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約蘭のほかの子孫は参領、佐領、歩軍副尉、護軍、護軍校、防御、員外郎、筆帖式、驍騎校、典儀、長史、歩軍校、鳴贊、同知、侍衛などを務めた。
約蘭の子・達爾漢は副都統を務め、玄孫・額爾特は内閣侍読学士、法喀は副都統兼佐領を務めた。
正黄旗の夏瑚もまた蘇赫徳の玄孫で、ヌルハチ挙兵の最初期に18戸を引率れ帰順、ニルを新設し子・雅琥が統帥した。
雅琥の長子・満達爾漢は武功により騎都尉に叙爵され、後、公主養育の功労で三等軽車都尉に陞叙、恩賜により二等軽車都尉に陞叙、礼部尚書兼佐領を務めた。
第十子・阿哈丹が襲爵し、二度の恩賜を受けた後アモイで殉死、三等男に追叙、子孫は二等軽車都尉を承襲。
満達爾漢の長子・諾穆斉は入関時の戦功により三等軽車都尉に叙爵、子孫が分襲した。
満達爾漢の次子・鄂推は松山の戦で重傷を負い死亡、騎都尉を追叙、その子・察庫が襲爵し、駟院大臣、副都統を務めた。
満達爾漢の第三子・塔晋泰は北京奠都時の功績で騎都尉に叙爵、恩賜を受け長年の功労により二等男爵に陞叙、内大臣を務めた。
その孫の班岱が襲爵し、ジュンガル出征で戦功をあげ、一等男爵に陞叙、副都統を務めた。
子孫は騎都尉兼一雲騎尉を承襲した。
雅琥の第七子・福尔丹の長子・碩爾対は南明永暦帝捕縛の功で騎都尉兼一雲騎尉を承襲。
雅琥のほかの子孫は侍衛、副都統、参領、佐領、護軍統領、冠軍使、歩軍校、筆帖式、主事、協領、驍騎校、牧長、治儀正、鴻臚寺卿などを務めた。
満達爾漢の第五子・多謨克托は内大臣、都統、議政大臣、征逆将軍を務めた。
七子の鄂内は内大臣、都統、議政大臣、征南将軍を務めた。
満達爾漢の孫・鄂克済哈は議政大臣、振武将軍を務めた。
雅琥の第八子・馬福塔は戸部尚書、内務府総管兼佐領、その長子・馬希納は吏部尚書、議政大臣兼佐領,次子・馬爾都は内閣学士、礼部侍郎兼佐領を務めた。
同地にはほかにも姓氏の同じ一族が存在するがハダベイレ一族との血縁関係について註釈がない。
鑲黄旗の阿敦、彰実、正黄旗の達雅理、正白旗の哲爾徳、正藍旗の喀尼穆都珠瑚、鑲藍旗の都琥禅、明安などについては本人あるいは子孫が世職を下賜されている。
達雅理の子・根特は度々戦功をあげ、バートルの称号を賜与され、一等軽車都尉を叙爵されている。
また、明安は、ホイファの博爾済(鑲黄旗)、那木都魯の莽健(正白旗)、同じく那木都魯の満都瑚(鑲白旗)、吉林ウラの謨爾渾らは同族である。
CORONA CITRUS(コロナ シトラス)は、川崎汽船が電源開発向けに運航する石炭運搬船である。
川崎汽船では、1994年竣工の初代「CORONA ACE」以来、水深の浅い日本の石炭火力発電所への電力炭輸送に適した幅広浅喫水の石炭運搬船を「コロナシリーズ」として運航してきた。
その23番目にあたる「CORONA CITRUS」は載貨重量88,000MT級のポスト・パナマックスと呼ばれる船型で、今治造船丸亀事業本部にて建造された。
海洋生態系保護のためバラスト水処理装置を搭載し、2020年に世界の全海域で適用される硫黄酸化物排出規制に対応したSOxスクラバーを導入している。
2023年3月23日、フランスのAIRSEAS社が開発した「Seawing」を同船に搭載することが発表された。
気象データと海洋データをリアルタイムで収集・分析し、一定の風力・風向の条件下においてブリッジからのスイッチ操作で船首に搭載した凧を起動し推力を補助するものであり、展張・格納とも自動で行われる。
この技術により約20%、1隻あたり年間5,200トンの二酸化炭素排出量削減が期待される。
エアバスの部品運搬船ではすでに実用化されているが、日本の電力会社向けの石炭運搬船では初の採用となる。
ヤエヤマノコギリハゼ(八重山鋸鯊、Butis amboinensis)は、ノコギリハゼ科の淡水魚。
マングローブ林の汽水域で、アダンの葉などにくっついていることが多い。
石垣島や西表島、高知県、沖縄島、奄美大島、台湾、アンダマン諸島などの西・南太平洋、インド洋東部の河川河口域のマングローブ林や感潮域際上流域付近のアダンの茂みで生育が確認されている。
日本国内では個体数が少ない。
全長は8~14cm。
細長い体形で、頭は縦扁して鋭く尖っており、両眼間に眼に沿って走る1対の鋸歯列がある。
尾柄が細長く、眼から尾柄にかけて黒色縦帯が現れる場合がある。
胸鰭基部に2つ橙色斑がある。
体表にぬめりがなく、触れるとかたい感触を受け、体色は暗褐色。
腹鰭は2枚に分かれているため、「ハゼ」と名前にあるが、ハゼ科の魚ではない。
河川汽水域の最上流部で淡水の影響が強いところ~感潮域最上流付近までを生息地とし、ヒルギ類の根、倒木の根、水没しているアダンの葉などがあるマングローブやアダンなどの植物帯を好み、このような植物の茎や枝や葉などの裏側に沿って、頭を下にして逆立ちした状態で静止している。
