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ウィーン大学の弁護士ローレンツ・フォン・シュタインは、明治政府の指導者達が次々とヨーロッパに行き、憲法を学んだと記しています。彼は「我々の中のどんな要素が彼らを動かしているのだろうか」と問いかけました。なぜ、明治政府の指導者達は憲法を成立させたのでしょうか? 板垣退助と後藤象二郎は、1874年、政府に民選議院設立建白書を送りました。彼らは、大久保利通を中心とする政府の専制政治を批判して、国会開設を訴えました。こうして自由民権運動が盛り上がりました。1881年、明治政府は10年後の国会開催を約束するとともに、君主権の強い憲法の制定に合意しました。1882年には、伊藤博文などをヨーロッパに派遣して、憲法を学ばせました。伊藤博文は主にドイツの憲法理論を学んでから、日本に帰国しました。そして、朝廷を変えて内閣制にするなど、国のあり方を変えるような制度改革を押し進めました。それから憲法は、伊藤博文などの協力で秘密裏に書き進められました。枢密院(天皇の諮問機関)で何度も話し合われた後、1889年2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が正式に制定されました。 天皇は大日本帝国の欽定憲法を定めて、国民に与えました。そのため、天皇には大きな権力が与えられました。国会は宣戦布告、講和、条約締結、陸海軍の指揮をとれませんでしたが、天皇はその全てを行えました(天皇大権)。天皇制の中で、憲法は立法、行政、司法の三権分立制を定めました。しかし、政府は国会よりも大きな権限を持ち、国会は一定のルールに従わなければなりませんでした。帝国議会には、貴族院と衆議院の二院がありました。どちらも政府が提出する法案や予算を審議する権限は同じように持っていました。一方、国民は天皇の臣民と見られるので、法律を破らなければ、信教、言論、集会などの自由が与えられていました。また、日本では衆議院議員を制限選挙で決められました。その結果、国会が国政に参加出来るようになりました。つまり、日本はアジアで最初の近代立憲国家となりました。1894〜1895年の日清戦争後は、清国や朝鮮半島など、西洋的近代化の手本となりました。 憲法が制定されると、不平等条約を変更する理由が出来ました。欧米が条約を変えたがらなかったのは、日本の法典整備があまり進んでいないからでした。しかし、その理由がなくなってしまいました。また、それまでの交渉で、外国人を裁判官に任用するなどの歩み寄りもありました。国内では強い反対があっても、完全に平等な条約改正の条件が整いました。 1891年にロシアがシベリア鉄道の建設を始めると、イギリスは日本との関係を改善したいと考え、方針を転換して条約変更に同意しました。滋賀県大津市で、ロシア皇太子(後のニコライ2世)来日時に警護の警官が切りつけられた「大津事件」が起こり、交渉が一時中止されました。しかし、日清戦争直前の1894年、陸奥宗光外相がイギリスと通商航海条約を結んで領事裁判権を廃止すると、他の欧米諸国も同じように領事裁判権を廃止しました。1911年の日露戦争終結後、小村寿太郎が外務大臣だった頃、日本に残っていた関税自主権も回復しました。つまり、開港から50年、日本は条約上、欧米諸国と同じ地位を手に入れました。
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現在、世界は様々な国によって成り立っており、それぞれの国が独自の領土を持っています。南極大陸を除く全ての大陸は、土地をめぐる争いがありつつも、それぞれ国境で区切られています。19世紀後半以降、最近の人類史の中でようやく一般的になってきました。当初、地球上には一箇所に留まらない遊牧民など多くの人がいて、国境がどこにあるのか知りませんでした。 1648年、ウェストファリア条約で、ヨーロッパの国々は、自国の主権の範囲について取り決めました。領土の間に明確な線を引かなければならなくなりました(ただし、「飛び地」はありました)。その後、これは世界中で起こりました。また、近代国家として初めて無人島を発見して領有権を主張する競争も行われました。列強同士の勢力争いの結果、そこに住む人々の本来の絆や生活様式を考えずに、人為的に国境線を作ってしまう場合も少なくありません。 現代の日本では、国境は昔からあって気づかないし、変わらないと考えてしまいます。しかし、現実にはそうなっていません。沖縄、樺太、小笠原諸島は、明治維新後に新政府が各国と交渉して日本の領土として認められました。樺太(サハリン島)との境界線は何度も変更されています。 人間の移動だけでなく、商品やお金、情報の流れを管理してきた国境の役割は、国によって、時代によって変化してきました。昔は、国境を越えて情報を共有したり、海外へ渡航したりするのは大変でした。しかし、今はインターネットを通じて世界中に瞬時に情報を送れ、海外旅行もしやすくなりました。また、シェンゲン協定に加盟しているヨーロッパ各国の国民は、お互いに自由に国境を越えられます。自分の国以外の場所で仕事をしたり、学校に行ったりしている人もよく見られます。 交通手段や通信技術の発達によって、今後、ますます人や物、お金、情報などが国境を越えるようになります。しかし、その分、管理を強めようとする動きも出てきています。欧米の一部の国では、テロリストや大量の難民・移民の侵入を防ぐために、国境管理を厳しくしようという動きが出てきています。また、インターネットに規制をかけて、海外の情報が入りにくくする国も出てきています。 しかし、国境によって、大切な人に会えなかったり、仕事に就けなかったり、知りたい情報を手に入れられなかったりしても構わないでしょうか。 国境があるから、傷つけられる人がいるのを忘れてはなりません。「国なんかないと想像してごらん」というのは、ジョン・レノンが歌った曲です。国境はすぐに無くせません。しかし、国境の問題は話し合われ、変わるかもしれません。
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19世紀中頃、イギリスは産業革命を主導しました。その後、強力な経済力と軍事力を備えていたので、他国が真似出来ないような繁栄の時代を迎えました。このようなイギリスを「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と表現します。この言葉は、ラテン語の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」に由来しています。ヴィクトリア女王は「パクス・ブリタニカ」を実現させて、太陽が沈まない大英帝国の黄金時代を治めました。 ヴィクトリア女王は、ザクセン・コーブルク公爵家のアルバート公と結婚してからの17年間で、4男5女を出産しました。アルバート公は、女王が妊娠している時も、子供を産む時も、女王を助けてくれました。また、女王は夫の世話もしました。中産階級は、産業革命の中心となって、この二人の協力関係を高く評価しました。 中流階級の人々は、幸せな家庭が一番だと考えていました。産業革命の時代になって、工場や都市が発展しました。その結果、職場は製品を作る場所となり、家庭は製品を使う場所となりました。中産階級の人々は、一生懸命働き、お金を貯め、自分自身を助けながら生活しようと考えました。その結果、夫と妻と数人の子供で暮らす一家団欒が生まれ、「家庭は城」「家庭こそ安全な場所」という考え方が生まれました。ヴィクトリア女王とアルバート公の家庭は、生活のために働かなくてもよかったので、中流家庭の代表例といえるでしょう。 明治天皇と皇后に子供はいませんでした。しかし、明治天皇と女官5人の間に5男10女が産まれました。大正天皇は、明宮とも呼ばれ、権典侍柳原愛子の3男でした。 1896年、侍従・山県有朋・松方正義らは、皇子を誕生させるため、一刻も早く御側女官(側室)を雇うように求めました。皇室典範によると、皇位は男系の長男に与えられるとされています。しかし、皇子は明宮一人で、他は全て皇女でした。 しかし、明治天皇はこの要望を受け入れませんでした。ヨーロッパ流の夫婦(一夫一婦制)が文明国の姿として望ましいと考えていたからです。次の大正天皇も、侍女は貞明皇后(九条節子)だけでした。 その中で、天皇家は、天皇家のために働く人達の家族模範となるような存在とも見られています。天皇家や皇室の家族は、当時の画報類『風俗画報』などで、東京や地方の風俗を紹介して、一般家族の模範となりました。大正時代になると、『主婦之友』『婦人公論』などの婦人雑誌に、皇室が「家族の模範」として取り上げられるようになりました。 しかし、20世紀中頃、都市の文化住宅で台所が整備されるようになると、箱膳から卓袱台に変わりました。大英帝国の中産階級が望んだ家族団欒が日本の家庭でも行われるようになりました。
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帝国主義は19世紀後半から20世紀前半にかけて盛んになりました。この間、列強は植民地として、世界人口のほぼ3分の1が暮らす広大な土地を手に入れました。帝国主義は、世界の仕組みをどのように変えたのでしょうか。 1870年頃、ヨーロッパと北アメリカで「石油と電気」が中心になりました。このため、技術革新が進展しました(第二次産業革命)。工業化が進むと、大企業が発展して、資本の独占が強くなりました(独占資本主義)。新しい産業が成り立つためには、大きな機械と多くの資金が必要でした。そのために、少数の大企業は、企業連合(カルテル)や企業合同(トラスト)を作りました。また、銀行の力を借りたり、主要産業を買収したりして、お互いの利益に気配りするようになりました。特に、ドイツとアメリカは急成長を遂げて、イギリスは重工業の分野でアメリカに追い抜かれつつありました。こうした技術進歩に対応して、欧米列強は、原料の調達・商品市場の拡大・資本投下を行いました。さらに、植民地や勢力圏を拡大するために、積極的に海外進出を行いました。帝国主義とは、欧米列強が他国を支配しようとする姿勢をいいます。1873年から1896年まで、ヨーロッパは大不況に見舞われました。その原因として、アメリカから安い穀物が大量に流入してきたためです。その結果、経済不況から抜け出すために、外国と貿易を拡大する政策が加速されました。 イギリスは、すでに「大英帝国」という名称で世界中に植民地を持っていました。世界一の強国としての地位を維持するために、イギリスは本国と植民地の結びつきを強めようとしました。1877年になると、インド帝国が設立され、ヴィクトリア女王が統治するようになりました。また、植民地大臣ジョセフ・チェンバレンの時代に、帝国主義政策を進めて、アフリカやアジアに進出しました。 アメリカは、巨大な国内市場と多くの移民労働者によって、世界一の工業国となりました。1889年、パン・アメリカ会議を開催しました。これは、アメリカ大陸の国々の関係を改善する目的で、ラテンアメリカ諸国をアメリカ政府の支配下に置きました。また、カリブ海や太平洋にも進出しました。1898年、米西(アメリカ・スペイン)戦争に勝利し、フィリピン・グアム・ハワイを併合しました。 オットー・フォン・ビスマルクがドイツを離れると、皇帝ヴィルヘルム2世は、世界を分割する「世界政策」を始めました。海軍の増強・バグダード鉄道の敷設権獲得などを行い、イギリス・フランス・ロシアなどと対立しました。 フランスは、国内の政治が不安定なので、国内問題を解消するためにアジアやアフリカの植民地拡張を進めました。フランスとイギリスは、アフリカや東南アジアの植民地化について違う考えを持っていました。しかし、20世紀に入って、ドイツの進出を恐れたため、英仏協商を結びました。 ロシアでは、1890年代にフランスなどが資金を送ったため、工業化が進みました。しかし、国民の生活水準は低く、皇帝の支配下にあるため国内市場も小規模でした。そこで、海外市場の必要性が高まり、1891年、極東地域への進出を目的にシベリア鉄道が建設されました。そのため、日本と対立するようになり、日露戦争を引き起こしました。 こうした列強間の分割競争は、世界各地で戦争を引き起こすようになり、第一次世界大戦へ発展しました。
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欧米列強が帝国主義によって世界を支配するようになると、アジアやアフリカに圧力がかかるようになりました。アジア・アフリカの人々はどのように生きて、どのように帝国主義に対抗しようとしたのでしょうか。 アフリカ大陸は、ヨーロッパ列強の帝国主義が一番支配していた場所でした。20世紀に入って、ヨーロッパ列強はエチオピア帝国とリベリア共和国を除くアフリカ大陸のほぼ全域を支配しました(アフリカの分割)。それまで、奴隷を連れていかれ、仕事もないアフリカが、19世紀末にはヨーロッパ資本の行き先となりました。そのため、アフリカは1つの農作物と鉱物資源しか生産しないモノカルチャー経済を採用しなければならなくなりました。 1800年代前半、オスマン帝国は他国からの圧力によって、軍隊の近代化・改革を進めました。また、中央集権的な支配体制を整えようとしました。19世紀中頃から、知識人達はますます憲法と議会を求めるようになりました。1876年、ミドハト憲法が成立しました。ミドハト憲法は、アジアで最初の憲法と考えられています。その後、露土(ロシア・トルコ)戦争が始まると、スルタンのアブデュルハミト2世は憲法作成を中止しました。1908年、ミドハト憲法を復活させるため、青年トルコ人革命運動が起こりました。イラン(カージャール朝)では、政治的・経済的にイギリスやロシアへの依存を強めていました。そのため、イギリスへ煙草の権利譲渡に反対する煙草ボイコット運動が、民族主義運動のきっかけとなりました。1905年、国王の残酷な支配に対してイラン立憲革命が起こりました。 ジャマールッディーン・アフガーニーはイラン出身です。彼は、イスラーム世界各地のムスリムを統合して帝国主義勢力と戦うため、パン・イスラーム主義を唱えました。エジプトを中心に各地で、彼の思想に影響を受けました。 インド大反乱後、イギリスはイギリス領インドをつくり、インドの植民地支配を開始しました。一方、インド人中産階級は高等教育を終えて、政治に関与するようになりました。その結果、1885年にインド国民会議が結成されるようになりました。成立当初の国民議会は、イギリスを支持する立場でした。しかし、バール・ガンガーダル・ティラクのように自治と独立を求める急進派が議会に参加するようになりました。そのため、イギリスの植民地支配を少しずつ批判するようになりました。 列強諸国は、東南アジアでも植民地を展開しました。列強はプランテーションを経営して、国際市場で販売出来るように、特産品の栽培を増やしました。また、自国工業のために原材料を栽培したり、採掘したりしました。この時期、フィリピンのホセ・リサールやベトナムのファン・ボイ・チャウのように、世界各地で植民地化に反対する人々が立ち上がり、植民地支配への批判と国民意識が芽生え始めました。彼らは、フランスの独立に反対する運動を起こすと、日本の有力者に支援を求めました。日本への留学を勧めたので、東遊運動と呼ばれるようになりました。しかし、日本政府に追い出されて、東遊運動は失敗しました。成功しなくても、全国で独立や自立のために民族運動を展開しました。
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日清戦争後、日露戦争・第一次世界大戦・日中戦争・アジア太平洋戦争へと、次々と大きな対日戦争が起こりました。日清戦争勝利後、日本の領土や周辺地域がどのように変化しましたか? 朝鮮の開国後、日本と清国は朝鮮をめぐって争うようになりました。日本は朝鮮半島をより多く支配しようと考え、清国は支配を続けようと考えました。このような争いは、朝鮮半島に新たな政治的対立をもたらしました。1884年、日本軍の支援を受けて、急進的な改革派が中国を支配しようとしました。しかし、清軍によってクーデタを止められました(甲申政変)。1885年、日中両国は天津条約に調印しました。天津条約は、両国が同時に軍隊を撤退させ、軍事的な動きをする時はお互いの事前通告などを定められました。 1894年、朝鮮で宗教結社(東学)が農民反乱(甲午農民戦争)を起こしました。朝鮮政府は清に軍隊の派遣を求めると、日本も居留民保護という名目で出兵しました。朝鮮政府は日本と清に軍隊の撤退を求めました。しかし、日本は自国内で清への反感を強く持っていました。このため、日本は、清と戦争して、清に軍隊を駐屯したいと考えました。 1894年7月、日本軍が朝鮮王宮を占領して親日政権を成立させました。その後、豊島沖で清国艦隊を攻撃すると、日清戦争が始まりました。日本軍はこの戦いに勝利して、朝鮮半島の戦いを有利に進め、遼東半島を制圧したり、黄海海戦で清軍を壊滅させたり、様々な活躍を見せました。 日清戦争は、日本初の本格的な対外戦争でした。日本社会に大きな影響も与えました。人々は連戦連勝と聞いて興奮しながら、日本という国を知り、国民としての自覚を深めました。 1895年4月、下関条約が締結されて、和解も成立しました。日本は、朝鮮を清から独立させ、遼東半島・台湾・澎湖諸島を手放しました。その後、2億円の賠償金を支払い、港湾都市に工場を開設しました。しかし、ロシア・フランス・ドイツは、東アジアでの勢力を伸ばしたいと考え、三国干渉に参加しました。その結果、遼東半島は清に返還されました。台湾は、台湾民主国を建国しました。また、抗日運動も起こりました。しかし、抗日運動は日本軍によって鎮圧され、日本はアジアで唯一植民地を持つ国家となりました。 一方、清は日清戦争前にベトナムやビルマなどの冊封国家を失いました。日清戦争で敗れると、朝鮮半島の支配権も失いました。琉球を日本に譲渡する最終決定によって、朝貢と封建制度に基づく東アジアの古い華夷秩序は崩壊しました。日清戦争後、欧米列強は中国への投資を本格的に開始しました。鉄道建設や鉱山開発などの分野で安定的な利権を手に入れるため、勢力圏を設定しました。そこで中国は分裂して、列強による帝国主義的な侵略が一気に進みました。
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日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の支配を強化しながら、大陸を攻めるための基地を作りたいと考えていました。そのため、極東でさらに南進しようとするロシアとの関係が悪化しました。日露戦争は、世界にどのような影響を与えたのでしょうか? 列強の侵略に対抗するため、義和団は山東省を占領して、「扶清滅洋(清を助け、西を滅ぼす)」をスローガンに、教会や鉄道を破壊しました。1900年に義和団が北京に侵入して各国の公使館を包囲すると、清国は各国に対して宣戦布告を行いました。しかし、日本とロシアを中心とする8カ国連合軍が北京を占領して、清国軍と義和団を打ち破りました(義和団事件)。翌年、清は借金の返済や北京駐在の許可を出しました。 義和団事件後、ロシアは中国東北部の満州から軍を撤退させず、朝鮮半島に留まりました。一方、日本は、ロシアの南下を警戒していたイギリスと日英同盟を結びました。日本とロシアの話し合いがこじれると、日本は1904年2月、仁川沖、旅順港沖のロシア艦隊を攻撃して、日露戦争が始まりました。1905年1月になると、日本は旅順を占領しました。さらに3月の奉天会戦、5月の日本海海戦で勝利しました。 しかし、戦争は1年半ほど続き、日本は資金が底をつき、兵士を大量に失いました。同じ頃、ロシアでは、日露戦争中の1905年1月、首都ペテルブルグで、労働者の平和を願うデモを取り締まりました(血の日曜日事件)。以降、第一次ロシア革命が発生して、両国とも戦争を続けられなくなりました。両国とも戦争を早く終わらせたかったので、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、ポーツマス条約に調印するのを手伝いました。こうして日露戦争は終わりました。しかし、大きな犠牲を払いながら補償を受けられなかった国民が怒り、東京の日比谷公園で講和反対国民大会が開かれ、暴徒が交番や政府発行の新聞社に襲いかかりました(日比谷焼き打ち事件)。 日露戦争に勝利したので、日本は明治維新以来の独立を維持しつつ、欧米に近い国になるという目標を達成しました。列強に支配されていたアジアの人々は、日本の勝利はアジア人がヨーロッパ人に勝ったのだと考えました。そのため、彼らの独立への希望は強くなりました。しかし、日本国民は、他のアジアの民族よりも優れていると考えるようになりました。 日清戦争後、朝鮮は冊封体制から脱却して、1897年に大韓帝国(韓国)と改名しました。しかし、ポーツマス条約で日本は韓国を支配出来るようになり、日韓協約で韓国は保護国になってしまいました。韓国では多くの人が武器を持って日本と戦おうとしました。しかし、1910年、日本は韓国併合を強制的に行って、京城(現在のソウル)に朝鮮総督府を設置しました。 義和団事件後、清は科挙を廃止して立憲制に切り替えるなどの改革を始めました。中でも、孫文は、移民で成功した兄の住むハワイに行きました。帰国後、香港の医学部に進学し、首席で卒業しました。マカオで医業を始めると、清朝打倒を目指す革命運動に参加するようになりました。運動が本格化する中、1905年、東京で中華同盟会を結成して、三民主義(民族独立、民権確立、民生安定)を掲げて革命勢力の結集をはかりました。1911年10月、政府は支払いに困るので、鉄道利権を担保に列強からお金を借りようとしました。これが辛亥革命につながり、1912年1月、南京に共和制の中華民国が建国され、清朝は滅亡しました。
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みなさんは、博覧会に行かれましたか? 万国博覧会は、18世紀にヨーロッパで始まりました。様々な製品や文化財、学術的な成果を披露して紹介する場所でした。19世紀になると、世界各地で万国博覧会(万博)が開催されるようになりました。1851年、イギリスのロンドンで第1回万国博覧会が開催されました。1862年、第2回ロンドン万博に日本が初めて参加しました。江戸時代末期なので、日本は国として不参加でしたが、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック氏が日本で収集した漆器や和紙などの工芸品や日用品が展示され、注目を浴びました。 1873年、明治政府の主導で、日本は初めてウィーン万国博覧会に公式参加しました。日本は輸出と貿易の促進を図るため、ヨーロッパでは見られない伝統工芸品や植物を数多く展示しました。会場には神社や日本庭園が造られ、日本独自の文化を紹介しながら、ヨーロッパに「日本趣味」を広めました。その後、日本も自国の産業を紹介するために、内国勧業博覧会を開催するようになりました。 欧米諸国の植民地産品は、近代の万国博覧会でも展示されました。ロンドンの第1回万国博覧会では、世界各地のイギリス植民地からの珍しい展示物が、自国の商品と勘違いされました。1889年の第4回パリ万博では、フランスの植民地の原住民が、当時流行した動物園や植物園と同じように、学術研究の名目で「展示」されました。彼らは家族として連れてこられ、地元の村のような部屋で数か月間、強制的に生活させられました。 日本もやがて、この植民地展示と「人間の展示」という人種差別的な考え方に共感するようになりました。万国博覧会の歴史を振り返ると、西洋から初めて「見られた」日本は、「文明国」だからこそ「未開」なものを「見る」力をつけていきました。1903年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会では、かつて日本の植民地だった台湾の文化財を展示する「台湾館」が建てられました。その場外には、沖縄、アイヌ、朝鮮、清、台湾、東南アジアなどの人々を「展示」する「学問人類館」が設置されました。この計画が報道されると、清の学生などから批判や抗議の声が上がりました。開館後も沖縄や韓国から強い抗議があり、一部の展示は中止しなければなりませんでした。しかし、展示館自体は閉鎖されず、「展示」された人達は、他の「原始民族」の人たちと同じ扱いを受けたとして、抗議してきました。差別は、ご覧のようにいろいろな形で起こりました。 第二次世界大戦前、植民地時代の展示会は世界中でよく行われていました。博覧会は、植民地支配国がいかに裕福で、植民地より優れているかを見せ、帝国主義を正当化するための手段となりました。
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感染症は古くから人々の悩みの種でしたが、現在でもその悩みは続いています。例えば、14世紀にヨーロッパで起こった黒死病は、そのほとんどがペストによって引き起こされたと考えられています。これは人口が減少するなど社会的な影響を与えました。ペストで病気になるのは、ペスト菌です。ペストは元々鼠などの動物の病気でした。保菌動物の血を吸った蚤が天にたかると広がります。主にリンパ腺に感染する腺ペストが悪化して肺ペストになると、飛沫によって人から人へと広がり、大流行になります。 近代でも、ペストは大きな問題となっています。18世紀後半、清朝の時代に中国の人口が急増し、経済が発展すると、多くの漢民族が雲南省に移り住み、そこでペストが発生しました。鉱山が建設され、山間部が開墾されたため、ペスト菌を保有する野生の鼠と接触する機会が多くなりました。これがペストの流行の始まりと考えられています。 アヘン戦争後、中国社会が混乱していた19世紀半ば、雲南に住み、役人から不当な扱いを受けていたイスラム教徒や少数民族が立ち上がりました。ペストは雲南全域に広がり、19世紀末には国際貿易港となっていた香港に到達しました。そこから東は中国の沿岸部、台湾、日本、ハワイ、北アメリカへ、西は東南アジアからインド、アフリカへと移動しながら、世界的流行を引き起こしました。 1894年にペストが発生した香港では、ペスト菌の発見者をめぐって争いが起こりました。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホから細菌について学んでいた北里柴三郎とフランスのバストゥール研究所から派遣されたアレクサンドル・イェルサンです。この細菌はアレクサンドル・イェルサンが発見したので、彼の名前にちなんで名付けられました。 ペストのような病気を防ぐという目的で、欧米諸国や日本では近代的な衛生設備が整えられました。帝国主義の時代には、植民地にもこのような衛生設備が整備されました。植民地は文明の力で民衆を救ったと賞賛され、それを植民地政策の正当化に利用しました。例えば、1895年、台湾(日本の植民地)ではペストが流行して、2万人以上の死者が出ました。台湾総督府は、感染者を隔離し、警察官による監視を行うなどの対策をとりました。この制度は、国民の安全を守るためにも使われました。衛生制度は、検疫という理由で人々の生活や文化にも影響を与え、為政者が人々の身体を支配するきっかけとなりました。 日本が中国を侵略すると、関東軍防疫給水部(七三一部隊)が満州に設置され、ペスト菌などの細菌を兵器として使えるかどうか研究されました。スパイなどの疑いで逮捕された人を、秘密の方法で感染させ、解剖しました。1940年代には、製造された細菌兵器が中国の湖南省などで使われ、多くの住民に被害を与えました。しかし、戦後の冷戦体制の中で、第73師団に所属して日本で戦争犯罪をした者達は、決して責任を問われませんでした。
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鉄道が走り始めた頃、その速さに多くの人々が驚きました。当時の人々は、鉄道がこんなに速いとは想像もしていませんでした。鉄道以前のイギリスでは、馬車が一番速い移動手段でした。 中世は、農耕生活をしながら自給自足の生活を送っていました。物や人の移動はほとんど地域社会内で行われ、遠距離の移動は稀でした。近世になり都市が発展すると、農村と都市の間の移動が活発になりました。人々は農村から農産物を運び、都市で手工業製品を作りました。当時、移動の主な手段は馬が引く馬車でした。そのため道路も整備されました。 1625年、初めて馬車が公共交通機関として使用されるようになりました。最初はロンドンで駅馬車が運行されました。その後、長距離の駅馬車が運行されるようになりました。1678年には、エディンバラからグラスゴーまで6頭立ての駅馬車が運行されました。この6頭立ての駅馬車は、片道約70kmを1日で走破しました。 郵便制度が発展するにつれて、国民はより速い馬車を求めるようになりました。1785年からは速達の郵便馬車「メール・コーチ」が、ロンドンとエディンバラの間を走り始めました。1788年には、ロンドンとグラスゴーの間でも運行されるようになりました。18世紀に入ると、道路や馬車のスプリングが整備されました。この中で、四頭立ての馬車はロンドンと主要都市を時速9〜10マイル(約15キロ前後)で結びました。 本格的な鉄道開通前の1823年、イギリスでは蒸気で走るスチームバスが登場しました。平均時速20km、最高時速30kmでしたが、馬車に比べるとまだまだ低速でした。また、音が大きく、煙を吐き、カタカタと音を立てるので、「危険」「道路に悪影響を与える」という反対意見もありました。そのため、不人気であまり売れない自動車でしたが、最後の1台は1923年まで生産され、ちょうど100年になりました。 鉄道が本格的に開通する前、イギリスの炭鉱地帯においては、鉄道が少しずつ進展していました。1712年にトーマス・ニューコメンが発明した蒸気機関は、上下にしか動かないもので、炭鉱や小川から水を汲み出して利用する程度に留まりました。しかし、1780年にジェームズ・ワットが回転式蒸気機関を発明すると、蒸気機関は色々な分野で利用されるようになりました。 当時、馬がトロッコ列車を引いて炭鉱から最寄りの石炭積み出し港まで運んでいましたが、すぐにジェームズ・ワットの蒸気機関製の蒸気機関車に置き換わりました。これらの炭鉱地帯の路線は、それぞれ独立しており、繋がっていませんでしたが、19世紀に入ると、総延長2400kmにまで拡大しました。 1804年、ウェールズ出身のリチャード・トレヴィシックが初めて蒸気機関車を製作しました。この機関車は、10トンの貨物と70人を乗せた貨車5台を、平均時速80キロで15キロメートルを2時間かけて走破しました。 列車が馬車よりも速く、大量に人や物を運び出せたので、イギリス国民は鉄道建設を望むようになりました。トーマス・グレイの『鉄道概論』は、まだ旅客列車が建設される前の1820年に出版されましたが、すぐにベストセラーとなり、5版を重ねたため、イギリスでの鉄道の知名度と期待度が高まったとされます。 トーマス・グレイは、「一般鉄軌道に関する所見」という著作で、自身の研究について述べています。馬1頭は労働者8人分の穀物を食べ、また、馬や人は上下に移動しなければならないため、エネルギーが浪費されます。一方、蒸気機関は規則正しく連続的で非常に滑らかな回転運動をするため、エネルギー効率が高く、馬車の場合は運転手のミスや動物虐待、悪路などによる遅延や故障、事故が起こるかもしれませんが、鉄道ではそういった心配はありません。 ジョージ・スティーヴンソンは、19世紀初頭にイギリスで活躍した技術者で、蒸気機関車の開発者として知られています。彼は、世界で最初の公共鉄道の1つであるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の建設にも関与しました。 ジョージ・スティーヴンソンは、蒸気機関車の設計に多くの革新をもたらし、燃費の向上や速度の増加を実現しました。また、彼は鉄道の軌道や橋梁などのインフラストラクチャーの設計にも貢献し、これらの技術は現代の鉄道建設にも引き継がれています。 ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、1825年に開業し、当時は馬車による運搬が一般的であった石炭の運搬に使われました。ジョージ・スティーヴンソンはこの鉄道の設計に携わり、蒸気機関車「ロケット号」を開発し、鉄道の速度と貨物輸送能力を大幅に向上させました。この鉄道の成功は、蒸気機関車を使った鉄道建設の先駆けとなり、19世紀における産業革命の発展に大きく貢献しました。 リバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、1830年に開業したイギリスの鉄道で、世界で最初の公共鉄道の1つとされています。この鉄道は、蒸気機関車による列車運行により、貨物輸送だけでなく人々の移動にも大きな影響を与えました。また、この鉄道の建設は、当時の技術革新と、イギリスの工業革命の進展に役立ちました。 本鉄道の建設予定区間の途中に、試運転に使える4キロメートルの平坦な直線区間がありました。全線の完成前に、この直線区間で蒸気機関車の競技会を開いて、路線に使用する蒸気機関車を決めました。懸賞金付きの募集で、5台の機関車が応募しました。 1829年10月6日、科学者や観察者含む15000人が集まり、今世紀で最重要イベントとなったこのトライアルを観戦しました。最初のノベルティー号はすぐに時速45キロを記録しました。その後のサイクロベッド号はベルトの上を馬がトロトロ歩いて移動したので、脱落します。また、次のパーシヴァランス号も、時速10キロの最高速度だったので、脱落しました。サン・パリール号はシリンダーの破損から、途中で操縦出来なくなりました。ノベルティー号も、ボイラーの配管が故障しました。このような状況でも、ジョージ・スティーブンソンのロケット号は決められた条件を唯一満たしました。ジョージ・スティーブンソンのロケット号は最高時速56km、平均時速22kmだったので、すぐに営業運転に使われるようになりました。 政治家のトマス・クリービーは、試乗のため大会に招待され、その速さを気に入りながらも、安全性について非常に心配していました。「ただ乗っているだけなのに、つまらない事故で乗っている人全員が即死してしまうのではないかと思うと、不安で仕方ありません。」と語りました。 1830年9月15日、リバプール~マンチェスター間に初めて列車が走りました。列車は22両編成で、49.5キロメートルを4時間半かけて走りました。1832年、急行列車は表定速度時速33kmで1時間半かけて走り、普通列車は時速24kmで2時間かけて走りました。当時の表定速度は時速約11km、最高速度は時速約30kmでした。それが開業時になると、すでに2〜3倍の速度になり、ダイヤに反映されるようになりました。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「第一次世界大戦とロシア革命Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 バルカン半島で起こった一つの事件が、長期間続き、全世界に影響をもたらす大きな戦争のきっかけとなりました。科学の力で大量殺戮が出来るようになりました。史上最多の犠牲者を出した世界大戦は、何が原因で発生したのでしょうか?その主な特徴は何でしょうか?世界をどのように変えたのでしょうか? オスマン帝国が崩壊し始めた19世紀以降、バルカン半島には数多くの独立国が誕生しました。しかし同時に、各民族の間で領土争いが始まりました。また、19世紀終わり頃に悪化したドイツの帝国主義的な拡大政策は、イギリス、フランス、ロシアを近づけました。一方、ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア、オスマン帝国と協定を結んで協力し合うようになりました。1914年6月、バルカン半島のサラエボで、セルビアの民族主義者の青年が、オーストリア王位継承者とその妻を殺害する事件が発生しました(サライェヴオ事件)。サライェヴオ事件は、オーストリア・ハンガリー帝国の人種的緊張から始まった地方の事件でした。しかし、国同士の外交関係から、全世界に影響を与える世界大戦に発展してしまいました。それも列強が、国民の力を借りようとした総力戦でした。 当初、ドイツ軍は電撃的に前進しましたが、フランス軍に妨害されて、いったん塹壕が作られると戦線は行き詰まりました。1917年、アメリカもドイツとの戦争に参戦しました。発達した科学技術は軍事に生かされ、戦車、潜水艦、飛行機、毒ガスなどの新兵器が作られました。戦争が進むにつれて、多くの人が亡くなり、戦争が終わった後の生活が大きく変わりました。第一次世界大戦は、これまでにない規模の戦争でした。ロシアが自国の革命のために戦争をやめると、ドイツも革命を起こしたので終わりました。 新たな戦場にやってきた兵士の大半は、植民地からでした。植民地の中には、戦後の独立に向けて、人や物を差し出した地域もありました。西アジアの勢力圏をめぐっては、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国と対立していました。特にイギリスは、アラブ人やユダヤ人との秘密交渉で戦争を有利に進めました。これが、現在も続くパレスチナ問題を招いています。 日英同盟の名目で、日本もドイツに参戦しました。中国の山東半島でドイツ軍と戦って占領し、地中海に軍艦を送りました。死者が出たとはいえ、日本は主戦場から外れていたので、経済が戦争中に急成長しました。ヨーロッパで落ち込んでいた武器や日用品の輸出増加だけでなく、成金も登場しました
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詳しい内容は、「世界史探究」の「第一次世界大戦とロシア革命Ⅱ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 ロシアの民衆は長い戦争に疲れていたので、食べ物を探すために行動に移しました。革命は、労働者、農民、兵士が中心となって行われました。革命について、世界の人々はどのように受け止めたのでしょうか?また、革命の思想はどのように広がったのでしょうか? 1917年、第一次世界大戦で空腹感を抱えたロシアの労働者達がデモやストライキを始めました。これが三月革命の始まりで、皇帝ニコライ2世は退陣して、ロシア帝国は滅亡しました。ウラジーミル・レーニンは、第一次世界大戦を終わらせて、ソビエト(評議会)に全権を任せようと呼びかけました。十一月革命によって、ソビエト政権が始まりました。まず、ソビエト政権は「和平に関する布告」を行いました。「領土を併合しない」「損害賠償をしない」「自分の判断で決める」という原則に基づいて、戦争の即時終結と和平交渉の開始を求めました。また、「土地に関する宣言」では、土地の私有権の廃止を求めました。ソ連政府は、ドイツ、オーストリアと平和条約を結んで、第一次世界大戦から撤退しました。 国内の反革命勢力と革命の拡大を恐れた資本主義の列強は、社会主義に向かうソビエト政権に対して介入戦争を始めました。大陸へ進出したい日本は、反革命勢力が拡大する労働運動と戦うのを助けるという名目で、シベリアで列強と手を結びました。しかし、ソビエト政権は赤軍を強化させました。反体制派を厳しく取り締まって、介入戦争を食い止めました。 ソビエト政権は、コミンテルン(第三インターナショナル)を立ち上げ、世界各地の社会主義勢力を組織したり、指導したりしていました。コミンテルンの目的は、社会主義革命をヨーロッパ各国と世界に広めるためにありました。共産主義の理想は、コミンテルンの活動を通じて広まっていきました。19世紀半ばにカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが書いた『共産党宣言』では、共産主義は財産の私有をやめて、代わりに共有・国有化すれば、社会の平等を達成出来るとしていました。ドイツやハンガリーでの革命は失敗に終わりましたが、コミンテルンは東南アジアなどでの民族運動に大きな影響を与えました。中国では、コミンテルンが1921年に中国共産党を立ち上げるように指示したため、その後の民族革命に重要な役割を果たしました。日本では日本共産党が出来て、日本統治下の台湾や朝鮮でも政党が作られました。また、東アジアでは、社会主義運動と関連した民族運動が盛んに行われるようになりました。日本政府も、これらの出来事に対応しなければならなくなりました。 1922年、ロシアのソビエト政権とその周辺の社会主義共和国が集まって、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。海外と外交関係を持つようになり、ソ連の国際的地位は徐々に高まっていきました。ソ連では、1924年に革命の指導者ウラジーミル・レーニンが亡くなり、ヨシフ・スターリンが新たな指導者となりました。ヨシフ・スターリンは、一国社会主義を目指していたので、反対派を厳しく取り締まりました。一方、ヨシフ・スターリンの時代に入ってから、工業化が目まぐるしく進みました。このような成果を見た各地の指導者達は、列強から抜け出して社会主義社会を建設したいと考えていました。そのため、第一次五カ年計画による工業化のような計画経済が最適だと考えました。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 20世紀が始まるまで、戦争は国家間の対立を解決する最も効率的な方法の一つでした。しかし、人々の命を奪って、多くの命を奪った第一次世界大戦は、この考え方を大きく変えました。戦争に頼らずに国家間の問題を解決しようとする動きは、どのように始まったのでしょうか。 第一次世界大戦の戦後処理については、1919年1月のパリ講和会議で話し合われました。戦勝国のイギリス、フランス、そしてウッドロウ・ウィルソン大統領を中心とするアメリカが会議の主導権を握っていました。この会議は、ヨーロッパの戦後秩序を整えるため、第一次世界大戦中にウッドロウ・ウィルソンが平和構想として示した「十四か条」を基本原則としました。しかし、イギリスとフランスはドイツを許しませんでした。ヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツも結びましたが、その内容は懲罰的な内容でした。海外領土の譲渡、軍備の制限、莫大な賠償金の支払いなどです。また、他の敗戦国も和平協定を結びました。これらの条約は、ヴェルサイユ体制の基礎につながりました。ウッドロウ・ウィルソンは国際的な平和組織として国際連盟を作りました。しかし、アメリカは参加せず、ドイツとソ連は省かれたので、あまり機能しませんでした。 日本は南洋諸島をドイツから奪って、国際連盟に常任理事国として加盟すると、国際社会でより大きな力を持つようになりました。1921年から1922年にかけて、東アジアと太平洋の新しい運営方法を話し合うワシントン会議が開催されました。ワシントン会議は、アメリカ側の主導で開催しました。東アジア・太平洋地域の国際秩序(ワシントン体制)を整えて、日本の勢力拡大を防ぎました。中国の領土保全と主権の尊重を唱えた九か国条約は、このワシントン会議で調印されました。日中間の協議の結果、山東権益は中国に返還されました。日英同盟は、太平洋での状況を変えない四か国条約が締結されて終わりました。また、海軍軍縮条約によって、イギリス、アメリカ、日本の保有する主力艦の比率は、5:5:3になりました。しかし、日本は南洋諸島や中国東北部(満州)の利益を守りながら、アメリカとの関係を悪化させないように努めました。日本は、国際的な地位を高めようとする一方で、日系移民がアメリカから追い出されている問題に直面していました。このため、国際連盟の規約に人種差別撤廃の条項を加えようとしましたが、欧米諸国の反対で失敗しました。それ以降、日本国内では欧米主導の国際協調に反対する動きがありました。 ヴェルサイユ体制、ワシントン体制で、国際協調の流れはますます強まりました。集団安全保障という考え方がよみがえったからです。その結果、国際連盟の創設やヨーロッパ諸国の国境の現状維持を取り決めたロカルノ条約に見られるように、戦争回避のための取り組みが始まりました。1928年になると、国家間の紛争を解決する手段として戦争を行うのは、パリ不戦条約の調印で禁止される方向になりました。日本もパリ不戦条約に調印して、合計63カ国が調印しました。 しかし、列強の利益は維持されており、植民地支配もその中に含まれていました。ヨーロッパでは、民族自決によって、8か国が新たに誕生しました。しかし、植民地では民族自決が行われなかったため、抑圧が続きました。自国の利益を最優先させようとする各国の思惑が、外交官同士の協調を難しくしていました。一方、第二次世界大戦後の植民地の解放・独立には、パリ不戦条約の理念が生かされました。日本国憲法にも「戦争をしません。」と書かれていますが、これはこうした原則に基づきます。
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ウッドロウ・ウィルソンの十四か条は、民族自決の原則を打ち出して、第一次世界大戦後の世界中で民族運動を大きく後押ししました。しかし、それが必ずしも「独立」や「解放」に繋がりませんでした。アジア各地の民族は、どのように独立を目指して活動したのでしょうか? 日露戦争は1880年代から始まりました。日本は日露戦争に勝利して、近代工業を発展させました。こうした動きは、ヨーロッパの進出に苦しむ地域の人々に希望を与えました。第一次世界大戦中、欧米諸国はヨーロッパ向けの軍需品を中心に作り、中国やインドは民族資本を受けて、工業製品を多く作っていました。このようなアジア各地の経済成長は、さらなる民族運動の舞台となりました。 朝鮮半島は、日本に占領されていました。第一次世界大戦後、ロシア革命やウッドロウ・ウィルソンの「十四か条の民族自決」に影響を受けた国民がいました。1919年3月1日、京城(現在のソウル)で独立宣言をして、「独立万歳」と叫ぶ大規模なデモを行いました。日本政府はこの集会を妨害しました(三・一独立運動)。日本は、二十一か条の要求で、山東省のドイツ利権継承・関東州の租借期限延長・南満州鉄道沿線の権益期限延長などを要求しました。また、中国は、第一次世界大戦で連合国に参加したため、大戦中に日本が強要した二十一か条の要求をパリ講和会議で破棄するように求めました。しかし、受け入れられず、1919年5月4日、北京の大学生達が反日運動(五・四運動)を開始しました。五・四運動は全国に広がりました。孫文は1919年に中国国民党を結成しました。同時に、革命派が中国共産党に合流して、改革のために闘うようになりました。 第一次世界大戦中、イギリス領インドから多くの兵士が戦いに行きました。なぜなら、もっと自由が欲しかったからです。兵士達は武器と戦費を支給されました。しかし、第一次世界大戦後、イギリスはある程度の自由と引き換えに、ローラット法を成立させて、インド人が政治に参加出来なくしました。一方、国民会議派のマハトマ・ガンディーは、非暴力・不服従運動を開始しました。非暴力・不服従運動は、インド全土のあらゆる宗教・社会階層の人々を巻き込む運動へと発展しました。1930年、マハトマ・ガンディーの塩の行進をきっかけに、反英運動が高まりました。これを受けて、イギリスは英印円卓会議を開催しました。1935年、インド統治法が制定されました。しかし、インド統治法は地方に自由を与えただけでした。 東南アジアのオランダ領東インド(現インドネシア)では、1920年にインドネシア共産党が、1927年にスカルノがインドネシア国民党を立ち上げています。しかし、両党とも弾圧されました。1930年、フランス領インドシナでは、インドシナ共産党を立ち上げました。ホー・チ・ミンらは労働者や農民の力を借りて、独立運動を始めました。 イギリスとフランスは敗戦したオスマン帝国の大半を占領しました。しかし、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、トルコ人が多く住むアナトリアを中心に抵抗運動を展開しました。その後、トルコ民族主義に基づくトルコ共和国を建国しました。ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は、教会と国家の分離・文字の書き方の変更・女性の地位向上などの改革を推進しました。
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現在、世界各地で起きている紛争は、宗教や民族の違いによって、頻繁に発生しています。しかし、多くの場合、近代に入ってからの歴史的変化が紛争の直接的な原因になっています。パレスチナ問題もその1つです。 パレスチナは、地中海の東側に位置します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの一神教の聖地として知られています。特に有名なのは、パレスチナの中央に位置する都市エルサレムです。ユダヤ教徒にとっては、イスラエルの旧首都として、キリスト教徒にとっては、イエスが死刑になった後によみがえった場所として知られています。また、イスラム教徒は、預言者ムハンマドが聖地メッカからエルサレムまでペガサスに乗って旅をしたという話を信じています。 古くから、パレスチナでは様々な勢力が入れ替わりながら栄えてきました。紀元前1世紀から7世紀まではローマ帝国が支配していました。その後、イスラム王朝に支配されました。そこに住んでいたのはほとんどがイスラム教徒です。キリスト教徒やユダヤ教徒はごくわずかしか残らなかったにもかかわらず、みんな助け合いながら暮らしていました。しかし、近代から、こうしたつながりが途切れてしまっています。 19世紀、ヨーロッパ各地のユダヤ人が集まってシオニズム運動を始めました。ユダヤ人は、当時流行していたナショナリズム思想に影響を受けていました。ユダヤ人は、自分達の「祖国」パレスチナを、ユダヤ人の国民国家にしようと考えました。しかし、当時のパレスチナはオスマン帝国の一部なので、そこにユダヤ人国家の建国は困難でした。 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、シオニズム運動にとって大きな機会が訪れます。第一次世界大戦中、シオニズム運動はイギリス政府に働きかけました。イギリス政府は、ユダヤ人がパレスチナに「民族的郷土」をつくるのを助けると約束しました。第一次世界大戦後、イギリスとフランスは中東地域を分けました。この時、「パレスチナ委任統治領」を設置しました。 しかし、当時パレスチナに住んでいた人々のうち、ユダヤ人は全体の1割以下でした。そのため、世界中のユダヤ人が移住していき、特に1933年にドイツでナチ党が結党されると、ユダヤ人移民が急に増えました。 移民の増加が急激に進むと、パレスチナに住んでいたアラブ人は危機感を抱くようになりました。1929年にアラブ人とユダヤ人が大喧嘩をして、「嘆きの壁事件」とよばれるようになりました。1936年になると、イギリス委任統治当局にユダヤ人移民をすぐにでも止めさせたいアラブ人は、ストライキなどの実力行使に出ました。 第二次世界大戦後、イギリスは事態の収拾を諦めて、問題解決を国際連合に委ねました。1947年11月、「パレスチナ分割決議」が採択されました。パレスチナ分割決議は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、そしてエルサレムを含む国連が運営する地域の3つに分けるという内容でした。これが、現在も続くパレスチナ問題の始まりです。
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日本は 1910 年に大韓帝国を併合し、ソウルに朝鮮総督府をおいて朝鮮半島を統治下におきました。この統治は、1945年太平洋戦争終戦の年、9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続きます。朝鮮に日本軍が入り、日本語を使うよう強制もなされたといいます。 これは事実上の朝鮮半島の植民地化です。兄の浅川伯教は 1913年、弟の浅川巧は 1914年に、朝鮮半島に渡りました。この二人は日本人の兄弟です。巧は朝鮮総督府農商工部山林課(後の林業試験場)で林業技師として働いていました。巧は伯教に導かれて、韓国で日常的に使用されている白磁に魅せられていきました。そして韓国の生活、文化に深くかかわっていきます。朝鮮語を学んで、伝統的なバジ・チョゴリを好んで着ていました。 支配者として韓国人を見下す日本人が多い中、巧は朝鮮人との平等な交流を目指しました。本業の林業でも、苗を成長させる方法を研究し、韓国の林業の発展を望みました。巧の書いた多くの朝鮮に関する文献は、今も残っています。1924年、浅川兄弟は、文化人柳宗悦とともに、ソウルに朝鮮民族美術館を設立します。 1931年、浅川巧は急性肺炎にかかり40歳の若さで急死しました。朝鮮人たちの手によって、巧の棺は京城郊外の清凉里(現ソウル市東大門区)の丘に葬られる。その一方で日本の同化政策はより強化され、朝鮮民族の文化や伝統は軽視され、朝鮮の人々の日本式の名前への変更(創氏改名)など、不遜な政策も実施されていった。 1945年に日本が戦争に負け、韓国は植民地支配から解放されました。そして、韓国にある浅川巧の墓には、「韓国の山と民芸を愛して、韓国人の心の中に生きた日本人は、韓国の土になります。」と書かれています。 国によって、言葉や文化に優劣はありません。しかし能力だの経済だの技術だのには差があって優劣があるのかね?今でも自分やその仲間が優秀で賢くて能力がある人間だと思い込んでいる、傲慢な輩は腐るほどいます。浅川は、そういう世界からは一歩離れた、自然人ではあったと思います。 価値観とは何でしょう? お互いの良さを認め合うといえば、言葉は綺麗ですが、実際には言葉だけでそれを実践することは困難だし、実践していると思い込んでいるのも、自己満足の只の傲慢・幻想かもしれませんよ。
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第一次世界大戦前後の世界を見ると、民衆が様々な形で政治に参加していた様子が読み取れます。当時の政治・経済・文化の状況を踏まえて、大衆がどのように政治に参加したのかを考えてみましょう。 17世紀から19世紀にかけて、欧米諸国では「近代化」が進み、政治的、経済的、社会的地位が変化しました。また、工業化や都市化によって労働問題や社会問題が深刻化しました。そのため、民衆は、時には雇用者に、時には政治家に、自分達の権利を求めるようになりました。選挙権の拡大を求める運動もその一つでした。1832年の第1回選挙法改正の時、選挙権を持つのは全国民の4.6%でした。1918年の第2回選挙法改正では、この数字が50%に上がり、投票がより身近になりました。また、第一次世界大戦後、労働党は大きく活躍します。1924年になると、初めての労働党内閣が自由党と合流して連立政権を結成しました。 第一次世界大戦で戦争に協力した一国民が、社会的な後押しを受けました。イギリスをはじめとする欧米諸国では、男性普通選挙や女性参政権による議会制政治の発展も認められました。第一次世界大戦中、ロシアで社会主義ソビエト政権が誕生したのも、世界の労働運動を盛り上げました。 明治の終わりから大正の初めにかけて、日本の国際的な地位は徐々に強化されて、国民は列強の一員になったと感じ始めていました。政府は教育事業に力を入れ、就学率の向上と学習の質の向上を図りました。1902年になると、学校に行かなければならない人の90%以上が学校に行くようになりました。日本は、経済成長のために熟練労働者や兵士を集めるため、学校教育に力を入れたいと考えていました。また、様々な福祉政策や法整備を進めて、誰もが国家の一員としての自覚を持ってほしいと考えていました。 一方、憲政擁護運動(護憲運動)は、学校で学んだ内容を利用して、憲法の精神に従いつつ、国民の意見を反映した政治にしようと考えました。これが政党政治の発展につながりました。吉野作造の民本主義の考え方は、多くの人々の心をつかみ、民主政治を実現するための運動につながりました。第一次世界大戦中、経済が好景気になると物価が上がったので、都市に住む民衆は苦しい生活を送るようになりました。賃金よりも物価の方が早く上がり、1918年にシベリア出兵が決まると、商人が買い占めたため、お米の値段が一気に上がりました。そのため、全国で米騒動が起こりました。この混乱の責任をとって内閣が辞めると、初の本格的な政党内閣が組まれました。労働運動・農民運動・部落解放運動も高まり、普通選挙を求める運動も活発になりました。大正デモクラシーとは、日露戦争後から第一次世界大戦、満州事変が始まるまでの民衆主導の民主化運動の名称です。
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フランスの「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、自由と平等の権利について述べています。しかし、当時の女性や奴隷などには自由と平等の権利がありません。当時、女性が社会で活躍出来る機会はまだ限られていました。女性はどのようにして社会の一員になれたのでしょうか? 女性史を見ると、欧米・日本・中国など状況は違っても、登場人物は男性と比べると意外に限られています。近代までのヨーロッパは、女性は家にいて「良妻賢母」になってほしいと期待されていました。女性もフランス革命に参加しており、やがて選挙の立候補が許されなくなりました。人権宣言は、フランス革命の時に制定されました。フランス語で「男性・男性市民の権利」を保障すると書かれています。しかし、19世紀中頃から、欧米諸国でも女性に参政権を与える取り組みが始まりました。なぜなら、教育の普及によって、女性が看護師・幼児教員・著述家などの仕事をするようになったからです。20世紀初めのイギリスでは、石を投げてまで参政権を手に入れようとする女性もいました。 イギリス領ニュージーランドは、1893年に世界で初めて女性に選挙権を与えた国です。そのほかの国は、20世紀初めまで女性に参政権を認めていません。第一次世界大戦は本格的な戦争だったので、欧米では多くの男性が戦地に送られました。その頃、国内で働く人も限られていました。そのため、女性は兵器を作る工場で働くようになりました。以降、戦後数年間は女性史も変わりました。 また、女性の社会進出は、衣服の変化にもつながりました。コルセットやペティコートは、ココ・シャネルのように動きやすいシンプルコーデに変わり、世界中の労働者達は着心地の良い服を求めました。 日本でも自由民権運動の中で、1870年代に一部の地方議会は女性の選挙権を与えましたが、すぐに取りあげられました。社会運動が大正デモクラシーで高まり、第一次世界大戦が世界を大きく変えると、日本でも女性解放運動が始まりました。平塚らいてうはこの活動を担当しながら、雑誌『青鞜』の発刊時に、「そもそも、女性は太陽」と述べています。平塚らいてうは市川房枝らとともに新婦人協会を設立しました。より多くの女性が高等教育や政治に関われるように、取り組みました。紡績業や製糸業の工場労働者以外にも、タイピストや電話交換手として働く女性も増えました。都市部では、モダンガールと呼ばれる新しい流行も生まれました。しかし、その後の深刻な経済危機の中で、自由な流れは停滞しました。「産めよ殖やせよ」の掛け声で、女性は男子をたくさん産んで兵士に育ててもらえばいいという社会になりました。
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大衆社会の発展とともに、スポーツ・映画・旅行などの趣味が広まりました。大衆社会にはどのような特徴がありますか?現代社会との共通点・違う点、注意点など、色々な角度から見ていきましょう。 ある程度の年齢になると、学校に行き、前日に読んだ雑誌の内容や気になったニュースなどを友達と話すようになります。また、空き時間には趣味などの計画を立てます。このような日常習慣が当たり前になったのは、いつ頃からでしょうか。 産業革命が社会を大きく変えました。その一つに、娯楽がありました。1851年にロンドンで万国博覧会が開催されました。その際、イギリス人のトーマス・クックが旅行商品を企画すると、成功を収めました。その結果、旅行が趣味となり、それまで以上に人気を集めました。19世紀後半になると、第二次産業革命が始まりました。第二次産業革命は、大量生産・大量消費社会を実現しました。また、工業分野の技術革新や都市化も進むようになりました。学校に行く人が増えて、生活環境もよくなると、大衆が文化や社会の中心になりました。都市に住む若者を中心に大衆文化も発展しました。スポーツ・音楽・演劇などの大衆文化が発展していく中で、国民は新聞・映画・ラジオなどから多くの情報を得るようになりました。 大衆社会とは、大衆が支配する社会です。私達が生きる現代社会はここから始まりました。マス・メディアは大衆に対して大きな力を持っており、大衆の生活も同じような傾向が見られます。また、大衆は政治に無関心です。巧妙な宣伝によって独裁的な指導者を支持するように説得され、誤った情報のために誤った決断をしてしまいます。 第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパ各国に武器や軍資金を提供すると、債務国から債権国になり、ロンドンは世界経済中心地としての地位をニューヨークに奪われてしまいました。アメリカで大量生産方式によって自動車が作られるようになると、価格が下がり、より多くの大衆が自動車を買えるようになりました。電化製品で生活が便利になり、かつてないほど豊かになったので、「黄金の20年代」と呼ばれるようになりました。ラジオや映画を通じて多くの大衆が新しい生活様式を知り、プロ野球やジャズなど新しい娯楽も生まれました。その一方で、社会はより保守的になりました。社会主義者・移民・黒人がより非難され、排他的な風潮が広がりました。また、アジアからの移民を禁止する法律も制定されました。 1923年の関東大震災は、東京近郊に大きな被害を出しました。東京近郊は、新しい都市計画に基づいて再建され、都市の姿を大きく変えました。都市化は大都市だけでなく、地方でも進みました。1925年、東京と大阪でラジオ放送が開始されました。やがてそれは全国に広がり、映画や雑誌も娯楽の選択肢に加わりました。こうしたメディアの発展によって、新しい世界・新しい生活への欲求が高まり、国民の社会変革への期待も高まりました。また、中学・高校・大学の数が増えると、優秀な学校に入り、将来のエリートになるための受験競争も激しくなりました。
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シネマトグラフを「発明」したのは、工業家リュミエール兄弟です。1895年12月、パリのレストランで初めて一般に公開されました。これが映画の始まりと思われますが、フランス以外の欧米諸国でも同様の装置が登場するようになりました。例えばアメリカでは、1893年にトーマス・エディソンがキネトスコープを作りました。キネトスコープは、一度に一人しか映像を見れない装置でした。 ベネディクト・アンダーソンは、「国民国家」や「ナショナリズム」がどのようにして実現されたのかを研究しました。ベネディクト・アンダーソンは、ヨーロッパで近代的な小説や新聞の登場によって実現されたと述べています。その結果、登場人物、著者、読者が全て同じ場所で誰もが自由に時間を進められるようになり、「国民国家」の舞台を整えたと述べていますまた、映画は小説ほど読解力を必要としないため、集団で同時に見ても、近代新聞小説の読者の間に広がっていた一つの空間という考え方を「大衆化」させました。1890年代には、南アフリカ戦争(イギリスと、南アフリカのオランダ系住民が作った国との戦争)、米西戦争、日露戦争といった「国民戦争」をテーマにした映画が作られるようになりました。これらの映画は「国民的メディア」となりました。 映画は、ヨーロッパで中流階級のための見せ物として、「映画芸術」として政府の支援と規制がありました。一方、アメリカでは、貧しい人達の趣味となりました。そのため、アメリカには巨大な映画市場があり、第一次世界大戦の頃に「映画の都」と呼ばれるハリウッドが生まれました。一方、日本では欧米とほぼ同時期に導入されて、20世紀初頭に常設の映画館が開館しました。 それ以前の映画では、無音声だったので、「サイレント映画」と呼ばれていました。世界恐慌の頃、「トーキー映画(発声映画)」が登場しました。 トーキーは、音声付きでさらに分かりやすく、子供も楽しめる初めての大衆娯楽となりました。 こうした背景から、トーキー映画は、アメリカではニューディール、イギリスでは1931年以降の内閣、ドイツではアドルフ・ヒトラーとナチス党の大衆宣伝のために、人々の支持を集める重要な手段になっていきました。1937年、日本でもトーキー映画を製作する会社として東宝映画株式会社が成立しました。1939年、「映画法」がメディアを統制する戦時法の第一弾となりました。「大衆」を思い通りに動かす最も効果的な方法は、全員が見る映画でした。 無声映画からトーキー映画になると、ナレーション入りのニュース映画が登場するようになりました。新聞やラジオとは違って、ニュース映画はありのままを見せるので、見る人はそれをそのまま受け入れるしかありませんでした。つまり、日本では、単なる楽しみだった映画が、ニュースを知るための有力な手段にもなりました。 つまり、トーキーは、見て聞いて楽しめる複合媒体の第一歩でした。
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1896年、アテネで第1回近代オリンピック大会が開催されました。現在、200以上の国と地域がこのようなスポーツの祭典に参加しています。2020年東京近代オリンピック大会でも205か国参加しています。 第一次世界大戦、第二次世界大戦の時は、1916年、1940年、1944年に開催されました。世界大戦が本格的な戦争になった時に、オリンピックを開催する訳にはいきません。実際、1940年の大会は東京開催が決まり、日本の国民的祭典となるはずでした。しかし、日中戦争が激しくなると、日本政府から大会辞退の申し出がありました。政治とスポーツはかみ合わないという人もいますが、切り離せません。第一次世界大戦直後の1920年のアントワープ大会には、戦争に負けたドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコが招待されませんでした。また、1948年のロンドン大会でもドイツと日本は招待されませんでした。 全体として、以前より選手の数は増えています。ただし、第2回大会以降、女性選手の参加数は当初の数年間、非常に限られていました。1952年のヘルシンキ大会から、女性選手の数が全体の10%を超えました。また、1972年のミュンヘン大会から、女性アスリートの数が1000人を超えました。 参加選手の合計人数を見ると、1904年のセントルイス大会、1932年のロサンゼルス大会、1956年のメルボルン大会は、いずれも前回より減少しています。いずれもヨーロッパ以外の国で開催された大会です。グラフの左半分、列車や船で移動する選手が多かった時代には、ヨーロッパからの選手が多かったので、大陸間の移動が大変だったかもしれません。また、世界恐慌の後、不景気だったため、1932年の大会で参加選手の減少理由の1つかもしれません。 最初の聖火リレーは、1936年にナチ党政権下のベルリン大会で行われました。10万人収容のスタジアムでナチスの旗が振られ、開会式はアドルフ・ヒトラーに関する宣伝を広めるために利用されました。 1968年のメキシコ大会では、アメリカで公民権運動が盛り上がっていた頃、2人のアメリカ人選手が黒い手袋をはめた拳を立てて表彰台に立ちました。この人種差別の訴えは政治的な動きと見なされ、その選手は失格となり、チームから追い出されました。 1980年のモスクワ大会は、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻していたため、アメリカは不参加を決定しました。他の西側諸国や日本も参加を見送りました。オリンピックは世界中の人々が見ており、様々な主張を発表する場所として利用され、活用されてきました。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 「黄金の20年代」と呼ばれた繁栄の時代、1929年10月、ニューヨークのウォール街で株式市場が大暴落しました。世界恐慌の原因となったこの出来事は、世の中にどのような影響を与えたのでしょうか。 ロカルノ条約、パリ講和条約と、1920年代後半は国際協調が進みやすい時代でした。日本の経済成長は、こうした問題から必ずしも順調ではありませんでした。第一次世界大戦中とその終結直後は、経済が急速に成長しました。しかし、戦後ヨーロッパ経済が立ち直ると、輸出が減少して不況になりました。1927年には関東大震災による混乱から金融恐慌が起こり、多くの銀行が閉鎖・倒産しました。また、昭和恐慌と呼ばれた1929年のアメリカの世界恐慌は、1930年の日本経済にも大きな影響を与えました。 1929年の世界恐慌は、全世界に大きな影響を与えました。経済の中心となっていたニューヨークの株式市場の大暴落から始まりました。第一次世界大戦後、工場の過剰生産と行き過ぎた投機のために不安定な経済になる中、世界恐慌が起こりました。世界恐慌は瞬く間に全世界に広がりました。多くの国で、銀行の倒産や工場の閉鎖によって、大勢の失業者が出ました。特に、アメリカ資本の支援によって回復していたドイツ経済が破綻しました。ドイツから賠償金をもらっていた他のヨーロッパ諸国も危機の影響を受けました。一方、ヨシフ・スターリンが支配していたソ連は、資本主義国との貿易が少なく、世界恐慌の痛手はそれほど受けませんでした。 アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトは、ニューディールと呼ばれる計画を実行に移しました。大統領の強い指導を受けて、政府が経済に介入して、経済をよくしていこうとしました。 イギリスとフランスは、自国の経済を守るために、自治領や植民地を支配下に置いて排他的経済圏を作り、他の地域の商品には高い関税をかけて、貿易をさせないようにしました(ブロック経済圏)。しかし、この政策は広大な植民地を持っている国にしか使えない方法でした。ドイツ、イタリア、日本など、天然資源が少なく経済基盤の弱い国は、低迷から抜け出せませんでした。また、経済状況の悪化は、政治状況や国民の不満も悪化させ、政局はさらに不安定になりました。これらの国々は、国際協力に反発して、他国を攻撃してでも自分達の要求を実現しようとしました。
