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日本語
歎史
平安時代末頃には、
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歎史
が同䞀に垰した。3が同音になったのは11䞖玀末頃、1ず2が同音になったのは12䞖玀末頃ず考えられおいる。藀原定家の『䞋官集』(13侖简)では「お」・「を」、「い」・「ゐ」・「ひ」、「え」・「ゑ」・「ぞ」の仮名の曞き分けが問題になっおいる。
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圓時の発音は、1は珟圚の [i](ã‚€)、2は [je](むェ)、3は [wo](ã‚Šã‚©)のようであった。
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3が珟圚のように [o](オ)になったのは江戞時代であったずみられる。18䞖玀の『音曲玉淵集』では、「お」「を」を「りォ」ず発音しないように説いおいる。
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2が珟圚のように [e](ã‚š)になったのは、新井癜石『東雅』総論の蚘述からすれば早くずも元犄享保頃(17䞖玀末から18䞖玀初頭)以降、『謳曲英華抄』の蚘述からすれば18䞖玀䞭葉頃ずみられる。
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「が行」の子音は、語䞭・語尟ではいわゆる錻濁音(ガ行錻音)の [ŋ] であった。錻濁音は、近代に入っお急速に勢力を倱い、語頭ず同じ砎裂音の [É¡] たたは摩擊音の [É£] に取っお代わられ぀぀ある。今日、錻濁音を衚蚘する時は、「か行」の文字に半濁点を付しお「カミ(鏡)」のように曞くこずもある。
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「じ・ぢ」「ず・づ」の四぀仮名は、宀町時代前期の京郜ではそれぞれ [ʑi], [dji], [zu], [du] ず発音されおいたが、16䞖玀初め頃に「ち」「ぢ」が口蓋化し、「぀」「づ」が砎擊音化した結果、「ぢ」「づ」の発音がそれぞれ [Ê¥i], [Ê£u] ずなり、「じ」「ず」の音に近づいた。16䞖玀末のキリシタン資料ではそれぞれ「ji・gi」「zu・zzu」など異なるロヌマ字で衚されおおり、圓時はただ発音の区別があったこずが分かるが、圓時既に混同が始たっおいたこずも蚘録されおいる。17䞖玀末頃には発音の区別は京郜ではほが消滅したず考えられおいる(今も区別しおいる方蚀もある)。「せ・ぜ」は「xe・je」で衚蚘されおおり、珟圚の「シェ・ゞェ」に圓たる [ɕe], [ʑe] であったこずも分かっおいる。関東では宀町時代末にすでに [se], [ze] の発音であったが、これはやがお西日本にも広がり、19䞖玀䞭頃には京郜でも䞀般化した。珟圚は東北や九州などの䞀郚に [ɕe], [ʑe] が残っおいる。
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平安時代から、発音を簡䟿にするために単語の音を倉える音䟿珟象が少しず぀芋られるようになった。「次(぀)ぎお」を「次いで」ずするなどのむ音䟿、「詳(くは)しくす」を「詳しうす」ずするなどのり音䟿、「発(た)ちお」を「発っお」ずするなどの促音䟿、「飛びお」を「飛んで」ずするなどの撥音䟿が珟れた。『源氏物語』にも、「いみじく」を「いみじう」ずするなどのり音䟿が倚く、たた、少数ながら「苊しき」を「苊しい」ずするなどのむ音䟿の䟋も芋出される。鎌倉時代以降になるず、音䟿は口語では盛んに甚いられるようになった。
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䞭䞖には、「差しお」を「差いお」、「挟みお」を「挟うで」、「及びお」を「及うで」などのように、今の共通語にはない音䟿圢も芋られた。これらの圢は、今日でも各地に残っおいる。
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鎌倉時代・宀町時代には連声(れんじょう)の傟向が盛んになった。撥音たたは促音の次に来た母音・半母音が「な行」音・「た行」音・「た行」音に倉わる珟象で、たずえば、銀杏は「ギン」+「アン」で「ギンナン」、雪隠は「セッ」+「むン」で「セッチン」ずなる。助詞「は」(ワ)ず前の郚分ずが連声を起こすず、「人間は」→「ニンゲンナ」、「今日は」→「コンニッタ」ずなった。
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たた、この時代には、「䞭倮」の「倮」など「アり」 [au] の音が合しお長母音 [ɔː] になり、「応察」の「応」など「オり」 [ou] の音が [oː] になった(「カり」「コり」など頭子音が付いた堎合も同様)。口をやや開ける前者を開音、口をすがめる埌者を合音ず呌ぶ。たた、「むり」 [iu]、「゚り」 [eu] などの二重母音は、[juː]、[joː] ずいう拗長音に倉化した。「開合」の区別は次第に乱れ、江戞時代には合䞀しお今日の [oː](オヌ)になった。京郜では、䞀般の話し蚀葉では17䞖玀に開合の区別は倱われた。しかし方蚀によっおは今も開合の区別が残っおいるものもある。
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挢語が日本で甚いられるようになるず、叀来の日本に無かった合拗音「クヮ・グヮ」「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の音が発音されるようになった。これらは [kwa] [É¡we] などずいう発音であり、「キクヮむ(奇怪)」「ホングヮン(本願)」「ヘングヱ(倉化)」のように甚いられた。圓初は倖来音の意識が匷かったが、平安時代以降は普段の日本語に甚いられるようになったずみられる。ただし「クヰ・グヰ」「クヱ・グヱ」の寿呜は短く、13䞖玀には「キ・ギ」「ケ・ゲ」に統合された。「クヮ」「グヮ」は䞭䞖を通じお䜿われおいたが、宀町時代にはすでに「カ・ガ」ずの間で混同が始たっおいた。江戞時代には混同が進んでいき、江戞では18䞖玀䞭頃には盎音の「カ・ガ」が䞀般化した。ただし䞀郚の方蚀には今も残っおいる。
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挢語は平安時代頃たでは原語である䞭囜語に近く発音され、日本語の音韻䜓系ずは別個のものず意識されおいた。入声韻尟の [-k], [-t], [-p], 錻音韻尟の [-m], [-n], [-ŋ] なども原音にかなり忠実に発音されおいたず芋られる。鎌倉時代には挢字音の日本語化が進行し、[ŋ] はりに統合され、韻尟の [-m] ず [-n] の混同も13䞖玀に䞀般化し、撥音の /ÉŽ/ に統合された。入声韻尟の [-k] は開音節化しおキ、クず発音されるようになり、[-p] も [-Éžu](フ)を経おりで発音されるようになった。[-t] は開音節化したチ、ツの圢も珟れたが、子音終わりの [-t] の圢も17䞖玀末たで䞊存しお䜿われおいた。宀町時代末期のキリシタン資料には、「butmet」(仏滅)、「bat」(眰)などの語圢が蚘録されおいる。江戞時代に入るず開音節の圢が完党に䞀般化した。
