の意向もあってキャストの大半が同じとなっているが、一部キャストはスケジュール上の都合や死去などの理由で変更されている。逆に原作者の要請により声優交代が求められた作品に『[[聖闘士星矢 (アニメ)|聖闘士星矢]]』があり、後に騒動となっている。また『[[SLAM DUNK]]』の2022年公開のアニメ映画『[[THE FIRST SLAM DUNK]]』でも従来のキャストを一新したことに賛否の声が挙がっている。 洋画吹き替えなどでは、担当俳優の声を当てる専属声優が時代と共に変更される例も多く、また映像ソフトに収録される場合の他、放送するテレビ局ごとに日本語版制作される際に声優が変更されることも多い。 技術の進歩から、AIが不祥事を起こした声優の仕事を代役として担当した例がある(中国で映画などの吹き替えを行った{{ill2|姜広涛|zh|姜广涛}}のケース<ref>{{Cite web|和書|url=https://japan.zdnet.com/article/35201918/ |title=声優の不祥事にAIが代役で活躍--中国で進むAI音声の活用 |access-date=2023-09-26 |date=2023-03-31 |website=ZDNET Japan |language=ja}}</ref>など)。 交代の一例を以下に示す。 ;前任の引退などによる例 * [[遠藤ゆりか]] ([[芸能界]]引退)『[[BanG Dream!]]』今井リサ役→[[中島由貴 (声優)|中島由貴]] * 今村彩香 (芸能界引退)『ウマ娘 プリティーダービー』マヤノトップガン役→[[星谷美緒]] * [[阿久津加菜]](引退)『[[Rewrite]]』 テレビアニメ版 福井子 役→[[早瀬莉花]]、『[[ファイアーエムブレム 覚醒]]』『[[ファイアーエムブレム ヒーローズ]]』サーリャ役、セルジュ役、『[[ファイアーエムブレムif]]』シャラ役→[[高田憂希]] * [[成海瑠奈]](引退)『[[温泉むすめ]]』仙石原三香沙役→[[三澤紗千香]]、『[[アクション対魔忍]]』神無月空役および『[[駅メモ!]] - [[ステーションメモリーズ!]]』為栗メロ 役→[[会沢紗弥]]、『[[この素晴らしい世界に祝福を! ファンタスティックデイズ]]』エーリカ役→[[加藤聖奈]]、『[[アイドルマスター シャイニーカラーズ]]』三峰結華役→[[希水しお]]、『[[Reバース for you]]』猫ヶ洞青役→[[各務華梨]] ;前任の病気などによる例 * [[明坂聡美]]([[突発性難聴]]によるBanG Dream!のメディアミックス活動への[[ドクターストップ]])『BanG Dream!』白金燐子役 →[[志崎樺音]] * [[鈴木達央]](体調不良で当面の間活動を休止)『[[魔王学院の不適合者 〜史上最強の魔王の始祖、転生して子孫たちの学校へ通う〜]]』アノス・ヴォルディゴード役→[[梅原裕一郎]]、『[[ポケットモンスター (2019年のアニメ)|ポケットモンスター]]』第82話 キバナ役→[[松岡禎丞]]、『[[機界戦隊ゼンカイジャー]]』ゲゲ役→[[福西勝也]]、スマホゲーム『[[白夜極光]]』禁衛座役→[[浅沼晋太郎]] * [[花守ゆみり]](膝蓋骨亜脱臼および半月板損傷のため降板)『[[Re:ステージ!]]』伊津村陽花役→[[嶺内ともみ]] * [[大谷育江]](体調不良。第264話から復帰)『ONE PIECE』2001年9月16日 第81話から2006年1月まで)『[[ONE PIECE THE MOVIE カラクリ城のメカ巨兵]]』トニートニー・チョッパー役→[[伊倉一恵]](2006年1月22日から4月30日 第254話から263話) * [[川村万梨阿]](体調不良。ファミリーコンサートで復帰)『[[ぐ〜チョコランタン]]』スプー役→[[橘ひかり]] * [[山本圭子]](下肢骨折のため一時休業)『サザエさん』花沢役→[[伊倉一恵]] * [[相坂優歌]](体調不良)『ウマ娘 プリティーダービー』ナリタブライアン役→[[衣川里佳]] * [[楠木ともり]]([[エーラス・ダンロス症候群]]罹患のため降板)『[[ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会]]』優木せつ菜役→[[林鼓子]] ;前任の降板希望などによる例 * [[矢島晶子]]『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』[[野原しんのすけ]]役→[[小林由美子]] * [[大山のぶ代]]『[[無敵超人ザンボット3]]』神勝平役→[[坂本千夏]](『[[スーパーロボット大戦シリーズ]]』にて) * [[金元寿子]]([[留学]]のため降板)『[[ぱすてるメモリーズ]]』目白渚央 役→[[花守ゆみり]]、『[[B-PROJECT〜鼓動*アンビシャス〜]]』『[[B-PROJECT〜絶頂*エモーション〜]]』澄空つばさ 役→[[瀬戸麻沙美]] * 山本圭子『サザエさん』花沢役→[[渡辺久美子]] ;前任の逝去などによる例 * [[肝付兼太]](逝去)『[[それいけ!アンパンマン]]』ホラーマン役 →[[矢尾一樹]] * [[塩沢兼人]](逝去)『聖闘士星矢』牡羊座のムウ役→[[山崎たくみ]]、『[[名探偵コナン (アニメ)|名探偵コナン]]』白鳥任三郎役→[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]、『クレヨンしんちゃん』ぶりぶりざえもん役→[[神谷浩史]] * [[水谷優子]](逝去)『[[ちびまる子ちゃん]]』さくらさきこ役→[[豊嶋真千子]] * [[杉本沙織]](休業中・逝去)『[[しまじろう]]シリーズ』桃山にゃっきい役 →[[鈴木真仁]]、『[[忍たま乱太郎]]』山村喜三太役 →[[大和田仁美]](杉本自身も[[鈴木富子]]の逝去で交代している) * [[長谷有洋]](予定していたが登場前に逝去)『[[超時空要塞マクロス]]』一条輝役 →[[野島健児 (声優)|野島健児]]、『[[マクロス7]]』ゴラム役 →[[井上剛 (声優)|井上剛]] * [[藤原啓治]](逝去)『[[クレヨンしんちゃん (アニメ)|クレヨンしんちゃん]]』野原ひろし役 →[[森川智之]] * 鈴置洋孝(逝去)『[[機動戦士ガンダム]]』シリーズ ブライト・ノア役 →[[成田剣]] ;芸能事務所や製作側との事情などによる例 * [[神谷明]]『名探偵コナン』毛利小五郎役→[[小山力也]] * [[武田航平]]『[[ファイナルファンタジーシリーズ]]12』ヴァン役→[[小野賢章]] * [[島津冴子]]『[[機動戦士Zガンダム]]』フォウ・ムラサメ役→[[ゆかな]] * [[村川梨衣]]『[[ISLAND (ビジュアルノベル)|ISLAND]]』伽藍堂紗羅役→[[山村響]] * [[進藤尚美]]『[[機動戦士ガンダムSEED]]』カガリ・ユラ・アスハ役→[[森なな子]] ;前任の不祥事降板などによる例 * [[いまむらのりお]] 『ONE PIECE』 エンポリオ・イワンコフ役→[[岩田光央]] * [[羽賀研二]]『[[アラジン (1992年の映画)|アラジン]]』 アラジン役→[[三木眞一郎]] * [[ピエール瀧]] 『[[アナと雪の女王]]』 オラフ役→[[武内駿輔]] * [[櫻井孝宏]]『[[モノノ怪]]』 薬売り役→神谷浩史 ;産休による一時交代 * [[荘真由美]]『[[キテレツ大百科 (アニメ)|キテレツ大百科]]』野々花みよ子役 →[[本多知恵子]] * [[岡村明美]] 『ONE PIECE』ナミ役 →[[山崎和佳奈]] * [[山口由里子]] 『ONE PIECE』ニコ・ロビン役 →[[小林優子]] * [[沢城みゆき]] 『ONE PIECE』シャーロット・プリン役 →[[桑島法子]] * [[林原めぐみ]] 『[[ポケットモンスター アドバンスジェネレーション]]』 ムサシ役 →[[平松晶子]] * [[伊瀬茉莉也]] 『[[ポケットモンスター XY]]』ユリーカ役 →[[かないみか]] * [[井上喜久子]] 『[[ああっ女神さまっ]] 小っちゃいって事は便利だねっ』ベルダンディー役 →[[岡村明美]] ;洋画吹き替えにおける俳優の[[フィックス]]が時代により移り変わった例 * [[屋良有作]]:[[アーノルド・シュワルツェネッガー]]→[[玄田哲章]] * [[堀勝之祐]]:[[アラン・ドロン]]→[[野沢那智]] * [[高橋和也]]:[[イ・ビョンホン]]→[[阪口周平]] * [[下條アトム]]:[[エディ・マーフィ]]→[[山寺宏一]] * [[宮本充]]:[[キアヌ・リーブス]]→[[森川智之]] * [[大塚芳忠]]:[[キーファー・サザーランド]]→[[小山力也]] * [[羽佐間道夫]]:[[シルベスター・スタローン]]→[[ささきいさお]] * 玄田哲章:[[スティーブン・セガール]]→[[大塚明夫]] * [[小杉十郎太]]:[[ダニエル・クレイグ]]→[[藤真秀]] * [[小林清志]]:[[トミー・リー・ジョーンズ]]→[[菅生隆之]] * 鈴置洋孝(逝去):[[トム・クルーズ]]→森川智之 * 山寺宏一:[[トム・ハンクス]]→[[江原正士]] * [[村井國夫]]:[[ハリソン・フォード]]→[[磯部勉]] * [[神谷明]]:[[ピアース・ブロスナン]]→[[田中秀幸 (声優)|田中秀幸]] * [[安原義人]]:[[メル・ギブソン]]→磯部勉 * [[松本保典]]:[[ライアン・レイノルズ]]→[[加瀬康之]] * [[津嘉山正種]]:[[リーアム・ニーソン]]→[[石塚運昇]] * [[郷田ほづみ]]:[[ロバート・ダウニー・ジュニア]]→[[藤原啓治]] 中でも[[冨永みーな]]は降板後の声優を担当することが多い。 なお交代と関連したケースとして、同一のキャラクターに演出上の意図で別の声優を起用するという事も多い。 演出上の意図で声優が複数割り当てられた作品もある。例えば『[[彼岸島]]X』においては、1話につき一人の声優がその回登場の全キャラクターを担当し、各話ごとそれぞれ声優が割り当てられた。『[[100万の命の上に俺は立っている]]』のテレビアニメ版においては、主要キャストは固定されたが、登場人物のゲームマスターについては各話登場毎に別べつの声優が当てられた。また、『[[ポプテピピック]]』に関してはメインキャラクターの声優が毎回異なる。 ほかに身分隠しの変装などで人相や人格が変わることを表現するためや、キャラクターで少年期と青年期以降で別声優が担当するケースなど、演出都合で作中の月日や時間が大きく進んで、特定のキャラクターが歳をとっていくことで別の声優を起用するケースは多い。これは下記のとおり男性キャラクターで少年期を女性声優が担当し、青年期以降は男性声優が担当するケースなどはよく知られる。ただし男性キャラクターでも[[孫悟空 (ドラゴンボール)|孫悟空]]などのように少年期を演じた女性声優が青年期も演じることもあるし、また男性キャラクターでも『[[ジョジョの奇妙な冒険]]』のジョセフ・ジョースターは、少年期から青年期→中年期から老年期で男性声優で変更、女性キャラクターの場合でも、映画『[[秒速5センチメートル]]』の篠原明里など少女時代と大人時代で声優が変更となることはある。 == 異性の役・子役 == {{出典の明記|section=1|date=2023年11月}} 男性と女性とでは声質が違うため、通常は男性が女性の役(またはその逆)を演じることはないが、女性は基本的に地声が高いため、アニメのアフレコや洋画の吹き替えなどで、女性が男性(中学生くらいまでの少年。特に[[変声]]前の幼い男の子)の声を演じるという例はよくある。一方、男性は基本的に地声が低いため、特に変声前の子供を演じることは聞き手に違和感を感じさせるため難しく、子役以外の男性が子役を演じる例は石田彰や[[代永翼]]、梶裕貴など僅かである。また同様に、男性が女性(特に少女)の声を演じるという例は声優の地声が高くないと務まらないため極めて少なく、[[蒼井翔太]]や[[村瀬歩]]、[[山本和臣]]などごく僅かである。 日本で大人が子供の役を演じた最初例として、[[1954年]]([[昭和]]29年)のNHKラジオドラマ『[[ヤン坊ニン坊トン坊]]』が知られるが、子供の役に[[子役]]を起用するのは、演技指導などで難しい面があった。ただし少数ではあるが子役が台詞の多い主要キャラクターとして起用の例は、『[[ばらかもん]]』、『[[夢色パティシエール]]』、『[[クッキンアイドル アイ!マイ!まいん!]]』などがある。 ハリウッド映画で、子供が主人公の映画が流行した1980年代には、日本でも吹き替え版で少年役を子役に演じさせようとする傾向が多く見られた。当時児童劇団に所属していた者が子役の吹き替えを担当しており、[[浪川大輔]]のように声優になった者もいる。 日本以外では、子供の役は子供に担当させることが主流である。脚本家の[[:en:Blake Snyder|ブレイク・スナイダー]]は、8歳のころにTVプロデューサーだった父親の手伝いとして、[[スターリング・ホロウェイ]]らとともに子供の役を演じていたが、変声により解雇されている<ref>p.13 SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術 2010年 フィルムアート社 ISBN 978-4845910564</ref>。 == 日本以外の声優 == 諸外国では、日本のように専業の声優が確立している国は少ないとも言われる。ただ、アメリカでは代表的な人物だけでも200人以上おり<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/list/ls044032362/|title=Common American voice actors who can be cast anywhere|accessdate=2020年8月6日|publisher=IMDB}}</ref>、近年では日本アニメの吹き替えや音声入りゲームの増加により、声優業がメインの役者も増えている。 [[大韓民国|韓国]]では、放送局が放送劇団([[声優劇会]])を持っている。 [[劉セイラ]]、[[ジェーニャ (声優)|ジェーニャ]]、[[Liyuu]]などのように、日本国外出身の外国人であるため[[日本語]]が[[母語]]ではないが、一から日本語を習得して日本国内で声優として活動している例も僅かに存在する。外国人の場合は日本語の読み書きはもちろんのこと、大概は母語に由来する[[方言|訛り]](●●語訛り)が出てしまい視聴者に違和感を感じさせてしまう{{efn2|[[機動戦士ガンダムSEED]]における[[機動戦士ガンダムSEEDの登場人物#アイシャ|アイシャ]]の例がある。}}ため、日本国内で声優として活動を続けることは非常にハードルが高い。ただし、日本のコンテンツであっても、外国人役としてであれば需要はある<ref name="Badtake">{{Cite web|和書|url=http://jp.automaton.am/articles/newsjp/resident-evil-awful-voice-act-mod-released-now/|title=「あぁうち」「いっつあもんすたああ」、『バイオハザードHDリマスター』の再録音声を“ひどいオリジナル版”へと変更するModが配信開始|publisher=automaton|accessdate=2016-02-27|author=Shuji Ishimoto|date=2015-10-21}}</ref>。 == 経歴 == 声優の経歴としては、以下のような例がある。 === 放送劇団 === NHKと民放が組織した[[劇団]]で、局のアナウンサーとは別個に、芸能を担当するために放送局で養成され、おもにラジオドラマを担当した放送タレントであり、彼らを指す言葉として「声優」が生まれた。芸能事務所などの台頭で現在ではすべて解散している<ref>「ラジオ名作数々残し 来春NHK放送劇団が"終幕"」『中日新聞』1989年11月5日付け夕刊</ref>。 NHKの[[東京放送劇団]]からは、[[巖金四郎]]、[[加藤道子]]、[[中村紀子子]]、[[大木民夫]]など、NHK札幌放送劇団出身の[[若山弦蔵]]、NHK九州放送劇団出身の[[内海賢二]]など多数。 民放ではのちのTBSにあたるラジオ東京放送劇団からは[[大平透]]、[[中村正 (声優)|中村正]]、[[滝口順平]]、[[田中信夫]]、[[朝戸鉄也]]、[[向井真理子]]など。 地方局では、CBC中部日本放送劇団出身の[[中江真司]]、RKB毎日放送劇団出身の[[八奈見乗児]]など。 