text
stringlengths
0
999
ハダナラ氏(またはハダナラ・ハラ, 満文:ᡥᠠᡩᠠ ᠨᠠᡵᠠ ᡥᠠᠯᠠ, 転写:Hada Nara hala, 漢語・繁:哈達那拉氏)は、満洲人の著名な姓氏であるナラ(那拉)氏の主要な分派の一。
ハダ(哈達)部主の万(または王台)は、ウラベイレ(烏喇 貝勒)ナチブル(納斉布禄)(→ウラナラ氏)の礽孫。
一族内部の伝承に拠れば金国皇室の後裔。
ナチブルの国は元来「フルン(扈倫)」と謂い、後にその分派がハダ地方に建国してハダナラ氏を名告った。
ナラ氏克習納は明朝嘉靖帝より都督に任命、しかしその後、族人の巴代達爾漢により殺害された。
克習納の長子・徹徹木の子・万は席北部にほど近い綏哈城(現吉林市)に逃げここに移住した。
一方、万の叔父・旺済外蘭はハダ部落へ逃げ、部落の主となった。
明朝は偵寇の功を以て旺済外蘭を都督僉事に任命、しかしその後、旺済外蘭はハダ人の謀叛で殺害された。
旺済外蘭の子・博爾坤舍進は謀叛者を誅殺して父の仇を取り、綏哈城の万を迎えてハダ部主に推戴した。
万は遠国と国交を築きながら周辺国に進軍し、ハダの国を発展させた。
死後、万の子・扈爾干、扈爾干の弟・康古魯、康古魯の弟・孟格布祿が代々部主を継承した。
万はハダベイレを継承し、女真諸部を統一してハン(汗)を称した後、曾て明朝から龍虎将軍に冊封された。
しかし万の死後、ハダ国は徐々に衰退し、清太祖ヌルハチに併合され、一族、部民諸共八旗に編入された。
清代、ハダナラ氏には男爵を賜与された者も数名いたが、後に襲爵の過程で或る者は爵位を剥奪され、或る者は軽車都尉や騎都尉などを分襲した。
民国以降、ハダナラ氏は多く那(nā)、万、王、赫、葉などを漢姓とした。
ナチブル:ウラナラ氏始祖。(「◯数字」はナチブルからみた世代序列。)
1商堅多爾和斉:ナチブルの子。
2嘉穆喀碩朱古:商堅多爾和斉の子。
3都爾希:嘉穆喀碩朱古の子。
4古対珠顔:都爾希の子。
5太蘭:古対珠顔の子。
9アバハイ:満泰の娘。太祖ヌルハチ大妃。
10アイシンギョロ・アジゲ
10アイシンギョロ・ドルゴン
10アイシンギョロ・ドド
8布瞻泰:満泰の弟。
3綏屯:嘉穆喀碩朱古の四子。
4克習納(都督):綏屯の子。
5轍轍木:克習納の子。
5旺濟外蘭:克習納の子。
『八旗滿洲氏族通譜』巻23「哈達地方納喇氏」の目録には以下の人物が記載されている。
・始祖「万」との関係性を遡ることができ、且つ事績が遺っている者。
吳爾瑚達、海塔、卓内。
・始祖「万」との関係性を遡ることはできないが、事績が遺っている者。
阿敦、達雅理、哲爾德、喀尼穆都珠瑚、都琥禪、明安、彰實、赫書、賽図、碩舒堪、英阿、鄂倫、綽爾賽、丹達理、音泰。
・始祖「万」との関係性を遡ることができず、事績も遺っていないが、帰順時期がわかり、任官歴のわかる者。
喀喇、金塔錫、吉那密。
顔岱、錫爾泰、雅克星阿、雅理布、納秦、準拝。
満都瑚、伊札拉費揚古、図努瑚、三台、瑚図理、華喇、拝音布。
阿那布、額爾徳尼、賽布琥、芳凱。
噶爾珠、博羅、瓦渾。
・始祖「万」との関係性を遡ることができず、事績も遺っていず、帰順時期もわからないが、任官歴のわかる者。
喀尼穆、武巴海、巴実。
賚図、倫拝、肇国光。
格都爾備、邁図、義常。
吳爾瑚達は孟格布禄の長子、鑲黄旗。
代々ハダ地方に居住し清初に部民を引率れ帰順。
太祖ヌルハチより吳爾瑚達に公主が、又、吳爾瑚達の子・額森徳礼に郡主が降嫁。
吳爾瑚達の部下は八旗に分属、残りはニルに編入、吳爾瑚達の孫・克什訥がこれを統轄。
尋いで克什訥は三等男爵を承襲、頭等侍衛に任命。
克什訥の子に肯特(元・二等侍衛)、孫に長清(現・筆帖式)、曾孫に瑪達納(現・中書)。
孟格布禄の次子・聶克色は職能と忠誠を評価され三等軽車都尉に叙爵。
