passage_answer_candidates
stringlengths
97
16.1k
question_text
stringlengths
1
65
document_title
stringlengths
1
54
language
stringclasses
1 value
annotations
stringlengths
215
227
document_plaintext
stringlengths
14
173k
document_url
stringlengths
32
399
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 198, 462, 667, 884, 964, 1641, 2429, 3273, 3611, 4742, 5650, 6029, 6566, 7703, 8429, 9149, 9838, 10252, 10837, 11306, 11872, 12096, 12219, 13632, 14433, 14699, 15080, 16785, 18017, 18543, 19119, 19431, 19539, 19809], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 197, 461, 666, 883, 956, 1640, 2408, 3272, 3610, 4722, 5649, 6028, 6543, 7702, 8428, 9135, 9837, 10251, 10836, 11305, 11871, 12095, 12218, 13615, 14432, 14682, 15072, 16774, 18000, 18514, 19104, 19423, 19524, 19783, 19860], dtype=int32)}
プロテインキナーゼを発見したのは誰
大村智
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
大村 智(おおむら さとし、1935年7月12日[1] - )は、日本の化学者(天然物化学)。北里大学特別栄誉教授。2015年ノーベル生理学・医学賞受賞。 微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに480種を超える新規化合物を発見し、それらにより感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に貢献している。 また、化合物の発見や創製、構造解析について新しい方法を提唱、実現し、基礎から応用までの幅広く新しい研究領域を世界に先駆けて開拓している。 研究以外では、北里研究所の経営再建、女子美術大学への支援や私費による韮崎大村美術館の建設、学校法人開智学園名誉学園長を務めるなど貢献業績がある。 勲等は瑞宝重光章、紫綬褒章、文化勲章などを受勲。 概要 山梨県北巨摩郡神山村出身。天然物化学分野の研究に従事した。アベルメクチンを発見し、それを基にイベルメクチンの開発に取り組んだ。イベルメクチンは抗寄生虫薬として活用されるようになり、寄生虫感染症の治療法確立に貢献した。また、アベルメクチン以外にも、生涯にわたり170を超える新たな化学物質を発見している。これらの功績から、2001年には日本学士院の会員に選定され、2012年には文化功労者となっている。2015年には、日本人で3人目となるノーベル生理学・医学賞を受賞した[2]。 また、社団法人時代の北里研究所においては副所長や所長を歴任し、研究所の財政再建に尽力するとともに、メディカルセンター(現・北里大学メディカルセンター)の設置を推進した。同法人の立て直しに道筋を付けるとともに、学校法人北里学園との統合を果たし、新たな「学校法人北里研究所」の発足に漕ぎ着けた。そのほか、教育分野では学校法人女子美術大学の理事長を2度にわたり務め、学校法人開智学園の名誉学園長を務めた[3]。そのほか、自身のコレクションを基に韮崎大村美術館を設立し、その館長を兼任している[4]。 座右の銘は「至誠天に通ず。」 来歴 生い立ち 山梨県北巨摩郡神山村(のちの韮崎市)の農家に、5人兄弟の2番目の長男として生まれた。耕作や家畜の世話などの家業に従事していたため、高校卒業まで、勉強はほとんどしていなかったというが、後年農作業が勉強になったと述懐している。また、高校では、スキー部と卓球部で主将を務めるなどスポーツに熱中し、国民体育大会の選手にも選出されるほどだった。高校ではスキー部だけでなく、韮崎スキークラブにも入部し、そこで山梨県スキー連盟役員・山寺巌氏と出会っている。山寺巌の指導を受けてクロスカントリーに励み、県主催の第7回山梨県スキー選手権大会長距離高校生の部で3位入賞している[5][6][7][8]。 1954年、山梨県立韮崎高等学校を卒業後[9]、山梨大学学芸学部(現・教育学部)自然科学科へ進学した。大学では丸田銓二朗に師事し、クロマトグラフィーを習得したものの、成績は不振だった[10]。1958年、山梨大学学芸学部自然科学科を卒業した[11]。 大学卒業後、理科の教諭を志したが、地元山梨での採用がなかったため、埼玉県浦和市(現・さいたま市浦和区)に移住[12]、東京都立墨田工業高等学校定時制に5年間勤務し、物理や化学の授業で教鞭を執った[10][13]。学業に熱心に励む高校生に心打たれ、もう一度勉強し直したいと考え、1960年、東京教育大学の研究生となり、中西香爾に師事した[10]。中西香爾の紹介で1960年、東京理科大学大学院理学研究科都築洋次郎の研究室に所属し[14]、高校教諭として働きながら1963年、東京理科大学大学院理学研究科修士課程を修了した[11][15]。大学院の修士課程を終えるのに2年ではなく3年を要したのは、大学院1年目で取り組んだ実験が、横浜国立大学の篠田耕三教授と同じテーマで先に論文が発表され、そこで、東京理科大学の森信雄講師の下、大学院2年目からオキシ酸分子内の水素結合を調べる研究に変更したためである[16]。 研究者として 1963年、文部教官として採用され、山梨大学の工学部発酵生産学科の助手となり、加賀美元男研究室でブランデーの製法の研究に従事した[15]。1965年、山梨大学を退官し、社団法人である北里研究所にて技術補として採用された[11]。小倉治夫の下で抗生物質を研究し、ロイコマイシンの構造を解明した。1968年、北里研究所での「Leucomycinに関する研究」により東京大学から薬学博士の学位(論文博士)を授与され、北里大学薬学部助教授に就任した。また1970年には「ロイコマイシン、スピラマイシン及びセルレニンの絶対構造」により東京理科大学から理学博士の学位を授与されている。理学博士の学位取得後、20年間に渡り東京理科大学薬学部非常勤講師を務めている[17]。 1971年には、ウェズリアン大学の客員教授も兼任することになった[11]。これはカナダの国際会議で知り合ったアメリカ化学会会長のマックス・ティシュラーに対して留学を打診し、採用に至ったものである。メルク・アンド・カンパニーからの研究費も獲得することに成功した[15]。 アメリカで研究を続けようと考えていたが、退職する秦藤樹の研究室を引き継ぐために帰国することになった。日本に帰国し、1973年に北里研究所にて抗生物質研究室の室長に就任した[18]。また、メルク・アンド・カンパニーとの共同研究を開始した[10]。1975年、北里大学薬学部教授に就任した。その間大村研究室は多くの研究者を育て、31名の大学教授と120名の博士を輩出した[10]。 法人の経営再建 財政が悪化していた北里研究所(当時は社団法人)を再建するため、1984年に北里大学の教授を辞職し、北里研究所の理事として副所長に就任した。経営学と不動産学を学び、北里研究所の再建に尽力した。1989年には、大村の提案により「北里研究所メディカルセンター」(現・北里大学メディカルセンター)を設立した。設立に際しては、大蔵省からの埼玉県北本市の国有地土地取得と、反発する地元医師会との折衝役を務めた。1990年には、北里研究所の所長に就任した。また、1985年からは、北里学園の理事も務めていた[11]。北里研究所の再建に道筋を付けた上で、学校法人北里学園との統合を果たし、法人の名称を「学校法人北里研究所」に変更した[10]。統合を果たした2008年、北里研究所の所長を退任した。なお、学校法人となった北里研究所においては、2008年から2012年6月にかけて名誉理事長を務め、2012年からは顧問を務めている。 なお、北里大学では再び教鞭を執っており、2001年には大学院の研究部門である「北里生命科学研究所」にて教授に就任し、初代所長も2003年まで兼務した。また、北里大学の大学院教育部門である「感染制御科学府」においても、2002年から2007年まで教授を務めた。これまでの功績により、2007年には北里大学より名誉教授の称号が授与された。その後も、北里生命科学研究所の特任教授として、特別研究部門である天然物創薬推進プロジェクトのスペシャルコーディネーターを務めた[19][20]。2013年には、北里大学の特別栄誉教授となった。 北里グループ以外の教育研究機関においては、ウェズリアン大学にてマックス・ティシュラーの名を冠した「マックス・ティシュラー教授」を2005年より兼任している[11]。また、学校法人女子美術大学の理事長を1997年から2003年までと2007年から2015年5月までの2度にわたって務めた[11]。その功績により、2015年に同法人より名誉理事長の称号を贈られた。そのほか、1995年には山梨科学アカデミーを設立し、翌年には社団法人化を果たした。また、2005年には武田乃郷白山温泉を開設し、2007年には韮崎大村美術館を開設している。 研究業績 45年余にわたり独創的な探索系を構築し、微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を続け、これまでに類のない480種を超える新規化合物を発見した。一方、それらに関する基礎から応用にわたる幅広い分野の研究を推進した。遺伝子操作による初めての新規化合物の創製、マクロライドを中心とした一連の生物有機化学的研究と有用化合物の創製、工業的にも重要な抗寄生虫抗生物質イベルメクチン生産菌の遺伝子解析など、いずれも世界に先駆けた研究であり、新しい研究領域を切り開いてきた。 発見した化合物のうち25種が医薬、動物薬、農薬、生命現象を解明するための研究用試薬として世界中で使われており、人類の健康と福祉の向上に寄与している。加えて100を超える化合物が有機合成化学のターゲットとなり、医学、生物学、化学をはじめ生命科学の広い分野の発展に多大な貢献をしている。 その中の抗寄生虫薬イベルメクチンは、熱帯地方の風土病オンコセルカ症(河川盲目症)およびリンパ系フィラリア症に極めて優れた効果を示し、中南米・アフリカにおいて毎年約2億人余りの人々に投与され、これら感染症の撲滅に貢献している。さらにイベルメクチンは、世界中で年間3億人以上の人々が感染しながらそれまで治療薬のなかった疥癬症や沖縄地方や東南アジアの風土病であるの治療薬としても威力を発揮している。 その他、生命現象の解明に多大な寄与をしているプロテインキナーゼの特異的阻害剤スタウロスポリン、プロテアソーム阻害剤ラクタシスチン、脂肪酸生合成阻害剤セルレニンなどを発見した。また、大村が発見した特異な構造と生物活性を有する化合物は、創薬研究のリード化合物としても注目されており、新規抗がん剤などが創製されている。 北里大学北里研究所建物前のオンコセルカ症の大人を導く子供の像は、大村のイベルメクチン発見を讃えてブルキナファソの彫刻家が制作したもので[21]、オンコセルカ症撲滅キャンペーンのシンボルであり[10]、同様の等身大の銅像が世界保健機関本部、カーター・センター、メルク・アンド・カンパニー、世界銀行本部、ブルキナファソの世界保健機関アフリカオンコセルカ症制圧プログラムに建てられている[22][23]。 「線虫の寄生によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」により、ウィリアム・キャンベルと共に2015年ノーベル生理学・医学賞を受賞した。 大村研究室により発見された化合物のうち、実用化された医薬品や試薬は25種類にも及ぶ。 アベルメクチン (Avermectin) - 抗寄生虫作用 アトペニン (Atpenin) - 抗寄生虫作用 セタマイシン (Setamycin) - 抗寄生虫・抗菌作用 ナナオマイシン (Nanaomycin) - 抗菌作用 ロイコマイシン (Leucomycin) - 抗菌作用 ネオキサリン (Neoxaline) - 抗菌・抗がん作用 プルマイシン (Prumycin) - 抗菌・抗がん作用 マジンドリン (Madindoline) - 抗炎症作用 ビルストマイシン (Virustomycin A) - 抗ウイルス作用 スタウロスポリン (Staurosporine) - 抗がん作用 マクロスフェリド (Macrosphelide) - 抗がん作用 フトキサゾリン (Phthoxazolin) - 抗がん作用 カズサマイシン (Kazusamycin) - 抗がん作用 ビネオマイシン (Vineomycin) - 抗がん作用 アンドラスチン (Andrastin) - 抗がん作用 ハービマイシン (Herbimycin) - 抗がん・除草作用 ピリピロペン (Pyripyropene) - 殺虫・酵素阻害作用 ラクタシスチン (Lactacystin) - 酵素阻害作用 フナレノン (Funalenone) - 酵素阻害作用 エラスニン (Elasnin) - 酵素阻害作用 アリスガシン (Arisugacin) - 酵素阻害作用 アミデプシン (Amidepsine) - 脂質代謝 ケルレニン(セルレニン)(Cerulenin) - 脂質代謝阻害作用 トリアクシン (Triacsin) - 抗生物質 1233A(ヒメグルシン)(Hymeglusin) - 脂質代謝阻害作用 研究外活動 美術に造詣が深く、14年間にわたり女子美術大学理事長を務めた(2015年7月から同大学名誉理事長)。同大学に妻・文子の名を冠した「大村文子基金」を私費で設立[24]。女子美生の留学資金(女子美パリ賞・ミラノ賞)と美術活動費(美術奨励賞)を支援している。また、美術作品の著名な収集家であり、特に女性作家の作品収集に積極的で2007年に私費5億円を投じて故郷の山梨県韮崎市に韮崎大村美術館を建設し、1800点を超える蒐集作品と共に韮崎市に寄贈し初代館長を務めている。また、山梨県の科学技術の振興を目指して(社)山梨科学アカデミーを創設し、現在名誉会長を務めている。 また1983年開学の開智学園(埼玉県)では自らが学校名を命名して当初から名誉学園長を務めており[25]、開智学園では理系最優秀生徒に対して「大村賞」を授与し表彰を行っている[26]。 家族・親族 開智学園の系列の開智国際大学では実弟の元三菱マテリアル取締役[27]大村泰三が客員教授を務める[28]。毎日新聞東京本社統合デジタル取材センター記者の大村健一[29]は親戚に当たる。なお、親族には該当しないが、毎日放送アナウンサーの山中真[30]は、大村泰三の甥になる。 略歴 1935年 - 山梨県北巨摩郡神山村にて誕生。 1954年 - 山梨県立韮崎高等学校卒業 1958年 山梨大学学芸学部卒業 東京都立墨田工業高等学校教諭 1960年 - 東京教育大学研究生 1963年 東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了 山梨大学工学部助手 1965年 北里研究所入所 北里研究所技術補 1968年 北里大学薬学部助教授 薬学博士(東京大学)。論文は「Leucomycinに関する研究」 1970年 - 理学博士(東京理科大学)。論文は「ロイコマイシン、スピラマイシン及びセルレニンの絶対構造」 1971年 - ウェズリアン大学客員教授 1973年 - 北里研究所抗生物質研究室室長 1975年 北里大学薬学部教授 メルク・アンド・カンパニーとイベルメクチンのロイヤリティ契約を締結。 1981年 - 北里研究所監事 1984年 北里研究所理事 北里研究所副所長 1985年 - 学校法人北里学園理事 1990年 - 北里研究所所長 1993年 - 女子美術大学理事 1997年 - 女子美術大学理事長 2001年 - 北里大学北里生命科学研究所教授 2002年 - 北里大学大学院感染制御科学府教授 2003年 - 女子美術大学名誉理事長 2005年 ウェズリアン大学マックス・ティシュラー教授 山梨県総合理工学研究機構総長 2007年 北里大学名誉教授 女子美術大学理事長 2008年 - 北里研究所名誉理事長 2013年 - 北里大学特別栄誉教授 2015年 - 女子美術大学名誉理事長 2016年 - 東京理科大学特別栄誉博士 2018年 - 山梨大学が大村智記念学術館を開館(7月19日)[31] 学術賞 1985年 - ヘキストルセル賞(米国微生物学会) 1986年 - 日本薬学会賞 1988年 - 上原賞(上原記念生命科学財団) 1990年 - 日本学士院賞 1991年 - チャールズ・トム賞(米国工業微生物学会) 1995年 藤原賞 米国工業微生物学会功績賞 日本放線菌学会特別功績功労賞 1997年 - コッホ・ゴールドメダル(ドイツ)[32] 1998年 - プリンス・マヒドン賞(タイ) 2000年 ナカニシプライズ(米国化学会—日本化学会合同) 野口賞(山梨日日新聞、山梨放送、山梨文化会館) 2002年 - 坊ちゃん賞(東京理科大学理窓会) 2005年 - アーネスト・ガンサー賞 2007年 - ハマオ・ウメザワ記念賞 (Hamao Umezawa Memorial Award)(国際化学療法学会) 2008年 - 発明奨励功労賞(発明協会) 2010年 - テトラヘドロン賞 2011年 - アリマ賞(国際微生物連合) 2012年 - ノーマン・R・ファルンスワース研究業績賞(米国生薬学会) 2014年 - ガードナー国際保健賞[33] 2015年 朝日賞[34] ノーベル生理学・医学賞[35] 2016年 - バイオインダストリー協会特別名誉賞[36] 栄典・顕彰 1992年 - 紫綬褒章 2000年 - 山梨県韮崎市名誉市民 2002年 - 山梨県県政特別功績者 2008年 - 仏レジオンドヌール勲章(シュヴァリエ章) 2011年 - 瑞宝重光章[37] 2012年 文化功労者 山梨県イメージアップ大賞 2015年 文化勲章[38] 埼玉県民栄誉章 東京都栄誉賞 山梨県名誉県民 世田谷区民栄誉章 さいたま市民栄誉賞 2016年 名誉都民[39][40] 北本市民栄誉賞 2017年 - 世田谷区名誉区民[41] 科学アカデミー会員 1992年 - ドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ会員 1998年 - 日本化学会名誉会員 1999年 - 米国科学アカデミー外国人会員 2001年 - 日本学士院会員 2002年 - フランス科学アカデミー外国人会員 2003年 - 日本細菌学会特別名誉会員 2005年 ロシア科学アカデミー会員 日本放線菌学会名誉会員 英国王立化学会名誉会員 ヨーロッパ科学アカデミー会員 2006年 - 中国工学アカデミー外国人会員 2009年 - 日本農芸化学会名誉会員 著書 単著 『人生に美を添えて』 生活の友社 2015年 『人をつくる言葉』 毎日新聞出版 2016年 『自然が答えを持っている』潮出版社 2016年 『人間の旬』 毎日新聞出版 2016年 『ストックホルムへの廻り道 私の履歴書』 日本経済新聞社 2017年 共著 『時代が求める後藤新平』「後藤新平と北里柴三郎」 藤原書店 2014年 関連項目 メルク・アンド・カンパニー (Merck & Co) - 米国での共同研究先企業[42] イベルメクチン(抗寄生虫薬) ウィリアム・セシル・キャンベル スタウロスポリン ラクタシスチン セルレニン 脚注 外部リンク - 季刊「生命誌」掲載記事のWeb版
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E6%99%BA
{'plaintext_start_byte': array([ 3, 447, 1111, 1370, 1527, 1828, 2185, 5500, 5731, 6464, 7121, 12639, 13270, 13940, 14193, 14324, 14556, 15134, 15765, 16607, 17049, 17473, 18437, 19435, 21849, 22099, 22667, 23094, 23958, 24144, 24591, 24764, 25236, 25568, 26019, 26933, 26994, 27173, 27723, 28119, 28823, 28848, 31168, 32101, 34083, 34171, 34553, 34584, 35285, 35333, 35752, 36383, 36552, 38783, 38883, 39959, 42662, 42803, 43488, 45395, 45865, 45951, 45979, 46336, 46552, 46625, 47133, 47357, 47409, 47468, 47554, 47588, 47774, 47848, 47924, 48045, 48251, 48542, 48560, 48781, 48798, 49014, 49227, 50046, 51744], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 446, 1060, 1369, 1526, 1827, 2177, 5499, 5711, 6463, 7067, 12638, 13269, 13939, 14192, 14271, 14555, 15133, 15691, 16606, 17048, 17420, 18436, 19415, 21817, 22098, 22650, 23093, 23957, 24143, 24590, 24763, 25235, 25567, 26018, 26913, 26993, 27172, 27722, 28004, 28822, 28847, 31126, 32078, 34082, 34170, 34539, 34583, 35284, 35332, 35735, 36342, 36551, 38748, 38882, 39938, 42642, 42792, 43474, 45355, 45864, 45950, 45978, 46301, 46551, 46624, 47132, 47346, 47408, 47467, 47553, 47587, 47724, 47810, 47923, 48044, 48250, 48541, 48559, 48780, 48797, 48953, 49212, 50032, 51743, 51871], dtype=int32)}
怪盗ルパンの作者は誰
アルセーヌ・ルパン
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([66], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([93], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
アルセーヌ・ルパン()は、フランスの小説家モーリス・ルブランが発表した推理小説・冒険小説「アルセーヌ・ルパンシリーズ」の主人公である怪盗、およびシリーズの総称。日本では慣例としてルパンと訳されているが発音としては「リュパン」が元音に近い。20世紀初頭の翻訳では「リュパン」と表記されている物もある。 アルセーヌ・ルパンシリーズは、1905年から四半世紀以上にわたって執筆された、フランスの人気小説にしてルブランの代表作である。前期の作品では神出鬼没の「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」の話がメインだが、中盤は「ドン・ルイス・ペレンナ」の愛国冒険もの、後期は「探偵ジム・バーネット」などの探偵もの、本名「ラウール」の名を用いた恋愛冒険ものになるなど、バリエーションが豊かで前期の作品と後期の作品ではそれぞれ趣きも異なる。 怪盗紳士アルセーヌ・ルパン 人物像 紳士にして、冒険家。変装の名人でいくつもの変名を持つ。貴族の城館や資本家の邸宅などを襲い宝石や美術品、貴重な家具などを盗んでいく大胆不敵な大泥棒。また、脱獄の名人でもある。 一方、善良な者を助ける義賊の性格もあわせ持っており、虐げられた婦人や子供にとっては頼もしい保護者となる。 多くの女性に惚れ、また彼も多くの女性を虜にしているが、作中に描写される限りでは浮気はしていない。しかし、彼と深い仲となった女性の多くは様々な事情で短命であったため、結果的に多くの女性と恋愛をしている。 親日家であり、ルブランが執筆した当時、欧米ではあまり普及していなかった柔道など武術を心得ている[1]。また、『怪盗紳士ルパン』(第4話「謎の旅行者」)では日本には絶対に行ってみたいとも話しており、日本を「古いふるい神秘の国」と評している。 略歴 1874年、誕生[2]。幼名ラウール(Raoul)。父親は体育教師テオフラスト・ルパン(Théophraste Lupin)、母親はアンリエット・ダンドレジー(Henriette d'Andrésy)。 父テオフラストはラウールが幼い頃米国で獄死する。アンリエットは幼いラウールを連れ、少女時代の学友ドルー・スビーズ伯爵夫人の元に身を寄せる。 1880年、6歳。最初の事件。(女王の首飾り) 1893年、初めて「アルセーヌ・ルパン」を名乗る。(アンベール夫人の金庫) 1894年、20歳。『カリオストロ伯爵夫人』で最初の大冒険。クラリス・デティーグと最初の結婚。 1894年-1899年、クラリスとの間に娘が生まれるも、誕生後まもなく亡くなる。この時期に「奇巌城」を発見する。マキシム・ベルモンの名で、高名な建築家のルシアン・デタンジュと知り合う。 1899年、25歳。 息子ジャン誕生も、クラリスと死別。更にジャンは誘拐される。(カリオストロ伯爵夫人) 初めて逮捕される。(アルセーヌ・ルパンの逮捕) 1900年、収監されるが脱獄。(アルセーヌ・ルパンの脱獄)「遅かりしシャーロック・ホームズ」でエルロック・ショルメとの初対決。 1900年-1901年、「金髪の美女」事件でショルメとの二度目の対決。二度目の逮捕・逃亡。 1903年、「ユダヤのランプ」事件でショルメとの三度目の対決。 1905年、『ルパンの冒険』(消えた宝冠)事件。三度目の逮捕・逃亡。ソニア・クリスチノフと恋仲になる。 1906年-1907年、『水晶の栓』事件。「白鳥の首のエディス」事件。この後にソニアが亡くなったと思われる。 1907年、二度目の結婚。(ルパンの結婚) 1908年、エルロック・ショルメとの最後の直接対決。(奇巌城) 古代ローマの遺跡発見。(緑の目の令嬢) 1909年、この頃、ジム・バーネットを名乗ってパリで探偵社を開業。ベシュ刑事との奇妙な連携で次々と事件を解決する。(バーネット探偵社) 1910年、「謎の家」事件。ベシュ刑事との対決。オルタンス・ダニエル嬢と八つの冒険を行う。(八点鐘) 1911年、ベシュ刑事の依頼でバール・イ・ヴァ荘を訪れる。(バール・イ・ヴァ荘) 1912年、38歳。イタリアにてドイツ皇帝と握手をする。ドン・ルイス・ペレンナとしてモロッコに現れ、外人部隊に入隊。(813) 1912年頃、モーリタニア帝国を征服し、スルタン(皇帝)に即位する。 1915年、第一次世界大戦。フランスの金塊の国外流出を食い止める。(金三角) 1917年、ブルターニュ地方の島にて、「人を生かしも殺しもする神の石」を発見する。(三十棺桶島) 1919年、7年務めたモーリタニア帝国スルタンを退位し主権をフランスに譲渡。(虎の牙) 1922年、国防債権事件。(特捜班ビクトール) 1923年、50歳近く。息子・ジャンと見られる青年と邂逅する。(カリオストロの復讐) なお、作者ルブランといつ頃知り合って伝記作家に任じたのかは不明。ルブラン本人は「怪盗紳士ルパン」に収録されているハートの7で作中に初登場する。 ルパンと変装 変装はルパンの代名詞の一つであるが、原作のルパンの変装は、アニメなどで表現される顔全体にマスクをかぶるようなものではない。その多くはメーキャップや服装を変える程度で、せいぜい「パラフィンの皮下注射で皮膚を膨らませる」「科学的な薬品で鬚や髪の毛を伸ばし、声を変える」「ダイエットをする」「アトロピンを点眼する」程度である(以上、「ルパンの脱獄」より)。それよりもルパンが重視するのは、しぐさや歩き方、表情や話し方などを変えるといった、突出した観察力から生まれる「俳優としてのスキル」である。 またルパンの服装のイメージとして、「シルクハットと夜会服にモノクル (片眼鏡)」というものがある。が、意外にも原作の本文中にはそういう描写はまったくない。このイメージは、ラフィット社からルパンの単行本が初めて出た時に、表紙などのイラストがこのスタイルで描かれたことが原因で広まったらしい。このあたりの事情は、シャーロック・ホームズにおける「インバネス・コートに鹿撃ち帽」のイメージ流布のケースと同様である。 アルセーヌ・ルパンシリーズ 作品一覧 1905年-1907年:怪盗紳士ルパン(Arsène Lupin, gentleman-cambrioleur:第一短編集) ルパン逮捕される (L'Arrestation d'Arsène Lupin) 獄中のアルセーヌ・ルパン (Arsène Lupin en prison) ルパンの脱獄(L'Évasion d'Arsène Lupin) ふしぎな旅行者(Le Mystérieux voyageur) 女王の首飾り (Le Collier de la reine) ハートの7 (Le Sept de cœur) アンベール夫人の金庫 (Le Coffre-fort de madame Imbert) 黒真珠 (La Perle noire) (版によっては「アンベール夫人の金庫」と「黒真珠」とを省き、「うろつく死神」を入れているものがある。日本語訳の創元推理文庫、角川文庫、ハヤカワ・ポケット・ブックスはそれに従う。一方、新潮文庫、岩波少年文庫、偕成社版全集及び偕成社文庫、早川文庫版はオリジナルに従っている) おそかりしシャーロック・ホームズ(Herlock Sholmès arrive trop tard) 1906年-1908年:ルパン対ホームズ(Arsène Lupin contre Herlock Sholmès:2本の中篇) 金髪の美女(La Dame blonde) ユダヤのランプ(La Lampe juive) 1909年:ルパンの冒険(Arsène Lupin/Une Aventure d'Arsène Lupin:戯曲、及び戯曲の小説化) 1909年:奇岩城(L'Aiguille creuse(空洞の針):長編) 1910年:813(813:長編:1917年に「La Double-vie d'Arsène Lupin:ルパンの二重生活」と「Les Trois Crimes d'Arsène Lupin:ルパンの三つの犯罪」に分冊化。偕成社版及び新潮文庫版は「813」「続813」) 1912年:水晶の栓(Le Bouchon de cristal:長編) 1911年-1913年:ルパンの告白(Les Confidences d'Arsène Lupin:第二短編集) 太陽のたわむれ(Les Jeux du soleil) 結婚指輪(L'Anneau nuptial) 影の合図 地獄の罠 赤い絹のスカーフ うろつく死神 (版によっては、『怪盗紳士ルパン』に収載されているものがあり、日本語訳も創元推理文庫、角川文庫、早川ミステリはそれに従っている。早川文庫版の『怪盗紳士』には含まれていない) 白鳥の首のエディス(Édith au cou de cygne) 麦わらのストロー(Le Fétu de paille) ルパンの結婚(Le Mariage d'Arsène Lupin) 1915年:オルヌカン城の謎(L'Éclat d'obus(砲弾の破片):長編)初版にはルパンは登場しない、後の版で「営業上」の理由から加筆され一場面にのみ登場する。 1917年:金三角(Le Triangle d'or:長編) 1919年:三十棺桶島(L'Île aux trente cercueils:長編) 1920年:アルセーヌ・ルパンの帰還(Le Retour d'Arsène Lupin:戯曲) 1920年:虎の牙(Les Dents du tigre:長編) 1923年:八点鐘(Les Huit Coups de l'horloge(時計の八時の鐘):連作短編集) 塔のてっぺんで(Au sommet de la tour) 水びん(La Carafe d'eau) テレーズとジェルメーヌ(Thérèse et Germaine) 秘密をあばく映画(Le Film révélateur) ジャン・ルイ事件(Le Cas de Jean-Louis) 斧をもつ貴婦人(La Dame à la hache) 雪の上の足あと(Des Pas sur la neige) 1924年:カリオストロ伯爵夫人(La Comtesse de Cagliostro:長編) 1927年:緑の目の令嬢(La Demoiselle aux yeux verts:長編) 1927年:山羊皮服の男(L'Homme à la peau de bique:短編) 英訳は、「ルパンの告白」に「モルグの森の惨劇」(A Tragedy in the Forest of Morgues)として収録されているので、フランス版の初出もこれ以前の可能性もある 1927年-1928年:バーネット探偵社(L'Agence Barnett et Cie:連作短編集) 水は流れる(Les Gouttes qui tombent) ジョージ王のラブレター(La Lettre d'amour du roi George) バカラの勝負(La Partie de baccara) 金歯の男(L'Homme aux dents d'or) 十二枚の株券(Les Douze Africaines de Béchoux) 壊れた橋(The bridge that broke:英訳版のみに存在。ただし、アマゾンkindle版の全集Les Aventures extraordinaires d'Arsène Lupin、ASIN:B0077CVG2Aには、第三者による仏訳Le pont qui se romptが収録されている) 偶然が奇跡をもたらす(Le Hasard fait des miracles) 白い手袋。。。白いゲートル。。。(Gants blancs... guêtres blanches...) ベシュ、ジム・バーネットを逮捕す(Béchoux arrête Jim Barnett) 1928年:謎の家(La Demeure mystérieuse:長編) 1930年:バール・イ・ヴァ荘(La Barre-y-va:長編)(1934年にアシェット社のBibliothèque verteという選集に収録された際に、エピローグが割愛された) 1930年:エメラルドの指輪(Le Cabochon d'émeraude:短編) 1932年:二つの微笑をもつ女(La Femme aux deux sourires:長編) 1932年:ジャスト五分間 (Cinq minutes montre en main:寸劇) 1932年:アルセーヌ・ルパンとの十五分(Un quart d'heure avec Arsène Lupin:寸劇。Cinq minutes montre en mainの改作 戯曲版は未訳) 1934年:特捜班ビクトール(Victor, de la Brigade mondaine:長編) 1935年:カリオストロの復讐(La Cagliostro se venge:長編) 1939年:ルパン最後の事件(Les Milliards d'Arsène Lupin(アルセーヌ・ルパンの数十億):長編) 2012年:ルパン最後の恋(Le Dernier Amour d'Arsène Lupin: 長編) ※ラジオドラマ「ペギー、新アルセーヌ・ルパンと出会う」はミステリ研究家のフランシス・ラカサンによって未知のルパン譚として存在が公表されたものだが、その後の他の研究者によってそれが既知の短編のラジオドラマ化シリーズの一編であり、他二編が「アルセーヌ・ルパンの逮捕」「エメラルドの指輪」など既に知られた作品である事、また、当時の出版物などの記述から、単に「ネリー、アルセーヌ・ルパンと再会す」の誤植である事が明らかにされた。 ※「ルパン最後の事件(アルセーヌ・ルパンの数十億)」は、単行本化のときに連載中の一章が欠如した状態で出版されており、また、息子のクロード・ルブランがこの作品の復刊自体を拒んだ事から、モーリス・ルブランの著作権保護期間が満了する2011年以降まで完全版が出版された事がなかった。本作は1982年に偕成社・榊原晃三訳版が出版されているが、該当箇所が欠如した訳となっている。なお、2003年韓国で出版されたアルセーヌ・ルパン全集では、欠如部分を補ったものになっている。 ※「ルパン最後の恋」は、近年、ルブランの伝記を記したジャック・ドゥルアールの調査によってそのタイプ原稿が発見され、フランス本国では2012年5月、日本では同年9月に刊行された。 (参考「戯曲アルセーヌ・ルパン」住田忠久による解説) ミステリとしてのアルセーヌ・ルパン ルパン譚は主に冒険小説として見られ、ともすれば荒唐無稽とすら取られるが、作中で使われているトリックは後のミステリ小説でも何度も形を変えて使われ続けている。 特に短編には推理小説として本格的なものも多く、『八点鐘』収録の「水びん」のトリックや「テレーズとジェルメーヌ」の密室トリック、「雪の上の足跡」の足跡トリックなどは、ミステリ・アンソロジーにも何度も収録されている。第1話の「ルパン逮捕される」からして、叙述トリックやクローズド・サークルものの元祖の一つとも言える。また、「奇巌城」や「太陽のたわむれ」などのように、暗号を扱った作品も多い。 推理作家であり、推理小説評論家としても名高いエラリー・クイーンは、「クイーンの定員」と呼ばれる古今東西の推理小説選(1845年から1967年の作品を対象としている)で、ルパンシリーズより『怪盗紳士ルパン』と『八点鐘』を取り上げ、特に『八点鐘』については、「ほとんどすべての批評家から、探偵ルパンの最良の見本をいくつか含んだ事件と折り紙をつけられた短編集」と非常に高い評価をしている。 冒険・歴史・伝奇ロマンとしてのアルセーヌ・ルパン 上記のミステリとしての評価とは逆に、冒険・伝奇ロマンとしてのルパンを積極的に評価する立場もある。特に、ルパン・シリーズを通読すると、ルブランの歴史趣味を多分に感じる事ができる。「女王の首飾り」では有名な首飾り事件が密接に絡み、「奇岩城」では鉄仮面、マリー・アントワネットやフランス革命ばかりかカエサルやシャルルマーニュにまで言及されている。「カリオストロ伯爵夫人」ジョゼフィーヌ・バルサモは、詐欺師であり怪人物として知られるカリオストロ伯爵ジュゼッペ・バルサモの娘として設定され、その作中では、シャルル7世の愛妾であったアニェス・ソレルの故事にも触れられている。 その他上記の類の例は、短編から「813」などの長編まで、枚挙に暇がない。また「三十棺桶島」では、ブルターニュ地方を舞台にしたケルトの土俗、ドルメン、ドルイド僧などの伝奇ロマンとしての雰囲気作りがおどろおどろしく、ルパン作品の翻案も手がけた横溝正史の「獄門島」、「八つ墓村」などへの影響が感じられる。 ルブランはポーやコナン・ドイル、ルルーと同じくミステリ作家の元祖であるのと同時に、もしくはそれ以上に、「三銃士」「鉄仮面」「モンテ・クリスト伯」などを著わしたアレクサンドル・デュマの系譜の作家(ロマン・フュトン作家)の末裔であるともみられるのである。 同時代史としてのアルセーヌ・ルパン 過去の歴史的事件だけでなく、ルパン譚は当時起こった歴史的事件とも大きく関わっている。「アンベール夫人の金庫」は当時実際に起こった詐欺事件、「水晶の栓」では当時フランス政界で起こったパナマ運河疑獄事件がモチーフになっている。また、「813」「オルヌカン城の謎」「金三角」「三十棺桶島」「虎の牙」の一連の流れでは、当時の世界史上の一大事件であった第一次世界大戦が大きな舞台となっており、作中でルパンが征服しフランスに譲渡したモーリタニアは、この時期にフランスが獲得したアフリカにおける植民地の一つである。また、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌ地方についてルパンが、第一次世界大戦の勝利によってフランスに戻ってくることを喜ぶ描写もある。 当時最先端の科学技術も現れるや否やすぐさま作品に登場する。第1話「ルパン逮捕される」で重要な役割を担った無線電信は当時実用化されたばかりの最新技術である。遠隔地への通信に電報や伝令を利用することが多いホームズに対し、ルパン作品では電話が頻繁に登場する。辻馬車を愛好するホームズに比べルパンは自動車やオートバイを愛用し(これはホームズとの若干の世代差も大きく影響している)、果ては潜水艦(「ハートの7」「奇岩城」「三十棺桶島」)や飛行機まで(「虎の牙」)積極的に利用する。いずれも登場作品の数年前に開発、もしくは実用化が成ったものである。また、キュリー夫妻のラジウム・放射能研究の成果(1903年ノーベル物理学賞受賞)も、作品に取り入れられている(三十棺桶島)。 主な登場人物 アルセーヌ・ルパン 怪盗紳士。時に大怪盗として、時に名探偵として、時に愛国者として縦横無尽の活躍をする。多くの女性と恋愛をするも、悲恋が多い。 ドン・ルイス・ペレンナ スペイン貴族にしてフランス外人部隊の英雄(「プレンナ」と表記する場合もある)。実はルパンの変装であり、Arsene Lupinのアナグラムである。(Luis Perenna) ジャン・デヌリ 「謎の家」(訳者により題は異なる)に登場する冒険家。実はルパンの変装。 ポール・セルニーヌ ルパンの変装。ルイス・ペレンナ(プレンナ)同様、Arsene Lupinのアナグラム。(Paul Sernine) ジム・バーネット 「調査無料」の看板を掲げる探偵。実際はルパンの変装。 ジュスタン・ガニマール ルパンを追う警部。50歳。作品初期に主に登場する。力は強いがルパンには敵わない。 シャーロック・ホームズ 複数の作品で、ルパンのライバルとして登場。作者のコナン・ドイルにはそもそも無断なうえ、間違えて別人を撃ち殺すなど間抜けに描写したため、コナン・ドイルからは抗議を申し入れる書面が届いた。 エルロック・ショルメ 抗議を受け、以後ルブランはシャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)の冒頭の"S"を後ろに移動させ(Herlock Sholmes)に改名した。イギリスの私立探偵で、住所はロンドンのパーカー街219。しかし多くの日本語訳では「シャーロック・ホームズ」のままである(後述)。 “わたし” ルパンの伝記作家(作者ルブラン自身) イジドール・ボートルレ 「奇岩城」の実質的な主人公。少年探偵。 ソニア・クリスチノフ ロシア少女。ルパンの恋人となるも、「奇巌城」では、無残な死を遂げたとのみ語られる。 ビクトワール 善良な初老の女。又、ルパンの乳母でもある。 フォルムリー 予審判事 デュドゥイ 国家警察部部長 ルノルマン 国家警察部部長 デュドゥイの後任 ウェベール 国家警察部副部長 パトリス・ベルバル 大尉 デマリヨン 警視総監 バラングレー 首相 テオドール・ベシュ 刑事 名前の表記をめぐって 日本では原題、主人公の名前、本の内容を日本的に翻訳(場合によってはプロットのみを換骨奪胎して翻案)することがあるためだれがいつ初訳したのかは特定することは困難である。 フランス語をあえてカタカナ表記する場合、現在の慣習では「Lupin」は「リュパン」とされることもあるが、それほど外来音になじみのなかった時期に日本に紹介されたこともあって、命名者は不明(一説には上田敏。保篠龍緒説もある)ながら昔から「アルセーヌ・ルパン」として紹介され、親しまれてきた。現在でも、東京創元社他一部を除いて表記としては「アルセーヌ・ルパン」が主流となっている。 ルパン表記 訳者、保篠龍緒が以下の通り翻訳した。保篠龍緒はこの後も何度もルパン全集を手がけ、日本のルパン翻訳史において長い間スタンダードの地位を保つ事になる。保篠の日本語題があまりに見事だったため、現在の各社から出ているルパンシリーズの日本語題も保篠訳に倣う事が多い。(『奇巖城』『八点鐘』など) 大正7年、金剛社 アルセーヌ・ルパン叢書 「怪紳士」「怪人対巨人」「奇巌城」「813」他全9巻 大正10年、博文館 探偵傑作叢書 「虎の牙」「水晶の栓」 昭和4年、平凡社 ルパン全集・怪奇探偵 「三十棺桶島」「バルネ探偵局」「ルパンの告白」「八点鐘」他全12巻(別巻2巻) 昭和26年、日本出版協同 アルセーヌ・ルパン全集 全23巻別巻2 昭和31年、鱒書房、ルパン全集 全25巻(上記、出版協同社版を改編したもので、「驚天動地」を欠く) この全集は改編され昭和33年から昭和44年にかけて三笠書房(全25巻)/田園書房(全25巻)/三笠書房(全25巻)/日本文芸社(全20巻、短編の5冊が中止となったため)と版元をかえながら刊行され続けた。 昭和30年代になり、南洋一郎が児童向けに翻案。また、南は別名「池田宣政」名義でも『アルセーヌ=ルパン全集』全20巻を翻訳している。 昭和33年、ポプラ社 怪盗ルパン全集 「奇巌城」「怪盗紳士」「古塔の地下牢」「黄金三角」他全15巻(後に30巻にまで改訂。現在は20巻に縮小・南洋一郎名義) 昭和43年、ポプラ社 アルセーヌ・ルパン全集 「ルパン対ホームズ」「8・1・3」「ルパン三つの犯罪」「怪盗紳士」「恐怖の島」「緑の目の令嬢」他全20巻(池田宣政名義) また、訳者・詩人の堀口大學が新潮社より以下の通り翻訳。2006年現在においても最も手に入りやすいルパン全集となっている。 昭和34年、新潮文庫 ルパン傑作集 「813」「続813」「奇岩城」「ルパン対ホームズ」「バーネット探偵社」他全10巻。※(殺人事件での殺害方法が、フランス語のオリジナルでは喉を切って殺す(égorger)ものでも、堀口訳では絞殺(étrangler)になっている箇所がいくつもある。青少年向けに一部修正が加えられた版を使っている可能性も考えられる) 偕成社から、複数の訳者により原文に忠実な完訳でシリーズ全作品を網羅した全集が刊行。現在最も完全な全集として版を重ねている。またこの全集には、ルパンシリーズに入らないルブランの他の著作も5冊、「別巻」として組み込まれている。 昭和56年、偕成社 アルセーヌ・ルパン全集 「怪盗紳士ルパン」「813」「続813」「金三角」「八点鐘」「バール・イ・ヴァ荘」「特捜班ヴィクトール」「ルパン最後の事件」他全25巻 昭和57年、偕成社 アルセーヌ・ルパン全集別巻 「女探偵ドロテ」「バルタザールのとっぴな生活」「三つの眼」「真夜中から七時まで」「赤い輪」全5巻 ルパン生誕100周年を機に、訳者平岡敦が同年フランスで刊行されたルパン全集を底本に早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫から新訳を刊行。2005年8月、『カリオストロ伯爵夫人』から、刊行開始。当初は、ルパンシリーズ全21作を、1年に2冊、10年計画で刊行予定で、完訳の文庫版としては最新訳であり、シリーズ全作を網羅する予定であった事から、初の文庫版完訳完全全集になることが期待されていたのだが、順調に刊行されたのは、2005年9月『怪盗紳士ルパン』、2006年5月『奇岩城』までで、4冊目となる『水晶の栓』の刊行は2007年2月にずれ込み、5冊目として『ルパン、最後の恋』が2013年5月に刊行されたが、それ以後の刊行予定はなく全訳計画は中絶された。 リュパン表記 訳者、佐佐木茂索が以下のとおり翻訳した。 大正13年、随筆社のルブラン全集「強盗紳士アルセエヌ・リユパン」「リユパンの勝利」 昭和4年、改造社『アルセエヌ・リュパン』 また昭和34年-昭和35年、石川湧・井上勇らによる東京創元社『アルセーヌ・リュパン全集』全12巻が現在の創元推理文庫版(「怪盗紳士リュパン」「リュパン対ホームズ」「リュパンの告白」「リュパンの冒険」他全18冊)の元となった。(文庫版刊行時の翻訳権の関係から、全集に収録されて居る「813の謎」「八点鐘」「三十棺桶島」「バーネット探偵社」が刊行できなかったため収録されていない。) 曽根元吉訳『奇巌城』(中央公論社「世界推理名作全集」2。昭和36年。所収)では、アルセーヌ・リュパン表記となっている。(この訳文は「嶋中文庫」で刊行予定だったが同社の蹉跌のため中止となった) キャラクターの流用 シャーロック・ホームズとエルロック・ショルメ 原作者の扱い 『怪盗紳士ルパン』の中の短篇「遅かりしシャーロック・ホームズ」では、かの名探偵シャーロック・ホームズと対決させたが、コナン・ドイルの厳重な抗議にあったため(という説があるが定かではない。詳細はルパン対ホームズを参照)、ルブランは「遅かりしシャーロック・ホームズ」を含め次の『ルパン対ホームズ』(日本語題)以下一連の作品ではホームズの名前をアナグラムにした「Herlock Sholmès(フランス語の発音エルロック・ショルメ)」という別人にした。またワトスンはウィルソンという別人にした。 日本語訳での扱い 保篠龍緒訳の大正期や昭和戦前の訳書では、ヘルロック・ショルムズであり、ウィルソンである。又、住所もパーカー街二百十九番地(街に「まち」と振り仮名)となって居る。大人向けの訳書の戦後版はシャーロク・ホームズとワトソンに改められたが、戦後になって刊行された保篠名義の児童書『怪人対巨人』では、ヘルロック・ショルムズとウィルソンとでありバーカー街二百十九番地となっていた。一方『奇巌城』ではシャーロック・ホームズとなって居た。後に、前者の訳題も『ルパン対ホームズ』となり、総てシャーロック・ホームズとワトソンとに統一された。 古くから日本の翻訳では、訳者が著作権者に無断でエルロック・ショルメをホームズの名に替えてきた。ただしウィルソンはそのままでワトスンにはしないものとワトソンにしているものとがある。現在でもこれは慣習となっていて、日本で出版されているルパンシリーズの「ショルメ」はほとんど「ホームズ」に改変されている。改変されていないものでは、フランス語の発音も英語の発音(「ハーロック・ショームズ(若しくは<!--アクサンがある「E」を英語化して-->ショーミーズ)」となるはず)も無視し、エルロック・ショルメスと翻訳されている場合が多い。[3]。 曽根元吉訳『奇巌城』では、ハーロック・ショーメズとしている。 ジョルジュ・デクリエール主演のフランスの人気ドラマ『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』の中の一篇が日本でDVDソフト化された際も、劇中のセリフ及び表記がエルロック・ショルメスとウィルソンでありながら、字幕はシャーロック・ホームズとワトソンになっていて、タイトルも『ルパン対ホームズ』だった。 森田崇による漫画化作品『怪盗ルパン伝 アバンチュリエ』では、英語発音に合わせて「ハーロック・ショームズ」と表記されている。ウィルソンはそのまま。 パスティーシュ 海外小説作品 ボワロー=ナルスジャック ルパンもの新作として1973-1977年に発表。最初の3作は当初、覆面作家アルセーヌ・ルパンとして作者名を隠して発表された。 『ウネルヴィル城館の秘密』(悪魔のダイヤ) 『バルカンの火薬庫』(ルパンと時限爆弾) 『アルセーヌ・ルパンの第二の顔』(ルパン二つの顔) 『アルセーヌ・ルパンの裁き』(ルパン、100億フランの炎)(ルパンと殺人魔) 『ルパン危機一髪』 アーサー・ポージス 『813号車室にて』 ジャン=クロード・ラミ 『アルセーヌ・リュパン―怪盗紳士の肖像』 ジャン=マーク&ランディ=ロフィシエール 『避けられぬ運命』 『おそかりしアルセーヌ・ルパン』 『不親切きわまる省略』 『カリオストロ伯爵夫人の死』 日本の小説作品 南洋一郎 ポプラ社文庫で翻訳を担当した人物。自分の作品に登場させたり、少年少女向け編訳版『ピラミッドの秘密』に模作を紛れ込ませている。上記ボワロー=ナルスジャック作品もその全集には含まれていた(旧版のみ。新全集からはパスティーシュ作品は除外されている)。『ピラミッドの秘密』は出だしこそルブランの原作が存在するが途中からは南の創作だろうとされている。ただし、南自身はアメリカの古い児童向け雑誌に掲載されたものがもとになっているという趣旨の事を書いている。 『蒙古王の宝冠』・『怪盗ルパンと佐久良探偵』 『ピラミッドの秘密』 『女賊とルパン』 江戸川乱歩 下記の作品以外に、怪人二十面相などにもその影響がみられる。 『黄金仮面』 西村京太郎 上記の江戸川乱歩の作品も踏まえて明智小五郎がルパンと再対決している。この作品では、エルキュール・ポワロ、エラリー・クイーン、ジュール・メグレも登場。日本に不慣れなルパンに対し、怪人二十面相が助力している。 『名探偵が多すぎる』 芦辺拓 『真説 ルパン対ホームズ』では、ショルメではなくホームズとの対決を描いている。 『少年は怪人を夢見る』では、ある少年が怪人二十面相になるまでが描かれ、芦屋暁斎や左右田五郎などと出会い、名前も顔も失っていく中で部下になった人物として黄金仮面が登場。 『真説 ルパン対ホームズ』 『少年は怪人を夢見る』 保篠龍緒 『青色カタログ』 『空の防御』 『鐘楼の鳩』 横溝正史 『ルパン大盗伝』(奇巌城の翻案) 『海底水晶宮』(水晶の栓の翻案) 島田一男 『ルパン就縛』 北杜夫 『怪盗ジバコ』    若いころのジバコが老ルパンと出会うエピソードがある。 井上宗和 『ルパン残影 フォル・ラ・ラッテ城の秘密』 伊吹秀明 『シャーロック・ホームズの決闘』 二階堂黎人 『ルパンの慈善』 『カーの復讐』 斎藤肇 『青い絹のスカーフ~ルパンの事前~』 小林泰三、近藤史恵、藤野恵美、真山仁、湊かなえ 『みんなの怪盗ルパン』 漫画作品 原作の漫画化は省略。 『怪盗ジョーカー 時を超える怪盗と失われた宝石』(たかはしひでやす) 18世紀に実在した伝説の怪盗として登場。担当声優は福山潤。 『ジェットキング』(手塚治虫) 主人公ジェットキングと戦う悪人の1人として登場。舞台は発表時の現代または未来だが、ルブランの小説に登場するアルセーヌ・ルパン本人とされており、柔道の投技を用いる場面もある。 『少年はその時群青の風を見たか?』(酒井美詠子) 少年時代のルパンがライバルで親友のホームズとともにパブリックスクールで青春時代を過ごす新説ストーリー。 『ルパン・エチュード』(岩崎陽子) 秋田書店「プリンセスGOLD」2016年12月号より連載開始。19世紀末のフランスを舞台に、主人公の青年ラウールに眠る人格が「アルセーヌ・ルパン」を名乗る。ルブラン小説のルパンの経歴を元に「アンベール夫人の金庫」「カリオストロ伯爵夫人」など、時系列で追う形で構成されたパスティーシュ。 ゲーム作品 『Code:Realize 〜創世の姫君〜』 泥棒紳士を自称する大泥棒として登場。物語のキーマンとなっている。担当声優は前野智昭。 『アカシックリコード』 2016年11月に配信を開始したスクウェア・エニックスのスマートフォンアプリゲーム。古今東西の物語のキャラクターが登場する作品であるが、そのうちの1人で創作されたキャラクターであるのに別の物語の世界へ渡り歩く特別な存在として「神秘蒐集者アルセーヌ・ルパン」が登場する。 ルパンの子孫が登場する作品 アルセーヌ・ルパンの物語を前提として、その子孫を登場させた作品も存在する。作品によっては、初代ルパンも登場する。 『ルパン三世』(モンキー・パンチ) 主人公は、アルセーヌ・ルパンの孫という設定になっているが、作品によってはそれを否定する描写もある。最初の予定では、「あまりの怪盗ぶり故、愛称として世間で「ルパン三世」と呼ばれているという」という設定だったが、担当編集者から「そんな面倒くさい設定にするな」と言われ、わかりやすくアルセーヌ・ルパンの孫という設定になった。厳密に考えるなら「アルセーヌ三世」と呼ばれるべき、という意見もある。なお、アルセーヌ・ルパンに該当するルパン一世というキャラクターも登場している。 『ルパン小僧』(モンキー・パンチ) 『ルパン三世』の派生作品。ルパン三世の息子(初代ルパンから数えて4世)が登場。 『ルパン8世』 『ルパン三世』の派生作品。ルパン三世の孫の曾孫(初代ルパンから数えて8世)が登場。 『緋弾のアリア』(赤松中学) 登場する「峰理子」を「峰・理子・リュパン4世」とし、この小説のヒロインでホームズの曾孫の「神埼・H・アリア」と対決させている。 『ひょっこりひょうたん島』(井上ひさし、山元護久) アルセーヌ・ルパンの孫の孫として「アルセーヌ・クッペパン」というキャラクターが登場した事がある(時代的には『ルパン三世』以前である)。担当声優は野沢那智で、当初はアニメのルパン三世を担当する山田康雄にオファーをかけたが、丁重に断られたという。 『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』 アルセーヌ・ルパンが登場。彼がかって所有し犯罪組織ギャングラーに奪われた宝物(ルパンコレクション)を取り戻すために、(執事を通じて)スカウトさせた一方の主人公たちが「快盗戦隊ルパンレンジャー」を名乗り、ギャングラーやもう一方の主人公である「警察戦隊パトレンジャー」と対決する。 ルパンという名称の流用 設定などは、本作品をふまえていないルパンという名称のみの流用作品。 『迷犬ルパンシリーズ』(辻真先の小説)に登場する犬の名前。赤川次郎の『三毛猫ホームズシリーズ』を意識したタイトル。 青山剛昌 『さりげなくルパン』、『まじっく快斗』の原型。 『名探偵コナン』では、鈴木次郎吉の愛犬の名前として登場。また、作品に登場する怪盗「怪盗キッド」は平成のルパンと呼ばれている。なお、上記の『ルパン三世』とも二度共演している。 『仮面ライダーX』で、敵組織GOD機関の送り込む「悪人軍団」の怪人の一体として「カブトムシルパン」が登場する。 『仮面ライダー×仮面ライダー ドライブ&鎧武 MOVIE大戦フルスロットル』では、「仮面ライダールパン」が登場する。 『ペルソナ5』では物語の主人公が最初に覚醒するペルソナ(もう一人の自分)がルパンのような姿をした「アルセーヌ」となっている。担当声優は主人公と同じ福山潤。 映像作品 映画 「怪盗紳士(The Gentleman Burglar)1908年製作のエドウィン・S・ポーター(Edwin S. Porter)監督によるアメリカ映画(短編)。最初のルパン物映画とされている。ルパン役はウィリアム・V・レイナス(William V. Ranous)(ルパンが恋人と結婚して泥棒稼業から足を洗い、子供も出来て幸せになる。しかし、元恋敵の男から素性をばらすとおどされ、口止めの金を義父から盗もうとして見つかり追い払われることに)。フランスではUne aventure d'Arsène Lupinのタイトルで上映された。 「アルセーヌ・ルパン対ガニマール(Arsène Lupin contre Ganimard)」1913年製作のミシェル・カレ監督によるフランスのサイレント映画(ドイツ系アメリカ人のジョセフ・メンヒェン Joseph Menchenが製作者。彼はモーリス・ルブランとの間にルパン物の映画化権の独占契約を交わした。しかし、実際に作られたのはこの1作だけであった。メンヒェンは1920年にその権利を36万ドルで、ロバートソン=コール社に譲渡した。1930年代になるまで、フランスでルパン映画が作られなかったのはこの契約があったからである)。 「アルセーヌ・ルパン」1915年製作のジェラルド・エイムズ(Gerald Ames)主演、ジョージ・ローニー・タッカー(George Loane Tucker)監督によるイギリスのサイレント映画。 「813」1920年製作のウェッジウッド・ノエル主演、スコット・シドニー、チャールズ・クリスティ監督によるアメリカのサイレント映画。 「813」1923年製作の溝口健二監督による日本のサイレント映画(フィルムは行方不明)。海外では(「ルパン物」の勘違いなのか)Rupimonoとも呼ばれている。 「名探偵アルセーヌ・ルパン(Arsène Lupin détective)」 1937年製作の、ジュール・ベリー(Jules Berry)主役、アンリ・ディアマン=ベルジェ(Henri Diamant-Berger,)監督によるフランスの映画。『バーネット探偵社』に基づいている。 「顔のない男」1955年製作の芦原正監督による松竹映画。『ルパンの告白』所収の「赤い絹のスカーフ」に基づく。 「怪盗ルパン(Les Aventures d'Arsène Lupin)」 1957年製作のフランスの映画。 「ルパン(Arsene Lupin)」 2004年製作のフランス、イタリア、スペイン、イギリス合作の映画。 「ルパンの奇巌城」2011年公開の日本映画。 映画(翻案) 「七つの顔の男」(多羅尾伴内)1946年大映。ルパンの「怪屋」(謎の家)の翻案となっている。 テレビ 怪盗紳士アルセーヌ・ルパン(1971年、1973-74年) フランス・ドイツ・オランダ・イタリア・スイス・オーストリア・ベルギー・カナダ共同で製作されたドラマ・シリーズ、主演ジョルジュ・デクリーエル。全26話。DVDソフト有り(BOX版は全6BOXで26話を収録) 「怪盗ルパン813の謎」(1979) タツノコプロ製作のアニメーション作品。80分。のちに劇場公開。 Lupin(2007年4月-8月)(フィリピンのドラマ・シリーズ)モーリス・ルブランの原作とルパン三世とをミックスさせたような内容。DVDソフト有り。 漫画作品 劇画怪盗ルパン (1984年) 永井豪・安田達矢とダイナミックプロによる、短編長編10編の漫画化。小学館。 アルセーヌ・ルパンシリーズ (1989~1998年) ジャック・ジュロン他による、本国フランスでの、原作に忠実なバンデシネ。全6編。偕成社より、日本語版刊。 mystery classics アルセーヌ・ルパン編 (2005年~) 森元さとるによる短編数篇の漫画化。講談社。 怪盗アルセーヌ・ルパン 八点鐘 (2008年~) JETによる「八点鐘」の漫画化。朝日新聞社「ネムキ」連載。 コミック版ルパン&ホームズ (2009年~) 春野まことによる、ポプラ社版の数編の漫画化。 怪盗ルパン伝 アバンチュリエ (2011年~) 森田崇による、原作第1話「ルパン逮捕される」からの大河形式での漫画化。 アバンチュリエ 新訳アルセーヌ・ルパン - 講談社イブニング連載 (2011~2012年) 「怪盗紳士ルパン」(一部掲載話変更)から「金髪婦人」まで。単行本全5巻。 怪盗ルパン伝 アバンチュリエ《登場編》 - ヒーローズ/小学館クリエイティブ月刊ヒーローズ刊 イブニング連載分に「黒真珠」を加えた増補・改訂版。単行本上・下(「怪盗紳士」「金髪婦人」)巻。 怪盗ルパン伝 アバンチュリエ - ヒーローズ/小学館クリエイティブ月刊ヒーローズ連載 (2013年~) 登場編(イブニング連載分)の続き。「公妃の宝冠(ルパンの冒険・戯曲アルセーヌ・ルパン)」からスタート。以下「ユダヤのランプ」「奇巌城」と連載中。 VSルパン (2014年~) さいとうちほによる漫画化。小学館「月刊フラワーズ」連載。 舞台作品 ルパン -ARCЁNE LUPIN- モーリス・ルブラン作『ルパン、最後の恋(ハヤカワ・ミステリ刊/ハヤカワ文庫近刊)』を原作としたミュージカル。宝塚歌劇団・月組公演。2013年7月12日 - 8月12日 宝塚大劇場、8月30日 - 10月6日 東京宝塚劇場。:併演作はグランドレビュー「Fantastic Energy!」。(宝塚クリエイチブアーツより宝塚大劇場公演を録画したDVDが発売されている) 主演 アルセーヌ・ルパン:龍真咲 カーラ・ド・レルヌ:愛希れいか その他の主な出演者 モーリス・ルブラン:北翔海莉 ビクトワール:飛鳥裕 ベアフォール伯爵:美弥るりか ドナルド・ドースン:凪七瑠海 トニー・カーペット:沙央くらま ジェスタン・ガニマール:星条海斗 フラヴィ:憧花ゆりの ヘリンボーン:越乃リュウ A / L--怪盗ルパンの青春-- シアター・ドラマシティ(2007年3月)宙組特別公演、日本青年館(宝塚クリエイティブアーツよりシアター・ドラマシティ公演を録画したDVDが発売されていた) 作・演出 斉藤吉正。作曲・編曲 青木朝子 主な出演者 ラウル・バラン(A / L):大和悠河 アニエス・ド・スーピーズ:陽月華 シャーロック・ホームズ:北翔海莉 アンリエット:光あけみ ルイ・アントワーヌ・レオン公爵:悠未ひろ ドクトル・ゴッズ:寿つかさ スービーズ伯爵夫人:鈴奈沙也 ミロ・ガニマール警部:初嶺麿代 ヴィクトワール・ル・ルブラン:美風舞良 ローアン枢機卿:十輝いりす エヴァ・ローレン:和音美桜 ルブランの短編「王妃の首飾り」を中心に「アンペール夫人の金庫」、「シャーロック・ホームズの遅すぎた到着」などの挿話を取り込んだオリジナル脚本。 ルパン 1987年10月8日~25日PARCO劇場初演 作・演出 隆巴 音楽 池辺晋一郎 主な出演者 ルパン、ルブラン(二役):仲代達矢 メーテルリンク:隆大介 入鹿尊、大西多摩恵、他 仲代がルブランとルパンの二役を演じ作中世界と現実世界を往還するオリジナル戯曲。無名塾制作。 ARSÈNE LUPIN 『et Sonia!』&『en Prison!』  2018/1/30[火]> 2/4[日]  ウッディシアター中目黒  翻訳・構成・脚色・演出 小林ヒデタケ[イルカ団!] イルカ団! PRESENTS RATATATTAT!×モーリス・ルブランとしてウッディシアター中目黒で上演。[4] 『et Sonia!』は、モーリス・ルブランが書いた唯一の長編戯曲『ARSÈNE LUPIN』(邦題:ルパンの冒険、小説版:消えた宝冠)を翻訳、脚色して日本初上演。 『en Prison!』は、アルセーヌ・ルパンシリーズ第一作『L'ARRESTATION D'ARSÈNE LUPIN』(邦題:アルセーヌ・ルパンの逮捕)と第二作『ARSÈNE LUPIN EN PRISON』(邦題:獄中のアルセーヌ・ルパン)を原作にしたオリジナル脚本。 『et Sonia!』 ガニマール警部:夢麻呂(『熱ら。』) シャルムラース公爵:渡辺隼斗 ソニア・クリチーノフ:松田実里 ジェルメーヌ:小松詩乃 イルマ:角田佳代(劇団フジ) 『en Prison!』 ネリー・アンダダウン:高橋あゆみ ベルナール・ダンドレジー:今井玲男 ガニマール警部:夢麻呂(『熱ら。』) 音楽 Lupin il ladro gentiluomo(怪盗紳士ルパン) 歌 José Luis Moreno (スペイン出身の歌手・俳優・腹話術師ホセ・ルイス・モレノが1985年にイタリアで出したRockfeller A Pentatlonというアルバムに収録) 参考文献 ジャン=クロード・ラミ 『アルセーヌ・リュパン―怪盗紳士の肖像』東京創元社 大友徳明訳 ISBN 4488015107 和田英次郎 『怪盗ルパンの時代―ベル・エポックを謳歌した伊達男』早川書房 ISBN 4152033975 松村喜雄 『怪盗対名探偵―フランス・ミステリーの歴史』晶文社 ISBN 479495963X ISBN 4575658510 浜田知明 「解説」 『アルセーヌ・ルパン(世界の名探偵コレクション10)』集英社(文庫) ISBN 4087485579 浜田知明 「解説」 『怪盗ルパン 奇巌城』 ISBN 4087520323 榊原晃三 「解説」 『アルセーヌ・ルパン全集 ルパン最後の事件』偕成社 ISBN 4038152502 住田忠久 「解説」 『戯曲アルセーヌ・ルパン』論創社 ISBN 4846007413 関連事項 サバット - ルパンが父から手ほどきを受けた武術。日本語訳では「ボクシング」と表記されることが多い。 ルパン三世 - 主人公がアルセーヌ・ルパンの孫という設定 ルパン一世 - アルセーヌ・ルパンを原点としたキャラクター シャーロック・ホームズ 孫了紅 - 東洋のアルセーヌ・ルパンと呼ばれる魯平(ルーピン)シリーズを書いた推理作家 翻訳者 保篠龍緒 - 1892-1968。戦前・戦後にルパン・シリーズを一手に訳していた訳者。日本出版協同「アルセーヌ・ルパン全集」(1951年)等。 南洋一郎 - 1893-1980。戦後児童向けにルパン・シリーズのほとんどをリライトした児童作家。ポプラ社「怪盗ルパン全集」(1958年)等。 堀口大学 - 1892-1981。新潮文庫「ルパン傑作集」(1959年)等。 井上勇 - 1901-1985。東京創元社「アルセーヌ・リュパン全集」(1959年)等。 石川湧 - 1906-1976。東京創元社「アルセーヌ・リュパン全集」(1959年)等。 榊原晃三 - 1930-1996。アルセーヌ・ルパンシリーズの幾つかを訳しているが、特にルパン最後の事件(偕成社 アルセーヌ=ルパン全集25, 1982年)を唯一翻訳している。 大友徳明 - 1935-。偕成社「アルセーヌ=ルパン全集」(1982年)等。 長島良三 - 1936-2013。岩崎書店「アルセーヌ・ルパン名作集」(1997年)、偕成社「アルセーヌ=ルパン全集」(1982年)等。 矢野浩三郎 - 1936-2006。偕成社「アルセーヌ=ルパン全集」(1982年)等。 ジャン=ポール・サルトル - ルパンのことを「泥棒界のシラノ(Cyrano de la pègre)」と評した。 脚注 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 389, 817, 1439, 1757, 2385, 14006, 14113, 14547, 14982, 15555, 15745, 16089, 16267, 16535, 16876, 17150, 18285, 18559, 18940, 19069, 19738, 20180, 21359, 22180, 22785, 22935, 23277, 23658, 24120, 24402, 25600, 37133, 45300, 46859, 46933, 48003, 50174, 50341], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 388, 809, 1438, 1756, 2367, 14005, 14112, 14546, 14981, 15554, 15728, 16088, 16266, 16534, 16875, 17149, 18265, 18558, 18939, 19049, 19737, 20179, 21342, 22156, 22784, 22934, 23269, 23657, 24119, 24367, 25592, 37122, 45292, 46851, 46907, 47995, 50136, 50323, 50393], dtype=int32)}
脳梗塞を最初に診断した医師は誰?
日野原重明
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
日野原 重明(ひのはら しげあき、1911年(明治44年)10月4日 - 2017年(平成29年)7月18日[1])は、日本の医師、医学者。位階は従三位。学位は医学博士(京都帝国大学)。聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長。 京都帝国大学医学部副手、大日本帝国海軍軍医少尉などを経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長、一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを歴任した。 概要 京都帝国大学医学部第三内科副手、大日本帝国海軍軍医少尉等を経て、聖路加看護大学学長、聖路加国際病院院長、国際基督教大学教授、自治医科大学客員教授、ハーヴァード大学客員教授、国際内科学会会長、一般財団法人聖路加国際メディカルセンター理事長等を歴任した。日本循環器学会名誉会員となり、勲二等瑞宝章及び文化勲章を受章した。京都帝国大学医学博士、トマス・ジェファーソン大学名誉博士(人文科学)、マックマスター大学名誉博士。 専門は内科学で、成人病と呼ばれてきた血栓によってひき起こされる心臓病、脳卒中の予防につなげるため1970年代から「習慣病」と呼び、旧厚生省はこの考えを受け入れ1996年に「生活習慣病」と改称し、その後広く受け入れられた[2]。 1995年3月に発生したオウム真理教による「地下鉄サリン事件」では、聖路加国際病院を開放する決断を院長として下し、外来患者の診察など通常業務をすべて停止し、83歳の日野原は陣頭指揮を執り、被害者640名の治療に当たった。これができたのは、この3年前に日野原が北欧の病院の視察からヒントを得て日野原の発案で大災害を見越して廊下、待合室の壁面に酸素配管約2,000本を設置していたことや、広いロビーや礼拝堂を設けていたからである[3]。 人物・経歴 1911年、山口県吉敷郡下宇野令村(現:山口市湯田温泉)にある母の実家で生まれた。 父母ともにキリスト教徒で、父・日野原善輔はユニオン神学校に留学中だった。日野原は父の影響を受け、7歳で受洗した。 9人家族(6人きょうだい)の次男。明治の年号にちなみ、きょうだい全員の名前に「明」の字が入っている。 1913年に父が帰国して大分メソジスト教会に牧師として赴任し、大分に転居する[4][5]。 1915年に父が大分メソジスト教会から、神戸中央メソジスト教会(現日本基督教団神戸栄光教会)に移り、神戸に転居。 1918年、神戸市立諏訪山小学校(現神戸市立こうべ小学校)に入学。 1921年、諏訪山小学校4年のとき急性腎臓炎のため休学。 療養中にアメリカ人宣教師の妻からピアノを習い始める。 1924年、名門の旧制第一神戸中学校(現兵庫県立神戸高等学校)に合格。 1924年、第一神戸中学校を入学式当日に退学し、関西学院中学部に入学[6]。 赤面恐怖症克服のため弁論部に入る[6]。 1929年、旧制第三高等学校理科に進学。 弁論部と文芸部に入部、詩集や随筆集を作った。 1930年、父が広島女学院長に就任。 1932年、京都帝国大学医学部に現役で合格し入学。 学費は教会関係者の寄付を仰いだ。 1933年、大学在学中に結核にかかり休学、父が院長を務める広島女学院の院長館や山口県光市虹ヶ浜で約1年間闘病生活を送った。 医学部の内科教授になる夢を断念する。医学をやめて、音楽の道に進もうと考えるが、両親に反対され断念。 1934年、京都帝国大学医学部2年に復学。 病み上がりで体調が悪く、仕事の楽な精神科医になることを考える。 1937年に京都帝国大学医学部を卒業し、京都帝国大学医学部三内科副手(無給)に就任(1939年まで)。 真下俊一教授の第三内科(循環器内科)に入局。徴兵検査丙種合格。 京都帝国大学病院で2年間副手として研修をしたが、学ぶことはなかったと述懐していた。 1938年、北野病院や京都病院(現国立病院機構京都医療センター)で勤務。 1939年、京都帝国大学医学部大学院博士課程(心臓病学専攻)に進学。 京都大学YMCA地塩寮に住む。 1941年、聖路加国際病院の内科医となる。 東京は東大閥があるからと、周囲に反対されたのを押し切り、東京で勝負をしたいと考え上京したが聖路加には学閥がなかった。 1942年に結婚。 同年に、広島女学院院長を定年退職し上京していた父が牧師をしていた田園調布の教会の教会の役員の紹介で教会の日曜学校で教師をしている女性と3ヶ月交際し、結婚。 1943年、京都帝国大学医学博士の学位を取得。 日野原は音楽好きだったため、博士論文は「心音の研究」[7]。心臓が収縮するとき低音がなることを発見し、アメリカの著名な医学雑誌[8]に投稿した。 1945年に志願して大日本帝国海軍軍医少尉に任官。 戸塚海軍病院や海軍衛生学校のある横浜市戸塚で訓練を受けるが、急性腎臓炎のため入院となり除隊となった。 1951年、聖路加国際病院内科医長に就任。 1951年、エモリー大学医学部内科に1年間留学し[9]、ポール・ビーソン教授に師事する。 メイヨー・クリニックでホリスティック医療に触れる。 1952年に帰国し、聖路加国際病院院長補佐(研究・教育担当)に就任する(1972年まで)。京都大学医学部第三内科学教授ポストの打診を断った。闘病中の母が脳卒中で死去した。 東京看護教育模範学院(現日本赤十字看護大学)講師(1954年まで)、東京文化学園(現新渡戸文化短期大学)講師や医師国家試験試験委員や、医師研修審議会委員も務める。 1953年、国際基督教大学教授に就任、以後4年間「社会衛生学」などを講じつつ同大学診療所顧問なども務める。 1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。 1958年、バージニア州リッチモンドのアズベリー神学校で客員教授を務めていた父が劇症肝炎のためリッチモンド記念病院で死去した。 1970年、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放される。 同乗していた吉利和(東京大学医学部教授、犯人に教え子がいた)と、乗客の健康診断をした。 事件に遭ったのを契機に自己の内科医としての名声を追求する生き方をやめた。 1970年、学校法人津田塾大学評議員に就任(現在に至る)。 1970年、文部省医学視学委員となる。 1971年、聖路加看護大学副学長及び教授に就任する。 1973年、財団法人ライフ・プランニング・センター設立、同理事長就任(現在に至る)。 1974年、聖路加国際病院を定年退職。 死去した橋本寛敏前院長の後任の院長に推されたが、理事長を務めるライフ・プランニング・センターが笹川良一から援助を受けていることを問題視され、同理事長を退任するようにいわれたため院長就任を断った。 1974年、聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年まで) 聖路加看護大学に大学院を開設、日本で初めて看護大学に博士課程を設置した。 1975年、文部省看護視学委員、旭川医科大学参与。 1977年、佐賀医科大学(現佐賀大学医学部)参与。 1978年、厚生省医療関係者審議会臨床研修部会会長(1981年まで)。 1980年、聖路加国際病院理事に就任。 1982年、自治医科大学客員教授(1998年まで)。 日本医師会最高優功賞を受賞。 1984年、国際内科学会会長(東洋人初、1986年まで)。 1985年、フィラデルフィア医師会日米医学科化学者賞を受賞。 1986年、日本バイオミュージック研究会(現・日本音楽療法学会)初代会長を務める。アメリカ内科学会名誉フェロー。 1987年、国際健診学会会長(1990年まで)。医療秘書教育全国協議会初代会長。 1987年、日本総合健診医学会会長(1997年迄)。 1989年、キリスト教功労者顕彰。社団法人学士会評議員。 1991年、国際基督教大学評議員(2001年まで)。 1992年、聖路加国際病院院長に就任(1996年まで)。 無給で院長を務めた。 1992年、ニューヨーク科学アカデミー会員となる。東京都文化賞受受賞。広島女学院維持会顧問に就任する。 1992年、国際健診学会会長(1994年まで)。株式会社聖路加サービスセンター代表取締役(第4代)。 1993年、勲二等瑞宝章を受章する。 1995年、3月20日にオウム真理教による「地下鉄サリン事件」が発生。院長として聖路加国際病院を開放する決断を下すと外来診察などの通常業務をすべて停止し、83歳の日野原は陣頭指揮を執り、被害者640名の治療に当たった[3]。同年、全日本音楽療法連盟(現日本音楽療法学会)会長に就任する。 1996年、財団法人聖路加国際病院(一般財団法人聖路加国際メディカルセンター)理事長に就任(2014年まで)、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となる。公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所を設立し、理事長に就任(現在に至る)。 1998年、聖路加看護大学名誉学長及び名誉教授、東京都名誉市民、トマス・ジェファーソン大学人文科学名誉博士。医療法人真誠会名誉理事長。 1998年、ハーバード大学公衆衛生大学院沖永客員教授。 1999年、文化功労者に選ばれる。 1999年、中央区名誉区民となる。全日本学士会アカデミア賞を受賞。 2000年、財団法人笹川記念保健協力財団会長(現在に至る)。日本パブリック・リレーションズ協会日本PR大賞社会部門賞受賞。財団法人ライフ・プランニング・センターに新老人の会を設立、会長に就任(現在に至る)。 2001年、日本音楽療法学会初代理事長(現在に至る)。株式会社ウェル・ビーイング顧問。 2002年、マックマスター大学名誉博士。経済界大賞特別賞を受賞。 2003年、国立大学法人佐賀大学医学部顧問。朝日新聞社朝日社会福祉賞受賞、亀岡市生涯学習大賞・石田梅岩賞受賞。 2004年、日本栄養療法推進協議会理事長となる。 2005年、文化勲章を授与された。 2006年、社団法人日本循環器学会名誉会員、関西学院大学名誉博士、社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問となる。(スポーツ吹矢を呼気が吸気を促す呼吸運動とし、その健康効果に注目していた[10]。) 2007年、日本ユニセフ協会の大使に任命された。有限責任中間法人日本総合健診医学会理事長に就任する。 2008年、4月から父親が戦中院長を務めた広島女学院大学で客員教授を務めた。 2008年、関西学院初等部教育特別顧問。 特別授業などを担当。 2008年、神戸市神戸大使。地方独立行政法人佐賀県立病院好生館顧問。日本ハンドベル連盟理事長。 2009年、聖トマス大学日本グリーフケア研究所名誉所長。 2010年、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長となる。世界宣教東京大会顧問、公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を最高顧問、医療法人名古屋澄心会名古屋ハートセンター顧問に就任、コルチャック功労賞を受賞する。 2011年、日本禁煙科学会賞を受賞。 2012年、ティーペック株式会社優秀糖尿病臨床医ネットワークサービス特別顧問となり、第12回日本音楽療法学会学術大会大会長、農林水産省みどりの特別大使を務めた。 2013年、オーストリアのアルベルト・シュヴァイツァー協会からアルベルト・シュヴァイツァー章受章[11]。 2014年5月半ば、血中に大腸菌があり入院した。4日で回復したものの念の為に検査をしたら大動脈弁狭窄症を発見した。高齢のために手術は難しく、これを避ける為に移動のみ車椅子を使用している[12][13]と、2014年6月21日の続きのコラムを差し替えて公言していた[12][注 1]。 2015年、女子サッカー、日本-イングランドの観戦時に気分が悪くなり聖路加で検査した結果、心房細動が発見された[14]。以降は力を込めて応援したくなる試合は生放送ではなく、結果を知ってから録画鑑賞することになった[14]。 2017年7月18日、東京都世田谷区の自宅で呼吸不全により死去。(享年107)[1][15]。同日付で従三位叙位[16]。 少年時代、母親の命をある医師が救ってくれたことから医学の道を志した[17]。 日野原は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くすなど、長年にわたって日本の医学の発展に貢献してきた功績が文化功労者と文化勲章の受章理由として挙げられた。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも日野原である[18]。 2001年(平成13年)12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。聖路加国際病院名誉院長まで務めて数多くの著書で知られ、高齢者の「希望の星」的存在となっていた。レオ・ブスカーリア作の絵本「葉っぱのフレディ〜いのちの旅〜」のミュージカル化に当たっては、日野原が企画・原案に携わった。 晩年の日野原は100歳を超えてスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っていた。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたという[19]。命の続く限り現場に立ち続けるという信念をあくまで貫き、生前には「少なくとも110歳まで現役を続けることを目標にしている」と語るほどであった。 2009年7月6日にNHKの「スタジオパークからこんにちは」に初出演、100歳を迎えて半年を経過した2012年5月31日に2回目の出演もした。 エピソード 保守思想を持ち、皇室を崇敬していて、たびたび皇室行事に招かれた。日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めていた。一方で、朝日新聞で執筆したのコラム「95歳の私 あるがまま行く[注 2]」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。 名誉院長をつとめていた聖路加国際病院は聖公会系のキリスト教教派であるが、自身は日本基督教団所属のキリスト教徒であった。 医療行為を医師のみに行わせることを主張する日本医師会の立場に対し、新米の医師よりも治療に精通した看護師もいるとして、医療行為を広く医療従事者に行わせることを認めるスタンスを取る。 2005年に行った講演の中で「アメリカの大学教授選考では、最近は年齢は不問です。つまり、業績、仕事をやる人は、年齢に関係なく教授を続けられるようになった。それに引き替え日本では、大学に定年制が引かれ、アメリカとは逆ですよ。」と発言。 あるときマスコミのインタビューを受けた際に、病院ではエレベーターを使わないと発言してしまったため、その後はどんなに疲れていても公衆の前ではエレベーターを使えなくなってしまったという。 日野原は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能できる病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年(平成4年)に建設した。この備えの効果は1995年(平成7年)の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難もされていたロビー・礼拝堂施設は、緊急応急処置場として機能した。院長であった日野原の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最小限に抑えることに繋がった。この時の一部始終はNHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』などでも取り上げられている。 自身について 小学生時代「金時さん」と同級生から渾名がつけられるほど、赤面恐怖症であった[6]。上記の関西学院中等部の弁論部以外に、演劇、ピアノ演奏、合唱の指揮などで人前に出ることで克服したという[6]。 2015年10月末、左手の薬指と小指が曲がらなくなり、尺骨神経麻痺などの異常かと思い、整形外科で診察した結果、指の筋肉に原因があり、軽くマッサージをすれば解決するものだった[20]。この件で、自身が専門にしている、内科、循環器以外の病気に対して素人だったと語った[20]。 座右の銘は、ウィリアム・オスラーの「医学は科学に基づくアートである」[21]。 戦争について 戦時中、聖路加病院は政府に「大東亜中央病院」という名称に改名された[22]。特高警察がやってきてスパイの嫌疑で自身や同僚が取り調べられたり、患者を装って病院に出入りし、監視をしていた[22]。十字架の高い塔は宿直が出来る小部屋にあったが、憲兵隊に押し入られた上に塔の十字架が切り取られた[22]。「神の栄光と人類奉仕のため」という病院の理念が刻まれた石碑を御影石の板で覆い隠さなければならなかったという[22]。その時の釘の跡が、今でも生々しく残っていると語った[22]。 敗戦後、聖路加病院は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収された。この折に日野原は、占領軍が図書館に持ち込んだアメリカの医学書や医学雑誌を読み、言及・引用されることが多かった医学博士ウイリアム・オスラー(1849〜1919年)を師と仰ぐようになった。これが予防や生活習慣の改善を重視する思想に繋がった[23]。 各地の高齢者に戦争を語り継ぐ活動の一環として、フォーラムの講演で「1人1人が持っている命を大切に」「その為にも平和な社会を築く努力を」と訴えていた[24]。『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』出版会見で「武器には武器、暴力には暴力で応じる悪循環を断ち切り、戦争ではなく話し合いで物事を解決する、根強い精神が必要」「知性こそ人間の授かった宝である」と訴えた[25]。10年以上行った「いのちの授業」においては「虐めは暴力」という、不毛を訴えている上に、2015年発売した『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』の帯宣伝にも「戦争はいじめと同じです」と明記されている[25]。95歳の時、子供向けの書籍で、「争いの根っこにある苦しみの感情。それをコントロールできるのは自分だけである[26]」「憎い相手を許す、その勇気で戦いを終わらす事が出来る[27]」「『知る』と言う事をもっと大事にして下さい[28]」と書いた。 いのちの器 アドベント(降臨節)が始まった2015年11月29日、多数の聴衆に「いのちの器」について語りかけた[29][注 3]。「命は私に与えられた時間です[29]。それを何の為に使うのか、もし助けを求めている者の為に有効に使うのなら、自分達の生き方は、これからの時代を生きる子供たちの手本になる」と訴えた[29]。 1987年、78歳の時から始めた「いのちの大切さ」や「いのちの器」を伝えるために全国の小学校に出向き実施する「いのちの授業」は、NHK教育テレビの「シリーズ授業」で実施した母校の神戸市立諏訪山小学校の訪問がきっかけとなり、2016年までに全国合計200以上の小学校で実施された。 趣味・嗜好 趣味 趣味の一つにピアノがあった。日野原は結核を患い闘病生活を送っていた当時、「ノクターン」を作曲した。この曲は、2008年2月17日放送の「N響アワー」(NHK教育テレビ)で日野原がゲスト出演した際、池辺晋一郎によってごく一部ではあるが披露された。2015年には全国学校音楽コンクール(小学校の部)課題曲『地球をつつむ歌声』の作詞を担当した。他に小学生の頃から同人誌などの物書きも嗜み、筆名は「日野原重秋」「日野原詩郷明」[30]。 箱根駅伝やサッカー観戦を好み、2015年のなでしこジャパンのイレブンでは海堀あゆみの大ファンであった[31]。 お洒落は人前に出る前の「お守り」の役割で、ジャケットやネクタイを季節ごとに合わせて選んでいた。さらに長嶋一茂が褒めてくれたと耳にして以降ポケットチーフに力を入れ、出かける前に妻から数枚渡される候補の中から1つ選択していた[6]。 嗜好 食事は夕食をメインにしたものであった。朝食はジュースにオリーブオイルをかけて飲み、昼食は牛乳、胚芽クッキー、林檎だけで済ませた。夕食は週2回は肉、他は魚と少し多めに食べ[32]、その日の体調に合わせて食べ物を変えた。日野原曰く「集中していれば空腹にならない」。 1951年のアメリカ留学時に現地支給の1月60ドルで全てを賄わければならなかったが、1ドル360円の時代なので経済的に苦しかった。そこで、仕事仲間との昼食を断り、ひとりでコーラ、フライドチキン、ハンバーガーを食べていた[9]。そのせいかいつになっても無性にそうしたファストフードを食べたくなることがある、という一面もあった[9]。 好物は、落花生と砂糖と味噌をすって合わせる方法で母親が作ってくれた、ピーナッツバターを模した「ピーナッツ味噌」と、アメリカ留学時に食べたビーナッツバター付きパン[33]。 よど号ハイジャック事件 内科部長時代の1970年3月31日、日野原は福岡で行われる日本内科学会総会へ出席のために搭乗した旅客機にてよど号ハイジャック事件に遭遇し、他の乗客とともに人質となった。日本初のハイジャック事件であり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」と声明しても多くの日本人は「ハイジャック」の意味を知らなかった。その中で日野原が手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と説明した。機内で犯人グループから人質に本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りたという[34]。4日間拘束され死も覚悟した[35]。同乗していた虎の門病院院長の沖中重雄は高齢のため福岡で下ろされた一方、日野原は韓国の金浦空港で解放された。解放後は、内科医としての名声を求めるよりも事件以後の命を与えられたと考えるようになり、事件が人生観を変えるきっかけになったと述懐していた[36]。 著書 『2)心音並に心雜音の一新記録法』[37] 日本循環器病學 1940 『オスラー博士の生涯:アメリカ醫學の開拓者』 中央醫學社 1948 『医学するこころ』岩波書店 1991 『看護学講座:第1解剖・生理学』 学術書院 1949 『看護学講座:第5薬理学』 学術書院 1949 『性と結婚の科学』 医学書院 1951 『解剖・生理学の要点』 医学書院 1951 『高等看護学講座:第1医学概論』 医学書院 1952 『水と電解質の臨床』 医学書院 1955 『看護学教科書:第3解剖生理』 医学書院 1957 『病む心とからだ』 日本YMCA同盟出版部 1958 『解剖生理の要点』 金原出版 1959 『人間ドック:もの言わぬ臓器との対話』 中公新書 1965 『POS医療と医学教育の革新のための新しいシステム』 医学書院 1973 『医療と教育の刷新を求めて』 医学書院 1979.2 『心臓病とともに生きる』 協和企画 1979.7 『女の一生と健康:各年代の充実をめざして』 婦人之友社 1979.10 『プライマリ・ケア入門』 金原出版 1979.6 『生の選択:水平の世界・垂直の世界』 日本YMCA同盟出版部 1981.1 『死をどう生きたか:私の心に残る人びと』 中公新書 1983.3 『医療と医学教育の新しい展開:日野原重明座談集』 医学書院 1983.4 『延命の医学から生命を与えるケアへ』 医学書院 1983.6 『老いを創める』 朝日新聞社 1985.3 のち文庫 『健やかないのちのデザイン』 春秋社 1986.10 『老いと死の受容』 春秋社 1987.3 『人生の四季に生きる』 岩波書店 1987.6 のち現代文庫 『いのちの終末をどう生きるか』 春秋社 1987.7 『日野原重明著作集』 全5巻 中央法規出版 1987-1988 『名医が答える血圧なんでもQ&A』 中央法規出版 1987.10 『狭心症と心筋こうそく:心臓病に克つ』 講談社 1988.4 『「いやし」の技のパフォーマンス』 春秋社 1989.7 『いのちの器:人生を自分らしく生きる』 主婦の友社 1989.10 のちPHP文庫 『老いへの挑戦』 1989.12 岩波ブックレット 『日野原重明著作・講演集』 1-2 医学書院 1991.6 『病むことみとること』 日本基督教団出版局 1991.10 『医と生命のいしずえ:医療をめざす、若き友へ』 同文書院 1991.6 『健康行動の提言:新しい健康教育をめざして』 中央法規出版 1991.1 『生と死に希望と支えを:全人的医療五十年に想う』 婦人画報社 1991.1 『命をみつめて』 岩波書店 1991.2 のち現代文庫 『心とからだの健康設計:人生の午後に立って』日本経済新聞社 1991.3 『心臓病にかかりやすい人かかりにくい人』 ごま書房 1992.7 (Goma books) 『生きることの質』 岩波書店 1993.5 のち現代文庫 『医の道を求めて:ウィリアム・オスラー博士の生涯に学ぶ』 医学書院 1993.9 『六十歳は二度目の成人式:親、社会に代わって、自分で自分を育てる時がはじまる』 ごま書房 1994.6 『看とりの愛』 春秋社 1994.4 『健康を創るヒント』 時事通信社 1994.6 『ボランティアを生きる:<いのちの泉>はつきることなく』 PHP研究所 1995.8 『豊かに老いを生きる』 春秋社 1995.10 『人間ドック・健康診断を受ける方、受けた方へ』 主婦の友社 1995.11 『音楽の癒しのちから』 春秋社 1996.12 『出会いに学び、老いに成長する』 講談社 1996.5のち+α文庫 『「生活習慣病」がわかる本:あなたがつくり、あなたが治す病気』 ごま書房 1997.2 『六十歳の新人宣言』 ごま書房 1997.5(ゴマブックス) 『現代医学と宗教』 岩波書店 1997.8(叢書現代の宗教) 『老いに成熟する』 春秋社 1997.12 『<ケア>の新しい考えと展開』 春秋社 1999.2 『医のアート、看護のアート』 中央法規出版 1999.8(日野原重明著作選集 上) 『死と、老いと、生と』 中央法規出版 1999.9(日野原重明著作選集 下) 『道をてらす光:私が学んだ人と言葉』 春秋社 2000.1 『院内ルールと医師のマナー』 エルゼビア・ジャパン 2000.4 『「フレディ」から学んだこと:音楽劇と哲学随想』 童話屋 2000.10 『生きかた上手』ユーリーグ(現ハルメク)、2001 のち文庫 『生きかた上手:新訂版』 いきいき(現ハルメク) 2013.4 『「新老人」を生きる:知恵と身体情報を後世に遺す』 光文社 2001.5 『50歳からの「生きる」技術:75歳以上の新老人を目指して』 朝日出版社 2001.12 『いのちを創る:生き方・生命力・安らぎ・からだ』 2002.2 講談社+α文庫 『人生百年私の工夫』 幻冬舎 2002.7 のち文庫 『刷新してほしいナースのバイタルサイン技法:古い看護から新しい臨床看護へ』 日本看護協会出版会 2002.8 『いのちの言葉』 春秋社 2002.8 『いのちの言葉〔増補版〕』 春秋社 2013.9 『日野原重明の生き方哲学:よく生き、よく老い、よく病み、よく死ぬ』(中央法規出版、2002年9月/PHP文庫、2006年6月、ISBN 4569666175) 『こころ上手に生きる:病むことみとること人の生から学ぶこと』 2002.10 講談社+α文庫 『生きかたの選択』河出書房新社、2002 『生きるのが楽しくなる15の習慣』 講談社 2002.10 のち+α文庫 『満たされる人生のつくり方:CD・book』 講談社 2002.10 『生きかた上手:対話篇』 ユーリーグ(現ハルメク) 2002.10 『生きかたの可能性』 河出書房新社 2002.11 『人生改造生活習慣病を防ぐ本』 幻冬舎 2002.11 『日野原重明のいのちと生きがい』 青春出版社 2003.1 『機嫌よく元気よく:日野原重明のいのちと生きがい』(青春文庫、2007年1月) 『生きかたの処方箋』 河出書房新社 2003.2 『続・生きかた上手』ユーリーグ(現ハルメク)、2003 のち文庫 『100歳になるための100の方法:未来への勇気ある挑戦』 文藝春秋 2004.1 のち文庫 『テンダー・ラブ:それは愛の最高の表現です。』 ユーリーグ(現ハルメク) 2004.10 『日野原重明アートでいきいき』 実業之日本社 2004.12 『あるがまま行く』(朝日新聞社、2005年1月) 『長さではない命の豊かさ』(朝日文庫、2007年8月、ISBN 4022615397) 『私が人生の旅で学んだこと』 集英社 2005.3 のち文庫 『「幸福な偶然」をつかまえる』 光文社 2005.6 『新・生きかた上手』 ユーリーグ(現ハルメク) 2005.10 のち文庫 『いのちの哲学詩:水のように形なく風のように姿が見えない』 ユーリーグ(現ハルメク) 2005.10 『私の幸福論「しあわせ」を感じる生き方』 大和書房 2005.11 『どうよく生き、どうよく老い、どうよく死ぬか』(だいわ文庫、2009年5月、ISBN 4479302344) 『わたしが経験した魂のストーリー』 キリスト教視聴覚センター 2005.12 『人生、これからが本番:私の履歴書』 日本経済新聞社 2006.4 『十歳のきみへ:九十五歳のわたしから』 冨山房インターナショナル 2006.4 『私のすすめる健康の秘義:ライフプランニング実践への誘い』 中央法規出版 2006.9 『いのちの授業』 ユーリーグ(現ハルメク) 2006.10 『いのちのおはなし』 村上康成絵 講談社 2007.1 『95歳からの勇気ある生き方』(朝日新聞社、2007年/「あるがまゝ行く」文庫) 『ササッとわかる「長生き人生」の優先順位』 講談社 2007.5 『日野原重明 いのちと勇気のことば:いかに生きるか・何を残すか』(こう書房、2007年/ぶんか社文庫) 『看護の知識と技を革新する:古い看護から新しい看護へ:science and art』 日本看護協会出版会 2007.6 『子どもを輝かせる10のお話』 実業之日本社 2007.12 『人生を輝かせる10のお話』 実業之日本社 2007.12 『いま伝えたい大切なこと:いのち・時・平和』 日本放送出版協会 2008.1 『今日の「いのち」のつかい方:ペイフォワードな生活のすすめ』 主婦の友インフォス情報社 2008.5 『いのちのバトン:97歳のぼくから君たちへ』 いわさきちひろ絵 ダイヤモンド社 2008.11 『道は必ずどこかに続く』 講談社 2009.3 『臨床看護の基礎となる新看護学テキスト:看護の革新を目指して』 日本看護協会出版会 2009.5 『いのちのメッセージ』 三笠書房 2009.6 『いのちの絆:ストレスに負けない日野原流生き方』 ダイヤモンド社 2009.8 『旅での人と自然との出会い:紀行詩』 集英社 2009.9 『メメント・モリ:死を見つめ、今を生きる:死を想え』 海竜社 2009.12 『日野原先生からナースに贈る35のメッセージ』 日本看護協会出版会 2009.10 『子どもを育てる聖書のことば』 いのちのことば社フォレストブックス 2009.11 『日野原重明の「こころ」と「からだ」の相談室』 日本放送出版協会 2010.1 『日野原体操で健康長寿』 日本放送出版協会 2010.1 『働く。:社会で羽ばたくあなたへ』 冨山房インターナショナル 2010.4 『生きてるだけで100点満点:99歳のぼくから君たちへ』 ダイヤモンド社 2010.9 『百歳は次のスタートライン:祝百歳記念!悩めるあなたに贈る「至福の百話」』 光文社 2010.10 『愛とゆるし』 教文社 2010.11 『いのちを育む:百歳の私から人生を楽しむための「道しるべ」』 中央法規出版 2011.9 『100歳のことば100選』 PHP文庫 2011.10 『100歳の金言』 ダイヤモンド社 2012.2 『「いのち」の使命:3.11後を生きる』 日本キリスト教団出版局 2012.8 『いのちの使い方』 小学館 2012.10 『生きかた上手手帳:2013年版』 いきいき 2012.10 『日野原重明ダイアローグ』 医学書院 2012.10 『生きがいを感じて生きる:福祉の役わり・福祉のこころ』 聖学院大学出版会 2012.11 『「与」命:団塊世代よ、あなたの晩年は40年間ある』 小学館 2013.2 『長寿の道しるべ』 中央公論新社 2013.3 『101歳の金言』 ダイヤモンド社 2013.3 『日野原重明の「わくわくフェイスブックのすすめ」』小学館 2013.4 『永久保存版 健康&長寿の秘訣 生き方バイブル:DVD2枚組+ブックレットで繋ぐ、日野原重明101年の集大成』 小学館 2013.5 『いのちのギフト:犬たちと私から送る勇気のエール』 小学館 2013.9 『だから医学は面白い:幻(ビジョン)を追い続けた私の軌跡』 日本医事新報社 2014.9 『戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり』小学館 2015.9 『10月4日 104歳に 104句』ブックマン社 2015.10.2 『最後まで、あるがまま行く』朝日新聞出版 2018.3.7 共編著 遷延性心内膜炎の一例[38] 新村正幸共著 日本循環器病學 1939 最新簡明看護学 川畑愛義共編 学術書院 1949 家庭医学宝典 松田心一共編 社会保険法規研究会 1955 准看護婦試驗の總仕上げ 問題と解答 平野みどり共編 医学書院 1955 看護必携 医学書院 1956 人間ドック その企画・検査から生活指導まで 橘敏也共著 中外医学社 1960 臨床検査の知識と介助 柴田進、小酒井望共編 医学書院 1961 心臓病・高血圧の治療と食事 羽田明子共著 柴田書店 1963 対症検査 鑑別診断のすすめ方 小酒井望、阿部正和共編 医学書院 1963 成人病の発見から管理まで 医学書院 1963 医学の歩みにおくれない心臓病診療の良識 橋本寛敏共著 改訂版 金原出版 1965 高校看護学 阿部正和、金子光共編 医学書院 1966 慢性疾患の新しい理解とリハビリテーション看護 医学書院 1966 内科系統診断学 新しい診察技術と診断のポイント 中外医学社 1968 老人患者の理解と看護 村地悌二共編 医学書院 1968 心臓病 予防と回復に役立つ 香川綾共著 女子栄養大学出版部 1969 私の処方 184人の専門医による 中外医学社 1970 正常値と異常値の間 その判定と対策 河合忠共編 中外医学社 1972 心筋梗塞 その新しい理解と診断・治療・生活管理 太田怜共著 医学書院 1972 看護のための水と電解質の知識 柴垣昌功、山本高治郎共著 医学書院 1974 心緊急症をどう診るか 加藤和三共著 金原出版 1975 打聴診のコツ 佐々貫之、安部英共著 金原出版 1975 栄養指導必携 堀内光共編著 医歯薬出版 1979.10 POSによる高血圧のマネジメント プライマリ・ケアへの新しいアプローチ 道場信孝共著 医学書院 1980.7 これからの家庭看護 毎日新聞社 1985.8 訪問看護の技術「在宅ケア」を支える看護の理論と実際 荻野文共著 現代社 1986.2 講座21世紀へ向けての医学と医療 第8巻 健康教育 日本評論社 1987.4 アートとヒューマニティ 中央法規出版 1988.6 外来・継続看護のアート 中央法規出版 1988.6 死生学・Thanatology 死から生の意味を考える 第1-3集 山本俊一共編 技術出版 1988-1990 患者家族へのケア 中央法規出版 1988.7 訪問看護のアート 中央法規出版 1988.7 末期患者のクオリティ・オブ・ライフ 中央法規出版 1988.8 老人患者のクオリティ・オブ・ライフ 中央法規出版 1988.8 看護にいかすPOS 井部俊子共編 医学書院 1990.3 老人医療への新しいアプローチ 柄沢昭秀共編 医学書院 1992.2 医療文書の正しい書き方と医療補償の実際 加我君孝共編 金原出版 1993.9 私の歩んだ道 内科医六十年 植村研一共著 岩波書店 1995.8 生と死のケア 山本俊一共編 医学書院 1995.3 現代医療への提言 内科医六十年 植村研一共著 岩波書店 1995.10 Quality of life 医療新次元の創造 万代隆共編著 メディカルレビュー社 1996.4 ひとはどう生き、どう死ぬのか 犬養道子共著 岩波書店 1997.6 希望とともに生きて 難病ホスピス開設にいたる「ありのまま舎」のあゆみ 山田富也、西脇智子共編 中央法規出版 1997.7 いのち、生ききる 瀬戸内寂聴共著 光文社 2002.9 のち文庫 病んでこそ知る老いてこそ始まる 高野悦子共著 岩波書店 2002.10 死をみつめ、今を大切に生きる memento mori 春秋社 2002.12 よみがえれ、日本の医療 高木邦格共著 中央公論新社 2003.1 輝いて人生 高木慶子共著 学習研究社 2003.2 夢を実現するチカラ 黒岩祐治共著 扶桑社 2003.2 明日の日本への贈り物 91歳の医学界のリーダーと平和活動家が語る 相馬雪香共著 毎日新聞社 2003.2 医のこころ患者のこころ看護のこころ 瀬戸山元一共著 医療タイムス社 2003.7 九一歳の人生論 「本分」を極める生き方とは? 瀬島龍三共著 扶桑社 2003.9 かんじゃ想い 病んでも幸せ生きがいのある医療のために QOL研究会共編 日総研出版 2003.11 6527歳の決意・92歳の情熱 乙武洋匡共著 中央法規出版 2003.12 のち幻冬舎文庫 あなたとともによい医療を 日本の医療と教育の勇気ある変革 福井次矢共著 インターメディカ 2004.7 音楽力 湯川れい子共著 海竜社 2004.10 100歳「元気生活」のススメ "一生元気"を実現する生き方の処方 三浦敬三共著 祥伝社 2004.12 家族を看とるとき 春秋社 2005.5 おとなのいのちの教育 水野治太郎、アルフォンス・デーケン共編著 河出書房新社 2006.11 『たった一度の人生だから』(星野富弘対談)いのちのことば社 2006 輝いて生きる 95歳×2講演と対談チャリティーフォーラム メイ牛山共著 同友館 2007.1 習慣が「いのちの樹」を育てる 小野恵子共著 大和書房 2007.8 だいわ文庫 高齢者の健康学 みずからかちとる生き方上手 道場信孝共著 創英社 2007.9 病気にならない15の食習慣 楽しく生きる長寿の秘訣 劉影共著 青春出版社 2008.2 百歳青春 LPC財団新老人の会俳句の会/合同句集 木下星城共編著 富嶽出版 2008.8 19歳の君へ 人が生き、死ぬということ 春秋社 2008.8 生活座禅で長生き人生のススメ 朴禧善共著 講談社 2008.10 俳句療法 生命の学際的研究 木下照嶽共編著 富嶽出版 2009.2 いのちを語る デーケン、木村利人共著 集英社 2009.5 アートを楽しむ生き方 ちひろさんの絵に恋をして 松本猛共著 新日本出版社 2010.5 長生きすりゃいいってもんじゃない 多湖輝共著 幻冬舎 2010.5 たっぷり生きる 金子兜太共著 角川学芸出版 2010.8 のち角川ソフィア文庫 俳句療法/自治体病院経営(俳句療法学会研究叢書) 湯田雅夫、木下照嶽共著 富嶽出版 2010.11 老いて、若返る 人生、90歳からが面白い 堀文子共著 小学館 2011.4 病気にならない15の食習慣 天野暁共著 青春出版社 2011.9 日野原重明 一〇〇歳 NHK取材班共著 NHK出版 2011.9 100歳! 日野原重明のフレディ・エクササイズ 黒岩祐治共著 飛鳥新社 2011.10 合同句集 生き生き百寿―LPC財団新老人の会「俳句の会」日野原重明先生百寿記念 木下星城共著 富嶽出版 2011.10 医療行政/俳句療法―日野原重明名誉会長百寿記念 石津寿惠、井出健二郎、木下照嶽共著 富嶽出版 2011.11 さあ出発しよう!「新老人の会」で目指す人生 板東浩著 メディカル情報サービス 2011.12 医師のミッション 非戦に生きる 小池政行聞き手 藤原書店 2012.1 看護の時代 看護が変わる 医療が変わる 川島みどり、石飛幸三共著 日本看護協会出版会 2012.3 電子カルテ時代のPOS 患者指向の連携医療を推進するために 渡辺直著 医学書院 2012.5 母を語る 今井奈緒子、大坪直史、片山裕子、伊藤美子共著 日本キリスト教団出版局 2012.12 現代思想imago 総特集=ヴィクトール・E・フランクル フランクル、姜尚中、諸富祥彦、池田香代子、斎藤環共著 青土社 2013.3 脳とこころのプライマリケア 第1巻「うつと不安」 宮岡等、下田和孝共著 2010.6 第2巻「知能の衰え」 池田学、宮岡等共著 2013.6 第3巻「こころと身体の相互作用」 宮岡等共著 2013.3 第4巻「子どもの発達と行動」 宮岡等、飯田順三共著 2010.10 第5巻「意識と睡眠」 宮岡等、千葉茂共著 2012.6 第6巻「幻覚と妄想」 宮岡等、堀口淳共著 2011.11 第7巻「食事と性」 中山和彦、宮岡等共著 2011.7 第8巻「依存」 宮岡等、福居顕二共著 2011.3 翻訳 新しい診断学の方法論と患者へのアプローチ よき臨床医をめざして Philip A.Tumulty 塚本玲三共訳 医学書院 1978.4 看護のためのPOS F.ロス・ウリィほか 共訳 医学書院 1978.5 プライマリ・ケアとは何か 医療への新しいアプローチ ジョン・フライ 紀伊国献三共訳 医学書院 1981.7 平静の心 オスラー博士講演集 仁木久恵共訳 医学書院 1983.9 ふたたび勇気をいだいて 悲嘆からの出発 H.S.クシュナー 斎藤武共訳 ダイヤモンド社 1985.9 のち同時代ライブラリー「なぜ私だけが苦しむのか」斎藤単独訳 医の倫理 いのちを考える拠点 イエッツィ 斉藤武共訳 医学書院サウンダース 1985.4 よき臨床医をめざして 全人的アプローチ フィリップ・A.タマルティ 塚本玲三共訳 医学書院 1987.10 なぜ明快に書けないのか 英語医学・科学論文の診断と治療 Lester S.King 助川尚子共訳 第2版 メディカル・サイエンス・インターナショナル 1992.5 勇気 バーナード・ウェーバー ユーリーグ 2003.6 メイヨー兄弟の格言集 アメリカの近代医療の基礎を築いた医師 Charles Horace Mayo、Mayo、William James Mayo 近代出版 2004.2 おばあちゃんのきおく メム・フォックス 講談社 2007.11 こぶたくんのめいそう ケリー・リー・マクリーン 産経新聞出版 2008.3 愛する人を亡くした時〈新版〉 E.A.グロルマン 春秋社 2011.5 論文 国立情報学研究所 2010年5月21日閲覧 メディア出演など 日野原重明の輝く顔と輝く心(ラジオNIKKEI第1放送 毎週水曜 17:15〜17:30、2007年4月 - 2017年5月31日)パーソナリティ 100歳なんて、まだまだゴールどころか始まりです(2011年10月4日、朝日新聞朝刊5面、「日野原重明先生お誕生日おめでとうございます」インタビュー) SMAP×SMAP「ビストロSMAP」(2008年4月14日 関西テレビ・フジテレビ)[39] 徹子の部屋(2015年5月15日 テレビ朝日。第9992回、他[注 4]) NHK全国学校音楽コンクール2015(小学生の部、「地球をつつむ歌声」作詞担当[40]) Nコンマガジン スーパー合唱教室(NHK Eテレ、2015年5月24日[注 5]他、本人出演) 地球をつつむ歌声(NHK Eテレ、2015年6月13日、2015年6月14日、本人出演) Nコン2015(2015年10月10日、本人出演[41]) 愛の歌(20年ほど前に自身が作詞・作曲[42]) 特別番組 日野原重明105歳 恋と病と音楽と(2017年5月14日、ラジオNIKKEI第1放送) 役職 一般財団法人ライフ・プランニング・センター理事長[43] 公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長 財団法人日本訪問看護振興財団副理事長 財団法人キープ協会顧問 財団法人日本科学協会顧問 財団法人富山県健康スポーツ財団顧問 公益財団法人野村生涯教育センター顧問 財団法人がんの子供を守る会名誉顧問 財団法人三菱財団理事 財団法人日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団理事 財団法人日本スピリチュアルケア学会理事 公益財団法人日本音楽財団理事 財団法人アジア保健研修財団理事 財団法人防長倶楽部評議員 社団法人日本スポーツ吹矢協会最高顧問 社団法人臨床心臓病学教育研究会最高顧問 公益社団法人難病の子どもとその家族へ夢を永久最高顧問 社団法人学士会評議員 特定非営利活動法人医療の質に関する研究会理事長 特定非営利活動法人日本医療ネットワーク協会顧問 特定非営利活動法人卒後臨床研修評価機構理事 一般社団法人日本総合健診医学会理事長 有限責任中間法人日本人間ドック学会名誉顧問 有限責任中間法人日本抗加齢医学会顧問 日本医療秘書学会会長 日本音楽療法学会理事長 日本POS医療学会会頭 医療の質・安全学会顧問 日本医療福祉情報科学会特別顧問 日本介護福祉学会顧問[44] 日本在宅医学会顧問 日本エイジマネージメント医療研究機構顧問 日本禁煙科学会特別顧問 日本サイコオンコロジー学会顧問 がん医療マネジメント研究会名誉顧問 腎循環器病研究会顧問 日本医療バランスト・スコアカード研究学会評議員 関西学院初等部教育特別顧問[45] 日本ユニセフ協会大使[46] 環境省エコチル調査サポーター NPO法人 日本ハンドベル連盟[47] 理事長 株式会社聖路加サービスセンター代表取締役(第4代)[48] 医療法人真誠会名誉理事長[49] 脚注 注釈 出典 関連項目 アルベルト・シュヴァイツァー - 「65 27歳の決意 92歳の情熱」P84〜85において日野原が影響を受けた医師の1人。 外部リンク - 神戸市による紹介ページ on Facebook
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%8E%9F%E9%87%8D%E6%98%8E
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 202, 335, 1046, 3598, 4802, 7851, 8412, 8600, 9233, 10953, 11536, 12163, 12437, 16205, 18095, 19767, 23022, 23064], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 184, 309, 1013, 3559, 4763, 7841, 8392, 8586, 9208, 10916, 11497, 12124, 12435, 16172, 18059, 19725, 23000, 23050, 23140], dtype=int32)}
世界で初めての精神科医は誰?
精神保健の歴史
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
精神保健の歴史(せいしんほけんのれきし、English: History of Mental health)では、精神保健、精神医学、精神障害の歴史について記述する。 世界の歴史 1377年、イギリスの王立ベスレム病院(ベドラム、Bedlam)が精神病も扱い始める。 16世紀、宗教改革 1656年、フランスのルイ14世の指導により精神障害者、犯罪者、浮浪者を収容する総合施療院、ビセートル病院(L'hôpital de Bicêtre、男性)、サルペトリエール病院(Hôpital de la Salpêtrière、女性)が建設される[1]。働かない権利の項も参照 1714年、イギリスにて浮浪者取締法が制定される。浮浪者の中の精神障害者の保護について規定[2] 1774年、イギリスにてマッドハウス(madhouse[3])を規制するマッドハウス法を制定する[4] イタリアのレオポルド大公が精神障害者の人道的ケアを謳った精神衛生法を施行。 1789年〜、フランス革命 1785年、イタリアでは近代的精神医療をめざした聖ボニファチェ病院が開設され、院長のヴィンチェンツォ・キアルージが精神障害者に対する開放的処遇を発表。病歴記載方法、高度の衛生管理、レクリエーション施設、作業療法、拘束の制限など、人権思想に関する当時としては極めて先進的な手法を提示した。 1793年、フランスのフィリップ・ピネル(Philippe Pinel)、ジャン=バチスト・ピュッサンがビセートル病院の閉鎖病棟の患者を鎖から解放する。ル・クルムラン=ビセートルも参照 1808年、イギリスにて州立アサイラム法が成立、精神障害者の入院環境を改善する多くの規定が盛り込まれる[5] 1817年、アメリカ最初の「道徳療法」を行う精神病院が開設される。 1852年、フランスの精神科医ベネディクト・モレル (Bénédict Morel) によって統合失調症は初めて公式に記述され、仏Démence précoce(「早発性痴呆」)と呼ばれた 1871年、ドイツのエヴァルト・ヘッカー (Ewald Hecker) が「破瓜病」(Hebephrenie) を著す 1874年、ドイツのカール・カールバウム (Karl Ludwig Kahlbaum) が「緊張病」(Katatonie) を著す 1880年、フランスの医師ジェリーノ(Jean-Baptiste-Édouard Gélineau)がナルコレプシー(narcolepsy)を名付ける 1884年、ルドルフ・ベルリン(Rudolf Berlin)によってディスレクシア(読字障害)が報告される 1899年、ドイツのエミール・クレペリン (Emil Kraepelin) が独Dementia Praecox(「早発性痴呆」)を著し、破瓜病、緊張病に妄想病を加えてまとめる 1900年、国際統計協会が疾病及び関連保健問題の国際統計分類(ICD)の初版を公表 1904年、イタリアで法36号(自傷他害・公序良俗を汚す恐れのある患者の強制入院等)が規定される。 1911年、スイスの精神科医オイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler)は、必ずしも若年時に発症するとは限らず、又、必ずしも痴呆に到るとは限らず、この病気の本性は観念連合の弛緩にあるとして、独Dementia Praecox(「早発性痴呆」)を独Schizophrenie(旧称「精神分裂病」)と改名し疾患概念をかえた 1913年、野口英世が進行麻痺患者の脳に梅毒病原体を発見する 1918年、第一次世界大戦終戦 1921年、アメリカ精神医学会設立 1930年代、治療にアンフェタミンが使われる[6] 1933年、オーストリア出身のアメリカ合衆国の医師マンフレート・ザーケル (Manfred Sakel) が、インスリン・ショック療法を創始する[7]。2013年現在では行われていない治療法である。 1935年、ポルトガルの神経科医エガス・モニス、外科医のペドロ・アルメイダ・リマ(Pedro Almeida Lima)がロボトミー(精神外科)を創始する 1938年、イタリアのU.ツェルレッティ(Ugo Cerletti)とルシオ・ビニ(Lucio Bini)が電気けいれん療法を開発 1940-41年、ナチス・ドイツにてT4作戦。ナチス政権が統合失調症患者等をユダヤ人と同等と見なし、ホロコースト同様に虐殺した[8]。 1943年、アメリカの精神科医レオ・カナー(Leo Kanner)が「早期幼児自閉症」として自閉症(カナー症候群)を報告する 1944年、オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー(Hans Asperger)が自閉的精神病質(アスペルガー症候群)を報告する 1945年、第二次世界大戦終戦 1946年、ウォルター・フリーマンが、経眼窩術式という精神外科手術をアメリカ合衆国で創始する。別名「アイスピック・ロボトミー」と呼ばれた。 1948年、キングス・カレッジ・ロンドン精神医学研究所(IoP)設立 1949年、オーストラリアの精神科医ジョン・ケイドによるリチウム塩の治療作用の発見 1952年、フランスの精神科医ジャン・ドレー (Jean Delay) とピエール・ドニカー (Pierre Deniker) がクロルプロマジンの統合失調症に対する治療効果を初めて正しく評価した 1952年、アメリカ精神医学会が精神障害に関するガイドライン「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM)」初版(DSM-I)を出す 1954年、デンマークの精神科医がケイドのリチウム塩の治療作用の発見が正しいことを確認し、使用開始 1957年、ベルギーの薬理学者パウル・ヤンセン ('Paul Janssen') がクロルプロマジンより優れた抗精神病薬ハロペリドールを開発 1957年、スイスの精神科医ローラント・クーンによってイミプラミンが、精神賦活作用を有することが見いだされ、うつ病の薬物療法への道が開かれた[9]。 1959年、イギリス、成立。拘留ではなく自由意志での入院が促進される。のちの1961年、当時の保健大臣イーノック・パウエル(Enoch Powell)が精神病院の終了とコミュニティケア政策を予言する[10] 1963年、アメリカにて「精神病及び精神薄弱に関する大統領教書」(Special Message to the Congress on Mental Illness and Mental Retardation、ケネディ教書)精神医療におけるが掲げられる[11] 1967年、イギリスの精神科医デヴィッド・クーパー (David Cooper) は反精神医学を唱え、精神分裂病は存在しないと主張。その理論は大方の承認を得るまでには至っていない[12]。 1968年、イタリア精神病院医師会の働きかけにより法431号が制定され、自由入院が可能となり、1:4の人員配置、社会福祉士や心理士の配置、総合病院内への精神科病床の設置、外来設置や精神衛生センターの設置なども進められた。 1971年、向精神薬に関する条約が公布。 1978年、イタリアで、フランコ・バザーリアとミケーレ・ザネッティにより、通称「バザリア法」が成立。世界初の精神病院廃絶法[13] 1980年、ベトナム戦争帰還兵の影響を受け、DSM-IIIに心的外傷後ストレス障害(PSTD)が新たに加わる。 1981年、イギリスの医師ローナ・ウィング(Lorna Wing)がアスペルガー症候群の発見を紹介[14] 1984年、非定型抗精神病薬のリスペリドンが開発される 1980年代初頭、フィンランドのケロプダス病院で、オープン・ダイアローグ療法が、開始される 21世紀 2006年、障害者権利条約が12月13日に国際連合総会で採択される。 2010年、ドイツ精神医学精神療法神経学会(DGPPN)は学会総会にて、ナチス政権下の犯罪関与について公式に謝罪[8]。 2012年、第66回世界保健機関総会で「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.」が可決され、各国は2020年までに人権に配慮した根拠に基づくユニバーサルヘルスケアの推進が掲げられる。 日本での歴史 日本の現行法「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」の対象となる知的障害、発達障害の主な歴史も参考程度に記述した。 江戸時代 1807年(文化4年)、漢方医の香川修徳が医学全書「一本堂行余医言(いっぽんどうこうよいげん)」を発刊する(第五巻が精神医学の項目)[15]。 1818年(文政元年)頃、漢方医の石丸周吾が私立の精神科診療所、石丸癲狂院(のちの石丸病院)を開院する(現・大阪府豊中市熊野町2丁目)[16]。 1846年(弘化3年)、接骨医の奈良林一徳が私立の精神科診療所、小松川狂疾治療所(のちの加命堂脳病院)を開院する(現・東京都江戸川区西小松川町)[17]。 1867年、明治維新 1872年(明治5年)、ロシア帝国皇太子が訪日するにあたり、明治政府は東京府東京市本郷の元加賀藩邸跡(現・東京大学構内)の空き長屋に営繕会議所附属養育院(現・地方独立行政法人東京都健康長寿医療センター)[18]が設置され、巷の生活困窮者などを狩込み収容する[19]。 精神障害者部門は、明治12年7月に上野恩賜公園内に「東京府癲狂院」を設置、これが後の東京府巣鴨病院を経て、東京都立松沢病院となる[20]。 1873年(明治6年)、文部省の医務課が医務局になり、明治政府が本格的に衛生行政に着手した[21] 1874年(明治7年)、文部省が東京府、京都府、大阪府に対し医制を発布し、癲狂院(てんきょういん、当時の精神科病院はこのように呼ばれた)の設立を規定[22] 1875年(明治8年)、京都府の南禅寺境内に日本初の公立精神科病院「京都府療病院付属癲狂院」(現・川越病院)設立[23][24] 1875年(明治8年)、路上の狂癲人の取扱いに関する行政警察規則が制定される。[25] 1878年(明治11年)、東京府に日本初の私立精神科病院、加藤瘋癲病院が認可される[26] 1879年(明治12年)、相馬事件 1879年(明治12年)、帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に日本初の精神医学講座が設置される(初代教授は榊俶)[27] 1879年(明治12年)、癲狂院、のちの根岸病院。北豊島郡金杉村(台東区根岸)に開院し、私立精神病院の第二例となる[28][29]。 1890年、第1回帝国議会開会 1891年(明治24年)、日本最初の知的障害者の教育・福祉施設、「滝乃川学園」設立 1900年(明治33年)、精神病者監護法公布、私宅監置の制度化。 1902年(明治35年)、呉秀三と三浦謹之助によって日本神経学会が発足(後の日本精神神経学会となる) 1908年(明治41年)、三宅鉱一と池田隆徳が「知能測定尺度(ビネー・シモン法)」を紹介。知能検査#開発の歴史を参照 1914年(大正3年)、精神病院法公布 1918年、第一次世界大戦終戦 1918年(大正7年)、呉秀三・樫田五郎『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』を出版。「わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし」という有名な一節を残す。 1929年(昭和4年)、救護法公布(原泰一) 1938年(昭和13年)、新潟大学の中田瑞穂、ロボトミーを開始。以後1975年(昭和50年)までロボトミーを受ける者もいた。 1940年(昭和15年)、国民優生法公布 1945年、第二次世界大戦終戦 戦後、日本軍備蓄のメタンフェタミンが市場流入。薬物依存症者が大量に発生し、社会問題になる。覚醒剤#歴史も参照 1948年(昭和23年)、優生保護法施行。精神障害者に対する人工妊娠中絶が合法化。 1949年(昭和24年)、日本精神科病院協会設立 1950年代、精神科病院建設ブーム。向精神薬「クロルプロマジン」が発見、開発・導入され、薬物療法の幕開け。 1950年(昭和25年) 精神衛生法施行、同法施行に伴い精神病者監護法、精神病院法が廃止。私宅監置の禁止と共に、医療保護入院や措置入院・緊急措置入院が新設された。 臺弘の人体実験研究でロボトミー「臺実験」が実施された。 1951年(昭和26年)、覚せい剤取締法施行 1952年(昭和27年)、新潟精神病院にて入院患者にツツガムシ病の人体実験が行われる(新潟大学におけるツツガムシ病原菌の人体接種問題)。後に国会にて参考人招致[30]。 1958年(昭和33年)、学校保健法(現・学校保健安全法第11条)に基づき就学時健康診断が始まる。知能検査#利用の歴史、知能指数#活用の項も参照 1960年(昭和35年) 医療金融公庫設立。私立病院の新設や改築に起債並の甘い条件で融資する[31]。 1964年(昭和39年)、ライシャワー駐日大使刺傷事件が発生する。精神障害者を隔離収容すべき、と言う新聞や雑誌などが主張し、世論も野放しは危険と支持して、厚生省も日本のハンセン病問題同様に、精神科病院への隔離収容政策(社会的入院)を始める。 1965年(昭和40年)、精神衛生法が改正。通院医療費公費負担制度が創設される[32]。精神分裂病や気分障害などの者の家族らでつくる精神障害者家族会の全国連合会組織、全国精神障害者家族会連合会(全家連)が設立 1968年(昭和43年)、世界保健機関が<b data-parsoid='{"dsr":[10719,10731,3,3]}'>クラーク勧告</b>を日本に宣告し、日本における人権蹂躙の精神医療に警告を発するも、この警告は無視された[33]。 1971年(昭和46年)、東京いのちの電話が開設される[34] 1974年(昭和49年)、厚生省、通知「療育手帳制度について」及び「療育手帳制度の実施について」を出し知的障害者向けの障害者手帳制度が始まる。療育手帳の項参照 第1回全国精神障害者交流集会が開催され、それをきっかけとして患者の個人全国組織、全国「精神病」者集団が結成される。 精神科デイケアが医療保険の対象になる。 1975年(昭和50年)、日本精神神経学会が『精神外科』を否定する決議を採択。ロボトミー手術の廃止を宣言。患者の通信・面会の自由に関する決議を採択。 1970年代に大阪府精神障害者家族会連合会(大家連)が大阪の各放送局に対し「きちがい」の用語使用の抗議運動を展開する。精神障害者家族会、放送問題用語、放送禁止用語、差別用語、言葉狩りの項も参照 1970年代半ばに法定外の福祉施設・小規模作業所の設置運動が置き、1980年代にその設置が本格化した[35] 1975年(昭和50年)、断酒ミーティングアルコホーリクス・アノニマスが東京で始められる[34]。 1976年(昭和51年)、個別Sが大阪拘置所で死亡。 1979年(昭和53年)、ロボトミー殺人事件が発生する 1980年(昭和55年)、新宿西口バス放火事件が発生する 1984年(昭和59年)、べてるの家が発足 死の患者リンチが行われた宇都宮病院事件が明るみに出る。報徳会宇都宮病院は2015年現在も病院運営を継続している。 1987年、精神保健法施行 1987年(昭和62年)、宇都宮病院事件を受けて、精神保健法施行。精神保健指定医制度が発足し、任意入院制度確立。 1989年(平成元年)、社団法人日本自閉症協会設立[36] 「保健婦助産婦看護婦学校養成所指定規則」が改正。これまでは男性看護師(旧称・看護士)は女性看護師(旧称・看護婦)と異なり、精神科病棟での勤務を前提とした教育体制が取られていた。改正後は男女とも同一の教育カリキュラムとなっている。 1993年(平成5年)、全国精神障害者団体連合会(全精連)結成 1994年(平成6年)、北陽病院事件の民事訴訟判決が確定。患者が起こした事件に対し、県・病院に総額約1億2千万円の賠償責任を認める。 1995年(平成7年)、精神保健及び精神障害者福祉に関する法律施行。精神障害者保健福祉手帳制度制定 1995年(平成7年)、茨城県で障害者虐待等により強制労働「水戸事件」が発覚 1996年(平成8年)、優生保護法が母体保護法に変わり、強制断種等に係る条文が削除される。 全家連、ホテル兼授産施設等の「ハートピアきつれ川」開設 心療内科(心身医学)が標榜科として認可。心療内科医が掲げるものを精神科医も掲げてしまい、患者に誤解を招くことになった[37]。 1997年、大阪市住吉区長居の安田病院系列である、大阪府柏原市の大和川病院(医療法人北錦会)に人権蹂躙の疑いで立ち入り検査。入院患者の不審死が26件明らかになり、大和川病院事件が発覚。保健機関取消、病院開設許可取消、医療法人認可取消処分となったのちに倒産[38][39][40]。 2000年、介護保険制度施行 2000年、介護保険制度が施行される。 地方自治法改正施行で機関委任事務が廃止。療育手帳に関係する厚生省の通知が法的な効力を失う 豊川市主婦殺人事件。自閉症がこの事件の直接の要因ではないが、文部省(当時)に広い範囲における高機能自閉症児に対する早期の教育支援が必要であることを認識させた。 2001年(平成13年)、附属池田小事件が発生 朝倉病院事件(埼玉県北葛飾郡庄和町)が発生[39]。病室手術、人権蹂躙、診療報酬不正請求により入院制限命令、のち保険医療機関取消[41]。 箕面ヶ丘病院事件(大阪府箕面市)[39]。10年間の違法な身体拘束、診療報酬不正請求により保険医療機関取消[42][43]。 2002年(平成14年)、精神分裂病の診断名が統合失調症へ変更された。 全国精神障害者家族会連合会(全家連)、補助金の目的外使用が発覚し返還命令を受ける 道路交通法改正で、運転免許証の欠格が「絶対的欠格事由に基づく方式」から「相対的欠格事由に基づく方式」に改められる。運転免許に関する欠格条項問題の項を参照 2004年(平成16年)、薬物依存症の家族らでつくる全国連合組織、全国薬物依存症者家族連合会(薬家連)が設立 2005年(平成17年)、心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律(医療観察法)施行 発達障害者支援法施行。発達障害の項参照 2006年、障害者自立支援法施行 2006年、障害者自立支援法が施行。精神病院の用語の整理等のための関係法律の一部を改正する法律が成立 新しい精神障害者家族会の全国連合会組織、全国精神保健福祉会連合会が設立 精神障害者保健福祉手帳が写真が添付できる新様式に更新された 2007年、全国精神障害者家族会連合会(全家連)が負債10億円を抱え倒産、解散 リタリンの不適切処方問題が表面化。リタリンの適応症からうつ病が外される。翌年に流通規制制度を設ける。 2009年、貝塚中央病院(大阪府貝塚市)にて精神科患者が拘束死。看護師に有罪判決[44]。 政権交代が起こり、自公連立政権が下野し民社国連立政権が登場。鳩山内閣の長妻昭厚生労働大臣は障害者自立支援法の廃止を明言[45]。 2010年(平成22年)、国際麻薬統制委員会は日本でのベンゾジアゼピンの不適切な消費について警告。 障がい者制度改革推進本部等における検討を踏まえて障害保健福祉施策を見直すまでの間において障害者等の地域生活を支援するための関係法律の整備に関する法律(障害者自立支援法の改正案)が成立 2011年 倉敷森下病院へ精神保健福祉法に基づく入院制限命令[46][47]。のち診療報酬不正請求により保険医療機関取消。 障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律(障害者虐待防止法)成立、6月24日公布。 2012年 障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律が、10月1日に施行された。 障害者自立支援法が障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律(障害者総合支援法)に改正され、2013年(平成25年)4月1日から施行された。 2013年、国際連合人権理事会は日本に対し、精神障害者の非常に大勢が自らの意思に反して長期間に渡って社会的入院されていることや、身体拘束と隔離が過剰に用いられていることを警告[48]。 2014年、障害者権利条約を日本国が1月20日に批准。 2015年 精神保健指定医の不正取得事件が聖マリアンナ医科大学で発覚、4月15日に厚生労働省が聖マリアンナ医科大学病院所属20人の指定医資格を取り消し[49]。 2016年、障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律が4月1日から施行された。 7月26日 - 相模原障害者施設殺傷事件が発生、被告が犯行直前に北里大学東病院で措置入院を受けていたことから、措置入院の在り方が厚生労働省の審議会で討議される。 2017年、相模原障害者施設殺傷事件を受け「精神保健福祉法改正案」が第193回国会に提出され審議されるも、措置入院退院後のケアを巡って議論が紛糾[50]、参議院で成立するも衆議院で会期内に成立せず、継続審議ののち、9月28日に第194回国会の冒頭で、衆議院解散により廃案ととなった[51]。 脚注 参考文献 Text "和書" ignored (help) 関連項目 精神医学 - 精神障害 - 精神科 - 精神科医 社会福祉の年表
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E4%BF%9D%E5%81%A5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 481, 578, 732, 805, 1413, 1968, 2708, 3693, 3973, 4384, 5567, 5700, 6035, 6324, 6806, 7597, 7791, 8303, 8585, 8751, 8859, 9194, 9476, 10128, 10940, 11021, 11195, 11302, 11357, 11728, 12496, 13189, 13886, 14154, 14758, 15010, 15399, 15586, 18927, 19142, 19534, 19580, 20046, 20278, 22947, 23573, 26525, 26618, 27743, 28381, 28683, 30457, 31097, 31389, 32585, 32822, 32959, 33237, 33671, 34258, 34728, 34925, 35195, 36011, 36510, 37381, 37906, 38358, 38617, 39113, 39293, 40515, 41038, 41336, 41874, 42243, 42901, 43605, 44273, 44674, 45277, 45651, 46317, 46670, 46857, 47334, 47411, 47571, 48006, 48079, 48131, 48228, 48318, 48374, 48532, 48600, 48945, 48976, 49265, 49309, 49472, 49619, 49859, 49930, 50177, 50274, 50570, 50693, 51170, 51617, 52041, 52290, 52501, 53008, 53228, 53718, 53911, 54130, 54764, 55152, 56079, 56173, 56548, 56858, 56944, 57441, 57523, 58119, 58212, 58408, 58632, 58990, 59183, 59892, 61346, 61716, 61932, 61975], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 473, 577, 731, 804, 1399, 1967, 2707, 3692, 3972, 4376, 5566, 5699, 6034, 6323, 6805, 7596, 7790, 8277, 8584, 8750, 8839, 9193, 9475, 10108, 10939, 10986, 11160, 11301, 11356, 11708, 12488, 13188, 13885, 14153, 14757, 15009, 15398, 15544, 18913, 19141, 19533, 19579, 20017, 20277, 22918, 23572, 26493, 26617, 27717, 28367, 28682, 30456, 31068, 31388, 32584, 32799, 32958, 33236, 33670, 34237, 34727, 34924, 35154, 36010, 36509, 37380, 37874, 38357, 38616, 39054, 39266, 40453, 41024, 41310, 41857, 42242, 42900, 43604, 44250, 44673, 45276, 45650, 46308, 46669, 46856, 47318, 47402, 47562, 47997, 48070, 48122, 48219, 48298, 48369, 48531, 48599, 48944, 48975, 49264, 49308, 49471, 49596, 49858, 49929, 50176, 50273, 50547, 50692, 51169, 51616, 52040, 52289, 52500, 52990, 53193, 53717, 53910, 54129, 54763, 55151, 56047, 56172, 56547, 56819, 56943, 57440, 57522, 58078, 58201, 58317, 58624, 58976, 59169, 59891, 61326, 61715, 61893, 61961, 62617], dtype=int32)}
自己整合ゲートはいつ開発された
ETC
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
電子料金収受システム(English: E</b>lectronic T</b>oll C</b>ollection System:エレクトロニック・トール・コレクション・システム, 略称Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)とは、高度道路交通システムのひとつ。有料道路を利用する際に料金所で停止することなく通過できるノンストップ自動料金収受システムである。 概要 ETCは無線通信を利用して通行車両の料金の収受を行うシステムである。 世界各国で同様の料金収受システムが構築されている。ただし、課金システムや料金所の構造は一致していない。 ETC導入国の一覧(en:List of electronic toll collection systems) 高度道路交通システム(ITS)の一翼を担う道路交通技術であり[1]、ETC車載器を搭載する車が、有料道路の渋滞の原因ともなっている料金所を停止することなく、通行料金を精算できるシステムであることから、高速道路における交通渋滞の緩和に役立てられている[2]。また、ETCの導入によって曜日や時間帯ごとの混雑に応じた料金設定が技術的に容易となり、過剰な混雑を軽減するための料金設定の組み合わせを行うことが可能となった[3]。 日本のETC 日本では一般に<b data-parsoid='{"dsr":[896,909,3,3]}'>イーティーシー</b>と呼ばれる[注釈 1] ほか、「ノンストップ自動料金<b data-parsoid='{"dsr":[1409,1418,3,3]}'>支払い</b>システム」と呼ばれることもある。「ETC」およびETCロゴは(一財)ITSサービス高度化機構(ITS-TEA)の登録商標(第4447876号ほか)である。2015年時点で、5000万台以上の自動車にETC車載機が取り付けられており、高速道路におけるETC利用率は90%を超えている。 日本で有料道路の利用者がETCシステムを利用するためには、利用者がETC車載器を購入して車に装備してセットアップし、並行してクレジットカード会社にETCカードの発行を申請して、車載器に挿入する準備が必要となる。有料道路を利用すると、通行料金は自動的にクレジットカード会社を通して口座から引き落とされる仕組みである[4]。車載器、ETCカード共に、「(一財)ITSサービス高度化機構(ITS-TEA)」(旧・一般財団法人道路システム高度化推進機構)がクレジット会社やセットアップ店を通じて利用申請を受け付け、情報配信している[4]。 日本のETCシステムは、インターチェンジにETC専用ゲートを整備しなければならず、さらに料金割引制度を受けたい高速道路利用者が、ETC車載器・ETCカード・セットアップ費用を用意しなければいけないなど、金銭的な負担、ハード依存が大きい。そのため、世界で最も高価かつ複雑なシステムで、こんなに高価になってしまったのは、旧建設省、旧運輸省、警察庁などの省益がぶつかりあった結果で、もっと安価にすることも出来た筈だと指摘する論評もある[5]。そのため一部の出版社や識者からは、ETC機器を製造販売する組織の既得権益ではないかという声が挙がっている[6]。これに対しては、行政やクレジットカード会社が主体となって、ETC機器やセットアップ料金が無料になるというキャンペーンも頻繁に行なわれていた。 1997年(平成9年)に小田原厚木道路小田原料金所で業務用車輛を対象に試験が開始され、2001年(平成13年)11月30日には、日本の高速道路において一般利用が開始された。日本では国土交通省が推進している。 2015年(平成27年)11月末現在、日本では累計6975万台の車両にETC車載器が取り付けられた(ただし、このうち再セットアップ件数が1788万台あるので、実台数は5187万台程度であると推定される)[7]。2015年12月時点におけるETC利用率は全国平均で90.3%であり、首都高速道路では週平均で93%を超えている[8]。 機構 ETC車載器(以下、車載器)を導入した自動車が料金所のETCレーンに進入すると、無線通信により車載器と料金所の間で料金精算に必要な情報(車両の情報、ETCカードの番号、入口料金所、出口料金所、通行料金など)が交換される。通信が正しく行われ、情報に問題がなければ、ETCレーンに設置された発進制御棒(以下、開閉バー)が開き、車両は停止せずにそのままレーンを通過できる[9]。ETCレーンを通過する際はETCカードをあらかじめ車載器に挿入し、車載器によるカードの認証を終えている必要がある。車載器がカードの認証を終えていない場合、または通信中に何らかの異常があった場合や情報が正しくない場合などには開閉バーが開かず、料金所を通過できない。なお、無線通行をしない場合は「一般」または「ETC/一般」の表示があるレーンを利用する。この場合、対応している有料道路であればETCカードを料金精算に利用できる(ETCレーンがない場合を参照)。 車載器には、あらかじめ設置する車両の情報を登録しなければならない(セットアップ。後述)。 料金所にはアンテナや車両検知器などの「路側装置」が設置されており、ETCカードをセットした車載器と交信が行われ課金情報を送信する。「路側装置」より利用明細が「中央処理装置」に送られ、課金情報をもとにユーザーに請求が行われる[10]。 また、前払い方式を導入している道路は、車両の利用区間を確認する為、料金所のない出口に「フリーフローETC」が設置されていることから、入口のETCレーンを通過した後も走行中はETCカードを抜いてはならない。 通信に利用している周波数は5.8GHz帯で、ISMバンド、アマチュア無線と共用している。通信速度は1,024kbpsで、ASKを使ったDSRC(Dedicated Short Range Communication:専用狭域通信)という通信方式が使われている。高速道路本線上または都市高速の出口などに設置されている「フリーフローETC」は180km/h、料金所のETCレーンでは80km/hの速度で通過しても通信が可能である。 ただし、ETCカードの挿し忘れや通信エラーなどで、開閉バーが開かなくても、衝突せずに確実に停止可能な速度で、料金所のレーンを通過しなければ危険である。各事業者は、ETCシステム利用規程などで定め、20km/h以下の低速で料金所を通過するよう、周知活動を行った。しかし、速度超過でのレーン進入に起因する、ETCのブースや開閉バーを破壊する事例が相次いだため、NEXCO中日本を皮切りに、NEXCO西日本・東日本を始め、首都高速道路や阪神高速道路など多くの高速道路会社で、開閉バーの開くタイミングを遅らせることで、過剰な速度での料金所通行を防ぐ対策を実施している。 一旦停止を必要とする「スマートインターチェンジ」も実用化に向けて各地で実験が進められ、その一部は2006年10月1日から恒久化されている。 フリーフローETCシステムとは、車両を停止もしくは速度を落とさなくても料金収受が可能なETCシステムで、画像処理装置と車載器位置検出装置により通信を行い、ETCゲートが不要となり、渋滞緩和やコスト削減が期待できる次世代ETCのこと。首都高速道路や阪神高速、名二環などの一部で使用されている。また府中スマートインターの出口でも使用されている。 料金所の路側機器 ETC対応レーンの路側装置は、手前進入口側より順に以下のように設置されている。 ただし、これは一例であり料金が対距離料金制か均一料金か、対距離の入口か出口かによって設備構成に多少の違いがある。 車両検知器1 車両検知器2 無線アンテナと運用表示板 車両検知器3 収受ブース 路側表示板 車両検知器4 開閉バー 監視カメラ (このレーンを使用した運用については後述#ETCレーンにて説明) 車載器の種類 ETCの車載器をハードウェアの形式で分類すると、無線通信を行うアンテナ部を別ユニットで持ち、ETCカードと併せて3つのパーツから成り立つ3ピース(アンテナ分離型)と、アンテナ部を内蔵した2ピース(アンテナ一体型)の二つのタイプがある。 ソフトウェアの機能で分類すると、カードの入れ忘れなどをブザーで知らせるタイプと、音声で料金などを案内するタイプの二つがある。 利用履歴を、連動したカーナビゲーションで管理できるものもある。 また2009年以降、車載器のDSRC通信を利用してITSスポットでのETC2.0サービスを利用する為の機能を搭載した機器も開発・発売されている。対応車載器は「ETC2.0対応車載器」または「DSRC車載器」として従来型ETCとは差別化している。通常のETC車載器として利用できるだけでなく対応カーナビゲーションと連動させることでサービスを利用する事が出来るものや、カーナビゲーションを必要としない発話型車載器が発売されている。[11](後述の#ETC2.0対応車載器も参照のこと) セットアップ 車載器には、あらかじめ設置する車両の情報を登録しなければならない。これを<b data-parsoid='{"dsr":[6367,6379,3,3]}'>セットアップ</b>といい、車載器がセットアップされていない場合、無線通行は利用できない。車両の入れ替え、車載器の譲渡などで車載器を別の車に移す場合には再セットアップ(作業自体は通常のセットアップと同じ)を行う必要がある[注釈 2]。セットアップが行われていればどのETCカードでも利用可能であり、料金は利用時に挿入されているETCカードの契約者が支払う。なお、セットアップは有料で、セットアップ店</b>というITS-TEAに登録された店舗でしか行えないようになっている。 セットアップ方法は以下の2通り。 オンラインセットアップ ITS-TEAとセットアップ店間で、情報をオンラインで送受信する。ETCカードがあれば当日から利用できる。 オフラインセットアップ セットアップ情報を郵便かFAXで伝達する。完了までおおむね1週間ほどかかる。 セットアップは以下の流れで行われる。 セットアップ店にて「セットアップ申込書」を記入しITS-TEAに申請する ITS-TEAが「セットアップ情報」を生成しセットアップ店に伝達する セットアップ情報が書き込まれた「ETCセットアップカード」を車載器に読み込ませる[12] 「セットアップ証明書」が渡される 日本での歴史 日本では、1997年3月に小田原厚木道路小田原料金所で業務用車輛を対象に試験が開始された[13]。同年12月には東京湾アクアラインで路線バスを対象に試験を実施[13]、1999年10月にはORSEが車載器と路上アンテナの相互接続試験を開始し、またデンソー製車載器が初合格した。2000年4月24日には、東関東自動車道での試験が実施され、2000年7月1日には福岡高速道路榎田出入口に試験的に先行導入。2001年3月30日に千葉、沖縄地区において一般利用が開始された。同年7月23日、三大都市圏の一部区間において、同年11月30日には全国の高速道路において一般利用が開始された。 現況 一般利用開始後も当初は、利用登録料や車載器工事費の負担があり、ETCカードの発行申し込みが必要になるなど手続きが煩雑であるため普及が鈍かった。しかし、額面が3万円や5万円の高額なハイウェイカードの偽造問題による廃止や以前の法人向け割引である別納割引に代わりETCの利用が条件の大口・多頻度割引に移行したこと、これを含め後述のETC割引制度が拡充されたこと、更には車載器の価格低下等があり、主に深夜に長時間走行する長距離トラック、それに高速バスや観光バスを中心に急速に普及した。 2006年4月1日以降ハイウェイカードの利用が全面的に停止されたため、普及がさらに加速され、2014年4月現在の利用率は89%に達している。また、2012年1月1日以降[注釈 3] から首都高速道路と阪神高速道路[注釈 4] の通行料金制度が、均一料金制から距離別料金制へ移行し、ETC非搭載車の首都高速・阪神高速の通行料金が事実上値上げとなるため、ETC車のさらなる増加が予想される。詳しい通行料金制度などは首都高速道路#2012年1月1日実施予定の距離別料金または阪神高速道路#2012年開始予定の対距離料金制を参照のこと。 ただ、高速道路の利用頻度が少ないドライバーやクレジットカードを持つことができないドライバーは車載器を所有しづらい。普及にも限界があり、利用率95%程度が上限であろうと考えられている。 2009年3月から始まった地方高速上限1,000円割引とそれに合わせて復活した台数限定の助成制度で購入希望者が殺到。車載器の生産が追いつかない状態が続き、仕入れ価格がメーカー希望小売価格を上回るほどに高騰したため、助成がすでに終了した2009年7月時点でも入手が困難な状態が続いていた。2009年9月頃になって、ようやく需要と供給が安定してカー用品店でも在庫が目立つ状況になった。このため、2009年前半よりは入手しやすくなっている。 2010年時点でのETC設置費用は、ETC車載機が6,000円~8,000円(売れ筋価格帯)、セットアップ料金3,150円、自動車への取り付け工事費3,000円~5,000円、合計で1万3,000円から1万5,000円程度である。 民主党は高速道路無料化をマニフェストで提唱し、2010年度には高速道路無料化社会実験を一部路線で実施した。完全無料化が実施されると、無料化対象外の都市高速道路や地方道路公社路線を除いてETC車載器の需要がなくなるため、メーカー側は政権交代前後の時期に生産を控えていた。 2011年8月現在では東日本大震災の影響もあり6月まで実施されていた上述の高速1000円社会実験も停止された。 利用率の推移(統計) 年表 1994年9月: 建設省、道路四公団によって、ノンストップ自動料金徴収システム共同研究推進委員会が設置される。 1997年3月: ETCの通信方式に関する電技審答申が出る。 2001年11月30日: ETC期間限定特別割引開始(申込:2002年6月30日まで。利用:2004年6月30日まで)。 2002年7月19日: ETC前払割引サービス開始。 2002年11月: ETCノンストップ走行時の障害者割引の適用開始(要申込)。 2003年7月19日: 高速道路の長距離割引社会実験開始(2004年3月18日終了)。 現行のETC深夜割引とは異なる、300km以上の利用に対する割引率の上乗せという内容であった。 2004年3月: 高速道路網を形成する路線のほぼ全ての料金所に整備を完了。 2004年11月1日: ETC深夜割引開始。 2005年1月11日: ETC通勤割引およびETC早朝夜間割引開始。 2005年4月1日: 別納割引を廃止し、大口・多頻度割引に変更。 利用者への周知不徹底により、開閉バーと車が接触するトラブルが2,000件以上発生。 2005年4月1日: ETCマイレージサービス開始。 2005年10月: ETC利用率が50%を突破[14] 2005年11月11日: 二輪車によるETCの一般モニターによる試験利用開始。 2005年11月29日: ETCパーソナルカード申込受付開始。 2005年12月20日: ETC前払割引サービスの内、前払金の支払(積み増し)の受付など一部サービスを終了。 2005年12月25日: ETC車載器のセットアップ累計台数が1,000万台を突破[15]。 2006年9月: 首都高速道路の月間ETC利用率が70%を突破。 2006年11月1日: 全国の高速道路においてバイクによるETCの一般利用開始。 2006年頃から: ETC非搭載のバイクとの接触事故を防ぐため、バーの長さを短くする。 2007年11月: ETC車載器のセットアップ累計台数が2,000万台を突破[16]。 2008年4月: 首都高速道路の月間ETC利用率が80%を突破。 2008年12月: 全国でのETC利用率が75%を突破[14]。 2009年3月: 日本国政府のリーマンショックを受けた経済対策の一環として、休日特別割引(俗に言う地方高速上限1,000円)を2年間限定で開始。 割引内容が複雑との批判も多いが、携帯電話の割引内容や航空運賃の複雑さと同様であるとの意見もある。割引内容の周知のために、高速道路会社は問い合わせ体制を強化のほか、無料で割引条件等を詳しく掲載した無料パンフレットを、サービスエリア・パーキングエリア・料金事務所で配布した。 2009年5月: ETC車載器のセットアップ累計台数が3,000万台を突破[16]。 2009年5月: 全国でのETC利用率が80%を突破[14]。 2010年9月: ETC車載器のセットアップ累計台数が4,000万台を突破[16]。 2012年1月: 首都高速道路の月間ETC利用率が90%を突破。 2012年1月: 全国でのETC利用率が85%を突破[14]。 2012年8月: ETC車載器のセットアップ累計台数が5,000万台を突破[17]。 2014年3月: ETC車載器のセットアップ累計台数が6,000万台を突破[17] 2016年6月: 全国でのETC利用率が90%を突破[14]。 ETCカード ETCカードはキャッシュカードの国際規格(ISO/IEC 7810 ID-1)と同等サイズのプラスチックカードにICチップと車載器との接続のための端子を埋め込んだ物である。 ICチップにはあらかじめカード固有の情報が書き込まれている。また、ETC利用時に必要な情報について、車載器がICチップの情報を読み書きする。料金の履歴を保存することができ、この履歴は車載器の操作で合成音声で読み上げたり、専用のプリンタを用いて明細を印字することができる。 ETCカードには以下の種類がある。 説明文中、NEXCO東日本は東日本高速道路株式会社を、NEXCO中日本は中日本高速道路株式会社を、NEXCO西日本は西日本高速道路株式会社を示す。またNEXCO各社</b>はこれら三社を示す。本項目で<b data-parsoid='{"dsr":[13521,13530,3,3]}'>六会社</b>とした場合、NEXCO各社に加えて、首都高速・阪神高速・本四高速の各高速道路会社を含め指す。 ETCクレジットカード クレジットカードの発行会社が、ETC利用者に貸与するETCカード。次項のETCパーソナルカードが登場するまで、個人の利用者はETCクレジットカードを利用するしかなかった。 ETCクレジットカードの申し込みは、クレジットカードと同時に新規に申し込む場合を除いて、あらかじめETCカードの発行に対応するクレジットカードを所持する必要がある。提携先の意向により非対応にされているカードもあるので注意を要する。カードショッピング機能がないカード「JAF ETC会員証」もあるが、通常のクレジットカードと同様、契約には審査が必要である。(2011年3月末日で発行終了)[18]。 ETCクレジットカードは通常、主契約のクレジットカードとは別にETC専用のものが発行され、クレジットカードが親、ETCカードが子の関係となる。後述の通り、ETCカード支払いも親カードの利用残高に合算される。 カード会社によっては、通常のクレジットカード上にETC専用またはICクレジットと共用の接触ICチップを搭載した一体型を発行している。一体型のカードについては、カード、または車両とカードが同時に盗難に遭った場合の危険性や再発行までの不便さが親子分離型と比べて増大する。 上記のETCカードを車内に置いた状態で車両ごと盗難に遭った場合の不正利用については、通常のクレジットカード同様の盗難補償が適用される場合と、会員の過失としてカード利用を停止するまでの実損額を会員負担とするカード会社がある。あらかじめ規約で確認することが望ましい。 通行料金は、ETCカード申込み時に指定したクレジットカードのショッピング一括払いの利用として取り扱われ、ほかのクレジットカード利用分と合わせて金融機関の口座から引き落とされる。リボルビング払い専用カードでは、ETC利用分もリボルビング払いとなるものが多い。 NEXCO東日本が三菱UFJニコスと提携して発行する「E-NEXCO pass」や、NEXCO中日本が同じく三菱UFJニコスと提携して発行する「プレミアムドライバーズカード」ではポイントを高速道路料金の支払いに還元することができる。 イオンクレジットサービスが発行するETCカードには「ETCゲート車両損傷お見舞金制度」がある。 ETCクレジットカード申込み時に、カード会社が斡旋して、車載器本体とセットアップを合わせて1万円以下で提供するサービスがある。 ETCマイレージサービスが利用できる。 ETCパーソナルカード クレジットカードの契約ができない、あるいは契約を望まない高速道路利用者からの、ETCを利用したいと言う要望に応えて企画された、ETC利用者識別情報カードである。ETCシステムの全国一般運用開始からほぼ4年後の2005年11月29日、発行が開始された。高速道路6社[注釈 5] が共同で発行し、ETC利用者に貸与する。通常クレジットカードの発行に必要な「審査」に代わり、デポジット(預託金)を預託することで発行されることが、一般のETCカードとの違いである。 カードのサイズ等は一般のETCカードと同一であり、当然、車載器も同じものである。 通常のETCカードと同様、ETCマイレージサービスが利用でき、各種割引サービスが受けられる。 ETCパーソナルカードの契約には6社を代表する、ETCカード事務局に利用申込書を提出する。このとき、月平均利用の見込み額、年間の最高利用月見込み額を申告する。ETCカード事務局は、内容を審査の上、申込者にデポジットの金額を通知する[注釈 6]。申込者は通知された金額を郵便振替又はコンビニエンスストアで払い込み、これをETCカード事務局が確認した後、申込者にETCパーソナルカードが貸与される。 デポジットは前払金ではなく、支払いには充当されない。解約の場合には、未払金の支払いの後、デポジットが返還される。 通行料金は毎月末日を締め日として1か月ごとに集計され、翌月27日に、申し込み時に指定した銀行の預金口座、または郵便貯金の通常貯金口座から引き落とされる。特に指定する場合を除いてNEXCO中日本が6社を代表して収納事務を行う。 年会費1,234円が必要となる。これも通行料には充当されない。なお、2009年3月1日から2011年3月31日までの新規入会者は、初年度の年会費が無料である[19][20]。このキャンペーンの背景には、要望に応えてETCパーソナルカードを企画したものの、思ったより普及が進まず、アンケート調査の結果、デポジット制の面倒くささや理解のしにくさもさることながら、年会費の高さが普及を阻害していることが、はっきりしたためである。 利用額の実績が申告より多い場合、デポジットの追加払込を要求されることがある。追加払込を拒否したり、月初からの累計がデポジット額の80%を超えた時点でサービスは停止する。したがって、デポジット額を少なく抑えるために過少申告すると、月の途中でETCを使えなくなって利用者自身が不便をこうむることになる。ただし短期的、例えば1ヶ月だけ申告より利用額の実績が多くなった場合には、その旨を事務局に説明すればデポジット額の80%を超えない限り、即サービスを停止されることはない。 上述の通り、ETCパーソナルカードの申し込み先は、クレジットカード会社ではなく、高速道路6社である。発行にクレジットカードの契約は不要で、加入審査をパスするための担保は信用供与ではなく、預託金による物的保証である。よって、信用情報機関の利用や登録も行われない。 ETCコーポレートカード NEXCO各社が発行し、大口・多頻度割引の利用者に貸与するETCカード。 NEXCO各社に申込書を提出し、信用保証または預託金の納付などの必要な手続きの後、ETCコーポレートカードの貸与を受ける。 法人だけでなく、個人でも利用が可能。 1台の車両に対して1枚のETCコーポレートカードが貸与される。カードと車両の組み合わせは貸与の時点で決まっており、再発行手続き中などで発行会社が特に他車での利用を承認している場合を除いて、カードに表示された車両で利用しなければならない。異なる車両で利用した場合に不通過の措置はないが、割引の不適用などのペナルティがある。また、違反を繰り返した場合は割引制度の利用停止の措置を受けることがある。 通行料金は毎月末日を締め日として1か月ごとにカードを発行した道路会社から請求され、翌月末までに支払う。 ETCマイレージサービスは利用できない。 事業者によっては、ETCコーポレートカード専用の割引制度がある。 ETCレンタルカード トヨタレンタリースほか大手レンタカー業者では、レンタカー顧客にETCレンタルカード貸与サービスを提供している。利用料金は、業者、利用条件によって異なるが、1回324円(2017年7月現在)が多い。利用者は営業所でチェックアウト(借出)時に利用契約書に署名し、チェックイン(返車)時に実際に使用した道路料金を営業所の端末で読み出して精算すればよく、日本国内に金融拠点(銀行やクレジットカード口座)を持たない外国人でも簡単に使用できる。 ETCレーン ETCの設備を備えた車線(ETCレーン)は以下の形態で運用される。単にETCレーンという場合、「ETC専用」および「ETC / 一般」で運用されている車線を指す。 登場初期は「ETC」(「専用」などの表記なし)と表示されていた。 ETC専用 (背景紫色に白文字(ETC専用又はETC)) ETC無線通行専用の車線。この状態の場合、車載器未搭載など無線通行ができない車(一般車)の誤進入を防ぐため、車線の通行可否を表す信号灯が消灯している[注釈 7]。都心部や交通量が多い料金所では混雑時に「ETC / 一般」レーンに切り替わることがある。なお、収受員のブースがない純粋な「ETC専用」レーンが設置されることがある[注釈 8]。 ETC / 一般 (ETC / 一般) ETC無線通行車と一般車の両方に対応する車線。混在レーンともいう。「ETC専用」レーンと同様に開閉バーが備えられており、一般車の場合は通行券を受け取るか係員に料金を支払うと開閉バーが開く。なお、この車線ではETC無線通行車と一般車の利用が混在しており、後者については通行券の受取や料金支払い等のため一時停止する。また、料金所によってはETCカードを挿入したままの場合、(回数券等で)係員に料金を支払ってもETCが作動し別途課金されることがある。[21] 一般 (背景緑色に白文字(一般)) ETC無線通行の運用をしない車線。通行方法はETCレーンがない場合を参照。ETCに対応する有料道路でETC無線通行設備がない料金所の車線もこの表示がされている。入口はETC導入以前より通行券が自動発券される為無人である一方、出口では基本的に有人のスポットが設けられているが、一部料金所では精算機を導入して無人化している所もある。この場合もETCカードを投入して精算可能となっている。 ほとんどの料金所には、ETCレーンの方向予告標識と車両を誘導する舗装がある。誘導舗装の多くは「^」型が薄青色の地に白色で表示されている(^)標示である。また一部のインターチェンジの入口ランプウェイ・出口付近やサービスエリア (SA) ・パーキングエリア (PA) の出口付近にはETCカードの未挿入を警告する予告アンテナが設置されている。さらに一部の本線料金所には、車線運用を予告する表示器が前述の方向予告標識の上部に設置されている。 ETCレーンがない場合 ETCに対応している有料道路において料金所にETCレーンがない場合、またはあっても利用できない場合、もしくはやむを得ず「一般」レーンを利用する場合は、以下の手順で通行すればETCカードで料金の精算ができる。 対距離料金(入口発券・出口精算方式)の場合 入口料金所にETCレーンがない場合 入口料金所では通行券を受け取る。出口料金所では一般レーンに進入し、収受員に通行券とETCカードを渡す(自動精算機が設置された一般レーンの場合は、通行券挿入口に通行券を挿入後、ETCカード挿入口にETCカードを挿入する。出口でETC専用レーンに進入した場合、ETCカードに入口情報が無いため、開閉バーは開かない)。この場合、ETC割引制度も適用可能だが、車載器を搭載していることを証明する書類を支払時に提示する必要がある(ETC割引を適用する為には車載器搭載が必須の為)。 出口料金所にETCレーンがない場合 一般レーンに進入し、収受員にETCカードを渡す(自動精算機が設置された一般レーンの場合は、通行券挿入口に通行券を挿入後、ETCカード挿入口にETCカードを挿入する)。入口料金所を正常に無線通行していた場合、カードに入口情報が記録されているので通行券は不要である。 均一料金(単純支払方式)の場合 収受員にETCカードを渡す(自動精算機が設置された一般レーンの場合は、精算機のETCカード挿入口にETCカードを挿入する)。 ETCレーンの閉鎖 ETCに対応している有料道路において、下記のような理由においてETCレーンが閉鎖される場合がある。 ETCカードの未挿入による通信トラブル、ETC未搭載およびカード有効期限切れ車両の誤進入 車両接触等による事故 路側機器の故障・点検・工事 路側機器の経年劣化による故障未然防止処置 人件費削減のため 1の理由による場合が最も多い。首都高速では、ETCカードの未挿入によるものが54%、車載器未搭載車両の誤進入が32%、ETCカードの有効期限切れが8%を占めており、この3原因で94%にのぼっている[22]。また、3,4の理由による場合はNEXCO・都市高速各社または地方道路公社各社の公式サイトでETCレーン閉鎖情報がリリースされる。 ETCレーンが閉鎖されている場合、赤信号が点灯し、黒幕〈〉の表示や白背景赤字で「×閉鎖中」もしくは黄色背景黒文字で「試験中」と表示される。または、一部の都市高速では「×」印表示の色違い点滅や、黄色背景赤文字で「閉×鎖」(福岡都市高速及び北九州都市高速の場合)・赤背景白文字で「進入禁止」(名古屋高速の場合)・上部に黒背景赤文字で「閉鎖中」、下部に「×」(阪神高速の場合)と表示される。 一旦停止型ETC 前述のノンストップタイプとは別に、通過時に一旦停止を求められるタイプのものもあり、それらはスマートインターチェンジ(一部除く)やETC対応駐車場などで運用されている。 料金所設備構成としては通常のものと比べ、発進制御棒の仕様が違っていたり信号灯や運用表示部がない(一部を除く)など簡素な造りとなっているのが特徴である。 スマートインターチェンジは、ETCが使用出来ない車両が誤って進入してしまった場合も引き返す事が出来るようUターン路などが設けられている。 また、レーンが複数ある料金所であるが中部縦貫自動車道 (安房峠道路)の平湯料金所のETC専用レーンのようにバーの手前で一旦停止する必要があるタイプも存在する。 ETCレーン走行時の事故と対策 開閉バーは通信不良や車載器・路側機の故障・装着ミスなどで開かないことがある。また、環状のルートを経由しUターンしたような状態で、最初に入ったICから出るか、進行方向が限定されるICにおいて車両の走行ルートとの整合がとれない場合も開閉バーは開かないことがある。車両が電波を乱反射させることによって起こるマルチパス、利用の周波数がISM機器やアマチュア無線と共用のために起こりやすい混信によって通信不良があり、常に確実な通信ができることは保証されていない。さらに、ETCカードの入れ忘れや有効期限切れなどでバーが開かず、後続車に追突される事故も発生している[23]。 利用規程には、開かない場合に衝突しないように通行するよう定められており、開閉バーが開かずに衝突などの事故が発生した場合、開かない原因が運転者にない場合でも事故の責任は一般に運転者が負う。例えば開閉バーを折損した場合、標準的な物で1本あたり6万5,000円を請求されることがある[24]。なお「ETCゲート車両損傷お見舞金制度」のあるETCカードもある[25]。 また、安全速度の20km/hを越えた危険な速度で通過しようとしてバーが開かないために急ブレーキをした場合、違反行為となる。これによって後続車が追突した場合、交通事故の刑事、民事、行政責任を問われる。また、追突した側も責任を問われる。安全な速度でETCレーンに進入することのほかに、進入前に何らかの方法で車載器がカードを認識しているか確認する必要がある[注釈 9]。また、一部区間では、ICの直前にカード未挿入を知らせるためのアンテナが設置されている場合もある。また、NEXCO3社では安全対策として、ETCレーンのバーの開閉速度を0.5〜1秒遅くし、過剰な速度での通行ができなくする対策を2009年3月下旬から順次開始した。 料金所の構造によっては、交代などで収受員がレーンを横断する場合がある。その際通過する車両に接触、衝突される事故が2001年のETCシステム稼動(導入)以来2006年までに27件発生し、この中には死亡事故も含まれている[注釈 10]。2009年現在、各高速道路会社は対策として、収受員専用の歩道橋や地下通路を料金所に設置する等の料金所安全対策工事を進めている。 ETCが利用できない道路 高速自動車国道と都市高速道路ではETC整備が完了しており、すべての料金所でETC無線通行またはETCカードでの支払いが可能となっている。しかし、それ以外の有料道路ではETCカードすら利用できないところが多い。ETC無線通行を導入するためには「1レーン当たり1億7千万円の設置費がかかり、メンテナンス費も高額」なためである[26]。 以下にETCが利用できない主な道路、料金所を挙げるが、これらは例示であり、すべてを尽くしているわけではない。特に道路公社管理の有料道路の多くでは利用できないと考えたほうがよい。 外見はNEXCO管理の高速道路や有料道路のように見えても、実際の管理は各府県の道路公社が行っている場合もあり、ETCの利用可否を事前に確認する必要がある(ETCが使えない道路では起点や料金所手前予告標識に「ETCは利用できません。」と書いてあるところもあれば、料金所で初めてその旨の標識を置いている所もある)。 ETCカードが利用できない主な道路・料金所 料金所にETCレーン及びカードリーダー機器が未整備のため、ETCの利用ができない。 以下は、2014年3月現在の状況。 その他の有料道路 九十九里道路・東金九十九里道路(千葉県道路公社) 真鶴道路(真鶴ブルーライン)(神奈川県道路公社) 逗葉新道・本町山中有料道路・三浦縦貫道路(神奈川県道路公社) なお、三浦縦貫道路については、Suica・PASMO等交通系電子マネーによる決済に対応している。 雁坂トンネル有料道路(山梨県道路公社) 修善寺道路(静岡県道路公社) 能越自動車道:小矢部東本線TBを除く全ての料金所(富山県道路公社) ハーバーハイウェイ・摩耶大橋(神戸市みなと総局) 広島熊野道路(広島県道路公社) 安芸灘大橋有料道路(広島県道路公社) 関門トンネル(NEXCO西日本) 若戸大橋・若戸トンネル:北九州高速道路との合併収受料金所(戸畑出入口)以外の</b>料金所(北九州市道路公社) なお、若戸トンネルの供用と同時期にETC整備の計画があったが、結局開通時点では整備されなかった。 一ツ葉道路(宮崎県道路公社) あぶくま高原道路 (福島県道路公社) ETCカード手渡し処理のみの主な道路・料金所 ETCレーンが未整備のため、料金所内で一旦停止・料金所係員への手渡し(あるいは自動収受機併設のカードリーダーにカードを挿入し精算)での処理のみであり、ノンストップでの通行はできない。このうち京奈和自動車道・京都縦貫自動車道・椎田道路のETCレーン未整備の料金所では、ETCカードでの支払いによって各種時間帯割引の対象となる。以下は、2016年8月現在の状況。 高速道路 道央自動車道:砂川SA内検札所 阪神高速道路:しあわせの村出入口(7号北神戸線:阪神高速) 西瀬戸自動車道:向島IC(西瀬戸尾道IC - 向島ICの利用車のみ:本四高速) 今治小松自動車道:いよ小松北IC その他の有料道路 第二みちのく有料道路:下田TB(青森県道路公社) 下り青森方面では、NEXCO管轄道路の利用分(八戸道・百石道路等)のみ、ETCカードでの支払いが可能。 全レーン自動収受機のみの設置ではあるが、ETCカードでの支払いによって各種時間帯割引の対象となる。 堺泉北有料道路:平井出入口(大阪府道路公社) 日出バイパス:速見IC(大分自動車道方面への乗り継ぎ・出入り以外の料金所) 二輪車用ETC 2013年現在、二輪車用車載器は日本無線(JRC)とミツバサンコーワが開発し、販売している[27]。ETC車載器を販売しているバイクメーカー等は同社からOEM供給を受けている。 発売当初はアンテナ分離型の1機種のみであったが、アンテナ一体型の機種が2008年10月に発表された[28]。 車載器の取り付けは、車載器取扱店で行う必要があり、四輪車のようにセットアップ済車載器を購入して利用者が取り付けることは認められていない。また、ETCカードの発行・車載器の取り付け・セットアップが1か所で完了するETCワンストップサービスも行われていない。ORSE(道路システム高度化推進機構・当時)及び各道路会社による期間限定で車載器導入の助成措置が行われていたが、それでも導入コストが高く、四輪車用車載器で見られた0円キャンペーンなども行われなかった。 このように四輪車に比べてETC導入時のコストが高く、セットアップ時のサービスが悪いこともあって普及率は低い。二輪車ETCの一般運用が始まった翌年の2007年に行われた日本二輪車協会(現:全国二輪車安全普及協会)のアンケートで「ETCを利用している」と答えたのはわずか8.3%であった[29]。また、2013年時点で四輪車は87.6%の普及率に対し、二輪車は13%程度にとどまっている。これに対して国土交通大臣が、二輪車のETC利用の推移が「極めて低い」と普及が遅れていることを認め、普及促進について発言がなされた[30]。 四輪車のETCと同じシステムを使用しているため、ETCに対応している道路は四輪車と同様に通行することができる。何らかの理由でバーが開かなかった場合、後続車の追突が重大な事故につながる危険性が高いため、二輪車用のレーンを設置している料金所もある。通常の四輪車用レーンを通過する場合は、エラーの発生時に通り抜けられるよう、バーの隙間部分を通行するのが好ましい。なお、エラーが発生した場合は通過後、安全なところに停車し申告することが求められる。 導入までの経緯 2001年に四輪車のETC一般運用が開始されてからも、二輪車におけるETCの運用は目処が立っていなかった。同乗者がいたり、あらかじめダッシュボード等に通行券や現金を用意できる四輪車と異なり、二輪車での手渡しによる料金支払いは面倒であるため、二輪車へのETC導入を求める声は大きかった。 ETC利用の料金優遇が、ETC車載器による無線通行のみ</b>に限定され、ETCカードを手渡ししての支払いは対象外になった結果、時間帯によっては割引が適用された大型車よりも、車載器が存在しない二輪車の通行料金の方が高額となっていた。特例措置として2007年11月30日まで、二輪車の利用者は一部のETC割引を車載器なしで受けることができた。なお、車載器を持たない利用者向けのETCマイレージ割引の新規登録は2006年11月30日までで終了している。 二輪車用車載器は、小型で防水性・耐振動性を備える必要があるため、技術的課題が多くコストがかさむ。しかも、ユーザー数が四輪車よりも少なく市場規模が小さい。そのため、積極的に開発に取り組んだメーカーは少なく、二輪車用ETCを発売したのは当初JRC1社のみだった。 エラー時に開かなかったバーへの接触転倒を防止するため通過が可能なようにバーを短くし、二輪車専用レーンや誘導標示などの改修をおこない、四輪車の一般運用開始から3年以上が経った2005年4月28日、バイク便などのプロライダーが参加しての試験運用実施[31] ののち、同年11月1日、道路新産業開発機構(HIDO)がおこなった、首都圏・名古屋圏・近畿圏の三大都市圏で5,000台の一般モニターによる試行運用を経て、四輪車から遅れること約5年後の翌2006年11月1日に一般運用が始まった[32]。 ETC2.0 ETC2.0とは、道路沿いに設置されたITSスポット(ETC2.0サービスが行われる場所)と対応車載器(DSRC通信対応機)との相互通信、高速・大容量通信により、従来より広範囲の渋滞・規制情報提供や安全運転支援などが受け取ることのできるサービスである[33][34][35]。 サービス開始時にはスポット通信サービス・DSRCサービスなどと呼ばれていたが、2014年(平成26年)10月、「ETC2.0」の名称へと改められた。 2011年(平成23年)3月30日から、東北地方と新潟・関東地方の一部を除いた日本全国およそ1,300局のπ/4シフトQPSK基地局でサービスが開始、同年8月12日には日本全国およそ1,600局で利用可能となった。また、約50か所のSA、PA、道の駅に設置された「ITSスポット」と呼ばれる特別な駐車枠で、インターネットに接続して情報を得る事ができる[36][37]。 沿革 2009年 01月22日 - DSRC車載器による実験モニターを募集開始 2010年 「スポット通信サービス・DSRCサービス」と呼ばれていたサービスを「ITSスポットサービス」と表現する」と発表 2011年 03月30日 - 北海道、関東(NEXCO中日本及び首都高速管内)及び中部以西でのITSスポットサービスを開始 07月14日 - 関東地方のNEXCO東日本管内での東日本大震災の影響で延期していたITSスポットサービスを開始 08月12日 - 東北地域での東日本大震災の影響で延期していたITSスポットサービスを開始(全国でのサービス開始) 2013年 11月01日 - 走行経路確認社会実験モニターを募集 2014年 10月03日 - 名称を「ETC2.0」に変更 2015年 11月27日 - ETC2.0車両運行管理支援サービス社会実験モニターを募集 2016年 04月01日 - ETC2.0割引を首都圏中央連絡自動車道で導入 サービス内容 サービスは大別すると4つある[38][39]。 ETC すべての「ETC2.0対応車載器(DSRC車載器)」にETC機能が搭載されているため、ETC車載器として利用することが出来る。 渋滞回避支援(ダイナミックルートガイダンス ) 現行の電波ビーコン・光ビーコン(VICS)よりも情報量が多いため、より広範な地域の交通情報が得られるようになった。ETC2.0に対応したカーナビゲーションを接続している場合、情報を元に最適ルートの選択を行い、ドライバーの渋滞回避を支援する[40]。 安全運転・災害時支援 「渋滞、追突注意」「落下物」「急カーブ」「事故・規制」「トンネル出口の天候」など平常時の情報や、「地震・津波」など災害時の情報を、読み上げ音声と図や撮影画像(発話専用機種を除く)で事前に案内。 観光サービス 料金割引サービス 首都圏において、首都圏中央連絡自動車道経由で首都高速道路を利用しなかった場合、走行料金を割引にするサービス。 今後、ITSスポットでの双方向通信により経路情報を活用したサービスも予定されている[41]。 ETC2.0対応車載器 サービスを利用するには、ETC2.0に対応した車載器(DSRC車載器)が必要で、ETC同様(一財)ITSサービス高度化機構(ITS-TEA)に登録された店舗にてセットアップを行う必要がある。 (セットアップについてはETC#セットアップも参照) ETC2.0に対応するカーナビゲーションと連動させることで、これらの情報が画面に表示される。インターネット接続では地図情報のほか、映像・音楽配信のサービスも検討されている。 多目的情報 (山陽自動車道) ETC2.0で受信した路面情報(磐越自動車道) また、カーナビゲーションを必要としない発話型車載器も発売されており、情報は音声によって読み上げられる。映像出力されないため、画像情報サービスは受けられないなど、一部機能の制約がある。 不正通行の増加 ETCレーンでの不正通行は、以下のように3分類される。うち、強行突破が9割程度を占める。 車種格下げ強要:自動車検査証に基づく料金車種区分で、普通車から中型車のように、車載器を載せ替え前より料金の高い車種区分の車に載せ換えたにもかかわらず、車載器の再セットアップを行わず不正に料金所を通行する 料金所の強行突破 車載器未搭載:車載器を搭載していないにもかかわらず、搭載していると虚偽の申告をして、ETC割引を受ける ETCがあまり普及していなかった2001年度の不正通行車は、以下いずれも延べ数で、日本道路公団で9万9,276台、首都高速6万6,160台、阪神高速11万7,146台、本四連絡橋813台で、合計28万3,395台だった。ETC通行車両全体に占める不正通行車の率(不正通行率)は0.1%程度であり、鉄道におけるキセル乗車率に比べると相当小さいものである[42]。 国土交通省によれば、高速道路の不正通行件数は2001年に約28万3,000件、2003年度に約47万1,000件、2004年に約69万件、2005年に94万8,000件と急増。2006年にはETC利用率が2001年度の利用の60%を超え、約96万1,000件となった。これはETC専用ゲートの設置により心理的に料金所の突破がしやすくなったためではないかとされている。 また、2010年に入って、前方を走る車(主に大型自動車)にピッタリと付く形で追走する、俗に『カルガモ走法』と呼ばれる手口で、ETCの支払いを免れていた人物が逮捕されている[43]。 以上のような不正通行により、道路整備特別措置法違反(30万円以下の罰金)や電子計算機使用詐欺で検挙・書類送検・起訴される事例が発生している[44]。 京都市内の僧侶がETCの不正通行を行ったとして検挙された事例では、一審の京都簡裁は、故意に不正を行ったかには合理的疑いがあるとして被告人を無罪としたが、二審の大阪高裁は、カードが誤って挿入されていたことに気付くことは可能だったとして、被告人の故意を認定し、罰金200万円の逆転有罪判決を言い渡した。さらに2013年2月に最高裁で確定した[45]。 ETC割引制度 NEXCO各社管轄の高速自動車国道や首都高速、阪神高速等の都市高速道路をETC搭載車が、ある特定の条件で利用すると通行料が割引になる。 ETC車載器リース制度など 国土交通省が創設し、2005年4月28日から2008年度まで毎年施行されていたETC車載器購入者を対象とした助成金制度。「四輪車ETCらくらく導入キャンペーン」と銘打って行われており、平成20年(2008年)度は7月31日まで、先着20万台限定でETC車載器1台当たり5,250円の助成金を給付することとされたが、同年6月5日に20万台に達したため、このキャンペーンは終了した[46]。 実際の運用としてはETC車載器リース制度取扱い店が購入者に代わって助成金を受け、その分購入者に割引して販売しているケースが多かった。 なお、リース制度という名称となっているが、実質は割賦・分割販売がほとんどであり、助成金給付の条件としては「2年以上、2回以上の支払い」となっている。 同様の制度は二輪車でも行われていた。2006年11月1日 - 2007年1月31日の期間限定で、限定数はなく、ETC車載器1台あたり1万5,750円の助成金を給付された。「二輪車ETCらくらく導入キャンペーン」と銘打って行われており、2008年度は2009年1月30日まで、先着2万台限定でETC車載器1台あたり1万5,750円の助成金を給付する。当初は1万台限定だったものが、好評だったために、六会社からの協力を得て1万台を追加したもの。この二輪車対象の助成制度も、2008年10月14日に終了した[47]。 また、2009年3月12日より高速道路交流推進財団による助成制度が施行された[48]。助成額は2008年までの助成制度と同額の四輪車5,250円、二輪車1万5,750円。四輪車に対する助成は115万台に達したので、2009年4月28日に終了した。二輪車に対する助成も5万台に達したため、同年7月9日に終了した。 二輪車に対する助成制度は継続的に実施されており、告知された場合、主催者の予想を上回る速度で申し込みが発生し、予定台数を早々と達成して早期終了することが多い。2016年に実施されたNEXCO三社が主催した二輪車向け助成キャンペーンでは、ETC車載器1台の新規購入に対して15,000円を助成するという内容で、先着50,000台の枠が用意され、4月26日より受付を開始したが、6月末には早くも助成枠が払底する状態となった[注釈 11]。しかし、7月以降に日本無線からETC2.0対応機器の発売があったことなどを理由に予定台数を超過している中で受付を引き続き行い、8月31日まで受け付けた分については台数にかかわらず助成金を交付する旨の発表を行っている。[注釈 12] 有料道路以外での利用 ETCを使用した決済システムは有料道路以外でも一部に導入例がある。 2003年9月から、丸ビル駐車場にて初めて導入された。また、2005年より駐車場ETC社会実験を実施しており、現在では会員登録の上で、3箇所にて利用可能である[49][50]。パーク24も「タイムズETCサービス」を開始している[51]。阪神高速道路でも「まちかどeサービス」を開始した[52]。 その他、ジャンボフェリーや箱根ターンパイクでも導入されており、ほかにもガソリンスタンドなどでの決済にも利用されている[53]。ファーストフードのドライブスルーなどでも実験が行われている。 ETC機器製造・販売者 車載器 デンソーとパナソニックの上位2社でシェア6割を占める[54][55]。 デンソー(主力は車両メーカー向け) パナソニック(オートモーティブシステムズ社) 三菱電機 ミツバサンコーワ(二輪車向けも製造。電装大手ミツバの関連会社) 古野電気(自社製造に加え、事業譲受された三菱重工製車載器の保守も行う) 日本無線(二輪車向けも製造) 矢崎総業 カルソニックカンセイ株式会社(販売は子会社のシーケー販売株式会社が行う) 以下は、自社製造ではなく、OEM供給を受けて販売している。 アルパイン クラリオン ダイハツ工業(デンソーおよびパナソニックより供給を受けている) トヨタ自動車(デンソーおよびパナソニックより供給を受けている) パイオニア(三菱電機および古野電気より供給を受けている) 富士重工業 富士通テン ホンダアクセス (三菱電機およびパナソニックから供給を受けている) 日産自動車(パナソニックから供給を受けている) マスプロ電工 NECアクセステクニカ[56][57] かつて製造していたメーカー 日立製作所 三菱重工業(国内車載器事業は古野電気に譲渡) 路側機 三菱電機 三菱重工業 沖電気工業 パナソニック 日立製作所 日立国際電気 東芝 車両検知器 富士電機 諸外国におけるETCに類する電子課金システム 各国でETCに相当する電子課金システムが運用されているが、料金所にバーがないシステム、車載器を必要としないシステムなどもありETC方式とは異なっている。 中国 中華人民共和国でも各地で導入されつつあり、例えば北京市では、呼び名こそETCと同じであるが、料金の徴収方法が日本とは違い、後払い制ではなくデビットカードの様に「速通カード」と呼ばれるICカードに、予め人民元をチャージしておく方式である。 イタリア 1989年に、イタリアのアウトストラーダでテレパス (TELEPASS) という無線式料金収受システムが導入され、後のETCの先駆けとなった[58]。 アメリカ アメリカでは、基本的に「高速道路」は無料であるが、一部有料道路もあり、そのほか橋・トンネルなど通行料金を設定している所でETCと同様のシステムを導入している。 全米統一システムはなく、各州が幾つかのシステムを導入しており、カリフォルニア州では「FasTrack」、フロリダ州では「Sun Pass」といった具合である。最大規模のものはニューヨーク州、マサチューセッツ州、ニュージャージー州、ペンシルヴァニア州、デラウェア州、メリーランド州、ウエストヴァージニア州などで導入されている「E-ZPass」である。 カリフォルニア州のFasTrackは主に高速道路の優先レーンや橋の課金に使われており、利用者は州のDMV(陸運局)の外郭サービス機関にクレジットカード番号と使用自動車のライセンス番号などの情報を送ると、無料で車載トランスポンダ(「タグ」と呼ばれる)が送られてくる。タグは電池方式の完全独立・可搬式で取り付け工事などは不要であり、利用者は普段は車のグローブボックスに収納して地上局通過時のみ取り出したり、ダッシュボードに両面(ベルクロ)テープで固定したりする。利用料金は$30程度を単位とするデポジット方式で、残高が一定額($10程度)を下回ると自動的に登録クレジットカードから支払われる。開閉ゲートはないので減速は不要で、頭上の地上器とタグが交信できないとライセンスプレートの写真が自動撮影され、ライセンス番号に一致するタグの登録がないと後日罰金を含めた支払請求書が送られてくる。ライセンス番号に登録されたタグがあればその口座に課金され、1台のタグに複数のライセンス(車)を登録することも可能なので、例えば1台の物理タグしかなくても家族全員の使用する車それぞれでFasTrackを使用できる。 シンガポール シンガポールでは1998年から無線通信によって課金を行うERPのシステムが導入されている[3]。ERPはETCに相当するシステムで、車載器にICカードを挿入しておくと、料金所でガントリー(路側器)がそれを検知して無線通信によって料金を口座から引き落とすシステムである[3]。 ERPでは将来的にはグローバル・ポジショニングシステム(GPS)を利用して車の位置情報から課金を行えるよう検討が進んでいる[3]。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書 " ignored (help) 関連項目 DSRC - ETC2.0が利用している規格 道路交通情報通信システム(VICS) スマートループ - ユーザーから収集した情報で提供されている、渋滞情報サービス。パイオニアが運営する。 スマートループアイ - 画像で特定の場所の情報が分かるサービス。スマートループの姉妹サービス。同じくパイオニア運営。 スマートインターチェンジ - ETC搭載車専用インターチェンジ Mr.ETC - 首都高速ETCキャラクター en:E-Z Pass - アメリカ版ETC ハイパス - 韓国版ETC 首都高X キャッシュレス社会 電子決済 外部リンク - 国土交通省
https://ja.wikipedia.org/wiki/ETC
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 639, 772, 1099, 1367, 1991, 2081, 3290, 4606, 5307, 5881, 7111, 8201, 9022, 9692, 10332, 10739, 11272, 12012, 12808, 13984, 15004, 15697, 15933, 16035, 16619, 17104, 18263, 18734, 18796], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 638, 771, 1072, 1366, 1990, 2036, 3289, 4568, 5306, 5880, 7110, 8200, 9021, 9691, 10288, 10725, 11237, 12011, 12807, 13983, 15003, 15667, 15932, 16034, 16618, 17078, 18240, 18733, 18795, 19066], dtype=int32)}
皇帝教皇主義の提唱者は誰?