地方局で活動していたのはラジオドラマの全盛期までのことで、テレビ時代になると海外作品の日本語吹き替えなどの声優の仕事は東京に集中していった。 === 声優養成所・声優学校 === 声優プロダクション付属の[[声優養成所]]、声優になるためのレッスン指導を主とする養成所、[[:Category:声優関連の学校|声優関連の学校]](声優養成学科がある[[専修学校]])などの出身。 声優になることを目指すには、声優の養成所や専門学校に通うのがもっとも一般的である。養成期間はおおむね1年から3年で、養成期間修了後に行われる所属オーディションに合格するとプロダクション所属となる。この時点では「新人」「ジュニア」「仮所属」などと称される見習い期間となる。見習い期間が終了し、内部審査を経て、認められた者だけが正所属(正規に所属する)となる。 学生時代のうちもしくは卒業してから養成所に通う人間もいれば、社会人になってから養成所に通う人間もいる。また、学生時代でも中高生から通うことができる養成所もあり、10代もしくは20代前半でデビューしている声優には、子役出身や一般公募の他に中高生から通っていた者が多くみられる。 多くは学生時代のうちもしくは卒業してからの例だが、上記の大平透もフリーのアナウンサー・制作プロデューサー・ディレクターをへてTBS劇団に所属したように、養成所から声優になった者にも、他業種を経てもしくは並行して養成所に通う例は多い。[[若本規夫]]、[[茅野愛衣]]、[[金田朋子]]などは社会人を経て養成所に通うようになり、その後に声優となった。なお若本は元[[警視庁]][[機動隊]]員で除隊後、茅野は[[セラピスト]]をしながら、金田は[[製菓]]会社から[[銀行員]]に転職してから、それぞれ通っていた。[[岸尾だいすけ]]は学校卒業後就職した半導体工場で3交代勤務、デビュー後も付き人やアルバイト生活後、[[井上和彦 (声優)|井上和彦]]は[[プロボウラー]]を目指して、ボウリング場に就職した後、[[三木眞一郎]]はパティシエ、[[三宅健太]]はデパートのパン屋勤務を経て、[[木村亜希子]]は大学卒業後、就職しながら、こおろぎさとみは[[幼稚園]]教諭を4年間勤めて後、[[高橋直純]]は[[寿司職人]]見習いとアイドルユニットを兼務の後に、[[小林裕介]]は大手家電メーカーをへて、[[山崎和佳奈]]は大手電子機器メーカー勤務と並行して、[[近藤孝行]]は関西の鉄道会社勤務の後、[[楠田敏之]]は石油会社をへて、[[高森奈津美]]は声優になるため養成所に通う以前はJR東日本の駅員、[[中井和哉]]、[[永塚拓馬]]、[[掛川裕彦]]、[[原由実]]らは公務員務めと並行して、養成所へ通っている。 [[三石琴乃]]、[[高山みなみ]]、[[中原麻衣]]、[[田中敦子 (声優)|田中敦子]]、[[皆川純子]]、[[洲崎綾]]、[[ファイルーズあい]]らは就職してOL時代並行してもしくは退職後に養成所に通い声優へとなる。 [[橘田いずみ]]が養成所に通う前にはレースクイーンの経歴がある。[[原奈津子]]はローカルタレントをへて養成所に通った。[[生天目仁美]]などは声優の専門学校から[[劇団]]([[劇団東京乾電池|東京乾電池]])を経て養成所に通ってデビューしている。販売店員([[無印良品]])と併業での女優をしていた[[小原好美]]も養成の学校を出て当初芸能事務所に所属してのちに声優事務所に移籍し声優業に転じた。女優・歌手の[[神田沙也加]]は後に声優としても活動し始めるが、それ以前から声優の養成学校に通って準備をしていた。[[佐々木李子]]も歌手としてデビューしてから、声優の専門学校へ進学し、その後声優も始める。[[石上静香]]も既に漫画家として連載を抱えていたが、後に養成所に通うようになって声優となる。 [[稲田徹]]は養成所と並行してプロレスラー志望でもあったが、そちらは怪我により断念している。 地方で他キャリアを積んでから上京して養成所に通う例もあり、[[今野宏美]]は高校生のころに地元の北海道でラジオのパーソナリティーをへて上京して、[[田村ゆかり]]も地元声優学校在籍中には地元KBCラジオでの番組内アシスタントを担当と並行してサラリーマン生活を経て上京してというケースである。 異色の経緯に児童劇団にいたことや特待生オーディションを受けた経歴をもつ[[大原めぐみ]]の場合がある。彼女はすでに結婚し子供も出産して[[専業主婦]]をしていたが、27歳のときに養成所に通い始めている。 [[81プロデュース]]や[[賢プロダクション]]などのプロダクションによる、専門学校や養成所からだけでなく一般からも募集する[[#一般公募|一般公開]]形式のオーディションも開かれているが、こうしたオーデションのグランプリ受賞者は特待生として経営する養成スタジオでのレッスンのほか、デビューだけではなくその後の長期的な声優活動をバックアックもなされる場合がある。 <!-- 大塚明夫は自著『声優魂』の中で、養成所や専門学校は生徒の将来や給与の保証をする必要がなく、「声優学校や養成所というのは非常に儲かる商売です」「売れなければ『お前のせいだ』でおしまい。うまいことスターが出れば『ありゃあ俺んとこで育てたんだ』と言えばいい。それを広告塔に次の声優志望者たちがやってくる。はっきり言って、ローリスク・ハイリターンです」と述べている<ref name="ootsuka">{{Cite|和書|author=[[大塚明夫]]|title=声優魂|date=2015-03|publisher=星海社|pages=140-149|ref=harv}}</ref>。また「『安全策』として学校という道を選ぶ人は、その時点である種のステレオタイプを選んでいるということ、そしてこと芸能の世界においてステレオタイプほどすぐさま使い捨てられる存在はない」と指摘している<ref name="ootsuka" />。|date=2022年11月}}--> === 大学芸術学部・演劇学科 === [[日本大学芸術学部・大学院芸術学研究科|日本大学芸術学部]]<ref>[[日本大学の人物一覧#声優]]</ref>、[[桐朋学園芸術短期大学]]<ref>[[桐朋学園芸術短期大学#出身者]]</ref>、[[玉川大学]]<ref>[[玉川大学の人物一覧#芸能]]</ref>、[[大阪芸術大学]]<ref>[[大阪芸術大学の人物一覧#声優]]</ref>などの大学教育機関の出身者。[[広川太一郎]]、[[柴田秀勝]]、[[平野文]]、[[榊原良子]]、[[かないみか]]、[[うえだゆうじ]]、[[潘めぐみ]]などがいる。[[小山力也]]などは別の大学を卒業してからこれらの大学に進学した。 子役が進学した例としては[[冨永みーな]]、[[平野綾]]、[[宮本佳那子]]など、在学中または卒業後に声優養成所に通う例としては[[石田彰]]、[[川上とも子]]、[[宮村優子 (声優)|宮村優子]]などがいる。 === 俳優・舞台役者 === 舞台演劇や[[ミュージカル]]で活動する舞台役者が、その後声優として長く活動するようになる例は、声優という職業が成立する時期から多く存在しており、大塚明夫<ref group="注">トラック運転手を経て[[文学座]]や[[こまつ座]]などで俳優としての活動はしていた。</ref>、納谷悟朗など[[#舞台劇]]で紹介されたような面々らがこれに該当する。 [[吹き替え]]を中心に、[[俳優]]として活動してきた役者が声優としても長く活動するようになる例もあり、[[津嘉山正種]]、[[磯部勉]]などがこれに該当する。[[日野聡]]も児童劇団から舞台俳優となり、吹き替えを多く担当していた。 劇団や舞台での経験が声優業にも良い影響を与えているという意見もある<ref>{{Cite web|和書|title=【明田川進の「音物語」】第33回 岩田光央さんとの対談(後編)声優は“商品”で事務所は“問屋”|url=https://anime.eiga.com/news/column/aketagawa_oto/110239/|website=アニメハック|accessdate=2021-11-08|language=ja}}</ref>。 [[内田夕夜]]や[[各務立基]]は[[劇団俳優座]]、[[折笠愛]]は[[文芸座]]や劇団創演、[[島本須美]]は劇団[[青年座]]出身の舞台女優、[[折笠富美子]]も[[劇団スーパー・エキセントリック・シアター|SET]]劇団員をへて、[[緒方恵美]]や[[玄田哲章]]、[[三森すずこ]]などミュージカル俳優をへて声優に、[[大川透]]も声優になる前に10年間舞台活動を行っている。 [[朴璐美]]のように劇団所属中に、オーディションで役を射止めて声の仕事を得た例もある。劇団[[HIROZ]]に所属していた[[小松昌平]]、劇団青年座研究所に所属していた[[島形麻衣奈]]らは新人発掘オーディションにて、[[松本梨香]]も[[大衆演劇]]の舞台女優から、舞台で共演した[[名古屋章]]の勧めでアニメ『[[新・おそ松くん]]』のオーディションを受け、声優となった。劇団にいた[[天麻ゆうき]]は、[[東京ミュウミュウ にゅ〜♡]]の一般公募オーディションに合格した事をきっかけに、芸能事務所に所属している。 社会人経験や他分野から舞台演劇の世界を経て声優として活動するケースもある。たとえば[[大塚周夫]]は、[[ダンサー]]から劇団をへている。[[麻生かほ里]]は、[[日本銀行]]勤務を経て舞台・ミュージカル女優から転進。[[一条和矢]]は、大学時代のアマチュア放送劇団、サラリーマンをしながら素人劇団に所属しボイスドラマの自主制作などの経歴がある。[[緒方賢一]]は、板前修行の傍らで喜劇役者を目指し、舞台出演していた。[[竹内順子]]は、アルバイトでの政治秘書と並行して劇団に所属してから、千葉繁は、電気会社工場勤務から劇団に所属後に転進しアクション俳優やスーツアクターもこなしていたという。矢島晶子は勤めていた和菓子屋退職後に、頼み込んで出演することになった舞台を見に来ていた[[たてかべ和也]]にスカウトされ、その後テレビアニメのオーディションで選ばれ声優デビューすることになった。 [[速水奨]]は貿易会社勤務の傍ら[[劇団四季]]の研究所などに所属していた。[[劇団四季]]出身声優には速水の他に[[江原正士]]、[[増山江威子]]、[[遠藤晴]]、[[内田莉紗]]、[[石毛翔弥]]らがおり、吹き替えを多く手がける[[石波義人]]は現役団員である。 [[タカラジェンヌ]]出身の声優には[[太田淑子]]、[[葛城七穂]]、[[水城レナ]]、[[涼風真世]]、[[七海ひろき]]、[[森なな子]]などがいる。 === 子役 === [[児童劇団]]などに所属する子役が、アテレコ・声優の仕事をするようになったことがきっかけで、そのまま声優業を中心に活躍する例は、声優という職業が成立する時期から多く存在している。[[池田秀一]]、古谷徹、古川登志夫、[[吉田理保子]]、[[玉川砂記子]]、[[三ツ矢雄二]]、[[塩屋浩三]]・翼兄弟、[[岩田光央]]、[[本名陽子]]、[[愛河里花子]]、などがこれに該当する。近年では、宮野真守、[[内山昂輝]]、[[木村良平]]、[[入野自由]]、[[三瓶由布子]]、[[木村昴]]、[[飯田里穂]]、[[悠木碧]]、[[喜多村英梨]]、[[小野賢章]]、[[豊永利行]]、[[花澤香菜]]、[[日高里菜]]、[[小倉唯]]、[[白石晴香]]、[[宮本侑芽]]、[[諸星すみれ]]、[[黒沢ともよ]]などがこれに該当する。 通常は児童劇団出身が大半であるが、[[千葉紗子]]や[[南里侑香]]、[[小林晃子]]、[[滝田樹里]]、[[中山理奈]]など[[南青山少女歌劇団]]や、キッズモデルから歌手活動を経て声優になった[[小林愛香]]、主に少女モデル業をしていて、事務所内で声優部門に移籍した[[上坂すみれ]]のケースなどもある。[[春川芽生]]も[[ニコモ]]になって所属した事務所内で後に声優部へ移動している。 === 一般公募 === 直接声優を募集するコンテストで入選したことがきっかけで、声優として活動するようになった例もある。 声優志望者のオーディションでは、全国からオーディションで人材を集める。実際、声優事務所とアニメ制作会社や雑誌社が組んで行う、主役声優の一般公募、事務所独自で行うオーディションもある。 一般公募であれば、全国から人を集められるほか、オーディションに応募するというモチベーションが高い人材が集まることで、そこから優秀な人が出てくる確率がかなり高いとみている<ref name=":1">{{Cite web|和書|title=「声優志望者は専門学校にも養成所にも行くな!」音響監督・長崎行男と福原慶匡Pが明かす、声優業界のいま【インタビュー】 2ページ目|url=https://animeanime.jp/article/2019/07/16/46949.html|website=アニメ!アニメ!|accessdate=2021-09-27|language=ja}}</ref>。 [[大橋歩夕]]、真堂圭、[[曽田光星]]、[[沢城みゆき]]、[[小坂井祐莉絵]]、[[今井麻美]]、[[井上麻里奈]]、[[佐々木未来]]、[[井口裕香]]、伊藤彩沙、[[後藤沙緒里]]、[[榊原ゆい]]、[[三澤紗千香]]、[[豊田萌絵]]、[[伊藤美来]]、[[斉藤朱夏]]、[[高本めぐみ]]、[[進藤あまね]]ら、高校で演劇部や放送部などで鍛えておいて、または興味で直接公募された一般公募オーディションに出場して合格し声優になる例のほか、声優志望者からなる福岡県のローカルアイドルユニット[[小梅伍]]の経験があったが保育士から転じた[[阿澄佳奈]]は2005年(平成17年)での公開オーディションで、[[ジュニアアイドル]]の経験はあった水瀬いのりも公開オーディションであるソニー主催の[[アニストテレス]]入賞によって、声優になっている。アニストテレス出身者のうち、[[伊波杏樹]]は専門の学校出身者であるが、声優教育を受けていない楠木ともり、[[たけだまりこ]](現・武田真理子)らは歌手志望でコンテストに臨んでいる。 [[種田梨沙]]は通っていた学校の都合もあって結果として養成所に通わず、なる足がかりとして『[[智一・美樹のラジオビッグバン]]』のアシスタント募集に一般応募し、アシスタントを1年間勤めた。その後、所属事務所が実施していた研修生オーディションを経て事務所に所属して、[[栗林みえ]]は1996年にコナミが開催した『ときめきメモリアル』のイメージガールを決定する「ときめきティーンズコンテスト」で、[[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]は2014年に行われた[[マクロスシリーズ]]新作テレビアニメの「新歌姫・声優オーディション」合格をきっかけに声優となる。 ミュージックレイン所属で同事務所主催の公募オーディションで選出されたメンバーによる声優ユニットのうち、[[スフィア (声優ユニット)|スフィア]]では[[戸松遥]]以外は[[寿美菜子]]は子役や学校に、[[高垣彩陽]]は大学で[[声楽]]を専攻していた、[[豊崎愛生]]は高校時代から地元のTV番組やCMなどで芸能活動していたが、一方で[[TrySail]]の3名は、実績など無く同オーディションに応募し合格し声優となっている。 [[エイベックス]] と 81プロデュースが組んで、行われた「アニソン・ヴーカルオーディション」でメンバーを選んで結成した声優ユニットのうち、[[i☆Ris]]では[[山北早紀]]、[[芹澤優]]、[[若井友希]]らは養成所などに通っていたが、[[茜屋日海夏]]、[[久保田未夢]]、[[澁谷梓希]]らは養成所などを経ず上記オーディションでの選出。また[[Wake Up, Girls! (声優ユニット)|WUG]]のうち、[[吉岡茉祐]]は子役の実績はあったが、他のメンバーら([[永野愛理]]、[[田中美海]]、[[青山吉能]]、[[奥野香耶]]、[[山下七海]]、[[高木美佑]])同様、養成所など経ず上記オーディションでの選出である。81プロデュースでは近年同事務所所属の人気声優は軒並み毎年一般公募で8月に開催されている[[81オーディション]]でデビューしている。2022年には81プロデュースは合格者は同プロダクションの所属と[[ユニバーサルミュージック]]からのアーティストデビューが約束される、声優ガールズユニット発掘プロジェクト「SUN AUDITION」<ref>[https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1658722785 声優&アーティストデビューの夢をつかんだ彼女たちの“未来”に注目!声優ガールズユニットオーディション企画「SUN AUDITION」合格者8名にインタビュー!]