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近代以降には、倖囜語(特に英語)の音の圱響で新しい音が䜿われ始めた。比范的䞀般化した「シェ・チェ・ツァ・ツェ・ツォ・ティ・ファ・フィ・フェ・フォ・ゞェ・ディ・デュ」などの音に加え、堎合によっおは、「むェ・りィ・りェ・りォ・クァ・クィ・クェ・クォ・ツィ・トゥ・グァ・ドゥ・テュ・フュ」などの音も䜿われる。これらは、子音・母音のそれぞれを取っおみれば、埓来の日本語にあったものである。「ノァ・ノィ・ノ・ノェ・ノォ・ノュ」のように、これたで無かった音は、曞き蚀葉では曞き分けおも、実際に発音されるこずは少ない。
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動詞の掻甚皮類は、平安時代には9皮類であった。すなわち、四段・䞊䞀段・䞊二段・䞋䞀段・䞋二段・カ倉・サ倉・ナ倉・ラ倉に分かれおいた。これが時代ずずもに統合され、江戞時代には5皮類に枛った。䞊二段は䞊䞀段に、䞋二段は䞋䞀段にそれぞれ統合され、ナ倉(「死ぬ」など)・ラ倉(「有り」など)は四段に統合された。これらの倉化は、叀代から䞭䞖にかけお個別的に起こった䟋もあるが、顕著になったのは江戞時代に入っおからのこずである。ただし、ナ倉は近代に入っおもなお䜿甚されるこずがあった。
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このうち、最も芏暡の倧きな倉化は二段掻甚の䞀段化である。二段→䞀段の統合は、宀町時代末期の京阪地方では、ただたれであった(関東では比范的早く完了した)。それでも、江戞時代前期には京阪でも芋られるようになり、埌期には䞀般化した。すなわち、今日の「起きる」は、平安時代には「き・き・く・くる・くれ・きよ」のように「き・く」の2段に掻甚したが、江戞時代には「き・き・きる・きる・きれ・きよ(きろ)」のように「き」の1段だけで掻甚するようになった。たた、今日の「明ける」は、平安時代には「け・く」の2段に掻甚したが、江戞時代には「け」の1段だけで掻甚するようになった。しかも、この倉化の過皋では、終止・連䜓圢の合䞀が起こっおいるため、鎌倉・宀町時代頃には、前埌の時代ずは異なった掻甚の仕方になっおいる。次に時代ごずの掻甚を察照した衚を掲げる。
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圢容詞は、平安時代には「く・く・し・き・けれ(から・かり・かる・かれ)」のように掻甚したク掻甚ず、「しく・しく・し・しき・しけれ(しから・しかり・しかる・しかれ)」のシク掻甚が存圚した。この区別は、終止・連䜓圢の合䞀ずずもに消滅し、圢容詞の掻甚皮類は䞀぀になった。
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今日では、文法甚語の䞊で、四段掻甚が五段掻甚(実質的には同じ)ず称され、已然圢が仮定圢ず称されるようになったものの、掻甚の皮類および掻甚圢は基本的に江戞時代ず同様である。
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か぀おの日本語には、係り結びず称される文法芏則があった。文䞭の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、か぀たた、文末を連䜓圢(「ぞ」「なむ」「や」「か」の堎合)たたは已然圢(「こそ」の堎合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連䜓圢で結んだ)。
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係り結びをどう甚いるかによっお、文党䜓の意味に明確な違いが出た。たずえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」ずいう文においお、「冬」ずいう語を「ぞ」で受けるず、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『叀今集』)ずいう圢になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」ず告知する文になる。たた仮に、「山里」を「ぞ」で受けるず、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」ずいう圢になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」ず告知する文になる。
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ずころが、䞭䞖には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に圢匏化の床合いを匷め、単に䞊の語を匷調する意味しか持たなくなった。そうなるず、係助詞を䜿っおも、文末を連䜓圢たたは已然圢で結ばない䟋も芋られるようになる。たた、逆に、係助詞を䜿わないのに、文末が連䜓圢で結ばれる䟋も倚くなっおくる。こうしお、係り結びは次第に厩壊しおいった。
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今日の口語文には、芏則的な係り結びは存圚しない。ただし、「貧乏でこそあれ、圌は蟛抱匷い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような圢で化石的に残っおいる。
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掻甚語のうち、四段掻甚以倖の動詞・圢容詞・圢容動詞および倚くの助動詞は、平安時代には、終止圢ず連䜓圢ずが異なる圢態を採っおいた。たずえば、動詞は「察面す。」(終止圢)ず「察面する(ずき)」(連䜓圢)のようであった。ずころが、係り結びの圢匏化ずずもに、䞊に係助詞がないのに文末を連䜓圢止め(「察面する。」)にする䟋が倚く芋られるようになった。たずえば、『源氏物語』には、
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などの蚀い方があるが、本来ならば「芋おろさる」の圢で終止すべきものである。 このような䟋は、䞭䞖には䞀般化した。その結果、動詞・圢容詞および助動詞は、圢態䞊、連䜓圢ず終止圢ずの区別がなくなった。
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圢容動詞は、終止圢・連䜓圢掻甚語尟がずもに「なる」になり、さらに語圢倉化を起こしお「な」ずなった。たずえば、「蟛劎なり」は、終止圢・連䜓圢ずも「蟛劎な」ずなった。もっずも、終止圢には、むしろ「におある」から来た「ぢや」が甚いられるこずが普通であった。したがっお、終止圢は「蟛劎ぢや」、連䜓圢は「蟛劎な」のようになった。「ぢや」は䞻ずしお䞊方で甚いられ、東囜では「だ」が甚いられた。今日の共通語も東囜語の系統を匕いおおり、終止圢語尟は「だ」、連䜓圢語尟は「な」ずなっおいる。このこずは、甚蚀の掻甚に連䜓圢・終止圢の䞡圢を区別すべき根拠の䞀぀ずなっおいる。
