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地球上では、酸素・二酸化炭素・水など、様々な物質が移動しています。つまり、気候は大気や海だけではなくて、森林などの生命圏とも関係があります。 大気と海洋では、熱容量が違います。つまり、同じ量の太陽放射を浴びても、その温度変化の仕方は違います。季節風(モンスーン)や海陸風は、このような仕組みで発生します。また、海水は太陽放射のエネルギーを取り込んで蒸発するので、水蒸気となります。この水蒸気が蒸発する時、それまで蓄えていた熱(潜熱)を放出します。海洋は潜熱を放出しており、それが大気中に入り込み、暖かくなります。また、積乱雲を作り、台風や温帯低気圧のような大規模な大気現象を引き起こすエネルギーとなります。一方、風が海面を吹くと、水と摩擦するため、波(風浪)や海流が発生します。 このように、大気と海洋は、熱などのエネルギーと水などの物質をやりとりして、お互いに影響を与えます。これを大気と海洋の相互作用といいます。エルニーニョ現象はその代表例です。エルニーニョ現象が発生すると、熱帯地方の気候だけでなく、中高緯度の気候にも影響を与えます。このように、離れた場所の気象が連動する仕組みをテレコネクション(遠隔連鎖)といいます。 太平洋赤道付近の海面水温は、通常、西部で高温、東部で低温となっています。また、暖水層は東部で薄く、西部で厚くなっています。これは、この地域を吹く貿易風(東風)の影響で、暖水層が西側に流されるからです。太平洋赤道付近の西側にある暖水層は、空気を暖めて、対流活動を活発にします。これが低気圧を作り、貿易風を維持します。また、赤道付近の海面温度は南北ともに低くなっています。何故なら、東から西へ吹く貿易風によって、赤道から中緯度に海水が流れるからです。このため、赤道上の深層から冷水が上がってきます。 しかし、貿易風が弱くなると、赤道太平洋中部から東部の暖水層が厚くなり、冷水があまり上がってこなくなります。ここからエルニーニョ現象が始まります。暖水層が太平洋中部から東部へ移動すると、大気の活発な対流運動の領域も、太平洋中部から東部へ移動します。そうすると、エルニーニョの状態が続き、貿易風が弱くなります。一方、ラニーニャ現象とは、貿易風が平年より強く、赤道太平洋中部から東部にかけての海面水温が平年より低い状態をいいます。 したがって、エルニーニョ現象は大気と海洋が連動して起こります。大気側では、太平洋東部と西部の海面気圧がシーソーのように変化して、一方は高く、もう一方は低くなります。これを南方振動といいます。熱帯では転向力が弱いので、東西方向の転向力と気圧傾度力が等しくなるような地衡風にはなりません。貿易風の強さは、南方振動に大きく関係しています。そのため、これらの海洋・大気の現象をまとめてエルニーニョ・南方振動(El Niño-Southern Oscillation)という言葉がよく使われます。エルニーニョ現象は特に珍しい現象ではありません。エルニーニョ現象もラニーニャ現象も、自然変動で特に振れ幅が大きい現象です。 エルニーニョ・南方振動は、テレコネクションを通じて、世界中の天候に様々な影響を与えています。エルニーニョ現象が発生すると、夏に北太平洋高気圧が弱くなります。そのため、梅雨が明けるまでに時間がかかり、日本の夏の平均気温は下がります。冬は季節風が弱くなるので、気温が上がります。エルニーニョ現象は、気象の長期予報を行う上で大きな役割を果たしています。いつ発生するのかを正確に予測するためには、赤道太平洋の海洋状況や大気の状態を注意深く観察しなければなりません。 海洋から大気への熱移動は、太平洋と大西洋の西海岸を低緯度から高緯度へ流れる黒潮とメキシコ湾流付近で多く発生します。これは、この付近では海面の温度が空気の温度よりも高いために起こります。何故なら、熱帯からやってくる海流は暖かく、冬になると西の大陸からの季節風でこの海域の空気は冷たくなるからです。海水から大気への熱移動は、熱伝導(顕熱)でも行えますが、それよりも海水が蒸発して、水蒸気の潜熱を大気中に放出させる方が重要です。このように、海洋から大気への熱移動は効率的に行われます。ヨーロッパは暖かいメキシコ湾流の下流にあるため、高緯度に位置していながら、冬でも温暖な気候です。 異常気象とは、これまでの平均的な気候(平年値)とは大きく違う気象をいいます。毎年、厳しい寒波・暖冬・猛暑・少雨・旱魃・洪水などの異常気象が世界各地で起こっています。これらの異常気象は、地球温暖化のような長期の気候変動が原因となっている場合もあれば、気候システムが働いている仕組みの中にある場合も考えられます。このうち、北極振動は日本に異常気象を招く自然現象の一つです。 北極振動は、北半球全体に影響を与える気象の変化です。北極振動は、北極上空の気圧が平年より低くなると中緯度の気圧が上がり、北極上空の気圧が平年より高くなると中緯度の気圧が下がる変化です。正の北極振動は中緯度の気圧が上がる場合、負の北極振動は中緯度の気圧が下がる場合です。振動は数日から数十年続きますが、決まった周期をたどるわけではありません。北極振動が正の時は、偏西風が強く、蛇行がほとんどありません。そのため、日本付近の冬は暖かくなります。一方、北極振動が負の時は、偏西風が弱く蛇行するため、極域の空気が流れ込みやすくなります。そのため、日本付近の冬は寒く、雪が多くなります。 日本付近の気候変動は、エルニーニョ現象なども原因になっているので、はっきり分かりません。北極振動の原因ははっきりしませんが、エルニーニョ現象と同じように、海面水温の変化や北極振動の気圧配置が成層圏までよく届くので、突然暖かくなるなど成層圏の変化も影響していると考えられています。 南極振動は、南半球で起こる振動現象です。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E5%AD%A6/%E6%B0%97%E5%80%99%E5%A4%89%E5%8B%95
1666年から1687年まで生きたイギリス出身のアイザック・ニュートンは、それが万有引力の法則だと発見しました。アイザック・ニュートンは、「慣性の法則」「運動の法則」「作用・反作用の法則」という力と運動の3つの法則を提唱して、近代力学の基礎としました。これにヨハネス・ケプラーの法則を組み合わせて、「あらゆる2つの物体の間には万有引力が働き、その大きさは2つの物体の質量の積に比例して、物体間の距離の2乗に反比例する」という万有引力の法則を考え出しました。 ティコ・ブラーエの観測からヨハネス・ケプラーの法則、アイザック・ニュートンの運動法則、万有引力の発見まで、天文学や物理学は、観測データと理論研究の相互作用により発展してきました。つまり、科学では、観察、実験、理論が車の両輪のように働いて、新しい知識を生み出していきます。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E5%AD%A6/%E6%83%91%E6%98%9F%E3%81%AE%E9%81%8B%E5%8B%95
太陽を除いて、太陽系を作る惑星などの大きな天体は、全て同じ方向に、ほぼ同一平面上を、ほぼ円軌道で回っています。これは、太陽系の天体が約46億年前に、ゆっくりと回転する星間物質から作られたからだと考えられています。 星間ガスが自身の重力で収縮し、真ん中に太陽が出来ました。これ以降は、万有引力の力に遠心力を加えたものを重力と呼ぶのではなく、2つの物体が引き合う力を重力とよびます。原始太陽系星雲は、残った星間ガスが円盤状に集まって出来ました。ここで原始惑星が誕生しました。火星の現在の半径と木星の軌道半径の距離から、その外側にある原始惑星は、原始太陽系星雲が尽きる前に周囲のガスを引き寄せ、巨大ガス惑星になりました。原始太陽系星雲は、太陽からの距離が遠いほど、ガスや塵の量が少なくなります。原始惑星は土星の軌道半径よりも太陽から遠いため、ガスはあまり得られませんが、氷を手に入れて巨大氷惑星となりました。 火星の軌道半径と木星の軌道半径の距離が大きく変わらなければ、その中にある原始惑星はあまり成長しません。そのため、原始太陽系星雲からガスを引き込めません。金星、地球、火星の大気は、小惑星や微惑星が衝突してきた内部から生まれています。生物の働きによって、地球の大気の成り立ちも変わってきます。そのため、地球型惑星とガスやの巨大氷惑星では、大気が大きく違います。 8個の惑星のうち、水星、金星、地球、火星は、太陽に近く、半径は小さくても平均密度が大きく、岩石の表面を持つため、地球型惑星と呼ばれています。木星、土星、天王星、海王星は、太陽から遠く離れていて、半径は大きいのに平均密度が低く、固体表面が見られないため、木星型惑星と呼ばれています。天王星と海王星は、木星型惑星のうちの1つです。氷が多く、水素やヘリウムが少ないので、巨大氷惑星と呼ばれています。 水星は、地球に次ぐ2番目に平均密度が高く最も小さな惑星です。これは、鉄の核がその大部分を占めているからです。水星には大気や液体の水がないため、太陽系の初期の時代に小惑星が衝突して出来たクレーターがそのまま残っています。また、水星には大気がなく、太陽が北から南へ往復するのに約180日かかるため、太陽光が当たる場所と当たらない場所で大きな温度差があります。 金星は地球とほぼ同じ大きさで、内部の化学組成も似ていますが、その表面は大きく異なっています。金星は二酸化炭素を主成分とする厚い大気を持ち、大気の圧力は地球の約90倍になります。温室として機能しているため、地表の温度は約460℃にもなります。金星は他の惑星に比べ、自転が遅れています。自転周期は約243日なので、公転周期(約225日)よりも長くなっています。上空約60キロメートルでは、空気が秒速100メートルの速さで動いており、金星を1周するのに約4日かかります。これはスーパーローテーションと呼ばれています。 地球の内部が高温なのは、地球が出来た時からある熱と放射性同位体が分解する時に出来る熱だからです。そのため、マントルの対流やプレート運動が起こり、地震や火山、造山運動が起こり、地表に変化をもたらしています。また、適温を保つ大気があるおかげで液体の水が存在し、地球上では珍しい海を維持出来ました。海洋は、多くの生物の誕生と発展、そして大気の成り立ちに大きな影響を与えてきました。 火星の表面環境は、地球と最もよく似ています。自転周期は約24.6時間、自転軸の傾きは公転面に対して約25.2度と地球とほぼ同じです。また、季節の変化も確認されています。季節によって、火星の極付近にある氷やドライアイスで出来た極冠の大きさが変化します。 火星の大気は薄く、圧力は地球の約 1 170 {\displaystyle {\tfrac {1}{170}}} です。これは、大きさが小さく、重力が小さいからです。大気のほとんどは二酸化炭素ですが、大気が薄いので温室効果はそれほどありません。場所や時期によって、地表の温度は約-125℃から20℃の幅があります。この温度差が、砂嵐やモンスーン風を引き起こします。地球でいう台風のような大きな大気の渦は、ハッブル宇宙望遠鏡でも確認されています。 火星には、太陽系で最も荒れた地形と大きな火山があります。これまで複数の探査機が火星に着陸し、極付近を除く表面の砂の下に氷のような白い物質や液体の水が作ったような地形が見つかっています。かつて、火星にも液体の水が大量に存在したかもしれません。 木星は、太陽系最大の惑星です。その平均密度や組成は、太陽と似ています。中心に近いほど圧力が高いので、表面付近の気体は水素とヘリウムですが、それ以下は液体水素で、中心では金属水素に変わります。ここで、金属元素とは、陽子と電子に分解された液体水素をいいます。科学者達は、その中心には岩石と氷で出来た核があり、その重さは地球全体の約10倍にもなると考えています。太陽系の始まり、原始太陽系星雲中では、重い鉄は太陽の方に引っ張られました。そのため、木星には地球型惑星のような鉄の核がありません。 木星の大気は通常東西に動いていて、赤茶色と白の帯状になっています。上昇気流によって、明るい白い部分にアンモニアの雲が発生すると、太陽の光を強く反射します。暗い部分は下降気流です。南半球で見られる大赤斑の大きさは、地球の約3倍あります。 木星の表面は、太陽から受けるエネルギーのほぼ2倍のエネルギーを放出しています。これは、木星が形成される時に自己重力によって収縮した時に出来た熱をゆっくりと放出するためだと考えられています。 土星は、太陽系の惑星の中で最も平均密度が低い惑星です。水よりもさらに小さい密度です。また、土星の表面には縞模様や白斑がありますが、これは大気の動き方が原因です。地球から見ると、土星の環は円盤のように見えますが、実は無数の小さな氷と珪酸塩からなる岩石の集まりです。 土星は磁場が強く、緯度の高い場所ではオーロラが見られる現象がハッブル宇宙望遠鏡で確認されています。また、他の木星型惑星にも磁場があります。木星も土星も自転が速く、大きな偏平率を持っています。 天王星の大気に含まれるメタンが赤色光を吸収するため、地表が青く見えます。天王星は、自転軸が公転面から約98度、横に傾いており、これが他の惑星と違っています。そのため、天王星の衛星軌道も、天王星の公転面に対して同じように傾いた軌道を描いています。  海王星の大気にはメタンが含まれているため、天王星と同じように表面が青い色をしています。また、内部には水、アンモニア、メタンからなる氷が多くあると考えられています。他の木星型惑星と同じように、赤道と同じ方向に風が吹いているため、表面に黒い斑点や縞模様が見られます。 近年の観測技術の向上により、太陽系の惑星以外の天体がより詳しく見えたり、初めて発見されたりするようになりました。 1930年に発見された冥王星は、2006年まで第9惑星と考えられていました。1990年代には海王星以外の小天体が多数発見され、21世紀には冥王星より大きな天体(エリス)が発見されました。2006年に太陽系の惑星の定義が定められ、冥王星を含むこれらの天体は惑星ではなく太陽系外縁天体と呼ばれるようになりました。冥王星型天体は、冥王星や大きな天体のように太陽系外縁天体の中でも、かなり大きい天体を指します。 太陽系外縁天体には、今後も多くの天体が発見される可能性があり、太陽系に関する考え方はどんどん広がっていくでしょう。 小惑星の多くは、火星と木星の間にある小惑星帯と呼ばれる領域にあります。最も大きなセレスは、幅が480キロメートルほどしかありません。科学者達は、小惑星帯について、原始太陽系の微惑星がそのまま残っている場合や原始惑星に成長した後、衝突によって壊れた場合が混じっていると考えています。地球に落ちてくる隕石の多くは小惑星から飛来しています。 隕石は、橄欖岩のような石質隕石、鉄やニッケルからなる鉄隕石、その中間の石質隕石の3つに分けられます。コンドライトとは、石質隕石の一部に含まれる球状の珪酸塩鉱物(コンドリュール)をいいます。コンドリュールとは、高温で溶けた珪酸塩が急速に冷えて、無重力状態で球状に固まった物質です。コンドリュールは、惑星形成時期の状態を保存していると考えられています。地球に落ちてくる隕石の約8割はコンドライト隕石です。鉄隕石は、太陽系が誕生したばかりの頃、原始惑星の中心部で出来た鉄とニッケルの合金が、原始惑星同士の衝突で破壊された破片と考えられています。このような理由から、隕石は地球や太陽系の歴史、そして地球の内部を知るために有効な手段です。 直径数kmから数十kmの氷や塵で出来た天体が太陽に近づくと、コマや尾を作ります。これが彗星です。彗星の核と呼ばれる本体は、太陽系が若かった頃、太陽系外縁部で形成された物質で出来ていると考えられています。彗星の核が太陽に近づくと、揮発性成分(氷やドライアイス)が蒸発し、核の周りに雲をつくります。この雲をコマといいます。揮発性成分の一部は太陽風に吹き飛ばされたり、小さな固体粒子が太陽の光圧で吹き飛ばされたりして太陽の反対側へ移動します。これが尾になります。 ほとんどの彗星は、離心率をもつ大きな楕円軌道で太陽の周りを回っています。しかし、中には太陽に戻らない放物線軌道や双曲線軌道の彗星もあり、さらに惑星の重力が全てに影響するため、途中で軌道を変える彗星もあります。 彗星がどこから来るかはまだはっきりしませんが、一説には、海王星が太陽の周りを回る距離の1000倍以上(太陽から約30天文単位)の距離からやってくると言われています。そこで、太陽系の周りには雲のような形をした天体が数多くあると考えられています。この雲は、オールトの雲と呼ばれています。しかし、この雲を作っている天体は、まだ科学者達でも見つかっていません。 彗星の塵は軌道上に広がり、地球が公転してその軌道を横切ると、塵は地球の大気圏にぶつかり、流星として見られます。地球の軌道と彗星の軌道が交わると、毎年ある時期に彗星軌道の塵が大量に地球の大気に入り込み、多くの流星が見られるようになります。これを流星群といいます。 衛星とは、宇宙空間で惑星や他の天体の周りを回っている天体をいいます。  月は地球の衛星です。表面は岩石から出来ていますが、平均密度は地球よりそれほど大きくありません。これは、月の中心部に地球ほど多くの鉄がないためだと考えられます。この理由として最も有力なのは、初期地球の核とマントルが分裂した頃に、火星ほどの大きさの原始惑星が衝突して、その破片が月となったというジャイアント・インパクト説です。 木星には、イオ・エウロパ・ガニメデ・カリストの4つの大きなガリレオ衛星があります。月とほぼ同じ大きさのイオには、太陽系で最も活発な火山活動が見られます。木星探査機ガリレオは、現在も噴火を続けている18の火山を発見しています。これは、木星の起潮力によってイオの形が頻繁に変わり、内部が高温になるためと考えられます。また、木星の衛星エウロパの表面には、厚い氷で覆われているのがガリレオの観測で分かっています。地下には液体の水があり、生命が存在するかもしれないと考えられています。 タイタンは土星最大の衛星です。その厚い大気中は、メタン、水蒸気、窒素で成り立っています。その中のメタンは、地球の水のように動き回り、気体から液体、固体に変化しているという説もあります。タイタンの大気には、タンパク質の元になる物質があります。タンパク質が出来るかもしれないので、タイタンには生命が存在するかもしれないと考えられています。
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太陽は、安定して光を送り出しているように見えます。しかし、あらゆる観測により、活発に活動している様子が明らかになっています。 太陽は、私達が見える光も含め、様々な長さの電磁波を発信しています。大気圏外や地上にある人工衛星は、この電磁波を観測出来ます。 太陽までの距離と地球から見た太陽の大きさ(視半径)を使って、太陽の半径を求めます。地球から見た太陽の大きさは、時間の経過とともに変化します。これは、地球が楕円軌道を描くように回っているため、太陽との距離が変化するからです。 1天文単位(astronomical unit)は、地球と太陽の平均距離を表し、およそ1.5× 10 8 {\displaystyle 10^{8}} kmです。 太陽の距離は三角視差で求められます。これは三角関数の弧の長さの式(弧度法)を使います。 l:2πr= θ {\displaystyle \theta } :2π これを直せば弧の長さlは l=r θ {\displaystyle \theta } となります。 あとはl=r θ {\displaystyle \theta } の式を変形させていくといいでしょう。 今、太陽の半径と地球の半径… R 1 {\displaystyle R_{1}} 、 R 2 {\displaystyle R_{2}} 視半径[1](太陽側)… r ″ {\displaystyle r''} 視差(地球側)… θ ″ {\displaystyle \theta ''} とします。 視半径 r ″ {\displaystyle r''} と視差 θ ″ {\displaystyle \theta ''} はダッシュがついているので θ {\displaystyle \theta } に代入します。 l=r θ ″ {\displaystyle \theta ''} l=r r ″ {\displaystyle r''} 半径 R 1 {\displaystyle R_{1}} 、 R 2 {\displaystyle R_{2}} は、弧の長さlに代入します。 R 1 {\displaystyle R_{1}} =r θ ″ {\displaystyle \theta ''} …① R 2 {\displaystyle R_{2}} =r r ″ {\displaystyle r''} …② 式を変形して、 R 1 r ″ {\displaystyle {\frac {R_{1}}{r''}}} =r R 2 θ ″ {\displaystyle {\frac {R_{2}}{\theta ''}}} =r 両者はrで一致しているので、 R 1 r ″ {\displaystyle {\frac {R_{1}}{r''}}} = R 2 θ ″ {\displaystyle {\frac {R_{2}}{\theta ''}}} …③ ③を変形して、 R 1 {\displaystyle R_{1}} = r ″ θ ″ R 2 {\displaystyle {\frac {r''}{\theta ''}}R_{2}} となります。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E5%AD%A6/%E5%A4%AA%E9%99%BD
ここでは、高等学校理科基礎の地学分野の内容について解説する。 単元 地球は、太陽の周りを公転している。そして、太陽も銀河系の中心部の周りを回っている。このように回転運動は、宇宙ではごく普通に見られる現象である。 天体が1日ごとに繰り返す日周運動は、天球が観測者と天の北極を結んだ軸を縦にして反時計回りに1日に1回転していると考えれば説明が出来る。 太陽の日没の位置と星座の位置に注意して数日間観察してみると星座から東へ東へ移動していることがわかる。1年後、この星座と太陽は同じ位置関係になるため、この運動は1年周期であることが分かる。これを年周運動といい、太陽が1年をかけて天球上を進む道を黄道という。 北斗七星やはくちょう座は日や時刻によって位置は変わるが、形そのものが変化することはない。これらは、「つねなる星」恒星と呼ばれる。一方、月、水星、土星などはお互いどうしの位置関係もどの星座の場所にあるかも日々変わっていく。これらは、「惑う星」惑星と呼ばれる。その軌跡を観測してみると、S字型や輪をつくって進むことがある。この東から西へ動くことを逆行、西から東へ動くことを順行と呼ぶ。順行から逆行に、逆行から順行になるとき動きが止まるように見えることがあるが、これを留という。
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このページは高等学校理科総合Bのうち地学分野の内容をまとめたものである。 単元 地球の表面は、大気圏、水圏、岩石圏の3つに分けることができる。 このうち、大気圏と水圏を除いたものを、固体地球と言う。 このように、地形の変動には、地球内部のエネルギーや、太陽エネルギーが深く関わっていることがわかる。 地球の高さ500m毎の面積を測ってみると、標高0mから500mの面積と-4500mから-5000mくらいの面積が目立って大きい。これらの高い地域が大陸地域、低いところが、海洋地域である。境界は、海岸線ではなく、水深1000mのところである。 地球の内部は、地殻、マントル、核の三つに分けられる。 地下70kmより先に、地震波の速さが遅くなる場所がある。ここを、低速度層という。 低速度層は、地下250kmまで続いている。低速度層と、深さ600kmくらいまでのマントル上部の柔らかい層を合わせてアセノスフェアという。低速度層の上のかたい層をリソスフェアといい、プレートにあたるとされている。地球表面はいくつかのプレートにわかれている。プレートは常に動いており、それらの境界ではプレート同士が押し合ったり、離れて拡大したり、すれ違ったりしている。 プレートが押し合っている境界では、プレートが沈み込んで海溝ができたり、大陸が衝突して山脈ができたりする。この考え方をプレートテクトニクスという。 海洋プレートが沈み込むところでは、海溝ができ、火山活動も盛んで、島弧が発達する。この付近では、地震や、地殻の変動も盛んである。このようなところを島弧-海溝系といい、日本列島もこの1つである。 島弧-海溝系の火山は、海溝から100~300km以上離れている。火山分布の海溝側の限界線を火山前線といい、海溝とほぼ平行している。プレートの沈み込みによる強い圧力のため、隆起し、地底でマグマができて、大山脈ができる。南アメリカのアンデス山脈は、このように形成された。インド大陸も、プレートの動きによって、ユーラシア大陸と衝突、ヒマラヤ山脈ができた。ヒマラヤ山脈では、数千メートルの高地からアンモナイトなどの化石が発見される。インドは、現在もユーラシア大陸を押し続け、ヒマラヤ山脈は隆起を続けている。 約46億年前、宇宙空間の中にある、星間ガスの濃いかたまりが、収縮し、原始太陽が形成された。原始太陽の周りには、星間物質が、原始太陽とともに回転している。これが、原始太陽系星雲である。この中の個体微粒子が微惑星とよばれる1~10kmを形成した。微惑星が、衝突や、合体を繰り返し、大きくなって、原始惑星が誕生した。原始地球もこのように誕生した。微惑星が衝突した地球では、温度が上昇し、水蒸気、二酸化炭素、窒素を主成分とした、原始大気が誕生した。大気が発生した地球の表面は、ますます高温になり、1500~4700℃にも達したため、岩石が溶け、マグマオーシャンが形成された。マグマオーシャン内では、重い物質と軽い物質が分かれ、ニッケルや鉄でできたマントルと岩石質のマントルができた。地球に衝突する微惑星の数が減って、表面が冷却して、地殻ができた。また、水蒸気が冷えて、雨になり、原始海洋が形成され、地表の温度も100~200℃程度に冷やされた。二酸化炭素は、原始海洋中に溶け込んだ。 生命の誕生についてはわかっていない部分が多いが、ミラーの実験から、タンパク質などから生命が誕生したと考えられる。 惑星は、固体表面を持つ地球型惑星と、ガス状の表面を持つ木星型惑星に分けられる。これらは、惑星が誕生したときの原始太陽からの距離が関係していると考えられる。 半径2400kmの小さな惑星で、昼間は300~400℃、夜は、氷点下170℃である。水や大気はなく、浸食作用がないので、クレーターなど、誕生当時の姿がそのまま残っている。 半径6000kmで、地球とほぼ同じ大きさである。大気の96%を二酸化炭素が占めていて、気圧は90気圧である。二酸化炭素の温室効果により、表面温度は水星より高い460℃にもなっている。このような環境では、液体の水は存在できず、気体の水も紫外線によって水素と酸素に分解され、宇宙空間に逃げていってしまう。火山活動による地形は見られるが、地球のようなプレート活動は存在しないと考えられている。 半径3400kmで、地球の約半分である。重力が小さいため、気圧は0.006気圧程度である。大気のほとんどが二酸化炭素であるが、僅かなため、温室効果が小さく、また、太陽から遠いため、平均気温は-58℃である。自転軸の傾きも自転周期も地球とほぼ同じなので、季節変化もみられる。火星には、二酸化炭素が凍った極冠といわれる場所がある。極冠は季節によって大きさが異なる。 また、火星の地形には、浸食の跡がみられ、過去には液体の水が存在したと考えられる。 太陽系最大の惑星である。半径が地球の11倍以上で、大気の90%が水素、10%がヘリウムである。これは、太陽の化学組成に近い。木星のような木星型惑星は岩石や氷の周りにヘリウムを主成分としたガスが取り囲んでいるのが特徴である。木星には縞模様が見られ、明るいところが上昇気流、暗いところが下降気流である。木星には大赤斑という大きな渦があり、160年近く存在し続けている。 太陽系で最も密度の小さい惑星。半径が地球の9倍ほどある大きな惑星だが、水素が96%を占めるため、もし土星を水に浮かべたら浮いてしまうほどである。土星にも木星のような縞模様が見られる。また、氷や岩石でできたリングがある。このようなリングは、木星型惑星ではどの惑星でも観測されているが、土星のそれは特に顕著である。土星の衛星のひとつにタイタンという衛星があり、濃い大気を持っている。その表面にはメタンの海が広がっていると推測されている。 半径が地球の4倍程度で、大気は水素がやや少なく、メタンやヘリウムが多い。そのためやや青っぽく見える。太陽系の最も外側の冥王星は、地球型惑星にも木星型惑星にも属していない惑星であったが、今では準惑星として扱われる。太陽系で唯一惑星探査機が近づいていないので、詳しいデータはわからないが、メタンの凍った表面を持っていることがわかっている。また、軌道が変則的であり、海王星の内側にくることもあるなど、他の惑星とは、異なった特徴を持っている。冥王星の外側には惑星を構成できなかった微惑星が沢山存在していると考えられている。 現在まで、地球が生命の存在を確認できている唯一の惑星である。太陽系の中では、金星と火星が似たような特徴を持っているが、金星は温室効果で水が蒸発し、失われてしまった。逆に火星は温室効果も少なく太陽から遠いため水も氷になってしまった。一方、太陽から適度な距離にある地球は水が液体として存在し、二酸化炭素が液中に溶け込み、適度に温暖な環境を維持できたのだ。 地球の周りの大気の層を大気圏といい、上に行くに連れて薄くなり、宇宙空間までつながっている。単位面積に係る大気の重さを気圧という。1気圧は1013hPaで、水銀柱760mmの圧力に当たる。大気は、700kmほど上空まで広がっており、これより上はだんだん希薄になり、宇宙空間となる。大気の密度は地表付近で最も高く、高い山などでは低くなる。また、大気圏は温度変化の様子によって、いくつかに分けられる。 窒素が78%を占め、酸素が21%である。残りはアルゴンが0.9%、0.03%が二酸化炭素、0.002%がネオン、0.0005%をヘリウムが占める。また、水蒸気は場所によって変化し、空気中の3パーセントを占めることもある。 太陽とは、半径696000kmの恒星である。中心は非常に高圧で、水素原子核がヘリウム原子核に変化する核融合反応を起こしている。表面温度は6000K程度である。太陽から出てくる放射エネルギーは、可視光線(波長0.4〜0.7マイクロメートルの電磁波)が中心で、紫外線、赤外線もそれなりにあり、わずかだがX線、マイクロ波なども混ざっている。地球が受ける太陽放射のエネルギーを日射という。大気圏上面で太陽に直角な1平方メートルの面が単位時間に受ける日射量(直達日射量という)を太陽定数という。その値は、1.4kW/1平方メートルである。その半分は、大気中で吸収されたり反射したりする。地球全体が受ける日射量をEとすると、Eは、太陽定数×地球の断面積(4πr^2)である(地球の半径をr、円周率をπとした)。具体的には、E=1.77×10^14kWである。 熱が大気圏外に逃げない状態を温室効果という。近年は温室効果により平均気温が上がりつつある。 太陽放射のうち、地表に到達するのは約50%である。地表で吸収されたエネルギーの内、赤外放射によって直接大気圏に戻されるのはごく一部に過ぎない。大部分は温室効果で大気中に戻されるが、結局大気圏外に放射される。したがって、地球全体としたら得たエネルギーと放出されるエネルギーは釣り合っている。しかし、局地的に見たら赤道付近は日射量は多く、極付近は、少ないはずだが、赤道付近は非常に暑く、極付近では、寒くならなければならない。(地表の1平方メートルが受ける日射量をIとし、直達日射量をIoとするとその関係は、I=Io×sinθとなる。)しかし、そのようにはなっていない。これは、熱の輸送が起こっているためだからだ。 高緯度と低緯度では、日射量と地球放射量が逆転するので、熱の輸送が起こる。赤道付近と極での対流が起こると考えられるが、実際は転向力(コリオリの力ともいう)が働いているため、大きく分けて3つの循環ができる。 コリオリの力とは、中学で習った転向力と原理は同じで、地球が自転しているために、地球の自転と一緒に地表にいる観測者にとっては、北半球の場合、運動している物体が進行方向に対して右向きに曲がる様に見える、(「物理」科目でいうところの)見かけの力 の現象の一種である。 なお、右図では円盤によってコリオリの力の原理を説明したが、実際の地球は円盤ではなくて球形に近い立体物なので、北極・南極に近い高緯度地方ほどコリオリの力が強く、赤道ではコリオリの力は0(ゼロ)になる。 なお、コリオリの力の向きは、北半球の場合に、進行方向に対して右向きである。南半球では、コリオリの力は、進行方向に対して左向きになる。 またなお、コリオリの力の大きさは、速度にも比例する。また、このため、上空では一般的に風速が大きくなるので、上空の風についてはコリオリの力を無視できない。 上空の風を引き起こす力は、気圧の差による力(「気圧傾度力」という)と、コリオリの力との、2つの力である。上空では、地面の摩擦の影響が無いため、上空の風には摩擦力は掛からない。 重要な事として、この2つの力(気圧傾度力とコリオリ力)の向きと、風速の向きとは、ほぼ違っている。基本的に、気圧傾度力とコリオリ力の力の大きさは釣り合っており、風速はそれら2つの力の向きに垂直である。 このような風を地衡風(ちこうふう)という。 いっぽう、地上付近では、摩擦力の影響により、地上風とそれに掛かる力とは右図のような関係になっている。 地上の風は、季節によって変化することが多い。冬は大陸、夏は海洋に高気圧が発達する。北半球は陸地が多く、季節変化がはっきりしている。陸と海のバランスによって季節風の大きさが違う。 したがって、海洋から陸地に季節風が吹く。 1日周期で吹く風である。昼は、陸地が高温で、海が低温のため、海風が吹く。夜は、陸地が低温で海が高温になるため、陸風がふく。海風と陸風が変わるとき、一時的に風が止まることがある。これを朝凪、夕凪という。 私たちの日常生活に深く関わっている気象について考えてみよう。 空気は暖められると上昇して、冷えると下降する。空気の塊(空気塊)が上昇すると、上空は気圧が低いので空気塊は膨張して冷える。この温度が下がる割合は、 -1℃/100mで、これを乾燥断熱減率という。上昇して、温度が下がると、やがて露点に達し、水滴ができはじめ、雲ができる。このとき熱が放出されるので、割合は、-0.5℃/100mとなる。これを湿潤断熱減率という。このように雲は上昇気流のあるところに発生し、そこは低気圧となる。逆に空気塊が下降すると雲は消えてしまう。この場所は晴天であることが多く、ここは高気圧となる。 空気が上昇する場合は、 雲粒が成長し、1mm前後の雨粒、雪の結晶となる。氷晶を含む雲を冷たい雨、含まない雲を暖かい雨という。 日本には一年を通じて、変化に富んでいる。 冬、シベリア高気圧から千島方面に発達している温帯低気圧に寒気が吹き込む。これが、北西季節風であり、このときの状態を西高東低という。乾燥した空気は、日本海で湿気を含み、日本海側に雪を降らせる。そして、太平洋側で乾燥する。 2月ごろになると海洋と大陸の温度差が小さくなり、季節風が弱まる。そして、3月下旬頃低気圧と高気圧(移動性高気圧)が交互に通過する。低気圧が日本海側を通過し、南風が吹くようになる。特に春先に吹く強い南風を春一番という。 梅雨は、東アジアに特徴的な現象である。梅雨前線という停滞前線の一種が通過する。オホーツク海気団が優勢となる。 北太平洋高気圧が日本全体を覆い、天気は快晴が多い。このとき弱い南風が吹き、南高北低型の気圧配置となる。 夏から秋にかけて発生する熱帯低気圧で、風速が17.2m毎秒以上の物である。 台風の渦巻きは北半球では左巻き、南半球では右巻きである。そのため進行方向の右側では風速に加えて進行速度が加わるので風速は大きくなる。 この記事の作成にあたっては、下記の書籍を参考にした。
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この項では、理科総合B 地学分野を履修しているものとして高等学校地学Iの解説を行う。 地球はいつから球形であると考えられていたのだろうか。ギリシアのアリストテレスは、月食のときの地球の影の形から地球が球形であると考えていた。紀元前230年ごろにアレキサンドリアの南のシエネ(現在のアスワン)では、夏至の日の正午に深い井戸の底まで太陽の光が届くのをエラトステネスが知り、同じ時刻の夏至の日のアレキサンドリアでは鉛直に立てた棒に影ができて太陽が頭上より約7.2°傾いている(つまり太陽高度 82.8°)のを知り、アレキサンドリアとシエネの距離は5000スタジア(925km)であるので、このことから、 として、解の x=250000スタジア から、地球の半径を7361kmと算出した。実際の半径は、6371kmであり、当時とすれば妥当な結果であろう。 地球の形は、赤道付近がやや膨らんだ回転楕円体(かいてん だえんたい)である。これを地球楕円体という。 1671年〜1672年、フランスの天文学者リシェは、ギアナでは、フランスで調整した振り子時計が1日に約2分30秒おくれることに気付いた。振り子は重力によって振動している事が分かっていて、重力が小さいほど振り子が遅くなることが分かっていたので、ニュートンは振り子の遅れの原因として、地球の形は遠心力によって赤道方向がふくらんだ形になっていると考えられた。(オレンジ型) これに対し、パリ天文台のカッシーニなどのフランスの学者などが、地球は極方向(つまり南北方向)にふくらんでいると考えていた。(レモン型) そこでフランス学士院は、スカンジナビア半島とペルーに調査団を派遣し、緯度差1度に対する子午線の長さを測定した結果、極付近の方が緯度1度に対する弧が長いことが証明され、ニュートンの説が正しいことが証明された。 緯度と緯度1°あたりの弧長は であった。 これより、ニュートンの仮説(オレンジ型)が正しいことになり、 地球の大きさは、 となり、よって 扁平率(へんぺいりつ) は (赤道半径 ー 極半径)/(赤道半径) =(a-b)/a= 1/298となる。 扁平率は非常に小く、実用上は地球を球形とみなして問題ない。 すべての物体どうしには、おたがいに引きよせ合う力があり、これを万有引力(ばんゆう いんりょく)という。 で表される。Mとmは2つの物体の質量。距離をrとしている。Gは万有引力定数であり、G=6.67×10^-11 m3/(kg・s2) である。 単に引力という場合も多い。 物体が大きいほど、引き寄せあう力が大きくなる。私たちが地上で感じる下方向への引力は、地球によって引き寄せられる引力である。 地球は1つの大きな磁石であると考えられる。自転軸と地表面の交点からN極の指す方角は約11度ずれていて、方位磁石は真北を指さない。このずれる角度を偏角という。日本付近では磁場が下方向を向いていて水平面に対する角度を伏角という。地磁気の大きさを全磁力といい、偏角と伏角と全磁力が定まれば地磁気の様子がわかる。したがってこれら3つを地磁気の3要素という。 (注) 偏角と伏角と全磁力の組合せだけが,地磁気の三要素ではない。 偏角は他の要素で表すことができないために,必ず三要素の一つに含めるが,他は,伏角と全磁力,伏角と水平分力(水平磁力)でも構わない。 地温は深さとともに次第に高くなっていく。この割合を地下増温率(地温勾配)という。地下30kmまでの地下増温率は、平均して100mにつき2~3℃程度である。 地球の内部は高温で、温度の低い地表に向かって熱が伝えられる。この熱量を地殻熱流量という。この平均的な値は、 6.9 × 10 − 2 [ W / m 2 ] {\displaystyle 6.9\times 10^{-2}[W/m^{2}]} である。 地球の主な熱源は、岩石に含まれるウラン、トリウムなどの放射線同位体の自然崩壊に伴う熱と、地球生成時に地球内部に閉じこめられた熱である。核の生成に伴う潜熱も熱の要因である。とりわけ、大陸地殻を構成する花こう岩発熱量が多い。 地震のゆれは波として地球内部を伝わっていく。これを地震波という。破壊が最初に生じたところを震源、震源の真上の地表の地点を震央という。 波の伝わる速さは物質の状態や種類によって変化する。物質の種類や状態が変わると地震波の速さが変わり、屈折や反射が起きる。ゆえに、地震波の伝わり方を解析することによって、地球内部の構造や状態を推定できる。 図1の下二つは表面波の伝わり方を示している。 震源から観測地点まで伝わるまでに要する時間を走時(そうじ)と呼び、震源から観測地点までの距離と走時の関係とを表したグラフのことを走時曲線(そうじきょくせん)と呼ぶ。縦軸に走時をとり、横軸に各観測点の震央距離をとった時に描かれる曲線である。地震波は通常、一定の速度で伝わるため、走時曲線はほぼ直線になるはずである。しかし、クロアチアの地震学者であるアンドリア・モホロビチッチは、走時曲線は直線にはならずにどこかで折れ曲がるという法則を発見した。モホロビチッチは、1909年にクパ渓谷で発生した地震の走時曲線から、いくつかの地震波は他の波より速く伝わっていることに気づき、この事実をP波の速度が急に変わる不連続面によって解説し、モホロビチッチ不連続面と呼ばれるようになった。地下30kmから60kmの間にモホロビチッチ不連続面があるため、浅発地震の場合、震央距離150~300km程度の陸地で折れ曲がる。モホロビチッチ不連続面より上を地殻といい、下をマントルという。 走時曲線を分析してみると、震央距離を地球中心からの角度で表した場合、103°から 先の領域にはS波が伝わらない。この領域をS波のシャドーゾーンと言う。また震央距離103°から143°にはP波が直接伝わらない。これをP波のシャドーゾーンという。深さ2900kmよりも深部は液体となっているためで、これよりも深部を核という。核は深さ5100kmまでが液体の外核,それよりも深部を内核という。内核は固体である。  マグマオーシャンから分離した鉄が地球中心部に核を形成したが,時代を経るにつれて冷え,鉄が固体となって中心部に沈み,内核を形成した。 高温のマントル物質は中央海嶺でわきだし、冷えてプレートとなり、海溝に向かって移動する。 (火山などで見られる)マグマの粘性(ねんせい)の原因の物質は二酸化ケイ素 SiO2 である。(粘性(ねんせい)とは、その物質の 粘りぐあい(ねばりぐあい) のこと。) なので、マグマの成分の割合で、ケイ素の割合が高いほど、そのマグマは粘性が高い。
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地学I 地球の歴史は、地学Iのうち、地球史関連の事象を扱う。 地球は46億年前、太陽の周りを回るガスやちりがだんだん集結して、小さな微惑星となり、その微惑星が衝突・合体したのが地球であると考えられている。太陽から近い星が岩石主体となり、木星より遠い星がガス主体である。その間には小惑星帯がある。 月の誕生で最も有力視されているのが、ジャイアントインパクト説である。これは、地球に火星程度の微惑星が衝突し、そのかけらが月を形成したという物である。
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表面付近の風や波で混ざり、鉛直方向の温度差が少ない層を混合層という。その下の水温が急激に下がる層を水温躍層という。海水には塩化ナトリウムや塩化マグネシウムなどの塩類が溶けており、海水あたりの塩類の割合を塩分濃度という。循環している海流のことを環流とよび、黒潮の流れが強いのは地球の自転による影響で、西岸強化という。 熱塩循環は、表面の熱および淡水の流入によって作られる密度勾配によって駆動される大規模な海洋循環の一部です。 風によって駆動される表層流(例えば、メキシコ湾海流)は、赤道付近の大西洋から極地方へ向かって移動し、途中で冷却され、最終的に高緯度で沈んで(北大西洋深層水を形成して)海洋盆地に流れ込む。 この密度の高い水は、南極海で大部分が上昇する一方で、最も古い水(推定輸送時間約1000年)は北太平洋で上昇する。 したがって、広範な混合が海洋盆地間で行われ、それらの差異を減らして、地球の海洋を一体的なシステムとている。 これらの循環の水は、熱エネルギーおよび物質(溶存した固体および気体)を世界中に運ぶ。 従って、循環の状態は地球の気候に大きな影響を与える。 エルニーニョ・南方振動(El Niño-Southern Oscillation; ENSO)とは、熱帯東太平洋上の風と海面温度の不規則な周期的変動であり、熱帯および亜熱帯の気候に影響を与える。海水温度の上昇期はエルニーニョ、下降期はラニーニャとして知られている。 海水温の変化と相まって、付随する大気成分として南方振動がある。エルニーニョは熱帯西太平洋で高気圧が伴い、ラニーニャはそこで低気圧が伴う。これら2つの期間はそれぞれ数ヶ月続き、数年ごとに発生し、期間ごとに異なる強度で発生する。 これら2つの期間は、20世紀初頭にギルバート・ウォーカーによって発見されたウォーカー循環に関係している。ウォーカー循環は、東太平洋上に高気圧があり、インドネシア上空に低気圧があることから生じる圧力勾配力によって引き起こされる。ウォーカー循環(貿易風を含む)の弱体化や逆転は、冷たい深海水の上昇を減少または停止させ、海面温度を平均より高くさせてエルニーニョを引き起こする。特に強いウォーカー循環はラニーニャを引き起こし、上昇が増加するため海水温度が下がる。 振動を引き起こすメカニズムは現在も研究中である。この気候パターンの極端な振動は、世界中の多くの地域で洪水や干ばつなどの極端な気象を引き起こする。特に太平洋に接する農業や漁業に依存する発展途上国が最も影響を受ける。 地球に入る太陽放射を日射といい、太陽光線に垂直な面が受ける日射量を太陽定数という。地球自身が外に出す電磁波を地球放射といい、地表からの赤外放射による温度低下を放射冷却という。大気中に存在する二酸化炭素やメタンなどの温室効果ガスが、太陽光線を大気中に入れながら、地球の表面に戻ってくる熱エネルギーを吸収する現象を温室効果という。 赤道付近の空気が上昇し、亜熱帯ジェット気流により緯度20~30度で下降する循環をハドレー循環という。中緯度の偏西風が常に吹き、特に強い流れをジェット気流という。偏西風の蛇行は偏西風波動と呼ばれる。季節ごとに交代する風のことを季節風といい、晴れた日中に海から吹く風を海風、夜間に陸から吹く風を陸風という。両者を合わせて海陸風といい、限定された地域に吹く風を局地風という。山谷風も1日が周期の局地風である。 気団とは、高気圧が停滞してできる巨大な空気の団塊である。接した気団の地表面には前線が形成され、温暖前線では暖気が寒気の斜面を這い上がり、寒冷前線では寒気が暖気を押し込み、急激な上昇により強いにわか雨が降る。寒冷前線が温暖前線に追いつき低気圧が閉じた部分の前線は閉塞前線と呼ばれる。 最大風速が約17m/sを超える熱帯低気圧を台風という。台風の中心で雲がほとんどない場所を台風の目という。 日本の冬において、シベリア高気圧から北西の季節風が吹く気圧配置を西高東低型という。海面から供給された潜熱でできた積雲が脊梁山脈にぶつかったあとの太平洋側ではからっ風が吹き降りる。春に日本の北側にある低気圧によって吹く強い南風を春一番という。温帯低気圧の間には移動性高気圧があり、偏西風帯に対応している。6・7月ごろには梅雨とよんでいる現象がある。寒気のオホーツク海高気圧と、暖気の北太平洋高気圧の間には梅雨前線と呼ばれる停滞前線がある。南西からは湿舌という暖湿気が伸び出てくる。ジェット気流の合流による下降流でできたオホーツク海高気圧は親潮で冷やされる。冷えて密度が高まると東日本の太平洋側にやませが吹き付け、長く続けば冷夏になる。このように偏西風の蛇行で切り離される高気圧をブロッキング高気圧という。夏型の気圧配置は南高北低型である。秋は北太平洋高気圧が弱まり、秋雨前線による秋雨がもたらされる。 都市気候において、排熱によるヒートアイランドがよく見られる。化石燃料の燃焼により硫酸や硝酸が雨に混じると酸性雨が降る。 単位面積当たりの大気の圧力のことを気圧という。1気圧は1013ヘクトパスカルである。高度が上がるに従って気温が下がっていく割合のことを気温減率といい、地表から高度11km前後までの上空ほど気温が下がる層のことを対流圏という。各圏同士の境界を圏界面といい、対流圏と成層圏の間は対流圏界面と呼ばれる。対流圏では高度が上がるほど気温が低くなるが、成層圏ではオゾン層での紫外線の吸収により、上に行くほど高くなる。中間圏では再び高度の上昇とともに低くなるが、熱圏では、また上のほうが高くなる。熱圏の高度100-300km前後には、分子が太陽の紫外線を吸収することによる電離が起きる電離層がある。 物質が、気体・液体・固体というように状態を変化させることを相変化という。相変化に使われる熱を潜熱という。飽和したときの水蒸気量を飽和水蒸気量といい、そのときの水蒸気圧を飽和水蒸気圧という。ある温度における飽和水蒸気量(圧)に対する水蒸気量(圧)の百分率を相対湿度という。水蒸気圧が飽和水蒸気圧になり、凝結し始めたときの温度をw:露点という。水蒸気圧が飽和水蒸気圧を上回れば過飽和の状態である。雲をつくる非常に小さな水滴のことを雲粒という。 周囲と熱のやり取りがない空気塊の温度変化を断熱変化という。飽和していない空気塊が断熱的に上昇したときの温度が降下する割合を乾燥断熱減率という。空気塊が凝結高度に達したあとの上昇による温度の低下率はw:湿潤断熱減率と呼ばれ、潜熱で暖められた分、温度の低下がゆるやかになる。風が山を湿潤断熱減率で上昇し、乾燥断熱減率で山を下降するとき、風下側の山麓が高温・乾燥になる現象のことをフェーン現象という。 空気塊の温度が周囲の気温より高いと、大気の状態は不安定である。空気塊の温度が周囲の気温より低ければ、大気の状態は安定である。飽和していない空気塊には安定だが、飽和している空気塊には不安定な状態のことを条件つき不安定という。高度が上がるつれにて気温も上がっていく部分を逆転層という。氷晶が含まれている雲からの雨を冷たい雨(または氷晶雨)、水滴だけの雲でできている雨を温かい雨という。 気圧差によって働く力のことを気圧傾度力という。地球の自転により運動の方向を曲げているように見える力のことを転向力(コリオリの力)という。気圧傾度力とコリオリ力がつり合った状態で吹く風を地衡風という。気圧傾度力と転向力と遠心力がつり合って吹く風は傾度風である。
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単元 南極の春にオゾンが減少することをオゾンホールという。酸性が強まった雨のことを酸性雨という。 気象の観測データからその状態の変化をスーパーコンピュータで計算して行う天気予報を数値予報という。 高層天気図には等圧面天気図が用いられ、ある気圧面が等高線で表される。偏西風帯の特に強い部分はジェット気流と呼ばれている。極高気圧は放射冷却で低層だけ密度が低いので背の低い高気圧である。亜熱帯高気圧は下降流によるものなので背の高い高気圧である。偏西風の蛇行は偏西風波動と呼ばれ、等高線が南に波打っている部分は気圧の谷で、北に張り出している部分は気圧の尾根である。熱帯収束帯と亜熱帯高圧帯の対流をハドレー循環といい、偏西風波動による熱の輸送をロスビー循環という。冬はシベリア高気圧が発達する西高東低の気圧配置で寒波が気圧の谷に向かって入ってくる。梅雨になるとオホーツク海高気圧と北太平洋高気圧の間で収束が起きる。 氷河は山地にある山岳氷河と、大陸を覆うような大陸氷河(氷床)に分類することができる。波には風浪とうねりがあり、風浪はその場の風で起きる波で、うねりは遠くの風浪が伝わってくる波である。波しぶきが大気中で蒸発して残った小さな塩類の粒を海塩粒子といい、凝結核の元になる。 ペルー沖の海面水温が通常の年より高くなることをエルニーニョ現象といい、逆に平年より下がればラニーニャ現象と呼ばれる。偏西風と貿易風により環流が流れる。転向力が北半球では流れの向きに対して直角右に働くことで中央部の海面が高くなり圧力傾度力が生じる。両者のつり合いにより地衡流が流れる。コリオリの力が弱い分、北太平洋海流よりも北赤道海流の方が強くなるので西岸強化が生ずる。周期的に海水面が上下することを潮汐といい、最も高くなると満潮、最も低くなる時を干潮と呼ぶ。潮汐は起潮力で起こり、干満の差が大きいと大潮、それが小さいと小潮とよばれる。 数千℃にねっした鉄が赤く発光したりするように、物体は、温度がとても高くなると、発光する。 その発光の色は、温度が高くなるほど、発光のなかの光で波長が短い成分が多くなるので、赤から黄色をへて、しだいに青くなる。 (赤い光は、黄色い光よりも波長が長い。黄色い光は、青い光よりも波長が長い。) 光は電磁波であるので、つまり、熱した物体は、電磁波を放出するのである。 より詳しくいうと、熱していない物体からも電磁波は放出されているのだが、その電磁波の波長のほとんどが赤外線の領域なので、人間の目では見えないのである。 このような現象での温度と波長ごとのエネルギー量の関係をあらわした法則が、ウィーンの変位法則である。ウィーンの変位則は、黒体の温度が高いほど、放射エネルギーが最大になる波長が短くなっていることを表し、その波長をλ(μm)・温度をT (K)としたとき以下の式で示せる。 ウィーンは、ウィーンの法則を確かめる測定実験をする際、熱エネルギーの測定器にはボロメーターという装置を用いた。 [1] (※ ボロメーターについて、くわしくは、発展の節で説明する。) シュテファン=ボルツマンの法則は、恒星の放射するエネルギーE は絶対温度T の4乗に比例するというもので、次の式で表される。 1900年ごろ、すでに天文学者のラングレーによって、熱エネルギーの測定器としてボロメータという測定器が実用化していた。ボロメータとは、金属が温度変化した際の電気抵抗の変化を利用して、電気抵抗の変化から温度変化を読みとり、その温度変化から熱エネルギーなどのエネルギーを測定する装置である。 このボロメータを用いて、光の放射エネルギーも測定できた。 ウィーンは、ウィーンの法則を確かめる測定実験をする際、光のエネルギー測定のために、ボロメーターを用いた。この当時のボロメーターの精度の例として、温度が10-5上昇すると、抵抗値の変化率の3×10-8を読み取れるという高精度であったと言う。 ラングレーやヴィーンが用いていた頃のボロメーターでの測温用の金属には、白金が用いられていた。 そして、ボロメーターの精度の向上のため、ホイートストン・ブリッジ回路の中に、この電気抵抗を組み込むことで、精度を得ていた。 なお、21世紀の現在でも、白金は、電気抵抗式の測温素子として、よく用いられている。また、ホイートストン・ブリッジも、アナログ電気式の測定器で精度を得るための手法として、よく用いられている。さらに、ホイットストーン・ブリッジと測温素子の組み合わせによる温度測定器や放射エネルギー測定器などすらも、現在でもよく用いられている。 この1900年ごろのウィーンの時代、光の波長測定の方法では、回折格子が用いられた。すでにローランドなどによって光の波長測定の手段として実用化していたローランド式などの回折格子が、よく用いられた。 そもそも、光の波長は、どうやって測定されたのだろうか。 1800年代のはじめごろ、ヤングの実験によって、ヤングらが、可視光の波長はおおむね数100nmのていどであろう、という予想を立てていた。 回折格子を用いて、より正確な測定が、のちの1821年にドイツのレンズの研磨工だったフラウンホーファーによって行われた。フラウンホーファーは回折格子を作るために細い針金を用いた加工装置を製作し、その加工機で製作された回折格子を用いて、光の波長の測定をし始めたのが、研究の始まりである。フラウンホーファーは、1cmあたり格子を130本も並べた回折格子を製作した。[2] また、1870年にはアメリカのラザフォードがスペキュラムという合金を用いた反射型の回折格子を製作し(このスペキュラム合金は光の反射性が高い)、これによって1mmあたり700本もの格子のある回折格子を製作した。 より高精度な波長測定が、のちの時代の物理学者マイケルソンによって、干渉計(かんしょうけい)というものを用いて(相対性理論の入門書によく出てくる装置である。高校生は、まだ相対性理論を習ってないので、気にしなくてよい。)、干渉計の反射鏡を精密ネジで細かく動かすことにより、高精度な波長測定器をつくり、この測定器によってカドミウムの赤色スペクトル線を測定し、結果の波長は643.84696nmだった。マイケルソンの測定方法は、赤色スペクトル光の波長を、当時のメートル原器と比較することで測定した。[3] なお、現代でも、研究用として干渉計を用いた波長測定器が用いられている。メートル原器は、マイケルソンの実験の当時は長さのおおもとの標準だったが、1983年以降はメートル原器は長さの標準には用いられていない。現在のメートル定義は以下の通り。 原子の種類によって、吸収される光の波長が違う。 プリズムなどをもちいて宇宙から来る光を波長ごとに分けると、虹のような帯にわかれる。この、虹のような光の帯をスペクトルという。そして、スペクトルのところどころ、暗くなってる線がある。このような暗い線を暗線(あんせん)という。 暗線は、なんらかの物質が光を吸収したため、生じている。 この暗線は、その宇宙からの光が、地球に来るまでの経路に多く存在していた物質の種類が分かる。 太陽光のスペクトルにある暗線の波長を分析することによって、太陽の暗線の波長が、水素による暗線と一致することから、太陽を構成する物質はおもに水素であることが分かった。 また、太陽光が、ウィーンの法則の6000Kの光と、ほぼ一致することから、太陽の表面温度は約6000Kであることが分かっている。 なお、太陽光のスペクトルにある暗線のことをフラウンホーファー線という。 1965年、宇宙のどの方向からも温度3K(3ケルビン)に相当する電磁波が来ていることが、ベンジアスとウィルソンによって発見された。 この宇宙のどこにもある約3K相当の電磁波を、宇宙背景放射(うちゅう はいけいほうしゃ)という。 現在の世界各国の科学の学会では「宇宙は膨張している」とする学説が有力である。 (※ 範囲外:) 一般に、「ビッグバン宇宙論」とか「膨張宇宙論」、あるいは(定説になっているので)単に「宇宙論」という。 宇宙から来た光の波長を測定すると、地球から遠い天体から発された光であるほど、その波長が長いほうにずれている(つまり、赤色や赤外線の側に、ズレていく)。これを赤方偏移(せきほう へんい)という。 (膨張宇宙論では、)赤方偏移の原因は、宇宙が膨張しているため、地球から遠いほど、より大きな相対速度によって遠ざかっているので、ドップラー効果の影響が強くなるためである(としている)。 (※ 範囲外: ) 膨張宇宙論に反する、「つかれた光」仮説というのもあって、「ドップラー効果とは別に、未知の物理法則があて、その未知の法則によって、光は航行距離が長くなるほど、赤色にズレていく」という仮説にもとづいて、「宇宙は膨張していない」とする仮説(定常宇宙論)もあるが、しかし定常宇宙論は現在の世界主要国の科学の学会では支持されていない。日本の学校教育でも、定常宇宙論は支持されてないので、大学入試や大学理系の授業では、定常宇宙論を用いないように。定常宇宙論では「宇宙背景放射」という実験事実が、説明できないとされており、その理由のため定常宇宙論が支持されてない。 ハッブルは、赤方偏移について、その光の発信元となった天体の、地球から遠ざかる後退速度 v を計算したところ、地球からの距離 r と比例関係にある事を発見した。 つまり、Hを比例係数として、vを後退速度、rを距離とすれば、 である。この法則をハッブルの法則という。この式の比例定数 H をハッブル定数という。 地球は太陽のまわりを公転しており、公転の軌道は、ほぼ円の軌道であることが、中世には天文学者ケプラーなどの観測によって既に分かっていた。 しかし、中世の天文学者ケプラーがよく調べたところ、太陽の周囲を公転する地球の公転軌道は、わずかに楕円である事が分かった。 そして、さらに重要な事として、公転軌道上のどこに地球があっても、公転の面積速度は一定である事が分かった。惑星の公転の軌道に関する、これらの法則をまとめてケプラーの法則という。 地球だけでなく、火星などの太陽を中心に公転する他の惑星もまたケプラーの法則を満たしている事が観測されている。 歴史的には、ケプラーは地球と火星の軌道を細かく分析することにより、地球も火星も公転の軌道がそれぞれ楕円軌道である事を発見し、また、面積速度の一定の法則も発見した。 なお、地球の公転軌道上で、地球が太陽から最も近い点を近日点(きんじつてん)という。いっぽう、地球の公転軌道上で、地球が太陽から最も遠い点を遠日点(えんじつてん)という。 観測事実として、木星や土星にはオーロラが発生する。土星のオーロラはハッブル望遠鏡により確認されている(※ 参考文献: 啓林館の専門「地学」の検定教科書)。 オーロラが発生するには磁場が必要であると考えられている事から、木星や土星には磁場が存在すると考えられている。 他の木星型惑星にも磁場が存在すると考えらている。 いっぽう、地球型惑星については、磁場について、次のような事が分かっている。 (※ 根拠は範囲外: 検定教科書が惑星の性質の結果だけを羅列しており、解明の根拠が書かれておらず、理解の役に立たない。) 天王星と海王星はともに色が青い。これは、天王星や海王星にあるメタンが赤い色を吸収している結果であると考えられている。 土星のリングは、地球から見ると数本の輪にしか見えないが、探査船などの観測により数千個の輪から成り立っていることが分かっている。 いっぽう木星については、宇宙探査船ボイジャー1号により、木星にもリングがある事が発見された。 天王星のリングが1977年に発見された。これは、地球から見て天王星が恒星の前を通過する少し前に、恒星の明るさが減光したことにより、リングの存在が1977年に明らかになった。 その後、1980年代の探査船ボイジャー2号により、直接的に天王星のリングが観測された。 また、さまざまな観測により、天王星は自転軸が横倒しになっている事が分かっている。 ボイジャー2号の観測により、天王星には磁場がある事が分かっているが、磁場の中心は自転軸からは大きくずれている。 海王星についてはボイジャー2号の調査により、1989年にも海王星にもリングが発見されている。 結局、木星型惑星(木星、土星、天王星、海王星)すべてにリングが発見されている。 木星には、大気の渦が観測され、この渦は大赤斑(だいせきはん)という。 また、木星には、赤色と白色の縞(しま)模様がみられる。 木星のこの渦(大赤斑)は、大気の流れによって出来た雲の模様だと考えられている。(※ 範囲外: )なお、木星の渦は地球からでも望遠鏡により観測でき、中世の後半には既に木星の渦が発見されていた。 いっぽう、天王星は大気があるのに、渦が見られない。 海王星は、大気の組成は天王星と同じでメタンが主成分なのに、海王星には渦のようなものが見られ、海王星のこの渦は黒っぽいので、この渦は黒斑(こくはん)または暗斑(あんはん)などという(※ 検定教科書の出版社により用語が違う)。 水星は探査船などによる観測の結果、表面に多くのクレーターや大きな崖(がけ)が見られる。 この事から、水星には大気と水が無いと考えられている(もし水や大気があったら、クレーターが流されて平坦になってしまたり、風化して平坦になってしまうので)。なお、オーロラの発生しない事実とも、水星に大気の無いことは合致する。 水星は大気が無いため、昼と夜との温度差が激しく、水星の昼の気温は約400℃、夜は約 −180℃ にも達する。(水星は自転の速度も、とても遅く、その事も昼夜の温度差に関係していると考えられている。 ※ 啓林館の見解) 金星は、1970年代からのソ連のベネラ探査機やアメリカのパイオニアビーナス探査機などの調査により、磁場や気圧などが解明されている。水星の大気の気圧は地球の90倍くらいであり、また水星の大気の主成分は二酸化炭素である。 そして、これら二酸化炭素の温室効果により、金星の気温はとても高く、数百℃に達する。 金星の雲は硫酸で出きている。 金星については、探査船などの写真の結果、火山活動のあとによるものと見られる地形が見られるので、金星には火山活動があると考えられている。 ※ 未記述 火星については、1970年代にバイキング探査機が火星に降り立っている。 火星には、二酸化炭素を主成分とする大気があるが、気圧は地球の100分の1以下である。 (大気があるためか)火星では、砂嵐や雲などの気象現象が確認されている。 火星の気温は寒めであり、20℃くらいになる場合もあるが、−100℃になる場合もある。これらの気温の事実もあり、二酸化炭素の温室効果については、火星には大気の量が少ないので温室効果が弱いと考えられている。 現在の火星の表面には海は見えないが、しかし、あたかも過去に水の流れていたような地形があり、そのため、大昔の火星には海や湖のような水が存在していたとする説も有力である。 なお、火星の表面の赤くみえる地面は、酸化鉄の赤鉄鉱(せきてっこう)であるとされる。このことから、火星には大昔は酸素があったとする説もある(※ 数研出版の『地学基礎』で紹介)。 冥王星は、かつて大きな星だと考えられていたので惑星として扱われていたが、冥王星が月よりも小さいことが近年分かり、また冥王星の同程度の大きさの非惑星がいくつも発見された事などから、2006年頃から冥王星は惑星でないとして扱われるようになった。 こうしたことなどから現在では、海王星の外側の、冥王星などの天体をまとめて太陽系外縁天体(たいようけい がいえんてんたい)と呼ぶようになった。 木星の衛星イオについては、探査船など(ボイジャー)の撮影によって写真によって火山のような地形がある事が分かっており、各種の探査機による撮影の結果、火山の噴火のような光の写真も撮影されているので。イオには活火山があると考えられている。 土星の衛星タイタンは、太陽系の衛星のなかで唯一、大気をもつ。 タイタンについては探査機カッシーニによって性質が観測された。
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こちらを参照 3や12などの数(定数)や、 x {\displaystyle x} や y {\displaystyle y} などの文字(変数)を掛けあわせてできる式を項(こう、term)という。 次のようなものが項である。 このように一つの項だけからできている式を単項式(たんこうしき、monomial)という。 ※ あらためて「整式」を定義すると、次のような定義になる。 1つ以上の単項式を足しあわせてできる式を整式(せいしき)という。 以下は整式の例である。 単項式でも、項が1つしかない整式の一つであると考えることができるので、「整式」という概念を使うことにより、多項式と単項式との区別の必要がなくなる。 x − y {\displaystyle x-y} のように減法を含む式は、 x − y = x + ( − y ) = − y + x {\displaystyle x-y=x+(-y)=-y+x} と減法を加法に直すことができるので、 x , − y {\displaystyle x,-y} を項にもつ整式であると考えられる。すなわち、多項式の項とは、多項式を足し算の形に直したときの、一つ一つの足しあわさっている式のことである。たとえば 5 + a − 13 x 2 y = 5 + a + ( − 13 x 2 y ) {\displaystyle 5+a-13x^{2}y=5+a+(-13x^{2}y)} の項は 5 , a , − 13 x 2 y {\displaystyle 5,a,-13x^{2}y} の3つである。 次の式のうち単項式であるものを答えよ。 (1), (2) が単項式。 (3) は項が6つあるため単項式ではない。 上の全ての式は整式でもある。 3 x 2 {\displaystyle 3x^{2}} + 5 x 2 + 8 x {\displaystyle 5x^{2}+8x} の 3 x 2 {\displaystyle 3x^{2}} と 5 x 2 {\displaystyle 5x^{2}} のように、多項式の文字と指数がまったく同じである項を総称して同類項(どうるいこう、like terms)という。 同類項は分配法則 a b + a c = a ( b + c ) {\displaystyle ab+ac=a(b+c)} を使ってまとめることができる。たとえば 3 x 2 + 5 x 2 + 8 x = ( 3 + 5 ) x 2 + 8 x = 8 x 2 + 8 x {\displaystyle 3x^{2}+5x^{2}+8x=(3+5)x^{2}+8x=8x^{2}+8x} である。 8 x 2 {\displaystyle 8x^{2}} と 8 x {\displaystyle 8x} は文字は同じであるが指数が異なるので、同類項ではない。 次の多項式の同類項を整理せよ。 3 x {\displaystyle 3x} という単項式は、3という数と x {\displaystyle x} という文字に分けて考えることができる。数の部分を単項式の係数(けいすう、coefficient)という。 たとえば − x = ( − 1 ) x {\displaystyle -x=(-1)x} という単項式の係数は -1 である。 256 x y 2 {\displaystyle 256xy^{2}} という単項式は、256という数と x , y , y {\displaystyle x,y,y} という文字に分けて考えることができるので、この単項式の係数は256である。一方、掛けあわせた文字の数を単項式の次数(じすう、degree)という。 256 x y 2 {\displaystyle 256xy^{2}} は x , y , y {\displaystyle x,y,y} という3つの文字を掛けあわせてできているので、この単項式の次数は3である。0という単項式の次数は 0 = 0 x = 0 x 2 = 0 x 3 = ⋯ {\displaystyle 0=0x=0x^{2}=0x^{3}=\cdots } と一つに定まらないので、ここでは考えない。 単項式の係数と次数は、単に数と文字に分けて考えるのではなく、ある文字を変数として見たときに、残りの文字を定数として数と同じように扱うことがある。 たとえば − 5 a b c x 3 {\displaystyle -5abcx^{3}} という単項式を、 x 3 {\displaystyle x^{3}} だけが変数で、残りの文字 a , b , c {\displaystyle a,b,c} は定数と考えることもできる。 このとき ( − 5 a b c ) x 3 {\displaystyle (-5abc)x^{3}} と分けられるので、この単項式の係数は − 5 a b c {\displaystyle -5abc} 、変数は x 3 {\displaystyle x^{3}} で、次数は3であるといえる。 このことを − 5 a b c x 3 {\displaystyle -5abcx^{3}} という単項式は、「 x {\displaystyle x} に着目すると、係数は − 5 a b c {\displaystyle -5abc} 、次数は3である」などという場合がある。 あるいは − 5 a b c x 3 {\displaystyle -5abcx^{3}} の a {\displaystyle a} と b {\displaystyle b} に着目すれば、 ( − 5 c x 3 ) a b {\displaystyle (-5cx^{3})ab} と分けられ、 a {\displaystyle a} と b {\displaystyle b} に着目したときのこの単項式の係数は − 5 c x 3 {\displaystyle -5cx^{3}} 、変数は a b {\displaystyle ab} で、次数は2であるといえる。 慣習的には a , b , c , ⋯ {\displaystyle a,b,c,\cdots } などのアルファベットの最初の方の文字を定数を表すのに使い、 ⋯ , x , y , z {\displaystyle \cdots ,x,y,z} などのアルファベットの最後の方の文字を変数を表すのに用いるが、一般的にはこの限りでない。 多項式の次数とは、多項式の同類項をまとめたときに、もっとも次数の高い項の次数をいう。たとえば x 3 + 3 x 2 y + 2 y {\displaystyle x^{3}+3x^{2}y+2y} では、もっとも次数の高い項は x 3 {\displaystyle x^{3}} であるので、この多項式の次数は3である。もし x 3 + 3 x 2 y + 2 y {\displaystyle x^{3}+3x^{2}y+2y} ( x {\displaystyle x} は定数)であれば、すなわち多項式の y {\displaystyle y} について着目すると、もっとも次数の高い項は 3 x 2 y {\displaystyle 3x^{2}y} と 2 y {\displaystyle 2y} であるので、この多項式の次数は1である。このとき着目した文字を含まない項 x 3 {\displaystyle x^{3}} は定数項(ていすうこう、constant term)として数と同じように扱われる。 次の多項式の x {\displaystyle x} または y {\displaystyle y} に着目したときの次数と定数項をそれぞれいえ。 たとえば、 のように、次数の高い項から先に項をならべることを「降べき」(こうべき)という。 さて、式を使う目的によっては、次数のひくい項から先に書いたほうが便利な場合もある。 たとえば、 x {\displaystyle x} が 約0.01 のような1未満の小さい数の場合、式 x 2 + 6 x + 7 {\displaystyle x^{2}+6x+7} の値を求めたいなら、文字 x {\displaystyle x} の次数の小さい項のほうが影響が高い。 なので、 目的によっては のように、次数のひくい項から先に書く場合もある。 7 + 6 x + x 2 {\displaystyle 7+6x+x^{2}} のように、次数の低い項から先に項をならべることを「昇べき」(しょうべき)という。 多項式に2つ以上の文字があるとき、特定の1つの文字に注目して並び変えると、使いやすくなることがある。 たとえば、 の項を、xの次数が多い項から先に並びかえ、同類項をまとめると となる。 この(例2)のように、特定の文字だけに着目して、その文字の次数の高い順に並びかえると便利なこともしばしばある。 例2は、 x {\displaystyle x} について 降べき の順に並び変えた整式である。 着目してない文字については、並び換えのときは定数のように扱う。 いっぽう、 x {\displaystyle x} について、次数のひくい項から順に並べると、次のような式になる。 このように、特定の文字の次数が低いものから順に並びかえると便利なこともしばしばある。 例3は、xについて 昇べき の順に並び変えた整式である。 たとえば、式 という式の右辺 の次数は、いくらであろうか。 aとxを等しく文字として扱うのであれば、 a x {\displaystyle ax} の次数は より 1+1 =2 なので、この式の次数は2である。(項bは次数1なので、 a x {\displaystyle ax} の次数2よりも低いので無視する。) しかし、もしこの式を、定数 a {\displaystyle a} を係数とする変数 x {\displaystyle x} についての一次関数とみるのであれば、一次式と思うのが合理的だろう。 このような場合、特定の文字だけに注目したその式の次数を考えるとよい。 たとえば、文字xだけに注目して、式 a x + b {\displaystyle ax+b} の次数を決めてみよう。 すると、文字xに注目した場合の式 a x + b {\displaystyle ax+b} の次数は1になる。 なぜなら よって、文字 x {\displaystyle x} に注目した場合の項 a x {\displaystyle ax} の次数は、 0+1 なので、1である。 このように考える場合、必要に応じてどの文字に注目したかを明記して「文字◯◯に注目した次数」のように述べるとよい。 多項式の積は分配法則を使って計算することができる。 このように多項式の積で表された式を一つの多項式に繰り広げることを、多項式を展開(てんかい、expand)するという。 a {\displaystyle a} を n {\displaystyle n} 回掛けたものを a n {\displaystyle a^{n}} と書き、aのn乗(-じょう、a to the n-th power)という。ただし a 1 = a {\displaystyle a^{1}=a} と定義する。たとえば、 である。 a , a 2 , a 3 , a 4 , a 5 , ⋯ , a n {\displaystyle a,a^{2},a^{3},a^{4},a^{5},\cdots ,a^{n}} を総称して a {\displaystyle a} の累乗(るいじょう、exponentiation、冪乗、べきじょう、冪、べき)という。 a n {\displaystyle a^{n}} の n を指数(しすう、exponent)という(a は底(てい、base)という)。ここでは自然数、すなわち正の整数の指数を考える。累乗は次のように考えることもできる。 累乗どうしを掛けあわせた積は、次のように計算することができる。 累乗どうしを割った商は、次のように計算することができる。 累乗の累乗は、次のように計算することができる。 積の累乗は、次のように計算することができる。 これらをあわせて指数法則(しすうほうそく、exponential law)という。 m, n を正の整数とすると、 累乗の定義より明らか。 次の式を計算しなさい。 次の式を展開せよ。 まとめると、次のようになる。 次の式を展開しなさい。 複雑な式の展開は、式の一部分を一つの文字において公式を使うとよい。 次の式を展開しなさい。 次の式を因数分解しなさい。 (備考) 次の式を因数分解しなさい。 次の式を因数分解しなさい。 a 2 + b 2 {\displaystyle a^{2}+b^{2}} は、 a {\displaystyle a} と b {\displaystyle b} を入れ替えて b 2 + a 2 {\displaystyle b^{2}+a^{2}} にしても、値はもとの式と同じままである。 このように、文字を入れ替えても同じままになる式のことを 対称式( たいしょうしき)という。 a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} の対称式のうち、式 a + b {\displaystyle a+b} と 式 a b {\displaystyle ab} の2つを 基本対称式 という。 基本対称式いがいの対称式は、基本対称式の加減乗除で表すことができる。たとえば、 である。 a 2 − b 2 {\displaystyle a^{2}-b^{2}} は、文字を入れ替えると、 b 2 − a 2 {\displaystyle b^{2}-a^{2}} になるが、これはもとの式を ー1 倍したものである。このように、文字を入れ替えることで、もとの式を ー1 倍したものになる式のことを 交代式 (こうたいしき)という。 a=b^2が成り立つとき、a=2となるようなb、すなわち 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} の具体的な値がどのようなものか、調べてみよう。 このように、bを様々に決めても、aはなかなか2にならない。 実は 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} は、分母分子共に整数の分数で表すことはできない。このように整数を分母分子に持つ分数で表せないような数を無理数という。例えば、円周率πは無理数である。それに対して、整数や循環小数など、分母分子共に整数の分数で表すことのできる数を有理数という。 有理数と無理数を合わせて実数という。どんな実数でも数直線上の点として表せる。また、どんな実数も、有限小数あるいは無限小数として表せる。 (下記の「無限小数」の節を参照) 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} が有理数であると仮定すると、互いに素な(1以外に公約数をもたない)整数 m, n を用いて、 と表わすことができる。このとき、両辺を2乗して分母を払うと、 よって m は2の倍数であり、整数 l を用いて m = 2 l {\displaystyle m=2l} と表すことができる。これを (1) の式に代入して整理すると、 よって n も2の倍数であるが、これは m, n が2を公約数にもつことになり、互いに素と仮定したことに矛盾する。したがって 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} は無理数である(背理法)。 0.1 や 0.123456789 のように、ある位で終わる小数を有限小数という。 一方、 0.1234512345 ⋯ {\displaystyle 0.1234512345\cdots } や 3.1415926535 ⋯ {\displaystyle 3.1415926535\cdots } のように無限に続く小数を 無限小数(むげん しょうすう)という。 無限小数のうち、ある位より下から、ある配列の数字の繰り返しになっているものを 循環小数(じゅんかん しょうすう)という。例えば 0.3333333333 ⋯ {\displaystyle 0.3333333333\cdots } や 0.1428571428 ⋯ {\displaystyle 0.1428571428\cdots } や 0.1232323232 ⋯ {\displaystyle 0.1232323232\cdots } などである。繰り返しの最小単位を循環節という。循環小数は循環節1つを用いて 0. 3 ˙ {\displaystyle 0.{\dot {3}}} 、 0. 1 ˙ 4285 7 ˙ {\displaystyle 0.{\dot {1}}4285{\dot {7}}} 、 0.1 2 ˙ 3 ˙ {\displaystyle 0.1{\dot {2}}{\dot {3}}} のように循環節の最初と最後(循環節が一桁の場合はひとつだけ)の上に点をつけて表す。 全ての循環小数は分数に直せる。 と置くと、 である。(2)ー(1) より 9 a = 3 {\displaystyle 9a=3} 、よって a = 3 9 = 1 3 {\displaystyle a={\frac {3}{9}}={\frac {1}{3}}} である。 a = 0. 1 ˙ 4285 7 ˙ 1000000 a = 142857. 1 ˙ 4285 7 ˙ 999999 a = 142857 a = 142857 999999   = 1 7 {\displaystyle {\begin{aligned}a&=0.{\dot {1}}4285{\dot {7}}\\1000000a&=142857.{\dot {1}}4285{\dot {7}}\\999999a&=142857\\a&={\frac {142857}{999999}}\ ={\frac {1}{7}}\end{aligned}}} a = 0.1 2 ˙ 3 ˙ 100 a = 12.3 2 ˙ 3 ˙ 99 a = 12.2 a = 12.2 99   = 61 495 {\displaystyle {\begin{aligned}a&=0.1{\dot {2}}{\dot {3}}\\100a&=12.3{\dot {2}}{\dot {3}}\\99a&=12.2\\a&={\frac {12.2}{99}}\ ={\frac {61}{495}}\end{aligned}}} 実数 a について、a の数直線上での原点との距離を a の絶対値といい、 | a | {\displaystyle |a|} で表す。 たとえば である。 定義より | a | = | − a | {\displaystyle |a|=|-a|} がいえる。また、 a , b {\displaystyle a,b} を任意の実数とするとき、それぞれに対応する数直線上の任意の2点 P ( a ) , Q ( b ) {\displaystyle \mathrm {P} (a),\mathrm {Q} (b)} 間の距離については、次のことがいえる。 数直線上の2点 P ( a ) {\displaystyle \mathrm {P} (a)} と Q ( b ) {\displaystyle \mathrm {Q} (b)} の間の距離 P Q {\displaystyle \mathrm {P} \mathrm {Q} } は | b − a | {\displaystyle |b-a|} で表される。 今、2乗してaになる数bを考える。 a = 1 {\displaystyle a=1} のとき、 b = 1 {\displaystyle b=1} として終わりにしてはいけない。確かに b = 1 {\displaystyle b=1} も条件を満たすが b = − 1 {\displaystyle b=-1} も条件を満たす。よって b = 1 {\displaystyle b=1} または b = − 1 {\displaystyle b=-1} である。 一般に正の数aについてa=b^2となるbは二つあり、その二つは絶対値が等しい。この二つのbをaの平方根という。aの平方根のうち、正であるものを a {\displaystyle {\sqrt {a}}} 、負であるものを − a {\displaystyle -{\sqrt {a}}} と書く。 a {\displaystyle {\sqrt {a}}} は『ルートa』と読む。 一方、負の数aについて考えてみても上手くbを見つけることはできない。実際のところ、負の数の平方根は実数で表すことはできない。 2   ,   4   ,   9   ,   12 {\displaystyle 2\ ,\ 4\ ,\ 9\ ,\ 12} の平方根を求めよ。 ± 2   ,   ± 2   ,   ± 3   ,   ± 2 3 {\displaystyle \pm {\sqrt {2}}\ ,\ \pm 2\ ,\ \pm 3\ ,\ \pm 2{\sqrt {3}}} それぞれのルートを計算し、 ± {\displaystyle \pm } をつければよい。ただし、平方根のルールに従って、簡単化できるものは簡単化することが要求される。 例えば、 2 {\displaystyle 2} に対しては、 ± 2 {\displaystyle \pm {\sqrt {2}}} となる。 一般に、 A 2 = | A | {\displaystyle {\sqrt {A^{2}}}=|A|} である。 根号について、次の公式が成り立つ。 a > 0 , b > 0 {\displaystyle a>0,b>0} のとき まず、 a b {\displaystyle {\sqrt {ab}}} とは、定義にもとづいて考えると、2乗すると ab になる数のうち、正のほうの数という意味である。 なので、公式「 a b = a b {\displaystyle {\sqrt {a}}{\sqrt {b}}={\sqrt {ab}}}   」を証明するには、そのことを証明すればいい。 なので、まず、 a b {\displaystyle {\sqrt {a}}{\sqrt {b}}} を2乗すると、 となる。 ゆえに a b {\displaystyle {\sqrt {a}}{\sqrt {b}}} は、まず条件「2乗するとabになる」を満たす。 そして、正の数の平方根は正なので、 a b {\displaystyle {\sqrt {a}}{\sqrt {b}}} も正である。よって a b {\displaystyle {\sqrt {a}}{\sqrt {b}}} は、「2乗するとabになる」数のうちの正のほうである。 (証明おわり) さらに、上の公式(1)により、次の公式が導かれる。 a > 0 , k > 0 {\displaystyle a>0,k>0} のとき 計算せよ。 分母に根号を含まない式にすることを、分母を有理化するという。有理化は、分母と分子に同じ数をかけてもよいことを利用して行う。 たとえば、 1 2 {\displaystyle {\frac {1}{\sqrt {2}}}} を有理化すると、 1 2   =   1 2 2 2   =   2 2 {\displaystyle {\frac {1}{\sqrt {2}}}\ =\ {\frac {1{\sqrt {2}}}{{\sqrt {2}}{\sqrt {2}}}}\ =\ {\frac {\sqrt {2}}{2}}} となる。 また、とくに a b + c {\displaystyle {\frac {a}{b+c}}} について、 b 2 − c 2 = 1 {\displaystyle b^{2}-c^{2}=1} のとき、 a b + c   =   a ( b − c ) ( b + c ) ( b − c )   =   a ( b − c ) b 2 − c 2   =   a ( b − c ) 1   =   a ( b − c ) {\displaystyle {\frac {a}{b+c}}\ =\ {\frac {a(b-c)}{(b+c)(b-c)}}\ =\ {\frac {a(b-c)}{b^{2}-c^{2}}}\ =\ {\frac {a(b-c)}{1}}\ =\ a(b-c)} である。 たとえば、 a = 1 , b = 2 , c = 1 {\displaystyle a=1,b={\sqrt {2}},c=1} とすると、 1 2 + 1 = 2 − 1 {\displaystyle {\frac {1}{{\sqrt {2}}+1}}={\sqrt {2}}-1} である。 分母を有理化せよ。 二重根号とは、根号が2重になっている式のことである。二重根号は常に外せるわけではなく、根号の中に含まれる式によって簡単にできるかどうかが決まる。一般に、根号内の式が、 x 2 {\displaystyle x^{2}} の形に変形できる場合には、外側の根号を外すことができる。 3 + 2 2 {\displaystyle {\sqrt {3+2{\sqrt {2}}}}} を簡単にせよ。 3 + 2 2 {\displaystyle 3+2{\sqrt {2}}} が ( ⋯ ) 2 {\displaystyle (\cdots)^{2}} の形にできるかを考える。 仮に、 ( a + b ) 2 {\displaystyle ({\sqrt {a}}+{\sqrt {b}})^{2}} (a,bは正の整数)の形にできるとすると、 3 + 2 2 = a + b + 2 a b {\displaystyle 3+2{\sqrt {2}}=a+b+2{\sqrt {ab}}} となり、 を満たす整数a,bを探せばよい。この関係は、a=1,b=2(a,bを入れ換えても可。)によって満たされるので、 3 + 2 2   =   ( 2 + 1 ) 2 {\displaystyle 3+2{\sqrt {2}}\ =\ ({\sqrt {2}}+1)^{2}} が成り立つ。 よって、 3 + 2 2   =   ( 2 + 1 ) 2   =   2 + 1 {\displaystyle {\sqrt {3+2{\sqrt {2}}}}\ =\ {\sqrt {({\sqrt {2}}+1)^{2}}}\ =\ {\sqrt {2}}+1} となる。 a > 0   ,   b > 0 {\displaystyle a>0\ ,\ b>0} のとき a > b > 0 {\displaystyle a>b>0} のとき 次の式を計算せよ。 同じ大きさの量を=で結んだ式を方程式と呼ぶことを既に学習した。ここでは、異なった量の大きさの違いを表す記号を導入し、その性質についてまとめる。 ある数A,Bがあるとき、AがBより大きいことを A > B {\displaystyle A>B} と表し、AがBより小さいことを A < B {\displaystyle A<B} と表す。ここで、<と>のことを不等号と呼び、このような式を不等式と呼ぶ。また、 ≤ , ≥ {\displaystyle \leq ,\geq } も似た意味の不等式であるが、それぞれAとBが等しい値である場合を含むものである。 なお、日本の教育においては、 ≤ , ≥ {\displaystyle \leq ,\geq } の代わりに、不等号の下に等号を記した ≦ , ≧ {\displaystyle \leqq ,\geqq } を使うことが多い。 x > 7 {\displaystyle x>7} という不等式があるとき、xは7より大きい実数である。また、 x ≥ 7 {\displaystyle x\geq 7} の時には、xは7以上の実数である。 不等式では等式と同じように、両辺に演算をしても不等号の関係が変わらないことがある。例えば、両辺に同じ数を足しても、両辺の大小関係は変化しない。ただし、両辺に負の数をかけたときには、不等号の向きが変化することに注意が必要である。これは、負の数をかけると両辺の値は、0を中心に数直線を折り返した地点に移されることによる。 x > y {\displaystyle x>y} が成り立つときには、 x + 3 > y + 3 {\displaystyle x+3>y+3} 、 4 x > 4 y {\displaystyle 4x>4y} も成り立つ。また、 − x < − y {\displaystyle -x<-y} が成り立つ。 不等式の性質を使って の両辺から3を引くと よって となる。 このように、不等式でも移項することができる。 グラフを用いて考えるとき、不等式はグラフ中の領域を表す。領域の境界は不等号を等号に置き換えた部分が対応する。これは、不等号が成立するかどうかがその線上で入れ替わることによっている。(詳しくは数学II 図形と方程式で学習する。) y > x + 1 {\displaystyle y>x+1} , y < 2 x + 1 {\displaystyle y<2x+1} , x < 3 {\displaystyle x<3} のグラフ(正しくは「領域」)を描け。 y > x + 1 {\displaystyle y>x+1} のグラフ(領域)は次のようになる。ただし、境界は含まない。 y < 2 x + 1 {\displaystyle y<2x+1} のグラフ(領域)は次のようになる。ただし、境界は含まない。 x < 3 {\displaystyle x<3} のグラフ(領域)は次のようになる。ただし、境界は含まない。 次の不等式を解け。 いくつかの不等式を組み合わせたものを連立不等式といい、これらの不等式を同時に満たす x {\displaystyle x} の値の範囲を求めることを、連立不等式を解くという。 次の連立不等式を解け。 (i) (ii) (i) x + 2 < 2 x + 4 {\displaystyle x+2<2x+4} から  − x < 2 {\displaystyle -x<2} 10 − x ≥ 3 x − 6 {\displaystyle 10-x\geq 3x-6} から  − 4 x ≥ − 16 {\displaystyle -4x\geq -16} (1),(2)を同時に満たす x {\displaystyle x} の値の範囲は (ii) x ≥ 1 − x {\displaystyle x\geq 1-x} から  2 x ≥ 1 {\displaystyle 2x\geq 1} 2 ( x + 1 ) > x − 2 {\displaystyle 2(x+1)>x-2} から  2 x + 2 > x − 2 {\displaystyle 2x+2>x-2} (1),(2)を同時に満たす x {\displaystyle x} の値の範囲は 絶対値を含む不等式について考えよう。 絶対値 | x | {\displaystyle |x|} は、数直線上で、原点 O {\displaystyle \mathrm {O} } と点 P ( x ) {\displaystyle \mathrm {P} (x)} の間の距離を表している。 したがって、 a > 0 {\displaystyle a>0} のとき 次の不等式を解け。 (i) (ii) (iii) (iv) (i) (ii) (iii) (iv) 一般の二次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} は定数、 a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} )の解 x {\displaystyle x} を求める公式について考える。 ここで恒等式 x 2 + 2 y x = ( x + y ) 2 − y 2 {\displaystyle x^{2}+2yx=(x+y)^{2}-y^{2}} と (1) の左辺を係数比較すると、 であるから、(1) の式は次のように変形できる(平方完成)。 b 2 − 4 a c ≥ 0 {\displaystyle b^{2}-4ac\geq 0} のとき両辺の平方根をとると、 これが二次方程式の解の公式(にじほうていしきのかいのこうしき、quadratic formula; 二次公式)である。解の公式を二次方程式の一般形に代入すると、右辺は0になるはずである。 であることを用いると、 となり、確かに正しいことがわかる。 をそれぞれ解の公式か因数分解を用いて解きなさい。 結果の式に根号が現れない場合には、何らかの仕方で因数分解ができる。しかし、いずれの方法を使うにせよ、根号はできる限りの仕方で簡単化することが重要である。 (i)は簡単に因数分解できるので、解の公式を用いる必要はない。 より、 が答えとなる。(ii)では、因数分解が出来ないので、解の公式を用いる。因数分解ができるかどうかは実際に試行錯誤して見分けるしかない。 に、解の公式を用いると、a=5, b= 2, c=-1より、 となる。(iii),(iv)でも、因数分解は出来ないので、解の公式を用いる。答えは、 (iii) (iv) (v) と因数分解できるので、答えは となる。 全問を通じて、因数分解が可能な方程式に対しても、解の公式を使用しても構わない。 二次方程式 a x 2 + 2 b ′ x + c = 0 ( a ≠ 0 ) {\displaystyle ax^{2}+2b'x+c=0(a\neq 0)} について考える。 解の公式に b= 2b' を代入すると よって、二次方程式 a x 2 + 2 b ′ x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+2b'x+c=0} の解は となる。 を上の解の公式を用いて解きなさい。 上の解の公式を用いると、a=3, b'= 3, c=-2より、 となる。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の解は x = − b ± b 2 − 4 a c 2 a {\displaystyle x={\frac {-b\pm {\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}} である。 この式の根号の中身だけ取り出したものを判別式と呼び、2次方程式の解の個数を簡単に判別できる。 D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} の値によって次のようになる。 (1)  D > 0 {\displaystyle D>0} のとき、異なる2つの解  x = − b + b 2 − 4 a c 2 a {\displaystyle x={\frac {-b+{\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}} と x = − b − b 2 − 4 a c 2 a {\displaystyle x={\frac {-b-{\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}} を持つ。 (2)  D = 0 {\displaystyle D=0} のとき、 ± b 2 − 4 a c = ± 0 {\displaystyle \pm {\sqrt {b^{2}-4ac}}=\pm 0} であるので、2つの解は一致して、ただ1つの解 x = − b 2 a {\displaystyle x=-{\frac {b}{2a}}} を持つ。これは2つの解が重なったものと考えて、重解という。 (3)  D < 0 {\displaystyle D<0} のとき、実数の範囲では解はない。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の解の個数は D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} の値で判定できる。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の解は  D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} とするとき 次の2次方程式の解の個数を求めよ。 (I) だから、実数解はない。 (II) だから、重解をもつ。 (III) だから、異なる2つの実数の解をもつ。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6I/%E6%95%B0%E3%81%A8%E5%BC%8F
ここでは、三角比(さんかくひ)と、それを用いた定理を扱う。 ∠ C , ∠ C ′ {\displaystyle \angle \mathrm {C} ,\,\angle \mathrm {C} '} が直角で ∠ A = ∠ A ′ {\displaystyle \angle \mathrm {A} =\angle {\mathrm {A} '}} である直角三角形 △ A B C , △ A ′ B ′ C ′ {\displaystyle \triangle \mathrm {ABC} ,\,\triangle \mathrm {A'B'C'} } について考える。 △ A B C , △ A ′ B ′ C ′ {\displaystyle \triangle \mathrm {ABC} ,\,\triangle \mathrm {A'B'C'} } は2つの角の大きさが等しいので相似である。 このとき、 B C A B = B ′ C ′ A ′ B ′ {\displaystyle {\frac {\mathrm {BC} }{\mathrm {AB} }}={\frac {\mathrm {B'C'} }{\mathrm {A'B'} }}} である。このことから 対辺/斜辺 は角の大きさのみに依存することが分かる。そこで、 ∠ C {\displaystyle \angle \mathrm {C} } が直角である直角三角形 △ A B C {\displaystyle \triangle \mathrm {ABC} } において、 sin ⁡ A = B C A B {\displaystyle \sin A={\frac {\mathrm {BC} }{\mathrm {AB} }}} とする。これを正弦(sine)という。 同様に、直角三角形において 底辺/斜辺 は角の大きさのみに依存する。そこで、 cos ⁡ A = A C A B {\displaystyle \cos A={\frac {\mathrm {AC} }{\mathrm {AB} }}} とする。これを余弦(cosine)という。 同様に、直角三角形において 対辺/底辺 は角の大きさのみに依存する。そこで、 tan ⁡ A = B C A C = sin ⁡ A cos ⁡ A {\displaystyle \tan A={\frac {\mathrm {BC} }{\mathrm {AC} }}={\frac {\sin A}{\cos A}}} とする。これを正接(tangent)という。 これら、 sin , cos , tan {\displaystyle \sin ,\,\cos ,\,\tan } が三角比である。 覚え方としてしばしば以下の説明が用いられる。数学的には無意味だが、これが覚えやすければ用いてもよい。下の図の中で、小文字のsを筆記体でかくときのつづりに対応するものが sin {\displaystyle \sin } であり、筆記体のcに対応するものが cos {\displaystyle \cos } であり、筆記体のtに対応するものが tan {\displaystyle \tan } である。 三角比について次の性質が成り立つ。 90 ∘ − x {\displaystyle 90^{\circ }-x} は、xという大きさの角を持った直角三角形があるとき、直角でもxでもない大きさの角である。(三角形の内角の和が 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} であるため。)このため、 90 ∘ − x {\displaystyle 90^{\circ }-x} に対する三角比は、xに対する三角比を定義するのに使った三角形を用いて表わすことが出来る。実際にこの定義を導入すると、確かにこの結果が成り立つ。 ここまでで、 0 ∘ < r < 90 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }<r<90^{\circ }} の条件を満たす角度rに対して、三角比を定義した。しかし、これ以降三角形に関する定理を扱う上では、 90 ∘ < r < 180 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }<r<180^{\circ }} までの範囲で三角比を定義しておくと都合がよい。ここでは、三角比の定義の範囲を拡張する方法を説明する。 座標平面上に半径 r {\displaystyle r} の円をかく。つぎに、円周上の第一象限に点 A ( a , b ) {\displaystyle \mathrm {A} (a,b)} をとり、直線 O A {\displaystyle \mathrm {OA} } と x {\displaystyle x} 軸のなす角を x {\displaystyle x} とおく。 A {\displaystyle \mathrm {A} } から x {\displaystyle x} 軸におろした垂直の足を B {\displaystyle \mathrm {B} } とすると、三角形 O A B {\displaystyle \mathrm {OAB} } は ∠ O B A {\displaystyle \angle \mathrm {OBA} } を直角とする直角三角形である。このとき、三角比の定義から、 sin ⁡ x = b r {\displaystyle \sin x={\frac {b}{r}}} , cos ⁡ x = a r {\displaystyle \cos x={\frac {a}{r}}} , tan ⁡ x = b a {\displaystyle \tan x={\frac {b}{a}}} と表せる。 x {\displaystyle x} が 90 ∘ < x < 180 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }<x<180^{\circ }} のときも、上記の式に従って三角比を定義する。 次に、Aを円に沿って第2象限へ移動させる。先ほどと同様に、x軸の正の向きの半直線とOAによって作られる角をxとする。このとき 90 ∘ < x < 180 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }<x<180^{\circ }} となるため、角x側に直角三角形を作ることはできない。 ところが、 90 ∘ < x < 180 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }<x<180^{\circ }} のときも、先に述べた式の値を考えることはできる。そこで、このときも ところで、 x = 90 ∘ {\displaystyle x=90^{\circ }} のとき、Aはy軸上にあるためx=0となる。よって tan ⁡ x {\displaystyle \tan x} は、 b 0 {\displaystyle {\frac {b}{0}}} となってしまうため定義されない。 以上より、 0 ∘ < x < 180 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }<x<180^{\circ }} を満たす角xの正接、正弦、余弦の値は、単位円上に点A(a,b)をとり、 なお、実際には、この定義は任意の角 0 ∘ ≦ r < 360 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }\leqq r<360^{\circ }} に対して適用できるが、このことは高等学校数学IIの学習範囲である。 また、図形的な性質を用いると、 0 ∘ < x < 90 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }<x<90^{\circ }} のとき次の性質が成り立つ。 90 ∘ {\displaystyle {}^{\circ }} + xという角は、xという角を持った直角三角形を用いて表わすことが出来る。 この時、図から90 ∘ {\displaystyle {}^{\circ }} + xに対応する正弦は、xに対する余弦の大きさに等しい。90 ∘ {\displaystyle {}^{\circ }} + xに対応する余弦は、xに対する正弦の大きさに等しく、符号が負になっている。 180 ∘ {\displaystyle {}^{\circ }} - xという角も、xという角を持った直角三角形を用いて表わすことが出来る。 この時、対応する正弦が等しく、余弦が大きさが等しく符号が負になっていることがわかる。正接の関係式は、 を用いれば、前の2式から得ることが出来る。この式については後述する。 ここまでで、直角三角形を用いる場合と単位円を用いた場合に、三角比の定義を行った。これらの式はそれぞれ、 の関係を満たす。実際直角三角形の場合の定義の式を代入すれば、 となり、上の関係は成立する。これ以外にも三角比には角の大きさに関わらず成立する相互関係があり、これらの関係を用いてある1つの三角比から他の三角比の値を求めることができる。もちろん、直角三角形については1つの三角比を指定することで三角形の形は相似形の自由度を除いて決定されるため、この結果は必然であるのだが。 恒等式 が得られることを示せ。( sin 2 ⁡ r   ,   cos 2 ⁡ r   ,   tan 2 ⁡ r {\displaystyle \sin ^{2}r\ ,\ \cos ^{2}r\ ,\ \tan ^{2}r} は、それぞれ ( sin ⁡ r ) 2   ,   ( cos ⁡ r ) 2   ,   ( tan ⁡ r ) 2 {\displaystyle (\sin r)^{2}\ ,\ (\cos r)^{2}\ ,\ (\tan r)^{2}} という意味である。) 上で得たような直角三角形を考えると、 となっている。 このとき、三平方の定理より、 a , b , c {\displaystyle a,b,c} について、 が成り立つ。 ここで、両辺を c 2 {\displaystyle c^{2}} で割ると、 となり、求めたい式が示された。 さらに、 sin 2 ⁡ r + cos 2 ⁡ r = 1 {\displaystyle \sin ^{2}r+\cos ^{2}r=1} の両辺を cos 2 ⁡ r {\displaystyle \cos ^{2}r} で割ると、 が得られる。 sin ⁡ r = 1 3 {\displaystyle \sin r={\frac {1}{3}}} のときの cos ⁡ r {\displaystyle \cos r} , tan ⁡ r {\displaystyle \tan r} の値を求めよ。ただし、 0 ∘ < r < 90 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }<r<90^{\circ }} を満たすとする。 sin 2 ⁡ r + cos 2 ⁡ r = 1 {\displaystyle \sin ^{2}r+\cos ^{2}r=1} に sin ⁡ r = 1 3 {\displaystyle \sin r={\frac {1}{3}}} を代入すると、 さらに、 0 ∘ < r < 90 ∘ {\displaystyle 0^{\circ }<r<90^{\circ }} では、 cos ⁡ r > 0 {\displaystyle \cos r>0} となることに注目すると、 となる。 さらに、 tan ⁡ r = sin ⁡ r cos ⁡ r {\displaystyle \tan r={\frac {\sin r}{\cos r}}} に代入すると、 となる。 3つの角の角度がそれぞれ とするそれぞれの直角三角形の辺の長さの比を用いることで、 30 ∘   ,   60 ∘   ,   45 ∘ {\displaystyle 30^{\circ }\ ,\ 60^{\circ }\ ,\ 45^{\circ }} に対して、 sin , cos , tan {\displaystyle \sin ,\cos ,\tan } の大きさを求めよ。 45 ∘   ,   45 ∘   ,   90 ∘ {\displaystyle 45^{\circ }\ ,\ 45^{\circ }\ ,\ 90^{\circ }} の直角二等辺三角形では、斜辺が一番長く、その長さは他の辺の長さの 2 {\displaystyle {\sqrt {2}}} 倍である。このことを用いると、 30 ∘   ,   60 ∘   ,   90 ∘ {\displaystyle 30^{\circ }\ ,\ 60^{\circ }\ ,\ 90^{\circ }} の直角三角形では、辺の長さの比は、短い順から、 1 : 3 : 2 {\displaystyle 1:{\sqrt {3}}:2} となっている。このことを用いると、 これらの角度の三角比は重要なので覚えるべきである。もちろん、これらの有名角ではない三角比も計算することが出来る。その計算方法として、直接作図して測定する方法や、マクローリン展開(数IIIの知識があれば理解できるが、主に大学範囲)を利用して求めることが挙げられる。しかし、その計算方法は煩雑である。有名角ではない三角比の値が知りたい場合は、スマホやパソコンなどにインストールされた電卓アプリまたは、ブラウザで検索すればその値が分かる。試験で三角比の値が必要な場合は、表などの形式で三角比の値が与えられる。 三角形の辺の長さがa,b,cと与えられ、相対する角の大きさがA,B,Cと与えられるとき が成り立つ。ここで、 R は三角形の外接円の半径である。 最初に三角形が直角三角形であるときについて考える。直角三角形で, 90 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }} の角をCとおき、対応する辺をcとする。このとき、外接円の半径をRとすると、 が成り立つ。よって、角Cについて正弦定理が確かめられた。辺aについても図の三角形が直角三角形であることを用いると、 が成り立つ。Bについても同様である。よって、三角形が直角三角形であるとき、正弦定理は示された。 次に三角形が鋭角三角形であるときを考える。特に角Aに注目する。Aと同じ円周角を持つ点の中で、角CBDが 90 ∘ {\displaystyle 90^{\circ }} になるように、点Dをとる。 このとき、三角形BCDについて、 sin {\displaystyle \sin } の定義から、 (角BDC = 角Aに注意。これは円周角が互いに等しいことによる。)となり、 が得られて、正弦定理が角Aについて示された。角B、角Cについても同様に示すことが出来る。 最後に鈍角三角形の場合について考える。鈍角三角形の2つの鋭角については上と同じ証明を用いることが出来る。鈍角をCと書き、角ABD= 90 ∘ {\displaystyle 90{}^{\circ }} となるように点Dを取る。 ここで、角BDA = 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} - 角Cが成り立つ。(これは円に内接する四角形の相対する角a,bについてa+b = 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} が成り立つことによる。)これを用いると、 となり、確かにこの場合も成立する。よって、全ての三角形について正弦定理が示された。 角度が の直角三角形において正弦定理が成り立っていることを確かめよ。 ただし、それぞれの三角形の斜辺の長さを a {\displaystyle a} とする。 ここで、直角三角形の外接円の直径は、 直角三角形の斜辺の長さに等しいことに注意せよ。 の直角三角形については、 短い辺の長さを b {\displaystyle b} とすると、 正弦定理は、 となる。 これは、 に対応するが、 の性質からこれは正しい。 一方、 の直角三角形については 正弦定理は、辺の長さを短い順に b 1 {\displaystyle b_{1}} , b 2 {\displaystyle b_{2}} とすると、 となるが、これは に対応するが、もともとの三角形の性質からいって、 このことは確かに成立している。 次の三角形について、 c 2 = a 2 + b 2 − 2 a b cos ⁡ C {\displaystyle c^{2}=a^{2}+b^{2}-2ab\cos C} が成り立つ。これを余弦定理という。 点 B {\displaystyle \mathrm {B} } から直線 C A {\displaystyle \mathrm {CA} } におろした垂線の足を点 H {\displaystyle \mathrm {H} } とする。 線分 A H {\displaystyle \mathrm {AH} } の長さについて A {\displaystyle A} が鋭角かつ C {\displaystyle C} が鋭角のとき、 A H = C A − C H = b − a cos ⁡ C {\displaystyle \mathrm {AH} =\mathrm {CA} -\mathrm {CH} =b-a\cos C} A {\displaystyle A} が鈍角かつ C {\displaystyle C} が鋭角のとき、 A H = C H − C A = a cos ⁡ C − b {\displaystyle \mathrm {AH} =\mathrm {CH} -\mathrm {CA} =a\cos C-b} A {\displaystyle A} が鋭角かつ C {\displaystyle C} が鈍角のとき、 A H = A C + C H = b − a cos ⁡ C {\displaystyle \mathrm {AH} =\mathrm {AC} +\mathrm {CH} =b-a\cos C} である。 B H = a sin ⁡ C {\displaystyle \mathrm {BH} =a\sin C} 三平方の定理より、 c 2 = A B 2 = B H 2 + A H 2 = ( a sin ⁡ C ) 2 + ( b − a cos ⁡ C ) 2 = a 2 + b 2 − 2 a b cos ⁡ C {\displaystyle c^{2}=\mathrm {AB} ^{2}=\mathrm {BH} ^{2}+\mathrm {AH} ^{2}=(a\sin C)^{2}+(b-a\cos C)^{2}=a^{2}+b^{2}-2ab\cos C} 頂点A、Bについても同様にして求めることが出来る。 余弦定理の系 三角形ABCについて、辺の長さ のとき、辺ACの長さを余弦定理を用いて求めよ。 余弦定理 を用いると、 が得られる! よって、 が得られる。 上で得た三角形で、 も計算せよ。 元々の条件で三角形ABCは、2辺AB,BCとその間の角 が知られていた。そのため、この三角形は完全に決まっており、それぞれの角の大きさも知られるはずである。 それぞれの角の大きさを計算するためには、角の大きさのための余弦定理を使うのがよい。ただし、2つの角の大きさが求められたら、3つめの角は余弦定理によるまでもなく、 によって計算することが出来る。 まず、角Aを求める。余弦定理を用いると、 となる。 を満たす角度は簡単な形で表すことはできないが、平方根の表と三角比の表を用いておおよその値を知ることは出来る。また、 とすると、角Cは、 で与えられる。 具体的にaのおおよその値を求めてみる。平方根の表より 13 ≒ 3.6 {\displaystyle {\sqrt {13}}\fallingdotseq 3.6} なので、 1 13 = 13 13 ≒ 0.277 {\displaystyle {\frac {1}{\sqrt {13}}}={\frac {\sqrt {13}}{13}}\fallingdotseq 0.277} であり、三角比の表でこれに近い余弦の値を探すことで、 が得られる。 三角形ABCについて、3辺の長さ、3角の大きさのうち、いくつかの量が与えられているとする。このとき、与えられた量以外の量を計算せよ。 (i) (ii) (i) 余弦定理によって、 よって、 が得られる。 また、正弦定理を用いると、 が得られるが、この値を用いて を定めることができる。(余弦定理を用いて計算することもできる。 )実際に計算すると、 が得られる。 (ii) 三角形の内角の和が であることを用いて、 が得られる。さらに正弦定理を用いると、 が得られる。これを解くと、 となる。 の値は、最も簡単な計算法は高等学校数学IIで与えられる。詳しくは高等学校数学II いろいろな関数を参照。答えは、 である。この値を用いると、 となる。 三角形の2辺a,bとその間の角Cが与えられているとき、三角形の面積Sは、 で与えられる。 辺aを三角形の底辺と見たとき、三角形の高さは、 b sin ⁡ C {\displaystyle b\sin C} で与えられる。よって、三角形の面積公式から、 が得られる。 a=2,b=3,c=60 ∘ {\displaystyle {}^{\circ }} の時、この三角形の面積Sを求めよ。 上の公式を用いると、 となる。 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } の一辺の長さをそれぞれ a , b , c {\displaystyle a,b,c} とし、三角形の面積を S {\displaystyle S} 、内心の半径を r {\displaystyle r} 、内心点を I {\displaystyle \mathrm {I} } とする。 このとき、 S = r 2 ( a + b + c ) {\displaystyle S={\frac {r}{2}}(a+b+c)} が成り立つ。 証明 S = △ A B C = △ A B I + △ B C I + △ C A I {\displaystyle S=\triangle \mathrm {ABC} =\triangle \mathrm {ABI} +\triangle \mathrm {BCI} +\triangle \mathrm {CAI} } であるが、後者のそれぞれの三角形の面積は a r 2 , b r 2 , c r 2 {\displaystyle {\frac {ar}{2}},{\frac {br}{2}},{\frac {cr}{2}}} である。これを代入すれば、求めていた式が得られる。 w:ヘロンの公式とは、三角形の3辺の長さを用いて、その三角形の面積を表す公式である。三角形の3辺を定めれば三角形は一意に決まるため、当然面積は確定するのだが、その値を具体的に計算する方法を与えるのがヘロンの公式である。 ヘロンの公式は次のように与えられる。三角形の3辺の長さをそれぞれ、a,b,cとする。このとき、 とするとき、三角形の面積Sは、 で与えられる。 余弦定理を用いると、角Aの大きさは、 となる。ここで、 sin ⁡ A {\displaystyle \sin A} は、 ここで、三角形の面積Sは、 となり、ヘロンの公式が示された。 ヘロンの公式は、三辺の長さやsの値がきれいな整数値となる場合、面積を簡単に求めることができて便利である。一方で、これらの値がキリの悪い値になる場合はあまり便利ではない。これに限らずどの数学公式もそうであるが、用いることで便利になる状況を見極めたうえで用いるのが重要である。
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一般に、 y {\displaystyle y} が x {\displaystyle x} の関数である場合に、 f {\displaystyle f} などの文字を用いて、 と書き表すことができる。 また、x の関数 y=f(x) のことを単に f(x) と省略して言う場合もよくある。 関数 y=f(x) において、変数xの値をaにした場合の関数の値を f(a) で表す。 つまり、関数f(x) の x=a の場合でのyの値が f(a) である。ちなみに関数のfとは 英語で関数を意味するfunctionの頭文字 からとっている。2つ以上関数を扱う際にはfの次のgやhを用いることが多い。 (範囲外) f ( x ) {\displaystyle f(x)} のfは「入力値に対してfという操作をする」という意味の記号である。 Aを入力したらBを返す、という操作fを f : A → B {\displaystyle f:A\rightarrow B} のように表す。このとき、fという操作にAを入力したらBが出力されるので、これを f ( A ) = B {\displaystyle f(A)=B} というふうに表すことにするとわかりやすいであろう。AとBが数であるとき、 f ( A ) {\displaystyle f(A)} は上の等式より数である。つまり、fは操作を、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は操作fにある数xを入力したときの出力値を表すので注意しよう。fは数ではなく操作を表すので、 { f ( x ) } 2 {\displaystyle \{f(x)\}^{2}} と f 2 ( x ) {\displaystyle f^{2}(x)} は当然異なる。(なお、右側は f ( f ( x ) ) {\displaystyle f(f(x))} を表す。詳しくは数Ⅲで習う。) 「AとBが数であるとき」という文からわかるように、AとBは数でなくても良い。そのような場合は大学で詳しく扱う。 xy座標で第1象限(しょうげん)から第4象限までの位置を、図のように定義する。 位置と象限の番号の対応の覚え方は、x軸の正方向を基準に、反時計周り(左回り)に番号が大きくなっていくと覚えればいい。 それぞれの象限と、X、Yの値との関係は、左図のとおり。 定数 a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} と、定数 b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} を用いて と x {\displaystyle x} の二次式で表す事ができる関数を変数 x {\displaystyle x} の2次関数という。 以下の関数はいずれも2次関数である。 一方以下の関数は2次関数ではない 読者はこれを当然と思うかもしれないが、上の式は と表記することもできる。しかし、これは x {\displaystyle x} 二次式ではないので2次関数ではない。 そのために、2次関数の定義において a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} でなければならないというルールを設けたのである。 まず、もっとも簡単な y = a x 2 {\displaystyle y=ax^{2}} のグラフは a > 0 {\displaystyle a>0} のとき図1のようになる。(図では a = 1 {\displaystyle a=1} の場合を表記)。また、 a < 0 {\displaystyle a<0} のときは図1 のグラフを上下さかさまにしたものになる。 a > 0 {\displaystyle a>0} のとき2次関数 y {\displaystyle y} は 下に凸 (したにとつ)といい、 a < 0 {\displaystyle a<0} のとき 上に凸 (うえにとつ)という。また、2次関数のグラフを放物線という。 2つの2次関数 のグラフを書くために値を求めると、下記の表のようになる。 表を見ると、(2) 2x2+4 の値は、つねに (1) 2x2 の値よりも4だけ大きい。 したがって(2) 2x2+4 のグラフは、 (1) 2x2 のグラフをy軸方向に4だけ平行移動した放物線であり、 の放物線である。 y=2(x-3)2 のグラフは、 2x2 のグラフをx軸方向に3だけ平行移動した放物線であり、 の放物線である。 である。 y=2(x-3)2+4 のグラフは、 y=2(x-3)2 のグラフをy軸方向に4だけ平行移動した放物線である。 そして、y=2(x-3)2 のグラフは y=2x2 のグラフをx軸方向に3だけ平行移動した放物線であったので、つまり y=2(x-3)2+4 のグラフは、y=2x2 のグラフを x軸方向に3, y軸方向に4, 平行移動した放物線である。 よって、 である。 である。 本節では2次関数の一般形と標準形について学ぶ。この知識は後で2次関数をグラフで表す際に役立つ。 先ほど現れた という形の式 ( a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} ) を2次関数の一般形といい、 という式を2次関数の標準形という。 (上で、 a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} 、 b {\displaystyle b} 、 c {\displaystyle c} 、 p {\displaystyle p} 、 q {\displaystyle q} は定数で、 x {\displaystyle x} は変数であるものとする。) 一般形で表記されている2次関数を標準形で表記する事を平方完成という。 後述するように、標準形は2次関数をグラフで表す際に用いる。 標準形 で表記されている2次関数の右辺を展開すると、 となるので、 とすれば一般形になる。 逆に一般形 で表記されている2次関数は以下の手順で標準形に変換できる(この変形手法を平方完成という)。 ここで、 とおくと、 となり標準形で表されたことになる。 一般の2次関数をグラフで表現してみよう。 前述のように2次関数は平方完成の手順を踏む事により必ず標準形で表記可能なので、2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} を標準形 に変換する。ここで、 この標準形のグラフは y = a x 2 {\displaystyle y=ax^{2}} のグラフを x {\displaystyle x} 軸方向に  p {\displaystyle p} , y {\displaystyle y} 軸方向に q {\displaystyle q} 平行移動させたものと考えることができる。よって以下の事実が結論付けられる。 2次関数にかぎらず、一般に関数 y=f(x) のグラフをy軸の正の方向に q だけ平行移動したグラフは、 のグラフになる。 また、関数 y=f(x) のグラフをx軸の正の方向に p だけ平行移動したグラフは、 のグラフになる。 よって、関数 y=f(x) のグラフをx軸の正の方向に p 、y軸の正の方向にq だけ平行移動したグラフは、 のグラフになる。 2次関数にかぎらず、一般に関数 y=f(x) のグラフをx軸に関して対称に移動したグラフは、 のグラフになる。 また、関数 y=f(x) のグラフをy軸に関して対称に移動したグラフは、 のグラフになる。 よって、関数 y=f(x) のグラフを原点に関して対称に移動したグラフは、 のグラフになる。 2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフと x {\displaystyle x} 軸に共有点があるとき、その共有点の y {\displaystyle y} 座標は0であるから、共有点の x {\displaystyle x} 座標は、二次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の実数解である。 次の2次関数のグラフと x {\displaystyle x} 軸の共有点の座標を求めよ。 (i) (ii) (i) 2次方程式 x 2 − 2 x − 1 = 0 {\displaystyle x^{2}-2x-1=0} を解くと よって、共有点の座標は (ii) 2次方程式 − 4 x 2 − 4 x − 1 = 0 {\displaystyle -4x^{2}-4x-1=0} を解くと よって、共有点の座標は (ii)のグラフはただ1点 ( − 1 2   ,   0 ) {\displaystyle \left(-{\frac {1}{2}}\ ,\ 0\right)} で共有し、共有点の x {\displaystyle x} 座標は二次方程式 − 4 x 2 − 4 x − 1 = 0 {\displaystyle -4x^{2}-4x-1=0} の重解である。このようなとき、2次関数のグラフは x {\displaystyle x} 軸に接するといい、その共有点を接点という。 2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフと x {\displaystyle x} 軸との共有点の x {\displaystyle x} 座標は、二次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の実数解で、実数解の個数は D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} の符号によって決まる。 b 2 − 4 a c {\displaystyle b^{2}-4ac} のことを 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の 判別式 (はんべつしき)という。 2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフと x {\displaystyle x} 軸の位置関係について、 D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} とするとき 次の2次関数のグラフと x {\displaystyle x} 軸との共有点の個数を求めよ。 (I) (II) (III) (I) だから、 x {\displaystyle x} 軸との共有点はなし。 (II) だから、 x {\displaystyle x} 軸との共有点は2個。 (III) だから、 x {\displaystyle x} 軸との共有点は1個。 2次間数にかぎらず、一般に関数 y = f(x)において、 変数x のとりうる値の範囲のことを定義域(ていぎいき、domain)という。 また、xの値に対応して y の値のとりうる範囲のことを値域(ちいき、range)という。 多くの場合、値域は定義域の影響を受けて変化する。 また、この例のように、定義域や値域を表す場合に、不等式で表す手法も多い。 略式の記法として、定義域を表す場合に、 のようにカッコ内の不等式で表すことも、よくある。この記法(「 y=2x    (1 ≦ x ≦ 3) 」)の場合、定義域は 1 ≦ x ≦ 3 であると主張している。 つまり、定義域を数式ではっきりと示す必要がある場合には のように示すことがよくある。この関数の場合、定義域は a ≦ x ≦ b {\displaystyle a\leqq x\leqq b} である。 特に定義域の指定されてない場合は、可能なかぎり定義域を広くとるのが普通である。 たとえば、さきほどの関数 y=2x の問題の例 、 では、与えられた定義域で、この関数の値のとりうる最大の値は 6 である。 このように、ある関数が、与えられた条件下でもつ最大の値のことを、その関数の最大値(さいだいち, maximum)という。 または、さきほど習った「値域」という言葉をつかうなら、「最大値」とは、値域の最大の値のことである。 つまり、関数 y=2x    (1 ≦ x ≦ 3) の最大値は 6 である。 もし、定義域を指定しなければ、関数 y=2x に最大値は無い(定義域の指定がなければ、xが どこまでも大きくなるし、それに比例してyも大きくなるので)。 同様に、ある関数が、与えられた条件下でもつ最小の値のことを、その関数の最小値(さいしょうち, minimum)という。 関数 y=2x    (1 ≦ x ≦ 3) の最小値は 2 である。 定義域が実数全体である2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} では、右図のように、aの正負によって最小値(a>0 の場合)、または最大値がある(a<0の場合)。 と標準形にし、グラフを書くと右図のようになる。 したがってグラフより答えは最大値は x = 0 {\displaystyle x=0} のとき 5 {\displaystyle 5} , 最小値は x = − 5 2 {\displaystyle x=-{\frac {5}{2}}} のとき − 5 4 {\displaystyle -{\frac {5}{4}}} 。 上の例題と同様の問題のように思えるが、定義域が 0 ≤ x ≤ 3 {\displaystyle 0\leq x\leq 3} ではなく、 0 ≤ x < 3 {\displaystyle 0\leq x<3} となっている。とりあえずグラフをかいてみることにする。 グラフから、最大値は x = 1 {\displaystyle x=1} のとき 2 {\displaystyle 2} , 最小値は存在しない。 二次不等式とは、 x {\displaystyle x} の二次式と不等号で表される式のことをいい、 のような形をしている。グラフを利用して二次不等式の解を考えてみよう。 2次関数 y = x 2 + 4 x = x ( x + 4 ) {\displaystyle y=x^{2}+4x=x(x+4)} のグラフは右図のようになる。 x 2 + 4 x > 0 {\displaystyle x^{2}+4x>0} となる x {\displaystyle x} の値の範囲は右のグラフの x {\displaystyle x} 軸より上側にある部分に対する x {\displaystyle x} の値の範囲であるから、 この問題をより一般化してみよう。 2次不等式 a x 2 + b x + c > 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c>0} を解くには y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフをかけば一目瞭然である。しかし、グラフをかいた場合にも我々が注目するのは x {\displaystyle x} 軸より上か下かということと、 x {\displaystyle x} 軸との共有点である。 x {\displaystyle x} 軸との共有点は二次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の解であるが、二次方程式の解の公式を思い出してほしい。それは次のようなものであった。 これを用いると、二次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} が解を持つとき、 と因数分解形で表すことができる。(右辺を展開して左辺と一致することを確かめてみよ。) ここで、 とおくと、 となる。 a > 0 {\displaystyle a>0} のとき y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフは下に凸であるからこの不等式の解は、 となる。 a < 0 {\displaystyle a<0} のときは両辺を − 1 {\displaystyle -1} で割ってから考えると、 となる。 次の二次不等式を解け。 (i) (ii) (i) 二次方程式 12 x 2 + 17 x − 7 = 0 {\displaystyle 12x^{2}+17x-7=0} を解くと よって、この二次不等式の解は (ii) 二次方程式 2 x 2 + 6 x + 1 = 0 {\displaystyle 2x^{2}+6x+1=0} を解くと よって、この二次不等式の解は y = x 2 − 6 x + 9 {\displaystyle y=x^{2}-6x+9} の値の符号について考えよう。 平方完成をすると この関数のグラフは、 x {\displaystyle x} 軸と点 ( 3   ,   0 ) {\displaystyle (3\ ,\ 0)} で接する。 y = x 2 − 6 x + 9 {\displaystyle y=x^{2}-6x+9} の値の符号について、下の表のようになる。 よって 次の二次不等式を解け。 (i) (ii) (iii) (iv) (i) よって、-1以外のすべての実数 (ii) よって、 x = − 2 3 {\displaystyle x=-{\frac {2}{3}}} (iii) よって、解はない (iv) よって、すべての実数 2次関数 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフと x {\displaystyle x} 軸の位置関係について、 D = b 2 − 4 a c < 0 {\displaystyle D=b^{2}-4ac<0} のとき、 x {\displaystyle x} 軸と共有点をもたなかった。 さらに a > 0 {\displaystyle a>0} という条件を加えると、 y = a x 2 + b x + c {\displaystyle y=ax^{2}+bx+c} のグラフは x {\displaystyle x} 軸より上側にある。 a > 0   ,   D = b 2 − 4 a c < 0 {\displaystyle a>0\ ,\ D=b^{2}-4ac<0} のとき 次の二次不等式を解け。 (i) (ii) (iii) (i) よって、解はない (ii) よって、すべての実数 (iii) よって、解はない 放物線と直線の共有点について考えよう。 放物線 y = x 2 − 4 x + 5 {\displaystyle y=x^{2}-4x+5} と次の直線の共有点の座標を求めよ。 (i) (ii) (i) 求める共有点の座標は、連立方程式 の実数の解である。 y = x + 1 {\displaystyle y=x+1} を y = x 2 − 4 x + 5 {\displaystyle y=x^{2}-4x+5} に代入すると すなわち これを解いて x = 1 {\displaystyle x=1} のとき y = 2 {\displaystyle y=2} x = 4 {\displaystyle x=4} のとき y = 5 {\displaystyle y=5} よって、共有点の座標は である。 (ii) 求める共有点の座標は、連立方程式 の実数の解である。 y = 2 x − 4 {\displaystyle y=2x-4} を y = x 2 − 4 x + 5 {\displaystyle y=x^{2}-4x+5} に代入すると すなわち これを解いて このとき y = 2 {\displaystyle y=2} よって、共有点の座標は である。 例題の(ii)のように、放物線とその軸に平行でない直線がただ1点を共有するとき、放物線は直線に接するといい、共有点を接点という。
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本項は高等学校数学Iのデータの分析の解説です。 中学校課程の資料の散らばりと代表値に続き、データの散布などの概念、また実際の処理がどのように行われるかを身近な事例やコンピュータの表計算ソフトを利用して学習します。大まかな内容は以下の通りです。 資料の散らばりと代表値の内容は既習であるものとして解説を進めていきます。 この分野が基礎になる科目は数学Bの確率分布と統計的な推測があります。統計に加えて確率・数列・微積分の知識も必要となります。 表計算のセクション(第5章・第6章)は2011年度以前の課程「統計とコンピュータ」の範囲で現在の指導要領では学習しません。ここで取り上げた資料の数値確認や演習に活用するといいでしょう。予め各自使用している表計算ソフトの操作を知っておくとスムーズに学習が進められます。このページではMicrosoft Excelの書式に基づいています。実践編は余力があればとりかかってみて下さい。ただしここでは数学Bで学習する確率分布などの関数は扱っていません。演習を始める前に必ず(基礎編)の冒頭にある注意書きをお読み下さい。 この分野の演習問題は大学受験数学 統計とコンピューターをご覧下さい(旧課程のものですが内容に殆ど変更がないのでこのまま使用しています)。表計算演習は該当セクション内の実習と前述のページ演習問題2・3にて代えます。 以降、「資料の散らばりと代表値」でも用いた以下の資料を頻繁に使いますのでメモしておいたほうがよいでしょう。 代表値が同じであってもその分布が代表値近くに密集していたりばらばらであったりと色々なことが考えられる。ここでは資料の散らばり具合の表す量について見てみよう。 資料が取る最大値から最小値を引いた値をその資料の分布の範囲(はんい)と言う。 資料1の範囲は 70.0 − 53.6 = 16.4 {\displaystyle 70.0-53.6=16.4} (kg)となる。 データを大きさの順に並べた時、25%、50%、75%に当たる数値をその資料の四分位数と言う。特に下位から25%に当たる数値を第1四分位数、 下位から75%に当たる数値を第3四分位数と言われる。下位から50%に当たる数値は第2四分位数と言うこともできるが、中央値と同義である。四分位数の英訳「Quartile」の頭文字を取ってそれぞれ Q 1 , Q 2 , Q 3 {\displaystyle Q_{1},Q_{2},Q_{3}} と表すこととする。 資料1の四分位数を求めてみよう。まずは資料を昇順に並びかえる。 まずは中央値を求めてみる。中央値のセクションでも述べた通り、この資料の中央値は5番目と6番目の平均である61.5kgである。 第1四分位数はこの資料では順位が6番目~10番目の中央値とも読み取ることができる。言い換えると8番目の値となるので56.1kgとなる。 第3四分位数も同様に順位が1番目~5番目の中央値とできるので求める数値は3番目の値の65.4kgである。 第3四分値と第1四分値の差をその資料の四分位範囲、四分位範囲の半分のことをその資料の四分位偏差と言う。 資料1の四分位範囲は Q 3 − Q 1 = 65.4 − 56.1 = 9.3 ( k g ) {\displaystyle Q_{3}-Q_{1}=65.4-56.1=9.3(kg)} 、四分位偏差は Q 3 − Q 1 2 = 9.3 2 = 4.65 ( k g ) {\displaystyle {\frac {Q_{3}-Q_{1}}{2}}={\frac {9.3}{2}}=4.65(kg)} となる。 資料のばらつき具合をグラフにまとめて見やすくしたものを箱ひげ図と言う。 箱ひげ図の見方を以下で示す。なお、以下の図は資料3を参照して作成しているが、0.5kg未満の数値を切り捨てしてあるので正しく作成した図と等しくならないことには注意。 データの中に含まれることがある、他の値とは極端にかけ離れた値のことを外れ値と呼ぶ。データのとる値を変数xとみなしたとき、外れ値の基準を以下のように定める。 外れ値が存在する場合、四分位数は全てのデータを用いて考えるが、箱ひげ図の左右のひげは外れ値を除いて考える。外れ値を箱ひげ図にあえて示す場合は以下のように⚪︎を用いて表す。 外れ値は必ずしも測定ミス等で発生した異常な値とは限らない。外れ値の背景を調査することで、新たな問題が発見されたり問題解決の糸口が掴めたりする場合がある。 変数xのとる値が のn個あるとき、各値と平均値 x ¯ {\displaystyle {\overline {x}}} との差 を、それぞれ平均値からの偏差(へんさ)という。 資料1で、平均値からの偏差は次のようになる。 さて、今知りたいのは資料全体の偏り具合の傾向であった。それを調べるために、試しに偏差の平均値を計算してみよう。 このように、偏差の平均値は常に0になる。 偏差の平均は常に0となるので、これを計算してもデータの散らばりの大きさを知ることはできないことがわかった。そこで、偏差の2乗の平均値を考える。この値を分散(ぶんさん、英:variance)という。分散を s 2 {\displaystyle s^{2}} で表すと、次のようになる。 s 2 = ( x 1 − x ¯ ) 2 + ( x 2 − x ¯ ) 2 + ⋯ + ( x n − x ¯ ) 2 n {\displaystyle s^{2}={\frac {(x_{1}-{\overline {x}})^{2}+(x_{2}-{\overline {x}})^{2}+\cdots +(x_{n}-{\overline {x}})^{2}}{n}}} この分散の定義は自然なものであるが、たとえば、データが身長の場合、その単位はcmであるが、分散は偏差の2乗の平均なので、その単位は c m 2 {\displaystyle cm^{2}} になってしまう。そのため、単位を変量と合わせるために、分散 s 2 {\displaystyle s^{2}} の正の平方根sを考えることも多い。このsを資料xの標準偏差(ひょうじゅんへんさ、英:standard deviation)という。 s = ( x 1 − x ¯ ) 2 + ( x 2 − x ¯ ) 2 + ⋯ + ( x n − x ¯ ) 2 n {\displaystyle s={\sqrt {\frac {(x_{1}-{\overline {x}})^{2}+(x_{2}-{\overline {x}})^{2}+\cdots +(x_{n}-{\overline {x}})^{2}}{n}}}} 資料1の分散と標準偏差を求めよう。 分散 s 2 {\displaystyle s^{2}} は 標準偏差sは 度数分布表から分散と標準偏差を求めるときは次のようになる。 階級値を x 1 , x 2 , ⋯ , x r {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{r}} とし、それに対応する度数を f 1 , f 2 , ⋯ , f r {\displaystyle f_{1},f_{2},\cdots ,f_{r}} とする。分散 s 2 {\displaystyle s^{2}} と標準偏差sは 諸君も興味を持っているかもしれない大学受験の世界では、「偏差値」という数値がしばしば取り上げられる。偏差値は、次の式で計算される。 x 1 , x 2 , . . . {\displaystyle x_{1},x_{2},...} の中の数値 x i {\displaystyle x_{i}} の偏差値は、 10とか50といった定数は、出てきた数値が直感的にわかりやすい大きさとなるようにしている定数(規格化定数という)であり、直接に意味はない。注目すべきは、この計算式の中に、平均と標準偏差が含まれているということである。つまり、同じ学力を持った人どうしであっても、違う試験を受ければ、試験を受けた他の人たちの動向によって偏差値は大きく変化するということである。そのような数値であるので、少しの変化にあまり一喜一憂しすぎないようにしたい。 分散の式は、次のように変形できる。 すなわち、公式の形にするならば、次のように書ける。 この式を使って、資料1の分散を求めよう。 x 2 {\displaystyle x^{2}} の平均は xの平均の2乗は よって、分散は と、前に出した方法と同じ値になる。 変量xについてのデータ x 1 , x 2 , ⋯ x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots x_{n}} があり、その平均値、分散、標準偏差をそれぞれ x ¯ , s x 2 , s x {\displaystyle {\overline {x}},s_{x}^{2},s_{x}} とする。 定数 a , b {\displaystyle a,b} を用いて新たな変量yを y = a x + b {\displaystyle y=ax+b} で定義する。 このときyのデータはn個の値を持ち、それは y 1 = a x 1 + b , y 2 = a x 2 + b , ⋯ , y n = a x n + b {\displaystyle y_{1}=ax_{1}+b,y_{2}=ax_{2}+b,\cdots ,y_{n}=ax_{n}+b} となる。 yのデータの平均値は、 y k − y = a x k + b − ( a x ¯ + b ) = a ( x k − x ¯ ) {\displaystyle y_{k}-y=ax_{k}+b-(a{\overline {x}}+b)=a(x_{k}-{\overline {x}})} を用いると、yのデータの分散は また、上式よりyの標準偏差は このように、変量xを定数a,bを用いた一次式によって別の変量yに変換した際、 y ¯ , s y 2 , s y {\displaystyle {\overline {y}},s_{y}^{2},s_{y}} を a , b , x ¯ , s x 2 , s x {\displaystyle a,b,{\overline {x}},s_{x}^{2},s_{x}} のみで表すことができる。このような処理を変量の変換と呼ぶ。 なお、数学Bの「統計的な推測」において、確率変数における変量の変換と期待値の変量変換について取り扱う。 今までは1種類のステータスについてのデータ分析を行ってきた。ここでは2種類のステータスがどのような傾向になっているか見て行くこととしよう。 以下の資料6は資料1に身長の値を加えたものである。 例えば、上の資料6の体重をx(kg)、身長をy(cm)として、点 ( x , y ) {\displaystyle \left(x,y\right)} を座標平面上にとったとする。 2つの変量からなる資料を平面上に図示したものを散布図(さんぷず)または相関図(そうかんず)という。以下は資料8の相関図である。点の付近にある数字はその数値に該当する人の出席番号を表す。 一般に、散布図において、 2つのデータx , yについて、次のn個の値の組を考える。 xの平均値を x ¯ {\displaystyle {\overline {x}}} 、yの平均値を y ¯ {\displaystyle {\overline {y}}} とすると また、xの標準偏差を S x {\displaystyle S_{x}} 、yの標準偏差を S y {\displaystyle S_{y}} とすると ここで の値の符号について考える。(1)をxとyの共分散(きょうぶんさん、英:covariance)という。 共分散が正のときは、 ( x k − x ¯ ) ( y k − y ¯ ) > 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})(y_{k}-{\overline {y}})>0} となるものが、 ( x k − x ¯ ) ( y k − y ¯ ) < 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})(y_{k}-{\overline {y}})<0} よりも多いと考えられる。 すなわち ( x k − x ¯ ) > 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})>0} かつ  ( y k − y ¯ ) > 0 {\displaystyle (y_{k}-{\overline {y}})>0} または ( x k − x ¯ ) < 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})<0} かつ  ( y k − y ¯ ) < 0 {\displaystyle (y_{k}-{\overline {y}})<0} が多いということになる。 よって、共分散が正のとき、xとyには正の相関関係があるといえる。 共分散が負のときは、 ( x k − x ¯ ) ( y k − y ¯ ) < 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})(y_{k}-{\overline {y}})<0} となるものが、 ( x k − x ¯ ) ( y k − y ¯ ) > 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})(y_{k}-{\overline {y}})>0} よりも多いと考えられる。 すなわち ( x k − x ¯ ) > 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})>0} かつ  ( y k − y ¯ ) < 0 {\displaystyle (y_{k}-{\overline {y}})<0} または ( x k − x ¯ ) < 0 {\displaystyle (x_{k}-{\overline {x}})<0} かつ  ( y k − y ¯ ) > 0 {\displaystyle (y_{k}-{\overline {y}})>0} が多いということになる。 よって、共分散が負のとき、xとyには負の相関関係があるといえる。 共分散の値は、資料x , yの内容によって大きく値が変わるので、x , yの偏差をそれぞれの標準偏差 S x , S y {\displaystyle S_{x},S_{y}} で割った値の積の平均値 を考え、この値を資料x , yの相関係数(そうかんけいすう、英: correlation coefficient)といい、rで表す。 であるから、 xの平均値を x ¯ {\displaystyle {\overline {x}}} 、yの平均値を y ¯ {\displaystyle {\overline {y}}} とすると、相関係数rは 相関係数rは、一般に − 1 ≤ r ≤ 1 {\displaystyle -1\leq r\leq 1} が成り立つ。 ではこれを用いて資料6の相関関係を見てみよう。 よって相関係数rは r = ( − 0.9 ) × ( − 2.2 ) + ( − 3.3 ) × ( − 9.1 ) + 4.2 × ( − 0.6 ) + ( − 5.1 ) × ( − 3.0 ) + ( − 7.6 ) × ( − 7.7 ) + 1.5 × 0.1 + 8.8 × 9.1 + ( − 5.4 ) × 3.0 + 5.9 × 9.8 + 1.9 × 0.6 { ( − 0.9 ) 2 + ( − 3.3 ) 2 + ( 4.2 ) 2 + ( − 5.1 ) 2 + ( − 7.6 ) 2 + ( 1.5 ) 2 + ( 8.8 ) 2 + ( − 5.4 ) 2 + ( 5.9 ) 2 + ( 1.9 ) 2 } × { ( − 2.2 ) 2 + ( − 9.1 ) 2 + ( − 0.6 ) 2 + ( − 3.0 ) 2 + ( 7.7 ) 2 + ( 0.1 ) 2 + ( 9.1 ) 2 + ( 3.0 ) 2 + ( 9.8 ) 2 + ( 0.6 ) 2 } {\displaystyle r={\frac {(-0.9)\times (-2.2)+(-3.3)\times (-9.1)+4.2\times (-0.6)+(-5.1)\times (-3.0)+(-7.6)\times (-7.7)+1.5\times 0.1+8.8\times 9.1+(-5.4)\times 3.0+5.9\times 9.8+1.9\times 0.6}{\sqrt {\left\{(-0.9)^{2}+(-3.3)^{2}+(4.2)^{2}+(-5.1)^{2}+(-7.6)^{2}+(1.5)^{2}+(8.8)^{2}+(-5.4)^{2}+(5.9)^{2}+(1.9)^{2}\right\}\times \left\{(-2.2)^{2}+(-9.1)^{2}+(-0.6)^{2}+(-3.0)^{2}+(7.7)^{2}+(0.1)^{2}+(9.1)^{2}+(3.0)^{2}+(9.8)^{2}+(0.6)^{2}\right\}}}}} = 0.755568 ⋯ {\displaystyle =0.755568\cdots } となり、この10人の身長と体重には正の相関関係があることが分かる。 アンケートなど、資料の数が多い場合には手作業で計算をすると膨大な時間がかかる。そこでコンピュータの表計算ソフト(ここではMicrosoft Excelを例に取る)を用いて統計処理を行ってみよう。 コンピュータにMicrosoft Excelが入っていない場合はフリーソフトのOpenoffice Calcなどで代用できる。自身のOS(Windows,Mac,Linuxなど)に合ったバージョンをダウンロードしないと動かないので注意。 「はじめに」のセクションでも述べた通り、ここから先は学習指導要領外となりますので余力のある方が学習するといいでしょう。 表計算ソフトを起動すると長方形の何も書かれていない枠が無数に並んでいる。この枠それぞれのことをセルと言う。また1,2,3,・・・から右に出るラインそれぞれを行と言い、A,B,C,・・・から下に出るラインそれぞれを列と言う。 セルの個々の呼び方は列番号→行番号のように表す。例えば列番号がC、行番号が3であるセルは「C3のセル」であると言う。 ここでは数値が入力されたセルに対しての計算方法を学ぶ。表計算ソフトによって計算式の種類や入力方法など異なる場合があるので事前に確認しておくこと。ここではよく用いられる演算式を示すが、詳細は表計算ソフトのヘルプ・表計算ソフトについて書かれた書籍を参考にして欲しい。 表計算ソフトでは直接セルに計算式を入力することによって、指定されたセルに対して計算を行い、その実行結果が計算式を入力したセルに反映される。またそのセルを複写すると複写先のセルに応じた計算式となって入力され、その実行結果が表示される。(※詳細は実践編「セルの参照」で) セルに計算式を入力することによって様々な計算ができる。また、その計算に必要な記号のことを(算術-)演算子と言う。一般にX1のセルとY1のセルに入力されている数値の計算は以下のようになる。 一般に関数とはxの値を決めるとyの値が1つに定まるものであるが、コンピュータ分野においての関数は一般のそれとは異なり用途別に予め用意された計算式のことを表す。この時計算対象のセルを括弧で指定するが、括弧内を引数(ひきすう)と言う。X1のセルに入力された数値の演算の代表的な例を以下に挙げる。関数の計算結果を出力することを値を返すと言い、その値のことを返り値と言う。表計算ソフトには膨大な種類の関数が用意されているが、このページでの紹介は極一部に留める。 今の段階ではあまり気にしなくてもよいが三角関数を用いる場合は弧度法(「弧の長さ ÷ {\displaystyle \div } 半径の長さ」で記述する角の測り方で、単位はラジアン:詳細は数学IIで勉強する)での取扱いになる為、度数法での記述の場合は予め弧度法に直しておかなければならない。(※詳細は実践編「関数の仕様」で) 度数法から弧度法への変換は、 n ∘ = n × π 180 {\displaystyle n^{\circ }=n\times {\frac {\pi }{180}}} とすればよい。 またX1・X2・X3・・・Xnのセルに対して演算を行う場合は以下のようになる。A1・B1・C1・・・x1のセルに対して演算する場合は以下の(X1:Xn)を(A1:x1)と書き換えればよい。 以下の表は資料2を表計算ソフトに入力したものである。ただし階級は、52.0kg以上55.0kg未満の階級のことを52.0-55.0などと表すことにする。セルに入る文字が長くデフォルトの大きさで収まらない場合、セルの大きさを調節して表を見やすくしてみよう。グラフの作成の仕方を以下に示す。 度数折れ線は左右両端に度数が0である階級があるものとして作図をすると前に述べた。故にこのグラフを表計算ソフトで作成する場合は表2の2行の前の行に階級値が50.5であるもの、8行の後の行に階級値が74.5であるもの(それぞれ度数は0)を事前に挿入しておかなければならない。 以下の表3は表2にいくつかの情報を追加したものである。尚、10行については表を見やすくするために空けてある。表の空欄を埋めながら実習をするとよい。 尚、全ての空欄を埋めた表は以下の通りになる。 以下の表4は資料7を表にしたものである。ここでは今まで学んだことを用いて全ての空欄を埋めて欲しい。13行は表の見やすさのために空けてある。いくつかのセルは結合されているがその手順を以下に示す。以下の例ではA1・A2のセルを結合させる場合を考える。 全ての空欄を埋めた表は以下の通りである。各々作成した表と見比べ確かめてみるとよい。 ここではセルの参照など、実際の表計算で知っていると便利な項目を紹介しています。 関数の中に別の関数を書くこともできますし、関数を項とみなして加減乗除などもできます。 例えば30度の正弦を求めたい場合には = S I N ( R A D I A N S ( 30 ) ) {\displaystyle =SIN(RADIANS(30))} と入力します。 = R A D I A N S ( d e g r e e ) {\displaystyle =RADIANS(degree)} は度数法を弧度法に変換する関数のことです。degreeには求めたい角度を入れます。(この行は数学IIの範囲です) 表計算ソフトには統計に必要な関数が揃っており、以下は前セクションまでに扱った関数です。 今までの関数を利用して資料1の代表値等をまとめてみましょう。 = M A X ( X 1 : X n ) {\displaystyle =MAX(X1:Xn)} は最大値を返す関数、 = M I N ( X 1 : X n ) {\displaystyle =MIN(X1:Xn)} は最小値を返す関数です。 前の実習のようにいちいち式を書くのは面倒ですし間違いが起こりやすくなります。ここで活躍するのがセルの参照です。実際に見ていきましょう。 下の表は表3のB・C・D列を抜き出し、E列に備考を加えたものです。備考には左隣のセルに対応する式が入ります。 D2のセルは実習3の通り = B 2 ∗ C 2 {\displaystyle =B2*C2} でしたね。D3以降は実習では = B 3 ∗ C 3 {\displaystyle =B3*C3} や = B 4 ∗ C 4 {\displaystyle =B4*C4} ・・・とやったはずです。 D2のセルの数式をコピーしD3のセルにペーストしてみましょう。するとD3のセルには169.5と出力されます。ここでD3に代入された式を見ると = B 3 ∗ C 3 {\displaystyle =B3*C3} と参照しているセルが自動的にそれぞれが1行下になっていることが分かります。目で見える情報では番地になって出てきますがプログラム内では3つ左のセルの数値と2つ左のセルの数値を掛け合わせなさいという命令に置き換わっているのです。この命令をコピーペーストしているのですから、反映先のセルの命令も全く変わりません。下の表は必要な部分だけ抜き出しています。 同じようにD列の他のセルにペーストしてみましょう。 これで完成しました。コピーペーストをした時に自動的に参照が変わる方法を相対参照と言います。 下の表は表3の平均値の計算まで終わり偏差を求めようとする段階です。F列は備考としておきます。偏差は階級値-平均値でしたね。E2のセルに = B 2 − B 11 {\displaystyle =B2-B11} と入力しましょう。 E2のセルをコピーしてE3のセルにペーストしてみましょう。4行から9行は割愛しています。 明らかに間違いな数値が出てきてしまいました。E3のセルの式を見ると = B 3 − B 12 {\displaystyle =B3-B12} となっています。プログラム内では3つ左のセルの数値から3つ左、9つ下のセルの数値を引きなさいという命令に置き変わっています。コピーペーストしてもその命令は変わらないので、参照先が両方とも移動してしまいます。今の段階ではB12のセルに何も入っていないのですから、そのセルには0が入っているものとして計算されます。他のE列にコピーしてもやはり間違いな数値が出力されます(実験してみて下さい)。ここでは出てきませんが、文字列のセルと数値のセルを計算しようとするとエラーになります。 このような場合は参照するセルを固定することが必要になります。参照セルを固定する場合は固定したい番号の前に $ の文字を入れます。行番号も列番号も固定したい場合はそれぞれの番号の前に$をつけます。 では平均値が出力されているB11を固定してE2のセルをコピーしE3のセルにペーストしてみましょう。この場合は11のほうを固定したいのでB$11のように入力して固定します。 これで正しい結果を得ることができました。参照セルを固定する方法を絶対参照と言います。 「結局$ はどうつければいいの?」という疑問があるかと思いますが、ここでは簡単のために左右に移動させたくない場合はアルファベットの前に$、上下に移動させたくない場合は数字の前に$、どちらにも移動させたくない場合はアルファベット・数字両方の前に$と思っておけばいいでしょう。つまずきやすい場所なので実際に練習してみて動きを見るのも大切です。慣れると考えずとも正しく$をつけられるようになります。 詳しくは旧初級シスアド試験の表計算セクションに記述されています。 ある物事を一定の数値以上ならAを表示、それ未満ならBを表示する・・・などの操作をするためにどのようなことをするか学びましょう。 以下の表はレタス・トマト・ねぎの値段を記したものです。ここで以下のような条件をつけてみます。 値段を比較して昨年と同じか上がっている野菜は「↑」下がっていれば「↓」を比較列に入力する IF関数は = I F ( f o r m u l a , v a l u e 1 , v a l u e 2 ) {\displaystyle =IF(formula,value1,value2)} で指定します。formulaには論理式、value1には真の場合の値を、value2には偽の場合の値を入力します。値が半角数字や関数でない場合はvalue1やvalue2に" "をつけるのを忘れずに。" "は" "で囲まれた文字を出力しなさい、という命令です。 論理式には判定の条件となる式を入れます。真(true)であることは論理式を満たすもの、逆に偽(false)はそうでないもののことです。 論理式には比較演算子なるものを入れます。簡単に言えば等号や不等号のことです。気をつけるべき点としてはいわゆる≧や≦、≠の全角記号は使えないということです。 また、真偽を反転させたい場合は = N O T ( f o r m u l a ) {\displaystyle =NOT(formula)} で記述します。 = N O T ( t r u e ) {\displaystyle =NOT(true)} はfalse、 = N O T ( f a l s e ) {\displaystyle =NOT(false)} はtrueになります。 レタスを例にすると、D2のセルを選択し、以下のように記述します。昨年を基準として今年はそれ以上なのかどうかを判定するわけですから、論理式には B 2 <= C 2 {\displaystyle B2<=C2} と入力します。真偽の部分には矢印を入れます。 レタスは昨年より値段が下がっているので論理式を満たさず偽に書かれている内容が出力されます。 他の野菜は相対参照を活用することができますので、似た式の入力を2回も3回もやる必要はありません。 IF関数は真・偽の2つの分岐をする関数ですので、3分岐以上させるにはIF関数を複数使う必要があります。以下の表はある娯楽施設の入場料を示したものです。 こちらは上記の娯楽施設の団体予約表です。 まずは40人以上から設定しましょう。C2のセルにIF関数を用います。40人以上ならば入場料を1,000円にするので、以下のように設定します。 ここで偽となった場合、更に2種類の選択肢があります。更に分岐させる場合は1度IF関数を呼び出します。 2つ目のIF関数において今度は30人~39人の入場料は1,100円を設定していきましょう。既に40人以上の設定は1つ目のIF関数で終わっているので30<=B2<=39と書く必要はなく30<=B2だけでよいのです。ここで真の場合は30人~39人、偽の場合は29人以下ですので、これで設定は全て終了です。エラーが出る場合は括弧や" "が正しく閉じているか、カンマに漏れや余計なものがないかに気をつけましょう。 セルに反映してみましょう。4つ以上の場合も偽の場合に更にIF関数を使用することによって分岐できます。ただし、IF関数を同時に使用できるのは64回(Excel2003バージョンは7回)までなことには注意しましょう。 条件が1つでない場合は論理式にAND関数ないしOR関数で複数の条件を記述します。 AND関数の例を見てみましょう。以下はある資格試験の点数状況の受験番号の若い人から数人を示したものです。配点は第1問400点・第2問300点・第3問300点とし、合格ラインは全体7割以上かつ各問5割以上です。 論理式には合格ラインを入れます。点数の条件が全て合格ライン以上でないと合格にならないため、AND関数を使用します。AND関数は = A N D ( f o r m u l a 1 , f o r m u l a 2 , . . . ) {\displaystyle =AND(formula1,formula2,...)} で表記します。各formulaには条件式を入れます。 この試験の場合は第1問200点以上・第2問150点以上・第3問150点以上・全体700点以上の全てを満たせば合格です。 これを条件にしたIF文を記述します。受験番号1001Aの人の判定をしてみましょう。 受験番号1001Aの人は合格ラインの全てを満たしていたので合格です。 他の人も見ると受験番号1002Bの人は第1問が下回っていたので不合格、受験番号1003Cの人は全体が下回っていたので不合格となります。 OR関数も同様にして = O R ( f o r m u l a 1 , f o r m u l a 2 , . . . ) {\displaystyle =OR(formula1,formula2,...)} で記述します。 先程の試験は第1問200点以上・第2問150点以上・第3問150点以上・全体700点以上の全てを満たせば合格でした。この合格ラインを逆に見ると第1問200点未満・第2問150点未満・第3問150点未満・全体700点未満のどれか1つでも満たしてしまうと不合格になるということです。これを条件にしてみましょう。 OR関数が真の時不合格になるわけですから、真偽の振る舞いが先程とは逆になることに注意しましょう。 受験番号1001Aの人の判定に上式を入れても2つ上の表と同じになります。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6I/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%81%AE%E5%88%86%E6%9E%90