</ref>を実施。 [[スターダストプロモーション|スターダスト]]に所属する[[サンドリオン (声優ユニット)|サンドリオン]]のメンバーも[[黒木ほの香]]や劇団にいた[[小山百代]]の他は、事務所が主催したオーディションをへて事務所に所属してから演技経験を積んでいる。 2011年度の「第36回[[ホリプロタレントスカウトキャラバン]] 次世代声優アーティストオーディション」出身のうち、[[大橋彩香]]は子役経験があったが、[[高橋花林]]は遠藤ゆりか、[[花守ゆみり]]、[[加地綾乃]]らも輩出した「ぽにきゃん声たまグランプリ」、[[木戸衣吹]]は『[[天才てれびくんMAX]]』の視聴者参加型企画「全国声優オーディション こえたまごっ!」など複数の公募オーディションを経て、[[田所あずさ]]、[[Machico]]、[[山崎エリイ]]に至っては他未経験での参加であった。[[富田美憂]]も未経験者の[[前田佳織里]]、[[夏吉ゆうこ]]、[[三浦千幸]]らも輩出した「声優アーティスト育成プログラムセレクション」や[[小田紗弓]]を輩出した「アニソンスター☆誕生!(アニ☆たん!)」などに応募し声優になっている。 2017年に行われた声優アーティストオーディション「ANISONG STARS」では[[アクターズスクール広島]]出身の[[吉武千颯]]のほかは[[熊田茜音]]、[[後本萌葉]]らを輩出。 [[声優アワード#新人発掘オーディション]]出身者では[[鴨池彩乃]]、[[拝師みほ]]、[[三川華月]]、[[織江珠生]]、[[岩川拓吾]]、[[土師亜文]]、[[青木瑠璃子]]らが直接である。 他にも「[[全日本アニソングランプリ]]」、[[国際声優育成協会]]主催のオーディション声優コンテスト『[[国際声優コンテスト「声優魂」|声優魂]]』、[[博報堂]]による声優オーディション企画「全日本美声女コンテスト」など、一般公募のコンテストが開催されている。こうしたコンテスト出場・入賞をきっかけに、養成所に入所する例や、出場がきっかけで直接プロダクションに所属する例もある。 === その他 === [[花江夏樹]]は直接プロダクションにアプローチしたが、こうした例はレアケースとして知られる。ただし[[研音]]など事務所側で募集をしている場合も実際に存在する。他に[[スターダストプロモーション]]が声優オーディションを、[[大沢事務所]]が研究生募集のオーディションを手掛ける。 [[#子役|子役]]や[[#俳優・舞台役者|劇団所属の舞台俳優]]からの転身の他は、[[アイドル]]、[[グラビアアイドル]]、[[歌手]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[#特撮番組系の俳優の声優活動|特撮番組系俳優]]、[[お笑いタレント]]、[[レポーター]]、[[コスプレ|コスプレイヤー]]などといった経歴のタレントが、声優の仕事をするようになったことがきっかけで、もしくはオーディションで役を得て、そのまま声優業を中心に活躍する例がある。例えば養成所で芝居は学んでいる[[原田ひとみ]]は歌手としてスカウトされ、当初は歌手活動をしていた。[[高槻かなこ]]はアニソン歌手を目指して配信などの活動を経て歌手デビューし、後に声優デビューしている。[[仲村宗悟]]は声優アーティストになる前は音楽活動のみをしていた。[[桃井はるこ]]はマニア向けのアイドル活動からラジオパーソナリティも行い始め、のち誘いを受けて声優の活動も開始していった。近藤玲奈は声優になるまでは[[ラブベリーナ]]、久保ユリカは[[ニコモ]]を経ており、久保はグラビアアイドルをしていた。飯田里穂も子役からグラビアアイドルを経ている。小林晃子はアニラジの[[がや]]オーディション、宮本佳那子は挿入歌の歌唱オーディションから、[[松井菜桜子]]、[[千葉千恵巳]]、[[落合祐里香]]、大野まりな、[[柚木涼香]]らもなるまでには映画女優、ヌードモデルなど、[[山本彩乃]]はグラビアアイドル、[[小林ゆう]]は高校時代の雑誌モデル、[[工藤晴香]]はファッション誌モデルであった。[[中島愛]]、明坂聡美、[[小松未可子]]らも選出オーディションはアイドルオーディションで、[[ゆりん]]はホリプロ時代はタレント業、[[MAKO]]はガールズバンドグループ活動休止の後、[[後藤友香里]]は[[AAA (音楽グループ)|AAA]]の追加メンバーから声優ユニット「Trefle」へ、[[飯島綾子]]や[[岩男潤子]]はアイドルから童謡歌手{{sfn|内藤 (2017)では、歌って踊れる声優のルーツとしている<ref name=naito/>}}を経て、[[森田成一]]は俳優を経て2001年から、声優へと転進している。[[藤村知可]]は、レポーターなどのタレントをへて、2006年以降に声優業が中心になる。[[小岩井ことり]]は知人から頼まれて[[化粧|メイク]]のモデルをしたのをきっかけに声の仕事(ナレーション)を紹介され、その後声優になるきっかけを掴むために地元関西でテレビ番組やCMのナレーションなど様々な仕事をしていたし、[[立花理香]]は大学院在学中に芸能事務所にスカウトされて、声優になるまではタレント業を行っていた、[[儀武ゆう子]]は高校2年生の時から地元沖縄で戦隊ヒーローものの子供ショーの司会やまつりのアナウンスも担当し、上京後もイベントのMCや地方ケーブルテレビのリポーターなどの仕事をしていたという。 アイドルから声優への転身は前述の飯島や岩男(いわお潤)、小松のほかは[[山本百合子]]、日髙のり子や[[佐久間レイ]]、岡谷章子([[岡寛恵]])、松本裕美([[大野まりな]])、[[宍戸留美]]、[[桜井智]]、[[千葉千恵巳]]、[[徳永愛]]、水野奈央子([[水野愛日]])、千葉紗子、[[高橋美佳子]]、[[平田裕香]]の例が知られるが、特に2010年代になって以後は、現役アイドルのまま声優としても活動する人間が登場、増加するようになっている<ref name="seiyuartist2018a" />。一例として、仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)、[[佐武宇綺]]([[9nine]])などが挙げられる。 一方で、声優になるための足がかりとして、アイドルをしていた例や、歌手([[#声優アーティスト]])になるための足がかりとして、声優を目指す例もみられる。[[福井裕佳梨]]は最初[[芸能事務所]]に所属して仕事を始めたので、キャリア初期にはものまねやグラビアアイドル活動などのアイドルタレント業を多くこなしていた。[[秦佐和子]]は[[秋葉原|アキバ]]関連を扱う雑誌に載っていたオーディションの募集だということで、[[SKE48]]になるのが声優への近道と思っていた。[[夜道雪]]は地元で10代の時に[[スカウト (勧誘)|スカウト]]されたことをきっかけに[[ローカルアイドル]]として活動の傍ら、配信ゲームで声を当て、上京した後も養成所に通いながら独力でYouTube活動とコスプレーヤーをしながら声優への道に進んでいる。 異色の例に、[[郷田ほづみ]]、[[竹内幸輔]]のように芸人や、[[相羽あいな]]のように[[女子プロレスラー]]という異例の経歴をもって声優を行っている者なども知られる。また[[清水愛]]は声優界初の兼任女子プロレスラーとして知られる。 [[エリック・ケルソー]]は元々映像監督であったが、来日後にナレーター、英語吹き替え、ラジオパーソナリティと活動分野を広げアニメやゲームの声優としても活動している。 == 他分野の芸能人・著名人などの声優活動 == 俳優・歌手・音楽家・アイドル・グラビアアイドル・モデル・お笑いタレント・スポーツ選手・著名人が、声優活動をすることや、作品によって声優に起用されることがある。 アニメーション作品においても、本人役という手段で作品に登場させ、本人にアテレコをさせる例は多い。 もともと、専業の声優が確立されていなかった時代、[[東映アニメーション|東映動画]]の長編作品のころから、長編アニメーション映画において、ほかの芸能人・著名人などを声優に起用することは珍しくない。[[1990年代]]以降の[[スタジオジブリ]]制作作品、[[2000年代]]以降の[[スタジオ地図]]制作作品に至るまで、こうした傾向は現在でも続いている。スタジオジブリの[[鈴木敏夫]]はジブリが本職の声優ではない人物を使う理由について、『ジブリの教科書3 となりのトトロ』では、プロの声優について「『わたし、かわいいでしょ』みたいな」声への違和感、そしてプロの声優を使わないことについては『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』にて、『耳をすませば』で月島雫のお父さん役をつとめた[[立花隆]]との対談で、『となりのトトロ』のオーディションの際に声優であるとやっぱり普通のお父さんになってしまうため、おとうさんっぽくない感じを求めて糸井重里を、『耳をすませば』の雫のお父さんも同様の見解で立花を選出しており、声優の芝居は[[ハレとケ]]にわけると「ハレ」であるが、日常芝居が多いジブリ映画で実際にほしいのは「ケ」であるとしている<ref>{{Cite book|和書|author=鈴木敏夫 |title=ジブリの哲学 : 変わるものと変わらないもの |publisher=岩波書店 |year=2011 |ISBN=9784000234955}}</ref>。 なお、副業でできる声優としてオーディオブック、朗読のアルバイトなど、声で稼げる仕事として求人サイトやバイト情報、クラウドソーシングで募っていることがある。 === 役者以外を声優に起用すること === [[声優#第1次声優ブーム|第1次声優ブーム]]に行われた[[アテレコ論争]]では、声優の地位問題が提議されている。アテレコの演技性を巡っては、俳優の起用は暫定的なものに過ぎず、「[[落語家]]でも[[アナウンサー]]でも、[[案内|観光案内係]]でも、声を使う職業の人の中から選ばれてもよいことだ」という意見も示されている。 「吹き替え・アテレコ調」を「[[新劇]]調」「翻訳劇調」と並んで嫌う演劇家も存在する<ref>{{Cite web|和書|title=A:翻訳劇をどう演じるか?~チェーホフ戯曲を用いて考える~ - 一般社団法人 日本演出者協会 |url=https://web.archive.org/web/20210917185019/https://www.jda.jp/seminar-ws/university/unidetail/1865.html |website=web.archive.org |date=2021-09-17 |access-date=2023-03-10}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=演劇大学 IN大阪2020 報告 - 一般社団法人 日本演出者協会 |url=https://www.jda.jp/seminar-ws/university/10835.html |website=日本演出者協会 |date=2021-02-28 |access-date=2023-03-10 |language=ja}}</ref>。 アニメ監督の[[高畑勲]]は、[[プレスコ]]を採用した『[[平成狸合戦ぽんぽこ]]』で落語家の[[柳家小さん (5代目)|柳家小さん]]、アナウンサーの[[福澤朗]]などを起用している。 [[ミッキーマウス]]の声優をつとめていた[[青柳隆志]]は、大学[[教授]]が本業であり声優は副業であった。小鳩くるみ時代役者や司会者であった[[鷲津名都江]]も大学教員となってからも自身が演じた『[[アタックNo.1]]』の鮎原こずえ 役や[[ディズニー映画]]『[[白雪姫]]』の[[白雪姫]] 役の声をのちにゲーム機([[CRぱちんこアタックNo.1]](2007年)や[[キングダム ハーツ バース バイ スリープ]](2010年)や[[Kinect: ディズニーランド・アドベンチャーズ]](2011年))でも声を担当した。 アニメ監督の[[宮崎駿]]は、「映画は実際時間のないところで作りますから、声優さんの器用さに頼ってるんです。でもやっぱり、どっかで欲求不満になるときがある。存在感のなさみたいなところにね。」という見解を示した事があり、『[[となりのトトロ]]』では[[コピーライター]]の[[糸井重里]]を起用している<ref>{{Cite web|和書|title=宮崎駿は、声優のスキルについてどう考えているのか|url=https://www.excite.co.jp/news/article/E1372265521873/|website=エキサイトニュース|accessdate=2022-01-31}}</ref>。直近の長編作品である『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』においてもアニメ監督の[[庵野秀明]]を起用し、「逆に庵野(秀明)もスティーブン・アルパート<ref group="注">2011年までスタジオジブリ海外事業で勤務していた人物。宮崎駿が本人をモデルにした役を設定し起用した。</ref>も存在感だけです。かなり乱暴だったと思うんですけど、その方が僕は映画にぴったりだったと思いました。」とその意図を説明している<ref>{{Cite web|和書|title=宮崎駿監督引退会見 一問一答|シネマトゥデイ|url=https://www.cinematoday.jp/page/A0003837|website=シネマトゥデイ|accessdate=2021-02-07|language=ja}}</ref>。 劇中でテレビニュースが映る場合は、リアリティを重視して放送局に所属する本業のアナウンサーを起用する例があり、フリーアナウンサーの[[松澤千晶]]はアナウンサーやレポーター役としてのみ出演している。 なお、ナレーションやアナウンスも声優の仕事の一部であるが、[[フリーアナウンサー]]が声優という肩書きで活動することはない。黎明期には局のアナウンサーが声をあてた事例もあるが、現代では演技を行わないアナウンサーと声優は、別の職業としてとらえられている。 まれに制作スタッフや原作者などの関係者がエキストラやゲストキャラクター役の声優として起用されることもある([[カメオ出演]])。 ;ミュージシャンが担当するケース 劇中に楽曲、歌唱が重要な役に抜擢されることもある。 前述1980年代初頭の[[リン・ミンメイ]]役の飯島真理、『魔法の天使クリィミーマミ』の太田貴子のほか、『[[竜とそばかすの姫]]』の[[中村佳穂]]、『[[魔法のスターマジカルエミ]]』の[[小幡洋子]]などのケースがみられる。 ディズニー公式動画配信サービスの『[[ソウルフル・ワールド]]』ではグラミー賞アーティストが声優参加しており、日本語版も[[瑛人]]がストリートミュージシャン役の日本版声優としてカメオ出演する。 『[[とっとこハム太郎]]』の[[ミニハムず]]や『[[ゾンビランドサガ]]』のホワイト竜のように、本人らをイメージしたキャラクターを当てる手段や、[[山崎ハコ]]が『[[ちびまる子ちゃん]]』に本人役で出たケースもある。 『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのうち、[[RAISE A SUILEN]]に参加する[[Raychell]]、[[夏芽]]は他グループのバックバンドもつとめていたミュージシャン、[[小原莉子]]は並行してバンド活動をしていた。[[Morfonica]]に参加する[[西尾夕香]]もDJなどの音楽活動、[[mika]]はドラマー、[[Ayasa]]はバイオリニストである。 役者ではないため本格的な声優業は無理という意見もあるため<ref>{{Cite web|和書|title=「アーティストが声優やるのは無理」 GACKT発言への意外な反応 |url=https://www.j-cast.com/2017/03/23293829.html?p=all |website=J-CAST ニュース |date=2017-03-23 |accessdate=2021-09-27 |language=ja}}</ref>、歌唱シーンだけ歌手が担当するダブルキャスト方式もある<ref>{{Cite web|和書|title=アニメ「パリピ孔明」追加キャストに千葉翔也・山村響ら、英子の歌唱は96猫が担当(動画あり) |url=https://natalie.mu/comic/news/461804 |website=コミックナタリー |access-date=2022-04-17 |language=ja |first=Natasha |last=Inc}}</ref>。 [[ぴえろ魔法少女シリーズ]]のように歌手に声優を担当させている作品など、1980年代前半には新人女性歌手をアニメとタイアップさせて主題歌を歌わせ、役も与えるという手法が派生していた。前述の飯島や太田らだけでなく、[[志賀真理子]]や[[宮里久美]]らも同時期に同様のスタンスでデビューを飾っており、このことがのちの[[#アイドル声優]]の先駆けとして紹介されることもある。1990年代でも当時歌手デビューしていた[[仲間由紀恵]]などが『[[HAUNTEDじゃんくしょん]]』出演をきっかけに「女子高生アイドル声優」という売り出し方をされていた。 === 俳優の起用 === テレビ人形劇では声優の仕事が確立される以前から放送されたこともあり、俳優や劇団員が起用された。その後俳優が選ばれることが多く、2014年(平成26年)に放送された人形劇『[[シャーロック ホームズ (人形劇)|シャーロック ホームズ]]』では俳優と声優が混在して起用された。海外ドラマの吹替においても、最初からアニメ声優を目指した声優を生み出し、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がっていた第二次声優ブーム以後も、前述のとおり1982年の海外ドラマ『遥かなる西部 わが町センテニアル』の吹替放や第三次声優ブーム期1996年『ER緊急救命室』吹き替え放送で劇団に所属する俳優の起用など、俳優が起用されるケースはいくつかみられた。 映画では、前述の『幻魔大戦』『紫式部 源氏物語』『もののけ姫』以後も、俳優が起用されることが多い<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0102838 上白石萌音、松岡茉優らアニメ声優に挑戦する若手女優たち] [https://www.cinematoday.jp/news/N0100330 蒼井優の声優としての魅力とは?アニメファンからも高評価のワケ] [https://realsound.jp/movie/2016/07/post-2171.html 松岡茉優、水原希子、波瑠……相次ぐ人気女優のアニメ声優への挑戦]</ref>。 俳優を多く起用するアニメ監督もおり、[[原恵一]]は他の芸能人や劇団の子役・俳優を声優に起用している<ref>「原恵一監督が語る新作映画のキャスティング!」『サイゾー』インフォバーン、2007年8月号。</ref>。[[富野由悠季]]は、声優の演技は型にはまっていると批判したことがあり<ref>{{Cite book|和書|author=富野由悠季|authorlink=富野由悠季|title=富野由悠季インタビュー集 富野語録|page=195|publisher=[[ラポート]]|isbn=978-4-89-799296-9|date=1999-1}}</ref>、主役に劇団出身者や新人声優を多く起用している。[[押井守]]は、存在感と新鮮さが声優に勝ることがあるとして<ref>{{Cite book|和書|author=押井守|authorlink=押井守|title=すべての映画はアニメになる|pages=307-309|publisher=徳間書店|isbn=978-4-19-861828-5|date=2004-03-27}}</ref>、複数の作品に俳優の[[竹中直人]]を起用しており、『[[スカイ・クロラシリーズ#映画|スカイ・クロラ The Sky Crawlers]]』ではメインキャラクターに俳優を起用した。 テレビアニメ作品では『[[ムーミン]]』(1969年〈昭和44年〉)の[[岸田今日子]]、NHK版『[[ピーナッツ (漫画)|スヌーピーとチャーリー・ブラウン]]』(1972年〈昭和47年〉)の[[谷啓]]や[[うつみみどり]]などが選ばれ、フジテレビ「[[日生ファミリースペシャル]]」枠のアニメ『坊っちゃん』『姿三四郎』(1980年〈昭和55年〉)では[[西城秀樹]]がつとめた。長期にわたり放送された『[[まんが日本昔ばなし]]』では[[市原悦子]]と[[常田富士男]]が、『[[まんが世界昔ばなし]]』では[[宮城まり子]]と名古屋章らが声優を務めていた。 その後も監督が抜擢するなどして、俳優が選ばれる例がある。『[[ノブナガ・ザ・フール]]』では原作・シリーズ構成の[[河森正治]]が[[宝塚歌劇団]]を取材した際、現役[[タカラジェンヌ]]である[[七海ひろき]]の舞台を見て抜擢した。七海は宝塚退団後も俳優兼声優として活動している。『[[富豪刑事|富豪刑事 Balance:UNLIMITED]]』では監督の[[伊藤智彦]]が有名声優を使うことよりも作品のオリジナリティを重視したことや、大富豪である主人公の存在感を際立たせるため、イメージに合う声としてダンサー兼俳優の[[大貫勇輔]]を抜擢した<ref>[https://animeanime.jp/article/2020/07/16/55045_2.html 「富豪刑事 Balance:UNLIMITED」プロデューサーが仕掛ける話題づくりの“妙”【インタビュー】] - アニメ!アニメ!</ref>。『[[彼氏彼女の事情]]』で声優に起用された[[本谷有希子]]はのち劇団を主宰する舞台女優かつ劇作家、芥川賞作家である。 上述の俳優が声優に起用されることに関して、アニメを多く手がける脚本家の[[首藤剛志]]は「マイクの前で声を出しているだけの声優よりも、声優としての技量が劣っても、実際に観客の前で芝居をする俳優が買われているのではないか」と述べている<ref>{{Cite web|和書|date=2006-03-01|url=http://www.style.fm/as/05_column/shudo39.shtml|title=首藤剛志「シナリオえーだば創作術 第39回 『戦国魔神ゴーショーグン』予告のわけ……」|work=|author=|publisher=[[アニメスタイル|WEBアニメスタイル]]|accessdate=2013-04-18}}</ref>。 俳優の[[納谷悟朗]]は舞台も声優も同じであるとし、その上でアテレコの難しさとは声を当てる対象が行う芝居の把握にあると説いている。声優を目指す者に対しては「基本でしょう。さっき言った、いわゆる舞台という演技の基本をきちんとしないとだめだっていうことですね」と述べている<ref>{{Cite web|和書|title=スーパー!ドラマTV 海外ドラマ:納谷悟朗インタビュー|url=https://www.superdramatv.com/alacarte/seiyuu/detail3.html|website=www.superdramatv.com|accessdate=2021-02-05|publisher=}}</ref>。 俳優の[[矢島正明]]は声だけで入ると己で役を肉体化する基本が抜け落ちるとし、声の仕事を目指す者に対しては「『声だけだから簡単だわい』、と思わないでほしいなということがまず第一です。声優を志すならば、やはり芝居から入ってほしいと思います」と説いている。また、後進たちに対しては「このごろの吹き替えの世界で、芝居の人たちが席巻してきているということは、声優として純粋に育ってきた人たちは何か危機感を感じなければならないと思うんですよね」とも述べている<ref>{{Cite web|和書|title=スーパー!ドラマTV 海外ドラマ:矢島正明インタビュー|url=https://www.superdramatv.com/alacarte/seiyuu/detail11.html|website=www.superdramatv.com|accessdate=2021-02-08|publisher=}}</ref>。 俳優の[[野沢那智]]はハリウッド映画の俳優・女優が百戦錬磨の役者である事を強調し、「だから、役者として必死に修行しないと、アテレコなんてやっちゃいけないんだと思うんだよね」と述べ、アテレコの心構えを彼らと同じだけの芝居ができるようになる事に求めている<ref>{{Cite web|和書|title=第2回 野沢那智【ふきカエルインタビュー】ふきカエル大作戦!!|url=https://www.fukikaeru.com/archives/interview_02_p3.html|website=www.fukikaeru.com|accessdate=2021-02-05}}</ref>。 女優の[[戸田恵子]]は自身の声優観を「役者として怠っていることがなければ、それは声優としてもOKということ。私は『声優であるために』と思ってしていることは、一つもありません」とし、役者の仕事と何ら隔たりはないと述べている<ref>{{Cite book|和書|author=声優グランプリ|authorlink=声優グランプリ|title=声優道 名優50人が伝えたい仕事の心得と生きるヒント|page=37|publisher=[[主婦の友社]]|isbn=9784074352296|date=2019-2}}</ref>。 声優の[[難波圭一]]は「いいですよね。ぼくは声優という小さな世界がなくなることを望んでいます」と肯定的な考えを持っている<ref>山本健翔『声優になるには』ぺりかん社、2007年、p.55</ref>。<!--一方で「俳優が『声のお仕事をした』という報告は応援できるけど、『声優をやってきました』という報告は、仕事がとられたみたいで素直に応援できない」という考えを持った声優も少なくない。---> 俳優などを多く起用するゲームシリーズ『[[龍が如く]]』では、ある有名俳優を起用したが事前準備もされずに収録に臨まれ、演技がなかなか上達せず[[横山昌義]]の指示で何度もリテイクが行われ、時間をかけてその場面の距離感や感情を説明して及第点といえるところまで収録できたが「同じ苦労をした別の役者に申し訳ない、妥協はしたくない」として仕方なく降板してもらったという事例もある<ref>週刊ファミ通『龍が如くシリーズ10周年記念本 龍大全』KADOKAWA、2015年、p.81-82</ref>。 女優の[[吉岡里帆]]は声優は完全に別職業であるとして、「今後、もし万が一『吉岡里帆の声でなくては成立しない』というような話があれば、それはとてもうれしいですし、ちゃんと勉強して挑みたいです」と述べている<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=吉岡里帆:「私のうぬぼれだった…」 声優挑戦で数々の“気づき”|url=https://mantan-web.jp/article/20170414dog00m200050000c.html|website=MANTANWEB(まんたんウェブ)|accessdate=2021-02-08|language=ja-JP}}</ref>。 女優の[[夏木マリ]]は声の仕事を音のテンポや高低や強弱など、いろいろなものを体をつけてやる全身運動だとする見解を示している。俳優として巡りあったことは非常にラッキーであり、「俳優さん、全員がやられたほうがいいと思うくらい、勉強になるいい仕事だと思います」と述べ、吉岡里帆にも勧めている<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.superdramatv.com/line/whitehouse/inside.html|website=www.superdramatv.com|accessdate=2021-02-08|title=スーパー!ドラマTV 海外ドラマ:夏木マリインタビュー|publisher=}}</ref>。 ==== 特撮番組系の俳優の声優活動 ==== [[東映]]の[[特撮]]変身ヒーロー作品、とりわけ「[[仮面ライダーシリーズ]]」の「昭和ライダー」最終作にあたる『[[仮面ライダーBLACK RX]]』および「[[スーパー戦隊シリーズ]]」では、『[[炎神戦隊ゴーオンジャー]]』に至るまで長きにわたりオールアフレコで制作されてきた。 いわゆる「平成ライダー」第1作にあたる『[[仮面ライダークウガ]]』<ref>[https://web.archive.org/web/20140222023652/http://career.nexsol.jp/useful/interview33_1.html BIGLOBEポータル内旧コンテンツ「お仕事DB」第33回・鈴村展弘インタビュー記事より。2014年2月8日確認](2014年2月22日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>および『[[侍戦隊シンケンジャー]]』<ref>[http://www.toei.co.jp/tv/shinken/story/1188144_1569.html 侍戦隊シンケンジャー 第二幕 極付粋合体] 東映公式サイト 2014年1月9日閲覧。</ref>から、俳優が顔出しで演じるシーンは基本的に一般的なドラマと同様の撮影同時録音方式に切り替えられたものの、現在でも[[スーツアクター]]が演じる変身後のシーンなど番組制作の各所でアフレコが多用されているため、特撮番組に出演経験のある俳優は、声優としての演技経験を事実上しているとも言える。特撮番組で出演経験のある俳優がアニメなどの声あてをすることもあり、中には[[松風雅也]]、[[土田大]]、[[中田譲治]]、[[市道真央]]など、声優を本業として転向した者もいる。 特撮に登場する怪人など人間の姿ではないキャラクターの声には、最初から声優が起用されることもある。 [[曽我町子]]、[[内田直哉]]、[[西凜太朗]]、[[小川輝晃]]、[[岸祐二]]、[[菊地美香]]、[[五代高之]]、[[植村喜八郎]]、[[望月祐多]]、[[池田純矢]]、[[相葉裕樹]]など、特撮番組を経験した俳優には声優と両立する者が多い。 === 芸人の起用 === お笑い芸人としては、[[ルパン三世]]の物真似から山田康雄の死去に伴いルパン役の声優をやることになった[[栗田貫一]]、『[[アイシールド21]]』(2005年〈平成17年〉〜2008年〈平成20年〉)の[[田村淳]]、『[[天体戦士サンレッド]]』(2008年〈平成20年〉)の[[山田ルイ53世]]、アニメ版『[[こちら葛飾区亀有公園前派出所]]』の[[コント赤信号]]の二人([[ラサール石井]]や[[小宮孝泰]])などが知られる。また、声優も務める[[山本高広]]などは、もともと声優を目指していた<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/854638?page=1 「代アニの同期には能登麻美子さんがいました」声優再挑戦のモノマネ芸人・山本高広47歳が明かす“新人声優”時代「自分オリジナルの声がわからなくなった」]2022/09/16 11:02 Number ExBACK</ref>。[[アメリカザリガニ (お笑いコンビ)#アニメ|アメリカザリガニ]]の柳原哲也は、特徴的な声質を活かし、多くのアニメ作品で声優を務める。またこうした面々がコメディアンやお笑い芸人役で起用される例もある。 アニメ映画では俳優同様のゲスト出演が大半であるが、コメディアンは元々コントや漫才でさまざまな役柄を使い分けることもある。このため、俳優やタレントに比して優れた演技力を持つものが多く、違和感なくすんなり作品を楽しめることが多いという声もある。 声優と[[講談師]]を兼業する[[一龍斎貞友]]、六代桂文枝門下でラジオパーソナリティDJ・ナレーションを本業で声優業もこなす[[高杉’Jay’二郎]](亭号は初代三枝亭二郎)、声優芸人という肩書きで活動する、元声優のよしもと芸人[[あつひろ]]なども知られる。 [[金谷ヒデユキ]]も[[漫談家]]と声優を並行している。 === バーチャルYouTuberの起用 === 2010年代から[[歌い手]]のそらるが[[そらる#タイアップ|タイアップ]]でいくつか起用されているほか、2018年(平成30年)には[[バーチャルタレント]]を対象に、声優出演・アニメエンディング曲担当の権利をかけたオーディションを実施したTVアニメ『[[賢者の孫]]』ではオーディションを勝ち抜いた[[吉七味。]]が声優およびEDテーマを担当、また特別賞を受賞した[[雛乃木まや]]が声優として出演する。 『[[ジャヒー様はくじけない!]]』では[[動画配信者]]たちがキャスト出演や主題歌アーティストなどを務めている。 『[[100万の命の上に俺は立っている]]』に、[[にじさんじ]]の[[樋口楓]]と[[静凛]]が出演し、さらに樋口楓がOPテーマ「Baddest」の歌唱に起用されている。 