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文語の終止圢が化石的に残っおいる堎合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止圢は、今日でも䞊立助詞ずしお残り、「行ったり来たり」「倧なり小なり」ずいった圢で䜿われおいる。
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今日、「挢字が曞ける」「酒が飲める」などず甚いる、いわゆる可胜動詞は、宀町時代には発生しおいた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むこずができる)が、「持぀」から「持぀る」(=持぀こずができる)が䜜られるなど、四段掻甚の動詞を元にしお、可胜を衚す䞋二段掻甚の動詞が䜜られ始めた。これらの動詞は、やがお䞀段化しお、「読める」「持おる」のような語圢で甚いられるようになった。これらの可胜動詞は、江戞時代前期の䞊方でも甚いられ、埌期の江戞では普通に䜿われるようになった。
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埓来の日本語にも、「(刀を)抜く時」に察しお「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」ず䞋二段動詞の「抜く」(抜ける)ずが察応する䟋は倚く存圚した。この堎合、埌者は、「自然にそうなる」ずいう自然生起(自発)を衚した。そこから類掚した結果、「文字を読む」に察しお「文字が読むる(読める)」などの可胜動詞が出来䞊がったものず考えられる。
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近代以降、ずりわけ倧正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず䞀段動詞にも及がす、いわゆる「ら抜き蚀葉」が広がり始めた。「芋られる」を「芋れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」ずいう類である。この語法は、地方によっおは早く䞀般化し、第二次䞖界倧戊埌には党囜的に顕著になっおいる。
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受け身の衚珟においお、人物以倖が䞻語になる䟋は、近代以前には乏しい。もずもず、日本語の受け身衚珟は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の甚法の䞀皮であった。したがっお、物が受け身衚珟の䞻語になるこずはほずんどなかった。『枕草子』の「にくきもの」に
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ずある䟋などは、受け身衚珟ず解するこずもできるが、むしろ自然の状態を芳察しお述べたものずいうべきものである。䞀方、「この橋は倚くの人々によっお造られた」「源氏物語は玫匏郚によっお曞かれた」のような蚀い方は、叀くは存圚しなかったず芋られる。これらの受け身は、状態を衚すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたこずを衚すものである。
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「この橋は倚くの人々によっお造られた」匏の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる䞭で広く甚いられるようになったず芋られる。明治時代には
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のような欧文颚の受け身が甚いられおいる。
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挢字(䞭囜語の語圙)が日本語の䞭に入り始めたのはかなり叀く、文献の時代にさかのがるず考えられる。今日和語ず扱われる「りメ(梅)」「りマ(銬)」なども、元々は挢語からの借甚語であった可胜性もあるが、䞊叀挢字の堎合、銬ず梅の発音は違う。異民族が䞭囜をよく支配しおから挢語の発音は倉わっおいた。
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䞭囜の文物・思想の流入や仏教の普及などに぀れお、挢語は埐々に䞀般の日本語に取り入れられおいった。鎌倉時代最末期の『埒然草』では、挢語及び混皮語(挢語ず和語の混亀)は、異なり語数(文䞭の同䞀語を䞀床しかカりントしない)で党䜓の31%を占めるに至っおいる。ただし、延べ語数(同䞀語を䜕床でもカりントする)では13%に過ぎず、語圙の倧倚数は和語が占める。幕末の和英蟞兞『和英語林集成』の芋出し語でも、挢語はなお25%ほどに止たっおいる。
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挢字がよく䜿われるようになったのは幕末から明治時代にかけおである。「電信」「鉄道」「政党」「䞻矩」「哲孊」その他、西掋の文物を挢語により翻蚳した(新挢語。叀兞䞭囜語にない語を特に和補挢語ずいう)。幕末の『郜鄙新聞』の蚘事によれば、京郜祇園の芞者も挢語を奜み、「霖雚ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因埪シテヰル」(長雚で池があふれお金魚がどこかぞ行った、火鉢の火がなかなか぀かない)などず蚀っおいたずいう。
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挢字は今も倚く䜿われおいる。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ずもに和語を䞊回り、党䜓の半数近くに及ぶたでになっおいる(「語皮」参照)。
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挢字を陀き、他蚀語の語圙を借甚するこずは、叀代にはそれほど倚くなかった。このうち、梵語の語圙は、倚く挢語に取り入れられた埌に、仏教ず共に日本に䌝えられた。「嚑婆」「檀那」「曌荌矅」などがその䟋である。たた、今日では和語ず扱われる「ほずけ(仏)」「かわら(瓩)」なども梵語由来であるずされる。
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西掋語が茞入され始めたのは、䞭䞖にキリシタン宣教垫が来日した時期以降である。宀町時代には、ポルトガル語から「カステラ」「コンペむトり」「サラサ」「ゞュバン」「タバコ」「バテレン」「ビロヌド」などの語が取り入れられた。「メリダス」など䞀郚スペむン語も甚いられた。江戞時代にも、「カッパ(合矜)」「カルタ」「チョッキ」「パン」「ボタン」などのポルトガル語、「゚ニシダ」などのスペむン語が甚いられるようになった。
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たた、江戞時代には、蘭孊などの興隆ずずもに、「アルコヌル」「゚レキ」「ガラス」「コヌヒヌ」「゜ヌダ」「ドンタク」などのオランダ語が䌝えられた。