あまり遊泳せず、動物食生。
絶滅危惧IA類に指定されている。
絶滅危惧IA類 (CR)(環境省レッドリスト)
齋藤 和哉(さいとう かずや、1979年 - )は、日本の建築家。
齋藤和哉建築設計事務所代表取締役。
東北工業大学および東北芸術工科大学非常勤講師。
野村 寅三郎 (のむら とらさぶろう、1902年11月30日 - 1985年1月22日)は、日本の交通経済学者。
元日本海運経済学会副会長。
京都市下京区四条通室町東入函谷鉾町生まれ。
1921年京都市立第一商業学校(現京都市立西京高等学校)卒業。
級友に新庄博神戸大学名誉教授がいた。
1924年神戸高等商業学校(現神戸大学)本科第二学年修了。
1927年東京商科大学(現一橋大学)卒業。
内池廉吉ゼミ出身で、専門は交通論。
1928年中央気象台附属測候技術官養成所(現気象大学校)講師。
1929年神戸商業大学助手。
1930年から文部省留学生として、ドイツやウィーン、イタリア、アメリカ合衆国に留学し、レオポルト・マイヤーに師事するなどした。
1933年に龍田丸で日本に戻り、同年神戸商業大学助教授。
1940年叙正六位。
太平洋戦争中は、東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)の赤松要らの南方調査に加わり、大佐相当官として、1942年から南方軍軍政総監部附。
1945年神戸経済大学教授。
1946年勲五等瑞宝章受章。
1948年神戸経済大学経営学専門部長。
1949年初代神戸経済大学準硬式野球部部長。
1950年海技専門学院(現海技大学校)教授併任。
1953年神戸大学経営学部教授、神戸大学評議員、兵庫県建築業審議会委員、神戸船員地方労働委員会委員。
1958年神戸大学経営学部長。
1961年神戸大学評議員、商学博士。
1962年日本港湾経済学会設立発起人。
1964年文部省学術奨励審議会専門委員。
1966年定年退官、神戸大学名誉教授、名古屋学院大学経済学部教授。
名古屋学院大学附属図書館長、日本海運経済学会副会長なども務めた。
1973年勲三等旭日中綬章受章。
1985年叙従三位。
水野 康孝(みずの やすたか、1896年3月3日 - 1987年3月11日)は、日本の大正から昭和時代に活動した作曲家、声楽家、音楽教育者。
元岡山大学教育学部長。
現在の岡山市北区出身。
医事評論家の水野肇は長男。
1896年(明治29年)、岡山市(現在の北区)中山下に生まれる。
1916年(大正5年)に東京音楽学校本科声楽部を卒業し、同校の研究科に所属したが中退ののち大阪市立中大江東尋常小学校(大阪市立中大江小学校の前身校)に音楽専科教員として採用される。
同年内に大阪音楽学校講師となり、1922年(大正11年)に楽劇「百合姫」へ出演。
1923年(大正12年)に日東蓄音機(ニットーレコード)へ入社し、東京へ拠点を移すが関東大震災で被災し大阪へ戻る。
以降、大阪中央放送局『国民歌謡』の歌唱指導、日本音楽コンクール審査員等の活動に従事した。
1930年(昭和5年)に大阪音楽学校を退職し、大阪府女子専門学校教授および大阪市役所視学官を兼務。
1947年(昭和22年)、広島女子高等師範学校を経て翌年より広島大学教育学部教授。
1950年(昭和25年)、広島大学に籍を残したまま郷里の岡山大学教授に着任し、翌年より正式に岡山大学教育学部教授となり学部長に至る。
1957年(昭和33年)、3代目の岡山県庁舎落成を記念して制定された県民歌「岡山県の歌」を作曲し、自らSP盤に歌唱を吹き込んだ。
また、県庁舎の供用開始当日から1991年(平成3年)まで定時に演奏されていたチャイムの編曲も行っている。
1960年、岡山県文化賞を受賞。
1961年に岡山大学を退官して岡山県立短期大学の学長に就任し、1966年(昭和41年)まで務めた。
同年に勲三等旭日中綬章を受章。
晩年は竹久夢二の顕彰団体「郷土夢二の会」会長に就いていたが、1987年(昭和62年)3月11日に死去。
享年92(満91歳没)。水野の作曲作品は日本音楽著作権協会(JASRAC)他の管理団体に権利を信託しておらず遺族が厳重に管理を行っているとされ、新規の録音・演奏等も一切許可しない方針が採られている。
2005年(平成17年)開催の晴れの国おかやま国体開会式での県旗掲揚時には例外的に県民歌「岡山県の歌」の演奏が許可されたが、県のウェブサイトでは一切紹介されておらず県民手帳からも2010年代半ばに削除された。
砂押 貴久(すなおし たかひさ、1987年、東京都生まれ)は、日本のコミュニケーション・プランナー、実業家である。