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貧しい人々は、理想を語り、それを実現するファシスト政党に引き寄せられました。どうして民衆がファシズムの原動力となったのでしょうか。 第一次世界大戦後、列強諸国ではより多くの人が選挙権を手にするようになりました。また、第一次世界大戦で疲弊した地域では社会主義運動が盛んになりました。ドイツではヴァイマル憲法が制定されて、社会権が明確に定められ、民主化を進めました。イタリアでは、特に北部を中心にストライキなどの労働運動が盛んになりました。こうした変化に危機感を抱いた保守勢力は、暴力によって国内の政治改革を進めるとともに、国民の自由と民主主義を制限しました。また、軍備を拡大しながら、他国を侵略して、自国を中心とした経済圏をつくろうとしました。ファシズムとは、このような動きに伴う全体主義的な独裁体制です。ソ連のヨシフ・スターリンによる独裁政治も全体主義の一つという考え方もあります。イタリアでは、1922年にファシスト党が政権を握りました。労働者の台頭を恐れた地主や軍部がそれを支持しました。ベニート・ムッソリーニの指導により、各地の社会主義運動は暴力で鎮圧されました。また、ドイツでは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の活動が始まりました。こうした動きは、欧米諸国をはじめ、日本でも軍部や一部の政治家、社会運動家などに影響を与えるようになりました。 ※詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅲ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 アドルフ・ヒトラーは、ナチ党の指導者となりました。アドルフ・ヒトラーは、さらに信者を増やすために、様々なメディアを通じてプロパガンダを広めて、巧みな演説を行いました。プロパガンダでは、少数者に対して、指導者の思想などを強制させます。その結果、仲間意識が働いて、大勢の人と同じように行動するようになります。世界恐慌が発生すると、ドイツ経済は再び不況になりました。アドルフ・ヒトラーは1930年の国会議員選挙で知名度を上げて、1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がついにアドルフ・ヒトラーを首相に選びました。組閣後、すぐに議会を解散しました。選挙運動中に、アドルフ・ヒトラーは国会議事堂放火事件を理由として、ナチ党の対抗勢力となる共産党を追い出しました。アドルフ・ヒトラーは、3月に開かれた国会で、ナチ党の議席数を大幅に増やしました。その後、国会に対して、国会に代わって法律を制定する権限(全権委任法)を承認させました。その結果、独裁的な権力を手に入れました。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルグが亡くなり、アドルフ・ヒトラーが総統として国家元首に就任しました。一方、民衆はアドルフ・ヒトラーのやり方が気に入らないのに、ナチ党からの暴力を恐れて、文句や行動も出来ない状態でした。アドルフ・ヒトラーは「ドイツ人の生存圏」を主張して、ドイツ人のナショナリズムとアイデンティティを高めました。これが、ユダヤ人を追い出す理由となりました。
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詳しい内容は、高等学校世界史探究の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ」に記述されていますので、そちらをご参照ください。ここでは、簡単に記述します。 満州事変により、日本は世界から孤立しました。当時、世界は国際協調の流れの中にありましたが、この満州事変はそれに逆行するものでした。また、国際連盟からの脱退や日中戦争も行われ、それらがなぜ支持され、また元に戻れなくなってしまったのか、その理由は何でしょうか。 1931年、中国東北部に駐留していた日本の関東軍は、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破しました。この爆破を中国軍の犯行に見せかけて軍事行動を開始しました。関東軍は、パリ不戦条約が自衛権を否定していないと主張し、満州鉄道の爆破は自衛のための軍事行動であるとしました。この主張を受け入れた日本政府は軍事行動を活発化させました。こうして「満州事変」が始まりました。1932年、満州の現地住民は中国政府から離脱し、今後の方針を自分たちで決められるようになりました。こうして「満州国」が建国されました。中国政府は国際連盟に救済を求めたため、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。調査団の報告は以下の通りです。 しかし、この報告に対して、日本は強硬な態度をとって、国際連盟を脱退しました。 こうした日本の動きは、第一次世界大戦後に高まった国際協調の世界的な流れに逆らいながらも、日本では支持されました。その背景には、不況が長引く中で、日本のマスコミや世論が「満州は帝国の生命線」などと主張し、政府の立場に共感していた側面もあります。また、政党政治への不満や社会不安から、国家改造の思想を伝えた人もいました。この思想に賛成した陸軍の青年将校が 二・二六事件 を引き起こしました。 正式な宣戦布告なく、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍が交戦する形で、日中戦争は始まりました。蒋介石は南京に中国国民党(国民党)政権を立ち上げました。彼は、敵対する中国共産党との内戦を休止し、抗日民族統一戦線(国共合作)を結成して、日本軍相手に抵抗しました。1937年12月になると南京が陥落し、戦争の結果に対する日本国民の怒りを無視できなくなった日本政府は、国民政府との和平交渉を打ち切りました。これで戦争は継続されました。日本も調印したパリ不戦条約は、日本が中国での軍事活動を活発化した時点で破棄されました。これは、中国の主権と領土保全という九カ国条約への挑戦でした。アメリカとイギリスが蒋介石を支援したのは、日本の軍事力の増強に脅威を感じていたからです。そのため、戦争の結末を予測しにくくなりました。 満州事変以来、人々は大陸の情勢に関心を持つようになり、新聞やラジオが普及しました。夫や息子が軍隊に入った家庭では、日常生活に戦況の理解も欠かせなくなりました。命を懸けて戦争に協力し、貧しい生活を送っていた人々は、戦争が上手くいくように、より大きな期待を持っていました。メディアが世論を形成するやり方も、戦争が継続される理由と大いに関係がありました。対日戦争を続けるために、国民政府は重慶に拠点を移しました。
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第一次世界大戦後、国際協調体制が整ったとはいえ、世界は再び戦争への道を歩み始めていました。戦争は人々の考え方にどのような影響を与えるのでしょうか。 ドイツが1933年に国際連盟を脱退したのは、ヴェルサイユ体制から自由になりたかったからです。その後、再軍備宣言と徴兵制復活を決めました。ドイツはロカルノ条約も破り、ラインランドの非武装地帯に進出しましたが、列強はドイツに対する制裁を厳しくしません。イタリアもエチオピアに侵攻するなど、他国への侵略を強めていきました。また、ドイツと接近し、1936年にはベルリン・ローマ枢軸が成立しました。スペインで反ファシズムの人民戦線内閣が成立され内戦が起こると、ドイツとイタリアは反乱軍のフランシスコ・フランコ将軍を支持しました。一方、イギリスとフランスは不干渉政策をとったので、ソ連や国際義勇軍の支援を受けても、人民戦線政府は敗退しました。 アドルフ・ヒトラーが1938年にオーストリアを併合したのは、「ドイツ民族」を復活させるためでした。次にドイツ人の多いチェコスロヴァキアの一部、ズデーテン地方を併合しようとしました。戦争を回避するため、イギリスとフランスはドイツ、イタリアとミュンヘン会談を行い、ドイツの要求に応じました。このような政策を宥和政策といいます。 1937年、イタリアは日本、ドイツとともに防共協定を結びました。この3カ国は、ソ連の恐怖に備えるために、枢軸国を結成しました。1939年、ドイツはミュンヘン会談で不参加を約束していたチェコスロヴァキアに侵攻し、チェコスロヴァキアを解体しました。独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月にポーランドに進攻しました。これに対して、フランスとイギリスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。ソビエト連邦もポーランドの東半分を占領し、フィンランドとバルト三国を領土に加えました。 ドイツ軍はパリも占領して、ロンドンなどでは民間人への空襲で多くの被害が出ました。ドイツはバルカン半島も占領し、ソ連との関係も悪くなったため、1941年6月に独ソ戦に突入しました。しかし、ドイツはスターリングラードの戦いに敗れ、東部戦線で敗北しました。一方、アメリカは1941年3月に武器貸与法を成立させて、ヨーロッパ戦線でイギリスとソ連を支援しました。1941年12月、ついにアメリカは戦争に参加しました。1944年6月、連合国によるノルマンディー上陸作戦が成功すると、ドイツは西部戦線での戦力を縮小しました。 ナチ党は優生思想に基づき、ユダヤ人、スラヴ人、ロマ、障害者、その他社会的弱者を対象に、組織的な殺害を行いました。特にユダヤ人におびただしい数の死者が出たといわれています[1]。ドイツ軍占領地域では、抵抗運動(レジスタンス)が盛んになり、自力で解放した地域もありました。
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ナチス・ドイツは、ユダヤ人を強制的に隔離された地域(ゲットー)に住むように強要しました。以後、ユダヤ人が次々と各地の強制収容所に送られ、ガス室などで殺されました。しかし、人々はただじっとその時を待っていたわけではありません。 ポーランドの首都ワルシャワに、ユダヤ歴史研究所があります。リンゲルブルム・アーカイブ(別名:ワルシャワ・ゲットー地下史料)は、ユダヤ歴史研究所に保管されています。リンゲルブルム・アーカイブは、1939年から1943年にかけてワルシャワのゲットーへ住むように強制された人達が書いた文書記録です。歴史家エマヌエル・リンゲルブルムらによって収集されました。ゲットーには頭のいい人がたくさんいて、エマヌエル・リンゲルブルムもその一人でした。エマヌエル・リンゲルブルムらは、人々に話しかけ、ナチス党が毎日行った残酷な行為を全て書き留めるように言いました。記録によると、そこに住んでいた人達の中には、収容所に送られた時に自分達がどうなるかを知っていた人もいました。そして、ゲットーの内外で見聞きした内容や後世に伝えたい内容を、自分達の視点で書き残しました。作家の中には知識人ばかりでなく、木工職人のような一般人も結構いました。1942年、多くの人が強制送還されると思われた時、膨大で複雑な書類を牛乳缶に入れ、地下に埋めました。本文章は、戦後、その容器が発見され、調べられ、そこにあった書類と、埋蔵場所を知っている数少ない生存者の話を参考に書かれました。 しかし、私達はそれを見られません。だから、この最後の願いを書いています。この宝物が良い人の手に渡り、より良い時代まで続くように、そして20世紀に起こった出来事を世界が知り、それに警告を与えられるように。私達は今、穏やかに死ねません。私たちは何をしなければならないか、実行します。歴史が我々に何をしたらよいかを教えてくれますように。 ナチス・ドイツに占領されていたオランダで、アンネ・フランクの日記も他の戦争文学とは少し違っています。日記に「キティ」の声を与え、アンネ・フランクの文体で書かれているので、ほとんどの人はこの作品を日記文学、戦争文学と考えます。しかし、目の前で起こった出来事を伝えているので、歴史的な資料といえます。実際、1944年3月28日、アンネ・フランクはオランダ亡命政府閣僚からの無線連絡に応じて、「戦争中の個人的な記録や手紙を残しておくように」と言われました。 その場にいない人には「可笑しい」と思える内容でも、戦争に行かなかった人にとっては重要な史料になります。何より、当時の事実を残そうとした人達の姿を実感出来るでしょう。戦争が終わると、アンネ・フランクは『隠れ家』という小説を書きたいと思い、1944年5月11日、日記にその決心を次のように記しました。 こうして、最初は他の人に読まれるつもりのなかったアンネ・フランクの日記が、他の人に読んでもらえると思って、戦後も出版されるようになりました。
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1936年、広田弘毅内閣によって「20年計画100万世帯派遣」が国策として決定されました。この頃から満州への農業移民が本格的に始まりました。この計画は、20年後に満州国の人口を5000万人とした場合、その1割に当たる500万人を農業移民としようという内容でした。農業で自給自足が困難な農業所得5段未満の小規模農家の半数にあたる100万世帯が20年間で満州に移住すれば、1世帯5人として満州の日本人は500万人になるという計画でした。満州に多くの日本人を移住させて、対ソ戦に使える人数を増やし、内地の農民を追い出そうと考えました。 しかし、1937年7月の盧溝橋事件や日中戦争が始まると、当初予定していた成年だけ移住させるという目標が難しくなりました。そこで、「満蒙開拓青少年義勇軍」が作られました。全国から16〜19歳の青年を集めて、日本の研修所で2〜3カ月、満州の青年義勇隊訓練所で3年間訓練し、現地に永住する開拓農業者となるよう指導しようという内容でした。 各都道府県で志願兵の募集が行われました。入国管理局を担当する文部省が定めた志願者数を満たすため、各県は市町村役場や小学校、退役軍人の団体(在郷軍人会)の協力により、現在の中学3年生、高校1~2年生にあたる小学校・高校課程卒業者を懸命に探しました。教育委員会は、そのほとんどを担当していました。 義勇軍の国内訓練場として、茨城県東茨城郡下中津村内原(現在の水戸市内原)に内原訓練所が設置されました。訓練生は「日輪兵舎」とよばれる宿舎で、60人ほどの同じ故郷の小隊と一緒に生活しました。内務訓練、農業訓練、教練、武道など様々な分野の訓練を受けました。内原は「満州移民の聖地」と呼ばれ、300棟もの「日輪紡績所」が建てられていました。 1941年、3年間志願兵になるための訓練を受けていた若者達が、初めて訓練を終えて志願兵となりました。北安や東安などの開拓地は、いずれもソ連との国境に近い場所でした。青年挺身隊は、ソ連との戦争に備えて、農業移民と「鍬の戦士」と呼ばれる準戦闘員の両方を担当しました。 長野県、山形県、福島県、広島県、熊本県、山口県が横綱、大関、関脇を占めて、ハワイや北米など海外からの参加者も少なくありません。また、沖縄や植民地だった朝鮮半島など、各県から志願者が出ている様子も分かります。 1945年8月の終戦まで、約10万人が内原研修所に通い、「鍬の戦士」の心構えを学びました。訓練を終えて満州に行った「鍬の戦士」はおよそ8万6500人だったそうです。
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中国との戦争が長引くと、日本はアメリカやイギリスと戦争を始め、戦闘はアジア・太平洋地域にまで広がりました。一方、東南アジアの人々は、戦前から独立を求めていました。戦後、アジアに何が残りましたか? 1920年代以降、アメリカはワシントン体制でアジア太平洋地域の秩序を維持しようとしました。日本の中国大陸への勢力拡大を防ぎ、日中戦争では中国の国民政府を支援しました。アメリカが日本に提示した和平交渉の条件は、領土と主権の尊重・内政不干渉・通商上の機会均等・平和的方法以外で太平洋秩序の不変更という四原則を守らなければならないとしました。このような和平交渉の条件は、満州国を含む中国大陸の利権を守り、独自の経済圏を築こうとする日本の計画とは合いませんでした。 日中戦争が長引き、1939年に第二次世界大戦が始まると、日本は資源の豊富な東南アジアに戦線拡大しようとしました。一方、これはワシントン体制への挑戦なので、アメリカとの関係はさらに悪化してしまいます。日本が北方領土の脅威から日ソ中立条約を結ぶと、1941年、フランス領インドシナ南部に軍隊を送り込みました。これを受けて、アメリカは日本に対して石油の全面禁輸を行いました。日本はアメリカとの話し合いを諦め、1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃すると、アメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。第二次世界大戦後、この戦争は太平洋戦争と呼ばれました。しかし、東南アジア・太平洋地域・中国を巻き込んでいるため、近年は、アジア太平洋戦争ともいわれています。 開戦後、日本は太平洋に勢力圏を広げていきました。また、アジアを欧米の支配から解放する方法として、「大東亜共栄圏」を築く考えをまとめました。欧米の植民地支配に対抗していた東南アジアの国々は、これを独立の機会と考え、日本に協力する指導者もいました。しかし、日本の占領地域では、日本語の使用や神社の参拝を強制されました。また、強制的に働かされ、輸出などもされました。南洋諸島では、現地の文化も考慮されませんでした。日本はアジアの解放を目指しましたが、植民地の朝鮮や台湾の独立を認めなかったので、それらの地域の人々は「日本人」として戦争に参加しました。 1943年以降、日本軍はアメリカ軍の攻勢に負けてばかりでした。1945年8月、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。本土空襲・沖縄戦という激しい地上戦の後でした。一方、ソ連は中立条約を破って参戦しました。満州・南樺太・千島列島は全てソ連に占領されました。現在の北方領土問題は、国後島・択捉島・色丹島・北方四島を占領されてから始まっています。このような状況を受けて、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏しました。これで戦争は終わりました。 日本は自らの考えで、アジアや敵国の人々を傷つけました。日本国民も、特に戦争末期には多くの苦しみを味わいました。そのため、アジアに対する「加害性」が中々見えませんでした。植民地・占領地・戦場では、アジア諸地域の人的被害や物的被害が深刻化しました。また、戦後は人体の損傷・戦争による精神的被害・家族との別れなどから、多くの人が長く辛い生活を送りました。
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ラジオ・新聞・雑誌の広がりで、時代の「空気」が人々の行動に影響を与えるようになりました。価値観や情報は都市から地方へ同じように発信され、大量に作られた商品は誰もが平等に入手出来るようになりました。このような画一化は、大衆の役割をどのように変えていくのでしょうか。 人々は、マス・メディアのおかげで、自分が国家の一部になっているような気分になりました。例えば、アドルフ・ヒトラーは、映画やラジオを通じて宣伝を広め、全体主義を作り上げました。フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、ラジオ放送を通して政策を説明しました。マス・メディアを通じて政治と国民が一体になる新しい時代の到来を予感させる出来事でした。その一方で、世界各地で同じような生活が出来るようになりました。日本でも、1930年代に入ってから新聞やラジオが急速に普及するようになり、都会でも田舎でも情報を簡単に手に入れられるようになりました。また、ラジオから音楽・漫談・落語を聴けるようになりました。戦前、日本人は西洋の映画や音楽に親しんでいました。しかし、戦後はマス・メディアの宣伝によって、「鬼畜米英」に対して敵意を感じるようになりました。 総力戦は、国民生活に溶け込むように戦いました。ドイツでは、ナチ党が制服を着せ、特定の行動を取らせて、集団の一員として意識させました。アメリカでは、企業や民間団体がその時代に合った運動を行い、生活の中で国民を結びつけました。日本では1938年の日中戦争で、国家総動員法を制定しました。国家総動員法によって、戦争に勝つために人や物資を集めました。国民は市民として仕事をしながら、近所や職場で組織を作り、戦争に協力しなければならなくなりました。日本では、町内会・国防婦人会・在郷軍人会など、地域の人達の集まりが充実していました。出征兵士の見送りや興亜奉公日などの学校行事もあり、子供達も「小国民」として戦争に参加したような気分になりました。 総力戦をするために、国民が生計を立てる方法を考え、働きながら次世代の兵士を育てられるような健康状態を整える必要がありました。戦時中の日本は、健康保険制度を整え、母子の健康管理について多くの説明書を配りました。1938年、厚生省はこうした政策を担当するようになりました。また、生活必需品に公定価格が定められ、各家庭では必要な量だけ手に入れられるようになりました。  これらの施策によって、国民生活の差がなくなっても、無秩序な物資の取引などが行われていました。そのため、全ての国民生活が平等になりませんでした。また、戦争に役立つと見なされない人々は、ひどい扱いを受けました。 植民地に住む人々は、自分達の力で近代化を進められません。そのため、植民地では、外から来た支配者の利益のためにインフラを整備していました。また、伝統的な暮らしや文化は、原始的で非文化的な存在として否定されました。 総力戦が始まると、植民地の民衆も強制参加されました。指導者達は、国民が国を離れていかないように、戦争について教えるようにしました。日本の植民地では、植民地に溶け込めるような同化政策がとられました。例えば、天皇に服従したり、常に日本語を話したり、日本で一般的な名前を名乗るなどです。
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第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦は、どちらが主導権を握ればよいのか、争いました。そして、第二次世界大戦の終結は、今後さらなる争いの種をまきました。戦後、世界はどんな様子になっていたのでしょう。 1941年に第二次世界大戦が始まると、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、大西洋上で会談して、戦後の計画について話し合いました。この会談がきっかけとなり、大西洋憲章が成立しました。これを踏まえて、1942年に連合国共同宣言を発表して、加盟国を増やしました。1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳がヤルタ会談で、ドイツをどう占領するか、戦後の国際連合をどうするかという話をしていました。 一方、1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸以降、ドイツは徐々に追い込まれていました。アドルフ・ヒトラーが、1945年4月に自殺すると、ドイツは首都ベルリンをソ連軍に陥落されて降伏しました。ドイツの指導者達は、ニュルンベルクの国際軍事裁判で裁かれました。 戦争中に資本主義国と社会主義国が協定を結んでも、終戦後、アメリカとソビエト連邦は再び争うようになりました。アメリカはトルーマン・ドクトリンによって、1947年にギリシアとトルコに軍事援助を行いました。また、マーシャル・プランによって、ヨーロッパ全土に経済援助を行いました。これは、第二次世界大戦後、世界各地で高まっていた社会主義運動を食い止めるために行われました。アメリカの封じ込め政策に反発するように、ソビエト連邦は、各国の共産党が連絡を取り合い、協力するための組織[Cominform]を設立しました。また、1949年、ソビエト連邦は経済相互援助会議[Council for Mutual Economic Assistance]を主導しました。 1948年、ソビエト連邦は、アメリカ主導の通貨改革に納得出来なかったため、ベルリンを封鎖しました。こうして、1949年からドイツは東西に大きく分かれました。1949年、西ヨーロッパ、アメリカ、カナダの資本主義諸国が集まって、北大西洋条約機構[North Atlantic Treaty Organization]を結成しました。ソビエト連邦と軍事的に対抗する安全保障体制を整えるためでした。しかし、1955年にソビエト連邦を中心とした東欧諸国がワルシャワ条約機構を作りました。アメリカとソビエト連邦は、第二次世界大戦後の世界を左右する東西緊張関係(冷戦)の中心にいました。 1945年、連合国50カ国が「国際連合憲章」を採択しました。これを受けて、国際連合が誕生しました。国際連合は、ニューヨークに本部を置きました。平和維持活動を行う安全保障理事会・総会・国際司法裁判所から成り立っています。武力行使を含む幅広い制裁を行う権限を持てるようになりました。また、国際通貨基金や国際復興開発銀行を設置して、保護貿易から自由貿易への転換を推進するとともに、経済のグローバル化にも貢献しました。しかし、アメリカドルはブレトン・ウッズ体制(固定相場制)の基軸通貨なので、世界経済がアメリカ経済の影響を受ける可能性もありました。
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敗戦後、日本は6年間も無政府状態でした。冷戦とGHQの政策によって、日本は天皇の立場を変え、軍国主義を改めて、新しい国を作ろうとしました。この大きな変化の中で、人々の心はどのように変化し、何が変わらなかったのでしょうか。 敗戦後の日本は、ドイツなどのように東西陣営に分断するのではなく、連合国軍に占領されました。東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、アメリカ政府から指示を受けて、日本政府に提案を行いました。日本を軍国主義から民主主義にするための戦後改革が進められました。日本国憲法は、国民主権を認め、世界で初めて戦争を放棄しました。その後、新しい日本の基礎となりました。農地改革や財閥解体など、様々な分野で改革が進められました。こうして、戦後の国民生活の基礎が整えられました。 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、連合国が裁判官を選び、誰が戦争責任を負わなければならないかを調べ、判決を出しました。軍部・閣僚・官僚が大衆を戦争に向かわせたと責められても、天皇制は維持されました。 空襲で日本の各都市は破壊され、戦後になって駅前や広場に闇市が出来ました。食料品を含む色々な品物が高値で売られていました。戦時中は、両親を失う子供も続出しました。 戦時中、日本は広い地域に進出したため、海外でも多くの戦闘に敗れました。終戦直前には中国の内戦やソ連の満州侵攻によって、帰国困難者が発生しました。ソ連軍にシベリアに連れて行かれた人達は、強制労働などで亡くなりました。帰国出来るようになったのは、日ソ共同宣言が結ばれた1956年になってからです。また、子供達も家族を失い、中国人に育てられました。その後、女性達も中国に残り、中国人と結婚しました。日本兵の中にも、東南アジアの戦争終結に貢献しており、現地の独立運動に参加しました。 1950年に朝鮮戦争が始まると、「朝鮮特需」で国連軍に軍事物資を提供していました。このため、日本経済が回復しました。朝鮮半島の情勢が悪化すると、アメリカは日本との平和条約締結を急ぎました。1951年、サンフランシスコ講和会議が開かれました。サンフランシスコ平和条約は、ソ連と中国を除く全ての国と調印して、日本の独立を回復しました。また、日本とアメリカは日米安全保障条約を結び、アメリカ軍を日本に残しました。1954年になると、国の防衛力を高めるために自衛隊が誕生しました。さらに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに運営を任せて、アメリカの重要な軍事基地となりました。一方、中国・ソ連との平和条約は締結されず、ソ連は北方四島を占領したままで、対中戦争の戦争責任問題も後回しになりました。 日本は連合軍の圧倒的な力によって無条件降伏すると、占領されました。それだけではなく、アジア冷戦の影響も受けました。こうした背景から他のアジア諸国と向き合い、和解する機会を逃してしまいました。
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アメリカとソ連の戦争は、第二次世界大戦後の東アジアの情勢を大きく変えました。中華人民共和国と台湾に中華民国政府、朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国を建国させました。第二次世界大戦後、東アジアの秩序はどのように変化したのでしょうか。 1945年に日本が敗戦すると、国民党の蒋介石と共産党の毛沢東は双十協定を結びました。その時、新しい国家をつくるために政治協商会議の開催に合意しました。1946年に本格的な国共内戦が始まると、3年後に中華人民共和国が誕生しました。中国共産党の毛沢東が中央人民政府主席、周恩来が総理になりました。その結果、社会主義陣営はさらに力をつけました。中ソ友好同盟相互援助条約によって、中華人民共和国とソビエト連邦の間に提携関係が生まれました。また、中華人民共和国の工業化を進めるため、人材交流も活発化しました。一方、蒋介石の国民党政府は台湾に中華民国を建国して、アメリカの支援を受けながら大陸に反撃したため、中国が分断されました。 毛沢東主導の中華人民共和国は、大躍進運動で食糧や鉄鋼の増産を図りましたが、失敗しました。1960年代になると、ソ連と問題を起こし、国境問題でインドと縁を切りました。そのため、1970年代になるとアメリカに接近するようになりました。 朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されても、北緯38度線に沿って、北はソ連軍、南はアメリカ軍に分割占領されました。南北の戦争は激しくなり、朝鮮半島は冷戦の最前線となりました。1948年、南部に大韓民国(李承晩大統領)がアメリカの支援を受けて建国しました。一方、北部に朝鮮民主主義人民共和国(金日成首相)がソビエト連邦の支援を受けて建国しました。こうして、朝鮮半島は完全に分断されました。1950年に北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が始まると、朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民主主義人民共和国の支配下に置かれました。しかし、アメリカは軍隊を送り込み、アメリカ軍を中心とした国連軍を立ち上げました。一方、中国も義勇軍を送りました。その結果、板門店で休戦協定が結ばれ、朝鮮戦争は終わりました。しかし、北朝鮮と韓国間の線引きはそのままでした。朝鮮戦争では、民間の日本人も輸送軍務に協力するようになり、犠牲になりました。 大韓民国は、休戦協定以降の1960年代に軍人朴正熙がクーデタで政権を握りました。朴正熙は工業化も進めました。大韓民国と中華民国(台湾)は、アメリカの支援を受けながら資本主義的な経済成長を遂げ、1980年代には民主化も進みました。一方、朝鮮民主主義人民共和国では、金一族による軍部優先の独裁体制が続きます。 日本は敗戦すると、台湾統治を放棄しました。やがて国民党が政権をとった時、戦前から暮らしていた人達に、国民党の思い通りになるように強要しました。本省人は煙草の密売を取り締まったら怒ったので、二・二八事件に発展しました。機関銃で次々と人が殺され、本省人エリートは警察に検挙されて、処刑されました。1947年の二・二八事件以降、戒厳令が敷かれ、独裁者が統治するようになりました。戒厳令は、30年後の1987年に廃止されました。
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東京・渋谷駅では、2008年から、JR線と京王井の頭線の間の通路に、長さ30メートル、高さ5.5メートルの巨大な作品が展示されています。その作品は『明日の神話』と名付けられています。原爆が爆発したらどうなるかを描いています。画面から圧倒的な破壊力と上昇するエネルギーが伝わってきます。しかし、この作品は単なる被害者の絵ではありません。作者の岡本太郎は、「人は最悪の悲劇も誇りを持って乗り越えてこそ、『明日の神話』が生まれます。」と強いメッセージを込めました。 原爆が投下された出来事は、私達日本人がいかにひどい戦争だったかという「記憶」としてずっと残っています。渋谷駅でこの作品を見た時、原爆が投下された瞬間が描かれていると思い、とても衝撃を受けました。これは、私達が皆、この悲劇を覚えている証拠です。日本は世界で唯一、原爆で傷ついた国です。そのため、岡本太郎は原爆を「誇りをもって乗り越えなければならない悲劇」として書きました。被爆者をはじめ、様々な立場の人々が、二度とこのような悲劇が起こらないように、この「記憶」を語り継ごうとしてきました。被爆時に生きていた人が減り、被爆後に生まれ、その被害を知らない、関心がない人が増えている現在でも、悲劇から前に進むための「記憶」は、映像や文章によって、次の世代に伝えられています。 しかし、それぞれの立場の「記憶」がどのように残されているか、考えてみましたか?アメリカの首都ワシントンD.C.にあるスミソニアン国立航空宇宙博物館の別館には、B-29爆撃機がいつも展示されています。エノラ・ゲイと呼ばれる愛称です。1945年8月6日、広島に原爆が投下されました。アメリカの多くの人々は、原爆投下は正しい行為だったと思っています。日本に戦争を放棄させ、多くの米兵の命を救うために必要だったという点では、誰もが認めています。このように考えると、原爆が投下された歴史的事実と「記憶」のあり方は、大きく異なっています。正義には様々な種類があり、それぞれの立場があります。太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)[1]は、アメリカで「Good War(良い戦争)」と呼ばれています。 「記憶」が新たな争いを生んでいる場合も少なくありません。よく「歴史は繰り返す」という言葉がありますが、人々が自分の立場で出来事を「記憶」して、次の世代に伝えているからでしょう。同じ出来事でも、違う立場の人が違う形で「記憶」している可能性もあります。SNSやVRが流行した現在、私達はより多くのやり方で物事を「記憶」出来ます。ある事象を判断・評価する際には、一つの視点からだけでなく、異なる立場からどのように見られるかを考えてみましょう。
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日本への原爆投下後、欧米ではすでに、原子力が持つ膨大なエネルギーを平和的に利用する方法が考えられていました。それが原子力発電という形になりました。1953年、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー大統領は国際連合総会の演説で、原子力の平和利用を推進しつつ、軍事利用を食い止めるための国際機関の設立を呼びかけました。その結果、1957年に国際原子力機関[International Atomic Energy Agency]が設立されました。 戦後、原爆が投下された広島の市民は、核兵器をなくしたいという思いと、原子力を平和利用したいという思いの両方を持っていました。この2つの考え方は、お互い矛盾しませんでした。初めて原子力の被害を受けた広島こそ、原子力の平和的恩恵を受ければよいという声が上がり、広島市内に原子炉を建設しようという動きも出てきました。1955年、日本とアメリカは日米原子力研究協定を結びました。その結果、アメリカから日本に濃縮ウランの貸し出しが認められました。ほぼ同時期に制定された原子力基本法では、「民主」「自主」「公開」の三原則に基づかなければならないと定められました。この法律から、原子力の研究・開発・利用は平和目的に限定するようになりました。1956年4月、茨城県東海村に原子力研究所の開設を決定しました。1957年8月、臨界実験に成功すると、日本で初めて「原子炉の火」が点きました。 現在、原子力エネルギーは世界中で平和利用されており、各地で原子力発電所が建設されています。2度の石油危機を経験したため、石油の代替エネルギーとして原子力発電が世界で注目されるようになりました。フランスは1970年代から原子力発電所の建設を推進してきました。フランスが目指しているのは、「エネルギーの独立」です。現在でも、フランスは電力の約70%を原子力発電所から賄っている上、近隣諸国にも電力を送っています。 しかし、アメリカでスリーマイル島原発事故(1979年)、ソビエト連邦でチェルノブイリ原発事故(1986年)、日本も福島第一原発事故(2011年)が起こり、ヨーロッパ各国は原子力・エネルギー政策の大きな転換を迫れられました。スウェーデン・イタリア・オーストリアでは、国民投票によって脱原発が決定されました。ドイツでは、1990年代から脱原発の動きが加速して、2022年末までに全ての原子力発電所を廃止する方針を固めました。この動きと並行して、ドイツでは風力や太陽光などの再生可能エネルギーの利用を拡大しつつ、国民に省エネルギーを呼びかけています。 一方、2011年以降、世界の原子力発電量は増えています。中国を中心としたアジアやロシアでも、新しい原子力発電所を建設して、電力を送り始めようとしています。今後も世界中で原子力の平和利用が進むと予想されます。
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本節は、ナショナリズムの特集です。高校生には難しい論点ばかりなので、興味がある人だけ読み進めてください。実際の国際関係論は、このように奥深く、ナショナリズムを解説しています。 ナショナリズムとは、全国民が同じ仲間意識を持つ考え方です。政治学や国際関係からナショナリズムを見ると、ヨーロッパが近代に入ってから出来た言葉だと分かります。言葉「ナショナリズム」は古代や中世に見られません。ヨーロッパの封建制が中世に入って崩壊すると、絶対王政がイギリス・フランス・オランダなどで発展します。こうして「イギリス人」「フランス人」「日本国民」と意識されるようになりました。 私達2人はフランス出身なので、文法や発音も現地と同じなので、同じフランス語を話します。このような国民意識は、国民が共通の言語・歴史・伝統を持つからこそ、より深まりました。また、教育を通じて自国の素晴らしい歴史が後世に伝わると、より高い愛着(愛国心)を感じられます。しかし、このような愛国心は、仲間達と同じ価値観を共有していて、皆で力を合わせようという気持ちを思い出させてくれます。一方、違う見方をすると、違う信条を持つと敵視され、国内から追い出したり、国内にいても差別的な扱いを受けたりする危険性があります。例えば、「外国人は国から出て行け」「お前は国民じゃない」というような言い方をすると、様々な悲劇に見舞われています。 歴史を振り返ると、西欧型ナショナリズムは、「普遍的帝国」→「局地的な地方政治」→「一元的専制」→「政治的統合」のように発展してきました。 ナショナリズムはヨーロッパで始まり、アジアやアフリカなど世界各地に広がりました。植民地支配や社会的支配がなくなると、非ヨーロッパ諸国で国民主義政府の誕生に繋がります。また、生活圏・文化圏・コミュニケーションなどが整っていない場合、ナショナリズムの単位も小さくなります。途上国では、ナショナリズムの指導者として有名な学者は少ないかもしれません。よって、ナショナリズム運動は弱まっていると言えるでしょう。また、途上国のナショナリズム運動は2種類あります。 ヨーロッパは、中産階級や新興市民層(ブルジョワジー)が国民国家の必要性を感じるようになると、ナショナリズムを強める傾向にあります。このようなナショナリズムは、民主主義思想(右翼思想)と繋がりやすくなります。一方、インターナショナリズム(国際的労働運動)は、労働者や下層民衆が奴隷や苦労から逃れようとする傾向にあります。労働者が自分達の権利を守るために、国家ではなく世界的一体感を求めるため、インターナショナリズムは社会主義思想(左翼思想)と頻繁に結びついています。 国家に縛られないからこそ、人種・国籍・場所に縛られない社会を作れるかもしれません。このような考え方をコスモポリタニズム(世界市民主義)といい、それを支持する人達をコスモポリタンといいます。 国家は、同化政策と同じように、エスニシティの居住国と強い結びつきがあれば、その民族を政治に参加させても構いません。エスニシティの指示で、政治的正統性を取得出来ると考えられています。しかし、エスニシティと国家の関係が対立すると、国家は中々まとまらなくなります。なぜなら、このような国家から抜け出して独立するために、激しい抗議運動を始めるかもしれないからです。 アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのように、ほとんどの途上国には豊富な天然資源を持っています。天然資源を利用して自国の近代化と経済成長を図り、残った天然資源を先進国の貿易材料に利用しようという考え方(資源ナショナリズム)が途上国で生まれました。1970年代になると、産油諸国が資源ナショナリズムに従って原油価格を引き上げました。その結果、先進国は大きな影響を受けました。なお、資源ナショナリズムと似たような表現で開発独裁があります。開発独裁はフェルディナンド・マルコス政権時代のフィリピンやスハルト政権時代のインドネシアで行われました。 ブルース・ラセットは、著書『パクス・デモクラティア』の中で民主的平和論を取り上げています。民主的平和論によると、民主主義国同士は、民主主義国家と非民主主義国家間、非民主主義国家間よりも戦争につながりにくいと考えられています。 しかし、民主主義体制だと、相手が非民主主義国家なら戦争しても構わないと考える傾向があります。例えば、アメリカは日本とおそらく戦争をしないでしょう。しかし、アメリカがアフガニスタンやイラクを攻撃したのは、アメリカの民主主義の基準を満たしていなかったからでしょう。 民主的平和論は、カント的国際政治観とも呼ばれ、近代ドイツ哲学者イマヌエル・カントの『永遠平和のために』に由来する政治理論です。
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1945年に出来た国際連合憲章には、全ての人に同じ権利と自分で決める権利があると書かれています。しかし、旧植民地が独立してからその後の発展を遂げるのは困難でした。アジアやアフリカの国々はどのように独立をして、世界に何を伝えたのでしょうか。 第二次世界大戦は、アジア・アフリカの植民地や委任統治領を担当していた列強を疲れさせました。また、これらの地域の人々にも、独立出来るかもしれないという希望を与えました。 1942年、日本軍がオランダ領東インドを占領しました。その後、1945年8月になって、スカルノらがインドネシア共和国の独立を宣言しました。1949年、インドネシア共和国は戦争でオランダを破って独立しました。1940年、フランス領インドシナは日本軍に占領されました。日本軍に抗議する運動が、ホー・チ・ミンらによって展開されました。1945年9月、これをきっかけにベトナム民主共和国(北ベトナム)が誕生しました。ベトナムと旧宗主国のフランスは、1946年にインドシナ戦争を開始しました。フランスはこの戦争を認めませんでした。1949年、フランスはベトナムに傀儡政権(南ベトナム)を建国しました。しかし、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスは敗れ、ジュネーヴ休戦協定により北緯17度線が南北ベトナムの軍事境界線となりました。そして、アメリカの支援を受けて、北緯17度線の南側にベトナム共和国が成立し、国土は永久に南北に分断されるようになりました。 第二次世界大戦中、南アジアはイギリスの植民地でした。ジャワハルラール・ネルーと国民会議派は統一インドの独立を目指し、ムハンマド・アリー・ジンナーとインド・ムスリム連盟はパキスタンの独立を目指しました。インドとパキスタンの争いが激しくなると、1947年、両国は独立を果たしました。 中東では、イギリス軍とフランス軍も撤退していました。第二次世界大戦終戦後まもなく、イギリスとフランスの支配下にあったヨルダンとシリアが独立しました。一方、パレスチナでは、イギリスの委任統治時代に移住してきたユダヤ人が、地元のアラブ人が反対する中、1948年にイスラエルの建国を宣言しました。 北アフリカは、1956年にチュニジアとモロッコが独立するまで、フランスの植民地でした。アルジェリアは長い紛争の末、1962年に独立しました。黒人アフリカでは、1957年にクワメ・エンクルマがガーナ共和国を独立させました。1960年には、他の17カ国も独立を果たしました。この年は「アフリカの年」といわれるようになりました。 アメリカとソ連の冷戦時代、アジアやアフリカの国々は第三世界を作るために手を組もうとしました。1954年、中国の周恩来とインドのジャワハルラール・ネルーが平和五原則に合意しました。1955年、日本を含む29カ国がインドネシアのバンドンに集まり、植民地主義の廃止と平和共存を謳った平和十原則に合意しました(アジア・アフリカ会議)。1961年、非同盟諸国首脳会議が開催されました。非同盟諸国首脳会議は、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトーとエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルらの呼びかけで、開催されました。独自の社会主義やアラブ民族主義といった非同盟運動の立場から、世界の平和共存と民族解放を宣言しました。
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冷戦が進むにつれて、ベトナム戦争や中東戦争など、世界各地で戦争が起こりました。それぞれの戦争が始まった時、どのような背景で発生して、どのように歴史を変えたのでしょうか。 独立したばかりのアジアやアフリカの国々は、アメリカとソ連の冷戦に巻き込まれました。そのため、世界各地で地域紛争や代理戦争が発生しました。インドシナ戦争後、南ベトナムの国民は、アメリカが支援する独裁体制に不満を強めていきました。1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム軍と政府軍が激しく争いました。1965年、アメリカは北ベトナムが支援する解放戦線を食い止めるため、北ベトナムへの空爆を開始しました(ベトナム戦争)。アメリカは50万人以上の軍隊を送り込みましたが、北ベトナムと、ソ連や中国の支援を受けた解放戦線は激しく反撃しました。アメリカでは反戦運動が高まり、1973年にベトナム(パリ)和平協定が締結されると、ベトナムから撤退しました。その後、1975年、北ベトナムが南ベトナムを併合しました。1976年にベトナム社会主義共和国が誕生しました。 イスラエルは、建国宣言後、近隣のアラブ諸国との戦争(第一次中東戦争)に勝利して独立を果たしました。その結果、多くのアラブ系パレスチナ人が故郷を離れ、周辺諸国へ避難しなければならなくなりました。 この後、エジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルがアラブ民族主義の指導者となりました。1956年、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領はイギリス・フランス領のスエズ運河をエジプトが引き継ぐと発表しました。これを受けて、イギリスはフランスとイスラエルから軍隊を送り、第二次中東戦争に発展しました。国際的な批判とアメリカやソビエト連邦の反対で3カ国が軍隊を撤退させると、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領の評判が上がりました。 しかし、1967年の第三次中東戦争で中東の政治情勢は変わりました。エジプト・シリア・ヨルダンがイスラエルの電撃戦に敗れ、イスラエルがガザやヨルダン川西岸を含むパレスチナ全土を占領しました。ガマール・アブドゥル=ナーセルが権力を失い、パレスチナ人自身が先頭に立って、自由を求めて戦うようになりました。1964年に結成されたパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)は、パレスチナ人の声を伝える機関として、世界中で注目されるようになりました。 1970年代、アラブ諸国はイスラエルとの戦いよりも国内の成長を優先させる現実的な道を歩むようになりました。エジプトとイスラエルは、ガマール・アブドゥル・ナーセルから引き継いだアンワル・アッ=サーダート大統領の時代に、イスラエルと第四次中東戦争を戦いました。1978年、アメリカはエジプトとイスラエルの和平協定に合意しました。しかし、イスラエルは第三次中東戦争で占領された地域にユダヤ人の移民を進めてしまいました。そのため、問題の解決を難しくしました。
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1968年頃、若者・女性・黒人などが世界各地で社会運動を起こしました。1968年という年は、世界の歴史の中でどのような意味を持つのでしょうか。 第二次世界大戦後、クレメント・アトリーがイギリスを支配しました。フランスのシャルル・ド・ゴールは、主要産業の買収と社会保障制度の整備によって、戦後復興を目指しました。イギリスの「ゆりかごから墓場まで」思想に代表される福祉国家政策は、戦後の西側資本主義国に共通する考え方でした。福祉国家政策とは、「大きな政府」による富の再分配です。政府が低金利と公共投資を増やせば需要も増え、完全雇用と社会政策の充実を図らなければならないというケインズ派の考え方に基づきます。1955年、日本は55年体制と呼ばれる政治体制が敷かれました。保守的な自民党が与党、革新的な日本社会党や日本共産党が野党の代表的な政党でした。経済成長を背景に、公共事業や補助金を活用した再分配政策が行われました。 1960年代、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディとリンドン・ジョンソンがアメリカ政府を指揮していた頃、「偉大な社会」思想に基づいて福祉の充実が進められました。しかし、ベトナム戦争への出費や社会福祉予算の増大が財政を圧迫しました。また、1960年代以降、国際的に見たアメリカの地位は低下しました。一方、ソ連では、ニキータ・フルシチョフがヨシフ・スターリンの重工業重視の政策を変えて、農業生産を増やしましたが、経済的に行き詰まりました。 1960年代後半から1970年代前半にかけて、資本主義国・社会主義国を問わず、活発な社会運動が展開されました。例えば、アメリカではベトナム反戦運動・公民権運動・女性解放運動などがあります。また、大学紛争・チェコスロヴァキアの「プラハの春」・中国の「文化大革命」なども挙げられます。1968年頃、これらの社会運動は世界中に広がりました。社会主義政党と結びついていた労働運動などの伝統的な社会運動とは異なります。 「ニューレフト(新左翼)」と呼ばれる新しい社会運動には、自国に限らない共通点がありました。例えば、ベトナム戦争に反対したり、文化大革命を支持したり、第三世界の力が強まる中で社会的少数派に大きな関心を寄せていました。また、運動の中心となった若者達は、伝統的な権力を持った文化とは異なるカウンターカルチャーに参加していました。 このような運動が各国の政治や社会に与えた影響はまちまちですが、人種・性別・環境・移民・難民など多様な論点は、その後の新しい社会運動の基礎となりました。また、カウンターカルチャーは消費文化とも結びつき、サブカルチャーを中心に現在の文化やライフスタイルに影響を与えました。
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冷戦時代、ソ連を中心とした国々は核兵器を手に入れました。アメリカは世界で唯一、核兵器を使用した国でした。核兵器がどんどん作られていく中で、核兵器の脅威は世界をどのように変えていったのでしょうか。 アメリカが原爆を投下した時、多くの日本人が犠牲になりました。日本は「唯一の戦争被爆国」と言われますが、広島・長崎では国籍を問わず多くの人が犠牲になりました。その中には、日本の統治下にあった台湾や朝鮮半島の人達や連合国軍の捕虜も含まれています。放射線を浴びた人達は、今もその影響を受けています。 第二次世界大戦後、1949年にソ連が原爆を手に入れると、1952年にイギリスも原爆を手に入れました。その結果、アメリカの核兵器独占が崩れました。1952年にアメリカが水素爆弾(水爆)の実験に成功すると、1953年にソビエト連邦も水素爆弾(水爆)の実験に成功しました。1960年代には、フランスも中国も核兵器を作りました。 核保有国の核実験や原子力発電所の事故などで、国民が被曝したり、亡くなったりしました。このため、核兵器の脅威は世界的な問題となりました。1954年、西太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による「死の灰」で、日本の漁船第五福竜丸の乗組員1名が死亡しました(第五福竜丸事件)。その結果、原爆や水爆といった核兵器に反対する運動はより活発になりました。 1959年、フィデル・カストロはキューバで革命を起こして、親米政権を倒しました。その後、フィデル・カストロは社会主義思想を支持しつつ、ソ連に接近しました。1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設しました。このため、アメリカとソ連の間で核戦争が起こる可能性が高まりました(キューバ危機)。しかし、ソ連が譲歩したため、戦争は起こりませんでした。これを受けて、アメリカとソ連の関係は改善されました。1963年、アメリカ・イギリス・ソ連の3カ国は、部分的核実験禁止条約に調印しました。また、1968年には国連で核拡散防止条約が成立しています。1967年、日本の佐藤栄作首相は、核兵器を「持たない」「作らない」「持たせない」という非核三原則を打ち出しました。1972年、アメリカとソ連が戦略兵器削減交渉に調印しました。1980年代には戦略兵器削減交渉が進み、1987年に中距離核戦力全廃条約が調印されました。 ソ連の崩壊後、アメリカとロシアは、戦略的核兵器の軍縮に取り組んできました。核軍縮は、国連安全保障理事会・国際原子力機関・核保有国同士が協議しながら推進してきました。一方、核軍縮に反対する動きもあります。包括的核実験禁止条約は1996年に署名されました。しかし、アメリカなどが批准していないため、まだ発効していません。北朝鮮は1993年、核拡散防止条約から脱退すると発表しました。それ以来、数回の核実験を行ったと伝えています。また、1998年にインドとパキスタンが地下核実験を行い、イスラエルも近隣のアラブ諸国と対立を続けているため、「事実上の核保有国」と呼ばれています。「核抑止論」は世界的に根強い考え方なので、核拡散が心配されます。
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第二次世界大戦後の世界では、国や地域の安定と成長を求めて、多くの組織が協力し合ってきました。これらの組織はどういった活動をしたのでしょうか。 30年足らずの間に2度の本格的な戦争を戦ったヨーロッパ諸国は、その国力に大きな打撃を受けました。植民地が次々と独立する一方、アメリカやソ連の台頭でその地位は低下しました。第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国は、ソ連を中心とした社会主義圏として復興を目指しました。一方、西ヨーロッパ諸国は、アメリカの経済に支えられて復興を遂げました。その後、フランスはドイツ(西ドイツ)と共同で、フランスの軍事力を支える資源や産業を管理するように提案しました。1952年、イタリアとベネルクスがそれぞれドイツとフランスに加わり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を創設しました。これを基礎に、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を創設して、共通市場と共通経済政策を作り上げました。1967年に上記3つが合体してヨーロッパ共同体(EC)が誕生しました。当初、イギリスをはじめとするイギリス連邦の国々は、この動きから遠ざかっていました。しかし、1973年にイギリス、デンマーク、アイルランドがヨーロッパ共同体に加盟して、ヨーロッパ協同体が大きくなり、西ヨーロッパが一つになる動きが加速しました。 第二次世界大戦後、独立を果たしたアジア諸国は、決して順調な道を歩んできたわけではありません。その背景に、冷戦と経済問題がありました。アメリカは、中国での共産党政権の誕生、朝鮮戦争やインドシナ戦争の発生を受けて、反共産主義の安全保障体制づくりを進めました。そのため、1950年代中頃に東南アジア条約機構を組織して、南ベトナムに親アメリカ政権を樹立しました。やがて、東南アジア諸国では、軍部や官僚を背景とした政府が権力を握るようになりました。これらの政権は、外国資本の導入と国内資源の運用を計画的で強権的に進めました。そして、アメリカの支援と日本との経済協力によって、東南アジア諸国の経済を成長させようとしました。タイのサリット・タナラット、フィリピンのフェルディナンド・マルコス、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルトなどが開発独裁政権です。政治的には親アメリカでも、計画経済など共産主義的な手法をとる独裁者もいます。 1960年代中頃、ベトナム戦争の悪化を受けて、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールが集まり、東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成しました。東南アジア諸国連合の目的は、東南アジアの政治的安定と経済的協力を図るためにありました。当初、東南アジア諸国連合は反共産主義を掲げていましたが、ベトナム戦争後、経済協力に重点を置くようになりました。各国の経済が発展すると、各国で民主化への動きも高まりました。
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1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれたとはいえ、アジア諸国間の問題が全て解決されたわけではありません。日本は独立後、アジア諸国との関係をどのように回復して、再編したのでしょうか。 吉田茂内閣に代わって、鳩山一郎内閣が「自主外交」を推し進め、1956年に日ソ共同宣言を結んで、ソ連との関係改善に取り組みました。その結果、日本とソ連の国交は正常化され、領土問題の解決は平和条約を結ぶまで先送りされました。日本は、国連安全保障理事会の常任理事国ソ連との国交が正常化した1956年に、国連に加盟しました。 佐藤栄作内閣は、池田勇人内閣の日韓国交正常化を引き継ぎました。アメリカがアジアの安定を望んでいたので、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)政権との国交正常化交渉を続けていました。日本国内では、北朝鮮と国交を正常化しないで、韓国だけと国交を正常化しようとする動きに反対意見がありました。また、韓国でも学生を中心に条約の内容に反対する声がありました。しかし、1965年、日本と韓国の間で日韓基本条約が結ばれると、日韓の国交は正常化されました。 1971年、ベトナム戦争で混乱して経済が悪化していたため、人々は金とドルを交換出来なくなってしまいました。このドル・ショックで、アメリカのアジアに対する考え方が変わって、アメリカは中国ともっと仲良くしようとするようになりました。また、中国とソ連の対立が激しくなったため、中国もアメリカに近づきました。中国がソ連の政策変更に反対して、両国の国境紛争が始まりました。1971年、中華人民共和国が国連に加盟して、中華民国(台湾)が脱退しました。1972年、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が突然中国に訪問すると、日本は中国との国交正常化を急ぐようになりました。佐藤首相の後を受けた田中角栄首相は、1972年に中国へ渡りました。そこで周恩来首相と日中共同声明を結んで、日中間の国交を正常化しました。一方、中華人民共和国を唯一の合法的政府として認め、日本は中華民国との公式な国交を絶ちました。 日本のアジア諸国への戦争賠償は、サンフランシスコ平和条約が結ばれてから、国ごとに取り決められ、経済協力という形で進められました。現在も日本とアジア諸国は、賠償金、領土問題、歴史認識などを巡って争いを続けています。 1953年に奄美が、1968年に小笠原諸島が日本に返還されました。しかし、沖縄はまだアメリカによって統治されていました。1960年代以降、沖縄では祖国復帰運動が盛んになりました。「核抜き本土並み」を求めた佐藤内閣は、アメリカ政府と交渉を始めました。1971年、沖縄は1972年に日本に返還される方向でまとまりました(沖縄返還協定)。しかし、日米安全保障条約によって、沖縄には多くのアメリカ軍基地が残され、現在も負担が続いています。
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第二次世界大戦とその復興に時間をかけた後、1950年代以降、一部の国の経済は目覚しい成長を遂げました。このような経済の成長は、私達の社会に何をもたらしてきたのでしょうか。 第二次世界大戦後、国際経済は金・ドル体制になりました。アメリカは経済的に順調で、これを「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といいました。アメリカは資本主義国に技術や資金を提供して、復興と工業化を支援しました。1960年代のイギリスは、軍事費の増大と公共投資によるインフレのため、経済成長は緩やかでした。一方、西ドイツと日本は、輸出による貿易黒字があったため、経済が急成長しました。 朝鮮戦争で需要が高まり、日本経済は戦前の水準に戻りました。1950年代中頃から1970年代初めにかけて、日本経済は急成長を遂げました(高度経済成長期)。岸信介内閣は日米安保条約改定への反対(安保闘争)で退陣しました。次の池田勇人内閣は「所得倍増」を掲げて公共投資を拡大しつつ、技術革新や貿易振興など積極的な財政政策を実施しました。 日本では、経済成長によって、大量生産・大量消費が広まった結果、消費革命やエネルギー革命と呼ばれる社会変化が起こり、国民生活も大きく変わりました。 次のような社会変化は、現在の暮らしでもつながっています。 また、1964年の第1次東京オリンピック[1]、1970年の大阪万博は、日本の復興と経済成長を海外に示しました。 一方で、先進国の経済成長によって、大きな問題も起きています。産業や開発が急速に発展したため、公害や自然破壊が引き起こされました。ヨーロッパでは大気汚染が酸性雨を引き起こし、国境を越えて被害をもたらしています。環境問題を解決するためには、これまでの枠組みにこだわらないで、国家同士が協力していく必要があります。 日本でも、環境汚染や交通渋滞で生活環境が悪化しました。環境汚染では、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息など深刻な社会問題(公害問題)を引き起こして、四大公害裁判などの訴訟も頻繁に行われました。工業化、農業の機械化、減反政策によって、産業構造が変化しました。その結果、農村から都市へと多くの人が移動したので、都市は過密となり、農村は過疎化しました。 こうした問題を受けて、日本政府は1967年に公害対策基本法を制定したほか、1971年になると、環境庁を設置しました。一方、日本社会党や日本共産党など新しい勢力の支持を集めて、環境政策や社会政策を推進する首長が、各地で支持を集めていきました。
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ストリートダンスは、どこでも踊れる路上ダンスの1つです。ストリートダンスは、バレエやダンスホールでの社交ダンスのように、ルールがあって、観客に見せるための踊りではありません。その代わり、ストリートダンスは自由に自分を表現出来ます。 日本のダンスは、ストリートダンスと呼ばれています。ストリートダンスの起源は、1920年代のアメリカでジャズに合わせて踊るスイングダンスにあると言われています。ジャズ音楽を考え出したのはアフリカ系アメリカ人です。第二次世界大戦をはさんで、1960年代、アメリカで公民権運動が高まり、白人のアフリカ系アメリカ人に対する感じ方が変わり始めました。その頃、新しいタイプのソウルダンスが生まれました。ソウルダンスは、シカゴにある黒人向けの番組「Soul Train」で、ソウル・ミュージックに合わせて行われました。この番組がきっかけで、ロッキング、ポッピング、ワックなどのスタイルが一気に広まりました。 一方、ヒップホップ文化は、1970年代に、アフリカ系アメリカ人が自己表現するための手段として始まりました。当時、ニューヨークに住み、貧困や暴力に苦しみながらも十分な権利を持てませんでした。ブレイクダンスはこの対抗文化の一つとして生まれました。西海岸のストリートダンスと混ざり合い、現在のストリートダンスと呼ばれる形になったと考えられています。 1983年、映画「フラッシュダンス」は日本で公開されました。映画「フラッシュダンス」では、ストリートダンスを世に広めました。ブレイクダンスの場面は短くても、若い人にはとても興味を持ってもらえました。そして、1983年の映画「ワイルド・スタイル」の宣伝で来日したダンサーが各地で踊り、あっという間に広まりました。若者は、ブレイクダンスに興味を持ちました。ビデオデッキで繰り返し観て、踊り方を覚えました。当時、原宿の歩行者天国では、ラジカセから流れる大音量の音楽に合わせて、若者達が踊っていました。踊るには音楽が必要なので、昔はホールのような生バンドやレコードがかけられる場所で聴いていました。しかし、ラジカセが登場すると、路上がダンス場に変わりました。 1990年代になると、民放のバラエティ番組内のコーナーで「ダンス甲子園」が始まりました。過去の反文化的な雰囲気を取り除き、より健やかな印象になりました。安室奈美恵のように踊りも歌も出来る歌手が次々と出てきて、みんなダンスに馴染んでいきました。 2000年代に入ると、ストリートダンスを教える学校が次々と開校され、子供達が学校でダンスを習うようになりました。スマートフォンが2010年代に流行すると、動画アプリなどで自分のダンスを紹介したり、他の人のダンスを参考にしたりしやすくなりました。 ストリートダンスはアフリカ系アメリカ人の文化に反発する形で始まりました。現在、日本でも若者から中高年までが楽しみながら健康づくりに取り組んでいます。動画アプリを利用して、世界中のダンサーを見たり真似したり出来るのは一見素晴らしくても、一方で、ダンスをより均一化させてしまいました。でも、そのおかげで、世界中のどこでも同じステップや振り付けが出来るようになり、ダンスの標準化が進みました。あなたはどんなダンスを踊りたいですか?