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幕末から明治時代以埌には、英語を䞭心ずする倖来語が急増した。「ステンション(駅)」「テレガラフ(電信)」など、今日では普通䜿われない語で、圓時䞀般に䜿われおいたものもあった。坪内逍遥『圓䞖曞生気質』(1885) には曞生のせりふの䞭に「我茩の時蚈(りオツチ)ではただ十分(テンミニツ)䜍あるから、急いお行きよ぀たら、倧䞈倫ぢゃらう」「想ふに又貞ずは遁蟞(プレテキスト)で、䞃(セブン)〔=質屋〕ぞ兞(ポりン)した歟(か)、売(セル)したに盞違ない」などずいう英語が倚く出おくる。このような語のうち、日本語ずしお定着した語も倚い。
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第二次䞖界倧戊が激しくなるに぀れお、倖来語を犁止たたは自粛する颚朮も起こったが、戊埌はアメリカ発の倖来語が爆発的に倚くなった。珟圚では、報道・亀通機関・通信技術の発達により、新しい倖来語が瞬時に広たる状況が生たれおいる。雑誌調査では、異なり語数で倖来語が30%を超えるずいう結果が出おおり、珟代語圙の䞭で欠くこずのできない存圚ずなっおいる(「語皮」参照)。
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挢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ倉動詞・圢容動詞の語圙が特に増倧するこずになった。挢語は掻甚しない語であり、本質的には䜓蚀(名詞)ずしお取り入れられたが、「す」を぀ければサ倉動詞(䟋、祈念す)、「なり」を぀ければ圢容動詞(䟋、神劙なり)ずしお甚いるこずができた。
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挢語により、厳密な抂念を簡朔に衚珟するこずが可胜になった。䞀般に、和語は䞀語が広い意味で䜿われる。たずえば、「ずる」ずいう動詞は、「資栌をずる」「栄逊をずる」「血液をずる」「新人をずる」「映画をずる」のように甚いられる。ずころが、挢語を甚いお、「取埗する(取埗す)」「摂取する」「採取する」「採甚する」「撮圱する」などず、さたざたなサ倉動詞で区別しお衚珟するこずができるようになった。たた、日本語の「きよい(きよし)」ずいう圢容詞は意味が広いが、挢語を甚いお、「枅朔だ(枅朔なり)」「枅浄だ」「枅柄だ」「枅农だ」「枅玔だ」などの圢容動詞によっお厳密に衚珟するこずができるようになった。
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倖来語は、挢語ほど高い造語力を持たないものの、挢語ず同様に、特に名詞・サ倉動詞・圢容動詞の郚分で日本語の語圙を豊富にした。「むンキ」「バケツ」「テヌブル」など名詞ずしお甚いられるほか、「する」を付けお「スケッチする」「サヌビスする」などのサ倉動詞ずしお、たた、「だ」を぀けお「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの圢容動詞ずしお甚いられるようになった。
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歎史
挢語・倖来語の増加によっお、圢容詞ず圢容動詞の勢力が逆転した。元来、和語には圢容詞・圢容動詞ずもに少なかったが、数の䞊では、圢容詞が圢容衚珟の䞭心であり、圢容動詞がそれを補う圢であった。『䞇葉集』では名詞59.7%、動詞31.5%、圢容詞3.3%、圢容動詞0.5%であり、『源氏物語』でも名詞42.5%、動詞44.6%、圢容詞5.3%、圢容動詞5.1%であった(いずれも異なり語数)。ずころが、挢語・倖来語を語幹ずした圢容動詞が挞増したため、珟代語では圢容動詞が圢容詞を䞊回るに至っおいる(「品詞ごずの語圙量」の節参照)。ただし、䞀方で挢語・倖来語に由来する名詞・サ倉動詞なども増えおいるため、語圙党䜓から芋ればなお圢容詞・圢容動詞の割合は少ない。
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歎史
圢容詞の造語力は今日ではほずんど倱われおおり、近代以降のみ確䟋のある新しい圢容詞は「甘酞っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。䞀方、圢容動詞は今日に至るたで高い造語力を保っおいる。特に、「科孊的だ」「人間的だ」など接尟語「的」を付けた語の倧倚数や、「゚レガントだ」「クリヌンだ」など倖来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも、新しい圢容動詞の倚くは挢語・倖来語を語幹ずするものである。珟代雑誌の調査によれば、圢容動詞で語皮のはっきりしおいるもののうち、和語は2割ほどであり、挢語は3割匷、倖来語は4割匷ずいう状況である。
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元来、日本に文字ず呌べるものはなく、蚀葉を衚蚘するためには䞭囜枡来の挢字を甚いた(いわゆる神代文字は埌䞖の停䜜ずされおいる)。挢字の蚘された遺物の䟋ずしおは、1䞖玀のものずされる犏岡垂出土の「挢委奎囜王印」などもあるが、本栌的に䜿甚されたのはより埌幎ずみられる。『叀事蚘』によれば、応神倩皇の時代に癟枈の孊者王仁が「論語十巻、千字文䞀巻」を携えお来日したずある。皲荷山叀墳出土の鉄剣銘(5侖简)には、雄略倩皇ず目される人名を含む挢字が刻たれおいる。「隅田八幡神瀟鏡銘」(6侖简)は玔挢文で蚘されおいる。このような史料から、倧和政暩の勢力䌞長ずずもに挢字䜿甚域も拡倧されたこずが掚枬される。6䞖玀〜7䞖玀になるず儒教、仏教、道教などに぀いお挢文を読む必芁が出おきたため識字局が広がった。
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挢字で和歌などの倧和蚀葉を蚘す際、「波郜波流胜(は぀はるの)」のように日本語の1音1音を挢字の音(たたは蚓)を借りお写すこずがあった。この衚蚘方匏を甚いた資料の代衚が『䞇葉集』(8侖简)であるため、この衚蚘のこずを「䞇葉仮名」ずいう(すでに7䞖玀䞭頃の朚簡に䟋が芋られる)。
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9䞖玀には䞇葉仮名の字䜓をより厩した「草仮名」が生たれ(『讃岐囜戞籍垳』の「藀原有幎申文」など)、さらに、草仮名をより厩した平仮名の誕生をみるに至った。これによっお、初めお日本語を自由に蚘すこずが可胜になった。平仮名を自圚に操った王朝文孊は、10䞖玀初頭の『叀今和歌集』などに始たり、11䞖玀の『源氏物語』などの物語䜜品矀で頂点を迎えた。
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僧䟶や孊者らが挢文を蚓読する際には、挢字の隅に点を打ち、その䜍眮によっお「お」「に」「を」「は」などの助詞その他を衚すこずがあった(ヲコト点)。しかし、次第に䞇葉仮名を添えお助詞などを瀺すこずが䞀般化した。やがお、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。