本項は高等学校数学IIの式と証明・高次方程式の解説である。 ( a + b ) 5 = ( a + b ) ( a + b ) ( a + b ) ( a + b ) ( a + b ) {\displaystyle (a+b)^{5}=(a+b)(a+b)(a+b)(a+b)(a+b)} について考えよう。この式を展開するとき、 a 2 b 3 {\displaystyle a^{2}b^{3}} の係数は、右辺の5個の ( a + b ) {\displaystyle (a+b)} から a {\displaystyle a} を3回取る組み合わせに等しいから 5 C 2 = 10 {\displaystyle _{5}\mathrm {C} _{2}=10} である。 この考えを拡張して を展開する。 a r b n − r {\displaystyle a^{r}b^{n-r}} の項の係数は、右辺の n {\displaystyle n} 個の ( a + b ) {\displaystyle (a+b)} から a {\displaystyle a} を r {\displaystyle r} 回取る組み合わせに等しいから n C r {\displaystyle _{n}\mathrm {C} _{r}} である。 よって、次の式が得られる: 最後の式は数Bの数列で学ぶ総和記号 Σ {\displaystyle \Sigma } である。知らないのなら無視しても良い。 この式を 二項定理(binomial theorem) という。また、それぞれの項にかかる係数を二項係数(binomial coefficient) と呼ぶことがある。 (I) (II) (II) をそれぞれ計算せよ。 二項定理を用いて計算すればよい。実際に計算を行なうと、 (I) (II) (III) となる。 すべての自然数nに対して (I) (II) (III) が成り立つことを示せ。 二項定理 についてa,bに適当な値を代入すればよい。 (I) a = 1,b=1を代入すると、 となり確かに与えられた関係が成立することが分かる。 (II) a=2,b=1を代入すると、 となり確かに与えられた関係が成立することが分かる。 (III) a=1,b=-1を代入すると、 となり確かに与えられた関係が成立することが分かる。 二項定理を拡張して ( a + b + c ) n {\displaystyle (a+b+c)^{n}} を展開することを考えよう。 a p b q c r {\displaystyle a^{p}b^{q}c^{r}} ( p + q + r = n ) {\displaystyle (p+q+r=n)} の項の係数は n {\displaystyle n} 個の ( a + b + c ) {\displaystyle (a+b+c)} から p {\displaystyle p} 個の a {\displaystyle a} 、 q {\displaystyle q} 個の b {\displaystyle b} 、 r {\displaystyle r} 個の c {\displaystyle c} を選ぶ組合せに等しいから n ! p ! q ! r ! {\displaystyle {\frac {n!}{p!q!r!}}} である。 ここでは、整式の除法と分数式について扱う。整式の除法は、整式を整数のように扱い除法を行なう計算手法のことである。実際に整数の除法と整式の除法には深いつながりがある。整式の因数分解を考えるとそれ以上因数分解できない整式が存在する。この整式を整数でいう素因数のように扱うことで整式の素因数分解が可能になる。 上では、整式が整数に対応する性質を持つことを述べた。整数についてはたがいに素な2つの整数を取ることで有理数を定義することが出来る。整式に対しても同じ事が成立ち、そのような式を分数式と呼ぶ。 分数を用いないときには、整数の除法は商と余りを用いて定義された。この時、割られる数Bは商Dと割る数A、余りRを用いて の性質を満たすことが知られている。整式に対しても似た性質が成立ち、割られる式B(x)が商D(x)と割る式A(x)、余りR(x)を用いて、 の右辺でxについて2次の項が現われ左辺と一致しなくなる。よって商は実数である。商をa、余りをrとすると上の式は、 となるが、これはa=1,r=1で成立する。よって商1,余り1である。より高次の式に対しても同じ様に答えを定めていけばよい。例として、 のような式を考える。この場合、 で、B(x)が3次、A(x)が2次であることから、D(x)は1次であり、また、R(x)は2次より小さいことから1次以下の式になる。ここで、D(x)=ax+b,R(x)=cx+dとおくと、 が得られる。右辺を展開すると、 が得られるが、xにどんな値を入れてもこの等式が成り立たなければならないので、a = 1, b = 0, -a +c = 0, -b +d = 0が得られ、結局a=c=1, b=d=0が得られる。 この方法はどの除法に対しても用いることが出来るが、次数が高くなると計算が難しくなる。整数の場合と同様、整式の除法でも筆算を用いることが出来る。上の例を用いて結果だけを書くと、 のようになる。)右に書かれた式が割られる式であり、)左に書かれた式が割る式である。--の一番上に書かれた式は商であり、整数の割り算同様左に書かれた数から順に割っていく。ここでは次数が大きい項がより先に計算される項である。割られる式の下にある式は商の第1項を割る式にかけて得る式である。ここでは、 x ( x 2 − 1 ) {\displaystyle x(x^{2}-1)} で、 x 3 − x {\displaystyle x^{3}-x} となる。ただし、整数の除法と同様、位をそろえなくてはならない。その後、割られる式から x 3 − x {\displaystyle x^{3}-x} を引き、残った式を新しい割られる式として扱う。ここでは、得た式が割る式よりも低次であることから、これで計算は終了である。 x 3 + 2 x 2 + 1 {\displaystyle x^{3}+2x^{2}+1} 、 x 4 + 4 x 2 + 3 x + 2 {\displaystyle x^{4}+4x^{2}+3x+2} を、 x 2 + 2 x + 6 {\displaystyle x^{2}+2x+6} で割った商と余りを求めよ。 この計算はアニメーションを使って 詳しく表示されている。計算手法は、 整数の場合の筆算と同じような手法が使える。 が得られるので、商 x {\displaystyle x} 、余り − 6 x + 1 {\displaystyle -6x+1} である。 2つ目の式については、 が得られる。 よって、答は 商 x 2 − 2 x + 2 {\displaystyle x^{2}-2x+2} 、余り 11 x − 10 {\displaystyle 11x-10} である。 ここまでで整式を整数のように扱い、整式の除法を行なう方法について述べた。ここでは、整式に対して分数式を定義する方法について述べる。分数式とは、整数に対する分数のように、除法によって生じる式である。ここで、除法を行なう式はどのようなものでも差し支えない。分数式では、分子に割られる式を書き、分母に割る式を書く。例えば、 は、分子x+1、分母 x 2 + 4 {\displaystyle x^{2}+4} の分数式である。分数式に対しても約分や通分が存在する。約分は共通因数を持った分子分母をもつ分数式で用いられる。この時には分子分母を共通因数で割り、式を簡単にすることが出来る。通分は、分数式の加法の時によく用いられるが、分子分母に同じ整式をかけても分数式が変化しない性質を用いる。 を簡単にせよ。また、 を計算せよ。 について分子と分母を因数分解すると、双方ともに を因数として含んでいることが分かる。このとき、共通の因数は約分することが必要である。計算された値は、 となる。 次の問題では、 を計算する。このとき、両辺の分母をそろえる必要があるが、今回については、単純にそれぞれの分数式の分子と分母に各々の分母をかけて分母を統一すればよい。計算すると、 となる。 分数式の乗法は、分子分母を別々にかければよい。 次の計算をせよ。 (I) (II) (I) (II) 等式 ( a + b ) 2 = a 2 + 2 a b + b 2 {\displaystyle (a+b)^{2}=a^{2}+2ab+b^{2}} は、文字 a , b {\displaystyle a,b} にどのような値を代入しても成り立つ。このような等式を恒等式(こうとうしき)という。 等式 1 x − 1 + 1 x + 1 = 2 x x 2 − 1 {\displaystyle {\frac {1}{x-1}}+{\frac {1}{x+1}}={\frac {2x}{x^{2}-1}}} は、両辺とも x = 1 , − 1 {\displaystyle x=1,-1} を代入することはできないが、その他の値であれば代入することができ、またどのような値を代入しても等式が成り立っている。これも恒等式と呼ぶ。 いっぽう、 x 2 − x − 2 = 0 {\displaystyle x^{2}-x-2=0} は、x=2 または x=ー1 を代入したときだけ成り立つが、このように文字に特定の値を代入したときにだけ成り立つ式のことを方程式と呼び、恒等式とは区別する。 等式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} が x {\displaystyle x} についての恒等式であるのはどのような場合か、考えてみよう。 ある式が「 x {\displaystyle x} についての恒等式である」とは、この式の x {\displaystyle x} にどのような値を代入しても、この等式は成り立つという意味である。なので、例えば x {\displaystyle x} に − 1   ,   0   ,   1 {\displaystyle -1\ ,\ 0\ ,\ 1} を代入した式 はすべて成り立つ必要がある。これを解くと なので、等式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} が x {\displaystyle x} についての恒等式になるならば、 a = b = c = 0 {\displaystyle a=b=c=0} でなければならないことがわかる。 一般に、等式 a x 2 + b x + c = a ′ x 2 + b ′ x + c ′ {\displaystyle ax^{2}+bx+c=a'x^{2}+b'x+c'} が恒等式であることと、 ( a − a ′ ) x 2 + ( b − b ′ ) x + ( c − c ′ ) = 0 {\displaystyle (a-a')x^{2}+(b-b')x+(c-c')=0} が恒等式であることと同じである。 よって まとめると次のようになる。 P   ,   Q {\displaystyle P\ ,\ Q} を x {\displaystyle x} についての多項式または単項式とする。 次の等式が x {\displaystyle x} についての恒等式となるように、 a   ,   b   ,   c {\displaystyle a\ ,\ b\ ,\ c} の値を求めよ。 等式の右辺を x {\displaystyle x} について整理すると この等式が x {\displaystyle x} についての恒等式となるのは、両辺の同じ次数の項の係数が等しいときである。よって これを解くと さきほど紹介した「恒等式」という言葉を使って「証明」の意味を説明するなら、「等式を証明する」とは、その式が恒等式であることを示すことである。 一般に、等式 A=B を証明するためには、次のような手順のいずれかを実行すればよい。 ( a + b ) 2 − ( a − b ) 2 = 4 a b {\displaystyle (a+b)^{2}-(a-b)^{2}=4ab} が成り立つことを証明せよ。 (証明) 左辺を展開すると、 となり、これは右辺に等しい。よって、等式 ( a + b ) 2 − ( a − b ) 2 = 4 a b {\displaystyle (a+b)^{2}-(a-b)^{2}=4ab} は証明された。(終) ( x + y ) 2 + ( x − y ) 2 = 2 ( x 2 + y 2 ) {\displaystyle (x+y)^{2}+(x-y)^{2}=2(x^{2}+y^{2})} が成り立つことを証明せよ。 左辺を計算すると、 これは右辺に等しい。よって等式が成り立つことが証明された。(終) 次の等式が成り立つことを証明せよ。 (I) (I) (左辺) = ( 36 a 2 + 84 a b + 49 b 2 ) + ( 49 a 2 − 84 a b + 36 a 2 ) = 85 a 2 + 85 b 2 {\displaystyle =(36a^{2}+84ab+49b^{2})+(49a^{2}-84ab+36a^{2})=85a^{2}+85b^{2}} (右辺) = ( 81 a 2 + 36 a b + 4 b 2 ) + ( 4 a 2 − 36 a b + 81 b 2 ) = 85 a 2 + 85 b 2 {\displaystyle =(81a^{2}+36ab+4b^{2})+(4a^{2}-36ab+81b^{2})=85a^{2}+85b^{2}} 両辺とも同じ式になるから 不等式のさまざまな公式については、次の4つの式を基本的な式として導出できる場合がよくある。 高校数学では、次の4つの性質が 不等式の「基本性質」などとして紹介されている。 (3)と(4)については、ひとつの性質として まとめている検定教科書もある(※ 啓林館など)。 数学IAで習った「ならば」の意味の記号 ⟹ {\displaystyle \Longrightarrow } を使うと、 とも書ける。 上述の4つの基本性質から、 を証明してみよう。 (証明) まず a>0 なので、基本性質(2)より である。 よって、 なので、基本性質(1)より a + b > 0 {\displaystyle a+b>0} が成り立つ。(終) 同様にして、 を証明できる。 ここまでに示したことから、不等式 A ≧ B {\displaystyle A\geqq B} を証明したい場合には、 を証明すればよいことがわかった。こちらの方が証明しやすい場合がよくある。 不等式を証明する際に根拠とする基本的な不等式として、次の性質がある。 実数 a について、かならず が成り立つ。 この式で等号が成り立つ場合とは、 a = 0 {\displaystyle a=0} の場合だけである。 この定理(「実数を2乗すると、かならずゼロ以上である」)を、基本性質(3),(4)を使って証明してみよう。 (証明) aが正の場合と負の場合と0の場合の3通りに場合わけする。 [aが正の場合] このとき、基本性質(3)より、 である。すなわち、 である。 [aが負の場合] このとき、基本性質(4)より 0 a < a a {\displaystyle 0a<aa} である。すなわち、 である。 [aがゼロの場合] このとき、 a 2 = 0 {\displaystyle a^{2}=0} である。 よって、すべての場合について a 2 ≧ 0 {\displaystyle a^{2}\geqq 0} (終) このことと基本性質(1)(2)より、次が成り立つこともわかる。 2つの実数a,b について a 2 ≧ 0 {\displaystyle a^{2}\geqq 0} ,   b 2 ≧ 0 {\displaystyle b^{2}\geqq 0} であるから、かならず が成り立つ。 上式で等号が成り立つ場合とは、 a 2 = 0 {\displaystyle a^{2}=0} かつ b 2 = 0 {\displaystyle b^{2}=0} の場合だけであり、つまり a = 0 {\displaystyle a=0} かつ b = 0 {\displaystyle b=0} の場合だけである。 次の不等式が成り立つことを証明せよ。 (証明) を証明すればよい。 左辺を展開して まとめると、 となる。 上式の最後の式の項について、 だから、 である。よって である。(終) 2つの正の数 a, b が a>b または a≧b ならば、両辺を2乗しても大小関係は同じままである。 つまり、 である。 a>bとする。仮定より、a,b は正の数なので、 ( a + b ) > 0 {\displaystyle (a+b)>0} であり、別の仮定より、 a > b なので、 ( a − b ) > 0 {\displaystyle (a-b)>0} でもある。よって、 a 2 − b 2 = ( a + b ) ( a − b ) > 0 {\displaystyle a^{2}-b^{2}=(a+b)(a-b)>0} 逆に、 a 2 − b 2 > 0 {\displaystyle a^{2}-b^{2}>0} のとき、 ( a + b ) ( a − b ) > 0 {\displaystyle (a+b)(a-b)>0} であり、 a > 0 , b > 0 {\displaystyle a>0,b>0} なので a + b > 0 {\displaystyle a+b>0} である。よって、 a − b > 0 {\displaystyle a-b>0} なので、 a > b {\displaystyle a>b} である。 よって、 a > b ⟺ a 2 > b 2 {\displaystyle a>b\quad \Longleftrightarrow \quad a^{2}>b^{2}} である。 a≧bの場合も同様に証明できる。 練習として、次の問題を問いてみよう。 a > 0 {\displaystyle a>0} ,  b > 0 {\displaystyle b>0} のとき、次の不等式を証明せよ。 (証明) 不等式の両辺は正であるので、両辺の平方の差を考えればよい。両辺の平方の差は である。ここで、a,b はともに正の実数なので、 であることを用いた。 であるので、 となる。よって、 である。(終) 実数 a の絶対値 |a| について、 であるから、次のことが成り立つ。 |a|≧a , |a|≧ ーa , |a|2=a2 また、2つの実数 a, b の絶対値 |ab| については、 が成り立つので、これにさらに |ab|≧0 , |a||b|≧0 を組み合わせて、 |ab| = |a| |b| が成り立つ。 (例題) 次の不等式を証明せよ。また、等号が成り立つのは どのような場合かを 調べよ。 両辺の平方の差を考えると、 これがもし正なら、与えられた不等式 |a|+|b| ≧ |a+b| が正しい。 ここで、 |a| |b| ≧ ab であるので、 である。 したがって、 |a|+|b| ≧ |a+b| である。 等号が成り立つのは |a| |b| = ab の場合、すなわち ab ≧ 0 の場合である。(証明 おわり) なお の関係式のことを「三角不等式」という。 2つの数 a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} に対し、 a + b 2 {\displaystyle {\frac {a+b}{2}}} を相加平均(そうかへいきん)と言い、 a b {\displaystyle {\sqrt {ab}}} を相乗平均(そうじょうへいきん)という。 平均は、3つ以上のものにも定義される。3つ以上のn個のものの相加平均は a 1 + a 2 + ⋯ + a n n {\displaystyle {\frac {a_{1}+a_{2}+\cdots +a_{n}}{n}}} で定義される。 本ページでは、2個の数の平均について考察する。 相加平均と相乗平均について、次の関係式が成り立つ。 a ≧ 0 {\displaystyle a\geqq 0} , b ≧ 0 {\displaystyle b\geqq 0} のとき、 等号が成り立つのは、 a = b {\displaystyle a=b} のときである。 (証明) a ≧ 0 , b ≧ 0 {\displaystyle a\geqq 0,b\geqq 0} のとき ( a − b ) 2 ≧ 0 {\displaystyle \left({\sqrt {a}}-{\sqrt {b}}\right)^{2}\geqq 0} であるから、 ( a − b ) 2 2 ≧ 0 {\displaystyle {\frac {\left({\sqrt {a}}-{\sqrt {b}}\right)^{2}}{2}}\geqq 0} したがって  a + b 2 ≧ a b {\displaystyle {\frac {a+b}{2}}\geqq {\sqrt {ab}}} 等号が成り立つのは、 ( a − b ) 2 = 0 {\displaystyle \left({\sqrt {a}}-{\sqrt {b}}\right)^{2}=0} のとき、すなわち a = b {\displaystyle a=b} のときである。(証明 おわり) 公式の利用では、上の式 a + b 2 ≧ a b {\displaystyle {\frac {a+b}{2}}\geqq {\sqrt {ab}}} の両辺に2をかけた a + b ≧ 2 a b {\displaystyle a+b\geqq 2{\sqrt {ab}}} の形の式を使う場合もある。 a > 0 {\displaystyle a>0} , b > 0 {\displaystyle b>0} のとき、次の不等式が成り立つことを証明せよ。 (I) (II) (I) a > 0 {\displaystyle a>0} であるから、 1 a > 0 {\displaystyle {\frac {1}{a}}>0} よって  a + 1 a ≧ 2 a × 1 a = 2 {\displaystyle a+{\frac {1}{a}}\geqq 2{\sqrt {a\times {\frac {1}{a}}}}=2} したがって (II) a > 0 {\displaystyle a>0} , b > 0 {\displaystyle b>0} であるから、 b a > 0 {\displaystyle {\frac {b}{a}}>0} , a b > 0 {\displaystyle {\frac {a}{b}}>0} よって  b a + a b + 2 ≧ 2 b a × a b + 2 = 2 + 2 = 4 {\displaystyle {\frac {b}{a}}+{\frac {a}{b}}+2\geqq 2{\sqrt {{\frac {b}{a}}\times {\frac {a}{b}}}}+2=2+2=4} したがって もし読者が指数関数などを知っていれば、 n個のものの相乗平均は、 と書ける。 数学的な「平均」には、相加平均と相乗平均のほかにも調和平均がある。 調和平均は、電気回路の並列計算で使われる考え方である。 n個のものの調和平均は、 で定義される。 一般に数学的には、調和平均、相乗平均、相加平均のあいだに次のような大小関係 という関係が成り立つことが証明されている。 すなわち、数式で書けば の関係式である。 簡潔に書くと、 となる。 2乗して負になる数、というものを考える。このような数は、中学で習った実数の中にはないことがわかる。なぜならば、正の数でも負の数でも2乗すると符号が打ち消して正の数になってしまうからである。そこで高校では、2乗して負になるという性質を持つ数の概念を新しく導入することにする。 という方程式を考える。この方程式の解は実数にはない。そこで、この方程式の解となる数を新しく作り、その単位を文字 i {\displaystyle i} であらわす。 この i {\displaystyle i} のことを虚数単位(きょすうたんい)と呼ぶ。(虚数単位の記号 i 、英語のアルファベットのアイの小文字で、 imaginary unit に由来すると考えられている。) 1 + i {\displaystyle 1+i} や 2 + 5 i {\displaystyle 2+5i} のように、虚数単位 i {\displaystyle i} と実数 a , b {\displaystyle a,b} を用いて と表すことができる数を複素数(ふくそすう)という。このとき、aをこの複素数の実部(じつぶ)といい、bを虚部(きょぶ)という。 例えば、 1 + i , 2 + 5 i , 9 2 + 7 2 i , 4 i , 3 {\displaystyle 1+i,\quad 2+5i,\quad {\frac {9}{2}}+{\frac {7}{2}}i,\quad 4i,\quad 3} は、いずれも複素数である。 複素数 a+bi は(ただし aとbは実数)、bが0の場合に、これを実数と見ることができる。 言い方をかえると、複素数を基準に考えると、実数とは、 a+0i のような、虚部の係数がゼロになる複素数のことであるとも言える。 4iのような、虚部が0以外で実部がゼロの複素数を純虚数(じゅんきょすう)と呼ぶ。純虚数は、2乗すると負になる数である。 実数も虚部が0の複素数と考えられる。 実数でない複素数のことを「虚数」(きょすう)という。 2つの複素数 a+bi と c+di とが等しいとは、 であることである。 つまり、 とくに、複素数a+bi が 0であるとは、a=0 かつ b=0 であることである。 複素数 z = a + b i {\displaystyle z=a+bi} に対して、虚部の符号を反転させた複素数 a − b i {\displaystyle a-bi} のことを「共役(きょうやく)な複素数」または「複素数 z {\displaystyle z} の共役」のように呼び、 z ¯ {\displaystyle {\bar {z}}} であらわす。なお、「共役」は「共軛」の常用漢字による書き換えである。 実数aと共役な複素数は、その実数 a 自身である。 複素数 z=a+bi について 複素数にも四則演算(加減乗除)が定義される。 複素数の演算では、虚数単位 i {\displaystyle i} を、通常の文字のように扱って計算する。一般に複素数 z   ,   w {\displaystyle z\ ,\ w} が、 z = a + b i   ,   w = c + d i {\displaystyle z=a+bi\ ,\ w=c+di} で与えられるとき(ただし a   ,   b   ,   c   ,   d {\displaystyle a\ ,\ b\ ,\ c\ ,\ d} は実数とする)、 というふうに複素数の加減乗除の計算法が定められている。 乗法の定義は、一見すると難しそうにみえるが、実数の分配法則と同様に展開していき最後に i2にマイナス1を代入していっただけである。 除法の定義は、分子と分母に、分母と共役な形の式を 掛け算 しただけである。 乗法や除法の定義式を暗記する必要は無く、計算の際には、必要に応じて分配法則や共役などの、必要な式変形を行えばいい。 例題 2つの複素数 について、 a + b {\displaystyle a+b} と a b {\displaystyle ab} と a b {\displaystyle {\frac {a}{b}}} を、それぞれ計算せよ。 解答 である。 を、さらに簡単にできないだろうか。実は、ちょっとしたテクニックを用いればより見やすい形にできる。 分数は分母と分子に同じ数をかけてよかったので、分母と分子に分母の共役をかけてみる。すると、 が得られる。この形のほうが元の式よりもずっと見やすい形である。 このような操作を分母の実数化ということもある。数学Iで学習した展開・因数分解公式 ( a + b ) ( a − b ) = a 2 − b 2 {\displaystyle (a+b)(a-b)=a^{2}-b^{2}} の簡単な応用である。 数の範囲を複素数にまで拡張すると、負の数の平方根も考えることができる。 例として、 -5 の平方根について考えてみよう。 であるから、 -5 の平方根は 5   i {\displaystyle {\sqrt {5}}\ i} と − 5   i {\displaystyle -{\sqrt {5}}\ i} である。 a > 0 {\displaystyle a>0} とするとき、負の数 − a {\displaystyle -a} の平方根は、 a   i {\displaystyle {\sqrt {a}}\ i} と − a   i {\displaystyle -{\sqrt {a}}\ i} である。 − 5 {\displaystyle {\sqrt {-5}}} とは、 5   i {\displaystyle {\sqrt {5}}\ i} のこととする。 − − 5 {\displaystyle -{\sqrt {-5}}} とは、 − 5   i {\displaystyle -{\sqrt {5}}\ i} のことである。 とくに − 1   =   i {\displaystyle {\sqrt {-1}}\ =\ i} である。 さて、-5 の平方根は、方程式 x 2 = − 5 {\displaystyle x^{2}=-5} の解でもある。 この方程式を移項することにより、-5 の平方根は、 の解であるともいえる。 さらに因数分解をすることにより、-5 の平方根は方程式 の解でもあるともいえる。 (I)    − 2   − 6 {\displaystyle {\sqrt {-2}}\ {\sqrt {-6}}}  を計算せよ。 (I) このように、まず、マイナスの数の平方根が出てきたら、まず虚数単位 i を用いた式に書き換える。 そのあと、かけ算をしていく。 (II)    2 − 3 {\displaystyle {\frac {\sqrt {2}}{\sqrt {-3}}}}  を計算せよ。 (III)   2次方程式  x 2 = − 7 {\displaystyle x^{2}=-7}  を解け。 (II) (III) 複素数の応用として、ここでは2次方程式の性質について述べる。任意の2次方程式は、解の公式によって解かれることを高等学校数学Iで述べた。しかし、解の公式に含まれる根号の中身が負の数の場合には実数解が存在しないことに注意する必要がある。2次方程式 の解の公式は、 である。 判別式 D {\displaystyle D} は によって定義される。判別式は、解の公式の根号(ルート記号のこと)の中身に等しく、判別式の正負によって2次方程式が実数解を持つかどうかが決まる。 D {\displaystyle D} が負のときにはこの2次方程式は実数の範囲には解を持たない。 判別式 D {\displaystyle D} が負の数であったとき、xの解は異なる2つの虚数になり、その2つの解は 共役 の関係になっている。 複素数を用いて、2次方程式 (1) (2) (3) を解け。 解の公式を用いて解けばよい。(1)だけを計算すると、 となる。 他も同じように扱うことが出来る。 以降の解答は、 (2) (3) となる。 方程式の解で、実数であるものを 実数解 という。 方程式の解で、虚数であるものを 虚数解 という。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の解は x = − b ± b 2 − 4 a c 2 a {\displaystyle x={\frac {-b\pm {\sqrt {b^{2}-4ac}}}{2a}}} である。 2次方程式の解の種類は、解の公式の中の根号の中の式 b 2 − 4 a c {\displaystyle b^{2}-4ac} の符号を見れば判別することができる。 この式 b 2 − 4 a c {\displaystyle b^{2}-4ac} を、2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の判別式(はんべつしき)といい、記号 D {\displaystyle D} で表す。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の判別式 D = b 2 − 4 a c {\displaystyle D=b^{2}-4ac} について また、重解も実数解であるので、 といえる。 次の2次方程式の解を判別せよ。 (I) (II) (III) (I) だから、異なる2つの実数解をもつ。 (II) だから、異なる2つの虚数解をもつ。 (III) だから、重解をもつ。 また、2次方程式 a x 2 + 2 b ′ x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+2b'x+c=0} のとき、 D = 4 ( b ′ 2 − a c ) {\displaystyle D=4(b'^{2}-ac)} となるので、 2次方程式 a x 2 + 2 b ′ x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+2b'x+c=0} の判別式には をもちいてもよい。 これを用いて、前の問題 の解を判別しよう。 a = 4 , b ′ = − 10 , c = 25 {\displaystyle a=4\,,\,b'=-10\,,\,c=25}  であるから だから、重解をもつ。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の2つの解を α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } とする。 この方程式は、 a ( x − α ) ( x − β ) = 0 {\displaystyle a(x-\alpha)(x-\beta)=0} と変形できる。 これを展開すると、 a x 2 − a ( α + β ) x + a α β = 0 {\displaystyle ax^{2}-a(\alpha +\beta)x+a\alpha \beta =0} 係数を比較して、 c = a α β , b = − a ( α + β ) {\displaystyle c=a\alpha \beta ,b=-a(\alpha +\beta)} を得る。 これを変形すれば、 α + β = − b a , α β = c a {\displaystyle \alpha +\beta =-{\frac {b}{a}},\alpha \beta ={\frac {c}{a}}} となる。 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の2つの解を α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } とすれば 2次方程式 2 x 2 + 4 x + 3 = 0 {\displaystyle 2x^{2}+4x+3=0} の2つの解を α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } とするとき、 α 2 + β 2 {\displaystyle \alpha ^{2}+\beta ^{2}} の値を求めよ。 解と係数の関係より、 α + β = − 4 2 = − 2 {\displaystyle \alpha +\beta =-{\frac {4}{2}}=-2} , α β = 3 2 {\displaystyle \alpha \beta ={\frac {3}{2}}} α 2 + β 2 = ( α + β ) 2 − 2 α β = ( − 2 ) 2 − 2 × 3 2 = 1 {\displaystyle \alpha ^{2}+\beta ^{2}=(\alpha +\beta)^{2}-2\alpha \beta =(-2)^{2}-2\times {\frac {3}{2}}=1} 2つの数 α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } を解とする2次方程式は と表される。左辺を展開して整理すると次のようになる。 2数 α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } を解とする2次方程式は 次の2数を解とする2次方程式を作れ。 (I) (II) (I) 和  ( 3 + 5 ) + ( 3 − 5 ) = 6 {\displaystyle (3+{\sqrt {5}})+(3-{\sqrt {5}})=6} 積  ( 3 + 5 ) ( 3 − 5 ) = 4 {\displaystyle (3+{\sqrt {5}})(3-{\sqrt {5}})=4}  であるから (II) 和  ( 2 + 3 i ) + ( 2 − 3 i ) = 4 {\displaystyle (2+3i)+(2-3i)=4} 積  ( 2 + 3 i ) ( 2 − 3 i ) = 13 {\displaystyle (2+3i)(2-3i)=13}  であるから 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の2つの解 α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } がわかると、2次式 を因数分解することができる。 解と係数の関係 α + β = − b a {\displaystyle \alpha +\beta =-{\frac {b}{a}}} , α β = c a {\displaystyle \alpha \beta ={\frac {c}{a}}} から、 2次方程式 a x 2 + b x + c = 0 {\displaystyle ax^{2}+bx+c=0} の2つの解を α {\displaystyle \alpha } , β {\displaystyle \beta } とすると 2次方程式は、複素数の範囲で考えるとつねに解をもつから、複素数まで使ってよいとすると、2次式は必ず1次式の積に因数分解することができる。 複素数の範囲で考えて、次の2次式を因数分解せよ。 (I) (II) (I) 2次方程式  x 2 + 4 x − 1 = 0 {\displaystyle x^{2}+4x-1=0}  の解は よって (II) 2次方程式  2 x 2 − 3 x + 2 = 0 {\displaystyle 2x^{2}-3x+2=0}  の解は よって 3次以上の整式による方程式を考える。 一般に方程式を P ( x ) = 0 {\displaystyle P(x)=0} ととる。 ただし、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} は、任意の次数の整式とする。 P ( x ) {\displaystyle P(x)} を1次式 x − a {\displaystyle x-a} で割ったときの商を Q ( x ) {\displaystyle Q(x)} 、余りを R {\displaystyle R} とすると、 この両辺の x {\displaystyle x} に a {\displaystyle a} を代入すると、 つまり、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} を x − a {\displaystyle x-a} で割ったときの余りは P ( a ) {\displaystyle P(a)} である。 整式 P ( x ) {\displaystyle P(x)} を x − a {\displaystyle x-a} で割ったときの余りは、 P ( a ) {\displaystyle P(a)} に等しい。 整式 P ( x ) = x 3 − 2 x + 3 {\displaystyle P(x)=x^{3}-2x+3} を次の式で割った余りを求めよ。 (I) (II) (III) (I)  P ( 2 ) = 2 3 − 2 × 2 + 3 = 7 {\displaystyle P(2)=2^{3}-2\times 2+3=7} (II)  P ( − 1 ) = ( − 1 ) 3 − 2 × ( − 1 ) + 3 = 4 {\displaystyle P(-1)=(-1)^{3}-2\times (-1)+3=4} (III)  P ( 1 2 ) = ( 1 2 ) 3 − 2 × ( 1 2 ) + 3 = 17 8 {\displaystyle P\left({\frac {1}{2}}\right)=\left({\frac {1}{2}}\right)^{3}-2\times \left({\frac {1}{2}}\right)+3={\frac {17}{8}}} ある実数 a {\displaystyle a} に対して、 が成り立ったとする。 このとき、整式 P ( x ) {\displaystyle P(x)} は、 ( x − a ) {\displaystyle (x-a)} を因数に持つことが分る。 このことを因数定理(いんすうていり)と呼ぶ。 整式 P ( x ) {\displaystyle P(x)} に対して、商 Q ( x ) {\displaystyle Q(x)} 、割る式 ( x − a ) {\displaystyle (x-a)} とする 整式の除法を用いる。このとき、商 Q ( x ) {\displaystyle Q(x)} 、 ( Q ( x ) {\displaystyle Q(x)} は、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} よりも1だけ次数が低い整式である。) 余り c {\displaystyle c} ( c {\displaystyle c} は、実数。)とすると、 整式 P ( x ) {\displaystyle P(x)} は、 と書ける。 ここで、 c = 0 {\displaystyle c=0} でないと、 P ( a ) = 0 {\displaystyle P(a)=0} は満たされないが、 このとき、 P ( x ) {\displaystyle P(x)} は、 ( x − a ) {\displaystyle (x-a)} によって割り切れる。 よって、因数定理は成立する。 整式 P ( x ) {\displaystyle P(x)} について 因数定理を用いることで、より次数の高い整式を因数分解することが 出来るようになる。例えば、3次の整式 について、 x = 1 {\displaystyle x=1} を代入すると、 は0となる。よって、因数定理よりこの式は を因数として持つ。 ここで、実際整式の除法を使って計算すると、 が得られる。 因数定理を用いて (I) (II) を因数分解せよ。 (I) 因数分解の結果が(x+整数)の積の形なら、整数は6の因数でなければならない。そのため、 ± 1 , ± 2 , ± 3 , ± 6 {\displaystyle \pm 1,\pm 2,\pm 3,\pm 6} が候補となる。これらについては実際に代入して確かめるしかない。x=1を代入すると、 となるので、(x-1)が因数となる。実際に整式の除法を行なうと、商として x 2 − 5 x + 6 {\displaystyle x^{2}-5x+6} が得られるが、これは ( x − 2 ) ( x − 3 ) {\displaystyle (x-2)(x-3)} に因数分解できる。よって答えは、 となる。 (II) ここでも地道に24の因数を当てはめていくしかない。24の因数は数が多いのでかなりの計算が必要となる。ここでは、-2を代入すると、 となり、(x+2)が因数だとわかる。除法を行なうと、 x 2 − x − 12 {\displaystyle x^{2}-x-12} が得られるが、(x-4)(x+3)に因数分解できる。答えは、 となる。 因数分解や因数定理を利用して高次方程式を解いてみよう。 高次方程式 (I) (II) (III) を解け。 (I) 左辺を a 3 − b 3 = ( a − b ) ( a 2 + a b + b 2 ) {\displaystyle a^{3}-b^{3}=(a-b)(a^{2}+ab+b^{2})} を用いて因数分解すると したがって   x − 2 = 0 {\displaystyle \ x-2=0}  または   x 2 + 2 x + 4 = 0 {\displaystyle \ x^{2}+2x+4=0} よって (II)     x 2 = X   {\displaystyle \ x^{2}=X\ } とおくと、 左辺を因数分解すると よって  X = 4   ,   X = − 2 {\displaystyle X=4\ ,\ X=-2} ゆえに  x 2 = 4   ,   x 2 = − 2 {\displaystyle x^{2}=4\ ,\ x^{2}=-2} したがって (III)     P ( x ) = x 3 − 5 x 2 + 7 x − 2   {\displaystyle \ P(x)=x^{3}-5x^{2}+7x-2\ } とおく。 したがって、   x − 2   {\displaystyle \ x-2\ } は   P ( x )   {\displaystyle \ P(x)\ } の因数である。 よって  ( x − 2 ) ( x 2 − 3 x + 1 ) = 0 {\displaystyle (x-2)(x^{2}-3x+1)=0}   x − 2 = 0 {\displaystyle \ x-2=0}  または   x 2 − 3 x + 1 = 0 {\displaystyle \ x^{2}-3x+1=0} したがって 3次方程式 a x 3 + b x 2 + c x + d = 0 {\displaystyle ax^{3}+bx^{2}+cx+d=0} の3つの解を 、 α   ,   β   ,   γ {\displaystyle \alpha \ ,\ \beta \ ,\ \gamma } とすると が成り立つ。 右辺を展開すると よって ゆえに したがって、次のことが成り立つ。 3次方程式 a x 3 + b x 2 + c x + d = 0 {\displaystyle ax^{3}+bx^{2}+cx+d=0} の3つの解を 、 α   ,   β   ,   γ {\displaystyle \alpha \ ,\ \beta \ ,\ \gamma } とすると しばしば虚数は「現実には存在しない数」であると言われることがあり、歴史的にも虚数を扱った数学を考えるべきではないと考えられた時代は長かった。その時代の先進的な数学者の中には、虚数を有効に活用して研究を進める一方で、成果を発表する際には虚数を表に出さずに記述する努力をすることで、無用な抵抗を受けないように工夫した者もいたと言われるほどである。 だが、よく考えてみれば、数が「現実に存在する」とはどういう意味なのだろうか。現実に鉛筆を使って紙に円を描くならば、円周の長さを「正確に円周率そのものにする」ことは不可能であるように思われるが、その割に円周率という実数は「存在する」と感じられるのはなぜだろうか。数直線が実数の「実在」を信じさせるならば、複素数は複素数平面(数学Cで習う)の上に存在するのだから、同じではないだろうか。 このように考えると、そもそも数とはすべてある意味で想像上の存在であり、それに対して「存在する」「存在しない」という問いを立てることがナンセンスであるように思われる。「存在しない」ように思われがちな虚数であるが、たとえば物理学の一分野である量子力学のシュレディンガー方程式に表れるなど、応用上のさまざまな場面においても、虚数を使って記述することが自然な対象は多いのだ。 複素数どうしについて、その大小関係は定義しない。その理由は、どのように大小関係を定義しても、便利な性質を満たすことができないからである。具体的に言えば、既に述べた実数の大小関係についての「不等式の基本性質(1)(2)(3)(4)」にあたる式を成り立たせることができないのだ。 たとえば、 a + b i < a ′ + b ′ i {\displaystyle a+bi<a'+b'i} であることを、 a 2 + b 2 < a ′ 2 + b ′ 2 {\displaystyle a^{2}+b^{2}<a'^{2}+b'^{2}} であることとして定義してみよう。このように定義すると、たとえば1+2i<2-3iであり、また2+3i<3+4iである。ところが、(1+2i)+(2+3i)=3+5i,(2-3i)+(3+4i)=5+iであり、3+5i>5+iとなってしまう。これは基本性質(2)が成り立たないことを意味する。 もちろんこれは適当に考えた定義がたまたま不適切だったというだけのことだが、実は、他にどのように定義してもこのような困難からは逃れられないことが知られている。それゆえに、複素数には大小関係を定義しないのである。 今度は、複素数の平方根について考えてみよう。 正の数 a {\displaystyle a} を考えたとき、 では、 虚数単位 i {\displaystyle i} の平方根を考えると、これはzについての方程式 z 2 = i {\displaystyle z^{2}=i} の解 z の値であるから、これを解けばよい。どのような複素数zならこの式を満たすことができるだろうか。 zを複素数とすると、 z = x + y i {\displaystyle z=x+yi} (x,yは実数)と表される。 ( x + y i ) 2 = i ⇔ x 2 + 2 x y i − y 2 = i ⇔ ( x 2 − y 2 ) + ( 2 x y − 1 ) i = 0 {\displaystyle (x+yi)^{2}=i\Leftrightarrow x^{2}+2xyi-y^{2}=i\Leftrightarrow (x^{2}-y^{2})+(2xy-1)i=0} x 2 − y 2 , 2 x y − 1 {\displaystyle x^{2}-y^{2},2xy-1} は実数であるから、実部と虚部が共に0にならねばならないから、 { x 2 − y 2 = 0 ( ⇔ x = ± y ) 2 x y − 1 = 0 {\displaystyle {\begin{cases}x^{2}-y^{2}=0(\Leftrightarrow x=\pm y)\\2xy-1=0\end{cases}}} x = y {\displaystyle x=y} のとき、 2 x 2 = 1 ⇔ x = ± 1 2 , y = ± 1 2 {\displaystyle 2x^{2}=1\Leftrightarrow x=\pm {\frac {1}{\sqrt {2}}},y=\pm {\frac {1}{\sqrt {2}}}} (複号同順。x,yは共に実数であるから、条件を満たす。) x = − y {\displaystyle x=-y} のとき、 − 2 y 2 = 1 ⇔ y 2 = − 1 2 {\displaystyle -2y^{2}=1\Leftrightarrow y^{2}=-{\frac {1}{2}}} ここで、これを満たす実数yは存在しないから不適。 よって、 z = ± ( 1 2 + 1 2 i ) {\displaystyle z=\pm \left({\frac {1}{\sqrt {2}}}+{\frac {1}{\sqrt {2}}}i\right)} ■ 実部がゼロを考慮して x = 0 {\displaystyle x=0} か x = ± 3 y {\displaystyle x=\pm {\sqrt {3}}y} だが、虚部もゼロなので、xの値が前者のとき y = − 1 {\displaystyle y=-1} 、後者のとき y = 1 / 2 {\displaystyle y=1/2} となることがすぐにわかる。 2次方程式には解の公式があり、日本の中学や高校でも習う。2次方程式の解の公式を用いれば、どんな係数の2次方程式であっても解を求められる。3次方程式と4次方程式にも、解の公式は存在し、係数がどんな係数であっても解を求められる。これらの解の公式は、代数方程式論で述べているように、係数に有限回の四則演算と根号をとる操作の組み合わせで表すことができる。 5次方程式では、4次以下の方程式とは状況が異なる。一般の5次方程式の解は、2次方程式や4次方程式のように、係数に有限回の四則演算と根号をとる操作の組み合わせで表すことができないのである。ただし、「できない」ことの証明は容易ではない。このことを証明するには、ガロア理論を理解する必要がある(日本の大学の標準的なカリキュラムでは、理学部数学科の学生のみが大学3年生で学ぶのが一般的な程度の理論である)。 なお、ここで言う「表すことができない」とは一般の方程式についてのことであり、特別な5次方程式の場合は簡単に解が求められる。たとえば、 x 5 − 32 = 0 {\displaystyle x^{5}-32=0} は解のひとつとして x = 2 {\displaystyle x=2} をもつことはすぐわかる。この方程式は他の解についても三角関数を用いて簡単に表せることを高等学校数学C/複素数平面において学ぶ。 「係数に有限回の四則演算と根号をとる操作の組み合わせ」に拘らなければ、一般の5次方程式の解を求める方法も存在するが、やや高度な数学を用いる必要がある。w:五次方程式に記述があるので興味のある読者は参照するとよい。 高等学校で複素数が出てくる分野はこの分野と数学C「平面上の曲線と複素数平面」のみであり、複素数の基本計算や方程式を複素数範囲で解くこと、複素数の幾何学的意味について扱っている。しかし、大学数学においては、関数の定義域・値域を複素数範囲に広げて考える「複素関数論」というものを扱う。 実数範囲での関数はx, yともに一次元の実数軸を持つため、入力値と出力値の成すグラフを考えるには二次元の座標平面で十分であった。しかし、複素数範囲での関数はx, yともに二次元の複素数平面を持つため、入力値と出力値の成すグラフを考えるには四次元の座標空間が必要であり、三次元空間に住む我々には描画することができない。そのため、複素関数論では関数のグラフを考えることは基本的にない。(ただし、出力された複素数の絶対値を考えることによって三次元グラフに落とし込むことは可能) では何を考えるのかというと、複素関数の微分積分である。複素関数の微分に関連して「正則関数」という用語が出てくるが、複素関数論はこの正則関数というものの性質を調べる学問だと言って良い。 複素関数論は物理学の特に波動に関する分野(音・電磁気など)において活躍している。「波動方程式」や「インピーダンス」という言葉は有名だろう。 ちなみに、複素数をさらに拡張した数として「w:四元数」というものがある。この四元数はベクトルや行列と深い関わりが存在しており、深掘ると面白いのだが、いささか冗長になるため割愛する。なお、四元数をさらに拡張した八元数や十六元数という数も研究されている。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6II/%E5%BC%8F%E3%81%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E%E3%83%BB%E9%AB%98%E6%AC%A1%E6%96%B9%E7%A8%8B%E5%BC%8F
ここでは直線と円などの性質を座標を用いて考察する。 座標平面上の2点 A ( x 1   ,   y 1 )   ,   B ( x 2   ,   y 2 ) {\displaystyle \mathrm {A} \left(x_{1}\ ,\ y_{1}\right)\ ,\ \mathrm {B} \left(x_{2}\ ,\ y_{2}\right)} 間の距離 A B {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {B} } を求めてみよう。直線 A B {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {B} } が座標軸に平行でないとき[1]、点 C ( x 2   ,   y 1 ) {\displaystyle \mathrm {C} \left(x_{2}\ ,\ y_{1}\right)} をとると △ A B C {\displaystyle \triangle \mathrm {A} \mathrm {B} \mathrm {C} } は直角三角形であるから、三平方の定理より この式は、直線 A B {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {B} } がx軸、y軸に平行なときにも成り立つ[2]。 特に、原点 O {\displaystyle \mathrm {O} } と点 A ( x 1   ,   y 1 ) {\displaystyle \mathrm {A} \left(x_{1}\ ,\ y_{1}\right)} 間の距離は 点 A ( x 0 , y 0 ) , B ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle \mathrm {A} (x_{0},y_{0}),\mathrm {B} (x_{1},y_{1})} と実数 m , n > 0 {\displaystyle m,n>0} に対して、線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } 上の点 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} が存在して、 A P : P B = m : n {\displaystyle \mathrm {AP} :\mathrm {PB} =m:n} となるとき、点 P {\displaystyle \mathrm {P} } を A , B {\displaystyle \mathrm {A} ,\mathrm {B} } を m : n {\displaystyle m:n} に内分する点という。 また、線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } 上でない点 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} が存在して、 A P : P B = m : n {\displaystyle \mathrm {AP} :\mathrm {PB} =m:n} となるとき、点 P {\displaystyle \mathrm {P} } を A , B {\displaystyle \mathrm {A} ,\mathrm {B} } を m : n {\displaystyle m:n} に外分する点という。 数直線上の点 A ( a ) , B ( b ) {\displaystyle \mathrm {A} (a),\mathrm {B} (b)} を m : n {\displaystyle m:n} に内分する点と外分する点を求める。 内分点を P ( x ) {\displaystyle \mathrm {P} (x)} とする。 a < b {\displaystyle a<b} のとき、 A P = x − a , P B = b − x {\displaystyle \mathrm {AP} =x-a,\mathrm {PB} =b-x} なので、 m : n = ( x − a ) : ( b − x ) {\displaystyle m:n=(x-a):(b-x)} なので、 n ( x − a ) = m ( b − x ) ⟺ x = n a + m b m + n {\displaystyle n(x-a)=m(b-x)\iff x={\frac {na+mb}{m+n}}} である。 a > b {\displaystyle a>b} のときも同様。 次に外分点を求める。外分点を P ( x ) {\displaystyle \mathrm {P} (x)} とする。 a < b {\displaystyle a<b} で m > n {\displaystyle m>n} のとき、 x > b {\displaystyle x>b} となるので、 A P = x − a , B P = x − b {\displaystyle \mathrm {AP} =x-a,\mathrm {BP} =x-b} なので、 m : n = ( x − a ) : ( x − b ) {\displaystyle m:n=(x-a):(x-b)} なので、 x = − n a + m b m − n {\displaystyle x={\frac {-na+mb}{m-n}}} これは、 a > b {\displaystyle a>b} または m < n {\displaystyle m<n} のときも同様。[3] 2次元の場合には、一般に点と点との位置関係は、座標軸に平行でなく、それらの距離の内分は複雑になるように思える。しかし、実際には、内分点や外分点を計算するには、上の公式をx,y の両方向に対して用いればよい。これは、2点をつなぐ線が直線であるので、その直線上である点からの距離が一定の割合となる点をいくつか取ったとき、その点と元の点のx軸方向の座標の変化の割合とy軸方向の座標の変化の割合と直線自身の長さの変化の割合はそれぞれ等しくなるからである。 よって、一般に点 A ( x 0 , y 0 ) , B ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle A(x_{0},y_{0}),B(x_{1},y_{1})} を、a:bに内分する点と外分する点は、 で与えられる。 演習問題 点 A ( 1 , 0 ) , B ( − 4 , 7 ) {\displaystyle \mathrm {A} (1,0),\mathrm {B} (-4,7)} を3:1にそれぞれ内分、外分する点を求めよ。 解答 内分点は ( − 11 4 , 21 4 ) {\displaystyle \left({\frac {-11}{4}},{\frac {21}{4}}\right)} 外分点は ( − 13 2 , 21 2 ) {\displaystyle \left({\frac {-13}{2}},{\frac {21}{2}}\right)} 3点 A ( x 1 , y 1 ) , B ( x 2 , y 2 ) , C ( x 3 , y 3 ) {\displaystyle \mathrm {A} \left(x_{1},y_{1}\right),\mathrm {B} \left(x_{2},y_{2}\right),\mathrm {C} \left(x_{3},y_{3}\right)} を頂点とする三角形の重心 G {\displaystyle \mathrm {G} } の座標を求めてみよう。 線分 B C {\displaystyle \mathrm {B} \mathrm {C} } の中点 M {\displaystyle \mathrm {M} } の座標は 重心 G {\displaystyle \mathrm {G} } は線分 A M {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {M} } を2:1に内分する点であるから、 G {\displaystyle \mathrm {G} } の座標を ( x , y ) {\displaystyle (x,y)} とすると 同様に よって、重心 G {\displaystyle \mathrm {G} } の座標は ある点 ( x 0 , y 0 ) {\displaystyle (x_{0},y_{0})} を通って傾きaの直線の式は、 y − y 0 = a ( x − x 0 ) {\displaystyle y-y_{0}=a(x-x_{0})} で与えられる。これは、傾きがyの変化分 / {\displaystyle /} xの変化分で表わされ、 y − y 0 {\displaystyle y-y_{0}} , x − x 0 {\displaystyle x-x_{0}} はまさに、y,xそれぞれの変化分そのものであることによる。 2点 ( x 0 , y 0 ) {\displaystyle (x_{0},y_{0})} , ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle (x_{1},y_{1})} を通る直線は傾きが y 0 − y 1 x 0 − x 1 {\displaystyle {\frac {y_{0}-y_{1}}{x_{0}-x_{1}}}} で与えられることを用いると、 y − y 0 = y 0 − y 1 x 0 − x 1 ( x − x 0 ) {\displaystyle y-y_{0}={\frac {y_{0}-y_{1}}{x_{0}-x_{1}}}(x-x_{0})} で与えられる。 演習問題 それぞれの直線を表わす式を計算せよ。 (i) 傾き-2で、点(-3,1)を通る直線 (ii) 2点(4,3) ,(5,7)を通る直線 解答 を用いればよい。 (i) (ii) また直線の方程式は一般に a x + b y + c = 0 {\displaystyle ax+by+c=0} で表される。 2直線 y = m 1 x + n 1   ,   y = m 2 x + n 2 {\displaystyle y=m_{1}x+n_{1}\ ,\ y=m_{2}x+n_{2}} について 点 ( 1 , 4 ) {\displaystyle (1,4)} を通り、直線 y = − 2 x + 3 {\displaystyle y=-2x+3} に平行な直線、垂直な直線の方程式を求めよ。 直線 y = − 2 x + 3 {\displaystyle y=-2x+3} の傾きは − 2 {\displaystyle -2} である。 平行な直線の方程式は 垂直な直線の傾きを m {\displaystyle m} とすると よって、垂直な直線の方程式は 点 P {\displaystyle \mathrm {P} } と直線 l {\displaystyle l} に対し、直線 l {\displaystyle l} 上の点と点 P {\displaystyle \mathrm {P} } の距離の最小値を点と直線の距離という。これは点 P {\displaystyle \mathrm {P} } から直線 l {\displaystyle l} に下ろした垂線 P H {\displaystyle \mathrm {PH} } の長さに等しい。 直線 a x + b y + c = 0 {\displaystyle ax+by+c=0} と点 ( x 0 , y 0 ) {\displaystyle (x_{0},y_{0})} の距離は と表される。 証明 点 P ( x 0 , y 0 ) {\displaystyle \mathrm {P} (x_{0},y_{0})} と直線 l : a x + b y + c = 0 a , b ≠ 0 {\displaystyle l:ax+by+c=0\quad a,b\neq 0} とする。 点 P {\displaystyle \mathrm {P} } から直線 l {\displaystyle l} に垂線を下ろし、垂線の足を点 R {\displaystyle R} とする。 また、点 P {\displaystyle \mathrm {P} } から y {\displaystyle y} 軸に平行な直線を引き、直線 l {\displaystyle l} との交点を点 S {\displaystyle \mathrm {S} } とする。 次に、図のように、直線 l {\displaystyle l} 上の点 T {\displaystyle \mathrm {T} } に対して、直線 T V {\displaystyle \mathrm {TV} } が x {\displaystyle x} 軸と平行となり、 T V = | b | {\displaystyle \mathrm {TV} =|b|} となるように点 V {\displaystyle \mathrm {V} } をとり、直線 V U {\displaystyle \mathrm {VU} } が y {\displaystyle y} 軸に平行になる点 U {\displaystyle \mathrm {U} } を直線 l {\displaystyle l} 上に取る。 直線 l {\displaystyle l} の傾きは − a b {\displaystyle -{\frac {a}{b}}} となるので V U = | a | {\displaystyle \mathrm {VU} =|a|} である。 ここで、 △ P R S , △ T V U {\displaystyle \bigtriangleup \mathrm {PRS} ,\bigtriangleup \mathrm {TVU} } は直角三角形であり、 ∠ P S R = ∠ T U V {\displaystyle \angle \mathrm {PSR} =\angle \mathrm {TUV} } [4] なので、 △ P R S ∼△ T V U {\displaystyle \bigtriangleup \mathrm {PRS} \sim \bigtriangleup \mathrm {TVU} } [5] である。したがって また点 S {\displaystyle \mathrm {S} } の座標を ( x 0 , m ) {\displaystyle (x_{0},m)} とすると、 P S = | y 0 − m | {\displaystyle \mathrm {PS} =|y_{0}-m|} で、点 P {\displaystyle \mathrm {P} } と直線 l {\displaystyle l} の距離 P R {\displaystyle \mathrm {PR} } は、 P R = P S ⋅ T V T U = | y 0 − m | | b | a 2 + b 2 {\displaystyle \mathrm {PR} ={\mathrm {PS} }\cdot {\frac {\mathrm {TV} }{\mathrm {TU} }}={\frac {|y_{0}-m||b|}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}} ところで、点 S {\displaystyle \mathrm {S} } は直線 l {\displaystyle l} 上の点なので、 である。これを代入すれば ベクトルを使った証明 すでにベクトルを知っているならばこちらの方が簡潔である。 点 P ( x 0 , y 0 ) {\displaystyle \mathrm {P} (x_{0},y_{0})} と直線 l : a x + b y + c = 0 {\displaystyle l:ax+by+c=0} とし、点 Q ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle \mathrm {Q} (x_{1},y_{1})} を直線 l {\displaystyle l} 上の点とする。直線 l {\displaystyle l} の法線は n → := ( a , b ) {\displaystyle {\vec {n}}:=(a,b)} で、 Q P → = ( x 0 − x 1 , y 0 − y 1 ) {\displaystyle {\vec {\mathrm {QP} }}=(x_{0}-x_{1},y_{0}-y_{1})} であるので、直線 l {\displaystyle l} 上の点と点 P {\displaystyle \mathrm {P} } の距離 d {\displaystyle d} は d = | Q P → ⋅ n → | | n → | | | = | ( x 0 − x 1 , y 0 − y 1 ) ⋅ ( a , b ) a 2 + b 2 | = | a x 0 + b y 0 − ( a x 1 + b y 1 ) | a 2 + b 2 = | a x 0 + b y 0 + c | a 2 + b 2 {\displaystyle d=\left|{\vec {\mathrm {QP} }}\cdot {\frac {\vec {n}}{||{\vec {n}}||}}\right|=\left|(x_{0}-x_{1},y_{0}-y_{1})\cdot {\frac {(a,b)}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}\right|={\frac {|ax_{0}+by_{0}-(ax_{1}+by_{1})|}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}={\frac {|ax_{0}+by_{0}+c|}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}} [6] である。 演習問題 直線 x − 2 y − 3 = 0 {\displaystyle x-2y-3=0} と点 ( 1 , 2 ) {\displaystyle (1,2)} の距離を求めよ 解答 6 5 {\displaystyle {\frac {6}{\sqrt {5}}}} 中心 C ( a , b ) {\displaystyle \mathrm {C} (a,b)} 半径 r {\displaystyle r} の円は、 C P = r {\displaystyle \mathrm {CP} =r} となる点 P {\displaystyle \mathrm {P} } の集合である。つまり、 r = ( x − a ) 2 + ( y − b ) 2 {\displaystyle r={\sqrt {(x-a)^{2}+(y-b)^{2}}}} となる点 ( x , y ) {\displaystyle (x,y)} の集合である。この方程式の両辺は正なので2乗して ( x − a ) 2 + ( y − b ) 2 = r 2 {\displaystyle (x-a)^{2}+(y-b)^{2}=r^{2}} を得る。これが円の方程式である。 特に原点が中心で半径 r {\displaystyle r} の円の方程式は x 2 + y 2 = r 2 {\displaystyle x^{2}+y^{2}=r^{2}} で与えられる。 演習問題 解答 方程式 x 2 + y 2 + l x + m y + n = 0 {\displaystyle x^{2}+y^{2}+lx+my+n=0} はいつも円であるとは限らない。 方程式を変形して ( x − a ) 2 + ( y − b ) 2 = k {\displaystyle (x-a)^{2}+(y-b)^{2}=k} となるとき 円 x 2 + y 2 = r 2 {\displaystyle x^{2}+y^{2}=r^{2}} 上のある点 ( x 1 , y 1 ) {\displaystyle (x_{1},y_{1})} で接する接線の方程式は で表される。 同様に、円 ( x − a ) 2 + ( y − b ) 2 = r 2 {\displaystyle (x-a)^{2}+(y-b)^{2}=r^{2}} 上のある点 ( x 2 , y 2 ) {\displaystyle (x_{2},y_{2})} で接する接線の方程式は で表される。 円と直線の位置関係について大きく次の3つに分類することができる。 一般の円と直線についてそれらの位置関係を分類してみよう。 円 C : ( x − p ) 2 + ( y − q ) 2 = r 2 {\displaystyle C:(x-p)^{2}+(y-q)^{2}=r^{2}} と直線 l : a x + b y + c = 0 {\displaystyle l:ax+by+c=0} について、円 C {\displaystyle C} の中心 ( p , q ) {\displaystyle (p,q)} と直線 l {\displaystyle l} の距離 d := | a q + b q + c | a 2 + b 2 {\displaystyle d:={\frac {|aq+bq+c|}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}} とすると、 他にも、円の方程式と直線の方程式を連立してその実数解の個数で分類する方法もあるが、位置関係を求めるだけなら上の方法のほうが計算量が少ない。 演習問題 直線 3 x + 4 y = 1 {\displaystyle 3x+4y=1} と円 ( x − 3 ) 2 + ( y + 2 ) 2 = 14 {\displaystyle (x-3)^{2}+(y+2)^{2}=14} の交点の座標を求めよ 解答 直線の方程式を x {\displaystyle x} について解き、それを円の方程式に代入すればよい。 答えは ( 2 , − 1 ) , ( − 14 5 , 7 5 ) {\displaystyle (2,-1),\left(-{\frac {14}{5}},{\frac {7}{5}}\right)} ある条件を満たす点全体がつくる図形を、その条件を満たす点の軌跡という。 2点 A ( 1   ,   0 )   ,   B ( 3   ,   2 ) {\displaystyle \mathrm {A} (1\ ,\ 0)\ ,\ \mathrm {B} (3\ ,\ 2)} から等距離にある点 P {\displaystyle \mathrm {P} } の軌跡を求めよ。 条件 A P = B P {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {P} =\mathrm {B} \mathrm {P} } より、 A P 2 = B P 2 {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {P} ^{2}=\mathrm {B} \mathrm {P} ^{2}} P {\displaystyle \mathrm {P} } の座標を ( x   ,   y ) {\displaystyle (x\ ,\ y)} とすると だから 整理して、 したがって、求める軌跡は、直線 y = − x + 3 {\displaystyle y=-x+3} である。 1.求める軌跡上の任意の点の座標を ( x   ,   y ) {\displaystyle (x\ ,\ y)} などで表し、与えられた条件を座標の間の関係式で表す。 2.軌跡の方程式を導き、その方程式の表す図形を求める。 3.その図形上の点が条件を満たしていることを確かめる。 2点 A ( 0   ,   0 )   ,   B ( 3   ,   0 ) {\displaystyle \mathrm {A} (0\ ,\ 0)\ ,\ \mathrm {B} (3\ ,\ 0)} からの距離の比が 2 : 1 {\displaystyle 2:1} である点 P {\displaystyle \mathrm {P} } の軌跡を求めよ。 P {\displaystyle \mathrm {P} } の座標を ( x   ,   y ) {\displaystyle (x\ ,\ y)} とする。 P {\displaystyle \mathrm {P} } を満たす条件は すなわち これを座標で表すと 両辺を2乗して、整理すると すなわち したがって、求める軌跡は、中心が ( 4   ,   0 ) {\displaystyle (4\ ,\ 0)} 、半径が 2 {\displaystyle 2} の円である。 m   ,   n {\displaystyle m\ ,\ n} を異なる正の数とするとき、2点 A   ,   B {\displaystyle \mathrm {A} \ ,\ \mathrm {B} } からの距離の比が m : n {\displaystyle m:n} である点の軌跡は、線分 A B {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {B} } を m : n {\displaystyle m:n} に内分する点と、外分する点を直径の両端とする円である。この円をアポロニウスの円という。 m = n {\displaystyle m=n} のときは、線分 A B {\displaystyle \mathrm {A} \mathrm {B} } の垂直二等分線である。 このページの分野のように、数式をつかって座標の位置をあらわして、幾何学の問題を解く手法のことを解析幾何学という。 なお、幾何学という言葉自体は、図形の学問というような意味であり、小学校や中学校で習った図形の理論も幾何学である。 中世ヨーロッパの数学者デカルトが、解析幾何学の研究を進めた。なお、デカルトは、哲学の格言「われ思う、ゆえに我あり」でも有名である。
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指数法則については、数学Iで すでに学んだ。 a が実数のときで、n が2以上の正の整数のとき、 n 乗して a になる数、すなわち となるx のことを、a の n 乗根という。a の2乗根、3乗根、4乗根、......を総称して、a の累乗根という。 平方根は2乗根である。なお、3乗根のことを立方根(りっぽうこん)ともいう。 この章の学習では、最終的に n を正の整数だけでなく、実数にまで拡張していくが、とりあえず学習当初の当面は n を整数で考えておこう。 2の4乗は16である。-2の4乗も16である。よって、16の4乗根は 2 と -2 である。 単に「n乗根」といった場合、係数に負の数がつくものを除外しないことに注意。 さて、nが奇数の場合のn乗根について、考えてみる。 (-2)を3乗しても、8にはならず、-2 の3乗は -8である。 (-3)を3乗しても、27にはならず、-3 の3乗は -27である。 このように、負の実数の奇数n乗は、かならず、負の数になる。 なので、8の3乗根には、負の数は ふくまれず、8の3乗根は 2だけである。 同様に、27の3乗根は、正の3だけである。 このように、nを奇数の自然数としたとき、実数 a のn乗根 は1通りである。 a のn 乗根 x について考える。 (1)  n が奇数のとき、実数 a のn乗根 はただ1つであり、これを a n {\displaystyle {\sqrt[{n}]{a}}} で表す。 (2)  n が偶数のとき、正の実数aのn乗根は、正と負の2つの数がある。 負のほうは − a n {\displaystyle -{\sqrt[{n}]{a}}} で表す。正の方は a n {\displaystyle {\sqrt[{n}]{a}}} 、で表す。 a < 0 のとき、実数の範囲では a のn 乗根はない。 n が偶数か奇数かにかかわらず、0のn乗根は0なので、 である。 特に2乗根 a 2 {\displaystyle {\sqrt[{2}]{a}}} は a {\displaystyle {\sqrt {a}}} と書く。 a > 0 のとき、xn = a の解は x = a n {\displaystyle x={\sqrt[{n}]{a}}} であるから、 また 例 有理数を指数とする累乗を、次のように定義する。 これは、指数が有理数の場合にも、指数法則が成り立つように定義したのである。実際、次が成り立つ。 たとえば、x1/3 は、3乗すると x1 = x に等しいので、x の3乗根 x 3 {\displaystyle {\sqrt[{3}]{x}}} に等しい。 また、x0 については と考えることが出来る。よって、0以外の全ての実数x に対して、 が成り立つ。 指数法則1に、r = 3, s = -3 を代入すれば ゆえに 指数法則2に、r = 2/3, s = 3 を代入すれば となるから、a2/3 は a2 の3乗根ということになる。つまり、 指数法則1に、r = -2/3, s = 2/3 を代入すれば ゆえに たとえば 3 2 {\displaystyle 3^{\sqrt {2}}} の場合、 これは、 2 = 1.41421 ⋯ {\displaystyle {\sqrt {2}}=1.41421\cdots } であるが、 を考えると、その項は一定値 4.72880 ・・・ に近づくので、その値を 3 2 {\displaystyle 3^{\sqrt {2}}} と定める。 このようにして、累乗の指数が無理数の場合にも定義を拡張することで、指数を実数にまで拡張できる。また、実数の場合も上述の指数法則が成り立つ。 実数aを a>0 で a≠1 とするとき、 y = a x {\displaystyle y=a^{x}} で表される関数のことを「 aを底(てい)とする指数関数」のようにいう。 さて、指数関数の例として、たとえば、 があげられる。 指数関数 y = 2 x {\displaystyle y=2^{x}} のグラフを右に示す。指数関数はきわめて速く増加する関数であることが分かる。 次に y = ( 1 2 ) x {\displaystyle y=\left({\frac {1}{2}}\right)^{x}} のグラフを書いてみよう。結果は、右のグラフの実線のようになる。 さきほどのグラフと比較すると分かるように、y軸を対称軸として、 y = ( 1 2 ) x {\displaystyle y=\left({\frac {1}{2}}\right)^{x}} のグラフと y = 2 x {\displaystyle y=2^{x}} のグラフは対称になっている。 一般に、 y = ( 1 a ) x {\displaystyle y=\left({\frac {1}{a}}\right)^{x}} のグラフは、y軸に関して y = a x {\displaystyle y=a^{x}} のグラフと対称である。 また、 いっぽう、 なお、グラフの傾きをみれば分かるように、指数関数のグラフは、一次関数や二次関数のグラフと比べると、急激に増加または急激に減少していく。 指数法則を用いて指数関数を簡単化せよ。 (i)   2 x ⋅ 3 x {\displaystyle 2^{x}\cdot 3^{x}} (ii)   ( 1 / 3 ) x {\displaystyle (1/3)^{x}} 解答 指数関数の値域は正の実数全体である。 また、どんな正の実数も、0乗すると1になるので、よって指数関数 y = a x {\displaystyle y=a^{x}} のグラフは必ず点 (0,1) を通る。 a>0, a≠1 のとき、前章で習った指数関数のグラフの形からも分かるように、 任意の正の実数Mに対して、 a p = M {\displaystyle a^{p}=M} をみたす p はただ1つに定まる。 この p を log a ⁡ M {\displaystyle \log _{a}M} と書き という。 すなわち、 である。 なお、対数は英語で logarithm (ロガリスム)という。 である。この場合、2 を log2 8 = 3 乗すると、8が得られるという関係になっている。 log a ⁡ x {\displaystyle \log _{a}x} について 以下の式が成り立つ。 対数関数を、実数xに対し を対応させる関数として定義する。 この関数の定義域(ていぎいき)は、x > 0 に限られる。これは、仮に とすると、 となるが、 a が正の数であることからlがどのような値であろうと左辺は常に正であるから、xも正でなければならないからである。 グラフの概形を右に示す。図を見ると、この関数は非常にゆっくりと増大する関数であることが分かる。 更に、グラフの特徴として、 から、対数関数のグラフは、点 (1, 0) および 点 (a , 1) の2点を必ず通過することが分かる。 右図のように、対数関数のグラフは、対応する指数関数のグラフと y=x に関して対称である。 一般に y = log a ⁡ x {\displaystyle y=\log _{a}x} のグラフは y = a x {\displaystyle y=a^{x}} のグラフと直線 y=x に関して対称である。 指数法則と対数の定義とを組み合わせることにより、次の公式が導かれる。 (1. の証明) log a ⁡ M = p {\displaystyle \log _{a}M=p} ,  log a ⁡ N = q {\displaystyle \log _{a}N=q}  とおくと、 M = a p {\displaystyle M=a^{p}} ,  N = a q {\displaystyle N=a^{q}}  であるから よって    log a ⁡ M N = p + q = log a ⁡ M + log a ⁡ N {\displaystyle \log _{a}MN=p+q=\log _{a}M+\log _{a}N} (2. 以降の証明) ※ (1.)の証明法と同様に右辺を指数に置きかえて計算したあとに再び対数に変形することで証明できる。(証明は省略) 上記の公式の特別な場合として、次の公式が成り立つ。 次の公式が成り立つ。 10を底とする対数を常用対数(じょうよう たいすう)という。1.00から9.99までの値に対する常用対数の値は常用対数表に示してある。また、近年ではコンピュータや関数電卓を用いて、対応する対数の値を知ることもできる。ただし、これらの値は計算上の制約を受けるため、盲目的にその値が正しいと考えてはならない。コンピュータ内の計算については、高等学校情報などを参照。 235の桁数を常用対数を使って考えよう。 が成り立つ。各辺の常用対数をとると すなわち 逆に、235が 2 < log 10 ⁡ 235 < 3 {\displaystyle 2<\log _{10}235<3} を満たすならば、上の計算を逆にたどって よって、235は3桁の整数である。桁数が不明な大きな数に対して同様に常用対数をとることによって、おおよその大きさを知ることができる。 1 log 10 ⁡ x {\displaystyle \log _{10}x} が実数とする。 上の式を満たすxが無限にあることを示せ 2 x ≦ a ≦ b {\displaystyle x\leqq a\leqq b} とする。このとき R {\displaystyle R} を実数全体の集合とする。 a , b , x ∈ R {\displaystyle a,b,x\in R} のとき log x ⁡ a = b {\displaystyle \log _{x}a=b} を満たすa,b,xが少なくとも1つはあることを示せ。 3 log a ⁡ 1 + x {\displaystyle \log _{a}{1+x}} のグラフを書け。 log 10 ⁡ x = q {\displaystyle \log _{10}x=q} と置く。 対数関数の定義より、 10 q = x {\displaystyle 10^{q}=x} と書けるつまりxは x=100,10000,1000000•••のようになる。 (qが自然数であるとき) つまりxを無限に近づけることで命題は示された。 たとえば、星の等級(一等星や六等星など)は、指数で明るさの等級が決められており、 等級が1下がるごとに明るさが 倍となるように定められている。これは、等級とは明るさの対数だということである。 地震のエネルギーを表すマグニチュードも、指数をつかった関係式で地震のエネルギーをEとし、地震のマグニュチュードをMとすると、 となるようにマグニチュードが定められている。 つまり、マグニチュードはエネルギーの対数ということである。 このほか、音の大きさ(音圧レベル)をあらわすデシベルや、化学における水素イオン指数 pH も、対数で定義される。 また、放射性年代測定も、残存している放射性同位体の量の対数を考えることにより可能になる。 一般に、非常に大きくなる量、または非常に小さくなる量をあらわすのに、対数を用いることが便利なのである。上記に紹介した、星の等級、地震のマグニチュード、音の大きさ、酸性度は、すべて、対数を使わないそのままでは桁が大きくなり扱いにくくなので、利便性のために対数を用いているということである。 対数方眼紙というのがあり、右図のようになっている。
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ここでは三角関数の定義をしたあと、三角関数の基本的な性質、加法定理、三角関数の応用について学ぶ。三角関数は波やベクトルの内積、フーリエ変換などさまざまな分野で応用されている。 右図のように、定点Oを中心として回転する半直線 OP を考える。このときの回転する半直線 OP のことを動径という。 半直線 OX を角度の基準とする。この基準となる半直線 OX のことを始線という。 動径が時計回りに回転した場合、回転した角度は負であるとし、動径が反時計回りをした場合、回転した角度は正であるとする。 負の角度や360°以上回転する角度も考えに入れた角のことを一般角という。 いままでは角度の単位として一周を 360° とする度数法を使ってきたことだろう。ここで、弧度法による角度の表し方を学ぶ。 半径1 の扇形において弧の長さが 1 のときの中心角を 1 rad、同様に弧の長さがθのときの中心角をθ radと定義する。この定義より 180° =π rad、360° = 2π rad 、さらに となる。また弧度法の単位(rad)はしばしば省略される。 弧度法を用いると、三角関数の微積分を考える際に便利である。(このことは数学IIIで学ぶ) 扇形の半径をr 、弧度法で定義された角度をθとするとき、弧の長さl と面積S は と表せる。 一般角が θ {\displaystyle \theta } の半直線と単位円が交わる円を P {\displaystyle \mathrm {P} } とする。このときの P {\displaystyle \mathrm {P} } の座標を ( cos ⁡ θ , sin ⁡ θ ) {\displaystyle (\cos \theta ,\sin \theta)} とすることで、関数 sin , cos {\displaystyle \sin ,\cos } を定める。また、 tan ⁡ θ = sin ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta ={\frac {\sin \theta }{\cos \theta }}} とすることで関数 tan ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta } を定める。 tan ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta } は一般角が θ {\displaystyle \theta } の動径の傾きに等しい。 また、三角関数の累乗は ( sin ⁡ θ ) n = sin n ⁡ θ {\displaystyle (\sin \theta)^{n}=\sin ^{n}\theta } と表記される。 cos θ のグラフは sin θ のグラフを θ軸方向に − π 2 {\displaystyle -{\frac {\pi }{2}}} だけ平行移動したものである。 y = sin ⁡ θ {\displaystyle y=\sin \theta } や y = cos ⁡ θ {\displaystyle y=\cos \theta } の形をした曲線のことを 正弦曲線 (せいげんきょくせん)という。 関数 sin , cos {\displaystyle \sin ,\cos } の値域はどちらも、 [ − 1 , 1 ] {\displaystyle [-1,1]} である。 右図のように 、角 θ の動径と単位円との交点をPとして、 直線OPと 直線x=1 との交点を T とすると、 Tの座標は になる。 このことを利用して、 y=tan θ のグラフをかくことができる。 y=tan θ のグラフは、下図のようになる。 y=tan θ のグラフでは、θの値が π 2 {\displaystyle {\frac {\pi }{2}}} に近づいていくと、 直線 θ = π 2 {\displaystyle \theta ={\frac {\pi }{2}}} に限りなく近づいていく。 このように、曲線がある直線に限り無く近づいていくとき、近づかれる直線のほうを 漸近線 (ぜんきんせん)という。 同様に考え、次の直線も y=tanθ の漸近線である。 は y=tanθ の漸近線である。 一般に、 はy=tanθのグラフの漸近線である。[1] 一般角が θ {\displaystyle \theta } の動径は一回転しても等しいので、一般角が θ + 2 π {\displaystyle \theta +2\pi } の動径と等しい。これより三角関数の周期性 sin ⁡ ( θ + 2 π n ) = sin ⁡ θ cos ⁡ ( θ + 2 π n ) = cos ⁡ θ tan ⁡ ( θ + 2 π n ) = tan ⁡ θ {\displaystyle {\begin{aligned}\sin(\theta +2\pi n)&=\sin \theta \\\cos(\theta +2\pi n)&=\cos \theta \\\tan(\theta +2\pi n)&=\tan \theta \end{aligned}}} を得る。 点 ( cos ⁡ θ , sin ⁡ θ ) {\displaystyle (\cos \theta ,\sin \theta)} を π {\displaystyle \pi } 回転した点 ( cos ⁡ ( θ + π ) , sin ⁡ ( θ + π ) ) {\displaystyle (\cos(\theta +\pi),\sin(\theta +\pi))} は原点を中心に点対称移動した点  ( − cos ⁡ θ , − sin ⁡ θ ) {\displaystyle (-\cos \theta ,-\sin \theta)} であることから sin ⁡ ( θ + π ) = − sin ⁡ θ cos ⁡ ( θ + π ) = − cos ⁡ θ tan ⁡ ( θ + π ) = tan ⁡ θ {\displaystyle {\begin{aligned}\sin(\theta +\pi)&=-\sin \theta \\\cos(\theta +\pi)&=-\cos \theta \\\tan(\theta +\pi)&=\tan \theta \end{aligned}}} を得る。 点 ( cos ⁡ θ , sin ⁡ θ ) {\displaystyle (\cos \theta ,\sin \theta)} を x {\displaystyle x} 軸で線対称移動移動した点が ( cos ⁡ ( − θ ) , sin ⁡ ( − θ ) ) = ( cos ⁡ θ , − sin ⁡ θ ) {\displaystyle (\cos(-\theta),\sin(-\theta))=(\cos \theta ,-\sin \theta)} であることから sin ⁡ ( − θ ) = − sin ⁡ θ cos ⁡ ( − θ ) = cos ⁡ θ tan ⁡ ( − θ ) = − tan ⁡ θ {\displaystyle {\begin{aligned}\sin(-\theta)&=-\sin \theta \\\cos(-\theta)&=\cos \theta \\\tan(-\theta)&=-\tan \theta \end{aligned}}} を得る。 単位円周上の点 ( cos ⁡ θ , sin ⁡ θ ) {\displaystyle (\cos \theta ,\sin \theta)} から原点までの距離は 1 なので、 sin 2 ⁡ θ + cos 2 ⁡ θ = 1 {\displaystyle \sin ^{2}\theta +\cos ^{2}\theta =1} が成り立つ。 また、この式に、 tan ⁡ θ = sin ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta ={\frac {\sin \theta }{\cos \theta }}} つまり、 sin ⁡ θ = tan ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \sin \theta =\tan \theta \cos \theta } を代入すれば、 1 + tan 2 ⁡ θ = 1 cos 2 ⁡ θ {\displaystyle 1+\tan ^{2}\theta ={\frac {1}{\cos ^{2}\theta }}} が成り立つことがわかる。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} に対して、0 でない実数 p {\displaystyle p} が存在して、 f ( x + p ) = f ( x ) {\displaystyle f(x+p)=f(x)} となるとき関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は周期関数という。実数 p {\displaystyle p} が上の性質を満たすとき、 − p , 2 p {\displaystyle -p,2p} など、実数 p {\displaystyle p} を0を除く整数倍した数も上の性質を満たす。そこで、周期関数を特徴づける量として、上の性質を満たす実数 p {\displaystyle p} の内、正でかつ最小のものを選び、これを周期と呼ぶ。 sin ⁡ x , cos ⁡ x {\displaystyle \sin x,\cos x} は周期を 2 π {\displaystyle 2\pi } とする周期関数であり、 tan ⁡ x {\displaystyle \tan x} は周期を π {\displaystyle \pi } とする周期関数である。 演習問題 k {\displaystyle k} を0でない実数とする。関数 sin ⁡ k x {\displaystyle \sin kx} の周期を言え 解答 sin ⁡ k ( x + 2 π k ) = sin ⁡ k x {\displaystyle \sin k\left(x+{\frac {2\pi }{k}}\right)=\sin kx} なので答えは 2 π k {\displaystyle {\frac {2\pi }{k}}} 。これは正であり、周期の最小性の条件を満たしている。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が f ( − x ) = f ( x ) {\displaystyle f(-x)=f(x)} を満たすとき、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は偶関数という。偶関数は y {\displaystyle y} 軸に関して対称なグラフになる。 また、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が f ( − x ) = − f ( x ) {\displaystyle f(-x)=-f(x)} を満たすとき、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は奇関数という。偶関数は原点に関して対象なグラフになる。 関数 cos ⁡ θ , x 2 n {\displaystyle \cos \theta ,x^{2n}} ( n {\displaystyle n} は整数)は偶関数となる。 関数 sin ⁡ x , x 2 n + 1 {\displaystyle \sin x,x^{2n+1}} ( n {\displaystyle n} は整数)は奇関数となる。 tan ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta } は偶関数かそれとも奇関数か調べよ。 解答 なので、 tan ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta } は奇関数である。[2] 関数 y = sin ⁡ ( θ − π 3 ) {\displaystyle y=\sin \left(\theta -{\frac {\pi }{3}}\right)} のグラフは、 y = sin ⁡ θ {\displaystyle y=\sin \theta } のグラフを θ軸方向に π 3 {\displaystyle {\frac {\pi }{3}}} だけ平行移動させたものになり、周期は 2 π {\displaystyle 2\pi } である。(平行移動しても、周期は変わらず、sinθと同じく周期は 2 π {\displaystyle 2\pi } のままである。) 関数 y=2sin θ のグラフの形は y=sin θ をy軸方向に2倍に拡大したもので、周期は y=sin θ と同じく 2π である。 ー1 ≦ sin θ ≦ 1  なので、 値域は  ー2 ≦ 2sin θ ≦ 2  である。 関数 y=sin2θ のグラフはy軸を基準にθ軸方向に 1 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}} 倍に縮小したものになっている。 したがって、周期も 1 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}} 倍になっており、y=sinθ の周期は 2 π {\displaystyle 2\pi } だから、y=sin2θ の周期は π {\displaystyle \pi } である。 三角関数の加法定理 が成り立つ。 証明 任意の実数 α , β {\displaystyle \alpha ,\beta } に対し、単位円周上の点 A ( cos ⁡ α , sin ⁡ α ) , B ( cos ⁡ β , sin ⁡ β ) {\displaystyle \mathrm {A} (\cos \alpha ,\sin \alpha),\mathrm {B} (\cos \beta ,\sin \beta)} をとる。このとき、 線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } の長さの2乗 A B 2 {\displaystyle \mathrm {AB} ^{2}} は余弦定理を使うことにより A B 2 = 2 − 2 cos ⁡ ( α − β ) {\displaystyle \mathrm {AB} ^{2}=2-2\cos(\alpha -\beta)} である。次に三平方の定理を使って A B 2 = ( cos ⁡ α − cos ⁡ α ) 2 + ( sin ⁡ α − sin ⁡ β ) 2 = 2 − 2 ( cos ⁡ α cos ⁡ β + sin ⁡ α sin ⁡ β ) {\displaystyle \mathrm {AB} ^{2}=(\cos \alpha -\cos \alpha)^{2}+(\sin \alpha -\sin \beta)^{2}=2-2(\cos \alpha \cos \beta +\sin \alpha \sin \beta)} これを整理して cos ⁡ ( α − β ) = cos ⁡ α cos ⁡ β + sin ⁡ α sin ⁡ β {\displaystyle \cos(\alpha -\beta)=\cos \alpha \cos \beta +\sin \alpha \sin \beta } を得る。 cos ⁡ ( α + β ) = cos ⁡ ( α − ( − β ) ) = cos ⁡ α cos ⁡ ( − β ) + sin ⁡ α sin ⁡ ( − β ) = cos ⁡ α cos ⁡ β − sin ⁡ α sin ⁡ β {\displaystyle \cos(\alpha +\beta)=\cos(\alpha -(-\beta))=\cos \alpha \cos(-\beta)+\sin \alpha \sin(-\beta)=\cos \alpha \cos \beta -\sin \alpha \sin \beta } である。 以上をまとめて cos ⁡ ( α ± β ) = cos ⁡ α cos ⁡ β ∓ sin ⁡ α sin ⁡ β {\displaystyle \cos(\alpha \pm \beta)=\cos \alpha \cos \beta \mp \sin \alpha \sin \beta } を得る。 ここで、 sin ⁡ ( α ± β ) = − cos ⁡ ( α + π 2 ± β ) = − { cos ⁡ ( α + π 2 ) cos ⁡ ( β ) ∓ sin ⁡ ( α + π 2 ) sin ⁡ β } = sin ⁡ α cos ⁡ β ± cos ⁡ α sin ⁡ β {\displaystyle \sin(\alpha \pm \beta)=-\cos(\alpha +{\frac {\pi }{2}}\pm \beta)=-\{\cos(\alpha +{\frac {\pi }{2}})\cos(\beta)\mp \sin(\alpha +{\frac {\pi }{2}})\sin \beta \}=\sin \alpha \cos \beta \pm \cos \alpha \sin \beta } [3] さらに、 tan ⁡ x {\displaystyle \tan x} についても tan ⁡ ( α ± β ) = sin ⁡ ( α ± β ) cos ⁡ ( α ± β ) = sin ⁡ α cos ⁡ β ± cos ⁡ α sin ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β ∓ sin ⁡ α sin ⁡ β = sin ⁡ α cos ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β ± cos ⁡ α sin ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β ∓ sin ⁡ α sin ⁡ β cos ⁡ α cos ⁡ β = tan ⁡ α ± tan ⁡ β 1 ∓ tan ⁡ α tan ⁡ β {\textstyle {\begin{aligned}\tan(\alpha \pm \beta)&={\frac {\sin(\alpha \pm \beta)}{\cos(\alpha \pm \beta)}}\\&={\frac {\sin \alpha \cos \beta \pm \cos \alpha \sin \beta }{\cos \alpha \cos \beta \mp \sin \alpha \sin \beta }}\\&={\cfrac {{\cfrac {\sin \alpha \cos \beta }{\cos \alpha \cos \beta }}\pm {\cfrac {\cos \alpha \sin \beta }{\cos \alpha \cos \beta }}}{{\cfrac {\cos \alpha \cos \beta }{\cos \alpha \cos \beta }}\mp {\cfrac {\sin \alpha \sin \beta }{\cos \alpha \cos \beta }}}}\\&={\frac {\tan \alpha \pm \tan \beta }{1\mp \tan \alpha \tan \beta }}\end{aligned}}} が成り立つ。 加法定理を用いて以下が証明できる。 sin ⁡ 2 α = sin ⁡ ( α + α ) = 2 sin ⁡ α cos ⁡ α {\displaystyle \sin 2\alpha =\sin(\alpha +\alpha)=2\sin \alpha \cos \alpha } cos ⁡ 2 α = cos ⁡ ( α + α ) = cos 2 ⁡ α − sin 2 ⁡ α = 2 cos 2 ⁡ α − 1 = 1 − 2 sin 2 ⁡ α {\displaystyle \cos 2\alpha =\cos(\alpha +\alpha)=\cos ^{2}\alpha -\sin ^{2}\alpha =2\cos ^{2}\alpha -1=1-2\sin ^{2}\alpha } tan ⁡ 2 α = 2 tan ⁡ α 1 − tan 2 ⁡ α {\displaystyle \tan 2\alpha ={\frac {2\tan \alpha }{1-\tan ^{2}\alpha }}} 次に、 cos {\displaystyle \cos } の倍角の公式を変形すると sin 2 ⁡ α = 1 − cos ⁡ 2 α 2 {\displaystyle \sin ^{2}\alpha ={\frac {1-\cos 2\alpha }{2}}} cos 2 ⁡ α = 1 + cos ⁡ 2 α 2 {\displaystyle \cos ^{2}\alpha ={\frac {1+\cos 2\alpha }{2}}} である。 演習問題 解答 sin ⁡ 15 ∘ = sin ⁡ ( 45 ∘ − 30 ∘ ) = 6 − 2 4 {\displaystyle \sin 15^{\circ }=\sin(45^{\circ }-30^{\circ })={\frac {{\sqrt {6}}-{\sqrt {2}}}{4}}} cos ⁡ 15 ∘ = cos ⁡ ( 45 ∘ − 30 ∘ ) = 6 + 2 4 {\displaystyle \cos 15^{\circ }=\cos(45^{\circ }-30^{\circ })={\frac {{\sqrt {6}}+{\sqrt {2}}}{4}}} tan 2 ⁡ α = sin 2 ⁡ α cos 2 ⁡ α = 1 − cos ⁡ 2 α 1 + cos ⁡ 2 α {\displaystyle \tan ^{2}\alpha ={\frac {\sin ^{2}\alpha }{\cos ^{2}\alpha }}={\frac {1-\cos 2\alpha }{1+\cos 2\alpha }}} 今までの定理をまとめると、次のようになる。 覚え方 加法定理は「咲いたコスモスコスモス咲いた」、「コスモスコスモス咲いた咲いた」という語呂合せがあります。 cos {\displaystyle \cos } の倍角の公式 cos ⁡ 2 θ = 2 cos 2 ⁡ θ − 1 = 1 − 2 sin 2 ⁡ θ {\displaystyle \cos 2\theta =2\cos ^{2}\theta -1=1-2\sin ^{2}\theta } は ± 1 ∓ 2 a a a 2 θ {\displaystyle \pm 1\mp 2\mathrm {aaa} ^{2}\theta } という形を覚えて sin {\displaystyle \sin } は符号が − {\displaystyle -} 、1 の符号はその逆と覚えます。 2乗の三角関数 sin 2 ⁡ θ = 1 − cos ⁡ 2 θ 2 , cos 2 ⁡ θ = 1 + cos ⁡ 2 θ 2 {\displaystyle \sin ^{2}\theta ={\frac {1-\cos 2\theta }{2}},\cos ^{2}\theta ={\frac {1+\cos 2\theta }{2}}} は、 1 ± cos ⁡ 2 θ 2 {\displaystyle {\frac {1\pm \cos 2\theta }{2}}} という形を覚えて、 sin {\displaystyle \sin } は符号が − {\displaystyle -} と考えます。 三角関数の和 において、 a , b ≠ 0 {\displaystyle a,b\neq 0} のとき { a a 2 + b 2 } 2 + { b a 2 + b 2 } 2 = 1 {\displaystyle \left\{{\dfrac {a}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}\right\}^{2}+\left\{{\dfrac {b}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}\right\}^{2}=1} であるので、点 ( a a 2 + b 2 , b a 2 + b 2 ) {\displaystyle \left({\dfrac {a}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}},{\dfrac {b}{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}}\right)} は単位円周上の点なので、 となるようなαをとることができ、このαを用いて次のような変形ができる。 演習問題 r , α {\displaystyle r,\alpha } は r > 0 , − π ≤ α < π {\displaystyle r>0,-\pi \leq \alpha <\pi } を満たすとする。 解答 sin ⁡ θ − 3 cos ⁡ θ = 2 ( 1 2 sin ⁡ θ − 3 2 cos ⁡ θ ) = 2 ( sin ⁡ θ cos ⁡ π 3 − cos ⁡ θ sin ⁡ π 3 ) = 2 sin ⁡ ( θ − π 3 ) {\displaystyle {\begin{aligned}\sin \theta -{\sqrt {3}}\cos \theta &=2\left({\frac {1}{2}}\sin \theta -{\frac {\sqrt {3}}{2}}\cos \theta \right)\\&=2\left(\sin \theta \cos {\frac {\pi }{3}}-\cos \theta \sin {\frac {\pi }{3}}\right)\\&=2\sin \left(\theta -{\frac {\pi }{3}}\right)\\\end{aligned}}} 三角関数の加法定理を用いると、三角関数の和→積の公式、および積→和の公式が得られる。それぞれ となる。 加法定理 から、 (1) + (2) より (1) - (2) より (3) + (4) より (3) - (4) より が得られる。 A = α + β , B = α − β {\displaystyle A=\alpha +\beta ,\,B=\alpha -\beta } とおくと、 α = A + B 2 , β = A − B 2 {\displaystyle \alpha ={\frac {A+B}{2}},\,\beta ={\frac {A-B}{2}}} である。これを積→和の公式に代入すれば、それぞれ が得られる。 覚え方 積→和の公式は、上2つは α {\displaystyle \alpha } と β {\displaystyle \beta } を入れ替えれば同じ式なので、覚えるのは3式でいい。 sin ⁡ sin {\displaystyle \sin \sin } の公式は cos ⁡ cos {\displaystyle \cos \cos } の公式の符号を2つ − {\displaystyle -} にしたものになっている。 和→積の公式は、 a a a − a a a {\displaystyle {\rm {{aaa}-{\rm {aaa}}}}} の式は a a a + a a a {\displaystyle {\rm {{aaa}+{\rm {aaa}}}}} の公式の cos {\displaystyle \cos } と sin {\displaystyle \sin } を逆にした形になっている。 オシロスコープで おんさ の音を測定すると、正弦波に近い波形が観測される。 しかし、実際の楽器の音は、正弦波とは違う。オシロスコープでギターやバイオリンなどの楽器の音を測定すると、正弦波でない波形が繰り返されている。 これら実際の楽器の音の波形は、周期の異なる複数個の正弦波を重ね合わせた波形になっている。 ここでは、指数関数、三角関数の定義域を実数としていたが、これらの関数の定義域を複素数まで拡張することができる。(興味のある意欲的な読者は複素関数論の書籍を読んでみるといい) 複素数に拡張した指数関数、三角関数では e i θ = cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ {\displaystyle e^{i\theta }=\cos \theta +i\sin \theta } という関係式が成り立つ。ただし、 e {\displaystyle e} はネイピア数で e ≈ 2.7 {\displaystyle e\approx 2.7} である。ここで、 θ {\displaystyle \theta } に π {\displaystyle \pi } を代入すると e i π + 1 = 0 {\displaystyle e^{i\pi }+1=0} となる。この等式は「世界一美しい等式」とも呼ばれ、小説にもなっているので知っている人もいるだろう。 (1)下の度数法で表された値を弧度法て表せ 1) 150 {\displaystyle 150} 2) 720 {\displaystyle 720} (2) sin ⁡ π / 2 {\displaystyle \sin \pi /2} の値を求めよ
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6II/%E4%B8%89%E8%A7%92%E9%96%A2%E6%95%B0
ここでは微分積分の概念について理解し、多項式関数の微分積分を学ぶ。また、微分の応用を応用して接線の方程式やグラフの概形などを求めたり、積分を応用してグラフの面積を求める。微分積分は物理学や工学などさまざまな分野で応用されている。 中学校では、一次関数と y = a x 2 {\displaystyle y=ax^{2}} の変化の割合を求めただろう。ここでは、同じものを平均変化率と呼ぶことにする。一般の関数 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} の平均変化率を考えてみたい。中学校で学習したことと同様に考えると、 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} において、 x {\displaystyle x} が a {\displaystyle a} から b {\displaystyle b} まで変化したときの平均変化率は、「 y {\displaystyle y} の変化量/ x {\displaystyle x} の変化量」で求められる。つまり、 f ( b ) − f ( a ) b − a {\displaystyle {\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}} である。 例 y = x 2 + 2 x + 1 {\displaystyle y=x^{2}+2x+1} において、 x {\displaystyle x} が-1から3まで変化したときの平均変化率を求める。 ( 3 2 + 2 ⋅ 3 + 1 ) − ( ( − 1 ) 2 + 2 ⋅ ( − 1 ) + 1 ) 3 − ( − 1 ) {\displaystyle {\frac {(3^{2}+2\cdot 3+1)-((-1)^{2}+2\cdot (-1)+1)}{3-(-1)}}} = 4 {\displaystyle =4} 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} において、 x {\displaystyle x} が a {\displaystyle a} とは異なる値をとりながら限りなく a {\displaystyle a} に近づくとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が限りなく A {\displaystyle A} に近づくことを、 lim x → a f ( x ) = A {\displaystyle \lim _{x\rightarrow a}f(x)=A} とかく。 lim x → 0 3 x {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 0}3x} を求める。 x {\displaystyle x} を、 1 , 0.1 , 0.01 , 0.001 , ⋯ {\displaystyle 1,0.1,0.01,0.001,\cdots } と限りなく0に近づけてみる。すると、 3 x {\displaystyle 3x} は、 3 , 0.3 , 0.03 , 0.003 , ⋯ {\displaystyle 3,0.3,0.03,0.003,\cdots } と、限りなく0に近づくことがわかる。 よって、 x {\displaystyle x} を限りなく0に近づけると、 3 x {\displaystyle 3x} は限りなく0に近づくので、 lim x → 0 3 x = 0 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 0}3x=0} である。 次に、 lim x → 1 x 2 − 1 x − 1 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}{\frac {x^{2}-1}{x-1}}} を求める。 x {\displaystyle x} を、 1.1 , 1.01 , 1.001 , 0.0001 , 1.00001 , ⋯ {\displaystyle 1.1,1.01,1.001,0.0001,1.00001,\cdots } と、限りなく1に近づけてみると、 x 2 − 1 x − 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}-1}{x-1}}} は、 2.1 , 2.01 , 2.001 , 2.0001 , 2.00001 , ⋯ {\displaystyle 2.1,2.01,2.001,2.0001,2.00001,\cdots } と、限りなく2に近づく。 なので、 lim x → 1 x 2 − 1 x − 1 = 2 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}{\frac {x^{2}-1}{x-1}}=2} である。 これは、式に値を代入する前に、式自体を約分してしまった方が簡単に計算できる。すなわち、 x 2 − 1 x − 1 = ( x + 1 ) ( x − 1 ) x − 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}-1}{x-1}}={\frac {(x+1)(x-1)}{x-1}}} であり、 x {\displaystyle x} を1とは異なる値を取りながら限りなく1に近づけるとき x ≠ 1 {\displaystyle x\neq 1} なので、これは約分でき、 x 2 − 1 x − 1 = ( x + 1 ) ( x − 1 ) x − 1 = x + 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}-1}{x-1}}={\frac {(x+1)(x-1)}{x-1}}=x+1} である。 なので、 lim x → 1 x 2 − 1 x − 1 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}{\frac {x^{2}-1}{x-1}}} を求めるには、 lim x → 1 ( x + 1 ) {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}(x+1)} を求めれば良い。 lim x → 1 ( x + 1 ) = 2 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}(x+1)=2} であるので、 lim x → 1 x 2 − 1 x − 1 = 2 {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 1}{\frac {x^{2}-1}{x-1}}=2} と求めることができる。 ※発展 最初の例では、 x {\displaystyle x} を、 1 , 0.1 , 0.01 , 0.001 , ⋯ {\displaystyle 1,0.1,0.01,0.001,\cdots } と、限りなく0に近づけたが、 2 , 0.2 , 0.02 , 0.002 , ⋯ {\displaystyle 2,0.2,0.02,0.002,\cdots } や、 − 1 , − 0.1 , − 0.01 , − 0.001 , ⋯ {\displaystyle -1,-0.1,-0.01,-0.001,\cdots } のように近づけてみても x {\displaystyle x} は限りなく0に近づく。他にも、 1 , − 0.1 , 0.01 , − 0.001 , ⋯ {\displaystyle 1,-0.1,0.01,-0.001,\cdots } や 0.1 , 0.5 , 0.01 , 0.05 , ⋯ {\displaystyle 0.1,0.5,0.01,0.05,\cdots } など x {\displaystyle x} を0に近づかせる方法はいくらでも考えられる。 もちろん、この例では、 x {\displaystyle x} をどのように近づけたとしても極限の値は変わらない。 しかし、 x {\displaystyle x} を、 1 , 0.1 , 0.01 , 0.001 , ⋯ {\displaystyle 1,0.1,0.01,0.001,\cdots } と近づけたとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は α {\displaystyle \alpha } に近づくが、 x {\displaystyle x} を、 2 , 0.2 , 0.02 , 0.002 , ⋯ {\displaystyle 2,0.2,0.02,0.002,\cdots } と近づけたら、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は α {\displaystyle \alpha } に近づかない。そんな関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} だってあるだろう。 なぜ x {\displaystyle x} を 1 , 0.1 , 0.01 , 0.001 , ⋯ {\displaystyle 1,0.1,0.01,0.001,\cdots } と、近づけただけで、極限の値を求めることが出来るのか?と疑問に思う人もいるかも知れない。 極限を厳密に定義するには、イプシロンデルタ論法を使う必要がある。しかし、高校生には少し難しいと考える人が多いので高校ではあまり教えられていない。 なので、この本では、イプシロンデルタ論法を使わず、曖昧な方法で極限を定義した。なので、上のような疑問を持った人は、その疑問について深く考えずに先に進むか、イプシロンデルタ論法を学ぶかしてほしい。 関数 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} の傾きについて考えてみよう。 x {\displaystyle x} が a {\displaystyle a} から a + h {\displaystyle a+h} まで変化したときの平均変化率は f ( a + h ) − f ( a ) h {\displaystyle {\frac {f(a+h)-f(a)}{h}}} である。このとき、 h {\displaystyle h} を限りなく0に近づければ a {\displaystyle a} での傾きを求めることができる。つまり、関数 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} の a {\displaystyle a} での傾きは lim h → 0 f ( a + h ) − f ( a ) h {\displaystyle \lim _{h\to 0}{\frac {f(a+h)-f(a)}{h}}} で与えられる。これを x = a {\displaystyle x=a} における微分係数という。 また f ′ ( x ) = lim h → 0 f ( x + h ) − f ( x ) h {\displaystyle f'(x)=\lim _{h\to 0}{\frac {f(x+h)-f(x)}{h}}} で与えられる関数 f ′ ( x ) {\displaystyle f'(x)} を関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の導関数という。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の導関数は d f d x {\displaystyle {\frac {df}{dx}}} と表されることもある。 ここで、いくつかの関数の導関数を求めてみよう。 である。 n {\displaystyle n} を自然数とする。関数 f ( x ) = x n {\displaystyle f(x)=x^{n}} の導関数は二項定理を応用し と求められる 関数 f ( x ) , g ( x ) {\displaystyle f(x),g(x)} に対し次が成り立つ。 証明 演習問題 次の関数を微分せよ 1. f ( x ) = 2 x 3 + 4 x 2 − 5 x − 1 {\displaystyle f(x)=2x^{3}+4x^{2}-5x-1} 2. f ( x ) = ( 2 x + 3 ) ( 3 x − 5 ) {\displaystyle f(x)=(2x+3)(3x-5)} 解答 1. 2. f ( x ) = 6 x 2 − x − 15 {\displaystyle f(x)=6x^{2}-x-15} であるから 曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} 上の点 ( t , f ( t ) ) {\displaystyle (t,f(t))} における接線の方程式を求める。この接線の傾きは f ′ ( t ) {\displaystyle f'(t)} であり、点 ( t , f ( t ) ) {\displaystyle (t,f(t))} を通るので、方程式は y = f ′ ( t ) ( x − t ) + f ( t ) {\displaystyle y=f'(t)(x-t)+f(t)} で与えられる。実際、 x = t {\displaystyle x=t} とすると y = f ( t ) {\displaystyle y=f(t)} となるのでこの方程式は点 ( t , f ( t ) ) {\displaystyle (t,f(t))} を通ることがわかり、 x {\displaystyle x} の係数は f ′ ( t ) {\displaystyle f'(t)} なので傾きは f ′ ( t ) {\displaystyle f'(t)} である。 曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} 上の点 ( t , f ( t ) ) {\displaystyle (t,f(t))} における法線の方程式は、 y = − 1 f ′ ( t ) ( x − t ) + f ( t ) {\displaystyle y=-{\frac {1}{f'(t)}}(x-t)+f(t)} で与えられる。 f'(x)は、fの傾きを表わすので、 f ′ ( x ) > 0 {\displaystyle f'(x)>0} の点では、fは増大し、 f ′ ( x ) < 0 {\displaystyle f'(x)<0} の点では、fは減少することがわかる。 これをもとに関数の概形を描くことができる。 例 y = x 3 {\displaystyle y=x^{3}} の増減を調べる 両辺をxで微分すると f ( x ) = x 3 − 3 x {\displaystyle f(x)=x^{3}-3x} を微分すると 増減表は次のようになる。 この関数のグラフは、 x = − 1 {\displaystyle x=-1} を境にして増加から減少の状態に変わり、 x = 1 {\displaystyle x=1} を境にして減少から増加の状態に変わる。 このとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は x = − 1 {\displaystyle x=-1} において極大(きょくだい)になるといい、そのときの f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値 f ( − 1 ) = 2 {\displaystyle f(-1)=2} を極大値(きょくだいち)という。また、 x = 1 {\displaystyle x=1} において極小(きょくしょう)になるといい、そのときの f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値 f ( 1 ) = − 2 {\displaystyle f(1)=-2} を極小値(きょくしょうち)という。極大値と極小値を合わせて極値(きょくち)という。 不定積分(indefinite integral)とは、微分したらその関数になる関数を求める操作である。 つまり、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} に対して、 F ′ ( x ) = f ( x ) {\displaystyle F'(x)=f(x)} となる、関数 F ( x ) {\displaystyle F(x)} を求める操作である。 このとき F ( x ) {\displaystyle F(x)} を、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数(primitive function)と呼ぶ。 例えば、 1 2 x 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}} は微分すると、 x {\displaystyle x} になるので、 1 2 x 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}} は x {\displaystyle x} の原始関数である。 しかし、 1 2 x 2 + 1 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}+1} や、 1 2 x 2 + 3 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}+3} なども微分すると x {\displaystyle x} になるので、 1 2 x 2 + 1 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}+1} や、 1 2 x 2 + 3 {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}+3} も x {\displaystyle x} の原始関数である。 一般に、 1 2 x 2 + C {\displaystyle {\frac {1}{2}}x^{2}+C} (Cは任意の定数)で表される関数は、 x {\displaystyle x} の原始関数である。 x {\displaystyle x} の原始関数は一つだけではなく、無数にあるのだ。 一般に、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つを F ( x ) {\displaystyle F(x)} とするとき、原始関数に任意の定数を足した関数 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} も f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数になる。 なぜなら、 F ( x ) {\displaystyle F(x)} が f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数である、つまり、 F ′ ( x ) = f ( x ) {\displaystyle F'(x)=f(x)} のとき、 ( F ( x ) + C ) ′ = F ′ ( x ) + ( C ) ′ = F ′ ( x ) = f ( x ) {\displaystyle {(F(x)+C)}'=F'(x)+{(C)}'=F'(x)=f(x)} となるからだ。 また、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つが F ( x ) {\displaystyle F(x)} であるとき、すべての関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数は F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} の形に書ける。 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} の形に書けない関数 G ( x ) {\displaystyle G(x)} が関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数であると仮定する。このとき、 h ( x ) = F ( x ) − G ( x ) {\displaystyle h(x)=F(x)-G(x)} とすると、関数 h ( x ) {\displaystyle h(x)} は定数ではない。 このとき、 h ′ ( x ) = { F ( x ) − G ( x ) } ′ = F ′ ( x ) − G ′ ( x ) = f ( x ) − f ( x ) = 0 {\displaystyle h'(x)=\{F(x)-G(x)\}'=F'(x)-G'(x)=f(x)-f(x)=0} であるはずだが、関数 h ( x ) {\displaystyle h(x)} は定数ではないので h ′ ( x ) = 0 {\displaystyle h'(x)=0} とならない。これは矛盾なので、すべての関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数は F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} の形に書けることが証明できる。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の全体を、 ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int f(x)dx} と表す。この表記法は最初は奇妙に思うだろうが、このように表記する理由は後に説明するので、今は、そのまま覚えて欲しい。 まとめると、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の全体 ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int f(x)dx} は、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つを F ( x ) {\displaystyle F(x)} として、その関数に任意の定数を足した関数 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} で表される。つまり、 C {\displaystyle C} は任意の定数としたが、この任意の定数 C {\displaystyle C} を積分定数(constant of integration)と呼ぶ。 ※注意  ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int f(x)dx} は定義にもあるように、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の全体を表している。つまり、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つを F ( x ) {\displaystyle F(x)} とするとき、 ∫ f ( x ) d x = F ( x ) + C {\displaystyle \int f(x)dx=F(x)+C} の右辺 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} は、 F ( x ) {\displaystyle F(x)} に定数を足した関数の全体を表している。つまり、 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} は、 F ( x ) + 1 {\displaystyle F(x)+1} や、 F ( x ) − 23 {\displaystyle F(x)-23} や、 F ( x ) − 5 π {\displaystyle F(x)-5\pi } などの、 F ( x ) {\displaystyle F(x)} に定数を足した関数すべてをまとめて F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} と表している。このことがあやふやになっていると、重大な間違いを起こす可能性があるので、注意が必要である。 関数 f ( x ) = x n {\displaystyle f(x)=x^{n}} (ただし n {\displaystyle n} は自然数)の不定積分を求めてみる。やや天下り的だが、 F ( x ) = 1 n + 1 x n + 1 + C {\displaystyle F(x)={\frac {1}{n+1}}x^{n+1}+C} ( C {\displaystyle C} は任意の定数)とおくと、 F ′ ( x ) = x n {\displaystyle F'(x)=x^{n}} となるので、 1 n + 1 x n + 1 + C {\displaystyle {\frac {1}{n+1}}x^{n+1}+C} は原始関数であることがわかる。 したがって ∫ x n d x = 1 n + 1 x n + 1 + C {\displaystyle \int x^{n}dx={\frac {1}{n+1}}x^{n+1}+C} 関数 f ( x ) , g ( x ) {\displaystyle f(x),g(x)} の原始関数をそれぞれ、 F ( x ) , G ( x ) {\displaystyle F(x),G(x)} とする。 a {\displaystyle a} を任意の実数定数とすると { F ( x ) + G ( x ) } ′ = F ′ ( x ) + G ′ ( x ) = f ( x ) + g ( x ) {\displaystyle \{F(x)+G(x)\}'=F'(x)+G'(x)=f(x)+g(x)} { a F ( x ) } ′ = a F ′ ( x ) = a f ( x ) {\displaystyle \{aF(x)\}'=aF'(x)=af(x)} となるので、 ∫ { f ( x ) + g ( x ) } d x = ∫ f ( x ) d x + ∫ g ( x ) d x {\displaystyle \int \{f(x)+g(x)\}dx=\int f(x)dx+\int g(x)dx} ∫ a f ( x ) d x = a ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int af(x)dx=a\int f(x)dx} が成り立つことが分かる。 演習問題 不定積分 ∫ ( x 8 + 2 x 2 − 6 x + 9 ) d x {\displaystyle \int (x^{8}+2x^{2}-6x+9)dx} を求めよ 解答 ∫ ( x 8 + 2 x 2 − 6 x + 9 ) d x = ∫ x 8 d x + 2 ∫ x 2 d x − 6 ∫ x d x + 9 ∫ d x = x 9 9 + 2 x 3 3 − 3 x 2 + 9 x + C {\displaystyle \int (x^{8}+2x^{2}-6x+9)dx=\int x^{8}\,dx+2\int x^{2}\,dx-6\int x\,dx+9\int dx={\frac {x^{9}}{9}}+{\frac {2x^{3}}{3}}-3x^{2}+9x+C} ( C {\displaystyle C} は積分定数) 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つを F ( x ) {\displaystyle F(x)} とする。この原始関数に値を代入して、その値の差を求める操作を、定積分と呼び、 ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx} と書く。つまり、 である。 [ f ( x ) ] a b = f ( b ) − f ( a ) {\displaystyle [f(x)]_{a}^{b}=f(b)-f(a)} [1]とする。 このようにすると、 ∫ a b f ( x ) d x = [ F ( x ) ] a b = F ( b ) − F ( a ) {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx=[F(x)]_{a}^{b}=F(b)-F(a)} と計算できる。 定積分の値は原始関数の選択によらない。実際、原始関数として、 F ( x ) + C {\displaystyle F(x)+C} を選び、定積分を計算すると、 ∫ a b f ( x ) d x = ( F ( b ) + C ) − ( F ( a ) + C ) = F ( b ) − F ( a ) {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx=(F(b)+C)-(F(a)+C)=F(b)-F(a)} となり、原始関数としてどれを選んでも定積分の値は一定であることがわかる。[2] 関数 f ( x ) , g ( x ) {\displaystyle f(x),g(x)} に対して、原始関数をそれぞれ F ( x ) , G ( x ) {\displaystyle F(x),G(x)} とする。 k {\displaystyle k} を実数として、 ∫ a b k f ( x ) d x = k F ( b ) − k F ( a ) = k ( F ( b ) − F ( a ) ) = k ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}kf(x)\,dx=kF(b)-kF(a)=k(F(b)-F(a))=k\int _{a}^{b}f(x)\,dx} ∫ a b { f ( x ) + g ( x ) } d x = [ F ( x ) + G ( x ) ] a b = F ( b ) + G ( b ) − ( F ( a ) + G ( a ) ) = F ( b ) − F ( a ) + G ( b ) − G ( a ) = ∫ a b f ( x ) d x + ∫ a b g ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}\{f(x)+g(x)\}dx=[F(x)+G(x)]_{a}^{b}=F(b)+G(b)-(F(a)+G(a))=F(b)-F(a)+G(b)-G(a)=\int _{a}^{b}f(x)\,dx+\int _{a}^{b}g(x)\,dx} ∫ a a f ( x ) d x = F ( a ) − F ( a ) = 0 {\displaystyle \int _{a}^{a}f(x)\,dx=F(a)-F(a)=0} ∫ b a f ( x ) d x = F ( a ) − F ( b ) = − ( F ( b ) − F ( a ) ) = − ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{b}^{a}f(x)\,dx=F(a)-F(b)=-(F(b)-F(a))=-\int _{a}^{b}f(x)\,dx} ∫ a b f ( x ) d x = F ( b ) − F ( a ) = ( F ( b ) − F ( c ) ) + ( F ( c ) − F ( a ) ) = ∫ a c f ( x ) d x + ∫ c b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)\,dx=F(b)-F(a)=(F(b)-F(c))+(F(c)-F(a))=\int _{a}^{c}f(x)\,dx+\int _{c}^{b}f(x)\,dx} が成り立つ。 ∫ 2 5 x 3 d x {\displaystyle \int _{2}^{5}x^{3}dx} を求める。 1 4 x 4 {\displaystyle {\frac {1}{4}}x^{4}} は、微分すると、 x 3 {\displaystyle x^{3}} なので、 1 4 x 4 {\displaystyle {\frac {1}{4}}x^{4}} は x 3 {\displaystyle x^{3}} の原始関数の一つである。よって ∫ 2 5 x 3 d x = [ 1 4 x 4 ] 2 5 = 1 4 5 4 − 1 4 2 4 = 609 4 {\displaystyle \int _{2}^{5}x^{3}dx=\left[{\frac {1}{4}}x^{4}\right]_{2}^{5}={\frac {1}{4}}5^{4}-{\frac {1}{4}}2^{4}={\frac {609}{4}}} である。 1 4 x 4 + 1 {\displaystyle {\frac {1}{4}}x^{4}+1} も、微分すると、 x 3 {\displaystyle x^{3}} なので、 1 4 x 4 + 1 {\displaystyle {\frac {1}{4}}x^{4}+1} は x 3 {\displaystyle x^{3}} の原始関数の一つである。よって、 ∫ 2 5 x 3 d x = [ 1 4 x 4 + 1 ] 2 5 = ( 1 4 5 4 + 1 ) − ( 1 4 2 4 + 1 ) = 609 4 {\displaystyle \int _{2}^{5}x^{3}dx=\left[{\frac {1}{4}}x^{4}+1\right]_{2}^{5}=\left({\frac {1}{4}}5^{4}+1\right)-\left({\frac {1}{4}}2^{4}+1\right)={\frac {609}{4}}} と求めることもできる。 aを定数とするとき、定積分 ∫ a x f ( t ) d t {\displaystyle \int _{a}^{x}f(t)\,dt} はxの関数になる。 関数 f ( t ) {\displaystyle f(t)} の原始関数の一つを F ( t ) {\displaystyle F(t)} とすると この両辺をxで微分すると、 F ( a ) {\displaystyle F(a)} は定数であるから 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が a ≦ x ≦ b {\displaystyle a\leqq x\leqq b} の範囲で常に正であるとする。このとき、定積分 ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx} によって、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフと、直線 x = a {\displaystyle x=a} 、直線 x = b {\displaystyle x=b} 、 x {\displaystyle x} 軸で囲まれた部分の面積を求めることができる。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフと、直線 x = a {\displaystyle x=a} 、直線 x = c {\displaystyle x=c} と、 x {\displaystyle x} 軸で囲まれた部分の面積を S ( c ) {\displaystyle S(c)} とすることによって、関数 S ( x ) {\displaystyle S(x)} を定める。( a ≦ x ≦ b {\displaystyle a\leqq x\leqq b} とする) 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフと、直線 x = c {\displaystyle x=c} 、直線 x = c + h {\displaystyle x=c+h} と、 x {\displaystyle x} 軸で囲まれた部分の面積を考える( a ≦ c + h ≦ b {\displaystyle a\leqq c+h\leqq b} とする)。これは、 S ( c + h ) − S ( c ) {\displaystyle S(c+h)-S(c)} である。ここで、 c < t < c + h {\displaystyle c<t<c+h} なる t {\displaystyle t} をとってきて、その点における f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値 f ( t ) {\displaystyle f(t)} を高さとする長方形の面積を考えることで、 t {\displaystyle t} を上手にとれば、 S ( c + h ) − S ( c ) = h ⋅ f ( t ) {\displaystyle S(c+h)-S(c)=h\cdot f(t)} とできる。両辺を h {\displaystyle h} で割り、 h → 0 {\displaystyle h\to 0} の極限を考えると、 であるが、左辺は微分の定義より S ′ ( c ) {\displaystyle S'(c)} であり、 lim h → 0 t = c {\displaystyle \lim _{h\to 0}t=c} であることに注意すると右辺は f ( c ) {\displaystyle f(c)} である。文字を c {\displaystyle c} から x {\displaystyle x} に取り換えると、結局 が得られる。つまり、 S ( x ) {\displaystyle S(x)} は f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数の一つであることが分かる。 よって、 ∫ a b f ( x ) d x = S ( b ) − S ( a ) {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx=S(b)-S(a)} であるが、この式の右辺は、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフと、直線 x = a {\displaystyle x=a} 、直線 x = b {\displaystyle x=b} と、 x {\displaystyle x} 軸で囲まれた面積である。よって、左辺 ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)dx} は、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフと、直線 x = a {\displaystyle x=a} 、直線 x = b {\displaystyle x=b} と、 x {\displaystyle x} 軸で囲まれた面積を表している。 a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b}  で、  f ( x ) ≥ 0 {\displaystyle f(x)\geq 0}  のとき、直線 x = a , x = b {\displaystyle x=a,x=b} と x {\displaystyle x} 軸、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} で囲まれる面積 S {\displaystyle S} は 歴史的には、積分は、関数のグラフで囲まれた部分の面積を求めるために考え出された。この節で述べたような微分との関連は積分自体の発明よりずっと後になって発見されたことである。 例として、 0 ≦ x ≦ 1 {\displaystyle 0\leqq x\leqq 1} の範囲で、y = xのグラフとx軸ではさまれた部分の面積を、積分を用いて計算する。 ( 実際にはこれは三角形なので、積分を用いなくても面積を計算することが出来る。 答は 1 2 {\displaystyle {\frac {1}{2}}} となる。 ) 定積分を行なうと、 ∫ 0 1 x d x {\displaystyle \int _{0}^{1}xdx} = 1 2 [ x 2 ] 0 1 {\displaystyle ={\frac {1}{2}}[x^{2}]_{0}^{1}} = 1 2 [ 1 2 − 0 2 ] {\displaystyle ={\frac {1}{2}}[1^{2}-0^{2}]} = 1 2 [ 1 − 0 ] {\displaystyle ={\frac {1}{2}}[1-0]} = 1 2 {\displaystyle ={\frac {1}{2}}} となり確かに一致する。 演習問題 放物線 y = 5 − x 2 {\displaystyle y=5-x^{2}} とx軸および2直線 x = − 1   ,   x = 2 {\displaystyle x=-1\ ,\ x=2} で囲まれた部分の面積Sを求めよ。 解答 この放物線は − 1 ≤ x ≤ 2 {\displaystyle -1\leq x\leq 2} でx軸の上側にあるから、 a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b}  において、常に  f ( x ) ≥ g ( x ) {\displaystyle f(x)\geq g(x)}  であるとき、2つの曲線  y = f ( x )   ,   y = g ( x ) {\displaystyle y=f(x)\ ,\ y=g(x)}  に挟まれる部分の面積Sは、次の式で表される。 a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b}  で、  f ( x ) ≥ g ( x ) {\displaystyle f(x)\geq g(x)}  のとき、 放物線 y = x 2 − 1 {\displaystyle y=x^{2}-1} と直線 y = x + 1 {\displaystyle y=x+1} によって囲まれた部分の面積Sを求めよ。 放物線と直線の交点のx座標は − 1 ≤ x ≤ 2 {\displaystyle -1\leq x\leq 2} の範囲で x 2 − 1 ≤ x + 1 {\displaystyle x^{2}-1\leq x+1} より a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b}  で、  f ( x ) ≤ 0 {\displaystyle f(x)\leq 0}  のとき、x軸 y = 0 {\displaystyle y=0} と曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} によって挟まれていると考えられるので、 となる。 a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b}  で、  f ( x ) ≤ 0 {\displaystyle f(x)\leq 0}  のとき、 放物線 y = x 2 − 2 x {\displaystyle y=x^{2}-2x} とx軸で囲まれた部分の面積Sを求めよ。 放物線とx軸の交点のx座標は この放物線は 0 ≤ x ≤ 2 {\displaystyle 0\leq x\leq 2} でx軸の下側にあるから、 微分積分は、物理学でも運動方程式の計算などに応用されている。 1600年代、ニュートンなどの研究により、運動の法則を微分積分を使った式で表現できることが解明された。 なお、ニュートンは著書として『プリンピキア』をあわらし、その著書でニュートンは運動の法則が微分積分で表されることを述べ、力学(りきがく)の理論を進歩させた。 なお、微分積分を研究した同時代の数学者には、ニュートンの他にもライプニッツがいる。 高校数学をしていると「将来微分とか積分とか何に使う?」と思う人の方が多いと思う。確かに日常生活では、積分などの高度な 数学は使わない。だがその一方裏では積分や 微分、高校数学では収まらないような数学が使われている。例えば台風の進路予想。 これは積分を使い台風の進路を予測している。他にもセキュリティの強化などにも数学は使われている。日常生活では数学は使わないが、数学に親しみを持ってみてはどうだろうか。 (1) F ( x ) = 2 x 2 {\displaystyle F(x)=2x^{2}} のとき f ( x ) {\displaystyle f(x)} を求めよ。ただし F ′ ( x ) {\displaystyle F'(x)} (3)原始関数、定積分を求めよ 3) lim x → 0 ∫ x 5 2 x d x {\displaystyle \lim _{x\rightarrow 0}\int _{x}^{5}2xdx} 4) ∫ − 60 60 sin ⁡ x + cos 2 ⁡ x d x {\displaystyle \int _{-60}^{60}\sin x+\cos ^{2}xdx} (1) f ( x ) = x 3 {\displaystyle f(x)=x^{3}} 冪乗の微分は y ′ = n x n − 1 {\displaystyle y'=nx^{n}-1} であるため不定積分の定義より f ( x ) = x 3 {\displaystyle f(x)=x^{3}} である。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6II/%E5%BE%AE%E5%88%86%E3%83%BB%E7%A9%8D%E5%88%86%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88