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森進一さんは、昭和の有名な歌手です。「おふくろさん」「襟裳岬」などの歌で知られています。母子家庭で育ち、幼少期は各地を転々としていました。中学3年の時、鹿児島(母の故郷)に移住しました。1963年春、長田中学校を卒業すると、友人達と24時間かけて電車で大阪に向かいました。この年、九州の中学を卒業した4万4000人余りが関西や関東に集団就職しました。かつて国鉄博多駅の駅長を務めていた井出干樹さんは、当時の様子を次のように語っています。 窓から手を出して、手を振ります。子供達は窓枠から両手を出して手を振り、親達は嬉しい反面、見送るのが悲しくてやりきれない気持ちになりました。それぞれの思いが物語をつくっていきました。 見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に仕事をする幼い子供達は、この家族の強い絆に支えられていたのかもしれません。私達も、複雑な思いで子供達を送り出しました。 1965年、中学を卒業して県外に就職した男子生徒の74.5%、女子生徒の89%が鹿児島県を第1位としています。当時、日本経済は急成長しており、重化学工業や繊維工業を中心に多くの労働力が必要とされていました。しかし、都市部では高校や大学へ進学する学生が増えたため、貧しく進学率の低い地方は、特に中学を卒業したばかりの人が就職するのに最適な場所となりました。この人達は、「金の卵」と呼ばれました。九州・中国・四国の卒業生は京阪神や中京方面へ、東北・北海道の卒業生は東京方面へ、それぞれ国鉄の特別列車で移動しました。また、沖縄のように船で集団就職する地域もありました。 この歴史的な出来事は、1964年のヒット曲「あゝ上野駅」にも反映されています。 「金の卵」といっても、給料はほとんど貰えず、大変な仕事も数多く見受けられました。森進一さんは寿司屋の住み込みで働いていましたが、月給5000円は大卒の3分の1しかなく、家族に仕送りをするために17回も転職を繰り返しました。子供がどうやって生計を立てていくのか、心配したのは家族だけではありません。学校も、生徒の職場に職員を送って励まし、生徒の姿をもっと知りたいと考えていました。また、受け入れ側も、子供達の出身県から木を植えて、関係を深めるとともに、安定した労働力の確保に努めました。その一例が、大阪市の長居公園にある「ふるさとの森」です。 1970年代に入ると、集団就職に支えられた日本の高度経済成長は終わりを迎えます。1977年、労働省は集団就職を廃止しました。しかし、沖縄など地元の就職先が少ない県では、都市部での集団就職が続きました。
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1970年代の2度にわたる石油危機は、エネルギーの需給だけでなく、様々な問題を明らかにしました。石油危機はなぜ起こり、世界にどのような影響を与えたのでしょうか。 1971年、アメリカ国内の物価が上昇する中で、貿易赤字となったため、金とドルの交換を停止しました。第二次世界大戦からの世界経済の回復を支えたブレトン・ウッズ体制は、金とドルの交換が停止されると崩壊しました。1973年、大半の国が変動相場制に切り替えました。 1973年10月に第4次中東戦争が始まると、アラブの産油国は石油の生産と輸出に制限をかけるようになりました。これが石油危機を招きました。石油危機は先進国の経済を停滞させ、価格高騰は途上国の経済に大きな影響を与え、政治情勢を悪化させました。 石油危機によって、エネルギーの安全保障がいかに重要か、福祉国家政策がいかに経済に悪影響を与えるかが明らかになりました。そのため、先進国は「小さな政府」の方向へ進み始めました。石油危機を乗り越えるためには、エネルギーを節約するための技術革新も必要でした。しかし、計画経済を基本とする社会主義では、この要求に応えられず、経済を停滞させました。 石油危機は、日本経済と国民生活に大きな影響を与えました。石油危機は政府の支出を増やし、「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣はさらに支出を増やしました。そのため、物価が急激に上昇する「狂乱物価」が発生しました。1974年、戦後初めて経済成長率がマイナスになりました。高度経済成長期が終わりました。 世界的な経済危機の中、日本はハイテク産業を中心に自動化などの軽量化を進め、石油危機を乗り越えました。一時は労働運動も盛り上がりましたが、三池争議のような大規模な労働争議をきっかけに、労働者と使用者が共に働くように政策が転換されました。女性の社会進出が進み、男女雇用機会均等法のような法律が作られると、パートタイムのような時間給の仕事が、女性を中心に増えました。また、財政赤字が拡大すると、福祉の充実に取り組んでいた革新自治体が何も出来なくなりました。 第二次世界大戦後、石油危機やドル・ショックは、政治・経済・生活のあり方を見直すきっかけとなりました。西側先進国は、世界のエネルギー問題や経済問題を解決するために協力しなければならないという考えを持つようになりました。1975年、初めて先進国首脳会議(サミット)が開催されてから、毎年開催されています。 また、経済や人々の考え方の面でも、「大規模」「大量」から「小型化」「軽量化」への価値観の転換が進んでいます。価値観の転換は、代替エネルギーの開発、省エネルギー、エコロジー思想の広がりなどに見られます。
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石油危機で先進資本主義国が苦しみ、ソ連をはじめとする社会主義国の経済が停滞する中、アジアの一部の国々は大きく成長しました。なぜ「アジアの奇跡」が起きたのでしょうか。 アジア諸国では、植民地支配から解放された後、民族紛争が起きても、強権的な政府が輸入品を国内で生産して、農業生産を拡大させる「緑の革命」を推進しました。1970年代以降、2度の石油危機を経験すると、先進国の経済成長は減速しました。しかし、アジア新興工業経済地域や東南アジア諸国連合諸国は高い成長を保っており、工業製品の輸出を伸ばしてきました。しかし、経済のグローバル化が進むと、海外のヘッジファンド(投資家など)による投機がバブル的な経済状況を生み出し、アジア通貨危機を招きました。 東アジアでは、韓国で1960年代後半に経済成長を遂げて、「漢江の奇跡」と呼ばれました。中国は文化大革命以後、1970年代末から鄧小平を中心とした改革・開放政策が取り入れられました。1990年代に入ると、市場経済も整備された。しかし、政治体制の変更には厳しい姿勢を見せ、天安門事件で民主化要求を抑えつけました。 東南アジアでも、シンガポール・タイ・インドネシアなどが経済成長を遂げました。ベトナムも「ドイモイ(刷新)」政策が推進されて、社会主義が再び注目されるようになりました。しかし、内戦のあったカンボジアや、軍事クーデタで社会主義政権を終わらせ、民主化運動を潰したミャンマーは、経済成長も遅れていました。 イスラエルとアラブ諸国の対立で不安定な西アジアで、イランは王政の近代化と改革を推進しました。しかし、強権的な政策と富の拡大で批判を浴びるようになりました。1979年になると、イラン・イスラーム革命が起こり、ルーホッラー・ホメイニーが共和国の指導者となりました。イスラエルとの和解を巡って、アラブ諸国の対立やイラン・イラク戦争など、緊張状態が続きました。 日本と東南アジアの経済関係は、戦時中の補償や政府開発援助(ODA)によって、より深まっていきました。しかし、そのために日本企業が現地に進出して、現地の抵抗を受ける場合もありました。プラザ合意後、円の価値が上がり、バブル経済崩壊後、日本企業は生産拠点をより早く海外に移転しました。プラザ合意は、ドルの上昇を緩やかにする目的で行われました。長期金融緩和政策も経済成長を支えました。また、バブル経済とは、株式市場や不動産市場価値以上に大量の資金流入によってもたらされた経済現象をいいます。そのため、アジア諸国は、もっと海外に売る商品を作りたいと思うようになりました。1985年のプラザ合意で円高になりました。 日本はすでに経済大国でした。出荷量を減らし、成長するアジア経済との接点を増やしてきたため、対米貿易黒字も増やしました。その結果、自動車を中心とした日米貿易摩擦が問題となり、アメリカは日本に市場を大きくするように要求してきました。
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1980年代、社会主義陣営は行き詰まりを見せました。この問題を解決するための改革が進められ、アメリカとソ連は急速に仲直りして、ついに冷戦は終わったと言われるようになりました。冷戦の終結は、お互いの関係をどのように変えていったのでしょうか。 社会主義圏では、中国がソ連の平和共存政策に反対していました。1960年代以降、中国とソ連軍は戦争状態になりました。東欧諸国のソ連離れも進みました。1968年、チェコスロヴァキアで大規模な自由化・民主化運動「プラハの春」が起こりました。その際、ソ連はワルシャワ条約機構軍を送り込み、自由化・民主化運動を鎮圧して国際的な信用を失いました。その後、アメリカとソ連の間に緊張が薄れました。しかし、翌年ソ連軍がアフガニスタンに侵攻します。この時、アメリカを含む西側諸国は、1978年にアフガニスタンに樹立された左翼政権の支持を口実に対抗しました。これが新冷戦の始まりです。 当時、ソ連の経済は成長せず、産業構造の転換も遅れていました。1985年、ミハイル・ゴルバチョフ書記長は、この状況から抜け出すために、情報公開(グラスノスチ)と民主化を促す通称ペレストロイカ(改革)政策を始めました。新思考外交・アフガニスタンからの撤退・核抑止論の否定などの結果、アメリカとソ連の関係は一気に改善しました。こうしたソ連の動きに対抗して、東欧諸国も民主化に動き始めました(東欧革命)。東欧革命によって、共産党の一党支配を終わらせました。1989年、東欧革命中に、冷戦の象徴(ベルリンの壁)が壊されました。マルタ会談で、アメリカとソ連の首脳が冷戦終結を宣言しました。1990年、ドイツは再統一しました。 ソ連では、ペレストロイカの成果で、民族主義が高まり、政権交代まで叫ばれるようになり、保守派がクーデタを起こしましたが、失敗しました。ボリス・エリツィンら改革派は、1991年12月、独立国家共同体(CIS)を発足させました。独立国家共同体(CIS)は、ロシアを含む11の共和国で成り立っています。ソ連は69年目になり、崩壊へ向かいました。 冷戦末期頃、世界各地で冷戦時代に中断していた紛争が発生しました。イラクが中東の軍事大国化したのも、1980年に始まったイラン・イラク戦争で、イランに反発していたソ連や西側諸国がイラクに味方したからです。1990年、イラクがクウェートを攻撃した時、アメリカ・イギリス・サウジアラビアなど各国の軍隊がイラクに攻撃を仕掛けました(湾岸戦争)。日本は国際軍に資金を提供しましたが、海外から「後手」と批判されました。この戦争は、冷戦終結後のアメリカ中心の世界秩序を印象付ける結果となり、冷戦終結後の国際社会で国際貢献のあり方について日本国内でも論議が始まりました。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「」、「日本史探究」の「新たな世紀の日本へⅠ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 冷戦終結前後には、各地で民主化運動が活発化すると、軍事政権や独裁政権が崩壊するようになり、民主化が進みました。民主化が進むにつれて、世界は平和になったのでしょうか。また、冷戦が終わって、日本の政治はどう変わったのでしょうか。 1980年代に、アメリカとソ連が良好な関係を取り戻すと、東ヨーロッパ諸国では改革や革命が相次いで起こり、共産主義政党による一党支配体制や社会主義経済が終わりました。その後、軍事政権や独裁政権が崩壊して、多くの地域で民主化が進みました。東南アジアでは長期の独裁政権が崩壊して、民主化が進みました。例えば、1986年のフィリピン民主化革命、1998年のインドネシアの民主化などが挙げられます。東アジアでは、金大中(キム・デジュン)が、1998年に韓国の大統領に就任しました。金大中(キム・デジュン)は、韓国の民主化運動の中心人物でした。北朝鮮への友好的な政策を進めて、緊張を緩和させようと努めてきました。朝鮮半島間には解決困難な問題があり、この地域の協議には日本、中国、ロシア、アメリカの各国が関わる必要があると言われてきました。 2010年末に、チュニジアで起きた民主化を求めるデモは瞬く間に他のアラブ諸国にも広がり、チュニジア、エジプト、リビアで長年続いた独裁政権が倒れました(アラブの春)。南アフリカでは長い間、アパルトヘイト(人種隔離)政策が行われていました。しかし、1980年代に入ると国際的な批判が高まりました。その結果、1991年にアパルトヘイトが廃止され、民主化と人種間の和解が進みました。 民主化運動が進んでも、権威主義的な体制が残る国もあれば、民主化運動が停滞した国もあります。1989年、経済開放を進めていた中国で、大学生を中心に北京の天安門広場で民主化を求める抗議行動や座り込みが行われました。これを受けて、中国政府の保守派は人民解放軍を送り込み、デモに終止符を打って、多くの人が犠牲になりました(天安門事件)。 アラブの春以降、アラブ諸国では政治的不安から、民主化が思うように進みませんでした。例えば、シリアでは、政府と反政府勢力の戦闘が長く続きました。1990年代のアフリカでは、ルワンダ、ソマリア、シエラレオネで内戦が発生すると、多くの国民が犠牲になりました。1997年に30年以上続いた独裁政権が終わったコンゴ民主共和国では、周辺国同士の紛争が続いています。 「保守」と「革新」を基本としていた日本の政治体制は、冷戦が終わると大きく変わりました。1993年、自民党の一部の議員の協力で、宮沢喜一内閣に対する内閣不信任案が可決されました。汚職事件で国民が既成政党に疑惑を持つようになったからです。自民党は分裂して、新生党と新党さきがけなどが誕生しました。総選挙で自民党が敗北すると、日本新党の細川護煕が非自民党系8団体と連立政権を組みました。こうして、1955年から続いた自民党政権は崩壊して、55年体制に終止符が打たれました。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「」、「日本史探究」の「新たな世紀の日本へⅠ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 冷戦が終わり、お金持ちになりたい人が世界中で商売をするようになりました。経済の自由化が進んで、私達は幸せになったのでしょうか? 世界恐慌から第二次世界大戦後の高度経済成長期にかけて、多くの先進国は経済成長、国力増強、国民生活の向上のために、産業活動の統制や公共サービスの充実を図りました。これを受けて、アメリカのロナルド・レーガン政権やイギリスのマーガレット・サッチャー政権は、規制緩和、公営企業の民営化、税制改革などを通じて「小さな政府」を作りました。また、市場原理に基づく自由競争によって社会を活性化させようとする新自由主義改革を開始しました。日本でも、自民党の中曽根康弘政権が国鉄や電電公社などの民営化を進めました。そのため、新しいアイデアや技術に基づく起業が推奨されて、企業間の競争によって価格が下がりました。一方、資金力のある大企業が業界を支配するようになり、経済格差を拡大させました。冷戦の終結とともに、このような現象がロシアや東ヨーロッパ、社会主義市場経済を持つ中国など、世界中で広がりました。 国際市場経済の発展に伴って、人・物・資本・技術が国家間を自由に移動するようになり、多国籍企業も様々な形で成長しています。グローバル化(グローバリゼーション)とは、世界の経済が1つにまとまっていく過程です。グローバル化は1990年代以降、より強まりました。1995年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)が終了して、世界貿易機関(WTO)[1]がその代わりを務めました。また、インターネットなどの情報通信技術の広がりによって、先進国から投機的な理由で資金が流れやすくなりました。その結果、1990年代になると、世界各地で通貨危機が発生しました。特に1997年のアジア通貨危機では、タイ、インドネシア、韓国の経済に大きな影響を受けました。 21世紀に入ると、中国やロシアが世界貿易機関に加盟したため、自由貿易がさらに広がりました。しかし、加盟国が増えるにつれて交渉は難しくなったり、時間もかかったりして、貿易ルール作りは二国間、多国間ともに活発になっていきました。日本は、東南アジア諸国などと二国間経済連携協定(EPA)や多国間で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)[2]を結んで、経済を活性化させようとしました。一方で、食や環境と深く関わる農林水産業の持続性の視点では、国や地域の違いに合わせた貿易ルールの整備が強く求められています。
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冷戦後、各地で経済統合が進められました。その一方で、近年、地域統合に反対する動きも出てきています。地域統合には、どのような課題があるのでしょうか。 冷戦終結後、新しい国際経済秩序が求められる中、経済協力などのために世界各地で地域統合が推進されました。 カンボジア内戦が終わった後、東南アジア情勢はかなり安定していました。1989年に設立された東南アジア諸国連合(ASEAN)とアジア太平洋経済協力(APEC)は、この地域の国々の協力関係の向上に努めました。ASEAN共同体は、経済面だけでなく、政治、安全保障、社会、文化などの面でも各国の距離を縮めるため、2015年に設立された団体です。 ヨーロッパ共同体(EC)を構成する12カ国の首脳は、1992年にマーストリヒト条約に合意しました。マーストリヒト条約は、通貨、安全保障、法律の分野での協力に焦点を当てました。1993年、ベルギーの首都ブリュッセルに本部を置くヨーロッパ連合(EU)が発足しました。通貨は国家主権の象徴なので、条約の締結は必ずしもうまくいきませんでしたが、1999年に単一通貨ユーロが導入されました。2000年代に入ると、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、バルト三国がヨーロッパ連合に加盟しました。2004年には、さらに東ヨーロッパの旧社会主義国など10か国が加盟して、加盟国は25か国になりました。その後も加盟国は増え続けました。 一方、被統合地域内での不均衡の発生、世界各地域で排外的なナショナリズムの台頭、非地域統合など、地域統合は新たな問題も抱えています。 2006年から2010年にかけて、タイでは貧富の差が大きくなり、政権運営に大きな支障をきたすようになりました。また、各地の東南アジアでは、国外在住中国人(華僑・華人)とインド人が経済を支配するようになりました。そのため、経済格差が広がり、特定の集団を排除しようとする排斥運動などの民族対立も起きています。 ヨーロッパでは、ヨーロッパ連合加盟国間の貧富の差がまだ大きく、農業、財政、難民の受け入れなどの問題が積み重なっています。2008年には世界的な金融危機があり、ギリシアの財政危機をきっかけに多くの人がユーロを心配するようになり、ヨーロッパ連合は不況になりました。また、シリアなど中東からの難民が多く、移民に対する運動も高まりました。こうした動きから、イギリスで2016年に行われた国民投票で、ヨーロッパ連合脱退賛成派が勝ちました。2020年、イギリスはヨーロッパ連合から脱退しました。ヨーロッパ連合が出来てから、初めて小さくなりました。
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もし、私達がスマートフォンを持っていなかったらどうでしょうか?友人と会う時間を決める時、どこかへの行き方を調べる時、流行を知りたい時、何かを多くの人に伝えたい時、私達は携帯電話を使っています。情報通信技術の発展が、私達の生活や世界をどのように変えてきたのでしょうか。 19世紀に電信、ファクシミリ、電話などが発明されてから、情報通信技術は成長しながら変化してきました。20世紀後半になると、技術革新が加速しました。1970年代から、パーソナルコンピュータや携帯電話の開発が進み、1990年代にはインターネットが世界中に急速に広まりました。インターネットによって、遠く離れた場所でも瞬時に情報やデータのやり取りが出来るようになったため、世界的な統合が進みました。2000年代に入ると、スマートフォンの普及や様々な媒体の拡大によって、情報の収集、伝達、発信がさらにしやすくなりました。 情報通信技術によって、モノを作る経済から、サービスを提供する経済へと変化しました。日本では、第三次産業の重要性が年々高まっており、幅広いサービス産業がその半分以上を占めています。様々なソフトウェアやアプリケーションを利用して、新しい製品やサービス、さらには生活様式が生み出されています。その結果、オンラインショッピングやソーシャルネットワーク(SNS)、映画やテレビ番組、音楽、漫画、アニメ、ゲームなどのコンテンツ産業が発展してきました。18世紀の産業革命と同じように、これらの変化は情報技術(IT)革命と呼ばれています。私達の生活や社会の仕組みに大きな変化をもたらしました。なお、情報通信技術(ICT)とは、情報技術革命を表す言葉として、近年よく使われるようになった言葉です。 情報化社会では、国境を越えて人々が情報をやり取り出来るようになり、自由や人権に対する意識、民主主義が高まるという考え方もあります。しかし、政府や大企業などが多くの個人情報を入手出来るようになるので、誰もが監視される社会になるのではという意見もあります。また、情報機器を通じて多くの人が簡単に情報を発信出来るため、フェイクニュースやヘイトスピーチが広がりやすくなり、人々の考え方や行動が変わってしまう可能性があります。情報のデジタル化により、著作権や肖像権などの権利の侵害、個人情報の流出、インターネットを悪用した犯罪なども起こりやすくなっています。災害時には、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用して、素早く、大量に情報を発信・収集出来ます。これは、被災者が必要な情報を得るのに役立ちますが、嘘や誤解を招くような情報が広がる可能性もあります。そして、こうした機器を使って情報を入手したり、会話出来ない人達(情報弱者)が生まれています。 情報化社会では、大量の情報に振り回されず、自分の考えを持ち続けるために、あらゆる情報を確認する力が必要です。歴史は、過去の「情報」、つまり過去の文献が基本です。過去を知れば、現在を快適に生きられます。
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冷戦の終結は、一部の地域に平和と安定をもたらしましたが、新たな紛争も引き起こしました。 冷戦終結後、冷戦時代に抑えられた民族や宗教の対立が、内戦や地域紛争という形で再開されました。ユーゴスラビア連邦は、様々な民族で成り立っていました。 1991年から、連邦をつくっていたそれぞれの共和国が独立を宣言して、連邦の崩壊とともに激しい内戦が起こりました(ユーゴスラビア紛争)。 西洋列強の帝国主義支配の影響を受けた旧植民地国でも、地域紛争は深刻化しました。パレスチナでは、1987年のパレスチナ人の蜂起(インティファーダ)が和平を推進しました。1993年、イスラエルとパレスチナ解放機構はパレスチナ暫定自治協定を結ぶと、1994年に自治政府を成立させました。しかし、イスラエルは占領地に集落建設を続けており、和平の進め方に不満を持つパレスチナの勢力がますます強まっています。 冷戦終結後、反グローバリズム、反アメリカを強めた人がいます。その理由は、アメリカ中心のグローバル経済が貧富の差を大きくしたからです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件(9.11事件)は、過激な思想や運動が結びついた代表例です。 地域紛争を終結させるために、国連決議や平和維持活動(PKO)は非常に重要な役割を果たしてきました。湾岸戦争後、1992年に日本は国連平和維持活動等協力法(PKO協力法)を制定して、自衛隊をカンボジアに派遣しました。また、アメリカ同時多発テロを受けて、テロ対策特別措置法を制定しました。海上自衛隊をインド洋に派遣し、アメリカ軍の後方支援にあたりました。2003年のイラク戦争後には、イラク復興支援特別措置法に基づいて、自衛隊がイラクに派遣されました。 地域紛争が悪化しても、解決した場合もあります。ネルソン・マンデラは、南アフリカの抵抗運動の指導者ですが、当時の大統領と協力してアパルトヘイトの撤廃に取り組みました。アパルトヘイトを無くした理由は、国連の非難決議や経済制裁といった国際的な圧力が強まる中、黒人住民の抵抗運動があったからです。アパルトヘイト撤廃後、1994年に選挙が行われ、ネルソン・マンデラは大統領に就任しました。 近年、地域紛争の解決のために非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)がどのような活動をしているのかにも注目が集まっています。また、日本での阪神・淡路大震災や東日本大震災などの災害時には、各国の人々が協力し合って、被災地の人達を助けました。一方で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行は、国際化された世界で生きる難しさを改めて教えてくれました。世界をより平和にするために、私達全員が何を出来るかが問われています。 1983年、パキスタンの医療活動を支援するために非政府組織「ペシャワール会」を立ち上げました。このうち、中村哲医師はペシャワール会の現地代表でした。井戸の掘削や灌漑設備の建設を進め、荒れてしまった農地を復活させました。病気の原因は、常に食べ物がなく、栄養状態が悪かったからです。その結果、土地は徐々に息を吹き返しました。しかし、2019年12月、中村哲医師はアフガニスタンのジャララバードで襲撃を受けて、命を落としてしまいました。
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過去に何度も大きな自然災害が日本列島を襲っています。ここ数年、大雨や台風、地震など大小様々な被害が発生する一方で、復興対策や防災対策への必要性が高まっています。特に、阪神・淡路大震災と東日本大震災は、社会に大きな影響を与えました。 阪神・淡路大震災は、1995年1月17日に兵庫県南部で発生したマグニチュード7.3の直下型地震です。震源地に近い神戸市などでは大規模な火災が発生して、6000人以上の死者を出しました。その上、インフラの被害や家屋などの倒壊も発生しました。2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9の地震(東日本大震災)が発生しました。この地震は、関東大震災以来、最悪の自然災害となりました。地震後に発生した巨大津波は、東北・関東地方の沿岸部に大きな被害をもたらしました。約1万8400人が死亡・行方不明となり、最大で47万人が自宅を離れなければなりませんでした。また、津波により福島原子力発電所が被災したため、放射性物質が大量に放出される大規模な原子力事故が発生しました。 阪神・淡路大震災は、高度経済成長期から続いてきた日本の「安全神話」が崩れたと感じさせました。また、政府が危機に対処する方法を理解していませんでした。また、東日本大震災は、科学技術の悪い面や日本の原発政策、防災政策、災害時の立ち直り方などの問題点を示しました。そのため、2つの地震をきっかけに、災害への備えや原子力をどう扱うかについて、国民的な議論が行われています。特に、放射性物質の除染や原子力発電所の停止などの問題は、今後も人々にとって大きな問題となるでしょう。 一方、阪神・淡路大震災では、救援や復興のために多くの人がボランティアとして参加しました。これは、「ボランティア元年」と呼ばれました。そして、震災のあった1月17日を「防災とボランティアの日」と定めました。東日本大震災では「絆」がキーワードとなり、海外でも多くの国や地域から救援金や支援隊が派遣されるなど、国境を越えた支援の輪が広がりました。災害は多くの被害をもたらしますが、その一方で、日本や世界の人々が互いに助け合いながら、災害を乗り越えてきました。ここ数年、高校生をはじめとする多くの若者がボランティアとして災害復興に携わっています。また、大規模な被害が発生した場合、日本から支援隊や自衛隊を派遣するなど、より国際的な対応も行われるようになりました。 今後、大小様々な自然災害が世界中で起こる可能性がある中、私たちは災害に対して何が出来るのか、復興に向けて何をしなければならないのか、そして私達にとって「豊かさ」とは何なのかを問い続けなければなりません。
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近代に入ってから、ヨーロッパで始まったナショナリズムの思想は世界中に広がり、各地で国民国家が建設されました。少数派は、そのために同化や差別、時には迫害を強いられていました。国家は似た者同士で構成されなければならないという考え方は、すぐに広まりました。近代の日本でも、領土の拡大とともに、様々な言語や文化を持つ人々が国内に集められました。日本語教育や日本人に近づけるように強制された政策は、誰でも知っています。 中東では、古くから異なる民族や宗教が出入りしていました。中東でも、19世紀以降、少数民族を多数派に近づけるための政策がとられるようになりました。特に、第一次世界大戦後、各地で起こった強制的な国家統一によって、こうした少数派に対して厳しい同化政策がとられました。 クルド人は人口が多く、トルコ、イラク、イラン、シリアの国境付近に住んでいます。これらの国々で、クルド人はひどい扱いを受け、弾圧を受けてきました。それでもクルド人は立ち上がり、自分達の自治と権利を求めてきました。そのため、クルド人問題は、パレスチナ問題と並んで、中東で深刻な民族問題の一つとして注目されています。 例えば、イラクは第一次世界大戦後、イギリスが中東を分割して作った国で、アラブ系住民が人口の大半を占めています。1960年代になるとクルド人が独立を求めて激しい戦闘を始めます。1970年3月、ようやくイラク政府に自治権の付与を認めさせました。しかし、クルド人居住地域にある油田を自治区に含めるかどうかで、クルド人と中央政府の意見が一致せず、再び紛争が急速に始まりました。 その後、1988年のイラン・イラク戦争末期、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、クルド人の運動を止めようと化学兵器を使用したため、大勢の犠牲者を出してしまいました。この出来事は、「クルドの広島」として記憶に残りました。 1991年3月、湾岸戦争でサッダーム・フセイン政権が弱体化したため、大勢のクルド人が立ち上がり、クルド地域の主要都市を乗っ取りました。しかし、政府軍はすぐにこの反乱を収束させ、大勢の難民が近隣諸国に逃げ、国内でも大勢の難民が移動するようになりました。このように、国内の避難民を最初に助けたのが、国連難民高等弁務官として勤務を開始したばかりの緒方貞子でした。 その直後、多国籍軍の協力でイラク北部にクルド人政府が作られ、独自に運営されるようになりました。また、2003年のイラク戦争でサッダーム・フセイン政権が倒れると、イラクは正式な連邦国家となりました。これによって、クルド人地域は大きな自由を手に入れました。
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「移民」とは、違う国や地域に移住を意味します。移民は、人々が生まれ育った土地や文化を離れ、新しい環境で生活をします。歴史上、移民は様々な背景や理由によって行われてきました。移民が歴史を通じて果たした役割は非常に大きく、世界中の国々に多様な文化や人種の人々が暮らす原動力となっています。本章では、移民がどのように歴史を変えてきたのか、どのような困難や葛藤があったのか、そして現在の移民問題について考えていきます。 黒人奴隷貿易は、16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの国々がアフリカから奴隷を誘拐し、アメリカ、カリブ海地域、南アメリカ、欧州などに売買した人間売買の歴史です。この貿易によって数百万人のアフリカ人が奴隷として連れ去られ、壮絶な苦痛を受け、多くが亡くなりました。 この奴隷貿易は、アフリカの部族間の対立や戦争などが原因で始まり、ヨーロッパ諸国の植民地経営に不可欠な労働力を確保するために広がりました。奴隷貿易によってアフリカは人的資源を失い、社会や経済的な混乱を引き起こし、現代に至るまでその影響が残っています。 奴隷貿易は、19世紀に世界的な反対運動が起こり、イギリスを中心に奴隷貿易禁止を主張するアビー・グリーン運動が盛んになり、奴隷貿易は廃止されました。しかし、人種差別や人権侵害が根強く残る現代社会についても、奴隷貿易の歴史からもっと学ばなければなりません。 19世紀半ば、アメリカ合衆国は急速な工業化と都市化を経験し、これに伴い大量の移民が流入しました。その中でも、西欧と北欧からの移民は「旧移民」と呼ばれ、アメリカ合衆国を築いた先駆者たちのひとつとして知られています。 19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、アイルランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、そしてデンマークなどから、約3,500万人以上の移民がアメリカ合衆国にやって来ました。彼らは貧困や迫害、または単に新しい機会を求めて、祖国を離れたのです。 当時、アメリカ合衆国政府は移民を積極的に受け入れる政策をとっており、移民のための法律も整備されていました。しかし、移民たちは困難な状況に直面しました。多くの移民は貧しく、病気や劣悪な住環境に苦しんだり、職も見つからなかったりしました。 また、旧移民はアメリカ合衆国社会に溶け込むまでに時間がかかりました。彼らは自分たちの文化や言語を守ろうとする傾向があり、アメリカ合衆国の主流社会との摩擦も生じました。しかし、時間が経つにつれ、彼らはアメリカ合衆国社会に同化していき、多くの人々がアメリカ合衆国の市民として成功を収めました。 旧移民は、アメリカ合衆国の発展に多大な貢献をしました。彼らは新しい工業化されたアメリカ合衆国の労働力として重要な役割を果たし、また、彼らが持っていたスキルや知識を活かして新しい産業を発展させました。そして、彼らはアメリカ合衆国に多様性をもたらすようになり、アメリカ合衆国の文化も豊かにしました。 19世紀末から20世紀前半にかけて、東欧や南欧からアメリカに移住する人々が増えました。彼らは「新移民」と呼ばれ、アメリカの経済成長に貢献しました。 新移民の多くは、イタリア、ポーランド、ロシア、ギリシャ、トルコなどの東欧や南欧諸国から来ていました。彼らの多くは、貧しい家庭出身であり、アメリカに移住して生活水準を向上させようと考えていました。彼らは、農業や工場、鉱山、建設業などの分野で働き、アメリカの経済成長を支えました。 しかし、新移民たちは、アメリカの社会や文化になじめません。なぜなら、彼らは、言葉や習慣、宗教などが違うからです。その結果、アメリカ人から差別的な扱いを受けました。また、新移民たちは、貧しい生活環境や労働環境に苦しめられました。そのため、彼らは自分たちの文化や宗教を守りながら、アメリカ社会になじもうと努力しました。 「華僑」とは、中国の民族である華人が海外に移住し、その地に居住・定住している人々を指します。華僑は、歴史的には中国の経済・文化の担い手として、東南アジア、北米、オーストラリア、ヨーロッパなど世界各地に移住してきました。 華僑は、移民の経緯や移住先の地域によって、異なる文化的背景や言語、生活環境を持っています。例えば、北米に移住した華僑は、英語圏の社会で暮らし、英語を第一言語とする環境で育ちます。一方で、マレー半島に移住した華僑は、マレーシアやシンガポールなどの東南アジアの国々で、マレー語や英語、華語などを話す多文化な社会で暮らしています。 華僑は、経済的にも重要な役割を果たしています。彼らは、起業家やビジネスマンとして活躍し、現地の経済を支えています。また、中国との取引や投資などの架け橋としての役割も果たしています。 ただし、華僑は、移民としての歴史が長く、現地社会との関係が複雑なので、民族的・文化的な対立や差別的な扱いもされました。そのような問題を解決するために、現地社会とのコミュニケーションや相互理解を深めなければなりません。 「印僑」とは、インドから海外に移住したインド人を指します。印僑の移住は、イギリス領インド帝国時代に始まり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も活発に行われました。彼らは、イギリス帝国の植民地やその他の国々で労働力として働き、商業や産業の分野でも活躍しました。 印僑の移住の主な理由は、経済的な困窮や政治的な迫害、天災などによる生活の苦しさから逃れようとしたからです。彼らは、海外での生活に慣れるまでに多くの困難に直面し、差別や偏見にも遭遇しました。 一方で、印僑は自分たちの文化や伝統を維持するために、コミュニティを形成しました。彼らは、宗教的な儀式や祭り、言語や料理などを継承し、自分たちのアイデンティティを守りました。 今日、印僑は世界中に分布しており、インドや海外の他の国々との交流も盛んに行われています。彼らは、多様な文化や経験を持ち、世界の社会や経済に重要な役割を果たしています。 「日系移民」とは、日本から世界各地に移住した日本人を指します。多くの日系移民が、アメリカ、ブラジル、カナダ、ペルー、オーストラリア、ハワイなどに定住しています。 日系移民の最初の大規模な移民は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカに移住した人々です。彼らは、農業や漁業、鉱業、鉄道建設などの労働に従事しました。しかし、彼らは激しい差別や偏見に直面し、第二次世界大戦中には、アメリカ政府によって強制収容所に収容されるなど、苦難の歴史をたどりました。 ブラジルにおいては、日本政府とブラジル政府が協定を結び、日本からブラジルへの移民を促進しました。これによって、20世紀初頭から中盤にかけて、多くの日本人がブラジルに移住しました。彼らは、農業や工場などで働き、ブラジル社会に貢献しました。 日系移民は、自分たちの文化や伝統を守りつつ、新しい国で生活する方法を学び、多様な社会に適応していく必要がありました。彼らは、努力や忍耐、家族や地域の結束力などを大切にしながら、移住先での生活を築き上げてきました。 現在では、日系移民の子孫たちが、多様な分野で活躍しています。彼らは、日本文化や言語を伝える役割も果たしており、日本と移民先の国との交流にも貢献しています。
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ここでは、重要用語を載せています。
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本節は、途上国から見た国際関係理論の特集です。高校生には難しい論点ばかりなので、興味がある人だけ読み進めてください。実際の国際関係論は、このように奥深く、国際関係理論を解説しています。 国際関係の思想・理論・歴史の大半は、ヨーロッパやアメリカのような「強国」「大国」「先進国」の視点から書かれています。そのため、「強国」「大国」「先進国」の思想・理論・歴史は、ある意味「正しい」と思ってしまいます。しかし、大半の世界各国は弱小国・発展途上国として考えられており、欧米諸国から大半の世界各国を無視・軽視・優遇してきた長い歴史があります。大国と小国の力関係や先進国と発展途上国の力関係は決して変わりません。マルクス主義は、どうして間違っているのかを説明しようとする理論がいくつかあるだけです。20世紀になってから、国際関係を発展途上国の視点から見る考え方が登場しました。この考え方はマルクス主義を手本としているため、ネオ・マルクス主義とも呼ばれています。 ラウル・プレビッシュは、アルゼンチンの経済学者です。国連貿易開発会議の初代事務局長でしたが、デヴィッド・リカードの国際分業相互利益説を否定しています。世界を「中心」と「周辺」に分ける「中心・周辺論」を考えました。先進国が中心で、途上国が外側になります。中心・周辺構造によって、発展途上国ほど鉱業や農産物などの一次産品の生産に専念するようになり、開発の遅れが目立つようになるとしています(一次産品交易悪化説)。ところで、発展途上国がもっと豊かになるためにはどうしたらいいのでしょうか。ラウル・プレビッシュは、この質問に対して、「輸入代替工業化案」を示しました。輸入代替工業化案の内容は、発展途上国は先進国に売るための一次産品の生産をやめて、高く儲かる工業製品を生産するようになります。ラウル・プレビッシュの理論を参考にしながら、南アメリカは輸入代替工業化案を採用しました。しかし、南アメリカの経済に多国籍企業を参入させたので、経済に悪影響を与えてしまいました。 従属理論とは、途上国(周辺)の経済が、世界資本主義体制に組み込まれて、先進国(中心)に従属するようになった場合を説明する理論です。その結果、途上国は、経済・政治・社会・文化などの分野で先進国に大きく遅れをとり、未開発状態のまま取り残されてしまいます。1960年代、ラテンアメリカの社会学や経済学で、この従属理論が国際関係を考える方法として見直されるようになりました。 ドイツ出身でチリ大学・カリフォルニア大学の経済学者アンドレ・グンダー・フランクは、ラウル・プレビッシュ理論の問題点に対応するために、従属理論を考えました。アンドレ・グンダー・フランクは、ラウル・プレビッシュが使っていた「中心」を「首都(メトロポリス)」、「周辺」を「衛星(サテライト)」と言い換えました。首都は衛星から経済の余剰を奪って、発展する一方で、衛星は従属され、開発されなくなると述べました。また、ラウル・プレビッシュの輸入代替工業化に反対しました。途上国は資本主義と縁を切れば済むと主張しました。そして、中国やキューバのように社会主義革命をして、社会の改善を図りました。しかし、キューバは社会主義革命で景気回復をしていません。 ラウル・プレビッシュからアンドレ・グンダー・フランクまで、ネオ・マルクス主義は大きく4つの流れを持つようになりました。 ヨハン・ガルトゥングの平和論は、新帝国主義論・構造的帝国主義論とも呼ばれています。ヨハン・ガルトゥングの要点は、「暴力」と「平和」に関する独自の考え方です。暴力は2種類、平和も2種類あります。 直接的暴力と構造的暴力があります。直接的暴力とは、他人を傷つけたり殺したりする場合をいいます。夫の暴力で妻の殺害や精神的苦痛を与えた場合、暴力を振るった人(加害者)と暴力で傷つけられた人(被害者)が誰なのかが分かります。これに対して、構造的暴力とは、男性が女性を無知や服従の立場に閉じ込めておく場合をいいます。例えば、男性中心の伝統が残っていて、妻が奴隷のように夫に従わなければならない地域があてはまります。この場合、実際の人間に暴力が加えられる場合と違って、男性中心社会の仕組みから、女性は暴力の被害者を見つけられない奴隷のような不平等な立場に追い込まれます。 消極的平和と積極的平和があります。消極的平和とは、直接的暴力がない場合をいいます。積極的平和とは、構造的暴力がない場合をいいます。これを踏まえて、ヨハン・ガルトゥングは、途上国の貧困・抑圧・飢餓・不平等の主な原因は構造的暴力だと指摘しました。その上で、積極的平和を目指すように訴えました。この構造的暴力論は、途上国でも先進国でも問題解決に使えます。東ヨーロッパなど旧社会主義国内の政治的抑圧から、先進国内の人種差別問題や男女差別問題まで対応出来ます。 イマニュエル・ウォーラースティンの理論を理解する前に、あと2つの考え方を知っておきましょう。第一に、近代ヨーロッパは16世紀の地中海世界から始まったと説明して、政治史や外交史ではなく、社会経済史や民俗史の立場から歴史を見ていく「フランス・アナール学派」の学説です。このアナール学派の最も重要な研究者はフェルナン・ブローデルなどです。第二に、「コンドラチェフの波」と呼ばれる理論です。コンドラチェフの波とは、世界経済は好景気と不景気の繰り返しを50年程度続けるという内容です。 イマニュエル・ウォーラースティンは、アナール学派、コンドラチェフの波、従属理論などの考えをまとめて、世界システム論を考えました。1974年に出版された『近代世界システム』によると、資本主義システムは、ラウル・プレビッシュが考えていたような「中心・周辺」の二層構造で成り立っていません。「中心・準周辺・周辺」という3層構造で成り立っており、それぞれの中心は25年ごとに、生成・確立・安定・衰退という4つの段階をたどります。人々のお金の持ち方に差があるため、3層構造になっています。準周辺とは、中心と周辺の中間的地帯です。中心は準周辺と周辺を上手く使い分け、準周辺は周辺を上手く使う仕組みになっています。 イマニュエル・ウォーラースティンから見た「反システム運動」の内容についても理解しておきましょう。世界経済は成長と縮小を繰り返しながら、商品やサービスが商品化する動きを加速させ、商品経済の対象となる地域も増えてきました。この傾向が続くと、商品経済が限界に近づき、各国の違いを活かして稼げなくなります。こうした状況に対して、イマニュエル・ウォーラースティンは、「反システム運動」によって「社会主義世界政府」が実現されると考えています。
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人類の祖先(猿人)は、500万年以上前に地球上に誕生しました。その後、人類は原人・旧人へと進化していきました。そして、4万年前から1万年前にかけて、ようやく私達とほとんど同じ骨格をもつ新人が現れたと考えられています。この長く狂ったような時間の中で、人々は食料を集め、狩り、釣りをしていました。文字もなく、残されたものは呪術的な意味を持つ絵画や彫刻だけでした。この時代を先史時代といいます。 約1万年前、人々はようやく農耕を始め、動物を飼い、村に住むようになりました。ここで、獲得経済から生産経済への大きな変化が、人類の生活の中で起こりました。旧石器時代が終わり、新石器時代の始まりです。西アジアや地中海東部では、初めて農耕や牧畜が行われるようになりました。新石器時代最古の集落として知られるイラクのジャルモ遺跡では、人々は主に小麦を栽培し、ヤギや羊を飼育していました。紀元前5000年頃、小麦の栽培とヤギや羊の飼育が主な活動でした。同じ頃、これらの活動はユーラシア大陸やアフリカ大陸に広がり、それぞれの地域の気候に合うように変化していきました。 中でもナイル川、ティグリス川、ユーフラテス川、インダス川、黄河、長江の周辺では、灌漑農業の必要性から大規模な集落が形成されるようになりました。青銅器などの金属器の登場は、より多くのものを作れるようになると階級が形成されるようになりました。貴族階級は大きな集落をまとめ、都市をつくりました。都市は部族の神を祀る神殿を中心に構成され、貴族階級は農耕や牧畜をする平民や、強制的に連れて行かれた奴隷を支配しました。この時、いわゆる都市国家が成立しました。各都市国家は寺院の税金や貿易を記録するために文字を思いつきました。金属器の使用、都市国家の成立、そして文字の発明が文明の最初の兆しと考えられています。こうして、人々は文字による記録の時代、すなわち歴史時代に移り、古代文明の盛衰を見ていきます。 層位法 下の層から発見されたものは、上の層から発見されたものよりも古いという考え方です。しかし、その年代を知るためには、他の年代がわかっているものと比較する必要があります。 年輪年代学 木の年輪は、気象などの経年変化を表しています。カリフォルニアには樹齢7000年の松の木があります。 放射性炭素( C 14 {\displaystyle C^{14}} )年代測定法 生物中の放射性炭素と非放射性炭素の量は変わりませんが、放射性炭素は生物が死んだ後、一定の割合で分解されます。この性質を利用して、骨や炭化した木や食べ物に含まれる C 14 {\displaystyle C^{14}} から、死後何年たったかを推定出来ます。1940年代にこの方法が発明されましたが、年齢が高いほど誤差が出やすいという指摘がありました。しかし最近、宇宙線の変化による違いを補正する方法が見つかり、精度が上がってきています。 熟ルミネッセンス法 土器に含まれる放射線の量を測定すれば、土器になる前の時期がわかります。このほか、氷河の末端の堆積物を見る氷縞粘土法、岩石の出来方を見る火成岩法(カリウム・アルゴン法)などがあります。
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オリエントは人類文明の始まりの場所です。メソポタミアやエジプトでは、大規模な灌漑農業が行われ、高度な都市文明が発達しました。メソポタミアには周辺地域からセム語やインド・ヨーロッパ語を話す人々が次々と侵入し、国家の興亡を何度も繰り返しました。楔形文字、六十進法、太陰暦などが造られました。一方、ナイル川流域のエジプトは、その地理的条件から周辺民族の攻撃を受けにくく、エジプト語系民族の文明が永らく続きました。神聖文字などの象形文字、パピルス(紙)、太陽暦などもその文化の一部として誕生しました。 セム系のアラム人、フェニキア人、ヘブライ人は、地中海の東岸にあるシリアやパレスチナで、それぞれ異なる活動をしていました。アラム人は自国内で商売をしながら、フェニキア人は地中海を舞台に商売をしていました。ヘブライ人はユダヤ教という一神教を作り、それが後にキリスト教やイスラーム教を生み出しました。紀元前7世紀、アッシリアやアケメネス朝がオリエントを統一して帝国を築きました。 アレキサンドリア帝国の崩壊後、西アジアではギリシアのセレウコス朝やバクトリアが力を持つようになりました。その後、イラン系のパルティアが成立し、東西貿易に乗じて大成功をおさめました。パルティアを倒した後、イランのササン朝が成立しました。ゾロアスター教を国教とし、イランの伝統文化を復興させようとしました。また、インド、ギリシア、ローマなどの文化の影響を受けながら、高度な国際文化を作り上げました。7世紀以降、この文化はイスラーム文化にも影響を与えるようになりました。 紀元前2000年頃、地中海世界では強い王を中心としたエーゲ文明の発展が始まりました。これはオリエントの影響があったからです。エーゲ文明が崩壊した後、ギリシア人はポリスと呼ばれる都市国家をつくりました。紀元前5世紀、アテネは民主的な政府を持つ最初の都市国家になりました。ギリシア人は、明るく、論理的で、人々に焦点を当てた文化を作り上げました。これはオリエントの文化とは異なっていました。ギリシアのポリスはやがて民衆の争いで崩壊し、アレクサンドロス大王がオリエントにもたらしたギリシア文化は、ヘレニズム文化と呼ばれるものに発展していきました。紀元前6世紀末、イタリア半島の中部にローマが誕生しました。共和制の支配下で、新天地の征服や植民地化を積極的に進めるとともに、法律や土木建築などの実用的な芸術を発展させました。ローマが地中海をその内海とする大帝国となったのは紀元前1世紀の話です。ローマが世界に与えた最も重要な遺産は、ローマ帝国が作った普遍的な法と4世紀にローマ帝国の公式宗教となったキリスト教です。
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地球上で動物が進化していく過程で、人間は枝分かれして成長しました。人類は生物学的に見れば霊長類のヒト科動物です。その特徴は、二足歩行し、両手で道具を使い、火を扱い、労働をし、言語に基づいた文化を持っていた点です。人類がいつ出現したかについては、考古学、人類学、古生物学などの研究成果に基づいて、科学者達は様々な考えを持っています。人類は、ある場所で始まったたった一つの種から世界に広がったのか、それともアフリカや中国など違う場所で、同じように類人猿から生まれたのかは、まだはっきりしていません。猿人段階の骨は、ほとんどがアフリカで見つかっています。その後、ユーラシア大陸に移動して、違う場所で変化したのかもしれません。ラマピテクスとシバピテクスは、パキスタンとアナトリアの一部で骨が発見された一種族の類人猿です。彼らは1400万年前に生きており、かつて最初の人類と考えられていました。しかし、最近では、オランウータンの祖先と考えられています。類人猿の進化の過程で、オランウータンになる系統が先に分かれ、ヒトになる系統はずっと後に分かれました。 つまり、人類は800万年前から500万年前の間に独自の進化の系譜を歩み始めた可能性が高いと思われます。その段階での証拠は見つかっていません。最近、エチオピアでラミダス類人(アルディピテクス・ラミダス)の顎骨が発見されました。この類人猿は他の類人猿と明確な違いがあり、人類最古の猿人と考えられています。また、アウストラロピテクス=アファレンシスは、400万年前以降にエチオピアで生きていたように思えます。これは、完全な骨格で見つかっており、直立して歩行し、腰や足の骨には変化がみられました。同じ系統の猿人4種は全てアフリカで発見されました。この中にはアウストラロピテクス=ボイセイとアウストラロピテクス=口ブストゥスも含まれています。250万年前、アフリカにはもっと進んだ人類もいました。これが最初のホモ・ハビリスです。アウストラロピテクスに比べ、脳が大きく、頭蓋骨が丸く、顔は人間のようで、大腿骨は現代の人類によく似ています。 地質学的な時間では、原人(ホモ=エレクタス)は更新世(洪積世、180万年前から1万年前)が始まる頃、アフリカに初めて姿を現しました。脳の体積は1000cc以上で、類人猿の2倍です。中国南西部の山中にある洞窟から、170万年前に生きていた人達の骨群が発見されました。そこに住んでいた人々は、火をおこし、石器を使用していました。その後、約50万年前に北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)が現れました。1923年以降、北京に最初に住んだ人達の骨が30体発見されましたが、戦争で全て失われ、現在は模型しか残っていません。藍田人も原人の一部です。彼らは後に中国で発見されました。また、1891年にインドネシアのジャワ島サンギランで発見されたジャワ原人(ピテカントロプス=エレクタス)は、130万年前に生きていたといわれています。タイ、ベトナム、朝鮮半島など、東アジアで初期人類の骨が発見されている地域があります。 原人達は集団で生活し、野生の動物や植物から食料を調達していました。彼らはすでに原始的な石器を使っていました。エチオピアのパダールから出土した最古の石器は、約250万年前のものと考えられています。アウストラロピテクスの群の中には、すでに簡単な石器を使っていました。ホモ・ハビリスは、タンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された礫器や剥片石器を使っていました。礫器は、他の石を叩いたり、削ったり、翡翠を削ったりするのに使われる石器です。石核石器ともよばれます。剥片石器は、石器の破片を他の石で叩いて割ったものです。動物の皮も一緒に剥がされました。原人は、木や樹皮、動物の皮などの加工も行い、男性と女性では違う仕事をしていたと考えられています。アフリカで最初に火を使ったのが100万年以上前という確証はありませんが、もっと以前から使っていた可能性はあります。150万年前くらいから、石器が良くなり、刃を丁寧に加工してまっすぐなものになりました。このアシューレアン石器の中にアックス(手=斧)やグリーザ(斬るのに使う)があります。ジャワ原人が石器を使ったという証拠はありませんが、北京に住んでいた人達は洞窟に住み、火を使って料理や暖をとっていました。また、人々は石器と竹や籐で出来た道具を使っていました。彼らが言葉を喋れたのは間違いなく、死者の脳を食べたという形跡は、何らかの儀式をしていたのでしょう。 原人は、100万年前過ぎにアフリカからヨーロッパに移動してきたと考えられています。南フランスのアラゴ洞窟、ドイツのハイデルベルク、ハンガリーなどで、原人のものと思われる骨が発見されているためです。彼らは石で道具を作り、40万年前頃から、仕事に応じて様々な種類の石器を作るようになりました(調整石核技法)。こうして、ヨーロッパ原人が進化して、旧人(ホモ・サピエンス)が誕生したと考えられています。ドイツで初めて発見されたネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)がその代表的な例です。北アフリカやアジアでも同様の旧人の骨が見つかっていますが、それぞれの地域で原人から進化したのか、ヨーロッパから旧人が移動してきたのかまではわかっていません。 12万年前から3万5千年前まで、ネアンデルタール人はヨーロッパと中央アジアの各地に住んでいました。これまでに140体のネアンデルタール人の骨が見つかっています。脳の大きさは現代人(約1300〜1600CC)とほぼ同じで、時にはそれ以上大きい場合もあります。しかし、骨は太く丈夫で、額は丸みを帯び、眼窩の上には大きな隆起がありました。厳しい環境に対応する方法を考え出し、小屋を作り、マンモスのような大きな動物を集団で狩りに行きました。石器は調整石核技法によって、鋭いスクレーパー(掻器)やポイント(尖頭器)を作りました。スクレーパー(掻器)は動物の皮を剥いだり、切ったりするのに使われました。中期旧石器時代の石器は、旧人が作った石器全般を指します。最も一般的な石器はムスティエ石器と呼ばれ、その名前は発見された場所に由来しています。しかし最近、フランス南西部のネアンデルタール人も、現代人がつくったと考えられていた後期旧石器時代の石器を使用していた事実が明らかになりました。また、石器、木材・木器を作る加工場や動物の解体場もありました。小屋には炉や調理場があり、食料の種類も増えました。なお、貝類は、ネアンデルタール人が食べ始めた新しい食べ物の1つです。儀式についても、死者を丁寧に埋葬したり、死者の脳を食べたりしていたのは確かです。イラクのシャニダール洞窟で、足の不自由な老人が花に埋もれているのが発見されました。ネアンデルタール人は、あまりに年老いた人をかわいそうに思っていました。 ホモ・サピエンス・サピエンスと呼ばれる最初の新人は、6万年前から5万年前の間にアフリカに姿を現しました。新人の骨の中には10万年前のものもあり、ジャワ島の骨の中には12万年前のものもあります。ネアンデルタール人と新人は、過去のある時期には何と一緒に暮らしていました。顔の骨や顎などの特徴は、現代人とほとんど同じです。約4万年前から1万年前の更新世末期には、その数が増え、おそらくアフリカからヨーロッパに移動したのでしょう。そして、当時まだネアンデルタール人が住んでいたヨーロッパから、徐々にネアンデルタール人を追い出していきました。ネアンデルタール人は約2万8千年前に絶滅したと考えられています。新人とのつながりはなかったといわれています。パレスチナのカルメル山の洞窟で発見された人間の頭蓋骨は、ある部分はネアンデルタール人のもので、別の部分は新人のものだそうです。これは、ネアンデルタール人から新人への進化の過程を表しているとする学者もいます。このグループの代表が、フランスやスペインに多くの痕跡を残したクロマニョン人です。アジアでは、6万年前から5万年前にかけて中国の周口店上洞人が現れ、ジャワ島にも新人が現れたという証拠があります。最近では、アフリカから新人がやってきて、ヨーロッパやアジアに移動したという説が有力です。 新人は、石から道具を作るのが非常に上手になり、後期旧石器時代が始まりました。1つの石核から多数の刃物を作る石刃技法が各地で発達し、用途に応じた様々な石器が作られるようになりました。小型石器だけでなく、槍、銛、釣り針、針など、骨や角の鋭い道具もつくられました。骨や角は低温でも丈夫なので、槍や銛、釣り針、針など、鋭い骨角器がつくられました。また、網などの道具を利用して、新しい生活様式も導入されました。新人は集団のために集落や墓地を設けました。石器は徐々に、どこで作られたかを示すようになりました。人々は自分達の集団がいかに似ているかを示していると考え、他の集団との争いに発展しました。また、遠くの集団との交易も始まりました。新人達が各地に広がるにつれ、人種的な違いが現れ始めました。 また、新人は原始芸術を残しました。彩色壁画や「石のビーナス」と呼ばれる単純な母神像がヨーロッパ各地で発見されています。原始芸術は全て、彼らの豊穣と繁栄の宗教的儀式の一部だと考えられます。屈葬や副葬品の使用は、埋葬の仕方をより複雑なものにしました。 新人は、周囲の環境に適応するのが上手で、誰も行っていない場所へも進んで行きました。その中には、中国南部からオーストラリアに移動した人もいます。オーストラリアは1万年前までほとんど陸続きでしたが、地球冷却による海面低下で陸地化しました。また、ベーリング海峡も陸続きだったため、非常に寒冷なシベリアやアメリカ大陸に移動した人もいます。アジア、ヨーロッパ(ユーラシア)、アフリカは旧大陸と呼ばれています。一方、アメリカとオーストラリアは、ヨーロッパ人が最近になって知ったので、新大陸と呼ばれています。この2つの大陸には、人が住んでいませんでした。1万2千年前のアメリカ大陸には、南米の南端から人が住んでいた痕跡が見つかっています。これは、北アメリカから来た新人が、かなり広がっていた証拠です。 山川出版社「改訂版 詳説世界史研究」木村靖二ほか編著 ※現在市販されている最新版ではありません。1つ前の版となります。