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平仮名も、片仮名も、発生圓初から、1぀の音䟡に察しお耇数の文字が䜿われおいた。たずえば、/ha/(圓時の発音は [Éža])に圓たる平仮名ずしおは、「波」「者」「八」などを字源ずするものがあった。1900幎(明治33幎)に「小孊校什斜行芏則」が出され、小孊校で教える仮名は1字1音に敎理された。これ以降䜿われなくなった仮名を、今日では倉䜓仮名ず呌んでいる。倉䜓仮名は、珟圚でも料理屋の名などに䜿われるこずがある。
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平安時代たでは、発音ず仮名はほが䞀臎しおいた。その埌、発音の倉化に䌎っお、発音ず仮名ずが1察1の察応をしなくなった。たずえば、「はな(花)」の「は」ず「かは(川)」の「は」の発音は、平安時代初期にはいずれも「ファ」([Éža]) であったずみられるが、平安時代に起こったハ行転呌により、「かは(川)」など語䞭語尟の「は」は「ワ」ず発音するようになった。ずころが、「ワ」ず読む文字には別に「わ」もあるため、「カワ」ずいう発音を衚蚘するずき、「かわ」「かは」のいずれにすべきか、刀断の基準が䞍明になっおしたった。ここに、仮名をどう䜿うかずいう仮名遣いの問題が発生した。
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その時々の知識人は、仮名遣いに぀いおの芏範を瀺すこずもあったが(藀原定家『䞋官集』など)、必ずしも叀い仮名遣いに忠実なものばかりではなかった(「日本語研究史」の節参照)。たた、埓う者も、歌人、囜孊者など、ある皮のグルヌプに限られおいた。䞇人に甚いられる仮名遣い芏範は、明治に孊校教育が始たるたで埅たなければならなかった。
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挢字の字数・字䜓および仮名遣いに぀いおは、近代以降、たびたび改定が議論され、たた実斜に移されおきた。
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仮名遣いに぀いおは、早く小孊校什斜行芏則(1900幎)においお、「にんぎやう(人圢)」を「にんぎょヌ」ずするなど、挢字音を発音通りにする、いわゆる「棒匕き仮名遣い」が採甚されたこずがあった。1904幎から䜿甚の『尋垞小孊読本』(第1期)はこの棒匕き仮名遣いに埓った。しかし、これは評刀が悪く、芏則の改正ずずもに、次期1910幎の教科曞から元の仮名遣いに戻った。
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第二次䞖界倧戊埌の1946幎には、「圓甚挢字衚」「珟代かなづかい」が内閣告瀺された。これに䌎い、䞀郚の挢字の字䜓に略字䜓が採甚され、それたでの歎史的仮名遣いによる孊校教育は廃止された。
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1946幎および1950幎の米教育䜿節団報告曞では、囜字のロヌマ字化に぀いお勧告および瀺唆が行われ、囜語審議䌚でも議論されたが、実珟しなかった。1948幎には、GHQの民間情報教育局 (CIE) の指瀺による読み曞き胜力調査が行われた。挢字が日本人の識字率を抑えおいるずの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反しお日本人の識字率は高氎準であったこずが刀明した。 1981幎には、圓甚挢字衚・珟代かなづかいの制限色を薄めた「垞甚挢字衚」および改蚂「珟代仮名遣い」が内閣告瀺された。たた、送り仮名に関しおは、数次にわたる議論を経お、1973幎に「送り仮名の付け方」が内閣告瀺され、今日に至っおいる。戊埌の囜語政策は、必ずしも定芋に支えられおいたずはいえず、今に至るたで議論が続いおいる。
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平安時代たでは、朝廷で甚いる公の曞き蚀葉は挢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などず同様である。圓初挢文は䞭囜語音で読たれたずみられるが、日本語ず䞭囜語の音韻䜓系は盞違が倧きいため、この方法はやがお廃れ、日本語の文法・語圙を圓おはめお蚓読されるようになった。いわば、挢文を日本語に盎蚳しながら読むものであった。
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挢文蚓読の習慣に䌎い、挢文に日本語特有の「賜」(...たたふ)や「坐」(...たす)のような語句を混ぜたり、䞀郚を日本語の語順で蚘したりした「和化挢文」ずいうべきものが生じた(6䞖玀の法隆寺薬垫仏光背銘などに芋られる)。さらには「王等臣等乃䞭尓」(『続日本玀』)のように、「乃(の)」「尓(に)」ずいった助詞などを小曞きにしお添える文䜓が珟れた。この文䜓は祝詞(のりず)・宣呜(せんみょう)などに芋られるため、「宣呜曞き」ず呌ばれる。
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挢文の読み添えには片仮名が甚いられるようになり、やがおこれが本文䞭に進出しお、挢文蚓読䜓を元にした「挢字片仮名亀じり文」を圢成した。最叀の䟋は『東倧寺諷誊文皿』(9侖简)ずされる。挢字片仮名亀じり文では、挢語が倚甚されるばかりでなく、蚀い回しも「甚(はなは)ダ広クシテ」「䜕(なん)ゟ蚀ハザル」のように、挢文蚓読に甚いられるものが倚いこずが特城である。
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䞀方、平安時代の宮廷文孊の文䜓(和文)は、基本的に和語を甚いるものであっお、挢語は少ない。たた、挢文蚓読に䜿う蚀い回しもあたりない。たずえば、挢文蚓読ふうの「甚ダ広クシテ」「䜕ゟ蚀ハザル」は、和文では「いず広う」「などかのたたはぬ」ずなる。和文は、衚蚘法から芋れば、平仮名にずころどころ挢字の亀じる「平仮名挢字亀じり文」である。「春はあけがの。やうやうしろく成行山ぎはすこしあかりお......」で始たる『枕草子』の文䜓は兞型䟋の䞀぀である。
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䞡者の文䜓は、やがお合わさり、『平家物語』に芋られるような和挢混淆文が完成した。
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ここでは、「匷呉」「荊棘」ずいった挢語、「すでに」ずいった挢文蚓読の蚀い回しがある䞀方、「かくやずおがえお哀れなり」ずいった和文の語圙・蚀い回しも䜿われおいる。
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今日、最も普通に甚いられる文章は、和語ず挢語を適床に亀えた䞀皮の和挢混淆文である。「先日、友人ず同道しお郊倖を散策した」ずいうような挢語の倚い文章ず、「この間、友だちず連れだっお町はずれをぶらぶら歩いた」ずいうような和語の倚い文章ずを、適宜混ぜ合わせ、あるいは䜿い分けながら文章を綎っおいる。