『[[ルパン三世]]PART6』や『[[邪神ちゃんドロップキック]]』の3期にも[[バーチャルYouTuber]](VTuber)が声優として出演。 2020年(令和2年)以降、[[ホロライブ]]などに属するVTuberの声優業進出が盛んとなっている。 その他テレビアニメ『[[探偵はもう、死んでいる。]]』では[[白上フブキ]]と[[夏色まつり]]がそのままの役としての出演を果たしている。こうしたアニメでの活躍もアニメキャラクターがまるで実在しているかのような設定で活動しているのではなく本人役でのアニメ出演は実在のタレントが本人役として登場する形に近い。基本的にVTuberは、バーチャルタレントであるライバーの姿そのものが本人という設定である。このため存在としては実在の声優やアーティスト、YouTuberに近い。 図式としては、すでに[[キャラクター]]を演じているVTuberが、アニメやゲームのキャラクターを演じることになる。VTuberというバーチャルタレントには中の人と呼ばれる演者(モーションキャプチャーなどの際)と声をあてる人物がおり、声優が行っている場合もある。 === AI音声の起用 === AI音声も2020年代には技術的により人に近い音声読み上げが実現可能になっており、上記のボイスドラマもすべてAIの音声合成技術を使用して実行する「オトシネマAI」シリーズ<ref>[https://www.audible.com/pd/AIVol1-AI-Podcast/B09VTJK84B?ipRedirectOverride=true&overrideBaseCountry=true&pf_rd_p=6fc9af9c-47b8-491a-a921-39d5d7823215&pf_rd_r=8W61XH2NTTMM8AB80915 『AI声優・ミナミの使命』~Vol.1競争~【オトシネマAI/音声合成歌】]</ref>、さらに『[[れいぞうこのつけのすけ!]]』のように、テレビアニメとして初めて全キャラクターの声をAI(コエステーション)にした作品も出現<ref>[https://coestation.jp/blog/detail.php?id=1002231 世界初の全キャラAI声優アニメが生まれた舞台裏。「これからの子供番組は、視聴者参加型の双方向であることがとても大切に」] 2021/01/06</ref>、多くの声が必要なコンテンツにAIが利用されている<ref>[https://kyouon-dairakushou.com/ai-voice-synthesis-engineer/ 声優の仕事はAIに取られるってほんと? 2020年の音声合成技術者やAI歌手の進化に驚愕!]</ref>。 === 批判 === 映画では作品の質よりも話題性を狙って芸能人・著名人などを声優に起用するということも多いため<ref>原恵一、浜野保樹・編著『アニメーション監督 原恵一』晶文社、2005年、p.48。「劇場版『クレヨンしんちゃん』の有名人のキャスティングは宣伝の一環だ」と原恵一の証言</ref>、芸能人・著名人などの声優起用に批判が出ることもある。 [[2007年]]公開のアニメ映画『[[ザ・シンプソンズ MOVIE]]』や[[2012年]](平成24年)公開の映画『[[アベンジャーズ (2012年の映画)|アベンジャーズ]]』などで、これまでのシリーズで日本語吹き替えを担当していた声優を、新作映画で俳優・タレントに交代する事態が発生しており、企業への批判が殺到した。『ザ・シンプソンズ MOVIE』『[[TAXi④]]』『[[エクリプス/トワイライト・サーガ]]』ではソフト化に伴い、劇場公開版に加え、もともと担当していた声優陣による新たな吹き替え版が同時収録された。しかし、ソフト化の際に劇場公開版のみが収録される作品が大半である。特に『アベンジャーズ』ではキャスティングの変更などに対する批判のコメントが[[Amazon.co.jp]]の本作品のレビュー欄に殺到する事態となった<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0048516 批判殺到でコメント欄の炎上も!タレントの日本語吹き替え版起用に映画ファンの怒り爆発!(シネマトゥデイ)]</ref>。[[2012年]](平成24年)公開の映画『[[プロメテウス (映画)|プロメテウス]]』の主人公エリザベス・ショウ役の吹き替えにタレントの[[剛力彩芽]]が起用された際、ソフト化に際して変更もなかったため『[[エイリアン (映画)|エイリアン]]』シリーズのファンなどから酷評され、Amazon.co.jpのレビューが炎上した<ref>[https://news.livedoor.com/article/detail/7113955/ 映画『プロメテウス』声優にタレント剛力彩芽を起用して強い批判の声 / ファン「メーカーは正気なのでしょうか?」] ロケットニュース24、2015年3月17日閲覧。</ref>。 劇場公開版では芸能人や芸人が吹き替えを担当した作品のうち、『[[じゃりン子チエ]]』のように、テレビアニメ化の際に一部キャストは声優に変更しているものや、『[[ターミネーター3]]』や『[[サイレントヒル: リベレーション3D]]』のように、ソフト版では声優に差し替えて収録する場合もある。また、『[[X-MEN:フューチャー&パスト]]』のように、新規バージョンをソフト化する際に収録し直す例もある。 [[2004年]](平成16年)公開のアニメ映画『[[イノセンス]]』では、プロデューサーの[[鈴木敏夫]]が大物俳優の起用を立案し、草薙素子役を[[田中敦子 (声優)|田中敦子]]から[[山口智子]]に変更しようとしていたが、スケジュールの都合に加えて「できあがっているイメージを変えるべきではない」と出演を固辞した山口と、監督や声優陣の反対により田中が続投したということがあった。 [[オリコン|オリコンスタイル]]で「タレント(芸能人や著名人など)を声優に起用するべきか、それともしないべきか」というアンケート調査を[[2014年]](平成26年)に行ったところ、ほぼ半々に意見が分かれた<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/1372/2/ タレントの声優起用、ほぼ半々に意見が割れる] [[オリコン|ORICON STYLE]] 2022年6月10日閲覧。</ref>。 2020年(令和2年)に大ヒットを記録した『[[劇場版 鬼滅の刃 無限列車編]]』では、新登場したキャラクターも含め全員を声優で固めているが、前述の『THE FIRST SLAM DUNK』も声優で固めており、これらがタレントを起用せずともヒットすることを示した<ref>[https://www.oricon.co.jp/special/55459/ 『鬼滅の刃』ヒット契機に“声優起用”の原点回帰が加速、花江夏樹がハブ的役割に] - [[ORICON NEWS]]</ref>。 == 声優による他分野での活動 == === 芸能活動 === 2000年代以後、声優が歌手や俳優(特に舞台)など、ほかの分野での芸能活動をすることが特に顕著になった。 声優がほかの分野での芸能活動をする例のひとつとして、俳優活動が挙げられる。理由として「声優さんには『ああ、あの声の人だ』という知名度ならぬ『知声度』があるので、仮に顔がいまいちわからなくても、『声』がわかったときの感動や話題性があるから」が挙げられる<ref>{{Cite web|和書|publisher=オリコン|url=https://www.oricon.co.jp/special/49140/|title=声優出身者が俳優業で活躍 そもそも声優のポジションとは?|accessdate=2018-04-30}}こうした心理を利用したものでは、過去には『[[笑っていいとも!]]』で1990年代に声優が出演してどのキャラクターを担当していたのかを当てるコーナー『ザックリいきまショー』などがあった。</ref>。 ただし、キャラクターと声優の間に相関性を構築し、その結びつけをする役割を果たす媒介として、これまでは声が最も大きな役割を果たしてきたが、2007年(平成19年)の[[ブシロード]]など、後にメディアミックスを展開する企業も設立されて以降はさらに進んで、アニメやコンピュータゲーム作品そのもの単体で行われるのではなく、作品に関わるイベント出演(顔出し)やラジオなどの要素も色々用いて結びつけが行なわれていく。アニメの視聴者はキャラクターの声を演じる声優であるという認識をしていることが前提となることで、以降から声優とキャラクターを結びつける要素は声だけではなく、視覚的要素と特定の声優個人についての認識に依るものになっている<ref group="注">テレビアニメ『[[化物語]]』(2009年)ではオープニングでアニメ版と実写版を用意し、実写版ではアニメ・キャラクターの声をあてる声優(堀江由衣)が実写映像でキャラクターを演じ、それぞれを対比して見られるよう意図した演出がなされているが、実写版と敢えてテロップに示されることで、全容がはじめて理解できる演出になっている{{harv|内藤(2017)}}。テレビアニメ『夢色パティシエール』(2019年 - 2020年)では、声優が番組の最後にコーナーを設け顔出しをしていた。</ref>。 他方、俳優活動の中でも、舞台での活動と両立する声優が少なくないが、理由として「舞台はやり直しができず、実際にその芝居や息づかいが観客に見られていることで、それが声の芝居に生きるから」などが挙げられている<ref group="注">一例として、『声優バイブル2016』22頁-29頁(入野自由のインタビューページ)、『声優バイブル2017』18頁-25頁(関智一のインタビューページ)など。</ref>。 田中真弓は現在も舞台を手がけており、[[てらそままさき]]も俳優活動と並行して特撮キャラクターのアテレコを行っていたほか、中田譲司も元々俳優業に力を入れていた。 また、声優が歌手などの活動と両立させる例が、特に2000年代以後に顕著になっているが、これについては下記の節にて述べる。 [[2014年]](平成26年)には[[オスカープロモーション]]と[[青二プロダクション]]が共同で開催した容姿と声の2つの要素に ""「美しさ」を兼ね備えた[[俳優#性別での分類|女優]]・声優を発掘する"" 「第1回全日本美声女コンテスト」が開催された。おもな出身者に[[漫画家]]、[[アイドル]]として活動する[[辻美優]]、[[花房里枝]]に[[ピアニスト]]、[[ファッションモデル]]などの活動をする[[入江麻衣子]]が挙げられる。 [[栗林みな実]]、[[桃井はるこ]]、[[牧野由依]]など、他の声優に楽曲を提供する[[ソングライター]]をしている例、[[白壁爽子]]、[[伊藤しずな]]はグラビアアイドル活動と、[[榊原ゆい]]や[[能登有沙]]は[[振付師]]、[[モーションアクター]]としても活躍している。 この他、[[野村道子]]、豊崎愛生や[[斉藤朱夏]]などが務めた、朝の情報番組でのお天気お姉さんというのもある。 また声優は[[#ナレーション・アナウンス]]にあるとおりCMの仕事も従来は当然ながら「声」を使ったものが主であったが、演者としての顔出し出演や[[白井悠介]]のようにダンスをするキャストとして起用されるなどの場合もある。 お笑い方面へは、声優としてデビューした後芸人に転向しつつ声優活動もこなす、[[こやまきみこ]](お笑い芸人としてネタ見せをする際には「きみきみ」名義)の例があった。[[吉本総合芸能学院|NSC]]に入学し、2010年(平成22年)には吉本興業に移籍するなどで2011年(平成23年)まで芸人活動を行なっていた。また六代目三遊亭円楽を父に持ち、[[落語家]]活動も行っているが青二プロに所属し声優業をする[[会一太郎]](高座名は三遊亭一太郎)もおり、塩屋翼や木村昴も噺家の高座名を持っている。 声優もSNS活動の他、YouTuber活動として専用チャンネルを開設し配信を行っているものも幾人かある。例えば花江夏樹や[[杉田智和]]のチャンネルは登録者数も数百万人を超えているほど人気を博す。 歌手などの活動と両立させる声優について、「アイドル声優」あるいは「声優アーティスト」と表現する例が多い。 === アイドル声優 === '''アイドル声優'''とは、第3次声優ブームと称されていた[[1990年代]]半ばごろから出てきた俗称。このころには'''ボイスアイドル'''とも呼ばれた<ref>「声優業界の明日はどこにあるのか?」『流行批評SPECIAL EDITION オタクになれないアニメ好きの本』キルタイムコミュニケーション、1997年、114頁。</ref>。 本業にとどまらず、歌を通してそのCDを発売、ライブを開催するなど歌手活動をする、声優専門誌や漫画雑誌などのグラビアに登場する、写真集やイメージビデオを発売しCMに出演する(これはいわゆる「Web CM」を含む)プロモーションビデオを制作するなどといった[[アイドル]]的活動を行う声優を指すことが多い。 戦前に遡るとラジオドラマで活躍した飯島綾子も流行歌・童謡などレコードを何枚か出していて、[[日本舞踊]]家でもあった。その後の[[横山智佐]]、[[氷上恭子]]、[[國府田マリ子]]、宮村優子など、1990年代にデビューしそうした活動を行う声優らも、その多くは前述の声優養成所で養成された声優が、それ以前にアイドルとしての活動経験/アイドルからの転進組などではない。しかし、こうした声優がマス・メディアに広く露出をしたことによって、1990年代の声優人気の受容は、それ以前の受容とは異なる状況を呈したが、特にこの時期から養成所を出たばかりの新人声優の報酬を安定させることを目的のひとつに声優の活動するメディアの拡大が計られ、その商業的な戦略のひとつとして様々な媒体を介した声優の顔出しがはじまったものとも推測されている<ref name=naito/>。「[[ボイスニュータイプ|VOICE Newtype]]」誌の吉本隆彦は、声優はキャラクターに声を吹き込むほかにキャラクターソングを歌うことになれば作品の顔となっており、必然的に声優も注目されうるが、こうした状況下でアイドル声優は90年代後半から2000年代にかけて[[流行|ブーム]]という状態を経て、ひとつの[[ジャンル]]として確立されたとし、それは当時からオリコンチャート上位にもランクインする音楽シーンをみても明らかとしている。そしてこのことが時代のニーズに応えているとし、加えて何万人もの聴衆を魅了できるのも、キャラクターに声を吹き込む声優はエンターテナーとしての資質と、アーティストとしてのポテンシャルが高いためであるとしている。もとのブームからの傾向としては女性声優が台頭したが、流れで男性声優も女性ファンの心もつかんでいき人気になっていったとしている<ref>[https://www.j-cast.com/2009/12/06055472.html 水樹奈々、平野綾、堀江由衣… 声優は今やアイドルだ] 2009年12月06日18時00分 J-CASTニュース</ref>。 2010年代半ば以後には宮野真守、平野綾、内田真礼<ref>{{Cite web|和書|publisher=ねとらば|url=https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1701/04/news036.html|title=声優・内田真礼がイケメンとイチャつく三菱地所レジデンスの新CMに反響 「なんだこの神CM」「めちゃめちゃ可愛い」|accessdate=2018-04-30}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://mantan-web.jp/article/20150415dog00m200053000c.html|title=内田真礼:ヤングジャンプの巻頭グラビアに|accessdate=2018-04-30}}</ref>、竹達彩奈<ref>{{Cite web|和書|publisher=ORICON STYLE|url=https://www.oricon.co.jp/news/2043042/full/|title=人気声優・竹達彩奈が吉野家とのコラボで“大食いキャラ”をいかんなく発揮!!|accessdate=2018-04-30}}</ref>、戸松遥<ref>{{Cite web|和書|publisher=エキサイトニュース|url=https://www.excite.co.jp/news/article/Narinari_20140905_27796/|title=声優の戸松遥が実写CMデビュー、9月5日オンエアのフルタ製菓CMで。