ここでは、極限について学ぶ。微分・積分の考えでは簡単な関数の極限について学んだが、ここでは数列の極限、さらには無理関数や三角関数などの関数の極限について学ぶ。極限は微分積分の基礎となっており重要である。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} が有限個の項しかもたないとき、有限数列といい、項が限りなく続くとき無限数列という。ここでは無限数列を考えるから断りがない場合、無限数列を単に数列と書くことにする。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} において、項の番号 n {\displaystyle n} が限りなく大きくなっていくとき、 a n {\displaystyle a_{n}} がある一定の値 α {\displaystyle \alpha } に限りなく近づいていくならば、数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} は α {\displaystyle \alpha } に収束するといい、 または簡単に とかく。また、 α {\displaystyle \alpha } をこの数列の極限値という。 収束する数列には次のような性質がある。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} , { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} において, lim n → ∞ a n = α {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=\alpha } , lim n → ∞ b n = β {\displaystyle \lim _{n\to \infty }b_{n}=\beta } とすると、 数列には収束しないものがある。たとえば は収束しない。収束しない数列は発散(はっさん) するという。発散する数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} で n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } のとき項 a n {\displaystyle a_{n}} の値が限りなく大きくなるときこの数列は正の無限大(せい の むげんだい) に発散するといい、「その極限は正の無限大である」のようにいう。このことを次のように表す。 逆に n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } のとき、項 a n {\displaystyle a_{n}} が負の値でその絶対値が限りなく大きくなるときこの数列は負の無限大 に発散するといい、その極限は負の無限大であるという。このことを次のように表す。 発散する数列には次のようなものもある。 いずれの数列も正の無限大にも負の無限大にも発散しない。このような数列を振動(しんどう) するという。このときもこの数列には極限値が存在しない。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} , { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} について、 n {\displaystyle n} が十分に大きいとき常に a n ≤ b n {\displaystyle a_{n}\leq b_{n}} を満たしていて、 lim n → ∞ a n = α {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=\alpha } かつ { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} の極限値も存在するならば、 となる。 これを証明するためには、「限り無く近づく」という言葉の、数学的な意味を明確にする必要がある。初学者には難解な証明であるため、高校数学では直感的に成り立ちそうなことを理解してほしい。参考として、以下に証明の一例を挙げておく。 α > lim n → ∞ b n {\displaystyle \alpha >\lim _{n\to \infty }b_{n}} と仮定すると、 α − lim n → ∞ b n = ϵ ′ > 0 {\displaystyle \alpha -\lim _{n\to \infty }b_{n}=\epsilon '>0} である。 b n {\displaystyle b_{n}} は限りなく α − ϵ ′ / 2 {\displaystyle \alpha -\epsilon '/2} より小さい数に近づくから、 n {\displaystyle n} が十分大きいときは常に b n < α − ϵ ′ / 2 {\displaystyle b_{n}<\alpha -\epsilon '/2} となる。 a n {\displaystyle a_{n}} は限りなく α {\displaystyle \alpha } に近づくため、任意の正の数 ϵ {\displaystyle \epsilon } に対して、十分大きな数 N {\displaystyle N} であって、 n ≥ N {\displaystyle n\geq N} ならば常に α − a n < ϵ {\displaystyle \alpha -a_{n}<\epsilon } が成り立つようなものが存在するはずである。いま、 a n ≤ b n {\displaystyle a_{n}\leq b_{n}} であったから、十分大きな n {\displaystyle n} では常に b n ≥ α − ϵ {\displaystyle b_{n}\geq \alpha -\epsilon } となる。 ϵ {\displaystyle \epsilon } は任意の正の数であったから、 ϵ = ϵ ′ / 2 {\displaystyle \epsilon =\epsilon '/2} とすると、十分大きな n {\displaystyle n} について矛盾する式が成立することになる。したがって、背理法により α ≤ lim n → ∞ b n {\displaystyle \alpha \leq \lim _{n\to \infty }b_{n}} である。■ 興味を持った人は大学1年生程度を対象とする微分積分学の教科書を参照してほしい。例えば、解析学基礎など。 次に、はさみうちの原理 を紹介する。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} , { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} , { c n } {\displaystyle \{c_{n}\}} について、 n {\displaystyle n} が十分に大きいとき常に a n ≤ b n ≤ c n {\displaystyle a_{n}\leq b_{n}\leq c_{n}} を満たしていて、 lim n → ∞ a n = lim n → ∞ c n = α {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=\lim _{n\to \infty }c_{n}=\alpha } ならば、 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} の極限値も存在して、 となる。 lim n → ∞ b n {\displaystyle \lim _{n\to \infty }b_{n}} が存在することはあきらか。先の定理より、 であるので、 が成立。■ つぎの極限値を求めよ。 実数の数列 { a n } , { b n } {\displaystyle \{a_{n}\},\{b_{n}\}} があり、全ての n {\displaystyle n} について a n ≤ b n {\displaystyle a_{n}\leq b_{n}} とする。 このとき、 lim n → ∞ a n = ∞ {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=\infty } ならば lim n → ∞ b n = ∞ {\displaystyle \lim _{n\to \infty }b_{n}=\infty } である。 同様に、全ての n {\displaystyle n} について a n ≥ b n {\displaystyle a_{n}\geq b_{n}} であり lim n → ∞ a n = − ∞ {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=-\infty } ならば、 lim n → ∞ b n = − ∞ {\displaystyle \lim _{n\to \infty }b_{n}=-\infty } である。 高校レベルでの証明はできないが、数列の各項を折れ線で結んだ a n {\displaystyle a_{n}} ー n {\displaystyle n} グラフを書くことで成り立つことが直感的に理解できる。 等比数列 { r n } {\displaystyle \{r^{n}\}} の極限について考えてみよう。 r = 1 + h {\displaystyle r=1+h} とおくと、 であるので、 したがって、 n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } のとき、 1 + n h → ∞ {\displaystyle 1+nh\to \infty } だから、 1 {\displaystyle 1} は何乗しても 1 {\displaystyle 1} だから、 r = 0 {\displaystyle r=0} ならばあきらかに、 r ≠ 0 {\displaystyle r\neq 0} のとき、 | r | − 1 > 1 {\displaystyle |r|^{-1}>1} だから、(i) より したがって、 r n {\displaystyle r^{n}} は n {\displaystyle n} が奇数の場合 − 1 {\displaystyle -1} 、 n {\displaystyle n} が偶数の場合 1 {\displaystyle 1} となるので振動する。 | r | > 1 {\displaystyle |r|>1} より、 となるが、 r n {\displaystyle r^{n}} は n {\displaystyle n} が奇数の場合 r n < 0 {\displaystyle r^{n}<0} 、 n {\displaystyle n} が偶数の場合 r n > 0 {\displaystyle r^{n}>0} となるので振動する。 まとめると、次のようになる。 収束 発散 一般項が次のように表される数列の収束・発散について調べ、極限値があるならばこれを求めよ。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第 n {\displaystyle n} 項までの和を S n {\displaystyle S_{n}} と表すことにする。すなわち、 このとき、 { S n } {\displaystyle \{S_{n}\}} は数列の一種とみなすことができ、このようにある数列の初項から第 n {\displaystyle n} 項までを順番に足してできる数列を級数(きゅうすう) という。もとの数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} が無限数列である場合、級数 { ∑ k = 1 n a k } {\displaystyle \left\{\sum _{k=1}^{n}a_{k}\right\}} も無限に項を持つことになる。このような級数を無限級数(むげんきゅうすう) という。以下、単に級数というときは無限級数であるとする。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} において、初項から第 n {\displaystyle n} 項までの和を第 n {\displaystyle n} 部分和(ぶぶんわ)という。 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} から作られる級数の第 n {\displaystyle n} 部分和 (つまり、 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の初項から第n項までの和)を S n {\displaystyle S_{n}} と表すことにし、この級数 { S n } {\displaystyle \{S_{n}\}} の極限値が S {\displaystyle S} であるとき、 S n {\displaystyle S_{n}} は S {\displaystyle S} に収束するといい、 S {\displaystyle S} を級数の和という。このことを次のように表す。 または または 2番目の表記はシグマ記号を使わない分直感には訴えやすい面もあるが、注意深く表記しないと「…」の指すものがはっきりしないため、あまり好ましくない。 数列 { S n } {\displaystyle \{S_{n}\}} が発散するときこの級数は発散するという。 つぎの級数の収束・発散について調べ、和が存在するならば求めよ。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} から作られる級数 S n {\displaystyle S_{n}} が収束する必要条件は、 である。 α ≠ 0 {\displaystyle \alpha \neq 0} とし、 lim n → ∞ a n = α {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=\alpha } とする。 n > 1 {\displaystyle n>1} のとき、 となるので、 しかし、 lim n → ∞ S n = lim n → ∞ S n − 1 = S {\displaystyle \lim _{n\to \infty }S_{n}=\lim _{n\to \infty }S_{n-1}=S} であるから、これは矛盾。したがって、 α = 0 {\displaystyle \alpha =0} でなくてはならない。■ 逆に、 lim n → ∞ a n = 0 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }a_{n}=0} であっても、 ∑ n ∞ a n {\displaystyle \sum _{n}^{\infty }a_{n}} が収束するとは限らない。 初項が a {\displaystyle a} で公比が r {\displaystyle r} の数列から作られる級数を無限等比級数 または単に等比級数(とうひ きゅうすう) という。 等比級数の収束・発散について考えてみよう。この等比級数の第 n {\displaystyle n} 部分和は、 となる。 すべての n {\displaystyle n} で a n = 0 {\displaystyle a_{n}=0} となるから、 | r | < 1 {\displaystyle |r|<1} とすると、 であるから、 r > 1 {\displaystyle r>1} または r ≤ − 1 {\displaystyle r\leq -1} のときは、 { a r n − 1 } {\displaystyle \{ar^{n-1}\}} は発散するから、 { S n } {\displaystyle \{S_{n}\}} は発散する。また、 r = 1 {\displaystyle r=1} のときは、 であるから、先の定理より { S n } {\displaystyle \{S_{n}\}} は発散する。 このことは次のようにまとめられる。 a ≠ 0 {\displaystyle a\neq 0} のとき、初項 a {\displaystyle a} , 公比 r {\displaystyle r} の等比級数は 次の等比級数の収束・発散について調べ、収束するものについてはその和を求めよ。 y = 1 x   ,   y = 2 x − 1 x − 1 {\displaystyle y={\frac {1}{x}}\ ,\ y={\frac {2x-1}{x-1}}} のように、xの分数式で表される関数をxの分数関数という。 y = k x {\displaystyle y={\frac {k}{x}}} のグラフは双曲線(そうきょくせん)で、原点に関して対称である。双曲線 y = k x {\displaystyle y={\frac {k}{x}}} の漸近線は、x軸とy軸である。 関数 y = k x − p + q {\displaystyle y={\frac {k}{x-p}}+q} のグラフは、関数 y = k x {\displaystyle y={\frac {k}{x}}} のグラフをx軸方向にp、y軸方向にqだけ平行移動したもので、漸近線は2直線 x = p   ,   y = q {\displaystyle x=p\ ,\ y=q} である。 分数関数 y = 2 x + 3 x + 1 {\displaystyle y={\frac {2x+3}{x+1}}} のグラフの漸近線の方程式を求めよ。 ゆえに、この関数のグラフは、双曲線 y = 1 x {\displaystyle y={\frac {1}{x}}} をx軸方向に-1、y軸方向に2だけ平行移動したものである。 漸近線の方程式は x = − 1   ,   y = 2 {\displaystyle x=-1\ ,\ y=2} である。 x   ,   3 x − 8 3 {\displaystyle {\sqrt {x}}\ ,\ {\sqrt[{3}]{3x-8}}} のように、根号の中に文字を含む式を無理式(むりしき)といい、変数xの無理式で表される関数をxの無理関数(むりかんすう)という。 y = x {\displaystyle y={\sqrt {x}}} のグラフについて考える。 y = x {\displaystyle y={\sqrt {x}}} の定義域は x ≥ 0 {\displaystyle x\geq 0} 、値域は y ≥ 0 {\displaystyle y\geq 0} である。 y = x {\displaystyle y={\sqrt {x}}} の両辺を2乗すると、 y 2 = x {\displaystyle y^{2}=x} 、すなわち x = y 2 {\displaystyle x=y^{2}} のグラフは原点を頂点とし、x軸を対称軸とする放物線である。 y = x {\displaystyle y={\sqrt {x}}} では y ≥ 0 {\displaystyle y\geq 0} であるから、 y = x {\displaystyle y={\sqrt {x}}} のグラフは x = y 2 {\displaystyle x=y^{2}} のグラフの上半分である。 無理関数 y = a x + b {\displaystyle y={\sqrt {ax+b}}} について、 であるから、無理関数 y = a x + b {\displaystyle y={\sqrt {ax+b}}} のグラフは、 y = a x {\displaystyle y={\sqrt {ax}}} のグラフをx軸方向に − b a {\displaystyle -{\frac {b}{a}}} だけ平行移動したものである。 無理関数 y = − 2 x − 6 {\displaystyle y={\sqrt {-2x-6}}} のグラフは y = − 2 x {\displaystyle y={\sqrt {-2x}}} のグラフをどのように平行移動したものか。 ゆえに、この関数のグラフは、 y = − 2 x {\displaystyle y={\sqrt {-2x}}} をx軸方向に-3だけ平行移動したものである。 なお、分母がn次式である分数関数をn次分数関数、根号の中がn次式である無理関数をn次無理関数と呼ぶ場合がある。また、高校で扱う整関数・三角関数・指数関数・対数関数・分数関数・無理関数及びそれらの逆関数を総称して初等関数と呼ぶ。 二つの関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} と g ( x ) {\displaystyle g(x)} が与えられたとき、 f ( g ( x ) ) {\displaystyle f(g(x))} という新しい関数を考えることができる。たとえば f ( x ) = x 2 + x + 2 {\displaystyle f(x)=x^{2}+x+2} , g ( x ) = x + 1 {\displaystyle g(x)=x+1} とすると、 一般に二つの関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} , g ( x ) {\displaystyle g(x)} が与えられたとき、関数 f ( g ( x ) ) {\displaystyle f(g(x))} や g ( f ( x ) ) {\displaystyle g(f(x))} を f ( x ) {\displaystyle f(x)} と g ( x ) {\displaystyle g(x)} の合成関数(ごうせい かんすう)という。合成関数 f ( g ( x ) ) {\displaystyle f(g(x))} を ( f ∘ g ) ( x ) {\displaystyle (f\circ g)(x)} とかくことがある。 また、 ( f ∘ f ) ( x ) = f 2 ( x ) {\displaystyle (f\circ f)(x)=f^{2}(x)} 、 ( f 2 ∘ f ) ( x ) = f 3 ( x ) {\displaystyle (f^{2}\circ f)(x)=f^{3}(x)} のように、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} 同士を n {\displaystyle n} 回合成した関数を f n ( x ) {\displaystyle f^{n}(x)} と表すことがある。ただし、三角関数(と双曲線関数)に限って f n ( x ) {\displaystyle f^{n}(x)} は ( f ( x ) ) n {\displaystyle (f(x))^{n}} を意味するので注意。また、多階微分の記法 f ( n ) ( x ) {\displaystyle f^{(n)}(x)} とも混同しないよう注意が必要である。 f ( x ) = x 2 − 1 {\displaystyle f(x)=x^{2}-1} , g ( x ) = x x + 1 {\displaystyle g(x)={\frac {x}{x+1}}} のとき、合成関数 ( f ∘ g ) ( x ) {\displaystyle (f\circ g)(x)} と ( g ∘ f ) ( x ) {\displaystyle (g\circ f)(x)} を求めよ。 この例題のように、一般に ( f ∘ g ) ( x ) {\displaystyle (f\circ g)(x)} と ( g ∘ f ) ( x ) {\displaystyle (g\circ f)(x)} は等しくない。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} と関数 g ( x ) {\displaystyle g(x)} が与えられて、 をすべての定義域内の x {\displaystyle x} で満たすとき、 g ( x ) {\displaystyle g(x)} を f ( x ) {\displaystyle f(x)} の逆関数(ぎゃくかんすう)といい、 と表す。 f ( x ) = x n ( x ≥ 0 ) {\displaystyle f(x)=x^{n}(x\geq 0)} の逆関数 f − 1 ( x ) {\displaystyle f^{-1}(x)} を求めよ。 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} とおいて x {\displaystyle x} について解くと、 となる。したがって、 f − 1 ( x ) = x n {\displaystyle f^{-1}(x)={\sqrt[{n}]{x}}} 。 この例題のように、ある関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の逆関数 f − 1 ( x ) {\displaystyle f^{-1}(x)} を求めるには x {\displaystyle x} について解いて x {\displaystyle x} と y {\displaystyle y} を入れ替えればよい。 関数の記号として数学では、よく f {\displaystyle f} を使うが、これは関数が英語で function (ファンクション)ということに由来している。 中国語で function を音訳すると「函数」になるので、日本でも第二次世界大戦が終わるまでは「函数」の字を使っていた。 しかし、戦後の漢字改革により、「函」の字が当用漢字でなくなった事により、「関」は発音が同じことと、「関係している」の意味も兼ねて、functionの日本語訳として 「関数」 と書かれるようになった。(※ ここまで、実教出版の検定教科書に記述あり) なお、「函」の意味は「箱」である。日本語でも、よく「郵便ポストにハガキを投函(とうかん)する」などと言うが、その「投函」の「函」の字と同じである。このことから、関数の概念を教わる際に「ブラックボックス」を用いて説明される場合がある。 (※ 範囲外) 次に逆関数が存在する条件について考えてみよう。逆関数も関数であるから(逆関数の)定義域に含まれるすべての x {\displaystyle x} で f − 1 ( x ) {\displaystyle f^{-1}(x)} が一意に定まらなくてはならない。すなわち、 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} において、定義域の x {\displaystyle x} と値域の y {\displaystyle y} のどちらかを定めるともう片方が一意に定まるような関数でなくてはならない。このことを関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が全単射(ぜんたんしゃ)である、または一対一 対応(いったいいち たいおう)であるという。関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が全単射であることは f ( x ) {\displaystyle f(x)} に逆関数が存在することの必要十分条件である。 詳しくは大学で写像の概念と共に学ぶ。 (ここまで、範囲外) ある関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} において、 x {\displaystyle x} が定数 a 1 {\displaystyle a_{1}} より小さい値をとりながら a 1 {\displaystyle a_{1}} に限りなく近づくときの関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値が一定の値 b 1 {\displaystyle b_{1}} に限りなく近づくとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の左極限値(左側極限)は b 1 {\displaystyle b_{1}} であるといい、 と表す。同様に x {\displaystyle x} が定数 a 2 {\displaystyle a_{2}} より大きい値をとりながら a 2 {\displaystyle a_{2}} に限りなく近づくときの関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値が一定の値 b 2 {\displaystyle b_{2}} に限りなく近づくとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の右極限値(右側極限)は b 2 {\displaystyle b_{2}} であるといい、 と表す。 右側極限と左側極限を合わせて片側極限と呼ぶ。 ここで、 かつ であるとき、すなわち a {\displaystyle a} における左極限値と右極限値が等しいとき f ( x ) {\displaystyle f(x)} は b {\displaystyle b} に収束するといい、 b {\displaystyle b} をそのときの f ( x ) {\displaystyle f(x)} の極限値という。このことを、 と表す。 x → a {\displaystyle x\to a} のとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が限りなく大きくなるならば、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は正の無限大に発散するといい、 lim x → a f ( x ) = ∞ {\displaystyle \lim _{x\to a}f(x)=\infty } と書く。 x → a {\displaystyle x\to a} のとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が負の値をとって、その絶対値が限りなく大きくなるならば、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は負の無限大に発散するといい、 lim x → a f ( x ) = − ∞ {\displaystyle \lim _{x\to a}f(x)=-\infty } と書く。 xを限りなく大きくするとf(x)がある値aに限りなく近づくとき と、xを負の値をとりながら限りなく絶対値を大きくするとf(x)がある値aに限りなく近づくとき、 と書き、それぞれ正の無限大における極限値、負の無限大における極限値という。 なお、数列の場合と同様にはさみうちの原理、追い出しの原理が成り立つ。 ある関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が定義域内の点 a {\displaystyle a} で連続(れんぞく)であるとは、 その関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフが x = a {\displaystyle x=a} の近傍で途切れることなく続いていることを意味する。数式で表すと次のようになる。 であることをいう。また、ある区間で f ( x ) {\displaystyle f(x)} が連続であるとは、区間内のすべての点で連続であることをいう。 くどいかもしれないが、上式は左辺の極限値が存在して、かつ右辺と一致するということを意味する。左辺の極限値が存在しない場合はf(x)は連続ではない。 また、 a {\displaystyle a} が定義域の左端・右端に位置する場合、点 ( a , f ( a ) ) {\displaystyle (a,f(a))} で関数が連続である条件はそれぞれ、 となる。 関数 f ( x ) , g ( x ) {\displaystyle f(x),g(x)} が定義域に含まれる値 a {\displaystyle a} で連続であるとき、以下の関数も x = a {\displaystyle x=a} で連続である。 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が定義域に含まれる全ての x {\displaystyle x} について連続であるとき、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} を連続関数と呼ぶ。一般に、初等関数は連続関数である。 なお、以下のような場合には注意が必要である。 区間について、以下のように定める。 ある区間を f ( x ) {\displaystyle f(x)} の定義域と考えたとき、区間に含まれる全ての点において f ( x ) {\displaystyle f(x)} が連続ならば f ( x ) {\displaystyle f(x)} はその区間で連続であるという。 一般に、次の定理が成り立つ。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が閉区間 [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で連続ならば、この区間においてそのグラフには切れ目がなく、さらに f ( a ) ≠ f ( b ) {\displaystyle f(a)\neq f(b)} ならば f ( x ) {\displaystyle f(x)} は f ( a ) {\displaystyle f(a)} と f ( b ) {\displaystyle f(b)} の間の全ての値を取る。よって、次の定理が成り立つ。 三角関数については、次が成り立つことが基本的である。 まず を示す。 半径1、中心角θの扇形を考える。後にθ→+0とするので0<θ<π/2としてよい。 扇形OABの面積は、θ/2となる。 また、三角形OABを考えると、その面積は となる。 さらに、点Aを通る辺OAの垂線と、半直線OBとの交点をB'とすると、三角形OAB'の面積は、 となる。 ここで、図から明らかに、面積について以下の不等式が成り立つ。 [三角形OAB]<[扇形OAB]<[三角形OAB'] 即ち 逆数をとって各辺にsinθを掛けると、 いま、 より、はさみうちの原理から、 が示された。 また、θ<0のときは、 を考えると、いま-θ>0であり、かつθ→-0のとき-θ→+0であるから、上の結果を使うことができて、これにより、 となる。以上より、 が成り立つ。■ 指数・対数関数に関して、次が成り立つ また、自然対数は高等学校数学III/微分法で導入されるが、自然対数については、次が成り立つ。 w:ネピア数 e {\displaystyle e} の定義より、 lim n → ∞ ( 1 + 1 n ) n = e {\displaystyle \lim _{n\to \infty }(1+{\frac {1}{n}})^{n}=e} 。これの両辺の自然対数をとって lim n → ∞ n log ⁡ ( 1 + 1 n ) = log ⁡ e = 1 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }n\log(1+{\frac {1}{n}})=\log e=1} 。ここで、 x = 1 n {\displaystyle x={\frac {1}{n}}} とすると、 n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } で x → 0 {\displaystyle x\to 0} なので、 lim x → 0 log ⁡ ( 1 + x ) x = 1 {\displaystyle \lim _{x\to 0}{\frac {\log(1+x)}{x}}=1} となる。■ また、これを用いてネピア数 e {\displaystyle e} については、次が導かれる。 lim x → 0 log ⁡ ( 1 + x ) x = 1 {\displaystyle \lim _{x\to 0}{\frac {\log(1+x)}{x}}=1} の関係式で、 e t = 1 + x {\displaystyle e^{t}=1+x} とおくと、 x → 0 {\displaystyle x\to 0} のときに t → 0 {\displaystyle t\to 0} となり、 log ⁡ ( e t ) e t − 1 = t e t − 1 → 1 ( t → 0 ) {\displaystyle {\frac {\log(e^{t})}{e^{t}-1}}={\frac {t}{e^{t}-1}}\to 1(t\to 0)} 。 両辺の逆数をとり、tをxに書き換えると、 lim x → 0 e x − 1 x = 1 {\displaystyle \lim _{x\to 0}{\frac {e^{x}-1}{x}}=1} となる。■ 次の極限を求めよ ここでは、上述のような極限の説明に「なんかウサンクサイ」と思う生徒を対象に、そのような疑問に少しでも応えることを目標とする。よって、そのような疑問を持たない生徒が読んでも、あまり意味はない。 疑問を抱いた諸君、諸君の疑問はいたって正当である。あまりこのようなことを大っぴらに書くべきではないかもしれないが、高等学校における極限の取り扱いは「子供だまし」であり、近代以降の数学では極限という概念はもっと厳密な形で取り扱われている。しかしその内容は高校生には少し難しいし、詳しい書籍はほかにも存在する(wikibooksでも解析学基礎にある程度の記述がある)。そこでここでは、高校の教科書のように「子供だまし」をするのではなく、かといって厳密な形で議論するのでもなく、諸君を納得させられるかもしれない答えを提示したい。 さて改めて、極限値という概念に次のような疑問を持つ生徒はいないだろうか。 ここでは、この問いに対するひとつの解答例を示したいと思う。分り易さを重視しているので厳密では無いが、ひとつの考え方の例として読んでもらいたい。 分数関数 f ( x ) = 1 / x {\displaystyle f(x)=1/x} を考える。この関数の正の無限大における極限値は 0 {\displaystyle 0} である。 数式で書くならば以下の通りである。 ここで敢えて、この数式には極々小さな正の誤差が紛れ込んでいる、と考える。 x {\displaystyle x} が限りなく無限大に近づいたとしても、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は絶対にx軸とは交わらず、漸近的に近づいていくだけであるため、無限大であっても等号が成り立つはずは無いからである。 そこで、極限という概念で考えるのではなく、直接 f ( x ) {\displaystyle f(x)} に無限大を代入した値を誤差として考える。 (この時、この代入の不可能性については考えないものとする。) 当然ながら、この誤差の大きさは、 1 / ∞ {\displaystyle 1/\infty } という大きさになるのだが、この大きさは一体どのようなものだろうか? そもそもこの誤差の値は、実数であるかどうかすらも怪しい。何故なら、そもそも無限大という数自体が実数とは思えない性質を持っているからだ。 無限大というのは、どの実数よりも大きい数という定義である。この時点ですでに実数の定義からハズレている事がよくわかるだろう。 実数にこの無限大という数が含まれるのであれば、無限大は無限大より大きい、という矛盾が生まれる。 ゆえに、無限大は実数と言う枠組みから外し、実数でない未知の数であると考えるべきだろう。 さて、この未知の数の逆数である 1 / ∞ {\displaystyle 1/\infty } はどういう値なのだろうか。当然ながら、これも未知の数であると言わざるを得ない。 無限大の定義より、 1 / ∞ {\displaystyle 1/\infty } はどの正の実数よりも小さい正の数、という定義になり、無限大の時と同様に、実数でないことが証明できる。 なお、この数は一般に無限小と呼ばれ、実数に無限小と無限大という概念を加えた数を「超実数」と呼ぶ。 さて、この無限小という誤差を実数としてみるとどう見えるだろうか? 無限小はどのような正の実数よりも小さい、というのだから、実数から見たら見かけ上 0 {\displaystyle 0} に見えるだろう。 そのような視点で考えているのが極限値というものである。 もう少し踏み込んで、値域を実数とする f ( x ) {\displaystyle f(x)} の値として、無限小という非実数値が出現した、という事実をどう考えるべきだろうか? その問いに対しての極限値という概念の答えは、「強引に実数に変換する」という手法なのである。 値域を実数とする関数に、非実数をいきなり登場させるわけにはいかない、というのは誰にでもわかることだろう。 其の様な問題に対して考えられる答えは「関数の値域そのものを超実数に拡張する」又は「超実数を実数に変換して、値域を実数として保つ」というものだ。 極限(lim)と言う操作・概念はこの二つの答えの内、後者の答えを選んだものとなる。 limという記号には、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} に x = a ± 1 / ∞ {\displaystyle x=a\pm 1/\infty } をそれぞれ代入した数を計算し、その値から無限小を無視して、超実数を実数に変換するという意味合いが有る。 実数という数から見れば、無限小など全く意味の無い数であることから、等式が成り立つ、と解釈できるのである。 前者の答えを選んだ学問は超準解析と呼ばれるが、これは易しい学問ではなく、高校で教えるのには向かない。 少し話をかえて、「無限大」「無限小」というモノ自体の実在について考えてみる。 上の説明では「無限大」というモノが、実数でないので何だかわからないのだが、とにかくある、という前提で話を進めてきた。ここに疑問を感じた生徒もいるかもしれない。そのような生徒に向けて、さらに補足説明する。 上でも述べたが、「超準解析」という学問においては、無限大・無限小は実体のあるものであり、数学的に厳密に取り扱われる。しかし、無限大・無限小を数学的に厳密に取り扱う事は非常に難しく、歴史的にも20世紀後半にようやく確立されたほどであった。つまり普通、数学においては無限大・無限小といったものを表に出して扱わないのである。この教科書の本文をもう一度見直してほしい。このコラムにおいて用いている「無限大に近づける(近づく)」といった表現はなく「限りなく大きくする」という表現を用いているはずである。荒っぽく言えば、「∞」は単体では意味を持たない記号であり、「 lim x → ∞ {\displaystyle \lim _{x\to \infty }} 」のような特定の文脈を与えられて初めて意味を持つ「状態を表す記号」なのである。なんらかの数を表すものではない、という事に注意してほしい。この「 lim x → ∞ {\displaystyle \lim _{x\to \infty }} 」はひと固まりで初めて意味を持つ記号であり、「xを」「∞に」「近づける」と分解するようなことはナンセンスだ、とも言える。 では、このコラムにおける説明はなんだったのか。実はこれは説明の方便である。はじめに述べたように、厳密な記述は難しいのであえて厳密でない書き方をしている。近代的な(非超準解析的な)立場の極限の取り扱い方は、実質的にはこのコラムの内容と同じことを、∞を表に出さず巧妙に表現したものである。 本文の#三角関数と極限で示されている という式について、上で示した証明は、「w:循環論法になっていて証明になっていない」と言われることがある。それはどういうことか、興味がある人のために解説を加えておく。 さてここで、どのように「循環論法」が形成されているのかはっきりさせておこう。 論理が循環している構造が分かっただろうか。「極限を求めるために、その極限を利用している」と言ってもいいだろう。 現代の数学では、もちろんこの循環論法は回避できる。もっと言えば、高校数学(新課程)の範囲内でよりよい証明を示すこともできる。しかしそれは今学んでいるより後に学習する内容を利用することにもなり、少々複雑である。 高校数学の目的は完全な論理を組み立てることではなく、むしろ数学の、高校内容の中での体系的な理解を目的としている。このような理由から、現在多くの教科書に上と同様の証明が掲載されていると考えられるし、WIKIBOOKSもこれに倣った。 しかしここでは興味のある諸君のために、「高校内容の範囲(新課程)でのよりよい証明」を示しておこう。面積を利用することは避けて、円弧の長さから問題の極限の値を導いてみよう。ただし、数学IIIの微分、積分(新課程のみの内容も含む)の内容を利用する。 まずは、「ラジアンとは何か」を考え直してみよう。というのも、ラジアンの定義には円弧の長さを利用したが、現代の数学では「w:曲線の長さ」も定義なしには扱えないからである。つまりわれわれは、円弧の長さを数学的に定義すればよいということだ。このあとの積分の単元(新課程)で学習することになるが、区間a≦x≦bで自身と導関数がともに連続である関数f について、y =f (x)(a≦x≦b)で表される曲線C の長さは、次の式で求められる。(証明は該当ページ参照 ※2014/02/08時点でWIKIBOOKS内では未作成) ここで、f (x)を半円弧 1 − x 2 ( − 1 ≤ x ≤ 1 ) {\displaystyle {\sqrt {1-x^{2}}}(-1\leq x\leq 1)} とすると、円弧の長さを計算できる。ただし、積分区間にx =-1もしくはx =1を含めると具合が悪いので(被積分関数が値を持たない(極限は正の無限大))、積分区間を − 1 2 ≤ x ≤ 1 2 {\displaystyle -{\frac {1}{\sqrt {2}}}\leq x\leq {\frac {1}{\sqrt {2}}}} としたものを四分円弧の長さとし、円の対称性から円弧一周の長さを決定するとよいとだけ補足しておく。 さて、これでようやく円弧の長さを定義できたので、ラジアンも定義することができる。いよいよ問題の極限の値を求めてみよう。そのために一般的に、再び区間a≦x≦bで自身とその導関数がともに連続である関数f について、y =f (x)(a≦x≦b)で表される曲線C を考えよう。ここで、a≦x≦b, a≦x+Δx≦b, Δx≠0を満たすようにx およびΔxをとる。また、曲線C上に2点P(x,f (x)),Q(x +Δx,f (x +Δx))をとる。いま曲線PQの長さを P Q ^ {\displaystyle {\widehat {\mathrm {P} \mathrm {Q} }}} 、直線PQの長さをPQで表すこととすると、 が成り立つことを示そう。 w:平均値の定理により、 を満たす実数θが存在する。また、 P Q ^ {\displaystyle {\widehat {\mathrm {P} \mathrm {Q} }}} を先述の式により定積分で表すと、 であり、ここで、 1 + { f ′ ( x ) } 2 {\displaystyle {\sqrt {1+\left\{f'(x)\right\}^{2}}}} が、 x = x + θ M Δ x , x + θ m Δ x {\displaystyle x=x+\theta _{M}\Delta x,x+\theta _{m}\Delta x} (0≦θM≦1, 0≦θm≦1)でそれぞれxからx +Δxの間での最大値、最小値をとるとすると、xからx +Δxの間の任意の実数t に対して、 が成り立つ。各辺x からx +Δxまで積分することにより、 を得る。よって ここで、 より、はさみうちの原理から、 さて、今度こそ問題の極限を求めてみよう。 本文と同様にθ>0をまず考える。 として、y =f (x)上のx座標がxである点をP,x+Δxである点をQとし、 とする。すると、ラジアンの定義より、 P Q ^ = 2 θ {\displaystyle {\widehat {\mathrm {P} \mathrm {Q} }}=2\theta } となり、また図形的考察によりPQ=2sinθであることが分かる(Oから弦PQに垂線を下ろすと分かりやすい)。ここで を考えると、Δx→0のとき、θ→+0であるから、上で証明したことを用いると、 θ<0のときは本文と同様である。以上より、循環論法に陥ることなく、 が示された。■ このように、この循環論法を避けるのは少々難しい。循環論法を避けるために三角関数の微積分を後回しにして、この証明のための道具が揃うまで話を進めるのはこと「学習/教育」においてはどう考えても非効率的で、そのような回り道をするのは本末転倒である。ということで、「循環論法」と聞いて教科書に不信感を抱いた君も、ここまで読めば致し方ないことに納得してもらえたと思う。 ところでこの循環論法を避ける方法はこれだけではない。sinx及びcosxをxの非負整数乗の無限級数で定義する方法や、w:微分方程式を用いて定義する方法などが考えられるが、前者は少なくとも教科書に載せるには向かないし、後者はどう考えても高校範囲外である。ここで解説することはしないが、興味があれば次に示す参考文献を読んでみるといいかもしれない。 それにしてもこのコラムをここまで読み進めた君の好奇心は大したものである。君の成長を期待している。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6III/%E6%A5%B5%E9%99%90
ここでは、微分・積分の考えで学んだ微分の性質についてより詳しく扱う。特に、関数の和、差、積、商、更に合成関数や、逆関数の導関数について詳しく扱う。また、三角関数などの複雑な関数の微分についてもここでまとめる。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が任意の点xで極限値 を持つとき、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は微分可能と言い、関数f' を、関数fの導関数と呼ぶ。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が微分可能ならば、連続関数である。 (証明) fが微分可能とすると、 なので、fは連続である。 ここでは、関数の和、差、積、商の微分について扱う。これらの方法は以降の計算で常に用いられる内容であるので、十分に習熟しておく必要がある。 f,gを微分可能な関数とする。このとき、fとgの和について次が成り立つ。 これは、関数の和を微分して得られる導関数は、それぞれの関数の和を足し合わせたものに等しいことを表している。 導出 次に、関数の実数倍の導関数について考える。関数の実数倍をしたものを微分したものは、実数倍する前の関数に対する導関数を実数倍したものになる。具体的には次の式が成り立つ。 ( a f ) ′ = a f ′ {\displaystyle (af)'=af'} (aは定数) 導出 積に関しては、和や実数倍と比べて計算結果がより複雑になる。具体的には次が成り立つ。 これは、それぞれの関数の微分とそれ以外の関数との積が得られるということを表している。これは導出を見ないとなぜこうなるかがわからないかも知れないが、よく導出を検討することが重要である。 導出 ここで、 lim h → 0 f ( x + h ) = f ( x ) {\displaystyle \lim _{h\rightarrow 0}f(x+h)=f(x)} に注意すると、 商の導関数については次式が成り立つ。 この式についても、よく導出を検討することが必要である。 導出 また、商の導関数の式と、積の導関数の式より、次の公式が導かれる。 この式は、積の式と商の式から直接従う式だが、よく現れる形であるので、覚えておくと便利なことがある。 導出 合成関数とは、2つの関数 f , g {\displaystyle f,g} を用いて、 h ( x ) = f ( g ( x ) ) {\displaystyle h(x)=f(g(x))} という形で書くことができる関数のことである。合成関数は、与えられた変数に対する関数と見ることができ、導関数を取ることも可能である。具体的には、 が成り立つ。 導出 となる。 f ( x ) = x {\displaystyle f(x)={\sqrt {x}}} 、 g ( x ) = x 2 + x + 1 {\displaystyle g(x)=x^{2}+x+1} とする。この合成関数は、 f ( g ( x ) ) = x 2 + x + 1 {\displaystyle f(g(x))={\sqrt {x^{2}+x+1}}} である。 この合成関数の導関数を求めてみよう。 f ′ ( x ) = 1 2 x {\displaystyle f'(x)={\frac {1}{2{\sqrt {x}}}}} g ′ ( x ) = 2 x + 1 {\displaystyle g'(x)=2x+1} なので、 f ( g ( x ) ) ′ = f ′ ( g ( x ) ) g ′ ( x ) = 2 x + 1 2 x 2 + x + 1 {\displaystyle {f(g(x))}'=f'(g(x))g'(x)={\frac {2x+1}{2{\sqrt {x^{2}+x+1}}}}} である。 ※関数 f , g {\displaystyle f,g} の合成関数を f ∘ g ( x ) = f ( g ( x ) ) {\displaystyle f\circ g(x)=f(g(x))} と書くことがある。 合成関数の微分はライプニッツの記法を用いて、 y = f ( u ) , u = g ( x ) {\displaystyle y=f(u),u=g(x)} のとき、 d y d x = f ( g ( x ) ) ′ {\displaystyle {\frac {dy}{dx}}=f(g(x))'} 、 f ′ ( u ) = d y d u {\displaystyle f'(u)={\frac {dy}{du}}} 、 g ′ ( x ) = d u d x {\displaystyle g'(x)={\frac {du}{dx}}} なので、 と書くことができる。 ( f − 1 ( y ) ) ′ = 1 ( f ( x ) ) ′ {\displaystyle (f^{-1}(y))'={\frac {1}{(f(x))'}}} 導出 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} と置くと、 x = f − 1 ( y ) {\displaystyle x=f^{-1}(y)} で、 y → y 0 {\displaystyle y\to y_{0}} のとき x → x 0 {\displaystyle x\to x_{0}} であるから、 また、 である。 (導出) ここで、二項定理により ただし なので、 この式を、式(1)の右辺に代入すると である。 となる。 導出 に注意すると、 となり、結果が得られた。 tan ⁡ x {\displaystyle \tan x} については、 ここで k = h x {\displaystyle k={\frac {h}{x}}} と置くと、 kを0に近づけていくと、 ( 1 + k ) 1 k {\displaystyle (1+k)^{\frac {1}{k}}} は、 1.1 1 0.1 = 2.5937424601 {\displaystyle 1.1^{\frac {1}{0.1}}=2.5937424601} 1.01 1 0.01 = 2.7048138294215260932671947108075 {\displaystyle 1.01^{\frac {1}{0.01}}=2.7048138294215260932671947108075} 1.001 1 0.001 = 2.7169239322358924573830881219476 {\displaystyle 1.001^{\frac {1}{0.001}}=2.7169239322358924573830881219476} 1.0001 1 0.0001 = 2.7181459268252248640376646749131 {\displaystyle 1.0001^{\frac {1}{0.0001}}=2.7181459268252248640376646749131} 0.9 1 − 0.1 = 2.8679719907924413133222572312408 {\displaystyle 0.9^{\frac {1}{-0.1}}=2.8679719907924413133222572312408} 0.99 1 − 0.01 = 2.7319990264290260038466717212578 {\displaystyle 0.99^{\frac {1}{-0.01}}=2.7319990264290260038466717212578} 0.999 1 − 0.001 = 2.719642216442850365397553464404 {\displaystyle 0.999^{\frac {1}{-0.001}}=2.719642216442850365397553464404} 0.9999 1 − 0.0001 = 2.7184177550104492651837311208356 {\displaystyle 0.9999^{\frac {1}{-0.0001}}=2.7184177550104492651837311208356} (計算:Windows付属電卓) となり、一定の値に近づいていく(証明は数学IIIの範囲ではできない)。 この一定の値、すなわち lim k → 0 ( 1 + k ) 1 k = 2.718281828... {\displaystyle \lim _{k\to 0}(1+k)^{\frac {1}{k}}=2.718281828...} をeで表す。すると、 lim k → 0 ( 1 + k ) 1 k = e {\displaystyle \lim _{k\to 0}(1+k)^{\frac {1}{k}}=e} これを、上の式に代入すると、 特に a = e {\displaystyle a=e} のとき、 ( log e ⁡ x ) ′ = 1 x {\displaystyle (\log _{e}x)'={\frac {1}{x}}} eを底とする対数を自然対数という。 数学では、 log e ⁡ x {\displaystyle \log _{e}x} のeを省略してlog xと書く。 数学以外の分野では、常用対数と区別するために、ln xが用いられることもある。 また、 log ⁡ | x | {\displaystyle \log |x|} の微分は、 x>0のとき x<0のとき よって、 ( log ⁡ | x | ) ′ = 1 x {\displaystyle (\log |x|)'={\frac {1}{x}}} y = a x ( a > 0 ) {\displaystyle y=a^{x}(a>0)} 両辺の自然対数をとると、 log ⁡ y = x log ⁡ a {\displaystyle \log y=x\log a} 両辺をxで微分すると、 y ′ y = log ⁡ a {\displaystyle {\frac {y'}{y}}=\log a} y ′ = y log ⁡ a {\displaystyle y'=y\log a} y ′ = a x log ⁡ a {\displaystyle y'=a^{x}\log a} 特にa=eの場合 ( e x ) ′ = e x {\displaystyle (e^{x})'=e^{x}} aは実数とする。 y = x a {\displaystyle y=x^{a}} 両辺の絶対値の自然対数をとって log ⁡ | y | = a log ⁡ | x | {\displaystyle \log |y|=a\log |x|} 両辺をxで微分して、 y ′ y = a ∗ 1 x {\displaystyle {\frac {y'}{y}}=a*{\frac {1}{x}}} よって 導関数f'(x)をf(x)の第1次導関数という。 導関数の導関数を第2次導関数という。 導関数の導関数の導関数を第3次導関数という。 一般に、関数f(x)をn回微分して得られる関数を第n次導関数といい、 y ( n ) , f ( n ) , d n y d x n , d n d x n f ( x ) {\displaystyle y^{(n)},f^{(n)},{\frac {d^{n}y}{dx^{n}}},{\frac {d^{n}}{dx^{n}}}f(x)} のいずれかで表す。 また、nが1,2,3の時はそれぞれ y ′ , y ″ , y ‴ {\displaystyle y',y'',y'''} や f ′ ( x ) , f ″ ( x ) , f ‴ ( x ) {\displaystyle f'(x),f''(x),f'''(x)} と表す。 2次以上の導関数を高次導関数という。 (例) f ( x ) = x 5 {\displaystyle f(x)=x^{5}} の第3次導関数は f ′ ( x ) = 5 x 4 {\displaystyle f'(x)=5x^{4}} f ″ ( x ) = 20 x 3 {\displaystyle f''(x)=20x^{3}} f ‴ ( x ) = 60 x 2 {\displaystyle f'''(x)=60x^{2}} なので 60 x 2 {\displaystyle 60x^{2}} である。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} 上の点 ( a , f ( a ) ) {\displaystyle (a,f(a))} における接線の傾きは f ′ ( a ) {\displaystyle f'(a)} であるので、接線の方程式は y − f ( a ) = f ′ ( a ) ( x − a ) {\displaystyle y-f(a)=f'(a)(x-a)} となる。 また、接点を通り接線に垂直な直線を法線(ほうせん)という。 垂直な直線同士は傾きの符号が逆であり、傾きの絶対値が逆数であるので、法線の方程式は y − f ( a ) = − 1 f ′ ( a ) ( x − a ) {\displaystyle y-f(a)=-{\frac {1}{f'(a)}}(x-a)} となる。 f ′ ( a ) {\displaystyle f'(a)} は f ( x ) {\displaystyle f(x)} の点 ( a , f ( a ) ) {\displaystyle (a,f(a))} での傾きを表す。 よって、 である。 また、 f ′ ( a ) = 0 {\displaystyle f'(a)=0} で、 a {\displaystyle a} の前後で f ′ ( x ) {\displaystyle f'(x)} の符号が + {\displaystyle +} から − {\displaystyle -} に変わるならば、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は点 ( a , f ( a ) ) {\displaystyle (a,f(a))} で増加から減少に転じる。このときの f ( a ) {\displaystyle f(a)} を極大値(きょくだいち)という。 また、 − {\displaystyle -} から + {\displaystyle +} に変わるならば、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は点 ( a , f ( a ) ) {\displaystyle (a,f(a))} で減少から増加に転じるので、このときの f ( a ) {\displaystyle f(a)} を極小値(きょくしょうち)という。 極大値と極小値をまとめて極値(きょくち)という。 f ′ ( a ) = 0 {\displaystyle f'(a)=0} であっても、前後で符号が変わらなければ f ( a ) {\displaystyle f(a)} は極値ではない。 第二次導関数の図形的な意味を考えてみよう。導関数は各点での接線の傾きを表している。第二次導関数は導関数の導関数だから、接線の傾きの変化率、すなわちグラフの曲がり具合を表していることになる。第二次導関数が正のときは傾きが増加しているのだからグラフは下に凸、負のときは上に凸となる。 グラフの曲がり具合が変わる点のことを変曲点(へんきょくてん)という。上の考察から、変曲点は第二次導関数の符号が変わる点であることがわかる。極値の場合と同様に、たとえ f ″ ( a ) = 0 {\displaystyle f''(a)=0} であっても、符号が変わらなければ変曲点ではない。 関数のグラフを書くときには、変曲点の情報は極値と同様に重要なので、増減表にも第二次導関数の欄をつくり、変曲点を記入するとよい。 数直線上を運動する物体が時刻 t {\displaystyle t} のとき位置 x ( t ) {\displaystyle x(t)} にあるとする。この物体の速度を求める。 時刻が t {\displaystyle t} から t + h {\displaystyle t+h} に移動するとき、物体は x ( t ) {\displaystyle x(t)} から x ( t + h ) {\displaystyle x(t+h)} の位置に移動する[1]。このときの平均の速度は Δ x Δ t = x ( t + h ) − x ( t ) ( t + h ) − t = x ( t + h ) − x ( t ) h {\displaystyle {\frac {\Delta x}{\Delta t}}={\frac {x(t+h)-x(t)}{(t+h)-t}}={\frac {x(t+h)-x(t)}{h}}} ここで、 Δ t = h {\displaystyle \Delta t=h} なので、 h {\displaystyle h} を限りなく 0 に近づければ、この物体の瞬間の速度が求められる。時刻 t {\displaystyle t} のときの物体の瞬間の速度を v ( t ) {\displaystyle v(t)} とすれば、 v ( t ) = lim h → 0 x ( t + h ) − x ( t ) h = x ′ ( t ) = d x d t {\displaystyle v(t)=\lim _{h\to 0}{\frac {x(t+h)-x(t)}{h}}=x'(t)={\frac {dx}{dt}}} である。 同様に、加速度についても、時刻 t {\displaystyle t} のときの物体の加速度を a ( t ) {\displaystyle a(t)} とすれば a ( t ) = lim Δ t → 0 Δ v Δ t = lim Δ h → 0 x ′ ( t + h ) − x ′ ( t ) h = x ″ ( t ) = d 2 x d t 2 {\displaystyle a(t)=\lim _{\Delta t\to 0}{\frac {\Delta v}{\Delta t}}=\lim _{\Delta h\to 0}{\frac {x'(t+h)-x'(t)}{h}}=x''(t)={\frac {d^{2}x}{dt^{2}}}} これは、平面上を運動する物体にも拡張できる。時刻 t {\displaystyle t} のときの物体の位置ベクトルが x → ( t ) = ( x ( t ) , y ( t ) ) {\displaystyle {\vec {x}}(t)=(x(t),y(t))} で与えられるとき、この物体の速度ベクトル v → {\displaystyle {\vec {v}}} は v → = lim Δ t → 0 Δ x → Δ t = d x → d t = ( d x d t , d y d t ) {\displaystyle {\vec {v}}=\lim _{\Delta t\to 0}{\frac {\Delta {\vec {x}}}{\Delta t}}={\frac {d{\vec {x}}}{dt}}=\left({\frac {dx}{dt}},{\frac {dy}{dt}}\right)} である。同様に加速度ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} についても、 a → = ( d 2 x d t 2 , d 2 x d t 2 ) {\displaystyle {\vec {a}}=\left({\frac {d^{2}x}{dt^{2}}},{\frac {d^{2}x}{dt^{2}}}\right)} 。 例えば、角速度 ω {\displaystyle \omega } で原点を中心に半径 r {\displaystyle r} の円運動する物体が t = 0 {\displaystyle t=0} で x → ( 0 ) = ( r , 0 ) {\displaystyle {\vec {x}}(0)=(r,0)} にあるとき、この物体の時刻 t {\displaystyle t} のときの位置ベクトル x → ( t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t)} は x → ( t ) = r ( cos ⁡ ω t sin ⁡ ω t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t)=r\left({\begin{aligned}\cos \omega t\\\sin \omega t\end{aligned}}\right)} である。速度ベクトルは、 v → = d x → d t = r ω ( − sin ⁡ ω t cos ⁡ ω t ) {\displaystyle {\vec {v}}={\frac {d{\vec {x}}}{dt}}=r\omega \left({\begin{aligned}-\sin \omega t\\\cos \omega t\end{aligned}}\right)} 。加速度ベクトルは a → = d 2 x → d 2 t = − r ω 2 ( cos ⁡ ω t sin ⁡ ω t ) = − ω 2 x → ( t ) {\displaystyle {\vec {a}}={\frac {d^{2}{\vec {x}}}{d^{2}t}}=-r\omega ^{2}\left({\begin{aligned}\cos \omega t\\\sin \omega t\end{aligned}}\right)=-\omega ^{2}{\vec {x}}(t)} 。ここから、位置ベクトル x → ( t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t)} と速度ベクトル v → ( t ) {\displaystyle {\vec {v}}(t)} は直行し、位置ベクトル x → ( t ) {\displaystyle {\vec {x}}(t)} と加速度ベクトル a → ( t ) {\displaystyle {\vec {a}}(t)} は逆向きであり、 | v → ( t ) | = r ω {\displaystyle |{\vec {v}}(t)|=r\omega } 、 | a → ( t ) | = r ω 2 {\displaystyle |{\vec {a}}(t)|=r\omega ^{2}} が成立することが分かる。 また、円運動の x {\displaystyle x} 成分 または y {\displaystyle y} 成分だけに注目すれば、それは単振動である。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で連続、 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} で微分可能とする。 f ( a ) = f ( b ) {\displaystyle f(a)=f(b)} ならば f ′ ( c ) = 0 {\displaystyle f'(c)=0} となる点 a < c < b {\displaystyle a<c<b} が存在する。 証明 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} には最大値または最小値が a < x < b {\displaystyle a<x<b} の範囲に一つ以上存在する。最大値または最小値では関数の導関数は 0 なので、その点を選び c {\displaystyle c} とすると、 f ′ ( c ) = 0 {\displaystyle f'(c)=0} となる。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} は [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で連続、 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} で微分可能とする。このとき、 f ( b ) − f ( a ) b − a = f ′ ( c ) {\displaystyle {\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}=f'(c)} となる a < c < b {\displaystyle a<c<b} が存在する。 証明 g ( x ) = f ( x ) − A x {\displaystyle g(x)=f(x)-Ax} とする。定数 A {\displaystyle A} を g ( a ) = g ( b ) {\displaystyle g(a)=g(b)} を満たすように定める。 したがって、 f ( a ) − A a = f ( b ) − A b {\displaystyle f(a)-Aa=f(b)-Ab} より、 A = f ( b ) − f ( a ) b − a {\displaystyle A={\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}} である。 ここで、関数 g ( x ) {\displaystyle g(x)} に対して、ロルの定理を用いることにより、 g ′ ( c ) = 0 {\displaystyle g'(c)=0} となる a < c < b {\displaystyle a<c<b} が存在する。 g ′ ( x ) = f ′ ( x ) − A {\displaystyle g'(x)=f'(x)-A} であるから、 f ′ ( c ) = A = f ( b ) − f ( a ) b − a {\displaystyle f'(c)=A={\frac {f(b)-f(a)}{b-a}}} となる a < c < b {\displaystyle a<c<b} が存在することがいえる。 関数 f ( x ) , g ( x ) {\displaystyle f(x),g(x)} は [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で連続、 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} で微分可能とする。このとき、 { g ( b ) − g ( a ) } f ′ ( c ) = { f ( b ) − f ( a ) } g ′ ( c ) {\displaystyle \{g(b)-g(a)\}f'(c)=\{f(b)-f(a)\}g'(c)} となる c ∈ ( a , b ) {\displaystyle c\in (a,b)} が存在する。さらに、 g ′ ( c ) ≠ 0 , g ( a ) ≠ g ( b ) {\displaystyle g'(c)\neq 0,\,g(a)\neq g(b)} とすれば、 f ( b ) − f ( a ) g ( b ) − g ( a ) = f ′ ( c ) g ′ ( c ) {\displaystyle {\frac {f(b)-f(a)}{g(b)-g(a)}}={\frac {f'(c)}{g'(c)}}} となる c ∈ ( a , b ) {\displaystyle c\in (a,b)} が存在する。 証明 h ( t ) = { f ( b ) − f ( a ) } g ( t ) − { g ( b ) − g ( a ) } f ( t ) {\displaystyle h(t)=\{f(b)-f(a)\}g(t)-\{g(b)-g(a)\}f(t)} とする。ここで、 h ( t ) {\displaystyle h(t)} は [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で連続、 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} で微分可能、 h ( a ) = h ( b ) {\displaystyle h(a)=h(b)} なので、ロルの定理より、 h ′ ( c ) = 0 {\displaystyle h'(c)=0} となる c ∈ ( a , b ) {\displaystyle c\in (a,b)} が存在する。 h ′ ( c ) = 0 {\displaystyle h'(c)=0} を変形して { g ( b ) − g ( a ) } f ′ ( c ) = { f ( b ) − f ( a ) } g ′ ( c ) {\displaystyle \{g(b)-g(a)\}f'(c)=\{f(b)-f(a)\}g'(c)} を得る。さらに、 g ′ ( c ) ≠ 0 , g ( a ) ≠ g ( b ) {\displaystyle g'(c)\neq 0,\,g(a)\neq g(b)} ならば、 f ( b ) − f ( a ) g ( b ) − g ( a ) = f ′ ( c ) g ′ ( c ) {\displaystyle {\frac {f(b)-f(a)}{g(b)-g(a)}}={\frac {f'(c)}{g'(c)}}} である。 f ( x ) {\displaystyle f(x)} を区間 I {\displaystyle I} で n {\displaystyle n} 回微分可能な関数とする。任意の a , x ∈ I {\displaystyle a,x\in I} に対して、 ξ {\displaystyle \xi } が a , x {\displaystyle a,x} の中間に存在して、 f ( x ) = f ( a ) + f ′ ( a ) 1 ! ( x − a ) + f ″ ( a ) 2 ! ( x − a ) 2 + ⋯ + f ( n − 1 ) ( a ) ( n − 1 ) ! ( x − a ) n − 1 + f ( n ) ( ξ ) n ! ( x − a ) n . {\displaystyle f(x)=f(a)+{\frac {f'(a)}{1!}}(x-a)+{\frac {f''(a)}{2!}}(x-a)^{2}+\cdots +{\frac {f^{(n-1)}(a)}{(n-1)!}}(x-a)^{n-1}+{\frac {f^{(n)}(\xi)}{n!}}(x-a)^{n}.} 証明 F ( x ) = f ( x ) − [ f ( a ) + f ′ ( a ) 1 ! ( x − a ) + f ″ ( a ) 2 ! ( x − a ) 2 + ⋯ + f ( n − 1 ) ( a ) ( n − 1 ) ! ( x − a ) n − 1 ] {\displaystyle F(x)=f(x)-\left[f(a)+{\frac {f'(a)}{1!}}(x-a)+{\frac {f''(a)}{2!}}(x-a)^{2}+\cdots +{\frac {f^{(n-1)}(a)}{(n-1)!}}(x-a)^{n-1}\right]} とする。 F ( x ) {\displaystyle F(x)} と関数 ( x − a ) n {\displaystyle (x-a)^{n}} に対して、コーシーの平均値の定理を適用すると、 F ( a ) = 0 {\displaystyle F(a)=0} より、 F ( x ) ( x − a ) n = F ( x ) − F ( a ) ( x − a ) n − ( a − a ) n = F ′ ( x 1 ) n ( x 1 − a ) n − 1 {\displaystyle {\frac {F(x)}{(x-a)^{n}}}={\frac {F(x)-F(a)}{(x-a)^{n}-(a-a)^{n}}}={\frac {F'(x_{1})}{n(x_{1}-a)^{n-1}}}} となる x 1 {\displaystyle x_{1}} が a , x {\displaystyle a,x} の中間に存在する。 F ′ ( a ) = F ″ ( a ) = ⋯ = F ( n − 1 ) ( a ) = 0 {\displaystyle F'(a)=F''(a)=\cdots =F^{(n-1)}(a)=0} であるから、右辺にも同様にコーシーの平均値の定理を適用することで、 F ( x ) ( x − a ) n = F ′ ( x 1 ) n ( x 1 − a ) n − 1 = F ″ ( x 2 ) n ( n − 1 ) ( x 2 − a ) n − 2 = ⋯ = F ( n ) ( ξ ) n ! {\displaystyle {\frac {F(x)}{(x-a)^{n}}}={\frac {F'(x_{1})}{n(x_{1}-a)^{n-1}}}={\frac {F''(x_{2})}{n(n-1)(x_{2}-a)^{n-2}}}=\cdots ={\frac {F^{(n)}(\xi)}{n!}}} となる x 1 , x 2 , ⋯ , ξ {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,\xi } が a , x {\displaystyle a,x} の中間に存在する。 F ( n ) ( x ) = f ( n ) ( x ) {\displaystyle F^{(n)}(x)=f^{(n)}(x)} だから、 F ( x ) = f ( n ) ( ξ ) n ! ( x − a ) n {\displaystyle F(x)={\frac {f^{(n)}(\xi)}{n!}}(x-a)^{n}} を得る。 関数 g ( x ) {\displaystyle g(x)} に対して、 lim x → a f ( x ) g ( x ) = 0 {\displaystyle \lim _{x\to a}{\frac {f(x)}{g(x)}}=0} となるような関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} を一般に o g {\displaystyle og} と表す。 ランダウ記号について次が成り立つ。 ランダウの記号は一般には違う関数を同じ記号で表しているので注意が必要である。例えば 1. は任意の f = o h , g = o h {\displaystyle f=oh,\,g=oh} である関数について、 lim x → a f + g h = 0 {\displaystyle \lim _{x\to a}{\frac {f+g}{h}}=0} という意味である。 2. は f = o h {\displaystyle f=oh} とすると、 k f h → 0. {\displaystyle {\frac {kf}{h}}\to 0.} 3. は f g → 0 , g h → 0 {\displaystyle {\frac {f}{g}}\to 0,\,{\frac {g}{h}}\to 0} ならば、 f h = f g g h → 0 {\displaystyle {\frac {f}{h}}={\frac {f}{g}}{\frac {g}{h}}\to 0} となるから、 f = o h . {\displaystyle f=oh.} ランダウの記号について、 x {\displaystyle x} がどこに近づいたときか( x → a {\displaystyle x\to a} )ということは重要だが、文脈から明らかな場合は省略される。 テイラーの定理における右辺最後の項を剰余項といい、これを R n {\displaystyle R_{n}} と書く。 f ( n ) ( x ) {\displaystyle f^{(n)}(x)} が x = a {\displaystyle x=a} で連続ならば、 lim x → a R n ( x − a ) n = lim ξ → a f ( n ) ( ξ ) n ! = f ( n ) ( a ) n ! . {\displaystyle \lim _{x\to a}{\frac {R_{n}}{(x-a)^{n}}}=\lim _{\xi \to a}{\frac {f^{(n)}(\xi)}{n!}}={\frac {f^{(n)}(a)}{n!}}.} これは、 lim x → a R n − f ( n ) ( a ) n ! ( x − a ) n ( x − a ) n = 0 {\displaystyle \lim _{x\to a}{\frac {R_{n}-{\frac {f^{(n)}(a)}{n!}}(x-a)^{n}}{(x-a)^{n}}}=0} と書けるから、 R n = f ( n ) ( a ) n ! ( x − a ) n + o ( x − a ) n . {\displaystyle R_{n}={\frac {f^{(n)}(a)}{n!}}(x-a)^{n}+o{(x-a)^{n}}.} すなわち、 f ( x ) = f ( a ) + f ′ ( a ) 1 ! ( x − a ) + f ″ ( a ) 2 ! ( x − a ) 2 + ⋯ + f ( n ) ( a ) n ! ( x − a ) n + o ( x − a ) n {\displaystyle f(x)=f(a)+{\frac {f'(a)}{1!}}(x-a)+{\frac {f''(a)}{2!}}(x-a)^{2}+\cdots +{\frac {f^{(n)}(a)}{n!}}(x-a)^{n}+o(x-a)^{n}} 漸近展開を用いると極限の問題を簡単に解くことが出来る。例えば、 lim x → 0 e x − e − x x = lim x → 0 ( 1 + x + o x ) − ( 1 − x + o x ) x = lim x → 0 2 + o x x = 2. {\displaystyle \lim _{x\to 0}{\frac {e^{x}-e^{-x}}{x}}=\lim _{x\to 0}{\frac {(1+x+ox)-(1-x+ox)}{x}}=\lim _{x\to 0}2+{\frac {ox}{x}}=2.} 例 α {\displaystyle \alpha } を実数とする。 f ( x ) = ( 1 + x ) α {\displaystyle f(x)=(1+x)^{\alpha }} について、 f ( n ) ( 0 ) = α ( α − 1 ) ⋯ ( α − n + 1 ) {\displaystyle f^{(n)}(0)=\alpha (\alpha -1)\cdots (\alpha -n+1)} なので、 ( 1 + x ) α = ∑ k = 0 n ( α k ) x k + o x n {\displaystyle (1+x)^{\alpha }=\sum _{k=0}^{n}{\binom {\alpha }{k}}x^{k}+ox^{n}} ただし、 ( α k ) = α ( α − 1 ) ⋯ ( α − k + 1 ) k ! , ( α 0 ) = 1 {\displaystyle {\binom {\alpha }{k}}={\frac {\alpha (\alpha -1)\cdots (\alpha -k+1)}{k!}},\,{\binom {\alpha }{0}}=1} は一般二項係数。 例えば、 1 + x = 1 + 1 2 x + o x {\displaystyle {\sqrt {1+x}}=1+{\frac {1}{2}}x+ox} 1 1 + x = 1 − 1 2 x + o x {\displaystyle {\frac {1}{\sqrt {1+x}}}=1-{\frac {1}{2}}x+ox} など。これらは近似公式としてもよく使われる。 テイラーの定理において、関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} が区間 I {\displaystyle I} で無限回微分可能(任意の次数の導関数が存在すること)で剰余項が lim n → ∞ R n = 0 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }R_{n}=0} ならば、 f ( x ) = ∑ n = 0 ∞ f ( n ) ( a ) n ! ( x − a ) n . {\displaystyle f(x)=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {f^{(n)}(a)}{n!}}(x-a)^{n}.} これをテイラー級数といい、特に a = 0 {\displaystyle a=0} のものをマクローリン級数という。 いくつかの関数のテイラー展開を求めよう。 f ( x ) = e x {\displaystyle f(x)=e^{x}} とすると、 f ( n ) ( x ) = e x , f ( n ) ( 0 ) = 1 {\displaystyle f^{(n)}(x)=e^{x},f^{(n)}(0)=1} で、 | R n | = | e ξ n ! x n | < e | x | n ! | x | n {\displaystyle |R_{n}|=\left|{\frac {e^{\xi }}{n!}}x^{n}\right|<{\frac {e^{|x|}}{n!}}|x|^{n}} より、任意の x {\displaystyle x} に対して、 lim n → ∞ R n = 0 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }R_{n}=0} となる。すなわち、 e x = ∑ n = 0 ∞ 1 n ! x n . {\displaystyle e^{x}=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {1}{n!}}x^{n}.} sin ⁡ x , cos ⁡ x {\displaystyle \sin x,\cos x} についても同じように計算して、 sin ⁡ x = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 2 n + 1 ) ! x 2 n + 1 , cos ⁡ x = ∑ n = 0 ∞ ( − 1 ) n ( 2 n ) ! x 2 n {\displaystyle \sin x=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{(2n+1)!}}x^{2n+1},\,\cos x=\sum _{n=0}^{\infty }{\frac {(-1)^{n}}{(2n)!}}x^{2n}} を得る。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6III/%E5%BE%AE%E5%88%86%E6%B3%95
ここでは、数学IIの微分・積分の考えで学んだ積分の性質についてより詳しく扱う。また、三角関数や指数・対数関数などの関数の積分についても学習する。 積分法について ∫ { f ( x ) + g ( x ) } d x = ∫ f ( x ) d x + ∫ g ( x ) d x , {\displaystyle \int \{f(x)+g(x)\}dx=\int f(x)dx+\int g(x)dx,} ∫ a f ( x ) d x = a ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int af(x)dx=a\int f(x)dx} (aは定数) が成り立つ。 導出 ∫ { f ( x ) + g ( x ) } d x = ∫ f ( x ) d x + ∫ g ( x ) d x {\displaystyle \int \{f(x)+g(x)\}dx=\int f(x)dx+\int g(x)dx} の両辺を微分すると、 左辺 =右辺 = f + g {\displaystyle f+g} が従う。 よって、 ∫ { f ( x ) + g ( x ) } d x = ∫ f ( x ) d x + ∫ g ( x ) d x {\displaystyle \int \{f(x)+g(x)\}dx=\int f(x)dx+\int g(x)dx} の両辺は一致する。 (実際には2つの関数の導関数が一致するとき、 それらの関数には定数だけのちがいがある。 仮に、F(x)とG(x)が共通の導関数h(x)を持ったとする。 このとき、 ( F ( x ) − G ( x ) ) ′ = h ( x ) − h ( x ) = 0 {\displaystyle (F(x)-G(x))'=h(x)-h(x)=0} となるが、0の原始関数は定数Cであることが分かる。 よって、両辺を積分すると、 F ( x ) − G ( x ) = C {\displaystyle F(x)-G(x)=C} となり、F(x)とG(x)には定数だけの差しかないことが確かめられた。 よって、 ∫ { f ( x ) + g ( x ) } d x = ∫ f ( x ) d x + ∫ g ( x ) d x {\displaystyle \int \{f(x)+g(x)\}dx=\int f(x)dx+\int g(x)dx} は定数だけのちがいを含んで成り立つ式である。 より一般に、不定積分が絡む等式は定数分の差を含めて成り立つというのが通例である。) ∫ a f ( x ) d x = a ∫ f ( x ) d x {\displaystyle \int af(x)dx=a\int f(x)dx} についても両辺を微分すると、 左辺=右辺= a f(x) が従う。 よって、 ∫ a f d x = a ∫ f d x {\displaystyle \int afdx=a\int fdx} が成り立つことが分る。 関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の原始関数を F ( x ) {\displaystyle F(x)} とすると ∫ a b f ( x ) = F ( b ) − F ( a ) = − ( F ( a ) − F ( b ) ) = − ∫ b a f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)\,=F(b)-F(a)=-(F(a)-F(b))=-\int _{b}^{a}f(x)\,dx} である。 ∫ a c f ( x ) d x + ∫ c b f ( x ) d x = ( F ( c ) − F ( a ) ) + ( F ( b ) − F ( c ) ) = F ( b ) − F ( a ) = ∫ a b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{c}f(x)\,dx+\int _{c}^{b}f(x)\,dx=(F(c)-F(a))+(F(b)-F(c))=F(b)-F(a)=\int _{a}^{b}f(x)\,dx} 関数の原始関数を求める手段として、 積分変数を別の変数で置き換えて積分を行なう手段が知られている。 これを置換積分と呼ぶ。 ∫ f ( g ( x ) ) d g ( x ) = ∫ f ( g ( x ) ) g ′ ( x ) d x {\displaystyle \int f(g(x))dg(x)=\int f(g(x))g'(x)dx} 導出 ∫ f ( g ( x ) ) d g ( x ) = F ( g ( x ) ) {\displaystyle \int f(g(x))dg(x)=F(g(x))} を x {\displaystyle x} について微分すると、 F ′ ( g ( x ) ) = f ( g ( x ) ) g ′ ( x ) {\displaystyle F'(g(x))=f(g(x))g'(x)} 再び x {\displaystyle x} について積分すると、 ∫ f ( g ( x ) ) d g ( x ) = ∫ f ( g ( x ) ) g ′ ( x ) d x {\displaystyle \int f(g(x))dg(x)=\int f(g(x))g'(x)dx} また、特に 例えば、 ∫ ( a x + b ) 2 d x {\displaystyle \int (ax+b)^{2}dx} を考える。 t = a x + b {\displaystyle t=ax+b} と置く。 この両辺を微分すると d t = a d x {\displaystyle dt=adx} が成り立つことを考慮すると、 となることがわかる。 実際この式をxで微分すると ( a x + b ) 2 {\displaystyle (ax+b)^{2}} と一致することが分る。 置換積分を使わずに計算することも出来る。 ( C ′ = b 3 3 a + C {\displaystyle C'={\frac {b^{3}}{3a}}+C} と置き換えた。) = ( a x + b ) 3 3 a + C {\displaystyle ={\frac {(ax+b)^{3}}{3a}}+C} となり確かに一致する。 関数の積の積分を行なうときある関数の微分だけを取りだして積分すると、うまく積分できる場合がある。関数 g ( x ) {\displaystyle g(x)} の原始関数を G ( x ) {\displaystyle G(x)} とすると ∫ f ( x ) g ( x ) d x = f ( x ) G ( x ) − ∫ f ′ ( x ) G ( x ) d x {\displaystyle \int f(x)g(x)\,dx=f(x)G(x)-\int f'(x)G(x)\,dx} 導出 積の微分法より { f ( x ) G ( x ) } ′ = f ′ ( x ) G ( x ) + f ( x ) g ( x ) {\displaystyle \{f(x)G(x)\}'=f'(x)G(x)+f(x)g(x)} である。これを移項して f ( x ) g ( x ) = { f ( x ) G ( x ) } ′ − f ′ ( x ) G ( x ) {\displaystyle f(x)g(x)=\{f(x)G(x)\}'-f'(x)G(x)} である。両辺をxで積分して ∫ f ( x ) g ( x ) d x = f ( x ) G ( x ) − ∫ f ′ ( x ) G ( x ) d x {\displaystyle \int f(x)g(x)\,dx=f(x)G(x)-\int f'(x)G(x)\,dx} が得られる。 例えば、 n ≠ − 1 {\displaystyle n\neq -1} のとき、 ( 1 n + 1 x n + 1 ) ′ = x n {\displaystyle \left({\frac {1}{n+1}}x^{n+1}\right)'=x^{n}} なので、 ∫ x n d x = 1 n + 1 x n + 1 + C {\displaystyle \int x^{n}dx={\frac {1}{n+1}}x^{n+1}+C} n = − 1 {\displaystyle n=-1} のとき、 ( log ⁡ | x | ) ′ = 1 x = x − 1 {\displaystyle (\log |x|)'={\frac {1}{x}}=x^{-1}} なので、 ∫ x − 1 d x = ∫ 1 x d x = log ⁡ | x | + C {\displaystyle \int x^{-1}dx=\int {\frac {1}{x}}dx=\log |x|+C} が成り立つ。 が成り立つことを考慮すると、 となることが分る。 ∫ tan ⁡ x d x {\displaystyle \int \tan xdx} は、置換積分法を使って より一般に有理関数 R ( x , y ) {\displaystyle R(x,y)} に対して、 ∫ R ( sin ⁡ θ , cos ⁡ θ ) d θ {\displaystyle \int R(\sin \theta ,\cos \theta)\,d\theta } について考える。 t = tan ⁡ θ 2 {\displaystyle t=\tan {\frac {\theta }{2}}} とおく。 tan 2 ⁡ θ 2 + 1 = 1 cos 2 ⁡ θ 2 {\displaystyle \tan ^{2}{\frac {\theta }{2}}+1={\frac {1}{\cos ^{2}{\frac {\theta }{2}}}}} よって cos 2 ⁡ θ 2 = 1 1 + t 2 {\displaystyle \cos ^{2}{\frac {\theta }{2}}={\frac {1}{1+t^{2}}}} である。 d t d θ = d d θ tan ⁡ θ 2 = 1 2 cos 2 ⁡ θ 2 = 1 2 ( t 2 + 1 ) {\displaystyle {\frac {dt}{d\theta }}={\frac {d}{d\theta }}\tan {\frac {\theta }{2}}={\frac {1}{2\cos ^{2}{\frac {\theta }{2}}}}={\frac {1}{2}}(t^{2}+1)} であり、 cos ⁡ θ = 2 cos 2 ⁡ θ 2 − 1 = 1 − t 2 1 + t 2 {\displaystyle \cos \theta =2\cos ^{2}{\frac {\theta }{2}}-1={\frac {1-t^{2}}{1+t^{2}}}} かつ sin ⁡ θ = tan ⁡ θ cos ⁡ θ = 2 tan ⁡ θ 2 1 − tan 2 ⁡ θ 2 cos ⁡ θ = 2 t 1 + t 2 {\displaystyle \sin \theta =\tan \theta \cos \theta ={\frac {2\tan {\frac {\theta }{2}}}{1-\tan ^{2}{\frac {\theta }{2}}}}\cos \theta ={\frac {2t}{1+t^{2}}}} である。よって ∫ R ( sin ⁡ θ , cos ⁡ θ ) d θ = ∫ R ( 2 t 1 + t 2 , 1 − t 2 1 + t 2 ) 2 d t 1 + t 2 {\displaystyle \int R(\sin \theta ,\cos \theta)\,d\theta =\int R\left({\frac {2t}{1+t^{2}}},{\frac {1-t^{2}}{1+t^{2}}}\right)\,{\frac {2dt}{1+t^{2}}}} と有理関数の積分にもち込める。 幾何学的は、この変換は単位円上の点 P ( cos ⁡ θ , sin ⁡ θ ) {\displaystyle P(\cos \theta ,\sin \theta)} と点 A ( − 1 , 0 ) {\displaystyle A(-1,0)} を結ぶ直線の勾配 t {\displaystyle t} で変換したものである。実際円周角の定理より ∠ x A P = 1 2 ∠ x O P = θ 2 {\displaystyle \angle xAP={\frac {1}{2}}\angle xOP={\frac {\theta }{2}}} より t = tan ⁡ θ 2 . {\displaystyle t=\tan {\frac {\theta }{2}}.} 被積分関数の周期が π {\displaystyle \pi } の場合は、被積分関数は sin ⁡ 2 θ , cos ⁡ 2 θ {\displaystyle \sin 2\theta ,\cos 2\theta } の有理関数なので、 t = tan ⁡ θ {\displaystyle t=\tan \theta } と置換すると計算が楽だ。被積分関数が sin 2 ⁡ θ , cos 2 ⁡ θ , sin ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \sin ^{2}\theta ,\cos ^{2}\theta ,\sin \theta \cos \theta } の有理関数となるときもこの範疇に属する。 t = tan ⁡ θ {\displaystyle t=\tan \theta } と置換したとき、 cos 2 ⁡ θ = 1 1 + tan 2 ⁡ θ = 1 1 + t 2 {\displaystyle \cos ^{2}\theta ={\frac {1}{1+\tan ^{2}\theta }}={\frac {1}{1+t^{2}}}} , sin 2 ⁡ θ = tan 2 ⁡ θ cos 2 ⁡ θ = t 2 1 + t 2 {\displaystyle \sin ^{2}\theta =\tan ^{2}\theta \cos ^{2}\theta ={\frac {t^{2}}{1+t^{2}}}} , sin ⁡ θ cos ⁡ θ = ± sin 2 ⁡ θ cos 2 ⁡ θ = t 1 + t 2 {\displaystyle \sin \theta \cos \theta =\pm {\sqrt {\sin ^{2}\theta \cos ^{2}\theta }}={\frac {t}{1+t^{2}}}} ( sin ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \sin \theta \cos \theta } と tan ⁡ θ = sin ⁡ θ cos ⁡ θ {\displaystyle \tan \theta ={\frac {\sin \theta }{\cos \theta }}} の正負は一致するため), d θ = d t 1 + t 2 {\displaystyle d\theta ={\frac {dt}{1+t^{2}}}} となる。 例  ∫ 1 sin ⁡ x cos ⁡ x d x {\displaystyle \int {\frac {1}{\sin x\cos x}}dx} は t = tan ⁡ x {\displaystyle t=\tan x} と置換すると、 ∫ 1 sin ⁡ x cos ⁡ x d x = ∫ 1 + t 2 t d t 1 + t 2 = ln ⁡ | tan ⁡ x | + C . {\displaystyle \int {\frac {1}{\sin x\cos x}}dx=\int {\frac {1+t^{2}}{t}}{\frac {dt}{1+t^{2}}}=\ln |\tan x|+C.} t = tan ⁡ θ 2 {\displaystyle t=\tan {\frac {\theta }{2}}} と置換してしまうと、 ∫ 1 sin ⁡ x cos ⁡ x d x = ∫ 1 + t 2 t ( 1 − t 2 ) d t = ln ⁡ | t 1 − t 2 | + C ′ = ln ⁡ | tan ⁡ x | + C {\displaystyle \int {\frac {1}{\sin x\cos x}}\,dx=\int {\frac {1+t^{2}}{t(1-t^{2})}}\,dt=\ln \left|{\frac {t}{1-t^{2}}}\right|+C'=\ln |\tan x|+C} と計算量が少し増える。 指数関数について ( e x ) ′ = e x {\displaystyle (e^{x})'=e^{x}} が成り立つことを用いると、 ∫ e x d x = e x + C {\displaystyle \int e^{x}dx=e^{x}+C} が得られる。 また、 ( a x ln ⁡ a ) ′ = a x {\displaystyle \left({\frac {a^{x}}{\ln a}}\right)'=a^{x}} なので、 ∫ a x d x = a x ln ⁡ a {\displaystyle \int a^{x}\,dx={\frac {a^{x}}{\ln a}}} である。 また、 log ⁡ | x | {\displaystyle \log |x|} の 原始関数も求めることが出来る。 となる。 有理関数 R ( x ) {\displaystyle R(x)} に対して、積分 ∫ R ( e x ) d x {\displaystyle \int R(e^{x})\,dx} は t = e x {\displaystyle t=e^{x}} すると d t d x = e x = t {\displaystyle {\frac {dt}{dx}}=e^{x}=t} より ∫ R ( e x ) d x = ∫ R ( t ) d t t . {\displaystyle \int R(e^{x})\,dx=\int R(t){\frac {dt}{t}}.} 有理関数 R ( x , y ) {\displaystyle R(x,y)} に対して、積分 ∫ R ( x , a x 2 + b x + c ) d x {\displaystyle \int R(x,{\sqrt {ax^{2}+bx+c}})\,dx} について考えよう。平方根の中身は平方完成することによって、 p 2 − x 2 , x 2 + p 2 , x 2 − p 2 {\displaystyle {\sqrt {p^{2}-x^{2}}},{\sqrt {x^{2}+p^{2}}},{\sqrt {x^{2}-p^{2}}}} のいずれかの形になる。それぞれの場合について、 x = p sin ⁡ θ , x = p tan ⁡ θ , x = p cos ⁡ θ {\displaystyle x=p\sin \theta ,x=p\tan \theta ,x={\frac {p}{\cos \theta }}} と変数変換すると三角関数の積分に帰着する。 また、 y 2 = a x 2 + b x + c {\displaystyle y^{2}=ax^{2}+bx+c} は二次曲線で、特に a > 0 {\displaystyle a>0} のときは双曲線となる( y 2 − a ( x + b 2 a ) 2 = − b 2 + 4 a c 4 a {\displaystyle y^{2}-a\left(x+{\frac {b}{2a}}\right)^{2}={\frac {-b^{2}+4ac}{4a}}} より[1])。このとき、 y = ± a x + t {\displaystyle y=\pm {\sqrt {a}}x+t} すなわち t = ∓ a x + a x 2 + b x + c {\displaystyle t=\mp {\sqrt {a}}x+{\sqrt {ax^{2}+bx+c}}} と変換するとうまく計算できる(符号はどちらを選択しても良い)。幾何学的には、双曲線の漸近線に平行で切片が t {\displaystyle t} の直線 y = ± a x + t {\displaystyle y=\pm {\sqrt {a}}x+t} と双曲線のただ一つの交点 ( x , y ) {\displaystyle (x,y)} を変数 t {\displaystyle t} で表したものである。 例 ∫ d x x 2 − 1 {\displaystyle \int {\frac {dx}{\sqrt {x^{2}-1}}}} は t = x + x 2 − 1 {\displaystyle t=x+{\sqrt {x^{2}-1}}} と置換すると、 1 t = x − x 2 − 1 {\displaystyle {\frac {1}{t}}=x-{\sqrt {x^{2}-1}}} なので、 t + 1 t = 2 x {\displaystyle t+{\frac {1}{t}}=2x} すなわち 2 d x = ( 1 − 1 t 2 ) d t {\displaystyle 2dx=\left(1-{\frac {1}{t^{2}}}\right)dt} また、 t − 1 t = 2 x 2 − 1 {\displaystyle t-{\frac {1}{t}}=2{\sqrt {x^{2}-1}}} .なので、 ∫ d x x 2 − 1 = ∫ 1 − 1 t 2 t − 1 t d t = ∫ d t t = ln ⁡ | x + x 2 − 1 | + C {\displaystyle \int {\frac {dx}{\sqrt {x^{2}-1}}}=\int {\frac {1-{\frac {1}{t^{2}}}}{t-{\frac {1}{t}}}}dt=\int {\frac {dt}{t}}=\ln |x+{\sqrt {x^{2}-1}}|+C} である。 ところで、この変換は双曲線 y 2 = x 2 − 1 {\displaystyle y^{2}=x^{2}-1} と直線 y = − x + t {\displaystyle y=-x+t} のただ一つの交点による変換であった。その交点を方程式を解いて t {\displaystyle t} で表すと、 x = 1 2 ( t + 1 t ) , y = 1 2 ( t − 1 t ) {\displaystyle x={\frac {1}{2}}\left(t+{\frac {1}{t}}\right),\,y={\frac {1}{2}}\left(t-{\frac {1}{t}}\right)} を得る。これは双曲線の媒介変数表示の一つである。また、 t → e t {\displaystyle t\rightarrow e^{t}} とすると、 x = e t + e − t 2 = cosh ⁡ t , y = e t − e − t 2 = sinh ⁡ t . {\displaystyle x={\frac {e^{t}+e^{-t}}{2}}=\cosh t,\,y={\frac {e^{t}-e^{-t}}{2}}=\sinh t.} これは x > 0 {\displaystyle x>0} の部分の双曲線の媒介変数表示である。最右辺は双曲線関数と呼ばれ、三角関数と似た性質を持つ。関数名の h {\displaystyle \mathrm {h} } はhyperbolaに由来する。例えば、双曲線の方程式より得られる cosh 2 ⁡ t − sinh 2 ⁡ t = 1 {\displaystyle \cosh ^{2}t-\sinh ^{2}t=1} は sin 2 ⁡ θ + cos 2 ⁡ θ = 1 {\displaystyle \sin ^{2}\theta +\cos ^{2}\theta =1} とよく似ている。例示の不定積分は x = cosh ⁡ t {\displaystyle x=\cosh t} と置換しても解くことが出来るが、ほとんど同じことなので省略する。 a < b {\displaystyle a<b} とする。積分 ∫ a b ( x − a ) ( b − x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{b}{\sqrt {(x-a)(b-x)}}\,dx} は y = ( x − a ) ( b − x ) {\displaystyle y={\sqrt {(x-a)(b-x)}}} とすると、 ( x − a + b 2 ) + y 2 = ( a − b 2 ) 2 {\displaystyle \left(x-{\frac {a+b}{2}}\right)+y^{2}=\left({\frac {a-b}{2}}\right)^{2}} より、被積分関数 y {\displaystyle y} は中心 a + b 2 {\displaystyle {\frac {a+b}{2}}} で半径 b − a 2 {\displaystyle {\frac {b-a}{2}}} の円周の上半分であり、積分区間もその両端なので、積分の値は半円の面積に等しく、 ∫ a b ( x − a ) ( b − x ) d x = π 2 ( b − a 2 ) 2 {\displaystyle \int _{a}^{b}{\sqrt {(x-a)(b-x)}}\,dx={\frac {\pi }{2}}\left({\frac {b-a}{2}}\right)^{2}} である。 一般に、関数 f ( a − x ) {\displaystyle f(a-x)} のグラフは関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} のグラフを直線 x = a 2 {\displaystyle x={\frac {a}{2}}} で対称移動したものである。 従って、連続関数 f ( x ) {\displaystyle f(x)} を区間 [ a + b 2 , b ] {\displaystyle \left[{\frac {a+b}{2}},b\right]} で積分した値 ∫ a + b 2 b f ( x ) d x {\displaystyle \int _{\frac {a+b}{2}}^{b}f(x)\,dx} と、連続関数 f ( a + b − x ) {\displaystyle f(a+b-x)} を区間 [ a , a + b 2 ] {\displaystyle \left[a,{\frac {a+b}{2}}\right]} で積分した値 ∫ a a + b 2 f ( a + b − x ) d x {\displaystyle \int _{a}^{\frac {a+b}{2}}f(a+b-x)\,dx} は等しい: この等式は単に、 x → a + b − x {\displaystyle x\to a+b-x} の変数変換によっても導出できる。 この等式より、 ∫ a b f ( x ) d x = ∫ a a + b 2 f ( x ) d x + ∫ a + b 2 b f ( x ) d x = ∫ a a + b 2 [ f ( x ) + f ( a + b − x ) ] d x {\displaystyle \int _{a}^{b}f(x)\,dx=\int _{a}^{\frac {a+b}{2}}f(x)\,dx+\int _{\frac {a+b}{2}}^{b}f(x)\,dx=\int _{a}^{\frac {a+b}{2}}[f(x)+f(a+b-x)]\,dx} が導かれる。 この公式は、 f ( x ) + f ( a + b − x ) {\displaystyle f(x)+f(a+b-x)} が簡単な形になる定積分で役に立つ。 例えば、 ∫ 0 π 2 sin ⁡ x sin ⁡ x + cos ⁡ x d x = ∫ 0 π 4 [ sin ⁡ x sin ⁡ x + cos ⁡ x + sin ⁡ ( π 2 − x ) sin ⁡ ( π 2 − x ) + cos ⁡ ( π 2 − x ) ] d x = ∫ 0 π 4 [ sin ⁡ x sin ⁡ x + cos ⁡ x + cos ⁡ x cos ⁡ x + sin ⁡ x ] d x = ∫ 0 π 4 d x = π 4 . {\displaystyle {\begin{aligned}\int _{0}^{\frac {\pi }{2}}{\frac {\sin x}{\sin x+\cos x}}\,dx&=\int _{0}^{\frac {\pi }{4}}\left[{\frac {\sin x}{\sin x+\cos x}}+{\frac {\sin({\frac {\pi }{2}}-x)}{\sin({\frac {\pi }{2}}-x)+\cos({\frac {\pi }{2}}-x)}}\right]\,dx\\&=\int _{0}^{\frac {\pi }{4}}\left[{\frac {\sin x}{\sin x+\cos x}}+{\frac {\cos x}{\cos x+\sin x}}\right]\,dx\\&=\int _{0}^{\frac {\pi }{4}}dx={\frac {\pi }{4}}.\end{aligned}}} King Property の応用例は ∫ − 1 1 x 2 1 + e x d x = 1 3 {\displaystyle \int _{-1}^{1}{\frac {x^{2}}{1+e^{x}}}\,dx={\frac {1}{3}}} , ∫ 0 π 4 ln ⁡ ( 1 + tan ⁡ x ) d x = π 8 ln ⁡ 2 {\displaystyle \int _{0}^{\frac {\pi }{4}}\ln(1+\tan x)\,dx={\frac {\pi }{8}}\ln 2} , ∫ 0 π 2 ln ⁡ sin ⁡ x d x = − π 2 ln ⁡ 2 {\displaystyle \int _{0}^{\frac {\pi }{2}}\ln \sin x\,dx=-{\frac {\pi }{2}}\ln 2} などがある。計算してみよ。 演習問題1 次の不定積分を求めよ。 演習問題2 第一問 第二問 ある関数f(x)の原始関数を求める演算は f(x)とx軸にはさまれた領域の面積を求める演算に等しい。 このことを用いて ある関数によって作られた領域の面積を求めることが出来る。 例えば、 ∫ 0 1 x 2 d x = 1 3 {\displaystyle \int _{0}^{1}x^{2}dx={\frac {1}{3}}} は、放物線 y = x 2 {\displaystyle y=x^{2}} について 0 < x < 1 {\displaystyle 0<x<1} の範囲でかこまれる面積に等しい。 楕円 x 2 a 2 + y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}+{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} の面積 S = π a b {\displaystyle S=\pi ab} の導出 楕円 x 2 a 2 + y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}+{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} を y {\displaystyle y} について解くと となる。そのうち y = b a a 2 − x 2 {\displaystyle y={\frac {b}{a}}{\sqrt {a^{2}-x^{2}}}} は半楕円(楕円の上半分)を示している。その半楕円の面積を2倍したものが楕円の面積Sとなるので となる。 ある立体 V 0 {\displaystyle V_{0}} の x = t {\displaystyle x=t} における断面積が有限な値で、その値が t {\displaystyle t} の関数 S ( t ) {\displaystyle S(t)} となるとき、この立体を平面 x = a {\displaystyle x=a} , x = b {\displaystyle x=b} (ただし、 a < b {\displaystyle a<b} )で切り取った領域の体積は、底面積 S ( t ) {\displaystyle S(t)} に極めて小さい高さ d t {\displaystyle dt} [2]の積 S ( t ) d t {\displaystyle S(t)\,dt} の区間 [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} における累積であるので、以下の式で表すことができる。 (例1) (例2) y = f ( x ) ( a ≤ x ≤ b ) {\displaystyle y=f(x)(a\leq x\leq b)} で与えられる曲線をx軸の回りに回転させて作られる 立体の体積Vは、 V = ∫ a b π ( f ( x ) ) 2 d x {\displaystyle V=\int _{a}^{b}\pi (f(x))^{2}dx} で与えられる。 導出 立体をx軸に垂直であり、x=cを満たす面とx=c+hを満たす面で切ると(hは小さな 定数)、その切断面で挟まれた立体は半径 f(c)の円と半径 f(c+h)の円 ではさまれた立体となる。 しかし、hが極めて小さいとき、この図形は半径f(c),高さhの円柱で 近似できる。 よってこの2つの面に関して、得られた図形の体積は h × π ( f ( c ) ) 2 {\displaystyle h\times \pi (f(c))^{2}} となる。 これを a < c < b {\displaystyle a<c<b} 満たす全てのcについて足し合わせると、 S = ∫ a b π ( f ( x ) ) 2 d x {\displaystyle S=\int _{a}^{b}\pi (f(x))^{2}dx} が得られる。 例えば、 y = x 2   ( 0 < x < 1 ) {\displaystyle y=x^{2}~(0<x<1)} をx軸の回りに回転させて得られる図形の体積は、 S = ∫ 0 1 π ( x 2 ) 2 d x {\displaystyle S=\int _{0}^{1}\pi (x^{2})^{2}dx} = π ∫ 0 1 x 4 d x {\displaystyle =\pi \int _{0}^{1}x^{4}dx} = π 5 {\displaystyle ={\frac {\pi }{5}}} となる。 球の体積 V = 4 3 π r 3 {\displaystyle V={\frac {4}{3}}\pi r^{3}} の導出 半径rの球は半円 y = r 2 − x 2 {\displaystyle y={\sqrt {r^{2}-x^{2}}}} をx軸の周りに回転させてつくることができる。 また体積をrで微分すると球の表面積 S = 4 π r 2 {\displaystyle S=4\pi r^{2}} が得られる。 これまでに学んだように、積分は微分の逆演算であると同時に、座標平面上での面積計算でもある。この項では、座標平面上の面積計算の方法の一つである区分求積法、および積分法との関連について学ぶ。 右図のようなある曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} がある。単純のため、ここではつねに f ( x ) > 0 {\displaystyle f(x)>0} であるものとして考える。この曲線と、x軸、および直線 x = a , x = b ( a < b ) {\displaystyle x=a,x=b(a<b)} によって囲まれる領域の面積Sを求める。この面積は#面積の項で学んだように、 と積分法を用いて計算することができた。では、これをもう少し原始的な方法で近似的に求めることを考えてみよう。 曲線を含む図形の面積を求めることは簡単ではないが、例えば三角形や長方形、台形などの直線で囲まれた図形の面積を求めることは難しくない。そこで、下図のようにy=f(x)を棒グラフで近似し、長方形の面積の和を計算することで、求めたい面積Sに近い値を求めることができる。左下のように棒グラフの幅が大きいと誤差も大きいが、棒グラフの幅を狭くすればするほど、すなわち分割数を多くするほど、徐々に求めたい面積の値に近づけることができる。そこで、この区間[a,b]をn等分し、その時の長方形の面積の総和を求め、その後で n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } の極限を考えることにする。このようにして、区間を細かく等分割し、長方形の面積の総和を求めることにより図形の面積を求める方法を、区分求積法と呼ぶ。 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} を棒グラフで近似するとき、右図のように、長方形の左上の頂点を曲線上に取る方法と、右上の頂点を曲線上に取る方法がある。どちらの方法でも、分割数を大きくすればいずれ求めたい面積に近づくが、まずは左上の頂点を曲線上に取る方法で考えることにする。 ここでは面積を求めたい区間を、単純のため[0, 1]とする。区間[0, 1]をn等分するとき、それぞれの長方形の左端のx座標は、 となる。ここで、一般に第k番目の長方形について考えることにする。ただし、いちばん左側の長方形を第0番目とし、いちばん右側の長方形を第n-1番目とする。第k番目の長方形の左端のx座標は k n {\displaystyle {\frac {k}{n}}} であるから、この長方形の高さは f ( k n ) {\displaystyle f\left({\frac {k}{n}}\right)} となり、また長方形の幅は 1 n {\displaystyle {\frac {1}{n}}} である。そのため、この長方形の面積 s k {\displaystyle s_{k}} は、 となる。したがって、これらの長方形の面積の総和 S n {\displaystyle S_{n}} は、 この S n {\displaystyle S_{n}} は、区間[0, 1]をn等分した時の長方形の面積の総和であるが、nを大きくすればするほど、次第にもとの面積に近づいていく。したがって、 n → ∞ {\displaystyle n\to \infty } の極限を考え、 となる。このようにして、求めたい面積を計算することができる。さらに、ここでこの区間の面積が積分法により計算できたことから、 が成り立つ。また、長方形の右上の頂点を曲線上に取る場合は、同様にして となる。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6III/%E7%A9%8D%E5%88%86%E6%B3%95
ここでは、メネラウスの定理、チェバの定理、三角形の五心及び四角形が円に内接する条件や方べきの定理などについて扱う。 任意の直線 l {\displaystyle l} と三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } において、直線 l {\displaystyle l} と直線 B C , C A , A B {\displaystyle \mathrm {BC} ,\mathrm {CA} ,\mathrm {AB} } の交点をそれぞれ D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } とする。このとき が成り立つ。 証明 点 C {\displaystyle \mathrm {C} } から直線 l {\displaystyle l} に平行な直線をかき、直線 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } との交点を G {\displaystyle \mathrm {G} } とする。 平行線による比の移動より、 B D : D C = B F : G F {\displaystyle \mathrm {BD} :\mathrm {DC} =\mathrm {BF} :\mathrm {GF} } C E : E A = G F : F A {\displaystyle \mathrm {CE} :\mathrm {EA} =\mathrm {GF} :\mathrm {FA} } したがって、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = A F F B ⋅ B F G F ⋅ G F F A = 1 {\displaystyle {\mathrm {AF} \over \mathrm {FB} }\cdot {\mathrm {BD} \over \mathrm {DC} }\cdot {\mathrm {CE} \over \mathrm {EA} }={\mathrm {AF} \over \mathrm {FB} }\cdot {\mathrm {BF} \over \mathrm {GF} }\cdot {\mathrm {GF} \over \mathrm {FA} }=1} [1] メネラウスの定理の逆 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } に対して、直線 B C , C A , A B {\displaystyle \mathrm {BC} ,\mathrm {CA} ,\mathrm {AB} } 上に点 D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } をとり、 D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } のうち三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } の辺上にある点が0個あるいは2個で、かつ、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\mathrm {AF} \over \mathrm {FB} }\cdot {\mathrm {BD} \over \mathrm {DC} }\cdot {\mathrm {CE} \over \mathrm {EA} }=1} が成り立つとき、3点 D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } は一直線上にある。 証明 2直線 E F , B C {\displaystyle \mathrm {EF} ,\mathrm {BC} } の交点を D ′ {\displaystyle \mathrm {D} '} とする。このとき、メネラウスの定理より、 A F F B ⋅ B D ′ D ′ C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\mathrm {AF} \over \mathrm {FB} }\cdot {\mathrm {BD'} \over \mathrm {D'C} }\cdot {\mathrm {CE} \over \mathrm {EA} }=1} である。また、仮定より A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\mathrm {AF} \over \mathrm {FB} }\cdot {\mathrm {BD} \over \mathrm {DC} }\cdot {\mathrm {CE} \over \mathrm {EA} }=1} である。これら2式より、 B D D C = B D ′ D ′ C {\displaystyle {\mathrm {BD} \over \mathrm {DC} }={\frac {\mathrm {BD'} }{\mathrm {D'C} }}} である。これは、2点 D , D ′ {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {D} '} が線分 B C {\displaystyle \mathrm {BC} } を同じ比で内分する点であることを示すので、 点 D {\displaystyle \mathrm {D} } と点 D ′ {\displaystyle \mathrm {D} '} は一致する。したがって、3点 D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } は一直線上にある。 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } に対し、任意の一点 O {\displaystyle \mathrm {O} } と A , B , C {\displaystyle \mathrm {A} ,\mathrm {B} ,\mathrm {C} } を結んだ直線がそれぞれ B C , C A , A B {\displaystyle \mathrm {BC} ,\mathrm {CA} ,\mathrm {AB} } と交わる点を D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } とする。 このとき、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}=1} が成り立つ。 証明 点 C {\displaystyle \mathrm {C} } を通り直線 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } に平行な直線をかき、 A D , B E {\displaystyle \mathrm {AD} ,\mathrm {BE} } との交点をそれぞれ G , H {\displaystyle \mathrm {G} ,\mathrm {H} } とする。 A F : F B = G C : H C {\displaystyle \mathrm {AF} :\mathrm {FB} =\mathrm {GC} :\mathrm {HC} } B D : D C = A B : C G {\displaystyle \mathrm {BD} :\mathrm {DC} =\mathrm {AB} :\mathrm {CG} } C E : E A = C H : A B {\displaystyle \mathrm {CE} :\mathrm {EA} =\mathrm {CH} :\mathrm {AB} } したがって、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = G C H C ⋅ A B C G ⋅ C H A B = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}={\frac {\mathrm {GC} }{\mathrm {HC} }}\cdot {\frac {\mathrm {AB} }{\mathrm {CG} }}\cdot {\frac {\mathrm {CH} }{\mathrm {AB} }}=1} 平行線による比の移動より、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = G C H C ⋅ A B C G ⋅ C H A B = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}={\frac {\mathrm {GC} }{\mathrm {HC} }}\cdot {\frac {\mathrm {AB} }{\mathrm {CG} }}\cdot {\frac {\mathrm {CH} }{\mathrm {AB} }}=1} チェバの定理の逆 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } に対し、直線 B C , C A , A B {\displaystyle \mathrm {BC} ,\mathrm {CA} ,\mathrm {AB} } 上にそれぞれ点 D , E , F {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} ,\mathrm {F} } があるとき、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}=1} ならば、直線 A F , B D , C E {\displaystyle \mathrm {AF} ,\mathrm {BD} ,\mathrm {CE} } は一点で交わる。 証明 直線 B D , C E {\displaystyle \mathrm {BD} ,\mathrm {CE} } の交点を O {\displaystyle \mathrm {O} } とおき、直線 A O {\displaystyle \mathrm {AO} } と直線 B C {\displaystyle \mathrm {BC} } との交点を F ′ {\displaystyle \mathrm {F} '} とおく。このとき、チェバの定理より、 A F ′ F ′ B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF'} }{\mathrm {F'B} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}=1} が成り立つ。また、仮定より、 A F F B ⋅ B D D C ⋅ C E E A = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}\cdot {\frac {\mathrm {BD} }{\mathrm {DC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CE} }{\mathrm {EA} }}=1} である。これら2つの式から、 A F F B = A F ′ F ′ B {\displaystyle {\frac {\mathrm {AF} }{\mathrm {FB} }}={\frac {\mathrm {AF'} }{\mathrm {F'B} }}} が得られる。これは、2点 F , F ′ {\displaystyle \mathrm {F} ,\mathrm {F} '} が線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } を同じ比で内分する点であることを示すので、 点 F {\displaystyle \mathrm {F} } と点 F ′ {\displaystyle \mathrm {F} '} は一致する。よって、直線 A F , B D , C E {\displaystyle \mathrm {AF} ,\mathrm {BD} ,\mathrm {CE} } は一点で交わる。 三角形の頂点から相対する辺の中点に対して下ろした線分のことを 中線 という。三角形の3つの中線の交わる点を重心という。 三角形の3本の中線は1点で交わる。また、その交点は中線を 2:1 に内分する。 証明 チェバの定理の逆より、三角形の3本の中線は一点で交わる。 △ A B C {\displaystyle \triangle \mathrm {ABC} } について、その重心を G {\displaystyle \mathrm {G} } 、 B C , C A {\displaystyle \mathrm {BC} ,\mathrm {CA} } の中点をそれぞれ D , E {\displaystyle \mathrm {D} ,\mathrm {E} } とおく。このとき、三角形 A C D {\displaystyle \mathrm {ACD} } 及び、直線 B G E {\displaystyle \mathrm {BGE} } に対してメネラウスの定理を用いることにより、 A E E C ⋅ C B B D ⋅ D G G A = 1 {\displaystyle {\frac {\mathrm {AE} }{\mathrm {EC} }}\cdot {\frac {\mathrm {CB} }{\mathrm {BD} }}\cdot {\frac {\mathrm {DG} }{\mathrm {GA} }}=1} したがって、 D G G A = 1 2 {\displaystyle {\frac {\mathrm {DG} }{\mathrm {GA} }}={\frac {1}{2}}} である。これより、重心は中線を2:1に内分することが分かる。 厚めの画用紙などで三角形をつくり、その三角形を水平にして、右図のように三角形の重心の部分で、棒で支えると、 水平方向の重さのバランスがとれるので、三角形を水平に保つことができる。 そもそも、このように重さのバランスを取れる場所であるので「重心」という名前がついている。重心の英語の center of gravity という英単語も、「重力の中心」という意味である。 理科の「物理」科目で習う「重心」とは、この例のように、重さのバランスを取れる部分という意味である。 なお、このような力学的な「重心」については、三角形だけでなく四角形や五角形などでも、同様に水平方向の重さのつりあいをとれる点として、力学的に「重心」を定義できる。 また、平面図形だけでなく立体図形でも同様、力学的に「重心」を定義できる。 三角形の3つの辺の垂直二等分線は1点で交わる。 △ABCを取り、辺AB,AC のそれぞれに対して垂直二等分線を取り、2直線の交点をOとする。このとき、点OがAB,ACのそれぞれに対する垂直2等分線上にあることから であるので、 が成り立つ。 よって点Oは辺BCの垂直二等分線上にある。 上の証明から、 O A = O B = O C {\displaystyle OA=OB=OC} であるので、この点は三角形の3つの頂点から等距離にあることが分かるので、この点Oを中心として円を書くと、三角形ABCの頂点3つを通る円を書くことができる。 このように、三角形の3つの頂点を通る円(右図では赤線の部分)のことを外接円(がいせつえん、 英:circumscribed circle)という。 そして、外接円の中心(右図の点Oの部分)のことを、その三角形の 外心(がいしん)という。 三角形の3角のそれぞれに対して角の2等分線を取ったとき、それぞれの直線は1点で交わる。 △ABCを取り、角A,Bについて角の2等分線を取り2直線の交点をIと呼ぶ。 さらに、点Iから辺BC,CA,ABに下ろした垂線とそれぞれの辺の交点をそれぞれ D,E,F と呼ぶとする。このとき、角Aの二等分線の性質から が成り立ち、同様に角Bの2等分線の性質から が成り立つので、 よって である。 したがって、点Iは角Cの二等分線上にある。 ID=IE=IF なので、図のように三角形の三辺に接する円を書くことができ。この円を △ABCの内接円 (ないせつえん、英:inscribed circle)といい、その中心Iを内心(ないしん)という。 なお、三角形の内接円の半径をrとすると、面積Sと三辺の長さa,b,cとの間に の関係式が成り立つ(△ABI、△BCI、△CAIの3つの三角形の面積を考えてみよ)。面積Sはヘロンの公式を用いれば、三角形の三辺の長さから内接円の半径が計算できる。 外心の性質を利用して、次の定理が証明できる。 三角形の各頂点から対辺またはその延長に降ろした垂線は、1点で交わる。 点Aを通り辺BCに平行な直線、点Bを通り辺CAに平行な直線、点Cを通り辺ABに平行な直線をかき、これらの直線の交点を図のようにP,Q,Rとする。 すると、四角形RBCA は平行四辺形なので、 RA = BC である。 同様に、四角形ABCQ も平行四辺形なので BC=AQ である。 よって RA=BC かつ BC=AQ なので、 RA = AQ である。 次に、点Aから対辺BCまたはその延長上に垂線ADを引く。 すると、 RQ // BC の仮定により、平行な2直線の同位角が等しい事を利用して、 が導かれる。したがって、この線分ADは、△RQPの辺RQの垂直二等分線である。 同様に考えると、頂点Bから辺ACまたはその延長上に降ろした垂線BEは辺RPの垂直二等分線であり、頂点Cから辺ABまたはその延長上に降ろした垂線CFは辺PQの垂直二等分線であることがわかる。 この3本の垂直二等分線は、△RQPの外心で交わる。すなわち△ABCの各頂点から対辺に引いた3本の垂線 AD,BE,CF は一点で交わる。 三角形の2つの外角のそれぞれの二等分線と、残りの1つの内角の二等分線とは、一点で交わる。 外角Bと外角Cの二等分線の交点をPとする。 図のように、Pから△ABCの3辺またはその延長線上に垂線PD,PE,PFをおろす。 すると、 なので、 である。 よって、直線APは∠Aの二等分線である。 この点 P を 傍心(ぼうしん)という。 三角形には3つの傍心が存在する。 三角形の角の2等分線に関して、次のことが成り立つ。 △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} の ∠ A {\displaystyle \angle A} の2等分線と辺BCとの交点をDとすると、 A B : A C = B D : D C {\displaystyle AB:AC=BD:DC} となる。 ∠ A {\displaystyle \angle A} の2等分線と辺BCとの交点がDだから Cを通りADに平行な直線とBAの延長との交点をEとする。 ADとECは平行であるから 上の3つの式から よって また、ADとECは平行であるから (1)と(2)より 三角形の外角の2等分線に関して、次のことが成り立つ。 △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} の ∠ A {\displaystyle \angle A} の外角の2等分線と辺BCの延長との交点をDとすると、 A B : A C = B D : D C {\displaystyle AB:AC=BD:DC} となる。ただし、 A B ≠ A C {\displaystyle AB\neq AC} とする。 Cを通りADに平行な直線とABの延長との交点をEとすると、上の定理と同様に 三角形の辺と角の大小関係について、次のようなことが言える。 △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} において ( A B < A C   ⇒   ∠ B > ∠ C {\displaystyle AB<AC\ \Rightarrow \ \angle B>\angle C}  の証明) A B < A C {\displaystyle AB<AC} とし、辺AC上に点Dを、 A D = A B {\displaystyle AD=AB} となるようにとれば ところで、 ∠ A D B {\displaystyle \angle ADB} は △ D B C {\displaystyle \triangle DBC} の ∠ B D C {\displaystyle \angle BDC} の外角だから また、点Dは辺AC上にあるから (1),(2),(3)より、 ∠ B > ∠ C {\displaystyle \angle B>\angle C} ( ∠ B > ∠ C   ⇒   A B < A C {\displaystyle \angle B>\angle C\ \Rightarrow \ AB<AC}  の証明) ∠ B > ∠ C {\displaystyle \angle B>\angle C} であって、 A B < A C {\displaystyle AB<AC} ではないとすると、次のどちらかが成り立つ。 (1)が成り立つとすると、二等辺三角形になるので、 ∠ B = ∠ C {\displaystyle \angle B=\angle C} (2)が成り立つとすると、前半で示したとおり、 ∠ B < ∠ C {\displaystyle \angle B<\angle C} どちらの場合も、仮定 ∠ B > ∠ C {\displaystyle \angle B>\angle C} に反する。 よって、 A B < A C {\displaystyle AB<AC} でなければならない。 三角形の3辺について、次のようなことが言える。 三角形の2辺の和は、残りの辺よりも大きい。 △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} において、 A B + A C > B C {\displaystyle AB+AC>BC} を証明する。 辺BAをAの方に延長し、その上に点Dを、 A D = A C {\displaystyle AD=AC} となるようにとる。 △ A C D {\displaystyle \triangle ACD} は二等辺三角形であるから △ B C D {\displaystyle \triangle BCD} において、点Aは辺BD上にあるから よって、三角形の辺と角の大小の定理より △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} の3辺の長さを、 B C = a   ,   C A = b   ,   A B = c {\displaystyle BC=a\ ,\ CA=b\ ,\ AB=c} とすると、上の定理より次のことがわかる。 三角形の2辺の差は、残りの辺よりも小さい。 であるから、 b ≥ c {\displaystyle b\geq c} のとき、 c + a > b {\displaystyle c+a>b} より b < c {\displaystyle b<c} のとき、 a + b > c {\displaystyle a+b>c} より が成り立つ。 2つの定理より、三角形の3辺が a   ,   b   ,   c {\displaystyle a\ ,\ b\ ,\ c} であるとき、 が成り立つことがわかる。 逆に、正の数 a   ,   b   ,   c {\displaystyle a\ ,\ b\ ,\ c} が不等式 | b − c | < a < b + c {\displaystyle |b-c|<a<b+c} を満たすとき、3辺の長さが a   ,   b   ,   c {\displaystyle a\ ,\ b\ ,\ c} である三角形が存在する。 円周上に3点A,B,Cがある。直線ABについて点Cと同じ側に点Pをとり、 ∠ A P B {\displaystyle \angle APB} と ∠ A C B {\displaystyle \angle ACB} の大きさを比べる。 点Pについては、 のいずれかである。 (2)の場合、三角形の外角と内角の間の大小関係より (3)の場合も、三角形の外角と内角の間の大小関係より この結果、次のことがいえる。 このことから、次のようなことがいえる。 2点C,Pが直線ABについて同じ側にあるとき、 ∠ A P B = ∠ A C B {\displaystyle \angle APB=\angle ACB} ならば、4点A,B,C,Pは同じ円周上にある。 上の議論から三角形に外接する円はどのような三角形を取ったとしても常に存在 することが分かった。しかし、四角形に関してはそれに対して外接するような 円は常に存在するわけではない。 一般に円に内接するような四角形に関しては以下の性質が成り立つ。 円に内接する四角形の相対する角の和は 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} となる。 内接する四角形の頂点を反時計回りにA,B,C,Dとする。 このとき、角A,角Cはそれぞれ点B,Dを対応する端点とする円弧に対する円周角となっている。ただし、角Aと角Cは互いに逆の円弧を対応する弧としているため、2つの弧を合わせるとそれらの弧はちょうど円周をおおうことになる。 このため、これらの2つの弧に対応する中心角の和は 360 ∘ {\displaystyle 360^{\circ }} に対応し、同じ弧に対応する円周角の和は 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} に対応するのである。 また、円に内接する四角形に関して以下の性質も成り立つ。 円に内接する四角形において、1つの内角は、それに向かい合う内角の隣にある外角に等しい。 円に内接する四角形ABCDにおいて、上の定理より また、頂点Cにおける外角を ∠ D C E {\displaystyle \angle DCE} とすると、 ∠ D C E + ∠ C = 180 ∘ {\displaystyle \angle DCE+\angle C=180^{\circ }} であるから 円に内接する四角形の性質の逆について考えてみよう。 (1) 向かい合う内角の和が 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} の四角形は、円に内接する。 (2) 1つの内角が、それに向かい合う内角の隣にある外角に等しい四角形は、円に内接する。 (1)の証明 四角形ABCDで、 とする。 △ A B C {\displaystyle \triangle ABC} の外接円Oを書き、円Oに内接する四角形ABCD'を作ると (I),(II)より したがって、円周角の定理の逆から、点Dはこの円Oの周上にある。 よって、四角形ABCDは円に内接する。 (2)の証明 四角形ABCDで、頂点Cにおける外角を ∠ D C E {\displaystyle \angle DCE} として、 とする。 であるから 四角形が円に内接する条件(1)より、向かい合う内角の和が 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} であるから、四角形ABCDは円に内接する。 円Oの外の点Aからその円に2本の接線を引ける。その接点をP,Qとするとき、線分AP,AQの長さを、円Oの外の点Aから円Oに引いた接線の長さという。 2つの接線の長さについて、次のことがいえる。 円外の点からその円に引いた2本の接線の長さは等しい。 直角三角形APO,AQOにおいて (I),(II)より よって、対応する辺APとAQは等しい。 円周上の点Aを通る接線ATがあって、円周上に2点B,Cをとるとき、 ∠ T A B {\displaystyle \angle TAB} と円周角 ∠ A C B {\displaystyle \angle ACB} の大きさには、次のような関係がある。 円の弦とその一端から引いた接線とのなす角は、その角内にある弧に対する円周角に等しい。 ∠ T A B {\displaystyle \angle TAB} が鋭角の場合について考える。 直径ADを引くと、 ∠ T A D = 90 ∘ {\displaystyle \angle TAD=90^{\circ }} であるから、 また、ADは直径であるから ∠ B A D {\displaystyle \angle BAD} と ∠ B C D {\displaystyle \angle BCD} は弧BDに対する円周角であるから (I),(II),(III)より ∠ T A B {\displaystyle \angle TAB} が直角、鈍角の場合についても同様に証明できる。 中心Oとする円について次の定理が成り立つ。 円周上に異なった2点A,Bを取りその2点を通る直線を取る。また、同様に A,Bと異なった2点C,Dを通りそれらを通過する直線を取り、直線ABと直線CDの 交点をEと取る。このとき、 が成り立つ。この定理を方べきの定理と呼ぶ。 まず、点Eが円の外部にある場合を考える。このとき、直線AB上で点Eに近い点を点B, 直線CD上で点Eに近い点を点Cとおいたとき、三角形ECBと三角形EADが相似であることを 示す。 まず、四角形ABCDは円に内接していることから、 について、 が成立する。これは円に内接する四角形の相対する角の和が 180 ∘ {\displaystyle 180^{\circ }} になることに よっている。同様にして が成立し、2角が等しいことから三角形ECBと三角形EADは相似となる。 このことから、 となるが、このことは に等しい。 次に、点Eが円の内部にある場合を考える。 このとき三角形EADと三角形EBCが互いに相似であることを示す。 最初に についてこれらが互いの対頂角であることから が成り立つ。次に、 についてこれらが円周BDの円周角であることから が成り立つ。よって、2角が等しいことから三角形EADと三角形EBCは 互いに相似である。このことから となるが、このことは に等しい。 よって、どちらの場合にも方べきの定理が示された。 また、中心Oとする円の弦と接線について次の定理が成り立つ。 円の弦ABの延長上の点Pから円に引いた接線をPTとする。このとき、 が成り立つ。 △ P A T {\displaystyle \triangle PAT} と △ P T B {\displaystyle \triangle PTB} において 接弦定理より だから、 △ P A T {\displaystyle \triangle PAT} と △ P T B {\displaystyle \triangle PTB} は相似 よって、 したがって、 2つの円を取ったときこれらはいくつかの仕方で関係する。2つの円の関係は2つの円の中心間の距離と、2円の半径によって定まる。 2円の距離をそれぞれ r 1 {\displaystyle r_{1}} , r 2 {\displaystyle r_{2}} ( r 1 > r 2 {\displaystyle r_{1}>r_{2}} ),中心間の距離を l {\displaystyle l} とすると、2円の位置関係として がある。 2つの円がただ1つの共有点をもつとき、この2つの円は接するといい、この共有点を接点(せってん、英:point of contact)という。 1つの直線が、2つの円に接しているとき、この直線を、2つの円の共通接線という。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6A/%E5%9B%B3%E5%BD%A2%E3%81%AE%E6%80%A7%E8%B3%AA