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1万年前に更新世が終わり、地球が暖かくなって完新世(沖積世)が始まりました。氷河がなくなると、土地は今と同じような姿になりました。植物や動物も大きく変わりました。マンモスやトナカイなどの大きな動物は、寒い北の大地へ移動するか、死んでしまいました。一緒に北へ移動した人達は、暖かい場所を好む猪や鹿を狩るようになりました。植物が育つと、食料を探すのも簡単かつ正確になり、魚介類も豊富で食生活は格段に良くなりました。人々は自然環境の中で生きる術を身につけ、それぞれの地域で独自の生活様式を築いていきました。 ユーラシア大陸北部では、細石器から鏃のついた弓矢が作られ、狼を犬に家畜化して、狩りをしやすくしました。少人数で狩りをする集団もあれば、川や海岸線に定住して漁業や植物採集をする集団もいました。また、あるグループは、アカシカだけを狩るなど、牧畜的な行動をとっていました。ハシバミの実を栽培して、それを採れるようにしている集団も見られました。南部の草原では、主に移動狩猟を行い、岩壁などに狩猟、戦闘、舞踏などの場面を岩絵として残しています。 西アジアや地中海東部のパレスチナでは、カモシカ、羊、山羊、豚、牛などの野生動物がよく見られます。先祖伝来の小麦、大麦、エンドウ、レンズ豆などがよく自生しており、人々は狩猟や採集をしていました。そこではフリント製のナイフなどの細石器が使われていました。食料が増えると人が増え、土壁や石壁の建つ集落も生まれ、農耕・牧畜の前段階に入りつつありました。 この時代、人々は新しい自然環境にあわせて生活を変化させ、適応してきました。石器からみれば、更新世末期の打製石器による素朴な旧石器時代から、細石器を使う中石器時代へと移行していきました。やがて、人類は農耕や 牧畜を通して、変化と成長を始めました。これが新石器時代の始まりで、石器がきれいに磨かれ、より丁寧に作られるようになりました。 これまでの人類は、野生の動植物を食べて生活していました。ところが、農業や牧畜が始まり、生産経済の時代に突入しました。これは、人類にとってまさに革命でした。近代産業革命以前の最大のものだったため、人類に大きな影響を与えました。生産経済は、人類に自然とともに働き、自然をある程度管理し、自分達の生活を築いていく方法を与えました。その後、社会と文明は大きく変化しました。農耕と牧畜の生産経済は、現在に至るまで人類の生活と文明の基礎となっています。 西アジアから地中海にかけての地域、イラン南西部のザグロス山地からアナトリア高原の南部を経て地中海沿岸に至る地域で農耕や牧畜が始まったと考えられています。これらの地では、栽培しやすい穀物や豆類が自生し、野生動物もたくさんいました。おそらく、山羊や羊が家畜として飼われるようになったのは紀元前9千年頃(紀元前9000年から紀元前8001年までの1000年間)です。一方、紀元前7千年頃までには、小麦、エンドウ豆、レンズ豆を栽培し、豚や牛を飼っていました。当時は山羊や羊の乳と動物の肉が使われていました。新石器時代には、黒曜石のような磨製石器が多く作られました。また、土器や織物も作られました。 新石器時代以降、人々は土器をつくり、料理や食料の保存にとても便利な道具となりました。移動には向かないので、その使用は、誰かが一箇所に住み始めた証拠です。1万2千年前に日本で初めて土器がつくられたといっても、それは農耕を始める前の段階です。西アジアやインドが独自に土器を使い始めたのは、それぞれ紀元前8千年紀、紀元前6千年紀の出来事です。中国はずいぶん遅れていました。まず、練った粘土を糸状に巻いて土器を作ります。そして、型を作って押し付け、最後に轆轤が作られました。直火による低温焼成から粘土による覆土に変わり、窯の使用により硬い土器が出来るようになりました。 この西アジアにおける初期の農耕牧畜文化は、徐々に広い範囲に広がっていきました。紀元前5千年頃までには、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の各地で農耕・牧畜文化が発達し、それぞれの地域で独自の作物栽培や家畜飼育が行われるようになりました。先進的な西アジアでは、粘土や日干し煉瓦を使った小屋で集落を作っていました。イラク北東部では、ジャルモやテル・サラサットでこの種の新石器時代の遺跡が見つかっています。初期の農業は、雨水を利用した乾地農法や肥料を使わない略奪農法が主流でした。そのため、耕作地はたびたび放棄しなければならず、定住は困難でした。しかし、紀元前7000年頃のアナトリア中部のチャタル・ヒュユクでは、日干し煉瓦の家がたくさん連なり、壊れるとその上にまた建てて丘(ヒュユク)にしていました。新石器時代の遺跡も見つかっています。 生産技術が向上するにつれて、初期の農村の人々の移動は少なくなり、人口が増加しました。人々を結びつける呪術的な宗教の中心には、儀式がありました。彼らは皆、女性の姿を持ち、豊穣とたくさんの子供を祈る儀式を行っていました。狩猟、採集、農耕において女性は非常に重要であり、初期の農耕民は母系社会の傾向にあったと思われます。また、大地の重要性は他の追随を許さず、女性の像が大地母神像として広く認識されました。 自給自足の考えから、住居、衣服、収納・調理器具、農具、武器などが作られました。しかし、早くから遠方との交易が始まり、それに伴い文化も伝播していきました。西アジアでは黒曜石の需要が高く、キクラデス諸島、シチリア島、サルデーニャ島などから運ばれてきました。また、北欧の琥珀も貴重な宝石でした。紀元前7世紀には、西アジアにもたらされました。紀元前5世紀には、初めて彩文土器が作られ、簡単な銅器や青銅器も使われるようになりました。紀元前6000年頃、イランからアナトリアにかけて彩色土器が使われており、中国では「彩陶」と呼ばれています。動物や狩猟の絵から、当時の文化がわかります。石器がより繊細になったのもこの頃です。働ける人が増えると、農作業以外の仕事もするようになり、それを専門とする職人も増えていきました。また、死者の埋葬の仕方から、いかに早くから共同体の中で権力が確立していたかがわかります。人権、私有財産、商業などの考え方も、時代とともに発展していきました。西アジアなどで発見された印章は、この事実を示しています。 紀元前5000年頃にバルカン半島で作られた銅と金の製品は、私達が知る限り最も古い金属加工品です。この2つの金属が最初に使われたのは、地中から簡単に取り出せて広められたからだと思われます。紀元前5千年紀の後半になると、人々は鉱石を溶かして金属を取り出す方法を学びました。最初は陶芸用の窯が使われていました。紀元前3000年頃には、銅と錫を混ぜると青銅がより頑丈なものになると知られていました。錫は西アジアや地中海沿岸では採れないので、イギリスやイベリア半島西部から交易で手に入れる必要がありました。中国も青銅で独自の文化を作っていました。 初期の農耕文化は広い範囲で発展し、ある地域ではより高度な技術が他の地域にも伝播していったのは確かです。紀元前3000年頃、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の沿岸部や大河のほとりの肥沃な土地に農耕・牧畜文化圏が成立しました。そこでは、磨き上げられた石器や、色彩や彫刻が施された土器が並ぶ新石器時代の文化が発展しました。特にナイル川、ティグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河・長江流域は肥沃な土地に恵まれ、農耕牧畜文化の中心地となり、いわゆる世界四大文明が誕生しました。西アジアでは、ティグリス川やユーフラテス川のほとりで、どこよりも早く灌漑農業が始まりました。その結果、小さな農村から神殿を中心とした都市へと発展していきました。 一方、バルカン半島から、ヨーロッパに農耕技術が広がりました。犬、豚、牛、羊、山羊などが家畜として飼われ、土器も盛んにつくられました。特に、バルト海からシベリアにかけての地域は、寒冷で森林が多く、農耕には不向きな地域です。そこで、骨角器や土器、磨製石器などを多用した新石器文化に似た採集・狩猟・漁労を中心とした生活様式が発達しました。日本の縄文文化は、この地域から生まれたと考えられています。中央アジアから北アフリカにかけてのステップ地帯には、細かい石器を使う原始的な遊牧民の新石器文化が存在しました。これらの遊牧民は、ほとんどの場合、天空の神を崇拝し、その社会は非常に支配的な場合が少なくありません。農耕民族と遊牧民は、しばしば協力して物資の交易や襲撃を行いました。結局、遊牧民は農耕地に入り、そこを占領し、定住する場合がほとんどでした。 フランス、イベリア半島、ブリテン島の人類は、紀元前3千年紀以降にストーンサークル、メンヒル、ドルメンなどの巨石建造物を多数建設しました。その代表例がブリテン島のストーンヘンジです。リング状の礎石や列柱は天文学と関係があり、広い範囲の儀式が行われる場所だったかもしれません。フランスのブルターニュ地方にあるカルナックには、1167メートルの石が11本の直線で設置されています。 イギリスのソールズベリには、巨石建造物があります。紀元前2000年頃に建てられました。直径100メートルの柱石の輪と、直径22メートルの立石の輪で構成されています。輪の開口部は夏至の日の出を向いています。このため、天文関係の儀式に利用されていた様子がうかがえます。 フランスのブルターニュ地方にある新石器時代から青銅器時代にかけての遺跡です。3列の石列からなり、最大のものは11列、1169個の石があり、幅100m、長さ1167mあります。ストーンヘンジと同様、天文学と関係していると考えられています。 人類が世界中を移動し、それぞれの地域の自然環境に適応していく中で、外見の違いや人種の違いが生まれました。人の皮膚や眼球が見つかっていないため、人種がどのように生まれたかを解明されていません。身長などの特徴でいえば、イタリアのコンブ・カペル型とフランスなどのクロマニョン型では、それぞれ異なります。ところが、アフリカでは、1万年以上前の古い骨格は見つかっていません。一方、周口店上洞人は、現代の中国人やメラネシア人に似た骨を残しています。それとともに、世界中を移動しながら人々の生活や文化が変化・発展し、多くの言語族や民族が形成されました。 人種とは、身長、頭の形、肌の色、髪の色、目の色、血液型などの身体的特徴によって、人類を集団に分ける方法です。大きく分けて3つのタイプがあります。白色人種(コーカソイド)・黄色人種(モンゴロイド)・黒色人種(ネグロイド)です。人種は文化とは関係なく、また優劣とも関係ありません。しかし、歴史上、ある人種が他の人種に支配され、優劣が主張され、差別の理由に利用される場面がしばしばありました。語族とは本来、言語を分類するためのものですが、歴史家達はこの言葉を、全員が同じ言語を話す人々の集団を表すのにも使っています。民族とは、宗教や社会的規範など、同じ文化的伝統を共有する人々の集まりを指す言葉です。民族を決定する上で最も重要な要素は言語です。人間社会の発展に伴い、多くの人種や民族が互いに接触するようになりました。その結果、ある集団が他の集団を支配したり、混血したり、一つの国が複数の人種や民族を支配したりと、様々な問題が発生しました。 山川出版社『改訂版 詳説世界史研究』木村端二ほか編著 ※現在市販されている最新版ではありません。前版の書籍になります。
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オリエントの語源はラテン語のオリエンスで、「日の昇るところ」という意味です。古代ローマ人は、ローマやイタリア半島の東部を指す言葉として使っていました。時代とともに地域が変わっても、歴史的に「中東」という言葉は、現在「中東」、「中近東」と呼ばれている地域を指しています。東はイラン高原の東端、西はエジプト、北はコーカサス山脈、南はアラビア半島に挟まれた地域です。北と東のアナトリアからアルメニア、イランにかけての地域とアラビア半島南西部、紅海を挟んだ地域に台地や山脈が見られます。それ以外の地域は、大部分が平地となっており、大半が砂漠か乾燥地帯です。雨があまり降らない地域がほとんどで、その分高温です。ただし、高地では季節的に雨が降る地域もあります。 メソポタミアからシリア・パレスチナ地方にかけての細長い緑の帯が「肥沃な三日月地帯」です。そこでは、羊・山羊・駱駝などを放牧して生活していました。また、雨水に頼る乾地農業も行い、海岸沿いや河川敷の平野部、オアシスに広がって小麦や大麦、豆、オリーブ、ナツメヤシなどを栽培していました。ティグリス川、ユーフラテス川、ナイル川の三大河川の流域では、季節的な氾濫を利用した灌漑農業が早くから発達しました。その結果、大規模な集落が形成され、穀物生産を基盤とした高度な文明も発達しました。 ティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミア(川と川の間の土地)に、民族系統不明のシュメール人が最初の都市文明を築きました。しかし、メソポタミアは開放的な地形なので、アラビア半島やその周辺の台地からセム系やインド・ヨーロッパ系の遊牧民や山岳民族が、豊かさを求めて次々とやってくるようになりました。そのため、長く複雑な歴史を歩みました。一方、エジプトは、ナイル川があるのが幸いしました。東西を砂漠に囲まれ、北は海、南はナイルの急流に囲まれています。ナイル川の中流部には、船が通れない場所が6カ所あります。そのため、他国の敵から攻撃を受ける心配はあまりありません。 シリア・パレスチナ地方は、両地方を移動するための通り道になっていました。セム語系の人々は地中海の貿易で活躍しました。セム語系やインド・ヨーロッパ語系の民族がオリエント世界で活動しました。しかし、シュメール人、フルリ人、「海の民」のような系統不明の民族も活動しました。 オリエント社会では、早くから宗教的権威によって人々が支配される神権政治が行われていました。神権政治は、大河を利用して洪水を調節し、作物を栽培する事業に多くの人々を組織し、動員する必要性から発展しました。オリエントでは、様々な種類の神権政治が存在しました。メソポタミアでは、王が神官として人々に神の望みを伝え、エジプトでは、王が神となりました。 水源地帯の雪解け水によって、ティグリス川やユーフラテス川は毎年増水します。メソポタミアは灌漑や排水設備を整備したため、この水を利用し、多くの作物を育てられました。紀元前4千年紀の中頃から、ティグリス川やユーフラテス川下流の沖積平野に住む人々の数が増えていきました。神殿を中心とした大きな村落が生まれ、銅器や青銅器が広く使われるようになりました。この頃、人々は文字を発明しました。 紀元前3000年頃、人々が必要とする以上の物資があったため、神官、戦士、職人、商人など、農業や牧畜で直接働かない人々の数が増え、大きな村落が都市へと発展していきました。都市を建設した最初の民族はシュメール人です。紀元前2700年頃までに、シュメール人の都市国家のほとんどが両河川の合流地点の近くにありました。ウル・ウルク・ラガシュはこれらの都市の好例で、紀元前250年頃のウル第1王朝時代に最盛期を迎えていました。各都市は周囲に城壁をめぐらし、その中央に高いジッグラト(聖塔)の形をした守護神の神殿がありました。ジッグラトは、頂上に神殿を持つ人工的な山です。メソポタミア各地の都市に建設されました。3階建ての建物の最上部には、月の神を祀る神殿があります。下から上まで、正面の階段はまっすぐ上に伸びています。バベルの塔は、バビロンのジッグラトにまつわる作り話かもしれません。人々はこの神が都市を支配していると考え、最高神官でもある王が神の名で神権政治として都市を運営していました。理論的には、全ての土地は神のものです。人々は神殿の共同体の一員でした。国庫は神殿の倉庫ですから、神殿の税金が保管されていました。神殿は他国との貿易を全て管理しながら、戦争は神の名で戦いました。しかし、支配者の軍事的責任が大きくなるにつれ、王権は次第に世俗的になり、神殿の目的と対立する王は、時に祭司の権力を制限しようとしました。 各都市国家は、大規模な治水や灌漑によって農業生産を高めました。交易で必要な物資を手に入れ、儲けたお金で美しい神殿・宮殿・王墓を建設し、より高度な文明社会を築きました。しかし、都市は互いに支配権をめぐって争い続け、また周辺の丘陵部族や遊牧民が襲ってきたため、力を失っていきました。やがて、セム語系のアッカド人が都市を支配するようになりました。 アラビアからメソポタミアに移動したセム語系諸族には、中部地方に定住したアッカド人がいました。紀元前24世紀のサルゴン1世の時代、彼らはメソポタミアの都市国家群を1つにまとめました。この最初の統一メソポタミア国家は、シリアや小アジアやアラビアも支配しましたが、約1世紀後、東方から山岳民がやってきて滅ぼされました。アッカド語が滅んだ後も、長い間オリエント世界の共通語でした。アッカド語の都市の遺跡はまだ誰も見つけていません。ウル第3王朝のもとで、紀元前3千年紀の末にシュメールの勢力が一時的に戻ってきました。しかし、アムル人と呼ばれるセム語系の遊牧民が大量にシリア砂漠からメソポタミアにやって来ました。セム語系のアムル人が紀元前19世紀にバビロンを首都とするバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を樹立しました。紀元前18世紀、メソポタミアは第6代ハンムラビ王のもとで統一され、中央集権国家となりました。ハンムラビ王は多くの運河を建設し、治水・灌漑に取り組みました。また、シュメールの法律をまとめたハンムラビ法典を作り、王国に住む様々な異文化をまとめ、統一しようとしました。20世紀初頭、フランスの研究チームがペルシアの古都スサで、石碑に書かれた原文を発見しました。全282条まで書かれているハンムラビ法典は、神々がハンムラビ王に統治権を与えます。その上で、国家は被害者に代わって司法権を行使して犯罪者を罰して、都市社会の安全を守らなければならないとする内容です。特に、刑法は「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則と被害者の身分によって違う刑罰を受けていました。
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古代オリエント世界Ⅱでは、ヒッタイト王国などの登場とメソポタミアの文化について学びましょう。 ハンムラビ王の時代には、文明が大きく発展していきました。それが周辺の諸民族にも伝わり、やがて富を求めて侵略や移住するようになりました。そのうち、インド・ヨーロッパ語系民族は、紀元前2千年の初め、中央アジアや南ロシアの原住地を中心に移動を開始しました。インド・ヨーロッパ語系民族は頻繁にオリエントへ侵入し、他の民族を引き連れてきました。民族系統不明のフルリ人もこの頃、東方からメソポタミア北部にやってきました。その後、フルリ人は他の地域に移動し、インド・ヨーロッパ語族が築いた王国に住む人々の重要な一部となりました。インド・ヨーロッパ語系民族の軍隊は、馬(オリエントで初登場)が引く戦車で構成されていました。優れた機動力は、先住民を倒し、世界各地に新しい国家を設立するのに役立ちました。これにより、エジプトを含むオリエントの各地方が接触しやすくなり、古代オリエントが一つの世界となる舞台が整いました。 まず、紀元前19世紀頃、ヒッタイトの一派が小アジアのアナトリア高原に移住して、先住諸民族とともにヒッタイト王国を建国しました。紀元前1650年頃には、ハットゥシャを首都とする強力な帝国に成長しました。ドイツ人のフーゴ・ウィンクラーは、1905年から1906年にかけて、当時オスマン帝国だったアナトリア高原のボアズコイ遺跡を掘りました。彼は、そこにヒッタイト王国の首都ハットゥシャが存在したと判明しました。ヒッタイトの研究は、やがてボアズキョイ遺跡から発見された多くの粘土板を解読し、研究を進めるようになりました。現在、日本からも小アジアに調査団が派遣され、発掘調査を行っています。 紀元前16世紀初めには、バビロン第1王朝と戦い、これを滅ぼしました。紀元前14世紀、帝国の最盛期には南下し、ミタンニ・エジプトと戦いました。その中で最も有名なのは、紀元前13世紀初頭に起こったカデシュの戦いです。カデシュの戦いでは、北上してきたエジプト新王国時代のラメセス2世と、シリアの支配権をめぐって戦いました。戦いが引き分けに終わった後、両国は平和条約を締結しました。これは、現在も残る2国間の条約としては最も古い条約です。馬や戦車とともに、鉄製武器も使い、軍隊を強くしました。紀元前12世紀初頭、地中海東部を襲った民族大移動の波の中で、バルカン半島から来た民族によって滅ぼされました。しかし、それ以降、ヒッタイトの製鉄技術はオリエント各地に広まりました。 バビロン第1王朝が滅んだ後、東の山地からカッシート人という別のインド・ヨーロッパ語族がやってきて、バビロン第三王朝という王国を築きました。この王国は約400年にわたりメソポタミア南部を支配しました。フルリ人とともに、別の一派がミタンニ王国を築きました。彼らは、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部とシリア北部に強い勢力を誇っていました。紀元前2千年の中頃、オリエントではエジプトの新王国など、様々な王国が隣り合わせに作られました。紀元前1200年頃、大移動が東地中海地方を襲うと、政治状況はさらに混乱しました。しかし、その混乱の中から新たな勢力が生まれ、オリエントには新しい秩序が生まれ始めました。 メソポタミアでは、各地や各都市の守護神、自然神を祀る多神教が根付いていました。しかし、優勢な民族がしばしば変わったため、信仰される最高神も変わりました。バビロン第1王朝の時代には、バビロンという都市の神であるマルドゥクが国家神とされました。また、シュメールの優れた宗教文学(神話やギルガメシュ叙事詩)は、セム語系諸民族の間でも広まり、大きな影響を受けました。 ギルガメシュは、ウルク第1王朝時代の本当の王だったと考えられています。考古学的に証明されていなくても、後世の言い伝えで、彼がいかに勇敢で、多くの戦いに勝利した偉大な王なのかを多くの物語として伝えています。『ギルガメシュ叙事詩』は、神と人々の交流や英雄の姿を物語ります。 彼は友人のエンキドゥと冒険の旅に出かけ、レバノン杉の森を管理していたフンババを、神がするなと言ったにもかかわらず殺しました(森を抜け出し、文明に入るための手段)。また、美の女神イシュタルとの結婚を拒否し、女神が送った雄牛を殺しました。これに怒った神々は、エンキドゥを殺してしまいました。それでもギルガメシュは旅を諦めません。洪水から逃れるために箱舟を作り、永遠に生きるウトナピシュテムに出会い、永遠に生きられるという薬草を手に入れますが、蛇に食べられてしまいます。19世紀後半、アッシリアのニネヴェ図書館にある粘土板に書かれた文章をもとに、『ギルガメシュ叙事詩』の研究が進みました。 メソポタミアでは様々な技術や文化が作られ、それが後に他の文明の基礎となりました。メソポタミアでは、3000年前から楔形文字が使われています。掘り出した粘土板に、鋭利な葦の茎で作った特殊なペンで押して書きます。粘土板は、保管する必要がある時は燃やされました。保管する必要がない時は、表面を平らにして何度も使用しました。シュメール人が作ったと考えられていますが、やがてアッカド語、バビロニア語、エラム語、ヒッタイト語、アッシリア語、古代ペルシア語など、オリエントのあらゆる言語の文字として使用されるようになりました。楔形文字はやがてアラム文字に置き換わり、オリエントの主要言語となりました。19世紀初頭、ドイツのゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントがペルセポリスの碑文から古代ペルシア語の解読に成功しました。また、イギリスのヘンリー・ローリンソンもベヒストゥーンの碑文からアッカド語の解読に成功しました。その後、ニネヴェ図書館の遺跡が発見されると、さらに楔形文字が増え、アッシリア語も読めるようになりました。 また、占星術を行い、いつ農作業をすればよいかを知る必要があったため、天文・暦法・数学・農学が発展していきました。月の動き方をもとにした太陰暦は、1年の日数が354日です。これでは、実際の季節と合いません。そこで、閏月を作り、太陰太陽暦に変更しました。メソポタミア文明は、六十進法の時間や方位、7日で1週間を区切るという考え方などを私達に残してくれました。これらの考え方は、現在でも使われています。また、ハンムラビ法典を見ると、法律が体系化されていた点も忘れてはなりません。メソポタミア文化は実用的な分野では成長しましたが、真の科学につながる基礎的・理論的な面ではそれほど変わっていません。
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古代オリエント世界Ⅲでは、古代エジプト文明について解説します。 ナイル川があったから、エジプト文明は発展出来ました。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、後に「エジプトはナイルの 賜物 」(『歴史』2巻5章)と述べています。下エジプトはナイル川の河口付近のデルタ地帯、上エジプトはナイル川に沿って南にある渓谷地域です。毎年7月から10月にかけて、ナイル川の源流の一つアビシニア高原に雨が降ると、ナイル川は次第に増水し、定期的に氾濫します。ナイルの穏やかな氾濫は、上流から肥沃な土(ナイル=シルト)を運んでくるので、ナイル川沿岸での農業は豊かな実りを約束されました。ナイル川の定期的な氾濫は、メソポタミアのような災害ではなく、人々を救いました。もともとナイル川沿いの狩猟民族だったエジプト語圏の人々は、自然の灌漑を利用して作物を育てました。これがエジプト文明の経済的基盤になりました。 ナイル川流域のエジプト語系の人々は、早くから村落群を作っていました。この村からノモス(県)[注釈 1]が生まれ、これが後に政治的な単位となりました。上エジプトには22のノモスがあり、下エジプトには20のノモスがありました。それぞれの集団では、同じ地域の人々が協力してナイル川の氾濫を防いでいました。そのためには、彼らをまとめる強力な指導者が必要でした。このように、紀元前4千年紀の終わりには、エジプトはすでに一つの国になりつつあり、国を運営するための政治体制も徐々に整っていきました。 メネス(ナルメル)王が上下エジプトを統一したのは、紀元前3000年頃と言われています。エジプトは、メソポタミアより先に王(ファラオ)によって統一されました。何度も分裂し、他の地域から来た部族に支配されながらも、長い間、国家の統一を保ちました。その後、紀元前3世紀のマネトという神官が『エジプト史』を著しました。この書物をもとに、古代エジプトの歴史を30~31の王朝に分けました。このうち、古王国・中王国・新王国は最も豊かな時代でした。  古代エジプトの王は、ナイル川を支配する絶対的な権力を持っていました。ナイル川の水位を管理し、いつ増水するかを正確に判断出来ました。王は生ける神なので、王が指導する巨大な中央集権的官僚システムが3千年間、極めて安定した神権政治を維持しました。王宮には「宰相」をはじめとする官僚の集団があり、各地の神殿には神官団が置かれました。いずれも代々受け継がれてきた役職です。書記階級は、政府と神職の両方に付属しているので、これも高い身分でした。土地を所有する王は、官僚、神官、書記に土地を与えましたが、そこに住むほとんどの人達は農民(セメデト)で、生産物に租税をかけ、ただ働きしなければならない迷惑な階級でした。 紀元前27世紀頃、ナイル川下流域のメンフィス[注釈 2]を中心に発展した古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2181年頃)[注釈 3]の統一国家は安定期を迎え、王達の権力を示す巨大なピラミッドが多数建設されました。特に「ギザの三大ピラミッド」はよく知られています。これらは、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王がナイル川の西岸ギザに建てました。3つのピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドは、20年の歳月と10万人の労働者を費やして建設されたと言われています。しかし、これは強制労働ではなく、農閑期に農民を働かせるための国家プロジェクトだったという説があります。通常、ピラミッドは王の墓と考えられていますが、王妃やその民の墓も含めた、より大きな葬送構造の一部と捉える必要があります。第5王朝以降、ピラミッドの大きさはどんどん小さくなっていきます。第6王朝以降、各地域のノモスが独立し、一時期統一性が失われました。この時期を第1中間期といいます。 紀元前2000年頃、上エジプトにあるテーベ[注釈 4][注釈 5]の人達が、エジプトをまとめ上げ、第11王朝を立ち上げました。ここから始まった中王国時代(紀元前2055年頃~紀元前1795年頃[注釈 6])には、首都がテーベに移り、政府の中央集権化、組織化が進みました。しかし、中王国末期の紀元前17世紀、遊牧民のヒクソスがシリアからやってきて、ナイルデルタ周辺を支配しました。これによって、この国は一時期混乱に陥りました。ヒクソスはセム語系の複数の民族ですが、一部インド=ヨーロッパ語系の人々も含まれていました。ヒクソスは、それまで知られていなかったエジプトに馬と戦車を持ち込みました。このヒクソスの時代を第2中間期といいます。  第18王朝は、紀元前16世紀にテーベで始まりました。彼らは100年間支配していたヒクソスを追い出し、国全体をまとめ直しました。以降、約500年後の第20王朝までが新王国時代と呼ばれています。新王国時代には、第18王朝と第19王朝が最も勢力を伸ばしました。この時代、エジプトは積極的な外交政策をとっていました。第18王朝のハトシェプスト女王は、南方のプントに船団を派遣して貿易を営んでいました。プントの正確な場所は紅海の南西の海岸からアフリカに少し入ったところとか、ソマリアの少し南のところとか言われていますが、不明です。ここからエジプトは、金や香水、ヒヒなどの珍獣を手に入れました。トトメス3世はエジプト最大の王でした。彼はシリアとナイル川上流のヌビアを占領し、それらを支配する帝国にしました。第19王朝に属し、シリアに進出したラメセス2世は、ヒッタイトと戦い、この地域を支配しました。 第18王朝時代のアメンホテプ4世は、もうひとつ知られています。この王は首都をテル=エル=アマルナ[注釈 7]に移し、イクナートン[注釈 8]と改名し、従来のアモンを中心とした多神教から唯一神アトン(「アトンを喜ばせるもの」)の信仰に変えました[注釈 9]。新しい宮廷は、エジプトでは珍しいアマルナ美術と呼ばれる芸術様式の中心地でした。しかし、王が亡くなるとこの改革はなくなり、次のツタンカーメン王[注釈 10]は首都をメンフィスに移転しました。そこでは、アモン神の信仰が復活しました。 続く、第19王朝のラメセス2世は王国の勢力を回復させました。ラメセス2世は、アブ・シンペル神殿などの大規模な建築事業を開始し、カデシュでヒッタイトと戦い、紀元前1275年頃に平和をもたらしました。紀元前12世紀以降、エジプトは徐々に力を失い、西アジアやリビアからの侵入をたびたび受けました。第20王朝には「海の民」がエジプトを支配しそうになりましたが、ラメセス3世がかろうじて食い止めました。しかし、王権は弱体化して、新王国時代は幕を閉じました。第22王朝から第24王朝はリビア人が、第25王朝はヌビアから来たクシュ人がつくりました。 紀元前7世紀、アッシリア人がやってきて、末期王朝時代のエジプトを占領しました。紀元前525年、アケメネス朝がこれを占領し、自国の州としました。第28王朝と第30王朝によってエジプトの支配が復活しましたが、紀元前343年、アケメネス朝が再びエジプトを占領し、エジプト王朝は終わりを迎えました。  エジプト人は多神教を信仰しましたが、太陽神ラーはエジプト人にとって最も重要な神でした。その後、首都がテーベに移ると、この都市の守護神アモン[注釈 11]と合体[注釈 12]してアモン=ラーとなりました。この神は、アメンヘテプ4世の時代にアトン信仰が義務づけられた以外は、ほとんどどこでも信仰されました。エジプト人は、霊魂は永遠に生き続けると信じ、死後の世界を支配しているのはオシリス神と信じていました。そのため、遺体をミイラ化し、「死者の書」をはじめ、墓に多くの副葬品を添えて葬りました。このうち、「死者の書」とは、エジプト人が死者の来世での幸福を祈るために、ミイラと一緒に埋めた絵本です。死者が冥界の王オシリスを前に最後の審判を受け、椅子に座って生前の行いを説明する様子が描かれています。 エジプト人が最初に作った象形文字は、元々表意文字でした。その後、表音文字として使用出来るように変更されました。エジプト文の表意文字と表音文字の使い分けは、日本語の漢字と仮名の使い分けに似ています。書体面でも、文字が簡略化されて使いやすくなっています。そのため、以下の3種類の違いが生まれました。なお、ロゼッタ=ストーンは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際、アレクサンドリアのロゼッタ(アラビア語でラシード)で見つかりました。上段が神聖文字、中段が民用文字、下段がギリシア文字という3種類の文字で書かれています。フランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンは、このギリシア文字の記述から、神聖文字の解読に成功しました[注釈 13]。 1.  石碑や墓室、石棺などの石器に刻まれ、象形性の強い神聖文字(ヒエログリフ) 2.  パピルス草からつくった1枚の紙にインクで書かれ、宗教書、公文書、文学作品などに利用される簡略体の神官文字(ヒエラティック) 3.  日常的に使用される最も簡略化された民用文字(デモティック) エジプトやメソポタミアでは、ナイル川がいつ氾濫するか、いつ農作業をするかを知る必要があったため、早くから天文や暦法の研究に取り組んできました。エジプト人は1年を12カ月、365日とする太陽暦を使用していました[注釈 14]。太陽暦は後にローマで使われるようになり、ユリウス暦とよばれるようになりました。洪水後に再び土地を使えるようにするために作られた測地学は、幾何学の原点と考えられています。エジプトにはたくさんの石材があったので、有名なピラミッドやオベリスクだけでなく、石材を使った美しい神殿がたくさん建てられました。また、様々な遺跡で見られる列柱式建築は、クレタ島やギリシアの建築様式に影響を与えたと考えられています。 テンプレートデータに関する情報
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古代オリエント世界Ⅳでは、古代オリエント時代の民族大移動について学習します。 地中海東岸に位置するシリア・パレスチナ地方は、古くから海路と陸路の交通の要所でした。エジプトとメソポタミアを結ぶ交通路のルートにもなっており、地中海への出入り口でもあります。海と砂漠に囲まれた複雑な地形のため、一つの国家を形成するのは困難でした。そのため、この地域は政治的にも軍事的にも周辺の大国に支配される場合が少なくありませんでした。この地域に住む人々は、古くから交易を行い、多くの重要な文化的遺産を残しました。 紀元前1500年頃、セム語系のカナーン人がパレスチナ地方で貿易を開始しました。彼らはエジプトの象形文字を利用して、原カナーン文字(アルファベットの原型)を考えたのが知られています。紀元前13世紀頃、地中海東部沿岸の地域に、祖先不明の異なる集団からなる「海の民」と呼ばれる集団が進出してきました。この侵略者はヒッタイト帝国を滅ぼしますが、エジプトの新王国は何とか阻止出来ました。また、クレタ島をはじめとするギリシアのミケーネ文明の終焉も、彼らの侵略が原因だと考えられています。「海の民」の一部はパレスチナの南海岸に移動し、ペリシテ人となりました。ヒッタイト人とエジプト人は、彼らの活動のために去り、シリアとパレスチナは強い政府を持たないままとなりました。アラム人、フェニキア人、ヘブライ人などセム語系民族はこの状況を利用し、活動を開始しました。 西セム語系のアラム人は、紀元前12世紀末にシリアからパレスチナ、メソポタミアに移動しました。彼らは各地に都市国家を築き、緩やかな同盟関係を築きました。彼らはダマスカスを中心とする内陸都市間の交易に重要な役割を果たしました。紀元前8世紀、アッシリアに独立を奪われた後も、彼らの話すアラム語は、長い間、オリエント全域で商売に使われました。アラム文字のアルファベットもオリエントで多く使われていましたが、より複雑な楔形文字が徐々にその座を奪っていきました。アラム語はアケメネス朝の公用語となっていただけではなく、東方キリスト教の重要な言語となりました。ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などのアルファベットは、全てアラム文字を基礎としています。 フェニキア人はカナーン人の一派と思われ、紀元前1200年頃、地中海の貿易を独占するようになりました。彼らは地中海の東岸にビブロス・シドン・ティルスなどの都市国家を建設してこれを実現しました。フェニキア人は、内陸貿易を行うアラム人とは異なり、海上貿易によって勢力を拡大しました。彼らは造船技術や航海術を得意とし、染料や金属・ガラスを加工する道具なども作っていました。その後、紀元前9世紀には、地中海沿岸に植民地を築き始めました。そのひとつが、北アフリカのカルタゴです。紀元前7世紀にはアッシリア・新バビロニア・アケメネス朝がフェニキア人を支配しましたが、海の上ではまだ活発に活動しており、ペルシア戦争ではフェニキア海軍が大活躍しました。その後、紀元前4世紀末にアレクサンドロス大王がティルスを滅ぼしました。その後、東地中海はギリシアに支配されますが、西地中海でのカルタゴの勢力は、ポエニ戦争でローマに敗れるまで強く保たれました。最盛期には地中海だけでなく、大西洋やインド洋でも商売をしていました。 フェニキア人は紀元前11世紀頃にフェニキア文字を作りました。これは、原初カナーン文字に基づくシナイ文字を改良した文字です。シナイ文字はアラム文字の基礎となり、それがギリシア人に受け継がれ、現在でも西洋のアルファベットの基礎となっています。これが、フェニキア人が文化史上最も重要な役割を果たしたといわれる理由です。 ヘブライ人の祖先は、ユーフラテス川の上流域に住んでいた遊牧民です。彼らは、紀元前2千年の前半に現在のパレスチナに移動しました。そのうちの何人かは、おそらくヒクソス人と共にエジプトに向かいました。しかし、ヒクソスが敗れた後、彼らは新王国時代の厳しい支配に耐えられなくなりました。紀元前13世紀、モーセはヘブライ人を率いてこの地を脱出します(「出エジプト」)。多くの困難を乗り越え、彼らはパレスチナの旧友と暮らすようになりました。当時、ヘブライ人はまだ遊牧民的な生活をしており、12の部族からなる緩やかな連合体で統治していました。緊急時には「士師」と呼ばれるカリスマ的な指導者に従っても、「王」のような永続的な指導者を求めていませんでした。しかし、周辺の諸民族との争いがひどくなり、特に海岸平野に住む「海の民」であるペリシテ人との争いが激しくなると、強い指導者の必要性が高まってきました。そこに住んでいたペリシテ人の名前がパレスチナという地名になりました。ヘブライ人は、彼らから鉄の作り方を学びました。紀元前11世紀末、ついに王国は君主制となりました。これをヘブライ王国と呼びますが、そこに住む人々は、「ヘブライ人」と呼ばれても、「イスラエル人」と言います。 第二代目のダヴィデ王はペリシテ人を倒し、パレスチナ全土を手に入れ、イェルサレムを首都とする統一王国を築きました。息子のソロモン王が絶頂期になると、フェニキア人のティルス王と協力して諸外国と貿易を行うようになりました。しかし、その一方で、神殿や宮殿を建てるための大変な土木工事や、軍隊を維持するための重税で、民衆は疲れ果ててしまいました。王が死んだ後、王国は北のイスラエルと南のユダに分かれました。イスラエルもユダも、この地域の他の勢力に苦しめられ、弱体化しました。この頃、多くの預言者が現れ、この苦しみは人々の腐敗と社会悪が原因だと言いました。彼らは、神への正しい信仰を取り戻し、人々を結束させようと呼びかけましたが、上手くいきませんでした。イスラエルは紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に、ユダは紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世に征服され、いずれも多くの住民が移住を強いられました。特に2回目のバビロニアへの連行は、「バビロン捕囚」(紀元前586年〜紀元前538年)として後世に語り継がれます。紀元前538年にアケメネス朝のキュロス2世がバビロニアを支配すると、ユダヤ人は帰国を許されましたが、異民族の支配下で長い間苦しまなければなりませんでした。 ヘブライ人は、古代オリエントで唯一、一神教を信じていました。しかし、出エジプトを経てパレスチナに到着した彼らは、ヤハウェが唯一最高の神だと理解し、ヤハウェ[1]と契約しました。王国時代、彼らは周囲の多神教の影響を受け、預言者達から厳しい批判を受けました。しかし、亡国やバビロン捕囚などの民族的苦難の中でヤハウェへの信仰は強まり、やがて神と契約を結んだユダヤ人だけが救われるという選民思想とそれを実現する救世主(メシア)の到来を待望するようになりました。旧約聖書がまとめられたのもこの頃からです。捕囚から解放され帰国したユダヤ人は、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、儀式や祭祀の規則を作り、ユダヤ教を確立しました。ペルシアのゾロアスター教は、最後の審判やそこで教えられていた天使や悪魔に関する考え方に影響を与えたといわれています。その後、ユダヤ教が信仰や日常生活の規則である律法を重視するようになると、イエスが現れ、形だけの信仰に新しい命を吹き込みました。これによって、ユダヤ人だけでなく、全ての人が救われるようになりました。ヘブライ人は、神話・伝承、予言者の言葉、神への賛歌などを集めたユダヤ教の聖典を書きました。これが『旧約聖書』となり、イエスの教えや弟子達の行いや手紙を集めた『新約聖書』とともに、キリスト教の聖典となりました。これらの聖書は、ヨーロッパでの思想や芸術の大きな支え(ヘブライズム)となりました。また、『旧約聖書』はイスラーム教の聖典です。ちなみにパウロは、「神との新しい契約」を意味する『新約聖書』に対して、『旧約聖書』では「神との古い契約」を意味すると述べました。
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古代オリエント世界Ⅴでは、アッシリア王国とアケメネス朝について学習します。 紀元前2千年の初め、セム語系のアッシリア人がメソポタミア北部のティグリス川上流にアッシリア王国を建国しました。アッシリアの名前は、アッシュル(最初の首都や女神)に由来しています。標高500メートルのこの地域は天水農業地帯なので、下流域のように大河がもたらす肥沃な土壌に頼っていては穀物が育ちません。そこで、アッシリア人は内陸中継貿易で儲けようとしました。アナトリアには、アッシリア商人のための交易拠点が数多く設置されました。紀元前19世紀末には、メソポタミア北部一帯を支配する強大な国家を築きました(古アッシリア時代)。紀元前15世紀には、一時ミタンニ王国の属国となりました。その後、独立を回復して、紀元前12世紀には当時衰退しつつあった東地中海地域に勢力を伸ばしました。紀元前8世紀後半、サルゴン2世とともに大規模な軍事遠征を行うようになりました。サルゴン2世の息子の時代には、ニネヴエを新たな首都としました。アッシリアはバビロニアからシリアにかけて多くの民族を支配する強力な軍事国家となりました。アッシリアの軍事的成長を実現させたのは、強力な軍隊でした。鉄製の武器と強力な弓で武装した歩兵隊、騎兵隊、戦車隊が征服活動のために使われました。工兵隊は道路や橋の建設に優れていました。 紀元前7世紀前半になると、アッシリア人はエジプトも征服しました。こうして、エジプトからペルシア湾までを支配する最初の世界帝国が誕生しました。エジプトを占領したアッシュルバニパル王の時代には、帝国は最盛期を迎えました。彼は、ニネヴェの有名な大図書館を建設しました。 アッシリア王は強大な専制君主でした。アッシリア王は、広大な領域を支配するために中央集権的官僚体制を設けました。領土を属州に分け、物資や情報を短時間で移動させるために街道に宿駅を設置して[1]、各地に総督を置きました。王は国家の最高神アシュールの代行者と考えられていました。王は政治・軍事・宗教・裁判などを全て管理しました。また、王は、反抗的な周辺諸民族を強制的に別の土地に移住させる強制捕囚政策を実施しました。こうして反乱の芽をつぶし、帝国は政策を実行するために必要な兵士、職人、労働者を獲得していきました。 一方、重税と圧政は服属民の反発を強めました。アッシリア帝国は、アッシュルバニパル王の治世が終わると同時に、急速に崩壊し始めました。紀元前612年、新バビロニア・メディア連合軍に敗れ、アッシリア帝国は終わりを迎えました。 アッシリア帝国の滅亡後、オリエントは4つの王国(エジプト、リディア、新バビロニア[2]、メディア)に分かれました。リディアは、紀元前7世紀半ばにインド・ヨーロッパ系のリディア人がアナトリアに建国した王国です。首都サルデスを中心に、他国との交易で上手くいっていました。また、リディアは世界最古の金属貨幣を製造していた場所としても知られています。さらに、セム語系カルデア人が新バビロニアを建国しました。新バビロニアは、ネブカドネザル2世がバビロン捕囚を行った時期に、最も勢力を伸ばしました。バビロンの首都は繁栄して、世界の七不思議の1つにも数えられる「空中庭園(吊り庭)」なども造られました。 メディアは、イラン高原の南西に位置するファールス地方で、インド・ヨーロッパ語を話すイラン人によって建国されました。紀元前550年に同じイラン人であるペルシア人によって滅ぼされ、この場所でペルシア人はアケメネス朝を建国しました。「イラン」は、イラン高原の初期住民が自称していた「アーリア」という言葉に由来しますが、「ペルシア」はヨーロッパの言葉です。アケメネス朝の開祖キュロス2世は、紀元前547年にリディアを、紀元前539年に新バビロニアを支配しました。彼は誰も殺さずにバビロンに入り、翌年にはユダヤ人を奴隷から解放しました。次の王、カンビュセス2世はエジプトに軍を送り、全てのオリエント統一に成功しました。 カンビュセス2世の死後、反乱が起こりましたが、第3代の王ダレイオス1世は、帝国を支配するための下準備を整えました。その結果、西はエーゲ海の北岸から東はインダス川まで広がる大帝国を築き上げました。ダレイオス1世は帝国を地方(サトラピー)に分割し、各州に知事(サトラップ)を置きました。これは、アッシリアの制度を引き継いだ形ですが、初めて全土が均等に分割されました。当時の州は、少なくとも20州余りだと言われています。 ダレイオス1世は金貨と銀貨を作らせて、税金を納める方法として、貨幣を中心とした統一的な徴税制度を設けました。また、フェニキア人の海上の交易とアラム人の陸上の交易に目を配りました。この結果、都市の経済が発展しました。陸上では、サルデス・エクバタナ・バビロン・ニネヴェなど重要な場所を結ぶ国道「王の道」を建設しました。また、首都スサを拠点とした駅伝制も設けました。もう一つの王都ペルセポリスも、新たに建設されました。200年間続いたアケメネス朝支配の安定は、行政と財政の中央集権化によってもたらされていたからです。一方、アケメネス朝は、そこに住む異民族に対して寛容な立場を取り、現地の支配階級には自由に社会を運営させました。 ダレイオス1世は自分に降参しないギリシア人に復讐するためにペルシア戦争を始めましたが、彼とその息子クセルクセス1世は共に敗れました。その後、アケメネス朝は宮廷闘争や知事達の反乱などで徐々に崩壊していきました。紀元前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征でついに征服されました。 イラン人は、自分達の領土に住んでいた様々な民族の文化を混ぜ合わせました。彼らは建築や工芸に優れ、ペルシア語の音を楔形文字に置き換えてペルシア文字を作りました。また、ペルシア語、エラム語、バビロニア語とともに、国際商用語(アラム語)を公用語にしました。また、帝国の政治を中央集権化しました。 イラン人はゾロアスター教(拝火教)という火や光を崇拝対象とする宗教を信仰していました。教祖ゾロアスターが実在したのは分かっていても、彼がいつ生き、いつ活動したのかについては様々な考え方があります。紀元前1300年から1000年の間に生きたという説もあれば、紀元前630年から553年の間に生きたという説もあります。善悪二元論に基づいて、「善(光明)の神アフラ=マズダは悪(暗黒)の神アーリマンと戦いますが、最後は光明神が勝ち、最後の審判で善人の魂が救われます。」と教えています。ユダヤ教やキリスト教は、この二元論的終末論の影響を受けたと言われています。アケメネス朝はゾロアスター教を保護しました。その後、南北朝時代や隋・唐時代に中国に伝わり、祆教といわれるようになりました。また、人々は光の神(ミトラ)や水の女神で大地母神(アナーヒター)を信仰していました。その後、光明神ミトラの信仰はローマ世界に広がり、密教として一般大衆に親しまれるミトラ教に変化していきました。
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インドの東南の気候は、雨季と乾季のある、モンスーン気候である。モンスーン(monsoon)とは季節風のこと。現代のヒンドゥー教の神に雷神インドラがいるのは、つまりインドの気候では雷雨が起こるということである。 インドの北部と南部で気候が違う。北部は乾燥しており、雨季と乾季の差が、はっきりしている。南部は、年間をつうじて温暖である。 古代のインドの農業では、インダス川の流域では、乾燥した気候であり、小麦が主要な農産物であった。 いっぽう、ガンジス川の流域では、湿潤な気候であり、稲やヒエ・アワが主要な農産物であった。 古代インドの民族も、北インドを中心としたアーリア系と、南インドを中心としたドラヴィダ系とに分かれる。 インドでは、青銅器をつくれるインダス文明が、紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きた。民族については、ドラヴィダ人がインダス文明を作ったと考えられてるが、まだ学術的には不明である。 遺跡では、下水道や浴場などの公共施設もそなえ、レンガ造りの建物のある、モエンジョ=ダーロという都市を作っている。遺跡には、モエンジョ=ダーロのほかにも、ハラッパーなどの遺跡がある。 遺跡には、穀物倉庫や沐浴場(もくよくじょう)などがあった。 インダス文明の遺跡からは、青銅器や土器が出土している。インダス文字が使われていた。インダス文字は、現代でもまだ解読されていない。 宗教については、印章や像などから、牛を神性視する信仰があったり、のちのヒンドゥー教のシヴァ神の原型と思われる像があったり、また聖樹や地母神などを崇拝していたと考えられる。 インダス文明は1800年ごろから衰退した。インダス文明の衰退の原因は不明であるが、森林伐採などの環境破壊説や、洪水説、気候の変化説などがある。 紀元前1500年に、北方の中央アジアのアーリア人(Aryans)が、カイバル峠を超えてインドに侵入し、インドのパンシャーブ地方を征服した。先住民は奴隷として支配される。アーリア人は、インダス川上流のパンジャーブ地方に定住して、農耕社会を築いた。 宗教について、アーリア人は、雷や火、太陽などの自然力を神として崇拝していた。それらの宗教知識をまとめた、インド最古の古典が、「ヴェーダ」である。『リグ=ヴェーダ』(Regveda)は、ヴェーダのうちの賛歌集である。 前1000年ごろ、アーリア人は、ガンジス川に進出する。また、同じく前1000年ごろ、青銅器から鉄器文明へと変わる。 この前1000年ごろから、支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作った。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながる。(※ 後世に、いわゆる「バラモン教」といわれるのは、このころの風習など。近代のイギリス人が「バラモン教」(Brahmanism ブラフマニズム)と名づけた。バラモンとは漢語に訳された際の「婆羅門」の日本式の音読で、サンスクリット語での正確な発音はブラフミン。古代インドの神ブラフマンとは異なるので、混同しないように。) 身分には、バラモン(神官、Brahmana)、クシャトリア(王族や武人、kshatriya)、ヴァイシャ(農民や商人などの平民、vaishya)、シュードラ(奴隷、shudra)の身分があった。 そして、この4つの身分を中心とした身分制度をヴァルナ(varna)と呼んだ。 さらに、ヴァルナの4つの身分をもたない、さらに低い身分がおかれ、さわるとけがれる不可触民(ふかしょくみん)とされた。 バラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持った。 前6世紀ごろに、城壁を持った都市を中心とする都市国家が、いくつも生まれた。 そのような都市国家のなかでも、マガダ国(Magadha)やコーサラ国が有力になった。 マガダ国が前5世紀にコーサラ国を滅ぼした。 前600年ごろから、王族や商工業者が力を持ち、バラモンによる支配に不満をもった。 このような時代のなか、バラモンの身分的な支配を否定する、ジャイナ教や仏教などの宗教が現れた。 ジャイナ教の開祖であるヴァルダマーナは、禁欲的な苦行や不殺生などによって、解脱できると説いた。仏教の始祖ガウダマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha、のちにブッダ、buddha)は、解脱に必要なのは苦行かどうかではなく、正しい方法で修行すること(八正道、「はっしょうどう」)によって、解脱できると説いた。 「八正道」とは、八つの正しい修行法なので、「八正道」という。 前326年、アレクサンドロスの遠征軍がインダス川まで到達した。これによってインドの政治が激変した。前317年にマガダ国のチャンドラグプタがマウリヤ朝を起こして、そして北インドを支配した。 マウリヤ朝3代目のアショーカ王のときに、インドをほぼ統一した(ただしインド南端部を除く)。これがインド史上、初めてのインド統一である。 アショーカ王は、武断政治を改めたのだろうか、(あるいは反乱を防ぎたいのだろうか、軍隊による暴力を独占したいのか、)仏教に帰依し、仏教を厚遇した。そしてアショーカ王は仏典の結集(けつじゅう、編纂のこと)を支援して、社会倫理を法勅(ほうちょく)としたダルマ(真理、法)を発し、ダルマを刻んだ石柱などを各地に作らせた。またアショーカ王は、病院や道路や貯水池などを作らせた。 アショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退し、帝国は分裂した。 仏教はセイロン島(スリランカ)にも前3世紀に伝わり、のちにセイロン島は上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)の中心地になった。 前2世紀ごろ、マウリヤ朝は衰退しており、北西インドに、ギリシア人がパクトリア地方から侵入した。 つづいてイラン系遊牧民が北西インドに侵入した。 1世紀にイラン系のクシャーン人がクシャーナ朝(Kushana)をたてた。 2世紀のカニシカ王(Kanishka)の時代が最盛期。 ローマとの交易で儲けた。 起源1世紀の前後、仏教で、新しい運動が起きた。それまでの仏教は、出家と修行によって、悟りを開くものだったが、新しい仏教は、個人的な行為にすぎない修行よりも、菩薩(ぼさつ)を信じる心と、人々の救済こそが重要であると説き、これを大乗(だいじょう)と呼んだ。「大乗」とは、大きな乗り物という意味である。 いっぽう、今までの修行を中心とした仏教は、修行者個人の悟りという個人的利益を求めるにすぎないとして、旧来の仏教を批判し、これを「小乗」(しょうじょう)と呼んで、さげすんだ。 クシャーナ朝のカニシカ王は、大乗仏教を保護した。 インドでは、はじめ、ブッダを像にすることは恐れ多いと考えられていたが、しかしヘレニズム文化のギリシア彫刻などの影響を受けて、インドで仏像が作られるようになった。仏像が作られる前の時代には、菩提樹(ぼだいじゅ)などを、仏像のかわりに、拝めていた。 仏像などの美術が、ガンダーラを中心に広がったので、この時代のインド美術をガンダーラ美術という。 大乗仏教の体系化については、2世紀〜3世紀にナーガールジュナ(龍樹、りゅうじゅ)によって大乗仏教が体系化された。 南インドでは、サータヴァーハナ朝が成立した。この王朝は、北インドから、多くのバラモンをまねいて、北インドの文化も取り入れた。 4世紀前半にマガダ地方でチャンドラグプタ1世がグプタ朝をたてた。第3代のチャンドラグプタ2世のときに北インドの大半を支配し、最盛期になった。 また、グプタ朝の公用語は、バラモンの言葉であるサンスクリット語(Sanskrit)を公用語とした。 (サンスクリット文字は、日本や中国では梵語(ぼんご)、梵字(ぼんじ)と言われ、日本では墓の卒塔婆(そとば)などに書かれることが多い。なお、卒塔婆の語源も、インドの言葉の「ストゥーバ」である。) このグプタ朝の時代に、ヒンドゥー教が広まった。ヒンドゥー教は、バラモン教に民間信仰が融合して、バラモン教が再興した宗教であると考えられている。 ヒンドゥー教は多神教である。ヒンドゥー教の神では、破壊と創造の神であるシヴァ神(Siva)や、世界・宇宙を保持する神であるヴィシュヌ神(Visnu)などをまつっている。 ヒンドゥー教は特定の教義や聖典を持たない。 文学では、この時代に、二大叙事詩『ラーマーヤナ』(Ramayana)『マハーバーラタ』(Mahabharata)がまとめられ、ほぼ現在に近い内容になった。 ラーマーヤナの内容は、王子ラーマと、その妻シーターとの物語。 また、ヴァルナの規範について『マヌ法典』がまとめられた。 自然科学では、数学ではゼロの概念や10進法が、この時代のインドで生み出された。 この数字の表記法をもとにインド数字が生み出され、そのインド数字はのちにアラビアのイスラーム世界に伝わり、アラビア数字のもとになり、それがヨーロッパに伝わったのが、今日のアラビア数字のもとである。このような、この時代のインドの数学によって、のちの時代の世界の数学が大きく進歩した。 詩人カーリダーサ(Kalidasa)により戯曲『シャクンタラー』(Shakuntala)がつくられた。 勃興するヒンズウー教に理論の深化を迫られた仏教はナーランダー僧院を5世紀に建設した。このナーランダー僧院が、インドでの仏教研究の中心地になった。 のちの時代に、中国の唐の僧である玄奘(げんじょう)が留学して仏教を学んだ学校が、このナーランダー僧院である。 グプタ朝は、5世紀には地方勢力を抑えられなくなり始め、異民族エフタルによる西北インドへの侵入などもあり、6世紀にグプタ朝は滅亡した。 7世紀に、ハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを一時的に統一してヴァルダナ朝を築くが、王の死後、王朝は崩壊した。そして8世紀から13世紀まで、インドでは、いくつもの王朝が分立抗争する状態が続いた。 仏教については、仏教を保護していたグプタ朝が、6世紀からのグプタ朝の衰退と滅亡したことにより、仏教やジャイナ教を攻撃してヒンドゥー教への帰依を説くバクティ運動(bhakti)が6世紀半ばから激しくなった。 ヒンドゥー教の神々は、日本の仏教にも、名前を変えて、伝わっている。 たとえば七福神の一人である大黒天(だいこくてん)は、ヒンドゥー教の破壊神であるシヴァ神が、黒い姿を取ることからマハー・カーラ(大黒、だいこく)と呼ばれ、それが由来になり、日本では大黒天と呼ばれた。さらに、神道の国津神(くにつかみ)の大国主(おおくにぬし)と、シヴァ神が一体視され、それがこんにちの大黒様(だいこくさま)として、まつられているのである。 他にも、帝釈天(たいしゃくてん)は、ヒンドゥー教の雷神インドラである。 また、七福神の一人である弁財天(べんざいてん)は、日本では芸術と学問の神であるが、これは、ヒンドゥー教の川の神である女神サラスヴァティーである。吉祥天(きっしょうてん)は、主神ヴィシュヌの妻ラクシュミーである。 なお、日本語の「奈落」(ならく)、「瓦」(かわら)、「刹那」(せつな)の語源はサンスクリット語である。(参考文献: 東京書籍の教科書『世界史B』) 韋駄天(いだてん)の元ネタも、ヒンドゥー教のようであり、シヴァの息子は足が速かったらしい。
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中国の古代文明Ⅰでは、東アジアの風土と人々と中国文明の発生について学習します。 東アジアは、ユーラシア大陸東部にある地域です。現在の中国・モンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・ベトナム北部が含まれています。このうち、中国東部・日本・韓国・ベトナムは、暖かく湿度の高いモンスーン気候です。季節風が強く、稲作に適した土地なので、人口や都市が集中しています。しかし、中国東部でも淮河より北の地域は普段から乾燥しているため、雨量が少なく非常に冷え込みます。作物は粟、高粱、小麦、豆類などの黄土畑作が中心で、牧畜も進んでいます。 中国の地形についてみていきます。西側には大興安嶺山脈・太行山脈・秦嶺山脈などの高い山脈やパミール高原やチベット高原があります。北東側には、モンゴル高原などの高原や盆地が広がっています。東側には平野や丘陵地が広がっています。そのため、多くの大きな川が西から東へ流れ、海へ流れ込みます。海洋部には、大小8000以上の島が浮かんでいます。気候や環境の違いから、中国の東部は大きく4つの地域に分けられます。万里の長城の北側は東北部といいます。万里の長城の南側、淮河の北側を華北といいます。淮河の南側、南嶺山脈の北側を華中といいます。南嶺山脈の南側を華南といいます。これらの地域の気候は日本列島と似ており、夏は暖かく、気温差もあまり感じられません。しかし、冬は寒暖の差が大きく、黒龍江省の最北部は-30℃以下、華中は0℃前後、海南島南部は20℃以上になります。華中や華南では焼畑も行われ、水上生活者もいました。しかし、時代とともに、定住生活を送り、昔ながらの田畑や家屋を守って生活するのが普通になってきました。 降水量は地域によって大きく変わり、南東部の沿岸部から北西部の内陸部に行くほど減ります。年間降水量が400mm以下の地域を乾燥・半乾燥地域、夏の季節風の影響を受ける東部地域は温暖湿潤地域となります。かつて、秦嶺山脈から淮河に向かう線は、毎年同じように雨が降る地域を通るため、畑作と稲作の境界線と考えられていました。また、降雨量にも大きな差があり、1年のうち50%以上が夏に降り、冬になると10%以下になります。元々降水量の少ない黄土高原では、この降水量の大きな差が、冬は草木の生育を妨げ、夏は表土を洗い流して砂漠化を進め、森林や草原を減らす原因になっています。 牧畜は、農耕に向かない北の草原や砂漠地帯で行われました。遊牧は北部の草原や砂漠で始まり、人々は良い草や水を求めて家畜とともに移動を繰り返しました。長距離を移動しながら、生活必需品を交易で仕入れていた遊牧民は、「絹の道」や「草原の道」など、ユーラシア大陸の広域に渡って交易路を発展させました。中国の華北や西北部、チベット高原、四川や雲南など、多くの牧畜民が暮らしています。この地域では、牛乳、ヨーグルト、バター、羊の肉などが伝統的な食文化として受け継がれています。中国東北部の森林地帯では狩猟民や採集民が暮らしていて、貂の毛皮を使って草原の遊牧民や中国・朝鮮半島の人々と取引をしていました。 このように、東アジアの自然環境は多様なので、これまで様々な言語や習慣、文化を持った多くの民族が暮らしていました。現在、中国に住んでいる人の90%以上は漢民族ですが、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、チワン族、朝鮮族、回族など55の民族がある程度の自由を与えられています。少数民族は全人口の6%程度に過ぎません。しかし、少数民族の自治区は総面積の50〜60%を占め、そのほとんどが軍事、石油、鉱物資源にとって重要な辺境地帯で暮らしています。 東アジアの歴史では、黄河・長江(揚子江)流域に高度な文明が発達していた点を忘れてはなりません。この文明の発展は、秦や漢といった超大国の誕生につながり、現在の中国文化の基礎を作りました。この文明は独自に発展しながら、世界各地に広がり、それぞれの地域で民族や国家が作られていきました。こうして、諸民族や諸国家は、中国の影響を受けながら交流を深め、それぞれの環境や歴史を踏まえながら、様々な形で文化を発展させてきました。東アジア世界は、黄河や揚子江の流域で始まった古典文明に寄り添いながら社会を発展させてきました。そのため、漢字や儒教、仏教は今でも東アジアの文化の重要な文化として残っています。 辛亥革命から10年後の1921年秋、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソンが河南省湖池県仰韶村で新石器時代の文化遺跡を発掘しました。この発掘が、中国で石器時代の研究を始めるきっかけとなりました。赤褐色の磨き上げられた下地に、赤色・白色・黒色などで幾何学模様や動物を描いた彩陶(彩文土器)は、最も興味を引かれます。陶器に不思議な意味を持つ人面魚が描かれている場合もあります。彩陶に代表される黄河上・中流域の紀元前5世紀から4世紀の新石器文化は、その発見地にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれます。西安郊外にある半坡遺跡は、その代表的な集落遺跡の1つです。そこでは多くの竪穴式住居跡が発見されていて、村の周囲には幅5〜6m、深さ1mの防壁が作られていました。主な作物は粟や黍で、豚や犬などの小動物が飼われていました。また、動物に糸を通すための紡錘車も使われていました。村民は、母系家族で暮らしていました。住居や埋葬に大きな違いはなく、まだ強力な指導者も現れませんでした。同じ頃、長江下流では稲作を中心とした河姆渡文化が発展していました。紀元前4500年から紀元前3000年にかけて、東北部の遼河流域で紅山文化が発展しました。紅山文化の遺跡からは、円形や方形の祭壇を持つ祭祀施設や龍を図案にした玉器などが発見されています。祭祀は、様々な地域の人々を結びつけるのに役立っていました。 紀元前4世紀から3世紀頃、各地で父系中心の首長制社会が生まれました。良渚文化は、紀元前3300年頃から紀元前2300年頃まで続きました。長江河口部から太湖周辺にかけて、稲作を中心とした文化が発展しました。大きな祭壇や墳丘墓とともに、儀式用の複雑な玉器も作られました。その後の中原の殷王朝や周王朝などは、そこで出土した琮・璧・鉞などの玉器を王権の証として利用していました。長江の中流域でも、環濠集落が築かれました。このうち、黒陶文化に関する遺跡は、1930年に山東省梨城県龍山鎮で発見されたので、龍山文化とも呼ばれます。黒陶文化は河南省、山東省など黄河中・下流域を中心に、遼東半島から長江流域までかなり広い範囲に広がっています。黒陶は、卵の殻のように薄く、無地で黒く光沢のある土器です。高温で焼成して轆轤を使うため、彩陶よりも高度な土器とされており、殷周の青銅器の原型になったとも考えられています。発掘調査では、黒陶も、厚みのある荒々しい灰陶も多く見つかっています。黒陶や灰陶の中には、独特の形をした三足土器が数多く見られました。鼎・鬲のような三足土器は、その形や使い方によって種類が分かれます。棒のような足を持つ鼎は煮炊きに、袋のような足を持つ鬲は穀物を蒸すのに使われていました。 紀元前3000年後半から紀元前2000年頃にかけて気候が急速に変化すると、それまで栄えていた首長社会の文化は衰え始めました。一方、黄河中流域で栄えていた龍山文化は、大量の武器や戦争犠牲者が埋葬され、支配階級の土塁や巨大な墓がありました。そのため、政治権力の集中が進み、階級間の格差が広がりました。紀元前2000年頃なると、龍山文化は二里頭文化へ発展しました。殷王朝初期の文化は、二里頭文化から発展した二里崗文化です。黄河文明は、この二里崗文化から発展しました。