三度の恩賞で一等軽車都尉兼一雲騎尉に陞叙。
死後、聶克色の次子・渾布(太僕寺少卿兼佐領)が襲爵、しかし疾病を理由に引退し、渾布の子・寧安(佐領)が、恩賞による加増分を除いた三等軽車都尉を承襲。
死後、寧安の子・福綬(現·佐領)が襲爵。
聶克色の長子に聶赫(元・三等侍衛)、三子に拉哈(元·頭等侍衛兼佐領)、四子に兌親(元·三等侍衛)、孫に盛安(現・都統刑部侍郎)、塞爾特(元・佐領)、来布(元・員外郎兼佐領)、拜善(元・御史兼佐領)、雅爾都(元・藍翎侍衛)、曾孫に喀通阿(現・生員)。
海塔は吳爾瑚達の実伯・旺錫の子(吳爾瑚達の従兄弟)、鑲黄旗、代々ハダ地方に居住、元・明朝の広寧遊撃。
太祖ヌルハチが広寧に進攻した際、海塔と海塔の実伯・薩穆哈図の孫・達爾琥(海塔の従甥)は投降、共に二等軽車都尉を承襲。
後、海塔は騎都尉に降格。
死後、海塔の子・噶達渾が襲爵、三度の恩賞で二等軽車都尉に陞叙、江西、湖広に出征し、建昌府(現江西省撫州市)で邵連登ら率いる敵兵八万余を撃破、後、武岡州(現湖南省武岡市)、双井舗(現湖南省邵陽市)地方で呉国貴(将軍)ら率いる敵兵二万が抗戦、これを撃破、戦功により一等軽車都尉に陞叙、参領に任命。
死後、噶達渾の子・桑格が襲爵、副都統などを歴任、疾病を理由に引退し、桑格の実兄の孫・兆祥が恩賞による加増分を除いた騎都尉兼一雲騎尉を承襲。
海塔の孫に錫特庫(元・三等侍衛)、噶爾薩(元・筆帖式)。
達爾琥もまた騎都尉に降格、その後、三度の恩賞で二等軽車都尉に陞叙。
死後、達爾琥に継嗣なく、実弟の子・巴達克図、孫・保住、曾孫·珠爾瑪らが代々襲爵。
珠爾瑪にも継嗣なく、雍正11(1733)年子孫断絶。
達爾琥の大叔父の玄孫・額盛額が恩賜により雲騎尉を承襲。
卓内は万の孫、鑲藍旗、代々ハダ地方に居住し、清初に帰順、廃員として錦州に出陣し戦死、騎都尉に追叙、ヌルハチよりギョロ(覚羅)氏を下賜。
卓内の子・羅絡が襲爵、礼部侍郎兼佐領などを歴任、後、除免。
羅絡の実弟・錫特庫が襲爵、尋いで吏部理事官に昇官、職能を評価され騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、流賊討伐に従軍し揚子江で敵の船を奪取、武功をあげ三等軽車都尉に陞叙。
死後、錫特庫の子・徹爾貝が襲爵、恩賞により二等軽車都尉に陞叙。
死後、徹爾貝に継嗣なく、徹爾貝の実伯・労漢が襲爵、二度の恩賞で一等軽車都尉兼一雲騎尉に陞叙、後、恩賞で得た騎都尉が剥奪(降格)。労漢の実弟の子・隆錫庫が二等軽車都尉を承襲、チャハルブルニ(布爾尼)に出征し、大鹵地方で奮戦し敵兵撃攘、武功により一等軽車都尉に陞叙、副都統などを歴任。
死後、隆錫庫の子・鄂密達が襲爵、青州将軍などを歴任、後、除免。
鄂密達の大伯父の曾孫・桑格が恩賞による加増分を除いた二等軽車都尉を承襲。
卓内の孫に碩倫(元・前鋒侍衛兼佐領)、曾孫に費約色(元・驍騎校)、阿密達(元・甘粛布政使)、羅密達(元・護軍参領)、舒密達(元・副都統)、玄孫に鄂善(元・延建邵道)、阿倫(現・佐領)、舒徳(現・筆帖式)、舒明(現・筆帖式)、費揚古(現・中書)、舒常(現・副都統兼佐領)。
蘇巴海は万の叔・旺濟外蘭(王忠)の曾孫、鑲白旗人、代々ハダ地方に居住し、清初に満洲人200人を引率れ帰順、ニルを編成し長子・莽果がこれを統轄。
莽果の子に馬拉(元・副都統)、洪納理(元・佐領)、孫に馬緝(元・都統、鎮安将軍兼佐領)。同じく孫の喀爾啓は護軍校として湖広に出征、荆州府(現湖北省荆州市)より江寧に出て加勢し、楊文英(都督)らの敵兵を撃破、江西に進軍し撫州府(現江西省撫州市)を包囲、攻勢に出た賊兵を撃破、死後、戦功により雲騎尉に追叙。
喀爾啓の子・喀爾岱が襲爵、疾病を理由に引退し、喀爾岱の子・納福が襲爵。