たとえば、おはじきを一列に並べる場合、並べ方の数には、いくつもの方法がある。じっさいに全ての並び方を試すことも、時間さえあれば実験可能である。 このように、「全部で何通りがあるか」という、その「何通り」の「何」にあたる数字を、場合の数(ばあいのかず) と呼ぶ。 このように事柄には、それらのやり方が全部で何通りあるかを数えることが出来る事柄がある。 ある事柄について(そのことが起こりうる)場合の数を正確に数えることが理解の基礎であり、その事柄について、どのことが起こりやすくどのことが起こりづらいかを見分けるための基礎となる。 つまり、場合の数は事柄が起こりうる確率と密接な関係にある。 例えば、ポーカーなどのカードゲームでは集めることが難しい役は高いランクが与えられているが、 これは起こりにくい役が出来るトランプの組み合わせの現われる確率が小さいことによる。 このことは、52枚のカードから5枚を引いて来たときに全てのカードを引く確率が同じであるとしたとき、ある役に対応するカードの組み合わせを引く場合の数がより少ないことに対応する。 このように、場合の数は事柄が起こりうる確率と密接な関係にある。 カードゲームのように確率が具体的に計算できる場合の他にも、確率の考え方を用いて計算される事柄は多くある。 たとえば、保険(ほけん)と呼ばれるものはある事柄に値段をつけるものであるが、 保険を下ろさなくてはならない事柄が起こりにくいと客観的に思われるものほど、そのものの値段が下がるという特徴がある。 例えば、自動車保険に加入するのに必要な代金は若者では高く、年令を重ねるごとに低くなっていく。 これは、若者は自動車の免許を取得して時間が短い場合が多く、保険金の支払を必要とする自動車事故をおこす可能性が高いことによる。 いっぽう、年令を重ねたものについては運転の技量が時とともに上達すると一般に考えられるので保険をかけるための代金は少なくなるのである。 また、同じ若者でも既に何度か事故を重ねたものは同じ年代の他の若者よりも保険料が高くなる傾向がある。 これは、何度か事故を重ねたものは運転の仕方に何らかの問題がある傾向があり、それによってふたたび事故をおこす可能性が通常のものと比べてより高いと考えられることによる。 銀行の融資(ゆうし)でもやはり確率の考えを用いて高い利益を出すことが実践されている。 融資でもやはり保険業とおなじく、より貸倒れになる可能性が高い相手に対しては高い金利で資金を貸し付け、 より安定した資金を持っている相手に対してはより低い金利で資金を貸し付けることを実行して来た。 利益を安定的に稼ぐ方法として、いくつかの会社が発行する互いに性質の異なった株などを合わせて購入先を分散することで株の値段が下がったときでも値段があまり減ることが無いようにする方法が考案されている。 (ただし、値段が減りづらいのと同様に、値段は上がりづらい。) これは、性質の異なった商品を合わせて扱うことで、値段が急変する確率を下げることが出来ることを表わしている。 しかし、確率では、必ずしも予測した通りに事が進むわけでは無いことに注意する必要がある。 この章では場合の数と確率の計算法を紹介する。まず先に様々な事柄の場合の数の計算法を扱い、その結果を用いてある事柄が起こる確率を計算する方法を紹介する。 ここでは、有限集合 A の要素の個数を n(A) で表す。 たとえば、10以下の自然数の集合を U として、そのうち 偶数の集合を A とする場合、 なので、Aの要素の個数は5個なので である。 なお、 U={1, 2, 3, 4, 5, 6 , 7, 8, 9, 10} で要素の個数は10個なので である。 次のような問題を考えてみよう。 100までの自然数のうち、2または3の倍数は何個あるか? このような問題の解法を考えるため、準備の問題として、まず10までの自然数で考えてみよう。 先程の例題で2の倍数については考えたので、次の問題として10までの3の倍数の個数について考えよう。 10以下の自然数の集合を U として、そのうち 3の倍数の集合を B とする場合、 B={3, 6 , 9} なので、Bの要素の個数は3個なので である。 さて、 には共通して 6 という要素が含まれている。 自然数10までにある2または3の倍数にあたる要素は、 であり、要素の個数をかぞえると 7個である。 一方、 であり、1個多い。 このように1個多くなってしまった原因は、 集合Aと集合Bに共通して含まれている要素 6 を二重に数えてしまっているからである。 一般に、2つの集合A,Bの要素の個数 n(A) と n(B) を用いて、AまたはBの条件を満たす要素の個数をかぞえたい場合には、AとBに共通して含まれている要素の個数を差し引かなければならない。 このことを式で表すと になる。 ただし、「∪」とは和集合の記号で、 A∪B とは 集合Aと集合Bの和集合のことである。 「∩」とは共通部分の記号で、 「A∩B」とは 集合Aと集合Bの共通部分のことである。 では、この公式を参考にして 100までの自然数のうち、2または3の倍数は何個あるか? の答えを求めよう。 100までの自然数のうちの、2の倍数の集合をAとして、3の倍数の集合をBとすると さらに、2の倍数でもあり3の倍数でもある数の集合 A∩B とは、つまり6の倍数の集合のことであり(なぜなら 2 と 3 の最小公倍数が 6 なので)、 96÷6=16 なので、A∩B の要素の個数は 16 個、つまり n(A∩B)= 16 である。 そして、公式 を適用すると、 である。 よって、100までの自然数のうちの2または3の倍数の個数は 67個 である。 3つの有限集合の和集合の要素の個数については、次の公式が成り立つ n(A∪B∪C) = n(A) + n(B) + n(C) −n(A∩B) −n(B∩C) −n(C∩A) + n(A∩B∩C) 右の図を参考に、上の公式を証明せよ。 100以下の自然数のうち、2の倍数または3の倍数または5の倍数であるものの個数を求めよ。 (解法) まず、100以下の自然数のうち、 とする。 100÷2=50なので、100は50番目の2の倍数であり、よって100以下の2の倍数は50個である。同様に考えて要素の個数を求めると、 である。 一方、100以下の自然数のうち となる。 よって、先ほどと同様に考えると また、100以下の自然数のうち、 A∩B∩C の要素の個数は である。 よって、 なので、100以下の自然数のうちの2の倍数または3の倍数または5の倍数であるものの個数は 74個である。 たとえば大中小3個のサイコロをふって、目の和が5になる目の組は、何通りあるだろうか。 このような問題を解く方法のひとつとして、図のように、組み合わせを総当たりで書く方法がある。 大中小の合計3個のサイコロをそれぞれ A,B,C として表し、それらの文字に、どの目が出れば合計5になるかを考えると、結果は図のようになる。 このような図を 樹形図(じゅけいず) という。 3個のサイコロをふるとき、目の和が6になる場合は何通りあるか。 最初に、n個の異なったものを並べ換える場合の数を数える。 まず最初に並べるものはn個、次に並べるものは(n-1)個、その次に並べるものは(n-2)個 ... とだんだんと選べるものの数が減って行き、最後には1個しか残らなくなることに注目すると、この事柄に関する場合の数は となり、1からnまでの自然数の積になる。 この数を 階乗 (かいじょう、factorial)と呼び、階乗nの記号は n ! {\displaystyle n!} で表す。 すなわち、階乗は n ! = n ( n − 1 ) ( n − 2 ) ⋯ 3 ⋅ 2 ⋅ 1 {\displaystyle n!=n(n-1)(n-2)\cdots 3\cdot 2\cdot 1} と定義される。この階乗の記号を使えば、この問題のときの場合の数は n!であると言うことが出来る。 をそれぞれ計算せよ。 を用いて計算すればよい。 答えは、 となる。 それぞれに1から5までの数字が書かれた5枚のカードが置いてある。 このカードを並べ換えたとき、 (I)カードの並べ方の数、 (II)偶数が得られるカードの並べ方の数、 (III)奇数が出るカードの並べ方の数を、それぞれ計算せよ。 (I) カードの数が5枚でそれぞれが区別できることから、カードの並べ方の数は となり、120となる。 (II) 偶数を得るためには一の位である最も右に出るカードが、偶数となればよい。 このようなカードは2と4であり、それぞれに対して後の4枚は自由に選んでよい。 このため、このようなカードの並べ方は、 となる。 (III) 奇数を得るためには一の位である最も右に出るカードが、奇数となればよい。 このようなカードは1,3,5であり、それぞれに対して後の4枚は自由に選んでよい。 このため、このようなカードの並べ方は、 となる。一方、5枚のカードを並べ換えて得られる数は必ず偶数か奇数の どちらかであるので、(I)の結果から(II)の結果を引くことによっても (III)の結果は得られるはずだが、実際にそれを計算すると となり、確かにそのようになっている。 0,1,2,3,5が書かれた5枚のカードがある。これを並び換えたとき、 をそれぞれ求めよ。 (I) 先頭が0になったときには5桁の数にならないことに注意すればよい。求める場合の数は となる。 (II) 最初が0でなく最後が0か2である数を数えればよい。まず、最後が0であるときには、残りの4枚は任意であるので 通りの組み合わせがある。 次に、最後が2であるときには最初は0であってはいけないので、 通りある。 2つを合わせた数が5桁の偶数が得られる場合の数である。答えは、 となる。 (III) (I)の結果から(II)の結果を引けばよいが、ここではその結果が正しいかどうか 確かめるためにも5桁の奇数が得られる組み合わせを数え上げてみる。 5桁の奇数を得るためには最後の数は1,3,5のいずれかでなくてはならない。 このうちのどの場合についても5桁の数を得るためには最初の数が0で 合ってはならないのでそれぞれの場合の数は、 となりこれが5桁の奇数を得る場合の数である。 (II)の結果と足し合わせると確かに(I)の結果と等しい96を得る。 (IV) 5の倍数を得るためには最後の数が0か5であればよい。 このとき最後が0になる場合の数は他の4つが任意であるため 存在する。次に、最後が5になる場合の数は最初の数が0であってはならないため だけ存在する。 よって答えは となる。 n個の異なったものからr個を選んで、順番をつけて並べる仕方の数を、 n P r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {P} _{r}} と書く。 また、このような計算の仕方を 順列 (じゅんれつ、英:permutation) という。 n個の異なったものからr個を選んで順番をつけて並べる仕方の数のこと を、 のように言う。 最初に並べるものはn通り、次に並べるものは (n−1)通り 、その次に並べるものは (n−2)通り ,... 最後には (n−(r−1))通り というように、だんだん選べるものの数が減って行くことに注目すると、順列の総数として が得られる。 一般に n P r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {P} _{r}} では n ≧ r である。 (I) (II) (III) (IV) (V) (VI) をそれぞれ計算せよ。 それぞれ を用いて計算すればよい。 結果は、 (I) (II) (III) (IV) (V) (VI) となる。 (V)と(VI)については一般的に整数nに対して が得られる。このとき は元々の順列の定義からすると"n個のものの中から1つも選ばない場合の数"に対応しており、少々不自然なように思えるが、このように値を置いておくと便利であるため通常このように置くのである。あまり、実際の場合の数の計算でこのような値を扱うことは多くはないといえる。 A, B, C, D, E の5人が円形に手をつないで輪をつくるとき、その並び方は何通りあるか。 このような問題の場合、図のように、回転すると重なる並びは同じ並びであると考える。 解き方の考え方は数種類ある。 どちらにせよ、結果は である。 一般に 異なる n個 のものを円形に並べたものを円順列という。 円順列の総数として、次のことが成り立つ。 異なる n個 の円順列の総数は ( n − 1 ) ! {\displaystyle (n-1)!} である。 n個の異なったものからr個を選んで、順番をつけずに並べる仕方の数を、 n C r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {C} _{r}} と書き、このような計算を 組み合わせ(combination) という。 例えば、いくつもあるボールに番号がふってあるなどの方法で、それぞれのボールが区別できるn個のボールが入った箱の中からr個のボールを取りだす時、取りだしたボールを取りだした順に並べるとすると、この場合の数は順列 n P r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {P} _{r}} に対応する。 一方、取りだしたボールの種類が重要であり取りだした順番が特に必要でないときには、この場合の数は組み合わせ n C r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {C} _{r}} に対応する。これらの数はお互いに異なった場合の数であり、互いに異なった計算法が必要となる。 n C r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {C} _{r}} は、 n P r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {P} _{r}} 通りの並べ方を作った後にそれらの並びを無視したものに等しい。ここで、r個を取りだして作った並びについて、並べ方を無視するとr!個の並びが同一視されることがわかる。 なぜなら、r個のお互いに区別できる数を自由に並び換える場合の数はr!であり、それらが全て同一視されるとすれば全体の場合の数は r!の分だけ減ることになるからである。よって、 が得られる。 演習問題 次の値を計算せよ (I) (II) (III) (VI) それぞれについて を用いて計算すればよい。 (I) (II) (III) (VI) となる。(IV)については一般に整数nに対して を定義する。 これはもともとの組み合わせの計算としてはn個の物体のなかから0個の物体を選ぶ場合の数に対応しており、 実際にはこのような場合の数を計算しようと考えることはあまり無いと思われるが、計算の便宜上のため定義を上のようにする。 また、上の計算では の式をそのまま用いると、 つまり、 となっている。 実際には階乗の計算は整数nについてはnから1までを下がりながらかけ算していくという仕方で計算されていたので、上の結果は妙に思える。 しかし実際には、より進んだ理論によってこの結果は正当化されるのであり、 この場合も便宜上 を0の階乗の定義として受けいれるのである。 演習問題 5個のボールが入ったボール入れから2つのボールを取りだすとき(ボールはそれぞれ 区別できるものとする。)2つのボールの選び方は、 何通りあるか計算せよ。 ボールの取りだし方は組み合わせの数を用いて計算できる。 5つのボールの中から2つを取りだすのであるからその場合の数は、 となる。よって、ボールの取りだし方は10通りであることがわかる。 演習問題 6個の互いに区別できるボールが入った箱がある。 この中から (I)3つのボールと2つのボールを取りだす方法の場合の数、(II)2つのボールを取り出すことを2回くり返し、それぞれを別の互いに区別できる袋にいれる場合の数、(III)2つのボールを取り出すことを2回くり返し、それぞれを別の互いに区別できない袋にいれる場合の数、をそれぞれ計算せよ。 (I) 最初にボールを取りだすときには、6つのボールの中から3つのボールを取りだすことからその場合の数は だけある。また、次にそれを取り除いた中から2つのボールを取り除くときには その取りだし方は、 だけある。 よって、このときの場合の数は だけになる。実際この値を計算すると、 となり、60通りであることが分かる。 (II) (I)の場合と同様に6つのボールの中から2つのボールを 取りだすことからその場合の数は だけある。また、次にそれを取り除いた中から2つのボールを取り除くときには その取りだし方は、 だけある。 よって、このときの場合の数は だけになる。実際この値を計算すると、 となり、90通りであることが分かる。 (III) (II)と同じ計算で値を求めることが出来るが、今回はボールをいれた袋が 互いに区別できないことに注意しなくてはならない。 このことによって、起こりうる場合の数は(II)の場合の半分になるので 求める場合の数は45通りとなる。 n C r {\displaystyle {}_{n}\mathrm {C} _{r}} について以下の式が成り立つ。 導出 を用いると、 が得られ、示された。 同様に を用いると、 となり示された。 最初の式は、異なるn個のもののうちr個にXというラベルをつけ、残りのn-r個にYというラベルをつける場合の数から求めることができる。異なるn個のもののうちからr個を選びラベルXをつけ、残りにラベルYをつける場合の数は n C r {\displaystyle _{n}\mathrm {C} _{r}} であり、異なるn個のもののうちからn-r個を選び、ラベルYをつけ、残りにラベルXをつける場合の数は n C n − r {\displaystyle _{n}\mathrm {C} _{n-r}} である。当然、前者と後者の場合の数は等しいので、ここから、 n C r = n C n − r {\displaystyle _{n}\mathrm {C} _{r}=_{n}\mathrm {C} _{n-r}} が求められる。 2つ目の式は、 "n個のものからr個を選ぶ仕方の数は、次の数の和である。 最初の1つを選ばずに他のn-1個からr個を選ぶ仕方の数と、最初の1つを選んで他のn-1個からr-1個を選ぶ仕方の数との 和である。" ということを表わしている。 を用いて (I) (II) (III) (VI) をそれぞれ計算せよ。 上の式を用いて計算することが出来る。もちろん直接に計算しても 答えを得ることが出来るが、通常は簡単化してから計算した方が楽である。 (I) (II) (III) (VI) となる。 図のようなルートを左下の点から右上の点まで歩いて行く人がいる。 ただし、この人は右か上にしか進めないとする。このとき、 を計算せよ。ただしa点は*と書かれている点のすぐ下の通路のことをさしている。 それぞれのルートは途切れていない縦4つ、横5つの碁盤目上のルートに なっていることに注意せよ。 ___________ |_|_|_|_|_| |_|_|*|_|_| |_|_|_|_|_| |_|_|_|_|_| (I) 左下にいる人は9回進むことで右上の点に辿り着ける。そのため、左下にいる人が選びうるルートの数は9回のうちのどの回で右ではなく上を 選ぶかの場合の数に等しい。このような場合の数は、9回のうちから自由に4つの場所を選ぶ方法に等しく、組み合わせを用いて書くことが出来る。実際に9回のうちから自由に4つの場所を選ぶ方法は、 で書かれる。この量を計算すると、 が得られる。 (II) a点を通過して進むルートの数はa点の左の点までいってからa点を通過し、a点の右の点を通って右上の点までいく仕方の数に等しい。 それぞれのルートの数は(I)の方法を用いて計算することができる。この数を実際に計算すると、 となり、36通りであることが分かる。 演習問題 r n C r = n n − 1 C r − 1 {\displaystyle r_{n}\mathrm {C} _{r}=n_{n-1}\mathrm {C} _{r-1}} を示せ r n C r = r n ! r ! ( n − r ) ! = n ( n − 1 ) ! ( r − 1 ) ( ( n − 1 ) − ( r − 1 ) ) ! = n n − 1 C r − 1 {\displaystyle r_{n}\mathrm {C} _{r}=r{\frac {n!}{r!(n-r)!}}=n{\frac {(n-1)!}{(r-1)((n-1)-(r-1))!}}=n_{n-1}\mathrm {C} _{r-1}} 異なるn個の空箱にr個のものを入れる場合の数を重複組み合わせといい、 n H r {\displaystyle _{n}\mathrm {H} _{r}} で表す。 重複組合せについて次のように考察する。 x 1 , x 2 , ⋯ , x n , r {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{n},r} を非負整数とし、方程式 x 1 + x 2 + ⋯ + x n = r {\displaystyle x_{1}+x_{2}+\cdots +x_{n}=r} の解の個数について考える。この解の個数は x 1 , x 2 , ⋯ , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{n}} に r {\displaystyle r} 個の1を分配する場合の数と考えることができるので、重複組み合わせの定義から、 n H r {\displaystyle _{n}\mathrm {H} _{r}} である。 また、この方程式の非負整数解の個数は、r個の○にn-1個の区切りを置く場合の数とも考えられる。つまり、○○○...○○(r個)にn-1個の区切り|を並べると○|○○|...○|○のようになる。ここで、左から順に区切りで区切られた○の個数をそれぞれ、 x 1 , x 2 , ⋯ , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{n}} とすると、これは方程式の解となる。 この場合の数は、r個の○とn-1個の区切り|を並べえる場合の数なので、 n + r − 1 C r {\displaystyle _{n+r-1}\mathrm {C} _{r}} である。方程式の非負整数解の個数について2通りの方法で求まったのでこれらは等しく、 n H r = n + r − 1 C r {\displaystyle _{n}\mathrm {H} _{r}=_{n+r-1}\mathrm {C} _{r}} が成り立つ。 ある場合の数が、実際に現われる割合のことを確率(かくりつ、英:probability)と呼ぶ。 ある場合の数が実際に現われる割合は、その場合の数を割り算で、その事柄において起こり得る全ての事柄の場合の数で割ったものに等しい。 たとえば、全く等しい割合で全ての面が出るさいころをふったときに1が出る確率は 1 6 {\displaystyle {\frac {1}{6}}} である。 これは1が出る場合の数1を、1,2,3,4,5,6のいずれかが出る場合の数6で割ったものに等しい。 起こりうるすべての場合の数をN、事象Aの起こる場合の数をaとするとき、事象Aの起こる確率P(A)は以下の式で求められる。 赤玉2個と白玉3個が入った袋から、玉を2個同時に取り出す。このとき、2個とも白玉が出る確率を求めよ。 赤白あわせて5個の玉から2個を取り出す方法は このうち、2個とも白玉になる場合は よって求める確率は 3 10 {\displaystyle {\frac {3}{10}}} 確率の定義から、次の性質が得られる。 (1)どんな事象Aについても、 0 ≦ P ( A ) ≦ 1 {\displaystyle 0\leqq P(A)\leqq 1} (2)決して起こらない事象の確率は 0 (3)必ず起こる事象の確率は 1 2つの事象A,Bが同時に起こらないとき、事象AとBは互いに排反(はいはん、英:exclusive)である、またはAとBは排反事象であるという。 AとBが排反事象のとき、AまたはBが起こる確率は 男子7人、女子5人の中から、くじ引きで3人の委員を選ぶとき、3人とも同性である確率を求めよ。 12人の中から3人の委員を選ぶ場合の数は ここで、「3人とも男子である」事象をA、「3人とも女子である」事象をBとすると、「3人とも同性である」事象は、和事象A ∪ Bであり、しかも、AとBは排反事象である。 よって求める確率は P ( A ∪ B ) = P ( A ) + P ( B ) = 35 220 + 10 220 = 45 220 = 9 44 {\displaystyle P(A\cup B)=P(A)+P(B)={\frac {35}{220}}+{\frac {10}{220}}={\frac {45}{220}}={\frac {9}{44}}} 事象Aに対して、「Aでない」事象を A ¯ {\displaystyle {\overline {A}}} で表し、Aの余事象(よじしょう)という。 Aの余事象を A ¯ {\displaystyle {\overline {A}}} とすると 赤玉5個、白玉3個の計8個入っている袋から3個の玉を取り出すとき、少なくとも1個は白玉である確率を求めよ。 8個の玉から3個の玉を取り出す場合の数は いま、「少なくとも1個は白玉である」事象をAとすると、 A ¯ {\displaystyle {\overline {A}}} は「3個とも赤玉である」という事象だから よって求める確率は たがいに他の結果に対して影響をおよぼさない操作を繰りかえすとき、それぞれの試行は独立(どくりつ、英:independent)であると言う。独立な試行については、ある試行の起こる確率が定められていて、それをn回繰りかえしたとき、それらが起こる確率は、それぞれの試行が起こる確率の積となる。 2つの独立な試行S,Tについて、Sでは事象Aが、Tでは事象Bが起こる確率は 赤玉3個、白玉2個の計5個入っている袋がある。この中から1個の玉を取り出して色を確かめてから袋に戻し、再び1個を取り出すとき、1回目は赤玉、2回目は白玉を取り出す確率を求めよ。 1回目に取り出した玉を袋に戻すので、「1回目に取り出す」試行と「2回目に取り出す」試行とは互いに独立である。 1回目に取り出した1個が赤玉である確率は 3 5 {\displaystyle {\frac {3}{5}}} 2回目に取り出した1個が白玉である確率は 2 5 {\displaystyle {\frac {2}{5}}} したがって求める確率は 同じ試行を何回か繰り返して行うとき、各回の試行は独立である。この一連の独立な試行をまとめて考えるとき、それを反復試行(はんぷく しこう)という。 ある試行で、事象Eの起こる確率がpであるとする。この試行をn回繰り返すとき、事象Eがそのうちr回だけ起こる確率は 1個のさいころを5回投げるとき、3の倍数の目が4回出る確率を求めよ。 1個のさいころを1回投げるとき、3の倍数の目が出る確率は よって、1個のさいころを5回投げるとき、3の倍数の目が4回出る確率は 記号「Σ」についてはこちらを参照。 ある試行があったとき、 その試行で得られると期待される値のことを期待値(きたいち、英:expected value)という。期待値は、n個の事象 r k   ( k = 1 , 2 , ⋯ , n ) {\displaystyle r_{k}\ (k=1,2,\cdots ,n)} に対して、各々 v k {\displaystyle v_{k}} という値が得られ、事象 r k {\displaystyle r_{k}} が起こる確率が p k {\displaystyle p_{k}} で与えられているとき、 によって与えられる。例えば、さいころをふったとき出る目の期待値は、 となる。
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本項は高等学校数学Aの「数学と人間の活動」の解説です。
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ここで扱う数列は離散的な現象を扱う際に威力を発揮する。数列はいろいろなところに応用されている。例えば、単利の計算には等差数列が、複利の計算には等比数列が応用できる。 数を一列に並べたもの数列(sequence of numbers)という。数列のそれぞれの数を項という。 1番目から数えて、第1項、第2項、第3項のように、n 番目の項を第 n 項という。特に第1項は初項(first term)ともいう。以下、特に断りのない限り n は 1 以上の自然数とする。 第 n {\displaystyle n} 項が a n {\displaystyle a_{n}} である数列を { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} と表記する。つまり、数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第1項から数項並べると 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} において、この数列の第 n 項 a n {\displaystyle a_{n}} を n の式で表すとき、この式を数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の一般項(general term)という。たとえば、数列 1, 2, 3, 4, 5, ... の一般項は a n = n {\displaystyle a_{n}=n} である。自然数の偶数の数列 2, 4, 6, 8, 10, ... の一般項は a n = 2 n {\displaystyle a_{n}=2n} である。 項の数が有限である数列を有限数列(finite sequence of numbers)という。有限数列の最後の項を末項(final term)といい、項の総数を項数(arity)という。末項が存在しない数列を無限数列(infinite sequence of numbers)という。数列 1, 2, 3, 4, 5, ... は無限数列である。 演習問題 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の一般項が以下で与えられるとき、この数列の第 1 項から第 5 項を求めよ。 演習問題 次の数列の一般項を推測せよ。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} において、定数 d {\displaystyle d} が存在して、任意の自然数 n {\displaystyle n} に対し a n + 1 = a n + d {\displaystyle a_{n+1}=a_{n}+d} となるとき、この数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} を等差数列(arithmetic progression (sequence))といい、 d {\displaystyle d} を公差(common difference)という。 a n + 1 = a n + d {\displaystyle a_{n+1}=a_{n}+d} を変形すると a n + 1 − a n = d {\displaystyle a_{n+1}-a_{n}=d} である。等差数列は名前の通り隣り合った項の差が等しい数列である。 例えば、 2 , 5 , 8 , 11 , 14 , ⋯ {\displaystyle 2,5,8,11,14,\cdots } は初項 2 、公差 3 の等差数列である。 初項 a 1 {\displaystyle a_{1}} 、公差 d {\displaystyle d} の等差数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} について なので、一般項は a n = a 1 + ( n − 1 ) d {\displaystyle a_{n}=a_{1}+(n-1)d} である。 初項 a 1 {\displaystyle a_{1}} 、公差 d {\displaystyle d} の等差数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第1項から第 n 項までの和 S n {\displaystyle S_{n}} は S n = a 1 + ( a 1 + d ) + ( a 1 + 2 d ) + ⋯ + ( a n − d ) + a n {\displaystyle S_{n}=a_{1}+(a_{1}+d)+(a_{1}+2d)+\cdots +(a_{n}-d)+a_{n}} である。 これを逆順に並び替えて S n = a n + ( a n − d ) + ( a n − 2 d ) + ⋯ + ( a 1 + d ) + a 1 {\displaystyle S_{n}=a_{n}+(a_{n}-d)+(a_{n}-2d)+\cdots +(a_{1}+d)+a_{1}} を得る。この2つをそれぞれ足すと 2 S n = n ( a 1 + a n ) {\displaystyle 2S_{n}=n(a_{1}+a_{n})} である。これより S n = n 2 ( a 1 + a n ) {\displaystyle S_{n}={\frac {n}{2}}(a_{1}+a_{n})} を得る。また a n = a 1 + ( n − 1 ) d {\displaystyle a_{n}=a_{1}+(n-1)d} を代入して S n = n 2 ( 2 a 1 + ( n − 1 ) d ) {\displaystyle S_{n}={\frac {n}{2}}(2a_{1}+(n-1)d)} である。 演習問題 初項3、 公差2の等差数列の一般項を求め、この数列の第 1 項から第 n 項までの和 S n {\displaystyle S_{n}} を求めよ。 a n = 2 n + 1 {\displaystyle a_{n}=2n+1} S n = n 2 + 2 n {\displaystyle S_{n}=n^{2}+2n} a , b , c {\displaystyle a,b,c} がこの順に隣り合った等差数列の項であるとき、 c − b = b − a {\displaystyle c-b=b-a} より、 2 b = a + c {\displaystyle 2b=a+c} である。 また、 2 b = a + c {\displaystyle 2b=a+c} が成り立つとき、 c − b = b − a {\displaystyle c-b=b-a} より、 a , b , c {\displaystyle a,b,c} はこの順に隣り合った等差数列の項である。 以上より、 2 b = a + c ⟺ {\displaystyle 2b=a+c\iff } a , b , c {\displaystyle a,b,c} はこの順に隣り合った等差数列の項 演習問題 2 , 2 x − 1 , x 2 {\displaystyle 2,2x-1,x^{2}} がこの順に隣り合った等差数列の項であるとき、 x {\displaystyle x} を求めよ。 2 ( 2 x − 1 ) = x 2 + 2 {\displaystyle 2(2x-1)=x^{2}+2} より x = 2 {\displaystyle x=2} 演習問題 150以下の自然数の内、7で割った余りが2である自然数の和を求めよ。 7で割った余りが2 である自然数は 7 n + 2 ( n ≥ 0 ) {\displaystyle 7n+2\,(n\geq 0)} と表せる。 7 n + 2 {\displaystyle 7n+2} が 150以下の自然数となる条件は 7 n + 2 ≤ 150 {\displaystyle 7n+2\leq 150} より n ≤ 148 7 = 21.148... {\displaystyle n\leq {\frac {148}{7}}=21.148...} から、 n {\displaystyle n} が21以下であればいい。150以下の自然数の内、7で割った余りが2である自然数の和は等差数列 7 n + 2 {\displaystyle 7n+2} の0項から21項までの和である。この和は1661である。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} において、定数 r {\displaystyle r} が存在して、任意の自然数 n {\displaystyle n} に対し a n + 1 = r a n {\displaystyle a_{n+1}=ra_{n}} が成り立つとき、この数列を等比数列(geometric progression)といい、 r {\displaystyle r} を公比(common ratio)という。 a n + 1 = r a n {\displaystyle a_{n+1}=ra_{n}} を変形すると a n + 1 a n = r {\displaystyle {\frac {a_{n+1}}{a_{n}}}=r} である。等比数列は名前の通り隣り合った項の比が等しい数列である。 例えば、 3 , 6 , 12 , 24 , 48 , ⋯ {\displaystyle 3,6,12,24,48,\cdots } は初項 3 、公比 2 の等比数列である。 初項 a 1 {\displaystyle a_{1}} 、公比 r {\displaystyle r} の等比数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の各項を並べて書くと、 のようになることから、等比数列の一般項は a n = a 1 r n − 1 {\displaystyle a_{n}=a_{1}r^{n-1}} で与えられる。 初項 a 1 {\displaystyle a_{1}} 、公比 r {\displaystyle r} ( ≠ 1 ) {\displaystyle (\neq 1)} の等比数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第1項から第 n 項までの和 S n {\displaystyle S_{n}} は S n = a 1 + a 1 r + a 1 r 2 + ⋯ + a 1 r n − 2 + a 1 r n − 1 {\displaystyle S_{n}=a_{1}+a_{1}r+a_{1}r^{2}+\cdots +a_{1}r^{n-2}+a_{1}r^{n-1}} (1) である。両辺に r {\displaystyle r} をかけて r S n = a 1 r + a 1 r 2 + a 1 r 3 + ⋯ + a 1 r n − 1 + a 1 r n {\displaystyle rS_{n}=a_{1}r+a_{1}r^{2}+a_{1}r^{3}+\cdots +a_{1}r^{n-1}+a_{1}r^{n}} (2) を得る。 (2) - (1) より r S n − S n = a 1 r n − a 1 {\displaystyle rS_{n}-S_{n}=a_{1}r^{n}-a_{1}} なので、 S n = a 1 ( r n − 1 ) r − 1 {\displaystyle S_{n}={\frac {a_{1}(r^{n}-1)}{r-1}}} である。 また r = 1 {\displaystyle r=1} のとき第1項から第 n 項までの和 S n {\displaystyle S_{n}} は S n = n a 1 {\displaystyle S_{n}=na_{1}} である。[2] 演習問題 初項3、 公比が4の等比数列の一般項を求め、この数列の第 1 項から第 n 項までの和 S n {\displaystyle S_{n}} を求めよ。 a n = 3 ⋅ 4 n − 1 {\displaystyle a_{n}=3\cdot 4^{n-1}} S n = 4 n − 1 {\displaystyle S_{n}=4^{n}-1} それぞれ 0 ではない数 a , b , c {\displaystyle a,b,c} がこの順に隣り合った等比数列の項であるとき、 b a = c b {\displaystyle {\frac {b}{a}}={\frac {c}{b}}} より b 2 = a c {\displaystyle b^{2}=ac} が成り立つ。 また、 b 2 = a c {\displaystyle b^{2}=ac} ならば、 b a = c b {\displaystyle {\frac {b}{a}}={\frac {c}{b}}} より、 a , b , c {\displaystyle a,b,c} がこの順に隣り合った等比数列の項である。 よって、 b 2 = a c ⟺ {\displaystyle b^{2}=ac\iff } a , b , c {\displaystyle a,b,c} がこの順に隣り合った等比数列の項 ここで、総和を効率よく表せる表記法について学ぼう。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} に対し、この数列の第 m 項から第 n 項までの和を ∑ k = m n a k {\displaystyle \sum _{k=m}^{n}a_{k}} で表す。つまり ∑ k = m n a k = a m + a m + 1 + a m + 2 + ⋯ + a n − 1 + a n {\displaystyle \sum _{k=m}^{n}a_{k}=a_{m}+a_{m+1}+a_{m+2}+\cdots +a_{n-1}+a_{n}} である。[3] 例えば、 ∑ k = 2 4 ( k 2 − 2 k ) = ( 2 2 − 2 ⋅ 2 ) + ( 3 2 − 2 ⋅ 3 ) + ( 4 2 − 2 ⋅ 4 ) {\displaystyle \sum _{k=2}^{4}(k^{2}-2k)=(2^{2}-2\cdot 2)+(3^{2}-2\cdot 3)+(4^{2}-2\cdot 4)} である。 ちなみにこの Σ はギリシア文字のシグマの大文字である。これは、Sum(和)を意味するラテン語 Summa の頭文字 S に対応するギリシャ文字である。 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} と { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} と実数[4] c {\displaystyle c} に対し、 ∑ k = m n ( a k + b k ) = ( a m + b m ) + ( a m + 1 + b m + 1 ) + ⋯ + ( a n + b n ) = ( a m + a m + 1 + ⋯ + a n ) + ( b m + b m + 1 + ⋯ + b n ) = ∑ k = m n a k + ∑ k = m n b k {\displaystyle {\begin{aligned}\sum _{k=m}^{n}(a_{k}+b_{k})&=(a_{m}+b_{m})+(a_{m+1}+b_{m+1})+\cdots +(a_{n}+b_{n})\\&=(a_{m}+a_{m+1}+\cdots +a_{n})+(b_{m}+b_{m+1}+\cdots +b_{n})\\&=\sum _{k=m}^{n}a_{k}+\sum _{k=m}^{n}b_{k}\end{aligned}}} [5] また、 ∑ k = m n c a k = c a m + c a m + 1 + ⋯ + c a n = c ( a m + a m + 1 + ⋯ + a n ) = c ∑ k = m n a k {\displaystyle {\begin{aligned}\sum _{k=m}^{n}ca_{k}&=ca_{m}+ca_{m+1}+\cdots +ca_{n}\\&=c(a_{m}+a_{m+1}+\cdots +a_{n})\\&=c\sum _{k=m}^{n}a_{k}\end{aligned}}} である。 ここで、 ∑ k = 1 n k = 1 + 2 + ⋯ + n {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k=1+2+\cdots +n} を求めてみよう。 等差数列で習ったことを思い出せば、 ∑ k = 1 n k {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k} は第1項が1、公差が1の等差数列の第 n 項までの和なので、 ∑ k = 1 n k = 1 2 n ( n + 1 ) {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k={\frac {1}{2}}n(n+1)} である。 また、等比数列の和を総和記号を使って書き直せば、 ∑ k = 1 n a r k − 1 = a ( r n − 1 ) r − 1 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}ar^{k-1}={\frac {a(r^{n}-1)}{r-1}}} である。 次に、 ∑ k = 1 n k 2 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k^{2}} を求めてみよう。 ( k + 1 ) 3 − k 3 = 3 k 2 + 3 k + 1 {\displaystyle (k+1)^{3}-k^{3}=3k^{2}+3k+1} である。ここで k {\displaystyle k} に 1 から n {\displaystyle n} までを代入したものはそれぞれ 2 3 − 1 3 = 3 ⋅ 1 2 + 3 ⋅ 1 + 1 {\displaystyle 2^{3}-1^{3}=3\cdot 1^{2}+3\cdot 1+1} 3 3 − 2 3 = 3 ⋅ 2 2 + 3 ⋅ 2 + 1 {\displaystyle 3^{3}-2^{3}=3\cdot 2^{2}+3\cdot 2+1} 4 3 − 3 3 = 3 ⋅ 3 2 + 3 ⋅ 3 + 1 {\displaystyle 4^{3}-3^{3}=3\cdot 3^{2}+3\cdot 3+1} ⋮ {\displaystyle \vdots } ( n + 1 ) 3 − n 3 = 3 n 2 + 3 n + 1 {\displaystyle (n+1)^{3}-n^{3}=3n^{2}+3n+1} である。この n {\displaystyle n} 式をそれぞれ足し合わせると 左辺はほとんどが打ち消し合い、 ( n + 1 ) 3 − 1 {\displaystyle (n+1)^{3}-1} となるので ( n + 1 ) 3 − 1 = 3 ∑ k = 1 n k 2 + 3 ∑ k = 1 n k + n {\displaystyle (n+1)^{3}-1=3\sum _{k=1}^{n}k^{2}+3\sum _{k=1}^{n}k+n} である。ここで ∑ k = 1 n k = 1 2 n ( n + 1 ) {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k={\frac {1}{2}}n(n+1)} を代入して ∑ k = 1 n k 2 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k^{2}} について整理すれば ∑ k = 1 n k 2 = 1 6 n ( n + 1 ) ( 2 n + 1 ) {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k^{2}={\frac {1}{6}}n(n+1)(2n+1)} を得る。 同様に ∑ k = 1 n k 3 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}{k^{3}}} を求めることが出来る。 ( k + 1 ) 4 − k 4 = 4 k 3 + 6 k 2 + 4 k + 1 {\displaystyle (k+1)^{4}-k^{4}=4k^{3}+6k^{2}+4k+1} であるので、 k {\displaystyle k} に 1 から n {\displaystyle n} までを代入してそれぞれを足し合わせれば、 ( n + 1 ) 4 − 1 = 4 ∑ k = 1 n k 3 + 6 ∑ k = 1 n k 2 + 4 ∑ k = 1 n k + n {\displaystyle (n+1)^{4}-1=4\sum _{k=1}^{n}k^{3}+6\sum _{k=1}^{n}k^{2}+4\sum _{k=1}^{n}k+n} である。これを変形して 4 ∑ k = 1 n k 3 = ( n + 1 ) 4 − 1 − 6 ⋅ 1 6 n ( n + 1 ) ( 2 n + 1 ) − 4 ⋅ 1 2 n ( n + 1 ) − n = ( n 4 + 4 n 3 + 6 n 2 + 4 n ) − ( 2 n 3 + 3 n 2 + n ) − 2 ( n 2 + n ) − n = n 4 + 2 n 3 + n 2 = n 2 ( n 2 + 2 n + 1 ) = n 2 ( n + 1 ) 2 {\displaystyle {\begin{aligned}4\sum _{k=1}^{n}k^{3}&=(n+1)^{4}-1-6\cdot {\frac {1}{6}}n(n+1)(2n+1)-4\cdot {\frac {1}{2}}n(n+1)-n\\&=(n^{4}+4n^{3}+6n^{2}+4n)-(2n^{3}+3n^{2}+n)-2(n^{2}+n)-n\\&=n^{4}+2n^{3}+n^{2}\\&=n^{2}(n^{2}+2n+1)\\&=n^{2}(n+1)^{2}\end{aligned}}} なので、 ∑ k = 1 n k 3 = 1 4 n 2 ( n + 1 ) 2 = { 1 2 n ( n + 1 ) } 2 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}k^{3}={\frac {1}{4}}n^{2}(n+1)^{2}=\left\{{\frac {1}{2}}n(n+1)\right\}^{2}} である。[6] 演習問題 以下を計算せよ。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} に対し で与えられる数列 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} を数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の階差数列という。 数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の階差数列 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} および初項 a 1 {\displaystyle a_{1}} を利用して { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の一般項を求めてみる 階差数列の定義から b 1 = a 2 − a 1 {\displaystyle b_{1}=a_{2}-a_{1}} b 2 = a 3 − a 2 {\displaystyle b_{2}=a_{3}-a_{2}} b 3 = a 4 − a 3 {\displaystyle b_{3}=a_{4}-a_{3}} ⋮ {\displaystyle \vdots } b n − 1 = a n − a n − 1 {\displaystyle b_{n-1}=a_{n}-a_{n-1}} である。 それぞれの式を足し合わせれば a n − a 1 = ∑ k = 1 n − 1 b k {\displaystyle a_{n}-a_{1}=\sum _{k=1}^{n-1}b_{k}} つまり 演習問題 b n = 2 n + 2 {\displaystyle b_{n}=2n+2} として数列 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} を定める。初項が 3 で、数列 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} を階差数列とする数列を { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} とする。数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第 1 項から第 4 項までを求め、さらに、数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の一般項を求めよ。 a 1 = 3 {\displaystyle a_{1}=3} a 2 = b 1 + a 1 = 7 {\displaystyle a_{2}=b_{1}+a_{1}=7} a 3 = b 2 + a 2 = 13 {\displaystyle a_{3}=b_{2}+a_{2}=13} a 4 = b 3 + a 3 = 21 {\displaystyle a_{4}=b_{3}+a_{3}=21} である。 数列 { b n } {\displaystyle \{b_{n}\}} を階差数列とする数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の第 n 項は であることを思いだそう。 これを元に計算すれば、 n ≧ 2 {\displaystyle n\geqq 2} のとき、 a n = 3 + ∑ k = 1 n − 1 ( 2 k + 2 ) = 3 + ( n − 1 ) n + 2 ( n − 1 ) = n 2 + n + 1 {\displaystyle a_{n}=3+\sum _{k=1}^{n-1}(2k+2)=3+(n-1)n+2(n-1)=n^{2}+n+1} である。 a 1 = 3 {\displaystyle a_{1}=3} だったので、この式は n = 1 {\displaystyle n=1} でも成り立つことが確かめられる。 数列の隣り合った項どうしの関係を表す式を漸化式(recurrence relation)という。 たとえば、上の漸化式を満たす数列は公差1の等差数列である。これだけでは数列は一意的には定まらないが、さらに初項を a 1 = 1 {\displaystyle a_{1}=1} と与えると、自然数列 を得ることができる。ここでは漸化式が与えられたとき、それを満たす数列 a n {\displaystyle {a_{n}}} にはどのようなものがあるか、具体的に求める方法を考える。漸化式を満たす数列を求めることを、漸化式を解くという。 簡単なもう一つの例として、 のようなものがある。これは、 と変形することで、公比2の等比数列であることがわかる。 a 1 = 3 {\displaystyle a_{1}=3} であることをあわせると、一般項は であることがわかる。 一般に、漸化式 a n + 1 = a n + d {\displaystyle a_{n+1}=a_{n}+d} を満たす数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} は等差数列なので、一般項は a n = a 1 + ( n − 1 ) d {\displaystyle a_{n}=a_{1}+(n-1)d} である。 漸化式 a n + 1 = r a n {\displaystyle a_{n+1}=ra_{n}} を満たす数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} は等比数列なので、一般項は a n = a 1 r n − 1 {\displaystyle a_{n}=a_{1}r^{n-1}} である。 隣接二項間漸化式の定義は次のとおりである。 定義 ―  p, q を n に無関係な定数とし、数列 a n {\displaystyle {a_{n}}} の漸化式が で表されるとき、この漸化式を(定数係数をもつ線型の)隣接二項間漸化式という。 このような隣接二項間漸化式は等差数列または等比数列に帰着できることが知られている。まず p = 1 のとき、漸化式は a n + 1 = a n + q {\displaystyle a_{n+1}=a_{n}+q} であるから、これは等差数列である。次に、 p ≠ 1 の場合を考える。 ここで、もし a n + 1 = p a n + q {\displaystyle a_{n+1}=pa_{n}+q} を a n + 1 − c = p ( a n − c ) {\displaystyle a_{n+1}-c=p(a_{n}-c)} と変形することが出来れば、数列 { a n − c } {\displaystyle \{a_{n}-c\}} は等比数列であり、一般項は a n − c = p n − 1 ( a 1 − c ) {\displaystyle a_{n}-c=p^{n-1}(a_{1}-c)} である。よって a n = p n − 1 ( a 1 − c ) + c {\displaystyle a_{n}=p^{n-1}(a_{1}-c)+c} と数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} の一般項を求めることができる。 さて、問題は a n + 1 − c = p ( a n − c ) {\displaystyle a_{n+1}-c=p(a_{n}-c)} を満たす c {\displaystyle c} をどのように求めるかということだが、 a n + 1 − c = p ( a n − c ) {\displaystyle a_{n+1}-c=p(a_{n}-c)} を変形して a n + 1 = p a n − p c + c {\displaystyle a_{n+1}=pa_{n}-pc+c} となる。これが a n + 1 = p a n + q {\displaystyle a_{n+1}=pa_{n}+q} と等しくなるので、 q = − p c + c {\displaystyle q=-pc+c} つまり、 c = p c + q {\displaystyle c=pc+q} となる c {\displaystyle c} を求めればよい。[7] 演習問題 a 1 = 3 {\displaystyle a_{1}=3} であり、漸化式 a n + 1 = 2 a n + 1 {\displaystyle a_{n+1}=2a_{n}+1} を満たす数列 { a n } {\displaystyle \{a_{n}\}} を求めよ。 c = − 1 {\displaystyle c=-1} は方程式 c = 2 c + 1 {\displaystyle c=2c+1} を満たすので、 a n + 1 + 1 = 2 ( a n + 1 ) {\displaystyle a_{n+1}+1=2(a_{n}+1)} と変形できる。なので数列 { a n + 1 } {\displaystyle \{a_{n}+1\}} は等比数列であり、一般項は a n + 1 = 2 n − 1 ( a 1 + 1 ) {\displaystyle a_{n}+1=2^{n-1}(a_{1}+1)} よって a n = 2 n + 1 − 1 {\displaystyle a_{n}=2^{n+1}-1} である。 隣接三項間漸化式の定義は次のとおりである。 定義 ―  p, q を n に無関係な定数とし、数列 a n {\displaystyle {a_{n}}} の漸化式が で表されるとき、この漸化式を(定数係数をもつ線型の)隣接三項間漸化式という。 ここでは (1) の隣接三項間漸化式を等比数列に帰着して解く方法を考える。公比 β の等比数列 の一般項を b n = a n + 1 − α a n {\displaystyle b_{n}=a_{n+1}-\alpha a_{n}} で定義すると、 (2) の等比数列を (1) と係数比較すると、次の関係が得られる。 これは二次方程式の解と係数の関係であるから、二次方程式 の解 α, β を用いて、(1) の隣接三項間漸化式は (2) の等比数列の漸化式に帰着することができる。この二次方程式を隣接三項間漸化式の特性方程式という。特性方程式の2つの解は便宜上区別したもので、解の取り方によらない(以下の定理は α と β を入れ換えても成立する)。 隣接三項間漸化式 a n + 2 = p a n + 1 + q a n {\displaystyle a_{n+2}=pa_{n+1}+qa_{n}} (p, q は n に無関係な定数)は、特性方程式 x 2 = p x + q {\displaystyle x^{2}=px+q} の解 α, β を用いて、公比 β の等比数列 a n + 2 − α a n + 1 = β ( a n + 1 − α a n ) {\displaystyle a_{n+2}-\alpha a_{n+1}=\beta (a_{n+1}-\alpha a_{n})} に変形することができる。 隣接三項間漸化式は等比数列 a n + 2 − α a n + 1 = β ( a n + 1 − α a n ) {\displaystyle a_{n+2}-\alpha a_{n+1}=\beta (a_{n+1}-\alpha a_{n})} に変形することにより、等比数列の一般項の公式 a n + 1 − α a n = ( a 2 − α a 1 ) β n − 1 {\displaystyle a_{n+1}-\alpha a_{n}=(a_{2}-\alpha a_{1})\beta ^{n-1}} を用いてただちに解くことができる。 (i) (ii) (iii) の a n {\displaystyle a_{n}} をそれぞれ計算せよ。 ただし、 (aは任意の実数。) とする。さらに、一般に (b,cは任意の実数。)についても計算せよ。 (i) 特性方程式は、 となる。よって、この式は、 と書き換えられる。ここで、 と書き換えると、上の式は となり、通常の等比数列の表式となる。ここで、 を用いると、 となる。ここで、 を再び用いると、 が得られる。 (ii),(iii)についても同様に計算を行うと、 が得られる。 次に、より一般的な場合について計算する。 について特性方程式を用いると、 となる。 よって、上の式は、 となる。 を用いると、 が得られる。 実際、 の結果を代入すると、 が得られ、上の結果と一致する。 (i) (ii) について を計算せよ。 ただし、 漸化式の右辺が通常の数でないときには、それぞれ異なった手法で計算を進める必要がある。このような場合の一般的な計算は指導要領の範囲を超えるため、限られた場合について例を示すことにする。 (i)の場合については、右辺の n {\displaystyle n} について、 を n {\displaystyle n} を n + 1 {\displaystyle n+1} とした を引くことで右辺が定数に等しくなることに注意する。このとき、実際に引き算した値を計算すると、 が得られる。ただし、 とおいた。この式は、先ほど一般的に計算した式と等しいため、簡単に を計算できる。ただし、今回は初期値である b 1 {\displaystyle b_{1}} の値が求められていないので、まずは b 1 {\displaystyle b_{1}} を計算しなくてはならない。ここで、 となり、 b 1 {\displaystyle b_{1}} が求められた、この値を数列bnの初項として上の b n {\displaystyle b_{n}} に関する漸化式を解くと、 が得られる。ここで、 は数列 a n {\displaystyle a_{n}} の階差数列に等しい。よって、 が得られる。この和を計算すると、 が得られる。 (ⅱ) 左辺は既に見た漸化式と同じ形であるが右辺に a n {\displaystyle a^{n}} (aは実数)が加わった点が異なる場合である。この場合にはまず最初に両辺を a n {\displaystyle a^{n}} で割るとよい。 このとき、上の式は となる。更に b n = a n 2 n − 1 {\displaystyle b_{n}={\frac {a_{n}}{2^{n-1}}}} の置き換えをすると、漸化式 が得られるがこれは既に扱った漸化式である。この式は となり が得られる。 b n = a n 2 n − 1 {\displaystyle b_{n}={\frac {a_{n}}{2^{n-1}}}} を用いると b 1 = a 1 = a {\displaystyle b_{1}=a_{1}=a} が得られるので、これを用いて が得られるが、この式から a n = 2 n − 1 b n {\displaystyle a_{n}=2^{n-1}b_{n}} は、 となる。 自然数 1, 2, 3, 4, 5, ... は無限に存在するので、任意の自然数に関しての命題を証明するとき、1つ1つの自然数を列挙していくことは不可能である。そこで、ここでは任意の自然数に関して成り立つ命題を有限の手順で証明する方法を考える。 自然数 n {\displaystyle n} に関する命題 P ( n ) {\displaystyle P(n)} [8]が任意の自然数に関して成り立つことを証明するには、次の2つの事柄を示せばよい。 2. の条件より n = 1 について P は真であるから、1. の条件より n + 1 = 1 + 1 = 2 についても P は真である。これより n = 2 について P は真であるから、n + 1 = 2 + 1 = 3 についても P が真であることがいえ、以下同様にすべての自然数に対して P は真であると結論できる。 このような証明法を数学的帰納法(mathematical induction)という。 数学的帰納法を用いて を導出する。まずn=1のとき、 (lhsは左辺の意味。) ,そして (rhsは右辺の意味。) となり、確かに正しいことが分かる。次にn = lのときこのことが正しいと仮定する。このとき、 となり、n = l+1 のときにも、この式が正しいことが示された。よって数学的帰納法より、この式は1以上の全てのnについて成立する。 フィボナッチ数列は 1 , 1 , 2 , 3 , 5 , 8 , 13 , 21 , ⋯ {\displaystyle 1,1,2,3,5,8,13,21,\cdots } のように、前とその前の項の和が次の項になる数列である。 フィボナッチ数列の漸化式 は隣接三項間漸化式であるが、 a n + 2 − a n + 1 − a n = 0 {\displaystyle a_{n+2}-a_{n+1}-a_{n}=0} よりこの特性方程式は である。これを解くと、 公比 β の等比数列の一般項に初項 a 1 = 1 , a 2 = 1 {\displaystyle a_{1}=1,a_{2}=1} を代入すると、 ただし α + β = 1 より 1 - α = β という関係を使った。これは α と β を入れ換えても成り立つため、次の連立方程式が得られる。 辺々を引いて a n {\displaystyle a_{n}} について解くと、 ここで α − β = 5 {\displaystyle \alpha -\beta ={\sqrt {5}}} であるから、求める一般項は次のようになる。 これはフィボナッチ数列の一般項を求める公式(ビネの公式、Binet's formula)として知られている。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6B/%E6%95%B0%E5%88%97
本項は高等学校数学Bの「確率分布と統計的な推測」の解説です。 この分野は数学Iのデータの分析、数学Aの確率と関連があります。 同じく数学Bの数列、数学Ⅱの微分・積分の考えを既習であるものとします。また、この分野を学習後に同じく数学Bの数学と社会生活で扱うデータ解析の内容も参照することを推奨します。 k {\displaystyle k} は自然数で 1 ≤ k ≤ n {\displaystyle 1\leq k\leq n} を満たすものとします。 試行の結果によってどの値をとるか定まり、とり得る値の各々に対してその値をとる確率が定まるような変数を確率変数と呼ぶ。 確率変数 X {\displaystyle X} のとり得る値が x 1 , x 2 , ⋯ , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{n}} であるとき、 X {\displaystyle X} が値 x k {\displaystyle x_{k}} をとる確率 を P ( X = x k ) {\displaystyle P(X=x_{k})} 、 a ≤ x k ≤ b {\displaystyle a\leq x_{k}\leq b} である確率 P ( a ≤ X ≤ b ) {\displaystyle P(a\leq X\leq b)} のように表す。 P ( X = x k ) {\displaystyle P(X=x_{k})} を p k {\displaystyle p_{k}} と表すこととすると、 x k {\displaystyle x_{k}} と p k {\displaystyle p_{k}} の対応関係は以下のようになる。 この対応関係を X {\displaystyle X} の確率分布あるいは単に分布と呼び、確率変数 X {\displaystyle X} はこの分布に従うという。 このとき、常に p k ≥ 0 {\displaystyle p_{k}\geq 0} であり、 ∑ k = 1 n p k = 1 {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}p_{k}=1} である。 X {\displaystyle X} の確率分布が以下の表であるとする。 このとき、 ∑ k = 1 n x k p k {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}x_{k}p_{k}} を X {\displaystyle X} の期待値と呼び、 E ( X ) {\displaystyle E(X)} または m {\displaystyle m} または μ {\displaystyle \mu } で表す( μ {\displaystyle \mu } はギリシャ文字で、アルファベットの m {\displaystyle m} に対応する文字である)。 次に、確率変数 ( X − m ) 2 {\displaystyle (X-m)^{2}} を考える。この確率変数の期待値を X {\displaystyle X} の分散と呼び、 V ( X ) {\displaystyle V(X)} で表すこととする。このとき、期待値の定義から V ( X ) = E { ( X − m ) 2 } = ∑ k = 1 n ( x k − m ) 2 p k {\displaystyle V(X)=E\{(X-m)^{2}\}=\sum _{k=1}^{n}(x_{k}-m)^{2}p_{k}} であり、 V ( X ) {\displaystyle V(X)} の単位は測定単位の二乗(例えば X {\displaystyle X} の単位が c m {\displaystyle cm} なら V ( X ) {\displaystyle V(X)} の単位は c m 2 {\displaystyle cm^{2}} )である。そこで、 V ( X ) {\displaystyle {\sqrt {V(X)}}} を X {\displaystyle X} の標準偏差と呼び、 σ ( X ) {\displaystyle \sigma (X)} で表すこととする( σ {\displaystyle \sigma } は Σ {\displaystyle \Sigma } の小文字である)。 分散を表す式を変形すると、 V ( X ) = ∑ k = 1 n ( x k − m ) 2 p k {\displaystyle V(X)=\sum _{k=1}^{n}(x_{k}-m)^{2}p_{k}} = ∑ k = 1 n ( x k 2 − 2 m x k + m 2 ) {\displaystyle =\sum _{k=1}^{n}(x_{k}^{2}-2mx_{k}+m^{2})} = ∑ k = 1 n x k 2 p k − 2 m ∑ k = 1 n x k p k + m 2 ∑ k = 1 n p k {\displaystyle =\sum _{k=1}^{n}x_{k}^{2}p_{k}-2m\sum _{k=1}^{n}x_{k}p_{k}+m^{2}\sum _{k=1}^{n}p_{k}} = ∑ k = 1 n x k 2 p k − 2 m ⋅ m + m 2 ⋅ 1 {\displaystyle =\sum _{k=1}^{n}x_{k}^{2}p_{k}-2m\cdot m+m^{2}\cdot 1} = ∑ k = 1 n x k 2 p k − m 2 {\displaystyle =\sum _{k=1}^{n}x_{k}^{2}p_{k}-m^{2}} となり、 ∑ k = 1 n x k 2 p k {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}x_{k}^{2}p_{k}} は確率変数 X 2 {\displaystyle X^{2}} の期待値に等しいので V ( X ) = E ( X 2 ) − { E ( X ) } 2 {\displaystyle V(X)=E(X^{2})-\{E(X)\}^{2}} が成り立つ。 今までの事項を纏めると以下のようになる。 確率変数 X {\displaystyle X} の期待値・分散・標準偏差のことをそれぞれ X {\displaystyle X} の分布の平均・分散・標準偏差とも呼ぶ。標準偏差は分布の平均を中心として x k {\displaystyle x_{k}} の散らばる傾向の程度を表しており、標準偏差の値が小さいほど x k {\displaystyle x_{k}} は分布の平均の近傍に集中する。 なお、分散と標準偏差を纏めて散布度、代表値と合わせて分布の特性値と呼ぶ場合がある。 X {\displaystyle X} の確率分布が以下の表であるとする。 a , b {\displaystyle a,b} を定数とすると、一次式 Y = a X + b {\displaystyle Y=aX+b} で定められる Y {\displaystyle Y} も確率変数となり、そのとる値は y k = a x k + b {\displaystyle y_{k}=ax_{k}+b} となる。よって Y {\displaystyle Y} の確率分布は以下の表のようになる。 確率変数 X {\displaystyle X} に対して上のような Y {\displaystyle Y} を考えることを確率変数の変換と呼ぶ。 Y {\displaystyle Y} の期待値・分散・標準偏差は以下のようになる。 E ( Y ) = ∑ k = 1 n y k p k = ∑ k = 1 n ( a x k + b ) p k = a ∑ k = 1 n x k p k + b ∑ k = 1 n p k = a E ( X ) + b {\displaystyle E(Y)=\sum _{k=1}^{n}y_{k}p_{k}=\sum _{k=1}^{n}(ax_{k}+b)p_{k}=a\sum _{k=1}^{n}x_{k}p_{k}+b\sum _{k=1}^{n}p_{k}=aE(X)+b} V ( Y ) = ∑ k = 1 n { y k − E ( Y ) } 2 p k = a 2 ∑ k = 1 n { x k − E ( X ) } 2 p k = a 2 V ( X ) {\displaystyle V(Y)=\sum _{k=1}^{n}\{y_{k}-E(Y)\}^{2}p_{k}=a^{2}\sum _{k=1}^{n}\{x_{k}-E(X)\}^{2}p_{k}=a^{2}V(X)} ∵ y k − E ( Y ) = a x k + b − { a E ( X ) + b } = a { x k − E ( X ) } {\displaystyle \because y_{k}-E(Y)=ax_{k}+b-\{aE(X)+b\}=a\{x_{k}-E(X)\}} σ ( Y ) = V ( Y ) = | a | V ( X ) = | a | σ ( X ) {\displaystyle \sigma (Y)={\sqrt {V(Y)}}=|a|{\sqrt {V(X)}}=|a|\sigma (X)} 確率変数 X , Y , Z , ⋯ {\displaystyle X,Y,Z,\cdots } と実数 a , b , c , ⋯ {\displaystyle a,b,c,\cdots } に対し X = a , Y = b , Z = c , ⋯ {\displaystyle X=a,Y=b,Z=c,\cdots } が同時に成り立つ確率を P ( X = a , Y = b , Z = c , ⋯ ) {\displaystyle P(X=a,Y=b,Z=c,\cdots)} のように表すこととする。 2つの確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} についてとりうる値がそれぞれ x 1 , x 2 , ⋯ , x n {\displaystyle x_{1},x_{2},\cdots ,x_{n}} 、 y 1 , y 2 , ⋯ , y m {\displaystyle y_{1},y_{2},\cdots ,y_{m}} であるとする。 P ( X = x i , Y = y j ) = r i j {\displaystyle P(X=x_{i},Y=y_{j})=r_{ij}} とおいたとき、以下の表のように全ての i , j {\displaystyle i,j} の組み合わせにおいて ( x i , y j ) {\displaystyle (x_{i},y_{j})} と p i j {\displaystyle p_{ij}} との対応が得られる。 このような対応を X {\displaystyle X} と Y {\displaystyle Y} の同時分布という。 各 i , j {\displaystyle i,j} について、それぞれ P ( X = x i ) = ∑ j = 1 m r i j = p i , P ( Y = y j ) = ∑ i = 1 n r i j = q j {\displaystyle P(X=x_{i})=\sum _{j=1}^{m}r_{ij}=p_{i},P(Y=y_{j})=\sum _{i=1}^{n}r_{ij}=q_{j}} が成り立つので、 X , Y {\displaystyle X,Y} の確率分布はそれぞれ以下のようになる。 2つの確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} について、和 X + Y {\displaystyle X+Y} もまた確率変数であり、同時分布表と確率変数変換の等式から、確率変数の和の期待値について E ( X + Y ) = E ( X ) + E ( Y ) {\displaystyle E(X+Y)=E(X)+E(Y)} 、 E ( a X + b Y ) = a E ( X ) + b E ( Y ) {\displaystyle E(aX+bY)=aE(X)+bE(Y)} が成り立つことがわかる。これは確率変数が3つ以上であっても同様に成り立つ。 一般に2つの事象 A , B {\displaystyle A,B} において P A ( B ) = P ( B ) {\displaystyle P_{A}(B)=P(B)} が成り立つとき、事象 A {\displaystyle A} が起こることは事象 B {\displaystyle B} の起こる確率に無関係である。これを事象 A {\displaystyle A} は事象 B {\displaystyle B} に独立であるという。このとき、確率の乗法定理により P ( A ∩ B ) = P ( A ) P ( B ) {\displaystyle P(A\cap B)=P(A)P(B)} が成り立つ。この式は P B ( A ) = P ( A ) {\displaystyle P_{B}(A)=P(A)} と同値であるため、事象 B {\displaystyle B} が起こることも事象Aの起こる確率に無関係、つまり事象 B {\displaystyle B} は事象 A {\displaystyle A} に独立であると言える。よって、 P ( A ∩ B ) = P ( A ) P ( B ) {\displaystyle P(A\cap B)=P(A)P(B)} が成り立つとき、2つの事象 A , B {\displaystyle A,B} は互いに独立である。独立でない場合は2つの事象 A , B {\displaystyle A,B} は従属であるという。なお、事象 A , B {\displaystyle A,B} の独立・従属と対応する確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} の独立・従属は一致する。 2つの確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} について、積 X Y {\displaystyle XY} もまた確率変数である。 X , Y {\displaystyle X,Y} が互いに独立なとき、同時分布表より確率変数の積の期待値は以下のように計算される。 E ( X Y ) = ∑ i = 1 n ∑ j = 1 m ( x i y j ) ( p i q j ) = ∑ i = 1 n x i p i ⋅ ∑ j = 1 m y j q j = E ( X ) E ( Y ) {\displaystyle E(XY)=\sum _{i=1}^{n}\sum _{j=1}^{m}(x_{i}y_{j})(p_{i}q_{j})=\sum _{i=1}^{n}x_{i}p_{i}\cdot \sum _{j=1}^{m}y_{j}q_{j}=E(X)E(Y)} これは3つ以上の確率変数においても互いに独立ならば成立する。 確率変数 X + Y {\displaystyle X+Y} の分散について考える。 V ( X + Y ) = E { ( X + Y ) 2 } − { E ( X + Y ) } 2 {\displaystyle V(X+Y)=E\{(X+Y)^{2}\}-\{E(X+Y)\}^{2}} = E ( X 2 + 2 X Y + Y 2 ) − { E ( X ) + E ( Y ) } 2 {\displaystyle =E(X^{2}+2XY+Y^{2})-\{E(X)+E(Y)\}^{2}} = E ( X 2 ) + 2 E ( X Y ) + E ( Y 2 ) − { E ( X ) } 2 − 2 E ( X ) E ( Y ) − { E ( Y ) } 2 {\displaystyle =E(X^{2})+2E(XY)+E(Y^{2})-\{E(X)\}^{2}-2E(X)E(Y)-\{E(Y)\}^{2}} このとき、確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} が互いに独立ならば E ( X Y ) = E ( X ) E ( Y ) {\displaystyle E(XY)=E(X)E(Y)} を用いることで、 上式 = E ( X 2 ) + E ( Y 2 ) − { E ( X ) } 2 − { E ( Y ) } 2 {\displaystyle =E(X^{2})+E(Y^{2})-\{E(X)\}^{2}-\{E(Y)\}^{2}} = [ E ( X 2 ) − { E ( X ) } 2 ] + [ E ( Y 2 ) − { E ( Y ) } 2 ] {\displaystyle =[E(X^{2})-\{E(X)\}^{2}]+[E(Y^{2})-\{E(Y)\}^{2}]} = V ( X ) + V ( Y ) {\displaystyle =V(X)+V(Y)} と変形できる。 同様に、確率変数変換の等式より確率変数 X , Y {\displaystyle X,Y} が互いに独立ならば V ( a X + b Y ) = a 2 V ( X ) + b 2 V ( Y ) {\displaystyle V(aX+bY)=a^{2}V(X)+b^{2}V(Y)} が成り立つ。 これらは3つ以上の確率変数においても互いに独立ならば成立する。 確率変数 X Y {\displaystyle XY} の分散について考える。 分散の性質より V ( X Y ) = E ( X 2 Y 2 ) − { E ( X ) } 2 { E ( Y ) } 2 {\displaystyle V(XY)=E(X^{2}Y^{2})-\{E(X)\}^{2}\{E(Y)\}^{2}} と変形できる。 X , Y {\displaystyle X,Y} が互いに独立ならば X 2 , Y 2 {\displaystyle X^{2},Y^{2}} も互いに独立であるので、 E ( X 2 Y 2 ) = E ( X 2 ) E ( Y 2 ) {\displaystyle E(X^{2}Y^{2})=E(X^{2})E(Y^{2})} が成り立つ。 よって V ( X Y ) = E ( X 2 ) E ( Y 2 ) − E ( X ) 2 E ( Y ) 2 {\displaystyle V(XY)=E(X^{2})E(Y^{2})-{E(X)}^{2}{E(Y)}^{2}} となる。 ここで分散の性質より上式は [ V ( X ) + { E ( X ) } 2 ] [ V ( Y ) + { E ( Y ) } 2 ] − { E ( X ) } 2 { E ( Y ) } 2 {\displaystyle [V(X)+\{E(X)\}^{2}][V(Y)+\{E(Y)\}^{2}]-\{E(X)\}^{2}\{E(Y)\}^{2}} と変形できるので、 展開して V ( X Y ) = V ( X ) V ( Y ) + { E ( X ) } 2 V ( Y ) + { E ( Y ) } 2 V ( X ) {\displaystyle V(XY)=V(X)V(Y)+\{E(X)\}^{2}V(Y)+\{E(Y)\}^{2}V(X)} となる。 これは3つ以上の確率変数においても互いに独立ならば成立する。 なお、上記で紹介した確率変数の和の分散、確率変数の積の期待値・分散については、確率変数が従属である場合には確率変数のとる値を用いて直接計算する必要がある。 確率 p {\displaystyle p} で A {\displaystyle A} か B {\displaystyle B} かの2通りの結果をとる試行を独立に n {\displaystyle n} 回繰り返したとき、 A {\displaystyle A} が起こる回数 X {\displaystyle X} の確率分布は反復試行の確率より以下のようになる。ただし、 0 < p < 1 , q = 1 − p {\displaystyle 0<p<1,q=1-p} である。 表の確率は二項定理の展開式の各項と一致している。 このような分布のことを二項分布と呼び、 B ( n , p ) {\displaystyle B(n,p)} のように書く。ここでは、確率変数 X {\displaystyle X} が二項分布 B ( n , p ) {\displaystyle B(n,p)} に従うことを X ∼ B ( n , p ) {\displaystyle X\sim B(n,p)} と表すこととする。 事象 A {\displaystyle A} の起こる確率が p {\displaystyle p} である試行を独立に n {\displaystyle n} 回行うとき、第 k {\displaystyle k} 回目の試行で事象 A {\displaystyle A} が起これば 1 {\displaystyle 1} 、起こらなければ 0 {\displaystyle 0} の値をとる確率変数を X k {\displaystyle X_{k}} とおく。 このとき、 P ( X k = 1 ) = p , P ( X k = 0 ) = q {\displaystyle P(X_{k}=1)=p,P(X_{k}=0)=q} なので期待値の定義より E ( X k ) = 1 ⋅ p + 0 ⋅ q = p {\displaystyle E(X_{k})=1\cdot p+0\cdot q=p} である。 また、 E ( X k 2 ) = 1 2 ⋅ p + 0 2 ⋅ 1 = p {\displaystyle E(X_{k}^{2})=1^{2}\cdot p+0^{2}\cdot 1=p} より V ( X k ) = E ( X k 2 ) − { E ( X ) } 2 = p − p 2 = p ( 1 − p ) = p q {\displaystyle V(X_{k})=E(X_{k}^{2})-\{E(X)\}^{2}=p-p^{2}=p(1-p)=pq} である。 X = ∑ k = 1 n X k {\displaystyle X=\sum _{k=1}^{n}X_{k}} とおくと、確率変数 X {\displaystyle X} は n {\displaystyle n} 回の反復試行において事象 A {\displaystyle A} が起こる回数であるから、 X ∼ B ( n , p ) {\displaystyle X\sim B(n,p)} である。 よって、確率変数の和の期待値・分散を求める公式を用いて、 E ( X ) = E ( ∑ k = 1 n X k ) = ∑ k = 1 n E ( X k ) = ∑ k = 1 n p = n p {\displaystyle E(X)=E(\sum _{k=1}^{n}X_{k})=\sum _{k=1}^{n}E(X_{k})=\sum _{k=1}^{n}p=np} V ( X ) = V ( ∑ k = 1 n X k ) = ∑ k = 1 n V ( X k ) = ∑ k = 1 n p q = n p q {\displaystyle V(X)=V(\sum _{k=1}^{n}X_{k})=\sum _{k=1}^{n}V(X_{k})=\sum _{k=1}^{n}pq=npq} である。 纏めると、以下のようになる。 度数分布表で表された、ある変量 X {\displaystyle X} についてのデータがある。このとき、 X {\displaystyle X} が階級値をとる確率はその階級の相対度数であると考えて良い。つまり、 X {\displaystyle X} は階級値の値をとる確率変数であり、その分布は相対度数の分布と一致する。この確率分布を図示するには、各階級の上の長方形の面積がその階級の相対度数を表すようなヒストグラムを書けば良い。 データの大きさを増し、階級の幅も狭くしていくと、ヒストグラムの形は一つの曲線に近づいていく。そこで、連続的な値をとる確率変数 X {\displaystyle X} に対し、 a ≤ X ≤ b {\displaystyle a\leq X\leq b} となる確率が y {\displaystyle y} ー x {\displaystyle x} グラフ上の曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} と直線 x = a , x = b {\displaystyle x=a,x=b} と x {\displaystyle x} 軸で囲まれた領域の面積で表されるように一つの曲線を対応させる。このような曲線を X {\displaystyle X} の分布曲線という。 連続的な値をとる確率変数を連続型確率変数といい、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} を確率密度関数と呼ぶ。なお、 f ( x ) {\displaystyle f(x)} の定義域は実数全体のことも、その一部分のこともある。今まで扱ってきたような、飛び飛びの値をとる確率変数は離散型確率変数と呼ぶ。 以下、特に断りがない場合、確率変数は連続型であるとする。 確率変数 X {\displaystyle X} のとる値の範囲が α ≤ X ≤ β {\displaystyle \alpha \leq X\leq \beta } でその確率密度関数が f ( x ) {\displaystyle f(x)} であるとき、期待値・分散・標準偏差は定積分を用いて以下のように定義される。 E ( X ) = m = ∫ α β x f ( x ) d x {\displaystyle E(X)=m=\int _{\alpha }^{\beta }xf(x)\,dx} V ( X ) = ∫ α β ( x − m ) 2 f ( x ) d x {\displaystyle V(X)=\int _{\alpha }^{\beta }(x-m)^{2}f(x)\,dx} σ ( X ) = V ( X ) {\displaystyle \sigma (X)={\sqrt {V(X)}}} これは α = − ∞ , β = ∞ {\displaystyle \alpha =-\infty ,\beta =\infty } の場合も含む。 離散型確率変数の期待値・分散の公式と比べると、 ∑ k = 1 n {\displaystyle \sum _{k=1}^{n}} を ∫ α β {\displaystyle \int _{\alpha }^{\beta }} に、 x k {\displaystyle x_{k}} を x {\displaystyle x} に、 p k {\displaystyle p_{k}} を f ( x ) {\displaystyle f(x)} に置き換えただけで同じ形をしていることがわかる。 確率密度関数のグラフを直線 x = u {\displaystyle x=u} で区切った左側の面積を F ( u ) {\displaystyle F(u)} と置くと、 F ( u ) {\displaystyle F(u)} は x {\displaystyle x} が u {\displaystyle u} 以下の値を取る確率(累積確率)に一致する。このとき、 F ( x ) {\displaystyle F(x)} を累積分布関数と呼ぶ。その定義より、累積分布関数と確率密度関数の間には F ( x ) = ∫ − ∞ x f ( t ) d t ⟺ f ( x ) = F ′ ( x ) {\displaystyle F(x)=\int _{-\infty }^{x}f(t)\,dt\iff f(x)=F'(x)} という関係がある。つまり、確率密度関数の x = u {\displaystyle x=u} における値 f ( u ) {\displaystyle f(u)} は累積分布関数 F ( x ) {\displaystyle F(x)} の x = u {\displaystyle x=u} における微分係数である。 確率変数 X {\displaystyle X} が実数 m {\displaystyle m} と正の実数 σ {\displaystyle \sigma } を用いて表される関数 f ( x ) = 1 2 π σ e − ( x − m ) 2 2 σ 2 {\displaystyle f(x)={\frac {1}{{\sqrt {2\pi }}\sigma }}e^{-{\frac {(x-m)^{2}}{2\sigma ^{2}}}}} を確率密度関数に持つとき、この X {\displaystyle X} の分布を正規分布またはガウス分布と呼び、 N ( m , σ 2 ) {\displaystyle N(m,\sigma ^{2})} のように表す。また、曲線 y = f ( x ) {\displaystyle y=f(x)} を正規分布曲線と呼ぶ。ここでは、確率変数 X {\displaystyle X} が正規分布 N ( m , σ 2 ) {\displaystyle N(m,\sigma ^{2})} に従うことを X ∼ N ( m , σ 2 ) {\displaystyle X\sim N(m,\sigma ^{2})} と表すこととする。 X ∼ N ( m , σ 2 ) {\displaystyle X\sim N(m,\sigma ^{2})} のとき、 m = E ( X ) , σ = σ ( X ) {\displaystyle m=E(X),\sigma =\sigma (X)} が成り立つ。証明は数Ⅲレベルの積分の知識が必要なため省略する。なお、 e = 2.71828 ⋯ {\displaystyle e=2.71828\cdots } は「ネイピア数」と呼ばれる無理数である。詳しくは数学Ⅲの微分で扱う。 また、以下のような性質がある。 正規分布は連続型確率変数の分布の代表例である。身の周りの現象の中には、観測される変量の分布が正規分布に近いものが多くあり、正規分布を有効に利用することができる。最も有名な例を出すと、偏差値の導出に利用されている。 正規分布のうち、特に N ( 0 , 1 ) {\displaystyle N(0,1)} を標準正規分布と呼ぶ。 X ∼ N ( m , σ 2 ) {\displaystyle X\sim N(m,\sigma ^{2})} のとき、 Y = a X + b {\displaystyle Y=aX+b} とすると Y ∼ N ( a m + b , a 2 σ 2 ) {\displaystyle Y\sim N(am+b,a^{2}\sigma ^{2})} であることが知られている。そこで Z = X − m σ {\displaystyle Z={\frac {X-m}{\sigma }}} とすると Z ∼ N ( 0 , 1 ) {\displaystyle Z\sim N(0,1)} であり、 f ( z ) = 1 2 π e − z 2 n {\displaystyle f(z)={\frac {1}{\sqrt {2\pi }}}e^{-{\frac {z^{2}}{n}}}} が成り立つ。 このように、正規分布に従うある確率変数を標準正規分布に従う確率変数に変換することを、標準化と呼ぶ。 標準正規分布に従う確率変数 Z {\displaystyle Z} において P ( 0 ≤ Z ≤ u ) = p ( u ) {\displaystyle P(0\leq Z\leq u)=p(u)} としたとき、 p ( u ) {\displaystyle p(u)} がとる値を纏めた表を(標準)正規分布表と呼ぶ。正規分布を利用する際には必須になる表であり、大学入試においても問題冊子の最後の方に載せられていることが多い。本書の最終項に載せているので、演習問題を解くときに利用すると良い。 標準正規分布における確率について、次の等式が成り立つ。 P ( − u ≤ Z ≤ 0 ) = P ( 0 ≤ Z ≤ u ) = p ( u ) {\displaystyle P(-u\leq Z\leq 0)=P(0\leq Z\leq u)=p(u)} P ( − u ≤ Z ≤ u ) = 2 p ( u ) {\displaystyle P(-u\leq Z\leq u)=2p(u)} P ( Z ≤ 0 ) = P ( Z ≥ 0 ) = 0.5 {\displaystyle P(Z\leq 0)=P(Z\geq 0)=0.5} なお、正規分布表の値は累積密度関数 F ( x ) = 1 + e r f ( x − m 2 σ ) 2 {\displaystyle F(x)={\frac {1+{erf}({\frac {x-m}{{\sqrt {2}}\sigma }})}{2}}} の x = u {\displaystyle x=u} における微分係数であり、正規分布表を用いて求める確率ではないことに注意。ここで e r f ( x ) {\displaystyle {erf}(x)} は誤差関数と呼ばれる特殊関数で、 e r f ( x ) = 2 π ∫ 0 x e − t 2 d t {\displaystyle {erf}(x)={\frac {2}{\sqrt {\pi }}}\int _{0}^{x}e^{-t^{2}}\,dt} で定義される。 二項分布 B ( n , p ) {\displaystyle B(n,p)} に従う確率変数 X {\displaystyle X} について、 X = r {\displaystyle X=r} となる確率を n {\displaystyle n} を大きくしながら計算し、そのグラフを書くと、次第にグラフが左右対称になっていくことがわかる。 そこで、二項分布を正規分布で近似することを考える。 一般に、ある確率分布に従う変数を正規分布に従う変数に近似する変換を正規化あるいは正規近似と呼ぶ。 二項分布に従う確率変数を正規化した後、さらに標準化することで正規分布表を活用することができる。先ほどの標準化の式に m = n p , σ = n p q {\displaystyle m=np,\sigma ={\sqrt {npq}}} を代入するだけなので、そこまで手間はかからない。 なお、二項分布においてはベルヌーイ試行の確率 p {\displaystyle p} が0.5に近ければ近いほど正規近似の精度が上がることが知られている。 調べたい対象全体のデータを集める調査を全数調査と呼ぶ。国勢調査などがこれにあたる。全数調査は対象が厖大な場合に多くの労力・時間・費用を必要とする。また、工場等においては調査によって製品が傷つく場合(耐久試験など)には好ましくない。このような場合、対象全体から一部を抜き出して調べ、その結果から全体の状況を推測する調査を行う。このような調査を標本調査と呼ぶ。 標本調査における調べたい対象全体の集合を母集団、調査のために母集団から抜き出された要素の集合を標本と呼び、母集団から標本を抜き出すことを標本の抽出と呼ぶ。また、母集団の要素の個数を母集団の大きさ、標本の要素の個数を標本の大きさと呼ぶ。なお、ここでの「母」は「そこから何かを生じさせるもとになるもの」を意味する(「酵母」、「母校」等と同じ用法)。 標本調査では標本を母集団の正しい縮図にするために、標本が特別な属性を持つものに偏らないようにする必要がある。母集団の各要素を等しい確率で抽出することを無作為抽出と呼び、無作為抽出で選ばれた標本を無作為標本と呼ぶ。無作為抽出では乱数賽や乱数表などが用いられることがある。詳しくは「w:乱数生成」を参照。 全ての要素を母集団全体から無作為抽出することは容易ではないため、層化抽出法、クラスター抽出法、多段抽出法などさまざまな抽出方法が編み出されており、それぞれに長所・短所が存在する。 母集団に属する要素についてのデータをある変量の値の集合と考えることで、 ここまで扱ってきたような統計的手法が使える。 大きさ N {\displaystyle N} の母集団において、変量 x {\displaystyle x} のとる値と要素の個数をそれぞれ x 1 x 2 ⋯ x r , f 1 f 2 ⋯ f n {\displaystyle x_{1}x_{2}\cdots x_{r},f_{1}f_{2}\cdots f_{n}} と置く。 このとき、変量xの度数分布表は以下のようになる。 また、変量 x {\displaystyle x} の平均 μ {\displaystyle \mu } と標準偏差 σ {\displaystyle \sigma } は以下のように求められる。 μ = 1 N ∑ k = 1 n x k f k = ∑ k = 1 n x k f k N {\displaystyle \mu ={\frac {1}{N}}\sum _{k=1}^{n}x_{k}f_{k}=\sum _{k=1}^{n}x_{k}{\frac {f_{k}}{N}}} σ = 1 N ∑ k = 1 n ( x k − μ ) 2 f k = ∑ k = 1 n ( x k − μ ) 2 f k N {\displaystyle \sigma ={\sqrt {{\frac {1}{N}}\sum _{k=1}^{n}(x_{k}-\mu)^{2}f_{k}}}={\sqrt {\sum _{k=1}^{n}(x_{k}-\mu)^{2}{\frac {f_{k}}{N}}}}} この母集団から大きさ n = 1 {\displaystyle n=1} で無作為抽出するとき、その要素における変量 x {\displaystyle x} の値 X {\displaystyle X} は偶然に支配されるが、 X = x k {\displaystyle X=x_{k}} となる確率 p k {\displaystyle p_{k}} は p k = f k N {\displaystyle p_{k}={\frac {f_{k}}{N}}} で与えられる。 よって X {\displaystyle X} は以下のような確率分布を持つ確率変数と考えられる。 この確率分布は母集団の相対度数の分布と一致する。 一般に、母集団における変量xの分布を母集団分布、その平均値を母平均、分散を母分散、標準偏差を母標準偏差と呼ぶ。 上の確率分布から、大きさ1の無作為標本における変量 x {\displaystyle x} の値 X {\displaystyle X} と母平均 μ {\displaystyle \mu } 、母分散 σ 2 {\displaystyle \sigma ^{2}} 、母標準偏差 σ {\displaystyle \sigma } について、 E ( X ) = μ , V ( X ) = σ 2 , σ ( X ) = σ {\displaystyle E(X)=\mu ,V(X)=\sigma ^{2},\sigma (X)=\sigma } が成り立つ。 実際の統計では母集団の大きさが非常に大きく、母集団分布は度数分布と同様に連続型確率変数の分布として近似される。そこで、正規分布に近似することで具合が良くなる場合が多い。 母集団から標本を抽出するのに、毎回元に戻しながら次のものを取り出す抽出を復元抽出と呼ぶ。逆に、取り出したものを戻さずに続けて抽出することを非復元抽出と呼ぶ。 大きさ n {\displaystyle n} の標本の要素における変量 x {\displaystyle x} の値を X 1 , X 2 ⋯ X n {\displaystyle X_{1},X_{2}\cdots X_{n}} と置く。標本が復元抽出によるものならば、母集団から大きさ1の標本を無作為抽出することを n {\displaystyle n} 回繰り返す反復試行であるから、 X k {\displaystyle X_{k}} はそれぞれが母集団分布に従う互いに独立な確率変数となる。非復元抽出の場合でも、母集団の大きさ N {\displaystyle N} が標本の大きさ n {\displaystyle n} より十分大きい( N >> n {\displaystyle N>>n} )場合には近似的に復元抽出による標本と見なすことができる。 大きさ n {\displaystyle n} の標本について、 X ¯ = 1 n ∑ k = 1 n X k {\displaystyle {\overline {X}}={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}X_{k}} を標本平均、 S 2 = 1 n ∑ k = 1 n ( X k − X ¯ ) 2 {\displaystyle S^{2}={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}(X_{k}-{\overline {X}})^{2}} を標本分散、 S = 1 n ∑ k = 1 n ( X k − X ¯ ) 2 {\displaystyle S={\sqrt {{\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}(X_{k}-{\overline {X}})^{2}}}} を標本標準偏差と呼ぶ。 X k {\displaystyle X_{k}} は「母集団から標本を抽出する」という試行の結果で値が定まる確率変数なので、 X ¯ , S 2 , S {\displaystyle {\overline {X}},S^{2},S} も同様の試行の結果で値が定まる確率変数である。 復元抽出の場合、確率変数の値 X k {\displaystyle X_{k}} は大きさ1の標本の確率変数と見なすことができ、それぞれ母集団分布に従うので、 E ( X k ) = μ , V ( X k ) = σ 2 , σ ( X k ) = σ {\displaystyle E(X_{k})=\mu ,V(X_{k})=\sigma ^{2},\sigma (X_{k})=\sigma } が成り立つ。 X k {\displaystyle X_{k}} はそれぞれ互いに独立なので、確率変数の和の期待値・分散を求める公式より E ( X ¯ ) = E ( 1 n ∑ k = 1 n x k ) = 1 n ∑ k = 1 n E ( X k ) = 1 n ⋅ n μ = μ {\displaystyle E({\overline {X}})=E({\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}x_{k})={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}E(X_{k})={\frac {1}{n}}\cdot n\mu =\mu } V ( X ¯ ) = V ( 1 n ∑ k = 1 n X k ) = 1 n 2 ∑ k = 1 n V ( X k ) = 1 n 2 ⋅ n σ 2 = σ 2 n {\displaystyle V({\overline {X}})=V({\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}X_{k})={\frac {1}{n^{2}}}\sum _{k=1}^{n}V(X_{k})={\frac {1}{n^{2}}}\cdot n\sigma ^{2}={\frac {\sigma ^{2}}{n}}} σ ( X ¯ ) = V ( X ¯ ) = σ n {\displaystyle \sigma ({\overline {X}})={\sqrt {V({\overline {X}})}}={\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}} 非復元抽出の場合も N >> n {\displaystyle N>>n} ならば同様である。 母集団全体の中である特性Aを持つ要素の割合を特性Aの母比率、標本の中で特性Aを持つ要素の割合を特性Aの標本比率と呼ぶ。 特性Aの母比率が p {\displaystyle p} である十分大きな母集団から、大きさがnの標本を無作為抽出するとき、標本の中で特性Aを持つ要素の個数を T {\displaystyle T} とおくと、 T ∼ B ( n , p ) {\displaystyle T\sim B(n,p)} である。ここで、 q = 1 − p {\displaystyle q=1-p} として正規化すると、近似的に T ∼ N ( n p , n p q ) {\displaystyle T\sim N(np,npq)} である。 特性Aの標本比率を R {\displaystyle R} とおくと、 R = T n {\displaystyle R={\frac {T}{n}}} より R {\displaystyle R} は確率変数であり、 E ( R ) = 1 n E ( T ) = 1 n ⋅ n p = p {\displaystyle E(R)={\frac {1}{n}}E(T)={\frac {1}{n}}\cdot np=p} V ( R ) = 1 n 2 E ( T ) = 1 n 2 ⋅ n p q = p q n {\displaystyle V(R)={\frac {1}{n^{2}}}E(T)={\frac {1}{n^{2}}}\cdot npq={\frac {pq}{n}}} であるので、近似的に R ∼ N ( p , p q n ) {\displaystyle R\sim N(p,{\frac {pq}{n}})} である。 特性Aの母比率が p {\displaystyle p} である母集団において、特性Aを持つ要素を1、持たない要素を0で表す変量 x {\displaystyle x} を考える。このとき、 X k {\displaystyle X_{k}} はそれぞれ1または0である。特性Aの標本比率 R {\displaystyle R} はこれらのうち値が1であるものの割合であるから、 R = 1 n ∑ k = 1 n X k = X ¯ {\displaystyle R={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}X_{k}={\overline {X}}} が成り立つ。よって、標本比率は標本平均の特別な場合である。 一般に、標本平均 X ¯ {\displaystyle {\overline {X}}} について以下の法則が成り立つ。 標本標準偏差について、 lim n → ∞ σ ( X ¯ ) = lim n → ∞ σ n = 0 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }\sigma ({\overline {X}})=\lim _{n\to \infty }{\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}=0} より、 n {\displaystyle n} が大きくなると X ¯ {\displaystyle {\overline {X}}} は母平均 μ {\displaystyle \mu } の近くに集中して分布する。すなわち、 X ¯ {\displaystyle {\overline {X}}} が μ {\displaystyle \mu } に近い値をとる確率を p {\displaystyle p} とすると、 lim n → ∞ p = 1 {\displaystyle \lim _{n\to \infty }p=1} である。 lim n → ∞ {\displaystyle \lim _{n\to \infty }} は「 n {\displaystyle n} を限りなく大きくする」という意味の記号である。詳しくはこちらを参照。 したがって、以下が成り立つ。 母集団が大きいとき、母平均を求めるには時間も労力も相当にかかる。そこで、標本平均から母平均を推定することを考える。 標本の大きさ n {\displaystyle n} が大きいとき、近似的に X ¯ ∼ N ( μ , σ 2 n ) {\displaystyle {\overline {X}}\sim N(\mu ,{\frac {\sigma ^{2}}{n}})} であるのは先程学んだ。 X ¯ {\displaystyle {\overline {X}}} の標準化を考えて Z = X ¯ − μ σ n {\displaystyle Z={\frac {{\overline {X}}-\mu }{\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}}} とおくと、近似的に Z ∼ N ( 0 , 1 ) {\displaystyle Z\sim N(0,1)} である。 ここで正規分布表より P ( | Z | ≤ 1.96 ) ≒ 0.95 {\displaystyle P(|Z|\leq 1.96)\fallingdotseq 0.95} なので、 P ( μ − 1.96 ⋅ σ n ≤ X ¯ ≤ μ + 1.96 ⋅ σ n ) ≒ 0.95 {\displaystyle P(\mu -1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}\leq {\overline {X}}\leq \mu +1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}})\fallingdotseq 0.95} すなわち P ( X ¯ − 1.96 ⋅ σ n ≤ μ ≤ X ¯ + 1.96 ⋅ σ n ) ≒ 0.95 {\displaystyle P({\overline {X}}-1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}\leq \mu \leq {\overline {X}}+1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}})\fallingdotseq 0.95} である。 この式は区間 X ¯ − 1.96 ⋅ σ n ≤ x ≤ X ¯ + 1.96 ⋅ σ n {\displaystyle {\overline {X}}-1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}\leq x\leq {\overline {X}}+1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}} が値 μ {\displaystyle \mu } を含むことが約95%の確実さで期待できることを示している。 この区間を母平均 μ {\displaystyle \mu } に対する信頼度95%の信頼区間と呼び、 [ X ¯ − 1.96 ⋅ σ n , X ¯ + 1.96 ⋅ σ n ] {\displaystyle [{\overline {X}}-1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}},{\overline {X}}+1.96\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}]} のように表す。 母平均 μ {\displaystyle \mu } に対して信頼度95%の信頼区間を求めることを、「母平均 μ {\displaystyle \mu } を信頼度95%で区間推定する」という。 信頼度95%とは、大きさ n {\displaystyle n} の無作為抽出を繰り返し、得られたそれぞれの標本平均に対し区間推定をして信頼区間を多数作ると、母平均 μ {\displaystyle \mu } の含まれる区間が95%の割合で現れることが期待できることを指している。 信頼度99%で推定する場合、正規分布表より P ( | Z | ≤ 2.58 ) ≒ 0.99 {\displaystyle P(|Z|\leq 2.58)\fallingdotseq 0.99} なので、信頼区間は [ X ¯ − 2.58 ⋅ σ n , X ¯ + 2.58 ⋅ σ n ] {\displaystyle [{\overline {X}}-2.58\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}},{\overline {X}}+2.58\cdot {\frac {\sigma }{\sqrt {n}}}]} となる。 なお、実際の統計では母標準偏差 σ {\displaystyle \sigma } がわからない場合が多いので、 n {\displaystyle n} が大きいときは代わりに標本標準偏差 S {\displaystyle S} を用いて良い。 母平均と同様、標本比率 R {\displaystyle R} から母比率 p {\displaystyle p} を区間推定することもできる。 標本の大きさ n {\displaystyle n} が大きいとき、先ほど学んだように R ∼ N ( p , n p q ) {\displaystyle R\sim N(p,npq)} である。したがって、母平均の推定の場合と同様に考えて P ( R − 1.96 n p n ≤ p ≤ R + 1.96 p q n ) {\displaystyle P(R-1.96{\sqrt {\frac {np}{n}}}\leq p\leq R+1.96{\sqrt {\frac {pq}{n}}})} である。 q = 1 − p {\displaystyle q=1-p} であり、大数の法則より n {\displaystyle n} が大きいとき p {\displaystyle p} は R {\displaystyle R} と見做して良いから、 Q = 1 − R {\displaystyle Q=1-R} とおくと、母比率 p {\displaystyle p} に対する信頼度95%の信頼区間は [ R − 1.96 R Q n , R + 1.96 R Q n ] {\displaystyle [R-1.96{\sqrt {\frac {RQ}{n}}},R+1.96{\sqrt {\frac {RQ}{n}}}]} である。 信頼度99%で推定する場合、標本平均の場合と同様に考えて信頼区間は [ R − 2.58 R Q n , R + 2.58 R Q n ] {\displaystyle [R-2.58{\sqrt {\frac {RQ}{n}}},R+2.58{\sqrt {\frac {RQ}{n}}}]} となる。 X k {\displaystyle X_{k}} のとる値は1または0であるから、 X k 2 = X k {\displaystyle X_{k}^{2}=X_{k}} である。ここで R = X ¯ {\displaystyle R={\overline {X}}} を用いると、標本分散 S 2 {\displaystyle S^{2}} について以下のように変形できる。 S 2 = 1 n ∑ k = 1 n ( X k − X ¯ ) 2 {\displaystyle S^{2}={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}(X_{k}-{\overline {X}})^{2}} = 1 n ∑ k = 1 n ( X k 2 − 2 X k X ¯ + X 2 ¯ ) {\displaystyle ={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}(X_{k}^{2}-2X_{k}{\overline {X}}+{\overline {X^{2}}})} = 1 n ∑ k = 1 n X k 2 − 2 n ⋅ n X ¯ ⋅ ∑ k = 1 n X k + X 2 ¯ {\displaystyle ={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}X_{k}^{2}-{\frac {2}{n}}\cdot n{\overline {X}}\cdot \sum _{k=1}^{n}X_{k}+{\overline {X^{2}}}} = 1 n ∑ k = 1 n X k − 2 X 2 ¯ + X 2 ¯ {\displaystyle ={\frac {1}{n}}\sum _{k=1}^{n}X_{k}-2{\overline {X^{2}}}+{\overline {X^{2}}}} = X ¯ − X 2 ¯ {\displaystyle ={\overline {X}}-{\overline {X^{2}}}} = R − R 2 {\displaystyle =R-R^{2}} = R ( 1 − R ) {\displaystyle =R(1-R)} 先ほど母標準偏差 p q ( q = 1 − p ) {\displaystyle {\sqrt {pq}}(q=1-p)} を確率変数 R Q ( Q = 1 − R ) {\displaystyle {\sqrt {RQ}}(Q=1-R)} で置き換えたが、上式より R Q = S {\displaystyle {\sqrt {RQ}}=S} なので、この置き換えは母平均の推定で行なった「母標準偏差 σ {\displaystyle \sigma } を標本標準偏差 S {\displaystyle S} で置き換える」ことの特別な場合である。 ここでは信頼区間を大括弧[]で表したが、実は一般に区間 a ≤ x ≤ b {\displaystyle a\leq x\leq b} は「閉区間」と呼ばれ、 [ a , b ] {\displaystyle [a,b]} で表される。詳しくは数学Ⅲの極限で扱う。 なお、ある区間でもって母集団の特性値を推定する区間推定に対し、一つの値から母集団の特性値を推定することを点推定と呼ぶ。例として、大数の法則を利用して標本平均から母平均を近似することが挙げられる。区間推定と点推定を合わせて統計的推定と呼ぶ。 数学Iで扱ったように、仮説検定とは以下の手順で仮説が正しいか判断する手法である。 なお、仮説[2]が正しくないと判断できないとき、仮説[1]の真偽を判断することはできない 仮説[1]を対立仮説、仮説[2]を帰無仮説と呼び、仮説が正しくないと判断することを「仮説を棄却する」という。棄却の基準となる確率を有意水準あるいは危険率と呼び、 α {\displaystyle \alpha } で表す。有意水準にはよく5%( α = 0.05 {\displaystyle \alpha =0.05} )、1%( α = 0.01 {\displaystyle \alpha =0.01} )が用いられる。有意水準に対して帰無仮説が棄却されるような確率変数の値の範囲を棄却域と呼ぶ。また、有意水準 α {\displaystyle \alpha } を用いて仮説検定を行うことを「有意水準 α {\displaystyle \alpha } で検定する」という。なお、対立仮説、帰無仮説をそれぞれ「仮説 H 1 {\displaystyle H_{1}} :〇〇」「仮説 H 0 {\displaystyle H_{0}} :☆☆(〇〇でない)」のように表すこともある。また、仮説が棄却されないことを「仮説を採択する」という場合がある。 数学Iでは、公正なコインを投げて裏表の出る回数を調べる試行の相対度数から帰無仮説のもとで事象が起こる確率を求めたが、ここでは正規分布を利用することを考える。 母比率の検定において、帰無仮説のもとで二項分布に従う確率変数 X {\displaystyle X} を設定すると、正規分布表を利用することができる。 上の例題において、正規近似と標準化を同時に行なっていることに注意。 母平均の検定も、同様に行うことができる。 なお、上の例題において α = 0.05 {\displaystyle \alpha =0.05} ならば帰無仮説を棄却できる。このように、有意水準の値を変えると結論が変わる場合がある。 上の二つの例題では、棄却域を正規分布の両側にとっている。このような検定を両側検定と呼ぶ。 両側検定に対し、棄却域を正規分布の片側にとる検定を片側検定と呼ぶ。 両側検定との違いは、対立仮説が「確率(平均)値が示されている値通りである」でなく「確率(平均)値が上がった(下がった)」である点である。 棄却域を片側にとっているため、正規分布で近似する値は 1 − α {\displaystyle 1-\alpha } ではなく 0.5 − α {\displaystyle 0.5-\alpha } であることに注意。 仮説検定の問題を解く際は、文脈から両側検定なのか片側検定なのか判断することになるので、文章読解力が必要になる。 なお、実際に検定を行うとき、「両側検定・片側検定の片方で帰無仮説が棄却されないからもう片方を試す」という操作は「検証が恣意的」と判断されてしまう可能性があるためしてはいけない。 仮説検定を行うと、2種類の誤りが生じる可能性がある。 一つは、帰無仮説が本当は正しいのにも拘らず、得られたデータが棄却域に入ってしまったことにより帰無仮説が棄却されることである。これを第一種の過誤と呼ぶ。このとき有意水準 α {\displaystyle \alpha } は第一種の過誤が起こる確率であり、有意水準のことを「危険率」とも呼ぶのはこれが理由である。 もう一つは、帰無仮説が本当は誤っているにも拘らず、得られたデータが棄却域に入らなかったために帰無仮説を採択してしまうことである。これを第二種の過誤と呼ぶ。 纏めると、以下の表のようになる。 この二つの過誤を品質管理に当てはめると、第一種の過誤は「本当は製品に問題がないにも拘らず、製品の検査段階で不良品と判断して出荷しないこと」に対応し、生産者リスクと呼ばれる。また、第二種の過誤は「本当は製品に問題があるにも拘らず、検査段階で問題なしと判断され出荷されてしまうこと」に対応し、消費者リスクと呼ばれる。 p ( − u ) = p ( u ) {\displaystyle p(-u)=p(u)} なので、 u {\displaystyle u} が正の値のときみ記載する。
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本項は高等学校数学Bの「数学的と社会生活」の解説です。