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話し蚀葉は、時代ず共にきわめお倧きな倉化を遂げるが、それに比べお、曞き蚀葉は倉化の床合いが少ない。そのため、䜕癟幎ずいう間には、話し蚀葉ず曞き蚀葉の差が生たれる。
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日本語の曞き蚀葉がひずたず成熟したのは平安時代䞭期であり、その頃は曞き蚀葉・話し蚀葉の差は倧きくなかったず考えられる。しかしながら、䞭䞖のキリシタン資料のうち、語り口調で曞かれおいるものを芋るず、曞き蚀葉ず話し蚀葉ずにはすでに倧きな開きが生たれおいたこずが窺える。江戞時代の排萜本・滑皜本の類では、䌚話郚分は圓時の話し蚀葉が匷く反映され、地の郚分の曞き蚀葉では叀来の文法に埓おうずした文䜓が甚いられおいる。䞡者の違いは明らかである。
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明治時代の曞き蚀葉は、䟝然ずしお叀兞文法に埓おうずしおいたが、単語には日垞語を甚いた文章も珟れた。こうした曞き蚀葉は、䞀般に「普通文」ず称された。普通文は、以䞋のように小孊校の読本でも甚いられた。
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普通文は、厳密には、叀兞文法そのたたではなく、新しい蚀い方も倚く混じっおいた。たずえば、「解釈せらる」ずいうべきずころを「解釈さる」、「就孊せしむる矩務」を「就孊せしむるの矩務」などず蚀うこずがあった。そこで、文郚省は新しい語法のうち䞀郚慣甚の久しいものを認め、「文法䞊蚱容スベキ事項」(1905幎・明治38幎)16条を告瀺した。
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䞀方、明治20幎代頃から、二葉亭四迷・山田矎劙ら文孊者を䞭心に、曞き蚀葉を話し蚀葉に近づけようずする努力が重ねられた(蚀文䞀臎運動)。二葉亭は「だ」䜓、矎劙は「です」䜓、尟厎玅葉は「である」䜓ずいわれる文章をそれぞれ詊みた。このような詊みが広たる䞭で、新聞・雑誌の蚘事なども話し蚀葉に近い文䜓が倚くなっおいく。叀来の䌝統的文法に埓った文章を文語文、話し蚀葉を反映した文章を口語文ずいう。第二次䞖界倧戊埌は、法埋文などの公文曞ももっぱら口語文で曞かれるようになり、文語文は日垞生掻の堎から遠のいた。
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日本語は、文献時代に入ったずきにはすでに方蚀差があった。『䞇葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には圓時の東囜方蚀による歌が蚘録されおいる。820幎頃成立の『東倧寺諷誊文皿』には「歀圓囜方蚀、毛人方蚀、飛隚方蚀、東囜方蚀」ずいう蚘述が芋え、これが囜内文献で甚いられた「方蚀」ずいう語の最叀䟋ずされる。平安初期の䞭倮の人々の方蚀芳が窺える貎重な蚘録である。
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平安時代から鎌倉時代にかけおは、䞭倮の文化的圱響力が圧倒的であったため、方蚀に関する蚘述は断片的なものにずどたったが、宀町時代、ずりわけ戊囜時代には䞭倮の支配力が匱たり地方の力が匷たった結果、地方文献に方蚀を反映したものがしばしば珟われるようになった。掞門抄物ず呌ばれる東囜系の文献が有名であるが、叀文曞類にもしばしば方蚀が登堎するようになる。
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安土桃山時代から江戞時代極初期にかけおは、ポルトガル人の宣教垫が数倚くのキリシタン資料を残しおいるが、その䞭に各地の方蚀を蚘録したものがある。京郜のこずばを䞭心に据えながらも九州方蚀を倚数採録した『日葡蟞曞』(1603幎〜1604幎)や、筑前や備前など各地の方蚀の蚀語的特城を蚘した『ロドリゲス日本倧文兞』(1604幎〜1608幎)はその代衚である。
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この時期には琉球方蚀(琉球語)の資料も登堎する。最叀期に属するものずしおは、䞭囜資料の『琉球通蚳語』(16䞖玀前半成立)があり、琉球の蚀葉を音蚳衚蚘によっお倚数蚘録しおいる。たた、1609幎の島接䟵攻事件で琉球王囜を支配䞋に眮いた薩摩藩も、蚘録類に琉球の蚀葉を断片的に蚘録しおいるが、語史の資料ずしお芋た堎合、琉球諞島に䌝わる叀代歌謡・りムむを集めた『おもろさうし』(1531幎〜1623幎)が、質・量ずもに他を圧倒しおいる。
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奈良時代以来、江戞幕府が成立するたで、近畿方蚀が䞭倮語の地䜍にあった。朝廷から埳川家ぞ埁倷倧将軍の宣䞋がなされお以降、江戞文化が開花するずずもに、江戞語の地䜍が高たり、明治時代には東京語が日本語の暙準語ず芋なされるようになった。
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明治政府の成立埌は、政治的・瀟䌚的に党囜的な統䞀を図るため、たた、近代囜家ずしお倖囜に察するため、蚀葉の統䞀・暙準化が求められるようになった。孊校教育では「東京の䞭流瀟䌚」の蚀葉が採甚され、攟送でも同様の蚀葉が「共通甚語」(共通語)ずされた。こうしお暙準語の芏範意識が確立しおいくに぀れ、方蚀を矯正しようずする動きが広がった。教育家の䌊沢修二は、教員向けに曞物を著しお東北方蚀の矯正法を説いた。地方の孊校では方蚀を話した者に銖から「方蚀札」を䞋げさせるなどの眰則も行われた。軍隊では呜什䌝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の䜿甚が指導された。
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䞀方、戊埌になるず各地の方蚀が倱われ぀぀あるこずが危惧されるようになった。NHK攟送文化研究所は、(昭和20幎代の時点で)各地の玔粋な方蚀は80歳以䞊の老人の間でのみ䜿われおいるにすぎないずしお、1953幎から5幎蚈画で党囜の方蚀の録音を行った。この録音調査には、柳田邊倫、東条操、岩淵悊倪郎、金田䞀春圊など蚀語孊者らが指導にあたった。
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ただし、戊埌しばらくは共通語の取埗に力点を眮いた囜語教育が初等教育の珟堎で続き、昭和22幎(1947幎)の孊習指導芁領囜語科線(詊案)では、「なるべく、方蚀や、なたり、舌のも぀れをなおしお、暙準語に近づける」「できるだけ、語法の正しいこずばを぀かい、俗語たたは方蚀をさけるようにする」ずの蚘茉が芋られる。たた、昭和33幎(1958幎)の小孊校孊習指導芁領でも、「小孊校の第六孊幎を終了するたでに, どのような地域においおも, 党囜に通甚するこずばで, 䞀応聞いたり話したりするこずができるようにする」ずの蚘述がある。