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古代の時代では、東アジアの文明は、メソポタミアやエジプトなどオリエント地方よりも、おくれていた。 中国で青銅器を生産しだしたのは、紀元前1600年より以降だと考えられている。 なお、メソポタミアで青銅器が作られたのが、だいたい紀元前3500年ごろからである。中国でも紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっているが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易などによって 中国に持ち込まれたものだろうと考えられている。 中国で青銅器が使われ始めた時期は、前1700年ごろからであり、それ以前の時代は土器の時代である。 土器は、中国では前5000年ごろから、使われはじめた。それ以前は、石器時代である。 石器は、中国では前6000年ごろから使われ始めた。 農作物の生産の歴史について、中国では前6000年ごろに、黄河の流域ではアワなどの穀物が栽培され、長江の流域で稲が栽培された。 前5000年ごろ、黄河の中流域を中心に、彩文土器(さいもんどき)が用いられた。(仰韶文化、ぎょうしょうぶんか)という。 どうも、黄河の下流ではなく、中流域のほうが、当時は栄えていたらしい。 前2000年代ごろから、土器が薄手の黒陶(こくとう)に進歩した。黒陶は、高温で焼き、表面を研磨してある。同じころ、厚手の灰陶(かいとう)も生産されていた。 (※ 教科書によっては、前3000年ごろから黒陶が生産されていたとする書籍もある。研究者によって、1000年単位で年数が違うので、あまり細かく覚えなくて良い。) この黒陶が発見された遺跡の名前をとって、これらの文化を竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化という。黄河下流域に竜山遺跡があり、竜山文化も黄河下流域を中心に栄えた。 中国史で、現在存在が証明できた最古の王朝は、殷(いん)である。 伝説では「夏」(か)という王朝があるが、存在は証明されていない。殷は前1700ごろから成立し、前11世紀ごろには滅んだ。 20世紀初めに、殷墟(いんきょ)が発掘された。(殷墟の位置は河南省(かなんしょう)安陽(あんよう)市) この殷墟の発掘などによって、殷では文字に甲骨文字が使われ、金属器に青銅器が使われていたことが分かった。甲骨文字は、亀甲や獣骨(肩甲骨など)に刻まれ、占いに用いられていた。骨の割れ目から、占うようである。 前11世紀ごろ、周(しゅう)が殷を滅ぼした。周の都が鎬京(こうけい)に置かれた。(位置は西安市) 周は前8世紀ごろ内乱になり、そして東の洛邑(らくゆう)に都が移された。(洛邑は現在の洛陽(らくよう)) これ以前(洛邑遷都の以前)を西周(せいしゅう)といい、これ以降を東周(とうしゅう)という。 この東周のころ、周王朝の権威はおとろえており、名目上は周が中国を統一しているが、じっさいは諸侯が勢力争いをする戦乱の時代になっていた。 東周の前半の前770〜前403年を春秋時代(しゅんじゅう じだい)といい、後半の前403年〜前221年を戦国時代(せんごく じだい)という。この2つの時代をまとめて春秋・戦国時代(しゅんじゅう・せんごくじだい)ともいう。 戦国時代には、勢力争いで、韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)・斉(せい)・燕(えん)・楚(そ)・秦(しん)の七カ国が大国になった。この七カ国を戦国の七雄(しちゆう)という。 なお、のちに最終的に、秦が他の諸侯を倒し、周王朝を滅ぼし、秦が中国統一する。 さて、戦国時代のころに戻る。金属器は、この戦国時代のころに、農業で鉄製農具が普及した。 なお、貨幣では、西周後半から青銅貨幣が用いられた。 (※ 高校国語「国語総合」の以下の作品が、春秋戦国時代をあつかった作品である。 (※ 高校国語「古文B」漢文を読んだほうが早い。 リンク: ウィキブックス『高等学校古典B』) 法家(ほうか) 儒家(じゅか) 墨家(ぼくか) 道家(どうか)、老荘思想(ろうそう しそう) 外交策 韻文(いんぶん) 春秋戦国の時代に、諸侯たちは、敵国を出し抜くために改革をすすめようとして、諸侯たちは知識人を登用して集めた。 また、社会の変化により、新しい様々な思想などが表れた。 この春秋戦国時代の、このような知識人たちを諸子百家(しょしひゃっか)という。 儒教(じゅきょう)を創始して説いた孔子(こうし)は、この春秋戦国の時代の思想家である。 孔子や、儒者の孟子(もうし)は、周の制度を理想として、道徳や孝行、礼儀、思いやりによる秩序を説いた。孔子の生きた時代は戦争の時代であったので、だからこそ平和の尊さを説く思想家が表れたのであろう。 なお、孔子の教えが書かれた『論語』をまとめたのは、孔子ではなく、孔子の弟子たちである。 儒者の孟子は、人間はうまれながらに善人であるとする、性善説を説いた。 いっぽう、それまでの儒者に反対する荀子(じゅんし)は、社会維持のための教育を重視し、教育を受けなければ善人になれないとして、性善説を否定し、そして荀子は性悪説(せいあくせつ)を説いた。荀子は性悪説の説明のための例え話で、たとえば病にかかった子の命を救うのは、けっして母の愛ではなく、医師である、医学の教育を受けた医師が病人を救うのである、というような例え話を用いるなどして、儒者の説く身内重視の感情を批判し、性善説の無能さ・不十分さを説明し、荀子は性悪説を説明した。 儒家のほかにも、さまざまな思想が、この春秋戦国の時代にあらわれていた。 儒家(じゅか)の他に、 秦は、法家の思想を採用し、厳格な法治によって強兵政策を行い、秦は強国になった。 思想のほかにも、戦術や兵法を研究して説いた孫子(そんし)などの兵家(へいか)があらわれた。 外交策を説いた、蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)などの縦横家(じゅうおうか)が表れた。 このほか、陰陽五行(いんようごぎょう)によって、天体の運行を人間生活と結びつける陰陽家(いんようか、おんようか)が表れた。 農業の重要性を論じた農家(のうか、※ 思想家の呼び名)も表れた。 文学などでは、各地の民謡が『詩経』としてまとめられた。また、『楚辞』(そじ)には、楚の屈原(くつげん、人名)の韻文(いんぶん)がまとめられた。
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1492年、クリストファー・コロンブス一行がアメリカ大陸を発見したわけではありません。最初のアメリカ人は、まだ1万年以上前、新大陸が未開拓だった氷河期にアジア大陸からやってきた先住民です。旧大陸からの移民と交流することなく、その子孫はアメリカ大陸にメソアメリカ文明とアンデス文明の二大文明を独自に作り上げました。しかし、1600年代にヨーロッパ人がやってきた時、この土地はインディアス(インドを含むアジアの総称)にあると勘違いしました。そのため、インディオ(英語ではインディアン)と呼ばれるようになりました。 世界の栽培種の約6割はアメリカ大陸原産で、私達の暮らしにとても重要な存在です。紀元前8000年頃から、先住民は玉蜀黍、ジャガイモ、薩摩芋、トマト、南瓜、唐辛子など、100種類以上の植物を栽培していました。アメリカ大陸の植物は、世界の歴史を塗りかえてきたといっても構いません。ヨーロッパ人が盗んだ先住民の「贈り物」は、世界中の人々の食生活を変えて、旧大陸の多くの人々を飢餓の危機から救いました。 現在のアメリカ合衆国の領土に住む先住民諸部族は、長い年月をかけて自然環境に慣れながら、部族社会を作り、狩猟や採集を行ってきました。「部族」という名称は、先住民が望んでいた内容を反映しているとは限りません。大抵の部族は白人との接触や他部族との関係から、ヨーロッパ人によって、作られました。メキシコ高原の定住農耕文化は、アリゾナやコロラド盆地の農耕文化に影響を受けて、プエブロは日干し煉瓦の集合住居群を建設しました。プエブロという名前はスペイン語にちなんで、町や集落という意味です。北アメリカ大陸南西部の先住民族の中で、スペイン人が来る前の生活を続けていた先住民部族です。この地域の先住民は、文字を持たずに、独自の口承文化を発展させました。 メソアメリカは、メキシコ北部から中央アメリカ(グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドルの西半分、ホンジュラスの西半分)にかけて広がる熱帯・亜熱帯地域です。熱帯雨林、熱帯サバンナ、ステップ、砂漠、針葉樹林、標高5000mの雪山など、非常に多様な自然環境に恵まれています。 メソポタミア文明やエジプト文明は、大きな川の水を利用して大規模に作物を栽培していました。しかし、メソアメリカ文明の発祥に、大きな川は必要ありません。メソアメリカ文明は、水を大きな河川に頼っていません。中小河川、湖沼、湧き水などを利用した灌漑農業、段々畑や家庭菜園など様々な集約農業、焼畑農業の組み合わせを取り入れていました。 メソアメリカ文明はトウモロコシの農耕で生活の基礎を作っていたので、鉄器、人、重い荷物を運ぶための大きな家畜を必要としませんでした。金や銅製品などの大部分の金属製品は、装飾品や儀式用として使われていました。鉄はアンデス文明と同様、全く使われていませんでした。家畜は七面鳥と犬だけで、牧畜は行なわれませんでした。 紀元前1200年頃、メキシコ湾岸地方にオルメカ文明が発展しました。オルメカ文明は、絵文字の普及とジャガーを神聖な動物と信仰していました。また、支配者の顔を刻んだ巨石人頭像や土製の神殿ピラミッドなどを造りました。オルメカ文明は紀元前500年頃に崩壊しました。オルメカ文明は、メキシコ高原や中央アメリカの後続文化に大きな影響を与えました。 1世紀頃、メキシコ高原にテオティワカン文明が発展しました。テオティワカン文明では、太陽のピラミッドや月のピラミッドなど大小様々な神殿が建てられ、商業や貿易が盛んに行われました。5世紀ごろには、数万人から数十万人が暮らす大都市に成長しました。しかし、7世紀頃から徐々に衰退して、南下してきた部族がそれを引き継いで、発展させました(トルテカ文明)。 16世紀、メキシコ高原の中央に位置するアステカ王国は、最も栄えていました。14世紀、アステカ族はメキシコに移住しました。トルテカ文明を引き継いで、テスココ湖の浮島に首都テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を建設して、強力な軍事力でメキシコの広範囲を支配しました。テノチティトランは20〜30万人が住み、巨大な宮殿やピラミッド、神殿などがある美しい都市でした。その後、スペイン人のエルナン・コルテスがこの街を占領して、1521年にアステカ王国を滅ぼし、メキシコ中央高原で栄えた文化も滅ぼしました。 オルメカ文明は、中央アメリカのユカタン半島にも影響を与えました。マヤ文明はユカタン半島の低地と高地で発展しました。マヤ地域には、ティカル、カラクムル、コパン、チチェン・イッツァなどの大都市を中心に複数の広域王国が築かれた時代と数多くの小王国が築かれた時代がありました。マヤ文明は階段ピラミッドを持つ石造りの都市を多く建設して、マヤ文字という絵文字を使って文字を書きました。マヤ文明は、テオティワカン文明と交流のあった3世紀から9世紀にかけて最盛期を迎えました。高度な天体観測に基づく正確な暦を作り、ゼロの考え方を使用した二十進法による数学も発達させました。マヤの各都市は統一されず、16世紀にスペインに支配されました。 メキシコ南部の高地、オアハカ盆地の山岳都市モンテ・アルバン周辺では、サポテカ文明が発展していました。マヤ文明以降、サポテカ文明は複雑な文字体系を作り、王の即位や戦争などの王朝史について書き残しました。また、マヤの碑文を書き写しました。 中央アンデス地帯は南アメリカにあり、ペルーとボリビアの一部で成り立っています。非常に多様な自然環境を持っています。海岸沿いの砂漠地帯、6000m級の雪山がある山岳地帯、アマゾン川の源流部の熱帯雨林地帯が広がっています。アンデス文化は、海岸沿いや山間部で発展してきました。旧大陸の農民は一本の大河で作物を育てていましたが、アンデス海岸地帯では複数の河川を利用して広範囲に作物を育てていました。これらの川の上流では、アンデス山脈の斜面に段々畑が作られて、そこに水を引くために灌漑水路が整備されました。トウモロコシが育たない高地では、ジャガイモが主な食料となります。このジャガイモを使って、長期保存が可能な冷凍乾燥食品チューニョを作ります。山岳地帯では、駱駝科動物のリャマやアルパカの飼育も行われています。リャマは荷物の運搬に使われ、毛は衣服やロープの材料になり、食肉にもなります。 紀元前3000年頃の形成期には、人々は神殿を建てるようになりました。紀元前1800年頃に土器が作られるようになるまでの長い間でした。紀元前後には、次の社会が成立しています。  12世紀頃、チムー王国がペルー北海岸を支配しました。15世紀頃、インカ帝国によって滅ぼされました。首都のチャンチャンには、様々な王が建てた王宮や住居が多数ありました。 スペイン人が新大陸にやってきた時、インカ帝国は全盛期を迎えていました。インカ帝国は、現在のペルーを中心にエクアドルからチリ北部までのアンデス一帯を支配していました。高度な文明を持つ大帝国でした。インカ帝国が発展した14世紀から15世紀にかけて、600万人から800万人が暮らしていたと考えられています。インカ帝国は文字こそ使用していませんでしたが、ロープの結び目(キープ)を利用して、十進法を完成させました。この方法で記録を残し、人口、兵力、作物、家畜などの統計を取りました。金や銀は鋳型に流し込んで、様々な製法で金属加工品を作っていました。鉄器は当時ありませんでした。青銅は祭祀用具の原料として使用されていましたが、生産用具としては使用されていませんでした。新石器時代の生産技術は、農業に使われていました。インカ帝国では、人々は太陽を信仰しており、王は太陽の息子と考えられていました。マチュピチュは、インカ帝国の第9代国王が住んでいた場所です。首都クスコの北西にあります。インカ帝国は、石造りの建築がとても上手でした。飛脚制度によって、各地に道路や宿駅が作られ、情報網が整備されました。インカ皇帝は太陽神と考えられ、整った政治行政組織を持つ帝国を治めていました。1533年、スペイン人フランシスコ・ピサロがインカ帝国を倒して滅ぼしました。
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イラン諸国家の興亡とイラン文明では、パルティアとササン朝、イラン文明について学びます。 イラン系民族は、ザグロス山脈の東からアフガニスタンにかけての広い地域に住んでいました。この地域はほとんどが高原性台地ですが、砂漠になっている地域もあれば、農耕が出来るほど雨や水の流れがある地域もあります。こうした自然条件に対応しながら、人々は住む場所によって農耕か遊牧で生計を立ててました。マケドニアのアレクサンドロス大王は、バルカン半島北部で勢力を伸ばしました。紀元前334年、彼はアケメネス朝を倒す目的で軍隊を率いて東方遠征へ向かいました。エジプトを占領してアケメネス朝を滅ぼし、インド北西部へ進出しました。そして、バルカン半島からインダス川まで、東西に広がる大帝国を建国しました。大王の死後、彼のアジア領土はセレウコス朝のギリシア人が引き継ぎ、ギリシア人の移住を勧めて、ギリシア風の都市を建設しました。しかし、彼らの力が衰えると、各地で独立のための戦いが始まりました。  アラル海に注ぐアム川の上流にあるバクトリアという地域は、東西からインドへ行くための交通の要所でした。紀元前250年頃、この地域の知事がバクトリア王国を建国して、セレウコス朝から独立しました。ギリシア王朝のバクトリアは、マウリヤ朝の滅亡に乗じて、インド北部に領土を拡大しました。しかし、王位をめぐる内紛や東方のパルティアの発展によって勢いを失い、紀元前139年、スキタイの遊牧民トハラ人に滅ぼされました。ギリシア人が支配したバクトリアではヘレニズム文化が発展しました。この文化は、後にインドのクシャーナ族のガンダーラ美術に影響を与えました。このように、バクトリア王国は東洋と西洋の文化が融合する大きなきっかけとなりました。 アルサケス1世は、カスピ海南東部のパルティア地方に住むイラン系遊牧民の族長でした。アケメネス朝パルティアは、バクトリアと同じ時期にセレウコス朝から独立しました。前2世紀中頃、パルティアのミトラダテス1世がイラン全土を統一しました。ミトラダテス1世は、バビロニアに入り、ティグリス川沿いのセレウキアを滅ぼして、対岸のクテシフォンに軍事基地を造りました。その都市クテシフォンは、その後、パルティアの首都になりました。パルティアは、バクトリア、大月氏、クシャーナ朝とユーフラテス川との間の広い地域を支配していました。その中央集権制はアケメネス朝を参考にしていました。しかし、パルティア国家は多くの豪族で構成されている事実を変えられませんでした。そのため、国内の地方勢力の台頭を止められませんでした。一方、遊牧民(征服者・支配者)と先住農耕民(征服される側)は、どんどん一緒に暮らすようになりました。のちほど紹介しますが、遊牧民の文化は、農民の文化によって変わりました。 パルティアは東西貿易を独占しており、内陸アジアの貿易ルートだけではなく、ペルシア湾(海上ルートの要所)も支配していたため、非常に順調でした。西アジアで初めて中国と交流した国です。中国ではパルティアを、初代君主のアルサケスにちなんで安息と呼んでいます。後漢の漢超はローマ(大秦国)と交流するために甘寧を派遣しましたが、パルティア(安息)は自国の利益を損なわれたくないので邪魔をしました。西方には絹、香水、象牙、宝飾品などを送りました。その代わり、ローマから青銅器やガラス製品、ワイン、オリーブオイル、金などを手に入れました。 東に進出していたローマはパルティアの最大の敵でした。紀元前1世紀にセレウコス朝を打ち破ったパルティアは、ローマがさらに東進するのを阻止するため、シリアに進出しました。紀元前53年のカルラエの戦いでは、クラッスス(ローマの三大政治家の一人)とその遠征軍を撃破しています。しかし、2世紀初頭、トラヤヌス帝率いるローマ軍はクテシフォンを占領して、ペルシア湾岸の先まで行ってしまいました。その後、両国の争いが増え、パルティアの勢力は徐々に衰えていき、224年にササン朝に滅ぼされました。 アルダシール1世はパルティアを倒し、クテシフォンを首都としてササン朝を建国しました。ササン朝という名称は、アルダシールの祖父ササンの名前に由来します。ササン家はゾロアスター教の神官でした。ササン朝は、農耕イラン人を中心としていました。その本拠地は、アケメネス朝と同じ、ファールス地方にあるペルセポリスでした。アケメネス朝統治下のペルシア帝国を復活させるために、イラン人の伝統的な宗教ゾロアスター教を国教としました。また、国をまとめ、中央集権制を確立しようとしました。自分を「イラン人と非イラン人の諸王の王」と名乗ったシャープール1世は、中央集権制を達成した人物です。東はクシャーナ朝を滅ぼし、インダス川西岸まで領土を拡大しました。西では、シリアに遠征したローマ軍を破りました。260年のエデッサの戦いでは、ローマ皇帝ウァレリャヌスを捕虜にしました。その後、ササン朝とローマ帝国は、特にアルメニアの所有権や宗教問題をめぐって何度も争っていました。また、ササン朝もローマ帝国も、東西貿易を支配して、その資金を全て手に入れるために、海陸で積極的な政策を取っていました。ギリシア系ローマ人がこの地を離れてから、ペルシア湾からインドへの航路が建設され、ペルシア商人とエチオピアのアクスム商人がインド洋の貿易権をめぐって争いました。3世紀には、アクスム王国の領土はアラビア南西部を含むまでに拡大しました。紅海の制海権を握った王国は、インドへの進出を計画しました。1世紀中頃に書かれたと思われる『エリュトラー海案内記』には、アクスム王国の名が最初に記されています。次の世紀に入ると、貿易の邪魔になるアラブの遊牧民と戦うために、アラビア半島中部に遠征隊が送り込まれました。 5世紀後半、遊牧民エフタル族が中央アジアに侵攻しました。エフタル族が帝国政治に干渉してきたため、ササン朝は政情不安となりました。中国では、エフタル族を嚈噠や白匈奴と呼んでいました。彼らはトルコ系かイラン系といわれる騎馬遊牧民でした。極端な共産主義がマズダク教によって教えられ、それが流行したため、社会はさらに混乱しました。マズダク教の新宗教はゾロアスター教の異端の一つとも、マニ教に近いとも言われます。極端な禁欲と平等を主張しました。ササン朝最大の英雄ホスロー1世は、この状況を収束させました。ホスロー1世の治世はササン朝の全盛期でした。ホスロー1世はマズダク教団を鎮圧し、社会不安をなくしました。また、税制や軍の運営方法を変えて、政府を円滑に運営するようにしました。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスとの戦いを有利に進め、50年間の平和を実現するとともに、トルコ系遊牧民突厥と同盟を結んでエフタル族を滅ぼしました。ササン王朝の黄金時代はホスロー1世から始まり、彼は「不死の霊魂を持つ者」と呼ばれました。 ホスロー1世が亡くなると、ササン朝はしばらく分裂状態になりました。しかし、孫のホスロー2世の勝利によって、ササン朝は小アジアの大部分・口ードス島・パレスチナ・エジプト・アラビア半島南部までを支配する最大規模の帝国となりました。しかし、彼が軍事費に使った資金は高い税金を生み、ティグリス川はこれまでにない水位まで氾濫しました。彼の死後、ササン王朝の権力は急激に低下して、宮廷内では争いが絶えませんでした。7世紀、アラブ軍の侵攻がササン朝を襲いました。最後の王ヤズダギルド3世は642年のニハ=ヴァンドの戦いでイスラーム軍に完敗して、651年に逃亡先のメルヴ付近で殺害されました。こうしてササン朝は終わりを遂げました。 文化的にもパルティアはヘレニズム世界の一部になっていて、公用語はギリシア語でした。宮廷ではギリシア文化が重視されて、ミトラダテス1世は自分の貨幣に「フィレレン(ギリシアの恋人)」という称号を付けさせました。しかし、支配階級のイラン系遊牧民と征服された農民が融合しながら、1世紀頃から徐々にイランの伝統文化が復活し始めました。王朝末期には、アラム文字で書かれたパフレヴィー語(中世ペルシア語)が公用語となりました。宗教は次第にイラン風となり、ゾロアスター教が信仰されるようになりました。ただし、ミトラダテスというパルティア王の中には、ミトラ神を強く信仰していたような人物もいました。バビロニアでは、セム系とイラン系の宗教も混ざり合っていました。 ササン朝時代には、民間宗教のゾロアスター教が国教となりました。教典『アヴェスター』がまとめられ、多くの言語に翻訳され、ゾロアスター教の神学が成立したのもこの時代です。しかし、王は一般に民間宗教に前向きなので、国内には仏教徒、キリスト教徒、さらには多数のユダヤ教徒がいました。マニが3世紀に始めたのは、マニ教という独自の救済宗教です。マニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教を混ぜ合わせた宗教です。シャープール1世は、世界を否定する善悪二元論、禁欲主義、偶像崇拝を基盤とするマニ教を保護しました。しかし、その後、マニ教は国内で禁止されました。その後、マニ教はシリア、エジプト、北アフリカ、そして当時ローマ帝国が支配していたヨーロッパのガリアにも広まりました。幼い頃、カルタゴに住んでいたアウグスティヌスは、マニ教の影響を受けていました。また、アルビジョワ派のように後世のキリスト教異端者にも影響を与えました。キリスト教もしばらくは禁止されていましたが、431年のエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされると、ササン朝は敵国ローマの反体制因子としてネストリウス派を支援するようになりました。このように、ササン朝とローマとの関係は、キリスト教徒の扱いに大きく関わっていました。ネストリウス派はその後、東洋に布教活動を展開しました。その結果、中央アジアを経て唐の時代に中国に伝わり、景教と呼ばれるようになり、ペルシア湾を経てインドに伝わりました。 ササン朝時代には、建築、美術、工芸が大きく発展しました。これは、アケメネス朝時代から続くイランの伝統的な様式に、インドやギリシア、ローマなどの要素を混ぜ合わせた文化です。磨崖の浮き彫りと漆喰を使った建築にも優れた技術を示しましたが、中でもよく知られているのは工芸美術です。工芸美術には、金、銀、銅、硝子を使った皿、杯、水差し、香炉、鳥獣・植物柄の絹織物、彩釉陶器などがあります。イスラーム時代はササン朝美術の様式や技法を取り入れました。西はビザンティン帝国を経て地中海地域に、東は中国の南北朝時代、隋・唐時代、飛鳥・奈良時代を通じて日本に伝えられ、それぞれの地域の文化に影響を与えました。日本では、正倉院の漆胡瓶、白瑠璃椀(カットグラス製)、法隆寺の獅子狩文錦などが挙げられます。
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ギリシア人の都市国家Ⅰでは、地中海地方の風土とエーゲ文明について学習します。 地中海とその沿岸を囲むようにヨーロッパ・アジア・アフリカの3つの大陸があります。エーゲ海の島々やバルカン半島で、オリエントの影響を受けたエーゲ文明が現れました。エーゲ文明の滅亡後、ギリシア・ローマの都市文明が発展しました。エーゲ文明は、その後のヨーロッパ社会の直接の祖先です。地中海沿岸の自然はどこも変わりません。ギリシアの年間降水量は400〜500mmで、そのほとんどが秋から冬にかけて降ります。夏は乾燥していて気温も上がります。ナイル川を除けば、大きな川はありません。国土はほとんどが山岳地帯で、平野は小さく、山脈で区切られています。土地は石灰岩や片岩で出来ており、表土は薄く、保水力もあまりありません。したがって、ナイル下流や北イタリアのような穀物栽培に適した地域以外、小麦などの作物は保水力を保つために常に耕し、作業をしなければなりませんでした。しかし、こうした土地は、オリーブ・ブドウ・イチジクなどを果樹栽培するのに向いていたり、牛や豚などの大型動物よりも羊やヤギを飼育するのに向いていたりしました。陸上では移動が困難なため、ほとんどの人は海岸沿いの都市に住み、地中海の海路を利用していました。また、小アジアの高原・バルカン半島北部・イタリアの山岳地帯にも住んでいました。彼らは都市をつくらず、その多くは沿岸部の都市と対立していました。アテネやローマなどの都市では、地方の人々を奴隷として使う場面もありました。地中海世界には、このような中央と周辺の支配関係がありました。いつも旱魃の可能性があったので、オリーブ油を売って穀物を持ち込もうとしたところ、交易が非常に盛んになりました。このように、海上交易によって穀物を手に入れる方法は、古くから地中海の人々にとって最も重要な出来事の一つでした。 地中海は、ある場所から別の場所へ移動するための重要な手段になっていたため、その周辺の古代世界にはひとつの文化が生まれています。地中海世界には、独特のポリス的文明が生まれました。オリエントの残酷な王に支配された奴隷とは対照的に、ポリス的文明の人々は自給自足で農業に取り組んでいました。この地域では、雨水を利用した小規模な自作農が出来たので、多くの農民がそうやって働き、自立した大人になっていきました。平野が狭く、大規模な農業をしなかったので、王や貴族の所有する土地は、平民の所有する土地よりそれほど大きくなりませんでした。以上の背景からポリス的文明の人々が現れました。 新石器時代から青銅器時代にかけて、人々は世界中に住んでいました。やがて、セム語系民族は東地中海からアフリカなどへ、インド=ヨーロッパ語系民族は北から南へ移動していきました。その中でもギリシア人と古代イタリア人は重要な存在で、中にはラテン語を話す人もいました。 古代地中海世界では、西洋文明の母体となる古典古代文明を生み出しました。ギリシア文明以前に、オリエントの影響を受けてエーゲ海周辺に初めて青銅器文明が発展していました。この文明はエーゲ文明と呼ばれています。 紀元前2700年頃、クレタ島(エーゲ海最大の島)で始まったクレタ文明は、エーゲ文明の中でも最も重要な文明の一つでした。神話上クレタ島の王とされるミノスにちなんで、ミノア文明とも呼ばれています。20世紀初頭にクレタ島の都市クノッソスを発掘したイギリス人アーサー・エヴァンズは、クレタ文明の全体像を初めて明らかにした人物です。紀元前2000年頃、クレタ島では王の権力が強まり、各地に複雑な設計で豪華な宮殿が出現するようになりました。クノッソスに代表されるこの宮殿は、宗教的権威を持ち、大きな権力も持った王の住居でした。クレタ文明を築いた民族がどんな民族なのか、誰にも分かりません。宮殿に防御壁がないため、インド・ヨーロッパ語系の民族ではなく、外部の人間をあまり怖がらない民族だったかもしれません。宮殿の壁に描かれた壁画には、人間と海の生き物が生き生きと描かれています。海洋民族らしい明るく開放的で平和な文明を表現しています。特に、ギリシア神話では、海豚は神々の使いと考えられていました。「パリジェンヌ」と呼ばれる女性達や大きな牛を飛び越える曲芸師の絵などもあります。 宮殿の広場の周りに設置された巨大な倉庫もクレタ文明で重要な役割を果たしています。支配者は、各地の貯まった物資を再配布する場所として宮殿を利用しました。宮殿を建てた人々は、まだ解読されていない絵文字や線文字Aという音節文字を使って、このような経済システムを運営させるために必要な文字記録を行なっていたように思われます。 さらに、クレタ人は強力な艦隊を作り、エーゲ海の航行権を握って、エジプトや南イタリアと盛んに交易も行っていました。クレタ島の北にあるテラ島(現在のサン・トリーニ島)にも同様の文化が栄えていました。紀元前1500年頃、火山が噴火し、テラ島の大部分が海中に沈んでしまいました。この出来事が、プラトンなどが語ったアトランティス大陸伝説につながったと考えられています。 一方、インド・ヨーロッパ語系のギリシア人は、紀元前2000年頃に北方からギリシア本土に移住してきました。彼らがクレタやオリエントと協力しながら、紀元前1600年頃に築いた青銅器社会がミケーネ文明です。
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アラビア半島の大部分は砂漠ですが、南部のイエメン地方のように雨が多く、農耕に適した地域もあります。また、アラビア半島西部のヒジャーズ地方などには、オアシス都市があり、交易によって支えられました。セム語系のアラブ人は昔からアラビア半島に住んで、羊や駱駝を群れで遊牧したり、隊商と交易したり、小麦やナツメヤシを栽培したりして、各地域の自然環境に合わせて生活してきました。しかし、6世紀になると、アラビア半島は新たな歴史的変化を迎え始めます。ササン朝ペルシャとビザンツ帝国は長らく、戦争と和解を重ねてきました。6世紀中頃になると、ホスロー1世とユスティニアヌスが和平条約を結びました。和平条約以降、両国の勢力が衰えたため、東西を結ぶ交易路「オアシスの道」は、両国の境界で途絶えていました。また、紅海貿易では帆船の航行が難しく、危険を伴うため、イエメンからシリアに至るヒジャーズの山間部を通る隊商路が利用されるようになりました。そこで、中国やインドの産品(絹織物・陶磁器・香辛料など)が、「オアシスの道」と「海の道」を通って、アラビア半島西部のヒジャーズ地方に運ばれてきました。この国際的な中継貿易を引き継いだのが、ヒジャーズ地方の交易都市メッカの商人達です。メッカの商人達はそれで大儲けするようになりました。また、メッカは、当時のアラブ人の多くが信仰していた偶像崇拝の多神教が盛んな場所でもありました。 そして、メッカの人々はアッラーを最も重要な神として信仰していました。イスラーム教の開祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家出身の商人でした。なお、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなった後、次のカリフは通常クライシュ族の子孫から選ばれました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、幼い頃に両親を亡くして、祖父や叔父達に育てられました。25歳の時、金持ちの未亡人ハディージャ・ビント・フワイリドと結婚して、少しずつ瞑想するようになりました。610年頃、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは自分が唯一の神アッラーの言葉をいただいた預言者だと気付き、唯一の神を信仰する厳しい宗教イスラーム教を広めるようになりました。しかし、偶像崇拝や富の独占に反対していたため、メッカの富裕な商人達からひどい扱いを受けました。部族間の争いに困っていた現地の住民から頼まれて、622年に数人の信者とともにヤスリブ(メディナ)に移住しました。この移住をヒジュラ(聖遷)といいます。このヒジュラ(聖遷)がイスラーム(ムスリム)共同体(ウンマ)の始まりと考えられています。世界中のムスリムは、同じウンマの仲間だと思われています。つまり、ウンマは実在する場所ではなく、ムスリム全員が知っていながら、目に見えない繋がりです。そのため、西暦622年はイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年とされています。ヒジュラ暦は月を基準にした太陰暦で、1年は354〜355日、12カ月です。しかし、太陰暦では暦や季節が合わなくなってしまいます。このため、農業や財務では太陽暦が各地で使われました。現在でも、イスラーム諸国の宗教行事にはヒジュラ暦が使われ、財務や国家行事、国際関係には西暦も使われています。 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがメディナに移住してから、メディナとメッカの間で戦争がありました。しかし、政治と戦争が得意なムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、630年に誰も殺さずにメッカを占領しました。多神教を祀るカーバ神殿の偶像を破壊して、そこをイスラーム教で最も重要な場所にしました。メッカを征服後、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフはアラビア半島のほぼ全域を支配するようになりました。アラブ人の諸部族は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフと契約を結ぶために次々とメディナに使節を送りました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなるまでに、アラビア半島はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの支配下でゆるやかに統一されていたため、メディナを中心とした初期のイスラーム国家が誕生しました。 中でも『コーラン』は、イスラーム教で最も重要な聖典です。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってから、預言者ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフに伝えられた神の言葉を集めた書物と言われています。アラビア語で書かれています。「アッラー以外に神はおらず、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神の使徒です。」という信仰告白は、この教義がどのような内容なのかを表しています。つまり、一人の神だけだとはっきりと伝えて、イスラームの信者は、主人アッラーの召使いとして従わなければならないと教えられています。そうすると、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神から遣わされた使者です。しかし、預言者は神の言葉を預かっただけなので、イスラーム教徒はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフを「市場を歩いているただの人」にしか見えません。 イスラーム教はみんなの宗教なので、どんな人種でもイスラーム教徒はみんな兄弟姉妹と考えられています。宗教だけでなく、政治、社会、文化も含めたイスラーム教の教えとして、最も重要な部分は『コーラン』にあると考えられています。したがって、コーランの章や節を解釈して、イスラームの具体的な教義やルールを考えなければなりません。六信五行では、イスラーム教徒の信仰と行動を短くまとめています。六信とは、神への信仰・天使・聖典・預言者・来世・神の予定を指します。五行とは、信仰告白・礼拝・離俗・断食・メッカ巡礼を指します。六信五行の内容は、大多数を占めるスンナ派の場合です。シーア派に関しては、少し事情が違います。 このように、イスラーム教は政治、経済、社会、文化などを含む「生活の体系」となっています。コーランと預言者の言葉(スンナ)を中心に、一般常識となるイスラーム法(シャリーア)が9世紀までに定められました。ウラマーと呼ばれる知識人・学者が、法律を作り、法の解釈を行うようになりました。その後、彼らは法学者、裁判官、教師などとして、政治や社会で重要な役割を果たしました。 632年にムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、メディナのイスラーム教徒は、クライシュ族の長老アブー・バクルをイスラーム共同体の指導後継者に選びました。このような共同体の指導後継者をカリフ(ハリーファ)といいます。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは宗教的権力と政治的権力を持っていましたが、カリフ(ハリーファ)は政治的権力しか引き継いでいません。しかし、アブー・バクルが即位すると、アラブ諸民族は次々とイスラーム共同体から脱退するようになりました。アラブの伝統に従って、契約はムハンマドの個人的な取引と考えられていました。アブー・バクルは、ジハード(信仰のための戦い:聖戦)を通して、イスラーム共同体から脱退したアラブ諸部族と仲直りして、支配下に置きました。また、シリアとイラク・イランを支配するための大作戦を開始しました。そこでアラブ人イスラーム教徒は、カーディシーヤの戦い、ニハーヴァンドの戦いでササン朝軍に勝利すると、シリアのビザンツ軍に対してもヤルムークの戦いで勝利しました。651年、ササン朝は滅亡しました。642年になると、シリアに続いて、エジプトも支配しました。ササン朝が終わり、エジプトやシリアからビザンツ軍が撤退すると、古代オリエントは滅亡して、新しい思想に基づくイスラーム世界に変わりました。 ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、共同体内部で指導者の地位を巡って意見が分かれるようになりました。実際には、共同体は4人のカリフ(アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーン、アリー・イブン・アビー・ターリブ)を順番に選びました。しかし、アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンのカリフの正統性に同意しない派閥がいました。この派閥は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの従兄弟で娘婿のアリー・イブン・アビー・ターリブこそが神に選ばれた人物なので、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってすぐに指導者になっていなければならないと考えていました。この派閥が、シーア派(イスラーム教の少数派)の母体となりました。一方、4人のカリフを認めた人々は、スンナ派(イスラーム教の多数派)の母体となりました。一方、スンナ派は、共同体全体から選ばれ、初代から4代目までのカリフを「正統カリフ」と呼んでいます。しかし、第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンは嫌がる人に殺され、第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブは過激派に暗殺されました。ウマイヤ朝のムアーウィヤは、シリアの総督を務めており、シリアのダマスカスでウマイヤ朝を開くと、ようやく政治的混乱に終止符を打ちました。多くのスンナ派は、カリフ制の継承を悪く思っていました。 8世紀初めになると、ウマイヤ朝は安定した政権を築いて、より多くの領土を手に入れました。東側では、アム川の東に位置するソグディアナとシンド(インド北西部)を支配しました。その結果、これらの地域にイスラーム教が広まりました。西側では、ベルベル人の抵抗を受けながら、北アフリカを西進しました。711年になると、イベリア半島に進出して、西ゴート王国を滅ぼしました。この時から1492年にグラナダが陥落するまでの約800年間、イベリア半島はイスラーム教に支配されました。その結果、アラブ・イスラーム文明が大きく発展しました。ウマイヤ軍は頻繁にフランク王国に攻撃を仕掛けましたが、トゥール・ポワティエ間の戦いで破れたので、ピレネー山脈を越えた地域の永続的な支配は出来ませんでした。 アラブ人は、家族を連れて支配地に移住しました。その後、各地に軍営都市(ミスル)を建設して、そこを拠点に他民族を支配しながら、新たな征服を進めていきました。イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート、北アフリカのケルアンなどは、いずれも新しく建設された軍営都市でした。商人達は「イスラームの平和」を背景に、旧都市や新都市を結ぶ密接なネットワークを築いていき、大きな経済圏を作りました。このため、7世紀終わり頃から『コーラン』の文字が入ったアラブ貨幣(ディナール金貨とディルハム銀貨)が作られるようになりました。 しかし、ウマイヤ朝時代、アラブ人ムスリム(支配者集団)は多くの特別な権利を持ち、土地を所有していても十分の一税(ウシュル)を支払う人は限られていました。一方、国家財政は地租(バラージュ)と人頭税(ジズヤ)から成り立っているので、征服地の原住民だけが支払っていました。これらの税金は、イスラーム教徒になっても、免除の対象外でした。イスラーム教が唯一神の啓示の書と認める経典を持つキリスト教徒やユダヤ教徒などは、当初からイスラーム教徒と等しい経典の民と考えられていました。このため、税金を納めたら、ズィンミー(イスラームの支配下にある庇護民)として生命・財産の安全や信仰の自由を与えられました。さらに、ゾロアスター教徒なども旧ササン朝で多数を占めていたので、ズィンミーとして信仰の自由を与えられました。
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アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅱでは、アッバース朝~ブワイフ朝までの内容を学習します。 『コーラン』には、信者は誰でも平等と書かれています。そのため、非アラブ人は、イスラーム教に改宗すれば、アラブ人と同じ権利を持てるようになると考えました。これらの非アラブ人をマワーリーといいました。しかし、改宗は権力を持ったアラブ人に頼っていたため、主人とマワーリーの地位には格差が生まれました。また、農民の地租が政府の財源となっていたため、全員が同じ税金を納めるのは難しく、ウマイヤ朝の強権政治を嫌がるアラブ人もいました。次第に、アラブ人ムスリムは、イスラーム共同体を導くのはムハンマド家の一族が相応しいと考えるようになりました。この家系のアッバース家はこの考え方を利用しながら、マワーリーやシーア派ムスリムと協力して、ウマイヤ朝を倒そうと密かに運動を始めました。革命軍は、イラン東部のホラーサーン地方で立ち上がり、ウマイヤ朝の軍隊を追い払って西へ移動しました。749年、彼らはイラクの首都クーファにたどり着き、750年になると、アブー・アル=アッバースを初代カリフとして迎え入れました。以降、アッバース朝がイスラーム帝国として支配を始めました。 しかし、ウマイヤ派を追い出したアッバース朝も、政権運営を安定させるため、やはりスンナ派(多数派)に従わなければなりませんでした。革命運動に協力したシーア派の期待は裏切られ、多くのシーア派ムスリムの命が奪われました。第2代カリフのマンスールは、アッバース朝国家の基礎を築きました。マンスールは、アラブ人兵士の子孫を中心に成り立ち、王朝を築くために多くの功績を残したホラーサーン軍に頼りました。この軍隊こそが、カリフを支える主要な存在でした。また、租税庁や文書庁などの官庁を設けてイラン人の書記を雇うほか、各官庁をまとめる宰相(ワズィール)という役職を設けて、官僚機構の整備を進めました。また、主要な街道に沿って馬を走らせる駅伝の制度を設けたのも、地方の状況を知るのに有効で、駅伝の制度がやがて中央集権的な体制作りにつながっていきました。 マンスールも新王朝に見合う首都の建設に力を入れました。彼は、現地をよく見て、ティグリス川の西岸にある小さな町バグダードを新首都にしようと決めました。766年に完成した新首都は「平安の都」(マディーナ=アッサラーム)と名付けられました。三重の城壁に囲まれた内側にカリフの宮殿やモスクが建ち並び、商人や職人は城壁の外で生活しなければならなくなりました。バグダードは東西貿易路の交差点にあり、豊かなイラク平野の中央に位置していたので、建設後、すぐに都市が発達しやすくなりました。ティグリス川の両岸に発展した都市では、イスラーム世界の産物だけでなく、中国の絹織物や陶磁器、インドや南アジアの香辛料、アフリカの金、奴隷などが様々な市場(スーク)に並びました。経済の発展とともに、多くの文人、学者、技術者がバグダッドに移住しました。やがて、人口100万人のバグダッドを中心に、最先端のイスラーム都市文明が生まれていきました。 アッバース朝では、イラン人が重要な仕事に選ばれるようになり、イスラーム法が成立して、全てのムスリムが平等に扱われるようになったため、アラブ人の特別な権利は次第に失われていきました。アラブ人以外でもイスラーム教に改宗すれば人頭税を払わなくてよくなり、アラブ人でも農作物を作ると地租を払わなければならなくなりました。このような課税の仕方は、その後のイスラーム王朝が全て守らなければならない規則となりました。公用語としてアラビア語が使われ、書物も全てアラビア語で書かれていました。一方、イスラーム社会は、周辺地域のイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れました。そして、イラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人の長所を生かしながら使い分けてきました。カリフの政治はイスラーム法に基づきますが、その法律を読み解くウラマー(知識人)は、様々な民族の出身者から成り立っていました。 このように、ウマイヤ朝からアッバース朝への移行は、アラブ人が非ムスリム人を支配するという考え方から、民族よりも宗教を重視した仕組みへの移行と考えられます。こうした理由から、ウマイヤ朝の時代を「アラブ帝国」、アッバース朝の時代を「イスラーム帝国」と呼ばれています。 アッバース朝の成立後、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世は北アフリカに亡命しました。756年、地中海からイベリア半島に渡って、後ウマイヤ朝を建国しました。コルドバを首都として、ペルペル人の反乱を抑えるとともに、政権の基礎を固めました。後ウマイヤ朝とアッバース朝は政治的に対立しましたが、学者達はバグダードやダマスカスへ行き、東方のイスラーム文化を学びました。そして、学んだ成果をイベリア半島に持ち帰りました。アブド・アッラフマーン3世の時代、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えて、コルドバは人口50万人の大都市に成長しました。アブド・アッラフマーン3世は、マグリブ(エジプト以西の北アフリカの一部)西部の大部分とイベリア半島を支配しました。アッバース朝に対してカリフの称号も使いました。 一方、東側のアッバース朝では、東西貿易の発展と灌漑農業の拡大によって、ハールーン=アッラシードの時代に黄金時代がやってきました。9世紀から10世紀にかけて、バグダードは「無敵の都市」と呼ばれるほどの成功を収めました。しかし、ハールーン=アッラシードが亡くなると、イランのホラーサーン地方でターヒル朝がすぐに独立を宣言すると、東部では鍛冶職人(サッファール)出身のヤークーブがサッファール朝を建国しました。中央ユーラシアのアム川の東側では、イラン出身の貴族がサーマーン朝を建国すると、サッファール朝を倒してホラーサーン全域を支配しました。 このようにカリフから独立王朝が登場すると、カリフの勢力は徐々に衰退していきました。エジプトでは、トルコ総督がバクダッドへの納税を拒否したため、トゥールーン朝が独立するようになりました。さらに、969年、チュニジアから始まったファーティマ朝がエジプトを支配すると、フスタートの北側に首都カイロを建設しました。ファーティマ朝前期のエジプトは紅海貿易で繁栄しました。しかし、ファーティマ朝後期のエジプトはカリフの統治が悪く、十字軍の侵攻を受けたため、衰退しました。ファーティマ朝は、シーア派の中でも最も過激なイスマーイール派に属していました。統治当初からカリフの称号を使用して、アッバース朝カリフの権力を否定していました。 地方王朝の独立に続き、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝の支配者がカリフの称号を手に入れると、イスラーム世界は二つに分かれました。アッバース朝カリフの勢力は大きく衰退して、10世紀に入るとカリフの勢力はイラクの一州に限られるようになりました。独立王朝の台頭とトルコ人奴隷兵(マムルーク)の活躍が、カリフ制の崩壊を招きました。9世紀以降、アッバース朝のカリフはホラーサーン軍とその子弟に代わって、忠実なマムルークと強力な親衛隊を編成しました。しかし、トルコ人マムルークが力をつけてくると、カリフ制を好きなように変更したり、無くしたりするようになりました。 このような混乱の中で、カリフはブワイフ朝(イラン人の軍事政権)にイスラーム法を執行する権限を与えました。ブワイフ朝は穏健なシーア派王朝でしたが、彼らの君主はカリフの統治権と引き換えにスンナ派カリフの保護に協力しました。以後、10世紀半ばから11世紀末にかけて、イスラーム世界は政治制度や人々の暮らしぶりなど、様々な面で新たな変革期を迎えました。
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本節から2回に分けて、イスラーム文化がどのように成り立ったのかを見ていきます。 イスラーム世界は、古代オリエントやヘレニズム文明のように、古くから多くの先進文明が栄えた地域で発展しました。イスラーム文明は、アラブ人が他国を征服する際に持ち込んだイスラーム教とアラビア語を中心に、征服した国の人々が祖先から受け継いできた文化遺産が融合した文明です。また、アラブの大征服によって、様々な文化が集まった広い地域が一つの文化世界を作るようになりました。そのため、文化を共有して、発展しやすくなりました。ビザンツ帝国のディナール金貨も、ササン朝時代のディルハム銀貨も、生活を支える通貨制度として使われていました。初期の代表的建築物として、エルサレムの「岩のドーム」が挙げられます。シリアやイランから来た建築家、コンスタンティノープルから来たモザイク職人などの技術を集めて建てられました。同時に、この融合文明はイスラーム教に基づいた普遍的文明でした。イスラーム教は、全ての信者は平等なので、人種による差別は間違っていると教えています。イスラーム教は世界宗教なので、様々な人が信仰しています。こうして、イランのイスラーム文化、トルコのイスラーム文化、インドのイスラーム文化などは、それぞれの地域や民族性を踏まえて作られました。どれもイスラーム教に由来する部分がありますが、独自の特徴も持っています。例えば、モスクの建築を見ると、いずれも礼拝の場所として利用されています。しかし、建築様式や壁面の装飾は、イラン、トルコ、インドなど各地の文化が反映されています。 ビザンツ帝国も西ヨーロッパの人々も、拡大するイスラーム世界を恐れ、非常に嫌っていました。古代ギリシャ・ローマ人はイスラーム教徒を「サラセン人」と呼んで、その存在を貶したり、憎んだりしていました。また、イスラーム教に改宗するか、人頭税を払って元の宗教を維持するか、両方を拒否して戦うかという3つの逃げ道がありました。このような選択を宗教として考えるのは、イスラーム文明がいかに高度化しているかという不安からきています。カール大帝が神の戦士としてサラセン人を懲らしめる『ローランの歌』を見ると、当時のキリスト教徒がいかに高い意識を持っていたかが分かります。近代以前のヨーロッパでは、ムハンマドを性的に不道徳な人物と感じていました。そのため、イスラーム教を誤った宗教と考えている人がほとんどでした。 それでもビザンツ帝国とイスラーム世界の貿易は続き、地中海を経由した西ヨーロッパとイスラーム世界の貿易も止まりませんでした。11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教徒は、イベリア半島の中部トレドを訪れ、アラビア語を学んで、イスラーム教徒が学んだ哲学や医学を取り入れました。彼らは、古代ギリシアの文献をアラビア語に翻訳して、さらにアラビア語の科学・哲学の著作をラテン語に翻訳しました。これらの著作から学んで、12世紀のルネサンスは発展しました。イスラーム文明が世界史の中で重要な役割を占めたのは、人類の歴史で豊富な実績を残しただけではありません。哲学や科学といったギリシア文明の成果を引き継いで、それを土台にしながら、ヨーロッパ文明へと発展させたからです。 西アジアのイスラーム世界は、都市を中心に発展しました。農村や遊牧民の集落はやがて都市とつながり、都市は行政・手工業・商業・芸術・教育などの中心地となりました。アッバース朝の首都バグダードやマムルーク朝の首都カイロには、官僚・軍人・商人・職人のほか、ウラマーと呼ばれるイスラーム諸学の知識人が住んでいました。イスラーム都市は城壁で囲まれ、その中に大きなモスク(礼拝堂)、マドラサ(学院)といわれる学校、スークやバザールといわれる市場、キャラバンサライ(隊商宿)といわれる宿泊所などが建てられていました。  イスラーム都市間の貿易路は、ムスリム商人だけでなく、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ヒンドゥー教徒・中国人・ソグド人など、多くの商人が利用しました。その結果、ユーラシアとアフリカに非常に大きな国際貿易網が生まれました。海では、ペルシア湾ルートがアッバース朝の首都バグダードと直接つながっていました。しかし、10世紀にバグダードが政治的に混乱すると、ペルシア湾ルートは紅海ルートに変わり、カイロやアレクサンドリアが貿易網の中心地として発展しました。11世紀頃から、アレクサンドリアと関係のあるイタリアの都市は、東方貿易で大きな利益を上げるようになりました。アッバース朝が衰退すると、陸上貿易のネットワークはセルジューク朝に引き継がれました。13世紀、モンゴル帝国の時代になると、中国とヨーロッパが結ばれました。陸上貿易のネットワークを通じて、新しい発想や生産技術が、遠く離れた場所にも素早く広まりました。ここで、東イラン出身のペルシア語を話す神学者ガザーリーが著した『哲学者の自己矛盾』という本を紹介しましょう。『哲学者の自己矛盾』は、11世紀の終わり頃にバグダッドで書かれた哲学批判書です。アラビア語で書かれているので、イスラーム世界で広く読まれました。これは、哲学者・医師出身のイブン・ルシュドが、1180年以降に、早くもイベリア半島で『自己矛盾の自己矛盾』を著して、最高の批判をしている事実からも分かります。 紙の生産は、イスラーム文明の発展と繁栄を支えた技術の1つです。それまで使われていたパピルスや羊皮紙は高価で重量感がありました。紙は安くて軽く、そこに書かれた文字の修正も困難でした。紙の普及で、文字を書いたり、記録を残したり、連絡を取ったりしやすくなり、イスラーム文明の発展に大きな影響を与えました。ダラス河畔の戦いで、唐の捕虜がイスラーム教徒に製紙法を教えたといわれています。8世紀中頃にはすでにサマルカンドに製紙工場がありました。バグダードやカイロなど多くの都市で製紙工場があり、様々な種類の紙が作られ、売られていました。13世紀頃、この技術はイベリア半島やシチリア島を経由してヨーロッパに伝わりました。 10世紀以降、イスラーム社会は、イスラーム法の表面的な運用からくる堅苦しく見た目だけの信仰に満足出来なくなりました。神への愛と独自の修行によって自我を捨て、神と一体になろうとする神秘主義(スーフィズム)が盛んになりました。スーフィーとは、神秘主義を信仰する人々(粗い毛皮をまとった人々)をいいます。12世紀から、神と一体になったと考えられる聖人を中心に、神のために指導し祈りを捧げる役割を期待されるようになりました。このような状況から、多くの神秘主義教団(スーフィー教団)を結成しました。教団員やムスリム商人などが、アフリカ・中国・インド・東南アジアなどに進出して、現地の習慣に合わせてイスラーム教を広めました。カーディリー教団・ナクシュバンディー教団・メヴレヴィー教団が神秘主義的教団として知られました。 ナクシュバンディー教団 都市に暮らす人々とこうした神秘主義者達が、イスラーム文明を支えてきました。カリフ・スルタン・高官・裕福な商人達は、モスクやマドラサ、病院などの宗教施設や公共施設を建てました。市場や商店から出るお金は、それらを維持運営するための費用として寄付されました。このように提供された財産とそれを提供する寄進制度をワクフといいました。ワクフを上手く活用して、多くのイスラーム都市は社会基盤を整備しながら、順調な発展を遂げました。
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引き続き、イスラーム文化について学習します。今回はイスラーム時代の作品とかも見ていきます。 アラビア語言語学や『コーラン』の解釈学、そして神学や法学は、イスラーム教から最初に発展した学問分野です。特に法律は、イスラーム教徒の生活と大きく関わっています。8世紀以降、イスラーム教徒が増え、意見の対立が激しくなると、コーランのみで解決出来なくなりました。こうした変化の中で、マーリクやシャーフィイーなどの法学者は、『コーラン』やムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉に基づいてイスラーム法を整理する作業に力を費やしました。8世紀から9世紀にかけて、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉や行動に関する多くの伝承(ハディース)を残しました。ある伝承が真実かどうかを確かめるには、誰がそれを伝えたかを調べなければなりません。そのため、イスラーム世界では特に伝記が流行しました。カリフやスルタンの伝記とともに、政治家・軍人・知識人・商人などの大規模な伝記が多く書かれました。歴史学の分野でも伝記は非常に重要です。例えば、11世紀に書かれた『バグダード史』は全14巻で、第2巻以降、全て人物の生涯を描いた内容になっています。彼らには多くの弟子がいて、「四正統法学派」といわれるスンナ派(シャーフィイー派・マーリク派・ハンバル派・ハナフィー派)とその流れをくむシーア派が相次いで誕生しました。やがて、日常生活を規制するイスラーム法が整備されると、全てのイスラーム教徒はいずれかの法学派に所属するようになりました。このように、イスラーム教やアラブの伝統に遡れる学問をイスラーム諸学(固有の学問)といいます。 イスラーム教徒の子供は、まず『コーラン』を習います。子供達は家庭やモスクで『コーラン』を覚えると、良い先生を見つけるためにマドラサ(学校)に行きます。そして、法学・神学・哲学・歴史などのイスラームの学問を学びました。これが、イスラーム教徒が一流の知識人・学者(ウラマー)になるための唯一の方法でした。例えば、中央ユーラシアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバの子供達は、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、エジプトのカイロやアレキサンドリアにイスラーム教を学びによく行きました。また、これらの機関は寄付金(ワクフ)で支えられていたため、合格した学生は無料で勉強を続け、衣服や食料も支給されました。メッカ巡礼と並んで、遠く離れた都市への「学問の旅」は、人々の知識や情報の共有に役立ちました。また、イスラーム文化の発展にも大きな影響を与えました。 イスラーム法学は、9世紀までにイスラーム法(シャリーア)を整理するのに役立ちました。政府や権力者がイスラーム法を制定していません。ウラマーが『コーラン』やハディースを研究して、イスラーム教徒としての行動規範をまとめた法律です。主に、礼拝・断食・巡礼などに関する「儀礼的規範」と婚姻・相続・刑罰などに関する「法的規範」から成り立っています。また、税金の仕組みや戦争の規定など、イスラーム教に基づいた政治の基本も語られています。イスラーム法には「やっていい内容」と「やっていけない内容」が数多くあります。しかし、イスラーム教徒が日常生活をどのように送るかについても、非常に配慮されています。例えば、イスラーム教徒はお酒を飲んだり、豚肉を食べたりしてはいけません。 伝承学から発展した歴史学も、固有の学問の一部でした。タバリーは9世紀から10世紀にかけて生きたイラン人の歴史家です。バグダードでイスラーム語学を学んでから、人類の誕生から始まる年代記形式の世界史『諸使徒と諸王の歴史』を著しました。これがアラブ歴史学の伝統となりました。イブン・ハルドゥーンは14世紀、北アフリカやイベリア半島で様々なスルタンに仕えました。その経験を活かして書いた『歴史序説(世界史序説)』では、都市と遊牧民の交渉を中心として、王朝興亡の歴史に法則性があったと主張しています。また、アル=マクリーズィーはイブン・ハルドゥーンから歴史を学びました。アル=マクリーズィーの主著『エジプト学』は、マムルーク朝時代のエジプト社会を生き生きと伝えています。 9世紀初頭にギリシア文学がアラビア語に翻訳されるようになると、イスラーム教徒の外来の学問は大きく発展しました。イラン南西部のジュンディシャープール学院では、イスラーム以前からギリシアやインドの学術をシリア語やパフラヴィー語(中世ペルシア語)で研究していました。アラブ人が各地を占領すると、ネストリウス派の学者はこの研究所とその成果の全てを引継ぎました。その結果、ヘレニズム化したギリシアの学術を受け継ぎました。また、アッバース朝のカリフ・マームーンはバグダードに「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を建てました。ここに学者を集めて、ギリシア語やペルシア語の文献をアラビア語に翻訳させる作業を行いました。ファーティマ朝時代のカイロにも、シーア派の教義を中心に哲学、数学、天文学などを研究する場所として「知恵の館(ダール=アルイルム)」が建てられました。イスラーム教徒は、まずギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを、これらの翻訳を通じて学びました。そして、臨床・観察・実験を通して、これらの考え方をより良く、より正確にしました。インドの医学・天文学・数学も学ぶようになり、特に、数字(後のアラビア数字)や十進法、ゼロの概念について学びました。そして、この2つの考えを組み合わせて、新しい発想が生まれました。代数学や三角法などは、フワーリズミーらによって生み出されました。フワーリズミーの数学書がラテン語に翻訳されると、「代数学」を意味する「アルジェブラ」という言葉が使われるようになりました。また、光や色の伝わり方、光の曲がり方などを説明したイブン・アル=ハイサム(ラテン語ではアルハーゼン)の『光学書』は、12世紀末に翻訳されました。この本は、ヨーロッパで近代科学が発展する上で大きな影響を与えました。さらに、数学者・天文学者のウマル・ハイヤームは、高次方程式の解法を発見して、非常に正確な太陽暦(ジャラーリー暦)の作成に協力しました。彼は、手書きの「四行詩集(ルバイヤート)」で現在知られています。ソグディアナ(マー=ワラー=アンナフル)出身のイブン・スィーナー(ラテン語でアヴィケンナ)は、医学の分野で活躍した人物です。イブン・スィーナーは、臨床の知識や理論をまとめた『医学典範』を著しました。この書物は、その後、ラテン語に翻訳され、ヨーロッパで何世紀にもわたって教科書として使用されました。 ササン朝時代に書かれたパフラヴィー語の本『千物語』から来ています。インドのお話が大きく影響しており、様々な物語が1つの枠の物語に収められています。8世紀末にバグダードでアラビア語に翻訳され、イスラーム教にしかない物語が加えられました。12世紀に、『千夜一夜物語』と呼ばれるようになりました。バグダードの焼失後、カイロでさらに物語が追加されました。マムルーク朝の滅亡までに、ほとんどの物語が今のような形になりました。多くの書物によって作られ、最初の作者が誰であったかは誰も分かりません。1875年、英訳の複訳を通して、日本で初めて読まれました。  ギリシア哲学、特に『形而上学』『自然科学』『オルガノン』といったアリストテレスの著作は、イスラーム世界でも深く研究されました。10世紀以降、イスラームの思想界は神秘思想の影響を強く受けるようになりましたが、それでも信仰と理性は上手く両立していました。その理由は、神学者達がギリシア哲学の言語と方法を学んで、信仰に理論的根拠を与える神学体系をまとめたからです。ガザーリーもそうした神学者の一人です。ガザーリーは、神秘主義がイスラーム教信仰の基礎だと考えました。『宗教諸学の再興』という主要な書物もガザーリーが書いています。哲学の分野で重要な人物は、イブン・ルシュド(ラテン語でアヴェロエス)が挙げられます。イブン=ルシュドは、12世紀にイベリア半島で活躍したので、アリストテレスの思想を本来の姿に戻そうとしました。文学では、詩がよく発達していたので、数多くのおとぎ話も書かれました。『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』は、インド・イラン・アラビア・ギリシアの物語を集めて、16世紀初めにカイロで現在の形にまとめられました。現在では、アラビア文学の代表作と考えられています。また、メッカ巡礼の旅を題材にした旅行記も多く、モロッコ人のイブン・バットゥータは、25年間東洋を旅した後、手書きで書き残した『三大陸周遊記』というアラビア語の旅行記を残しています。『三大陸周遊記』には、遠い中国の様子を伝えています。ペルシアの文学作品は、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王の書)』、ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、サアディーの教養・道徳書『薔薇園』、メヴレヴィー教団の創設者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの叙事詩形式の『精神的マスナヴィー』、ハーフィズの神秘主義的叙情詩などが10世紀以降によく知られるようになりました。これらの作品は、トルコやモンゴルの支配者達によって守られてきました。『幸福の知恵』は、カラハン朝時代にカシュガルで書かれました。『幸福の知恵』はトルコの文学作品ですが、トルコ語が書き言葉として発展して、多くの文学作品を生み出すようになったのは、15世紀後半になってからです。 宗教建築の分野では、各地に多くのモスクが建てられ、それぞれに地域的な特色が見られました。モスクには、クトゥブッディーン・アイバクがデリーに建てた大きなクトゥブ・ミナールのように、ミナレット(光塔)があるのが普通でした。そのため、イスラーム世界の街並みはこのような姿になりました。美術・工芸の分野では、本の挿絵として作られた細密画(ミニアチュール)や、他の金属の小さな破片で装飾された金属器などがよく知られています。また、イスラーム教では偶像崇拝が出来ず、人物の絵を宗教建築の装飾にも使えなかったので、唐草文やアラビア文字の入ったアラベスクが装飾文様に使われました。「アラベスク」とは「アラブ風の」という意味ですが、文様としての起源はヘレニズム時代やローマ時代にまで遡ります。その後、中国などにも影響を与えました。建築・本の装飾・織物・陶器・金属器に広く利用されています。 帰国後、約25年かけて自分の旅を自筆で本にしました。実話に基づかない話もありますが、14世紀前半のイスラーム世界の暮らしぶりがよく伝わってきます。