皇帝教皇主義
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
皇帝教皇主義(こうていきょうこうしゅぎ、カエサロパピスム Caesaropapism)とは、東ローマ帝国においては、帝権が教権に優越し、皇帝は教皇であったとして、国家が教会を強く管理していたとする説[1]。広義には東ローマ帝国に限らず、歴史上でキリスト教に対して超越した権威を持った世俗の権力者の統治体制を指して用いられることもある。「Caesaropapism」は皇帝(世俗の権威)を表す「Caesar」と教皇(教会の権威)を表す「Papa」を組み合わせて作られた言葉である。 後述するように、近年では誤解を招きかねない不正確な用語とする見解が主流となっている[1][2]。 正教会は、理想とする政治理念をビザンティン・ハーモニーと位置づけている。国家と教会を対立概念に置く事を前提とする術語「皇帝教皇主義」は、むしろ西方教会の理解の産物であると正教側からは捉えられている[3]。 近年における見方 今日においては、東ローマ帝国の状況を指して「皇帝教皇主義」と呼ぶのは誤解を招きやすい不正確な用語であり、使用は控えるべきであるとの見方が主流になっている[2]。これらの理由としては、 皇帝は聖職者ではなく、奉神礼を執行していたわけではない[2]。 「皇帝教皇主義」という用語自体が皇帝権と教皇権が分立していた中世西欧を前提とする見方であり、それを基準に異なる歴史を辿った東ローマ帝国および正教会の制度を異端視するかのような言説は倒錯した議論としかいえない[2]。 コンスタンディヌーポリ総主教は常に皇帝の言いなりになっていたわけではなく[2]、教会は民衆に対する影響力を行使して帝権の意図を阻止することもあった[1]。 といった理由が挙げられている。 歴史的変遷 皇帝教皇主義の源流 ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世(在位306年-337年)の有名な伝説によれば、ミルヴィオ橋の戦いを前に天にキリストを表す「ΧΡ」のマークが現れて「このしるしによって勝利を得るだろう」というお告げを受けたという。内戦に勝利し、皇帝の座を安泰としたコンスタンティヌスは、それまでローマ帝国統治の障害として迫害されてきたキリスト教を公式に保護することで逆にローマ帝国統合のシステムとして利用するという大転換を行った。コンスタンティヌス自身は最晩年まで洗礼を受けず、キリスト教徒にならなかったが、自分自身が教会を超越する存在であると考えていたことがうかがえる。キリスト教はローマ帝国の公的な保護と財政的な支援を受けることで社会的安定を得たが、それと引き換えにローマ帝国からの干渉を受けることになったのも自然な流れであった。4世紀後半のアンブロジウスらは教会の世俗の権力からの独立を訴え、皇帝テオドシウス1世を批判している。 古代末期、ローマ帝国の西方地域では異民族が侵入したことで従来の統治システムが崩壊した。混乱する政府機能とは対照的に、教会は帝国西方において着々と地位と影響力を強めていった。この時期ローマ教皇はローマ司教というだけなく、ペトロの後継者としての権威によって他地域の教会へも及ぶ特別な位置を確保するに至った。さらに崩壊したローマ帝国の統治システムに代わって教会の広域ネットワークの重要性がいっそう増した。こうして教皇は教会ネットワークの「統治者」としてもろもろの地方権力者たちを上回る権威を持つようになった。他方、帝国東方では異民族の侵入による混乱の影響が少なく、コンスタンティノポリスには依然としてローマ皇帝が健在であったことから西方のように教会の権威が世俗権力のそれを上回ることにはならなかった。(このように同じキリスト教でもローマ帝国の東西の政治状況の違いによって微妙にその性格が変化していったことが、カトリック教会と正教会の分裂へとつながっていく。) 東ローマ帝国における展開 正教会においてコンスタンティヌス1世は「イサポストロス」(亜使徒)と呼ばれるが、東ローマ帝国の後継者達もこの称号を保持した。12世紀の詩人プトコプロドロモスが、皇帝マヌエル1世コムネノスを詩の中で「キリストに似たる人(クリストミメートス)」と呼んでいること[4]からも、東ローマ帝国の教会における皇帝の位置づけがうかがえる。宮廷内の儀式等でも皇帝はキリストになぞらえられており、その権威・権力は強大なものであった。現在残されているモザイク画でも皇帝は光背を伴って描かれている。 歴代の皇帝は、戴冠式の際にコンスタンディヌーポリ総主教から副輔祭の教役に任ぜられ、これによって、一般信徒がみだりに入ることを許されない教会の至聖所へ立ち入ることを許された。これは「聖職者(神品)に任ぜられ」と記述されることがあるが、正教会における副輔祭は在俗の信徒も務める教衆であり、厳密な意味での聖職者(神品)ではない。また、副輔祭以下の教衆(堂役など)も至聖所に入る事は出来る。 ただ、皇帝は聖職者でないといっても、一般信徒とは異なる特別な地位を持っていた。たとえば皇帝は聖職者以外では唯一ココンスタンディヌーポリ総主教座教会・聖ソフィア大聖堂の内陣中央の扉から聖堂に出入りする特権を持っていた。正教会の教会法は総主教の任免に管轄地の政府の認可が必要であるとしていた。このため、皇帝はコンスタンディヌーポリ総主教その他の総主教の任免権を持ち、7世紀まではローマ教皇を捕縛することも可能だった(例えばローマ教皇マルティヌス1世は教義をめぐって対立した皇帝コンスタンス2世によって逮捕され、流刑に処された)し、教義に関する命令を発することも出来た。また皇帝には公会議を主宰し、大主教、府主教管区の設置をする権限があった。実際バシレイオス2世は1018年にブルガリア帝国を滅ぼして、東ローマ帝国に併合するとブルガリアの都オフリドの総主教を大主教へ降格したが、コンスタンディヌーポリ総主教からの独立・自治は認めている。 ただ、皇帝が実質的に教会に対する支配権を持っていても、総じて教会は敬意を持って扱われていた。535年、皇帝ユスティニアヌス1世の勅令では支配権(インペリウム)と宗教の祭司権(サチェルドーティウム)はあくまでも別のもので、互いに補完し合うものであるとされているし、9世紀のバシレイオス1世が発布した法律書『エパナゴーゲー(法律序説)』でも改めてそれが確認され、儀礼でも皇帝と総主教は互いに敬意を表しあうものとされていた。教義に関する事項でも総主教や各地の教会の代表者が集まる教会会議の承認を要したのであり、皇帝の命令だけで教義を決定できた訳ではない。また、前述の『エパナゴーゲー』では公会議や教会会議の決議に解釈を加えることが出来るのは総主教のみであると規定されている。なお、皇帝が幼い時に総主教が摂政として権力を行使した例も複数ある。 「補完しあう」と規定された皇帝と教会の関係も時に緊張感をはらんだものになることもあった。例をあげると8世紀の聖像破壊運動や帝国末期のパレオロゴス王朝時代に行われた東西教会合同決議などは皇帝が主導したが、聖職者達の強い抵抗によって覆されている。また11世紀のイサキオス1世コムネノスのように総主教を罷免したことから市民の反発を買って退位に追いこまれた皇帝もいる。ナジアンゾスのグレゴリオスがコンスタンディヌーポリ総主教に皇帝から直接指名された際には、教会法に反するという指摘があって退位した事例のように、皇帝も教会法の権威を配慮していたことも事実である。 東ローマ帝国における皇帝権力は、聖職者の叙任権も持たなかった神聖ローマ帝国の皇帝などから見れば遥かに強く、その専権事項である軍事・行政権を行使して教会に圧力を加えたり、総主教を更迭したり、フォティオスのような在俗の官僚や皇族を総主教に任命したりするなどして教会に影響力を行使していた。東ローマ帝国においては皇帝と教会共にどちらかに従属するようなことがなく、時に緊張をはらみながらも「キリスト教ローマ帝国」の支配層を形成していたというべきであろう。 時代が下って18世紀初頭、ロシアのピョートル1世はロシアの「西欧化」を志向し、貴族や聖職者たちの反対を押し切って近代化を推し進めようとした。東ローマ帝国皇帝の正当な後継者を自称した彼はモスクワを(コンスタンティノープルに次ぐ)「第三のローマ」とみなし、20年以上モスクワ総主教を空位にし続けることでロシア正教会を支配した。以降、ロシア正教会は実質上ロシアの統治システムの一部に組み込まれるかたちになった。 西欧における「皇帝教皇主義」 宗教上の権威と世俗の権威が主導権を争うことは洋の東西を問わずよく見られることであったが、キリスト教と世俗の権威の関係でもせめぎあいはしばしば見られた。その中で世俗の権威が地域のキリスト教をコントロールする状態のことも広い意味で「皇帝教皇主義」と称することがある。 フランス フランス王は国内のカトリック教会に対して強い支配力を行使し、教会の財産から一定の収入を得ていた。このため、フランスのカトリック教会はローマ教皇庁と一定の距離をとることが多く、「ガリカニスム」と呼ばれた。「教会のバビロン捕囚」と称されるアヴィニョンへの教皇庁の移転時代にはフランス王が教皇の選択において大きな発言権を行使するに至った。 宗教改革(ドイツなど) 他にも宗教改革以降、プロテスタントとカトリックのせめぎあいが激しく行われたドイツなどでは、無用の混乱と紛争を防ぐ目的でラテン語の「cuius regio, eius religio」(領主の宗教が領民の宗教)という言葉で表される「領邦教会制」が導入された。これは領主の信仰する宗派をその支配地域の正式な宗派とするというやり方のことである。これも世俗の権威が宗教的な権威を超えたという意味で一種の「皇帝教皇主義」といえるかもしれない。なぜなら中世においては世俗の領主や君主はカトリック教会への従順を誓うのが通例だったためである。 マルティン・ルター自身は当初、カトリック教会の権威とそれと結託する諸侯に抵抗する意味で農民や一般庶民へのシンパシーを強くアピールしていた。ドイツの下級貴族であった騎士たちはこのルターの呼びかけを自らの勢力拡大のチャンスと考え、諸侯に対する戦いを始めた。農民たちも立ち上がり、ドイツは戦乱状態に陥った。騎士と農民の蜂起は結果的に諸侯の連合軍の返り討ちにあい、各地で壊滅した。ルターは自分の支持基盤を失って困惑した。いまやプロテスタンティズムは宗教的な問題だけでなく、諸侯たちの皇帝に対する権力拡大の道具として利用されようとしていた。 ルターにとってドイツ諸侯とは「世界でもっとも愚かな人々」であり、1523年の書簡では「もはや民衆はあなたがた貴族の圧政に従うことはないし、従う義務もない。もはや民衆はゲームの駒のように貴族が思い通りに動かせるものではない」といっている。ルターのこのメッセージはもともと民衆に向けられたものだったが、帝国騎士であったフランツ・フォン・ジッキンゲンはこれを諸侯に対する戦いのために利用しようとした。つまりフランツはルター支持を表明して諸侯に戦いを挑むことで、騎士の地位向上をはかり、教会のもっていた権威と資産をも一挙に手に入れようとしたのであった。しかし、騎士たちは諸侯に打ち破られ、すべてを失った(騎士戦争)。ルターの呼びかけにふるいたった農民たちもフランケンハウゼンの戦い(1525年)で諸侯軍に破れ、壊滅した。諸侯は騎士たちと農民軍に勝利したことで、神聖ローマ皇帝に対抗する力を得るに至った。 ここにおいてルターは自らの「新しい福音」を現実に適合させるという現実的な選択肢を選んだ。農民たちの敗北後、ルターとフィリップ・メランヒトンは「領主は自らの領地における絶対的な権利を持っている」という見解を示すようになった。この言葉に後押しされるようにその後の10年ほどの間に旧来のシステムや秩序が破壊されたが、かつて強固なネットワークを築いていたキリスト教組織も解体された。こうして領主たちが教会をコントロールするという図式が出来上がる。かつてルターはローマ教皇を専制君主として弾劾したが、いまや地域の教会は地域領主という小さな「教皇たち」に支配されることになった。このようにプロテスタント側にたった領主たちは地域の教会を完全に統制しながら、連携して神聖ローマ皇帝と対抗していった。 ドイツの諸都市だけでなく、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、イングランドといった国などでは国ごとカトリック教会からはなれ、国家の指導者が教会を管轄するという仕組みを取り入れた。このような地域では政治の指導者がかつて教皇がもっていたすべての権力をそっくり奪い取ることができた。たとえばこれらの地域で国の宗教政策に反抗するものには政治の首長が処刑も含む懲罰を与えた。このようなケースこそが本当の意味での「皇帝教皇主義」と言えるのかもしれない。 ヘンリー8世(英国) イングランド国教会をローマ・カトリック教会から分離させたヘンリー8世が、トマス・クロムウェルを片腕として実行した政策の態様を「皇帝教皇主義」と呼ぶ事がある[5]。 1530年代の初めから、ヘンリー8世は教会に対し自らの権威を主張し始めた。 1531年 - 「キリストの律法が許す限り」「国王は唯一の擁護者、最高位の君主、かつ英国教会の首長」であると聖職者会議に認めさせる[6]。 1532年 - 主教達全員の臣従を得る[7]。 1533年 - トマス・クロムウェルによる「上訴禁止法」[8]で、英国王には世俗的そして霊的な双方の事柄に対する絶対の権威が認められる[7]。 1534年 - 英国王が英国教会の地上における唯一の至高の首長であることが承認された「国王至上法」が施行される[5]。 国王の権限での例外は、主教を聖別する権限(ただし任命権は国王にあった)と、サクラメントを執行する権限だけであった。このような一連の施策を論評して、オックスフォード大学で教鞭をとりオックスフォード教区の聖職代議員でもあるマーク・チャップマンは、この時代について「国王は英国の教皇となっていた」と評している[9]。 ヴェーバーの語法 なお、社会学者のマックス・ヴェーバーも本記事冒頭で述べたような、東ローマ帝国に見られる皇帝が教会の長を兼ねる制度という意味で皇帝教皇主義という語を用いていたとされることがある[10]が、これは正確ではない。まず、ヴェーバーは「皇帝教皇主義(ツェザロパピスムス) ― すなわち祭司権力の世俗権力への完全な屈服[11]」と述べており、世俗権力の長と祭司権力の長の人的一致をその要件としていない。また、皇帝教皇主義を「完全に純粋な形では、厳格に理解するなら、歴史の上では証明されえないもの[11]」としており、ヴェーバーは一種の理念型としてこの語を用いている。そして、いくぶんかの皇帝教皇主義的性質を持つ国の例として東ローマや正教圏の国々の他にも中国、トルコ、ペルシア、近代西欧の国教会制度をとる国々といった多くの例を挙げており[11]、東ローマ特有のものとは考えていなかったことがわかる。 脚注 参考文献 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会) 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度』(東海大学出版会) ミシェル・カプラン著 井上浩一監修『黄金のビザンティン帝国』(創元社) 根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』(講談社選書メチエ) 根津由喜夫『世界史リブレット104 ビザンツの国家と社会』山川出版社(2008/08) ISBN 9784634349421 ほか。東ローマ帝国#参考文献を参照のこと。 高橋保行『ギリシャ正教』講談社学術文庫 1980年 ISBN 9784061585003 (4061585002) マーク・チャップマン (著), 岩城聰・監訳 (翻訳)『聖公会物語 ー英国国教会から世界へー』かんよう出版 (2013/10/5) ISBN 9784906902200
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%95%99%E7%9A%87%E4%B8%BB%E7%BE%A9
{'plaintext_start_byte': array([ 3, 527, 639, 869, 1011, 1939, 3060, 4372, 5640, 5928, 6445, 6628, 7768, 7997, 8516, 9191, 12258, 12542, 12878, 13496, 14150, 14418, 14870, 17189, 18714, 19666, 20099, 20305, 20679, 21036, 21424, 22060, 22321, 22518, 22899, 23369, 23789, 24385, 24829, 25310, 25976, 27104, 27545, 28057, 28596, 29001, 29636, 29833, 30740, 31260, 31559, 31877, 32265, 32569, 33300, 33532, 33718, 33959], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 526, 638, 831, 1010, 1910, 3059, 4371, 5603, 5927, 6444, 6592, 7767, 7996, 8490, 9190, 12257, 12541, 12843, 13495, 14149, 14417, 14869, 17188, 18713, 19665, 20098, 20282, 20678, 21035, 21422, 22059, 22298, 22517, 22897, 23346, 23788, 24384, 24828, 25277, 25968, 27103, 27515, 28055, 28595, 29000, 29616, 29831, 30686, 31260, 31544, 31855, 32231, 32568, 33299, 33531, 33680, 33945, 34079], dtype=int32)}
日本で急行形車両が初めて走ったのは何線ですか?
急行列車
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
急行列車(きゅうこうれっしゃ)とは、普通列車(緩行)に対し、一部の駅を通過して主要駅にのみ停車し、速達輸送を行なう列車のことをいう。 一般的に停車駅は、特別急行列車(特急)より多く、準急列車(または快速列車)より少ない。急行列車の英訳はExpressが当てられ<!--、事業者によってはExp.と略され:一般的 -->る。 なお、広義の急行列車には特急列車や準急列車も含まれる。 本項では急行料金を必要とする優等列車のほか、以下の列車についても解説する。 急行電車(急電) - かつて国鉄で運行されていた料金不要の列車(普通列車) 私鉄の急行列車 - 料金不要の「急行」列車 鉄道以外の「急行」 列車種別と急行列車の呼称 急行列車の英語訳は"Express"であるが、これは日本語の「急行列車」とは一対一で対応するとは限らない。 日本の急行列車に相当する列車に与えられる列車種別としては、高速性が示せる言葉から自然発生した、"Flyer", "Mail Train", "Rapide(フランス語。英語の"Rapid"に相当)"、"Schnellzug(ドイツ語。"Schnell"は英語の"fast"に、"Zug"は英語の"Train"に相当)"といった用語と、事業者の創作・命名に由来するが、個別列車の愛称とははっきり区別できる"InterCity (IC) ", "InterRegio (IR) ", "EuroCity (EC) "などといった名称が存在する。また、日本語の「特別急行列車(特急)」「快速急行」と同様の、Expressという名称の変形として"Trans Europ Express (TEE) ", "InterCityExpress (ICE) ", "RegionalExpress (RE) "といったものが用いられることがある。一部の都市内路線や地下鉄では"Skip Stop"という表現も用いられる。 欧米諸国の急行列車 急行列車の歴史については不明な点が多いが、最古の急行列車は"Mail Train"という名称を用い、他の列車とは速度の面で特に区別されて運行された1830年代のイギリスの郵便と旅客の混合列車であると推定される。19世紀のイギリスの鉄道は高速化に熱心で、"Express"、"Flyer"といった名称のついた列車が散見されるが、反面需要の有無に関わらず、各駅停車に相当する列車の運行にきわめて不熱心で、議会で低運賃の各駅停車の運行が義務づけられ、各駅停車の方が「議会列車"Parliament Train"」として認識されているほどであったことや、"Express"呼称と特別料金の有無が一致しなかったことから、こうした高速列車が優等列車として意識され、急行列車という名称が列車種別として意識されていたかどうかについては疑問の余地がある。なお、"Mail Train"はイギリスの植民地であったインドの鉄道の列車種別として現在でも用いられている。 急行列車が発展した地域としては、他にアメリカ合衆国・ヨーロッパなどを挙げることができる。長距離を走るアメリカの列車には速達性が求められ、19世紀末にはニューヨーク-シカゴ間の"Empire State Express"など、"Express"の呼称を用いた列車が多数存在した。ただし、20世紀以降は"Express"という名称は、フェデラルエクスプレスなど現在の宅配便に相当する小口荷物を輸送する「急行貨物列車」もしくは「急送便」といった意味合いで用いられることが多くなり、また、競合路線が多い中で旅客誘致をするためにも特別さをアピールできるものが相応しいことから、旅客列車には"Limited"という名称を用いることのほうが標準になった。現在のアムトラックの列車名を見ても、その路線の唯一の列車で、取り立てて高速でもない列車が" - Limited"を名乗るケースが多い。例外は、近郊鉄道や都市高速鉄道で、急行線を運行する電車を"Express"と名付ける習慣は現在のニューヨーク地下鉄に残されている。アメリカにおいても"Express"呼称と特別料金の有無は現在でも一致していない。 ヨーロッパでは、1883年10月に国際寝台車会社 (Compagnie Internationale des Wagons-Lits) の寝台車によって国際急行列車"Orient-Expres"(オリエント急行)がパリ・ストラスブール駅-コンスタンティノープル間で運行された[1]。国際寝台車会社の寝台車によって運行された国際急行列車「ヨーロッパ大急行」"Grands Express Europeens"は豪華さとともに、速達性によって第二次世界大戦前の花形列車としてヨーロッパで活躍した。ヨーロッパではこのほかにも座席車連結の国際急行や国内急行列車が存在した。これらは第二次世界大戦後に、国際特急TEE(のちにECとして発展的解消)やインターシティ (IC) サービスとして発展的解消を遂げたが、"Express"の名称自体はスペインやイタリアの列車種別として残されている。大陸ヨーロッパの諸国では、かならずしも"Express"呼称の列車に対してではないものの列車種別によって特別料金を取る列車が多く、列車本数も多いことから、急行という名称は列車種別として定着している模様である。 国鉄・JRにおける急行列車 JR(国鉄)の急行列車は、乗車のために急行券を必要とする。急行券のほか普通乗車券または回数乗車券が必要であり、定期乗車券による乗車はできないが、列車・区間を限定して乗車を認めている場合があった。 なお、JR(国鉄)では、「急行列車」とは<b data-parsoid='{"dsr":[3021,3033,3,3]}'>普通急行列車</b>と特別急行列車の総称であるが、一般に「急行」といえば前者を指し、後者は「特急」または「特急列車」と呼ばれる。現在、前者の急行は定期運行されておらず、臨時列車のみとなっている。このほか、かつては準急行列車(準急)も運行されていたが、普通急行列車に統合されて消滅した。 以下、この節において急行列車という場合は狭義の急行列車、つまり普通急行列車のことを指すものとする。 歴史 「急行列車」の登場 日本初の「急行列車」は、1894年(明治27年)10月に山陽鉄道(現在の山陽本線)が神戸 - 広島間に運行したものである。3往復のうち1往復を主要駅のみ停車としたもので、両駅間を9時間弱で結んだ。これ以前にも、1882年(明治15年)3月1日に新橋 - 横浜間で運転を開始した列車を始めとして、「官報」掲載の時刻表で「急行」と表記された列車は存在したが、それらは現在の快速列車に近い存在で、長距離旅客の利便性やサービス向上を本格的に意識した列車はこれが初めてであった。翌1895年(明治28年)10月20日には官設鉄道に乗り入れ、京都発着となった。官設鉄道では1896年(明治29年)9月1日に、新橋 - 神戸間での急行列車を登場させた。それまで約20時間かかっていた両駅間が、17時間強で結ばれることになった。その後1899年(明治32年)には食堂車が、1900年(明治33年)に寝台車がそれぞれ山陽鉄道の急行列車に日本で初めて連結された。 その後急行列車の本数は増加し、「最急行」・「最大急行」といった急行より上の格の列車も登場するが、日露戦争中は削減または廃止されスピードも大幅に低下した。 日露戦争の終結後は急行列車券規定が公布され、1906年(明治39年)4月16日に新橋 - 神戸間に設定された最急行列車の利用に、初めて急行料金が必要となった。急行料金を必要とする列車は徐々に増加していき、明治最後の年である1912年(明治45年)6月には、最初に急行料金が必要になった最急行列車が格上げされ、日本初の「特別急行列車」(特急列車)となった。 急行列車の黄金期 大正から昭和時代初期にかけては急行列車の黄金時代で、日本の多くの幹線で設定された。そのころの特急列車は東海道本線・山陽本線の「富士(ふじ)」・「櫻(さくら)」・「燕(つばめ)」・「鴎(かもめ)」の4種類しかなかったので、東北本線などその他の幹線では急行列車は「最優等列車」として君臨し、「特急列車」にも引けを取らない列車も多く存在した。1934年(昭和9年)12月、丹那トンネルなどが開通した時に行われたダイヤ改正時の、そのような列車には次のようなものがある。 7・8列車 (東海道本線・山陽本線・呉線)東京 - 下関間運転。終点下関駅では、関釜航路(下関 - 釜山)と接続し、朝鮮・満州・中国、そしてシベリア鉄道を経由してモスクワ(ロシア)・ベルリン(ドイツ)・ロンドン(イギリス)など、国際連絡運輸の一翼を担うという役割も果たしていたほか、呉線全通後は同線を経由することで、呉鎮守府および呉在籍の艦船に赴任・出張する海軍士官の足となった。格別な列車として、一等・二等・三等の各等の座席車・寝台車をすべて連結した。食堂車は特急「櫻」を含む他の多くの列車が「和食堂車」である中、「洋食堂車」であった。当時、「洋食堂車」のほうが高級感があったからである。昼行区間(京都 - 下関間)では一等展望車も連結した。 17・18列車 (東海道本線)東京 - 神戸間運転。関東と関西を結ぶ夜行列車で、神戸では満州の大連などへの航路にも接続していた。一・二等寝台車と洋食堂車を連結していたが三等車は連結されず、また座席車は二等車の1両のみであり、ある意味では「寝台列車」の走りともいえるような列車であった。その高貴性から政府などの要人や著名人などが多く使用し、「名士列車」と呼ばれた。 201・202列車 (常磐線・東北本線)上野 - 青森間運転。東北本線の列車には、北海道・樺太連絡の使命も与えられていたが、この列車はそれらのなかでも最も重要な位置付けをされていた。二・三等車のみで一等車はなく、食堂車も和食堂車であったが(1934年以降一等車および洋食堂車の連結は東海道・山陽本線のみとなった)、二等寝台車の一部には「特別室」と呼ばれる一等寝台車並みの設備を持った車両が連結されていた。またこの改正時に大幅な速度向上が行われており、上野 - 青森間を下りが12時間45分、上りにいたっては12時間25分で走破し、上り列車の平均時速は60.46kmにも達していた。1940年(昭和15年)10月、上り列車は所要時間をさらに5分短縮し、この記録は1958年(昭和33年)10月に、東北初の特急列車「はつかり」が登場(上野 - 青森間を上下列車とも12時間で運転)するまでの18年間も破られなかった。 1・2列車 (函館本線・室蘭本線・宗谷本線)函館 - 札幌・稚内間運転。上記の201・202列車</b>と青函連絡船をはさんで接続する列車で、下りの場合長万部駅で函館本線経由札幌駅行きと、室蘭本線経由稚内行きとを切り離した。(上りも同駅で併結した)この列車にも「特別室」が設けられていて、稚内駅では樺太の大泊(現在のコルサコフ)への航路と接続した。 急行列車は日中戦争に突入しても、そのために満州や樺太などへの需要が増したことから、各地で増発が続けられるが、太平洋戦争の戦況が悪化してきた1943年(昭和18年)2月ごろから削減されるようになった。 1944年(昭和19年)4月に特急列車が全廃(同時に一等車・寝台車・食堂車の連結はすべて中止された)、そして1945年(昭和20年)3月に、全国でも急行列車は東京 - 下関間(6月から東京 - 門司間)の1往復のみとなってしまう。 復興と特急への置き換え 戦後は石炭・車両・整備の事情が戦時中以上に悪化し、1947年(昭和22年)1月 - 4月にはついに急行列車が消滅するという事態も迎えている。しかし同年6月ごろからは、日本全国に準急列車とともに増発・新設されていくことになる。戦後はいわゆるローカル線などにも広く設定されていった。しかし準急列車は急行列車に統合される形で1966年(昭和41年)3月に100km以上を走行する本来の意味での「準急列車」は消滅、残りも1968年(昭和43年)10月に姿を消す。 かつては、首都圏の中央線や関西地区の東海道本線・山陽本線、阪和線といった路線では、急行料金不要の列車として、急行“列車”ではなく「急行“電車”(急電)」という列車が運行されていた。しかし、同様の種別名称で料金が必要なものとそうでないものが混在するのは、旅客案内上好ましくないことから、電車や気動車を使用した有料準急の新設をきっかけとして、1958年(昭和33年)10月に「急行電車」は「快速電車」に改称された(後述の「急行電車(急電)」も参照)。 戦時買収私鉄であった阪和線では「特急電車」・「準急電車」も存在したが、この時に「特急電車」を「快速電車」に、「急行電車」と「準急電車」は「直行電車」(のちに「区間快速」)とした。 急行列車の最盛期となる昭和40年代には数多くの列車が設定されたが、その中には非常な長距離を走るもの、運行区間が独特なもの、分割・併結を繰り返すものなど、さまざまな特徴を持った列車も多く存在することとなった。1968年(昭和43年)10月改正(通称「ヨン・サン・トオ」)時の、それらの一例には下記のような列車がある。 高千穂 (東海道本線・山陽本線・日豊本線)東京 - 西鹿児島(現在の鹿児島中央)間運転。日豊本線周りで東京から西鹿児島までの1574.2kmを、この当時は28時間15分もかけて走破するという、屈指の長距離列車であった。なお、1965年(昭和40年)10月 - 1980年(昭和55年)10月の寝台特急列車(いわゆるブルートレイン)「富士」も同区間を運行していたが、「急行列車」の中では最長であった。なお、1968年10月のいわゆる「ヨンサントオ改正」より東京駅から門司駅までは鹿児島本線経由の「霧島」(のちに「桜島」と変更)と併結して運転し、またこの当時の東海道本線では唯一の昼行客車列車であった。 さんべ (山陰本線・美祢線・山口線・山陽本線・鹿児島本線)米子 - 小郡(現在の新山口)・小倉・博多・熊本間運転。この当時は昼行2往復、夜行1往復の計3往復が設定されていたが、下りの「さんべ2号」と上りの「さんべ1号」は運行経路が複雑であった。下りの「さんべ2号」の場合、米子駅を発車して益田駅で山口線経由小郡行きの列車をまず分割するが、長門市駅でも山陰本線経由と美祢線・山陽本線経由の列車を分割して、その分割した編成を再び下関駅で併結するという運用を行っていたのである。この後もこの列車は昭和50年代末まで運行され、西村京太郎の作品の影響からか、いつしか「再婚列車」と呼ばれるようにもなっていた。 陸中 (東北本線・釜石線・山田線・花輪線・奥羽本線)仙台 - 秋田間運転。この列車は当時、仙台駅から秋田駅までを最短経路の北上線を経由する急行「きたかみ」では、同区間は当時4時間半で運行できるものを釜石線・山田線・花輪線を経由し13時間半もかけて運転するという、運行経路も奇妙なものであったが、それ以上に分割・併結の複雑な多層建て列車が多く存在した東北地区を象徴するような列車でもあった(詳しくは、はまゆり (列車)の記事を参照)。 特別急行列車が文字どおりの「特別」な列車であった時代は、急行列車は庶民の足として日本全国津々浦々で運転されていたが、1964年(昭和39年)10月に新幹線が、そして1972年(昭和47年)10月にエル特急が登場すると特急の大衆化が進む。経済の高度成長に伴う鉄道輸送の飽和から列車運行速度の異なる急行形車両(運転最高速度95km/h - 110km/h)がダイヤ上のネックとなった。中長距離は特急列車に格上げし、近距離や一部の中距離列車(元準急列車が中心)を快速に格下げすることにより、列車速度の単純化と優等列車の車種統一による車両運用の合理化、さらには陳腐化していた急行列車のサービス向上などを図った。こういった施策は航空機や自動車、高速バスの普及したこの時期においては不可避だったとはいえ、特急格上げの際に車内設備の改善はともかく、所要時間短縮が少なかったことから、国鉄の増収手段の1つという批判も強かった。ただし、当時の国鉄運賃は物価水準に対し政策的に低く抑えられており、また国鉄運賃の値上げは国会承認事項であり必ず政治問題となることから簡単な値上げは不可能であり、手っ取り早く必要に見合った増収を目指すには運賃外の料金値上げが利用されたという背景もある。 この時期には、いわゆる新性能電車との置き換えなどにより、臨時列車(「はりま」など)や大都市圏(とりわけ首都圏・「かいじ」など)では、所定の車両が揃わない等の理由で、一般形車両により運行される急行列車もあった。それらの列車は「遜色急行」(そんしょくきゅうこう)と一部の鉄道ファンから揶揄された。これはかつての準急行列車が速度を第一とし、その対価として急行料金に比べ安価な準急行料金を徴したのだが、その準急以下と見られたからである。一方で西日本を中心に急行形車両への冷房取り付けも進み、一等車は1968年までに、関東以西の普通車(旧二等車)も1970年代後半までには完了したが、東北以北では気動車の普通車への冷房設置は遅々として進まなかった[注釈 1]。 急行全盛期の列車編成に欠かすことのできない車両として、特別二等車・二等車(ともにのちの一等車・グリーン車)、食堂車(ないしは、ビュッフェ)・荷物車が挙げられたことから、ダイヤグラム作成に際して速度を含めて優等車両を備えた列車のことを、略して「優等列車」と呼ぶようになったともいわれている。 こういう経過の中でも存置された急行列車は、次第に特急と快速・普通列車に挟まれた中途半端な存在として利用客が減少していった。 衰退から消滅へ 1980年代以降の新幹線延伸により、在来線特急列車で使用されていた特急形車両が余剰になり、時を同じくして急行列車に使用していた車両の老朽化が進んだ。そのため急行列車は特急列車へ格上げ、快速列車・普通列車へ格下げ、または廃止され、大きく数を減らしていった。 1982年11月15日の国鉄ダイヤ改正を皮切りに、JR発足後もその流れは止まらず、ほぼ毎年のように急行列車が廃止された。JR四国は1999年3月、JR九州は2004年3月、JR東海は2008年3月、JR西日本は2012年3月の各改正をもって、それぞれの管内から定期急行列車が消滅している。 昼行急行列車は2009年3月改正で「つやま」が廃止されたことで全廃となった。その結果、定期運転の急行列車は夜行の「はまなす」のみとなったが、後述のとおり同列車も2016年3月26日の北海道新幹線開業に伴い廃止された[2]。これにより、JRグループから定期運行の急行列車は消滅した。 グリーン車の連結は、定期昼行列車については、半室グリーン車キロハ28形を連結していた「つやま」が2003年9月30日に車両変更のため編成から外されたことで消滅した。グリーン車を連結する定期急行列車は、2012年3月改正において「きたぐに」の臨時格下げにより消滅した。 なお、臨時列車化以降の「きたぐに」が廃止される2013年3月以降は、グリーン車を連結する列車は、使用車両の一部に設置ないしは、いわゆるジョイフルトレインを使用した列車に限られている。 1998年に廃止された周遊券のうち、均一周遊乗車券(ワイド周遊券・ミニ周遊券)では、出発地から自由周遊区間までの経路を含めて急行列車の自由席利用が可能となっていた。 急行列車の車両 急行列車は、153系・165系直流電車や455系・475系交直流電車、キハ28系・58系気動車、12系客車などの急行形車両や、旧型客車によって運行された。 列車によっては485系・583系電車や20系・14系客車、キハ181系気動車などの特急形車両や、113系・401・403/421・423系電車やキハ40系気動車などの一般形車両が使用された。後者については、通常の急行形車両よりサービス設備が見劣りすることから、“遜色急行”と呼ばれることがある。 JR化後、急行専用車両は開発されていない。キハ110系0番台は急行仕様の設備を有しているが、現在、定期列車では快速列車運用のみとなっている。JR化後の定期急行列車は、「かすが」(2006年3月廃止)がキハ75形を使用した以外は、すべて国鉄時代の車両を改修して使用している。前述の急行「はまなす」は特急形車両を使用した。 定期急行の廃止 2016年3月26日のダイヤ改正で北海道新幹線が開業したのに伴い、JR最後の定期急行列車である「はまなす」が廃止された。この列車は青森と札幌を結ぶ夜行列車であり、同年3月21日青森発22日札幌着の下り列車を最後に運行を終了した。同列車の廃止により、国鉄時代から続いたJRの定期急行列車は全廃された[3]。 ただし制度上、急行の列車種別は廃止されていない。JR東日本水戸支社[4]およびJR東海[5]のように、多客期の臨時列車(多客臨)などを急行列車として運転する場合があり、その際には急行券が発売される。なお、これらの列車はいずれも特急型車両を使用するが、定期列車のダイヤを優先したり、ビューポイントで徐行運転や停車をしたりするなど、速達性の面で特急とは言い難い性格を持つ臨時列車の種別として実質的に用いられている。 なお、JR東日本水戸支社においては2017年11月を最後に急行列車の運転は行われておらず、快速列車に格下げまたは特急「ときわ」に格上げされている。常磐線では2015年3月のダイヤ改正で全車指定席とする新特急料金を導入した結果、座席指定料金を含めた急行料金が新特急料金よりも高いという逆転現象が発生している[注釈 2]。 例外として、常磐緩行線上り電車にはJR東日本の公式サイトの時刻表上にのみ急行の列車種別が設定されているが、これは直通先の小田急電鉄小田原線・多摩線内において後述の料金不要の「急行」列車として走る事を意味しており、本節で述べた「急行列車」とは全く性質の異なるものである(JRでいうかつての急行電車に近い)。 急行電車(急電) 概要 昭和初期より、急行<b data-parsoid='{"dsr":[12880,12888,3,3]}'>列車</b>とは別に「急行<b data-parsoid='{"dsr":[12895,12903,3,3]}'>電車(きゅうこうでんしゃ)」と呼ばれる急行料金を徴収しない列車が運行される路線があった。略称は「急電(きゅうでん)」である。 車両は近距離仕様の車両と同様のサービス設備を有したが、停車駅間が長くなるため一部の列車ではサニタリー設備が備え付けられた。また、一部の車両は、近距離使用の車両に用いられるロングシートではなくセミクロスシートを有した。 歴史 日本では、高速度電気鉄道(路面電車に対し、本格的な鉄道設備の上を電車によって高速運転する鉄道)が普及し始めたころ、機関車が無動力の客車をけん引する動力集中方式の列車と、動力分散方式を採る電車は、「全く別の性格の乗り物」と定義されていた。そのため、旧国鉄においても電車で運転される「急行」を「急行電車」と呼び、急行料金を徴収する<b data-parsoid='{"dsr":[13462,13472,3,3]}'>急行列車</b>とは別に位置づけた[注釈 3]。現在、JR東日本の社内規定における中央快速線の正式な名称が「中央急行線」であるのは、この名残である。このほかに、国鉄が戦時買収により阪和電気鉄道から買収した阪和線では、料金不要の特急電車・準急電車</b>も存在した。また、現在の東海道本線・山陽本線京阪神地区(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)を縦貫する新快速も、元来は急行電車であった。京阪神快速・電車線・列車線も参照。 しかし、1958年(昭和33年)に151系電車や153系電車が登場し、特急列車や急行列車に投入されたのに合わせ、国鉄の急行料金の不要な列車は順次「快速」へと呼称を変更した(阪和線では最上位の特急電車が快速列車となったため、同線の急行および準急電車は直行列車という新種別を設けて対応した[6])。 私鉄の急行列車 概要 私鉄は1906年(明治39年)の鉄道国有法によって動力集中方式で長距離列車を運行する路線を有する会社が東武鉄道や南海鉄道などを除いてほぼ皆無となったことや、米国におけるインターアーバンを摸した高速度電気鉄道として出発した会社がほとんどである。そのため、急行列車が標準的な速達列車とならない場合がある。快速列車が急行列車より停車駅が少ない会社もある。 東武鉄道の場合、かつて東京と群馬県・栃木県とを結んだ東武本線系統において、国鉄の制度に準じた急行券を要する列車(伊勢崎線急行「りょうもう」や日光線系統の急行。以下「有料急行」)とは別に料金不要の「急行」を運行していた。この列車は1951年の運転系統の改正により名称上廃止され、「快速」・「準快速」・(停車駅が少ない)「準急」など(以下「快速等」)と呼称変更された。 その後は「準急」(=無料かつ途中停車駅が比較的精選されていない列車)と有料急行の間に位置する列車種別として存在するものもあったが、有料急行については2006年3月のダイヤ改正までに「特急」に格上げされた。これに伴い、本線での料金不要の「急行」が前述の快速等とは別に設定された。 急行料金を設定している列車を走らせている私鉄もある。かつての富士急行、長野電鉄、島原鉄道などの観光地の路線などでは、旧国鉄からの乗り入れ(またはその逆)を行なう関係で別途急行料金を徴収する事例があった。小田急電鉄の「あさぎり」、名古屋鉄道の「北アルプス」や南海電気鉄道の「きのくに」、そして富山地方鉄道に乗り入れていた国鉄の急行列車(「立山」「のりくら」)などは、国鉄線内は急行でも、私鉄線内では特急であった。 有料急行列車 急行券が必要な急行列車は以下の4社でのみ運転されている。車両は専用車両が使われることが多い。ただし東急電鉄はQシート指定席券である。 かつては大手私鉄でも東武鉄道の日光線系統に唯一の有料急行列車が存在したが、2006年(平成18年)3月18日の改正で特急に格上げされ、同時に料金不要の「急行」が新たに設定された。2017年(平成29年)8月20日から京阪8000系の特急でプレミアムカーが登場し、その8000系の入出庫列車や間合い運用の急行でも座席指定のプレミアムカーが営業開始したが、2018年9月15日のダイヤ改正で廃止された(「特別急行列車#指定席・自由席連結列車」も参照)。2018年(平成29年)12月14日から東急電鉄の大井町線平日の夜に大井町駅を発車する、一部の急行長津田行きの3号車に、有料指定席のQシートが導入される。 以下、会社名を50音順で記す。 廃止された列車 料金不要の「急行」 現在私鉄の多くが運行している「急行」は料金不要で速達運転を行なうものであり、先述した国鉄の「急行(電車)」と同じく、JRにおける「快速」(普通列車)に相当する。1914年(大正3年)に京阪電鉄が京阪本線で運行したのが日本初とされる。同社はその後1916年(大正5年)にノンストップ運転であった従来の急行を「最急行」に改称し、「急行」を主要駅停車の列車としている。 通常、通勤形車両(一般車両)で運行されるが、特別仕様の車内設備を持つ車両で運行される場合もある。京浜急行電鉄や京阪電鉄などでは、こういった専用車両を料金不要の「特急」に使用する場合がある。 列車一覧 一部を除いて全て電車で運転。 表中の「派生種別」については、特急・快速特急(快特)および準急を除く。 地下鉄については別枠でまとめた。 「×」表記のものはかつて運行されていた運行会社・路線および派生種別 派生種別 特急、準急、快速特急(快特)、快速急行およびそれらの派生種別については下記を参照。 特急⇒特別急行列車#私鉄の特別急行列車 準急⇒準急列車#私鉄・地下鉄 快速特急(快特) 快速急行 「×」表記は、かつて運行されていた運行会社・路線および派生種別。 鉄道以外の「急行」 「急行」は通常鉄道の列車を示すが、高速バスを含む路線バスにも超特急、特急、急行、快速便が存在する。これらの中にも急行券や座席指定券を必要とするものもある。バスの急行については「急行バス」を参照されたい。 また、かつての宇高航路にはホバークラフト、高速艇による<b data-parsoid='{"dsr":[38406,38415,3,3]}'>急行便</b>が存在した。これに乗船するときは、乗車券のほかに連絡船急行券を必要とした。ただしこの急行便は、運行時には接続する本州・宇野線側ですでに特急・急行列車</b>が寝台特急「瀬戸」以外設定されていなかったことや、宇野駅および高松駅では鉄道連絡船で運行されていた普通便とは別桟橋での発着であったこともあり、運賃上の連帯を行なうのみで鉄道側との乗り継ぎ料金制度は存在しなかった。→「宇高連絡船」を参照されたい。 このほかにもフェリーと高速艇を並行して運行する場合には、所要時間の短い高速艇を<b data-parsoid='{"dsr":[38733,38741,3,3]}'>急行</b>扱いとして料金を高く設定することがある。 船舶会社の社名に急行をつける例としては、四国フェリーグループの小豆島急行フェリーなどに事例がある。 脚注 注釈 出典 参考文献 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』No.784 特集:急行列車 イカロス出版『J-train』No.13 特集:再考。急行列車 交友社『鉄道ファン』2007年10月号 特集:列車種別バラエティ 関連項目 急行券 旅客列車 列車種別 列車愛称 日本の列車愛称一覧 エクスプレス スリップ・コーチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A5%E8%A1%8C%E5%88%97%E8%BB%8A
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 212, 595, 1718, 2391, 2656, 3017, 3374, 3666, 4261, 4727, 5113, 6135, 6628, 7233, 8894, 9316, 10206, 10738, 11054, 11809, 12783, 14778, 16116, 16762, 17300, 17923, 18480, 18783, 26788, 27035, 27312, 27370, 28266], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 204, 594, 1717, 2390, 2613, 3016, 3373, 3665, 4260, 4688, 5112, 6134, 6591, 7232, 8893, 9315, 10205, 10627, 11053, 11808, 12782, 14777, 16030, 16761, 17280, 17909, 18479, 18775, 26774, 27021, 27280, 27369, 28224, 28522], dtype=int32)}
アトラスの本社はどこにある?
アトラス (ゲーム会社)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([28], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([26631], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([26696], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
株式会社アトラス()は、コンソール用ゲーム等の企画・開発を主な事業内容とするセガサミーグループの企業であり、セガゲームスの100%子会社[1]。 概要 英語表記は「ATL<b data-parsoid='{"dsr":[1460,1467,3,3]}'>U</b>S」で、ギリシア神話における巨人の「ATL<b data-parsoid='{"dsr":[1496,1503,3,3]}'>A</b>S」と異なる。また、8画は末広がりで縁起が良いという理由でカタカナ表記の「アトラス」と英語表記の「ATLUS」と両方とも8画になるようにしたとされる[2]。 1986年4月7日に旧社が設立。2006年のインデックス(旧社)グループ入りを経て2010年10月にインデックス(旧社)本体へ吸収合併され、同社のブランドとして存続していたが、インデックス(旧社)の民事再生手続(その後民事再生手続廃止並びに破産手続開始)とそれに伴う新旧分離により、2013年11月1日に同年9月5日に設立されたインデックス(旧セガドリーム)へブランド並びに海外子会社の株式を譲渡したと同時に、社員もインデックス(旧社)を退職した上でインデックス(旧セガドリーム)へ再雇用された。2014年4月1日付で実施された会社分割に伴い、インデックス(旧セガドリーム)は「株式会社アトラス」(新社)に商号変更した。このため、セガゲームスの子会社である新社と、2010年9月までの旧社並びに2010年10月から2013年10月までブランドを所有していたインデックス(旧社)とは資本関係は全くない別会社である。 2017年3月21日まで存在したアトラスネット(アトラス製品情報サイト)に登場していたキャラクターは『真・女神転生』に登場した「ジャックフロスト」である。プリント倶楽部にも登場していたことから一時期は女子高生の間では「プリクラ君」と呼ばれていた。同社のマスコットキャラ的な存在と言える。旧社の公式サイトには「ジャックフロスト」があちこちに登場していたが、2017年3月21日までの新社の企業情報サイトに登場していたキャラクターは『ペルソナ4』に登場した「クマ」である。 コンシューマーゲームやソーシャルゲームのみを手掛けているが、かつてはプリント倶楽部などの業務用ゲームや、アミューズメント施設も手掛けていた(後述)。 歴史 旧:株式会社アトラス時代 当初はコンピュータゲームの開発のみを行い、発売は他社で行っていたが、1989年『パズルボーイ』より発売も自社で行うパブリッシャーとなる。1997年にジャスダックに上場し、1998年にユウビスと業務提携し、1999年にはアメリカ現地法人であるAtlus U.S.A.,Inc.を設立[3]。 しかし、1999年3月期から赤字決算が続いた事から、2000年には角川書店(後のKADOKAWA)と資本・業務提携した。その一環として2001年に「新生アトラス経営改革プラン」を発表し、同年6月にアピエスなど連結子会社2社の株式を、アトラス元社員にMBO方式で売却した[4]。 2003年(平成15年)には当時コナミ(後のコナミホールディングス)傘下だったタカラ(後のタカラトミー)と資本および業務提携した事に伴い、角川書店との提携を解消し、アトラスはタカラの連結子会社となった。 タカラの連結子会社となったアトラスは、同時にタカラからゲーム事業を譲受する。しかしタカラは、2005年(平成17年)に資本提携先をインデックスに変更し、2006年(平成18年)3月にはトミーと合併したため社名をタカラトミーへ変更した。タカラトミーは同年10月に当時親会社であったインデックス・ホールディングスによるアトラス株の株式公開買い付けを受け入れ、アトラスはインデックス・ホールディングスの連結子会社となった。 インデックスの子会社となったアトラスは、2008年8月に策定した中期経営計画により、2009年3月には業務用ビデオゲーム事業から撤退し、同年12月にはアミューズメント施設運営事業をNEWS(後のレジャラン〈2代目〉)へ分社化した。2010年5月にインデックス・ホールディングスによるアトラス株の株式交換を実施した。 株式会社インデックス時代 旧社は、同年10月に兄弟会社であったインデックスと共にインデックス・ホールディングスに吸収合併されると同時に解散し消滅した。アトラスはインデックスのブランドとして存続する事になった。2012年2月にセガ(後のセガゲームス)とゲームソフトの流通に関する契約を締結した。 インデックスは、旧社を吸収合併直後に、取引銀行であった日本振興銀行の経営破綻により経営が悪化。旧社時代からの子会社であったロッソインデックス株式の一部売却などを行ったが、旧社を吸収合併後した後の2011年8月期並びに2012年8月期の決算において、2期連続の最終赤字となり、かつ純資産においても債務超過に陥った(2011年8月期並びに2012年8月期の有価証券報告書には資産超過と記載した虚偽の有価証券報告書を提出しており、後の破産手続開始の際に債務超過が発覚した)。2013年6月27日に民事再生手続を申請し、同年7月5日に民事再生手続開始決定を受け、同年9月18日に民事再生スポンサーとなったセガに同年11月1日付でアトラスブランドを譲渡することを発表した(後述)。なお、2011年8月期並びに2012年8月期の正確な決算は未発表である。 インデックス(旧社)は、セガにアトラスブランドを譲渡して5か月後の2014年4月30日に民事再生手続廃止決定を受け、同年5月に会長と社長が金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕され、同年7月31日に破産手続開始決定を受けた。その後インデックス(旧社)は2016年8月3日に破産手続結了決定を受け、法人格が消滅した。 新:株式会社アトラス時代 2013年9月18日にインデックスの民事再生スポンサーの選定先が発表され、アトラスのゲームソフト流通に関する契約を締結しているセガが支援スポンサーになると同時に、インデックスはセガとアトラスブランドを始めとする全事業並びに海外子会社の全株式を、セガが同年9月5日に設立した100%子会社であるセガドリームに、同年11月1日に141億円で譲渡する契約を締結した。セガドリームはインデックスの有利子負債などの負債は継承しない[5][6][7]。 アトラスブランド並びにAtlus Holding Inc.とIndex Digital Media,Inc. の全株式は予定通り2013年(平成25年)11月1日付で同日にセガドリームから商号変更されたインデックス(以下新インデックス)へ譲渡された[8][9]。譲渡と同時に、同時に旧インデックスから譲受した新インデックスの公式サイトからは同年10月31日以前のアトラスに関するプレスリリースは削除されたが[10]、アトラス公式サイト(アトラスネット)における同年10月31日以前のアトラスに関する情報は残されている。制作スタッフなどの社員全員も2013年10月31日付で旧インデックスを退職し、新インデックスへ再雇用された。アトラスの制作体制並びに独立性はこれまで通り維持されている。セガはアトラスとのIP(知的財産)の相互乗り入れを実施している他、RPGに強みを持つアトラスを傘下にしたことで、これまで弱いとされたRPGも強化していく[11]。セガの海外におけるコンシューマ事業に関しても、全世界で売上総数を想定しているアトラスの手法を取り入れた[12]。セガサミーグループはこれまで行ってきたアトラスブランドのゲームソフト流通やセガ・ロジスティクスサービスが手掛けているアーケードマシンのメンテナンスの他にも、旧インデックスが保有していた権利を譲受したことで、アトラスブランドは完全にセガサミーグループが手掛けることになった。 2013年12月1日付で、アトラスブランドの業務用アミューズメントマシンの開発・販売は後述の通りセガ本体(セガのアーケードマシン事業は2015年4月1日付でセガ・インタラクティブが承継)へ吸収されたが、コンシューマゲームやソーシャルゲームなどのアトラスブランドの開発・販売はこれまで通り継続される。 2014年4月1日付で、新インデックスは会社分割を行い、「株式会社インデックス」を分割会社とした上で、「株式会社インデックス」は「株式会社アトラス」(旧:株式会社インデックス コンシューマソフトウェア局)に再度商号変更し、コンテンツ&ソリュージョン事業は承継会社となる「株式会社インデックス」(2代目、後のiXIT株式会社)として分割した。これにより、アトラスの商号が3年半ぶりに復活することになった[13][14]。コピーライト表示もインデックスから、アトラスとセガホールディングス(2015年3月まではセガ)の連名に変更された。また、同時にインデックスの米国子会社である Index Digital Media,Inc. も Atlus U.S.A., Inc. に再度商号変更された。 アトラスのセガサミーグループ入りに伴い、2014年以降の東京ゲームショウにおけるアトラス製品の出展は、親会社であるセガゲームスのブースで出展している。アジア地区における販売も、2016年8月から現地の代理店経由から、セガゲームス直販(販売はセガゲームスの現地子会社が担当)へ切り替えられた[15]。 過去に手掛けていた事業 アーケードマシン事業・アミューズメント施設運営事業 かつては業務用ビデオゲームや業務用アーケードマシンもリリースしていた。アミューズメント施設運営に関しても、首都圏においては「ムー大陸」、「ゲームパニック」を直営で、関西圏でも子会社だったアピエスが展開していた。 自社開発の『豪血寺一族』シリーズ、ケイブ(2013年にアーケードゲーム事業から撤退)の開発した『怒首領蜂』などがある。セガ(後のセガ・インタラクティブ)と共同開発したプリントシール機『プリント倶楽部』は「プリクラ」の愛称で親しまれ大ヒットした。業務用の繋がりからか、2006年11月11日にβテストを開始したWindows用のMMORPG『女神転生IMAGINE』はケイブが開発・運営していたが、2016年5月31日にサービスが終了した。システム基板にTaito Type Xシリーズを採用したり、ネットワークサービスにNESiCAxLiveを採用するなど、タイトーとの関係も深かった。 旧社が角川書店と資本・業務提携していた2001年に、「新生アトラス経営改革プラン」に伴い、業務用アミューズメント機器のレンタル・メンテナンスを行っていた株式会社ムーシステムサービスの事業を新設で設立した有限会社ムーシステムサービスへ承継させた上で、株式会社ムーシステムサービスと株式会社アピエスの2社の全株式をアトラス元社員にMBO方式で売却した[4]。同時に、株式会社ムーシステムサービスは株式会社コンフォートへ商号変更した上でスポーツ及びアミューズメント施設の運営事業へ業態変更した他、アミューズメント事業は関西圏からは一時撤退した。尚、コンフォートは、レジャラン(初代)の子会社となった後、2012年2月にレジャラン(初代)の関連会社である山崎屋の子会社となった。 旧社時代には、2007年6月にマーベラスエンターテイメント(後のマーベラス)からアミューズメント施設事業を分社化したマッドの全株式を取得してアミューズメント施設事業を拡大したが[16][17]、2008年8月に、2011年7月期までに不振となっていたアミューズメント事業を縮小し、家庭用ゲームに経営資源を集中させる中期経営計画を発表[18]。2009年3月に業務用ビデオゲーム事業の販売から撤退した(開発は継続)[19][20]。首都圏で手掛けていたアミューズメント施設事業についても、2009年12月1日に株式会社NEWSへ分社化の上、旧社の親会社であったインデックス(旧社)の取引銀行であった日本振興銀行の関連会社である中小企業レジャー機構(後のエフエルワイ)へNEWSの一部株式を44億7200万円で譲渡して撤退。分社化当時は旧社が同社の株式の14%を保有、残り86%は中小企業レジャー機構が保有していたが[21][22]、旧社も2010年5月に保有していたNEWS全株式を中小企業レジャー機構へ売却したと同時に、NEWSとの資本関係は完全になくなったが[23]、NEWSと旧社→インデックス(旧社)との関係は資金の借入や店舗の契約関係などでインデックス(旧社)の破産手続開始決定後の2015年7月まで残っていた。尚NEWSは、2014年2月にレジャラン(初代)が全株式を取得してレジャラン(初代)の100%子会社となり、2016年4月1日付でレジャラン(初代)を吸収合併した上で商号を株式会社レジャラン(2代)へ変更した。旧社からNEWSへ運営移管されたアミューズメント施設18店舗の内、2017年10月現在でレジャランが営業している店舗は5店舗のみであり、残りの13店舗はNEWSへの運営移管後に閉店した。 業務用アミューズメント事業は新社へブランド譲渡後も継承されたが、最後まで残っていた業務用ビデオゲーム開発、トレーディングカードゲームの開発・販売も、新社がブランドを譲受して1か月後の2013年12月1日に、新社の親会社であるセガ(後のセガ・インタラクティブ)へ吸収された[24]。アトラスブランドで最後にリリースされたアーケードゲームは『イナズマイレブンGO バトリズム』であった。移管と同時に「トリプルキャッチャー」、「クルカステーション」などの旧社が開発した筐体の権利はセガ(後のセガ・インタラクティブ)へ移動した。尚、「クルカステーション」の稼働自体はセガ・インタラクティブ設立後の2015年9月4日に終了しており、「クルカステーション」と「プリント倶楽部」の修理サポート自体も2017年3月31日を以って終了した[25]。これに伴い、同年4月1日以降は旧社が開発した筐体のサポートは一切受けられなくなったと同時に、アトラスブランドのアーケードゲーム筐体の歴史に幕を閉じた。 アーケードマシン・アミューズメント施設における事件・事故 2007年8月に、同年7月にリリースした腕相撲ゲーム『腕魂』でプレイしていた3人が骨折する事故が発生し、旧社は『腕魂』150台を自主回収した他[26][27]、クレーンゲーム機である「トリプルキャッチャー」シリーズの電源スイッチから出火する事故も発生した[28]。「トリプルキャッチャー」シリーズのサポートはインデックス(旧社)の民事再生手続申請後の2013年6月29日に終了したが、電源スイッチの交換に関してのみセガ・ロジスティクスサービスにて引き続き行っている[29]。 2009年4月22日には、旧社が当時運営していたムー大陸戸塚店(横浜市)に4人組の強盗が押し入り、売上金約300万円、メダル預りシステムに登録されていた顧客情報が入ったUSBメモリとフロッピーディスクが奪われ、個人情報約1500件が流出するという事件が発生した。アトラスは顧客に謝罪し、後に犯人は逮捕されている[30][31]。ムー大陸戸塚店はNEWSへ運営移管後、2013年9月に閉店した。 パチスロ事業 旧社時代の2006年にはパチスロ・パロットへの進出を発表し[32]、関連会社の株式会社アトムが開発したパチスロ・パロット機の販売を行うとしていたが、実際にはパロットの『CRPカリブの海賊』を市場に投入したのみで巨額の赤字を出す結果に終わり、2007年9月に撤退した[33]。パチスロでは和田アキ子をモチーフとしたパチスロ機の開発を完了しており、保通協の型式試験を通過している。一般発売時の機種名募集も行われた[34]が、お蔵入りとなった。 Atlus U.S.A. 北米の現地法人である「Atlus U.S.A., Inc.」(2014年3月31日までは「Index Digital Media,Inc.」)は、アトラスが100%出資する現地子会社。『Shin Megami Tensei:Nocturne』などのアトラスのゲームだけでなく、他社のゲームのローカライズも行っている。日本一ソフトウェアの『Disgaea』、バンプレストの『Super Robot Taisen』、ガイアの『Monster Kingdom』などが該当する。2017年4月1日付で、Atlus Holding Inc.を逆さ合併の形で吸収合併した[35]。 かつては北米でオンラインゲーム事業を手掛けていたが、インデックス(旧社)傘下時代の2013年3月31日付で、マーベラスの北米の現地法人であるXSEED JKS,Inc.(後にMarvelous Entertainment USA, Inc.へ吸収合併)へ譲渡された[36]。 沿革 1986年4月 - コンピュータゲームの開発会社として旧法人(以下「旧社」)を設立。 1987年 1月 - 業務用アミューズメント機器の国内販売を開始。 9月 - ファミコン用ソフト『デジタル・デビル物語 女神転生』を開発し、ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)より発売される。 1989年 3月 - 業務用カラオケ機器設備の販売を開始。 8月 - アトラス初の直営アミューズメント施設である『アトラスシティ 明大前店』開業。 12月 - アトラス初の自社ブランドとしてゲームボーイソフト『パズルボーイ』を発売。 1992年 4月 - アトラス初の自社ブランドとなるアーケードゲーム『ブレイゾン』発売。 10月 - シリーズ初のスーパーファミコンソフト『真・女神転生』を発売。 1994年 - アトラス直営では初の郊外型アミューズメント施設である『ムー大陸 宮原店』開業。 1995年 7月 - 業務用として『プリント倶楽部』を販売。 12月 - シリーズ初のセガサターンソフト『真・女神転生デビルサマナー』を発売。 1996年9月 - シリーズ初のPlayStationソフト『女神異聞録ペルソナ』を発売。 1997年10月7日 - ジャスダック上場(証券コード:7866) 1999年3月 - 米国子会社であるAtlus U.S.A., Inc.設立。 2000年8月 - 角川書店と資本・業務提携。 2001年 4月 - 子会社の株式会社ムーシステムサービス(後の株式会社コンフォート)全株式を、アトラス元社員にMBO方式で売却。 6月 - 子会社の株式会社アピエス全株式を、アトラス元社員にMBO方式で売却。 10月 - 角川書店と共同でゲームソフトの直販流通を開始。 2003年 2月 シリーズ初のPlayStation 2用ソフト『真・女神転生III-NOCTURNE』を発売。 角川との提携を解消し、タカラ(後のタカラトミー)と資本および業務提携、タカラの連結子会社となる。 2004年9月 - 株式会社ビービーエムエフ(後の株式会社ビーグリー)と資本提携し、ビービーエムエフ社の約10%株主となる。 2005年2月 - 株式会社アトラスモバイルを設立。 2006年10月30日 - 当時タカラトミーの親会社であったインデックス・ホールディングス社による株式公開買い付けを受け入れる方針を発表。これにより、タカラトミーの連結子会社からインデックス・ホールディングス社の連結子会社となる。 2007年 6月1日 - マーベラスエンターテイメント(後のマーベラス)よりマッドの全株式を取得し子会社化。 8月21日 - 『腕魂』で骨折事故が発生したことを受け、『腕魂』筐体を自主回収。 9月1日 - マッドを吸収合併。 2009年 3月 - 業務用ビデオゲーム事業の内、販売から撤退(業務用ビデオゲームの開発並びにその他のアミューズメントマシンの開発・販売は継続)。 4月22日 - アミューズメント施設「ムー大陸戸塚店」に強盗が押し入り、売上金と個人情報が入ったUSBメモリとフロッピーディスクが奪われる事件が発生[30]。 4月24日 - 業務用アミューズメント機器のメンテナンスをセガ・ロジスティクスサービスへ委託[37]。 12月1日 - アミューズメント施設運営事業を株式会社NEWS(後のレジャラン〈2代目〉へ吸収合併)へ分社し、NEWS株式の86%を中小企業レジャー機構(後のエフエルワイ)へ譲渡。アトラスはアミューズメント運営事業から撤退。 2010年 2月12日 - 取締役会においてインデックス・ホールディングスによる株式交換によって同年5月10日の株式交換効力発生日から、同社の完全子会社になることを発表。 3月26日 - 連結子会社だったシーアンドシーメディアの株式をオランダのPerfect World Europe B.V.へ譲渡するための株式譲渡契約を締結したことを発表[38]。これにより、保有していたシーアンドシーメディアの株式はすべて譲渡され、同年4月1日付で同社との連結子会社関係が解消される[39]。 4月30日 - 上場廃止。 10月1日 - 兄弟会社であったインデックスと共にインデックス・ホールディングスに吸収合併され、旧社が解散[40]。同時にインデックス・ホールディングスはインデックスに商号変更し、同社のブランドとなり、コンシューマーゲーム事業はインデックス コンシューマソフトウェア局が、アーケードゲーム事業はインデックス アミューズメントマシン局がそれぞれ継承。 2012年2月17日 - セガ(後のセガゲームス)とゲームソフトの流通に関する契約を締結[41]。 2013年 3月31日 - 北米におけるオンラインゲーム事業をマーベラスAQL(後のマーベラス)の北米の現地法人であるXSEED JKS,Inc.(後にMarvelous Entertainment USA, Inc.へ吸収合併)へ譲渡。 6月27日 - インデックスが民事再生手続開始を申立、事実上倒産。 7月5日 - インデックスが民事再生手続開始決定を受ける。 9月5日 - セガがインデックスの支援スポンサー選考に先んじて、インデックスの事業を譲受する受け皿会社としてセガ100%の子会社のセガドリームを設立。 9月18日 - インデックスの支援スポンサーがセガに決定したと同時に、セガドリームに2013年11月1日付で事業並びに海外子会社の株式の譲渡を行う契約を締結[5][6][7]。 11月1日 - インデックスの新旧分離を実施し、セガドリームの商号を株式会社インデックス(新社)へ変更。同時にブランド並びにAtlus Holding Inc.とIndex Digital Media,Inc. の全株式をインデックス(旧社)からインデックス(新社)へ譲渡[8][9]。譲渡後はセガ(後のセガホールディングス)の1ブランドとして継続される[42][43]。 12月1日 - 業務用アミューズメント機器事業をインデックス(インデックス アミューズメントマシン局)からセガ(後のセガ・インタラクティブ)へ移管[24]。インデックスは業務用アミューズメント事業からは撤退。 2014年 4月1日 - インデックスの会社分割を実施。「株式会社インデックス」を「株式会社アトラス」(新社)に商号変更し、「株式会社インデックス」(後のiXIT株式会社)を新設分割設立する。本社を旧:株式会社インデックス コンシューマソフトウェア局が入居していたサンタワーズセンタービルに置く(本店所在地はセガ〈後のセガゲームス〉本社があるカナルサイドビルのまま変わらず)。同時にインデックスの米国子会社である Index Digital Media,Inc. を Atlus U.S.A., Inc. へ商号変更[13][24]。 10月31日 - アトラスモバイルコンテンツのサービス終了。 2016年8月 - アジア地区におけるゲームソフト販売を、現地代理店経由から親会社であるセガゲームスによる直販へ変更[15]。 2017年 3月22日 - 企業情報サイトと製品情報サイトである「アトラスネット」を統合した上で、公式サイトをリニューアル[44]。 4月1日 - Atlus U.S.A., Inc.が、Atlus Holding Inc.を逆さ合併の形で吸収合併[35]。 2018年9月1日 - 本社所在地並びに本店所在地を西品川にある住友不動産大崎ガーデンタワー24階へ移転(新本社における業務開始は9月3日)[45][46][47][48]。 関係人物 主要クリエイター 平岡直人 金子一馬 磯貝正吾 橋野桂 副島成記 目黒将司 以前在籍していた人物 岡田耕始 相原誠吾(流星野郎) 里見直 新納一哉 村田蓮爾 鈴木一也 増子司 関連項目 アトラス発売のゲームタイトル一覧 セガホールディングス セガサミーホールディングス KADOKAWA タカラトミー インデックス・ホールディングス バンダイナムコエンターテインメント かつてのグループ企業 全て旧:株式会社アトラス時代の子会社。 株式会社ムーシステムサービス - 2001年4月にアトラス元社員にMBO方式で売却し、業態変更した上で株式会社コンフォートへ商号変更。レジャランの子会社となった後、2012年2月に山崎屋の子会社化。 株式会社アピエス - 2001年4月にアトラス元社員にMBO方式で売却。 株式会社アトラスモバイル 株式会社マッド - 2007年9月1日付で株式会社アトラス(旧社)へ吸収合併。 株式会社シーアンドシーメディア - 2010年4月1日付でPerfect World Europe B.V.へ売却。 株式会社ロッソインデックス - インデックス(旧社)へ吸収合併後、2011年8月1日付でインデックス(旧社)保有株式の内、89.33%の株式を株式会社シィファクトリィへ売却し、2013年7月に解散。 脚注 外部リンク on Twitter * カテゴリ:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド カテゴリ:タカラトミーの歴史 カテゴリ:セガゲームス カテゴリ:品川区の企業 カテゴリ:1986年設立の企業 カテゴリ:2013年設立の企業
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9%20%28%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E4%BC%9A%E7%A4%BE%29
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 575, 773, 1021, 1360, 1838, 2302, 2607, 3450, 3928, 4655, 4949, 5009, 5070, 5419, 5482, 5947, 6145, 6203, 6578, 7569, 7963, 8749, 9545, 9727, 10147, 10528, 11288, 11799, 12509, 13170, 13779, 14490, 15004, 15703, 16363, 16864, 17487, 17900, 18220, 18703, 19240, 19544, 19916, 20358, 21058, 21786, 24465, 24992, 25420, 25920, 26034, 26188, 26771], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 574, 755, 1020, 1359, 1837, 2291, 2606, 3449, 3927, 4654, 4948, 5008, 5069, 5418, 5481, 5946, 6144, 6202, 6577, 7552, 7962, 8741, 9544, 9658, 10146, 10527, 11287, 11798, 12504, 13169, 13778, 14489, 14989, 15674, 16362, 16838, 17486, 17856, 18219, 18702, 19239, 19543, 19915, 20347, 21057, 21769, 24418, 24975, 25399, 25906, 26020, 26174, 26733, 26967], dtype=int32)}
加藤 建夫は何歳で死去した
加藤紘一
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
加藤 紘一(かとう こういち、1939年(昭和14年)6月17日 ‐ 2016年(平成28年)9月9日[1])は、日本の外務官僚、政治家。「宏池会のプリンス」[2][lower-alpha 1]と呼ばれ、山崎拓・小泉純一郎と結成したYKKの代表格。衆議院議員(13期)、防衛庁長官、内閣官房長官、自由民主党政務調査会長、幹事長、宏池会会長を歴任。「総理に一番近い男」[2]とも呼ばれたが、加藤の乱や秘書の脱税疑惑で失脚した。正三位、旭日大綬章受勲。 鶴岡市長、衆議院議員を務めた加藤精三の五男。三女は、衆議院議員の加藤鮎子。日本中国友好協会で会長・名誉会長[4]を歴任した。 来歴 青年期 愛知県名古屋市で出生し[5]、山形県鶴岡市で育つ。1952年、鶴岡第三中学校に入学。父・加藤精三が自由党推薦で同年の第25回衆議院議員総選挙に出馬し、旧山形県第2区でトップ当選。 その後、加藤一家は東京へ移り住み、加藤も麹町中学校に転校。麹町中での同級生岸田森に標準語を習う。1955年、麹町中を卒業し東京都立日比谷高等学校に入学。同級生に保岡興治、利根川進、山尾三省、黒岩秩子らがいた。1958年、日比谷高校卒業。 東京大学理科一類を受験するも合格できず、補習科に所属。翌1959年、東京大学文科一類に合格する。日比谷高校の同窓である外交官の渡辺伸(松本清張の娘婿)に誘われ、東大水泳部に入部。ゼミの指導教官は坂本義和。1963年、東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。朝日新聞社の入社試験には合格したが、外務省の外交官試験は不合格であった。 そのため4月に、法学部第2類(公法コース)に内部学士入学する。その後あらためて外務省を受験し直し、合格。1964年、東大法学部第2類を卒業し外務省に入省した。在職中台湾大学、ハーバード大学に留学する。1967年、香港副領事在職中に結婚。1970年に帰国し、外務省アジア局中国課次席事務官となる。この間、父・精三が死去した。 政治家 1971年5月、次期衆議院議員総選挙への出馬を表明し、同年12月をもって外務省を退官。翌1972年2月、外務事務次官・法眼晋作の仲介で大平正芳に会い、大平派に加わる(加藤の父・精三と大平は1952年の総選挙当選同期である)。 1972年12月の第33回衆議院議員総選挙に父・精三の後継者として、旧山形2区から自由民主党公認で出馬し、初当選した[6]。この総選挙では、東大1959年入学同期3人(加藤紘一、与謝野馨 、田中秀征)の若手候補が立候補すると週刊誌に取り上げられた[7]。1978年、当選2回で第1次大平内閣の内閣官房副長官に抜擢される。同年12月、衆議院議事進行係に就任。1979年、第35回衆議院議員総選挙で3選、これを受けて成立した第2次大平内閣でも官房副長官に再任された。1980年前後には官房副長官として三里塚闘争を行っていた一部反対派との水面下での交渉を行い、成田空港問題解決に取り組んだが、情報流出により実現しなかった。 1984年、第2次中曽根改造内閣で防衛庁長官に任命され、初入閣[8]。第2次中曽根再改造内閣でも留任。1985年8月12日、日航機123便墜落事故が起きる。1991年の宮澤内閣で内閣官房長官に就任、2度目の入閣を果たす[8]。官房長官在任中、「朝鮮半島出身者のいわゆる従軍慰安婦問題に関する内閣官房長官発表」、通称「加藤談話」[lower-alpha 2]を発表している[9]。 1994年7月、自民党は第40回衆議院議員総選挙での敗北以来10ヶ月ぶりに与党に復帰し、加藤は総裁・河野洋平の下、自民党政調会長に就任。一貫して自社さ連立を支持し、梶山静六ら保保連合派を牽制し続けた(梶山も一時は自社さ派だった)。翌1995年、総裁・橋本龍太郎の下で自民党幹事長に起用される。党幹事長として臨んだ第41回衆議院議員総選挙では小沢一郎率いる新進党との二大政党対決を勝利に導いた。その後、党幹事長代理の野中広務と新進党議員の引き抜き工作を行い、自民党の衆議院における単独過半数復帰を実現した。 1998年7月の第18回参議院議員通常選挙で自民党は大敗、党幹事長を辞職するも後継総裁として小渕を支持、党内第2派閥として影響力を維持した。12月に元首相の宮澤喜一から派閥を禅譲され、宏池会会長に就任した[10]。 2000年の加藤の乱により、宏池会が分裂[10]。 2001年12月、衆議院テロ対策特別委員長就任。 2002年3月、自身の秘書の逮捕を受け宏池会会長を辞任し、自民党を離党[10]。同年4月に衆議院議員を辞職した。2003年の第43回衆議院議員総選挙では無所属として立候補し、11度目の当選を果たし国政に復帰。その後、自民党に復党、宏池会最高顧問に就任した。 2005年9月、宏池会最高顧問辞任、宏池会退会。 2006年8月15日午後5時50分頃、加藤紘一宅放火事件が発生。事件に対して、自民党の稲田朋美が、保守派のシンポジウムにおいて「先生の家が丸焼けになった」と軽い口調で話題に出し、大きな批判を浴びた[11]。その一方、日本共産党や社会民主党の議員らは加藤の発言に同調を示したため、加藤は党派を超えた左派陣営との連携を意識し始める。 2007年2月、自民党の山崎拓、民主党の仙谷由人、枝野幸男、公明党の東順治、社民党の辻元清美らと超党派勉強会「ビビンバの会」を立ち上げる。 2008年7月3日、日中友好協会の会長に就任。 2009年1月の地元で行われた山形県知事選挙では現職の齋藤弘を支援したが、斎藤は岸宏一と舟山康江が支援した対立候補・吉村美栄子に1万票の差を付けられ落選した。9月の第45回衆議院議員総選挙では全国的に自民党に逆風が吹き荒れる中、小選挙区で13回目の当選を果たした。 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙に際しては、自民党執行部と同党山形県連が加藤を継続公認したことに対し、山形県選挙区選出の同党参議院議員である岸宏一が反発、前酒田市長の阿部寿一を擁立したため、自民党系候補者同士による分裂選挙となった。反自民党勢力をも糾合した阿部に対し、選挙活動中も言語および歩行障害がみられた加藤は十分な支持を得られず接戦の末に敗れた。さらに、同党の比例代表では73歳以上の立候補は原則認められないため、比例東北ブロックとの重複立候補をしておらず、議席を失った[12]。なお、東北ブロックの小選挙区から立候補した自民党候補者の中では加藤以外全員が小選挙区ないし比例代表で当選しており、加藤は東北地方で唯一落選した、自民党選挙区候補者となった。 政界引退後 落選後も政治活動を続け、2013年1月には日中友好協会会長及び同会訪中団団長として元首相の村山富市(日中友好協会名誉顧問・同協会訪中団名誉団長)や元防衛庁長官(自民党衆議院議員)の中谷元らと伴に、中華人民共和国を訪問。中日友好協会会長(元国務委員)の唐家と会談した[13]。 2013年2月、村山らとともに首相官邸にて首相の安倍晋三に面会し、唐との会談の内容等について報告した。選挙再出馬については明言を避けていたが、同年4月、後援会関係者との会合で地元において私設秘書役を務める三女・加藤鮎子を後継者に指名し、事実上政界引退の意向を示した[14]。加藤紘一後援会は、継続して加藤の政治活動を支援していた。同年6月26日、鶴岡市内で約200人が出席して開催された「加藤鮎子さんを励ます会」にて「加藤鮎子後援会」が新規に発足した。なお、第46回総選挙での落選以降は支持組織が弱体化しており、秘書は全員加藤の下を去った[15]。 死去 2014年夏、インパール作戦で殉職した日本兵の慰霊のため、古賀誠と伴に訪れたミャンマーで倒れ、タイ王国の病院に入院した後、東京都内の病院で療養を続けていたが[16][17]、2016年9月9日0時45分頃に、肺炎のため東京都内の病院で死去した[1]。同月15日に自民党・加藤家合同葬が執り行われ、YKKのメンバーだった山崎拓・小泉純一郎、第3次安倍第2次改造内閣からは安倍晋三・麻生太郎・菅義偉・岸田文雄・石原伸晃・丸川珠代、加藤の乱の当事者だった森喜朗・青木幹雄・野中広務・古賀誠、野党の小沢一郎・志位和夫・辻元清美の他、駐日中国大使の程永華ら1,300人が参列した[18][19][20]。 その後、日本国政府は正三位に叙し、旭日大綬章を追贈することを決定した[21][22]。 発言・活動 宏池会のプリンス〜加藤の乱での転落 1995年自由民主党総裁選挙では、同じ宏池会に所属していた河野洋平ではなく平成研究会の橋本龍太郎を支持。河野は党内で総裁再選への支持を得られず、続投を断念する。橋本が総裁に就任すると、加藤は自民党幹事長に就任した(これが宏池会分裂の序曲となり、河野が1998年に離脱するきっかけとなった)。 1999年自由民主党総裁選挙では、自由党、公明党との連立政権を目指す首相の小渕恵三に反発し、山崎拓と共に出馬するも敗北。総裁選終了後、小渕から「あんたは俺を追い落とそうとしたじゃないか」と激怒され、内閣改造で加藤派、山崎派は冷遇され、党内反主流派に転じた[23]。 2000年、第42回衆議院議員総選挙の期間中に民主党代表の鳩山由紀夫から自民党を離党した上で非自民首班指名候補となることを期待されたが本人は一笑に付した。低支持率ながらも政権を維持する森喜朗に反発し、盟友の山崎拓とともに内閣不信任決議案提出時の本会議に欠席、または賛成する意向を示した(加藤の乱)。しかし、かつては盟友であった野中広務や、森派会長の小泉純一郎による派閥の分裂工作により加藤の思惑は失敗に終わり、宏池会が分裂。加藤派は小派閥に転落した。側近中の側近白川勝彦が落選し、国政の場に不在だったことも響いた。 2002年、事務所代表による所得税法違反の責任を取って離党、議員辞職して総裁候補としての地位は終了した。2008年6月9日、山崎拓と青木幹雄の仲介で森喜朗と会談し、加藤の乱について「迷惑をかけた」と謝罪した[24]。8月には加藤の乱を振り返って、加藤に期待を寄せた若者について、「おわび行脚と称して全国65カ所をまわりメールをくれた人々と話し合った」と述べた[25]。 かつての保守本流派閥の宏池会の流れを汲む3派閥(麻生派・古賀派・谷垣派)の間で宏池会再結集構想(大宏池会構想・中宏池会構想)が持ち上がる中、加藤は派閥分裂の原因を作った張本人であり、麻生・古賀両派の中には加藤に不信感を持っている者もいた。2008年1月16日の谷垣派と古賀派の合流の正式合意に関しては、合流を報告した谷垣に対して「のどに刺さっていたとげが取れた感じだ。非常にほっとしている」と合流を歓迎したが、自身の派閥への復帰には慎重な姿勢を示し、以降も無派閥のまま活動した[26]。 YKK かつて加藤と山崎、小泉の盟友関係は、3人の頭文字からY(山崎)K(加藤)K(小泉)でYKKと称された(山崎によると、YKKのネーミングは加藤の発案だという)[18]。竹下派支配に対抗する点で3人は一致していた。加藤の乱以後も3人の関係は続いたものの、3人の中で最も総理に近いとされた加藤が議員辞職などで力を落としていく一方で、小泉が総理になるなどの有為転変の後、加藤が公然と小泉の政策を批判するようになり、3人の関係は山崎を通してのものとなっていると言われていた。 加藤は橋本政権下で幹事長の要職に就き、ポスト橋本の絶好の位置に存在し、実際に竹下派(当時、小渕派)の中の有力者から総裁に推されることもあったものの、竹下派の影響力を受けた総裁では駄目だとこれを拒否。ポスト橋本の有力候補であり、幹事長時代は竹下派と良好な関係を構築していたが、あくまでも総裁は竹下派の影響を受けない形で就任することを目指すと当時公言していた。一時はN(中村喜四郎)を加え、NYKKとも称されていた。 2006年夏にテレビ出演した際、総裁選出馬への意欲を聞かれ、「今回『は』そういうことはしない」と発言した。同年9月に誕生した安倍政権とも距離をとり続けてきたが、翌2007年7月の参院選敗北を期に批判を強めた。古賀誠、山崎拓と共に「新YKK」として会合を重ね、テロ特措法の期限切れを目途に倒閣に動き、麻生太郎以外の総裁候補を擁立するという計画が立てられていたとされる[27]が、突然の安倍辞任により、続く党総裁選で新YKKはそのまま福田康夫支持になだれこんだ。福田康夫内閣の政治姿勢には支持を表明した。 2008年、盟友の山崎拓とともに、亀井静香、菅直人と会合を重ね、4名でテレビ出演を行うなど総選挙前後に予想される政界再編を機に政治的影響力の回復を狙っているという推測もなされた(YKKK)。こうした加藤、山崎の動向に対して、「「昔の名前で出ています」みたいな人たちに勝手なことを言ってほしくない」(衆議院議員の中野正志)という批判も聞かれた[28]。 憲法第9条 2014年6月27日、山崎と会食した際に「憲法9条改正に反対か」という問いに対して「うん」と答え、「一言一句もか」との問いには「9条が日本の平和を守っているんだよ」と返答したという[17][29]。また、5月18日付の日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」日曜版に元自民党幹事長ながら寄稿。第2次安倍内閣の集団的自衛権行使容認の方針について「徴兵制まで行き着きかねない」と反対を訴えた他、慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官談話の見直しを進めようとしていた安倍を批判した[30]。 民主党政権への苦言 2009年11月2日、衆議院予算委員会で質問に立ち、鳩山由紀夫が本会議の答弁で、自民党総裁の谷垣禎一の質問に「あなたがたに言われたくない」と述べたことをたしなめ、鳩山の持論である「友愛」の意味合いを問いただした。これに対して鳩山は「質問に感謝したい」「ご高説を承った」と答弁した。また、「代表質問の時から後ろで機関銃のような拍手。あれ以来、民主党議員の顔が見えなくなった」と語り、首相や閣僚の答弁の際の民主党議員の拍手や歓声による演出を批判した[31]。 2010年2月8日、衆議院予算委員会で質問に立った際に、鳩山由紀夫の秘書が政治資金規正法違反で起訴されたことを取り上げ、過去に加藤の秘書による脱税事件について、鳩山由紀夫が「秘書が罪を犯したら議員辞職をすべき」と発言していたことを上げ、「どうして過去と現在で発言が違うのか。首相になったから責任は取らないのか」と追及した[32]。 中国に関する発言 1992年10月、宮澤内閣で内閣官房長官在任中に金丸信らの後押しで初めて天皇の中華人民共和国訪問が行われる。当時、1989年の六四天安門事件を理由として、欧米主要国が中華人民共和国に対する経済制裁を実施する中、中国側の要望に応じる形での天皇訪中は、国際的な経済制裁解除に大きく資するものであった。なお、当時の中国外交部長・銭其琛は後に、この訪中が西側同盟の最も弱い環である日本を利用した結果であることを、回想録の中で認めている。 2013年2月、中国海軍による海上自衛隊護衛艦に対する「火器管制レーダー照射問題」において、加藤は「ほんとに中国はやったのかな…?」などと発言。中国海軍の火器管制レーダー照射を裏付ける、映像や写真などの証拠があるとの日本国政府の主張に異議を唱えた。[33]。 北朝鮮による拉致事件での発言 ハンギョレ新聞によると、北朝鮮を支持の在日コリアン団体朝鮮総連の外交部門を担う国際局出身で後に総連のトップになる許宗萬とは社会党の田辺誠、自民党の野中広務、山崎拓、金丸信と共に日本の政治家の中で特に親しかった[34]。 2008年7月7日、日本BS放送の番組において、「拉致被害者は北朝鮮に戻すべきだった」と発言。今日の日朝交渉停滞の原因を、当時の福田官房長官案から、途中で安倍官房副長官案に切り替えた日本が彼らを北朝鮮に返さなかったことによるとした[35][36]。また、金正日のことを「あの国では、一種、天皇陛下みたいなポジションの人物ですよね」と述べた[36]。 これに対して、拉致被害者家族会(飯塚繁雄代表)と「救う会」(会長:藤野義昭)は、抗議声明を出し、「5人が北朝鮮に戻されていれば『自分の意思で戻った』と言わされたあげく『拉致問題は解決済み』という北朝鮮の主張に利用されたであろうことは少しでも外交感覚のある人には明らかだ」と指摘。「不見識極まりない発言だ。加藤氏の精神構造を強く疑わざるを得ない」と批判した[36]。 加藤は、北朝鮮に「日本は約束を破った」という不信感と口実を与えたのが現在の交渉停滞の原因という趣旨の発言であるとして、西川のりおとの対論番組での発言の前後の文脈を自身のHPに掲載することで釈明を行った[37]。 安倍晋三はこの発言に対して「誘拐された子どもが帰って来て、誘拐犯に戻す親がいるのか」と批判した[38]。また、拉致被害者5人を北朝鮮に返すとする約束も「していない」ことを指摘し、「日本は約束を裏切ったと言うのは、まさに北朝鮮の主張そのものだ」と批判した。 拉致被害者の父にあたる地村保は加藤に対して「貴殿はそれでも日本人かと言いたい」と記した抗議文を加藤に送り加藤の態度を厳しく糾弾した[39]。また、拉致問題解決に取り組む約200人の地方議員による「拉致問題を考える草莽全国地方議員の会」は、この一連の言動を強く批判し、加藤の議員辞職を求めている[40]。 歴史観 1992年7月、宮澤内閣の官房長官として「細部は論じたくないが、(慰安婦側が)強制連行されたと主張するならその通りなのだろう」と日本側の非を認め、「お詫びと反省の気持ち」を表明した[41]。 また、南京事件について「物の見方だと思います。南京大虐殺も(犠牲者は)30万人という人と3000人という人と。僕はこう思う。3000人でも一般市民を虐殺したら、された方は虐殺と思う。(慰安婦問題も)それに近いんじゃないか。だからそこをあんまりとやかく、細かく論じたくありませんね」[42]と語ったとされる。 1994年8月、当時自民党政調会長だった加藤は中国人民抗日戦争記念館を訪れ「ここに来るのは長年の願望だった」「来年は終戦から50年。日本では、どう50年を迎えれば良いか議論しており、日中戦争が本格的に始まるきっかけとなった盧溝橋を訪れることができたことは意義深い」とした。また、外務官僚時代にハーバード大学に留学した際に「蘆溝橋事件が起きるまでの一年」と題した論文で修士号を取得したことを述べ、「亜州歴史的真実只有一個(アジアの歴史の真実はただ一つ)」と記して抗日記念館の館長に献じた。 人物・逸話 2010年8月19日、日韓併合100年を契機に「植民地支配過程で被害にあった韓国人とその子孫たちに対して日本政府の十分な賠償を促す」ことを目的とした「韓日過去史の解決と未来に向けた平和議員会議」に民主党の斎藤勁衆議院議員・土肥隆一衆議院議員・首藤信彦衆議院議員・相原久美子参院議員・今野東参院議員・那谷屋正義参院議員、日本共産党の山下芳生参院議員、社民党の阿部知子衆議院議員、社民党党首の福島瑞穂参議院議員、無所属の糸数慶子参議院議員らと共に<b data-parsoid='{"dsr":[18020,18042,3,3]}'>自民党議員中で唯一の自身の代理人</b>を参加させ、韓国の国会議員らとともに日本による韓国併合の違法性、戦後補償と慰安婦問題、在日韓国人の地方参政権問題などの解決方法について議論した[43] 防衛庁長官時代、自衛官や防衛官僚の報告よりも農水官僚の報告を聞くことを優先しており、防衛施設庁長官として加藤を補佐した佐々淳行は著書『私を通りすぎた政治家たち』で、「加藤防衛庁長官にとっては、国防・安全保障よりも山形の米の問題などが優先順位として高かった」と批判している[44]。 官房長官時代、定例記者会見や番記者との懇談の際、重要な情報を記者に一切漏らさずに「それは○○省に聞いてください」などと答えていたことから、記者からは「ブリキ」と呼ばれていた[45]。 党幹事長時代の1996年、前年の東京協和・安全二信組の乱脈経営に絡んだ大蔵官僚への接待問題や大和銀行NY支店の不祥事に引き続いて、住専国会の最中にあり、旧大蔵省がバッシングの的となっていたが、同年2月4日、『JNN報道特集』の番組中「金融と証券はできるだけ自由化して、大蔵省銀行局・国際金融局・証券局を金融庁として分離させ、日銀と一緒に大阪へ持っていく」事を話した。この発言を受けて、翌日の新聞各紙が“大蔵省の権限分散を強調”と大きく取り上げた。これをもって田原総一朗は、一連の大蔵省改革の始まりだったことを述べている[46]。 自身の著書などで「2ちゃんねらーである」と公言していた国会議員の一人であった。同様に「2ちゃんねらー」を公言している国会議員には、鳩山由紀夫・麻生太郎がいる。 主な所属していた団体・議員連盟 自民党動物愛護管理推進議員連盟(顧問) 死刑廃止を推進する議員連盟[47] 日韓議員連盟 日中友好議員連盟 日朝国交正常化推進議員連盟 国際連帯税創設を求める議員連盟 国立追悼施設を考える会 自民党・漂流漂着物対策特別委員会(委員長) NPO議員連盟(会長) 米粉加工食品を普及推進する議員連盟(会長) 量刑制度を考える超党派の会(会長) 日本中国友好協会(会長) 親族・縁戚 精三の二男・五郎は宇部興産専務取締役建設資材事業本部長、宇部マテリアルズ副会長[48]。 祖父・幹雄も東大法学部卒の弁護士、精三の4男・次郎は中大法学部卒の弁護士[49]。 母の実家は、山形県鶴岡市で機織り工場を経営。 三女の加藤鮎子は、第47回衆議院議員総選挙で当選し衆議院議員を務める。 著書 (単著) 『強いリベラル』 文藝春秋社、2007年6月、ISBN 4163692401 『新しき日本のかたち』 ダイヤモンド社、2005年11月、ISBN 4478180431 『いま政治は何をすべきか: 新世紀日本の設計図』 講談社、1999年8月、ISBN 4062098733 『日本の政治: 現場報告: 講演と討論』 明治学院大学立法研究会編、信山社出版、1995年5月、ISBN 4797250011 『テロルの真犯人』 講談社、2006年12月、ISBN 4-06-213738-0 (共著) 『創造するリベラル』 新泉社、2008年11月、姜尚中との共著、高橋愛子編集 (翻訳) 『米ソ核軍縮交渉: 成功への歩み』 ストローブ・タルボット著、サイマル出版会、1990年3月、ISBN 4377308408 関連文献 『屈託なく生きる』 城山三郎、講談社、1988年1月、ISBN 4062035863 『激動のなかを生きる男たち』 竹村健一、バンガード社、1998年7月、ISBN 4915599140 『加藤紘一・全人像』 仲衛、行研、1992年6月、ISBN 490578686X 『自民党・ナンバー2の研究』 浅川博忠、講談社、2002年7月、ISBN 4062734990 『自民党幹事長室の30年』 奥島貞雄、中央公論新社、2002年12月、ISBN 4120033430 『YKK秘録』山崎拓、講談社、2016年7月、ISBN 9784062202121 脚注 注釈 出典 関連項目 斎藤次郎 灘尾弘吉(加藤の父・精三と灘尾は当選同期である) ラーの会 加藤の乱 加藤紘一宅放火事件 YKK (政治同盟) 親中派 チャイナ・スクール 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E7%B4%98%E4%B8%80
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 592, 1511, 2641, 3313, 4173, 4929, 5447, 5769, 6537, 7030, 7661, 8312, 8898, 10330, 11128, 12009, 12667, 13218, 14162, 14946, 16127, 17110, 18304, 19431, 20099, 20826, 21639, 21729, 21951], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 591, 1510, 2624, 3312, 4172, 4921, 5412, 5768, 6536, 7029, 7660, 8283, 8897, 10329, 11127, 12008, 12644, 13217, 14161, 14945, 16107, 17109, 18303, 19430, 20098, 20825, 21616, 21715, 21934, 22034], dtype=int32)}
ロバート・パーキンス・レッチャーは何年メキシコ公使を務めた?
ロバート・P・レッチャー
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ロバート・パーキンス・レッチャー(、1788年2月10日 - 1861年1月24日)は、19世紀アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、第15代ケンタッキー州知事および同州選出アメリカ合衆国下院議員を務めた。ザカリー・テイラー大統領のときに駐メキシコ公使を務めた。ケンタッキー州では下院議員を務めており、1837年と1838年には下院議長を務めた。ホイッグ党の強い支持者であり、ヘンリー・クレイやジョン・クリッテンデンとは親友だった。 レッチャー家は1800年頃にケンタッキー州に入植した。ロバートはジョシュア・フライの私立アカデミーで学んだ後に法律を学んだ。米英戦争のときはジョン・アレンの志願民兵隊で、短期間だが法務官だった。1813年にゲアリド郡を代表してケンタッキー州議会下院議員になったのが政歴の始まりだった。1823年、アメリカ合衆国下院議員に選ばれ、10年間以上を務めた。1824年アメリカ合衆国大統領選挙では、ジョン・クインシー・アダムズとヘンリー・クレイの仲介役を務めた。アダムズの対抗馬アンドリュー・ジャクソンが選挙をリードしていたが、レッチャーの交渉により、クレイがアメリカ合衆国国務長官に指名されることと引き換えにアダムズを支持することで合意した。 1840年、レッチャーはケンタッキー州知事選挙でウィリアム・オウスリーを抑えてホイッグ党公認候補となった。選挙では民主党のリチャード・フレンチに対して大勝で当選した。レッチャーの財政的に保守的な政策によって、ケンタッキー州は1837年恐慌の財政危機から立ち直ることができた。知事の任期が終わるまでにケンタッキー州は歳入超過となり、州認定銀行は正金の支払いを再開した。知事退任後、ザカリー・テイラー大統領から駐メキシコ公使に指名された。その後、アメリカ合衆国下院議員に復帰しようとしたが、民主党のジョン・ブレッキンリッジのために敗れた。ヘンリー・クレイの出身選挙区でレッチャーが敗北したことは、ケンタッキー州におけるホイッグ党の力が衰えていることを示していた。レッチャーは政界で活動を続けたが、公職を求めることはなかった。レッチャーは1861年1月24日に死んだ。 初期の経歴 ロバート・パーキンス・レッチャーは1788年2月10日に、バージニア州グーチランド郡で生まれた[1]。父はスティーブン・ジャイルズ・レッチャー、母はベッツィ(旧姓パーキンス)であり、その12人の子供では7番目だった[2]。1800年頃、一家はケンタッキー州に移転した。最初はハロズバーグに、その後ゲアリド郡に入植した[3]。レッチャーは暫くの間地域の公立学校に通っていたが、手に負えないという理由で放校になった[4]。父のレンガ工場で石造建築術を学んだが、あまり熱心ではなかった[2]。 レッチャーはダンビル市近くにあったジョシュア・フライの私立アカデミーに入学した。これは公立学校に行くよりもフライの教えに従えばうまくいくと考えたからであり、健全な教育を受けることができた[4][5]。フライのアカデミーでの指示に従って、父のレンガ工場に戻り、伝説に拠ればその時に後にケンタッキー州知事になるトマス・メトカーフと共に、初代ケンタッキー州知事公舎建設に関わったとされている[4]。その後、ハンフリー・マーシャルの事務所で法律を学び、法廷弁護士として認められ、ランカスターで法律実務を始めた[6]。米英戦争の時に短期間ではあるが、ジョン・アレンの志願民兵隊で、法務官を務めた[3]。 レッチャーは先ずメアリー・オーデン・エップスと結婚した[7]。エップスは1816年3月9日に死に、子供は生まれなかった[6]。最初の妻の死後に、シャーロット・ロバートソンと結婚した。シャーロットは、州議会議員で後にケンタッキー州控訴裁判所判事となったジョージ・ロバートソンの姉妹だった[2]。歴史家のジェニー・モートンは、レッチャーが2番目の妻のことを「女王」と言っていたと記している[8]。この結婚でも子供が生まれなかったが、姪の1人を子供の時から育てた[9]。シャーロット・レッチャーは夫より長生きし、1879年10月29日に死んだ[9]。 政歴 レッチャーは「ブラック・ボブ」という綽名があり、機知に富み、社交的な行動家として知られた[10]。またバイオリンを弾くことで対抗馬の選挙演説から聴衆の気を逸らせることでも知られた[11]。1813年、ゲアリド郡を代表してケンタッキー州議会下院議員になったのが政歴の始まりだった[8]。この職を1815年まで務め、1期飛んだ後に1817年にも再選された[1]。 アメリカ合衆国下院議員 1823年、レッチャーは民主共和党としてアメリカ合衆国議会第18会期に選出された[1]。1833年まではケンタッキー州第4選挙区を代表していたが、この年に州議会が州内の選挙区を再編した[2]。その再編後、ゲアリド郡は第5選挙区に入った[2]。 レッチャーはヘンリー・クレイの親友であり、熱心な支持者だった、1924年の大統領選挙で、どの候補者も選挙人票の3分の2多数を取れなかったとき、結論は下院の投票に委ねられることになった。それに続いた政治的論争の中で、レッチャーはクレイとジョン・クインシー・アダムズの仲介役を務めた。最終的にクレイの支持者がアダムズの支持に回り、アダムズが当選した。クレイはアメリカ合衆国国務長官に指名されることと引き換えにアダムズを支持することで合意したとされている[10]。対抗馬のアンドリュー・ジャクソンはこれを「裏取引」だと非難した[12]。 レッチャーはアダムズ政権を支持したが、ジャクソンが1828年アメリカ合衆国大統領選挙を制した時に反政権側に回った。クレイを一貫して支持し、内国改良をの拡大を推進した。しかしメイズビル道路法案には、ジャクソンが拒否権を使った。1833年、クレイは無効化の危機を鎮めるために上院で妥協を提案した。レッチャーがクレイの妥協案を下院に提案した[10]。 1833年の選挙では、ケンタッキー州第5選挙区の議席にトマス・P・ムーアがレッチャーの対抗馬として出馬して来た。ムーアは以前に第5選挙区に入っていた郡(ゲアリド郡は除く)を代表しており、4年間駐グレナダ公使を務めた後で復帰を目指していた[10]。選挙は接戦となり、議会が両候補者の当選判定を拒否し、再選挙を命じた[1][5]。再選挙ではレッチャーが258票差で当選した[5]。その任期では外交問題委員を務めた[6]。その任期の終わりに再選を求めなかった[1]。 1836年、レッチャーはホイッグ党公認候補の大統領選挙人になった[1]。その年後半に州議会下院に復帰し、1838年まで毎年再選された[1]。この期間は毎年、下院議長になろうとした[10]。1836年は現職議長のジョン・L・ヘルムに45票対48票で敗れた[3]。翌年はレッチャー、ヘルム、ジェイムズ・T・モアヘッドの3者が争った[10]。9回投票を行った後、ヘルムが撤退し、レッチャーがモアヘッドを50票対48票で破った[10]。翌年、レッチャーは無投票で議長に再選された[10]。 ケンタッキー州知事 1839年8月26日、ホイッグ党の州レベル選挙候補者指名大会がハロズバーグで開催された[3]。知事職を求めて当初4人の候補者が出ていたが、2人が脱落し、レッチャーとウィリアム・オウスリー判事が残った[10]。決選投票では48票対26票でレッチャーが候補指名を受けた[10]。州知事選挙では、民主党候補のリチャード・フレンチ判事を15,000票差という大差(投票総数は95,020票)で破った[5]。ホイッグ党は州議会両院の多数も確保できた[5]。 レッチャーが州知事に就任してから数週間後、ウィリアム・ハリソンが1840年アメリカ合衆国大統領選挙を制した。それから間もなくハリソンがフランクフォートのレッチャーを訪問し、ハリソンの閣僚にレッチャーの友人であるジョン・クリッテンデンを指名することについて話し合った。1840年12月14日、レッチャーはクリッテンデンに宛てて手紙を書き、次の州議会でクリッテンデンを再度アメリカ合衆国上院議員に選出することになると告げた。もしクリッテンデンがハリソン内閣の地位を受け入れるつもりならば、1841年3月4日以前に受け入れることで、州議会がまだ会期中なのでクリッテンデンに代わる者を指名できるということだった。1841年1月11日、クリッテンデンはアメリカ合衆国司法長官の指名を受けるつもりであり、レッチャーの設定した期限より前に就任できると考えていると回答した。しかし、ハリソンが大統領就任からわずか1か月で死亡したことにより、クリッテンデンはレッチャーの設定した期限を守れなかった、クリッテンデンはハリソンの後任となる、ジョン・タイラー副大統領によって、1841年3月5日に司法長官に指名された[13]。 レッチャーの州知事任期前半は、ケンタッキー州が1937年恐慌の財政危機から立ち直ろうともがいている時期だった[5]。レッチャーの見解はホイッグ党の見解と一致し、連邦政府が第二合衆国銀行を延長できなかったことに危機の原因があると非難した[5]。ケンタッキー州の財政的に緊迫した状態を改善するために、有料道路建設の中断、グリーン川、ケンタッキー川、リッキング川の改良中断など、レッチャーは劇的に支出を切りつめた[5]。これら施策により、州の赤字を大きく減らし、信用状態を改善した[5][7]。レッチャーが州知事であった各年で州の黒字が少しではあるが拡大した[14]。 レッチャーは概して債務救済施策に反対していたが、資産の取付危機にある者を救済するための小さな法幾つかの成立を認めた[5]。1842年、差し押さえから除外される個人資産の種類を拡張する法を議会が成立させた[11]。翌年、議会は巡回裁判所の夏開廷期を除外させ、実質的に差し押さえ審問を遅らせた[11]。レッチャーは銀行が新しく少額の貸し付けを行うことを奨励し、議会も州認定銀行によって拡張された与信枠を幾らか増加させることで続いた[11]。州の経済が快復してくると、銀行は正金支払いを再開した[14]。州債はその価値を上げた[11]。レッチャーが知事任期を終えるまでに、ケンタッキー州は経済危機の最悪の時期を乗り越えていた[11]。 知事として最後に行ったことの1つに、1844年9月26日にケンタッキー州で初の感謝祭の日を宣言したことがあった[8]。知事職から退いた後は、フランクフォートで法律実務を再開した[14]。1847年、アメリカ合衆国上院議員候補4人の1人になっていた[15]。他の候補者はホイッグ党の仲間2人と民主党の1人だった[15]。28回投票が行われたが、決着が付かず、レッチャーの支持者が取り下げてジョセフ・R・アンダーウッドの支持に回ったことで、結局アンダーウッドが当選した[15]。 駐メキシコ公使 レッチャーは1848年アメリカ合衆国大統領選挙でホイッグ党の候補者ザカリー・テイラーの強力な支持者だった[15]。テイラーが当選すると、レッチャーの友人であるジョン・クリッテンデンがレッチャーを郵政長官に推薦した。テイラーはこの提案を取り上げなかったが、その代わりにレッチャーをメキシコに対する特命使節かつ公使に指名した[15]。レッチャーは1850年2月3日にメキシコシティに赴任した[16]。 レッチャーの主要任務は、テワンテペク地峡の通行線建設権を購入していたアメリカ市民の権益を守る条約を交渉することだった[15]。1850年3月にはメキシコ当局に条約の草稿を提出した[17]。3か月近い交渉を行った後、1850年6月22日に修正された条約に調印した[18]。その修正の中には、メキシコで生産されこの経路で輸送されたものには、アメリカ合衆国で生産されたものよりも20%少ない課税を行うこと、またこの経路を保護する際にメキシコ側が行使する権限を増加させることが含まれていた[18]。レッチャーはアメリカ合衆国国務長官のジョン・M・クレイトンに手紙を書き、この条約はレッチャーが期待したものよりは劣るが、その条件は獲得できる最良のものになったと考えていると伝えた[18]。 この条約に調印してから1か月後に、国務長官のクレイトンがダニエル・ウェブスターと交代した。ウェブスターは、通行線建設を期待するアメリカ人の一人が挙げていた心配に応えて、レッチャーに条約の修正を試みるよう求めた。レッチャーはその修正案をメキシコ外交官に持って行ったが、メキシコの役人は断固としてその受容を拒んだ[19]。レッチャーは、内閣の同意を得て話しており、もし譲歩が無ければ、アメリカは武力でこの地域を奪うと仄めかした。メキシコ政府はそのような行動に対応できないことを心配して譲歩したが、それでも条約の修正は拒否していた[20]。 ウェブスターは、その修正提案に対してメキシコが強く抵抗していることを知ると、レッチャーにメキシコ側が同意しやすい最も有利な条件を交渉するよう指示した[19]。1851年1月25日、レッチャーはアメリカ側にやや有利になった第2の条約に調印した[19]。しかし、この条約交渉に両国が時間を割いていた間に、メキシコの大衆感情はテワンテペク地峡に関してアメリカ合衆国と如何なる条約も締結に断固反対する方向に変わっていた[21]。1851年5月22日、メキシコ政府は、アメリカの投資家と合意していたことについて、それを認めた暫定政権にはその資格が無かったことを根拠に、合意は無効と宣言した[22]。レッチャーはメキシコ政府が無効にした権益を再度獲得するための新しい条約を交渉しようとしたが、1852年2月14日の報告書では、如何なる種類の合意にも到達し得ないであろうという観測が述べられていた[23]。レッチャーは1852年8月に故郷に戻った[15]。 その後の政歴 レッチャーはケンタッキー州に戻ると、法律実務を再開した。メキシコに行っている間に、ケンタッキー州第8選挙区選出アメリカ合衆国下院の議席は民主党のジョン・ブレッキンリッジが占めていた[24]。その選挙区にはヘンリー・クレイの領地であるアシュランドが入っているので「アシュランド選挙区」とも呼ばれ、1828年以降は民主党議員が代表になったことのないホイッグ党の牙城だった[25]。1853年、ホイッグ党はこの選挙区を取り戻すことに熱心であり、レッチャーが候補者になろうとしたが、州の党員集会ではケンタッキー州検事総長のジェイムズ・ハーランを選んだ[26]。しかしその指名はホイッグ党の幾つかの派閥で受け入れられず、ハーランが1853年3月に辞退したので、その代わりにレッチャーが選出された[27]。 1853年4月18日、ニコラスビルで行われた討論会で、レッチャーは初めてブレッキンリッジと出会った[28]。現職のブレッキンリッジが最初に話し、民主党のウォーカー関税によって生まれた高い歳入と、ホイッグ党が支持した1842年関税によって生まれた歳入とを対照させるような政治問題に焦点を当てた[28]。レッチャーはその選挙運動の大半でやっていたように、ホイッグ党への忠誠心に訴えた。ブレッキンリッジは「民主党員なので」その選挙区を代表するのは誤りであると主張した[29]。ブレッキンリッジの論調がうまく構成されていたのに対し、レッチャーは怒り出すことも多かった[30]。ある場合には、レッチャーがあまりに度々ブレッキンリッジを遮ろうとしたので、ジョン・クリッテンデンがレッチャーの上着の裾を掴んで抑えるというシーンもあった[30]。ブレッキンリッジの支持者は、選挙運動の残り期間、レッチャーのことを嘲って「上着の裾」と渾名を付けていた[30]。 レッチャーの党派的な敵であり奴隷制度廃止運動家のカシウス・マーセラス・クレイがブレッキンリッジ指示に回ったとき、レッチャーはこれを取り上げ、ブレッキンリッジの叔父であるジェファーソン・ブレッキンリッジ牧師の奴隷制度廃止論的見解と組み合わせ、ブレッキンリッジが議会には奴隷制度に干渉する権限を持っていないと一貫して主張していたにも拘わらず、ブレッキンリッジは密かに奴隷制度廃止に動いていると非難した[31]。ブレッキンリッジは、1848年の選挙運動でレッチャーがザカリー・テイラーのためにインディアナ州で行った演説について、新聞記事を取り上げることで反論した[32]。レッチャーはこの演説で、ケンタッキー州で進行中の憲法改定会議では、奴隷の段階的解放の規定を盛り込んだ文書を生むことになると予言し、「奴隷制度の延長を望むのは極南部の極端な人のみである」と述べていた[32]。 両候補者は選挙区外からも財政的援助を得ており、その使途には票を買収したり、投票を棄権するよう賄賂に使われたりするものがあった[33]。ブレッキンリッジは数千ドルを受領しており、その中のかなりの量はワシントンD.C.の銀行家ウィリアム・ウィルソン・コーコランから出ていた。レッチャーを支持した側の資金は3万ドルないし10万ドルと推計された[33]。オーエン郡の場合、ブレッキンリッジが得票率71%、526票差で制したが、その投票総数は登録有権者数よりも123票多い数字だった[34]。 レッチャーは州内でホイッグ党最強の候補者と考えられた。しかしこの議席を獲得できなかったことでケンタッキー州におけるホイッグ党の力が衰えていることを示していた[35]。レッチャーは死ぬまで政治活動を続けたものの、ブレッキンリッジに敗れた後に公職を求めて出馬することはなかった。1856年アメリカ合衆国大統領選挙では、ミラード・フィルモアのために、ペンシルベニア州、ニューヨーク州、ケンタッキー州で遊説して回った[36]。1857年と1858年、カンザス州でのに対し、ジョン・クリッテンデンに反対するよう促した[36]。 ホイッグ党が解党された後、州レベルの政治でレッチャーは概してノウ・ナッシングの候補者を支持した[14]。1860年アメリカ合衆国大統領選挙では、レッチャーとクリッテンデンは立憲連合党候補者のジョン・ベルを支持した。ベルであれば、北部と南部の敵対関係を平和的に解決できるという最良の期待を代表できると考えたからだった[14]。その選挙の日までに、レッチャーの健康が衰え始めた[36]。1861年1月24日、レッチャーはフランクフォートの自宅で亡くなった。フランクフォート墓地に埋葬された[1][37]。ケンタッキー州レッチャー郡はレッチャーの栄誉を称えて命名された[14]。 脚注 参考文献 Unknown parameter |coauthors= ignored (|author= suggested) (help) 関連図書 Contested Election: Robert P. Letcher vs. Thomas P. Moore. 23rd Congress, 1st Session, House Report No 446. May 6, 1834. Journal of the House of Representatives of the United States, June 12, 1834, p.743. 外部リンク at the National Governors Association at The Political Graveyard at Find a Grave
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 252, 385, 618, 808, 872, 1006, 1176, 1345, 1637, 1731, 1867, 2314, 2414, 2499, 2554, 2642, 3530, 5897, 5983, 6065, 6157, 6243, 6316, 6395, 6499, 6587, 6677, 6764, 6860, 6952, 7041, 7146, 7244, 7397], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 244, 359, 610, 807, 861, 1004, 1150, 1344, 1624, 1707, 1866, 2313, 2412, 2473, 2553, 2641, 2779, 3551, 5918, 6000, 6086, 6178, 6260, 6333, 6416, 6516, 6612, 6702, 6789, 6885, 6977, 7066, 7171, 7269, 8023], dtype=int32)}
FIFAクラブワールドカップは女性も参加できる?
2019 FIFA女子ワールドカップ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)}
FIFA女子ワールドカップ2019([1]、[2])は、2019年6月7日から7月7日にかけてフランスで開催される予定の女子サッカーの国際大会であるFIFA女子ワールドカップの第8回大会である[3] 。 概要 開催国の候補は2014年10月31日に発表された[4][5]。開催希望国は以下の国である。 France[6] South Korea[7] 2015年3月19日のFIFA理事会で開催国がフランスに決定した。フランスはこれとともに、プレ大会として2018年に開催されるFIFA U-20女子ワールドカップの開催国ともなる。[8] 予選 出場枠の配分は、2016年10月13日から14日にかけて開催されたFIFA評議会にて承認された[9]。開催国枠が移ったほかは前大会と同じとなった[10]。 2018年12月1日に全出場国が出揃った[11]。 出場国 「FIFAランク」(FIFA女子ランキング)は、組み合わせ抽選に用いる2018年12月7日付けのものを表す。 予選順位の「☆」は欧州予選プレーオフ、「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。 大陸間プレーオフ 大陸間プレーオフは2018年11月5日から11月13日の間で行われる予定であるとされ[12]、後日に後述の日程が発表された[13][14][15]。 大陸間プレーオフの対戦順序は2018年6月9日に発表された。抽選の結果、CONMEBOL3位チーム(アルゼンチン)が第1試合を、CONCACAF4位チーム(抽選の時点ではチームは未定であった)が第2試合をホームで行う。[12] v v 2試合合計5-1でアルゼンチンがワールドカップに出場 組み合わせ抽選 組み合わせ抽選は2018年12月8日にパリのコンサートホール「」で行われた[16]。方式は以下の通り[17]。 ポット分け(4つのポットに6チームずつ)は、2018年12月7日発表のFIFA女子ランキングに基づき行う。 各グループには各ポットから1チームずつが入る。 ヨーロッパ(UEFA)以外の地域連盟のチームは、同一グループに同一の地域連盟のチームが入ることはない。ヨーロッパ(UEFA)のチームは、同一グループに1チームか2チームが入る。 ポット分け[18]と抽選の結果[19]は以下の通り(かっこ内はランキング)。 色は以下の通り: UEFA AFC CAF CONCACAF CONMEBOL OFC グループステージ 競技スケジュールは2018年2月8日に決定。 各組2位まで及び3位の成績上位4チームが決勝トーナメント進出。 スケジュールは以下の通り。いずれも試合の日時は現地時間による(中央ヨーロッパ夏時間:UTC+2)。 グループA 2019年6月7日21:00 France-South Koreaパルク・デ・プランス, パリ 2019年6月8日15:00 Norway-NigeriaTemplate:仮リンク, ランス 2019年6月12日15:00 Nigeria-South KoreaTemplate:仮リンク, グルノーブル 2019年6月12日21:00 France-Norwayスタッド・ド・ニース, ニース 2019年6月17日21:00 Nigeria-FranceTemplate:仮リンク, レンヌ 2019年6月17日21:00 South Korea-NorwayTemplate:仮リンク, ランス グループB 2019年6月8日18:00 Spain-South AfricaTemplate:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月8日21:00 Germany-China PRTemplate:仮リンク, レンヌ 2019年6月12日18:00 Germany-SpainTemplate:仮リンク, ヴァランシエンヌ 2019年6月13日21:00 South Africa-China PRパルク・デ・プランス, パリ 2019年6月17日18:00 China PR-SpainTemplate:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月17日18:00 South Africa-Germanyスタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ グループC 2019年6月9日13:00 Australia-ItalyTemplate:仮リンク, ヴァランシエンヌ 2019年6月9日15:30 Brazil-JamaicaTemplate:仮リンク, グルノーブル 2019年6月13日18:00 Australia-Brazilスタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ 2019年6月14日21:00 Jamaica-ItalyTemplate:仮リンク, ランス 2019年6月18日21:00 Jamaica-AustraliaTemplate:仮リンク, グルノーブル 2019年6月18日21:00 Italy-BrazilTemplate:仮リンク, ヴァランシエンヌ グループD 2019年6月9日18:00 England-Scotlandスタッド・ド・ニース, ニース 2019年6月10日18:00 Argentina-Japanパルク・デ・プランス, パリ 2019年6月14日15:00 Japan-ScotlandTemplate:仮リンク, レンヌ 2019年6月14日18:00 England-ArgentinaTemplate:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月19日21:00 Japan-Englandスタッド・ド・ニース, ニース 2019年6月19日21:00 Scotland-Argentinaパルク・デ・プランス, パリ グループE 2019年6月10日21:00 Canada-Cameroonスタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ 2019年6月11日15:00 New Zealand-NetherlandsTemplate:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月15日18:00 Netherlands-CameroonTemplate:仮リンク, ヴァランシエンヌ 2019年6月15日21:00 Canada-New ZealandTemplate:仮リンク, グルノーブル 2019年6月20日18:00 Cameroon-New Zealandスタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ 2019年6月20日18:00 Netherlands-CanadaTemplate:仮リンク, ランス グループF 2019年6月11日18:00 Chile-SwedenTemplate:仮リンク, レンヌ 2019年6月11日21:00 United States-ThailandTemplate:仮リンク, ランス 2019年6月16日15:00 United States-Chileパルク・デ・プランス, パリ 2019年6月16日18:00 Sweden-Thailandスタッド・ド・ニース, ニース 2019年6月20日21:00 Sweden-United StatesTemplate:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月20日21:00 Thailand-ChileTemplate:仮リンク, レンヌ 各組3位チーム 決勝トーナメント ラウンド16 2019年6月22日15:00 B組1位-A/C/D組3位Template:仮リンク, グルノーブル 2019年6月22日18:30 A組2位-C組2位スタッド・ド・ニース, ニース 2019年6月23日17:30 D組1位-B/E/F組3位Template:仮リンク, ヴァランシエンヌ 2019年6月23日21:00 A組1位-C/D/E組3位Template:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月24日18:00 B組2位-F組1位Template:仮リンク, ランス 2019年6月24日21:00 F組2位-E組2位パルク・デ・プランス, パリ 2019年6月25日18:00 C組1位-A/B/F組3位スタッド・ドゥ・ラ・モッソン, モンペリエ 2019年6月25日21:00 E組1位-D組2位Template:仮リンク, レンヌ 準々決勝 2019年6月27日21:00 #37の勝者-#39の勝者Template:仮リンク, ル・アーヴル 2019年6月28日21:00 #40の勝者-#41の勝者パルク・デ・プランス, パリ 2019年6月29日15:00 #43の勝者-#44の勝者Template:仮リンク, ヴァランシエンヌ 2019年6月29日18:30 #38の勝者-#42の勝者Template:仮リンク, レンヌ 準決勝 2019年7月2日21:00 #45の勝者-#46の勝者スタッド・ド・リヨン, リヨン 2019年7月3日21:00 #47の勝者-#48の勝者スタッド・ド・リヨン, リヨン 3位決定戦 2019年7月6日17:00 #49の敗者-#50の敗者スタッド・ド・ニース, ニース 決勝 2019年7月7日17:00 #49の勝者-#50の勝者スタッド・ド・リヨン, リヨン 優勝国 2020年オリンピック女子サッカー出場国(ヨーロッパ) 今大会も、ヨーロッパ(UEFA)のチームについては翌年のオリンピック女子サッカーの予選を兼ねるものとする。ただし翌年の2020年オリンピック女子サッカー(ヨーロッパの出場枠3)については、これまで自国開催の2012年大会を除いて編成されていなかったイギリス女子代表が編成される可能性が表明されており、Englandの成績をもって出場権を争うものとした[20](女子ワールドカップにはScotlandも出場するものの、こちらの成績は反映されないものと思われる)。 脚注
https://ja.wikipedia.org/wiki/2019%20FIFA%E5%A5%B3%E5%AD%90%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 468, 561, 1358, 1872, 1984, 2065, 2199, 2280, 2470, 2566, 2705, 2935, 3043, 3105, 3194, 3304, 3579, 3718, 3764, 3836, 3910, 4167, 4225, 4321, 4375, 4429, 4501, 4554, 4590, 4659, 4717, 4753, 4812, 4848, 4940, 5108, 5825, 5877, 6252, 7418, 8234, 8604, 8968, 9904, 10043, 10103, 10846, 10938, 11245, 11513, 11725, 12212, 12572, 12826, 13065, 13171, 13401, 13530, 14019, 14144, 14338, 14413, 14486], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 460, 560, 1357, 1871, 1983, 2056, 2182, 2266, 2453, 2565, 2704, 2934, 3020, 3104, 3193, 3303, 3578, 3717, 3763, 3835, 3881, 4166, 4224, 4320, 4374, 4428, 4500, 4553, 4589, 4658, 4716, 4752, 4811, 4847, 4939, 5107, 5824, 5869, 6252, 7404, 8233, 8603, 8967, 9884, 10021, 10102, 10831, 10927, 11244, 11504, 11717, 12196, 12571, 12818, 13057, 13163, 13400, 13522, 13997, 14143, 14304, 14399, 14444, 14730], dtype=int32)}
ガンビアの公用語は何?
ガンビア
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([295], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([301], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ガンビア共和国(ガンビアきょうわこく、English: Republic of the Gambia)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[1641,1651,3,3]}'>ガンビア</b>は、西アフリカ西岸に位置する共和制国家。イギリス連邦加盟国であり(2018年に復帰[1])、公用語は英語である。西は北大西洋に面し、ガンビア川の河口を除いた全土をセネガルに取り囲まれている。首都はバンジュール。 国名 公用語である英語ではRepublic of the Gambia。通称Gambia /ˈɡæmbiə/(listen)。 国名はガンビア川に由来する。英語では正称・通称共に国名の前に定冠詞(The)を付けるが、これは15世紀にこの地にポルトガル人が入植した時に、川の名前を「Rio Gâmbia」と呼び、それを英語に直訳した「The Gambia river」に由来し、長年同地域を「The Gambia」と呼ぶのが一般的であったことからである。ガンビアがイギリスから独立した1965年頃に、非常によく似た名前を持つザンビアも独立をしたことから、混同を避けるために定冠詞をつけた状態を正式名称とした[2]。英称で定冠詞をつける国は他にバハマ、スーダン、コンゴ民主共和国、コンゴ共和国、フィリピン、オランダなどがある。 2015年12月10日に当時の大統領ヤヒヤ・ジャメによって<b data-parsoid='{"dsr":[2592,2610,3,3]}'>ガンビア・イスラム共和国(Islamic Republic of the Gambia)に変更されたが[3]、ジャメの後任として大統領に就任したアダマ・バロウは2017年1月28日に「イスラム教徒は全体の90%であり、他にキリスト教徒やアニミズム(土着宗教)がいるため、イスラム共和国ではない」と述べ、国名を元に戻した[4][5]。 日本語の表記は、ガンビア共和国。通称<b data-parsoid='{"dsr":[3388,3398,3,3]}'>ガンビア。 漢字表記では<b data-parsoid='{"dsr":[3407,3416,3,3]}'>岡比亜。 歴史 ガンビアの地域が初めて歴史に登場するのは、9・10世紀のアラブの商人の記録である。 ガーナ王国 10世紀から13世紀頃までガーナ王国に属していた。 マリ帝国 13世紀から15世紀まではマリ帝国に属した。13世紀にマリンケ族の商人がイスラム教を広め、18世紀まで強い影響力を持っていた。 植民地時代 15世紀中頃、ポルトガル人がガンビア川下流域に商業拠点を建設した。 16世紀、イギリスが進出、その後フランスと争った末、1783年のパリ条約によりイギリス植民地となる。 1821年、が成立。奴隷貿易が行われていた植民地支配の痕跡をとどめる遺構の数々は、「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」として、ユネスコの世界遺産に登録されている。 1959年、ダウダ・ジャワラがマリンケ人の支持により、を結成。 独立と国家連合 1963年、ジャワラが首相になり自治権を獲得。 1965年2月18日、英国女王を元首とする英連邦王国として独立した。 1970年4月24日、イギリス連邦内の共和国に移行し、ジャワラが大統領に就任した。 1981年7月29日、ジャワラが外遊中、社会主義革命労働党と国軍内左派グループを中心とした、国家革命評議会によるクーデターが起こるが、ジャワラは直ちに隣国セネガルに介入を要請、これを鎮圧した。 1982年2月1日、クーデター未遂を受けてセネガルとの国家連合を形成、セネガンビア国家連合となった。 1987年3月、ジャワラ大統領が2選。 1989年9月、両国の関係悪化に伴い、国家連合を解消。 1992年4月、ジャワラ大統領が3選。 軍政から民政移管へ 1994年7月、当時29歳のヤヒヤ・ジャメ陸軍中尉による無血クーデターで、ジャワラ大統領はセネガルへ亡命、長期政権に終止符が打たれた。その後はジャメを国家元首とする軍政が敷かれた。 1994年11月、准将校によるクーデター未遂。 1995年1月、サバリー副大統領、サデイブー内相によるクーデター未遂。 1996年8月、1996年8月 改正憲法国民投票。 1996年9月、大統領選挙でジャメが当選。 1997年1月、国民議会選挙を経て民政移管を果たした。 2001年10月、大統領選挙でジャメが2選。 2002年1月、国民議会選挙。 2006年3月、チャン参謀総長によるクーデター未遂。 2006年9月、大統領選挙、ジャメ大統領3選。 2007年1月、国民議会選挙。 2011年11月、大統領選挙、ジャメ大統領4選。 2012年3月、国民議会選挙。 2013年10月2日、同日付でイギリス連邦から離脱したことを発表した。 2014年12月30日、武装した軍離反者や大統領警護隊のメンバーらによるクーデター未遂が発生したが、首謀者らは殺害された。 2016年12月、大統領選挙でアダマ・バロウが当選。前職のジャメは当初は退任を受け入れたものの、後に退任を拒否し首都に軍隊を配備した。そのため、バロウは2017年1月19日、隣国セネガルの首都ダカールにあるガンビア大使館で宣誓式を行った[6]。15カ国で構成される西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は、ジャメに対し20日正午までに権限移譲するよう要求し、セネガル、ナイジェリア、ガーナが結成した連合軍は2017年1月19日にガンビアへの軍事介入を表明。これに対し21日、ジャメは退陣を宣言、赤道ギニアへと亡命した[7][8]。 2018年2月、イギリス連邦に復帰。 政治 ガンビアは共和制・大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1970年4月24日に制定され、幾度かの改正を経ている。国家元首である大統領は国民による直接選挙で選出され、任期は5年。再選制限はない。大統領の強大な権力は憲法により保障されている。副大統領職あり。行政府は内閣だが、実際の行政権は大統領が行使し、内閣はそれを補佐する執行機関に過ぎない。首相職もなく、全閣僚は大統領が任免する。したがって内閣の権限は極めて小さく、実質的には大統領の顧問団として機能している。立法府は一院制の国民議会である。全53議席のうち、48議席は国民の直接選挙によって選ばれ、残りは5議席は大統領が任命する。任期は5年。最高司法機関は最高裁判所である。 最大政党はアダマ・バロウ大統領の出身母体でもある与党のである。1996年にヤヒヤ・ジャメが自らの大統領選出馬と民政移管に備えて結成した愛国再建同盟は、国民議会で絶対安定多数を占めて強力な支配体制を敷いていたが、ジャメ失脚とともに党勢が衰え、2017年の選挙では大敗して野党となった。ダウダ・ジャワラの長期政権を支えたは、1994年のクーデターでジャワラが亡命するとその後の国政参加を禁止されて衰退、2005年にに合流した。 国際関係 隣国セネガルとの関係は深く、1982年から1989年までセネガンビア国家連合を形成していたが、方向性の不一致により解散した。しかし現在は再び良好な関係にある。ガンビアはパレスチナを国家承認しており、イスラエルの存在を認めていない。その背景には、ガンビア国民のほとんどがイスラム教徒であることから同じイスラム教徒のパレスチナ人に非常に同情的なことが挙げられる。またヤヒヤ・ジャメ大統領は厳格なイスラム主義者であるとともに、徹底した反米・反イスラエル主義者でもあり、このため同じ反米路線を採るイランやシリア、そしてベネズエラといった国との関係を強化している。 旧イギリス植民地であったことからイギリス連邦に独立直後から加盟していたが、2013年に当時のジャメ大統領は連邦を「新植民地主義の組織」と批判し、離脱を表明した[9]。その後、2017年2月14日にバロウ大統領は連邦への復帰手続きを開始し[10]、2018年2月8日に復帰した[1]。 ガンビアは長年にわたって中華民国(台湾)を承認する数少ない国の一つだったが、中華人民共和国との貿易額が増大するにつれてその外交関係はぎくしゃくしたものとなり、ついに2013年11月15日には台湾との国交を「国家の戦略的利益のため」断絶したと発表した[11]。 近隣諸国との友好関係の維持に努めるとともに、イスラム諸国圏との緊密なつながりを構築している。1994年の軍事クーデター発生以降、西側諸国より新規援助停止を含む厳しい措置をとられてきたが、1996年以降民主化プロセスの進展に伴い1990年代後半に援助は再開された。2005年後半には隣国セネガルとの関係が一時悪化した。両国間には依然貿易面等において解決すべき課題があるものの、全体として関係は改善に向かいつつある。2006年7月にはアフリカ連合(AU)総会を首都バンジュールで開催するなど、アフリカ内でのプレゼンス強化を図るとともに、国際通貨基金(IMF)からの支援や諸外国からの援助の受入に努めている。また、国連PKOにも多数の要員を派遣している。 日本との関係 在留日本人数 - 2人(2017年7月現在)[3] 在日ガンビア人数 - 57人(2016年12月、法務省)[3] 地方行政区分 ガンビアは5つの地方と1つの市に分かれる。 バンジュール(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 上流地方(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 中流地方(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 下流地方(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 北岸地方(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 西海岸地方(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.) 主要都市 主要な都市には首都バンジュールの他、セレクンダがある。 地理 ガンビアはアフリカ大陸最小の国土面積を持つ国である。ガンビア川の両側に国土を持ち、その最大幅は48キロメートルに過ぎない。国土の大部分がサバンナ地帯であり、国土のうち1300平方キロメートルをガンビア川が占める。 ガンビアはかつてイギリス領であり、イギリスとフランスが1889年にガンビア川の両岸約200マイルをイギリス領とすることで合意した。独立後の国土もイギリス領時代の国境線を継承している。 経済 農業が主で、落花生や米が主要生産品。英語が通じることもあって、ヨーロッパ諸国から気軽に行ける観光地として近年観光業が盛んになりつつある。 交通 バンジュール港はアフリカ西海岸で有数の天然港である。そこからは、3000トン級の船舶がガンビア川を遡行して内陸のジャンジャンブレアまで航行が可能。またバンジュールにあるユンダン国際空港は、全長3600メートル、幅員45メートルの滑走路を持つ。スペースシャトルの非常時代替着陸地としてNASAの資金及び技術援助のもと1989年に改修された。 国民 民族 2003年の国勢調査によれば、ガンビア国民の内訳は、マンディンカ人が42%、フラ人が18%、ウォロフ人が16%、ジョラ人が10%、セラフリ人が2%、その他のアフリカ系民族が4%、非アフリカ人が1%となっている[12]。アクと呼ばれる解放奴隷のクレオール人も少数だが存在する。 アレックス・ヘイリー著のアメリカの黒人奴隷を描いた小説、及びそれをもとにしたテレビドラマ『ルーツ』に登場するは、このガンビア出身のマンディンカ人をモデルとしている。 言語 公用語は英語である(2014年3月に英語を公用語から外すと発表したことがある[13])。しかしながら、マンディンカ語、フラニ語、ウォロフ語などが日常的に使われている。 宗教 ムスリムが90%、キリスト教が8%、アフリカ在来宗教が2%となっている[12]。 教育 教育制度はイギリスの制度を基にしている。2010年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は50%(男性:60% 女性:40.4%)である[12]。2011年の教育支出はGDPの3.9%だった[12]。 高等教育機関として、バンジュール郊外のカニフィングにガンビア大学(1999年)がある。 保健 エイズの感染率は1.82%(2014年[12])で、2007年に当時のジャメ大統領が夢にて先祖が告げたとされるエイズ治療薬(実際にはハーブや香辛料からなる薬湯)を制作。エイズ患者に抗ウイルス薬治療を止め自身が作った「治療薬」を服用するように命令し[14][15]、医療専門家らの間では「患者たちに誤った希望を抱かせる」と非難されたことがある[16]。 文化 世界遺産 ガンビア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件登録されている。 クンタ・キンテ島と関連遺跡群 -(2003年、文化遺産) セネガンビアの環状列石(セネガルと共有、2006年、文化遺産) 祝祭日 通信とメディア 国営のGRTSはガンビアで唯一の放送局である。 関連項目 ガンビアの都市の一覧 出典 外部リンク・参考文献 政府 (in English) (in English) 日本政府 (in Japanese) 観光 (in English) ガンビア(in English) travel guide from Wikivoyage その他 at Curlie Geographic data related to at OpenStreetMap Wikimedia Atlas of Gambia (in English)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 850, 1406, 1758, 1964, 2633, 3608, 4556, 4987, 5704, 6313, 6754, 8018, 8164, 8438, 10141, 11302, 12753, 13452, 14307, 15009, 15425, 15952, 16209, 16405, 16694, 17387, 17993, 18218, 18368, 18721, 19053], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 849, 1405, 1757, 1948, 2632, 3607, 4555, 4985, 5703, 6312, 6753, 8017, 8163, 8415, 10124, 11300, 12744, 13451, 14306, 14985, 15424, 15951, 16171, 16404, 16693, 17386, 17992, 18217, 18367, 18699, 19035, 19237], dtype=int32)}
カタコンブ・ド・パリはいつ建設された?
カタコンブ・ド・パリ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
カタコンブ・ド・パリ (Catacombes de Paris)は、フランス、パリの地下納骨堂(カタコンベ)。 旧市街の城門たるアンフェール門(「地獄門」)の南側、あるいはパリ14区ダンフェール=ロシュロー広場ないしダンフェール=ロシュロー駅の南側至近に位置する。地下納骨堂にはおよそ600万個の人の遺骨が納められており[1]、パリの地下採石場の名残であるトンネルと改造された洞窟が遺骨で埋められている。18世紀後半に一般公開され、19世紀初頭から地下墓地は小規模な観光名所となった。1874年以降は定期的に公開されている。内部を荒らされる事件が続いたため、2009年9月に一般公開が中止され、同年の12月に再公開された[2]。 カタコンブ・ド・パリは、パリ市内にあった大規模墓地を閉鎖した際に発掘された遺骨の単なる移転場所であり、当初から実際に死者の埋葬に使われたことはない。にも関わらずカタコンブという名称を採用しているが、これは古代ローマの地下墓地から類推しての名称である。カタコンブの正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[942,961,3,3]}'>ロシュエール・ミュニシパル(l'Ossuaire Municipal)、すなわち市営納骨堂である。 全長はおよそ1.7km、地下20mの場所にあり、2008年のカタコンブ・ド・パリ訪問者数は約24万人であった[3]。パリの博物館の1つであり、2002年5月よりカルナヴァレ博物館が管理を行っている[4]·[5]。パリ・メトロ及びRER B線の最寄り駅はダンフェール=ロシュロー駅。 日本人にはそれほどでもないが欧州人には大人気でオフシーズンでも2時間くらい待たされる事も多い。近年、ネットから予約可能となった。 歴史 背景 ローマ時代以降、パリは都市郊外に死者を埋葬してきたが、キリスト教伝来でその習慣は変えられた。教会の下や周囲にある聖別された土地の地下に埋葬を行うようになった。10世紀から、パリの教区墓地の多くが都市の内側につくられ、最終的にはそれら墓地は都市人口が密集する場所となり、拡張が困難となり過密になった。12世紀初め、この状況を改善しようとして、教会に埋葬料を払えるほど裕福でない人々のための中央集団埋葬墓地が開設された。これがサン・イノサン墓地(en)である。 サン・イノサン墓地が歴史上に現れるのは5世紀、メロヴィング朝の信仰の地であったノートルダム・デ・ボワ教会の周囲である。885年から886年のヴァイキング襲来で破壊されたとみられ、11世紀にはサン・オポルテューヌ教会が替わってこの地にあった。したがって、サン・オポルテューヌ教会は右岸の教区から死者を受け取り埋葬を行っていた。この墓地には独自の教会堂があったが、1130年にルイ6世が大規模な教会へと改築し、ヘロデ大王の命令でユダヤ人の幼児が殺害された幼児虐殺にちなみ、サン・イノサン教会と名付けた。墓地もこの教会名にちなむ。1137年にはルイ6世の命令でパリの市場がこの近くに集約され中央市場(レ・アル・ド・パリ、現在のパリ1区東側界隈)となり、この地域は重要な地域となった。 サン=ドニ通り、フェロンヌリー通り、ランジュリー通り、ベルジェ通りに囲まれたこの墓地は、約1300年間にわたってパリ市内の22教区から数十世代にわたるパリ市民の遺体、そしてオテル・デューや(en)死体安置所からの遺体を受け入れていた。小さな田舎の墓地は、次第にパリ最大の墓地となった。そして徐々に建物に囲まれ、パリで最も賑やかな地区の1つに含まれていった。戦争、疫病、飢餓によって、この小さな空間に数千の死体が埋められた。よって死体が有機的に分解されるのはますます困難になった。集団墓地は10フィート以上の深さに達した。18世紀の終わりには、集団墓地は通りよりも2m以上高くなっていた。これが安全上の問題を引き起こしたと、長期にわたって報告されている[6]。 いっぱいになった墓地の一区画を発掘したところ、それはもうひとつ別の区画を覆っていることがわかった。科学的に腐敗を早める目的でしばしば石灰をまかれた上で、土中に直接遺体は埋められていた。有機物が腐敗する過程で生ずる残留物が、当時の主要な水の供給源であった井戸に流入する状況をつくっていた。 17世紀、サン・イノサン教会周辺の衛生状態は耐え難いものとなっていた。それはパリで最も人気のある墓地、そして教会と教区の最大の収入源として、聖職者たちは墓地が満杯でも埋葬を続けていたためである。そのときまで、墓地は4つの区画全てが、墓地を囲むかたちの巨大な大量埋葬地を備えていた。墓地から掘り出された死者の骨には、骨に付いていた肉全てを分解するのに十分な時間が必要だったからである。一度1区画を空にしてから、墓地は再び使用されたため、土は既に人の亡骸を分解するには飽和状態にあった。 常に数千体の遺体を有機分解させることは、疫病の広がりを促進させることになった。1554年以降、パリ大学医学部の医師たちは、墓地の存在でもたらされる疫病の危険性を訴えたが無駄であった。1737年、王立科学アカデミーに所属する医師たちは分析を行い、単に長年にわたって蓄積されてきたのではない住民の苦情を確認している。最後の墓堀人であったフランソワ・プルランは、30年間で9万体をサン・イノサン墓地に埋葬したと主張している[7]。 18世紀の随筆家はこの地区のことを、「ワインは一週間たたないうちに酸っぱくなり、食べ物が数日で駄目になる。井戸水は腐敗した物質で汚染されており、消費するにはますます不向きである。」と記している。「死者を埋葬する論理的でない方法が人々を健康にするのか」と宗教当局を非難するヴォルテールまで登場する。 1765年、パリ高等法院はパリ市内での埋葬を禁止した。ローマの伝統が復活し、8箇所の墓地が首都の外につくられた。墓地の使用を制限する一連の効果のない法令は、わずかしか状況を改善できなかった。1780年初め、興味深い現象がサン・イノサン墓地の周囲のワイン貯蔵庫で起きた。死体が腐る過程で生じる気体がとても多量なので、墓地の壁を通り抜けてワイン貯蔵庫に入り込み、獣脂製ロウソクの灯を消してしまうというのである。汚れを取り去るため、墓地に隣接する地区のワイン貯蔵庫で地下室の壁に石灰をまくことが決められた。しかし同年の5月30日、重大な事件が起きた。墓地に隣接するランジュリー通りのワイン貯蔵庫の地下室の壁が、コミューンの墓穴に納められた何千もの死体の圧力で倒壊したのである[8]。また、経済的な理由から墓地閉鎖の選択が加速した。墓地と接しているレ・アル地区には市場がなかった。これが首都の経済的中心地を再開発し、日夜非常に混雑する地区の流れを改善する機会となった[7]。 1785年11月9日、国務院は、遺骨の除去をともなうサン・イノサン墓地閉鎖、そして地域の再開発を決定した。 19世紀初頭、都市の中心地区外に新たな墓地が建設された。北のモンマルトル墓地、東のペール・ラシェーズ墓地、西のパッシー墓地である。のち、南部にモンパルナス墓地が加わった。 パリの旧採石場 採石場が運営されていた時代、パリは他の場所から建築材料を購入することなしに、何世紀にもわたって石造りの建物を建てるために地下から石が切り出されてきた。しかし、古い採石場によって生じた地下の空洞もあった。これらの空洞はほとんどが埋められているか、落盤していた(老朽化により柱や壁が崩れて空洞は埋没した)。現在残っているビュット・ショーモン公園の洞窟は、実際は古い採石場の一部である。1777年以降、政府は首都とその周辺で長期間放置された採石場を捜索し統合してきた。警部補アレクサンドル・ルノワールは工事を監督しており、彼は空っぽの地下トンネルを利用するアイデアを持った最初の人物だった。事業は採石場総監であるシャルル=アクセル・ギヨモが監督し、骨は面積の広い井戸に積まれた。井戸はイソワール墓地の家(La maison de la Tombe Issoire)という名の、首都の南部、モンルージュ平原に位置しダンフェール門を越えた、かつての採石場跡に掘られていた。そこが完全に最適な場所と考えられた。自治体および宗教当局は1785年に最初の調整を行うことを決定した。ルノワールの後任であるルイ・ティルー・クローヌはパリ南部の市門であるダンフェール門(現在のダンフェール=ロシュロー広場)の旧採石場へ、パリの地下に埋葬された遺骨を発掘し移す事業を1786年に始め、1788年に完了した[9]。 誕生と装飾 骨が徐々に集団墓地と地上から取り除かれ、その後洗浄され、フォークで荷車に乗せられた。1788年4月7日の奉献式前夜まで、聖歌を歌う聖職者たちの行列の後ろに、黒い布で覆われた骨を運ぶ馬車が連なってカタコンブへ向かった。これは約15ヶ月間続いた。行政は、埋葬の措置をみな同じにした。サン・イノサン墓地、特に教会に隣接する他のパリ内の墓地を例とすれば、1788年1月までに順番に空になっていった。地下の洞窟全体に労働者たちが分散して働いていた。井戸の底に骨が投じられると、労働者たちが大量に放棄された骨を集めた。そして骨のために用意された地下の部屋に手押し車や木製のカートに乗せて運んだ。各部屋には、骨がどの墓地から運ばれてきたか示す墓地名、そして搬入された日付を記すプラークがはめ込まれている。同じ土地には十字架、骨董品、他の共同墓地の記念物がパリの教会の共同墓地から持ってこられて埋められた。 最初の数年間のカタコンブは、主として骨の集積所となっていたが、1810年からギヨモの後任となったルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリーが工事を監督すると、彼は地下洞窟を全ての霊廟と同等の、現実的で訪問可能な墓地に変えてしまった。頭蓋骨と大腿骨の配置を指示に加えて、今日のカタコンブで見られる構成とし、彼は墓石や墓地の装飾を利用して、骨で埋め尽くされた壁を補完することを見出した(これらの多くは1789年のフランス革命後に失われた)。実際の移送作業は1814年まで続いた。フランス第一帝政時代、サン・イノサン墓地のあった場所には野菜や果物の市場が設置されることとなり、基礎工事中に出土した骨は同じ過程を経てカタコンブへ送られた。1842年にようやく再開された移送作業は1860年まで行われ、年800台になろうという馬車がヴォージラールの仮納骨堂へ、そしてカタコンブへ骨を運んだ。このようにして、17箇所の墓地、145の修道院や宗教施設、墓地に囲まれた礼拝所160箇所、これらが地下にある採石場へ骨を提供した。最終的には、オスマンのパリ大改造によって骨がさらに見つかり、順番にカタコンブへ送られた[10]。 全体 カタコンブの入り口はパリの旧ダンフェール門の西側パヴィリオンにある。暗闇の中石造りの狭い螺旋階段を下りる。静寂はゴボゴボと音を立てる水道の音で破られるだけである。モルタルで固められた石の曲がりくねった廊下を行くと、訪問者は自分が彫刻の前にいることを知る。ここが納骨所となる以前の採石場であった頃から存在している。すぐに訪問者は納骨堂に通じる、石作りの入り口にいることに気づく。そこには『止まれ!ここが死の帝国である』(Arrête! C'est ici l'empire de la Mort)と碑が刻まれている。 ホールや洞窟の壁は骨が注意深く配置されている。装飾の一部はほとんど自然の芸術品である。壁一面にハート型のアウトラインに沿って頭蓋骨が埋め込まれていたり、中央の柱が骨を用いて樽状に慎重に配置された円形の部屋がある。通路沿いには、カタコンブ改装前の昔につくられた他のモニュメントを見ることができる。後にエングレーヴィングが加えられた『洗礼を受けたサマリア女』(La Samaritaine)の泉がそれにあたる。カタコンブの他の立ち入り禁止区域につながる通路を遮断するための、錆びたゲートもある。これらの立ち入り禁止区域は改修されていないか観光ツアーにはあまりに不向きであるかのどちらかである。 ダロー通りの建物に通じる洞窟のちょうど前の出口階段の上で、パリ地下洞窟に残る採石場の一例を見ることができる。天井は11mの高さの2つのドームとなっており、経年劣化が進んでいるが石で強化されている。最高地点に達したことを示す日付は、崩壊した洞窟の天井の作業にいつ関わったか、そしてそれ以降に劣化したかどうかを示すものである。18世紀後半のパリでは、今まで知られていなかった地下の洞窟のために家屋や道路が崩落してから、この「落盤」が全国的なパニックの原因となった。 珍奇な訪問場所 完成してからのカタコンブは、人々の関心を引いた。1787年、アルトワ伯(のちのシャルル10世)と貴婦人の一団が最初の訪問者だった。翌年にはポリニャック伯爵夫人とギシュ夫人が訪問している。しかし最初の公共の訪問ツアーが行われるのは1806年である。一握りの特権階級のために不定期に開催された。 1814年5月16日、オーストリア皇帝フランツ2世がパリ滞在時にカタコンブを訪問した。1860年、ナポレオン3世とナポレオン・ウジェーヌ皇子がカタコンブを訪問した。また、1860年には空中写真のパイオニアである写真家ナダールが、パリ地下シリーズの最初の作品を撮るためカタコンブを訪れている。1867年には各国訪問中のスウェーデン王オスカル2世が、そしてドイツのビスマルクが訪れた。 1972年まで、カタコンブの訪問は、おなじみのルートにおいてはロウソクを点して行われていた。骨の保存に関する理由で電気がひかれたのは1983年と遅かった[11]。 カタコンブにちなむ出来事 1788年8月28日から29日にかけて、グレーヴ広場、オテル・ド・ブリエンヌ、メスレ通りで発生した暴動の死者の亡骸は、カタコンブに収容された。 カタコンブには600万人のパリ市民の骨が埋葬されているが、そこにはフランス史上の著名人も含まれる。しかし彼らの遺骨は名もない数百万のパリ市民の遺骨と一緒くたにされており、現在まで特定できていない。 採石場総監であったシャルル=アクセル・ギヨモは、1807年にサント・カトリーヌ墓地に埋葬されたが、その後、遺骨はカタコンブに埋葬された。フランス史上の著名人の一部は、カタコンブの納骨堂を最後の休息の地としている。ルイ14世の財務卿であったニコラ・フーケは、死後フィーユ・ド・ラ・ヴィジタション・サント・マリー修道院に埋葬されたが、1793年にカタコンブへ移された。大臣コルベールの遺骨は革命に逆らい、サン・ユスタシュ教会の金庫に隠されていたが、のちにカタコンブへ移された[12]。 王政復古期にエランシ墓地(en)が道路拡張工事にかかり、工事中に掘り出された骨はやはりカタコンブへ移された。エランシ墓地には革命でギロチンで処刑されたジョルジュ・ダントン、カミーユ・デムーラン、アントワーヌ・ラヴォワジェ、マクシミリアン・ロベスピエールが埋葬されていた[12]。 同様に、ロラン夫人、デュ・バリー夫人他、マドレーヌ墓地(fr)に埋葬された人々の遺骨は後に墓地の閉鎖に伴って、カタコンブに移送されている。 カタコンブの壁は18世紀からの落書きに覆われている。ヴィクトル・ユーゴーは『レ・ミゼラブル』の中でパリ地下のトンネル・システムに関する知識を用いている。 1871年のパリ・コミューンでは、カタコンブの一室でコミューン側が君主制主義者グループを殺害している[13]。 第二次世界大戦中、レジスタンスに加わっているパリ市民は地下のトンネル・システムを利用していた。ナチス・ドイツ占領下のパリでは、ドイツ兵士たちは、パリ6区のリセ・モンテーニュの地下にあるカタコンブに地下ブンカーを築いていた。 脚注 参考文献 Quigley, Christine (2001) . McFarland, Jefferson, NC, USA. pp.22–29. Alain Clément et Gilles Thomas, Atlas du Paris Souterrain — La doublure sombre de la ville lumière, Parigramme, 2001 (ISBN 978-2-84096-191-8) Patrick Saletta, À la découverte des souterrains de Paris, Sides, 1990 (ISBN 978-2-86861-075-1) 外部リンク (in English) – The Catacombes de Paris official site, (in French) Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. (in Spanish) Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AA
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 258, 793, 1422, 1865, 2355, 2709, 3353, 3524, 3640, 3984, 4634, 5428, 5736], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 250, 792, 1405, 1864, 2354, 2708, 3352, 3492, 3639, 3983, 4620, 5406, 5719, 5812], dtype=int32)}
児童文学『トットちゃん』の著者は誰ですか?