|accessdate=2019-06-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://gravure.mantan-web.jp/article/20170201dog00m200030000c.html|title=戸松遥:人気声優が「ヤンジャン」グラビア登場 ビキニや大胆な姿も|accessdate=2019-06-21}}</ref>、[[三森すずこ]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=シオノギヘルスケア|url=http://www.shionogi-hc.co.jp/pylon-pl-karyu/|title=パイロンPL顆粒サイト | シオノギヘルスケア|accessdate=2018-09-16}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=光文社|url=https://www.kobunsha.com/shelf/magazine/past?magazinenumberid=3105|title=FLASH増刊|雑誌|光文社|accessdate=2018-09-16}}</ref>、[[佐倉綾音]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://gravure.mantan-web.jp/article/20170627dog00m200021000c.html|title=佐倉綾音:人気声優が「マガジン」初表紙 京都で“和”グラビア|accessdate=2018-04-30}}</ref>、[[逢田梨香子]]<ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://mantan-web.jp/article/20180924dog00m200012000c.html|title=逢田梨香子:人気声優が「柿の種」CMに出演 部屋着で生足披露「止まらん~!」|accessdate=2019-06-21}}</ref><ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://gravure.mantan-web.jp/article/20180328dog00m200034000c.html|title=逢田梨香子:“声優界最高の美女”が再び「ヤンジャン」表紙に はじける素肌!|accessdate=2018-04-30}}</ref>、斉藤朱夏<ref>{{Cite web|和書|publisher=まんたんウェブ|url=https://gravure.mantan-web.jp/article/20170816dog00m200018000c.html|title=斉藤朱夏:「ラブライブ!サンシャイン!!」声優が「ヤンジャン」グラビアに|accessdate=2018-04-30}}</ref>、小倉唯などのように、マニア向けでない一般の漫画雑誌などでのグラビアに登場する、アイドルのような立ち位置で顔出しでCMに出演する例やバラエティ番組やクイズ番組のゲストとして出演する例が増加するようになっている。 さらには、アイドル主体のアニメ・ゲーム作品における担当アイドル(キャラクター。つまりアイドル役)を、そのまま実際のライブで再現する声優ユニットも登場し、専業のアイドルと比べても遜色のない例も存在する。例えば『[[きらりん☆レボリューション]]』の[[月島きらり starring 久住小春 (モーニング娘。)]]、[[アイドルマスターシリーズ]](『[[THE IDOLM@STER]]』・『[[アイドルマスター シンデレラガールズ]]』・『[[アイドルマスター ミリオンライブ!]]』・『[[アイドルマスター SideM]]』)、[[ラブライブ!シリーズ]]の[[μ's]]・[[Aqours]]、[[Wake Up, Girls!]]、[[プリパラ]]の[[i☆Ris]]などがある。 特に「ラブライブ!」シリーズのキャストは歌唱力やダンス力を重視したオーディションにより、それまで声優経験が皆無であった(女優などの他業種出身のメンバーに加えて、芸能界での活動経験自体がなかったメンバーもいる。[[楠田亜衣奈]]、[[降幡愛]]などがこれに該当)起用者も多くいる。 実際、i☆Ris、Wake Up, Girls!のほかに[[22/7 (アイドルグループ)|22/7]]などのように、「声優とアイドルの両立を謳うグループ」が増加するようになっている<ref name="seiyuartist2018a">{{Cite web|和書|publisher=Real Sound|url=https://realsound.jp/2017/10/post-116776.html|title=アイドルの声優活動なぜ増加? 2つのシーンに起こった変化を読む|accessdate=2018-04-28}}</ref><ref name="unit">他にも例として[[こえたま]]、[[ナナカナ]]、[[ゆいかおり]]、[[S-nery]]、[[とぅいんくるガールズ]]+ちえみん先生、[[KiraKira☆メロディ学園]]、[[知多みるく#知多娘。|知多娘。]]、[[Pastel&Vivid]]、[[サンドリオン]]、[[Baby POP School]]、[[backdrops]] 声優ガールズバンド「[[LAMUSE]]」、[[ミステリー・ガールズ・プロジェクト]]など、多数</ref>。上智大学のミスコン優勝の[[鳥部万里子]]<ref>{{Cite web|和書|title=第28回 鳥部 万里子 さん|url=https://seigura.com/senior/2929/|website=seigura.com|accessdate=2021-09-27|language=ja}}</ref>、[[ミス日本]]コンテスト2020・ミス着物に選ばれた青木胡杜音<ref>{{Cite web|和書|title=ミス日本コンテスト2020・ミス着物に青木 胡杜音さん 声優を目指す19歳 {{!}} ニュース {{!}} Deview-デビュー|url=https://deview.co.jp/News?am_article_id=2153758|website=Deview|accessdate=2021-09-27}}</ref>など、容姿に自身のある人物が声優を目指す例も増えた。 ==== アイドル声優への批判 ==== [[浅川悠]]が自身のブログで、アイドル化が進んでいるとも言われる声優界に苦言を呈し、関連して[[桑島法子]]は「アイドル声優は旬を過ぎたら使ってもらえなくなる」と述べている<ref name="seiyuartist2018b">{{Cite web|和書|publisher=おたぽる|url=https://otapol.com/2016/07/post-7316.html|title=浅川悠がアイドル化の進む声優界に苦言 業界が「人気のあるカワイコちゃん」を求めた結果、新人声優は……|accessdate=2018-04-30}}</ref>など、演技とは関係の無い評価基準に疑問を呈す業界人も存在する。実際、1990年代から2000年代にかけての[[椎名へきる]]は歌手としての活動で人気を博し、相当数のコンサート公演を全国を巡業していたが、アフレコや吹き替えの仕事から遠ざける要因となり、アニメのレギュラー出演は年間で数本に過ぎない状況で、同業の職業声優を含むアニメ制作者の間でも声優として異端視されていたことが知られる{{R|"naito"}}。[[花守ゆみり]]などはインタビューで自身についてアイドル声優に見られたくないと述べている<ref>『日経エンタテインメント! アニメSpecial 声優バイブル2020』 (日経BPムック、2019年)</ref>。[[浅野真澄]]がパーソナリティを務めた「[[低俗霊DAYDREAM 深小姫のMIDNIGHT DREAM]]」ではしばしばアイドル声優に対する批判がなされていた。専門学校などでもそうしたアイドルを育成する的なニュアンスも押し出して生徒集めをしているところが少なからずみうけられるが、第一線で活躍している実際のアイドルたちは天分に恵まれた上で競争にももまれ、トレーニングを重ねており、こうしたアイドルたちと、学校に通ったくらいでの自分とライバルというのは、あまりにおこがましいと指摘されている<ref>岩田光央 [https://president.jp/articles/-/28528?page=1 アイドルと「アイドル声優」の決定的違い]</ref>。 一方で、[[やまとなでしこ (声優ユニット)|やまとなでしこ]]結成時のインタビューで[[堀江由衣]]は声優になってからアイドル的な仕事があって驚いたというが、アイドルについてはその人自身に魅力があるわけで見てるだけで楽しくなれる、元気になれる存在とし、「それを悪く言うのって、変だと思う。見る人の心を潤すための仕事をしていて、そうならない方が困るんじゃないかな」と見解を述べている。芹澤優のように声優であることにもアイドルであることにもプライドを持ち、両立していると自認している者もおり<ref>[https://web.archive.org/web/20211102151354/https://www.asahi.com/and/article/20181204/201601/ 芹澤優「テンプレート的な芝居しか考えていなかった」 デビューから数年続いた苦悩]</ref>、[[中川亜紀子]]もデビュー当初アイドル的な売り方がなされており、彼女はこの事にはなにかと批判的であったが、「今となっては『なんて贅沢なことを!』と思いますけど」と当時を振り返っている。 === 声優アーティスト === '''声優アーティスト'''とは、上記のアイドル声優に代わって[[2000年代]]半ばごろから出てきた俗称であり、おもに声優業と歌手業を両立させている声優を指すことが多い<ref name="oricon20150208" />。 この名称は椎名へきるが1994年(平成6年)のラジオ番組の開始にあたって、「アーティストと声優をしている」と自己紹介をしている点や、彼女の出身養成機関の広告フレーズからうかがい知れ、マネージメントをする者を含む制作者の影響が強く表れている<ref name=naito>{{harvnb|内藤(2017)}}</ref>。 近年では歌手としての独立した活動までには至らずとも、アニメに出演する場合、主題歌などを担当したり<ref group="注">作品限定の声優ユニット活動を行うこともある。</ref>、各種関連番組([[アニラジ]]、[[ニコニコ生放送]]など)やイベントへの出演など、タレント活動を求められる例が一般的になっている<ref name="excite_review">[https://www.excite.co.jp/news/article/E1431274079675/ 「新人で歌やイベントがNGなら仕事が難しい」変わりゆく声優の現状をプロが真剣討論] エキサイトレビュー 2015年5月11日、同9月22日閲覧。</ref>。 [[TARAKO]]、坂本真綾、[[MoeMi]]のように並行して[[シンガーソングライター]]として活動する者もおり、近年は[[沼倉愛美]]、[[鈴木みのり (声優)|鈴木みのり]]、[[早見沙織]]、楠木ともり、[[小岩井ことり]]、雨宮天ら自身の手による楽曲の作詞作曲を手掛ける声優アーティストも多くなった。[[小野友樹]]のミニアルバム「Winter Voice Friends」では自身の声優仲間らの楽曲提供により構成されている。 他に[[バンド (音楽)|バンド]]を組んでいる者もおり、[[鈴木達央]]は[[OLDCODEX]]というバンド、[[近藤孝行]]と[[小野大輔]]は、テクノロジック・ヴォーカルユニット“TRD”、前述の小岩井ことりはメタルバンドDAW、田村ゆかりもメタルユニット120600mAh、[[谷山紀章]]は音楽ユニットの[[GRANRODEO]]で活動している。なお谷山はGRANRODEOではKISHOW名義で、同様のケースでは[[二ノ宮ゆい]]が声優時には二ノ宮ゆい、アーティスト時にはニノミヤユイと名義を分けて活動している。 『BanG Dream!』プロジェクトのバンドユニットのように、劇中で声を担当したキャラクターの音楽バンドを、実際においてもバンド活動を行うといったケースがあり、[[大塚紗英]]のようにシンガーソングライター活動がメインになっている者もいる。他にも女子高生ロックバンド漫画『[[ガールズフィスト!!!!]]』に登場するキャラクター4人と連動するかたちで活動中の、若手女性声優のロックバンドの[[南松本高校パンクロック同好会]]、会える声優ガールズロックバンドの[[HoneysComin']]などがある。 [[ヒーラーガールズ]]のようなコーラスユニットと謳ったグループもある。 「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれの場合も、女性声優に特に多いといわれる。声優の男女比率の反映に加えて{{efn2|「主婦の友インフェス」より発行されている「声優グランプリ」の付録『声優名鑑』2018年度版に掲載されている「声優」の人数は女性800名、男性571名となっており、2021年の「声優名鑑 女性編」の掲載人数は前年の907人から955人、「声優名鑑 男性編」は前年の595人から今年は600人超となる。男女比は女:男で6:4。}}女性声優が数人在籍するアイドルユニットや声優アーティストユニット自体生み出される数が男性のそれより非常に多い<ref name=unit/>。さらに演じる女性声優も多数出演する[[タレントゲーム]]、[[恋愛シミュレーションゲーム]]が非常に多く発売され、こうしたゲーム出演で多数の女性声優が歌手デビューやアイドル声優化する傾向も続いている。 「アイドル声優」「声優アーティスト」のいずれであれ、声優の顔出しでの活動が増えた理由として、声優の社会的地位の向上のほかに、声優の役割やイメージの変化(「裏方的な仕事」とされてきたのが「ルックスや若さが重視される」ように変化した)が背景としてあると指摘されている<ref name="oricon20150208" /><ref name="seiyuartist2018b" />。 === 上記以外の他分野活動 === 声優も、現役で声優をしながら一方で芸能活動ではない他の仕事を持つ者もしばしばみられる。例として、養成所で講師をつとめたり、事務所を経営している者、音響監督などもしている声優は多い。 他には、以下のようなケースがある。 ;看護師・保育士 :[[看護師]]から声優となった者に[[長妻樹里]]や[[ひと美]]がいるが、[[荒川美穂]]、[[大浦冬華]]はある時期まで看護師をしながら声優をしていた。林原めぐみも当初看護師も兼任していた。そして[[桜木つぐみ]]は現役看護師でもある。 :声優になる前銀行員であった[[服巻浩司]]はその後保育士と声優を兼業している。 ;出版・執筆 :[[小森まなみ]]は童話作家としても活動、浅野真澄や[[丹下桜]]は[[絵本]]なども刊行し、浅野は文学賞を受賞している。[[徳井青空]]も絵本を刊行しているがそれだけでなく声優業をこなす傍らまんがの連載を抱え、そのまんがは後にアニメ化されている。 :[[浅沼晋太郎]]は元々俳優のほかに[[脚本家]]、演出家やデザイナーやコピーライターを兼務していた。 ;経営 :[[白壁爽子]]はIT企業代表、[[神原大地]]はコンテンツ会社の社長業、[[西川幾雄]]はタコ焼き屋、[[柴田秀勝]]は会員制バー経営、[[中尾隆聖]]は新宿でスナックを経営してもいる。[[たてかべ和也]]は所属事務所のマネージャー兼常務取締役を兼ねていた。 ;スポーツ :[[プロボウラー]]と兼任する[[渡辺けあき]]や、「VART」という自動車レースチームを結成した[[三木眞一郎]]、浪川大輔、[[石川界人]]、[[畠中祐]]らがいる。 ;異国語・方言の指導 :ロシア人声優[[ジェーニャ (声優)|ジェーニャ]]は[[ロシア人]]であるため、アニメ作品で[[ロシア語]]指導やロシア語監修を平行して行うなどが知られる。こうした活動はジェーニャの他にも[[酒井玲]]([[スペイン語]]指導)、[[駒田航]](『[[オーシャンズ8]]』での[[ドイツ語]]指導)、[[サッシャ]](『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』 (2013年) でのドイツ語指導)らが、外国語指導を施したことがある。 :一方で、声優も日本各地にある[[方言]]の指導を、自身が出演した作品はもちろんのこと、声を出して行う職業として指導を行っている場合もあり、[[中村章吾#方言指導|中村章吾]](主に鹿児島弁)、[[岐部公好]](大阪弁)、[[大方斐紗子]](福島弁)、[[下川江那]](柳川弁や久留米弁)、[[井上祐子 (女優)|井上祐子]](小倉弁)、[[橋本信明#方言指導|橋本信明]](名古屋弁)、[[麦穂あんな]](『[[ルートレター]]』での出雲弁)、[[ユリン千晶]](広島弁)、[[有川知江#方言指導|有川知江]](北海道)、儀武ゆう子(沖縄)、島本須美([[土佐弁]])、[[いのくちゆか]]([[博多弁]])、[[宝亀克寿]](映画『[[坂道のアポロン]]』での佐世保弁<ref>[https://kuroshimakanko.com/index.php/view/117 坂道のアポロンの方言指導は『ONE PIECE』の] 黒島観光協会</ref>)などが知られる。 ;その他 :[[大亀あすか]]、[[伊達朱里紗]]や[[吉倉万里]]はプロ[[雀士]]でもあり、[[小杉十郎太]]は『[[Zガンダム]]』時代、[[松竹]]で営業を担当するサラリーマン勤めをしており、また[[岩田光央]]は『[[AKIRA]]』時代にデザイン事務所で当時働いていて、兼業で声優をしていた。[[諏訪部順一]]も当初は会社了承のもと正社員として働きながら声の仕事をしていた。[[川上莉央]]はOLと兼業。[[竹内良太]]は派遣社員と二足のわらじで声優活動を行っていた。[[白石稔]]は声優とアニソンDJを兼務している。 == 声優プロダクション == 声優が所属するプロダクションには通常の[[芸能プロダクション]]の声優部門の他に、声優が多く所属する[[声優プロダクション]]とがある。 声優プロダクションは、声優から手数料を徴収し、音響制作会社や放送局などに対して、アニメ・日本語吹替・ナレーションなど得意分野ごとに配置されたマネージャーが営業活動や声優の売り込みなどを行う。専門の養成所を持ったり専門学校と提携して新人の育成も行う。 もともと制作会社の関連会社に位置していて連携の強いプロダクションが存在し、特に2000年代は特に新たに創業される例が見られた<ref group="注">[[エイベックス・プランニング&デベロップメント]](旧アクシヴ。声優プロダクションとしては縮小化したのち、グループ再編で[[エイベックス・ピクチャーズ]]の1部門となった)、[[KADOKAWA]]系[[プロダクション・エース]]、[[アニプレックス]]系[[ボイスアンドハート]](廃業の後、アニプレックスから独立)、[[ドワンゴアーティストプロダクション]](ドワンゴ プランニング アンド ディベロップメント。現在の[[MAGES.]]となる[[AG-ONE]]へ会社統合の後、廃業)など。</ref>が、2010年代以降は制作会社の一部門として直営され、より連携が強固なプロダクションも存在する<ref group="注">MAGES.-[[アミュレート]](ドワンゴアーティストプロダクションの事実上承継先)、[[学研プラス]]-office EN-JIN(2019年に所属者が居なくなり事実上の事業終了)、[[エイベックス・ピクチャーズ]](エイベックス・プランニング&デベロップメントから一部受け入れ)、[[ポニーキャニオン]]-スワロウ、[[ブシロード]]系の制作子会社<!--度々運営会社が移管されている為ここには記載しない-->による[[響 (芸能プロダクション)|響]]。</ref>。特定の制作会社との連携が強くとも、ほかの制作会社が手がける仕事も請ける。また、もともと音楽系のプロダクションでも声優のマネージメントを行う例が近年あり<ref group="注">[[ミュージックレイン]]、[[S (企業)|株式会社S]]、ポニーキャニオンアーティスツ(現在は取扱なし。声優・アニメ関連を社内別組織マネージメント組織「スワロウ」へ分割した後、2019年7月より親会社のレコード会社ポニーキャニオンに統合)。</ref>、この場合は本業を生かして歌手活動も積極的に行われることが多い<ref group="注">『声優兼アーティスト』枠で所属オーディションを開催するなどしている。</ref><ref group="注">歌手志望者を声優として(も)デビューさせる例があり、株式会社S(現在はディファレンスに移籍)の[[新田恵海]]のように、歌手志望として所属オーディションに合格するも事務所の方針で最初は声優としてデビューし、合格から5年半を経て歌手デビューを果たすという例もあり、また、ポニーキャニオンアーティスツ(現スワロウ)の[[遠藤ゆりか]](2018年6月、芸能活動引退)のように、歌手デビュー後に声優としてもデビューするという例もある。</ref>。他分野中心の芸能プロダクションが声優部門に力を入れるようになる例も見られる<ref group="注">一例として、[[ホリプロ]](現在は関連会社のホリプロインターナショナルに移管)、[[ソニー・ミュージックアーティスツ]]、[[スペースクラフト]]など。</ref>。 声優界は「『芸能界で最も古い体質』を今も残している」として当該業界への批判が相次いでいる問題もあり、その一部としては[[プロデューサー]]など役職の地位が高い人物からの[[セクハラ]]を代表とする[[ハラスメント]]行為が横行しているという点が挙げられ<ref>{{Cite news|url=https://toyokeizai.net/articles/-/673455|title=「声優」はセクハラが「日常」という深すぎる闇 配役の権限を持つ側が「やりたい放題」できる。|newspaper=[[東洋経済新報社|東洋経済ONLINE]]|date=2023-05-26|accessdate=2023-05-31}}</ref><ref>[https://www.tv-tokyo.co.jp/plus/lifestyle/entry/2022/026168_2.html ベテランになるほど仕事が減る?声優界のギャラ&ハラスメント事情 ...] 2022/06/15 テレ東プラス人生劇場+</ref><ref>[https://nikkan-spa.jp/1629262 声優業界はセクハラの温床?「声を聞きたいから家に行かせて」と言われ…] 2019年12月16日 日刊SPA! [https://subculwalker.com/archives/50381/ 声優「榎本温子」さんが声優業界のセクハラ・パワハラについて語る] 2018年4月8日 Subcul Walker , ■ 榎本温子[https://www.ota-suke.jp/news/215569 「知ってる範囲の声優業界」のセクハラとパワハラを語る] その一方で「声優業界は芸能界でもかーーーーなーーーーーりーーーーーークリーン」とも語る。</ref>、過去には実際に関係事件で[[逮捕]]される事件も起きている<ref>[https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/seiyu-harassment 「仕事ほしいんでしょ」「何もしないからホテル行こう」 女性声優が語るセクハラの実態] by Saori Ibuki 伊吹早織 BuzzFeed News Reporter, Japan </ref><ref>[https://mikke.g-search.or.jp/QTKW/2023/20230527/QTKW20230527TKW022.html 【特集 アニメ 熱狂のカラクリ】part1 熱狂!アニメマネーの全貌 ] セクハラは依然「日常」 声優たちの過酷な境遇] 週刊東洋経済 第7115号 2023.5.27</ref>。 == 経済環境 == 声優は所属事務所からの基本給というものは存在せず<ref group="注">例外的に、[[ホリプロ]]のような月給制を基本としている事務所もある。</ref>、各人の仕事実績によるギャランティ([[報酬金]])が収入となる[[個人事業主|個人事業者]]である。所属事務所とは通常1年更新のマネジメント契約を締結し、売込みやマネジメントの対価として業界平均で出演料の約20%から30%を事務手数料として事務所へ支払い<ref>{{Cite web|和書|url=https://bizspa.jp/post-701912/|title=「5%に仕事が集中」現役声優が明かす、コロナで顕在化した業界の懐事情|accessdate=2022-11-16|publisher=bizSPA!フレッシュ}}</ref>、[[源泉徴収]]も10%<ref group="注">平成25年度以降の25年間は復興特別所得税が加算されるため、10.21%となる [https://www.nta.go.jp/taxes/shiraberu/taxanswer/gensen/2798.htm]。</ref>引かれ<ref group="注">ただし、年収が少ないため結果的に源泉徴収税を納めすぎとなっているという者は、翌年の確定申告で還付を受けることができる。</ref>、この残りが声優の手取りの報酬となる{{Sfn|野村道子|2009|p=148-149}}。歌手や俳優などと同じくシステムの競争社会であり、経済的に自立できずに脱落していく者も多い。 日本語吹き替えが始まった[[1960年代]]には、声の仕事は顔出し出演の7割の出演料「顔出しの七掛け」とされ<ref>とり・みき『映画秘宝Vol.3 とり・みきの映画吹替王』洋泉社、2004年、p.141。野沢那智インタビュー</ref>、低い位置にある仕事とみなされ、舞台俳優がアルバイトのような形でやっていた。舞台や実写の仕事と比較して、吹き替えの仕事は拘束時間が少なくかけ持ち出演が可能なため、数をこなせば収入を増やすこともでき、演技力を生かせることから不満に持つ者は少なかった。1964年の時点で30代後半の中堅とされる声優で30分番組の吹き替えのギャラが5000円程度で、最高ランクとされる[[若山弦蔵]]が1万円程度とされる<ref name="映画ストーリー">{{Cite journal|和書|date = 1964-04|title = アテレコタレントの嘆き|journal = 映画ストーリー|volume = 5月号|page = 230|publisher = [[雄鶏社]]}}</ref>。若山は同時期に複数の番組の主役をすることは、視聴者のイメージを壊すことになり、道義的にも避けるべきではあるが、掛け持ちをしなければ生活が出来ない状況を語っていた{{R|映画ストーリー}}。 声優の賃金待遇改善については、声優の多くが[[日本俳優連合]](日俳連)に所属しており、日俳連は音響制作会社の集合体である日本音楽制作者連盟(音声連)、声優のマネージメントを行う事業者で組織する[[日本芸能マネージメント事業者協会]](マネ協)と「三団体実務小委員会」を設けて、出演ルールの改定や待遇の改善を申し入れて来た。ときには[[ストライキ]]([[1973年]]〈昭和48年〉[[8月8日]])や街頭[[デモ活動]]を行うなどして、1973年(昭和48年)には報酬が約3倍アップ、[[1980年]](昭和55年)には再放送での利用料の認定、[[1991年]](平成3年)には報酬が約1.7倍上昇するなどの成果を勝ち取ってきた。 業界に対してのみならず、1973年(昭和48年)と[[2001年]](平成13年)には[[デモ活動|デモ行進]]、[[1988年]](昭和63年)には[[永井一郎]]が『[[オール讀物]]』([[文藝春秋]])において『磯野波平ただいま年収164万円』と題して、アニメ出演料の安さを訴える記事を寄せて、世間一般への理解を求める行動を起こしている<ref>「[http://www.nippairen.com/news/hist1986/h198609.html 日本俳優連合30年史 本編 1986年〜1990年 ショッキングな実態公表]」 [http://www.nippairen.com/ 日本俳優連合公式サイト]</ref>。 日俳連・マネ協・音声連による協議の結果、外画動画出演規定・新人登録制度・CS番組に関する特別規定・ゲーム出演規定などを締結した。アニメでは、放送局と、[[アニメ制作会社]]で組織される日本動画製作者連盟も加わって、団体協約が締結されている。これにより、仕事1作品あたりの報酬は作品のジャンル・放送時間帯・放送回数・ソフト化などによる2次利用、そして経験実績などの条件によって受け取る額が算出される方法を取られており、音響制作会社の一方的な言い値で手取りを決定されるということはない<ref group="注">一概には言えないが、日俳連は基本的に土日祝日のゴールデンタイムに放送される番組に最も高いクラスの報酬を設定している。</ref>。 以上の協定は、声優・マネジメント事業者・音声製作事業者がそれぞれの団体に所属しなければ縛られることはない。たとえば、[[石原裕次郎]]は映画『[[わが青春のアルカディア]]』の出演料が1,000万円だったと言われている<ref>アニメージュ編集部・編『劇場アニメ70年史』徳間書店、1989年、93頁。</ref>。 日俳連では組織率を高めるために、音声連が製作する作品に出演する人数について「日俳連に属さない出演者の数は全体の20%以内」とし、日俳連に属さない出演者については加盟を推奨することが音声連には課せられている。逆にマネ協・日俳連側は、音声連に入っていない製作会社へ音声連への加盟を奨めることとなっている。 これらの協定を嫌う[[日本アドシステムズ]]などの製作者側もあり、日俳連に所属しない声優を起用する例が[[1990年代]]半ばより増加したが、[[東映アカデミー]]や[[ラムズ]]のように事業を停止した例もある。音声連に属していない事業者としては[[神南スタジオ]]や脱退した音響映像システム(現・サンオンキョー)などがあり、マネ協に属していない事業者としては[[ネルケプランニング]]などがある<ref group="注">ただし、現在ではスタッフの移籍がより増えたため実質的に加盟している状況の会社もある。</ref>。 === ランク制 === 日俳連に所属する声優が、アニメ・日本語吹き替え作品・社団法人[[コンピュータエンターテインメント協会]](CESA)に加盟するゲーム会社の作品に声をあてる際の出演料についての規定で、この制度での報酬は「ランク」と呼ばれる出演料によって支払われることになっている。担当する内容や、台詞の多少は関係しない。ランクの設定は毎年4月に更新され、人気が上がったりキャリアを重ねると、マネ協や音声連との協議のうえでランクが上がっていき、またランクが上がるごとに出演料が高くなっていく。例外として、60歳以上の者はランクを上げることはできても下げることはできない。 1991年(平成3年)に出演料が約1.7倍アップしたこともあり、予算の限られたアニメや吹き替えにはランクの高い(出演料が高い)ベテラン声優が起用されなくなる弊害が生じるようになった。それにより、2001年(平成13年)から2年の期間限定でランク下げを認める特例期間が設けられた。 30分枠作品の最低ランクの出演料が1万5,000円で、最高ランクが4万5,000円、その上に上限なしのノーランクが設定されており、これが基本出演料となる。またその基本出演料に「目的使用料」として、アニメは1.8倍が加算され、吹き替えは1.7倍が加算される。予告編の台詞をやった場合、基本出演料のランクをもとにしたギャラが加算される。放送時間枠が60分や120分の場合は「時間割増」となり、その分のギャラが支払われる。出演作品がソフト化されたり[[再放送]]された場合、規定に基づいて「転用料(2次使用料)」が支払われる。これらの合計が声優の総出演料となるのだが、そこから事務手数料や税金などで約30%から40%引かれる。 音声作品の報酬の相場は拘束時間もワード数によって数時間から数日までさまざまで、声優のランクにもよるが、だいたい数百ワードあたり2 - 3万円ぐらいとされ、有名声優がソーシャルゲームに出るときの単価などとは比べものにならない。 声優だけで安定収入を得るのはほんの一握りなのは売上の大半を事務所が持っていくこともあって、事務所声優でも声優業のみで生活できる人は少ない。しかしながらそれでも仕事を取るためには事務所に所属するのが基本で、イベント、コンサートやライブなどで収益を得る事務所声優が安定して仕事をすることになる。主役声優であればイベント出演で1回20 - 30万円程度もらえる他、物販で稼げるという<ref name=":1" />。 === 新人 === 声優学校や声優養成所を卒業して、[[日本芸能マネージメント事業者協会]](マネ協)加盟の声優事務所のオーディションに合格した新人声優は、まず「預かり」という身分から声優業をスタートする。