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ルネサンスⅠでは、ルネサンスはなぜ発生したのか、その担い手は誰なのかについて学習します。 中世後期のヨーロッパは、厳しい時代を迎えていました。黒死病(ペスト)と百年戦争で大勢の人が亡くなりました。教会の大分裂は宗教的緊張をさらに高め、オスマン帝国の支配は脅威でした。しかし、危機の時代だからこそ、人間は死と隣り合わせという意識を強く持っていました。古い価値観にとらわれない新しい生き方や考え方を探し出して、語り合いました。また、イスラーム圏の研究は、自然を相手にする技術に人々の関心を集めました。また、自然もその一部としている人間も積極的に研究され、様々な新しい発見がありました。例えば、中世キリスト教の考え方では、人間は生まれつき罪を持っていて、汚れていて、何の力も持っていないと考えられていました。一方、自然界は神から生み出された一番無価値で、恐怖の対象と考えられていました。このような動きから、文学・科学・芸術などといった分野がより発展していきました。こうした変化の総称がルネサンスです。この学術用語は、フランス語に由来しており、「再生」という意味です。19世紀、フランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻の標題で、初めて使いました。その後、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』の中で使い、世界中に知られるようになりました。ルネサンス時代では、すでにイタリア語やラテン語で「再生」や「復活」という言葉が使われていました。 イタリアの都市は、ルネサンスが最初に始まった場所です。当時のイタリアは一つの国ではなく、多くの都市国家や小王国から成り立っていました。13世紀、地中海で交易していたヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・ピサ共和国などの港湾都市は、東地中海に進出すると、ビザンツ帝国やイスラームの商人達と取引を始めました。彼らは香辛料や贅沢品をヨーロッパに運び、大儲けしました。工芸や工業は、フィレンツェやミラノなどの都市を繁栄させました。フィレンツェの主な産業は毛織物ですが、木彫り・嵌め込み細工(象眼)・金細工・絹織物などの工業もありました。ミラノは毛織物と武器製造などの金属加工で知られていました。ジェノヴァは絹織物、ヴェネツィアは硝子・造船・印刷で知られていました。フィレンツェのメディチ家の銀行業と同じように、金融業もヨーロッパ全域で発展しました。15世紀から16世紀にかけて、イタリアはヨーロッパで最も多くの都市を持ち、ナポリに15万人以上、ヴェネツィアに10万人以上、ミラノ・パレルモ・ボローニャ・フィレンツェ・ジェノヴァ・ヴェローナ・ローマに5万人以上が住んでいたと考えられています。 ルネサンスの人々はキリスト教を否定せず、この世界の文化を大切にしました。彼らの理想は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような、文芸や自然諸学に詳しい「万能人」でした。ルネサンス時代のフィレンツェなどに住んでいたのは、ほとんどが細民と呼ばれる労働者階級の人達でした。ルネサンスを支えたのは、都市に住むごく少数の人々でした。君主や豪商は文化の保護者(パトロン)となり、専門職は作家や学者となり、職人は芸術家になりました。フィレンツェ共和国の大富豪(メディチ家)・ミラノ公(スフォルツァ家・ヴィスコンティ家)・フェラーラ公(エステ家)・マントヴァ公(ゴンザーガ家)などは、芸術や教育の保護者(パトロン)として知られています。芸術のパトロンには、君主・富裕層・都市の同職ギルド・同信会などの社会的宗教的団体・フィレンツェやヴェネツィアの共和制政府が含まれていました。 ルネサンス時代のイタリアは、都市共和国・小君主国・ローマ教皇領に分かれ、互いに対立していました。都市での権力を巡って各政党が争ったため、外部勢力が介入するようになりました。1494年、フランス王シャルル8世のイタリア遠征・メディチ家の追放・1527年のドイツ皇帝軍によるローマ略奪は、ルネサンス文化の衰退につながりました。このような政治情勢が、ルネサンス文化に様々な影響を与えています。
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イギリスの産業革命は、農業を中心とした社会から、工場を中心とした社会への変化の始まりでした。綿花産業から始まった技術の変化は、生産や人々の生活を大きく変えました。産業革命は、イギリスからヨーロッパ、アメリカへと広がっていきました。機械工場による大量生産は、産業資本の発展をもたらしましたが、同時に都市や労働者の問題など、新たな社会問題を引き起こしました。 アメリカ革命やフランス革命を「市民革命」と呼びます。産業革命は、これらの市民革命と同時期にイギリスで起こった工業化の過程の名称です。19世紀前半、この2つの革命は大西洋を越えて、ヨーロッパ、アメリカ大陸に次々と広がっていきました。歴史家達は、これを「二重革命」「大西洋革命」という言葉で表現するようになりました。西洋の人々は、この2つの「革命」から生まれた政治や市民社会の考え方、モノの作り方や暮らし方を取り入れ、世界各地に広めていきました。これらの考え方は、現在でも政治や社会、生活をする上で非常に重要です。 七年戦争後、北米東部の13のイギリス植民地は、税制をめぐって本国と対立していました。植民地の人々の権利と自由を求める急進派は、本国の政策に激しく抵抗しました。ボストン茶会事件で対立はさらに激化し、独立戦争の発端となる最初の武力衝突はボストン近郊で起こりました。大陸議会は独立を訴え、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の援助を得て、1783年、アメリカは自由を手に入れました。独立後につくられたのが、アメリカ合衆国憲法です。その後、修正条項を除き、あまり変わっていません。これはアメリカの政治システムの基礎となっています。 旧体制の問題が深刻化していたフランスでは、三部会が集まって革命が始まりました。バスティーユの襲撃で地方は衝撃を受け、「大恐怖」が広がりました。国民議会が封建的特権をなくし、人権宣言を採択した時、旧体制は終わりを告げました。王の逃亡や革命に反対する国々との戦争で革命はさらに激しくなり、共和制の誕生、王の処刑、ジャコバン急進派による恐怖政治が行われました。クーデタによりマクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えると、ブルジョアジーは革命を復活させようと試みました。ナポレオン・ボナパルトのクーデタは、専制君主制が果たせなかった政治体制の安定をもたらしました。しかし、ナポレオン・ボナパルト政権は、ヨーロッパを戦争の渦に引きずり込みました。彼が政権を取った後、古い体制に戻されましたが、それでも革命の影響は全て払拭されたわけではありません。
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本節では、2回に分けて産業革命についてまとめます。かなり、詳しく執筆しました。 SFのように、自由に時間を戻せるとしましょう。現在から過去へ順に進んでいった場合、どの時点で現在とは全く違う世界に来たと感じられるでしょうか。もちろん、小さな変化はたくさんありましたが、特に西ヨーロッパで社会が本当に変化するようになったのは、18世紀末頃です。 1800年代、この国境の向こう側には都市がありましたが、ほとんどの人はまだ大きな工場や鉄道のない地方に住んでいました。ほとんどの場合、家族全員が一緒に働き、一日中一緒に働いていました。学校も職場も、同じ年齢の人が大勢集まる環境はあまりありません。時給制ではないので、好きな時に働いたり休んだり出来ます。町でも村でも、ほとんどの場面で人々はお互いを知り、助け合っていました。お祭りや地元の人との交流が主な楽しみ方でした。 しかし、この社会は全てが完璧というわけではありません。生産効率は悪く、科学技術もあまり発達しておらず、人々は貧しく、生活はとても苦しくなっています。人々は飢えや病気でよく死に、多くの子供が生まれてもすぐに死んでしまい、生きていても長生きしないので、人口はあまり増えません。病気になったとしても、治療法は迷信に基づくものしかありません。女性や使用人など多くの人々は、政治的にも社会的にも完全な一員として扱われず、投票権や財産を所有出来なかったりします。 つまり、18世紀末から19世紀初頭にかけて、近代世界の基礎が築かれたともいえます。また、この変化はどこよりもまず、そして最も早くイギリスで起こりました。この大きな変化を産業革命と名付けたのは、1852年から1883年まで生きたイギリスのスラムの改革者、アーノルド・ジョゼフ・トインビーです。19世紀後半に活躍したアーノルド・ジョセフ・トインビーは、産業革命こそが、都市スラムの貧困、病気、犯罪などの社会問題の原因と考えました。 しかし、産業革命は、国全体の生産性を高め、伝統的な社会が抱えていた貧しさを解消しました。だから、結局、歴史家の中には「産業革命は人間にとってかなりありがたい。」と考えるようになった人もいます。特に、現在、第三世界と呼ばれている国々は、産業革命や工業化と呼べるような経験をした国はありませんから、北の先進国に高い生活水準をもたらしたのは、産業革命だと考えられます。 つまり、良い意味でも悪い意味でも、産業革命は近代世界の始まりとなりました。 つまり、産業革命という言葉は、もともと18世紀後半のイギリスで、経済活動に機械や動力を利用し、機械制工場を発展させて行った時代を指しています。これを契機に、経済や社会、人々の生活が大きく変化しました。 従来の農業社会から工業社会へと発展したため、工業化ともよばれています。それでもなお、工業化は世界中で起こっています。 つまり、16世紀にはすでに資本主義が形づくられ始めていたにも関わらず、産業革命の間にそれが成長し、少しずつ変化してきたわけです。資本家にとって産業資本主義の時代であり、商人や農業経営者から工場労働者が最も有力な立場になりました。資本主義とは、機械や土地などの生産手段(資本)を所有する「資本家」が、「労働者」に給料を払って、市場に出す商品を作らせるという意味です。また、資本家が労働者に対して支配権を持っているという意味もあります。 なぜ、イギリスは最初の産業革命が発生したのでしょうか。一つの原因は外からでした。それは、七年戦争によって、イギリスが世界貿易の担い手となり、植民地帝国を築き上げたからです。特にイギリスは、西アフリカ、カリブ海、北アメリカ南部と自国を結ぶ「三角貿易」を仕掛けて、奴隷貿易で大儲けしました。産業革命は、この貿易で儲けたお金で実現しました。 また、アフリカには綿布が送られ、カリブ海からは砂糖と綿花が持ち込まれました。そのため、ロンドンとともに奴隷貿易の中心地となっていたリバプールに近いマンチェスター周辺では、綿工業が発展していきました。 一方、イギリス国内の様子も後押ししました。この時代、イギリスは人口が増加しており、工場労働者が増えました。人口が増えた主な理由は、ノーフォーク農法(近代農業)です。空いていた畑を半分に分け、クローバーや蕪を植えたのです。これらの植物は、動物達の餌となり、特に蕪は寒い冬を越すのに役立ちました。動物が増えれば、「糞尿」も増えました。 ジェントリはこの新しい農法に注目し、「これだけ穀物を育てれば、ビジネスになる」と言いましたが、土地を4つに分けるには多くの農地が必要でした。そこでジェントリは、中小農民の土地と村の共有地をまとめて広い農地を作りました(第2次囲い込み)。羊の飼育のために作られた第1次囲い込みに比べ、第2次囲い込みははるかに大規模でした。イギリスの農地の約2割を集約しました。土壌の関係で農業の改良(農業革命)が困難な北西部では、18世紀半ばから毛織物産業を中心に、手工業(プロト工業)とマニュファクチュア(工場制手工業)の卸売制度で工業生産が行われていました。 しかし、産業革命が始まって仕事が増え、エドワード・ジェンナーが種痘法を発見するなど医学が進歩すると、人口が大幅に増えました。その結果、イギリスは再び穀物の輸入大国となりました。 こうしてイギリスは、産業革命に必要な資金と人材を獲得していきました。また、禁欲と勤勉を奨励し、世俗的な仕事に重きを置いたプロテスタント(ピューリタニズム)、自然科学を発展させた科学革命など、知的・精神的な条件も整えられました。その結果、常に定時に出勤する近代的な労働者や合理的な経営を行う企業経営者が台頭してきました。 イギリスでは、マンチェスター近郊の綿花産業で新しい技術が使われた時から、産業革命が始まりました。ジョン・ケイ(1704年〜1764年頃)は、1733年に毛織物産業用に飛び杼を作りました。その後、綿花産業でも使われるようになり、綿花を織る工程が格段に早く、効率的になりました。そのため、綿糸を十分に確保出来ないので、ジェニー紡績機や水力紡績機といった機械が考え出されました。 その後、水力紡績機が蒸気機関に接続され、より効率的になりました。また、1779年にミュール紡績機が作られた後は、紡績分野での技術的な進歩は見られなくなりました。1785年には、織物部門のエドモンド・カートライト(1743年~1823年)が力織機を考え出しました。しかし、この部門では機械化がそれほど進まず、依然として多くの手織り機が必要とされました。そのため、1830年代から1840年代にかけてのチャーティスト運動には、多くの手織工が参加しています。 この後、こうした技術の変化、特に動力の利用によって、工場の建設に力を入れるようになり、工業都市の出現につながりました。工場制度は、労働者の生活を大きく変えました。 つまり、綿織物産業で始まった工場制度や技術の進歩は、やがて毛織物工業にも広がりました。とにかく、産業革命が始まった当初は、繊維産業と陶器などを作る軽工業が経済の主役でした。 しかし、経済や社会全体に最も大きな影響を与えたのは、重工業と交通手段の変化でした。まず、18世紀初頭、エイブラハム・ダービー(1711年〜1763年)がコークスを使った鉄の製造方法を考案しました。これにより、工場で使う燃料が、イギリスで枯渇していた木炭から、大量に作れる石炭に変わりました。これにより、石炭業や鉄工業が発展し、より多くの鉄が作られ、鉄製の機械が広まるようになりました。 17世紀にトーマス・ニューコメン(1663~1729年)が実際の炭鉱のために作った蒸気機関を、ジェームズ・ワット(1736年~1819年)が改良して以来です。これによって、炭鉱の仕事が上手くいくようになりました。また、紡績機械なども蒸気機関に接続され、生産が効率的に行われるようになりました。 重い鉄や石炭について費用をかけて移動させるために、交通手段は次々と改良されていきました。人々は最初の道路や運河を利用しました。特に石炭の移動には、マンチェスター周辺の運河が非常に役立ちました。ジョージ・スティーブンソン(1781年~1848年)は、1825年に最初の蒸気機関車を作りました。それは瞬く間に全国に広がり、1850年までに1万マイル以上を走行しました。19世紀後半、イギリスの最も重要な輸出品は鉄道であり、世界各地に建設されました。さらに、1807年、ロバート・フルトン(1765年~1815年)というアメリカ人が蒸気船を実用化しました。世紀の中頃から改良が重ねられ、蒸気船は徐々に帆船と立場を逆転させました。国内外を問わず、鉄道や蒸気船は人と人との出会いを容易にし、都市の発展を促しました。このような現象を交通革命といいます。イギリス人労働者は、工場で朝食をとり、中国やインドのお茶にカリブ海産の砂糖を加えて飲むようになりました。
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1825年、イギリスは機械を国外に輸出するのを違法とする法律を廃止しました。そこで、産業革命の波は19世紀前半の西ヨーロッパ諸国、そしてアメリカ、ロシア、日本へと広がっていきました。イギリスの製品は非常に安く、またイギリスの軍隊は非常に強かったので、これらの国々は意識的にイギリスの産業革命を真似し、独自の産業革命を起こそうとしました。それは、日本が明治時代に行った「富国強兵」政策に表れています。 この目標に向かって最も早く進んでいるのが、ベルギーとフランスです。つまり、両国とも1830年頃から産業革命の中心は繊維産業でした。18世紀、フランスの経済はイギリスにそれほど劣っていませんでした。しかし、英仏通商条約(通称イーデン条約)により、両国の貿易が開放されました。イギリス製品の大量流入とフランス革命による混乱で、フランスは産業革命に大規模に加わるのが難しくなりました。 同じ頃、ドイツのライン川流域では、産業革命が始まりました。ドイツでは、19世紀後半に重化学工業の発展が特徴的でした。19世紀初頭、アメリカでは綿花産業が発展しました。しかし、本格的な産業革命が起こるのは南北戦争後です。1870年代には、ドイツやアメリカで産業革命が起こり、イギリスはもはや「世界の工場」ではなくなってしまいました。日本でも、日清・日露戦争をきっかけに産業革命的な変化が起こりました。 産業革命の時代、イギリスを初めとする各国は、アジア、アフリカ、中南米の一部を原材料や食料の市場として利用しました。その結果、これらの地域と産業革命を経た国々との間に経済格差が広がり、現在の南北問題につながりました。イギリスの綿花産業が発展すると、カリブ海やアメリカ南部では、綿花の栽培に奴隷が使われるようになりました。世界でも有数の綿織物産業を持つインドは、原料である綿花の輸出拠点となりました。 イギリスでは、産業革命によって、ランカシャー州のマンチェスター、イギリス中部のバーミンガム、スコットランドのグラスゴーなど、多くの都市が変わりました。また、リヴァプールのような港湾都市も変わりました。都市に住む人の数は急速に増え、人々の生活様式も変わりました。そのため、失業、貧困、病気など、様々な社会問題が発生しました。 産業資本主義の台頭に伴い、同じような目的を持った集団として自らを捉える「労働者階級」も台頭してきました。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいうと、労働者階級、資本家階級、地主階級(地主貴族)の3つの集団で構成されていました。 工場を中心とした機械工業によって、産業革命は大量生産をもたらしました。そのため、熟練工が不要になり、給料の安い女性や子供がよく使われるようになりました。工芸品を作って生計を立てていた人達の中には、職を失う人もいました。彼らは、囲い込みで農業を続けられなくなった農民と同じように、都市でも田舎でもお金のために働くしかありませんでした。 産業革命の時代には、多くの工場労働者がアイルランドから仕事を求めてやってきました。1801年にアイルランドがイギリスの一部となると、この傾向はさらに強くなりました。 1814年には、徒弟制度がなくなり、誰でも独立開業出来るようになりました。そのため、それまでギルドに守られていた親方職人の存在意義がさらに薄れました。例えば、ロンドンでは仕立て屋は一般的で尊敬される仕事でした。しかし、事業に自由が与えられると、スラム街で縫製の仕事のほとんどを他の貧しい女性に非常に低い賃金で任せる人が増え、社会問題化しました。また、徒弟制度がなくなり、若いうちから工場で給料を貰って働けるようになったため、若いうちに結婚する人が多くなりました。この結果、この時代に人口が急速に増加したと考えられています。 人口が急増するにつれ、住宅などの生活環境は格段に悪くなりました。この間、労働者の家は狭く、暗く、トイレも下水もありませんでした。ドイツ人のフリードリヒ・エンゲルスは、『イギリスの労働者階級の状態』という本を書きました。その中で、彼は悲しい光景を詳しく語っています。労働時間が長く、食事もろくに取らないので、ペストは流行らなくなりましたが、結核、梅毒、天然痘といった伝染病は残っていました。特に、1830年代前半はコレラの発生が相次ぎました。 都市部だけでなく、地方の伝統的な農民社会も乗っ取られ、共有地の放牧や木の伐採で小遣い稼ぎをする家族も少なくありません。多くの人が貧しく、その様子は当時の文章によく記されています。ロマン主義は、当時の文学作品、特に詩に大きな影響を与えました。ロマン主義は、産業革命以前の農民の生活を空想し、産業文明を批判する傾向がありました。それ以来、産業革命がイギリス人の生活を良くしたのか悪くしたのかが話題になるようになりました。現代から見れば、産業革命を経た国々の生活水準が高いのは明らかです。しかし、その間に様々な社会問題が発生したため、かつては生活水準が低下したという説も根強くあります。都市部の人々は農村部のようにお互いをよく理解していないので、貧困救済が両地域で大きな問題となりました。18世紀末には、基本的な生活水準を満たすだけの収入が得られない人々を支援するために、補助金制度が設けられました。しかし、この制度はあまりにも高額だったため、1834年、エリザベス1世の時代から続いていた救貧法を全面的に改め、「自助」の精神を重視するようになりました。自助の精神に重きを置く考え方は、ピューリタニズムから生まれ、産業革命が進むにつれて勢力を拡大した中産階級に受け入れられました。この考え方からすると、貧困の原因は個人にあります。サミュエル・スマイルズの『自助論』という本は、自助の精神の必要性を訴え、大ヒットしました。明治時代「西国立志篇」には、中村正義がこの本を日本に持ち込み、大ヒットさせました。 これに対して、労働者は団結して労働条件の改善を求めるようになりました。これには政府も神経を尖らせ、団結(結社)禁止法(1799年~1800年)を制定して、これをやめさせようとしました。機械化で職を失った職人達は、古くからの打ち壊し習慣に従い、中部のメリヤス織りを中心とした「機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)」に参加しました。「ネッド・ラッド」がリーダーでしたが、本当に存在したのかどうかは定かではありません。この運動も1810年代にピークを迎え、その後消滅しました。機械化は止められない流れになりました。 もちろん、産業革命で悲劇ばかりが起こったわけではありません。産業革命以前は、女性も子供も懸命に働かなければならず、何の権利も持っていませんでした。夫であり父親である世帯主がすべてを仕切っていました。工場制度が普及すると、家族はバラバラに働き、妻や子供の仕事は、どんなに小さなものでも、はっきりと評価され、報酬が支払われるようになりました。家庭の中では、女性や子供にとって、物事がより良い方向に進んでいるように見えます。 一方、工場で働くようになった母親は、子供のために洋服などの物を作る時間がありません。そこで、産業革命以前は家族が提供していた多くの商品やサービスが、現金で支払われるようになりました。食料も薪も同じです。人々の暮らしは、より商品らしくなっていきました。 工場の仕事は、農業のように日払いではなく、時間払いが多いので、労働者は機械の時計に従って時間を守らなければなりませんでした。当時、人々はこのような習慣に馴染みがありませんでしたから、労働時間の問題は上司との間に多くの問題を引き起こしました。そのため、1802年以降に制定された工場法のほとんどは、労働者の労働時間を短縮するための内容でした。 時給制が一般的だった時代、働く時間と自由な時間は明確に分けられていました。労働時間は自由時間でもあり、多くの労働者はパブに行って酒を飲み、楽しんでいました。これを嫌った工場経営者などは、「時は金なり」といったピューリタニズムのルールを強制する一方で、旅行や読書、音楽といった「上品」な取組みもさせようとし、これまた大変な騒ぎになりました。 産業革命の時代、人々の読み書き能力は一時的に低下しましたが、すぐに回復し、労働者のための新聞やパンフレットなどの出版物の数も増えました。この結果、労働者の集団としての団結力に大きな差が生まれました。
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かつて、15世紀末にカボット父子が北米沿岸を探検し、1580年代にはウォルター・ローリーがヴァージニアに植民地を作ろうとしました。それでも、イギリスが本格的に北アメリカ植民地の建設を始めたのは17世紀になってからです。国王から特許を与えられた企業や個人領主が、植民地化事業を担当しました。1607年、ジェームズ1世はロンドン会社に特許状を与え、ジェームズタウンやヴァージニア植民地の建設を開始しました。 1620年、ピルグリム=ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)の一団がプリマス植民地を立ち上げました。宗教の自由を求めて、ステュアート朝絶対王政下から逃げ出し、メイフラワー号でヴァージニア北部に渡り、植民地建設を始めました。船を降りる前に、彼らはメイフラワー条約に署名し、自分達の政府を設立し、法律を制定し、お互いを尊重し合おうと約束しました。1630年、新教徒ピューリタンはマサチューセッツ植民地を設立し、植民地議会を設置し、植民地の自治を出来るようにしました。プリマスやマサチューセッツを中心に発展したニューイングランド植民地のピューリタニズム(清教主義)、信仰の自由、民主主義などの思想は、徐々にアメリカの精神風土に根付いていきました。マサチューセッツ州、コネチカット州、ロードアイランド州、ニューハンプシャー州、メーン州、ヴァーモント州は、いずれもアメリカ合衆国の北東部に位置しています。 植民地は特許状の内容によって3種類に分けられました。自治権を持つ植民地では、住民が総督と植民地評議会を選びました。領主植民地では、特許状を持つ領主が知事を選びました。そして王領植民地では、国王が総督を選びました。王立植民地の数は時代とともに増えていきました。しかし、住民代表で構成される植民地議会は、大幅な自治を与えていました。 1600年代、旧キリスト教徒がメリーランド州に移住しました。また、1644年から1718年まで生きたクエーカー教徒のウィリアム・ペンは、ペンシルバニア州などの植民地を築きました。クエーカー教徒は1600年代にイギリスで始まった新教の一派です。政府からフレンド教会といわれています。宗教的な感動で祈る時に震えるので、人々はクエーカー(震い派)と呼ばれています。平和主義者の立場から、戦争には全く反対で、軍隊に入るのも拒否しています。1732年にはジョージア州が建設され、北アメリカ東海岸に13のイギリス植民地が建設されました。これらの植民地が成立した背景は様々ですが、宗教的自由、政治的独立、経済的自由を求めて母国を離れました。植民地では地域ごとに次の産業が発展しました。 1588年から1649年まで生きたジョン・ウィンスロップは、マサチューセッツ植民地の初代総督です。彼は裕福な庭師、ケンブリッジ出身の弁護士、ピューリタンの知的エリートの一員でした。マサチューセッツ湾会社が他の植民地の特許会社と違ったのは、ジョン・ウィンスロップがそれを植民地に移したためです。彼らは、植民地を本国の人間に運営させたくはありませんでした。その代わり、ピューリタンが主導する植民地を建設しようとしました。1630年、ピューリタン達はマサチューセッツに移り住み、ジョン・ウィンスロップを植民地の総督と会社の総裁に選びました。彼は、自分に従う500人以上の男、女、子供を、良い使命を持った人間の家族だと考えていました。ジョン・ウィンスロップの厳格なピューリタニズムは、植民地の人々を真面目で勤勉にしましたが、同時に他の宗教を持つ人々を受け入れないようにしました。ピューリタン教会のメンバーだけが投票権を持ち、ピューリタンのグループが町を運営しました。教会に入るには、その信仰や生き方が見られていました。そこで、政教分離を望むロジャー=ウィリアムズと、牧師で完全民主主義を信奉するトマス=フーカーは、マサチューセッツ州を離れ、ロードアイランド州とコネティカット州の植民地を建設しました。 ジョン・ウィンスロップが親切で良い人だったとしても、彼の死後に起こったボストンやセイラムでの魔女狩りは、厳格なピューリタニズムと無関係ではありません。 フランスがカナダからミシシッピ川流域まで植民地を持っていたため、イギリスの植民地が西へ向かって発展しにくくなっていました。1800年代、イギリスとフランスは植民地をめぐって何度か衝突を繰り返しました。七年戦争(1756年〜1763年)では、イギリスは辺境でフランス人やインディアンと戦いました(フレンチ・インディアン戦争)。結局、イギリスが勝利し、1763年のパリ条約により、イギリスはミシシッピ川以東のカナダを手に入れました。 イギリスは、自国の産業や貿易を守るために、植民地を原料や市場の供給源として維持する以下の重商主義政策をとっていました。イギリスの貿易や産業だけでなく、イギリス領西インド諸島で作られた商品を守るため、植民地は自由に貿易や物作りを出来ませんでした。 しかし、七年戦争が終わるまでの間、フランスやインディアンの攻撃から身を守るために、植民地はある程度の自衛力を身につける必要がありました。そこで、この重商主義的規制を忠実に守らない行為は、「有益なる怠慢」とされました。 七年戦争が終わると、フランスと付き合う必要がなくなったイギリス政府は、植民地に対する締め付けを厳しくするようになりました。だからインディアンとの問題が起きないように、植民地の人達は好き勝手な行動が出来ませんでした。また、お金の問題もあり、戦争や植民地の運営にかかる費用の一部を植民地が負担しなければならなくなり、課税が強化されました。その内容を表にまとめます。 植民地の人々は、国内でのこれらの政策に非常に不満を持っていました。さらに彼らを苦しめたのが、1765年の印紙法でした。印紙法は、植民地で作られた新聞、パンフレット、トランプ、商取引の証書、裁判所の書類、許可証などに切手を貼って、より多くの税金を取ろうとするものでした。植民地の多くの人々に影響を与える税金なので、パトリック・ヘンリー(1736年~1799年)が関わったヴァージニア州議会の決議のように、各地で反対運動が起きました。 植民地はイギリス議会に誰も送っていないため、勝手に課税すればイギリス国民の権利や自由に背くと考えていました。「代表なくして課税なし」が、植民地が連合に参加したくない理由でした。印紙税は翌年には撤回されましたが、1767年、議会は新たに硝子、鉛、茶などに課税するタウンゼント諸法を成立させました。これにも、国産品のボイコットなどの反対運動が広がりました。結局、茶税以外は全て廃止されました。しかし、マサチューセッツ州では反対運動が続き、1770年に「ボストン虐殺事件」が起こりました。1770年の「ボストン虐殺事件」は、ボストン市民が集会に集まり、イギリス軍が抵抗運動を抑えようとして起こった事件で、5人が死亡しました。急進派のパンフレットなどは、この事件を利用して、反英運動の推進に貢献しました。 イギリス議会は1773年に茶法を成立させ、イギリスの東インド会社が税金を払わずにアメリカに茶を出荷出来るようにしました。その結果、東インド会社の茶貿易の独占に反対する運動が高まりました。1773年12月、ボストンでインド人に変装した過激派がボストン港で東インド会社の船を襲い、積荷の茶を海中に投棄する事件が発生しました(ボストン茶会事件)。ボストン茶会事件を受けて、1774年、イギリス政府は厳しい法律を次々と制定しました。ボストン港は封鎖され、マサチューセッツ州の自由は制限され、軍隊が駐屯しその費用が州に課され、オハイオ川以北の地域がケベック州に編入されました。 1774年、自国での抑圧のため、12植民地のうちジョージアを除く11植民地の人々がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議を開催しました。この会議では、植民地政府が植民地人の権利と自由を侵害し、イギリスとの貿易を停止しようとする計画に反対する「宣言と決議」を行いました。 1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、イギリスの正規軍と植民地のミニットマンが戦闘を繰り広げました(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地では正規軍をレッドコートと呼び、ミニットマンは、民兵の一員で、いざという時に戦えるように準備していた農民です。アメリカ独立戦争はレキシントン・コンコードの戦いから始まりました。コンコードの農民が銃を隠している事実を知ったイギリスのゲージ将軍は、700人の兵士を送り込み、軍事倉庫を破壊しました。レキシントンでは、反撃しようとした植民地主義者の集団と戦闘になり、植民地主義者のミニットマンがコンコードで捜索から戻ってきたイギリス軍に発砲しました。この時、どちらが先に発砲したかはわかりません。しかし、植民地のニュースは、イギリスが戦いを始めたといち早く報じました。植民地の人々は、イギリス軍が行った残酷な行為と、イギリス軍に反撃した人々の「英雄的な戦い」について詳しく聞きました。そのため、彼らは悲しみと怒りを覚えました。ニュースは、植民地の人脈を通じて広がっていきました。すでに各地に「通信連絡委員会」が設置され、植民地宣伝がより多くの人々に届くようになっていました。1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催されました。この会議で大陸軍が結成され、ジョージ・ワシントン(1732年〜1799年)が最高司令官に任命されました。 当初は、植民地の3分の1程度が独立を望む愛国派(パトリオット)でした。この中には、自営業の農民、中小の商人や実業家、そして一部の大農場主が含まれていました。イギリスを支持する忠誠派(口イヤリスト)や平和を願う中立派は、独立への準備が出来ていない人がほとんどでした。しかし、戦争が進むにつれて、人々の平和への願いは薄れ、独立への思いが高まっていきました。トマス・ペイン(1737年-1809年)は1776年1月に小冊子『コモン・センス』を出版しました。君主制の悪いところを指摘し、共和政の導入と独立をわかりやすく主張した内容です。3ヵ月で12万部も売れ、平和を望む人々から独立を望む人々へと、人々の心を変えていきました。 1776年7月4日、大陸議会で独立宣言が合意されました。トーマス・ジェファーソン(1743年~1826年)が作成し、他の代表者達が目を通しました。独立宣言の最初の部分では、合衆国が自由でなければならない理由が述べられています。ジョン・ロックの政治理論は、自然権や自然法に大きな影響を与えました。生命、財産、幸福追求の権利や、社会契約説に基づく政府の役割、人民主権、革命権などが挙げられます。本書の中盤では、ジョージ3世の政権運営に関する問題点を20以上挙げています。最後に、植民地はアメリカ合衆国として独立すると言っています。 独立宣言は、植民地の人々に、イギリスとの和解か独立かの選択を迫りました。また、植民地を新しい国家に変えて、イギリスとの対立を内乱から国際戦争に発展させました。 イギリスでコルセットを作る女性のもとに生まれ、職を転々とした後、ベンジャミン・フランクリンに言われてアメリカに渡りました。彼の著書『人間の権利』も有名です。 以上でアメリカ独立革命Ⅰの内容は終わりです。
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何万人ものイギリス正規軍が、ジョージ・ワシントンが率いる大陸軍と戦い続けた植民地の兵士達は勇敢でしたが、正式な軍事訓練を受けていませんでした。将校達は上手な指導の仕方を知らなかったので、いくつかの戦いに敗れました。しかし、彼らは失敗から学べるほど賢明でした。  1777年のサラトガの戦いで、植民地軍はイギリス軍を見事に打ち破りました。他国からの義勇兵として、フランスの青年貴族ラファイエット、ドイツの軍人フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン、ポーランドの愛国者タデウス・コシューシコが、装備は貧弱でも義勇兵に加わっていました。フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン男爵は、アメリカ兵のために軍事教練の教則書を書き、実戦で戦った訓練されたプロイセン軍将校でした。 1706年から1790年まで生きたベンジャミン・フランクリンは、フランスとの同盟を結ぶために大陸会議からフランスに派遣されました。彼はフランス人に大人気でした。彼は非常に人気があっただけでなく、フランス政府も七年戦争に負けたイギリスへの仕返しの機会を狙っていました。戦争への参戦をためらいながらも、秘密裏に植民地へ資金や物資を送り続けました。1778年、フランスとアメリカは和親通商条約を締結しました。これによって、フランスはアメリカの独立を認め、軍事同盟に合意し、イギリスとの戦争に臨みました。そこで、フランスからは陸海軍ともに戦争に参加しました。翌年には、フロリダを取り戻したいスペインも、フランスの友好国イギリスと戦争になりました。1780年、ロシアのエカチェリーナ2世は、ヨーロッパ諸国に武装中立同盟を締結しようと提案しました。これは、イギリス海軍が大陸への援助を妨害していたため、イギリスを世界から切り離すものでした。 1781年、チャールズ・コーンウォリス率いる7000人のイギリス軍は、ヨークタウンで大陸軍、フランス軍、フランス海軍に包囲され、降伏を迫られてしまいました。国内では、強硬派のトーリー内閣から穏健派のホイッグ内閣に交代し、1782年に暫定的な和平条約が結ばれました。国内では、強硬派のトーリー内閣から穏健派のホイッグ内閣に交代し、1782年に暫定的な和平条約が結ばれました。 1783年、植民地とアメリカ合衆国はパリ条約に調印しました。これによりアメリカは独立し、植民地にはミシシッピ川以東の13植民地の合計より広い土地が与えられました。 独立戦争中、各植民地は独自の州憲法を作り、独自の邦(州)政府を設立しました。1788年にアメリカ合衆国憲法が制定される前に、1776年と1780年に成文憲法が作られました。自治権を持つ一部の植民地では、伝統的な憲章を主要な法律として使用していました。各植民地の指導者は異なる権限を持ち、議会も異なる人々で構成されていました。合衆国憲法を作るためには、連邦政府と州政府の権限を明確にする必要がありました。邦は、州ではなく国と呼ばなければなりませんでした。連合規約は、1777年に第2回大陸議会で採択され、1781年に各邦(州)によって批准されました。連合規約では、連合会議で構成されるアメリカ政府に対して、各国は1票の投票権を持っていました。各州の代表で構成される連合会議には、中央政府としての力はあまりなく、税金の直接徴収や州外から軍隊を要請出来ませんでした。その上、その財政は各州各邦の醵金で支えられていました。独立後、対外協定の履行や政府の対外・対内債務の支払いなど、全州に影響を与える問題に対処するため、強力な中央政府の必要性が高まっていました。 1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれました。その会議では、大国と小国の利害が対立するという争いがありました。後に財務長官となるアレクサンダー・ハミルトンと第4代大統領となったジェームズ・マディソン(1751年~1836年)が会議を仕切っていました。ヴァージニアなどの大国は中央政府の権限を大幅に拡大したいと考えていました。しかし、ニュージャージーなどの小国は中央政府に自分達の権限(州)を奪われたくないと考えていました。 つまり、アメリカが国として成長するためには、移住者に自治権を与え、地方政府と憲法の制定を支援します。その上で、国を作った州と同じ市民として連邦に加盟させる方法でした。 1787年に合衆国憲法の草案が公表されました。この草案は、各州の批准会議によって検討されました。1788年6月、ニューハンプシャー州が9番目の州として批准し、発効しました。 合衆国憲法は、連邦政府(中央政府)と州政府に権限を分割して、連邦制を導入しました。連邦政府には、連合規約よりも大きな中央政府がつくられました。連邦政府には、宣戦布告を含む外交権、対外通商と州際通商の管理、課税、常備軍などが与えられました。連邦政府は、三権分立の考えに基づいていました。大統領は行政府の責任者でした。立法府は、各州から人口に比例して選出された議員からなる下院と、各州から2名の議員からなる上院で構成されました。司法府は、連邦最高裁判所とその下の連邦裁判所からなり、違憲審査権を持ちました。三権は、それぞれ他の2つの部分をチェックする力を持っていました。 批准の過程では、連邦政府に大きな力を持たせたいアレクサンダー・ハミルトン(1755年~1804年)のような「連邦派」と、中央政府に大きな力を持たせたくないトーマス・ジェファーソンのような「反連邦派」との間で争いがありました。アレクサンダー・ハミルトンは、独立戦争で、ジョージ・ワシントンに次ぐ責任者でした。ワシントン大統領の財務長官を務め、現在の政府を立ち上げました。アレクサンダー・ハミルトンは、政敵アーロン・バーとの戦いで亡くなりました。また、合衆国憲法には基本的人権を保障するものがないため、1791年に10の修正条項が加えられました。 1789年、合衆国憲法に基づく新政府が誕生しました。初代大統領にジョージ・ワシントンが就任し、新首都にコロンビア特別区を選びました。第2代大統領ジョン・アダムズ(1735年~1826年)は1800年に首都をフィラデルフィアからワシントン特別区に移しました。 アメリカ独立はアメリカ革命とか、アメリカ独立戦争と呼ばれています。アメリカ独立は、本当の意味での「革命」ではないという人がいます。なぜなら、イギリスの政策に対して植民地が得たものを守るための保守的な行動から始まったからです。しかし、それは単にイギリスに対する戦いではなく、植民地の人々の自由を求める戦いでもありました。独立戦争が進むにつれ、英国に賛同しない人々は迫害され、恐怖に怯えました。イギリスに忠実であろうとする人々は母国やカナダに戻り、財産は取り上げられました。独立革命によって、植民地の大富豪や富裕層が減り、中産階級が政治的、社会的権力を得たのは明らかです。 「市民革命(ブルジョワ革命)」という言葉は、アメリカ革命、1700年代のイギリス革命、1800年代末のフランス革命を指して使われる場合があります。しかし、この3つの革命では、それぞれ「市民」や「ブルジョワジー」の意味が異なっており、様々な階級の人々が主導しました。それを下記の表にまとめます。 革命の各段階は、社会がどのように変化していくかを示す革命でした。これらの革命を「市民革命」という言葉で理解するには、「市民」と「ブルジョアジー」をその最も極端な形としてとらえなければなりません。 13州の植民地には、農奴も領主も貴族も、特別な教会もありませんでした。その代わり、約200万人の白人と50万人近い黒人奴隷がいました。独立当時、先住民であるインディアンはまだ白人人口のごく一部でした。大革命でフランスは奴隷制を廃止しましたが、アメリカは南北戦争まで奴隷制を廃止出来ませんでした。南北戦争後もインディアンは白人と同じ権利を持たず、中には殺された人もいました。平等という考え方に関しては、アメリカ革命よりもフランス革命の方が徹底していました。 アメリカ独立は、1789年のフランス革命からラテンアメリカ諸国の独立、1848年のヨーロッパ革命、大西洋革命へと続く、長い一連の革命の始まりといえます。アメリカ人の多くはヨーロッパからの植民者、その子供達でした。この事実から、アメリカはヨーロッパの出店のようなものといえます。アメリカ革命とヨーロッパの革命の間には、多くの類似点があります。これらの類似点は、革命の歴史や背景というよりも、その目標、理想、理念の中にあります。 アメリカ独立戦争で、初めて、自由、平等、自然権、人間の民主的権利といった近代政治・社会の基本思想が政治の場で明確に示されました。アメリカ独立戦争では、「全ての人間は平等に創られ」、「生命、自由、幸福の追求」の権利を持つという内容が明らかにされました。政府の仕事はこれらの権利を守り、政府がその仕事を果たせない状況が明らかになれば、国民はその政府を倒して新しい政府を樹立出来ます。アメリカはこのような考えをヨーロッパ文明の共通の歴史から得ました。ギリシャ・ローマの思想、ジョン・ロックの政治思想、啓蒙主義の思想などが挙げられます。
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フランス革命から200年以上が経ちました。その間、人々は常にフランス革命について問い続けてきました。フランス革命が政治・社会・思想・人々の意識を変えてきたのは、それが問われ続けてきたからです。歴史に対してどのような問いを立てるかは、時代や問いを立てる人によって異なります。問いかけ自体が、その人がどう感じているのかを示しています。 何より、革命はそれを生き抜いた人々にとって大きな出来事でした。理想と欲望が交錯し、権力闘争や戦争も多発しました。日常的秩序が失われる可能性もありました。生活への不安もありましたが、未来への希望もありました。恐怖もあれば、強い思いもありました。 フランス革命はなぜ起きたのでしょうか?それが最初に問いたい内容です。革命の間に起こった多くの事件やエピソードの中から、革命の流れを変えた最も重要なものを選び出し、人々がドラマとして最も興味を持ったものを詳しく解説しています。何が起きたかわからないので、フランス革命についてはいろいろと語られています。 フランス革命は、アメリカ革命や19世紀のどの革命よりも大きく、徹底した社会変動でした。恐怖政治時代による権力の集中、政府と社会の徹底的な再編成、階級間の闘争の激しさ、富と所得の再分配、富裕階級の無産市民に対する恐怖、他国への衝撃的な影響、反革命と戦争の危機、常に反革命への恐怖、暴力と緊急措置など、フランス革命はこれまでにない社会変化を要求されました。 しかし、出来事を詳しく話しても、人々が革命をよりよく理解出来るとは限りません。出来事の複雑な森に迷い込み、全体像や何が最も重要なのかを見失いやすくなります。 フランス革命はなぜ起きたのか?これも非常に重要な問題です。歴史家達は様々な点に着目してきました。 これらが革命のきっかけとなり、同時期に起こった出来事で説明されます。革命はおこるべくしておこったのか?民衆の思惑はどのように一致したのか?解釈は多様です。 フランス革命のせいで何が起こったのか?この問いにもまた、様々な答えがあります。様々な出来事の積み重ねによって、旧体制が倒され、資本主義の発展を助け、ブルジョワジーが権力を握りました。フランス革命は「ブルジョワ革命」だったというのが、ひとつの答え(市民革命)です。 革命は旧制度を終わらせ、王政をなくし、政治をより近代的にし、自由と平等の考えを広めました。革命後、「権利の宣言」の考え方はより重要なものとなりました。 ブルジョアジーは多くの規則から解放され、経済面でもより多くの自由を与えられるようになりました。しかし、貧富の差は大きくなりました。みんなが同じようにお金を持てるようにするための革命は失敗し、革命は終わりませんでした。みんなが同じ権利を持つことを望んだ人たちは「社会主義」に転向しました。 一方では、恐怖政治によって戦争が起こり、革命のために多くの人が亡くなりました。これらの死は、革命の目標を実現するために行われたのでしょうか。フランス革命から発展したナポレオン・ボナパルトの支配は、フランスに栄光と不幸のどちらをもたらしたのでしょうか。 革命から帝国の戦争までの間、領土の獲得や喪失はほとんど見られませんでした。ウィーン会議で、ナポレオン・ボナパルトが拡大したフランスの国境はフランス革命以前のものに変えられました。 革命時の死者は、第一次世界大戦後のフランスを連想させます。1789年から1799年の間に虐殺や戦争で少なくとも60万人、ナポレオン・ボナパルトの時代にはさらに90万人が亡くなっています。この間、フランス人口の約5%が亡くなっています。1914年から1918年の第一次世界大戦では、フランス人口の3.5%が亡くなっています。フランス革命からナポレオン・ボナパルトの時代までは、戦争が多く、フランスは植民地との貿易や海上での貿易が難しくなりました。そのため、イギリスは7つの海を全て支配し、より多くの海上輸送路を作るチャンスを得ました。経済は赤字なのか黒字なのでしょうか?フランス革命は、フランスの経済成長にどんな影響を与えたのでしょうか?歴史に関する疑問が次から次へと湧いてきます。 さらに、革命はいつ終わったのか、その結果をどう判断しなければならないのか、王政復古からパリ・コミューンにかけての政変は、革命の遺産なのかなどの疑問があります。また、革命後、フランス国民は実際に幸福になったのか、豊かになったのか、政治・社会秩序は安定したのかという素朴で重要な疑問もあります。 1794年のテルミドール9世のクーデタで革命を終わらせたのでしょうか?彼は恐怖政治が軌道から外れたのを修正し、革命を再び軌道に戻したのでしょうか。それとも、1799年のブルメール18日のクーデタでナポレオン・ボナパルトが宣言したように、革命の本来の目的は達成されたのでしょうか?ナポレオン・ボナパルトの支配が革命の結果だとすれば、革命の失敗は1814年のナポレオン・ボナパルトの退位、1815年のワーテルローの戦いのどちらだったのでしょうか。王政復古は立憲君主制の確立に失敗し、革命を否定したのでしょうか。もしそうなら、革命は1830年まで、1848年まで続いたのものでしょうか。 歴史は一通りには説明出来ません。視点が変われば、どんなに説得力のある主張も意味を持たなくなります。時代が変われば、疑問に対する答えも変わります。しかし、疑問を持てば持つほど、歴史は面白くなり、その多面性が見えてきます。
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第一次世界大戦とロシア革命Ⅰでは、第1次世界大戦が発生した原因とその結果、第1次世界大戦間の外交について学びます。 20世紀初め、ヨーロッパでは列強間の緊張が高まり、大きな戦争が起こるかもしれないと言われていました。それは主にバルカン半島に関する出来事でした。オスマン帝国が崩壊したからこそ、この地域は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるくらいに緊張状態になりました。バルカン半島でヨーロッパ各国の利害が直接ぶつかり合う可能性がますます高まってきました。日露戦争に敗れたロシアがバルカン半島に目を向けると、現地の情勢は予想出来なくなりました。以降、オーストリア・ハンガリー、セルビア、ロシアがこの地域で対立するようになりました。オーストリア・ハンガリーは、パン・スラブ主義が自国のスラヴ系諸民族に影響を及ぼし、分離・独立運動が活発化しないかを心配していました。このため、バルカン半島でセルビアをはじめとするスラヴ系諸国が強まるのを抑えようとしました。また、ドイツは世界政策の中で、中欧からバルカン半島まで支配地域を拡大し、ドイツ国民の連帯を呼びかけるパン・ゲルマン主義が推進されました。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱し始めると、オーストリア・ハンガリーは行政管理権を与えられていたボスニア・ヘルツェゴヴィナを大胆に併合してしまいました。ブルガリアもオスマン帝国から独立しました。南スラヴ系の住民がボスニア・ヘルツェゴヴィナに多く住んでいます。セルビアが編入を希望したのは、南スラヴの味方になりたいからでした。オーストリアに反発したセルビアは、スラヴ世界の味方と考えるロシアに助けを求めようとしました。 1911年、列強が第二次モロッコ戦争に注目していた頃、イタリアは、トリポリ市民の保護を目的に、イタリア=トルコ戦争を始めました。1912年スイスのローザンヌで行われた講和会議の後、イタリアは北アフリカのトリポリ、キレナイカを支配下に治めました。この戦争に動揺したバルカン諸国は、1912年にセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアがバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦争しました(第1次バルカン戦争)。オーストリアは、セルビアがロシアの助けを借りてアドリア海に進出する計画に大反対しました。このため、ロシアもオーストリアも国境近くに大軍を築きました。いつ危機が起こってもおかしくありませんでした。しかし、イギリスがロシアに圧力をかけ、ドイツがオーストリアを止めたので、危機は起こりませんでした。 オスマン帝国は、1913年5月のロンドン条約で、イスタンブール周辺を除くバルカン半島の大部分を手放しました。しかし、今度はオスマン帝国から獲得したマケドニア地方の領有権を巡って、セルビアとブルガリアが争い始めました。ギリシア・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアはセルビアに味方しました。第2次バルカン戦争に敗れたブルガリアは、1913年8月に締結された条約で、マケドニアなどの土地を手放しました。この敗戦により、ブルガリアとオスマン帝国はドイツと手を組む可能性が高まりました。 1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその妻がサラエボでセルビア人に暗殺されました。ドイツの支援を受けたオーストリアは、セルビアに厳しい最終通告を出して、ほとんど主権を奪ってしまいました。要人暗殺事件が当時のヨーロッパで頻発していたため、外交交渉で危機を解決出来ると考える人も大勢いました。第一次バルカン戦争で、イギリスとドイツは、ロシアとオーストリアを戦争に巻き込まないようにしました。 しかし、ロシアにとってセルビアを諦めると、大国としての信用を失います。国内で議会の力を取り除き、皇帝権力を維持したニコライ2世にとって、大国の信用を失えば、政権危機にもつながる可能性もありました。ロシアが総動員令を出すと、ドイツは宣戦布告しました。こうして1914年8月1日、第一次世界大戦が始まりました。 ドイツはまず西側に兵力の大半を投入して、ロシアとフランスの両方同時に戦わなくても済むように、パリを速やかに陥落させる計画を立てました(シュリーフェン計画)。つまり、中立国ベルギーへの進軍を意味しました。ベルギーへの侵攻は、イギリスが対ドイツ戦争に参戦する理由となりました。ドイツは1914年9月のマルヌの戦いで敗北すると、パリへの進撃は終わりました。それ以来、西部戦線では塹壕戦が中心となりました。1914年8月、パウル・フォン・ヒンデンブルグ率いるドイツ軍は、東プロイセンのタンネンベルクの戦いでロシア軍を破りました。その後、ドイツ軍はポーランドを含むロシアに入り、そこでロシア軍と戦争しました。しかし、ロシアは広大な国土を持ち、輸送手段も悪いため、戦争の結末がどうなるか見通せなくなっていました。そのため、ドイツはロシアとフランスを同時に相手にしなければならず、最悪の結果になりました。 極東では、1914年8月23日、日英同盟を理由に日本がドイツと戦争に踏み切りました。日本が極東で戦争に参加したのは、第一次世界大戦をヨーロッパだけの戦争ではなく、「世界」の戦争にするための大きな一歩となりました。1917年4月からアメリカが参戦しました。しかし、戦争の中心地は、ヨーロッパ・カフカス周辺・アフリカ周辺でした。 当初戦争に参加しないと言っていた国も、後に連合国(イギリス・フランス・ロシア)側か同盟国(ドイツ・オーストリア)側に加わりました。長い間ドイツの友好国だったオスマン帝国は、1914年11月に同盟国側へ加わりました。オーストリアとの土地問題で中立を保っていたイタリアは、1915年5月になると三国同盟を破棄して、連合国側に加わりました。ブルガリアは1915年10月に同盟国に加わりました。スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・スペイン・スイス・オランダは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、戦争が終わるまでどちらにも入らなかった主要な国でした。 第一次世界大戦以前の戦争は、プロイセン・フランス戦争のように僅か数箇月の短期戦でした。前線ではなく後方にいる一般市民の生活は、あまり変わりませんでした。第一次世界大戦が始まった当初も、ほとんどの一般人は数箇月で終わると考えていました。しかし、第一次世界大戦は長期間に渡って繰り広げられ、総力戦となりました。結局、一般人の予想ではなく、各国の軍部指導者内の予想が当たりました。 戦争が長引いた理由の一つに、産業の高度な発展が挙げられます。1870年代に入って、第二次産業革命が起こりました。石油や電気などの新しい動力源が広まるとともに、重化学工業が発展するようになりました。このような状況の中で、ヨーロッパ各国は産業力を最大限に活用出来たので、戦争の継続が非常にやりやすくなりました。 また、国家は、産業を総動員出来るように、国民の生活様式を変えていきました。戦前のヨーロッパは「郷に入っては郷に従え」的な考え方(自由放任主義)でした。しかし、開戦後は政府が経済を規制して、国民生活の様々な領域に関与するようになりました。国営企業だけでなく、民間企業も政府の管理下に置いて、原材料の流通や発注の仕方などを統制しました。政府は労働市場も支配しており、労働義務の導入からも明らかでした。イギリス帝国の海軍によって海上封鎖されたドイツでは、深刻な食糧不足に見舞われました。このため、食料をはじめとする生活必需品の価格と配給が厳しく行われました。当時、このように政府が経済のあらゆる面を管理する状況を国家資本主義や戦争社会主義といいました。このような総動員体制は、1916年8月にパウル・フォン・ヒンデンブルグとエーリヒ・ルーデンドルフが軍部独裁体制を敷いたドイツで上手く機能しました。イギリスでも、1917年12月に軍需相のデビッド・ロイド・ジョージが挙国一致内閣の首相になりました。彼は、動員に関わる5人の閣僚からなる戦時内閣を組織しました。他国でも同じような制度がありました。女性は男性のいない仕事を埋めるために、工場、電信交換手、トラクターの運転手、警官など、より幅広い分野で働けました。 第一次世界大戦の長期化には、塹壕戦の普及も大きく関係しています。機関銃の登場により、肉弾戦が難しくなりました。そこで西部戦線では、塹壕を掘って何度も往復して戦う作戦が中心でした。多数の兵士が負傷しても、すぐに後方から鉄道やトラックで交代出来るので、塹壕戦も実現出来ました。しかし、東部戦線では、地盤が弱かったため、塹壕戦はそれほど広まりませんでした。 塹壕戦で前線が動かなくなると、その状況を打ち破るために新しい兵器が作られるようになりました。1915年4月、西部戦線のイープルの戦いで、ドイツ軍は毒ガスを使って遠距離から塹壕を攻撃しました。マスタードガスの通称「イペリット」は、この地名に由来しています。また、塹壕に張り巡らされた有刺鉄線を破るために、装甲戦車が作られました。イギリス軍が初めて使用したのは、1916年6月に始まったソンムの戦いです。1916年2月から12月にかけて、ヴェルダン要塞の包囲戦で70万人のフランス・ドイツ兵が戦死しました。 大砲の射程距離を長くして、偵察や爆撃のための新兵器として飛行機が登場しました。「空中での戦争」は、第一次世界大戦の目新しさを表し、当時、飛行機は戦争画の素材として人気がありました。また、ドイツはイギリス帝国による海上封鎖に対抗するため、潜水艦を投入しました。 精神医療も塹壕戦がきっかけで発達しました。塹壕にいた兵士は、近くに砲弾が落ちるととても怖がり、雨が降るとずぶ濡れになります。過酷な環境でストレスを受けた兵士の多くは、手足が動かなくなる「戦場ショック」と呼ばれる症状に見舞われました。このような患者が大勢いたため、精神疾患は個人の特性ではなく、環境によって引き起こされると考えられるようになりました。 第一次世界大戦によって、人も物も大きく移動しました。故郷を離れ、他国に移住すると、人々の価値観は大きく変化しました。戦場となったポーランドなどを離れなければならなかったポーランド人・ユダヤ人・ウクライナ人・ラトヴィア人などの難民が、ロシア内陸部に流れ込みました。1917年1月現在、ロシア帝国の難民登録者数は490万人でしたが、実際はもっと多い可能性もあります。故郷を追われた人々はナショナリズム(民族主義)を強め、ナショナリズムに基づき他の難民の救済事業が行われるようになりました。これが、ロシア革命後に形成された独立国家の基礎となりました。 第一次世界大戦中、フランスはアフリカやインドシナの植民地から80〜90万人の兵士を戦地や労働のために送り出しました。植民地の人々は戦争に参加しながら、その様子を確かめる中で、これまで教えられてきたような白人は特別な存在ではなく、殺害出来る存在だと知りました。こうして、戦後、植民地の人々が権利の問題をどのように考えるか、その舞台が整えられました。労働者の確保は、複数の国で行われていました。ヨーロッパ諸国は、中国人労働者を雇って、様々な前線で塹壕を掘るなどの仕事をさせました。 当初、第一次世界大戦の目標ははっきりしていませんでした。そのため、ドイツがベルギーに侵攻した時やオーストリアがセルビアに圧力をかけた時など、「小民族の防衛」が持ち出される場合もありました。しかし、それは建前に過ぎませんでした。実際は、各国が領土拡張と賠償金目当てでした。「小民族」の自決は、決して真剣に検討されませんでした。各国は、他国が困っている時や戦争で協力してもらうために、自治や独立を空約束しただけです。そうした約束と並行して、勢力圏の分け方を変える秘密外交が水面下で進められていました。イタリアが連合国側で戦ったのは、ロンドン秘密条約でオーストリアの「未回収のイタリア」をイタリアへ渡すとされたからです。1916年5月、イギリス・フランス・ロシアはペトログラードで、オスマン帝国をどう分割するかについて話し合いました。彼らはサイクス・ピコ協定に合意して、パレスチナを国際管理地域としました。アルメニアは約束としてロシアに渡しました。1915年、イギリスもフセイン・マクマホン協定で、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動指導者と独立国家建設を約束しました。また、11月17日には、イギリスのアーサー・バルフォア外相がパレスチナにユダヤ人居住地を建設するのを認めました(バルフォア宣言)。つまり、イギリスは大国の間で、アラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束する取引を行いましたが、実現しませんでした。結局、これがパレスチナ問題の直接の原因となりました。 秘密外交が批判されたのは、旧世界の中心だったヨーロッパではなく、その外側でした。例えば、1917年3月(ロシア暦2月)に革命ロシアが皇帝政権を倒した時、無併合・無金利・民族自決を基本とした民主的平和を呼びかける声が上がりました。もう1つは、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領による計画です。中立国アメリカは、連合国と経済的に密接な関係を保っていましたが、1915年5月にドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を沈め、乗っていた多くのアメリカ人が亡くなると、アメリカ国内で反ドイツ感情が高まりました。1917年2月、ドイツは潜水艦を派遣し、中立国を無制限に攻撃するようになりました(無制限潜水艦作戦)。1917年4月、ウッドロウ・ヴィルソンは第一次世界大戦の連合国側に参加しました。 理想主義者のウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦の参戦は、戦争を終わらせ、誰にとっても公平な平和を実現しなければならないと考えていました。1918年1月に発表された十四箇条の平和原則は、彼の考えを明確に表していました。秘密外交をやめて、国際的な平和組織をつくり、植民地問題を公平に解決しようと考えました。実際、十四箇条の中には、「民族自決」という言葉は使われていません。ポーランドの独立は支持しましたが、オーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の支配下で暮らす人々の「自治」の可能性を語っただけでした。しかし、アメリカを反帝国主義だと思った世界中の植民地や中国などの従属的地域の人々は、十四箇条を非植民地支配と判断したので歓迎しました。 十四箇条によって最も影響を受けたのはオーストリア=ハンガリー側でした。チェコ人やスロヴァキア人などの非ドイツ系民族は、当初は帝国内での自治を望んでいました。しかし、十四箇条は、より強く独立を求める姿勢を見せるように働きかけました。なぜなら、ウィーン政府がドイツへの依存度を高めるとともに、勝っても負けても、このままだと戦後のドイツが力をつけてしまうと思われたからです。 1917年11月、ソヴィエト=ロシア(ロシア革命政府)が成立しました。1918年3月、同盟国側は、ソヴィエト・ロシアとの間で、ブレスト=リトフスク講和条約を結んで、東部戦線での戦闘を終わらせました。しかし、東部戦線の兵力を西部戦線に移しても、ドイツは物資不足のため、戦争に勝てませんでした。連合国はアメリカの支援を受けて、8月18日に西部戦線でドイツ軍に猛攻撃を加えました。9月にブルガリア、10月にオスマン帝国が敗北すると、10月末にはオーストリア・ハンガリーも解体されました。ドイツ軍はもはや勝てそうにないので、議会指導者に権力を与えて、アメリカ大統領と休戦交渉を始めました。しかし、大きな戦闘を経験しなかった海軍の首脳陣は、最終的に出動命令を出しました。11月3日、キール軍港で、以前から待遇に不満を持っていた水兵が立ち上がりました。すぐに平和を求めた水兵の反乱は、全国に広がる革命運動へと発展していきました。11月10日、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、同国の君主達はその座を明け渡しました。1918年11月11日、新共和国政府と連合国は、コンビ工-ヌの森で第一次世界大戦を終わらせるための休戦協定に調印しました。 第一次世界大戦前のヨーロッパは文明の頂点に立ち、そこに住む人々はそれを誇りにしていました。軍事力や経済力だけでなく、政治体制や文化の面でも、ヨーロッパは文明の最先端を行っていると、世界中から思われていました。しかし、4年半もかかった第一次世界大戦は、この考えを完全に破壊してしまいました。戦争の残酷さに耐えられなくなったように見えたヨーロッパ人同士が武器を取り合い、残虐な殺し合いをするようになりました。戦争が終わる頃、文明の頂点という美しいイメージは完全に崩れてしまいました。 軍事的にも経済的にも、ヨーロッパは戦場となって疲弊しており、それは敗戦国、勝利国のどちらにも当てはまりました。イギリスは相変わらず世界政治で最も重要な国なので、イギリスとフランスは帝国の支配を維持しました。しかし、すでに述べたように、植民地の人々は自らの体験から、ヨーロッパ人が自分達と同じような人間だと知りました。そのため、彼らは自分達の力で独立しようという決意を固めました。 ヨーロッパの地位が低下すると同時期に、国際政治で新しい勢力が重要視されるようになりました。まず、アメリカは債務国から債権国に切り替わり、国土は無傷で力をつけていきます。ソヴィエト=ロシアも戦争、革命、内戦で経済が衰えましたが、資本主義、帝国主義を強く批判する国として生まれ変わりました。日本もアジア太平洋地域で勢力を伸ばし、世界の中で唯一白人でない強国となりました。総じて第一次世界大戦は、ヨーロッパー極支配から多極化支配へと世界を変えました。