窓ぎわのトットちゃん
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([107], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([119], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
『窓ぎわのトットちゃん』(まどぎわのトットちゃん)は、女優・タレントの黒柳徹子による自伝的物語である。1981年に講談社から出版された。第5回路傍の石文学賞受賞作品である。 内容 東京都目黒区自由が丘にかつて存在し[1]、著者の黒柳が通学したトモエ学園を舞台に、黒柳自身の小学生時代についてはもちろん、トモエ学園に於けるユニークな教育方法(リトミック、廃車になった電車を利用した教室など)や、校長である小林宗作の人柄が描かれ、また黒柳の級友も全員実名で、その中でも初恋の相手に物理学者の山内泰二も登場する、完全なノンフィクション作品である。 作中で黒柳自身は、「トットちゃん」と三人称で語られている。これは、当時の本人が舌足らずで名前の「徹子(てつこ)」を「トット」と発音していたことにちなむ。また「窓ぎわ」とは、出版当時、リストラ予備軍のサラリーマンのことを「窓際族」と呼び出した時期であったためと、著者自身、トモエ学園に移る前に登校していた区立小学校で、チンドン屋さんを呼び込むために授業中窓のところに立っていたことなどから付けられたものである。 出版・翻案 日本国内では単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し[2]、日本国内において「戦後最大のベストセラー」と称される。芸能人やスポーツ選手、政治家等の著書は「ゴーストライターがまとめたもの」が多いとされるが、本作は全て黒柳による自筆で執筆している。初版部数は2万部であったが、瞬く間に版を重ねていった。 オリジナルの日本語版としては、講談社よりハードカバーおよび文庫(講談社文庫)、新書(青い鳥文庫)が刊行(文庫版以降は「あとがき」が加筆)されているが、表紙絵および挿絵は、一貫していわさきちひろの作品である。本作品の児童文学的な面を持つ世界観と、いわさきちひろの画風が調和していたことも、本作品のヒットの一要素であるとも言える。 世界35ヶ国で翻訳され[3]、1985年(昭和60年)に、ポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」を受賞。中華人民共和国では、2017年(平成29年)5月に1000万部を突破した[4]。1981年、この本の印税全額を黒柳が寄付し、「社会福祉法人トット基金」を設立した。 テレビドラマ・映画などの映像化は一切されていない。黒柳によれば「校長先生を演じられる人はいない」という理由で、映像化の話は全て断っている[5]。しかし、1982年(昭和57年)には、黒柳の朗読とオーケストラによる音楽物語『窓ぎわのトットちゃん』が初演された(作・構成:黒柳徹子・飯沢匡、作曲:小森昭宏演奏:小林研一郎指揮新星日本交響楽団)。日本コロムビアから1982年(昭和57年)4月21日にレコード発売、後にオンデマンドCD(受注生産型CD)として販売。 2017年10月スタートのテレビドラマ『トットちゃん!』で抜粋の形ながら初めて映像化される事になった。 本作がもたらした影響 本作の大ヒットにより、黒柳の人気もさらに上昇した(「トットちゃんブーム」)。 作品の一編が小学校の教科書や試験問題などにも採用された一方で、1980年代に管理教育を標榜していた愛知県では、教職員やPTA関係者らが「タレントが執筆した本を学校図書館に置くとは言語道断だ」と、学校図書館から同書を締め出したことがあった。 1980年、『第31回NHK紅白歌合戦』で、1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』以来22年ぶりに紅組司会を務めた黒柳は、本作の大ヒットにより翌1981年の『第32回NHK紅白歌合戦』でも紅組司会を続投した。以後、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで連続して紅組司会を務めた。黒柳が最後に紅組司会を務めた第34回では、黒柳の紅組司会に対し、白組司会は『気くばりのすすめ』の著者・鈴木健二(当時NHKアナウンサー)であり、ベストセラー作家同士の両組司会として話題になった[6]。 書籍情報 講談社(1981/01、ISBN 406145840X) 講談社文庫(1984/01、ISBN 4061832522) 講談社・青い鳥文庫(1991/06、ISBN 4061473514) 講談社インターナショナル 英語版(ドロシー・ブリトン訳、1984、ISBN 4770011954) 講談社英語文庫(ドロシー・ブリトン訳、2000、ISBN 406186002X) (フランス語訳)プレス・ド・ラ・ルネサンス社「French: Totto-chan - la petite fille a la fenêtre」(オリヴィエ・マニャニ訳、2006、ISBN 2750902177) ベスト・オブ窓ぎわのトットちゃん 講談社バイリンガル・ブックス(ドロシー・ブリトン訳、1996/08、ISBN 4770021275) 『窓ぎわのトットちゃん 新組版』(2015年8月12日) ISBN 978-4-06-293212-7 脚注 関連項目 チョッちゃん(著者の母で随筆家・黒柳朝の自伝「チョッちゃんが行くわよ」を元にしたドラマ) 小林宗作(トモエ学園設立者) 自由が丘(著者の通学したトモエ学園の所在地) トットチャンネル(事実上の続編) 外部リンク 講談社 - 原著 - 講談社文庫 - 青い鳥文庫 - 講談社文庫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%93%E3%81%8E%E3%82%8F%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%88%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 211, 626, 1016, 1456, 2031, 2180], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 203, 625, 1015, 1455, 2030, 2154, 2234], dtype=int32)}
株式会社ポケモンはいつ設立された?
ポケモン (企業)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([804], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([820], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
株式会社ポケモン(、ザ・ポケモン・カンパニー)は、ポケットモンスターのプロデュースおよび関連キャラクターグッズの販売を行う日本の企業。 概要 東京都港区六本木に本社を置く。コンピュータゲームソフトのほかに、アニメ、カードゲーム、映画やキャラクターグッズの販売、ライセンスの管理、WEBサイト「ポケットモンスターオフィシャルサイト」「ポケモンだいすきクラブ」などの運営を行っている。ゲームソフトの直接の開発は行っていない[1]。 東京都中央区日本橋にポケモンセンタートウキョーを開設する際に任天堂・ゲームフリーク・クリーチャーズの3社の共同出資により1998年4月23日に「ポケモンセンター株式会社」として設立された。2000年10月に現在の商号に変更し、ゲーム関連事業およびライセンス関連事業を開始する[2]。 商号変更の背景には『ポケットモンスター 金・銀』の発売後、商品企画の提案が海外からも含めて増加したことで、当時は任天堂が行なっていたライセンス管理が追いつかず[3]、ポケモンに関する権利を集約する場が求められていたことにある[3][4]。また、その際には岩田聡が日本国内外を含めた関連各社の調整役に立った。 関連会社に、ポケモンセンターの運営を行う<b data-parsoid='{"dsr":[2801,2819,3,3]}'>株式会社ポケモンセンター(Pokémon Center Co., Ltd.)、アジア地域以外の事業を行うThe Pokémon Company International、大韓民国での事業を行うPokémon Korea, Inc.がある[5]。なお、ポケモンのプロモーションを行う<b data-parsoid='{"dsr":[3036,3060,3,3]}'>株式会社ポケモンコミュニケーションズ(Pokémon Communications Company)は、2017年3月に株式会社ポケモンと合併している[2]。 2017年6月1日、三重県鳥羽市と株式会社ポケモンは共同で事業展開する方針を固めている[6]。 脚注 外部リンク on YouTube on Twitter on Facebook on Instagram
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%A2%E3%83%B3%20%28%E4%BC%81%E6%A5%AD%29
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 136, 337, 914, 1096, 1413, 2118, 2501, 2779, 3102, 3710, 4401, 5195, 5578, 5967, 6942, 8233, 9076, 9171, 9885, 10042, 10456, 11153, 11379, 12075, 12192], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 121, 336, 913, 1078, 1412, 2117, 2500, 2778, 3084, 3709, 4400, 5194, 5577, 5959, 6916, 8231, 9059, 9170, 9884, 10041, 10448, 11109, 11359, 12067, 12181, 12300], dtype=int32)}
皆川 広照は何歳で死去した?
松平忠輝
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。 生涯 出生 天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生した。幼名は辰千代(たつちよ)という。生年が辰年だったのがその由来と思われる。 生母・茶阿局の身分が低かったため、家康は誕生したばかりの辰千代を素直に喜ばず、捨て子のしきたり(当時は捨て子の方が強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があった)の際に家康の側近・本多正信に拾わせ、養育先を探させて、下野栃木(皆川)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。 家康が忠輝と面会したのは、慶長3年(1598年)のことであるが、そのときも家康は忠輝を嫌ったといわれている(後述)。 長沢松平氏 慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた。慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。 慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島藩12万石に加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。家康の腹心で幕閣の大物である大久保長安が附家老として補佐することとなった。慶長10年(1605年)、家康の命で大坂の豊臣秀頼の右大臣就任の際に面会している。慶長11年(1606年)11月24日、大久保長安の仲介により、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。慶長13年(1608年)、同母姉(異父姉)の婿の花井吉成が附家老とされた(花井の娘と長安の息子は夫婦)。 慶長14年(1609年)9月、幼き日の忠輝を養育し、この頃は幕府からの附家老であった皆川広照や、山田重辰・松平清直ら古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを駿府の家康に訴えたが、家康側からは逆に家老に不適格であるとされて広照・清直は改易、重辰は切腹となった。 慶長15年(1610年)閏2月、越後高田藩(福島城主・後述)30万石を加封され、このとき川中島14万石と併合して合計45万石を領した(『恩栄録』)[1][2]。旧領の川中島領は花井吉成が待城代となって支配した。 越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城を居城としたが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。 改易・配流 しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った[3]。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。大和口の総督を命じられたが、遅参により軍功を挙げることはできなかった。同年8月、家康は忠輝に対し今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った[4]。 元和2年(1616年)4月、家康が死去した。家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。 元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられて伊勢国朝熊に流罪とされ、金剛證寺に入った。生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局や高台院などにも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。元和4年(1618年)3月5日には飛騨国高山の金森重頼に預けられた。この際、使者の近藤秀用・中山照守に対して「吾罪あらんには。この儘に死をたまはるべし」(『徳川実紀』)と主張して動こうとしなかったが、幕府の重臣らがとにかく将軍に陳謝することを勧めたため、ようやく飛騨に赴くことにした[5]。寛永3年(1626年)4月24日には信濃国諏訪の諏訪頼水に預けられた。 そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。92歳。息子である徳松(母は竹の局)は放免の際に同行が許されず、更には岩槻藩主・阿部重次の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて自殺している(享年18)。 家康との仲は実は埋まっていたという説もある。それが野風の笛の逸話である。この笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したといわれている。現在、長野県諏訪市の貞松院に保存されている。 赦免 徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後<!-- 死去が1683年8月24日、赦免が1984年7月3日ですから「300年後」で良いのでは? 赦免が1984年8月24日以降でしたら「301年後」ですね -->の昭和59年(1984年)になってからであった。忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。7月3日、恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで3年後の昭和62年(1987年)10月24日に行われた[6]。10月24日の法要には、仙台伊達家当主の妹や諏訪家当主、当時の家臣の子孫など約400名が参列し、恒孝が赦免状を読み上げた[7]。なお、恒孝はその後、児玉幸多に「歴史を後から変えるべきではない」旨の批判を受けている[8][9]。 父に嫌われた理由 忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。「藩翰譜」は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と伝える。つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのである。藩翰譜は慶長3年、忠輝が7歳の時、忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎(松平信康)が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。さらに「野史」の同年の記事には、家康が忠輝を見て「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」と言ったという記述がある。家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていたようである。甥で同じく改易された松平忠直などと同様、忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている。 忠輝は順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることが多い。しかし慶長11年(1606年)の川中島12万石の太守であった時点で、弟の義直(7歳)は甲斐府中25万石、頼宣(5歳)は常陸水戸藩25万石、頼房(4歳)には常陸下妻藩10万石を与えている。しかも家康が忠輝に所領を与えたのは、政宗や茶阿局らの運動があったためともいわれている。また、同母弟の松千代も幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対し、同時期の忠輝には特に何も与えられていなかった。弟の松千代の夭折によって兄の忠輝がその跡を継ぐという、逆の形になっている。 改易の理由 家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。 大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。 忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため(ただし、当時の軍法では戦中の追い越し、つまり乗り打ちは切り捨て御免となっているので、忠輝の処置は合法である)。 大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし、忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。 以上が、秀忠が改易を命じた表向きの理由である。しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。 キリスト教ときわめて親しい関係にあったためという説。妻の五郎八姫はキリシタンだった。 忠輝の岳父が伊達政宗であったため、また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていた大久保長安と近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説。(大久保長安事件) 人物 忠輝は従四位下左近衛権少将に叙任されたが、生涯を上総介で通したという。そのため、史書の一部では、忠輝が少将になった後も、上総介と記しているものも少なくない。 「此人平生、行跡実に相協力、騎射万人に勝れ、両脇自然に三鱗あり、水練の妙、神に通ず。故に淵川に入って蛇龍を捜し、山に入って鬼魅を索め、剣術絶倫、性化現の人」(『柳営婦女伝系』および『玉輿記』)。 海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人でもある。 脚注 忠輝の登場する作品 書籍 『捨て童子 松平忠輝』 作:隆慶一郎 『捨て童子 松平忠輝』 原作:隆慶一郎 画:横山光輝 『忍びの卍』 作:山田風太郎 『面貌』 作:松本清張 テレビドラマ 『春の坂道』(1971年、NHK大河ドラマ、演:石立鉄男) 『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、演:田中健) 『野風の笛 鬼の剣 松平忠輝・天下を斬る!』(1987年、日本テレビ、演:松平健) 『独眼竜政宗』(1987年、NHK大河ドラマ、演:岡田二三→真田広之) 『徳川無頼帳』(1992年、テレビ東京、演:千葉真一) 『影武者徳川家康』(1998年、テレビ朝日、演:鈴木浩介) 『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、演:岩渕幸弘→阪本浩之) 『天下騒乱〜徳川三代の陰謀』(2006年、テレビ東京、演:山田純大) 演劇 2003年、宝塚歌劇団花組が「捨て童子~」を「野風の笛」のタイトルで舞台化。 ゲーム 『戦国大戦 -1615 大坂燃ゆ、世は夢の如く-』(2015年、セガ・インタラクティブ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E8%BC%9D
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 292, 632, 1340, 1589, 2155, 2909, 3328, 4358, 4843, 4953, 5402, 6294, 6677, 7501, 8136, 8446, 11174, 12249, 13107, 13462, 13669], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 291, 624, 1332, 1581, 2154, 2908, 3320, 4357, 4842, 4945, 5385, 6293, 6651, 7493, 8082, 8445, 11123, 12248, 13063, 13432, 13652, 13778], dtype=int32)}
エーギロカシスはどこに生息した?
エーギロカシス
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
エーギロカシス(Aegirocassis)はオルドビス紀の地層から発見されたアノマロカリス類の1属。シンダーハンネスに次ぐカンブリア紀以外のアノマロカリス類である。本属は Aegirocassis benmoulai 1種のみによって知られる。 2メートルにも及ぶ巨大な姿と頭部の大きな殻を有する。属名「Aegirocassis」は、北欧神話の海神エーギル(Ægir)とラテン語の「兜」(cassis)の合成である[1]。種小名「benmoulai」(原記述では「benmoulae」[1])は化石収集家Mohamed Ben Moulaに因んでいる。 化石 本種の化石標本は、モロッコのオルドビス紀の地層Fezouata Formationから発見されている。2011年に公表されたオルドビス紀の巨大アノマロカリス類の胴体部化石と一部の断片化石[2]が本種のものである[1]。通常のアノマロカリス類のような扁平につぶされたものとは異なり、エーギロカシスの化石は、いずれも良好な立体状態が保存されている。眼と口(歯)の部分は発見できず、形態は不明である[1]。化石標本は、アメリカ合衆国コネチカット州ニューヘイブンのイェール・ピーボディ自然史博物館に所蔵されている[1]。 形態 エーギロカシスは全長およそ2メートル以上に及び、知られている中では最大級のアノマロカリス類である。また、本種は一部のウミサソリと並んで最大級の節足動物ともなる[1]。 頭部 頭部には近縁として考えられたフルディアのように、全長の半分を占めるほど、前方に向かって突き出した3つのパーツからなる大きな殻がある。雫型の背側のパーツは細長く、背側の正中線は前端ほど角ばる。その両縁には下向きの三角形の突起があり、下の両側のパーツに嚙合する部分であると考えられる。両側のパーツは楕円形で、背側のパーツのように、それぞれの正中線辺りにも前端ほど角ばる部分がある[1]。 触手(前部付属肢)の主幹部は約12㎝で7節に分かれ、他のアノマロカリス類に比べれば貧弱である。しかし第2- 6節の下側には、主幹部の長さを超えるほどの細長い5本のブレード状の突起が備わっている。それぞれの突起の内側には、よく発達した繊毛状構造が80本ほど並んでいる。加えて、それぞれの繊毛には、更に2列の毛束が走る。また、触手化石のうち突起部は主幹部よりも保存状態が良好であるため、突起部が主幹部よりも頑強であったと考えられる[1]。カンブリア紀のアノマロカリス類Pahvantia からにも、本種のものによく似た触手が確認される[3]。 類縁群を参考にして復元図が作成されたが、未発見の眼と口(歯)の形態は不明である。しかし他の柔軟な部位も比較的に良好な保存状態を持つため、眼と歯は保存されにくいほど貧弱であったと推測されている。濾過摂食者であったこため、発達した視力や頑強な歯の必要性は低かったと考えられる[1]。 胴体 胴体は背腹に扁平で、11節からなる。最後の節を除いてそれぞれの体節には2対の鰭を持ち、四隅に配置される。背側のヒレはサメの背びれによく似た形を持ち、基部は鰓として考えられた「setal blades」に接続する。腹側の鰭は三角形で、背側のものより少し発達している。背腹の鰭の接続部はお互い側面の体表に上下に区切られて重ねることはない。他のアノマロカリス類に比べれば、エーギロカシスの鰭は胴体に対して比較的に小さく、腹側の鰭も他のアノマロカリス類に見られる後方から一つ積み重ねた隣接部はない[1]。また、腹側の鰭には「tranverse rods」および 「strengthening rays」というロード状の構造が密生しており、それぞれ無数の幅狭い管状構造に細分され、おそらく筋組織を持っていたと思われる。背側の鰭にも、似たような細い筋が確認される[1]。 他のアノマロカリス類と同様に、鰓として考えられた一連の櫛状構造体「Setal blades」は胴体の背側に1節ずつ配置される。この構造体の両端は背側の鰭の基部に接続し、残りの部位は胴体部の背側から分離していたと思われる[1]。それぞれの細長い構成単位は、前端から少し離れた所が管状の内部構造に繋がれており、左右両面には一連の皺構造が密生する[1]。 最後尾の節は単純な鈍い突起であり、尾部の鰭などの附属体を持たない[1]。 生態 エーギロカシスは穏やかに遊泳しながら水中の動物プランクトンを摂る濾過摂食者であったと思われる[1]。また、断片化石の密集した保存状態、サイズの多様性や三葉虫などの底生性動物も化石に含まれていたことにより、これらの化石は脱皮殻であり、エーギロカシスは海底で脱皮を行っていた可能性が示唆される[1]。 移動と呼吸 鰭に見当たるtranverse rodsの高い密度とそれを構成した大量の管状構造は、エーギロカシスはこれらの鰭の動きと形を幅広く操作できた機敏な遊泳性動物であったことを示唆する[1]。大きな殻・小さな鰭・背腹に扁平の体・繊毛を持った長い突起がある触手などの形質は、一定の速度での長距離の遊泳に最適化されており、急加速や高速遊泳には向いていなかったと思われる[1]。また、エーギロカシスは背腹2セットの鰭を持っているが、上下の鰭を連動すると渦が重ねて推進力が妨げられるため、腹側の鰭のみ遊泳に用いられと思われる[1]。背側の鰭は遊泳に用いられず、代わりに遊泳中にステアリングやバランスを安定させる機能をもっていたと考えられる[1]。 左右背側の鰭の基部に接続しながら背中に畳んだsetal bladesは、ガス交換およびイオン交換に用いられた呼吸器官(鰓)であると考えられる。その構成単位の柔軟性・細長い形・表面積を増やした両面の皺構造などの形質は、この機能に裏付ける証拠とされている[1]。 濾過摂食の仕組み 繊毛の間隔から推測すると、エーギロカシスの触手は同じく懸濁物食(濾過摂食)のアノマロカリス類であるタミシオカリスの触手と同じほどのサイズ(長さ0.5㎜以上[4])の動物プランクトンを濾過できたが、仕組みは異なっていたと思われる。タミシオカリスの触手の繊毛は前後に向かって一面の濾過網を構成するのに対して、エーギロカシスの繊毛は全て内側に向かっており、多重構造の濾過装置になっている。これによると、エーギロカシスの触手はより高い粒径範囲の物質を濾過できる[1]。頭部の大きい殻も、本体が水中に前進する度に水流を触手のところへ導く機能を持っていたと思われる[1]。 分類 2018年現在、エーギロカシス属はAegirocassis benmoulai 1種のみが知られる。本属はフルディア、ペユトイア、シンダーハンネスやPahvantia などと共にフルディア科(Hurdiidae)に属するアノマロカリス類である[3]。食性が本属に似通っているタミシオカリスはタミシオカリス科(Tamisiocarididae、旧Cetiocaridae)に属しており、懸濁物食性はアノマロカリス類の内部系統において少なくとも2回ほど独自に獲得した特徴であることを示唆する[1][3]。 発見の意義 胴体付属肢要素の対応関係 2015年に発表された本種の原記載において、鰭の特徴が注目された。アノマロカリス類は従来、1体節に付属肢として1対の鰭しか発見できなかった[注釈 1]が、このエーギロカシスは、この体制と異なり1体節に2対の鰭を具えている。 アノマロカリス類の近縁であるオパビニア、パンブデルリオンとケリグマケラ、いわゆる「Gilled lobopodians」は、鰭の下に葉足動物様の脚(葉足)を持つ。そのため、従来の知見では、アノマロカリス類の鰭はGilled lobopodiansの鰭に相同で、その脚は完全に退化し[5](もしくは単に化石に保存されず[6])、1体節に1対の鰭しか残らなかったと思われた。しかしエーギロカシスの発見は、この仮説を覆し、アノマロカリス類の最後の共通祖先は1体節に2対の鰭を持ち、そのうちsetal bladesに接続した背側の退化的な鰭はGilled lobopodiansのsetal bladesが張り付いた鰭に相同で、腹側の鰭および他のアノマロカリス類に見かける発達した鰭は、Gilled lobopodiansの葉足に相同であることを示唆する[1]。 200px|サムネイル|右|鰭と葉足を同時に備えた「Gilled lobopodians」の1種パンブデルリオン 腹側の鰭と葉足の相同性は、構造上の類似性が低いという疑問点が存在する[7]が、背腹位置は対応しており、アノマロカリス類の発達した鰭とGilled lobopodiansの鰭の非相同性(および背側の鰭の相同性)も、逆の畳み方と鰓らしき構造(setal blades)の有無などの相違点に支持される[1]。また、アノマロカリス類の腹側の鰭は往々にして発達な筋組織を持つことにより、パンブデルリオンによる発達した筋組織を持つ葉足と筋組織を持たない鰭も、この対応関係に裏付ける証拠であるとされる[8]。 本種の発見も、節足動物の二叉型付属肢は、背側と腹側の付属肢の融合を通じて由来する説を支持する証拠の1つとなる。真節足動物の二叉型付属肢のうち、外葉と内肢はそれぞれアノマロカリス類の背側のsetal bladesと腹側の鰭(およびGilled lobopodiansのsetal bladesと葉足)に相同であると考えられる[1]。背腹の付属肢要素(setal bladesを持った背側の鰭と腹側の鰭)が二叉型に融合しない形質も、ライララパクスによる神経解剖学的証拠[9]に併せて、アノマロカリス類は真節足動物のクラウングループに属するもの[10]や汎節足動物以外の脱皮動物(環神経動物)に類縁するもの[11]ではなく、節足動物のステムグループ(初期脇道系統)に属する基盤的な節足動物である説を支持する証拠とされる[1](アノマロカリス類#分類も参照)。 アノマロカリス類の体制への再検討 エーギロカシスの発見により、従来のアノマロカリス類の化石についても、背側の鰭の有無の再検証がなされるようになった。少なくとも一部のペユトイアの化石から、大きな鰭の基部と重なる小さな鰭の存在が確認された。一部のフルディアの化石からも、背腹2対の鰭らしき痕跡が見られる[1]。この2種は、いずれもエーギロカシスと同じくフルディア科に分類されるアノマロカリス類である。一方、アノマロカリスとアンプレクトベルア科の化石には背側の鰭が発見できなかった。そのため、これらのアノマロカリス類の背側の鰭は単に化石に保存されず、もしくは胴体部のが二次的に退化してsetal bladesのみを残し、尾部のが扇状の尾鰭に特殊化していたと考えられる[1]。これにより、背側の鰭はアノマロカリス類の中でフルディア科に特有する共有原始形質である可能性も示唆している[1]。 また、鰭の筋らしき構造「tranverse rods」と背中に見当たる鰓らしき櫛状構造「setal blades」の構成も、本種の発見により書き換えられた。従来、tranverse rodsは切り目のない一連のロード状の構造で[12]、setal bladesは体節の背側に沿って繋がる部分であると思われた[2]。しかし本種の発見により、それぞれのtranverse rodsは多数の管状構造に細分され、setal bladesは胴体部の背側に接続せず、代わりに背側の左右両端に付いた背側の鰭の基部のみに接続し、そこからお互いに背側の正中線に向かって伸びていた(エーギロカシスとペユトイアの場合は更に左右融合した)独立の附属体であることが明らかになった[1]。 オルドビス紀の生態との関係性 オルドビス紀にエーギロカシスのような大型濾過摂食が存在することは、オルドビス紀における生物多様性が急速に上昇する現象「Great Ordovician Biodiversification Event 」(GOBE)は、プランクトンからなる生態系までにも及ぶことを示唆する[1][7]。 注釈 脚注 関連項目 アノマロカリス類 タミシオカリス フルディア科 フルディア ペユトイア Gilled lobopodians 二叉型付属肢 濾過摂食 Great Ordovician Biodiversification Event 外部リンク - イェール・ピーボディ自然史博物館によるエーギロカシスの紹介映像(英語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%AD%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%82%B9
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 266, 441, 676, 938, 1102, 1241, 1813, 2016, 2181, 2523, 2801, 3078, 3203, 3307, 3422, 3714, 3808, 4535, 5269, 6690, 7314, 7703, 7803, 8256, 8886, 9391, 10082, 10857, 11128, 11629, 12575, 12919, 13469, 13895, 15219, 16307, 17349, 18857, 19615, 19998, 20924, 21175, 21476, 22264, 23009, 23362, 24196, 25037, 25617, 25863, 26199, 26894, 27210, 27716, 28135, 28504, 28940, 29471, 29927, 30780, 31152, 31366, 31951, 32405, 32528, 32864, 33352, 33771, 34712, 35549, 36344, 36988, 37653, 38392, 38598, 39628, 39962, 40350, 40904, 42301, 42778, 43177, 43650, 43935, 44756, 45263, 46477, 46861, 47399, 47914, 48986, 49370, 49962, 50713, 51761, 52707, 53072, 53864, 54449, 54742, 55300, 56191, 56965, 57295, 57636, 57903, 58900, 60015, 60302, 60775, 61663, 62103, 63391, 63701, 64056, 64557, 65140, 65694, 67118, 67380, 67898, 68497, 69020, 69222, 69938, 70485, 71255, 72101, 72573, 73218, 73830, 74487, 74851, 74985, 75682, 76372, 77225, 77502, 77909, 78405, 78458, 78516, 79115, 79318, 79417, 80062, 80595, 81053, 81799, 82196, 82490, 82658, 82976, 83878, 84222, 85081, 86317, 86809, 87598, 88121, 88317, 88563, 88827, 89522, 90112, 91078, 91580, 91758, 91940, 92539, 93387, 93979, 94413, 95196, 95786, 96786, 97289, 101590, 102626, 103347, 103849, 104273, 104679, 105430, 105610, 105888, 107643, 108792, 109734, 110461, 111823, 112441, 113639, 114369, 114831, 115137, 115597, 115957, 116851, 116914], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 265, 440, 675, 937, 1101, 1240, 1805, 2015, 2180, 2522, 2800, 3077, 3202, 3306, 3421, 3713, 3799, 4534, 5268, 6689, 7313, 7680, 7802, 8226, 8885, 9390, 10049, 10856, 11128, 11598, 12574, 12918, 13468, 13864, 15218, 16307, 17325, 18856, 19614, 19997, 20924, 21154, 21475, 22263, 23008, 23330, 24195, 25036, 25588, 25862, 26198, 26894, 27189, 27693, 28134, 28503, 28905, 29470, 29926, 30768, 31151, 31364, 31949, 32395, 32519, 32855, 33351, 33757, 34691, 35548, 36343, 36987, 37633, 38391, 38596, 39627, 39961, 40349, 40903, 42300, 42777, 43176, 43649, 43919, 44755, 45262, 46476, 46860, 47378, 47913, 48985, 49349, 49936, 50712, 51732, 52687, 53071, 53863, 54414, 54741, 55274, 56159, 56921, 57257, 57635, 57871, 58889, 60005, 60301, 60774, 61662, 62093, 63390, 63700, 64040, 64556, 65139, 65680, 67117, 67359, 67886, 68496, 69019, 69221, 69937, 70484, 71235, 72100, 72572, 73208, 73829, 74486, 74842, 74984, 75681, 76371, 77224, 77501, 77899, 78404, 78457, 78515, 79114, 79309, 79408, 80061, 80594, 81052, 81798, 82195, 82479, 82657, 82975, 83848, 84221, 85080, 86233, 86808, 87597, 88120, 88316, 88562, 88826, 89521, 90111, 91046, 91579, 91757, 91911, 92538, 93386, 93978, 94385, 95173, 95772, 96772, 97279, 101571, 102625, 103337, 103848, 104231, 104678, 105415, 105599, 105871, 107608, 108784, 109708, 110447, 111800, 112430, 113609, 114368, 114791, 115136, 115596, 115956, 116828, 116893, 117318], dtype=int32)}
アメリカで公教育がはじまったのはいつ
アメリカ合衆国
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、English: United States of America)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[3646,3656,3,3]}'>アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である[1][2]。 アメリカ本土の48州および同国首都ワシントンD.C.(コロンビア特別区)は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。 アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。 同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。 同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多数の国からの大規模な移住の産物とされている[3]。 また同国の広大な国土における地理および気候も極めて多様であり、多種多様な野生生物が存在する。 米国は先進国かつ世界最大級の国民経済を有する[4]。同国経済は、豊富な天然資源と高度な労働者の生産性により支えられている[5]。同国経済は脱工業化社会だとされている一方、世界最大の製造国のうちの1つであり続けている[6]。同国は世界の軍事支出の37%を占め[7]、世界最高位の経済・軍事大国であり、多大な影響を及ぼす政治・文化的勢力であり、科学研究・技術革新におけるリーダー的存在とされている[8]。 概要 約1万5千年前、パレオ・インディアンはユーラシア大陸から現在の北アメリカ大陸本土に移住し、ヨーロッパ諸国による植民地化は16世紀に始まった。 現在の米国は、大西洋沿岸に沿って位置する13植民地が発祥である。英国及び同植民地間の紛争により、米国は独立した。 1776年7月4日、アメリカ独立戦争における英国との交戦時、同植民地の代表はアメリカ独立宣言を全会一致で発布した。1783年、同戦争は英国からの米国独立の承認により終結し、ヨーロッパの植民地帝国を相手に成功した世界初の独立戦争となった[9][10]。 1787年9月17日、現在のアメリカ合衆国憲法が起草された。集合的に権利章典と名付けられた最初の10の修正案は1791年に批准され、多数の基本的な市民の権利及び自由を保証することを目的として策定された。 マニフェスト・デスティニーの教義に駆られることにより、19世紀を通して米国は北米を横断する頑強な拡大に着手した。これは、先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州を含む[11]。 同国史上唯一の内戦である南北戦争は、同国における合法的な奴隷制を終焉に至らせた[12]。 19世紀末までに、同国は太平洋まで拡大し[13]、同国経済は成長し始めた[14]。 米西戦争及び第一次世界大戦は、世界的な軍事大国としての同国の地位を裏付けた。 第二次世界大戦から同国は世界的な超大国として浮上し、世界初の核兵器を開発した国で、日本への原子爆弾投下により戦争において核兵器を使用した唯一の国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国でもある。 冷戦及びソビエト連邦崩壊は、米国を唯一の超大国とした[15]。 国名 1507年、ドイツ人地図製作者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家及び地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチの名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した[16]。「United States of America」という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官および検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付けの手紙である。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した[17]。 「United States of America」という言葉が最初に公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセイである[18][19]。1776年6月、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の「原草稿」の見出しに全て大文字で書かれた「UNITED STATES OF AMERICA」という言葉を加えた[20][21]。独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された[22]。1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『United States of America』と定める」と規定した[23]。 短縮形は"United States"が標準的であり、他の一般的な形式は、"U.S."、"USA"および"America"である。ほかに口語での名称として"U.S. of A."があり、国際的には"States"がある。18世紀後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名に見られる[24]。英語以外の言語において、アメリカの名称は"United States"又は"United States of America"のいずれかの、口語では"America"の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称は時々用いられる[25]。東アジアでも、"America"を「亜米利加」「米利堅」「美利堅」などと音訳し、"United States"を「合衆国」と翻訳することで、日本語では「アメリカ合衆国」「米国」、中国語や韓国語では「美利堅合衆國」「美国」と漢字表記する。この漢字表記は歴史上一定していたわけではなく、「亜墨利加」「亜国」などの表記が用いられたことがあった[26]。一方、英語名称の翻訳を由来としない名称としては、ベトナム語でのアメリカの名称である「Hoa Kỳ」があり、これは中国南部でのアメリカ合衆国の国旗の古称「花旗」およびアメリカの古称「花旗国」に由来する。 "United States"という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条にみられる、"the United States are"のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、"the United States is"のように単数形として扱うことが一般的になった。現在は単数形が標準的であり、複数形は"these United States"のような慣用句にその形を留める[27]。その違いは州の集合体および単一体の間の違いを反映しており、慣用以上の重要なものとされている[28]。 アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、"Americans"である。"United States"、"American"および"U.S."は、"American values"および"U.S. forces"のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない[29]。 「米国」の由来 日本語での漢字表記は「亜米利加」で、通称「米国」「米」と略される。 「アメリカン」のアクセントが「ア」ではなく「メ」にあったため、幕末期の人たちは最初の発音を聞き取ることが出来ず、聞き取った「メリケン」を漢字で「米利堅」と表記。日米和親条約でも「米利堅」の表記が採用された。当て字の最初の一文字から、「米国」「米」という通称が定着したと言われている。 歴史 新大陸の到達 イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。 これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した後、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓の歴史がはじまった。 後にアメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易したこともあったが、虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた[30]。 アメリカ合衆国の独立 北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐり、対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると、1776年7月4日に独立宣言を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。なお、この7月4日("Fourth of July")は現在も「独立記念日」(Independence Day)として、クリスマス、感謝祭と並び、米国の代表的な祝日となっている。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。 1787年9月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。 アメリカは、「自由」と「民主主義」を掲げたことから、近代の世界史上初の共和制国家としても、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、女性やアフリカ大陸から強制的に連行させられた黒人奴隷、アメリカ先住民の権利はほとんど保障されることはなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなる。 西部開拓と南北戦争 北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れる。未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行ったが、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。 この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。 1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年にエイブラハム・リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、連合国は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別はその後も続くことになる。 南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した(金ぴか時代)。エジソンなどの発明家によって、白熱電球や電話など、現代文明に欠かせない発明が次々に行われ黄金時代を迎える基礎を築いた。 海外進出と世界恐慌 南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年には、アラスカをロシアから購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。1899年-1913年にかけてフィリピンを侵略。米比戦争を行い数十万人のフィリピン人を虐殺し独立を鎮圧する。1900年には義和団の乱平定に連合軍として清に派兵する。1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する締め付けを強化した。1914年7月28日にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守る一方、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領し、軍政を敷くなどの西半球における権益確保政策を採った。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦した。1918年には共産主義の拡大を警戒してシベリア出兵を行った。 1918年11月11日に終結した第一次世界大戦後は、1919年のパリ講和会議でウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止[31]に大きな役目を担ったが、モンロー主義を唱えてヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益の維持をしようとするアメリカ合衆国上院の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。国内では首都ワシントンを始めとする多くの都市で「赤い夏」などの人種暴動により数万人が死傷した[32]。1924年には排日移民法を施行するなど人種差別政策を強めていった。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍に率いられたゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交(Good Neighbor policy)に外交政策をシフトした。 続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」(Roaring Twenties)が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で起った株の大暴落「暗黒の木曜日」がきっかけとなり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いた。フランクリン・ルーズベルト大統領が行ったニューディール政策により経済と雇用の回復をめざしたが、1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方でドイツ、イタリア、日本などでナチズム、ファシズム、軍国主義が台頭し始め、後に起こる第二次世界大戦の引き金になっていった。 第二次世界大戦 1939年9月1日にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を行い、日本のアジア進出に対してABCD包囲網を形成した。1941年12月7日(日本時間:12月8日)には、日本による真珠湾攻撃が行われ、イギリスやソ連などが中心となって構成された連合国の一員として参戦した。開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦った。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回に亘る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やナチス・ドイツ、イタリア王国などの枢軸国との戦闘でも大きな役割を果たした。1943年頃からは、ヨーロッパ戦線や南太平洋戦線において本格的な反攻作戦を開始し、ドイツや日本に対する戦略爆撃・無差別爆撃を実施した。日本本土空襲の中でも1945年3月10日の東京大空襲では推定約14万人が死傷した。 1945年5月8日にはドイツが連合国に対し無条件降伏した。1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成。同年、世界で初めて一般市民を標的に日本の広島(8月6日)と長崎(8月9日)に投下し、人類史上初めての核兵器による攻撃で推定約29万人が死傷した。続いて同年8月15日には日本もポツダム宣言受諾により降伏し、同年9月2日の日本全権による降伏文書調印をもって第二次世界大戦は終戦となった。GHQ参謀第2部(G2)部長であったチャールズ・ウィロビーアメリカ陸軍少将は「日本を"征服"した」と述べている[33]。 第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満〜1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を行い、著しい軍事偏重状態になり、軍産複合体が政治に影響力を行使するおそれがあると批判されるようになった。 連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が地理的には離れていたことから国土にほとんど戦災被害を受けなかった。戦勝国として日本の委任統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たな信託統治領として手に入れるとともに、敗戦後の日本やドイツをはじめ占領国や進駐国に大規模なアメリカ軍基地を造設し、共産圏を除く世界を影響下に置くこととなった。1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[34]。 以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。 ソ連との冷戦 第二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との冷たい戦争が始まった。一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。 冷戦においては、ソ連を盟主とした東側諸国の共産主義・社会主義陣営に対抗する西側諸国の資本主義・自由主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、台湾(中華民国)などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わなかった。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んで行った。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ大統領の時にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機も度々発生した。 冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対してもパナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行った。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターを起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困をもたらす結果となっていった。 同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、台湾(中華民国政府)など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差を生み出し、後に東欧革命の原動力の一つになった。 人種差別と公民権運動 「民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で認められ、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚するのを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[35]。1960年代にはこの様な状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行った結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。 しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまでヨーロッパ系移民およびその子孫が人口の大半を占め、社会的少数者の先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、アジア系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない(アメリカ合衆国の人種差別)。それは就職の際の格差等から、警察官が人種の相違を理由に不公平な扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺の国家的行為に基づく歴史的事実については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。 人権擁護団体「南部貧困法律センター」によると、2009年にバラク・オバマという初のアフリカ系黒人大統領が誕生して以降、ヨーロッパ系白人の非白人種に対する反発が強くなり、人種偏見に基づくとみられる事件が増加および過激化しており[36][37][38]、南部では共和党員の約半数が異人種間結婚(白人と非白人の結婚)は違法にするべきと世論調査会社「パブリック・ポリシー」の調査に回答している[39]。 貿易赤字と単独主義 石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業の1つである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本などの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。 1980年代に入ると、日本との貿易摩擦が表面化し、議員がハンマーで日本製品を壊すという現象(ジャパンバッシング)も生まれた。近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張している他[40]、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。 1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊によって、唯一の超大国として「世界の警察」(globocop)と呼ばれ[41][42][43][44][45][46][47]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を維持し続け、1989年にはパナマ侵攻、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。パナマ侵攻は国連での手続きもないアメリカ単独の武力侵攻のため、国連総会は軍事介入を強く遺憾とする決議を採択した[48]。 経済がグローバル化し冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党のビル・クリントン大統領政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。 テロとの戦い 21世紀に入って間もなく、2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境に「テロとの戦い」を宣言して世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。 イラク侵略戦争 2002年にはイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、2003年3月には、イラクを大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。ジョージ・W・ブッシュ大統領はイラクの大量破壊兵器保有の情報が誤りであったことを認めた。 2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲等の監視が可能となり、アメリカで事業展開する通信機器メーカーは全て製品にこれを実現する機能を具備することが義務付けられている(詳しくはCALEA)。 ノーベル平和賞を受賞した南アフリカ共和国のデズモンド・ムピロ・ツツ元南アフリカ聖公会大主教は、イラク戦争開戦の責任を問い、ジョージ・W・ブッシュ大統領とトニー・ブレア元英国首相をアフリカとアジアの指導者たちと同様に裁くため国際刑事裁判所に提訴するよう呼び掛けている[49]。 一極支配の弱まりと現在 2009年に「変革」と「国際協調」を訴えたバラク・オバマ大統領が就任した。オバマは人種差別のさらなる解決や国民皆保険の整備、グリーン・ニューディール等の政策を通じた金融危機、環境問題、国際情勢の改善に積極的に取り組むことを表明した。オバマが「アメリカは世界の警察をやめる」と宣言してからは[50][51]、中華人民共和国やロシアとの新冷戦などといった問題が起きている。 2017年、ラストベルト地帯における、従来は民主党の支持層であった白人労働者の支持を受けるなどして、「AMERICA FIRST(アメリカ第一)」、「Make America Great Again(アメリカを再び大国に)」といったスローガンを掲げて、その並外れた言動から「暴言王」とも称された、実業家出身で政治経歴のないドナルド・トランプ大統領が就任した。 トランプ政権は、環太平洋パートナーシップ協定(通称:TPP)からの撤退表明、駐イスラエル米国大使館のエルサレムへの移転および同国首都としてのエルサレムの承認、シリアへの空爆、メキシコからの不法移民規制、気候変動抑制に関する多国間協定(通称:パリ協定)からの米国離脱宣言、イラン核合意からの離脱、国連人権理事会からの離脱、ホワイトハウス報道官やCIA(中央情報局)長官、国務長官などの相次ぐ政府高官人事の交代、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の第3代最高指導者である金正恩朝鮮労働党委員長との史上初の米朝首脳会談の開催など、内政・外交面ともにさまざまな課題に直面している。 政治 政治体制は50州とコロンビア特別区で構成される連邦共和制国家である。それぞれの州は高度な自治権を持っているが、連邦政府の有する権限は非常に強大である。連邦政府は、立法、行政、司法の三権分立制をとるが、その分立の程度が徹底しているのが大きな特徴である。 元首であり、行政府のトップである大統領は、間接選挙で大統領選挙人を介し、選出される。任期は4年で3選は禁止。行政府は、大統領と各省長官が率いる。 立法府は上院と下院から構成される両院制(二院制)の議会である。上院は、各州から2議席ずつの計100議席、任期は6年で2年ごとに3分の1ずつ改選。下院は、各州の人口を考慮した定数の合計435議席(その他に投票権のない海外領土の代表など5人)からなり、任期は2年。一般的に、上院は上流層の意見を反映し、下院は中流層、下流層の意見を反映しているとされている。大統領は上下両院のバランスをとる役割を期待されている。 議席は歴史背景から共和党と民主党による二大政党制が確立している。基本的に東西両海岸沿いに民主党支持者が多く、中部に共和党支持者が多いと言う地域的特色があると言う調査結果が出ている(赤い州・青い州)。他にも少数政党はいくつか存在するが二大政党を覆す程には至らず、時折選挙戦で注目を浴びる程度である。 法律 イギリスから独立した経緯から、アメリカ法にはイギリスの法思想の影響が大きい。 憲法 アメリカ合衆国はイギリスの不文憲法の伝統から離れて、成文憲法を成立させた。アメリカ合衆国憲法は合衆国に連邦の構造を与え、立法、行政、司法の三権分立とその相互抑制均衡を成文で制度化している。また基本権のカタログでもある。 州法 各州が独自の立法機関を設置し独自の州憲法と州法を有する。連邦法は全州にわたって効力を有するものとして上位に位置するものではあるが、連邦主義により各州の自治が歴史的に尊重されていたこともあり、日本における地方自治体の条例に比べると、各州法の地位はかなり高く、United Statesの名のとおり、独立国にも比する強大な自治権を認められている。 アメリカ合衆国憲法により、連邦法を制定することができる分野は、国家としての対外的な規律に関わる問題や、州を跨ぐ通商に関連する事項等に限定されていることから、会社法や刑法などの一般的法律も州法において規定されている。これらの影響により現在も禁酒法がところにより残っている。 訴訟社会 訴訟社会としても知られ、国内に弁護士が100万人もおり[52]、人口比では日本の25倍になる。アメリカ人自身からも行き過ぎによる弊害がたびたび指摘され、いわゆるマクドナルド・コーヒー事件はその代表例として有名になった。これは国民が多文化・多宗教の混合であるため、共通する価値判断基準が法律以外にないからだという意見がある。日本では制限されている弁護士の宣伝広告活動が認められていることから、弁護士本人が出演するCMがテレビで放送されることもある。営業活動に熱心な弁護士を揶揄するアンビュランス・チェイサー(事故で負傷者が出ると、搬送先の病院で賠償請求訴訟を起こすよう勧めるため救急車を追いかける弁護士の意)というスラングがある。 法の下の平等 独立宣言には『すべての人民は法のもとに平等である』と謳われており、全ての国民は国家との法的権利義務において等しく扱われ、人種、信条、性別によって不当な扱いを受けないという原則を示している。この原則はアメリカ合衆国憲法修正第14条に端的に現れている。しかし実際のところ、女性、黒人奴隷および先住民が真の法の下の平等を勝ち取ったのは建国から200年近くも後のことである。アメリカ合衆国で女性参政権が認められたのは1920年であり、アフリカ系アメリカ人と先住民族が法のもとに他の人種と同等の権利を保証されるようになるまでには20世紀半ばの公民権運動の勃興を待たねばならなかった。 19世紀後半以降にアメリカ合衆国への移民が増加するに従い、アングロ・サクソン系以外の移民を制限するための法律が連邦議会で次々に可決された。1882年に中国人(当時の国名は清)の移民を禁止する中国人排斥法が制定され、1924年には日本で「排日移民法」として知られているジョンソン・リード移民法が制定されて、新たに移民できる外国人の数を合衆国内にすでに居住している同じ人種の人口によって決めることで実質的にアジアと東欧および南欧からの移民を制限した。連邦レベルで移民の人種的制限が完全に撤廃されたのは1965年のハート・セラー移民帰化法においてである。 第二次世界大戦が勃発すると、米国西海岸に居住する日系アメリカ人は米国の市民権を持つアメリカ人であるにもかかわらず「敵性外国人」として市民権を剥奪され、強制収容所に送られた(詳しくは日系人の強制収容を参照)。同じ理由から、アメリカの影響下にあったラテンアメリカ13カ国の日系人もアメリカに強制連行された。この一連の強制収容により多くの日系人が財産や生活の基盤を失い、戦後7年が過ぎた1952年の移民国籍法の施行まで市民権は回復されなかった。 「自由の国」を自称しているとはいえ、上記のように法の上での人種差別が近年まで残っていた上、現在も人種差別はあらゆる場面にみられる。ピューリタニズム・キリスト教右派の考えの影響から性に関する問題には厳しいところもあり、州によっては婚前交渉や同棲が認められておらず、刑罰の対象となる場合もある。妊娠中絶を合法化すべきかどうか、死刑制度を認めるかどうかなどの点で宗教的価値観などの多様性を背景とした国家レベルでの議論が繰り返されている。 警察 軍事 アメリカ軍はアメリカ陸軍、アメリカ海軍、アメリカ海兵隊、アメリカ空軍、アメリカ沿岸警備隊の五軍から成り、陸海空軍と海兵隊はアメリカ国防総省の、沿岸警備隊はアメリカ合衆国国土安全保障省の管轄下にある。また、統合軍として地域別、機能別に編成されており、アメリカ合衆国国内以外にも、イギリス、イタリア、ドイツ、日本(在日米軍)、大韓民国(在韓米軍)、カタール、キューバ(グァンタナモ米軍基地)、クウェート、サウジアラビア、ジブチ、スペイン、トルコ、バーレーン、ベルギーなどに在外米軍基地が存在する。 また、核兵器をはじめとする大量破壊兵器を保有しており、第二次世界大戦では核兵器が、ベトナム戦争では化学兵器(枯葉剤)が実戦に使用された。 アメリカ合衆国の経済において、軍需産業は最大の産業または基幹産業または主要な産業であるとの、検証可能性を示さない伝聞情報が広く流布されているが、アメリカ合衆国政府が公開している経済統計や財政統計を検証すると事実ではない。軍需産業は他の産業と異なり、軍隊が唯一の消費者であり、社会全体を消費者とする産業と比較すると市場規模は限定される。軍需産業は高度な付加価値の素材や部品や機器やシステムを統合する産業であり、科学技術と素材や部品や機器やシステム産業の基盤が無いと成り立たない産業である。軍需産業に対する発注はアメリカ合衆国の経済や社会の状況と国際情勢と軍事政策に影響され、軍が望む予算や武器の購入は連邦議会で審議され、連邦議会が承認して可決し大統領が署名した予算分だけしか発注されない。 アメリカ合衆国のGDPに対する軍事費の比率は、1901年〜1917年は1%未満で推移していた。第一次世界大戦に参戦して大規模な軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は、1918年は8.0%、1919年は13.9%に増大し、20世紀以後では三番目に大きな比率になった[54]。 第一次世界大戦終結後は大規模な軍縮が行われ、GDPに対する軍事費の比率は、1920年〜1921年は2%台、1922年は1%台、1923年〜1931年は1%未満、1932年〜1933年は1%台、1934年〜1935年は1%未満、1936年〜1940年は1%台で推移し[55]、第二次世界大戦以前は平時にはGDPに対する軍事費の比率が小さい国だった。 第二次世界大戦への参戦を想定しイギリスとソ連に武器を供給した1941年はGDPに対する軍事費の比率は5.6%、第二次世界大戦中に参戦して20世紀以後では史上最大の軍拡が行われ、GDPに対する軍事費の比率は1942年は17.8%、1943年は37.0%、1944年は37.8%、1945年は37.5%に増大し、20世紀以後では最大の比率になり[56]、著しい軍事偏重体制になり、軍産複合体が政治に影響力を行使する恐れがあると批判されるようになった。 第二次世界大戦終結後は大規模な軍縮をしたが、冷戦体制になり、GDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦以前の状態には減少せず、軍事費の比率が大きい状態が継続した。朝鮮戦争に介入して軍拡をして、1953年のGDPに対する軍事費の比率は14.2%になり、20世紀以後では二番目に大きくなった。朝鮮戦争停戦後の1954年〜1960年は軍縮をしたが、冷戦初期の軍拡競争が激しい時代で、GDPに対する軍事費の比率は13.1%〜9.3%で推移し、20世紀以後では四番目に大きな比率になった。ベトナム戦争に介入して軍拡して、GDPに対する軍事費の比率は1961年〜1968年は9.4%〜7.4%で推移し、20世紀以後では五番目に大きな比率になったが、1960年代は経済成長率が高く経済成長率が軍事費の増加率より大きかったので1950年代よりは比率は減少した。1969年以後はベトナムからの軍の撤退が進み大規模な軍縮をして、ベトナムから全軍撤退した1974年にはGDPに対する軍事費の比率は5.8%に減少し、冷戦の軍事対立緩和により軍縮が進んだ1979年には4.6%に減少した。1980年代は冷戦時代最後の米ソ軍拡競争になり、1986年にはGDPに対する軍事費の比率は6.2%に増大した。 冷戦終結後は大規模な軍縮をして、GDPに対する軍事費の比率は著しく減少した。1998年〜2000年のGDPに対する軍事費の比率は第二次世界大戦後では最小の3.0%になり、1999年〜2001年のGDP[57]に対する軍事費のうちの武器購入費(=軍需産業の市場規模)の比率は0.5%であり、軍需産業は最大の産業でも基幹産業でも主要な産業でもなくマイナーな産業である[58]。 2002年以後はアフガニスタンとイラクでの戦争のために軍拡をして、GDPに対する軍事費の比率は2008年には4.3%に増大したが、アフガニスタンとイラクでの戦争終結後は軍縮をすると予想され、GDPに対する軍事費の比率は冷戦終結後の1990年〜2001年までの比率よりもさらに減少すると予測されている。 第二次世界大戦後から2009年現在にいたるまで、アメリカ合衆国の経済を構成する産業の多様化と、政府の行政サービスの多様化の結果、GDPと連邦政府支出に対する軍事費の比率と、経済に対する軍需産業の比率は、単年度や数年間の増減はあっても、第二次世界大戦時をピークとして長期的には減少傾向が継続し、今後も継続すると予想されている。 ストックホルム国際平和研究所の統計によると、2007年の世界の総軍事費に対して、アメリカ合衆国の軍事費は45%を占め[59]、世界最大の軍事力大国・軍事費大国・軍需産業大国・武器輸出大国である。 国際関係 アメリカは経済、政治、軍事において膨大な影響力を保持しており、その外交方針は世界的な関心を集める。国際連合本部はニューヨークに置かれ、国連における議決機関安全保障理事会の常任理事国として強い権限を握る。他に主な加盟機関として、北大西洋条約機構、太平洋共同体、米州機構があり、主要国首脳会議構成国でもある。親密な関係を有する国としてはイギリスやオーストラリア、ニュージーランド、イスラエル、日本、韓国、中華民国(台湾)、およびNATO加盟国があり、中でもイギリスとは「特別な関係」と呼ばれる強固な絆で結ばれ、軍事上や核兵器の情報、技術共有も行われている。 米西戦争以前は、モンロー主義に代表されるような孤立主義政策だったが、米西戦争以後は、後発帝国主義国として外国への軍事介入や傀儡政権を樹立して間接支配する外交政策を繰り返した。20世紀初期から第二次世界大戦までの期間に、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、メキシコに軍事介入し、メキシコ以外の前記の諸国に傀儡政権を樹立した。 第二次世界大戦後は戦勝国となった上に国土にほとんど被害を受けなかったこともあり、大戦後に起きた冷戦において、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営に対抗する、日本やイギリスなどの資本主義陣営の事実上の盟主的存在として、「自由と民主主義の保護」の名の下、朝鮮戦争やベトナム戦争など世界各地の紛争に介入している。冷戦中は「反共」またはアメリカ合衆国の外交に協力的という理由で、キューバ、パナマ、ニカラグア、ドミニカ共和国、ハイチ、グアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドル、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、ボリビア、ベネズエラ、韓国、フィリピン、南ベトナム、カンボジア、イラン、イラク、ザイールなどの各国に傀儡政権を樹立または軍政や王政やその他の独裁政権を支援した。アメリカ合衆国が樹立し間接支配していた傀儡政権は、革命や民主化運動により崩壊が続き、1990年のチリのピノチェト大統領の辞職を最後に全て崩壊した。 中東においては、1947年のパレスチナ分割決議と1948年のイスラエル建国以後、ユダヤ系アメリカ人やイスラエル系ロビイストの影響力からイスラエルの戦争や武力行使による民間人殺傷や占領を正当化または黙認し、中東のイスラム文化圏の国民から反米感情をもたれるようになった。 1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊後は、唯一の「超大国」となり、強大な軍事力を背景にパナマ侵攻やソマリア内戦、イラク戦争など、各国の紛争や戦争に積極的に派兵し、その当事国となった。1979年のイスラム革命後のイラン、1991年の湾岸戦争後のイラクなどの中東のイスラム系国家を対立視することが多いことから、イスラム系国家の国民から多くの反発を買うことになった。 テロ支援国家 一般に、テロ支援国家と言えばアメリカ国務省により発表されている「Patterns of Global Terrorism」に記されているイラン、シリア、スーダンを指す。その他には大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国や朝鮮民主主義人民共和国、キューバ共和国がかつてテロ支援国家に指定されていたが、リビアは2006年に、北朝鮮は2008年に、キューバは2015年にそれぞれ指定を解除された。 実はアメリカ自身も積極的にテロリストを支援している国家と言われる。アメリカによるテロ支援は、主にアメリカ中央情報局(CIA)により秘密裏に実施されていると言われ、実際にCIAによりテロ活動の教育を受けたと言う報告もある。冷戦時代のアメリカはラオス、アフガニスタン、キューバ、ニカラグアなどで主に反共闘争を行う軍事組織に対しての直接的または間接的な支援を実施していた。特にニカラグア内戦でのコントラ支援は有名であり、1986年にイラン・コントラ事件のスキャンダルが発覚した。また、皮肉にも1980年代にアフガニスタン紛争にて合衆国のCIAがアフガニスタンに侵攻したソビエト連邦との戦いを支援していたムジャーヒディーンの一人が、2001年9月11日にアメリカ同時多発テロ事件を実行したテロ組織アルカーイダの司令官、ウサーマ・ビン・ラーディンであった。 冷戦終結後もアメリカの経済的な利益を目的としてフィリピン、パナマ、ハイチ、ベネズエラ、イランなどで、反米政権に対するクーデターの支援などが行われたという説がある。クーデターではないが旧東欧圏の「色の革命」には米国が積極的に関与したと言われる。 日本との関係 いわゆる「黒船来航」で始まった日米関係は日本が鎖国から脱する端緒ともなった。明治維新を経た日本は生糸の輸出を中心に米国との経済関係を深めたが、20世紀に入ると黄禍論の高まりや中国大陸での権益を巡って日米関係は次第に冷え込み、最終的に太平洋戦争で総力戦を戦った。日本の敗戦後、米ソ冷戦を背景に日米同盟が結ばれ、政治・経済・軍事・文化など多方面で主に米国主導の密接な関係を築いている。 日米交流の始まり 1797年(寛政9年)にオランダ東インド会社とバタヴィアで傭船契約を結んだアメリカの船の多くは、セイラムから日本に向けて出航した。そして、1799年にオランダ東インド会社が解散してもなお、日米貿易は1808年(文化6年)まで続いた。ただし、その日米貿易は日本とオランダ商館との関係に配慮した特殊なものであった。アメリカ船が長崎に入港する際は、1795年に滅亡したオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の国旗を掲げてオランダ船を装うよう、すでに雇い主を失っていたオランダ商館から要請された。日本に向けられたアメリカ船は次の通り[60]。 1797年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のイライザ号。 1798年、同上。 1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。 1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。 1800年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のエンペラー・オブ・ジャパン号。 1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。 1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス。 1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。 1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。 1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。 1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。 1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。 1809年、ジェームズ・マクニール船長のアメリカレベッカ号。 黒船来航と国交樹立 19世紀に日本で明治維新を起こすきっかけの一つとなった、1854年2月のアメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる「黒船」の来航を経て、同年3月に日米和親条約を締結し正式な国交を樹立した。その後1859年6月に日米修好通商条約を結んだことにより、両国間の本格的な通商関係も開始された。 1871年12月から翌年7月まで特命全権大使・「岩倉使節団」が、アメリカ大陸を「ユニオン・パシフィック鉄道」、「ペンシルバニア鉄道」を使って横断している。その主なルートはサンフランシスコ港-サクラメント-ソルトレイク・シティ-シカゴ-ワシントン-フィラデルフィア-ニューヨーク-ボストン港であり、当時の様子が、「米欧回覧実記」に克明に記されている[61]。(一部イラスト有)。 緊密化と開戦 その後20世紀に入り、日露戦争の後の1905年9月に行われたポーツマス条約締結時の仲介などを経て、両国間においての貿易、投資や人事的交流が急増するなどその関係を深める。第一次世界大戦時には、イギリスなどとともに連合国同士としてドイツに対して共に戦った。 しかしその後アメリカでは、急速にその存在感を増す日本に対しての、黄色人種に対する人種差別的感情を元にした警戒感が強まった。1930年代に行われた日本の中国大陸進出政策に対するフランクリン・D・ルーズヴェルト政権による反発や、第二次世界大戦勃発後の1940年6月にフランスのヴィシー政権がドイツと休戦したことに伴い、日本軍が仏領インドシナに進出したことに対して不快感を示し、同政権が対日禁輸政策を取るなどその関係は急速に冷え込んだ。アメリカ国務省のスタンリー・クール・ホーンベックは日中が泥沼の戦いを続ける事がアメリカの利益だと述べている[62]。 アメリカもフィリピンを武力で植民地化していたが、日本に対して中国大陸に保有する全ての権益放棄と最終的な撤兵を要求するハル・ノートによって両国関係は修復不能になり、1941年12月7日に日本海軍により行われたハワイのオアフ島にあるアメリカ軍基地に対する攻撃、いわゆる「真珠湾攻撃」以降、日米両国は枢軸国と連合国に別かれ敵対関係になり、太平洋戦争において戦火を交えることになった。 日米安全保障体制の構築 1945年8月の日本の連合国に対する敗戦に伴い連合国の主要な占領国として参加し、1951年9月に交わされたサンフランシスコ講和条約の発効までの間、イギリスやフランスなどの連合国とともに日本の占領統治を行った。 以降2国間で日米安全保障条約を締結して旧ソ連や中華人民共和国などの軍事的脅威に対して共同歩調をとり続けるなど、友好的な関係を築いている。日本にとって、アメリカは安全保障条約を正式に結んでいる唯一の国でもある(アジアには集団安全保障体制が存在せず、中華民国や大韓民国などの中華人民共和国と北朝鮮を除く各国が個別に、アメリカと安全保障条約関係を締結している)。 冷戦後の日米関係 冷戦が終結した現在も日米関係は国際政治や経済活動において米国の強い主導化のもとに、両国間の貿易や投資活動はその規模の大きさから両国経済だけでなく世界経済に大きな影響力を持つ。2006年10月に発生した北朝鮮の核実験における対応や、同国による日本人拉致事件でもある程度共同歩調をとっているが、アメリカの北朝鮮への援助が北朝鮮の核保有後も繰り返されている。2007年7月30日、アメリカ合衆国議会は、日本政府によって慰安婦にされたとする者への謝罪や歴史的責任などを要求するとしたアメリカ合衆国下院121号決議を出している。日本は韓国や中国に対する賠償問題は全て解決済みとの立場であり、応じていない。 日本の常任理事国入り ジャーナリストの手嶋龍一は麻生太郎元首相との対談の中で、ブッシュ政権が日本の常任理事国入りを可能にする案を提示しなかったため、事実上これによって日本の常任理事国入りは潰されたと述べた[63]。一方で国際問題評論家の古森義久は、アメリカは日本一国だけの常任理事国入りを支持していたが日本に加えドイツ、ブラジル、インドも常任理事国入りするG4案は安保理全体の大幅拡大が前提となるため、これに否定的なアメリカが反対したのは明白だったはずで、この小泉内閣の誤算がアメリカの支援を失ったと指摘している[64]。 日本への100兆円規模の拠出要求 福田康夫総理大臣はアメリカ政府から、サブプライム住宅ローン危機による資金不足に対応するため、日本がアメリカのために100兆円規模の資金を拠出するように要求されていたが、理不尽な要求として拒否した[65]。 在沖縄海兵隊のグアム移転 米軍海兵隊のグアム移転経費の日本側負担額について、アメリカは2006年に合意した28億ドルの1.5倍にあたる42億ドルを要求[66]。また、アメリカが負担することで合意していた米軍関連施設の一部の建設費約820億円を日本が負担するよう要求している[67]。 移転経費について日本側は、移転する海兵隊が8千人から4千人に半減することから難色を示していたが、2012年4月に両政府は条件付きながら28億ドルとすることで合意した[68]。 原発ゼロ政策への圧力 2012年9月5日、2030年代に原発ゼロを目指す政府方針を説明した藤崎一郎駐米大使に対し、エネルギー省のポネマン副長官は「日本の主権を尊重する」としながらも「くれぐれも外圧と取られないように注意してほしい。この協議は極めて機密性の高いものだ」と発言。翌6日にはアメリカ国家安全保障会議(NSC)のフロマン補佐官が藤崎大使に対し、「エネルギー政策をどのように変えるかは、日本の主権的な判断の問題だ」としながらも「プルトニウムの蓄積は、国際安全保障のリスクにつながる」と強い懸念を表明するなど、アメリカ側は原発ゼロ政策の閣議決定回避へ圧力を強めた。19日、政府は原発ゼロ政策の閣議決定を見送った[69]。日本共産党はアメリカの日本の原発政策に対する各種言動を内政干渉と強く批判している[70]。 問題点 日米安全保障体制の下で日本が自主外交に消極的であったことや、冷戦時代にアメリカが起こしたベトナム戦争や、存在しないイラクの大量破壊兵器保有を理由に開戦したイラク戦争などにおいて、嘉手納基地や横田基地などの日本国内のアメリカ軍基地が出撃基地として利用されてきたこと、日本国内のアメリカ軍基地周辺において在日アメリカ軍兵士による日本人女性に対するレイプや強盗、殺人事件が多発しているが、日米地位協定により日本側に被疑者の身柄の拘束を最初に行うことが拒否されるケースがあることなどから、日米関係に対する批判も存在する。現在、地位協定の改善に向けて協議が進んでいる。外務事務次官・駐米大使を歴任した村田良平はアメリカの日本に対する在日米軍負担要求について、米軍の沖縄駐留はすべてアメリカ側都合で決定したものであるため筋違いであると述べている[71]。 地理 アメリカ合衆国は本土の48州と、飛び州のアラスカとハワイの2州、連邦直属の首都ワシントンD.C.から構成される。さらに、海外領土としてプエルトリコ、アメリカ領サモア、グアム、ヴァージン諸島などがある。 国土面積は、およそ930〜960万 km2とされ、日本(37.8万 km2)の約25倍の規模である。統計によって数値に揺らぎがあるのは、おおむね五大湖水域の処理の仕方に起因するものである。その他の大国と比較すると、ロシア、カナダに次ぐ面積であり、中華人民共和国とは拮抗している。すなわち世界で第3位もしくは第4位の面積を有するということになる。 本土は北アメリカ大陸の中央部と北西にあり、東側は大西洋、南側をメキシコ湾とメキシコ合衆国、西側を太平洋、そして北側をカナダで囲まれる。北側に隣接するカナダとは、北緯49度線、五大湖とセントローレンス川で国境線が引かれ、カナダを挟んで北西にさらに進むと飛び地としてアラスカがある。南側はリオグランデ川を介してメキシコと接する。大陸の東側に南北にアパラチア山脈、大陸の西寄りには南北にロッキー山脈があり、山岳地帯となっている。アパラチア山脈とロッキー山脈の間は大平原になっており、農業や牧畜業が盛んである。大陸の南東端にはフロリダ半島がある。北西部のカナダとの国境地域には五大湖と呼ばれる湖がある。 アパラチア山脈の東側はニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンなどの都市があり人口集中地帯になっている。ロッキー山脈の西側の太平洋沿岸にもロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルなどの大都市がある。五大湖沿岸にはシカゴやデトロイトなどの大都市があるが、大陸の中西部には大都市が比較的少ない。 気候 アメリカの気候は広い国土のために極めて多様である。最北部が北極圏に属するアラスカは、年間を通じて冷涼な気候である。ほぼ全域が亜寒帯に属し、北極圏には寒帯のツンドラ気候が分布するが、南岸部は暖流の影響で西岸海洋性気候も見られる。一方、太平洋上の諸島であるハワイは温暖な気候で、ビーチリゾートとして人気がある。本土では、北東部から北にかけて湿潤大陸性気候が占め、冬は寒いが、夏はかなり暑い。東部から中央部は亜寒帯湿潤気候だが、グレートプレーンズ周辺や、カナダとの国境部では暑くなる日も多い。エリー湖やオンタリオ湖南岸はアメリカの平野部で最も降雪量が多いが、日本の日本海側と比べるとかなり少ない。南東部から南部は温暖湿潤気候で、フロリダ南端ではサバナ気候が見られる。西部は一般的に乾燥していてステップ気候が広く見られ、メキシコ国境付近では砂漠気候が確認できる。さらに、太平洋岸南部は地中海性気候だが、太平洋岸北部へ進むとアラスカ南東端と同じく西岸海洋性気候となる。 自然災害には、メキシコ湾岸の集中豪雨、メキシコ湾岸と大西洋岸南部のハリケーン、中央部の平原に多い竜巻、カリフォルニア州の地震、南カリフォルニアの夏の終わりのスモッグと山火事、五大湖や東海岸の大雪などがある。 アメリカ中西部〜南部からメキシコ湾沿岸にかけての地域は、北極からの寒気を遮る山脈が無いため、緯度のわりに猛烈な冷え込みを記録することがあり、普段は温暖なフロリダ半島北部やメキシコ湾沿岸地域でも氷点下まで下がることも珍しくない。 自然環境 アメリカ合衆国では、在来種だけで約17,000種の植物が確認されており、カリフォルニア州だけで5,000種の植物が現存する。 世界で最も高い木(セコイア)、最も大きな木(セコイアデンドロン)、最も古い木(ブリッスルコーンマツ)は同州に存在する[73]。動物界では400種以上の哺乳類、700種以上の鳥類、500種以上の爬虫両生類、90,000種以上の昆虫が確認されている[74]。 ベーリング海峡でユーラシア大陸と、パナマ地峡で南アメリカ大陸とつながっているため、旧北区と新熱帯区とは同じ種や近縁の種を共有している。ロッキー山脈は低地の生物にとって遺伝子流動の障害となっており、ロッキー山脈の東と西では異なる種の動植物が分布する。熱帯から北極圏にまたがる国土のため、アメリカは多様な動植物相を持つ。ハワイ諸島とカリフォルニア州は世界的な生物多様性のホットスポットである。 しかし、西部開拓期以降には農場開発など人間の営為の障害となる生物を駆除していったためにアメリカバイソンやオオカミなど多くの種が絶滅の危機に瀕することなった。リョコウバト、カロライナインコは駆除の結果絶滅した。約6,500種の外来種が作為的あるいは非作為的に持ち込まれて帰化しており[75]、少数の侵略的外来種が固有の動植物の生存を脅かし、甚大な経済的被害をもたらしている。 自然保護 アメリカにおける動植物の保護の歴史は長い。1872年にイエローストーン国立公園が世界初の国立公園に制定されて以来、連邦政府は57の国立公園とその他の国有地を保護してきた[76]。一部の地域では、人の影響を受けていない環境を長期的に保存するために保護区としての原生地域が指定されている。連邦政府は国土の28.8%にあたる総面積1,020,779マイル(2,643,807km2)を保護しており[77]、大部分は国立公園や国定森林として保護されているが、一部は原油や天然ガス、その他の鉱産資源の採掘や牛の放牧のために賃貸されている。1973年には固有の動植物と生息地を保護するために絶滅の危機に瀕する種の保存に関する法律が制定された。この法律に従って絶滅危惧種と絶滅危機種の現状を観察し、種の存続に不可欠な生息地を保護する機関が魚類野生生物局(The U.S. Fish and Wildlife Service)である。個々の州も独自に種と生態系の保全を行っており、連邦と州の協力を促す制度も存在する。魚類野生生物局や国立公園局、森林局などを統括する内務長官は大統領に任命されるため、生態系の保全も行政の他の部門と同じく政権の優先事項に大きく左右される。 2007年現在、アメリカ合衆国の化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量は中華人民共和国に次いで世界第2位である[78]が、国民一人あたりの排出量は依然として世界第1位である。 地方行政区分 アメリカ合衆国は、50の州(state、Commonwealth)と1の地区(district)で構成されるが、その他に、プエルトリコなどの海外領土(事実上の植民地)を有する。 独立当時、13の植民地にそれぞれ州が置かれた。1959年にハワイ州が州に昇格されるまでの間、各地方の割譲、侵略、買収、併合を経て、現在では50州を持つ。星条旗の帯は独立当時の13州を、星は現在の50州を示している。 経済 大きな経済規模を持ち、その技術開発力と生産力、消費力で世界経済を引っ張る存在である反面、アメリカ文化が資本主義社会の基本である「大量生産・大量消費」の側面を強く持っており、他の先進国と比べても1人当たりの資源消費量が格段に大きいこともあり、「地球環境問題や健康問題の深刻化をもたらした」などと批判されることも多い。アメリカの環境問題と環境状況と環境政策と歴史についてはアメリカの環境と環境政策を参照。 自動車や航空機、コンピュータなど主な工業品の生産、販売数で長年世界一を保っており、その消費量の多さのため世界中の企業が進出している。これらの企業が上場するニューヨーク証券取引所は世界最大の取引高を誇っている。その為世界経済に与える影響力は非常に大きいものがある。アメリカの経済問題と経済状況と経済政策と歴史についてはアメリカの経済と経済政策を参照。 アメリカ合衆国の軍需産業・軍需経済・軍事政策の関連性と歴史と国の経済に対する比率や影響力についてはアメリカの軍需経済と軍事政策を参照。 1981年に大統領となったレーガンは、インフレの抑制、減税による投資促進、規制緩和の促進などにより、経済の供給サイドの強化を図る「レーガノミックス」を行った。インフレ抑制は前政権から続いていたマネーサプライに照準を合わせた金融政策により成果をあげたものの、国防費の増大と大幅減税により財政収支が悪化、そして高金利からドルレートが上昇し、経常収支の赤字が拡大した(双子の赤字)。金融が緩和する過程で株価は上昇をはじめM&Aがブームとなったが、ブラックマンデーにより株高経済は一旦調整した。 1990年代は、日本の経済が長期低迷に陥り、「失われた10年」と呼ばれたのとは対照的に、アメリカ経済は非常に良好なパフォーマンスを示すようになり、「ニューエコノミー」と呼ばれた。低インフレと高成長を両立し、労働生産性も上昇したことから、アメリカ経済は新たな局面に入った、と言われた。1991年3月の景気の谷の後、2001年3月まで10年にわたって景気拡大を続け、世界経済の牽引役となった。 2000年代の初期に入ると、ITバブルの崩壊によって、好調だったアメリカ経済は減速する。2001年9月11日には同時多発テロが発生し、アメリカ経済の減速に拍車をかけた。1980年代から続いている資産膨張を背景にした消費増大はアメリカ経済の根幹となり2007年夏頃まで安定した成長を続けていたが、サブプライムローン問題を発端に、不動産価格の下落から深刻な世界金融危機が起きている。アメリカ国内の経済も深刻な打撃を受けており、2009年にはゼネラルモーターズが経営破綻し、失業率が10パーセントを記録するなど依然厳しい経済状況が続いている。 交通 国民 アメリカ合衆国は元々先住民族であるネイティブ・アメリカンが住んでいた土地に、16世紀からはヨーロッパからの植民者が、17〜19世紀には奴隷貿易によりアフリカからの黒人奴隷が、19世紀からはアジアからの移民が入って来て、さらに人種間で混血が起ったため、「人種のるつぼ」と呼ばれてきたが、実際には異人種が融け合って生活する社会が形成されるよりも、「ゲットー」と称されるアフリカ系アメリカ人居住地域やチャイナタウンが代表するように、むしろ人種による住み分けが起きていることから、近年ではアメリカ合衆国を色々な野菜が入ったサラダに例えて「人種のサラダボウル」と呼ぶことが多くなった。 こうした中で人種差別問題、特にヘイトクライムと呼ばれる人種差別主義者による凶悪犯罪が頻繁に発生し、大きな社会問題となっている他、南部や中西部を中心にKKKなどの人種差別的な団体が未だ半ば公然と活動している地域も存在する。アフリカ系の死刑執行率がヨーロッパ系に比べて極端に高いなど、裁判制度の不公平性も問題となっている。 現在も合法違法を問わず移民が多いことに加え、アメリカの合計特殊出生率は2.0〜2.1前後で横ばいに推移しており非常に安定している。2005年度の合計特殊出生率は2.05と先進国の中ではトップクラスである(移民層の出生率が2.71と高いが、アメリカ合衆国で生まれた女性の出生率も1.98、白人女性に限っても1.85と先進国の中では高い[80])。以上のことから、人口は自然増、社会増双方の要因により増加し続けている。2006年には総人口が3億人を超えたと公式に発表された。 人種 世界でも有数の多民族国家である。2010年の人口統計によると、白人(ヨーロッパ系、北アフリカ系、中東系、中央アジア系、ラテン系)72.4%(2億2355万人)、サハラ以南のアフリカ系(黒人)12.6%(3892万人)、アジア系(東アジア、東南アジア、南アジア系)4.8%(1467万人)、アメリカン・インディアン0.9%(293万人)、太平洋地域の先住民系0.2%(54万人)、2つ以上の人種を祖先とする国民(Multiracial American)2.9%(900万人)、その他6.2%(1910万人)である。 アメリカは英語圏であるためにイギリス系が多いと思われがちだが、最も多いのはドイツ系(17.1%)で、その次がアイルランド系(12.1%)、3番目にイングランド系(9.0%)となっている。スコットランド系やウェールズ系なども含めたイギリス系アメリカ人は13.0%を数え、ドイツ系、アイルランド系、イギリス系で全人口の4割以上を占めている。歴代大統領にはイギリス系以外にアイルランド系やドイツ系とオランダ系とギリシャ系が就任しており、そして2009年時点の現職はアフリカ系である[82]。 また、以前のヒスパニック系は14.5%(4190万人)だったが、2007年のアメリカの国勢調査による人口統計学では、新たに中南米諸国から移住したヒスパニックが18.5%(4527万人)と増加傾向にあり、アフリカ系と減少傾向にあるドイツ系を超える人口構成となっている。 言語 英語(アメリカ英語)82.1%、スペイン語10.7%、その他、ハワイ語やアメリカ・インディアン諸語など アメリカ合衆国には法で定められた公用語はないが、建国の歴史から英語(アメリカ英語)が事実上の国語となっている。2003年には、約2億1500万人(5歳以上の全国民の82%)が家庭で英語のみを使用している[83]。 英語を母語としない国民でもたいていは英語を日常的に使用している。高齢者を除き、基本的な英語の知識は市民権取得の必須条件である。長年にわたる先住民の同化政策の結果、先住民の言語を話せる人口は非常に少なくなっており、十分な保護政策も取られておらず、多くが消滅の危機に瀕している。 アメリカ人の中には英語を連邦の正式な公用語とすることを希望する者が多く、現在30州が英語を公用語に指定している[84]。ニューメキシコ、ルイジアナ、メイン、ハワイの4州では行政上英語以外の言語が事実上の第二言語とされている。ハワイ州では州憲法によりハワイ語と英語が公用語とされており、ルイジアナ州とメイン州ではフランス語が行政上の第二言語である。合衆国加入当時からスペイン(メキシコ)系住民の多いニューメキシコ州は常にスペイン語を非公式な第二公用語としてきた [85][86][87]。 スペイン語の話者は英語についで多く、特にカリフォルニア州、ニューメキシコ州、アリゾナ州、テキサス州などメキシコと隣接する地域やニューヨークやシカゴなどの大都市では日常的に用いられており、国内でもっとも学習者の多い外国語でもある[88][89]。 近年増加傾向にある中南米スペイン語諸国からの移民であるヒスパニックには、英語を不自由なく喋ることのできない者も多いため、銀行のATMやスーパーマーケットのセルフレジなどではスペイン語が選択できるようになっているものも多い。2008年のセンサス[90]による人口予測では、2050年にはヒスパニックの人口は1億3300万人となり、全人口の3割に達する見込みである。 英語以外の言語を州の公用語として認めるかどうかは、単に文化的問題に留まらず州の公文書をその言語で作成する必要があるかどうかという財政的側面があり、選挙でしばしば取り上げられる問題である スペイン語話者が多い州 ( )内は州人口比 アメリカセンサス2004年による[91] ニューメキシコ州(43.27%)、カリフォルニア州(34.72%)、テキサス州(34.63%)、アリゾナ州(28.03%)、ネバダ州(19.27%)、フロリダ州(19.01%)、ニューヨーク州(15.96%)、ニュージャージー州(13.89%)、イリノイ州(12.70%)、コロラド州(12.35%) 宗教 プロテスタント58%、カトリック21%、など(2003年現在)。キリスト教信仰者の比率は、1990年調査時の86.2%から2003年調査時の79%へと年々減少傾向にある。2001年の宗教分布は、プロテスタント 52%、カトリック 24.5%、ユダヤ教 1.3%、その他、イスラム教、仏教、不可知論、無神論、ヒンドゥー教、ユニテリアン (Unitarian Universalist) がそれぞれ0.5%から0.3%である。無宗教は13.2%。 福音派は全人口の4分の1ぐらい[92]。 アメリカ合衆国の現代キリスト教も参照。 米国憲法修正条項第1条は国教の制定を禁じている。しかし、大統領就任式の際に聖書を手に宣誓を行うなど(これまでの大統領が全てキリスト教徒だったからであるが)、米国社会ではキリスト教、特にプロテスタントの存在が非常に大きい。宗教的な理由から進化論を否定する者が多く、「公立校で進化論を教えるなら創造科学も合わせて教えるべき」とするキリスト教系宗教団体が州の教育委員会を相手取り論争を起こした例が数件ある。 ギャラップ調査2007年5月の調査によると、アメリカ人は、「神を信じる」と答えた人が86%、「天国を信じる」と答えた人が81%という結果が出た。 教育 アメリカの教育の特徴は、個人の尊重とプラグマティズムである。 治安 合衆国の犯罪発生率は、地域、州によって大きく異なる。例えば、凶暴犯罪(殺人、強姦、強盗、加重暴行)の2002年時点の発生件数<!-- U.S. Census Bureau -->をみると、人口10万人あたりの合衆国平均は495人だが、州ごとの分布はノースダコタ州の78人から、コロンビア特別区の1633人まで、20倍以上のばらつきがある。日本やイギリス、ドイツなどの他の先進諸国と比べて、都市部、地方にかかわらず銃や麻薬による犯罪が蔓延しているイメージがあるが、統計的にこれは誤りである。 アメリカ合衆国憲法修正条項第2条により民間人も自衛のために銃の使用が許可されている国(ただし、この条項は民兵の武装を認めているだけで、ごく普通の一般市民の武装について言及しているわけではない、という学説もあることに留意)とはいえ、街中に銃砲店が普通にあり比較的簡単に銃を、そしてスーパーマーケットでも実弾が購入出来るという現実は「銃社会」を助長させている。 歴史的な経緯から全米ライフル協会(NRA)は強力な政治的発言力を持つ事実上の圧力団体であり、銃規制につながる立法を再三阻止している。過去数度に亘り何人もの大統領が銃によって暗殺されているほか、銃犯罪による死者の数が、2000年以降に限っても毎年年間10,000人を大きく超えるなど、世界でも例を見ない「銃犯罪大国」である。 成年者による銃犯罪だけでなく、中学校や高等学校において生徒が銃を乱射し死傷者を出す事件が毎年のように発生する事態を招いている。このため銃を購入できる年齢を18歳から21歳に引き上げたり、一部の学校では校舎に入る際に金属探知機による保安検査を行ったりしている。しかし、それでもコロンバイン高校銃乱射事件やバージニア工科大学銃乱射事件など学内における銃乱射事件は防ぎきれていない。幼い子供が家族の所有する、安全装置を解除された銃で遊んでいるうちに誤って自分や友人、家族を撃ち殺してしまう事故も後を絶たない。 ギャングの抗争による殺人事件や人種差別を元にした殺人事件も多く発生する他、外国人観光客や駐在員、留学生などが犯罪に巻き込まれ死亡するケースが毎年のように起きているなど、銃による脅威を受けるのは一時滞在の外国人も例外ではないため、観光客の誘致にも悪影響を与えている。 近年では家庭内における暴力的・性的な過激シーンを含む映画・漫画・ゲームなどが未成年の子供に悪影響を与えているとして規制しようという動きもある。2008年現在、同国は武器貿易条約を採択していない。 保健 米国人の平均寿命は2011年では78.7歳であった[93]。人口一人あたりの保健支出、医薬品消費額はOECD各国中で一位であった[93]。 低所得者層を中心に、ファーストフードの過剰摂取や運動不足、栄養学の知識の欠如により肥満になっている国民が先進国の中で最も多く(2003-2004年度には未成年の17.1%が太り気味で、成年の32.2%が肥満という調査結果が出ている[94])。 また米国ではプエルトリコ自治連邦区を除いて、ユニバーサルヘルスケア制度が実現されていない[93](クリントン政権時代にヒラリー・クリントンによって提案されたが立ち消えになった)。国民の31.6%は公的保険、53.1%は民間保険に加入しているが[93]、近年は民間保険の保険料が高騰しているため、米国国勢調査局は2010年では499万人の市民(人口の16.3%)が保険未加入であると報告した。高額の保険料は米国の国際競争力にも悪影響を及ぼしている。しかし、オバマ大統領はユニバーサルヘルスケアを目指し、2010年に医療制度改革法案(オバマケア)が賛成多数で可決された。これにより、アメリカの医療保険制度は歴史的転換点を迎えた[95]。 所得格差・資産格差 他の先進国と比べて、所得税、贈与税、相続税(遺産税)率の累進性やキャピタルゲインへの税率が低く、資産格差を拡大させている。等価可処分所得を基にしたジニ係数は0.372(2004年、ルクセンブルク所得研究所調べ)で、主要先進国中最高である[96]。 クレジットカード会社による入会審査の基準が緩く、しばしば大学生などを対象に強引な勧誘が行われていることもあり、クレジットカードを入手するのが非常に簡単である。その結果、恒常的にカードローンに依存するワーキングプアが増えている。逆に然るべき期間のカード利用歴(クレジット・ヒストリー、信用情報)がないと商取引で信用されず、いくら現金を持っていても住宅を購入する際などに融資を受けられないことがある。日本と異なり、100ドル札といった高額紙幣の信用が低いため、現金決済よりもクレジットカード決済が好まれる傾向がある。よって、信用が低い層は即時払いのデビットカードを持つことが多い。 高度な学歴社会であり、アメリカン・ドリームを達成できるごく少数の個人を除いて職業や収入、社会的地位は学歴に大きく依存する。自治体の教育関係の予算は学区の税収と予算案に対する住民投票によって決定され、質の高い教育を提供できる教師の確保にも影響するため、公立学校の教育レベルは学区により大きな違いがあり、公立学校で良好な初・中等教育を受けるためには、都市圏の教育に関心が高い裕福層が住む地区に居住する必要がある。私立学校の入学金・授業料は非常に高額で、入学には親の社会的地位や学歴、家柄、寄付金も選考要件となる。低所得層の子女が私立学校に通学できるように教育バウチャーを支給している自治体もあるが、その効果は激しく議論されている。このように、良好な教育を受ける機会は親の収入・資産に依存しており、所得・資産格差が学歴社会を通して次の世代の所得格差に受け継がれることになる。 アメリカ合衆国に対する批判 大量消費、拝金主義、物質主義 第二次世界大戦以前より今日まで、世界を席巻する主要な大衆消費"文化"の母国としてより強く認識されている。大量に供給され短期間に消費される音楽、テレビ番組、ハリウッド映画などの娯楽、自動車、あるいはファストフードやコカ・コーラ等の食品、等々に代表される<b data-parsoid='{"dsr":[79407,79419,3,3]}'>大量消費文化</b>が、世界のどの国よりも支配的である。 すでに1830年代から、アメリカ合衆国は拝金主義的、物質主義的な風潮が蔓延している、と指摘されていた。例えば、アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ合衆国について、ヨーロッパ諸国と比較しつつ、この国(=アメリカ合衆国)ほど金銭欲が人々の心に大きな場所を占めている国は無いと指摘した。アメリカ人が高等教育まで進む場合、「金になる特別の対象にしか向かわない。仕事で儲けるのと同じ態度で学問を研究し、しかもすぐ役に立つことが分かる応用しか学問に求めない。」と、合衆国に拝金主義、物質主義が蔓延していることを指摘した。(De la démocratie, 1835[97]) ニューヨーク連銀によると、2017年3月末の家計の債務残高は12兆7250億ドルで、金融危機時の2008年9月末に記録した過去最高水準(12兆6750億ドル)を500億ドル上回った。学生ローン残高は3月末時点で1.34兆ドルに達し、2008年から2倍に膨らんだ。この事実はアメリカ合衆国の大量消費文化に全く無関係であるという訳ではなく、良くも悪くもアメリカ合衆国は借金文化の定着した国である[98]。 エルマー・ライス(1892年 – 1967年)は、『The Left Bank』(1931年)において、米国の物質主義から逃避するために国外移住をはかる物語を描いた。 アーネスト・カレンバックは1975年に『エコトピア』を出版したが、この本は「アメリカ人の生活にある諸相の中でも消費者主義と物質主義に対する抗議」だったと評されている[99]。 アメリカ合衆国において1980年代以降、かつてないほどに低俗な商業主義(物質主義)が蔓延していることを、ジョン・カーペンターは1988年の映画『ゼイリブ』において戯画的に描いて批判した。 米国の物質主義、拝金主義、利己主義は、他国にも様々な悪影響を及ぼしている。 例えば、近年においては、国内において禁煙運動が進みタバコの消費量が減ったことから、アメリカのタバコ製造会社が、タバコ規制が緩かった東欧の旧社会主義国や、中南米、中華人民共和国等の発展途上国を中心とした市場開拓を積極的に行っていることや、ナイキなどの大手衣類メーカーが製造コスト低減のために、同じく発展途上国において未成年の労働者を安価に大量に酷使していたことなどが大きな批判を浴びている。 米国の大衆消費文化、拝金主義、物質主義は、世界中の多くの国でしばしば「低俗」あるいは「画一的」として嫌悪されている。例えば、ウルグアイ文学の作家、は『』(1900)において、キャリバンによって象徴される物質主義的なアメリカ合衆国文明を批判し、アリエルによって象徴される精神主義的なラテンアメリカ文明を対置して描いてみせた。ロドーの「アリエル主義」は瞬く間にラテンアメリカの青年層の広い支持を集めた。 ただし、他国でも、やはり拝金主義や物質主義的な考え方に染まった者も多く、そういった論者は「米国の大量消費文化は、良くも悪くも経済活動と密接に繋がっているため、各国において消費意欲を喚起し、その結果アメリカ経済ひいては各国の経済を牽引する存在となっている」などと、もっぱら経済面・金銭面にだけ着目し、好意的な論調で語ることも多かった。ただし、2000年を過ぎ、サブプライムローン問題、リーマンショックなどによって米国流の資本主義、拝金主義がその内部に根本的な欺瞞や問題を抱えていたことが露見したり、それが他国民にも深刻な被害をもたらすことが明らかになって以降は、米国流の拝金主義・物質主義を手放しに好意的に扱う論調はかなり減った。 グローバル化の指導役 アメリカ合衆国は、冷戦終結以降急速に進んだグローバリゼーションをけん引した国としても知られている。このことに対する批判として、他国の持っていた独自の良いとされる文化や高いモラルをアメリカ型の資本主義システムが駆逐してしまった、それまで貧富の差が少なかった国に貧富の差が拡大した、文化面やテクノロジーの面などで画一化が進んだなどがある。 また、グローバル化の一種の到達点ともいえる環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の問題は、関係国に大きな波紋を呼んでいる。 しかし、2017年1月23日にアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは、TPPから離脱する大統領令に署名した[100]。 文化 先住民の文化 先住民はしばしば開拓者や建国初期のアメリカ人が新大陸で生き延びるのに多大な貢献をしてきた。ポカホンタス、スクァント(Squanto)、マサソイト酋長、サカガウィアらはアメリカの建国神話に欠かせない存在である。初期の開拓者の男性たちは、未知の土地で生存するためにしばしば先住民のサバイバルの知恵を身につけた。彼らの中には先住民の女性を妻とした者が少なくなく、結果として多くのアメリカ人が先住民の血を引いている。 アメリカの重要な作物であるトウモロコシ、カボチャやウリ、インゲンマメは先住民族が昔から栽培していたものである。現代の防寒着アノラックやパーカは北極圏のイヌイットやエスキモーの防寒着を元にしており、カヤックやカヌーは現在でも先住民族の使っていたもののデザインを忠実に受け継いでいる。大平原の先住民族の伝統的な携帯保存食のペミカンは世界各国の南極探検隊にも採用された。 ニューヨーク州立大学バッファロー校のドナルド・A・グリンド・ジュニア博士(Donald A. Grinde Jr.)をはじめとする歴史学者らは、アメリカ合衆国の民主制度はイロコイ連邦の民主制度がモデルとなっていると主張している。 先住民族はしばしばアメリカのロマンティックなシンボルとして用いられてきた。先住民族に由来する名前は、アメリカの地名や野生動物の名称によく見られる。ニューヨークのタマニー・ホール(Tammany Hall)という民主党マシーンは先住民の言葉を政治に好んで用いた。近年になって差別的という意見が大多数を占めるまでは、大学や高校などがスポーツチームのマスコットに先住民族のキャラクターを採用することも珍しくなかった。 しかし先住民族の存在が国家の利益の障害であると見なされると、彼らの人権は近代化の名のもとに踏みにじられてきた。1960年代に入り、公民権運動を通して人種差別に対する国民の意識が高まり、心霊主義や環境主義に対する関心が高まってようやく、先住民族の文化が再評価されるようになった。 食文化 世界の料理 アメリカの国民は先住民の他、世界各国からの移民とその子孫によって構成されているため、都市部では世界各国の料理やそれらをアメリカ風にアレンジしたものを気軽に楽しむことが可能である。イタリア料理や中華料理、メキシコ料理(テクス・メクス料理)などが非常にポピュラーなものとして日常的に楽しまれている他、1980年代以降は寿司や照り焼きをはじめとする日本料理が都市部を中心に人気を博しており、日本料理のレストランで食すことができるだけでなく、スーパーマーケットなどで豆腐や醤油、麺類などの食材を調達することも可能である。 ファストフード 高度にマニュアル化されたファストフードチェーンにより提供されるハンバーガーやホットドッグ、タコスなどのファストフードや、冷凍食品などのインスタント食品が安価かつ手軽な事実上の「国民食」として広く食されているものの、脂肪分や塩分、糖分の多さなどから上記のように低所得者層を中心に肥満や心臓病などの原因となっており、これらのチェーン店の従業員の低賃金と合わせて深刻な社会問題となっている。 菜食主義 社会的、宗教的および心霊主義的な理由から菜食主義を奨励する運動は19世紀から存在したが、1960年代に環境主義や東洋思想への関心が国内で高まるのと同時に菜食主義への関心もかつてない高まりを見せた。現在、1%から2.8%のアメリカ人が肉、家禽、魚を全く食べないと回答している[101][102][103][104]。普通米国でベジタリアンというと卵と乳製品は摂るオボ・ラクト・ベジタリアンを指すことが多いが、中には動物性の食品を一切摂らないヴィーガンもいる。ベジタリアンは西海岸と東海岸に比較的多く、中西部や南部には比較的少ない。ベジタリアンの人口は都市部に集中している。ベジタリアンが多い地域では、ベジタリアン向けの料理をメニューに明記しているレストランやベジタリアン料理専門のレストランも見られる。 有機食品 近年、他の先進国と同じくアメリカ合衆国でも有機食品への関心が高まっている。アメリカ合衆国で生産される食料の約2%は有機農法に従って生産されている。アメリカ国内での過去10年間の有機食品の売り上げは年率20%の成長率を見せている。2005年の有機食品の総売上は128億ドルを計上した[105]。 有機農法を用いている農地の増加率はアメリカが世界一である[106]。 文学 ワシントン・アーヴィング - 『スケッチ・ブック』(1819年-1820年) ジェイムズ・フェニモア・クーパー - 『モヒカン族の最後』(1826年) エドガー・アラン・ポー - 『モルグ街の殺人』(1841年) フレデリック・ダグラス - 『フレデリック・ダグラス自叙伝;アメリカの奴隷』(1845年) ナサニエル・ホーソーン - 『緋文字』(1850年) ハーマン・メルヴィル - 『白鯨』(1851年) ハリエット・ビーチャー・ストウ - 『アンクル・トムの小屋』(1852年) ルイーザ・メイ・オルコット - 『若草物語』(1868)、『続・若草物語』(1869)、『第三若草物語』(1871)、『第四若草物語』(1886) フランシス・ホジソン・バーネット - 『小公子』(1886)、『小公女(セーラ・クルー)』(1888) ジーン・ウェブスター - 『あしながおじさん』(1912年)、『続あしながおじさん』「1915年) エレナ・ホグマン・ポーター - 『少女パレアナ(少女ポリアンナ)』(1913)、『パレアナの青春(ポリアンナの青春)』(1915) スターリング・ノース - 『はるかなるわがラスカル』(1963年) マーク・トウェイン - 『トム・ソーヤーの冒険』(1876年)、『ハックルベリー・フィンの冒険』(1885年) F・スコット・フィッツジェラルド - 『グレート・ギャツビー』(1925年) ウィリアム・フォークナー - 『響きと怒り』(1929年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年) アーネスト・ヘミングウェイ - 『武器よさらば』(1929年)、『老人と海』(1954年) ダシール・ハメット - 『マルタの鷹』(1930年) エズラ・パウンド ラングストン・ヒューズ ジョン・スタインベック - 『怒りの葡萄』(1939年) トルーマン・カポーティ - 『遠い声 遠い部屋』(1948年) マリア・フォン・トラップ - 『トラップ・ファミリー合唱団物語』(1949) アイザック・アシモフ - 『宇宙の小石』(1950年) J・D・サリンジャー - 『ライ麦畑でつかまえて』(1951年) レイ・ブラッドベリ - 『華氏451度』(1953年) アレン・ギンズバーグ - 『吠える』(1956年) ジェイムズ・ボールドウィン - 『ジョヴァンニの部屋』(1956年) ジャック・ケルアック - 『路上』(1957年) レイモンド・チャンドラー - 『プレイバック』(1958年) ロバート・A・ハインライン - 『宇宙の戦士』(1959年)、『月は無慈悲な夜の女王』(1966年) ウィリアム・S・バロウズ - 『裸のランチ』(1959年) フィリップ・ロス - 『さようならコロンバス』(1959年) ジョン・アップダイク - 『走れウサギ』(1960年) トマス・ピンチョン - 『競売ナンバー49の叫び』(1966年) スーザン・ソンタグ - 『反解釈』(1966年) リチャード・ブローティガン - 『アメリカの鱒釣り』(1967年) フィリップ・K・ディック - 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年) カート・ヴォネガット - 『スローターハウス5』(1969年) トニ・モリスン - 『青い眼が欲しい』(1970年) スティーヴン・キング - 『キャリー』(1974年)、『シャイニング』(1977年)、『スタンド・バイ・ミー』(1982年) アレックス・ヘイリー - 『ルーツ(en:Roots:The Saga of an American Family)』(1976年) ジョン・アーヴィング - 『ガープの世界』(1978年) グスタフ・ハスフォード - 『フルメタル・ジャケット』(1979年) レイモンド・カーヴァー - 『愛について語るときに我々の語ること』(1981年) ジェイ・マキナニー - 『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(1984年) ブレット・イーストン・エリス - 『レス・ザン・ゼロ』(1985年) ティム・オブライエン - 『本当の戦争の話をしよう』(1990年) 漫画 哲学 植民地時代に於いては清教徒が多く入植したためピューリタニズムの伝統が強く、また建国に際してジョン・ロックの社会契約説などのヨーロッパの啓蒙思想が理論的背景となったため、哲学に於いてもこの両潮流の影響を強く受けている。独立運動時代の18世紀にはトマス・ペインの『コモン・センス』(1776年)や『人間の権利』(1791年)など自由主義的な社会思想が発達した。19世紀に於いてはラルフ・ワルド・エマーソンや隠遁者ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ウォルト・ホイットマンらの超越論哲学と、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズ、ジョン・デューイらのプラグマティズム哲学が主な潮流となり、特にウィリアム・ジェームズの純粋経験論は日本の西田幾多郎の初期西田哲学(『善の研究』)に大きな影響を与えている。 20世紀以降はアメリカ合衆国の世界的地位向上と共に多種多様な現代思想が発達したが、とりわけ20世紀後半には『正義論』(1971年)で社会契約を再び基礎づけたリベラル派のジョン・ロールズや、ロールズらリベラル派に対抗して共同体主義を唱えたコミュニタリアン派のアラスデア・マッキンタイアらがリベラル・コミュニタリアン論争を繰り広げた。その他にも、『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年)でロールズの『正義論』を批判したロバート・ノージックらのリバタリアニズム(自由至上主義)の伝統もある。 音楽 様々な国から来た移民たちが持ち寄った楽器やリズムを組み合わせ発生した、古くはカントリー・ミュージックやジャズ、近年ではロックンロールやヒップホップなどの様々なジャンルの音楽の発祥地、本場として知られており、世界的に著名なアーティストを多数輩出している。これらの音楽と踊りを組み合わせたショーであるミュージカルの本場としても有名である。 これらの音楽を楽しむためにレコードやジュークボックス、ドルビーやiPodなどの様々な音響機器、技術を生み出している他、MTVやクラシックチャンネルなどの音楽専用ケーブルテレビチャンネルも生み出すなど、音楽とその関連業種は現在においても大きな外貨獲得元となっている。 美術 映画 アニメーション ウォルト・ディズニーが創始したウォルト・ディズニー・カンパニーによる長編アニメーション映画が世界的に有名で、過去には世界のアニメーターの多くに影響を与えた。他にも、米国製テレビアニメーションザ・シンプソンズやファミリー・ガイ、サウスパークは日本でもテレビ放映されている。 ケーブルテレビにアニメーション専用のチャンネルがあり、日本製アニメも頻繁に放映されている。特に1998年に放映が開始されたポケットモンスターは低年齢の子どもを中心として非常に人気が高く、社会的にも受け入れられている。ただし、サスペンス要素の高いものは、テレビ放映前に差し替えられたりカットされたりしている。日本のアニメは若年層を中心にファンが多く、ファンが字幕(ファンサブ)をつけた米国未発表の作品の海賊版もネット上に出回っている。最近では、アニメを通して日本文化に興味を持つ若者も出てきている。 世界遺産 アメリカ合衆国国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件、自然遺産が12件、複合遺産が1件存在する。 祝祭日 アメリカ合衆国の祝祭日は、州によって異なる。下記は最も一般的な祝祭日を記載したものである。日本における祝祭日と比べると必ずしも全ての祝祭日が休日となるとは限らない傾向にある。 スポーツ スポーツマンをアメリカ社会のメインストリーム(花形)と捉える国民性(ジョックも参照)もさることながら、多くの地域で学生スポーツにおいて季節ごとに行うスポーツを変えるシーズン制が定着していることなどから、国民が様々なスポーツに触れる機会が非常に多くなっており、アメリカ合衆国は世界最大のスポーツ大国となっている。娯楽産業に占めるスポーツ観戦の割合も高いため、複数の大規模なプロスポーツリーグが共存・繁栄している世界的にも稀な国である。アメリカ国内発祥のスポーツが大衆的人気を得ているのが特徴で、アメリカンフットボール、野球、バスケットボール、アイスホッケーは伝統的に4大スポーツと呼ばれている。ただ、サッカーの人気はアイスホッケーを既に逆転しており[110]、アイスホッケーに取って代わり、サッカーを4大スポーツの一つという意見も主流になりつつある[111]。FIFAワールドカップはアメリカンフットボール以外のスポーツをテレビ視聴者数で上回るなど、大いに盛り上がる[112]。主要なプロリーグは観客動員・収益共に莫大な数字であり、スター選手は高額の年俸を手にしている。日程上、常に少なくとも1つのリーグがオンシーズンになっているため、年間を通してスポーツ熱が高い。カレッジスポーツ(特にカレッジフットボールとカレッジバスケットボール)もプロリーグに勝るとも劣らない人気がある。 アメリカンフットボール アメリカでは単にフットボールと呼称するのが一般的である。野球やバスケットボールなどを大きく引き離し、全米で圧倒的な人気を得ているスポーツである[113][110][113]。今日では野球を凌ぐ「国民的娯楽」として認知されている[114]。プロリーグであるNFLは、レギュラーシーズンの1試合平均観客動員数が6万7000人を超えており[115]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も収益が多い。リーグ優勝決定戦であるスーパーボウルはアメリカ最大のスポーツイベントであり、毎年テレビ番組の年間最高視聴率を記録している。大学リーグであるカレッジフットボールも非常に人気が高い。2012年のギャラップの世論調査によると、カレッジフットボールのファンと回答した者の割合は、プロ野球やプロバスケットボールを上回る[116]。アメリカ社会では、スポーツマンを主とした「人気者の男性」を総称するジョックの象徴たるスポーツである。 野球 伝統的に「国民的娯楽」と称されており、1970年頃にアメリカンフットボールに一番人気スポーツの座を譲ったものの[117]、バスケットボールと共に高い人気を得ている競技である[113]。プロリーグとして最上位に位置するメジャーリーグベースボール(MLB)は、レギュラーシーズンの観客動員数が約7500万人であり[118]、世界のあらゆるプロスポーツリーグの中で最も多い。下部組織が発展しており、MLBの傘下にあるマイナーリーグ、更には約8つに分かれている独立リーグの2種類の野球リーグが存在する。近年はシアトル・マリナーズのイチローやニューヨーク・ヤンキースの田中将大、かつてメジャーリーガーであった野茂英雄や松井秀喜など日本人選手の活躍も見受けられる。 バスケットボール プロリーグであるNBAは、1980年代にマジック・ジョンソンやラリー・バードなどの活躍もあり急速に人気が高まり、その後のマイケル・ジョーダンの時代に全盛期を迎えた。ジョーダンの引退後はやや停滞している時期はあったものの、アメリカンフットボールに次いで2番目に人気のあるスポーツである[113]。大学スポーツであるカレッジバスケットボールもNBAに勝るとも劣らない人気がある。3月から開催されるNCAA男子バスケットボールトーナメントは全米中の注目を集め、いわゆる「3月の狂乱」(March Madness)と呼ばれている。 サッカー かつてはサッカー不毛の地と揶揄されることもあったが、2017年のギャラップやワシントン・ポストの世論調査によると[113][110]、アメリカンフットボール、バスケットボール、野球に次いで、4番目に人気のあるスポーツである。若年層や中年層の間では既に野球を超えており[113]、近い将来に3番目の人気スポーツになることが予測されている[119]。競技人口は2400万人を超えており、中国に次いで、世界で2番目に多い国である[120]。1994年にFIFAワールドカップを開催しており、大会史上最高の観客動員数を記録した。1996年からプロリーグであるメジャーリーグサッカー(MLS)を開始し、徐々に規模を拡大している。FIFAワールドカップの人気は非常に高いものがあり、アメリカ戦のテレビ視聴者数はワールドシリーズやNBAファイナルを大幅に上回ることもある[121]。女子サッカーは強豪国の一つであり、FIFA女子ワールドカップの優勝回数は史上最多の3回、FIFA女子ランキングでは首位を維持していることが多い。また2026年にはカナダ、メキシコとともに2026 FIFAワールドカップの共同開催国となる。 アイスホッケー プロリーグであるNHLは、カナダやアメリカの一部の州では人気が高いものの、全米規模で他のメジャー競技と比較した場合、人気の面で大きく劣るのが現状である[113]。NHLの選手に占めるアメリカ人の割合は2割程度と非常に低く、カナダ人や欧州出身者が大半を占める。リーグ優勝決定戦であるスタンレー・カップ・ファイナルの視聴率も2012年には最高3%台に留まっており、モータースポーツのNASCARやゴルフ、テニスの大会より低い水準である[122]。 その他 オリンピックは歴史的に夏季と冬季のどちらも人気が高い。2012年のロンドンオリンピックは、NFLと共に最も視聴率の高いコンテンツであった[122]。プロレス(WWE)や総合格闘技(UFC・Strikeforce[123])、モータースポーツ(NASCARやインディカー)、ゴルフ、テニスなども人気が高い。反面、フォーミュラ1、ラリーなど、欧州を中心に世界の広い地域で人気の高いスポーツが大衆的人気を得ていないのが特徴である。ラグビーやクリケットといったイギリス発祥のチームスポーツは全般的にマイナースポーツの地位に甘んじている。競馬も非常に盛んでサラブレッドの生産頭数は世界一である。とくにケンタッキーダービーやブリーダーズカップ(BC)は有名である(詳しくはアメリカ合衆国の競馬を参照)。ハワイ州と西海岸を中心にサーフィンの人気も高い。特にカリフォルニアには良質の波がたつポイントも多く、多くのサーフィンインダストリーが点在している。 メディア マスコミ 新聞は約1500紙が発行されている。一般的には地方紙が好まれるが、地方紙の地元記事以外の内容は大手新聞から購入したものが多い。全国紙としてはUSAトゥデイ(227万部)、ウォール・ストリート・ジャーナル(206万部)が部数競争をおこなっている。影響力の大きい新聞としてはニューヨーク・タイムズ(112万部)、ワシントン・ポスト(69万部)、ウォール・ストリート・ジャーナルの3紙があげられる。1985年の総発行部数は約6000万部、2006年が5000万部である。人口1000人当たりの普及率は約270部で、これは先進国では最低レベルである。 ABC、NBC、CBSの三大ネットワークはそれぞれニュース制作に特化した子会社を有し、プライムタイムに放送されるニュース番組に非常に力を入れている。現在は視聴率の高い順にNBCナイトリー・ニュース、ABCワールド・ニュース、CBSイブニング・ニュースとなっている。60ミニッツなどの報道特集番組も人気がある。 インターネット 科学技術 軍や軍需産業による先端技術開発への投資が活発な他、大学などの研究機関が行う各種研究に対しての企業による寄付なども盛んに行われていることから、先端技術や種々の学問においては世界的に見て1、2を争うものが多い。 第二次世界大戦前後、ユダヤ人であるためナチスに迫害を受けた(アルベルト・アインシュタインなど)、あるいは祖国が戦火で荒廃した(フォン・ブラウン等)などの理由でヨーロッパの科学者や技術者が多くアメリカに移住したため、戦後はアメリカがヨーロッパに取って代わり世界の先端的な科学技術や学問の中心になった面もある。 アメリカの大衆・大量消費文化や、先端的な医療、軍事、航空宇宙、情報・通信(IT)などのテクノロジーは、保有する基礎科学・応用科学の力に支えられて実現しているものであり、現代の科学技術文明を牽引する主要な国家であることは特筆すべきことであろう。 アメリカはメートル条約に加盟しているが、自然科学の分野以外ではヤード・ポンド法(米国慣用単位)が広く用いられている。ヤード・ポンド法を現在も使用している国はリベリア、ミャンマーとアメリカだけである。ジェラルド・フォード政権下の1975年にメートル法移行法()が可決されたが、ロナルド・レーガン政権が発足すると移行政策は頓挫した。市販される商品のパッケージなどには、ヤード・ポンド法とメートル法の並記が普通に行われている。航空分野などのアメリカが強い力を持つ産業分野では、国際的にもヤード・ポンド法を用いて計量することが多い。また温度に関しても摂氏ではなく華氏を用いることが一般的である。 脚注 関連項目 アメリカ合衆国関係記事の一覧 外部リンク 政府 (in English)(in Spanish) (in English) (in English) (in English) (in English) (in Japanese)(in English) (在日米国大使館)(in Japanese)(in English) 日本政府 (in Japanese) (in Japanese)(in English) 観光 (in Japanese)(in English)(in French) (in Japanese)(in English)(in French)(in Spanish)(in German) その他 (in Japanese) Wikimedia Atlas of the United States (in English) Taiwan People's Party
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 290, 968, 1344, 1538, 1939, 2162, 2254, 2966, 3405, 3729, 3957, 4295, 4563, 5165, 5604, 6553, 6985, 7554, 7904, 8163, 10115, 10233, 11273, 11609, 11929, 12411, 12853, 13014, 13538, 15096, 15712, 16010, 16387, 16672, 17708, 17783, 18204, 18351, 18792, 18932, 19596, 20056, 20206, 20605, 21789, 23503, 24619, 25332, 26466, 27283, 28710, 29324, 31724, 34151, 35749, 37525, 38389, 40099, 40726, 41283, 42808, 43650, 46447, 46809, 48355, 50330, 51691, 53429, 54136, 55409, 57244, 59243, 60711, 62393, 63849, 65686, 66424, 66616, 66893, 66999, 67563, 68031, 68402, 68732, 69699, 70291, 70565, 71803, 72020, 72183, 75707, 90060, 91711, 91827, 92004, 92098], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 289, 967, 1301, 1537, 1938, 2161, 2253, 2965, 3404, 3728, 3956, 4294, 4562, 5137, 5603, 6552, 6984, 7553, 7903, 8162, 10114, 10232, 11272, 11608, 11928, 12410, 12852, 13013, 13537, 15095, 15711, 16009, 16386, 16671, 17707, 17755, 18203, 18350, 18791, 18931, 19568, 20055, 20205, 20556, 21767, 23502, 24618, 25331, 26443, 27282, 28688, 29323, 31723, 34129, 35748, 37524, 38352, 40098, 40725, 41261, 42807, 43650, 46446, 46787, 48354, 50329, 51690, 53407, 54135, 55408, 57243, 59221, 60710, 62392, 63848, 65685, 66395, 66607, 66884, 66990, 67554, 68022, 68388, 68665, 69684, 70254, 70536, 71789, 72019, 72169, 75678, 90034, 91691, 91826, 91981, 92080, 92151], dtype=int32)}
ニューイングランド・ペイトリオッツは、2018年、リーグ何位ですか?
ニューイングランド・ペイトリオッツ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([82], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([68279], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([68285], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ニューイングランド・ペイトリオッツ([New England Patriots]error: {{lang-xx}}: text has italic markup (help)、略称: NE)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州フォックスボロに本拠地をおくNFLチーム。AFC東地区に所属している。 チーム名は公募によりボストン・ペイトリオッツとなったが[1]その由来は本拠ニューイングランド(北東部6州の総称)がアメリカ独立戦争の舞台だった事から。設立当初はボストン・ペイトリオッツという名称だったが、ボストン(マサチューセッツ州)近郊の北東部の州からの要望でニューイングランド・ペイトリオッツに改称した。 チームフラッグにはアメリカが独立した際の13州当時の国旗(赤白のストライプに13個の☆)が描かれている。愛称は<b data-parsoid='{"dsr":[2440,2460,3,3]}'>パッツ (The Pats)。 過去11度スーパーボウルに出場し、5度NFLチャンピオンに輝いている。特に2000年代に入ってからはヘッドコーチ (HC) ビル・ベリチックとクォーターバック (QB) トム・ブレイディのもとで2001年、2003年、2004年、2014年、2016年シーズンとNFLを制している。 歴史 チーム創設から1969年まで 1959年11月、ビリー・サリバンによってアメリカン・フットボール・リーグ(AFL)8番目そして最後のフランチャイズとしてチームが設立された。 1960年、AFL最初のプレシーズンゲームでバッファロー・ビルズを破った。ホームで迎えた開幕戦ではデンバー・ブロンコスに10-13で敗れた[1]。第2週のニューヨーク・タイタンズ戦で初勝利を挙げた。また第8週の試合でホーム初勝利をあげた[1]。このシーズンはAFL東部地区最下位の5勝9敗で終わった。 1961年、2勝3敗となったところでヘッドコーチのルー・セイバンが解雇され、マイク・ホロバックが就任し残り試合を7勝1敗1分で終えて9勝4敗1分でシーズンを終えた。 1962年も9勝4敗1分の成績を残したがプレーオフ進出はならなかった。 1963年、本拠地をニッカーソン・フィールドからフェンウェイ・パークへ移した。7勝6敗1分けの成績だったが初のプレーオフ進出を果たした。バッファローで行われたビルズ戦に26-8と勝利しAFLチャンピオンシップゲームに初進出を果たしたが、サンディエゴ・チャージャーズに10-51で敗れて優勝はならなかった。AFLに属していた間チームがプレーオフに出場したのはこのシーズンのみであった。なおこの年のオールスターゲームにはチームからジーノ・キャパレッティやニック・ブオニコンティ、ベイブ・パリら11人が選ばれた。 1964年、キャパレッティがWRとして7タッチダウン、プレースキッカーとしてFG、PATで111得点を挙げシーズンMVPに選ばれる活躍を見せた。10勝2敗1分で迎えた最終戦地元フェンウェイパークで行われたビルズ戦には観客38,021人が入場しソールドアウトとなったが、ファンの期待もむなしく14-24で敗れプレーオフ進出はならなかった。 1965年、開幕から7連敗を喫し、ハロウィンに行われたサンディエゴ・チャージャーズ戦でようやく初勝利を挙げた。11試合終了時点でも1勝8敗2分という成績だったが最後に3連勝を果たし、4勝8敗2分でかろうじてリーグ最下位の成績を免れた。 1966年、1勝2敗1分でスタートしたがFBのジム・ナンスがAFLレコードとなる1,458ヤードを走る活躍を見せ、チームも8勝3敗2分とプレーオフ進出に後一歩のところまで迫った。 1967年、ワールドシリーズにボストン・レッドソックスが進出した関係で最初の5試合をロードでプレイすることとなり、1勝3敗1分でスタートする。前年も活躍したナンスが1,216ヤードを走りシーズンMVPを獲得した[2][3]が、3勝8敗1分で最下位に終わった。 1968年、4勝10敗で終わり、シーズン終了とともにホロバックHCは解任されクライブ・ラッシュが新しいHCとなった。またこのシーズンを最後に、6シーズンを戦ったフェンウェイパークに別れを告げた。 1969年、本拠地をボストンカレッジのアラムナイ・スタジアムに移した。クライブ・ラッシュヘッドコーチは酔っぱらったままチームの指揮を執り、黒人の守備選手が11人在籍していなかったにもかかわらずオフェンス選手のコンバートなどで守備選手11人全てを黒人選手にそろえるというブラック・パワー・ディフェンス(Black Power Defense)を導入した[4]。しかしチーム状況は好転せず開幕から7連敗を喫し、4勝10敗に終わった。 1970年から1991年まで 1970年にAFLとNFLが正式に合併を完了し、NFLのAFC(アメリカンフットボールカンファレンス)東地区に属すこととなった。ミネソタ・バイキングスのQBでNFLのMVPを獲得したジョー・キャップを獲得したがシーズン成績はAFCから参加したチームワーストの2勝14敗に終わった。この年チームはハーバード・スタジアムを本拠地とした。 1971年にチーム名を「Bay State Patriots」と変えた後、同じ年に<b data-parsoid='{"dsr":[4981,5004,3,3]}'>ニューイングランド・ペイトリオッツ</b>と改称した。チームは創設以来11年間で4つのスタジアムを転々としていたが、1971年から本拠地をフォックスボロ・スタジアム(710万ドルをかけてわずか325日で完成した。)[1][5]に移した。ドラフトでは全体1位でハイズマン賞を獲得したスタンフォード大学出身のジム・プランケット[6][7]を指名した[8]。またスタンフォード大学時代にプランケットが好んだWRのランディ・バタハをフリーエージェントで獲得した。開幕戦で強豪のオークランド・レイダーズを破った後5連敗を喫したがスーパーボウルに出場したマイアミ・ドルフィンズを破るなど、最終的に6勝8敗で終えた。 1972年、プランケットが2年目のジンクスに見舞われた。2勝1敗でスタートした後、チームは9連敗してしまう。9連敗中にヘッドコーチのジョン・メーザーとゼネラルマネージャーのアプトン・ベルが解雇され、フィル・ベングソンがヘッドコーチとなり4試合の指揮を執ったが1勝しか加えることができず3勝11敗で終わった。 1973年のドラフトでその後チーム初のNFL殿堂入りを果たすことになるジョン・ハナが加入した[9]。この年のドラフトではチームの歴代通算ラッシングリーダーとなるRBサム・カニンガム[10]やWRダリル・スティングレーが加入し、さらにオクラホマ大学のヘッドコーチとして成功していたチャック・フェアバンクスを新たなHCとして迎えた。シーズンを2勝7敗でスタートするもその後3連勝を果たし、5勝9敗でシーズンを終えた。 1974年には開幕戦でスーパーボウルチャンピオンのドルフィンズに勝利するなど6勝1敗の好スタートを切ったがシーズン後半にわずか1勝しかあげることができず7勝7敗に終わった。この年、身長わずか165cm(5フィート5インチ)のマック・ヘロンが活躍を見せた。 1975年、プランケットが負傷してしまい控えQBのスティーブ・グローガンでシーズンを戦った。3勝11敗に終わりシーズン終了後、チームはプランケットをサンフランシスコ・49ersに放出した[11]。 1976年、チームはプランケットのトレードで得たドラフト権を利用してディフェンスバックのマイク・ヘインズ、ティム・フォックスを獲得、先発QBには2年目のグローガンを起用した。開幕戦を落としたものの続く3試合にドルフィンズ、スティーラーズ、レイダーズとAFCの強豪を撃破、チーム創設以来最高の11勝3敗を記録して1963年以来のプレーオフ進出を果たした。プレーオフではレギュラーシーズンに48-17と圧勝したオークランド・レイダーズと対戦した。21-17とリードして迎えた試合終盤、QBグローガンがロン・フランシスを狙ってパスを投げたが失敗。相手ラインバッカーのフィル・ビラピアーノがフランシスのパス捕球前にヒットしていたがペナルティは取られず、次のプレイで50ヤードのFGを狙うも失敗に終わる。そしてレイダーズに自陣27ヤードまで攻め込まれた3rdダウン18の場面、QBケン・ステイブラーのパスは失敗に終わり勝利に大きく前進したかと思われたが、このプレーでDTレイ・ハミルトンがラフィング・ザ・パッサーの反則を犯していたとしてペイトリオッツ陣内12ヤードでのファーストダウンが与えられた。続いて2つのアンスポーツマンライク・コンダクトの反則が取られ、最後はステイブラーに残り10秒で1ヤードのTDランを決められ21-24で惜しくも敗れ去った。この試合はレフェリーのベン・ドレイスの名をとって、ベン・ドレイス・ゲームとも言われている。ペイトリオッツのQBグローガンはこの試合について「大事な物を奪われた。嵌められたんだ。」と語り、この試合での無念が晴れることは永遠にないと話した[12]。 1977年は、ジョン・ハナとレオン・グレイの契約が難航、9勝5敗でプレーオフを逃した。 1978年のプレシーズンゲームでスターWRのダリル・スティングレーがオークランド・レイダーズのジャック・テイタムのハードヒットを受けてほぼ全身麻痺となりそのまま引退に追い込まれた[13]。主力選手を失ったものの10勝4敗で迎えたビルズ戦、残り8秒でデビッド・ポージーの34ヤードのFGが決まると60,000人のファンは一斉にグラウンドになだれ込んで地区優勝を祝った。最終戦の直前にHCのフェアバンクスがコロラド大学ボルダー校のHCとなることが明らかにされ試合前にフェアバンクスはチームオーナーのビリー・サリバンによってクビにされロン・エルハルトが指揮を執った。プレーオフ1回戦はフェアバンクスが再度サイドラインから指揮を執り、地元シェーファー・スタジアムで戦ったがヒューストン・オイラーズに敗れファンはHCに対してブーイングを行った。 1979年、マンデーナイトフットボールとなった開幕戦のスティーラーズ戦にスティングレーが姿を現わしファンのスタンディングオベーションを受けた。1979年は7勝3敗と好スタートを切ったが最後の6試合で4敗し、9勝7敗に終わりプレーオフを逃した。 1980年はスターRBのサム・カニンガムがシーズン全試合を欠場したが、代わってルーキーRBのバーガス・ファーガスンがチームのルーキーラッシング記録を塗り替える活躍を見せた。チームは6勝1敗でスタートしたものの10勝6敗に終わった。 1981年、過去2シーズンをプレーオフをわずかの差で逃していたチームはプレシーズンゲームを4連勝で終えてファンの期待は高まった。しかし開幕から4連敗しその後の3試合で2勝を挙げたが最後は9連敗で2勝14敗に終わり、同じく2勝14敗だったボルチモア・コルツに2勝を献上してしまうなどのていたらくであった。シーズン終了後HCのエルハルトは解任された。 1982年、ロン・マイヤーを新ヘッドコーチに迎えストライキで短縮されたシーズン、Snowplow Game[14]と呼ばれたマイアミ・ドルフィンズとのゲームを3-0で勝つなど、8チームが出場したこの年のプレーオフに第7シードで出場を果たした。しかしマイアミで行われたプレーオフ1回戦でドルフィンズに敗れ、プレーオフ未勝利が続いた。 1983年、QBトニー・イースンをドラフト1巡で指名した[15]。チームは鍵になる試合を落とし8勝8敗でプレーオフを逃した。 1984年、ドラフトの全体1位でネブラスカ大学のWRアービン・フライヤーを獲得、トニー・イースンが先発QBとなった。序盤を5勝2敗でスタートしたが連敗したところでマイヤーコーチは解雇されて新HCには元WRのレイモンド・ベリーが就任した。ベリーがコーチに就任してからの最初の4試合中3試合で勝利を収めたが12月に入って3連敗するなど9勝7敗に終わり、プレーオフ進出はならなかった。 1985年にベリーHCは、イースンに代えてグローガンを先発QBとしたがシーズン終盤グローガンは左足を負傷、再びイースンが先発に返り咲いた。チームは6連勝するなど11勝5敗でシーズンを終え、ワイルドカードでプレーオフ進出を果たした。HCベリーは、コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。プレーオフ1回戦でニューヨーク・ジェッツを破りプレーオフでの初勝利を挙げるとレイダーズ戦では6つのターンオーバーを奪い27-20でAFCチャンピオンシップゲームに進んだ。そして同地区のライバルであるドルフィンズを20連敗していた敵地マイアミで破り第20回スーパーボウルへ出場、シカゴ・ベアーズと対戦することとなった。しかしアービン・フライヤーが家庭内のトラブルで負傷したことが明らかにされるなど雑音を聞きながらスーパーボウルウィークを迎えることとなった。この試合は相手のエースRBウォルター・ペイトンのファンブルなどで3-0と先制したものの、ファーストプレイでTEのリン・ドーソンが負傷退場し、その後ベアーズに連続して46得点を入れられる。ゲーム終了前に1TDを奪ったが、10-46とスーパーボウル新記録となる36点差で大敗した。リーグベストのガードの1人と評価されていたジョン・ハナはスーパーボウル出場を最後に引退した。 1986年、チームはイースンからWRスタンリー・モーガンへのパスゲームをゲームプランの中心に組み立て、モーガンはレシーブで1,500ヤード近くを獲得した。しかしラッシングオフェンスはリーグ最下位に終わった。11勝5敗で地区優勝を果たしプレーオフ1回戦で敵地デンバーに乗り込んだが第4Q終盤、ジョン・エルウェイからバンス・ジョンソンへのタッチダウンパスが決まりブロンコスに敗れた。その後チームは8年間プレーオフから遠ざかることとなった。 1987年、選手のストライキが起きた期間に地元ボストンカレッジ出身で1984年にハイズマン賞を取ったダグ・フルーティが加入した。ディフェンス選手の多くがストライキに参加してその間の3試合は代替選手がプレーした。 1988年、オーナーだったサリバンファミリーは事業の失敗などで巨額の損失を出したため8400万ドルでチームは売却された。このシーズンはフルーティが最初の5試合に先発したが、その後イースンが先発QBとなった。これは成功を修め9勝7敗となりわずかの差でプレーオフを逃した。 1989年、チームのディフェンスの中心だった3選手、アンドレ・ティペット、ガリン・ベリス、ロニー・リペットがプレシーズンゲームの同じ試合で負傷戦列を離脱してしまうという不運もあり5勝11敗に終わった。 1990年、フルーティはカナディアン・フットボール・リーグに移籍、長年ゼネラルマネージャーを務めていたディック・スタインバーグもジェッツのゼネラルマネージャーとなるためチームを離れた。ベリーHCも解雇され、ピッツバーグ・スティーラーズのディフェンシブ・コーディネーターであったロッド・ラストが新しいヘッドコーチとなった。この年チームは創設以来最悪の1勝15敗に終わる。9月17日、ボストンヘラルドの26歳の女性レポーターリサ・オルソンに対してチームのロッカールームでセクハラ行為を複数の選手が行ったことが報道された。このスキャンダルに対してNFLコミッショナーのポール・タグリアブーはチームに5万ドルの罰金、TEジーク・モワット、WRマイケル・ティンプソン、RBロバート・ペリーマンの3選手にもそれぞれ罰金が課された[16][17]。 1991年、6勝10敗で地区4位に終わる。 1992年から1996年まで 1992年にはチームが売却されてセントルイスへ移転するのではないかという報道があった。しかし移転は行われずチームは2勝14敗に終わった。シーズンオフにチームはディック・マクファーソンHCを解雇、ニューヨーク・ジャイアンツで2度スーパーボウルを制覇(1987年、1991年)したビル・パーセルズと契約した。 1993年のドラフトでは全体1位指名でドリュー・ブレッドソーを獲得した。このシーズンは5勝11敗に終わった。 1994年にはドラフト全体4位でウィリー・マクギネスト(後に3度のスーパーボウル制覇に貢献)を獲得した。シーズン途中まで3勝6敗と低迷していたが、最後の7試合を連勝して10勝6敗としてプレーオフ出場を果たした。ブレッドソーはリーグトップとなるパス4,555ヤードを記録するなどの活躍で自身初のプロボウルに選出された。 1995年は6勝10敗にとどまった。TEベン・コーツは2年連続でプロボウルとオールプロの両方に選出された。 1996年シーズンチームは11勝5敗で地区優勝を果たすと、第2シードで出場したプレーオフでは安定した戦いを見せ勝利し第31回スーパーボウルに出場を果たした。スーパーボウルでは第1Qにブレッドソーが2TDパスを決め14-10とリードを奪うも、第2Qに17点を決められ突き放される。ブレッドソーは第2Q以降TDパスを決められず、逆に4つのINTを喫するなどしてブレット・ファーブ擁するグリーンベイ・パッカーズに21-35で敗れた。この試合を最後にHCパーセルズはジェッツに去った。 1997年から1999年まで 1997年、ピート・キャロルがHCに就任した。パーセルズがHCを務めるニューヨーク・ジェッツとの間で何人もの選手やコーチが移籍し、その中にはRBのカーティス・マーチンも含まれていた。チームは10勝6敗で地区優勝を果たし、プレーオフ1回戦でドルフィンズを17-3で破ったがピッツバーグ・スティーラーズに6-7のロースコアゲームで敗れた。 1998年には9勝7敗でAFC東地区4位ながらプレーオフに進出したが、1回戦でジャクソンビル・ジャガーズに敗れた。 1999年、序盤はブレッドソーが13TDパスに対しわずか4INTと好調でチームも6勝2敗でシーズンを折り返したが、シーズン後半はブレッドソーが6TDに対して17INTを献上するなど調子を崩し、チームも失速して8勝8敗に終わった。シーズン終了後HCキャロルは解雇された。 2000年から2004年まで 2000年シーズン 元クリーブランド・ブラウンズのヘッドコーチで、ニューヨーク・ジャイアンツ時代にディフェンシブ・コーディネーターとしてビル・パーセルズと共に2度のスーパーボウル制覇を経験したビル・ベリチックが就任した。当初ベリチックはパーセルズのあとを引き継いでニューヨーク・ジェッツのHCに就任したが、それを辞任してペイトリオッツと契約した。これに対してジェッツとパーセルズが異議を申し立て、NFLコミッショナーが認めた為ペイトリオッツは2000年度のドラフト1巡指名権との交換という形でベリチックと契約した。ベリチックはオーナーのロバート・クラフトからゼネラル・マネージャーとしての権限も託された。しかし開幕から4連敗と躓くと、シーズン中盤にも4連敗で早々にプレーオフ戦線から脱落した。1999年シーズンにリーグ8位と健闘したディフェンスの成績が大きく下降し[18]、オフェンスも低調に終わり5勝11敗でシーズンを終えた。 2001年シーズン ドラフト全体6位で大型新人のリチャード・シーモアを獲得したが、昨シーズンは攻守とも低調だったこともあり下馬評には乗らなかった。チームは開幕戦に敗れると、第2週のニューヨーク・ジェッツ戦ではエースQBドリュー・ブレッドソーがモー・ルイスの強烈なタックルを受けて負傷退場し、控えQBのトム・ブレイディに交代した。ブレイディは2000年のドラフト6巡指名(全体199位)選手で、ルーキーシーズンは3回パスを投げただけであった。この試合にも敗れチームは連敗スタートとなったが第3週のインディアナポリス・コルツ戦で初勝利をあげる。第5週のサンディエゴ・チャージャーズ戦ではブレイディがキャリア初のTDパスを決めるとともに、第4Qには10点差のビハインドから残り40秒でこの日2つ目のTDパスを通し同点とすると、オーバータイムでアダム・ビナティエリが44ヤードのFGを決めて劇的な勝利を収めた。長年チームを引っ張ってきたブレッドソーの離脱はチームに大きな影響を与えるかと思われたが、リスクを避けボールコントロールを重視するブレイディのプレースタイルは徐々にチームにフィットしていった。チームは勝ち負けを繰り返し第10週でセントルイス・ラムズに敗れ5勝5敗となるが、その後ベリチックの指揮するディフェンスとブレイディによるゲームメイクオフェンスの両者が揃い勝利を積み重ね、11勝5敗でAFC東地区優勝を果たした。 タック・ルール・ゲームと呼ばれたAFCディビジョナル・プレーオフでは豪雪の中オークランド・レイダーズと対戦した。第4Qまで10点をリードされる苦しい展開となるが終盤に追い上げると、試合時間残り2分6秒からはじまったドライブでは疑惑の判定があったのち、吹雪の中ビナティエリが残り32秒で45ヤードのFGを決め同点としオーバータイムに突入。最後はビナティエリが23ヤードの決勝FGを決めて勝利した。敵地ピッツバーグに乗り込んだAFCチャンピオンシップゲームでのピッツバーグ・スティーラーズ戦では第2Q終盤でブレイディが足を負傷するアクシデントに見舞われる。しかし代わったブレッドソーがTDパスを決めるなどしっかりと代役を果たすと、スペシャルチームがビッグプレーを連発してリードを広げ、最後はスティーラーズの反撃を振り切って24-17で勝利し5年ぶり3度目のスーパーボウル出場を果たした[19][20]。 第36回スーパーボウルでは専らマスコミはQBカート・ワーナー、RBマーシャル・フォーク擁するセントルイス・ラムズの圧倒的な勝利を予想した。しかし試合が始まるとペイトリオッツディフェンスがCBタイ・ローのインターセプト・リターンTDなどでラムズのハイパーオフェンスを抑え、オフェンスではブレイディからデイビッド・パッテンへのTDパスなどが決まるなど一時はペイトリオッツが17-3とリードする展開となった。しかし第4Qにラムズの逆襲が始まると、リッキー・プロールのTDが決まり試合終盤で17-17の同点となった。 タイムアウトをすでに使い切っていたこともあり、解説を務めていたジョン・マッデンは「フィールドポジションも悪く、タイムアウトが一つも無い中で新人QBがFG圏内まで持っていくのは無理だ。オーバータイムにもつれるだろう。」と解説していた。しかし自陣17ヤード、試合時間残り1分21秒からのドライブをブレイディはスパイクなどを使って時間をコントロールしFG圏内まで前進させる。最後は残り7秒からアダム・ビナティエリが48ヤードの決勝FGを決めてタイムアップとなった。当時全盛だったラムズをペイトリオッツが破ったことはリーグに衝撃を与えた[21]。スーパーボウルMVPを獲得したブレイディはルックスの良さも手伝って一躍NFLのスーパースターとなった。24歳でのスーパーボウル制覇は当時のスーパーボウル優勝QB最年少記録であった[22]。シーズンオフにブレッドソーはバッファロー・ビルズに移籍した。 2002年シーズン 本拠地をこれまでのフォックスボロ・スタジアムからジレット・スタジアムに移した。第3週ではカンザスシティ・チーフスをオーバータイムで破るなど3連勝と好スタートを切るが、その後4連敗と失速する。5勝5敗で迎えた第10週のシカゴ・ベアーズ戦では最大21点差をつけられるも残り2分54秒で5点差までつめ寄り、続くベアーズの攻撃を1stダウン獲得まで残り1ヤードというところで食い止め3ダウンアウトに追いこむと、残り1分50秒からはじまったドライブをビデオ判定や4thダウンギャンブルを交えながら前進させ、最後は残り30秒でブレイディがパッテンにTDパスを通し33-30で劇的な逆転勝利をおさめた。 以後調子を取り戻したチームはプレーオフでの因縁が残るオークランド・レイダーズには敗れたが11月を4勝1敗と波に乗り、第14週のビルズ戦ではブレッドソーから4つのINTを奪い勝利をあげプレーオフ進出に前進した。しかし第15、16週とチームは2連敗を喫しAFC東地区は大混戦となった。迎えたシーズン最終節は同地区のマイアミ・ドルフィンズと対戦する。このときペイトリオッツは8勝7敗、ドルフィンズは9勝6敗で、さらに8勝7敗のニューヨーク・ジェッツにもAFC東地区優勝の可能性があった。試合はドルフィンズペースで進み、残り4分59秒を残した時点で11点のリードを許していたが、そこからブレイディはこの日初めてのTDパスを通すと共に2ポイント・コンバージョンも成功させて3点差、残り2分11秒で再びボールを得るとビナティエリが43ヤードのFGを決めて試合はオーバータイムに突入し、最後は再びビナティエリが35ヤードのFGを決めて劇的な勝利を収めた。しかしジェッツも最終節でグリーンベイ・パッカーズに勝利し、この結果タイブレーカーでジェッツが地区優勝を決めたためペイトリオッツは9勝7敗でプレーオフ出場を逃した。 2003年シーズン オフにプロボウル選出経験のあるSロドニー・ハリソンを獲得するも、ディフェンスの中心選手で4度のプロボウル選出を誇るSロウヤー・ミロイを開幕5日前に放出した。ミロイは2日後に開幕戦の相手であったバッファロー・ビルズと契約し、その開幕戦でチームは31-0で敗れた。ブレイディは自己ワーストの4INTでキャリア初の完封負けを喫した。さらに第4週でも敗れ2勝2敗とスタートで躓き、中心選手の放出と相俟ってHCベリチックへの批判は強まった[23]。 しかしここからチームは立て直し快進撃をはじめる。第7週のマイアミ・ドルフィンズ戦では試合終盤のFGをリチャード・シーモアがブロックしオーバータイムに突入すると、コイントスでもめたオーバータイムではドルフィンズのKオーリンド・マレーがFGに失敗、ドルフィンズ2度目の攻撃ではINTを奪い、直後のプレーでブレイディがWRトロイ・ブラウンへ82ヤードのTDパスを決め劇的な勝利をおさめた。第9週では敵地マイル・ハイでデンバー・ブロンコスと対戦。第4Q、1点を追いかけるペイトリオッツは自陣1ヤード地点で4thダウンに追い込まれるが、HCベリチックはパントではなく故意のセーフティーを指示する。その結果2点を与え3点差となるが、自陣20ヤードからのフリーキックはブロンコス・リターナー陣の判断ミスもあって64ヤードのビッグパントとなり敵陣15ヤードまで陣地を回復することに成功する。続くブロンコスの攻撃をしのぐと、逆転を賭けたドライブではブレイディがRBケビン・フォークに次々とパスを通し前進していき、最後は残り36秒でWRデイビッド・ギブンスにTDパスを決め30-26で逆転勝利をおさめた。第12週のヒューストン・テキサンズ戦では第4Q残り40秒でブレイディがTEダニエル・グラハムにTDパスを決め同点に追いつくと、テキサンズのレシーブからはじまったオーバータイムでは5回の攻守交代を経て、最後はペイトリオッツの3度目の攻撃でビナティエリが28ヤードの決勝FGを決め23-20で勝利した。続く第13週のインディアナポリス・コルツ戦では第4Q残り40秒でコルツにエンドゾーン前2ヤードまで攻め込まれるも、2度のラン、3rdダウンのパス、4thダウンのランと4度の攻撃を全て凌ぎ切り38-34でコルツの猛追を振り切った。レギュラーシーズン最終週では開幕戦で敗れたビルズに対し、ブレイディの4TDパスの活躍で31-0と開幕戦と同じスコアでリベンジを果たした。ペイトリオッツは14勝2敗でAFC第1シードを獲得し、12連勝でレギュラーシーズンを終えた。 -15℃の中行われたディビジョナル・プレーオフではビナティエリのFGが決勝点となり17-14でこの年のCO-MVPスティーブ・マクネア率いるテネシー・タイタンズに勝利した。そして雪の中、ホームのジレット・スタジアムで行われたAFCチャンピオンシップゲームでは、同じくCO-MVPのペイトン・マニング率いるインディアナポリス・コルツと対戦した。ワイルドカード・プレーオフではデンバー・ブロンコスを相手に41得点、ディビジョナル・プレーオフではカンザスシティ・チーフスを相手に38得点をあげるなど圧倒的な攻撃力を誇ったコルツのハイパー・オフェンスに対し、ペイトリオッツは多彩なスキームを駆使したパスラッシュで4つのサックを浴びせるなどQBマニングを苦しめ、強力レシーバー陣にはバンプを多用したフィジカルなパス・カバレッジと執拗なハードヒットで対抗した。ペイトリオッツはコルツから4つのインターセプト(うち3つはタイ・ロー)を含む5つのターンオーバーを奪うなど、セカンダリー陣を中心にハードなディフェンスでコルツオフェンスを圧倒した。3INTを記録したCBローはコルツのエースWRマービン・ハリソンをわずか3キャッチ(うち1つでファンブルロスト)19ヤードに抑えこんだ。この試合でペイトリオッツのセカンダリー陣が見せたパスカバーは次のシーズンから通称タイ・ロー・ルール[24][25][26]として厳格化されている。オフェンスではオープニングドライブでタッチダウンを奪った以降はビナティエリの5本のFGで常にリードを保ち、24-14で勝利した。そしてテキサス州ヒューストンのリライアント・スタジアムで行われた第38回スーパーボウルではジェイク・デローム率いるカロライナ・パンサーズと対戦。第4Qに37点が入り乱れた激戦は残り9秒でアダム・ビナティエリが41ヤードの決勝FGを決めて32-29で勝利し、2年ぶり2度目のスーパーボウル制覇を果たした。ブレイディが2度目のスーパーボウルMVPに輝き、真っ赤なキャデラックを手に入れた。 2004年シーズン ホームで行われた開幕戦では2003年シーズンのチャンピオン・バナーが掲げられるセレモニーが催されたのち、昨シーズンのチャンピオンシップゲームで戦ったインディアナポリス・コルツと対戦した。第4Q残り48秒で3点リードのペイトリオッツは追い上げるコルツにFGでの3点がほぼ確実な自陣17ヤード地点まで攻め込まれる。しかし3rdダウンでウィリー・マクギネストがフリーでマニングをサックし29ヤード地点まで後退させると、最後はKマイク・ヴァンダージャットの48ヤードFGが外れ27-24で接戦を制した。その後開幕から第8週にピッツバーグ・スティーラーズに敗れるまで6連勝を果たし、前シーズンから続く連勝記録(ポストシーズンを含む)を21としてNFL新記録を樹立した。40-22で勝利した第9週のセントルイス・ラムズ戦では、CBアサンテ・サミュエルが怪我で一時試合から下がるとWRトロイ・ブラウンがCBとして出場した。CB陣に怪我人が続出していたチームの苦肉の策であったが、ブラウンは期待にこたえシーズンでチーム2位タイとなる3つのINTを記録した。さらにこの試合ではLBマイク・ブレイベルがTDレシーブを決め、Kアダム・ビナティエリがFG隊形からトロイ・ブラウンにTDパスを決めている。チームはレギュラーシーズンを14勝2敗で終え、第2シードでプレーオフに進出した。 ディビジョナル・プレーオフでは昨年のプレーオフに続きコルツと対戦した。当時のNFL記録である49TDパスを記録したQBマニング率いるコルツのハイパーオフェンスに対し、ペイトリオッツはDEリチャード・シーモア、エースCBのタイ・ローと2番手CBタイローン・プールなど主力を欠いていたにもかかわらず攻守に渡ってコルツを圧倒して20-3で勝利をおさめた。この試合はコルツがTDを奪えなかったシーズン唯一の試合となった。続くAFCチャンピオンシップ・ゲームでは敵地ハインツ・フィールドでレギュラーシーズンで敗れたピッツバーグ・スティーラーズと対戦した。ペイトリオッツはスティラーズのファーストドライブでINTを奪いFGで先制すると、次のドライブでもターンオーバーを奪い早々に主導権を握る。ブレイディが安定したプレーでオフェンスを展開すると、WRディオン・ブランチがランとパスの双方でビッグプレーを、Sロドニー・ハリソンがインターセプト・リターンTDを決めるなどしてリーグ最少失点のディフェンスを誇るスティーラーズから41点を奪い41-27で勝利した。41失点はスティーラーズのシーズン最多失点となった。そしてディフェンディング・チャンピオンとして臨んだ第39回スーパーボウルでは、QBドノバン・マクナブやWRテレル・オーエンスを擁するNFCチャンピオンのフィラデルフィア・イーグルスから4つのターンオーバーを奪うなどして24-21で勝利し、スーパーボウル連覇を達成した。 連覇という偉業に加え、4年間で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げたことでチームは「Patriots Dynasty」(ペイトリオッツ王朝)を築きあげたと言われた。2002年はプレーオフ出場を逃しているため、ペイトリオッツはポストシーズンで一度も負けることなく4年で3度のスーパーボウル制覇を成し遂げた。リーグで最も得点をあげたオフェンスをわずか3点に抑え、リーグで最も失点が少なかったチームから41点をあげ、4年間で3度目のスーパーボウル制覇を達成したこのポストシーズンでの一連のパフォーマンスは00年代のペイトリオッツの最盛期として評価され、NFL.comから「00年代最高のチーム」に選ばれている[27]。 2005年以降 2005年シーズン オフに3度のスーパーボウル制覇を支えたWRデイビッド・パッテン、LBテッド・ジョンソン、CBタイ・ローがチームを離れ、ディフェンスキャプテンのブルースキが脳梗塞に倒れてシーズンインに間に合わなかった。さらにビル・ベリチックと共にトリプレッツとして連覇を支えたチャーリー・ワイス、ロメオ・クレネルの両コーディネーターが他チームのHCに就任するためにチームを去った。NFL史上初の3連覇が期待されるなか、第3週のピッツバーグ・スティーラーズ戦ではビナティエリが第4Q残り5秒から45ヤードのFGを決めて23-20で勝利するも、続く第4週でドリュー・ブリーズ率いるサンディエゴ・チャージャーズに2年間負けのなかったホームで41-17の大敗を喫し、2003年から続いていたホーム連勝記録は21で途絶えた。第5週ではマイケル・ヴィックを欠くアトランタ・ファルコンズをビナティエリのキャリア19回目となるウイニングFGで破るも、第9週ではインディアナポリス・コルツにホームで40-21で大敗しシーズンの折り返しを4勝4敗とつまずいた。この試合では冷静なブレイディがサイドラインに引き上げるオフェンス陣に声を荒らげ、サイドラインではコップを地面に叩きつけフラストレーションを爆発させるなど、らしくない姿を見せた[28]。シーズン後半は復帰したブルースキを中心に低迷していたディフェンスを持ち直し、10勝6敗でAFC東地区制覇を達成した。 ワイルドカード・プレーオフではホームでジャクソンビル・ジャガーズに28-3で完勝しプレーオフ10連勝というNFL新記録を樹立した。しかし続くAFCディビジョナル・プレーオフでは第6週で敗れたデンバー・ブロンコスと対戦し、ブレイディにとって現在も鬼門となっているマイル・ハイ(ブレイディのキャリアで1勝4敗と最も負け越しているアウェーゲーム)で敗れ、史上初の3連覇は夢と消えた。ブレイディにとってプレーオフでの敗戦はキャリア初のことであった。 シーズンを通しての敗因として前述のコーディネーターの離脱や、怪我人が続出したこと(特にSロドニー・ハリソンとLTマット・ライトの怪我)、昨シーズンにラン1,635ヤード(平均4.7ヤード)と活躍したRBコーリー・ディロンの不振(ラン733ヤード、平均3.5ヤード)、タイ・ローとタイローン・プールのスターター2人が抜けた(プールは怪我)CB陣の穴を埋められなかったことなどが上げられる。 2006年シーズン オフにチームを幾度となく勝利に導いたKアダム・ビナティエリとの契約を延長せず(ビナティエリはライバルのコルツと契約した)、長年チームを支えたLBウィリー・マクギネストを放出した。さらにスーパーボウルMVPのディオン・ブランチ、プレーオフで勝負強さを発揮したデイビッド・ギブンスの2人のスターターWRがチームを離れた。チームは6勝1敗と好スタートを切るが、第9週にホームでインディアナポリス・コルツに27-20で敗れると続くニューヨーク・ジェッツ戦にも敗れ、2002年以来57試合なかった連敗を喫した(NFL記録はサンフランシスコ・49ersの60試合)。しかし第11週でブレット・ファーブ率いるグリーンベイ・パッカーズに35-0で圧勝すると、第12週にはNFLトップのディフェンスを誇るシカゴ・ベアーズを17-13の接戦で破った。この試合でケビン・フォークはRBのパスレシーブ回数の、QBブレイディはスターターQBとして76勝目をあげ、それぞれペイトリオッツのフランチャイズ記録を塗りえた[29]。その後も安定して勝利を重ね、レギュラーシーズンを12勝4敗で終えた。なお最終週のテネシー・タイタンズ戦で控えのベテランQBビニー・テスタバーディがTDパスを決め、キャリアで20シーズン連続となるTDパスを記録した。 チームは昨季不調だったディフェンスが調子を取り戻し、ランではルーキーのローレンス・マローニーがベテランRBコーリー・ディロンの衰えを補った。昨シーズンはパスディフェンスでエースCBタイ・ローの抜けた穴を埋めきれなかったが、このシーズンは4年目のアサンテ・サミュエルがリーグトップタイの10INTの活躍を見せ、チームとして22のINTを奪った(リーグ4位)。しかし弱体化したレシーバー陣はTDリーダーがトロイ・ブラウンとリチェ・コールドウェルでそれぞれ4つ、獲得ヤードはコールドウェルがチームトップで760ヤードと、[30]一部からパス隊形のショットガンを皮肉ったポップガン(紙鉄砲)と揶揄された。 ワイルドカード・プレーオフでは元ペイトリオッツのディフェンシブ・コーディネーターであるエリック・マンジーニがHCを務めるニューヨーク・ジェッツを37-16で破ると、続くディビジョナル・プレーオフではシーズンMVPを獲得したラダニアン・トムリンソンを擁する第1シードのサンディエゴ・チャージャーズと対戦した。試合はチャージャーズに常にリードを許す苦しい展開となる。ペイトリオッツは7点ビハインドの残り6分25秒で4thダウン5ヤードからブレイディがパスを試みるが、これをチャージャーズのマーロン・マクレーにインターセプトされてしまう。しかしベテランWRトロイ・ブラウンがすぐにタックルを仕掛けると、掻きだすようにしてファンブルを誘い、これをペイトリオッツのWRコールドウェルがリカバーし再び攻撃権を得た。このドライブでTDを奪うと2ポイント・コンバージョンを成功させて同点とし、次のドライブでKスティーブン・ゴストコウスキのFGが決まり逆転すると最後はチャージャーズのKネイト・ケーディングの54ヤードのFGが外れ、接戦の末24-21で勝利した。試合後ペイトリオッツの選手はフィールドの中央でチャージャーズのロゴを踏みつけるようにして、チャージャーズのLBショーン・メリマンの代名詞と言えるメリマンダンスを踊り喜びを表したが、これに対してトムリンソンは不快感を表した。チームを救ったWRトロイ・ブラウンのプレーにはファンやチームメイトを中心に称賛の声が相次いだ。LBブルースキは「彼は素早いスイッチの切り替えでレシーバーからディフェンダーになったんだ。」と語り、DEリチャード・シーモアは「とっさのことだったんだろう。それは間違いない。だがあのときの彼はレシーバーではなく、一人のフットボール・プレイヤーだった。彼は常にああいうプレーが披露できる。俺が尊敬する男、それがトロイ・ブラウンさ。」と称賛した[31]。続くAFCチャンピオンシップゲームではライバルのインディアナポリス・コルツと激突。ペイトリオッツは序盤にアサンテ・サミュエルのインターセプト・リターンTDなどで21-3とリードしたが、終盤になるにつれWRの力不足、高齢化してきたディフェンス陣のスタミナ不足といったチームが抱えていた問題点が浮き彫りとなり最終的に34-38で逆転負けを喫した。 シーズンを通してブレイディは4人の選手にそれぞれ40回以上のパス投げ、24個のタッチダウンパスを10人に投げ分けタレント不足のチームをチャンピオンシップゲームにまで導いたが多彩なレシーバー陣を誇るコルツに限界を見せつけられる形となった。 2007年シーズン チームはオフに積極的な補強を行う。フリーエージェントからLBアディリアス・トーマス、RBサミー・モリス、WRダンテ・ストールワースなどを獲得。さらにマイアミ・ドルフィンズからWRでスペシャルチーマーのウェス・ウェルカーをドラフト7巡指名権とのトレードで、そしてオークランド・レイダーズからランディ・モスを4巡指名権とのトレードで獲得した。ペイトリオッツ加入にあたりモスは大幅なサラリーカットを受け入れた[32][33]。チームは開幕戦のニューヨーク・ジェッツ戦でジェッツのディフェンスシグナルを盗撮していたという違反行為を犯す。この違反行為で2008年度のドラフト1巡指名権を剥奪され(チームはこの年の1巡指名権を2つ持っていたが剥奪されたのは1つ)さらに25万ドルの罰金を課せられた。スパイゲートと名付けられたこの事件でペイトリオッツとHCビル・ベリチックは多くのメディアやフットボールファンから非難を受けるが、チームは開幕から快進撃を続ける。ミネソタ・バイキングス時代は5度プロボウルに選出されるなど実力は確かながら、ここ数年精彩を欠いていたモスはペイトリオッツで本来の輝きを取り戻しTDを量産すると、小兵のウェルカーがチームトップのレシーブ回数でパス攻撃を引っ張った。 リーグ最高クラスのレシーバー陣を手に入れたブレイディはパサーとしての能力を最大限に発揮し、第7週のマイアミ・ドルフィンズ戦ではパス354ヤード6TD、QBレイティング満点の158.3を記録するなど第8週までで1試合平均41得点という爆発的なオフェンスを指揮した。第9週では同じく無敗のインディアナポリス・コルツと対戦し、第4Qで一時10点差をつけられるがブレイディからケビン・フォークへのTDパスが決まり逆転すると最後はペイトン・マニングからファンブルを奪い24-20で勝利した。第13週のボルチモア・レイブンズ戦では相手ディフェンスのパス・ラッシュに苦しみ思うようなプレーができず、第4Qで7点のリードを許していた。しかし4点差を追う第4Q残り3分30秒からのドライブでは二度4thダウンギャンブルを失敗するも一度はレイブンズのDCがプレー開始直前にタイムアウトを取っていたため無効に、二度目は相手チームのホールディングの反則で難を逃れ、最後は残り55秒でジャバー・ギャフニーへの逆転TDパスが決まり27-24で勝利をおさめた。この頃からペイトリオッツと対戦するチームはブリッツを多用しブレイディにプレッシャーをかける戦術をとるようになった。続く第14週ではピッツバーグ・スティーラーズとホームで対戦。スティーラーズのSアンソニー・スミスは試合前に自分たちの勝利を保障 (guarantee) した[34]。ペイトリオッツはSトロイ・ポラマルを欠いていたスティーラーズを相手にモスとブレイディのトリックプレーなどでguarantee発言をしたスミスの背後を突き、34-13で勝利しAFC東地区優勝を決めリーグ最速でプレイオフ出場を決めた。 チームは無敗のままシーズン最終週をむかえ、敵地でニューヨーク・ジャイアンツとレギュラーシーズン全勝をかけて対戦した。第2QにモスへのTDパスが決まりモスはジェリー・ライスの持つシーズン最多TDレシーブ22に、ブレイディはペイトン・マニングの持つシーズン最多TDパス49に並んだが、直後のリターンでTDを奪われるなど一時は12点のリードを許す苦しい展開となる。5点差を追う第4Q残り11分25秒、モスはフリーでロングパスを受けるもパスが低かったこともあり落球してしまう。しかし次のプレイでブレイディが再びモスにロングパスを投げ、これが今度は65ヤードのTDパスとなり逆転に成功した。トム・ブレイディがシーズン最多50TDパス、そしてランディ・モスがシーズン最多23TDレシーブを同じプレーで達成する快挙を成し遂げた。その後はリードを保って38-35で勝利し、シーズンが16試合制となってからは初のレギュラーシーズン全勝を達成した。ブレイディは50TDパス(8INT)、パス4,806ヤード、パス成功率68.9%、QBレイティング117.2と素晴らしい成績をおさめ、50票中49票を獲得してリーグMVPに輝いた。 ディビジョナル・プレーオフではブレイディがパス28回中26回成功、263ヤード3TDの活躍を見せ31-20でジャクソンビル・ジャガーズに勝利した。1試合でのパス成功率92.9%はNFL記録となった。AFCチャンピオンシップ・ゲームではブレイディが3INTを喫し苦戦するがディフェンスが奮闘しTDを許さず、21-12でサンディエゴ・チャージャーズを退け史上初のシーズン18連勝を達成した。1972年シーズンのマイアミ・ドルフィンズ以来のパーフェクトシーズン(当時はレギュラーシーズン14試合制)が期待される中、2月3日の第42回スーパーボウルを迎えた。対するニューヨーク・ジャイアンツは最終週でペイトリオッツに敗れて以降調子をあげ、敵地でダラス・カウボーイズ、グリーンベイ・パッカーズを撃破し、ワイルドカードから見事スーパーボウル進出を達成した。試合はペイトリオッツ優位と見られていたが、ジャイアンツの強力DL陣が中心となりブレイディに5つのサックを浴びせペイトリオッツオフェンスを封じると、ペイトリオッツもベテランが中心となりジャイアンツオフェンスを抑え、試合は予想外のロースコアゲームとなる。ペイトリオッツは試合終盤にブレイディからモスにTDパスが通り14-10とリードを奪ったが、最後はQBイーライ・マニングがWRデイビッド・タイリーのスーパーキャッチを経てウイニングドライブを決め、ペイトリオッツは激戦の末に14-17で敗退した。 2008年シーズン オフにリーグ屈指のCBに成長したアサンテ・サミュエルがチームを去った。さらに開幕戦のカンザスシティ・チーフス戦でQBブレイディがバーナード・ポラードから膝にタックルを受け負傷退場し、シーズン絶望となった[35]。このときのプレーは2009年シーズンから通称ブレイディ・ルールとして禁止されている[36]。代役を務めたのは高校時代以来先発QB経験がないという(大学ではマット・ライナートなどの控えであった)控えQBマット・キャッセルだったが、彼の予想外の活躍でチームはプレーオフ争いを演じることとなる。 シーズン序盤、チームはブレイディ不在の穴を感じさせながらもこの年に引退騒動を経て復帰したブレット・ファーブ擁するニューヨーク・ジェッツを19-10で破り開幕2連勝を果たした。この勝利でチームはNFL新記録となるレギュラーシーズン21連勝を達成した[37]。しかし第3週で同地区のマイアミ・ドルフィンズに38-13で敗れ連勝記録は途絶えた。この試合でペイトリオッツディフェンスを圧倒したドルフィンズのワイルドキャットと呼ばれるフォーメーションは以後多くのチームで使用されることとなった。その後サンディエゴ・チャージャーズに敗れスタートで3勝2敗と躓くが、第7週のデンバー・ブロンコス戦ではキャッセルが3つのTDパス、QBレイティング136.3の活躍で41-7と快勝しキャッセルはAFC週間最優秀攻撃選手に選ばれた。しかしこの試合でSロドニー・ハリソンが今まで何度も痛めていた膝を再度負傷し、シーズン絶望となった。ハリソンはこの年がペイトリオッツとの契約最終年となっていたが、シーズン終了後に引退を表明した。 その後チームは勝ち負けを繰り返すが、QBキャッセルを中心に少しずつ調子をあげていく。第11週ではオーバータイムで敗れたもののニューヨーク・ジェッツを相手に最大18点のビハインドから終盤に追い上げ、残り1秒というところで同点に追いついた。(残り8秒でキャッセルからモスへのTDパスが決まった。ちなみにカバーしていたのはかつてペイトリオッツでスーパーボウル制覇に貢献したタイ・ローだった。)キャッセルはパス400ヤード3TD、ランでもチームトップの50ヤードを獲得するなど自己最高の活躍を見せた。続くマイアミ・ドルフィンズ戦でもキャッセルはパス415ヤード3TDのパフォーマンスを見せ、チームも48-28で勝利した。その後ピッツバーグ・スティラーズには敗れたもののオークランド・レイダーズには49-26で、アリゾナ・カーディナルズには雪の中47-7で快勝した。HCビル・ベリチックはペイトリオッツのHCとして100勝目を、NFLのHCとして150勝目をあげた。シーズン最終戦は同地区のバッファロー・ビルズと対戦した。ペイトリオッツがプレーオフに進出するにはこの試合での勝利と、マイアミ・ドルフィンズもしくはボルチモア・レイブンズの敗戦(引き分け)が必要であった。強風の中ペイトリオッツは13-0で勝利しチームは11勝5敗の好成績をおさめたが、ドルフィンズとレイブンズが共に勝利したためプレーオフ進出はならなかった。11勝5敗でプレーオフに進めなかったのは1985年のデンバー・ブロンコス以来23年ぶりのことであった[38]。 このシーズンはQBマット・キャッセルがパス3,693ヤード21TDレイティング89.4の活躍でオフェンスを牽引した。このシーズンは40得点以上をあげた試合が4試合あり、これは2007年とならんでチーム歴代最多であった。WRウェス・ウェルカーがチームトップの111キャッチ、本来RBのケビン・フォークがキャリア最多の58キャッチで経験の少ないキャッセルを支えた。一方ランディ・モスはロングパスを投げる機会が減ったこともあり昨年と比べれば大きく成績を落とした(それでも1,008ヤード11TD)。RB陣に怪我人が絶えなかったが、ドラフト外ルーキーのベンジャーバス・グリーン・エリスを起用するなどしてランオフェンスはリーグ6位と健闘した。しかしアサンテ・サミュエルなどが抜けたCB陣はその穴を埋めきれず、エリス・ホブスやデルサ・オニールといったCBはこの年でチームを去った。テディ・ブルースキは怪我もありキャリアで初めてサックなしに終わり、マイク・ブレイベルは前年の12.5サックから4サックに激減するなどベテラン勢は衰えを隠せなかった。一方で若手Kのスティーブン・ゴストコウスキはFG40回中36回成功とキャリアベストの成績をおさめ自身初のプロボウルに選出されたほか、2007年の1巡指名Sブランドン・メリーウェザーが4INT(チームトップ)57タックル(チーム2位)と活躍し、さらにこの年の1巡指名LBジャロッド・メイヨがチームトップの98タックルでリーグ最優秀守備新人選手に選出されるなど若手の台頭も見られた。またペイトリオッツはこのシーズンに計57回しか反則を犯さず、これはシーズンが16試合制となってから最少記録であった。 2009年シーズン 長年ベリチックのGM職を影から支えたスコット・ピオリがチーフスのGMに就任するためチームを去った。昨シーズンの開幕戦で負傷したブレイディは手術後に膝の感染症にかかるなど状態が思わしくなく、一時は開幕に間に合うか心配された。そのためチームはこのオフに制限付きFAとなっていたキャッセルをフランチャイズ指名し万が一に備えた。その後ブレイディの怪我は順調に回復し、開幕に間に合うと判断したチームはQBキャッセルと長年チームを支えたLBマイク・ブレイベルを共にチーフスにトレードした。さらに開幕直前でLBテディ・ブルースキが引退を表明し、そしてDEリチャード・シーモアをオークランド・レイダーズにトレードした。このシーズンは多くのベテラン選手がチームを離れたが、開幕まであと一週間ほどというタイミングで昨シーズン自己最多タイの8サックを記録したシーモアを、2011年のドラフト1巡指名権とはいえトレードしたことは多くのファンやメディア、そして選手をも驚かせた。このシーズンにアスレチック・トレーナーとしてペイトリオッツを支えた日本人スタッフによれば、このニュースを聞いたブレイディは「This is Crazy」と発言したという。 開幕戦のバッファロー・ビルズ戦、ホームのジレット・スタジアムで行われたマンデー・ナイト・フットボールでブレイディが1年ぶりに復帰した。試合は11点ビハインドで敗色濃厚だったが、第4Q残り2分10秒からブレイディがTEベンジャミン・ワトソンにTDパスを通すと続くビルズのリターンでリターナーのローデス・マケルビンがファンブルしペイトリオッツがリカバー、残り55秒からブレイディが再びワトソンにTDパスを通し25-24の逆転勝利で復帰戦を飾った。しかしその後は調子が上がらず、序盤は苦戦を強いられる。第2週ではこのオフにHCに就任して以降ペイトリオッツに挑発的な発言をしていたレックス・ライアンの率いるニューヨーク・ジェッツに16-9で敗れた。WRウェルカーが怪我で欠場し、モスがリーグ最高のCBと言われているダレル・リーヴィスに抑えられたため、ブレイディはドラフト7巡指名の新人でQBからWRにコンバートしたばかりのジュリアン・エデルマンに頼らざるをえず、またジェッツの激しいパスラッシュにも苦しみペイトリオッツはTDなしに封じ込まれた。第5週では前年までチームのオフェンシブ・コーディネイターを務めていたジョシュ・マクダニエルズ率いるデンバー・ブロンコスと対戦し、苦手のマイル・ハイでブレイディはキャリア初のオーバータイムでの敗北を喫した(オーバータイム通算7勝はNFL史上最多)。 しかし第6週の雪の中で行われたテネシー・タイタンズ戦ではブレイディが第2Qでの5TDを含む6TDパスを決める活躍を見せチームは59-0の大差で勝利する。その後3連勝を果たしブレイディも徐々に調子を上げていったが、第10週のインディアナポリス・コルツ戦では第4Qに17点と大きくリードしたにもかかわらず終盤にかけて攻守に失速し、最後は議論を呼んだ4thダウンギャンブルの末35-34で敗れた。第12週にはこのシーズンにスーパーボウルを制することになるニューオーリンズ・セインツにいいところなく完敗し、続くマイアミ・ドルフィンズ戦でも敗れ2006年以来の連敗を喫した。それでもホームでは8戦全勝と強さを発揮し10勝6敗でシーズンを終えたが、最終節のヒューストン・テキサンズ戦でリーグトップの123キャッチとチームトップの1,348ヤードを記録していたウェス・ウェルカーが膝を負傷しプレーオフ絶望となり、ホームで行われたワイルドカード・プレーオフでボルチモア・レイブンスに33-14と完敗した。ブレイディはキャリア初のプレーオフ初戦敗退とプレーオフでのホーム敗戦を味わった。この敗戦で多くのメディアがペイトリオッツの時代が終わったと書き立てた。 このシーズンはブレイディが4,398ヤード28TDレイティング96.2とキャリアで2番目に良い成績をあげカムバック賞にも輝いたが、通したパスの約55.5%がモスとウェルカーの両エースWRで、特にウェルカーには約33%と大きく依存していた。(レシーバー不足だった2006年は最も高い選手で約18.7%、2007年は約28%)一方で許したサックは16回とキャリアで最も少なかった。オフェンスはリーグトップクラスの成績をおさめたものの試合終盤の失速が目立ち、多くのベテラン選手が去ったディフェンスはリーグ11位、失点の少なさはリーグ5位と上々の成績はおさめたものの勝負強さに欠け、サックはリーグ23位タイとパスラッシュに難があった。ペイトリオッツは2002年から第4Qをリードしてむかえた場合は69勝1敗と無類の強さを誇っていたが、このシーズンは第4Qでの逆転負けを4度も許した。またアウェーゲームで2勝6敗(うち一つはロンドンで行われた海外遠征の試合)と大きく苦戦した。終盤での失速や逆転負けといった、今までほとんどなかった負け方が多かったことにはブレイディのブランクも少なからず影響していたが、なによりもこのオフに長年チームを支えてきたロドニー・ハリソン、テディ・ブルースキー、マイク・ブレイベル、リチャード・シーモア、ラリー・イゾーといった王朝時代のメンバーが大量に引退、もしくはトレードなどでチームを離れた事が影響していた。最も大きかったと言われているのがDEシーモアをレイダーズにトレードしたことだった。 プレーオフでの敗戦後、多くのベテラン選手がチームを去り、選手が多数入れ替わったことに関してブレイディは「彼らは特別な選手であり、特別な人物だった。ペイトリオッツのユニフォームを着れば、ペイトリオッツらしいチームプレイができる訳じゃない。コーチ、選手たちが一体となって同じゴールを目指し、努力しているからこそだ。彼らのような選手を失うことは、大きな喪失だった。」と話し[39]、またオフにはシーズンの敗因として「チームとしての自信や信頼、メンタル的な強さの欠如」をあげた[40][41][42]。 2010年から2013年まで 2009年から5年連続して地区優勝を続けた。2011年シーズンにはスーパーボウル進出を果たしたがニューヨーク・ジャイアンツに敗北した。 2014年 6年連続の地区優勝を果たし、スーパーボウルでシアトル・シーホークスを破ったが、コルツと対戦したカンファレンス・チャンピオンシップで空気圧不正問題が発覚した(デフレートゲート問題)。 2015年 7年連続の地区優勝を果たしたが、スーパーボウル進出はならなかった。 2016年 2014年のデフレートゲート問題のため、ブレイディはシーズンの最初の4試合で出場停止処分となったが、AFC1位の成績で8年連続の地区優勝を収めた。スーパーボウルでは、序盤にファルコンズに大量のリードを許すも最終クオーターに追いつき、スーパーボウル史上初のオーバータイムに突入。最初の攻撃機会にタッチダウンを決め、25点差をひっくり返すという大会史上最大の大逆転でスーパーボウルを制した。 2017年 初戦はチーフスに敗れたものの、結果的には9年連続しての地区優勝を挙げ、第一シードでプレーオフに進んだ。プレーオフではテネシー・タイタンズとジャクソンビル・ジャガーズを倒してスーパーボウルに進んだ。スーパーボウルでは、フィラデルフィア・イーグルスと対戦。先行され一度は逆転したものの、再逆転されて33-41で敗れた。 2018年 第16週に前人未到の地区10連覇を達成した。アメリカン・カンファレンス(AFC)決勝では、第1シードで地元のカンザスシティ・チーフス(西地区1位)を延長の末に37-31で振り切って優勝。3年連続通算11回目(ここ18年間で9回目)のスーパーボウル進出を果たした。 その他 ホームのジレットスタジアムではペイトリオッツが得点すると、ニューイングランドという名称が示すとおり13人のアメリカ独立戦争当時の格好をした軍人が必ず当時のライフル銃で空砲を撃つ。 成績 AFC東地区(4地区制) AFC東地区(3地区制) BUF:バッファロー・ビルズ、MIA:マイアミ・ドルフィンズ、BOS→NE:ボストン・ペイトリオッツ→ニューイングランド・ペイトリオッツ、NYJ:ニューヨーク・ジェッツ、BAL→IND:ボルチモア・コルツ→インディアナポリス・コルツ 1982年シーズンはストライキの影響により、地区別成績ではなくカンファレンス上位8チームがプレイオフ進出するルールであったが、ここでは地区別に変換して表記する。 括弧内の数字はプレイオフ出場時のシード順(シード制導入前は表記なし)、文字はv:スーパーボウル優勝、s:スーパーボウル敗退・カンファレンス優勝、c:カンファレンス決勝敗退、d:ディビジョナルプレーオフ敗退、w:ワイルドカードプレイオフ敗退。1982年についてはd:2回戦敗退、w:1回戦敗退。 AFL東地区 BUF:バッファロー・ビルズ、HOU:ヒューストン・オイラーズ、BOS:ボストン・ペイトリオッツ、NY:ニューヨーク・タイタンズ→ニューヨーク・ジェッツ、MIA:マイアミ・ドルフィンズ 括弧内の文字はV:スーパーボウル(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム)優勝、s:スーパーボウル敗退・AFL優勝、a:AFL決勝敗退、d:ディビジョナルプレイオフ敗退、v:AFL優勝(AFL-NFLワールドチャンピオンシップゲーム設立前) 主な選手 NFL殿堂入り選手 ジョン・ハナ John Hannah G 1991年選出 マイク・ヘインズ Mike Haynes CB 1997年選出 ニック・ブオニコンティ Nick Buoniconti LB 2001年選出 アンドレ・ティペット Andre Tippett LB 2008年選出 チーム殿堂入り選手 ジョン・ハナ John Hannah G [1973-85] 1991年選出 ニック・ブオニコンティ Nick Buoniconti LB [1962-68] 1992年選出 ジーノ・キャパレッティ Gino Cappelletti K/WR [1960-70] 1992年選出 ボブ・ディー Bob Dee DL [1960-67] 1993年選出 ジム・リー・ハント Jim Lee Hunt DL [1960-70] 1993年選出 スティーブ・ネルソン Steve Nelson LB [1974-87] 1993年選出 ベイブ・パリ Babe Parilli QB [1961–1967] 1993年選出 マイク・ヘインズ Mike Haynes CB [1976-82] 1994年選出 スティーブ・グローガン Steve Grogan QB [1975–1990] 1995年選出 アンドレ・ティペット Andre Tippett LB [1982-1993] 1999年選出 ブルース・アームストロング Bruce Armstrong T [1987-2000] 2001年選出 スタンリー・モーガン Stanley Morgan WR [1977–1989] 2007年選出 ベン・コーツ Ben Coates TE [1991–1999] 2008年選出 ジム・ナンス Jim Nance FB [1965–1971] 2009年選出 ビリー・サリバン Billy Sullivan 創始者、オーナー [1960–1988] 2009年選出 サム・カニンガム Sam Cunningham RB [1973–1982] 2010選出 永久欠番 20 ジーノ・キャパレッティ 40 マイク・ヘインズ 57 スティーブ・ネルソン 73 ジョン・ハナ 78 ブルース・アームストロング 79 ジム・リー・ハント 89 ボブ・ディー なお引退後の永久欠番が有力視されるアダム・ビナティエリの4番は2006年に彼が去ってから誰もつけていない。 現役選手 QB トム・ブレイディ (12) 2000- TE ロブ・グロンコウスキー (87) 2010- WR ジュリアン・エデルマン (11) 2009- 2009年のドラフト7巡指名で加入。高校、大学とQBとしてプレーし、機動力を生かして大学ではパスで1820ヤード13TD、ランでは1,551ヤード13TDをあげた。NFLコンバインには招待されなかったが、プロデイで彼は20ヤード・ショート・シャトルにて3秒92という成績を残しており、これはコンバインに参加したすべての選手より速いタイムであった。ペイトリオッツではブレッドソーが2001年シーズンを最後にチームを去って以来、誰もつけていなかった背番号11を実に8シーズンぶりに背負うこととなった。ワイルドキャット・フォーメーションでの起用が主かと思われていたが[43]、プレシーズン第1週でWRとしてプレーしパントリターンTDをあげるなどの活躍を見せファンを驚かせた。レギュラーシーズンは怪我にも悩まされたが、ウェルカーを欠いたディビジョナル・プレーオフではNFLのルーキーWRとしては1995年シーズン以来の2TDキャッチを決めるなど、完敗したチームにあって一人気を吐いた。なお身長が6'0フィートとなっていることが多いが、実際には5'10フィートである[44]。2009年にアスレチック・トレーナーとしてチームに帯同した日本人スタッフによれば、彼はペイトリオッツで経験するまでWRとしてプレーしたことがなく、練習ではミスをしてブレイディに激しい口調で叱咤されることも多いという。 WR アーロン・ドブソン (17) 2013- T セバスチャン・ボルマー Sebastian Vollmer (76) 2009- 2009年ドラフト2巡指名の期待のラインマン。ドイツ生まれ、14歳までフットボールの経験が全くなかったというNFL選手としては異色の経歴の持ち主。大学2年生まではTEとしてプレーしており、ヒューストン大学に入学した当初は英語をかろうじて話せる程度であった。ルーキーシーズンではマット・ライトやニック・カイザーが怪我で離脱したこともあり14試合に出場。当時12試合(レギュラーシーズンでは11試合)連続サックを記録していたコルツのDEドワイト・フリーニーをTEの助けを借りながらとはいえ封じきるなど(この試合はフリーニーが出場した試合でサックを記録できなかった2009年シーズン唯一の試合となった。)、両サイドのTとして活躍した。 DT ビンス・ウィルフォーク (75) Vince Wilfork 2004-2014 2004年のドラフト1巡指名選手で、チームの3-4ディフェンスを支える147キロの巨漢NT。2度のプロボウル、1度のオールプロ選出。余談であるが、プロデイでの彼の40ヤード走のタイムは、コンバインでのブレイディの記録よりも速い[45]。 LB ジェロッド・メイヨ (51) Jerod Mayo 2008- 2008年の1巡指名で、同シーズンの最優秀守備新人選手に選出された。翌シーズンは怪我にも悩まされたがチームトップの103タックルを記録。ブルースキーが去ったチームにあって、新たなディフェンスリーダーとして期待されている。 過去に在籍した選手 WR ランディ・モス (81) 2007-2010年 K アダム・ビナティエリ (4) 1996-2005年 WR ウェス・ウェルカー (83) 2007-2012 ランアフターキャッチに秀でている。サンディエゴ・チャージャーズでプロのキャリアをスタートさせるがわずか一週間で解雇され、本人によれば悔しさのあまり帰りの車の中で号泣したという。マイアミ・ドルフィンズ時代に対ペイトリオッツ戦でキックリターン、パントリターン、エクストラ・ポイント・キック、FG、タックルを記録し、これはNFL史上二人目のことであった。2007年に加入後3シーズン連続で100キャッチ、1,000ヤードレシーブを記録している。リターナーとしても活躍。第42回スーパーボウルでは大会史上最多タイとなる11キャッチを記録。2度のプロボウル、3度のオールプロ選出。2007年と2009年はNFLトップのレセプション回数を記録した。2013年よりブロンコスに移籍。 WR ディオン・ブランチ Deion Branch (84) 2002-2005, 2010-2012 ドラフト2巡指名でチームに加入。175cmと小柄ながら1年目から活躍し第39回スーパーボウルでは大会最多タイ記録となる11回のパス捕球を記録してMVPを獲得した。第38回スーパーボウルでも10回のパスキャッチを記録しており、連続する2回のスーパーボウルで21キャッチという成績はNFL記録。またキャリア通算でのスーパーボウルのキャッチ数ではジェリー・ライスなどに次いで歴代3位である。契約がまとまらず2006年にシアトル・シーホークスに移籍した。2010年シーズン開幕後、ランディ・モスの退団したチームに復帰した。2002年から2005年までの背番号は83。その後は復帰と解雇を繰り返している。 RB ケビン・フォーク Kevin Faulk (33) 2000- チームを支えるベテランRB。パスキャッチがうまく、3rdダウンバックやWR、リターナーとしてもプレー。今もチームに残っている選手としては、スーパーボウル3度制覇を経験している数少ないメンバーの一人。マーシャル・フォークとは遠縁の親戚にあたる。 LT マット・ライト Matt Light (72) 2001-2011 ブレイディのブラインドサイドを守り続ける不動のLT。試合終了間際の重要なFG時にいつも中腰で祈っている。現在のチームには4人しかいないスーパーボウル3度制覇を経験している選手の一人。プロボウルに2度、オールプロに1度選出されている。2011年をもって引退。 QBドリュー・ブレッドソー Drew Bledsoe (11) 1993-2001年 ドラフト全体1位指名でチームに加入。プロボウルに3度選出されるなどチーム史上に残る活躍でスーパーボウル出場に大きく貢献し、数々のフランチャイズ記録を塗り替えた。2001年の3月に10年1億300万ドルという大型契約を結んだが[46]、その年のシーズン序盤に負傷離脱すると代わったブレイディにスターターの座を奪われた。しかしながらブレッドソーの起用を望む声は多く、メディアも論争を焚きつけようとした。しかしブレッドソーはメディアに対し不満を公にせず、AFCチャンピオンシップでは負傷交代したブレイディの代役をしっかりとこなすなどバックアッパーとしてチーム史上初のスーパーボウル制覇を支えた[47]。2002年に同地区のバッファロー・ビルズにトレードされ3シーズンを過ごし、2002年には4度目のプロボウル選出を果たした。ダラス・カウボーイズで2シーズンを過ごしたのち2007年4月に引退を表明。自ら「幸運だった」と振り返ったフットボールキャリアに幕を閉じた[48]。 LG スティーブン・ニール Stephen Neal (61) 2001-2011 現在のチームに4人しかいないスーパーボウル3度制覇を経験したメンバーの一人。しかしスターターとしてプレーしたのは第39回スーパーボウルのみである。2001年は一時フィラデルフィア・イーグルスにも在籍した。大学時代はレスリングで活躍し151勝10敗の成績をおさめ、のちのWWE、UFC王者であるブロック・レスナーにも勝利している[49]。またシドニーオリンピックにも出場するなど大学時代はほとんどフットボールをプレーしていない。2004年シーズンからスターターとして活躍している。 WR トロイ・ブラウン Troy Brown (80) 1993-2008年 ドラフト8巡で加入後チーム一筋でプレーした。ペイトリオッツでのレシーブ557回、パントリターン252回2,625ヤードはチーム歴代最多記録である。WR、リターナ、2004年のラムズ戦からはCBとしても出場し2006年のプレシーズンではQBとしてもプレーした[50]。チームが強力なWR陣を補強した2007年は怪我もあってプレーの機会がほとんどなく、第16週のマイアミ・ドルフィンズ戦で6回のパントリターンを行ったのみであった。(うち2回でフェアキャッチ、ファンブル一回、最も長いリターンは28ヤード) しかしながら第1Qにパントリターンで登場した際はホームの観客から大きな歓声を集めた。2008年シーズン前に引退し、ホームで行われたニューヨーク・ジェッツ戦のハーフタイムにセレモニーが行われた。 WRデイビッド・パッテン David Patten (86) 2001-2004,2010年 ドラフトにはかからず、アリーナ・フットボールを経験したのちニューヨーク・ジャイアンツでプロのキャリアをスタートさせた。クリーブランド・ブラウンズを経て2001年にペイトリオッツと契約。以後チームの主力として活躍し、第36回スーパーボウルでは見事なTDパスキャッチを決めるなど3度のスーパーボウル制覇に貢献した。2001年シーズンのインディアナポリス・コルツ戦ではパス、パスレシーブ、ランの3つでTDをあげ、同記録を達成したNFL史上6人目の選手となった。2005年にワシントン・レッドスキンズに移籍し、以後いくつかのチームを渡り歩く。2010年に再びペイトリオッツと契約したが、トレーニングキャンプにて引退を表明した。 WRデイビッド・ギブンズ David Givens (87) 2002-2005年 ドラフト7巡、全体253位という下位指名でチームに加入。2003年から活躍を見せ、以後スターターWRとしてスーパーボウル連覇に貢献した。レギュラーシーズンでのTDパスキャッチは12個にとどまるが、ポストシーズンでは2003年のAFCチャンピオンシップから2005年のディビジョナル・プレーオフまで7試合連続でTDパスキャッチを決めるなど大舞台で勝負強さを発揮した。スーパーボウルでの2TDを含むポストシーズン通算7TDパスキャッチはペイトリオッツ史上最多記録である。2006年にテネシー・タイタンズに移籍したが、5試合に出場したのち前十字靱帯を断裂。二度とフィールドに戻ってくることはなかった。2010年の6月にボストンの北部近郊にEuphoria Lifestyle Caféという飲食店をオープンし、自ら営業している[51][52]。 RB コーリー・ディロン Corey Dillon (28) 2004-2006年 シンシナティ・ベンガルズからトレードで加入。スーパーボウルに勝てるチームでのプレーを望んだためであったが、そのシーズンにチーム記録となる1,635ヤードを獲得するなど見事スーパーボウル優勝に貢献した。この年を含め4度プロボウルに選出されている。05年はスランプに陥り、06年は新人RBマロニーとの併用が主となった。07シーズン前に放出され移籍先が見つからず引退。2010年に妻への暴行容疑で逮捕された[53]。 DE リチャード・シーモア Richard Seymour (93) 2001-2008年 ドラフト全体6位で入団。5度のプロボウル、4度のオールプロ選出を誇るなど2000年代最高のディフェンス・ラインの一人[54]としてペイトリオッツの3度のスーパーボウル制覇に大きく貢献した。09年シーズン直前にオークランド・レイダーズへ、2011年ドラフト1巡指名権とトレードされた。 LB マイク・ブレイベル Mike Vrabel (50) 2001-2008年 ピッツバーグ・スティーラーズで4シーズン過ごしたがスターターになれず、2001年にペイトリオッツに加入。LBながらゴール前のスペシャルプレイヤーとしてレギュラーシーズンで8つのTDレシーブを記録し、スーパーボウルでも2つのTDレシーブを決めた。ブレイベルいわく[55]「練習で僕はいつもオープンだった。」 第38回スーパーボウルでは2サック、1ファンブル・フォース、1TDパスキャッチとMVP級の活躍を見せるなど3度のスーパーボウル制覇に大きく貢献した。現在はカンザスシティ・チーフスでプレーしている。 LB テッド・ジョンソン Ted Johnson (52) 1995-2004年 ドラフト2巡で加入。ランディフェンスのスペシャリストとして活躍し、3度のスーパーボウル制覇に貢献した。脳震盪に悩まされ2005年シーズン前に引退。初期のアルツハイマー病の兆しがあると神経科医に言われ、一時期ほどではないが現在も頭痛や鬱に悩まされている。それらに関して2007年にベリチックへの批判ともとれる発言を行ったが[56]、後のインタビューで悪意を持っているわけではないと明かした[57]。2009年の9月からニューイングランド・スポーツ・ネットワークで働いている[58]。 S ブランドン・メリーウェザー Brandon Meriweather (31) 2007年- 2007年の1巡指名。大学時代に発砲事件を起こしており(チームメイトに発砲した加害者に対しての正当防衛であり、銃も正当に所有していたものであった)[59]、FIU対マイアミ大学では相手選手に暴力行為を働くなど、その素行に関してドラフト時は心配の声もあった[60]。ロドニー・ハリソンの離脱後スターターとして起用されると、以後世代交代が進むなか主力として活躍。2009年には自身初のプロボウルに選出された。 LB テディ・ブルースキー Tedy Bruschi (54) 1996-2008年 ドラフト3巡で加入後チーム一筋でプレーした。チームが出場した6度のスーパーボウルのうち5試合に出場している、まさにチーム史に残るディフェンスリーダー。ペイトリオッツの50周年アニバーサリー・チームではディフェンス・キャプテンに選ばれている。不動のインサイドLBとしてフィールド上でペイトリオッツの3-4ディフェンスを指揮した。2度プロボウルに選出され、2005年シーズンには脳梗塞で倒れるもシーズン途中に復帰しカムバック賞に輝いた。2009年シーズン直前に引退。ベリチックは会見で涙をこらえながら"the perfect player"と彼を讃えた。現在はESPNでフットボール解説者を務めている。 LB ウィリー・マクギネスト Willie McGinest (55) 1994-2005年 ドラフト全体4位でチームに加入。DEとしてもプレーし、王朝時代のサックリーダーとして3度のスーパーボウル制覇に大きく貢献した。78サックはペイトリオッツ史上歴代3位の記録である。プロボウルにも2度選出。2005年のワイルドカード・プレイオフで記録したポストシーズン1試合での4.5サック、ポストシーズン通算16サックはどちらもNFL最多記録である[61]。サラリーキャップの問題で2006年に放出され、クリーブランド・ブラウンズでプレー。現在は未所属であるが事実上の引退状態にある。 LB ジュニア・セイオウ Junior Seau (55) 2006-2007,2008,2009年 サンディエゴ・チャージャーズでプロボウルに12度も選出された90年代を代表する選手。ドルフィンズを経て2006年に古巣のチャージャーズと1日契約を結び引退したが、わずか4日後にペイトリオッツと契約。2007年は全試合に出場しレギュラーシーズン全勝に貢献した。2008年、2009年にもシーズン途中でペイトリオッツに復帰し2009シーズン終了後、再度引退を表明した。 CB タイ・ロー Ty Law (24) 1995-2004年 ドラフト1巡でチームに加入。バンプなどを駆使したフィジカルなパスカバーとハードなディフェンスで活躍した。4度のプロボウルと2度のオールプロに選出され、第36回スーパーボウルではINTリターンタッチダウンを奪うなど3度のスーパーボウル制覇に貢献した。NFL 2000年代オール・ディケイド・チームにも選ばれている。サラリー・キャップの問題で2005年シーズン前に放出され、ニューヨーク・ジェッツなどでプレーした。2005年には5度目のプロボウル選出を果たしている。2009年シーズンはデンバー・ブロンコスに在籍。 CB アサンテ・サミュエル Asante Samuel (22) 2003-2007年 ドラフト4巡でチームに加入し、2度のスーパーボウル制覇を味わった。スターターとなった当初は苦戦するが、2006年シーズンに目覚ましい活躍を見せチャンプ・ベイリーと並ぶリーグ最多の10INTを記録した。現在はフィラデルフィア・イーグルスに在籍。 SS ロドニー・ハリソン (37) 2003-2008年 歴代ヘッドコーチ ルー・セイバン Lou Saban (1960-1961) レギュラーシーズン7勝12敗 マイク・ホロバック Mike Holovak (1961-1968) レギュラーシーズン52勝46敗9分け プレーオフ1勝1敗 クライブ・ラッシュ Clive Rush (1969-1970) レギュラーシーズン5勝16敗  ジョン・メーザー John Mazur (1970-1972) レギュラーシーズン9勝21敗 フィル・ベングソン Phil Bengtson (1972) レギュラーシーズン1勝4敗 チャック・フェアバンクス Chuck Fairbanks (1973-1978) レギュラーシーズン46勝39敗 プレーオフ2敗 ロン・エルハルト Ron Erhardt (1979-1981) レギュラーシーズン21勝28敗 ロン・マイヤー Ron Meyer (1982-1984) レギュラーシーズン18勝15敗 プレーオフ1敗 レイモンド・ベリー Raymond Berry (1984-1989) レギュラーシーズン48勝39敗 プレーオフ3勝2敗 スーパーボウル出場1回 ロッド・ラスト Rod Rust (1990年) レギュラーシーズン1勝15敗 ディック・マクファーソン Dick MacPherson (1991-1992) レギュラーシーズン8勝24敗 ビル・パーセルズ Bill Parcells (1993-1996) レギュラーシーズン32勝32敗 プレーオフ2勝2敗 スーパーボウル出場1回 ピート・キャロル Pete Carroll (1997-1999) レギュラーシーズン27勝21敗 プレーオフ1勝2敗 ビル・ベリチック Bill Belichick (2000-) レギュラーシーズン112勝48敗 プレーオフ14勝4敗 スーパーボウル出場5回 スーパーボウル制覇3回 ※2011-2012年シーズン終了時まで スキャンダル 2007年、開幕戦で相手チームのディフェンスシグナルを盗撮。通称「スパイゲート」。 2015年、AFCチャンピオンシップゲームで、細工を加えたボールを使ったとされる疑惑。通称「デフレートゲート」。 脚注 関連項目 en:New England Patriots seasons - チームのシーズンごとの成績。 外部リンク (in English) (NFL JAPAN) (NFL JAPAN) (in Japanese)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%84
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 193, 867, 1432, 1803, 2281, 2630, 3088, 3604, 3892, 4413, 4936, 5843, 6362, 6670, 7145, 7726, 7932, 7952, 8661, 8783], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 185, 858, 1431, 1802, 2280, 2629, 3087, 3603, 3891, 4412, 4919, 5842, 6345, 6669, 7144, 7725, 7915, 7950, 8626, 8760, 9162], dtype=int32)}
相撲の年寄はどのような立場ですか?