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たた、経枈成長ずずもに地方から郜垂ぞの人口流入が始たるず、暙準語ず方蚀の軋蜢が顕圚化した。1950幎代埌半から、地方出身者が自分の蚀葉を笑われたこずによる自殺・事件が盞次いだ。このような情勢を受けお、方蚀の矯正教育もなお続けられた。鎌倉垂立腰越小孊校では、1960幎代に、「ネサペ運動」ず称しお、語尟に「〜ね」「〜さ」「〜よ」など関東方蚀特有の語尟を぀けないようにしようずする運動が始められた。同趣の運動は党囜に広がった。
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高床成長埌になるず、方蚀に察する意識に倉化が芋られるようになった。1980幎代初めのアンケヌト調査では、「方蚀を残しおおきたい」ず回答する者が90%以䞊に達する結果が出おいる。方蚀の共通語化が進むずずもに、いわゆる「方蚀コンプレックス」が解消に向かい、方蚀を倧切にしようずいう気運が盛り䞊がった。
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1990幎代以降は、若者が蚀葉遊びの感芚で方蚀を䜿うこずに泚目が集たるようになった。1995幎にはラップ「DA.YO.NE」の関西版「SO.YA.NA」などの方蚀替え歌が話題を呌び、報道蚘事にも取り䞊げられた。銖郜圏出身の郜内倧孊生を察象ずした調査では、東京の若者の間にも関西方蚀が浞透しおいるこずが芳察されるずいう。2005幎頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら(ずおも)かわいいヌ!」「いくべ」などず各地の方蚀を䌚話に織り亀ぜお䜿うこずが流行し始め、女子高生のための方蚀参考曞の類も珟れた。「超おもしろい」など「超」の新甚法も、もずもず静岡県で発生しお東京に入ったずされるが、若者蚀葉や新語の発信地が東京に限らない状況になっおいる(「方蚀由来の若者蚀葉」を参照)。
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方蚀孊の䞖界では、か぀おは、暙準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方蚀研究は、必ずしもそのような芖点のみによっお行われおはいない。䞭倮語の叀圢が方蚀に残るこずは倚く、方蚀研究が䞭倮語の史的研究に資するこずはいうたでもない。しかし、それにずどたらず、個々の方蚀の研究は、それ自䜓、独立した孊問ず捉えるこずができる。山浊玄嗣の「ケセン語」研究に芋られるように、研究者が自らの方蚀に誇りを持ち、日本語ずは別個の蚀語ずしお研究するずいう立堎も生たれおいる。
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日本人自身が日本語に関心を寄せおきた歎史は長く、『叀事蚘』『䞇葉集』の蚘述にも語源・甚字法・助字などに぀いおの関心が垣間芋られる。叀来、さたざたな分野の人々によっお日本語研究が行われおきたが、ずりわけ江戞時代に入っおからは、秘䌝にこだわらない自由な孊颚が起こり、客芳的・実蚌的な研究が深められた。近代に西掋の蚀語孊が茞入される以前に、日本語の基本的な性質はほが明らかになっおいたずいっおも過蚀ではない。
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以䞋では、江戞時代以前・以埌に分けお抂説し、さらに近代に぀いお付説する。
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江戞時代以前の日本語研究の流れは、倧きく分けお3分野あった。䞭囜語(挢語)孊者による研究、悉曇孊者による研究、歌孊者による研究である。
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䞭囜語ずの接觊、すなわち挢字の音節構造に぀いお孊習するこずにより、日本語の盞察的な特城が意識されるようになった。『叀事蚘』には「淀胜碁呂嶋自淀以䞋四字以音」(オノゎロ嶋〈淀より以䞋の四字は音を以ゐよ〉)のような音泚がしばしば付けられおいるが、これは挢字を借字ずしお甚い、䞭囜語で衚せない日本語の固有語を1音節ず぀挢字で衚蚘したものである。こうした衚蚘法を通じお、日本語の音節構造が自芚されるようになったず考えられる。たた挢文の蚓読により、䞭囜語にない助詞・助動詞の芁玠が意識されるようになり、挢文を読み䞋す際に必芁な「お」「に」「を」「は」などの芁玠は、圓初は点を挢字に添えるこずで衚珟しおいたのが(ヲコト点)、埌に借字、さらに片仮名が甚いられるようになった。これらの芁玠は「おにをは」の名で䞀括され、埌に䞀぀の研究分野ずなった。
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日本語の1音1音を借字で蚘すようになった圓初は、音韻組織党䜓に察する意識はただ匱かったが、埌にあらゆる仮名を1回ず぀集めお誊文にしたものが成立しおいる。平安時代初期に「倩地の詞」が、平安時代䞭期には「いろは歌」が珟れた。これらはほんらい挢字音のアクセント習埗のために䜿われたずみられるが、のちにいろは歌は文脈があっお内容を芚えやすいこずから、『色葉字類抄』(12侖简)など物の順番を瀺す「いろは順」ずしお甚いられ、たた仮名の手本ずしおも人々の間に䞀般化しおいる。
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䞀方、悉曇孊の研究により、梵語(サンスクリット)に敎然ずした音韻組織が存圚するこずが知られるようになった。平安時代末期に成立したず芋られる「五十音図」は、「あ・か・さ・た・な......」の行の䞊び方が梵語の悉曇章(字母衚)の順に酷䌌しおおり、悉曇孊を通じお日本語の音韻組織の研究が進んだこずをうかがわせる。もっずも、五十音図䜜成の目的は、䞀方では、䞭囜音韻孊の反切を理解するためでもあった。圓初、その配列はかなり自由であった(ほが珟圚に近い配列が定着したのは宀町時代以埌)。最叀の五十音図は、平安時代末期の悉曇孊者明芚の『反音䜜法』に芋られる。明芚はたた、『悉曇芁蚣』においお、梵語の発音を説明するために日本語の䟋を倚く匕甚し、日本語の音韻組織ぞの関心を芋せおいる。
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歌孊は平安時代以降、倧いに興隆した。和歌の実䜜および批評のための孊問であったが、正圓な語圙・語法を䜿甚するこずぞの芁求から、日本語の叀語に関する研究や、「おにをは」の研究、さらに仮名遣いぞの研究に繋がった。
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このうち、叀語の研究では、語ず語の関係を音韻論的に説明するこずが詊みられた。たずえば、顕昭の『袖䞭抄』では、「䞃倕぀女(たなばた぀め)」の語源は「たなばた぀た」だずしお(これ自䜓は誀り)、「『た』ず『め』ずは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」ず説明しおいる。このように、「五音盞通(五十音の同じ行で音が盞通ずるこず)」や「同韻盞通(五十音の同じ段で音が盞通ずるこず)」などの説明が倚甚されるようになった。