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第一次世界大戦とロシア革命Ⅱでは、第一次世界大戦中のロシア内部の動向について学びます。 第一次世界大戦が始まると、ボルシェヴィキとメンシェヴィキを除くロシア国会議員が、戦争に勝つために政府とともに行動しました。戦争の前半では、ロシアはタンネンベルクの戦いで敗れました。1915年の春から夏にかけて、ロシアはガリシアとポーランドでも大敗したため、挙国一致体制が大きく揺らいでしまいました。1916年夏、労働運動が再び盛んになると、中央アジアの諸民族が動員への抗議のために立ち上がりました。鉄道などの交通網の整備も不十分で、食糧や燃料を都市部に運べず、ロシア帝国北西端の首都ペトログラードではさらに状況が悪化していました。革命は、自然発生的な大衆運動から始まりました。1917年3月8日、国際婦人デーに、ペトログラードの女性労働者が「パンをよこせ」というデモを始めました。これが全市的なゼネストに発展して、人々は専制政治の廃止と平和を訴えました。これに兵士が加わり、各地で労働者ソビエト、兵士ソビエトが結成されました。ソビエトの動向に危機感を抱いた国会は、自由主義諸党派を中心とした臨時政府を発足させて、皇帝ニコライ2世を追い出しました(二月革命)。臨時政府によって、ロシアは自由な共和国となりました。多数派を占めていたメンシェジキと労兵ソビエトの協力で、政治犯の釈放、言論、集会、結社の自由が認められ、身分、宗教、民族制限もなくなりました。しかし、臨時政府は、帝国主義ではなく、連合国側に就いて第一次世界大戦に勝ちたいと考えていました。一方、労働者や兵士の支持を受けた社会主義者は、ペトログラードなどにソビエト(評議会)を組織しました。この評議会は、工場や部隊の代表として派遣された労働者や兵士で成り立っていました。1905年の革命でも、ソビエトは独自に組織されました。5月になると、社会主義者と自由主義者が集まって、本格的な連立政権をつくりました。その目標は、民主的改革と戦争継続でした。 しかし、同時に両立は出来ませんでした。仕事が嫌になった労働者は工場経営に関わり、土地を持たなかった農民は土地の買収を争い、戦意喪失に巻き込まれた兵士は大量に戦線離脱していきました。民衆の怒りに最初に反応したのは、社会主義者の急進的集団ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)でした。4月にスイスから帰国した指導者ウラジーミル・レーニンは、臨時政府の崩壊と社会主義政権の樹立を求める四月テーゼを発表しました。また、ウラジーミル・レーニンは、「ソビエトに全権を」というスローガンのもと、各地にソビエトを基礎とした人民階級が支配する「ソビエト共和国」の建設を目指しました。ウラジーミル・レーニンは、世界大戦が資本主義の滅亡を示し、ロシアで社会主義革命が起これば、ヨーロッパの先進国の労働者が参加する世界革命が起こると考えていました。 7月初め、ボルシェヴィキの蜂起は失敗して、ボルシェヴィキの政党は一時的に鎮圧されました。臨時政府は、社会主義革命党のアレクサンドル・ケレンスキーを首相に就任させて、圧政を一層強化しようとしました。しかし、8月末、最高司令官ラーヴル・コルニーロフは、アレクサンドル・ケレンスキーと口論して挙兵しました。その結果、これを無くす過程で、ボルシェヴィキの勢力が再拡大しました。11月7日(ロシア暦10月25日)、ウラジーミル・レーニンやレフ・トロツキーが指導する兵士と労働者が臨時政府を武力で倒し、政権を握りました。11月8日、11月9日の全ロシア=ソビエト会議では、ウラジーミル・レーニンが執筆した「労働者、兵士、農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択しました。全ロシア=ソビエト会議は、ボルシェヴィキのほか、社会革命党左派が多数を占めました。「平和に関する布告」は、無併合、無償金、民族自決の原則に基づき、すぐにでも平和を実現するように求めました。また、秘密条約の公表を約束しました。「土地に関する布告」では、地主の土地は金を払わずに奪ってよい、などと書いてありました。このようにして、ソビエト政権は、二月革命以来、国民が解決しようとしてきた平和と土地の問題に対して、解決の糸口を見せました。これが十月革命(十一月革命)です。 ウラジーミル・レーニンは、ヨーロッパで革命が起きると思っていましたが、結局起きませんでした。しかし、ボリシェヴィキは支配権を譲りませんでした。何とかヨーロッパ革命まで政権を維持しようというのが、当時のソビエト政権の計画でした。1918年1月、憲法制定議会が召集されました。当初、臨時政府は二月革命の際に開催する約束をしていました。選挙では、住民の大多数を占める農民が、他のどの政党よりもエスエルに投票しました。憲法制定議会は十月革命に納得しなかったので、ボリシェヴィキは武力で解散させなければなりませんでした。1918年3月、連合国同士がブレスト=リトフスク条約を結び、ソビエト政権は第一次世界大戦から少し遅れながら、勝てなくなったので離脱しました。その代償は、ウクライナを含む多くの領土と多額の賠償金でした。首都もより安全な内陸部のモスクワに移されました。ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)は、ヨーロッパの社会民主主義とは違うという意味を込めて、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称しました。当初、ソビエト政府はボリシェヴィキだけが主導権を握っていました。1917年12月、左翼のエスエル派と連立政権が成立しました。一方、左派のエスエルは、ドイツに対する革命戦争を呼びかけ、ブレスト・リトフスク条約に反対していました。1918年3月、エスエルは連立を離脱しました。1918年7月、左派のエスエルがドイツ大使を殺害して、モスクワで反乱を起こしました。これは、ソビエト政権を倒すためではなく、共産党をドイツとの革命戦争に巻き込むためでした。しかし、この反乱は共産党に鎮圧されました。 1918年春、チェコスロヴァキア軍団の反乱によって、共産党と十月革命を支持しない勢力の間で内戦が始まりました。軍団は最初、オーストリア帝国を離れた兵士で結成されました。彼らはシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、西部戦線に向かうはずでした。しかし、彼らはウラル山脈の麓でソビエト当局と戦い、5月に軍団から離れました。チェコスロヴァキア軍団を救うという建前で、日本を含む連合国はロシアに出向き、干渉戦争を始めました。 共産党は、大きな軍事陣営のような中央集権的体制を整えて、内戦と介入戦争を戦い抜きました。左翼エスエルの反乱を鎮圧する前に、エスエルとメンシェヴィキの両方がソビエトから追い出されました。そうして、内戦中に共産党が国を支配して、一党独裁体制にしました。これは、単に共産党が政権を運営する体制ではありませんでした。党組織が国家機構や社会団体の中心になり、その思想が政府や社会の全てを支配するという、全く独自の体制でした。共産党中央委員会の指示で、反市場経済統制が行われ、チェーカー(非常委員会)が政治的異論や反革命活動を厳しく取り締まり、レフ・トロツキーは赤軍を発足させました。 1919年春、世界革命を目指す国際共産党組織コミンテルン(第3インターナショナル)が発足しました。同時期、ハンガリーでは共産党のクン・ベーラが政権を握りますが、わずか半年で崩壊しました。1920年、ポーランドがソビエトロシアに侵攻しました。共産党は反撃しましたが、赤軍がワルシャワを占領しようとしたため、失敗に終わりました。 ウラジーミル・レーニンは、1920年代にソビエトロシアで作られた社会主義体制を「戦時共産主義」と名付けました。それは、戦時中のドイツ経済の運営方法から色々学びました。また、1920年代後半からヨシフ・スターリンが作り上げた社会主義体制の第一歩でもありました。統制された権威主義的な体制をとりながらも、民衆層から多くの人材が集められました。こうした総力戦体制が、社会の平準化や民主化のために機能した一つの方法でした。 1920年の終わり頃までに、共産主義者側がロシア内戦に勝利します。連合国による介入は、国内での抗議行動により中断されました。しかし、共産党は経済支配を緩めませんでした。反対に、市場原理を完全になくすような政策を強化しました。 その結果、民衆は反乱を起こして、農村で騒動を起こすようになりました。1921年の春、モスクワやペトログラードでも反政府デモが起こり、水兵反乱が軍港クロンシュタットで起こりました。ウラジーミル・レーニンはクロンシュタット蜂起を厳しく抑えました。しかし、第10回共産党大会で、市場原理を部分的に復活させる方針を決定しました。これが新経済政策(NEP)の始まりです。NEPのもとで、市場原理は少しずつ復活して、ネップマンと呼ばれる富裕層も育ちました。 内戦中、共産党は旧ロシア帝国の各地に出来た民族政権を崩壊させました。しかし、占領した地域をソビエト・ロシアに吸収合併をせずに、理論上、独自の国家を再び作り上げました。これは、共産党が無意味に地方のナショナリズムを煽りたくないからでした。1922年12月、ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースの各ソビエト共和国は、ソビエト=ロシアと同盟を結びました。これが、ソビエト社会主義共和国連邦の始まりです。各国は主権国家として考えられていました。しかし、モスクワの共産党中央委員会が実際に全てを仕切っていました。
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ヴェルサイユ体制下の欧米諸国Ⅰでは、第一次世界大戦の戦後処理について学習します。 1919年1月に連合国代表(英,仏,米,日,伊)によってパリ講和会議が開かれた。しかし、この講和会議にはドイツなど敗戦国は参加できず、また、ソヴィエトは招かれなかった。 さてパリ講和会議では、アメリカ大統領ウィルソンの提唱した十四か条の平和原則が、会議の基礎とされた。(しかし、英仏などの戦勝国が自国の植民地の権益を主張したため、国際連盟の設立以外には、あまり成果はなかった。) なお、十四か条の平和原則 の主な内容は・・・、 などである。 そして6月にドイツ代表の参加する滞独講和条約であるヴェルサイユ条約が調印され、ドイツはすべての植民地を失い、アルザス・ロレーヌをフランスに返還し、軍備の制限、ラインラントの非武装化、巨額の賠償金などをドイツは課せられた。 また、ドイツと同盟を結んでいたオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国などの同盟国も、それぞれ別個に連合国と講和の条約を結び、旧同盟国の諸国は領土を縮小させられたりするなどの結果になった。 ドイツが世界各地に持っていた植民地は放棄させられた。(なお、イギリスなどの戦勝国は、べつに植民地を放棄していないので、植民地の解放運動の思想とは、無関係の要求である。) さて、国際連盟の設立が、パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で決定した。国際連盟は、全会一致による総会を最高機関とした。(現在の「国際連合」とは違い、常任理事国は最高機関ではない。なお、常任理事国は国際連盟の時代から存在する。国際連盟当初の常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本である。アメリカは参加していない。) そして設立した国際連盟には集団安全保障の理念が盛り込まれた。(※ 読者は中学時代に『中学校社会 公民/国際連合・他の国際組織』で集団安全保障とは何かを習っている。) アメリカ合衆国では、この集団安全保障の原則が、国家の開戦権を侵害するものだと考え、アメリカ議会上院がヴェルサイユ条約の調印に反対したので、アメリカ合衆国はヴェルサイユ条約を批准しなかった。 また、アメリカ合衆国は、国際連盟には加盟しなかった。 ドイツは当初、国際連盟への加盟が認められなかったが、1926年にドイツの加盟が認められ、1926年にドイツは加盟した。 アメリカ大統領:ハーディング(任:1921~1923)の提唱によって、1921年11月にワシントン会議(Washington Conference [1])が開かれた。 参加国は先の大戦の戦勝国である9カ国(米・英・日・仏・伊・中・蘭・ベルギー・ポルトガル)である。この会議の主な目的はウィルソンの『十四か条の平和原則』にも挙げられている軍備縮小であり、1922年に行われた海軍軍縮条約では、米・英・日・仏・伊の5カ国の主力艦保有比率が決められた。 ここでの目的として、日本への牽制があった。戦勝国になった後、山東省の権益と南洋群島を獲得した日本は国際的にも脅威となりつつあった。1921年に行われた四カ国条約では、日英同盟が破棄され、また九カ国条約では石井・ランシング協定が破棄された。この流れに不満を覚えた日本はファシズム勢力に傾き、後の第二次世界大戦へと繋がっていく。 戦後のドイツ(ヴァイマル共和国)は、経済が没落してしまい、賠償金の支払いが遅れてしまった。するとフランスは1923年にルール工業地帯を占領したが、しかし他の戦勝国から批判され、フランスのルール占領は失敗した。 このとき、ドイツ経済では激しいインフレがおこり、ますますドイツ経済が混乱した。しかしシュトレーゼマン内閣が通貨改革を行ったため、このインフレは収束していった。 戦勝国は、ドイツの賠償金の支払い年額の減額や、アメリカからのドイツへの投資をさだめたドーズ案をアメリカの主導で行った。このドーズ案により、賠償金の支払い方法を緩和し、ドイツ経済の回復を早めた。さらに1929年には、賠償額の総額を減額したヤング案が決まった。 1925年のロカルノ会議ではドイツも集団安全保障体制への参加が認められたので、それまでの諸会議で取り決めされていた様々な条項(ドイツ西部の国境不可侵と現状維持、ラインラントの非武装化、など)をドイツに再確認させ、ドイツは条約を批准した(ロカルノ条約)。 また、1926年にはドイツの国際連盟への加盟が認められた。 1928年には、侵略目的の戦争を違法化するケロッグ・ブリアン条約(「不戦条約」ともいう)が列強各国に批准された。日本もケロッグ・ブリアン条約に調印した。(※ 参考文献: 帝国書院の教科書) なお「ケロッグ」とはアメリカ国務長官をしていた人物の名前。「ブリアン」とはフランスの外相の名前。 さて、ワシントン会議では、各国の主力艦の保有比率の限度が定められたが、しかし補助艦(主力艦以外の、巡洋艦・駆逐艦などのこと)の保有比率は未定だった。 1930年のロンドン会議では、補助艦の保有量の限度規定がさだめられ、米英日が10:10:7の比率までしか補助艦を保有できないことが定められた。
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本章では、世界恐慌~朝鮮戦争までの範囲を学びます。 1929年、ニューヨークのウォール街で起きた株式市場の大暴落は、世界恐慌を引き起こし、資本主義諸国を大いに苦しめ、国際協調体制を崩壊させました。アメリカは広大な国土を活かしてニューディール政策を進め、イギリスとフランスはブロック経済体制で危機を乗り越えようとしました。一方、ドイツ・イタリア・日本などの後進資本主義国は、大衆を強力に支配する全体主義体制をとり、植民地の再編成を軍事力で解決しようとしました。このため、ヨーロッパでは反ファシズムの抵抗運動が広がり、アジア諸国では独立と自由のための戦いが始まりました。世界は再び緊張に包まれ、1939年、第二次世界大戦が始まりました。第二次世界大戦は連合国がファシズム諸国に勝って終わりました。しかし、ユダヤ人の虐殺、南京虐殺、原爆投下などで、大勢の人が亡くなりました。 第二次世界大戦後、連合国が中心となって国際連合をつくり、国際通貨基金(International Monetary Fund:IMF)など国際経済・金融協力体制を整えました。以降、各国が協力して平和に暮らせるようになりました。しかし、「冷戦」が発生すると、世界はアメリカとソ連を中心とした二手に分かれました。両者の対立は次第に深まっていきました。人民民主主義国家は、ソ連の勢力圏にあった東ヨーロッパの社会主義国家群から生まれました。アメリカは、マーシャル・プランで西ヨーロッパ諸国の経済を支援しました。その上で、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)を通じて軍事的な結びつきを強め、「封じ込め政策」をとりました。東西ヨーロッパ間の最も大きな問題は、ベルリン問題でした。しかし、東西ドイツが分かれると、状況は安定するとともに、冷戦の焦点はアジアに移っていきました。すでに、アジアではベトナム独立同盟とフランスとのインドシナ戦争、中国での内戦開始、朝鮮半島の南北分断など、東西対立が起きていました。このうち、朝鮮戦争は最初の直接戦争となりました。朝鮮戦争は、両陣営に軍事ブロックの結成を急がせました。アメリカは中央条約機構(Central Treaty Organization)、東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization)などの反共軍事同盟を作り、ソ連はワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)を作りました。
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世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰでは、世界恐慌・ニューディールとブロック経済について詳しく学びます。 当時、アメリカは経済成長の時代でしたが、それでも不安材料は数多くありました。第一次世界大戦中の欧州特需で、アメリカ製の農産物も工業製品も飛ぶように売れました。しかし、第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの産業が立ち直ると、アメリカは農産物を海外に送るのを中止しました。1920年代後半になると、ヨーロッパの工業生産は第一次世界大戦前の水準に戻り、ヨーロッパはもはやアメリカ製品に頼らなくても済むようになりました。また、アメリカを含む各国の保護関税政策で、輸出が伸び悩みました。ところが、アメリカ企業は前向きな姿勢を崩さず、生産を続けたため、工業製品の在庫が増加しました。 工場で働いても労働者の給料は上がらず、人手不足は組み立てラインなどで解消されました。景気後退が明らかなのに、株価は上がり続けました。「株を買えば儲かる!」という投資家達の考え方が投機意欲を高め、実体経済と株価がかけ離れた状況になってしまいました。ついに、1929年10月24日木曜日「今の株価は実体経済に対して高すぎる!」と、投資家達が一斉に株を売って、ウォール街の株価は一気に下がりました。以降、世界恐慌が始まりました。[1] 株式市場の大幅な落ち込みは、不況をさらに悪化させて、工業生産も急速に縮小しました。1932年になると、工業生産は世界恐慌前の半分程度に縮小しました。自動車産業は、1932年後半に生産が最低になり、1929年前半の7分の1にまで落ち込みました。1920年代の好景気から立ち遅れた農業は、世界恐慌で大きな痛手を負いました。野菜や果物の価格は3年間で40%以下に下がり、倒産した農家の土地はしばしば競売にかけられ、暴動が起きた地域もありました。1930年、世界恐慌は金融恐慌に発展しました。大手銀行の閉鎖や企業の倒産が相次ぎ、預金者はお金を手に入れるために各地の銀行へ押しかけました。同時に、民間銀行に不安を抱く国民は、安全な郵便貯金に資金を移すようになりました。郵便貯金は、1931年からの2年間で3.4倍に増えました。 企業の閉鎖や倒産・営業時間の短縮などで、失業者や給料減額を迫られる労働者が増えました。1932年末のアメリカは、労働人口の4分の1に当たる約1300万人が失業しました。 アメリカ市場の重要性とアメリカ資本が世界経済の安定を支えていたため、恐慌の影響はすぐに世界中に広がりました。1932年までに、世界貿易は3分の1以下にまで落ち込みました。アメリカの資本がドイツ経済を助けていたため、ドイツは特に大きな影響を受けました。1931年、オーストリア最大の銀行クレディット=アンジュタルトが破産すると、金融危機はドイツを中心に中央ヨーロッパ諸国にも広まりました。 1931年6月、アメリカのハーバート・フーヴァー大統領は、賠償金と戦時国債の支払いを1年間停止する宣言(フーヴァー=モラトリアム)を出しました。フーヴァー=モラトリアムを出しても、恐慌の拡大を食い止められなかったので、1931年9月、イギリスも金本位制離脱を決定しました。1932年の6月から7月にかけて、関係国がローザンヌに集まり、賠償金の支払いについて話し合いました。ローザンヌ会議では、賠償金の大部分を免除する合意が成立しましたが、世界恐慌を食い止められず、ドイツの国内政治も安定しませんでした。 恐慌に立ち向かうために、各国が緊縮財政と物価の引き下げなど、従来通りの政策で対応しました。公務員の人員や給与の削減・新規事業の停止・福祉政策の大幅削減などを行って、各国が危機を乗り切り、経済が自力で回復するのを待ちました。しかし、これが消費意欲をさらに低下させ、恐慌を深刻化・長期化させる原因になりました。また、金本位制からの離脱や保護関税の導入など、国際経済から切り離して自国の経済基盤を守るための政策も広く取り入れられました。ドル・ポンド・フランといった国際的に通用する通貨を持ち、植民地や大きな経済圏を持つような経済基盤の強い国は、自国の経済圏を閉鎖しました。その結果、経済基盤の弱い国はますます苦しくなりました。1933年、アメリカが金本位制を廃止すると、フランスやスイスなど一部の国だけが金本位制を守りました。フランスとスイスの間では、外貨や金を必要としない物々交換が行われ、バーター貿易の発展に繋がりました。 1933年6月、イギリスのロンドンで65カ国が集まり、ローザンヌ会議後の世界経済会議(通貨や経済に関する国際会議)が開催されました。アメリカやナチスドイツは話し合いに応じなかったので、世界経済会議の話し合いは進みませんでした。それ以降、自国の利益を最優先する一国主義の風潮が強まりました。 1932年のアメリカ大統領選挙で、民主党のフランクリン・ルーズベルトは、現職のハーバート・フーヴァー共和党大統領に対抗して出馬しました。ハーバート・フーヴァーは、街に大量の失業者が出ていても、長い目で見ると経済は良くなると考えていました。社会保障を充実させるために連邦支出を増やしませんでした。その代わり、1932年2月に復興金融公社を立ち上げ、低利の融資を受けられるようにしました。一方、フランクリン・ルーズベルトは、民主党のホープでした。ウッドロウ・ウィルソン政権で海軍次官補を務め、1920年の選挙では民主党から副大統領に立候補しましたが、子供の頃に身体麻痺を起こし、一時政界から離れなければなりませんでした。1928年、入院生活から退院しました。その後すぐにニューヨーク州知事に当選しました。また、世界恐慌に対して、ニューヨーク州の福祉政策の充実を図りました。このような実績が評価されて、1932年の大統領選挙に当選しました。 1933年3月、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、緊急銀行法を制定して、銀行の連鎖的倒産を防ぐために、銀行に一時閉鎖を指示しました。また、復興金融公社を通じて銀行の株式を買い取り、銀行の再建を図りました。また、ホワイトハウスからのラジオ番組「炉辺談話」で、経済復興への協力を呼びかけました。さらに、恐慌対策としてニューディール(新規まき直し)と呼ばれる一連の計画を速やかに提案しました。以下、ニューディール(新規まき直し)の具体例を紹介します。 1933年5月に成立した農業調整法は、農家に補助金を出して、食料の生産量を減らし、物価が下がらないようにしました。また、政府と産業界の協力を受けて、産業部門別の生産調整を行い、物価を上げようとしたのが全国産業復興法です。全国産業復興法は、企業間の公正な競争を促すために行われました。全国産業復興法では、労働者の団結権や団体交渉権を認め、最低賃金を設定するなど、労働者の権利を守る部分も含まれていました。失業者の救済と失業率の低下を目指して、政府は新規事業を計画しました。例えば、若者に対しては、資源保護活動の仕事に就職させました。さらに、公共事業局が学校や道路の建設を推進したり、テネシー川流域開発公社が設立したりされ、大規模な地域開発が行われるようになりました。テネシー川流域開発公社では、ダム建設による発電とダム近隣農村の活性化を図りました。 上記の復興政策を計画するため、「ブレーン=トラスト」を集めました。「ブレーン=トラスト」では各学者や各専門家から成り立ちました。政府がそのような各利益団体の仲介役となっても、当初の経済復興効果は僅かでした。1933年6月のロンドン世界経済会議で、フランクリン・ルーズベルト政権は国際金本位制の再建協力を断りました。金の裏付けがなくても通貨を作れる管理通貨制度の方が、恐慌に取りやすいと考えたからです。その結果、1930年代に入ると、世界経済はますます複雑になり、それぞれのグループが頻繁に争いました。つまり、ニューディール政策とは、世界経済の立て直しよりも、アメリカ経済の回復を優先させる政策でした。1934年6月に互恵貿易協定法を成立させ、協定国間の関税を引き下げる予定でした。しかし、協定締結国の大半はドル=ブロックの形成に貢献したラテンアメリカ諸国でした。 しかし、フランクリン・ルーズベルト政権がいち早く恐慌対策に動いたにもかかわらず、その効果は薄く、1934年の春になっても約1000万人の失業者がいました。そのため、富の再分配などを求める社会運動が盛んになり、1935年になると、連邦最高裁判所が全国産業復興法の一部を違憲とする判決を出しました。このような判決を受けて、フランクリン・ルーズベルト政権は改革姿勢を強め、1935年にワグナー法(全国労働関係法)を成立させました。ワグナー法(全国労働関係法)は、「全米産業復興法」にある労働者の団結権、団体交渉権を認め、経営者の組合活動に対する不当労働行為を禁止しました。これが労働運動を活性化させ、労働組合の発展をもたらしました。1935年、熟練労働者を中心に活動していたアメリカ労働総同盟は、産業別労働者組織委員会を立ち上げました。これによって、鉄鋼業や自動車産業での基盤を拡大しました。景気回復の効果はあまり期待出来ないにしても、ファシズム諸国から民主主義を守るために、政府が社会保障法を成立させ、貧困層に幸福をもたらすのは大きな意味を持ちました。産業別組織委員会に加盟していた労働組合がアメリカ労働総同盟指導部から追い出されたので、産業組織委員会は産業別組織会議を結成しました。 国民はニューディール政策を気に入り、1936年の選挙でフランクリン・ルーズベルトが記録的大勝利を収めました。しかし、1930年代後半に再び不況が深刻化すると、第二次世界大戦が始まるまで景気は完全に回復しませんでした。 外交面では、1933年にソビエト連邦を承認しました。その後、アメリカはハイチへの占領をやめ、キューバはアメリカからプラット修正条項を取り上げられました。1936年になると、パナマ運河地帯をパナマが単独で所有するようになりました。1934年、高率の保護関税を引き下げ、善隣外交によって、ラテンアメリカ諸国を内政に関与させず、武力行使もせずにドル経済圏に組み込む方針を決定しました。このように、それまでの強引な政策からの転換は、貿易を拡大するために行われました。また、10年間の独立準備期間を経て、フィリピンを独立させる法案を作成しました。また、周辺のファシズム諸国が攻めてきた時も、中立を選択しました。1935年以降、議会は中立法を制定して、戦争をしている国に武器や軍需品を売ったり、融資をしたりする行為を違法としました。しかし、1939年にヨーロッパで戦争が始まると、大規模な軍備増強に乗り出しました。1941年には武器貸与法を制定して、イギリスを含む連合国側の支援を強めていきました。 この軍事生産の拡大は、アメリカ経済を数字上でも急成長させただけではありません。航空機・石油化学・原子力・コンピュータなどのハイテク分野での技術進歩にもつながりました。こうして、第二次世界大戦後、アメリカが世界の主要国として活躍するための経済的基盤が整いました。 アメリカ経済と密接な関係にあるラテンアメリカ諸国では、世界恐慌の影響は非常に深刻でした。社会不安は大きく、独裁政権が誕生した国もありました。ポピュリズム色の強い大胆な政策を実行した政権もありました。ポピュリズムとは、国民の伝統や感情に直接訴え、政治を変え、政策を実現しようとする思想や運動の名称です。第二次世界大戦後、アルゼンチンの大統領になったファン・ペロンは、ラテンアメリカでポピュリズム運動を行った最も重要な政治家でした。例えば、メキシコのラサロ・カルデナス大統領は、土地を持っていない農民に農地を与えたり、労働組合を支援したり、他国が所有していた石油会社を買収したりといった活動を行いました。ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領は、軍事クーデタによって政権を握りました。工業化を進めるとともに、労働者の生活改善にも取り組みました。 スウェーデンをはじめとする北欧諸国も、世界恐慌で経済が苦しくなりました。特に人口の多くを占める農民の状況は悪く、政治的な不満が高まっていました。しかし、1930年代後半になると、社会民主党や労働党は、自国が恐慌から脱却するための対策を取るようになりました。その中には、公共事業や農民の支援、農産物の輸出を増やすための工夫などが含まれていました。また、これらの政府は労働者の社会保障を充実させ、福祉政策によって誰もが同じだけのお金を得られるようにしようとしました。第二次世界大戦後、1930年代から言われていた政策がようやく実行に移され、北欧諸国にも広がりました。そのおかげで、20世紀初頭には西ヨーロッパの遅れをとっていた北欧諸国が、20世紀後半には世界で最も豊かな場所の一つになりました。 イギリスでは、1929年の世界恐慌の影響で、1931年には280万人が失業しました。増え続ける失業保険の赤字に対応するため、第2次ラムゼイ・マクドナルド労働党内閣は、失業保険額や公務員給与の削減などの緊縮財政策を提案しました。しかし、政権を握っていた労働党に反対され、ラムゼイ・マクドナルドを追い出しました。そこで、保守党と自由党の協力によって、ラムゼイ・マクドナルドは挙国一致内閣をつくり、下院を解散して総選挙を行い、圧倒的な大差で勝利しました。そして、ラムゼイ・マクドナルドは、金本位制を廃止して、緊縮財政を敷き、保護関税を導入しました。1932年、カナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)が開かれました。イギリス連邦内で作られた商品には無税・低関税をかけ、イギリス連邦外で作られた商品には高関税をかける特恵関税制度が作られるようになりました。また、イギリスと経済的に関係の深い国々は、ポンドを決済通貨とするスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を結成しました。そのため、世界経済の崩壊が早まりました。 世界恐慌の時、政治家の関心は、恐慌をいかに食い止めるかといった国内問題に集中しました。第一次世界大戦後は、戦争に行かせないようにしようという平和論、反戦論も強まりました。1935年の選挙に勝ち、ラムゼイ・マクドナルドの後を継いだ保守党のスタンリー・ボールドウィンと1937年に就任したネヴィル・チェンバレンがともに首相を務めていました。日本・ドイツ・イタリアのファシズム諸国は、譲歩して事態を悪化させないようにする宥和政策をとりました。その結果、ヴェルサイユ体制が破壊され、これらの国による武力攻撃へとつながっていきました。一方、ファシズム諸国の行動に備えておく必要があるという意見もあり、1930年代後半になると、より強力な兵器を手に入れるようになりました。 1920年代、フランスは金を大量に蓄えていたため、財政的に恵まれていました。そのため、恐慌の影響がフランスに及んだのは、他国が恐慌に見舞われた約2年後でした。また、フランスでは農業がまだ最も重要な産業であったため、他の先進国に比べて失業率が低く抑えられていました。世界恐慌に対するフランスの対応は、1933年にベルギーやオランダなど、まだ金本位制を採用していた国々と金ブロック(フラン=ブロック)を結成しました。また、フランスはデフレ政策として関税の引き上げや支出削減を行いましたが、これらはあまり効果がなく、経済の回復を遅らせました。 この間、政権交代や不祥事が相次ぎ、人々は政治に疑問を抱くようになりました。1934年2月、パリでは右翼団体がコンコルド広場で政府に対するデモ行進を行いました。この出来事は、ナチス・ドイツなどのファシズム国家の台頭や国際連盟の力不足への不安とともに、左派がファシズムに対する危機感を抱くようになりました。1934年7月、社会党と共産党は統一行動協定に合意しました。後に社会党・急進社会党・共産党の反ファシズム知識人がこれに加わり、人民連合(人民戦線)綱領となりました。1936年の総選挙では、人民戦線が大差で勝利して、レオン・ブルム人民戦線政府が成立しました。 選挙に勝利した後、デフレ政策に不満を強めた労働者は、労働条件の改善を求めて大規模なストライキを行いました。これを受けて、レオン・ブルム政権は週40時間労働や有給休暇の増加などの改革を行って、政府による経済統制を強化しました(レオン・ブルムの実験)。この間、フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約を締結しました。この間、レオン・ブルム政権もフランス以外の危機に備え、軍備を増強しました。しかし、政府はスペイン内戦に関与しない方針を固めました。フランの切り下げなどに反対したため、人民戦線はさらに分裂して、1937年6月にレオン・ブルム内閣は総辞職しました。 そのため、フラン・ブロックやドル・ブロックのようなブロック経済が形成され、その間の競争が激しくなりました。主要国は、自国を中心にこうした排他的経済圏を作りました。そのため、世界の様々な地域間の自由貿易を止め、政治的な対立を引き起こしました。ドイツが東南アジアにつくった経済圏、日本が東アジアにつくった円ブロックによって、国家間の経済的緊張はさらにひどくなりました。第二次世界大戦は、このような緊張関係から始まっていきました。
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世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱでは、満州事変~日中戦争までを学びましょう。この節もかなり出題されます。 第一次世界大戦がもたらした大戦景気で、日本の輸出は急速に伸びました。その結果、債務国から債権国に急転換して、特に重化学工業が発展する基礎を築きました。しかし、戦後、日本は再び輸入超過になり、戦後恐慌を招きました。1923年の関東大震災で日本は立ち直る機会を失い、1927年には大規模な金融恐慌に見舞われました。1930年、政府は金本位制に復帰するための条件として、金の輸出を解禁する方針を決めました。しかし、これが輸出をさらに難しくしたため、日本は深刻な農業不況を伴う昭和恐慌に陥りました。 1925年、25歳以上のあらゆる男性が投票出来るようになりました(普通選挙法)。当時、立憲政友会・憲政会の二大政党内閣が交互に登場する政治(憲政の常道)でした。そのため、労働運動を始めとする様々な社会運動が盛んになりました。しかし、政府は不況に上手く対応する対策を思いつかず、社会不安が広がりました。ロンドン海軍兵器制限条約などで軍部や右翼勢力が危機感を強めると、政党政治を批判して、直接行動やテロで問題を解決しようとしました。1930年に一部の青年将校が政権を取ろうとした後、1931年2月に右翼が前大蔵大臣らを殺害しました。また、海軍将校が犬養毅首相を殺害しました(五・一五事件)。さらに、1936年2月、クーデタが発生しました。部下の陸軍青年将校が首相官邸などを襲って大蔵大臣などを殺害しました(二・二六事件)。このような事件以降、軍部の政治的影響力が拡大しました。 日本政府の対中国政策が行き詰まり、陸軍は総力戦体制を整えるため、大陸での支配を拡大しようとしました。彼らは「満蒙」は日本の生命線と国民に訴えていました。1928年、満州の軍閥である張作霖を爆殺しました。しかし、張作霖の後継者張学良が満州を国民党政府に譲ったので、関東軍の計画は失敗に終わりました。1931年9月、関東軍は「満蒙問題」解決のために、奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖で満鉄線路を爆破する計画を立てました(柳条湖事件)。これは関東軍に東北軍に対する軍事行動を開始するきっかけとなり、関東軍はこれを口実に東北地方の主要都市を占拠しました(満州事変)。軍部は世界の注目を浴びないために、1932年、上海で中国軍と戦争を始めました(第1次上海事変)。その間、関東軍はさらに領土を広げ、1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀が満州国の執政(後の皇帝)に就任しました。 蒋介石が共産党の掃討を進めていたため、東北軍を率いる張学良は、日本の侵略に対して不抵抗主義をとっていました。そして、国際社会に訴える方法をとりました。国際連盟はこれに応えて、リットン調査団を派遣しました。リットン調査団は、日本の軍事行動は自衛権の行使ではなく、満州国は日本の傀儡国家とする報告書を作成しました。国際連盟臨時総会は、1933年2月にこの報告書を可決しました。1933年3月、日本は国際連盟に対して脱退を表明しました。 1933年、日本軍は「熱河は満州国領の一部だから、長城線を国境とする」と言って占領しました。国民党政府も事実上これに同意しました(日中軍事停戦協定)。また、1935年、日本は万里の長城線を越えて、隣接する華北地方を支配下に置くために、華北分離工作を開始しました。1935年末、中国軍は河北省東部から撤退して非武装地域となり、日本の傀儡政権として冀東防共自治委員会が設置されました。日本が北京や天津を軍事攻撃したため、中国国民の危機意識はさらに高まりました。 中国国民党政府は、1929年に成立されました。ナショナリズムを利用して列強と二国間交渉を進めながら、不平等条約の解消に取り組みました。関税自主権を取り戻した後は、国内産業を保護しながら、確実に税金を取れるようにするために関税を引き上げました。同時に、統税(統一貨物税)を設定した上、塩税も変更されたため、中央政府の財政は改善されました。経済面では、経済関連法や経済規則の制定を進めるとともに、化学工業や民間の軽工業の支援、道路や鉄道などのインフラ整備も行いました。 満州事変当時、国民党政府は、共産党の追い出しを含む国民統合を最優先していました。そして、共産党の本拠地を次々と奪っていきました。共産党軍はこれに対応出来ず、1934年10月に瑞金から撤退を始めました。これが長征の始まりです。国民党軍の追撃を受けながら、共産党軍は内陸部へと進みました。そして、陝西省北部にたどり着き、本拠地を設けます。こうして、毛沢東の権力は徐々に強化されていきました。 世界恐慌が発生すると、中国は大不況になりました。中国の主要通貨(銀)が国外に流出したからです。1935年1月、政府は政府系銀行が発行する紙幣(法幣)を唯一の統一通貨とする管理通貨体制に切り替えました。アメリカやイギリスの支援を受けて、この紙幣は受け入れられ、国家政府支配地域に広まりました。貨幣の統一と法幣の安定化が進むにつれて、中国経済は上向きになっていきました。一方、日本は満州国を日本経済に取り込み、華北に物資を密輸するなどして、この幣制改革の邪魔をしました。これは国民政府の関税政策に打撃を与えたため、中国と日本の対立はより深刻になりました。 中国では、経済侵略を含む日本の侵略に対して、反日運動が盛んになりました。しかし、国民政府は反日運動を鎮圧したため、国民の反発を招きました。一方、コミンテルンは統一戦線結成の方針を示しました。1935年8月、共産党は抗日民族統一戦線結成を呼びかける八・一宣言を出しました。しかし、国民政府は共産党攻撃を優先するため、張学良率いる東北軍を陝西省に送り込みました。ところが、故郷を日本軍に奪われた東北軍の兵士達は、共産党への攻撃を嫌がりました。1936年12月、西安にいた張学良は、共産党攻撃を呼びかけた蒋介石を捕まえて、内戦中止と反日を強く求めました(西安事件)。蒋介石はこの要求を受け入れて、解放されました。その結果、中国は、日本に対して全面的な対抗手段を取ろうと動き出しました。第2次国共合作は、日中戦争になってようやく実現しました。 日本が華北を切り崩そうとする中、1937年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋で誤発砲事件をきっかけに、日本軍と中国軍が争う盧溝橋事件が起こりました。この地域では停戦協定が結ばれ、日本政府は不拡大方針をとりました。しかし、日本の陸軍はこれをきっかけとして、華北に勢力圏をつくるために、軍を増やし始めました。蒋介石はこれ以上譲歩出来ないので、中央政府軍を北に送りました。両軍は華北で戦い、日本軍は北平と天津を占領しました。8月から上海でも戦争が始まり、中国軍は突撃しました。日本軍も兵士の増員を決定したため、戦火は華中にも広がりました。さらに華北でも戦闘が再開され、日本と中国は全面戦争に入りました(日中戦争)。日本軍は中国軍がすぐに降伏すると思っていましたが、中国軍は反撃し続けました。特に、ドイツで訓練され、装備された中央政府軍が拠点としていた上海付近での戦闘は、日本軍も驚くほどの苦戦を強いられました。上海を攻略するのに10月までかかりました。その後、日本軍は急速に前進して、12月には南京を占領しました。しかし、上海での残酷な戦闘で精神が破壊され、規律が乱れたため、多くの民間人や捕虜が犠牲になりました(南京事件)。 ドイツは南京を占領した後、和平交渉を進めようとしましたが、日本側の要求が大きくなり、失敗に終わりました。1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府を相手にして話をするつもりはない。」と述べて、和平交渉の可能性に終止符を打ちました。1938年10月、日本は武漢や広州など沿岸部や長江沿いの主要都市を占領しました。中国側は武漢、そして重慶に政府を移して日本との戦いを続け、日中戦争は長期戦になりました。1938年11月、近衛文麿首相が東亜新秩序声明を発表しました。日本が提案する東亜新秩序に国民党は外せないとして、国民党を利用して自分の要求を通そうとしました。1938年12月、汪兆銘(国民党の中心人物)の重慶脱出を手助けしました。1940年3月、南京に汪兆銘政権を設立して、日本軍占領地を統治させました。しかし、汪兆銘の傀儡政権は中国国民の支持を得られず、日本側の仕掛けも上手く機能しなくなりました。国民政府に対する経済封鎖が強まると、イギリス、アメリカなどが反対してきました。これが日中戦争の国際化につながり、日本とアメリカの対立、そして太平洋戦争へと発展していきました。 国民政府支配地域は、「大後方」と呼ばれていました。日本軍の侵攻が困難な内陸部でした。その結果、経済が低迷して、工業もほとんど発展しませんでした。そこで、国家政府はアメリカ、イギリス、ソ連からの援助や融資を受け入れ、いち早く国防関連の産業を推進していきました。しかし、重工業の拠点が少ないため、軍需物資が足りず、ソ連、イギリス領ビルマ、フランス領インドシナへの援助ルートの整備を進めました。また、経済の中心地や主要貿易港を失ったため、国民政府も国家収入の大半を失い、農業税に頼るようになりました。しかし、強制的な徴兵制や農民の収入もわからないまま不平等に税金を取っていたため、農民の不満も大きくなっていきました。また、都市の市民もインフレで国民政府の信頼を失いかけていました。 日中戦争で、共産党は日本軍が占領していた華北・華中の農村地域に進出すると、領土を拡大しました。しかし、1940年の日本軍の攻撃、1941年の国民党政府による封鎖などで状況は悪くなりました。そこで共産党は、思想統制を強化しながら、毛沢東を中心とした体制をより強固にしていきました。また、農村の小作料や金利を引き下げて地主や農民の利害調整を進め、その地域の支持を得ました。日本が太平洋戦線に軍隊を送ると、共産党は華北で拠点を増やしました。戦争中、共産党の軍隊は10倍以上に増え、戦争に大きな影響を与えました。
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ドイツのナチス政権がどのように設立され、どのような政策をとったのかを本節で学習しましょう。 ドイツは、世界恐慌の影響をすぐに受けました。1930年までに300万人以上が失業して、1931年には工業生産が3分の2に落ち込みました。1930年3月、ヘルマン・ミュラーの連立内閣は、拡大する失業保険の赤字を誰が負担しなければならないかについて、労働者と会社側の意見が対立して崩壊しました。その後を引き継いだハインリヒ・ブリューニング内閣は、少数派内閣を組閣しました。彼は、議会で多数派になろうともしませんでした。その代わり、保守派や軍部、保守派のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と協力しました。ハインリッヒ・ブリューニング内閣は、デフレと増税で世界恐慌に対抗しようとしましたが、議会は反対しました。そこで、ハインリッヒ・ブリューニング内閣は国会を解散に追い込んで、新たな選挙を求めました。9月の選挙前までは小政党だったアドルフ・ヒトラーの国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が、いきなり100議席以上を獲得して国会で第2党になりました。同時に、共産党の勢力も拡大しました。ナチ党の歴史的な正式名称は「ナチス党」ですが、かつては同党の政敵が侮辱するために使っていた名称です。ナチや複数形のナチスは、ナチ党員やナチ党と関係のある組織(親衛隊や突撃隊など)の構成員を意味します。国会の過半数にのぼる人々が、共和制は嫌だ、議会制民主主義から抜けたいと言った時点で、国会は機能しなくなりました。共和制を支持する社会民主党は、ハインリッヒ・ブリューニングの内閣に賛成しました。その理由は、その後に来るナチスのような存在よりはましだと考えたからです(「より小さな悪」理論)。その後、「大統領制内閣」と呼ばれる内閣が成立して、政府は必要な法律を大統領緊急令として成立させて、国会はこれを否決しませんでした。大統領緊急令は署名されるとすぐに国会に送られなければならず、国会が同意しなければ効力を失いました。 アドルフ・ヒトラーは、オーストリアの税関職員の息子でした。当初は芸術家を目指していましたが、ウィーンの美術学校に合格出来ませんでした。アドルフ・ヒトラーは軍隊から逃げ出して、ドイツのバイエルン州の州都ミュンヘンに移住しました。第一次世界大戦が始まると、彼はバイエルン軍に入り、西部戦線で戦争のほとんどを過ごしました。第一次世界大戦後、ミュンヘンに戻って、軍の情報活動を手伝いました。早くから演説が上手と注目され、定職がない分、党活動に専念出来たため、党首に選ばれるようになりました。アドルフ・ヒトラー一揆が失敗した後、アドルフ・ヒトラーは裁判にかけられました。裁判官のほとんどが反共産主義者だったので、判決は甘く、彼は獄中で多くの自由を与えられ、そこで最も有名な著書『わが闘争』を執筆しました。彼の人種差別から生まれる反ユダヤ主義、ロシアの征服は矛盾しませんが、時代や場所によって使い分けをしていました。1920年代後半、党内では、アドルフ・ヒトラーがいかにカリスマ的な存在か気づいていました。レーム事件以降、国民はアドルフ・ヒトラー大統領に期待し、愛するようになりました。 ハインリッヒ・ブリューニングは、グスタフ・シュトレーゼマンよりも積極的に修正主義外交を行おうとしました。彼はオーストリアとの関税同盟を提案しつつ、フランスやポーランドとの関係を悪化させました。その上で、ドイツが破綻している事実を明らかにして、賠償金を免れるために、過激なデフレ政策を開始しました。この政策が不況をさらに悪化させ、1932年には600万人近い失業者が出て、国内の状況はさらに悪化しました。左翼と右翼の政治団体は、特に選挙の時期にはいつも街頭で争って、多くの死者を出す内戦に発展しました。ハインリッヒ・ブリューニングの外交政策は、賠償金の支払いを始め、ヴェルサイユ条約の負担のほとんどを解消する成果をあげました。しかし、その成果は彼の失脚後にもたらされ、こうした状況下では、ドイツ国民の政治路線に何の影響も与えませんでした。 1932年の大統領選挙でアドルフ・ヒトラーは敗れましたが、彼は多くの期待を集め、パウル・フォン・ヒンデンブルクの最も有名な対抗馬となりました。1932年の夏までに、ナチス党は国民議会を含むほとんどの州議会で第一党になりました。ハインリッヒ・ブリューニングを追い出したパウル・フォン・ヒンデンブルクは、大統領独裁体制をより強力にしようと、より右派のフランツ・フォン・パーペン、そして軍部のクルト・フォン・シュライヒャー将軍を内閣に就任させました。伝統的保守派は、ナチスが大衆運動のように組織され、街頭暴力を使い、「社会主義」だと言うので、ナチスは良くないとまだ思っていました。一方、フランツ・フォン・パーペン内閣やクルト・フォン・シュライヒャー内閣は、国民からの支持が得られませんでした。このため、国民を味方につけるためにナチス党と協力する必要がありました。1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に指名すると、ナチ党・保守派連立内閣を発足させました。 ナチスの閣僚が少数派になっても、アドルフ・ヒトラーは保守派の反対を押し切って、すぐに国会を解散して総選挙を実施しました。選挙戦の間、ナチ党は初めてラジオを使って政治演説しました。同時に、反対派の選挙運動を妨げるために出来る限り手を尽くしました。1933年2月末、選挙戦の最中にオランダの共産主義者が国会議事堂放火事件を起こしました。国会議事堂放火事件は、ナチスにとってあまりにも都合がよく、当時も「単独行動ではない」「ナチスの陰謀だ」という説が流れましたが、真相はまだ分かりません。ナチスは国会議事堂放事件をドイツ共産党の犯行と受け取り、憲法の基本的権利を停止する緊急令を出しました。また、ドイツ共産党員を含む反対派を多数逮捕しました。当時行われた裁判で共産党関係者が無罪になったのも、彼らが関与していない証拠です。しかし、選挙の結果、ナチスの単独過半数獲得にはつながらず、ナチス党と保守派がやっと過半数を握る程度の票数になりました。国会をまとめると、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を成立させて、国会の立法権を政府側に譲りました。その後、ナチスは国民革命と称して、各州や自治体を支配するとともに、他の政党を解党させて、ナチス党の一党独裁体制を敷きました。また、ナチスは既存の労働組合を解体させて、ナチスの組織の一部としました。さらに、様々な社会組織や団体をナチスの組織として合併・再編し、報道機関などのメディアを新しく作られた宣伝省に運営を任せました。また、突撃隊や親衛隊は、暴力やテロを利用して、より大胆に反対意見を抑えました。社会主義者や民主主義者などの反対派を強制収容所に送り、ユダヤ人商店の不買運動を始めました。秘密警察(ゲシュタポ)は、反体制派の動きを見張り続けました。アドルフ・ヒトラー政権が誕生すると、共和派の政治家・ユダヤ人・社会主義者・民主主義者・自由主義作家などが大勢ドイツを離れていきました。その中には、物理学者のアルベルト・アインシュタイン、作家のトーマス・マン、前首相のハインリヒ・ブリューニングもいました。 ナチ党は、第一次世界大戦後の1919年にミュンヘンに集まった反ユダヤ主義者の小集団から始まりました。この団体は、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と名称を変えました。当時、ドイツには右翼や反ユダヤ主義の団体が多く、ナチ党はある地域の小さな集団に過ぎませんでした。1921年、アドルフ・ヒトラーが党首になったのは、人々を興奮させる方法を知っていたからです。アドルフ・ヒトラーは1923年の秋にクーデター(一揆)を起こそうとしましたが、失敗に終わりました。このようになったきっかけは、イタリアのファシズム運動などがあったからです。その後、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を利用して、選挙によってより大きな権力を手に入れようとしました。しかし、党の組織網を全国に拡大した以外は、あまり大きな成果を上げられませんでした。1920年代後半、議会政治が機能しなくなり、不況が深刻化します。そこで、ナチ党は、現状維持の完全否定、若さ、アドルフ・ヒトラーを強い指導者として見せる新しい大衆宣伝方式を取り入れました。その結果、現状に不満を持つ農民や都市の中間層から注目と期待を集めるようになりました。しかし、ナチ党には、現状を変えて民族共同体を作りたいだけでした。したがって、ナチ党は、明確な計画も持っていなかったので、その政党に投票する人はいつも変わっていました。 ナチスは、州の自治を廃止して、連邦制に基づく中央集権的な政治体制に切り替えました。以降、突撃隊指導者のエルンスト・レームが反逆を計画するようになりました。1934年6月、多くの突撃隊指導者やクルト・フォン・シュライヒャー元首相など保守派有力者とともに親衛隊に暗殺されました(エルンスト・レーム事件)。エルンスト・レーム事件では、ナチスに反対する急進派や保守派が殺害されました。その結果、アドルフ・ヒムラー指揮下の親衛隊が力をつけていきました。現在、エルンスト・レームらの反逆事件は自作自演と考えられています。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が亡くなると、アドルフ・ヒトラーもその権力を引き継ぎ、独裁者となりました。ナチスはすぐに自分の国を支配するようになりましたが、他国と同じように武器を持つ権利がありませんでした。その結果、1933年10月に国際連盟を脱退した以外、特に目立った行動をしていません。 ナチスが最初に取り組んだのは、不況対策と失業率の削減でした。アウトバーン建設などの公共事業を支援したり、軍備を増強したり、失業中の若者を労働奉仕組織で働かせたりして、失業率を下げようとしました。アウトバーンとは、ドイツ語で「車のための道路」という意味です。ワイマール共和国時代には、すでに建設計画が立てられ、その中の一部はすでに建設されていました。アドルフ・ヒトラーは、これを最高傑作だと言って話題にしました。1935年以降、その効果が現れ始めました。1936年、ドイツは、ゴム・石油・繊維などの重要戦略物資の自給自足を目指した「四ヵ年計画」を実施しました。四ヵ年計画とは、外国から持ち込まなければならない天然ゴム・石油・繊維を、ドイツが大量に作っている石炭を原料とした合成ゴム・合成石油・合成繊維に置き換える計画です。その結果、経済はさらに活性化され、1937年までにドイツ国内の失業者はほぼいなくなりました。このような合成技術はかなり早くから知られていましたが、天然物に比べて高価なので、生産しませんでした。アウタルキー計画は、成功した例もありました。外国がまだ世界恐慌の影響を受けている中、ドイツはいち早く経済を回復させました。軍拡が主な理由でしたが、そのおかげでナチス政権は世界から良い印象を持たれるようになりました。 国民共同体の建設というスローガンの中で、ナチスは国民の娯楽も考えました。例えば、イタリアに似たような娯楽団体を設立したり、ラジオを普及させたりしました。また、福祉・社会事業(貧困者救済事業や結婚資金の貸付制度など)を充実させ、1936年のベルリンオリンピックを利用して、国民の自己意識を高めました。こうして、1936年から1937年にかけて、多くの国民がナチス政権に賛成したり、支持したりするようになりました。 国内体制の整備が整うと、アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ体制の破壊に乗り出しました。1935年初め、ザール地方では、最終的にどこに帰属するのかを決めるための住民投票が行われました。この住民投票は以前から計画されており、圧倒的多数でザール地方はドイツに帰属しました。この成功を受けて、アドルフ・ヒトラーは1935年3月、「徴兵制を復活させて、軍隊を再武装化しましょう。」と言い出しました。そこで、1935年4月、イタリア北部のストレーザで、イギリス・フランス・イタリアの3カ国首脳会談が行われました。イギリス・フランス・イタリアは、ドイツに立ち向かい、ロカルノ体制を維持する方針を決定しました(ストレーザ戦線)。その頃、イギリスとドイツは、海軍の問題について話し合っていました。その結果、1935年6月に英独海軍協定の締結につながりました。英独海軍協定では、ドイツはイギリス海軍の水上艦艇の35%までを持ち、潜水艦はイギリスと同じ数だけ持っても構わないと定められていました。イギリスがドイツの再軍備を英独海軍協定で認めると、ストレーザ戦線は崩壊しました。 これを受けて、1935年5月、フランスとソ連は仏ソ相互援助条約を結んで、ドイツに備えることになった。1936年3月に条約が成立すると、アドルフ・ヒトラーは「もうドイツはロカルノ条約に従わなくても構いません。」と言い出した。そして、非武装地帯となっていたラインラント地方に軍隊を入れました。イギリス・フランス・国際連盟は、抗議声明を出すだけで、何も動きませんでした。ヴェルサイユ体制とロカルノの体制は、ほとんど崩壊してしまいました。
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ファシズム国家の攻撃で、世界の政治がどのように変わったのでしょうか。世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅳでは、世界恐慌後のロシアの動きとイタリア・スペインの動きを中心に見ていきます。 世界恐慌の影響は、イタリアでも農業分野から始まり、貿易分野にまで広がりました。これを受けて、産業復興公社の設立[金融分野]、労使協同体の設立[産業分野]などを行って、政府統制を強めました。失業者を減らすために週40時間労働制もこの時に導入されました。しかし、景気は中々回復しませんでした。このため、海外に植民地を増やして停滞を破りつつ、植民地戦争で各国をファシズム体制に取り込む計画が立てられました。この時、エチオピアは、最初の標的になっていました。その理由を説明します。19世紀末、エチオピアはアドワの戦いで、占領しようとするイタリア軍を倒しました。その結果、イタリアは植民地帝国を築けなくなったからエチオピアが最初に狙われました。また、もし、エチオピアを占領すれば、イタリアのソマリアやエリトリアにも近く、資源も多く手に入れられると考えたからです。 1934年末、ワルワール事件(イタリア領ソマリアとエチオピアの国境を巡る争い)が発生し、ベニート・ムッソリーニは軍隊を集めるきっかけを作りました。一方、エチオピアはこの事件を連盟に持ち込んで解決を求めました。イギリスもフランスも地中海の情勢が緊張するのを気にしており、イタリアがアフリカの植民地を占領しても大丈夫そうだったので、イタリアに様々な歩み寄り方法を持ちかけて和解を試みました。しかし、イタリアは、1935年9月、和解案を断り、エチオピアに侵攻しました。1935年10月、国際連盟はイタリアに経済制裁を加える方針を決めました。満州事変の時と違って、集団安全保障の原則に基づきます。1935年11月、最初の制裁が行われました。武器やアルミニウム、ゴム、鉄などの戦略物資はイタリアに送れなくなりました。イタリアは、外国から信用を失ったので、石油を除くイタリア製品は持ち込めなくなりました。侵攻開始後も、イギリスとフランスはイタリアとの全面的な衝突を避けました。1935年12月、イギリスのサミュエル・ホーア外相とフランスのピエール・ラヴァル首相兼外相がホーア・ラヴァル案をまとめ、イタリアへの領土割譲とエチオピアの間接支配を事実上認めました。この案が発表されると、イギリス・フランスの国民だけでなく、世界中の人々から「イタリアに有利すぎる」と激しい批判を受けました。サミュエル・ホーアとピエール・ラヴァルは共に辞職して、この提案は白紙に戻されました。しかし、この出来事はファシズム国家の対外侵略を防ぐために、イギリスもフランスも宥和政策をとる計画を持っていると証明しました。1936年5月、イタリアは首都アジスアベバを含むエチオピア全土を占領しました。1936年7月、国際連盟は経済制裁を撤廃しました。その結果、国際連盟の評価は大きく低下しました。その後、国際問題は国際連盟に代わって、大国間の話し合いで解決する方式が採用されるようになりました。国家間問題は、関係者が直接話し合って解決するようになり、自国の利益を優先させる傾向が強まりました。このような傾向は、1936年10月、ベルギーがフランスとの同盟を解消して中立的な立場に逆戻りしたのも、その証拠といえます。 制裁がそれほど強くなくても、イタリア経済にある程度の影響を与えました。その結果、イタリアは制裁対象外のドイツと経済関係を深め、ドイツに依存するようになりました。ベニート・ムッソリーニは、それまでオーストリアの保護者として、ドイツの影響力を拡大させないようにしてきました。ところが、すでにオーストリアはドイツの勢力圏に入っていたので、方針を変更してドイツと手を組むようになりました。1936年11月、ベニート・ムッソリーニは、「ベルリン=ローマ枢軸は、ヨーロッパの中心的国際関係」と語りました。 スペインでは、1930年、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権が倒されました。1931年、国王は退位して、スペインはマヌエル・アサーニャ首相を中心とする共和制となりました。その後、左翼と右翼の政治的な争いも増えました。1936年、人民戦線を組織する社会党と共産党が総選挙で勝利すると、人民戦線政府が誕生しました。まだ大きな勢力を持っていた軍部・保守派・カトリック教会は、人民戦線政府が成立した後、より危機感を強めました。こうした中、1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こしました。この反乱は、スペインを二つに分ける内戦に発展しました。イギリスとフランスは関わらない方針だったので、スペイン政府側を助けませんでした。一方、ドイツやイタリアはフランシスコ・フランコを積極的に支援しました。フランシスコ・フランコはドイツとイタリアに協力を求め、ドイツは武器などの軍需品と志願兵のふりをした正規軍を派遣すると約束しました。結局、地中海を支配したいイタリアは、7万人程の義勇軍を送り込みました。一方、政府側では、欧米の社会主義者や知識人、ドイツ・イタリア=ファシズム諸国からの亡命者が国際義勇軍を結成して、政府に協力するために駆けつけました。その結果、内戦は国際対立の代理戦争となりました。アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルローはいずれも内戦に参加しながら、内戦について書きました。日本では、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』、ジョージ・オーウェルの『カタルーニャ賛歌』などが有名です。イギリスとフランスは、紛争をスペイン国内だけで終わらせるために、人民戦線政府側とフランシスコ・フランコ側双方への武器の輸出を禁止しました。また、内戦不干渉を訴える国際機関、不干渉委員会を設立しました。ドイツとイタリアは不干渉委員会に参加しましたが、両国はまだフランコ・フランコを表立って支持していたので、委員会の行動は政府側を苦しめました。結局、ソ連は政府側を援助しましたが、1939年に反乱軍が首都マドリードを占拠したので、フランシスコ・フランコは内戦に勝利しました。ファシズム勢力と人民戦線勢力が内戦を繰り広げ、全世界の注目を浴びました。結局、人民戦線勢力が敗れ、フランシスコ・フランコが独裁者になりました。お隣のポルトガルでは、1932年からアントニオ・サラザール首相を中心とした独裁政権が続いていました。第二次世界大戦中、フランシスコ・フランコが支配したスペインと、アントニオ・サラザールが支配したポルトガルは、どちら側にもつきませんでした。 1936年、日本とドイツは、国際社会で活躍するソ連と人民戦線を推し進めるコミンテルンの勢力拡大を心配して、日独防共協定を締結しました。1937年にはイタリアも加わり、三国防共協定に発展しました。枢軸国は、自国を「持たない国」と呼ぶ3つの国から成り立っていました。枢軸国はソ連と戦うために作られた国ですが、同時にイギリス、アメリカ、フランスといった「持つ国」とも戦っていました。イタリアは、1937年12月、それまでの日本やドイツと同じように国際連盟を脱退しました。
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冷戦によって、東西の関係はどう変わりましたか?