年寄
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([193], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([226], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
年寄(としより)とは、公益財団法人日本相撲協会(以下「協会」)の構成役員である。通常は「親方」の敬称で呼ばれることが多い。 概要 協会および大相撲の運営は年寄が主体となって行われている。現役を引退した元力士が協会の正規の構成員としてとどまるには、原則として年寄になる必要がある(若者頭、世話人など例外もある。なお、相撲部屋と個々に契約しているコーチやマネージャーは協会員ではない)。年寄の枠は歴史的な経緯からその名称(年寄名跡)まで固定されており、昭和2年(1927年)以降は105名の定員である。年寄になるには現役時代の成績や日本国籍の保有、協会の承認などの要件を満たす必要がある。 歴史 江戸時代初期には各地で相撲の興行集団が形成された。当初は浪人の集団や力士自身が勧進元となって興行が催されていたが、他の草相撲集団との諍いや暴力沙汰が絶えず、慶安や寛文年間には幕府によって相撲禁止令が出された。しかし相撲人気は衰えるどころかますます盛んになり、業を煮やした幕府は、江戸における相撲興行を寺社奉行の管轄下におくこととし、そのために相撲集団の責任の所在を強く求めた。 その結果、貞享元年(1684年)に雷権太夫をはじめとする株仲間(相撲浪人と称した力士経験者の一団)が相撲興行の秩序を維持することを前提に、幕府は深川八幡宮(現在の富岡八幡宮)境内での勧進相撲を許可することとなった。これが現在に続く大相撲の発祥である[1]。 そのため、角力会所(当時の名称)は、その後の運営を自発的に行うために、力士経験者を年寄というかたちにして、株仲間の制度を適用して、ギルド的結合を維持することとなった。年寄襲名の条件は時代によって異なるが、この制度のために、現在まで、相撲協会は現役経験者によって運営される、職能団体としての性格をも持つようになっている。 江戸時代の年寄は役員として筆頭、筆脇、中改に分かれ、さらに興行権を持つ歩持(ぶもち)と平年寄に分かれていた。歩持は会所に加入金を納め、興行を開催する権利を有していた。平年寄は加入金を納める必要はなかったが、出世の道は閉ざされていた。 興行は2人の歩持が受け持った。興行に伴う収益の分配金は莫大な金額になり、勧進元の遊びっぷりは江戸の豪商顔負けであったという。そして役員の権力が増大していき、シャモ帳と呼ばれる会所の大福帳を閲覧できるのは幹部のみ。そのため会計はドンブリ勘定になり、数えるのが面倒だという理由で収益は枡で計って配分されていた。 このような幹部の横暴に対して明治時代になると会所内部から不満が爆発し、機構改革が図られる。会所の権力を握っていた筆頭、筆脇の制度が廃止され、明治19年には角力会所が角力協会と名称変更される。筆頭は取締、筆脇は副取締、中改は勝負検査役と改称。差別的な平年寄の待遇も改善され、全ての年寄が歩持になった。役員も全年寄の選挙によって選ばれるようになった。 ただし、不況時の歩持は興行の赤字を身銭を切って負担しなければならない厳しい一面もあった(逆割りという)。昭和32年に歩方と呼ばれる月給制度が取り入れられ、年寄の生活がやっと安定するようになった。 昭和36年1月1日より、年寄の65歳定年制が導入された。それまでは年寄名跡は終身有効であったが、力士の平均寿命はもともと一般人よりも短く、年寄の多くは若くして亡くなっていたため、かつての大相撲においては年寄の定年制がなくても特に問題はなかった。事実、日本人の平均寿命が80歳代と長くなった現在においても、65歳の定年を迎える前に亡くなる年寄は決して少なくない。 平成26年11月16日より、定年を迎えて退職した年寄の再雇用制度が導入された。希望者は再雇用が認められれば最長で5年間年寄名跡を保有したまま参与の立場で協会に残ることができるが、給与は現行の7割になる。また、部屋持ち親方や、協会の理事・副理事になることもできない。導入8日後の11月24日に65歳となった16代楯山が最初の適用者となった(同年12月6日付で適用)。 年寄の職務 年寄は協会と人材育成業務の委託契約を結んでいる[2]。現在では、親方にとって最も重視される仕事は部屋に所属する力士に対する指導・監督とされる。技術面の指導はもちろん、若い力士が部屋で集団生活を送るという相撲界の慣習から、精神面の指導や、さらにはちゃんこ番や付き人といった部屋内での力士の雑務についても親方が責任を負う。また部屋持ち親方の場合はスカウト活動にも余念がなく、全国の高校や大学を訪れたり入門希望者の面接なども親方として必要になってくる。部屋の経営に必要な資金は、協会から補助金が出るものの基本的には部屋持ち親方の持ち出しであり、活躍する力士を多く輩出することで有力な後援者を求めることも必要となる。 また全ての親方は協会の構成員として、理事長から指示された職務分掌に従い協会内の各部署の職務に当たる。勝負審判や巡業地の宿の手配や土俵造り、木戸口での入場券のもぎりを含む館内警備、協会の事務まで多岐にわたる。毎年1月場所終了後に定期の職務分掌異動があり(西暦偶数年は役員改選も行われる)、その他欠員・増員が生じた際は随時異動が命じられる。 年寄の報酬 年寄の報酬には、月例給、賞与のほかに、勤続年数に応じた勤続手当、年3回支給される場所手当、協会在勤者への在勤手当、羽織・袴で勝負審判を務める者への衣装補助費、年寄名跡の取得補償として名跡金などが支給される。 また部屋持ち親方には、力士1人当たり1場所ごとに部屋維持費と稽古場経費、幕下以下の力士への力士養成費、関取を育てあげた養成奨励金などが支給される。2017年5月13日発行の書籍によると、相撲部屋維持費が力士1人当たり1場所11万5000円、稽古場経費が力士1人当たり1場所5万5000円、養成員養成費が幕下以下の力士1人当たり1か月7万円支給される[3]。 日本相撲協会の構成役員である年寄の職責には、理事、監事、役員待遇委員、委員、主任、参与、平年寄があるが、役員待遇委員の者の給与等は、理事又は監事と同等額と定めている。相当数を占める委員の年収は、1,500万円から1,600万円と推定される。2006年12月に廃止された準年寄の年収は地方場所における宿泊費や養老金(退職金)の計算基準などで平年寄との差異が設けられていたが給与や在勤手当は平年寄と同額であった。 2006年6月に押尾川親方(大関大麒麟將能)が定年まで1年残して早期退職をしたとき、「もったいない」との記事が全国版新聞に掲載された。 年収の内訳 (単位:円) 勤続手当(月額) 勤続6年以上11年未満の者:5,000円 勤続11年以上16年未満の者:8,000円 勤続16年以上21年未満の者:11,000円 勤続21年以上26年未満の者:14,000円 勤続26年以上31年未満の者:17,000円 勤続31年以上の者:20,000円 場所手当 1月場所、5月場所,9月場所の年3回、各200,000円、年額600,000円 名跡金 年寄名跡の取得補償として月額50,000円、年額600,000円 在勤手当 協会在勤者のみに支給、月額15,000〜50,000円、年額180,000〜600,000円 審判手当 審判委員のみに衣装補助費の名目で支給、各場所50,000円、年額300,000円 年寄名跡に関する諸問題 年寄名跡の売買価格の高騰、不明瞭な取引の実態に関わる諸問題をいう。 出典 関連項目 現役年寄一覧 根岸治右衛門:番付の版元として力士・行司以外で唯一の年寄の権利を持っていたが、1952年に返上。 高見山大五郎:年寄には日本国籍が必要という規定は、高見山の現役時代に制定された。 金親和行:「相撲部屋継承者と認定された場合の例外規定」の適用第一号。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E5%AF%84
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 125, 440, 641, 1367, 1849, 3182, 3881, 4248, 5493, 6272, 6991, 7417, 8448, 9612, 10599, 11307, 11728, 12890, 13399, 13886, 14766, 15177, 15909, 16148, 18483, 18800, 18961], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 124, 439, 624, 1366, 1782, 3145, 3880, 4205, 5473, 6263, 6982, 7408, 8439, 9588, 10590, 11306, 11719, 12857, 13378, 13885, 14765, 15156, 15898, 16131, 18462, 18778, 18937, 19012], dtype=int32)}
ヤルノ・トゥルーリが所属するチームは何
ヤルノ・トゥルーリ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ヤルノ・トゥルーリ(Jarno Trulli, 1974年7月13日 - )は、イタリア人のレーシングドライバー。 姓の Trulli は、イタリア語では<b data-parsoid='{"dsr":[851,861,3,3]}'>トルッリ</b>と読まれ、名は正式なイタリア語の発音では「ヤルノ」ではなく「イァールノ」が近い(イタリア語には「ヤ」行の発音が存在せず、JはIと同じ発音となるため)。 フジテレビF1中継でのニックネームは「二代目カミカゼアタック」「情熱ファンタジスタ」「情熱のトヨタリアン」(トヨタF1在籍時)。 初期の経歴 両親がモータースポーツ・ファンで、ヤーノ(ヤルノ)・サーリネン(1973年にモンツァで事故死したフィンランドのロードレース・グランプリチャンピオン)にちなんで命名した。このフィンランド風の名前は彼がグランプリデビューした当時、イタリア人らしくないとしてある種の混乱を引き起こした。彼の父親の熱中は他の多くの成功したレーサー同様に、彼を幼年時からカートレースへ参加させた。イタリアおよびヨーロッパカート・チャンピオンのほか、1991年には世界カート選手権を制するなど、カート界で急速に頭角を現す。 1996年にドイツF3選手権チャンピオンとなった。また1996年のF3マカオグランプリでは、首位のラルフ・ファーマンがクラッシュしたため2位を走っていたトゥルーリが首位でチェッカーフラッグを受けた。トゥルーリの優勝かと思われたが、赤旗ルールが適用され、クラッシュしたファーマンが優勝者となった。 F1での経歴 1997年 - 1999年 ミナルディ〜プロスト 1997年、ミナルディからF1デビュー。この時のチームメートである片山右京とは、以後も深い親交が続いている(デビュー当時、好タイムを出すと「ウキョウが教えてくれた通りに走った」とコメントするのが常であった)。そして7レースに出場後、第7戦カナダGPでクラッシュにより大怪我を負ったオリビエ・パニスに代わり、第8戦フランスGPよりプロストから参戦することとなった。第14戦オーストリアGPではレース中盤までトップ走行を見せるなど印象的な活躍を見せたが、次戦第15戦ルクセンブルクGPからは復帰したパニスにシートを譲ることになる。この時、チームオーナーであり元ワールドチャンピオンであるアラン・プロストは、中野信治のシートに彼を座らせたいほど才能を評価していた。この活躍により、翌1998年にはプロストのレギュラーシートを獲得。2シーズンを同チームに所属することになるが、戦闘力に劣るマシンに苦闘を強いられる。雨による混乱のレースとなった1999年のヨーロッパGPでは見事自身初の表彰台となる2位入賞を果たした。 2000年 - 2001年 ジョーダン 2000年は、前年に引退したデイモン・ヒルが、自身の後任に強く推薦したこともあり、ジョーダンのシートを獲得。第7戦モナコGPの予選では見事2位を獲得。迎えた決勝では、トップのミハエル・シューマッハに離されながらも2位をキープしていたが、マシントラブルによりリタイアした(シューマッハもマシントラブルでリタイアしたため,初優勝のチャンスでもあった)。なおこの年、新人であり後のチームメイトとなるジェンソン・バトンとは幾度も接触事故をおこしている(ほぼすべてバトン側に非があった)。 2001年も前年と同じくマシンの信頼性の低さに悩まされ、予選では多くのグランプリでシングルグリッドを獲得するも、入賞は僅か5回に終わった。そして、ジャンカルロ・フィジケラと入れ替わる形で2002年にはルノーへ移籍することになる。 2002年 - 2004年 ルノー〜トヨタ 2002年も前年と同様、期待を裏切られるシーズンとなる。ルノーが投入した111度のワイドバンク角エンジンのトラブルに悩まされ続け、全17戦中、リタイアは9回を数え、入賞は僅か4回にとどまった。 2003年には33ポイントを上げ、第12戦ドイツGPでは移籍後初、そして4年ぶりの表彰台を獲得した。 2004年は第6戦モナコGPでF1初優勝を果たすなど、前半戦は僚友アロンソを圧倒して好調であったが、徐々にチームとの関係が悪化すると共に成績も降下していく。モナコGPでの優勝の際にはルノーの会社マークにキスをしたことが話題になり、ルノー関係者からの評価も高かった。しかしルノーの母国フランスGPでは、最終ラップでルーベンス・バリチェロにパスされ表彰台を逃し、それ以降情勢が変化していった。こうした中、同年9月にはトヨタへの移籍を発表するに至るが、チームとの関係はますます悪化し、ついに第15戦イタリアGPを最後にチームを離脱した。その後、第17戦日本GP以降はトヨタから参戦した。 トヨタ 2005年 2005年は正式にレギュラードライバーとしてトヨタから参戦。第2戦マレーシアGPで2位表彰台を獲得。このGP前に友人を亡くしており、亡き友に捧げる2位となった。その後の第3戦バーレーンGPでも2位、第5戦スペインGPでも3位と相次いで表彰台を獲得。第9戦アメリカGPではトヨタに初のポールポジションをもたらした。期待された決勝レースでは、ミシュランタイヤに問題が発覚し、ミシュラン勢は全車がレースを棄権したため、記録上はリタイアとなった。シーズンを通して開幕前の予想を覆す活躍を見せ、チーム初のコンストラクターズランキングの4位獲得に貢献した。 2006年 トヨタでの2シーズン目となり飛躍が期待されたが、この年に投入された車体「TF106」は成功作とはいえず、序盤には入賞すらできなかった。その結果、第7戦モナコGPからは改良型「TF106B」が投入された。得意とするモナコGPでは終盤3位を走行する活躍を見せたものの、表彰台を目前にしながら結果はリタイアに終わった。第10戦アメリカGPでは、予選後のパーツ交換によるペナルティをうけ最後尾スタートとなったが、4位でゴールするという力走を見せた。また第12戦ドイツGPでは、トヨタと2009年までの契約延長が発表された。 2007年 予選ではQ3進出の常連となったが、決勝のスタートでは出遅れることが多く、また予選と比較してレースペースが遅い・安定しないということもあり、入賞は僅かに4回にとどまった。また、このシーズンはチームラジオ(無線)でマシンバランスなどについて訴える場面が度々国際映像で取り上げられている。 2008年 開幕戦オーストラリアGPでは、予選で6番手を獲得するもリタイア。しかしその後、第2戦マレーシアGPで4位、第3戦バーレーンGPで6位、第4戦スペインGPで8位と3戦連続入賞を果たす。第8戦フランスGPでは3位に入賞し、自身3年ぶりの表彰台を獲得。このグランプリの前にチームトヨタF1の初代代表オベ・アンダーソンがラリーで事故死し、彼に捧げる3位となった。最終戦ブラジルGPでは予選2番手に入る速さを見せた。しかし、天候の変化によるタイヤ交換の際にキミ・ライコネンに先行され、その後も6位走行中にハーフスピンを起こし、スクーデリア・トロ・ロッソのセバスチャン・ボーデとチームメイトのティモ・グロックにも抜かれ、最終的に8位入賞にとどまった。 最終的にこの年は31ポイントを獲得し、ドライバーズランキング9位でシーズンを終えた。 2009年 2009年シーズンはトヨタのマシンTF109の性能が非常によく、開幕戦オーストラリアGPではペナルティで予選タイム抹消、ピットスタートになったもののトゥルーリ3位、チームメイトのグロックも4位に入り、絶好調のスタートを切った。 第4戦バーレーンGPでは、予選トヨタ1-2でトゥルーリが2005年アメリカGP以来のポールポジションを獲得した。しかし、決勝は戦略によって後退、3位となった。また、このレースで参戦206戦目にして自身初のファステストラップを記録した。中盤戦はなかなか入賞できずにいたが、トヨタの母国第15戦日本GPでは予選2位で、スタートではハミルトンに抜かれたが、最後のピットでハミルトンを逆転してトヨタの母国で初めて2位表彰台そしてトヨタF1の最後の表彰台を獲得した。この年限りでトヨタが撤退したため5年間所属していたチームを離れることになった。32.5ポイントを獲得し、ドライバーズランキングは8位。 2010年 ロータス 2010年は新規参入チームであるロータス・レーシングに移籍。マクラーレンから移籍してきたヘイキ・コバライネンとタッグを組む。冬季テストでは信頼性はあるが、速さは見せ付けていない。この年はマシンの戦闘力が不足していたため、主に新規参入した3チームの中でのトップを目指すシーズンとなった。シーズンを通した成績は予選結果ではチームメイトのコバライネンに対し11勝8敗と勝ち越したものの、決勝ではコバライネンの後ろでフィニッシュすることが多く、両者が完走してトゥルーリが前でフィニッシュしたのは第10戦イギリスGPのみであった。マシントラブルでのリタイアも多く、全19戦中完走は11戦で最高位は第16戦日本GPの13位であった。また、F1参戦14年目にして自身初のノーポイントのシーズンだった。 2011年 前年からのマシンの進化が期待されたものの、既存チームに追いつける程の速さは無い状況は変わらなかったが、状況によってはぎりぎりQ2進出も可能な場合もあった。しかしチームメイトのコバライネンに対して予選では18戦中2戦でしか上回れず、Q2進出も1度も無く、まったく速さを示すことが出来なかった。決勝に於いては前半は互角の結果を残したものの、後半は負け続けてしまった。ただし13位に2回入ったためランキング上はチームメイトを上回り、コンストラクターズ選手権に於いても10位になることに貢献した。 ドイツGPではリザーブドライバーのカルン・チャンドックに1戦のみとはいえシートを奪われてしまった。他のグランプリでも交代の噂が出てしまったり、2012年もチームとの契約があるにもかかわらずシートを奪われる噂が絶えないなど、ランキング以外ではあまり良いところのない一年となってしまった。 2012年 チームは新たにロータスからケータハムへ名称が変更されたが引き続きレギュラードライバーとして残留した。新車CT01のテストでは最終日を担当し117周を走行した。2月17日にチームはトゥルーリに代わりヴィタリー・ペトロフの起用を発表、トゥルーリはシートを失った。チーム代表トニー・フェルナンデスはこの決定を「ヤルノの代わりにヴィタリーを入れるというのは簡単な決断ではなかった。だが、チーム全体に刺激を与えるためにも、また現実的に世界的な経済マーケットを見据えた時にこれは必要な判断だった」と語った。[1] また、トゥルーリのシート喪失に伴って、40年ぶりにF1からイタリア人ドライバーが姿を消すことになった。その後2017年にアントニオ・ジョヴィナッツィがザウバーから代役参戦でデビュー、2019年に同チームからのフル参戦が決まり、彼以来8年ぶりにイタリア人レギュラードライバーが誕生する[2]。 F1引退後 フォーミュラE 2014年6月、 同年9月より開催されるフォーミュラE選手権にチーム代表兼ドライバーとして参戦することを発表した。これはすでに参戦を表明していたドレイソン・レーシングより参戦権を譲り受けたものである[3]。チームの運営はスーパーノヴァ・レーシングが受け持つ[4]。またチームメイトとしてイタリアの女性ドライバーミケーラ・セルッティを起用した[5]。 2014-15シーズン 唯一のF1優勝経験者として紹介され期待されていたが、初戦からセルッティ共々後方グループに沈むことが多く全く見せ場の無いレースが続いた。第4戦ブエノスアイレスGPでついに4位入賞を果たしたが、その後も入賞圏外やリタイアが続いた。この間に第5戦からチームメイトはセルッティに代わり、元F1ドライバーのビタントニオ・リウッツィに交代している。 そんな中、第8戦ベルリンGPでは突然ポールポジションを獲得。F1時代から数えると2009年バーレーンGP以来6年ぶりのポール獲得であり、周囲を大きく驚かせた。しかし決勝ではスタートこそ良かったものの、1周目であっさり2位スタートのルーカス・ディ・グラッシにかわされ、さらにチームメイトのリウッツィに抜かれた上にその後もペースが全く上がらず続々と後続に抜かれていき、最終的に2周遅れの20位最下位(後に優勝したディ・グラッシが車両規定違反で失格になったため、19位に繰り上がっている。)でフィニッシュしている。その上フォーミュラEにおける初の全車完走だったため、図らずもフォーミュラE史上最低順位を記録してしまった。 その後の終盤戦も見せ場を作れず、最終的なドライバーズランキングは20位。これはフル参戦ドライバーの中では最下位であり[6]、また自身のチームもセカンドドライバー共々ポイントを稼げずランキング10位で最下位となり、F1優勝経験者としては寂しい結果で初年度のシーズンを終えた。 2015-16シーズン チームはそのまま継続して『トゥルーリ・フォーミュラEチーム』の名称のまま参戦するが、ドライバーはリウッツィと前シーズンアムリン・アグリから参戦していたサルバドール・デュランの2名を起用し、自身は出走しないと発表されていた。しかし第2戦ではデュランに代わり出走することが発表されたが、2戦とも車検を通過することができず、欠場となった。そして第3戦の直前、2戦連続で車検不通過になったことが原因で様々な問題があることを考慮しフォーミュラEからの撤退を発表。惜しまれつつもチームの幕を下ろした[7]。 実業家 その後はレース業界から離れ、1999年から副業していたワイン造りのオーナーに注力する。2018年、日本の酒商主催のイベントに出席するため、7年ぶりに来日した[8]。 エピソード 予選ではチームメイトよりも比較的上位のグリッドを獲得することが多い。しかし決勝ではレースペースが落ち、しばしばレース中に彼を先頭にした渋滞を巻き起こすことがある(しばしば、「トゥルーリ・トレイン」「トゥルーリスクール(ヤルノ教習所)」などと揶揄される)。 マシンバランスやセッティングなどの状態に非常に左右されやすく、自身の好みから僅かでも外れていると途端に最大限の力を発揮できなくなる。逆にしっかりと好みに合った時には、類稀な速さを発揮する。 シーズン前半は好調でも、シーズンが進むに従って調子・成績が下降していくという傾向が見られる。 F1で3つの日本製エンジンメーカー(無限ホンダ、ホンダ、トヨタ)を経験した事がある数少ないドライバー。ちなみに、他にはプロスト時代のチームメイトのパニス(3つとも同じ)とミカ・サロ(無限ホンダ、ヤマハ、トヨタ)。 F1ドライバーである傍らアドリア海に面したアブルッツォにあるブドウ園「ポデレ・カストラニ(podere castorani)」でワインの生産を手がけている。ブドウ園の名称は最初のオーナーであるラファエル・カストラニに由来する。かつてワイン醸造を手がけていた父親のエンツォ・トゥルーリがブドウ園のマネージャーであり、トゥルーリの個人マネージャーであるルチオ・カヴートがマーケティングを手助けしている。トゥルーリはブドウ園を「ケーキにかけるトッピングのようなものさ。夢を手に入れた証しといってもいいかな」と述べている。 フォーミュラEにおいては所属チーム名に自身の名前「トゥルーリ」を冠したため、レース中継で呼称されるときはいちいち「『トゥルーリ』の『ヤルノ・トゥルーリ』」と呼ばなくてはならず、やや面倒になっている。テレビ朝日の中継においても「こちらはトゥルーリの……えー、…ヤルノ・トゥルーリです」と詰まるシーンが多々ある[9]。 レース戦績 F1 太字</b>はポールポジション、斜字</i>はファステストラップ。(key) †: リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。 ‡: ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。 フォーミュラE †: リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。 *: 今シーズンの順位。(現時点) 脚注 関連項目 モータースポーツ F1ドライバーの一覧 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%AA
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 371, 760, 2900, 5276, 6055, 7982, 8450, 9770, 10015, 16843, 19219, 19717, 19878, 20728, 20836, 20888, 20953, 21026, 21131, 21283, 21961, 22363, 22427, 22566, 22786, 22948], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 370, 717, 2883, 5275, 6044, 7981, 8449, 9769, 10006, 16798, 19153, 19716, 19801, 20727, 20812, 20880, 20929, 21006, 21120, 21255, 21953, 22349, 22419, 22565, 22764, 22930, 22990], dtype=int32)}
関根 潤三は何歳で引退した?
関根潤三
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([3], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([4991], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([4996], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
関根 潤三(せきね じゅんぞう、1927年3月15日 - )は、東京府(現:東京都)出身の元プロ野球選手(投手、外野手)・コーチ・監督、解説者。生まれは東京府北豊島郡巣鴨(現:東京都豊島区巣鴨)。戸籍上の生年月日は1927年3月15日だが、実際の生年月日は1926年12月25日。[1] 現役時代は近鉄、巨人で活躍。打者で1000本安打・投手で50勝を記録、またオールスターゲームでは初めての投手・野手の両方でのファン投票選出を記録した[2]。引退後は広島・巨人のコーチ。その後大洋、ヤクルトの監督を歴任した。2003年、野球殿堂入り。 経歴 現役時代 アマチュア時代 藤田省三が監督を務める旧制日大三中へ進学したものの、入学初年度は小柄だったため、練習に参加させてもらえなかった。2年生に進級後ようやく参加できたが、それでも外野の球拾いだった。やがて、兼務していた法政大野球部に掛かり切りと成った藤田が去り、後任監督から2塁手として抜擢されたのが転機となり、試合に出場できるように成った。しかし左利きの2塁手が2塁のベースカバーで併殺を完成させるのは難があったが、それでも関根は3度成功させた記憶がある、と『さらば、愛しきプロ野球…。』の中で語っている。また投手に抜擢されたのも、この旧制中学時代の頃であったが、杉下茂が居た旧制帝京商などに阻まれ、甲子園への出場は叶わなかった。その後は法政大学経済学部に進み、藤田が監督を務めるチームで4年間にわたりエース(4年生春に主将)として活躍した。3年生秋(1948年)にチームを戦後初のリーグ優勝に導き、翌4年生秋には戦後初・史上2人目の通算40勝を記録した。大学通算79試合登板、41勝30敗。毎試合のように先発し、当然のように1試合を投げきった。エースの連投が当たり前だった当時の東京六大学ではあったが、通算658イニング、シーズン投球回数133回2/3(1949年秋季)、勝敗通算71(若林忠志と同数)という記録を残した。1949年秋には来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投した。急遽子供たちだけを招待する「オドールデー」として組まれた六大学選抜軍との試合に、法政は明治との秋のリーグ戦優勝争いの渦中にあったが、エースの関根が先発登板することとなった。このためか、翌々日の明大戦にチームは敗れ、優勝を逃した。打者としても93試合に出場し350打数93安打、打率.266、0本塁打、38打点を記録した。 プロ入り後 当初はプロ入りを望んでいた訳ではなく、社会人野球・八幡製鐵所(後の新日本製鐵八幡硬式野球部)に就職が内定していたが、恩師の藤田省三が近鉄の監督に就任した事もあって、1950年に近鉄パールスに入団。1951年と1953年には開幕投手を務める(51年開幕戦では法大の先輩でもある同僚森下重好外野手が3打席連続本塁打で援護射撃する)など万年最下位の近鉄でエースとして活躍するが、プロ入団初年の開幕2戦目にして、肩を壊していたと言う。それ以降は、本当の球の力が戻らなかったと述べている。「カーブやフォークは遊びであり、ピッチャーでまっすぐが通用しなくなったら終わりだ」との自論もあって、プロ8年の投手人生に見切りをつけ、打者に転向したと述べている[3]。 始めは、旧制中学からのチームメイトであった捕手の根本陸夫に転向の意思を打ち明けた。関根の球威に限界を感じていたのか、根本からは反対されなかった。もともと野手顔負けの打撃力を備えていたこともあり、右翼手あたりを狙って正式に野手転向を申し入れたものの首脳陣からは「転向しても下位打線では困る」と難色を示された。そこで5番・右翼手としての3試合限定起用、クリーンナップとしての適性を試された。すると、その初戦から1本塁打を含む3安打、2戦目で2安打、3戦目でも3安打して見事に難題をクリア。こうして1957年からは小玉明利を核とする中軸打者の仲間入りし、そこでシュアな打棒を振るった。もっとも関根だけでなく小玉も長打力を持ち味としておらぬ中軸に代表される様に、打線全体としては他球団よりも爆発力で劣っており、後年「ピストル打線」とあだ名される所以でもあった。1965年に読売ジャイアンツへ移籍し、16年目38歳で初のリーグ優勝や(V9初年度の)1965年の日本シリーズ出場・制覇を経験し、同年に引退。若い選手からは「お父さん」と呼ばれていたという(監督の川上哲治以外はコーチも含めて全員年下だったため)。 投手・野手両方で実績を残した数少ない選手である。史上初めて、投手・野手の両方でオールスターに出場した。投手としてファン投票で1回。外野手としてファン投票で1回、監督推薦で3回出場(長らく「史上唯一」であったが大谷翔平が2013年に野手として、2014年に投手として選出され、出場し2人目となった。)。また、2リーグ制以後では唯一の防御率ベストテン入り、打率ベストテン入りの双方を達成。さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日などで活躍した西沢道夫しか達成していない記録である。 引退後 引退後はニッポン放送解説者(1966年 - 1969年)を経て、1970年、根本陸夫監督と広岡達朗一軍守備コーチの要請で広島東洋カープ一軍打撃コーチ(ヘッド格)に就任。山本浩二・衣笠祥雄・三村敏之・水谷実雄らを育て後の広島黄金時代の礎を築いた。1975年には現役時代から親交のあった監督の長嶋茂雄の要請で、巨人のヘッドコーチに就任、同年球団初の最下位に終わり、1976年は二軍監督に就任し、同年解任[4] 。1981年オフ、長嶋の監督招聘を働きかけていた横浜大洋ホエールズに「長嶋監督が実現したら交代する」との条件で監督に就任。投手の遠藤一彦、野手の屋鋪要、高木豊らの若手育成に尽力した。1年目の1982年は辻恭彦・加藤俊夫・福嶋久晃のベテラン捕手3人体制を編み出し、2年目の1983年にはレオン・リーと加藤博一をトレードで獲得し、チームを4年ぶりのAクラス(3位)に導いたが、結局「大洋・長嶋監督」は実現することなく、1984年に辞任し、近藤貞雄に監督をバトンタッチ。近藤は屋鋪・加藤・高木を「スーパーカートリオ」として売りだした。その後はフジテレビ・ニッポン放送解説者を務めた後、1987年にヤクルトスワローズの監督として招かれる。ヤクルトでは大洋監督時代に一軍投手コーチだった小谷正勝を招聘、池山隆寛・広沢克己・栗山英樹・荒井幸雄・内藤尚行・伊東昭光(1988年4月8日東京ドーム初の公式戦でセーブ記録)・荒木大輔・秦真司・笘篠賢治らを起用し、後任の監督野村克也にわたり起用されるレギュラー選手として育てあげた。1989年限りで辞任し、小谷コーチも大洋へ戻った。 通算6シーズン経験した一軍監督時代は成績面では恵まれなかった。優勝はおろかAクラスにも一度(1983年の3位)しか手が届かなかったが、若手を積極的に実戦に投入した実績から<b data-parsoid='{"dsr":[4811,4824,3,3]}'>人材育成の名手</b>として評価された。関根自身も、藤田省三の勝負よりも育成に主眼を置いた指導に影響を受けたことを認めている[5]。 1990年にフジテレビ・ニッポン放送解説者に復帰。解説者としては、結果論や当たり前のことしか言わない点を揶揄されることが多い。この点については、解説者を始めた時に詳細な技術論を展開したところ、兄から「解説がわかりづらい。専門的なことを長々と喋られても、視聴者に伝わりづらい」という指摘を受けたため、わかりやすくシンプルな解説を心がけるようにした、と著書で述べている。実況アナウンサーとの間(ま)を大事にしており、アナウンサーの実況を遮ってまで喋り続けることはほとんどない。また、実況アナウンサーが的外れな質問をすると、無視をして何も答えない。一見おだやかなイメージがあるが、話す内容は「ダメですね」「どうしようもない」など、かなり手厳しいコメントを連発する。また、2006年のとある試合では起爆剤の事を覚醒剤と関根自身が勘違いして何回も語ってしまい、波紋を呼んだことがある。(但し、本人も間違いには気付いたのだが、自身のプライドが高かった為に訂正できずにそのまま終わってしまったと語った。) 2011年現在、テレビ局・ラジオ局専属のプロ野球解説者の中ではTBSラジオの杉下茂[6]に次いで高齢となっている。但し、地上波の中継に関して言えば2010年以降担当実績がない。 人物 テレビなどで自身を紹介された時は必ず「よろしくどうぞ」と挨拶する。 ニッポン放送の解説者になった当時(1966-69年)、専属解説者が関根1人だったため、ニッポン放送で中継されるほとんどの試合の解説を関根が行っていた。元ニッポン放送アナウンサーの深澤弘は「他局は当時から何人もの解説者を起用していたが、 関根さんの声が聴こえたらニッポン放送だと解るようにあえて関根さん1人しか起用しなかった」とコメントしている。 大洋・ヤクルト監督時代の老成した、穏やかな印象から「笑顔があふれる温厚な人物(好々爺)」と思われがちであるが、実際は若い頃から、言葉より先に手が出るという熱血漢である。旧制日大三中・法大・近鉄で同窓となった永年の親友である根本陸夫が、『潤ちゃんは、見た目は紳士だけど、中身はヤクザ』と生前言い残した逸話を持つ(根本自身も、若い頃に相当の武勇伝を持つことで知られている)。この言葉に対し関根は「アイツが自分のことを隠すために言ったセリフ」とかわしている[5]。 著書の中で『僕も根本も売られたケンカは買った。でも自分から売ることはなかったねぇ。殴り合いになる前に「生まれはどこだ?」「ヤサは?」なんて話してるうちに、ケリがついちゃう事が多かった』と記している[7]。 もっとも、若い選手たちにはその恐さが浸透していたとは言い難い。大洋監督時代、試合前のミーティングに遅刻したベテラン選手がいたので「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」と怒鳴ったところ、選手たちは恐縮せず、ただ驚くばかりであった。その後しばらく、選手間では「てめぇら、ふざけるんじゃねぇ!」が、流行語になったという。 広島コーチ時代、門限を破った衣笠祥雄を寮の玄関で待ち伏せていた逸話は有名。説教を覚悟した衣笠に対し、笑顔で「さあ、素振りをやろうか」とバットを渡し、夜中にも関わらず衣笠の素振りを付っきりで見守った。後に関根は「素振りさせたけど、(衣笠が)最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている(2008年9月27日フジテレビ739『プロ野球ニュース』より)。 他球団の情報を収集する「先乗りスコアラー」がまだ存在していなかった近鉄選手時代の1954年、監督の藤田から「西鉄の選手の打撃時の特徴をまとめてくれ」と依頼され、関根は旅館に閉じこもり一晩かけてまとめあげた。この依頼、実は日本シリーズに出場する中日監督・天知俊一からの依頼で、藤田と天知が旧知の仲であったことから実現したもの。このデータは同年の日本シリーズで中日が初優勝を決めた際に大きく役立ったという。ちなみに大下弘に関しては「得点圏にランナーがいる時の大下は敬遠しろ」と警告したという(2007年のニッポン放送日本シリーズ中継時の談話)。 2004年の球界再編騒動の際、CSの『プロ野球ニュース』で「近鉄は(プロに)ぎりぎりのチームだったから、お客さんを呼ぶことができませんでした」と発言した大久保博元に対して「近鉄がプロにぎりぎりのチームなんて、ふざけんじゃないよ!!」と激しく非難した。このとき関根は近鉄のOB会長を務めていた。1980年代以降に書かれた野球漫画の中では温厚な人物として書かれていることが多く、この大久保怒鳴りつけ事件の後、該当漫画に対して抗議文を送るなどした者もいたという。 2000年、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』に出演していた関根は、司会の島田紳助から「明らかにここ(頭)を狙ったデッドボールってありますよね?」と振られ、「ありますよ。でも頭はダメですよね。ここ(頭)から下ならいいですけどね」などと喋ってしまい、同じく司会の大橋マキから「関根さんは監督時代に、ここ(頭)から下のデッドボールを指示されたことってあるんですか?」と聞かれるとあっさり「ありますよ」と認めてしまった。これに対し紳助は「爆弾発言ですよ! 関根さんは普段から本当に温厚で、いつもなら湯船に浸かっているような状態で…」と笑いを取っていた。紳助は他にも、関根から聞いた「人生1勝2敗で十分」との人生観を披露し、「そらヤクルトは強よなりませんわな」とコメントしていた。 夫人との間に一男一女がおり、息子はポニーキャニオンに勤務。1980年代後半、当時ポニーキャニオンと契約していたとんねるず・石橋貴明がテレビ番組内で関根の愛息とはたびたび仕事で顔を合わせていたという。 関根の現役時代、夫人は神奈川県川崎市で喫茶店を営んでおり、関根は長らく大阪で単身赴任状態となっていた。 21世紀以降、日本人の中でも数少なくなった第二次世界大戦時代を肌で経験した世代となって「太平洋戦争と野球」を語る機会が増えた。2005年にはNHK衛星第2テレビで放送された平日の帯番組『あの日 昭和20年の記憶』に出演し、東京大空襲直後に渋谷区周辺で多数の焼死体を目撃したことを語った。また、2006年10月3日にNHK総合に放送された『その時歴史が動いた・戦火をこえた青春の白球~学徒出陣前 最後の早慶戦~』にゲスト出演。自らの学生時代を語り、バットを持って歩いていたところ警察官に呼び止められ「宿敵・米国産の野球をやるとは何事か!!」と怒鳴られたことを明かした。 かつて『プロ野球ニュース』で一緒に仕事をした八木亜希子の大ファンで、2007年6月22日の『松本秀夫のやっぱり野球は面白い』(ニッポン放送)で次の番組(『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』)の紹介に来た時は大喜びした。その後、急遽『八木亜希子と垣花正のサウンドコレクション』に顔を出し、小学校時代の失恋話を披露した(テーマが失恋だったため)。 ヤクルト監督時代のエピソード 就任1年目のキャンプで池山隆寛に「いいと言うまで止めないこと」と素振りを命令。その後命令したことをすっかり忘れてしまって喫茶店に行ってしまい、池山は止めるに止められず延々素振りし続けた。 1988年のある試合で、チャンスの場面で関根に交代を告げられた広沢克己は、「若松さんか。代打の切り札だから仕方ないかな」と納得してベンチに引き揚げたが、打席に入ったのは長嶋一茂だった。広沢は「なんでオレの代打が一茂なんだよ」とどうにも納得がいかなかったという。一説によると、これは「関根監督本人が長嶋茂雄の大ファンであるから。」というのが理由とされている。 もっとも、池山・広沢は関根にとって思い入れの深い教え子であり、「あのふたりには夢を持てました。練習が楽しみで仕方なかった。極端な話、ゲームなんかどうでもいいほどでした」「彼らを前に押し出すということを意識的にやった」と述懐している[8]。 「ちゃんとした選手は、放っておいても自分で練習して育つ」が持論で、監督やコーチによるフォーム矯正には否定的考えを持っている。[9] 偶然ながら、いずれの年も優勝したチームに負け越す一方で2位のチームには勝ち越していたことから、当時の一部マスコミやファンからは「優勝お助けマン」と揶揄された。 試合中のピンチや投手交代時にマウンドに赴いた際、投手の足を思い切り踏みつけていたことがあった。主な被害者は内藤尚行、川崎憲次郎。ピンチ時には「ここで打たれたら怒るよ」と笑顔で言いながらやっていたという。 1989年の春季キャンプでテスト入団したホアン・アイケルバーガーを入団させた理由をラジオにて、「名前がおもしろくて獲ったんだよねー。なんて言ったっけ? 開幕で暴投してすぐいなくなっちゃった…」と発言したという噂がある。また、関根が若い頃進駐軍にいたアイケルバーガー将軍を連想して獲ったとも。 詳細情報 年度別投手成績 近鉄2614801412----.250689148.01851653--76911110905.471.6139211021711----.389798189.01891355--8972291723.431.293917711516----.238737173.21701052--5782277683.521.28352619111015----.400914219.02091058--81060099773.161.22353019321612----.571899232.01742057--41180075632.441.00402814321416----.467944226.0228175421010630105893.541.2528201023911----.450616152.113262912660064502.951.062100001----.000235.161200500335.061.50通算:8年2441578712116594----.40956201345.1129393360344645856245123.431.23 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[10785,10793,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 年度別打撃成績 近鉄6313712915322044621101--5--2141.248.287.357.6435293894233102811000--3--130.258.290.315.60569103997315013916000--4--030.313.340.394.7344289851027330367000--4--022.318.348.424.772561149710252013010002113--161.258.348.309.6575410891112511028900231200113.275.349.308.65759898211221012615003130050.268.291.317.6081254794294712216261603987504005286.284.352.373.7255923421321541011691710311601201.254.307.324.6311164514124912017951703843503014325.291.345.413.75811242939044110161213432006325452210.282.331.344.67512848343551123181917049447534422610.283.334.391.7251265094656614418491974942333315345.310.360.424.783144578506731502611221466644261153412.296.376.423.799122392357288110051062512432216279.227.281.297.578巨人902211991648613652010111515165.241.309.327.636通算:16年14174509407846311371542559151842430224623320134228370.279.336.372.708 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[13310,13318,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 年度別監督成績 ※1982年から1996年までは130試合制 表彰 野球殿堂競技者表彰 (2003年) 記録 節目の記録 1000試合出場:1962年7月14日 ※史上72人目 その他の記録 オールスターゲーム出場:5回 (1953年、1959年、1960年、1962年、1963年) 背番号 19 (1950年 - 1965年) 63 (1970年) 70 (1975年 - 1976年) 71 (1982年 - 1984年) 83 (1987年 - 1989年) 関連情報 出演番組 BASEBALL SPECIAL〜野球道〜 SWALLOWS BASEBALL L!VE プロ野球ニュース(2011年より原則としてMC<形式上は関根とアナウンサーの2-3人司会であるが、実際はアナウンサー(2013年以後は別の解説者も)が総合司会を担当し、関根はコメンテーター席で「ご意見番」という位置づけで出演する>のみでの出演となった) ニッポン放送ショウアップナイター(土・日曜にMBSタイガースライブとネットワークを組むこともある。また、MBSの中継でゲスト解説をしたこともある) すぽると プロ野球珍プレー・好プレー大賞 著書 『一勝二敗の勝者論』(佼成出版社:1990年8月) 『若いヤツの育て方』(日本実業出版社:1990年10月) 『野球ができてありがとう - 関根潤三野球放談』(小学館:1998年11月) 『いいかげんがちょうどいい - 85歳、野球で知った人生で大切なこと』(ベースボール・マガジン社:2012年11月) 出演映画 アモーレの鐘(1981年) - 別荘の管理人 役 作詞 『ここが命の2・3(ツースリー)』(現役時代の1955年。歌は真木不二夫、テイチクレコードより発売) 関根は2009年12月に放送された『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)の中で久々に曲を聴いて「若気の至り」と反省していた。 脚注 関連項目 東京都出身の人物一覧 法政大学の人物一覧 大阪近鉄バファローズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 外部リンク - 公益財団法人野球殿堂博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%A0%B9%E6%BD%A4%E4%B8%89
{'plaintext_start_byte': array([ 4, 400, 627, 1101, 1646, 2287, 2731, 3466, 3873, 4114, 4595, 6093, 6611, 6997, 7286, 7491, 8166, 8413, 8722, 12106, 27120, 28986, 30331, 30564, 31246, 31904, 32808, 33202, 33382, 33732, 34065, 34308, 35344, 35709, 36242, 36631, 36737, 38092, 38198, 38482, 38525, 38724, 38896, 39025, 39464, 41290, 41418, 41789, 43372, 43412, 45724, 47651, 50054, 50727, 51658, 51752, 54999, 55134, 55327, 55683, 55882, 56594, 56781, 57173, 57337, 57410, 57613, 57801, 57898, 58163, 58372, 58549, 59236, 59517, 59659, 60099, 60184, 60320, 60380, 61196, 61649, 62750, 63001, 63956, 64988, 65687, 66302, 67426, 68462, 68742, 69199, 69723, 70638, 71664, 71815, 71947, 72178, 73877, 74022, 75101, 75392, 75587, 76370, 76483, 76701, 76976, 77168, 77398, 77543, 81389, 82230, 82932, 83599, 83630, 85116, 85273, 85792, 86594, 86716, 87813, 88293, 89277, 89458, 90052, 90508, 91103, 92145, 93403, 94153, 95072, 96978, 97368, 97973, 98619, 99102, 100193, 101185, 102181, 102869, 103092, 104170, 105391, 105578, 105781, 106589, 107328, 107588, 108276, 109231, 109763, 110521, 110958, 111175, 111475, 113001, 113388, 113841, 114269, 114807, 114979, 115403, 115643, 116063, 116293, 117015, 117247, 117530, 117774, 118348, 119246, 119649, 120380, 121120, 121773, 122004, 122483, 122862, 123639, 124023, 124238, 124990, 125409, 125959, 126545, 126631, 127927, 128068, 128166, 128805, 129027, 129163, 129589, 129963, 130135, 130221, 133349, 135495, 135782, 137141, 137859, 138134, 138856, 139033, 139471, 140371, 140626, 141957, 143053, 143782, 145325, 145872, 147586, 147697, 148250], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 399, 619, 1100, 1645, 2286, 2730, 3465, 3872, 4113, 4594, 6092, 6610, 6996, 7285, 7490, 8158, 8412, 8680, 12068, 27109, 28977, 30330, 30563, 31245, 31871, 32807, 33201, 33369, 33731, 34064, 34307, 35343, 35708, 36241, 36616, 36716, 38091, 38180, 38481, 38505, 38704, 38895, 38986, 39463, 41289, 41379, 41788, 43352, 43411, 45712, 47605, 50053, 50706, 51657, 51735, 54977, 55125, 55326, 55682, 55881, 56593, 56780, 57172, 57307, 57409, 57611, 57800, 57897, 58162, 58371, 58548, 59213, 59516, 59658, 60098, 60183, 60319, 60368, 61195, 61648, 62749, 63000, 63936, 64987, 65673, 66301, 67425, 68461, 68741, 69179, 69670, 70637, 71663, 71814, 71946, 72177, 73793, 73990, 75099, 75391, 75533, 76353, 76481, 76699, 76974, 77144, 77375, 77542, 81369, 82192, 82931, 83558, 83629, 85115, 85272, 85791, 86593, 86687, 87786, 88292, 89276, 89457, 90030, 90507, 91102, 92113, 93402, 94152, 95071, 96977, 97342, 97953, 98618, 99070, 100192, 101162, 102180, 102868, 103069, 104159, 105390, 105577, 105764, 106588, 107308, 107547, 108275, 109230, 109762, 110520, 110957, 111174, 111443, 112956, 113387, 113840, 114268, 114806, 114978, 115402, 115642, 116062, 116292, 117014, 117246, 117529, 117745, 118347, 119245, 119648, 120379, 121119, 121772, 121971, 122482, 122861, 123638, 124009, 124237, 124946, 125408, 125945, 126512, 126630, 127903, 128054, 128165, 128781, 129007, 129142, 129560, 129943, 130134, 130204, 133329, 135484, 135746, 137127, 137858, 138133, 138855, 139016, 139454, 140333, 140608, 141949, 143033, 143774, 145305, 145840, 147561, 147683, 148235, 149263], dtype=int32)}
近畿日本鉄道はいつ設立した
近畿日本鉄道
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([705], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([738], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
近畿日本鉄道株式会社(きんきにっぽんてつどう、)は、大阪府・奈良県・京都府・三重県・愛知県の2府3県[注釈 1]にまたがる営業路線網を持つ大手私鉄である。JRグループをのぞく日本の鉄道事業者(民営鉄道)の中では最長の路線網を持つ。近鉄グループホールディングスの子会社である。 一般的には略して<b data-parsoid='{"dsr":[2531,2539,3,3]}'>近鉄(きんてつ、Kintetsu)や<b data-parsoid='{"dsr":[2573,2583,3,3]}'>近鉄電車</b>と呼ばれている(「社名」の節も参照)。 歴史 近畿日本鉄道の母体ともいえる大阪電気軌道(大軌)は、1910年(明治43年)9月16日に大阪と奈良を結ぶ路線を敷設すべく<b data-parsoid='{"dsr":[2707,2717,3,3]}'>奈良軌道</b>として設立され、同年10月に大阪電気軌道へ改称した。そして生駒トンネルを難工事の末に完成させ、1914年(大正3年)に最初の路線である上本町 - 奈良間を開業させた(現在の奈良線)。 その後、1927年(昭和2年)には天理・橿原神宮方面への路線網を確立した。同年に伊勢を目指すため参宮急行電鉄(参急)を設立し、1931年(昭和6年)に宇治山田まで開通、大阪から伊勢神宮への日帰り参拝を可能とした(現在の大阪線・山田線)。さらに、伊勢電気鉄道(伊勢電)の合併、関西急行電鉄(関急電)の設立により、1938年(昭和13年)には名古屋へのルートを確立した(現在の名古屋線)。 戦時中の陸上交通事業調整法により周辺の鉄道会社と次々に合併し、さらに、大阪電気軌道は参宮急行電鉄や関西急行電鉄などと統合して、1940年(昭和15年)に<b data-parsoid='{"dsr":[3190,3202,3,3]}'>関西急行鉄道(関急)へ再編され、1府4県に総延長437kmの路線を有する一大私鉄となった。1943年(昭和18年)には現在の近鉄南大阪線などを経営していて、既に関急の資本下に置かれていた大阪鉄道(大鉄)を合併し、この時点で現在の近畿日本鉄道の原型となる路線網が確立された。 1944年(昭和19年)には国からの強い要請を受け、長い歴史を有する南海鉄道(南海)と新設合併する形で今に至る<b data-parsoid='{"dsr":[3449,3461,3,3]}'>近畿日本鉄道(近鉄)が発足、資本金2億3147万円、総延長約630kmの路線を有する日本最大の民営鉄道会社となった。この時点では上本町・名古屋・天王寺・難波の4営業局体制であった。 だが、こうして国からの要請に応える形で発足した近畿日本鉄道であるが、その天王寺営業局は元大阪鉄道の社員、難波営業局は元南海鉄道の社員をそのまま引き継いだような形となった[注釈 2] ため、いかにも無理矢理まとめたという印象が当初から強く、特に南海は関急との沿革上の接点がほとんどなかったのを、強引に戦時体制の名でつないだようなものであり、戦後の労働運動の高まりとともに、難波営業局では分離運動が盛り上がった。なお大鉄は、昭和初期には既に大軌の傘下となっていて、大軌の路線との直通運転も行っていた。 そのため、会社発足4年目の1947年(昭和22年)に難波・天王寺営業局管轄の旧・南海鉄道の路線を、旧・南海の系列会社で現在の南海高野線高野下 - 極楽橋間と鋼索線極楽橋 - 高野山間を運営していた高野山電気鉄道が改称した南海電気鉄道へ譲渡し、関西急行鉄道時代の路線網に復することになった。 その後、奈良電気鉄道(奈良電)や信貴生駒電鉄、三重交通の鉄道線を承継した三重電気鉄道(三重電)などの合併により、1965年(昭和40年)には現在の路線網がほぼ完成した。 第二次世界大戦の終戦3年目に当たる1947年(昭和22年)10月には、早くも上本町 - 近鉄名古屋間に有料特急の運転を開始している。これは日本における有料特急列車の戦後初の復活であり、現在の近鉄特急の元となった。翌1948年(昭和23年)には特急の山田線直通運転を再開し、1958年(昭和33年)には2階建て車両を連結した10000系「ビスタカー」が登場した。 元伊勢電気鉄道・関西急行電鉄の路線により成立した名古屋線は軌間1,067mmの狭軌であり、近畿日本鉄道の主流となる元大阪電気軌道・参宮急行電鉄によって建設された大阪線・山田線などといった路線群は軌間1,435mmの標準軌であって線路幅が異なっていたため、名阪間の直通客は途中の伊勢中川駅で乗り換えを強いられていた。この問題については、第2次世界大戦後に名古屋線の改軌が計画され、橋梁架け替えに伴う線路移設などと併せて準備工事が徐々に進められていたが、1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風による被災を機に、当時の社長であった佐伯勇の判断で改軌工事が復旧工事と同時進行で当初の計画を前倒しして実施されることになった[注釈 3]。この復旧・改軌工事は、最も手間の掛かる枕木の交換作業などの準備が前もってかなりの規模で進められていて、かつ架け替え工事中であった揖斐川・長良川・木曽川の各新橋梁は当日落成した上、台風で致命的な被害を受けずに済んだ、という幸運も手伝って、被災からわずか2か月後の同年11月27日に名古屋線および神戸線(現在の鈴鹿線)の工事が完了し、さらに同年12月には新造の10100系ビスタカー2世による名阪間直通特急の運転が開始された。 1970年(昭和45年)に大阪の千里丘陵で日本万国博覧会(大阪万博)が開催されることになり、万博来場者を奈良や伊勢志摩など沿線観光地へ誘致する計画を立て、孤立路線だった志摩線の改良と鳥羽線建設による直通化に取り組み、同年3月に完成させた[注釈 4]。さらに同月には、難波線も完成し、1947年(昭和22年)6月1日の南海分離以来となる悲願の難波乗り入れを自力で果たした。 特急列車網も整備され、1988年(昭和63年)には「アーバンライナー」、1990年(平成2年)には「さくらライナー」、1994年(平成6年)「伊勢志摩ライナー」、2013年(平成25年)「しまかぜ」などといった、特色・個性あふれる車両を登場させている(その他の車両の登場年は年表参照)。 2009年(平成21年)3月20日には大阪難波まで延伸開業した阪神なんば線との相互直通運転により、奈良方面から西宮・神戸方面への乗り入れを開始した(当該路線の記事および「他社線との直通運転」の節も参照)。 2010年(平成22年)9月16日に、創業100周年を迎えた。また、2014年(平成26年)4月30日に最初の営業区間である上本町 - 奈良間の開業から100周年を迎えた。 2015年(平成27年)4月1日に、これまでの(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、会社分割により鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備(2014年4月20日設立)に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ継承させ、持株会社制に移行した[1][2]。鉄軌道事業を継承した近畿日本鉄道分割準備は(新)近畿日本鉄道</b>に社名変更し[1]、近鉄グループホールディングス傘下の事業会社となった。 年表 本表では現在の近畿日本鉄道の母体会社である大阪電気軌道の創業より記述する。阪堺鉄道(南海鉄道)・河陽鉄道(大阪鉄道)などの創業についてはそれぞれの記事を参照のこと。 また、特急列車の歴史は「近鉄特急史」を、第二次世界大戦後のダイヤの変遷は「近畿日本鉄道のダイヤ変更」を、各路線の歴史は各路線ごとの項目を参照のこと。公式サイトの「」も参照のこと。 大阪電気軌道・関西急行鉄道 1910年(明治43年) 9月16日:奈良軌道</b>として設立。 10月15日:大阪電気軌道に社名変更。 1914年(大正3年)4月30日:生駒トンネルの開削により上本町駅 - 奈良駅間が開業。 1916年(大正5年):大阪電気軌道が東大阪土地建物を設立し、不動産事業を開始。 1921年(大正10年)1月1日:天理軽便鉄道を買収。 1922年(大正11年)1月25日:生駒鋼索鉄道を合併、生駒鋼索線となる。 1923年(大正12年)3月21日:畝傍線(現在の橿原線)が全通。 1926年(大正15年) 6月11日:菖蒲池駅前にあやめ池遊園地が開園。 9月16日:上本町ターミナルビル(初代)が開業。 1927年(昭和2年) 7月1日:八木線(現在の大阪線布施駅 - 大和八木駅間)が全通。 9月28日:参宮急行電鉄を設立。 1928年(昭和3年) 1月8日:大阪電気軌道が長谷鉄道を合併。長谷線となる。 11月15日:京阪電気鉄道と半分ずつ出資の合弁会社である奈良電気鉄道により、京都駅 - 西大寺駅間(現在の京都線京都駅 - 大和西大寺駅間)が全通。 1929年(昭和4年) 3月27日:大阪電気軌道が生駒山上遊園地を開園。 3月31日:大阪電気軌道が伊賀電気鉄道を合併、伊賀線となる。 5月25日:大阪電気軌道がバス営業開始(奈良春日奥山周遊線)。 8月1日:大阪電気軌道が吉野鉄道を合併、吉野線となる。 1930年(昭和5年) 12月15日:大阪電気軌道の信貴線が開業。 12月20日:参宮急行電鉄の桜井駅 - 山田駅(現在の伊勢市駅)間が全通し、上本町駅 - 山田駅間直通運転が開始。 1931年(昭和6年)3月17日:参宮急行電鉄の山田駅 - 宇治山田駅間が開業。 1932年(昭和7年)1月1日:上本町駅 - 宇治山田駅間に特急が運転開始。 1936年(昭和11年) 1月24日:関西急行電鉄を設立。 9月15日:参宮急行電鉄が伊勢電気鉄道を合併、桑名駅 - 大神宮前駅間を伊勢線とする。 1938年(昭和13年) 2月1日:大阪電気軌道の長谷線が廃止。 6月20日:参宮急行電鉄が津線参急中川駅 - 江戸橋駅間を全通させ、伊勢線と接続。 6月26日:関西急行電鉄が桑名駅 - 関急名古屋駅(現在の近鉄名古屋)間を開業。 1940年(昭和15年) 1月1日:参宮急行電鉄が関西急行電鉄を合併。 8月1日:参宮急行電鉄が養老鉄道を合併、養老線となる。 1941年(昭和16年)3月15日:大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併し、関西急行鉄道</b>になる。 1942年(昭和17年) 4月1日:電気供給事業を関西配電(現在の関西電力)に譲渡。 8月11日:元伊勢電気鉄道の路線の一部だった伊勢線の新松阪駅 - 大神宮前駅間が参宮線も含めた3路線競合区間ということもあり、不要不急線として廃止。 1943年(昭和18年)2月1日:大阪鉄道を合併。現在の南大阪線などの前身。この時、本社を上本町から旧大阪鉄道本社のあった阿部野橋に移転。 1944年(昭和19年) 4月1日:南和電気鉄道・信貴山急行電鉄を合併。 近畿日本鉄道 1944年 - 2014年 1944年(昭和19年)6月1日:関西急行鉄道と南海鉄道が合併、(旧)近畿日本鉄道</b>が設立。この時、4営業局体制(難波・天王寺・上本町・名古屋の各営業局)になる。難波営業局は旧南海鉄道本社に置かれる。 1947年(昭和22年) 6月1日:旧・南海鉄道の路線(難波営業局管内全路線と天王寺営業局管内のうち阪堺線・上町線・平野線)を高野山電気鉄道から社名を改めた南海電気鉄道へ譲渡。上本町・天王寺・名古屋の3営業局制になる。 10月8日:名阪特急が運転開始。 1948年(昭和23年) 3月31日:河内花園駅構内で追突事故(近鉄奈良線列車暴走追突事故)が発生。 7月1日:信貴線が東高安線に改称。 7月18日:特急で車内販売の営業開始。 1949年(昭和24年)12月1日:プロ野球球団近鉄パールス(のちの大阪近鉄バファローズ、現在はオリックス球団と統合してオリックス・バファローズ)が発足。 1950年(昭和25年)8月22日:タクシー事業を近鉄タクシーとして分社化。 1954年(昭和29年)10月1日:旅行業を近畿日本航空観光(のちの初代・近畿日本ツーリスト、現在のKNT-CTホールディングス)に譲渡。 1956年(昭和31年) 9月28日:名古屋線川原町駅 - 諏訪駅 - 四日市駅 - 海山道駅間が新線に切り換えられ、国鉄四日市駅を経由しなくなる。同駅北に存在した半径100mの急曲線(善光寺カーブ)も解消され、同線の速度向上と車両大型化に貢献した。 12月8日:大阪線上本町 - 布施間の複々線化が完成。 1957年(昭和32年) 3月21日:東高安線が信貴線に改称。 10月18日:日本初の高加減速車両「ラビットカー(6800系)」が登場。 1958年(昭和33年) 7月11日:伊勢特急に2階建て車両付きの特急「ビスタカー(ビスタカーI世)」が登場。 10月13日:名古屋線の軌間拡幅(標準軌化)計画を決定 1959年(昭和34年) 3月6日:毎日放送(現在のMBSメディアホールディングス)で自社提供番組「真珠の小箱」の放送開始(2004年3月27日、2,314回で終了)。 9月26日:伊勢湾台風により被災し、不通区間が多数発生する。 11月19日:名古屋線と神戸線(現在の鈴鹿線)の復旧および標準軌化工事開始。 11月27日:名古屋線全線と神戸線の復旧・標準軌化完了。神戸線以外の名古屋線の支線は狭軌で復旧。 11月30日:伊勢中川駅構内に大阪線と名古屋線との交差渡り線を取り付け、同時に名古屋線と山田線との線路を接続し、3路線直通化工事完了。 12月12日:名阪特急の直通運転開始、伊勢中川駅での乗り換え解消。「ビスタカー2世」が登場。 1960年(昭和35年) 3月26日:電子計算機による特急座席予約業務が開始。 9月15日:日本初の2階建てバス「ビスタコーチ」の営業を開始。 12月1日:大和文華館が開館。 1961年(昭和36年) 1月22日:伊勢線の残りの区間である江戸橋駅 - 新松阪駅間廃止。津市街の一部区間はしばらく三重交通バス専用道路とされ、代行バス的な運行が行われる。 3月29日:中川短絡線が開通。同線経由で上本町駅 - 名古屋駅間にノンストップ特急(甲特急)運転開始(乙特急の短絡線使用開始は1963年3月1日より)。 1962年(昭和37年)4月4日:2階建て団体列車用車両「あおぞら」が登場。 1963年(昭和38年) 4月8日:神戸線が平田町駅まで延長され鈴鹿線に改称。 10月1日:奈良電気鉄道を合併。京都線となる。 1964年(昭和39年) 4月28日:信貴生駒スカイラインが全通。 7月23日:新生駒トンネルが開通。 10月1日:信貴生駒電鉄を合併、生駒線・東信貴鋼索線・田原本線となる。伊賀線伊賀神戸駅 - 西名張駅間が廃止。 1965年(昭和40年) 4月1日:三重電気鉄道を合併、志摩線・北勢線・湯の山線・内部線・八王子線となる。現在の路線網がほぼ完成する。 7月1日:茨木バスの事業を譲り受ける。 1967年(昭和42年) 3月26日:葛城索道線(葛城山ロープウェイ)が営業開始。 12月4日:奈良線で近鉄初のATSが使用開始。 1968年(昭和43年) 4月1日:不動産事業を近鉄不動産に分社化。 12月20日:丹波橋駅での京阪電気鉄道との相互直通運転が廃止。これに伴い近畿日本丹波橋駅を同駅から分離の上で本格開業。 1969年(昭和44年) 9月21日:京都線・奈良線・橿原線・天理線・生駒線・田原本線の架線電圧が600Vから1,500Vに昇圧。 11月23日:上本町ターミナルビル新館第一期が完成(現在のビルの南半分。北半分は1973年6月15日に完成)。 12月5日:上本町付近の石ヶ辻町に地上8階建ての現本社ビルが完成(村野藤吾設計)。これにより本社が阿部野橋から再度上本町に戻る。 12月9日:奈良線近畿日本奈良駅が地下化され、同駅付近の併用軌道が解消[3]。 1970年(昭和45年) 3月1日:鳥羽線が全通。志摩線の改軌が完成。上本町駅地下ホームの使用開始。また「近畿日本」を冠していた駅名を「近鉄」に改める(近畿日本名古屋駅から近鉄名古屋駅へなど)。 3月9日:特急座席予約システムが更新され、即時発券開始。世界初の(指定券)特急券自動発売機が実用化。 3月11日:旧奈良駅跡地に奈良近鉄ビルが完成[4]。 3月15日:難波線が開業し、奈良線列車が直通運転開始。 3月21日:近鉄難波駅(現在の大阪難波駅) - 賢島駅間直通の特急の運転が開始。 1971年(昭和46年)10月25日:大阪線榊原温泉口駅 - 東青山駅間で列車衝突事故(近鉄大阪線列車衝突事故)が発生。 1972年(昭和47年)6月1日:百貨店事業を近鉄百貨店に分社化。 1975年(昭和50年)11月22日:新青山トンネルが開通し、大阪線の全線複線化が完成。 1978年(昭和53年)12月30日:30000系「ビスタカー3世」(現在のビスタEX)が営業運転開始。 1983年(昭和58年)9月1日:東信貴鋼索線が廃止。 1984年(昭和59年)9月3日:VVVFインバータ制御車の1250系(現在の1420系)が落成。 1985年(昭和60年)10月3日:上本町ターミナル整備が完成、近鉄劇場と都ホテル大阪が開業。テレメイトの運用が開始。 1986年(昭和61年) 3月1日:VVVFインバータ搭載量産車の3200系が営業運転開始。 10月1日:東大阪線(現在のけいはんな線長田駅 - 生駒駅間)が開業。プリペイドカード「パールカード」「パールカード11」発売開始。 1987年(昭和62年) 2月1日:特急座席予約システムを新システム「ASKAシステム」に更新[5]。特急券の前売発売を最大3週間前から最大1か月前に変更。 1988年(昭和63年) 3月18日:名阪特急に21000系「アーバンライナー」(現在のアーバンライナーplus)」が登場し、120km/h運転を開始。 8月28日:京都市営地下鉄烏丸線と相互直通運転開始。 11月11日:阿部野橋ターミナルビルの増築が完成、高速バス発着場(あべの橋バスステーション)も開設。 1989年(平成元年) 10月3日:団体列車用車両18200系「旧あおぞらII」が登場。 5月29日:名古屋営業局を名古屋市(名古屋近鉄ビル)から四日市市(近鉄四日市駅近接地)に移転。 1990年(平成2年) 3月15日:吉野特急に26000系「さくらライナー」が登場。前後して駅係員・乗務員の制服を灰色地のものに変更。 11月23日:団体列車用車両20000系「楽」が登場。 1992年(平成4年)3月19日:特急用電車22000系「ACE」が登場。 1994年(平成6年) 3月15日:伊勢特急に23000系「伊勢志摩ライナー」が登場し130km/h運転を開始。 3月22日:奈良市に松伯美術館開館。 4月22日:志摩スペイン村(パルケエスパーニャ)が開業。 1996年(平成8年) 1月30日:公式ウェブサイト「K's PLAZA」開設。 2月:2610系改造車にてデュアルシート車(L/Cカー)の試験を開始。 1997年(平成9年):世界初のデュアルシート車(L/Cカー)の量産車、5800系登場。 1999年(平成11年)10月1日:自動車局(バス部門)を近鉄バス・近鉄観光バスに分社化(2006年9月1日に近鉄観光バスは近鉄バスに統合)。 2000年(平成12年)3月15日:京都線・橿原線・天理線・奈良線で新型通勤車両「シリーズ21」が営業運転開始。以後大阪線・南大阪線にも登場。 2001年(平成13年) 2月1日:関西共通乗車カードシステム「スルッとKANSAI」に参加、青山町駅以西でストアードフェアシステム開始。 10月14日:青山町駅以西で「Jスルーカード」が利用可能になる。 2002年(平成14年) 3月20日:特急での車内販売が休止される。 4月1日:近鉄不動産を合併、宅地開発を直営化。マンション建設販売は近鉄不動産販売に承継、同日付けで同社は近鉄不動産に社名変更。 2003年(平成15年) 3月6日:名阪特急に21020系電車「アーバンライナーnext」登場(ただし2002年12月23日より団体列車で暫定営業)。 4月1日:北勢線を三岐鉄道へ譲渡。 6月28日:上本町・天王寺の両営業局を統合して大阪輸送統括部に、名古屋営業局は名古屋輸送統括部に名称変更し、旧南海鉄道の路線の分離以来56年間続いた3営業局体制から2輸送統括部体制に変更。また、駅業務・営業部門を近鉄ステーションサービスに分社(同日に近鉄サービスネットより社名変更。また駅係員のみ制服も一新した)。同時に英文社名を「Kinki Nippon Railway Co., Ltd.」から「Kintetsu Corporation」に変更。 2004年(平成16年) 6月6日:近鉄あやめ池遊園地が閉園。 11月30日:大阪近鉄バファローズの経営権をオリックス野球クラブ株式会社に売却。球団合併によりオリックス・バファローズとなる。その後も当球団の20%の株式を出資。 2005年(平成17年)12月1日:団体列車用車両「新あおぞらII」が運転開始。公式サイトを鉄道情報と企業情報に分離(2012年3月、両者を再度統合し「近畿日本鉄道ホームページ」としてリニューアルするが、企業情報ドメインは継続して一部コンテンツで使用)。 2006年(平成18年) 3月1日:近鉄ステーションサービスを合併し、駅業務を再び直営化。 3月27日:けいはんな線生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間が開業。東大阪線がけいはんな線に改称(既存路線名の改称は1963年の神戸線の鈴鹿線への改称以来43年ぶり)。同時にけいはんな線に駅番号導入(番号は地下鉄中央線と通しで付与)。 11月3日:伊勢志摩方面への土曜・休日の伊勢志摩ライナーに限り、車内販売の営業が再開。 2007年(平成19年) 4月1日:ICカード「PiTaPa」サービス開始。同時に近鉄線で「ICOCA」も利用可能になる。乗務員用の制服を変更[6]。 10月1日:伊賀線および養老線をそれぞれ伊賀鉄道、養老鉄道(いずれも近鉄〈当時〉の子会社で、第二種鉄道事業者)に運営を移管。線路や車両などは近鉄が第三種鉄道事業者として保有。 2008年(平成20年) 3月17日:GPSを用いた日本国内2例目となる「運転士支援システム」をワンマン列車など一部の列車をのぞく全列車に導入。 6月14日:車上速度パターン照査式ATS (ATS-SP) を難波線全線と大阪線・京都線・南大阪線・名古屋線の一部区間で使用開始。 9月15日:Jスルーカード・パールカードの発売が終了。 2009年(平成21年) 3月1日:Jスルーカード・パールカードの自動改札機・自動精算機での利用が終了(自動券売機での切符への引き換えは、当面の間継続)。 3月20日:阪神なんば線と相互直通運転開始。近鉄難波駅が大阪難波駅、上本町駅が大阪上本町駅、富洲原駅が川越富洲原駅に改称。 2010年(平成22年) 2月12日:当時の近鉄子会社2社(近鉄ビルサービス・メディアート)の粉飾決算問題の影響で、2009年10-12月期の決算報告書の2月15日までの提出が不可能となり、近鉄の株式が監理銘柄に[7](決算報告書の再提出により、同年3月13日付で解除)。 8月26日:大阪上本町駅南側(近鉄劇場跡地)に、再開発ビル「上本町YUFURA」が開業。 9月1日:近鉄観光が運営していた高速道路サービスエリアと旅館事業を同社の会社分割により継承(旅館については子会社の近鉄旅館システムズに運営委託)。 2012年(平成24年) 12月1日:自社でのICOCA・ICOCA定期券(JR西日本・京阪・阪神各社との連絡定期券も)および「KIPS ICOCAカード」(近鉄グループの「KIPSポイントカード」(現金払い専用)との一体型)の発売を開始。 2013年(平成25年) 3月21日:伊勢志摩方面の観光特急用電車50000系「しまかぜ」が登場。 3月23日:IC乗車カード全国相互利用開始によりTOICA・manaca・Suica・PASMO・Kitaca・SUGOCA・nimoca・はやかけんが鉄軌道路線で利用可能になる[8]。 6月13日:大阪阿部野橋駅の「あべのハルカス」のうち、低層階の百貨店部分(あべのハルカス近鉄本店)が先行開業[9]。 2014年(平成26年) 3月7日:展望台やホテル・美術館を含む、「あべのハルカス」が全面開業[10][11]。 4月29日:奈良線で、開業100周年を記念して開業当時の車両の塗装を再現した列車「ヒストリートレイン」を運行[12][13]。 4月30日:持株会社制移行時に近畿日本鉄道の鉄軌道事業を継承する事業会社として<b data-parsoid='{"dsr":[18169,18185,3,3]}'>近畿日本鉄道分割準備</b>を設立[1]。 2015年 - 2015年(平成27年) 4月1日:(旧)近畿日本鉄道を近鉄グループホールディングスに社名変更した上で、鉄軌道事業を近畿日本鉄道分割準備に、不動産事業を近鉄不動産に、ホテル・旅館事業を近鉄ホテルシステムズ、流通事業を近鉄リテールサービスにそれぞれ吸収分割し、持株会社制に移行[1][2]。近畿日本鉄道分割準備を(新)近畿日本鉄道</b>に社名変更[1]。英文社名を「Kintetsu Corporation」より「Kintetsu Railway Co., Ltd.」に変更。大阪輸送統括部・名古屋輸送統括部に代わって、大阪統括部・名古屋統括部を設置[14]。また、同日内部・八王子線を四日市あすなろう鉄道(近鉄と四日市市が出資)に運営を移管[15][16]。 8月20日以降:既に導入済のけいはんな線を除く全路線に駅ナンバリングを導入[17]。これにあわせ駅名標の英文表記も全大文字から他社と同様に頭文字のみ大文字に変更。 2017年(平成29年) 3月31日:「スルッとKANSAI」カードの発売終了[18]。 4月1日:伊賀線の鉄道施設を伊賀市に譲渡、近鉄に代わって伊賀市が伊賀線の第三種鉄道事業者となる[19]。 7月6日:近鉄グループホールディングスが台湾鉄路管理局と友好協定締結[20][21][22]。 2018年(平成30年) 1月1日:養老線の第三種鉄道事業を廃止し、代わって一般社団法人養老線管理機構が同線の第三種鉄道事業者となる[23]。 1月31日:「スルッとKANSAI」カードの自動改札機での利用終了[18]。 5月15日:京都 - 吉野間直通を視野にフリーゲージトレインの開発を進めると発表[24]。 2020年 新型名阪特急電車登場予定[25]。 社名 近畿日本鉄道が発足した直後の略称は「近鉄」と呼ばず「日本鉄道」[注釈 5]、「近畿日本」や「近日」と称し、社名を冠した駅名も1944年6月の発足後1970年2月までは「近鉄○○」でなく「近畿日本○○」となっていた[注釈 6]。これは、元々滋賀県の近江鉄道が「近鉄」(おうてつ・きんてつ)の略称を使用していたため、誤解を防ぐ観点から使用しにくかったからではないかといわれている。しかし「近鉄」の愛称も早くから使われ、1948年には「近畿日本鉄道百貨店」を「近鉄百貨店」と改称し、1949年に発足した近畿日本鉄道出資のプロ野球球団は「近鉄パールス」を名乗った。なお、傍系の旅行会社近畿日本ツーリストには、近畿日本航空観光と日本ツーリストの合併によるため「近畿日本」の名が残っている。また、近鉄レンタリースは2017年12月20日まで<b data-parsoid='{"dsr":[21608,21620,3,3]}'>近畿ニッポン</b>レンタカーという商号であった[26]が、この場合は近畿日本鉄道の「近畿」とニッポンレンタカーの「ニッポン」である[注釈 7]。一方、近畿車輛は「近畿日本」とはしなかった事例である。 在阪私鉄では「○○電車」の呼び名が浸透しており、近鉄でも大阪周辺では「近鉄電車」と呼称することもあるが名古屋周辺では「近鉄線」と呼称することが多い[注釈 8]。 近鉄本社や近鉄百貨店などに書かれていた「近鉄」の文字は、1967年3月まで「鉄」を「金」編に「失」でなく「矢」にした物(「鉃」、元は「鏃」を意味する字)にしていた。「金を失う」が「金が矢のように集まる」になるという縁起担ぎが理由であったが、後にその看板を見た小学生が「鉄」の字を間違って覚えてしまうと沿線住民などから指摘され、正式な表記に直している。なお、現在の四国旅客鉄道(JR四国)をのぞいたJR各社も同じような理由により、ロゴでは「鉄」の字を「鉃」にしている。 英文社名は以前は Kinki Nippon Railway Co., Ltd. であったが、2003年6月28日から Kintetsu Corporation に変更した。同時期に和文・英文の会社名ロゴのデザインも変更された[27]。2015年4月1日の近鉄グループホールディングス発足を機に再度英文社名が変更され、Kintetsu Railway Co., Ltd.となった。この表記は、乗務員の制帽及び駅員の制帽及び職帽の帽章にも用いられている。駅員は一時期「近鉄ステーションサービス」に分社化していたときは「Kintetsu Station Service」の表記だった。 社章・シンボルマーク 大阪電気軌道時代には大阪を象徴する澪標と奈良の「奈」を組み合わせた社章を使用していたが、名古屋などへの延伸や会社の合併で路線網が拡大した関西急行鉄道時代には新体制への節目として関西の「関」を図案化した社章に変更した。現社章への変更も南海鉄道との合併で近畿日本鉄道が発足した際に検討され、社内外から提案された200もの候補から選定されたものである[28]。全体の図形がコロナを発する日輪と転動驀進する車輪をかたどり、内側の図形が社名の頭文字「近」と「人」の文字を図案化して「人の和」を表現している[29]。近鉄タクシー、養老鉄道、伊賀鉄道など、一部のグループ会社ではこの社章をベースに変更を加えた社章を使用している[28]。 この社章は鉄軌道事業を継承した(新)近畿日本鉄道に引き継がれ、持株会社となった近鉄グループホールディングスには新たなシンボルマークが制定されている。傾きの異なる2つの図形によって会社の理念である「静と動」を具現化し、またその形状から近鉄の「K」をも表現している[28]。 大阪電気軌道時代の社章 関西急行鉄道時代の社章 現在の社章 グループ会社である養老鉄道の社章 近鉄HDのシンボルマーク 路線網 大阪府東南部から愛知県西部に至る紀伊半島の付け根を横断して、大阪市・京都市・名古屋市といった政令指定都市を始め、近畿地方の大阪府東南部・奈良県・京都府南部、東海・中部地方の愛知県西部・三重県の各都市・観光地を結ぶ路線網を持つ[注釈 1]。 総営業キロ程は、JRをのぞく日本の鉄道事業者中最長の501.1km[30][31]におよび、続く463.3kmの東武鉄道(東武)[32]、444.2kmの名古屋鉄道(名鉄)[33]とともに400km以上の路線網を擁する日本の大手私鉄の一つとなっている(各キロ程は2017年4月1日現在)。 近鉄の保有路線は、線路の幅では標準軌(1,435mm軌間。近鉄では公式には「広軌」と称する)、狭軌(1,067mm軌間)の2つに分けられる。かつては特殊狭軌(762mm軌間)も有していた。 近鉄の直系母体である大軌は、路面電車と同じ軌道線扱いで開業したため、同様の形で先行して開業していた阪神電気鉄道・箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)・京阪電気鉄道などと同じ標準軌を採用したが、同社が他社を買収して組み込んだ路線の多くは、国有鉄道(内閣鉄道院→鉄道省→日本国有鉄道〈国鉄〉)線と貨車の直通運転を行っていた関係で、国鉄と同じ狭軌を採用した(名古屋線系統各線や田原本線のように、標準軌化した路線もある)。かつて有していた762mm軌間の特殊狭軌線は軽便鉄道の流れを受け継いだものであるが、下津井電鉄線が廃止された1991年以降、日本では近鉄が三重県の三岐鉄道に譲渡した北勢線、四日市あすなろう鉄道に移管した内部・八王子線、それに専用鉄道を一般営業路線にした黒部峡谷鉄道本線程度しか存在していない。 電化方式は基本的に1500V直流電化の架空電車線方式となっているが、けいはんな線は大阪市高速電気軌道地下鉄中央線と相互直通運転を行う関係で750Vの第三軌条方式、かつて有していた特殊狭軌各線は三重交通時代の流れを受け継いで750Vの架空電車線方式となっている。 なお、田原本線や生駒鋼索線のように他の近鉄各線とは徒歩連絡となる路線はあるが、他の近鉄線と互いに乗り継ぐ際、徒歩連絡ではなく他社の鉄道線やバス路線を介さなければならないほどの孤立路線[注釈 9]は、葛城索道線をのぞき存在しない。ただし過去には、鳥羽線開業以前の志摩線が他の近鉄の路線群と離れ、国鉄参宮線を介さなければ乗り継ぐことができない孤立路線となっていた。 近畿・中部エリアの大手私鉄では唯一、JRグループ旅客2社(JR西日本・JR東海)の在来線管内を直接結んでいる[注釈 10]。それと関連して、近鉄名古屋駅と京都駅はともに東海道新幹線の乗換駅であり、前者は中央リニア新幹線、後者は北陸新幹線[34] の乗換駅になる予定である。 現有路線 路線名の前のアルファベットは駅ナンバリングの路線記号[17]。 標準軌 (1,435mm) 奈良・京都線系(大阪府・奈良県・京都府) 難波線:大阪上本町駅 - 大阪難波駅間 奈良線:布施駅 - 近鉄奈良駅間 生駒線:王寺駅 - 生駒駅間 けいはんな線:長田駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間(このうち生駒駅 - 学研奈良登美ヶ丘駅間は奈良生駒高速鉄道が第三種鉄道事業者として施設を保有) 京都線:京都駅 - 大和西大寺駅間 橿原線:大和西大寺駅 - 橿原神宮前駅間 天理線:平端駅 - 天理駅間 田原本線:新王寺駅 - 西田原本駅間 大阪・名古屋線系(大阪府・奈良県・三重県・愛知県) 大阪線:大阪上本町駅 - 伊勢中川駅間 信貴線:河内山本駅 - 信貴山口駅間 名古屋線:伊勢中川駅 - 近鉄名古屋駅間[注釈 11] 湯の山線:近鉄四日市駅 - 湯の山温泉駅間 鈴鹿線:伊勢若松駅 - 平田町駅間 山田線:伊勢中川駅 - 宇治山田駅間 鳥羽線:宇治山田駅 - 鳥羽駅間 志摩線:鳥羽駅 - 賢島駅間 正式な呼び方ではないが鳥羽線・志摩線はまとめて<b data-parsoid='{"dsr":[28701,28710,3,3]}'>賢島線</b>と呼ばれることがある[注釈 4]。さらに山田線を含めた3線の総称として、伊勢志摩線</b>と呼ばれる場合もある[35]。 奈良・京都線の車両 大阪・名古屋線の車両 けいはんな線の車両 狭軌 (1,067mm) 南大阪線系(大阪府・奈良県) 南大阪線:大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間 道明寺線:道明寺駅 - 柏原駅間 長野線:古市駅 - 河内長野駅間 御所線:尺土駅 - 近鉄御所駅間 吉野線:橿原神宮前駅 - 吉野駅間 南大阪線の車両 ケーブルカー 奈良県 生駒鋼索線(生駒ケーブル):鳥居前駅 - 生駒山上駅間 大阪府 西信貴鋼索線(西信貴ケーブル):信貴山口駅 - 高安山駅間 ロープウェイ ただし、近畿日本鉄道では「鉄軌道事業」ではなく、「付帯事業」のうちの「その他の事業」に分類している。奈良県に所在。 葛城索道線(葛城山ロープウェイ):葛城登山口駅 - 葛城山上駅間 廃線・譲渡・運営移管路線 近畿日本鉄道における廃止路線は、すべて他社を合併したことにより生まれた路線で、その廃止理由も既存路線と並行していることなどから、乗客・貨物が減少していたことによるものが大半である。なお、近畿日本鉄道の直系前身である大阪電気軌道(大軌)および関西急行鉄道(関急)時代に廃線になったものも含める。 長谷線:桜井駅 - 初瀬駅間(大阪電気軌道時代の1938年2月1日廃止) 山上線:高安山駅 - 信貴山門駅間(信貴山急行電鉄時代の1944年1月7日休止、近鉄発足後の1957年3月21日廃止) 法隆寺線:新法隆寺駅 - 平端駅間(1945年2月11日休止、1952年4月1日廃止) 小房線:畝傍駅 - 橿原神宮駅駅間(1950年7月1日休止、1952年9月1日廃止) 伊勢線:江戸橋駅 大神宮前駅間(関西急行鉄道時代の1942年8月11日に新松阪 - 大神宮前間廃止、近鉄発足後の1961年1月22日に残区間廃止) 伊賀線:西名張駅 - 伊賀神戸駅間(1964年10月1日廃止) 志摩線:賢島駅 - 真珠港駅間(1969年7月1日廃止) 八王子線:西日野駅 - 伊勢八王子駅間(1974年7月25日休止、1976年4月1日廃止) 東信貴鋼索線:信貴山下駅 - 信貴山駅間(1983年9月1日廃止) 北勢線:西桑名駅 - 阿下喜駅間(2003年4月1日に三岐鉄道へ譲渡) 伊賀線:伊賀上野駅 - 伊賀神戸駅間(2007年10月1日に第一種鉄道事業廃止。第二種鉄道事業者の伊賀鉄道へ運営移管。施設は2017年4月から伊賀市が第三種鉄道事業者として保有[19]) 養老線:桑名駅 - 揖斐駅間(2007年10月1日に第一種鉄道事業廃止。第二種鉄道事業者の養老鉄道へ運営移管。施設は2018年1月から養老線管理機構が第三種鉄道事業者として保有[23]) 内部・八王子線:(2015年4月1日に第一種鉄道事業廃止。第二種鉄道事業者の四日市あすなろう鉄道へ運営移管[15]。施設は四日市市が第三種鉄道事業者として保有) 内部線:近鉄四日市駅 - 内部駅間 八王子線:日永駅 - 西日野駅間 北勢線の車両 伊賀線の車両 養老線の車両 内部・八王子線の車両 南海電気鉄道への譲渡路線 近畿日本鉄道発足時に旧南海鉄道から継承した路線。ただし松江線は近畿日本鉄道発足後に開業した。いずれも、旧関西急行鉄道と旧南海鉄道の路線を分離するため、高野山電気鉄道を改めた南海電気鉄道へ1947年6月1日に譲渡された。詳しくは「南海電気鉄道#路線」を参照。 難波営業局管轄路線 - 天王寺支線は南海本線の支線であったため天王寺営業局管轄ではなく難波営業局の管轄となった。 南海本線:難波駅 - 和歌山市駅間 天王寺支線:天下茶屋駅 - 天王寺駅間(1984年11月18日天下茶屋駅 - 今池町駅間廃止、1993年4月1日全線廃止) 高師浜線:羽衣駅 - 高師浜駅間 多奈川線:南淡輪駅 - 多奈川駅間 松江線:紀ノ川駅 - 東松江駅間(1955年2月15日に加太線に編入) 加太線:和歌山市駅 - 加太駅間(1955年2月15日に和歌山市駅 - 東松江駅を北島支線として分離、同区間は1966年12月1日廃止) 国社連絡線:和歌山市駅 - 国社分界点間(国鉄分割民営化後にJR西日本に貸与) 高野線:汐見橋駅 - 高野下駅間 紀ノ川口支線:妻信号所 - 紀ノ川口駅間(1959年12月20日廃止) 天王寺営業局管轄路線 - 以下のうち阪堺線・大浜支線・平野線は旧阪堺電気軌道→南海鉄道の保有路線。 阪堺線:恵美須町駅 - 浜寺駅前停留場間(1980年12月1日に阪堺電気軌道が継承) 大浜支線:宿院停留場 - 大浜北町駅 - 大浜海岸駅間(1945年2月11日に大浜北町駅 - 大浜海岸駅間休止、1949年3月3日に残区間休止、1980年11月28日全線廃止) 上町線:天王寺駅前駅 - 住吉公園駅間(1980年12月1日に阪堺電気軌道が継承) 平野線:今池停留場 - 平野停留場間(1980年11月28日廃止) 路線切替区間 単なる高架化などはのぞく。 大阪線 大阪教育大前駅 - 関屋駅間(新玉手山トンネル開削による線形改良、1991年12月6日) 桜井駅構内(曲線緩和、1995年) 伊賀上津駅 - 榊原温泉口駅間(新青山トンネルなどの新トンネル開削による複線化と線形改良、1975年11月23日) 名古屋線 近鉄弥富駅 - 桑名駅間(木曽三川橋脚の付け替えと複線化、1959年9月19日 - 26日) 海山道駅 - 川原町駅間(四日市市内線形改良、1956年9月23日。なお、当時は新正駅は未開設) 白塚駅 - 江戸橋駅間(線形改良、1955年7月15日) 養老線 烏江駅 - 大外羽駅間(橋脚架け替えと高架化、1997年10月4日) 湯の山線 桜駅周辺(線形改良と駅移設、1964年3月1日[36]) 志摩線 鳥羽駅 - 中之郷駅間(線形改良と複線化、1970年3月1日) 志摩磯部駅 - 志摩横山駅間(線形改良と複線化、1993年6月1日) 白木駅 - 五知駅間(線形改良と複線化、1993年9月11日) 奈良線 石切駅 - 生駒駅間(規格大型化のための新生駒トンネル開削・鷲尾トンネルオープンカット、1964年7月23日) 生駒駅 - 富雄駅間(規格大型化のための新向谷トンネル開削・山田トンネルオープンカット、1964年10月1日。なお、当時は東生駒駅は未開設) 新大宮駅 - 近鉄奈良駅間(併用軌道解消のための地下線化、1969年12月8日。なお、線路移設時に油阪駅を廃止し新大宮駅を設置) 京都線 近鉄丹波橋駅周辺(京阪神急行京阪線→京阪本線丹波橋駅への乗り入れおよび廃止、1945年12月21日と1968年12月19日) 橿原線 大和西大寺駅 - 尼ヶ辻駅(駅移設のための迂回線路建設、1965年) 八木西口駅 - 橿原神宮前駅(橿原神宮拡張のための線路移設、1939年3月1日) 天理線 平端駅周辺(橿原線とホーム分離、1973年9月20日) 天理駅周辺(国鉄・近鉄駅統合化のための線路短縮・移設、1964年10月30日) 生駒線 萩の台駅 ‐ 元山上口駅(線形改良と萩の台-東山間の複線化のため東山駅移設・線路短縮、1993年1月29日。但し複線化は同年3月17日) 未成線 四条畷線:桜ノ宮駅 - 額田駅 近鉄の直系母体である大阪電気軌道(大軌)が、競合線(東大阪電気鉄道など)への免許交付に対抗する目的で着工したもの。京阪梅田線も参照のこと。 岐阜線:大垣駅 - 岐阜市ないし羽島市 養老線の前身である養老電気鉄道が計画し、近鉄発足後は東海道新幹線岐阜羽島駅への延伸も計画した。 大神宮前(仮) - 大神宮前(0.7km・1927年12月27日参宮急行電鉄により免許取得、1948年9月3日失効)[37] 伊勢神戸 - 鈴鹿川(5.2km・1950年11月30日失効)[37] 奈良久米寺 - 桜井町(6.9km・1923年5月22日大阪鉄道により免許取得、1958年5月6日失効)[38] 五条町 - 学文路村(13.3km・1929年6月29日南和電気鉄道により免許取得、1958年5月6日失効)[38] 長野町 - 川上村(3.3km・1927年10月18日大阪鉄道により免許取得、1959年6月5日失効)[38] 墨俣町 - 今尾(14.2km・1927年10月18日参宮急行電鉄により免許取得、1959年6月5日失効)[39] 川合高岡 - 久居(4.7km・1963年1月11日失効)[37] 京都駅前 - 東寺(0.9km・1963年10月10日失効)[38] 小倉村 - 中道町(33.7km・1929年6月26日奈良電気鉄道により免許取得、1965 - 69年頃失効)[38] 三塚 - 西大垣(3.9km・1927年10月18日参宮急行電鉄により免許取得、以後不明)[37] 岐阜 - 岐阜起点13.7km(13.7km・1927年10月18日・1929年4月11日参宮急行電鉄により免許取得、うち起点8.0 - 13.7kmについては1985年4月15日失効)[37] 堺 - 古市(12.8km・1920年3月20日大阪鉄道により免許取得、1991年2月15日失効)[38] 御所町 - 五条(14.2km・1928年10月26日南和電気鉄道により免許取得、1991年2月15日失効)[38] 他社線との直通運転 現在実施中 阪神電気鉄道:神戸高速線・本線・阪神なんば線が奈良線(難波線・大阪線・奈良線)と、新開地駅・神戸三宮駅・尼崎駅 - 大阪難波駅 - 近鉄奈良駅間で相互直通運転。 神戸三宮駅・尼崎駅との間は2009年3月20日より開始された。これによって、近鉄の車両が初めて兵庫県を走行することになった。この時は元町駅や神戸高速線・山陽電気鉄道への乗り入れは行われていなかったが、2012年3月20日より阪神の車両により神戸高速線の新開地駅から近鉄奈良行き快速急行の運転を土曜・休日に開始した[40]。なお、近鉄の車両の神戸高速線内への乗り入れは行われていない。 このほか、臨時列車として天理教月次祭の平日祭典日には神戸三宮駅 → 天理線天理駅間の直通列車も運転されている[41]。 2013年2月24日には阪神の車両により山陽姫路駅から近鉄奈良駅までの直通の貸切列車の運転が行われた[42] ほか、さらに2014年7月13日には近鉄奈良駅から山陽姫路駅までの直通貸切列車も運行された[43]。また、山陽電気鉄道へは後述のように近鉄特急が乗り入れる構想がある。 2014年3月22日からは特急車両による団体向け臨時列車の運行が阪神三宮駅(現・神戸三宮駅) - 賢島駅間で開始された[44][45][46]。同年5月17日には初めて近鉄名古屋線近鉄名古屋駅 → 阪神本線甲子園駅間でも運転が行われている[47]。 大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro):中央線が近鉄けいはんな線と、コスモスクエア駅 - 長田駅 - 生駒駅・学研奈良登美ヶ丘駅間で相互直通運転。 このうち、生駒駅までは1986年10月1日より、学研奈良登美ヶ丘駅までは2006年3月27日よりそれぞれ開始。これは、地下鉄の大阪市外区間への延伸を北大阪急行電鉄の例にならい、近鉄が担ったとみるべきものである。 京都市営地下鉄(京都市交通局):烏丸線が近鉄京都線・奈良線と、国際会館駅 - 竹田駅 - 新田辺駅・近鉄奈良駅間で相互直通運転。 このうち、新田辺駅までは1988年8月28日より、近鉄奈良駅までは2000年3月15日よりそれぞれ開始。 近鉄との相互直通運転に使用される阪神1000系 近鉄との相互直通運転に使用される阪神9000系 阪神電鉄伝法駅付近を走行する近鉄1252系 阪神電鉄芦屋駅を出発する近鉄9020系 阪神電鉄大石駅付近を走行する近鉄9020系 阪神電鉄大物駅を出発する近鉄9020系 阪神電鉄大石駅付近を走行する近鉄特急22600系Ace(エース) 大阪市高速電気軌道 中央線・20系 大阪市高速電気軌道 中央線・24系 京都市営地下鉄烏丸線・10系 土・日・祝日の朝に近鉄奈良行快速急行の発着がある神戸高速線の新開地駅 将来実施予定 山陽電気鉄道:阪神神戸高速線・山陽電気鉄道本線を介して山陽姫路駅へ乗り入れる構想があり、2008年に2010年春を目標に近鉄特急や修学旅行列車を中心に山陽姫路 - 近鉄奈良・伊勢志摩方面を結ぶ計画が報じられた[48]。「近鉄特急#神戸・姫路方面への乗り入れ構想」も参照のこと。なお、2013年2月24日に阪神の車両を利用して山陽姫路駅から近鉄奈良駅までの直通の貸切列車の運転が行われた[42]。さらに2014年7月13日には近鉄奈良駅から山陽姫路駅までの直通貸切列車も運行した[43]。 名古屋市交通局:1992年の運輸政策審議会答申第12号においては、同答申で構想されている名古屋市営地下鉄金山線と、近鉄名古屋線から、戸田駅付近において相互乗り入れを検討すべきものとされている。 阪神尼崎駅で離合する山陽5000系・近鉄9020系・阪神8000系 過去の事例 名古屋鉄道:名鉄各線と近鉄名古屋線系統各線 近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅はともに地下駅だが、壁1枚および連絡改札で隣接している。1950年代まで連絡線があり、線路がつながっていた。名古屋線が狭軌だったこともあり、団体専用列車に関してのみ相互直通運転を実施し、近鉄側からは蒲郡駅・豊川駅(名鉄小坂井支線・国鉄飯田線経由)・犬山駅など、名鉄側からは養老駅・伊勢中川駅(軌間の問題で、ここで乗り換えを要した)などへの観光列車が運行された。しかし、列車本数の増加、名鉄新名古屋駅改修工事など様々な不都合があり、直通列車は1950年8月 - 1952年9月の間のみ運転と、約2年間で打ち切られた。 京阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)・京阪電気鉄道:京阪本線・宇治線と近鉄京都線 京都線は戦前、京阪と近鉄の前身である大軌が共同出資した奈良電気鉄道の運営であった。戦前は大軌との間でしか直通運転が実施されていなかったが、奈良電線堀内駅(後に近鉄丹波橋駅として復活)と京阪線丹波橋駅を後者に統合する工事が実施され、終戦直後の1945年12月に完成し、当時京阪線を運営していた京阪神急行電鉄(1949年に京阪が再分離)・奈良電・近鉄の3社間での直通運転が開始された。1963年に奈良電が近鉄へ統合された後もしばらく直通運転は継続されたが、1968年12月に廃止された。その理由は、丹波橋駅での線路容量不足と、両社でそれぞれ別種のATSを導入したこと、それに近鉄京都線を京阪本線に先駆けて600Vから1,500Vに昇圧し、大型車投入も実施する予定があったためである。「奈良電気鉄道#京阪神急行電鉄・京阪電気鉄道との直通運転」も参照のこと。 大阪港トランスポートシステム:テクノポート線と近鉄東大阪線(当時) 1997年12月18日に大阪港駅 - コスモスクエア駅間が開業し、近鉄も大阪市営(当時)地下鉄中央線と共に乗り入れを開始したが、大阪港トランスポートシステムの鉄道事業運営方法の見直し(第一種から第三種鉄道事業者へ変更され、第二種鉄道事業者は大阪市交通局となり、一般営業上は交通局の路線に組み込まれた)により、2005年7月1日から営業上の乗り入れ相手ではなくなった。なお、大阪港トランスポートシステム自身が旅客運送を行っていたこの区間は、大阪市営地下鉄中央線編入後も大阪港トランスポートシステムが線路を保有しており、近鉄の車両が引き続き乗り入れている。 このほか、近鉄に合併した会社のうち、奈良電気鉄道(現在の京都線、1963年9月30日まで)と三重電気鉄道(現在の湯の山線のみ、改軌後、1964年3月23日のダイヤ変更から[49] 1965年3月31日まで)は、合併前から直通運転が行われていた[注釈 12]。 列車 列車種別 近鉄の路線には各駅に停車する普通のほかに、速達を目的とした列車種別が設定されている。 特急 特急は近鉄の列車種別のうちで最上位の列車である。会社の看板列車であり、特に<b data-parsoid='{"dsr":[42620,42630,3,3]}'>近鉄特急</b>と呼称される。 近鉄の特急は走行路線・停車駅区別のための列車愛称を持たない。例えば、2012年3月19日まで運転されていた近鉄名古屋駅 - 大阪難波駅間のうち近鉄名古屋駅 - 鶴橋駅間を途中ノンストップで運行する特急は「名阪ノンストップ特急」と系統の通称で呼ばれていた。 対して、特急に使用される車両は「アーバンライナー」「ビスタカー」「伊勢志摩ライナー」「しまかぜ」「さくらライナー」などの愛称を持つ。 特急は全車座席指定席であり、利用するには運賃とは別に特急料金が必要である。近鉄の特急料金には指定席の料金が含まれる。特急料金は特別急行券の購入によって支払う。また、近鉄特急の中でも<!--最上位の列車に値する-->しまかぜには、通常の特別急行券のほかにしまかぜ車両券が必要となる。ビスタEXやしまかぜなどに連結されている個室には通常の特別急行券のほかに個室券が必要となる。たとえば、しまかぜの個室に乗車する際は、乗車区間の普通運賃に加え、特別急行券、しまかぜ車両券、個室券が必要となる。 種別カラーは快速急行と同じ赤だが、駅のLCD・LEDタイプの発車標では特急の種別表示に白い縁取りをすることで快速急行と区別している。 駅到着時の車内自動放送で流すチャイムは「汎用チャイム」と「駅別チャイム」を使い分けており、「駅別チャイム」の曲は京都駅が「大きな古時計」、橿原神宮前駅は「スコットランドの釣鐘草」である。「駅別チャイム」は主な駅に設定されている。「近鉄特急#車内チャイム」を参照。 近鉄特急 アーバンライナーnext 近鉄特急 しまかぜ 近鉄特急 ビスタEX 近鉄特急 22600系Ace(エース) 特急以外の速達列車 詳しくは、各種別および各路線の記事を参照のこと。 近鉄は、特急料金の必要な列車のほかに、運賃のみで利用可能な速達列車を以下の線区に設定している。設定されている列車種別は次の通りである。 凡例 ○:運転 ※:臨時列車で運転 空白:運転なし 奈良線系統の大阪上本町駅 - 布施駅間は正確には大阪線だが、上表では奈良線とする。 このほか、全線区で各駅に停車する「普通」 (LOCAL) も運転されている。 なお、上記列車種別のほかに鮮魚列車が大阪上本町駅 - 宇治山田駅(復路は松阪駅まで)間に設定されているが、この列車は魚介類行商人のための団体専用列車であり、一般客の利用はできない。 京都線では1998年3月に快速急行の運転が開始されたが、利用者数が乏しく急行と誤乗するケースが多かったため、2003年3月のダイヤ変更を機に廃止された。 2012年3月19日までは大阪線・山田線の大阪上本町駅 - 松阪駅間で「区間快速急行」(SUBURBAN RAPID EXPRESS) という種別が運転されていた。 また、1980年代の一時期に、「高速」という種別が上本町駅 - 鳥羽駅間に存在していた。「伊勢志摩号」という愛称名が付いている臨時列車で、長距離用通勤車(2600系など)か団体専用車20100系を使って運行されていた。乙特急よりも停車駅が少ない(ただし甲特急よりは多い)にもかかわらず、特急料金は不要であった。しかし、停車駅が少ないため近距離・中距離客が利用できず、長距離客は特急料金を払ってでも乗り心地の良い特急を利用するため、利用者数が伸びず数年で廃止された。 列車種別の表示 列車種別は先頭車両前面の通過標識灯や種別表示器(方向幕)で識別できる。かつては行先標や車側の種別表示灯(けいはんな線をのぞく)が使用されていたが、1990年代までに種別表示器に置き換えられた。 通過標識灯の点灯パターンは以下の通りである。阪神線直通列車の場合は阪神桜川駅を境に切り替わる。 正面から見て両側が点灯 - 快速急行以上の速達列車(団体・回送・試運転列車・鮮魚列車・配給列車も含む)および阪神線内区間準急 正面から見て右側が点灯 - 急行・区間急行および阪神線内準急 正面から見て左側が点灯 - 準急・区間準急(いずれも近鉄線内のみ) 無点灯 - 普通 正面から見て両側が赤点灯 - 回送(入庫時) 急行の点灯パターンは京阪電気鉄道・阪急電鉄と同じである。 通過標識灯と種別表示器の表示例 快速急行 急行(区間急行も同一) 区間準急(準急も同一) 普通 過去の列車の表示例 区間快速急行 ダイヤ JRをのぞく関西の私鉄としては、ダイヤ変更(ダイヤ改正)の頻度が比較的多く、おおむね毎年3月に規模の大小関係なしにダイヤ変更が実施される(時刻表も同時期に刊行される)。1993年には、京都線近鉄宮津駅の開業・志摩線複線化工事の進捗・同年10月の伊勢神宮式年遷宮における輸送対応に伴って9月にもダイヤ変更が実施された。なお、近鉄では長年「ダイヤ改正」ではなく「ダイヤ変更」という言い方を使用していたが、2007年以降2009年まで毎年3月に実施したものには「ダイヤ改正」という言葉を用いている(同年7月に伊賀線が再度ダイヤを変えた時のみ従来どおり「ダイヤ変更」を用いた)。 阪神なんば線の開業にともない行われた2009年3月のダイヤ改正では、近鉄奈良線以外の近鉄線内では小規模な改正に留まったもの、実際は阪神なんば線の直通運転が開始された関係上、阪神電気鉄道・山陽電気鉄道・阪急電鉄(神戸線・今津線系統のみ)・神戸電鉄でも同時にダイヤ改正を行うなど、かなり大規模なものになっている。 なお2012年3月のダイヤ変更では、ゼロベース=白紙から需要に合わせたダイヤに見直し、運転本数の大幅な削減を主な柱とした合理化によって50億円程度のコストダウンを行った。2010年10月16日には、急行の停車駅を増やすなどして準急を廃止[50]、準急を中心に運転本数を減らす[51] などという報道があったが、この時点では近鉄からは新しいダイヤについての正式な発表はなく、準急の廃止・削減については決定事項ではないことが発表されていた[52]。特急列車関係では時間帯や季節に応じて料金を割り引くサービスを導入する予定としている[51]。ダイヤについては2012年1月にこの白紙変更の正式な内容が発表され、大阪線における快速急行と区間快速急行の種別統合や特急の名阪間ノンストップ運転の中止(名阪甲特急全列車が津駅に停車)、その他の路線でも昼間時間帯の一般列車を中心に大幅な減便を行った。 2014年は、3月にダイヤ変更が実施されず[53]、同年9月21日に奈良線の八戸ノ里駅 - 瓢箪山駅間の上り線の高架化が完成したのに合わせて、例年より半年遅れでダイヤ変更が実施された[54]。 大晦日から正月にかけては、毎年終夜運転(越年ダイヤ)が実施されている。特に近鉄大阪線や名古屋線に関しては宇治山田駅(一部五十鈴川駅・鳥羽駅・賢島駅)発着の特急が大幅に増発されるが、1990年代後半以降は以前と比較して縮小傾向になっている。また、南大阪線に関しても大阪阿部野橋駅 - 橿原神宮前駅間の特急が大幅に増発される。これらを総じて「越年特急」とPRしていることが多い。特急の本数が圧倒的に多くなるために、通常ダイヤでは停車しない桜井駅にも停車する。この越年特急のPRとして、過去には近鉄にまつわる著名人をCMで出演させた時期もあった。1999年(平成11年)の初詣PRでは、近鉄バファローズ投手(当時)の大塚晶則が「背番号11」にちなんで登場した。 ワンマン運転 近鉄は近畿・東海地方に広大な路線を保有しているが、その中には不採算路線も保有している。このため、大手私鉄の中では比較的早くからワンマン運転を行って経費削減を図ってきた。1990年代頃から長期不況による乗客の減少が目立ち、支線のほとんどがワンマン化されたほか、南大阪線や山田線のような幹線でも、普通列車に関しては輸送量が少なく2両編成の列車も多いため、ワンマン運転が行われつつある。このような現象は近鉄に限らず、近年の大手私鉄や神戸電鉄・能勢電鉄といった大都市近郊の私鉄にも共通して見られるものである。さらに採算性の厳しい路線(伊賀線や養老線)においては、上下分離方式(経営は近鉄グループホールディングス子会社の伊賀鉄道・養老鉄道、施設はそれぞれ伊賀市、養老線管理機構が保有)の形式を採っている。 ワンマン運転を行う路線のうち、名古屋線 - 山田線 - 鳥羽線 - 志摩線の系統のみは、無人駅においてドアカット(1両目後乗り・前降り)を実施した上で、運転士が運賃精算を行う(駅員配置駅のみすべてのドアが開く)。それ以外の路線では、無人駅においてもすべてのドアを開けており、運転士は運賃精算などに一切関わらず、完全に利用者の良心に任せる姿勢(信用乗車方式)であるが、時々不正乗車対策として無人駅のホーム上に臨時で係員を配備し、有人駅同様の集札・発券対応を行うこともある。 旅客案内 2009年3月20日の阪神なんば線開通により、正式駅名が「大阪難波」「大阪上本町」に変更されるまで、名古屋輸送統括部(大阪線の西青山駅以東)では難波行きと上本町行きの場合は、「大阪難波行き」などと「大阪」を強調する意味で用いられていた(大阪輸送統括部の管轄路線では「大阪」の冠名を用いることはほとんどなかった)。大阪阿部野橋行きは正式駅名が「大阪阿部野橋」のため、すべての場合において「大阪阿部野橋行き」と案内される。 大手私鉄だけではなく在阪私鉄では珍しく、車掌は終着駅に着く際は「終点」や「終着」ではなく「この電車はこの駅までです」とアナウンスする。これは終端駅到着時にも使われていたが、名古屋輸送統括部管内や南大阪線系統(旧・天王寺営業局管内)では、終端駅到着時に限りこのフレーズが省かれることや稀に奈良線系統で「終点」とアナウンスすることもあった。2010年代以降は、大阪阿部野橋駅や京都駅などの終端駅に到着する前に「大阪阿部野橋、阿部野橋、終点です」もしくは「まもなく、京都、京都、終点です」とアナウンスする(車掌による放送および、日本語による車内自動放送)。英語による車内自動放送でも、"This is the final stop for this train."とアナウンスするほか、終端駅に着く前に"This is the final stop, Osaka-Abenobashi: station number F1."もしくは"We will soon arrive at the final stop, Kyoto: station number B1."とアナウンスする。 日本語による列車の案内放送は、「奈良行き快速急行」のように、基本的に「行先・種別」の順であるが、阪神線に直通する列車は大阪難波駅到着直前に「この電車は阪神直通○○行き○○(種別)です」や「この電車は阪神直通の○○行き○○(種別)です」とアナウンスする(稀に「この電車は阪神○○行き○○(種別)です」や「この電車は○○行き○○(種別)です」とアナウンスすることもある)。また、「普通」は大阪輸送統括部管内のみ「各駅停車」と案内される。名古屋輸送統括部管内では「普通電車」と案内されるが、車掌によっては「各駅停車」の表現も使われている。阪神線直通列車の自動放送では「この電車は阪神直通○○行き○○(種別)です」で統一、英語でも"This train is the (train type) bound for Hanshin (destination) direct."とアナウンスされる。 列車の運転取りやめは「運休」ではなく、「運転取り消し」と案内している。運転取りやめをあらわす略号は一般的に「ウヤ」が使用されるが、近鉄では宇治山田駅と紛らわしいため「トケ」を用いている。 東生駒・石切など途中駅から運転する列車に関しては、大抵の鉄道会社では「当駅始発」としているが、近鉄の駅掲出時刻表には「当駅仕立」として表記している(大阪輸送統括部管内のみ。名古屋輸送統括部では2010年3月改正より表記されず。同管内では駅掲出の時刻表には網掛けで○番線より発車という表記となる。)。 車内自動放送 2016年3月から車掌のタブレット端末(パナソニック製TOUGHPAD FZ-B2[55])の操作による車内自動放送を奈良線・京都線系統や全線の特急列車に本格的に導入した(ただし特急には既に車内放送が自動化されていたが、この時に4か国語の自動放送を開始)[17]。2017年春からは名古屋線・大阪線・南大阪線系統においても車内自動放送システムを展開する[56]。 旧国名・会社略称を冠した駅名の扱い 国鉄との連絡運輸や近傍の他事業者の駅との区別のために、大和、河内、伊勢、志摩、伊賀などの旧国名や会社略称である「近鉄」(前述の通り1970年以前は「近畿日本」)を冠称とした駅名が複数存在するが、伊賀神戸駅や伊勢若松駅などごく一部の例外をのぞいて長らく路線図や方向板・方向幕・案内放送では一切省略されてきた(ただし、南大阪線・吉野線などの旧・天王寺営業局管内の駅の旧国名については、路線図では記載されていた。河内松原駅・大和上市駅など)。これについて、路線図は2004年3月以降、旧国名や会社名を含む正式な駅名に変更され、続いて案内放送などは同年6月1日以降、河内長野駅・伊賀神戸駅・伊賀上野駅をのぞき以下のように変更された。 案内放送 … 旧国名のみ冠して放送する。ただし、日本語による放送で2度繰り返す場合は、2度目の旧国名は省略できる。会社名は省略して放送する。英語による放送でも旧国名のみ冠して放送し、会社名は省略する。 例「次は、大和西大寺、西大寺です。」"The next stop is Yamato-Saidaiji: station number A26(or B26)."「まもなく、丹波橋、丹波橋です。」"We will soon make a stop at Tambabashi: station number B7." 方向幕 … 旧国名のみ小さく表記したものに順次置き換わっているが、旧来の省略したままのものも多く見られる。会社名は省略する。英語表示も旧国名をそのまま表示。 例「普通|大和</small>西大寺」「LOCAL|YAMATO-SAIDAIJI」「急行|名古屋」「EXP.|NAGOYA」 駅名標・運賃表 … 旧国名・会社名とも小さく表記する。 例「大和</small>西大寺」「大阪</small>難波」「近鉄</small>奈良」 なお、大阪阿部野橋駅・大阪難波駅・大阪上本町駅の「大阪」についても、旧国名と同様の扱いとなっている。 例「普通|大阪</small>阿部野橋」「LOCAL|ŌSAKA ABENOBASHI」「急行|大阪</small>難波」「EXP.|ŌSAKA NAMBA」 冊子型の『近鉄時刻表』の行先表示欄の駅名は、2008年号まで旧国名・会社名とも省略された従来の表記が残っていたが、2009年号は会社名のみ略した表記に変わっている。 追記:「河内○○駅」の表記について 駅名標、駅舎看板、方向幕の一部には3通りの「河内○○」の表記が存在するので、その区別を例を挙げて説明する。 「河内」の文字が大文字:(例)「河内長野駅」…「河内長野市」が存在する(現在でもシリーズ21以前の車両の方向幕で「長野」のままになっている編成が存在する。同駅の到着時の駅自動放送では「河内長野。長野でございます」と案内されていた)。 「河内」の文字が小文字で縦書き:(例)「河内松原駅」「河内天美駅」(ともに現在は駅名標をのぞく) 「河内」の文字が小文字で横書き:(例)「河内国分駅」「河内永和駅」など…「河内松原市」「河内天美市」「河内国分市」というのは存在しない。ただし「松原市」は存在する(方向幕に関しては「河内松原行」が存在しないため、この表示方法は存在しない)。 2 のパターンについては旧・天王寺営業局管内特有の表記であったが、同営業局が上本町営業局と統合され大阪輸送統括部となったこともあり、徐々に 3 のパターンへの移行が進められている。 車内放送に関しては、上記 1 に限り「次は、河内長野、河内長野です」、到着前は「ご乗車ありがとうございました。河内長野、河内長野、終点です」となるが、2と3に関しては「次は、河内○○、○○です」となる。 車両 車両基地 検車区・車庫 Colombia 検修車庫・検修センター 五位堂検修車庫 塩浜検修車庫(旧・塩浜工場) 高安検修センター(旧・高安工場) 廃止された車庫・工場 小阪車庫(奈良線、1914年 - 1950年、八戸ノ里車庫に移転。跡地は小阪近鉄ビルに) 八戸ノ里車庫(奈良線、1950年 - 1967年、東花園車庫に移転。跡地はマンションに) 中之郷車庫(志摩線、? - 1969年、狭軌時代) 賢島車庫(志摩線、1970年 - 1993年) 西名張車庫(伊賀線、1926年 - 1964年、上野市車庫に移転) 布施工場(奈良線、1946年 - 1952年、玉川車庫に移転) 玉川工場(奈良線、1952年 - 1982年、五位堂検修車庫に統合、跡地は近鉄ハーツとなった後、2011年からニトリモール東大阪に) 南生駒車庫(生駒線、? - ?) 天美工場(南大阪線、1929年 - 1950年、古市工場に移転) 古市工場(南大阪線、1950年 - 1982年、五位堂検修車庫に統合) 西桑名車庫(北勢線、? - 1977年、北大社車庫に移転) 北大社車庫(北勢線、1977年 - 2003年、三岐鉄道に移管) 内部車庫(内部線、? - 2015年、四日市あすなろう鉄道に移管) 昭和40年代半ばまで、車両に所属検車区を表す銘板が取り付けられており、所属区の頭文字が刻印されていた。東花園検車区と富吉検車区は所属区の銘板取り付け中止後に開設されたため、略号は制定されていない。 八:八戸ノ里車庫 西:西大寺車庫 高:高安車庫 明:明星車庫 白:白塚車庫 古:古市車庫 天:天美車庫 乗務員区所 Colombia 駅管区・駅長所在駅 近鉄では駅業務を近鉄ステーションサービスに委託していた時代、業務円滑化・採算性向上のため全線を8管区に分割し管区支配人制を導入した。その後、同社が近鉄に合併されてからも管区支配人制度は続けられており、現在では各輸送統括部担当課と駅長との間に位置するポストとされている。また、管区支配人は駅長と兼務しているため、管区支配人を兼務している駅には副駅長が配置されている。近鉄では駅長室の入口には、駅長・副駅長・首席助役と当務の助役の職名と氏名の書かれた表札がそれぞれ掲げられている。 管轄及び駅長所在駅[57] は以下の通り。 Colombia 運賃 大人普通旅客運賃(小児半額・端数は10円単位で切り上げ)。2014年4月1日現在[58]。 吉野線・志摩線・湯の山線の各線内またはこれらの路線と他の路線にまたがる区間の場合は、これらの路線の乗車キロ数の合計に応じて下表の金額を加算する。 伊勢市駅 - 宇治山田駅間を通って鳥羽線にまたがる区間の場合は、鳥羽線内の乗車キロ数に応じて下表の金額を加算する(鳥羽線内だけまたは鳥羽線と志摩線の駅間だけを乗車する場合は加算しない)。 けいはんな線内または同線と他の路線をまたがる区間の場合は、けいはんな線内の乗車キロに応じて下表の金額を加算する。 鋼索線普通運賃 生駒鋼索線 宝山寺線(鳥居前駅 - 宝山寺駅)または山上線(宝山寺駅 - 生駒山上駅)のみ 290円 宝山寺線・山上線をまたがる場合 360円 西信貴鋼索線 550円 運賃計算の特例 運賃は、乗車経路通りキロ程を計算し算出するのが原則であるが、近鉄には以下のような特例が存在する。 徒歩連絡制度 定期券・回数券・普通乗車券で、田原本駅と西田原本駅間、王寺駅と新王寺駅間を徒歩連絡で乗車する場合は、キロ程を通算して運賃を算出する。 例:大和八木駅 - 箸尾駅間を「大和八木駅 - 田原本駅(徒歩連絡)西田原本駅 - 箸尾駅」と乗車する場合 定期券で、安堂駅と柏原南口駅間または、堅下駅と柏原駅間を徒歩連絡で乗車する場合は、キロ程を通算して運賃を算出する。 例:五位堂駅 - 道明寺駅間を「五位堂駅 - 安堂駅(徒歩連絡)柏原南口駅 - 道明寺駅」と乗車する場合 大阪環状線経由の定期券(通称「鶴・天経由」) 定期券で、鶴橋駅と大阪阿部野橋駅(天王寺駅)間をJR大阪環状線を経由して近鉄線を利用する場合、近鉄線のキロ程を通算することができる。定期運賃は、先のキロ程を通算して算出した近鉄運賃にJR運賃を合算した額となる。 例:河内小阪駅 - 河内天美駅間を「河内小阪駅 - 鶴橋駅(JR大阪環状線)天王寺駅(徒歩連絡)大阪阿部野橋駅 - 河内天美駅」と乗車する場合 定期券における鶴橋駅または大阪上本町駅折り返し特例 定期券で、奈良線河内永和駅以東と大阪線俊徳道駅以東の各駅を布施駅を通過する列車を利用し、鶴橋または大阪上本町駅で折り返す場合、発駅 - 鶴橋駅もしくは大阪上本町駅 - 着駅のキロ程を通算することができる。 例:奈良線生駒駅 - 大阪線弥刀駅間を「生駒駅 - (快速急行) - 鶴橋 - (普通) - 弥刀」と乗車する場合、本来であれば「生駒駅 - 鶴橋駅(布施駅)」と「布施駅(鶴橋駅) - 弥刀駅」の2枚の定期券が必要であるが、上記特例により生駒駅 - 鶴橋駅・鶴橋駅 - 弥刀間のキロ程を通算して算出した運賃で定期券を購入できる。この場合、定期券の発着駅名は「生駒 - 弥刀」で経由地に「鶴橋」と記載される。また、布施駅 - 鶴橋駅間での途中下車もできる。 環状経路乗車制度 回数券・普通乗車券で、布施駅 - (奈良線) - 大和西大寺駅 - (橿原線) - 大和八木駅 - (大阪線) - 布施駅間の環状経路の一部を通る場合は、遠回りの経路でも乗車でき、指定がなければ最短経路で運賃が計算される。 例:桜井駅 - 石切駅間を乗車する場合、大和西大寺駅を経由しても布施駅を経由しても最短経路の大和西大寺駅経由で計算した運賃で乗車できる。ただし、田原本線・生駒線を経由する「桜井駅 - 大和八木駅 - 田原本駅(徒歩)西田原本駅 - 新王寺駅(徒歩)王寺駅 - 生駒駅 - 石切駅」という経路の乗車は選択できない。 布施駅通過列車に対する特例 回数券・普通乗車券・団体乗車券で、奈良線河内永和駅以東と大阪線俊徳道駅以東の各駅を布施を通過する列車を利用する場合、鶴橋で折り返すことができる。 例:奈良線生駒駅 - 大阪線弥刀駅間を「生駒駅 - (快速急行) - 鶴橋駅 - (普通) - 弥刀駅」と乗車する場合、上記特例により生駒駅 - 布施駅 - 弥刀駅の運賃で乗車できる。 なお、この特例は布施駅および今里駅を発駅もしくは着駅とする場合にも適用される。 例:布施駅 - 名古屋線近鉄名古屋駅間を「布施駅 - (準急) - 鶴橋駅 - (特急) - 近鉄名古屋駅」と乗車する場合、上記特例により布施駅 - 近鉄名古屋駅の運賃で乗車できる。 途中下車制度 現在の近鉄には定期券と生駒鋼索線(宝山寺駅でのみ可能)のみ途中下車制度が存在するが、2001年2月までは鉄道線でも途中下車指定駅(上本町・布施・生駒・大和西大寺・田原本・大和八木・橿原神宮前・伊勢中川・近鉄四日市・桑名)や長距離乗車券(制度廃止直前時点では片道運賃が1400円を超える区間の乗車券)で途中下車が可能であった。上本町・布施・生駒・大和西大寺・大和八木・近鉄四日市の各駅は近鉄百貨店利用者などに好評だったが、スルッとKANSAI導入に伴い廃止された。なお当時の長距離乗車券は有効期間が片道2日であったが、途中下車制度廃止時に1日に統一されている。 阪神線方面との連絡乗車券 阪神電気鉄道との連絡乗車券は、奈良線系統の駅を中心に発売を開始したが、最も遠くは元町駅までしか発売できない。よって、元町駅で下車しないで神戸高速線・山陽電気鉄道・神戸電鉄方面へ向かう場合は、大阪難波駅または元町駅までの乗車券を購入してから、不足分を降車駅で精算する必要がある。ただし、必要な残額がある各種交通系ICカードやスルッとKANSAIを利用する場合は、精算を必要としないため問題にならない。また、杭瀬駅以東への連絡切符も発売されてはいるが、梅田駅へのみ発売されていない。 名古屋・三重方面の各駅(大阪線大和朝倉駅以東)では阪神線方面との連絡乗車券は発売していない。よって、それらの駅から阪神線方面へ向かう場合も、大阪難波駅までの乗車券を購入してから、不足分を降車駅で精算する必要がある。ただし、各種交通系ICカードを利用すれば、阪神線だけではなく神戸高速線・山陽電気鉄道の各駅でそのまま下車することは可能である。(山陽電気鉄道・神戸高速線・阪神線各駅から名古屋・三重方面へ乗車する場合も同様) 乗車カード・主な企画乗車券 以下の各項目を参照。 KIPS ICOCAカード - 近鉄が2012年12月1日より発行開始したICOCAカード。近鉄グループの「KIPSポイントカード」(現金払い専用)との一体型である。 KIPS PiTaPaカード - 近鉄が発行するPiTaPaカード パールカード11(回数券カード) 利用可能時間帯・利用可能日に制限がある代わりに割引率が大きくなるオフピークチケット・サンキューチケットもある(「パールカード11」の項を参照)。 伊勢・鳥羽・志摩スーパーパスポート まわりゃんせ 周遊パスポート あそばんせ 京めぐり 関西1デイパス 2012年7月発売の「夏の関西1デイパス」より、JR西日本との共同企画商品として、JR西日本のアーバンネットワークエリアの一日乗車券に、近畿日本鉄道および京阪電気鉄道・南海電気鉄道のいずれか一社の一日乗車券への引換クーポンが付属したものが発売されている。なお京阪と南海の両社向けとしては、2009年より「関西1デイ納涼パス/夏の関西1デイパス」・「秋の関西1デイパス」・「冬の関西1デイパス」・「春の関西1デイパス」がそれぞれ発売されている。 近鉄週末フリーパス(全線フリーきっぷ) 土曜・日曜日を含む3日間有効。乗車開始日の前日までに購入する必要がある。毎年2月から12月まで発売される。 このほかに天理教信者の参拝向けに販売する普通割引切符があるが、天理教教会および天理教本部限定販売である。 また、乗車カードとしてPiTaPaが使える路線(鋼索線、さらに養老鉄道線・伊賀鉄道線をのぞく全線)でJR西日本のICカード「ICOCA」およびこれらと相互利用可能なICカード(TOICA・manaca・Suica・PASMO・Kitaca・SUGOCA・nimoca・はやかけん[8])が利用可能である。かつては志摩線に一部利用できない駅があったが2015年8月1日に志摩線全駅と西信貴鋼索線でこれらのICカードが利用可能となった[59]。 さらに、自社でのICOCA・ICOCA定期券(JR西日本・京阪・阪神各社との連絡定期券も)、ならびに近鉄グループの「KIPSポイントカード」(現金払い専用)との一体型である「KIPS ICOCAカード」が発売されている(一部の路線・区間を除く)[60][61][62]。2013年3月23日からは近鉄とJR東海のIC連絡定期券も発売が開始されており[63]、2014年3月14日には南海電気鉄道との河内長野連絡ICOCA連絡定期券も発売を開始した(南海ではPiTaPa連絡定期券として発売)[64]。また、2014年9月21日には名古屋鉄道とのIC連絡定期券も発行を開始し[65][66]、2017年には京都市交通局との竹田連絡ICOCA連絡定期券も発売を開始した[67]。 なお、スルッとKANSAIとJスルーでカードに印字される符号はKTである。 販売を終了したもの パールカード - 2008年9月15日の終電をもって発売終了。その後自動精算機での利用は2009年3月1日に終了した。なお自動券売機では引き続き利用できる。 Jスルーカード - 2008年9月15日の終電をもって発売終了。その後自動改札機や自動精算機での利用は2009年3月1日に終了した。なお自動券売機では引き続き利用できる。 3・3・SUNフリーきっぷ - 名鉄・南海との共同企画。2006年8月発売終了。 ワイド3・3・SUNフリーきっぷ - グループ各社でも使える。2006年3月発売終了。 スルッとKANSAIカード - 青山町駅より西(吉野線・道明寺線・田原本線など一部路線をのぞく)で使用可能な乗車カード。2017年3月31日をもって発売終了、2018年1月31日をもって自動改札機での利用を終了した。なお自動券売機と自動精算機では引き続き利用できる。 名阪まる得きっぷ(特急回数券) - 2017年12月30日をもって発売終了。 駅設備 自動改札機 自動改札機の導入開始はきわめて早く、現在主流の磁気乗車券方式のものは1969年に試験導入が始まっており、これが本格実用化のきっかけとなった。その後1971年4月より、大阪阿部野橋駅など19の駅でサイバネ規格対応の自動改札機の本格導入が開始された[68]。また、それ以前にも光学読み取り式自動改札の試験が大阪阿部野橋駅で行われている[注釈 13]。 しかしながら、近鉄には奈良や三重を中心にローカル駅や無人駅が多いという実情から、40年以上経った2019年現在でも全線全駅での自動改札の導入は行われていない。またスルッとKANSAIの導入も遅れ、結局は青山町駅以西の一部支線をのぞいたエリアでの導入となっていた。一方で、他の関西私鉄では導入されなかったJスルーにも近鉄グループの近鉄バスとともに対応していた。さらに、東海エリアの駅に関しては2000年代前半まで主要駅をのぞいて自動改札が存在していなかったが、2007年4月のICカード「PiTaPa」導入を機にこれらの駅の大半でも自動改札の導入が実施され、これらの駅では2枚対応改札(赤い改札)が導入された。またICカードに限れば、2018年3月現在、生駒鋼索線と葛城索道線を除く全線全駅で利用可能である。 改札機のメーカーは、大阪線系・南大阪線系がオムロン、奈良線・京都橿原線系が東芝、名古屋線系が日本信号製と分けられている。 2007年11月28日に近畿日本鉄道は、鉄道向け自動改札システムの開発・実用化に関して、電気・電子・情報・通信分野における世界最大の学会であるIEEE(アメリカ電気電子学会)より、「IEEEマイルストーン」に認定され、同システムを共同で研究・開発してきた、大阪大学・オムロン・阪急電鉄と共に受賞したと発表した[68]。前述した自動改札機の試験導入が行われた大阪阿部野橋駅には、受賞記念の銘板が設置されている。 ICカードの対応 ICカードを用いた乗降(改札通過処理)については前述の通りだが、精算やチャージについてはすべての駅では対応しておらず、都市近郊の駅でも一部の駅でこれらの処理ができず、閑散区間に至っては主要駅でしか扱っていない。そのため、十分な残額が無いままで無人駅などへ乗車した場合、その駅での降車ができないケースがある。 精算機についてはPiTaPa導入開始以降、都心部や近郊区間の駅を中心にICカード対応のタイプへの置き換えが進んでおり、この機械ではICカードの精算やチャージが可能となっている。チャージに関してはこのほかにも、改札内のICカードチャージ機、改札外のICカード対応切符券売機で対応している。また2016年からは、関西私鉄(かつPiTaPa導入社局)で初めて券売機でICカードの残額を利用してきっぷを購入することができるようになった[69]。 物販支払いにおけるICカードの対応については、コンビニ型店舗「K PLAT」で「PiTaPa」(iDも利用可能)が、「ファミリーマート」(「am/pm」から転換)では、「ICOCA」や「TOICA」「manaca」など同カードと相互利用可能なICカードや、「楽天Edy」などが使用可能となっている。一方で、小型店舗、キオスク型店舗が中心の「Pocket Plat」については、「PiTaPa」に対応していた古市駅の店舗をのぞいてICカードに対応していなかったが、2013年度中に、旧「K PLAT」の店舗を含め、ファミリーマートへの転換(愛称:「近鉄エキファミ」)が進められ、転換が完了した店舗からファミリーマートが導入している各電子マネーおよびPiTaPaが随時使用可能になった。その他の業種の店舗でも駅ナカを中心に導入が進められており、自動販売機でも対応している物がある。 発車標・駅の案内表示 ホームに設置されている発車標(列車発着案内表示器)のタイプに関しては、1980年頃までは行灯式や字幕式、それ以降2000年頃まで設置されたものは反転フラップ式(ソラリー式)が主流であった。しかし一部の主要駅では発光ダイオード (LED) や液晶ディスプレイ (LCD) タイプのものに交換され、さらに奈良線系統においては2009年3月の阪神なんば線開通に伴い、表示する情報量が格段に増えることなどからLCDタイプのものへの交換が一部の駅をのぞいて行われた。このLCDタイプは奈良線以外では大阪阿部野橋駅や桃山御陵前駅を皮切りに主要駅を中心に順次設置されている。なお都心部やその近郊区間での下位種別しか停車しない駅などではほとんどが列車の通過到着を知らせるだけのLED一段タイプのものであるほか、閑散区間の駅や支線の駅に至っては全く設置されていない場合がほとんどである。このほか、生駒ケーブルや湯の山温泉駅などでは昔ながらの行灯式が、河内長野駅では字幕式の発車標が現在でも使用されている。 また、近鉄特有のものとして、主にターミナル駅のホーム階段付近やコンコース、改札などに設置されている各方面別の発車案内を表示するブラウン管式や液晶式の表示装置が存在する。早い所では1970年代から設置されていたもので、長らくブラウン管タイプが使用されていたが、最近になって大半が液晶式に交換されている。また、この液晶式表示装置はダイヤの乱れなどが発生した時に、運行情報を表示する機能も導入されている。このほか、一部の主要駅では列車運行情報専用(平常運転時は旅客案内用)の液晶ディスプレイが設置されている[70]。 発車標は、全列車を表示するもののほかに、大阪難波駅や近鉄名古屋駅などでは特急のみ表示するものも設置されている。また、特急停車駅ではホームに乗車位置の案内表示器が設置されており、発車標と同様にソラリー、LED、LCDが混在する[注釈 14]。さらに、各方式で号車番号のみ表示するもの、発車時刻の「分」と号車番号を表示するもの、発車時刻・行先・号車番号を表示するものがある。なお、発車標での特急の表示は2013年のダイヤ変更まで一部の駅を除いて使用車種にかかわらず「特急」のみであったが、このダイヤ変更以降は全ての駅でしまかぜ・アーバンライナー・伊勢志摩ライナー・さくらライナー・青の交響曲に限り使用車種の名称が併記されるようになった。 発車標をはじめ、方向幕・駅名標などにおける、固有名詞のローマ字表記については、近年大手私鉄各社で小文字を利用した表記方法(例:「Ōsaka」「Kyōto」「Nagoya」など)が広がる中、南海電気鉄道と同様に、すべて大文字表記(例:「ŌSAKA-NAMBA」「KINTETSU-NARA」など)の、鉄道掲示規程に準じた表記方法となっていた[注釈 15] が、これは2015年8月より実施の駅ナンバリング導入に際し小文字混じりの表記に一斉に切り換えられた[注釈 16]。なお、2000年代以降に設置された案内サインの多くには、日本語・英語のほかに簡体字およびハングルでの案内が印字されており、また2009年以降近鉄奈良線を皮切りに更新された案内板・駅名標からユニバーサルデザインのピクトグラムや、イワタとパナソニック(松下電器産業)が共同開発[71] したユニバーサルデザイン対応フォント「イワタUDゴシック」が採用されている[注釈 17]。2015年8月から2016年4月にかけて駅ナンバリングの導入、及び主要駅の案内サインや行先表示装置、駅・車内放送における多言語対応の充実に伴い、再度駅の案内板のリニューアルが行われ、シンプルでかつ文字サイズが幾分大きめになったデザインに変更されている。また、LCDタイプの発車標では、英語表記を小さいフォントで日本語の下に配置していたもの(鶴橋駅の画像を参照)から、主要駅23駅[注釈 18]においては『日本語』と『英語(頭文字のみ大文字、以下小文字。駅ナンバリング込み)』とを交互表示させるものになった。ただし、主要駅以外では従来の表示形式のままである。 反転式表示式(高田市駅) 液晶ディスプレイ式(鶴橋駅、駅ナンバリング導入前、大阪難波駅の駅名改称前時点での表示) LED式(古市駅、同駅では現在LCD式を使用) ブラウン管式(大和八木駅、現在は薄型液晶に交換) 字幕式(河内長野駅) 行灯式(湯の山温泉駅) バリアフリー対応 バリアフリー対応のため、特急停車駅など主要駅、都心部や近郊区間の駅ではエレベーターやエスカレータ、スロープ、障害者対応トイレなどの設置が逐次進められている。しかし、前述の通り所有駅数が多いという実情から、閑散駅ではなかなか対応が進まないのが現状である。近年では中之郷駅のように、一旦エスカレータが設置されたものの、その後の乗降客減少と駅無人化によって利用停止、解体された事例も発生している。 トイレの設置 大半の駅で設置されている。水洗式や障害者対応トイレの整備が進められている一方で、利用者が比較的多いにも関わらず汲み取り式のままの駅も多数残存する。また、三重県を中心に閑散区間の駅で駅員配置駅だったものが無人駅化される際に、清掃・維持費用の観点からトイレそのものを撤去したケースも複数存在する。しかし、これらに該当する駅が多かった北勢線・養老線・伊賀線が経営分離されたことで、近鉄としての水洗化率・トイレ設置率は大幅に向上している。 トイレットペーパーは、ほぼ全駅のトイレに設置されている。このうち、関西エリアでトイレットペーパーの設置が進んだのは2008年冬頃からであり、それ以前は関西エリアでは紙の備え付けはされず、別途入口付近の自販機で購入する方式を採っていた。東海エリアでは以前からローカル駅においてもロール式が備え付けられていた。 特急券・定期券の販売 ほとんどの特急停車駅においては特急券は有人窓口、自動券売機など、何らかの形で常時発売されている。これらの駅では定期券も発売されている場合が多いが、観光地の駅や山間部の駅などでは必ずしもその限りではない。また、本線格の路線においては速達種別の停車駅や特に利用客の多い駅、学生利用の多い駅などに有人の定期券・特急券発売窓口を設置している。2010年のダイヤ変更で特急停車駅となった西ノ京駅は唯一の例外で、同駅ではこれまで有人の切符販売窓口が未設置だったこと、特急停車にあたって「定期券・特急券自動発売機」(後述)の設置もされなかったこと、加えて特急が停車するのが観光需要のある日中のみであることから、発売時間も同駅に特急が停車する時間帯のみに設定している。また、定期券についてはローカル駅などで事前予約による販売のみを行う駅も存在する。 最近では「定期券・特急券自動発売機」の設置が進められている。この機械の導入により、これまでの有人窓口と比べて販売時間が大幅に拡大した(基本的に早朝から深夜まで購入可能)ものの、新規の通学定期券やバス連絡定期券、各種割引きっぷが買えなくなるデメリットも発生している。特急停車駅ではない駅の中にはこの機械の設置に替えて有人窓口の営業時間を大幅縮小、または廃止、臨時営業とする駅も出てきている(機械の代替設置を行わず、特急券・定期券類が完全に買えなくなった駅も存在する)。また、2008年10月には自動発売機の整備と有人窓口の廃止縮小を軸とした販売窓口の一斉整理が全線で行われ、それ以降も自動発売機の設置と有人窓口の営業時間縮小、廃止が少しずつ進められている。 構内店舗・売店 大半の特急停車駅やある程度の乗降客がある駅にはコンコース・ホーム上などに駅売店「Pocket Plat」を、ターミナル駅などにはコンビニタイプの売店「K PLAT」が営業している。かつては「365」というブランドで展開しており、現在でも一部の駅の自動販売機コーナーなどにその名残りがある。また、最近ではターミナル駅でのエキナカ事業の拡充に取り組んでおり、大和西大寺駅や京都駅、大阪難波駅などでは「Time's Place」という様々な業種の店舗が立ち並ぶようになっている。しかし、その一方では乗降客の減少した駅での店舗廃止も進めている。売店の営業は近鉄が直営として、近鉄グループの近鉄リテールサービス(現・近鉄リテーリング)に運営委託という形を取っているが、以前(「365」時代)は近鉄観光による運営であった。 2013年3月には近畿日本鉄道とファミリーマートの業務提携と、「K PLAT」、「PocketPlat」の2013年度中のファミリーマートへの順次転換が発表された(愛称:「近鉄エキファミ」)。転換後は近畿日本鉄道がファミリーマートのフランチャイジーになる[72]。ファミリーマートへの転換が完了した店舗では、買物での支払いにICOCAやTOICA・manaca・PiTaPaなどの各種交通系ICカードや、iD・楽天Edyなどが使用可能になった。特に駅ホームのキオスク型店舗でICカードが使用可能になるのは近鉄としては初めてのケースとなる。 なお、かつてあったコンビニエンスストアのam/pm(現在はファミリーマートに統合・移管済)は、関西圏では近鉄がフランチャイジーを行っていた。 テレビモニター 奈良県内では近鉄グループのケーブルテレビ局、「近鉄ケーブルネットワーク (KCN)」がケーブルテレビ・インターネット事業を行っており、それの宣伝を兼ねる目的で、奈良県内の主要駅やスタジオにもっとも近い東生駒駅には主にBS放送やCS放送(スカパー!)の専門チャンネルが映る多数のテレビを壁状に配置し、様々なチャンネルを同時に視聴できるようにしたテレビモニターが設置されている。基本的に音は出ないが、大和西大寺駅などに設置されているものは中央に大型のハイビジョンテレビが据えられ(主にNHK奈良放送局総合テレビが放映されている)、これのみスピーカーから音声が発信されている。特徴的な設置物であるがゆえに待ち合わせに利用されるケースも見受けられる。このほか、三重県内でも津駅と久居駅にZTV、宇治山田駅にiTVのテレビモニターが設置されている。 時刻表 駅掲出の時刻表及び駅配布のポケット時刻表はけいはんな線をのぞいて独特の形式をしており、行先ごとに枠を作って大分類し、それを種別ごとにさらに分類して時刻の「分」を記入していくような形になっている(駅によっては行先と種別の順序が逆になることがある)。1990年代までは1日に1本しかないような列車に対しても枠が分けられるなど、かなり厳格な運用がされていた。ただし近年では、類似の種別や行き先は一纏めにされ、その上で色分けしたり略号を付けたりして区別されることも多くなり、他の鉄道の形式にも幾分近くなってきている。1990年頃までは南海電気鉄道、2003年までは京阪電気鉄道でもこの体裁が採用されていた。なお駅掲出時刻表は、全駅について公式ウェブサイトで閲覧できる。また、駅配布のポケット時刻表は、大阪地区と名古屋地区で体裁が異なる。さらに大阪地区においても京都線は休日ダイヤが表面になっている(それ以外の路線は平日ダイヤが表面である)。 時刻表では、「当駅から乗客扱いを始める列車」については「当駅始発列車」ではなく「当駅仕立列車」という独特の用語で表現される。 駅で配布している名古屋地区版のポケット時刻表(霞ヶ浦・阿倉川駅) 駅で配布している大阪地区版のポケット時刻表(大和西大寺駅) ストライキ 小田急電鉄・京浜急行電鉄・西武鉄道などと同様に、原則労働組合は列車運行のストライキを行わない方針を採っている(集改札ストライキはあり)。1980年代後半当時のテレビニュースやストライキ情報では、ストライキを予定していた近鉄が集改札スト(鉄道の営業は行うが駅での改札や乗車券類の発売などの業務を一切行わない戦術。なお、ストライキ中の乗車券は車掌が車内で発売する体制を採っていた)に変更すると「戦術ダウン」と報道されることもあった。また、名阪ノンストップ特急の利用者が低迷した時代は、それに関してのみ例外として運休とされていたことがあった[注釈 19]。 ただし、戦後組合が発足した当初は争議に積極的で、他社が収束した後も独自にストを行ったこともあった。特に1958年の春闘では激しく対立し、全面ストを含む41日に及ぶ争議となったが、並行する他社の路線がほとんどないなどの理由で、利用者からは強い反発を受け「沿線住民を無視できない」という理由でストを中止した。翌1959年、組合は対話を尊重する方針を打ち出し、秋の伊勢湾台風被害から労使一体で再建に取り組む過程でこの路線がさらに固まった。その後十年間にこの方針が組合の基調となり今日に至っている[73]。 他社との関係 以下では近鉄と同業他社との関係(グループを含む)を記す。なお、この他にも大分県への近鉄グループ進出を巡り、西日本鉄道とも対立していた時期もあった。 奈良県・三重県における近鉄 近鉄が多く路線を保有する奈良県および三重県においては、近鉄はJRよりはるかに運転速度・規格・本数などで勝っている面が多い。また、四日市駅と近鉄四日市駅、奈良駅と近鉄奈良駅など、同県のある地区にJRと近鉄の2社の代表駅がそれぞれ別の場所に設けられている場合、それぞれの沿線人口の違いもあり、JRの駅前は閑散しているのに対して、近鉄の駅前は賑やかというのが一般的である[注釈 20]。日本国有鉄道(国鉄)時代から国有鉄道の意義が低く、近鉄の意義が沿線住民には高かったからである。 これは、同地区の国鉄線を建設したのが元々関西鉄道・参宮鉄道などといった私鉄であり、鉄道国有法に基いてそれを国有化した後は一地方路線扱いとしてほとんど投資がなされなかったため、国鉄時代には近鉄と並行する関西本線・奈良線などは都市近郊路線にもかかわらず、非電化・単線の時代が長く続いているといった状況となったからである。これに対して、近鉄の元となる大阪電気軌道・参宮急行電鉄は、始めから高規格の高速運転を行う路線として主要路線を建設し、さらに買収路線(伊勢電気鉄道を買収した名古屋線、奈良電気鉄道を買収した京都線など)を含めて何度も複線化・線形改良などを行い、速達列車を多く設定したため、輸送において国鉄よりはるかに優位に立つことができた。 国鉄分割民営化後は、JR西日本が大和路線・奈良線・おおさか東線・和歌山線・桜井線(万葉まほろば線)といった「アーバンネットワーク」の一部路線で近鉄との対抗として大和路快速などの速達列車を設定したり[注釈 21]、JR東海が名古屋駅 - 鳥羽駅間に快速「みえ」を走らせたりするなど、国鉄時代に比べて大きく改善されているが、それでも、列車本数等で近鉄が有利である区間が多い。 そのため、奈良・三重両県において近鉄グループは、鉄道やバス(奈良交通・三重交通)などの交通事業、不動産やホテル・百貨店などの付帯事業において強い影響力を持ち、両県では「近鉄王国」と称されているほど、県民にとって近鉄グループは生活に欠かせないものとなっている。一例として、古くから皇室関係の奈良・三重方面への移動には京都や近鉄名古屋から近鉄を利用することが多く、このことからお召し列車の運行実績も他私鉄に比べて多い[注釈 22]。また、毎年1月4日の内閣総理大臣の伊勢神宮参拝に関しても慣例的に近鉄特急が利用される。 また、両県においては交通事業のほかに、近鉄百貨店に代表される流通事業、KCNや奈良テレビ放送に代表される通信・サービス事業、近鉄不動産に代表される不動産・開発事業、都ホテルズ&リゾーツ(奈良ホテル・志摩観光ホテルなど)に代表される観光・レジャー事業など、近鉄グループ各社の影響を大きく受けている。 他には南都銀行や柿の葉寿司本舗たなか、また三重テレビ放送や百五銀行・赤福など、グループ企業ではないものの、近鉄との関わりの強い企業も非常に多い。 大阪と奈良の間では、JR西日本の大和路快速などが走る大和路線と競合関係にある。 名古屋と三重県下の間では、JR東海の快速「みえ」などの関西本線・紀勢本線・参宮線の列車と競合関係にある。 京阪電気鉄道との関係 近鉄京都線は奈良電気鉄道(以下 奈良電)を合併したことから始まるが、奈良電は京阪電気鉄道(以下 京阪)と当時の大阪電気軌道の両者がほぼ同額を出資する形で設立された。1953年9月に近畿地方を襲った台風13号による被害で、奈良電は経営悪化に陥っていた。その際、京阪と合併するという案が出されている。