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理科において、力は大きさと向きを持つ量であると習っただろう。大きさと向きを持つ量は、力の他にも、速度や風の吹き方などがある。 例えば、ある地点ある時刻における風の吹き方は、風速と風向から成り立つ。このように、大きさと向きを持つ量を導入すると、これらを効率よく扱える。 このページでは、大きさと向きを持つ量であるベクトルを扱う。 また、図形の問題に対して代数的なアプローチを取れるのもベクトルの利点の一つである。 平面上の点 S {\displaystyle \mathrm {S} } から点 T {\displaystyle \mathrm {T} } へ向かう矢印を考える。このような矢印のように向きを持つ線分を有向線分という。 このとき、点 S {\displaystyle \mathrm {S} } を始点、点 T {\displaystyle \mathrm {T} } を終点という。 有向線分で、大きさと方向が同じものはベクトルとして同じものとする。 有向線分は位置、長さ(大きさ)、向きという情報を持つ。ベクトルは、有向線分の持つ情報のうち、位置の情報を忘れて、大きさ、向きだけに着目したものと考えることができる。 有向線分 S T {\displaystyle \mathrm {ST} } で表されるベクトルを S T → {\displaystyle \mathrm {\vec {ST}} } とかく。ベクトルは一文字で a → {\displaystyle {\vec {a}}} などと表されることがある[1]。ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} の大きさを | a → | {\displaystyle |{\vec {a}}|} で表す。 有向線分 S T {\displaystyle \mathrm {ST} } 、有向線分 S ′ T ′ {\displaystyle \mathrm {S'T'} } に対し、大きさが等しく、向きが等しいなら、位置が違っていても、ベクトルとして等しく、 S T → = S ′ T ′ → {\displaystyle \mathrm {\vec {ST}} =\mathrm {\vec {S'T'}} } である。[2] 大きさが 1 であるベクトルを単位ベクトルという。 ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} に対し、ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} と方向が逆で、大きさが等しいベクトルを逆ベクトルといい、 − a → {\displaystyle -{\vec {a}}} とかく。 始点と終点が等しいベクトルを零ベクトルといい、 0 → {\displaystyle {\vec {0}}} で表す。任意の点 A {\displaystyle \mathrm {A} } に対し、 A A → = 0 → {\displaystyle \mathrm {\vec {AA}} ={\vec {0}}} である。ゼロベクトルの大きさは 0 で、向きは考えないものとする。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} に対し、 a → = A B → , b → = B C → {\displaystyle {\vec {a}}=\mathrm {\vec {AB}} ,{\vec {b}}=\mathrm {\vec {BC}} } となる点をとる。このときベクトルの加法を a → + b → = A C → {\displaystyle {\vec {a}}+{\vec {b}}=\mathrm {\vec {AC}} } で定める。 ベクトルの加法について以下が成り立つ。 また、 a → + 0 → = a → {\displaystyle {\vec {a}}+{\vec {0}}={\vec {a}}} とする。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} に対し、 a → − b → = a → + ( − b → ) {\displaystyle {\vec {a}}-{\vec {b}}={\vec {a}}+(-{\vec {b}})} とかく。 ゼロベクトルはないベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} と実数 k {\displaystyle k} に対し、ベクトルの実数倍 k a → {\displaystyle k{\vec {a}}} を以下のように定める。 またゼロベクトル 0 → {\displaystyle {\vec {0}}} に対し、実数倍を k 0 → = 0 → {\displaystyle k{\vec {0}}={\vec {0}}} で定める。 以下の性質がなりたつ。 ゼロベクトルではないベクトル a → , b → ( ≠ 0 → ) {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}\,(\neq {\vec {0}})} に対し、 a → = A A ′ → , b → = B B ′ → {\displaystyle {\vec {a}}={\vec {\mathrm {AA'} }},{\vec {b}}={\vec {\mathrm {BB'} }}} となる点をとる。 このとき、直線 A A ′ {\displaystyle \mathrm {AA'} } と直線 B B ′ {\displaystyle \mathrm {BB'} } が平行であるとき、ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} は平行であるといい、 a → ∥ b → {\displaystyle {\vec {a}}\parallel {\vec {b}}} で表す。 また、直線 A A ′ {\displaystyle \mathrm {AA'} } と直線 B B ′ {\displaystyle \mathrm {BB'} } が垂直であるとき、ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} は垂直であるといい、 a → ⊥ b → {\displaystyle {\vec {a}}\perp {\vec {b}}} で表す。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} が平行のとき、明らかに、片方のベクトルを実数倍すれば大きさと向きが一致するので、 a → ∥ b → ⟺ b → = k a → {\displaystyle {\vec {a}}\parallel {\vec {b}}\iff {\vec {b}}=k{\vec {a}}} となる実数 k {\displaystyle k} が存在する が成り立つ。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} がともにゼロベクトルでなく( a → , b → ≠ 0 → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}\neq {\vec {0}}} ) 、平行でないとき、任意のベクトル p → {\displaystyle {\vec {p}}} に対して、 p → = s a → + t b → {\displaystyle {\vec {p}}=s{\vec {a}}+t{\vec {b}}} となる実数 s , t {\displaystyle s,t} を取ることができる。 証明 a → = O A → , b → = O B → , p → = O P → {\displaystyle {\vec {a}}={\vec {\mathrm {OA} }},{\vec {b}}={\vec {\mathrm {OB} }},{\vec {p}}={\vec {\mathrm {OP} }}} となる点をとる。点 P {\displaystyle \mathrm {P} } を通り、直線 O B , O A {\displaystyle \mathrm {OB} ,\mathrm {OA} } に平行な直線が、それぞれ 直線 O A , O B {\displaystyle \mathrm {OA} ,\mathrm {OB} } と交わる点をそれぞれ S , T {\displaystyle \mathrm {S,T} } と置く。 このとき、 O S → = s a → , O T → = t b → {\displaystyle {\vec {\mathrm {OS} }}=s{\vec {a}},{\vec {\mathrm {OT} }}=t{\vec {b}}} となる実数 s , t {\displaystyle s,t} を取ることができる。ここで、四角形 O S P T {\displaystyle \mathrm {OSPT} } は平行四辺形なので、 p → = s a → + t b → {\displaystyle {\vec {p}}=s{\vec {a}}+t{\vec {b}}} が成り立つ。 ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} に対して、座標平面上の原点を O {\displaystyle \mathrm {O} } とするとき、 a → = O A → {\displaystyle {\vec {a}}=\mathrm {\vec {OA}} } となる点 A ( a x , a y ) {\displaystyle \mathrm {A} (a_{x},a_{y})} を取ることができる。そこで、 ( a x , a y ) {\displaystyle (a_{x},a_{y})} をベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} の成分表示とし、 a → = ( a x , a y ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{x},a_{y})} 、または、縦に並べて、 a → = ( a x a y ) {\displaystyle {\vec {a}}=\left({\begin{aligned}a_{x}\\a_{y}\end{aligned}}\right)} と書く。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} に対して、 a → = O A → , b → = O B → {\displaystyle {\vec {a}}=\mathrm {\vec {OA}} ,\,{\vec {b}}=\mathrm {\vec {OB}} } となる点 A , B {\displaystyle \mathrm {A} ,\mathrm {B} } をとり、 a → = ( a x , a y ) , b → = ( b x , b y ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{x},a_{y}),\,{\vec {b}}=(b_{x},b_{y})} とするとき a → = b → ⟺ O A → = O B → ⟺ {\displaystyle {\vec {a}}={\vec {b}}\iff {\vec {\mathrm {OA} }}={\vec {\mathrm {OB} }}\iff } 点 A , B {\displaystyle \mathrm {A} ,\,\mathrm {B} } が一致する ⟺ a x = b x {\displaystyle \iff a_{x}=b_{x}} かつ a y = b y {\displaystyle a_{y}=b_{y}} また、 a → = ( a x , a y ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{x},a_{y})} に対して、 a → = O A → {\displaystyle {\vec {a}}=\mathrm {\vec {OA}} } とするとき、 | a → | {\displaystyle |{\vec {a}}|} は線分 O A {\displaystyle \mathrm {OA} } の長さなので、 | a → | = a x 2 + a y 2 {\displaystyle |{\vec {a}}|={\sqrt {a_{x}^{2}+a_{y}^{2}}}} である。 ベクトル a → = ( a x , a y ) , b → = ( b x , b y ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{x},a_{y}),{\vec {b}}=(b_{x},b_{y})} に対して、 a → + b → = ( a x + b x , a y + b y ) {\displaystyle {\vec {a}}+{\vec {b}}=(a_{x}+b_{x},a_{y}+b_{y})} a → − b → = ( a x − b x , a y − b y ) {\displaystyle {\vec {a}}-{\vec {b}}=(a_{x}-b_{x},a_{y}-b_{y})} k a → = ( k a x , k a y ) {\displaystyle k{\vec {a}}=(ka_{x},ka_{y})} がなりたつ。 ある点を基準にして、その点を始点とするベクトルについて考えることにより、ベクトルを用いて点の位置関係について考察することができる。 点の位置関係基準となる点 O {\displaystyle {\rm {O}}} をあらかじめ定める。このとき、点 A {\displaystyle {\rm {A}}} に対して、ベクトル O A → {\displaystyle {\vec {\rm {OA}}}} を点 A {\displaystyle {\rm {A}}} の位置ベクトルという。位置ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} で与えられる点 A {\displaystyle {\rm {A}}} を A ( a → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}})} で表す。 また、点 A ( a → ) , B ( b → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}}),\,\mathrm {B} ({\vec {b}})} のとき、 A B → = O B → − O A → = b → − a → {\displaystyle {\vec {\rm {AB}}}={\vec {\rm {OB}}}-{\vec {\rm {OA}}}={\vec {b}}-{\vec {a}}} が成り立つ。 以下、位置ベクトルの基準点を点 O {\displaystyle {\rm {O}}} とする。 点 A ( a → ) , B ( b → ) {\displaystyle {\rm {A({\vec {a}}),\,{\rm {B({\vec {b}})}}}}} を通る線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } を m : n {\displaystyle m:n} に内分する点 P ( p → ) {\displaystyle \mathrm {P} ({\vec {p}})} を求める。 A P → = m m + n A B → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AP} }}={\frac {m}{m+n}}{\vec {\mathrm {AB} }}} より、 p → − a → = m m + n ( b → − a → ) {\displaystyle {\vec {p}}-{\vec {a}}={\frac {m}{m+n}}({\vec {b}}-{\vec {a}})} したがって、 p → = n a → + m b → m + n {\displaystyle {\vec {p}}={\frac {n{\vec {a}}+m{\vec {b}}}{m+n}}} である。[3] 次に、点 A ( a → ) , B ( b → ) {\displaystyle {\rm {A({\vec {a}}),\,{\rm {B({\vec {b}})}}}}} を通る線分 A B {\displaystyle \mathrm {AB} } を m : n {\displaystyle m:n} に外分する点 Q ( q → ) {\displaystyle \mathrm {Q} ({\vec {q}})} を求める。 m > n {\displaystyle m>n} の場合は、 A Q → = m m − n A B → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AQ} }}={\frac {m}{m-n}}{\vec {\mathrm {AB} }}} より、 q → − a → = m m − n ( b → − a → ) {\displaystyle {\vec {q}}-{\vec {a}}={\frac {m}{m-n}}({\vec {b}}-{\vec {a}})} したがって、 q → = − n a → + m b → m − n {\displaystyle {\vec {q}}={\frac {-n{\vec {a}}+m{\vec {b}}}{m-n}}} である。[4] m < n {\displaystyle m<n} の場合は、 B Q → = n n − m B A → {\displaystyle {\vec {\mathrm {BQ} }}={\frac {n}{n-m}}{\vec {\mathrm {BA} }}} に注意して同様に計算すれば、前と同じ、 q → = − n a → + m b → m − n {\displaystyle {\vec {q}}={\frac {-n{\vec {a}}+m{\vec {b}}}{m-n}}} が得られる。[5] 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } に対し、 A ( a → ) , B ( b → ) , C ( c → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}}),\,\mathrm {B} ({\vec {b}}),\,\mathrm {C} ({\vec {c}})} と置く。この三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } の重心 G ( g → ) {\displaystyle \mathrm {G} ({\vec {g}})} を求める。 線分 B C {\displaystyle \mathrm {BC} } の中点を M ( m → ) {\displaystyle \mathrm {M} ({\vec {m}})} とすると、点 M {\displaystyle \mathrm {M} } は線分 B C {\displaystyle \mathrm {BC} } を 1 : 1 {\displaystyle 1:1} に内分する点なので、 m → = b → + c → 2 {\displaystyle {\vec {m}}={\frac {{\vec {b}}+{\vec {c}}}{2}}} である。 点 G {\displaystyle \mathrm {G} } は線分 A M {\displaystyle \mathrm {AM} } を 2 : 1 {\displaystyle 2:1} に内分する点なので、 g → = a → + b → + c → 3 {\displaystyle {\vec {g}}={\frac {{\vec {a}}+{\vec {b}}+{\vec {c}}}{3}}} である。[6] 三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } に対し、 A ( a → ) , B ( b → ) , C ( c → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}}),\,\mathrm {B} ({\vec {b}}),\,\mathrm {C} ({\vec {c}})} と置く。さらに、 A B = c , B C = a , C A = b {\displaystyle \mathrm {AB} =c,\,\mathrm {BC} =a,\,\mathrm {CA} =b} と置く。三角形 A B C {\displaystyle \mathrm {ABC} } の内心の位置ベクトル I ( i → ) {\displaystyle \mathrm {I} ({\vec {i}})} を求める。[7] A {\displaystyle {\rm {A}}} の二等分線と線分 B C {\displaystyle {\rm {BC}}} の交点を D ( d → ) {\displaystyle \mathrm {D} ({\vec {d}})} とする。このとき、三角形の二等分線の性質より B D : D C = c : b {\displaystyle \mathrm {BD} :\mathrm {DC} =c:b} したがって、 d → = b b → + c c → b + c {\displaystyle {\vec {d}}={\frac {b{\vec {b}}+c{\vec {c}}}{b+c}}} である。 ここで、 A I : I D = B A : B D = c : a c b + c = ( b + c ) : a {\displaystyle \mathrm {AI} :\mathrm {ID} =\mathrm {BA} :\mathrm {BD} =c:{\frac {ac}{b+c}}=(b+c):a} [8] である。 したがって、 i → = a a → + ( b + c ) d → a + b + c = a a → + b b → + c c → a + b + c {\displaystyle {\vec {i}}={\frac {a{\vec {a}}+(b+c){\vec {d}}}{a+b+c}}={\frac {a{\vec {a}}+b{\vec {b}}+c{\vec {c}}}{a+b+c}}} である。 中学または高校の理科の力学では、力学的な仕事の定義をならったことがあるだろう。この仕事では、移動方向以外の力は、仕事に寄与しなかった。このような力の仕事の計算を、ベクトルの観点からみれば、内積という新しい概念が定義できる。[9][10] ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} に対し、 a → = O A → , b → = O B → {\displaystyle {\vec {a}}={\vec {\mathrm {OA} }},{\vec {b}}={\vec {\mathrm {OB} }}} となる点 O , A , B {\displaystyle \mathrm {O,A,B} } をとる。このとき、 ∠ A O B {\displaystyle \angle \mathrm {AOB} } をベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} のなす角という。 (図) ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} のなす角を θ {\displaystyle \theta } とするとき、内積 a → ⋅ b → {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {b}}} を で定める。[11] 定義から、ベクトルの内積は一方のベクトルをもう一方のベクトルに射影したときの、大きさの積であると言える。 (図) ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} を a → = ( a 1 , a 2 ) , b → = ( b 1 , b 2 ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{1},a_{2}),{\vec {b}}=(b_{1},b_{2})} と成分表示したときの、内積 a → ⋅ b → {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {b}}} について考えてみよう。 ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} に対し、 a → = O A → , b → = O B → {\displaystyle {\vec {a}}={\vec {\mathrm {OA} }},{\vec {b}}={\vec {\mathrm {OB} }}} となる点 O , A , B {\displaystyle \mathrm {O,A,B} } をとり、ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}}} のなす角を θ {\displaystyle \theta } とする。このとき △ O A B {\displaystyle \triangle \mathrm {OAB} } に対し余弦定理を用いて A B 2 = O A 2 + O B 2 − 2 ⋅ O A ⋅ O B cos ⁡ θ {\displaystyle \mathrm {\mathrm {AB} } ^{2}=\mathrm {\mathrm {OA} } ^{2}+\mathrm {\mathrm {OB} } ^{2}-2\cdot \mathrm {\mathrm {OA} } \cdot \mathrm {\mathrm {OB} } \cos \theta } (図) ここで、 A B = | b → − a → | , O A = | a → | , O B = | b → | {\displaystyle \mathrm {\mathrm {AB} } =|{\vec {b}}-{\vec {a}}|,\mathrm {\mathrm {OA} } =|{\vec {a}}|,\mathrm {\mathrm {OB} } =|{\vec {b}}|} と、 O A ⋅ O B cos ⁡ θ = | a → | | b → | cos ⁡ θ = a → ⋅ b → {\displaystyle \mathrm {\mathrm {OA} } \cdot \mathrm {\mathrm {OB} } \cos \theta =|{\vec {a}}||{\vec {b}}|\cos \theta ={\vec {a}}\cdot {\vec {b}}} より | b → − a → | 2 = | a → | 2 + | b → | 2 − 2 a → ⋅ b → {\displaystyle |{\vec {b}}-{\vec {a}}|^{2}=|{\vec {a}}|^{2}+|{\vec {b}}|^{2}-2{\vec {a}}\cdot {\vec {b}}} であるので、 a → ⋅ b → = 1 2 ( | a → | 2 + | b → | 2 − | b → − a → | 2 ) {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {b}}={\frac {1}{2}}(|{\vec {a}}|^{2}+|{\vec {b}}|^{2}-|{\vec {b}}-{\vec {a}}|^{2})} である。 ここで、 | a → | 2 = a 1 2 + a 2 2 , | b → | 2 = b 1 2 + b 2 2 , | b → − a → | 2 = | ( b 1 − a 1 , b 2 − a 2 ) | 2 = ( b 1 − a 1 ) 2 + ( b 2 − a 2 ) 2 {\displaystyle |{\vec {a}}|^{2}=a_{1}^{2}+a_{2}^{2},|{\vec {b}}|^{2}=b_{1}^{2}+b_{2}^{2},|{\vec {b}}-{\vec {a}}|^{2}=|(b_{1}-a_{1},b_{2}-a_{2})|^{2}=(b_{1}-a_{1})^{2}+(b_{2}-a_{2})^{2}} なので、これを代入すれば a → ⋅ b → = 1 2 ( | a → | 2 + | b → | 2 − | b → − a → | 2 ) {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {b}}={\frac {1}{2}}(|{\vec {a}}|^{2}+|{\vec {b}}|^{2}-|{\vec {b}}-{\vec {a}}|^{2})} = 1 2 [ ( a 1 2 + a 2 2 ) + ( b 1 2 + b 2 2 ) − ( b 1 − a 1 ) 2 + ( b 2 − a 2 ) 2 ] {\displaystyle ={\frac {1}{2}}\left[(a_{1}^{2}+a_{2}^{2})+(b_{1}^{2}+b_{2}^{2})-(b_{1}-a_{1})^{2}+(b_{2}-a_{2})^{2}\right]} = a 1 b 1 + a 2 b 2 {\displaystyle =a_{1}b_{1}+a_{2}b_{2}} である。 したがって a → ⋅ b → = a 1 b 1 + a 2 b 2 {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {b}}=a_{1}b_{1}+a_{2}b_{2}} が得られた。 内積の性質 ― ベクトル a → , b → , c → {\displaystyle {\vec {a}},{\vec {b}},{\vec {c}}} と実数 k {\displaystyle k} に対し以下が成り立つ。 これらはベクトルを成分表示して計算すれば証明できる。 証明 — a → = ( a 1 , a 2 ) , b → = ( b 1 , b 2 ) , c → = ( c 1 , c 2 ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a_{1},a_{2}),{\vec {b}}=(b_{1},b_{2}),{\vec {c}}=(c_{1},c_{2})} とする。 演習問題 A ( a → ) , B ( b → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}}),\,\mathrm {B} ({\vec {b}})} とする。 このとき、線分OAを1:3に分ける点と、線分OBを5:2に分ける点をそれぞれ、A',B'とする。 (1) ベクトル O A ′ → , O B ′ → {\displaystyle {\vec {OA'}},\,{\vec {OB'}}} をベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},\,{\vec {b}}} を用いてあらわせ。 (2) 線分AB'と、BA'の交点 M の位置ベクトルをベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},\,{\vec {b}}} を用いてあらわせ。 ベクトル と、 ベクトル は互いに1次独立な2本のベクトルなので、 これらを用いてあらゆる図形上の点が表されるはずである。 図形上のそれぞれの点は、点Oからの位置ベクトルで表される。 例えば、ベクトル は、点Oから見て と平行な方向のベクトルであり、その大きさが、 であるので、 で表される。 同様に、ベクトル は、点Oから見て と平行な方向のベクトルであり、その大きさが、 であるので、 で表される。 次に、点A'を通過し、線分A'Bに平行な直線を ベクトル と を用いて記述する方法を考える。 ここでは、 この直線上の点は、 ある定数 s {\displaystyle s} を用いて、 で表せることに注目する。 例えば、 のとき、この式が表す点は に等しく、 のとき、 に等しく、いずれも直線 A'B上の点である。 これらに先ほど求めた と、 の値を用いると、 が得られる。 同様に、線分AB'上の点はある定数 t {\displaystyle t} を用いて、 で表される。 ここに先ほど得た値を代入すると、 となる。 このようにそれぞれの直線上の点が s {\displaystyle s} , t {\displaystyle t} を 用いて表された。 次に、これらの式が同じ点を示すように s {\displaystyle s} , t {\displaystyle t} を定める。 そのためには、 , を等しいとおいて、 s {\displaystyle s} , t {\displaystyle t} に関する連立方程式を作り、それを解けばよい。 上の式で の係数を等しいとおくと、 が得られ、 の係数を等しいとおくと、 が得られる。 この式を連立して解くと、 , が得られる。 この式を , のどちらかに代入すると、求める位置ベクトルが得られるのである。 代入すると、求めるベクトルは、 となる。 点 A ( a → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}})} を通り、ベクトル d → ( ≠ 0 → ) {\displaystyle {\vec {d}}\,(\neq {\vec {0}})} に平行な直線を g {\displaystyle g} とする。 g {\displaystyle g} 上の点を P ( p → ) {\displaystyle \mathrm {P} ({\vec {p}})} とすると、 A P → = 0 → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AP} }}={\vec {0}}} または A P → ∥ d → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AP} }}\parallel {\vec {d}}} だから となる実数 t {\displaystyle t} がある。 すなわち、 よって、 これを、直線 g {\displaystyle g} のベクトル方程式(vector equation)といい、 d → {\displaystyle {\vec {d}}} を g {\displaystyle g} の方向ベクトルという。また、 t {\displaystyle t} を媒介変数という。 点Aの座標を ( x 1   ,   y 1 ) {\displaystyle (x_{1}\ ,\ y_{1})} 、 d → = ( a   ,   b ) {\displaystyle {\vec {d}}=(a\ ,\ b)} 、点Pの座標を ( x   ,   y ) {\displaystyle (x\ ,\ y)} とおくと、ベクトル方程式 p → = a → + t d → {\displaystyle {\vec {p}}={\vec {a}}+t{\vec {d}}} は となる。したがって { x = x 1 + a t y = y 1 + b t {\displaystyle {\begin{cases}x=x_{1}+at\\y=y_{1}+bt\end{cases}}} これを直線 g {\displaystyle g} の媒介変数表示という。 演習問題 点A ( 1   ,   2 ) {\displaystyle (1\ ,\ 2)} を通り、 d → = ( 3   ,   5 ) {\displaystyle {\vec {d}}=(3\ ,\ 5)} に平行な直線の方程式を、媒介変数tを用いて表せ。 また、tを消去した式で表せ。 この直線のベクトル方程式は したがって tを消去すると、次のようになる。 2点 A ( a → ) , B ( b → ) {\displaystyle \mathrm {A} ({\vec {a}}),\,\mathrm {B} ({\vec {b}})} を通る直線のベクトル方程式を考える。 直線ABは、点Aを通り、 A B → = b → − a → {\displaystyle {\vec {AB}}={\vec {b}}-{\vec {a}}} を方向ベクトルとする直線と考えられるから、そのベクトル方程式は となる。これは次のように書ける。 演習問題 2点A ( 2   ,   5 ) {\displaystyle (2\ ,\ 5)} ,B ( − 1   ,   3 ) {\displaystyle (-1\ ,\ 3)} を通る直線の方程式を、媒介変数tを用いて表せ。 この直線のベクトル方程式は したがって 点Aを通って、 0 → {\displaystyle {\vec {0}}} でないベクトル、 n → {\displaystyle {\vec {n}}} に垂直な直線をgとする。g上の点をPとすると、 A P → = 0 → {\displaystyle {\vec {AP}}={\vec {0}}} または A P → ⊥ n → {\displaystyle {\vec {AP}}\perp {\vec {n}}} だから である。 点A,Pの位置ベクトルをそれぞれ、 a →   ,   p → {\displaystyle {\vec {a}}\ ,\ {\vec {p}}} とすると、 A P → = p → − a → {\displaystyle {\vec {AP}}={\vec {p}}-{\vec {a}}} だから、(1)は となる。(2)が点Aを通って、 n → {\displaystyle {\vec {n}}} に垂直な直線gのベクトル方程式であり、 n → {\displaystyle {\vec {n}}} をこの直線の法線ベクトル(ほうせんベクトル、normal vector)という。 点Aの座標を ( x 1   ,   y 1 ) {\displaystyle (x_{1}\ ,\ y_{1})} 、 n → = ( a   ,   b ) {\displaystyle {\vec {n}}=(a\ ,\ b)} 、点Pの座標を ( x   ,   y ) {\displaystyle (x\ ,\ y)} とおくと、 p → − a → = ( x − x 1   ,   y − y 1 ) {\displaystyle {\vec {p}}-{\vec {a}}=(x-x_{1}\ ,\ y-y_{1})} だから、(2)は次のようになる。 この方程式は、 − a x 1 − b y 1 = c {\displaystyle -ax_{1}-by_{1}=c} とおくと、 a x + b y + c = 0 {\displaystyle ax+by+c=0} となるから、次のことがいえる。 直線 a x + b y + c = 0 {\displaystyle ax+by+c=0} の法線ベクトルは、 n → = ( a   ,   b ) {\displaystyle {\vec {n}}=(a\ ,\ b)} である。 演習問題 点A ( 2   ,   5 ) {\displaystyle (2\ ,\ 5)} を通り、 n → = ( 4   ,   3 ) {\displaystyle {\vec {n}}=(4\ ,\ 3)} に垂直な直線の方程式を求めよ。 つまり ここまでは、平面上のベクトルについて考えてきたが、ここからは3次元空間上のベクトルについて考える。より一般にベクトルはn次元(ユークリッド)空間上で定義することができるが、このようなものは高校では扱わない。 今までは、平面上の図形をベクトルや数式を用いて表現する方法を学んで来た。 ここでいう2次元とは、平面のことである。平面上の任意の点を指定するには最低でも2以上の実数が必要だからこのように呼ばれている。 もちろん容易に分かる通り、2つ以上の次元を持っている図形も存在する。 例えば、3次元立体の1つである直方体は縦、横、高さの3つの長さを持っているので、3次元図形と呼ばれる。 空間に1つの平面をとり、その上に直交する座標軸 O x   ,   O y {\displaystyle O_{x}\ ,\ O_{y}} をとる。次にOを通りこの平面に垂直な直線 O z {\displaystyle O_{z}} をひき、その直線上で、Oを原点とする座標を考える。 この3直線 O x   ,   O y   ,   O z {\displaystyle O_{x}\ ,\ O_{y}\ ,\ O_{z}} は、どの2つも互いに垂直である。これらを座標軸といい、それぞれx軸、y軸、z軸という。 また、x軸とy軸とで定まる平面をxy平面といい、y軸とz軸とで定まる平面をyz平面といい、z軸とx軸とで定まる平面をzx平面といい、これらを座標平面という。 空間内の点Aに対して、Aを通って各座標平面に平行な3つの平面をつくり、それらがx軸、y軸、z軸と交わる点を A 1   ,   A 2   ,   A 3 {\displaystyle A_{1}\ ,\ A_{2}\ ,\ A_{3}} とし、 A 1   ,   A 2   ,   A 3 {\displaystyle A_{1}\ ,\ A_{2}\ ,\ A_{3}} のそれぞれの軸上での座標を a 1   ,   a 2   ,   a 3 {\displaystyle a_{1}\ ,\ a_{2}\ ,\ a_{3}} とする。 このとき、3つの数の組 を点Aの座標といい、 a 1 {\displaystyle a_{1}} をx座標といい、 a 2 {\displaystyle a_{2}} をy座標といい、 a 3 {\displaystyle a_{3}} をz座標という。 このように座標の定められた空間を座標空間と呼び、点Oを座標空間の原点という。 ここでは、特に3次元空間の図形に注目する。 まずはベクトルを用いる前に3次元空間の空間図形を、数式によって記述する方法を考察する。 2次元空間において、もっとも簡単な図形は直線であり、その式は一般的に で表わされた。 ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} は任意の定数。) ここで x {\displaystyle x} , y {\displaystyle y} は、2次元空間を代表する2つのパラメーターであり、3次元空間を用いたときには、これらは3つの文字で表わされることが期待される。 実際このような式で表わされる図形は、3次元空間でも基本的な図形である。つまり、 が、上の式の類似物として得られる。 ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} , d {\displaystyle d} は任意の定数。) このような図形はどんな図形に対応するだろうか? 実際にはこの図形を特徴づけるのは、後に学ぶ3次元ベクトルを用いるのがもっとも簡単であるので、これは後にまわすことにする。 しかし、ただ1つこの式から分かることは、3次元空間の座標を表わすパラメーター のうちに1つの関係 を与えることで、3次元空間上の図形を指定できるということである。この場合は、 を用いていた。 ベクトルを使わなくても図形的解釈が得られる式として、 が挙げられる。 ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} , r {\displaystyle r} は任意の定数。) この式は、2次元でいうところの の式の類似物である。2次元の場合はこの式は、 中心 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} 半径 r {\displaystyle r} の円に対応していた。 3次元のこの式は、結論をいうと中心 ( a , b , c ) {\displaystyle (a,b,c)} 半径 r {\displaystyle r} の円に対応しているのである。 上の式 を満たすある点 ( x , y , z ) {\displaystyle (x,y,z)} を取り、その点と点 ( a , b , c ) {\displaystyle (a,b,c)} との距離を考える。 空間座標に置ける x {\displaystyle x} 軸、 y {\displaystyle y} 軸、 z {\displaystyle z} 軸はそれぞれ直交しているので、2点の距離は3平方の定理を用いて で与えられる。 しかし、上の式からここで選んだ点 ( x , y , z ) {\displaystyle (x,y,z)} は、条件 を満たしているので、2点の距離は である。 ( r > 0 {\displaystyle r>0} を用いた。) よって、上の式を満たす点は全て点 ( a , b , c ) {\displaystyle (a,b,c)} からの距離が r {\displaystyle r} である点であり、これは中心 ( a , b , c ) {\displaystyle (a,b,c)} 半径 r {\displaystyle r} の円に他ならない。 演習問題 中心 半径 の球の式を求めよ。 に代入することで、 が求められる。 演習問題 がどのような 球に対応するか計算せよ。 このような数式が球に対応するとき、 の係数は必ず等しくなくてはならない。そうでない場合はこの図形は楕円体に対応するのだが、これは指導要領の範囲外である。 ここでは上の式はその条件を満たしている。 ここでは、この式を の形に持って行くことが重要である。 のそれぞれについてこの式を平方完成すると、 が得られる。よって、上の式 は、 中心 、半径 の球に対応する。 次に3次元空間上におけるベクトルを考察する。 2次元空間上ではベクトルは2つの量の組み合わせで表わされた。 これは1つのベクトルはx軸方向に対応する量とy軸方向に対応する量の2つを持っている必要があったからである。 このことから、3次元空間のベクトルは3つの量の組み合わせで書けることが予想される。 特に x {\displaystyle x} 軸方向の成分 a {\displaystyle a} , y {\displaystyle y} 軸方向の成分 b {\displaystyle b} , z {\displaystyle z} 軸方向の成分 c {\displaystyle c} ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} , c {\displaystyle c} は任意の定数。) で表わされるベクトルを、 と書いて表わすことにする。 2次元平面では あるベクトル は、 ( a {\displaystyle a} , b {\displaystyle b} は任意の定数。) の2本のベクトルを用いて、 で表わされた。 3次元空間でもこのような記述法があり、上で用いたベクトル は、 を用いて と書かれたベクトルに対応している。 3次元ベクトルに対しても2次元ベクトルで定めた定義や性質がほぼそのまま成立する。 3次元ベクトルの加法は、それぞれのベクトル要素を独立に足し合わせることによって定義する。 また、それぞれのベクトルの要素が全て等しいベクトルを"ベクトルとして等しい"と表現する。 演習問題 ベクトルの和 を計算せよ。 が得られる。 ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} , b → {\displaystyle {\vec {b}}} 間のベクトルの内積も平面の場合と同様に ( θ {\displaystyle \theta } は、ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} , b → {\displaystyle {\vec {b}}} のなす角。) 分配法則や1次独立の性質もそのまま成り立つ。 ただし、3次元空間の全てのベクトルを張るには、3つの線形独立なベクトルを持って来る必要がある。 このことの証明はおそらく線型代数学などに詳しい。 演習問題 2つのベクトルの内積 を計算せよ。 2次元の場合と同じようにここでもそれぞれの要素は互いに直交する単位ベクトル によって張られている。そのため以前と同じく要素ごとの計算が可能であり、 となる。 もうすこし細かく計算を行なうと、 が得られる。それぞれのベクトルを に従って展開し、 ( i {\displaystyle i} , j {\displaystyle j} は1,2,3のどれか。) を代入することで上の式が計算できるはずである。 しかし、 i {\displaystyle i} と j {\displaystyle j} が等しくないときには が成り立つことから、上の展開した後の9個の項のうちで、6つは に等しい。 また、 i {\displaystyle i} と j {\displaystyle j} が等しいときには が成り立つことから、上の式 の展開は となって確かに要素ごとの計算と一致する。 演習問題 2次元空間のベクトルは2本の1次独立なベクトルがあれば、必ずそれらの線形結合によって計算できるはずである。 ここで、 と を用いて、 を、 の形に書いてみよ。 ( c {\displaystyle c} , d {\displaystyle d} は、何らかの定数。) 2次元のベクトルの係数を求める問題である。 c {\displaystyle c} , d {\displaystyle d} の文字をそのまま用いると、 c {\displaystyle c} , d {\displaystyle d} の満たす条件は つまり となる。これは c {\displaystyle c} , d {\displaystyle d} に関する連立1次方程式で書き換えられる。 これを解くと、 が得られる。 よって、 上の式は と書け、確かに2本の線形独立なベクトルによって他のベクトルが書き表されることが分かった。 このような計算は3次元ベクトルに対しても可能であるが、計算手法として3元1次連立方程式を扱う必要があり、指導要領の範囲外である。実際の計算手法は、線型代数学,物理数学I 線形代数を参照。 この表式を用いて、以前見た の図形的解釈を述べる。 この図形上の任意の点を ( x , y , z ) {\displaystyle (x,y,z)} で表わす。 この点は原点Oに対する位置ベクトルを用いると ( x , y , z ) {\displaystyle (x,y,z)} で与えられる。 便宜のために このベクトルを x → {\displaystyle {\vec {x}}} と書くことにする。 一方、ベクトル a → = ( a , b , c ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a,b,c)} を用いると、上の式はベクトルの内積を用いて a → ⋅ x → = d {\displaystyle {\vec {a}}\cdot {\vec {x}}=d} で与えられる。 つまり、この式で表わされる図形はあるベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} との内積を一定に保つ図形である。 この図形は、実際には a → {\displaystyle {\vec {a}}} に直交する平面で与えられる。 なぜならこのような平面上の点は、必ず平面上のある一点の位置ベクトルに加えて、 ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} に直交するベクトルを加えたもので書くことが出来る。 しかし、 ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} に直交するベクトルと ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} の内積は必ず0であるので、 このような点の集合は ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} と一定の内積を持つのである。 よって元の式 は、 ベクトル a → = ( a , b , c ) {\displaystyle {\vec {a}}=(a,b,c)} に直交する平面に対応することが分かった。 次に d {\displaystyle d} が、図形が表わす平面と、原点との距離に関係があることを示す。 特に、ベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} に比例する位置ベクトルを持つ点 x → {\displaystyle {\vec {x}}} を考える。このときこの点と原点との距離は、 平面 と原点との距離に対応する。 なぜなら、位置ベクトル x → {\displaystyle {\vec {x}}} は、原点から平面 に垂直に下ろした線に対応するからである。 このことから仮に a → {\displaystyle {\vec {a}}} 方向の単位ベクトルを n → {\displaystyle {\vec {n}}} と書き、平面と原点との距離を m {\displaystyle m} と書くと、 x → = m n → {\displaystyle {\vec {x}}=m{\vec {n}}} が得られる。 この式を に代入すると、 が得られる。よって、 d {\displaystyle d} は、 平面と原点の距離 m {\displaystyle m} とベクトル a → {\displaystyle {\vec {a}}} の大きさをかけたものである。 演習問題 特にベクトル を取ると、どのような式が得られて、その式は どのような図形に対応するか。 このとき は、 に対応する。 この式は z {\displaystyle z} 座標が d {\displaystyle d} に対応し、それ以外の x {\displaystyle x} , y {\displaystyle y} 座標を任意に動かした 平面に対応しているが、これは x y {\displaystyle xy} 平面に平行であり、 x y {\displaystyle xy} 平面からの距離が d {\displaystyle d} である平面である。 また、 x y {\displaystyle xy} 平面とベクトル は直交しているので、そのことからもこの式は正しい。 外積は高校数学範囲外で入試には出ないが、外積は数学や物理などに応用でき、便利なのでここで扱う。 三次元ベクトル a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},\,{\vec {b}}} に対し、外積 a → × b → {\displaystyle {\vec {a}}\times {\vec {b}}} を次を満たすものとする。 次に外積の成分表示を考えてみよう。この定義から成分表示を直接導くのは面倒なので、天下り的に成分表示を与えてから、それが外積の定義を満たすことを確認する。 a → = ( a 1 a 2 a 3 ) {\displaystyle {\vec {a}}={\begin{pmatrix}a_{1}\\a_{2}\\a_{3}\end{pmatrix}}} 、 b → = ( b 1 b 2 b 3 ) {\displaystyle {\vec {b}}={\begin{pmatrix}b_{1}\\b_{2}\\b_{3}\end{pmatrix}}} としたとき、 a → × b → = ( a 2 b 3 − a 3 b 2 a 3 b 1 − a 1 b 3 a 1 b 2 − a 2 b 1 ) {\displaystyle {\vec {a}}\times {\vec {b}}={\begin{pmatrix}a_{2}b_{3}-a_{3}b_{2}\\a_{3}b_{1}-a_{1}b_{3}\\a_{1}b_{2}-a_{2}b_{1}\end{pmatrix}}} である。 まずは、 a → × b → {\displaystyle {\vec {a}}\times {\vec {b}}} は a → , b → {\displaystyle {\vec {a}},\,{\vec {b}}} それぞれと垂直であることを確認する。これは、 ( a → × b → ) ⋅ a → = 0 {\displaystyle ({\vec {a}}\times {\vec {b}})\cdot {\vec {a}}=0} と ( a → × b → ) ⋅ b → = 0 {\displaystyle ({\vec {a}}\times {\vec {b}})\cdot {\vec {b}}=0} であることを成分表示を代入すれば証明できる。 次に、 | a → × b → | = | a → | | b → | sin ⁡ θ {\displaystyle |{\vec {a}}\times {\vec {b}}|=|{\vec {a}}||{\vec {b}}|\sin \theta } を証明する。 | a → × b → | 2 = | a → | 2 | b → | 2 sin 2 ⁡ θ = | → a | 2 | b → | 2 ( 1 − cos 2 ⁡ θ ) {\displaystyle |{\vec {a}}\times {\vec {b}}|^{2}=|{\vec {a}}|^{2}|{\vec {b}}|^{2}\sin ^{2}\theta ={\vec {|}}a|^{2}|{\vec {b}}|^{2}(1-\cos ^{2}\theta)} 。ここで、 cos 2 ⁡ θ = ( a → ⋅ b → ) 2 | a → | 2 | b → | 2 {\displaystyle \cos ^{2}\theta ={\frac {({\vec {a}}\cdot {\vec {b}})^{2}}{|{\vec {a}}|^{2}|{\vec {b}}|^{2}}}} を代入し、 | a → × b → | 2 = | → a | 2 | b → | 2 − ( a → ⋅ b → ) 2 {\displaystyle |{\vec {a}}\times {\vec {b}}|^{2}={\vec {|}}a|^{2}|{\vec {b}}|^{2}-({\vec {a}}\cdot {\vec {b}})^{2}} を得る。この式に、成分表示を代入すれば、両辺が等しいことが確認できる。 最後に、フレミングの左手の法則で a → × b → {\displaystyle {\vec {a}}\times {\vec {b}}} は親指の方向であることを確認する。 a → = ( 1 0 0 ) {\displaystyle {\vec {a}}={\begin{pmatrix}1\\0\\0\end{pmatrix}}} 、 b → = ( 0 1 0 ) {\displaystyle {\vec {b}}={\begin{pmatrix}0\\1\\0\end{pmatrix}}} のとき、 a → × b → = ( 0 0 1 ) {\displaystyle {\vec {a}}\times {\vec {b}}={\begin{pmatrix}0\\0\\1\end{pmatrix}}} である。これより、二番目の性質も確認できた。 外積の応用 2つのベクトルに垂直なベクトルを求めたいときなどは、外積の成分表示から計算すれば、面倒な計算をしなくても求められる。 四面体 O A B C {\displaystyle \mathrm {OABC} } の体積は 1 6 | ( O A → × O B → ) ⋅ O C → | {\displaystyle {\frac {1}{6}}|({\vec {\mathrm {OA} }}\times {\vec {\mathrm {OB} }})\cdot {\vec {\mathrm {OC} }}|} である。 実際、 1 6 | ( O A → × O B → ) ⋅ O C → | = 1 3 | 1 2 O A → × O B → | | h | {\displaystyle {\frac {1}{6}}|({\vec {\mathrm {OA} }}\times {\vec {\mathrm {OB} }})\cdot {\vec {\mathrm {OC} }}|={\frac {1}{3}}\left|{\frac {1}{2}}{\vec {\mathrm {OA} }}\times {\vec {\mathrm {OB} }}\right||h|} である。ただし、 h はΔABCを底面としたときの四面体の高さである。 また、物理学のローレンツ力は外積を使うと F → = q v → × B → {\displaystyle {\vec {F}}=q{\vec {v}}\times {\vec {B}}} と簡潔に表せる。 覚え方 図のように要素をかけ合わせる。 複素数とベクトルの理論はそれぞれ独立した理論として教えられているが、歴史的にはハミルトンによって複素数を拡張した四元数が発見され、四元数を元にギブスなどによってベクトルが発見された。 四元数は、 のように、実数と3つの虚数単位i,j,kをもちいて表される数である。 ここで、i,j,k は i^2=-1, j^2=-1, k^2=-1 を満たす数で、i,j,k は互いに異なる。 実数の単位1個に加えて、さらに3つの単位 i,  j,  k をもっているので、合計で4個の単位があるので四元数といわれるわけである。 さて、ハミルトンによる四元数の発見後、さらに研究が進むと、図形や物理学などの問題を解くさいには 2乗して-1になる性質はほとんどの空間・立体(3次元の図形)の問題を解く応用の場合には不要であることが分かり、学校教育の場ではベクトルと複素数を別々に教えるようになったわけである。 そして、四元数の公式のうち、ベクトルでも類似の公式が成り立つ場合には、その四元数の公式がベクトル用に改良されてベクトルの公式として輸入されたので、結果的にハミルトンはベクトルの公式の発見者としても紹介されることになった。 また、四元数は現代では3DCGなどの分野で応用されている。
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放物線(parabola)、楕円(ellipse)、双曲線(hyperbola)をまとめて、2次曲線や円錐曲線という。これらが、2次曲線と呼ばれる理由は、放物線、楕円、双曲線は x , y {\displaystyle x,y} の2次式 F ( x , y ) {\displaystyle F(x,y)} によって F ( x , y ) = 0 {\displaystyle F(x,y)=0} で表すことができ、また x , y {\displaystyle x,y} の2次式 F ( x , y ) {\displaystyle F(x,y)} によって F ( x , y ) = 0 {\displaystyle F(x,y)=0} と表される曲線は放物線、楕円、双曲線、2直線のいずれかになるからである。 円錐曲線と呼ばれる理由は、円錐面を「全ての母線と交わり、底面に平行な平面で切断」したときの断面が円。「全ての母線と交わり、底面に平行でない平面で切断」したときの断面が楕円。「母線に平行な面で切断」したときの断面が放物線。「母線に平行でない平面で切断」したときの断面が双曲線となるからである。 2次曲線は直線や円についで重要な曲線である。 平面上に点 F {\displaystyle \mathrm {F} } と、点 F {\displaystyle \mathrm {F} } を通らない直線 l {\displaystyle l} をとる。このとき、直線 l {\displaystyle l} からの距離と点 F {\displaystyle \mathrm {F} } からの距離が等しい点の軌跡を放物線という。このとき、点 F {\displaystyle \mathrm {F} } を放物線の焦点、直線 l {\displaystyle l} を放物線の準線という。 焦点を F ( p , 0 ) {\displaystyle \mathrm {F} (p,0)} 準線を l : x = − p {\displaystyle l:x=-p} とする放物線の方程式を求める。 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} がこの放物線の点とすると、点 P {\displaystyle \mathrm {P} } と直線 l {\displaystyle l} の距離は x + p {\displaystyle x+p} であり、 P F = ( x − p ) 2 + y 2 {\displaystyle \mathrm {PF} ={\sqrt {(x-p)^{2}+y^{2}}}} である。なので、 ( x + p ) 2 = ( x − p ) 2 + y 2 {\displaystyle (x+p)^{2}=(x-p)^{2}+y^{2}} である。これを整理して、 y 2 = 4 p x {\displaystyle y^{2}=4px} を得る。 ここで、放物線 y 2 = 4 p x {\displaystyle y^{2}=4px} において、 x {\displaystyle x} と y {\displaystyle y} を入れ替えれば y = x 2 4 p {\displaystyle y={\frac {x^{2}}{4p}}} である。ここから中学から学んできた放物線の定義と一致することがわかる。 演習問題 放物線 y = a x 2 ( a ≠ 0 ) {\displaystyle y=ax^{2}\quad (a\neq 0)} の焦点と準線を求めよ。 解答 焦点 ( 0 , 1 4 a ) {\displaystyle \left(0,{\frac {1}{4a}}\right)} 準線 y = − 1 4 a {\displaystyle y=-{\frac {1}{4a}}} 平面上に異なる2点 F , F ′ {\displaystyle \mathrm {F} ,\mathrm {F'} } をとる。 F {\displaystyle \mathrm {F} } との距離と、 F ′ {\displaystyle \mathrm {F'} } との距離の和が一定である点の軌跡を楕円という。このとき、点 F , F ′ {\displaystyle \mathrm {F} ,\mathrm {F'} } を楕円の焦点という。 焦点を F ( c , 0 ) , F ′ ( − c , 0 ) {\displaystyle \mathrm {F} (c,0),\mathrm {F'} (-c,0)} とする。点 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} が楕円上の点であるとき、 P F + P F ′ = 2 a {\displaystyle \mathrm {PF} +\mathrm {PF'} =2a} である。 P F = 2 a − P F ′ {\displaystyle \mathrm {PF} =2a-\mathrm {PF'} } より ( x − c ) 2 + y 2 = 2 a − ( x + c ) 2 + y 2 {\displaystyle {\sqrt {(x-c)^{2}+y^{2}}}=2a-{\sqrt {(x+c)^{2}+y^{2}}}} 両辺を2乗して整理すると a ( x + c ) 2 + y 2 = a 2 + c x {\displaystyle a{\sqrt {(x+c)^{2}+y^{2}}}=a^{2}+cx} 再度、両辺を2乗して整理すると ( a 2 − c 2 ) x 2 + a 2 y 2 = a 2 ( a 2 − c 2 ) {\displaystyle (a^{2}-c^{2})x^{2}+a^{2}y^{2}=a^{2}(a^{2}-c^{2})} ここで a 2 − c 2 = b 2 ( b > 0 ) {\displaystyle a^{2}-c^{2}=b^{2}\quad (b>0)} と置き換えると b 2 x 2 + a 2 y 2 = a 2 b 2 {\displaystyle b^{2}x^{2}+a^{2}y^{2}=a^{2}b^{2}} 両辺を a 2 b 2 {\displaystyle a^{2}b^{2}} で割ると x 2 a 2 + y 2 b 2 = 1 ( a > b > 0 ) {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}+{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1\quad (a>b>0)} が導かれる。 x軸との交点は ( a , 0 ) {\displaystyle (a,0)} 、 ( − a , 0 ) {\displaystyle (-a,0)} 、y軸との交点は ( 0 , b ) {\displaystyle (0,b)} 、 ( 0 , − b ) {\displaystyle (0,-b)} となる。 a > b > 0 {\displaystyle a>b>0} のとき、 2 a {\displaystyle 2a} は長軸の長さ(長径)、 2 b {\displaystyle 2b} は短軸の長さ(短径)となり、xy平面上にグラフを書くと横長の楕円になる。また焦点は長径であるx軸上にありその座標は ( − a 2 − b 2 , 0 ) , ( a 2 − b 2 , 0 ) {\displaystyle (-{\sqrt {a^{2}-b^{2}}},0),({\sqrt {a^{2}-b^{2}}},0)} となる。 逆に、 b > a > 0 {\displaystyle b>a>0} のとき、 2 b {\displaystyle 2b} は長軸の長さ(長径)、 2 a {\displaystyle 2a} は短軸の長さ(短径)となり、xy平面上にグラフを書くと縦長の楕円になる。また焦点は長径であるy軸上にありその座標は ( 0 , b 2 − a 2 ) , ( 0 , − b 2 − a 2 ) {\displaystyle (0,{\sqrt {b^{2}-a^{2}}}),(0,-{\sqrt {b^{2}-a^{2}}})} となる。 2つの焦点が近いほど楕円は円に近づき、2つの焦点が重なったとき a = b {\displaystyle a=b} となり、楕円は円になる。 ちなみに、恒星の周りを公転する惑星の軌道は、恒星を焦点とする楕円になる。 平面上に異なる2点 F , F ′ {\displaystyle \mathrm {F} ,\mathrm {F'} } をとる。 F {\displaystyle \mathrm {F} } との距離と、 F ′ {\displaystyle \mathrm {F'} } との距離の差が一定である点の軌跡を双曲線といい、2点 F , F ′ {\displaystyle \mathrm {F} ,\mathrm {F'} } を双曲線の焦点という。 焦点を F ( c , 0 ) , F ′ ( − c , 0 ) {\displaystyle \mathrm {F} (c,0),\mathrm {F'} (-c,0)} とする。点 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} が双曲線上の点であるとき、 | P F − P F ′ | = 2 a {\displaystyle |\mathrm {PF} -\mathrm {PF'} |=2a} である。 P F = ± 2 a + P F ′ {\displaystyle \mathrm {PF} =\pm 2a+\mathrm {PF'} } より ( x − c ) 2 + y 2 = ± 2 a + ( x + c ) 2 + y 2 {\displaystyle {\sqrt {(x-c)^{2}+y^{2}}}=\pm 2a+{\sqrt {(x+c)^{2}+y^{2}}}} 両辺を2乗して整理すると ± a ( x + c ) 2 + y 2 = − a 2 − c x {\displaystyle \pm a{\sqrt {(x+c)^{2}+y^{2}}}=-a^{2}-cx} 再度両辺を2乗して整理すると ( c 2 − a 2 ) x 2 − a 2 y 2 = a 2 ( c 2 − a 2 ) {\displaystyle (c^{2}-a^{2})x^{2}-a^{2}y^{2}=a^{2}(c^{2}-a^{2})} ここで、 b 2 = c 2 − a 2 ( b > 0 ) {\displaystyle b^{2}=c^{2}-a^{2}\quad (b>0)} とおき、両辺を a 2 b 2 {\displaystyle a^{2}b^{2}} で割れば x 2 a 2 − y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}-{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} である。 双曲線が x 2 a 2 − y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}-{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} で表されるとき、焦点の座標は ( a 2 + b 2 , 0 ) , ( − a 2 + b 2 , 0 ) {\displaystyle ({\sqrt {a^{2}+b^{2}}},0),(-{\sqrt {a^{2}+b^{2}}},0)} となる。 逆に、双曲線が x 2 a 2 − y 2 b 2 = − 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}-{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=-1} で表されるとき、焦点の座標は ( 0 , a 2 + b 2 ) , ( 0 , − a 2 + b 2 ) {\displaystyle (0,{\sqrt {a^{2}+b^{2}}}),(0,-{\sqrt {a^{2}+b^{2}}})} となる。 x = f ( t ) , y = g ( t ) {\displaystyle x=f(t),y=g(t)} で表される点 P ( x , y ) {\displaystyle \mathrm {P} (x,y)} の集合はある曲線を描く。このような曲線の表示を媒介変数表示という。 媒介変数表示では F ( x , y ) = 0 {\displaystyle F(x,y)=0} の形では表しにくい曲線も簡潔に表すことができる。例えば、 x = t - sin t, y = 1 - cos t である。これはサイクロイドと呼ばれる。 x = f ( t ) , y = g ( t ) {\displaystyle x=f(t),y=g(t)} と媒介変数表示されている曲線を x {\displaystyle x} 方向に p {\displaystyle p} 、 y {\displaystyle y} 方向に q {\displaystyle q} だけだけ平行移動した曲線は x = f ( t ) + p , y = g ( t ) + q {\displaystyle x=f(t)+p,y=g(t)+q} と表せる。 x = p t 2 , y = 2 p t p ≠ 0 {\displaystyle x=pt^{2},y=2pt\quad p\neq 0} で表される曲線は t {\displaystyle t} を消去すると y 2 = 4 p x {\displaystyle y^{2}=4px} となるので放物線である。 円 x 2 + y 2 = r 2 {\displaystyle x^{2}+y^{2}=r^{2}} を媒介変数表示すると x = r cos ⁡ θ , y = r sin ⁡ θ {\displaystyle x=r\cos \theta ,y=r\sin \theta } となる。このことから、三角関数のことを円関数と呼ぶ場合もある。 楕円 x 2 a 2 + y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}+{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} を媒介変数表示すると x = b cos ⁡ θ . y = a sin ⁡ θ {\displaystyle x=b\cos \theta .y=a\sin \theta } となる。 双曲線 x 2 a 2 − y 2 b 2 = 1 {\displaystyle {\frac {x^{2}}{a^{2}}}-{\frac {y^{2}}{b^{2}}}=1} の媒介変数表示は x = a cos ⁡ θ , y = b tan ⁡ θ {\displaystyle x={\frac {a}{\cos \theta }},y=b\tan \theta } となる。 曲線 x = f ( t ) , y = g ( t ) {\displaystyle x=f(t),y=g(t)} を x {\displaystyle x} 軸方向に p {\displaystyle p} 、 y {\displaystyle y} 軸方向に q {\displaystyle q} だけ並行移動した曲線は x = f ( t ) + p , y = g ( t ) + q {\displaystyle x=f(t)+p,y=g(t)+q} と書き表される。 なお、(複素数 Z {\displaystyle Z} の方程式) = x + y i {\displaystyle =x+yi} の形で表された式を Z {\displaystyle Z} の極形式を用いて解くと二次曲線の媒介変数表示が現れる場合がある。 これまでの学習では、 x {\displaystyle x} 軸と y {\displaystyle y} 軸を使った座標平面(直交座標という) ( x , y ) {\displaystyle (x,y)} 使うことで、座標平面上の1点を定めた。 ここで学ぶ極座標では、 ( r , θ ) {\displaystyle (r,\theta)} の文字で与えられる式を使って曲線を表すことを考える。 ある一点Oと半直線OXを定めると、平面上の点Pは、点Oからの距離rと、 ∠ {\displaystyle \angle } XOPの角 θ ( 0 ≤ θ < 2 π ) {\displaystyle \theta \,(0\leq \theta <2\pi)} の大きさで一意に定まる。 極座標の定義 原点Oと軸OXを定める。平面上の点Pについて、OP間の距離をr、 ∠ {\displaystyle \angle } XOPの大きさをθで表した座標 ( r , θ ) {\displaystyle (r,\theta)} を極座標という。 このとき、Oを極、OXを始線という。 また、 θ {\displaystyle \theta } を偏角という。 また、直交座標と極座標の関係は次のようになる。 直交座標と極座標の関係 { r = x 2 + y 2 cos ⁡ θ = x r sin ⁡ θ = y r { x = r cos ⁡ θ y = r sin ⁡ θ {\displaystyle {\begin{cases}r={\sqrt {x^{2}+y^{2}}}\\\cos \theta =\displaystyle {\frac {x}{r}}\\\sin \theta =\displaystyle {\frac {y}{r}}\end{cases}}\,\,{\begin{cases}x=r\cos \theta \\y=r\sin \theta \end{cases}}} これは直感的には複素数平面上の点の絶対値と偏角を定めたときに似ている。 r = f ( θ ) {\displaystyle r=f(\theta)} の形で与えられる式を極方程式(きょくほうていしき)という。極方程式はrとθについての関数であるが、これらはxとyへの変換が可能であり、よってxy平面上に曲線をかいてもよいことになる。 さまざまな極方程式 (1)中心O,半径aの円 r = a {\displaystyle r=a} (2)中心 ( r 0 , θ 0 ) {\displaystyle (r_{0},{\theta }_{0})} ,半径aの円 r 2 − 2 r r 0 cos ⁡ θ 0 + r 0 2 = a 2 {\displaystyle r^{2}-2rr_{0}\cos {\theta }_{0}+{r_{0}}^{2}=a^{2}} (3)極Oを通り、始線とαの角をなす直線  θ = α {\displaystyle \theta =\alpha } (4)点 ( a , α ) {\displaystyle (a,\alpha)} を通り、OAに垂直な直線  r cos ⁡ ( θ − α ) = a {\displaystyle r\cos(\theta -\alpha)=a} (例)円 ( x − 1 ) 2 + y 2 = 1 {\displaystyle (x-1)^{2}+y^{2}=1} を極方程式で表す. x = r cos ⁡ θ , y = r sin ⁡ θ {\displaystyle x=r\cos \theta ,y=r\sin \theta } を代入して整理すると r ( r − 2 cos ⁡ θ ) = 0 {\displaystyle r(r-2\cos \theta)=0} r = 0 {\displaystyle r=0} は極を表すから  r = 2 cos ⁡ θ {\displaystyle r=2\cos \theta } これまでに、2次曲線、媒介変数表示、極方程式などの曲線とその性質について述べてきた。以下では、これらを利用してさまざまな曲線の式を示す。一般に概形をつかむのは困難なため、コンピュータを使用する。
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虚数単位 i {\displaystyle i} を i 2 = − 1 {\displaystyle i^{2}=-1} を満たす数とする。2つの実数 a , b {\displaystyle a,b} によって a + b i {\displaystyle a+bi} と表される数を複素数という。 座標平面上の点 ( a , b ) {\displaystyle (a,b)} と複素数 a + b i {\displaystyle a+bi} を同一視することで、複素数を座標平面上の点と考えることができる。この平面を複素数平面(complex plane)という。[1] 複素数平面において、 x {\displaystyle x} 軸を実軸(real part)、 y {\displaystyle y} 軸を虚軸(imaginary part)という。 複素数平面上で複素数 z {\displaystyle z} に対応する点 A {\displaystyle \mathrm {A} } のことを A ( z ) {\displaystyle \mathrm {A} (z)} と表現することもある。 複素数 z = a + b i {\displaystyle z=a+bi} について複素数 z ¯ = a − b i {\displaystyle {\bar {z}}=a-bi} を z {\displaystyle z} の共役複素数といい、 z ¯ {\displaystyle {\bar {z}}} で表す。 複素数 z {\displaystyle z} と複素数 − z {\displaystyle -z} は原点に対して対称であり、複素数 z {\displaystyle z} と複素数 z ¯ {\displaystyle {\bar {z}}} は実軸に対して対称である。 複素数平面において、複素数 z = a + b i {\displaystyle z=a+bi} から原点までの距離を絶対値といい | z | {\displaystyle |z|} で表す。三平方の定理より | z | = a 2 + b 2 {\displaystyle |z|={\sqrt {a^{2}+b^{2}}}} である。 z z ¯ = ( a + b i ) ( a − b i ) = a 2 + b 2 = | z | 2 {\displaystyle z{\bar {z}}=(a+bi)(a-bi)=a^{2}+b^{2}=|z|^{2}} である。 上記のように、複素数平面では、複素数の実部と虚部をそれぞれ平面上の点の直交座標に対応させている。ところで、平面上の点の位置の表し方として、直交座標の他に極座標があった。点の位置を極座標で表すことに対応する複素数の表し方を、極形式という。直交座標と極座標は で変換することができるのであった。つまり、極形式とは次のような形の複素数の表現である。 ここで、rを複素数a+biの絶対値、θを複素数a+biの偏角といい、 θ = arg ⁡ z {\displaystyle \theta =\arg z} で表す。 r = a 2 + b 2 = | z | {\displaystyle r={\sqrt {a^{2}+b^{2}}}=|z|} である。θは原点と z {\displaystyle z} 、 a {\displaystyle a} を頂点とする三角形の原点の角度を表している。 極形式で複素数を表すと、複素数の積が次のように簡単に計算できる。 z 1 = r 1 ( cos ⁡ θ 1 + i sin ⁡ θ 1 ) {\displaystyle z_{1}=r_{1}(\cos \theta _{1}+i\sin \theta _{1})} , z 2 = r 2 ( cos ⁡ θ 2 + i sin ⁡ θ 2 ) {\displaystyle z_{2}=r_{2}(\cos \theta _{2}+i\sin \theta _{2})} とすると、 整数 n {\displaystyle n} に対し、複素数 cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ {\displaystyle \cos \theta +i\sin \theta } の n {\displaystyle n} 乗は、 となることが知られている。これを ド・モアブルの定理 という。 これを証明しよう。 まず、 n ≥ 0 {\displaystyle n\geq 0} の場合を数学的帰納法で証明する。 n = 0 {\displaystyle n=0} のとき、 である。 n ≥ 1 {\displaystyle n\geq 1} とし、 n − 1 {\displaystyle n-1} のとき が成り立つと仮定すると n ≥ 1 {\displaystyle n\geq 1} のとき、 ( cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ ) − n = { ( cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ ) − 1 } n = { cos ⁡ ( − θ ) + i sin ⁡ ( − θ ) } n = cos ⁡ ( − n θ ) + i sin ⁡ ( − n θ ) {\displaystyle {\begin{aligned}(\cos \theta +i\sin \theta)^{-n}&=\{(\cos \theta +i\sin \theta)^{-1}\}^{n}\\&=\{\cos(-\theta)+i\sin(-\theta)\}^{n}\\&=\cos(-n\theta)+i\sin(-n\theta)\end{aligned}}} したがって、 n {\displaystyle n} が整数のときド・モアブルの定理が成り立つことが証明できた。 ド・モアブルの定理を用いて、 z {\displaystyle z} についての n {\displaystyle n} 次方程式 の複素数解をすべて求めてみよう。まず、aが正の実数のときを考える。 z = r ( cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ ) {\displaystyle z=r(\cos \theta +i\sin \theta)} と極形式で表すとき、ド・モアブルの定理より z n = r n ( cos ⁡ n θ + i sin ⁡ n θ ) {\displaystyle z^{n}=r^{n}(\cos n\theta +i\sin n\theta)} である。正の実数aの絶対値はa、偏角は0であることに注意すると、 z n = a {\displaystyle z^{n}=a} を満たすとき、 でなければならないことがわかる。ただし k {\displaystyle k} は整数である。rが正の実数であることに注意してこの式を解くと、 であるから、整数kを用いて と表される数が複素数解のすべてである。 一般の複素数 α {\displaystyle \alpha } に対して、zについてのn次方程式 を考えると、まったく同様の計算により解は整数kを用いて と表される。 偏角が 2 π {\displaystyle 2\pi } の整数倍ずれるだけの複素数は同じ複素数であることに注意すると、いずれの場合も異なる解はちょうどn個存在することがわかる。そのn個の解を複素数平面上で考えると、原点を中心とする正n角形を描くことが確かめられる。 α {\displaystyle \alpha } を複素数、 r {\displaystyle r} を正の実数とする。 方程式 | z − α | = r {\displaystyle |z-\alpha |=r} を満たす複素数 z {\displaystyle z} の軌跡は、 α {\displaystyle \alpha } を中心とし、 r {\displaystyle r} を半径とする円である。[2] α , β {\displaystyle \alpha ,\beta } を複素数とする、方程式 | z − α | = | z − β | {\displaystyle |z-\alpha |=|z-\beta |} を満たす複素数 z {\displaystyle z} の軌跡は、 α , β {\displaystyle \alpha ,\beta } を通る線分の二等分線である。 複素数平面上の点 A ( α ) , A ′ ( α ′ ) , B ( β ) , B ′ ( β ′ ) {\displaystyle \mathrm {A} (\alpha),\mathrm {A'} (\alpha '),\mathrm {B} (\beta),\mathrm {B'} (\beta ')} に対し、 arg ⁡ α ′ − α β ′ − β {\displaystyle \arg {\frac {\alpha '-\alpha }{\beta '-\beta }}} はベクトル A A ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AA} '}}} とベクトル B B ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {BB} '}}} のなす角である。特に、 α ′ − α β ′ − β {\displaystyle {\frac {\alpha '-\alpha }{\beta '-\beta }}} が実数のときベクトル A A ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AA} '}}} とベクトル B B ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {BB} '}}} は平行。 α ′ − α β ′ − β {\displaystyle {\frac {\alpha '-\alpha }{\beta '-\beta }}} が純虚数のときはベクトル A A ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {AA} '}}} とベクトル B B ′ → {\displaystyle {\vec {\mathrm {BB} '}}} は垂直である。 複素数 z {\displaystyle z} に複素数 cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ {\displaystyle \cos \theta +i\sin \theta } をかけた複素数 ( cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ ) z {\displaystyle (\cos \theta +i\sin \theta)z} は、複素数 z {\displaystyle z} を原点を中心に θ {\displaystyle \theta } だけ回転した点を表す。 一般に、複素数 z {\displaystyle z} を複素数 α {\displaystyle \alpha } を中心に θ {\displaystyle \theta } だけ回転した点 z ′ {\displaystyle z'} は、 z ′ = ( z − α ) ( cos ⁡ θ + i sin ⁡ θ ) + α {\displaystyle z'=(z-\alpha)(\cos \theta +i\sin \theta)+\alpha } である。
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本項は高等学校数学Cの「数学的な表現の工夫」の解説です。
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高等学校倫理>はじめに>倫理を学ぶ目的 現在、日本の高等学校では公民科目の高等学校現代社会または高等学校政治経済・高等学校倫理が必修科目として学習指導要領により定められています。 現代社会と選択余地があるものの、必修科目であることは高等学校で倫理を学ぶことが強く薦められていることに他なりません。 なぜ、私たちは倫理を学ぶことを促されているのでしょうか。この学習指導要領には倫理の指導者、高校教諭にこのような目標を設定しています。 生きるとは、どういうことなのだろうか。また、どう生きればよいのか。「私」や「他人」とは何であるのか。そして、どのような「私」になればいいのか。どのように「他人」と接すればよいのか。 このような疑問は青年期に差しかかった私たちが直面するであろう解決しがたい問題となります。その解決の糸口としてこの倫理が示されているのです。 このような疑問は、現代に生きる私たちだけに限ったことではなく、遠い昔の人たちも同じように経験したことであると思われます。その中でもこの疑問を解決することに一生の多くを割いたであろう先哲、過去の偉人たちが残した言葉は現代にも生きています。その言葉を頼りに私たちそれぞれの疑問を解決する糸口を探し出そう。これが学習指導要領の定める倫理なのです。 指導者に示された目標であると同時にこれは私たち一人一人にも投げかけられた目標でもあるのです。先哲の言葉、思想、作品に触れることで彼らの一生をかけた悩み、苦しみ、情熱などが垣間見えることでしょう。彼らの思いを道しるべにして、倫理の学習を始めてみませんか。
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人間とは何でしょうか。古代から人類はこの問いを深く考え、様々な答えが出てきました。遺伝子科学の発展から生物としての「ヒト」について詳しく分かるようになっても、人間とは何かについての議論は続いています。また、青年期の私達も他の人と〈私〉がどのように違うのかは、人間とは何かを考える上で大切です。先人達の考え方を手掛かりに、このような基本的な問題を自分で調べてみましょう。 人間は他の動物や物質と違います。様々な原子から人間の身体を作っており、物質と変わりません。遺伝情報(生命の設計図)から、生命の誕生から死ぬまで人間の身体を保ちます。これは、全ての生物(植物・動物・菌類)に当てはまります。人間は動物の中で霊長類に分類され、ゴリラやチンパンジーと並んでヒト科に分類されます。チンパンジーと人間は98%以上の遺伝子を分け合っています。 人間は日常生活の中で「人間とは何か」をあまり考えようとしません。自分以外の人間(他の人)の関係で何かあったら、人間について深く考えるようになります。 コミュニケーションに問題ある人を除きますが、普通の私達は他の人と関わっているため、とても心配したり不安に感じたりします。他の人と比べつつ社会の中で自分がどのように生きていくのかから、人間関係(家族・友人・恋人など)・学校の個人成績・将来の進路も不安になります。自分の容姿に自信がなかったり、スポーツが苦手だったりすると、自分が悪く感じてしまいます。これは他の人に気に入られたい気持ちと関係しているかもしれません。 これからの人生をどのように生きていけば、意味をもつようになりますか?人間らしく生きるとはどういう意味ですか? 「人間性」「人間らしさ」とは、人間だけが生まれながら持っている性質をいいます。 もちろん、人間は失敗したり、忘れたり、他の人に嘘をついたり、他の人を傷つけたりしてしまいます。一方、人間は動物のようにいきなり行動しません。私達は相手の優しい行為を見て深く感動し、自分も同じように行動しようとします。このように、「人間性」「人間らしさ」はこれからの人生で目指さなければなりません。 「人間らしさとはいったい何か」を考えるのは簡単ではありません。先程述べたように、私達はもっと人間らしくなろうと努力しなければなりませんが、具体的な目標をすぐに答えられる人はあまりいません。 しかし、青年期の私達はそれを知らなければ、社会の中で人間として生きていけません。私達は社会の中で自分の可能性を引き出すために必要な知識や品性を身に付けていきましょう。また、社会の中で礼儀正しく振る舞うのも大切です。そのためには、この問題について考え、自分なりの答えを出さなければなりません。 簡単な問いではなくても、私達はそのための手がかりを知っています。古くから、東洋も西洋も様々な人間がこの問いについて考え、その答えを見つけようとしました。 「倫理」は、「人間らしさとは何か」を問いかけ、その疑問の過去を振り返り、そこから結論を導き出します。言い換えると、「人間性」の問題が倫理の出発点になっています。
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古代ギリシア人は当初、古代エジプト文明の影響を受けて文化を発達させてきた。やがて、古代ギリシア人は独自の文化を作り上げ、建築や彫刻などの美術の世界にすぐれた創造力を発揮しただけでなく、今なお読み次がれる文学を生み出し、哲学を生み出した。また、ポリス(都市国家)という共同体の中で民主的な社会制度を作り上げていった。 ギリシア文化がその後の西洋思想や様々な学問に与えた影響は計り知れない。特に理性的にものごとを考察しようとする合理的精神や人間のあるべき姿を追求する理想主義の生き方は古代ギリシアが後世に伝えたすぐれた遺産である。 古代ギリシアの文化を生み出し、育んだのがポリスの生活である。それぞれのポリスには国家の守護神を祭る神殿のほか、アゴラ(公共広場)や野外劇場などがあり、市民たちはそこでの生活を通じて所属するポリスへの愛着や他のポリスへの競争心を育てていった。 ポリスごとに政治体制などの違いがあり、絶えずポリス間の抗争はあったが、言語・宗教・デルフィの神託・オリンピックの元になったオリンピアの祭典などによって、一民族としての意識は持ち続けていた。また、古代ギリシア社会は多数の奴隷による労働によって支えられた奴隷制社会であり、市民だけが自由であった。市民たちにとっては、労働とは奴隷のすることとみなされた。市民は政治に参加したり、軍務に着いたり、学問や芸術についてアゴラで対話したりすることの方が大切だとされた。このようなポリスでの生活と文化がその後のギリシア哲学の形成に大きな影響を与えることになる。 ギリシアで哲学が生まれたのは紀元前6世紀ごろである。人々は「人間とは何か」「世界はどうしてできているのか」といったことを考えるようになった。はじめ、人々はこれらを神々の働きを中心とした神話(ミュトス)によって説明しようとした(神話的世界観)。しかし、古代ギリシアの植民都市であったミレトスを中心として、自然を合理的に説明することで、世界や人間存在などの万物の根源(アルケー)について探求する動きが生まれた。そこで重視されたのが、人間固有の能力である理性(ロゴス、logos)に基づいた合理的な考え方である。 そうした中、エジプトで数学を学んだタレスは「万物の根源は水である」と主張し、「水」によって自然界の生成変化を説明しようとした。タレスによる説明の特徴は、ある一つのものを基準としてとらえること(一元論)、経験・観察に基づいていること、世界を感覚可能な自然物によって説明しようとしたことにある。 タレス以降、さまざまな哲学者があらわれ、タレスとは異なるアルケーを主張した。たとえばヘラクレイトスは世界を動的にとらえたため、「万物は流転する」ととなえ、アルケーを「火」とした。 また、ピタゴラスは数学の比例などに注目し、アルケーは「数」であるとした。ピタゴラスは数学上の発見も多い。 デモクリトスはアルケーを分割不可能な「原子(アトム、アトモン)」であるとした。 このような哲学者たちが、ギリシアおよび周辺のイタリアやエーゲ海東岸の小アジアなどの植民都市に登場し、世界や人間についての自由で大胆な問いを発した。「哲学」はこのように、われわれをとりまく自然界の根源をさぐるいとなみ(自然哲学)として出発したのだ。 彼らの著作は長い歴史の中で様々な不運が積み重なって、現代ではまとまったものとして残ってはいない。しかし、その後の西洋哲学の基礎を作り上げたという事実に変わりはない。また、ピタゴラスやデモクリトスなどは数学や自然科学にも多大な影響を与え、近代科学の発展を準備することになった。 ピタゴラスは(直角三角形の)「三平方の定理」の発見者でもあるとされる。海外では、直角三角形のこの定理は「ピタゴラスの定理」(に相当する訳語)と言われるのが普通である。ピタゴラスのほかタレスも、幾何学の研究をしていた。このように古代ギリシアでは、数学が重視されていた。 歴史学では一般に、古代ギリシアでこのように数学が論理思考の手段として尊重されるようになった背景として、半島国家であるギリシアは異民族(地中海周辺の異民族)との貿易などのために世界共通の知識土台が必要となったこと、統一された「ギリシア」という国家が存在せず、ポリスごとに文化や社会制度が異なっていたことがあげられる。どこでも共通に必要とされることの多い計算法や作図手法などが、論理的な説明の手段として尊重されるようになっていき数学として論理的に体系化されただろう、と考える通説が、歴史学などではよく言われる。そして、数学と同様に、土などの物質や風などの自然現象も、民族にかかわらず共通であろう。このような背景のもと、自然哲学が古代ギリシアで盛んになっていったと思われる。 当時、エジプトなどギリシア以外の外国でも計算術や作図法はあったが、しかし、それら外国の計算法・作図法では、ギリシアほど論理的な厳密化はなされなかったようだ。そのため、論理的な証明を重んじる数学の発祥の有力な地として、古代ギリシアが発祥地だろうと考えられている。ギリシアで数学が論理的に整備された背景として、民主主義が言われる。民主制では、自らの意見を的確かつ誰でもわかるように説明することが求められたため論理学・数学が発展したのだろうと考えられている。 しかし、古代ギリシアの自然哲学は、自然の観察と経験を元にした考察が重視された反面、実験による検証法は確立していなかった。こうした制限があったため、後述するように、弁論をもてあそぶソフィストの流行を迎えることになる。 紀元前5世紀ごろになると、古代ギリシア社会がさらに発展し、特にアテネにて民主制が成立すると、人々の関心は自然から人間や社会へと移っていった。そうした中で活躍したのがソフィストとよばれる人々である。彼らは数学や自然哲学、政治、法律などを修め、市民たちに様々な学問を教えるようになった。かれらはポリスからポリスへと渡り歩いていたため、法律や道徳がポリスごとにちがうことをよく知っており、善悪や正邪の基準も決して絶対的ではないと論じた。特にプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」という言葉を残した。物事の真偽をはかるものさし(尺度)は絶対的な何かではなく、ひとりひとりの人間の考え方や感じ方にあるというのである(人間中心主義)。 特にかれらが重視したのが弁論術である。ソフィストは人々を説得し、自分の主張を伝えるための方法を発達させていった。特にアテネのような民主政のポリスでは、民会や法廷で自分の考えを的確に伝え、説得する技術は非常に重要だったからである。しかし、ソフィストたちの議論はやがてわざと論理を誤用する詭弁を用いたり、巧妙な説得の技術を用いて人々の注目を集めるだけのものとなった。もともとソフィストたちには「真理とは何か」と問う気持ちは強くなかったのが原因である。 かれらの新しい思想は古いしきたりや権威から自由なものの考え方を広めるのに貢献した。その一方で、普遍的・客観的な真理を追究しようという姿勢は軽視された。 タレスは「万物の根源は水である」と主張した。エンペドクレスは「万物の根源は、火、水、空気、土の4つが万物の構成要素である」とした。もちろん現代の我々からしてみれば、この主張は化学的に間違っている事を知っている。また、デモクリトスは「万物の根源は原子(アトム)だ」と主張した。しかし、デモクリトスのいう「原子」は理科(化学)で習う「原子」とは大きく異なる。 では、どうして、古代ギリシアの自然哲学者たちについて学ぶのだろうか。「大昔はいまほど科学が発達してなかった」ことを確認するためだろうか。それならば、わざわざ彼らの考えたことを見るまでもないだろう。 古代ギリシアのあらゆる学問をまとめたアリストテレスによれば、「哲学する」ということは、この世界のありように驚きをもって接し、それが「何であるのか」「何ゆえか」というものごとの原理・原因・根拠への問いを行い、それを根気強く探求する営みだという。このことから言えることは、古代ギリシアの自然哲学者が何を考えたのかについて知ることは重要ではなく、どのように考えたのかが重要だということである。彼らは自然界の営みを「当たり前のこと」とせず、神話による説明にも止まらず、自然を観察することによって自然を理解しようとした。これはこの世界がどのようなものであるのかを探り、世界観を確立する試みの例である。それは神の意思や運命といった自然を越えたものから自由になろうとする試みでもあり、究極的には自分はどう生きるのかという問いかけにもつながっていく。 このことは、あとでソクラテス、プラトン、アリストテレスやルネサンス以降の思想家たちについて見ていくときにも思い起こしてほしい。
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紀元前469年ごろ生~紀元前399年没。古代ギリシャのポリスの一つであるアテネで生まれた。父は石工で母は助産師であったと伝えられる。ソクラテスの生きた時代はアテネの黄金期と没落の時代であり、彼もw:ペロポネソス戦争にも従軍した。アテネがペロポネソス戦争に敗北したことをきっかけとしてw:衆愚政治におちいる中、ポリスの市民に正しい生き方を説いた。そのため、ソクラテスは倫理学の創始者とされる。 しかし、ソクラテスの活動は少なくない人々の反感を買う。しかも、民主政治をめぐる対立に巻き込まれ、ソクラテスは「国家の神々を認めず、青年を堕落させた」と告発されて公開裁判にかけられた。そこで妥協しなかったソクラテスには死刑判決が出された。弟子たちや友人が逃亡を勧めるが、それを拒否して毒杯による死刑を受け入れた。 彼は生涯著作を書くことはなかった。彼の言行は弟子であるw:クセノポンやプラトンによって伝えられた。特にプラトンの『饗宴』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にて、ソクラテスの思想がよく伝えられている。 ソクラテスの友人がw:デルフォイのアポロン神殿に出向き、「ソクラテスよりも知恵のあるものはいるか」と問うた。それに対しての神託は「ソクラテスよりも賢い者はいない」というものだった。これに、ソクラテスは驚いた。なぜなら、彼は自分がそれほど知恵のある人物だとは思っていなかったからだった。 彼は神託の真意を求めて、賢者・知者と言われる各地の政治家や思想家たちを訪ねた。そして、人間にとって大切なことなどについて問うた。だが、彼を満足させるような答えを述べられたものは一人もいなかった。そこでソクラテスが気づいたのは、人間が生きるのに必要な「善」や「美」などについてだれも知らないということであった。 むしろ、世の中で賢者とか知者と呼ばれる人は知らないことに気付かず、知っていると思い込んでいるにすぎない。しかし、ソクラテスは自分が知らないと思っている。つまり、自らの無知を自覚している(無知の知)。 また、アポロン神殿には「汝自身を知れ」という格言が刻まれていた。これは本来、不死の神に対して、いつかは死ぬ人間が傲慢に陥ることなく、自らの分をわきまえるよううながすものであった。しかし、ソクラテスはこの言葉を自らへの神託と結びつけ、自らの無知の自覚を出発点として、善く美しい人の在り方について探求しようとした。 ソクラテスが真実の知の探究の方法としたのが問答法である。また、問答にあたって、ソクラテスは自らが無知であるかのようにふるまい、そこから相手の意見の矛盾点を導き出し、相手の無知を暴いた。この方法をエイロネイア(皮肉)という。この方法は相手を論破したりからかうのではない。無知の自覚をうながすことによって、相手の思考を相手自身に吟味させる方法である。 ソクラテスは知を直接教え込むことは出来ないと考えていた。そのため、彼はあくまで問答によって真理にたどり着くための手助けしかできないと考えていた。そのため、問答法は産婆法(術)ともよばれる[1]。 『世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大で最も評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思惟や真理や、魂というものができるだけ良くなるように配慮せず、考慮もしないとは』と。 ――プラトン著(納富信留訳)『ソクラテスの弁明』p.44(光文社古典新訳文庫、2012年) ギリシャ人は、あるゆるものに固有の役割があると考えた。そのための資質や能力をアテレー(卓越性)とよんだ。ソクラテスは人間にとってのアテレーを徳であると考えた。そして、徳とは人格や精神といった魂(プシュケー)をより優れたものにしていくことであり、それが魂への配慮であるという。ソクラテスは人間が日々の生活の中で、「よい」という言葉は「効率が良い」「自分の利益になる」などの貧弱な意味しか持たなくなることを指摘する。そして、「魂をできるだけ良い方向に導く」ための配慮について語るのである。 さて、「魂の配慮」に必要なものは何だろうか。まず、日常生活の中で意識されない本当の自分自身=魂に目を向けることが求められる。そして、正しいことや美しいことへの正しい知を必要とする。 当時のアテネはペロポネソス戦争後の戦後処理をめぐり、激しい権力闘争がくり広げられていた。こうした社会情勢でのソクラテスの言動は当時の人々の価値観について厳しい批判を含むものであり、多くの知識人や政治家を敵に回すものであった。 やがて、ソクラテスは「国家の認める神々を認めず、新しい神を信じ、青年たちを腐敗・堕落させた者」として告発された[2]。裁判でもソクラテスは自らの信念を曲げることはなく、祖国を愛するからこそ厳しく批判するのだと訴えた。だが、評決は死刑であった。 刑の執行までに時間があったため、友人たちはソクラテスに国外逃亡を勧めた。しかし、「よく生きること」を目標としていたソクラテスにとって、ポリスのおきてを破ることは不正であり、それをよしとはしなかった。こうして、ソクラテスは毒杯をあおいだ。
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中国思想において、宇宙を支配する者が天である。古代思想の基となった書の一つである『書経』の時代には天は天帝として擬人化され、一種の神のような存在とされた。 戦国時代には再び抽象的な存在として認識されるようになり、人間と天との関連を説く天人相関、天人合一の考え方が生まれるようになった。 さて、天(天帝)は人間世界の望ましいあり方を天命として人間に命じる。そして、天命を受けて人々を導く存在が天子である。天子は周代には(周)王であったが、始皇帝による統一の後には皇帝が天子とみなされるようになった。 天子は社会の指導者であり、天命にしたがって人々に役割を与え、それを十分に果たせば人々は幸福に暮らせる。しかし、天子が天命に背く行いをすれば、人々はひどい政治だけでなく、災害や戦争などによって苦しめられる。そうなれば、天は別の人物に天命を下し、新たな天子となる。これが易姓革命である[1]。 そのため、指導者が天命を知ることは社会秩序を正し、人々の生活を平和にするために必要不可欠なことであった。 こうした天の思想が確立したのが周王朝の時代であった。周の支配のベースとなったのは血族内の祭祀から生まれた慣習的ルールであった礼であった。天子たる周王は天の祭祀もつかさどっていた。 また、周は血族や盟約によって結ばれた氏族を諸侯に封じて土地や人民を世襲される封建制度を確立する。こうした制度は単なる社会制度にとどまらず、祭礼や共同体内の扶助とも結びついていた。 しかし、紀元前8世紀ごろになると周王朝の勢力が衰えてゆき、かわって諸侯が強い力を持つようになった。諸侯は富国強兵策をとり、領地の内外から優秀な人材を求めた。それに呼応した様々な思想家たちを諸子百家という。 現在の諸子百家の分類は『漢書』芸文志に準拠している。それによれば、次のように分類されている。 ただし、この中から小説家を省き、九流百家ともいう[2]。また、兵家を入れて十流とすることもある。 儒家、道家、法家、墨家については別ページに譲ることとする。ここでは前述の4派以外の学派について紹介しよう。 陰陽家の思想家として、鄒衍が挙げられる。彼の著作は残っていないが、『史記』などに概略が残されている。それによれば、世の栄枯盛衰と瑞祥との対応を検討する。その際に鄒衍は火・水・木・金・土の5つの徳の転移を見出す(五行思想)。 名家は論理学あるいは言語哲学の学派といえる。思想家には恵施と公孫龍が挙げられる。特に公孫龍は言葉と物の関係を考察し、分類分けを行った。その中でも有名なものが白馬非馬論である。これは、形に命名した「馬」と色彩に命名した「白」とは別のものであり、これらが複合した白馬は馬とは別のものであるという論である。公孫龍の説は現代哲学とも通底するテーマを持っていたが、難解であることやその後の発展が進まなかったこともあって単なる詭弁術と見なされた。
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古代インドではアーリア人が侵入してきて、先住民を支配していった。彼らは紀元前10世紀頃にはガンジス川中流の肥沃な地域に達し、現地の文化を吸収しながら、独自の文化を作り上げていった。その精神的な中核になったのがバラモン教であり、社会制度の基本になったのが人々をバラモン(司祭)、クシャトリア(貴族・戦士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)の四つの階層に分けるカースト制度である。 はじめはかれらは、自然の変化を支配し、人間の幸・不幸を決定するのは自然の神々だと考え、バラモンによる神々を祭る儀式や呪術を重視した。しかし、人生についての思索が深められると、人間の行為(業、Karman)に対する省察が進んだ。それによれば、人間は善い行為(善業)によって自ら幸福を招き、悪い行為(悪業)によって自ら災いを招くというのである(自業自得)。しかも、業は死によっても消えることはなく、死後もその業にふさわしい姿となって生まれ変わり、それが無限に続くのだという。たとえば、善い行いを積み重ねたものは死後に生まれ変わってバラモンやクシャトリアになれる。しかし、生まれ変わってから悪業を積んでしまうと、今度はシュードラや別の動物になってしまう。このような考えを輪廻転生という。 人々は悲惨な状態に生まれ変わるのではないかという不安をいだいた。そして、死後に良い者に生まれ変わることを望むのではなく、輪廻転生の運命から抜け出す解脱の道を求めた。 紀元前7世紀頃から紀元前4世紀頃、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド(Upanishad)哲学が形成された。それによると、すべての生物は自己の根源にアートマン(atman我)を持つ。一方、宇宙のあらゆる根源としてブラフマン(brahman梵)という絶対的な原理がある。アートマンはさまざまな動植物に宿って輪廻転生を繰り返す。だが、みずからの内のアートマンがブラフマンから生まれたものであり、ブラフマンと一体であることを悟る(梵我一如)ことによって、魂は輪廻転生から抜け出し、一切の苦悩からまぬがれるのだという。 梵我一如にいたるには、感覚にとらわれず、心を集中させる必要があるとされた。そのために精神を統一する瞑想が重んじられた。さらに断食などの厳しい修行(苦行)も、この瞑想を助けるものとして重視された。 紀元前5世紀頃、インドでは商工業が盛んになり、都市が発展した。それにともなって、ヴァイシャの力が強まった。彼らはバラモン教の伝統にとらわれない、自由で合理的なものの考え方を求め、全く新しい思想の流れが生まれてきた。その代表者がブッダ(仏陀)[1]であり、彼の説いた教えが、後に仏教となる。なお、ほぼ同じころ、ジャイナ教を開いたヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)たち6人の自由思想家が登場した。仏教では、彼ら6人のことを仏教以外の教えを説く者として、六師外道とよんでいる。 まず、ブッダの生涯からみてみよう。ブッダは本名をガウダマ=シッダールタといい、インドの北部・ヒマラヤ山脈のふもとにあったシャカ族の国・カピラヴァッツの王子として生まれた。カピラヴァッツは小国だったものの、シッダールタは物質的には大変恵まれた生活を送っていた。しかし、心はいつも満たされなかった。人生のあらゆる問題に苦悩したシッダールタは29歳のとき、ついに何もかもを投げ捨てて出家し、修行の道に入った。はじめは優れた教えを説く人々に弟子入りし、はげしい苦行もおこなった。それでも、心にかなうものは得られなかった。 35歳のとき、ブッダガヤの菩提樹の下に座り、深い瞑想に入った。数日間の瞑想の後、苦悩の原因である煩悩を断ち切り、究極的な理法(ダルマdharma)を悟り、ブッダとよばれるようになった。ブッダとは、「真理に目覚めた人」という意味であり、「覚者」ともいう。その後、悟ったものをみずから伝えるため、インド北部のガンジス川流域を中心とした各地を訪ねた。そして、80歳のときにクシナガラでこの世を去ったという。 なお、ブッダの生涯に関する地図は次のサイトにある。http://kamishiba1.exblog.jp/17092883/ ブッダは、老若男女・身分の貴賎に関わらず、人生に必ずともなう苦しみを直視した。人は、生きていきたいと願いながらも、やがて老い、病気になり、死んでいく。これがいわゆる生老病死であり、四苦という。その上、愛する人ともいつかは分かれる愛別離苦、逆に憎い相手とも会わねばならない怨憎会苦、求めるものが得られない求不得苦、身体・感覚・概念・心で決めたこと・記憶に執着することによる苦しみである五蘊盛苦(五陰盛苦とも)にとりつかれている。こうした生老病死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つを加えた八苦によって、現実の人間の生は苦しみに満ちている(一切皆苦)。これらの苦しみはどこから生まれてくるのか。 全てのものごとは永遠に続くものはなく、変化し、やがて衰えて消滅する(諸行無常)。そして、絶対に変わることのない本体(実体)も存在しない(諸法無我)。こうした、世界のあらゆるものが移り変わり、不変なものは存在しないというのがブッダの世界観である。では、なぜ世界の全てが移り変わっていくのか。ブッダは、存在するものすべてはバラバラに切りはなされているのではなく、さまざまな原因や条件と結びついて成り立っている(因縁)からだと考えた。 たとえば、「名門高校に通うAくん」という存在は、Aくんの両親・Aくんを教えた先生・勉強時間・勉強内容や方法というさまざまな原因がからみあってできている。もし、これらの要因が一つでも欠けていれば「平凡な高校に通うAくん」という別の存在になっていたかもしれないし、そもそもAくんがこの世にいなかったかもしれない。 このように原因や条件が寄り集まってものごとが存在するようになり、逆に原因・条件が分かれていくことでものごとが消えていくという考えを縁起という。 ブッダによれば、人の苦しみというのは、縁起の理法にそむき、自分一人だけで生きられると思いこんだり、財産・地位・名誉・命が永遠に続くことを願ったりすることから生じるのだという。特に自分の命や所有物が永遠であることを願うのは、人間の根本的な無知であり、この無知のことを無明とよんだ。そして、自分自身に対する執着(我執)にとらわれるようになり、苦しみを招く。たとえば、強い者は、その強さを「わがもの」と思いこみ、その強さが永遠に続くと思い、傲慢にふるまう。しかし、その強さもやがて衰えていく。そうなると「強かった自分」にすがりついていばってみせたり、さらなる衰えにおびえるようになる。逆に弱い者は弱さにとらわれ、いじけて、ますますバカにされて、自分をさらに汚していく。 このような物事に執着する心は、心身を悩ませて、煩わせることから煩悩という。ブッダは特に、貪り(貪欲)・怒り(瞋恚)・無益な思いや愚かさ(愚癡)の三つの煩悩を三毒とよんだ。 こうした欲望やとらわれから自由になることで悟りの境地(涅槃、nirvana)にいたる。そうなると、いつもゆったりとした心の平安がおとずれ、心の統一を失わなくなる(涅槃寂静[2])。 しかし、人間は欲望なしに生きることはできない。ブッダは欲望を一切封じるようなきびしい禁欲生活や苦行も精神をもうろうとさせるだけだとしてしりぞける。欲望にとらわれて快楽のみを求めるのでも、苦行でもない、ほどよい生き方(中道)を理想とした。そのための実践をまとめたのが四諦と八正道である。 四諦とは、四つの真理という意味である。悟りにいたらない人(凡夫)は四苦八苦の苦悩を免れない(苦諦)。その苦悩の原因が欲望や執着が集まった煩悩である(集諦)。しかし、煩悩をしりぞけた人は苦しみを滅ぼしている(滅諦)。そのためには正しい修行の道が必要である(道諦)。正しい修行の方法が八正道である。 ブッダは、縁起の教えを学び、中道の生活と考え方を通し、八正道の修業を行えば、誰でも真理に目覚めるのだという。この教えは、生まれの身分によって、貴賎や解脱できるかどうかも決まるというカースト制度への批判でもあり、庶民(ヴァイシャ)や奴隷(シュードラ)、その他の差別されてきた人々に特に受け入れられていった。 そして、ブッダは全ての命あるものに対しての慈しみ(慈悲)も説いた。無常の世界での命ははかない。だからこそ、切実に生きようとするものすべてが平和と幸福のうちに生きられる道を願った。そのために、ブッダは迷信や呪術に頼るのではない、合理的な考え方と生き方にたどりついたのであろう。 ブッダは、現実の世界を越えた神の存在については何も語らなかった。あくまで、ブッダは現実世界に生きる人間が自分をよりどころとしながら、努力することで苦しみから抜け出すことをといた。そのため、キリスト教やイスラム教のように人間世界を越えたところにいる神の存在を説く宗教の立場からは、ブッダの説は神を否定する無神論とみなされることもある。しかし、ブッダが没したのち、ブッダの説、さらにブッダ自身が崇拝の対象となり、神格化されて宗教になっていった。それが仏教である。 ブッダの教えには、世俗とは距離を置いて、戒律にしたがって修行することで悟りを完成させるという面と、世俗の中で悟りに基づいて万人のためにはたらくという面がある。どちらを重視するかで、仏教は二つに分かれていった。修行を重視したグループは保守派の長老を中心とした上座部となり、万人のためにはたらきかける者たちは在家信者に支持されて大衆部となった。その後、さらに20の部派に別れた(部派仏教)が、ブッダの死から数百年たったころには上座部仏教と大乗仏教という二つの大きな流れとなり、それぞれがブッダの精神を引き継いでいった。 上座部仏教はインドからセイロン島からミャンマー・タイ・インドネシアの南方に伝えられた。そのため、南伝仏教ともいう。上座部仏教はブッダの自力救済の精神を受け継ぎ、厳しい修行と戒律によって、阿羅漢とよばれる悟りを完成させた聖者になることを目指すものである。 大乗仏教は紀元前1世紀から紀元2世紀頃にかけての、在家信者による仏教の改革運動から生まれた。大乗仏教は、初めて仏像が作られたガンダーラからシルクロードを経て中国に入り、そこからベトナム・朝鮮に伝わり、朝鮮(百済)から日本に伝えられた。そのため、北伝仏教ともいう。また、のちにチベットに伝わった仏教は8世紀に成立したインド密教の流れなどを取り入れたチベット仏教として、独自の地位を占めている。 大乗とは「大きな乗り物(マハーヤーナ)」という意味で、全ての生きとし生けるもの(一切衆生)を救済するという教えを乗り物にたとえたものである[4]。 大乗仏教の理論を確立したのが、龍(竜)樹(ナーガールジュナ)である。 龍樹は縁起説を空の立場から解明した。そのため、大乗仏教の根本的な思想は空の理法を悟ることとされている。空とは、単なる無や否定ではない。この世の全ての物質的な存在は因縁が和合したものであり、固定された本体(実体)は存在しない。しかし、様々なものが縁起によって組み合わさっているからこそ、豊かな世界が成り立っている[5]。この空の真理を悟る知恵を般若という。空を悟れば、外見や先入観に惑わされることなく、ものの真相をあるがままに見つめ、つまらない思いに執着する(小我)のではない、安らかな気持ちで真実(大我)に生きるのだという。 唯識思想を大成したのが、無着(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)である。 唯識思想とは、あらゆる事物は実在していないが、それらが存在すると思われるのはただ「識」、すなわち「心の働き」の所産である、とする思想。「空」の思想(前述)やヨーガの実践から生み出された。空の思想と並び、現代でも多くの仏教者・研究者の関心を集めている。 空を悟ろうとする者は自分の世界に閉じこもるのではなく、全ての生きとし生けるものを救済しようとする。こうした慈悲の実践者を菩薩(ボディーサットヴァ)とよぶ。菩薩にとって、悟りを求めて自己を生かそうとする(自利)ことと他者を生かそうとする(利他)こととは、対立するものではない。なぜなら、みずから真理に目覚めた者は、他者も自然と真実に目覚めさせるようになるからだ。そして、大乗仏教において悟りを求める者が実践すべき教えとして、六波羅蜜[6]の教えが説かれている。 仏教が東・東南アジアの思想的な源流の一つになったのに対して、ヨーロッパの思想の源流になったのが古代ギリシャの哲学とキリスト教である。 キリスト教はイスラエル民族固有の宗教であるユダヤ教を母体としている。砂漠の民であったイスラエル民族がパレスチナ地方に入ったのは紀元前1500年頃といわれる。厳しい自然環境に加えて、周囲にはエジプトをはじめとした強大な古代国家による圧迫に常にさらされ続けていた。そんな中で、イスラエル民族は唯一神ヤハウェ(ヤーウェ)に対する強い信仰を育てていった。 彼らの聖典である『旧約聖書[1]』によれば、ヤハウェは宇宙の万物を創った創造主であり、唯一絶対の神である(一神教)。そして、イスラエルの民はヤハウェから選ばれた民(選民)であり、神との特別な契約によって、将来の繁栄と栄光を約束された。その契約が神の命令である律法(トーラ)である。そして、ヤハウェは律法を守れば祝福を、律法を破れば厳しい罰を与える裁きの神、正義の神でもある。 紀元前13世紀頃、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル民族を脱出させたモーセは、パレスチナへと向かった。その途中、シナイ山にてモーセはヤハウェの声を聴き、10の掟を与えられた。これが十戒であり、神は厳しく守ることを求めた。 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。 安息日を覚えて、これを聖とせよ。 あなたの父と母を敬え。 あなたは殺してはならない。 あなたは姦淫してはならない。 あなたは盗んではならない。 あなたは隣人について、偽証してはならない。 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。」 ――『旧約聖書』「出エジプト記 第20章(一部省略)」 十戒をはじめとした律法にそむくことは神にそむくことであり、神の保護から見放されることでもあった。神の正義と恵みに応えるために、人々は律法をまもり、日々の生活の中で正義を実現することが求められる。そのために、神と人とを仲立ちする者が登場する。それが、預言者である[2]。 (のちの聖書などの文献による言い伝えでは)出エジプトの後、パレスチナの地にイスラエル人の王国が作られ、紀元前10世紀頃にはダビデ王・ソロモン王が登場したといわれ、最盛期を迎える。しかし、その後に南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、他の民族に攻められて両方とも滅亡した。再び国を失ったイスラエル民族にはさらに厳しい運命が待っていた。紀元前6世紀頃には老人と子どもを除くすべてのイスラエル人が、奴隷としてバビロニアに連れ去られた(バビロン虜囚)。このころにイザヤやエレミアなどの預言者たちが活発に活動し、イスラエル民族が信仰の道から外れようとするのを防ぐとともに、民族の団結と信仰へのはげましを与え続けた。イスラエル人たちの宗教がユダヤ教として成立したのもこの頃だといわれている。 預言者たちはイスラエルの民が律法を守らなかったから、神が国を滅亡させたのだと説いた。だが、人々が律法を正しく守れば、神はイスラエルの民を苦難から救い出す救世主(メシアMessiah[3])をこの世に送るであろうと、預言した。イスラエルの民はメシアの到来を望み、苦難に耐えた。 バビロン虜囚が終わっても様々な強大国の支配下に置かれる厳しい状態には変化がなく、約束されたはずのメシアの到来も空しい期待にすぎなかった。やがて、律法を守ることが宗教のすべてだとするパリサイ(ファリサイ)派が勢力を増した。パリサイ派は律法を文字通りに解釈し、安息日の労働を完全に禁止したり、断食を厳しく守ったりしていた。一方で、律法をよく理解できない庶民や取税人・遊女などの差別されてきた人々に対しては厳しい非難を加えていた。 西暦1年より少し前ごろ、パレスチナのベツレヘムに、大工であったヨゼフの許嫁・マリアの子としてイエスは生まれた(西暦とは、イエスが生まれたと考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である)。イエスは30歳ごろに洗礼者ヨハネから洗礼を受け、四十日の断食の後に、福音(神からのよい知らせ)を伝える活動を始めた。後で述べるように、イエスはユダヤ教の主流となっていたパリサイ派を強く批判すると同時に、分かりやすいたとえを使いながら新しい教えを説いた。 だが、イエスから批判されたユダヤ教の指導者はイエスと弟子たちに迫害を加えた。また、現実的な救いよりも内面の清らかさを重んじる教えに失望する人も少なくなかった。イエスは反対者によって反逆者として告発され、ローマ帝国によって十字架にはりつけにされる刑を受けて死んだ。イエスが活動した期間は2年数か月ほどであったという。 パリサイ派は細かいおきてや形式を極端に重んじたため、宗教が人々の心の救いになるとは言い難いものになっていた。イエスは福音(神からのよい知らせ)を人々に伝えた。人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。 一方で、イエスはパリサイ派には厳しい批判を行った。例えば、「あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」とパリサイ派にいった。イエスは心のうちにひそむ欲望や悪と向き合わずに律法さえ守ればよいというパリサイ派の行いを偽善とよんだのだった。 イエスはキリストと信じられるようになり(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主をさす)、その弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト者)とよばれるようになった。そしてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。 1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書)を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)ととともに信仰のみちびきとしていた。 特に、もともとユダヤ教パリサイ派の法学者であったパウロは、旅の途中で神の啓示を受け、キリスト教に回心し、異邦人(ユダヤ人以外の民族。ここでは特にローマ人)への積極的な布教を行った。このとき、彼が地中海世界の共通語であったコイネーを話すことができたのは、布教の際の大きな助けになったと知られている。 ユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、キリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。 キリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(エホバ)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体と信じる一神教である。 7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。 7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。 イスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝を禁止した。 このため、イスラム教では、神の像は無い。 ※「アッラー」とは、「神」という一般名詞である。アッラーという名を持つ神がいるわけではない。 また、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラームの聖典は『クルアーン』と言う。 ムハンマドの教えは、メッカの支配層によって迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力で(無血のうちに)メッカを奪い返した。 その後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。 コーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。 「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslamaという動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。 ※「イスラーム」という語は、それ自体に「宗教」というニュアンスが含まれるため、現在では(専門的には)「イスラム教」とは表記しない。 イスラームにおける聖典は、実は『クルアーン』だけではない。ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』もすべて聖典の一つとされる。なぜなら、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。しかし、アラビア人であり最後の預言者であるムハンマドに対してアラビア語で与えられた『クルアーン』こそ、もっとも正しく神の言葉を伝えるものとされているのである。 中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラーム、ユダヤ教の聖地がある。 なぜ同じ地方にこれら3つの宗教の聖地があるかというと、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。(キリスト教の「主」、イスラームの「アッラー」、ユダヤ教の「ヤハウェ」はすべて同じ神を意味する。) 現代(西暦2014に記述)の話になるが、 このエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。 パレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。 このことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。 イスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。 また、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。 このようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。
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古代ギリシャから中世に至るまで、ヨーロッパにおける自然観を支配していたのはアリストテレスの自然学であった。これは古代ギリシャの頃から判明していた様々な自然現象を統一的に説明するために体系化されたものであった。のちにキリスト教の神学がアリストテレスの哲学と結びついていくと、アリストテレス自然学は神学と合致する自然観とされるようになった。また、プトレマイオスの天動説はトマス=アクィナスによって認められたことから教会公認の学説として権威づけられた。 しかし、ルネサンスや宗教改革は、人々を神を中心とする価値観から解放した。そして、人間の現実的な欲望は肯定され、壮大な理想のもとに行動し、個人の自由な考え方や生き方が求められるようになった。それにともない、自然への見方もまた、従来のアリストテレス自然学を元にしたものからの転換が求められたのである。 アリストテレスの自然学の特徴は「目的」を重視したことにある。アリストテレスによれば、あらゆる自然物は自分の中になんらかの本性を持っており、その本性を実現することを目的としている。例えば、石が地面に落ちるのは、土から生まれた石が本来の場所である土に帰ろうとする「目的」があるから、つぼみが花開くのは、花こそが本性でありそれを目指そうとするからである。そのため、アリストテレスの方法では現象や物事の目的を探ることが重視される。このような方法にもとづく自然観を目的論的自然観という。 しかし、ルネサンスによってソクラテス以前のギリシャ哲学も見直されるようになると、目的論と対立する方法や自然観が注目されるようになる。特にデモクリトスの原子論は自然現象から目的や神の意志といったものを排除し、それぞれの要素が機械的に運動することによって現象を説明する機械論的自然観に大きな影響を与えた。 機械論的自然観は力学と天文学の発達によって確立されたといえる。ポーランドの天文学者であったコペルニクスは、従来の天動説では説明が困難な現象を説明するため、推理と計算を根拠として地球が太陽の周りをまわっているという地動説を提唱した。そして、自ら制作した望遠鏡の観測によってガリレオ=ガリレイは地動説が正しいことを実証した。 ガリレイの業績は、物体を力・時間・距離・速度などの数的な要素に分解し、それらの間に成り立つ関係を数学的に表したことである。彼が「自然は数学の言葉で書かれた書物である」と述べているのはそういうことである。そして、自然法則を仮説とし、観察と実験で検証・証明する方法を作り上げた。ここには、アリストテレスが想定したような目的は一切考慮されていない。 しかし、近代科学的精神の成立は容易だったわけではない。原子論は、つきつめれば魂や神も原子からなるとすることから神を否定する無神論とみなされた。そして、地球を中心とする宇宙の体系はキリスト教神学と密接に結びついていたため、地動説は天文学だけでなく、思想のあり方も世界観も変革を求められたのである。当然にも、この動きは教会の聖職者たちから激しい非難が加えられ、ときには厳しい弾圧を受けた。例えば、コペルニクスの影響を受けて地動説を支持したジョルダーノ=ブルーノは異端との判決を受けて処刑された。 ガリレイは1633年に宗教裁判にかけられて地動説を撤回させられる。そののちに「それでも地球は回っている」と言ったとされている。これは後世の創作とされているが、宗教の権威をもってしても科学的真理を否定することはできないという、彼の科学的信念をあらわすものとして有名である。 事実、科学的探究はその後も歩みをとどめることはなかった。ニュートンによって万有引力の法則が発見され、天体の運動も地上の物体の運動も統一的に説明できる古典力学が確立したことは、この時代の探究の精華であるとともに新たな世界観の基礎となった。 こうした新しい学問を推進したものは、理性や感覚といった人間の認識能力への全面的な信頼だった。しかし、一方では権威から自由に思考し、推論を重ねることによって確実な真理へと向かう流れを、もう一方は観察や実験という方法によって真理を探ろうとする流れを作っていった。 やがてこれらの流れは、知識は実際に物事を見たり聞いたりする経験を通じて得られるという経験論と、人間はあらかじめ持っている考える能力、すなわち理性を重んじ、理性こそが知識の根源であるという合理論へと発達していった。 経験論はイギリスにおいて発達したため、イギリス経験論とよばれることがある。ここでは、先駆者であるフランシス・ベーコンの思想を中心に経験論の考え方を見てみよう。 なお、検定教科書ではホッブズとロックは社会契約論の重要な論者としてあつかわれるが、経験論の思想家でもあることはあまり紹介されていない。また、バークリとヒュームの説明も少ないため、経験論と合理論を総合するものとしてのカント哲学という流れをつかみにくい。一方で、ベーコンの業績は過大にクローズアップされがちなところがある。本稿では哲学史の流れに沿ってベーコンからヒュームまでのイギリス経験論の流れを説明していくことにするが、とりあえず大学入試だけを考えるならば、ベーコンの節だけを読んでもらえれば十分である。 1561年生~1626年没。法律を学び、国会議員となる。法務次長などをへて最終的に大法官(首相に相当)にまで出世するが、収賄罪に問われて失脚する。その後は新しい学問の方法の確立に専念し、われわれの経験から一般的な規則を発見するための方法を探究した。鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に肺炎にかかり、亡くなったという逸話がある。主著は『新機関(ノヴム=オルガヌス)』『ニュー・アトランティス』。 ベーコンが生まれ育った時代は、ちょうどイギリスのルネサンス期とよばれるエリザベス朝にあたる。シェイクスピアに代表される文芸が花開き、ルネサンスの三大発明とよばれた羅針盤・活版印刷・火薬をはじめとした様々な科学技術の成果はさらに改良が進められて、より高度なものへと発展していった。こうした雰囲気の中で、ベーコンは主著の『ノヴム=オルガヌス』にて、学問の目的を人類の幸福と生活の改善であると述べた。そのために彼が注目したのが、自然科学である。 ――『ノヴム=オルガヌス』第一巻・3(『世界の大思想6 ベーコン』(河出書房新社,1969年))」 自然はある原因があって、そこから結果が生じるという因果関係に従って動いている。この関係を知ることが自然に「服従する」ということである。それによって得られた知識を自然を支配する技術として応用し、人間の生活を改善していこうというのが、ベーコンの姿勢である。これが「知は力である」という格言にまとめられている。 では、自然を知るためにはどうすればよいか。ベーコンは、まず知識の獲得をさまたげる偏見や先入観を取り除こうとした。ベーコンは偏見・先入観の種類を4つに分類し、それらを「偶像、幻」という意味のイドラ(idola)と呼んだ。 第一に人間という種族が共通して持っている「種族のイドラ」である。これは錯覚に惑わされたりすること、自分の考えと異なる説を拒否してしまうことといった、人間の本性にもとづくものである。 第二に「洞窟のイドラ」である。人々はそれぞれに異なる好み・教育・経験などを持つ。そうした個人の体験や立場に固執することを、狭い洞窟の中からものを見ることにたとえたものである。 第三に「市場のイドラ」である。多くの人が集まる市場ではたくさんの言葉が行き交う。しかし、その言葉の内容を確かめもしないで用いることで混乱におちいってしまう。 第四が「劇場のイドラ」である。劇場で演じられる芝居や手品をまるで本当のことであるかのように信じこんでしまうように、学者や専門家といった権威のある人の演説や伝統的な説を無批判に信じてしまう。 これまでの学問、とくにスコラ学はこうした幻影に惑わされて、自然を勝手にゆがめて解釈してきたゆえに不毛なものになってしまったという。ベーコンはこれらの偏見を取り除き、自然をありのままに観察し、そこから自然の法則を明らかにしようとした。そのための方法が帰納法である。 帰納法とは個々の経験や実験・観測による事実から共通するものをとりだして一般的な法則を見出す方法である。帰納法そのものはすでにアリストテレス以来認められていたが、自説に都合のいい事実をピックアップしたり、膨大な事実をただ集めるだけで終わってしまうことが多かった。 また、スコラ学者のような人々は現実に即していない空理空論を振り回すだけだとベーコンは考えた。 ベーコンはこれまでの帰納法もスコラ学も批判する。経験派(従来の帰納法を使う人々や当時の科学者)はアリのように物事を集めるだけであり、独断派(スコラ学者およびアリストテレスなど)はクモのように頭の中で空論や独断を紡ぎだす。しかし、新しい哲学は、あたかもハチが材料を花から集めながらハチミツを作りだすように、自然の観察や実験によって見出された材料をもとにして知性によって自然の法則を見出す。 とはいうものの、自然は簡単にはその真の姿を見せてくれない。ベーコンは「自然の秘密もまた(中略)技術によって苦しめられるときいっそうよくその正体をあらわすのである」(『ノヴム・オルガヌム』第一巻・98)という[1]。自然をただ観察するだけでは肝心なことは見えてこないのだから、いろいろな道具や技術を用い、都合のいい状態を人工的に作りだす。つまり実験を通じてデータを集め、一般的な法則を見出すという現代科学の方法を確立したのである。 17世紀以降の科学的な諸発見は哲学の世界にも大きな変化を加えようとしていた。コペルニクスによる地動説の復興、ガリレオによって明らかにされた運動のすがた、ハーヴェーの血液循環説によって確立された生理学。これらを受けて、哲学の二大潮流である観念論と唯物論の対立は新たな局面を迎えようとしていた。 観念論とは、あらゆるものが精神や心などのような霊(魂)に結びつけられるという思想である。他方、唯物論はあらゆる現象は物質の変化や運動に還元できるという思想である。科学上の発見は唯物論の足場を着々と固めていった。そんな中でガリレオの影響下で数学と物理学を学び、一時ベーコンの秘書もつとめたホッブズが登場する。 ホッブズは当時の最新の科学的な知見を基に、世界に存在するのは物質とその運動だけであり、すべては機械的な運動によって決まると考えた。それは物体の運動、変化のような自然現象にとどまらず、人間の意識・魂・心も、身体の器官に何らかの運動が起きたことによって生じたものであるとした。さらに社会や国家といった、生物でもなく形あるものでもないものも、自然の物質と同じように機械的に決まるのだという。それが、社会契約という発想につながっていくのだが、彼の社会契約論についての説明は高等学校倫理/民主主義社会の倫理と思想にゆずることにしよう。 ホッブズが当時の学問に与えた衝撃は大きく、イギリスの哲学や神学はホッブズやデカルトによって開拓された思想の継承と批判を通じて合理化を図った。そうした中で登場するのがロックである。 ロックはまず、人間の心の表象(観念)はどこから来たのかを考えた。彼は、デカルトが示した人間が生まれつき持っている観念(生得観念)を否定し、観念はかつて感覚した物事が反映したものだとした。私たちは何も感じなければ、意識は白紙(タブラ・ラサ)のままだという。 ――『人間知性論』第2巻第一章(『世界の名著27 ロック ヒューム』中央公論社,1968年)」 まっさらな状態の人間は、感覚[2]を用いた活動(周りを見たり、音を聞いたり、物に触ったり、味わってみたりすること)を通じて、あるいは考えたり疑ったり信じたりという心の動き(内省)によって、単純観念(「白い」「固い」「甘い」「嬉しい」「悲しい」など)が出来上がる。人間の意志は単純観念へ能動的に働きかけて、美・感謝・人間・宇宙・自由などといった複雑観念を作り上げる。こうして新しい複雑観念ができる場合、もはや観察に限定されず、経験の枠を超えたものを作り上げることができる。 例えば、ヘビという生き物を知らずにヘビを見たとき、私たちは「細長く」「にょろにょろと動く」「緑色の」生物であると感じる。そこから何度も同じような生き物を見たり教えてもらったりする経験を通じてそれがヘビという生き物であることを知る。さらに、私たちはヘビと気象・他の動物・様々な言い伝えをさらに組み合わせて龍という観念を作り上げて絵や物語を作っていく。私たちは龍を実際に見たことはない(=「見る」などの感覚的な経験をしていない)が、そのイメージをすることはできるようになる。 このように、経験から観念や価値判断が生まれてくる理論を打ち立てたことから、ロックは経験論の完成者とみなされている。 ロックの経験論の不十分さを衝いたのがバークリーだった。彼の有名な言葉が「存在するとは知覚されること」である。バークリーはロックが前提にしていた、外的な事物が存在することを否定する。バークリーによれば、物事の認識は心によって知覚されることによって行われる。そして、現実は知覚される限りにおいて存在するのであり、心がなくなれば外の世界も存在しないとした。こうしたバークリーに代表される心のみが実在するという思想を唯心論という。 経験論が感覚や知覚に基づく経験を重視したのに対して、人間が生まれつき持っている思考の力を重視したのが合理論[1]である。合理論はフランスやその周辺で発達したことから大陸合理論ともよばれる。 ここでは、近代的学問の方法として理性のはたらきを重んじたルネ・デカルトの思想と、それと関連するスピノザとライプニッツにも少し触れたい。 1596年生~1650年没。はじめはスコラ哲学を学んでいたが、それに満足せず「私自身」か「世界という大きな書物」の中に見つかる学問以外は探さないと決心する。そして、旅や軍務に服しながら諸国を渡り歩く。そうして、多くの人々と交流するが、1628年にオランダに移住し、20年間の思索の生活に入る。その間に刊行された『方法序説』『省察』によって世に知られるようになる。53歳のときにスウェーデン女王クリスティーナに招かれて専属の哲学講師となるが、生活環境の変化から翌年に風邪をこじらせて肺炎にかかり死去した。 デカルトは数学や自然科学にも大きな功績を残した。方程式で未知数をxで表すなどの表記法や座標の考え方を発明し、幾何学と代数学を統合するきっかけをうみだしたのもデカルトである。
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ここでは資料として、「倫理」で扱った先人たちの言葉を紹介する。 以下は『初期ギリシア哲学者断片集』(山本光雄訳, 岩波書店)による 以下の引用は全て『世界の大思想6 ベーコン』(河出書房新社,1969年)より。 以下の引用は全て『リヴァイアサン(1)』『リヴァイアサン(2)』(岩波文庫,1992年改訳版)より
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16世紀ごろのヨーロッパでは、君主が中央集権的に強大な権力を行使して国民を支配する絶対王政の時代に突入していた。絶対王政は、君主が特権を持った大商人らと結びつき、強力な統治を行うために常備軍と官僚制を整備したことに特徴付けられる。この絶対王政を理論的に支えていたのが「王権神授説」であった。王権神授説とは、君主の統治権(王権)は神が与えたものなのだから、王権は絶対であるという考え方である。 しかし、17世紀ごろから商業活動が世界規模に拡大したこともあり、商工業者が力をつけてきた。そして、裕福な商工業者が経済面において君主と次第に対立するようになり、自由と平等と政治に参加する権利を求める市民革命(ピューリタン革命や名誉革命など)を起こしていくこととなる。この時代に、市民たちの理論的な支えになったのが、国家権力とは、神が君主に与えたものではなく、国民(市民)による権利の委託の結果であるという社会契約説である。 社会契約説を説いた人々は、説明のために国家も法律も存在しない世界(これを「自然状態」という)を仮定した。 社会契約説を主張した人物でも特にホッブズ、ロック、ルソーの3人が有名である。 社会契約説は、まずホッブズによって主張された。 イギリスの ホッブズ Hobbesは著書『リバイアサン』(リヴァイアサンとも書く、出版年:1651年)で、王権神授説を否定し、政府とは人民が自分たちの安全のために作り上げたものだと主張した。リバイアサンとは、旧約聖書に登場する怪物のことである。ホッブズは、国家をある種の怪物に例えたのである。 ホッブズによると、まず、すべての人間には、自らの生命を守る権利があるとした。しかし、ホッブスは、そういった権利があるだけでは、各々が自分自身を守ろうとするがために、他人を敵だと疑って傷つけてしまいかねず、社会の平穏が脅かされてしまうと考えた。ホッブスは、こういった状態のことを「万人の万人に対する闘争」と定義した。 ホッブズは、このような人民どうしの闘争を防ぐためには、国家を形成して、市民が国家に従うことで、市民同士が相手を味方であるとみなせるようになることが必要だと考えた。そのため、ホッブスは、人が生まれながらにして持っている権利(自然権)のうち、一部の権利を国家の主権者に委ねるべきだと主張して、絶対王政を擁護した。 ホッブズによれば、このように国民どうしの契約(社会契約)によって、王権は国民から君主に与えられたものであるので、当然に王権神授説を否定している。つまり、権力を君主に与えたのは、神ではなく国民であるとホッブズは主張した。つまり、ホッブズの理論にもとづくなら、神を仮定しなくても、王権の必要性は説明できるのである。 つまり、ホッブズによると、 ということであり、その根拠が「万人の万人に対する闘い」を解消するための、絶対的な権力の必要性についての考察である。 なお、自然権の思想では、もし神の存在を仮定するなら、権利を神から与えられた者とは王ではなく人々である。人々が神から与えられた侵すことのできない最低限の権利こそが、自然権である。(※ 参考文献: 山川出版の検定教科書『詳説 政治経済』、2013年検定版、10ページ脚注、) ロック Lockeは『市民政府二論(統治二論)』を著し、圧政を行う君主への抵抗権(革命権)を主張し、名誉革命を正当化する理論となった。 その主張の論法は、つぎのような論理である。 人権とは、君主の意志とは無関係に、自然に与えられる権利だから、もしその人権を侵す君主がいれば、この君主を革命で倒すべきだという内容である。ロックは、自由・生命・財産の権利が、自然に与えられる権利(自然権)だと考えた。 ロックの理論によれば、そもそも君主とは、本来は、人々の自然権を確実なものとするために、人民から信託を受けて、代理として選ばれただけの者に過ぎない。つまり、君主の存在は目的ではなく、単なる手段である。もし人権を侵害する君主がいれば、その君主は、本来の責務を破っているのだ。だから、人権侵害をする君主がいれば、人民から見れば、その君主は単なる裏切り者である。裏切り者を革命によって打倒することは、道義的にも正義である、という発想がロックの理論である。 つまりロックは、王権神授説などにもとづく君主の独裁を否定している。 そして、ロックのこのような理論により、抵抗権が正当化された。 また、ロックは、人民は政府を作るべきと考え、その人民の政府の根拠は、人民どうしの契約にもとづくべきであると考えた。 国家や法律は必要であるが、それらは、人民の合意に配慮しなければならない、というようなことをルソーは著書『社会契約論』などで主張した(ルソーだけでなくホッブズもロックもそれぞれ独自の「社会契約」の考え自体は用いているが、しかし、書籍『社会契約論』を著したのはルソーである。この点、混同しやすいので注意)。 ルソーの発想は、そもそも法律の強制力の根拠とは、その法律が、その国の人民どうしの契約にもとづく場合だけである。ならば、人民どうしの契約にもとづいていない法律なんぞ、無効であるべきだ、・・・的な発想である。 ルソーは人民どうしの契約にもとづかない法律の無効を唱えたいっぽう、けっして全ての法律の無効化を主張したのではなく、人民どうしの契約にもとづく法律は有効だと考えているのであり、けっしてルソーは無政府主義者ではない。 ルソーは、(人民どうしの契約にもとづいている、という意味での)有効な法律への前提になる、政治についての人民の総意のことを「一般意志」(いっぱんいし)と呼んだ。 ともかくルソーは、一般意志にもとづく法律だけが有効な法律である・・・みたいなことを主張した。 ルソーの考えは、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言に影響を与えた。 司法・立法・行政の三権分立の考えのように、権力を分散させて、独裁をふせぐ発想を、権力分立という。この権力分立を言い出した人はロックなどであるが、さらにこの考えを司法・立法・行政の三権分立に発展させた人がフランスの思想家モンテスキューである。モンテスキューは著書『法の精神』で、三権分立の考えを述べた。 なお、権力を分立させる理由は、万が一、三権の内いずれかの権力が暴走したとき、他の権力によってその暴走を止められるように、権力同士を互いに監視させるためである。こうした権力分立の機能を抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)という。 なお、ロックの考えた時点での権力分立は、立法権と執行権(行政権)のふたつの権力に二分する権力分立だった。 現代でも、多くの国の憲法で、三権分立の考え方、またはそれに近い考え方が、民主主義を実現させるためのアイデアの一つとして採用されている。 「法の支配」(rule of law)とは、実質的には、人権思想による支配・・・かもしれない。 どういうことかというと、「法の支配」でいう「法」とは、自然法のことである。「自然法」とは、君主が勝手に定めた法などではなく、今でいう基本的人権に相当する法・権利を、人には生まれつき(つまり自然に)認めるべき、という意味である。つまり、自然法とは、基本的人権を生まれつき認めるべき、という考えである。 17世紀のはじめのイギリスの市民革命期に、国王ジェームズ1世の絶対王政などに反発する裁判官のクック(コーク、Coke、エドワード=クック)が、国王と市民階級が対立した事件での裁判の判決で「国王といえども神と法のもとにある」という中世の哲学者プラクトンの言葉を引用して、法の支配(rule of law)を主張した。 このような歴史的背景から、「法の支配」には、「王といえども法に従うべき」という規範がある。これはつまり、(上記にもよく見れば書いてあるが、)絶対王政の否定でもある。また、その法を制定するのはもちろん、議会または人民の代表者である。 法治主義(Rule by Law)というのは、19世紀のドイツで発達した概念で、行政権について想定したものであり、行政は法にもとづかなければならない、とする思想である。法治主義は、べつに、人権の保護を目的とした概念ではないので、「法の支配」とは異なる。 「法治主義」と「法の支配」とも、法にもとづいて国家権力を行使するという点での共通性はあるものの、その他の部分や目的が異なる。 「悪法といえども法なり」という格言のように、たとえ人権思想の正義に反していようが、なるべく法律を優先すべきだという考えが、第二次世界大戦前のドイツや日本で強かった。このような考えを 形式的法治主義 という。このような思想の下の国家は、国家の存在意義や法律の趣旨を軽視した法律万能主義に陥り、国民の人権やその他の権利を侵害するおそれがある。 いっぽう、人権思想に反する法律の有効性は認めずに、なるべく法治主義を目指そうとする思想を 実質的法治主義 という。第二次世界大戦後のドイツや日本は、実質的法治主義を目指している国といえる。 資本主義の発達につれて、貧富の格差の拡大が問題になった。貧富の格差を是正するため、社会保障などが必要になった。 第一次世界大戦後のドイツで1919年に制定されたワイマール憲法は、世界で初めて、社会権を明文化した憲法である。 第二次世界大戦後(ただし終戦直後は除く)の昭和~平成の日本の国会議員を選ぶ国政選挙のように、けっして人民が直接的に国会などで発言したりするのではないが、しかし投票などを通じて人民を権力の源泉として人民が政治に参加している仕組みのことを(少なくとも建前上は)仕組みのことを間接民主制と言う。 いっぽう、古代ギリシアの都市国家のポリスなどでは、市民全員が直接的に政治参加していたが、これを直接民主制と言う。(※ 詳しくは高校の『世界史』系の科目で習うので、政治経済科目では省略する) 現代でもスイスの州では直接民主制は行われている。だが、現代のような国家では、人口の多さなどの理由から、直接民主制は基本的には不可能である。 なお、「議会制民主主義」や「代議制」などの用語も、その意味は間接民主制とおおむね同じである(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。 なお、「議院内閣制」とは大統領ではなく内閣総理大臣が行政の最高権力者の仕組みのことなので、上記とは意味が異なる。混同しないように注意。 20世紀のナチスドイツのヒトラーを生み出したのも大衆民主主義(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。民主主義だからといって平和主義や国際協調とは限らないのである。 民主主義でも、社会や経済が不安定になると国民がファシズムを選択してしまったりする事例もある(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。
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議院内閣制は、議会が内閣総理大臣(首相)を選ぶ仕組み。(イギリスなどが議院内閣制) なお、大統領制では、国民が直接的に選ぶ。(アメリカなどが大統領制) ともかく、議院内閣制では、各省庁の大臣などから構成される内閣が組織され、(議会ではなく)内閣が行政権を担う。 なお、「首相」とは、内閣総理大臣のこと。 議会と内閣とは、別組織である。ただし、基本的に連帯責任を負う。 イギリスは国王のいる国である。 イギリスは、議院内閣制であり、立法は議会が行う。 イギリスには今でも貴族の制度がある。 イギリス議会は上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制である。 上院(貴族院)には貴族や聖職者が選ばれる。 下院の権限が優越している。下院は、国民が直接選ぶので、より民意に近いと考えられているので、下院が優越しているのである。 首相は、慣例的に、下院の多数党(与党)の党首がなる。そして内閣は、その首相が組織し、普通は与党などから閣僚が選ばれる。この首相を任命するのは国王であるのだが、そもそも名目上の主権を持つのは国王なので、国王が首相を任命するという慣習になっている。 イギリスでは、野党も、慣習的に、内閣のような議員の組織を作っている。野党のつくる、この組織を「影の内閣」(Shadow Cabinet)といい、つぎの政権交代に備えている。 内閣は議会(下院)に対して連帯して責任を負う。 内閣が議会からの信任がなくなった場合、内閣は総辞職または解散総選挙をしなければならない。解散総選挙をするのは、国民に信を問うためである。 イギリスの主な政党は保守党と労働党であり、二大政党制であるが、近年では第三の政党として自由民主党も勢力を強めている。 アメリカは大統領制の国である。アメリカでは大統領は行政府の長であり、国家元首である。 アメリカの大統領制について語る。 大統領は、議会からの信任を必要としない。大統領を選ぶための選挙では、選挙人といわれる者たちが、大統領を選挙で選び、この選挙人に誰をするかを国民が投票する。つまり、間接選挙で大統領が選ばれる。 このように、行政府の長である大統領が、立法府からの信任を必要とはしないので、アメリカでは行政府と立法府との分離が、ほかの国よりも明確である。 そして、大統領と議会とが、相手が暴走しないように、おたがいに抑止(抑制均衡:チェック・アンド・バランス)しあうことが期待される制度になっている。つぎのような制度になっている。 大統領には、議会の可決した法案への拒否権がある。大統領には、議会へ、大統領の考える政策を意見する教書(Presidential Massage)を送って示す権限がある。 アメリカでは議会が大統領を支持するとは限らないが、大統領もまた議会の法案を支持するとは限らないのである。 大統領によって拒否された法案でも、両院の三分のニ以上の多数の賛成があれば、大統領の書名を経ずに、その法案が可決して法律となる。 大統領には、議会に法案を提出する権限は無い。また、議会に解散を命じる権利を、大統領は持たない。 なお、大統領の任期は一期あたり4年であり、二期までしか続けて大統領になれず、大統領の三選は禁止されている。つまり 2期×4年=8年 で、最長で8年までしか大統領を続けられない。 アメリカでは地方分権を尊重しているので、連邦政府の権限は主に外交や防衛などに限られる。 (※ アメリカは制度的には二大政党を規定していなが、アメリカも事実上の二大政党制の国である。なお、世界では、国会で二大政党の実現している国は少なく、二大政党が長期に実現している国はアメリカとイギリスのみである(※ 参考文献: 清水書院『ニュース解説室へようこそ 2018-19』)。) 社会主義とは、私有財産こそが貧困などの経済格差の原因と考えて、私有財産制を否定して、また労働者による政治の支配をしようとする政治理念である。マルクスとエンゲルスが社会主義の思想を提唱した。 1917年のロシア革命によって成立したソビエト連邦が、社会主義の思想を制度に取り入れた国である。商工業の投資の計画などは、政府が独占的に立案するとして、計画経済がソビエト連邦で導入された。 冷戦時代の中華人民共和国や、今は崩壊してしまったがソビエト連邦と、ソ連の勢力下の東欧の国々などが、このようなマルクス的な理念の社会主義国であった。 冷戦時代の社会主義国の議会の特徴として、一党独裁である。(国によっては、形式的には複数政党が存在している場合もあるが、実質的に一党独裁制である場合ばかりだったので、本wikiでは便宜上の都合で「一党独裁」として扱う。)この独裁政党は、社会主義の理念を持つ政党である。ソ連では「共産党」という政党が独裁していた。中国では現在でも共産党が独裁している。ソ連や中国の権力は、この共産党に集中しているので、権力集中制という。 しかし、計画経済を導入していたソビエト連邦や中国などでは計画経済が思うように上手く行かず、冷戦の後半には、計画経済をだんだん廃止していった。 現代では、中国でも市場経済のシステムを取り入れたりとしてるように、今では「社会主義国」とは単に一党独裁またはそれに近い制度の国のことであろう。 現在(2015年)、社会主義国を維持している国は、中国・ベトナム・キューバ・北朝鮮などである。なお、現在の中国は形式的には、一党独裁ではないが、実質的に中国共産党が独裁的に支配している。 中国では1989年に、学生などが民主化を求めるデモを起こしたが、中国政府によって弾圧された。この1989年の弾圧を天安門事件という。 現代のロシアは、名目上は民主主義国であり、社会主義国ではない。東欧の多くの国は、民主主義国である。 中国の立法府は全国人民代表大会であり(全人代)、これが中国の最高機関である。また、中国の立法府は一院制である。 全人代は毎年一回、開催される。全人代に解散は無い。全人代の議員の任期は5年である。 中国の行政府は国務院といい、全人代よりも低い権力の組織である。司法についても、中国の最高司法機関である最高人民法院は、全人代よりも低い権力である。 経済政策については、現在の中国では市場経済(「社会主義市場経済」)が取り入れられており、私有財産は、ほぼ認められている。 中国の政治は「社会主義」とは言うものの、マルクスやエンゲルスの考えた「社会主義」とは、中国の「社会主義」は違っている。 第二次大戦後、欧米などによる植民地支配を打倒して、多くの独立国が誕生した。これらの多くの新たに誕生した独立国の多くは、民主主義または社会主義の制度を取り入れた。 民主主義を取り入れた新興国の中には、貧困などのため、なかなか民主主義の確立がうまく行かず、国内の民族対立などで混乱した国もあった。 冷戦下の韓国は、経済開発を民主化よりも優先して目指す国が現れ、そのための独裁をした。これを開発独裁という。
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日本では、明治憲法も日本国憲法も、憲法の改正が、とてもしづらい仕組みになっている。 このように、通常の法律の改正と比べて、憲法の改正がしづらい仕組みの憲法を硬性憲法(こうせい けんぽう)という。 日本国憲法は、第二次世界大戦の終戦直後に制定されたから、それ以来、現在(2015年に記述)まで一度も改正されたことがない。 いっぽう、硬性憲法に対して、通常の法律の改正手続きとほぼ同じように比較的簡単に憲法を改正できる国の場合、そのような改正しやすい憲法のことを軟性憲法(なんせい けんぽう)という。 日本の憲法は、明治憲法も日本国憲法も、条文が存在している。このように条文として存在している憲法を成文憲法(せいぶん けんぽう)などという。 しかし、イギリスでは、憲法の条文が存在しておらず、イギリスではマグナ・カルタや名誉革命のときに出された権利章典などが憲法の条文の代わりとして、一般の法律を決める際の方針になっている。 イギリスのように、憲法の条文を制定していない場合を不文憲法(ふぶん けんぽう)などという。
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今でこそ各国は自国の主権を明確に意識しているが、古代・中世では、そうではなかった。 主権国家の概念が出てきたのは、絶対王政などが背景にある。 ウェストフェリア条約(1648年)で、主権国家の概念が出てきた。このウェストフェリア条約とは、ドイツ三十年戦争を終了させるためにウィストフェリア地方で開催された国際会議での条約である。 近代の欧米では、もし各国の軍事力が釣り合っていれば、どの国が他国に侵略をしかけても可能性が少ないので、戦争が減らせるだろうというバランス・オブ・パワー(勢力均衡)(balance of power)の発想を、当時の人は考えた。 国家間の条約や、国際慣習が、国際法(こくさいほう)である。公海自由の原則も国際法である。 17世紀、オランダのグロティウスが、国家間の調停にも、自然法にもとづく法が存在するべきだと主張して、『戦争と平和の法』で、(現代でいう)国際法の考えを述べた。こののため、グロティウスは「国際法の父」と呼ばれる。 国際法では条文は必ずしも存在するとは限らず、グロティウスの当時は「公海自由の原則」は条文がない国際慣習であった。(公海自由の原則は、現在では国連海洋法条約などで成文化され条約化されている。) 戦争における捕虜(ほりょ)の取り扱いについてのルールも、国際法は定めている。このような、戦争に適用される国際法を戦時国際法(せんじ こくさいほう)という。 現在の国際社会では、大国よりも強い権力を持った国際機関は無く、国際機関は、大国が参加しないかぎり、あまり大きな影響力を持たないのが現状である。 国際法も同様に、大国には、あまり大きな強制力を持たない。 国際連合では国際法として普及している国際慣習を条文化する作業をしているが、国連には国際法を制定する権限は無く、あくまで国際法は条約や国際慣習などにもとづく。 ただし、国連も、国際慣習の一部ではあるので、国連および国連の整備した国際法についての条文は、国際法に比較的大きな影響をもたらす。 国際法に限らず、法律において、まだ立法化されていないが、慣習にもとづいて多くの国に守られている(事実上の)法のことを、「慣習法」という。(※ 普通科高校の範囲内。) ある国際慣習が、まだ条約になってなくても、その国際慣習が多くの国に守られていれば、国際法であると見なされる。このような、国際慣習の状態の国際法のことを「国際慣習法」という。(※ 検定教科書の範囲内) 国際法では、このような国際慣習法も多い。 「公海自由の原則」も、グロティウスの時代では(今で言う)国際慣習法であった。 いっぽう、国際法のうち、条約などによって成文化された法律のことを、成文国際法(せいぶん こくさいほう)という。 国際法に限らず、国会などで立法化された法律のように、条文として文書化された法律のことを成文法という。(※ 普通科高校の範囲内。) (※ 参考: 『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』に、「慣習法」、「成文法」などの法律の分類についての説明がある。) 成分国際法は、必ずしも名前が「○○条約」のような名とは限らず、「○○宣言」とか「〇〇議定書」などの場合もあるので、内容と締結の相手で判断する必要がある。国家と国家の条約でなくとも、国家と国際機関との条約または協定などであっても、国際法になる。(※ NHK教育 『高校講座 政治経済』「第14回 国際関係と国際法 放送日:7月8日 」の見解) 国内法を思い起こせば、国内法については、各国の国民が、その国の国内法に違反した場合は、その国の警察などから取り締まりを受ける。 しかし、国際法については、ある国が国際法に違反しても、その違反国を取り締まるような警察や世界政府のような組織が、けっして、どこかに用意されているわけではない。なので、国際法は、その実効性に限界がある。 また、ある国が、そもそも、ある国際条約を批准してなければ、その国際条約は、その(未批准の)国には拘束力を持たない。このように、国際法は、その拘束力に限界がある。(※ 清水書院の検定教科書に、このような記述がある。) しかし、たとえ国際法の実効性・強制力などに限界があっても、多数の国が設立した国際機関が、国際法に違反した国や個人について、裁判をすること自体は可能である。 そのような国際法違反を裁く裁判所は、第一次世界大戦後の国際連盟の時代から常設仲裁裁判所として存在していた。 国際連合は、これに代わるものとして、1946年に国際司法裁判所(ICJ、International Court of Justice )をオランダのハーグに設置した。これは、国家間の紛争や対立を裁くための裁判所である。 しかし、国際司法裁判所の裁判を開くには当事国双方の合意が必要なので、強制力が不十分である。 (1990年代に起きたルワンダ内戦がキッカケとなり、) 2003年には国際刑事裁判所(ICC、International Criminak Court)がハーグに設置された。 集団的な殺害(ジェノサイド)、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略に対する罪など、を裁く。 このICCの規定に、日本は2007年に加盟した。アメリカ・ロシア・中国・インドは、ICC条約には未批准である。 国際連盟や国際連合は、紛争の解決手段の一つとして集団安全保障(collective security)という概念を採用している。 集団安全保障とは、対立関係にある国もふくめて、国際紛争を平和的に国際会議などで解決しなければならなとする社会を目指すものである。 集団安全保障にもとづいて国際平和を達成する国際機構というアイデアは18世紀にすでにあり、ドイツの哲学者カントの著作『永久平和のために』に表れている。 実際に、このような国際平和の機構が作られたのは、第一次世界大戦を終了させるためにアメリカ大統領のウィルソンが提案して設立された国際連盟(League of Nations )であった。 しかし、国際連盟の集団安全保障は、しばしば加盟国どうしが対立するなどのため、実効性が乏しく、また全会一致を原則としていたため加盟国が対立すると決定を下せず、このような理由などもあり、国際連盟は第二次世界大戦を防げなかった。 もし、国連など国際機関での国際法の通説と、日本国内などある国での国内法が食い違っているとき、どちらを優先すべきなのでしょうか? このような場合について、日本の法体系では、特に、法的なルールは定まっていません。 日本国憲法98条には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあります。 日本では、よく評論家などが、条約は通常の法律に優先する、などと主張する場合もありますが、しかし、そのような主張の評論には、憲法的な根拠はありません。 日本国憲法では、いっさい、条約を国内の通常の法律よりも優先せよ、などとは、定めていないのです。 さて、多くの先進国では、国際条約にもとづいて、通常の国内法を立法していく事があります。 まるで、国際条約が、憲法であるかのように、通常の法律を立法する事例が、多くあります。 日本でも、日本の批准(ひじゅん)した様々な国際条約にもとづいて、国内法を立法する場合があります。 このような政治慣習をもとに、「条約は通常の国内法よりも優先する」(?)と主張する評論家なども、多くいます。 しかし、このような国際条約を反映した立法は、けっして何かのルールに定められたものではないのです。なので、条約を批准したにもかかわらず、その条約を批准している諸外国のような立法をしない場合も、日本では、実際に、あります。 じっさい、労働関係の法律でも、教育関係の法律でも、同じような条約を批准しあっている国々どうしでも、それぞれの国で、その労働分野や教育分野の法律の内容が大きく違います。 そもそも、憲法で条約を「遵守」しなさいと言われてても、その「遵守」とやらの基準は憲法には存在していないので、条約を批准しただけでは、せいぜい理想を確認しただけぐらいの意味合いしか持たない場合もあります。 日本では、このように、条約と通常の国内法との優先関係は、あいまいになっています。 よく、右翼や左翼が、自分たちの都合のいい条約を、政策の根拠に主張することがあります。(※ 右翼、左翼については『高等学校政治経済/政治/右翼と左翼、保守と革新』を参照せよ。) たとえば右翼なら、日米安全保障条約を根拠に、自衛隊の増強などの政策の正当性を主張したりします。いっぽう左翼なら、国連憲章などを根拠に、平和主義的な政策の正当性を主張したりします。 この際、あたかも条約に絶対にしたがわなければならないかのように、右翼や左翼が、主張したりすることも、よくあります。 ですが、そもそも条約どうし、理念が矛盾的に存在している場合もあります。例えば戦時における戦争の参加を前提にした日米安保と、戦争の違法化を目指した国連憲章は、そもそも原理的に理念そのものが矛盾的な状況にあります。 なので、そもそも、すべての条約に絶対にしたがうのは、条約どうしが矛盾している状況もあり、原理的にも無理な話です。 おそらく、実際に条約批准をした各国政府が可能なことは、せいぜい「条約を尊重する」という努力をすることぐらいです。 なお、そもそも法学的には、ある複数の法について、そのうちのある法の優先順位が高いことと、それが憲法のように上位規範の法律であるかどうかとは、いっさい別々のことです。 たとえば、国内法では、「特別法は一般法に優先する」という原則があります。(「特別法」とは何かについては『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』を参照せよ。「民法の特別法として、民事訴訟法や商法がある。」のような言い方をする。) 右翼や左翼で、自分に都合のよい条約だけを根拠に選んで主張をするような人には、こういう「特別法」という概念をあまり知らないでいる無知な人も、きっと多くいるでしょう。つまり、商業高校でも習うような、特別法という法学的な概念すらしらずに、国際政治をかたりたがる、あたまの悪い評論家も、日本には、たくさん、います。 なので、あまり、評論家の無責任な言説を、あまり信用してはいけません。 なお、法学者などが「条約を守るべきだ」などと言っても、これはせいぜい、法学者が「憲法を守るべきだ」というのと同様のことでしか、ないでしょう。 そして、その憲法は、実際9条は、実際には解釈改憲によって形骸化しており、守られてません。 もちろん理想的には、憲法と条約と通常の国内法とのあいだに、矛盾がないのが、望ましいことは、言うまでもありません。そんなことは、いちいち法学者に、言われるまでも、ありません。 しかし、現実として、さまざまな政治的な事情により、憲法と条約と国内法とのあいだに、矛盾が生じることがあります。
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大日本帝国憲法(明治憲法)は、当時のドイツの憲法を手本に作られた。 今でいうドイツにあたるプロイセン(当時)の憲法は、君主に強い権利を与えていた。そのプロイセン憲法を手本に、大日本帝国憲法は作られた。 明治憲法で定められた日本の主権者は天皇であり、日本国民ではない。そのいっぽうで天皇にも憲法を遵守するべきという立憲制のような義務を明治憲法では定めてある。 そして明治憲法は、主権者である天皇が、国民に対して憲法を授けるという欽定憲法(きんてい けんぽう)というものであった。 (欽定憲法とは、君主主権の憲法のこと。いっぽう、民衆が制定し、民衆の主権の憲法を民定憲法(みんてい けんぽう)という。) また、人民の基本的人権については、「法律ノ範囲内」とするというものであり「法律の留保」という条件が付いていた。今日の日本国憲法での、人権基本的人権は永久・不可侵という権利という考え方とは、違っている。 また、政治による軍隊の指揮権に関しては、明治憲法では天皇が軍を統治するというものであり、議会による軍の統治ではなかった。 このように明治憲法では、軍隊の指揮権が議会から独立しているので、これを統帥権の独立といい、統帥権は天皇大権(てんのう たいけん)とされた。 しかし日清戦争や日露戦争では、実質的には、議会と関わりの深い内閣の総理大臣が最終的には軍を指揮していたので、実態は明治憲法の名目とは異なる。しかし、満州事変の以降、軍部は、議会の国際協調路線に反発し、議会が軍部を抑えようとすると、軍部は天皇大権である統帥権の独立を根拠にして、議会による制御は統帥権を侵害するものだと主張して、軍部は議会に反発し、軍部は議会に従わずに暴走していった。 内閣については、名目上は内閣は天皇の補助にすぎなかった。このことを、内閣は天皇の「輔弼」(ほひつ)である,などという。 司法についても、名目上は、天皇を補助する機関にすぎない。議会についても、名目上は、天皇を補助する機関にすぎない。 このように、明治憲法では、天皇が、司法・立法・行政をすべて統治権(とうちけん)を持っていた。 もちろん、実際に裁判所で司法の実務を行ったりするのは裁判官であるし、役所などでの行政の実務を行うのは、その役所の公務員などである。 第二次世界大戦の終戦後に日本を占領したアメリカ軍の連合国軍総司令部(GHQ、General HeadQuarters)の司令官マッカーサーが、占領政策のための大日本帝国憲法の改憲案として憲法草案要綱を元に作られたマッカーサー草案が、現代の日本国憲法の、もとになっている。このマッカーサー草案を元に、日本国政府が新憲法の草案(そうあん)を作った。 日本国憲法は、大日本帝国憲法の改憲として帝国議会に提出され、帝国議会で草案は可決され、こうして日本国憲法は制定され1946年に公布された。 日本国憲法は、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を3大原則とする。