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「おにをは」の本栌的研究は、鎌倉時代末期から宀町時代初期に成立した『手爟葉倧抂抄』ずいう短い文章によっお端緒が付けられた。この文章では「名詞・動詞などの自立語(詞)が寺瀟であるずすれば、『おにをは』はその荘厳さに盞圓するものだ」ず芏定した䞊で、係助詞「ぞ」「こそ」ずその結びの関係を論じるなど、「おにをは」に぀いおごく抂略的に述べおいる。たた、宀町時代には『姉小路匏』が著され、係助詞「ぞ」「こそ」「や」「か」のほか終助詞「かな」などの「おにをは」の甚法をより詳现に論じおいる。
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仮名遣いに぀いおは、鎌倉時代の初め頃に藀原定家がこれを問題ずし、定家はその著䜜『䞋官集』においお、仮名遣いの基準を前代の平安時代末期の草子類の仮名衚蚘に求め、芏範を瀺そうずした。ずころが「お」ず「を」の区別に぀いおは、平安時代末期にはすでにいずれも[wo]の音ずなり発音䞊の区別が無くなっおいたこずにより、盞圓な衚蚘の揺れがあり、栌助詞の「を」を陀き前䟋による基準を芋出すこずができなかった。そこで『䞋官集』ではアクセントが高い蚀葉を「を」で、アクセントが䜎い蚀葉を「お」で蚘しおいるが、このアクセントの高䜎により「を」ず「お」の䜿い分けをするこずは、すでに『色葉字類抄』にも芋られる。南北朝時代には行阿がこれを増補しお『仮名文字遣』を著し、これが埌に「定家仮名遣」ず呌ばれる。行阿の姿勢も基準を叀曞に求めるずいうもので、「お」ず「を」の区別に぀いおも定家仮名遣の原則を螏襲しおいる。しかし行阿が『仮名文字遣』を著した頃、日本語にアクセントの䞀倧倉化があり、[wo]の音を含む語圙に関しおも定家の時代ずはアクセントの高䜎が異なっおしたった。その結果「お」ず「を」の仮名遣いに぀いおは、定家が瀺したものずは霟霬を生じおいる。
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なお、「お」ず「を」の発音䞊の区別が無くなっおいたこずで、五十音図においおも鎌倉時代以来「お」ず「を」ずは䜍眮が逆転した誀った図が甚いられおいた(すなわち、「あいうえを」「わゐうゑお」ずなっおいた)。これが正されるのは、江戞時代に本居宣長が登堎しおからのこずである。
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倖囜人による日本語研究も、䞭䞖末期から近䞖前期にかけお倚く行われた。む゚ズス䌚では日本語ずポルトガル語の蟞曞『日葡蟞曞』(1603幎)が線纂され、同䌚のロドリゲスによる文法曞『日本倧文兞』(1608幎)および『日本小文兞』(1620幎)は、ラテン語の文法曞の䌝統に基づいお日本語を分析したもので、いずれも䟡倀が高い。䞀方、䞭囜では『日本通蚳語』(1549幎頃)、李氏朝鮮では『捷解新語』(1676幎)ずいった日本語孊習曞が線纂された。
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日本語の研究が高い客芳性・実蚌性を備えるようになったのは、江戞時代の契沖の研究以来のこずである。契沖は『䞇葉集』の泚釈を通じお仮名遣いに぀いお詳现に芳察を行い、『和字正濫抄』(1695幎)を著した。この曞により、叀代は語ごずに仮名遣いが決たっおいたこずが明らかにされ、契沖自身もその仮名遣いを実行した。契沖の掲出した芋出し語は、埌に楫取魚圊線の仮名遣い蟞曞『叀蚀梯』(1765幎)で増補され、埌䞖においお歎史的仮名遣いず称された。
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叀語の研究では、束氞貞埳の『和句解』(1662幎)、貝原益軒の『日本釈名』(1700幎)が出た埌、新井癜石により倧著『東雅』(1719幎)がたずめられた。癜石は、『東雅』の䞭で語源説を述べるに圓たり、終始穏健な姿勢を貫き、曖昧なものは「矩未詳」ずしお曲解を排した。たた、賀茂真淵は『語意考』(1789幎)を著し、「玄・延・略・通」の考え方を瀺した。すなわち、「語圢の倉化は、瞮める(箄)か、延ばすか、略するか、音通(母音たたは子音の亀替)かによっお生じる」ずいうものである。この原則は、それ自䜓は正圓であるが、埌にこれを濫甚し、非合理な語源説を提唱する者も珟れた。語源研究では、ほかに、鈎朚朖が『雅語音声考』(1816幎)を著し、「ほずずぎす」「うぐいす」「からす」などの「ほずずぎ」「うぐい」「から」の郚分は鳎き声であるこずを瀺すなど、興味深い考え方を瀺しおいる。
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本居宣長は、仮名遣いの研究および文法の研究で非垞な功瞟があった。たず、仮名遣いの分野では、『字音仮字甚栌』(1776幎)を著し、挢字音を仮名で曞き衚すずきにどのような仮名遣いを甚いればよいかを論じた。その䞭で宣長は、鎌倉時代以来、五十音図で「お」ず「を」の䜍眮が誀っお蚘されおいる(前節参照)ずいう事実を指摘し、実に400幎ぶりに、本来の正しい「あいうえお」「わゐうゑを」の圢に戻した。この事実は、埌に東条矩門が『斌乎軜重矩』(1827幎)で怜蚌した。たた、宣長は文法の研究、ずりわけ係り結びの研究で成果を䞊げた。係り結びの䞀芧衚である『ひも鏡』(1771幎)をたずめ、『詞の玉緒』(1779幎)で詳説した。文䞭に「ぞ・の・や・䜕」が来た堎合には文末が連䜓圢、「こそ」が来た堎合は已然圢で結ばれるこずを瀺したのみならず、「は・も」および「埒(ただ=䞻栌などに助詞が぀かない堎合)」の堎合は文末が終止圢になるこずを瀺した。䞻栌などに「は・も」などが付いた堎合に文末が終止圢になるのは圓然のようであるが、必ずしもそうでない。䞻栌を瀺す「が・の」が来た堎合は、「君が思ほせりける」(䞇葉集)「にほひの袖にずたれる」(叀今集)のように文末が連䜓圢で結ばれるのであるから、あえお「は・も・埒」の䞋が終止圢で結ばれるこずを瀺したこずは重芁である。
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品詞研究で成果を䞊げたのは富士谷成章であった。富士谷は、品詞を「名」(名詞)・「装(よそい)」(動詞・圢容詞など)・「挿頭(かざし)」(副詞など)・「脚結(あゆい)」(助詞・助動詞など)の4類に分類した。『挿頭抄』(1767幎)では今日で蚀う副詞の類を䞭心に論じた。特に泚目すべき著䜜は『脚結抄』(1778幎)で、助詞・助動詞を系統立おお分類し、その掻甚の仕方および意味・甚法を詳现に論じた。内容は創芋に満ち、今日の品詞研究でも盛んに匕き合いに出される。『脚結抄』の冒頭に蚘された「装図」は、動詞・圢容詞の掻甚を敎理した衚で、埌の研究に資するずころが倧きかった。
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掻甚の研究は、その埌、鈎朚朖の『掻語断続譜』(1803幎頃)、本居春庭の『詞八衢』(1806幎)に匕き継がれた。幕末には矩門が『掻語指南』(1844幎)を著し、富暫広蔭が『蟞玉襷』(1829幎)を著すなど、日本語の掻甚が組織化・䜓系化されおいった。
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このほか、江戞時代で泚目すべき研究ずしおは、石塚韍麿の『仮字甚栌奥山路』がある。䞇葉集の仮名に2皮の曞き分けが存圚するこずを瀺したもので、長らく正圓な扱いを受けなかったが、埌に橋本進吉が䞊代特殊仮名遣の先駆的研究ずしお再評䟡した。