しかし、これを京阪側は淀屋橋延長線(淀屋橋 - 天満橋)の建設工事による巨額投資を行ったため不可能だとして拒否していた。その時期を見込んで京阪寄りだった奈良電の経営権を取得し、京都への進出を図った近鉄だったが、京阪側はこの事態に反発した。しかし、近鉄は株式の取得を進め、関西電力会長だった太田垣士郎の斡旋を経て、1963年10月1日に奈良電は近鉄に合併された。当時の近鉄社長である佐伯勇は、京阪の社長だった村岡四郎が英断を下して「持株も譲っていい、そのかわり奈良電を一流にたて直しなはれ」という言葉をかけられたと述べている[74]。なお、大久保駅など、近鉄京都線沿線のバス路線が京阪バス・京都京阪バス等により運行されているのは、近鉄への株式譲渡の際、京都 - 奈良間のバス事業免許は京阪側に引き渡すという条件によるものである。 国鉄・JR東海・JR西日本との関係 国鉄への対抗意識から、関西私鉄の多くが国鉄の駅との連絡に消極的であったのに対し、近鉄は大軌子会社の参急発足の頃から、積極的な連絡を図ろうとした。その名残で特に三重県には、津駅・松阪駅・伊勢市駅・鳥羽駅といった、JRと近鉄が同じ構内を共同で管理する駅が存在する。 さらに名古屋線などの前身である伊勢電気鉄道、南大阪線などの前身である大阪鉄道、吉野線の前身である吉野鉄道などといった会社も、元々は「国鉄と貨物の連携輸送を行うこと」を目的に設立されたことから、それらの会社が建設した路線にも桑名駅や柏原駅・吉野口駅など、JRの駅への乗り入れている駅がいくつか存在している。 他にも鶴橋駅や近鉄名古屋駅のように、JR線との乗り換え改札口を設けている駅もある。一方で近年は、桜井駅や京都駅のように、JRと改札が分離された事例もある。また近鉄四日市駅は、かつて国鉄四日市駅に近接していたが、名古屋線の付け替え(いわゆる「善光寺カーブ」の解消)により、独自の駅に分離した。 加えて、スルッとKANSAIの導入には最初は消極的であったり、JR西日本の「Jスルーカード」が、近鉄の鉄道路線(青山町駅以西の「スルッとKANSAI」対応線区に準ずるが、けいはんな線をのぞき、道明寺線が含まれる)や近鉄バス(北摂地区をのぞく)でも利用可能だった(2009年3月1日で自動改札機・自動精算機での利用を停止。以後は自動券売機での乗車券への引き換えのみ可能)という関係もある。 近鉄特急も近鉄京都駅、近鉄名古屋駅では遠方からの利用客を考慮して東海道新幹線の接続を意識したダイヤを設定している。 2009年11月から近鉄グループと東急グループの東急不動産(2011年4月26日にあべのキューズタウンを開業)の共同企画として行われている天王寺・阿倍野地区のイメージ向上を目指す「Welcoming(ウェルカミング)アベノ・天王寺キャンペーン」に、翌年2010年5月より天王寺ミオなどJR西日本グループも参加している[75]。 2012年5月10日には、近鉄グループの鉄道車両メーカーである近畿車輛にJR西日本が資本参加し、人事交流や車両の共同開発などを目的とした、業務・技術提携が締結された[76][77]。 2012年夏には、JR西日本で発売された「夏の関西1デイパス」では鶴橋駅または京都駅から生駒駅までの往復乗車券と生駒鋼索線(生駒ケーブル)の乗車券が引き替えできるオプションが用意された。これ以降も季節ごとに、近鉄のオプション乗車券引き替えが選択可能な「関西1デイパス」が順次発売されている。 さらに、近鉄・JR西日本と近畿日本ツーリストの3社共同企画として、「近鉄電車&山陽新幹線で行く! 九州、伊勢志摩」の旅行商品の販売キャンペーンも行われている[78]。 近鉄でのIC定期は、京阪電気鉄道同様にPiTaPaではなく、JR西日本のICOCAで発行されることになった。2012年12月1日に発売を開始し、JR西日本・京阪・阪神各社との連絡定期券も同時に発売開始した[60][62](阪神ではPiTaPa連絡定期券として発売)。さらに2013年3月23日からは、JR東海とのICOCA連絡定期券も発売開始し(JR東海ではTOICA連絡定期券として発売)、2014年3月14日には南海電気鉄道とのICOCA連絡定期券も発売を開始している(南海ではPiTaPa連絡定期券として発売)[64] ほか、9月21日には名古屋鉄道とのICOCA連絡定期券も発売を開始した[65]。 後にJR東海が展開する「うましうるわし奈良」キャンペーンにも協力しており、近鉄の駅構内や車内において、同キャンペーンの広告を2社共同で出稿しているものもある。 2013年10月には、近鉄・JR西日本と南海の3社共同企画として、「高野(紀北)・熊野&伊勢志摩 ぐるり旅」キャンペーンが、各社の沿線情報タブロイド紙(「近鉄ニュース」「西Navi」「NATTS」)に掲載された[79]。 共同使用駅の例(吉野口駅) 共同使用駅の例(伊勢市駅) 近鉄がJR西日本と共同発行しているKIPS ICOCAカード。近鉄とJR西日本の関係性を示す物の一つである 名古屋鉄道との関係 他社線との直通運転の過去の事例で前述したように、名古屋鉄道(名鉄)との間では、かつて名古屋線が狭軌であった時代に、新名古屋駅と近畿日本名古屋駅(いずれも当時の駅名)とを結ぶ地下連絡線を通り、名鉄 - 近鉄間両社直通の臨時観光列車の相互乗り入れをしていたこともあった。その後、相互乗り入れは中止したが、現在も近鉄名古屋駅の地下コンコース内には、名鉄名古屋駅への連絡改札口が設けられている。 しかしその一方、名鉄との間では、一時期激しく対立したこともあった。戦前では伊勢電を巡る争いが最も大きなものであったが、戦後の高度経済成長期には石川県における北陸鉄道支援を名鉄が行った際に、近鉄では北陸鉄道に対抗するバス路線の敷設を目論んで北陸日本交通との名義で会社を設立しようとしたり(これは後に同社を合併して近鉄の子会社化した北日本観光自動車のバス路線網拡大へ方針転換するが、当時の運輸省の方針で却下された)、近鉄が大垣から岐阜・羽島への新線敷設を計画した(「養老鉄道養老線」を参照)のに対抗して、名鉄が岐阜から養老・羽島に至るモノレール建設を発表(後に羽島線の建設へ変更)したという事例がある。 また、伊勢湾にフェリー航路を新設するに当たっては、営業免許を巡って両社共激しく競合したが(当時の新聞紙上では「伊勢湾海戦」と報道された)、これも当時の運輸省の仲裁により、伊勢湾フェリーが両社折半で設立されることになった(現在は両社の手を離れて第三セクターとして運営)。 さらには、1964年に開通した名神高速道路を走る高速バス路線である名神ハイウェイバスにおいて、国鉄バス(現在はJRバスとしてジェイアール東海バス・西日本ジェイアールバスが共同運行)以外に多数の民間会社による運行計画が乱立したため、運輸省の調整により、近鉄を中心とした日本高速自動車(現在の名阪近鉄バス、当時は阪神・南海も出資)と、名鉄を中心とした日本急行バス(当時は京阪・阪急・近江鉄道なども出資、その後名古屋観光日急から名鉄観光バスを経て、現在は名鉄バスへ移管)の2社が設立される事態となった。 これらの対立・競合状態が解消して、協力関係に入ったのは安定成長期の中頃に入った1980年代のことだった。近鉄の駅構内や車内広告、および「近鉄時刻表」などにおいて、主に博物館明治村・リトルワールドや、中部国際空港行き空港特急「ミュースカイ」など名鉄グループの広告が、また名鉄の駅構内や車内広告、および「名鉄時刻表」などにおいては、主に志摩スペイン村など伊勢志摩地区の観光広告や、近鉄名阪特急「アーバンライナー」など、近鉄グループの広告が相互に掲載されるようになるなど、名鉄と完全に相互協力関係にある。 その後1997年から2006年までの間、南海電気鉄道と共に3社の鉄道路線・およびグループ各社の交通機関も利用可能であった、乗り放題切符「3・3・SUNフリーきっぷ」も発売されていた。2013年3月23日には「交通系ICカード全国相互利用サービス」開始により、近鉄で発行しているICカード乗車券「PiTaPa」「ICOCA」を名鉄線で、名鉄で発行しているICカード乗車券「manaca」を近鉄線で、それぞれ利用することが可能となった。また、2014年9月21日には両社のIC連絡定期券も発行を開始した[65][66]。 2012年6月にはリニア開業に向けての名古屋駅周辺の再整備により、近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅の統合化を検討していることが明らかになった[80]。 スポーツ プロ野球球団 近鉄のプロ野球事業は、公式には1949年結成の「近鉄パールス(後の大阪近鉄バファローズ)」からとされているが、既述の通り1944年の発足から1947年までは旧・南海鉄道を合併していたため、南海軍(1938年発足。のちの南海ホークス・福岡ダイエーホークス、現在の福岡ソフトバンクホークス)を改めた「近畿日本軍」が近鉄の球団経営史の嚆矢となる。 戦後、近畿日本軍は社章「大いなる和」にちなみ「グレートリング」と改称。1947年6月のシーズン途中、近鉄から南海電気鉄道の分離発足(歴史の節参照)に伴い、同球団は近鉄から南海の傘下に移り、同社の社章「羽車」にちなみ、「南海ホークス」と改称した[注釈 23][注釈 24]。 1949年、グレートリングを所有したこととプロ野球人気がきっかけとなり、近鉄は再び球団経営を検討し、今度は自力で新たにパールスを発足させた。その球団経営も当時の山口昌紀社長の手により「球団は<b data-parsoid='{"dsr":[82009,82028,3,3]}'>回収の見込みがない経営資源」と見なされ、2004年のオリックス・ブルーウェーブ(大手リース会社オリックス傘下)との統合により55年の歴史に幕を下ろし、統合球団「オリックス・バファローズ」への出資・スポンサー協力も2007年シーズンをもって終了、名実ともにプロ野球事業から撤退した(「プロ野球再編問題 (2004年)」も参照)。 なお、かつて近鉄が運営していた球団である近畿グレートリング(近畿日本ホークス[注釈 23])と近鉄バファローズは、球団経営母体がそれぞれソフトバンクグループとオリックスとなった現在でもパシフィック・リーグの「OSAKAクラシック」として時々交流試合をしている。 ラグビー 1929年に設立された大軌ラグビー部を源流とする社会人ラグビーチーム「近鉄ライナーズ」は、昭和40年代に日本選手権で3度優勝するなど古豪として知られる。 かつてはラグビーの聖地とも称される近鉄花園ラグビー場を所有しており、プロ野球事業からの撤退後はラグビー部の運営に従来よりも力を入れるようになった。花園ラグビー場は2019年ラグビーワールドカップ開催に備えて、2015年に施設を東大阪市に譲渡[注釈 25] して「東大阪市花園ラグビー場」として運営されているが、引き続き近鉄はライナーズの本拠地としての使用、並びに東大阪市のラグビーの普及・啓蒙のための支援活動を実施している。これについては「東大阪市花園ラグビー場#市営化を巡って」の項を参照。 その他の事業 SAレストラン事業 バス事業、旅行業など多くは子会社化していたが、2015年4月の会社再編まで直営していたものとして、高速道路のサービスエリアにおけるレストラン事業があった。下記の各サービスエリア(6箇所7店舗)で運営していたが、会社再編後は近鉄リテールサービス(近鉄リテーリングに社名変更)に移管された[1]。 浜名湖サービスエリア上下共通(東名高速道路) 大津サービスエリア下り(名神高速道路、近鉄名神ハイウェイサービスから移管) 尼御前サービスエリア上り(北陸自動車道、金沢都ホテルから移管) 刈谷パーキングエリア下り(伊勢湾岸自動車道) 香芝サービスエリア上り・下り(西名阪自動車道、下り線は近鉄観光から継承) 岸和田サービスエリア下り(阪和自動車道、近鉄観光から継承) 農業事業 近鉄ふぁーむ花吉野 2012年7月より、近畿日本鉄道・丸紅・近畿大学の3者連携(産学連携)により、吉野線福神駅前の遊休地に開設された農業施設。施設内の植物工場では、レタスなどの葉物類やラディッシュなどのミニ根菜類が、農業用ハウスではトマトが生産されており、「花吉野からやさい。」シリーズとして、近鉄グループの近商ストアでの販売や、ホテル・レストラン向け食材として供給されている。 関連する人物 歴代社長 カッコ内は就任期間。代数は大阪電気軌道設立から数える[81]。 初代:廣岡惠三(1910年9月15日 - 1912年12月15日) - 他に大同生命保険社長などを務めた 2代:岩下清周(1913年1月8日 - 1914年11月2日)- 近鉄の前身となる大阪電気軌道創業に尽力 3代:大槻龍治(1915年8月16日 - 1927年3月10日) - 大阪税関長などを務めた元官僚。大軌の経営を建て直した 4代:金森又一郎(1927年3月31日 - 1937年2月9日逝去) 5代:種田虎雄(1937年2月10日 - 1947年4月25日) - 大軌・参急合併、近畿日本鉄道設立 6代:村上義一(1947年4月25日 - 1951年12月24日) - 参議院議員と兼任 7代:佐伯勇(1951年12月24日 - 1973年5月25日) - 近鉄中興の祖、のち会長・名誉会長 8代:今里英三(1973年5月25日 - 1977年6月22日) 9代:富和宗一(1977年6月22日 - 1981年6月22日) 10代:上山善紀(1981年6月22日 - 1987年6月26日) 11代:金森茂一郎(1987年6月26日 - 1994年6月29日) - 金森又一郎の孫 12代:田代和(1994年6月29日 - 1999年6月29日) 13代:辻井昭雄(1999年6月29日 - 2003年6月27日) 14代:山口昌紀(2003年6月27日 - 2007年6月28日) 15代:小林哲也(2007年6月28日 - 2015年4月1日) 事業会社発足後 和田林道宜(2015年1月15日 -)[82] - 近畿日本鉄道分割準備(就任時)→(新)近畿日本鉄道社長 歴代会長 カッコ内は就任期間。代数は公式には存在しないので就任順に掲載[81]。 寺田甚吉(1944年6月1日 - 1946年12月12日) - 旧南海鉄道社長 金森乾次(1951年12月24日 - 1954年12月8日逝去) - 金森又一郎の二男・金森茂一郎の父 三好萬次(1954年12月20日 - 1969年6月6日) 佐伯 勇(1973年5月25日 - 1987年6月26日) - のち名誉会長(-1989年10月5日逝去) 上山善紀(1987年6月26日 - 1994年6月29日) 金森茂一郎(1994年6月29日 - 1999年6月29日) 田代 和(1999年6月29日 - 2003年6月27日) 辻井昭雄(2003年6月27日 - 2007年6月28日) 山口昌紀(2007年6月28日 - 2015年4月1日) 事業会社発足後 小林哲也(2015年1月15日 -)[82] - 近畿日本鉄道分割準備(就任時)→(新)近畿日本鉄道会長。2015年4月1日から近鉄グループホールディングス会長兼任 その他の役員 井内彦四郎(参急専務) 影山光一(元・専務、ラビットカーやビスタカーの開発者) 主な社外役員 片岡直輝(元・大軌相談役、大阪瓦斯社長) 五島慶太(元・参急取締役、大軌・関急監査役、東京急行電鉄社長) 2代目 根津嘉一郎(元社外取締役、東武鉄道社長) 弘世現(元・監査役・取締役、日本生命保険会長) 大西正文(元・取締役、大阪瓦斯社長) 大隅健一郎(元・監査役、法学者) その他の主な出身者 阿修羅・原(近鉄では本名の原進として活動) - プロレスラー、近鉄ラグビー部OB、元・近鉄駅係員・乗務員など 一岡浩司 - 地方競馬予想家・評論家、元・近鉄駅係員・乗務員 野田順弘 - オービック代表取締役・中央競馬馬主、元・百貨店部(現・近鉄百貨店)OB 関連する企業 近鉄百貨店や近畿日本ツーリスト・近鉄エクスプレスなど近鉄グループ企業各社については、「近鉄グループ」を参照のこと。 放送局は「関連するメディア」の節を参照のこと。 鉄道事業者 西日本旅客鉄道(JR西日本) - 先述したとおり、ICOCAの発行や共同での観光プロモーションなどで関係が深い。 南海電気鉄道 - 戦時中統合していた旧・南海鉄道の路線を継承した会社。2011年からは共同観光誘致キャンペーン「Nan×Kinめぐるーと」を展開している。 阪神電気鉄道 - 2009年3月20日より阪神なんば線経由で相互直通運転を開始した。 大阪市高速電気軌道(元大阪市営地下鉄)・京都市交通局 - 相互直通運転を実施。 京阪電気鉄道 - かつて京都線と相互直通運転を行っていた。 名古屋鉄道 - かつて名古屋線と相互直通運転を行っていたほか、共同で「3・3・SUNフリーきっぷ」を発行していた。「名古屋鉄道との関係」節も参照。 大阪港トランスポートシステム - かつて直営路線および自社車両を保有し、大阪市営地下鉄中央線を経由して東大阪線(現・けいはんな線)と相互直通運転を行っていた。「他社線との直通運転」節を参照。 東武鉄道 - 東武鉄道が運営する高さ日本一の電波塔である「東京スカイツリー」と近鉄が運営する高さ日本一のビル「あべのハルカス」との間での相互PRを行っている[83][84] ほか、先述した通り東武鉄道の2代目社長である根津嘉一郎 (2代目)は近畿日本鉄道の社外取締役を務めたことがある。 京成電鉄 - 2015年12月に発行した広報誌「近鉄ニュース」の2016年1月号と「京成らいん」の2015年12月号・2016年1月号で「京成×近鉄 初詣スポット」と題して両社の初詣スポットの相互PRを行っている(京成側は成田山新勝寺、近鉄側は伊勢神宮)。2016年以降は年間数回京成のスカイライナーの旅客誘致ポスターを近鉄の主要駅や一部編成の車内の広告に掲出したり、その逆に近鉄も奈良大和路や伊勢志摩への旅客誘致広告を京成に掲出したりしている。 西武鉄道 - 2015年度より両社間の列車内中吊り広告や駅掲出ポスターにおいて互いの沿線を宣伝する広告を掲出している(西武側は秩父、近鉄側は奈良大和路と伊勢志摩)。 三岐鉄道 - 2003年に近鉄から北勢線を譲り受けた会社。 養老鉄道・伊賀鉄道 - 2007年10月1日に近鉄からそれぞれ養老線・伊賀線の運営を移管した会社。ただし近鉄は以後も2017年まで両線の施設等を保有していた。 四日市あすなろう鉄道 - 2015年に近鉄から内部線・八王子線を譲り受けた会社。 愛知環状鉄道 - 2005年日本国際博覧会(愛知万博、「愛・地球博」)期間中に「エキスポシャトル」が運行されることに伴い乗務員が不足しており、期間中は不足した人員を近鉄からの出向でまかなっていた(近鉄の他にJR東海からも出向を受け入れていた)。 各種メーカー 近畿車輛 - 近鉄グループ。戦後一時期をのぞきすべての近鉄車両を納入。かつては、自動券売機・自動精算機・データ集計機も納入していた。なお、JR西日本との間でも業務・資本提携を行っている。 三菱電機 - 特急用や大阪・名古屋線系・京都線系を中心に標準軌線で使用する車両の制御装置や主電動機を納入。その関係から、かつては近鉄あやめ池遊園地の中に同社の広告が掲示されたこともあった。また、関西支社は近鉄堂島ビルに入居している。後に近鉄以外の日本における電気車両にも採用されたMM'ユニット方式や、ラインデリアは、三菱電機と近鉄との共同開発によるものである。 三菱グループ - 近鉄では三菱UFJ銀行がメインバンクであることや(旧三菱銀行が近鉄のメインバンクであったため、それ以来の流れである)、前述の通り、三菱電機製の電装品が使われたり、近畿車輛と三菱重工業が技術提携しているなど、幅広く関係している。なお、近鉄グループのKIPSクレジットカードの最初の提携先は、DCカード(現・三菱UFJニコス)であった。 日立製作所 - すべての幹線で使用する車両の制御装置を納入。 東芝 - 特急券自動券売機(過去には定期券窓口用端末機)や奈良・京都線系の自動改札機や、特急車の冷房装置、補助電源装置、阪神用列車種類選別装置を納入。 東洋電機製造 - すべての車両のパンタグラフを納入。 オムロン - 大阪・南大阪・難波線系の自動改札機やタッチパネル式券売機や精算機を納入。 日本信号 - 保安システムやICカード用入金機・名古屋線系の自動改札機を納入。 沖電気 - 定期券・特急券窓口用端末機や定期券・特急券自動券売機を納入。 日本ユニシス - ASKAシステム(座席予約システム)用ホストコンピュータやサーバーを納入。 その他 オリックス - 大阪近鉄バファローズの譲渡先。 イビデン - 養老線の前身。 日野自動車 - 近鉄グループのバス事業において関係が深い。近鉄のトップ(元職含む)が監査役に入っている。 関連するメディア 放送局 朝日放送グループホールディングス - テレビ朝日・ANNの系列局。設立当初からの大株主でつながりが深く、バファローズ戦のテレビ・ラジオ中継を多く放送した。かつては朝日新聞グループ・関係者に次ぐ株主であったが、現在は上位10位以内には入っておらず、近鉄グループの近鉄バスが第9位の株主となっている。 MBSメディアホールディングス - TBS・JNNの系列局。「近鉄パールクイズ」(ラジオ)、「真珠の小箱」(テレビ)の提供を務めた事を機につながりが深くなり、後に上位第18位の株主となっている。 CBCテレビ - 名古屋における毎日放送・JNNの系列局。「真珠の小箱」(テレビ)を放送した。 テレビ大阪 - テレビ東京・TXNの系列局。近鉄が主要株主に名を連ねている。 奈良テレビ放送 - 奈良県における独立放送局(テレビ東京系列の番組購入・同時ネットあり)。近鉄と近鉄グループの近畿日本ツーリスト・奈良交通が主要株主であり関係が深いが、近鉄グループには属さない。 三重テレビ放送 - 三重県における独立放送局。近鉄が協力している旅番組「ええじゃないか。」を制作。 提供番組 近鉄はJRと並ぶ大規模な鉄道事業者ではあるが、テレビやラジオの番組スポンサーになった経験は少ない方である。近鉄が提供する番組は、かつて全国ネットでも放送された一社提供の紀行番組「真珠の小箱」が代表的で、この番組に関しては45年間の長きに亘り放送されたが、この番組も2004年に終了した(ただし2009年度に、サンテレビにて、近鉄提供で「真珠の小箱」が再放送された)。なお「真珠の小箱」やバファローズ関連の番組が放送されていた頃は、近鉄車内の吊り広告で「今月の近鉄提供番組案内」が紹介されていた。 ほかに独立U局の奈良テレビ放送や三重テレビ放送が製作し、TXN系列のテレビ大阪やテレビ愛知などで放送された、近鉄沿線の奈良大和路・伊勢志摩を取り上げた、単発の旅番組を提供したことがあった。 2011年10月現在、同社の提供番組は、テレビ大阪の水曜日22:54からの「天気予報」や、奈良テレビ放送で毎晩放送されている「天気予報」(平日と土日では放送時間が異なる)など、またラジオではラジオ大阪の金曜日15:00頃(2016年10月現在、木曜日13:05頃)からの「ほんまもん!原田年晴です」内の「ぐるり近鉄沿線情報」のコーナー枠のみであり、あとはスポットCMの放映が中心である。同様に近鉄グループの各企業も、テレビCMにはあまり積極的ではない。なお阪神なんば線の開業前後からは、サンテレビでもスポットCMが放映された。 以下に掲載するすべてのテレビ・ラジオ番組は、「ほんまもん!原田年晴です」以外はすでに終了している番組である。 テレビ番組 真珠の小箱 - 毎日放送 (MBS) 制作、NETテレビ系:ただし中京広域圏は東海テレビ(フジテレビ系)で放送→腸捻転解消後はCBC・TBS系一社提供の紀行・教養番組。2009年度に、サンテレビで日曜日朝6:00より再放送された分はスポンサーとなった。 近鉄金曜劇場 - ABC・CBC・TBS・RKB・HBC制作、TBS系一社提供のドラマ番組。 ラジオ番組 近鉄パールクイズ - NJB新日本放送(現在の毎日放送)で放送された一社提供番組。 ABCホームソング - ABCラジオで放送された番組で、番組の晩年期であった1967年1月から1972年9月の番組終了まで近鉄が一社提供を行っていて、番組名も「近鉄・ホームソング」であった。 近鉄バファローズアワー - ABCラジオで放送されていた提供番組。関係の深い三菱グループの一部会社と日野自動車もスポンサーだった。 近鉄バファローズナイター・走れ!!近鉄バファローズ - ラジオ大阪 (OBC) で放送されていた提供番組。 ほんまもん!原田年晴です - ラジオ大阪 (OBC) で現在放送している番組。番組内で近鉄の提供コーナー枠「ぐるり近鉄沿線情報」がある。 撮影協力・タイアップ作品 近鉄に関係する事物が登場する作品(近鉄提供番組については前節参照)、近鉄が撮影協力やタイアップして宣伝に関わったテレビ番組、映画作品は以下のようなものがある。 テレビ番組 NHK(近畿ブロック→全国放送) 鉄オタ選手権(近鉄編)2017年10月放送。 JNN系列(TBSテレビ・毎日放送・CBCテレビ他) さんま・玉緒のお年玉あんたの夢をかなえたろかスペシャル - 2013年1月13日に放送された特別番組で、番組内で近鉄の全面協力により「幼稚園児の近鉄電車の子供車掌が誕生する」という企画が行われた[85]。 FNN・FNS系列(フジテレビ・関西テレビ・東海テレビ他) 鹿男あをによし - 万城目学原作。2008年1月 - 3月に「木曜劇場」の枠内で放送されていたテレビドラマで、近鉄の電車・駅がロケに使用されており、同社が番組内で協力している。これが契機となり、2011年4月に近鉄によるロケ支援事業「近鉄ロケーションサービス」の誕生につながった[86]。 ほこ×たて - 2011年1月 - 2013年10月に毎週日曜夜7時から放送されていたバラエティ番組。2013年4月21日の放送分にて番組内で「近鉄マニアVS近鉄社員 知識対決」が行われた[87]。 独立局(奈良テレビ・三重テレビ他) ええじゃないか。 - 三重テレビ放送制作の旅番組。近鉄やJR東海、三重県などが協力している。 映画 天河伝説殺人事件 - 1991年公開の映画作品。奈良県吉野地域を舞台とした映画作品であり、近鉄とグループ企業の近鉄百貨店・奈良交通が製作委員会の方に参画していた。 劇場版 NARUTO -ナルト- 疾風伝 火の意志を継ぐ者 - 2009年公開のNARUTO -ナルト-のアニメ映画作品。近鉄との間でタイアップをし、映画が公開された2009年の夏休み期間中にスタンプラリーやイベント列車の運転などを行った[88]。 マンハント - 2017年公開の中国映画作品(ジョン・ウー監督)。近鉄ロケーションサービスが全面協力[89]し、近鉄グループの施設であるあべのハルカスや旧生駒トンネル、大阪上本町駅などで撮影が行われた。特に大阪上本町駅では電車の逆走を行うなど難しい撮影にも対応した[90]。日本公開にあたっては近鉄グループの映画館「アポロシネマ8」でも主演の福山雅治らによる舞台挨拶が行われている[91]。 漫画・アニメ 魔法のステージファンシーララ わがまま☆フェアリー ミルモでポン! 極上!!めちゃモテ委員長 イナズマイレブンGO クロノ・ストーン プリキュアシリーズ スマイルプリキュア! ドキドキ!プリキュア 境界の彼方 - 作中に沿線の風景や近鉄の車両が登場する。2015年には劇場版公開を記念したタイアップを行い、作品のモチーフとなった地域周辺の4駅で特製入場券や地域めぐり用にフリーきっぷを発売[92]。 神のみぞ知るセカイ - 主要登場人物が近鉄の駅名に由来。2014年にはタイアップを行い、特製入場券やフリーきっぷが発売される[93]。 楽曲 近鉄特急 - 1961年に発表された近鉄特急のCM曲。 近鉄の歌 - 1946年、1948年(後者の社歌は山田耕作が手掛けた。このうち1948年に制定した社歌の楽譜と歌詞はPHP研究所刊の『近畿日本鉄道のひみつ』に掲載され、一般に公開されている)に制定されたものに次ぐ、1966年制定の3代目の社歌[94]。作詞は永六輔、作曲は中村八大の「六・八コンビ」により作成された。この社歌は小原重徳とブルーコーツが演奏を担当し、ダークダックスが歌唱した。作成当時、一部の関係者のみにソノシートが配られ、近鉄部内での行事などで曲を流したりしていたことがあったものの、長らくこの3代目の社歌の存在は事実上一般には公開していなかった状況であったが、2010年12月発行の社史『近畿日本鉄道100年のあゆみ』P.220で歌詞のみではあるが、この社歌が初めて一般に公開された。 縁を結いて - KinKi Kidsのメンバーで、2008年から「奈良市観光特別大使」を務めている堂本剛のシングル。2012年3月20日から1年間の予定で、近鉄奈良駅・橿原神宮前駅・京都駅・大阪上本町駅・大阪阿部野橋駅で近鉄特急の発車メロディに使用されたが[95] 、好評だったため2017年3月まで延長した[96]。 風の彼方 - Crystal Kayが歌った観光特急「しまかぜ」のPRソング[97]。 新聞・雑誌等 日本全国向けに発刊される新聞・雑誌では伊勢志摩・奈良大和路に関する広告を出稿する。雑誌では週刊文春のほか、JTB時刻表、旅行読売といった旅行関係の雑誌に広告が掲載される。以前はJTB時刻表や週刊文春では連載広告として定期的に広告を出していたが近年は不定期となっている。先述の「うまし・うるわし・奈良」のようにJR東海とのコラボレーション広告の事例もある。 イメージキャラクター 手塚さとみ - 夏の伊勢志摩キャンペーン 川島なお美 - 夏の伊勢志摩キャンペーン 荻野目洋子 - 1986年初詣キャンペーン 渡瀬マキ (LINDBERG) 八木さおり - 1987年初詣キャンペーン 阿波野秀幸(元・近鉄バファローズ選手) - 1988年初詣キャンペーン 土家里織 - 1988年初詣キャンペーン 野茂英雄(元・近鉄バファローズ選手) - 1991年初詣キャンペーン。 中山忍 - 1997年初詣キャンペーン 大阪パフォーマンスドール - 1995年初詣キャンペーン、1995年夏の伊勢志摩キャンペーン 篠原直美 - 1998年夏の伊勢志摩キャンペーン 中村泰士 - 近鉄名阪特急「アーバンライナー」CMに出演。 今いくよ・くるよ 水野美紀 - 伊勢神宮初詣。 榊莫山(書道家) - 近鉄提供テレビ番組「真珠の小箱」の題字や、団体専用電車20000系「楽」のロゴを作成。「アーバンライナー」CMに出演。 仰木彬(元・近鉄バファローズ監督) - 「アーバンライナー」CMに出演。 大桃美代子 - 「アーバンライナー」CMに出演。 竹下景子 - 2007年 - 2012年2月までの企業イメージキャラクター[98]。「伊勢志摩キャンペーン・まわりゃんせ」・「アーバンライナー」CMに出演。 檀れい - 2012年3月からのイメージキャラクター[99]。なお、近鉄自身は過去にOSK日本歌劇団を有していたが、今回は競合他社である阪急電鉄系の歌劇団である「宝塚歌劇団」の元月組・星組の生徒(トップスター)を起用したことになる。 脚注 注釈 出典 Check date values in: |accessdate=, |date=, |archivedate= (help); URL–wikilink conflict (help) 関連文献 Text " 和書 " ignored (help); Check date values in: |date= (help)-- 大阪府立図書館 蔵 Text " 和書 " ignored (help); Check date values in: |date= (help)—大阪府立図書館 蔵 Text " 和書 " ignored (help); Check date values in: |date= (help)—大阪府立図書館 蔵 Text " 和書 " ignored (help)—大阪府立図書館 蔵 Text " 和書 " ignored (help); Check date values in: |date= (help)-- 国立国会図書館 蔵 Text " 和書 " ignored (help); Check date values in: |date= (help)—国立国会図書館 蔵 関連項目 大阪近鉄バファローズ - かつて保有していたプロ野球球団。球団の経営難により2004年にオリックス・ブルーウェーブとの合併により解散。 オリックス・バファローズ - 近鉄バファローズの合併先。近鉄本社も20%を出資していたが2008年に撤退。 近鉄ライナーズ - ラグビー部 東大阪市花園ラグビー場(旧・近鉄花園ラグビー場) - 2015年3月末まで近鉄が第1・2グラウンドを所有。 LPGAジャパンクラシック - 2006年より特別協賛。 西野カナ - 楽曲の一部を発車メロディに採用。 大和文華館 松伯美術館 大和鉄道 - 田原本線の前身。 大阪電気軌道四条畷線 - 大軌時代の未成線。 東大阪電気鉄道 - 大軌時代の競合線計画。 名古屋急行電鉄 - 大軌・参急に影響を与えた名阪間新線計画。 Train Drive ATS - 近鉄奈良線を再現した、iOS用の運転シミュレーションゲーム。 外部リンク on Facebook on YouTube
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E7%95%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%89%84%E9%81%93
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 956, 1302, 1813, 2355, 2876, 3527, 4009, 4329, 5348, 6130, 7086, 7366, 8189, 8812, 9515, 11183, 11606, 12649, 13157, 14473, 14636, 15237, 15852, 16193, 16865, 17094, 18138, 19001, 19302, 19570], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 955, 1301, 1805, 2354, 2875, 3519, 4008, 4315, 5347, 6129, 7085, 7365, 8188, 8811, 9464, 11175, 11605, 12648, 13146, 14435, 14635, 15236, 15851, 16192, 16848, 17093, 18137, 18969, 19288, 19552, 19685], dtype=int32)}
アヘンに中毒性はある?
アヘン
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([22], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)}
アヘン(阿片、鴉片、Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)は、ケシ(芥子、Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)の実から採取される果汁を乾燥させたもので、いわゆる麻薬である。ケシの実から採取されるアルカロイドはオピエートと呼ばれ、そこから合成されるものがオピオイドである[1]。麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指す[1]。ケシから採取されたアルカロイドや、そこから合成される化合物は、鎮痛、陶酔といった作用があり、また高用量の摂取では昏睡や呼吸抑制を引き起こす[1]。このようなアルカロイドや、合成化合物には、モルヒネ、ヘロイン、コデイン、オキシコドンを含む。 アヘンの名の由来は、英語名Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.の中国語の音訳である阿片()を音読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では<b data-parsoid='{"dsr":[962,971,3,3]}'>阿芙蓉(あふよう)と書いた。 ケシの実の汁は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきた。しかし同時に習慣性や、濫用による健康被害など、麻薬としての特性があり、阿片戦争を引き起こすなど、重大な害悪も引き起こした。現在では、1912年のハーグ阿片条約、これを引き継ぐ1961年の麻薬に関する単一条約において国際統制下にある。日本でもあへん法によって規制されている。 性質 アヘンを収穫する伝統的な方法としては「ヘラ掻き」がある。ケシの開花後、10~20日経って花弁の落ちた未熟果(いわゆるケシ坊主)の表皮に、朝のうち浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌する。これを夕方掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になる。こうして集められたのが生アヘンで、約10%ほどのモルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含む。 ヘラ掻きによるアヘンの採取は人手や手間もかなりかかる。そのわりに得られる量はごく僅か(1kgのアヘンを得るのに、ケシの実が約2000本も必要)である。貧しい農民が栽培に従事するアフガニスタンなど非合法栽培地域では現在も行われているが、合法的栽培においては、現在は有機溶媒で茎も含む全体を処理して化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が主流である。 作ったアヘンは産地で薬研で粉末にし、ブリキ缶に入れ、製品として出荷する。精製しなくても薬効があるために、極めて古くからそのまま吸引されてきた。しかし生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るため、そのままでの麻薬としての商品価値はかなり低い。価値を高めるにはさらに煮出して乾燥させるなど精製し、及び化学的に加工して、モルヒネやヘロインに加工する必要がある。精製すると量がアヘンのときの 20~25% までに減る。 産地 以前は、東南アジアのタイ・ラオス・ミャンマーに跨る「黄金の三角地帯」で多く栽培されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯での栽培は大きく減少した。2009年の国連薬物犯罪事務所の報告[2]によれば、アヘンの94%はアフガニスタンで栽培されている。2010年にはケシの病害により生産量が減少、アヘンの農場出荷額が$64/kg から$169/kgへと高騰した[3]。 2011年10月、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外務大臣は、「アフガニスタンのアヘン畑を一掃することにアメリカが消極的であることに驚きを禁じえない」と述べ、アフガニスタンでのアメリカのアヘン問題への態度を批判した[4]。 アヘン史 アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中東、中央アフリカにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。メトロポリタン美術館のアッシリアン・リリーフ・ギャラリーにある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館はザクロと述べているもののケシの未熟果の束を運んでいる。 紀元前300年頃のギリシャの哲学者であるテオプラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。ギリシャ神話では、アヘンの発見者は女神デメテルとされている。ローマ帝国ネロ帝時代の医師ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものである。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。 5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘や、三国時代の医師である華佗の用いた麻酔薬、麻沸散にアヘンが含まれていたとの指摘がある。当時の中国において、アヘンはレクリエーション使用が行われることはなく、清朝に至るまではアヘン禍に陥ることは無かった。 11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。 大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われた。特に清では上海など沿岸都市周辺地域では、宿場や小型船の地下室などで当初煙草に混ぜて吸入されていたが、次第に半固形の阿片膏をキセルに入れて吸入するようになり、これによりアヘン窟が発展した。清末には清国の上流層にも、一部流れていたとされる。 19世紀には、イギリスと清の間で、アヘン戦争(1840年-)の引き金となった。ヨーロッパにおいては、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴い19世紀には反アヘン運動が高まった。また、アメリカ・カナダへの中国人労働者の流入ともに、特にサンフランシスコをはじめとする地域でアヘン窟がみられるようになり、1875年に至り反ドラッグ法制定など対策が行われた。 20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年にはハーグ阿片条約が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に国際連盟が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の麻薬製造制限条約においてアヘン貿易は完全に禁止された。国際連合に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の麻薬に関する単一条約においてもアヘンは統制されている。 日本におけるアヘン史 江戸時代まで 文献に見える古い記録では、梶原性全(かじわらしょうぜん:1265~1337)『頓医抄』の中にすでに「罌粟」の用語が見られる。くだって室町時代には、南蛮貿易によってケシの種がインドから津軽地方(現在の青森県)にもたらされ、それが「ツガル」というケシの俗称となったという伝承がある[5]。その後江戸時代を通じて現在の山梨県、和歌山県、大阪府付近などで栽培されたが、いずれも少量で高価であり、用途としても麻酔などの医療用や投獄者への自白剤などに限られていた。寺島良安『和漢三才図会』(1713年頃)巻百三には「阿片」や他の生薬、辰砂などと調合した「一粒金丹」なる丸薬が止瀉薬として紹介されている。この処方箋は備前岡山藩藩医木村玄石の手によるといい、これが元禄2年(1689年)弘前藩藩医和田玄良に秘薬として伝わった。藩医の和田玄春による寛政11年(1799年)の効能書には鎮痛や強壮が謳われている[6]。この薬の評判はすぐに江戸にまで及び、歌舞伎『富岡恋山開』には「新右衛門、それでおれが、月々呑まそうと思って、伝手を頼んで、津軽のお座敷で所望した一粒金丹」という台詞が残されるまでとなり、江戸市中で売られていたようである[6]。天保8年(1837年)摂津道修町の薬問屋奉公の太田四郎兵衛が種子を持ち帰って栽培し、はじめてアヘンの製造に成功したとの記述もみえる。 幕末 一方、16世紀半ばの明朝末期に、イギリスの三角貿易によりインドから大量のアヘンが中国内に流通し始め、やがて明が滅び清となった中国からは、長崎貿易を通じて吸煙用途の安価なアヘン(煙膏)や生アヘンが知られるようになった。日本は鎖国はしていたが、海外の情報はオランダ風説書によって得ていた。 19世紀に入るとオランダ以外の欧米諸国も日本にも執拗に開国を迫り出してきており、江戸幕府は対応に苦慮していた。1839年(天保10年)にアヘン戦争が始まると、オランダはそれまでの風説書とは別に、詳細な別段風説書としての報告書「阿片招禍録[7]」を作成して欧米が関わる動乱を詳細に報告を始めた。その3年後、明に続く大国と認識していた清がイギリスに大敗したことは幕政を大いに揺るがし、同年に異国船打払令を取り消した。このためアヘンに関しては日本も清の後追いになる危険もあったが、佐久間象山らによって魏源『聖武記』『海国図志』などが熱心に研究され(斎藤竹堂『鴉片始末』など)、鎖国を解いた4年後の安政5年(1858年)に安政五カ国条約締結に至り、このいずれの国からもアヘンの輸入を禁制とする条文が記載された[8][9][10][11][12][注 1]。 なお、国内では1822年から国内に散発していたコレラがこの年に江戸でも大流行し、蘭方医学者のポンペは患者にキニーネとアヘンの製剤を与えたことが記録されており[13]、また典医松本良順が開国を巡る朝廷説得の心労で倒れた徳川慶喜にアヘンを処方して不眠を収めたなど一定の需要があり、日本ではまだ吸煙の習慣も定着しておらず、栽培は全国に広がっていた。 明治期 長崎、横浜などの条約港では、貿易のために集まった外国商人が居住のため使用人や料理人として中国人を連れて来ており、彼らが密輸によりアヘンの煙膏を持ち込んで問題となっていた。長崎では中国人が日本人にアヘンの煙膏を大量に売りつけ、遊女などが中毒死する事件を伝えている[14]。やがてたびたび「あへん御禁令」の高札が立つようになり、慶応4年閏4月(1868年6月)、明治政府から最初のアヘン禁令となる太政官布告第319号を布告し、「あへん煙草は人の生気を消耗し命を縮めるもの」と初めて人害であることが明記された。政府は法整備を進め、明治3年8月8日(1870年9月3日)には「販売鴉片烟律」が布告され、使用や売買を含めて罰則規定を設け重罪とした。なおこの法律は後の現行法にほぼそのまま取り入れられ、「あへん煙に関する罪(刑法136-140条)」となっている。また、国内に流通するアヘンについても「生鴉片取扱規則」を同日発布し、記録や届出など管理の徹底を始めた。これらの法律は在留清国人にも適用された。 植民地におけるアヘン対策 アヘン戦争の敗戦以後、大量の中国人が東南アジアや東アジアへ移動しており、それとともにアヘンも拡大していった。 1877年にはイギリス商人によるアヘン密輸事件であるハートレー事件が起ったものの、治外法権を行使されて領事館から逆に1879年(明治12年)5月1日には薬用阿片売買竝製造規則(阿片専売法)を施行した。この法律において、政府は国内外におけるアヘンを独占的に購入し、許可薬局のみの専売とした。購入は医療用途のみとし、購入者及び栽培農家は政府による登録制とした。この専売制は日清戦争の戦需品として、政府に利益をもたらした。 日清戦争後、日本は下関条約により清から台湾を割譲させて植民地とした。当時、台湾においてアヘンの使用が広がっていたことを背景に、後藤新平は伊藤博文にアヘンの漸禁政策を提案し、1897年には台湾阿片令が敷かれる。同令において、アヘン中毒者へのアヘン販売が許可された。1898年の阿片令では、台湾における民間のケシ栽培は禁止され、台湾総督府専売局による専売が始まった。内地では、台湾産の原料を使ったアヘン製造が活発に行われた。 その後、植民地支配に組み入れていった関東州や満州においても、日本はアヘンを厳禁しない漸禁政策を採用した。1915年にはモルヒネの国内生産が成功し、モルヒネの原料としてのアヘンの需要が高まったため、関東州・満州でもアヘンは製造された。 中華民国は、日本と違い、アヘンの全面禁止政策を採用していたが、四川省・雲南省などで密造された非合法のアヘンが闇で流通しており、軍閥の重要な資金源とされていた[15]。中国産アヘンの末端価格は日本産のそれの約半分であり、しばしば日本産アヘンを市場から駆逐した。日中戦争がはじまると、関東軍の影佐禎昭大佐の指導のもと、里見甫が秘密結社の青幇や紅幇と連携し里見機関を設立し、中国の通貨法幣を獲得するため、上海などでアヘンやモルヒネを大量に密売した。 統制の状況 アヘンは多くの国で麻薬の一種としてその製造・販売・販売目的の所持が禁止または規制されている(自己使用を処罰する日本の法制は、比較法的には少数派である)。 日本では麻薬及び向精神薬取締法とあへん法が、アヘンやヘロインの使用、所持等を禁止している。同法により、原料のケシの栽培自体も禁止されている。あへん法にいう「けし」とは、Papaver somniferum L., Papaver setigerum DC. 及びその他のケシ属 (Papaveraceae) の植物であって、厚生労働大臣が指定するものをいい、「あへん」とは、けしの薬汁が凝固したもの及びこれに加工を施したもの(医薬品として加工を施したものを除く。)をいう(同法3条1号、2号)。使う意思がなくとも吸引用具を所持(海外では吸引用具が美術品として取引されているところがある)しているだけでも違法になる。刑法136条~141条でアヘンの製造・輸入・所持・吸煙および吸煙道具の製造・輸入・所持や吸煙場所の提供を禁じており、未遂も処罰される(刑法第2編 第14章「あへん煙に関する罪」)。 現在、モルヒネ用としてのアヘン輸出が国際的に認められている国はインド、日本、中国、北朝鮮だけである。しかし、外国へ輸出が出来るほどの生産量(少なくとも、表のルートで取引されるもの)があるのはインドだけである。また、オーストラリアでも比較的大規模な薬用アヘンの製造が行われているが、国内の需要の一部しか満たせない。その他の国では、少なくとも表向きは大規模なケシ栽培は行われていない。このため、世界の合法的なモルヒネは大半がインド産である。また、必要以上の在庫を保有することが禁じられているため、いかにインドと言えども、何らかの急な需要増加には対処できない。 注釈 脚注 参考文献 佐藤弘 『大東亜の特殊資源』 大東亜出版、1943年。『続・現代史料集 12』第一部第三資料。 二反長半 『戦争と日本阿片史』 すばる書房、1977年。 マーティン・ブース 『阿片』 田中昌太郎訳、中央公論社、1998年。 関連項目 モルヒネ - ヘロイン アヘンの精製物である。 アヘン窟 フェンタニル(通称・チャイナホワイト) アヘンチンキ メコン酸 阿片戦争 ラッセル家 里見甫 黄金の三角地帯 黄金の三日月地帯 外部リンク - 税関のウェブページ。2001年の密輸動向について。 - マッグズ・ブラザーズ書店編
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%98%E3%83%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 554, 821, 2245, 2438, 2836, 3233, 3730, 4032, 4790, 5300, 5913, 6134, 6180, 6465, 6838, 7917, 8659, 8741, 9241, 9343], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 553, 813, 2210, 2421, 2828, 3232, 3729, 4031, 4789, 5299, 5912, 6133, 6179, 6443, 6837, 7916, 8658, 8740, 9227, 9329, 10222], dtype=int32)}
レンズ付きフィルムを初めて販売した会社はどこ
写ルンです
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([46], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([64], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
写ルンです(うつルンです)は、富士フイルムが1986年(昭和61年)7月1日[1]に発売開始したレンズ付きフィルムの登録商標(第2110978号ほか)で、同ジャンルのパイオニア的製品である。世界では Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.(クイックスナップ)の商品名(登録商標第2236896号)で販売されている。別冊宝島には1986年のサブカル・流行の1つとして紹介されている[2] 2012年(平成24年)11月、デジタルカメラやカメラ付き携帯電話の普及などにより、大幅な生産縮小が行われた。2015年現在継続して販売する製品は3タイプとなっている(ラインナップを参照)。 歴史 1963年 - 使い捨てカメラ「fimera」などが試作されるが、商品化されなかった。 1986年7月1日 - 2年近い開発期間を経て発売。初代モデルはISO感度100の110フィルムとカートリッジを使用 1987年 - 2代目に当たる「写ルンですHi」からは、ISO400の135フィルムに変更、フラッシュ有効距離1~3mの「写ルンです フラッシュ」を発売 1989年 - 焦点距離140mmの「写ルンです 望遠」、パノラマ写真の「写ルンです パノラミックHi」、接写40cmまでの「写ルンです 接近」を発売 1991年 - 水深3mまでの「写ルンです 防水」を発売 1992年 - 3コマ増量の「写ルンですエコノショット」を発売[3][4][5] 1996年 - APSカートリッジ採用の「写ルンです スーパースリムフラッシュ」、モノクロフィルムの「写ルンです BLACK & WHITE」を発売 2001年 - 世界で1億本以上を売り上げた(最盛期) 2003年 - 夜景モード搭載の「写るんです Night & Day」を発売 2008年 - 生産をアメリカ合衆国サウスカロライナ州の工場のみとする[6] 2016年 - 誕生30周年を記念して、初代「写ルンです」の外観を模した「アニバーサリーキット」を数量限定販売。同年7月15日の発売30周年に合わせ、第二弾も投入。 ラインナップ 現行製品 スタンダード シンプルエース(ISO400フィルム使用。27/39枚撮り) 高機能 1600 Hi・Speed(27/39枚撮り) 水に強い写ルンです new waterproof 過去の製品 スタンダード 400extra 800premium スリムエースU 写ルンです COLORS(ラインナップ非掲載。ISO400) 高機能 slim1000 3ways,同BABY・PET Night&Day Super Room&Day Super エクセレント デート1000 new望遠 キャラクターデザイン super-eye800(ディズニー) シンプルエース スティッチ シンプルエース ハローキティ レッド 逸話 開発当初、ネーミング案として「フィルマー」「カメルム」「パットリくん」「西麻布」「写るんです」「チョンパッ」という名前が候補に挙がっていた。この中の「写るんです」と「ルンルン気分」とを合わせ、最終的に「るん」を片仮名表記とした「写ルンです」という名前に決定した[7]。 初代モデルはメカ好きの男性をターゲットとした「フォトジャック」、若者向けを意識した「ピッコ」、写真フィルムのパッケージ風のデザインの「スーパーHR100」の、パッケージデザインが異なる3タイプが同時に発売された。結果的には「スーパーHR100」が他に対して圧倒的な売上を記録し、以後のモデルのパッケージデザインは「スーパーHR100」が基本となった[7]。 2017年現在使用されている「写ルンです」のロゴは3代目である(初代:1986年制定、2代目:1989年制定、3代目:2000年制定)。初代ロゴは「しゃるんです」と誤読されることを防ぐため、「写」の文字にルビが振られていた[8]。 1980年代まで、常用されるカラーネガフィルムの感度は400までで、800はラインナップにはなく、1600は粒子が荒い特殊用途用といった位置付けであった。富士フイルムは、写ルンですで撮影された写真から失敗写真の原因を調査し、感度800のフィルムで撮影されていたなら救えたであろうコマが一定の割合で存在することを把握、感度400のフィルムと比べて遜色なく、写ルンですの固定露出にも堪え、粒子荒れが少なくラティテュードの広い、感度800のフィルムを写ルンです専用として開発し、1993年4月にそれを装填した「写ルンですスーパー800」として発売した。 スーパー800は発売されるやいなや、写真業界誌でフィルム新開発の情報を知ったプロカメラマンたちにより、暗室で「写ルンです」を分解して装填フィルムを巻き取り、パトローネを取り出して、通常の一眼レフカメラに詰める、という買われ方をした。1993年後半 - 1994年前半の報道写真には、そうやって撮られた写真がある(皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀など)[9]。 これを見て、富士フイルムはフィルム単体で商品化することに踏み切り、1994年9月、スーパーG ACE800として発売した[10]。このフィルムはその後も、日本雑誌協会の大相撲取材の指定フィルムとしてなど(土俵上の光量で、F2.8の望遠レンズで撮影時、動きを止めるぎりぎりの1/500秒で撮影できる[9])人知れず活躍した。その後も、写ルンですでの使用を念頭に置いた、常用利用を前提とした、粒子荒れの少ないISO感度1600のフィルムを開発するなどしている。 オリオンから、「写ルンです」をもじったラムネ菓子「食ベルンですHi」が発売されている(1990年発売開始)。「写ルンです」の景品に採用されたこともある[11]。 その他パロディ的名称は数多い。 初代の「写ルンです」から7月1日に新製品が発売されることが多く、社内では7月1日を「写ルンですの日」と呼んでいる。夏の8月が「写ルンです」の最需要期ということも踏まえているという[4]。 テレビCM出演者 1987年、新発明編(フィルムが写ルンですになる) 1988年、ケンタウロス編(竹中直人) 1989年、ビーチ、ディスコ編(唐沢寿明、鈴木一真) 1990年、水玉編(井森美幸) 1991年、お正月を写そう 初スマイル編(観月ありさ、後に七福神と共演) 1992年の鏡編よりデーモン小暮閣下 幼い娘を持つ父親という設定のデーモンが娘を前に乗せて歌いながら土手沿い自転車を走らせる「いい日旅立ち編」などの、コミカルな演技が話題となった。聖飢魔IIのビデオCD『SEIKIMANIA』(1995年)に「吊り橋編」「忘れ物編」「トンボ採り編」が収録されている。同タイトルは2003年にDVD化。 当時の聖飢魔IIメンバー全員が出演した戦国時代の合戦風のCMも存在する。内容は、本陣で待機する敗色濃厚な軍勢(軍旗は総赤、及び白地に赤い三日月)の総大将(演:稲垣吾郎)のもとに矢を受けた赤切裂指物使番が転げこんできて絶望的な戦局を報告、暗に引き上げを進言、総大将が聖飢魔IIの来援を信じてこれを却下、反論しかけた重臣を制してNAI NAI 16のサビを歌うとデーモン以下の聖飢魔IIが(前述のデーモン単独出演以来ということで)「久々!」と登場するというもの(後述の「NAI NAI 16篇」)。 1997年 - 1998年のCM「フジカラー APS写ルンですスーパースリム」 すべて、1970年代 - 1980年代の日本のヒット曲をパロディにした内容。 ( )内は他の出演者 沢口靖子 渚のシンドバッド篇 (極楽とんぼ) 与作篇 (小西博之) あずさ2号篇 (西田健) UFO篇 (有田哲平) Mr.サマータイム篇 (松崎しげる) 2億4千万の瞳篇 (北村一輝) 稲垣吾郎 失恋レストラン篇 (柳沢慎吾) ギンギラ篇 (黒田アーサー) ブルドッグ篇 (※着ぐるみのみ) 港のヨーコ篇 (秋野暢子・荻野目洋子・具志堅用高) おふくろさん篇 (赤木春恵) NAI・NAI 16篇 (聖飢魔II) なお、沢口と稲垣は、同年のドラマ『彼』で共演している。 その他富士フイルムのコマーシャルメッセージ#写ルンですを参照。1999年末のザ・ドリフターズが七福神に扮した「お正月を写そう2000年」は、荒井注を含む夢の「ドリフ6人全員集合」であり、2000年2月の荒井の急逝により「最後の全員集合」にもなってしまった。 2000年 - 2003年、樹木希林、岸本加世子、田中麗奈 2003年 - 2005年、長瀬智也、樹木希林、堀北真希[6] 参考文献 『31年目の「写ルンです」』枻出版社、2017年。ISBN 978-4-7779-4477-4。 関連項目 レンズ付きフィルム  伝染るんです。 - 吉田戦車のギャグ漫画。この作品のタイトルの由来となった。 こちら葛飾区亀有公園前派出所 - 63巻で「写ルンです」に対抗した使い捨てカメラ「てめえ!!じたばたすると写すぞ」を、88巻で高級使い捨てカメラ「ブーメランくん」を題材にした話があった。 JR東日本209系電車 - リサイクルを前提とした簡素な構造、車両の減価償却期間の13年を車体寿命とした設計などが報道され、1993年のデビュー当時、鉄道マニアの間で「走ルンです」という俗称で呼ばれた[12]。なお、本系列は2018年現在、一部廃車が発生しながらも首都圏各地で活躍中であり、JR東日本のみならず他社の鉄道車両にも多大な影響を及ぼした。 脚注 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%81%A7%E3%81%99
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 573, 721, 1055, 1164, 1330, 1774, 2240, 2838, 3160, 4823, 5277, 5354, 5911, 5973, 6126, 6775, 6961, 7276, 7950, 8527, 8669, 9059, 9462, 9974, 10261, 10843, 11050, 11323, 11553, 11623, 11685, 11977, 12051, 12444, 12493, 12689, 12798, 12970, 13504, 13727, 14242, 14732, 15142, 15293, 15664, 16847, 16914, 17463, 18037, 18489, 19022, 20330, 20855, 21430, 22304, 22713, 22855, 23418, 23739, 24382, 24556, 24832, 25292, 25496, 26042, 26089, 27529, 27563, 27789], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 571, 720, 1054, 1156, 1329, 1766, 2239, 2815, 3159, 4803, 5276, 5353, 5909, 5972, 6125, 6774, 6960, 7275, 7949, 8491, 8668, 9058, 9461, 9973, 10241, 10798, 11036, 11309, 11539, 11609, 11671, 11963, 12040, 12443, 12492, 12688, 12797, 12969, 13503, 13726, 14241, 14731, 15141, 15292, 15656, 16829, 16913, 17462, 18036, 18488, 19021, 20274, 20807, 21429, 22303, 22705, 22854, 23417, 23710, 24381, 24555, 24831, 25274, 25448, 26018, 26088, 27528, 27562, 27774, 27973], dtype=int32)}
W杯ジャンプが初めて開催されたのはどこ?
スキージャンプ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
スキー競技のひとつ。坂を加速しながら降りてきて、踏み切り台から飛び出し、飛んでいる間のフォームの美しさや距離を争う競技。後述。 空母において、艦載機の離陸滑走距離を短くするため、離陸(離艦)用甲板の先端部に上向の角度をつけること。主に軽空母とSTOL機の組み合わせで使われる。 ダムにおいて、放流する際に用いる、スキーのジャンプ台に似たスロープ状の水路のこと。スキージャンプ (ダム)を参照。 スキージャンプ、あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[517,527,3,3]}'>ジャンプ</b>は、ノルディックスキー競技のひとつ。 ジャンプ台と呼ばれる専用の急傾斜面を滑り降りて(助走)、そのまま角度の付いた踏み切り台から空中に飛び出し、専用のスキー板と体を使ってバランスをとり、滑空する。その飛距離と姿勢の美しさ、「美しく、遠くへ跳ぶ」ことを競う競技。 この競技を行う選手を<b data-parsoid='{"dsr":[678,689,3,3]}'>ジャンパー</b>と呼ぶ。 競技 競技は年間を通じ行われ、冬は雪面を滑り、夏は摩擦係数を抑えた専用の滑走路を滑る。夏はサマージャンプ競技と呼ぶ。 国際スキー連盟主催のノルディックスキー世界選手権が2年に1度、冬季オリンピックの前年と翌年に行われる。毎年、世界各国を転戦してスキージャンプ・ワールドカップが開催されている。年末年始にスキージャンプ週間 (Four Hills tournament) と呼ばれる4連戦で優勝を争う大会が、ワールドカップの試合も兼ねて開催される。 種目 正式種目では、ジャンプ台の大きさや形状、助走距離の長さ、K点[1]までの距離などによって、ノーマルヒル(一般にK点90m。かつては「70m級」と呼ばれた。)やラージヒル(一般にK点120m。かつては「90m級」と呼ばれた。)、フライングヒル(スキーフライング)(K点は180mを超える。日本に台は存在しない)などの種目に分かれる(別項K点参照)。 ノーマルヒル、ラージヒルは、冬季オリンピックの共通正式種目である。スキージャンプのワールドカップでは、男子はラージヒルとフライングが開催されているが、観戦側のスペクタクル性の観点から近年ノーマルヒルは開催されていない。通常は個人競技として行われるが、ラージヒルやフライングでは、国対抗で団体戦も行われる。女子は年1~3試合程度行われるラージヒルを除いてすべてノーマルヒルで行われている。 競技内容の重点 屋外競技のため、天候や風の向きや強さなどの自然的条件や、気温に起因した助走面の雪質に左右される。外見上は派手でダイナミックな競技である反面、自らの精神状態にも左右されるといった、デリケートな側面も持ち合わせている。 助走路(アプローチまたはインラン (In-run))上では、しゃがみ込むような助走姿勢(クローチングまたはクラウチング (crouching))で、風の抵抗を低減し、スピードを得る。重心の位置、助走面の状況、スキーワックスの種類などがスピードに大きく影響する。 踏み切り地点(カンテ)上において、立ち上がる反動力で飛び出す(テイクオフ)。踏み切りの動作をサッツという。助走で得た<b data-parsoid='{"dsr":[1906,1914,3,3]}'>速度</b>に加え、踏み切りの方向、タイミング[2]、飛び出し後の<b data-parsoid='{"dsr":[2046,2060,3,3]}'>空中での風向風速</b>などが飛距離に大きく影響する。 空中姿勢は、静止に見える状態がベストだが、時代によって理想形は変化してきている。2008年現在は、両脚でスキーをV字型(スキー後方の内側の角が接触し、前方が大きく開いた状態)に開き、身体との間に空気を包み込むようなスタイルが理想とされている。その歴史背景については、後述する。 着地姿勢は、テレマーク (Telemark) 姿勢が理想とされる。体操競技での着地ポーズに相当する。テレマーク姿勢とは、両手を水平に開き、しゃがんだ状態で、膝から下を前後に開く(後ろの足はつま先立ち)、着地ポーズをいう。語源については、後述する。 着地後、転倒ラインを越えるまでの間に手をついたり、転んだりすると飛型点が減点される。 得点集計方法 着地するまでの落下・滑空距離(飛距離) 空中での滑空時・着地時の姿勢(飛型) ウインドファクター(有利な向かい風はマイナス、不利な追い風はプラス) ゲートファクター(スタートゲートの位置を基準より下げるとプラス、ただしコーチ・選手の判断で下げた場合は、ヒルサイズの95%以上の飛距離が出ないとプラスにならない) をポイント化して競う。通常は2回行い、合計点で競う。 飛距離は着地地点での姿勢により、スキーの中間点(一足ランディングの場合)または両足の中間(テレマーク姿勢の場合)をそれぞれの着地距離地点を担当する計測担当者の目測により割り出される。飛距離が予測を上回って観測者がいない地点に着地した場合は実際に計測する。飛距離に対する得点はジャンプ台の規模により計算される。K点を60点とし、そこから下表に示す点数を飛距離に応じて加減する。 (例)K=120の場合、1m当たり1.8点を加減する。 飛距離130.0mのとき 130-120=10.0m 10.0×1.8=18.0 60+18.0=78.0pt 飛距離110.5mのとき 110.5-120=-9.5m -9.5×1.8=-17.1 60-17.1=42.9pt 飛型と着地姿勢は、実際に5人の飛型審判員によって行われる。1人の持ち点は20点満点であり、公正を期するため、5人中最高最低1名ずつの得点を除き、中間3名の得点合計が加算される。飛型は空中静止、着地姿勢はテレマーク姿勢が理想とされる。しかしK点以下だといくら飛型やテレマークが決まっても高い点は貰えない、少なくともK点越えが満点になる最低基準であり飛行距離が出れば出るほど飛型点は貰える傾向にある。それぞれの基準は、歴史上、何度か変更されている。 通常は、2本跳んだ後の、それぞれの得点要素の合計で順位が競われる。天候の悪化などにより、1本目のみで競技終了となる場合もある。 ワールドカップでは、1本目を終えた時点で、飛型点・飛距離点を合計し、上位30人に絞り、残った者から得点の低い順に2本目を跳ぶため、1本目に最高得点した者が、最終ジャンパーとなる。現在は、多くの大会でこの方式を用いる。 前述のジャンプ週間における4試合においては「KO方式 (KnockOut System)」が採用されている。これは1本目、50人が2人ずつ組になって競技を行い、それぞれの組の勝者25人と、敗者のうち得点の高かった5人(ラッキー・ルーザー (Lucky Loser))の計30人が2本目を行って、この2本の合計得点により順位を決定するものである。この方式を導入した目的は、参加者が多くなると、最初の方に飛んだ選手と最後の方に飛んだ選手では気象条件が異なる場合が多く、なるべく平等な環境で競技を実施することにある。 日本では、HBC杯において2003-2004のシーズンからトーナメント形式が採用されている。男子は予選の上位16人が準々決勝(16人→8人)準決勝(8人→4人)と1対1で対戦して行き、決勝は4人の中で最高得点者が優勝者となるものである。2008年より新設された女子の部は初年度は予選の上位4人が準決勝(4人→2人)を行い、決勝戦も1対1で行われた(このシステムは選手の増加によって変わる可能性もある)。 コスチューム、用具 用具 ジャンプは、飛距離をいかにして稼ぐかについて特殊化した、ストックを使用しないスキー競技である。 ジャンプでは、幅が広く、長いスキーを使用し、これにより揚力を得て落下を遅らせる。スキー板の裏面に7~9本以上の溝があり、直進方向に適し、スピードを得られる工夫がなされ、ビンディングにより踵が上がるようになっている。板が大きく長いにもかかわらず、非常に軽量である。 毎年各メーカーは、規定の範囲で細かな工夫を重ねているが、過去にスキーの先端が通常の三角形でなく、四角くトップの角度を低くした、いわばカモノハシの口のような板や、先端に穴をいくつも空けて空気抵抗を低くしようとした板など、一目見ただけでも分かるようなユニークな板もあった。 ジャンプ板を製造できる技術を持ったメーカーは限られており、2017年1月現在生産を継続しているのはフィッシャーと、2016年シーズン限りでエランが撤退し、その事業を継承したスラットナー、のみである。ゲルミナを買収し2012年頃から台頭したもネーミングライツ契約が終了し生産から撤退となった。過去に、ロシニョール、、クナイスル、エルバッハ等も供給を行っていた。 スキーの長さについては、度々規則が改定され、現在は、幅95mm以上105mm以下、長さは身長とBMIを元に算出する形式が用いられている。ただし、長さは身長の145パーセントが上限[3]と決められている。 コスチューム 滑空時に揚力を得るため、特殊素材のだぶだぶの全身スーツを着ている。これは、現在着用を義務化しているヘルメット同様、転倒着地の際の身体へのダメージを防ぐ、クッションの役割も果たしている。しかし、近年では、そのだぶだぶが浮力を生む原因となっているため、より身体に密着したスーツを用いることがルールで規定されており、その分素材は衝撃吸収に長けたものが使われている。 主な装備ルール改正歴 1998-1999年 スキー板の長さを「身長+80cm以下」から「身長の146%以下」に スーツの生地の厚さが8mm以下→5mm以下に スーツのゆとり幅を胸囲プラス8cmに制限 2003-2004年 スーツのゆとり幅を8cm→6cmに制限。素材もパーツも決められた 当時全日本チームは股下を長く水かきのようにした「短足スーツ」を使用していたが規制により新スーツ開発を余儀なくされた。 2004-2005年 BMIルールを導入。スーツとブーツを含めた体重÷身長の2乗がBMIの数値基準値(20.5)より少なければ、段階によって履ける板の長さを身長の144%、142%までに制限。 2010-2011年 スキー板の長さが身長の最大146%→145%に。 2011-2012年 BMIの基準値を20.5→21により厳しく。 2012-2013年 夏にスーツのゆとり幅を6cm→0cmに制限。 ゆとり幅0cmスーツは落下速度が増し転倒等の危険が高く安全性を疑問視され、ゆとりのないスーツは一人での着脱が困難なほど窮屈だった。 同年冬に0cm→2cmに緩和。 2013-2014年 スーツのゆとり幅を袖口に限り2cm→4cmに緩和。 競技場 ジャンプ競技場を<b data-parsoid='{"dsr":[6145,6156,3,3]}'>シャンツェ</b>と呼称することがあるが、これはドイツ語(Schanze)である。発祥の地であるノルウェー語では、バッケン(bakken)と呼び、ジャンプ台記録を<b data-parsoid='{"dsr":[6228,6242,3,3]}'>バッケンレコード</b>と呼称するのはこれに由来する。 ジャンプ競技場は、大きく分けて、 助走路(アプローチ、インランとも) 踏切台(カンテ) 着地斜面(ランディングバーン) 減速区間(ブレーキングトラック、アウトランとも) 他に、審判台(ジャッジタワー)、コーチングボックス等の付帯施設からなる。 助走路のシュプールは、かつてはテストジャンパーが滑って付けていたが、近年は機械等で溝を成形してレール状にしている。 踏切台は、よく上向きであるとの誤解を受けるが、実際は下向きに10度前後の勾配が付けられている。上向きであると、踏み切ったときに後方へのモーメントが発生し、宙返りしてしまうためである。このような誤解は、下からカンテを見ると上向きに見えることや、フリースタイルスキーで使用するジャンプ台(キッカー)が実際に上向きで作られている事から混同されているものと思われる。 サマージャンプの場合、セラミック製のレールを使用した助走路とひも状のプラスチックを敷き詰めたランディングバーンで構成されたサマー台で競技が行われる。 2008年現在、日本は、ノーマルヒルとラージヒルの双方の正式競技場(シャンツェ)を有する場所は、冬季オリンピック会場だった、長野県白馬村(白馬ジャンプ競技場)と、北海道札幌市しかない(但し現在白馬ジャンプ競技場のノーマルヒルはFISの公認を外れている。)。札幌市では、ノーマルヒルが「宮の森ジャンプ競技場」、ラージヒルは「大倉山ジャンプ競技場」である。 シャンツェごとに形状や条件が異なるため、同一の会場でも大会毎や一試合内でも各トライアル毎に降雪や風向きといった天候条件が異なり、気温や選手の使用状況により刻一刻の助走斜面の雪質の変化などがあるため、共通の記録は設定できない。そのため、それぞれの競技場での「バッケンレコード(最長不倒記録)」といった形で、最高記録が認定される。 2004年に開催された国際スキー連盟の総会にて、競技規則中のサイズの分類方法が変更された。従来はK点までの飛行換算距離で分類されていたが、変更によりL点(着地地点の終点=飛行曲線との関係でこれ以上飛んだら危険と判断される点)までの飛行換算距離(ヒルサイズHS)で分類されることになった。 フライングヒル 185m以上 ラージヒル 110m以上 ノーマルヒル 85m~109m ミディアムヒル 50m~84m スモールヒル 20m~49m 競技規則により、ラージヒルでは、着地終点区間のU点とテークオフ先端(カンテ)の垂直距離 (zu) が88mを超えるものは公認されないため、実質上HS=145mが最大である。したがって、ヴィリンゲン(ドイツ)のHS=145mが、ラージヒルのサイズとしての規則上の最大値である。 歴史 ジャンプは、1840年ごろのノルウェーのテレマーク地方が発祥の地とされる。スキーで遊んでいるうちに自然発生的に競技となったという説がある。 1860年代、初期の著名なジャンプ競技者は、テレマーク出身のノルトハイム (Nordheim) であった。 ジャンプを含むノルディックスキーがテレマーク地方を中心に発達してきたため、最も美しいとされ高得点に結びつく着地時の姿勢は、前述のように「テレマーク姿勢」とよばれている。同様の姿勢によって、テレマークターンを行い斜面を滑降する技術・スタイルはテレマークスキーとよばれる。テレマークという名は、スキースタイル(特に用具の面)において、ノルディックの別名として用いられることもある。1877年に最初のジャンプ競技会がノルウェーで行われた。1879年にテレマーク地方にいた靴屋の少年ジョルジャ・ヘンメスウッドがクリスチャニアのヒューズビーの丘で23m飛んだという記録が残っている。 飛型の歴史 飛行姿勢については、歴史的な変遷が存在する。 初期は直立不動の姿勢であったが、1920年代に、ヤコブ・チューリン・タムス(ノルウェー)に代表される、腰を曲げて前傾姿勢を取るタムス型と、ナルヴェ・ボンナ(ノルウェー)に代表される、直立状態のまま前傾するボンナ型という2つの前傾姿勢が広まり、とりわけタムス型はその後戦後直後まで多くのジャンパーが取り入れていた。いずれの型においても、腕は、バランスを取るために回していた。 1950年代前半からは、フィンランドのアンティ・ヒバリーネンのような、手を動かさず体に付け、深い前傾姿勢を取るスタイルが定着し、このスタイルはその後長らく基本的なフォームとして1990年頃まで主流であった。その中で、1960年頃に、この年のスコーバレーオリンピックで優勝したヘルムート・レクナゲルなど、両手を前に出して止めるスタイルも生まれたが、その後の五輪では勝てず、このスタイルは自然消滅した。 20世紀後半までは、気をつけの姿勢でスキーを揃え、横から見ると、胸から上とスキーが平行になるのが理想とされていた。札幌冬季オリンピックで、笠谷幸生、金野昭次、青地清二の日本人3選手がメダルを独占した際は、この飛型であった。1970年代までは、アプローチの際に両腕を前に下げるフォアハンドスタイルが主流であった。 1976年頃、東ドイツのアッシェンバッハ選手が、アプローチを滑走する際、中腰で両手を平行に後ろへ揃えるスタイルを始め、当初アッシェンバッハスタイルと言われた。現在ではバックハンドスタイルと言われスタンダードな姿勢となっている。それまではしゃがんで手を前にして握るような姿勢が一般的であったが、これは、これが一番空気抵抗が少なく、速度が出ると思われたからである。 20世紀終盤に、スウェーデンのヤン・ボークレブ選手がV字飛行を始めた。V字飛行は、それまでの板を揃えて飛ぶ飛型よりも前面に風を多く捉えて飛距離を稼ぐことができたが、当初は飛型点で大幅な減点対象になり、上位に入るには他を大きく引き離す飛距離が必要だったが、他の選手も次第に取り入れるようになり、その後規定が変更され減点対象から除かれた。このV字スタイルは1969年にポーランドの少年ジャンパー、ミロスワヴ・グラーフが既に実戦していたが、飛型点の低さなどから成績を伸ばせず、ポーランド選手権での4位が最高であったため、世界的に注目されることはなかった。クラシックスタイルからV字への転向は、日本やオーストリアは早く対応できたが、フィンランドなどの強豪国は転向に乗り遅れ、一時低迷することとなった。しかし、V字時代最初のオリンピックとなったアルベールビルオリンピックでは、唯一V字をマスターしたトニ・ニエミネンを擁するフィンランドがオーストリアを下している。 起源に関する日本のマスメディアの扱い かつて、日本の体育関係の書物に「この競技の起源は、ノルウェーの処刑法にある」などとされ、テレビ等でも紹介された。これは、ジャンプが、他のどのスポーツ競技と比較してもあまりにも恐怖感を伴うものであったため、重刑囚がこのジャンプをクリアできれば、その刑を軽減されるというものである[4]。なお根拠は特に見当たらない俗説である。 女子選手の進出 五輪種目での採用 近年、オーストリア、ドイツ、ノルウェー、日本などで、ノーマルヒルを中心とした女子選手の増加に伴い、ヨーロッパなどで女子の国際大会が頻繁に開催されるようになってきた。1999年からは、国際ツアー(のちにコンチネンタルカップ、2011/2012年シーズンからワールドカップに格付け)も実施され、 世界選手権では、2009年リベレツ大会よりノーマルヒルでの個人戦の実施、2011年大会より国別団体戦の実施が決定された。 これによって、女子スキージャンプはオリンピックでの採用の可能性が十分ありうる状況となったが、2006年11月の国際オリンピック委員会の理事会では、2010年バンクーバーオリンピックの競技種目としては見送ることが決定された。このことは関係者の批判を呼び、アメリカが中心となって見送り決定の撤回を求める運動が起きる。しかし、定期的に国際競技に参加する女子選手が世界に約80人しかいないこと等から、IOCのロゲ会長は「普通どの種目でも数十万人から多くて数千万人の選手人口がおり、非常に高いレベルでメダルが競われている。結論としてメダルの価値を下げたくない、安売りをしたくないということだ」と理由を述べていた。 2011年4月6日、国際オリンピック委員会は、2014年ソチ冬季五輪で女子スキージャンプを含む6種目の新たな採用を決定した。デュビIOC競技部長は採用の理由として「ジャンプ女子の採用は今季の世界選手権が決め手となった。以前より競技レベルが上がり国際的普及度も上がった。」と述べている[5]。 課題 五輪種目として行われたものの、選手層の薄さやスキーの盛んな欧州での人気低迷が課題となっている。 2014年、国際スキー連盟はワールドカップのジャンプ女子を昨季の19戦(1大会は悪天候のため中止)から14戦へと削減。上位と下位の選手の実力差が大きいことから、大会のレベル維持のため予選通過人数を50人から40人に削減し、下位の選手は下部の大会で経験を積むように促すなど課題克服に向けた模索が続いている。ただ、強豪国のオーストリアが女子選手の強化に乗り出すなど、改善の兆しも見え始めている。[6] 2015年現在、競技会に出場するための必須条件である国際スキー連盟登録人数は全世界で254人(日本人の登録人数は24人)となっているが[7]、ワールドカップ大会などの大きな大会でも参加人数が30人を割ることがある[8]。 日本選手のジンクス 過去日本人選手は、オリンピック、世界選手権において多くのメダルを獲得しているが、90m級(現在のラージヒル)では長い間金メダルを獲得できず、日本選手の鬼門とされていた。1968年グルノーブルオリンピックの藤沢隆、1972年札幌オリンピックの笠谷幸生は、いずれも1回目に2位の好位置につけながら2回目に距離を伸ばすことができずメダル獲得を逃し、1992年アルベールビルオリンピックでは原田雅彦が4位、1994年リレハンメルオリンピックでは岡部孝信は4位であった。 1997年トロンヘイムの世界選手権で原田雅彦が、1998年長野オリンピックでは船木和喜が、ラージヒルで金メダルを獲得している。 ジャンプ週間が開催される4箇所のうち、最終戦が行われるビショフスホーフェンのみ日本人選手の優勝がなかったが、2018-2019年シーズンにて小林陵侑が優勝し、4箇所すべてで日本人選手が優勝している。 先述の藤沢、笠谷に加え、長野オリンピックでも岡部が1本目2位に付けながら6位に終わったため、「ラージヒルで1本目に2位に付けた日本人選手はメダルを獲得できない」と言うジンクスも叫ばれていたが、2014年ソチオリンピックで葛西紀明が1本目の2位をキープして銀メダルを獲得し、46年越しでこのジンクスを返上している。 著名な選手 日本における競技人口は中学生以上の全日本スキー連盟競技者登録で500人弱[9]、小学生まで含めて600人前後である。 主なスキージャンプ大会 国際大会 スキージャンプ・ワールドカップ 冬季オリンピック オリンピックスキージャンプ競技メダリスト一覧 スキージャンプ週間 ノルディックトーナメント ノルディックスキー世界選手権スキージャンプ競技メダリスト一覧 スキーフライング世界選手権 スキージャンプ・コンチネンタルカップ ホルメンコーレン大会におけるスキージャンプ競技 ラハティスキーゲームズにおけるジャンプ競技 日本国内の大会 (公財)全日本スキー連盟A級公認 名寄ピヤシリジャンプ大会 吉田杯ジャンプ大会 HTBカップ国際スキージャンプ競技大会 STVカップ国際スキージャンプ競技大会 HBCカップジャンプ競技会 UHB杯ジャンプ大会 TVh杯ジャンプ大会 雪印メグミルク杯全日本ジャンプ大会 札幌オリンピック記念国際スキージャンプ競技大会 全日本スキー選手権大会(ノルディックスキー純ジャンプ) NHK杯ジャンプ大会 国民体育大会 (冬季大会スキー競技会純ジャンプ) 秩父宮杯・秩父宮妃杯・寛仁親王杯全日本学生スキー選手権大会(ノルディックスキー純ジャンプ) 全国中学校体育大会(ノルディックスキー純ジャンプ) 全国高等学校スキー大会(ノルディックスキー純ジャンプ) 全国高等学校選抜スキー大会 国際蔵王ジャンプ大会NHK杯 国際蔵王ジャンプ大会山形市長杯 宮様スキー大会国際競技会(ノルディックスキー純ジャンプ) JOCジュニアオリンピックカップ全日本ジュニアスキー選手権大会(ノルディック種目) 伊藤杯 宮の森ナイタージャンプ大会 伊藤杯シーズンファイナル大倉山ナイタージャンプ大会 札幌市長杯宮の森サマージャンプ大会 札幌市長杯大倉山サマージャンプ大会 名寄サンピラー国体記念サマージャンプ大会 かつて行われていた大会 雪印杯全日本ジャンプ旭川大会 倶知安町長杯全道ジャンプ大会 全日本選抜スキー・ジャンプ大会 UHB杯サマージャンプ大会 名寄ピヤシリサマージャンプ大会 関連項目 K点 スキージャンプ・ペア ノノノノ - スキージャンプを題材とした漫画。オリンピックに女性部門が無いことも題材の1つになっている。 脚注 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 251, 407, 811, 1053, 1278, 1466, 1641, 2381, 2536, 2976, 3244, 3565, 3939, 4124, 4311, 5141, 5713, 5925, 6266, 6715, 7172, 7613, 7864, 8005, 8432, 8598, 11137, 11298, 11417, 11452, 11618, 11786, 12021, 12280, 12358, 12496, 13551, 13891, 14085, 14342, 14527, 15321, 15512, 15667, 16252, 16531, 17291, 17453, 17774, 18109, 18517, 18959, 19104, 19620, 20193, 20528, 20957, 21156, 21384, 24402, 24640, 25008, 25672, 26638, 28502, 31088, 37629, 40345, 43132], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 250, 353, 810, 1052, 1240, 1465, 1640, 2307, 2535, 2975, 3243, 3545, 3938, 4123, 4310, 5126, 5712, 5924, 6265, 6714, 7171, 7612, 7841, 8002, 8421, 8596, 11106, 11284, 11416, 11451, 11617, 11771, 12020, 12279, 12335, 12495, 13504, 13889, 14028, 14341, 14526, 15320, 15511, 15666, 16251, 16530, 17247, 17452, 17773, 18108, 18516, 18958, 19103, 19619, 20192, 20527, 20937, 21155, 21376, 24401, 24617, 25007, 25602, 26585, 28457, 31020, 37581, 40310, 43094, 43241], dtype=int32)}
横須賀・総武快速線で、始点駅から終点駅まで乗車すると大人でいくらかかりますか?
ひたち (列車)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ひたち・ときわ</b>は、東日本旅客鉄道(JR東日本)が主に品川駅・上野駅 - 土浦駅・勝田駅・高萩駅・いわき駅間を東海道本線・東北本線・常磐線経由で運行している特急列車である。 本項では、常磐線内で運転されていた優等列車の沿革についても記述する。 概要 国鉄時代と初代「ときわ」の運行 「ひたち」は1969年(昭和44年)10月に上野駅 - 平駅(現在のいわき駅)間を運転する季節特急列車として運転を開始した[1]。季節列車扱いであったのは当時同列車に使用されていた80系気動車が「いなほ」の間合い運用であったためである[1][注 1]。1971年4月には上り列車のみ東京駅に乗り入れている。 1972年(昭和47年)7月には臨時列車の「ひたち」51・52号に485系電車がはじめて充当され、同年10月には定期列車にも485系電車が投入され運転区間を拡大、エル特急に指定された[1]。 「ときわ」は、国鉄時代に快速列車→準急列車→急行列車として運行されていたが、1985年に「ひたち」に統合される形で消滅していた[1]。 「スーパーひたち」の誕生 「スーパーひたち」は、1989年(平成元年)3月11日の651系電車投入に伴う際に、常磐線特急列車における速達型列車として運転を開始した。 その後、1997年(平成9年)10月1日には、停車型の「ひたち」がE653系電車投入により「フレッシュひたち」として運転を開始した。 1998年(平成10年)12月7日には全列車が651系またはE653系に統一され、485系電車による「ひたち」の運転を終了した。651系導入以来、車両によってほぼ系統が区別されていたが、2012年(平成24年)3月には、651系・E653系の置き換え用としてE657系電車が導入され、2013年(平成25年)3月16日のダイヤ改正ですべての定期特急列車がE657系による運転に統一された。ただし、E657系の改造工事に伴い、2013年10月1日から2015年3月13日までの間、「フレッシュひたち」1往復に限り、651系の運用が復活していた[2]。 「ひたち」「ときわ」の復活・東京駅乗り入れ復活へ 2015年3月14日に上野東京ラインが開業し、速達型の名称が「ひたち」に、停車型の名称が「ときわ」に改称された。 「ひたち」は朝の下り2本(3号・5号)を除き全列車が、「ときわ」は日中を中心に品川駅発着となった[3][4]。ひたちに関しては上野発が朝に2本有るだけで上りは全て品川行きとなっている。臨時で「ひたち」が設定されることもないため、上野止まりの「ひたち」は東京方面が何らかの理由で不通にならない限り存在しない。 それにより東京駅・品川駅が乗り換えなしで利用できるようになり、東海道新幹線や東海道線への乗換え回数が減少したほか、京急線へ乗り継ぐことで羽田空港方面へのアクセス利便性が向上した。 その後、2017年10月14日ダイヤ改正に伴い、「ときわ」の品川駅発着本数が増加した。朝通勤時間帯を除く全時間帯に拡大し、上野10時以降の「ときわ」のうち、夕方通勤時間帯の一部列車を除く全列車が品川駅発着となった。 列車名の由来 ひたち - 茨城県(西南部を除く)の旧国名「常陸」による。気動車時代のヘッドマークには小さくこの二文字が添えられていた。 ときわ - 「常陸」と福島県東部(宮城県の一部を含む)の旧国名「磐城」の合成地名である「常磐」(じょうばん)の訓読である「ときわ」から。 「ひたち」はいわき駅発着、「ときわ」は茨城県内発着(いわき駅発着の1往復を除く)であり、列車名の由来と発着駅が逆転している。 なお、準急・急行「ときわ」は上野 - 平(現・いわき駅)の運行が基本であったのに対し、「ひたち」は上野 - 仙台間の運行が多かった。 2015年3月13日までは「ひたち」の列車愛称には「スーパー」・「フレッシュ」という冠文字が付されており、基本的に上野駅 - いわき駅間の系統は速達型として「スーパーひたち」、土浦駅・勝田駅・高萩駅発着の系統は停車型として「フレッシュひたち」となっていた。ただし、いわき駅発着の「フレッシュひたち」も1往復設定されていた。「ひたち」単独での愛称は1998年12月7日の改正で485系電車による運転終了とともに消滅したが、2015年3月14日改正で速達タイプとして16年3ヶ月ぶりに復活した。また、1998年12月6日までは朝の上りの「さわやかひたち」と夜の下りの「ホームタウンひたち」があった。 運行概況 運行形態としては以下のように分類できる。停車駅に関してはほぼダイヤパターンなどで固定化されているが、早朝・夕方の時間帯などは停車駅の加減がある。各列車とも東京・上野から勝田・高萩・いわき方面には1時間に1本の割合で運転されており、さらに夜通勤時間帯に土浦方面への区間列車が運転されている。停車駅に関してはある程度パターン化されている。全列車が品川・上野駅を15の倍数の「分」に発車する。 「ひたち」:品川駅・上野駅 - いわき駅間を運行する速達タイプ 「ときわ」:品川駅・上野駅 - 土浦駅・勝田駅・高萩駅・いわき駅間を運行する停車タイプ 号数は、「ひたち」は1号から30号、「ときわ」は51号から92号(他に定期的に運転される臨時列車として96号がある)。列車番号は、品川駅発着・東京駅乗り入れ列車が<b data-parsoid='{"dsr":[4845,4855,3,3]}'>号数+M[注 2]、上野駅発着列車が2000+号数+Mである。 下り列車は、上野発7時から21時までの毎正時(00分)発は「ひたち」、7時から22時までの毎時30分発と18時から20時までの15分発、22時・ 23時の00分発は「ときわ」であり、23時00分発の「ときわ」91号が最終である。品川駅発着列車は、上野駅正時発が品川駅を45分、東京駅を53分に、30分発は品川駅を15分、東京駅を23分に発車する[注 3]。 上り列車は始発駅が違うためまちまちではあるが、勝田駅 - 上野駅間では最初の「ひたち」(2号)以降は「ひたち」と「ときわ」が交互に運転する(土休日のみ64号と土休日運転の66号が連続する)。水戸駅では、9時 - 21時台は「ひたち」が27分発、「ときわ」が53分発に統一されている。水戸発の最終は21時53分発の「ときわ」92号である。 主要駅間の所要時間(ひたち) 上野駅 - 土浦駅間:上り 約41分 - 57分 下り 約38分 - 49分 (66.0 km) 上野駅 - 水戸駅間:上り 約1時間08分 - 29分 下り 約1時間05分 - 18分 (117.5 km) 上野駅 - いわき駅間:上り 約2時間12分 - 42分 下り 約2時間07分 - 24分 (211.6 km) 品川駅 - いわき駅間:上り 約2時間28分 - 3時間00分 下り 約2時間22分 - 35分 (222.0 km) 常磐線の特急の表定速度は約90km/h強である。これはJR在来線特急としては速い部類である。「ひたち」の上野駅 - 水戸駅間ではほとんどの列車が表定速度100km/h強である。 ダイヤパターン 2017年10月14日現在。上野駅(下り)10時 - 17時台発及び水戸駅(上り)9時 - 20時台発のダイヤパターン。 ●:停車 △:一部列車通過 奇=上野駅奇数時発車列車停車 偶=上野駅偶数時発車列車停車 →:通過 ※ダイヤパターン化されている昼間時間帯に停車しない、佐貫駅・牛久駅・ひたち野うしく駅・荒川沖駅・赤塚駅は掲載していない。 ※上野駅・東京駅・品川駅の到着時刻に関しては多少の前後あり。 停車駅 ●:全列車が停車 △:下りのみ停車 ○:上りのみ停車 %:過半数が停車 @:一部列車が停車(過半数が通過) -:通過 「ひたち」は、原則上野駅 - 水戸駅間を途中無停車で運転するが、一部は柏と土浦に停車する。また、土浦全国花火競技大会開催の週末には土浦駅に上り列車が臨時停車する(開催日と翌日の予備日。順延の有無や中止にかかわらず、二日間とも停車)。また、沿線の観光シーズンやイベント開催にあわせてひたち野うしく駅(サマンサタバサレディース開催)・石岡駅(百里基地航空祭開催)・友部駅(周辺ゴルフ場利用のゴルファー向け)に臨時停車することがある[5]。 「ときわ」は、土浦駅発着列車は佐貫駅 - 土浦駅間は各駅に停車する一方、勝田駅以北発着は、原則上野駅 - 土浦駅間での停車駅は通勤時間帯を除き、柏駅のみに絞られている。 高萩駅発着列車のみ東海駅はすべて停車する[注 4]。 ひたちも含め、偕楽園の観梅期間(おおむね2月下旬 - 3月下旬の土曜・休日、9時頃 - 15時10分頃)は、偕楽園駅に臨時停車する[6]。 かつて停車していた北千住駅・松戸駅・我孫子駅・取手駅は2015年3月以降すべて通過している。 その他、臨時列車も運転されている。 毎週金曜日には、夕方に臨時「ときわ96号」が運転されている。 4月の「かすみがうらマラソン」の際には、上野駅 - 土浦駅間で臨時「ときわ(かすみがうらマラソン号)」が運転される。途中停車駅は柏駅のみ。なお、2014年以前はE653系を用いた全車指定席の快速列車として運転していた。他に、10月の水戸黄門漫遊マラソンや1月の勝田全国マラソンの際に「ときわ」が品川・上野 - 勝田間(上野 - 水戸間の停車駅は柏のみ。年により土浦も停車)が運転される(1往復。年により下りのみ)。 ROCK IN JAPAN FESTIVAL開催日には、臨時列車が運転されるが、石岡駅・友部駅を通過し、柏駅・土浦駅(年により通過)・水戸駅のみ停車する。[7]。 ゴールデンウィーク、お盆休み、年末年始のUターンラッシュのピーク日には、高萩発上野行の臨時列車が運転されている。2015年は9月のシルバーウィークにも運転した。また、2017年からは帰省ラッシュにあわせた下り列車(上野発勝田行)を運転する。 使用車両・編成 2015年3月14日付の編成図ひたち・ときわ 全車禁煙 凡例(共通) G=グリーン車座席指定席 指=普通車座席指定席 現用車両 2015年3月14日現在、全列車がE657系(10両編成・グリーン車連結)により運転されている。 E657系 - K編成、10両編成。 全車指定席であるが、座席未指定券で普通車の空席を利用できる。なお、座席の発売状況を示すランプが設置されている。 車内販売は日本レストランエンタプライズが「ひたち」のみ担当しており、「ときわ」は全列車で行っていない。 特急料金 全車指定席化に伴い料金体系が変更された。また、通年同額となり、繁忙期・閑散期の区別が廃止されているほか、水戸駅・勝田駅での乗り継ぎ料金制度も採用していない。 なお、品川駅・東京駅・上野駅と柏駅以北の各駅との間の特急料金は、品川駅・東京駅・上野駅発着によって差額が生じていて、。これは、品川駅 - 上野駅間が10.6kmもの差があることから、。 料金は特別急行券#座席未指定券を参照。 特別企画乗車券 2015年現在、本列車に対して有効な特別企画乗車券は「定期券用ウィークリー料金券」1つのみである。 定期券用ウィークリー料金券 ※ 2015年2月14日発売開始 ・ 2015年3月14日利用開始[8] 上野(東京・品川からも利用可)から51km以上100km以内(牛久 - 石岡)と101km以上150km以内(友部 - 日立[注 5])、柏から51km以上100km以内(石岡 - 勝田)の定期乗車券利用者に対して発売。連続する7日間に、往復各5回ずつの座席指定が可能(未指定での利用には制限なし)。 当初、2015年3月14日改正以後の「ひたち」・「ときわ」ではえきねっと割引以外の割引制度が導入される予定はなかった。しかし、水戸地区から通勤通学で特急を頻繁に使用する利用者にとっては現行の「定期券用月間料金券」と比較して大幅な負担増となるため、茨城県や同県県央地区の自治体から割引制度の導入を求める声が上がり、「定期券用ウィークリー料金券」の発売決定に至った[9]。 えきねっとチケットレスサービス 2015年(平成27年)3月14日より、「えきねっとチケットレスサービス」の対象列車が、「ひたち」「ときわ」に拡大され、利用可能となった。通常の特急券を購入するより安い。2017年10月14日現在、通常の特急券より100円引きとなっている(距離不問)。 チケットレスサービスの利用1回につき「えきねっとポイント」30ポイント(75円相当)が付与される。 2015年3月13日以前の運転状況 2015年3月13日以前の編成図スーパーひたち 全車禁煙フレッシュひたち 一部、席種が変更となる列車あり 全車禁煙 凡例(共通) G=グリーン車座席指定席 指=普通車座席指定席 自=普通車自由席 2015年3月14日のダイヤ改正以前は、現行の「ひたち」が「スーパーひたち」、「ときわ」が「フレッシュひたち」として運転されていた。 「スーパーひたち」は号数+M、「フレッシュひたち」は号数+1000Mであった。「フレッシュひたち」については、2013年3月までは651系・E657系充当列車(グリーン車連結)が号数+2000M、E653系充当列車(グリーン車なし)が号数+1000Mと区別されていたが、使用車両がE657系に統一されたことで解消された。また、2013年10月より、651系が再び運用に就いていたが、列車番号は変化していなかった(時刻表では、車両が異なる旨の注記があった)。号数は、両者区別されず通しでつけられていた(「スーパーひたち3号」の次に運転する列車が「フレッシュひたち5号」、次が「スーパーひたち7号」)。 651系・E653系とともに運転された2012年3月17日から2013年3月15日までは、E657系で運転する列車には「新型車両で運転」との注記がなされていた。 「スーパーひたち」:上野駅 - いわき駅間 「フレッシュひたち」:上野駅 - 土浦駅・勝田駅・高萩駅・いわき駅間 この当時は現在よりも停車駅が多く、1日に数本しか停車しない駅もあった(これらの駅は、現行制度への移行時に整理された)。「スーパーひたち」では、途中停車駅が水戸駅・勝田駅・日立駅・泉駅・湯本駅の5駅のみという列車(現在の「ひたち」には日立駅 - 泉駅間を無停車で運転する列車はない)や、水戸駅以南の停車駅が「フレッシュひたち」と大差ない列車(土浦駅のほか、赤塚駅・友部駅・石岡駅にも停車)もあった。 なお、水戸駅・勝田駅で当日中に改札を出ずに特急列車に乗り継ぐ場合は、特急料金は乗車駅からの通算で計算することができた。「ひたち」「ときわ」ではこの乗り継ぎ料金制度は採用していない[10][11]。 2011年3月11日の東日本大震災発生前は、上野駅 - 原ノ町駅・仙台駅間の系統も運行されていた。上野駅・仙台駅は正式には東北本線の駅であり、寝台特急や臨時特急などに東北本線経由の列車があることから、上野発仙台行き・仙台発上野行きの行先表示器の字幕表示は下部に小さく「常磐線経由」と表記されていた。また、朝にはいわき発仙台行きが1本(「スーパーひたち」1号・いわき駅7時31分始発)設定され、夜間は7両編成が原ノ町駅で留置されていた。上野駅 - 仙台駅間の所要時間は約4時間09分 - 4時間23分 (362.9km)であった。 東日本大震災の影響と系統分離 2010年12月6日のJR東日本プレスリリースにて、2012年春の新型車両導入に伴う常磐線特急列車の再編が明らかとなった[12]。 計画では、特急の運行区間を上野駅 - いわき駅間[注 6]と、いわき駅 - 仙台駅間に分割し、前者に新型のE657系を充当、後者にはE653系を充当し、651系についてはいわき以南で使用し2012年秋までにE657系に順次置き換え、というものであった。 いわき駅 - 仙台駅間で運行される特急の名称については、2011年2月にJR東日本水戸支社で募集を行い、同年4月上旬以降に発表される予定であった[13]。これに対し相双地域からは「東京が遠くなる」として直通列車の運行継続を求める声もあった[14]。 しかし、そのような中、2011年3月に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)および東京電力・福島第一原子力発電所事故による影響により、常磐線は広範囲での運転見合わせを余儀なくされ、その後運転が徐々に再開されるも、「スーパーひたち」の運行は上野駅 - いわき駅間に限られることになった。 震災後、2012年3月17日のダイヤ改正[15]では、当時(上野駅 - いわき駅運行)のダイヤ全体の4割をE657系に置き換えた。しかし、計画と異なりE653系も引き続き「フレッシュひたち」で使用されることになった。また、E657系の導入完了時期も、「2012年秋」から「2012年度中」に変更となった[16]。改正後は以下のような運用となった。 「スーパーひたち」 - E657系:20本、651系:10本 「フレッシュひたち」 - E657系:9本、E653系:30本、651系:2本 このダイヤ改正により、東日本大震災以降「当面の間運休」とされていたいわき駅 - 仙台駅間は「スーパーひたち」の運行区間から正式に外れ、「スーパーひたち」は全列車が上野駅 - いわき駅間の運転となった[17][18]。このため、いわき発仙台行きの「スーパーひたち1号」の運行は打ち切りとなり、下り列車は「1号」を欠番として「スーパーひたち3号」からはじまることになる。 2012年度末となる2013年3月16日のダイヤ改正で「スーパーひたち」「フレッシュひたち」は全列車がE657系での運行に統一された(ただし2013年10月1日に651系が復活したため、未統一に戻る)。なお、運行体系については計3本の増発や停車駅見直しは行われるものの、ほぼ2012年のダイヤ改正当時と変更はなされなかった。列車名も「スーパーひたち」「フレッシュひたち」のまま変更はなく、「1号」の欠番もそのままである[19]。 その後、2015年3月14日のダイヤ改正で「スーパーひたち」を「ひたち」、「フレッシュひたち」を「ときわ」に改称するとともに、列車名の号数も「ひたち」を1号から、「ときわ」を51号からと変更したものの、運行形態自体には大きな変化はない。 なお、E653系については、2013年秋から基本編成が新潟駅 - 酒田駅・秋田駅間の特急「いなほ」に、付属編成については、2015年3月14日の北陸新幹線延伸開業に伴い新潟駅 - 上越妙高駅間に新設される特急「しらゆき」に全編成が転用された[20]ため、常磐線内での同系列の転属計画は事実上の中止となった。 特定特急料金 水戸駅 - 原ノ町駅間で101km以上となる区間の自由席特急料金は1,300円だった(東日本大震災後、適用区間なし[注 7])。2014年3月までは1,260円だった。 なお、不通区間の特急料金は震災後も設定されていたが、2015年3月14日のダイヤ改正に伴う制度変更により廃止されている。この特定特急料金も同時に廃止された。 車両 E657系電車:2012年3月17日 - 651系電車:1989年3月11日 - 2013年3月15日、2013年10月1日 - 2015年3月13日 E657系投入前までは、「スーパーひたち」全列車と、「フレッシュひたち」の一部で使用されていた。 2012年3月17日のダイヤ改正前までは、651系で運転される「スーパーひたち」に、勝田駅で増解結を行う列車が設定されていた。また、東日本大震災前はいわき駅での増解結もあり、いわき駅 - 原ノ町駅・仙台駅間は4両(原ノ町駅留置列車は7両)で運行されていた。多客期は切り離しを行わず、全区間を11両編成で運転する列車が設定されていた。なお、2012年3月17日以降は全列車全区間11両編成で運転した。 2013年10月1日から2015年3月13日まで、「フレッシュひたち」1往復に使用された[2]。 2014年秋季より常磐線内の臨時列車の運用をE653系から引き継ぎ、現在は快速「ぶらり横浜・鎌倉号」などで使用されている。 E653系電車:1997年10月1日 - 2013年3月15日 E657系投入前まで、「フレッシュひたち」の大半の列車で使用されていた。全車普通車でグリーン車は連結されていない。勝田駅で増解結を行う列車が設定されていた(14両・11両→7両)。 2013年3月16日のダイヤ改正以降は、多客期に増発される臨時「フレッシュひたち」や臨時急行・快速列車(ぶらり鎌倉号、ぶらり高尾散策号など)で2014年8月まで使用された。基本編成は「いなほ」に[21][22]、付属編成は「しらゆき」に[20]それぞれ転用することとなり、全編成が新潟車両センターに転属した。これにより、2014年秋季以降の臨時列車の運用はE657系および651系が担うことになった。 80系気動車:1969年10月 - 1972年10月[1] 秋田機関区所属で、上野 - 秋田間を上越・羽越本線経由で運転する特急「いなほ」の間合い運用として「ひたち」に使用された[1]。先頭車はボンネット型のキハ81形であり[1]、「電化区間のみを走る気動車特急」という異色さと、「はつかり」電車化以来1年ぶりの常磐線での運用も注目された。 483・485系電車:1972年7月・10月 - 1998年12月7日 1972年7月の「ひたち」51・52号が483・485系電車にて運転されたのを機に同年10月から全列車に投入された[1]。1985年3月のダイヤ改正では九州地区からボンネット形のクハ481形0番台が勝田電車区に多数転入し[1]、全編成とも先頭車をボンネット形とした11両編成に統一[1][注 8][注 9]。その後、1986年11月改正時に300番台車が再度転入して一部編成に使用された他、民営化後にはサロ481形を格下げ・非貫通先頭車化したクハ481形1100番台も使用された。 485系ボンネット車「ひたち」 651系<br/>(7両編成) 651系<br/>(11両編成) 651系<br/>(4両編成) E653系<br/>(7両編成) E653系<br/>(11両編成) E653系<br/>(14両編成) 特別企画乗車券 常磐自動車道を経由する高速バス(「みと号」・「ひたち号」・「いわき号」など)や自家用車との競合があり、通常より割安にした特別企画乗車券が多く設定されていた。一部を除き、利用期間の制限もないものが多かった。しかし、2013年までに大半が廃止されている。 ひたち回数券 ※ 2015年3月13日を以って販売終了[10][11] フレッシュひたち料金回数券 ※ 2015年3月13日を以って販売終了[10][11] 定期券用月間料金券 ※ 2013年8月31日を以って一部区間の販売終了 ・ 2015年2月14日を以って全区間販売終了[10][11] ひたち東京週末フリーきっぷ(大人・学生・小人) ※ 2013年9月30日を以って販売終了[23] ひたち往復きっぷ ※ 2013年9月30日を以って販売終了 ひたち東京フリーきっぷ ※ 2013年9月30日を以って販売終了 常磐線昼行優等列車沿革 東北急行群としての再開 1947年(昭和22年)6月:上野駅 - 青森駅間を、常磐線・東北本線経由で走る急行207・208列車が運転開始。1944年(昭和19年)12月に戦前の急行列車が全廃になって以来、2年半ぶりに同線に優等列車が登場した。 1950年(昭和25年)11月:上野駅 - 青森駅間を常磐線・東北本線経由で運行していた急行201・202列車に「みちのく」と命名。同線初の「列車愛称」となった。(「つがる」の項も参照) 1954年(昭和29年)10月:上野駅 - 青森駅間を常磐線経由で運転していた、元連合軍専用列車であり、1952年(昭和27年)から「特殊列車」と称する一部のみ日本人にも開放されていた列車が、完全に日本人に開放され、ただの急行列車となった。同時に、同列車には「十和田」と命名された。 線内準急「ときわ」とその周辺列車群 1955年(昭和30年):上野駅 - 水戸駅間を運行する快速列車、「ときわ」・「つくばね」が運転開始。 1958年(昭和33年) 6月:「つくばね」は名称を「ときわ」に統合し、「ときわ」は準急列車に昇格。同時に平駅(現在のいわき駅)まで運転区間を延長。 10月:上野駅 - 青森駅間を常磐線・東北本線経由で運行する特急列車「はつかり」が運転開始。 1959年(昭和34年)9月:上野駅 - 仙台駅間を常磐線経由で運行する気動車急行「みやぎの」が運転開始。 1960年(昭和35年) 6月:水戸駅 - 仙台駅間を運行する準急「そうま」が運行開始。 12月:特急「はつかり」はキハ80系気動車を使用し、初の気動による特急列車となった。 1963年(昭和38年)10月:上野駅 - 平駅間を運行する全席座席指定制の電車準急列車として、「ひたち」が運転開始。 1965年(昭和40年)10月:「みちのく」が東北各地への多層立て気動車急行として1往復増発され2往復となる。 1966年(昭和41年)3月:「ときわ」「ひたち」「そうま」が急行列車に昇格。 1967年(昭和42年)10月:「ひたち」が「ときわ」に統合。また「ときわ」の一部列車を東京駅乗り入れ開始。 1968年(昭和43年)10月:「そうま」の上り列車を上野駅まで乗り入れ。「ときわ」の1往復を仙台発着の「そうま」に組み入れる。また特急「はつかり」は電車化され、東北本線経由(黒磯駅経由)に変更される。「みちのく」の1往復(客車列車)を、急行「十和田」に編入、「みちのく」は気動車急行のみとなる。 線内特急「ひたち」の運転開始 1969年(昭和44年)10月:上野駅 - 平駅間を運行する季節特急列車として、「ひたち」運転開始[1](列車番号:6001D・6002D)。 1970年 7月(昭和45年):特急「ひたち」に、上野駅発着の特急として初めて自由席2両を設置。 登場時は全席指定だったが、短距離の利用者が多い点を考慮したため。 10月:特急「ひたち」定期列車化。急行「みちのく」廃止。 1971年(昭和46年)4月:「ひたち」の上り列車のみ東京駅に乗り入れ。 1972年(昭和47年) 3月:「そうま」の2往復を盛岡駅発着に延長し、「もりおか」と名称を変更。急行「十和田」昼行1往復の格上げで上野駅 - 青森駅間に、特急「みちのく」が1往復運転開始。 なお、この格上げした「十和田(下り)・(上り)1号」は1968年10月まで客車急行「みちのく」を名乗っていた。 7月:夏「ひたち」51・52号が485・489系電車を使用して運転。 10月:「ひたち」に485系電車を使用開始[1]。電車特急となる[1]。また、「ひたち」5往復に増発し[1]、運転区間を東京駅・上野駅 - 平駅・原ノ町駅・仙台駅間に拡大。なお、平駅・原ノ町駅発着各2往復、仙台駅発着1往復。同時にエル特急に指定。 1973年(昭和48年) 4月:「ひたち」の上り1号のみ実施されていた、東京駅乗り入れを中止。 10月:「ひたち」を6往復に増発[1]。 1975年(昭和50年)3月:「ひたち」を8往復に増発[1]。 1978年(昭和53年)10月:「ひたち」を11往復に増発[1]。また急行「そうま」は「ときわ」に編入され、愛称消滅。 昭和53年10月改正時の急行「ときわ」・「もりおか」停車駅(列車によって停車駅は異なる) 上野駅 - 我孫子駅 - 土浦駅 - 石岡駅 - 友部駅 - 赤塚駅 - 水戸駅 - 勝田駅 - 東海駅 - 大甕駅 - 常陸多賀駅 - 日立駅 - 高萩駅 - 磯原駅 - 大津港駅 - 勿来駅 - 植田駅 - 泉駅 - 湯本駅 - 平駅(現在のいわき駅) - 四ツ倉駅 - 広野駅 - 富岡駅 - 大野駅 - 双葉駅 - 浪江駅 - 小高駅 - 原ノ町駅 - 相馬駅 - 亘理駅 - 岩沼駅 - 仙台駅 - 塩釜駅 - 松島駅 - 小牛田駅 - 瀬峰駅 - 石越駅 - 花泉駅 - 一ノ関駅 - 平泉駅 - 前沢駅 - 水沢駅 - 北上駅 - 花巻駅 - 日詰駅 - 仙北町駅 - 盛岡駅 常磐線優等列車としての「ひたち」と派生列車群 1982年(昭和57年)11月15日:東北新幹線本格開業[注 10]に伴い、仙台駅より先、盛岡・青森方面を結ぶ特急「みちのく」・急行「もりおか」などの昼行特急列車・急行列車を全廃。急行「十和田」は夜行のみ存続。これにより、常磐線を運行する列車名は特急「ひたち」・急行「ときわ」の2種類のみとなった。また、「みちのく」・「もりおか」の廃止に伴い、仙台駅発着の「ひたち」1往復、「ときわ」2往復を増発。 1985年(昭和60年)3月14日:急行「ときわ」が特急「ひたち」に統合されて定期列車の運転を終了した。「ひたち」は下り24本、上り23本に増発し国鉄在来線特急列車での運行本数最多となった[1]。急行「十和田」を臨時列車に格下げ。 1986年(昭和61年)11月1日:特急「ひたち」が26.5往復に増発[注 11]。編成は485系9両編成に統一。 この増発で、号数が下り53号、上り52号までに達する。それまで50番台の号数は在来線列車の場合、臨時列車に与えるのが国鉄の慣例になっていたが、定期列車で初めて号数が50番台に達したため、国鉄最後となったこの改正より、臨時列車には(ほかの列車名を含めすべて)80番台の号数を与えるように改めることとなった。 車両についてはクハ481形300番台(非貫通形)が再度配置され、臨時の「鳥海」と共通運用となったほか、普通車座席を従来の回転クロスシート・簡易リクライニングシートから、フリーストップ式リクライニングシートへの交換がこれ以降進捗する。 列車により停車駅は異なるものの、上野駅 - 土浦駅間で停車駅が追加され、新たに北千住駅・松戸駅・柏駅に停車するようになった[注 12]。 1989年(平成元年)3月11日:この改正で、以下のように変更。 651系電車を投入。愛称を「スーパーひたち」として運転開始。 当初は1日7往復。 なお、指定券発売時の区別等のため、485系の「ひたち」は号数が100番台に変更された。 「ホームライナー土浦」が485系で運転開始。 1990年(平成2年)3月10日:「ホームタウンひたち」・「おはようライナー土浦」運転開始。 「おはようフレッシュひたち」などといった列車を運行する基礎となる。また、651系の増備によりこの改正で「スーパーひたち」は15往復へ倍増、ほぼ1時間間隔の運転となり、仙台駅まで運用区間を拡大した。なお、この改正により北千住駅停車が終了する。 その一方485系「ひたち」は平駅発着までの運行となり、同時にグリーン車の連結も中止されて7両編成に短縮された。モノクラス化とボンネット型クハの老朽置き換えのため、サロ481形等を改造したサハ481形300番台(8両)およびクハ481形1100番台(8両)が編成に組み込まれた。 1992年(平成4年) 3月14日:上野駅 - 会津若松駅間の特急「あいづ」の受け持ちが秋田から勝田に移管となったため、「あいづ」への送り込みの列車に限り、485系「ひたち」のグリーン車が復活。 月日不明:「ひたち」用485系に新色(濃淡のグレーに薄緑の帯)の車両が登場。 1993年(平成5年)12月1日:「あいづ」廃止により再び485系「ひたち」のグリーン車の連結は廃止された。 1994年(平成6年)12月3日:臨時急行「十和田」が廃止。 1997年(平成9年)10月1日:E653系電車による「フレッシュひたち」が運転開始[24]。 「フレッシュひたち」には当初より、定義が曖昧になっていた「エル特急」の呼称は与えられなかった。 また、この改正より号数の100番台使用を取りやめ、「スーパーひたち」・「フレッシュひたち」・「ひたち」をすべて合わせ、1号から順の付番に戻された。 1998年(平成10年)12月8日:485系電車の全車が、651系電車・E653系電車へ置き換えられたのに伴い、「ひたち」・「さわやかひたち」・「ホームタウンひたち」は名称上消滅。ホームライナー・おはようライナー土浦を「フレッシュひたち」へ格上げ。この結果、常磐線の特急列車は「スーパーひたち」・「フレッシュひたち」の2系統となった。早朝・夜間に1往復あった相馬駅発着列車を原ノ町駅発着に見直し(原ノ町駅で普通列車に接続するよう変更)。上野駅21時30分発の列車(改正前「ホームタウンひたち」、改正後「フレッシュひたち」)を高萩行きからいわき行きに延長し、いわき行き最終を30分繰り下げ。 1999年(平成11年)12月4日:上野駅21時30分発の「フレッシュひたち」がいわき行きから高萩行きに戻る。代わりに上野駅20時30分発の「フレッシュひたち」を高萩行きからいわき行きに延長。 2002年(平成14年)12月1日:勝田駅発着の「スーパーひたち」は、名称を「フレッシュひたち」に変更。「スーパーひたち」を含め、JR東日本はこの改正で「エル特急」の呼称を全廃。 2005年(平成17年)7月9日:首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス線の開業を翌月に控え、競合を織り込んでのダイヤ改正に伴い、列車の増発や停車駅の整理等を行う。 我孫子駅・柏駅・松戸駅に分散されていた千葉県内の「フレッシュひたち」停車駅を柏駅に統一。「おはようフレッシュひたち」、下り「ウィークエンドフレッシュひたち」が定期列車化。上り「ウィークエンドフレッシュひたち」が廃止。 2006年(平成18年)3月18日:上り「フレッシュひたち」1本、下り「フレッシュひたち」2本増発(土浦行き)および最終下り「フレッシュひたち」を勝田行きに変更。なお、朝の一部上り「フレッシュひたち」は時刻が繰り上がった。 2007年(平成19年)3月18日:全列車全車禁煙になる。 東日本大震災発生後・E657系の導入 2011年(平成23年) 3月11日:東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)発生による影響で全区間で運休。いわき駅 - 仙台駅間はこの日をもって運休→2012年に当該区間の運行が打ち切りとなった(後述)ため、「スーパーひたち」として最終運行となった。 2011年3月11日の東日本大震災前のいわき駅 - 仙台駅間での停車駅(スーパーひたち) いわき駅 - 〔四ツ倉駅〕 -(広野駅) - 富岡駅 - (大野駅) - (双葉駅) - 浪江駅 - (小高駅) - 原ノ町駅 - 相馬駅 - (亘理駅) - (岩沼駅) - 仙台駅 ( )は一部の列車が停車、〔 〕は上りの一部が停車 4月17日:上野駅 - 勝田駅間で運転再開。 4月28日:勝田駅 - いわき駅間で運転再開。この区間ではダイヤを変更しての運行。 5月31日:上野駅 - いわき駅間において震災前の本数に戻る。高萩駅 - いわき駅間では減速運転[25]。 7月1日:上野駅 - いわき駅間のダイヤが震災前に戻る。 2012年(平成24年)3月17日:ダイヤ改正により、以下のとおり変更[26]。 一部列車にE657系を導入。 いわき発仙台行きの「スーパーひたち1号」の全区間を含む「スーパーひたち」のいわき駅 - 仙台駅間の運行を正式に打ち切ることを発表[注 13]。 2013年(平成25年) 3月16日:ダイヤ改正により、以下のとおり変更[19]。 全列車をE657系での運行に統一し、「ひたち」系統からE653系の定期運用離脱。651系についても定期運用離脱で、当時は今後一切定期運用で使用されない予定であった(ただし、後に復活する)。 「フレッシュひたち」を、早朝上り2本・夜間下り1本増発。 18時台以降に上野駅を発車する下り「スーパーひたち」はすべて土浦駅停車とする[注 14]。 10月1日:E657系の改造工事に伴い、「フレッシュひたち」1往復を651系での運用に変更し、およそ半年ぶりに651系の定期運用が復活した[2]。 10月20日:日暮里駅のホーム拡幅工事に伴い、当日の「ひたち」系統は早朝の運休・夜間の平常運転を除き北千住駅発着となる。 2014年(平成26年) 5月16日:毎週金曜日の夕方に上り勝田発上野行きで「フレッシュひたち」1本増発運転開始[27]。ただし、2015年1月2日は運転されない[28]。なお、後述の2015年ダイヤ改正後も、「ときわ96号」として同種の列車を継続して運転する。 上野東京ライン乗り入れ 2015年(平成27年) 3月13日:E657系の改造工事終了に伴い、「フレッシュひたち」1往復の651系運用終了[2]。 3月14日:ダイヤ改正および上野東京ラインの開業により以下のとおりに変更。 「スーパーひたち」・「フレッシュひたち」の名称が廃止され、速達タイプ(上野駅 - 水戸駅間原則ノンストップ)の列車の名称が「ひたち」、停車タイプ(柏駅・土浦駅・石岡駅・友部駅に原則停車)の列車の名称が「ときわ」に変更[10][11]。「ひたち」は1号から30号、「ときわ」は51号から100号が採番され、「1号」の欠番が解消される[29]。 日中の列車を中心に品川駅発着となる[3][4]。「ひたち」は下りの3,5号を除く全列車が品川駅発着。「ときわ」は日中を中心に品川駅発着で、朝と夜は大半が従来どおりの上野駅発着となる。品川駅発着の列車はすべて東京駅にも停車。 水戸駅・勝田駅での乗り継ぎ料金制度を廃止。 松戸駅・取手駅・藤代駅・神立駅・十王駅・大津港駅・植田駅が特急停車駅から外れる[29]。このうち、松戸・取手駅停車は柏駅に、大津港駅停車は磯原駅に、植田駅停車は勿来駅に集約される。高萩駅発着の2往復が勝田駅発着に見直し。 普通車における従来の指定席・自由席の区分が廃止され、新たな着席サービス(全車指定席)が開始される。乗車日・区間のみを指定し、列車・座席を指定しない特急券(座席未指定券)を発売開始。 「ひたち」では石岡・友部駅が停車駅から外れ、土浦駅では上りの停車駅の本数を7本から3本、東海駅では下りの停車駅の本数を2本から1本に減少[29]。 「ときわ」では車内販売サービスが提供されない[30]。 6月30日: えきねっとチケットレスサービス開始に伴うキャンペーン終了により、えきねっとチケットレスサービスに300円割引キャンペーンが終了。 2017年(平成29年)10月14日:ダイヤ改正により以下のとおりに変更[31]。 「ひたち」「ときわ」の品川駅発着を平日60本・土休日62本とし、上野駅発着を平日11本・土休日9本として朝を除き大半の列車が品川駅発着となる[31][32]。 「ひたち」では土浦駅の下りの停車本数を6本から3本に減少[注 15][31]。 「ときわ」では上り1本[注 16]、下り2本[注 17]の運行本数を廃止[注 18]。下りの高萩終着は上野駅発21時30分から22時発に30分繰り下げ[注 19][31]。 脚注 注釈 出典 関連項目 常磐線 常磐快速線 常磐緩行線 上野東京ライン 東日本大震災による鉄道への影響 外部リンク - JR東日本
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%9F%E3%81%A1%20%28%E5%88%97%E8%BB%8A%29
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 535, 1034, 1266, 2431, 2562, 2931, 5726, 9550, 9716, 10125], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 497, 1033, 1265, 2430, 2554, 2930, 5703, 9549, 9715, 10103, 10603], dtype=int32)}
事件の捜査は検察官のみに許されているか?
特別司法警察職員
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
特別司法警察職員(とくべつしほうけいさつしょくいん)とは、警察官(一般司法警察職員)ではないが、特定の法律違反について刑事訴訟法に基づく犯罪捜査を行う権限が特別に与えられた一部の公務員のことである。麻薬取締官、労働基準監督官、海上保安官等である。 犯罪捜査ができるため、捜査に係る刑事手続きや逮捕や捜索差押、送検等を行う権限がある。 一般司法警察職員との相違 いずれも、その分野のエキスパートであり、一般司法警察職員たる通常の警察官にない高度な専門の知識・技能・経験などを有するため、警察官よりも円滑・スムーズに捜査できるので、その分野における犯罪に限り、司法警察職員としての権限を付与されている。場合によっては、おとり捜査など、法律によって警察官よりも強力な権限を付与されている場合もある。 なお、特別司法警察職員が捜査をしている事件を一般の警察官が捜査できないということはなく、警察も同じ事件を合同で捜査したり独自に捜査したりすることもある[1]。 また、主として陸上を管轄するために組織されている警察の装備や能力では対処できない、ないし対処が困難な場面を想定して設けられた海上保安官のように、司法警察権の範囲が限定されず、単に行使すべきエリアのみを限定した特別司法警察職員の制度もある。さらに海上保安官には、公海における海賊の船舶や海賊放送を行う船舶などを領海の外であっても拿捕できる権限のほか、これらに乗船している者を逮捕する権限や船内にある財産を押収する権限など、国際法に基づく権限[2]も付与されている。これらは同条約および国際慣習上、各国の海軍や沿岸警備隊等に相当する機関(日本においては海上保安庁がこれにあたる)が所掌すべき職務とされているため、日本の現行法制の下では警察庁ないし都道府県警察は、別途法令の規定により海賊行為への対処に必要な措置を実施する権限が付与されている場合を除いてはこの権限を行使しえない[3][4][5]。 特別司法警察職員にも、一般司法警察職員と同様に司法警察員と司法巡査との区別がある。 一覧 個別の根拠法によるものの他、司法警察職員等指定応急措置法(昭和23年法律第234号)第1条が追認する大正12年勅令第528号「司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件」によっても指定されている。また、刑事訴訟法第190条の規定にも根拠がある。 個別法によるもの 内閣府 国家公安委員会 警察庁 皇宮護衛官(警察法 第69条) - 拳銃等武器携帯権限あり 法務省 刑事施設の長、刑事施設の職員(=刑務官)(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律 第290条) - 拳銃等武器携帯権限あり 厚生労働省 麻薬取締官・麻薬取締員(麻薬及び向精神薬取締法 第54条第5項) - 拳銃等武器携帯権限あり。また、同法第58条に基づき警察官には認められないおとり捜査も許されている 労働基準監督官(労働基準法 第102条) - 捜査権および逮捕権あり・武器携帯権なし。ただし手錠、捕縄、腰縄は武器とはみなされないため必要性がある場合に限り携帯可 農林水産省水産庁、及び都道府県 漁業監督官・漁業監督吏員(漁業法 第74条第5項) - 捜査権および逮捕権あり。特殊警棒と手錠のみ携帯権限あり、拳銃その他銃器の携帯・使用の権限はなし(漁業取締船の項目を併せて参照のこと) 経済産業省 鉱務監督官(鉱山保安法 第49条) - 捜査権および逮捕権あり 国土交通省 船員労務官(船員法 第108条、船員災害防止活動の促進に関する法律 第62条) - 捜査権および逮捕権あり 海上保安庁 海上保安官(海上保安庁法 第31条) - 拳銃等武器携帯権限あり 防衛省 自衛隊警務官(自衛隊法 第96条第1項) - 拳銃等武器携帯権限あり (参考)特別司法警察職員ではないが、防衛出動・治安出動・海上警備行動が発令された場合には自衛官は警察官と同等の職務執行権限を行使出来る。[6] 都道府県 鳥獣の保護若しくは管理又は狩猟の適正化に関する取締りの事務を担当する都道府県の職員(鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律第76条) 「司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件」によるもの 農林水産省 林野庁 森林管理局署勤務の農林水産事務官・同技官(第3条第4号)なお、第3条第4号の「営林局署」は「森林管理局署」と、「農林事務官」は「農林水産事務官」と、「農林技官」は「農林水産技官」とされる(司法警察職員等指定応急措置法第1条後段)。 船長、機関長、通信長、事務長(遠洋区域、近海区域又は沿海区域を航行する総噸数20噸以上の船舶の船長・上記船舶の甲板部、機関部及事務部の海員中其の各部に於て職掌の上位に在る者)(第6条第1号・第2号) 廃止されたもの 帝国林野局の廃止のため 帝室林野局出仕(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第1号及び第9号) 宮内省廃止のため 猟場管守の事務を担当する宮内省出仕・同職員(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第2号及び第10号) 日本国有鉄道職員(旧運輸省所管) 日本国有鉄道の駅長・車掌区長・同助役・同支区長・自動車区長・同助役・同支区長・駅の助役・車掌たる運輸事務官、鉄道手及雇員(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第5号・12号) 鉄道公安職員[7](国有鉄道に於ける旅客公衆の秩序維持又は荷物事故防止の事務を担当するもの)(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第5号・12号及び鉄道公安職員の職務に関する法律) 北海道庁職員 2000年に地方技官及び地方事務官制度が廃止された。 北海道庁ノ営林区署勤務ノ二級又ハ三級ノ地方技官及三級ノ地方事務官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件第3条第6号) 公有林野の事務を担当する北海道庁の地方事務官・同技官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件第3条第7号) 北海道庁河川監守たる地方事務官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件第3条第14号) 2000年に地方技官及び地方事務官制度が廃止された。 狩猟取締の事務を担当する庁府県の地方技官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件第3条第8号) 経済監視官 1949年に経済監視官の制度が廃止された。 経済監視官補たる地方事務官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第14号) 海上公安官 海上公安官補(根拠法となる「海上公安局法」が成立・公布されたが、施行されないまま公布から2年後に成立した防衛庁設置法により海上公安局法自体が廃止されたため実際には存在しなかった) 経済査察官(昭和22年勅令193号「経済安定本部令」) 専売公社監視員 郵政監察官(日本郵政公社法 第63条第3項) - 郵政監察官は捜査権限及び逮捕状を含む令状の請求権・検察官に対して被疑者および事件を送致する権限(身柄送検および書類送検のいずれもなし得る)を有するが、自身のみで逮捕状を執行する権限はもたず、郵政監察官が逮捕状を執行する必要があると判断するときは、一般司法警察職員に逮捕させ(この「させ」は使役であることから、逮捕状執行の要否を判断するのは郵政監察官の権限であり、この場合の一般司法警察職員は逮捕の「執行機関」となる。そのため、用語の用法としては一般司法警察職員への逮捕の「依頼」・「要請」というよりは「指示」に近いニュアンスを持っている)、その上で司法警察員として一般司法警察職員から引致を受ける形を採る(日本郵政公社法第63条第4項ないし第5項)。ただし、現行犯逮捕は単独で可能であり、この場合においては、被疑者を留置する必要があると思料するときはこれを最寄りの留置施設に留置するだけでよい(同条第6項)。 司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件によるものとしては廃止され、個別法に移行したもの 監獄又ハ分監ノ長タル者及看守タル者ヲ除クノ外監獄職員タル二級又ハ三級ノ法務庁事務官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第1号) 看守タル法務庁事務官(司法警察官吏及司法警察官吏ノ職務ヲ行フヘキ者ノ指定等ニ関スル件 第3条第11号) 脚注 関連項目 巡視船/巡視艇 漁業取締船 アメリカ合衆国の警察#特別な法執行機関 連邦捜査局 麻薬取締局 アルコール・タバコ・火器及び爆発物取締局 アメリカ動物虐待防止協会 - アメリカでは動物愛護団体などの民間団体にも司法警察権が付与されている場合がある。 憲兵/国家憲兵 海軍犯罪捜査局/空軍警備隊 法務官 警察/警察官 行政警察活動 公安職/行政職 外部リンク - 首相官邸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%8F%B8%E6%B3%95%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E8%81%B7%E5%93%A1
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 352, 613, 837, 1487, 1734, 2567, 2796, 3138, 3284, 3604, 3789, 4182, 4606, 4794, 5275, 5584, 5828, 5980, 6073, 6241, 6635, 7173, 7717, 9092, 10086, 10188, 10861, 11432, 11597, 12405, 12462, 12946, 13203, 13796, 13969, 14018, 14120], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 351, 604, 836, 1479, 1733, 2566, 2795, 3137, 3283, 3603, 3788, 4181, 4597, 4793, 5245, 5583, 5827, 5979, 6072, 6233, 6634, 7172, 7716, 9091, 10085, 10173, 10856, 11415, 11589, 12397, 12453, 12896, 13202, 13795, 13968, 14003, 14103, 14146], dtype=int32)}
ヴィクトリア朝はいつ起きた?
ヴィクトリア朝
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([145], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([152], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ヴィクトリア朝(ヴィクトリアちょう、English: Victorian era)は、ヴィクトリア女王がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す。この時代はイギリス史において産業革命による経済の発展が成熟に達したイギリス帝国の絶頂期であるとみなされている。 なお、ここで用いる「朝」は「時代(ある一人の君主が統治していた期間)」の意味であり、「王朝(ある一定の血統に属する君主たちが統治していた期間)」を指し示すものではない。 概観 ヴィクトリア朝は上のような社会の変化の観点から、初期(1837年から1850年)、中期(1850年から1870年代)、後期(1870年代から1901年)の3期に分類されることが多い。 初期は、ヴィクトリア朝以前の1832年に行われた第一次選挙法改正や1846年の穀物法廃止などに見られる様に、産業資本家の勢力が伸張した時代である。中期には1860年の英仏通商条約、およびグラッドストン首相のもとでの自由貿易体制が整えられ、イギリス帝国は絶頂期を迎えた。後期には、イギリス国内の生産設備老朽化や、資本集中の遅れから重化学工業への転換が遅れた一方、アメリカ合衆国やドイツなどの工業力が向上し、イギリスの経済覇権に揺らぎが見え始めた。 政治 帝国主義政策は植民地紛争の増加をもたらし、ボーア戦争、アフガン戦争などが発生した。国内において政治改革と参政権の拡大によって政治方針は次第にリベラルになっていった。 ヴィクトリア初期の下院はホイッグ党と保守党の二大政党により支配されていた。1850年代の後半にはホイッグが自由党に改組されている。メルボルン卿、サー・ロバート・ピール、ダービー卿、パーマストン卿、ウィリアム・グラッドストン、ベンジャミン・ディズレーリ及びソールズベリー卿といった多くの著名な政治家がこれらの党を率いた。アイルランドへの自治権付与に関する問題がヴィクトリア後期で大きな政治問題となり、グラッドストンやパーネルなどの政治家が問題の解決をはかった。アイルランド問題の根本的な解決は第一次世界大戦後のアイルランド自由国建国まで持ち越されることになった。 パーマストン首相はバーミンガムで購入された爆弾によるフランス皇帝ナポレオン3世の暗殺計画であるオルシーニの陰謀の処理を巡って1858年1月に辞任に追い込まれた。 1866年7月、ラッセルの首相辞任を要求したロンドンの怒れる群集がハイドパークから警察によって排除された。彼らは鉄のレールをはがし、花壇を踏み荒らした。このような騒擾により、ダービーとディズレーリはさらなる議院改革の必要性を確信する。 1875年、エジプトがその負債を支払う資金を捻出させるため、英国はスエズ運河のエジプト領土を購入する。 1881年、ロンドン滞在中のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスに影響を受けたヘンリー・ハインドマンによってイギリス初の社会主義政党である社会民主連盟(当初は民主連盟)が結成され、ウィリアム・モリスらが参加する。 1882年、英軍が最重要貿易路でありインドへの通路でもあるスエズ運河を囲む地域を占領したのち、エジプトはイギリスの保護領となる。 1884年、ロンドンの中流知識階層の一団が社会主義の発展を目指してフェビアン協会を設立。クエーカー・エドワード・ピーズ17歳、ヘイブロック・エリス25歳及びイーディス・ネズビット26歳が参加していた。ジョージ・バーナード・ショー、H.G.ウェルズは後にこの会に参加することになる。 1887年11月13日日曜日、多くが社会主義者と失業者から成る数万人の群衆がトラファルガー広場に集結し、政府に対してデモを行った。市警察長官サー・は武装した兵士と2000名の警察官に処理を命じた。暴動が発生し、数百人の負傷者と2人の死亡者が発生した。この事件は「血の日曜日」事件と名づけられた。 事件 1851年、世界初の万国博覧会となったロンドン万国博覧会がロンドンのハイド・パークで開催され、国際的な注目を集め成功裏に終わった。 1888年、「切り裂きジャック」として知られる連続殺人犯がロンドンの路上の娼婦を殺し死体を損壊する事件がおき、世界的にメディアを騒がせ、ヒステリーを生んだ。新聞はこの死神を利用して、失業者の苦境に注目を集め、警察と政治的指導者を攻撃した。殺人鬼は結局つかまらなかったが、この事件はサー・を辞任に追い込んだ。 科学、技術及び工学 産業革命は既に勢いづいていたが、工業化の効果が20世紀の大衆社会を生み出すのはまさにこの時期である。産業革命はイザムバード・キングダム・ブルネルらによって国中の鉄道網を発達させ、工学に大きな前進をもたらした。 ヴィクトリア朝では今日のように科学が学問分野となるまでに成長した。大学における科学の知的専門職が増えると共に、ヴィクトリア朝の多くの紳士たちが博物学に身を捧げた。 チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が1859年に発刊され、民衆のものの考え方に非常に大きな影響を与えた。 1863年1月、グラッドストン総理大臣がロンドン地下鉄を開通させた。 1882年、白熱電灯がロンドンの街路に導入された。しかしあらゆる場所に行き渡るには、なお何年もの時間がかかった。 文化 ヴィクトリア女王の治世1837年から1901年は英国の黄金期であるばかりでなく、英国の美術にとっても黄金期、爛熟期であった。公私とも円満だった女王とアルバート公夫妻に象徴されるように、この時代には家庭の平和と、いや増す繁栄があり、それらが絵画が花開く条件につながっていた。 この時代はコンスタブル、ターナー、ランドシーア、ロセッティ、ミレー、バーン=ジョーンズ、レイトン、ワッツ及びホイッスラーらを生んだ。彼らはヴィクトリア女王の治世の間、生存していた(コンスタブルは例外で、ヴィクトリア女王の即位の年に死亡した)。およそ11,000名の一般に認められた画家が誕生した。凡庸な者も多かったが、高い才能と美術的な完成度を持つものも数多かった。 この時代は膨大な数の美術品を生み出し、一般大衆が展覧会に殺到した。その中には絵画の立派なコレクションを持つ富裕層もいた。ヴィクトリア女王は英国の芸術家を後援した。数多くの芸術家が貴族と同等の人間関係をもって上流社会と交わるという名誉ある地位を占めた。その結果、ヴィクトリア朝の英国は、これに先立ついかなる偉大な芸術時代とも比肩する創造性の開花を見ることとなった。 ヴィクトリア朝は多くの人に、感傷、過度の上品さ、装飾過剰を連想させる。しかし、ヴィクトリア朝の画家はいまだかつてない産業革命の成果と、全面的な社会や道徳観の変化をうまく描き出した。ディケンズやジョージ・エリオットの小説、オスカー・ワイルドの演劇、及びテニスンやブラウニングの詩は、ヴィクトリア朝の画家に相手役を持っていた。この時期はエスタブリッシュメントと進歩主義的趣味の分離が始った。進歩主義はアバンギャルドの近代的な思想を生み出す。芸術家のグループが拡大し、ラファエル前派、「ザ・クリーク」、セントジョーンズウッド派、クランブルックコロニー、ニューリン派として知られる集団が生まれた。ラファエル前派は、詳細と真実は、人生と芸術の両方において重要だと信じた。絵画において人と物は理想化されてはならない、いぼやしみの全てに至るまで実物のリアリティーを反映していなければならない、と考えた。一部の画家は単に独立を好み、コロニーや団体に所属するのを避けた。英国の芸術においては、多様性と個人主義こそが魅力を生むのである。 ヴィクトリア朝の画家たちは、さまざまな社会的・教育的背景を持つ幅広い層にも理解できるように作品を作ることを選んだ。これにより、娯楽と共に文化的向上を提供したのである。ヴィクトリア朝の芸術は大衆的芸術だった。絵画は、テクノロジーが絵画に競合するアトラクションを提供する今日そうである以上に、社会でより幅広く議論されていたのだった。ヴィクトリア朝芸術の並外れた豊かさ、多様性、複雑さは、裕福で複雑な社会を反映していた。絵画は、後にヴィクトリア時代として知られることになる英国の富と力の絶頂期の理想、社会構造、上昇志向を背景としていなければならなかった。産業革命も芸術に強い衝撃を与えた。ロマン主義とリアリズムはどちらも、この時代の力強い変化への反応と考えられている。 ヴィクトリア朝における特記すべき文化の項目は以下のとおり: 文学 小説 エリザベス・ギャスケル ジョージ・ギッシング ジョージ・エリオット トマス・ラブ・ピーコック チャールズ・ディケンズ アーサー・コナン・ドイル アンソニー・トロロープ ウィルキー・コリンズ オスカー・ワイルド シャーロット・ブロンテ(カラー・ベル) エミリー・ブロンテ(エリス・ベル) アン・ブロンテ(アクトン・ベル) ウォルター・スコット ウィリアム・メイクピース・サッカレー ルイス・キャロル ロバート・ルイス・スティーヴンソン トマス・ハーディ ジョージ・ムーア 詩 アルフレッド・テニスン ウィリアム・モリス ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン マシュー・アーノルド クリスティーナ・ロセッティ エミリー・ブロンテ ライオネル・ジョンソン アーネスト・ダウソン W.B.イェイツ(若い時の) トマス・ハーディ ジェラルド・マンリー・ホプキンス A.E.ハウスマン ロバート・ブラウニング エリザベス・バレット・ブラウニング 評論・随筆 トーマス・カーライル マシュー・アーノルド ジョン・ラスキン ジョン・スチュアート・ミル ウォルター・ペイター 演劇 メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』及び吸血鬼小説の新しいジャンルの翻案ものの舞台。1849年、フランケンシュタインと吸血鬼の物語は最終的に『フランケンシュタイン;または吸血鬼の犠牲者』として融合する。1887年、フランケンシュタインの怪物と吸血鬼が北極まで追跡されるという演劇『モデルマン』がロンドンで公演される。 オスカー・ワイルドのウィットとドラマ。『真面目が肝心』など。 ヘンリック・イプセンのロンドン公演に関する論争。ジェームズ・ジョイスやジョージ・バーナード・ショーらはこの冷酷なノルウェー人の新しいドラマチックな様式を支持した。 音楽 ギルバートとサリバンのオペレッタ 美術 建築におけるゴシック様式の復興 ジョン・ラスキン、英国における最初の美術批評家 美術におけるラファエル前派(一部はラスキンによって触発された) 芸術家グループ The Clique ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動 アメリカの画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの美的観念の影響 ジャポニスム 服飾 宗教と道徳 信仰においては: ヴィクトリア女王の治世の初期に起こったオックスフォード運動/トラクト運動 1865年、ウィリアム・ブースがロンドンで救世軍を始める。 1890年代に神智学やその他のオカルト趣味が勃興。 ヴィクトリア朝は今日では多くの矛盾の一つと考えられている。幅広い層で威儀や節度が洗練されていったことと、嘆かわしい現象の拡大は、矛盾しているように見える。こうした現象には、売春、児童労働、および、今日では労働者階級の搾取や帝国主義による植民地の搾取と考えられる活動にほとんどの基盤を置く経済を含む。このため、ヴィクトリア朝的価値観</i>という表現は、長短あわせ持つ、という意味で使われることがある。 ヴィクトリア朝的</i>という用語は、非常に厳しいがしばしば偽善的な道徳的基準、などといった幅広い意味合いを持っている。 (en:Victorian eraより翻訳) 関連項目 Category:ヴィクトリア朝 Category:ヴィクトリア朝を舞台とした作品 外部リンク (in English) (in English)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%9C%9D
{'plaintext_start_byte': array([ 3, 259, 659, 1148, 1485, 1792, 2287, 3344, 4235, 4531, 4860, 5280, 5482, 6064, 6607, 6875, 8671, 8896, 9714, 9961, 10317, 10492, 11997, 12131, 12291], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 258, 658, 1112, 1484, 1791, 2255, 3343, 4200, 4530, 4859, 5279, 5481, 6063, 6606, 6837, 8633, 8895, 9685, 9960, 10316, 10470, 11983, 12130, 12290, 12336], dtype=int32)}
エカチェリーナ2世に拝謁した日本人は誰ですか?