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日本国憲法第11条、97条には「人権の永久不可侵性」がうたわれている。実際に条文をみてみよう。 基本的人権は「国家に先立つもの」として、すなわち「人間が生まれながらにして持っている権利」であることを示していることに注意しよう。こうした思想は自然権思想と呼ばれる。 小林多喜二を読みかえすまでもなく、国家権力は国民を苦しめてしまう。そのために必要とされたのが憲法である。そのため、人権規定が非常に重要なのである。 さて、本節ではこうした人権規定を見ていくが、憲法条文だけでは必ずしもその意味が伝わりやすいとはいえない。よって、重要条文については、憲法のさまざまな判例[1]を見ていくことによって、その真意を理解していくことにする。 基本的人権のそもそもの根拠条文は第13条である。 この条文を見ると、我々は個人として尊重され、幸福追求に対する国民の権利は、最大限尊重されるということがわかる。憲法第13条は個々の権利の根源に個人の尊重と幸福追求権があることを示している。 なお、幸福追求権は、後述する新しい人権の根拠にもなっている。 しかし、そうした自由や権利は、国民が努力して守っていかなければならないことが12条に書かれている。我々は権利をしっかり理解して、それを保持していく必要がある。 さて、ここで、憲法に書かれている権利を主張するAとBがいたとしよう。どちらも、憲法に書かれている権利であるため、それを行使することは認められている。しかし、その権利が相反するものであったとしたら、どうだろうか。 例えば、プライバシーの権利を主張する有名人と、表現の自由を主張する週刊誌との間で、揉め事が起こったとする。プライバシーの権利も、表現の自由も、どちらも憲法に書かれている権利である。さて、この場合、両者が100%自己主張することは難しいわけで、調整が必要な場合が出てくる。その調整が「公共の福祉」である。 「公共の福祉」とは、社会全体の利益と解される。社会全体の利益を考えて憲法を解釈する必要があるということが、「公共の福祉」という言葉に表れている。なお、具体的な運用については、薬事法訴訟などの判例で触れることとする。 法の下の平等の根拠条文は、第14条である。 法の下の平等にかんする判例は、以下のようなものがある。 まず、概要を確認しよう。 尊属殺人の刑が死刑・無期懲役のみのため、執行猶予(懲役3年以下)をつけることができないことが、尊属という身分を不当に保護するものであり、平等権に反するとして争われた事例である。最高裁判所は原告の訴えを認め、当該規定を違憲とした。 そもそも、「尊属」というのは、「父母と同列以上にある、目上の血族」のことを言う。換言すれば、父母や祖父母などである。これらの人々に対する殺人が、尊属殺である。 まず、殺人罪は199条で規定されている。「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」というものである。現在は、殺人罪については199条のみであるが、以前は200条において、尊属殺についての規定があった。それが、「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」である。199条と200条の違いは、199条においては、懲役刑が適用される可能性があるが、200条においては、死刑か無期である。 さて、この事件の被告は非常に不幸であった。彼女は、実の父親に幼いころから不倫の関係を強いられ、5人の子どもまで生まされた。しかし、すべてを理解して「結婚しよう」という青年が現れ、被告がそのことを打ち明けると狂った父親は彼女を軟禁したのである。そしてある日、酒を飲んで泥酔している父親を、彼女は絞殺してしまった。 前述の通り、尊属殺人罪には、選択刑が死刑か無期懲役しかない。執行猶予は4年以下の罪にしか適用できないから、被告は100%実刑となってしまう。しかし、このような「他人よりもひどい父親」を、法律で保護する必要などあるのだろうか。そもそも、尊属とその他で刑罰を変えることは平等権に違反しているのではないか、ということが問題となった。 最高裁は、尊属殺と普通殺を区別して処罰することじたいにはあながち不合理であるとはいえないとした。すなわち、刑を重くすることじたいは平等権に反しないとした。しかし、尊属殺の刑罰が死刑または無期懲役に限られるのはあまりにも厳しいとして、合理的な差別とはいえない、とした。 よって、最高裁はこの規定を憲法違反と判断し、平成7年には刑法が改正され、尊属殺は刑法から削除された。 こちらも、まずは概要を確認しよう。 1972年の衆議院選挙の一票の格差が4.99倍に達していたことが、選挙権の平等に反するとして争われた事例。最高裁判所は、投票価値の格差が不合理な程度に達し、合理的期間内に是正がなされない場合は違憲となるとした上で、当時の選挙は違憲であると判断した。 さて、1972年の衆議院選挙では、選挙区間の一票の格差が、最大4.99倍であった。 すなわち、ある選挙区の候補者が当選するには、ある選挙区の候補者の4.99倍の票を取らなければならない、という状況を示す。 これは、逆に見れば、ある選挙区の有権者(Aとする)の票は、ある選挙区の有権者(Bとする)の1/4.99ということであり、これはある意味、「Aの権利はBの1/4.99しかない」ということになる。これは平等権に反するとして訴訟になった。 最高裁の判決は違憲判決[2]であった。これにより、「おおよそ1:3以上は違憲になる」という原則が確立したとされる。 なお、衆議院においては、違憲判決が出たことは上記含め、過去2回あるが、参議院については、違憲判決は一度も出たことはない。 自由とは何からの自由なのか。国家からの自由である。例えば、国家に拘束をされないことや、国家から特定の思想を持つように植え付けられないことなどが国家からの自由にあたる。 国家によって縛られない権利ということである。この自由権は、「精神の自由」「身体の自由」「経済の自由」の3つに分類される。それぞれを見ていこう。 精神の自由の根拠条文は、19条、20条、21条、22条、23条である。 これは、思うことや考えることは、当人の自由であるということで、国家によってどのような思想を強制することもあってはならないというものである。 たとえ、誰かを殺したいと思ったとしても、あるいは、日本に革命を起こしたいと思ったとしても、それを実行にうつさなければ、すなわち、思うだけならば、何ら処罰されたりすることはないのである。 思想及び良心の自由にかんする判例は、以下のようなものがある。 東北大学を卒業後、三菱樹脂株式会社に就職した原告が、入社試験時に学生運動歴を隠していたことが虚偽の報告にあたるとして、3ヶ月の試用期間後に解雇された事件 この争点は、学生運動をしていたということが、解雇の理由になるかどうか、というところである。 学生運動とは、安保闘争に代表されるような、反戦運動、学費値上げ反対運動といったような活動をさす。誤解を恐れずにいうならば、左翼的な政治運動であった。 こうした運動が、企業にとって不都合であることは言うまでもない。しかし、個人がどういった思想を持つかは、各人の自由に任されていることは憲法に規定されている通りである。こうした思想・信条による差別が許されるかどうか、と言う点が問題となる。 これだけを聞くと、どう考えても、憲法が優先されるように見える。しかし、憲法は国と国民(人民)との間の法律であったはずである。企業は国ではないから、公私で言えば、私に属する。憲法の規定は、私人間に適用されるか否かが争点となった。 さて、最高裁は、原告が敗訴となり、憲法の規定は私人間には適用されないとした。 しかし、一方で、企業と個人では明らかに企業の方が力を持っている。こうした不均衡の状態で、差別が横行して良いのだろうか。そこで、民法の規定[3]をもちいて、憲法の規定が、私人間に間接的に適用されるとする間接適用説を採用したのである。 なお、当事者間で和解が成立し、原告は職場復帰を果たした。 これは単に、どの宗教を信じてもよいという意味である。 重要な点は、②、③にあるように、国家などが、強制することはダメだという点である。これを政教分離の原則とよび、世界でも一定の基準となっている[4]。 政教分離にかんする判例は、以下のようなものがある。それぞれの判決が、どのような論理でなされているかを理解したい。 三重県津市が地鎮祭を挙行したさいの費用を市の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。 地鎮祭とは、新築工事などを行う際に、土地の神に感謝し、工事の無事完成を祈る祭事のことである。こうした地鎮祭は、さまざまなところで行われており、宗教的行事と言うよりは、もはや習俗的な行事となっている。たいてい、家を建てる時などには、神主を呼んで、地鎮祭を行うのである。 よって、最高裁は上告を棄却し、地鎮祭を習俗的行事として合憲と判断した。 なお、こうした、行為の目的やその効果に基づいて判断する考え方を、目的・効果基準論と呼ぶ。 愛媛県知事が、靖国神社に対して玉串料の名目で県の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。 玉串料とは、祭儀の際に神前に捧げる、榊の枝に白い紙をつけたものである。 こうした玉串料は、習俗的行事なのか、それとも宗教的性質を帯びるものであるのか、が争われた。 最高裁判決では、愛媛県が、靖国神社に対して公金を支出することにより、神道への援助となると判断した。その行為の目的や効果が、特定宗教への援助になると判断したのである。 よって、この公金支出については違憲とした。 表現の自由は、他の自由権とは性質を異にすることに注意したい。他の自由権は、内心の自由が中心であるのに対し、表現の自由は、内心の自由を表に出す自由であるからである。 ここで問題となるのは、他者の人権と衝突する可能性があることである。調整が必要な場合が出てくるが、この問題が'''公共の福祉'''の問題である。 さて、21条には見慣れない言葉が出てくるため、語句の説明をしておくことにする。 「集会」とは人が集まって何らかのアピールをするものを指す。「デモ行進」なども「動く集会」として憲法で保障される。 「結社」とは、何らかの団体をつくることであるが、「政党」をイメージすればよい。なお、「政党」の文字は日本国憲法にはない。 「その他一切の表現」には、テレビや映画はもちろん、インターネットでの表現も含まれる。なお、「身体的表現」などもこれに入る。 「検閲」とは、行政権(主に警察)が表現物を事前に調べ、必要とあらば発表を禁止することを指す。戦前にやられていた「発禁処分」はこれにあたる。 「通信の秘密」は昔は手紙が盗み見されない権利を指す。今ではメールにも当てはまるとされる。 表現の自由をめぐっては、さまざまな訴訟が提起されてきたが、ここでは以下の判例に簡単に触れることとする。 小説『チャタレー夫人の恋人』は、DH・ローレンスという人が書いたもので、ヨーロッパでも猥褻本として発禁本になったものである。 この本を伊藤整という人が翻訳し、ある出版社を通じて発行したところ、刑法の猥褻文書頒布罪(刑法175条)にあたるとして起訴されたものであった。 この訴訟の争点は「表現の自由とわいせつ罪との関係」であった。 最高裁判所は人権とその制限に関する細かい判断をせずに、「表現の自由といえども公共の福祉によって制限される」という論法で、わいせつ罪は合憲と判断した。[5] 歴史学者の家永三郎教授はその著『新日本史』の発行にあたり、何百カ所にもわたる「検定意見」を付された。この検定制度が憲法で禁止された検閲にあたるとして提訴した事件。 そもそも、現在学校で使用されている教科書は、「文部科学省検定済教科書」と書いてあるはずである。実は教科書は、生徒の手に渡る前に文科省が検定を行い、それを通過したもののみが教科書として使用可能となる、ということになっている。こうした「検定」は「検閲」であるかどうかが争点となった。 さて、最高裁は、教科書検定は検閲にはあたらず、合憲であると判断した[6]。 教科書検定で不合格となってしまっても、教科書として使われることがないだけであり、(売れるかどうかは別として、)一般書として流通は可能である。すなわち、検定は検閲にはあたらないのである。 学問の自由の根拠条文は、23条である。 学問をするところは大学であるとされるから、学問の自由は、大学の自治と深い関連がある。学問研究の過程に国家権力等の妨害が入ってはならないということが規定されている。 戦前には、学問の自由に対する弾圧事件として、滝川事件と天皇機関説事件が有名である。これについては詳述しないが、こうした歴史的背景のもと、憲法では学問の自由を規定しているともいえる。 この事件は、東大校内で人形劇団ポポロが、政治的な事件(松川事件)に取材した劇を上演していたところ、警備情報活動のため潜入していた警察官を発見し、彼らに暴行を加えたというものである。 公務執行妨害で逮捕された東大生は、そもそも大学内に警察官(国家権力)が入ることは憲法に違反していると主張した。 この事件に関し、最高裁判所の出した結論は、大学の自治を認めるとは言いながら、実質上それを否定するものであった。すなわち、大学の自治は教授等の研究者の自治であって、学生はその対象者ではない、というものである[7]。 しかし、本来「大学の自治」とは、大学校内に権力が介入するのを禁ずる概念である。 しかし、この最高裁の論法では、研究者の自治、すなわち、何を研究するかは保障されるものの、大学への権力の介入が可能となってしまう。その意味で、実質上この概念は否定されたとも言える。 身体の自由とは、国家権力による奴隷的拘束や、拷問などを禁ずる規定である。 なお、憲法の中で最も条文を割かれているものが身体の自由である。 こうした規定が重要である分野は、言うまでもなく刑事司法である。 よって、憲法上での論点はほぼないため、項を変えて、条文の解釈に留めることにする。 ①「奴隷的拘束及び苦役からの自由」(18条) 旧日本軍への徴兵や軍需工場などへの徴用を禁止する趣旨である。従って、日本で徴兵制を採用することは出来ない。 ②「法定手続の保障」(31条) 犯罪の被疑者を逮捕し、処罰する際には「適正な」実体法と手続法を必要とする旨を定めている。 ③「令状主義」(33条) 不当な逮捕を抑止しようとするものである。 逮捕が権力者の恣意にながれるとしたら、身体の自由は確保されないため、逮捕は裁判官の許可、すなわち令状がなければ出来ないと規定している。なお、令状は裁判所が発行する。 ただし、例外も存在する。それが「現行犯逮捕」である。例えば、万引きなどを見たときに、令状を待っていれば逃げられてしまう。そのために、例外を認めている。 ④「抑留・拘禁の要件」(34条) 逮捕された人には弁護人を依頼する権利がある。弁護人を依頼するお金がない時も、国選弁護人と呼ばれる弁護士をつけることができる。 また、公開法廷で逮捕理由の開示を求めることもできる。これらの権利の存在を被疑者に告げなかったときには、抑留・拘禁は違法になる。 ⑤「住居の不可侵」(35条) 警察による被疑者の住居の捜索・押収にも令状は必要である。 ⑥「拷問・残虐刑の禁止」(36条) 拷問や、残虐な刑を禁止している。なお、残虐な刑とは、磔の刑や、釜茹での刑が当たる。 ⑦「被告人の権利」(37条) 「迅速な裁判を受ける権利」「証人審問権」「弁護人依頼権」である。 ⑧「自白法則」(38条) 自己に不利益な供述を強要されない権利、拷問等に基づく自白は証拠として採用されない権利、本人の自白以外に証拠がない場合には有罪とならない権利を規定している。 ⑨「遡及処罰の禁止・一事不再理」(39条) 行為時に合法であった行為を、事後法により処罰することは出来ないと言うのが、訴求処罰の禁止である。 一度無罪とされた行為や罪を償った行為についても、重ねて刑事責任を追及することは出来ないと言うのが、一時不再理である。 経済の自由が規定されているのは、第22条、第29条である。 なぜ、①で居住・移転の自由を規定しているのかといえば、この自由がなければ、経済活動を行うことが難しくなるからである。自由に動くことができてはじめて、経済活動が可能となるために、居住・移転の自由が経済の自由として規定されている。 さて、歴史的経緯は省くが、ワイマール憲法において、「所有権は義務を伴う」(153条)とされているように、経済活動は上述の2つの自由権と比べて、制限されるべき権利とされている。 もちろん、人権の一つであるから、守られなければならないものの、人権同士が衝突した場合、折れやすいのは経済の自由である。 22条、29条にあるように、「公共の福祉」というのがそれを示している。ただし、そもそも「公共の福祉」は、憲法12条にも書かれているものであるから、全ての人権にかかわるということが大前提である。 ところが、経済の自由に関係する条文には「公共の福祉」が何度も登場している。そして、経済的自由権は社会的相互関連性が強い。すなわち、経済的人権は精神的自由権などよりも比較的強度の規制をされやすいということを示している。 このような運用を「二重の基準」と呼び、憲法解釈のさいには、経済的人権を制限する形で調整を図る。 上記の経済の自由が問題になった事例が薬事法訴訟である。この判例は、かつて薬事法という法律で半径100mの範囲内で薬局を新設できないと定められていたことに対し、「営業の自由に反する」として訴訟になったものである。 日本の国には規制が多いとも言われる。例えば、塩、タバコ、米、酒などは一部の公社しか販売できなかった。これを専売制と呼ぶが、薬局にも、こうした規制として、距離制限があったのである。この距離制限は違憲であるとしたのが、この薬事法訴訟である。 しかし、なぜ薬局には距離制限があったのだろうか。 ここを理解するためには、前述の「二重の基準」が重要となってくる。 さて、「人権」と「法律」の優先関係は、原則、「人権」>「法律」であることは理解できよう。 さらに、人権を細分化すると「精神・身体の自由」>「経済の自由」であった。 ということは、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」となるはずである。 ところが、これは原則であって、例外が存在する。経済の自由よりも優先される法律が存在するのである。それが、「弱者のための法律」である。 というのも、経済の自由を優先しすぎて、貧困層と富裕層の格差が非常に大きくなってしまうという歴史があった。こうした大きすぎる格差は好ましくないため、経済の自由よりも、弱者を保護するための法律を優先する必要が出てくるのである。 すなわち、法律も細分化され、「精神・身体の自由」>「弱者のための法律」>「経済の自由」>「一般の法律」と解釈する場合が存在するのである。 薬事法訴訟においては、その法律が、「弱者のための法律」であれば、経済の自由より優先されるため、違憲とは言えない。例えば、薬局が濫立することにより、価格競争がおきてしまうことにより、薬の質が下がり、弱者の健康が害されることが予想されるならば、それは「弱者のための法律」である。 しかし、当時の薬事法の規制は、そうしたことを目的としていない。薬局がないか、きわめて少ない地域を解消することが目的であった。 すなわち、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」という原則に戻り、無薬局地域をなくすためという目的で、距離制限を設けることは、国民の営業の自由を不当に侵害しているものであり違憲であると判断された。 こののち、薬事法は改正され、距離制限規定が撤廃された。 知的財産権とは、形の有無にかかわらない、価値に関する権利である。例えば、デザインやアイデアなどであり、こういったものを知的財産という。 知的財産を保護しなければ、ある人が考えたアイデアを他者が自分が考えたかのように報告する(剽窃と呼ぶ)ことも可能となってしまう。 こうした動きを受けて、2005年に知的財産高等裁判所[9]が設置された。 知的財産権は、大きく2つの権利に分かれる。 ①産業財産権 開発、発明などの権利である特許権、デザインの権利である意匠権、マークなどの商標権がある。なお、これらは出願や登録が必要な権利である。 ②著作権 著作物についての権利である。著作物とは、形の有無にかかわらず、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する表現物であれば発生する。 また、著作者が傷つけられないように保護するための著作者人格権も付随する。 ①と異なり、著作権は創作された時点で著作権が発生する。 ただし、著作権における例外、すなわち著作物を使用できる場合も存在する。 高校生〜大学生でよく触れる例外は、「引用」であろうため、引用について簡単に説明する。 例えば、レポートなどを書くときは、他者の意見を載せる必要が生ずる。しかし、他者の意見はその時点で著作権が発生しており、無断で使用すると著作権の侵害となる。 そこで、引用を行うわけだが、引用は、以下の点に留意する必要がある。[10] ①明瞭区別性 引用の部分と自分の文章が明確に区別されていることが必要。多くの場合、引用は「」で示す。 ②主従関係 自分の文章が主であり、引用が従であることが必要。引用は自分の文章の補完としてのみ使用できる。 自由権が「国家からの自由」を意味するとすれば、社会権は、「国家への自由」とも呼ばれる権利である。19世紀に貧富の差が拡大し、社会問題化したため、それを解決するために政府が積極的に支援策を講じる根拠である。 憲法においては、「生存権」「教育を受ける権利」「勤労権」「労働三権」を規定している。ただし、後述するように、実質的な権利としては、「労働三権」のみである。 生存権の根拠条文は25条である。 漫画、ドラマ等で有名になった条文である。国が、健康で文化的な最低限度の生活を保障する規定である。この健康で文化的な最低限度の生活とはどのような生活なのかが、論点となる。 生活保護の月額600円が安すぎるために提起された。国の定める生活保護の基準が低く、憲法25条に違反しているとして、訴訟が起こされた。 この問題に対し、最高裁判所は「憲法25条は具体的な国民の権利を定めたものではなく、国の努力目標を書いたものにすぎない」という判断をした。これをプログラム規定説と言う。 プログラム規定説とは、日本国憲法の生存権(第25条)は、国の努力目標(= プログラム)を書いたものに過ぎず、具体的な施策を義務化したものではないとして、よって生活保護での具体的な施策の内容の決定については、国会や内閣の裁量に任されており、財政状況や世論などにもとづいて国会・内閣が決める、とする説である。 この論理によれば、25条に基づいて訴訟を提起しても必ず敗訴することになる。その意味で、25条は権利ではないとも言える。なお、この訴訟ののち、生活保護法の改正により、生活保護額は増加した。 目が見えず、女手一つで子どもを育てていた人が、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止を定める当時の法律が25条に反するとして訴えたものである。 最高裁判所はやはりプログラム規定説により、訴えを退けた。 しかし、その後立法の手当てがなされ、併給禁止規定は削除された。 教育を受ける権利が規定されているのは26条である。 論点は特にはないものの、これもプログラム規定とされている。 また、②を見ると、主語は親であって、生徒ではないことに注意したい。 勤労の権利が規定されているのは27条である。 国民が国に対し仕事を要求できるという権利である。これもプログラム規定とされる。国が、国民に仕事を与える、最大限の努力をすればよいということになる。 なお、①には、「義務を負ふ」と書かれているものの、プログラム規定であるため、あまり意味を持たないと言える。働かないからといって、逮捕されることはない。 勤労の権利が規定されているのは28条である。 労働者の権利を不当に侵害する使用者に対して、労働者を守ろうとするものである。この権利はプログラム規定ではなく、侵害された場合は裁判所に訴えることができる。 「団結権」は文字どおり団結できる権利であり、労働者が労働同組合をつくる権利である。使用者は労働者が労働組合をつくろうとしたときに妨害してはならないとされる。 「団体交渉権」は使用者側に対し、労働組合が交渉を求めることができる権利である。 「団体行動権」は、争議行為、すなわちストライキなどの実行を許容する権利である。 使用者と労働者は労働契約を締結しており、労働者は働く義務がある。その義務を放棄することは、契約違反であり、民法上の契約不履行に当たるため、違法である。そうであれば、使用者は労働者に損害賠償を請求できることになるが、これを認めると、労働者を守ることはできない。 そこで憲法は、労働者のストライキなどに際し、損害賠償をしなくてもいいようにしたのである。 ただし、公務員法で公務員の争議行為は禁止している。しかし、憲法が明確に定めた人権を法律で奪うことはできないはずであり、この点が裁判で争われた。 憲法は1946年に公布されたが、その後改正されていない。そのため、憲法が制定された当時は考えられなかった人権が主張されてきた。既存の人権規定をもちいて、新しい人権を主張する動きがあり、これらを総称して新しい人権と呼ぶ。後述するように、基本的には認められていない権利であるが、今後の判例次第では認められる可能性もある人権である。 新しい人権は、根拠条文と、判例が非常に重要であるので、その点をしっかりと理解したい。 根拠条文は、13条の幸福追求権と、25条の生存権である。 名前そのまま、「良い環境を享受する権利」である。 この権利は、大阪空港の夜間飛行差し止め請求の中で提唱された。判例を理解しよう。 大阪空港は住民の居住地が空港のすぐ近くにある。住民は航空機のもたらす騒音に日夜悩まされ続けており、住民は「せめて夜間だけでも飛行機の発着を止めてくれ」と言って提訴した。 しかし、この訴訟で住民の主張は認められなかった。最高裁は住民福祉よりも経済的合理性の方を優先した。また、環境権についても最高裁は認めなかった。これについては現在でも状況は変わっていない。 と言うのも、環境権は所有権と相性がわるく、憲法に規定されている所有権を優先せざるを得ないからである。 環境権に付随して、日照権、静穏権、入浜権、眺望権、嫌煙権などが主張されたものの、嫌煙権を除いて認められていない。なお、嫌煙権はタバコの煙が嫌だと主張する権利であり、煙の影響を考えれば、権利として認められやすいのである。 ただし、環境は重要であり、一切を認めないことは、不都合である。そこで提唱されたのが環境アセスメントである。事前に環境に大きな影響を及ぼす開発について、その影響を調査・予測し、必要であれば開発許可を下さない、とする制度である。地方自治体にはこれを義務付けたところもあり、こうした動きから1997年に環境影響評価法が制定された。 根拠条文は、13条の幸福追求権である。 プライバシーの権利は、第一の意味としては、「私生活をのぞき見されない権利」と定義される。 これを示した初めての判例が「宴のあと」事件である。ただし、下級審判例であり、この裁判では最高裁は判断を下していない。 現在では積極面がプラスされ、「自己情報のコントロール権」と定義するのが通説。インターネットの発達により、メディアに参加できる人物が大幅に増えた影響で、情報の正確性は非常に問題がある。 そこで、間違いであれば訂正を求めることができる、コントロール権が主張された。 消極面としての「私生活をのぞき見されない権利」というのは変わらないが、これに「自己情報を公開し、訂正を求めることができる権利」という積極的な側面が加えられたのである。 個人情報についても、プライバシーの権利と密接な関係がある。2003年には個人情報保護関連5法が制定された。これは、個人情報保護法と、行政機関の保有する個人情報保護にかんする法律からなる。 その一方で、通信傍受法、マイナンバー制度など、国民のプライバシーの権利と対立するような法律も制定されており、この辺りの権利の侵害の問題も注視する必要がある。 最高裁判例で、プライバシーの定義について定めたものはない。 三島由紀夫作の「宴のあと」と言う小説が問題となった事件である。 この小説は外務大臣だった原告の私生活をえがいたものであり、「プライバシー侵害」として訴えた。三島は東京地裁で和解して訴訟を終結させたため、最高裁の判決を待たずに東京地裁でプライバシー権が認められた判例である。 柳美里作の「石に泳ぐ魚」と言う小説が問題となった事件である。身体的特徴を持つ原告が、「プライバシー侵害」として訴えた。最高裁でも原告が勝訴し、最高裁でもプライバシー権が認められた。 根拠条文は21条の表現の自由である。 そもそも、政府は国民の代表であり、国民は政府をコントロールしなければならない。 その上で重要なのが、知る権利である。 権力は放っておけば必ず腐るのは歴史が証明している。従って常に「批判」していかなければならない。適切な批判のためにはさまざまな情報が必要であり、それが知る権利である。 国は、情報公開法に基づいて情報を公開しなければならず、こうした権利を行使していく必要が国民には存在していると言える。 一方で、2013年に外交や防衛などの「特定秘密」を漏洩したものには重罰を科すと言う特定秘密保護法が制定されたが、こうした法律と、国民の知る権利の関係が問題となっている。 根拠条文は21条の表現の自由である。 簡単に言えば、マスメディアの誤った報道などについて、被害を受けた人が主張や反論をできるという権利である。 尤も、わが国の判例では認められていない。 根拠条文は、13条の幸福追求権である。 人によって生き方の幸福は異なるため、自分の生命のあり方などについて自分で決定すると言う権利である。 例えば、尊厳死や安楽死などといった死に方を選べる権利などがあげられるが、日本では尊厳死、安楽死ともに認められていない。 人権を実現するための、さまざまな権利がある。 裁判を受ける権利、損害賠償請求権、刑事補償請求権、参政権、請願権、憲法改正のための国民投票、最高裁判所裁判官の国民審査、特別法の住民投票などがある。 憲法の性質からして、義務を制定することは好ましくない[11]。そこで、義務規定はあるものの、権利に比べて非常に少ない規定となっている。それが、国民の三大義務と呼ばれるものである。 教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)である。
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憲法9条と自衛隊との関係の議論について、政府に見解は、政府は憲法を改憲することなく、憲法条文の解釈や運用を社会情勢にあわせて変えてきて、政府は自衛隊の存在を正当化してきた。このことを解釈改憲(かいしゃくかいけん)という。また、政府の見解は、ときとともに変わるので、その憲法9条の政府解釈も変わってきた。 1952年の吉田茂(よしだしげる)内閣の以降から2015年の今日までの政府の憲法9条解釈の内容は、おおむね、憲法9条で否定した「戦力」とは、外国の領土を侵略するための軍事力だけであると解釈し、9条では日本の自衛の権利は認めておると解釈し、よって自衛のための最小限度の軍事力は「戦力」に当たらないとするので「自衛隊」は合憲である、というような解釈が一般的である。 自国(= 日本)に対する武力攻撃については、(日本が)反撃できるとする権利を個別的自衛権(こべつてき じえいけん)という。いっぽう、自国ではなく同盟国(= アメリカ)などに対する武力攻撃について自国が反撃する権利を集団的自衛権(しゅうだんてき じえけん)という。 憲法9条では、個別的自衛権は認めている、と日本政府は解釈している。 集団的自衛権については、過去の、戦後昭和期の日本政府は、集団的自衛権は違憲であるとする判断を下してきた。1970年代、当時の与党の自民党政権が、集団的自衛権を持たないとする判断をくだし、その判断が冷戦の終了までしばらく続いてきた。 なお、この集団的自衛権の違憲判断を下したのは、裁判所の判断ではなく、あくまで政府の判断である。(なお、2017年現代では、日本の政府見解では、集団的自衛権を違憲とするかどうかは、不明瞭である。) いっぽう、国際法では、国家は集団的自衛権を持つと考えられている。国連憲章の第51条で、集団的自衛権を加盟国に認めてると考えられている。 よって、日本国は、国際法によって集団的自衛権を持っているが、日本国憲法によってその集団的自衛の行為を禁止しているということになるだろう。 このため、日本政府は「専守防衛」(せんしゅ ぼうえい)の原則をかかげている。この原則のため、相手から攻撃を受けてから、自衛隊は反撃できると考えられている。また、その反撃は、自衛のために必要最小限であるべき、と考えられている。 また、自衛隊の保有している兵器などの実力は、「戦力」ではなく「防衛力」「自衛力」であると、過去の日本政府は主張していた。 いっぽう、民間人の起こした裁判で、自衛隊基地や米軍基地などは憲法違反ではないか、というような内容の裁判が、何度か起こされた。 自衛隊については、長沼ナイキ訴訟(ながぬま ナイキ そしょう)や百里基地訴訟(ひゃくりきち そしょう)が起こされた。日米安保についての訴訟では砂川事件(すながわ じけん)がある。 しかし、最高裁は、憲法9条についての判断は、司法の範囲外だとした。高裁の主張では、憲法9条の判断については最高度な政治性を要するので、その憲法判断は国会が下すべきだとし、憲法判断にはなじまないとして、自衛隊の合憲・違憲の判断を最高裁は出さないまま、最高裁は訴訟の原告の訴えを棄却した。このような、憲法9条の合憲・違憲の判断は、司法にはなじまないとする、最高裁の判断を統治行為論(とうちこういろん)という。 1968年、北海道の長沼町で、航空自衛隊の地対空ミサイル(ナイキミサイル)の基地建設があった。この建設のため、農林省は保安林の解除をした。これに対して、地元住民が、保安林取り消しは違法だと訴えた訴訟である。1973年、札幌地裁では、自衛隊が憲法違反とした。1976年、札幌高裁は、統治行為論を用いて、憲法9条の判断は司法審査になじまないとし、地裁の違憲判決を取り消し、また合憲か違憲かの憲法判断を回避した。1982年、最高裁は、憲法9条の判断については司法の範囲外であるとし、憲法判断を回避し、上告を棄却した。 茨城県の航空自衛隊の百里基地の建設をめぐる、国による基地予定地となる土地の、国と土地所有者との売買について、基地反対派が起こした訴訟。 地裁は、土地売買は、土地の売買そのものは国が行う場合であっても私的行為に類するとして、憲法9条とは無関係であるとし、合憲・違憲かは無関係とした。 1989年、最高裁は、この土地売買は私的行為であるとして、上告を棄却。この最高裁判決では、統治行為論は使われていない、と考えられている。 日米安保条約についての訴訟で、東京都立川市にある、在日米軍の立川基地に、基地拡張反対派の住民が突入した事件(砂川事件、1957年)についての訴訟。 在日米軍は憲法に違反してるかどうかが話題になったが、最高裁は統治行為論によって、高度の政治性を有するため司法審査の範囲外とした。 戦後、後述するように、日米安全保障条約の改正がたびたび行われ、そのたびに、自衛隊の在日米軍の支援範囲は、拡大してきた。このため、従来の政府見解とは矛盾をするという批判が、革新勢力(いわゆる「左翼」)からの批判によって、政府が批判されてきた。 まず、1951年におおもとの最初の日米安全保障条約(旧安保)が制定された。この旧安保にもとづき、米軍は日本駐留をした。 その後の1960年(昭和35年)、岸信介(きし のぶすけ)内閣により、日米安全保障条約の改訂(新安保)が行われた。 この1960年の安保改訂では、ひきつづき米軍が日本に駐留する事が明記され、また、日本から米軍への支援が、より双方的になった。 一方、アメリカは、この1960年の安保改訂にもとづき、日本を防衛する義務を負うことになった。 こうして、1960年の新安保条約によって、日米両国では、日本の共同防衛が義務になったのである。 なお、この安保改訂に反対する運動が盛り上がり、安保改訂への反対運動は安保闘争(あんぽとうそう)だと言われた。 しかし結果的に、日本政府は、安保条約を1960年に改訂し、上述のように、米軍が日本防衛の義務を負うことになり、日本は米軍への協力を強化することになったのである。 なお、1960年の新安保は、名称こそ「安全保障条約」とは言うものの、実質的には、軍事同盟である。(※ 清水書籍の検定教科書でも、そのように解説している。) 日本によるアメリカへの軍事協力に歯止めをかけるため、日本がアメリカに重大な軍事強力をするさいには、日米政府による事前協議が必要になっている。 安保条約は1970年以降、自動延長され、そして現在に至っている。 1970年代に沖縄が日本に変換された。 また、同じく1970年代、日本は、集団的自衛権を違憲とする判断をくだした。 また、1970年代、「日中国交正常化」により、日本は中華人民共和国と国交を樹立し、一方で、台湾(中華民国)との国交を断絶した。 また、1971年に非核三原則である「もたず、つくらず、もちこませず」の宣言も、衆議院で決議された。 なお、1976年に、日本の防衛費をGNP(国民総生産)比で1%未満とする原則が、三木武夫(みき たけお)内閣により出された。しかし、1987年に、中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣により、このGNP1%制限は撤廃されている。 しかし、1990年前後に冷戦も終わり、1990年代前半ごろから世界各地で紛争やテロが起き始めた。 まず、1990年に、イラクがクウェートに侵攻する湾岸戦争が発生した。湾岸戦争では、日本は自衛隊を海外に派遣していない。湾岸戦争では、自衛隊派遣のかわりに、日本は多額の援助資金により、アメリカ軍を中心とする多国籍軍への支援を行った。 このような事もあり、日本も、アメリカを中心とする国際社会から、世界で紛争などが起きたさいに、なんらかの支援や貢献を求められ、日本は自衛隊などを紛争地帯の警備や停戦後の復興支援などに出動するかどうかを検討せざるを得なくなり、集団的自衛権の見直しを求められるようになっていく。 また、冷戦終了が原因ではないが、1992年には、カンボジアの復興支援のための国連PKO(平和維持活動)として、自衛隊がカンボジアに派遣された。1992年に国連平和維持活動(PKO)協力法が成立している。 なお、このカンボジアの荒廃の原因は、カンボジアの以前の独裁者ポルポトによる同カンボジア人への大量虐殺および、そのポルポト独裁政権を打倒するためのカンボジア内部での紛争などが原因である。 日本にとっては、このカンボジアのPKO派遣が、日本にとっての初めての自衛隊の海外へのPKO派遣になった。 その後、自衛隊によるPKOは、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ネパールなどにも、派遣された。 日本は、PKOの参加のための、軍事協力への歯止めとして、以下のような条件からなる「PKO参加5原則」を出した。 とする、5つの条件である。 日本は、1990年代の当初、自衛隊の海外派遣と集団的自衛権の関係のあつかいについては、「国連の平和維持部隊は軍隊でない」的に扱う事として、あいまいにする方針だったが、しかし2001年にアメリカ同時多発テロが発生した(※ 米国にある世界貿易センタービルなどに、ハイジャックされた旅客機を衝突させて、大量殺戮をした。)。なお、この同時多発テロのあと、アメリカは、テロの主犯格(テロ組織 アルカイダ )をかくまっていたアフガニスタンに対し、報復のためにアフガニスタンのタリバン政権を攻撃した。 また、アメリカはイラクとの戦争を行い、アメリカがイラクに勝利し、アメリカ軍はイラクを占領した。(※ 同時多発テロを行った勢力は、イラクではない。) その後、日本はアメリカからイラクへの復興支援のための自衛隊派遣を求められたため、2003年にはイラク復興支援特別措置法(2009年失効)が制定され、そして実際に自衛隊がイラク南部の都市サマーワに派遣され、自衛隊は給水などの復興支援をした。このサマーワへの自衛隊派遣について、当時の日本国内の世論からは、憲法の定める専守防衛の原則から逸脱している、との批判も起きた。 また、2001年のアメリカ同時多発テロの後、日本はテロ対策のために軍事関連の法案を見直さざるを得なくなり、テロ対策特別措置法(2001年)などの、さまざまな法案が制定された。 また、2003年に有事関連法制三法案(自衛隊法改正、武力攻撃事態対処法、改正安全保障会議設置法)が成立した。 さらに2004年には、有事のさいに一般国民の避難や救護などを可能とするための国民協力の義務化とその方法をさだめた国民保護法が制定されるなどして、有事関連法案が追加されていき、有事関連法制は合計で七つとなり、有事関連法制七法案になった。 なお、1996年の時点で、もしも日本の周辺で紛争が起きたさいに、日本の自衛隊がアメリカ軍の支援を可能とする日米安全保障宣言が出されており、また、1999年には、そのための(日本の周辺で紛争が起きたさいの、自衛隊による米軍支援のための)法律である周辺事態法が制定されていた。 また、この周辺事態法は、日米両国の軍事協力の指針を定めている『新ガイドライン』にもとづくものである。 なおなお、上記のはなしを、年代順に並べなおすと、・・・ のような順番である。 2000〜2010年代、北朝鮮のミサイル開発問題や、ロシアのミサイル配備の問題などもあり、日本やアメリカではミサイル防衛網が整備・開発されている。 なお、2007年、防衛庁は防衛省に昇格し、権限も強化された。また、それまでは自衛隊の付随的任務とされていたPKO活動が、防衛省への昇格のさいに、自衛隊の本来任務のひとつになった。 2009年に成立した海賊対処法にもとづき、アフリカのソマリア沖に出現する海賊から、合法の船舶を護衛するために、日本の自衛隊および、その護衛艦が派遣された。 軍隊の本来の任務は、テロリストや敵国兵士などを倒すための戦闘こそが、本来の軍隊の任務である。大地震などの災害復興は、軍隊の本来の任務ではない。 しかし日本では近年、2011年の東日本大震災などのような大型地震などの災害時には、自衛隊がその機動力などを活用して復興支援などを行うことが多い。
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当政治経済では、国会について簡単に記述する。より、詳しい内容は後日執筆する公共の項目を参照してほしい。 国会(立法権)、内閣(行政権)、裁判所(司法権)を三権とよぶ。この三権が抑制と均衡の関係を持っていることを三権分立と呼ぶ。本節では、国会について記述する。 法律を作ることを立法と呼ぶが、日本の立法機関は国会であり、これは唯一である。このことは憲法41条に書かれている。条文を読んでみよう。 「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」(第41条) ここで、国権の最高機関とは、三権のうちで最も重要であるということである。けっして、内閣(行政組織)、裁判所(司法組織)よりも強大な権限を持っているということではない。(※範囲外)なおこれを「政治的美称説」という。 さらに、唯一の立法機関とは、法律を制定することができるのは国会のみであるということである。しかし国会議員しか(法律ではなく、その法の)法案を作れないという意味ではなく、官僚など国会議員以外が法案を考えることは可能である。なお、誰に法案を作ってもらっても、強制力のある法として制定するには、国会議員がまずその法案を国会に提出して、国会でその法が可決されなければいけない。内閣も総理大臣も国会議員であるので、内閣が国会に法案を提出しても良い。 また、もちろん、政令や省令、地方自治における条例など、国会以外も広い意味での法を作ることができるが、しかし狭義の法律、たとえば、公職選挙法などは、国会しか作ることができない。 上述のように、国会の権限としては、まず第一に立法である。そのほか、予算、条約の締結など、さまざまな権限を持っている。具体的には、以下の7つである。 1) 法律案の議決 2) 予算の議決 3) 条約の承認 4) 内閣総理大臣の指名 5) 国政調査権 6) 弾劾裁判所の設置 7) 憲法改正の発議 議員との全員が集まって行う会議を本会議と呼ぶ。有名なものとして、通常国会などがある。本会議の種類を以下にまとめる。 以上のように、全員が集まって行う会議もあるが、日本の国会は、委員会制を採用しており、実質的な議論は委員会を中心に勧められる。委員会の議決を経て、本会議に上程され、最終的に議決されるという流れになっている。 また、委員会には常任委員会と特別委員会が存在する。常任委員会の例としては、たとえば、予算委員会や、懲罰委員会などがある。特別委員会の例としては、災害対策特別委員会などがあり、名称は法令に規定されていない。なお、特別委員会から常任委員会に昇格する例もある。 日本の国会では、衆議院と参議院の両議院からなる二院制を採用しており、任期や選挙方法などに違いがある。 なお、衆議院において、2022年11月に小選挙区を10増やし、10減らす、いわゆる「10増10減」を反映した改正公職選挙法が成立している。このように、公職選挙法の改正によって、定数などは変更されやすいので、注意が必要である。 上記の図を見ると、衆議院の方が任期が短い、かつ、解散があることにより、民意をより反映できそうである。これを理由として、衆議院を参議院よりも優先する場合がある。これを衆議院の優越と呼び、衆議院と参議院の決定の一致がなされなかった場合などに衆議院の決定を優先する。なお、以下は憲法に規定されているものの一覧である。 1) 法律の再議決 2) 予算の議決 3) 内閣総理大臣の指名 1) 内閣不信任決議 2) 予算の先議権
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政党とは、共通の政治的目的を持つ者たちによって組織される政治集団のことである。政党は、政権を獲得し、自分たちの政策の実現をめざす。例えば、自由民主党(自民党)は、憲法を改正することを目的の一つとすることでまとまっている。 制度的に定められたものではないが、日本の議会制民主主義においては、衆議院で最多数の議席を得た政党が与党となって政権を担うのが通例である。 また内閣総理大臣は国会議員の選挙で選ばれる仕組みなので、慣例では必然的に与党の議員のなかから内閣総理大臣が選ばれるのが普通である(なお、与党の「党首」や「総裁」などと言われる党の代表者が内閣総理大臣になるのが慣例)。つまり、慣例では与党のリーダーが内閣総理大臣になるのが普通。 政権とは、行政権における権力のことで、原理的には、政権を獲得すれば、自党の目的を達成することができる。 一方で、政権を獲得できなかった政党のうち、与党と対立する政策の党は野党と呼ばれ、その役割は与党の政権運営を監視することである。 与党はべつに一つの政党である必要はなく、政策の共通性の多い複数の党が協力しあって与党になっても構わず、これを「連立政権」などと言う。 このように複数の政党が政策実現を競い合い、多数の政党が政権を担う政治のことを政党政治と呼ぶ。 第二次大戦中は、政党の活動が制限されていたが、第二次大戦終結の1945年から、政党政治の自由が復活した。そして、さまざまな政党が誕生した。 1955年には、左右に分裂していた日本社会党が統一され結成された。これに対抗し、同1955年に保守勢力の保守合同により自由民主党が結成された。そして、それから1995年まで、自民党と社会党という2つの大政党の対立を中心として、日本の国政が展開された。 しかし、実際には自民党のほうが有権者の支持が強く、自民党がほぼ40年間、与党で居続けた。この自民党優位の体制を、二大政党制と比較して、「1と2分の1政党制(1か2分の1政党制)」と呼ぶ。 1960年代には、自民党にも社会党にも不満をもつ人々をすくい上げるための政党がつぎつぎに誕生し、野党の多党化が進んだ。 自民党が政権を担う期間が長期になっていくにつれ、金によって政治が動かされる金権政治の面が出てきた(後述)。それによって、金権汚職事件が発生することになった。 例えば、元内閣総理大臣の田中角栄が逮捕されたロッキード事件はその最たる例である。 こうした汚職事件の原因は、当時の選挙制度である中選挙区制であるとして、一部の自民党議員は、選挙制度を改正し、小選挙区比例代表並立制の導入を求めた。 時の総理大臣は宮沢喜一であったが、自民党内の反対もあり、今国会での成立を断念し、次国会に先送りした。これに野党が反発し、内閣不信任決議案を提出。羽田孜などの一部自民党議員が造反し、実に13年ぶりに内閣不信任決議は可決。衆議院は解散された。 その結果、自民党は第一党を守ったものの、過半数に届かない大敗。1993年、細川護煕を首班とする非自民党(反共産党)による連立政権が樹立(細川内閣)。自民党による長期政権は終焉を迎えた。これをきっかけに日本の政党政治は、(自民党)単独政権から連立政権へとうつった。 細川内閣は紆余曲折ありながらも、1994年に公職選挙法を改正。衆議院の選挙制度を小選挙区比例代表並立制に変更した。なお、この時に政党助成金制度も導入されている。 「死票」とは、落選者に投じられた票のこと。 衆議院の比例代表制では、政党の得票数を「ドント式」と呼ばれる方法にしたがい議員に議席を比例配分する。そして、各政党の候補者名簿の順位の高い議員から、当選していく。その仕組みにより、死票が原理的に少ない。死票が少ないので、小政党でも当選の可能性が高まる。なので、説によっては、比例代表制で、民意をより反映した政治が行われやすいと考える説もある。ただし、そのせいで小政党が乱立して政治が不安定になるという説もある。どちらにせよ、比例代表制は小政党が比較的に当選しやすい方式である。 このように、小選挙区比例代表制は、小選挙区と比例代表制の欠点をおぎなう仕組みになっていると言えよう。 この点については、日本の選挙制度も参照されたい。 その後、細川護熙自身の金銭問題(佐川急便借入金)も絡み、突然の辞任。後任には羽田孜を首班とする羽田内閣が成立したが、こちらも短命であった。その後、イデオロギーで長年対立関係にあった自民党と社会党が手を組み、連立政権を樹立(自民党、社会党、さきがけによる連立)。社会党の村山富市を首班とする村山内閣が発足。自民党は与党に復帰した。自民党は野党に転落してから、わずか11ヶ月で与党に復帰した。 以後、2009年(麻生内閣)まで自民党は与党として政権を担った一方、社会党(1996年に社会民主党と党名変更)は、1997年の総選挙で議席を大きく減らし、第二次橋本内閣橋本内閣では、野に下った(閣外協力)。 以上のように、戦後日本の政党政治は自民党を中心に行われていた。ではなぜ自民党は長期にわたって政権を握り続けることができたのか。以下の2つの要因が考えられる。 自民党は、利益誘導型の政治によって広範な業界団体や利益集団(圧力団体)の支持を集めた。例えば、経団連や、日本医師会などは自民党を応援している利益集団である。自民党は、こうしたさまざまな政策立案を行うことにより、利益集団に利益をもたらす。つまり、自民党はさまざまな利益を代表した政党であると言うことができる。 一方で、政策を実行するためには予算が必要である。予算は限りがあるため、党内での予算の分配が重要となってくる(政策の調整が行われるのが政務調査会である)。そこで重要なのが族議員の存在である。族議員とは、ある分野に明るく、利益団体の利益のために省庁の政策決定に影響力を及ぼすことのできる議員のことである。例えば、工事関係の利益集団から応援され、公共事業などの政策に明るい議員は、国土交通省に影響力を及ぼすことができる(道路族)。小泉純一郎は、郵政民営化の際に反対した議員を「抵抗勢力」と呼んだが、それらの抵抗勢力は、いわゆる郵政族に分類することができよう。 派閥とは、党内の政党のようなものである。同じ自民党の議員でも、大きな枠組みは共通しているが、細かな点でスタンスが異なると言う場合がある。その際に、自民党の中で、考えが共鳴する人々が集まってできているのが派閥である。派閥を大きくすることによって、党内の影響力が強まり、総理大臣や国務大臣の席が近くなると言う利点があると言われる。 また、中選挙区制においては、各選挙区で2名以上が当選するため、自民党公認の候補者が複数名立候補することになる。いわば身内の争いをしなければならない。選挙には金がかかるが、それは自民党からの資金だけでは足りず、自民党の大物議員(派閥の領袖)からの資金が重要となってくる。これによって、派閥内の結束を強め、団結した行動をとることができる利点がある。 しかし、こうした派閥中心の政治を維持していくためには多額の政治資金が必要であり、違法な政治献金が横行してしまうと言う欠点がある(金権政治)。こうした問題から、汚職事件が発生することとなった。 上述のように、日本の政党政治は、単独政権から連立政権へとうつった。単独で政権を担当した政党は、宮澤内閣以降では、第二次橋本内閣、第一次小渕内閣のみである。村山内閣以降、→橋本→小渕→森→小泉→安倍→福田→麻生と、自民党の総裁が総理となっていった。 2000年代に入ると、自民党は公明党との連立を軸に政権を運営した。特筆すべきは、小泉純一郎を首班とした小泉内閣である。当時、1990年代の経済低迷(「失われた10年」)と少子高齢化により、行政のムダを減らすための行政改革が断行されていった。 こうした動きの中で、小泉は路線郵政公社を民営化するなど、聖域なき「構造改革」路線を打ち出した。 小泉内閣の路線は、これまでの自民党の政治が、利益誘導型の政治であったのに対し、「小さな政府」を志向とする政治へと変化した分岐点とも言える。小泉純一郎自体は国民に人気があった総理であったが、急激な改革によって、格差の拡大をまねくなどの批判は自民党への逆風となった。小泉内閣以降、自民党の内閣は1年ほどの短命政権が続いた。 そして、2009年衆議院議員選挙の結果、民主党を中心とした鳩山内閣が成立し、政権交代が実現した。しかし、マニフェストの実行断念や、東日本大震災への対応[1] 等に対して批判が相次ぎ、鳩山→菅→野田と短命政権が続いた。野田内閣時、2014年からの消費税引き上げを自民党・公明党と協力して決定したが、2012年衆議院議員選挙で民主党は惨敗し、再び政権交代が起こり、自民党と公明党連立による第二次安倍内閣が成立した。現在は「一強多弱」といわれるほど野党の勢力が弱く、自民党内でも首相官邸の権力が強くなり、集権化が進んだ。
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近代以降の選挙制度においては、民主的な選挙が遂行される必要がある。そのために、以下の4つの原則がある。 一定の年齢に達すれば、全ての国民に選挙権、被選挙権を与える選挙制度。反意語は制限選挙。 ある一人の投票の価値をすべて平等に取り扱う選挙制度。反意語は等級選挙。 誰が誰に投票したかを秘密にする選挙方法。反意語は公開選挙。 直接代表者を選ぶ選挙制度。反意語は間接選挙。 大きく2つに分けることができる。選挙区代表制度と比例代表制度である。また、選挙区代表制度は、大きく小選挙区制度と大選挙区制度に分けることができる。 代表者を選出するための区域を選挙区といい、それに基づいて当選者を選出する方法を選挙区制度と呼ぶ。例えば、東京都を人口等により30に区分し、その区域内で選挙を行う。選挙区制度は、大きく小選挙区と大選挙区に分けられる。 1つの選挙区から1人が当選する選挙制度。日本においては衆議院がこの制度を採用している。一つの選挙区から1人しか当選しないので、選挙区自体は比較的狭くなる。 選挙区が比較的狭いので、選挙費用が安くすむ点が、メリットとしてあげられる。日本の選挙改革の際に小選挙区制度が代替案に上がったのはこのメリットを重視したためである。詳しくは日本の政党政治を参照のこと。 また、小選挙区制度では1人しか当選することができず、2位以下は落選するため、トップを取ることができる政党、すなわち大政党(自民党など)が当選しやすく、政権が安定することもメリットとして挙げられる。 ただし、この点については、少数政党の意見が国会に反映されにくいというデメリットと表裏一体である。 この時問題となるのは、他の制度と比較して死票が多くなる傾向があるという点である。死票とは、落選者に投じられた票のことである。選挙という形態のため、死票は必ず生まれてしまうが、ただの多数決ではなく、民主主義にのっとって考えた場合、死票はできる限り少なくすることが望ましい。 1つの選挙区から2人以上が当選する選挙制度。日本においては参議院がこの制度を採用している。一つの選挙区から2人以上当選するので、選挙区は比較的広い。 原理上2位でも当選することができるので、少数政党でも当選することが期待できる。また、死票が他の制度と比較して少ないことがメリットとしてあげられる。 一方で、政権運営が難しくなったり、選挙区が比較的広いので、選挙にかかる費用は高くなってしまうというデメリットもある。 比例代表制度とは、各政党が獲得した投票数に比例して候補者に議席を配分する選挙制度である。多くの場合、選挙区代表制度と比例代表制度を組み合わせた選挙制度になっている。 この制度の主語は政党であるから、基本的に有権者は政党に投票し、政党は、その得票数に応じて議席を獲得する。議席の分配方法については、日本においてはドント式を採用している。 ドント式とは、比例代表制において政党の獲得議席を割り出すため計算方法のことである。各政党の総得票数を自然数で割り、その商の大きい順に当選する。具体的には、以下の表を参照のこと。 上のように、自然数で割っていくと、多い順に、A党÷1、B党÷1、C党÷1、A党÷2、B党÷2、A党÷3・・・と続いていく。なお、この表では省略しているが、「定数まで自然数で割る」としている教科書もある。 ここでは、日本の国政選挙における選挙制度を学習していく。地方自治における選挙制度については、地方自治の頁を確認してほしい(未執筆)。なお、選挙制度に関しては、公職選挙法が根拠法となっている。 衆議院では、小選挙区比例代表並立制を採用している。その名の通り、小選挙区制と比例代表制を組み合わせる選挙制度である。 まず、有権者には2枚の投票用紙が配られる。小選挙区用の投票用紙と、比例代表用の投票用紙である。それぞれに分けて解説する。 小選挙区では、各選挙区で立候補した候補者名を書いて投票する。小選挙区制であるから、前述のように、得票数1位の候補のみが当選することとなる。なお、小選挙区のみの立候補もできるが、小選挙区と比例代表の双方に立候補することも可能。双方に立候補することを重複立候補という。 比例代表では、政党名のみを書いて投票する。個人名を書いた場合は無効票の扱いとなる。当選者は、政党があらかじめ候補者名簿を作成し、その名簿順位順に当選する。この方法を、拘束名簿式比例代表制という。比例代表のみに立候補することも可能。 名簿は、以下のような形となっている。 X党の比例獲得議席が2議席だったとしよう。この時当選するのは、 まず名簿順1位のA であるが、次に当選するのは誰だろうか。名簿順2位のBは小選挙区で当選しているため比例代表では当選しない。名簿順3位はは、C、D、Eの3人いる。Eは小選挙区で当選しているため除外。C、Dのうち、同時に行われた小選挙区の、当該選挙区における最多得票数に対する当該候補者の得票数の割合(惜敗率)が高い方が当選者となる。 例えば、Cは小選挙区において90万票を獲得したが、当選者は100万票を獲得していたとする。この時の惜敗率は90%である。一方でDは、98万票を獲得したが、当選者は100万票を獲得していた。この時の惜敗率は98%である。よって、惜敗率がより高いDが当選することになる。 若者の政治的無関心(後述)の改善のため、2015年6月に公職選挙法が改正されたことに伴い、2016年6月から選挙権年齢が18歳以上に引き下げられた(18歳選挙権)。 一票の格差(後述)の是正のため、2022年に公職選挙法が改正されたことに伴い、次回衆議院選挙(第50回)から、小選挙区の定数は10増10減(東京で5増、神奈川で2増、埼玉、愛知、千葉で1増。広島、宮城、新潟、福島、岡山、滋賀、山口、愛媛、長崎、和歌山で1減)、比例代表は3増3減(東京ブロックで2増、南関東ブロックで1増。東北、北陸信越、中国ブロックで1減)となる。この際に使用された定数配分の計算方法をアダムズ方式という。 参議院においても、選挙区制と、比例代表制を組み合わせる選挙制度となっている。有権者には2枚の投票用紙が配られる。選挙区用の投票用紙と、比例代表用の投票用紙である。それぞれに分けて解説する。 選挙区では、原則として都道府県を一つの選挙区としている。各選挙区で立候補した候補者名を書いて投票する。選挙区制であるから、2名以上が当選する。例えば、東京選挙区の当選人数(定数)は12名である。 一方で、参議院の場合、1度の選挙で半数を選挙する形式となっているので、一度の選挙で選ばれる改選議席は6となる。同様に、例えば青森選挙区は定数2名であるが、改選議席は1となる。このような選挙区を一人区と呼ぶこともある。 なお、選挙区と比例代表の双方に立候補することはできない。 参議院の比例代表では、政党名あるいは個人名を書いて投票する。衆議院のように政党が、当選順を記した名簿を作成するのではなく、比例代表に立候補する候補者のみの名簿(順位は記さない)を作成する。その上で、以下のように当選者を決定する。 まず、政党名で書かれた票と、その政党に所属する個人名票を合算し、合計を政党が獲得した票とする。その上で、ドント式によって獲得議席を割り出す。当選順は、個人名票が多い順に当選する。この方法を、非拘束名簿式比例代表制という。 例えば、X党は以下のように得票したとする。この時のX党の合計得票数は、50万+10万+30万+20万で110万票となる。 これをドント式により議席を割り出し、X党の獲得議席は2議席となったとする。この時当選するのは、個人名票がより多いAとCとなり、Bは落選する。 2016年の参議院議員通常選挙より一票の格差是正のため(後述)、徳島県・高知県ならびに鳥取県・島根県の2つの合同選挙区(いわゆる合区)が設置された。一度の選挙で「徳島県・高知県」という選挙区から一人の当選者を選出するという制度である(鳥取県・島根県も同様)。 これにより、各県の代表を一人も参議院に選出することができなくなる可能性が生じ、実際に鳥取県ではそうした事態が起こった。 よって、優先的に当選人となるべき候補者を当選させるため、2019年の参議院通常選挙より、参議院比例区においても、優先的に当選させたい候補を上位に指定する拘束名簿式の要素を加えた。これを特定枠という。なお、特定枠の人数に制限はない。 本稿では、選挙における近年の問題を記述する。 一票の格差とは、同一の選挙において、選挙区ごとの有権者数が異なることから、1票の価値が異なるという問題である。 例えば、A選挙区では、有権者が10万人いるのにたいし、B選挙区では有権者が100万人いるとする。どちらも当選者が1名だった場合、A選挙区における有権者票の価値を1とすれば、B選挙区におけるそれは0.1となってしまう。これは平等選挙の原則に反しているため、是正が必要なのである。 過去、衆議院では裁判所が2度、違憲判決を出した例がある(1972年、1983年の総選挙)。ただし、選挙結果は有効としている(これを事情判決という)。その一方で、参議院では違憲状態であるとする判決は出ているものの、違憲判決は出ていない。 2024年においても、政治家とカネの問題が生じている。このような問題は、実は今に始まった問題ではない。詳しくは日本の政党政治で解説しているが、特に55年体制以降、自民党の政治は、金によって政治が動かされるという金権政治の面が大きかった。 これを受けて非自民政権である細川内閣は政治改革に着手し、政治改革四法とよばれる政治改革法案を成立させた。それぞれを簡単にみていこう。 以前までの中選挙区制(1選挙区に2〜4人が当選する。大選挙区制と同義であるが、日本独自の選挙区制度ということで、中選挙区制と呼ばれた)から、小選挙区比例代表並立制へと変更された。また、選挙運動の際に買収行為があった場合、その候補者がそれを知らない場合でも処罰の対象となる連座制が強化された。 一票の格差の是正のため、小選挙区の区分けを審議する、衆議院議員選挙区画定審議会という審議会が設置された。 政治家個人への政治資金の寄付を、個人、企業・団体問わず、原則禁止とした。ただし、企業・団体から、政党や、政治資金団体への寄付制限はない。このように、政治資金規正法は、政治資金の規制(禁止)ではなくあくまで規正(ただす)目的を持つものである。 政治献金などは、一部の個人・団体から資金を寄付される。寄付を受けた政治家は、その人・団体の政治のためを行うと予想できる。 政治は国民全体のものであるという考え方から、国民全員から政治資金を平等に徴収し、それを政治資金とする旨を定めたのが政党助成法である。国会議員が5名以上いるか、国会議員が1名以上かつ、直近の選挙で2%以上の得票率を得た政党に対し、政党交付金(国民一人当たり250円とされる)が支払われている。 直近の衆議院選挙である第49回衆議院議員総選挙(R3年10月)の投票率は 約56%であった。また、令和4年7月に行われた第26回参議院議員通常選挙では約52%となっている(国政選挙の投票率)。このように、約半数が投票をしておらず、問題となっている。 さらに、国政選挙の年代別投票率は、第49回衆議院議員総選挙では、10歳代が43.23%、20歳代が36.50%、第26回参議院議員通常選挙では、10歳代が35.42%、20歳代が33.99%、30歳代が44.80%である(国政選挙の年代別投票率)。このように、若者の投票率が低いという点も問題となっている。なお、一般に、高齢者ほど投票率が高いため、高齢者に有利な政策が実現しやすいといわれている(シルバーデモクラシー)。 このような問題を解決するため、各政党は政策目標であるマニフェスト(選挙公約)を公表していたり、インターネットでの選挙運動の解禁(2013年)などを行なっているが、効果が出ているとは言い難い。 そもそも、投票率が低い理由の一つには、政治的無関心があるとされる。有権者の政党への期待感が薄まり、政党支持がない層(無党派層)が急増しており、政党や政治への信頼の回復は急務である。
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第2次世界大戦の終盤、米英ソの3国首脳は戦後の国際体制について会談した(ヤルタ会談)。しかし、戦後、ソ連が進駐していた東ヨーロッパには、ソ連の支援を受けて社会主義国が多く誕生した。 アメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦という。イギリスの前首相チャーチルは冷戦について、1946年、ソ連がバルト海からアドリア海まで「鉄のカーテン」を降ろしてヨーロッパを分断しているとして、ソ連を批判した。 アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリンを発表した。また、西側諸国を経済援助する計画のマーシャル-プランを発表し実施した。さらに、英米を中心とする西側諸国の軍事同盟的な国際機構として、北大西洋条約機構(NATO、)を設立した。 いっぽう、ソ連も対抗して、1947年にヨーロッパの共産党の連携組織であるコミンフォルム(国際共産党情報局)、1955年に軍事同盟であるワルシャワ条約機構(WTO。1991年解体)、COMECON(東欧経済相互援助会議。1991年解散)などを設立した。 1949年にはソ連も核実験に成功し、核兵器開発と軍拡競争に突入していく。一方、米ソは世界の覇権をかけて争い、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、その他アフリカでの民族紛争に両国は介入していった。この間、米ソは直接戦争をすることはなかったが、戦争の当事国が米ソの後ろ盾を得ていたため、この当時の戦争は両国の代理戦争とよばれた。 1962年にソ連がキューバにミサイル基地を建設したことからキューバ危機が起こる。米ソの直接戦争さらに核戦争への危惧が起きたが、両国が自制したため、危機は回避された。 1960年になると、社会主義どうしでも、ソ連と中国は国境紛争などで対立した。 1991年、ソ連は崩壊し、冷戦は終了した。 冷戦中の米ソは核兵器を増やした。 米ソは核兵器の保有を正当化するため、核兵器を持つことで、核兵器を持たない他国などは核保有国からの報復を恐れるので、戦争を防止できるという核抑止論を主張した[1]。しかし、この核抑止論は、米ソの核兵器の軍拡競争を引き起こすことになった。 なお、米ソはこのような軍拡競争により、冷戦の末期には軍事費の財政負担が大きくなっていった。 さて、冷戦期には、米ソなどで核軍拡が進んだが、それらを批判する核軍縮の世論も国際的に高まった。1950年代、科学者のアインシュタインたちは、原子力の平和利用および核兵器の廃絶などを訴えるラッセル・アインシュタイン宣言を出した。この宣言を受け、科学者たちによって、反・核兵器を訴えるパグウォッシュ会議が結成された。 1954年に第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆(ビキニ事件)し、船員1名が放射線障害により半年後に死亡した。これを受けて、翌年に広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。 1968年には核兵器拡散防止条約(NPT、Treaty of the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が調印され締結した。NPTにより現在、アメリカ・イギリス・ソ連・フランス・中国の5カ国以外は、核兵器を持たないことになっている[2]。当初のNPTは、フランスや中国が、米ソ中心の条約だとして反発していたが1992年にフランスと中国はNPTに加盟した。 一方、 1974年にインドが核実験を、1998年にパキスタンが核実験を行った。北朝鮮が2006年に核実験を行った。また、イスラエルには核保有の疑いがある。こうした国々は2022年現在、NPTを締結していない。 1963年にはアメリカ・ソ連・イギリスの3カ国が部分的核実験禁止条約(PTBT、Partial Test Ban Treaty)に調印。地下核実験を除く、大気圏内、大気圏外、および水中での核実験をPTBTは禁止した。 また、非・核保有国に対して、国際社会が原子力発電などのような原子力の平和利用を認める条件として、核物質の軍事転用を防止するために、国際機関による査察として、国際原子力機関(IAEA、International Atomic Energy Agency)による査察の制度が導入された。 また、1970年代に米ソのあいだで、軍備管理の戦略兵器制限交渉(SALT、読み:ソルト、Strategy Arms Limitation Talks)が進められた。SALTは、兵器の数を制限したり、兵器の運搬手段を限定したするものであり、けっして核廃棄を目的としてはいない。 このSALTのような、軍備の廃棄や削減を目的としていない場合、「軍備管理」といい、軍縮とは区別するのが一般的な用法である(※ 検定教科書では、そうしている)。 なお、SALTは2回あり、SALT 1 が1969〜72年、SALT 2 が1972〜79年である。 80年代に入り、米ソのあいだでも核軍縮が進む。 1987年にアメリカとソ連のあいだで中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が調印された。(※ 時事: 2019年2月、今後、ロシアがINF全廃条約から離脱するかもしれない。) 冷戦終了後の90年代には米ソ(米ロ)のあいだで戦略兵器削減条約(START、読み:スタート,Strategic Arms Reduction Treatys)が調印された。 なお、1995年に、核拡散防止条約(NPT)が無期限延長された。 地下核実験については1996年に包括的核実験禁止条約(CTBT)は国連で採択されたが、未発効である。 インド・パキスタン・北朝鮮はCTBTに未署名。アメリカ・中国・イスラエル・イランなどはCTBTに未批准。 なお、核爆発をともなわない未臨界(臨界前)核実験は、CTBTでの禁止の対象外といわれている。 核兵器以外にも、国際的に禁止・規制されている兵器がある。 細菌兵器などの生物兵器や、毒ガスなどの化学兵器が、1928年のジュネーブ条約で禁止されていた。 これらの生物化学兵器の禁止の条約を発展させたものとして、1975年に生物兵器禁止条約が発効し、1993年には化学兵器禁止条約が採択された。 近年では、1999年に対人地雷禁止条約(オタワ条約)が発効し、2010年にはクラスター爆弾禁止条約が発効した。 なお、クラスター爆弾とは、小さな子爆弾がいくつも入った親容器を投下するという方式の兵器である。クラスター爆弾は不発弾が出来やすく、また広範囲に被害が及ぶので、使用が問題視されていた。 1990年代には戦略兵器削減条約(START、Starategic Arms Reduction Treaty)が制定。2010年にはアメリカとロシアの間で新START条約が調印され2011年に発効した。 アメリカ・中国・日本などが、北朝鮮の核実験やミサイル発射を問題視し、2003年には六カ国協議が開かれ、参加国として米国・ロシア・中国・韓国・日本・北朝鮮の6カ国の代表者が協議したが、とくに進展しなかった。 2017年に国連総会は核兵器禁止条約を採択した。だが、核保有国および日本は批准していない。核兵器禁止条約は、核兵器の使用および保有を禁止する条約である。 いくつかの国で、非核地帯をも受けようという動きもある。ラテンアメリカのトラテルコ条約(1967年)、東南アジアASEANの東南アジア非核地帯条約(調印1995年、発効1997年)などがある。東南アジア非核地帯条約の通称は「バンコク条約」[4]。 東南アジア非核地帯条約では、核実験を禁止している。東南アジア非核地帯条約には、ASEANの全10か国( インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジア)が加盟している。 ラテンアメリカ、南太平洋、アフリカ、東南アジアに、非核地帯が広がっている。 停戦監視団、選挙監視団。平和維持軍(PKF)などが派遣されている。 国連憲章で定められている「国連軍」とは、PKFは別の組織。 国連憲章にもとづく正式な国連軍は、まだ一度も編成されていない。朝鮮戦争のときのアメリカ軍を中心とした「国連軍」は、国連憲章で定められた「国連軍」編成の正式な手続きには基づいていない。よって、国連憲章にもとづく正式な国連軍は、まだ一度も編成されていない。 中東および北アフリカでは2011年にチェニジアやエジプトやリビアで長期独裁政権が倒れ、「アラブの春」といわれた。しかしシリアは内戦におちいった(多数の死者が出て、「春」とは到底言いがたい)。 イラクやアフガニスタンでは、イスラーム過激派勢力が台頭する傾向にある。イラクやシリアなどで台頭しているイスラム過激勢力が、この数年後から「イスラーム国」(IS)を名乗っており、彼らは自分たちを宗教「国家」だと自称している。 アメリカは(中東よりも)東アジアへの関与を強めようとしている傾向である。(第一学習社『世界史A』の見解。「中東よりも」とは言ってないが、東アジアとは言ってるので。アメリカ国の予算や兵員にも限りがあるので、相対的に中東への関与はうすまることになる。) 2014年、ロシアによるクリミア併合により、NATO諸国とロシアとの対立が深まった(実教出版の2022年時点での旧課程「政治経済」の見解)。 なおロシアは、2008年にもグルジア(ジョージア)に侵攻している。 2014年のクリミア併合の背景としては、ロシアがNATOやEUの東欧への拡大をおそれており、前々からNATOなどの東欧への拡大にロシアが反発していた。(※ 第一学習社『世界史A』が紹介。) (※ 将来の記述の準備: )2022年、ロシアがウクライナに攻め込んで、・・・(将来の教科書が出てから書く) 「人間の安全保障」などの、従来の軍事に片寄った安全保障とは違った新しい概念の提唱など、学問は発達した。しかし実際の紛争やら深刻な人権侵害などが起きた際の問題解決のための枠組み作りは、(国連なども放置はしてないが、しかし)なかなか進んでいないのが現状である。(※ 第一学習社『世界史A』の見解をもとに、wiki側でやや補足)  このため、おそらくだが2010~20年代の国際秩序は、第二次大戦直後・冷戦的な古い秩序から新しい国際システムへの移行期にあるのだろうと考えられる。(※ 第一学習社の『世界史A』時代の見解をもとに、後知恵だが2022年のウクライナ戦争など後世の知見を合わせて本文を書いている。) 日本は、武器輸出三原則として、自国の武器輸出に規制をしていたが、2014年に安部政権によって一部を改正した「防衛装備移転装備三原則」になった。この武器輸出三原則および防衛移転装備三原則は、非核三原則とは別の規制である。 「思いやり予算」によって、1970年代から、在日米軍の費用の一部を日本が肩代わりしている。日米安保条約では、「思いやり予算」は義務づけられていない。 1987年まで、防衛費の年間予算をGNPの1%をこえないとする、GNP1%枠があった。1987年の中曽根内閣が1%枠を撤廃。 冷戦の終結して、日米安保の役割りが見直され、1996年には日米安保共同宣言が出された。 2001年にはアメリカで同時多発テロが起きたことをきっかけに、日本ではテロ対策特別措置法(2001年成立、2007年失効)が制定された。 2003年にはイラク復興支援特別措置法(2003年成立、2009年失効)が制定され、自衛隊がイラクの復興支援のため、イラクに派遣された。 外国から日本が武力攻撃を受けた場合の「有事」(ゆうじ)の対応を定めた法律として、2003年に有事関連3法が制定され、2004年に有事関連7法が制定された。 2009年には、ソマリア沖での海賊の攻撃による被害から船舶を護衛するために自衛隊を派遣するため、海賊対処法が制定され、自衛隊が派遣された。 なお、2007年に防衛庁(ぼうえいちょう)が防衛省(ぼうえいしょう)に昇格した。 2014年、安部政権は防衛移転装備三原則を閣議決定により定めた。 在日米軍基地の総面積の75%は沖縄県にある。沖縄県民の意見には、県内の米軍基地の縮小や県外移設などを求める声が強く、沖縄の負担を減らすために日米地位協定の見直しを求めている。 第二次世界大戦の戦時中に日本による侵略などによって被害を与えられたとされる韓国や中国・東南アジア諸国などへの賠償について、日本政府はサンフランシスコ条約や二国間条約(日韓基本条約など)などで賠償済みだという立場をとっているが、その日本の解釈を批判する外国(主に韓国や中国)があり、おもに韓国などの世論が、日本国を批判している。韓国の世論は、戦時中の日本が朝鮮人に与えた被害について、日本に謝罪や賠償を要求している。 戦時中、朝鮮半島などの労働者(男も含む)が、戦時中に日本に強制的に移住させられて(たとえば炭鉱など)働かされたが、韓国などはこれが人権侵害であるとして問題だと主張している。 これを、近年のマスコミ報道などでは「徴用工」問題という(2022年に本文を記述)。過去、これを「強制連行」問題とも言った。(※ 2022年、報道された教科書写真では、まだ用語の名前が決まっていないようである。) ※ 2022年度の教科書検定の前から、この問題は紹介されている。 ※ ただし、自民党政権は、2021年4月には「徴用」・「動員」などが適切だという閣議決定を出している。 日韓の賠償問題には慰安婦(いあんふ、いあんぷ)問題という外交問題がある。「従軍慰安婦」(じゅうぐん いあんぷ/いあんふ)問題ともいう。 慰安婦問題とは、どういう問題かというと、戦時中に日本軍などは戦場ちかくの基地などで兵士の性欲処理のための売春婦を雇っていたのだが、韓国の世論などが言うには、この朝鮮人婦女が日本軍によって強制連行され奴隷的に性行為をされたのではないか、という韓国の疑念があり、韓国の世論などが、朝鮮人の慰安婦は強制連行された性奴隷(せいどれい、英:sex slave)だと主張している。 戦時中、朝鮮半島や台湾は日本領だったので、日本人の売春婦と同様に、朝鮮人や台湾人の慰安婦も存在しているというわけである。 よく慰安婦の「強制連行」の話題を韓国などは主張するが、しかし軍や官憲による慰安婦の強制連行を立証できるような証拠は見つかっていないと文科省は検定意見をつけている。(※ 近年の教科書検定では、こういう検定意見がついている。2019年に本文を追記)。 しかし、過去に政権与党である自民党は、1993年に「河野談話」(こうのだんわ)によって、慰安婦が慰安所で働かされたことをお詫びする文面の声明を出している。(※ 2022年度の教科書検定で、河野談話を紹介した教科書が検定を通ったことが報道されている。)なお、当時の河野洋平 内閣官房長官の発表した談話であるので「河野談話」という。 日韓基本条約などで日本の賠償をしないことが決まったことと慰安婦問題の兼ね合いについて、この賠償放棄とは日韓両政府の国家間の賠償のみに限定するべきだという主張が内外の一部にあり、日本国から被害を受けたとされる韓国人個人への賠償としての個人補償(こじんほしょう)、または当時関わった日本企業などから韓国人個人への個人補償を求める意見がある。 韓国の世論は、韓国政府には個人補償の費用を請求せず、日本の政府が補償の費用を払うべきだと主張している。 (※ 範囲外? :) 2015年の日韓合意で慰安婦問題について日本の外務大臣は、戦時中の慰安所の「軍の関与」について「お詫びと反省の気持ち」を表明した。 しかし強制連行については、日本政府は(日本が慰安婦を強制連行したとは)認めていない。
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法律には、条文として表されている成文法(せいぶんほう)と、条文にはなっていない不文法(ふぶんほう)がある。 中学校までに習ってきた日本国憲法は条文があるので成文法である。そのほか、日本国の民法や刑法も成文法である。 しかし、実際の裁判などでは、公序良俗にもとづく慣習なども重視する。このように、裁判などに影響を与える慣習もあり、公序良俗にもとづくなどの正当な慣習が場合によっては法律と同等の効力を持つ場合がある。このように法律と同等の効力をもつ慣習を不文法(ふぶんほう)という。 不文法のうち、その正当性の根拠が世間一般での慣習によるものを慣習法(かんしゅうほう)という。 一方、裁判においては過去の判決が今後の判決を予想する際の参考になる。過去の裁判の判決が先例になったものを判例(はんれい)という。ある種類の事件の裁判において、似たような結果の判決が繰り返され、今後の同様の事件の裁判でも同じような判決が出るだろう、と予測されるものは判例が(当然ながら)しだいに同じ内容に定まってくる。このようにして、あたかも法律的な効力をもつにいたったものを判例法(はんれいほう)という。 とはいえ、成文法と判例法となら、一般的に日本の裁判では成文法が優先される。なぜなら、日本国憲法にあるように裁判官は憲法と法律にのみ拘束(こうそく)されるからである。(憲法76条) なお、ドイツとフランスが成文法を重視する国である。(※参考文献: 有斐閣『法律学入門 第3版増補訂』、佐藤幸治ほか、166ページ、)いっぽう、イギリスは判例法を重視する国である。(※参考文献: 慶應義塾大学出版会『法学概論』、編: 霞信彦、72ページ、)なお、ドイツとフランス以外にも成文法を重視する国家は存在するし、イギリス以外にも判例法を重視する国家も存在する。 また、ある事件の一審と二審において、仮に一審と二審が同じ内容の判決を下しても、最高裁判所では一審・二審とは異なる判決を下しても構わない。 なお、刑法では罪刑法定主義(ざいけい ほうていしゅぎ)の原則があるため、ほかの法律よりも不文法の影響力が弱いとされる。(※参考文献: 慶應義塾大学出版会『法学概論』、編: 霞信彦、72ページ、)(しかし、刑事訴訟での判例は今後の刑事訴訟に影響を及ぼすので、その点では慣習法(判例法も慣習法であり不文法である)の影響を受けているだろう(推測) ) いっぽう、民法や商法では慣習もまた重視される。たとえば、民法第92条では、「法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。」(民法第92条)と規定されている。つまり、民法では慣習が成文法と異なる場合でも、契約の当事者がその慣習に従って判断し契約した、と思われるのが妥当であれば慣習が成文法に優先するのである。また、商法第1条2項でも、「商事に関し、この法律に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法 (明治二十九年法律第八十九号)の定めるところによる。」と規定されている。前半部の「この法律に定めがない事項については商慣習に従い、」にあるように商慣習が成文法に優先する。 民法・商法以外のその他の法律では一般的に成文法が慣習に優先する。(法の適用に関する通則法 3) 日本の法律では、個人どうしの契約や貸し借りなどについては民法が扱う。いっぽう、商法は商事に関する契約や貸し借りなどを扱っている。つまり、商法と民法の対象は部分的に重なっている。 もし、同じことがらについて民法と商法とでは違った結果になる内容が書かれている場合、商事に関しては商法が適用される。 商法は適用対象が商事に限定されてる分、その適用対象(すなわち商事)に関しては商法が優先されるのである。 商事に関しては、民法は一般法というものに分類される。いっぽう商法は特別法というものに分類される。 そして、特別法と一般法に同じ規定があるとき、特別法は一般法に優先する。(「特別法優先主義」という。) アパートを借りる時は一般法である民法の規定に対して、特別法である「借地借家法」(しゃくちしゃくやほう)の規定が優先する。 ある法律Aがその分野の別のある法律Bに対して、一般法であるか特別法であるかは、どちらの法律の条文を読んでも書かれていない場合がほとんどである。たとえば、民法の条文を読んでも、民事保全法(みんじ ほぜんほう)や民事執行法(みんじ しっこうほう)との関係は民法には書かれてない。けっして、(次のような内容の条文は無い →)「この民法は、強制執行に関する特別法として民事執行法(みんじ しっこうほう)および民事保全法(みんじ ほぜんほう)をもち、」(←このような条文は無い)とかなんて、いっさい書かれてないのである。 同様に、特別法の側の条文を読んでも、条文にはまったくその(特別法の側の)法律がどの一般法に対しての特別法であるかは、いっさい書かれていない場合が多い。 実際に、民事執行法の条文の第1章の『総則』(そうそく)である第1条から第21条を読んでも、2017年の時点ではけっして(次のような条文は無い →)「この民事執行法は、一般法として民法をもつ」(←このような条文は無い)とかなんて、いっさい書かれてないのである。 なので、どの法律がある法律Aに対して特別法であるか一般法であるかは、覚える必要がある。しかし、丸暗記をする必要はなく、たいていは民事法の教科書を読めば、文脈から分かるようになっており、読んでいるうちに自然に覚えられるようになっている。 (※ まとめ:) 民法の特別法となる法律として、主なものに、次のような法律(特別法)がある。 法律といっても、当事者の意志が尊重される法律もあれば、尊重されない法律もある。 たとえば刑法などの処罰対象である犯罪では、加害者の意志は尊重されない。刑法のように、公の秩序に関する法律では、当事者の意志は尊重されない。 当事者の意志が尊重されない法律のことを強行法規(きょうこうほうき)という。つまり、刑法のような法律は強行法規である。 いっぽう、当事者の意志が尊重される法規のことを任意法規(にんい ほうき)という。 さて、民法でも、所有権などの物権(ぶっけん)、親族や家族に関する事柄は強行法規である。一方、民法でも売買など債権(さいけん)に関することがらは任意法規である。 売買・貸借や、親子・夫婦などのように、個人・法人どうしの関係を規律する法律を私法(しほう)という。 民法や商法、会社法(かいしゃほう)、借地借家法(しゃくち しゃくやほう)などは、私法である。 なお、個人や法人をまとめて「私人」(しじん)と言う。この言葉を使うなら、「私法とは、私人どうしの関係を定めた法の総称である」ともいえる。あるいは、私人と別の私人のあいだのことを「私人間」(しじんかん)と言うので、「私法とは、私人間の関係を定めた法律」などとも言える。 民法は、私法全体の一般原則を定めた法律である[1]。 いっぽう、刑罰や納税などのように、国家・地方公共団体と、個人との関係を規律する法律を公法(こうほう)という。 憲法や刑法や公職選挙法、民事訴訟法や刑事訴訟法は、公法である。 労働基準法などは、私人間である、企業と被雇用者との関係の法律であるが、それに労働基準監督署などの公的機関が積極的に介入しているので、労働基準法などは公私混合法といわれる。 労働基準法などの労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法 の3つの法律のこと)、そのほか、独占禁止法などが、公私混合法である。 民事訴訟法は、民事訴訟(中学校で習った「民事裁判」のこと)の手続きについて定めた法律である。民事訴訟法そのものでは、どんな行為が民法に違反するかは、とくに定めていない。 同様に、刑事訴訟法は、刑事訴訟(中学校で習った「刑事裁判」のこと)の手続きについて定めた法律である。刑事訴訟法そのものでは、どんな行為が刑法に違反するかは、とくに定めていない。 民事訴訟法や刑事訴訟法などのように、裁判の手続きを定めた法律のことを手続法(てつづきほう)という。行政事件訴訟法、民事訴訟法、刑事訴訟法などが、手続法である。いっぽう、民法や刑法などのように、どんな権利や義務があるかを定めた法律は、実体法(じったいほう)という。 なお、実際の法律では、 民事訴訟法や刑事訴訟法などの手続法の条文の中にも、裁判に関する権利、つまり上告や控訴などの権利が書かれていたりする。 実体法と手続法の関係については、たとえば法学書などでは「実体法が定めた権利・義務などを実現するための、裁判などの具体的な手続きを定めたのが手続法である。」のように説明されている場合が多い。(※ 検定教科書の東京法令出版『経済活動と法』も、このように実体法と手続法の関係を説明している。)(※ 三省堂『現代法入門』も、このように実体法と手続法の関係を説明している。) 六法(ろっぽう)とは、日本国憲法、刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、商法という6つの法律のことです。 現代では、「六法」とは、単に、「多くの法令、多くの法典」というぐらいの意味でしかない。 「四方八方」とか「四民平等」とかの「四」「八」などの数字と同じで、実情は「多く。たくさん」という意味で「六」を使っているだけにすぎない。 市販の書店または地域図書館などにある「六法全書」(ろっぽうぜんしょ)という書籍に収録されている法律も、普通は、けっして6個の法律だけではなく、数百個~数千もの法律が市販の「六法全書」に掲載されているのが普通である。さらに持ち運びやすいサイズに小型化した「小六法」(しょうろっぽう)と言われているものでも、書籍にもよるが、やはり数十個~百・二百個ていどの法律と、書籍編集者が重要と思った判例が「小六法」に掲載されている。 また、分野に関連する法律を集めた法律分野のことを「〇〇(←分野名)六法」という場合もおおい。たとえば、鉄道に関連する法律を集めた法律書なら「鉄道六法」(てつどうろっぽう)となるし、教育に関する法律を集めた法律書なら「教育六法」(きょういくろっぽう)となる。 書店などにある、教育六法などの「〇〇六法」とは、その分野の法律の条文の掲載を中心に、書籍によっては重要と思われる判例(はんれい)などを追加したものである。 (※ 範囲外: )また、現代では、この「六法」という分類には、実務的にも、あまり利点が無く、たとえば21世紀現代の「会社法」は、20世紀の昔は商法の一部だった。現代では、「商法」とは別に「会社法」がある。 また、現代の「民事保全法」の一部は、昔は「民事訴訟法」または最高裁判所の定める民事訴訟規則の一部だった。 このように、法の条文が法改正により別の法にたびたび移動しているので、あまり分類を鵜呑みにしないほうがいい。 「刑事法」とは、刑法や軽犯罪法や破壊活動防止法や刑事訴訟法などのように、主に警察関係の仕事の人が、関わることになる法律について総称した分野名です。 いっぽう、「民事法」とは、民法や民事訴訟法などのような、民間人の人が、主に関わることになる法律についての分野名です。商法や会社法などを「民事法」に含める場合も、多くあります。 現実には、警察や検察だって、民法や会社法などを無視はできませんが、しかし分類上では「刑事法」には民法・商法・会社法などは含めません。 「刑事法」とは分野名にすぎないので、つまり「刑事法」という名前の1個の法律は、ありません(2017年の現在では)。 同様に「民事法」という名前の1個の法律も、ありません。 「労働法」とは、労働基準法や労働組合法などの、労働関係の法律をまとめて呼ぶときの分野名です。 「社会保障法」とは、健康保険法や国民年金法など、社会保障関係の法律をまとめて呼ぶときの分野名です。 「経済法」とは、主に、独占禁止法などの法律をまとめた分野名です。 「行政法」とは、内閣法や国家公務員法など、主に公務員が中心的に関わる法律をまとめた分野名です。 実際には、行政機構や公務員は、日本のほぼ全ての法律に関わることになるでしょうが、しかし分類上では、「労働法」や「社会法」や「経済法」などに分類されるような法律は、「行政法」には含めません。 手続法には、いろいろとありますが、それらは更に「民事手続法」および「行政手続法」および「刑事手続法」などに分類されます。 「民事手続法」とは、民事訴訟法のような法律をまとめた分野名です。 「行政手続法」とは、行政事件訴訟法などのような法律をまとめた分野名です。 ※ 検定教科書では、「行政法」と「行政手続法」は、それぞれ別の分野として扱っています。つまり検定教科書では、行政事件訴訟法は、「行政法」には含めていません。 「刑事手続法」とは、刑事訴訟法などのような法律をまとめた分野名です。
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・ 売買(ばいばい) - 「売買」とは、日常語の「売り買い」とほぼ同じ意味だが、特に民法でいう売買とは、当事者の一方(売り主)がある財産権を相手方(買い主)に移転することを約束して、相手方(買い主)がその代金を支払うことを約束することによって、その効力を生ずる契約のこと。(民555) なお、さまざまな種類のある契約のうち、当事者双方が義務を実行する必要のある契約を双務契約(そうむ けいやく)という。 売買は、双務契約である。なぜなら売買の契約が成立すれば、買い手は代金を支払う義務があるし、売り手は商品を渡す義務があるから。 ・ 貸借(たいしゃく) - 貸し借り (かしかり)の事。 民法でいう「意思表示」(いしひょうじ)も、通常の国語とほぼ同じ意味で、なんらかの意思を表示するという意味だが、くわえて民法では、さらなる意味もある。特に民法でいう「意思表示」とは、契約における「買います」「売ります」「貸します」「借ります」などのような意思を表示する場合に使われるのが普通である。 つまり、売買や貸借などの契約の意思の表示のように、法的な効果を発生させる法律行為をつくるための意思を表示する事である。 「買います」という相手に対して「売ります」と表示することは承諾(しょうだく)。 「売ります」という相手に対して「買います」と表示することも承諾。 このように、ある意思表示に対して、それに賛成して、契約の相手方になる事の宣言のことが承諾(しょうだく)である。 以上のような、売買や貸借などの際の契約も、法律的な効果を発生させる「法律行為」である。(有斐閣『民法入門 第7版』、川井健) (※ 法律行為については『高等学校商業 経済活動と法/自然人の行為能力と制限行為能力者制度』などの単元を参照のこと。) 原則的に、どのような契約を結ぶかは、当事者の自由。また、当事者双方のそれぞれの個人の自由。したがって、当事者の双方が合致(がっち)した場合のみ、その契約が実行される事になる。 ただし、法律の範囲内の契約であること。また、公序良俗の範囲内の契約であること。 たとえば、賭博(とばく)や麻薬売買などの契約は違法であるので無効であり、裁判者などに訴えても、契約を守らせる事はできない。 いくつかの業界では、契約を交わす者同士が料金などを自由に決めることは、法律などで規制されている。たとえば水道や電気、バス、鉄道などの公共料金では、多数の消費者が使用する事もあり、生活の基本的な重要なサービスなので、あらかじめ国などが料金の算出方法を審査したうえで、消費者の払う料金が決められている。保険、銀行の預金なども、当事者は勝手には利率などを決められない。 消費者が公共料金サービスや銀行などと契約する際に、契約を迅速に行うため、あらかじめ事業者によって定型的な契約内容(約款(「やっかん」)。普通取引約款)がつくられている。 消費者は、その約款の内容をもとに、その事業者と契約するかどうかを決められる。購入者には契約を結ぶかどうかの自由はあるが、しかし購入者には契約の内容を変更する自由は無い。 2017年の日本の国会による民法改正案の可決により、いまでいう、公共料金サービスや銀行などでの通常の「約款」のほとんどに当てはまる規定が、改正施行後の2020年からの民法の条文(改正後の民法548条)にて「定型約款」(ていけい やっかん)の規定として、すでに加わっています。 2020年以前は、民法に『約款』の定義は無かったのです。しかし2020年以降、民法に『定型取引』を扱う『定型約款』の定義が加わり、民間の実務の実態に対応する法整備がなされてきました。 2021/2 現在、民法の「第五款 定型約款」第五百四十八条の二~第五百四十八条の四、(定型約款の合意)、(定型約款の内容の表示)、(定型約款の変更)の条文で、定型約款に関する規定が定められています。 なお、このように約款にもとづいて行われる契約のことを付合契約(ふごう けいやく)という。 たとえば労使契約では、普通は経営者などに相当する使用者の側が立場が強く、いっぽう、従業員などの労働者の側は立場は弱い。そのため、このような労使契約の場合に、もし契約自由の原則をつらぬいてしまうと、従業員を酷使したりするような不当な契約が結ばれる危険もあるだろう。 このような事への恐れもあり、労働基準法などの労働法によって、労使契約は規制されている。なので、労使契約では、完全には契約自由ではない。 労使契約における労働基準法などのように、民法のほかにも特別法による規制がある。 他の場合でも、アパートの貸し借りの契約なら、借地借家法(しゃくちしゃくや ほう)という特別法による規制がある。 金融機関などとのお金の貸し借りなら、利息制限法(りそく せいげんほう)という特別法による規制がある。 このように、民法の他にも、特別法による規制がある。 ちなみに、歴史的に労使契約で労働者保護が重視されるようになったのは、1919年のドイツのワイマール憲法の時代からである。労働者の団結の自由などが、ワイマール憲法によって認められた。(※ 商業科目の範囲外だが、普通科「政治経済」科目の範囲なので、高校生なら覚えておけ。『高等学校政治経済/政治/近代民主政治の歴史』。なお、中学でも、いちおうワイマール憲法は習う。)(※ 法学の入門書にも、ワイマール憲法は良く書いてある。例えば、参考文献: 有斐閣『法律学入門』佐藤幸治ほか) それ以前の欧米では、たとえば建国当初のアメリカ合衆国では、契約自由の原則により、労働者を保護しないことこそが自由であるとの思想にもとづいており、そのため、貧富の格差や、重労働などが問題になった。 現代の日本でも、民法や商法などの私法といえども、「私」だからといって、けっして完全には自由でなく、労働基準法や独占禁止法などといった公私混合法などによって、経済活動などを規制している。(※ 公法、私法、公私混合法の分類については『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』を参照せよ。) ある物を、本音では売る気がないのに、冗談で「これを売ろう」と言った場合、その契約は有効だろうか。 「これを売ろう」を聞いた相手が冗談を信じた場合、この契約は有効になってしまう。そもそも冗談を言うほうがウソつきなわけだし、そんなウソつき人間の本音を、わざわざ国家権力が保護する必要が無い。 いっぽう、もし相手が冗談だと買うさいに気づいていたら、その契約は法的には無効である。 これだと、相手が頭のよい人で、ウソを見抜ける人であると、冗談っぽい売主との契約に関して、保護されなくなてしまい、かえって権利が減ってしまってるが、現実的にそういう法律になってるんだから、仕方ない。 なお、冗談で「これを売ろう」と言うように、発言者自身がウソや冗談だと分かってて、意思表示をすることを心裡留保(しんり りゅうほ)という。「裡」の字に注意。「理」ではない。 またなお、酒に酔って「100万円あげよう」などという発言は、ふつうの相手なら明らかに冗談だと分かるので、この発言は無効である。(※ 実教出版の教科書にある事例。) 教訓としては、売る気のないものについては、たとい冗談のつもりだろうが、けっして「これを売ろう」などとは言わないのが最善だろう。なお、教科書では売る場合の説明のみだが、買う気がない場合でも当然、けっして冗談のつもりで「買います」などとは言わないほうが安全だろう。たとい、お世辞(おせじ) とか シャレ とかのつもりだろうが、もし冗談をついてしまうと、法的には契約の意思表示をしたと見なされ、その契約が有効になってしまう場合があるので、商談では冗談は禁物だろう。 要するに、お世辞やシャレのつもりだろうが、ビジネスの契約内容に冗談をもちこむ連中は、仕事の邪魔者である。テレビ番組や漫画などでは、冗談が持てはやされる事も多いかもしれないが、そんなのはフィクションの物語の世界だけである。法律は、いちいちフィクション愛好家の冗談趣味などに付き合ってるヒマが無い。 「真意でない意思表示」とは、つまり、 である。 虚偽表示(きょぎ ひょうじ)とは、いわゆる「グル」という事例である。 相手側と相談した上で、真意とは違う意思表示をする事を。「虚偽表示」(きょぎ ひょうじ)あるいは「通謀虚偽表示」という。 問題点は、第三者の権利である。 たとえば、AとBが共謀して虚偽表示をして、AがBに売ったと見せかけた物を、第三者Cが、Bから買うと契約してしまった場合、法律では、どうなるか。 簡単な事例から解説するため、ひとまず第三者のことは忘れて、ウソつき人物Aとウソつき人物Bの2人しかいないとしよう。 多額の借金をかかえていたAが、債権者からの家屋の差し押さえを逃れるために、AとBが協力して、AがBに家屋を売ったとして、家屋の名義もBに書き替えた場合、どうなるか。 法律では、まだBが誰にも売ってなくて、Bが持っているままなら、この契約は無効である。(民94)(※ 参考文献: 有斐閣『民法入門 第7版』川合健) しかし、もしBが、事情を知らないCにこの家屋を売ってしまった場合、Cは法的に保護されるので、AはCに家屋を返還請求できない。 ちなみに、法律用語では、事情を知らない事を「善意」(ぜんい)という。 さきほどの例では、Cは「善意の第三者」である。 いっぽう、事情を知っている事を「悪意」(あくい)という。さきほどの例では、AとBは「悪意」の人物である。 日常語の「善意」「悪意」とは、法律用語の「善意」「悪意」とは、意味が異なるので、注意のこと。 買い主が、ある物を10万円で買うつもりで、契約書に買い値を書くときに、まちがって100万円で買うと書いてしまったとする。このように、真意と表示に違いがあり、そして表意者がその違いに気づいてない場合を錯誤(さくご)という。 別の例をあげれば、買い主が、ある商品Aを買うつもりで、勘違いで、B商品を買うと言ってしまった場合も、錯誤である。 このように、思いちがいや言い違いなどによって、真意と表示に違いがあり、そして表意者がその違いに気づいてない場合が、錯誤(さくご)である。 心裡留保や虚偽表示と異なり、錯誤の場合では、表意者は、真意と表示のくい違いには気づいてない。 表意者にだって「だまそう」という意思はないので保護する必要もあるが、いっぽう、相手方だって、なんのマチガイもしてないのだから、相手方も保護する必要がある。 そこで民法では、つぎのように、一見すると矛盾するような2つの規定を置いている。 というような規定を民法では置いている。 詐欺や強迫をされて物を売ってしまうなど、詐欺や強迫によって行わた意思表示は、取り消すことができる。(民法96(1) ) なお、詐欺とは「だますこと」である。強迫とは「おどすこと」である。 詐欺や強迫をされて表示してしまった意思表示のことを瑕疵ある意思表示 (かしある いしひょうじ)という。 しかし、加害者が、事情をしらない第三者(善意の第三者)に売ってしまった場合、詐欺や強迫にあった被害者は、はたして、取り消しを請求できるだろうか、というのが、ポイントである。 民法では、詐欺の場合、被害者よりも、事情を知らない第三者を優先して保護するので、取り消しの請求ができない。(民法96(3) ) いっぽう、強迫の場合、被害者は、第三者に、取り消しの請求をできる。 なお、詐欺の場合、被害者のした契約の、真意と表示は一致している。しかし、被害者には錯誤があり、しかもその錯誤の原因が加害者が意図的にダマした事が原因である。
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日本は台二次大戦の終戦による行政改革で地方自治が強められたが、しかし戦後の20世紀の日本の地方自治の歴史は、21世紀の今ほど地方の権限は強くなかった。 中央政府から地方自治体に委任(いにん)される事務を「機関委任事務」(きかんいにんじむ)というのだが、しかし実質的には機関委任事務は中央政府の考えた製作を地方自治体に代行させているだけだと思われていた。 地方分権にむけた改革は、1990年代から進められてきた。(実教出版の見解) だから、たとえば1999年に地方自治法など地方分権にかかわる法律が制定されている(地方分権一括法)。そしてこれら地方分権一括法の結果、機関委任事務は廃止され、代わりに「自治事務」と「法廷受託事務」の制度が地方自治では設けられた。 のちの2000年代のその他の規制緩和とも関連して、地方の権限にもとづき、特定の規制をある程度の最良だが緩和した特区(とっく)なども設けることができるようになった。 またこの時期は日本では1990年代バブル崩壊の不況の影響による地方財政の悪化などが問題視された時期でもあり、2000~2010年ごろには財政改善などのため自治体合併を行う自治体もいくつも出現した。 また、この時代、中央から自治体への補助金も削減されている。補助金の削減、地方への権限の移譲、地方交付税の見直しの3つを「三位一体(さんみいったい)の改革」と言った。 政治機構には、主に立法機関、行政機関、司法機関で構成されている。日本では、立法機関として国会が、行政機関として内閣などが、司法機関として裁判所がある。 国会は、法律を制定する機関である。ほかにも内閣総理大臣の指名などを行う。 内閣は、法律を執行するための機関である。 裁判所は、裁判を行う機関である。 このほかにも会計検査院などがある。 大きくは、平等権(平等則)、自由権、社会権、基本的人権を守るための権利などがあり、日本国憲法などによって定められている。 日本国民には、納税の義務、勤労の義務、子女に教育を受けさせる義務が定められている。また、この場合の日本国民とは20歳以上の男女を指す。 政党とは同じ考えを持った政治家が集まり結成した団体のことで、事実上、衆議院総選挙において過半数をとった政党が日本の第1党となる。 政党政治とは政党ごとに与党・野党と分かれ、与党が政権を組織し、野党がそれを監視・批判するといった政治の仕組みのことでる。 また政党内閣を本格的にはじめたのは元総理大臣の原敬(はら たかし)であり、自らの立憲政友会を陸軍大臣・外務大臣以外に登用したことが始まりである。 現在は連立政権と言って第1党および提携をしている政党をともに「与党」と呼び、その与党すべての党で内閣を組織するということが増えてきている。 年々、投票率の低下が増え社会問題になりつつある。自らが日本国民なのだという自覚を持ち、その権利をきちんと果たすことが大事である。また、主権者として自分の意見を政治に反映させるためにも参政権を大事にしていかねばならない。 なお、いわゆるシビリアン・コントロール(文民統制)は、主権者たる国民の参政の一態様と考えることができる。シビリアン・コントロールとは、国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊をコントロールすることである。
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産業革命のころ、イギリスでのイギリスの経済学者アダム=スミス(Adam Smith)は、かれの著書『国富論』(こくふろん、『諸国民の富』、しょこくみん の とみ)を著作し、市場には、価格を自動的に調節する「見えざる手」(みえざるて、invisible hand)が存在するため、個々人が自己の利益のためだけに売買を自由にするだけでも、全体が幸福になると、アダム=スミスは主張した。 このような、政府はなるべく、民間の経済活動については、自由放任(じゆうほうにん、レッセ=フェール、laissez-faire)として、政府は経済に関わらないとする考えを「安価な政府」(cheap government、小さな政府)という。 アダム・スミスは、現代では「経済学の父」と呼ばれ、アダム・スミスは古典派経済学の祖(そ)とされている。アダム=スミスを中心とする彼の時代の経済学は、古典派経済学と言われる。 なお、後世のドイツのラッサールは、このような「安価な政府」の考え方を批判の意味合いで、「夜警国家」(やけい こっか)と呼んだ。 アダムスミスは、富の源泉は労働にあるとする労働価値説を発表した。 だが労働価値説は、現代の経済学では否定されている。 ※ 労働価値説は現代経済学では否定されている理論なので、暗記の優先度は低い。 現実の近代世界での経済の歴史は、アダム・スミスによる予想とは違い、自由な経済活動が増えるにつれ、貧富の格差がひらいたり、景気の変動がはげしくなったりしていった。 マルクス(カール=マルクス、Karl Marx)などは、市場経済を批判し、市場経済にもとづく資本主義から、市場経済にもとづかない経済である社会主義へと移行するべきだと主張した。マルクスは著書『資本論』『共産党宣言』を著し、資本主義を批判した。 1929年のアメリカから始まった世界恐慌により、各国の株式市場などの金融市場が不安定になり、安価な政府の考えでは、不況が解決できなくなった。 そのため、「安価な政府」とは別の考え方の、政府が積極的に経済活動を行う政策が行われた。 アメリカでは、ダム開発などの公共投資などを積極的に行うニューディール政策が、フランクリン=ローズベルト大統領によって進められた。 同じころ、イギリスの経済学者ケインズ(Keynes)は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年刊行)で、政府は有効需要(ゆうこう じゅよう)を増やすべきだと主張した。 有効需要とは、貨幣の支出をともなう需要のことである。 ケインズの考えによると、私企業や家計が経済活動を行うように、政府も景気安定などのための経済活動を行うべきだとする(ケインズのこういう考えを一般的に「ケインズ思想」と言います。) アメリカのニューディール政策は、ケインズ思想にもとづく政策である、と分類するのが一般的です。(※ 実教出版『公共』教科書の見解) このニューディール政策やケインズの理論などのように、自由放任ではなく、原則的に市場はなるべく自由にしつつも、政府は経済投資などで市場に積極的に関わるべきだとする経済思想のことを混合経済(こんごう けいざい)または修正資本主義(しゅうせい しほんしゅぎ)という。 なお、この、ケインズのような政策では、政府の支出が増えるため、インフレーションや財政赤字が起きやすいという性質がある。 中学で「小さな政府」と「大きな政府」を習ったと思いますが、ケインズ思想を重視する政策は基本的に、「大きな政府」になる傾向があります。なぜなら、政府は雇用の安定化などのために、民間では不採算な部門にも、積極的に政府が市場介入するからです。(※ 実教出版『公共』教科書をもとにwiki側でやや脚色。教科書では、歴史的な流れを書いてるが、実質的には、まあ、ケインズ政策が「大きな政府」だと言っているので) 当然、財政赤字などが膨らみやすいという欠点が、ケインズ思想にはあります(政治家は選挙対策などのため、普通は税金をそんなに上げたがらないので)。※ 財政赤字うんぬんも、まあ実教の教科書の構成がそんな感じである。直接は言ってないが。 「大きな政府」でも「小さな政府」でも、それぞれ長所と欠点があります。 中学では、「大きな政府」は「税金が高い」という傾向を習ったと思います。 高校では、それに加えて、実は「大きな政府」は「財政赤字になりやすい」傾向もあるという事も習います。 「小さな政府」はその逆であり、つまり「財政赤字になりにくい」傾向があるし、もちろん税金は安いのです。 原理的には、「税金が高いけど財政の健全な国」などの可能性もあるでしょうが、しかし実際には政治家の選挙対策などの都合により、増税は有権者ウケが悪いので、往々にして政治家による「大きな政府」的な政策の主張は、財源の税金を軽視したり有権者の関心に入らないようにしたりして、財政の悪化につながりやすい傾向があるし、事実、20世紀後半の日米の財政がそういう歴史の実例です。 1970年代から80年代になると、政府の財政赤字などを理由に、経済政策を「小さな政府」にする国が出てきた。 イギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根康弘(なかそね やすひろ)政権などが、このような経済政策である。 冷戦の後半になると、ソビエト連邦の経済や財政が行き詰まった。ソ連はペレストロイカで、部分的に自由競争をみとめる経済改革をして、それなりに効果もあがったが、ソビエト連邦は計画経済をやめ、またそれにともないソ連を解体し、ソ連解体にともない東ヨーロッパ諸国も民主化し、こうして冷戦は終結した。 現在、東ヨーロッパ諸国やロシアは、資本主義の経済政策である。 零戦後半のころ、中国でも改革開放(かいかくかいほう)政策がとられ、経済の自由競争が導入されていった。 同じころ、ベトナムでもドイモイ(=刷新)政策で、市場経済が導入されていった。
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不景気の場合は、失業者が増えるなどして、国から国民への雇用保険の給付が増える。 好景気の場合は、失業者が減るなどして、国から国民への雇用保険の給付が減る。 雇用保険は、べつに景気の刺激を目指したものではないが、雇用保険が給付された人にとっては、結果的に使用できるお金が増えたので、給付を受けた人は、そのぶん消費の意欲が高まる。 なので、不景気で国からの雇用保険の給付が増えた場合、結果的に、消費が刺激されることになるので、不景気を抑制する効果を持つ。 逆に、好景気の場合は、雇用保険の給付が減るので、そのぶん消費の刺激の効果は弱まり、景気を抑制することになる。 このため、雇用保険には、景気を安定化させる効果がある。このように、財政制度によって自動的に景気を安定化させる作用をビルト・イン・スタビライザー(built-in stabilizer)という。ビルト・イン・スタビライザーは「自動安定装置」などと訳される。 雇用保険や生活保護などの社会保障のほか、累進課税制度にも、ビルト・イン・スタビライザーの効果があるというのが定説である。 ビルト・イン・スタビライザーとは別に、政府が意識的に、不況時に公共事業や減税などの財政政策を行って景気を刺激させたり、いっぽう好況時には財政支出を減らしたり増税を行ったりして景気の加熱を防いだりと、政府が意識的に景気を安定化させるために財政政策を裁量的に行うことがあり、この裁量的な財政政策をフィスカル・ポリシー(fiscal policy)という。 財政は、1年を会計年度としてる。 予算には、一般会計予算と特別会計予算がある。 一般会計予算とは、文字通り、一般的な行政をするための会計予算である(高校の段階では、そういう認識で良い。検定教科書でも、そう説明している)。 特別会計予算は、特定の事業の実施など、特別な目的のために設ける会計予算である。 国の予算案は、毎年、内閣が作成・編集し(実質的には官僚が作成するが)、国会に予算案が提出され、国会で予算案が審議・議決される。 このほか、政府関係機関予算も、同時に国会に提出される。 また、災害などの事情により、当初の予算どおりには行かなくなり、追加の予算が必要になったときなどには、国会の議決を経て、補正予算(ほせい よさん)が追加される。 なお、一会計年度の歳入と歳出の実績を表す決算は、会計検査院の検査を受けたあと、内閣が国会に提出する。 かつて、郵便貯金や簡易保険や年金積立金などの資金が、特殊法人や公団・公庫などに融資され、その活動資金や投資資金などになっていたが、このような融資を財政投融資といい、「第二の予算」とも言われていた。 原資が郵便貯金など、国民から預かっているお金なので、特殊法人や公団・公庫などには返済の義務がある。 投資された公団や公庫が、民間や国民をあいてに融資することで、最終的に投資で利益を得られて、返済できるだろうという見込みであった。 しかし、非効率な融資や不透明な融資などが問題視され、2001年の財政改革によって、郵便貯金・年金積立金を財政投融資に投資するのが禁止され、郵便貯金・年金積立金は自主運用されるようになった。 現在の財政投融資は、政府の保証がつかない財投機関債の発行(特殊法人が発行する)によって資金調達され、金融機関や金融公庫などに投資されている。 租税は、法律によって定めなければならないことが、日本国憲法第84条に記述されている(租税法定主義)。 ビルト・イン・スタビライザーのように、税によって、自動的に景気を安定化させる機能のことを、景気の調整という。 所得税(しょとくぜい、英:income tax [1])は、所得の増加に応じて、税率も増加する。所得税など、収入にかかる租税では、収入が大きくなるほど税率が増える負担のさせ方をするのが通常で、このように収入に応じて税率をあげる課税を「累進課税」(るいしん かぜい)という。このような累進課税のため、結果的に、所得税は所得格差を減らす方向に作用する。所得税の累進課税制度のように、税の機能のうち、この貧富の格差を減らす機能のことを、所得の再分配という。 税金の本来の目的は、国道や公道などの公共財を供給したり、警察や消防などの公共サービスを供給することである。 税金による公共財・公共サービスの提供の機能のことを、資源配分の機能という。 戦前(第二次世界大戦前)の日本では、税収は酒税などの間接税が中心だった。 直接税と間接税の比率を、直間比率(ちょっかん ひりつ)という。 1949年、アメリカのシャウプ博士(Shoup)を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)による勧告(いわゆる「シャウプ勧告」)で、日本の税制について勧告され、日本の税制が、所得税などの直接税を中心にした税制に改められた。(このような、シャウプ勧告後の日本での直接税中心の税制を「シャウプ税制」という。) その後、高度経済成長により、税収は順調だった。 しかし、1973年に石油危機が訪れ、不景気になり税収が悪化し、それ以降も、経済成長の伸びが鈍り、所得税・法人税などの直接税の税収が伸び悩んだ。 その後も、少子高齢化が進み始め、福祉のための財源が必要になり、財源が不足してきた。 シャウプ税制のままでは、財源が不足することから、税制を見直す必要が生じ、直間比率(ちょっかん ひりつ)を見なおした。 1989年には、間接税である消費税が導入された。1989年の時点での消費税の税率は、価格の3%であった。その後、1997年には消費税率が5%に引き上げられ、2014年には消費税率は8%に引き上げられた。そして、2019年には消費税率が10%に引き上げられると同時に、一部の消費活動に対しては軽減税率(8%)が適用された。 近年(2015年に記述)、日本での税収の直間比率は、約6割〜7割が直接税である。残りの4〜3割が間接税である。 消費税は、すべての消費者に対して、一定の税率が課せられているという意味では公平である。このような、一定の税率という意味での公平性を「水平的公平」という。 一方、消費税は、所得にかかわらず税率が一定なので、低所得者にとっては、所得に対する税負担の割合が大きいという逆進性(ぎゃくしん せい, regressive)があると言われる。消費税の逆進性を弊害(へいがい)だとして、「逆進性」を問題視する批判・意見もある。 一方、累進課税のように、最終的に得られる所得が同じ程度になるという意味での公平性を「垂直的公平」という。 法人税率や所得税を高い水準にすることは、国際競争の観点からは、競争に不利だと考えられている。そのような意見もあり、日本では1989年ごろから、所得税や法人税の税率が引き下げられている。 業種によって、税務署などによる、所得の捕捉率がちがう。 自営業や農業では、捕捉率が低い。 一方、一般企業の会社員のような給与所得者は、給与の捕捉率が高い。 捕捉率が給与所得者10割、自営業者5割、農業3割という意味で「トーゴーサン」とか、あるいは、給与所得者9割、自営業者6割、農業4割という意味で「クロヨン」とか言われている。 上述のトーゴーサンやクロヨンとかのように税金の捕捉率が悪いとの批判もあり、捕捉率を改善するなどの目的もあって、マイナンバー制度(社会保障・税番号制度)が創設されており、すでにマイナンバー制度は実用化されている。 公共事業に使う国債を建設国債(けんせつ こくさい)という。公務員の人件費などの、普通の経費に使う国債を赤字国債(あかじ こくさい)という。 財政法(ざいせいほう)では、国債の発行を原則的に認めないが、例外的に建設国債は認められている。だが、財政法では、赤字国債の発行を認めていない。 しかし、石油危機後の不況による税収不足のため、1975年、特例法として赤字国債が発行された。 このため赤字国債のことを特例国債(とくれい こくさい)ともいう。 その後も、ほぼ毎年、赤字国債が発行されたが、80年代の後半にバブル経済の好景気によって赤字国債の発行が一時的にゼロになった。しかし、バブル崩壊後の景気の低迷により、また赤字国債が発行されるようになり、(2015年に記述)現在までも赤字国債は発行されつづけている。 なお財政法(第5条)は、日本銀行が国債を引き受けることを原則として禁止している(市中消化の原則)。その理由は、通貨の増発によるインフレを恐れてのことである。 国の国債の借金による歳入出を除いての、歳入出がプライマリーバランス(prmary balance)である。 式で書けば、 具体的にいうと、 のようになる。 式中の「国債の元利払い費と償還費」には、過去の国債の元利払い費と償還費(返却日の来た国債を額面どおりに返す費用)であり、今年度の国債を返す費用は含まれない。(そもそも今年発行したばかりの国債なら、まだ利子が発生してないし、償還の期日も来てない。もし今年度に国債の償還の期日がきたら、そもそも借金としての意味を持たない。) つまり、今年度の歳出のうち、どんだけが、今年の国債発行に頼らずに、資金調達できてるかを見るときに、プライマリーバランスが便利である。 日本では、1990年代はプライマリーバランスは黒字であったが、2000~2010年のあいだ、プライマリーバランスは赤字であり、2010年度以降も同様に赤字の傾向である。 日本政府は、財政改革によってプライマリーバランスを黒字化させることを目指している。 プライマリーバランスが赤字だと、今年の歳出を、今年の国債で調達していることになる。 その国債は、いつかは借金を国が返却しないといけない。なので、プラマリーバランスの赤字は、将来世代の誰かに、借金を押し付けてることになり、借金が先送りされていることになる。 詳しく言うと、国債発行による歳入と国債の返却以外の歳出とを除いて、つまり、国債の歳入・歳出を一切除いた歳入と歳出とが、どうなってるかを考えたのが、プライマリーバランスである。 近年、日本では、「国債は国の借金ではない。なぜならば〜〜」とか、「いや、国の借金である。なぜならば〜〜」などの議論が活発である。 これは、いったい、どういう議論なのかというと、下記のとおり。 まず、2018年現状の日本国債は、「日本円で返済する」という内容である。 このような事情が、けっして18世紀〜19世紀のような従来の、金属のゴールドで返済するような昔の国債の事例とは、大幅に違うのである。むかしは多くの国で金本位制だったので、通貨をいくら発行しても、国の金の保有量が増えないかぎり、国債を返却できなかった。 (なお、金本位制の時代にも、アメリカ合衆国が世界最大レベルの債務国になった時代もあるので、かならずしも債務国だからといって、経済破綻するわけでもない。 というか、アメリカが第二次大戦後、金本位制をやめた(ニクソン・ショック)理由は、債務が多くなりすぎて、ゴールドを返せなくなったからである。) (じつは現代のアメリカ合衆国も財政が債務国であるので、べつに日本だけが特別なワケではない。そして、アメリカが外国に貸してるぶんの国債の買い手の国は、ほとんどが中国と日本である。) また日本の債務は、けっして米国ドルやユーロなどの、外国貨幣で日本国債を返済するわけでもない。 日本国は自身の判断で日本通貨や日本銀行券といった日本の貨幣を生産できるので、もし現状の政府や中央銀行の保有する日本円が不足しても、追加で日本円の貨幣を生産すればいいのである。 もちろん、無制限に貨幣を発行しすぎるとインフレになってしまい、貨幣価値が低下してしまう。なので、なるべく日本の財務省は、国債の残高を増やさないようにしようといているようである。 なお、近年の日本経済は「デフレを原因とする不況」と言われてる(その仮説が事実かどうかはともかく)。なので軽度なインフレには、もしかしたら(2018年近年の日本の)消費者心理を改善する効果があるかもしれない。「インフレ ターゲット」などと言われる政策案は、この軽度なインフレによる好景気を狙った政策である。 第二次安倍政権の経済政策(日本マスコミは「アベノミクス」と呼んでいる)も、おそらく、「インフレターゲット」を意図した経済政策であろう、と通説では考えられている。日本では既に2013年から、安部政権下で日銀の黒田総裁がインフレ・ターゲットを目指していることを明言している。(※ 清水出版の高校生用のニュース解説資料集でも紹介されている時事である。) だからといって、もしインフレを限度なく進行させてもハイパーインフレになってしまい経済が混乱してしまうだろう。なので結局は、ハイパーインフレにならないようにインフレを抑える必要があるので、なんらかの財政規律も必要である。 (なお、2013年に日銀から提言された日銀黒田のインフレ・ターゲットのインフレ率の目標値は2%だが、2018年の現時点では、まだ目標の2%のインフレ率は達成できてない。) 借金というのは、貸し手 と 借り手 が存在する。 2018年現在の日本国債の場合、貸し手はもちろん日本国であるが、借り手 のほとんども日本国内の銀行などの金融機関であり、貸し手も借り手も、実質的に日本人である、という特殊な事情である。 これが、歴史的な従来の、外国から資金を借りるような「国債」の事例とは、大幅に違うのである。 ただし、あくまで現状では、日本国債では借り手の大半が日本人という事、という現時点での限定事項である。 将来的に日本国債の借り手の割合がどうなるかは、不明である。 外国人による日本国債の購入は、禁止されていない。(そもそも歴史的には、外国から資金を調達する手段として、世界各国で国債が活用されてきた。) 普通の民間企業が、企業に融資する際は、もしその企業が返済できなかった場合に、企業の保有していた土地や設備などを譲り受ける契約をする「担保」(たんぽ)という契約をする。 しかし、日本国債の場合、担保(たんぽ)の契約などは、日本国債では行われていないようである。 現状の日本国債の場合、そのような担保の話は、聞かない。もし、日本国が国債を返済できなかった場合に、日本国はどのような弁償をするのか、そもそも弁償があるのかどうかすら、不明であろう。 しかし、国債は「国の借金」である。なぜなら、国債とはべつに、地方自治体に金を貸し与える債券(2文字目に注意)である「地方債」という債券があって、この地方債のことを通常、「地方の借金」という。(※ しかし、中学校の教科書では、「国の借金」という言い方はしていない。)(中学校でも地方債を習ってる。 分からない人は不勉強なので、今ここで復習しよう。) 同様に、国に金を貸し与える債券のことを「国債」と呼ぶわけである。 さて、たびたび一部のマスコミなどの評論で「国債の権利者は、国民だ」などと評論されることがあるが、しかし、これは不正確であり、ハッキリ言うと、まちがいであろう。 なぜなら、国債にかぎらず一般に金融における債券の権利者は、その債券の購入者が権利者であるので、債券を購入してない一般国民はなんの権利者でもない(※ 中学校の教科書でも、国債や地方債について、そう説明している)。(あなたや周囲の人は国債を購入したことありますか? ほとんどの人は、ないでしょ?)日本では銀行が国債を多く購入しているので、国債の権利者は事実上は銀行である。 また、基本的に返済計画は、数十年かけて将来的に国債・地方債を政府・地方自治体などは返済しようとするので、実質的に恩恵を受けるのは今の世代の国民・住民で、負担をするのは数十年後の国民・住民である。なので、国民どうし・住民どうしの、若者と老人のあいだの金の貸し借りのような世代間の金の貸し借りでもあるといえる。 まとめると 原理的には、公共事業を増やす際、増税をしなくても、景気が改善すれば、その好景気によって歳入が増加するので、原理的には増税せずとも公共事業を増やすのは理論上はありうる話だし、理論上では増税なしでの財政の再建は(あくまで理論上は)可能である。ただし、実際にはそれは、なかなか難しい。事実、近年に財政を再建するのに再建したカナダやスウェーデンでも増税をしている。(※ 実教出版「公共」の見解) 「国債」とは、その国の政府機関の活動などに不足している分の資金を、税収ではなく「国債」という債権の発行によって補っているわけである。日本国債の借り手が日本の民間銀行にせよ、それとも外国人にせよ、そもそも、税収に対して、歳出が大過ぎ、という問題点がある。(なお、日本銀行が日本国債を購入するという手は、法律(財政法)によって禁止されている。) 評論家によっては、「日本は財政赤字でも、自国通貨(日本円)建ての赤字なので問題ない」という人もいるが、しかし経済学の通説や政治学の通説では、財政赤字を放置することは、その国の貨幣価値の信用をそこない、インフレなどをコントロールしにくくなりハイパーインフレが発生しやすくなる、等のように言われている。 また、財政赤字は、政府などがハイパーインフレなどをおそれるために、緩和的な政策が行えないので、財政の硬直化をまねくとされる[2]。 日本は国債残高が多い。しかし、日本の財務省などは、けっして国債残高を放置しているわけではない。日本の政治家は、たぶたび消費増税などの増税を行ったり、各種の補助金を減らしたりして、国債残高を抑えようとしている。つまり、財政に規律はある。しかし、あいかわらず、国債残高の金額も大きいままである。 このような場合、経済にどういう影響を与えるのか、まだ政治学・経済学では不明であろう。 従来の政治学・経済学で言われてた、国債残高の大きさを放置する国の事例というのは、その国の財政にも規律がなく、その国の政治家が、国債残高の大きさを放置してきて、財務省はその政治家に負けて、財政規律の無くなったような事例ばかりであった。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E8%B2%A1%E6%94%BF%E3%81%A8%E7%A8%8E
需要供給曲線のグラフを描く時、一般に縦軸に価格を取り、横軸に数量を取るので、需要曲線は右下がりであり、供給曲線は右上がりとなる。 需要と供給の数量により市場価格が決定される。価格の変化で均衡がもたらされることを、価格の自動調節機能という。 しかし、このような調節機構が働く場合とは、市場で自由競争が行われている場合である。 くわしく言うと、今の経済学でいう「完全競争市場」(かんぜん きょうそう しじょう)というのが、価格の自動調節機能の前提である。 完全競争市場とは、売り手と買い手には充分な人数が存在していて、価格の情報について売り手も買い手も同じ情報を持っている、などの条件を満たす市場である。箇条書きで書けば、完全競争市場とは、 という条件を見たすような市場である。今でいう「完全競争市場」を、アダム・スミスなどの理論は前提にしていた。 ※ 完全競争市場の上記4つの条件のうち、どれか一つでも満たされてない市場のことを「不完全競争市場」という。(後述の『独占』などの単元で不完全競争市場について説明する) ※ 高校の「公共」教科書には、コラムのページで、需要曲線の「シフト」などの話題もある(清水書院の教科書で確認)。※ 当wikiでは図を書くのが面倒なので省略。誰か書いて。 市場で、売り手となる企業・生産者が、一社の場合であり、その一社の企業が市場を支配してる場合を独占(どくせん、monopoly)という。独占された市場の場合は、この市場は完全競争市場ではないので、独占の状態では価格調節の機能が働かない。 同様に、売り手となる生産者・企業が、少ない会社数の場合を、寡占(かせん、oligopoly)といい、この場合も価格調節の機能が働きにくくなる。 このように、独占や寡占などのみられる市場を不完全競争市場(imperfect market)という。 そのうち、寡占市場で、有力企業がプライス・リーダーとなって一定の利益を確保できる価格を設定し、他の企業がこれに倣うときの価格を管理価格(かんり かかく)という。この管理価格では、不況でも価格が下がりにくい。一般の市場よりも価格が下がりにくい性質を、価格の下方硬直性(かほう こうちょくせい)という。管理価格では、価格の下方硬直性がみられる。 もし独占や寡占などが起きると、消費者に不便であり、また産業の発展が阻害されてしまう。なので、多くの国では、独占を法規制している。日本でも、独占禁止法(どくせんきんしほう)がある。 このような価格の硬直した寡占市場では、企業どうしの競争で、価格競争は起こりにくい。価格以外の宣伝広告やブランドや意匠(いしょう)などで、企業どうしが競争することになる。このように、価格以外の面で競争することを非価格競争という。寡占市場では非価格競争がみられやすい。 ある産業に参入している企業の数が複数であっても、その業種の参入企業どうしが、価格について協定をしあったりすれば、価格競争は起きないので、実質的に独占や寡占と同じである。あるいは株式の持ち合いなどをしていたりすれば、価格競争は起きにくい場合がある。 企業の集中には、つぎのカルテル(企業連合)、トラスト(企業合同)、コンツェルン(企業連携)という3つの形態がある。 カルテル(Kartell)とは、価格などについて協定をすることである。日本では、独占禁止法により、カルテルが原則的には禁止されている。 トラスト(trust)とは、同一業種の企業どうしが合併や統合をして、ひとつの企業になることである。合併は原則的に自由であるが、市場を独占・寡占するおそれの場合には、独占禁止法によって禁止される。 コンツェルン(Konzern)とは、一つの持株会社(もちかぶ がいしゃ)が、さまざまな業種の企業を傘下(さんか)におくことである。日本では戦前の財閥が、コンツェルンの状態である。 かつて独占禁止法の例外として、不況時の不況カルテルが、1953年の法改正から認められていたが、1999年の法改正により不況カルテルは禁止された。合理化カルテルも、1953年から認められていたが、1999年の法改正で禁止された。合理化カルテルとは、品質向上を目的としたカルテルである。 日本では、市場の独占・寡占を行う企業などを取り締まる行政委員会として、公正取引委員会が設置されている。 商品によっては、生産量を増やすほど、商品1個あたりの費用を削減できるものがある。 このような商品を生産している産業の場合、生産量の多い大企業ほど、商品1個あたりの費用を下げることができるので、さらに売れ行きがあがり、利益を増やせ、その大企業の市場でのシェアが上がっていく。このような利益を、規模の利益(きぼのりえき、scale merit スケールメリット )という。 このような、規模の利益の発生する産業では、政府が関与せず自然にまかせておくと、大企業による市場の独占や寡占が発生しやすい。 石油化学コンビナートや、電力の発電・送電、ガスの生産なども、このような規模の利益が発生しやすい産業である。 電力産業やガス産業では、例外的に、政府は、その地域に一社に独占をみとめるかわりに、公共料金で規制をかけている。 生産者・販売者が、採算を度外視して価格を無理に下げることを不当廉売(ふとう れんばい、ダンピング dumping)といい、独占禁止法などによりダンピングは禁止されている。 なぜ、採算を度外視して価格を下げることが独占につながるのかというと、市場価格を低価格化させるので、競合他社の撤退などにつながったり、あるいは、競合他社を倒産・破産させかねないから、などの理由である。
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物価のうち、企業間で取引きされる卸売の段階での物価を企業物価という。 一方、物価のうち、一般の最終消費者が商品を購入するときの物価を消費者物価という。 この企業物価を算出する方法は、企業間の取引きで、よく取引きされる商品についてウェイトをつける計算方法で、企業物価指数を算出する必要がある。 いっぽう、消費者物価を算出するには、最終消費者がよく消費する商品についてウェイトをつける計算方法で、消費者物価指数を算出する必要がある。 消費者物価指数および企業物価指数とも、基準年を100とした指数である。 物価の持続的な上昇はインフレーション(inflation)と呼ばれる。 インフレの原因は一般的に、ある商品を買いたい人の多さに対して(つまり、需要に対して)、商品不足である(つまり供給不足)。 市場メカニズムを考えれば、その原因が思いつくだろう。 つまり、商品が少ないからこそ、あるお店で値上げをすれば、他のお店で買うこともできないだろうし(もしくは他のお店を探すのがメンドクサイ)、どうしても買う必要のある人がいれば(需要があれば)、たとえ値段が上昇しても、ガマンできる金額であれば(その金額の高さというデメリットよりも、「買いたい」という需要が強ければ)、消費者はそのお店でその商品を買うわけである。 このような仕組みを経済用語でまとめると、インフレの原因は一般的に、その物価水準において供給よりも需要が大きい時に、インフレが発生しやすい。 数式っぽく不等号で表せば、インフレが起きやすい場合とは、 である。 需要の増加によって、需要が供給より大きくなって発生するインフレーションをディマンド・プル・インフレ(demandーpull inflation)という。 いっぽう、供給側の生産コストの上昇によって起きるインフレーションをコストプッシュ・インフレ(costーpush inflation)という。 インフレになると、インフレの原因がなんであれ、通貨の価値が下がったことになる。ひとつの物を買うのに、より多くの額面の金銭が必要んなるので、たとえば日本のインフレだとしたら、つまり貨幣1円あたりの価値が下がったことになる。 インフレ現象を、物を基準に見ると、通貨の価値が下がったことになる、 一方、通貨を基準にインフレをみると、インフレによって、物の金銭価値が上がることになる。 インフレによって、貯金の価値は下がる。 また、借金の負担も、インフレによって、下がる。たとえば10万円の借金をしていても、インフレによって物価が10倍になれば、昔は1万円だった物をインフレ後に1つ売れば、それで借金が返せることになる。10倍インフレ前なら、1万円のものを10個売らなければならなかったわけだから。(じっさいのインフレでは、国の深刻な財政破綻などでないかぎり、このような急激なインフレは起きないのが普通。あくまで、わかりやすくする目的のため、急激なインフレで説明している。) このように、インフレは、借金の借り手にとっては有利である。 裏をかえすと、借金の貸し手のとってはインフレは不利である。 なお、インフレによって、これから、名目上の利子率、利息率が上がる。 すると、これから借りる借金の利子も上がるので、これから借りる人にとっては、不利になる。しかし、すでに借りている人にとっては、その借金の契約条件での利子率が(例外として物価連動などの条件を利子率につけてないかぎり、)昔の利子率のままなので、これから借りる人よりも、昔に借りた人は利子率が低いことになる。 いっぽう、持続的な物価の下落はデフレーション(deflation)と呼ばれる。 デフレの原因は、一般的に、供給が余ってることである。 市場メカニズムとの関係を考えてみよう。 お店の都合からすれば、何らかの原因で、今までどおりの価格のままでは商品が売れないからこそ、しかたなく値段を下げる必要があるので、物価が下がるのである。 たとえば、もし消費者が、あまりその商品に需要がないのに、もし、その商品の値段が高ければ、そんな高額商品は買いたくないのが当然だろう。 でも、もし、その商品の値段がすごく下がれば、「こんぐらい安ければ、買ってもいいだろう」と思う消費者も増えるだろう。 つまり、値段が下がることで、需要が増える。もちろん、販売店の売上(うりあげ)は下がるが、まったく売れないよりかはマシである。お店の商品は、保管するだけでも、倉庫代などが掛かるのである。いわゆる「在庫品」(ざいこひん)には、費用が掛かるのである。 お店が商品の値段を下げたら、消費者の需要がこうして上がるが、一方、市場メカニズムにおける供給はどうなるのだろうか。値段を下げたところで、その瞬間には、その商品を保有しているお客さんの人数は変わらないので、値段(つまり物価)を下げても、べつに供給は増えない。 結局、値段を下げると、とりあえず、その瞬間には、需要だけが増加して、供給はそのまま不変である。 ともかく、需要不足だとデフレになりやすい。 読者は「不足」の基準を何にするかという疑問があるだろうが、とりあえず経済学では、インフレの場合の「 需要 > 供給」の条件で供給を基準にしたように、デフレも供給を基準に考えよう。 数式っぽく不等号で表せば、デフレが起きやすい場合とは、 である。(デフレの条件式の不等号の向きは、インフレの場合と逆向きである。) 先ほどの節の説明のとおり、市場での商品不足は、インフレを引き起こしやすい。 一方、商品不足なら、もし商品を販売すれば、ほぼ確実に売れるだろうから、好景気を引き起こしやすい。 よって、このように商品不足の場合、インフレと好景気が連動する場合もある。 しかし例外もあるだろう。たとえば、インフレの原因が、たとえば国家財政における財政不安・財政危機などによって通貨の信用が暴落した場合や、あるいは戦争・大災害などにより工業地帯などが破壊されて商品不足などが起きた場合などには、消費者は将来不安のために生活必需品以外の消費を控える可能性もあるので、かならずしもインフレだからといって好景気になるとは限らない。 なお、不況とインフレ(物価高)が同時に進行する現象をスタグフレーション(stagflation)という。(停滞(スタグネーション)とインフレーションをあわせた用語) 1973年の石油危機は、「狂乱物価」(きょうらん ぶっか)と呼ばれる物価上昇(インフレ)をもたらし、スタグフレーションをもたらした。 (※ 第一学習社の検定教科書『高等学校 政治・経済』が、石油危機をスタグフレーションと認定している。) なお、この1973年の石油危機のとき、トイレットペーパーが品薄になるというウワサが流れ、スーパーなどの日用品売場にトイレットペーパーを買い求める消費者が殺到した。 さて、インフレになると、場合によっては、金銭をもっていても価値が下がっていくので、貯金をするよりも、物を買って、物資として資産をたくわえようという意識が働く結果、消費が活発になり景気が良くなる場合もある。 一方、商品が欲しくない、つまり需要不足( 需要 < 供給)なら、デフレが起きやすいのであった。 消費者がある商品が欲しくないってことは、その商品を扱ってる販売店や生産者からすれば、販売や生産を扱ってる商品が売れないので、その商品の販売会社・生産メーカーなどは倒産しかねないってことである。もし、多くの会社が潰れれば、不況になってしまう。 こういうデフレの場合、デフレと不景気が連動する場合もある。もちろん、例外もあるだろう。 ある会社がつぶれても、その会社の競争相手の別会社にとっては好都合かもしれない。あるいは技術改善によって価格の減少が起きる場合もある。 さて、インフレと不況が同時進行することを「スタグフレーション」と呼ぶのであった。 一方、不況とデフレが同時進行している場合を考えてみよう。 まず、なんらかの不況または景気不安によって、生産者・販売者らが生き残りのためのコスト・ダウンをして、デフレになったとしよう。 すると、そのコスト・ダウンによって、競合他社も値下げさぜるを得ず、さらに価格競争が起きる。すると、さらに、最初に値下げした業者も、競合他社に対抗するため、またまた値下げする。すると、どんどん販売価格が下がる。 そして、販売価格が少ないので、せっかく商品を売っても、利潤が少ない。この結果、デフレによって所得が、名目だけでなく実質的にも低下したことになる。 そして、労働者の所得が低下すれば、当然、消費に使える金銭が減るので、消費が不活発になり、さらに不況になるだろう。 このように、なんらかの原因で、不況とデフレが同時進行することをデフレ・スパイラルという。(「スパイラル」とは、「らせん」という意味。「スパイラル」という単語自体には、その循環が、良い循環か、わるい循環かの、決まりはない。つまり、「デフレ・スパイラル」とは、けっして文字通りの単なる「デフレの循環」意味ではなく、「デフレが不況を深刻化させる」という価値判断を「デフレ・スパイラル」という単語は含んでいる。) このデフレ・スパイラルが悪循環となって、景気を低迷させ続けかねない、というのが、近年の定説である。(検定教科書でも、そういう立場である。) 2002年に政府から「総合デフレ対策」が出るのは、おそらく上記のようなデフレ・スパイラルの不安があったのだろう。 経済史としては、実際にデフレ・スパイラルという現象が起きているかはともかく、1999年ごろから日本政府はそう認識したようであり、2002年以前から既にデフレを止めようとする政策は行われていた。 歴史的に実際、1999年以降の一時期、ゼロ金利政策(1999年)、量的緩和政策(2001年)などといったインフレ誘導的な政策が行われた[1]。 「デフレ・スパイラル」の検定教科書で説明しているような意味は、本当はウソかもしれず、単に2002年の「総合デフレ対策」のための政府見解なだけでしかないかもしれない。 2000年以降、世間での通説では「デフレを放置しつづけると不況が深刻化」みたいなのがデフレ・スパイラルの定義とされ、その実例が平成の長期不況だといわれるが、しかしそもそも令和の2020年代から振り返ると、平成の日本経済は、デフレ(物価下落)というよりかはディスインフレ(物価が上昇してない)というのが統計的な事実であった。 実際、内閣府の統計で西暦2000年を基準とした内閣府の消費者物価指数の統計を見ると、1992年以降から2010年まで100%±2%の程度を推移しつづけているのが実態である[2]。 こういう分析は別にwikiのオリジナルではなく、たとえば大学1年レベルの普通の経済学の教科書でも(たとえば有斐閣(ゆうひかく)アルマの経済学シリーズ)、統計などをもとに、そもそも平成の日本経済が言われてるほどデフレでないことは普通に周知されている。(物価の基準を西暦何年に取るかによって物価指数の値は変わってしまうので一概には「デフレでないとは」言えない。) 内閣府のサイトを信用するなら昭和の好況だといわれた1980年代(物価は80~95%)よりも、むしろ平成の100%台のほうが物価は高い。 もちろん、第二次世界大戦の終わった戦後の復興期の日本でのインフレと比べれば平成には物価上昇率が低下またはゼロ付近になったが、しかし平成のそれは正確には「物価下落」(デフレ)ではなく「ディスインフレ」(非インフレ)というべきである。 つまり、仮に平成の不況の原因が物価だとしても、それは「ディス・インフレによる不況」にすぎず、けっしてデフレ不況ではない。 その他、ITメディアの経済記事でも似た分析があり、引用すると下記のように、 と分析している。 そして2013年になれば、日本は自民党の安部政権でインフレ誘導をし始めたので、もう2013年以降からの日本の不況はデフレとはあまり関係ない。 平成の1990~2010年のこの時期、欧米の諸外国では物価指数がプラス気味でインフレ傾向だったので、もしかしたら「欧米先進国と比べて物価指数が低ければ不況になるのでは」という仮説はあるかもしれないが、しかしそれは「デフレ・スパイラル」の定義とされる物価の下落がさらなる次の物価下落と不況を呼ぶという理論とは何の関係もない。 このように、「デフレ・スパイラル」はあまり現実の長期統計を説明できていない。 1990年以前、経済学においてインフレ不況の理論はあったが、デフレ不況の理論は乏しかった。なので、学問の改革をしようと経済学者たちはデフレ不況の理論を1990年代に精力的に研究して構築した。それ自体は素晴らしい研究業績である。戦前の日本での松方デフレやらの研究などもこの時代に進んだようであり、多くの学問的な業績が出ただろう。 しかしそれは、けっしてその研究当時の平成が長期デフレであったことの証拠にはならない。 たとえば明治時代の日本では文明開化によって欧米の考古学を導入したので古代日本の研究が進んだが、しかし明治時代は縄文時代ではない。犯罪心理学の研究者は犯罪者ではないし、推理小説の作家も犯罪者ではない。そもそも、江戸時代に国学者の本居宣長(もとおり のりなが)は平安時代の文学を研究したが、しかし江戸時代は平安時代でもない。 なのに、なぜ平成の経済学者がデフレ研究をすると、それだけで「平成時代はデフレ」という証拠として採用するのか、意味不明な思考回路である。 2002年に日本政府は(日本は)「デフレ・スパイラルに陥っている」と発表したといわれ、不況打開のための「総合デフレ対策」を発表した[4]。しかし、前提となるその政府の分析は上述コラムのように、2020年代の現代から見ると少し疑問がある。 たしかに1997年から見れば、デフレ傾向ではある。1997年から2002年まで、物価指数は減少を続けているし、97年の拓銀の破綻や98年の長銀の破綻で日本経済は不況ムードになった。 リーマンショック後の2009年の民主党政権の誕生時、民主党政府は日本経済が「デフレ」状況にあると宣言した。 当時、一部のマスコミ報道では、あたかも対立政党の自民党は日本経済がデフレであることをかたくなに認めなかったように一部では報道されたが、しかしそれは上述の2002年の「総合デフレ対策」を考えれば分かるように、まちがった報道であろう。 また、内閣府の統計を見ると、(リーマンショック後の時期である)2008年と2009年は物価指数が100%以上である(つまり、基準年よりもインフレ)。 そもそも本来、経済学的には「デフレ・スパイラル」という言葉じたいには、不況か好況かは関係なく(どちらでもいい)、現在のデフレによって未来のデフレの程度が強化される現象のことが「デフレ・スパイラル」の本来の意味である可能性すらある。(※ 参考文献: 『小室直樹の経済原論』、初版は1998年11月、)。ただし、『小室直樹の経済原論』が出た当時、日本が不況だったので、小室はその原因をデフレに求めているが。 実際、小室の書籍で「インフレ・スパイラル」という表現も使われている。経済現象では、しばしば、賃金と物価がともに上昇しつづける現象がよく起こる。小室はそれを、典型的な「インフレ・スパイラル」の例だと述べている。[5]。 なお、日本だけでなく米国でも、インフレ・スパイラル inflationary spiral と言う用語がスタグフレーションなどの議論で使われるツイッター Paul Krugman@paulkrugman の引用先の経済学者ブラッドフォード・デロング(カリフォルニア大学バークレー校教授)のツイート発言 。なお出典のひとつのクルーグマンは2008年のノーベル経済学者。どうもインフレ・スパイラルを無視してデフレ・スパイラルを語る論法は、日本でしか通用しないガラパゴスな経済認識のようだ。 物価が上がるから賃金が上がるのか、それとも賃金が上がるから物価が上がるのか、よく分からないが、つまり、どっちが先に上がったのかは不明だが、ともかく、 というような現象がよくあり、こういうのを小室は「インフレ・スパイラル」の一例とした。 デフレ・スパイラルは、上述のようなインフレ・スパイラルを逆にしたものにすぎない。 さて、さきほどの を見ても、物価の変動と賃金の変動のどちらが先かが不明である。このため、物価と賃金のどちらが原因なのか、どちらが結果なのか、不明である。 つまり、物価と賃金のように相互作用するものは、「→」のような矢印を使って論理関係を記述するのが困難である。 しかし、経済学は、このような現象であっても、普通に各種の数値を計算することができることが知られている。 数学的には不正確な推論だが、 小室は、たとえば経済学の公式で という昔からよく使われる公式を例に、下記のように説明している。 この公式は単なる一次方程式であるのにかかわらず、この数式を見るだけで、なんと国民所得と消費の関係について、仮に投資Iを一定値だとすれば、 数学的には「消費が1上がると、それから国民所得も1上がる」または「国民所得が1上がると消費が1上がる」の片方でしかないが、しかしこれを小室は拡張して、数値的には不正確だが、スパイラル「消費が上がると国民所得も上がり、それによってまた消費も上がる」ことのモデルとした。 数学的にはまったく不正確な計算だが、しかし実際の20世紀のケインズ政策的な公共投資がこれと似たような考え方で行われてきたので(ただし消費Cではなく投資Iが駆動源だが)、まったくのデタラメな推論とは言えないし、歴史的にはニューディール政策など多くのケインズ的な政策に実例すらある。(※ どうしても数学的な厳密性にこだわるなら、記号をイコール「=」ではなく別の記号に変えるなどの工夫が必要かもしれない。ただし、小室はそのような工夫はしてない。本ページでも説明の単純化のため、小室と同様の一次方程式の記法で表現する事とする。) 小室の著作では紹介されていないが、経済学では下記の式が昔から知られている。 すでに経済学者サムエルソンが、所得Yと消費Cを数列の方程式にして、計算を行っている。 サムエルソンなどにより、式 ただし、 が提唱されている。これは数列の連立方程式である。計算は頑張れば高校レベルでも計算可能だが(数列の式なので)、高校生には時間の節約のため計算の説明は省略する(詳しくはwikipedia『w:乗数・加速度モデル』を参照)。これをサムエルソンの「乗数・加速度モデル」という。 小室はおそらくサムエルソンの式を参考にしたのだろう。しかし、スパイラルの説明では、小室はサムエルソンの式を紹介していない。 代わりに小室は、 単純な一次方程式 を使い、近似的な記法とみなした推論が必要だが、単純な方程式を使うことで、なんと相互関係も記述できてしまうとした[6]。(※ ただし、数値の具体的な算出には役立たない。) 小室によれば、国民所得の上昇を好景気だとすれば、 「Y=C+I」という式だけで、 というスパイラルを表せたことになる[7]としている。 ところで、我々は物価を考察しているのであった。小室は特に物価の公式は例示してはいないが、本wikiで説明のために物価の式を非常に大雑把だが近似式であらわせば、 とでもなるだろう(だと仮定する。実際はもっと複雑だが)。 すると、これは一次方程式だから、上述の議論と同様に、スパイラルが起きることになる。 小室は物価と賃金のあいだにもスパイラルがあるとして、それを「物価・賃金スパイラル」と呼んでいる[8]。 さきほどの議論では、物価がインフレかデフレかの議論はしていないことに注目せよ。(なお、小室の参考文献の該当ページ P.369 ではインフレを例に説明している。) さて、日本の1980年代あたりまでのバブル経済では、 物価の上昇と(インフレ)、国民所得の上昇がおおむね連動していた。つまり というスパイラルである。 なので、つまりデフレが起きれば、インフレの場合の逆の結果が起きるだろうという予想が、(バブル崩壊後の1990年代では)自然であろう。 すると、つまりバブル崩壊後の経済予想として、 という予想が自然である。これがデフレ・スパイラルの一例である。 小室は、参考文献として1992年の評論家・宮崎義一(みやざき よしかず)の『複合不況』をあげているが、しかし宮崎は「複合不況」という表現を用いている。(「デフレ・スパイラル」ではない) なお、小室は経済学はフィードバックを伴うから実験できないと述べているが[9]、しかし、それは間違いだろう。なぜなら、たとえば工業高校の電気系学科で習うフィードバック回路など、普通に実験ができるので、この理由は間違いだろう。 小室は述べていないが、量子力学では実験そのものが原理的に誤差を引きおこす現象が知られているが(「不確定性原理」)、しかし量子力学のそれはフィードバックとは呼ばずに普通は「擾乱」(じょうらん)などと言う。ただし量子力学の擾乱は、原子や電子などの微細なもの(物理学におけるミクロ)に対する現象であるから、マクロ経済のようなマクロ解析に量子論の「擾乱」を当てはめるのも間違いだろう。 どちらにせよ、小室の「フィードバック」を原因とする説明は間違いであろう。 さて、話題をスパイラルに戻すと、ともかく、デフレ・スパイラルの対義語として「インフレ・スパイラル」という用語も1990年代の過去に小室の書籍などで提唱されており、このインフレ・スパイラルによって、1989年の不動産バブル崩壊までの物価上昇を説明する言説なども1990年代には あった。たとえば、 とか のような現象を「インフレ・スパイラル」と呼んでいたわけだ。 なお、小室の書籍では、バブルの物価高については、地価ではなく一般的に「価格」という表現を用いて、 と表現している[10]。 デフレ・スパイラルの本来の意味は、上記の土地と不動産屋の例の逆のような現象が起きるだろうという予想であり、つまり、 というような予想が、本来の「デフレ・スパイラル」の意味であった。 この本来の「インフレ・スパイラル」や「デフレ・スパイラル」の意味のほうが、経済学的には、不況かどうかの主観的な判断もなく客観的であり、そのため数式にもしやすく、本来の意味のほうが数理的にも経済学的にも望ましいかもしれない。 しかし、デフレ・スパイラルの用語が流行した1990年代、日本で不況が深刻化したので、当時の経済評論で、不況と本来の意味の「デフレ・スパイラル」を関連させる言説が流行していくうちに、いつしか世間では、「デフレ・スパイラル」の意味が変わり、不況とデフレが同時進行することに意味が変わっていった。 なので、検定教科書などにある「デフレ・スパイラル」の意味は、経済数学などでは、あまり意味も無い。 サムエルソンの「乗数・加速度モデル」と、小室の著作にかかれた「インフレ・スパイラル」と「デフレ・スパイラル」の関係を知っていれば、つまりデフレ・スパイラル論は、インフレなどの研究に活用された「乗数・加速度モデル」の手法および成果を近似的に用いてデフレを研究・制御・記述などをしようという手法であろう。 日本では1990年代には経済学者の小室直樹などがデフレ・スパイラルとインフレ・スパイラルを本来の意味で使っていたが、小室の痛烈なマスコミ批判によって小室はテレビなどでは取り上げられず不遇であり、テレビの経済番組やその手下たちの経済評論では、表面的に「デフレ・スパイラル」の経済学的な原理を知らない評論家たちによって流行語として取り上げられるようになっていたのである。また、世間の大衆は、サムエルソンの公式のような数学の連立の数列方程式などを理解しないので、本来の意味では理解できない。 世間の大衆は、1990年代当時の経済学者の書いた本など読まないので「デフレ・スパイラル」の本来の意味など確認しようともしないので、意味が修正されずに、現在まで続いている。 日本のセンター試験や大学入試などに出てくるような経済史の暗記などは、本来の経済学とは全くの別物である。本来の経済学は、微分積分などを使って、経済を数式で表すことにより、政策などのために、投資額や予算などの具体的な金額を算出するための理論体系が経済学である。 さて、デフレになると、商品が安く買えるので、貯金のある人にとっては有利である。(なお、インフレは、貯金の価値を減らすのであった。このように、インフレとデフレは、貯金の価値に対して、逆に作用する。) さて、貯金のない人にとっては、これからオカネを稼がないといけないが、デフレになると、せっかくオカネを稼ぐために働いても、すでに貯金のある人と同じ金額を貯めるまでに、より長い期間が必要である。 たとえば、かりに、日本のサラリーマン平均年収1000万円のインフレ時代があったとして、その後、デフレによって、平均年収100万円になったとしよう。(じっさいには、このような急激なデフレは起きないのが普通。あくまで、わかりやすくする目的のため、急激な例で説明している。) この条件の場合、むかしは、1000万円を1年で稼げたことになる。しかし、デフレ後だと10年間、働き続けないといけない。 デフレが起きても、けっして、それまでの貯金が消失するわけではない。なので、年収1000万円時代の人の貯金が消えるわけではない。 このように、貯金の無い人にとって、デフレは不利である。(なお、インフレなら、貯金のない人には有利なのである。) (※ 範囲外:)ケインズ経済学の元ネタでもある経済学者ケインズは、緩やかなインフレを、金利生活者にとっての「安楽死」と表現した[11]。結局、インフレでもデフレでも、誰かが不利益をこうむる(少なくとも一時的には)。2010年以降、インフレを求める意見は市井(しせい)に多いが、しかしケインズ経済学を根拠にインフレ誘導政策を要求するなら、それは「安楽死」である自覚ぐらいはもってもらいたいものである。さて、ケインズ自身は高齢者社会保障にはあまり関心は無かっただろうが、じつは年金受給者は「金利生活者」のようなものでもある[12]。あるいは、仮に年金自身は物価に対して中立的だと仮定しても(つまり、年金を「金利」とみなすべきではないとしても)、それでも一般的に高齢者は若者に比べて貯蓄が多いの実際であり、なのでよく経済評論ではインフレは高齢者に不利だとも言われる。いちおう、日本の年金は「マクロ経済スライド」といって、インフレの場合は年金給付額もそのぶん多くなるのだが、その負担は若者に行っているわけである。ともかく、誰も負担しない物価政策など、ありえない。ケインズ風に言うなら、どの政策でも誰かを「安楽死」させるわけだ。 一般に、金利生活者や年金生活者、あるいは貨幣として多額の貯蓄を持った生活者は、インフレは望まない傾向があるとされる[13]。一方、企業者や経営者はデフレやそれに伴う不況を嫌う傾向があるとされ 1973年の第一次石油危機にインフレになり、また1979年の第二次石油危機のときもインフレになり、1980年代後半から80年代末ごろまでインフレになっただ。しかし、1990年頃のバブル崩壊後からは、ずっとデフレ傾向が続いている。 2016年の現在、日本では、デフレが不況を深刻化・長期化させる原因だろうと考えられており、そのため政府は、財政政策などによって、物価上昇率2%ていどの、ゆるやかな物価上昇率のインフレを目指してると思われている。(※ 清水書院の検定教科書『高等学校 新政治・経済』など、いくつかの教科書出版社の検定教科書に、そういう見解がある。) このように、政策によって、望ましいインフレ率を実現しようということをインフレ・ターゲットという。 日本では、デフレからの脱却という意味でインフレ・ターゲットという意味が使われるが、一方、発展途上国では、急激なインフレによる経済不安のため、インフレ率を抑えようという意味でも、「インフレ・ターゲット」という単語が用いられる。 第二次大戦前のドイツで起きたような急激なインフレのように、短期間で物価が大幅に上昇する急激なインフレをハイパー・インフレ(hyper inflation)という。 いっぽう、年率数パーセントていどの持続的なインフレをクリーピング・インフレ(creeping inflation)という。クリーピングとは、「しのびよる」という意味。 物価政策による景気刺激策は、国民の経済への「勘違い」を利用しています。 ケインズ経済学に「貨幣錯覚」という概念があります。これは、多くの消費者は、実質値ではなく名目値で判断するという、経済学の経験則です。 20世紀の第二次世界大戦後の時代、欧米の多くの国で、工業化などによる物価の上昇にもかかわらず、土木公共事業などによってり仕事を強制的につくる事で、景気を刺激して向上させる事により(いわゆる「ケインズ政策」 )、結果的に、物価上昇と景気上昇とを20世紀後半は連動させてきた。 そのため21世紀の現代にも、物価と景気を混同する勘違いをしている者が、どこの国にも一定の割合でいる。 しかし、このように物価上昇と景気を連動させるような経済政策の欠陥として、 という問題点がある。 なお、「工業化」などによる発展という理念が、土木公共事業などの公共投資を正当化するための口実であった。そして、工業化による経済発展による税収増加が、公共投資したぶんの金額を回収するための手段でもあった。 なので、もし、その国が、工業化のための公共投資を行ったのに、政府が期待したほどには税収が増えなかった場合に、もはや公共事業などの景気刺激策を政府が続けるのが困難になり、不景気に陥りかねない。 それでも景気刺激などのための公共事業や補助金政策などを減らさずに景気刺激策を続けようとする場合、政府は、その景気刺激策のための資金をあつめる必要があり、税金を増やすか、国債を追加発行する必要がある。