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1960〜80年代から、韓国・台湾・シンガポール・マレーシアが工業的に発展してきて、これら4か国はNIES(新興工業経済地域、ニーズ)と呼ばれた。 日本では50〜60年代に高度経済成長と呼ばれる急激な経済発展をとげたが、NIESでは10〜20年ほど遅れて工業化した。 こうして、アジアが発展してきたぶん、欧米からは雇用が流出しはじめた。イギリスが慢性的な不況におちいって「イギリス病」と言われるようになった時期も、この頃(1960年以降?)の時代である。 なお韓国では1963年に軍人の朴正煕(パク チョンヒ)がクーデタを起こして独裁的政権をにぎっており、79年まで政権は続いたので(79年にパクチョンヒは暗殺される)、その情勢下で経済発展したことになる。 日本と韓国の国交回復(1965年)は、パクチョンヒ政権下での出来事である。国交回復の際、韓国が対日賠償請求権を放棄するかわりに、日本は韓国に経済投資を協力することになった。このようにして、韓国に日本などの外資が投資をしていった。 79年にパクチョンヒは暗殺され、80年に光州(こうしゅう)で民主化運動が起きるが弾圧され(光州事件)、その後も数年ほど独裁政権が続いたが、88年に韓国政府は民主化宣言を行った。また、88年にはソウルオリンピックが開催され、国際的な知名度を高めた。 そして、91年に韓国は北朝鮮とともに国連に加盟した。 台湾は、1949年以来、国民党の独裁政権が80年代ごろまで続いたが、アメリカの圧力もあり、87年に戒厳令が解除され、88年に国民党の李登輝が総統に就任して民主化を推進し、2000年までの長期政権を築いた。2000年の選挙では、民進党の陳水扁に平和に政権交代した。 中国では89年に北京の天安門広場で学生などによる民主化運動が起きたが、政府はこれを弾圧した(天安門事件)。 60〜80年代の韓国や台湾が、独裁政権下であったにもかかわらず経済発展が急速だったことから、当時は「開発独裁」などと言われた。しかし2000年代に入ったころからは、独裁的な中国も発展したし、独裁的なロシアはいまいち経済発展しないし、民主主義のインドも経済発展いてきた。 なお、インドネシアでは1965年に軍部のスハルトがクーデタを起こして政権をにぎり、以降、独裁政権が1996年まで続いた。 フィリピンではマルコスが1965年から独裁をすすめ、20年ほどの長期の独裁をしたが、1986年にフィリピンは民主化。 中国経済は81年ごろから市場開放的な経済改革(人民公社の解体、生産請負性、など)をしていたが、天安門事件にともない、西側諸国は一時的に経済制裁をしたが、以降も中国は市場開放政策をすすめた。(中国政府は1992年ごろからに「改革・開放」とか「社会主義市場経済」などと言ってたが、べつに90年代から中国が市場開放が始まったわけではない。すでに80年代から中国は市場開放を進めている。) この90年代ごろから、中国への外資の投資が活発になりはじめ、安い賃金を利用して中国経済は低価格向けの輸出製品を増やし、2000年ごろには成果が出始めて、中国は「世界の工場」と言われるほどになった。 中国とベトナムでは、ソ連が崩壊する前から、市場経済的な政策を部分的に導入していた。ベトナムが86年に行った「ドイモイ」(刷新)政策が、そのような市場経済的な政策である。ドイモイ政策では、外資からの投資も奨励された。 もっともソ連自身も85年から「ペレストロイカ」(建て直し)や「グラスノスチ」(情報公開)などの改革を進めていた。 金融業界で1997年に起きたアジア通貨危機も、インターネットの普及が関連していると考えられる。(つまり、ネットの普及により、途上国相手の金融商品の売買をしやすくなった、・・・と考えられる。) アジア通貨危機では、韓国・タイ・インドネシアの通貨が暴落した。 なお、アジア通貨危機よりも前の1994年にメキシコ通貨危機が起きている。 これらの通貨危機では、IMFや世界銀行が融資をしたので、混乱は収束していった。 なお、インドネシアでスハルトの独裁政権が崩壊したのは1998年であり、これはアジア通貨危機の翌年である。 心理学者のフロイトが活躍したのが1900年前後。 社会学者のマクス=ウェーバーが活躍したのも1900年前後。 (※ 科目『現代社会』や『倫理』で、フロイトやらウェーバーの名前が紹介されるのです。) 20世紀後半には、フェミニズムという思想が流行った。フェミニズムとは、女性差別を批判する思想。 なおイスラム教の教義は、女性と男性の扱いが明確に違う。イスラム教の教義では、女性は頭髪やボディラインを隠すべきとされている。なので、イスラム教とフェミニズム思想とは、女性の扱いにおいて、思想的に対立する。 真空管をつかったコンピューターが第二次大戦中の1940年代に発明されるが、一般市場には、まだ普及していない。 デバイスが真空管でなく半導体になるのが1970年代ごろからである。 そして、大企業ユーザーなどでない一般人用のコンピュータであるパソコンが普及し始めるのは、1980年代の後半ごろからである。 インターネットが普及するのは90年代からである。 携帯電話は、1980年代から存在していたが、普及したのは1990年代からである。 生物学でヒトゲノム計画(人間の遺伝子配列のパターンを解析する計画)が始まったのは1991年からである。もちろん、コンピュータが普及したから、こういうゲノム研究が出来るわけである。(なおDNAが発見されたのは1953年である。) イギリスが1960年代ごろから不況に陥ったりするが、コンピュータ技術は時期的に関係しないようである。 飛行機は(1910年代の)第一次世界大戦よりも前にライト兄弟などによって発明されており、第一次世界大戦では兵器として利用された。 しかしジェット機が発明されたのは(1940年代の)第二次世界大戦からである。 (ロケット的なものは第二次世界大戦中にあったが、)ロケットの開発が進んだのは、戦後の冷戦中であった。 また、ロケット技術と関連して、人工衛星の打ち上げの実験なども行れた。1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したのが、おそらく世界初の人工衛星。 アメリカは月面着陸を目指したアポロ計画が1969年に成功し、1969年に人類を初めて月面に着陸させた。
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本節では2021年以降の世界史をまとめます。 大きな変化があったイギリス、アメリカ、ウクライナとロシア、ドイツ、イタリア、フランスの内政に絞って解説します。 他の国については割愛します。 2021年5月の統一地方選挙では、イングランド地方議会選挙で保守党、スコットランド議会選挙でスコットランド国民党、ウェールズ議会選挙で労働党がそれぞれ勝利しました。2022年5月の統一地方選挙では、保守党は地方議会で多くの議席を失いました。これは、首相官邸でロックダウン規制を破った集会の開催や物価の上昇が原因です。北アイルランド議会では、アイルランドを一つの国にしたいという民族主義団体であるシン・フェイン党が史上初めて議席を獲得しました。 2021年9月の内閣改造では、国際貿易大臣だったリズ・トラスが外務大臣に就任しました。また、前内閣府長官でランカスター公国のマイケル・ゴーブが、基盤整備・住宅・地域社会担当大臣に就任しました。家庭面では、英国各地での「底上げ」が最も重要です。また、医療・介護の制度も改革しました。2022年2月に内閣改造が行われ、首相官邸のスタッフが入れ替わりました。これは、官邸でロックダウン規制を破った会議があったからです。 2022年6月、保守党の下院議員による党首確認投票が行われました。ボリス・ジョンソン首相は投票で保守党党首に確定しました。しかし、7月7日、ボリス・ジョンソン首相は、保守党が2回の下院補欠選挙で敗北し、党幹部のスキャンダル、主要閣僚2名と多数の政府関係者が辞任したため、党首辞任を表明しました。保守党党首を決める投票があり、9月5日、リズ・トラス前外相が新党首に選ばれました。エリザベス2世女王陛下は翌日、首相を選びました。新政権は、経済、エネルギー、健康問題に最も注意を払うと約束しました。 2022年2月、女王エリザベス2世陛下が在位70年を迎えました。これは英国王室史上初めてです。2022年9月8日にエリザベス2世女王陛下が亡くなられた後、チャールズ3世陛下が王位を継承されました。 2020年、民主党からジョー・バイデン大統領候補がアメリカ大統領選挙で当選しました。 ジョー・バイデン氏は2021年1月、第46代アメリカ大統領に就任しました。新型コロナ対策、経済復興、人種平等、気候変動などの重要課題に注目が集まっています。 外務省ホームページ
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①神奈川(後に横浜に変更)・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大阪の開市。 ②日本に関税自主権がなく、関税は協定によって決める。(協定関税制) ③外国側に領事裁判権を認める。
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人類は、およそ500万年あたり前に、アフリカで誕生したと、化石人骨などから考えられている。そのころの人類は猿人である。 今から1万年あたり前をさかいに、さかいの前を更新世(こうしんせい)といい、さかいの後を完新世(かんしんせい)という。 日本列島は更新世(こうしんせい)の当時、寒冷な氷期(ひょうき)と比較的温かい間氷期(かんひょうき、かんぴょうき)が交互に続いており、更新世はいわゆる氷河時代のことであり、また更新世の当時は日本がユーラシア大陸と陸続きであったため大型動物が多く日本列島にやってきていた。 更新世のこのとき、日本列島の北からは、マンモスやヘラジカが日本に来て、 南からは、オオツノジカ(大角鹿)やナウマンゾウ(1948年、野尻湖(のじりこ、長野)で発見される)が日本に来ていることが確認されている。 このような更新世が、約250万年前から約1万年前まで続いた。 なお、約5〜1万年前のあいだに、人類は新人(しんじん、ホモ=サピエンス)に進化している。約10万年前には旧人が発生していたと考えられている。 人類が石器を使い始めた時期は、今からおよそ250万年前のころ(更新世である)と考えられている。 石器に、打ち欠いてつくっただけの打製石器(だせいせっき)のみを使用していた旧石器時代(きゅうせっきじだい)が、石器時代の中でも最も古い。 かつて日本には旧石器時代が存在しないと考えられていたが、しかし1946年、群馬県にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で、更新世に堆積した関東ローム層から打製石器を相沢忠洋(あいざわ ただひろ)が発見する。そして1949年に、学術調査が行われた。これらの調査により、日本にも旧石器時代があったことが証明され、日本史上の定説を覆すこととなった。 これを契機に、日本の各地で更新世の地層から石器が発見された。 ここでは名前と用途を紹介するが資料集などで実物の写真を確認していただきたい。 狩猟に使える石器がこのように存在することから、当時の日本人は、狩猟を行って得た獣の肉を、食料にしていたと考えられている。 人骨は3種類覚えとけば問題ない。 沖縄県の港川人(みなとがわじん)・山下町洞人(やましたちょうどうじん) 静岡県の浜北人(はまきたじん)である。これらの人骨はいずれも新人段階であり、3万年前までの人骨である。 港川人は人骨がよく残っており、アジア南部の人種であると考えられている。 今からおよそ1万数千年前ごろの更新世末期から、地球の気候が温暖化して海面が上昇し、これにより日本列島が形成された。(約1万年前) 植物は、東日本では落葉広葉樹林が広がり、西日本では照葉樹林が広がった。この森林の変化にともない、ドングリ、クルミ、クリなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)が豊富になった。 人類は 磨製石器(ませいせっき)、土器、弓矢 を手にし生活基板を創り上げていった。この時代の土器の模様には、縄を回転させて土器につけた模様が多く、そのため、この時代の土器のことを縄文土器(じょうもんどき)と言う。また、この時代を縄文時代という。 動物は、マンモスなどの大型動物はすでに絶滅しており、シカやイノシシやウサギなどの比較的小型で俊敏な動物が多かった。このような俊敏な動物を狩るのに、弓矢が適していた。牧畜は行われていない。また、本格的な農耕は行われていない。 また、土器は貯蔵(ちょぞう)の他にも、食物の煮炊き(にたき)にも使われていたようであり、木の実のアク抜きや、獣肉の煮沸などにも使われたようである。 また、骨角器(こっかくき)といい動物の骨や角を銛や釣り針に使用していた。 縄文土器の特徴として  縄目模様  黒褐色(低温で焼いているため) 厚手でもろい  が挙げられる。 木の実などによる定住して得られる食料が普及したためか、人々は竪穴住居(たてあな じゅうきょ)に住み、円を成して共同生活する環状集落を作った。また貝塚(かいづか)が発見されており、ハマグリやアサリなどの貝が捨てられている。このことから、漁労が発達していたことが、うかがえる。 また交易も盛んであったことが分かっている。 自然現象に霊威を認める呪術(じゅじゅつ)的な思想(いわゆるアニミズム)があったと考えられている。女性をかたどった土偶(どぐう)や、男性の生殖器(いわゆる男根)をかたどった石棒(せきぼう)がある。抜歯(ばっし)が、成人式や婚姻などのときに通過儀礼として歯を抜く風習だった。死者を埋葬するときに死体の手足をかがめる屈葬(くっそう)があった。また環状列石(かんじょうれっせき、秋田県の大湯、「おおゆ」)もアニミズムの一つだと考えられている。 縄文時代で有名な遺跡は、青森県にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)である。 身分の差は、あまり無かったようである。寿命は短く、30歳くらいまで、だったようである。
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弥生時代の特徴としては   である。 このような弥生文化が、紀元前4世紀ごろから起こった。 金属器とは、青銅器(せいどうき)と鉄(てつ)のことで、日本の場合は同時に伝来されたとしている。青銅とは、銅と錫(すず)との合金。また機織の技術も伝えられる。 銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)などが発見されている。 発見された銅鐸に刻まれた絵に、臼(うす)や杵(きね)を用いた農作業らしき絵がある。このことからも、弥生時代に稲作が行われていることが分かる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。 稲の穂を切り取るための石包丁(いしぼうちょう)など、石器も用いられている。 これらの文明が海外から伝達したが、伝達元として複数説あり、朝鮮半島から伝わった説と、中国南部から直接伝わった説がある。有力な説は、朝鮮半島から伝わった説のほうである。石包丁など石器の形が、朝鮮半島と九州北部とで類似することが、朝鮮半島由来説の根拠である。 一方、沖縄地方では漁労を中心とした貝塚文化が、北海道地方では縄文文化を継続した続縄文文化が作られていた。続縄文文化は次第に擦文文化・オホーツク文化となる。 水稲耕作が盛んになり数々の遺跡がある 農耕は初期と後期に別れ方法が全く異なるので注意しておきたい。初期の時代の農耕は、湿田(しつでん)に直接種をまく直播という方法をとっていた。弥生時代の後期には乾田(かんでん)が開発された。 また、収穫時には石包丁を使い穂の部分だけとる穂首刈りを行った。遺跡は、登呂遺跡(静岡)や唐古鍵遺跡(奈良)が有名。後期に場合は灌漑を利用していた。百間川遺跡(岡山)が有名。 弥生時代にはブタの飼育が行われていたらしいことが、近年になって生まれた。かつては、イヌしか飼育されていないと考えられていた。 当時使われていた木製農具。 石斧(せきふ)も、樹木の伐採用に用いられた(磨製石斧)。 農産物の貯蔵は高床倉庫に保管された。 弥生土器の特徴としては  である。 また種類がいくつかあるので覚える。漢字が難しいが書けるように。 これらは東京の本郷(ほんごう)弥生町の向ヶ丘(むこうがおか)貝塚で発見された。 弥生土器は、かつては「弥生式土器」と呼ばれていたが、現在の日本の学校教育や歴史学などでは、弥生土器と呼ぶのが通例になっている。 青銅器は  を覚える。これらは祭器として利用されてきた。 遺跡は大量の銅剣や矛が出てきた荒神谷遺跡(島根)や一箇所での最大量の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根)が有名である。 また灌漑利用などで争いが絶えず、高地性集落と呼ばれる山、丘の頂上に暮らしたり(紫雲出山遺跡(香川)など)や 集落の周りに濠を作った環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれるものを創り上げた。  が有名。 また地域ごとに格差が生まれた。これは墓を見れば一目瞭然であった。 縄文時代のころは死者の多くに屈葬を行っていたが、弥生時代になり伸展葬(しんてんそう)を行うことが多くなった。 『漢書』地理志 これは『漢書』地理志(かんじょ、ちりし)(著者:班固)の抜粋を、漢文から日本語に書き下した文である。(原書は漢文) つまり、 ということである。 『後漢書』東夷伝(ごかんじょ、とういでん) これは『後漢書』東夷伝(ごかんじょ、とういでん)の抜粋である(著者:范曄、原書は漢文)。 内容は・・・ という話である。 中国大陸では後漢が220年に滅び、220年ごろには魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国が並び立つ三国時代(さんごく じだい)になっていた。 中国の歴史書『三国志』(さんごくし)のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)にある倭人についての記述(倭人伝(わじんでん))によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。 邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。 卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)と戦ったとあるが、その直後のころの247年に卑弥呼は亡くなった。人々は、卑弥呼のための大きな墓をつくった。そののち男の王が立ったが、国内が乱れたため、卑弥呼の同族である13歳の壱与(いよ)が女王になって戦乱が収まった。壱与は、魏にかわった晋に対して使者を266年に送った。魏志倭人伝によると、晋の都の洛陽に、倭の女王・壱与からの使者が来た、とうふうなことが書かれてある。 この壱与からの使者の記述のあと、しばらく中国の文献には倭についての記述は登場しなくなり、から266年から150年間ほどの倭についての詳細は不明である。 邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿地方の大和(やまと)にもとめる説と九州説が、有力な説である。 近畿地方にもとめる説の場合、のちのヤマト王権の母体が邪馬台国だったというような可能性が高く、九州から近畿までの範囲をふくむ連合政権があったことになる。いっぽう、九州説を取った場合、邪馬台国は比較的小規模な地方政権の連合だということになる。 九州説を取るか、近畿説を取るかで、邪馬台国とヤマト王権についての考え方が、大きく異なる。 この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。 魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(一部省略) 『魏志』倭人伝(抜粋) 倭人の国は、多くの国に分かれている。使者が調べたところ、今のところ、30あまりの国である。 【風習について】 男たちは、いれずみをしている。服は、幅の広い布をまとっており、ほとんど縫われていない。女は髪を後ろで結い、服は布の中央に穴をあけ、頭を通して着ている。 稲と紵麻(からむし)を植えている。桑(くわ)と蚕(かいこ)を育てており、糸を紡いで糸を作っている。土地は温暖であり、冬も夏も野菜を食べ、はだしで暮らしている。 下戸(げこ、民衆)が大人(たいじん、権力者)と出会うと、下戸は草むらに後ずさりして、道をゆずる。また下戸が大人に言葉を伝えたりするときは、ひざまずき、両手を地面につける。 【卑弥呼について】 倭国は、もともと男の王が治めていたが、戦乱が長く続いたので、諸国が共同して一人の女子を王にした。その女王の名を卑弥呼という。卑弥呼は、鬼道(「きどう」)で政治を行っている。卑弥呼は成人しているが、夫はおらず、弟が政治を助けている。王位についてからの卑弥呼を見た者は少なく、1000人の召使いをやとっており、宮殿の奥にこもる。卑弥呼の宮殿には、物見やぐら や柵が儲けられており、厳重に守られており、番人が武器を持って守衛している。 卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。 (※ 『魏志』倭人伝より抜粋して要約。) 魏志倭人伝は、正式名は『三国志』の『魏書』(ぎしょ)の東夷伝の倭人条。『三国志』は三世紀に普(しん)の陳寿(ちんじゅ)によって編纂(へんさん)された。
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3世紀後半には古墳が造られるようになっていた。特に巨大な古墳が奈良県の大和(やまと)に多く、この奈良を中心にして少なくとも近畿地方一帯を支配する強大な政権があったと考えられ、これをヤマト王権やヤマト政権などと呼ぶ。 古墳の分布から考えると、4世紀中頃までにヤマト王権による支配領域が、九州北部から東北地方南部にまで広がっていったと考えられている。 古墳の形には、さまざまな形があるが、特に巨大な古墳には前方後円墳が多い。また、数が多いのは円墳や方墳である。古墳の多くは、表面に石が葺かれ、埴輪(はにわ)なども置かれた。内部には石室(せきしつ)があり、石室には石棺や木棺などの棺がおさめられた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣などがおさめられた。有名な銅鏡としては、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。 最大規模の古墳は、大阪府にある前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の大仙古墳(だいせんこふん)であり、大王陵と考えられている。 特に大きな古墳が、大和(やまと、奈良県)や河内(かわち、大阪府)を中心に多く作られているので、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと思われている。この近畿地方の有力な豪族たちは連合政権を形成しており、この政権を指して、現代ではヤマト王権(ヤマトおうけん)、ヤマト政権などという。 4世紀〜5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していた。また、各地に前方後円墳があることから、 この大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。 埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。 熊本県の 江田船山(えた ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。 正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。  また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。(□が破損部とする。) 後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。 ワカタケル大王とは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。 この大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。 大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体のことを、現代の歴史学では「ヤマト政権」とか「ヤマト王権」とかという。べつに当時の人が「ヤマト政権」と呼んでいたわけではない。 ヤマト政権が、のちの時代に朝廷になるといっても、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの一部にしか、すぎない。のちの時代の天皇も、先祖をたどれば、(おそらく大和地方にいただろう)有力な豪族のうちの一つでしかない。 古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト王権は、まだ、今の日本語で言う「朝廷」と呼べるような段階には至ってない。ヤマト王権が、古墳時代での各地の政権の統一をへて、のちの飛鳥時代の朝廷へと、なっていく。 5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、ほぼ各地を平定した。 日本では、ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王(おおきみ)と呼んでいた。稲荷山古墳(いなりやま こふん、埼玉県)から出土した鉄剣の銘文で、みずから「大王」と読んでいる。中国では「倭王」(わおう)と呼んでいた階級であろう。大王の一族は、のちの天皇の一族である。たとえば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙(だいせん)古墳は、大王の墓だと思われている。 そして、各地の豪族たちはヤマト王権に仕えた。 このころには、ほぼ政権の権力が安定しており、ヤマト王権の政治組織を整えられるようになった。そして、さまざまな政治の制度が作られた。 やがて古墳には、鉄製の武具や馬具、農具や土器などの生活用品も、石室におさめられるようになった。つまり、古墳が、死後の生活の場と考えられた。副葬された土器には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などが納められた。須恵器(すえき)は、5世紀に朝鮮半島から伝わった土器であり、灰色で堅い。土師器(はじき)は、須恵器伝来前からある在来の土器であり。弥生土器の系統をひき、赤い。 須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、のぼり窯(のぼりがま)を用いた方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。 縄文土器は、野焼きの土器でした。弥生土器も、のぼり窯は用いていません。 石室は従来は竪穴式であったが、6世紀になると横穴式石室(よこあなしき せきしつ)が一般化してきた。これは朝鮮半島の風習と近く、日本が朝鮮半島から影響を受けたと思われる。 豪族は、血縁をもとに、氏(うじ)という集団を作っていた。氏を単位に、ヤマト王権の職務を担っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓制度(しせい せいど)が、作られた。 姓は、大王から、その氏の職務に応じて授けられた。 氏(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。姓(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。 氏の代表者を氏上(うじのかみ)という。氏の構成員を氏人(うじびと)という。氏とは、その氏上や氏人などから成り立つ、組織であった。 有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります 政治の仕事を行なう豪族には、さらに姓(かばね)が与えられた。中央の政治の姓には、臣(おみ)、連(むらじ)の姓が与えられ、中でも有力な豪族には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。 例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。 そして、手工業や軍事などの管理にたずさわる豪族は、それよりも低い地位に置かれ、伴造(とものみやつこ)などの姓が与えられた。そして、その管理者のしたで働く、伴(とも)や部(べ)などの集団を、伴造などが管理した。 部には、様々な専門職であったらしい品部(しなべ)や、豪族の私有する民の部曲(かきべ)がある。 このような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが出来ていったと考えられる。 終わりごろ、中国では「宋」(そう)という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝(ほくちょう)である、北魏(ほくぎ)と、南朝(なんちょう)である宋(そう)という、2つの国に分かれていて、南北の王朝が争っていた。 その宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国の王朝である宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、『宋書』に書かれています。 5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。 この5人の倭国の王を 倭の五王(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位に立ちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。 この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説がある。 有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。 この時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。 倭王武の上奏文(抜粋) (『宋書』倭国伝) 「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。 昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方の蝦夷(えみし))55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州の熊襲(くまそ))66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。 このような内容が書かれています。この倭王が中国に送った手紙を、一般に、倭王武の上奏文(わおう ぶ の じょうそうぶん)と言います。「上奏」(じょうそう)とは、格下の者が、目上の地位の者に、申し上げることです。 なお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。 4世紀には、朝鮮半島は国が分裂していた。南西部の百済(くだら、ペクチェ)と、東部の新羅(しらぎ、シルラ)と、北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と、その他のいくつかの小国があった南部の伽耶(かや、カヤ)地方に分裂していて、おたがいに争っていた。伽耶(かや、カヤ)のことを任那(みまな)、あるいは加羅(から)ともいう。 伽耶は半島の南部にあり、百済は、南西部にあった。日本は、鉄の資源などをもとめて、南部や南西部の、伽耶や百済と交流があった。 日本は、伽耶(かや、カヤ)と百済(くだら、ペクチェ)に協力した。 日本は百済(くだら、ペクチェ)と連合して、敵である新羅(しらぎ、シルラ)および高句麗(こうくり、コグリョ)と戦う。 朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)の碑文(ひぶん)によると、倭が高句麗(こうくり)との戦争を4世紀後半にしたことが書かれています。この戦いでは高句麗が勝って、倭の軍をやぶったそうです。広開土王は好太王(こうたいおう)とも言います。 なお最終的に、朝鮮半島を統一した国は新羅(しらぎ、シルラ)であり、7世紀に新羅が朝鮮半島を統一する。 6世紀はじめ、九州の北部で、大和朝廷に逆らう、大規模な反乱が527年に起きる。豪族の筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が、新羅とむすんで反乱を指揮した。朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発が、きっかけ。 この反乱のことを 磐井の乱(いわい の らん) という。 ヤマト王権は、この反乱(磐井の乱)をおさえるのに、1年あまリ〜2年ほど、かかる。 6世紀、ヤマト王権に服従した地方豪族は国造(くにのみやつこ)として任命された。 また、各地に、ヤマト王権の直轄地が設置され、その直轄地は屯倉(みやけ)という。 また、直轄民として従属する部の民を名代(なしろ)、子代(こしろ)とし、地方豪族に従属する民を部曲(かきべ)と呼んだ。 いっぽう、有力な豪族の私有地を田荘(たどころ)といい、有力な豪族が私有地を持っていた。
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※ いくつかの検定教科書では、飛鳥時代から「朝廷」という表現で、日本の中央政治の機構のことを表現しています。(実教出版、山川出版社など) 6世紀なかば、欽明天皇のときに倭国(日本)は仏教を百済から公式に取り入れたとされる。このときの百済王は、聖明王(せいめいおう)である。日本が取り入れた仏教は、中国・朝鮮などを経由した北方仏教の系統である。 日本への仏教伝来の年代については2説あり、538年(『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)『元興寺縁起』(がんごうじえんぎ)などによる説)に仏教伝来したとする説と、552年(『日本書紀』による説)に仏教伝来したとする説がある。 当時、百済は高句麗や新羅と対立しており、そのため日本を味方につけようとしたのであろう。 しかし、この仏教伝来は公式に限定しての話であり、おそらく実際には渡来人によって、それ以前に日本に仏教が伝えられていたと考えられる。 また、6世紀には五経博士の渡来により、儒教も日本に伝えられた。 また、この6世紀のなかば頃から、ヤマト王権は九州から関東までの広い地域に強力な支配を及ぼし、実質的にヤマト王権が日本を支配する王朝になっていた。現代の日本の歴史学で、古代日本の「朝廷」という場合、この6世紀頃からの日本の中央政治機構のことを意味する。 6世紀なかば、日本では、物部氏と蘇我氏が対立していた。彼らは外国文化の受容の有無についても対立しており、積極的に外国から仏教などの先進文化を取り入れるべき(崇仏派)とする蘇我氏(蘇我稲目(そがのいなめ))と、伝統を重んじるべき(排仏派)とする物部氏(物部尾輿(もののべのおこし))とが対立していた。 587年、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがの うまこ)が、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべの もりや)を滅ぼし、蘇我の血を引く泊瀬部皇子(はっせべのみこ)を大王に即位させた(崇峻天皇(すしゅんてんのう))。しかし、大王は馬子と次第に対立し、馬子は592年に崇峻天皇を殺害して自らの姪に当たる額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を大王に即けた。日本初の女帝、推古天皇である。そして推古天皇の甥の厩戸王(うまやとおう)(※ 厩戸王は聖徳太子と同一人物?)と大臣蘇我馬子が協力して大王を助ける政治体制が成立した。その体制の下で603年に冠位十二階の制が、翌604年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)が制定された。 聖徳太子のモデルは厩戸王だろうというのが有力説だが、別人だという説もあり、また聖徳太子は『日本書紀』の編纂時につくられた架空の人物だという説もある。なお、冠位十二階の制や憲法十七条を定めた人が厩戸王であるとは断定できる証拠はないのだが(憲※ 清水書院の教科書でも説明されている)、分かりやすさを重視して、上述のように、あたかも厩戸王と蘇我馬子によって、冠位十二階の制などが定められたかのように説明した。(※ 山川出版社などの教科書でも、あたかも厩戸王が定めたかのように書かれている。) 憲法十七条(抜粋) (『日本書記』) 一に言う、和を尊び、争うことのないように心がけよ。・・・ 二に言う、熱心に三宝を敬え。三宝とは仏像、経典、僧侶のことである。・・・ 三に言う、詔( 天皇の命令の一種)を受けたなら、必ず従え。君主こそが天であり、臣は地のようなものだ。 十二に言う、国司や国造は、人民(=「百姓」とは「多くの民」「人民すべて」などの意味)から税金を勝手にとってはならない。・・・ 十七に言う、ものごとは一人では決めてはいけない。かならず皆と意見を話し合うべきである。・・・ ※ 現代語訳については、教科書や(参考書会社の)史料集ごとに微妙にちがうので、一字一句を覚える必要はない。 西暦600年から607年にかけ、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。 『隋書』によると600年に遣隋使が日本から派遣されたとされるが、日本書紀によると607年に遣隋使を派遣したとあり、微妙に時期がくいちがっている。 隋の皇帝・煬帝(ようだい)が受け取った、日本からの国書には、日本が隋に従属しないことが書かれていたので、煬帝は立腹し「無礼」と言ったという。 遣隋使の派遣(抜粋) (『隋書』倭国伝) 隋の大業3年、倭国の王多利思比孤(たりしひこ)からの使者が来て、朝貢してきた。 その国書には「太陽が昇るところの天子が、太陽の没するところの天子に、手紙を送る。おかわりありませんか。・・・」と書かれていた。帝(煬帝)は、この国書を見て不機嫌になり、外交関係の役職(鴻臚卿)の者に言った。「野蛮な書。無礼である。今後は上奏するな」と。 「鴻臚卿」(こうろけい)とは、外交関係の官のこと。 ※ 「聞する勿れ」の意味が、「上奏するな」か「奏上するな」なのかは教科書や参考書ごとに違う。 倭の五王の時代とは異なり、倭国は中国に服属しないことを、国書では匂わせていた。これに煬帝は立腹したが、高句麗と中国との戦争を有利にするため、翌608年には中国は使節・裴世清(はいせいせい、 ※ 人名)を倭国に派遣した。 妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん、 ※人名)などの留学生が、中国に長期滞在し、そして中国の文化を日本に伝えた。 「聖徳太子が小野妹子を遣隋使として中国に派遣した」という説があるが、妹子に派遣を命じたのが厩戸王だと断定できる証拠はない。(※ 清水書院の教科書で記載されている。) 伝来した仏教は倭国の文化に変化をもたらした。それまでの古墳に代わって寺院が、豪族の権威を象徴するようになった。法隆寺はその一例である。大和(やまと)の飛鳥(あすか)を中心に栄えた文化なので、この文化を飛鳥文化と呼ぶ。
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622年に厩戸王(聖徳太子)が、次いで626年に大臣の蘇我馬子が死去すると、子の蘇我蝦夷とその孫である蘇我入鹿がヤマト政権で権勢をふるった。 当時の倭国は唐の外圧に対処するため中央集権を進める必要に迫られていたが、643年に蘇我入鹿が厩戸王の子である山背大兄王とその一族を滅ぼし、蘇我氏一族への権力集中を図った。このように強権的な蘇我氏に対して、豪族や大王(天皇)中心の国家体制を目指す勢力からの不満が高まっていった。 中央集権国家を目指す中大兄皇子と、中臣鎌足らが蘇我倉山田石川麻呂らと謀り、645年に蘇我入鹿を殺害した。蝦夷はこの事件を知り自殺して、蘇我宗家は滅んだ。これを乙巳の変という。 乙巳の変ののち、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が新たに大王に即位した(孝徳天皇)。なお、当時生前に大王が譲位するのは異例のことで、天皇譲位の初例とされる。皇太子となった中大兄皇子らが政権を主導し、政治改革を次々と行なった。この一連の改革を大化の改新という。645年に初めて元号を「大化」に定めたとされる。 大王は現在の大阪府にあった難波長柄豊碕宮(難波宮)に遷都し、政治改革が進められた。新政権は右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、左大臣に阿部内麻呂、内臣に中臣鎌足をそれぞれ登用した。また、妹子の遣隋使に同行した高向玄理・旻らは国博士として登用された。 645年、中大兄皇子は有力な大王候補であった古人大兄王を滅ぼし、649年には対立を深めた蘇我倉山田石川麻呂を滅ぼして政権から有力な豪族を排除、中央集権を強めた。 乙巳の変の翌年の646年に改新の詔が出された。これはいわば新政権の施政方針であり、『日本書紀』にその本文が見られる(ただし、一部後世に付け足したと思われる内容も散見される)。 公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの税制の整備、戸籍・計帳の創設、国司(こくし)の設置等が主な内容であった。 これまで豪族や王族たちが持っていた土地や人民は、すべて朝廷のものであるとした。また、朝廷が管理できない土地、人民の存在を禁止した。 租を徴収するため、人民に田を与えて稲作をさせること。ただし実際に班田収授が行われるのはまだ先のことである。 7世紀半ばになると、朝鮮半島で戦乱が起こる。新羅(しんら、しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(ひゃくさい、くだら、ペクチェ)を侵攻し、660年に百済は滅亡した。 倭国(わこく)は百済と親交があり、百済滅亡により倭国は朝鮮半島での影響力を失った。倭国のヤマト政権は百済の復活を名目として朝鮮半島での影響力を取り戻すため、663年に中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、倭国軍と新羅軍が軍事衝突して白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそうこうのたたかい) が勃発した。この戦いで倭国軍は新羅と唐の連合軍に敗れた。 白村江の敗戦を受けて中大兄皇子は、唐と新羅の倭国への直接攻撃に備えるため、九州の防備を強化する。九州北部に九州防衛のための兵士である防人(さきもり)を置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁が築かれた防御地点を各地に築かせた。 (※ 発展的な話題:)九州で国防の拠点になった太宰府(だざいふ)の背後の山の頂に大野城(おおのじょう)がある。このような山にある城のことを一般に山城(やましろ、やまじろ)という。(※ 中学歴史の日本文教出版、教育出版の教科書で紹介の話題。) 孝徳天皇が死去すると大王を退位していた宝皇女(たからのひめみこ、皇極天皇)が重祚(ちょうそ、天皇が再び即位すること)し、斉明天皇となった。引き続き中大兄が政権を率いたが、白村江の戦いのさなかに斉明天皇が死去した。中大兄は大王に即位せずにそのまま政務をみた(称制)。667年に、中大兄は都を今の滋賀県近江付近の大津宮(おおつのみや)に移した。この遷都は唐と新羅の連合軍の攻撃に備えてのことだと考えられる。 668年に中大兄皇子は大津宮で大王に即位し、のちの天智天皇(てんじてんのう)となる。同年、法典である近江令(おうみりょう)が成立したとされる。近江令は天智天皇が中臣鎌足に命じて編纂(へんさん)させたものであった。また天智天皇は、670年に日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成する。 671年に天智天皇が死去すると、672年に大王位をめぐって天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 近江朝廷を率いていた天智天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ)が争った。この壬申の乱(じんしんのらん)は、大海人皇子が勝利し、敗れた大友皇子は自害した。大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に移り、天武天皇(てんむてんのう)として即位した。天武天皇は684年に天皇を中心とした新しい身分制度である八色の姓(やくさのかばね)を制定し、豪族の身分を再編した。この時代に、日本初の貨幣である富本銭(ふほんせん)が発行されたとされる。 「倭国」に代わる「日本国」という国号や、「大王」に代わる「天皇」という称号は、このころ使われ始めたという説が有力である。 (※ 註脚)八色の姓には、真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8つの姓がある。 689年には飛鳥清御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し(※ 飛鳥清御原令は史料が現存しておらず内容が不明)、翌年には戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成した。 天武天皇の死後、皇后が天皇として即位した(持統天皇(じとうてんのう))。 天武天皇が藤原京の建設を始めたが、完成前に死去したため、完成は持統天皇の時代となる。694年に都を飛鳥から現在の奈良の藤原京に遷都させた。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されており、この都の碁盤目のような区画は、唐の都長安を参考にしている。 天武・持統朝のころの文化は、宮廷を中心とした仏教調の文化であった。これを白鳳文化(はくほうぶんか)という。 天武天皇の時代には大官大寺(だいかんだいじ)、薬師寺(やくしじ)が建設された。 絵画では、法隆寺金堂壁画や、高松塚古墳(たかまつづかこふん) 壁画がある。 彫刻では、薬師寺の三尊像(さんぞんぞう)や、興福寺(こうふくじ)の仏頭(ぶっとう)がある。 文学では、漢詩文が流行し、大津皇子(おおつみこ)がすぐれた作品を残した。 また、和歌もこの時代に五七調(ごしちちょう)の型式を整えた。歌人でもある額田王(ぬかたのおおきみ)や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、この時代の人物である。 701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。 「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。 この大宝律令は、 藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心となって編纂(へんさん)された。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。 政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる祭祀を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。 太政官には、 太政大臣 を始めとして、 左大臣 、 右大臣 など、様々な官職が置かれた。 太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。 八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。 また、重要な地域には、専門の統治機構をもうけた。 太宰府(だざいふ)も、そのひとつである。筑紫が国防上の重要地点だったので、筑紫に太宰府を設けたのである。太宰府は、九州全域を統轄した。 京都には京識(きょうしき)を設け、左京職と右京職の2つの京職があった。 さらに、摂津(せっつ)は外交上重要なので、摂津に摂津職(せっつしき)を置き、難波(なにわ)を管轄させた。(摂津はいまでいう兵庫県あたりの場所。海(大阪湾など)に面するので、外交上重要だったのだろう。難波(なにわ)は、大坂の地名。) 官吏を対象とする取り締まりのため、弾正台(だんじょうだい)が置かれた。 京都の宮殿の警備のため、5つの衛府(えふ)が置かれ、あわせて五衛府(ごえふ)といわれた。また、京都の警備をする者たちは衛士(えじ)と呼ばれた。 また、一般の国々の軍事・警察のため諸国には軍団(ぐんだん)を置き、九州の防衛には防人(さきもり)を置いた。 各官庁の官職は、原則として4等級て構成されており、こうした制度を 四等官(しとうかん)制という。四等官は、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)である。 官人の階級は、全部で30の階級に分けられた。 官人の仕事は、原則として、位階に相当する官職に任命された(官位相当制(かんい そうとうせい))。 五位以上の官人は貴族(きぞく)と呼ばれた。(一位に近いほうが、階級が高い。) また、五位以上の官人の子には、(役所への就職時に)父や祖父の位階に応じた位階を与えられた(蔭位の制(おんいのせい))。(※ 親が一位なら子は五位からスタート、のようなシステム。) 官人の給与では、位階に応じて、「食封」(じきふ)や「禄」(ろく)が与えられた。食封とは、定められた数の戸から、そこからの租税をもらえる制度。 また、位階に応じて「位田」(いでん)や「位封」(いふ、いふう)などの給与が与えられ、官職に応じて「官田」などの給与が与えられた。 また、下級官人の子が官人になるためには、「大学寮」や「国学」などに入学して官人になるための教育を受ける必要があった。 司法制度では、刑罰に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5つの刑があった。また、国家・天皇・尊属に対する罪は八虐(はちぎゃく)と言われ、とくに重罰とされた。 政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。 国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。 郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。 また、地方の役所を図にまとめると、次のようになる。 中央貴族を国司に任命し、地方豪族を郡司に任命することが多かった。 また、地方と都との連絡のために、駅(えき)がつくられた。駅には、馬とその乗り手が配置され、伝令の仕事をした。 貴族の人数は、全国あわせて200人ほどだと考えられている。(※ 中学の東京書院の教科書で紹介の話題。) なお、朝廷の役人は1万人ほど。平城京の人口は10万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。)唐の長安の人口は100万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。) 日本において、国ごとに置かれた役所のことを国府(こくふ)という。 この頃の時代の日本では、役所では、印鑑(いんかん)を文書に押して証明書とする制度が整った。 大宝律令のころに、班田収授や租庸調(そようちょう)も定められた。 人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。 「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。 政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。 この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。 この奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。 このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。 現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。 詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。 目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。 6年ごとに人口を調査します。 税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。 原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。 死んだ人の分の田は、国に返します。 これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。 税(ぜい)の種類です。 租(そ)とは、田の収穫量の、およそ 3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。 庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。 前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。 これとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。 この他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。 労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。 農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。 政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。 国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。 郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。
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