大黒屋光太夫
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
大黒屋 光太夫(だいこくや こうだゆう、宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。 天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。 幕府の老中・松平定信は光太夫を利用してロシアとの交渉を目論んだが失脚する。その後は江戸で屋敷を与えられ、数少ない異国見聞者として桂川甫周や大槻玄沢ら蘭学者と交流し、蘭学発展に寄与した。甫周による聞き取り『北槎聞略』が資料として残され、波乱に満ちたその人生史は小説や映画などでたびたび取りあげられている。 生涯 出生から船頭時代 伊勢亀山藩領南若松村(三重県鈴鹿市南若松)の亀屋四郎治家に生まれる。四郎治家は船宿を営み、光太夫(幼名は兵蔵)は次男で兄の次兵衛がいる。母は伊勢藤堂藩領玉垣村(鈴鹿市玉垣)で酒造業・木綿商などを営む清五郎家の娘妙伯(法名)。 父の四郎治は兵蔵の幼少期に死去し、四郎治家は姉の国に婿養子を迎え家督を相続させる。兄の次兵衛は江戸本船町の米問屋白子屋清右衛門(一味諫右衛門)家に奉公し、兵助も長じると母方の清五郎家の江戸出店で奉公する。 1778年(安永7年)に兵蔵は亀屋分家の四郎兵衛家当主の死去に際して養子に迎えられ、伊勢へ戻ると亀屋四郎兵衛と改める。伊勢では次姉いのの嫁ぎ先である白子の廻船問屋一味諫右衛門の沖船頭小平次(沖船頭大黒屋彦太夫)から廻船賄職として雇われ、船頭となる。1780年(安永9年)には沖船頭に取り立てられ、名を大黒屋光太夫に改める。 漂流とロシアへの渡航 1783年1月(天明2年12月)、光太夫は船員15名と紀州藩から立会いとして派遣された農民1名とともに神昌丸で紀州藩の囲米を積み、伊勢国白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風にあい漂流する。7か月あまりの漂流ののち、一行は日付変更線を超えてアリューシャン列島の1つであるアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。もともとはロシア人に保護されるような立場だったが、そのロシア人たちを帰還させるための船が到着目前で難破し、漂流民が逆に増えた。そのため、光太夫らが逆に指導的立場に立って、難破した船の材料などを活用し、脱出用の船を作った。 その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年(寛政元年)イルクーツクに至る。道中、カムチャツカでジャン=バティスト・バルテルミー・ド・レセップス(フランス人探検家。スエズ運河を開削したフェルディナン・ド・レセップスの叔父)に会い、後にレセップスが著した旅行記には光太夫についての記述がある[2]。イルクーツクでは日本に興味を抱いていた博物学者キリル・ラクスマンと出会う。キリルを始めとする協力者に恵まれ、1791年(寛政3年)、キリルに随行する形でサンクトペテルブルクに向かい、キリルらの尽力により、ツァールスコエ・セローにてエカチェリーナ2世に謁見し、帰国を許される。 日本への帰国と日露交渉 日本に対して漂流民を返還する目的で遣日使節アダム・ラクスマン(キリルの次男)に伴われ、漂流から約10年を経て磯吉、小市と3人で根室へ上陸、帰国を果たしたが、小市はこの地で死亡、残る2人が江戸へ送られた。 光太夫を含め神昌丸で出航した17名のうち、1名はアムチトカ島漂着前に船内で死亡、11名はアムチトカ島やロシア国内で死亡、新蔵と庄蔵の2名が正教に改宗したためイルクーツクに残留、帰国できたのは光太夫、磯吉、小市の3名だけであった。 帰国後は、11代将軍徳川家斉の前で聞き取りを受け、その記録は桂川甫周が『漂民御覧之記』としてまとめ、多くの写本がのこされた。また甫周は、光太夫の口述と『ゼオガラヒ』という地理学書をもとにして『北槎聞略』を編纂した。海外情勢を知る光太夫の豊富な見聞は、蘭学発展に寄与することになった。 光太夫は、ロシアの進出に伴い北方情勢が緊迫していることを話し、この頃から幕府も樺太や千島列島に関して防衛意識を強めていくようになった。 その後、光太夫と磯吉は江戸・小石川の薬草園に居宅をもらって生涯を暮らした。ここで光太夫は新たに妻も迎えている。故郷から光太夫ら一行の親族も訪ねて来ており、昭和61年(1986年)に発見された古文書によって故郷の伊勢へも一度帰国を許されていることも確認されている。寛政7年(1795年)には大槻玄沢が実施したオランダ正月を祝う会に招待されており、桂川甫周を始めとして多くの知識人たちとも交際を持っていた。 光太夫の生涯を描いた小説『おろしや国酔夢譚』(井上靖、1968年)では帰国後の光太夫と磯吉は自宅に軟禁され、不自由な生活を送っていたように描かれているが、実際には以上のように比較的自由な生活を送っており、決して罪人のように扱われていたわけではなかったようである。それら資料の発見以降に発表された小説『大黒屋光太夫』(吉村昭、2003年)では事実を反映した結末となっている。 なお、三重県鈴鹿市若松東には光太夫の行方不明から2年後に死亡したものと思い込んだ荷主が建立した砂岩の供養碑があり、1986年に鈴鹿市の文化財に指定されている[3]。 大黒屋光太夫に関わる史料 北槎聞略 - 桂川甫周 1794年 報告用に編纂された将軍家斉への献上本 全10巻と絵図・地図 北槎異聞 - 篠本久次郎 幕府正規の取調べ記録 全4巻 魯西亜国漂舶聞書(おろしやこくひょうはくききがき) 漂民御覧之記 - 桂川甫周 光太夫の将軍上覧の様子をまとめた 我衣(わがころも) - 加藤曳尾庵が、65歳の光太夫を描いている。国立国会図書館所蔵。 環海異聞 - 若宮丸漂民の聞き取りによる編纂を大槻玄沢に乞われ手伝った。その際、庄蔵と新蔵の消息、キリル・ラックスマンの死を知った。 寛政五年神昌丸二漂民両目付吟味録 光太夫談話 一席夜話 日本来航日誌 - アダム・ラックスマンの日誌。『大黒屋光太夫史料集』に日本語の全訳がある。 芝蘭堂新元会図 - 市川岳山画、早稲田大学図書館・洋学文庫所蔵。芝蘭堂のオランダ正月の会で、光太夫と思われる人物がキリル文字で1月と筆書きしている。 レセップスの旅行日記 - フランスのバルデミー・レセップス(ジャン・レセップス)がカムチャツカで光太夫と交流があり、その様子を記している。バルデミーはスエズ運河建設を指揮したフェルディナン・ド・レセップスの叔父。 光大夫談筆記(こうだゆうだんぴつき) - 国学者伴信友の聞き取り記録。文政年間唯一の史料1826年。 極珍書 - 磯吉の帰郷時、地元の心海寺住職実静が磯吉から聞き取りして記録したもの。 大黒屋光太夫らの帰郷文書 - 1986年に鈴鹿市で発見された光太夫の帰郷を示す古文書。 大黒屋光太夫を描いた作品 小説 井上靖『おろしや国酔夢譚』 本小説はBrigitte Koyama-Richardにより仏文に翻訳された。仏文による表題はReves de Russie(ロシアの夢)である。 吉村昭『大黒屋光太夫』 映画 『おろしや国酔夢譚』(1992年、大映 監督:佐藤純彌 主演:緒形拳) ルポルタージュ 椎名誠『シベリア追跡』 漫画 みなもと太郎『風雲児たち』 森川久美『ソフィアの歌』(原作:五木寛之) さいとうたかを『大黒屋光太夫 江戸の世にロシアを見た男』(1992年 徳間書店) ISBN 4-19-444858-8 『NHKその時歴史が動いた コミック版 冒険・挑戦編』「ロシア女帝が涙した帰国願い—日露交渉の扉を開いた大黒屋光太夫」 作画は大和虹一 (ホーム社) 浪曲CD 『ああ大黒屋光太夫 前編・後編』(真山隼人・作)(2017年 ハヤトエンタテインメントミュージックジャパン・HEMJ-1701) 大黒屋光太夫記念館 2005年(平成17年)11月13日、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市の生家跡近くに<b data-parsoid='{"dsr":[6687,6702,3,3]}'>大黒屋光太夫記念館</b>が開設された。設置者は鈴鹿市(文化振興部)。 光太夫の肖像や直筆の墨書、光太夫がペテルブルクで書いた手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されている。また、年3回の企画展(春:帰郷文書公開、夏:光太夫の生涯、冬:光太夫のロシア文字墨書公開)や、特別展を随時行っている。 記念館の開館以前は、道を挟んで隣接する鈴鹿市立若松小学校内に「大黒屋光太夫資料室」が設けられていた[4]。 脚注 参考文献 生田美智子『大黒屋光太夫の接吻 異文化コミュニケーションと身体』(平凡社選書) - 平凡社(1997年2月) ISBN 458284166X 植木静山『ロシアから来た黒船 幕末の北方領土交渉』 - 扶桑社(2005年8月) ISBN 4594049958 桂川甫周 著・亀井高孝 校訂『北槎聞略 大黒屋光太夫ロシア漂流記』(岩波文庫) - 岩波書店(1990年10月) ISBN 4003345614 亀井高孝『大黒屋光太夫』 - 吉川弘文館(1987年2月) ISBN 4642050671 木崎良平『光太夫とラクスマン 幕末日露交渉史の一側面』 - 刀水書房(1992年3月) ISBN 4887081340 木崎良平『漂流民とロシア 北の黒船に揺れた幕末日本』(中公新書) - 中央公論社(1991年6月) ISBN 4121010280 山下恒夫『大黒屋光太夫 帝政ロシア漂流の物語』(岩波新書) - 岩波書店(2004年2月) ISBN 4004308798 山下恒夫編纂『大黒屋光太夫史料集』 - 日本評論社 第1巻(2003年1月) ISBN 4535066175 第2巻(2003年3月) ISBN 4535066183 第3巻(2003年5月) ISBN 4535066191 第4巻(2003年6月) ISBN 4535066205 大黒屋光太夫記念館 開館記念特別展「大黒屋光太夫とふるさと・魯西亜・日本」(図録) - 鈴鹿市(2005年11月) 大黒屋光太夫記念館 開館1周年記念展「帰ってきた 光太夫~ラクスマンの来航と日露会談~」(図録) - 鈴鹿市(2006年10月) 関連項目 津太夫 紅茶 - エカチェリーナとの会見の際、欧式茶会に招かれたという『日本人初』の公式記録。     (17世紀の書物『青湾茶話』に紅茶の記述があり、紅茶を飲んだ日本人は江戸時代初頭にいたと思われる) 大黒梅陰 - 漢学者。光太夫の子。 外部リンク - 鈴鹿市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%BB%92%E5%B1%8B%E5%85%89%E5%A4%AA%E5%A4%AB
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 328, 872, 1710, 2272, 2864, 3303, 3803, 4477, 4963, 5323, 5800, 6157, 6675, 7233, 7713, 8024, 8690, 9228, 9637, 10139, 10400, 10559, 11003, 11368, 11776, 12015, 12627, 13374, 14636, 15335, 15731], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 327, 857, 1709, 2205, 2863, 3302, 3802, 4476, 4902, 5322, 5799, 6156, 6674, 7181, 7712, 8023, 8629, 9227, 9636, 10138, 10399, 10558, 11002, 11367, 11775, 11995, 12626, 13358, 14606, 15318, 15716, 15778], dtype=int32)}
ルイ13世の出身はどこ
ルイ13世 (フランス王)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([945], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([978], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ルイ13世(French: Louis XIII、1601年9月27日 - 1643年5月14日)は、ブルボン朝第2代のフランス国王(在位:1610年5月14日 - 1643年5月14日)。ナバラ国王としては<b data-parsoid='{"dsr":[1181,1192,3,3]}'>ルイス2世(Basque: Luis II.a)。ブルボン朝創成期の王である。 父王アンリ4世の暗殺により幼くして即位した。母后マリーが摂政を務めるが、成年すると母后を排除している。リュイヌ公シャルル・ダルベール、次いで有能なリシュリュー枢機卿を重用してユグノーなどの国内の抵抗勢力を制圧し、国外では三十年戦争でハプスブルク家と戦い、国政を整備して最初期の絶対君主の一人となった。また、ブルボン朝で初めてハプスブルク家と政略結婚した。 生涯 出生 アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの長子としてフォンテーヌブロー宮殿で生まれた。王の息子であるルイはフィス・ド・フランスの称号を与えられ、長男だったためドーファン(王太子)となった。父アンリはサリカ法に則り、母方では又従弟であるアンリ3世から王位を継ぎ、ブルボン朝初代のフランス王となった人物である。ルイ13世の父方の祖父母はヴァンドーム公アントワーヌおよびナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ、母方の祖父母はメディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世および神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の皇女ヨハンナであり、母方の叔母エレオノーラ・デ・メディチが代母となった[1]。 父王アンリ4世は40年近くにわたったユグノー戦争を終わらせて国内を平定し、ナントの勅令を発してカトリックとユグノーの対立を一応は鎮めた。だが、ナント勅令はユグノーに信仰の自由を保証しただけでなく、プロテスタント地域での軍事・政治の特権も与え、「国家の中の国家」と呼ばれる状態となり、根強い宗教対立とともに国内の不安定要因となっていた。 マリー・ド・メディシスの統治(1610年 - 1617年) 1610年、父アンリ4世が狂信的なカトリック教徒に暗殺されたことにより、ルイ13世は8歳半で即位し、13歳になるまで母マリー・ド・メディシスが摂政を務めることになる。マリーは夫の時代の大臣たちのほとんどをそのまま残したが、国民に人気がなかったシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌは引退させている。代わりに彼女はニコラ・ド・ヌフヴィル、ノエル・ブリュラール・ド・シルリーそしてピエール・ジャナンを重用した。 マリーはナント勅令を確認して穏健な政策を行っていたが、継承順位第1位であるコンデ公アンリ2世の反乱を防ぐことはできなかった。マリーと諍いを起こしたコンデ公は1614年に兵を挙げたが支持はほとんどなく、彼女は自らの軍を掌握できた。和平が成立したものの、マリーはコンデ公の要求により三部会を招集している。 この三部会の開催は、ルイ13世の13歳の誕生日まで延期された。ルイ13世が誕生日を迎えて正式にマリーの摂政は終わったが、彼女は事実上のフランスの統治者であり続けた。三部会の成果はほとんどなく、フランスとローマ教皇との関係、官僚の汚職などが討議されたが、何らの決議にも至らなかった。これ以後、三部会はブルボン朝末期の1789年まで開催されていない。 1615年にルイ13世はスペイン王フェリペ3世の王女アナ(アンヌ・ドートリッシュ)と結婚したが、カトリックのスペインとの同盟強化はユグノーを警戒させた。また、この年の始め頃から母后マリーは侍女レオノーラ・ガリガイとその夫コンチーノ・コンチーニを次第に寵臣として重用し始める。これはコンデ公をより一層敵対させ、1616年に再びコンデ公は反乱を起こした。ユグノーの指導者たちは反乱を支援し、この事が若いルイ13世に、彼らは決して忠実な臣下ではないと確信させることになる。 一方、大鷹匠シャルル・ダルベールがルイ13世に、母后から離れ反乱軍を支持するよう説得する。1617年4月24日に宮廷クーデターが起き、寵臣コンチーノは暗殺され、レオノーラは魔女として処刑される。母后マリーはブロワ城に幽閉された。ルイ13世は新たな寵臣となったシャルル・ダルベールをリュイヌ公とした。 リュイヌ公シャルルの権勢(1617年 - 1621年) だが、リュイヌ公は程なくコンチーノと同様に不人気となった。貴族たちはリュイヌ公が国王の信任を独占していることに憤慨したと同時に、リュイヌ公はマリーに仕え、既に退いているアンリ4世時代の大臣たちよりも能力的に劣ると見なされていたからであった。 1618年に三十年戦争が勃発する。フランス宮廷はカトリックの皇帝とプロテスタント諸侯のどちらに加担すべきか決めかねていた。ハプスブルク家との長年のライバル関係からはプロテスタントに加担して介入すべきとの議論があったが、一方で国王自身は熱心なカトリックであり、彼の意向は神聖ローマ皇帝フェルディナント2世を支持することだった。 1618年にリュイヌ公が官職の世襲を保証したポーレット法(La Paulette)を廃止して1620年に売官制度を始めると、フランス貴族たちは更に敵対するようになる。ブロワに幽閉されていた母后マリーが不平貴族たちの拠り所となり、1619年にマリーはブロワ城を脱出する。 マリーを迎えたフランス貴族たちは1620年に反乱を起こしたが、8月のポン=ド=セーの戦いで反乱軍はあえなく壊滅してしまう。続いて、ルイ13世は王令に幾度も反抗を続けていたユグノーの拠点ベアルンに対する討伐軍を派遣した。討伐軍はベアルンにカトリックを再建したものの、この討伐によってユグノーたちを他の地域へ追いやることになり、ロアン公アンリが反乱を起こす。 母后マリーの助言者であるリュソン司教リシュリューが仲介役となって、1621年にルイ13世は母と和解する。リュイヌ公は大元帥に昇り、ルイ13世とリュイヌ公はユグノーの反乱の鎮圧に臨んだ。だが、ユグノーの根拠地モントーバンの包囲は国王軍の多くがチフスに倒れてしまったために、3ヵ月で放棄せねばならなくなる。この犠牲者の一人がリュイヌ公で、12月に死去した。 国務会議による統治(1622年 - 1624年) リュイヌ公の死後、ルイ13世は国務会議によって統治を行うと決める。1622年に幽閉を解かれた母后マリーが会議に加わり、国務会議ではコンデ公がユグノーを武力をもって弾圧することを主張した。1622年に行われた討伐は先年と同じ経過をたどることになる。国王軍は緒戦で勝利したものの、続く包囲戦で敵の根拠地モンペリエを陥落させられなかった。 10月にルイ13世とロアン公との間にモントーバン協定が結ばれて反乱は終結した。協定はナント勅令の主旨を確認するもので、ユグノーの幾つかの要塞は破却されたが、モントーバンとラ・ロシェルの支配権はユグノーに残された。 1624年、ルイ13世はノエル・ブリュラール・ド・シルリーとピエール・ジャナンを罷免している。これは彼らが当たっていたヴァルテッリーナを巡るスペインとの外交状況を、国王が不快に感じたからであった。ヴァルテッリーナはカトリック住民の地域だが、プロテスタントのグリゾンの統治下にあった。ここはフランスからイタリアへの重要な経路であり、スペインがそのヴァルテッリーナへしきりに干渉を続けていたことがルイ13世を怒らせた。 リシュリュー枢機卿の執政(1624年 - 1643年) ルイ13世はリシュリュー枢機卿を1624年に首席国務卿(宰相)に登用した。以降、彼がルイ13世の治世で大きな役割を果たし、その後18年間にわたりフランスのかじ取りを行っていくことになる。リシュリューの業績によってルイ13世は絶対君主の最初の一人となる。ただし、王妃の不貞などのストレスから若はげとなり、22歳でかつらを着用し、ヨーロッパにかつらを普及させたことでも有名である。 ルイ13世とリシュリューは懸案だったユグノー討伐に乗り出した。1628年、14ヵ月の包囲戦の末にユグノーの本拠ラ・ロシェルを陥落させ(ラ・ロシェル包囲戦)、ラ・ロシェル和議によりアンリ4世によって与えられたユグノーに対する政治的、軍事的特権を撤廃させた(信仰の自由は許容されている)。 1630年にリシュリューに不満を持った国璽尚書ミシェル・ド・マリヤックら一部貴族が母后マリーと結んでリシュリュー排斥のクーデターを企てた。ルイ13世も一旦はリシュリュー罷免に同意したものの、翌日には態度を翻してしまう(「欺かれし者の日」)。クーデターはリシュリューが勝利してマリヤックは罷免、母后マリーは再び追放され、ブリュッセルへ亡命した。 1635年、フランスは三十年戦争にプロテスタント側で介入し、国王自ら軍を率いてスペイン軍と戦火を交える。だが、戦争によって重税が課されて民は困窮し、民衆蜂起が各地で起こっている。 1638年に王妃アンヌ・ドートリッシュが24年の結婚生活の末に王位継承者である待望の男子(後のルイ14世)を生んだ。 ルイ13世とリシュリューの下、アンタンダン(地方監察官)の設置により貴族の規律を保って国王集権化を強化し、加えてル・アーヴル港を近代化させ、強力な海軍を構築した。不運なことに、国王とリシュリューには切実に必要とされる行政(特にフランスの税制)を改革する時間的、そして情勢的余裕は残されていなかった。 国外では、ルイ13世は北アメリカ大陸のヌーベルフランスの開発と行政を組織し、植民地をケベックからモントリオールへと、セントローレンス川の西方にまで拡大させている。また1640年にフランス領と宣言された島(レユニオン)を1642年に「ブルボン島」と命名した。 文化面ではルイ13世は、フランスの有望な芸術家が国を離れてイタリアで学び、仕事をする風潮を変えさせるよう努力をしている。そのため、彼は画家のニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュにルーヴル宮を装飾させる任に就かせている。また、『アマリリス』を作曲したとされている。 1642年12月にリシュリューが死去する。その5ヶ月後の1643年5月14日にルイ13世もルーヴル宮において41歳で崩御した。その後をわずか4歳のルイ14世が継ぐことになる。 家族関係など 1615年11月24日、スペイン王フェリペ3世の王女アナ(アンヌ・ドートリッシュ)と結婚した。これはカトリック勢力のフランスとスペインとの軍事的及び政治的同盟を固める伝統に従った王室間結婚である。この伝統はフェリペ2世とフランス王女エリザベート・ド・ヴァロワとの結婚に遡る。仲睦まじかったのはごく短い間で、国王は夫の義務を果たさなくなる。23年間の結婚生活と4度の流産を経て、1638年にアンヌは後のルイ14世となる男子を出産した。 多くの人々がこの出産を神による奇跡であると見なし、長い間待ち望まれた王位継承者の誕生を神に感謝するために、両親はこの子を「神の賜物」(“Louis-Dieudonné”)と呼んだ。別の感謝の印として、幾つかの解釈によれば、出産の数ヶ月前に、フランスはルイ13世によって処女マリアへ献納をしており、マリアがこの奇跡を取り成したと多くの人々が信じた[2][3][4]。しかしながら、この献納の文書には王妃の妊娠と出産については書かれていない。また、ルイ13世自身が息子の誕生後にこの奇跡について疑問を投げかける発言をしている[5]。 性的関心 ルイ13世が愛人を抱えていた証拠はない(それ故、彼は「純潔ルイ」のあだ名を受けている)。だが、そのために彼はホモセクシャルないしバイセクシャルであるとの噂が根強い。ジェデオン・タルマン・デ・レオーは王家の批評家(ランブイエ侯夫人)から聞いた噂を引き合いに出し、彼の著書“Historiettes”で国王のベッドで何が起こっているのかを推察している[6] 。侍従フランソワ・ド・バラダとの性的関係(彼は王令で決闘が禁止された後に決闘を行って敗れて命を落としている)[7] 。彼はまたサン=マール侯爵アンリ・コワフィエ・ド・リュゼに惹かれていたとも言われている(彼は戦時にスペインとの通謀をした咎で処刑されている)。タルマンはロイヤル・ジャーニーが如何なるものかを叙述している。「王は花嫁のように着飾った衣裳を脱がせた。『ベッドへ、ベッドへ』と彼は彼に堪え切れずに語りかける・・・小さくてかわいい彼がベッドに入る前に、王は既に彼の手にキスをしていた。」[8] 系譜 脚注 参考文献 Herbert of Cherbury, Edward, The Life of Edward, Lord Herbert of Cherbury, Written by Himself, Whittaker, Treacher, and Arnot, (London), 1830. Howell, James "Louis XIII" English historiographer Royal 1661-1666 Huxley, Aldous. "The Devils of Loudun". The 1952 book tells the story of the trial of Urbain Grandier, priest of the town who was tortured and burned at the stake in 1634. Knecht, Robert, Renaissance France, genealogies, Baumgartner, genealogical tables. Moote, A. Lloyd. Louis XIII, the Just. Berkeley; Los Angeles; London: University of California Press, 1991, (paperback), ISBN 0-520-07546-3). Willis, Daniel A. (comp). The Descendants of Louis XIII. Clearfield, 1999. 日本語文献 谷川稔、鈴木健夫、村岡健次、北原敦『世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩』(中公文庫、2009年) ISBN 978-4122051294 成瀬治『世界の歴史15 近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年) 大野真弓、山上正太郎『世界の歴史8 絶対主義の盛衰』(教養文庫、1974年) ISBN 978-4-390-10829-4 関連項目 三銃士 ブランデー ボー・サンシー 外部リンク 地位の継承
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A413%E4%B8%96%20%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%29
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 434, 726, 913, 1031, 1234, 1572, 2447, 2645, 2813, 3828, 4100, 4590, 5214, 5516, 5995, 6754, 7079, 7389, 7689, 8402, 8469, 8885, 9268, 9486, 9566, 9899, 10123, 10668, 11339, 11640, 11889, 12667, 12931, 13492, 14426, 17867, 21603, 23952, 24150, 24355, 24464, 24826, 25464, 25940, 26552, 26693, 26848, 27020, 27638, 27881, 28280, 28353, 28594, 29182, 29907], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 426, 725, 912, 1030, 1161, 1571, 2390, 2615, 2812, 3827, 4057, 4551, 5162, 5515, 5945, 6753, 7078, 7388, 7650, 8401, 8468, 8883, 9266, 9412, 9565, 9898, 10122, 10667, 11338, 11639, 11888, 12666, 12816, 13491, 14393, 17831, 21571, 23951, 24149, 24325, 24463, 24825, 25463, 25875, 26499, 26646, 26782, 26998, 27615, 27855, 28176, 28336, 28437, 29134, 29884, 30455], dtype=int32)}
MMOコンバットゲームとはなんですか?
エレクトロニック・スポーツ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
エレクトロニック・スポーツ()は、複数のプレイヤーで対戦されるコンピュータゲーム(ビデオゲーム)をスポーツ・競技として捉える際の名称である[1]。「eSports」、「e-Sports」、「eスポーツ」、「イースポーツ」、「電子競技(でんしきょうぎ)」、「電競(でんきょう)」等と省略した形で主に使われる[2]。 概要 eスポーツはLANパーティの中から生まれたとされる[3]。欧米では1990年代後半から高額な賞金がかけられた世界規模の大会も開催され、参加者の中にはアマチュアから年収1億円を超えるプロゲーマーまで含まれる[4][5]。 『League of Legends』[6]や『スタークラフト2』[7]などはプロフェッショナルスポーツと認定され、日本でもアスリートビザが発行された[8][9]。 2017年の調査では、eスポーツは世界中で3億8,500万以上の視聴者がいるとされている[10]。 日本では、2018年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされているほど、注目されている。 eスポーツに参加する インターネット経由でのプレイ eスポーツをプレイするためのもっとも簡単な方法はインターネットを経由することである。厳密に勝敗を決するにはチート行為に対処する方法や、ネットワーク遅延の問題はあるものの、娯楽、あるいは練習のためにこの簡便な方法は良く使われる。 参加者(あるいはクランと呼ばれる集まり)は連絡手段が必要となる。IRCはクラン、リーグ、その他のゲームに関連した集まりごとにチャンネルを作成することができ、簡単にそれを見つけることが出来るため良く使用されている。en:Quakenetは元々ファーストパーソンシューティングゲーム『Quake』のオンラインプレイのために作成されたが他のゲームのためにも使用されており、もっとも大きなIRCネットワークとなっている。そこから各チームのサーバでそれぞれのルールに従って競技が行われる。チーム内で連携を取るために音声通信を使う際にはDiscordのようなVoIPアプリケーションも利用される[11][12]。 ローカルエリアネットワークでのプレイ そしてそれは同時に社交的交流の場ともなり、大規模な競技会ではLANパーティー、LANセンターといった集まりが組織される。 eスポーツを観戦する 観戦して楽しむこともeスポーツの主たる娯楽性のひとつであり、eスポーツをスポーツとして楽しむひとつの要素でもある。 プロフェッショナルなeスポーツ大会がテレビを通じて放送されるなどする国もあるが(eスポーツが盛んな韓国では、世界で唯一のeスポーツ専門チャンネル「OGN」も存在する)、ウェブサイト上のストリーミング放送やゲームクライアントに実装された観戦機能がライブ放送に利用されることが主である。また、雑誌・新聞などの各メディアによる報道が行われたり、評価の高いシーンを映像加工などによって印象的に編集したムービーなどが後に配信されることも多い。国内でも、規模の大きくない大会ではストリーミングやムービーの配信が行われている。そのような小規模なオンライン大会の開催にあたっては有志のスタッフが実況・解説やサイト・映像の制作、広報などを行うことが多く、ネット上における新たな情報発信の場となっている。 このように、さまざまなメディアを通じて、営利・非営利を問わず気軽に配信され、観戦者のニーズに応じた手段で楽しむことができるのがeスポーツ観戦の特徴である。 プロフェッショナルeスポーツ eスポーツの大会は欧米やアジアなど世界各国で毎年度開催されており、テレビ中継がされたりCNNなどで毎度取り上げられるなど注目を集めているため、ハードウェアメーカーやファーストフードなどさまざまな企業がスポンサードしている。賞金総額が一億円以上となる大規模な大会もいくつかあり、世界各国の選手が参加している。 eスポーツのプロプレイヤー プロのプレイヤーは大会賞金のほか、スポンサーによる援助やキャンペーン出演料などを収入としており、中には、年収が一億円を超える人気プレイヤーのFatal1tyのようにPCパーツのブランドをプロデュースするものもいる。韓国では、国民的人気を得てタレントのようにさまざまな方面で活躍しているものもいるため、なりたい職業の上位にランクインするなど、eスポーツのプロプレイヤーは若者に多くの支持を得ている。 プロフェッショナルeスポーツの歴史 それ以来、参加者と会場のサイズは規模を拡大し、優勝決定戦になると多数の観戦者がインターネット越しに観戦するようになった。同時に勝者への賞金も膨大な物になり、2005年のCPLでは総計現金150万米ドルに達している。 CPLはeスポーツの開拓者としての精神を保ちながら、2005年にはワールドツアー方式に移行、2005年のツアーでは『ペインキラー』の一対一のデスマッチに焦点を当て、これに100万米ドルの賞金を当てた。CPLのグランドフィナーレイベントでは、Johnathan "Fatal1ty" Wendelがeスポーツ史上最高賞金額となる15万米ドルを獲得した。 プロチームとプレイヤーの間の契約 eスポーツにおいて、旧来の社交的なゲームプレイヤーの組織としてのクランだったものが、フットボールチームに近いプロフェッショナル選手の組織として成長している例も存在する。プレイヤーとスポンサーの契約を扱いプレイヤーにとってその契約を容易にすることで、eスポーツとそのファンにとって存在意義が生まれている。多くのクラブが多くのゲームのための複数のチームとプレイヤーの契約を扱い、チャンスと名声を上げる仲介をしている。また彼らによりプレーヤーは管理事務から解き放たれ、ゲームのプレイに集中することが出来るのである。 2003年2月1日、SK GamingがFPSのプレイヤーとクランを結びつける最初のクラブとなった。契約条件などは明らかにされていないが、インタビューでは給与製であり、給与額は多くはないもののプレイヤーは賞金を分配して受け取ることができる。 また、SK Gamingは契約についてもう一つの先例を作っている。2003年5月19日、SK Gaming所属のノルウェーのプレイヤー Ola "elemeNt-" Moum をライバルチームであるFPS最古のチームの一つである"NoA"に移籍させ、契約金を受け取ったのである。 この移籍契約の後、多くのクラブがゲームプレイ関連商品や衣類等のグッズ販売を開始した。業界の急速な発展はクラブの収入源となり、世界中の競技会にチームが送り込まれることになった。 世界各国で開催される大会 プロフェッショナルeスポーツの競技会として広く認められている物には8つの大会が存在する。(下記を参照)それぞれの大会で用意される賞金は大きなコンピュータ技術系企業がスポンサーとして提供しているものが多い。またこれらの企業は同時に多くのeスポーツチームのスポンサーも行っており、大会への旅費、その会社の製品の提供などを賄っている。特にESLは世界最大規模のeスポーツリーグであり、グローバルに展開している。現在では主流新聞などもこういったイベントの記事を掲載することが普通になっている。 ESL() World Cyber Games ESWC Evolution Championship Series また、エレクトロニックスポーツは、2007年に中国・マカオで行われたアジアオリンピック評議会主催の第2回アジア室内競技大会において正式メダル種目となり、「FIFA 07」「NBAライブ07」「ニード・フォー・スピード モスト・ウォンテッド」の3タイトルで行われ、中国の選手が3個の金メダルを獲得した[13]。 2018年にインドネシアで開催される2018年アジア競技大会では、大会史上初めて公開競技として採用された。「ウイニングイレブン 2018」「クラッシュ・ロワイヤル」「StarCraft II: Legacy of the Void」「ハースストーン」「リーグ・オブ・レジェンド」「Arena of Valor」の6種目が行われる予定。 2022年に中国・杭州市で開催予定の2022年アジア競技大会では正式メダル種目になることが決定している[14]。 日本におけるeスポーツ 国内におけるeスポーツの定義 日本は先進国の中でも数少ないeスポーツ未承認国である。 国内でのeスポーツイベントを数年に亘って扱い、「eスポーツグラウンド」[15]などを開発したエウレカコンピューターに所属する犬飼博士は、2007年アジアオンラインゲームカンファレンスでのコメントより、eスポーツを次のように定義している。 「プレイヤーの行動をデジタル化してコンピューター上で競技するスポーツ」 「工業社会に生まれたモータースポーツの様に、情報社会に生まれた新しいスポーツ」 他のスポーツと比べて身体を動かすことがあまりないもののスポーツとして認識されているゲームのひとつに、チェス(マインドスポーツ)がある。eスポーツは「大会などで順位を競うこと」「プロとして収入を得ること」「真剣な姿勢で対戦を行うこと」など、その言葉は使われるシーンに応じてさまざまな定義に基づいていることがあるが、理解しやすい例として、モータースポーツが挙げられる。 光回線やパソコンの普及が進むにつれ、PCゲームの競技人口が年々上がりつづけている。その証拠に、RTS(リアルタイムストラテジー)という国内ではまったく浸透のなかったゲームジャンルの代表作『League of Legends』は国内のプレイヤー人口が3万人(2012年現在)を突破しプロリーグ「LJ LEAGUE」が開催、同じく人気RTSの『スタークラフト2』でもパッケージの販売本数が1万本突破(購入のメインはダウンロードの為、実際はもっと売れていると推測される)、さらに2012年現在4人のプロが存在する。 家庭用ゲーム機ではCyACが開催した『コール オブ デューティシリーズ』の大会で、720名以上参加した大会が開催[16]される他、元々格闘ゲーム先進国の日本では、梅原大吾を筆頭に10名以上ものプロゲーマーが誕生している。 eスポーツ専門紙『WORLD GAME MAGAZINE』や、eスポーツ番組『eスポーツMaX』、東京ゲームショウでの競技会「Cyber Games Asia」、「闘劇」「Asia e-Sports Cup」[17]などの大規模な大会が開催された。 日本国内の統括団体は日本eスポーツ協会、s-sports促進機構、日本eスポーツ連盟に別れていたため日本オリンピック委員会の認可団体になれないといった問題があった[18]。2018年2月には3団体が統合された日本eスポーツ連合が発足したことで解消された[19]。日本eスポーツ連合では賞金付きの大会やプロライセンスの創設を目指すとしている[19]。公認ライセンスはタイトルごとに設定され、ウイニングイレブン 2018、コール オブ デューティ ワールドウォーII、ストリートファイターV アーケードエディション、鉄拳7、パズル&ドラゴンズ、モンスターストライクが選定された[19]。 2018年3月にCygamesとCyberZが「Shadowverse」の公式プロリーグを開設し、吉本興業とJリーグ[20]がeスポーツに進出。。 高額報酬をめぐるJeSU副会長「浜村弘一」と国際カジノ研究所所長「木曽崇」の論争 日本国内での賞金付き大会に関しては、カジノ研究者の木曽崇が法令適用事前確認手続を利用して消費者庁に確認したところ、賞金や賞品が高額の場合は不当景品類及び不当表示防止法に抵触すると指摘を受けており、主催者やゲームデベロッパーなどと利害関係にない第三者がスポンサーとなる、プレイが基本無料で課金要素が結果に影響しないタイトル、などの条件を満たさなければ摘発の可能性がある[21][22]。 2月19日に梅原が主催した座談会「ゲームと金」や2月21日にAbemaプライムでeスポーツ企画の特集に出演した浜村弘一や高橋名人はプロライセンスの必要性を説いたが木曽から刑法賭博罪であると指摘されている[23]。同イベントで浜村は「プロライセンス制度は消費者庁と何度も議論を重ねた結果」と主張した。しかし、ファミ通2018年3月8日号にてeスポーツの特集記事にてファミ通編集部が景表法の問題について消費者庁へ質問を投げ、同庁表示対策課長の大元慎二も「優れた技術によって観客を魅了する仕事をし、その報酬として賞金を得る場合、その賞金はプロ・アマを問わず、景表法で言う"景品類"には該当しない」と回答し、浜村の発言と食い違いが起きている。 国内のeスポーツの歴史 1985年、広義では全国キャラバンファミコン大会が現在確認できる日本初のeスポーツ大会になる。 2003年、エンターブレイン主催の格闘ゲームを主軸としたeスポーツ大会「闘劇」が始まる。 2007年8月、ニチカレ株式会社がCyAC(Cyber Athlete Competition)を設立。以降、オンライン大会とオフライン大会を定期的に開催。 2007年、日本eスポーツ協会準備委員会が設立され、同年12月には韓国のトッププレイヤーを招いて『eスポーツ日韓戦』のパフォーマンスが行われ、各種メディアで取り上げられた。 2009年、日本eスポーツ学会が設立され、eスポーツの研究とその学術的確立、およびeスポーツの進歩発展に貢献することを目的として活動している。 2010年、eスポーツ学生連盟が設立、各大学同士のeスポーツ大会(eスポーツ選手権、eスポーツ対抗戦など)を企画・運営している。学生達にeスポーツを普及させようと精力的に活動を行っている。 2011年、JeSA(日本eスポーツエージェンシー株式会社)が「eスポーツの本格的なプロスポーツ化とさらなる活性化、世界レベルへの向上、日本のゲーム産業の発展の寄付」を経営理念に掲げ発足。 2011年11月15日、国内初となるeスポーツ専用施設「e-sports SQUARE」が千葉県市川市にオープン。 2013年4月、株式会社マイルストーンがJapan Competitive Gamingを設立。eスポーツ界の進化と日本の現状におけるギャップを埋めるため、基盤となるアマチュア層の充実を測るために活動を開始。 2014年 1月24日、2011年にオープンした「e-sports SQUARE」が千葉県市川市から秋葉原に移転し、リニューアルオープン。 4月、TOKYO MX2にて、日本初となるeスポーツ専門情報番組「eスポーツMaX」が放送開始。 2015年 3月、第一回日本eスポーツ学生選手権大会・日本eスポーツ学生連盟創設[24]。 4月、日本eスポーツ協会が設立される[25]。 2018年 2月、日本eスポーツ連合が設立される。木曽崇が賞金付き大会に関する警鐘を鳴らす。 3月7日、吉本興業がeスポーツに進出すると発表[26]。 3月9日 CyberZがエイベックス・エンタテインメント、Cygames、AbemaTVと協同でトレーディングカードゲーム「Shadowverse」の公式プロリーグを開設した。開幕は5月を予定[27]。 Jリーグはサッカーゲームにてeスポーツの大会「明治安田生命eJリーグ」を開くと発表した(4月開催)[26]。 5月7日、日本eスポーツリーグ協会が設立[28]され、JeSUは国内唯一の統括団体という名目を失う。 7月19日、日本野球機構がコナミデジタルエンタテインメントとの共同で「eBASEBALL パワプロ・プロリーグ」を開催することを発表(11月から12月にリーグ別予選、その後上位3チームずつのリーグ代表決定トーナメントを経て、2019年1月に決勝戦の「e日本シリーズ」を行う)[29]。 2019年 9月28日から10月8日まで開催される第74回の茨城国体の文化プログラムの特別競技として行う。 国内のeスポーツイベント 2002年から2011年現在まで、WCG(World Cyber Games)日本予選を毎年開催している。過去にはAcegamerが、CPL(cyberathlete Professional League)の日本予選を主催していたがAcegamer解散後はなくなっている。 2003年から2012年まで、闘劇が開催されていた。2012年まで第10回大会まで開催しており、2012年の第10回を以って、諸般の事情により一旦の閉幕が発表されている。 2007年から2009年まで、CyAC(Cyber Athlete Competition)がTrueCombat:Elite、Enemy Territory: Quake Wars、Warsowのオフライン大会を1年ごとに開催していた。 2008年、ESWC(Electronic Sports World Cup)の国内予選が開催された。現在ではCyACが国内予選を開催している。 2009年から2012年9月まで、CyACが秋葉原UDXと東京ゲームショウにて、4回の大規模オフライン大会「e-Sports日本選手権」を開催している。 2010年9月、東京ゲームショウにてCyACが、海外のプロゲーマーを招待したQUAKE LIVEのショーマッチとCoD:MW2、blurの大会を開催していた。 2011年11月、JeSA(日本eスポーツエージェンシー株式会社)が国内では初となるフランチャイズチーム対抗戦によるeスポーツ大会『第1回eスポーツJAPAN CUP』を開催。2012年9月時点で第3回大会まで開催されている。 2012年 9月、東京ゲームショウにて、「Asia e-sports Cup」と「Cyber Games Asia」が開催。 「Asia e-Sports Cup」ではカウンターストライク1.6 とスタークラフト2を競技タイトルとして開催。カウンターストライク1.6 では日本、インド、シンガポール、マレーシアの各国の予選を勝ち抜いた代表チームが決勝戦を行い、日本のプロチーム「myRevenge」が優勝した。 スタークラフト2では、日本、インド、ベトナム、タイ、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、ニュージーランド、台湾、オーストラリアの各国の予選を勝ち抜いた代表選手が決勝戦を行い、台湾のプロゲーマーGamaniaSen選手が優勝した。 「Cyber Games Asia」ではサドンアタック、ぷよぷよ、FIFA 12を競技タイトルとして開催。サドンアタックでは日韓エキシビジョンマッチ2012[30]として日韓戦を行った。日韓エキシビジョンマッチ2012の対戦結果は日本:1勝 韓国:7勝[31]。 12月、レッドブルがRed Bull 5Gを開催している。競技タイトルはバトルフィールド3、グランツーリスモ5、FIFA 12、ストリートファイター X 鉄拳、ぷよぷよ。 2013年2月、CyACが「CyAC PRO」を開催。第1回目は競技タイトルとしてPS3版 CoD:BO2を採用したオフライン大会を開催した。 2014年2月、株式会社SANKOが日本初の『League of Legends』国内トップチームによるリーグ『LJ LEAGUE』を開始。9月に行われた決勝戦はTokyo Game Show 2014ロジクールブースにて開催された。賞金総額は1,000,000円。 2015年 1月、LJL 2015 が開幕。賞金総額が2,000,000円に増加したほか、3月末まで行われるSeason 1優勝者には『International Wild Card Invitational(IWCI)』の日本代表チームとして出場する権利が与えられる。 6月、第1回e-sports甲子園-League of Legends-が開催された[32]。 8月、第2回e-sports甲子園 -League of Legends-が開催[33][34]。 2019年 9月28日から10月8日まで開催される第74回の茨城国体の文化プログラムの特別競技として行う。 国内の主なプロチーム 4dN.PSYMIN 2005年、『カウンターストライク』のチーム、4dN.PSYMINが結成された。2005年のCPL夏季大会ではベスト12に入るなど健闘したが、2006年には諸事情により解散している[35]。 myRevenge e.V. myRevenge e.V.は『カウンターストライク』で活動していたチーム。元々は、日本のチーム UNiTED で活動を行っていたが、2012年8月にドイツのチーム myRevenge e.V.に所属する形となり、所属後に開催されたAsia e-Sports Cupにて優勝したが、その後は解散している。 DetonatioN Gaming DetonatioNは2012年7月に『カウンターストライク』のチームを結成し、2013年4月には『スタークラフト2』や『League of Legends』、7月には『World of Tanks』、2014年4月には『Battlefield4』、『大乱闘スマッシュブラザーズ』などの部門を設立し、日本最大級のマルチゲーミングチームとして著名である。スポンサーはLogicool、BenQ、GIGABYTE、G2A、TSUKUMO(G-GEAR)、DXRACERなど。 DeToNator DeToNatorは2009年9月13日に結成された、『Alliance of Valiant Arms』のチーム。2012年にはPCパーツメーカー株式会社ELSA Japanとスポンサー契約を結んだ。大会成績は2010年から2013年の間に行われた大会に好成績を残している。2015年にマルチゲーミング化。2017年現在、『PUBG』、『Overwatch』、『Alliance of Valiant Arms』で活動中[36]。 SCARZ SCARZは2012年2月に『バトルフィールド3』のチームとして結成、2015年6月にプロ化して以降、多くの部門数やスポンサー獲得に成功し、DetonatioN GamingやDeToNatorと並び日本最大級のマルチゲーミングチームである。スポンサーはHORI、日本AMD、ネットギアジャパン、CyberZ(OPENREC)、DXRACERなど。Jリーグクラブ・FC東京とeスポーツにおけるパートナー関係を結んでいる。 野良連合 2016年、レインボーシックス シージのチーム、野良連合が結成された。コンシューマのプロチームであることが最大の特徴。同年JCG主催の大会で優勝し、日本代表チームになると同年8月19日開幕のE-SPORTS FESTIVAL 2016 香港大会で優勝した[37]。 CYCLOPS athlete gaming 旧称「CYCLOPS OSAKA」、大阪を活動拠点とするプロゲーミングチーム。スポンサーはBitCashなど。eスポーツコネクト株式会社が運営。 その他 上記以外にも『PENTAGRAM』をはじめとする「League of Legends Japan League(LJL)」に出場しているプロチームなどが存在している。 eスポーツの競技種目 伝統的に、各競技会はそれぞれのジャンルごとに特定のゲームを採用している。 eスポーツの競技として過去に採用されたゲームは以下のようなタイトルがあり『カウンターストライク』のように長年にわたって採用されるものや、数年で変更されるものなどさまざまである。なお、プレイヤーの中には複数の種目に参加し活躍しているものもいる。 一般的に、eスポーツの競技種目となるゲームはプレイヤースキル(手腕)の影響が大きいものが選ばれる傾向にあるが、それが最新のゲームデザインの流れとは必ずしも一致するわけではないため、常に最新のゲームが採用されるというわけではない。一方で、ハードウェアメーカーやソフトメーカーはより新しい技術の使われたタイトルを取り入れようとするため、採用タイトルを巡ってはしばしばファンを含めるプレイヤーと大会運営サイドの間における論点となる。 主にファーストパーソン・シューティングゲーム、リアルタイムストラテジー、格闘ゲーム、スポーツゲーム、レースゲームを使用して競い合う。以前はFPSやRTSなどのジャンルが主流であったが、この数年ではコンシューマーなどのタイトルも取り入れられるようになり、そのジャンルもさまざまである。 FPS(ファーストパーソンシューティング) カウンターストライクシリーズ Unreal Tournamentシリーズ ペインキラー Quakeシリーズ Warsow バトルフィールド コール オブ デューティシリーズ Alliance of Valiant Arms クロスファイア スペシャルフォースシリーズ サドンアタック オーバーウォッチ Haloシリーズ H1Z1 Gears of Warシリーズ Painkiller: Hell & Damnation Paladins Team Fortress 2 Point Blank ShootMania Storm Doomシリーズ F.E.A.R. レインボーシックス ベガス レインボーシックスシージ EVOLVE TPS(サードパーソンシューティング) World of Tanks World of Warships PLAYERUNKNOWN'S BATTLEGROUNDS Fortnite Splatoon 荒野行動 RTS(リアルタイムストラテジー) Age of Empiresシリーズ Warcraft III: The Frozen Throne Starcraft II World in Conflict MOBA(マルチプレイオンラインバトルアリーナ) Dota 2 DotA Allstars League of Legends CHAOS HEROES ONLINE Ace of Arenas SMITE Heroes of the Storm Vainglory Heroes of Newerth LORD of VERMILION ARENA 格闘ゲーム ストリートファイターシリーズ DEAD OR ALIVEシリーズ 鉄拳シリーズ バーチャファイターシリーズ ソウルキャリバーシリーズ BLAZBLUEシリーズ GUILTY GEARシリーズ アルカナハートシリーズ ザ・キング・オブ・ファイターズシリーズ ヴァンパイアシリーズ モータルコンバットシリーズ MARVEL VS. CAPCOMシリーズ キラーインスティンクト スカルガールズ ペルソナ4 ジ・アルティメット イン マヨナカアリーナ AQUAPAZZA 大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ スポーツゲーム NBAシリーズ FIFAシリーズ ウイニングイレブンシリーズ(欧州名のPro Evolution Soccerという表記で) マッデンNFLシリーズ ロケットリーグ 実況パワフルプロ野球シリーズ レーシングゲーム Formula Oneシリーズ rFactorシリーズ Project Gotham Racingシリーズ Need for Speedシリーズ GRAN TURISMOシリーズ Forza Motorsportシリーズ Forza Horizonシリーズ Test Driveシリーズ PROJECT CARSシリーズ WRCシリーズ Turbo Racing League TrackMania Nations Forever パズルゲーム TETRiSシリーズ ぷよぷよシリーズ トレーディングカードゲーム Hearthstone: ハースストーン シャドウバース 音楽ゲーム beatmania IIDX コナミと契約したプロゲーマーDOLCE.が活躍中[38]。 MMORPG ブレイドアンドソウル オンラインストラテジーゲーム クラッシュ・ロワイヤル 福祉目的でのeスポーツの展望 ビデオゲームを用いるeスポーツは、マインドスポーツと同様に腕や指先などを使う競技種目が大半を占めるため、身体障害者など体が不自由な人でも選手として参加することができる。また、年齢を問わずプレイできることから、リハビリなどを通じて福祉や医療での利用が期待される。 "Seung Hyun Park"選手は若くして筋肉の障害を抱えながらも、WarcraftIIIのプロクラン"NoA" のメンバーに所属していた。 オリンピックではeスポーツ不採用 2018年、アジア競技大会がインドネシア・ジャカルタで行われ、参考競技としてeスポーツも行われた。こうした動きからオリンピックにeスポーツを検討か?等の噂が報じられていたが、国際オリンピック委員会会長(IOC)がeスポーツはオリンピックの価値観に矛盾しており受け入れることはできない(「Killer Games」は暴力を助長するから)と発言したため不採用が確定した。また国際カジノ研究所の木曽崇はオリンピックに採用されない理由としてゲームソフトメーカーの著作権が問題になるからと理由を挙げている[39]。 脚注 関連項目 日本eスポーツ連合 日本eスポーツ協会 国際eスポーツ連盟 e-sports SQUARE - e-sports専用施設 梅崎伸幸 題材作品(漫画) GoodGame ゲームセンターあらし - TVゲーム黎明期に既にe-sportsの概念を先取りしていた作品。 バトル・アリーナ いいすぽ! - e-Sportsの大会番組 List of esports players - エレクトロニック・スポーツを主体としている選手の一覧(プロゲーマー) オンラインゲーム バーチャル・リアリティ(仮想現実)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 100, 318, 748, 1264], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 99, 317, 747, 1250, 2757], dtype=int32)}
押川雲太朗の出身はどこ
押川雲太朗
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([100], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([118], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
押川 雲太朗(おしかわ うんたろう、1965年10月8日 - )は、日本の漫画家。 兵庫県神戸市出身。 「なにがなんでも阪神ファン」でデビュー後、近代麻雀、モーニング、漫画アクション、ヤングマガジンアッパーズなどに作品を連載する。 博打の世界や博打打ちの生き様を描くことが多く、「メジャーなギャンブルは全部やってきた」と自称している。 単行本巻末のおまけ漫画で自らのギャンブル体験や知人のギャンブラーの話が載っていることもあり、競馬の1レースに10万円賭けたというエピソードもある。また、フリー雀荘のメンバーの経験もある。 熱烈な阪神タイガースファンで、作品の登場人物に阪神選手の名前をよく使う。 また、別の作品に似た名前や顔の人物が登場するという、いわゆるスターシステムをよく用いている。これについては作品の後書き漫画で、「名前をつけるのがめんどう」「同じ役割をする人物なら同じ名前でもいいんじゃないか」「キャラクターを役者だと思っている」などと語っている。 主な作品 なにがなんでも阪神ファン(全1巻)※デビュー作 13話(押川雲太 名義)、最終話が未収録 根こそぎフランケン(全70話、全8巻) ダイナマイトダンディ 〜地獄のワニ蔵〜(全5巻) 頑固なペンチーピン(近代麻雀で連載されたあと[1]、同人誌形態で自費出版) BET(全3巻) べとべと ああ、猛虎軍(全2巻)※21話以降が未収録 不死身のフジナミ(『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)にて連載。全6巻) 不死身deフジナミ(『ヤングマガジンアッパーズ』(講談社)2003年No.18 - No.19に掲載、全2話) タイガーパンチ(『漫画ゴラクネクスター』(日本文芸社)にて連載) フラッシュバック(全2話) 天と地(コンビニコミックでは「麻雀金狼伝」と改題) アッパーカット STRONG(コンビニコミックでは「餓狼の麻雀」と改題) リスキーエッジ(通常版2巻未完、コンビニ版全5巻) アウトコース 錆びた刀(前後編の全2話[2]、後編の初出はぶんか社『ヤングマージャン Vol.2』1995年[3]) 錆びた刀(近代麻雀オリジナルにて連載途中に終了) 不敗の麻雀(闘牌原作:荒正義、全17話、ISBN 9784812473580) 麻雀小僧(近代麻雀にて連載中) レッツゴーなまけもの(既刊2巻、近代麻雀オリジナルにて連載途中に終了) 脚注 外部リンク - ブログ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%BC%E5%B7%9D%E9%9B%B2%E5%A4%AA%E6%9C%97
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 372, 870, 1559, 1948, 2408, 2916, 3190, 3864, 4170, 6075, 6546, 6941, 7107, 7864, 8075, 8522, 8774, 9070, 9514, 9657, 10777, 12367, 13552, 14052, 15028, 15535, 16067, 17151, 17392, 17780, 18540, 18852, 19423, 20132, 20399, 21115, 21582, 22490, 23065, 23410, 23706, 24034], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 371, 853, 1558, 1940, 2407, 2915, 3180, 3863, 4129, 6074, 6545, 6940, 7106, 7863, 8074, 8521, 8773, 9069, 9506, 9640, 10776, 12359, 13551, 14051, 15027, 15525, 16066, 17150, 17391, 17779, 18539, 18851, 19422, 20122, 20398, 21114, 21581, 22489, 23064, 23409, 23689, 23995, 24582], dtype=int32)}
漫画とコミックの違いは何
漫画
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
漫画(まんが、English: comics(コミック)、cartoon、manga)とは、狭い定義では笑いを企図した絵をいい、「戯画(カリカチュア)」の概念と近い。広い定義では、必ずしも笑いを目的としない「劇画」「ストーリー漫画」「落書き」「アニメ」なども含み、幅広い意味を持つ。 日本では明治時代に輸入された"comic"、"cartoon"[注 1]の日本語訳として「漫画」という言葉を北澤楽天や今泉一瓢が使用したことに始まって以後、漫画はcomicと同義として扱われる様になり、その意味での「漫画」が昭和初期に普及し、現代における漫画という語へ定着するようになった[1][2]。本項では、日本の漫画のみではなく、漫画全般について説明する。 漫画の形式 漫画は、現時性と線上性とが複合した一連の絵である。現時性とは「その全てを一望して把握できること」、線上性とは「流れの中で部分を辿り、把握していくこと」である。法隆寺の落書きのような卑俗な笑いから、フランス革命前夜のビラのような体制への嘲笑であったり、また時に、ゴヤのような人間存在を揺るがす鋭いブラックユーモアであったりする。その歴史は長く、時代・地域・社会層によりさまざまな形で存在してきた。その形式は極めて多様であり、厳格な定義はほとんど意味をなさない。 漫画は、簡略化</b>と事象の<b data-parsoid='{"dsr":[1465,1474,3,3]}'>抽象化</b>が特徴とされる。現代漫画は、映画などの影響を受けて20世紀に世界的に発展した、ストーリーのある「コマ割り漫画」の comics (コミック)と、「一コマ漫画」の cartoon (カートゥーン)に分類することができる。 定義 視覚情報を絵として提示する(文章による説明ではない)。 絵は話の展開を動的に描写し、情報の本質部分を占める(挿絵とは異なる)。 聴覚情報は人物のセリフは文字として、音が擬音として表現される。ただし、音楽は擬音ではなく絵やコマの行間のようなもので表現される場合が多い。 コマやフキダシなど独特の形式に沿っている。 漫画では情景や人物の動作などは情報伝達の際に、その絵を提示する事で表現されることがある。視覚芸術の一分野に位置付けられるが、1つの画面で完結しない「時間の継起性」において、時間の一瞬を切り取った(近代以降の)絵画とは区別され、1つの画面(フレーム)がコマを指すのか紙面を指すのか不確定なところに、フレームが1つしかない映画との区別がなされる。 本記事においては漫画と表記されているが、「マンガ」や「まんが」と表記される場合、これらの表記は意図的に用いられている場合もある。ただし個々の評論家や研究者によって定義は異なる。 語源 「漫画」という言葉は、字義的には「気の向くままに漫然と描いた画」という意味である。語源は、よくわかっていないが、随筆を意味する漢語「漫筆」が「漫筆画」を経て「漫画」になったとする説と、「漫画(まんかく)」という名のヘラサギに由来するとの説がある。江戸時代には、山東京伝(『四時交加』、1798年)[3]や浮世絵師の葛飾北斎(北斎漫画初版、文化11年(1814年))[4]の作品の序文や題名で、用語「漫画」が「絵による随筆」「戯画風のスケッチ」という意味で使用されている。 明治時代になると、今泉一瓢が"caricature"や"cartoon"の訳語として「漫画」を用いた。北澤楽天は"comic"の訳語として「漫画」を使用し、以降はこの意味が「漫画」の最も一般的な用法として定着した。 各言語における漫画の呼び名 英語でコマ割り漫画を意味する comics (コミック)は、ギリシャ語で「喜劇」を意味するΚωμικός(コーミコス)から派生した、「滑稽な」を意味する形容詞 comic に由来する言葉である(現代のギリシャ語でも、同じ語源を持ち、おそらくは英語の影響をも受けた用語Κόμικς(コーミクス)が、漫画の意味で使われている)。初期の漫画の多くはほぼ同じサイズのコマを一列に並べた物であり、また、ほとんどは滑稽な内容を扱っていたために、これらのジャンルには comic strip (コミック・ストリップ、滑稽な端切れ)という呼び名が与えられた。それらを一冊の冊子にまとめた物は、 comic book (コミック・ブック、滑稽な本)と呼ばれ、それが短縮されて comic となった。しかしながら、漫画が深刻なテーマを取り扱うようになると、それらに冠された comic という名は混乱をもたらし、 これを嫌ったアメリカ合衆国の漫画家ウィル・アイズナーは sequential art (シーケンシャル・アート、「連続された絵画」の意味)という呼び名を導入した。なお、英語の comic はアイズナーが代替語として sequential art という用語を提案した事からも分かる通り、原則的には複数のコマで構成される漫画のみを指す用語である。英語では一コマ漫画は cartoon (カートゥーン)あるいは panel (パネル)と呼ばれる。現代の英語の cartoon という用語が、専ら animated cartoon (アニメーション作品)を指す言葉として使われるようになったため、印刷媒体の上での一コマ漫画である事を強調したい時は、printed cartoon と表記される。 英語の comic という言葉はヨーロッパ諸国へも輸出され、ドイツ語の Comic(コミーク)やロシア語の Комикс 等の呼び名は、英語の comic に由来する。そしてオランダ語では主に strip が漫画の呼び名として使われている。ただし、ドイツ語でも漫画に対して自国語由来の Bildergeschichte (ビルダーゲシヒテ、絵の物語)という言葉が使われる事がある。 一方、漫画に対して英語の comic とは異なる呼び名を持つ言語圏も多数あり、フランスやベルギーといったフランス語圏では bande dessinée (バンド・デシネ)が使われている。これは「絵の描かれた帯」という意味で、英語の comic strip と同様に、漫画のコマの配列について言及した言葉である。 フィンランド語の sarjakuva (サルヤクヴァ、「連結した(sarja)」+「画像(kuva)」)も、やはり同様の意味の言葉である。 スペイン語では、アメリカンコミックのようなストーリー性のあるものはそのまま comic(コミック) 、もっと軽い、どちらかと言えば子供向けのものは tebeo(テベオ、単語の由来は後述**) 、風刺画、戯画のようなものは historieta (イストリエタ)、viñeta (ビニェータ)、caricatura (カリカトゥーラ)等と呼ばれる。近年スペインでは絵やストーリーのスタイルが日本の漫画から大きな影響を受けている作品群はそのまま manga(マンガ) と呼ばれ、2012年には王立スペイン語アカデミー編纂のスペイン語辞書第23版にも外来語として記載されるようになった。  tebeo (テベオ)は1917年にバルセロナで創刊された長寿漫画雑誌 TBO に由来する。TBO はスペイン語の te veo (私は君を見る)から付けられたタイトルである。 イタリア語では漫画は fumetto (フメット)と呼ばれる。これはイタリア語で「煙」を表す fumo (フーモ)に由来する言葉で、漫画のフキダシの形からこの呼び名が生まれた。fumetto の複数形は fumetti (フメッティ)であるが、この言葉はアメリカではイタリアの漫画よりも、むしろ写真を用いた漫画を表す言葉として使われている。 中国語圏や韓国語圏では、日本から輸出された「漫画」の表記のそれぞれの現地発音による「漫画」(台湾と香港では「漫畫」)(マンホア)や 만화 (マンファ)という呼び名を使う。 エスペラント語では漫画一般を指す言葉として、bildo(画像)とliteraturo(文学)を組み合わせた言葉 bildliteraturo(ビルドリテラツロ)が作られたが、日本風の漫画に関してはmangao(マンガーオ)と表記することもある。 日本では、一般に「漫画」「マンガ」「まんが」「コミック」などと呼称されている。出版業などビジネス界では、漫画絵のことを「ポンチ絵」(日本初の漫画雑誌ジャパンパンチに由来する)とも呼称している(製造業ではポンチ絵はラフ(簡単な絵の概略構想図)の 類似表現である)。詳細は「日本の漫画」項を参照。 歴史 漫画発祥の時期と場所については、主に漫画の定義に依存する多数の異なった説が存在する。 古代と中世 戯画的漫画・落書きは、その大衆的性格から(また時に体制批判的な内容から)、美術が権力者や宗教に従事していた古代や中世には、積極的に残される努力はされなかった。それ故に、作例がかなり限られてくる。日本の現存する最古の漫画の作例では、法隆寺に残された漫画が挙げられる。古代エジプトの漫画としては、権力者を動物化して表現した漫画が存在している。これは壁画や壷絵等、複数残されている。古代ギリシアでも、壷絵には、割と多くの戯画的表現を見出すことが出来るが、古代世界で多くの漫画が残されているのはポンペイである。この古代ローマ時代の地方都市は、ある日突然に火山の噴火によって町が灰に埋もれたことから、普通では残ることのないようなごくごく日常的な絵画や漫画の類まで残されている。これらは偶然に残されたこと、庶民的性格、おおらかな性の表現といった点で似ている。 また、宗教において写本画のごくごく目立たない部分に落書きがあったり、後期中世を通じて大量に流布していた木版画には、民衆的ユーモアを確認することができる。日本の仏典の端には、写学生の気晴らしと思われる漫画などが見られる。ゴシック末期の、例えばショーンガウアーやボッスの作品には、様々な戯画的世界が見られる。 宗教関連では、仏教では釈迦一代記曼荼羅が描かれた。これは、釈迦の両親から、象の夢による妊娠に始まって、出家、涅槃までを、中央の釈迦を中心に、左下から反時計回りに展開したものである。一方、キリスト教では、イエスの物語を語り継ぐことが信仰の中心となったこともあり、十字架の道 (Via Crucis) が多くの教会の内部(巡礼に倣うために、各柱の下)に描かれた。これは、イエスの死刑宣告から復活まで、14コマ+1コマで描くものであり、イエスやピラト、マリア、シモン、ベロニカなどのキャラクターが定型的に描かれる。これらを原点として、仏教でも、キリスト教でも、さまざまな時間的な物語が、絵や彫刻、ステンドグラスのコマ、ないし連続的展開によって説明される形式が確立されていた。ただし、当時の民衆は文字が読めない場合が多かったために、説明は、宗教家の活弁によって補われる必要があった。 近世 ルネサンス美術は、極めて多様な作例を残している。特に、16世紀以降は、美術に従事するものは個性的であることが優れていると考えられ、そのために、表現の幅が広げられた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、奇妙・奇怪なものに非常に関心を示し、彼の手稿には、多くの戯画が残されている。レオナルドの興味は、マニエリスムを予感させる。そしてまた、民衆的な笑いのセンスが、芸術的な形に現れた時代でもあった。後期ルネサンスやマニエリスムには、下卑た笑い、エロティックなもの、世相批判的なもの、そういったまるでフランソワ・ラブレーの世界が、美術に展開し、枚挙に暇がない。それは漫画と密に通じている。代表的な美術家としては、ピーテル・ブリューゲル(父)、ジャック・カロ、ジュリオ・ロマーノ、ルーカス・クラーナハ(父)などがいる。カロや、クラーナハの場合、当時飛躍的に発展しつつあった印刷技術との関連においても重要である。 「コミック・アートの歴史」を著したR. セービンは、漫画は本質的に印刷媒体と関連付けられているという主張の下に、印刷術の発明により漫画の形式が具体化されたとの見解に立っている。したがって、印刷術に先立つすべての漫画のバリエーションは、あくまで漫画の先行形式であり、漫画の系譜に属するものとは見なせないとするのが、セービンの見解であった。 漫画の形式を備えていると見なせる、現在残されている初期の作品はフランシス・バーローによる『A True Narrative of the Horrid Hellish Popish Plot(恐るべき地獄のようなカトリック陰謀事件についての真実の物語)』(1682年)である。これは、コマ絵の連続で経緯が描かれ、セリフはフキダシによって表現されている。その後、同様の形式を持つものはいくつも発表されているが、エディ・キャンベルは「それらの作品は漫画と言うよりも、風刺画の連作ではないか」と反論している。この時期の特筆すべき制作者としては、トマス・ローランドソン、ジャン・ヴァンデルフフト、ジェームズ・ギルレイ、ジョージ・クルックシャンクがいる。ローランドソンとギルレイの作品の中には、フキダシを導入しているものも見られる。 それらの中でも、当時の政治を風刺したローランドソンの1784年の作品『The loves of the fox and the badger, or the coalition wedding』は、キャプション、フキダシ、きちんと展開するコマ形式を備えた上に、思考表現のフキダシも持ち、コマ漫画のプロトタイプであると見なされ、このローランドソンの作品は、絵物語の連続表現としてのコマ漫画形式の普及を促進したといえる。[5] 19世紀 スイスのロドルフ・テプフェールは、19世紀前半の漫画史における重要人物である。コマ絵とその下に添えられた文から成るテプフェールによる一連の作品は、ヨーロッパとアメリカの様々な地域で出版された(ただし、この作品にはフキダシは用いられていない)。当時の著作権法の不在により海賊出版されたこれらの翻訳版は、両大陸で漫画という形式を持つ作品のための市場を整えた。[6] 1845年に、テプフェールは著書『Essai de Physiognomonie(人相学エッセイ)』の中で、彼の考えを形式付けている。「絵物語を構築し、しばしば澱となって沈んでいる素材から可能性を余さず引き出してやるのに、名匠の業を身に付ける必要はない。絵物語の構築は、単に鉛筆画で軽佻浮薄なカリカチュアを描き出すことではない。また、単に世間の噂話を物語にすることでも、駄洒落を絵画化することでもない。あなたは実際にある種の演劇を発明し、企画に沿った形で部品を配置し、全体を満足な形に整えねばならない。ただジョークを書き綴ったり、対句を繰り返したりするだけでは駄目なのだ。それが優れたものであるにせよ、劣ったものであるにせよ、真面目なものであるにせよ、馬鹿げたものであるにせよ、狂ったものであるにせよ、正常なものであるにせよ、あなたは『本』を作るのである」[7] 美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、テプフェールを新たな絵画言語の発明者として認識している。これは読者自身の想像力によって補われる、省略された表現形式であった。 デイヴィド・カンズル(アメリカ)やティエリ・グルンステン(フランス)などの漫画史の研究者によれば、テプフェールは現代的な意味でのコマ漫画(コミック・ストリップ、バンド・デシネ)という表現形式を事実上発明した人として評価され、「コマ漫画の父」とも呼ばれている。 19世紀には、新聞紙上での風刺漫画が人気を博した。1841年、イギリスで風刺漫画雑誌『パンチ』が創刊された。1843年に、『パンチ』は当時フレスコ画の下絵(カートゥーン)展示会を行っていたイギリスの国会議事堂を揶揄して、誌上に掲載された風刺漫画を「カートゥーン (cartoon)」と名付けた。この用語は漫画を表す一般的な英語となり、現代でも使われている。同種の風刺漫画雑誌として、ヨーロッパ大陸ではドイツの『フリーゲンデ・ブレッター』やフランスの『シャリバリ』があり、アメリカ合衆国では『ジャッジ』と『パック』が人気を博していた。 1865年に、ドイツでヴィルヘルム・ブッシュによる『マックスとモーリッツ』が新聞紙上で発表された。この絵物語は漫画の重要な先駆作品であると考えられている。この頃から中国では漫画の形式が整い始め、1927年には完成した。 1884年にイギリスで雑誌形式により出版された『アリー・スローパーの半休日』は、特定の主人公(アリー・スローパー)による最初の連載漫画として評価されている。1890年には、イギリスで更に2冊の漫画雑誌『コミック・カッツ』と『イラストレーテッド・チップス』が登場した。これらの漫画はアメリカでも新聞連載された。これらの作品により、定期刊行雑誌としてのブリティッシュ・コミックの伝統が確立された。 一般的な基準による、特定の登場人物が登場する最初の成功した連載漫画は、アメリカのリチャード・F・アウトコールトによる連載一コマ漫画『ホーガンズ・アレイ』(1895年)か、ドイツ系アメリカ移民のルドルフ・ダークスによる連載コマ漫画『カッツェンジャマー・キッズ』(1897年)であった。『ホーガンズ・アレイ』の主人公であるイエロー・キッドの人気は連載された新聞の売り上げ拡大に貢献し、その他の連載漫画の誕生を促した。この漫画ブームは、大衆芸術としての漫画の始まりを示すものであった。 20世紀 アメリカ合衆国において漫画を示す用語である「コミックス (comics)」は、ユーモラスな物語を特徴とした初期のコミック・ストリップ(新聞漫画)に用いられた形容詞「滑稽な (comic)」に由来する。 1929年に、アクション漫画である『バック・ロジャーズ』と『ターザン』の連載開始により、コミックはその分野を拡大し始めた。更に多くの漫画が誕生する内に、「コミックス」という用語は、やがて作品の内容よりも形式を指す用語となっていった。また、同年にはベルギーの新聞『ル・ヴァンティエーム・シェクル(20世紀新聞)』付録の白黒漫画で、タンタンの冒険が初登場した。タンタンの物語は1930年に『タンタンソビエトへ』の一冊にまとめられ、ユーロピアン・コミックスのコミック・アルバムの形式で出版された。 その他にも、1929年には新聞漫画を再版した『ザ・ファニーズ』が出版されている。この漫画はアメリカ合衆国においてニューススタンドで発売された、最初の4色印刷の漫画として評価されており、タブロイド判のサイズで印刷されていた。この判型は当時の新聞の日曜版と混同されやすく、売り上げを伸ばせなかったため、36号で廃刊となった。 現在のアメリカン・コミックス形式で出版された最初の漫画は、日曜版のタブロイド判サイズを二つ折りにした形式による、『ファニーズ・オン・パレード』であった。ニューヨークのイースタン・カラー・プリンティング社で働いていたハリー・L・ウィルデンバーグとマックス・C・ゲインズにより、広告用の景品として1933年に出版されたこの雑誌の成功は、同種の景品雑誌出版の呼び水となった。やがてゲインズは余った雑誌に10セントの価格を表示したカバーを掛けて、ニューススタンドで販売することを思い付き、それらをすべて売り切った。これにより、イースタン社はニューススタンドで販売される漫画雑誌『フェイマス・ファニーズ』を1934年5月に創刊した。 1935年までの漫画は、主に当時のパルプ雑誌に影響された独自の素材を利用していたが、この頃から漫画外の素材が漫画に用いられるようになった。ウィル・アイズナーは漫画外の素材を漫画に持ち込んだ漫画家であり、漫画外の素材を漫画に適用すべく改良し、漫画の文法を発明した事により高く評価されている。アイズナーにより案出された漫画の手法としては、場面を突然に切り替える「ジャンプ・カット」などがある。 アメリカでは1938年に、『アクション・コミックス』第1号でスーパーマンが初登場し、アメリカン・コミックスの黄金時代と呼ばれる期間が到来した。また同年にベルギーでは、バンド・デシネの特徴である週刊形式の漫画雑誌『スピルー』が創刊された。 日本では、戦後の漫画の表現技法が後の漫画家たちに大きな影響を与え、現在まで日本の漫画の表現技法として定着している。日本の漫画の歴史については、「日本の漫画」「日本の漫画の歴史」項を参照。 各国の漫画 日本の漫画[8] アメリカン・コミックス(アメリカ合衆国の漫画) コミック・ストリップ(アメリカ合衆国の新聞漫画) バンド・デシネ(フランス語圏の漫画) 中国の漫画 香港の漫画 韓国の漫画 マレーシアの漫画 脚注 注釈 出典 関連項目 漫画作品一覧 漫画家一覧 漫画家 漫画原作 : 漫画、劇画における台本、脚本 漫画雑誌 漫画情報誌 漫画評論 MAG 原作 アンダーグラウンド・コミックス イラストレーション カートゥーン キャラクター - キャラクターデザイン 「まんがの日」- 11月3日 「漫画の日」- 2月9日・7月17日 携帯コミック 新聞の「漫画」の節 図像資料 オルタナティヴ・コミック マンガ・アニメミュージアム マンガサミット 漫画喫茶
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%AB%E7%94%BB
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 1282, 2873, 3786, 4556, 4636, 5430, 6079, 6557, 6818, 7319, 7742, 7902, 8328, 8900], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([1274, 2864, 3785, 4555, 4635, 5429, 6065, 6556, 6817, 7308, 7734, 7885, 8317, 8865, 8987], dtype=int32)}
グランド・セントラル駅に乗り入れる鉄道は何本ありますか?
ウェンブリー・セントラル駅
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ウェンブリー・セントラル駅(ウェンブリー・セントラルえき、Wembley Central Station)は、ロンドン地下鉄ベイカールー線、ロンドン・オーバーグラウンド 、サザン 、そしてごく少数のロンドン・ミッドランド (London Midland) の列車が乗り入れているネットワーク・レールの駅。ロンドン北西部ウェンブリーのハイ・ロード (High Road) に位置している。オーバーグラウンド(地上鉄、毎時3本運行されている)とベイカールー線の列車は、駅の西側のワットフォード線 (Watford DC Line) のプラットフォーム(1・2番線)を使用している。毎時1本運行されているミルトン・キーンズ・セントラル駅 (Milton Keynes Central railway station)/ワットフォード・ジャンクション駅とイースト・クロイドン駅 (East Croydon station) を結ぶサザンの列車と、1日4本のロンドン・ミッドランドの列車は、通常は東側の緩行線プラットフォーム(5・6番線)を使用する。ウェンブリー・スタジアムで大規模なイベントが行われる際には、ロンドン・ミッドランドが臨時便を増発している。 歴史 1837年7月20日、ロンドン・アンド・バーミンガム鉄道 (London and Birmingham Railway) が開通。 1842年、サドベリー (Sudbury) 駅として開設。 1882年5月1日、サドベリー・アンド・ウェンブリー (Sudbury & Wembley) 駅と改称。 1910年11月1日、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道 (LNWR) 新線(ワットフォードDC線の前身)の開業に合わせて、ウェンブリー・フォア・サドベリー (Wembley for Sudbury) 駅と改称。 1917年4月16日、LNWR新線を利用したベイカールー線の乗り入れ開始。 1936年、ショッピング・アーケードとともに地上の駅舎が改築が着手される。 1948年、オリンピック開催の準備としてウェンブリー・スタジアムの改修が進められる。 1948年7月5日、ウェンブリー・セントラル駅と改称。 1960年代、駅プラットフォームの上を塞いで駅前広場 (Station Square) が設けられ、ほぼ現在のレイアウトが形作られる。 1982年9月24日、ベイカールー線乗り入れ中止。 1984年6月4日、ベイカールー線乗り入れ再開。 2007年11月、駅の管理がシルバーリンクからロンドン地下鉄へ移管される。 2008年6月、再開発のために、1936年から1948年にかけて建設された駅舎の解体が着手される。 2009年2月、サザンが運行するエースト・クロイドン行きの列車の停車本数が増え、月曜日から土曜日の日中は毎時1本となった。 運行 ウェンブリー・セントラル駅は、(近年まで1940年代のショッピング・アーケードを挟んで)駅舎前の道であるハイ・ロードが駅付近で高い位置に上がっているため、また、プラットフォームが駅前広場となっている人工地盤の下に塞がれているため、あたかも地下鉄駅であるように見えるが、実際には周辺の土地の高さよりも高い位置にあり、1960年代におけるウェスト・コースト本線の電化の時期に現在の姿に改築されている。この駅は、ユーストン駅からみて最初の、3本のプラットフォーム(島式3面)が並列された駅であり、本線のプラットフォームである3番から6番線を列車が高速で通過すると風洞のような効果で、(プラットフォーム上の)乗客に危険な風が起こる。 このため、サザンが運行する列車とウェンブリー・スタジアムでイベントが開催される際の臨時列車が使用する、本線のプラットフォームは、ほとんどの時間帯に閉鎖されており、プラットフォームの入口は停車する列車が接近したときにだけ開かれるようになっており、ふだんサザンの列車は緩行線用の5番と6番のプラットフォームを使用している。サザンの列車でこの駅に到着すると、いったんプラットフォームの端に誘導された後、スタッフの指示に従って駅から出ることになる。このプラットフォームへの扉が開くのは、列車の到着予定時刻の10分前からである。 2006年には、安全に配慮した設備の近代化が行なわれた[5]。 ウェンブリー・スタジアムで、大きなスポーツ・イベントや、政治集会、コンサートなどがある際には、通常は通過している列車が、この駅に臨時停車することがあり、5番、6番のプラットフォームを使うことがよくある。しかし、ヴァージン・トレインズの列車はこの駅に停車させるには長過ぎる編成をとっており、客の乗降に時間がかかってしまう。このため、ヴァージンの場合はワットフォード・ジャンクション駅かミルトン・キーンズ・セントラル駅 (Milton Keynes Central railway station) に臨時停車して、乗客がロンドン・ミッドランドが運行する列車へ乗り換えられるようにしている。 ロンドン・ミッドランドの列車は、5番と6番のプラットフォームを使用しているが、編成はプラットフォームに対して長過ぎることが多い。この駅で乗降する場合、8両以上の編成の列車では、先頭から4両目までの車両で乗り降りしなければならない。試合がある日には鉄道警察の警察官がこの駅や、ワットフォード・ジャンクション駅とユーストン駅の間を運行する列車内に配置される。しかし、通常の日には、ロンドン・ミッドランドの列車の停車は2回ほどしかない。 改修工事 2006年には、駅のロンドン側の端(南端)に、C Spencer Ltd によって乗客用の跨線橋が設けられ、ウェンブリー・スタジアムでイベントがある日に臨時通路として使用されるようになった。通常のアクセスは駅の「カントリー」側の端(北端)にある。つまり、この跨線橋は通常は閉鎖されていて、スタジアムが使用される日にだけ使用されるものである[6]。 また、最近、1番線と2番線のプラットフォームの床が改修され、彫刻が施されたスチールのクラッディングパネルが設置された。駅職員が使用する施設も新しくなり、公衆トイレも設置された。 2011年から2012年にかけて、オリンピックに向けた準備として、駅舎の入口から1番線と2番線のプラットフォームまで、2基のエレベーターと1基の車いす用階段昇降機が新設され、初めて段差のない移動ルートが確保された。トイレもアクセシブルなものに改修された。また、プラットフォーム2本の延長も行なわれた。改修計画には全体で250万ポンドが投じられた[7]。 再開発 2008年6月、この駅周辺を管轄する地元自治体であるブレント・ロンドン特別区は、ウェンブリー・セントラル・スクエア (Wembley Central Square) 計画の一環として、再開発のために駅舎を解体することを計画し、建設会社 St. Modwen によって、新たな集合住宅、商店、オープン・スペースが設けられることになった。 バス ロンドンバスの路線では、18、79、83、92、182、204、223、224、297、H17、深夜運行のN18が、駅前を通っている。 ギャラリー 旧駅舎、2008年撮影。 旧駅舎、2008年撮影。 旧駅舎、2008年撮影。 ダウン・ファストのプラットフォームから北向きに撮影されたウェンブリー・セントラル駅。列車は1962年のFAカップ決勝戦の臨時列車。 再開発中の駅舎 切符売り場 北行きプラットフォーム 北行きプラットフォーム ロンドン地下鉄の駅名表示 隣の駅 ロンドン交通局 ロンドン地下鉄 ■ベーカールー線 ストーンブリッジ・パーク駅 - ウェンブリー・セントラル駅 - ノース・ウェンブリー駅 ■ロンドン・オーバーグラウンド ワットフォードDC線 ストーンブリッジ・パーク駅 - ウェンブリー・セントラル駅 - ノース・ウェンブリー駅 ナショナル・レール サザン シェパーズ・ブッシュ駅 - ウェンブリー・セントラル駅 - ハーロウ&ウィルドストーン駅 出典・脚注 外部リンク ナショナル・レールが提供するウェンブリー・セントラル駅のと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E9%A7%85
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 1783, 2714, 3484, 4060, 4732, 4960, 6063, 6507, 7281, 8209, 9967, 11851, 13120, 14892, 15537, 16359, 17023, 17472, 17619, 17704], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 1775, 2713, 3483, 4051, 4731, 4949, 6052, 6487, 7252, 8208, 9949, 11850, 13109, 14872, 15536, 16312, 17022, 17471, 17597, 17687, 17809], dtype=int32)}
陰圧閉鎖療法を開発したのは誰?
陰圧閉鎖療法
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
陰圧閉鎖療法(いんあつへいさりょうほう、英語:NPWT、Negative pressure wound therapy)、別名<b data-parsoid='{"dsr":[146,158,3,3]}'>局所陰圧療法、減圧閉鎖創傷療法、減圧被覆法</b>とは、慢性、難治性の創傷の治療に用いられる技術であり、1度や2度の熱傷に対しても延用される。この療法は、患部環境を被覆し管理された負圧を掛けることによって、慢性の局所創傷の治療を促進させる医療技術であり[1]、被覆材を使用して患部を密閉し、吸引ポンプに接続する[2][3]。創傷管理におけるこの技術の採用は1990年代から2000年代にかけて劇的に増加した[4]。陰圧閉鎖療法を検証する多くの研究がなされ、とりわけキネティック・コンセプト社(KCI)の陰圧補助閉鎖療法によるものがその代表である[5]。単にVAC療法、VACセラピー</b>といった場合は特にこのKCI社のパテントであるVACシステム、正式には「V.A.C.®ATS治療システム」を指す。発表された論文の査読により、陰圧閉鎖療法は他の処置と比較して効果的であると評価されている。2008年のコクランの再検討では、論文は有益な効果があると主張しているがデータは難治性創傷治癒率の際立った増加は見せていない、と報告された。しかし査読追試の方法論に不備があったとして、それがさらなる研究を呼ぶこととなった[6]。2010年の組織的な検証では、この治療法が足の糖尿病性の慢性創傷の治癒を促進するという証拠が得られたが、他の症例では確たる証拠が得られなかった[7]。 概要 陰圧閉鎖療法では、傷は治癒を促進するため特殊な保護材で密閉され負圧が掛けられる。持続的に負圧をかけることによって肉芽が創床から引き出され、患部の血行と組織の形成を促進し、創傷の治癒を促進するとされている[8][1]。創傷の種類や臨床対象に応じて、持続的あるいは間欠的に吸引がかけられる。一般的には被覆材は週に2度から3度交換される[3]。施術に使用される被覆材は多孔性のフォーム材とガーゼとがあり、かけられる負圧を保持するためにフィルムで傷口に封入される[1]。 陰圧閉鎖療法の機器が、傷を湿らせるために生理食塩水や抗生物質といった液体を送り込むことができる場合は[8]、使った液体を間欠的に除去することで創床を清潔に保ってドレナージできる[9]。 陰圧閉鎖療法は一定の範囲の創傷に対して適用される。臨床調査実績と、国際的な創傷治療の専門家26人のベストプラクティスの意見を取り入れた2008年の合意文書では、この治療法(特にKCIのVAC療法)の適応症を次の範囲にまとめている。糖尿病性の脚部潰瘍(いわゆる「糖尿病足」)、複合性脚部潰瘍、胸骨部裂開創傷、腹部開創傷および外傷性の創傷である[10]。これらに加え、この療法は再建的手術にも用いられる[11]。Nursing Timesの記事は、傷の密閉さえ可能であれば「ほぼどんな傷にでも」火傷、皮膚接合、皮膚弁、術後処置などにこの治療法が使えるという[12]。 1995年、KCI社の<b data-parsoid='{"dsr":[5995,6013,3,3]}'>陰圧補助閉鎖治療システム(V.A.C. 、Vacuum Assisted Closure)は、深い外傷、裂傷、皮膚弁と接合、圧性潰瘍及び難治性創傷に特定して、陰圧閉鎖療法の製品として初めてアメリカ食品医薬品局(FDA) の承認を取得した[13] 。米国内で病院での採用が増えるにつれ、2001年にはCenters for Medicare and Medicaid Services(CMC、アメリカ保険社会福祉省の下部組織) の弁済を受ける承認も得た[1]。 技法 全般的な陰圧閉鎖療法の技法は以下の通り; 被覆材を傷の形状に合わせて当て、透明フィルムで密封する。ドレナージ管を透明フィルムに開けた穴を通して被覆材に接続する。ドレナージ管は吸引源に接続され、開いた傷を閉じるように調整され[2]、同時に循環と滲出液の排出を促す為に創床の余分な液体を取り除く。これにより湿潤治療環境が形成され、膨潤を防ぐ[5][12]。この療法は通常難治性の創傷や、治療に際して困難が伴うと予想されるもの(糖尿病の合併症等)に対して用いられる[3]。 この療法用の製品は傷の表面に当てる被覆材の種類によって3種類に分けられる。発泡フォーム材、ガーゼ、または傷の接触面を凹凸ハニカム加工した布である。 被覆材 被覆材(ドレッシング)の使用がVAC治療システムで最も共通している点である[14] 。1997年、MorykwasとArgentaはポリウレタンフォームの被覆材を使用した試みについて記述している[15]。 フォーム材は傷の空洞を埋めるために使用され、傷の大きさに合わせてカットする。フォーム材を創傷に当て、上からドレープフィルムを被せて密閉する。ここに穴をあけて吸引用のチューブを密着させ、吸引ポンプ側面のキャニスターに接続する[12]。VAC療法においては、創床上の陰圧は傷表面のマイクロデフォーメーション、すなわち濯流と肉芽の形成を促進するよう作用する[8][16]。銀を含浸させた被覆材が開発されており、抗菌の為に使用される[17]。VACシステムの配管やポンプには創部の陰圧を自動的に監視し、設定した陰圧を保つ独自の機能がある。これにより、創部の陰圧はあらかじめ設定したレベルに保たれる[18]。 ガーゼ ガーゼを使った陰圧閉鎖療法は、木綿ガーゼ、透明フィルム、平面ドレナージ、チューブと吸引といった、一般的な医療資材を用いて行う技法である。平面ドレナージをガーゼで挟んで創部に当てる。患部を完全に密閉するようにドレープフィルムで覆い、チューブを介してドレナージを吸引ポンプに接続する[19]。 バイオドーム フォーム材とガーゼに加え、バイオドーム・テクノロジーによる第3の被覆材がある。シリコンゴムで接合された不織ポリエステルの層で構成されており、創面に固着し難い表面をもつ。創床に接触する面の、バイオドームと称する多数の微細なドーム状の構造を特徴とする[20]。この被覆材を傷に当て、ドレープフィルムで覆ってチューブの付いたパッドをフィルムに開けた穴を通して装着する。チューブに接続したポンプで低圧の吸引がかけられる[21]。被覆材の微細なドームは創面へ接触しつつ、組織が成長する空間を与えることを意図している[22]。 陰圧と被覆材の使用 これら3つの技法全てにおいて、一度被覆材が密閉されると、使用される機器に応じて持続的あるいは間欠的な陰圧をかける吸引ポンプがセット可能となる[14][19][12]。VAC療法においては通常の治療レベルは-125mmHg [23][24]であり、痛みが激しい場合には減らしてよい。バイオドーム・テクノロジーの場合にはより低い-75mmHgが用いられる[25][20]。間欠法では吸引は設定された間隔で行われる[12]。陰圧閉鎖療法の機器は毎日決まった時間使われることもあり(任意の1回で6から8時間、等)、1日最低22時間に保たれる場合もある[19]。複数の創傷や極端に大きな創傷の患者には1台以上の機器が使用可能である[2]。それぞれの陰圧閉鎖療法の機器により、異なった安全特性と推奨適応症が存在する[5]。 使用される被覆材の種類は創傷の種類、臨床対象と患者による。浅かったり変則的な傷で痛みに敏感な患者、創傷が皮下に潜っていたり広範囲にわたっていたり穿孔がある場合などは、ガーゼが使用される。一方、傷の形状にフォームがぴったりと当てはまり、組織の肉芽形成や傷の縮小が目的である場合にはフォーム材が適している[26]。豚による実験では、ガーゼはフォーム材より肉芽の形成効果が薄いという結果が出ている[27]。Journal of Woundsの2007年版の研究によれば、フォーム材は滲出液や感染物質の排除が容易である一方、ガーゼはこれらを吸収し創床と接触し続ける。加えてフォーム材をVAC療法で使用した場合、マイクロストレイン(肉芽形成と創傷の縮小を促す作用)を引き起こす科学的な証拠が認められたのに対し、ガーゼを使用した場合ではそれを裏付ける証拠は得られなかったという[5]。マサチューセッツ工科大学の2004年の研究では、VAC療法独自の作用メカニズムとして、肉芽組織形成をもたらすマイクロストレインについて特に検証が行われた[16]。ある陰圧閉鎖療法機器のメーカーは、ガーゼでもフォーム材と同様に創傷の大きさと滲出液を減じて組織の形成を促す効能があると主張した[4]。 しかしながら、VAC療法のみが次に挙げられる作用メカニズムを有していた。すなわち肉芽組織形成の促進;滲出液と感染物質の排除;浮腫の軽減;及び濯流の刺激である[18]。 効果 諸研究 陰圧閉鎖療法の効果について数百もの報告が相互に検証可能な誌面上で発表され、その大多数がVAC療法についての情報を提供している[5]。VACシステムは特に、22の無作為に抽出された臨床試験により裏付けがなされている(2010年4月時点)[28]。 ブルームらによる2008年に刊行されたDiabetes Careの、糖尿病性脚部創傷342例の無作為臨床試験では、通常の湿潤療法と比較して陰圧閉鎖療法の方が、治療の効果と期間が「極めて良好」であったとしている[29]。ブルームは、湿潤療法の群より「全治期間はVAC群の方がはるかに短かった」と述べた[30]。それ以前の2005年にLancetに発表されたアームストロングらによって行われた無作為臨床試験では、糖尿病性の足切断患者162人について16週間の試験が行われ、基準群(患者の39%が治癒)に対して、陰圧閉鎖療法ではより多くの患者(56%)が治癒という結果を得た。研究はまた「陰圧閉鎖療法は安全で効果的な治療法」であり、通常の治療と比較して「早い治癒率」があり、再度の切断を低減することにつながると結論付けている[31]2006年の、フュエルステークらによる慢性潰瘍入院患者60名の無作為比較対照試験では、完治までの中間値が目覚ましく短縮された(基準群の45日に対し、VAC療法群では29日)[32]。筋膜切除を受けた34人の患者を陰圧閉鎖療法で治療した2006年の無作為臨床試験では、ヤングらは創傷閉鎖までの平均時間が16.1日(基準群)から6.7日(VAC療法群)に短縮されたと報告している[33]。こうした研究結果は引き続き注目される[31][32][33][34]。 諸研究を裏打ちする査読は、陰圧閉鎖療法が創傷治療に効果があることを明らかにしている。しかし方法論の弱さからさらなる研究を求める声もある。コクラン・レビュー(米国の医療査読ボランティアグループ)は、2007年時点で行われた7つの研究に基き、「局所の陰圧が慢性創傷の治癒を促すという確実で信頼できる証拠は無い」とのべている。査読では、治療によって「有益な効果」は認められるものの、「より、質の高い調査」が必要と結論付けている[6]。2010年の別の査読では17例の臨床試験が検証されたが、そのうち5例は以前の査読に入っておらず、結果を評価された。これにより、他の種類の創傷についてはさらなる研究が必要であるとしながらも、糖尿病に関わる足の創傷については「もはや陰圧閉鎖療法が安全で、治癒を促進するという十分な証拠がある」と結論づけている。 他の創傷の治癒促進については「有望」と考えられ、陰圧閉鎖療法は他の技法と比較して目立った合併症が無いことが特筆されている[7]。 経済性 陰圧閉鎖療法の経済性については、治療コストがばかにならないという点が数々の研究において指摘されてきた[3] 。研究では入院期間、必要な手術の回数、再発などといった要素をすべて考慮にいれてこの治療法が経済的かどうかを検討している。フュエルステークらの踵潰瘍のVAC療法についての2006年の研究では、入院期間は通常の治療と比べて大幅に短縮されている[32]。Schwienらによる2005年の2,300例に及ぶ過去に遡ったVACによる潰瘍治療の研究では、入院は短く、傷の問題に関わる手間も少なく、緊急の傷のケアについての通院も減った。他の治療形態と比較して、VAC療法の患者にとっては4.209ドルの節約になった[35]。リソースの活用と手順、直接コストに注目した研究が2008年にApelqvistらによってなされている。糖尿病性潰瘍を陰圧閉鎖療法で治療した162例の患者に治癒までにかかった平均コストは25,904ドルであり、それ以外の治療法の平均は38,806ドルだった[36]。必要な手術回数の効果についていえば、シーゲルらは軟組織肉腫の22例の患者の術後処置について、 統計的に顕著な必要手術回数の削減があり軟組織の移植なしに治癒した患者が増えたという[37]。カタリノらの2000年の研究では、胸部切開後の炎症に他の処置に変えてVAC療法を使用した際、処置ミス(さらなる手術につながりかねない)を減らすことができたとしており[38] 、Nursing Times誌にコスト効果を表しながら寄稿している[12]。 軍用と家庭用 陰圧閉鎖療法は2000年代中頃に米軍によって採用され、軍病院での使用が始まり[39]、医療担当者の以前の経験から導入された[40]。Leiningerらによる2006年の研究では、米軍病院でこの治療を受けた77人の患者の場合、創傷感染率は(裏付けに乏しい報告ではあるが)およそ80%から0%に削減されたという[41]。 航空移送中のこの療法の使用は、VAC携行機器の飛行証明取得に続いて2006年に軍に承認された[39]。その翌年、この技術は戦場で負傷した兵士に対して前線で使われ始めた[40]。 軍と病院での使用に加え[42][3]、この治療法は家庭の患者に対しても2000年代早期から使用されている[2]。KCIは家庭用に専用設計された最初の陰圧閉鎖療法機器を2000年代後半に発表した[10]。米国では、FDAの2010年医療機器家庭使用指針の一部として、陰圧閉鎖療法機器を製造するメーカーは、特にその目的の為に承認を得ない限り、製品は家庭での使用を意図したものではないことを製品上に表記することが求められていた。FDAはより安全な家庭での使用を意図したものであるとしていた[43]。KCIをはじめとする陰圧閉鎖療法機器の開発者たちは、この指針を支持するとした[44]。 日本における陰圧閉鎖療法の状況 日本においては創傷を閉鎖し、湿潤環境を保つという湿潤療法はすでに鳥谷部俊一の提唱により臨床の現場に取り入れられていた。これにさらに陰圧(負圧)をかけることによって治療効果が促進されるという情報はアメリカから入ってきてはいたものの、実質的に陰圧閉鎖療法≒KCI社のVACシステム、という寡占状態であり、専用機器の輸入や導入はコスト面で非現実的ともいえる状況であった。治療法として厚生労働省による認可が下りておらず、保険が適用されていなかったためである。 そうした状況下であっても、専用機器を使用せず、手持ちの注射器や病院の病室壁面に設置してある吸引装置を使用して簡易的に陰圧状態を作り出す方法が紹介され[45]、これにより一定の成果を上げた医療機関もあった。しかし如何せん「手作り感」は否めず、完全に密閉を保ち、一定の圧をコントロールすることは困難であった。 2009年11月、ようやくVAC療法が日本でも認可され、2010年4月からは保険の適用が可能となった。 脚注 関連項目 形成外科学 皮膚科学 外傷 皮膚潰瘍 褥瘡 湿潤療法 外部リンク 但し医療関係者向けで一般向けではないとの断りあり 解り易い一般向け解説
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E5%9C%A7%E9%96%89%E9%8E%96%E7%99%82%E6%B3%95
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 572, 970, 1549, 1811, 2193, 3219, 3723, 4093, 5173, 5642, 6501, 7373, 8202, 9073, 9952, 10454, 10949, 11317, 11594, 11823, 12550, 13148, 13440, 13835, 15081, 15375, 15472, 15798, 16172, 16604, 17411, 17808, 18865, 19133, 20677, 21280, 21690, 22385, 22784, 23130, 24052, 24147, 24581, 25098], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 571, 953, 1529, 1810, 2192, 3218, 3696, 4092, 5159, 5639, 6500, 7335, 8201, 9072, 9886, 10453, 10948, 11316, 11562, 11822, 12549, 13131, 13439, 13834, 15080, 15374, 15471, 15797, 16171, 16593, 17391, 17807, 18839, 19132, 20669, 21279, 21658, 22384, 22776, 23129, 24051, 24132, 24567, 25080, 25164], dtype=int32)}
ピオベルジンは何から見つかった
緑膿菌
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
緑膿菌(りょくのうきん、学名、Pseudomonas aeruginosa)は、細菌に分類される、グラム陰性で好気性の桿菌の1種であり、地球上の環境中に広く分布している代表的な常在菌の1つでもある。ヒトに対しても病原性を持つものの、仮に健常者に感染しても発病させることはほとんど無い。対して、免疫力の低下した者に感染すると、日和見感染症の1つとして数えられる<b data-parsoid='{"dsr":[935,947,3,3]}'>緑膿菌感染症</b>の原因となる。 元々、緑膿菌は消毒薬や抗菌薬に対する抵抗性が高い上に、ヒトが抗菌薬を使用したことによって薬剤に対して耐性を獲得したものも多いため、緑膿菌感染症を発症すると治療が困難である。このために、日和見感染症や院内感染の原因菌として、緑膿菌は医学上重要視されている。 名称の由来 「緑膿菌」という和名は、本菌が傷口に感染(創傷感染)したときに、しばしば緑色の膿が見られることから名付けられた。学名であるPseudomonas aeruginosaの種形容語のaeruginosaも「緑青に満ちた」を意味するギリシア語に由来し、本菌が作る緑色色素(ピオシアニン。後述)に因んだ名称である。なお、属名のPseudomonasは、それぞれギリシア語のpseudo-(偽の)とmonas(鞭毛を持った単細胞原生生物の総称)に由来する。 細菌学的特徴 シュードモナス属に属する、0.7 x 2 µm程度の大きさのグラム陰性桿菌である。芽胞は形成せず、菌体の一端に1本の鞭毛(まれに2-3本)を持ち活発に運動する。また菌体の一端には線毛を有する。 緑膿菌は、土壌、淡水、海水中など、自然環境のいたるところに生息する環境中の常在微生物の一種であり、湿潤な環境を特に好む。またヒトや動物の消化管内部にも少数ながら存在する腸内細菌の一種であり、健康な成人の約15%、病院内では30-60%が本菌を保有していると言われる。 偏性好気性であり、通常は酸素のない環境では生存できない。これはもっぱら呼吸によってのみエネルギー産生し、発酵を行わないためである。他の病原細菌と比べて、発育には特殊な栄養を必要としない(栄養要求性が低い)ため、増殖しやすい細菌である。微量の有機物でも増殖が可能であり、長期保存している蒸留水の容器にすら、混入したわずかな有機物を栄養源として緑膿菌が増殖することがある。人工的に培養する場合にも、アンモニウム塩を含む無機塩培地に、炭素源となる一種類の有機物があれば培養が可能である。至適発育温度は37℃前後で、42℃程度の高温でも増殖可能であるが、低温(4℃以下)では増殖しない。有機物を分解して、アミンの一種であるトリメチルアミンを産生するため、独特の臭気(腐った魚のような臭い)を生じる。 緑膿菌は、熱に対する抵抗性は他の細菌と同程度で比較的弱い部類に属する(55℃1時間処理で死滅)が、消毒薬や抗生物質などに対しては、広範かつ強い抵抗性を有している(薬剤抵抗性の節に詳述)。このため、長期間放置されている手洗い用の消毒液などの中からも分離されることがあり、院内感染などとの関連から特に医療分野で注目されている。 緑膿菌の物質産生 緑膿菌は、色素やムコイド、外毒素など、本菌特有の多種類の物質を産生する。これらの物質は緑膿菌の菌体外に分泌され、その生育環境に影響を与えることで緑膿菌の生育を助ける役割を果たすだけでなく、宿主細胞に作用することでその病原性とも密接に関連している。 これら緑膿菌の物質産生の多くは、その生育環境での菌数を感知する、クオラムセンシングと呼ばれる機構で制御されている。緑膿菌は、N-アシル-L-ホモセリンラクトン (AHL) と呼ばれる、菌体の内外を自由に行き来することが可能な低分子物質(オートインデューサー)を産生しており、環境中での生育密度が上がると、この物質の濃度も上昇する。この物質は、緑膿菌のさまざまな遺伝子に対して転写因子として働き、さまざまな物質産生を誘導する。AHL自身もまたAHLによってその産生が誘導されるため、この機構は正のフィードバックによる制御を受けている。これらの機構を巨視的に見ると、緑膿菌が自らの生育密度を感知して、その上昇に伴って、さまざまな物質産生を行うことになる。クオラムセンシングは、緑膿菌同士が細胞間で行う1種の情報伝達機構と考えることができる。 色素産生 緑膿菌は複数の色素を産生する性質を持つ。緑色色素である<b data-parsoid='{"dsr":[3080,3092,3,3]}'>ピオシアニン、蛍光性の黄緑色の<b data-parsoid='{"dsr":[3105,3117,3,3]}'>ピオベルジン(フルオレシン)、赤色のピオルビン、黒褐色のピオメラニンなど少なくとも4種類の色素を産生する。このうち、ピオシアニンとピオベルジンの二つは特に研究が進んでいる。 ピオシアニンはクロロホルムに可溶性の緑色色素である。菌体外に分泌され、緑膿菌を培養した培地や、感染した傷口などを緑色に着色する。緑膿菌の発見のきっかけになった包帯の緑変や、学名および和名は、このピオシアニンによる緑色に由来する。またピオシアニンという名称自体、膿を意味する接頭語 pyo-と、シアン(藍緑色)を表すcyanに由来しており、1900年前後に緑膿菌の学名として付けられたシノニム(同種異名)であるBacillus pyocyaneousなどの種小名にちなんでいる。ピオシアニンは、哺乳動物細胞のミトコンドリアによる呼吸機能や気道粘膜の繊毛運動を阻害する毒性を持っており、緑膿菌の病原性の一端を担っている。 ピオベルジンは、フルオレシン(fluorescin)とも呼ばれる。またピオベルジンは加熱によって可視光下の色が赤〜橙色に変化する性質を持ち、古くなった米飯を加熱すると黄色くなる場合(「赤めし」と呼ばれる現象)、米飯に混入した緑膿菌が産生したピオベルジンの加熱変色が、その原因の一つだと言われる。ピオベルジンは分子内にジヒドロキシキノリン構造を持ち、鉄イオンと強く結合する。鉄イオン濃度の低い環境でよく産生される。菌体から周囲に分泌されたピオベルジンは、増殖に必要な鉄イオンを保持し、それを菌体に効率よく供給するという、シデロフォアとしての役割を担っていると考えられている。 ムコイドとバイオフィルム 緑膿菌の一部には、ムコイド</b>と呼ばれる粘質物を産生して、菌体外に分泌するものがある。これらを<b data-parsoid='{"dsr":[4325,4339,3,3]}'>ムコイド型緑膿菌</b>と呼び、これに対してムコイドを作らないものを<b data-parsoid='{"dsr":[4361,4376,3,3]}'>非ムコイド型緑膿菌</b>と呼ぶ。ムコイドの主成分は、アルギン酸とよばれる粘性の高いムコ多糖である。ムコイド型緑膿菌が増殖した場所では、分泌されたムコイドが菌体を覆い包んで、薄層(フィルム)を形成する。このような微生物が形成する薄層状のものをバイオフィルムと呼び、緑膿菌はこのバイオフィルムを生活の場として、その内部で効率よく増殖、生存している。 バイオフィルムは物質表面に対して強く付着しているため、その中で生存している菌は、むきだしの状態に比べると、洗い流したり剥がしたりするなどの機械的な除去に対して強くなる。またバイオフィルムの内部には消毒薬などの薬剤が浸透しにくいため、化学的な刺激に対しても抵抗性が増す。また他の微生物による捕食や白血球などによる貪食などの、生物的な排除からも逃れやすくなる。さらに緑膿菌から分泌されるAHLなどの物質も拡散しにくく、その局所的な濃度が上がりやすくなるため、クオラムセンシングなどの分泌制御機構も働きやすくなる。これらによって、バイオフィルムは緑膿菌の生育を助ける重要な役割を担っている。 一方、医学的な観点からは、ムコイドやバイオフィルムの産生が病原性や感染リスクの増加につながるため、問題視されることが多い。感染患者から分離される病原性緑膿菌のほとんどはムコイド型であり、感染した粘膜表面などでバイオフィルムを形成する。このことによって、白血球による貪食や抗体、補体など、宿主の免疫機構による排除から逃れやすくなり、さらに抗生物質の浸透性低下によって治療も困難になる。また、医療用カテーテルの内側などで緑膿菌がバイオフィルムを形成して増殖することで院内感染を起こすケースなども報告されており、感染リスクの増加も問題視されている。 嚢胞性線維症患者体内でのバイオフィルム形成 緑膿菌によるバイオフィルムの形成は、遺伝性疾患である嚢胞性線維症(CF)患者に対する緑膿菌感染の原因となる。このバイオフィルムは気道内の粘液に形成され、緑膿菌の生息場所となる。それに加え、CF病患者のバイオフィルムに生息する緑膿菌は(歴史的に、全てのシュードモナス属菌は偏性好気性生物に分類されていたにも関わらず)嫌気呼吸を行うようになる[1]。 呼吸形態を嫌気的に変更することは、緑膿菌の増殖を促進する。嫌気呼吸は、バイオフィルムの主要成分であるアルギン酸を多量に生産する表現型の維持に有利である。このため、CF病患者の年齢が増加するにつれ、バイオフィルムの増大により気道内の粘膜が肥大化する。粘膜の肥大化は、粘膜内の菌叢において嫌気性菌を優勢にし、緑膿菌の持続的な繁殖を促す。 この嫌気呼吸において、好気呼吸時に用いられない外膜タンパク質のOprFおよび細胞内rhl量感知回路が要求される。OprFがないとき、rhlRまたはrhllの欠乏中に亜硝酸還元活性が失われ、このことが一酸化窒素の過剰産生による自滅を誘発し、緑膿菌の生育は極端に弱くなる[1]。 CF病の治療に用いられている抗生物質の多くは、緑膿菌の呼吸形態の変更により効果が減少するか全くなくなるため、嫌気的な代謝を攻撃する新しい抗生物質の開発が望まれている。 菌体外毒素と分泌酵素 緑膿菌は、さまざまなタンパク質を菌体外に分泌している。これには外毒素や溶血素、分泌酵素として働くものが含まれており、緑膿菌の病原性と密接に関連している。 緑膿菌が分泌する外毒素の代表は、エキソトキシンA(外毒素A)である。臨床から分離される緑膿菌の90%がエキソトキシンA産生性である。エキソトキシンAは、ジフテリア菌が作るジフテリア毒素と同じ生理活性を持つ毒素である。すなわち、エキソトキシンAがペプチド伸張因子であるEF2をADP-リボシル化することで、動物細胞のすべてのタンパク質合成を不可逆的に阻害し、最終的に細胞は死に至る。この他、EF2以外の何らかの分子を標的にADP-リボシル化する活性を持つエキソエンザイムS(細胞外酵素S)も分泌することが知られている。 緑膿菌が分泌する溶血素には、強い細胞傷害性を持つヘモリジン(タンパク質性の溶血毒)と、溶血殺菌作用を持つラムノリピドの二種類が知られている。血液寒天培地上ではβ溶血性を示す。また分泌酵素としては、アルカリペプチダーゼや、エラスターゼ、コラゲナーゼ、リパーゼなどを産生する。これらは感染部位の組織を破壊し、細菌の侵入や増殖を容易にすると同時に、出血や壊死などを引き起こす病原因子として働く。 薬剤抵抗性 一般に、グラム陰性菌の方がグラム陽性菌よりも、薬剤抵抗性が強い傾向にあるが、緑膿菌はグラム陰性菌の中でも特に強い薬剤抵抗性を持つ、すなわちこれらの薬剤による殺菌に強い抵抗力を持つことで知られる。 この抵抗性には、緑膿菌が元から持っていたもの(自然耐性)と、後天的に獲得したもの(獲得耐性、いわゆる薬剤耐性)がある。これらが組み合わさることで、緑膿菌の薬剤抵抗性は広い範囲に及んだ、いわゆる<b data-parsoid='{"dsr":[6857,6867,3,3]}'>多剤耐性</b>の状態にあるものが多く見られる。 消毒薬では逆性石鹸やクロルヘキシジン(ヒビテン Hibitane)などに対する自然耐性が強く、低濃度の場合にはこれらの消毒液中で緑膿菌が増殖することもある。抗細菌薬(いわゆる抗生物質)においては自然耐性の高さだけでなく、獲得耐性によって無効になったものも多い。ペニシリンやセフェム系などのβ-ラクタム系抗生物質、アミノグリコシド系抗生物質は当初から効果がなく、広域ペニシリン、第三世代セフェム、カルバペネム、抗緑膿菌性アミノグリコシド、ニューキノロンなどの開発によって、ようやく緑膿菌治療に有効なものが得られた。ただし、現在ではカルバペネム系薬・アミノグリコシド系薬・ニューキノロン系薬の3系統全てに耐性を示す多剤耐性緑膿菌も出現している。多剤耐性緑膿菌に対して有効と考えられているのは、抗MRSA薬である硫酸アルベカシン、モノバクタム系薬であるアズトレオナム、ポリペプチド系薬である硫酸ポリミキシンBやコリスチンメタンスルホン酸ナトリウムなどである。 この他、緑膿菌は一般に用いる石鹸や食塩による殺菌や静菌効果も低い。一方、酸や銀イオンによる殺菌には感受性であり、またEDTAに対しては感受性を示すだけでなく、EDTA存在下では他の消毒薬の効果が増強される。 緑膿菌の薬物抵抗性には、複数の薬剤耐性メカニズムが関わっている。 薬物の細胞内への取り込みを制限する機構。 取り込まれた薬物を再び細胞外に排出する機構。 獲得した耐性酵素による薬物の分解や修飾。 抗生物質の標的となるタンパク質の変化による阻害回避。 バイオフィルムによる薬剤浸透性の低下。 これらの薬剤耐性は、抗生物質使用によって緑膿菌が既に獲得していた機構が誘導されるだけでなく、性線毛を介した接合による薬剤耐性プラスミド(Rプラスミド)の伝達や、形質導入による薬剤耐性遺伝子の獲得などによって、異なる菌株から新規に伝達される場合もある。 なお、細菌検査の分野では、逆性石鹸の1種である消毒薬のセトリミド(Cetrimide)に抵抗性があることを利用して、セトリミドを加えた培地を用いて選択的に分離培養することができる。セトリミドとともに、抗菌剤であるナリジクス酸を加えた、NAC (Nalidic-Acid, Cetrimide) 培地が緑膿菌の選択分離に用いられている。 病原性 緑膿菌は、健常なヒトに感染しても症状が出ることはほとんどない毒性の低い細菌であるものの、免疫力が低下したヒトに、ムコイド型緑膿菌</b>が日和見感染すると、緑膿菌感染症</b>を引き起こす。院内感染によって発生することも多い。発症した場合、緑膿菌の持つ薬剤耐性のために薬剤による治療が困難であることも多い。β-ラクタム系、アミノグリコシド系、ニューキノロン系の3系統の抗細菌薬にそれぞれ有効なものがあるが、これらの系統すべてに対して耐性を獲得した<b data-parsoid='{"dsr":[8353,8369,3,3]}'>多剤耐性緑膿菌感染症</b>も出現しており、医学上の問題になっている。 緑膿菌感染症 緑膿菌感染症は、健常者にはほとんど見られないが、免疫抑制剤の使用や後天性免疫不全症候群(エイズ)などにより免疫力の低下した人や、長期間の入院や手術などで体力を消耗している人、寝たきりの状態にある老人など、いわゆる「易感染宿主」に発症する疾患(日和見感染症)である。 医療用カテーテルや気管挿管、外科的手術などの医療行為によって尿道、気道、創傷からの感染を起こしたり、褥瘡や火傷、外傷などで皮膚のバリア機構が失われた部分から感染するケースが多い。このほか、コンタクトレンズ着脱時の損傷によって眼に感染を起こす場合も知られる。局所感染の場合は、眼では角膜炎や炎症、耳(外傷などによる)では「スイマーズイヤー (swimmer's ear、水泳者の耳)」とよばれる外耳炎、皮膚では化膿性発疹などを起こすほか、気道感染による肺炎を起こす場合もある。またこれらの局所感染に引き続き、あるいは創傷などからの血管内への感染によって全身感染を起こし、敗血症、続発性肺炎、心内膜炎、中枢神経感染などの重篤な疾患を引き起こすこともある。特に、緑膿菌敗血症では致死率は約80%に上ると言われている。 緑膿菌と院内感染 医療機関では、(1) 緑膿菌が存在しやすい環境下で、(2) 易感染宿主に対して、(3) 感染原因にもなりうる医療行為を行う、という条件が揃っているため、緑膿菌による院内感染がしばしば問題になる。 緑膿菌は易感染宿主に日和見感染して感染症を引き起こすが、病院などの医療機関は入院、通院を問わず、このような易感染宿主が集まる環境にある。また、医療機関では日常的にさまざまな消毒薬、抗生物質などの薬剤が使用されているため、これらの薬剤に対して感受性のある微生物が増殖しにくい一方で、緑膿菌のように薬剤抵抗性の強い微生物は選択的に生き残りやすい傾向にある。さらに新たな耐性を獲得した薬剤耐性菌も生まれやすい環境である。その上、外科的処置や挿管などの医療行為は、充分な配慮が行われない場合、緑膿菌感染の直接のきっかけになりうる。各医療機関が行っている対策によって、他の病原体とともに緑膿菌の発生状況はモニタリングされ、院内感染の予防が行われているが、環境中の常在菌でもある緑膿菌の完全な除去は困難であり、しばしば院内感染例が報告されている。(患者が保有しているものの他、患者への見舞い品も緑膿菌の感染源となりうる。緑膿菌は花卉商品の用土(土以外が使用されているものも含む)や植物自体に付着・生息している事が多く、そのため病院では院内への緑膿菌の流入を阻止するために見舞い等でも花卉の持ち込みを禁止している所が少なからず存在する。) 治療 緑膿菌感染症の治療は、緑膿菌に対する抗菌性を有する薬剤による化学療法が行われる。第1選択となるアミノグリコシド系のゲンタマイシン、トブラマイシンやアミカシンのほか、ペニシリン系のチカルシリンやピペラシリン、第3世代セフェムであるセフタジディム、また完全合成β-ラクタムであるカルバペネム系のイミペネム・シラスタチン合剤、メロペネム,ドリペネムや、ニューキノロン系のシプロフロキサシンも用いられることがある。 しかし緑膿菌が感染巣でバイオフィルムを形成した場合には、その内部への薬剤の浸透性が低くなるため、完全な除去が困難になるケースも多い。また緑膿菌は比較的、新規の薬剤耐性を獲得しやすいため、上記の治療薬に対する耐性菌、特に多剤耐性緑膿菌の出現が問題になる。 多剤耐性緑膿菌感染症 多剤耐性緑膿菌(MDRP)は1970年代までにはすでにその存在が知られていた。当時は「複数の薬剤耐性を併せ持ったもの」に対する総称であったが、その後、緑膿菌感染症の治療に有効な3系統の薬剤、すなわち、広域β-ラクタム系、アミノグリコシド系、ニューキノロン系に対して、同時に耐性を示すものを指すようになった。特に2000年代以降は、イミペネム(β-ラクタムのカルバペネム系)、アミカシン(アミノグリコシド)、シプロフロキサシン(ニューキノロン系)などに対する耐性を指標とする傾向がある。 多剤耐性緑膿菌感染症は、世界中の医療関係機関によってその発生動向が監視されている。日本では、感染症法で五類感染症定点把握疾患に指定されており、指定医療機関において週単位の発生状況の報告が義務づけられている。コリスチンはMDRP感染症に対して有効な薬剤のひとつである。 歴史 緑膿菌は、1872年にSchroeterによって発見、命名された後、1882年にGessardによって、緑に着色した包帯から初めて分離、培養された。その後、緑膿菌および緑膿菌感染症についての基礎的な研究が進み、薬剤抵抗性や物質産生のメカニズムが解明されていった。 1929年、アレクサンダー・フレミングによるペニシリンの発見以降、多くの抗生物質が発見、開発された。当初はグラム陽性菌にのみ有効であった抗生物質の中から、グラム陰性菌にも有効なものが徐々に見つかっていったが、緑膿菌に対して効果を示す薬剤はほとんど見つからなかった。1960年代以降になって、ゲンタマイシンなど緑膿菌に有効な抗生物質がいくつか発見された。また新薬開発が続けられていたペニシリン系抗生物質の中から、初めて緑膿菌に対する効果を獲得したカルベニシリンが開発され、これらの薬剤が緑膿菌治療薬として実用化された。しかし、1970年代までには、当時用いられていた複数の抗生物質に対する多剤耐性緑膿菌の存在が知られるようになった。 2000年には、緑膿菌のPAO1株の全ゲノム解読が完了している。 関連項目 日和見感染症 院内感染 抗菌薬 耐性菌 シュードモナス病 - Pseudomonas angullisepticaを原因とする魚類の感染症。ウナギでは赤点病と呼ばれ、25℃以下で発生し、点状出血を呈する。 JIN-仁- - テレビドラマ。作中に、緑膿菌に関する描写が登場する。 はたらく細胞 - 漫画及びテレビアニメ。作中に、緑膿菌が登場する。 参考文献 吉田眞一、柳雄介編『戸田新細菌学』改訂32版、南山堂、2004年 ISBN 4525160128 Bruce Albert他編『細胞の分子生物学』第4版、中村桂子、松原謙一監訳、ニュートンプレス、2004年 ISBN 4315517305 William A. Strohl他編『イラストレイテッド微生物学』、山口惠三、松本哲哉監訳、丸善株式会社、2005年 ISBN 4621074768 国立感染症研究所学友会編『感染症の事典』、朝倉書店、2004年 ISBN 4254300735 外部リンク () (同上) () 独立行政法人 理化学研究所
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E8%86%BF%E8%8F%8C
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 887, 1531, 2742, 3061, 3398, 4054, 4365, 4722, 5554, 6018, 6355, 7016, 7929, 8504, 9429, 10452, 11080, 12092, 12639, 13977, 15100, 15711, 16675, 16797, 17593, 18243, 19275, 20088, 20557, 21255, 22080, 22188, 23041, 23795, 24304, 25032, 25621, 26933, 27353, 27894, 28356, 29439, 30612, 31215, 31451, 32145, 32456, 33205, 33554, 34019, 34835, 35841, 36267, 36906, 37415, 38298, 38742, 39351, 39526, 40215, 41887, 42582, 43990, 45037, 47670, 49667, 49833, 50075, 50129, 50325, 50385, 51026, 51354, 51414, 52136, 52215, 53148, 53259, 54640, 54810, 54887, 56317, 56775, 57505, 58031, 58212, 58436, 59162, 59537, 59959, 60433, 60967, 61520, 61892, 62143, 62846, 63420, 63798, 64593, 64929, 65758, 66140, 66511, 66931, 67236, 67590, 67933, 68146, 68981, 69367, 69794, 70329, 70374, 70617, 70809, 71028, 71368, 71551, 71965, 72279, 72817, 73219, 74147, 74405, 74751, 75778, 76110, 76506, 76974, 77439, 78076, 78291, 78447, 79147, 79303, 79361, 79744, 79826, 80328, 80742, 80796], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 879, 1530, 2741, 3060, 3390, 4053, 4364, 4687, 5553, 6017, 6354, 6981, 7928, 8503, 9428, 10423, 11079, 12091, 12638, 13976, 15099, 15710, 16640, 16796, 17592, 18242, 19274, 20087, 20556, 21254, 22079, 22187, 23040, 23794, 24303, 24988, 25620, 26932, 27352, 27893, 28355, 29407, 30611, 31214, 31450, 32144, 32455, 33204, 33553, 34018, 34787, 35840, 36266, 36905, 37414, 38297, 38741, 39350, 39511, 40185, 41875, 42570, 43978, 45025, 47659, 49642, 49819, 50060, 50128, 50311, 50384, 51011, 51340, 51413, 52121, 52214, 53133, 53258, 54616, 54809, 54886, 56302, 56774, 57504, 58030, 58211, 58435, 59142, 59537, 59959, 60432, 60959, 61519, 61891, 62129, 62845, 63404, 63797, 64592, 64928, 65744, 66127, 66485, 66931, 67236, 67589, 67916, 68145, 68980, 69367, 69793, 70212, 70372, 70601, 70756, 70989, 71354, 71549, 71903, 72262, 72816, 73217, 74145, 74404, 74715, 75777, 76087, 76483, 76960, 77404, 78059, 78251, 78446, 79113, 79286, 79347, 79730, 79825, 80327, 80701, 80779, 81208], dtype=int32)}
自由民主党はいつ結成した?
自由民主党 (日本)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([5], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([3407], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([3436], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
自由民主党(じゆうみんしゅとう、English: Liberal Democratic Party of Japan[1], LDP[2][3])は、日本の政党である[4]。略称は<b data-parsoid='{"dsr":[9301,9310,3,3]}'>自民党[5][2]、自民[6]。1字表記の際は、自</b>と表記される[6]。1955年の保守合同による結党以来、政権与党の座にあり続け[4]、世界的にも稀な一党優位政党制の中核にあったものの[5]、1993年に自民党と共産党以外の政党による連立政権に政権を奪われた[4]。翌1994年に自社さ連立により政権に復帰する[4]。2009年に民主党を中心とする連立政権である民社国連立政権に再び政権の座を奪われたものの、2012年に公明党との連立により政権を奪還し、現在(2018年)まで、自民党と公明党の連立政権が続いている[7]。 概要 1955年(昭和30年)に自由党と日本民主党の「保守合同」により結成された保守政党[2]。太平洋戦争(大東亜戦争)前の二大政党・立憲政友会と立憲民政党を遠い起原とし[8]、戦時中の翼賛政治の中核を担った会派である翼賛議員同盟と翼賛政治会と大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)及び翼賛政治に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)と護国同志会(日本協同党の前身)、また敗戦直後に結成された日本自由党と日本進歩党と日本協同党の流れを汲む。 党の運営は永らく執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは、一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたためである。同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルであった[注 1]。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。日本では55年体制で野党第一党であった日本社会党[注 2]がマルクス・レーニン主義の社会主義を主張していたため、西欧で左派第一党として広く見られた社会民主主義を主張していた政党は日本には存在しなかった。しかし、。「戦後の自民党体制は成功した社会主義であった」との皮肉もある[9]。 党章は、陰十四菊の中央に「自民」のモノグラム。広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いている。また、かつては緑色の象をシンボルマークにしていたこともある。 自民党は多数の政治家を輩出しており、90年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。内閣総理大臣では細川護熙・羽田孜・鳩山由紀夫、その他では岡田克也・小沢一郎・亀井静香などである。 党名 党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して作られた「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった[10]。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ」[11]などの意見が出て採用されず、党内で話し合われた結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。 菅直人・鳩山由紀夫が結党した旧民主党や小沢一郎の作った自由党が登場した後は、、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。機関紙も、それまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した[12]。 野党となった2009年(平成21年)9月、党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更論が出た[13]。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため改名はされなかった[14][15]。 党史 結党と55年体制成立 1950年代当時、日本の政党は保守・革新両勢力ともに分立状態にあった。戦後の保守政党は戦前の政友会や民政党の系譜を踏みながら複数の政党として再建され、「保守合同」が何度か模索されながらも実現に至らなかった[16]。1955年(昭和30年)、4年のあいだ左派と右派に分裂していた日本社会党が先んじて再統一で合意したことから[17]、保守勢力にも統一した保守政党が急務という声が高まり、社会党再統一に危機感を覚えた財界の圧力もあって保守合同が実現した[16]。自由党と日本民主党は、両党の公認だけで当時の定数(467)を上回る534人が立候補しており、両党の共倒れを避けることも目的の一つだった。 政治学者の北岡伸一によると、政党発足当初は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、保守合同の立役者となった三木武吉は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だったという[18]。自由民主党の派閥は、結党時は8派閥が存在し、「八個師団」と称された。 結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた[注 3]。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した[注 4]。 なお、結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[19][20][21]。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党に金を渡し、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた[21]。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している[21]。 高度経済成長と党安定期 1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与野党の対立が深刻化したが、岸内閣が退陣した後、自民党は「経済のことはこの池田にお任せください」と言う池田勇人総裁のもとで、経済政策を重視する路線転換を行った。また、安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げていくようになり、外交をめぐる政治運動は退潮していくようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。 1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」[22]とオフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した[23]。 1964年、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出して、自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」[24]と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中で、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して、1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。 結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったが、全体として安定期であった。また、地方の建設業界に対して一定の公共事業を発注するなど特定利権は生じるものの、いわゆる「均衡ある国土発展」と呼ばれる、富の再分配政策を行って地方の経済を回していくことを重視し、「一億総中流」を唱えるなど平等を重視する保守本流派が主流となって、農山漁村や地方小都市など地方を支持基盤としてきた。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、社会党や共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民主社会党の結成や公明党・共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。 保革伯仲と党内抗争 佐藤長期政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論や日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。 田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった、福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった[25]。1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。 1974年7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、保革伯仲と呼ばれる時代となった[26]。同年12月には田中金脈問題で田中は総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選挙は行われず、自由民主党副総裁の椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。 1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の河野洋平、山口敏夫ら6人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪と外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが、党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが、結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れ(後に無所属議員の追加公認で過半数は確保した)となった。三木は選挙の責任を取り、総理総裁を辞任した。以降国会は与野党伯仲の不安定状態が続いた。さらに田中は離党しながらも最大派閥のオーナーとしてふるまい続け、のちの政治改革運動と、自民党の下野につながってゆく。 1976年12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる[27]。福田内閣は当初、内閣支持率は低かった[27]が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した[28]。1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。 大平は、1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙で一般消費税の導入を公約として掲げたが、自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたが、大平は辞任要求には応じず、選挙後の首班の座を巡って事実上の党内分裂状況に陥った。特別国会での首班指名選挙の投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。 1980年(昭和55年)5月16日、社会党が、衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派や福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派の鈴木善幸が就任し、「和の政治」を掲げて党内融和に尽力し、行財政改革に取り組んだ。 二重権力構造と保守回帰 1980年代に入ると、革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。 1982年(昭和57年)11月の党総裁選挙に鈴木善幸は立候補せず、中曽根康弘・河本敏夫・安倍晋太郎・中川一郎の4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、党総裁選挙では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた[24]。 中曽根はスローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革、公社の民営化、規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革、国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。 1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による禊決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。 1984年(昭和59年)に鈴木善幸や福田赳夫らが、田中派大番頭の二階堂進を総裁に推す二階堂擁立構想が同じ田中派の金丸信によって潰されると、やがて田中派は分裂の兆しを見せ始める。ついに、1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で、派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は木曜クラブを離脱した竹下に対して「同心円でいこう」[29]と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、かつての政治力を失った。代わって、田中派を離脱した竹下が金丸信の後ろ盾により、台頭するようになる。 中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙(第38回総選挙、第14回参院選)で自民党は追加公認込みで衆参それぞれ304議席(衆議院)、74議席(参議院)を獲得した。選挙後、特例で中曽根の党総裁任期一年延長が決まった。また、8月に新自由クラブは解党し、多くの党員は自民党に合流した。 1987年(昭和62年)10月の党総裁選挙ではニューリーダーと呼ばれた安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一のいわゆる安竹宮3人が立候補したものの、かつてのような激しい抗争を嫌った3人は話し合いをした結果、候補者一本化を中曽根に委ねた。結果として竹下を総裁にするという中曽根裁定が下った。なお、このとき皇民党事件が同時に進行していた。こうして中曽根内閣は日本電信電話公社や日本専売公社の民営化、国鉄分割民営化、1987年度予算で防衛費1%枠撤廃するなどの政策を実現して4年11か月の長期政権を終えた。 1988年(昭和63年)7月の臨時国会に竹下内閣は消費税法案を含む税制改革関連六法案を提出した。同じ頃、リクルート関連会社であるリクルートコスモス社の値上がり確実な未公開株が政界官界財界の多数の有力者や有力者の秘書、家族らに譲渡されていたとするリクルート事件が発覚した。野党は税制改革関連六法案の審議よりもリクルート問題の解明を優先すべきだと主張して、審議拒否や関係者の証人喚問等を要求し、国会はたびたび空転した。野党は法案採決の際に牛歩戦術などで抵抗し、12月9日には副総理兼蔵相であった宮澤がリクルート問題で辞任したが、12月24日に税制改革関連六法案は成立した。 1989年(昭和64年)1月7日には昭和天皇が崩御し、元号が昭和から平成となった。 同年4月1日には消費税が導入されたが、同月に竹下は総理辞任の意思を表明した。5月22日に東京地検特捜部は中曽根派の藤波孝生をリクルート事件に関与した疑いで受託収賄罪で在宅起訴し、藤波は自民党を離党した。5月25日に衆議院予算委員会は中曽根を証人喚問し、その後、中曽根は自民党を離党した。竹下の後継総裁には様々な候補が取りざたされたが最終的には後継総裁指名を一任されていた竹下と党四役はリクルート事件に関係がなく、外務大臣を務めていた中曽根派の幹部である宇野宗佑を推薦し、宇野も受諾した。6月2日、宇野は党両院議員総会の「起立多数」により総裁に就任し、6月3日には竹下内閣は総辞職した。 同年6月に宇野が総理総裁に就任するやいなや、宇野の女性スキャンダルが発覚した。宇野は女性スキャンダルに対して明確に否定することはなかった。7月の第15回参院選ではリクルート事件、消費税問題、農産物自由化問題のいわゆる三点セットが争点となり、自民党は逆風にあって当選者はわずか36議席にとどまり、敗北した。一方、土井たか子委員長率いる社会党は女性候補者を多数擁立してのマドンナ旋風を巻き起こし、改選議席の2倍を越す46議席を獲得して躍進した。参議院では与野党勢力が逆転(比較第一党は維持)、宇野は総理総裁を辞任した。 8月の総裁選挙には海部俊樹・林義郎・石原慎太郎の3人が立候補し、竹下派、旧中曽根派の支持に支えられた海部俊樹が過半数の票を獲得して総理総裁に就任した。海部内閣は少派閥である河本派の海部を党内最大派閥である竹下派会長の金丸信、派閥オーナーの竹下、党幹事長の小沢一郎のいわゆる金竹小3人が背後から操るという構造であり、「二重権力」と指摘された[30]。 1991年(平成3年)9月、海部内閣は重要な政治テーマとなっていた政治改革について決着を図るべく、臨時国会にて衆議院の選挙制度に小選挙区制を導入する政治改革法案を提出した。しかし、9月30日、衆議院政治改革特別委員会理事会にて政治改革法案の廃案が決まった。この廃案決定に対して海部は「重大な決意で臨む」と発言して[24]衆議院を解散する構えを見せたが、党内の反発と、海部を支持していた竹下派の解散反対もあり、解散を断念した。海部は10月の党総裁選への立候補も辞退して退陣した。 55年体制崩壊と連立時代の到来 1991年(平成3年)10月27日、総裁選で宮澤喜一が勝利し、72歳にして総理総裁に就任した(参議院議員経験者としては初)。ところが1992年(平成4年)の東京佐川急便事件により国民の政治不信が増大し、自民党単独の長期連続政権による金権体質が度々指摘されるようになった。また、金丸信が失脚したことにより竹下派後継争いに敗れた小沢一郎と羽田孜らは竹下派後継の小渕派と袂を分かち、改革フォーラム21(羽田派)を結成した。 政治改革が必要との流れを受けて、宮沢内閣は政治改革関連法案の成立を目指したが廃案となった。折から三塚派若手の武村正義や、羽田派など、これに反発した自民党議員が大量に離党した。内閣不信任案が可決されて国会が解散となっての1993年(平成5年)の第40回衆院選では、自民党は解散時勢力を維持したものの過半数にはとうてい届かず、保守3新党(日本新党、新生党、新党さきがけ)が大勝した。また、55年体制の片割れである社会党は惨敗した。この結果、日本新党の細川護熙を首班とする非自民の連立政権が成立し、結党以来の自民党単独の長期連続政権に終止符が打たれた。宮澤はこの選挙結果を受けて総理総裁を辞任し、7月30日に行われた総裁選で渡辺美智雄を破って勝利した河野洋平が総裁に就任した。自民党が野党に転落すると、連立政権に移籍を図る議員が目立つようになった。その一方、細川内閣は小選挙区比例代表並立制を柱とした政治改革関連法案の成立を目指し、1994年(平成6年)1月29日、自民党の要求を容れる形で修正案を可決した。 連立政権は細川、新生党の羽田孜と続いたが、いずれも長続きせず、連立政権内で新生党・日本新党・公明党と、社会党・さきがけの不協和音が大きくなっていた。そこで自民党は、社会党の村山富市委員長を首相に推す奇策で、1994年(平成6年)6月30日、社会党・さきがけとの連立政権として与党に復帰した。 1996年(平成8年)1月11日、自民党の橋本龍太郎首班となり、同年の第41回総選挙では、過半数にこそ満たなかったが239議席と復調。1996年(平成8年)に改革を訴える民主党の結成によって政権維持のために行政改革を迫られた橋本内閣では、大きな政府路線を志向する平成研究会(旧経世会)系議員と、小さな政府路線を志向する清和政策研究会(森派)系議員との間で不協和音が生まれるようになる。 旧非自民連立政権側は、主に新進党に集約されていたが、この情勢を見て、今度は新進党などから自民党に移籍・復帰する議員が現れ、自民党側も積極的に引き抜いた。その結果、1997年(平成9年)には総選挙を経ることなく過半数を回復。年末には新進党は解党し、1998年(平成10年)には社会・さきがけとの連立を解消し単独政権に戻った。 橋本政権下の経済政策の失敗により同年の第18回参院選で大敗し、参議院での過半数確保に失敗したことから、橋本内閣は総辞職、小渕恵三が後継となり小渕内閣が発足した。政権安定のため、1999年(平成11年)、小沢一郎率いる自由党(旧新進党小沢派)の政策を呑む形で自自連立を組み、その後10月に公明党との自自公連立政権を新たに組み、2000年(平成12年)には自由党の離脱で、自由党から分裂した保守党(後に保守新党)との自公保連立政権に変わった。この時期から公明党との本格的な選挙協力関係が始まった。小渕が病に倒れると森喜朗が後継となり森内閣が発足。しかし、森自らの度重なる失言やKSD事件などの不祥事もあり支持率は低迷、加藤の乱が勃発。その後、森内閣は総退陣に追い込まれ、山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎のYKKが小泉内閣の樹立を達成した。 構造改革とねじれ国会 経済面では、1991年(平成3年)にバブル景気が終焉を迎える。冷戦が終結しグローバル化が急速に進展したことにより、従来型の官僚主導による利益分配的な政治手法が機能しなくなっていたが、経済政策を劇的に転換する事が出来ず、経済成長効果が小さかったとされる公共事業を軸とした膨大な財政出動を続け、国と地方も莫大な財政赤字を抱えるようになった。右肩上がりの経済成長を前提とした経済政策の転換を迫られることになり、そうした時代的要請から、2001年(平成13年)に小泉内閣が発足する。小泉純一郎は、公共事業の削減などにより政府の財政出動を抑制し、中央政府の権限を民間企業や地方自治体に委譲すべきとする聖域なき構造改革を主張し、旧来の地方への利益分配により政党の支持基盤を磐石なものとしてきた大きな政府路線から小さな政府路線に政策を転換した。2003年(平成15年)に保守新党を吸収してからは、自公連立政権となった。 小泉は、国民的な人気を集め、小泉旋風と呼ばれる現象を引き起こす。発足時(2001年4月)の第1次小泉内閣の内閣支持率は、戦後の内閣として歴代1位(当時)の数字となり、最も高かった読売新聞社調べで87.1パーセント、最も低かった朝日新聞社調べで78パーセントを記録した。「小泉内閣メールマガジン」を発行し、登録者が200万人に及んだことも話題となった。こうした小泉人気に乗るかたちで同年7月の参議院議員選挙で自民党は大勝した。 小泉は、2002年(平成14年)9月に電撃的に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問し、金正日国防委員長と初の日朝首脳会談を実現させるなど積極的な外交にも取り組んだ。 2003年(平成15年)10月の第43回衆議院議員総選挙を控え、選挙前に小泉が中曽根康弘・宮澤喜一両元首相に比例代表の73歳定年制を適用する方針を表明。83歳の宮澤は引退を表明した一方、85歳の中曽根が頑強に抵抗して話題となった。結局、中曽根はこれを受け選挙に出馬しなかった。結果、自民党と公明党、保守新党の与党3党で絶対安定多数を維持したものの、自民党は10議席を減らし、与党全体としては12の議席減となった(選挙後に保守新党は自民党に吸収されたため、自民党は単独過半数は確保している)。 2004年(平成16年)7月の第20回参議院議員通常選挙を控え、年金制度改革が争点となった。小泉内閣は参院選直前の6月に年金改革法を成立させたが、これが影響し選挙では自民党が改選50議席を1議席下回り、民主党に勝利を許した。 2005年(平成17年)8月、第162回通常国会における郵政民営化法案参議院否決後に行われた第44回衆院選では、「小泉劇場」と言われるポピュリズム的政治手法をとり、自民党だけで296議席、公明党と併せた与党で327議席を獲得、歴史的圧勝をおさめた。その一方で「抵抗勢力」とされた議員が郵政民営化法案に反対票を投じたため党を除名されたり、党公認の候補(いわゆる「刺客候補」)に敗れ落選したことで、党内保守派(主に民族派)および保守系の議連が大きな打撃を受けた結果、「自民党が保守政党でなくなっていく」可能性が指摘された[注 5]。 小泉政権の後期となる2005年ころより、「ポスト小泉」と呼ばれるニューリーダーが登場。特に、麻生太郎・谷垣禎一・福田康夫・安倍晋三の4人はポスト小泉の最有力候補とされ、4人はそれぞれの名前から一字ずつ取った『麻垣康三』と呼ばれるようになる。 2006年9月20日の自民党総裁選では、選挙前から確実視された安倍晋三が後継に選ばれる。翌9月21日に小泉の自民党総裁任期は満了し、9月26日に小泉内閣は総辞職して内閣総理大臣を退任した。任期満了による退任は1987年の中曽根政権以来であり、また、小泉政権は戦後4位であり平成時代最長(退任当時)ならびに21世紀最初の長期政権となった。 しかし小泉内閣以降の政権は、小さな政府路線を目指した構造改革の負の部分に苦しむことになる。本来結党以来の地盤であった地方は、小さな政府路線への反発から自民党離れが進み、年金記録問題や閣僚のスキャンダルもあって、安倍政権下の第21回参院選では民主党に惨敗、結党以来初めて参議院第1党から転落した。衆議院と参議院で多数派が異なる構図になった(ねじれ国会)ことで与野党の対立が激化、政策の決定、実行のスピードが遅くなった。これにより首相の指導力も著しく低下し、総理総裁が安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と毎年のように変わった。 2度目の野党時代と再度の与党復帰 2009年(平成21年)8月30日の第45回衆院選では、低迷する景気による閉塞感や、首相の指導力低下など、国民の不満は過去にないほど高まり、自民党は首相経験者や派閥領袖を含む大物議員が次々と落選する大敗を喫し、民主党に衆議院第1党の座を明け渡すことになった。獲得議席数は119議席に止まり、2度目の野党転落となった。前回下野した時は野党とはいえ衆議院での比較第1党であったため、自民党が衆議院で第1党を失ったのは、結党以来初めてのことであった。大臣経験者を含む現職国会議員の離党が相次ぎ、2010年(平成22年)6月までの1年弱で現職国会議員の離党者が15人に上った[31]。この衆議院総選挙惨敗ならびに下野の責任を取り、総理総裁の麻生太郎は引責辞任。直後の2009年自由民主党総裁選挙に勝利した谷垣禎一が総裁に就任。 反転攻勢のきっかけは、2010年7月の第22回参院選である。自民に代わって第一党となった民主党に加え、社会民主党(社民党)・国民新党が連立を組み民社国連立政権としてスタートしたものの、鳩山由紀夫内閣の失政と崩壊、続く菅直人の失言などに助けられて、改選第1党となり与党の参院過半数獲得を阻止した。 2011年(平成23年)、菅内閣は東日本大震災の対応不手際などで総辞職。代わって野田佳彦が首相となったものの、野田内閣は発足当初から閣僚の不祥事や離党者が連発し、民主党は分裂寸前であった。2012年(平成24年)9月の総裁選で安倍晋三が返り咲きを果たすと、野田との党首討論で解散総選挙の言質を引き出すことに成功する。12月、第46回衆院選で自民党は絶対安定多数を超える294議席を獲得[32](その後鳩山邦夫が復党し295人)、3年3か月ぶりに与党復帰を果たした。 以降、民主党は党勢を政権獲得前にまで回復させることができず、低迷している。また、中堅野党の日本維新の会やみんなの党なども分裂・解党を繰り返しており、野党は停滞状況にある。そのため、2013年(平成25年)の第23回参院選で公明党と合わせて過半数割れを解消、2014年(平成26年)の第47回衆院選でも現有議席をほぼ維持するなど、自民党優位の体制は継続している。 2016年(平成28年)の第24回参院選では、民進党(民主党が改称)・共産党・社民党・生活の党の野党4党が共闘し、全一人区で候補者を一本化(民共共闘)して選挙戦に臨んだが、その一人区では32選挙区中21勝11敗で勝ち越すなどして、自民党は追加公認も含め56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。また、いわゆる「改憲勢力」(自公におおさか維新の会、日本のこころを大切にする党、その他改憲に前向きな諸派・無所属議員を加えた勢力)が衆参両院で3分の2を超え、憲法改正の発議要件を満たすことになった。その後、民主党(現・民進党)を離党し無所属で活動していた平野達男が入党したことで、27年ぶりに参院単独過半数を回復した。 2017年(平成29年)1月、前年の参院選で改憲勢力の一つとして活動した日本のこころを大切にする党(のちに日本のこころへ党名変更)が参議院において、自民党と統一会派を結成することが明らかになった[33]。1月11日、日本のこころ側は党の与党化を宣言[34]。その後、1月16日に、統一会派「自由民主党・こころ」を結成[35][36]。 2017年10月の第48回衆議院議員総選挙では、小選挙区で218議席(うち無所属で当選後、公示日に遡って自民党公認となった議員3人を含む)、比例代表で66議席の選挙前と同じ284議席を獲得する圧勝。また南関東ブロック、近畿ブロック、中国ブロックでは小選挙区の候補者が比例復活も含めて全員当選した[37]。勝因の一つには、野党第一党の民進党が分裂し、希望の党と立憲民主党の2つの新党が結成され、反自民票が分散したことなどが挙げられる[38]。 2018年11月、日本のこころを吸収合併。それに先立ち、前月に参議院での会派名を「自由民主党・国民の声」に変更[39]。 略史 前史 1953年(昭和28年)頃から、保守合同への動きが活発化[40]。 1954年(昭和29年) 11月 改進党と日本自由党の合同により日本民主党を結成[40]。 1955年(昭和30年) 5月 自由党・日本民主党の両党幹部会談[40] 6月 緒方竹虎・自由党総裁と鳩山一郎・日本民主党総裁による党首会談。「保守勢力を結集し、政局を安定させる」ことで意見の一致をみる。両党から選出された委員からなる政策委員会・新党組織委員会が置かれる[40]。 10月 政策委員会・新党組織委員会を新党結成準備会に切り替える。 結党から1970年代まで 1955年(昭和30年) 11月15日 自由党と日本民主党の合併(保守合同)により結成。東京・神田の中央大学講堂において、結成大会を開く。当初は総裁を置かず「総裁代行委員」を置き、鳩山一郎(首相で日本民主党総裁)、緒方竹虎(自由党総裁)、三木武吉(日本民主党総務会長)、大野伴睦(元衆議院議長)の4人が務めた。所属国会議員は、衆議院298名、参議院115名[40]。 1956年(昭和31年) 4月5日 - 総裁選挙を施行し、鳩山一郎首相を初代総裁に選出。 7月8日 - 結党後初の大型選挙となる第4回参議院議員通常選挙において、122議席に終わり、過半数獲得に失敗。 12月14日 - 総裁選挙を施行し、石橋湛山通産相が岸信介元商工相に決選投票で逆転勝利し、第2代総裁に選出。 1957年(昭和32年) 2月1日 - 池田勇人の仲介により、吉田茂元首相と佐藤栄作が入党。 1958年(昭和33年) 5月22日 - 結党後初の総選挙となる第28回衆議院議員総選挙で287議席を獲得し、166議席の日本社会党に勝利。 1960年(昭和35年) 11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙において296議席を獲得。 1976年(昭和51年) 6月25日 - 河野洋平ら6名[注 6]が離党、新自由クラブ結成(1986年8月15日解党、大半が自民党に合流)。 12月5日 - 第34回衆議院議員総選挙で大敗、初めて公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(直後に保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保) 1980年代 1983年(昭和58年) 12月18日 - 第37回衆議院議員総選挙で再び公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)。同月27日、結党以来初の連立政権を新自由クラブと結成する(第2次中曽根康弘内閣)。 1984年(昭和59年) 9月19日 - 自由民主党本部放火襲撃事件(未解決、公訴時効成立)。本部ビルの一部を焼かれる。 1989年(平成元年) 7月23日 - 第15回参議院議員通常選挙で日本社会党に大敗、初めて追加公認を合わせても参議院での過半数を失う。 1990年代 1993年(平成5年) 7月18日 - 第40回衆議院議員総選挙直前に離党者が続出、公示前議席の維持に留まり、比較第1党であるものの、追加公認を合わせても衆議院の単独過半数に届かず。 8月9日 - 非自民・非共産連立政権・細川護煕内閣が発足し、結党以来初めて野党となる。その後、自民党議員の離党が五月雨式に相次ぐ。 1994年(平成6年) 6月30日 - 村山富市社会党委員長を首相とする社会党・さきがけとの自社さ連立政権が(村山富市内閣)発足。約11か月ぶりに与党に復帰。自民党が首相指名選挙で他党の党首へ投票をしたのは史上初めて。 1995年(平成7年)  7月 - 第17回参議院議員通常選挙で比例区第1党を最大野党・新進党に奪われた。 1996年(平成8年) 1月11日 - 約2年半ぶりに自民党総裁を首相とする橋本龍太郎内閣が発足。 1997年(平成9年) 9月5日 - 約4年ぶりに衆議院の単独過半数を回復[注 7]。 1998年(平成10年) 6月1日 - 社さ両党との連立を解消。 1999年(平成11年) 1月14日 - 自由党と連立政権樹立(小渕恵三内閣)。(自自連立) 10月5日 - 公明党・改革クラブ (1998-2002)とも連立政権を組む(小渕恵三内閣)。(自自公連立) 2000年代 2000年(平成12年) 4月1日 - 自由党との連立を解消。同党から分かれた保守党(2002年12月、保守新党に改組)と連立を組む。(自公保連立) 2003年(平成15年) 11月21日 - 保守新党を吸収合併。(自公連立)以降、公明党との二党連立体制が定着する。 2005年(平成17年) 11月22日 - 立党50周年記念党大会で「新理念」、「新綱領」、「立党50年宣言」を採択。同時に日本国憲法改正案として党議決定した「新憲法草案」を正式発表。 2007年(平成19年) 7月29日 - 第21回参議院議員通常選挙で野党第1党である民主党に大敗。結党以来初めて参議院第1党から転落。 2009年(平成21年) 8月30日 - 第45回衆議院議員総選挙で解散前を大幅に下回る119議席の歴史的大敗、結党以来初めて衆議院第1党を民主党へ明け渡す。 9月16日 - 民社国連立政権・鳩山内閣発足。約15年ぶりの野党転落。 2010年代 2010年(平成22年) 1月24日 - 第77回定期党大会にて、復古主義色を強めた「平成22年(2010年)綱領」[41]を発表。 7月12日 - 第22回参議院議員通常選挙で改選前を13議席、与党第1党である民主党を7議席上回る51議席を獲得。9年振りに改選第1党となる。 2012年(平成24年) 4月27日 - サンフランシスコ講和条約締結60年に当たり、新しい改憲試案を発表(2005年試案をさらに改定)。 12月16日 - 第46回衆議院議員総選挙で294議席を獲得し、衆議院第1党に返り咲く。 12月26日 - 第2次安倍内閣発足。公明党とともに3年ぶりに政権復帰。 2013年(平成25年) 7月21日 - 第23回参議院議員通常選挙において、第19回参議院議員通常選挙以来12年ぶりに比例区において第1党となるなど、現行選挙制度下で最多となる65議席を獲得。公明党の獲得議席および非改選議席を合わせると自公連立与党が優位となり、前年の総選挙以来続いていた両院のねじれ状態が解消された。 2014年(平成26年) 12月14日 - 第47回衆議院議員総選挙において、単独で絶対安定多数の266を超える291議席を獲得。公明党と合わせて計326議席を獲得、議席数の3分の2以上を維持。 2015年(平成27年) 9月8日 - 自民党総裁の任期満了に伴う選挙が告示され、現職の安倍晋三以外に候補者がいなかったため、無投票で再選された[42]。 2016年(平成28年) 7月10日 - 第24回参議院議員通常選挙において、選挙区で37、比例で19、合わせて56議席を獲得した(非改選と合わせて121議席)。 7月23日 - 無所属の参議院議員1名が入党し、27年ぶりに参議院で単独過半数(122議席)を回復した。 2017年(平成29年) 3月5日 - 第84回定期党大会が開催され、その中で自民党総裁の任期を従来の「連続2期6年」から「連続3期9年」に延長することを正式決定[43]。 7月2日 - 2017年東京都議会議員選挙において、23議席に終わり、都議会第一党を都民ファーストの会に明け渡し、2009年都議選の38議席を大幅に下回る過去最低の大惨敗を喫した[44]。 10月22日 - 第48回衆議院議員総選挙において、単独で284議席を獲得し圧勝。公明党と合わせて計313議席を獲得、議席数の3分の2以上を維持。 2018年(平成30年) 11月1日 - 日本のこころを吸収合併[45]。 不祥事 2014年に自民党が所有するIPアドレスの『210.226.6.11』で、ウィキペディアの二階俊博の記事にあった「どのような対策を行ったのかは定かではない。その5年後、2011年に福島第一原子力発電所事故が発生した」という原発対策の記述を、「2010年6月、自民党は津波対策法を国会に提出するが、民主党の無関心から審議に入らないまま、2011年に福島第一原子力発電所事故が発生。震災後与野党が合意し、法案が成立。二階が中心的役割を果たした」に書き換え、民主党のネガティブ・キャンペーンを行った事が報道された。他にも、同IPアドレスで、自民党の尾辻秀久の記述には「ワイン好き」、民主党の平野博文の記事には「電機労連の支持を背景に」と追記している[46]。 2016年に朝まで生テレビ!にて、大森昭彦議員が建築板金業の一般人を装って、「民主党政権時代よりマシになって、モノが売れるようになったという声が自分の周りで聞こえる」などと発言した[47][48]。 2017年の参院選前に自民党の神谷昇が大阪府内の地元市議に向けて現金を配布した問題で陳謝した。現金配布は公職選挙法には抵触しないと主張した。 [49] 働き方改革に絡んだ不適切労働データ改竄問題で原票開示を要求した野党側に原本は存在しないと、自民党側は明確に否定する答弁をした。だが地下倉庫にダンボール32箱分の書類データ原票が発見された。野党側はこれを自民党による隠蔽だと非難しており、希望の党、山井元厚労政務官は「この32箱で労働者の働き方過労死、命がかかっているということは国民の皆さんはこの段ボールを見る権利があると思う」 と語っている[50][51]。 政策 1955年結党時 1955年の結党時には、「立党宣言」、「綱領」、「党の性格」、「党の使命」、「党の政綱」の5文書を作成した。 立党宣言 1955年の「立党宣言」で政治の使命は民生の安定、公共福祉の増進、自主独立、平和の確立とし、立党の政治理念は議会民主政治と、個人の自由と人格の尊厳とした[52]。 1955年綱領 1955年の「綱領」で以下を記載した[53]。 民主主義、文化的民主国家。 平和と自由、自主独立。 公共の福祉、個人の創意と企業の自由、経済の総合計画、民生安定と福祉国家。 党の性格 1955年の「党の性格」で以下を記載した[54]。 国民政党として階級政党に反対。 平和主義政党として国際連合憲章の精神に則り世界平和に努力。 真の民主主義政党として基本的人権を尊重し、階級独裁や共産主義に反対。 議会主義政党として、極左・極右の全体主義に反対。 進歩的政党として、闘争や破壊は排し伝統と秩序を保持しつつ現状改革。 福祉国家の実現をはかる政党として、社会主義経済と独占資本主義を廃し、自由企業を基本に計画性を付与し生産増強、社会保障、完全雇用、福祉国家を実現。 党の使命 1955年の「党の使命」では社会主義や共産主義など反米勢力を批判し、日本国憲法と戦後民主主義を“日本の弱体化の一因”と指摘。“正しい民主主義と自由こそが必要であり、わが党は憲法改正で国民の負託に応える”と述べた[55]。 党の政綱 1955年の「党の政綱」で以下を記載した[56]。 国民道義の確立と教育の改革 - 正しい民主主義と祖国愛の高揚、国民情操の純化向上 政官界の刷新 - 選挙制度や公務員制度の改正、中央と地方の責任行政体制、行財政の効率化 経済自立の達成 - 年次計画による経済政策、農林漁業の安定、中小企業の振興、労使協力体制の確立、原子力の平和利用 福祉社会の建設 - 社会保障施策の整備、生活環境の改善、社会正義に立脚した福祉社会 平和外交の積極的展開 - 自由民主主義諸国との協力、国際連合への加入、原水爆の禁止 独立体制の整備 - 現行憲法の自主的改正、自衛軍備 2005年綱領 2005年11月22日の党大会で理念と「新綱領」を発表した[57]。 新しい憲法の制定を - 新憲法制定の論議進展 高い志をもった日本人を - 人間としての普遍的規範、家族の絆、愛国、地域愛、共助 小さな政府を - 行財政改革、地方分権の推進 持続可能な社会保障制度の確立を - 少子化対策、持続可能な社会保障制度 世界一、安心・安全な社会を - 犯罪やテロとの闘い、災害対策 食糧・エネルギーの安定的確保を - 食糧自給率の向上、食の安全 知と技で国際競争力の強化を - 中小企業の活力、科学技術立国 循環型社会の構築を - 持続可能な循環型社会 男女がともに支え合う社会を - 女性の参画、男女の特性認識による責任共有 生きがいとうるおいのある生活を - ボランティア活動、スポーツ・芸術、高齢者や障害者の社会参加、NGO・NPOとの交流 2010年綱領 2010年(平成22年)1月24日、第77回定期党大会にて「平成22年綱領」[58]を決定した。 「現状認識」として、天皇の下に[59]、また日米同盟を基軸とする外交政策で平和な日本を作り上げたとした。立党目的のうち「反共産・社会主義、反独裁・統制的統治」は達成されたが、独自の伝統・文化の喪失、経済成長の鈍化、財政悪化、少子化などの現実があり、もう1つの立党目的である「日本らしい日本の確立」が重要とした。平成21年総選挙の敗北を反省し、護り続けてきた自由(自由主義)は市場原理主義でも無原則な政府介入主義でも無いとして、自立した個人の義務と創意工夫、自由な選択、他への尊重と寛容、共助の精神からなる自由とした。 我が党は常に進歩を目指す保守政党である - 自由主義、民主制、秩序の中の進歩、真実を語る、多様な組織との対話 我が党の政策の基本的考え - 新憲法の制定、自主防衛、自助自立する個人の尊重、市場経済、地域社会と家族の絆、公正な政策、財政の効率化と税制改正 我が党は誇りと活力ある日本像を目指す - 家族・地域社会・国への帰属意識、合意形成を怠らぬ民主制、努力するものが報われる社会、国債残高の減額、世界平和への義務 その他 憲法草案 「憲法の自主的改正」(自主憲法制定)を党是とし、2005年に「新憲法草案」を、2012年に「憲法改正草案」を発表した[60][61]。 自由民主党が野党であった2010年に発表した自民党政策集 統治制度では、国会議員定数の大幅削減、二院制のあり方の検討、「天下り」根絶など[62]。 経済財政面では、デフレ脱却、法人税の引き下げ、郵政民営化の推進、消費税の「当面10%」など[63]。2012年の「国土強靭化基本法案」で3年間で15兆円、10年間で200兆円の公共投資[64]。 外交では、「日米同盟(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)堅持はわが国の外交の基軸」として、地元の負担軽減と在日米軍再編を進め、アジア諸国との協力関係構築、保護主義への反対と自由貿易の推進、自衛隊の海外派遣の推進など[65]。普天間移設問題では辺野古への移設を含む日米合意を推進。 農林水産業では「日本型直接支払い」と「経営所得安定制度」の創設、地方自治では「総額2兆円の緊急交付金」、道州制の推進など[66]。 環境問題では、温室効果ガス削減のため、再生可能エネルギーの推進、原子力政策の推進など[67] 教育問題では、国旗・国歌の尊重、「過激な」性教育やジェンダーフリー教育への反対、自虐史観偏向教育への反対など[68]。 民主党の選択的夫婦別姓法案に反対[69]。 永住外国人への地方参政権付与に反対[69]。 組織 党員 最低限の要件として、党則第3条において「本党の目的に賛同する日本国民で、党則の定めるところにより忠実に義務を履行すると共に国民大衆の奉仕者として積極的に党活動に参加する者」と定められている。また、年齢については別途定めるとされている[70]が、2015年(平成27年)現在は満18歳から入党申し込みをすることが可能である。 入党を希望する者は、所定の入党申込書に本人が自筆で記入し、初年度の党費を添えて支部または都道府県支部連合会に提出する。その際に、既存党員1名の紹介を付けることが必要である[71]。なお後述の「名義貸し」が起こる可能性を考慮して、職域支部であっても事前に特定個人の名前を印刷した入党申込書を配り、一定の時期に回収するなどといった行為は禁止されている。紹介者となる既存党員が身の回りにいない場合は、東京・永田町の自民党本部1階にある広報コーナーか最寄りの都道府県支部連合会事務所で相談に応じている。 党籍は一般党員、家族党員、特別党員の3種類に分かれており、一般党員の党費は年間4,000円。家族党員は年額2,000円だが、同一生計内に一般党員1名を必要とする。特別党員は年間20,000円以上であれば、政治資金規正法の範囲内で出す金額を自由に決められる。なお一般党員であっても自由国民会議会員と両立することができ、政治資金の面でより強力かつ効果的な支援をすることができる。 20歳以上(もしくはその年に20歳になる者)で直近2年間連続して党費の滞納がないことを条件に、総裁選挙の投票権が与えられる[72]。 他党から自民党への移籍を希望するときは、国会議員の場合は総裁または幹事長、都道府県議や自治体議員は県連会長に直接会って了承されなければならない[注 8]。 党員数は1991年(平成3年)には約547万人を記録していたが、その後は名義貸し党員の表面化や法改正による禁止措置などを受け一貫して減少傾向にある(後述)。参院選比例代表の非拘束名簿式が導入された2001年(平成13年)には200万人を割り、野党転落した2009年(平成21年)末には所属国会議員の激減や支持団体が離反が相次いだこともあり、結党以来初めて100万人を割った[73]。2012年(平成24年)に78万9348人[74]を記録したのが底で、2013年以降は回復傾向を見せており2016年(平成28年)9月には100万人の大台を回復した[75]。 名義貸し党員 自民党の党員はピーク時の1991年(平成3年)には547万人いたが、積極的に活動したのは半数にも満たなかった。これは、特に職域支部において明らかに党活動に参加する意思のない者が支部を通じて入党したかのように見せかける「名義貸し」が行われていたことが原因である。 当時は総裁選挙における党員・党友票の扱いが現在と異なり、有効投票1万票を議員票1票に換算して基礎票としていたため、たとえ1票の重みが議員票の1万分の1であったとしても、1人でも多くの個人党員を獲得することが議員の所属する派閥が推す候補者を総裁選で勝たせるのに必要であったという事情がある。 また1983年(昭和58年)に導入された参議院比例代表選挙で、自民党の名簿上位に登載されるには立候補予定者が自らの傘下の党員を多く獲得しその名簿を提出する必要があったため、立候補予定者が所属または関係していた利益団体が党費を立て替えて支持者、宗教団体であれば信者を多数自民党に入党させることもあり、それが弊害化していった。 名義を貸しただけの党員の党費は支部自体や、支部を構成する圧力団体が行う政治献金によって払われたものとして処理されていた。党員証も支部預かりとなって本人には渡されず、当時の機関紙だった「自由新報」も各個人まで届かなかった。1990年代に党員数が急減したのは、政治資金規正法の改正によって名義貸しが罰則付きで禁止され、急速に解消されていったことにも一因がある。 本部 国会議事堂の北西にある国有地(財務省所有)を年間約8970万円(2011年時点)で賃借し[76][77]、その土地上に建築した9階建てのビル「自由民主会館」を本部としている。1966年(昭和41年)竣工。所有者は<b data-parsoid='{"dsr":[46530,46546,3,3]}'>財団法人自由民主会館。延べ床面積は約1万5600平方メートルで大規模な本部ビル[注 9]ではあるが、約1万6000平方メートルある日本共産党本部の方が大きく、日本最大ではない[78]。 1955年(昭和30年)の結党当時は東京・平河町の砂防会館本館2・3階を賃借していた。東京オリンピック開催に伴う国道246号の拡幅工事で立ち退きが必要になったため、同様に立ち退きを迫られた日本社会党(後の社会民主党)と共に国有地を割り当てられたという経緯がある[79]。 衆議院が所有する国有地約1320平方メートルを、無償で、衆議院議員用の駐車場として利用しているが、他党の衆議院議員の利用は警備上の理由などで断っているという[76][79]。 地方組織 自民党は衆議院の小選挙区、参議院の選挙区ごとに<b data-parsoid='{"dsr":[47531,47542,3,3]}'>選挙区支部、基礎自治体ごとに支部(地域支部)を擁する[80]他、一定の職域ごとに<b data-parsoid='{"dsr":[47596,47606,3,3]}'>職域支部(しょくいきしぶ)を置くことができる[81]とされており、都道府県ごとにこれら支部を束ねる<b data-parsoid='{"dsr":[47670,47679,3,3]}'>連合会</b>を設置している。都道府県支部連合会は通常、県連(けんれん)、都連(とれん、東京都)、府連(ふれん、大阪府・京都府)、道連(どうれん、北海道)などと省略される。 県連会長は現職国会議員から選ぶことを原則とするが、県連が分裂状態になって前会長が辞任した場合など、やむを得ない時は都道府県議会から出した例もある。県連幹事長は地元の都道府県議会から出すのが通例である。県連総務会長、政調会長は都道府県議会だけでなく、同一県内にある政令指定都市の市議会からも選ばれるが、東京都連のように幹事長以外がすべて国会議員という例ももちろん可能である。 選挙区支部 衆議院選挙区支部は、小選挙区選挙で勝利した現職議員を支部長とするのが基本だが、比例復活当選した議員、および次回総選挙における小選挙区公認予定者も所属する。ただし、比例復活者に対しては「支部長選任基本方針」[82]とよばれる内規に基づき、毎年審査が行われる。 小選挙区での敗北が1回の者については選挙終了後に選挙区支部長に再任するが暫定的なものとし、1年後に活動内容の審査を行い総裁と幹事長の許可を得て正式なものとなる。直近2回以上連続で小選挙区敗退し比例復活となった者については、次の総選挙まで1年ごとに審査を繰り返し、最悪の場合は支部長交代という形で政界から引退させることも視野に入れる。ただし立憲民主党や日本維新の会、自由党など野党の対立候補者が際立って強い地盤を持っている場合は考慮する。なお2回連続で小選挙区敗退、比例復活もできずに落選した者は、以後自民党の公認を受けることができない。 支部長選任基本方針は衆議院総選挙の終了後に改正されるのが慣例となっており、最近では2017年(平成29年)11月に改正された。この改正では2回以上連続で比例復活した者は次回選挙での重複立候補を認めないとする新たな原則が決定された[83][84]。 参議院選挙区選挙の当選者と次回立候補予定者は、都道府県連の下に置かれる「参議院選挙区支部」の支部長となる。衆議院比例代表単独で立候補し当選した議員、および参議院比例区選出議員は出身都道府県ごとに置かれる衆参両院どちらかの「比例区支部」に所属しその支部長となる。また、都道府県知事や基礎自治体の長、地方議会議員が自民党の公認を受け当選した場合には、選挙区を管轄区域とする「地方選挙区支部」を当選者1人につき1つ置くことができる[85]。さらに、党員ではあるが選挙区に空きがない有力候補予定者のために都道府県に「衆議院選挙区第二支部」を置く事がある[注 10]。 地域支部 地域支部には、地元の選挙区選出の都道府県議会議員と、その地域の基礎自治体議会の議員が所属するが、国会議員が選挙区支部長と兼任で地域支部長を務める場合もある。選挙区支部の国会議員や公認予定者と緊密な連携を取ると共に、地域内の一般党員の受け皿となる。 職域支部 自民党の職域支部は、業界団体などにおいて50人以上の党員が集まった場合、党本部と都道府県支部連合会の許可を得て発足させることができる。ただし、東京都支部連合会においては業界団体中央が作る政治組織がそのまま支部とみなされることも多い。 参議院自由民主党 参議院自由民主党は各種業界・団体代表者の割合が高く、このためもあって派閥に対する帰属意識が衆院に比べて弱い。1989年(平成元年)の第15回参議院議員通常選挙で大敗、過半数割れして以降、自民党の参院勢力は常に過半数割れか、もしくは半数ギリギリの状況であるため、参院対策が重要視されている。 参院自民党の執行部人事は総裁の専権事項ではなく、参院議員会長の指名により決定する。ただし、会長が所属する派閥の領袖たる衆議院議員の指令で決まってしまい、結果的に長老支配や密室政治の温床となることもある。 また閣僚人事も派閥領袖より参院議員会長・参院幹事長の意向が優先される<b data-parsoid='{"dsr":[50054,50064,3,3]}'>参議院枠</b>が存在する。特に、参院議員会長の影響力が強いと総理総裁の人事権や派閥力学を超えて、閣僚人事権を事実上支配してしまうこともある。 参議院合同選挙区(合区)について、一票の格差の最高裁判決を受け入れて2015年7月に4つの選挙区を2つに合区することを受け入れたものの、2016年参院選から実施された後は問題が多いとして憲法改正を含めた上での合区解消を主張している。 離党と賞罰 一般党員の場合、毎年5月以降に所属の支部を通じて党費の請求を行い、その年の年末(12月28日)までに納入が確認できなければ、自動的に離党扱いとなる。 現職国会議員が離党する場合、幹事長宛に離党届を提出[86]し、党紀委員会において処分の対象にならないことを確認した上で了承を得る必要がある[87]。地方議員は都道府県支部連合会会長宛てで同様の手続きを踏む。党紀委員会または県連会合で了承されないときは処分の対象となり、その場合多くは除名となる。また議員及び党員が汚職または選挙違反などの刑事事犯により逮捕された場合は、判決確定まで党員資格停止とし、禁固以上の有罪判決が確定したときは無条件で除名に切り替える[88][注 11]。不起訴、起訴猶予になったとしても自民党の名誉を傷つけたと判断されれば処分の対象にすることができる[89]。 その他、党紀委員会の処分としては重い順に、除名、離党勧告、党員資格停止、公認取り消し、国会・政府での役職停止、党内役職停止、幹事長厳重戒告、党則遵守勧告がある[90]。また、幹事長が出せる処分としては国会・政府での役職停止の前に「辞職勧告」をすることができる[91]。 このうち、党員資格停止、党内役職停止は最大2年までの期限付きとする[92]。離党勧告は期限を付けることができる。期限付きとなった場合、その期限までに離党届が提出されたときは党紀委員会でこれを了承しなければならず、将来の復党の可能性も与えられる。提出されない場合は除名処分に切り替わる[注 12]。 一度離党した議員が復党を希望する場合は、入党申込書を県連ではなく幹事長、場合によっては総裁宛に提出し、最低でも党紀委員会の審査を受けて了承されなければならない[93]。この時、除名処分を受けていると原則として二度と復党できず[注 13]、同時に所属していた自民党会派も退会となる[注 14][注 15]。 役職 歴代総裁(党首) 自由民主党シャドウ・キャビネット 歴代執行部役員 党役員 2017年(平成29年)9月12日現在[94] 総裁は派閥を正式に退会、党四役以上は形式的に派閥を離脱。 かつては首相・衆参両院議長・副総裁の経験者からなる最高顧問が存在したが1990年代中期に廃止された。 派閥 閨閥 自民党およびその前身たる保守政党から輩出された歴代首相の多くが、同一の閨閥に属する[95]。 Colombia 主な支援団体 党友組織 自由国民会議 1977年(昭和52年)創設。「自民党にモノ言う応援団」を標榜している。党員が加入することも可能。日本国籍を有する者に限られる。 政治資金団体 国民政治協会 1976年(昭和51年)1月1日指定。法人用の党友組織でもある。自由国民会議同様に、個人会員は日本国籍を有する者に限られ、外資系企業が法人会員になることや在日外国人が個人会員になることは、政治資金規正法の規制により不可能である。 宗教団体 朝日新聞によると、第23回参議院議員通常選挙(2013年)において、自民党の比例区当選候補を支援した宗教関連団体は以下の通り[96]。 曹洞宗 日蓮宗 天台宗 浄土宗 世界救世教・主之光教団 MOAインターナショナル(明るい社会をつくる会) 新生仏教教団 仏所護念会教団 崇教真光 世界真光文明教団 念法真教 解脱会 霊友会 神道政治連盟(神社本庁) 黒住教 天照皇大神宮教 世界平和統一家庭連合 友好団体 支持を表明しているとされる団体 全国郵便局長会(全特):郵政民営化が問われた2005年衆院選以降は自民党議員だった郵政造反組で結成された国民新党を支援していたが、2013年参院選では改正郵政民営化法の成立を受け、再び自民党を支援している[97]。 近年の動向 小泉政権時は、マスコミ報道を効果的に利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などと評され、従来の自民党支持層とは異なる都市部無党派層・従来政治に関心が無かった層からも幅広い支持を集めた。第44回衆議院議員総選挙では党広報担当の世耕弘成が民間企業の広告代理店と協力して自らのイメージを高め反対勢力のイメージを落とそうとするメディア戦略を行った(B層)。 自民党は都市部と過疎地の経済格差の是正を重視する保守本流政策を田中角栄内閣以来踏襲し、農山漁村や地方小都市からの支持が根強かったが、近年では環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) を推進するなど、自由競争による経済効率を重視する政策への転換を図り、公共事業の削減を進めている。 朝日新聞の調査によると、過去10年間の自民党支持率の推移を世帯年収別に見ると、2005年には富裕層から貧困層までほぼ同じ割合が自民党を支持していたのに対し、2015年には富裕層における自民党支持が増えた一方で貧困層における支持は低下したとされる(以下の表を参照)[100]。朝日新聞は、世帯収入300万円未満の層では自民党離れが進み、無党派層が増えているとしている[100]。総務省統計局のデータによると、第24回参議院議員通常選挙(2016年)の東京都選挙区では、自民党の候補者(中川雅治および朝日健太郎)は平均世帯年収が高い自治体でより多くの票を獲得していたのに対し、平均世帯年収が低い自治体では票を伸ばすことができなかったとされる(右グラフを参照)。 地域別では、都市部においても地方においても幅広く支持があり[101]、年代別では、全年齢層で他党よりも支持は高いものの、特に30代以下の層と70代以上の層で支持を集める傾向にある[102]。 2010年(平成22年)6月9日には、主に若年層・特にインターネット上で活発に活動する層を対象とした公認ボランティア組織として『自民党ネットサポーターズクラブ』(J-NSC)を設立した(従来存在した「チーム世耕」の公然化)。 対外関係 アメリカ合衆国 アメリカの共和党は日米安全保障条約、また韓国や太平洋諸国との同種の二国間軍事同盟(これが為、アジア太平洋地域に集団安全保障体制は存在しない)に基づく東アジア外交を重視し、さらには#党史にも述べられているように結党に深く関与しているため、およそ50年間にわたり政権を執ってきた自民党もその条約体制を概ね支持する意味から共和党政権との外交関係を重視してきた。発足以来、アメリカにおいて共和党の対立政党である民主党による政権はケネディ、ジョンソン、カーター、クリントンおよびオバマの各政権があるが、概ね共和党の外交政策を踏襲したケネディ政権を除いては民主党は東アジアにおける安全保障政策および東アジア外交を重視しない方針を取ってきたため、自民党とアメリカ民主党との外交関係は薄いのが現状である。 共和党政権では、日中国交回復の実現で協力した田中政権とニクソン政権、新自由主義に基づく経済戦略と国際戦略で協調路線を取った中曽根政権とレーガン政権・小泉政権とブッシュ政権がそれぞれ深い外交関係を持っていた。 中華人民共和国 伝統的に親中共である。 日中友好議員連盟には多数の議員が所属し、高村正彦が会長、町村信孝が副会長を務める。また、北京オリンピックを支援する議員の会の河野洋平会長など100人以上の議員が参加している。なお日中緑化推進議員連盟には二階俊博らが所属している。。 中華民国 (台湾) 中国国民党ともパイプは太い。 日華議員懇談会には多数の議員が所属し、自民党内には伝統的に岸信介など親台派の議員も数多く存在する。。また、2015年現在の総裁である安倍晋三は、日華友好を主たる目的とする亜東親善協会の会長を首相就任前まで務めていた[103]。なお、中華民国との交流は自由民主党青年局を通じて行なわれる。 大韓民国 日韓議員連盟に自民党議員177名が参加している。2012年12月に発足した第2次安倍内閣は、日韓関係修復のため第46回衆議院議員総選挙の総合政策集に明記していた政府主催による「竹島の日」記念式典の見送りを決定[104]した他、自民党の額賀福志郎を首相特使として派遣し朴槿恵次期大統領との首脳会談を要請した[105]。 朝鮮民主主義人民共和国 南北分断固定以後は韓国同様にその存在を認めておらず、朝鮮労働党との交流は主に日本社会党が「友党」として積極的に行ってきた。その中で1990年(平成2年)には金丸信が日本社会党の田邊誠と共同で訪朝団を結成し(金丸訪朝団)、国交正常化や統治時代の補償とともに『南北朝鮮分断後45年間についての補償』という約束を自民党・社会党・朝鮮労働党の3党で交している。北朝鮮による日本人拉致問題の発覚後は、表立った交流は事実上行われていない 政党交付金 2009年(平成21年) - 139億8032万円 2010年(平成22年) - 102億6381万円 2011年(平成23年) - 101億1468万円 2012年(平成24年) - 101億5400万円 党勢の推移 衆議院 参議院 (参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2) 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。 『戦後政治史』にない追加公認は(衆議院、1990年 - 1999年)(衆議院、1996年 - 2003年)(衆議院、2001年 - 2008年)「(1)各会派所属議員数及び会派の動き(召集日現在)」(衆議院、2009年)、(1990年 - 1999年)(1996年 - 2003年)(2001年 - 2008年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はなく、国会の記録は、議長就任による党籍離脱が行われたあとで-1となっている。 所属国会議員 地方政治 地方議員:3048人 都道府県議会:1271人 市議会:1301人 特別区議会:286人 町村議会:69人 政党支部数:7,252 政党収入額 2010年(平成22年) - 439億1,820万円 得票総数 第21回通常選挙 - 選挙区18,606,193票・比例代表16,544,671票 第45回総選挙 - 小選挙区27,301,982票・比例代表18,810,217票 第22回通常選挙 - 選挙区19,496,083票・比例代表14,071,671票 第46回総選挙 - 小選挙区25,643,309票・比例代表16,624,457票 第23回通常選挙 - 選挙区22,681,192票・比例代表18,460,404票 連立政党 これまでに自由民主党が連立政権を組んだ政党を列記する。 新自由クラブ(第2次中曽根内閣) 日本社会党(のちに社会民主党に改称、村山内閣 - 第1次橋本内閣) - 自社さ連立政権 新党さきがけ(村山内閣 - 第1次橋本内閣) - 自社さ連立政権 自由党(小渕第1次改造内閣 - 小渕第2次改造内閣) 公明党(小渕第2次改造内閣 - 麻生内閣、第2次安倍内閣-) - 自公連立政権 保守党(のちに保守新党に改称、第1次森内閣 - 第1次小泉内閣) その他、閣外協力では自由連合が村山改造内閣に、改革クラブが小渕第2次改造内閣と第1次森内閣に政務次官を出している。副大臣や大臣政務官を一切出さない閣外協力では麻生内閣における(新党改革の前身で08年夏結成)改革クラブ、安倍内閣における日本のこころがある。 脚注 注釈 出典 関連項目 日本の政治 日本の政党一覧 外部リンク (公式サイト) on Twitter(イベント用のアカウントは「」。) on Facebook on YouTube on Instagram - 自民党結党当時からの学生部組織。多くの政治家を輩出し、自民党内における政治家への登竜門と言われている。4年制大学在学生を中心に東京から情報を発信している。 - 自民党のインターネット広報拠点。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A%20%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
{'plaintext_start_byte': array([ 3, 277, 570, 937, 988, 1429, 1577, 1810, 2149, 2708, 3029, 3190, 3652, 4155, 4841, 5132, 7727, 8032, 10235, 10338, 10648, 11035, 11453, 12017, 12132, 12485, 12872, 13272, 13730, 14202, 14330, 14913, 15097, 15567, 15840, 16294, 16430, 16569], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 276, 562, 936, 987, 1421, 1576, 1809, 2134, 2707, 3009, 3189, 3651, 4154, 4833, 5131, 7719, 8031, 10227, 10336, 10647, 11034, 11452, 12006, 12131, 12465, 12852, 13271, 13729, 14201, 14322, 14912, 15096, 15566, 15839, 16270, 16415, 16552, 16697], dtype=int32)}
キャベツに葉酸はある?