莽果の曾孫に巴晋泰(元・二等侍衛)、斉格(元・参領兼給事中)。同じく曾孫の常賚は広東布政使から雲南巡撫旋に昇官、刑部侍郎に任命、勅命により寧夏將軍印務を署理、後、鎮安将軍に任命され率兵しジュンガル(準噶爾)征討、度々戦功を立て、尋いで副将軍に任命、内大臣などを歴任。
同じく曾孫に存住(現・郎中)、玄孫に納爾賽(元・佐領)、納瞻(現・佐領)、納善(現・員外郎)、薩爾泰(現・筆帖式)、玉格(現・筆帖式)。
蘇巴海の次子・唐武(元・佐領)の子に薩爾岱(元・前鋒参領)、阿爾岱(元・頭等侍衛)、孫に六格(元・員外郎)、碩色(元・筆帖式)、曾孫に達舒(現・三等侍衛)。
蘇巴海の三子・星鼐は職能と忠誠を評価され騎都尉を叙爵、後、北京に向い順義県城を攻略、騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、尋いで工部理事官に昇官、五年後、職能を評価され三等軽車都尉に陞叙、流賊征討に従軍し、延安(現陝西省)、池州(現安徽省池州市)などで度々武功をあげ、滕吉思を追逐、トゥシエト(土謝図)汗および碩羅汗らの兵を撃破、戦功により二等軽車都尉に陞叙、後、工部侍郎に昇官、三年後、職能を評価され一等軽車都尉に陞叙、三度の恩賞で二等男爵に陞叙、後、除免、更に罪状に鑑み騎都尉を剥奪、一等軽車都尉兼一雲騎尉に降格。
死後、星鼐の長子・成格が襲爵、協領に任命、後、除免。
成格の子・臣布(現・佐領)は恩賞による加増分を除いた一等軽車都尉を承襲。
星鼐の次子に成徳(元・佐領)。
蘇巴海の四子・錫納海の子に巴什(元・護軍参領)、孫に巴達(元・員外郎)、韋馱保(元・筆帖式)、愛音布(元・驍騎校)、曾孫に赫順(現・驍騎校)、玄孫に清福(現・筆帖式)。蘇巴海の五子・伊納海の孫に陶禅(元・筆帖式)、曾孫に通保(現・筆帖式)。
蘇巴海の六子・倭赫(元・関口守御)の子に喜峰口(元・筆帖式)。同じく子の党愛は六品典儀として雲南に出征、石門坎(現貴州省)、黄草壩(現貴州省興義市)地方で何継祖(将軍)らの敵兵を度々敗り(三藩の乱)、雲南城を出て抗戦する胡国秉(将軍)の兵一万余を撃破、戦功により騎都尉を叙爵、後、オイラト(厄魯特)ガルダン(噶爾丹)に出征、奮闘し賊兵を撃攘、武功により騎都尉兼一雲騎尉に陞叙、副都統兼佐領などを歴任。
死後、党愛の子・占布が襲爵。
死後、占布の実弟の子・保福(現・佐領)が襲爵。
倭赫の孫に金布(元・佐領)、顔布(現・護軍校)。
蘇巴海の実兄・納穆達理の子に納穆(元・副都統)、孫に拉塔(元・参領)、曾孫に蘇禅(元・筆帖式)、納海(元・筆帖式)、玄孫に納親(元・筆帖式)、羅察(現・驍騎校)、来孫に霊官保(元・驍騎校)、黒格(現・驍騎校)。蘇巴海の実弟・阿布海の孫に塔岱(元・驍騎校)、曾孫に台什(元・筆帖式)、玄孫に塞克(現・護軍校)。
正紅旗の約蘭は嘉穆喀碩朱古の三子・蘇赫徳の玄孫で、子・懋巴里は軽車都尉を賜与され、ニルを新設して統轄した。
約蘭の孫・図爾寨は戦功により三等軽車都尉を叙爵され、子孫の碾転は二等軽車都尉を承襲。
約蘭の孫・噶達渾は度々の戦功により二等男爵に陞叙、後に一等軽車都尉に降格、兵部尚書や都統兼佐領を務め、太子太保を追謚、子の噶爾漢が襲爵し、荆州将軍を務めた。
子孫は恩賜による加増分を格下げされ、二等軽車都尉を承襲した。
約蘭の孫・克普図は戦功により三等軽車都尉を恩賜され、子孫は雲騎尉を承襲。
約蘭の孫・額貝は度々戦功をたて、薊州の戦いで殉死、騎都尉を追叙。
約蘭の曾孫・瓜什哈は七品官を務め、雲南に出征して馬宝(呉将軍)と交戦し殉死、雲騎尉を追叙。
約蘭の曾孫・瑚巴はジュンガルに出征し戦功をあげ、雲騎尉を追叙。
その孫・色穆徳が襲爵し、色穆徳の弟・色貝はジュンガルに出征して殉死、雲騎尉を追叙。
玄孫の古尔拝は三藩の乱でチャハル、湖広、雲南などに出征し、雲騎尉を叙爵。