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国内総生産(GDP)や国民総生産(GNP)では、市場(労働市場も含む)で商取引していないものの価値は、測れないのである。 人間関係とか人脈とかの価値は、一般に、GDP・GNPなどでは測れない。親子愛とか家族愛とかも、GDPなどでは測りづらい。また、ボランティアの価値も、GDPなどでは、測りづらい。家事労働や家庭菜園などの価値も、GDPなどでは測れない。 家事労働は、確実に労働であるが、しかし市場化してないのでGDP・GNPでは家事労働のぶんを算出できないのである。 また、土地の価値も、その年はその土地を保有し続けて、土地を売買してなければ、土地の価値もGDPなどでは測りづらい。 人間関係とか家族愛とかを数値的に算出するのは困難であるし、じっさいに経済学的には算出されていない。 しかし、土地の価値を経済的に算出することは、不動産市場などでの土地価格などを参考にすればよいので、経済学的には、土地の価格の算出は比較的簡単である。 GDPのように、その期間の商取引によって測れる経済価値をフロー(flow)という。「フロー」とは「流れ」という意味。 一方、土地の価格のように、その期間は商取引されてなくても、明らかに経済的価値が存在してる資産の経済価値をストック(stock)という。ストックとは、「蓄え」(たくわえ)という意味。 工場設備などの生産設備も、ストックとして見なされる。 また、ある国の保有する土地、道路、設備など、その国のストックを国富(こくふ、national wealth[1])という。 国内総生産(GDP)は、一国内で一定期間(通常は1年)内に生産された総生産額(サービス業なども含む精算額)から、原材料費や半製品(はんせいひん)などの中間投入額(中間生産物の価額)を差し引いて算出されたものである。 海外にいる日本国民の生産労働の価額は、日本のGDPには含まれない。なぜなら、海外は「国内」ではないから。 また、日本国内にいる外国人の生産労働の価額は、日本のGDPに含まれる。 国民総生産(GNP)は、ある一国の国民全員の、一定期間(通常は1年)内に生産された総生産額(サービス業なども含む精算額)から、原材料費や半製品(はんせいひん)などの中間投入額(中間生産物の価額)を差し引いて算出されたものである。 海外にいる日本国民の生産労働の価額も、日本のGNPに含まれる。 一方、国内にいる外国人の労働の価額は、GNPに含まれない。 機械設備など設備は、しだいに老朽化していく。しかし、その設備を売買しないかぎり、GDPやGNPには計上されない。 GDP・GNPだけだと、老朽化した設備による損失を考えておらず、一国の経済力を過剰に算出してしまい、不合理である。 なので、老朽化した設備の、老朽のていどの価額を、差し引く必要がある。 機械設備など設備のことを「固定資本」という。そして、設備の老朽化の価額を、固定資本減耗(こていしほん げんもう)または減価償却費(げんかしょうきゃくひ)という。 国民総所得(GNP)から固定資本減耗を差し引いたものを、国民純生産(NNP, net national product)という。 同様に、国内総所得(GDP)から固定資本減耗を差し引いたものを国内純生産(NDP, net domestic product)という。 国民所得(NI, national income)は、国民純生産から間接税を引き、国民への補助金を加える。 国民所得には、生産国民所得、分配国民所得、支出国民所得という三つの面がある。これら3つの面は、同じ対象を、ことなった側面から見ただけにすぎない。 第一次産業による国民所得、第二次産業による国民所得、第三次産業による国民所得の合計が、生産国民所得である(話を簡単化するため、海外所得は考えないでおく)。 雇用者報酬、財産所得、企業所得の3つの合計が、分配国民所得である。 経常海外余剰、消費、投資の3つの合計が、支出国民所得である。 国民所得の計算のおおもとに必要なのはGDPであった。GDPは、産業分類の立場から計算しようが、国内の労働者の給料の合計から計算しようが、企業など日本中の組織からの出入りの金額の合計から計算しようが、結果的にGDPの計算結果は同じである。 なので、国民所得も、 である(この等式を三面等価の原則という)。 ある期間での経済規模の拡大の大きさのことを経済成長という。 経済成長の計り方は、通常、国内総生産(GDP)を経済成長と見なす。 そして、国内総生産(GDP)の一定期間(通常は1年)での変動率を経済成長率という。 つまり、経済成長率とは、次の式によって定義(ていぎ)される。 なお、上の式で、 さて、もしインフレによって物価が年率10%上昇すれば、何の生産ノウハウの改善が無くても、経済成長率が10%上昇してしまう事になりかねない。それでは「経済成長」としては不合理なので、経済成長率の算出のさい、物価の変動分は修正する必要がある。 そこで、経済成長の計算でGDPを使うさい、物価の上昇ぶんを差し引いた実質GDPを用いる。 実質GDPを用いて、実質経済成長率を計算する。 一方、物価変動ぶんを考慮しないで単純計算で算出しただけのGDPを「名目GDP」(めいもくジーディーピー)といい、物価変動を考慮せずに名目GDPで算出しただけの経済成長率(単純計算で算出しただけの経済成長率)を「名目経済成長率」という。 名目GDPと実質GDPの比率をGDPデフレーターという(※ 検定教科書の範囲内。第一学習者の教科書に記述あり)。通常、 で、これらの関係式は定義される(※「/」は分数。「分子/分母」の意味)。 係数の「100」は、基準値を100とするため。 GDPでは家事労働やら家族愛やらボランティアなどを測れない。 そこで、家事労働をプラス要因として、環境汚染などをマイナス要因として、GDPに加えて「国民純福祉」(net national welfare)なるものが考えられているが、具体的な金額の算出が困難であり、定着していない。 同様に、GDPまたはGNPから、公害など環境汚染などの費用を差し引いたものとして「グリーンGDP」などが考えられてるが、算出が困難なため、定着していない。 景気循環は需給の不均衡によって起こる。景気変動には、好況、後退、不況、回復という四つの局面がある。 景気循環のパターンとして、つぎの4種類の循環が有名である。以下のそれぞれの循環パターンは、循環の年月の長さが異なる。 周期が約40ヶ月、企業の在庫投資の変動が原因 周期が7年〜10年、企業の設備投資の変動が原因 15年〜25年ていど、建築投資の変動が原因 50年〜60年ていど、大規模な技術革新による循環 このうち、とくに企業の設備投資の影響が、景気への影響が大きいので、つまりジュグラー循環は景気への影響が大きい。
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ある銀行Aに、預金者が預金を預けたとしよう。 銀行は、その預金をもとに、預金の一部を、企業などに貸出しなどを行って、利息を得て、銀行が儲けるのが、銀行の仕事である。 さて、銀行Aが貸出しなどをする際にも、貸出し相手が預金の口座をもってる銀行Bに、お金を振り込むことになる。 すると、その銀行Bも、また預金者の口座にお金が振り込まれるので、その振り込まれたお金を使って、貸出しの業務を行うことができる。 なので、今度は、銀行Bが、預金の一部を使って、べつの銀行Cにお金を貸せることになる。 同様に、銀行Cが預金の一部を使って銀行Dにお金を貸せて、さらに銀行Dが預金の一部を使って銀行Eにお金を貸せる。 こうして、最終的に社会では、最初に預金者があずけた金額の何倍ものお金が動くことになる。 これを信用創造(しんよう そうぞう)という。 信用創造の金額は、預金準備率から計算できる。預金準備率とは、銀行が預金者からの引き出しに備えるため、預金の一部を民間には貸し出さずに日本銀行に預けておかなければならない割合いのこと。 1円玉や10円玉のように、金属として存在しているお金を硬貨(こうか)という。一方、千円札や1万円札のように、紙として存在しているお金を貨幣(かへい)という。 なお、紙幣は日本銀行が発行しており、硬貨は政府が発行している。 硬貨と貨幣を合わせて、現金通貨という。つまり通貨とは、実際に、現物として存在しているお金である。 しかし、銀行の普通預金を用いた振込み決済のように、預金も、お金のような決済機能があるので、銀行預金を預金通貨という。 普通預金のほか、小切手などの決済に用いる当座預金(とうざ よきん、英: current deposit[1])も、預金通貨に含める。 当座預金とは、小切手の振り出しのさいに引き落される預金口座であり、おもに企業などが用いる。なお、当座預金には利子がつかない。 定期預金は、一定期間は取り引きできないため、定期預金は預金通貨には含めない。 小切手は、それを受け取った直後から、銀行で、その額面の金額を換金できる。 一方、手形(てがた)は、原則として期日が来るまで、換金できない。どうしても期日前に手形を換金する場合は、期日までの利子のぶんを割り引いた金額で、その手形を銀行に買い取ってもらうことになる(これを手形割引(てがた わりびき)という)。 つまり、銀行の業務には、手形割引という業務もある。 手形や小切手を取り引きする口座には、当座預金の口座が用いられる。 日本銀行の通常の仕事は、大きく分けると、次の3つ。 日本国における日本銀行のように、ある国家で、その国の金融の中枢になる特別な銀行のことを中央銀行という。 日本銀行は、物価などが安定するように、金融市場に流通する金銭の量を調節したりすることで、金融を調節している。 日本銀行は金融市場で国債や手形を売買することで、短期金融市場における資金の総量を調節している(これを公開市場操作(open market operaton, オープン・マーケット・オペレーション)という)。 (なお、短期金融市場とは、1年以内の期間の資金を取引する市場のことであり、具体的にはコール市場や手形市場など。コール市場とは、市中銀行どうしが資金を融通しあう市場。なお「コールレート」とは、そのコール市場の利率のこと。一方、1年以上の資金を取引する市場は、長期金融市場という。) 金融市場に資金を増やしたい場合は、一般の金融機関から国債などを日銀が購入する(資金供給オペレーション、買いオペレーション、通称:買いオペ)ことで、金融機関が日銀にもつ預金口座の残高を増加させることで、金融市場に資金を増やす。 こうして市場に資金が増えた結果、金融機関が資金を運用しようと市場に貸し出すので、金融機関が企業などに貸し出すさいの金利は低下しやすい。金利が下れば、そのぶん、これからする借金の利息の負担が軽くなる。 のような、流れになる。 同様に、金融市場に国債などを売却すると(資金吸収オペレーション、売りオペレーション、通称:売りオペ)、金利は上昇しやすい。 まとめると、 である。 近年の日本では、日本銀行の金融政策は、原則として公開市場操作によることが通例になっており、一方、預金準備率の操作や公定歩合操作は行われなくなっている。 市中銀行は、その預金の一定割合(預金準備率)を、日本銀行に預け入れることになっている。 そこで、日本銀行が預金準備率を変更すれば、結果的に市中銀行に影響を与えることができ、市場の資金に影響を与えられる。 ただし、1991年以来、日本では預金準備率は変更されていない。 ちなみに、預金準備率を上げると、市中金融機関が企業などに貸し出せる資金量が減るので、景気を沈静化させる。 なので、好況のときに、預金準備率を上げるのが通説だった。 一方、預金準備率を下げると、市中銀行はより多くの資金を企業などに貸し出せるので、景気を底上げする。 なので、不況のときは、預金準備率を下げるのが通説だった。 公定歩合(こうていぶあい)とは、市中の金融機関が日銀から資金を借りるときの金利のこと。 かつて、市中銀行の預金金利が公定歩合に連動していたが、規制改革により1994年に金利が自由化され、公定歩合操作の市場への影響力は落ちた。 また、2006年より、公定歩合の名称が「基準割引率および基準貸付利率」に変更されている。 高度経済成長期ごろまで、日本の金融機関は、金利や業務が、大蔵省などにより細かく規制されていた。 また、銀行・証券会社・保険会社の業務が、独占禁止法などにより、明確に分離されていた。 このような金融規制が競争を制限しているとされ、「護送船団方式」と言われた。(第二次大戦のころ、海軍などの船団の中で、もっとも速度の遅い船舶の速度にあわせて、他の船団の速度を下げる手法があった。それになぞらえて、金融行政などにおいて競争を避ける政策を、こう呼んだ。) しかし、1996年に、政府(橋本内閣)から、金融の規制緩和の構想「日本版金融ビッグバン」が打ち出され、「フリー、フェア、グローバル」という改革方針のスローガンが主張された。日本版金融ビッグバンは、イギリスが1980年代のサッチャー政権で行った制度改革が手本になっている。 そして1997年の独占禁止法の改正により、ほかの会社の株式を所有することを主要業務とする持ち株会社(もちかぶかいしゃ)が可能になり、さらに銀行・証券・保険を総合的に行える金融持ち株会社(きんゆう もちかぶ かいしゃ)が可能になった。その結果、銀行でも保険商品や投資信託などが扱えるようになった。 また、大蔵省から金融管理の部門が分離し、金融監督庁が設置され、2000年に金融庁になった。 また、このような規制緩和により、2000〜2010年の一時期、アメリカなどの銀行が日本に参入した。 少なくとも2000年なかば頃から、インターネットなどで証券の売買ができるようになっている。 銀行ビジネスに、電機メーカーのSONYや(ソニー銀行)、コンビニのセブンイレブンが(セブン銀行)、参入した。 かりに銀行が破綻したとしても、かつて預金の全額が保護される制度だったが、近年では1000万円までしか保護されなくなった。このことをペイオフ(pay off)という。 ペイオフが解禁・解除されてる状態では、預金が1000万円とその利息までしか保護されない。ペイオフが凍結されてる状態だと、一般に、鍍金が全額保護される。 2005年からペイオフの凍結が解除されており、現在もペイオフ解禁中である。つまり、2005年からは、預金が1000万円までしか保護されない。 このため、預金者は自己責任で、預金先の金融機関の経営状況を判断する必要がある。 2010年に、日本振興銀行(にほんしんこうぎんこう)が破綻し、日本で初めてペイオフが発動した。(※ 現代社会の教科書に、日本振興銀行の破綻の件が書いてある。) 金銭の貸し借りにおいて、利息をつけて返すように契約する事は合法だが、利息制限法や出資取締法(しゅっし とりしまりほう)などにより、利率の上限が法的に規制されている。経済的に弱い立場にあるだろう借り主に、高利貸しが暴利で貸すことを規制するため、利息制限法や出資取締法などで規制している。 また、利息制限法では、金銭の貸借において、借り主が払う元本以外の礼金・手数料などの名目の金銭は、すべて利息と見なされる、というように規制している。さらに利息制限法では、返済がおくれたときの違約金についても、1.46倍を限度とする制限をおいている。(※ 数値は覚えなくてよい。) 利息制限法は、貸し主がそれに違反しても、刑事罰をともなわない、民事の法律である。いっぽう、出資取締法は、貸し主がそれに違反すると、刑事罰を受ける。 なお、2006年まで出資取締法では、利率の上限を29.2%としていた。(※ 数値は覚えなくてよい。) このため、利息制限法と出資取締法の上限金利が大きく違っており、そのあいだの金利は民法では違法だが出資取締法では合法であることから、利息制限法と出資取締法のあいだの金利のことを世間一般的にグレーゾーン金利などと言った。 このため、利息制限法をこえた部分の利息を貸し主が借り主に請求することが野放しになっていた。そのため、利息制限法をこえた利率の支払いをしてしまったら、その弁済は有効とみなされ、借り主は返還を貸し主に請求できないでいた。 しかし、2006年に出資取締法が改正され、出資取締法の上限が20%に引き下げられた。(利息制限法の10万円未満の場合の最高利率と同じ数値) また、借り主は最高利率をこえた利息の支払いを拒絶できるように法改正が行われた。 また、貸金業法が2006年に改正され、貸金業者からの借入総額を年収の3分の1までに規制する総量規制も行われるようになり、消費者はそれ以上(= 年収の3分の1以上)の借り入れができなくなった(2010年に全面実施)。 参考: 日本銀行は上場しており、東証ジャスダック上場銘柄である。(東証1部銘柄ではない。) ただし政府が日本銀行の株式の55%を取得しているため、民間企業が日銀を独占できないようになっている。(※ 2017年センター試験に出題。知らなくても解けるようになっている。) アメリカの中央銀行はFRB(連邦準備制度理事会)である。 EUの中央銀行はECB(ヨーロッパ中央銀行)である。 イギリスの中央銀行はイングランド銀行である。
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第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、1945年から1947年にかけて財閥(ざいばつ)が解体された。 この財閥解体にともない、持株会社が禁止された。 戦後の日本経済の民主化政策では、 農地改革、 財閥解体、 労働三法の制定、 などの経済民主化が行なわれた。 戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。 また、アメリカ合衆国が日本の復興のための資金援助として、ガリオア・エロアという資金援助を行った。 また、復興金融公庫が復金債を発行した。しかし、この復金債は、今でいうところの、いわゆる「赤字国債」である。 復金債は、日銀が引き受けた。 第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。 この終戦直後のインフレの原因について、直接の原因は、復金債を日銀が引き受けたことによる市場への通貨増発が原因だろうと考えられている。 インフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカの銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。 そのドッジラインの結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。物価が安定するなかでの恐慌という意味で、このドッジラインによる不況は「安定恐慌」と言われる。 (なお、1949年以降、シャウプ勧告によって、税制が直接税中心になった。) しかし1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。 そして1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。 1954(昭和29)年から1973(昭和48)年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。 そのため、1954年から1973年ごろまでを「高度経済成長期」という。 1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。 高度経済成長期の好景気としては1954〜57年の神武景気、1958〜61年の岩戸景気、1962〜64年のオリンピック景気、1965〜70年の、いざなぎ景気、1972〜73年の列島改造ブームなどがある。 神武景気、岩戸景気、オリンピック景気などの高度経済成長前半期の好景気のころ、外国からの輸入が増加した。そのため、国際収支が悪化した(つまり、ドル不足になった)。 そして、政府が国際収支を回復させるために、やむなく景気を抑制しなければならない、という事態になった。 このように国際収支が、景気を制限する要因となり、「国際収支の天井(てんじょう)」と言われた。 なお、その後、経済成長が進展するにつれて、輸出が増えていき、しだいに国際収支は改善されていった。 また、1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だったのだろうと、通説では考えられている。 また、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。 そのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。 この高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。 また、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。 一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。 なお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。 さて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。 一方、公害の問題が深刻化した。 なお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。 1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある) このようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易が自由化されていった。 池田勇人(いけだ はやと)内閣が1960年に国民所得倍増計画を打ち出し、10年以内に所得を倍増するという目標を立てたが、10年を待たずに1967年に所得倍増が実現した(※ 第一学習社の政経の検定教科書、および各社の現代社会の検定教科書に「国民所得倍増計画」の記述あり)。 また、1972の田中角栄内閣の「日本列島改造論」により、日本全国に新幹線や高速道路などをはりめぐらせることが、さらに推進された。また都市の過密と地方の過疎を解決するためなどの理由もあり、郊外に大工場を移転するなど「国土の均衡ある発展」が目指された。 第四次中東戦争にともない、1973年、アラブ諸国が石油を輸出制限し、また、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を大幅に引き上げ、それによって世界的に不況になった(これを第一次石油危機という)。(いわゆる「オイルショック」) そして、原油価格の上昇にともない、各国では物価が上がった。こうして世界の多くの国は、インフレーションと同時に不況が進展するというスタグフレーションになった。 日本でも、石油危機により、「狂乱物価」といわれるほどに物価が上昇し、また、不況になった。 そして1974年に、日本は戦後初めてのマイナス成長になった。 こうして、日本での高度経済成長は終わり、日本は年率4〜6%成長ていどの安定成長期(中成長期)に入った。 また、1979年には(イラン革命により)第二次石油危機が起きた。(『高等学校世界史B/アメリカの覇権と冷戦の展開』) このような資源問題もあり、日本では「省エネ」(省エネルギーのこと)、「省資源」が重視されるようになった。 1980年代、日本の製造業では自動車や電気機械や半導体などが海外に多く輸出され、欧米諸国との貿易摩擦を引き起こした。(※範囲外: 日本からの「集中豪雨型輸出」などと呼ばれた。) 貿易摩擦を起こすということは、裏を返すと、それだけ日本製品が欧米で普及してきたという事でもある。 欧米では、日本製品は、この当時、高品質という認識になっていた。「メイド イン ジャパン」の製品は、欧米では、第二次大戦前は粗悪品の扱いだったが、1980年代には日本製の高品質製品の呼び名になっていた。 1985年にG5(先進5カ国財務省・中央銀行総裁会議)はニューヨークのプラザホテルでの会合で、アメリカのドル高を是正するため、G5の米・英・仏・西独・日本は、協調して為替介入してドル高を是正することに合意した(これをプラザ合意という)。 (※ レーガノミクスによる、双子の赤字による金利上昇が、ドル高の原因。ウィキブックス教科書『高等学校政治経済/経済/国際経済』を参照せよ。) このプラザ合意により、円高・ドル安が急激に進み、そして日本は一時、円高不況になった。そして、日本の日本銀行・政府などは、円高不況で苦しむ大手製造業などの輸出産業を救済するために低金利政策などの金融緩和策(公定歩合の引き下げ)を行い、そして民間の資金が株式や土地購入などに使われ、1980年代末には、それら株・土地の市場価格が急上昇するバブルが起き「バブル経済」(bubble economy [1] )と呼ばれた(平成バブル)。(株の市場価格のことを株価(かぶか)という。土地の市場価格を地価という。つまり、1980年代末に、株価と地価が急上昇してバブル経済になった。) なお、この1980年代の頃、別荘地やスキー場、テーマパークなどのリゾート開発が盛んになった。一般の企業でも、80年代当時は、企業の設備投資が活発であり、消費者の消費意欲も旺盛であった(※ 過去のセンター試験で、こういう知識が問われている)。 しかし1989年に、金融引き締め(日本銀行の段階的に数回にわたる公定歩合の引き上げ)や、土地取引の規制(大蔵省が不動産向け融資の総量規制をしたこと)などを切っ掛けに、1990年代に入るとバブル経済は崩壊した。 そして株価や地価は50%ちかくも大きく下落した。その結果、土地を担保に融資してたりした銀行や、不動産投資を行っていた銀行は、多額の不良債権(bad debt [2] )を抱え込み、銀行の経営が悪化した。 しかし1990年代前半の当時は、この不況が、まだ世間には、それほど深刻には受け止められていなかった。だが、1997年ごろに、いくつかの大銀行や大手証券会社が破綻した。(日本長期信用銀行、北海道拓殖銀行、および山一證券などの破綻) そして、2000年代、日本では金融以外でも不況の影響があらわに見え始め、企業も人員削減(いわゆる「リストラ」)を大幅に進めていき、消費も低迷していき、気が付いたら日本は平成不況になっていた。どうやら1990年始めごろから、平成不況が始まってたようである。そして以降、日本では、現在までずっと(2016年に記述)、一時的な好況はあっても好況時の経済成長率も低く、ほぼ慢性的な不況が続いている。 1991年の平成不況から、デフレ傾向が続き、また不況が続いている。企業の設備投資も、この1991年ごろから、落ち込みつづけている。(なお2009年の民主党政権になる前まで、日本の歴代の自民党政権は日本がデフレではないと言いつづけていた。) 1998年には、実質経済成長率がマイナスになった。 2000年頃から、金融関連の規制改革もあり、大手金融機関どうしの経営統合などの再編が進んだ。また、大企業の人員削減や事業撤退などのリストラも進んだ。 一方、2001年に小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が誕生すると、平成不況の原因のひとつが規制だろうと解釈され、政治改革や規制緩和が行われ、小泉政権下で郵政民営化などの「構造改革」が行われた。 2002(平成14)年には不況がいったん底をつき、アメリカ経済の好調による日本からの輸出増加などに支えられ、日本の景気が回復し、2007年まで好景気が続いた(景気拡大期間が、それまで最長であった「いざなぎ景気」の期間をこえたことから、この2002年〜2007年の景気拡大の期間を「いざなぎ越え」(いざなぎ ごえ)という)。 しかし、アメリカの大手証券会社のリーマンブラザーズの破綻(リーマン=ショック)や、アメリカのサブプライム・ローンの破綻などをきっかけにした、2008年の世界的な金融危機により、日本からの欧米向けの自動車などの輸出が激減し、日本の輸出産業は大きな打撃を受け、日本は不況になった。 2008年の経済成長率はマイナス3.7%にまで低下した。 一方、2000〜2010年ごろ、中国などの新興国の輸出が成長してきたこともあり、アジア諸国からの低価格の製品が日本市場に流入して、日本では価格破壊が進み、日本ではデフレが進行した。 2016年の現在、日本は不況で、かつデフレである。日本では、少子高齢化が、需要を減らす要因だろうとして懸念されている。
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一般に、ある国の経済が発展するにつれて、その国の業種別の労働者人口が、第一次産業(農林水産業)から第二次産業(製造業、建設業、)に移り、また第二次産業から第三次産業(サービス業)へと労働人口が移っていく(これをペティ・クラークの法則という)。 このようにして、産業構造が高度化していくと、通説では考えられている。 日本では、高度経済成長期に、第一次産業から第二次産業への変化が急速に進んだ。そのため、第一次産業で働く人口が大幅に減少した。 また、第二次産業の内部でも、高度経済成長期の日本では、第二次大戦前の繊維産業から、機械工業や鉄鋼などへと業種の変化が進んだ。 日本の戦後の工業化では、まず高度成長期には、鉄鋼業や石油化学などの素材産業が発達して、「重厚長大」型と言われた。 その後、石油危機などによって、これらの素材産業が停滞し、1970年代ごろから、自動車や電気機器、工作機械などの「軽薄短小」型へと、産業が移っていった。 石油危機によってエネルギー意識が高まったこともあり、これらの製品では「省資源」「省エネ」などの宣伝文句がうたわれた。 また、日本では、1970年代ごろから、サービス業の労働人口が大幅に増え始め、経済のサービス化が進んだ。 1980年代に、「ME」(マイクロ=エレクトロニクス)化により、工場では、コンピューターで自動制御された新型の工作機械や、産業用ロボットなどが導入され、工場のオートメーション化が進んだ(ファクトリー=オートメーション、略称: FA、factory automation)。同じく1980年代に、オフィスではパソコンが普及し始めた(オフィス=オートメーション、略称: OA、office automation)。 さらに1990年代ごろから日本では、コンピューターソフト産業・IT産業・インターネット通信業界などで働く人が増え始め、経済のソフト化が進んだ。 なお、1980年代から、コンビニが日本で普及し始めた。
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「中小企業」の定義にもよるが、日本では一般に、「中小企業」とは何かについては、中小企業基本法による定義が使われる。 製造業か小売業かで法律による定義が違う。製造業は、資本金3億円以下、または従業員300人以下の企業が、中小企業である。 日本企業の事業所のうち、中小企業は事業所数の約99%である。つまり、日本企業のほとんどは中小企業である。 製造業では、高度経済成長期に、中小企業の多くが、大企業を頂点とするピラミッド型の企業グループ構造の系列(けいれつ)として組み込まれ、中小企業は大企業から注文を受けて部品などを製造する下請け(したうけ)となっていった。自動車や電気機械産業で、このような系列化が典型的に見られる。 製造業にかぎらず、商店街などの小さな商店も、中小企業である。 下請け企業は、大企業から大量の注文を継続的に取りやすかったり、大企業から技術援助などを受けやすい一方、取引が大企業有利で対等ではなく、また賃金格差が大企業と中小企業との間にあり(大企業のほうが賃金が高い)、不況時にはコスト削減の対象にされやすい、という問題点もある。 大企業と中小企業の、賃金などの格差は、日本経済の「二重構造」と言われている。 1963年に中小企業基本法が制定され、中小企業の保護が行われた。 高度経済成長期の好況や労働力不足により、大企業と中小企業の格差は、ある程度は改善した。 1999年には、中小企業基本法が改正され、それまでの保護政策から、自助努力をうながす政策へと転換した。 独自の新技術などにより、新しく産業を起こした企業をベンチャー企業といい、また、そのような新興の産業などをベンチャー=ビジネス(venture business)という。 検定教科書を読むと、中小規模のベンチャー企業を称賛するような記述が多い。どうやら日本政府は、ベンチャービジネスを奨励してるようである。新興の産業などに進出することが多い。
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第二次大戦前の農業は、地主が小作人を雇って耕作させるのが一般的だった。 しかし、戦後の農地改革によって、地主制が廃止され、多くの耕作者が自分の農地を持つ自作農になった。 また、1952年には地主制の復活をふせぐために農地法が制定された。 しかし、日本の農業は、農家の規模が零細(れいさい)で小規模なことなどから、農産物の価格がアメリカや中国などと比べて高くて、国際競争力が低い。 また、日本の農家は全体的に所得が低く、工業と農業との所得格差があった。 さらに、高度経済成長期から、農業と工業の所得格差が深刻になり、工業・サービス業へと転出する人口が増え、また、若年労働者は都市へと流出した。こうして、農業従事者数は、年々、減っていった。 一方、農家のなかでも、機械化などのより時間に余剰が生じたこともあり、兼業農家が増えていった。 戦時中につくられた食糧管理制度により、米(こめ)の生産費を政府が補償して、農家から米を買い上げたので、農家は米ばかりを生産するようになった。その一方、消費者の食生活の変化により、米の需要が減少したので、米の供給が過剰となった。そこで1970年から、米の作付け面積を制限する減反政策(げんたん せいさく)が始まった。 現在、コメ以外の多くの農産物は、輸入に頼っている。小麦、大豆、トウモロコシ(飼料用としてのトウモロコシの需要がある)などは輸入に頼ってる。 日本の食料自給率(self-sufficiently rate[1])は、カロリーベースでは1960年代では60%以上あったが、近年ではカロリーベースで40%ちかくという低い水準である (なお、先進工業国のなかでは、日本(食糧自給率40%)と韓国(食料自給率50%)が、近年の食料自給率が、かなり低い。イギリスの食料自給率は65%程度である。ドイツでも80%近い自給率である。フランスの食料自給率は120%の程度、アメリカの食料自給率は130%である。)。 また、農村の過疎化も進行しており、農家の高齢化も進行している。すでに高度経済成長期のころから、日本の農家を評して、「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」ばかりの農業などという意味で「三ちゃん農業」(さんちゃん農業)と呼ばれている。 一方、これらの農業関連の制度変更にともない、戦前からの食糧管理制度は1995年に廃止され、1995年からは新食糧法が施行(しこう)された。 この新食糧法により、それまでは一部の例外(自主流通米)を除いて、「ヤミ米」などとして原則的に規制されていた市場価格によるコメ流通が、「計画外流通米」として、大幅に規制緩和されて、流通が認められるようになった。 また、農業基本法に代わり、1999年から食料・農業・農村基本法が制定された。 さらに2005年には農地法が改正されて、株式会社の農業参入が認められるようになった。 2010年には農家に対する個別所得補償制度が、
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欧米で産業革命以降資本主義が進行してくると、しだいに資本家は価格競争のため低賃金で労働者を働かせるようになり、児童労働や長時間労働などの問題が発生していった。 イギリスでは、労働者が、団結して資本家と交渉しようとしたが、イギリス政府が資本家の味方にたち、労働者の団結が、契約の自由や営業の自由などの自由競争を阻害するという主張もなされ、1799年に団結禁止法を制定し、労働者の組合や団結交渉などを禁止した。 このような労働運動の弾圧に対して、労働者の側は、初期は、イギリスのラダイト運動のような機械打ち壊し運動で対抗した。そして労働運動が進展していき、イギリスでは1824年に団結禁止法が廃止され、労働者は、しだいに組合を作って団結して資本家に対抗するようになった。 日本では、日清戦争ごろから労働運動が起きるようになっていたが、労働組合は公認されなかった。そして、しばしば運動は弾圧された。 日本では1897年に労働組合期成会が結成され、鉄鋼組合などが結成されたが、しだいに消滅した。 1911年、工場法の制定によって労働時間が制限されたが、一方で治安警察法(1900年〜)や治安維持法(1925年〜)などによって労働運動・労働組合は取り締まりを受けた。 第二次大戦後、GHQの意向もあったし、日本の経済民主化政策として、労働組合・労働運動は公認され、1945〜47年に労働三法(労働基準法・労働組合法・労働関係調整法)が制定された。 法律ではないが、毎年、春に、産業ごとに労働組合が賃上げ要求をする「春闘」(しゅんとう)という運動が、日本では定着している。春闘の習慣は、1950年代から始まった。 労働基準法は、つぎのことを定めている。 最低賃金、労働者の選挙権などの公民権をさまたげないこと、強制労働の禁止、労働時間、男女同一賃金など。 法定労働時間は1日8時間、週40時間以内。しかし、労働組合との書面の協定(三六協定、さぶろくきょうてい)があれば、第36条にもとづき、時間外労働も可能。 日本では、公務員は、すべての業種で、ストライキなどの争議権が禁止されている。 また、警察・消防・自衛隊・刑務官・海上保安庁では、労働組合の設立すら認められてなく、労働運動の団体交渉の権利も認められていない。公共の重要な利益にかかわる職種だからだろう。 その他の一般の公務員では、労働組合は認められているが、団体交渉権が認められてない。 このように、公務員では、労働運動に関係する権利がいくつか規制されている。 かわりに人事院が、公務員の労働条件の改善のための勧告を出している。 なお、公立高校教員には団結権が保障されている(※ 過去のセンター試験では、この問題に関して出題、あるいは記述されている)。 労働者側は、ストライキ(同盟罷業(ひぎょう))、サボタージュ(消極的怠業(たいぎょう))ができる。 一方、使用者側は、対抗措置としてロックアウト(作業所閉鎖)ができる。 労働委員会は、斡旋(あっせん)・調停・仲裁(ちゅうさい)の3種類の方法を通して、労働争議の調整にあたることが、労働関係調整法により定められている。 また、労働委員会は、使用者代表・労働者代表・公益代表という3者の委員から構成されることが定められている。 また、電力・ガスなどの公益事業での争議や、規模が大きくて国民の生活を害する恐れのある争議では、内閣総理大臣が緊急調整として50日間だけ争議行為を禁止できる。 斡旋とは、労働委員会が選んだ斡旋員が労使双方の言い分を聞いて、話し合いの場を提供するなどして、労使双方に争議の自主的解決を促すこと。 調停とは、労働委員会に設けられた調停委員会が調停案を作成し、労使双方に受諾を勧告する。 仲裁とは、仲裁委員会が、法的に拘束力のある仲裁裁定を下す。 労働組合法は、ストライキなどの争議行為を行う権利を認めている。また、労働組合を結成する権利も認めている。 また、使用者は、労働者が労働組合を結成することを認めなければならないと定めている。使用者が、労働組合の活動を妨げたり団体交渉を拒否することを、不当労働行為として禁止している。組合に加入しないことを条件に雇用する黄犬契約(おうけんけいやく)は、不当労働行為として禁止されている。 労働運動により損害が発生しても、その労働運動が適法な活動であるかぎり、労働者は刑事上および民事上の責任を問われない(刑事免責・民事免責)。 なお、使用者が労働組合に経済援助をすることは不当労働行為に当たり、禁止されている(※ 過去のセンター試験では、この話題に関して出題、あるいは記述されている)。労働組合の運営は、労働者が自主的に行わなければならない。 また、使用者側が、不況などの理由によって賃金引下げを提案する事自体は、使用者の正当な権利である(※ 過去のセンター試験に記述あり)。 2004年より、労働審判法による労働審判制度が開始している。この手続きは、裁判によらない、迅速な労働問題の解決を目指している。 裁判官による審判官と、専門家からなる審判員からなる労働審判委員会による審理であり、地方裁判所で行われる。 国勢調査のデータによると、日本の全就業者のうち女性の割合は、 1970年、 1980年、 1990年、 2000年、 2010年、 2015年で、それぞれ 39.187%、 37.921%、 39.617%、 40.854%、 42.814%、 43.859% で、増加傾向がみられる。 1970年以降この国では、男女ともに高学歴化が進んでいった。このデータに関して、女性の高学歴化による職場進出の進展とみる考え方もある。一方日本式の終身雇用のシステムが崩壊していった結果、共働きの夫婦が増えていることを示している、ようにも見える。 また、同じく国勢調査で日本の女性人口のうち就業者の割合は、 1970年、年代別で、それぞれ 15歳から 19歳が 35.129%、 20歳から 24歳が 69.220%、 25歳から 29歳が 44.300%、 30歳から 34歳が46.799%、 35歳から 39歳が 55.952%、 40歳から 44歳が 63.319%、 45歳から49歳が 64.332%、 50歳 から 54歳が 60.560%、 55歳から 59歳が 53.420%、 60歳から 64歳が 43.103%、 65歳以上で 19.610%。 1970年のこのデータでは、女性の年齢別就業者の割合は、20代前半では70%ちかく、25歳頃から結婚退職などにより、25歳〜35歳くらいの期間の就業人口の率が大きく減って45%ほどになり、40歳ごろからは再就職によって、また女性の就職者の率が60%超えるという、「M字カーブ」と言われる現象が見られる。 2015年になると、 15歳から 19歳が 12.879%、 20歳から 24歳が 58.573%、 25歳から 29歳が 68.244%、 30歳から 34歳が63.301%、 35歳から 39歳が 64.108%、 40歳から 44歳が 67.935%、 45歳から49歳が 70.347%、 50歳 から 54歳が 70.317%、 55歳から 59歳が 65.049%、 60歳から 64歳が 49.122%、 65歳以上で 15.890% になっている。 近年、M字の落ち込みは30歳〜40歳の60%ちかくと、落ち込みが緩やかになっている。と、言うか、落ち込みがほとんど目立たなくなっている。また、若年層と高齢者の就職者が少なくなっている上、中間年齢層の就職者は増えている傾向が読み取れる。 独立行政法人労働政策研究・研修機構のまとめによると、 1984年の女性の雇用者のうち、非正規の職員・従業員の割合は29.0%、 2019年では 56.0 %になっている。この数字は、役員を除く女性の雇用者のうち、非正規の職員、従業員(パート、アルバイト、派遣社員、契約社員、嘱託、そのほか非正規と見なせる形態)を示したものである。 1972 (昭和47)年の勤労婦人福祉法に起源をもつ男女雇用機会均等法が平成 9年(1997) に改正、平成 11年に施行され、募集・採用、配置・昇進、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇において、男女差をつけることが禁止された。1997年の労働基準法の改正と連動して、女性に対する深夜労働・残業や休日労働の制限(女子保護規定)が撤廃される。 この法律は現在(2021/5 執筆時点)令和1年(2019)改正法が施行されているが、職場におけるセクシャルハラスメント(英語:sexual harassment、性的嫌がらせ)防止の義務が、事業者に課せられている。 また、1991年に成立した育児休業法が、1995年に育児介護休業法に改正された。しかしどちらも略称・通称で、記憶する必要はないだろうが、「育児休業等に関する法律」→「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」と、変遷している。 日本では、求人の条件に年齢制限があり、中高年の再就職は難しいのが現状である。 企業や公務員の定年制は、 1994年の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正で60歳未満定年制が禁止( 1998年施行)されたので、それ以降は 60歳が日本の定年の標準となっている。日本の企業の正社員と公務員の多くは定年制を導入しているが、企業の態度として、定年を定めない、この規則を採用しないという選択も可能だ。 そしてこの法律の 2020改正 2021施行法では、定年の延長を意図して定年が64 以下の企業に対して以下の 3つの対応のうちの一つを講ずることを義務づけている。 今現在この国では、出生率の低下と平均寿命の増大が同時に進行していて、少子高齢化が問題になっている。この現象が進行しているときに、一般的に定年が固定され、その後年金が支払われるなら、社会全体の労働力は低くなるうえ社会維持のコストは大きくなっていく。このバランスを取り戻すために、定年の延長、高齢者の就職の推進、年金支給年齢の引き上げ、などの政策がとられていくことになるだろう。 老齢厚生年金の定額部分(国民年金)の支給はすでに 60歳から 65歳に引き上げられているし、報酬比例部分の支給も、 2025年までに段階的に 65歳に引き上げられることになっている。 労働政策研究・研修機構の「データブック国際労働比較2019」によると、1990年の日本の就業者の1人当たり平均年間総実労働時間は2031時間、一方2018年は、1680時間、最近になって労働時間は減少しているように見える。 一日に8時間、週に5日勤務して、50週過ごすと2000時間だ。365日で52週と1日、2000時間を一日8時間労働の指標と見ることはできるだろう。そこから2031は8時間7.44分、1680は6時間43.2分、と、数字が出てくる。 今回の元資料では海外各国の労働時間も同様に示されている。そしてそこでは「データは一国の時系列比較のために作成されており,データ源及び計算方法の違いから特定年の平均年間労働時間水準の各国間比較には適さない。フルタイム労働者, パートタイム労働者を含む。」と注釈が書かれている。 そこでその注意書きを考慮しつつあくまでもただの参考として、海外のデータを引用すると、まずアメリカでは1990年が1833時間、2018年が1786時間である。フランスでは1990年が1645時間、2018年が1520時間。 では同じ資料の中に、各国間比較に適したデータがないかと見てみると、週労働時間に関する数字が記述されている。ここには前述のような注釈は書かれていないが、真っさらな意味で国別比較が意味を成すかどうかは断言出来ない、が、このデータを示してみよう。 一日8時間、週に5日働いたとして40時間、この数字が基準になるだろう。 2017年の数字で、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本の5か国を比べると、時間の長さもこの順になっていて、アメリカ42.3時間、イギリス41.2時間、ドイツ40.9時間、フランス39.0時間、日本38.9時間。 この数字、データは、フルタイム労働者だけのデータと、パートタイムなどの非常勤労働者を含む場合とでは数値が違ってくるだろう。 ちなみに今回示した統計数値は、年労働時間のほうはパートタイム含む、週労働時間のほうはフルタイム労働者のみを対象にしている。 長時間労働の問題に関しては、サービス残業という、そもそも労働時間の統計の意味自体を棄損させるような慣行もあるし、現編集者の実感としても、ここで示した数字が現実の状況を妥当に示しているようには思えない。 職場の長時間労働は過労死といった社会問題にもつながっているし、そもそも時間の問題だけではなく、職場、労働環境の質自体が、現実には多くの場所で、かなり劣悪なものになっているだろう。 日本では、外国人の単純労働は原則として禁止されている。在留期間を越えての就労はできない。 しかしこのことに関して記述する前にいくつか、より基本的な議論、解説が必要だろう。 まず端的に外国人という場合、どういう人のことを言うのだろうか? 我々が、日本人、外国人という言葉を考えるときは、まず人種的特徴や民族、地域集団としての生活様式を考えるだろう。しかし法律の議論では、日本人とは日本国の国籍を持っている人物のことだろう。 出入国管理及び難民認定法により、日本に滞在する外国人には、個別の在留資格が与えられている。在留期間中は、その在留資格の種類によって日本国内の活動の内容が制限されている。特に収入を伴う労働活動に関しては、様々な限定、指定がある。 しかし一方様々な労働活動に関して、労働基準法や最低賃金法は、日本人と同様、外国人にも適用される。 経済が地球レベルで動くようになった現在、世界普遍的な貨幣の価値を考えた場合、特定の国の特定の地域の労働対価より、日本での収入のほうがはるかに多い場合も多い。そのため、不法入国や(単純労働などの)不法就労をする外国人は多い。そのような不法就労の外国人は、不当な低賃金で働かされる事もあるが、それでも、日本で就労することに大きな価値があるとみなされている。 一方、合法的に日本で就労する外国人労働者の数も、近年は増加している。 (・_・)この内容は公務員試験の社会事情と社会政策(労働事情)で登場する内容ですが、覚えておいて損はありません。高校生にもわかるように記述を分かりやすくまとめています。 就職氷河期世代支援プログラムは、就職氷河期世代でも正規雇用で活躍出来るような安定した職場を提供します。そのためには、相談、教育訓練から就職まで切れ目のない支援、一人一人の状況に合わせた、より丁寧な寄り添い支援が必要です。社会人の再教育、採用企業側の環境整備なども掲げられています。これらの取り組みにより、5年以内に、30万人を正規雇用に転換するように目指すとしました。 その理由は、公的年金保険料を十分に収められない人が就職氷河期世代に多数集中しているためです。また、若年者雇用対策では、対象年齢を過ぎていて救えないからです。このため、将来の社会保障支出に大きく影響を受ける背景から「就職氷河期世代支援プログラム」が取りまとめられました。 1993~2004年に高等学校・大学を卒業した世代は、就職活動をしても、希望する就職に就けませんでした。この中に第二次ベビーブーム世代(団塊ジュニア世代)も含まれており、少ない正社員の椅子を取り合いました。結果、多くの人が非正規雇用労働者などの長期不安定雇用者や長期無業者にどうしてもなってしまいました。『就職ジャーナル』でも、多数の人が一般的な就職のレールから長期間外れてしまったので「就職氷河期」と名付けられました。 さらに、転職期もリーマンショック崩壊でますます企業が正社員採用を抑制しました。この結果、実社会での経験不足に陥りました。
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世界の社会保障の公的扶助の起源は、1601年のエリザベス救貧法だと言われている。 1883年にドイツで世界でさいしょの社会保険制度がビスマルクによって創設されたが、この政策は社会主義者鎮圧法と同時につくられた政策だったため、この政策は「アメとムチ」と呼ばれた。 アメリカではニューディール政策の一貫として、失業保険と老齢遺族年金などを含む社会保障法が制定された。このニューディール政策の法律で、「社会保障」 social security という言葉がはじめて用いられた。 イギリスでは1942年にべバリッジ報告(Beveridge Report)が出され、この報告は、政府が国民の最低限度の生活(ナショナル=ミニマム、natinal minimum)を保障するように提言し、労働党内閣が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにして、国の責任による社会保障制度が整備された。 1944年に国連の国際労働機関(ILO)がフィラデルフィア宣言を発表し、社会保障の最低基準を示した。 世界の社会保障を分類すると、大きく分けて、イギリスを含む北欧型、ドイツ・フランスなどの大陸型、アメリカ型の3通りになる。 北欧型は、「公助」とも言われ、税を財源に、保険料は均一で、大きな社会保障をするのが特徴である。 アメリカ型は「自助」とも言われ、最低限の公的介入のみをするのが特徴である。 かつてアメリカは公的な全年齢対象の医療保険がなく(老齢医療保険は存在していた)、社会保障は年金と失業保険が中心だった。しかし2010年、オバマ大統領の医療保健改革法の成立により、アメリカは国民皆保険になった。 大陸型は、「共助」とも言われ、大まかなイメージを言えば公助と自助との中間であり、所得に応じた保険料負担と、その負担額に応じた(年金などの)給付をするのが特徴である。 北欧型の社会保障は、いわゆる「大きな政府」の考え方。一方、アメリカは、いわゆる「小さな政府」の考え方。 日本では1958年の国民保険法の改正により、1961年にすべての国民が医療保険に加入する国民皆保険が実現した。 同様に、1959年の国民年金法の改正で、1961年に日本は国民皆年金になった。 1986年から、国民年金が全国民共通の基礎年金となり、その上に民間企業の被用者はさらに厚生年金を、公務員はさらに共済年金に加入するという制度になった。 一方、自営業者は国民年金しか給付されない。 現在の日本の社会保険には、医療保険・年金保険・雇用保険・労災保険・介護保険の5つがある。 医療保険は、仕事以外での病気やケガに保険料が給付される制度。1961年から日本では、国民すべてが医療保険に入っている「国民皆保険」である。 雇用保険は、解雇によって失業したときに、給付を受けられる。 労災保険は、仕事が原因でケガや病気になったとき(このようなケガ・病気を「労働災害」といい、「労災」と略す)、給付を受けられる。 労災保険は、事業主のみが負担する。 20歳以上60歳未満のすべての日本国民は「国民年金」に加入する。学生(大学生など)であっても、20歳以上なら、国民年金に加入する。 その上で、会社員は上乗せとして厚生年金に加入し、また、公務員は上乗せとして共済年金に加入する。つまり会社員なら、国民年金と厚生年金の2つに加入することになる。なお、自営業者は、厚生年金や共済年金には加入できず、国民年金のみの加入となる。 また、公務員なら、国民年金と共済年金の2つに加入することになる。 厚生年金と共済年金による給付額は、国民年金の給付額に上乗せされて給付される。 厚生年金と共済年金の保険料は、所得に応じて、負担料が違い、また、負担料が高いほど給費額も高くなるので、「報酬比例」と言われる。 一方、国民年金は、「基礎年金」とも言われる。 日本の年金負担のありかたは、現在の負担者が、現在の高齢者の年金額を負担するという賦課方式(ふか ほうしき)にもとづいた、「修正賦課方式」である。 修正「賦課方式」というものの、実際には、若い世代が、高齢者の年金を払っている。実質的に、日本では、自分の将来の年金を負担するという積立方式(つみたて ほうしき)ではない(※ 中学高校の検定教科書でも、日本の年金制度は実質的に賦課方式であるという見解である)。 日本の年金は賦課方式なので、少子高齢化になると若者の負担が増える。 医療保険でも、国民健康保険や、公務員のみの共済組合、など業種別などによって分かれており、複雑である。 1973年に、いったん、70歳以上の老人の医療費が無料化したが、医療費が急増して国の財政が悪化した。 このため見直され、1983年から、老人は医療費を一部、負担することになった。 2008年には、75歳以上を対象にした後期高齢者医療制度がスタートした。 なお、日本で1973年は「福祉元年」と言われた(※ センター試験で過去に出題)。当時の内閣(田中角栄)が、「福祉元年」をスローガンに掲げた。 「公的介護保険制度」は、高齢者を対象にした介護保険の制度である。 1997年に介護保険法が制定されて、2000年から公的介護保険制度がスタートした。 公的介護保険制度には、40歳以上の日本国民が保険料を払う。 要介護と市町村に認定された人が、原則として利用料は1割負担で、利用できる(※ 第一学習社の教科書に記述あり)(※ センター試験で過去に出題)。 運営は市町村が行っている(※ 「現代社会」科目の教科書に記述あり)(※ センター試験で過去に出題)。 生活保護の費用は、全額、公費でまかなわれる(※ センター試験で過去に出題)。 生活保護は、1946年制定の生活保護法にもとづいて行われ、生活・教育・住宅・医療・出産・生業(せいぎょう)・葬祭(そうさい)・介護(かいご)の8つの扶助(ふじょ)がある。 生活保護は、社会保障制度のうちの公的扶助(こうてき ふじょ)に分類される。 なお、1950年に生活保護法が全面改定されている。 1971年に児童手当法が制定された。 2010年に民主党の鳩山由紀夫内閣で「子ども手当」になったが、財源の目ぼしが付かなかったことなどから、その後、2012年から制度を変更した新しい「児童手当」に変わり、「子ども手当」は廃止された。 2012年からの新しい児童手当では、所得制限が付いている。 児童福祉法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、老人福祉法、母子及び(および)寡婦(かふ)福祉法、生活保護法の6つをまとめて福祉六法という。 日本の社会保障は、社会保険・公的扶助(こうてき ふじょ)・社会福祉・公衆衛生の4つにもとづいている(※ 過去にセンター試験に出題)。 社会保障の「公衆衛生」とは、保健所などの、感染症や食中毒の予防と治療の活動と、上下水道の整備、および、国民の生活習慣病予防などの健康増進対策のための活動。 会社員が加入する厚生年金は、不況による企業の倒産などで、財政が悪化している。 また、自営業者や無職などが対象の国民年金は、年金制度への不信などから、未加入者が増えており、悪化している。 2007年ごろ、公的年金の行政上の記録漏れが見つかった。 国民年金と、それ以外の厚生年金・共済年金とのあいだに、給付額の格差があり、問題になっている。 高齢者や障害者を施設などに隔離(かくり)せず、たとえ障害者や高齢者でも、なるべく自宅で普通に生活できるようにすることこそが社会福祉の目指すべき方向性である、という考え方のことをノーマライゼーション(normalization)という。 また、ノーマライゼーションのための手段として、歩道などを車いすの身体障害者でも移動しやすいように整備をしたりする必要がある。 たとえば、道に大きな段差があると、その場所は車いすの人が通行できない。同様に公共機関の入り口に大きな段差があると、その施設には車いすの人が入れなくなる。 一般に建物の床は、平地よりも、やや高い場所にあるのが普通なので、スロープ(なだらかな斜面)などが無いと、車いすの人は、その建物の入り口には入れなくなる。なので、公共施設などの入り口には、スロープなどがあるのが一般である。 このように、公道や公共施設などの整備をして、障害者が使えない施設をなくすことをバリア フリー(Barrier free)という。 言葉の「バリア」の意味は、物をさえぎるバリアーのことで、入り口の段差が車いすの障害者にとっては、障害者を遠ざけるバリアーになっている、という意味である。 説明のために車いすの利用者に例えたが、べつに車いす利用者だけに限らず、ノーマライゼーションやバリアフリーは取り組まれている。 製品を設計する際に、利用者に障害者なども含み、身体に不自由のある人でも使えるように設計することをユニバーサルデザイン(universal design)という。べつに、利用対象を障害者に限定していない。
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1962年にアメリカの大統領 J・F・ケネディの主張した 消費者の4つの権利(Consumer Bill of Rights) がある。 日本の戦後の高度経済成長の時代において、経済の発展にともない消費者問題も取り上げられるようになり、1968年(昭和43年)に消費者を保護するための 消費者保護基本法(しょうひしゃ ほご きほんほう) が施行(しこう)され、企業には商品の情報表示の適正化や情報の開示が求められた。(2004年に消費者基本法として改められた。商品情報の提供の義務がますます強化された。) 消費者は製品の情報を生産者ほどは持てないので(「情報の非・対称性」という)、そのため消費者の立場は弱く、その情報差をなるべく埋めるために上記の法律で、情報の公開を企業にさせる事をさせた。 1970年には国の相談センターである国民生活センターと、各地の地方公共団体に消費生活センターが設置された。 2004年(平成16年)には改正され 消費者基本法(しょうひしゃ きほんほう) となった。消費者基本法では、消費者の権利、事業主の責任、政府(国や地方公共団体など)の責任などを規定している。 1995年(平成7年)に 製造物責任法(せいぞうぶつ せきにんほう、PL法、Product liability) が定められた。 欠陥品による被害には、たとえ企業に過失が無くても、生産者が責任を負うことを定め(企業の無過失責任)、企業は損害賠償に応じなければならないとした法律。消費者が損害賠償をしやすくなった。 損害賠償を求めることの出来る期間は出荷後10年までである。 2001年に 消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう) が定められた。消費者契約法は、商品の説明が事実と異なる場合や、強引に加入されて契約した場合は、一定期間内であれば契約を取り消しできる法律である。 また、2006年には消費者契約法の改正で、消費者の救済のための追加の制度として、国の認定を受けた消費者団体が被害者個人に代わって訴訟を起こせる消費者団体訴訟制度が導入された。(※ センター試験2016年『政治・経済』追試験で出題。) 2009年には 消費者庁(しょうひしゃ ちょう) が発足した。これは、それまで各省庁に分散していた消費者行政を一元化したものである。 訪問販売や電話勧誘で商品を購入した場合は、一定の期間内(基本的には8日以内)であれば、無条件で契約を取り消せる制度があり、この制度をクーリング・オフ(cooling-off)という。特定商取引法に定められている。「契約自由の原則」の例外である。
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温室効果ガス削減を目指す京都議定書の期限は2020年まで。2015年にパリで開催されたCOP21で採択されたパリ条約が、温室効果ガス問題についての後継の条約。(2017年センター試験に出題。知らなくても解ける。) 日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。公害は第二次大戦よりも前の昔からあるが(明治時代の足尾銅山の鉱毒事件なども公害であろう)、第二次大戦以降は以下の4つの公害および公害による病気が、とくに被害が大きい公害として有名である。 この4つの公害を四大公害(よんだいこうがい)と言う。 上記の4つの公害が、1950年〜1960年ごろの高度経済成長に重化学工業が成長たが、環境対策が遅れたことが、この4大公害の原因の一つだろう。 四大公害の裁判は別々に行われたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴である。(※ 検定教科書に被告企業名が記載されてる。) 四大公害などの発生を受け、公害対策の気運が高まる。 これらの、環境関連の法制化などによって、企業が汚染を発生させた場合は、その程度の大小に関わらず、その企業自身が負担するべきという汚染者負担の原則(PPP, polluter pays principle)が確立された。このPPPの考え方は、1972年にOECD(経済協力開発機構)が加盟国に勧告したもの。 また、排出する汚染物の濃度を規制する濃度規制だけでなく、汚染物の排出の総量も規制する総量規制も行われるようになった。 また企業側に故意や過失がなくても、企業が汚染させたり被害を発生させたりした場合は、企業に負担させる無過失責任が確立された。大気汚染防止法や水質汚濁防止法で、汚染者の無過失責任が明文化された。(なお、製造物責任法(PL法)でも、無過失責任の方式が採用されている。) 近年では、焼却処理施設などから出るダイオキシン(dioxin)など、新たな公害問題が社会問題になった。ダイオキシンには発がん性がある。 2000年、ダイオキシン類特別対策法が施行された(制定は前年の1999年)。 IC産業では、回路の洗浄に、発がん性の高いトリクロロエチレンなどの有機溶剤が洗浄剤に使われているが、きちんと処理されないと、地下水汚染などの水質汚染になる。 企業の活動による健康被害だが、工場の中の従業員だけに健康被害がある場合については、「公害」と呼ぶ場合もあるが、ふつうは「職業病」(しょくぎょうびょう)などと呼ぶ。 近年では、「アスベスト」(石綿, いしわた、せきめん)という素材をあつかう労働者の健康被害が問題になった(※ 高校の「政治経済」の教科書でも記述あり)。アスベストは、断熱材などとして長いあいだ使われていたが、2009年に禁止になった。 アスベストは、肺がん など肺病の原因になる。 製造業などの国際規格の ISO では、ISO 14000シリーズで環境に配慮する事項も含まれている。 国際的な活動をしている企業は、必要に応じて、ISOの認証を受けたりする。 2000年に、循環型社会形成推進基本法が制定された。 1995年に容器包装リサイクル法が制定され、分別収集などが義務化された。 2001年に家電リサイクル法が施行され、消費者が家電リサイクルの費用を負担することになった。 2005年に自動車リサイクル法が完全施行され、自動車所有者が自動車リサイクルの費用を負担することになった。 都市では、自動車の排気ガスによる大気汚染や、光化学スモッグなどが発生している。また、ヒートアイランド現象も、都市に多い。 公害ではないが、ゴミ問題も、都市では大変である。 環境ホルモンが、各地の河川や地下水などで、たびたび検出される。 環境ホルモンとは、生体中のホルモンに似た化学構造を持つために、体内のホルモン作用をかく乱し、生殖機能などの異常をもたらす。 環境ホルモンのことを「内分泌かく乱物質」(ないぶんぴつ かくらんぶっしつ)ともいう。 環境基本法では、以下の7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。(※ 中学公民で教育済み。高校の検定教科書では深入りしてないが、高校の「政治経済」の参考書には紹介されてるので、参考に。)
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仮に、生き物でない石コロなどに、権利や義務を与えても、法律的になんにも役立たない。つまり、石コロは、権利をもつ資格が無く、義務を負う資格も無い。 権利をもったり、義務を負ったりする資格をもつ者のことを「権利・義務の主体」という。そして、権利・義務の主体になることのできる資格を「権利能力」という。(※ いちおう、山川出版の検定教科書(『詳説政治経済』ページ115)に、脚注でイイワケ程度に「権利・義務の主体」という用語が書かれているが、ろくに解説されてない。) 私たちのような実在の生きている人間の個人個人は、権利義務の主体になりうる。 私達のような実在の人間の他にも、会社や協同組合・学校などの組織も、権利・義務の主体になってもいいというのが、日本の法律である。 一方、イヌやネコは権利能力をもてないし、権利・義務の主体にもなれない。 会社や協同組合などを、契約などの権利・義務の概念から見た場合、法人(ほうじん)という。 一方、生きている人間の個人個人のことを自然人(しぜんじん)という。 日本の法律で単に「人」と言った場合、自然人と法人との両方を含む場合もあるが、単に自然人のみを言う場合もあるので、どちらの意味で用いているかの注意が必要である。 なお外国人に対しても、権利能力は原則として認められている。 なお、法人には、選挙権や相続権は無い。(※ 石原豊昭『法律トラブルを解決するなら この一冊』、自由国民社、2013年 第3版、126ページ)選挙権を持てるのは自然人だけであり、さらに法律の定める有権者としての資格を満す必要がある。 株式会社は、法人である。法人は、「権利・義務の主体」である。なので、株式会社は「権利・義務の主体」である。 このため、株式会社は、その株式会社じしんの名義で、裁判を起こしたり、不動産や設備を所有できる。株式会社の代表者の名義で裁判を起こすという事ではなく(代表者の個人的な名義で裁判を起こしても構わないが)、株式会社じしんの名義によっても裁判を起こせるという意味である。 このように、株式会社などの会社には、大きな権利が与えられているので、会社設立の手続きは、会社法(かいしゃほう)などによって厳格に定められている。(※ 検定教科書の範囲内、第一学習社の教科書に会社法について説明あり) なお、会社法は2006年から施行されている。会社法とは、それまで商法など複数の法律にまたがっていた会社についての法律をまとめた法律である。 また、会社設立のための資本金の、法律上の下限が引き下げられ、法律上は資本金1円でも会社設立できるようになった。(とはいえ、実際には各種の手続きの費用のため、30万円くらいの費用が会社設立の際には最低でも掛かる。) 商法または会社法でいう「社員」とは、株主のことである。「社員」といっても、従業員のことではない。 「株主」とは、「株券」や「株式」などと言われる物を買って、会社に出資している出資者である。 株主は、どんなに、その会社がダメな経営をしていても、株主は、けっして賠償責任などの責任を負わない。せいぜい、会社の信用が無くなり、その会社の株の価値が減ったりして損するだけであり、株主は出資額以上は金銭を失わない。会社が巨額の金銭的な債務を負っても、株主には、その債務を弁済する義務は無い。このようなことを、株主の有限責任という。 いっぽう、経営者には、法的にも、その会社の経営に責任がある。たとえば、もしも会社が違法な経営をしており、それによって消費者や取引先などに損害を与えれば、経営者に対する賠償請求などの訴訟などを起こされる場合もある。 ※ なお、合名会社と合資会社は、有限責任でなく、無限責任なので、要注意。 (※ 東京書籍のウェブサイトの検定教科書デジタルパンフレット(平成28年用)で、「合名会社」などの記述を確認。) (※ 東京書籍のウェブサイトの検定教科書デジタルパンフレット(平成28年用)で、「公開会社」の記述を確認。) 株式には「この株を、会社(その株を発行してる会社自身)の許可なく第三者に譲渡してはいけない」という規則をつけることが出来る。このような株を譲渡制限株式(じょうとせいげん かぶしき)という。ある会社のすべての株式が、譲渡制限株式の場合、そういう会社を非公開会社という。 中小企業では、ヤクザや詐欺師などに株が渡らないようにするため、あるいは大企業や競合他社などに買収されないようにするため、つまり会社にとって好ましくない者に株が渡らないようにするため、株式を譲渡制限にしてる場合もあり、自社を非公開会社にしてる会社も多い。 譲渡制限などの規則は、「定款」(ていかん)で定める必要がある。 定款(ていかん)とは、その法人(つまり、その会社)のルールを定めた文書であり、会社設立の際などには定款を作成しないといけない。 さて、ある会社の株式が、定款上、ひとつでも株式に譲渡制限がついてなければ、(つまり、定款上、自由に譲渡できる株式が少なくとも一つの種類さえあれば)そのような会社のことを公開会社という。 なお、上場企業(東京証券取引所などの証券取引所には上場してる会社)は必然的に公開会社である。もちろん、設立時に公開会社にしたからといって、けっして、それだけで証券取引所に上場できるわけではない。 株の譲渡について、会社法では、定款に特に定めがないかぎり、自由に譲渡してよいものとされている。 2023年の現在、東京証券取引所に、マザーズ市場とJASDAQ市場は無く、それらの市場は現在では「グロース市場」というものに当たります[1]。 現在、東京証券取引所の市場は、プライム市場、スタンダード市場、グロース市場の3市場が設けられている[2]。
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世界恐慌の後、欧米主要国はブロック経済を推し進めた。そのようなブロック経済が国家間の対立を生んで戦争の一因になったという反省にもとづき、第二次大戦期の終盤ごろから、戦後の国際経済のありかたが国際会議で話し合われた。 1944年にアメリカのブレトンウッズでの国際会議が話し合われ(ブレトンウッズ会議、ブレトンウッズ合意、Bretton Woods Agreement)、それらの会議などにより、自由貿易が推進され、また国際的な経済の安定化のため国際通貨基金(IMF、1947年〜、International Monetary Fund)や国際復興開発銀行(IBRD、1946年〜、International Bank for Raconstructuion)が設立された。 また、関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、1948年発効、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。このような第二次大戦の経済秩序をブレトン・ウッズ体制またはIMF=GATT体制という。 第二次大戦後、外国為替相場は金(きん)に裏付けされた金本位制だった。金1オンス=35ドル の交換をアメリカ合衆国が保証し、また、各国は自国通貨を一定額のドルと交換する固定相場制だった(戦後当初の日本は、1ドル=360円)。 しかし、しだいにアメリカ合衆国から金が流出していき、そのため、ついに1971年にアメリカのニクソン大統領(Nixon)が金とドルとの交換を停止すると発表した(ニクソン・ショック)。 これにより、固定相場が崩れた。 そのあと、ドルの切り下げ(1オンス=38ドル、1ドル=308円とするなど)で、固定相場制の維持を目指すスミソニアン協定がなされたが、しかし固定相場を維持できず、最終的に先進国は1973年から変動相場制に移行した。(つまり、スミソニアン協定は失敗した) 1976年にIMFが変動相場制を正式に追認した(キングストン合意、Kingston System)。(つまり実質的に、スミソニアン協定の失敗をキングストン合意で認めた事になる) 1980年代、レーガン大統領のレーガノミクス(Reganomics)と言われる政策により、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字(ふたご の あかじ)が発生した。ドル高の是正(ぜせい)のため(つまり、これからドル安にするため)、1985年には、各国が協調してドル安にするために為替介入するという合意(プラザ合意)がなされ、ドル安が進んだ。 プラザ合意の成果が行き過ぎ、急激なドル安になったので、こんどは1987年の先進国首脳会談(G7会議、サミット)で、ドル安を抑えようという合意(ルーブル合意、Louvre Accord)がなされた。 2019年現在、国際貿易の枠組みとしてWTO(世界貿易機関)があるが、これは1980年代後半〜1990年代前半の貿易交渉であるウルグアイ・ラウンドという交渉がもとになったものである。(ウルグアイラウンドは交渉の名前。 協定の名前ではないので、勘違いしないように。) WTOより前の国際貿易の枠組みは、GATT(ガット)という協定だった。 第二次大戦後の日本は当初、国際貿易はWTOによる加盟国内での差別のない貿易を中心としており、二国間貿易のFTA(自由貿易協定)には消極的だった。しかし、(1990年ごろには方針が転換され、)2002年にシンガポールと日本のEPAを皮切りに、以降は日本はFTAにも積極的に乗り出すようになった[1]。 第二次大戦前のブロック経済が国家間対立を生んだという反省もあり、1948年の関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。 GATTの特徴として、すべての加盟国を平等に扱う( 無差別・最恵国(さいけいこく)待遇 )という仕組みがあり、GATTは「自由・無差別・多角」の3原則を掲げてスタートした。 そして、GATTは発足以来、さまざまな多角的貿易交渉(ラウンド、Round)を行い、それを通じて、加盟国の関税の引下げなどを実現してきた。 1963年のケネディ・ラウンド(Kennedy Round)では、一括して工業製品の関税を平均35%引き下げた。 1993年代のウルグアイ・ラウンドで(Uruguay Round)は、農産物も例外無しとして議論が及び、また、サービス貿易や知的財産権(特許権、著作権、商標権などのこと)の国際ルールについても、議論が及んだ。 (なお、1973年〜79年には、東京ラウンドが開催されている。) そして、1995年には、ウルグアイ・ラウンドでの合意にもとづき、GATTを発展させた世界貿易機関(WTO、World Trade Organization)が設立された。そして当初のWTOはウルグアイ・ラウンドの合意内容を実施していった。 近年では2001年に中国がWTOに加盟した。 また、2001年からカタールのドーハでドーハ・ラウンドが開かれ、交渉が続いている。ドーハ・ラウンドの交渉は難航しており、停滞している。 ドーハ・ラウンドの難航もあり、各国は、ラウンドによる一括的な貿易自由化ではなく、2国間の自由貿易協定(FTA)などで貿易の自由化を進め、国際競争に勝とうとしている。
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貿易では、その国が、相手の外国よりも安い値段で高品質に作れる製品を作ったほうが、両方の国にとって得である。 また、もし、ある国が、2種類以上の商品を相手国よりも安く作れるとしたら、相対的により安いほうの商品の生産に集中して輸出するほうが、さらに利益をあげられる。この、相対的に安い商品の生産・輸出に特化したほうが利益をあげられるという説を、比較生産費説(ひかくせいさんひ せつ)という。 比較生産費説は、19世紀初めのイギリスの経済学者リカード(D.Rocardo)が初めて理論的に示した。 このような理論が、自由貿易を推進する立場の者たちの、理論的根拠となっている。 特価前は、ポルトガルは80人でぶどう酒1単位を生産でき、90人で毛織物1単位を生産できる。これらの産業のポルトガルの生産者の合計は170人。 イギリスは120人でぶどう酒を1単位生産でき、100人で毛織物を1単位生産できる。これらの産業のイギリスの生産者の合計は220人。 特価前は、イギリス・ポルトガルの両国の合計で、ぶどう酒を2単位生産でき、毛織物を2単位生産できる。 特価後は、ポルトガルは、ぶどう酒を 170人 ÷ 80 = 2.125 単位を生産できる。 イギリスは、毛織物を 220÷100 = 2.2単位を生産できる。 ぶどう酒、毛織物の両方とも、特価前の2単位よりも生産量が増えている。 このような比較貿易の理論などにより、分業の理論が国際的な範囲にまで広がり、国際分業の理論ができていった。 また、アダム=スミスなどの自由経済の理論が、リカードらの比較貿易の理論によって、国際貿易の自由経済化の理論にまで発展したことになる。 一方、現実の貿易は、けっして完全な自由貿易ではなく、実際には、何らかの規制を加えている。 自由貿易論に反対して、19世紀の当時、工業が発展途上であったドイツの経済学者リスト(F.List)は、自国の幼稚産業(ようちさんぎょう、infant industry)を保護するための保護貿易が必要であると主張した。 現代での保護貿易の手段としては、関税をかけたり、輸入数量に制限を設けたるなどの非関税障壁がある。輸入品の検査の厳格化も、非関税障壁となる場合もある。 現代では先進工業国においても、自国の農業を保護するための保護貿易的な措置を行っている。 日本でも、食料安全保障の主張などにもとづき、農業を貿易では保護している。 国際分業には、おもに発展途上国が単純な部品や原材料を供給して先進工業国が複雑な加工などをおこなう垂直的分業と、一方、おもに先進工業国どうしが完成品や高度な部品を貿易しあっている水平的分業がある。 21世紀の現代、モノの輸出入以外にも、外資系企業のサービスを受けることも「貿易」に含め、これをサービス貿易と言います。たとえば、マクドナルドで食事をすることも、サービス貿易です。外資系ホテルのハイアットやヒルトンなどに宿泊することもサービス貿易です。 WTOでは、すでに1995年にWTO設立の際のマラケシュ協定で、サービス貿易の自由化についても協定があります。(なお、これらの国際会議はウルグアイラウンドの一部でもあるので、書籍によってはマラケシュ協定ではなくウルグアイラウンドで紹介されるかもしれません。) 外国との商取引には、通常、ドルが基準に使われている(※ これは、中学校でも習っただろう)。このような通貨を、基軸通貨(きじくつうか、key currency キーカレンシー、国際通貨)という。 外国との商取引では、現金ではなく、双方の国で、それぞれ為替手形(かわせ てがた)が使われており(外国為替手形)、決済は、日本の銀行と相手国の銀行を通して、決済を行ってる。 顧客自身は、手形の取引を行わない。手形の直接的な売買を行うのは、銀行どうしである。顧客は、銀行の窓口で、外貨を入手できる。 相場が「1ドル=110円」とかのように、相場が日々、変動するが、この相場の価格で、各国の外国為替手形が各国の通貨と取引されてるのである。 なお、この「1ドル=110円」のような外国為替の交換比率の相場のことを、「外国為替相場」とか「為替レート」(かわせレート)とかいう。 また、この「1ドル=110円」などの相場は、日本と相手国との銀行間の相場である。 なお、実際の銀行の窓口での外貨交換には、手数料が掛かる。 いわゆる「為替介入」(かわせ かいにゅう)とは、ある国の通貨当局や中央銀行が、時刻に有利な相場を誘導するために、外国為替相場で通貨などを売買すること。しかし、外国の絡むことなので、自国だけでは操作しきれず、介入が失敗することもある。 なお、一般に、金利が高い国の通貨には、金利の安い国の通貨から金利の高い国の通貨に交換することで利益をあげられる見込みがある。そのため、高金利の通貨の国ほど、相場での通貨が高くなる傾向があるので、政府や中央銀行が金利を操作することで、為替にある程度の介入をすることもある。 つまり、日本での高金利は、円高の要因。 日本で、もし輸入が大幅に増加すると、外貨(ドルが一般)が必要なので、円を売って外貨に変える必要があるため、円安になる傾向がある。 ということになる。(※ 参考文献: 清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2018-19』) 一国の一定期間(普通は1年間)にわたる、外国との、取引き金額の差引きの勘定をまとめたものを国際収支(こくさい しゅうし)という。 国際収支を大きく分類すると、投資による資本のやり取りを示す資本収支と、モノやサービスの取引きの経常収支(けいじょう しゅうし)とに分類される。 なお、経常収支は一般に、その期間内で取引きが完結する収支でもある。一方、資本収支は、一般に、次の期間にも影響の出る収支である。 資本収支は、投資収支と、その他資本収支からなる。 投資収支は、海外に工場を建てたり、相手国で直接工場を経営したりする直接収支と、外国の株式を購入する証券投資などに分かれる。 その他資本収支は、円借款(えんしゃっかん)や、特許権の収支である。 経常収支はさらに、貿易収支とサービス収支、所得収支、経常移転収支に分けられる。 サービス収支は輸送の運賃や、旅行、その他サービスの収支からなる。 貿易収支は、商品の輸出入の金額の収支である。 貿易収支とサービス収支とを合わせて貿易・サービス収支という。 第一次所得収支は、利子や配当金についての、外国との取引きでの収支である。 第二次所得収支は、政府援助や、国際機関への分担金などである。 経常移転収支は、食料・医療品などの無償援助である。 1980年以降、日本の貿易収支は黒字が続いてきたが、2011年、東日本大震災による原発停止などで原油などエネルギー源の輸入が増加したことなどにより、2011年に日本は貿易収支が赤字になった。 経常収支は、1980年以降、現代まで黒字である(2016年に記述)。 近年の日本の資本収支は、投資収支が赤字である。これは、日本企業が、海外に積極的に工場を建てたり、外国の株式を購入しているからである。 (「投資が赤字」ではなく、単に、海外に多くの工場を建てると、投資収支は赤字になるのである。逆に、もし外国企業が日本国内に工場をどんどん建てたとしたら、日本の投資収支が黒字になっていく事になるだろう。) 日本は、その海外投資での収益を、経常収支の第一次所得収支として獲得しているため、日本は投資収支が赤字な一方で、経常収支が黒字になっている。 なお、日本の国際収支において無償援助や国際機関への拠出をしているため、経常移転収支は赤字である。 高度経済成長時代の「国際収支の天井(てんじょう)」は、1970年代には国際収支が黒字になり、解決された。
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(※ EUは経済統合だけでなく外交や安全保障などの連携も目指した国際機関であるが、本ページでは主にEUの経済統合について説明する。) ヨーロッパでは、1967年には、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が統合され、EC(ヨーロッパ共同体、European Communities)が成立した。 ヨーロッパでは、ECが1992年のマーストリヒト条約により、1993年にEU(欧州連合)となった。また、EU化にともない、1999年からは金融分野の共通通貨としてユーロ(Euro)が導入され、2002年からは現金通貨としてユーロが流通するようになった。 また、2007年にリスボン条約が調印され(2009年にリスボン条約が発効)、EU大統領(欧州理事会常任議長)やEU外相(外務・安全保障政策上級代表)が置かれるようになった。 ギリシャでは2010年〜2011年に財政危機が発生した。 そのため、EUでは欧州安定メカニズム(ESM)が2012年に設置された。 なお、ギリシャ財政危機により、ユーロが対ドル、対円(日本円)に対して下落した。 なお、イギリスはユーロに加盟していない。 EUに加盟をしていても、ユーロに加盟していない国がある。 イギリス・デンマーク・スウェーデンは、ユーロに加盟してない。 なお、そのイギリスは2020年、EUを脱退した。イギリスのEU脱退のことを俗(ぞく)に「ブレグジット」という。(※ 東京書籍の「地理総合」で記述を確認) 他地域での経済統合では、APEC(アジア太平洋協力会議、発音:エイペック)、NAFTA(北米自由貿易協定、発音:ナフタ)などがある。 北アメリカでは、1992年にNAFTA(北米自由貿易協定、発音:ナフタ)が、アメリカ・カナダ・メキシコにより、結成された。 また、アメリカは2018年、原産地規則を強化したUSMCA(アメリカ・メキシコ・カナダ協定)を締結した。(※二宮書店の「地理総合」で記載を確認) アメリカはTPPからの離脱を表明した。 いっぽう、南米では、1995年にブラジル・アルゼンチンなどにより南米南部共同市場(メルコスール、MERCOSUR)が結成された。 なお、近年、南北アメリカ共通の経済統合の「米州自由貿易地域」(FTAA、Free Trade Area of America)を結成しようという動きがあるが、まだ実現していない。 東南アジアでは、ベトナム戦争を背景に、自由主義勢力が社会主義勢力に対抗するため、1967年にインドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5ヶ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が発足した。ベトナム戦争の終結などもあり、ASEANは地域間の経済・外交協力などをする機構へと変遷していった。そして、ベトナムも95年にASEANに加盟した。 アジア・太平洋地域では、1989年からオーストラリアの提唱でAPEC(アジア太平洋協力会議、発音:エイペック、Asia Pacific Ecomic Cooperation)が結成され、オーストラリアや日本・中国・韓国や北アメリカなどの国が加盟しており、域内の貿易・投資の自由化などを目指している。 近年、環太平洋経済連携協定(TPP、Trans Pacific Partnership)について議論されており、アメリカ(のちに離脱を表明)やオーストラリアなどが交渉に参加しており、日本も交渉に参加しており、原則的に加盟国間ですべての関税の撤廃を目指すようだが、内容にはまだ未定・不明な事項がある。 TPPはもともと2006年にシンガポール・ニュージーランド・ブルネイ・チリの4ヶ国が結んだ経済協定である。 この4ヶ国の経済協定に、アメリカ合衆国やオーストラリアが参加を表明し、日本の貿易相手として重要なアメリカ・オーストラリアなどの国が加わったこともあり、日本もTPPを意識せざるを得なくなった。 アジア通貨危機は1997年にタイで起こり始め、タイの通貨バーツが暴落し、暴落は各国に及び、韓国などにも及んだ。
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産業の中心が、一次産業から二次産業、二次産業から三次産業へと移ることをぺティ・クラークの法則という。そして日本では経済のソフト化が進んでいる。 北と南の国際的な格差問題を南北問題(North South problem [1])という。発展途上国が宗主国の影響でモノカルチャー経済に陥っていることが原因である。工業化を目指し資金を借り入れた国では累積債務問題が発生し、支払いのリスケジューリングなどの対策がとられた。逆に工業化に成功した国々はNIEsといわれた。工業化がなされていない国は後発発展途上国と呼ばれている。先進国側ではDACが置かれた。途上国側では、第1回国連貿易開発会議にてプレビッシュ報告がなされて、70年代にはNIEOが宣言された。 先進国政府の援助はODAとよばれ、グランド・エレメントという指標がある。日本の二国間ODAの特徴として、アジアからアフリカへと配分が変わってきている。 日本とアメリカの間では貿易摩擦や経済摩擦が起こったので、日米構造協議や日米包括経済協議といわれる交渉が行われた。 2015年ごろ「相対的貧困率」という用語が流行した(2017年度センター試験にも出題された)。「相対的貧困」の内容は、単なる所得格差のことである。なので、所得格差の高い国ほど、相対的貧困率が高くなる。 よって、アメリカ合衆国は相対的貧困率が高い。 なお、2000年度の各国の相対的貧困率は、(2017年度センター試験によると) である。 左翼運動化はよく「ドイツに見習え。欧州に見習え」というが、日本と比べてドイツの相対的貧困率は、それほど低いわけでもない。 シビリアン・コントロールとは、 (誰が?)→(どうする?)→(何を?)→(どうやって?) 国民が → コントロールする → 軍隊を → 選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて ということです。 つまり、「国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊を、コントロールする。」ということです。 シビリアン・コントロールのよりくわしい内容については、ウィキペディア文民統制を参照ください。 高校の公民(「政治経済」や「公共」など)だと、教科書の章末や巻末などで、2つの対立概念を提示していて、それぞれの立場からの議論を手短かに展開しています。で、その章末などの議論の例では、2つの対立する意見を紹介しています。たとえば、「政府は日本は農業を保護するべきか」 みたいなのです。 他にも、男女平等をどうするのかとか、国際化と日本文化との問題をどうするかとか、科目と時代によって色々と教科書に議論が載っているでしょう。 政治の問題などは、個人が一人で進めるわけにはいかないので、少なくとも政治家や知識人などが議論をせざるを得ません。 ある程度の検証をされている対立意見に耳を傾けて(時間に限りはありますが)、さらにそれを自分らでも検証したりするのが、本当の議論です。 農業問題など政治問題の、議論の典型的な主張の内容を覚えるのも大切ですが、それと同じくらい、政治経済についての議論のマナーを身に着けるのも大切です。 教科書巻末などの「議論」は、おおむね、下記に述べるような手法で、議論が展開されているだろうと思います。読者が将来的に議論をしたり読んだりする際の参考にしてください。 高校の公共などの科目で、「エコー・チェンバー」と言う用語を習います。エコーチェンバーとは何かについては『中学校社会_公民/世論とマスメディア#※_中学の範囲外:_情報の片寄り』を参照してください。 さて、対立意見を両方の立場でそれぞれ読んだりすることで、読者はエコーチェンバーを自動的に防げます。 だから教科書の巻末・章末の議論にある対立意見も、かならず両方の意見にきちんと目を通しましょう。 さて、教科書以外の読書のさい、決して、やみくもに書籍をたくさん読んでも、もし自分とまったく同じ意見の人の本ばかり読んでいてはエコーチェンバーになってしまい意味がありません。だから教科書以外の読書では、時々でよいので、自分の価値観とは反対の主張がされている本も読みましょう。 たとえば自分が「農業をもっと保護すべき」だと思うのなら、その逆の「農業をもっと自由化・規制緩和・補助金削減しろ」みたいな論者の主張の書籍をときどきは読むべきなのです。 議論のための前提として、正しい反対意見によって間違った学説を淘汰(反証)して修正できる仕組みが確保されていなければいけません。このような仕組みのことを、科学哲学(かがくてつがく)という学問でも「反証可能性」と言います。科学哲学者カール=ポパーの提唱した概念です。 人は誰しも、「自分の意見こそが正しい」と先入観を思いがちですので、だから対立意見にも耳を傾けて、自分の考えを現実を説明できる正しい考えへと修正するのが大事なのです。もっとも、人生の時間には限りがあるので、なんでもかんでも文句を聞き入れるのではなく、的確な統計などのまとまった優れた対立意見だけを聞くことになるでしょうが。 たとえば理科なら実験や観測で間違った学説を淘汰できるし、数学なら証明や計算で間違った学説を淘汰して修正できますので、反証可能性があります。 社会科・政治経済でも、統計などで、政策や法律などの効果を、ある程度は検証して修正できますので、数学ほどではないですが反証可能性のようなものは存在しているでしょう。 本ページでは修正と言ってますが、マチガイがあっても、間違った部分だけを限定的に取り除いて、正しい情報に交換すればいいのです。学説全体を無くす必要はありません。少なくとも学問の世界ではそうです。 よほどマチガイの割合が多い学説なら、ゼロから学説を作り直したほうが早いですが、しかし市販の書籍などに紹介されるような学説やら政策などの場合なら、マトモな出版社から出ている教科書や書籍なら、ゼロから学説・主張を作り直すのは時間の無駄です。そもそも学問というのは、アイデアを共有する知的な営み(いとなみ)でもあります。 文学や芸術や哲学など、統計などによる検証が難しいかもしれない学問もあるかもしれませんが(そのため科学哲学の「反証可能性」がなじまない分野もあるかもしれませんが)、少なくとも政治学と経済学は、統計などによる反証可能性が必要ですし、実際に統計などによる反証による学問の発展が可能です。 しかし、仮に文学そのもに反証可能性が仮に無いとしても、文芸小説などを売っている出版社には利益というお金が必要であり、社会でのお金の流れは経済などの影響を受け、そして経済学には反証可能性があります。だから出版人は、経済の反証可能性を無視することはできません。少なくとも最終的・長期的には、文学人などと言えでも経済などの反証可能性のようなものを無視できません。 さて、もし、ある仮説において、反証可能性が確保されていないと、少なくとも「科学」 science とはみなされません。まあ、哲学も法学も「科学」 science ではないのですが。もっとも、法律でも、裁判の原告と被告の法廷闘争を思い起こせば分かるように、対立意見どうしを裁判官が聞いています。 芸術など一部の分野では例外があるでしょうが、多くの学問の分野で、反証可能性は尊重されているだろうと思います。というか、日本の大学研究者への補助金の科研費(科学研究費)は、少なくとも建前上では科学的でないと予算がおりません。「科学研究費」「という、その名の通り。 高校の「政治経済」や「公共」などの公民科目の検定教科書を作るような人たちは当然ですが、「反証可能性」などの概念を知っているだろうから、だから巻末などの議論でわざわざ対立する主張を提示しているのです。 なぜ、わざわざこういう事を言うのかと言うと、世間の教育評論家のなかには、これが出来ていない人が多くあります。世間では、知的なレベルの低い人でも教育評論をしています。世の中には、こういう反証の基本的な検証作業のできないオトナもいて、高校生以下の知力のオトナもいます。困ったことに、そういった人でも大卒などの学歴を手にしてしまっている場合もあります。 反証可能性の確立のためには検証が必要ですので、政治経済の議論の場合なら、統計などの具体的で数値的な情報が必要です。もしくは、「西暦〇〇年に□□が起きた」みたいに実際に歴史上に起きた事例などです。 おそらく、政治経済の巻末にある議論の例でも、数値などが提示されているか、もしくはインターネットを使えば省庁や学会などの調査した統計にアクセスできるような具体的な情報が提示されているかと思います。 こういった政治学・経済学のような議論の際には、けっして、あいまいな表現や主観的な表現を、議論での主張の根拠にしてはいけません。 たとえばダメな例として、「私は農家が好き」とか「農業って面白そう」とか「農家は偉い」とか、あなたがどう思っても、そういうのは日本の農業政策をどうすべきかとは関係ありません。農業に限らず在日外国人の議論でも男女平等の議論でも何でも同様、あなたの思いは、とりあえず社会の議論としては検証には関係ありません。 もっとも、「日本国民の〇〇パーセントは農業について好意的印象を持っている」と言ったような大規模アンケートなどの結果なら、議論の根拠にする意味はあるかもしれません。しかし、少なくとも、あなたの好き嫌いは議論の検証結果には関係ありません。 自分に都合よく自分勝手に解釈できてしまい内容を都合よく変更できてしまう表現をしていては、議論が深まりませんし、相手や第三者からすれば信用もされません。 他のダメそうな例として、「善」・「悪」というのも、政治経済の議論としては要注意の表現です。往々にして個人的な「好き」をもっともらしく言い換えただけのゴマカシの表現が「善」だったりする場合もあります。 窃盗(せっとう)などの明らかな犯罪ならともかく、あるいはウソツキなど議論の妨害行為ならともかく、法律違反でもウソツキでもないのに何かを「悪」と断じる人には(たとえば「日本の農業政策の〇〇は悪である」みたいな)、議論では注意が必要かもしれません。 なにより問題なのは、善悪を理由にして、対立意見を悪だと断定して、そして対立意見を耳に入れようとせずに現実を無視する人が、世間には時々います。 しかし、自分に近い意見だけを耳にしていては、エコーチェンバーにおちいってしまいます。どんなに人数だけは多くの人の意見を聞こうが、書籍数だけは多くの書籍を読もうが、自分と同じ意見だけの本を読んでいてはエコーチェンバーになるので、政治経済の勉強としては無駄になってしまいます。 さて、最近(2023年に記述)は少なくなりましたが、2005年あたりまでは、左翼マスコミや左翼政党などの左翼主張を並べ立てて対立陣営を批判するだけの行為を「議論」だと勘違いしている、ヘンな人もいました。 大物の左翼政治家だろうが右翼政治家だろうが、それは何の統計でもなく、だから政治経済の議論においては、まったく証明の根拠の主流にはなりません。他に統計などがある場合の傍証(ぼうしょう)にはなるかもしれませんが、しかし証明の主流の手段にはならないのです。 例として、2005年くらいの「つくる会」の歴史教科書運動のとき、以前の教科書の中立性などが疑問視されたのですが(ロシアや中国など旧・共産圏に好意的すぎないか、など)、ネットの意見やら一部の評論家などから、「以前の(つくる会以外の)教科書は中立的で正しいに決まっている。なぜなら、中高の教科書を見ても書いてある話題を紹介しているだけだからだ」という言説がありました。 しかし、そもそも、当時の議論していた問題こそ、その根拠として提示されている中高の教科書の記述内容の妥当性です。 このように、なにかの議論で妥当性を検証する際は、根拠には、検証しようとする対象以外のものを根拠にしないといけません。 たとえば、中高の歴史教科書の記述の妥当性を検証しようとする場合なら、大学レベルの学術書をいくつも読んだり(歴史学の学術書を読むのは当然、歴史学の公平性そのものを検証するために他の学問の書籍も多く調べる必要があるかもしれません)、論文を読んだり、そのほか、多くの歴史評論なども読む必要もあります。とても大変な活動です。 このように多くのものを読まないといけないのに、しかし世間では、そういう読書をサボって、検証対象になっている書籍だけしか読まずに、にもかかわらず、なにかを検証したつもりになっている頭のわるい人が、世間には少なくないのです。 「先生の言っていることは正しいと思いま~す。なぜなら、先生がそう言ってたからで~す!」みたいな理屈は、なんの証明にもなっていません。 こういうのを循環論(じゅんかんろん)と言います。循環論とは、証明しようとする対象そのものを根拠として理屈を展開してしまう、論理展開のミスことです。 教育問題以外でも、循環論はよくありました。たとえば新聞の信頼性の議論で、「朝日新聞・毎日新聞などの主張は正しいか」という議論なのに、その根拠として朝日新聞・毎日新聞などにありそうな言説を根拠にする人もいたのです。同様、「産経新聞の主張は正しいか。正しい。なぜなら産経新聞に書いてあった内容と一致するから」みたいな困った言説もよくありました。 朝日新聞とテレビ朝日の関係のように大手新聞社はテレビ局を持っていたり、雑誌も「週刊朝日」とかありますので、新聞の信頼性を証明する際に根拠とする情報は、新聞・テレビ以外のものでないといけませんし、系列の出版社以外の情報源でないといけません。 他にも要注意の表現として、「大きいので」とか「小さいので」などの表現も要注意です。「何と比べて大きい/小さい から」なのか、大小の基準をなるべくハッキリさせましょう。他の例として「強いので」・「弱いので」も同様、基準の必要な表現です。 議論でマチガイを突っ込まれると、基準を都合よく後から操作する人がいます。 素直に間違いを認めればいいのに、たとえばマチガイに気づいた時点で議論相手に「私のマチガイでした。なので、基準を変えますね。では、新しい基準で議論を続けて、議論を深めましょう」とか言えばいいのに、 しかし自分のマチガイを認めたくないばかりに(なぜなら「自分がバカだった」と認めたくないので)、だから基準を最初から提示しない人がいるのです。 しかし、そういった態度では、議論が深まりません。 マチガイを認めないことこそ、本当のマチガイです。古代中国の孔子(こうし)も「過ちて(あやまちて)改めざる。 これを過ち(あやまち)という」と述べています。 さて、仮に事実が一つだとすると、対立する2つの政策意見のうち、少なくともどちらか一つの主張は、思考法などのどこかが間違っているわけです。 しかし、マチガイのない人間はいません。仮に人間が間違えたとしても、それでも実用的な政策などを決めるために、議論をするのです。人間の集団がイキイキと生きていくためには、今後のことをどうするかを主体的に決めなければいけません。 マチガイを恐れて何も主張しなければ、何も決定に影響を与えられません。そのせいで何も決定できなければ、何も事態が改善されません。たとえば大地震でも大災害でも何でもいいですが、そういった事が起きたとき、マチガイを恐れて何もしないで被災者を放置することが、一番のマチガイです。 政治ではないですが、裁判での原告と被告との法廷闘争も似たようなものでしょう。 人間が死んでないかぎり、間違っても、やり直せばいいだけです。 反証可能性とはあまり関係ない話題ですが、議論のマナーとして、議論開始前に事前に提示された論点をずらしてはいけません。 よくあるマナー違反が、新たな視点にて論点を追加した際に、どさくさに紛れて不都合な論点を消そうとする、迷惑な人です。 たとえば、先に2022年の自民党政権のときの物価高を問題視する議論で、「じゃあ2010年代前半の民主党政権のときのデフレ不況はどうだったんだよ!」と意見を出してきたりして、議論を2022年の話から2010年代前半の話に変えようとするような行為です。しかしこれは議論ではありません。 なぜなら、2010年代の不況の原因がデフレであろうがなかろうが、2022年代が物価高であった事実は統計などから明白だからです。 しかし世間には、論点を追加することで、不都合な以前の論点をうすめようとしたり消そうとしたりする人がいます。 もちろん、かならずしも論点を追加する人が悪意とは限らず、純粋に視野の広い人が善意で論点を追加する場合もあるので、いちがいに批判はできません。しかし、そういう善意の人のふりをして、論点を追加することで、不都合な論点をすりかえようとする悪意の人もいます。 このような卑怯な論点のすりかえに対抗するため、もし論点があらたに議論中に追加された場合は、追加されたほうの論点は議論の後回しに分けて、時間が余った時などにだけ議論するのが良いでしょう。もしくは、1~2分など短時間にだけ新規の論点について説明してもらうのが限度でしょうか。 事前に計画された古い論点から、(自分が)逃げない、(相手を)逃さないようにしましょう。最悪、そのような議論のルールを守れない人は、議論から追い出す必要があるかもしれません。 もし古い論点そのものに問題がある場合でも、それは議論を開始する前に指摘しておきましょう。もし議論開始後の議論中に新規に追加を主張された論点があっても、新規追加されたほうの論点は後回しにされなければなりません。 なお暗黙の前提として、こういった論点のスケジュール管理をできるようにするため、論点は箇条書きに分けましょう。また、箇条書きにされた一つ一つの論点は、なるべく短めの文章にすることです。 中学高校あたりの国語や社会科での議論やディベートの実習だと、先生がこういった論点の管理をしてくれますが、しかし学校以外では自分たちで論点をきちんと管理するしかありません。 逆に言うと、もし論争相手から論点の変更が主張されていなければ、論争相手から不都合な統計などを出されたりしたら、その統計に不備が見つけられない限り、少なくともその統計を認めなければいけません。 大学などでは、もしアナタが政治的・経済的な思想を主張したいなら、ふだんの読書のさい、入門レベルの分かりやすい本でも良いので、最低でも3冊はアナタの主張と対立する意見の根拠が書かれている本を読むのが良いとされています。知識人のように、政治・経済について主張したいなら、そうすべきでしょう。 その根拠として、 なので、これらを組み合わせると、もし読書で議論のように考えを深めたいなら、自分の考えとちがった対立意見の本を最低でも3冊は読むことになるでしょう。 高校の在学中は時間的に難しいかもしれませんが、大学や就職後などの読書では、次第にこういった読書法も身に着けることになるでしょうか。 たとえば、アナタが左翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は右翼思想の本を読む。逆に、アナタが右翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は左翼思想の本を読む。・・・といった具合に、です。 もちろん、自分の考えと近い内容の本については、もっと多くの十冊以上とか読むわけです。 もし、親書やら文庫のたった3冊すら読めないレベルの読書週間なら、あるいは対立意見の本を読むのに精神的に耐えられないなら、そもそも思想とかに深入りするのをヤメたほうが安全です。 たった3冊すらも対立意見の本を読めない程度の精神力の弱さなら、スポーツや芸能などのよほどの天才でもない限り、世間の常識にしたがって普通の仕事に就職して、普通に上司に従ったりなどして生きていくほうが安全でしょう。
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国家は、国民にさまざまな義務を課すが、近代立憲主義思想において、憲法などによって国民に課される義務の正当性の根拠とは、国民どうしの人権の衝突を防ぐなどの理由である。(※ べつに私の持論ではなく、清水書院の検定教科書などに、こういう理屈が書いてある。) ただし、以上のハナシはあくまで、国家と国民との間での、「権利と義務」の関係である。 それよりも、これから大人になる高校生読者にとって重要なハナシは、国民どうしにおける個人間での権利と義務の関係は、国家・国民間の権利義務の関係とは、すこし異なる、ということである。 (※ ココらへんの話題も、検定教科書の範囲内です。 うたがうなら、清水書院などの検定教科書を読もう。) もちろん、(国家対個人の場合と、個人間の場合とで、権利・義務の関係が)まったく異なるというわけではない。 さて、次の節で述べるように、個人と個人との間での契約において、両者とも原則的に契約を守る義務がある。 憲法などで規定される「自由権」の内容は、基本的には、「国家は、国民に対して不当な束縛をしてはいけないという」ような内容です。なので、自由権の内容は 国家からの自由とも言われます。[1] そのため、必ずしも現代の民主主義国に住む私たちは、国家以外から自由にはなれません。 たとえば、契約などは守る義務があります。その契約が違法でないかぎり、契約をやぶる自由なんてありません。 べつにwiki編集者の歴史観や政治観などが統制主義的とかそういう事ではなく、そもそも政治学の通説で、自由権とは「国家からの自由」という意味です。 また、けっして『公共の福祉』などの例外規定のことを言っているのではない。そもそも自由権とは、国家からの自由しか扱っていないので、公共の福祉とは関係なく民間どうしの契約などにもとづく義務からは自由になれない。 検定教科書に書かれていないのは、単に検定教科書では(教科書検定では極度の客観性を要求しているので)通説を書けないからでしょう。NHK教育の政治経済でも「国家からの自由」は普通に紹介されている通説です[2]。 個人と個人との間での契約において、両者とも原則的に契約を守る義務がある。 買い物などにおける、権利と義務の発生について、考えれば分かるでしょう。 たとえば、売買契約が成立すれば、買い主は、代金を払う義務があります。(この場合、代金を支払うことは「債務」(さいむ)に分類される。債務については後述する。) 一方、売り主には、買い主に代金を支払うように請求できる権利があります。(この場合、買い主に代金を支払うように請求できる権利が、「債権」(さいけん)である。債権については後述する。) このように、個人間では、契約によって、権利と義務が同時に発生します。 (※ 検定教科書の範囲内です) 契約によって発生する義務のことを債務(さいむ)という。同様に、契約によって発生する権利のことを債権(さいけん)という。(※ 「債権」「債務」は検定教科書の範囲。第一学習社の政治経済の教科書パンフレット(公式サイトより)で確認。) つまり、契約によって、債権と債務が同時に発生します。 さて、一方、売り主は、代金が支払われれば、商品をすみやかに渡す義務があります。(「代金が支払われれば、商品をすみやかに渡す」という債務) また、買い主は、代金を支払ったあとなら、売り主に商品を引き渡すように請求できる権利があります。(「代金を支払ったあとなら、売り主に商品を引き渡すように請求できる権利」という債権) このように、代金の支払いによっても、権利と義務が同時に発生しています。 (※ 検定教科書の範囲内です) つまり、代金の支払いによっても、債権と債務が同時に発生しています。 このように、契約によって、権利だけでなく義務も発生しますので、契約をする際には、契約内容をきちんと調べるなどして、注意をしましょう。(※ 中学高校の検定教科書の範囲内です) さらに「契約自由の原則」といって、基本的に、国家権力は個人間の契約については、あまり規制をしないのが原則です。(※ 検定教科書の範囲内です) 通常の買い物などでは、個人と企業間の契約も、国家権力はあまり規制をしません。 そのため、もしアナタが契約内容を理解してないと、自分に不利な契約をしてしまう場合もある。 なお、個人と個人との関係や、個人と企業(株式会社など民間企業)などのような、民間どうしの関係を、私人間(しじんかん)と言う。 つまり、「契約自由の原則」により国家権力は、私人間の契約を、あまり規制しない。 このように個人間の契約においては、自由には責任が ともないます。 もっとも、なんでもかんでも契約なら自由というわけではなく、たとえば労働契約では、労働基準法に定められた最低賃金を下回る給料での労働契約は無効である、・・・などのように「契約自由の原則」には例外もある。 また、契約内容がウソの内容である「詐欺」(さぎ)などの場合、契約を取り消しできる場合もある。(高校の「現代社会」の教科書などで習う。)脅迫をされて、むりやり契約をさせられた場合も、契約を取り消せることが、民法などに定められている。 しかし、詐欺や脅迫である事を証明するのが難しい場合が多いのが実情である。(高校の「現代社会」の教科書などで習う。) 労働基準法違反や詐欺や脅迫などのような例外的な場合をのぞけば、原則として「契約自由の原則」により、個人間の契約においては、自由には責任がともなうので、原則的に契約を守る義務を、(司法を含む)社会から要求される。 たとえば、「借りたカネを返さない」などのように、もしも借金の契約に違反すると、場合によっては、裁判(借金の裁判は、普通は民事裁判であろう)にかけられてしまい、そして判決では、財産を取り上げられるなどの強制執行の判決が出る場合もあります。(※ 「強制執行」は、中学公民の検定教科書の範囲内です) 民事裁判において、裁判官はどのような考えにもとづいて判決を出さなければならないかは、民法などの法律に書いてある。(中学公民および高校「現代社会」「政治経済」の範囲内。) 民法では、個人と個人どうしの契約についての法が、定められている。なお民法では、契約についての定めの他にも、婚姻や親子関係、相続、損害賠償などについても民法で定められている。(※ 検定教科書の範囲。帝国書院などの現代社会の教科書パンフレット(公式サイトより)で確認。) なお、所有物は、原則的に、法律の範囲内なら、どう使用しようが自由であり、この原則を「所有権絶対の原則」という。(東京書籍の「現代社会」科目の教科書パンフレット(web)などで記載を確認。) なお、当然のことだが、親は子を育てる義務を負う。なお、このような、家族間で生活を援助する義務のことを「扶養義務」(ふよう ぎむ)という。未成年の子は、親の保護監督に従う義務がある。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)。常識として、「扶養義務」などは知っておこう。) 親には、子供を保護・教育の方法などを、親がある程度自由に決められる権利があり、また子供の財産などを管理できる権利があるが、これらの親の子に対する権利を親権(しんけん)という。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)。「親権」は常識的な知識。) 結婚している夫婦は、同居義務があり、扶養義務がある。 さて、成年者は原則的に、自由に契約ができる。(契約自由の原則)  しかし、精神障害・身体障害などの重度の障害の場合や、または老齢などで、法的な判断が困難な場合もある。法的な判断が困難な場合に、成年後見制度(せいねんこうけんせいど)によって法的な判断の権利を後見人に預けたり、または後見人に法的な判断を助けさせたりすることができる。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)である。) 民法などに、親子の法的義務、夫婦の義務、相続、成年後見制度などの規定が定められている。 相手方が債務どおりに実行しない事態(債務不履行(さいむ ふりこう))のように、契約違反によって(主に金銭的な)損害を負わされたりした場合、契約違反をした者に対して損害賠償を請求できる、という内容の規定が民法にある。また、事故などの過失によって損害を負わされた場合も、その事故を起こした者に対し、損害賠償を請求できる場合がある。(※ 第一学習社などの検定教科書に記述あり。) ただし、事故を起こした者(加害者)が、事前に(法律的に)充分な注意をしていた場合で、それでも事故が起きてしまった場合は、損害賠償をまぬがれるのが原則である。つまり、法的に充分な注意をせずに事故を起こした場合に(なお、このような場合を「過失」(かしつ)という)、加害者は損害賠償の責任を負う。 つまり、加害者に過失がある場合に、加害者は賠償責任を負う。 なお、債務不履行とは、文字通り「債務が実行されない」というような意味である。 たとえば、「貸したカネを、返してもらえない。」「借りたカネを、自分の所持金が足りないので、(カネを)返せない。」とか、または「商品の代金を支払ったのに、商品が引き渡されない。」などの事態も、債務不履行である。 さて、国家や地方公共団体が不法な行為をした場合には、国家や地方公共団体に対しても損害賠償をするように請求でき、このように請求できる権利を国家賠償請求権という。 国家や地方公共団体に対する損害賠償の法律として、国家賠償法がある。(※ 「現代社会」の教科書などで、国家賠償法を紹介している教科書会社もある。山川出版社など。) 憲法17条の「国及び地方公共団体の賠償責任」をもとづき、国家賠償請求権がある。 (※ 政治経済の検定教科書にも、右表のような「公共の福祉」の一覧表があり、高校「政治経済」の範囲内です。) という事は、裏を返せば、他者の権利を守るためなら、権利は制限されるという事である。 生存権のような基本的人権を除けば、もはや他の権利は、あまり基本的ではなく、特別な理由があれば、制限されるのである。 中学校で習ったように、・・・ などのように、自由権が制限される場合もある。 一般に日本の法律などでは、(日本国憲法の定める)「公共の福祉」などの概念によって、最小限の権利制限であるならば、「権利」というものは制限可能である、・・・と考えられている。 「公共の福祉」とは、自分の人権と、他人の人権がぶつかったときに、それを調整・解決するための原理である[3]。人々どうしの、それぞれの権利と権利が衝突したときの解決の原理が、公共の福祉である。 つまり、人権は、他者の人権とも衝突することがある。これを「人権の衝突」と言う[4]。 だからといって、「他人の権利を守るため」などの名目で、なんでもかんでも言動を禁止していいわけではない。 たとえば、広場などでのデモなどの「集会の自由」だって、その広場で別のことをしたい別の人の自由の権利との衝突をしているのである。なお実務的な解決法としては、デモは、時間を限定して許可される[5]。これも「公共の福祉」の運用の例である。 あるいは、(憲法では規定されていないが)プライバシーの権利は、表現の自由との衝突をしているのである。 このように、権利は他者の別の権利と衝突することがあるので、権利の濫用(らんよう)は出来ないのが実態である[6]。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%A8%E7%BE%A9%E5%8B%99
これは、高校の日本史科目や政治経済史における、主に20世紀の、昭和の戦後史およびその前後の歴史(戦前史や平成初期史)を解説する際に必要になる「右翼」「左翼」、「保守」「革新」の用語の意味の把握のためのページです。 したがって、令和における「保守」「革新」などの意味とは違います。 (※ 編集者への注意) 昭和と現代とで「保守」「革新」などの用語の意味の違いがあっても、直さないでください。このページは主に昭和史・20世紀史のためのページです。よって、現代における言葉の意味とは異なる場合もあります。決して、時事の政治評論における意見対立の紹介のページではありません(書籍『日本の論点』のようなページではありません。)。 第二次大戦後の「保守」政党としては、 板垣退助の自由党の人脈の流れを継承しているという。日本の自由民主党は、憲法改正によって自衛隊を軍隊として憲法で正式に認めさせることに、他党よりも比較的、積極的である。そもそも、第二次大戦後の自民党の結党の目的のひとつが自衛隊を軍隊として追認させるために憲法改正することであり、現在も改憲を目指している。なお、自民党は1955年に結成された。また、自民党は、日米安保およびアメリカを同盟国とすることに積極的である。 まず、第二次大戦後のころの日本には「社会党」(しゃかいとう)という、けっこう規模の大きな政党があった。正式名称は「日本社会党」である(「社会党」は略称)。(2016年の時点では、「社会党」「日本社会党」という名称の政党は、日本には存在しない。) なお、日本社会党は1945年に結成されたが、母体となった戦前の政党の対立関係から一時分裂する。1955年に分裂が解消された。 この日本社会党は、自衛隊を国防軍のようにする憲法改正には反対であった。自衛隊反対の根拠は、w:非武装中立論である。 また、アメリカの同盟国となることも、軍事的な連携にも消極的・批判的であった。よって、自民党とは、自衛隊のあり方については、日本社会党は反対の立場であった。 なお、現在の「社会民主党」は、その日本社会党の系統の政党である。また、2009年に政権与党にもなった民主党(2016年に「民進党」と改名)には、それ以前に社会党から民主党に移った議員も多かった。 日本語では、自国や自民族が持っている元来の文化、伝統、風習、思想等を重視した政治思想とその支持者のことを右翼(うよく)とよぶ。一方、現在の政治・経済のあり方に批判的で、特に国王・貴族・特権層による専制政治や資本主義のあり方に対して変革を求める政治思想とその支持者を左翼(さよく)とよぶ。 語源は、一般的な説では、フランス革命のときの国民議会の用語らしく、議会の陣営についての用語である。フランス革命のときの議会で、王党派・貴族派といった伝統勢力の議席が、議長から見た方向で議事堂の右側に多く、いっぽう、革新派の議席が議事堂の左側に多かったのが、由来である。 なお、英語でも、右翼思想のことを「right」(ライト)または right wing という。みぎ方向をあらわす英単語 right と同じスペルである。左翼思想のことは「left」(レフト)または left wing という。ひだり方向をあらわす英単語 left と同じスペルである。 右より、左より、左右の立場、などの言い方もされ、多くの人が何だかんだで政治について語るときになじみの深い言葉だろう。 第二次世界大戦前では、「右翼」は反・欧米である。(戦後とは違うので注意。) 戦前の「右翼」は日本政府の欧米協調路線に反対して、中華民国や東南アジアの革命家などとの連帯を主張、ともに欧米と戦おうという「アジア主義」を唱えていた時代もあります。これは、現代の中国、韓国にたいする接し方とは違います。 明治維新前後の時代は、富国強兵を唱える政治家が、それ以前の江戸時代の伝統を、不合理で近代化にとって益のないものだと見なして批判して廃棄する動きもありました。 (※ 範囲外:) 明治時代〜大正の政治について一般評論での「右翼」「左翼」は、たいていの場合、征韓論争の結果湧き上がった自由民権運動で有名な板垣退助の政党やその流れを組む門派・頭山満などを「中道」とみなし[1]、それに対立したとされる政党(伊藤博文などの政党)を右翼的であると見なす場合が多い。 冷戦当時の日本では、軍事力をあまり保持しない事こそが平和主義であり左翼思想であるとされ、そのような平和主義は、平等を唱える社会主義との組み合わせが良いとされた。 なお、実際の冷戦中のソビエト連邦では、軍事力の強化こそが、世界の社会主義革命に必要だとされていた。(ソビエト連邦本国の方針ではないので、混同しないように。) また、日本の戦後(第二次大戦後)の右翼はアメリカと協調的であるが、しかしアメリカ文化を日本に取り入れることで、そのぶん、日本の旧来の文化や伝統を、日本人が目にする機会も少なくなっただろう。 第二次大戦中を思い起こせば、アメリカは「鬼畜米英」などと言われ、当事の日本で右翼とされる政治運動から見れば、アメリカが敵だった時代もある。 その他、日本の戦時中の政治体制は治安維持法による言論の抑圧などから、ふつう軍国主義(「右翼」)とされる。しかし、経済政策はソ連の五か年計画の影響を強く受けていた(参考:w:革新官僚)。 ※ 追記することは特になし 20世紀以前では、海外の話だが、「左翼」の外交方針は、必ずしも戦争回避ではない。フランス革命などを考えれば、革命派である左翼こそが、周辺の王権主義の国家との戦争を躊躇(ちゅうちょ)しなかった、そういう時代もある。また、冷戦中は、社会主義が左翼とされたが、しかし外国のいくつかの国で、社会主義を実現するためには武力的な革命すらも躊躇しない(キューバなどの社会主義国の革命)、という考えや運動もあった。 また、その社会主義国のソ連は、同じく社会主義国の中華人民共和国と国境紛争などの戦争をしていた時代もある(1969年の中ソ国境紛争)。 「右翼」の場合、自国の民族の伝統や歴史を重視し、それらを守っていこうというのが、現代の立場である。そして、個人は民族的な文化と伝統によって育まれ、価値観や人生観も民族の独自のものが作られていることを重視する考え方をもつ。そのため、一人一人の個性よりも、民族や国民が持つ大まかな特徴を重視する。 こうした民族観は民族自決・植民地からの独立運動をうながしていった一方、自民族が他民族に対して優越すると考える極端な思想も作り出した。 「左翼」の場合、戦後の昭和・平成では、ナショナリズムが戦争につながっていったことに対する反省から、自国の民族を中心に考えるよりも互いに尊重しようという立場をとることが、多い。また、民族もまた変化するものであり、個人ごとの差があることを重視するため、「Aという民族はBである」というようなw:ステレオタイプな民族観には自民族のものも含めて否定的である。 日本では、第二次大戦後の昭和では、自民党のような政策が、保守主義、あるいは「保守」(ほしゅ)的な政策と言われた。いっぽう、社会党のような政策が「革新」(かくしん)的な政策と言われた。これは、日本においては資本主義や天皇制についての態度が原因の一つとなっている。つまり、資本主義の経済体制と天皇制を維持するという意味で「保守」であり、資本主義と天皇制に批判的で、転換を求めるという意味で「革新」と呼ばれてきた。 そのため、昭和・平成の日本では、一般に右翼思想は保守に含まれ、左翼思想は「革新」に含まれる。 また、第二次大戦後、冷戦が始まり、アメリカ寄りの立場が「右翼」、「保守」とされ、いっぽうソ連寄りの立場が「左翼」、「革新」とされた。 第二次大戦後の20世紀後半の日本では、マスコミなどの表現では、自民党が「保守政党」とされ、社会党や共産党が「革新政党」とされた。県議会や都議会などの地方議会では、知事が社会党や共産党の系列の議員である自治体(都道府県)なら「革新自治体」とよく呼ばれた。 ソビエト連邦が社会主義を政策に掲げたこともあり、左翼・革新的な政策としては、経済政策による低所得者への保護や、積極的な福祉施策などが左翼的な政策である、とされた。(じっさいには、アメリカ陣営の国でも、スウェーデンのように資本主義であるが福祉政策に積極的な国もある。しかし戦後の日本では、福祉政策が「左翼」、「革新」として扱われた。) 民間の評論家などの中には、少数勢力だが「憲法改正による自衛隊の追認には賛成だが、アメリカ追従の政治体制には反対」という例外的な勢力もあったが(例えば三島由紀夫(みしま ゆきお)など)、しかし、20世紀後半の歴史では、そのような反米かつ自衛隊賛成の勢力は少数勢力だった。 「右翼」、「左翼」、という言葉とは別に、ある1つの政党が2つの派閥に内部分裂したとき、マスコミなどが便宜上、どちらかの派閥を「右派」(うは)と呼んで、もう一方を「左派」(さは)と呼ぶ場合もある。 第二次大戦後、日本の社会党で政策をめぐって、党内で2大勢力に分裂するときが何度かあったが、このような場合に片方の勢力がマスコミや批評家によって「社会党右派」と呼ばれ、もう片方が「社会党左派」といわれた。 なお、平成の中盤以降では、ほとんどの政党は、明確には右翼・保守、左翼・革新政策を打ち出さず、「中道」(ちゅうどう)を掲げる。 (※ ほぼ範囲外)宗教については、これはソ連や中国など共産圏(きょうさんけん)での政治思想であるマルクス主義などでは、(実際にマルクス本人がどう言ったかはともかく)宗教が共産革命を妨害する勢力だとマルクス主義者などから見なされたことから、評論などでは宗教を「保守」と分類する場合も多くありました。 カルト宗教や新興宗教などを連想してしまうと混乱するかもしれませんが、「保守」として「宗教」が取り扱われる場合、とりあえず古典的なキリスト教や仏教やイスラム教やそれにもとづく風習などを想像してください。(なお、キリスト教ですらキリストが生きていた時代では新興宗教ですが、そういう話題はキリが無いので、本ページでは考えないことにします。キリないので、本ページでは20世紀のことしか考えない。) 「中道」、「タカ派」、「ハト派」などの言葉は、政治に関する議論ではよく出てきますが、高校検定教科書ではほとんど使われることのない表現です。 この章では、主に平成および昭和末期における「中道」、「タカ」「ハト」の言葉の意味を上げます。(令和になって意味が変わるかもしれないが、しかし本章は時事の章ではないので、令和は除外。) 保守でも革新でもないことを政治理念とした政策を掲げる場合、中道(ちゅうどう)といわれる。あるいは、右側でも左側でもないことを政治理念とした政策のことも、中道といってもいい。しかし、たとえば、どちらかといえば右翼寄りな実態の場合なら「中道右派」(ちゅうどう うは) という。一方、左翼寄りな実態の場合なら「中道左派」(ちゅうどう さは)という。 「中道」は、建前(たてまえ)では、他党の極端な政策に対しては、現実に応じた緩やかな政策を示すとされる。または他党の保守・革新に対しては、資本主義体制を維持しつつも、格差の是正にも配慮するというような態度を取る。そのため、保守・革新両方の支持層からも一定程度支持されることも多いかもしれない。 「中道」の政治姿勢は支持層は広いが、特定の支持団体による固定票は持たないので、無党派層(特定の支持政党を持たない人々)の動きに左右されやすく、選挙の上では不安定な立場だとも言われる。 主に強硬な姿勢を取り、自己主張の強い態度というイメージで、鳥のタカから連想して「タカ派」と言われています。軍事に対しては、武力解決を主張することが多い勢力でした。 ハト派はそれとは反対で、穏健な問題解決を目指す態度を取ります。ハト派は一般的に言う「平和主義」を信条としていました。 経済政策に関する態度でもこの言葉が使われましたが、意味が異なります。おおむね、スウェーデン的な民主主義国家における福祉国家的な経済政策なら「ハト」かもしれませんが、例外もあるかもしれませんので、深入りしません。たとえば冷戦時代におけるソ連や毛沢東時代の中国のような強権的な国の福祉は、タカなのかハトなのか判断に迷います。 右翼思想の中でも、例えば「わが国は、外国人をひとりのこらず、国外に排除すべきだ」とか、あるいは例えば「わが国は、今すぐ周辺諸国に進出し領土をどんどん拡大していくべきで、大帝国を築くべきだ。また、そのために、国民全体を徴兵して、国家予算のほとんどを軍事費につぎ込め」などのように、特に極端な内容の右翼的な主張をしている勢力および、そのような主張の思想を「極右」(きょくう、far right)と言う。 同様に、左翼思想の中でも、たとえば「武力闘争により、共産主義革命・社会主義革命を起こし、政府を打倒するのだ」のような、極端な左翼の主張をする勢力および思想のことを「極左」(きょくさ、far left)と言う。 2017年時点で、ヨーロッパの政治では、少数政党だが反・移民の思想を持つ政党がしだいに勢力を伸ばしており、移民流入などを規制する主張の党が支持者増・活発化してきている。欧米のマスメディアは、このような最近のヨーロッパの反移民の立場の政党は、「極右」(far right)と呼んでいる。 文学者でも、一般に、右寄りの思想を持っている人物と、左寄りと見なされている作家がいます。 日本文学になじみのある人にとって常識的な判断として、w:三島由紀夫(みしま ゆきお)は右翼的、w:大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、左翼的、と、受け取られています。 実際、文学者たちは政治や社会問題について発言することも多く、小説だけではなく、社会評論、政治評論にも多くの作家が手を染めているでしょう。 政治思想をもつ者たちの中には、自らの考えを実現しようとして、テロなどの過激な行動に走るものも多い。 日本の歴史のなかにも、そのような事件はある。 教科書に載っている事件としては、昭和に活動していた「連合赤軍」(れんごうせきぐん)は、過激化した左翼思想の元、テロ事件を起こした。 いっぽう、教科書には些末すぎるので載ってないが、右翼思想をもつ者が暴走し暴力事件に至ることも度々あったのが史実である。 もとになった政治思想がどのようなものであれ、現代の日本では、刑事事件は警察の検挙、逮捕の対象になる。
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政治資金規正法は、企業や団体による政治献金を認めている。(※ 2016年センター政治経済の追試験で出題) 政治資金規正法は、政治献金そのものを禁止してはない。政治資金規正法では、政治家個人および政治家個人の資金管理団体への献金が禁止されているのであり、政党への献金は認められている。 「管理通貨制度」という用語の意味は、実質的には、「金本位制でない」という意味である。(※ センター過去問。) 歴史的経緯として、第二次大戦後に、アメリカなどで金本位制が廃止されて、諸国が「管理通貨制度」に移行したので、そういう意味になっている。 「ノンバンク」、「コール市場」とか、センター試験 2010年『政治・経済』本試験で出題。 憲法などの保障する「通信の秘密」には、郵便などの信書の秘密だけでなく、電信・電話の秘密も入る、というのが定説になっている。(※ センター 2009年、本試験) 帝国書院「公共」の教科書にて、「共有地の悲劇」の説明で、「ただ乗り」の批判。公共財や環境問題などを例に説明。 「共有地の悲劇」のほか、「囚人のジレンマ」や「思考実験」も帝国書院の見本サイトで発見[1]。 帝国書院「公共」にエンゲル係数の説明あり。機会費用の説明あり。 帝国書院および第一学習社の教科書では、トレードオフと関係づけて「機会費用」の概念も教えている[2]。 商業高校の教科書だがビジネス基礎では、「機会費用」と「トレードオフ」を関連づけて教えている。 実教出版『ビジネス基礎』の教科書では とのこと[3]。 後半の「より良い選択をするように努めなければなりません」はビジネス上の都合であるので従う必要は無いかもしれない。 とりあえず、前半部の「どちらか」~「機会費用と言います」までは普通科高校でも通用するだろう。 実教出版の公共の教科書で、傍注で「連座制」の解説がある[4]。 「公判前整理手続」とか「法テラス」とか、「裁判外紛争解決手続」(ADR)とか、第一学習社の検定教科書のコラムにある。 ※ 法テラスについて、NHK教育の政治経済では、社会権などと関連づけて紹介されている[5]。 ※ なお、新科目「公共」のwiki教科書で、すでに法テラスは紹介済み。 ※ 過去、ADRの教科書を高校生むけに書いたような記憶があるが、検索しても見つからない。記憶違いか、それとも誰かが削除したのか・・・。 なお、公判前整理手続きは刑事事件における制度。 公判前整理手続きがあることで、裁判員の負担が軽くなる。(NHK教育の政治経済「第10回 裁判所と司法」の見解) 最高裁判所『公判前整理手続について』 Q この公判前整理手続とは,どのような手 続ですか。 A 最初の公判期日の前に,裁判所,検察官, 弁護人が,争点を明確にした上,これを判 断するための証拠を厳選し,審理計画を立 てることを目的とする手続です。 これまでの刑事裁判,特に争点が複雑な 事件などでは,大量の書類を証拠として採 用したり,また,証人に対しても長時間に わたり詳細な尋問を行った上,裁判官がこ れらの書類や証人尋問の記録(調書)を読 み込んで判断をするという審理が少なくあ りませんでした。 しかし,裁判員の負担を考えると,大量 の証拠を読んでもらうことや,長時間にわ たる詳細な証人尋問を行うことは現実的で はありません。 そこで, 裁判員裁判では, 法廷での審理を見聞きするだけで争点に対 する判断ができるような審理をすることに なります。そのためには,争点を判決する に当たって真に必要なものとした上で,こ を証明するための証拠を最良のものに厳 選することが必要です。このような考えか ら,裁判員裁判ではすべての事件で公判前 整理手続を行わなければならないとされて います。 また,公判前整理手続の中であらかじめ 訴訟の準備を行うことができるため,公判 が始まってからは,連日的に開廷すること が可能になり,多くの裁判員裁判は数日で 終わると見込まれています。 連帯保証人の制度とか、現代社会の教科書で紹介されていたことがある。 なお、(現社の教科書では説明していないですが、)もし専門書で保証人の制度について詳しく調べたい場合、おもに民法の専門書を調べることになります。もし将来に必要になった場合、ご参考に。 2022年、企業の「貸借対照表」(たいしゃく たいしょうひょう)や「損益計算書」(そんえき けいさんしょ)の紹介などが、帝国書院の「公共」教科書にある。(さすがに「公共」では用語の紹介と見本のみ。断じて商業高校みたいに通年で簿記を練習するわけではない。)第一学習社の教科書にも、貸借対照表がある。 帝国書院の検定教科書には無い用語ですが、貸借対照表や損益計算書などをまとめて「複式簿記」(ふくしき ぼき)あるいは単に「簿記」(ぼき)と言います。もし将来的に専門書で貸借対照表などについて調べる必要のある場合、「複式簿記」などの題名の書籍を買えばいいわけです。 なお、貸借対照表の左側は資産の運用先が書かれ、右側にはその資産の調達方法が書かれる。「自己資本比率」などいくつかの会計指標も、この貸借対照表あるいはその他の簿記の帳簿などを基に算出することができる。たとえば「自己資本比率」の場合なら、 自己資本比率=純資産÷総資産 なので、つまり貸借対照表にある「純資産」の金額を、同じく貸借対照表にある「総資産」で割り算すれば簡単に求められる。 小切手や約束手形の写真が、第一学習社『政治経済』の教科書にある。 ちなみに銀行を使って小切手や手形の支払いをするときは、(普通預金ではなく)当座預金で支払いをする。(※ 第一学習社の『現代社会』の教科書で、そこまで説明している。) ポピュリズム ポピュリズム(大衆迎合主義、「迎合」は「げいごう」と読む)とは、一般に、大衆を扇動して、既存の支配層を権力から追い落とそうとするような政治手法のことである。 日本の高校参考書では(文英堂シグマベスト政治経済、清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2017-18』)、よく小泉純一郎を例に、ポピュリズムを説明する。 政治的無関心者のこと 第18回 資本主義体制の成立と発展』放送日:9月2日、 3:00 あたり ] (※高校の範囲) たとえば、空気は通常、取引されません。これは、普通の場所には、空気がほぼ無尽蔵にあふれているからです(NHK教育の見解)。 経済学では、基本的には、人間たちの欲求の量に対して、資源の量が限られているという、「資源の希少性」(しげんのきしょうせい)(※経済用語)という事実が、経済学の大きな原理のひとつだと考えられています[9]。なお、「資源の希少性」での「資源」とは石油とか水とかだけではなく、土地や労働なども含みます。お金を含める場合もあります。要するに、人間が経済活動を行うのに必要なものすべてです。 「希少」とは、稀(まれ)で「少ない」というような意味です。たとえば「希少価値」(きしょうかち)という言葉は、数が少ないものほど珍しいので価値が高くなる、というような意味です。 (※ 中学の範囲)なお、世間一般では水よりダイヤモンドのほうが貴重ですが、しかし砂漠の真ん中でのどが渇いてに死にそうなときは水のほうが大事なように、時と場合によって希少性は変わります。(東京書籍) 「需要と供給」との違いとして、「希少性」は、「求める量」と「実際の量」との関係です(※ 中学の東京書籍)。 (文脈は違いますが)日本文教出版が、「税収には希少性が」あると言っており、そのため「際限なく歳出を増やすことはできない」と言ってます[10]。(なお、少数意見の尊重の文脈で、そう言っている。少数意見の尊重とは、少数派の意見に従うという意味ではなく、少数派の意見にも耳を傾けことで、より良い提案を考えることだと、日本文教出版は述べている) 税金で買う対象の物質やサービスに希少性があるので、結局は税収にも「希少性」が生じてしまいます。これが現実です。 むかし、ソフトウェアは1度買えば、壊れないかぎりは、ずっと使い続けることができる販売の形態が主流でした。 しかし近年、ネットサービスなどの多くは、利用期間の長さに応じてお金を払う定額制になっています。月額料金など、期間限定でまとめて料金を払う仕組みであり、これを「サブスクリプション」と言います[11]。 そのほか、AI(人工知能)[12]。なども、現代の情報化社会では話題です。
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小学校・中学校・高等学校の学習 > 高等学校の学習 > 高等学校現代社会 高等学校「公民」の科目の一つ。現代的な課題に答えるものとして登場し、当初は必修科目だった[2022年まで]。現在は「倫理」「政治経済」との選択必修。2022年以降教科書ではこの科目の名称が「公共」に変更になっています。 (※ 検定教科書にて記述があることを確認) バブル関係 デフレ対策 地球環境問題は一般に知られているよりはるかに深刻である。オゾン層破壊による皮膚がんの急激な増加や、作物の紫外線障害が始まっている。[要出典] 40年後には、世界から森林がなくなり砂漠化するといわれている。[要出典] 台風が凶暴化し[要出典]、地球温暖化の影響も実際に感じられるようになった。 21世紀中に地球の平均気温が5~6度上昇し[要出典]生態系に壊滅的な被害を与える。「かけがえのない地球」のテーマの元、国連人間環境会議が開催され、人間環境宣言をしたり、UNEP(国連環境計画)が設立されたりした。これを引き継ぎ「持続可能な発展」の元、地球サミットが開かれた。約8000ものNGOが参加し、気候変動枠組条約、アジェンダ21が採択された。環境NGOによって自然保護運動やナショナルトラスト運動もおこなわれている。その結果は世界遺産条約やラムサール条約に登録されることによってあらわれている。 石油の確認埋蔵量から、石油はあと20年でなくなる。[要出典] 第1次石油危機や第2次石油危機は石油メジャーとOPEC(オペック),OAPEC(オアペック)との対立によって起こった。 なお、OPECとは石油輸出国機構(Organization of the Petroleum Exporting Countries)の略称。OAPECとはアラブ石油輸出国機構(Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)の略称。 原子力は、スリーマイル島での原子力発電所の事故や、チェルノブイリ原子力発電所での事故、福島第一原子力発電所事故、また使用済み核燃料の最終処分地の問題、原子炉の点検時の放射線被ばくを伴う作業、原子爆弾の原材料となるプルトニウムが生成される問題など、様々な問題点があり利用に批判的な意見がある。 ドイツは、2000年6月に政府と電力会社がすべての原子力発電所を廃止することを合意し、2011年に脱原発を決定した。 スイスは、2011年5月に「脱原発」を2034年までに実現することを決定した。 イタリアは、原子力発電所を設置していない。 日本、中国、アメリカは世界の流れに逆行している。ソフトエネルギーやコージェネレーションが注目されているが、開発に化石燃料やその他資源が多量に使われていることから、大きな問題になっている。[要出典] インターネットやハイテクが定着した。医学の発達によって死の定義が心臓死、脳幹死、脳死の3つになったり、臓器移植が問題になっている。 中東におけるユダヤ民族のあいだでは、ヤハウェを最高神とするユダヤ教が信じられていた。 ユダヤ人であったイエス・キリストは隣人愛と全世界の救いをとき、弟子たちによってひろめられた。キリスト教の宗派にはカトリック、プロテスタント、正教会などがある。社会学者のウェーバーはプロテスタンティズムと職業倫理とを結びつけた。 イスラム教はムハンマドが創始し、アラーへの絶対帰依(きえ)を説いた。 仏教はガウタマ・シッダールタが始め、慈悲をすることによって仏陀(ブッダ)になれると説いた。 儒教(じゅきょう)は孔子が始め、仁義(じんぎ)を唱えた。神道(しんとう)はアニミズムと祖霊崇拝からなる。文学は無常観、能は幽玄、茶道はわびをあらわしている。 社会保障はニューディール政策における社会保障法や、ベバリッジの「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家政策が有名である。日本の社会保障は、社会保険、公的扶助、社会福祉、公衆衛生の4本柱から成り立っている。社会保険は、健康保険・年金・介護保険などからなる。健康保険は基礎年金が問題になっている。 映像文化が発達し、マスコミが感情に訴えかける社会を大衆社会という。社会学者のリースマンは孤独な群集の中で近代以前は地域社会の中で生活する伝統指向型だったが、近代では宗教や思想をもとに主体的な行動する内部指向型、現代はマスコミに動かされる他人指向型になったと大衆化を分析した。 国際社会の相互依存により、サミットが開かれたり、知的所有権の国際的な対応や、国内産業の海外流出による産業の空洞化の問題が起こっている。 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは愛知と述べている。ホモサピエンスは知恵の人という意味である。古代中国の思想家孔子は学ぶことは道であり、タオは真理そのものだと唱えた。フランス革命に影響を与えた思想家のルソーは青年期は第二の誕生であると唱えた。日本の青年は境界人であり葛藤を抱えている。マージナル・マンともいわれる。文化人類学者のミードはサモアでは子供から大人への移行は通過儀礼によっておこなわれていて葛藤は見られなかったとの調査をしている。心理学者のエリクソンは青年期の状態を心理社会的モラトリアムと名づけた。欲求不満のことをフラストレーションという。これを解消することを適応行動といい、心理学者のフロイトは防衛機制と呼んだ。青年期は自我が目覚める。個性には能力、気質、性格の3つの要素がある。アイデンティティが形成されないと拒食症や過食症、ステューデント・アパシーになることがある。アメリカの教育学者ハヴィガーストは青年期の発達課題を挙げている。 女性差別撤廃条約を受けて、日本では男女雇用機会均等法や育児休業法が成立した。 日本人は、北方系、朝鮮系、中国系、東南アジア系、ポリネシア系の5つの民族によって構成されている。 日本はそれぞれの文化の終着点で雑種文化と呼ばれる。 決して1つの民族、1つの文化ではない。外来文化と伝統文化のサイクルは1200年である。日本の伝統的な食生活は一汁一菜である。 中世以降の民家は竪穴住居と高床住居の合体である。 現代の和服である晴れ着は江戸時代になって定着した。集団のまとまりは制服になって現れている。 ハレの日とケの日は伝統文化を支えている。ハレの日とケの日の区別は年中行事や通過儀礼になって現れる。地方や農村のことをヒナといい、都市のことをミヤコという。都市の伝統のことを ミヤコぶり といい、京都ではみやびの世界が展開されている。 江戸時代の国学者の賀茂真淵(かもの まぶち)は、清き明き心と誠を強調した。 日本人の社会行動において、うちでは本音で接し、外ではたてまえで接する。農家が労働力を提供しあうことを ゆい という。 文化人類学者のベネディクトは草食獣はゆいによって対人関係を気にする恥の文化が形成され、肉食獣は縄張りによって宗教を心のよりどころとする罪の文化が形成されたと論じた。 社会人類学者の中根千枝は、農耕民族は天候など先代の知恵や経験を大切にするのでたて社会が形成され、狩猟民族は技術が次々に革新され先代はおいていかれるのでよこ社会が形成されたと論じた。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは人生でもっとも大切なことはよく生きることだと述べた。日本の代表的なキリスト教徒であり思想家の内村鑑三は後世への最大の遺物は「勇ましい高尚な生涯」であると述べた。 エレクトロニクスはIC、LSI、超LSIと技術革新が進んでいる。ハイテクノロジーやバイオテクノロジーが発達した。日本の工業は、製鉄などの重厚長大(じゅうこう ちょうだい)から、半導体などの軽薄短小(けいはく たんしょう)型の産業に切り替わり、産業構造のハイテク化を起こした。これは経済のソフト化、サービス化とも呼ばれている。 企業には株式会社などがある。株式会社の出資者の責任は有限責任である。所有と経営の分離がなされている。 政府の経済活動のことを財政という。 財政には資源配分機能、所得再配分機能、経済安定化機能がある。 政府が家計や企業に積極的に介入することは混合経済や修正資本主義と呼ばれる。 租税には所得が同じ人に対する水平的公平(すいへいてき こうへい)と、所得が違う人に対する垂直的公平(すいちょくてき こうへい)が求められている。 税は直接税と間接税に分けることができる。直接税には所得税や法人税などがあり、間接税には消費税や酒税などがある。 直接税と間接税の割合のことを直間比率(ちょっかん ひりつ)といい、間接税のほうが大きくなると垂直的公平が崩れ、逆進性の問題が起こる。 株式会社が株式や社債を発行して証券市場で資金を調達することを直接金融という。 銀行で資金を借りることを間接金融という。銀行が資金を貸し出し、その会社が他の会社に支払い、他の会社が他の銀行に資金を預け入れることによって預金創造がおこなわれる。 日本の中央銀行は日本銀行である。日本銀行は銀行の銀行、政府の銀行、発券銀行とも呼ばれる。日銀の金融政策には公定歩合操作、預金準備率操作、公開市場操作がある。 金融の自由化以降バブル経済化が起こり財テクが流行った。バブル崩壊以降は住専(じゅうせん)などの不良債権が問題となった。 雇用調整によって派遣社員、パートタイマー、アルバイト、外国人労働者が増加した。過労死や裁量労働制も問題になっている。労働基本権には労働権と労働三権がある。労働三権には団結権、団体交渉権、争議権がある。労働三法には労働基準法、労働組合法、労働関係調整法がある。 明治期には足尾鉱毒事件が問題になった。四台公害訴訟には水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくがある。国は公害対策基本法を成立させ、環境庁を設立した。PPP(汚染者負担の原則)や総量規制といった政策がとられている。近年では環境基本法や環境アセスメント法が成立した。 基本的人権では公共の福祉、私人間における人権保障、国民の三大義務、個人の尊重、法の下の平等、自由権、社会権が掲げられている。自由権には適正手続き主義や罪刑法定主義などの身体の自由と経済活動の自由がある。また国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならないと政教分離の原則を詳細に定めている。社会権はワイマール憲法で明記された。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利のことを生存権といい、朝日訴訟や堀木訴訟で話題になった。最高裁は生存権はプログラム規定だとの判断をしている。教育を受ける権利は義務教育の無償を定めている。新しい人権には環境権、知る権利、プライバシーの権利がある。情報公開制度には情報公開条例や情報公開法がある。 国民主権を代表民主制という形にしているのが国会である。国会は国権の最高機関であるとともに唯一の立法機関である。二院制や衆議院の優越が採用されている。また、委員会制度や国政調査権を持っている。日本は議院内閣制を採用している。行政委員会などがある。現代においては行政権優位の現象が見られ、官僚機構への情報公開制度やオンブズマン制度が求められている。国民は裁判を受ける権利を有している。司法権の独立には裁判官の職権の独立、裁判官の身分保障、弾劾裁判所、規則制定権などがある。三審制の最後に位置するのが最高裁判所であり、憲法の番人と呼ばれている。 不戦条約や国際連合憲章で平和主義があらわれてきた。日本国憲法は戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めている平和主義の憲法である。戦力の不保持を定めている憲法は日本国憲法とコスタリカ憲法だけである。自衛隊には文民統制の制度がとられていて、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮官であり、重要事項は安全保障会議が決定することになっている。 世論はマスメディアによって操作される。圧力団体も政治に大きな影響を及ぼしている。制限選挙に対して普通選挙がある。これには機密選挙と平等選挙が含まれていて、平等選挙には議員定数不均衡の問題がある。選挙制度には比例代表制、小選挙区制、大選挙区制などがある。日本では小選挙区比例代表並立制が採用されている。小選挙区制には死票がでやすいという欠点がある。政党政治には二大政党制と多党制などがある。日本は55年体制という政権交代がない政治が続いた。近年は政治的無関心や無党派層が広まっている。 フランスの哲学者サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。自由には抑圧からの自由と人格としての自由がある。ドイツの哲学者カントは人格の尊厳を示した。アメリカの社会学者リースマンは他人指向型はファシズムにつながると警告した。ドイツの社会学者アドルノは権威主義的パーソナリティを提唱したが、民主主義的パーソナリティをめざす必要があるだろう。 国連では世界人権宣言が採択された。国際人権規約のもと規約人権委員会が設立されアパルトヘイトの廃止に貢献した。 主権国家は外交や国際政治をおこなう。国際世論も無視できない。 第1次国連海洋法会議で大陸棚制度が定められた。第3次国連海洋法会議では排他的経済水域が定められた。 遺伝的に共通の特徴を持つ人々の集団のことを人種といい、文化を共有する人々の集団のことを民族という。国際先住民年が延長され世界先住民国際10か年になった。 第五福竜丸以降、パグウォッシュ会議、部分的核実験禁止条約、NPT、SALT、INF全廃条約、START、STARTⅡ、CTBTなどが採択された。 勢力均衡政策は集団安全保障になった。サンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約が締結された。このとき警察予備隊は保安隊になった。その後安保反対闘争を押し切って日米相互協力および安全保障条約になった。そして安保再定義のもと日米安保共同宣言になり、新ガイドライン法になり、周辺事態法になった。 資本主義が肉食獣の経済で、社会主義が草食獣の経済である。核抑止力による恐怖の均衡がもたらされた。キューバ危機以降、平和共存政策、多極化の流れのなかマルタ会談によって冷戦が終結した。ゴルバチョフ政権はペレストロイカをおこなった。中国は改革・開放政策をおこない、社会主義市場経済になった。 MOSS協議、G5、プラザ合意、日米構造協議と交渉がおこなわれている。 近年では2002年にシンガポールとFTA(自由貿易協定)を結んだ。 北半球に多い先進国と、南半球に多い発展途上国との経済格差のことを、南北問題という。南半球の国では累積債務問題やモノカルチャー、一次産品などの問題を抱えていることが多い。こうした南半球の国の中でも、さらに石油を産出できるかどうかという経済格差があり、南半球どうしの経済格差である南南問題がある。 日本ニュース時事能力検定協会
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本ユニットでは交通・通信を学習します。交通・通信は私達の生活に欠かせません。例えば、当たり前ですが、郵便局の荷物や宅急便の荷物とか運ぶ際、配達員は車・バイクとかを使います。また、自宅から10キロ以上離れた高校に通っている学生は学校や親からの送迎がない場合、公共交通機関(電車・バス)を利用しているでしょう。 人間は元々徒歩で移動しましたが、様々な交通手段の発明によって、行動の範囲は広がりました。船の発達により、水上を移動出来るようにもなりました。陸上交通では、馬車の時代から鉄道の時代を経て、現在では自動車が主流です。さらに、航空機によって人間の行動圏は著しく拡大し、地球上の時間距離を大幅に短縮させました。 現在、世界には様々な交通機関がありますが、人の移動にも貨物の流通にも、用途ごとに最適な手段を選べるようになっています。 航空交通が発達するはるか以前から、水上交通は重要な交通手段でした。水上交通には、河川の流路や深さに影響されたり、移動の速度が遅い欠点もありますが、重い貨物や容積の大きい貨物を安い運賃で遠くまで運べるため、石油・石炭・鉱石・穀物などの輸送に利用されています。石油はオイルタンカー、鉱石は鉱石輸送用の撒積船などの大型専用船で輸送されます。また港として、港湾での積み替え作業を合理化、高速化するためにコンテナ船が普及し、世界各地の港湾にはコンテナ埠頭やオイルタンカー向け専用岸壁が整備されています。中国の上海、香港、シンガポール、オランダのロッテルダムは、中継貿易港として取り扱い貨物量の多い港湾都市として知られています。 ヨーロッパでは、河川や運河が国境を越える貨物輸送に欠かせない輸送路となっています。ライン川やドナウ川などの国際河川は、大小様々な運河を通じてオランダ・ドイツなどの工業地帯の河港を結びつけ、原料や製品の輸送路として利用されています。 ヨーロッパやアメリカ合衆国では鉄道が発達しました。これらの地域には広大な平野が広がり、鉄道網を整備しやすかったからです。産業革命以降、産業活動の活発化に伴って高密度の鉄道網が形成され、経済発展の基盤となりました。鉄道は、レールの敷設や整備に多額の費用がかかりますが、大量の旅客や貨物を長距離にわたって、時間も正確に輸送出来るという利点があります。しかし、現在、鉄道の輸送量は多くの先進国で減少あるいは停滞しています。一方、ヨーロッパや日本のように国土が狭く人口密度の高い地域では、新幹線やフランスのTGV、ドイツのICE、ロンドン・パリ間を結ぶユーロスターなど、都市間に高速鉄道が整備され、旅客輸送では鉄道の利用度は高まっています。  先進国では、貨物輸送は鉄道の役割は薄かったのですが、渋滞がなく、温室効果ガス排出量が少なく環境への負荷を削減出来ているので、自動車輸送からの転換が進んでいます。また、鉄道によるコンテナ輸送の増加や、都市内の近距離用の路面電車・地下鉄・近郊鉄道などの路線も拡充されました。都市部ではLRTも増え、高齢者や障害者が利用しやすい低床車両も導入されています。ドイツでは、郊外駅に自家用車を駐車し、鉄道に乗り換えて市街地に出入りするパークアンドライド方式が普及しています。一方、発展途上国では、依然として貨物鉄道・旅客鉄道ともに大きな役割を担っています。 自動車は、船舶や鉄道に比べて一度に輸送出来る旅客数や貨物量は少ないですが、道路網を自由に移動でき、目的地まで積み替えなしで貨物を運べる点で優れています。現在、世界各地でモータリゼーション(車社会化)が進み、道路交通は重要な陸上交通になっています。先進国では高速道路網や幹線道路などが整備され、貨物や旅客輸送に頻繁に利用されています。自動車は短距離利用がほとんどですが、国家間を結びます。 航空交通には、発着が空港に限定され、輸送費用が高いなどの欠点もありますが、地形や海洋の影響をほとんど受けません。例えば、成田からホノルルに行く場合、航空手段を使えば、最短時間・最短距離で移動出来ます。国境を越えて移動する人々の数は年々増加傾向にあり、特に長距離旅客輸送では航空交通の利用が圧倒的に多くなっています。また、航空機の高速化・大型化によって、比較的近距離でも、高速鉄道などの競合する交通機関がない場合は、航空交通が利用されます。先端技術製品・生鮮食料品・花卉、貴金属など、付加価値が高く比較的軽量な貨物も航空機で輸送されるようになっています。 航空路線網が密な地域は欧州・アメリカ・オーストラリアの域内路線です。このため、その地域の路線の利用が多くなっています。 世界中の物資流通の拡大とともに、航空機を利用した輸送も発展してきました。国際航空貨物を専門に扱う輸送業者も出現し、空港の近くには、先端技術産業のハイテクエ業団地や巨大流通センターが整備されています。日本でも成田国際空港は、電子部品や精密機械から生鮮食料品に至るまであらゆる貨物を取り扱い、輸入額では日本最大を誇っています。航空機で外国へ旅行する観光客も多く、国・大陸間の結びつきが強まっていますが、国際航空は国内と比べ大きな旅客数の変動があります。景気の変動や国際関係、感染症の流行などの影響を受けやすいからです。 最近の航空交通では、アメリカ合衆国のシカゴ、ヨーロッパのフランクフルトの空港など、国際・国内の航空路が集中する拠点であるハブ空港の重要性が高まっています。ハブ空港には、空港使用料ばかりでなく、人の移動や物流が生み出す大きな経済効果が期待されるため、先進国を中心に、ハブ空港をめぐる主導権争いが激しくなっています。 近年の航空交通の活発化を促進してきた一つの要因として、格安航空会社(LCC)の存在があげられます。かつては、大手航空会社によって国際航空運賃は高い水準で維持されていましたが、1980年代にアメリカ合衆国では規制緩和が進んで格安航空会社が登場し、低価格の航空運賃が普及するようになりました。 格安航空会社はその後、ヨーロッパでも急成長し、観光産業に新たな需要をもたらしています。21世紀に入ると、格安航空会社は東南アジアや中国、韓国でも出現し、低所得者を中心に移動手段としての重要性が増しています。現在、東南アジアでは航空輸送量の半分を格安航空会社が占めるまでになっています。 一方、発展途上国では航空路線網の整備が遅れ、先進国との経済格差の原因にもなっています。 通信設備の進歩によって、大量の情報が世界中に瞬時に伝達出来るようになりました。 このような、情報通信ネットワークが世界規模に発展した現在の社会は、高度情報化社会とよばれます。 情報をいかに早く大量に送受信出来るかが経済を左右するまでになっています。 インターネットは、世界各国のコンピューターを電話回線・衛星回線・専用回線などで相互接続したシステムで、大量の情報を瞬時に入手し、情報の発信も簡単に出来ます。 かつてのインターネットは、学術研究や軍事目的が中心でした。 革命が進むにつれて、人々は、コンピューターや携帯電話を使うようになりました。このため、自宅にいながら買い物・チケットの予約や世界の人々との交流も出来るようになりました。 しかし、コンピューターを使った犯罪の多発や、コンピュータウイルス侵入による被害など、高度情報化社会には弱点もあります。 さらに、情報化は均等に進行しているわけではありません。 例えば、若者達はインターネットやSNSを頻繁に利用していますが、高齢者はパソコンやスマートフォンの使い方が分からない人達が多く、その結果、特殊詐欺などに巻き込まれやすくなります。 このような格差は、情報格差(デジタルデバイド)とよばれます。
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本ユニットでは 現代世界は国家が一つの基本単位になっています。特に、かつて植民地だったアジアやアフリカの国々が独立を果たしました。以降、一部の自治領や南極大陸を除き、世界中のほとんどの地域は独立国家になりました。さらに、1990年代にはソ連やユーゴスラビアなど、社会主義国の解体によって独立国の数が増加し、現在、世界には約200の国家があります。 主権・領域・国民を国家の三要素といいます。主権とは他国からの干渉を受けずに自らの手で領域や国民を統治する権利です。領域とは主権が行き渡る範囲です。国民とは国籍をもつ国家の構成員を指します。 国家の主権が行き渡る領域は、領土・領海・領空から成り立っています。 領土は、陸地のほかに河川・湖沼などの内水面をも含んでいます。領土の形態には、ひとまとまりになっている国もあれば、多数の島々で成り立つ国もあります。また、領土が各地に分散している国もあります。 領海とは領土に接した一定の幅をもった海域です。現在、多くの国が12海里(約22km)を採用しています。領海は、通常、海岸の低潮線を基線として、そこからの距離で決定されます。海岸線の出入りが激しい場合は、直線的な基線を基準に決められます。その場合、基線の内側にある湾や内海は内水とよばれます。 また、領海の外側でも、接続水域とよばれる海域では、出入国管理などに関する権利が沿岸国に認められます。1982年に調印された国連海洋法条約によって、沿岸から200海里(約370km)までの海域が排他的経済水域(EEZ)として、水産資源や鉱産資源などに対する沿岸国の権利が認められています。 さらに、その外側の海域は、公海として船舶の航行や漁業が誰でも自由に出来ます。 領空は、領土・領海の上空にあります。ある国の航空機が他国の領空を通過する場合、事前に国家間の協定を結ばない限り自由な飛行は出来ません。領空の範囲は航空機の飛行可能な大気圏内とされますが、人工衛星が宇宙空間に多数打ち上げられている現在、その利用方法とルールの確立について国際的に議論されています。 世界の多くの国は隣国と陸続きで接しており、国家と国家との境界線が国境です。 山脈や河川などの境界は自然的国境とよばれるのに対し、緯度や経度などで定められた直線的な国境(数理的国境)は人為的国境とよばれています。人為的国境は民族の分布と無関係に引かれ、民族間の対立や紛争が絶えません。国境は、隣接する2国間の国境協定によって決定されます。しかし、互いに主張が対立し、国境紛争に発展する場合もあります。海を隔てて他国と接する場合でも、領海や排他的経済水域の範囲が重なりあう場合は、関係沿岸国の協議によって境界線を設定する必要があります。特に境界線周辺に海底油田や海底ガス田などが見つかると、資源開発を巡る争いに発展します。 国家は、様々な観点から分類出来ます。日本などの多くの国のように、地方自治体に比べて、中央政府の権限が強い国家を中央集権国家といいます。また、アメリカ合衆国やロシアのように、司法権と立法権などの権限をもつ州や共和国などが連合して成り立っている国を連邦国家といいます。これ以外にも、国家を構成する民族の数からみた分類もあります。一つの民族が一つの国をつくるという民族国家(国民国家)の考え方は、近代ヨーロッパで発達しました。しかし、現実の世界をみると、全ての国民が一つの民族に属するという単一民族国家はほとんど存在しません。これに対して、多民族国家とは、ナイジェリアやスペイン、ロシア、中国などのように、複数の民族から構成され、それぞれが強い民族意識を持っている国を指しています。近代以降の国家形成の過程では、このような民族意識やナショナリズム(民族主義)が重要な役割を果たしてきました。