キャベツ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
キャベツ(古くは<b data-parsoid='{"dsr":[1561,1571,3,3]}'>キャベジ[1]、英語:Cabbage、Brassica oleracea var. capitata)、アブラナ科アブラナ属の多年草。野菜として広く利用され、栽培上は一年生植物として扱われる。 名前は英語に由来するが、さらにその語源はフランス語のcaboche(頭)から。別名の<b data-parsoid='{"dsr":[1837,1845,3,3]}'>甘藍(かんらん)は中国語名の甘藍(gānlán)から、玉菜(たまな)は結球する性質に由来する。 特徴 キャベツは結球(丸く玉になる性質)のイメージが強いが、結球する品種と、しないものがある。また、同じ原種に由来するケール、カリフラワー、カイラン、メキャベツ、コールラビ、ブロッコリーなどと同様に長い品種改良の過程を経ているため、多くの品種がある。 ビタミンC、ビタミンUを豊富に含む。 キャベツが属するアブラナ科の野菜にはがん予防効果があると言われており[2]、アブラナ科のイソチオシアネートの効果とも言われている[3][4]。かつて、デザイナーフーズ計画のピラミッドで1群に属しており、カンゾウと共に、最上位に属するニンニクに次いで高い癌予防効果のある食材であると位置づけられていた[5]。 結球 キャベツに限らず結球する野菜は、葉の成長ホルモン(オーキシン)が裏側に偏ることで、その形態をとる。 一般に流通しているグリーンキャベツの場合、外葉が18 - 21枚になってから結球が開始し、葉序に従い螺旋状に茎頂を包む。結球時、茎はほとんど伸長せず、短縮茎となる。 断面を見ると、中心に近い葉ほど内側を向いている。これは外側が先に育ち、内側はその後から出葉して次第に混んでくるためである。消費者が店頭でキャベツを選ぶ際に、大きさではなく重さで選ぶことが多いのは、こうした理由による。 来歴 起源 古代よりイベリア人が利用していた原種がケルト人に伝わり、ヨーロッパ中に広まったとされる。当時は野菜より薬草として用いられ、古代ギリシャや古代ローマでは胃腸の調子を整える健康食として食されていた。アテネのエウデモスが書いた『牧場論』に最初のキャベツの記述が見られる。初期の栽培品種にはブロッコリーのような茎があったが、ローマ時代に改良が進み、茎はなくなり大型化していった[6]。 その後、9世紀頃に野菜としての栽培が広まった。現在日本で普及しているものは、12世紀から13世紀のイタリアで品種改良されたものが起源とみられる。18世紀にアメリカ合衆国へ渡ると、より肉厚で柔らかく改良が進んだ。 日本での普及 幕末の1850年代に伝わり、明治にかけて外国人居留地用として栽培されたが、一般の日本人が口にすることはなかった。 1874年(明治7年)、内務省勧業寮が後の三田育種場で、欧米から取り寄せた種子で栽培試験を行ったのが、本格的な生産の始まりとされる。試験地は北海道に移され、北海道開拓使が発行した『西洋蔬菜栽培法』に「キャベイジ」の名で記載された。1893年(明治26年)には外国人避暑客のために、長野県北佐久郡軽井沢町で栽培が始まった[7]。 また、1945年(昭和20年)頃まで、一般的に「かんらん」と呼ばれていた。大正時代に品種改良が進められ、寒冷地に適することから、栽培は北海道のほか、東北地方や長野県で拡大した。需要は洋食をとる人が限られた太平洋戦争前にはそれほど普及しなかった。戦後、食料増産と食の洋風化が相まって生産量は急激に増加し、1980年代にはダイコンと並ぶ生産量となった。 これ以前にも、江戸時代前期にオランダから持ち込まれ、一部で栽培されていたと見られる。貝原益軒が1709年(宝永6年)に出版した『大和本草』にはオランダナ(紅夷菘)として「葉は大きくて艶がなく白っぽい。花はダイコンに似る。おいしい。3年で花が咲き、カブの仲間である」と紹介されている。しかし食用として広まることはなく、むしろ観賞用としてハボタンを生むこととなった。また、ハボタンがケールの品種であることから、渡来したのはキャベツではなくケールだったと考えられる。 品種 世界中で多様な品種が利用されている。例えば『ラルース料理百科事典』には、60種を超える品種の記載があるという。日本でも用途、栽培時期、栽培地、病害抵抗性などの異なる数多くの品種が栽培されている[8]。 グリーンボール 丸玉とも呼ばれる。グリーンボールという名称は銘柄名だが、この種の総括名として用いられる。1kg程度の小ぶりのボール型で、葉につやがあり、葉の内部まで緑色を帯びている。葉は肉厚のわりに軟らかく、組織はしっかりしている。茨城県西部地区産は主に春と秋に、北海道など関東地方以外の市場に出荷されている。 札幌大球(サッポロタイキュウ) 北海道札幌市発祥の巨大なキャベツ。一般的に市販されるキャベツの重さが1kg前後なのに対し、札幌大球はその10倍以上となる10kgを超えるものも存在する[9]。葉は軟らかく甘味も強い。様々な料理に向くが、近年は主にニシン漬けなどの漬物用に使われる[10]。明治時代(1895年頃)に米国から持ち込まれたうち、大きく育ち日持ちするキャベツから育成された。収穫作業に労力が必要なため札幌市内での栽培は一時途絶えかけたが、JAさっぽろが2014年に復活運動を開始。JA職員が収穫を手伝ったり、漬け物や外食店などでの消費拡大を後押しする「札幌大球応援隊」を組織したりしている[11]。 サボイキャベツ (Brassica oleracea convar. capitata var. sabauda L.) グラッド(縮緬甘藍)、ちりめんキャベツとも。縮れた葉を持ち、肉厚で緑色が濃い。普通のキャベツに比べると繊維が多く葉が硬いので、歯ごたえを活かすか、あるいは長時間の煮込みなどに使われる。 ムラサキキャベツ(Brassica oleracea convar. capitata var. rubra L.) 赤キャベツとも。食用。見た目、特に色合いの美しさからサラダに用いられる。また、ムラサキキャベツの色素アントシアニンは、酸性やアルカリ性の水溶液に反応し変色するのでpH指示薬とすることができるほか、キャンディーやゼリーなどに赤紫色を発色させる着色料としてよく使用されている。 エンスイキャベツ (Brassica oleracea var. capitata f, acuta) たけのこ型キャベツとも呼ばれ、角卵形に結球する。みさきやトンガリボウシがある。 ハボタン 花キャベツとも呼ばれ、食用ではなく葉を観賞する。株の中心部の葉が白や赤に染まり牡丹の花の様に見えることから名付けられた。分類上はキャベツではなく、ケールの品種。 利用 葉が柔らかく癖のない味なので、様々な料理に使われる野菜である。また、茎に生える小さな腋芽も本体同様に食用となる。硬い芯も、細かく刻み加熱するなどすれば食べることができ、米飯の代用品が商品化されている[12]。 生食 繊切りにして揚げ物などの付け合わせにしたり、コールスローなどのサラダ類に調理したりして食べるほか、乱切りにしてそのまま塩や味噌、タレをつけて食べることもある。豚カツ店などでは繊切りキャベツを食べ放題として提供している店もあるが、生キャベツの食物繊維は消化が悪いため、食べ過ぎると腹痛を起こすおそれがある。業務用で繊切りを使用する場合には、水に浸しておくと水分を吸収して膨張することで量が増えるうえ、瑞々しさを保つ利点があるが、ビタミンCなど水溶性の栄養素は減少する。 煮物 スープの具材にしたり、挽肉などを巻いてロールキャベツにしたりする。また、それらの先に油で炒めると甘味が引き出される。もつ鍋には具材として用いられるほか、水炊きにはスープを吸うことで風味を増す[13]キャベツを白菜の代わりに用いる場合がある。 蒸す 蒸し煮による調理法も多い。登山では、キャベツから出る水分で豚肉を煮るキャベッジダウンという調理法がある。 炒め物 野菜炒めやお好み焼きに欠かせないほか、焼きそばや焼き肉では脂っこさを抑える働きがある。 漬物 浅漬けや糠漬けといった普通の漬け物以外に、北海道ではサケやニシンの重ね漬けの材料として、札幌大球という大型の品種が一般的に用いられる。また、ドイツ料理のザワークラウトは、キャベツを乳酸発酵させた漬物である。 健康食品、医薬品 キャベツに含まれる酵素成分を抽出した栄養ドリンクやダイエット食品、ビタミンUを利用したキャベジンなどの胃腸薬も作られている。 ワイン 横浜国立大学がオリジナルキャベツワインとして開発し、販売している。また、キャベツの特産地として知られる山梨県南都留郡鳴沢村の農協がブドウ果汁と混合した「キャベツワイン」を開発・販売している[14]。 生産 日本での統計は、1910年頃から。生産が急速に伸びたのは1960年 - 1965年頃。 本来の旬は原産地の気候(地中海性気候)から冬季と考えられる。しかし、日本では栽培地の標高や緯度で出荷時期が異なる。さらに現代に至る品種改良の結果、年間を通して出荷可能となっているので、特定の旬が存在しない。 日本では出荷時期によって、冬キャベツ(11 - 3月。作付・出荷ともに最多で、球が締まった平たい形が特徴)、夏秋キャベツ(7 - 10月。冷涼地で栽培され、高原キャベツとも)、春キャベツ(4 - 6月。生産量は少なめだが人気が高く、近郊栽培中心。新キャベツとも)に分類されている。 キャベツは、収穫時期により特定の産地へ生産が集中してきている。おおよそであるが、冬キャベツは愛知県(渥美半島など)が中心で、夏秋キャベツは群馬県(嬬恋村など)、北海道、長野県など。春キャベツは千葉県(銚子市など)、神奈川県(三浦市など)、茨城県(行方市など)が主体となっている。 冬キャベツの場合、8月頃に種をまき、12月 - 4月にかけて収穫される。他のアブラナ科の野菜にも当てはまることが多いが、栽培されるのは固定品種ではなく、一代雑種が大半である。また北海道の和寒町では秋のキャベツを雪の中で寝かせ糖度を増した越冬野菜の越冬キャベツが有名である。なお、冬キャベツは繊維質が多く肉厚で固いので生食や炒め物には向かず、蒸したり煮込んだりする調理法が適する。 病虫害 モンシロチョウ(青虫)などの格好のエサになるため、食害(食痕)が問題となる。 無農薬栽培の手法として、キャベツの畝毎にチョウ類の進入を許さないようネットを張る手法も取られるが、手間が掛かることもあり、販売価は通常のキャベツの倍近くになる。家庭菜園の場合は、秋蒔き栽培にすると農薬の使用量を抑えやすい。 生産不足問題 冷害(異常低温)、日照不足、台風、大雪などにより野菜が不作で供給不足となり、価格が高騰する場合がある。2004年(平成16年)は、本州などに多数の台風が上陸、キャベツの販売価格(約300円/kg)が例年の2 - 4倍となった。ちなみに、同年のレタスは1,000円/kgを超えた。 生産過剰問題 農業に限らず漁業などにおいても言えることだが、天候など予測しにくい要素によって生産量が左右されることは、生産者の頭を悩ませる課題である。不作はもちろんのこと、大豊作によっても発送したり梱包材(ダンボール)を購入する代金も出ないほど卸売価格が下落してしまうことがある。 豊作により市場卸売価格に相当な下落が見込まれる場合、農協から農林水産省へ届出を行い、緊急需給調整(市場隔離 一般には生産調整と称される)として各農家に出荷を抑えるよう依頼される。これに協力して廃棄する場合には、大規模な生産農家に限り交付金(2008年は、32円/kg。半分が農家による積立金、半分が税金)が支給される。 秋になると、生産過剰となった年には愛知県東三河地方(渥美半島など)や群馬県(嬬恋村など)で生産調整によって廃棄されるキャベツの映像が報道される。ダイコンやハクサイにおいても同様の生産調整がなされているが、キャベツに関する報道が軒並み有名である。そのキャベツは畑の肥料としてトラクターで土と一緒に耕起することが多い。 一方で、中華人民共和国からの輸入が、2010年(平成22年)時点で3 - 6%程度行われている。 文化 英語でcabbagehead(キャベツ頭)は「石頭」の意(ドイツ方面のキャベツの固さから)。またKraut(クラウト)といえば侮蔑的にドイツ人のことを指す(ザワークラウトからの連想。ドイツ野郎)。一方、ドイツ語ではキャベツをコール(Kohl)というが、これはドイツ人の苗字にもなっている。例えばドイツ連邦共和国元首相のヘルムート・コールなどが挙げられる。またコール(Kohl)はスラングで「低能、バカ」と言う意味もある。 フランスではキャベツをchouといい、愛情表現としてmon chou (monは英語のmyに相当)と男女が呼び合ったり、子供に対して言ったりする。 南ヨーロッパではキャベツはブドウの天敵とされ、ブドウ畑の近くにはキャベツを植えない。蜜蜂を介してキャベツの臭いがブドウに移るのを防ぐためと言われている。同様の理由で養蜂家はキャベツ畑の周りには巣箱を置かない。また、ギリシャ神話には酒神ディオニュソスとトラキアの王リュクルゴスにまつわるキャベツの起源伝説がある[15]。 作曲家クロード・ドビュッシーは娘クロード=エンマ・ドビュッシーをシュウシュウChouchou(キャベツちゃん)と呼んで可愛がり、愛娘のために『子供の領分』や『おもちゃ箱』といった作品を生んだ。 1982年(昭和57年)、アメリカにてキャベツ人形(Cabbage Patch Kids キャベツ畑人形とも)が玩具メーカーのコレコによって量産化され、大ブームを巻き起こした。この人形は量産前の製作者が幼い頃「キャベツから生まれた」と聞かされていたため、「キャベツから子供が生まれる」というモチーフを元に作成されている。 脚注 参考書籍 矢野恒太記念会『数字で見る日本の100年』改訂第5版、ISBN 4-87549-438-6 Text "和書 " ignored (help) 関連項目 日本の農業 自由貿易協定 (FTA) 経済連携協定 (EPA) ザワークラウト 月とキャベツ メキャベツ 外部リンク - タマナ相馬博士の作物百科 - 統計局 - 農林水産省 清水克志、 地理学評論 Vol.81 (2008) No.1 P1-24
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%99%E3%83%84
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 531, 1340, 1706, 1976, 3239, 3928, 4494, 5565, 5907, 6727, 7715, 8808, 10221, 10624, 11044, 11959, 12423, 12743, 13409, 14842, 16386, 17060, 17912, 18282, 19144, 20254, 20789, 21580, 22877, 23659, 24356, 25069, 25196, 25901, 26862, 28117, 28935, 29168, 30189, 31224, 31914, 32419, 33541, 34783, 35892, 36938, 37796, 38159, 38889, 39418, 40882, 41842, 42330, 43037, 43971, 44145, 45272, 46136, 47052, 47559, 48090, 49031, 49403, 49928, 50341, 51157, 51644, 51912, 53045, 53419, 53733, 54696, 55713, 56341, 56859, 58103, 59861, 61670, 62332, 62837, 63966, 64738, 65216, 66442, 66464, 67397, 68010, 68891, 69460, 71098, 71662, 71795, 72209, 72302, 72548, 72622, 73216, 74256, 74301, 74356], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 530, 1339, 1705, 1952, 3238, 3927, 4493, 5511, 5906, 6726, 7714, 8807, 10220, 10623, 11027, 11958, 12422, 12742, 13408, 14841, 16385, 17021, 17911, 18281, 19143, 20253, 20788, 21579, 22876, 23658, 24355, 25055, 25195, 25900, 26861, 28116, 28933, 29151, 30188, 31223, 31848, 32418, 33540, 34782, 35891, 36937, 37795, 38158, 38860, 39417, 40881, 41841, 42329, 43036, 43969, 44058, 45271, 46135, 47051, 47558, 48089, 49023, 49402, 49927, 50340, 51156, 51634, 51854, 53044, 53418, 53732, 54673, 55712, 56340, 56845, 58102, 59860, 61669, 62331, 62836, 63965, 64736, 65184, 66441, 66463, 67374, 68002, 68890, 69459, 71097, 71653, 71794, 72208, 72301, 72547, 72621, 73178, 74242, 74286, 74339, 74440], dtype=int32)}
ルイ14世はいつ誕生した
ルイ14世 (フランス王)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([31], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([46], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ルイ14世(仏:Louis XIV、1638年9月5日 - 1715年9月1日)は、ブルボン朝第3代のフランス王国国王(在位:1643年5月14日 - 1715年9月1日)である。ナバラ王国国王としては<b data-parsoid='{"dsr":[1236,1247,3,3]}'>ルイス3世(バスク語:Luis III.a)である。ルイ13世の長子であり、妃はスペイン国王であるフェリペ4世の娘マリー・テレーズ・ドートリッシュである。王朝の最盛期を築き、太陽王(Roi-Soleil)と呼ばれた。 父の死後、幼くしてフランス国王に即位し、宰相ジュール・マザランの補佐を得てフロンドの乱を鎮圧した。1661年に親政を開始するとジャン=バティスト・コルベールを登用して中央集権と重商主義政策を推進した。対外戦争を積極的に行い、帰属戦争、仏蘭戦争で領土を拡張して権威を高めると、ジャック=ベニーニュ・ボシュエの唱える王権神授説・ガリカニスムを掲げ、絶対君主制を確立した。さらにミディ運河とヴェルサイユ宮殿を建設した。治世後半のアウクスブルク同盟戦争、スペイン継承戦争では苦戦し、晩年には莫大な戦費調達と放漫財政によりフランスは深刻な財政難に陥った。 72年もの在位期間はフランス史上最長であり、18世紀の啓蒙主義思想家ヴォルテールはルイ14世の治世を「大世紀」(グラン・シエクル Grand Siècle)と称えている。また、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されている。 また、メヌエットを宮廷舞踊に取り入れ、メヌエットを最初に踊った人と言われ[1]、その時、太陽神アポロンに変装して踊った姿から「太陽王」と言う諢名がついたとも言われる[2]。 生涯 出生と即位 ブルボン家はカペー朝のルイ9世の血統の有力家門であり、ルイ14世の曾祖父に当たるアントワーヌ・ド・ブルボンがナバラ女王ジャンヌ・ダルブレと結婚したことでブルボン家はナバラ王位と結びついた。ジャンヌ・ダルブレが熱心なプロテスタントであったことから、その子のアンリ・ド・ブルボンはフランス宗教戦争(ユグノー戦争)におけるユグノー(フランスのプロテスタント)陣営の盟主となった。1589年にアンリ3世が暗殺されたことによってヴァロワ朝が断絶すると筆頭王位継承権者だったナバラ王アンリ(アンリ・ド・ブルボン)が即位し、新たにブルボン朝が開かれた(アンリ4世)。アンリ4世はカトリックに改宗して国内の支持を固め、その一方でナント勅令を出してプロテスタント信仰の自由を(制限付きながら)認め、長期にわたる内戦を終わらせた。1610年にアンリ4世が暗殺されると嫡男のルイ13世が即位した。ルイ13世は有能なリシュリュー枢機卿を宰相に起用し、フランスにおける絶対王権の基礎を固めた。 1638年9月5日にルイ14世がサン=ジェルマン=アン=レーで生まれた時、ブルボン王家の男子はルイ13世の弟オルレアン公ジャン・バティスト・ガストンのみであり、ブルボン家はルイ14世の誕生で辛うじて命脈をつないだ。両親であるルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュは不仲で23年間子が生まれることがなかったため、国王も国民も待望の王位継承者の誕生を大いに祝福した[3]。一方で、この子の本当の父親はルイ13世ではないと考える者もおり、様々な噂も広まった[4](詳細は「#出生を巡る俗説」参照)。 ルイ14世は多彩な文化的背景の生まれで、父方の祖父母はアンリ4世とフィレンツェ出身のマリー・ド・メディシス、母方の祖父母はスペイン王のフェリペ3世とオーストリア出身のマルガレーテ・フォン・エスターライヒである。彼は「ルイ・デュードネ」(Louis-Dieudonné、神の賜物の意)の洗礼名を授かった。そして、「フランスの長男」(premier fils de France )及び、より伝統的なドーファン(王太子)の称号を受けた。 ルイ13世とアンヌは1640年にもう一人の男子フィリップをもうけている。だが、ルイ13世は王妃を信用しておらず、自らの死後に王妃が国政に影響力を持つことを防ごうとして、摂政諮問会議の設置を遺言した[5]。1643年5月13日にルイ13世が41歳で死去すると、僅か4歳のルイ14世が即位して母后アンヌが摂政となった。だが、摂政アンヌとマザランはパリ高等法院の支持を受け、ルイ13世の遺言を破棄して摂政諮問会議を廃止してしまう[6]。アンヌはマザランを摂政会議の座長(実質的な宰相)に抜擢して全権を委ねた[7]。マザランは有能な政治家ではあったが、一方で貪欲なまでに私財を蓄える癖があり、財政逼迫によって苦しめられていたフランスの民衆も貴族もスペイン人の摂政太后とイタリア人(フランスに帰化はしていた)の枢機卿を憎んでいた[8]。 マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱 ルイ14世が即位した当時のフランスは、先王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族とユグノー勢力を抑制して国王集権化が進められており、また対外的には三十年戦争に介入してハプスブルク家の神聖ローマ皇帝及びスペインと戦っていた。 摂政アンヌから宰相に任じられたマザランはリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた[9]。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有能なコンデ公ルイ2世やテュレンヌ子爵に率いられたフランス軍は戦況を有利に展開させ、マザランは終戦交渉に入る。マザランの外交手腕によりフランスはアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになる[10]。だが一方でその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた[11]。 和平交渉が大詰めとなった1648年にフロンドの乱が勃発する。7月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した[12]。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。これに反発したパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。1649年1月にコンデ公はパリを包囲する。3月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった(高等法院のフロンド)[13]。 王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して<b data-parsoid='{"dsr":[5480,5493,3,3]}'>貴族のフロンド</b>が勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった[14]。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した[15]。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、1653年にコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した[16]。 マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した[17]。この頃の出来事として、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり」(L'État, c'est moi)の科白を言い放ったというエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代』に記述されている[18]。ルイ14世を象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世が発した言葉ではなく創作であると考えられている[19]。 三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約した。 この頃、ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせている[21]。また、この条約でコンデ公は罪を許されフランスへ帰国、以後はフランスのために戦うことになる[22]。 1660年に結婚式が執り行われ、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄した。スペインは莫大な持参金(50万金エキュ)の支払いに同意したが、結局支払われなかった[23]。後にルイ14世はこの未払いの持参金をもってマリー・テレーズの王位相続権を主張し、スペインとの戦争の口実とする[24]。 親政の開始 1661年3月にマザランが死去するとルイ14世は親政を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言する[25]。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した[26]。ルイ14世の最高国務会議の出席者は3~5名程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17名、その内の帯剣貴族は3名に過ぎない[27]。はルイ14世の時代を「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評している[28]。また、1667年と1673年の王令で高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した[29]。 地方には父の代から行われているアンタンダン(地方監察官)派遣を続け、司法・財政・治安維持の権限を与え、時と共に人数を増大させて地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小させた。一方で地方の名士を監察官の補佐として登用させ、監察官の組織も整備、依然として勢力を持つ地方との折り合いも付けて支配の安定を図っている[30]。 親政開始の象徴的事件が大蔵卿ニコラ・フーケの断罪である。フーケはマザランの腹心の一人で有能な人物ではあったが、職権を利用して莫大な私財を蓄えていた[31]。これを知ったルイ14世は激怒してフーケを逮捕し、投獄した[注釈 1]。 1665年に財務総監に任命されたのが、フーケのライバルであったジャン=バティスト・コルベールである。ルイ14世が親政を始めた時点で、フランスの財政は多年の戦費とフロンドの乱により破産しかかっていた。コルベールはより効果的な税制の運用を行い、国家の債務を削減した。主な税制には間接税(aides)、物品税(douane)、塩税(gabelle)そしてタイユ税(土地税:taille)がある。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善できた[32]。 コルベールには貿易を通じてフランス経済を向上させる広範な計画があった。彼はいわゆる保護関税政策を取り、世界の銀の量は一定であるとの考えの元、輸入を減らして輸出を増やす政策を行った[33]。彼は贅沢品の輸入を禁止または高い関税を課す一方で、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立や輸出品製造業者を対象とした特権マニファクチュールを設けるなどこれを保護・育成する施策を講じた[33][34]。また、1669年に海軍卿に就任したコルベールは海軍力の増強して、フランスを海軍大国に押し上げている[35]。後にイギリス[注釈 2]・オランダと貨幣戦争を引き起こすことになる彼の王室的重商主義はコルベール主義(コルベルティスム Colbertisme)と呼ばれている[34]。彼はこの海軍力の保護のもとでイギリス・オランダの海外市場に割り込もうと南アジアを対象とした東インド会社そしてカリブ海を対象としたを再創設し、植民地を建設した[36]。北アメリカの植民地が拡大され、ヌーベルフランス(カナダ)やアンチール諸島には総督が送り込まれて人口増殖政策と同化政策がすすめられ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えている[37]。 ルイ14世は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用しており、主な側近にはコルベールの他に陸軍担当国務卿ミシェル・ル・テリエと外務担当国務卿ユーグ・ド・リオンヌがいる。また、ル・テリエの息子で同じく陸軍担当国務卿となったルーヴォワ侯は傑出した軍政家で、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして連隊長だった貴族を牽制、兵舎の設立など後方支援の整備、国王民兵制(徴兵に近い兵制)による貴族を経由しない軍事力の獲得でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、彼の作り上げた軍隊がルイ14世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになる[38]。 コルベールによってルーヴル宮の拡張がなされたが、1661年に狩り場の小館があったヴェルサイユの地に宮殿の建設を開始した[39]。これがルイ14世の治世を象徴するヴェルサイユ宮殿となる。この地に宮殿を造営した理由は一般的にはルイ14世がフロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌ったためともされるが[40]、実際にはこれは理由ではなく彼は森と自然の地に自らの構想による新宮殿を造営することに拘ったためともされる[41]。この地は水利が悪く、工事は難航して、一応の完成を見て宮廷が移り住むのは20年後の1682年のことになる[42]。 ルイ14世は、負傷したり老齢化した、忠実に国王に仕えた将校のためのオテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド、廃兵院)の建設を命じた。精神障害者・犯罪者・浮浪者対策として1656年に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、労働をしない者を癩(らい)施療院だった建物を転用して収容した[43]。その大規模な施設として、総合施療院、ビセートル病院(男性)、サルペトリエール病院(女性)の建設を指導するなど[44]、公共の福祉にも関心を払っている。 治世前半の戦争と領土拡大 1659年のピレネー条約によってスペインの弱体化が決定的となり、フランス優位の時代に入った[45]。ルイ14世は「盟主政策」と呼ばれるフランス王権を中心としたヨーロッパ体制の構築を企図しており、その最大の障害は疲弊したスペインではなく、海外貿易で莫大な富を築いていた新興勢力のオランダ(ネーデルラント連邦共和国)であると考えられた[46]。オランダ内での議会派(都市商人)と総督派(封建貴族と農民)との内紛がルイ14世の企図を助けていた。当時のオランダは議会派のヨハン・デ・ウィットが指導者となっており、古くからの大貴族である総督派のオラニエ公ウィレム3世が巻き返しを図ることを恐れていた。 没落したスペインがルイ14世の最初の標的となった[47]。ルイ14世はスペイン植民地に対する野心を持つイギリス、さらには神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結んでスペイン帝国の分割を交渉する[48]。オランダとも防御・通商同盟を結び来たるべき対スペイン戦争に備えた[49]。 1665年にルイ14世の義父であるスペイン王フェリペ4世が死去すると、後妻が生んだ王太子が即位してカルロス2世となった。王妃マリー・テレーズの持参金がスペインからまったく支払われていない上にフェリペ4世の遺言ではカルロス2世が死去した場合、神聖ローマ皇帝レオポルド1世の婚約者マルガリータ・テレサ(マリー・テレーズの妹)がスペイン領を相続することになっており、ルイ14世を苛立たせた[50]。これに対してルイ14世はブラバント(スペイン領ネーデルラントの一州)はカルロス2世の異母姉である王妃マリー・テレーズが継承するべきものであるといわゆる「王妃の権利論」を掲げて領土の割譲をスペインに要求した[51]。 1667年に帰属戦争(フランドル戦争)が勃発すると、ルイ14世は自ら軍を率いて戦った。兵数と装備で圧倒するフランス軍はフランドル国境地帯の要衝を容易に奪い取り、スペイン軍を後退させた[52]。これに危機感を持ったオランダのウィットはこれ以上のフランスからの侵略を防ぐために、イギリスの外交官ウィリアム・テンプルと交渉をし、1668年にイギリスそしてスウェーデンとの三国同盟を結成した[53]。イギリス・オランダといった海軍・通商の二大勢力の圧力を前にルイ14世は和平へと動いたが、フランシュ=コンテは断固として征服させた[54]。結局、ルイ14世はアーヘンの和約の締結を余儀なくされ、フランスはフランドルの12の都市は確保したものの、フランシュ=コンテはスペインに返還している[55]。アーヘンの和約はフランスにとって満足すべきものではなく、またルイ14世はオランダをひどく憎んだ[56]。 三国同盟は長続きしなかった。1670年、イギリス王チャールズ2世はドーヴァー秘密条約を結んでフランスとの同盟に加わり、オランダと絶縁した[57]。次にルイ14世は、イギリスと同様な同盟条約を結んでいたスウェーデンに参戦を促した[58]。しかしスウェーデンの参戦は、オランダと結んだデンマークとブランデンブルク=プロイセンの参戦を招き、戦線がオランダから離れてしまうことになる。 1672年に海上からイギリス軍が、陸上からはフランス軍がオランダに攻め込んだ(仏蘭戦争)[59]。オランダは海軍こそ名将デ・ロイテルのもとで強力であったが、陸軍は弱体であった[60]。フランス軍は快進撃を続けてアムステルダムに迫り、占領地の住民の歓心を得るために金品をばらまく余裕さえ見せた[61]。譲歩による講和を図ったウィットは兄のコルネリス・デ・ウィットと共に不満を抱いた民衆に殺害され、代わってオラニエ公が権力を掌握する[62]。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めて徹底抗戦の構えを示し、海軍もイギリス艦隊を破って制海権を維持した[63]。 アムステルダム攻略の見通しが立たなくなり、戦争は長期化する。神聖ローマ皇帝、ドイツ諸侯の一部そしてスペインがオランダと同盟を結び、この一方でイギリス議会では利益のない戦争であるとして反戦論が高まり、1674年にイギリスはオランダと和平を結んで撤退した[64]。オラニエ公は更にイギリスと結びつき、チャールズ2世の姪メアリーと結婚もした。この事態にルイ14世はオランダから兵を引かせて、代わりにフランシュ=コンテに攻め込ませ皇帝軍およびスペイン軍を破り、制圧した[65]。陣容を立て直したフランス軍が海陸でオランダ軍を破って優位を確保した状態で1678年にナイメーヘンの和約が結ばれる[66]。ルイ14世はスペインにフランシュ=コンテとフランドルの幾つかの地域を割譲させ、一方、オランダの占領地は返還し、関税面での譲歩までしており、不利益を被ったのはもっぱらスペインであった[66]。オランダ征服という当初の戦争目的こそ果たせなかったが、有利な条件での講和に成功したことでフランスの国際的威信を示した[67]。 ナイメーヘンの和約はヨーロッパにおけるフランスの影響力を拡大させたが、ルイ14世はまだ満足していなかった。翌1679年、彼は外務担当国務卿シモン・アルノー・ド・ポンポンヌを解任、軍事力ではなく法的手続きをもって領土の拡大を達成しようと目論んだ。ルイ14世は条約のあいまいさを利用して司法機関に割譲地の周辺地域を「その付属物」であると判決させて「平和的に」併合する手段を講じさせた[68]。この国王の主張に基づき、いずれの土地がフランス領土たるべきかを調査する統合法廷が設置され、その決定に従ってフランス軍がその土地を占領してしまった[69]。 これによって得られた僅かな土地を併合することがルイ14世の本当の目的ではなかった。彼は戦略要地であるストラスブールの獲得を欲していたのである。ストラスブールはヴェストファーレン条約によってフランス領となったアルザス地方の一部ではあったが、同条約ではアルザスに加えられていなかった。ルイ14世の法的口実に基づいて、フランスは1681年にストラスブールを軍事占領した[70]。ルイ14世は同時に北イタリアのカサーレも占領しており、この強引な手法はドイツ人の反仏感情を煽る結果となった[71]。 ルイ14世の有力な競争相手の神聖ローマ皇帝レオポルト1世(オーストリア・ハプスブルク)はオスマン帝国との戦争でウィーンを脅かされていた(第二次ウィーン包囲)。1683年にフランスと戦端を開いたスペインは再び撃破されて、リュクサンブール(ルクセンブルク)を奪われた(再統合戦争)[72]。1684年のレーゲンスブルクの和約でスペインはフランスによるリュクサンブールとその他の併合地の既成事実を認めさせられた[73]。オーストリアはオスマン帝国を撃退した後も、ルイ14世への敵対行動を取らなかった。 絶頂期 1680年代始めにルイ14世の影響力は大いに高まった。この時期がルイ14世の絶頂期とされる[74]。 1681年に始まったヴェルサイユ宮殿の造営事業には建築家の、造園家のル・ノートルそして画家・室内装飾家のシャルル・ルブランがあたった。財務総監のコルベールは巨費を要する新宮殿の造営には消極的だったが、ルイ14世自身の強い意向でもあり従わざるをえなかった[75]。工事は困難を極め、数万の人夫が工事に従事し、多数が死亡している[76]。ルイ14世はこの新宮殿の造営に熱中した。戦時以外はひんぱんに工事中の宮殿に赴いて細事に渡るまで指図し、気に入らない箇所があれば何度でも工事をやり直させた[77]。 ルイ13世時代の小城館を改築する第1期工事は1664年に完了し、この際に盛大な祝典『魔法の島の歓楽』が、またアーヘンの和約が結ばれた1668年には戦勝を記念する祝典『ヴェルサイユの国王陛下のディヴェルティスマン』が催された[78]。この城館がなお手狭であることが判明したため1668年から第2期工事が着工され、1670年にル・ヴォーが死去したためフランソワ・ドベルが建築を引き継いだ[79]。この工事ではルイ13世の小城館を取り囲む形で大規模な新城館が建築される「包囲建築」と呼ばれる形式のさらなる増築が行われた[80]。1674年にこの新城館でルイ14世治世最大の祝典である『1674年のフランシュ=コンテ征服からの還御の際に国王陛下が全宮廷に対して下賜されたディヴェルティスマン』が催された[81]。 第3期工事は1678年に始まり建築はマンサールがあたり、新たに「」と「大使たちの階段」が造営され、庭園の一部をル・ヴォーのバロック式建築から古典様式に改めさせている[82]。この工事中の1682年5月6日にルイ14世は正式に王宮をヴェルサイユに移した。これまでルイ14世の宮廷はフランス王家の「移動する宮廷」の伝統に従い、フォンテーヌブロー宮(1661年)、ルーヴル宮(1662年 - 1666年)やサン=ジェルマン=アン=レー(1666年 - 1673年、1676年、1678年 - 1681年)などを転々としてきたが、以降はヴェルサイユ宮に固定されることになる[83]。ルイ14世はル・ノートルの手がけた庭園を愛し、『ヴェルサイユの庭園概説』の幾つかの版は国王自身の執筆によるものと考えられている[84][85]。ルイ14世は庭園の中でも噴水の美を重要視しており、このために彼は「マルリーの機械」と呼ばれる大がかりな揚水装置を建設させている[86]。この宮殿の拡張工事はルイ14世の晩年まで続けられ、その費用は8200万リーヴルの巨費に昇った[50]。 ルイ14世は貴族たちをヴェルサイユ宮殿内またはその周辺に住まわせ、宮殿内には多い時には廷臣のほか官吏、外国使節、請願者、出入り業者を含めて1万人もの人々がひしめいていた[87][88]。ルイ14世はこの宮廷での序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに従わせるとともに、彼らに国王から下賜される栄誉や年金獲得を宮廷内で競わせることによって宮殿への常駐を余儀なくさせて長期間国王の監視の下に置き、地方の領地から切り離すことによって、貴族達を強く統制することに成功した[89]。彼はこれら恒常的な賓客達を贅沢な宴会や遊興でもてなしたが、これは専制統治の重要な要素であった[90]。 私は人々を楽しませようとした。人々は自分たちが好むものを王が好んでいるのを見ると、感動するものだ。これが時には褒美を与えるよりも人々の心をつかむ—ルイ14世 ルイ14世自身はあまり信仰心がなかったが、その宗教政策は王の権威はローマ教皇の仲介なしに直接神から委ねられたという王権神授説に拠って立ち、伝統的なガリカニスム(フランス教会自立主義)を強化した[91]。絶対主義を追求すべく、教会に対する支配の強化を図るルイ14世は教皇との対立を引き起こしている。1682年に聖職者会議はローマ教会からの分離をも示唆するボシュエ司教の起草による「四か条宣言」を票決し、これによりフランス国王の権力が強化されたのに対して、教皇の力は削減された[92][93]。この宣言は教皇庁の権威は信仰上のことのみとし、公会議の優越、ガリカン派の教会法の教皇からの独立そして教皇権の行使に際する公教会の同意の必要を謳った[94]。ローマ教皇インノケンティウス13世はこの宣言の受け入れを拒否した[94]。 フランスでは国王、大貴族によるメセナ(学問芸術の保護)の長い伝統があり[95]、ルイ14世もまた芸術のメセーヌ(保護者)になり、劇作家のラシーヌやモリエール、詩人のボアロー、音楽家のリュリそして画家・装飾家のシャルル・ルブランといった文学や文化の名士達に出資した[96]。学問に対するメセナとしては科学アカデミーの創立があり、高額の年金を払って外国の著名な研究者たちを迎え入れている[96]。1671年にアカデミー・フランセーズが官営団体となり、国王がメセーヌとなった[97]。アカデミー・フランセーズの編纂による『フランス語辞典』が出版されフランス語による言語統一という政府の施策に貢献した[98]。もっとも、ルイ14世が芸術家のパトロンに出費したのは治世の前半だけで、やがて戦争により財政が悪化すると出資を削減している[99]。 1683年にルイ14世の最も重要な廷臣であるコルベールが死去した。コルベールの努力により、財政再建がすすめられ、彼の施政により歳入は3倍に増えている[注釈 3]。だが、フランスの民衆はコルベールの政策の恩恵を受けることはなく、依然として貧しいままだった[100]。コルベールの息子セニュレー侯は海軍大臣に就任、1684年にジェノヴァ共和国遠征に参加、ジェノヴァを降伏させ海軍の発展に尽力したが、1690年にセニュレー侯が没して海軍の拡張は停滞した。 プロテスタント迫害とアウクスブルク同盟戦争 1683年、王妃マリー・テレーズが死去した。それから程なくしてルイ14世は最も愛した寵姫マントノン侯爵夫人と秘密結婚をする[101]。ルイ14世とマントノン侯爵夫人との結婚は公的な記録を残さない、あくまでも私人としての結婚であり、彼女は王妃ではなかったが、ルイ14世はしばしば顧問会議を彼女の部屋で催し、慎重な助言者として国王の意思決定に影響を与えた[102]。 ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにルイ14世はこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった[103]。王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ローマ教皇と連携してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)を弾圧した[104]。そして、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。ユグノー戦争の結果、アンリ4世のナント勅令によって政治的・軍事的特権を与えられたユグノーも、ルイ13世の時代にリシュリュー枢機卿に敗れ政治勢力としては没落して少数派となり、信仰の自由だけが僅かながら保証されていた[105]。ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した[105]。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)[106]。 そして1685年、ルイ14世はナント勅令を廃棄し、プロテスタントの礼拝の禁止と改宗に応じない牧師の国外追放を定めたフォンテーヌブロー勅令を発した。改宗に応じないユグノーは国禁を犯して亡命し、その数は約20万人に昇り、その中には多くの手工業者や商人が含まれていた[107]。そして、フランスに残ったプロテスタントの反乱であるカミザールの乱に対しては武力鎮圧を加えた[108]。ルイ14世は亡命者を受け入れたサヴォイアに兵を送り、虐殺まで行わせている[109]。プロテスタント迫害は内外の非難を受けてフランスの孤立を招いたが[110]、宗教的不寛容が広まっていた大多数を占めるカトリックのフランス人からは喝采を浴びた[111]。このプロテスタント迫害については、秘密結婚したマントノン侯爵夫人が敬虔なカトリックであり彼女の影響とする主張が古来から存在するが、実際には王の義妹プファルツ公女の影響[112]またはあくまでもルイ14世の独自の決断であるとして彼女の影響を否定する説もある[113]。 1685年にプファルツ選帝侯カール2世が息子の無いまま亡くなり、遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムがプファルツ選帝侯になると、ルイ14世は弟オルレアン公の妃エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒの娘、カール2世の妹)の相続権を主張して、1688年にケルン選帝侯の選挙にも介入し、ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンに対抗してヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルクを擁立、プファルツ継承問題と合わせてフランスの主張を受け入れるよう呼びかけ、拒絶されたことを口実にプファルツ選帝侯領へ侵攻した。プファルツは完全に破壊され、これに危機感を持ったドイツ諸侯が結束して抵抗するがフランス軍を食い止めることはできず、フランス軍の焦土化作戦によって諸都市が破壊された(プファルツ略奪)[114]。 この時期、イギリスではカトリック信仰復活を図っていたジェームズ2世が追放され、王の姪でプロテスタントのメアリーとその夫のオラニエ公ウィレムが迎えられておのおのメアリー2世・ウィリアム3世として共同王位に就いていた[115]。ルイ14世はオランダ議会にオラニエ公のイギリス遠征を止めさせるよう警告しており、これが受け入れられなかったためフランスはオランダに宣戦布告した[116]。一方、帝国議会も対仏宣戦を議決しており、神聖ローマ皇帝レオポルド1世は神聖ローマ帝国の名で正式にフランスに宣戦布告した[116]。こうして、イギリス、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国、ブランデンブルク、ザクセン、バイエルン、サヴォイアそしてスウェーデンによる対仏同盟(アウクスブルク同盟または<b data-parsoid='{"dsr":[25230,25239,3,3]}'>大同盟)が成立する[117]。 アウクスブルク同盟戦争(大同盟戦争、プファルツ戦争:1688年 - 1697年)の大陸での緒戦は神聖ローマ皇帝がオスマン帝国との戦い(大トルコ戦争)に傾注せざるを得なかったため、フランス軍がフルーリュスの戦い(1690年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールを占領(1692年)するなど有利に進んだ。ルイ14世は国を追われたジェームズ2世を庇護しており、戦争が始まると彼に艦隊をつけてアイルランドへ送り込んだが、ジェームズ2世の軍勢(ジャコバイト)はロンドンデリーの包囲に失敗してアイルランドに封じ込められ、フランス艦隊も1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦で英蘭艦隊に敗れて制海権を失ってしまった[118]。 戦争はその後、長期の消耗戦に陥り、フランス軍が幾つかの会戦で勝利をおさめたものの対仏大同盟に包囲され孤立した状態であり、国家財政も底を突き始めた[119]。フランスが戦術的優位を維持した状態で、1697年にレイスウェイク条約が結ばれて戦争は終結した[120]。 ルイ14世はエリザベート・シャルロットの相続権を主張しないことを約束(プファルツ選帝侯とケルン選帝侯はフィリップ・ヴィルヘルムの息子ヨハン・ヴィルヘルムとヨーゼフ・クレメンスが継承)、1679年の仏蘭戦争以降に獲得したルクセンブルクなどの領土を放棄せざるを得なかったが、ストラスブールだけは確保した[121]。ルイ14世はまたウィリアム3世とメアリー2世夫妻のイングランド王位を承認し、ジェームズ2世の支援をしないことを約束した[121]。この講和は敵国に譲歩しすぎると国民から不評を受けた[122]。 スペイン継承戦争 レイスウェイク条約以降のヨーロッパではスペイン王位の継承が最大の関心事となっていた。スペイン王カルロス2世は長年の近親結婚の結果、極めて虚弱であり、嗣子を得ることは無理と見られていた[123]。スペイン王位継承には莫大な利益があった。カルロス2世はスペインのみならずナポリ、シチリア、ネーデルラント、そして植民地帝国といった広大な領域に君臨していたのである[123]。 ルイ14世と神聖ローマ皇帝レオポルト1世(オーストリア・ハプスブルク)はスペイン王家と緊密な血縁関係にあり、王位継承権を巡って争った[124]。ルイ14世はスペイン王フェリペ3世の王女の息子であり、かつフェリペ4世の王女の夫であった。レオポルト1世もまたフェリペ3世の王女の子であり、フェリペ4世の王女の夫であった。ルイ14世は母アンヌと王妃マリー・テレーズが、共にオーストリア・ハプスブルク家に嫁いだ王女より姉妹順で上であることが有利であった。フランス側の本来のスペイン王位候補者は王太子ルイであったが、将来のフランス王位とスペイン王位の統合を諸国が認めないことはルイ14世も承知しており、王太子ルイの次男のアンジュー公フィリップを推した[125]。一方、神聖ローマ皇帝レオポルド1世は次男のカール大公を推していた[125]。一方、スペインはフランス王家やオーストリア・ハプスブルクの直系親族を避け、バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルに嫁いでいたレオポルト1世と最初の皇妃マルガリータ・テレーザ(スペイン王フェリペ4世の王女)の皇女マリア・アントニアの公子ヨーゼフ・フェルディナントを王位継承者に望んだ[126]。 1698年、カルロス2世の死期が迫っていると伝わるとルイ14世はイギリス王ウィリアム3世に接近し、競争相手のレオポルド1世はもちろん当事者のスペイン宮廷にも極秘のうちにフランスとイギリスとの間でスペイン分割条約を締結した。この第1次分割条約ではヨーゼフ・フェルディナントのスペイン王位継承で同意するが、スペイン領のうちシチリア、ナポリ、トスカーナ沿岸諸港は王太子ルイが相続し、ミラノはカール大公が獲得することとなり、イギリスにも貿易上の便宜が与えられていた[127]。だが、条約の内容を知ったスペインは領土の分割に強く抵抗した[124]。この条約を知らされたカルロス2世はヨーゼフ・フェルディナントを王位継承者とし、スペインの全ての領地を相続させる遺言に署名した[128]。 だが、その6ヵ月後にヨーゼフ・フェルディナントが天然痘で早世し、全ては振り出しに戻った[128]。ルイ14世とウィリアム3世はまたもオーストリアを蚊帳の外において第2次分割条約を結び、カール大公のスペイン王位とネーデルラント、海外植民地の継承は認めるが、ミラノは王太子ルイが相続すると決めた。だが、皇帝はこの条約の受け入れを拒絶した[129]。 スペイン宮廷は帝国の統一の維持を意図しており、そのためにはフランスのブルボン家かオーストリアのハプスブルク家かのいずれかを選ばねばならないと考え、最終的にフランスを選択した[130]。1700年10月7日、死の床にあったカルロス2世はスペイン領土不分割を条件にアンジュー公フィリップを王位継承者に指名する遺言書に署名し、アンジュー公もしくはその弟ベリー公シャルルが遺言を受け入れられない場合はオーストリアのカール大公にとスペイン王位の継承順位を定めた[131]。11月1日にカルロス2世は世を去った。 ルイ14世は分割に同意してヨーロッパの平和を維持するか、スペイン王位を受け入れてヨーロッパ諸国と敵対するかの難しい選択を迫られた[132]。ルイ14世はトルシー侯(コルベールの甥)からの進言もあり、遺言を拒否すればカール大公がスペイン王となりフランスは再びハプスブルク家に包囲され、そして皇帝は領土分割もブルボン家のスペイン王位も認めないであろうと判断し、いずれにしても戦争になるならばスペイン全土を継承すべきであると決めてしまう[133]。11月16日にルイ14世は遺言の受諾を公表し、孫のアンジュー公をスペイン王フェリペ5世であると宣言する[134]。スペイン大使はこの決定を喜び「ピレネーはもはや存在しない」(Il n'y a plus de Pyrénées.)と語ったという[135]。 良きスペイン人であれ。されどフランス人であることを忘れるな—フェリペ5世のスペインへの旅立ちに際してのルイ14世の言葉 遺言受諾の報を受けたウィリアム3世は「だまされた」と憤ったが、議会に秘密ですすめた分割条約が槍玉にあがり、さらにはイギリス軍が大幅な軍縮中の状況でもあったことからフェリペ5世のスペイン王位を承認した[136]。だが、ルイ14世は挑発的な行動に出る。諸国の危惧を逆なでするようにフェリペ5世のフランス王位継承権を保留させ、さらにはスペイン領ネーデルラントにフランス兵を進駐させてレイスウェイク条約の規定によって同地に駐屯していたオランダ兵を追い払い、スペイン植民地においてフランス・ギアナ公社に諸特権が付与されたこともイギリス・オランダの海外貿易にとって脅威となった[137]。フランスに亡命中だったジェームズ2世が1700年11月に死去するとルイ14世はウィリアム3世の承認を取り消してジェームズ2世の長男のジェームズ・エドワード(大僭称者)のイングランド王即位を宣言する挙に出る[138]。 このためイギリスはオランダ、神聖ローマ皇帝(オーストリア)およびドイツ諸邦とのハーグ同盟(大同盟)を結成する。一方、ハプスブルク家の領国・ハンガリー王国で反乱を起こしたトランシルヴァニア公ラーコーツィ・フェレンツ2世の支援を表明、加えてバイエルン、ポルトガル、サヴォイアがルイ14世とフェリペ5世を支持した。レオポルド1世はカール大公のスペイン王位を一方的に宣言すると、1701年に北イタリアに侵攻し、戦端が開かれた[139]。国際情勢が逼迫する最中の1702年3月8日にウィリアム3世が急死してしまい、義妹のアン女王(ジェームズ2世の次女)がイングランド・スコットランド・アイルランドの王位を継承する。 こうして始まったスペイン継承戦争(1701年 - 1714年)はルイ14世の残りの治世の大部分を占めることになる。フランス軍は緒戦では優勢に戦いオーストリアに侵攻する勢いを示すが、ブレンハイムの戦い(1704年8月13日)でマールバラ公ジョン・チャーチルとプリンツ・オイゲンに敗れると防勢に回らざるを得なくなってしまう。この戦いの敗北によってバイエルンは国土を占領されて事実上戦争から脱落し、ポルトガルとサヴォイアは反仏同盟側に寝返った[140]。1704年に戦略上の要地であるジブラルタルがイギリス軍に占領され、ルイ14世は艦隊を派遣して奪回を試みるが撃退されて艦隊戦力を喪失し、大西洋から地中海におよぶイギリス海軍の制海権確立を許す結果となる[141]。 この戦争の戦域はこれまで常に戦場になってきたフランドルとライン川上流、ミラノとサヴォイアを巡る北イタリアと南フランスそしてスペイン本土にまで及んだ[139]。両陣営の総兵力は20万人から30万人に達し、フランスの財政を圧迫した[142]。北アメリカの植民地では序盤はフランスが優勢だったが、イギリスが勢力を盛り返し、劣勢に追い込まれている(アン女王戦争)。 戦争はまたも長期化するが、フランス軍は戦略的な包囲下にありながらも巧緻な戦いぶりを示し、やがてハーグ同盟の側が疲弊を見せ始めた[143]。1705年にレオポルト1世が死去、後を継いだ長男ヨーゼフ1世が1711年に死去し、フェリペ5世とスペイン王位を争っていたカール大公がカール6世として帝位を継承すると、諸国はカール5世時代の大帝国の再現を恐れ、和平の機運が急速に高まった[144]。 ルイ14世とフェリペ5世は1713年にイギリスとユトレヒト条約を結んで講和した。オーストリアとは1714年にラシュタット条約を結んでいる。これらの講和によって、フェリペ5世のスペイン王位とアメリカ大陸の植民地領有は承認されたが、ネーデルラントと北イタリア、ナポリ、サルデーニャのスペイン領はオーストリアに譲渡され、イギリスもジブラルタルの獲得と北アメリカの植民地の拡大を果たした。更にルイ14世はジェームズ・フランシスのイングランド王位主張の支援を止めることも約束させられた。以降ジェームズ・フランシスとその子孫はアンの死後即位したジョージ1世のハノーヴァー朝と対峙するも、フランスの支援がないことが一因でイングランド王即位は果たせなかった。 死去 ルイ14世の晩年には多年の戦争による莫大な戦費のためにフランスの財政は破綻しかかっており、重税のためにフランスの民衆は困窮しきっていた[145]。1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄が流行したほどだった[146]。 ルイ14世の家庭でも不幸が続き、彼の嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。彼は3人の息子を残していたが長男のブルゴーニュ公ルイも翌年の1712年に天然痘(または麻疹)で急逝し、そして同じ病で長男のまでもが夭逝してしまった。そのため、ブルゴーニュ公の男子で唯一生き残った幼い三男のアンジュー公が王太子となった。 1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は壊疽の悪化により死去した[147]。彼は死の床に幼い王太子を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したという[148]。彼の遺体はパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬されたが、民衆は老王の死を歓喜し、葬列に罵声を浴びせた[149]。 5歳の王太子がルイ15世として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が幼少のルイ15世の摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした[150]。摂政は置かずにモンテスパン侯爵夫人との庶子のメーヌ公ルイ・オーギュストをメンバーに含む摂政会議を設置し、オルレアン公はその座長に留めるよう遺言していた[151]。だが、オルレアン公は高等法院に働きかけてルイ14世の遺言を破棄してしまう[152]。オルレアン公はメーヌ公の王族称号(prince du sang)と近衛隊司令官職を奪い取って投獄して、単独の摂政となった。 ルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は曽祖父の遺言に従わず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が死去した時にはフランスの財政は破綻状態となり、そしてアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあった。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切ることができず、1789年のフランス革命を迎えることになる。 人物 私の中には太陽が宿っている。他に類を見ない眩い光が触れるもの全てに善を齎す。太陽は偉大な君主だけが描きうる最上の美と力を与えてくれるのである—ルイ14世, 『王子教育のための回顧録』 ルイ14世は「官僚王」(Rois Bureaucratie)と呼ばれるほど非常に政務に精励な国王だった[153]。その生活は規則正しく、は『回想録』で「暦と時計があれば、遠く離れていても王が何をしているか言える」と述べている[154]。身体強健であり、しばしば戦争に出陣した王の馬上姿は颯爽たるもので、自身も野戦攻城戦や閲兵式を好んだ[155]。狩猟、祝祭そして恋愛といった何事にも精力的に打ち込み、一日中活動しても倦むことはなく、また他人にも同じことを強いた[156]。名誉心が強く、彼の回想録には臣下はもちろん先王たちの名もほとんど登場せず、業績のことごとくが自らのものであったの如く書かれており、その態度をある歴史家は「ファラオ的傲慢」と評した[157]。回想録で国王と議会との妥協によって運営されるイギリス政治を批判し、「決定は頭首のみに帰属し、肢体の役目は命令を執行することに過ぎない」と述べている[158]。 人々から賞賛されることを好み、臣下たちは競って阿諛追従した[159]。臣下には宮廷に常に出仕することを強い、出仕を怠った者には不機嫌な表情で「余はそのような者は知らぬ」と冷たい言葉を投げかけ、逆に出仕と追従に努める者には高価な下賜品と栄典が与えられた[160]。 婦人に対しては貴婦人から身分の低い洗濯女に対してまで礼儀正しく、自分から帽子に手をふれて会釈をした[161]。細事にまで気を配り、兵卒の訓練や家事にまで関心を持ち、疑い深くスパイを用い他人の手紙を平然と開封した[162]。 サン=シモン公は回想録で「ルイ14世は秩序と規律を望んだ」と述べ、フランス王家の伝統だった公式晩餐(公開食事、グラン・クヴェール)を死去する直前まで欠かさずに行い[163]、ルイ14世は宮殿での礼拝はもちろんのこと単なる起床や飲料といった宮廷生活の細事ことごとくを厳粛な儀式と化させ[164]、礼儀作法を複雑にして人々にそれを課し、彼らの立ち振る舞いをがんじがらめにした[165]。ルイ14世の宮廷礼式の煩わしさを聞いたプロイセンのフリードリヒ2世は「(自分ならば)国王命令でもう一人国王をつくり彼にやらせるだろう」と言い[166]、19世紀の批評家イポリット・テーヌはこのような常に人前にあらわれ、儀式づくめの国王の宮廷生活を「俳優の仕事である」と評している[167]。 出生を巡る俗説 ルイ14世の出生には醜聞が付きまとった。実父については父王の宰相リシュリューとする説やアンヌ・ドートリッシュの摂政時代に宰相を務めたマザランであったとする説がある。こうした俗説が出回る背景には、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの仲が長い間冷え切っていたという事情がある。アンヌ・ドートリッシュは美女として名高く、例えばイングランドのバッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズが公然と言い寄ったこともあるほどだが[168]、ルイ13世とは反りが合わなかった。[注釈 4]ルイ13世は同性愛傾向が強かったともされている[169]。ところがある日、狩りのため遠出したルイ13世は妻アンヌの城館の付近で悪天候に見舞われ、やむなくアンヌの城館に一夜の宿を請うたところ、その夜のことで生れたのがルイ14世であったとされる[170]。 リシュリュー実父説は1692年にドイツのケルンで出版された『アンヌ・ドートリッシュの情事』と題された小説が出典であり、ヴォルテールの『ルイ十四世の世紀』で言及されたことでお墨付きが与えられてしまった[171]。また、アンヌ・ドートリッシュとマザランが愛人関係にあったとする説も根強いが[172]、少なくともアンヌがルイ14世を妊娠した1637年12月は、まだマザランがイタリアにいた時期であり、このマザランが父親という話の方も単なる噂話である[173]。 またルイ14世の治世に実在した謎の囚人(いわゆる「鉄仮面」)の正体をルイ14世の兄弟とする説はドラ=キュビエールという無名に近い作家の史話が初出であり、後にこの話をアレクサンドル・デュマがダルタニャン物語 の第3部『ブラジュロンヌ子爵』の題材とした[174]。アメリカ映画『仮面の男』(1998年、主演レオナルド・ディカプリオ)はこの小説を原作にしている。 女性遍歴 少年時代のルイ14世は女性に関心を示さず、母后アンヌ・ドートリッシュを心配させるほどだったが、20歳頃の1658年に母后の侍女との最初の恋愛沙汰を起こし、結局その女性は修道院に送られている[175]。青年期のルイ14世の恋愛相手はマザラン枢機卿の姪だった。マザランは貴族との縁組の駒として姪たちをフランスに呼び寄せており、ルイ14世はその一人のオリンピア・マンチーニに恋したが[注釈 5]、彼女はすぐに嫁いでしまい、次いでマリー・マンチーニと交際するようになった[176]。若いルイ14世は本気で彼女を愛してしまい、愛妾ではなく王妃として結婚しようとした[177]。ピレネー条約によるスペイン王家との縁談がすすめられていた時期であり、摂政太后アンヌ・ドートリッシュとマザランは二人を無理に引き離し、結局ルイ14世は国家が要請するところのスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュと結婚した[178]。その後、マリー・マンチーニはイタリアののもとへ嫁がされている[179]。 王妃マリー・テレーズは信仰心に篤く慎ましい女性で王太子ルイ(グラン・ドーファン)をはじめとする6人の子を生んだが、ルイ14世が彼女を愛することはなかった。彼女はスペイン訛りが抜けずに正しいフランス語が話せず、会話でルイ14世を楽しませることができなかった[180]。もっとも王妃を愛さなかったのはルイ14世に限ったことではなく、祖父のアンリ4世そして父のルイ13世ともに王妃とは不仲であった[181]。先王たちと違いあからさまに不仲であった訳ではなく、1683年に王妃が死去した時、ルイ14世は「王妃が私に悲しみを与えたのはこれがはじめてだった」と嘆いたという[182]。 ルイ14世はルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、ド・ヴォージュール侯爵夫人、モンテスパン侯爵夫人、マントノン侯爵夫人、フォンタンジュ公爵夫人など多くの女性たちを寵愛した[184]。これら著名な愛妾以外にも、女優や掃除女とのゆきずりの性的な関係もあった[175]。多数の愛妾に囲まれ豪奢な宮廷生活を送ったルイ14世だが、これらの愛妾たちが政治に影響を与えることは全くなかったとする説[185]があるが、マントノン侯爵夫人は熱心なカトリック信者で王を信仰の道に目覚めさせ、プロテスタント弾圧など政治に関与したとの説[186]もある。サン=シモン公は色恋を宮廷内にとどめ、公の問題には持ち込まなかったルイ14世の態度をもって「多情であるが、偉大な魂の持ち主だった証拠」と評している[187]。 1661年の夏、ルイ14世は、かつて革命で処刑されたイングランド王のチャールズ1世の王女で、王弟オルレアン公フィリップの公妃アンリエット・ダングルテールに魅かれ、フォンテーヌブロー宮殿の森で密会を重ねた。22歳の王と17歳のオルレアン公妃は、ルイ14世の父ルイ13世がアンリエットの母ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスの兄にあたる従兄妹であり、今では義理の兄妹だった。フォンテーヌブローでの若き王の振る舞いは、王妃マリー・テレーズや王弟フィリップも知るところとなり、アンリエットがその当時のイングランド王チャールズ2世の実妹なだけに、母后アンヌ・ドートリッシュを「せっかく築きあげた(王妃の、そしてアンヌ自身の実家でもある)スペインとの同盟がご破算になったら...」と心配させる事態になる。自分との不倫をカムフラージュしようとアンリエットは同い年の侍女ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールを王の偽の相手役としたところ、皮肉にも王はルイーズに心変わりしてしまい、スキャンダルが大事になる前に収まった[188][189]。ルイ14世はルイーズを深く寵愛し、1664年にヴェルサイユ宮で催された大祝典『魔法の島の歓楽』は彼女に捧げられたものとされる[190]。3人の子をもうけたルイーズだが、敬虔な彼女は王妃に対する罪にさい悩まされ二度も修道院に身を隠す騒ぎを起こしている[191]。やがて、国王の寵愛がモンテスパン侯爵夫人に移るとルイーズは1674年に宮廷を辞して修道院に入った。 モンテスパン侯爵夫人は名門貴族の出身で王妃の侍女を務めていた。人目を惹く妖艶な美女で、大変な野心家だったという[192]。彼女はルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールに取り入ってルイ14世に近づく機会を得て、1667年から寵愛を受けるようになった[193]。ルイ14世は彼女のために小トリアノン陶磁宮殿をつくらせ、彼女のための浪費は他の寵姫たちのそれとは比べ物にならなかった[194]。モンテスパン侯爵夫人は8人の子を生み、およそ10年間にわたり王妃をしのぐ権勢で宮廷に君臨した[194]。 1679年からルイ14世はマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを寵愛するようになった。彼女は若く美しい女性だったが知性には欠けていた[195]。彼女は1680年に子を生み、フォンタンジュ公爵夫人の称号を与えられるが産後は体調を崩してしまう[196]。ルイ14世の寵愛がマントノン夫人に移ったこともあり、宮廷を辞して修道院に入り1681年に20歳の若さで死去している[197]。 これ以前の1679年にが世を騒がせていた。毒殺事件に関与したとして堕胎や媚薬の販売を行なっていた魔術師ラ・ヴォアザンが逮捕され、彼女のもとで「黒ミサ」と呼ばれる奇怪な儀式が行われていたことが明らかになった。多くの貴族が彼女の顧客となり、その中にはモンテスパン侯爵夫人もおり、支配階級にも及ぶ大醜聞事件となった[198]。フォンタンジュ公爵夫人の急死はモンテスパン侯爵夫人の毒殺によるものとの噂が立てられ、さらにはラ・ヴォアザンの娘がモンテスパン侯爵夫人はフォンタンジュ公爵夫人だけではなく国王の毒殺まで謀っていたと証言する[199]。検察が早々に裁判を打ち切ってことは止み沙汰になったが、これを期にルイ14世はモンテスパン侯爵夫人を遠ざけるようになり、無視と軽蔑に耐えながらなお数年間宮廷にとどまっていた彼女が遂に修道院入りを決意すると王は喜んで彼女を送り出したという[200]。 マントノン夫人は詩人ポール・スカロンの未亡人であり、モンテスパン侯爵夫人の子供たちの養育係を務めていた。美人ではないが教養のある知識人で控えめな女性だった彼女にルイ14世は関心を持ち寵愛するようになり、侯爵夫人の称号を与えた[201]。1683年7月30日に王妃マリー・テレーズが世を去り、それから程ない同年10月9日頃[注釈 6]にルイ14世はマントノン侯爵夫人と秘密結婚をした。この時、ルイ14世は46歳、マントノン侯爵夫人は3歳年上の49歳であり、王は若さや美しさとは別の点で彼女を愛していたと考えられ、この後、王の女性遍歴は止むことになった[101]。 マリー・マンチーニ Jacob Ferdinand Voet画、1665年 王妃マリー・テレーズ 1663年頃 ヘンリエッタ・アン・ステュアート Jean Petitot画、1660年頃 ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール Claude Lefebvre画、1667年 モンテスパン侯爵夫人 Jean Petitot画、1670年頃 フォンタンジュ公爵夫人<br/>作者不明、17世紀 マントノン侯爵夫人 ニコラ・プッサン画、1685年 逸話 バレエと太陽王 フランスには、1533年にイタリアからカトリーヌ・ド・メディシスによりバレエが持ち込まれ、宮廷において盛んに上演された。ルイ14世が5歳で即位した時にも、5時間に及ぶ盛大なバレエが催され、ルイ14世自らも出演した。ルイ14世はバレエに魅せられ、バレエを奨励していた。本人も1651年に15歳で舞台デビューし[202]、王立舞踏アカデミーを創立した[203]。バレエが現在のようなダンスとして体系づけられたのは、彼の時代の功績である。「太陽王」の異名も、元はバレエで太陽(太陽神)に扮したことから生まれた[204]。ルイ14世は高いヒール靴を好み、奨励したことでも知られる。美しい脚線美を維持するためにヒール靴を着用している様子は、彼の全身を描いた肖像画にも描かれている(その後、きついバレエシューズによって小さくなった足が貴族の証とされていくようになる。アレクサンドル・デュマの『三銃士』にも、それが描写されている場面がある)。ルイ14世は1670年に舞台を引退した[202]。 歯抜けの太陽王 ルイ14世は、侍医の主張する「歯はすべての病気の温床である」という説に基づき、12回にわたる手術の末、全ての歯を抜歯された。しかも当時は麻酔が無いため、全て無麻酔にて行なわれ、抜歯後は真っ赤に焼けた鉄棒で歯茎を焼灼し消毒した。その後、歯の無いルイ14世は、約8時間以上掛けてくたくたになるまで煮込んだホロホロ鳥や雉などしか食べられなくなった。また、常に胃腸の調子が悪くトイレにも頻繁に駆け込んだ。時にはトイレから臣下たちに命令を下すこともあったという。余りにもトイレに行く回数が多かったため、衣服にも悪臭が染み付いてしまっていた。そのため臣下たちは、香水を染み込ませたハンカチを鼻に当てながら閣議に臨んでいたという。 かつらと太陽王 バロック・ロココ時代のヨーロッパの王侯貴族たちの間でのかつらを着用する習慣があり、1658年に病のために毛髪の大部分を失ったルイ14世もこれを着用するようになった[205]。これには背丈を水増しする効果もあった。ルイ14世の身長は160センチ程度しかなく、王としての威厳を演出するためにも背を高く見せようとした[206]。そのため上述のようにハイヒールを好んだのだが、それでも十分ではなくかつらで髪を盛り上げ大きな姿を演出した[207]。 評価 ルイ14世時代の史料は膨大にあるが[208]、歴史家たちから頻繁に引用されてきたのがの『回想録』である[209]。サン=シモン公はルイ14世と同時代に生きた貴族で、ヴェルサイユ宮殿に居室を与えられて晩年のルイ14世に仕え、ルイ15世の治世初期には摂政諮問会議にも加わっている[210]。『回想録』で彼は宮廷の日常や政治事件について考察や批評を綴った。ときに辛辣な記述もあり、サン=シモン公はこの『回想録』の公刊を意図していなかったが、フランス革命後の1829年に後継者たちによって出版された[211][210]。雑文家から優れた歴史家にまで利用されてきたサン=シモン公の『回想録』だが、必ずしも信用に足る内容ではないとの指摘もある[212]。 18世紀の啓蒙主義を代表する思想家のヴォルテールは1751年に『ルイ14世の世紀』を公刊した。ヴォルテールは当時の政府に対する不満もあって、ルイ14世の偉業に魅せられた[213]。彼は歴史上の偉大な5人の人物にペリクレス、アレクサンドロス大王、カエサル、ロレンツォ・デ・メディチそしてルイ14世の名を挙げ、その中でもルイ14世をもっとも偉大な人物とし、彼の治世を「大世紀」(グラン・シエクル)と称えた[214]。 フランス革命以降の19世紀は王を暴君と見なす世評が支配的となった。アンシャン・レジームの煩瑣な宮廷生活は時代遅れな軽蔑されるべきものと見なされ、王への滑稽な追従話や愛人スキャンダルばかりが取り上げられた[215]。歴史家たちはヴェルサイユ宮殿造営を浪費と捉え、財務卿フーケの処断やプロテスタント弾圧そして幾多の戦争は誤りであったと後知恵的解釈から批判した[216]。大著『フランス史』を著した歴史家ジュール・ミシュレは特にプロテスタント迫害の非道さを克明に描写して非難しており[217]、この時代を来たる大革命への予兆としたが、その征服活動は評価している[218]。1873年に発行されたピエール・ラルースの『汎用大事典』のルイ14世の評価は辛辣極まり、フランスに大災厄をもたらした戦争の動機はルイ14世の虚栄心・思い上がり・怨恨・私利私欲にあり、彼の政治・閨房・宗教・家族すべての決断の背後にあったのはエゴイズムであると断じている[219]。共和主義歴史家のエルネスト・ラヴィスも20世紀初頭に出版された『起源から革命までのフランス史』のルイ14世の治世の個所で戦争と常軌を逸した浪費、財政制度の欠陥、ナント勅令の廃止を批判し、領土拡大は評価したがベルギー併合に失敗したことを厳しく非難し、やはり共和政への必要な過程としかとらえなかった[220]。 20世紀に入るとこのようなイデオロギー的誹謗への反動からルイ14世を擁護する論調も現れ、ルイ・ベルトランの『ルイ一四世』(1922年)やより学術的なピエール・ガクソットの『ルイ一四世のフランス』(1946年)がこの流れの代表的な文献である[218]。第二次世界大戦後は単なる当時の逸話の面白おかしい解釈から脱して、さまざまな視点のルイ14世の伝記やヴェルサイユ宮殿の研究が出版され続けている[221]。 子女 王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュとの間には3男3女が生まれたが、長男を除いて夭逝した。 ルイ(1661年 - 1711年) - 王太子。グラン・ドーファンと呼ばれる。ルイ15世の祖父、スペイン王フェリペ5世の父。 アンヌ・エリザベート(1662年) マリー・アンヌ(1664年) マリー・テレーズ(1667年 - 1672年) フィリップ・シャルル(1668年 - 1671年) - アンジュー公 ルイ・フランソワ(1672年) - アンジュー公 寵姫ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールとの間には3男1女が生まれた。 シャルル(1663年 - 1666年) フィリップ(1665年) マリー・アンヌ(1666年 - 1739年) - 第一ブロワ令嬢、コンティ公ルイ・アルマン1世と結婚。 ルイ(1667年 - 1683年) - ヴェルマンドワ伯 寵姫モンテスパン侯爵夫人との間には7子が生まれた。 不明(1669年 - 1672年) ルイ・オーギュスト(1670年 - 1736年) - メーヌ公 ルイ・セザール(1672年 - 1683年) - ヴェクサン伯 ルイーズ・フランソワーズ(1673年 - 1743年) - ナント令嬢、コンデ公ルイ3世と結婚。 ルイーズ・マリー(1674年 - 1681年) - トゥール令嬢 フランソワーズ・マリー(1677年 - 1749年) - 第二ブロワ令嬢、オルレアン公フィリップ2世と結婚。 ルイ・アレクサンドル(1678年 - 1737年) - トゥールーズ伯 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 三宅理一 『パリのグランド・デザイン-ルイ一四世が創った世界都市」 中央公論新社、2010年、ISBN 978-4121020499 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 関連図書 Text "和書" ignored (help) 関連項目 バロック建築 第2次百年戦争 外部リンク Check date values in: |accessdate= (help) Check date values in: |accessdate= (help) 地位の継承
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A414%E4%B8%96%20%28%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%8E%8B%29
{'plaintext_start_byte': array([ 6, 566, 748, 1268, 1860, 2043, 2176, 2429, 2739, 2952, 3241, 3423, 3764, 4533, 4915, 5168, 5670, 6064, 6303, 6458, 25935, 26461, 26621, 26904, 27388, 28022, 28291, 28595, 28759, 29194, 29435, 29809, 30035, 30579, 30803, 31276, 31607, 31834, 32162, 32527, 32801, 32907, 33149, 33376, 34446, 34597], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 565, 731, 1267, 1859, 2022, 2175, 2406, 2738, 2944, 3240, 3408, 3750, 4532, 4914, 5167, 5669, 6063, 6295, 6449, 25914, 26460, 26620, 26903, 27380, 28021, 28283, 28594, 28751, 29186, 29434, 29792, 30034, 30578, 30795, 31256, 31606, 31826, 32161, 32519, 32800, 32906, 33148, 33368, 34438, 34573, 34830], dtype=int32)}
プラトンはソクラテスの死刑に立ち会った?
ソクラテスの弁明
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
Part of the series on:The dialogues of Plato Early dialogues: Apology Charmides Crito Euthyphro First Alcibiades Hippias Major Hippias Minor Ion Laches Lysis Transitional and middle dialogues: Cratylus Euthydemus Gorgias Menexenus Meno Phaedo Protagoras Symposium Later middle dialogues: Parmenides Phaedrus Republic Theaetetus Late dialogues: Clitophon Critias Laws Philebus Sophist Statesman Timaeus Of doubtful authenticity: Axiochus Demodocus Epinomis Eryxias Halcyon Hipparchus Minos On Justice On Virtue Rival Lovers Second Alcibiades Sisyphus Theagesvt 『ソクラテスの弁明』(ソクラテスのべんめい、、、)は、プラトンが著した初期対話篇。単に、『弁明』(、、)とも。 歴史的背景 ペロポネソス戦争でアテナイがスパルタに敗北後の紀元前404年、アテナイでは親スパルタの三十人政権が成立し恐怖政治が行われた。三十人政権は一年程度の短期間で崩壊したが、代わって国の主導権を奪還した民主派勢力の中には、ペロポネソス戦争敗戦や三十人政権の惨禍を招いた原因・責任追及の一環として、ソフィスト・哲学者等の「異分子」を糾弾・排除する動きがあった。 ペロポネソス戦争において致命的な働きをしたアルキビアデスや、三十人政権の主導者であったクリティアス等と付き合いがあり、彼らを教育した師であるとみなされていたソクラテスも、その糾弾・排除対象の一人とされた。こうしてソクラテスは、「国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた」として宗教犯罪である「涜神罪」(神を冒涜した罪)で公訴され[1]、裁判が行われることになった。本篇はその場面を題材とする。 この告発に対しソクラテスは全面的に反論し、いささかの妥協も見せない。その結果ソクラテスには死刑が宣告される。 構成 登場人物 ソクラテス() - 70歳、最晩年。 メレトス() - ソクラテスに対する告発者の一人。詩人の代表。 (告発者は計3名であり、メレトスの他には、手工者・政治家代表の()、演説家代表のリュコン()の2名がいるが、彼らは本編では話者として登場することはない[2]。) 時代・場面設定 紀元前399年、アテナイの民衆裁判所。500人の市民陪審員を前に、ソクラテスに対する告発者であるメレトスらが論告・求刑弁論を終え、それを受ける形でソクラテスが自身に対する弁護・弁明を開始するところから、話は始まる。 途中、「無罪有罪決定」投票、「刑量確定」投票の2回の投票を挟み、それを受けてソクラテスが聴衆に向かって最後の演説をする場面までが描かれる。 特徴 プラトンの著作の多くは対話篇(ダイアローグ)だが、この『ソクラテスの弁明』は、その性格上、途中メレトスとのわずかな質疑応答が挿入される他は、全てソクラテスの一人語り(モノローグ)となっている。 文量は、例えば岩波文庫の訳書[3]では55ページ程度と、他の多くの初期著作と同様に少なく、簡素な仕上がりとなっている。 内容 概要 ソクラテスに死刑判決を出した民衆裁判の概要、そこにおけるソクラテス自身の言動(弁明)が描かれる。また、ソクラテスの弁明を通して、彼の特異な哲学(愛智者)人生の発端・経緯や、彼の思想、人となり、時代背景などが描写される。 あらすじ 先の告発に対するソクラテスの対抗弁論から対話編は始まる。この対抗弁論が対話編の大部分を占める。ソクラテスはこの告発に対し真っ向から反論する。ソクラテスは彼が実践する試問(問答法)を説明する。それはデルポイの神託「ソクラテスより賢いものはいない」に対しその反駁として始まったものであったが、数々の知者と呼ばれる人との対話によりソクラテスは、自分は知者ではないが賢いとされる他の人々も最も必要である(とソクラテスが考える)真の知を持たず、したがって知者ではないことを知っている自分はその分だけ賢いという結論に達する。 何かを知っており賢いと主張する人がいれば、対話によってそれを吟味し、そうでないことを見出したならそのことを明らかにし、また真の知を探求しようとする人々、特に若い人々にそのことを奨励すること、先の告発の内実はソクラテスの眼からみればそのようなことであった。 ソクラテスは、真の知を追求し魂の世話を図ることを薦めることは、神から与えられた自分の使命であって、国家の命令がこのことを禁じようとも自分にはやめることができないと語る。 アテナイの裁判ではまず被告人が有罪かどうかが審議され、続いて告発者と被告人の双方から量刑の提案がなされる。ソクラテスは有罪と宣告される。ここで裁判の告発者アニュトスは死刑を求刑する。ソクラテスはこれに対し自分の行っていることは魂の世話をみなに促すという最も重要なことであり、したがって自分は国家に最上の奉仕をなしているのだと主張する。 それにふさわしい刑罰はソクラテスの考えでは公会堂での無料の食事である。公会堂での食事はオリュンピア競技の優勝者などに与えられる当時のアテナイで最高の公的顕彰であった。ソクラテスは追放刑を提案し死をまぬかれることも出来たのであろうがあえてそれをしなかったのである。 結果としてソクラテスには死刑が宣告され裁判は終結する。ソクラテスは有罪投票をした人々には忠告を、無罪投票をした人々には自身の死生観を語りつつ本篇は終わる。 詳細 原典には章の区分は無いが、慣用的には33の章に分けられている[4]。以下、それを元に、各章の概要を記す。 導入 告発者は素晴らしい弁論を行ったが、そこには真実が全く無いこと、自身は演説もうまくないし、裁判にも不慣れなこと、言葉遣いではなく内容が真実であるかどうかのみに注意を払ってほしい、など。 自身に対する二種類の弾劾者の区別。すなわち、風聞を撒き散らすアリストパネス及び顔の見えない大衆(旧い弾劾者)と、今回の裁判の告発者(新しい弾劾者)の区別。そして、まずは「旧い弾劾者」側の言い分に対して、弁明することの確認。 「旧い弾劾者」側の言い分の検討。「不正・無益なことに従事、地下天上の事象を研究、悪事を曲げて善事と成し、他人に教授する」が事実無根であることを、まずは聴衆へと訴えかけ、確認。 同時に「人を教育し謝礼を要求する」というソフィスト的風評も否定。自身はソフィストの術を持ち合わせない。 裁判に至るまでの経緯 自身に対する名声・悪評の理由。それは一種の智慧である。しかしそれは告発者・風評に言われるような超人的智慧ではなく、人間的智慧である。その説明の端緒として、デルポイの神託所で自身(ソクラテス)が最も賢いと言われたエピソードを披露[5]。(以降、9まで一連の話が続く) 上記の神託の検証のために、賢者と世評のある政治家と対話を行ったエピソードを披露。相手を無知だと感じ、その説明を試みるも憎悪される。自身も無知だが、それを自覚している(無知の知)だけ、相手より賢いと考える。更にもう一人の世評のある人物を訪ねたが同じ結論だった。 その後も順次、様々な人に憎悪されながらも歴訪。その結果、世評のあるうぬぼれた人々はほぼ全て智見を欠いており、むしろ世評なき分をわきまえた謙虚な人々ほど智見が優れていた。政治家の次に、様々な詩人を訪問したが、政治家の場合と同じく、自ら語る内容の真義については何らの理解もなく、特定の才能を以て他の事柄も知り尽くしている智者であるかのようにうぬぼれていた。 最後に手工者を訪ねた。彼らもその分野、熟練した技芸においては智者であったが、詩人と同じく、そのことを以て他の事柄に関しても識者と信じていた。こうして一連の歴訪を終え、神託の名において、これまでの自身のように「智慧と愚昧を持たずにあるがままでいる」のがいいか、彼らのように「智慧と愚昧を併せ持つ」のがいいか自問し、前者を選んだ。 こうした行為の結果、自身には多くの敵が出来、多くの誹謗が起こった。また、相手の無知を論証する行為を見ていた傍聴者は、自身(ソクラテス)を賢者と信じるため、名声も広まった。しかし、真に賢明なのは神のみであり、この神託は人智の僅少・空無さを指摘したものであり、神が自身(ソクラテス)の名を用いたのはあくまでも一例に過ぎない。「最大の智者は、ソクラテスのように、自分の智慧の無価値さを悟った者である」と。この神意のままに自身は歩き廻り、賢者と思われる者を見つけてはその智慧を吟味し、その濫用・うぬぼれがあれば神の助力者としてそれを指摘する。この神への奉仕事業のため公事・私事の暇なく、極貧に生活している。 また、富裕市民の息子たちが自身(ソクラテス)を模倣し、その試問によって無知を暴かれた人々も、「青年を腐敗させた」と自身(ソクラテス)に憤った。またその批判内容の無さに窮した挙げ句、哲学者批判の常套句である「地下天上の事象を~(上記3)」といった批判も併せて自身に向けられることになった。こうして詩人代表のメレトス、手工者・政治家代表のアニュトス、演説家代表のリュコンの3名が告発者となり、今回の裁判が起こされた。 メレトスとの質疑応答 「旧い弾劾者」に対する弁明終了、続いて「新しい弾劾者」(当裁判の告発者)に対する弁明へ。訴状の内容「青年を腐敗させ、国家の信じる神々を信じず、新しき神霊(ダイモニヤ)を信じる」の検証。まずは「青年を腐敗させ」の部分から。告発者メレトスは青年の善導に本来無関心なのに、熱心であるかのように装っている。 メレトスへの尋問開始。メレトス、青年の善導が関心事「その通り」、青年の善導者は「国法」、人間では「裁判官(陪審員)、聴衆、評議員、民会議員全員」「ソクラテスを除く全てのアテナイ人」。ソクラテス、馬の場合ならそう答えないはず、調馬師以外の大多数が一緒に躾けたらかえって悪くする、青年も一緒、これでメレトスの青年善導への無関心が暴露された。 メレトス、人は自分を益する善人よりも自分を害する悪人を欲すること(青年たちが自ら望んでソクラテスを欲したこと)は「ない」、ソクラテスが青年を腐敗させたのは(無自覚ではなく)「故意」。ソクラテス、メレトスの言い分では、自身(ソクラテス)は青年を害し、青年からも害されることを故意に行なっている愚者になってしまうが、そのような者はいない。自身(ソクラテス)は青年を害さないか、無自覚かのどちらかであり、いずれにしろメレトスは嘘を述べている。また、自身(ソクラテス)が無自覚に青年を腐敗させているのなら、自身(ソクラテス)にそれを教示・訓誨すれば済む話なのに、それをせずに不当にも処罰のための裁判へと引き出した。 メレトスの青年善導に対する無関心は明白。次に「新しき神霊(ダイモニヤ)を信じる」の部分に話題移行。メレトス、ソクラテスは国家の認める神々ではなく他の新しい神霊(ダイモニヤ)を青年に教えて腐敗させている。ソクラテス、それは「アテナイ以外の神々を信じる」ということか、それとも「無神論者」ということか。メレトス、ソクラテスは後者の「無神論者」であり、「太陽を石、月を土」と主張する。ソクラテス、それは哲学者アナクサゴラスの主張だと皆知っている。メレトスこそが実は高慢・放恣な無神論者であり、この訴状もそうした青年の出来心ゆえに思える。メレトスの訴状・主張は(「ソクラテスは罪人。神を信じないが故に、しかも神を信じるが故に。」という)矛盾を孕んだ謎かけのよう。 メレトス、「神霊の働き(ダイモニヤ)は信じるが、神霊そのもの(ダイモニス)を信じない者」など「一人もいない」、また、神霊は「神々そのもの」か、「神々の子」と「看做している」。ソクラテス、その言い分では自身(ソクラテス)は「神々を認めないで、神霊(神々)を認める」ということになり、謎かけ・冗談のよう。メレトスがこのような訴状を起草したのは、我々を試しているのか、自身(ソクラテス)を陥れる罪過に苦慮した結果かのどちらか。 最終弁論 「新しい弾劾者」(当裁判の告発者)及び「訴状」に対する弁明も終了、総論へ。自身(ソクラテス)や他の善人を滅ぼすのは、メレトスら告発者(新しい弾劾者)ではなく、むしろ大衆の誹謗・猜忌(旧い弾劾者)である。これまでもこれからもそう。それら大衆によって死の危険に晒される営みであっても、人は自身の持ち場を死をも厭わず固守すべき。 自身は従軍[6]した際にも持ち場を固守した。したがって、今も自身が神から受けたと信じる持ち場、愛智者として他者を吟味する持ち場を、死などを恐れて放棄することはできない。それをしてしまうことこそがむしろ、神託の拒否、賢人の装い、神の不信の罪であり、法廷に引き出されるに値する。死が人間にとって何かを知る者などいないのに、死を恐れることも賢人を気取ること。したがって、アニュトスの「ソクラテスを死刑にするか、放免して子弟を一人残らず腐敗させるかの二者択一」という意見はともかく、今回放免と引き換えに姿勢変更を求められたとしても、自身はこれまでの姿勢を変えない。自身は諸君よりも神に従う。そうした人々には「偉大なアテナイ人が蓄財・名声・栄誉ばかりを考え、智見・真理・霊魂を善くすることを考えないのは恥辱と思わないか」と指摘する。自身は「神に対する私のこの奉仕に優るほどの幸福が、この国において諸君に授けられたことはいまだかつてなかった」と信じている。それは身体・財産よりも霊魂の完成を顧み、熱心にすることの勧告、徳からこそ富や善きものが生じることの附言に他ならない。いずれにしても、放免されようがされまいが、自身の姿勢は一切変わらない。 諸君が自身(ソクラテス)を死刑に処するなら、諸君はむしろ諸君自身を害することになる。自身(ソクラテス)にとっては、死刑・追放・公民権剥奪は、正義に反するという大きな禍に比べれば大したことではない。自身(ソクラテス)は自分のためではなく、諸君のため、諸君が神からの賜物に対して罪を犯し、容易に見出すことのできない自身(ソクラテス)のような人物を失ってしまうことがないようにするために弁明している。長年、家庭を顧みず、貧乏も厭わず、何人にも家族のごとく接近し、無報酬で徳の追求を説くような行為は、人間業ではなく神の賜物。 自身(ソクラテス)が国事に関わらない理由は、幼年時代から現れる「ダイモニオンの声」にある。常に何かを諫止(禁止・抑止)するために現れるこの声が、政治に関わることに抗議する。この抗議は正しく、実際、自身が政治に関わっていたら、既に死んでいただろう。本当に正義のために戦うことを欲するならば、公人ではなく私人として生活すべき。 政治に関わることの危険性に関する2つの例示。唯一の公職経験である評議員時代、ペロポネソス戦争中の紀元前406年におけるアルギヌサイの海戦後の将軍10名に対する違法な有罪宣告に対し、一人反対したことで演説者・大衆の怒号を受けたエピソードと、三十人政権下の紀元前404年、サラミス人レオンを処刑のために連行することを一人拒否して家に帰ったエピソード。 自身は公人としても私人としても態度を一切変えなかったが、公人として政治に携わることが少なかったから、長い歳月生きながらえることができた。誹謗者が自身(ソクラテス)の弟子と呼んでいるクリティアスやアルキビアデスに対しても、譲歩したことはない。自身は何人に対しても、報酬を受け取らず、貧富の差別なく、試問・問答を行なってきた。いまだかつて誰の師になったこともなく、誰に授業を授けたこともない。 自身の仲間となっている人々は、賢明とうぬぼれている人々が吟味されるのを楽しむ。しかし、自身は神からの使命としてこれを行なっている。自身が青年を腐敗させているのなら、その中で既に壮年に達した人々、その家族・一族がここに復讐に来てなければおかしい。ここにもクリトン、リュサニヤス、アンティフォン、ニコストラトス、パラロス、アディマントス、アイアントドロス等がいるが、彼らはむしろ自身(ソクラテス)を援助している。 補足 弁明として言いたいことは言い終えた。諸君の中には涙を流して嘆願哀求したり、同情をひくために子供・親族・友人を多く法廷に連れ出そうとすることを期待していた者もいるかもしれないが、自身はそうはしない。自身にとっても、諸君にとっても、国家にとってもそれは不名誉なことだから。 裁判官(陪審員)は、国法にしたがって事件を審理しなくてはならない。メレトスの訴状の通りであるか否か。自身は告発者たちよりも堅く神々を信じ、最も善い裁判が成されることを諸君と神々に委ねる。 (黒石・白石による「無罪有罪決定」の投票。結果、約280対220、すなわち約30人分の票差で「有罪」が決定[7]。以下、刑量を巡る弁論に移る。) 刑量についての弁論 有罪決定は予想通りだった。むしろ多くの票差がつくと思ってたのが、意外に僅差だった。30票の投票が違えば無罪放免になっていただろうし、アニュトスとリュコンが告発者に名を連ねてなければ、メレトスは5分の1の票数も得られずに罰金1000ドラクメを払うことになっていただろう。 告発者は死刑を提議している。それに対して何を提議すべきか。何人にも善良かつ賢明になるよう説得することに務めてきた一人の貧しき国家功労者が受けるべき賞罰は、良きものであるべきであり、プリュタネイオン(役所、会議場、迎賓館・宴会場を兼ねたアテナイの中心施設)における食事がふさわしい。 これは傲慢から言うのではない。自身は決して故意に不正を行ったことがないと確信しているが、それを諸君に信じさせるには時間が短すぎる。自身は不正を行っていないと確信しているので、(ましてや福か禍かも分からず恐れてもいないと述べている死刑にわざわざ対抗するためにあえて)提議する刑罰が思いつかない。投獄されて奴隷生活を送ればいいのか。罰金を払うにも金が無い。追放されてもその町々で同じことを繰り返すだろう。 「追放先で静かな生活を送る」ことなど、自身にはできない。それは神命に背くことであるし、人間の最大幸福であり生き甲斐は、日毎、徳について語ることであり、魂の探求に他ならないから。金があればそれを罰金として提議するが、自身は一文無しである。銀1ムナぐらいは払えるので、それを提議したいところだが、プラトン、クリトン、クリトブロス、アポロドロスが罰金30ムナの提議を催促し、その保証人になってくれるというので、それを提議する。 (「刑量確定」の投票。結果、約360対140の多数を以て「死刑」が確定[8]。) 「死刑確定」を受けて 有罪・死刑投票をしたアテナイ人諸君は、高齢で死ぬ日も遠くない自身(ソクラテス)の死を待つだけの辛抱が足りなかったばかりに、賢人ソクラテスを死刑に処したという汚名と罪科を負わされるだろう。諸君を批議する人々は自身(ソクラテス)を賢人と呼ぶであろうから。諸君は自身(ソクラテス)が有罪になった理由は、「言葉の不足」「有罪を免れるためいかなる言動も厭わない姿勢の欠如」だと考えるだろう。しかし自身に言わせれば「厚顔・無恥・迎合意図の不足」である。自身はいかなる危険を前にしても賤民らしく振る舞うべきでないと信じていたし、後悔は無い。死を免れることは困難ではない。死を免れるより悪を免れる方がはるかに困難である。悪は死よりも速く駆ける。老年の私は死に追いつかれ、若い諸君は悪に追いつかれた。 自身(ソクラテス)を有罪と断じたる諸君への予言。諸君には死刑より遙かに重き刑が課されるだろう。諸君は諸君の生活についての弁明を免れるために今回の行動に出たが、結果はその意図とは反対になるだろう。自身(ソクラテス)が阻んでいた、若く峻烈な多くの問責者が、諸君の前に現れ、諸君を深く悩ますだろう。正しくない生活に対する批議を、批判者を殺害・圧伏することで阻止しようとする手段は、成功も困難で立派でもない。最も立派で容易な手段は、自ら善くなるよう心掛けることである。 無罪投票をしてくれた諸君(正当な「裁判官」諸君)へ。「ダイモニオンの声」は、今回の件で一度も現れなかったので、今回の出来事はきっと善い事である。死を禍だと考える者は間違っている。 また、死は一種の幸福であるという希望には以下の理由もある。死は「純然たる虚無への回帰」か、「生まれ変わり、あの世への霊魂移転」かのいずれかである。前者であるならば、死は感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものであり、驚嘆すべき利得である。後者であるならば、数々の半神・偉人たちと冥府で逢えるのだから言語を絶した幸福である。 「裁判官」諸君(無罪投票をしてくれた諸君)も、「善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こり得ないこと、神々も決して彼を忘れることがないこと」を真理と認め、楽しき希望を以て死と向き合うことが必要である。したがって、自身(ソクラテス)は告発者や有罪宣告をした人々にも、少しも憤りを抱いてはいない。なお、自身(ソクラテス)の息子達が成人した暁には、自身(ソクラテス)が諸君にしたように、彼らを叱責・非難して悩ませてもらいたい。蓄財よりも徳を念頭に置くように、ひとかどの人間でもないのにそうした顔をすることがないように。 去るべき時が来た。自身(ソクラテス)は死ぬために、諸君は生きながらえるために。両者の内、どちらが良き運命に出逢うか、神より他に知る者はいない。 論点 無知の知 本篇では、デルポイの神託に端を発するソクラテスの哲学者(愛智者)人生の経緯と共に、「無知の知」についての言及が成される。自分が知っていること以上のことを知っていると思い込む「智慧と愚昧を併せ持つ」状態に陥っている者達と対比的に、よく知りもしないことを知っていると過信しない「智慧と愚昧を持たずにあるがままでいる」者としてのソクラテス自身が言及される。 また、ソクラテスの用いる「問答法」が、そうした相手の智慧を吟味するためのものであることも併せて言及される。 この「無知の知」のモチーフは、その後も「死・死刑」「死後の世界」に言及するくだりで、死を恐れることもまた、よく知りもしないことを知っているかのように装うことであるとして、再度持ち出される。 なお、初期末の対話篇『メノン』では、この「無知の知」が、あるいは、初期対話篇で頻出する「アポリア」(行き詰まり)の自覚が、人々を、単なる「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)への安住から引っ張り出し、原因・根拠を伴った理論的「知識」(episteme エピステーメー)へと至らしめる重要な契機となることが、明快に説明されている。 正義 本篇では、正義に反することが自分にとっては死刑その他の刑罰よりも大きな禍であると、ソクラテスによって述べられている。この発想は、続編である『クリトン』においても繰り返し反復される。『クリトン』の内容に則るならば、ソクラテスにとっての正義とは、「熟慮・検討の結果、最善と思える考え」のことであり、それに則っておくことで、いかなる場合においても、死後の冥府においてすらも、「自身をちゃんと弁明できるようにしておくこと」である。 本篇においても、また続編の『クリトン』においても、「いかなる場合においても、故意に不正は行わない」(知らずに不正を行っていたのであれば、改める)という倫理観が言及されている。 裁判 本篇では、冒頭で、ソクラテスが聴衆(陪審員)達に対して、話し方・印象ではなく、その内容の正しさによって判断してもらいたいと願い出るところから始まる。一回目の投票の直前にも、再び同じお願いが繰り返される。 末尾においては、ソクラテスは無罪投票をした人々を「正当な裁判官」と呼び、彼らに対して自身の死生観を説く。 政治 本篇では、「現実政治に関わることの危険性」が、ソクラテス自身が経験した2つのエピソードと共に言及される。また、「正義のために戦うならば、公人ではなく私人として生活すべき」という考えも表明されている。『第七書簡』にも書かれている通り、この姿勢は著者であるプラトン自身の人生態度とも重なる。 大衆 本篇では、「アリストパネスらの風聞に流される旧い弾劾者」「自分達のやましさを覆い隠すために、批判者を封殺しようとする者達」として、大衆が批判的に言及されている。 また、ソクラテス以前にも、そうした大衆によって善人は滅ぼされてきたし、これからもそうだろうという見解、批判者を封殺することは、より極端な反動を生み出すこと、それよりは自ら善くなるよう努めることが得策であるといった見解が、併せて述べられる。 青年の教育 ソクラテスが青年たちの教育に熱心だったことは、プラトンの他の対話篇にも描かれており、本裁判の訴状においても、「青年を腐敗させた」として言及されている。 本篇では、ソクラテスと告発者メレトスとの質疑応答の中で、青年の教育についてのいくらかの言及がある。メレトスが、国法やソクラテス以外の全てのアテナイ人が、青年たちにとっての善導者となると述べたのに対して、ソクラテスは、青年の教育は馬の調教と同じく、その道に長けた者によって行われなければならず、メレトスの言い分は青年たちの教育に対する無関心の表れだとして批判する。 なお、こうした「一般大衆の意見よりも、一部の専門家の意見が尊重されるべき」という考えは、続編である『クリトン』においても、繰り返し持ち出される。 蓄財 本篇では、ソクラテスが「偉大なアテナイ人が蓄財などばかりに囚われ、知見を善くしようとしないのは恥辱ではないか」と訴えるくだりがある。また、末尾では、ソクラテスが聴衆に対して、ソクラテスの息子たちが成人した暁には、その息子たちに対しても、蓄財よりも徳を念頭に置くように非難・教育してもらうよう頼んでいる。 ダイモニオン 本篇では、ソクラテスの指針ともなっていた「ダイモニオンの声」についても言及されている。幼少の頃より表れ、常に何かを諌め、禁止・抑止するために表れたという「ダイモニオンの声」は、ソクラテスに政治と関わることを諌めたという。 また、末尾においては、この裁判に関して、「ダイモニオンの声」は表れなかったので、今回の死はきっと善いことであるとも、ソクラテスは聴衆に語っている。 信仰 本篇では、デルポイの神託を信じ、神への奉仕として愛智者・智慧の吟味の活動に勤しんだり、「ダイモニオンの声」を信じたり、「善人には生前も死後も禍害が無い」と断言するなど、ソクラテスの信心深さについての記述も多く見られる。 問答を駆使して智慧を吟味したり正義を探求していく理知的な面がありながら、他方でこうした信心深さも併せ持つソクラテスの性格を、例えば岩波文庫の解説では、「ソクラテスは熱烈なる理性信奉者であると同時に、宗教的神秘家でもあった」と評している[9]。 評価 『弁明』はプラトンの著作の中では初期に書かれたと推測されている。プラトンの脚色もある程度加わっていると考えられているがほとんどの研究者はソクラテス裁判の正確な記録であると考えている。 諸研究は『弁明』におけるプラトンの関心を以下のようなものと考えている。 ソクラテスの描写を通じ、「哲学者」および「哲学すること」の模範を提示する。 ソクラテス裁判を記録し、その真実の姿を伝え、もって間接的に裁判が不当であることを示す。 文体は格調高く芸術的にも完璧に近くて、またその弁論は特に緊密に構成され、時には劇的でもあり、哲学また文学の最高峰として古来から高く評価されている。 訳書 『プラトン全集〈1〉 エウテュプロン・ソクラテスの弁明・クリトン・パイドン』 今林万里子・田中美知太郎・松永雄二訳 岩波書店 1975年、復刊2005年ほか 『ソクラテスの弁明・クリトン』 久保勉訳 岩波文庫、初版1927年、改版1964年、2007年 ISBN 9784003360118 『ソークラテースの弁明・クリトーン・パイドーン』 田中美知太郎・池田美恵訳 新潮文庫 1968年、改版2005年 『ソクラテスの弁明・クリトン』 三嶋輝夫・田中享英訳 講談社学術文庫、1998年 『ソクラテスの弁明・ゴルギアス』 田中美知太郎・藤沢令夫訳 中公クラシックス 2002年1月 『ソクラテスの弁明』 納富信留訳 光文社古典新訳文庫、2012年9月 『ソクラテスの弁明』 藤田大雪訳 叢書ムーセイオン、2013年3月 『エウテュプロン・ソクラテスの弁明・クリトン』 西尾浩二・朴一功訳 京都大学学術出版会・西洋古典叢書、2017年8月  漫画 『ソクラテスの弁明(マンガで読む名作)』 画・横井謙仁、 日本文芸社、2010年 ISBN 9784537125610 脚注 関連項目 『エウテュプローン』 『クリトン』 - 『ソクラテスの弁明』の続編 『パイドン』 クセノポン 『ソクラテスの思い出』 ハーバード・クラシクス - 第2巻に収められている。 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BC%81%E6%98%8E
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 278, 540, 687, 1045, 1718, 2195, 2272, 3063, 3701, 4284], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 270, 539, 686, 1044, 1686, 2194, 2271, 3062, 3700, 4262, 4472], dtype=int32)}
通称住基ネットが始まったのはいつ?
住民基本台帳
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
住民基本台帳(じゅうみんきほんだいちょう)とは、市町村長または特別区区長が、住民全体の住民票(個人を単位として作成)を世帯ごとに編成し作成する公簿である(住民基本台帳法第6条1項)。 概要 「台帳」と銘打っているが全自治体で電算化されている。システム故障時のためのバックアップ用や閲覧用(住所・氏名・性別・生年月日のみ記載)としては紙ベースの台帳が整備されている。 適当であると認めるときは、世帯を単位として住民票を作成することも出来る(住民基本台帳法第6条2項)。 住民基本台帳(住民票)は、住所を公に証明することを目的とした制度であるため、住民基本台帳の写しの閲覧が認められている(住民基本台帳法第11条、11条の2)。なお、閲覧が認められているのは一部の項目(氏名・生年月日・性別・住所の4項目)のみである。 かつては、住民基本台帳閲覧については、法令上の制限が厳格に定められていなかったが、プライバシーの観点から自治体の職権で閲覧を制限する自治体もあり、条例により制限している自治体もあった。こうしたことから、2006年(平成18年)1月1日に住民基本台帳法が改正され、住民基本台帳の写しの閲覧は、公益性のある統計調査・世論調査・学術研究、公共的団体が行う地域住民の福祉の向上に寄与する活動、官公署が職務上行うときのみに許可されることとなった[1]。 外国人住民に係る事項 外国人住民に係る入管法等改正法が2012年(平成24年)7月9日に施行されることに伴い、「住民基本台帳法の一部を改正する法律[2]」が施行され、外国人住民は住民基本台帳法の適用対象に加えられた。これにより外国人住民についても住民票が作成され、日本人住民と外国人住民の住民票が世帯ごとに編成され、住民基本台帳が作成されることとなった。 住民票作成において外国人は、次の4つに区分される[3]。 中長期在留者:在留資格をもって在留する外国人で、3月以下の在留期間が決定された者や短期滞在・外交・公用の在留資格の者等以外の者。「在留カード[4]」が交付される。 特別永住者:入管特例法により定められている特別永住者。「特別永住者証明書[5]」が交付される。 一時庇護許可者又は仮滞在許可者:難民の可能性がある場合一時庇護のための上陸許可を受けた者(一時庇護許可者)。難民認定申請を行い仮滞在を許可された者(仮滞在許可者)。 出生による経過滞在者又は国籍喪失による経過滞在者:出生又は日本国籍の喪失により日本国に在留することとなった外国人。 外国人住民に係る住民票の記載事項は、日本人同様、氏名・出生の年月日・男女の別・住所等の基本事項の他に、国民健康保険や国民年金等の被保険者に関する事項が記載される。さらに外国人住民特有の事項として、国籍等の情報が記載される。また住民票における外国人の4つの区分(上記)に応じて、在留カードの番号、特別永住者証明書の番号、仮滞在許可を受けた者の仮滞在期間、出生による経過滞在者又は国籍喪失による経過滞在者である旨、が記載される[3]。 通称名は、法律施行前の総務省における実務研究会では、通称名の使用実態の立証資料を確認し、記載については「外国人登録における取扱いにならい、住民票の氏名欄に括弧書きで記載する」としている。また住民票の閲覧や写し発行において「通称名のみは認めない」としている[6]。通称の利用履歴についても転出証明書を活用し、転出入の地方自治体間で引継ぎを行い、当該履歴を住民票に記載するとした[7]。 脚注 関連項目 住民記録システム 住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット) 住民基本台帳カード 戸籍 外国人登録制度 住民基本台帳閲覧制限条例
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E6%B0%91%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%8F%B0%E5%B8%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 565, 923, 1704, 2799, 3059, 3802, 4070, 4436, 4716, 4928, 5154, 5640, 5811, 6160, 6391], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 533, 906, 1703, 2798, 3027, 3779, 4069, 4435, 4715, 4905, 5153, 5617, 5803, 6159, 6383, 6937], dtype=int32)}
ジャック・クレーマーは第2次世界大戦で派遣された?
ドワイト・フィリー・デービス
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ドワイト・フィリー・デービス(Dwight Filley Davis, 1879年7月5日 - 1945年11月28日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイスのテニス選手、政治家。男子テニスの国別対抗戦「デビスカップ」の創設者としてよく知られる。歴史的理由により日本語でのつづりがデービスとデビスと違うが、英語での発音は同じである。後にカルビン・クーリッジ大統領の下で、1925年から1929年まで陸軍長官を務めた[1]。 生い立ちと初期の経歴 ミズーリ州セントルイス生まれ[2]。彼はセントルイス市内のスミス・アカデミーで教育を受け[3]、ハーバード大学を1900年に卒業した[4]。テニス選手から引退した後の1903年に、セントルイス・ワシントン大学ロースクールで法律の学位を取得している[4]。 テニス競技 ドワイト・デービスはハーバード大学において、テニスクラブに所属していた。彼は左利きの選手である。学生時代から、デービスはホルコム・ウォード(1878年 - 1967年)、マルコム・ホイットマン(1877年 - 1932年)とともに「ハーバードの3人組」(The Harvard Three)と呼ばれた。1898年、デービスは全米選手権の男子シングルス決勝でホイットマンに敗れた。彼はウォードとのダブルスで多くの好成績を残し、彼との1899年全米から1901年全米にかけて全米選手権の男子ダブルスで3連覇を達成した。デービスとウォードは、1901年ウィンブルドン選手権での男子ダブルス準優勝もある。 ハーバード大学在学中の1899年、デービスは大学のクラブチームのメンバーとともに、イギリスを相手にテニス対決をする構想を立ち上げた。この構想は間もなく両国のテニス協会によって受諾された。デービスは大会の形式を設計し、さらにシュリーブ・クランプ・アンド・ロウ社<!--(Shreve, Crump & Low)-->から自腹で純銀のトロフィーを購入した。デビスカップ第1回大会はアメリカ対イギリスの2国間対決として、1900年8月にマサチューセッツ州ボストンのロングウッド・クリケット・クラブで開催された。デービスはアメリカ代表として第1戦のシングルスと第3戦のダブルスに出場した。第1戦のシングルスはセットカウント 3-1 でデービスが勝利し、ウォードと組んだ第3戦のダブルスもセットカウント 3-0 で勝利を収めた。最終的には、アメリカ代表チームがイギリス代表チームをマッチカウント 3-0 で下した。 1904年、デービスはセントルイス五輪に出場した。男子シングルスではベスト16で失格となった。男子ダブルスではラルフ・マッキトリックと組み、準々決勝まで進んだ。 セントルイスでの政治 テニスからの引退後、デービスは故郷セントルイスにおいて積極的に政治に関与したが、とりわけ都市問題に関心を示した。彼は公立図書館委員(1904年-1年907年)[3]、美術館管理委員(1904年-1907年、1911年-1912年)[3]、市庁舎委員(1907年-1909年)[4]、土地保有委員(1909年-1911年)[3]、都市公園委員(1911年-1915年)[4]を務めた。また、スポーツ施設の建設にも積極的に携わり、ゴルフ場や野球場などの競技施設の建設・拡張を行い、アメリカ初の市営テニスコートを設置した[3]。彼は全国自治体連盟の執行委員(1908年-1912年)も務めた[4]。 第一次世界大戦 第一次世界大戦が開戦すると、デービスはプラッツバーグ軍事キャンプに参加した[3]。続いて、1916年から1917年までロックフェラー戦争救済委員会のメンバーとして、戦災者の救援活動を行った[3]。 1918年、デービスはミズーリ州兵に参加した[4]。その際に国家陸上警備隊の一員として第35歩兵師団に所属した[3]。彼はフランスにも派遣され、サンミエルの戦いとムーズ・アルゴンヌの攻勢に参加した[3]。そして、第69歩兵連隊の参謀長として少佐の地位を与えられた[1]。 デービスはフランスでの戦闘を評価され、レジオンドヌール勲章を受勲した[4]。また所属する旅団のために、敵地で「自らに課した任務」として情報収集を行ったことを評価され、殊勲十字章を受勲した[1]。 戦後の1920年、デービスは連邦上院議員を目指したが、敗北した[1]。1921年、デービスはワシントンD.C.で戦時金融公社の取締役に就任した[3]。 陸軍省での政治 デービスは1923年から1924年まで陸軍次官補を務めた[3]。彼は空軍力の欠乏を指摘した陸軍航空隊の副司令官ウィリアム・ミッチェルを非難し、論争を巻き起こした[1]。 ドワイト・デービスは1925年10月、カルビン・クーリッジ大統領から第49代陸軍長官に任命された[3]。デービスは陸軍組織の拡張政策をとり、また戦時に国内産業を流動的に動員できるシステムの構築を目指した[1]。さらに、機械化された部隊の実用化を試みた[3]。クーリッジ大統領の任期満了により、デービスは1929年3月に陸軍長官を退任した。 フィリピン総督 1929年7月、デービスはハーバート・フーヴァー大統領からフィリピン総督に任命され、1932年1月までこの職務を務めた[3]。 晩年 1933年以降、フロリダ州タラハシー近郊のメリディアン・プランテーションで暮らした[5]。1942年、彼は陸軍専門家部隊の長官を務めた[3]。1945年11月28日、ワシントンD.C.において死去した[3]。彼の遺体は、アーリントン国立墓地の第2セクションに埋葬された[6]。 1954年に国際テニス殿堂が設立され、ドワイト・デービスは1956年に第2回の殿堂入りを果たした。[7]、1996年には、セントルイス殿堂にスポーツ部門で殿堂入りした[8]。 家族 ドワイト・デービスの父親はジョン・ティルデン・デービス (John Tilden Davis, 1844-1894)、母親はマリア・ジャネット・フィリー (Maria Jeanette Filley, 1843-1913) であった[2]。デービスは1905年11月15日にヘレン・ブルックス (Helen Brooks, 1884-1932) と結婚。デービスはヘレンとの間に1人娘シンシア・デービス (Cynthia Davis) をもうけた。ヘレンと死別後の1936年、デービスはポーリン・セービン (Pauline Sabin, 1887-1955) と再婚[2]。 外部リンク (in English) 注釈
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 128, 570, 2443, 3093, 3579, 4811, 5308, 6183, 7211, 8978, 10192, 12194, 13102, 13636, 14120, 14514, 15071, 15629, 16435], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 127, 522, 2442, 3092, 3550, 4810, 5307, 6182, 7185, 8946, 10190, 12177, 13101, 13635, 14119, 14476, 15070, 15628, 16413, 16490], dtype=int32)}
パトリシア・アン・ボイドに子どもはいる?
パティ・ボイド
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
パトリシア・アン・ボイド(Patricia Anne Boyd、1944年3月17日 - )は、イギリスのモデル、写真家。 ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンの前妻として著名である。ハリスンの「サムシング」および「フォー・ユー・ブルー」、クラプトンの「いとしのレイラ」、「ワンダフル・トゥナイト」 や「ベル・ボトム・ブルース」といったラブソングにインスピレーションを与えたとされる。 来歴 幼少期、モデルとしての初期 サマセットのトーントンにて、コリン・イアン・ラングドン・ボイド (Colin Ian Langdon Boyd) とダイアナ・フランシス・ドライスデール(Diana Frances Drysdale)(1942年8月結婚)の間に産まれる。長女であり、コリン(1946年)、ヘレン・メアリー(1947年、後にジェニーと呼ばれ、ミック・フリートウッドと結婚する)、ポーラ(1951年)の3人の妹がいる。ボイドは彼女自身のお気に入りの人形の名前からヘレン・ジェニーと呼ばれていた[1] 。パイロットであった父が第二次世界大戦での負傷によりイギリス空軍から除隊された後、1948年から1953年の間、ボイドはケニアのナイロビで生活した。両親は1952年に離婚し、母ダイアナは1953年にタンガニーカ(現在のタンザニア)にてロバート・ゲイマー・ジョーンズ (Rober Gaymer-Jones)と再婚。その後2人は4人の子供を連れてイギリスへと帰郷する。夫婦はその後デヴィッド J.B.(1954年)とロバート・ジュニア(1955年)の二人の子供をもうけた。彼らはパティの義兄弟にあたる。パティ自身は修道院付属の寄宿学校に1961年まで所属したのち、1962年にロンドンへ移住。ロンドンでファッション雑誌にスカウトされ、モデルとしての活動を始めた。初仕事はエリザベス・アーデンのシャンプーの宣伝だった[2][3]。しかし作家のマイケル・グロスの取材では美容師志望のパティはエリザベス・アーデンの経営する富裕層向けのビューティサロンでシャンプー係として勤務していたときに、ファッション雑誌の関係者にモデルになることを勧められたと書かれている。 1962年からファッションモデルとしての活動を開始。ボイドはやや出っ歯であったため、当初はカメラマンたちに受け入れられず、中には「モデルたちはウサギに似てなどいない(ウサギのような前歯のボイドはモデルにふさわしくない)」と言う者までいた[1]。しかし数年の活動を経てモデルとして受け入れられ、ロンドン、ニューヨーク、パリ(マリー・クワント等)で活躍した。撮影は主にデヴィド・ベイリー(David Bailey)やテレンス・ドノヴァン(Terence Donovan)が行った[4]。 1964年には、ヴォーグのイギリス版およびイタリア版の表紙に登場[5]。ジョージ・ハリスンの恋人になった後は、グロリア・スタヴァーズ (Gloria Stavers) からシックスティーン・マガジンへの連載の話を持ちかけられる[6]。 1960年代の人気モデルであるツイッギーは、1966年にモデル業を始めた際、ボイドのスタイルを参考にしたと発言した[7]。 ジョージ・ハリスン 1964年、19歳のときにハリスンと出会う。きっかけは彼女が『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』にビートルズファンの女学生役で出演していたことだった[8]。しかしボイドは一年に渡って交際していたエリック・スワイン(Eric Swayne) と婚約寸前であったため、彼への愛情から最初のデートの誘いは断った。一方で彼女は、ハリスンは今まで出会った中で最も美しい男性だとも語った[7][9]。最初にハリスンが彼女に言ったことの一つは「結婚しないかい?」だった。ボイドが笑ったため、ハリスンは「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜夕食でもどう?」と言ったという。数日後、ボイドが映画の撮影に呼び戻された時、ハリソンは彼女を再び誘い、そこで彼女はスワインとの関係を終わりにすることを決めた。二人の初めてのデートはコヴェント・ガーデンにあるギャリック・クラブ(会員制の紳士向けクラブ) にて、ビートルズのマネージャーであるブライアン・エプスタインを交えたものだった[10] 。 1965年、ボイドはハリスン、ジョン、そしてシンシア・レノンが初めてLSDに遭遇した場に居合わせていた[11]。原因はロンドンの警察官の息子で歯科医のジョン・ライリー (John Riley)が彼らのコーヒーにLSDを混入させたことだった[12][13]。4人は怒り狂い、激しい恐怖感を覚えた。興奮状態の中で、ボイドは店の窓を壊すところであったが、ハリスンが彼女を引き戻した[14]。 1965年12月、ロンドンをドライブしていた時、ハリスンはボイドにプロポーズをしたが、ビートルズのツアー予定が無いことを確認するためにまずエプスタインと話さなければならないとも言った[15]。1966年2月21日、サリーのエプソムにて、ポール・マッカートニー(付添人)とエプスタインの出席のもと、ボイドはハリスンと結婚。ジョン・レノンとリンゴ・スターは妻と共に海外旅行に行き、結婚に関するジャーナリスト達の調査をかわしていた[9]。1965年、パティはジョージとの生活をキンファウンス(Kinfauns)にて始める[16]。二人は後にエプスタインと共に休暇を取り、フランス南のエズ近くにあるキャプ・エステル(Hotel Cap Estel)に滞在した[15] 。 1966年9月、レノンがスペインで『ジョン・レノンの 僕の戦争』を撮影している間、ハリスンとボイドはシタールの名手であるラヴィ・シャンカルの客人としてボンベイに滞在しており、1966年10月23日にロンドンに戻ってきた[17]。1967年8月24日、かねてから東洋神秘学に関心があり、スピリチュアル・リジェネレーション・ムーブメント(Spiritual Regeneration Movement)に参加していたボイドは、ビートルズをインドの神秘論者マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと会わせることを思い立つ。結果として彼らはバンガーを訪れ、彼と交流を持つこととなった[12][18][19]。1967年6月25日、ボイドはわれらの世界での愛こそはすべての放送に参加[20]。1968年、インドのリシケーシュ(Rishikesh)にあるマハリシのアシュラム(ashram)をビートルズが訪れた際にも同行した[21]。 ハリスンとの破局 ハリスンはイングランド北部の保守的な労働階級出身であり、妻は家にいるべきだという考えであった。そのためボイドはモデルの仕事を減らしていた。このことが離婚の原因であった。 レノンとミック・ジャガーもまた、ボイドに惹かれていたと発言しており、ジャガーは1980年代当時の恋人であったベベ・ビューエル(Bebe Buell)に、彼がボイドを数年に渡って誘惑したがダメだったことを告白している[19][22]。1973年、ボイドは後にローリング・ストーンズのメンバーとなるロン・ウッドと浮気をし、そこでハリスンとは破局した[23]。 ボイドによると、ハリスンは病気という名目で彼女との休暇の約束を取り消し、ウッドの妻であるクリシーを誘ってサルバドール・ダリに会いにスペインに行っていたという。しかしハリスンはクリシーと関係を持ったことは後に否定している[24]。ボイドの弁解は、ハリスンがクリシー・ウッドとスペインに行っている間、彼女は妹のポーラと共にバハマへ旅行しており、そのときにロン・ウッドが同行したいと言ってきたというものだった[24]。ボイドとウッドはロンドンに帰るとすぐ記者たちに嗅ぎ付けられ、1973年11月25日に二人のことが報道される。ボイドはハリスンの宗教への加熱と性格の変貌が、取り返しがつかないほど彼女を遠ざけたと述べている。その後1974年の6月に離婚。ボイドはロサンゼルスにいた妹のジェニーのもとに身を寄せた。 エリック・クラプトン 1960年代の終盤、クラプトンとハリスンは親しい友人となり、作曲やレコーディングを共に行うようになった。クラプトンがボイドに恋慕の情を抱き始めたのはこの頃とされている[9]。クラプトンはまたボイドの17歳の妹のポーラにも惹かれ、彼女自身も彼に引かれていた[9]。しかしポーラはいとしのレイラを聞いてクラプトンの元を去った。クラプトンがポーラを姉の代わりとしか見ていないことが、その曲から明らかであったからである[24]。1970年代の前半に彼女がクラプトンの誘いを拒絶したことで、彼はヘロイン中毒に陥り、アリス・オームズバイ・ゴアと三年間放浪したとボイドは語っている[24]。一方で、クラプトンのデレク・アンド・ザ・ドミノス時代の唯一のスタジオアルバムであるいとしのレイラは、彼のボイドに対する愛を表明するために書かれたものであった。アルバムは同名曲「いとしのレイラ」を収録しており、この曲は30年に渡って二つのヴァージョン共にヒットした[12]。 二人は1979年に結婚。外面的には完璧なカップルであったが、結婚生活は諍いに満ちていた。ボイドは飲酒および薬物の使用を認めているのにも関わらず、クラプトンとは違い彼女はアルコール依存症や薬物依存症になることはなかった[25]。ボイドはクラプトンがアルコール依存症の治療に取り組まなくなったことで彼の元から去ったと述べている。その後彼女は、写真家のウィル・クリスティーと付き合うようになる[26]。1984年にクラプトンはイボンヌ・ケリーと一年に渡って関係を持ち、1985年の1月に彼女との間に娘のルースが産まれた[27]。クラプトンとケリーは娘の誕生について一切公表しておらず、1991年に行われたクラプトンの息子のコナーの葬式まで彼の子供と明かされなかった[28]。ボイドは「最も傷ついたのは、エリックが最初から子供のことを知っていたこと。彼はまだ私を愛していると復縁を迫る一方で、イボンヌに養育費を六年にも渡って支払っていたの」[26]ボイドはクラプトンのアルコール依存症と結婚前から始まっていた幾度もの情事を数年間耐えた上で、彼と離婚したとしている[19][26]。結局、クラプトンのイタリア人モデルのロリ・デル・サントとの浮気が決め手となり、クラプトンとボイドは1989年に離婚した。ロリ・デル・サントは1986年にコナーを出産していた[29]。またボイド自身は体外受精を試みたにも関わらず、妊娠することができなかった[26][29]。ボイドとクラプトンは離婚原因を「不貞行為(infidelity and unreasonable behavior)」としている[26]。二人の関係が散々なものだったのにも関わらず、二人はその後数年に渡り友人であり続けた。 写真と自伝 彼女が撮影したハリスンとクラプトンとの日々の写真展"Through the Eye of a Muse"が、2005年のバレンタインデーにサンフランシスコ・アート・エクスチェンジで開かれている[12]。 展覧会は2006年の2月にサンフランシスコで、同年の6月から7月の6週間に渡ってロンドンで再び行われた。また2008年にはカリフォルニアのラホヤにあるモリソン・ホテルでも展示された。2008年9月にはダブリンのギャラリー・ナンバー・ワン、2008年の11月12月にはカナダのトロントのグレート・ホールにて展示されている。同展はまた2009年12月にオーストラリアのシドニーのブレンダー・ギャラリー、2009年12月28日から2010年1月10日までにはバルバドスとランカスター・グレート・ハウスにて展示された。 またボイドの自伝である「プルーク」「ワンダフル・トゥデイ」が2007年8月23日にホッダー・ヘッドライン社から刊行された。アメリカでは「ワンダフル・トゥナイト」として2007年8月28日にハーモニーブックスから刊行され、彼女の写真を同梱している。自伝には、950,000ポンド(日本円にして約1億3000万円)が前渡金として支払われた[19][30]。ジャーナリストのペニー・ジュノーとの共著である。 この企画を聞いた彼女と交友関係にあった有名ミュージシャンたちは、今まで世間に知られていなかった彼ら自身の不名誉な話や、様々な悪行が表沙汰になるのを恐れて戦々恐々だった。しかしながらボイドは、俎上に上がった有名ミュージシャンからの高額な名誉毀損訴訟を恐れて自制したため、衝撃的な暴露ネタはなく、かなり穏便な内容になっている。 現在では、ボイドはウェスト・サセックスの17世紀に建てられた小別荘に暮らしており、彼女の自伝とクラプトンの自伝の販売競争を楽しんでいるといわれる[19]。アメリカでは、ボイドの本はニューヨーク・タイムズのベストセラーリストに初登場1位となった[31]。 曲へのインスピレーション ボイドはハリスンのビートルズとしての楽曲、「サムシング」にインスピレーションを与えたと主張している。この曲はフランク・シナトラにここ50年で最高のラブソングと言わしめた[32]ほどであり、ハリスンの代表曲と呼ばれている。ボイドはハリスンが「サムシング」を彼女のために書いたと言ったとしているが、二人が離別した後は、ハリスンはレイ・チャールズのための曲を考えていたと言っている[24]。 ボイドはまた「ベル・ボトム・ブルース」にもインスピレーションを与えたとしている。伝えられるところによれば、クラプトンがマイアミへの旅行帰りに彼女にジーンズをプレゼントした後にこの曲を書いたということである[24]。これは同アルバムの「いとしのレイラ」にも現れている。曲名はクラプトンが友人から聞いたペルシアに伝わる報われない愛の物語『ライラとマジュヌーン』から取られている[33]。 1976年9月7日、クラプトンはポール・マッカートニーとリンダ・マッカートニーの年一度のバディ・ホリーパーティに出席する際、ボイドの準備が済むのを待っている間に、ワンダフル・トゥナイトを書いた。「ワンダフル・トゥナイト」について、ボイドは「私は何年もあの曲に傷つけられているわ。エリック、その前はジョージにああいう曲を書くインスピレーションを与えたことは、私にとってとても嬉しかった。『ワンダフル・トゥナイト』は二人の関係を最も強く思い出させるの。だから、うまくいかなくなってしまった今では、聴くことがとても苦痛だわ」と言った[26]。 脚注 参考文献 CS1 maint: multiple names: authors list (link) ASIN 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%82%A4%E3%83%89
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 544, 645, 1606, 1908, 2921, 4399, 5367, 5851, 7126, 7696, 8323, 10034, 10473, 11394, 11827, 12749, 13088, 13705, 16522, 17119, 17569, 20517, 20915, 24442, 25686, 26223, 26716, 27367, 29145, 29745, 30867, 31803, 32312, 33286, 33806, 34364, 37680, 37721, 38175, 38922, 39766, 40680, 42058, 42408, 42858, 43253, 44086, 44365, 44465, 45334, 45788, 46210, 46591, 47472, 48397, 48894, 49487, 50299, 50445, 51016, 51549, 52426, 52744, 52904, 53187, 53618, 54137, 55089, 55652, 55939, 56554, 56630, 57317, 57554, 58070, 58604, 59729, 59943, 60847, 61493, 61623, 62537, 63415, 63572, 63856, 64673, 64877, 65566, 65933, 67170, 70490, 72083], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 543, 637, 1605, 1907, 2920, 4349, 5366, 5850, 7112, 7695, 8306, 10011, 10472, 11393, 11780, 12748, 12995, 13702, 16499, 17118, 17568, 20500, 20914, 24428, 25645, 26191, 26715, 27326, 29107, 29699, 30835, 31789, 32298, 33248, 33805, 34363, 37679, 37719, 38174, 38905, 39743, 40653, 42057, 42376, 42844, 43252, 44084, 44351, 44409, 45333, 45768, 46151, 46582, 47471, 48389, 48889, 49467, 50291, 50428, 51015, 51548, 52425, 52733, 52903, 53186, 53595, 54127, 55088, 55651, 55938, 56546, 56629, 57316, 57522, 58069, 58603, 59671, 59942, 60846, 61492, 61613, 62536, 63388, 63571, 63855, 64672, 64866, 65557, 65932, 67126, 70473, 72051, 72478], dtype=int32)}
八百屋お七の放火事件死者は出た?