この時点ではまだ声優個人としての[[日本俳優連合]](日俳連)への加盟はできない。預かりは声優業の最初のステップとして、ランク制の事実上の番外とでもいうべき存在である。預かり期間修了後はジュニア(新人)ランクとなり、ジュニアランクでいられる期間は3年間ないし所定の起用率に到達するまでで、それを終了したあとは日俳連へ加盟し通常のランクの声優になる{{sfn|野村道子|2009|p=148-149}}。 出演料が安すぎるという理由で[[1990年]](平成2年)に一度ジュニアランクを撤廃したことがあったが、[[1994年]](平成6年)から新たな形で再び導入された。 預かりとジュニアランクの声優の出演料は1万5,000円で、ランクがついた声優とは違い、上述の「目的使用料」「予告編の台詞代」「時間割増料」「転用料」は支払われない。 === ベテラン === 声優としてベテランになり日俳連のランク(出演料)が高くなっていくと、予算の関係からアニメ・ゲーム・吹き替えの仕事は自然と減る場合もあり{{efn2|ただし、テレビアニメの中でも長期シリーズ物ではむしろベテラン勢で占められている。}}、これを補うのにCMやテレビ番組などでの[[ナレーション]]の仕事を行う場合もみられる。ナレーションは日俳連の協定によるランクの縛りがなく<ref group="注">アニメ・ゲームのナレーションはランクの縛りがある。</ref>、また、ギャラはアニメ・ゲーム・吹き替えよりもはるかに高額とされる。新人・若手声優だったころはアニメに多く出演していたが、のちに中堅・ベテラン格になるにつれてアニメの仕事が徐々に減っていき、ナレーションが中心になるという傾向にある。なおベテラン声優を1回のみ登場、台詞が少ないなど収録時間が短い役に起用する例もあり、アニメやゲームの出演が無くなるわけではない。 ベテラン声優の中には前述のとおり本業の傍ら、声優事務所の経営、声優の養成所や専門学校の講師、カルチャースクールの喋り方教室の講師、音響監督などといった業を副業として、収入の少なさを補うためにしている者もいる。また、ベテランになると、経済的にはむしろそのような副業のほうが本業という声優も珍しくないといわれている。 === 現状 === 声優を目指す人々は増加傾向にあるが、職業としての声優として第一線で活躍できる者は少ない。オーディションでほかの声優との競争に勝てず、仕事がもらえずに無名のまま脱落し、経済的に自立できずにわずかな期間でやめる、またはプロダクションから「今後、第一線級の声優として売れる見込みがない」と判断されて契約を解除されるという新人・若手声優が多いという<ref>[http://blog.livedoor.jp/hajimemashite_maru/archives/35794610.html 第044話 彼女の決断 : それが声優!WEB] [[浅野真澄]]・[[畑健二郎]] 2013年12月21日閲覧。</ref><ref name="seiyugenjitsu2018a" />。実際、一例として内田彩は、2015年(平成27年)9月のインタビューにて「声優の仕事一本で食べていけるようになる2、3年くらい前まで、声優の仕事が空いているときは派遣のアルバイトをやっていました」と打ち明けている<ref>{{Cite web|和書|publisher=産経新聞|url=https://www.sankei.com/article/20150926-PNNF7HDJNVM25BB462LCAQFZP4/|title=【魅力発見・動画付き】 アニメ「ラブライブ!」で大ブレークの内田彩 声優やりながら肉体労働も|accessdate=2018-04-28}}</ref><ref group="注">声優として2008年にデビューして以後、『[[キディ・ガーランド]]』(2009年。アスクール役)で主演を務めるなど、出演本数を積み重ねてはいたが、メインキャラクターとしての出演が増えたのは2012年以後のことであった。</ref>。[[内山夕実]]のように(家の都合で)一度引退後に復帰する例<ref name="mirai09">{{Cite web|和書|url=https://seigura.com/senior/2909/|title=声優未来予想図 第9回 内山夕実さん|work=声優グランプリweb|date=2012-02-06|accessdate=2021-03-06}}</ref>もある。 [[1996年]](平成8年)発売の[[キネマ旬報]]刊『声優名鑑』には約2,400人の声優が掲載されていたが、この時代でも声優としての地位が確立されている者は約300人だけで、しかもそのうち声優業だけで食べていける者は約半数であるという<ref>{{Cite|和書|author = 市原光敏|title = 声優になれる本 - あの声優がすべてを明かす!|date = 1996|publisher = 世界文化社|isbn = 4418965084|pages = 101|ref = harv}}</ref><ref group="注">なお、『[[声優グランプリ]]』2018年3月号の別冊付録である「声優名鑑2018女性編」で収録されている女性声優は800人、同雑誌の2018年4月号の別冊付録である「声優名鑑2018男性編」で収録されている男性声優は560人(つまり合計で1,360人)であった。</ref>。 ある程度の知名度、出演本数、活動年数があったにもかかわらず、声優業で生計を立てていくことが難しいという理由で引退した者も少なくなく、継続して仕事を維持するのも厳しい世界である<ref name="seiyugenjitsu2018a">{{Cite web|和書|publisher=ファイナンシャルフィールド|url=https://financial-field.com/living/2018/04/26/entry-16205|title=実録 生き残れるのは一握りと言われる「声優」の収入と生活の現実|accessdate=2018-04-28}}</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} === 注釈 === {{Reflist|group="注"|2}} === 出典 === {{Reflist|2}} == 参考文献 ==<!--引用されている--> {{参照方法|date=2023年10月|section=1}} * {{Cite book|和書|author = 松田咲實|year = 2000|title = 声優白書|publisher = [[オークラ出版]]|isbn = 978-4872785647|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = 野村道子|year = 2009|title = しずかちゃんになる方法 めざすは声優一番星|publisher = [[リブレ出版]]|isbn = 978-4862636515|ref = harv}} * {{Cite journal|和書|author=内藤豊裕 |date=2017-10 |url=https://hdl.handle.net/10959/00005110 |title=「スター化」する声優 : 日本における「声優」とは何か?(3) |journal=学習院大学人文科学論集 |ISSN=09190791 |publisher=学習院大学大学院人文科学研究科 |issue=26 |pages=131-173 |naid=120007172487 |hdl=10959/00005110 |CRID=1050008708823832064 |ref={{harvid|内藤(2017)}}}} ==関連文献==<!--引用されていない--> * {{Cite book|和書|author = 岩田光央|year = 2017|title = 声優道─死ぬまで『声』で食う極意|publisher = 中公新書ラクレ|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = 大塚明夫|year = 2015|title = 声優魂|publisher = [[星海社新書]]|isbn = 978-4061385672|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = 森川智之|year = 2018|title = 声優 声の職人|publisher = 岩波新書|ref = harv}} * {{Cite book|和書|author = 関智一|year = 2017|title = 声優に死す 後悔しない声優の目指し方|publisher = KADOKAWA|ref = harv}} * 石田美紀『アニメと声優のメディア史 なぜ女性が少年を演じるのか』青弓社(2020年12月21日)、ISBN 978-4787234780 == 関連項目 == {{ウィキプロジェクトリンク|声優}} * [[俳優]] * [[ボイスオーバー]] * [[おたく]] * [[文化放送]] * [[テレビアニメ]] * {{ill2|音楽と人工知能|en|Music and artificial intelligence}} ‐ 声優の仕事の代替、歌手の声を再現したAIの登場について。 == 外部リンク == {{Commonscat|Voice actors from Japan|日本の男性声優}} {{Commonscat|Voice actresses from Japan|日本の女性声優}} * {{Kotobank|2=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}} * [https://www.nippairen.com/ 協同組合日本俳優連合] - 声優の多くが加盟。 * [http://www.manekyo.com/ 一般社団法人日本芸能マネージメント事業者協会] - 声優のマネージメントを行うプロダクションなど事業者が加盟する。 * [https://sei-yu.net/ 日本声優事業社協議会] - 声優事業社で組織。 * [https://onseiren.com/ 一般社団法人日本音声製作者連盟] - アニメの音響製作、外国作品の日本語版製作を行う音響製作会社で組織。 ;参考 * [https://web.archive.org/web/20050208003343/http://www.nippairen.com/saiban/siryou.html 日本アニメーション・音響映像システム二次使用料未払い訴訟関係資料] - 原告の日本俳優連合側がまとめた資料。 * まつもとあつしの「メディア維新を行く」(ASCII.jp連載第71回、72回) **[https://ascii.jp/elem/000/004/062/4062264/ 〈前編〉アニメの門DUO 石田美紀氏×まつもとあつし対談:なぜ女性が少年を演じるのか?【アニメと声優のメディア史】(2021年8月21日)] **[https://ascii.jp/elem/000/004/062/4062272/ 〈後編〉アニメの門DUO 石田美紀氏×まつもとあつし対談:声優はキャラと本人、両方への想いを引き受ける菩薩である!?(2021年8月22日)] {{Normdaten}} {{DEFAULTSORT:せいゆう}} [[Category:声優|*]] [[Category:アニメ製作の手法と役職]] [[Category:コンピュータゲーム用語]] [[Category:音声]] [[Category:メディア関連の職業]] [[category:おたく]] [[fi:Ääninäyttelijä#Japanissa]]
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第一原理バンド計算
第一原理バンド計算(だいいちげんりバンドけいさん)は、実験結果に依らないで(第一原理)計算が遂行されるバンド計算である。第一原理電子構造計算、第一原理電子状態計算、あるいは単にバンド計算とも言う。 第一原理バンド計算手法には、様々なものがある。主に、擬ポテンシャル+平面波基底によるものと、全電子による電子状態計算手法とがある。全電子手法には、LMTO法、APW法、線形化 APW 法(LAPW法)、KKR法とそのフルポテンシャル版などがある。
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第一原理バンド計算(だいいちげんりバンドけいさん)は、実験結果に依らないで(第一原理)計算が遂行されるバンド計算である。第一原理電子構造計算、第一原理電子状態計算、あるいは単にバンド計算とも言う。 第一原理バンド計算手法には、様々なものがある。主に、擬ポテンシャル+平面波基底によるものと、全電子による電子状態計算手法とがある。全電子手法には、LMTO法、APW法、線形化 APW 法(LAPW法)、KKR法とそのフルポテンシャル版などがある。
{{出典の明記|date=2011年10月}} '''第一原理バンド計算'''(だいいちげんりバンドけいさん)は、実験結果に依らないで([[第一原理]])計算が遂行される[[バンド計算]]である。'''第一原理電子構造計算'''、'''第一原理電子状態計算'''、あるいは単に'''バンド計算'''とも言う。 第一原理バンド計算手法には、様々なものがある。主に、[[擬ポテンシャル]]+[[平面波基底]]によるものと、全電子による電子状態計算手法とがある。全電子手法には、[[LMTO法]]、[[APW法]]、[[線形化 (第一原理バンド計算)|線形化]] APW 法([[LAPW法]])、[[KKR法]]とその[[フルポテンシャル]]版などがある。 == 擬ポテンシャル手法 == * [[擬ポテンシャル]] == 全電子手法 == * [[LMTO法]] * NMTO法 * [[APW法]] * [[LAPW法]] * [[KKR法]] * [[PAW法]] == その他の手法 == * [[コヒーレントポテンシャル近似]](→KKR-CPA) * [[カー・パリネロ法]](≒第一原理分子動力学法) * [[第一原理経路積分分子動力学法]] * [[実空間法]] * [[DFPT法]] == 関連項目 == * [[第一原理計算]] * バンド計算そのものに関するもの ** [[密度汎関数法]] *** [[密度汎関数理論]] (DFT) ** [[局所密度近似]] (LDA) ** [[LDAを越える試み]] ** [[基底関数]] *** [[局在基底]] *** [[平面波]]基底 *** [[混合基底]] ** [[相対論効果]] ** [[波動関数]] ** [[マフィンティンポテンシャル]] ** [[フルポテンシャル]] ** [[線形化 (第一原理バンド計算)|線形化]] ** [[オーダーN法]] ** バンド計算で使われる技法 *** [[スラブ近似]] *** [[スーパーセル法]] *** [[ジェリウムモデル]] *** [[テトラヘドロン法]] *** [[特殊点法]] *** [[電荷密度の混合の仕方]] *** [[単サイト近似]] *[[物性物理学]]一般 **[[断熱近似]]、[[バンド理論]]、[[自由電子]]、[[ブロッホの定理]]、[[一電子近似]]([[平均場近似]])、[[変分原理]]、[[変分法]]、[[ブリュアンゾーン]]、[[結晶]]、[[構造定数]]、[[対称性]]、[[群論]]、[[逆格子空間]]、[[波数]]、[[ブリュアンゾーン#k点|k点]]、[[単位胞]](ユニットセル)、[[電荷密度]]、[[状態密度]]、[[フェルミ面]]、[[基底状態]]、[[励起状態]]、[[バンドギャップ]]、[[フェルミエネルギー]]、[[多重散乱理論]] *計算機、技法一般 **[[対角化]]、[[固有値問題]]、[[固有ベクトル]]、[[高速フーリエ変換]] (FFT)、[[有限要素法]] (FEM)、[[共役勾配法]]、[[最急降下法]]、[[直交化]]、[[エバルトの方法]]、[[並列化]]、[[ベクトル化]]、[[超並列マシン]]、[[スーパーコンピュータ]] {{半導体}} {{DEFAULTSORT:たいいちけんりはんとけいさん}} [[Category:バンド計算|*]] [[Category:計算化学]]
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