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本ユニットでは、人々が生きていくのに欠かせない食事や住居について見ていきます。 人間は文化をもつ動物です。文化とは、言語によるコミュニケーション、道具の製作、慣習化した習俗、人生や物事についての価値観、身の回りの世界についての見方など、人間が成長していく中で学習によって身につけ、世代を超えて継承される生活様式の全体を意味します。 人間は文化なしでは生活出来ません。文化を獲得する能力は人類に共通して備わっていますが、どのような文化を身につけていくのかは、地域や時代によって異なり、世界中で多様な生活文化が見られます。 地域によって異なる多様な生活文化は、なぜ生まれたのでしょうか。人間集団は文化を通して自然環境に働きかけます。また、自然環境は文化の形成に影響を受けます。異なる自然環境に適応した結果として、生活文化の多様性が生まれます。人間集団が多様な自然環境に適応してきた結果としての生活文化は、人類の地域的な多様性の原点ともいえます。 同じ地域に暮らす人々が、衣・食・住など生活に密着した事柄について、共通の言語、習慣や宗教、価値観、規範などに基づいて、同じようなものを使ったり、同じような行為をしたりする時に、地域で共通していると感じる文化を「地域の文化」といいます。ただし、同じ地域に住む人の宗教や言語が異なっていても、食べ物や着る物が似ているので、地域の文化を規定する要素は一つではありません。 そして、人・物・情報などが国境を越えて移動するグローバル化が進行し、地域固有の文化は、徐々に変わっていく場合もあります。 例えば、イヌイットはアザラシの狩猟にGPSを活用するようになり、アフリカでは牧畜民が携帯電話を利用して家畜の価格を教えあうようになるといった変化もみられます。 人類の食料の獲得方法の違いは、自然環境と深い関わりを持っていました。年中高温湿潤な熱帯では、料理用のバナナやイモ類などが主に栽培されました。農耕に適さない乾燥帯や亜寒帯では遊牧が中心でした。一方、狩猟、採集を中心に生活した人々の間でも様々な形態がみられました。例えば、サケ類などの漁業資源が豊かな北アメリカ大陸の西岸では、定住生活を送る狩猟採集民が見られました。 ただし、狩猟採集民のように孤立しているように見える社会の文化も、現在では周囲の農耕民や牧畜民の文化との密接な関連の中にあり、都市の商工業と消費を中心とした生活文化ともつながっています。 大規模な放牧をともなう牧畜は、ユーラシアでは中央アジア・西アジア・ヨーロッパとヒマラヤ山脈、アフリカではサハラ砂漠の周辺やナイル川上流の東アフリカ北部、南米ではアンデス山岳地帯に、それぞれ特有の家畜種と利用法を持って分布しています。特に広大な放牧面積を必要とする遊牧は、湿潤な熱帯やモンスーン地帯にはあまり見られず、ステップやサバナのような草原が広がる地域を中心に分布しています。 一方、様々な形の農耕は、低緯度地域から中緯度地域を中心に広がっています。これら農耕文化は、作物の種類、栽培技術、その利用形態などにおいて地域性を持っています。中緯度地域では米や小麦などの穀物と豆類などを組み合わせた農耕が広く見られる一方、低緯度地域ではイモ類やバナナを主食とする農耕が見られます。 大地を資源として利用する生業の牧畜と農耕に対し、海や川、湖の資源を利用した生業が漁労です。太平洋にあるポリネシアやメラネシア、ミクロネシアと呼ばれる島々では多様な漁労文化がみられます。こうした島々で生活してきた人々は、古くから航海の技術を発達させ、島から島へと移住し、人類の居住地域を広げていきました。 暑さや寒さから身を守るのが、衣服の基本的な役割です。世界では、それぞれの地域の自然環境に応じて、衣服の素材や形が様々に工夫されています。寒冷な地域では、防寒のために、古くから動物の毛皮や皮(獣皮革)を使った衣服が着用されてきました。一方、高温で湿潤な地域では、吸湿性のよい木綿や麻を用い、ゆったりとして体を締めつけない形の衣服がみられます。1枚5~6mもある長い布を体に巻きつけて着るサリーは、古くから伝わるインドの女性の民族衣装です。サウジアラビアなどの乾燥地域に住む人々は、強い日差しや砂嵐から肌を守るため、長袖で裾の長い衣服を着ています。また、冬や夜の気温が低いアンデス地方のペルーに住む先住民は、頭や首、肩のあたりから冷気が入り込むのを防ぐため、ポンチョとよばれる毛織物の上着をまとっています。 また、衣服は、宗教や地域の伝統文化、階級の違いなど社会環境や経済的環境の影響も受けています。イスラームでは、女性は家族以外の男性には肌を見せてはいけないとされているため、女性達は頭にスカーフを巻き、体を隠すような形のゆったりとした衣服を着ています。 このように衣服の素材は、地域の自然環境によって様々で、栽培・飼育される作物や家畜にも左右されてきました。しかし、そうした制約も経済や技術の発達によって克服され、現在では、安価で丈夫な既製服が大量に生産され、短期間に大量に販売するファストファッションと呼ばれる販売形態も現れました。 人類は、動物性と植物性の食物を満遍なく食べる雑食性の動物です。食物の料理には、煮たり焼いたりする加熱や、水さらしなどの方法が含まれ、加熱によって生のままでは消化出来ない原料が食べられるようになり、水さらしは有毒なイモ類などから毒を抜く効果をもちます。こうした料理法の発達によって、人類は多様な食材を用いられるようになり、地球上の様々な生態系に適応する生活を築けるようになりました。 食事のとり方や作法も文化によって異なります。東南アジアの都市では、屋台での食事風景が特徴的です。稲作の盛んなモンスーン地帯では、麺は小麦よりも米粉(ビーフン)がよく用いられます。宗教と食生活の関係も深く、例えばイスラム教では、食べてよい素材調理法が認められた食品をハラールといい、そうでない食品と区別しています。 現在では文化の違いを越えて、昔の人々が口にしなかったものも食べるようになっています。エスニック料理の流行は、今や世界の多くの都市生活に見られる現象ですが、食生活は依然として地域の文化を映し出す鏡ともいえ、だからこそエスニック料理の流行は、文化多様性の楽しみとして存在しているともいえます。 また、アメリカの食文化の影響で、半世紀の間にコーラやコーヒーを飲みながらハンバーガーを食べるといった光景が、日本をはじめ世界各地で見られるようになりました。こうしたファストフードは、元々はアメリカの大衆向けの簡易食に過ぎませんでした。しかし、冷凍食品やインスタント食品の普及、多国籍企業の外食産業への進出が国境を越えて広がり、食生活の均一化・等質化がますます進んでいます。 伝統的な主食は、その地域で栽培出来る作物と深い関わりがあります。コメ、小麦、とうもろこし、イモ類、雑穀、肉、乳は、世界各地で主食とされており、食べ方には地域ごとの特色があります。 小麦は西アジアで最初に栽培され主食となりました。その後、交易の拡大により、地中海沿岸からヨーロッパ・南アジア・中国、ヨーロッパ人が進出した北アメリカやオーストラリアで主食とされました。小麦の食べ方には2通りあります。 キビやトウモロコシなどの雑穀は、アフリカ大陸やラテンアメリカに分布します。雑穀の食べ方は、次の通りです。 イモ類は、ヤムイモやタロイモを食べる東南アジアや南太平洋の島々と、キャッサバ(マニオク)やジャガイモを食べる南アメリカやアフリカに分布します。アンデス地方が原産のジャガイモは、16世紀にヨーロッパへもち込まれ、現在ではドイツなどの主食になっています。 コメは夏に雨量が多い東アジア、東南アジアを中心に広がりました。コメの食べ方は、次の通りです。 日本と同じ稲作農業を中心とする地域では、主食としての米飯に対して副食(おかず)があるという考えが広くみられます。主食と副食の区別は、私達にとってはごく自然のように思われます。しかし、この区別は決して世界的に共通ではありません。 アフリカや中央アジアの牧畜民や農耕と牧畜の組み合わせが見られるヨーロッパでは、このようなはっきりとした区別はありません。これらの地域では、乳製品の利用が目立ちます。例えば、モンゴルの遊牧民は多くの大型家畜の乳を利用し、それらの加工品としてバターやチーズがつくられます。また、乳製品と並んで羊・ヤギ・牛の肉が冬場の保存食として用いられます。 なお、北極海沿岸ではトナカイやアザラシなどが、伝統的に食べられてきました。 世界の食生活は、交易の発展、生産技術や食品工業の発達、生活水準の向上によって、近代以降、大きく変化しました。ヨーロッパで肉類が広く食べられるようになったのは、18~19世紀の産業革命以降に過ぎず、ヨーロッパのほとんどの地域が伝統的に小麦を主食としてきました。 一方、食生活には、風土や環境のほか、民族的・地域的な多様性が深く根付いています。そのため世界中どこに行っても、その歴史の中で生まれた郷土料理があり、地域の独自性や魅力にもなってきました。食生活のグローバル化は国境を越え、例えば中国料理やイタリア料理、インド料理、韓国料理など、外国料理店が建ち並ぶ光景は、世界の大都市に共通する景観となっています。このように、食生活は、生産技術や流通の発達によって自然環境や地域の制約から解放され豊かになってきました。しかし、その恩恵を受ける国とそうでない国との格差は拡大しています。豊かな国では過食や偏食による健康への弊害が問題になっています。 東南アジアや南アジアなど高温多湿な地域では、高床にして通気性をよくし、屋根の勾配を急にして雨水を流しやすくするなどの工夫がなされています。一方、北アフリカや西アジアのように、乾燥していて寒暖の差が大きい地域では、急激な気温の変化が室内に及ばないように、壁を厚くし、窓を小さくする工夫がなされています。ほかにも、イヌイット(エスキモー)のように雪や氷を材料としたイグルーや、モンゴルの遊牧民のように羊毛を圧縮したフェルトを材料にしたゲル(中国語ではパオ)もあります。 こうした住居の多様性は建築資材や社会組織によって変わっていきます。熱帯地域では豊かな植生を反映して木や葉・草が、またやや乾燥した地域では、とげの多い灌木が古くから建築材料となってきました。一方、冷涼な針葉樹林地帯ではモミやマツが、反対に、降水量が少なく樹木が成長しにくい乾燥地域では、土・煉瓦・石が建築材料となりました。 日本では、衣食住を厳しく規定する宗教上の規範はほとんど見られません。そのような背景から、経済発展に伴って、欧米諸国の文化が広く受け入れられてきました。生活文化の欧米化によって、最も大きく変わったのは服装です。大正時代になると洋服が普及し、第2次世界大戦以降には、女性の職場進出によって女性の洋装化も進みました。これ以降、和服は、日常の生活で着る人が少なくなり、結婚式や卒業式などの礼装として、限られた場面でのみ着用されるようになりました。第二次世界大戦後には、アメリカ合衆国の文化やファッションの影響を強く受けるようになり、若者を中心にジーンズやTシャツも普及しました。ファッションや流通がグローバル化され、多国籍企業によって世界中で普段着(カジュアルウェア)が着られるようになりました。 就職活動・転職活動や事務系の職場をみると、ワイシャツにネクタイ、背広(スーツ)を着用する習慣が定着しています。しかし、この服装は高温多湿な夏の日本では気候に適しているとは言いにくく、夏にはオフィスの冷房を強めなくてはならないという矛盾も起きています。 食文化についても、特に第二次世界大戦後、欧米諸国の食文化が普及し、パン食が定着しました。その後、タイなどアジア諸国の料理をはじめ、フランス料理・イタリア料理・インド料理など世界各地の食文化も広まり、食の好みも多様化しています。しかし、どの国の料理にしても、食材や調味料などにおいて、日本人の味覚に合わせる工夫がなされています。 日本の住宅事情の変化は次の通りです。
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本ユニットでは、集落はどうして出来てきたのかを解説します。 人々が一定の場所に集まり、居住しながら社会的な生活をする空間を集落といいます。集落は村落と都市の2つに区分されます。 世界各地の様々な村落は、いずれも居住村落の機能のための家屋だけでなく、生業や社会生活のための施設をも含んでいます。農業を営む場合には、家畜・農機具・飼料・肥料・収穫物などを納めたり、作業をしたりする畜舎や納屋、倉や中庭などが必要です。また、生活や共同作業のために共同体(コミュニティ)が形成され、祭りなどの行事も行われます。このため、寺社・教会・集会所なども重要な施設です。住居やこれらの施設のほか、それぞれの農業経営に合わせた区画の農地や、そこへの道路や用水路なども整備されなければなりません。 漁業を中心とする村落では、港や船着き場を中心にして多くの住居が密集しています。こうした漁村や、林業を生業の中心とする山村でも、自家で消費するための自給的な農業を行っており、乏しい平地に小規模な農地が見られます。 現在、集落はどこにでもみられるように思われますが、歴史的にみると、一定の規則性をもって特定の場所に立地してきました。村落は、生活や農業・漁業などの仕事の場となるため、立地は自然条件に大きく左右されます。まず、生活には水が欠かせないため、立地に選ばれるのは川や泉のほとりがほとんどでした。河川下流部の海岸付近、山麓部、扇状地の扇端部に集落がみられるのも水が得やすいためです。さらに、生活環境としては高低差の少ない方が適しているため、平坦地に人口が密集するようになりました。一方、低地では、水害を避けるために自然堤防や盛り土をした土地などが選ばれます。濃尾平野の輪中集落などは、周囲に堤防を作って水害を克服してきました。また、農業には気候条件も欠かせないため、村落は、極度に乾燥した地域や寒冷な地域を避けてつくられています。世界に目を向けると、北半球の温帯の山間地では、日射量の多い南向きの日なた斜面に立地した集落もみられます。一方、砂漠やその周辺部の乾燥地域では、外来河川の付近や、地下水が豊富に得られるオアシスなどに早くから集落が発達しました。ヨーロッパの場合、人口分布の粗密は、農耕活動に深く関わってきたオーク林の北限である北緯60度を境としています。 人や物の交流が活発になるにつれて、集落の立地には、社会条件が強く影響するようになりました。例えば、物資の交易点となる山地と平野とが接する場所や、主要交通路沿い、重要な道路の交わるところなどには、数多くの集落が発達しました。関東平野の周辺部にみられる谷口集落は、その典型です。 内陸アジアの遊牧地域と農耕地域とが接する場所の近くにも、両者の交易によって発達した集落がみられます。外敵や疫病から身を守るため、丘陵や高台に発達した丘上集落も見られます。さらに、ヨーロッパのように水上交通の発達した地域では、河川の合流点や河口部などに大規模な集落が発達しました。 やがて農業や漁業を主とする集落だけでなく、商業や政治などの新たな機能をもった集落も発達するようになりました。これらの集落は、周辺の地域への影響力を次第に強めるようになり、多くの人口を抱える中心集落に成長していきました。多くの集落は、一般に、これらの自然条件と社会条件が組み合わさって立地しています。 村落は、家屋の分布形態によって、大きく集村と散村とに分けられます。歴史の古い地域では、田植えや稲刈りなどの共同作業が多いため、村落共同体のまとまりで居住するのが適していました。そうした人々が家屋を密集させて居住するようになった村落を集村といいます。中でも不規則な塊となって並ぶ塊村が自然に出来上がりました。 ヨーロッパの村落形態はほとんど平野部を中心とした集村です。家族を養うための農地面積が小さくて済み、地形的な制約もあまりないからです。中世以降の開拓地域では、村落は道路を基準として計画的につくられたため、家屋は道路や水路に沿って分布しました。こうした集村を路村とよびます。路村の背後に細長い帯状の耕地が均等に割りあてられています。ドイツやポーランドの森林地域に発達した林地村は、路村の一類型です。 広場村や円村(環村)とよばれる集村では、外側に家屋を配置して村の中心に広場をつくり、そこに教会や共同牧場などを設けました。治安が悪くなった時には、防御の機能も果たしました。防御の機能をもっていた村落としては、ほかに中国の囲郭村などにみられます。 日本の村落をみると、山地や丘陵の麓、盆地の周縁、沖積地の微高地などに集村(塊村)がよく分布しています。中世後期から近世初期にかけて、稲作用の農業用水の管理や環濠集落のように侵入する外敵への防御などが必要になり、集まって住んだ結果です。一方、地形や道路に沿って列状に並ぶ集落を列状村といいます。列状村のうち、街道沿いに並ぶ集落を街村、道路に沿って農家などが並ぶ集落を路村ともよびます。例えば、海岸平野に平行する海岸砂丘・浜堤や、河川沿いの自然堤防には起伏に沿って集落が並びます。寺社への参詣路沿いや街道沿いには門前町や宿場町がみられます。江戸時代、武蔵野の台地などに開拓された新田集落や、明治時代、北海道の警備と開拓を目的として設置された屯田兵村には、道路沿いに短冊状に農家と耕地が並ぶ形態も見られます。 農家が1戸ずつ分散して居住する村落は、散村とよばれます。散村は、開発の歴史が比較的新しく、農業の経営規模の大きいところによく見られます。各農家の周りに耕地を集めやすい利点があり、どの農家も耕地までの距離が近いため、日頃の耕作や収穫に便利です。散村は、アメリカ合衆国やカナダの土地分割制度(タウンシップ制)によって土地区画がなされた地域や、オーストラリアの小麦栽培地域、北海道の開拓地などのように、計画的に区画された農地が広がる地域によくみられます。また、散村は、北ヨーロッパやイタリア北部、アルプス地域などにみられます。近代に入ってからの囲い込み運動や、政策による農地の整理統合によって出来ました。特に山間部の冷涼な地域では、地形的な制約もあって穀物栽培が出来ず家畜飼育に依存していたため、散村や、数戸の家屋からなる小村が適していました。 本州以南の日本でも、最近まで砺波平野や出雲平野、大井川扇状地などで典型的な散村がみられました。しかし、ヨーロッパのように政策で大規模に進められた散村に比べ、日本の散村は、小規模に進められ、今ではそこにも市街地化の波が押し寄せてきています。 村落に居住する人々は、伝統的に土地とのつながりが強く、一般に村落とその周辺の限られた範囲の中でよく日常生活を過ごします。また、主に何世代にもわたってそこに住み続けてきた人々によって構成されているため、住民相互の結びつきが強く、長い時間をかけて緊密な村落共同体が形成されてきました。しかし、近年、その変化が激しくなっています。例えば、日本の農村や山村では、これまで伝統的な村祭りや冠婚葬祭、農作業などを通じて、人々はお互いに協力し合ってきました。第二次世界大戦後の高度経済成長期から、都市部での雇用の機会を求めて村を離れる若者が相次ぎました。その結果、都市周辺部の丘陵地や農地は切り開かれ、住宅やビルが建ち並ぶようになりました。この現象を村落の都市化といいます。さらに、若者が逃げた村落では極端な人口減少(過疎化)と高齢化を招きました。現在、大都市から遠く離れた山間の地域では、人口の50%以上が65歳以上の高齢者によって構成される農村や山村も珍しくありません。このような村落では、共同体としての機能の維持が困難となっており、村自体の存続も限界に達しているといわれています。 伝統的な村落の人口流出や住民の高齢化は、日本と同様に、パリ盆地南部の円村がみられる地域など、ヨーロッパの村落でも起きています。そこでは、農村の伝統的な景観が大きく変化し、中世以来続いてきた共同体のしくみの急激な崩壊も進んでいます。 このように、第1次産業従事者が暮らす村落と第2次・第3次産業従事者が集中して居住する都市との区別は難しくなっています。 人々は、なぜ都市に集まるのでしょうか。多くの都市には、各種の専門店やデパート、ホテル、銀行などが見られます。また、役所や学校のほか、博物館・美術館・ホールなども多数あります。このような都市施設は、商業・政治・教育・娯楽などの拠点となり、その都市に住んでいる人々だけでなく、周囲の村落や近くのより小さな都市に住んでいる人々もよく利用します。都市がもっている、このような財とサービスを提供する役割を中心地機能(都市機能)といいます。 多くの都市とその周辺とは鉄道や道路で結ばれ、電車やバスなどの公共交通機関が整備され、発達しています。都市は、財が移動し、人々が交流する結節点ともなっています。多数の労働者が集まってモノを生産する機能をもつ都市もあります。規模の大きな都市には、大企業の本社や支社などの管理機能が集中し、これらに関連する情報サービス業や生産者サービス業も集積します。様々な機能を併せ持った都市は、複合都市となります。 人々は、このような機能に従事するために、あるいは多種多様なサービスを求めて都市に集まります。こうして都市化が一層進みます。 都市の成立は古代まで遡ります。ギリシャの都市国家(ポリス)はアクロポリスとよばれる丘を中心に発達し、メソポタミアのバビロン、中国の長安(現在の西安)、日本の平城京や平安京は、宮殿を中心に計画的に建設された都市でした。古代の都市は、政治を執り行う神殿や王宮などを中心にもつ、政治機能の強い都市でした。 しかし、広く発達するのは、ヨーロッパなどで交易が盛んになり交易都市があらわれた中世以降です。こうした都市には、外敵の侵入を防ぐために周囲を高い城壁で取り囲んだ城郭都市に起源を持ちます。 また、市民は商業や手工業などの経済力を背景に領主や国王から自治権を獲得しました。その結果、商業機能を中心とした都市が発達しました。ブレーメンやハンブルクやベネチアはその代表例です。 近代になって産業革命が波及すると、炭田や港湾周辺に工業を中心とする都市が生まれ、多くの労働者が集住するようになりました。さらに関連産業も集まり、様々な機能をもった大都市に成長しました。 このような都市発達の経緯は、日本でも同じようにみられます。城郭は、初期には防御に有利な山地や台地の先端部に作られましたが、戦国時代を過ぎると交易に便利な河口や河川沿いの平地に築かれるようになりました。特に、江戸時代に入って社会が安定すると、城下町や港町が発展しました。日本の都道府県庁所在地は、行政や経済の拠点となっていた城下町から発展しています。 私達が住む都市は、一般に行政・文化・生産・消費・交通などの様々な都市機能を備えています。フランスのニースは、近くのカンヌやモナコなどと並んで、世界有数の観光保養都市として知られており、ヨーロッパをはじめとして世界各地から多くの人々が訪れます。観光保養都市は、観光や避暑・避寒を目的としています。日本では軽井沢が当てはまります。 また、エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地です。宗教に関わる機能が卓越した宗教都市として、世界中の信者の信仰を集めています。計画的な市街地をもつブラジリアやキャンベラは、首都・行政機能を集める目的で建設された政治都市です。フランクフルトやニューヨークは、世界的規模の商業・金融都市として知られています。オックスフォードやハイデルベルクは、大学や研究機関を中心とした学術都市として知られています。 さらに、江戸時代からの繊維産業地域にある愛知県豊田市は、繊維関連産業で蓄積してきた技術を自動車産業に応用し、世界的規模の自動車工業都市として発展しました。しかし、都市は発展すればするほど様々な機能を併せ持ちますので、現在では、一つの機能のみが優れている都市はあまりありません。 都市は、道路網の形態によっても分類出来ます。北京やニューヨークの街は直交路型で、アジアの古代都市や新大陸などによくみられます。パリやモスクワなどは、1500年代から1800年代にかけて放射環状路型に発展した都市で、道路網が集中する中心点に宮殿や記念碑などをおき、首都としての威厳と美観を優先した構造になっています。西アジアや北アフリカに多くみられる迷路型は、外敵の侵入を防ぐとともに、強い日射しを遮る効果があります。このほか、ワシントンD.C.のような放射直交路型もみられます。一般的に、多くの都市は、村落に比べると計画的につくられています。 こうした道路網は平面的ですが、垂直的にも、都市の発展形態には様々な違いがみられます。ヨーロッパでは、旧市街などの中心部に低い建物が密集し、高層ビルは郊外に建てられています。歴史的景観を重視するため、都心部での高層ビルの建設が制限されているからです。一方、北アメリカでは都市の歴史が新しいため、都心部では高層ビルの開発が進んでいるのに対して、郊外には一戸建ての住宅や低階層の建物があります。 都市は絶えず拡大しています。例えば、パリは10世紀頃にセーヌ川の中洲であるシテ島を中心に発達し、12世紀には城壁が築かれ、ヨーロッパの代表的な中世都市となりました。その後、城壁の修復・建築を繰り返し、19世紀初めには、市街は現在の6つのターミナル駅に囲まれる区域にまで拡大しました。さらに19世紀半ばには市街の外側に新たに城壁(現在の高速道路環状線)が築かれ、人口も100万に達しました。現在、さらに周辺に新しい市街地が広がっています。 大都市圏の中心部(都心)は、交通機関や情報通信網が集中し、都市圏の中枢となっています。ここには、政府・行政機関などの官公庁街や金融業、大企業・多国籍企業の本社や支社などが集中します。これは中心業務地区(CBD)とよばれ、ニューヨークのマンハッタンやロンドンのシティなどが典型的な例です。中心業務地区(CBD)の特徴は次の通りです。 都心と外縁の新しい住宅・工業地域の中間に位置する古くからの市街地は、住宅や商店・工場などの様々な都市機能がよく混在したままになっています。アメリカでは、低所得層の人々や高齢者、外国人労働者などの居住地となっているところも見られます。 また、都心の周辺部には、郊外へ向かう鉄道のターミナルを中心にして商業・娯楽施設の集中した副都心や新都心が発達します。東京の渋谷、池袋、大阪の天王寺、埼玉県さいたま市などがその例です。ロンドンやパリでも同様の例が見られます。 このような地区ごとに分かれる機能の違いは、都市の内部構造とよばれます。その特徴は、これまで同心円構造デル、扇形構造モデル、多核心構造モデルなどによって説明されてきました。しかし、実際には、地形や河川などの自然環境のほかに、地価や交通網にも左右されるため、それらが入り交じった複雑な構造になっています。 都市が発達するにつれて、市街が拡大し、周辺地域の都市化も進みました。大都市の周辺では、大都市へ通勤する人々が住む住宅都市(ベッドタウン)がつくられ、移転した工場や大学、研究所などを中心として新しい都市も形成されました。日本では大阪府の千里ニュータウン、東京都の多摩ニュータウンのような住宅都市や、筑波研究学園都市、関西文化学術研究都市などが典型的な例です。このように大都市の周辺に立地し、大都市の機能の一部を担う都市は衛星都市とよばれます。 大都市に成長した都市は、周辺地域に工業製品やサービスを提供します。一方、周辺地域は都市に農産物を供給したり、通勤・通学者を送り込みます。こうして、日常生活の上で都市機能を通じて都市と密接な関係をもち、都市を中心に日常生活や生産活動が一体となる地域が形成されます。その範囲を都市圏とよびます。 都市圏の範囲は中心となる都市の人口規模と密接に関係します。大きな都市ほど政治・経済・文化の中心となる機能が集中するため、周辺地域に及ぼす影響力は強くなり、都市圏も広くなります。こうした大都市をメトロポリス(巨大都市)とよび、パリ・東京・ジャカルタなどが挙げられます。また、行政上の市域を越えて周辺地域を合わせた都市圏の範囲を大都市圏(メトロポリタンエリア)といいます。これに対して、連続する多くの都市が、交通網や情報通信網などによって、広範囲に一つのまとまりとして密接につながったメガロポリス(巨帯都市)も現れました。代表例として、アメリカ北東岸地域や日本の東海道メガロポリスがあげられます。 さらに、経済・社会のグローバル化の中で、人や物・情報・資金などの国際流動も活発になり、ニューヨークやロンドン・香港などは、国際金融市場や多国籍企業などが集中する世界都市(グローバルシティ)として発展しています。 日本や世界の国々の行政機関は、それぞれの管轄地域の行政の中心として機能するだけでなく、国・県・市町村、あるいは連邦・州・市町村などといった行政組織によって、相互に連絡・指示がされています。企業の本社・支社・支店・営業所なども、企業内での情報・指令を伝えるネットワークを形成しています。これらの各組織は、大量の情報を収集・記録するとともに、加工して新たな情報をつくり出し、発信していきます。各種のデータを収集し、経営方針やその実施のための方策を決定して連絡する機能を中枢管理機能といい、関係する地域の政治・経済や社会生活に重要な影響を与えます。 都市には、それぞれの規模に応じて多くの中枢管理機能が集積しています。現代のように情報社会となり、経済の世界的な結びつきが強くなると、その役割は極めて大きくなります。 中枢管理機能を担う都市は、情報・指令のネットワークの中枢となります。一方、出先機関や支店がおかれる中小の都市では、情報・指令の発信よりも受信機能に重点をおく傾向があります。大小様々な規模の都市は、政治的・経済的な機能を通じて、上位から下位へと相互に階層的関係で結びついています。このような都市間にみられる相互の関係を都市システムといいます。 イギリスやフランスでは、中枢管理機能の首都への集中度は日本よりさらに大きく、一極集中型を示します。一方、ドイツでは、逆に中枢管理機能が多くの都市に分散する多極分散型を示します。アメリカでは、中枢管理機能の集中の度合いとしてはニューヨークの首位は変わらないものの、ロサンゼルスなどほかの都市の比重が増大しており、全体としては分散する傾向が見られます。 都市の発達は、都市を人口規模の順に並べてみるとよくわかります。一般的に、都市の発達の歴史が古い国ほど、人口規模が1位の都市と2位以下との隔たりは大きくありません。これに対して、第2次世界大戦後に植民地から独立した国々では、首都など優先的に資本が投下された都市に、政治・経済・文化などの中枢機能が集中しています。さらに、農村から職を求めて人口が流入するため、2位以下の都市との差が非常に大きくなります。このような都市を首位都市(プライメートシティ)といいます。 20世紀後半以降の世界の大都市の人口増加をみると、パリやニューヨークのように早くから都市化の進んだ都市より、発展途上国の都市の方が急速に増加しています。そのため、社会基盤(インフラ、インフラストラクチャー)の整備が追いつかず、居住環境が劣悪なまま改善されていません。 発展途上国の大都市では、都市の内部や鉄道・主要道路沿いなどにスラム(不良住宅街)が形成されており、市街地の拡大に伴って都市周辺部にも増えてきています。政府機関や商業施設が集まる近代的な都心部のすぐそばに、劣悪な居住環境のスラムが広がる都市もあります。スラムの中には、水道や電気が不法に引かれ、下水処理の設備も整っていない場所もあります。そのため水質汚濁を招き、熱帯の地域では感染症もよく発生します。 スラム居住者のほとんどは、農村部での貧困に耐えかねて都市部に出てきた人々です。彼らは、農業の大規模化や機械化、都市部への産業の集中などによって土地や仕事を失い、農村から押し出されてきた農民やその家族が主体となっています。しかし、都市に移り住んでも定職に就ける人々はわずかで、露天商や修理業などのインフォーマルセクターとよばれる部門で働き、生活を支えている人もいます。この部門で働く人々の中には、ホームレスや親・親戚などによって養育・保護されずに路上で集団生活するストリートチルドレンなども含まれています。また、生計を立てられない者の中には、生活苦から逃れるため、密輸や麻薬取引などといった犯罪に手を染めていく場合もみられます。 発展途上国では、都市環境や生活・居住環境などについての様々な都市問題を抱えていますが、その解決には莫大な費用と長い時間を必要としています。また、一般に発展途上国の都市問題は、いくつかの課題が複合的に関連している場合が少なくありません。現在では、大都市を中心に、都市内の道路整備や公共交通機関の充実化、上下水道の敷設、安定した電力の供給など、都市の基盤整備が進められています。低所得者層向けに安価な住宅を建設して、スラムの住民やホームレスなどに提供しています。 しかし発展途上国の中には、インフレや諸外国からの債務の増加など不安定な経済状況に苦しんでおり、その対策が十分に進められていない国もあります。このため、先進国に都市基盤整備の協力を求めている国もあります。これに対して、例えばNGOなどの手による住宅建設や、ストリートチルドレンのための学校づくりなども行われるようになってきています。 先進国の大都市では、第2次産業に比べて、第3次産業に携わる人々の割合が高く、そこに住む人々は医療・福祉・教育・娯楽などといった様々なサービスを受けれます。しかし、活発な都市活動によって、ごみや建設現場・工場からの産業廃棄物、病院などからの医療廃棄物などが大量に排出され、その処理には不法投棄の問題も含めて、多額の費用と労力がかけられています。また、上下水道の整備や市街地の照明、住宅やオフィスの冷暖房、道路や鉄道などの交通網の整備・維持、インターネットや携帯電話などといった情報・通信網の拡充にも、石油や電力などのエネルギーのほか、莫大な費用を必要とします。さらに、こうした大量のエネルギー消費が、大気汚染や都心部における気温上昇など、都市環境の悪化や環境負荷の増大に多く関係しています。このような問題は、一つの都市では解決出来ず、広域的な地域の課題として取り組まなくてはなりません。 アメリカ合衆国やヨーロッパなどの大都市の中には、都心部やその周辺の古くからの市街地にあたる地域で、インナーシティ問題が顕在化しているところもみられます。早くから市街化した地域は、道路が狭く建物やライフラインなどの社会基盤の老朽化が進んでいます。そのため、低所得者や移民・高齢者などが都心部に取り残されやすく、地区の財政悪化や、地域コミュニティの崩壊、治安の悪化などが社会問題になっています。 しかし、いくつかの都市では、老朽化した住宅や工場・操車場などの施設を取り壊して再開発を行っています。その跡地に新しい商業施設や高級な高層住宅が建設され、比較的豊かな人々が流入するジェントリフィケーションとよばれる現象がみられます。 先進国の大都市では、都心地域の空洞化や極度の機能集中といった都市問題を解消するため、様々な再開発が行われています。例えば、パリ郊外のラ・デファンス地区では、都市機能の一部を担う副都心が形成されており、そこには高層のオフィスビルや高級アパート、ショッピングセンターなどがあります。また、ヨーロッパの大都市では、都心地域に残る伝統的な建物を、かつての雰囲気を残しながら再開発している例が少なくありません。一方、都心地域で供給が過剰ぎみとなったオフィスビルを改装し、住宅として利用する試みも行われており、利便性を求める人々に注目されています。ロンドンのテムズ川やパリのセーヌ川の周辺、日本の港湾都市などでは、ウォーターフロント開発が進められています。このように再開発された地域は、海外からも観光客を集める人気スポットとなっているところがあります。 しかし近年では、人口の集中に応じた市街地の拡大やインフラの整備を一方的に進めるのではなく、周囲の環境や資源・エネルギーの消費に配慮し、公共サービスの効率性をより高めた都市の建設を意味するサスティナブルシティ(持続可能な都市)やエコシティ(環境共生都市)の実現を目指す考え方がヨーロッパや日本で模索されています。交通渋滞や排ガスによる大気汚染の緩和に向けては、パークアンドライドやロードプライシング制度が取り入れられています。パークアンドライドは、自宅から自動車やバイクで郊外にある公共交通機関の駅近くまで行き、それらを駐車させたあと、鉄道やバスで通勤や買い物など、自分の目的地に向かう交通システムです。この仕組みは、ドイツのフライブルクやフランスのストラスブールなどで取り入れられています。これに対して、ロードプライシング制度は、平日の日中、官庁街やオフィス街、観光地や商業施設などが集まる都心部に乗り入れる自動車に課金するもので、ロンドンやストックホルム、オスロのほか、シンガポールなどでも取り入れられています。さらに、大量のごみや廃棄物の処理については、リサイクルやリユースの仕組みをつくり、その量を減らす努力が続けられています。 現在では、都市と農村の間ばかりではなく、大都市と地方都市との間にも地域格差が目立っています。一般に、地方の中小都市では、大都市に比べて雇用の機会が少なく、労働人口の大幅な伸びは期待出来ないため、大都市に出て行く若者が増えて高齢化も進んでいます。人口の減少と高齢化は、同時に経済活動の停滞を招き、かつて賑わいをみせた駅前や街並み全体が寂れる事態も起きています。地方都市の商店街の中には、昼間からシャッターが閉められ、営業をしていない店も少なくありません。 日本の大都市で生活する人々の多くは、都市・居住問題、面積が小さいわりに価格の高い家をもち、また通勤時間も比較的長い場所に住んでいます。東京・名古屋・京阪神の三大都市圏に人口が集中するようになったのは、特に高度経済成長期以降です。それに伴い、大都市では住宅不足の状態が続き、地価も次第に高騰していきました。また、市街地が周辺部へと急速に拡大し、郊外では無秩序な開発が行われた結果、スプロール現象もみられました。一方、高層のオフィス街や官庁街が分布する都心地域では、居住する人の数が郊外に比べて急激に少なくなり、空洞化が進行するドーナツ化現象もみられるようになりました。 一方、高度経済成長期に開発・建設された大阪府の千里ニュータウンや東京都の多摩ニュータウンなどでは、居住者の高齢化が急速に進んでいますが、近年は建物や傾斜地のバリアフリー化、老人福祉施設の建設などの対策が進められています。
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西アジア・中央アジアと日本は、他のアジアの地域ほど強い繋がりを持っていませんでした。しかし、西アジアは石油、中央アジアは天然ガスやレアメタルの重要な供給源です。いろいろな見方をしてみましょう。 西アジアとは、アフガニスタンから地中海までの地域をいいます。中央アジアは、カフカス諸国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)から北のパミール高原、天山山脈までの地域です。面積はカザフスタンが最も大きく約270万㎢、サウジアラビアが2番目に大きく約220万㎢です。最も人口が多いのはイランとトルコで、それぞれ約8000万人です。次いでイラクとアフガニスタンがそれぞれ約3000万人です。西アジア・中央アジアは砂漠や山が多いため、人口密度は1㎢あたり38人程度とそれほど高くありません。しかし、人口増加率は比較的高く、今後も増加していく見込みです。 砂漠の多い西アジアや中央アジアでは、人は限られた場所にしか住めません。そのため、オアシスのような水のある場所に都市が作られました。遊牧と灌漑農業が盛んな西アジアや中央アジアの人々は、古くから交易や商業の場として都市を発達させました。これらの多くの都市は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードを初めとする陸上・海上の東西交易路の要所として重要な地位を占めました。19世紀末頃、西アジア諸国はイギリスとフランスに政治・経済的に支配されるようになりました。独立後も、石油資源は欧米企業が独占していました。 人々の生活習慣や価値観から、都市が交易を中心に発展してきた様子が伝わってきます。バザールはアラビア語でスークとも呼ばれ、衣服や食器、農具、食料、香水などを販売する伝統的な市場です。バザールでは、商品の売買や情報交換が活発に行われています。街角にはイスラム教のモスクがあり、金曜日にはイスラム教徒が店を閉めてそこへお祈りに行きます。多くの外国人が行き交う街なので、そこに住む人々は異文化を受け入れて、おもてなしを大切にする文化があります。 西アジアでは、河川やオアシスの周辺に大都市が発達しました。例えば、バグダッドはティグリス川やユーフラテス川のような大きな川の流域で発展しました。また、ダマスカスはレバノン山脈から流れ出る川の流域で発展しました。このように、都市を中心とした文明は、古代から中世にかけて支配したイスラム王朝の時代にも発展しました。 中央アジアでも、ブハラやサマルカンドといった都市がシルクロードの拠点として発展しました。また、イスラム文化の中心地となり、現在も多くのモスク(イスラムの礼拝堂)やマドラサなどが残っています。さらに、カザフスタンの首都ヌルスルタンは、1990年代にソ連から独立して建設された都市です。ソ連が統治していた時代には、政治の中心は全て中央アジア諸国の首都に置かれていました。独立後は、自分達の都市を作り、ロシアの影響から離れようという動きが出てきています。しかし、古い都市基盤を維持するために多額の費用がかかるなど、問題も少なくありません。 アラビアプレートは紅海とペルシャ湾の間にあります。アラビアプレートの北側でユーラシアプレートと合流しています。西アジアの新期造山帯がイランからトルコ、イランからアフガニスタンまで広がっています。ザグロス山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部になっています。ザグロス山脈以外にも標高5000m以上の高山は、上記地域内にあります。そのため、環太平洋造山帯に含まれる日本と同じように、地震多発地域でもあります。 アラビア半島は、世界最大のルブアルハリ砂漠を中心とした安定陸塊です。アラビア半島の紅海に接した側は、ペルシャ湾に接した側よりも高い位置にあります。半島北部では、ティグリス川とユーフラテス川が農耕に適した肥沃な沖積平野を作っています。古生代から中生代にかけて、ペルシャ湾周辺の広い海域に溜まった厚さ数千mの地層があります。ペルシャ湾岸は、微生物の遺骸が集まった地層と微生物が作る石油を集める地層があるため、世界でも有数の石油資源が豊富な場所となっています。 一方、中央アジアは、そのほとんどが古期造山帯や安定陸塊に含まれています。中央アジア北部は、-28mの高さにあるカスピ海からパミール高原や天山山脈の間にあります。パミール高原はインド半島の衝突時に隆起しました。 西アジアも中央アジアも乾燥地域です。アラビア半島はほとんど砂漠で、亜熱帯の高気圧に覆われています。イラン北部が乾燥しているのは、内陸にあり、海からの湿った風があまり当たらないからです。また、イラン北部は山脈の風下にあるため、カヴィール砂漠やトルクメニスタンのカラクーム砂漠のような大きな砂漠があります。カザフスタン北部の気候はステップ気候で、カザフステップは肥沃なチェルノゼムのある草原です。地中海沿岸から南部のカスピ海、天山山脈北嶺までは地中海性気候です。 乾燥地域では、死海のような塩湖が多く、そこに流れ込む川はありません。また、アラビア半島にはワジと呼ばれる涸れた川がたくさんあり、ラクダの商人や自動車の道路として利用されています。 乾燥地帯の多い西アジアや中央アジアでは、水は農耕のための貴重な資源です。砂漠でもオアシスと呼ばれる場所では、湧き水を利用して小麦・ナツメヤシ・西瓜・メロン・葡萄などを栽培しています。イランやアフガニスタンなどの砂漠地帯では、オアシス農業が行われています。山の麓にある地下水脈から水を汲み上げ、水を供給するためにカナートやカレーズが利用されています。カナートやカレーズは、水が蒸発しないように、山脈など地下水の多い場所から集落や農地まで掘られた地下水路です。地下水路は、緩やかに傾斜した横穴でつながっています。ほとんどの場合、土地を所有する投資家が、水も所有します。地下水路の掘削や管理には費用がかかるため、水の利用方法には厳しく決められており、小麦や綿花が栽培されています。イラクのメソポタミア平原では、外来河川ティグリス・ユーフラテス川を農作物の水源として利用されています。 遊牧は、水不足で農耕が困難な地域で行われます。自然の草や水を求めて、住居や家畜を移動させる生活様式です。場所を変えながら飼育させると、草や木の芽を食べ尽くさずに済みます。 乾燥した地域では、乾燥に強い駱駝が飼われます。駱駝は荷物の運搬や乗り物として使われます。このほか、羊は草原で飼育されています。駱駝や羊の家畜から出る生乳が遊牧民の主食となります。余った生乳は塩を加えてチーズやバターにします。肉を食べると動物の数が減るので、休日やお祝い事など特別な日にしか食べません。木が育たず、燃やす木がないため、家畜の排泄物を燃料として利用します。家畜の毛や皮は、衣服やテントの材料として使われます。 遊牧民は開かれたオアシスの町に行き、乳製品や皮、動物などを小麦やナツメヤシと交換して農民と交易を行ってきました。近年は国の定住政策によって、遊牧民も自動車を使い、新しい仕事を求めて都市に移動しています。 ペルシャ湾の産油国は、石油を売って得たお金(オイルマネー)で、砂漠でも地下水を利用した農業や牧畜業に投資しています。1970年代、サウジアラビアでは、地下水を汲み上げてスプリンクラーで散水するセンターピボットを導入して小麦や野菜を栽培していました。1980年代には、小麦は国外に出荷されていました。しかし、1990年代以降、節水や補助金の打ち切りにより生産量は減りました。今では、国内消費分しか栽培していません。また、牛乳は空調で一定温度に保たれた室内牧場で作られています。 中央アジアでは、外来河川のシルダリア川やアムダリア川の水を、昔から農作物の水やりに使ってきました。また、山岳の多い東部では、地下水路も農作業に利用されてきました。 ソ連時代、中央アジアの乾燥した土地は、自然改造計画によって農地化されました。肥沃な土壌のチェルノゼムからなるカザフステップでは、企業的穀物農業地域に変わりました。さらに、トルクメニスタン南部の砂漠地帯には、アムダリア川から水を得るために世界最大の灌漑用運河であるカラクーム運河が建設されました。カラクーム運河は、アムダリア川とカスピ海を結ぶために建設された運河です。現在、トルクメニスタンのアシガバードの北西まで開通しています。その結果、広大な農地が生まれ、カザフスタンを中心に小麦の生産が増え、ウズベキスタンなどでは綿花の生産が伸びました。しかし、カザフステップでは、草地になっていたために保護されていた肥沃な表土が農地化によって流され、収穫量が落ちた場所もあります。塩害により、シルダリア川やアムダリア川流域の灌漑農地では作物が育たなくなりました。一方、アラル海の上流では無計画な灌漑によって、湖に入る水量が減り、ほとんどが干上がってしまいました。その結果、沿岸での漁業が出来なくなりました。湖水から出る塩分も乾いて近くの農地にまで広がりました。塩分を含んだ砂嵐は、そこに住む住民の健康被害をもたらしました。 イスラム教は、アラビア半島で始まりました。現在、西アジア、中央アジア、東南アジア、北アフリカ、東南アジアで見られます。信仰がどの程度日常生活に浸透しているかは、地域によって異なります。しかし、イスラム教は世界中に広がり、ペルシャ(イラン)やトルコなどアラブではない国にも広がりました。その理由は、どんな人種や階級でも、イスラム教徒として平等だと感じられるようにしたからです。イスラム教の教義の平等性やイスラム文化の先進性など、イスラム教の発展を支えた要素があります。交易は、西アジアを中心とした当時の世界の貿易網を通じて広がっていきました。例えば、東西交易はシルクロードを通り、サハラ交易はサハラ砂漠を通り、インド洋交易はインド洋を通りました。こうしてみると、ムスラム商人が大きな役割を果たしていました。 西アジアには様々な言語や宗教があり、様々な文化が存在しています。アラビア語は最初、アラビア半島の一部で話されていました。イスラム教が広まるにつれて、イラクから北アフリカへ広がりました。 トルコではトルコ語を話し、政治と宗教が分離した時に、アラビア文字がラテン文字に置き換わりました。イランはペルシア語が話されている国で、ほとんどの人がシーア派イスラム教徒です。アラビア語とペルシア語は同じ書き方ですが、文法は大きく異なります。イラクの人口のほとんどはアラブ人ですが、クルド人など非アラブ人が20%ほどを占めています。イスラエルは国民のほとんどがユダヤ人で、言語も古代ヘブライ語がベースになっている国です。レバノンではキリスト教徒、イスラム教のスンナ派、シーア派が対立し、それぞれの人数に応じた国会議員の数が決められています。シリアではアラブ人が大半を占めますが、キリスト教のアルメニア人もいます。 クルド人は、自分の国を持たない世界最大の民族です。彼らはトルコ、イラク、イランに住んでいます。アフガニスタンのように、様々な人種の人々が全員イスラム教を信仰している国もあります。このように、西アジアには様々な宗教と言語があります。 イスラム教を信じ、アラビア語を話す人々は、これまで異民族や非イスラム教徒に支配されてきました。それを取り戻すために、アラブ人を一つの集団にまとめようとするアラブ民族主義運動が行われてきました。他の宗教でも、宗教を本来の理想的な姿に戻そうとする運動があります。中東では、イスラム政党が、貧富の差の拡大を食い止め、政府の腐敗を止める努力と政治活動を両立させ、大きな成果を上げています。1945年、アラブ系の人々の多いアラブ諸国が集まり、アラブ連盟を結成しました。その目的は、各国の独立を守り、絆を深めようとしたからです。一方、イスラム原理主義と呼ばれる過激派勢力を強めている地域もあります。シリアやイラクでは、政府と過激派組織イスラム国や反体制派との戦闘により、大勢の人々が故郷を離れています。これは国際問題になっています。 西アジアと中央アジアの人々は、どのように行動し、生活するかについて、イスラム教のルールに従わなければなりません。コーランは、アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に告げた内容を要約した聖典です。コーラン(クルアーン)は、アラビア語で書かれている場合だけ認められます。イスラム教は一神教なので、万能の神アッラーだけを信じています。アッラーは見えないので、偶像を崇拝してはいけません。また、イスラム教を始めた預言者ムハンマド(マホメット)は、信仰の対象になりません。 イスラム教徒はただ神を信じるだけでなく、毎日、実際の方法で信仰を示さなければなりません。次の義務(五行)を守らなければなりません。 毎年、世界中からイスラム教徒が巡礼に訪れ、街はイスラム教徒で溢れかえっています。富裕層も貧困層も同じ白いローブを着て、カーバ神殿に巡礼に行きます。これは、人種や民族が信者を隔てない姿勢を示す大規模な宗教行事になっています。  また、酒や豚肉の飲食禁止、汚いとされる左手での食事禁止、屋外に出る女性のみ肌の露出禁止など、日常生活にも厳しい制限があります。 1990年代前半、中央アジアの国々はそれぞれ独立しました。中央アジアは、ペルシア語を話すタジキスタンを除き、ほとんどの国がトルコ語系言語を話します。しかし、これらの国の多くは、かつてソビエト連邦(ソ連)の一部となっていたため、今でもロシア語やキリル文字を使っています。 国民の大多数はイスラム教徒ですが、正教のキリスト教徒もいます。トルコ系やイラン系の民族は羊を中心とした肉や乳製品を売っています。朝鮮民族はキムチを売っており、この地域の文化の多様性が感じられます。多くの人が信仰しているイスラム教ですが、ソ連時代では禁止されました。そのため、新たにマドラサ(イスラム神学校)を立ち上げてイスラム教育を推進しようという動きも見られます。 このように、中央アジアの街並みは、イスラム風のオアシス都市とヨーロッパに建設されたような旧ソ連時代の都市とが共存しています。ソ連時代に農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)が進んだ結果、農村部には遊牧民が定住し、かつての遊牧生活はほとんど見かけなくなりました。ウズベキスタンの首都タシケントは、中央アジア最大の都市として、長い歴史を持っています。当初はオアシス都市として発展しました。しかし、1966年の大地震の後、旧ソビエト連邦によって都市が再設計され、ヨーロッパ的な雰囲気を色濃く残す都市となりました。 パレスチナ紛争(アラブ・イスラエル紛争)の歴史は古く、ユダヤ人が紀元前1500年頃にパレスチナに定住して国家を樹立した時から続いています。その後、ユダヤ人国家は滅亡して、ユダヤ人は各地に移住させられました(ディアスポラ)。19世紀後半、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようとするシオニズム運動が活発になりました。その結果、より多くのユダヤ人がパレスチナに移り住むようになりました。第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の協力を求め、アラブ人はトルコからの独立、ユダヤ人はユダヤ人国家を約束しました(バルフォア宣言)。この二重外交のため、パレスチナの主権をめぐる両者の主張が対立して、紛争に発展しました。 第二次世界大戦後、国連はパレスチナ分割決議を採択して、パレスチナをアラブ国家とユダヤ人国家に分割しました。これを受けて、ユダヤ人はイスラエル国を建国しました。100万人以上のアラブ人がパレスチナから追い出されて難民となり、イスラエル建国に反対するアラブ諸国は互いに争うようになりました(第一次中東戦争)。さらに、パレスチナを奪還しようとするパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)が結成され、それに対するイスラエルへの攻撃は激しくなりました。1993年、パレスチナ人は、対話による紛争終結への第一歩として、暫定自治に合意しました。しかし、紛争は解消されていません。現在、イスラエル側の和平推進派と対パレスチナ過激派、パレスチナ側の穏健派ファタハと過激派ハマスが、紛争の終結方法を巡って対立しています。国内にユダヤ人が住んでいるアメリカなどが仲介役となって和平への道を探ろうとしています。 クルド人は世界全体で約3000万人暮らしています。そのほとんどがスンニ派で、タルト語を話します。中世以降、オスマン帝国(オスマントルコ)がタルト人を支配していました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、イギリスとフランスがオスマン帝国を分割して、クルディスタンと呼ばれる居住地は中東諸国に広がりました。それ以来、タルト人と各国が独自の国家建設を目指す争いが増えました。全人口の5分の1にあたる1200万〜1500万人のタルト人が住むトルコでは、独立のための武装活動が活発になっています。
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テレビ番組でも、アフリカを紹介する時、よく自然や動物が取り上げられます。一方で、支援先・市場先・レアメタルなどの資源開発地として、日本とアフリカの関係はますます深まっています。アフリカの多様な様子を学んでいきましょう。 アフリカ大陸の面積は3000万平方キロメートル以上あり、その大きさはアジアに次いで2番目に大きい大陸です。東西の最長距離は西経17度から東経51度まで約7400kmあり、おおむねヨーロッパの最西端からカスピ海までです。南北の最長距離は北緯37度から南緯35度まで約8000kmあり、大陸のほとんどは南北回帰線より低緯度に位置しています。赤道に沿って、ギニア湾南部・コンゴ盆地・ケニア中央部などが広がっています。中でも、マダガスカル島はアフリカ大陸の南東に位置していて、日本の約1.5倍の大きさです。 様々な民族がアフリカに暮らしており、約1000種類の言語を使い分けているようです。その分布はサハラ砂漠を境界に、北は北アフリカ、南は中南アフリカに分かれています。この項目では、中南アフリカについてしか説明していません。次の節で、北アフリカについて説明します。 各民族がそれぞれの言語を持ち、現在でも中南アフリカの各地域は旧宗主国と経済的・文化的に繋がっています。そのため、宗主国の言語(英語やフランス語など)が公用語となっています。植民地時代にはキリスト教が広がりました。また、イスラームがサハラ砂漠南部のサヘル地域、アフリカ東海岸のソマリアやタンザニアで広まりました。また、東海岸のムスリム商人がインド洋で貿易を盛んに行っています。その結果、今でもムスリムが多く、アラビア語由来のスワヒリ語やアムハラ語などが使われています。4世紀中頃、エジプトはエチオピアにキリスト教を伝えました。エチオピア正教は、現在もエチオピアの主要な宗教です。今でも精霊信仰(アニミズム)やアフリカの伝統的な祖先崇拝を大切にしている地域もあります。 人種隔離政策(アパルトヘイト)時代の南アフリカは世界から孤立していました。人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃後、南アフリカは急速に世界経済とつながり、経済成長を遂げました。 古代エジプト文明が四大文明の一つとして紀元前30世紀頃から栄えていました。その頃から、北アフリカはサハラ砂漠を横断する豊かな交易地域として、長い間イスラームの影響を受けました。7世紀にアラブ人がやって来ると、先住民族のベルベル人は、現在のマグレブ諸国で暮らしていました。マグレブ諸国とは、アラビア語で「太陽の沈む国」を意味します。エジプトを除く北アフリカにある国々(チュニジア・アルジェリア・モロッコなど)で、複数の小さな国から成り立っています。アラビア語とイスラームはアラブ民族の住むアラビア半島から伝わり、マグレブ諸島にも伝えられました。 15世紀中頃から大航海時代が始まり、アフリカと交易しました。その後、ヨーロッパ諸国はインドまでの海洋航路を求めて、アフリカ沿岸部に港をつくりました。インド洋の東沿岸でもムスリム商人が賑わっていました。16世紀になって、奴隷がアフリカから新大陸の植民地に送られ、インディオの代わりに働かされました。17世紀に入って、南北アメリカ大陸でプランテーション農業が発達すると、三角貿易で奴隷も次々と送られるようになりました。三角貿易で、奴隷がアフリカからアメリカ大陸に輸出されました。雑貨・銃はヨーロッパからアフリカに輸出されました。砂糖・煙草・珈琲はアメリカ大陸からヨーロッパに輸出されました。ヨーロッパの豊かな富が、産業革命を実現させました。一方で、奴隷はアフリカから1000万人以上連れ去られたと考えられています。 19世紀になって、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーが奥地へ足を踏み入れました。その後、アフリカが農作物や資源の宝庫として注目されるようになり、次々と探検が行われるようになりました。ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカの横断に成功しました。また、デイヴィッド・リヴィングストンは南部アフリカの横断に成功したり、ナイル河源流の一つを見つけました。その後、金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、列強の植民地支配は進みました。ヨーロッパ諸国は内陸部の開拓と開発を競いました。産業革命がヨーロッパで始まると、住民に聞かず、勝手に農園(プランテーション)・鉱山が開発されました。19世紀後半、コンゴ地域の支配権を巡って争っていたため、ベルリン会議が開かれました。ベルリン会議後、ヨーロッパ各国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルなど)がアフリカの大半を植民地化するようになりました。ヨーロッパ列強は、植民地を上手く運営するために、現地の統治者を中心とした間接支配体制を整えました。間接支配体制を維持するために、民族間の対立を利用する場合もありました。 第二次世界大戦後の南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト)をとりました。この政策によって、少数派の白人は強い権利を与えられ、黒人・有色人種・アジア人は差別されてきました。国民は、白人・黒人・有色人種(白色人種と他人種の混血)・アジア人に分かれました。人種隔離政策に基づいて、居住地域が分けられ、違う人種の結婚も禁止されました。当時、日本は重要な貿易相手国だったので、「名誉白人」と呼ばれていました。冷戦時代、南アフリカはソ連に代わる勢力として西側諸国から注目されていました。また、南アフリカは豊富な天然資源を持つと西側諸国から考えられていました。これらの理由から人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年まで続きました。冷戦体制が終わると、人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃を求める声も高まりました。1994年、初めて総選挙でどの人種か関係なく誰でも同じように投票出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。ネルソン・マンデラ大統領は、人種隔離政策(アパルトヘイト)をなくすため、撤廃運動を長年続けてきた人物です。 第二次世界大戦終了後、アフリカの独立国は4カ国(エジプト・エチオピア・リベリア・南アフリカ共和国)だけでした。第二次世界大戦後の独立運動の主役は、宗主国で教育を受けたエリート層でした。1950年代後半から1960年代にかけて、次々と独立国が誕生しました。1960年は、17カ国が独立した年なので、「アフリカの年」と呼ばれています。現在、アフリカの独立国は54カ国です。 第二次世界大戦後のアフリカは、次第にナショナリズムが高まり、独立運動が起きました。これを受けて、ヨーロッパ諸国は、植民地の独立を認めつつ、経済利益を守りました。しかし、新しい国々は植民地時代の人為的国境をそのまま引き継ぎ、複数の民族が集まり、民族の繋がりも弱い多民族国家になりました。このような多民族国家は民族紛争を招きました。鉱物資源の豊富な国は、紛争の激しい地域によく見られます。 本項目では、ルワンダについてみていきましょう。第一次世界大戦まで、農耕民(多数派のフツ族)と牧畜民(少数派のツチ族)は穏やかに暮らしてきました。しかし、第一次世界大戦後、ベルギーの支配下に入り、ツチ族がフツ族を支配する上下関係がさらに強まりました。そのため、両民族の関係はますます悪化しました。両民族に人種的違いは少なくても、植民地時代を通じて、少数派のツチ族は多数派のフツ族よりも好待遇でした。1990年から1994年にかけて、ルワンダ共和国は、ツチ族中心の反政府勢力(ルワンダ愛国戦線)とフツ族中心のルワンダ政府軍で内戦を繰り広げました。1994年、大統領の殺害後、フツ族過激派が大量虐殺を始め、大量虐殺の犠牲者も80万人から100万人になりました。その後、武装集団のツチ族が攻撃したため、約200万人が故郷を離れました。多民族が一つの政治体制の中で一緒に暮らしていけないため、民族間の対立から内戦や国家間の争いに発展する場合も珍しくありません。ルワンダ虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』は、日本だけでなく世界中で話題になりました。 その後、ツチ族中心の政権が発足すると、治安の維持や雇用の創出に力を入れるようになりました。また、ツチ族中心の政権は、珈琲や紅茶の栽培だけでなく、ソフトウェア開発などのICT分野にも力を入れました。その理由を説明すると、ルワンダ虐殺を逃れて外国に渡った人々が、世界各地で生活する中で身につけた知識や技術を持ち帰ったからです。現在、ルワンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれ、急速な経済成長を続けています。 ナイジェリアはアフリカ最大の都市です。200以上の異民族が暮らしていますが、大きく分けて、北部にイスラーム信仰のハウサ族、南西部に伝統宗教信仰のヨルバ族、南東部にキリスト教徒信仰のイボ族に分けられます。石油資源を巡るビアフラ戦争が終わってから、民族はより自由になろうと努力していますが、問題は解決していません。こうした問題は、国連やアフリカ連合で解決する必要があります。アフリカの独立国と西サハラは全てアフリカ連合に加盟しています。 アフリカ統一機構は、アフリカ諸国が平和維持のために1963年発足しました。その後、2002年になると、アフリカ統一機構がヨーロッパ連合を倣った国家統合体(アフリカ連合)に変わりました。アフリカ統一機構は、内政問題に部外者が関与してはならない考えで発足したため、紛争解決に消極的でした。その反省もあり、アフリカ連合は域内の紛争解消も目的に掲げています。パン・アフリカ主義とは、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達を中心にアフリカの独立と統一を望む運動です。19世紀後半に、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達がアメリカで教育を受けました。第二次世界大戦後、パン・アフリカ主義もアフリカのナショナリズムと結びつきました。 また、武装集団がアンゴラ・シエラレオネ・リベリアなどで資金源としてダイヤモンドなどの資源を採掘した結果、内戦も長引きました。1990年代以降、冷戦体制が崩壊すると、被軍事援助国の政権も不安定になりました。その結果、ソマリア内戦などが発生しました。国連平和維持軍はこのような内戦に介入しましたが、失敗に終わりました。 北アフリカ諸国の長期政権が、2010年から2011年にかけて崩壊しました。その原因は、チュニジア・リビア・エジプトなどで始まった民主化運動です(アラブの春)。「アラブの春」のきっかけとして、チュニジアのジャスミン革命が挙げられます。ジャスミン革命で、インターネットにアクセス出来る若者などが街中に溢れました。エジプトでは、30年間続いた独裁政権が終わり、代わりにイスラーム主義勢力中心の政権が誕生しました。しかし、反政府活動が高まり、軍のクーデタによって政権も移りました。民主化を求める動きは、他のアラブ諸国でも政情不安の波を引き起こしました。 政情不安から、そのような場所で反政府勢力やイスラーム原理主義組織が活動を強めています。2011年に南スーダンが独立するまで、スーダン南部のナイル・サハラ語系住民と北部のアラブ系住民の間で内戦が続いていました。 近代的農業は灌漑設備・農薬・化学肥料などを取り入れました。アフリカの一部地域で近代的農業を取り入れています。アフリカの場合、焼畑農業が中心ですが、半農半牧を行う地域もあり、駱駝の放牧も見られます。これまで、多くの作物を一緒に栽培する混作が頻繁に行われてきました。アフリカの伝統的定着農業では、もろこしや隠元豆(ささげ)などを同じ畑で数種類栽培します。小規模な自給的農業とはいえ、自然と上手く付き合いながら植物を育てる方法なので、旱魃でもある程度の収穫量は望めます。最後に、主食についてみていくと、次の通りです。 北アフリカの砂漠地域では、オアシスや外来河川の近くで、ナツメヤシ・小麦・野菜などを育てて食糧としています。ナツメヤシの果実は食用になり、葉は縄や籠の材料になり、幹は建築に利用されます。また、灌漑農業も行われており、地下水路(フォガラ)を作り、貴重な地下水を枯らさないようにしています。  諺「エジプトはナイルの賜物」があるように、ナイル川の氾濫で豊かな土壌も生まれました。それを利用して、古くから農業を行っていました。現在も、エジプトの外来河川(ナイル川)に沿って広がる土地で、小麦・コメ・綿花が栽培されています。日本の政府開発援助を受けて、技術と灌漑設備が整備されるようになりました。整備後、ナイル川流域でもジャポニカ米が栽培されるようになりました。ソ連の援助を受けて、ナイル川上流のアスワンハイダムが1970年に完成しました。こうして、大洪水がなくなり、水力発電によって産業が発展するようになり、暮らしも豊かになりました。しかし、ダムの建設で、上流から豊かな土壌が増水時に下流まで届かないため、化学肥料の使用も増えました。このほか、旱魃で灌漑農地が塩害を受けたり、ナイル川デルタの海岸線も縮小したり、ナイル川河口付近のプランクトンも減って不漁になるなど、ダム建設の悪影響もあります。 昔ながらの遊牧は、サバナ気候やステップ気候で見られます。牛は主にサバナ地域で飼育されています。一方、羊・山羊は湿潤地域で飼われます。そして、駱駝はサハラ砂漠南部からソマリア・ケニア北部までのステップ地域で飼われています。ここ最近、遊牧民が都市に移住してそこで暮らすようになりました。 当時のアフリカはヨーロッパ諸国にほとんど支配されていたので、1種類だけ大量に商品作物を栽培して、先進国に輸出しました(モノカルチャー)。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは、19世紀中頃からヨーロッパに輸出されるようになりました。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは機械の潤滑油・石鹸・食用油の原料として利用されました。現在でも、両商品は重要な輸出品となっています。また、ガーナやコートジボワールは、カカオ豆(ココア・チョコレートの原料作物)を大量に栽培しています。カカオ豆は、一年中気温と湿度が高く、風もほとんど吹かない熱帯雨林気候地域の中で最もよく育ちます。しかし、カカオの樹木は、大規模なプランテーションでは上手く育たないため、家族だけで栽培しています。 イギリス人は、赤道直下のケニアを植民地にしました。標高1500~2500mの高地に住み、茶や珈琲のプランテーション農業を行なっていました。ケニアが茶の栽培を始めたのは、20世紀に入ってからです。赤道直下の高山気候なので、高品質の茶葉が一年中栽培出来ます。そのため、茶葉を摘んでから1~2週間後に、次の茶摘みを行えるようになります。この地域は、白人が農場や牧場を経営していたため、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)と呼ばれるようになりました。独立後、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)はケニア人に譲ったので、現在も茶と珈琲はケニアの2大輸出品となっています。また、珈琲原産地のエチオピアは現在でも珈琲を中心に輸出しています。 一方、地中海に近いモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの北アフリカ諸国では、商業的な農業が発達しています。温暖な地中海性気候を活かしてオレンジや檸檬、オリーブ、葡萄などを栽培しています。地中海性気候のため、南アフリカ共和国の南西部では、葡萄などを大量に栽培しています。また、南アフリカ共和国の東部高地草原はかつてヨーロッパ人によって開発されました。その後、南アフリカ共和国に譲られ、トウモロコシの栽培や企業的牧畜が行われています。しかし、伝統的な農産物輸出の大半は、1980年代以降、減少しています。その背景に近隣地域の生産量増加が挙げられます。一方、ケニア・エチオピアでヨーロッパ市場向け花卉生産などの新しい輸出農産物が登場しました。こうした商品作物の生産によって、国内の買い取り価格は低く抑えられ、生産者はあまり儲かっていません。 1950年、アフリカの人口は約2億3000人でした。2023年現在、アフリカの人口は約15億人です。アフリカの人口はこの73年間で約6.5倍になり、アジアに次いで2番目に多くなっています。医療や公衆衛生の整備で死亡率が下がっても、出生率が高いので、自然成長率は2.7%程度です。年少人口が多いため、2050年になると、アフリカの人口は24億人を超えると考えられています。 人口増加に見合う量の食料を作れないため、複数の国で外国から食料を輸入しています。そのため、アフリカは食料自給率の向上につながっていません。アフリカの食料自給率を高めるために、通貨流出や穀物価格の上昇に伴う物価の高騰を防ぎ、経済を安定させなければなりません。また、アフリカで食料需要が増えると、世界でも食料不足になるため、国際社会でも食料自給体制の整備を急がなければなりません。 農業生産性の低さが食料自給率の悪化につながっています。植民地支配が終わってから、アフリカは輸出用の作物を中心に栽培するようになり、主食用の穀物はほんの少ししか栽培しなくなりました。農業機械の導入が遅く、化学肥料の価格も高いため、多くの農地が利用されていません。そのため、大量に食料を作れません。 現在、アフリカでも都市化が進み、経済も成長しています。しかし、都市と農村部の経済連携は進んでいません。農産物を都市に効率よく届けるようになると、農村地域も都市の経済発展の恩恵を受けられるかもしれません。例えば、マラウイ・ザンビアの国内市場向けに、芋類が出荷されます。ここで、300人の農家が働いています。そのために、農業生産性を高め、農産物の生産・集荷・輸送・貯蔵・販売の仕組みを作っていかなければなりません。穀物だけでなく、野菜を栽培する園芸農業の整備も求められています。 また、その土地に合った農業技術を広めていかなければなりません。国連開発計画や日本の国際協力機構などの支援を受けて、病気や乾燥に強く、豊産を見込める陸稲ネリカを開発して、世界中に広めています。農業技術を広めていけば、主食の量産体制を整備出来るでしょう。 持続的な開発を行うため、アフリカは様々な社会制度や食糧供給の安定を図らなければなりません。2003年のアフリカ連合首脳会談で、「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」が採択されました。「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」では、外国からの支援に頼らず、自助努力で開発を目指そうとしました。政治家の汚職を防止する法整備、紛争を解決するための仕組みの強化、教育・保健・社会基盤・産業振興など、各国間の連携が大切です。 アフリカは、石油・石炭・ウランなどのエネルギー資源に恵まれています。また、鉄鉱石・ボーキサイト・金・銅・レアメタルなどの金属資源も豊富です。植民地支配から逃れても、内戦や独裁政権がアフリカ諸国で長続きしていました。そのため、政治状況も不安定になり、鉱山開発が遅れていました。近年、外国からの投資や需要の増加によって、各国間の資源開発競争も激しくなっています。鉱山開発は、資源確保と重機メーカーの市場拡大につながっています。例えば、ギニアはボーキサイト、ザンビアは銅、ニジェールはウラン、モロッコとリベリアは鉄鉱石の最大輸出国になっています。しかし、資源分布の偏りは、資源を輸出出来る国と資源を輸出出来ない国の間に経済格差を生みます(南南問題)。また、資源の輸出後に儲けたお金を一部の人が独占しているため、貧富の差も大きくなっています。 ナイジェリアはアフリカ最大の産油国です。ビアフラ地方を中心に石油が埋蔵されています。輸出の8割以上が石油と石油製品で、そのほとんどをアメリカに輸出しています。アンゴラはアフリカ第2位の産油国です。2002年の内戦終結後、油田開発に力を入れ、石油の約半分を中国に送っています。アルジェリアの石油は、国全体の輸出の約4割を占めています。また、天然ガスも多く埋蔵しており、地中海横断パイプラインを通してヨーロッパ諸国へ送られています。今世紀に入って国際連合がリビアの独裁政権に対して経済制裁を緩めてから、リビアでも急速に油田開発を進めています。さらに、エジプトは石油製品や原油を大量に輸出しています。このように、アフリカ各国は原油や天然瓦斯を産出して、欧米諸国へ送っています。 カッパーベルトは、コンゴ民主共和国とザンビア共和国の国境にあります。銅鉱石がカッパーベルトで採掘され、タンザン鉄道を経由して出荷されます。タンザン鉄道は、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結んでいます。中国からの支援も受けて、1975年に完成しました。かつてコンゴ民主共和国とアンゴラを結んでいたベンゲラ鉄道は、アンゴラの内戦で破壊され、現在修復を行っています。南アフリカは、石炭(トランスヴァール炭田)・金・クロム・プラチナ・バナジウム・チタンなどに恵まれています。ボツワナ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ共和国は、ダイヤモンドを豊富に産出しています。南アフリカ共和国は、レアメタルも豊富に産出されています。また、コンゴ民主共和国は、他国よりもコバルトを大量に産出しています。 アフリカの工業化は遅れています。植民地時代は、鉱産資源の採掘・販売を制限して、アフリカを工業製品の市場として販売しました。その影響で、独立後も内戦や不安定な政治が続き、所得水準も低かったため、国内市場が弱く、工業の発展も遅れました。今でも、電力供給・鉄道・港湾・金融制度・就学者数などは、決して恵まれているようには思えません。 対外債務の増加・モノカルチャー経済への依存・工業化資金の不足などが原因で、何カ国も破綻しました。こうした中、国際通貨基金と世界銀行は、構造調整政策に取り組むように求めました。構造調整政策によって、アフリカ諸国も計画経済から自由市場へと移行しなければ新たな融資を行えなくなりました。複数の国がこれを受け入れて市場経済化を進めると、一部の国で国内総生産が増加しました。しかし、貧富の差はさらに広がりました。リベリア・シエラレオネ・スーダン・コンゴ民主共和国などでは、内戦の影響で経済成長も遅れました。また、内陸国も経済成長に影響を与えるかもしれません。アフリカ南部の国々は、周辺諸国と経済協力しているので経済も成長しています。 1980年代以降、内戦や旱魃などの影響でアフリカ経済は伸び悩んでいました。しかし、2000年代に入るとアフリカ経済は回復に向かいました。この場合、鉱産資源の価格は国際市場で上がっています。ボツワナなどの一部の国で、輸出指向型の工業化を進めて、モノカルチャー経済から抜け出し、一人当たりの国内総生産を増やしました。 鉱産資源の豊富な国は、原料地指向型の工業化が進んでいます。リビア・アルジェリア・ナイジェリアなどの産油国では、石油精製業や石油化学工業が発達しています。ザンビアは銅鉱石を多く産出するため、ザンベジ川のカリバダムによって銅の精製業が発展しました。一方、南アフリカ共和国は、サハラ以南のアフリカで圧倒的な地域大国となり、工業製品の輸出を中心に取引されるようになってきています。鉱業や醸造業などの世界的な企業を数多く持ちます。ヨハネスブルグにはアフリカ最大の証券取引所もあり、アフリカと世界経済を結ぶ役割を果たしています。元々BRICsは4カ国を表していました。これに、南アフリカ共和国も加わり、BRICsのSが大文字に変わりました。鉄鋼・機械工業・自動車工業などで、周辺国から出稼ぎ労働者が集まって働いています。また、チュニジアとモロッコは、石油・天然瓦斯・様々な工業製品をヨーロッパにほとんど輸出しています。北アフリカのチュニジア・モロッコ・エジプトは元々人件費も安いので、衣料・皮革・食品工業などの軽工業が主要な産業となっています。さらに、電気・機械の部品をヨーロッパへ輸出しています。 これまで、アフリカの複数の国では、工業製品を輸入して、一次産品を輸出する貿易を行っていました。一次産品とは、自然から育てられ、採取され、そのまま利用される産品をいいます。例えば、農畜産物・林産物・水産物・鉱産物などが一次産品にあたります。一部の農産物や鉱物資源の輸出が行われる限り、モノカルチャー経済(単一経済)も続きます。そのため、世界経済の変化に弱く、高付加価値産業の育成や産業の多角化にも問題が出てきています。ガーナは、カカオ豆のモノカルチャーから抜け出すため、アコソンボダムの水力発電を使ってアルミニウムの製造を盛んに行いました。ヴォルタ川のアコソンボダムは、1965年に建設されました。貯水量が少ない乾季になると、発電量も減少します。しかし、旱魃に伴う電力不足や、他国との競争が激しくなるなどの問題が発生します。一方、第三次産業は非常に素晴らしい成長を遂げています。 カカオ・珈琲・タコ・白身魚・グレープフルーツ・薔薇など、多くの農水産物がアフリカから日本に輸出され、日本人の生活に役立っています。また、スマートフォンやハイブリッド車の生産に、アフリカ産のレアメタルが必要です。日本はこのような一次産品を中心にアフリカから輸入しています。一方、アフリカ諸国の経済が発展すると、自動車需用も増えます。このため、日本は新車・中古車・トラック・自動車部品などをアフリカに大量に輸出しています。 日本はアフリカから多くの農水産物や鉱物資源を輸入しています。しかし、アフリカ諸国は貧困や内戦などの問題を抱えています。そこで、日本政府は政府開発援助や非政府組織を通じて、教育・医療・輸送インフラの整備・貧困削減・平和構築・環境保全などの支援を続けています。このように、「人間の安全保障」の考え方から、人間の生存を重視します。その背景から、日本人はタンザニアの農村開発やニジェールの学校建設や教育制度の整備を進めています。また、今後のアフリカ社会を引っ張っていく人材も育成しています。 製造業や資源関連産業を中心に日系企業のアフリカ進出が進んでいます。例えば、南アフリカ共和国では、日本企業の自動車製造や鉱山開発などが行われています。しかし、2000年代以降、消費市場の高まりから、化粧品・家電製品・調味料・缶詰などの分野でも日系企業のアフリカ進出が進んでいます。近年、発展途上国の低所得者にも、BOPビジネスの支援が行われています。蚊帳・乳幼児向け栄養食品・アルコール消毒液など、日本企業の技術協力によって、発展途上国の低所得者に届けられています。経済的貧困者(Base of the Economic Pyramid:BOP)とは、世界で最も所得の低い人々を指す言葉です。BOPビジネスは、世界人口の7割を占める経済的貧困層を対象にしています。水や生活必需品の提供、貧困の削減など、現地の様々な課題を解決出来るでしょう。BOPビジネスの具体例として、ウガンダ産のサトウキビが挙げられます。ウガンダ産のサトウキビを材料にして、アルコール消毒液を日本の技術や品質管理の手法で生産しています。このアルコール消毒液は、医療機関の衛生環境改善・院内感染の防止に役立ちます。 21世紀から、農作物も鉱産資源も値上がりしたので、アフリカの経済が潤っています。このような理由から、近年、アフリカの人口も首位都市に集中しています。農村の出稼ぎ労働者は、同郷の出身者同士で就職の支援を受けたり、生活の面倒を見たりしています。そのため、民族集団が違えば、職業も変わります。そうした職業の多くは路上販売者のようなインフォーマルセクターです。ナイジェリアやアンゴラなどの石油資源国でも、都市部を中心に高層ビルやショッピングモールが建設されています。各国で、携帯電話の利用者や自動車・家電などの耐久消費財の購入者が急速に増えています。外資系企業の進出も進み、内戦や紛争などの危険はあっても、さらなる市場の拡大や地域の成長が期待されています。 北アフリカ諸国は豊富な石油資源に恵まれているので、軽工業が発達しています。また、地中海の温暖な気候を求めて、北アフリカ諸国に向かう観光客も増えています。例えば、アフリカ主要都市とヨーロッパまでを地中海経由で結ぶ直行便が複数あります。このような理由から、外国人向けの観光業がエジプト・ケニア・タンザニアで重要な産業になっています。また、北アフリカからヨーロッパまでパイプラインが通っており、天然瓦斯を運んでいるので、貿易も盛んに行われています。パリやロンドンでは、アフリカ諸国からの移民も数多く住んでいます。 サハラ以南のアフリカ諸国は、海外からの債務を抱えており、自力で経済を回せません。国内の貧富の差も大きく、マラリア・ヒト免疫不全ウイルス・エボラ出血熱・COVID-19などの感染症も問題になっています。このような背景から、観光産業・情報通信技術産業を発展させて、豊かな自然や文化を生かし、経済の多様化を図ろうとしています。また、先進国からの支援を受けて、自立を目指しています。近年、中国は資源を手に入れるためにアフリカへ進出しており、経済・政治の両面で関係を深めています。 中国は、銅の輸出をしやすくするために、内陸国のザンビアからタンザニアを結ぶタンザン鉄道の建設に協力しながら、それまでの友好関係をさらに深めています。中国は銅やレアメタルを輸入したいと考えています。しかし、中国製格安輸入品の増加によって、ザンビアやタンザニアで工業発展の遅れや中国人労働者に雇用を奪われるなどの問題も起きています。 アフリカ大陸は全体が台地になっており、アフリカプレート上の安定陸塊です。マダガスカルも安定陸地なので、固有種も数多く生息しています。その理由は、長い間、本土から切り離されたため、動植物も独自の進化を遂げたからです。標高200m以下の低地は全体の1割程度なので、海岸線に広い平野はあまり見られません。紅海・エチオピアからヴィクトリア湖・ザンベジ川河口まで、標高2000m以上のエチオピア高原、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山などの火山、タンガニーカ湖やマラウイ湖などの断層湖が広がっています。アフリカ大地溝帯(グレートリフトヴァレー)は、最も広い箇所で幅100km、全体で7000kmもある大きな断層帯です。また、火山地帯なので、地震もよく起こります。地球の内部からマントルがアフリカの大地溝帯で出てきます。上昇流が周辺の地殻を押し上げているので、プレートが東西に割れています。将来、大地溝帯がアフリカを東西に分断すると考えられています。アフリカ大地溝帯では、現世人類の化石がたくさん見つかっているので、人類進化の舞台になりました。 北アフリカからコンゴ盆地にかけて、標高200~1000mの比較的低い台地が続いています。その東部をナイル川が流れ、その河口に大きな三角州を形成しています。一方、北西部には新期造山帯のアトラス山脈があり、険しい山が連なっています。全長6695kmのナイル川は、世界で一番長い川です。南スーダンからハルツームまでの本流(白ナイル)は、赤道地帯から流れています。白ナイルはハルツームから南スーダンに流れています。ハルツームで、水量豊富な青ナイル(エチオピアのタナ湖源流)に合流します。 ギニア湾中央沿岸地域は、海岸から急に高度を上げますが、サハラ砂漠に向かうにつれて、標高の大幅な減少が見られます。そのため、ニジェール川の上流部はサハラ砂漠に向かって流れますが、途中で南東に変わり、ギニア湾に注いでいます。コンゴ川中流のコンゴ盆地は、キサンガニからキンシャサまで河川交通は賑やかですが、コンゴ川の下流は急流なので河川交通も閑散としています。 コンゴ盆地南部からアフリカ大陸最南端まで、標高1000m以上の高い台地が続きます。南アフリカ共和国のメサで先カンブリア時代の硬い岩盤層の台地(テーブルマウンテン)が見られます。古期造山帯のドラケンスバーグ山脈は、南アフリカ共和国の南東部にあり、石炭の産出地になっています。 アフリカの気候区分は、赤道から高緯度にかけて帯状に近い形で変化します。その理由として、アフリカ大陸に天候を大きく左右する山脈があまり見られないからです。したがって、アフリカ大陸に亜寒帯気候や寒帯気候がありません。気候区分は、熱帯気候(約4割)・乾燥気候(約5割)・温帯気候(約1割)になります。 コンゴ盆地周辺とギニア湾沿岸は、熱帯モンスーン気候です。コンゴ盆地は赤道を通っているので、熱帯雨林気候です。これらの地域は、エボラ出血熱やマラリアの流行地域としても知られています。熱帯雨林気候の北と南は、サバナ気候です。まばらな草原が広がり、乾燥していてもバオバブの樹木などは耐えられます。一方、北東部のエチオピア高原は高山気候です。日中は暖かく乾燥していて過ごしやすく、標高5000m以上の高地(ケニア山やキリマンジャロ山など)では万年雪が見られます。 サバナ気候の高緯度側にステップ気候が広がり、さらに進むと砂漠気候に変わります。アフリカ北部では、亜熱帯高圧帯の真ん中に北回帰線があります。北回帰線の周辺に世界最大のサハラ砂漠が広がっています。また、ソマリア半島も砂漠気候になります。高緯度のアトラス山脈より北側は、温暖な地中海性気候です。人が暮らせるオアシスやワジも見られます。サハラ砂漠の東部に、世界最長の外来河川(ナイル川)が南から北へ流れています。サハラ砂漠の面積は860万㎡で、西側に岩石砂漠(ハマダ)が数多く広がり、東側に砂砂漠(エルグ)が広がっています。ワジにオアシス集落が広がり、交易に駱駝が使われてきました。 ベンゲラ海流が寒流を北上させるため、アフリカ南部の西海岸にあまり雨が降らず、ナミブ砂漠のような海岸砂漠も残ります。一方、暖流のモザンビーク海流は、アフリカ南部の東海岸に暖かく湿った空気を運びます。そのため、低緯度側で南北方向にサバナ気候が広がり、高緯度側で温帯湿潤気候が広がります。アフリカ大陸の南端は地中海性気候ですが、内陸部はステップ気候や温帯冬季少雨気候が広がっています。南半球の温帯冬季少雨気候は4月から9月まであまり雨が降りません。一方、南半球の地中海性気候は11月から3月まであまり雨が降りません。マダガスカルは南東貿易風帯にあります。このため、東側は上昇気流の影響で雨量も増えます。1月から3月になると、サイクロンの影響も受けます。一方、国土の南西部は下降気流になるので、乾燥気候になります。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB
日本の隣国といえる国は何処でしょうか?ロシアは世界で一番大きな国です。ヨーロッパとアジアの両方にあり、地下にはたくさんの資源が眠っています。日本の重要な隣国でもあります。領土問題が解決していないため、「近くて遠い国」と呼ばれるロシアについて、私達はあまり知りません。ソビエト連邦が国としてロシアになった後の様子を学んでみましょう。 ロシア連邦はユーラシア大陸の北半分に位置し、そのほとんどが日本より高緯度です。アジアからヨーロッパにまたがる世界最大の国土を持ちます。ロシア連邦の大きさは、日本の約45倍(東西1万1000km)にもなります。そのため、11の標準時帯に分かれ、東端と西端では昼と夜がほぼ入れ替わっています。 行政的に、国全体は8つの連邦管区と83の連邦構成主体に分かれています。連邦構成主体のうち26は少数民族を中心とした共和国、自治区、自治管区です。このうち、2大都市モスクワとサンクトペテルブルクは、連邦政府が直接管轄しています。 ロシアの地形は、大きく分けて次の通りです。 東ヨーロッパ平原 [ヨーロッパロシア] 西シベリア低地と中央シベリア高原 [シベリア] かつてシベリアは、ウラル山脈より東の地域の名称でした。現在、この地域のうちサハ共和国とアムール州以東の地域を極東ロシアに分類しています。 特に、東シベリアから極東ロシアまでの冬はシベリア高気圧に覆われ、オイミャコン周辺は北半球で観測史上最も寒い場所とされています。 春から夏にかけて、北極海に注ぐオビ川、エニセイ川、レナ川などの上流では雪が解け始めても下流では凍ったままなので、しばしば氾濫します。また、路面の凍土層が解けて路面が柔らかくなると、通行出来なくなる場合もあります。そのため、シベリア北部の鉱業都市では、ほとんどの人が飛行機を使って他の地域と行き来しています。さらに、永久凍土が多い地域では、高床式の建物も見かけます。これは、床と地面の間に空間を作り、暖房で永久凍土が柔らかくなって、建物が沈んだり傾いたりしないようにするためです。 ロシアは、ユーラシア大陸の北部のほとんどを占めています。シベリアを含むロシアのほとんどは、冷涼な寒帯や亜寒帯気候です。国土の約30%で、1月の平均気温が-30℃を下回り、半年以上寒さが続きます。海の影響を受けないので、そのほとんどが大陸性気候です。そのため、一年を通して寒い時期と暖かい時期の差が大きく、春と秋の季節がとても短く感じます。 厳しい気候のため、北極海沿いのツンドラ気候の地域を除き、国土のほとんどがタイガと呼ばれる針葉樹林に覆われています。東ヨーロッパ平原の南部だけがわずかに耕作出来る土地を持ち、そのほとんどが寒さと旱魃から守らなければなりません。チェルノーゼムが分布するステップ気候地帯や気候が比較的穏やかな混合林が広がる地域は、ロシアの南西部や南部の国境付近の地域に限られています。ここに多くの人が住んでいます。特に、黒海とカスピ海に挟まれた地域は、世界でも有数の保養地として知られています。 資源や産業の面では、国内にある石炭や鉄鉱石を利用して重化学工業が成り立っていました。しかし、原油や天然ガスは自国で十分に確保出来ないため、ロシアから輸入する必要がありました。しかし、ここ数年、ロシアが天然ガスの値上げを計画し、それに対してウクライナが天然ガスの輸送を停止するなど、天然資源をめぐる問題が起きていました。 2014年、親ロシア派の住民と西側諸国を支持するウクライナ政府との間で争いが発生しました。この内戦はウクライナ東部からクリミア半島に広がり、そこにロシア軍が介入して内戦[1]が発生しました。ロシアはクリミア半島の領有を一方的に宣言し、世界から強く反発されました。 2022年には、ロシアがウクライナに大規模な侵攻を開始し、戦争になりました。現在(2023年8月)も戦争が続いています[2]。 そしてこの侵攻により、ロシアは、Euやアメリカなどからの国際社会から経済制裁を受けた[3]。 ウクライナは穀物輸出国でもあるため、ウクライナ侵攻により、世界の穀物の貿易に大きな影響を与えた[4]。 ウクライナに関する地名の表記を、日本政府は2022年以降から、従来のロシア語表記に代わり、新しくウクライナ語に合わせた表記に変更している。 つまり、 キエフ(古い) → キーウ (新しい) オデッサ → オデーサ   ドニエプル川 → ドニプロ川 など[5]。 ハリコフ → ハルキウ なお、キーウ(キエフ)はウクライナの首都。ハルキウはウクライナの都市のひとつ[6]。 ロシアは20世紀初頭まで皇帝が統治していました。しかし、1917年のロシア革命の後、1922年、ロシアの共産党は世界最初の社会主義国を作りました。これが、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国)です。ソビエト連邦では、ロシア帝国の広大な国土のほとんどを手に入れました。第二次世界大戦後は、その軍事力の強さから、世界の超大国としてアメリカと対立していました。これが冷戦の始まりです。しかし、経済の停滞や民族間の対立から、1991年にソ連は15の国に分裂してしまいました。以降の、ロシアはソビエト連邦の一部だった頃に比べ、世界での政治的・経済的な力関係が大きく低下しています。ロシアは最も人口が多く、国土も最も広い国です。カザフスタンなどの中央アジア諸国やアゼルバイジャンなどのカフカス地域諸国はソ連を離れ、完全な独立国家となりました。 ソ連がロシアに変わってから、土地も国境もずいぶん変わりました。ヨーロッパの海の玄関口であるバルト海や黒海では、海に面した国土がずいぶん減りました。また、多くの国がソ連を脱退したため、中央アジアの国境が変わりました。そのため、ウクライナやカザフスタンなど、かつてソ連に属していた国からロシアに移住してきたロシア系民族もいます。しかし、それらの国に留まる者も多く、民族紛争の火種を残しました。2014年には、ロシア人が多く住む地域をめぐって、ロシアとウクライナの間で対立が起きました。その後、2022年からロシアが一方的にウクライナに侵攻しました。 ソ連解体後、ロシアは出来るだけ多くの共和国と仲良くしようとしました。そこで、旧ソ連構成国と一緒になって独立国家共同体(Common wealth of Independent States)を作り、政治的・経済的に協力し合う緩やかな独立国家の集まりとしました。独自の議会や憲法を持たず、首脳会議や閣僚会議も必要な時にしか開かれません。しかし、ソ連の一部だったバルト三国やトルクメニスタンは参加せず、後にロシアと大喧嘩したジョージアも脱退しました。カザフスタンとベラルーシは、今加盟している9カ国のうちの2カ国です。この共同体が出来た最大の理由は、世界各地に設置されたソ連時代の核兵器や軍事基地を処理するためでした。これらの基地は全てロシアが管理するようになっていたため、CISは軍事・安全保障面での協力が中心で、経済面での協力はあまり行われていません。このように、CISは緩やかなつながりのある国の集まりなので、EUやアメリカに近づこうとする国もあります。 ロシアは多民族国家ですが、そのうち約8割がスラブ系のロシア人です。 トルコ系やモンゴル系など大小100以上の民族からなります。このうち、人口50万人を超える民族は15もあります。また、北極海周辺には、アジア系少数民族の住む大きな共和国や自治管区があります。さらに、カフカス地域やヴォルガ川流域には、チェチェン人やタタール人の住む共和国が多く見られます。 総人口の多くを占めるロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、インド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に分類される言語を話しています。また、アルタイ語族やウラル語族の言語を話す人々もいます。公用語はロシア語で、キリル文字が使われており、様々な民族語が話されています。宗教は東方正教(ロシア正教)が最も一般的ですが、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒もいます。 ロシアの国境付近では、民族や土地をめぐる紛争が絶えず、外国人投資家の悩みの種となっています。特に、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地域は異民族が多く、ロシアのチェチェン共和国のように政治的に不安定な場所も少なくありません。2008年には、ソビエト連邦の解体により独立したロシアとグルジアの国境で、軍事衝突がありました。民族間の対立が大きな原因となりました。日本は極東にある北方領土の返還を求めていますが、まだ解決していません。 ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)では、共産党が計画経済を運営していました。計画経済とは、生産、流通、販売の全てを中央の計画機関によって支配する経済体制をいいます。ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊して民間企業による市場経済に転換した時、ロシア国民の生活は大きく変わりました。資本主義の発展とともに、経済の効率化が最も重視されるようになりました。この結果、非効率的な国営企業は閉鎖され、多くの人々が職を失いました。計画経済から市場経済への転換が早すぎたため、ロシア経済は他の東欧諸国の経済よりも混乱しました。ロシアの国内総生産(GDP)は6年連続で減少し、世界恐慌時のアメリカよりも悪くなっています。 ソビエト連邦時代、国民は教育、医療、社会保障を無料で受けていました。しかし、ソビエト連邦の崩壊後、これらを無料で受けられず、それに代わる制度も完全に整備されていません。しかし、物価が上がり、新たな富裕層が生まれても、失業者や退職者など弱者の生活は苦しく、貧富の差は大きくなる一方です。また、外国資本が急成長しているヨーロッパロシアとそれ以外の地域では、所得に大きな差があります。したがって、このような差を解消しなければなりません。ロシアでは自殺者やアルコール中毒者が増えているだけでなく、出生率が下がっているため、人口が減り続けています。 市場経済への転換による混乱で、食料品や日用品の不足は深刻でした。当時、小売店に並ぶのはロシアの風物詩とさえいわれました。しかし、今は経済が良くなり、消費財も増え、買い物も以前ほど苦労しなくなりました。日用品が充実し、耐久消費財の需要が高まり、自家用車が急速に普及するなど、人々の暮らしがどんどん良くなってきています。 大きな変化の中で、変わらないものもあります。都市部ではほとんどの人がマンションに住み、田舎ではほとんどの人が小さな家に住んでいます。大都市では約半数の家が郊外に簡素な木造の別荘ダーチャを持ち、週末や夏休みを過ごしています。庭では農作業を楽しみ、手に入りにくい野菜や果物を採って生計を立てています。スポーツも自由な時間の過ごし方として人気があり、バレエや演劇、コンサートを好む人も少なくありません。 政治体制が変わった後、経済危機が起こり、人々は就職先があるかどうかわからなくなりました。そのため、経済基盤の弱い農村部や地方の小都市から大都市や地方都市に人々が移動するようになりました。ウクライナや中央アジア、バルト三国を離れた多くのロシア人が大都市に移り住んでいます。 首都モスクワは、人口1000万人を超えるヨーロッパ最大の都市です。1990年代以降、急速に発展を遂げましたが、その成長の多くは金融などの第三次産業で起こっています。高層ビルが立ち並び、郊外には大型ショッピングモールが立ち並ぶ副都心のオフィス街は、市場経済への転換で生まれた新しいロシアの姿を表しています。モスクワが世界で最も物価の高い都市と言われるのは、それだけ多くの人が住み、移動が容易だからです。その他、サンクトペテルブルクやニジニノヴゴロド(旧ゴーリキー)など、ヨーロッパロシアの大都市も中心都市として大きく発展してきました。 農業分野でも、ロシアの市場経済化の影響を感じさせます。ソ連時代は、コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)によって大規模な生産と販売が行われていました。しかし、市場経済に移行すると、土地の個人所有が認められ、多くのコルホーズやソフホーズが民間企業に再編され、運営されるようになりました。また、生産性の高い企業的な農業への転換が容易でなく、農業法人の成長も遅れています。極東では、農産物を近隣のアジア諸国から購入する傾向が強まっています。さらに、家族経営の農家はあまり増えていません。そのため、穀物やテンサイ、油脂用の向日葵などは、ほとんどが個人所有の大農場で栽培されています。一方、ソ連時代から認められている農場では、野菜や果物、肉などを栽培し、定期市や路上で販売されています。 【現代ロシアの農業形態】 ロシアの自然環境は南北で異なり、東西に伸びる農業地帯も少なくありません。チェルノーゼムのある黒土地帯では、小麦を中心とした穀物栽培が盛んです。ヨーロッパロシアではライ麦やジャガイモの栽培が盛んで、豚や牛を飼育する混合農業が見られます。沿岸部では漁業が盛んで、日本向けの水産物製造が主な産業となっています。 このように、ロシアの主要作物は、小麦、大麦中心の穀物栽培とジャガイモ、テンサイなどといった耐寒性作物です。中でも、小麦はロシアの主要輸出品目です。ロシアは作物を栽培出来る土地が豊富ですが、単位面積あたりの生産性はヨーロッパに比べると下がります。 商業・サービス業の成長に比べ、工業の再生は各部門で大きく異なっています。ソビエト連邦時代には、ウラル山脈の南部やクズネツク炭田といった場所が、様々な種類の資源を結びつけてコンビナート方式の重工業地帯となりました。コンビナートとは、鉄鉱石や石炭などの資源とそれを利用する産業を結びつけて、計画的に設置された工業地帯をいいます。ソビエト連邦崩壊後、経済の混乱でこれらの重工業は大きな打撃を受け、低迷していましたが、少しずつ回復してきています。 ここ数年、ロシアの製造業が世界的に注目されています。ロシア連邦に加盟して以来、サンクトペテルブルクの港湾や交通網は急速に発展してきました。また、自動車や家電などの産業が大きく変化し、製造業の中心地となろうとしています。2005年には経済特区を設け、外国資本を導入し、欧米や韓国、日本などの企業も入ってきました。2005年には、研究開発のための技術導入区と工場生産のための工業生産区が設置されました。一方、繊維産業を始めとする軽工業は、安価で高品質な外国製品に押され、不振が続いています。 市場経済への転換により、特に第三次産業が成長しました。生産活動が民営化され、価格の自由度が高まったからです。特に携帯電話やインターネットの普及で、通信・情報部門の成長は驚くばかりです。また、商業・サービス業も急成長しました。スーパーマーケットをはじめとする商業施設は、ロシア各地で見られます。 現在のロシアでは、鉱物資源の開発が産業・経済の大部分を占めており、原油や天然ガスの輸出量は世界でも上位に位置しています。西シベリアは、石油や天然瓦斯が多く作られている場所です。以前は、永久凍土から原油や天然ガスを取り出すのに高い費用がかかるため、人々はそれを実行に移せませんでした。しかし、今では、それを実現しようとする動きが加速しています。また、金や鉄鉱石の埋蔵量も世界有数です。 シベリアには、プラチナ、金、銅の鉱山があります。極東には、ダイヤモンド鉱山があります。ヨーロッパロシアでは、沿海州とウラル地方に最も多くの原油と天然ガスが埋蔵されています。チュメニには国内最大の油田があります。エニセイ川やヴォルガ川では、大きな水力発電所が同時に建設されています。 ロシアの対外貿易を見ると、これらの鉱物資源の輸出が外貨獲得の大半を占めているため、資源を加工して付加価値をつける産業が十分に育っていません。また、すでにある油田やガス田の有効利用よりも、新たな鉱脈や鉱床の開発が重視されてきました。そのため、乱開発や自然環境の破壊といった問題が発生しています。 ロシアは天然資源が豊富ですが、国土が広いため、なかなか国が発展しません。首都モスクワと日本海に面したウラジオストクの間には7時間の時差があります。また、地形的に物資の運搬や通信が困難です。エニセイ川以東は山が多く、人も少ないので資源開発が進んでいません。鉄鉱石を除き、ロシアの鉱物・エネルギー資源の多くは、東部と北部に偏って分布しています。そこで、シベリア鉄道やバム鉄道、パイプラインなどの長距離輸送路を整備し、これらの資源を輸出して国内で利用出来るようにしました。 北極を中心に描かれた地図を見ると、カナダ、アメリカ、日本、中国、EUが、世界最大の国であるロシア(EU)に寄り添っています。つまり、ロシアは世界経済に大きな影響を与える国々に囲まれているため、地理的・経済的に有利な立場にあります。 ロシアは、資源大国です。シベリアや北極海沿岸には石油や天然瓦斯などの地下資源がたくさんあり、石油や天然ガスを中国や日本に送るパイプラインの建設も計画されています。しかし、現時点、エネルギーの結びつきはEU諸国が中心です。サハリン(樺太)の石油や天然ガス、極東ロシアの石炭、海産物、木材などが日本への重要な輸出品となっています。
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※後日、本文を大幅加筆する予定です。 参照:中学校社会 地理/南アメリカ州 工業化される以前のブラジルは、単一作物による農業国でした。輸出の約7割がコーヒーでした。現在も世界最大のコーヒー輸出国ですが、ブラジルの全輸出量のうちコーヒーは3%程度に過ぎません。 ブラジルは1960年代末から1970年代初めにかけて、年率10%以上の経済成長を遂げました。これはブラジルの奇跡と呼ばれました。外国資本の援助と輸入代替工業化政策を取って、工業を近代化したからこそ実現出来ました。ブラジルは、安価な労働力を利用して産業構造を変え、重化学工業を発展させました。その結果、それまで多くの重化学工業製品を輸入していたブラジルは、自国で製造を開始しました。 ブラジルの経済は急成長しました。しかし、物価が年間25〜30%上昇し、累積債務問題、金融危機もあったため、不況も経験しました。その都度、政府は輸入を自由化し、国有企業を売却しました。これによって物価の上昇が止まり、経済が再び成長するようになりました。また、1995年にはMERCOSUR(南米南部共同市場)が設立され、ラテンアメリカの経済が立ち直れるようになりました。その後も経済成長に大きく貢献しています。MERCOSUR(南米南部共同市場)は、経済を改善するための地域経済統合です。アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラ、ボリビアが加盟しています。ブラジルはMERCOSURで重要な役割を果たす一方、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国とともにBRICsに加盟し、世界経済への影響力を強めています。 赤道付近を流れるアマゾン川の流域の気候は熱帯雨林気候である。なお、アマゾン川流域の熱帯雨林や、ラテンアメリカの熱帯雨林のことをセルバという。 アマゾン川流域の地域の農業では、キャッサバなど熱帯の作物を栽培するのが盛んである。 (※ アフリカの熱帯でのキャッサバ栽培と類似。) 焼畑農業が主流。(※ アフリカの熱帯と、類似。) そして、ラテンアメリカの熱帯雨林の周辺にあるブラジル高原(カンポ)やオリノコ川流域(リャノ)の気候は、サバナ気候である。(※ アフリカの熱帯の周辺にもサバナ気候がある。類似。) ブラジル高原あたりをカンポという。 オリノコ川流域をリャノという。 1960年以前のブラジルではコーヒー豆の生産が有名だった。しかしブラジルでは1970年代ごろから、サトウキビや大豆の生産が盛んである。とはいえ、ブラジルのコーヒー豆の生産量は世界1位である。(コーヒー豆生産の2位はベトナム、3位はコロンビア) ブラジルは大豆の生産量で世界2位。(大豆生産の世界1位はアメリカ合衆国、3位はアルゼンチン) ブラジルの大豆生産地は、赤道からは、やや外れた、ブラジル高原南部にある。 バナナは、ブラジルが世界でも有数の生産量。(バナナ生産量はエクアドルが世界1位。) このように、ブラジルの農業は多角化が進んでいる。 アルゼンチンでは、ラプラタ川流域に、パンパと呼ばれる草原地帯がある。パンパでは肥沃な黒色土(パンパ土)が分布している。 また、ラプラタ川流域で、大豆の生産が盛ん。 パンパには、降水量の比較的多い湿潤パンパと、降水量の少ない乾燥パンパがある。乾燥パンパは農業に向かず、羊などの放牧などに利用される。 湿潤パンパが農業に利用される。湿潤パンパで、小麦やトウモロコシやアルファルファなどが栽培される。 大土地所有制のエスタンシアが残っている。 なお、アルゼンチンの住民には、ヨーロッパ系白人が多い。 チリ沖合は寒流であるペルー海流が流れるため、上昇気流が生じにくく、降水量は少ない。 そのために北部は砂漠気候でありアタカマ砂漠が分布するが、南部は偏西風域内にあるためその影響が強く、西岸海洋性気候である。 なお、アルゼンチン南部のパタゴニアにも砂漠があるが、これは、偏西風の、山脈の風下側にあるため。(チリ北部の砂漠と、アルゼンチン南部の砂漠は、発生原因が違う。) 降水量の少ないチリ中部では、ブドウの栽培が盛ん。(ブドウは降水量が少なくても育ちやすい。日本の甲府盆地などを思い出そう。) ペルーなど、アンデスの山岳地帯での農業は、低地ではトウモロコシや周辺諸国の農産物と同じような作物を栽培しているが、しかし標高が高くなるにつれて小麦やジャガイモやトウモロコシなどが栽培される。 さらに標高が上がり、さらに寒冷になると、耕作限界をこえるので、リャマやアルパカなどの家畜を放牧する。 なお、ペルーの住民には先住民のインディオが多い。 (※ 定期試験レベルの基礎知識) ラテンアメリカの先住民のインディオはモンゴロイド(黄色人種)。 ラテンアメリカには混血人種が多い。白人(コーカソイド)とインディオとの混血をメスティソという。白人と黒人との混血をムラートという ラテンアメリカの黒人の先祖は、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人(ネグロイド)である。 つまり、ラテンアメリカの黒人は、アフリカ系黒人である。 ラテンアメリカには、白人とインディオとの混血であるメスティソや、白人と黒人との混血であるムラートも多い。 西インド諸島のハイチやジャマイカに、黒人が多い。この理由は、サトウキビなどのプランテーションの労働力として、黒人がハイチやジャマイカなどに移住させられたからである。 (※ 入試で問われやすい) キューバは白人の割合が高い国であり、キューバでは全人口のうち65%が白人である(スペイン系の移民が多かったので)。また、キューバの人口の残り35%のほとんどは、黒人よびムラートである。つまりキューバにインディオおよびメスチソは、ほぼゼロ%である。 (キューバの黒人は、日本ではマスコミ報道などで比較的にキューバ白人よりも話題にはなりやすいかもしれないが、じつはあまりキューバ黒人の人口比は多くない。) キューバなどのカリブ海諸国を除くと、ラテンアメリカの大陸側の国(ブラジルやペルー、アルゼンチンなど)は、じつは黒人はあまり多くなく、白人以外の人種は、先住民およびメスチソ(先住民との混血)がほとんどである。 例外的に(大陸側では)コロンビアは、黒人およびムラートが合計20%ほどである。日本人の視点からはコロンビアが地理的にアメリカ合衆国に近いので目立つので、ついつい「ラテンアメリカは黒人も多いかも?」と錯覚いがちだが、じつはコロンビアが例外的に黒人が多いのである。 ブラジルは人口の40%ちかくが混血であるが、白人系の混血なのか黒人系の混血なのか、ハッキリしない。 アルゼンチン、ブラジルは、白人の割合が高い。(統計の取り方によっては、チリも白人の割合が高い国に含める場合もある。) 特にアルゼンチンは白人の割合が高く、全人口の97%ほどを占める(2010年統計)。 同じくアルゼンチンの隣国のブラジルは、白人の割合が高く、48%である。 隣国のチリはメスチソの割合が高いが、このメスチソも白人と先住民との混血のことであり、チリのメスチソおよび白人の割合は、ほぼ95%である。 また、アルゼンチン、ブラジルは先住民・インディオが少ない国でもある。(ただしブラジルはメスチソが多い。つまり、混血が進んでしまっており、純度の高い先住民は残ってない。) アルゼンチン、ブラジル、チリとも、先住民の人口は10%未満である。 まとめると、 いっぽう、(アルゼンチンの北隣にある)ボリビアや(ボリビアの隣の)ペルーは、先住民・インディオの割合が高い国であり、人口の50%ほどがインディオ系である。 ラテンアメリカでアルゼンチン、ブラジル、チリ以外の国は、白人の割合が少なく、白人は全人口の10〜20%ほどである。 たとえばボリビア・ペルーで、その国の全人口のうち白人の占める割合が15%ほどである。エクアドルやコロンビアも同様に、全人口のうち白人の占める割合が10%〜20%ほどである。 漁獲高が高い。アンチョビ(かたくちいわし)を、魚粉(フィッシュミール)にしてから輸出する。 住民の多数がインディオ。インカ帝国があった場所はペルーのあたり。 ペルーの首都はリマ。 ペルーは銅の産地。 ペルー海流の影響で、太平洋側が砂漠気候。しかしペルー東部には森林などが広がる。 ペルー中央に、アンデス山脈が走る。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。 (※ 範囲外 :)治安はあまり良くない。貧富の格差は大変大きい。 ボリビアの首都のラパスは標高4000m以上。ラパスは世界一標高の高い首都といわれている。ボリビアは内陸国。スズの産出地。住民の多数がインディオ。 ボリビアのウユニ塩原の地下に、大量のリチウムが存在している事が分かっており、開発などが進められている。 国民の多くは貧しく、経済的格差は世界の中でも大きい。  (※ 範囲外 :)治安も良くない。 チリの国土は南北に細長い。南北で気候が違う。 チリ北部は砂漠気候。チリ南部は、偏西風の影響を受けるため、西岸海洋性気候。そのあいだのチリ中部は地中海性気候であり、ブドウの栽培が盛ん。 政治や経済は良い状態にある。 (※ 範囲外 :)治安もラテンアメリカの中では良い国。但し貧富の差は大きい。 ベネズエラは産油国であり、OPEC加盟国。 貧富の格差は非常に大きい。 エクアドルは赤道直下に位置する。バナナの輸出国。また、エクアドルからは原油も算出し、産油国であり、OPEC加盟国である。 エクアドルの首都キトは標高2000m以上の高山都市。 コーヒーの輸出国。 コロンビアの首都ボゴタは標高2000m以上の高山都市。 コロンビアはエメラルドの世界的な産地である。 (※ 範囲外: )反政府ゲリラがはびこり、殺人や誘拐が多く大変治安が悪い。コカインの産地でもある。貧富の格差も相当大きく、失業率も高い。 ブラジルの公用語はポルトガル語である。(スペイン語ではない。) 第二次大戦後に、開発のおくれた内陸部を開発させるため、1960年にブラジルは首都をそれまでのリオデジャネイロから、内陸部のブラジリアに移転させた。つまり、現在のブラジルの首都はブラジリアである。 さらにアマゾンの熱帯雨林を開発するため、1970年代にアマゾン横断道路(トランスアマゾニアンハイウェー)を建設した。 ブラジル高原南部の土壌は、玄武岩が風化してできたテラローシャである。テラローシャは肥沃であり、コーヒー栽培に適している。 テラローシャは、赤紫色。ポルトガル語で「テラローシャ」とは「紫の土」という意味。 いっぽう、ブラジルの熱帯雨林地帯では、雨が強すぎて養分を流してしまうので、ブラジルの熱帯の土壌のラトソルは養分がすくない。 近年の農業では、サトウキビの生産が盛んであり、またバイオエタノールの生産も盛ん。バイオエタノールの原料は、サトウキビやトウモロコシなどである。 バイオエタノールは、エタノール車の燃料。 メルコスールは、域内の関税撤廃と、域外との共通関税をしている。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合が多い。ブラジルは世界で一番日系人が多い。 (※ 範囲外: )治安はとても悪く世界的に見ても犯罪が多い国である。貧富の格差は極端である。 白人はイタリア移民の子孫が多い。 ブラジル南東部のサンパウロとリオデジャネイロで工業が盛ん。 機械類、自動車、鉄鉱の生産が、ブラジルの工業では盛ん。 ブラジルは鉄鉱石の産地。カラジャス鉄山やイタビラ鉄山で、鉄鉱石が産出。 また、ブラジルはボーキサイトの産地でもある。一般に、ボーキサイトは熱帯雨林の地帯で産出することが多い。熱帯のつよい雨が、ボーキサイト以外のさまざまな成分を流してしまうが、ボーキサイトは流されずに、残るからである。 マンガンも産出する。 白人が多く特にイタリア系が多い。首都はブエノスアイレス。 草原のパンパには、温暖湿潤気候の湿潤パンパと、ステップ気候の乾燥パンパがある。年間降水量500mmの境界線が目安。 パンパ東部は、湿潤パンパ。 パンパ西部は、乾燥パンパ。 農業については、湿潤パンパでは小麦、大豆、とうもろこし、アルファルファなどを生産。乾燥パンパでは、羊の放牧が行われている。 パタゴニアは砂漠気候。パタゴニアが乾燥する理由は、偏西風がアンデス山脈にさえぎられて、パタゴニアは(偏西風の)風下側になるため。 1950年代まで裕福な先進国だった過去を持つ。 住民のほとんどが白人。小麦や大豆や肉類などを生産する農業国。政治や経済はチリに次ぐ水準である。 (※ 範囲外 :)治安も比較的良い。かつては南米のスイスと言われ福祉制度が充実していた時期がある。 1908年頃からブラジルに、日本人が農場などの労働者のための移民として、移住した。そのため、ブラジルには日系移民が多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。 キューバやジャマイカなどと、南アメリカ大陸とのあいだの海を、カリブ海という。 いっぽう、キューバやジャマイカなどと、メキシコと、アメリカ合衆国の南部とのあいだの海は、メキシコ湾である。 キューバやジャマイカなどを「カリブ海諸国」という。 住民にメスチソが多いが、インディオも多い。 なお、メスチソとは、白人とインディオとの混血のこと。(つまり、キューバなどカリブ海諸国と比べたら、メキシコでは黒人系(ムラートなど)の人口の割合は少ない。) (※ 入試で問われるのは、どの人種が多いかだけでなく、どの人種が少ないか、が問われやすい。) 首都はメキシコシティ。メキシコシティは、人口2000万人を超える大都市で、世界有数のプライメートシティである。 メキシコシティでは、人口の増加や流入などに、政治が追い付かず、不法占拠によるスラムが拡大している。このスラム街は都心から離れた山の斜面や、大都市の郊外に形成されている。ちなみに発展途上国のスラム街は郊外、先進国のスラム街は都心部に形成される傾向がある。 また、メキシコシティは、周辺を山に囲まれた、盆地状の地形である。 メキシコシティ自体も、標高2000m以上の場所にある。 メキシコシティで、自動車の排気ガスなどによる大気汚染が悪化してる。原因として、盆地状の地形であるため、空気が滞留(たいりゅう)しやすいことも一因だろうと考えられている。 メキシコの経済については、1994年に、NAFTA(読み:ナフタ、北米自由貿易協定)を、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3か国が結成した。 メキシコ湾岸から原油が産出されるため、メキシコは産油国。ただし、OPECには、メキシコは加盟していない。 輸出品は、機械類、自動車、原油。 (※ 範囲外 :)国の治安は大変悪い。世界的に見ても犯罪の多い国である。 貧富の格差も大きいとされる。 1959年にキューバ革命が成功し、それ以降から社会主義国。現在も社会主義国のまま。 また、このキューバ革命により、それまで企業や地主などが所有していたサトウキビ農園が、国有化された。 また、このキューバ革命により、ソビエト連邦の勢力圏に入り、いっぽうでアメリカ合衆国との関係は悪化。 人口は、黒人系の混血(ムラート)の人口が多い。(つまり、メスチソ(先住民と白人との混血)は少ない。) 現在も、アメリカとの関係は悪い。 2015年1月アメリカ合衆国と国交回復交渉 同年7月国交回復 キューバやバハマは観光地として有名であり、地理的近接性も相まってグレナダなど周辺国よりも観光客は多い。(※ 範囲外:)キューバは治安が良いとされる。貧富の差も少ない。 フロリダ半島から離れるほど、観光客が減少するという統計的な傾向が知られている。(2017年度センター試験で、カリブ海諸国の観光客の2010年度の統計がある。) (※英語教科書) 日本のある英語教科書でキューバが紹介されたことがある。医療費の安さ(ほぼ無料)、医師の人口が比較的に多い、大学などの教育費の安さ、などの特徴があった(掲載当時。掲載時期は未確認)。キューバの公用語はスペイン語。 1804年にフランスから独立。黒人が多い。公用語はフランス語。近代最初の、黒人による独立国。 国民の80%は貧困層である。 ブルーマウンテン山などの場所で、ブランド名も「ブルーマウンテン」で、コーヒー栽培が盛ん。 黒人が多い。ボーキサイトの産地。公用語は英語。 (※ 範囲外: )国の治安は世界の中でも最も悪い。
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削除依頼中 当ページ「高等学校歴史総合 (通常版)/日本の領土をめぐる問題」の削除依頼が提出されています。今後当ページに加えられた編集は無駄となる可能性がありますのでご注意頂くとともに、削除の方針に基づき削除の可否に関する議論への参加をお願いします。なお、依頼の理由等については削除依頼の該当する節やこのページのトークページなどをご覧ください。 日本には、国際法などに照らして日本固有の領土であっても、近隣諸国と領土をめぐって問題が発生している地域があります。 北方領土、竹島、尖閣諸島は、いずれも日本固有の領土ですが、北方領土はロシアが、竹島は韓国が不法に占拠しており、また、尖閣諸島は日本政府が実行支配し、領土問題は存在しないものの、中国などが領有権を主張し、挑発を繰り返しています。 ここでは、北方領土、竹島、尖閣諸島が日本固有の領土になった経緯を見ていきましょう。 北方領土、尖閣諸島、竹島はどのような経緯で日本固有の領土になったのだろう。 北方領土、尖閣諸島、竹島の現状はどのようなものなのだろう。 17世紀前半には、蝦夷地(北海道)の南部を支配していた松前藩が北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)や樺太について調査を行っていたこともあって、江戸幕府が作成した地図には、国後島、択捉島、得撫島などの島名が書かれていました。 こうした島々では、18世紀の半ばから、ロシア人が進出し、日本人の住民との間で対立が起こっていました。そこで幕府は、これらの島々を直接統治すると決め、国後島から択捉島までの調査を行い、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を立てました。1801年(享和元年)には、約100人の南部藩と津島藩の兵隊を常駐させて、これらの島々を守備しました。 1855年(安政元年)には、幕府はロシアとの間で日露和親条約を締結し、択捉島と得撫島の間に国境が定められ、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は名実ともに日本固有の領土になりました。樺太については、国境を定めず、両国民の混住の地としました。 明治に入った1875年(明治8年)には、樺太・千島交換条約を締結し、日本が樺太を譲ることと引き換えに、得撫島より北の千島列島の島々を日本の領土とすることになりました。 その頃、日本人が開拓を進めていた北方領土では、多くの日本人が移住し、海産物の加工や畜産などが行われるようになりました。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結時には、約1万7000人の日本人が暮らしていました。 第二次世界大戦後の占領から独立するために、サンフランシスコ講話条約が締結されると、千島列島を放棄することになりましたが、北方領土は放棄に含まれなかったため、これまで通り、日本の領有権が維持されました。 しかし、1945年(昭和20年)にソ連が国際法に違反して北方領土を侵略し、北方領土を不法占拠していたため、戦後、日本の実行支配が及ぶことはありませんでした。日本政府は、日本固有の領土である北方領土を不法に占拠したソ連に抗議しましたが、返されませんでいた。 その後にソ連が崩壊し、ロシアになった後も北方領土に対する不法占拠は続きました。日本政府は、ロシアに抗議し、北方領土を返還するよう求めていますが、未だに返還されていません(2022年現在)。 1980年(昭和55年)には、日露和親条約が締結された2月7日を「北方領土の日」とすることが国会で決まりました。 島根県の隠岐島の北西にある竹島は、古くは「松島」と呼ばれていました。 17世紀初期から江戸幕府が鎖国政策の中で、竹島への渡航を認め、あしか猟が行われるようになりました。また、竹島の西にある鬱陵島(当時はこの島を「竹島」と呼んでいた。)にあわび漁やあしか猟に行く際の航海の目印や停泊地としても活用され、遅くとも17世紀半ば頃には、日本は竹島に対する領有権[1]を確立しました。 竹島(松島)でのあしか猟は、明治時代の終わり頃から本格化し、多くの漁民が猟を行うようになり、民間の竹島利用がさかんになりました。 こうした中、隠岐島民が、安定した猟のために竹島を島根県に編入することを政府に願い出ました。これを受けて政府は、1905年(明治38年)1月に竹島の編入を閣議決定して、正式に「竹島」と命名し、名実ともに日本固有の領土となりました。 こうして政府は、竹島の領有の意思を再確認しました。 竹島でのあしか猟は、戦争がはじまる1941年(昭和16年)まで続きました。 第2次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約においても、韓国は竹島の領有権を主張しましたが、日本固有の領土であることが認められ、日本の領有権は維持されました。 しかし、竹島の領有権を主張する韓国は、1952年(昭和27年)、国際法に違反して日本海上に一方的に李承晩ラインを引き、ラインを超えたとする日本漁船を銃撃・拿捕・抑留しました。1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を侵略して、竹島を不法に占拠しました。李承晩ラインが廃止されるまでの間に、約4000人もの日本人が抑留され、おびただしい数の人々が殺害されました。 日本政府は、こうした韓国の行動に対して厳しく抗議し、国際司法裁判所へ付託して決着をつけることを1954年以来から提案していますが、韓国が応じていません。 竹島の不法占拠は、2022現在まで続いています。2005年(平成17年)には、島根県議会が竹島の編入を告示した2月22日を「竹島の日」と定めました。 もともと尖閣諸島は、どの国にも属さない無人島でしたが、東シナ海を行き来する船に航路標識として認識されていました。 1885年(明治18年)から日本政府は、尖閣諸島について沖縄県を通じて現地調査を行い、無人島であることや当時の清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、日本の領土であることを示す標柱を立てることにしました。こうして尖閣諸島は、日本固有の領土になりました。 尖閣諸島では、19世紀末から日本人による開拓が本格化し、多くの人々が移住しました。多い時には、200人以上の人々が暮らしていました。 中心となった魚釣島では、「古賀村」という集落も生まれ、尖閣諸島の開拓が進みました。漁業を中心に、かつお節の製造や羽毛の採取などが行われてきました。 こうした尖閣諸島に対する実行支配は、現在も及んでおり、領土問題は存在しません。 1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国などが領有権を主張するようになりました。 そして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島の海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きました。 その後、2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して武装した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の脅威に警戒しています。
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日本と世界の歴史から、これまでのスポーツの状況を振り返ってみましょう。 イギリスで近代スポーツが始まった頃、労働者は娯楽としてスポーツを楽しむようになりました。同時に、学校でもスポーツが重視されるようになりました。鉄道の発達により、学校同士で交流試合をするようになり、地域によって異なっていたルールも統一されました。 明治時代、アメリカから野球、イギリスからサッカーが日本に伝わりました。野球は1878年、開通間近の官営鉄道の作業員が最初のチームを作り、高校生の間にも広まり、現在の大学のような形になりました。イギリスを手本に、スポーツは学校のカリキュラムに加えられ、主に人格形成のために行われてきました。 大正時代の日本では、健康や趣味のためにスポーツをする人が増えました。同時に、各競技の団体が次々と設立され、高等女学校の生徒を中心に女性の間にもスポーツが広まりました。それでも、女性がスポーツに親しんでいる姿を当時気に入らない人もいました。 野球はアメリカ合衆国で生まれ、1871年にプロのリーグ戦が始まると、国民的スポーツになりました。日本では、1915年に全国中等学校優勝野球大会が始まりました。一方、1934年にアメリカの大リーグの選抜チームが来日して、1936年に日本でプロ野球が始まりました。このように、スポーツ観戦は私たちにとって娯楽の1つとなりました。 明治時代以降、柔道、剣道、空手など日本生まれの近代的な創作武道が世界的に人気を集め、競技人口も増えました。また、俗に日本の国技とされる相撲も外国人力士が増え、スポーツ全般が国際的になってきています。 スポーツの大衆化、競技としてのルール整備、国際的な競技大会の開催などが背景にあります。 代表的なイベントとして、1896年にギリシャのアテネで初めて開催された近代オリンピックがあります。 近代スポーツの発展には、身体教育の普及が大きく関わっています。 近代スポーツは、スポーツ文化の発展にも大きく貢献し、スポーツが社会的な意義を持つことを示し、多くの人々がスポーツに関心を持つきっかけとなりました。 一方で、競技の商業化やドーピングなどが問題となっています。また、必要以上に過酷な練習や精神的負担なども問題となっています。
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夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)で、8月15日の正午に試合が中断され、皆が黙って立っているのをご覧になりませんか?日本では、8月15日は戦争で亡くなった人達を追悼して、平和を祈る日となっています。8月15日は、なぜこのような特別な日になったのでしょうか? 1945年8月14日に「終戦の詔書」が発表され、1945年8月15日正午にラジオで天皇陛下が自ら読み上げる録音が流れました(玉音放送)。「終戦の詔書」は、ポツダム宣言を日本が受け入れ、第二次世界大戦の終結を皆に知らせるための天皇陛下の命令でした。残された多くの下書きを見ると、この文章が何度も変えられています。1945年8月15日、新聞各紙は「終戦の詔書」を掲載しました。 8月14日から8月15日にかけて、世界中の人々が終戦のお知らせを聞きました。上の資料『ヒロシマ日記』から、終戦をどのように感じていたかが伝わってきます。 資料から、どんな歴史を学べたでしょうか。8月15日はどんな日になると思うか考えてみてください。
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16世紀以降、アジアの交易ネットワークが繁栄し、ヨーロッパ諸国も参加するようになりました。その結果、世界的な交易ネットワークが形成されました。アジアの経済は、日本やアメリカ大陸の銀が多く使われ、大交易時代を迎えました。 17世紀前半、江戸幕府はキリスト教の普及を恐れ、日本人の海外渡航と帰国を禁止しました。また、外国船の来航を禁止し、長崎ではオランダと中国にしか貿易を許しませんでした。一方、朝鮮との貿易や外交は、対馬藩が担当し、朝鮮は通信使を送りました。琉球王国は明(後の清)に朝貢を納め続け、薩摩藩は琉球王国を支配し、日本に慶賀使や謝恩使を送りました。松前藩は、蝦夷地北部のアイヌとの交易を許され、中国から物資を入手するためにアイヌを利用しました。江戸幕府の外交政策は、後に「鎖国」と呼ばれるようになりました。 この時期、中国は明清交代期の動乱が続いており、清朝は厳しい海禁政策を採用しました。この政策により、民間人の海外渡航や貿易が困難になりました。また、1661年から1684年にかけて、清朝は沿岸に住む人々を内陸に強制移住させました。さらに、気候の寒冷化により、ヨーロッパの経済は減速し、アメリカや日本での銀の製造・販売も停滞しました。17世紀後半、大交易時代は終わりを迎え、東アジアの国家が外交を担当するようになりました。 一方、東アジアの各国は長い間安定していたため、経済的にも緩やかな成長を続けていました。日本では農業やその他の産業が発展し、海運や河川舟運、街道などのインフラが整備され、全国的に物を売る市場が形成されました。このため各地に都市が発展し、江戸、大阪、京都は世界でも有数の大都市となりました。 近世東アジアの国際秩序は、明朝、朝鮮王朝、日本などの国々の間での政治的、経済的、文化的な交流によって形成されました。この期間は、約1400年から1800年まで続き、明朝が衰退し、清朝が台頭するなど、東アジアの政治的な勢力図が大きく変化しました。 東アジアの国際秩序は、中国を中心として展開されました。中国は、周辺諸国との貿易や交流を行い、文化や技術の伝播に大きな役割を果たしました。また、中国は、周辺諸国との紛争解決や外交交渉にも積極的に取り組みました。 一方、朝鮮王朝は、中国との関係を重視し、明朝の皇帝に朝貢し、交易を行いました。また、朝鮮は、日本や琉球などの周辺国との貿易も行い、文化や技術の交流を進めました。 日本は、江戸時代に入ると、鎖国政策をとり、外交交渉を制限しました。しかし、オランダや中国、朝鮮との貿易は続けられ、蘭学や洋式技術の導入が進められました。 近世東アジアの国際秩序は、東アジア各国の交流や文化の交流、そして外交交渉によって形成されました。
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18世紀、清の経済的な成果はどの程度だったのでしょうか。 清は、18世紀の中国を支配していました。満州族は北東アジアに住んでいたため、17世紀前半に清朝を建国しました。1644年に首都を北京に移し、中国を支配するようになりました。清は、17世紀初めから20世紀前半まで、260年以上にわたって中国を支配しました。この間、モンゴルやチベットまで統治しました。この清朝の領域は、現在、中華人民共和国が支配しています。 18世紀、清朝は産業と商業を急速に発展させました。税金は現金で納めなければならなかったので、お茶や綿布、陶器などの商品が各地で作られ、川や運河で運ばれました。商人達の出身地同士が結びつき、都市で商売をするようになりました。また、荒れ地や山地でも育つトウモロコシや薩摩芋などのアメリカ原産作物も広まりました。人々の生活や社会が安定するようになり、人口も大きく増えていきました。 強大な力を持ち、急速に発展した清は、アジア各国にとって、その結びつきが重要でした。清の冊封制度によって、朝鮮・琉球・ベトナム・タイ・ビルマ(現在のミャンマー)の間で貿易が行われました。しかし、日本は清のように冊封体制に入っていなかったので、政治的に無関係でした。17世紀末、清が朝貢しない民間貿易を認めると、中国商人はアジア各地に渡るようになりました。日本や東南アジアから、鱶鰭、鮑、海鼠など、今でも中華料理に使われる海産物が大量に輸入されました。また、銅や鈴などの鉱産物も多く輸入されました。長崎は日本と中国商人が出会い、商売をする場所でした。ヨーロッパ各国もアジアと貿易を行いました。清からお茶や陶磁器などを買い、その代金を銀で支払っていました。 貿易や商売が盛んになり、清の人口も増えると、東南アジアに移住する人が増えました。彼らは華僑と呼ばれます。華僑とは、中国(華)からやってきて、一時的に別の場所(僑)に住んでいた人達をいいます。華僑は東南アジアの貿易や物流で大きな力を持ち、東南アジアの発展にとって非常に重要な存在でした。
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18世紀のイギリスでは、中国のお茶やインドの綿織物など、「アジアの豊かな産物」が人気を集めました。同時に、イギリスは大西洋三角貿易で大きく儲けました。イギリスの世界貿易は、各地でどのような変化をもたらしたのでしょうか。 15世紀後半、ポルトガルやスペインが大西洋経由でアジアへの航路を開くと、西欧諸国はアジア・アフリカ・南北アメリカ大陸へと広がっていきました。16世紀中頃、スペイン人は南アメリカのポトシ銀山を発見すると、先住民に過酷な労働をさせて銀を採掘させました。その銀は海を渡ってヨーロッパに渡りました。17世紀になると、オランダはヨーロッパ経済の拠点となりました。イギリスとフランスは、17世紀後半に北アメリカやカリブ海の西インド諸島に植民地を築きました。 アメリカ大陸とヨーロッパを結ぶ大西洋貿易は、熱帯・亜熱帯の植民地で栽培される主食用作物が中心でした。プランテーションでは、これらの商品作物をヨーロッパ人向けに多く栽培していました。プランテーションとは、熱帯や亜熱帯で、外国に販売するために一種類の作物だけを育てている大規模な農場をいいます。18世紀に入って、西インド諸島や北アメリカ南部から、砂糖・珈琲・煙草がヨーロッパに大量に運ばれるようになりました。その結果、ヨーロッパ人の暮らしは大きく変わりました。 先住民が初めてプランテーションで働くようになりました。しかし、過酷な労働と病気のために先住民の人口が急速に減ると、西アフリカから多くの黒人が輸入され、奴隷として働かされるようになりました。ヨーロッパの奴隷商人達は、アフリカの部族間の戦争につけこんで、敗者から奴隷を買い取りました。18世紀、ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカ植民地を結ぶ大西洋三角貿易は、ヨーロッパ諸国の世界的貿易拠点となりました。 17世紀から18世紀にかけて、西ヨーロッパでは大西洋三角貿易の利益を巡って戦争が続きました。特に、イギリスとフランスは、アジアやアメリカ大陸の各地で植民地戦争を行いました。18世紀中頃、イギリスは北アメリカ大陸の北部と東部を支配するようになりました。また、インドは当時ムガル帝国が統治していましたが、ムガル帝国は名目上だけ存在していました。その後、イギリスが勝利して植民地化を進めました。 東インド会社は、イギリスの貿易発展に役立ちました。中国から茶を、インドから綿織物(キャラコ)を購入しました。1600年、インドに貿易会社(東インド会社)が設立されました。植民地政府として、貨幣の発行権や軍隊の運営権も持っていました。しかし、中国は18世紀中頃になると、広州1港しか貿易が出来なくなったため、イギリスは徐々に自由貿易を推進するようになりました。 18世紀に入って、イギリスは国際貿易や植民地経営で他国を大きく引き離しました。その中に、大西洋三角貿易も含まれていました。首都ロンドンは国際貿易の中心地となり、そこで儲けたお金で国内の産業を発展させて、産業革命を実現しました。こうして19世紀、イギリスは世界で最も力強い経済大国となりました。
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「琉球」「蝦夷地」は、近世の日本では「異国」「異域」として考えられていました。薩摩藩は琉球王国との関係を、松前藩は蝦夷地との関係を担当しました。江戸幕府は、異民族や異国を「抑える」ための軍役(防備を固める義務)と引き換えに、彼らに通商特権を与えました。 19世紀に入ると、外国の船が琉球付近に現れるようになり、特にアヘン戦争後にやってきたフランス船は、琉球王国との取引を希望していました。また、マシュー・ペリーが日本にやってきた頃、彼は琉球に行き、友好通商条約を結びたいと頼みました。これがきっかけとなり、1854年に琉球とアメリカは修好条約を結びました。この時、琉球は清の年号を利用しても構わないという条約だったため、琉球が日本と清の「二重所属」になっていても、幕府としては問題になりませんでした。 しかし、明治新政府になると、「二重所属」をやめて、日本政府の単独運営にするための作業が始まりました。まず、1872年、琉球王国の王であった尚泰が琉球藩王となりました。その結果、彼は貴族となり、外務省が外交権を担当するようになりました。また、1875年には清国への朝貢をやめて、中国の福州にあった琉球館を廃止しました。琉球士族は日本への一方的な併合に反対していましたが、1879年に廃藩置県=「琉球処分」が行われ、沖縄県が作られました。 「琉球処分」の結果、琉球諸島の所有者をめぐって清との間に対立が生まれました。この対立は、日清戦争まで続きました。日清戦争は、台湾を日本に渡して平和的に終わりました。この間、明治政府は、琉球の古い制度をそのまま残す「旧慣温存」政策から、日本に溶け込む同化政策に少しずつ切り替えていきました。 一方、18世紀末からロシア帝国が徐々に南下して、蝦夷地支配を強めると、江戸幕府はそれまでの北方政策を変更しました。1802年、東蝦夷地は直轄地となりました。1807年には、松前と蝦夷地全域が直轄地となりました。「同化主義」(内国化)が推し進められ、日本の風習に近い形に無理やり変えようとしました。1821年まで、蝦夷地は江戸幕府の直轄地でした。 マシュー・ペリーが長崎に着いてからしばらくして、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に着きました。1855年、日露和親条約が結ばれました。日露和親条約で1855年に日本とロシアの国境が決まると、幕府は北方防衛を強化して、蝦夷地の実権を握るために、再び直轄支配を行うようになりました。それまでの直轄化に比べて、内国化はさらに進められました。 明治維新後も、北海道開拓使はこの政策を継続しました。アイヌは一般住民の一部とされ、その伝統的な習慣は禁止されました。北海道に対する日本の支配が強まる中、1875年に締結された樺太・千島交換条約によって、北方の国境が定められ、近代的な領土主権が定められました。 この条約によって、樺太と北千島のアイヌの人達は、日本とロシアのうちどちらかに所属しなければなりませんでした。北海道に移住した樺太アイヌは、石狩川流域の対雁に強制移住させられました。石狩川流域の対雁では、農耕に適応出来ず、やがて天然痘やコレラで人口の半分が亡くなるなど、大きな犠牲を払いました。
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産業革命は、経済や社会にどのような影響をもたらしたのでしょうか。 18世紀後半、イギリスで産業革命が始まると、農業を中心とした社会から工場を中心とした社会へと大きな転換が起こりました。イギリスでは、古くから良質の羊毛を原料として毛織物を作っていました。18世紀後半には、世界貿易を支配して、多くの植民地を持つようになりました。その結果、産業発展のための多くの資金と海外の広大な市場へのアクセスを手に入れて、どちらも産業の発展に貢献しました。 17世紀以降、イギリスはインド製の綿織物(キャラコ)をどんどん買っていました。高品質で安価なキャリコに対抗するため、イギリスは自国の綿織物をより多く生産するための新しい方法を考えなければならなくなりました。そこで、1733年にジョン・ケイが飛び杼を作り、1760年代から1770年代にかけて、3種類の紡績機が作られると、綿糸の生産量が増えました。次に、織物産業の生産性を上げる必要があり、1780年代には力織機が作られました。ジェームズ・ワットが蒸気機関を改良する以前は、水の力で物を動かしていました。道具を使っていた生産が、機械を使って行われるようになると、綿製品の生産量は大きく伸びました。 生産部門が盛んになると、流通部門も盛んになり、原材料や完成品を運ぶシステムの整備に力を入れました。まず、道路や運河が整備されました。1820年代にジョージ・スティーブンソンが蒸気機関車を実用化すると、陸上での移動は一気に鉄道が主流となり、鉄道網が全国に広がっていきました。鉄道の発明により、人や物を大量に、長距離を短時間で移動出来るようになりました。また、帆船に代わって蒸気船が作られ、海上での移動がより安全で効率的になりました。 産業革命が進むにつれて、資本主義社会が発展しました。資本主義社会では、物を作るのに必要な機械や工場を持つ産業資本家が、労働者を雇って生産労働を行い、お金を稼ぐようになりました。また、マンチェスターやバーミンガムなどの工業都市、リバプールなどの貿易港など、交通の重要な拠点に位置する都市が急速に発展していきました。こうして、田舎からこれらの都市に移り住む人々も急速に増えました。 当時の労働条件は悪く、1日10時間以上働かなければなりませんでした。機械生産の結果、単純労働が必要となり、賃金の安い女性や子供も働かなければなりませんでした。このような状況の中で、労働者は徐々に自分達の置かれている状況を意識し始め、賃金の引き上げ、労働時間の短縮、政治的権利の獲得などを求めて、力を合わせ始めました。労働運動の目標は、より高い賃金、より短い労働時間、より多くの政治的権利を手に入れようと考えました。同時に、資本主義を批判して社会問題を解決しながら、より平等な社会を実現しようとする社会主義思想も生まれました。
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産業革命は19世紀から始まり、国際貿易はイギリスを中心に発展しました。また、世界中の企業が協力して仕事をするようになりました。産業革命によって、欧米やアジア各国の交流はどのように変化したのでしょうか。 産業革命の結果、イギリスは世界金融の中心地となりました。「世界の工場」「世界の銀行」と呼ばれ、高品質で安価な製品を大量生産して世界中に輸出しました。様々な意味で、イギリスは他国よりも経済的に恵まれていました。一方、他国は自国の産業を成長させようとしながら、イギリス商品の流入を防ごうとしました。イギリスは、国内外を問わず関税や貿易制限を問題視したため、経済上の自由主義が推進されました。19世紀中頃までに、フランス・ベルギー・ドイツ・アメリカなどで資本主義が採用されました。産業革命の頃に、ロシアや日本も資本主義が採用されました。 19世紀中頃、産業革命が各国に広がり、イギリスを中心とした世界経済体制が整備されました。後発資本主義国は、イギリスとその後継者が、東ヨーロッパ・中南米・アジア・アフリカなどを服従させました。その後、製品市場や原料・食料の供給地とするように社会と経済を変化させました。こうして、欧米やイギリスにとって都合の良い世界市場が誕生しました。 イギリス東インド会社がインドを経営していた頃、イギリス製の安価な綿製品によって、伝統的な手作りの綿織物産業は大きな打撃を受けました。以降、インドの農村では、綿花・藍・ケシなど、海外に売るための作物を育てなければなりませんでした。インドの国民は、イギリスのやり方を嫌って、1857年にインド大反乱を起こしました。イギリス政府はこの反乱を鎮圧すると、東インド会社を解散させ、インドを直接支配するようになりました。1877年、インド帝国はイギリスのヴィクトリア女王に譲渡されました。 また、イギリスは中国(清)を乗っ取ろうとしました。イギリスは清から茶などを大量に輸入しましたが、輸出が悪かったので、清は茶と引き換えに銀を大量に手に入れました。イギリスは、制限貿易の清と貿易を開放しようとしましたが、断られました。そこで、ケシ製の麻薬アヘンを、インドから中国に密輸しました。また、イギリスからインドへ綿花を送り、清からイギリスへ茶や絹織物を送る三角貿易も整えました。このため、清から多くの銀が流出し、清は金とアヘン中毒に悩みました。清がアヘンの密輸をやめると、イギリスは制限貿易をなくす機会と見ました。1840年、艦隊を組んで清を攻撃しました(アヘン戦争)。イギリスはアヘン戦争の勝利後、1842年、清と南京条約を結びました。1843年、追加条約が結ばれましたが、追加条約も清に不利な条文が含まれていました。その後、清は他の欧米諸国とも不平等条約を結びました。その代償として、香港・広州・上海など5つの港の自由貿易と、多額の賠償金を手に入れました。
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1853年、アメリカ人のマシュー・ペリーが指揮する東インド艦隊が浦賀に到着しました。マシュー・ペリー艦隊は、1852年にアメリカ東海岸のノーフォークを出航して大西洋を横断しました。その後、アフリカ大陸の喜望峰を経由してインド洋方面に出航して、香港、那覇まで半年以上かけて航海していました。1840年代、アメリカはメキシコとの戦争に勝利して、カリフォルニアなどを手に入れました。また、太平洋の向こう側にあるアジアへの関心も強まっていました。マシュー・ペリーは、日本にアメリカへの国境開放を求める大統領からの手紙を渡し、香港に向かいました。1854年、マシュー・ペリーは再び日本へ向かいました。江戸幕府と話し合い、日米和親条約を締結しました。日米和親条約の内容に下田と箱館の開港、アメリカ船への物資の供給、漂流者の救助などが盛り込まれていました。 1858年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を締結させ、神奈川を含む5港を自由貿易地域とすると宣言しました。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で安政五カ国条約が結ばれました。1859年には、横浜、長崎、函館が開港しました。これらの条約は、日本にとって不公平で不利な条約でも、中国の南京条約と違って、戦争に負けた後に結んだ条約ではなく、交渉によって結ばれました。したがって、賠償金や領土の譲渡を伴わないし、外国人が日本国内を旅行するのを困難にして、日本の独自性を保っていました。 日本の開港は、当時の人々の世界旅行のあり方を変えて、イギリスが世界市場を作るのに大きく役立ちました。 1850年代以降、スクリューとエンジンの性能向上は、蒸気船の航行性能に大きな違いを生み出しました。つまり、より遠くへ、より速く行けるようになりました。1867年、アメリカの海運会社が、マシュー・ペリーで有名な太平洋横断航路を開設しました。その結果、船は初めて世界を一周出来るようになりました。さらに1869年にはスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したため、世界一周がより簡単に、より速く出来るようになりました。 そうして、アジアとの貿易が盛んになり、欧米とアジアの経済的な結びつきが強くなっていきました。その中で、かつての日本の開港は、東アジアに燃料となる石炭を大量に供給して、アジアを拠点とする定期汽船航路網を維持・発展させるために重要でした。
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野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。 野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。 1909(明治42)年11月20日、野麦峠で飛騨の工女が兄の背中に乗りながら亡くなりました。まだ20歳の少女で、名前は正井みねといいました。 労働基準法も工場法もない時代、労働者は朝早くから夜遅くまで、食事も休憩もとらずに働かされていました。病気になれば即「クビ」でした。 産業革命後、イギリスでは労働条件を改善しながら、労働者の生活様式を守るために工場法が制定されました。1833年に制定された工場法では、9歳以下は働いてはいけないと定めました。また、18歳未満の者は夜中に働いてはいけないと定めました。また、12時間労働を定めて、工場に監督者を置きました。1844年になると、女性労働者を保護するための法律が追加されました。1847年には、女性と子供は1日10時間しか働いてはいけないと定めました。 一方、日本では1911年に「工場法」という法律が成立しました。工場法は、ヨーロッパに留学していた若い官僚達が作った法律です。その内容は、次の通りです。 しかし、工場法が施行されたのは、成立から5年後の1916年でした。その理由は、紡績業や製糸業の資本家が反対運動を展開したからです。結局、若者や糸を紡ぐ女性は、昭和元年の1929年まで、夜中も働いていました。 日本では、工場法がイギリスより遅れて施行されました。その理由は、資本家が労働者の生命や健康を守るより、国家の軍事力や企業の利益を強化する方が重要だと考えたからです。 工場で働くために刑務所に行くような感じだ♪ 稼いだ金の鎖を手放せない♪ 工場労働者は、籠の鳥や刑務所の刑務官よりも大変だ♪ 上の歌にあるように、日本の資本主義は、こうした若い女性を踏み台にして、女性労働者の労働力だけでなく、生命まで奪って成り立っていました。
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吹奏楽部をブラスバンドと呼ぶ人がいます。ブラスバンドには金管楽器と打楽器がありますが、ブラスバンドは「管楽器と打楽器の合奏、つまり弦楽器を持たないオーケストラ(『新版吹奏楽講座』)」なので、異なります。動物の骨や角、木、金属などで作られた管楽器は、太古の昔から戦争や儀式に使われてきました。ところで、金管楽器を見て何を思い出すでしょうか。トランペットが最初です。他にもチューバ、コーネット、ホルン、トロンボーンなどがあります。金管楽器とは、マウスピースを口にくわえて、唇を動かして演奏する楽器を指します。 近世ヨーロッパでは、誰が主導権を握っているかを示すために、トランペットを使っていました。しかし、当時のナチュラルトランペットは限られた音(自然倍音)しか出せず、メロディーは高音域で唇を動かして演奏するしかなく、かなりの技術が必要でした。一方、ホルンは、昔は角笛でしたが、均一な音にするため、金属製になりました。18世紀に入ると、ホルンはクルークと呼ばれるパイプに置き換えられるようになりました。これによって、様々な音色に調整出来るようになったので、トランペットよりも多くの種類の音楽に使われるようになりました。イギリスでは18世紀半ばに工業化が始まり、18世紀末にはフランス革命が起こりました。この2つの出来事が、金管楽器を大きく変えていきました。 まず、工業化によって紡績機や織機が高速化されました。この変化に対応するため、木製の機械から金属製の機械へと変わっていきました。同時に、蒸気機関も実用化されました。蒸気機関にはピストンやシリンダーが必要なので、高精度の工作機械を使って作らなければなりません。金属で物を作る精度が上がり、1810年代にはドイツで角型のピストンバルブを持つホルンが作られるようになりました。バルブを押したり回したりすれば、バルブの長さを変えられました。その結果、それまで金管楽器でしか演奏出来なかった半音の音階を、他の楽器でも簡単に演奏出来るようになりました。 こうした変化以前に起こったフランス革命によって、宮廷に仕えていたトランペット奏者達は仕事を失ってしまいました。彼らはギャルド・ナシオナルと呼ばれる近衛兵の新しい楽団に入り、屋外や市民が建てた大きなホールで演奏しました。また、彼らはフランス音楽院の講師もしていました。彼らはトランペットより短いコルネットにバルブをつけ、美しいメロディーを演奏するようになりました。 一方、イギリスでは、労働者の健康的な娯楽として、ブラスバンドが奨励されていました。19世紀は、金管楽器の価格が下がり続けた時代でした。19世紀、金管楽器の価格は下がりつづけました。工業化によって、原料金属の精錬、部品の共通化、電気メッキやペンダントメッキなどの新しい技術の採用が進んだからです。労働者達は、バルブ付きで演奏しやすいコーネットやサックスホルンの練習に励みました。そして、安く大量生産された楽譜を手に、演奏を楽しんでいました。
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18世紀の終わり頃、アメリカやフランスで起きた革命は、これまでとは違う社会の実現を求めました。革命は、新しい考え方や生き方を広めて、現代の世界にも大きな変化をもたらしています。革命に参加した人逹は、どのような社会を望んでいたのでしょうか? 18世紀後半、イギリスはアメリカ東海岸にある13の植民地に対して、増税を行いました。その背景には、フランスとの戦争で発生した財政赤字を解消するためでした。イギリス本国では、議会が国の政治に大きな役割を果たすようになっていました。しかし、植民地は議会に対して、自分達の代表を送りませんでした。植民地は「代表なくして課税なし」と訴えて、1775年に独立戦争を開始しました。1776年7月4日、民主政治の基本的な考え方を示した独立宣言を採択しました。イギリスは、ヨーロッパ諸国が植民地を援助したため、孤立してしまいました。1783年、イギリスは植民地を独立させました。こうして、アメリカ合衆国が建国されました。1787年、アメリカ合衆国憲法が発布されました。アメリカ合衆国憲法は、人民主権と三権分立の考え方に基づいています。その後、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任しました。 フランスでは、絶対王政ともよばれる君主制が敷かれ、第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)は、税金を払わなくてよいなどの特別な特権を手に入れました。しかし、大半の国民からなる第3身分(平民)に政治的権利はありませんでした。旧体制(アンシャン・レジーム)とは、このような社会構造の総称です。 1789年、イギリスとの戦争で国の財政が苦しくなった時、国王ルイ16世は3つの身分の代表からなる小委員会を招集し、特権的身分への税金のかけ方を考えさせました。しかし、この問題で議会の意見は分かれました。その後、国王は、第三身分の者を中心に構成されていた国民議会に圧力をかけていきました。1789年7月14日、怒ったパリ市民がバスティーユ牢獄に突入して、フランス革命が始まりました。1789年8月、国会は人権宣言を採択して、基本的人権、国民主権、私有財産権は侵害されないとしました。1791年には憲法が制定され、1793年には国王が殺害されました。この時点で、国は共和制になりました。 フランスは共和制の中で、特権をなくし、兵役の義務化を始めるなど、いろいろな改革を行いましたが、政治は不安定でした。国王の処刑や革命の拡大を恐れた各国との戦争が続き、人々が安定を求める中、ナポレオン・ボナパルトという軍人が政権を握りました。ナポレオン・ボナパルトはフランス革命に終止符を打ち、1804年に民法典(ナポレオン・ボナパルト法典)を制定して、革命が成し遂げてきた成果を積み重ねていきました。ナポレオン・ボナパルト法典は、私有財産の安全、誰もが法律で同じように扱われ、人々が自由に取引出来るようにしました。1804年、国民投票により皇帝に選出され、戦争により周辺諸国を次々と服従させて、ヨーロッパの大部分を支配しました(ナポレオン帝国)。しかし、1812年、ロシアの敗戦とフランス支配に対する各地の民族主義の台頭により、1815年にナポレオン・ボナパルトの帝国は崩壊しました。 フランス革命とナポレオン帝国の支配は、ヨーロッパ人に「国民」としての意識を植え付け、誰もが自由と平等を尊重されなければならないという思想を広めました。こうした考え方によって、世界は大きく変わりました。
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欧米では、19世紀に立憲主義によって国民国家が台頭してきました。しかし、各国で様々な政治運動が展開されるとともに、国民国家とは何かをもっと知りたいと思う動きもありました。それぞれの国民国家が抱えていた問題をどのように解決しようとしたのでしょうか。 ナポレオン戦争の後、ヨーロッパでは新しい国際秩序(ウィーン体制)が成立しました。ウィーン体制は、大国間の協力に基づく内容となっており、各国の領土や支配体制はフランス革命以前の状態に戻っていました。しかし、各地のナショナリズムや自由主義運動が国民国家の結成を後押ししました。小国に分かれていたイタリアやドイツは統一国家を求め、ロシアやオスマン帝国の諸民族は独立運動を始めました。フランスでは1830年に民衆が王の支配に反抗して(7月革命)、1848年には共和制を敷きました(2月革命)。それがヨーロッパ全土に影響を与えて、「諸民族の春」と呼ばれる革命が続きました。結局は鎮圧されましたが、自由と独立を求める民衆の声を無視出来なくなりました。 ドイツ北東部のプロイセン王国の首相を務めたオットー・フォン・ビスマルクは、軍事力を使ってドイツ全土をまとめようと考えていました(鉄血政策)。普仏戦争は、強力な軍隊を持つプロイセンが勝利しました。1871年、プロイセン王は立憲君主制であるドイツ帝国の初代皇帝となりました。オットー・フォン・ビスマルクは帝国首相として、ドイツ語を話す人々の同胞意識に基づく国民国家の建設に取り組みました。 イスラーム教のトルコ系戦士を中心としたオスマン1世は、13世紀後半にアナトリアでオスマン帝国を建国しました。その後、15世紀半ばにイスタンブールを制圧して首都としました。1600年代の最盛期には、アジア、アフリカ、ヨーロッパを含む広範囲に渡って支配しました。イスラーム教の最重要都市メッカとメディナを支配しました。オスマン帝国では、イスラーム教徒(イスラーム教徒)が政治を行っていましたが、様々な宗教・民族が緩やかに共存していました。しかし、民族運動は、ナショナリズムと西洋からの妨害によって、ますます活発になっていきました。これを受けて、オスマン帝国政府は欧米列強に対抗するため、近代化・改革を進めました。同時に、非イスラムイスラーム律で平等に扱われるように、国をまとめようとしました。 19世紀前半、アメリカは西へ西へと領土を拡大しながら、太平洋岸にたどり着きました。しかし、時代が進むにつれて、貿易政策や奴隷制度をめぐり、南北の対立が深まっていきました。北部では商工業が発展する一方、南部では産業革命後の綿花の需要に応えるため、黒人奴隷が綿花農園で働くようになりました。1861年、奴隷制度に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領になると、南部の各州は連邦から離脱してアメリカ連合国を結成しました。これが南北戦争の始まりです。1863年、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発表して、国内はもちろん、世界中の人々の支持を集めました。1865年、戦争は北軍が勝利して終わりました。 南北戦争では、60万人以上が死亡して、アメリカ史上最悪の出来事でした。その後、連邦政府は国民統合を進めました。1869年には初の大陸横断鉄道が開通すると、中国や東ヨーロッパから来た人々によって経済が発展しました。しかし、奴隷制度廃止後も、南部では人種差別が進み、黒人はしばしば選挙権を奪われました。
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伊藤博文は、岩倉使節団の歓迎式典で、明治維新は短期間で完成して、日の丸は「文明諸国と肩を並べ、前へ、上へと進もうとしています。」と述べました。明治維新はどのような国家を作ろうとしたのでしょうか。また、どのような姿をしていたのでしょうか。 開港後、大名や武士を天皇に近づけ、協力して国内・海外の危機を解決しようとする動きが少しずつ出てきました。その一方で、政治的主導をめぐって尊王攘夷運動が起こりました。そして、薩摩藩や長州藩が幕府をなくそうとするようになりました。1867年、ついに江戸幕府は倒れ、王政復古の大号令によって、天皇を頂点とする新政府が誕生しました。 新政府は、旧幕府領に、1868年から県や府を設置しました。しかし、各大名の支配方法は、どの地域でも一緒でした。1871年、新政府は全ての藩を廃止して、府県を設置しました(廃藩置県)。その結果、全ての権力が新政府に集中するようになりました。つまり、近世の政治体制は廃止され、天皇中心の中央政権に変わりました。江戸時代の終わりから、日本は近代国家になるために多くの段階を踏んできました。これらの段階は明治維新と呼ばれます。明治維新は、ヨーロッパの主要な革命よりも死者が少なく、天皇が権力を行使して社会変革を行ったという事実によって定義されています。 1871年末の脱藩後、岩倉具視を大使とする岩倉使節団が欧米に渡りました。不平等条約を改正するための事前協議という当初の目的は未達成でした。それでも、岩倉使節団は各国の事情をよく理解して帰国しました。この間、西郷隆盛を始め、不在の政府関係者が、学制・徴兵制・地租改正などを推進しました。しかし、大久保利通らが欧米視察から帰国すると、政情不安から政権を奪取しました。彼らは、視察旅行で見聞内容を踏まえて、近代国家の建設を進めました。 当時の清では、曽国藩や李鴻章のような漢人官僚が軍備を整えようと考えていました。彼らは兵器工場や造船所を建設したり、ヨーロッパの技術を利用したりして、これを実現しました(洋務運動)。しかし、近代ヨーロッパの政治制度は、中体西用の方針で、チベットに持ち込まれていません。中体西用とは、中国の伝統的な制度を変えずに、西洋の技術を使う方針です。 1871年、中国と日本の間で日清修好条規が結ばれました。日清修好条規は、日本が朝鮮半島の支配者として清に負けない力を持とうとする内容でした。1875年、江華島事件を起こしました。江華島事件とは、1875年、朝鮮の江華島砲台が、日本の軍艦に対して発砲した事件です。日本の軍艦は測量などをしていたため、朝鮮の一方的な行動を許さず、朝鮮と日本の間で戦争になりました。1876年、日朝修好条規を締結して、朝鮮を開国しました。これに対して、清国は朝鮮への支配を強め、日本と清国の関係はさらに悪化しました。日本は近代国家を目指すため、領土や国境線の整備を進めました。北方では、1875年に日本とロシアで樺太・千島交換条約を締結しました。樺太・千島交換条約によって、日本は千島列島を支配出来るようになりました。1855年の日露和親条約で、択捉島と徳富島の間に国境が定められました。北方領土は択捉島以南の島々で、当時、日本領でした。南方でも、台湾人が琉球人を殺害したため、1874年に琉球人が台湾に派遣されました。1879年、警察と軍隊が琉球に派遣され、沖縄県が設置されました(琉球処分)。1876年、日本は小笠原諸島の領有を欧米諸国に伝え、許可を取りました。1895年と1905年には、尖閣諸島と竹島をそれぞれ日本の領土として編入しています。
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