八百屋お七
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([12], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)}
八百屋お七(やおやおしち、寛文8年(1668年)? -天和3年3月28日(1683年4月24日)、生年・命日に関して諸説ある)は、江戸時代前期、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされる少女である。井原西鶴の『好色五人女』に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など芸能において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公になっている。 なお、本項では日付表記は各原典に合わせ、原則は旧暦表記とする。 概要 お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるが、比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』によるとお七の家は天和2年12月28日(1683年1月25日)の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難した。寺での避難生活のなかでお七は寺小姓<b data-parsoid='{"dsr":[672,683,3,3]}'>生田庄之介[注 1]と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりにされた。 お七の恋人の名は、井原西鶴の『好色五人女』や西鶴を参考にした作品では<b data-parsoid='{"dsr":[1022,1031,3,3]}'>吉三郎</b>とするものが多く、そのほかには山田左兵衛、落語などでは吉三(きっさ、きちざ)などさまざまである。 『天和笑委集』は、お七の処刑(天和3年(1683年))のわずか数年後に出された実録体小説である。相前後してお七処刑の3年後の貞享3年(1686年)には大坂で活動していた井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げている。西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史資料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。それだけに後年の作家はさまざまな想像を働かせている。 多数ある八百屋お七の物語では恋人の名や登場人物、寺の名やストーリーなど設定はさまざまであり、ほとんどの作品で共通しているのは「お七という名の八百屋の娘が恋のために大罪を犯す物語」であり、小説などの「読むお七」、落語などの「語るお七」ではお七は恋人に会いたいために放火をするが、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、浮世絵などの「見せるお七」ではお七は放火はせず、代わりに恋人の危機を救うために振袖姿で火の見櫓に登り火事の知らせの半鐘もしくは太鼓を打つストーリーに変更される(火事でないのに火の見櫓の半鐘・太鼓を打つことも重罪である)。歌舞伎や文楽では振袖姿のお七が火の見櫓に登る場面はもっとも重要な見せ場となっていて、現代では喜劇仕立ての松竹梅湯嶋掛額/ 松竹梅雪曙以外には櫓の場面だけを1幕物「櫓のお七」にして上演する事が多い。さまざまある設定の中には月岡芳年の松竹梅湯嶋掛額(八百屋お七)や美内すずえ『ガラスの仮面』などのように放火と火の見櫓に登る場面の両方を取り入れる作品や冤罪とするもの、真山青果の戯曲のように放火とせずに失火とする創作などもある。 実在の人物としての「八百屋お七」 古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられていたが、実はお七の史実はほとんどわかっていない[1][2]。歴史資料として戸田茂睡の『御当代記』の天和3年の記録にわずかに「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されているだけである[3]。お七の時代の江戸幕府の処罰の記録『御仕置裁許帳』には西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)以前の記録にはお七の名を見つけることができない[注 2][1]。お七の年齢も放火の動機も処刑の様子も事実として知る事はできず[1]、それどころかお七の家が八百屋だったのかすらも、それを裏付ける確実な史料はない[2]。 東京女子大学教授で日本近世文学が専門の矢野公和は、天和笑委集や近世江戸著聞集を詳しく検討し、これらが誇張や脚色に満ち溢れたものであることを立証している。また、戸田茂睡の『御当代記』のお七の記述も後から書き加えられたものであり、恐らくはあいまいな記憶で書かれたものであろうと矢野は推定し、お七の実在にさえ疑問を呈している[1]。 しかし、大谷女子大学教授で日本近世文学が専門の高橋圭一は『御当代記』は後から書き入れられた注釈を含め戸田茂睡自身の筆で書かれ、少なくとも天和3年お七という女が江戸の町で放火したということだけは疑わなくてよいとしている。また、お七処刑のわずか数年後、事件の当事者が生きているときに作者不明なれど江戸で発行された天和笑委集と大阪の西鶴が書いた好色五人女に、違いはあれど八百屋の娘お七の恋ゆえの放火という点で一致しているのは、お七の処刑の直後から東西で広く噂が知られていたのだろうとしている[2]。お七に関する資料の信憑性に懐疑的な江戸災害史研究家の黒木喬も、好色五人女がお七の処刑からわずか3年後に出版されている事から少なくともお七のモデルになった人物はいるのだろうとしている。もしもお七のことがまったくの絵空事だったら、事件が実在しないことを知っている人が多くいるはずのお七の事件からわずか3年後の貞享3年にあれほど同情を集めるはずが無いとしている[4]。 御当代記 天和3年の記録に「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記録されている『御当代記』の著者戸田茂睡(1629-1706)は歌学者として知られ「梨本集」などの著作がある。実家は徳川忠長に仕える高禄の武家だったが、忠長の騒動に巻き込まれて取り潰されて大名家預かりの身になり、その後許されて伯父の家300石の養子になって仕官し、1680年ごろに出家して気ままな暮らしに入っている[5][6]。 御当代記は五代将軍徳川綱吉が新将軍になった延宝8年(1680年)から茂睡が亡くなる4年前の元禄15年(1702年)までの約22年間の綱吉の時代の政治・社会を、自由な身で戸田茂睡自身が見聞したことを記録していったもので、子孫の家に残され発見されたのは天保年間(1830年代)になってからだが、信憑性の高い史料とされている[5][7]。 御当代記は日記のように毎日記録していったものではないが、事実を時間の経過を追って記録しているものである[5]。 天和笑委集 天和笑委集は貞享年間に成立した実録体の小説で、作者は不明[8]。西鶴と並んでお七の物語としては最初期、お七の処刑後数年以内に成立し、古来より実説(実話)とされてきた。しかし、現代では比較的信憑性は高いものの巷説を含むものとされている[9]。全13章からなり、第1章から第9章はこの時代の火災の記録、第10章から第13章は放火犯の記録となっており、お七の物語は第11章から第13章で語られ、全体の1/5を占めている。第1章から第9章で書かれた火災の記録は史実と照らし合わせると極めて信憑性が高く、またお七とは別の放火犯である赤坂田町の商家に住む「春」という少女が放火の罪で火あぶりになった事件や少年喜三郎が主人の家に放火した事件を書いた第10章の記述が、江戸幕府の記録である『御仕置裁許帳』に記された史実と一部に違いはあるもののほぼ同じであることから人物の記述についても信憑性が高いものとされてきた[10]。しかし現在では天和笑委集は当時の記録に当たって詳細に作られているが、お七の記録に関してだけは著しい誇張や潤色(脚色)が入っているとされている。例えば天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされるお七は華麗な振袖を着ていることにしているが、放火という大罪を犯して火あぶりになる罪人に華麗な振袖を着せることが許されるはずもないと専門家に指摘されている[1]。 近世江都著聞集 近世江都著聞集は講釈師馬場文耕がお七の死の74年後の宝暦7年(1757年)に書いたお七の伝記で、古来、天和笑委集と並んで実説(実話)とされてきた[2][9]。近年に至るまで多くの作品が文耕を参考にしており、天和笑委集よりも重んじられてきた[9]。その影響力は現代に残る丙午の迷信にまで及んでいる-#後世への影響参照。 近世江都著聞集は、その写本が収められている燕石十種第五巻では序文・目次・惑解析で4ページ、本文は11巻46ページほどの伝記集で、その46ページのなかで八百屋お七の伝記は最初の1巻目と2巻目の計8ページほどの極めて短い作品である[11]。近世江都著聞集の惑解断と2巻目末尾で文耕は「お七を裁いた奉行中山勘解由の日記をその部下から私は見せてもらって本にしたのだ」としている[12]。お七の恋人の名を吉三郎とする作品が多いが、自分(文耕)以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に配慮して、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのであり、また実在する吉祥寺の吉三道心という僧をお七の恋人と取り違えている人もいるがまったくの別人だと言う[13]。 文耕は本文2巻目末尾で自信満々に「この本こそが実説(実話)だ」と述べているが[14]、しかし、その割にはお七の事件の約40年前に亡くなっている土井大炊頭利勝を堂々と物語に登場させたりしており[15]、後年の研究で文耕の近世江都著聞集にはほとんど信憑性がないとされている[1]。 創作作品における「八百屋お七」 現代、多数ある[注 3]八百屋お七物語の作品に大きな影響を与えた初期の作品として井原西鶴の『好色五人女』や実説とされてきた『天和笑委集』、『近世江都著聞集』があり、また西鶴から紀海音を経て現代の歌舞伎に至る浄瑠璃・歌舞伎の流れも現代の文芸に大きな影響を与えている。大まかには初期の作品はお七の悲恋物語で吉三郎の占める割合は低く、後年の文芸作品でもその流れを汲むものは多いが、後年の特に演劇作品を中心したなかには、吉三郎を身分の高い侍としてそれにお家騒動や重宝探しあるいは敵討ちといった吉三郎に関する要素[注 4]を絡めていき、逆にお七の放火や火あぶりといった悲恋の要素が消えていく系列作品群が見られるようになっていく[9][注 5]。 この節では『好色五人女』、『天和笑委集』、『近世江都著聞集』のあらすじと、浄瑠璃・歌舞伎の流れ及び現代演じられている歌舞伎の八百屋お七作品のあらすじなどを記載する。 文芸作品 井原西鶴『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」 井原西鶴『好色五人女』はお七の事件のわずか3年後に出版され、自ら積極的に恋愛行動に移る町娘という、それまでの日本文学史上画期的な女性像を描き、お七の原典として名高い[16]。西鶴の後続への影響は絶大なもので、特に演劇系統は西鶴を下地にした紀海音を基にするものがほとんどであり、西鶴が設定した恋人の名を吉三郎、避難先の寺を吉祥寺とすることを受け継いでいる作品が大多数を占めることからも西鶴の影響の大きさが推測される[9]。 (あらすじ)師走28日の江戸の火事で本郷の八百屋八兵衛の一家は焼けだされ、駒込吉祥寺に避難する。避難生活の中で寺小姓小野川吉三郎の指に刺さったとげを抜いてやったことが縁で、お七と吉三郎はお互いを意識するが、時節を得ずに時間がたっていく。正月15日、寺の僧達が葬いに出かけて寺の人数が少なくなる。折りしも雷がなり、女たちは恐れるが、寺の人数が少なくなった今夜が吉三郎の部屋に忍び込む機会だと思ったお七は他人に構われたくないゆえに強がりを言い他の女たちに憎まれる。その夜、お七は吉三郎の部屋をこっそり訪れる。訳知りの下女に吉三郎の部屋を教えてもらい、吉三郎の部屋にいた小坊主を物をくれてやるからとなだめすかして、やっとお七は吉三郎と2人きりになる。ふたりは『吉三郎せつなく「わたくしは十六になります」といえば、お七「わたくしも十六になります」といえば、吉三郎かさねて「長老様が怖や」という。「おれも長老様は怖し」という。』という西鶴が「なんとも此恋はじめもどかし」というように十六歳の恋らしい初々しい契りだった。翌朝吉三郎といるところを母に見つかり引き立てられる。八百屋の新宅が完成しお七一家は本郷に帰る。ふたりは会えなくなるが、ある雪の日、吉三郎は松露・土筆売りに変装して八百屋を訪ね、雪の為帰れなくなったと土間に泊まる。折りしも親戚の子の誕生の知らせで両親が出かける。両親が出かけた後でお七は土間で寝ている松露・土筆売りが実は吉三郎だと気が付いて部屋に上げ、存分に語ろうとするが、そこに親が帰宅。吉三郎を自分の部屋に隠し、隣室に寝る両親に気がつかれないようにお七の部屋でふたりは筆談で恋を語る。こののちになかなか会えぬ吉三郎の事を思いつめたお七は、家が火事になればまた吉三郎がいる寺にいけると思い火付けをするが[注 6]、近所の人がすぐに気が付き、ぼやで消し止められる。その場にいたお七は問い詰められて自白し捕縛され、市中引き回しの上火あぶりになる。吉三郎はこのとき病の床にありお七の出来事を知らない。お七の死後100日に吉三郎は起きられるようになり、真新しい卒塔婆にお七の名を見つけて悲しみ自害しようとするが、お七の両親や人々に説得されて吉三郎は出家し、お七の霊を供養する[17]。 近世江都著聞集 近世江都著聞集は古来より実説として重んじられ、文芸作品にはその影響を受けたと考えられる作品が多数ある。江戸時代にも狩野文庫『恋蛍夜話』や曳尾庵 著『我衣』を代表にして石川宣続、小山田与清、山崎美成、乾坤坊良斎、加納徳孝、純真らの作家が近世江都著聞集を下地にしたと思われる作品を書き、近代でも水谷不倒、三田村鳶魚、昭和に入っても藤口透吾[9]や多岐川恭[18]などが近世江都著聞集を下地にして作品を作っている。 成立がお七の死後74年たった後であり、既に西鶴や海音など多くの作品が世に出ており、文耕の近世江都著聞集はそれらの作品からさまざまに取捨選択し創作を加えて面白い作品に作り上げたと考えられている。ただし、面白いものの前述のように現代では近世江都著聞集のストーリーには信憑性がまったくないものとされている[9]。 (あらすじ)元は加賀前田家の足軽だった八百屋太郎兵衛の娘お七は類の無い美人であった。天和元年丸山本妙寺から出火した火事で八百屋太郎兵衛一家も焼け出され、小石川円乗寺[注 7]に避難する。円乗寺には継母との間柄が悪く実家にいられない旗本の次男で美男の山田左兵衛が滞在していた。お七と山田左兵衛は互いが気になり、人目を忍びつつも深い仲になっていた。焼け跡に新宅が建ち一家は寺を引き払うが、八百屋に出入りしていたあぶれ者で素性の悪い吉三郎というものがお七の気持ちに気が付いて、自分が博打に使う金銀を要求する代わりに二人の間の手紙の仲立ちをしていた。やがて吉三郎に渡す金銀に尽きたお七に対して吉三郎は「また火事で家が焼ければ左兵衛のもとに行けるぞ」とそそのかす(吉三郎はお七に火事をおこさせて自分は火事場泥棒をする気でいる)。お七は火事が起きないかと願うが火事は起こらず、ついに自ら放火する気になったお七に吉三郎は「焼けるのが自分の家だけなら罪にならん、恋の悪事は仏も許すだろう」と言い放火の仕方を教える。風の強い日にお七は自分の家に火をつけ、八百屋太郎兵衛夫妻は驚きお七を連れて逃げ出す。吉三郎はこの隙にと泥棒を働くが、駆けつけてきた火付盗賊改役の中山勘解由に捕縛された。拷問された吉三郎は火を付けたのは自分では無く八百屋太郎兵衛の娘お七だという。中山勘解由がお七を召しだして尋ねるとたしかに自分が火をつけたと自白するので牢に入れ、火あぶりにしようと老中に伺いをたてる。そのときに幕府の賢人土井大炊頭利勝[注 8]が「悲しきかな。罪人が多いのは政治が悪いからだとも言う。放火は大罪で火あぶりにするべきだが、か弱い娘がこのような事をする国だと朝鮮・明国に知れると日本は恐ろしい国だと笑われるだろう。」と言い、中山に「15歳以下ならば罪を一段引き下げて遠島(島流し)にできるではないか。もう一度調べよ」と命ずる。土井大炊頭の意を汲んで、中山はお七が14歳だということにして牢を出し部下に預ける。しかし、このことを聞いた吉三郎は自分だけが刑されるのをねたみ、中山を糾弾する。中山は怒り吉三郎と口論するが、吉三郎は谷中感応寺の額にお七が16歳の証拠があると言い、実際に感応寺の額を取り寄せたら吉三郎の言うとおりだったので中山も仕方なく天和2年2月[注 9]吉三郎と一緒にお七を火あぶりにする[11]。 天和笑委集 天和笑委集は他の作家への影響力と言うことでは西鶴や文耕には及ばないが、種彦や豊芥子などの評論などによって各種の作品の中では事実に近いであろう物として評価されている[9]。現在でもお七の真実を探ろうとする黒木喬などのように天和笑委集をその解析の中心におく専門家もいる[19]。 (あらすじ)江戸は本郷森川宿[注 10]の八百屋市左衛門の子は男子2人女子1人。娘お七は小さい頃から勉強ができ、色白の美人である。両親は身分の高い男と結婚させる事を望んでいた。天和2年師走28日(1683年1月25日)の火事で八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難する。正仙院には生田庄之介という17歳の美少年がいた。庄之介はお七をみて心ひかれ、お七の家の下女のゆきに文を託してそれからふたりは手紙のやり取りをする。やがてゆきの仲人によって、正月10日人々が寝静まった頃に、お七が待つ部屋にゆきが庄之介を案内する。ゆきは2人を引き合わせて同衾させると引き下がった。翌朝、ゆきはまだ早い時間に眠る両親の部屋にお七をこっそり帰したので、この密会は誰にも知られる事はなかった。その後も2人は密会を重ねるが、やがて正月中旬新宅ができると、お七一家は森川宿に帰ることになった。お七は庄之介との別れを惜しむが、25日ついに森川宿に帰る。帰ったあともゆきを介して手紙のやり取りをし、あるとき庄之介が忍んでくることもあったが、日がたつにつれお七の思いは強くなるばかり。思い悩んでお七は病の床に就く。3月2日夜風が吹く日にお七は古綿や反故をわらで包んで持ち出し、家の近くの商家の軒の板間の空いたところに炭火とともに入れて放火に及ぶが、近所の人が気が付きすぐに火を消す。お七は放火に使った綿・反故を手に持ったままだったのでその場で捕まった。奉行所の調べで、若く美しい、悪事などしそうにないこの娘がなぜ放火などしようとしたのか奉行は不思議がり、やさしい言葉使いで「女の身で誰をうらんで、どのようなわけでこのような恐ろしいことをしたのか?正直に白状すれば場合によっては命を助けてもよいぞ」と言うがお七は庄之介に迷惑かけまいと庄之介の名前は一切出さず[注 11]、「恐ろしい男達が来て、得物[注 12]を持って取り囲み、火をつけるように脅迫し、断れば害すると言って打ちつけるので」と答える。奉行が男達の様子を細かく尋ねると要領の得ない話ばかりする。これでは助けることは出来ないとお七は火あぶりとなることになった。お七は3月18日から他の悪人達と共に晒し者にされるが、その衣装は豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪[注 13]で、これは多くの人目に恥ずかしくないようにせめてもと下女と乳母が牢屋に通って整えたのだと言う。お七および一緒に死罪になる6人は3月28日やせ馬に乗せられて前後左右を役人達に取り囲まれて鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑される。大人の4人の最後は見苦しかったが、お七と少年喜三郎[注 14]はおとなしく処刑されている。お七の家族は縁者を頼って甲州に行きそこで農民となり、2人の仲が知れ渡る事になった生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、終いには高野山の僧になっている[20]。 演劇作品 小説などの文字による作品では「お七は火事で焼け出され、火事が縁で恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」と徹頭徹尾「火」にまつわる恋物語である。しかし、江戸時代中期、安政2年(1773年)の浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』でお七が火の見櫓に登って半鐘を打つ設定になり、やがて半鐘は歌舞伎では太鼓に代わる事もあったものの、歌舞伎や文楽(人形浄瑠璃)などの見せる作品では、八百屋お七といえば火の見櫓にのぼる場面が大事な見せ場になり、放火などはしなくなる。当時、木造家屋が密集している江戸は火事が多く幕府も放火には神経を尖らせていた。また、芝居小屋自身も火災に会うことが多かったので放火の演出は避けたかったのだろうと推測されている。また、技術的にも陰でこそこそ行う放火の舞台演出は難しい。しかし、お七と火を完全に切り離す事もできない。そのぎりぎりの接点が火の見櫓であったのだろうと考えられている[21]。 歌舞伎『八百屋お七歌祭文』 歌舞伎では宝永3年(1706年)にお七の芝居として初めてになる『八百屋お七歌祭文』が上方で上演されている。初代嵐喜世三郎がお七を演じて大評判になり、さらに江戸でも嵐喜世三郎がお七を演じていることは伝えられているが[22][23]、この作品の内容については現代ではほとんど分からない[22]。この作品が上演された1706年の時点では櫓に登るお七は着想されていない[24]。 歌舞伎『中将姫京雛』 宝永5年(1708年)江戸・中村座で初演。嵐喜世三郎主演。八百屋彌右衛門の養女お七は実は継母に捨てられ人買いに売られた中将姫である。妙円寺の小姓吉三郎も実はお家騒動を避け身分を隠している唐橋宰相である。お七は八百屋の養子庄九郎との結婚を強いられ、吉三郎に会いたさのあまり養父を殺してしまう。お七は旧臣の情けある裁きで救われ出家する[25]。 中将姫京雛は嵐喜世三郎の人気とお七の27回忌を当て込んで[26]、中将姫伝説と八百屋お七を無理やりに継ぎ合わせた作品で、時代物(江戸時代以前を題材にする作品)と世話物(江戸時代の作品)の混淆の脚色の嚆矢とされている。この作品以降、歌舞伎作品では平家物語や曽我物語など江戸時代以前の物語の世界の中に八百屋お七を織り込む時代・世話混淆物が主流になり、吉三郎に関する要素(お家騒動や敵討ち、重宝探しなど)が増えていく[27]。 浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』 浄瑠璃でもお七物の作品は多数あるが、もっとも影響が強かったのがお七の死の30数年後の正徳5年(1715年)から享保初年(1716年)ごろに成立した紀海音の『八百やお七』(『八百屋お七恋緋桜』)である。紀海音の浄瑠璃は西鶴の好色五人女を下地にしながらも大胆に変え、より悲劇性を強くしている[22][28]。海音のお七では吉三郎は石高一千石[29]の名の知れた武士の息子、親からは出家するように遺言され、親の忠実な家来の十内が遺言を守らせにくる。またお七にも町人万屋武兵衛が恋心を抱いている。火事の避難先の吉祥寺で出会ったお七と吉三郎の恋は武兵衛と十内の邪魔によって打ちひしがれ、再建した八百屋の普請代二百両をお七の親に貸し付けた武兵衛がそれの代わりにお七を嫁に要求し、家と親への義理の為お七は吉三郎に会えなくなる。西鶴が用意した吉三郎の八百屋への忍び込みを海音も用意はするが、海音作では下女のお杉の手引きで軒下に身を隠す吉三郎は、武兵衛との結婚を願う母親の話を聞いてしまいお七に会わないまま立ち去ってしまう。お杉の話で吉三郎とすれ違ってしまったことを知ったお七は、吉三郎に立てた操を破らなければならない定めに半狂乱になり、家が焼けたら吉三郎のもとにいけると火をつけてしまう。お七の処刑の日、両親は悲嘆にくれる。西鶴が出家させた吉三郎を、海音はお七の処刑の直前に刑場で切腹・自殺させてしまう[30]。 浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』 浄瑠璃では紀海音以降、『八百屋お七恋緋桜』に手を加えた作品が続出するが[28]、安永2年(1773年)菅専吉らの合作で『伊達娘恋緋鹿子』が書かれる。『伊達娘恋緋鹿子』ではお七は放火はせずに、代わりに吉三郎の危機を救うため火の見櫓に登って半鐘を打つ。この菅専吉らの新機軸「火の見櫓の場」を歌舞伎でも取り入れて現代では文楽や歌舞伎では火の見櫓に登るお七が定番になっている[24][31][32][注 15]。 歌舞伎『八百屋お七恋江戸紫』 明和3年(1766年)三世津打治兵衛の同名題の作品を安永7年(1778年)桜田治助が改作した狂言歌舞伎で、浄瑠璃『伊達娘恋緋鹿子』の発案を下地にはしているものの、設定を大胆に変更し喜劇仕立ての八百屋お七になっている。お七を吉祥院の天女像そっくりの美人とし、天女像とお七を入れ替える事から通称「天人お七」とも言われる。この八百屋お七恋江戸紫は興行的に大変に当たったので、これ以降は歌舞伎で八百屋お七といえばこの「八百屋お七恋江戸紫」か、もしくはそれを改作した系列作品ばかりが上演されるようになる[9][33][34]。『八百屋お七恋江戸紫』を改作した福森久助作『其往昔恋江戸染』は現代のお七として定着している[9][35]。時代もこのあたりまで来ると、歌舞伎の八百屋お七と西鶴の八百屋お七とはストーリー上の共通点はまったくなくなり、恋人の名と寺の名だけが共通となる。 歌舞伎『松竹梅雪曙』 前述したように、浄瑠璃の菅専吉らの新機軸「火の見櫓に登るお七」を歌舞伎でも取り入れて『八百屋お七恋江戸染』及びその改作の福森久助作『其往昔恋江戸染』(文化6年(1809年))が上演されるが[34][35]、さらに作家黙阿弥が安政3年(1856年)火の見櫓の場面を舞踊劇にした歌舞伎『松竹梅雪曙』を書き、これが現代でも上演されている『櫓のお七』の外題である[36]。この松竹梅雪曙に四代目市川小団次が人形振りを取り入れた[37][38]。そもそもの『其往昔恋江戸染』は多数の場に分かれていたが、現代(1986年)国立劇場でも演じられている松竹梅雪曙では「吉祥院お土砂の場」と「火の見櫓の場」の2幕物で、構成・ストーリーは後述の松竹梅湯島掛額とほぼ同じである[31][39]。 櫓のお七 現代では文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎では喜劇仕立ての歌舞伎『松竹梅雪曙』/『松竹梅湯島掛額』以外には八百屋お七が全幕で上演される事は少なく、『伊達娘恋緋鹿子』を黙阿弥が改作した『松竹梅雪曙』の「火の見櫓の段」だけを一幕物『櫓のお七』として上演する事が多い[36]。また、日本舞踊でも『伊達娘恋緋鹿子』の櫓の場を舞踊劇にして踊られている[32]。 人形振り 歌舞伎の「火の見櫓の段」(一幕物では『櫓のお七』)において、前半のお七と下女お杉の場面では、お七を演じている役者は普通に人間として演じている。しかし、お杉が主人に呼ばれお七が一人になるところから、黒衣が二人もしくは三人出てきて役者の後ろに付き、お七を演ずる役者は人形のような動きで演じ踊るようになる。これを人形振りという。黒衣は人形を動かしているかのように振舞う。お七役の役者は人間でありながらあたかも操られている人形のように手や首を動かす。これは様式美を追求し追い詰められたお七の姿を表しているのである。文楽を取り入れたものだが、追い詰められたお七の心を描くには、人形の誇張の動きが適しているからだと言われている[36][39][40]。 歌舞伎『松竹梅湯島掛額』 松竹梅湯島掛額は福森久助作「其往昔恋江戸染」の「吉祥院お土砂の場」と、河竹黙阿弥の「松竹梅雪曙」の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた2幕物で松竹梅湯島掛額の1幕目の「吉祥院お土砂の場」は歌舞伎では珍しいドタバタ喜劇であり、アドリブも多い。八百屋お七物の全幕物のなかでは松竹梅雪曙とこれが現代(21世紀初頭)上演される数少ない全幕物の八百屋お七である[33][39]。 松竹梅湯島掛額/松竹梅雪曙は通称「お土砂」と言われるが「お土砂」は大事な小道具で、お土砂は真言密教の秘密の加持を施した砂でこれを死体にかけると死体が柔らかくなると言われている。この物語では生きた人間にお土砂をかけるとかけられた人間は体が柔らかくなり力が抜けて「ぐんにゃり」となってしまうことになっている。また、主役がお七と吉三郎ではなく、紅長こと紅屋長兵衛とお七である[39]。 (吉祥院お土砂の場のあらすじ)幕が通常とは逆に上手から開く。舞台は鎌倉時代の江戸の町。江戸に木曽義仲が攻めてくるともっぱらのうわさで人々は駒込・吉祥院に避難してくる。吉祥院は本堂の欄間の左甚五郎作とされる天女像で有名で天女は美しく、また八百屋の娘お七は天女そっくりの美人である。町の娘達の人気者の紅屋長兵衛(紅長・べんちょう)はお七ととても仲のよい紅売り(化粧品売り)である。吉祥院の寺小姓吉三郎に恋するお七は吉三郎と夫婦になりたいと母に願う。しかし、釜屋武兵衛から借金しているお七の家は、返済の代わりにお七と武兵衛の縁談を進めていると言われたお七は悲しみ、紅長が慰める。そこに吉三郎の家来の十内がやってきて、吉三郎の帰参がかなって国許に帰り家老の娘と結婚するのだと言い、お七はまた悲しみ、紅長が慰める。母は十内にお七と吉三郎の結婚を願うが、身分違いでとんでもないと断られる。そこに吉三郎がやってくるが、実は吉三郎は宝刀「天国の剣」を探さなければならない身でその期限もせまっている。吉三郎は十内に女にうつつを抜かしている場合ではないと怒られる。釜屋武兵衛に案内されて源範頼公の家来長沼六郎がお七を探しにやってくる。源範頼公がお七の美しさを聞いて愛妾にしたがっているのだという。長沼六郎にお七の居場所を問い詰められた寺の住職は困るが、紅長の発案で欄間の天女像を外してそこにお七を入れる。長沼六郎は欄間の天女像の美しさに感心するが実はそれがお七本人だとは気が付かない。その騒ぎを聞いて吉三郎がやってくるが、紅長のお七への入れ知恵によって、吉三郎はお七と夫婦になる約束をさせられる。さて、長沼六郎と釜屋武兵衛はお七を探して寺中を調べるが、お七は死んだと聞かされる。長沼六郎と釜屋武兵衛は疑い、やってきた棺桶の中を調べるが、棺桶から出てきたのは死者に扮した紅長。大の字で立ちはだかる紅長が釜屋武兵衛を張り倒し、釜屋武兵衛が紅長にかけようとした「お土砂」を奪って逆に釜屋武兵衛にかけると釜屋武兵衛は「ぐんにゃり」となる。紅長は長沼六郎たちにもお土砂をかけてぐんにゃりとさせて、お七と下女お杉を逃がす。調子に乗った紅長は舞台上の人々に楽しそうにお土砂をかけてお七とお杉以外の登場人物や舞台の裏方たちをぐんにゃりとさせる。そこにハプニングがおこり洋服の観客が舞台に乱入してくる。観客を引き止めに劇場の女性従業員も舞台に上がる。紅長は観客や女性従業員[注 16]にもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。さらに紅長は下手から幕を引きに来た幕引きにもお土砂をかけてぐんにゃりさせる。幕引きまでぐんにゃりさせた紅長は楽しそうに自ら幕を引く[39]。 (火の見櫓の段のあらすじ) (場面の前提。吉三郎は主君の宝刀を見つけられなかったことで明日にも切腹となることになり、それを聞いたお七は嘆き悲しむ。その宝刀を自分の家に来ている武兵衛がもっていることを知ったお七は吉三郎のもとに行きたいが、夜間の事ゆえ町の木戸は固く閉まっている。今夜の内に宝刀を取り戻さないと吉三郎の命は救えない。) お杉とお七は町の木戸を開けてくれるよう番人に頼むが、夜は火事のとき以外は開けられないと固く断られる。目の前に火の見櫓はあるが、火事でもないのに火事の知らせの太鼓(あるいは半鐘)を打つのは重罪であるとお杉は恐れる。やがてお杉は主人に呼ばれる。一人になったお七は決心し櫓に登って太鼓を打つ。太鼓を聞いて木戸が開く。そのときお杉が宝刀を取り返してくる。追ってくる武兵衛をお杉が阻止している間に宝刀を持ったお七は木戸を通って吉三郎のもとに走っていく[36][39]。2幕目は通常のように下手から幕が開く[39]。 敵討櫓太鼓 東海道四谷怪談などを書いた歌舞伎狂言作者鶴屋南北も八百屋お七の歌舞伎狂言を書いている。初演は文政4年(1821年)河原崎座においてである。鶴屋南北の八百屋お七は題は「敵討櫓太鼓」で全8幕の芝居であるが、1975年の時点では台本の一部は残っていない。鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」では物語中盤で吉三郎とお七は夫婦になり幸せに暮らしている。しかし吉三郎は親の敵を知ることになりお七を見捨て敵討ちに出発する。お七は吉三郎を追いかけるため町木戸を開かせようと火の見櫓に登って禁制の太鼓を打つ。お七は死刑を言い渡されるが運よく大赦で救われる。吉三郎は首尾よく敵を討ち果たす[41]。 三人吉三廓初買 歌舞伎『三人吉三廓初買』、通称『三人吉三』は同じ名を持つ三人の盗賊がおりなす物語。「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空。冷てえ風も微酔に心持よくうかうかと、浮かれ烏のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端で……(中略)こいつぁ春から縁起がいいわえ」と有名な台詞を朗々と唄い上げる女装の盗賊「お嬢吉三」は八百屋お七の見立て(パロディ)である。序幕で「八百屋の娘でお七と申します」と名乗り、大詰では、お嬢吉三が櫓に登って太鼓を打ち、木戸が開いて櫓の前に三人の吉三が集合する。三人吉三は役人に取り囲まれて自らの悪行に観念する。パロディであっても歌舞伎のお七物では振袖姿で櫓に登り太鼓を打つのが「お約束」[42][43]。 その他の作品 落語 落語で八百屋お七物にはいくつか有り、十代目桂文治による口演の「八百屋お七」では、お七は町内でも評判の美人、婿になりたがる男の行列が本郷から上野広小路まで並ぶほどである。火事で店が焼けたためお七は駒込の吉祥寺に預けられ、そこで美男の寺小姓吉三(きっさ)と恋仲になる。家が再建され寺を去るお七は吉三に「あたしゃ、本郷へ行くわいな」とあいさつする。以降の展開は多くのお七物と同じだが、幕府の老中土井大炊頭が可憐な娘を丸焼きにするのを気の毒がる。当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだったため、土井大炊頭はなんとかお七の命を救おうと奉行に命じ「お七、そちは十四であろう」と謎をかけさせる。しかし、お七が正直に「十六でございます」と答えてしまったために火あぶりとなる。死後にお七は幽霊となり人々を悩ます。それを聞きつけて来た武士に因縁つけて逆に手足を切られて1本足になり、こりゃかなわんと逃げるとき武士に一本足でどこに行くかと聞かれて答え「片足ゃ、本郷へ行くわいな」の台詞で締めくくる[44]。 別の八百屋お七物は「お七の十」の通称で知られていて、火あぶりになったお七と悲しんで川へ身投げし水死した吉三があの世で出会って抱き合ったらジュウと音がした、火と水でジュウ(七+三で十)というネタがつく噺もある[45][46]。 漫画『ガラスの仮面』 漫画『ガラスの仮面』では劇中劇で櫓のお七の場が取り上げられる。北島マヤ演じるお七は町に火をつけ櫓に登り、燃え盛る町を見下ろしながら半鐘を打ち鳴らす。燃え盛っているのは家屋ばかりではない。お七の心にも自分自身にはどうにも出来ない恋の炎が燃え盛り、燃え尽きる町を見ながらお七の心も燃え尽きる[47]。 映像作品 映画 お七と伝七(1925年 演:潮みどり) 八百屋お七(1926年 演:柳さく子) お七鹿の子染(1936年 演:森静子) 八百屋お七 ふり袖月夜(1954年 演:美空ひばり) 八百屋お七 江戸祭り一番娘(1960年 演:中島そのみ) 情炎お七恋唄(1972年 演:小川節子) 好色元禄(秘)物語(1975年 演:橘麻紀) テレビドラマ 西鶴物語 第7回・第8回「八百屋お七」(1961年 演:市川和子) NHK劇場 恋すれば物語(1964年 演:中尾ミエ) 大江戸捜査網(1970年 演:永島暎子) 江戸巷談・花の日本橋 第21回「初恋八百屋お七」(1972年 演:范文雀) 江戸を斬る 梓右近隠密帳 第13話「巷談・八百屋お七」(1973年 演:村地弘美) 家光と彦左と一心太助(1989年 演:藤谷美紀) 必殺仕事人・激突! 第4話 「八百屋お七の振袖」(1991年 お小夜 演:杉浦幸) 天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年 演:喜多嶋舞) 本当にあった日本史サスペンス劇場(2007年 演:星井七瀬) あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞(2013年 演:前田敦子) アニメ 火要鎮(2013年 作:大友克洋、オムニバス作品「SHORT PEACE」の一編) うる星やつら 第165話 「お芝居パニック!面堂家花見のうたげ!!」ラムが梅干しを食べて(酔って)八百屋お七に扮する。 音楽作品 夜桜お七(1994年 歌:坂本冬美) 郷土芸能の題材としての「八百屋お七」 天和笑委集では、物語の後日談としてお七と庄之介の話が全国津々浦々に伝わったとしている。天和笑委集の成立自体がお七の死後数年以内なので八百屋お七の事件の噂話はたちまちのうちに全国に伝わったことがうかがえる。これらは中央の文芸作品の影響を受けながらも各地でさまざまに形を変え、お七の恋物語は郷土芸能の題材として全国各地にさまざまな形で伝承されている。二松学舎大学教授で国文学専攻の竹野静雄が1986年にまとめた調査でも全国38都道府県で八百屋お七を題材にした郷土芸能が確認され、昭和まで伝承されなかったものを含めると沖縄を除くほぼ全国に八百屋お七を伝承する郷土芸能があったものと思われる[48]。 郷土芸能としての「八百屋お七」は歌祭文・覗きからくり節・盆踊歌・飴売り歌・願人・祝い歌・労作歌・江州音頭やんれ節などが確認される。とくに八百屋お七盆踊り歌は昭和ですら保存されている件数が多く、またその内容も多くの系列があり、かつては全国いたるところで歌われていたものと考えられている[48][49]。 覗きからくり 覗きからくり節[注 17]では八百屋お七はよく演じられる演目の一つであり、各地の自治体でその保存活動や紹介活動が行われている[50][51][52]。新潟市の巻郷土資料館では、約100年前の八百屋お七の覗きからくりを保存し、館員による口上付きの公演も随時行っている[53]。 「お七」作品における登場人物とモチーフ 八百屋お七物語は多くの作家がさまざまな作品を提供している。お七とお七の恋人を除いては作品ごとに登場人物は異なるものの比較的登場することが多い人物について述べる。もちろんこの節で述べる登場人物像は各作家の設定した人物像であって、史実とは無関係である。 恋人 恋人の名は 天和笑委集では生田庄之介[20]好色五人女では小野川吉三郎[17]、近世江戸著聞集では山田左兵衛[11]、紀海音では安森吉三郎[28]、現代の歌舞伎「櫓のお七」では吉三郎[36]、松田定次監督の映画『八百屋お七 ふり袖月夜』(1954年公開)[54]では生田吉三郎とさまざまである。前述したように、『近世江戸著聞集』の作者である馬場文耕は自分以外の八百屋お七物語は旗本の山田家の身分に憚って、悪党の吉三郎の名をお七の恋人の名にすりかえたのだと言う[11]が、しかし『近世江戸著聞集』はほぼ虚構である事が立証されているので[1]、吉三郎とするものが多いのは恐らくは西鶴と、西鶴を下地にした紀海音の影響力であろうとされている[9]。 恋人の身分は初期の作品ではあまり高くはなく、西鶴では吉三郎は浪人で兄分(同性愛の恋人)がいる[注 18][55]。天和笑委集でも生田庄之介の身分はそれほど高くはないので[注 19]お七に高い身分の男との結婚を望んでいる両親にお七は生田庄之介との交際を言い出せない[10]。しかし、紀海音が吉三郎を1000石[29]の名の知れた武士の息子、親の忠実な家来の十内が親の遺言を守らせに来るように設定してからは[28]、浄瑠璃や歌舞伎では身分の高い武士の子とされる[56]。文耕の近世江都著聞集では恋人(山田左兵衛)の親は2500石の旗本である[11]。現代の歌舞伎では吉三郎は武家の中でも身分が高い家の子で八百屋の娘とは身分が違いすぎて結婚の対象ではないことにされる[31][39]。 下女 八百屋で働く下女の名は天和笑委集では「ゆき」[20]、紀海音の浄瑠璃や現代の歌舞伎では「杉」[28][31][39]。八百屋の下女は二人の恋の仲を取り持つ役割で[20][28]、火の見櫓に登るお七の設定では宝刀を武兵衛のもとから取り返してくる役割をはたす[31][39]。「火の見櫓の場」では吉三郎は直接登場しないので、八百屋の下女はお七に次いで重要な登場人物になる[39]。 父 お七の父の名も作品によってさまざまである。天和笑委集では市左衛門[20]、好色五人女では八兵衛[17]、近世江戸著聞集では太郎兵衛[11]、紀海音では久兵衛[28]、落語では久四郎[45]と作品ではそれぞれが違う。お七の父の名前も素性もうかがい知ることはできないが、江戸災害史研究家の黒木は加賀藩邸(今の東京大学本郷キャンパス)がすぐ近くであったことからお七の家は加賀藩出入りの商人の可能性を指摘している[57]。 十内と武兵衛 紀海音が浄瑠璃『八百屋お七恋緋桜』で考案した2人で、お七の恋の邪魔者(もちろん、実在人物ではない)。吉三郎の実家の家来で忠実・生真面目な侍ゆえに吉三郎の行動に枠をはめたがる十内[注 20]と、お七に恋心を抱き金の力でお七を我が物にしようとする金持ちの町人武兵衛(万屋武兵衛や釜屋武兵衛など)の2人はその後の浄瑠璃、歌舞伎でもお七・吉三郎の恋の障害になる人物と設定される。現代に上演されることが多い歌舞伎・松竹梅湯島掛額でもその設定は変わらない[9][30][39]。ことにお七と吉三郎・武兵衛の三角関係は浄瑠璃・歌舞伎以外の作品にも取り入れられることが多い[9]。 役人 お七を裁く役人は小説や落語などでは登場することが多く、現代の歌舞伎などでは登場しない。 中山勘解由 中山勘解由[注 21]は史実では先手頭で天和3年正月23日に火付改[注 22]に着任[58]。 お七の放火事件がおきた天和3年3月には、史実としてはこの人物が放火犯の捜査・逮捕の責任者である。中山勘解由は容疑者をかなり厳しく取り調べ、この人物が着任している間は放火の罪で処刑される人数が増加している。海老責という拷問方法を考案もし、拷問を含む厳しい取調べで恐らくは冤罪も多かったであろうと推定されている[59]。 しかし史実とは反対に八百屋お七の物語ではお七の命を何とか救おうと努力する奉行として登場することが多い人物で、文耕の『近世江戸著聞集』のなかでもお七の年齢をごまかして助けようとする奉行中山殿の名前が出てくる。文耕ではお七の年をごまかした事を悪党の町人吉三郎に糾弾され、大身の旗本で重責を担う立場にありながら吉三郎と真剣に口論し、吉三郎に論破されてしまう[11]。 狩野文庫『恋蛍夜話』では奉行中山勘解由はお七に「火付けはしてないな?」と聞き、もしもお七が「はい」と答えたら助けるつもりが、お七が正直に「火を付けた」と答えてしまったために仕方なく火あぶりにせざるをえなくなったとしている[2]。落語でも土井大炊頭の意を汲んでお七の年齢をごまかして助けようとするがお七自身にその意図を無にされる[44]。ただし、中山勘解由がまだ存命中に書かれた最初期のお七の伝記である天和笑委集ではことの次第ではお七の命を救ってもいいと思っている奉行が登場するが、天和笑委集では奉行の個人名は出していない[20]。また同じく最初期の作品である西鶴の好色五人女では奉行は登場しない[17]。 尚、お七の事件の数年前の延宝8年(1680年)、『江戸方角安見図』では中山勘解由配下の組屋敷は本郷(今の東京大学本郷キャンパスの農学部と工学部・法学部の通りに面した最西側部分)にあり、お七の家の至近にある[60][61]。 町奉行 史実ではお七の事件時天和3年3月、甲斐庄飛騨守正親が南町奉行を務め、北条安房守氏平が北町奉行を務めている[62]。 大谷女子大学教授の高橋圭一はお七の時代の火付改役は犯人の逮捕と奉行所への送付が仕事で裁判は町奉行所の仕事のはずであり、前述の中山が判決まで下したと言う各種の作品は創作であろうとしている[2]。 文芸作品によっては八百屋お七物の登場人物として、南町奉行甲斐庄正親[63]や北町奉行北条安房守氏平[64] がお七の裁きの奉行を務めることがある。彼らも本音ではお七の命だけは助けてやりたいが、お七が正直に自白してしまったのでやむなく定法通り火あぶりにする奉行、と設定されることが多い。 土井大炊頭利勝 史実では家康・秀忠・家光の三代に仕えた武士で、江戸幕府の老中・大老までつとめた古河藩16万石の大名(1574-1644)[65]。お七の事件の約40年前に亡くなっているので、史実でお七と絡むことはありえないが、馬場文耕の『近世江都著聞集』や文耕を参考にした物語、落語などでは奉行に命じてお七の年齢をごまかして何とかお七の命を救おうとする人物として登場する[2][11][44]。 衣装 宝永3年(1706年)に八百屋お七を演じた初代嵐喜世三郎が「丸に封じ文」紋をつけた衣装で可愛らしいお七を演じて評判になり以降「丸に封じ文」紋がお七の紋として定着する[66]。文化6年(1809年)『其往昔恋江戸染』で八百屋お七役の歌舞伎役者の五代目 岩井半四郎が麻の葉段鹿子の振袖を着たことから大流行し麻の葉文様は若い娘の代表的な着物柄になり[67][68]、五代目 岩井半四郎以降は歌舞伎や文楽でもお七の櫓の場では麻の葉の段の振袖が定番になっている[66][68]。八百屋お七のパロディでもある三人吉三でも、お嬢吉三の衣装は「封じ文」と似て非なる「結び文」紋と櫓の場での衣装は麻の葉段鹿子染めであり[66]、最初に提示した月岡芳年の八百屋お七の絵でも一部に麻の葉の鹿子柄が見える。 平成21年の歌舞伎座公演『松竹梅湯嶋掛軸』の「櫓の場」ではお七と下女お杉二人の前半ではお七の衣装は黄八丈格子縞の町娘の普段着風の着物、お杉が退場しお七一人(と黒衣)の人形振りの場の途中から早変わりで着物が浅葱色と紅色の麻の葉の段鹿子の振袖に変わる[39]。そのように現代の歌舞伎舞踊では前半は黄八丈の町娘の普段着風、それが櫓の場の見せ場では麻の葉の段鹿子の振袖に変わることが多い[69]。 文学では西鶴は避難した先の寺でお七に貸し与えられた振袖を黒羽二重の大振袖、桐と銀杏の比翼紋で紅絹裏の裾を山道形にふさをつけ色めいた小袖の仕立て、焚き込めた香の薫もまだ残っているとしている[17]。 天和笑委集では火あぶりの前に江戸市中でさらし者にされているお七には「肌には羽二重の白小袖、甲州郡内の碁盤縞、浅黄の糸にて縫いたる定紋の三つ柏五ッ所に桃色の裏付けて一尺五寸の大振袖上に重ね、横幅広き紫帯二重にきりきりと引き回し後ろにて結び留め、襟際少し押し広げ、たけなる黒髪島田に結い上げ、銀覆輪に蒔絵書いたる玳瑁(タイマイ)の櫛にて前髪押さえ、紅粉を以って表(顔)をいろどる」と豪華な装いをさせている[20]。 遺言 創作として何人かの作家達はお七に遺言をさせている。 紀海音は「八百屋お七恋緋桜」のなかでお七の遺言として『ゆしまにかけししやうちくばい 本こうお七としるしをく。十一才の筆のあと見し人あらばわたくしの。かたみと思ひ一へんの御ゑかうたのみ奉ると。』としている。[70]。(意訳 (私が11歳のときに)湯島(の寺)にかけた松竹梅の額に本郷お七と書きました。私の十一才の筆跡を見た人がいらっしゃいましたら私の形見と思って一片の供養をしてやってください。)歌舞伎や浮世絵で八百屋お七の題に「松竹梅湯島掛額」とつけているものがある。 井原西鶴は、死出のはなむけに咲き遅れの桜の枝を渡されたお七の辞世として『世の哀れ春ふく風に名を残しおくれ桜の今日散し身は』としている[17]。 お七の年齢と裁判制度 現代の「八百屋お七」の物語では落語などを中心に「当時の江戸では火付け犯は15歳を過ぎれば火あぶり、15歳未満は罪を減じて遠島の定めだった」とし、お七の命を救ってやりたい奉行がお七の年齢をごまかそうとして失敗するものが多い。人情話としては面白いが専門家からは疑問が呈されている設定であり、またこの設定は西鶴などの初期の八百屋お七物語には見られない[71]。 放火犯について15歳以下ならば罪を減じて遠島(島流し)にする規定が明確に設けられたのはお七の死後40年ほどたった徳川吉宗の時代享保8年(1723年)になってである。ただし、享保8年(1723年)以前にも年少の殺人犯については死罪は避けようという諸規定[71][72]は存在したが、放火犯については明確な規定は無く、また『天和笑委集』第10章では13歳の放火犯喜三郎が火刑になった記述がある[注 23]。 最初期のお七の伝記である西鶴の『好色五人女』の八百屋お七物語では裁判の場面はない[17]。『天和笑委集』では裁判の場面はあるがお七の年齢を詮議する記述はない[20]。1715-16年の紀海音の『八百屋お七』や1744年為永太郎兵衛『潤色江戸紫』でもお七を裁く場面はない。しかし、お七の事件から74年後の馬場文耕の『近世江都著聞集』では裁判の場面が大きく取り扱われ、お七の年齢を15歳以下だと偽って助けようとする奉行が登場するようになる。馬場文耕の『近世江都著聞集』は後続の作家に大きな影響を与え、これ以降の作品ではお七の年齢の扱いで生死を分けることにする作品が続出してくる[注 24]。馬場文耕の『近世江都著聞集』には史実としてのリアリティはまったく無いが、講釈師文耕ならではの創作に満ち溢れ、お七の年齢詮議の話も文耕の創作であろうとされている[71]。 「お七」ゆかりの史跡 一家が避難した寺 唯一の歴史資料ではお七が放火に至った経緯や理由は一切不明だが、創作の八百屋お七物語では避難先の寺でお七は恋人と出会い、それが物語の発端となる。 『天和笑委集』でお七一家が避難したとされる「正仙院」という寺を実在の寺として見つけることはできないが、延宝8年(1680年)の『江戸方角安見図』では本郷森川宿の近くに「正泉院」という寺を見つけることが出来る[57][73]。江戸災害史研究家の 黒木 喬によると正泉院はお七一家が焼け出された天和2年師走28日(新暦1683年1月25日)の火事の火元となった大円寺の裏にある寺だが火元でありながら大円寺自身は大して焼けなかったように正泉院も焼けなかったのだろうとして、黒木はこれが天和笑委集でいう正仙院ではないか?としている[57]。『江戸方角安見図』はインターネットで公開もされているが江戸方角安見図の駒込一の右下隅に「正泉院」が見える[74]。 西鶴が二人の恋の場の寺の名を駒込・吉祥寺とし、西鶴の流れを汲む多くの作品や現代の歌舞伎などでも吉祥寺が避難先の寺とされるが、お七一家が家財道具を持って逃げるには少し遠い(西鶴の好色五人女の挿絵では家具類を持って避難している)。黒木は西鶴が大阪なので大阪でも名の知られている寺を物語の舞台に選んだのだろうとしている[57]。日本大学藝術学部教授を務めた目代 清も避難先はおそらくは円林寺か円乗寺で少なくとも吉祥寺ではないと断言している[75]。 近世江都著聞集や加藤曳尾庵の『我衣』(文政8年(1825年))などでは円乗寺としている[57]。 墓所 円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、矢野公和はこれに疑問を呈している。単なる死罪ですら死体は俵に入れて本所回向院の千住の寮に埋めるに留まるが、その死罪よりも重罪である火刑者が墓に葬られることは許されるはずも無いと矢野は指摘している。仮に家族がこっそり弔うにしても、寺に堂々と墓石を立てることはありえない。また、お七の命日を3月29日とする資料は逆に墓碑を根拠としたものであろうとも指摘されている[1](お七の刑死後数年で発行された天和笑委集ではお七の命日を3月28日としている)。 円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話と墓があり[78]、鈴ヶ森刑場に程近い真言宗寺院・密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承や、お七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講が造立(貞享2年(1685年))したと伝わるお七地藏がある[79]ほか、岡山県御津町にもお七の物とされる墓がある。岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある[80]。 後世への影響 伝説 「八百屋お七」を題材とするさまざまな創作が展開されるのに伴い、多くの異説や伝説もあらわれるようになった。 お七の幽霊が、鶏の体に少女の頭を持った姿で現れ、菩提を弔うよう請うたという伝説もある。大田蜀山人が「一話一言」に書き留めたこの伝説をもとに、岡本綺堂が『夢のお七』という小説を著している[81]。 大和高田市には「八百屋お七」のモデルとして、大和国高田本郷(現在の大和高田市本郷町)のお七(志ち)を挙げる説もある。高田本郷のお七の墓と彼女の遺品の数珠は常光寺に現存する。地元では、西鶴が高田本郷のお七をモデルに、舞台を江戸に置き換えて「八百屋お七」の物語を記した可能性があるとしている[82]。ただし、大和高田市のお七の数珠には享保10年(1725年)とあり、これは井原西鶴の好色五人女が書かれた貞享3年(1686年)の39年後である。また、常光寺の享保年間の過去帳には 死刑囚「しち」という名が見えるともされているが、同じく享保年間は井原西鶴よりも後の年代である。 一方、吉三郎は信濃国の善光寺を参詣し、お七の供養のために地蔵を奉納したという。今も境内にその地蔵があり「ぬれ仏」とも言われる[83]。 お七風 江戸時代にもインフルエンザの流行は多く、お七が亡くなった1683年以降の100年間に限っても11回の流行があった。お七の死から120年近くたった1802年の流行は漂着した外国人から伝わっていったとされるもので、長崎から九州各地さらに上方に流行の範囲を広め、その外国人の出身地をとった「アンポン風」や流れ着いた地の「さつま風」あるいはそのころお七の小唄が流行っていたので「お七風」とも呼ばれた。上方では病人がいない家はないほど流行したが死者は多くは出なかった流行風邪である[84]。 迷信 干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信は、丙午の年には火災が多いという江戸時代の初期の迷信が、八百屋お七が1666年の丙午生まれだとされたことから、女性の結婚に関する迷信に変化して広まって行ったとされる[85][86]。 この迷信は昭和の時代になってすら強く、昭和41年(1966年)の出生率は前年に比べて25%も下がる影響があった[87]。しかし、江戸時代には人の年齢はすべて数え年であったため[88]、もしも八百屋お七が1666年の丙午生まれならば、放火し火あぶりにされた天和3年(1683年)には18歳になってしまう。西鶴や紀海音などの各種の伝記では16歳となっている[17][44][89]。紀海音が『八百やお七』でお七を丙午生まれとし[注 25][90]、それに影響された為長太郎兵衛らの『潤色江戸紫』がそれを引き継ぎ、また、お七が延宝4年(1676年)谷中感応寺に掛けた額に11歳との記載があると馬場文耕が『近世江都著聞集』で述べたことも生年を寛文6年(1666年)とする根拠となった。海音は強い影響力を持ち、近世江都著聞集も現代では否定されているものの長く実説(実話)とされてきた物語であり、数多くの作品が近世江都著聞集をもとにしていて、お七の丙午年生まれ説はこのあたりから生じている[56]。 脚注 注釈 出典 参考文献 書籍 安西篤子 著『歴史を彩った悪女才女賢女』 講談社、1985年、ISBN 978-4-062-02001-5 石井 良助『日本法制史概説』創文社、1960年 井原西鶴 原著、吉行淳之介 現代語訳『好色五人女』河出書房新社、1979年 著者不明 天和笑委集 収録『新燕石十種』第七巻、中央公論社、1982年 曳尾庵「我衣」収録『燕石十種』第1巻、中央公論社、1980年 市川染五郎 (7代目) 監修、君野倫子 著『歌舞伎のびっくり満喫図鑑』小学館、2010年、ISBN 978-4-09-310768-6 大曾根章助 他 編集『研究資料日本古典文学第10巻 劇文学』明治書院、1983年 歌舞伎座DVD book『歌舞伎座さよなら公演 歌舞伎座さよなら公演16か月全記録 第5巻 九月大歌舞伎・芸術祭十月大歌舞伎』小学館、2011年、付属解説書 およびDVD DISC 6 黒木喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年、ISBN 4-316-35860-X 国立劇場 編集『国立劇場歌舞伎公演上演台本 135巻』1986年 国立劇場芸能調査室 編集『国立劇場上演資料集 248巻 天竺徳兵衛韓噺・歌舞伎十八番の内嫐・松竹梅雪曙 第135回歌舞伎公演』国立劇場、1986年 サライ責任編集『十代目桂文治』昭和の名人完結編、小学館、2011年、pp.11-12および付属CD「八百屋お七」 高野辰之、黒木勘蔵 校正『元禄歌舞伎傑作集』上巻、早稲田大学出版会、1925年 竹野静雄 著『江戸の恋の万華鏡』新典社、2009年、ISBN 978-4-7879-6777-0 田口章子 著『歌舞伎ギャラリー50』学研、2008年、ISBN 4-054-03499-3 谷脇理史 訳注『好色五人女』角川学芸出版〈角川ソフィア文庫〉、2008年、ISBN 978-4-04-408201-7 塚本学 校注・解説 戸田茂睡 著『御当代記 将軍綱吉の時代』平凡社、1998年、ISBN 4-582-80643-0 鶴屋南北 著 廣末 保 他編集『鶴屋南北全集』第8巻、三一書房、1972年 利根川裕『歌舞伎ヒロインの誕生』右文書院、2007年、ISBN 978-4-8421-0087-6 長崎巌 監修、弓岡勝美編集『きもの文様図鑑』平凡社、2005年、ISBN 4-582-62039-6 日本古典文学全集『浄瑠璃集』横山正 校注・訳。小学館、1971年 馬場文耕「近世江都著聞集」収録『燕石十種』第5巻、中央公論社、1980年 藤田洋 編集『文楽ハンドブック』第三版、三省堂、2011年、ISBN 978-4-385-41067-8 双葉社スーパームック『歌舞伎がわかる本』、双葉社、2012年、ISBN 978-4-575-45271-6 美内すずえ『ガラスの仮面』第36巻「火のエチュード」、白泉社、1989年 水落潔 著『歌舞伎鑑賞辞典』東京堂、1993年、ISBN 4-490-10352-2 目代清 著『近世歌舞伎舞踊作品-恋多き娘達』邦楽と舞踊社、2003年、ISBN 4-938401-03-7 吉川弘文館『国史大辞典』5巻、1985年、ISBN 4-642-00505-6 吉川弘文館『国史大辞典』11巻、1990年、ISBN 4-642-00511-0 吉川弘文館『国史大辞典』13巻、1992年、ISBN 4-642-00513-7 渡辺保 編『カブキハンドブック』新書館、1998年、ISBN 4-403-25035-1 渡辺保 編『カブキ101物語』新書館、2004年、ISBN 978-4-403-25079-8 論文、記事 加茂瑞穂「八百屋お七からお嬢吉三へ衣装デザインの創造について」『アートリサーチ』Vol.11、立命館大学アートリサーチセンター、2011年 曠山人「八百屋お七考」復刻本集『西鶴研究資料集成 昭和13年・14年』竹野静男監修、クレス出版、2010年 国際浮世絵学会『浮世絵芸術』162号、2011年、 笹本まり子「八百屋お七恋桜操芝居について」『叢』26号、近世文学研究叢の会、2005年 塩村耕「『好色五人女』八百屋お七の謎」『国語と国文学』平成6年12月号、東京大学国語国文学会編、1994年 高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年 丹羽みさと「天和笑委集の特徴」『立教大学日本文学』89号、立教大学日本文学会、2002年 矢野公和「八百屋お七は実在したのか」『西鶴と浮世草子』Vol.4、笠間書院、2010年 竹野静雄「西鶴-海音の遺産 八百屋お七物の展開」『日本文学』Vol.32、日本文学協会編集、1983年 竹野静雄「八百屋お七物の輪郭--江戸小説を中心に」早稲田大学国文学会編集『国文学研究』85号、早稲田大学国文学会 発行、1985年 竹野静雄「八百屋お七の地方伝承」芸能学会編『芸能』28巻1号、芸能発行所、1986年 渡辺憲司「江戸サブカル紀行」『大衆文化』創刊準備号、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、2008年 覗きからくりについて 坂井美香「飴売りと覗きからくり」『歴史民俗資料学研究』第15号、神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科、2010年 林雅彦「絵解き・覗きからくり・立絵」『国文学 解釈と鑑賞』第76巻10号、ぎょうせい、2011年 上島敏昭「のぞきからくり」『国文学 解釈と鑑賞』第76巻10号、ぎょうせい、2011年 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%B1%8B%E3%81%8A%E4%B8%83
{'plaintext_start_byte': array([ 33, 573, 894, 1334, 1878, 1955, 2259, 2453, 2748, 3479, 3795, 3977, 4815, 5608, 5708, 6796, 7234, 7733, 8235, 8303, 8893, 9029, 10019, 10261, 10522, 11134, 12321, 12664, 13132, 13325, 13774, 13884, 14063, 14294, 14586, 14914, 15224, 15336, 15735, 15817, 16027, 16088, 16184, 17439, 18225, 19091, 19212, 20211, 20935, 21715, 22131, 22902, 22967, 23848, 24359, 25177, 25345, 25523, 25705, 26109, 26153, 26389, 27480, 28810], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 572, 893, 1326, 1877, 1954, 2258, 2452, 2725, 3478, 3794, 3976, 4814, 5603, 5707, 6788, 7233, 7732, 8234, 8301, 8885, 9021, 10018, 10260, 10498, 11133, 12311, 12663, 13131, 13314, 13773, 13859, 14055, 14293, 14578, 14913, 15210, 15335, 15734, 15816, 16026, 16087, 16176, 17438, 18224, 19083, 19211, 20203, 20917, 21714, 22108, 22901, 22959, 23847, 24358, 25176, 25344, 25522, 25694, 26108, 26151, 26374, 27466, 28809, 28996], dtype=int32)}
マールブルク=ビーデンコプフ郡の面積は?
マールブルク=ビーデンコプフ郡
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
紋章地図<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[137,143,6,0]}'/>(郡の位置)基本情報連邦州:ヘッセン州行政管区:ギーセン行政管区郡庁所在地:マールブルク面積:1,262.56 km²人口:[1]人口密度:Expression error: Unrecognized punctuation character "[". 人/km²ナンバープレート:MR自治体コード:06 5 34郡の構成:22 市町村郡庁舎の住所:Im Lichtenholz 60 35043 Marburgウェブサイト:郡長:キルステン・フリュント (Kirsten Fründt)州内の位置 マールブルク=ビーデンコプフ郡 (Landkreis Marburg-Biedenkopf) は、ドイツ連邦共和国ヘッセン州中部のギーセン行政管区に属す郡である。この郡は広い森を有する中低山地の地形と、郡内を西から南東に向かって流れるラーン川を特徴とする。 郡の中心で唯一の上級中心都市が、人口約 8 万人の大学都市マールブルクである。その他の重要な都市(中級中心)としては、郡西部のヘッセン・ヒンターラント地方に位置するかつての郡庁所在地ビーデンコプフおよびグラーデンバッハ、郡東部に位置するキルヒハインおよび経済都市シュタットアレンドルフがある。 地理 マールブルク=ビーデンコプフ郡はギーセン行政管区の北部に位置し、北は北ヘッセンのヴァルデック=フランケンベルク郡、北東は同じくシュヴァルム=エーダー郡、東から南西にかけては中部ヘッセンのフォーゲルスベルク郡、ギーセン郡、ラーン=ディル郡が並び、西はノルトライン=ヴェストファーレン州のジーゲン=ヴィトゲンシュタイン郡と境を接する。郡庁所在地はマールブルクである。 本郡の東西軸は最大約 76 km、南北軸は最大 36 km である。 最も高い山は、ビーデンコプフ近郊、郡の北西端にある高さ 674 m のザックプファイフェである。最高地点は、この山にあるビーデンコプフ送信所の高さ 210 m の放送塔の先端であり、所在地の高さを加えると海抜 868 m となる。 最低地点は、郡の南部、ギーセン郡との郡境、フロンハウゼンとジッヒャーツハウゼンとの間にある、ラーン川の河原で、海抜約 168 m である。 郡内の土地利用は以下の通りである。14.3 % すなわち 17,996 ha が住宅・交通用地、43.9 % すなわち 55,489 ha が農業に利用されている。森林面積は 51,582 ha すなわち 40.9 %、水域は 1,189 ha すなわち 0.9 % である。 自然環境の構成 本郡の郡域は、3つの中低山地や地形の継ぎ目に位置している。南北に走る一連の谷状の盆地が、その西側に位置するライン・シーファー山地の支脈と東側にある西ヘッセン・ベルク・ウント・ベッケンラント(山と盆地の地域)とを分けている。この谷状の盆地は、郡の北部からヴェットシャフト盆地(ミュンヒハウゼン、ヴェッター、ラーンタール)を経て、ラーン川対岸のエルンハウゼン=ミヒェルバッハ盆地(マールブルク西部の市区)を通って、最終的には郡南部のギーセン盆地で再びラーン川の谷に接続し、川沿いに伸びている。 シュテルツハウゼンの西に位置するオベーレス・ラーンタール(ラーン川上流域の谷)は東西に伸びており、ライン・シーファー山地の張り出し部を郡北西部のロタール山地と郡西部から南西部のヴェスターヴァルトとに分けている。 フォアヘーエン近郊ザックプファイフェの 674 m を最高地点とするロタール山地の支脈は郡北西部のわずかな部分を占めるだけである。 これに対して、自然空間上はヴェスターヴァルトに属すグラーデンバッハ山地は郡の西半分のほぼ全域を占めている。この山地の郡内の最高地点は 578 m である。その北東部は高さ 498 m のリムベルク周辺のダムスホイザークッペンのクッペンラントからなり、西部は高さ 609 m のアンゲルブルク(実際にはわずかに市の外側にある)を最高地点とするボッテンホルン高地である。この高地は、北はブライデンバッヒャー・グラントが徐々にラーン川の河原に下って行き、南はやや低いツォルブーヒェ丘陵(最高 487 m)で、その東部はザルツベーデ川の起伏に乏しい丘陵地を取り囲んでいる。丘陵地の東部はラーン川に至る。 西ヘッセン山地に属す郡の東部は、その大部分が約 400 m 付近から 200 m までの間の起伏を持つ斑砂統の地層からなる。ここにはラーン川を境界とするマールブルガー・リュッケン(丘陵地)やラーンベルゲを含む丘陵地の他、北のブルクヴァルト、東のノイシュテッター・ザッテルを含むオーバーヘッシシェ・シュヴェレ、南の玄武岩を含んだルムダ高原が含まれる。マールブルガー・リュッケン以下の名前を挙げた丘陵地は、広く森に恵まれたアメーネブルク盆地を時計回りに取り囲んでいる。この盆地内では玄武岩の円錐形の山アメーネブルクが唯一の特筆すべき隆起である[2][3]。 山 郡内のハイキングや展望台として重要な山としては、以下のものがある。 ザックプファイフェ - ロタール山地の支脈内にありビーデンコプフの北に位置する。高さ 674 m。 リムベルク - クッペルラント内でダウトフェタール=ダムスハウゼン近郊にある。高さ 498 m 。 シャイト - ボッテンホルンの 1 km 東に位置する。高さ 538.7 m。 シェーンシャイト - バート・エントハウゼンの南西に位置しツォルブーヒェに属す。高さ 498 m。 コッペ - グラーデンバッハ=エルトハウゼン近郊ツォルブーヒェ東部にある。高さ 454 m。 クリステンベルクとメルナウ城 - ブルクヴァルト西部ヴェッター近く。高さ 387 m。 ブルクホルツ - オーバーヘッシシェ・シュヴェレ、キルヒハインの北。高さ 380 m。 アメーネブルク - アメーネ盆地内に孤立して存在する。高さ 365 m。 オルテンベルク - シュピーゲルスルスト塔がある。高さ 380 m。 フラウエンベルク - マールブルク近郊ラーン山地内。高さ 370 m。 水域 郡内の多くの水域の中で、全長 242 km のラーン川は、飛び抜けて最大の水域である。この川は西側から郡内に流れ込み、ほぼ郡の中央に位置するマールブルク近郊で南に進路を変え、ジッヒャーツハウゼン付近から郡域を離れる。この他の郡域内の川は、ほぼすべてがラーン川に流れ込み、従ってライン川水系に属している。 ただし、ノイシュテッター・ザッテルで分離された北東部だけは例外である。ノイシュテッター・ザッテルはライン=ヴェーザー分水界の一部をなしており、その向こう側の集落、すなわちノイシュタットに属す集落は、ヴェーザー川流域に含まれる。この地域で特筆すべき川は、エーダー川の最も重要な支流であるシュヴァルム川の左岸支流、ヴィーラ川だけである。 郡域北西部のザックプファイフェ付近ではエーダー川への分水界が郡の境界を形成している。ヴェットシャフト盆地に接する北部では分水界は郡境付近を通っているが、ほとんどは郡境の外側である。西部では、ラーン川とディル川との分水界沿いに郡境が通っており、その大部分が旧ナッサウ公領とヘッセン=ダルムシュタット大公領との国境を引き継いだものである。 以下に、郡域で重要なラーン川支流を列記する。 マールブルクは、ラーン川最大の支流であるオーム川沿いのキルヒハインとマールブルクにある貯水池をこれまで信頼できる洪水予防に利用している。西部ではビーデンコプフ近郊のペルフ貯水湖が水量調節に利用されている。さらに、ラーン川上流域、たとえばラーンタール=カルデルンとラーンタール=シュテルツハウゼンとの間で、研究プロジェクトの一環として、川筋の再自然化と洪水予防を企図した措置が進行している。 気候 年間平均降水量は、マールブルク付近で約 600 - 700 mm、郡西部の山地では 850 - 1,000 mm である[2]。 歴史 ヘッセン州の郡再編に伴い、1974年7月1日にマールブルク郡とビーデンコプフ郡および郡独立市マールブルクが合併し、新たに「マールブルク=ビーデンコプフ郡」が成立した。旧ビーデンコプフ郡の町ロートとジンメルバッハは、ラーン=ディル郡の町エッシェンブルクに統合された。またビショッフェンは、やはりラーン=ディル郡に移管された。ブラウンシュタイン(ノルデックとヴィンネンからなる)は、ギーセン郡のアレンドルフ (ルムダ)の一部となった[4]。これにより、マールブルク市はヘッセン州に7つある特別市 (Sonderstatusstadt) の1つとなった。旧マールブルク郡の町シッフェルバッハは、新郡が成立する以前の1974年7月1日にすでにヴァルデック=フランケンベルク郡のゲミュンデン (ヴォーラ)市の市区となっていた[5]。 この合併によって、歴史上緊密な関係にありながら350年間分離されていた2つの行政地区が再統合された。自然空間上も、旧マールブルク郡と旧ビーデンコプフ郡は類似している。 マールブルク=ビーデンコプフ郡の郡域はかつてはドイツで最も民族衣装が豊富な地域であった(たとえば、ヒンターレンダー・トラハト、マールブルガー・トラハトなど)。 1974年以前の歴史 現在の郡域は、歴史上、主にヘッセン方伯領に属し、いくつかの地域がマインツ選帝侯領に属した。ヘッセン方伯領の分割(1567年)に伴い、マールブルク周辺はヘッセン=カッセル方伯領、いわゆるヒンターラント(アムト・バッテンベルク、ブランケンシュタイン、ビーデンコプフ、ハッツフェルト、フェール)はヘッセン=ダルムシュタット方伯領となった。マインツ選帝侯領であったアメーネブルクは1803年にヘッセン=カッセル方伯領となった。 1821年にヘッセン=カッセル方伯はマールブルク郡とキルヒハイン郡を創設した。ヘッセン大公領(ヘッセン=ダルムシュタット方伯領)では、バッテンベルク管理区(ビーデンコプフを含む)とグラーデンバッハ管理区が設けられ、両者は1832年にビーデンコプフ郡に統合された。1866年のプロイセンによる併合で、ヘッセン選帝侯領とナッサウ公領はヘッセン=ナッサウ州として統合された。同時にプロイセンはヘッセン大公領からビーデンコプフ郡を引き継いだ。こうして本郡を形成する3つの要素はすべてヘッセン=ナッサウ州に含まれることとなった。1929年にマールブルク市はマールブルク郡から独立し、郡独立市となった。3年後の1932年にキルヒハイン郡とマールブルク郡は統合され、さらにビーデンコプフ郡が新設された。しかし、その面積の約 40 % が、フランケンベルク郡およびヘッセン=ナッサウ州からライン州に改組されたヴェッツラー郡として失われた。 行政 郡の政治を行うために、マールブルク=カペルに郡役場が設けられている。かつてのビーデンコプフ郡役場とシュタットアレンドルフに郡役場の支所がある。郡役場は、自治体としての業務を行っているが、州の下位行政機関としての役割も担っている。 郡委員会が郡の自治組織である。この委員会は、郡議会での議決の準備を行い、議決済みの事項についての実務委員会を組織する。郡委員会は、郡議会議員の中から選出される15人の無給の委員と2人の主要構成員、すなわち郡長および第1郡委員からなる。第1郡委員はやはり郡議会によって選出されるが、郡長は郡住民の直接選挙で選出される[6]。 郡長と第1郡委員には、それぞれ1つの担当分野が割り当てられる。この専門分野は、様々な専門家、官僚、企業、目的共同体からなる。 郡議会 郡議会は、郡レベルでの自治会議会である。マールブルク=ビーデンコプフ郡の郡議会議長は2006年4月からハインリヒ・ヘルベナー (CDU) が努めている。郡議会では、2001年5月から、CDU、同盟90/緑の党、FDPからなり、Freie Wähler が支援するジャマイカ連合が優勢である。この連合は、この種のものとしてはドイツで最初期のものに属す。 2011年3月27日の郡議会選挙後の議席配分は以下の通りである[7]。 政党得票率議席数SPD36.2 %30CDU33.5 %27GRÜNE16.4 %13Linke4.3 %24FWG/Bürger für Marburg-Biedenkopf3.7 %3FDP2.6 %2REP1.6 %1PIRATEN1.4 %1計100.0 %81投票率50.0 % 郡長 Landrätin des Landkreises Marburg-Biedenkopf ist seit dem 1. Februar 2014 Kirsten Fründt. Sie gewann am 22. September 2013 in der Stichwahl gegen Marian Zachow (CDU) mit 60,6 % der Stimmen. Die Wahlbeteiligung betrug 64,0 %.[15] 2014年2月1日からキルステン・フリュントがマールブルク=ビーデンコプフ郡の郡長を務めている。彼女は、2013年9月22日の決選投票で 60.6 % の票を獲得して郡長に当選した。この選挙の投票率は 64.0 % であった[8]。 紋章 図柄: 青地に金の冠を被り、金の爪を持つ、10回赤と白が入れ替わる横縞に塗り分けられたヘッセンの獅子。その前脚は、端から端まで黒の十字が描かれた銀の小さな盾を持っている(1930年認可、1975年7月11日に新郡での使用が再認可された)。 解説: ヘッセンの獅子は、郡域のほとんどが属していたヘッセン方伯領の後継であることを示している。十字は、マールブルクに定住して重要な役割を果たし、郡内に多くの所領を有していたドイツ騎士団を示している。 姉妹地区 マールブルク=ビーデンコプフ郡は、以下の地区と姉妹地区関係を結んでいる[9]。 ハンティンドンシャー(イギリス、ケンブリッジシャー)この姉妹協定は、公式には1977年からであるが、交換留学を行うなどの基盤創りは、既に1949年から行われていた[10]。 シャルロッテンブルク=ヴィルマースドルフ区(ドイツ、ベルリン) コシチェルスキ郡(ポーランド、ポモージェ県) この他に以下のドイツ国内の郡とも友好関係を結んでいる。 ヴァルトブルク郡(テューリンゲン州) レンツブルク=エッケルフェルデ郡(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州) 旧デーリッチュ郡(ザクセン州) さらに国外の町とも友好関係を結んでいる。 ルゾーン(イタリア、トレンティーノ=アルト・アディジェ州) 宗教 郡内に現存する最も古い宗教組織は、ローマ・カトリック教会である。7世紀のアイルランド=スコットランド人修道士や、8世紀のボニファティウスとその弟子により、アメーネブルク近郊の教会から現在の郡域東部にキリスト教が布教された。西部地域では、ボニファティウスの時代には既に存在していた、ブライデンバッハに洗礼礼拝堂がキリスト教化の起点となった。その後、多くの教会や修道院が建設され、しばしばそれを中心に小さな集落が成立した。1524年のフィリップ方伯による宗教改革後、その領邦内は例外なくプロテスタント=ルター派が信仰されるようになった。主に郡域東部、現在のアメーネブルク首席司祭区のほか、マールブルクのラーン山地の外側に位置する4の市区のうち3市区は、宗教改革前はマインツ大司教領に属していた地域でカトリック信仰が根強い。1866年まではキルヒハイン郡に属し、隣接するフォーゲルスベルク郡のアントリフタールに吸収されたカッツェンベルクの飛び地もこれに属す。 現在の郡域内のユダヤ教は1273年にアメーネブルクの組織が初めて記録されている。1350年頃のペストが流行した時代や、1524年と1662年の追放令によって、多くのユダヤ人がこの地域を去ることを強要され、あるいは改宗を強制された。ナチスの権力掌握以前には現在の郡内に約 1,400 人のユダヤ人が住んでいた[11]。1933年以後、郡内のユダヤ人人口は、移住、亡命、抑留によって 0 となった。第二次世界大戦の直後、約250人のユダヤ人が現在の郡域に住み着いたが、その数は1970年代に 20 人にまで減少した。その後再び増加してマールブルクのユダヤ教組織には約 100 人の構成員がいる。 いずれにせよ、郡内の住民の大多数が現在プロテスタントを信仰している。郡内の2大グループは、キルヒハイン教会クライス、マールブルク=ラント教会クライス、マールブルク=シュタット教会クライスを傘下に持つヴァルデックおよびマールブルク教区のクールヘッセン=ヴァルデック・プロテスタント教会と、ビーデンコプフ教区監督官区およびグラーデンバッハ教区監督官区を擁する北ナッサウ監督教区長管区のヘッセンおよびナッサウ・プロテスタント教会である。郡内のプロテスタント教会は、その始まりから既に、1526年のホムベルク教会会議に基づいており、ヘッセン方伯フィリップ1世の信仰の影響を受け継いでいる。 文化 郡のほとんどの文化行事は、マールブルク大学との緊密な地域連携の下で行われている。 マールブルク大学およびマールブルク=ビーデンコプフ郡文学賞 - 1980年から2005年まで2年ごとに授与された。 マールブルク=ビーデンコプフ芸術家連盟 オットー・ウベローデ賞(1987年にマールブルク=ビーデンコプフ郡によって創立され、これ以後毎年授与されている)[12] エッケルスハウゼンの音楽の日は、毎年異なるテーマの下に開催される国際的に注目される室内楽フェスティバルである。個々の催しは、10日間の間に、主にビーデンコプフおよびダウトフェタールで開催される。イベントには、独奏あるいは室内オーケストラまでの小さな団体が登場する。 ドイツ・水車の日への参加 「公開文化財の日」(ヨーロッパ遺産の日)への参加 地元文化人の「文芸パルクール」および芸術サークルイベント、開催地は毎年変わる。 言語 本郡では、高地ドイツ語の他に、「プラット」と呼ばれる方言も話されている。この方言は、ミッテルヘッセン(中部ヘッセン)方言に属し、このうちヒンターレンダー・プラットは主に郡の西部で話されている。また、(北)東部は、かつて、ニーダーヘッセン(低地ヘッセン)方言との混交地区であった。1960年代まで方言は話し言葉として用いられていたが、20世紀末には消滅の危機にあった。方言保存会による教育やフィリップ大学の学問的支援による地域意識の高まりが、その消滅を押しとどめようとしている[13]。 伝統の保存 マールブルク=ビーデンコプフ地域は、かつてはドイツで最も民族衣装の豊富な地域であった。特に女性の衣装は大変に多彩であった。郡内のヒンターラントの衣装とマールブルクの衣装では違いがある。男性の衣装は早くも19世紀の中頃から流行遅れとなり、女性の衣装は国家社会主義の時代に学生が着用することが禁じられ、一部では処罰の対象となった。こうして民族衣装を着る人は少なくなっていた。現在では、特に村落部で、年配の女性が時折着用するだけになっている。民族衣装を保護するため、郡内でいくつかの民族衣装および民俗舞踊サークルが活動している。 一部の集落では、「グレンツガングスフェスト」と呼ばれる祭が祝われている。郡内最大のグレンツガングスフェストは、それぞれ 7 年ごとにビーデンコプフ、ブーヒェナウ、グロースフェルデン、ヴェッターで開催される。この祭は、中世後期に村の境界を歩測・検分したことに由来する。 経済と社会資本 本郡の経済的な中心は、フィリップス大学を中心としたサービス業やかつての製薬企業ベーリングヴェルクの後継企業があるマールブルク、フリッツ・ヴィンター鋳鉄工場や郡最大の雇用主であるフェレロ社があるシュタットアレンドルフ、および郡西部の市町村ビーデンコプフ、ブライデンバッハ、ダウトフェタールは、3自治体合わせて産業重点地に指定されている。こことグラーデンバッハ=エルトハウゼンには、伝統があり、世界的に知られた、模型製造会社がある。バート・エントバッハ、グラーデンバッハおよびローラは共同で産業パークを開発している[14]。 本郡は、比較的低い失業率を示している。 交通 郡内を連邦アウトバーンは通っていない。ボルケン (ヘッセン)(シュヴァルム=エーダー郡)のアウトバーンA49号線の終点に通じる連邦道 B3号線が、北東部から郡内に入っている。この道路は、マールブルクから南ではほぼ 2 車線に拡張されており、ギーセン環状道路(A485号線)を経由して A45号線(ケルン、ドルトムントあるいはフランクフルト・アム・マイン)やフランクフルト方面に向かうA5号線に接続する。南西方面では、やはり B3号線がコブレンツへ向かうB255号線およびリムブルクへ向かう B49号線に接続する。南東方面は、アルスフェルト(フォーゲルスベルク郡)で A5号線に接続する B62号線が郡内を通り、北西のA45号線方面へ抜けて行く。 重要で、一部には対立した議論が残る交通計画・問題がある。A49号線の延伸、ジーゲンとハッテンバッハ・インターチェンジ(ニーダーアウラ)との間で途切れているA4号線の補完、比較的狭いラーンタールを通るB62号線およびB252号線のバイパス道路建設などである。(以上、「A」で始まる道路番号はアウトバーン (Autobahn)、「B」で始まる道路番号は連邦道 (Bundesstraße) を示す) 郡内の最も重要な鉄道路線は、マイン=ヴェーザー鉄道フランクフルト - ギーセン - カッセル線で、この路線を走るICがマールブルクに停車する。フランクフルト - カッセル間のレギオナルエクスプレスは、マールブルク、キルヒハイン、シュタットアレンドルフ、ノイシュタットに停車する。単線の支線が、マールブルクとフランケンベルク(ブルクヴァルト鉄道)およびマールブルクからオベーレ・ラーンタール鉄道を経由してエルンテブリュックまでを結んでいる。1905年から1972年までマールブルク郡はマールブルク南駅からドライハウゼン(エプスドルファーグルント)までの鉄道を運営していた。 近郊交通は、ライン=マイン交通連盟 (RMV) がマールブルク=ビーデンコプフ地域近郊交通連盟 (RNV) と共同で運営している。 フランクフルト空港へは車で約 1 時間の距離にあり、列車での接続にはフランクフルト中央駅で乗り換えて約1時間20分必要である。 ケルベのシェーンシュタット地区に小さな飛行場があり、バート・エントバッハのボッテンホルン地区には特別飛行場がある。 市町村 以下に本郡の市町村を列記する。「旧郡」の項は、かつての3つの郡、すなわちビーデンコプフ郡(1974年まで、西部、「ヒンターラント」を呼ばれる地域)、キルヒハイン郡(1932年まで、東部)、マールブルク郡(中部、1932年のキルヒハイン郡との合併以前)のいずれに属していたかを示している。 人口は、現在の数値である[1]。 上述の他、シュタットアレンドルフのシュヴァインスベルク市区(1332年)とビーデンコプフのブライデンシュタイン市区(1398年)も歴史上、都市権を有していた。 地域連合 ビーデンコプフ中級中心地域とグラーデンバッハ中級中心地域は、ラーン=ディル=ベルクラント自然公園の一部である[15]。 マールブルクの周辺市区(すなわち、中核市区、カペル、ヴェールダ、マールバッハを除く市区)は、ヴァイマル、フロンハウゼン、エプスドルファーグルント、アメーネブルクとともにレギオン・マールブルガー・ラントを形成する[16]。 マールブルク中級中心地区の北部(ラーンタール、ヴェッター、ミュンヒハウゼン、ケルベ)およびキルヒハイン中級中心地区(キルヒハイン、ラウシェンベルク、ヴォーラタール)は、レギオン・ブルクヴァルト(=エーダーベルクラント)の一部である[17]。 マールブルクの中心部(中核市区、カペル、ヴェールダ、マールバッハ)とシュタットアレンドルフ中級中心地区(ノイシュタットを含む)は、他に地域連合に属さない。 参考文献 Karl Diefenbach: Der Landkreis Marburg, seine Entwicklung aus Gerichten, Herrschaften und Ämtern bis ins 20. Jahrhundert. 2. Auflage. Hrsg. Institut für geschichtliche Landeskunde von Hessen und Nassau, N.G. Elwert Verlag, Marburg 1963 Karl Huth: Der Landkreis Marburg-Biedenkopf, Verwaltungs-, Wirtschafts- und Sozialgeschichte. 2. erweiterte Auflage. Hrsg.: Kreisausschuss des Landkreises Marburg-Biedenkopf, Marburg 1984 Ulrich Lennarz: Die Territorialgeschichte des hessischen Hinterlandes. Hrsg. Hessisches Landesamt für geschichtliche Landeskunde, N.G. Elwert'sche Verlagsbuchhandlung, Marburg 1973 Ulrich Reuling: Historisches Ortslexikon Biedenkopf, Ehem. Landkreis. Hrsg. Hessisches Landesamt für geschichtliche Landeskunde, N.G. Elwert Verlag, Marburg 1986 Ulrich Reuling: Historisches Ortslexikon Marburg, Ehem. Landkreis und kreisfreie Stadt. Hrsg. Hessisches Landesamt für geschichtliche Landeskunde, N.G. Elwert Verlag, Marburg 1979 Hermann Ruttmann: Vielfalt der Religionen: am Beispiel der Glaubensgemeinschaften im Landkreis Marburg-Biedenkopf. (REMID-Publikation). diagonal-Verlag, Marburg 1995. ISBN 3-9802994-6-5 Nadine Beck: Hopfen und Malz, Gott erhalt's? Zum Wandel lokaler Brautradition. Die Geschichte des Bieres im Landkreis Marburg-Biedenkopf. GRIN Verlag GmbH, München 2007, ISBN 978-3638734790. これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。 引用 外部リンク at Curlie
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%97%E3%83%95%E9%83%A1
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 362, 1372, 2223, 3568, 5016, 8498, 9388, 10585, 12068, 13318, 15124, 15631, 16441, 17107, 17999, 19268, 20231, 20935, 21573, 22099, 23244, 23926, 24686, 25044, 25958, 26785, 27693, 28883, 29295, 29994, 30401, 30780, 31846, 32320, 33120, 34109, 34679, 36080, 36453, 37068, 37166], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 354, 1371, 2215, 3567, 5008, 8490, 9365, 10584, 12057, 13316, 15122, 15630, 16440, 17106, 17998, 19267, 20230, 20934, 21565, 22098, 23243, 23925, 24673, 25043, 25944, 26777, 27682, 28869, 29294, 29993, 30390, 30779, 31845, 32319, 33119, 34108, 34678, 36079, 36452, 37044, 37135, 37241], dtype=int32)}
チュウゴクモクズガニの生体の大きさは?
モクズガニ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
モクズガニ(藻屑蟹)Eriocheir japonica (De Haan, 1835)[1]は、エビ目(十脚目)・カニ下目・イワガニ科に分類されるカニの一種。食用として有名な「上海蟹」(チュウゴクモクズガニ)の同属異種であり、日本各地で食用にされている内水面漁業の重要漁獲種である。 名前 学名については、一般向けの書物や分類学以外の学術雑誌では Eriocheir japonicus が用いられることがあるが、20世紀末頃から甲殻類の分類学者の間では種名を "japonica" とする方針が確定している[1]。学名には属名と種名の性 (gender) 一致の原則が決められているが、属名 Eriocheir がラテン語ではなく古代ギリシア語に由来し性不明の単語とみなされたためラテン語の原則が適用されず、男性形の japonicus と女性形の japonica のどちらにするか混乱がみられた[1]。しかし古代ギリシア語にも性は存在し、Eriocheir は女性である[1]。甲殻類の研究論文が発表される最も信頼のおける国際学術誌である『Journal of Crustacean Biology』や『Crustaceana』では、japonica が用いられている[1]。日本甲殻類学会でも japonica を用いているので、現時点ではそれに倣うのが望ましい。 別名については、モクゾウガニ(千葉県習志野市)、ズガニ(静岡県伊豆地方)、ツガニ、ツガネ(長崎県)、ヤマタロウ、カワガニ、ケガニ、ヒゲガニ(徳島県貞光町)、ガンチ(徳島県阿南市)、太田川流域の広島市では「毛ガニ」(スーパーマーケットなどで北海道などからこの地方に来るカニは「北海道の毛ガニ」や「花咲ガニ」などと呼ぶ)などがある。モクズガニはおもに関東地方の呼び名であり、西日本ではツガニやズガニと呼ぶ地域が多い。「モズクガニ」と間違えて呼ぶ人がいるが、「モクズガニ」が正しく、地方名にも「モズク」とつくものは見あたらない。また戦前は「モクヅガニ」と書かれていた。 特徴 甲幅は7-8cm、体重180gほどに成長する、川に産するカニの中では大型種である。鋏脚に濃い毛が生えるのが大きな特徴で、"Mitten crab(手袋ガニ)"という英名もこの毛に由来している。毛はふつう黒褐色をしているが、脱皮直後は白色で白髪のようにみえる。頭胸甲はやや後方に拡がった六角形をしており、側縁部にはノコギリの歯のようなとげが3対ある。体色は白い腹部と胸部腹甲を除き、本来全体的に濃い緑がかった褐色をしている。拡大するとわかるが、実際はこれはモノトーンではなく、黄緑色の下地に黒い縞模様が混ざった豹柄に近い。野生の状態では付着物が覆っていて黒く汚れた個体も多い。なお洗剤が流れ込む川は、あずき色や黄色の色素形成異常と思われる個体がみつかることもある。成長とともに鋏脚は相対的に大きくなり、毛も濃くなる傾向がある。成体では雌雄の形態差(性的二形)が明瞭で、雄は雌に比べたくさん毛の生えた大きな鋏脚を持ち、歩脚の長さは長い。成体の体サイズは雌雄でほぼ重なるが、雄の方が小型個体が多く、また最大サイズは大きい傾向がある。 成体の雄には形態に関して二形が認められ、相対的に小さな鋏を持ち歩脚の長い小型個体(甲幅約3-6cm)と、たくさん毛の生えた大きな鋏脚と短い歩脚の大型個体(約6cm以上)の2タイプが分けられるが、雌はこのように分かれる傾向は認められない。これはカブトムシの角やクワガタムシの大顎など資源防衛型の交配システムをとる甲虫類でよく知られる現象で、甲殻類ではアメリカザリガニの鋏にその傾向がある。このような雄の二形は、「配偶行動においていかにふるまえば最も自らの遺伝子を残せるか」という配偶行動戦略の違いが生出したものだという性選択の理論で説明されること多い。つまり大きな体サイズを確保できた個体は鋏という武器を有効に使い雌を獲得する(特にモクズガニの場合には交尾後ガードで交尾済みの雌の再交尾を妨げる闘争において有効に機能する)ような軍拡競争的進化で獲得された形態を発現し、小型の個体は大型個体には武器を使った闘争ではかなわないので行動力を高める形質を発現するというふうに、複数の戦略を生育履歴にしたがって切り替える表現型の可塑性が進化することで、二形が分離したというものである。 食性 食性はカワニナなどの貝類、ミミズ、小魚、水生昆虫、両生類などを捕食するところが目撃されやすい、あるいは魚のあらなどを誘引餌として用いたカニ籠が漁獲に用いられることから、おもに肉食性と考えられていた。しかし、野生個体の胃内容を調べると通常底質からかき集められた枯死植物由来の有機物砕片(デトリタス)が胃を満たしており、肉食は機会的なものと考えられる。はさみの先端には黒い蹄状の爪がついているが、この爪は多くのイワガニ科に共通する特徴でもあり、底質の表面に藻類などの微生物が形成したバイオフィルムを掻きとったりするのに適している。モクズガニは淡水域において、コンクリートの護岸壁や岩に着いた糸状緑藻類を引きちぎって口に運ぶ行動がよく観察され、胃内容物も糸状藻類が比較的よく検出される。一般にイワガニ類は雑食か植物食が本来の食性であり、たとえばヒメアシハラガニのように動物食に特化した例はむしろ珍しい。多くのイワガニ類は温帯-熱帯域の水辺の生態系において、比較的大きな有機物である植物の枯死体や落葉落枝など(粗粒状有機物 CPOM: coarse particulate organic matter)を消費することで砕片に分解し、細菌や菌類などの分解者が利用できやすい形(細粒状有機物 FPOM: fine particle organic matter や、溶存態有機物 DOM: dissolved organic matter)に変え、物質循環を促進するという、腐食連鎖の上で非常に重要な役割を占めている。日本の河川でも、アカテガニやベンケイガニ、クロベンケイガニなど多数の種が湿地帯でこの役割を果たしている。モクズガニも同様に水中においてこのような位置を占めていると考えられる。飼育を行う場合も、動物性の餌ばかり与えるとすぐに死んでしまうので、植物性の餌を中心に与えるのが望ましい。モクズガニが 肺吸虫の二次宿主になることから、一次宿主のカワニナを好んで捕食するという説もあったが、河川では胃内容物にカワニナ由来のものが出るのはまれである。さらにサワガニに寄生する吸虫では自由に移動してサワガニに付着し、体表から体内に侵入することも報告されているため、モクズガニをカワニナの主要な天敵と考えない方がよさそうである。また鋏脚に密生した毛は食性に関係しているという説もあるが、採餌行動を見る限り実際はほとんど関係ないようで、胃内容物にも毛やそれに付着した物質が出てくることはほとんどない。また成長にともない食性が変わり、動物性の餌への好みが増してくる傾向があるようで、魚肉を餌として誘引するカニ籠には、ほぼ甲幅3cm程度以上の中・大型個体しかかからない。胃内容物も、海域の成体は淡水域の未成体に比べて明らかに動物性の餌が多くなっている。飼育下では脱皮直後の軟甲個体が共食いされることも多いが、餌の与え方や水槽の広さ、岩の配置などによりある程度防ぐことも可能である。 生態 成体はおもに晩夏から秋に河川の淡水域に出現する。雌雄とも、一部の個体は越冬するが[2]、多くの個体は秋から冬にかけて繁殖のために海へ下る。そのため成体は春以降夏の終わりまで淡水域ではほとんど採集されない。河口や海岸では、秋から翌年の初夏にかけて甲幅3-8cm程度の成体が採集される。長く海にいる成体には甲に海藻が付着していることがあり、時には20cm以上に成長した緑藻が見られることもある。また繁殖期の終わりには、海域に毛の禿げた個体や脚の欠損した個体が多く見られるようになる。脱皮しない限り、毛は伸びることはなく脚も生えてこないので、脱皮しない繁殖参加個体は禿げて脚の無いまま死ぬことになる。 浸透圧調節能力 様々な塩分濃度の環境に出現することは、モクズガニが非常に強力な体液(血リンパ)浸透圧調節能力を有することを意味している。カニ類の中でも海域にしか出現しない種ではほとんど浸透圧調節能力がなく、外液の浸透圧に受動的に変化し、塩分濃度が低くても高くても体液浸透圧が変化して死んでしまう。また海水と淡水の混ざり合う河川の感潮域(汽水域)に生息する種では、ある程度の薄い塩分濃度に対して、体液浸透圧を保つ働きがみられ、通常の海水の塩分濃度(3%前後)の他に薄い塩分濃度の範囲でも生存できる能力を獲得している。モクズガニはさらにその上をいく体液浸透圧調節能力があり、かなり薄い塩分濃度に対して耐える能力があるだけでなく、高い塩分濃度に対してもある程度浸透圧を保つ能力があることが知られている。このことは塩分濃度の低い淡水環境だけでなく、塩分濃度の高まる干潟の潮間帯の環境への適応能力が備わっていることを意味する。 甲殻類は開放血管系であり、血液と組織液(リンパ液)が分化しておらず、両者の機能を兼用する血リンパが全身を循環している。そのため脊椎動物でみられるような閉鎖血管系が、迅速に全身を循環する血液の恒常性を保ながら、その強い緩衝機能に依存して全身組織の細胞環境の恒常性を保っているのに比べると、血リンパ中の浸透圧を一定に保つことは難しい。そこで甲殻類は、高浸透圧環境下では浸透圧調節物質(オスモライト)を蓄積して細胞内浸透圧を上昇させ、細胞容積を保つよう進化してきた。このようなメカニズムは「細胞内等浸透調節」と呼ばれている。容易に生合成の可能な非必須アミノ酸であるグリシンやアラニンは、多くの無脊椎動物種で最も有効なオスモライトとされている。モクズガニの成体では、淡水域にいる間に細胞内に無機イオンとD-およびL-アラニンのみを細胞内に蓄積させて回遊に備え、河口に達するとさらにこれを増加させ、海ではD-およびL-アラニン以外に無機イオンに代えてグリシンを大きく増加させ細胞浸透圧を高めていることが明らかにされている。つまり成体は淡水にいる間に既に海域に下る準備が体内でできているということである。 生活史 川に生息するモクズガニだが、幼生は塩分濃度の高い海でないと成長できない。そのため一生の間に海と河川の間を回遊する「通し回遊」の習性が生活史にみられる。ヤマトヌマエビやミナミテナガエビなど、淡水産のエビ類の多くも同様に通し回遊を行うが、これらはおもに淡水域で繁殖を行い幼生が海域へ流れ下る「淡水性両側回遊」と呼ばれるタイプである(魚類ではアユがあてはまる)。モクズガニはこれらとは異なり、親が海域へ移動し海域で繁殖を行う「降河回遊」(魚類ではウナギがあてはまる)というタイプである。琵琶湖や鹿児島県の池田湖など、海から遡上してくる経路の乏しい湖で大型個体が採集されることもあるが、海域での繁殖を活用しているモクズガニでは、淡水域で繁殖を行い生活史を全うする「陸封化」個体群は報告されたことはなく、進化する可能性も低いと考えられる。逆に淡水域に遡上せず、海域で生活史を全うする個体群(ウナギでは確認されている)も、報告されたことはない。 秋になると成体は雌雄とも川を下り、河川の感潮域の下流部から海岸域にかけての潮間-潮下帯で交尾を行う。雄は海岸を放浪する習性が強く、交尾相手の雌を探して数km以上移動することも可能である。しかし雄は繁殖可能な雌を識別することはできず、視覚でのみ相手を確認して求愛行動もなく接近し、雌に抱きつき交尾を挑む。相手をよく確認できないため場合によっては未成体の雌や雄、他種に抱きつくことさえある。鋏脚の毛は配偶行動において使われるという説があるが、モクズガニの交尾のプロセスを見る限り全く関係が認められない。カニの中にはワタリガニ類など雌が脱皮直後の外骨格の軟らかい状態でのみ交尾をする種類がいるが、モクズガニの雌は外骨格が硬い状態で交尾をする。しかし雌は産卵可能な程度に卵巣が発達していないと交尾を受け入れない。海域に出現する雌は必ずしも卵巣が発達していないため、雄を拒絶し、拒絶された雄が諦めて離れるのがしばしば観察される。放卵中の雌も雄を拒絶し、孵化させた後は次の産卵の直前でないと交尾を受け入れない。雌が雄を受け入れた場合は、数十分程交尾が続く。交尾を解いたあと、雄は雌を抱きかかえ他の雄に奪われないよう交尾後ガードを行う。通常ガードは1日以内で終わる。大きな鋏脚を持った大きな雄ほど配偶成功率は高く、他のペアから雌を奪い交尾することや、ガード中に他の雄を追い払いながら雌をしっかりと捕まえておくことができる。 雌は交尾後直径0.3-0.4mm程度の卵を産卵して腹肢に抱え、孵化するまで保護する。生涯産卵数は雌のサイズに応じて20万-100万の幅がある。このような産卵生態は、海産の他のイワガニ類同様の小卵多産の傾向であり、海域へ多数の幼生を放出し分布域を拡大させる繁殖戦略であるといえる。胚発生に要する期間(抱される期間)は、水温に応じて2週間から2ヶ月以上の幅がある。 孵化したゾエア幼生は0.4mmたらずで、遊泳能力の乏しいプランクトン生活を送るが、この時期は魚などに多くが捕食され、生き残るのはごくわずかである。しかし一方でこの時期の幼生は、浮力を調節したり垂直方向に移動することで潮流に乗り、広く海域を分散すると考えられる。そのため各河川に分布する個体群はそれぞれが孤立しているわけではなく、海域の幼生を通じてつながっているメタ個体群構造を成していると考えられる。それを裏付けるように、日本列島内では南西諸島を除くと遺伝子レベルの差異が非常に小さく、実際に河川どうしの交流が盛んであることが明らかになっている。 ゾエア幼生は10月や6月の水温の高い時期は2週間程度、冬の12月-2月にかけては2-3ヶ月で5回の脱皮をし、エビに似た形と遊泳法(腹肢による積極的な遊泳)を持つメガロパ幼生へと変態する。一般に完全に淡水適応したカニ類では幼生期間の欠落や短縮がみられるが(たとえばサワガニ類やジャマイカ産のイワガニ類など)、モクズガニのゾエア5期、メガロパ1期という脱皮齢数は、他の海産のイワガニ類と比べても短いわけではなく、同様に浮遊幼生の期間を過ごしているということができる。 遊泳能力の増したメガロパ幼生は、大潮の夜満潮時に潮に乗り、一気に海域から河川感潮域へ遡上する。メガロパ幼生は淡水に対する順応性が備わっており、満潮時以外ほとんど淡水の流れる河川感潮域の上部に着底する。またメガロパ幼生は流れに対し正の走性があるため、瀬や魚道の直下に集中して着底する傾向がある。同様な環境に着底するカニのメガロパ幼生にオオヒライソガニやクロベンケイガニがいるが、モクズガニは甲長2mm程度、オオヒライソガニは4mm、クロベンケイガニが1mm程度で容易に識別できる。メガロパ幼生は10日前後で甲幅2mm程度の1齢稚ガニに変態する。着底時期は秋(10月-12月)および晩春から初夏(5月-6月)の2つのピークがある。 稚ガニは変態後しばらく成長したのち、甲幅5mm程度になると上流の淡水域へ遡上分散を開始し、おもに甲幅10mm台の未成体が成長しながらかなり上流まで分布域を拡げる。このサイズの未成体は歩脚の長さが相対的に長く、移動するのに適した形態を持っており、垂直な壁もよじ登ることができる。そのため遡上の障害になる河川に作られた横断工作物(堰など)も、ある程度の高さまではたやすく越える事ができ、魚道の護岸壁を水面から上がった状態で移動している個体も各地で目撃されている。いくつかの河川の魚道では、このようなカニが移動しやすいように、漁協や河川工事事務所により麻などでできた太い綱が水面近くに垂らされている。またこの分散中の未成体は淡水魚に捕食される可能性が高く、ニゴイでは胃袋を大量のカニで満たしたものも確認されている。未成体は河川で成長し、冬季の低水温期を除き脱皮を続ける。変態後1年で甲幅10mm台、2年で20mm台に達し、多くは変態から2-3年経過したのち夏から秋に成体になる。 成体はおもにその年の秋から冬にかけて川を下るが、地域によっては春になってから下るものがいる。雨が降り増水した時にカニの動きが活発になるので、下る個体が多い。堰のある川では、秋になるとしばしば川を下る成体が堰の直下の護岸壁にへばりついているのが観察される。しかし滝や堰を下るカニには水に流されて落下するものも多く、落差の大きな堰やダム、堰の直下にコンクリート製のたたきがある川では、叩きつけられて死んでいるカニがみつかることもある。また川を下る行動のピークは11月頃であるが、感潮域ではこの頃になると、環境の変化に耐えられず繁殖に参加する前に死んだと思われる成体の死骸が多数みられるようになる。またこの頃陸上を移動する個体が観察されることもある。 河口域から海域では9月から翌年6月にかけてのほぼ10ヶ月、繁殖に参加する成体が観察される。雌は4-5ヶ月の間に3回の産卵を行い、回を経るごとに産卵数は減少する。繁殖期の終わりになると雌雄とも疲弊してすべて死滅し、河口付近の海域では多数の死体が打ち上げられる。死骸はウミネコなど海鳥にとってはよい餌となる。一度川をくだり繁殖に参加すると、雌雄とも脱皮成長することなく繁殖期の終わりには死亡するため、二度と川に戻ることはない。寿命は産卵から数えると、多くは3年から5年程度と考えられる。 これまで、モクズガニは祖先が海域から河川へと分布を拡げ、淡水環境での成長という形質を獲得したものの、歴史が浅くサワガニ類のような完全な淡水環境での繁殖能力を獲得できていない、「まだ進化の途上にある種」とみなされることも多かった。しかし繁殖戦略や幼生の発生と分散から明らかなように、実際にはそうではなく、河川淡水域での成長と海域での繁殖による分布域拡大という、両方向の環境への適応を活用している種であるということができる。 分布 小笠原を除く日本全国、樺太、ロシア沿海州、朝鮮半島東岸、済州島、台湾、香港周辺まで分布する[1]。分布域はチュウゴクモクズガニの分布域である中国東岸部から東北部、朝鮮半島西岸を取り囲むように、亜熱帯から亜寒帯までの広範囲にわたっている[1]。そのため外骨格の形態は共通でも、南方の個体群と北方の個体群では遺伝子のレベルである程度の隔たりがある可能性が強い[3]。 川やその周辺の水田、用水路、河口、海岸などに生息する。一般的に、同じ川にすむサワガニよりは下流域にすみ、また同じイワガニ科のアカテガニのように乾いた陸上にあがることは少ない。淡水域にいる間は基本的に夜行性で、昼間は水中の石の下や石垣の隙間などにひそみ、夜になると動きだす。海に下ると潮の干満に合わせた行動もみられるようになり、昼の満潮時でも活動中の個体を観察することができる。未成体は河川の感潮域からかなり上流の淡水域にかけて分布するが、分布の中心は淡水域の下流部にある。雌雄とも上流に行くほど大きく成長するため、大型の個体が採集される。上流域で採集された例としては、1980年代に長野県を流れる千曲川水系の犀川[2]や、諏訪湖周辺(1986)[4]で採集されたという記録がある。ただし、犀川流域で捕獲された個体はダム建設以前に遡上し生存していた個体ではないかと考える研究者もいる[2]。 四万十川などの清流や信濃川、北上川などの大河で漁獲され、川の豊かさを示すイメージもあるが、都会の富栄養な川や家庭廃水由来の洗剤が流れ込む川、さらには水路のようなごく小さな川でも、流量があり外海と繋がってさえいれば多数分布している。また多くの干潟のカニ類が特定の底質環境を好み棲み分けが見られるのに比べ、モクズガニは砂、泥、岩、転石、コンクリートなど様々な底質に出現し、底質に対する選好性は比較的弱い。そのため様々な環境に適応する能力があるのは確かである。 スナガニ類やベンケイガニ類、同属のチュウゴクモクズガニと異なり、底質が固い粘土質である場合を除いて細長い巣穴を掘ることはまれである[5]。特定のなわばりを持つこともないようで、移動性が高く、水中の岩の下に複数の個体が同居することも普通である。水流に対しては正の走性があるようで、淵に比べ瀬を好む傾向がある。しかし完全に瀬にのみ分布が集中するわけではなく、瀬頭から淵尻にかけての周辺に高密度の分布がみられる場合もある。堰がある場合も同様で、堰の直上の堪水域と直下の急流域にかけて分布が集中する場合がある。 利用 漁 日本各地で「ツガネ」「ツガニ」(津蟹)、「川ガニ」、「ヤマタロウ」(山太郎)などという方言で呼ばれ、古来食用にされてきた。漁期は春のほか、秋から冬にかけて産卵のために川を下るモクズガニを狙い、梁のような仕切りを併用した籠漁などが行われる。 消費傾向は地域により差があり、多くの地域で地元で自家消費される他、県内で販売され消費される地域が多い。九州は消費の盛んな地域であり、鹿児島、宮崎、大分、島根などから福岡や北九州方面へ出荷されている。炭坑のあった筑豊では、穴から出られるという縁起担ぎのために食する習慣があった。また富山や福井から関西・中京方面へ出荷されることもある。四国では仁淀川や四万十川のものが有名である。取引きされる場合、多くはkgあたり1000円から2000円程度の卸値で扱われるが、関東や九州などの一部の地域では季節により3000円以上の高値が付くこともある。秋田県由利本荘市では例年5月、「子吉川ガニまつり」を開いて、観光にも役立てている[6]。 資源保護 乱獲が心配されているため、内水面漁協による河川内の資源育成事業が各地で行われている。とりわけ、卵から孵した幼生をアルテミア(ブラインシュリンプ)などを餌として比較的容易に稚ガニにまで育てることができるので、育てた稚ガニを放流する増殖事業が、大分県、広島県、山口県、和歌山県、新潟県など各地で行われている。放流により心配される、遺伝的多様性の喪失や、他地域から異なる遺伝子集団を混入させることで生じる遺伝的撹乱については、本来日本産のモクズガニが遺伝的多様性が低いため、他の淡水産の漁獲対象種と比べてほとんど問題とならないということもわかっている。 食用 食用部はおもに、甲を開くと現れる「カニミソ」と呼ばれる中腸腺(黄色)と、脚の付け根にある筋肉の一部であり、さらに成熟したメスでは発達した卵巣(生時褐色、加熱すると橙色)、オスでは大型の鋏脚の筋肉も味わうことができる。海産のカニと異なる独特の甘みの強いかにみそは、珍味として愛好され、特に卵巣の発達したメスはオスよりも珍重される。料理は塩茹でやがん汁などがあり、郷土料理として供する所も多い。ただし、漁獲され食用に供されるのは川で採れる個体が中心であり、内水面漁業では重要漁獲種ではあるものの、海に下った個体は相手にされないことも多い。むしろ定置網にかかる魚を横取りする邪魔者とみる海面漁業者もいる。 感染症 なおサワガニが肺気腫や気胸を引き起こす肺吸虫(旧称:肺臓ジストマ)の一種ウェステルマン肺吸虫 Paragonimus westermani (Kerbert, 1878) の第2中間宿主となるのと同じく、この3倍体型でヒトでも成熟した成虫にまで発育するベルツ肺吸虫 Paragonimus pulmonalis (Baelz, 1880) の第2中間宿主となるので、料理の際にはよく火を通さなければならない。がん汁の調理の場合には臼などで叩き潰す工程があり、このときに飛び散った吸虫のメタセルカリア幼生が他の食品に付着して摂取される危険性があるので、さらに注意を要する。肺吸虫の寄生は体部筋肉および脚筋肉、および鰓の血管内が多く、内臓部には少ない。また関節付近に多く出現することから、関節の軟甲部から吸虫がカニへ侵入することが多いと考えられる。カニの吸虫寄生率が高い地域でも現在では人の感染症が報告されることはまれであるものの、人以外の野生哺乳動物への感染経路は無視できないと考えられている。 伝承など 食用のみならず、モクズガニにまつわる伝承や地名などは各地にあり、なじみ深い動物だったことがうかがえる。たとえば長崎県西海市大瀬戸町雪浦川には「つがね落としの滝」(つがねの滝)という滝があるが、これは産卵のため川を下るモクズガニが滝から落ちる様から名づけられたものと思われる。 福岡県大牟田市の夏祭りには10メートル余りの大蛇(龍)の山車が出され、大蛇の目玉争奪戦がくりひろげられる勇壮な祭りがある。その由来は諸説があるが、その1つに大牟田市三池地区の大蛇伝説がある。大蛇の生贄にされようとしたお姫様を大ツガネ(モクズガニ)がハサミを振って格闘の末、大蛇から救ったという話で、ツガネのはさみで大蛇が3つに切られ3つの池となったという。三池の名称は三池炭坑で有名だが、大牟田の一地域を示すとともに、一般的に大牟田の別称として企業名などにもよく使われる。 また、さるかに合戦の別伝で、カニがサルから奪ったカキを持って巣穴に逃げ込む話がある。サルが怒って「それでは巣穴に糞をひり込んでやる」と言って尻を向けたので、蟹がサルの尻の毛を鋏でむしった。それ以来、サルの尻から毛がなくなり、蟹の鋏には毛が生えるようになったという。 近縁種 モクズガニ類には甲の形態と鋏脚の毛の発達状態から[7]、モクズガニ Eriocheir japonica の他にチュウゴクモクズガニ E. sinensis、ヘプエンシス E. hepuensis、オガサワラモクズガニ E. ogasawaraensis、ミナミモクズガニ Platyeriocheir formosa、ヒメモクズガニ Neoeriocheir leptognathus が知られている[8]。 種の記載はモクズガニが一番早く、シーボルトが日本から持ち帰った標本を元に1835年に記載された[9]。日本の動物相をヨーロッパに紹介した書物であるには雄のモクズガニの立派な挿絵が描かれている。その後チュウゴクモクズガニが1853年、ヘプエンシスはモクズガニの亜種扱いから新たに1991年[10]、ヒメモクズガニは1913年に記載されたものである[11]。ミナミモクズガニは1939年に最初に Eriocheir rectus として記載されたが、大陸産の他種との混乱から新たに1995年に種名変更を行い、台湾産の個体をもとに記載し直したものである[12]。オガサワラモクズガニは2006年に記載されたばかりである[10]。ヒメモクズガニとミナミモクズガニはもともと Eriocheir 属であったが、3種(モクズガニ/チュウゴクモクズガニ/ヘプエンシス)との差を評価して、1999年に整理が行われた際に別属に直された[12]。 モクズガニ類は、河口域の干潟のみに産するヒメモクズガニ以外は、すべて河川と海の両方に分布する通し回遊種である[11]。 ヘプエンシス E. hepuensis Dai は、突起の発達程度などに関してモクズガニとチュウゴクモクズガニの中間的な形態を有している[10]。報告は非常に少ないが、分布域は広東省よりさらに南部の広西省自治区合浦県周辺である[10]。 オガサワラモクズガニ E. ogasawaraensis Komai は小笠原諸島の固有種で、分布が限られ個体数も少ないため環境省のレッドデータブックでも絶滅危惧II類 (VU) に指定され、保護が必要とされている[10]。1970年に文献に分布が記録されて以来、従来は本土産と同種とみなされていた[10]。しかし後の調査で、頭胸甲が横に広く、体色が赤紫を帯びていることや、成体ではハサミに生える毛の分布状態が異なること、サイズも甲幅7-10cmが普通で本土産に比べ巨大であることが明らかになり、さらには遺伝子(ミトコンドリアDNA)のレベルでも明らかに本土産と異なっていることから、新種と認定された[10]。 モクズガニ属は1990年代以降、国際的に分類学上混乱をきたしているグループである[13]。Eriocheir 属のうち3種は遺伝的に非常に近縁であるため、一部の中国(大陸)の遺伝学者がチュウゴクモクズガニとモクズガニとヘプエンシスを亜種扱いにし、最も種記載の早かったモクズガニに統合した論文を発表してしまった[13]。しかしそれを認めない他地域の分類学者はそれを無視し、従来どおり別種として扱っている[13]。そのため学術雑誌においてチュウゴクモクズガニを Eriocheir sinensis とする表記と E. japonica sinensis とする表記が混在するようになってしまった[13]。また染色体数の調査においては、従来 E. sinensis と E. japonica で数が異なり別種として明瞭に区別できるとされていたのが、同じ2n=146であったことも明らかとなっている[13]。 ミナミモクズガニ Platyeriocheir formosa (Chan, Hung & Yu) は、台湾の東岸部に分布する種で、スプーン状に湾曲した鋏脚を持ち、毛は掌部の外面にみ密生する。中国大陸にも分布すると当初記載されていたが、異種であることが確認され、台湾の固有種ということで新たに記載が行われた[12]。形態的にも遺伝的にもモクズガニ属3種と近いので、Eriocheir 属として扱うことを主張する研究者もいる[12]。現地では食用にされている[12]。 ヒメモクズガニ Neoeriocheir leptognathus (Rathbun) は、成体でも甲幅2cm程度までの他種に比べて小型の種であり、遺伝的にも少し離れている[12]。鋏脚の毛は掌部の内面にのみ密生する。歩脚にも毛が密生しており、遊泳することができる[12]。チュウゴクモクズガニと同様の、黄海に面した朝鮮半島西岸域から中国の大陸部の東シナ海沿岸域及び福建省廈門付近までと、ベトナムのトンキン湾沿岸の干満差の大きい泥質の干潟に分布している[12]。朝鮮半島ではガザミと一緒に漁獲され、食用にされるという戦前の報告がある[11]。日本でも佐賀県などの有明海の湾奥部に分布していることが、1983年に初めて記載された[11]。有明海は、日本では唯一大陸に類似した干満差の大きい海域であるため、ムツゴロウなど、日本が大陸と地続きであった頃から取り残されたと考えられる「遺存種」にあたる種が多数分布している[11]。ヒメモクズガニもその一例で現地では知られているようだが、くわしい研究報告は非常に少ない[11]。そのため2001年度の「河川水辺の国勢調査」で筑後川においてヒメモクズガニがはじめて確認されたことが話題となった[11]。 最初にモクズガニ属が詳しく研究されたのは、ドイツに侵入したチュウゴクモクズガニである。1933年には「Die Chinesische Wollhand Krabbe in Deutschland(ドイツにおけるチュウゴクモクズガニ)」という報告がまとめられ、形態や回遊する生態、侵入による被害まで記録されている[14]。 中国から朝鮮半島にかけてのモクズガニ類の研究は、最初はおもに戦前統治していた日本の研究者により進められた。1935年の「東亜のモクヅガニに就きて」には4種のモクズガニを解説している。また1941年の「朝鮮産甲殻十脚類の研究」では、朝鮮半島に酒に漬けて「酔蟹」として食べる習慣があったが、吸虫の感染を防ぐため統治政府が必ず火を通すよう通達を出したことや、一時期モクズガニの缶詰も製造されたことも書かれている。 脚注 注釈 出典 小林哲(1999): 日本ベントス学会誌 Vol.54 (1999) P24-35 参考文献 外部リンク - モクズガニを総合的に研究している生態学者のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%82%BA%E3%82%AC%E3%83%8B
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 429, 822, 1353, 1473, 2355, 3364, 3963, 4200, 4636, 5042, 5326, 5402, 5878, 6734, 7362, 8378, 9381, 10258, 10631, 11194, 11910, 12391, 13378, 14340, 14617, 15113, 15786, 17051, 17993, 18640, 19130, 19700, 20431, 21192, 21497, 22238, 22986, 23582, 24047, 24768, 25392, 25935, 26475, 26847], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 428, 814, 1352, 1472, 2354, 3363, 3962, 4192, 4635, 5041, 5312, 5401, 5854, 6733, 7361, 8377, 9380, 10257, 10630, 11180, 11899, 12390, 13345, 14339, 14579, 15112, 15769, 17021, 17992, 18639, 19129, 19699, 20430, 21191, 21444, 22237, 22985, 23581, 24015, 24767, 25391, 25912, 26452, 26829, 26874], dtype=int32)}
アムネスティ・インターナショナルの創始者は誰?
アムネスティ・インターナショナル
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([745], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([775], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
アムネスティ・インターナショナル(English: Amnesty International)とは、国際連合との協議資格をもつ非政府組織(NGO)である。良心の囚人を支援、救済する運動がスタートではあるが、現在は良心の囚人関連以外にも国際法に則った難民の保護・救済活動や死刑の廃止・人権擁護などを啓発する運動[1]を行っている。 団体名「Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.」は “大赦” の意。有刺鉄線の絡んだ、灯りの点る蝋燭のシンボルマークは「暗闇を呪うより一本の蝋燭に火を点せ」という中国の格言から、創始者ピーター・ベネンソンがイメージして作られた[2]。 歴史 軍事政権下のポルトガルで学生2人がカフェで「自由のために!」と、乾杯したために逮捕されたことに対して、1961年5月28日の新聞に英国の弁護士、ピーター・ベネンソンが記事を投稿したことをきっかけに、多数の人々の支持を得て発足した[3]。国際事務局を、その発祥地であるロンドンにおく。その組織は国際連合にならって編成されており、事務総長が組織全体の総責任者となっている。 1977年にノーベル平和賞を受賞。また、その翌年の1978年には国連人権賞を受賞している。 2019年現在、国際連合経済社会理事会の諮問機関。欧州連合 (EU) の欧州評議会諮問機関として、約150カ国に220万人以上のメンバーを有する(日本には6000人弱が在籍)[4]。発足から約40年で世界最大の人権擁護のための国際組織へと発展してきた。日本では、内閣総理大臣を辞した佐藤栄作がノーベル平和賞を1974年に受賞しストックホルムで行われた授賞式に赴いており、同時受賞したショーン・マクブライド(アイルランド)に勧められてアムネスティに入会したことを一つのきっかけに、アムネスティの活動が広く知られるようになった。保守本流の有力政治家である佐藤の入会に対しては、日本支部の内部から反発する声も上がったといわれている。 2003年8月7日、従軍慰安婦問題でVAWW-NETジャパンとの連帯を表明して以来、日本のリベラル派NGOとの関係が密接になってきている[5]。「立川反戦ビラ配布事件」で、自衛隊イラク派遣に反対するビラを防衛庁宿舎内の郵便受けに投函したために逮捕された3人の被疑者(第一審では無罪判決。第三審で有罪確定)を、2004年2月、日本初の良心の囚人に認定した。最高裁の有罪判決に対し、アムネスティの日本支部は「平和的な意見表明に対して、他者の権利の侵害などを口実として制約を課してはならない。」「立川での事件以後、政治的な内容を持つビラを住居に配布した個人が逮捕・起訴される事件が相次いだ。そうした取り締まりは、国内での政治的意見表明や社会的な活動を萎縮させている。」とする非難声明を2008年4月11日に発表している[6]。 ただし、アムネスティは「政治的な内容を持つビラ」を「住居に配布」することによる「平和的な意見表明」を行ったために「逮捕・起訴」された被疑者を常に良心の囚人として支援しているわけではない。核武装を提唱するビラを防衛庁宿舎内の郵便受けに投函した(2008年5月21日)ため逮捕拘束された渡辺俊幸に関しては身柄の釈放あるいは起訴の停止を求めたり捜査当局に対する非難声明を出すなどの支援の行動を全く起こしていない[7]。 2010年、南モンゴルのモンゴル族の人権活動家のハダとその家族が中国政府によって拘留され行方不明になったことを受けて所在を直ちに明らかにするよう求めている[8]。 組織 国際事務局(ロンドン)の下に、個別の法人格を有する各国支部(アムネスティ日本、アムネスティ韓国など)が連なり、それぞれの支部には多数のローカルグループが所属している。会員はローカルグループを通じてアムネスティに加入する(グループ会員)ことも、各国支部に直接入会する(個人会員)こともできる。 伝統的に、良心の囚人の釈放を求める手紙を関係当局に出すなどの活動(アクション)にあたっては、ローカルグループが主たる実動部隊の役割を果たしてきた。最近ではインターネットなどを通じ、然々のアクションをとるよう各国支部の事務局から所属会員に直接呼びかけることも行われている。 一方、各国における人権侵害の調査・認定とアクションの立案にあたっては国際事務局が中心的な役割を果たす。このため国際事務局は多数の調査員を擁し、それぞれ特定の国や地域を担当している。 事務総長 歴代事務総長の一覧。括弧内は国籍と在任期間である。 ピーター・ベネンソン(イギリス、1961年 - 1966年) (イギリス、1966年 - 1968年) (イギリス、1968年 - 1980年) トマス・ハマーベリ(スウェーデン、1980年 - 1986年) (イギリス、1986年 - 1992年) (セネガル、1992年 - 2001年) (バングラデシュ、2001年 - 2010年) (インド、2010年 - 2018年 ) クミ・ナイドゥ(英語版)(南アフリカ、2018年 - ) 活動 原則と範囲 欧米では「最も信頼できる国際組織」として高い評価を得ているが、その理由の一つとして、欧米のアムネスティが一貫して政治的に中立性を保つ努力をしていることが指摘されている。たとえば、米国のアムネスティは他国のアムネスティと同様死刑に反対しているが、特定の政党や政治勢力を直接・間接に支持することはなく、公職選挙において特定の候補者に投票する、あるいはしないようにアムネスティの名で呼びかけることも避けている。伝統的に死刑支持者の多い共和党の党員も数多く米国のアムネスティに入会している。また、米国アムネスティは民主・共和両党の党大会に代表を派遣して影響力の維持に努めている。 アムネスティは戦時下でも人権が保護されるように交戦国双方に働きかけるが、戦時国際法で認められた正規の戦闘行為としての武力行使そのものには賛成も反対もしないことを運動の原則としてきた。最近では、ダルフールにおける人権侵害をくいとめるため国連軍の派遣を安全保障理事会に要請するなど、特定の軍事行動を慫慂ないし支持する場合もみられる[9]。この例が端的に示す通り、アムネスティは非武装中立のような絶対的平和主義には組していない。 アムネスティの「自国条項」すなわち、各国支部は死刑執行反対等を除いては原則として自国内の個別の人権侵害案件に介入しないという規定も、政治的中立性を守る努力のあらわれである。各地で起きた個別の事案をアムネスティが取り上げるべき人権侵害として認定する権限は支部にはなく、その判断は国際本部にゆだねられている。冷戦時代にはアムネスティは東側陣営、西側陣営、第三世界からそれぞれ同数の「良心の囚人」事案を認定して支援することにより、「イデオロギー的/地域的に偏っている」「人権問題に二重規範(ダブルスタンダード)を持ち込んでいる」という批判を避ける努力をしていた。なお自国条項は現在緩和の傾向にあり、アムネスティ内の各アクター間の調整に基づき自国の具体的ケースへの関与も試行されている。 このようにアムネスティが政治的中立性の維持に格別の努力を払ってきた背景には、「人権」ということばがしばしば政治宣伝の隠れ蓑として恣意的に利用されてきたという歴史的経緯がある。アムネスティが結成された当時すでに、言論機関やさまざまな団体が表向き不偏不党の姿勢を装いながら、実際には自陣営内で起こった人権侵害は不問に付する一方で敵対陣営側の人権問題だけを大きくとりあげて非難するという「人権のつまみぐい」が頻発していた。そのため、「人権擁護」というスローガン自体がうさんくさい目でみられる風潮すら一部に生じていた。したがって、認定する案件数なども含めて均衡を保つことを明示的に義務づけることによって政治的中立性を保とうとするアムネスティの規定は斬新なものであったといえる。 アムネスティは結成以来長らく、非暴力的な方法で意見の表明を行った結果として逮捕投獄された政治犯の原状回復(釈放)を求めるなど、「今、そこにある」人権侵害への取り組みを中心に活動してきた。その結果、ある場合には社会主義的な、別の場合には自由主義的な思想傾向を持つ人物への処罰が人権侵害事案と認定されている。ただしアムネスティは全ての言論を無制限に自由化することを求めているわけではなく、ネオナチなどによるヘイトスピーチを規制することには反対していない。ネオナチとは別個に歴史学上の見解としてホロコーストの信憑性に疑義を唱えたために投獄された人達も、アムネスティの支援対象になっていない。 アムネスティは捜査・司法当局に対して罪刑法定主義や訴訟法の手続きを厳密に守ることを求め、令状によらない逮捕拘禁や裁判無しの長期勾留に対しては抗議を申し入れる。推定無罪の原則に則り、被疑者や被告に対して合理性を欠く権利制限を加えることに反対している。 近年にいたり、アムネスティ結成以前を含む過去に生じたとされる人権侵害の責任追及や謝罪と補償の要求、さらには妊娠中絶の非犯罪化など、従来よりも広い範囲に活動を広げようとする動きがある。アイリーン・カーン事務総長のもとでアムネスティが妊娠中絶の許容を運動目標に加えたことにより、それまで死刑反対運動を通じて良好な関係にあったカトリック教会などとの軋轢が表面化しつつある。 情報収集 アムネスティは多様な情報源を複合的に活用した高度な情報収集分析能力を持つことでも知られている。人権侵害の疑いのある国に対しては現地での調査を申し入れるのが常である。相手国が人権侵害の事実を否認し調査団の受け入れを拒否した場合でも、国外に逃れ出た難民に対する聞き取り調査などの代替手段を有効に活用して詳細な実態調査報告書を作成している。たとえば中華人民共和国占領下のチベットでの人権抑圧の実態を把握するうえでは、インド在住の避難民からの事情聴取が重要な役割を果たしている。 報告書 こうして得られた情報を基に毎年、年次報告書がロンドンの国際事務局から出されている。アムネスティ日本ではこの年次報告書をボランティアが毎年翻訳し、出版している。その他、世界各地の人権状況に関するプレスリリースをことあるごとに行っている。これらのアムネスティ文書は権威あるソースとしてマスメディア等にしばしば取り上げられる。 とはいえ、アムネスティの報告が常に無謬であるわけではない。1991年のペルシャ湾岸戦争に先立っては、クウェートに侵入したイラク軍兵士が新生児を生命維持装置から取り外すなどして多数を殺戮したというアムネスティ文書(1990年)がセンセーショナルにとりあげられ多国籍軍の介入を支持する材料の一つとして用いられたが、後にこの新生児殺害の情報はクウェート亡命政府の意を受けた広告会社による捏造(ナイラ証言)であったことが明らかになっている。信憑性の確認をしないまま不実情報を公表したことに対して組織の内外から批判の声があがったが、その後、誤報に対する謝罪や原因究明、再発防止策の策定、責任者への処分などをアムネスティが行ったという発表はなされていない[10]。 学園浸透スパイ団事件 アムネスティ日本は、韓国の[[軍事政権][による反共政策を人権侵害として強く批判し、韓国官憲が1975年に摘発した「11.22事件」(「学園浸透スパイ団事件」とも言う)を冤罪事件として摘発された学生らを支援していた。 この事件の首謀者として逮捕・起訴されたソウル大学校大学院留学中の在日韓国人徐勝は、公判(第二審)にて韓国の国法を犯して「工作船」で北朝鮮に渡り工作員教育を受けたことを自供しているが、起訴された事件については、現在も否認している。元朝鮮総聯新潟県連副委員長・張明秀も、徐勝のスパイ嫌疑については、事実としている[11]が、起訴された事件については、言及していない。その後も、アムネスティ日本は、徐勝の弟である徐京植を講演会講師に招くなどしている[12]。 この「学園浸透スパイ団事件」は、2012年までに軍や情報機関による捏造であったとして、服役者3人に対し、再審で無罪が確定しており、冤罪事件であることが明らかにされた。 アムネスティ日本について 公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本(アムネスティ・インターナショナル日本支部)は、世界中のさまざまな場所で起こっている人権侵害の存在を国内に広く伝えるとともに、日本における人権の状況について普及啓発を行っている公益法人。会員数は、2012年12月末日現在で6,541名である。事務局のスタッフは、事務局長1名、専従職員10名である[13]。 日本の中の国際的人権団体としては、大きな規模であるといえる。しかし、欧米における高い存在感と比較すると、日本におけるアムネスティへの関心は極めて低いというのが実情である。アムネスティは公安調査庁がアムネスティ日本支部を含む40団体の活動を監視していると主張している[14]。アムネスティ日本は隔月で、全会員、及びサポーターに対し『アムネスティニュースレター』という、A4版三段組16ページ(全カラー印刷)の機関誌を郵送しており、非会員も購読できる[15]。 批判・反発 開かれた北朝鮮放送代表ハ・テギョン[16]は、「1998年以降アムネスティ・インターナショナルが糾弾した人権問題は、日本が92件、韓国が85件なのに対し、北朝鮮は14件に過ぎない。アムネスティ・インターナショナルの基準では、日本は北朝鮮より6倍以上人権に問題がある国ということになり、また北朝鮮における政治犯収容所の問題よりも日本の死刑制度問題を優先している」として批判している。 かつて米国アムネスティの理事を務めた国際法学者フランシス・ボイルは[17]、「アムネスティは、自らを政治的に不偏不党と規定しているものの、「右翼」「左翼」などの政治的立場で批判されることも多く、冷戦時代には西側諸国の保守派からは共産主義者呼ばわりされ、一方東側諸国の官憲からは西側のスパイ扱いをされてきた。特定の政治的立場に立つものにとっては自分の政治的意見にとって都合のよいマターを扱ってほしいし、都合の悪いマターを扱うことには極めて敏感になるため」と指摘している。 北朝鮮問題に関して アムネスティは北朝鮮の人権状況について早くから情報を発信してきた団体であり、アムネスティ日本も1980年代のアリ・ラメダ事件に関する情報をはじめとして、北朝鮮の収容所の状況を知りうる限りで日本語で紹介したと自任している。特に1993年以後数年間は北朝鮮国内での「失踪」者のその後の状況につき、北朝鮮当局とも折に触れて解決に向けて交渉していたという弁明がなされている。ただしその経緯を含む関連情報が開示されていないため、弁明の真偽を外部者が判定することは難しい。一方、1997年9月にアムネスティは北朝鮮・韓国・日本の政府に対し、北朝鮮による日本人拉致問題に関し「把握している関連情報をすべて開示するよう三国政府に求める」という声明を発表した[18]。 朝日新聞の記事によると、1997年3月に横田めぐみら拉致被害者の家族がアムネスティ日本を訪ねて協力を要請した際は、「調査には相手国の受け入れが必要」と応じた[19]。その後、朝鮮総連がアムネスティ日本を訪れた際は「寺中誠事務局長は、総連と在日朝鮮人に対する迫害と規制が深刻さを増している現実に憂慮を示す一方、学生代表らに「在日コリアンを取り巻く環境は厳しいが、自らの出自に誇りを持って堂々と生きてほしい」と激励した」と朝鮮新報が伝えている[20]。 一方、拉致被害者家族会と救う全国協議会の訪米団が2001年2月にアムネスティの米国事務所を訪ねクーマ・アジア太平洋部長と懇談した際は、「クーマ部長は拉致問題に非常に強い関心を示し、日本政府の対応なども含めて詳しく事情を聞き、その場で国会議員や他の人権団体への連絡などをしてくれました。」と「救う会全国協議会ニュース」が伝えている[21]。 2006年にはアムネスティ日本の総会において北朝鮮の人権・拉致問題への積極的な取り組みを求める決議案が提出されたが否決された[22]。RENK東京関係者によると、アムネスティ日本が主催する人権パレードに際し、北朝鮮の人権問題に取り組む団体が持参した金正日の似顔絵や「朝鮮のヒトラー 金正日に裁きを」というプラカードを撤去するようアムネスティ側が要求したことが原因で、両団体の間に摩擦が起こった[23]。 アムネスティは2004年の報告書で[24]、北朝鮮における人権抑圧と食糧危機との関連を指摘した。海外からの食糧援助の配給が北朝鮮当局の手に委ねられる結果として「経済的に活発かつ国家に対し忠誠的である人々に対し配布されており、一方で、最も弱者である集団が無視されている場合がある」、「これは、同国体制に現存する制度的、地域的、社会的偏向を強化するだけである」(和訳書39ページ)という見方も紹介している。また、アムネスティは中国が北朝鮮からの難民を強制送還していることに対し何度か抗議を呼びかけている。 2008年に宋允復(守る会&NO FENCE 両事務局長)が、アムネスティが北朝鮮の人権問題に消極的である理由をアムネスティ本部の東アジア担当調査官ラジブ・ナラヤンに直接質したところ、ナラヤンは「アムネスティとしては北朝鮮の人権問題に関しては慎重にアプローチすべきであるという判断が立ち、それを日本のアムネスティも支持した」「各国アムネスティから上がってきた意見に誤解がある、認識の過ちがあることは認識したから、それを持ち帰って来年(2009年)2月からロンドンに戻った時に、北朝鮮の問題を積極的にやろうと思う」と答えたという[25]。 2011年9月8日、北朝鮮における人道に対する罪を止める国際的な連合(The International Coalition to Stop Crimes Against Humanity in North Korea)をヒューマン・ライツ・ウォッチやFIDHなどと共に結成した。 民衆法廷運動とアムネスティとの関係 日本支部が発行する『アムネスティニュースレター』2003年7月号では「Focus 日本から発進、新しい市民運動」という標題のもとに、ブッシュ米国大統領らを「被告人」とする「アフガニスタン国際戦犯民衆法廷」の呼びかけ人である、前田朗のインタビュー記事を3ページにわたり掲載している。この民衆法廷の「検事団」の事務局長を務めた猿田佐世はアムネスティ日本の活動家で、4年にわたり年次総会議長の要職にあった[26]。ただしアムネスティ・インターナショナルの国際事務局がこの民衆法廷の運動に対し公式に支持を表明したことはない。 アムネスティ・インターナショナルが関わるのは、各国政府や国際連合、国際刑事裁判所などの公的機関を通じての人権侵害加害者の責任の追及であり、アムネスティが直接人権侵害加害者の名前をあげて非難するのは、かなり具体的に責任が明らかにされた場合のみである。これまでに、チリのアウグスト・ピノチェト元大統領、ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領などに対して、アムネスティからの非難が行われたことがある。そうした場合でない限り、アムネスティは、政府首班および担当者に対する公式の申し入れという筋を維持している。 ピノチェトが1998年10月に滞在中のイギリスで一時身柄を拘束されるにあたっては、スペインの司法当局の要請がその法的根拠となった。ピノチェトが犯したとされる殺人、拷問などの犯罪はチリ国内(=スペイン国外)で行われたものであるが、アムネスティは、ジェノサイドや拷問罪などを犯した者に安全な逃げ場を与えないためには、犯罪が行われた場所を問わず責任者を起訴する責務が各国政府にあるとしている(Universal jurisdiction)。 同じくスペイン国立法廷は、法輪功の成員に対する「ジェノサイド」(集団虐殺罪)と「拷問罪」を理由に、元中国共産党中央委員会総書記・江沢民、中央政治局委員・羅幹、薄熙来、賈慶林、呉官正らに対する起訴を2009年11月に認定した[27]。アムネスティはこれまでのところ、この動きに呼応する構えを見せていない。 フジモリ問題に関して アムネスティは、アルベルト・フジモリ元ペルー大統領の在任時にあった「バリオス・アルトス事件」「ラ・カントゥータ事件」などを取り上げ、こうした人権侵害がフジモリ元大統領の了承の下で行われた可能性があるとして、元大統領の責任を追及するキャンペーンを世界中で展開している。2003年11月の『アムネスティニュースレター』では「フジモリ氏に裁きを」という特集記事を組んで、日本滞在中(法務省の説明によれば日本とペルーの二重国籍にもとづき「帰国中」)のフジモリ元大統領のペルーへの送還を求めていた。 フジモリが国民新党の公認候補として2007年の第21回参議院議員通常選挙に立候補した際は、アムネスティ日本はピースボートなどの他団体とともに「重大犯罪の容疑者であるフジモリ氏が向かうべきは、日本の国会ではなく、ペルーの裁判所である」とする共同声明を発表した[28]。公職選挙における特定の候補者に対して立候補したこと自体を批判する声明は、法的根拠のない権利制限[29]を被疑者に課することに通常反対するアムネスティとしては異例である。 同じ声明文の中には「日本政府は、チリとペルーにおける司法手続きを尊重する」よう求め「チリの裁判所がフジモリ氏の引渡についていかなる決定を下そうと、日本政府は公式であれ暗黙であれ、一切圧力をかけるべきではない」とするくだりもある。一方、チリの下級裁判所がペルーへの引き渡しを拒否する決定を下した時は、アムネスティは裁判所を批判する声明を発表した[30]。 日の丸、君が代 アムネスティ日本は公立学校における国旗(日の丸)掲揚・国歌(君が代)斉唱をめぐる問題に関して声明を出した。アムネスティ日本は、国旗・国歌の強制および、それに反対する意思表明をした教育公務員に対する行政処分は、日本国憲法第19条、日本国憲法第21条、国際人権規約A第18・第19条などに対する重大な違反行為であるとし、さらなる強制をやめるように申し入れた[31]。 脚注 関連項目 イーデス・ハンソン - 日本支部支部長 J・K・ローリング - 作家になる前は秘書として働いていた。 ソニック (バンド) - ヴォーカル、二胡のフレディ・リムはアムネスティ台湾の支部長 中村紘子 - アムネスティ・チャリティ・コンサートを東京で1983年6月17日開催。 外部リンク (in English) (in Japanese)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 753, 1600, 2628, 3804, 4588, 5968, 6468, 7438, 8638, 8927, 9229, 10310, 11585, 12944, 13798, 15194, 15987, 16389, 17667, 19486, 20387, 20969, 21686, 21898, 22813, 23270, 23997, 24405, 24465], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 752, 1583, 2627, 3775, 4587, 5967, 6467, 7437, 8636, 8926, 9228, 10284, 11584, 12943, 13748, 15193, 15973, 16388, 17666, 19485, 20379, 20968, 21685, 21897, 22805, 23269, 23996, 24328, 24447, 24578], dtype=int32)}
ジェイムズ・テリー・サンフォードの政党は?
テリー・サンフォード
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([189], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([198], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ジェイムズ・テリー・サンフォード(、1917年8月20日 - 1998年4月18日)は、アメリカ合衆国ノースカロライナ州出身の政治家、教育者である。民主党員として、第65代ノースカロライナ州知事(1961年-1965年)、1970年代に2度(1972年、1976年)アメリカ合衆国大統領候補、アメリカ合衆国上院議員(1986年-1993年)を務めた。公共教育の強い推進者であり、州知事の時にはノースカロライナ州の学校や高等教育機関に対して多くの改革と新しいプログラムを提案し、教育予算を増額し、ノースカロライナ州基金を創設した。1969年から1985年はデューク大学学長だった。 サンフォードは若い時にイーグルスカウトまで昇り、1939年にノースカロライナ大学チャペルヒル校を卒業すると、連邦捜査局(FBI)のエージェントとなった。第二次世界大戦中ヨーロッパ戦線に参戦し、戦地昇進を受けた。戦後に文民の生活に戻ると、ノースカロライナ大学法学校に進学して卒業し、1940年代後半に法律実務を始め、間もなく政治に関わるようになった。その生涯を通じて民主党員であり、公民権と教育に関する進歩的な指導力で注目された。サンフォードに敵対する者はサンフォードを「増税路線」のリベラルだと批判したが、第二次世界大戦後の南部で主要な公人だとして記憶されている[1][2]。 初期の経歴 サンフォードは1917年にノースカロライナ州 ローリンバーグで生まれた。父はセシル・レロイ・サンフォード[3]、母はエリザベス・テリー(旧姓マーティン)であり、二人ともイングランド人の子孫だった。ボーイスカウトではローリンバーグの第20部隊でイーグルスカウトにまでなった。サンフォードは死ぬ少し前にジャーナリストのデイビッド・ガーゲンにボーイスカウトの経験について語り、「恐らく、それが戦争で私を救った。ボーイスカウトあるいは市民保全部隊に在籍した少年は森の中では何をしたらいいのか知っている。...ボーイスカウトで学んだことは私の人生全てで生き続けさせてくれた。何が最善であるかを決断する助けになった。」と語っていた[4]。ボーイスカウト・アメリカはサンフォードを傑出したイーグルスカウト賞で表彰した[5]。 サンフォードは1939年にノースカロライナ大学チャペルヒル校を卒業し、その後の2年間、連邦捜査局(FBI)の特別捜査官となった[6][7]。1942年7月4日にマーガレット・ローズ・ナイトと結婚し、その後にテリー・ジュニアとエリザベスと名付けた2人の子供をもうけた[8]。第二次世界大戦中、アメリカ陸軍に兵卒として入隊し、後に少尉まで昇進した。第517パラシュート歩兵連隊と共にフランスにパラシュート降下し、その後のバルジの戦い(1944年12月-1945年1月)に参戦した。その勇敢さでブロンズスターメダル、負傷したことでパープルハート章を授与された。戦後の1946年、名誉退役した[7]。1948年から1960年では、ノースカロライナ州軍第119歩兵連隊K中隊で、大尉の中隊長を務めていた[9]:99。戦後、ノースカロライナ大学法学校で法学の学位を取得した。ノースカロライナ州民主党青年クラブ、現在ではノースカロライナ州青年民主党の会長を務めた。 州知事としての経歴 サンフォードは1946年から1948年ノースカロライナ大学チャペルヒル校政治研究所の支配人補であり、その後、ファイエットビルで法律実務を行った。ノースカロライナ州上院では1期(1953年-1955年)のみ議員となり、2期目は出馬しなかった。1960年にノースカロライナ州知事選挙に出馬し、民主党の予備選挙ではI・ビバリー・レイク・シニア、マルコム・ビューイ・シーウェル、ジョン・D・ラーキンスを破り、本選ではロバート・ギャビンを破って当選した。ノースカロライナ州では当時知事は1期を越えて選出されなかったので、1961年1月から1965年1月まで1期4年間のみを務めた[10]。 サンフォードは人間が良い教育を受ければ何でも成し遂げられるという信念に動かされ[9]:157, 194, 247, 257–258[11]、ノースカロライナ州の公立学校に向けた予算を2倍近くにした。ノースカロライナ大学システムの統合を始めて、その支払い能力と強さを確保し、ノースカロライナ・コミュニティカレッジ・システムの創設を監督した。ノースカロライナ州知事の学校というアイディアを思いつき[11]、州内の才能ある高校生に6週間の滞在型夏季プログラムについて公的資金を手当てした[12]。ノースカロライナ芸術学校(現在のノースカロライナ大学芸術学校)を設立し、「音楽、演劇、舞踊およびそれに関連する分野で、高校とカレッジ双方のレベルの指導を」出身州で行うべく才能ある学生を留めて置くこととした[13]。人種差別と戦い、ノースカロライナ州の人種統合した公立学校は当時政治的に不人気であり、危険である可能性もあったが、そこに自分の息子を送り込むことまでやった。ジョージ・エッサーの指導下にノースカロライナ州基金を創設し、貧困と戦い、州全体で人種間の平等を促進するために動いた[14]。 これら教育プログラムに資金手当てをするために増税を行い議論を呼んだ。その中でも食品に対する増税には反対の声が上がり、サンフォードの最も忠実な支持者の数人を含め多くの者達から退行だと非難された。この食品に対する税には「テリーの税」という綽名がつき、サンフォードが推進した他の税がその人気を失くし、政治的な対向者からは強く批判された[11]。 州知事としてのサンフォードは、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディと密接な政治的同盟者であり、それはケネディがカトリック教徒であるので疑っていたノースカロライナ州の民主党員との連携を妨げることになった[15]。ケネディ大統領の個人的秘書だったエブリン・リンカーンは、1964年の大統領選挙のときにケネディが生きて居れば、サンフォードがその副大統領候補に選んでいたはずだったと言っていた。リンカーンが著した1968年の著書『ケネディとジョンソン』では、ケネディ大統領が、リンドン・B・ジョンソンは副大統領職を更迭されることになると彼女に告げたと報告している。リンカーンはケネディ暗殺の3日前、1963年11月19日にケネディと交わした会話の内容を、次のように伝えている[6][16]。 ケネディ氏は私のオフィスの揺り椅子に腰掛け、頭をその背にもたせ掛け、左足を右の膝の上に組んでいた。彼は話しながら椅子を少し揺すっていた。緩りと沈痛な声で彼は私に「私が64年に再選されれば、政府のサービスを名誉あるものにする方向に多くの時間を割くことになるのは、貴女も分かっているだろう。私は政府の行政府と立法府を作り替え、別の分野に踏み込んで大きな進歩を成せるようにする。...議会で年功序列など古くなった規則や規制の幾つかを変更すべく訴える。それをなすために、私は64年の選挙で私がやれると信じる男を副大統領候補にする必要があるだろう。...私はこの会話に魅せられており、私の日記に一語一語書き記しておく。いま私は問われている。... 「副大統領候補として貴方が選ぶのは誰か? 」彼は真っ直ぐ前を向き、躊躇うことなく答えた。「今この時、私はノースカロライナ州のテリー・サンフォード州知事を考えている。リンドンではない」 更にサンフォードはホワイトハウスとのコネを使い、州内で経済的な上昇を加速させていたリサーチ・トライアングル・パークを拡大し、そこにIBMやアメリカ合衆国環境保護庁を誘致することに成功した[15][17][18]。 サンフォードは極刑に頑強に反対した者でもあった。「死刑に反対する多くの声明が良く知られていたので、ノースカロライナ州の処刑順を待つ囚人達は、その慈悲を請う訴えでもそれら声明にことさら言及していた。」[19] サンフォードはその知事の任期が終わると、法律会社を開設した。1968年の大統領選挙では、3月31日にジョンソンが撤退する直前にジョンソンの選挙対策マネジャーを引き受けており、その後民主党がヒューバート・ハンフリーを指名すると、共和党のリチャード・ニクソンに対する選挙運動のマネジャーとなった[8]。ジョンソンは、ハンフリーがその副大統領候補にサンフォードを選ぶことを望んだ。ある時点でハンフリーの選挙対策本部は、サンフォードが副大統領候補になりたいのかを尋ねた。サンフォードがそれを辞退し、ハンフリーは最終的にメイン州出身のエドマンド・マスキーを指名した。サンフォードはこの期間も民間の法律関連や事業関連から役職の提案を受けたが、その政治家としての前途をオープンにしたままである位置づけに興味を惹かれていた[9]:367–385。 デューク大学学長 1969年、サンフォードはデューク大学学長となり、その後の16年間この役職を続けた[20]。このことで学長としての任期の初期に、ベトナム戦争に関する学生の騒動を沈めることに貢献した。1970年、オハイオ州ケント州立大学で起きた射殺事件への抗議運動に対して、寛容さで臨み、道路を明けるために警官を呼ばないことにした。これで抗議していた学生はその夜に自室に戻り、西キャンパスは翌日に開けることができて、この春の騒動の間もキャンパスの平穏を保つことができた[9]:259。サンフォードが就任する直前の1969年2月13日、アフロアメリカン協会の学生60人がデューク大学の主管理センターであるアレン・ビルを占拠し、ブラック・スタディーズ・プログラムの創設を要求した。警官との衝突が起きた3日後の2月16日、学校の役員がそのプログラムに合意した後で、学生たちは平和裏に建物から退居した[21][22]。サンフォードの任期中、対立を避ける政策を維持し、警官の重大な行動を選ぶことに反対し、人種問題の解決を推進した[23]。 サンフォードが学長だった間に恐らく最も大きな議論を呼んだのは、デューク大学に元大統領リチャード・ニクソンの大統領図書館を設立させようとしたことだった。1981年7月28日、ニューヨーク市の元大統領の事務所を訪問したときに、ニクソンにこの提案を行なった。サンフォードはそれに続く期間も多くの問題についてニクソンの助言を求めた。8月半ばには図書館の提案が公表され、大学でかなりの論議を呼んだ。サンフォードはその提案について幾らか支持を得たが、教授陣の大半は提案に反対であり、その図書館が研究の中心というよりもニクソンへの記念碑というものなるというのが心配されたところだった。サンフォードは妥協案を画策したが、デューク大学学術委員会の図書館に関する提案はニクソンが望んだもの3分の1の大きさしかなく、それに付属するニクソン博物館は拒否していた。最終的にニクソンがサンフォードの提案を辞退し、図書館を建てる場所として、生まれ故郷のカリフォルニア州ヨーバリンダ市を選んだ。ニクソン大統領図書館は1990年に開館された[9]:369–396, 417–432。 サンフォードの遺産はデューク大学を辞めた後も、男子バスケットボールチームの輝かしい成果もあって、しばらく続いた。1980年、サンフォードは運動部支配人トム・バターストが、バスケットボールのブルーデビルスのコーチにマイク・シャシェフスキーを雇うことを決裁した。シャシェフスキーは5度(1991年、1992年、2001年、2010年、2015年)チームを全国選手権優勝に導き、4強に残ったのは12度、アトランティック・コースト・カンファレンスでも13回優勝した。デューク大学を率いた35のシーズンで945勝251敗であり、NCAAディビジョンIでの通算勝利数は1,018勝と、過去最高記録を更新している。 民主党大統領候補指名争いへの出馬 サンフォードはデューク大学学長である時代を楽しんでいたが、それでも政治的な野心は抱いていた。1972年アメリカ合衆国大統領選挙の予備選挙のシーズンになると、民主党側の候補者が弱いと感じた幾人かの人々からサンフォードにアプローチがあった。この頃のアラバマ州知事ジョージ・ウォレスは人種差別主義者であり、その見解は南部の意見を代表してはいないことを示すために、ウォレスに挑戦することについて特に敏感になっていた。サンフォードは3月8日に指名争いに立候補することを表明したが、混戦の中であまり見込みは無かった。予備選挙で代議員の過半数を獲得することはできないと分かっており、党大会が膠着状態になった場合に、妥協の候補者として浮上するだけの票を確保することを期待した。しかし、ノースカロライナ州の予備選挙であっても、ウォレスがサンフォードに10万票以上の差をつけ、7月の党大会では78票のみでやっと5位に終わった。1位はジョージ・マクガヴァンの1,864.95票、2位はヘンリー・M・ジャクソンの525票、3位がウォレスの381.7票、4位がシャーリー・チザムの151.95票だった[24][25]。 しかしサンフォードは怯むことなく、その2年後には1976年の選挙に向けて民主党の指名を得るための準備を始めた[9]:396–400。1975年6月1日に指名争いに立候補することを表明し、デューク大学学長として責任を果たしながら、選挙運動を進めて行った。教育分野では少なからぬ支持を獲得したが、新年までに選挙のために満足のいくテーマが見つからなかった。1月にマサチューセッツ州で運動を行っている間に胸に激しい痛みを感じ、診断の結果は心雑音だとされた。1月25日、サンフォードは予備選挙から撤退したが、この年民主党員で撤退した最初の候補者となった[9]:396–416。 上院議員 サンフォードは1985年にデューク大学学長を辞任した後、党の政治の世界での活動を続けた。1985年には民主党全国委員会の委員長に立候補したが落選した。このとき、後にアメリカ合衆国下院議長になるナンシー・ペロシに支持された。対抗馬はポール・G・カークであり、203票対150票で敗れた[26]。 ノースカロライナ州選出アメリカ合衆国上院議員であり共和党員のジョン・P・イーストが急死して空いた議席について、その選挙に出馬しようという民主党員を見つけられなかった後で[27]、サンフォードはその指名争いに出馬すると表明した。その対抗馬はアメリカ合衆国下院議員であり、共和党のジム・ブロイヒルだった。イーストは1986年6月29日に自殺したのであり、特別選挙が同年11月4日に行われるまでの間の暫定として、7月3日に時の州知事ジェイムズ・G・マーティンからブロイヒルが上院議員に指名されていた[28]。サンフォードはリベラルだと攻撃されたものの、11月の選挙ではブロイヒルに3ポイントの差を付けて当選した。サンフォードに対する批判は3つの分野にあった。すなわち少数民族に機会を与えることの推進、「増税路線」による教育予算増額、さらに対貧困撲滅運動だった[6]。サンフォードは特別選挙の翌日である11月5日に上院議員に就任し、イーストの任期の最後の2か月に加えて、その後の6年間の全任期を務めた[10]。 サンフォードの上院議員として時期は憤懣が募ることが多かった。当時の財政赤字の垂れ流しを心配し、共和党の推進する軍事政策の代替として中央アメリカの経済開発を追求した。デューク大学を基盤にした中央アメリカ再生開発国際委員会を率いた。これは学者と指導者によるタスクフォースであり、1989年に『貧困、紛争、および希望: 中央アメリカの転換点』(サンフォードがこの委員会の仕事の主たる触媒だったのでサンフォード委員会報告書とも呼ばれた)を出版した。その中では中央アメリカにおける平和、民主主義、公正な開発を推進することを原則としていた[29]。サンフォードは上院で多くの委員会委員を務めた。例えば上院倫理特別委員会(委員長)、高齢化特別委員会、予算委員会、銀行・住宅・都市問題委員会、さらにその下の国際財政金融政策小委員会と安全保障小委員会、外交関係委員会、近東・南アジア問題小委員会(委員長)、アフリカ問題小委員会、西半球・平和部隊小委員会があった[30]。南部出身の民主党員同僚と比べてリベラルな投票を行った記録があり、国旗を燃やすことを禁じる憲法改正案が成立することを阻止する運動に成功し、カウンター・キャンペーンとしてアメリカ権利章典を促進する運動を行った。サンフォードは上院議員としての功績が、州知事時代に行ったことを弱めてしまったように考え、真剣に引退と他のプロジェクト追求を検討し、上院議員の再選を求めることにした[9]:447–480。 1992年の上院議員選挙での対抗馬は、元民主党員で共和党に転籍したラウチ・フェアクロスであり、サンフォードが州知事をしていた時には、州のハイウェイ・コミッショナーを務めていた。フェアクロスはサンフォードの上院での同僚であるジェシー・ヘルムズ(共和党)からかなりの支持を得て、サンフォードが特別の利益に偏る増税路線のリベラルだと非難した。当初の世論調査ではサンフォードがフェアクロスに対してリードしていたが、サンフォードは心臓弁の手術を行って10月の大半は選挙運動ができず、もう1期務められるものか疑いを持たせたので、その支持を失って行った。1992年11月3日、フェアクロスが10万票の大差をつけて当選した[9]:488–501。 晩年 サンフォードは数冊の著作を著した。その中では『しかし人々はどうなるのか?』は、1960年代にノースカロライナ州で質の高い公共教育の体系を作り上げたその動きを詳述していた。『州に関わる嵐』では「創造的連邦主義」を推奨することで、州政府と連邦のシステムに新しい基礎を前面に出していた。『貴方の敵を語る: 古きを優雅に育てる』では、高齢化の進行を鈍化させる行動と、健康生活を長くさせる規則を詳述した[31]。 サンフォードはデューク大学で法学と政治学を教えもし、リサーチ・トライアングル地域に大きな芸能センターを建設する運動を行った。そこはアメリカ・ダンス祭、ノースカロライナ交響楽団、カロライナ・バレー団の本拠地になった[32]。サンフォードはその高齢になってからも再度法律実務を行い、自分の会社と、やはり元州知事のジェイムズ・ホルスハウザーの会社を合併させた。ホルスハウザーはサンフォード・ホルスハウザーLLPをその死の時まで経営し続け、経済開発コンサルティング会社はその名前で継続された[33]。 ニューヨーク・タイムズの記者、デイビッド・スタウトはサンフォードのことを、「矛盾する政治家」と表現し、「燃える願望に欠ける」者だと言った[34]。 サンフォードは1997年12月後半、手術できない食道癌だと診断され、その担当医は余命数か月だと言ったという声明を出した。病院を退院した後、その体調は緩りと衰えていった。ダーラムにあった自宅で家族に囲まれながら眠るように死んだ。80歳だった。その葬儀では、子供時代の友人が弔辞を読み、サンフォードは「12歳の時にボーイスカウトの誓いを行い、それを保った。それは『私に名誉にかけて、神と私の国のために私の義務を果たすために最善を尽くす。』で始まり、『いかなる時も他の人々を助ける』というようなことが続いた。彼はそれを信じた。彼は永遠なるボーイスカウトだ」と語った[4]。サンフォードはデューク大学礼拝堂の地下室に埋葬された[8]。 遺産 サンフォードは第二次世界大戦後のアメリカ合衆国南部で主要な公人だった[1][2]。南部の政治を主に人種関係と教育の分野で新南部に転換させるときに、大きな役割を果たした[35][36]。教育においてまた他にも数多い分野でその功績を認識され、1981年、ハーバード大学の調査で、サンフォードを20世紀最良の州知事10人の1人に挙げた[8][37]。 ノースカロライナ州の州都ローリーにあるテリー・サンフォード連邦ビルと裁判所は、サンフォードにちなむ命名である[38]。1998年4月、アメリカ合衆国大統領ビル・クリントンはチリのサンティアゴで開催された米州首脳会議で出された声明の中で、「彼の仕事と影響力は文字通り南部の顔と未来を変えた。この50年間で最大級に影響力を発揮したアメリカ人にした」と語った[2]。アメリカ合衆国上院議員のジョン・エドワーズは、『テリー・サンフォードと新南部』の中で、自分にとってサンフォードが政治的な英雄であると語った[36]。 デューク大学はその後、テリー・サンフォード公共政策学校と呼ぶ公共政策の学部と大学院を設立した[39]。ファイエットビル市にあるファイエットビル高校は、1968年にサンフォードの栄誉を称えてテリー・サンフォード高校と改名された[40][41]。 脚注 参考文献 テリー・サンフォードの著作 関連項目 ノースカロライナ州知事の一覧 外部リンク , Rare Book and Manuscript Library, Duke University. Oral History Interviews with Terry Sanford , , , , from
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 548, 986, 1946, 2284, 3669, 3798, 4704, 5197, 5834, 6877, 7568, 8480, 9124, 10342, 10871, 11379, 12807, 13152, 13599, 14987, 15721, 16550, 17367, 18753, 19606, 20171, 20499, 20670, 20921, 22340, 23218, 24093, 24552, 25008, 25361, 25923, 26255, 26496, 26694, 26788, 27301, 27612, 27756, 28087, 28623, 29112, 29465, 29780, 30333, 31321, 32251, 32517, 32875, 33528, 33978, 34680, 35227, 36154, 36404, 37173, 37477, 38239, 38613, 39644, 39809, 39825, 40345, 40920, 40937, 42550, 43019, 44012, 44605, 44702, 45011, 45551, 47026, 47805, 47996, 48814, 49609, 50422, 50834, 51160, 52091, 52745, 53576, 54078, 54912, 54960, 55021, 55058, 55176, 55202, 55257, 55297, 55400, 55434, 55688, 56158, 57456, 57979, 59147, 59632, 59744, 60545, 61537, 61956, 62581, 62901, 63945, 64440, 65389, 65868, 66575, 66986, 67454, 67616, 67963, 68444, 69499, 70320, 71029, 71871, 72432, 73458, 73693, 74192, 74829, 75674, 76171, 76364, 77037, 77305, 77600, 78930, 79551, 80800, 82709, 84173, 84499, 84948, 85487, 86235, 87609, 88366, 88725, 89281, 89911, 90710, 90939, 91201, 91544, 92438, 92748, 93844, 94427, 94990, 95724, 96683, 96786, 97224, 97537, 97698, 97800, 98551, 98588], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 547, 985, 1938, 2283, 3668, 3797, 4703, 5141, 5833, 6876, 7530, 8479, 9123, 10341, 10752, 11378, 12806, 13151, 13598, 14922, 15720, 16549, 17366, 18752, 19597, 20170, 20498, 20668, 20920, 22339, 23217, 24085, 24551, 24999, 25360, 25922, 26234, 26481, 26692, 26779, 27299, 27611, 27755, 28086, 28622, 29111, 29464, 29762, 30332, 31320, 32250, 32509, 32874, 33527, 33977, 34679, 35226, 36153, 36403, 37172, 37460, 38238, 38612, 39621, 39788, 39824, 40344, 40919, 40935, 42549, 43018, 43996, 44604, 44701, 45002, 45550, 47025, 47804, 47995, 48813, 49595, 50421, 50833, 51151, 52090, 52744, 53575, 54077, 54911, 54959, 55020, 55057, 55175, 55201, 55256, 55296, 55399, 55433, 55674, 56157, 57455, 57978, 59146, 59631, 59734, 60515, 61536, 61955, 62562, 62900, 63944, 64439, 65388, 65860, 66574, 66985, 67453, 67615, 67955, 68443, 69490, 70319, 71028, 71862, 72431, 73457, 73692, 74182, 74828, 75673, 76161, 76363, 77036, 77304, 77591, 78929, 79540, 80778, 82708, 84172, 84497, 84947, 85486, 86213, 87608, 88365, 88713, 89280, 89910, 90709, 90924, 91200, 91529, 92422, 92747, 93843, 94398, 94964, 95723, 96682, 96785, 97216, 97514, 97683, 97769, 98534, 98580, 98705], dtype=int32)}
ドイツは何年にドイツ共和国になりましたか?
ドイツ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([20], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([15456], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([15463], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、German: Bundesrepublik Deutschland)、通称<b data-parsoid='{"dsr":[2367,2376,3,3]}'>ドイツ(German: Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。かつて「西ドイツ」と呼ばれていた時代は「西欧」に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として分類されるようになっている。 ドイツは限定的統治権を保有する16の州から成り、総面積は357,386km2で、主に温暖な季節的気候に属する。首都及び最大都市はベルリンである。ヨーロッパ大陸における経済的及び政治的な主要国であり、多くの文化、理論、技術分野における歴史上重要な指導国である。人口は8,060万人で、欧州連合では最大の人口を有する。 ドイツは名目GDPで世界第4位かつ購買力平価で世界第5位である。産業及び技術分野における世界的なリーダーとして、世界第3位の輸出国かつ世界第3位の輸入国である。世界最古のユニバーサルヘルスケア制度を含む包括的な社会保障を特色とする非常に高い生活水準で先進国である。豊かな文化及び政治の歴史で知られ、多くの影響力のある哲学者、芸術家、音楽家、映画人、起業家、科学者及び発明家の故国である。ドイツは、1993年に欧州連合になった1957年の欧州諸共同体原加盟国である。同国はシェンゲン圏の一部であり、1999年以来ユーロ圏の一員である。また、国際連合、北大西洋条約機構、G7、G20、OECD、欧州評議会加盟国である。アメリカ合衆国に次ぎ、ドイツは世界第2位の移住地である[1]。 国名 ドイツ語での正式名称は、 Bundesrepublik Deutschland([ˈbʊndəsʁepuˌbliːk ˈdɔʏtʃlant](listen) ブンデスレプブリーク・ドイチュラント)。通称は Deutschland(ドイチュラント)、略称は BRD(ベーエァデー)。Bund は「連邦」の、Republik は「共和国」の意である。 在日大使館や日本の外務省が用いる日本語表記は<b data-parsoid='{"dsr":[4242,4256,3,3]}'>ドイツ連邦共和国。通称は<b data-parsoid='{"dsr":[4260,4269,3,3]}'>ドイツ。漢字では<b data-parsoid='{"dsr":[4288,4296,3,3]}'>独逸、獨乙</b>などと表記され、独(獨)と略される。中国語では<b data-parsoid='{"dsr":[4334,4343,3,3]}'>徳意志、徳国</b>となる。英語表記は Federal Republic of Germany(フェデラル・リパブリク・オヴ・ジャーマニ)。通称は Germany(ジャーマニ)。略称は FRG 。Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.は「連邦の」、Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.は「共和国」を意味し、Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. はラテン語の Germania(ゲルマニア:「ゲルマン人の地」の意味)に由来し、地名としてのドイツを指す。フランス語やスペイン語、ポルトガル語ではそれぞれ Allemagne(アルマーニュ)、Alemania(アレマニア)、Alemanha(アレマーニャ)と呼ばれるが、これらは本来は「(ゲルマン人の一派である)アレマン人の地」を意味する。 「ドイツ」という言葉の由来は、原語若しくはオランダ語の「Duits」が起源だといわれている。 「ドイツ(Deutsch)」の語源は、北部で話されていたゲルマン語の「theod」、「thiud」、「thiod」などの名詞に由来し、いずれも「民衆」や「大衆」を意味している 。意味も使われた時代も同じだが、綴りは地域によって異なる。フランク王国時代に、ラテン系言語ではなくゲルマン系言語を用いるゲルマン人の一般大衆をこう呼んだことから、同地域を指す呼称として用いられ始めた。「th」はのちに「d」という発音と綴りになったため「diet」に変わった。さらに古高ドイツ語では形容詞化するための接尾辞「-isk」が付加されて「diutisk」と変わった。意味も「大衆の、民衆の」という形容詞になり、その後「diutisch」に変わり、現代ドイツ語では「deutsch」となった[2][3]。 形容詞形の「deutsch」には上記の意味はなく、単に「ドイツの」という意味だけである。代わりに「völkisch」という形容詞が「大衆の、民衆の」という意味で使われたが、ナチスが自らの理念や政策を表現するのに好んで用いたため、戦後はナチズムを連想させるとして用いられなくなり、現在は「des Volkes」が主に使われる。 歴史 先史時代から東フランク王国まで 現在のドイツを含む西ヨーロッパ地域に人類が居住を始めたのは、石器などが発見された地層から約70万年前と考えられている。60万年から55万年前の地層ではハイデルベルク原人の化石が、4万年前の地層ではネアンデルタール人の化石が確認されている。新人は約35000年前から現れ、紀元前4000年頃の巨石文明を経て紀元前1800年頃までに青銅器文明に移行している。紀元前1000年頃にはケルト系民族によってドナウ川流域にハルシュタット文明と呼ばれる鉄器文明が栄えた。 紀元前58年から51年までのガイウス・ユリウス・カエサルのガリア遠征などを経て、ゲルマン人は傭兵や農民としてローマ帝国に溶け込んでいった。しかし紀元後9年にトイトブルク森の戦いが起こり、ゲルマン人が勝利してライン右岸を守った。この流域南部において83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン中・上流域ではリメスが前進した。これは二千年にわたるドイツ史の将来を規定する伏線となった。すなわち、ローマ帝国内にあるドイツ南部と、外にあるドイツ北部である。以後三百年をかけてローマ帝国の解体が進む。コロナートゥス化とテトラルキアを経て、375年には西ゴート族が黒海沿岸から地中海に沿って、コロナートゥス化の進んだ西部へ移動した。 476年、西ローマ帝国が滅亡した。代わって西ヨーロッパを支配したフランク王国では各地に分王国が興り、その一つアウストラシア(英語版の地図が正確)が北方でライン両岸を占めた。843年ヴェルダン条約によってフランク王国が三分割された。そのうちの1つである東フランク王国が、後のドイツの原型となった。東フランク王国の国王オットー1世(ザクセン朝)は962年アウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て、いわゆる神聖ローマ帝国と呼ばれる連合体を形成した。 シュヴァーベン同盟の分解 帝国のイタリア政策は教会大分裂で競り負け頓挫した。各領邦は近隣諸国に比べて弱体であったがバイエルン公国は強かった。1487年6月26日に皇帝フリードリヒ3世の発した勅令はの結成につながった。これは長命であったが、1512年の更新でヴュルテンベルク公国のウルリヒが調印を拒んだ。ウルリヒが反ハプスブルクを志向してロイトリンゲンを攻撃しようとしたとき、同盟は総力を挙げてウルリヒを破り、1534年まで亡命させた。皇帝マクシミリアン1世のとき、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation」と国名を称した。彼はヴュルテンベルクとインディアスの経済力を背景に、ドイツに対して搾取的なローマ教皇庁から自立しようとしたのである。 そうした混乱期にレオ10世による贖宥状が発売された。宗教改革ではドイツの諸侯が新旧両教に分かれて互いに争った。1528年オットー・フォン・パックが計り、ヴュルツブルク司教領が新教諸侯に脅かされた。そこでカトリック諸侯はシュヴァーベン同盟軍を強いて派遣しようとした。ルター派であったニュルンベルクは大反対した。これ以降、同盟都市は同盟参事に重要な決定を委ねないようになった。1561年、ポーランド王国がドイツ騎士団領の大部分を占領し壊滅させた。 三十年戦争ではドイツのほとんど全土が徹底的に破壊され、なかんずくニュルンベルクは惨状を極めた。1,600万人いたドイツの人口が戦火によって600万人に減少したと言われる。ドイツはヴェストファーレン条約でアルザスを失った。ストラスブールはドイツ時代に貨幣鋳造権をもっていたが、ドイツ側と交易できなくなって利益をスイスに奪われた。さてバイエルンは焦土化したニュルンベルクへ向かって北へ領土を広げた。ブランデンブルク辺境伯領のマクデブルクを攻めたスウェーデンは、帝国郵便の営業圏を奪い、ハンブルクからブレーメンまでを領土に加えた。フランスは戦争でアクセスを確保した。フランシュ=コンテから南下するスペイン軍をサヴォイアから駆逐、スイスを独立させ、ボヘミア・バイエルンと通じ帝国郵便のルーツであるインスブルックに対する圧力を確保し、ヴェネツィア共和国を港にオスマン帝国と交流できるようにしたのである。この点は図表の確認を推奨する。 帝国自由都市の自治権が奪われ、ドイツは領邦主権体制となった。1667年にザミュエル・フォン・プーフェンドルフが著した書「ドイツ帝国憲法について (Über die Verfassung des deutschen Reiches) 」において初めて、ドイツ国という呼称が確定できる。彼は世俗的自然法論により諸侯に有利な国家論を基礎付けた。 プロイセン王国の台頭、ドイツ帝国の興亡、ヴァイマル共和政の混乱とナチス・ドイツ シュヴァーベンにあるホーエンツォレルン城一帯から台頭したプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は、17世紀半ばからオランダと共に勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成した。一方、スペイン継承戦争でバイエルンが自由都市アウクスブルクを占領した。この戦争でフランスがヴュルテンベルクを執拗に攻撃、シュトゥットガルトの王立銀行を手中に収めた。 フランス革命の動乱は全ヨーロッパに波及し、ドイツもナポレオンの侵略を免れなかった。対仏大同盟がナポレオンを破り、ドイツは帝国代表者会議主要決議の枠内で国家統一を志向するようになった。ホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家はドイツ統一の役割を争ったが、前者は対米貿易とメリノ種量産に成功した。後者は地中海へのアクセスを維持するためフランスに接近するしかなかった。北ドイツ連邦を作り普墺戦争と普仏戦争に勝利したプロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ドイツ系オーストリアを除くドイツ帝国を創建し、ベルリンを首都とした。国内産業は驚異的発展をとげた。ジーメンス・ウント・ハルスケとAEGの独占で知られる電機工業と、合成染料や各種の化学製品を生み出した重化学工業(のちのIGファルベン)は特筆に値する[4]。工業の拡大を支えたのは、ドイツ銀行、ダルムシュタット銀行(現バークレイズ)、ドレスデン銀行、ディスコント・ゲゼルシャフト(現ドイツ銀行)の4D銀行に代表される金融界であった[4]。1880年にはスペイン以下であった海運力も30年かけてイギリスに追随した(ハパックなど)[4]。 ヴィルヘルム2世の治世では同盟政策を東方問題に左右された。イギリス・フランス・ロシアと対立し、第一次世界大戦で協商国と激しい消耗戦を繰り広げた。1918年には戦力の限界とドイツ革命の勃発によってヴェルサイユ条約に調印し、帝政も終了した。 ドイツは共和国として再出発した(ヴァイマル共和政)。これは連邦制が小党を乱立させて政局を不安定にした。ヴェルサイユ条約がドイツに課した巨額の戦争賠償は経済や政治に悪影響を与えたが、1920年代中頃から米仏の外資による相対的な安定期を迎え、国際社会にも復帰しつつあった。成長は1930年代の世界恐慌に挫かれた。 経済の破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭した。アドルフ・ヒトラーの指導下で、極右的民族主義、差別ともいえる人種政策、さらに拡張的な領土政策を唱えた。1933年ヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げた(ナチス・ドイツ)。ヒトラーは1936年の党大会で石油・ゴム等の戦略物資を自給しようと四ヵ年計画を発表、IGファルベン・コンツェルンが人造品の供給を引受けた[5]。ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、オーストリアやチェコスロバキアの領土を獲得していった(ミュンヘン会談)。次第に英仏との緊張関係が高まった。ポーランド回廊を寸断すべく、ドイツは1939年9月ポーランドへ侵攻した。これが英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦が始まった。一時はフランスを打倒してヴィシー政権を樹立し、ヨーロッパの大半を勢力下に置いた。しかし独ソ戦で形勢を崩した。連合国軍の侵攻によりドイツは無条件降伏した。そしてニュルンベルク裁判がナチスを断罪した。 連合国による占領と東西分断、そして再統一へ 1945年、ドイツは第二次世界大戦に敗北した。そしてオーデル・ナイセ線以東の、東プロイセンやシュレジェン地域を完全に喪失した。これにより戦前の領土の25%を失った。さらにアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦の四カ国に分割占領された(連合軍軍政期)。ソ連が物納での賠償を主張して西側諸国と鋭く対立した(ドル条項問題)。1949年、ボンを暫定的な首都とする<b data-parsoid='{"dsr":[10736,10750,3,3]}'>ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ベルリンの東部地区(東ベルリン)を首都とするドイツ民主共和国(東ドイツ)に分裂した。 西ドイツとフランス両国の首脳が道徳再武装で交流を深めた結果、1951年に欧州石炭鉄鋼共同体が誕生した。この同年IGファルベンが正式に解散、1952年にはバイエル、ヘキスト、BASF, アグフアなどの12社に分割されたが、やがてバイエル、ヘキスト、BASFの三社によって吸収されていった。1953年、東ベルリンで反ソ暴動が起こり、これをきっかけとして東ドイツでの社会保険が支出を拡大し均衡を失っていった。冷戦の時代を通じ、東西ドイツは資本主義と共産主義が対立する最前線となった。労働力をめぐる対立は1961年にベルリンの壁となって現れた。それからしばらく東西の外交はド・ゴールを挟んで行われた。 1972年に東西ドイツ基本条約が成立した。翌年、オイルショックが両国に大打撃を与えた。西ドイツでは1974年6月にユーロバンクのヘルシュタット銀行(Herstatt Bank)が破綻したり、長期的には企業のコストダウンを目的に早期退職を促した政策で公的年金の債務が累積したりした。東ドイツは原油をソ連に80%も依存していたので、価格をソ連が吊り上げてゆくと財政は苦しくなった。そこで資源を東ベルリンへ集中投下して西側諸国向けの輸出を拡大した[6]。東ベルリンへ投下された資本で著しい集中がみられたのは集合住宅である。賃料が安く据え置かれ、再生産がままならず、国家財政を圧迫した[7]。 1989年ソビエト連邦のペレストロイカに端を発した東ドイツの民主化運動(東欧革命)をきっかけにベルリンの壁が崩壊した。翌1990年再統一を達成し、再びベルリンを首都と定めた。1992年9月、ドイツマルクが高騰して欧州の通貨を混乱に陥れた。外国機関投資家はドイツマルクを各州とその産業へ投じていった。州間で巨額の財政が調整されていった[8]。こうして、旧東ベルリンを中心とするベルリン再開発・インフラ整備を進めることができた。国際会計基準が統一されてくると、機関投資家は監査役を派遣しなくてもドイツ企業の財務状態を正しく知ることができるようになり、株主としての地位を確立した。2001年、国内のマネー・マーケット・ファンド(MMF)が残高を急に増やした[9]。同年5月2日に連邦がベルリンへの首都機能移転を完了させた。2002年にドイツ連邦銀行の政策が欧州中央銀行と加盟国の中央銀行で構成される欧州中央銀行制度へ移管された。2000-2002年にドイツ取引所がクリアストリームを買収した。2003年よりドイツ復興金融公庫がドイツポスト株を民間へ譲渡、2005年に政府の保有割合が2割となった。 世界金融危機で国内のMMFもアメリカのように残高を激減させた[9]。また、国内の州立銀行は債務担保証券をつかまされ、機関投資家として損害を被った。2009年に憲法の第109条および第115条を改正、起債の制限がより厳しくなった[10]。近年のユーロ危機では、競争力の高いドイツが域内から黒字を吸い上げる構造が他のトロイカ勢から批判される一方、これまで合理化に耐えてきた国民からは援助支出への不満の声が高まるなど、政府は難しい舵取りを迫られている。アメリカで「銀行狩り」のあった2013年を除き、ドイツのミューチュアル・ファンドおよび他の金融仲介の残高は2003-2017年の期間で増加の勢いを保っている[11]。 地理 ドイツは西欧および中欧に属し[12]、北にデンマーク、東にポーランドとチェコ、南にオーストリアとスイス、南西にフランスとルクセンブルク、そして北西にベルギーとオランダと各々国境を接しており、国土はおおよそ北緯47°から55°(ジルト島の北端が丁度55°)、東経5°から16°の範囲に位置している。総面積は357,021km2に及び、領土349223km2、領海7,798km2から成る。この面積はヨーロッパ第7位、世界第62位である[13]。 標高は南部のアルプス山脈最高峰ツークシュピッツェの2,962mから、北西部の北海(Nordsee)および北東部のバルト海(Ostsee)海岸に及ぶ。中位山地、北ドイツ低地(最低地点はの海抜3.54m)にはライン川、ドナウ川そしてエルベ川が流れている。 主な天然資源は、鉄鉱石、石炭、炭酸カリウム、木材、褐炭、ウラン、銅、天然ガス、塩、ニッケル、可耕地と水である[13]。 ドイツの地形は北から南へ、大きく5つの地域に分けられる。北ドイツ低地、中部山岳地帯、南西ドイツ中部山岳階段状地域、南ドイツアルプス前縁地帯、バイエルン・アルプスである。 北ドイツ低地は全体的に標高100m以下の平坦な地域で、エルベ川などの川沿いにはリューネブルクハイデと呼ばれる大きな丘陵地がある。バルト海沿岸は平坦な砂浜や、断崖をなす岩石海岸となっている。中部山岳地帯は、おおよそ北はハノーファーの辺りから南はマイン川におよぶ地域で、ドイツの西部と中部に広がり、ドイツを南北に分けている。地形的に峡谷や低い山々、盆地など変化にとんでおり、山地としては西部のアイフェル丘陵とフンスリュック山地、中央部のハルツ山地、東部のエルツ山脈がある。南西ドイツ中部山岳階段状地域にはオーデンヴァルトや、ドイツ語で「黒い森」を意味するシュヴァルツヴァルトの標高1000mを超える広大な森林がある。アルプスはドイツ国内ではもっとも標高が高い地域で、南部の丘陵や大きな湖の多いシュヴァーベン=バイルン高原に加えて、広大な堆石平野とウンターバイエルン丘陵地、そしてドナウ低地を包括している。ここにはアルプスの山々に囲まれた絵のように美しい数々の湖や観光地があり、オーストリアとの国境地帯にはドイツの最高峰ツークシュピッツェ(標高2962m)がそびえ立つ。 ドイツにおける火山活動は先カンブリア代に収束している。先カンブリア代末から始まったカレドニア変動や、後期古生代におこったバリスカン(ヘルシニアン)変動はいずれも主要活動帯がドイツを横切っているものの、地表には痕跡が残っていない。バリスカン変動は2000kmにおよぶ規模の大陸間の変動であった。現在のドイツの地形を決定したのは新生代における褶曲運動である。アルプス変動帯の活動により、最南部は標高1200mにいたるまで隆起した。ドイツにおけるアルプス変動帯は東アルプスと呼ばれている。同時に西部フランス国境に近いライン川に相当する位置に、ライン地溝を形成する。ライン地溝は、約500kmに渡って南北に伸びる。 ドイツ北部(北ヨーロッパ平野)の地表は氷河地形の典型例である。最終氷期においては北緯51度線に至るまで氷河が発達し、ヨーロッパを横切る数千km規模の末端堆石堤を残した。その100から200kmの海岸線方面にはモレーンが残る。末端堆石堤とモレーンの北側にそっていずれも氷食性のレスが堆積し、農業に適した肥沃な土壌が広がる。いっぽう、モレーンの南側は土地が痩せている。ドイツに残る長大な河川はいずれも最終氷期の河川に由来するが、ポーランドのヴィスワ川、ポーランド国境に伸びるオーデル川、エルベ川、ドイツ西部のヴェーザー川が互いに連結し、網目状の流路を形成するなど、現在とは異なる水系が広がっていた。 気候 ドイツの大部分は温暖な偏西風とメキシコ湾流の北延である北大西洋海流の暖流によって比較的温和である[14]。温かい海流が北海に隣接する地域に影響を与え、北西部および北部の気候は海洋性気候となっている。降雨は年間を通してあり、特に夏季に多い。冬季は温暖で夏季は(30℃を越えることもあるが)冷涼になる傾向がある[15][16]。 東部はより大陸性気候的で、冬季はやや寒冷になる[14][16]。そして長い乾期がしばしば発生する。中部および南ドイツは過渡的な地域で、海洋性から大陸性まで様々である。国土の大部分を占める海洋性および大陸性気候に加えて、南端にあるアルプス地方と中央ドイツ高地の幾つかの地域は低温と多い降水量に特徴づけられる[15]。 自然 ドイツは「ヨーロッパの地中海沿岸部山地混交林」と「大西洋北東部大陸棚海域」の二つの生態系ブロックに分けられる[17]。2008年時点ではドイツの過半が耕地(34%)と森林・疎林(30.1%)に占められており、13.4% が放牧地で11.8%が定住地・道路となっている[18]。 動植物は中央ヨーロッパにおいて一般的なものである。ブナ、カシ、およびその他の落葉樹が森林の3分の1を構成しており、また針葉樹が植林の結果、増加傾向にある。トウヒとモミの木が高地山脈を占めている一方で松やカラマツを砂質土で見出だせる。シダ、花、菌類、そしてコケの多くの種がある。野生動物にはシカ、イノシシ、ムフロン、狐、アナグマ、ノウサギ、そして少数のビーバーが含まれている[19]。 ドイツには、、、、、、、などの国立公園がある。ドイツ国内では400以上の動物園が運営されており、世界最多とされる[20]。ベルリン動物園はドイツ最古の動物園であり、ここには世界で最も多くの動植物種が収集されている[21]。 地方行政区分 ドイツには16の連邦州がある。ベルリンとハンブルクは都市州と呼ばれ、各々単独で連邦州を形成する。ブレーメンとブレーマーハーフェンも合わせて都市州となる。 主要都市 ドイツは小邦分立による地方分権の歴史が長いため、ロンドンやパリ、東京の様な首都への一極集中はしていない。人口は2008年のデータを使用。 ベルリン[22]。 ハンブルク ミュンヘン ケルン フランクフルト 政治 ドイツは連邦制、議院内閣制、代表民主制の共和国である。ドイツの政治システムは1949年に発効されたドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz)の枠組みに基づいて運営されている。基本法改正には両院の2/3の賛成を必要としており、 このうち「人間の尊厳の保証」「権力の分割」「連邦制」そして「法による支配」といった基本法諸原則は「永久化」され侵害は許されない[23][24]。 連邦大統領(Bundespräsident)は国家元首であり、主に儀礼的な権能のみが与えられている[25]。大統領は任期5年で、連邦議会議員と各州議会代表とで構成される連邦会議によって選出される。大統領は連邦議会の解散権を有する[26]。 大統領に次ぐ序列は(Bundestagspräsident)であり、連邦議会によって選出され、議会運営の監督責任を持つ。 序列第三位であり、政府の長となる地位が連邦首相(Bundeskanzler)であり、連邦議会で選出された後に、議長によって任命される[27]。首相は任期4年で、行政府の長として行政権を執行する。内閣の閣僚は首相の指名に基づき、大統領が任命する。 連邦の立法権は連邦議会(Bundestag)と連邦参議院(Bundesrat)が有し、この両院で立法府を構成する。連邦議会議員は小選挙区比例代表併用制による直接選挙によって選ばれ[13]、定数は598議席[28](ただし選挙制度の関係でが出るため、選挙のたびに実際の議席数は変わり、2013年現在は630議席[29])で任期4年。連邦参議院議員は定数69議席で16州政府の代表であり、また州政府内閣の閣僚でもある[27]。 1949年以降、政権はドイツキリスト教民主同盟とドイツ社会民主党によって占められており、歴代首相はいずれかの政党の所属議員である。しかしながら、選挙制度の関係で単独政権は稀であり、通常は連立政権が組まれる[30]。他に連邦議会に議席を有する主要政党として、左翼・社会主義の左翼党(2005年以降)、環境政党同盟90/緑の党(1983年以降)がある[31]。 ドイツでは、首相と党首と議員団長(与党会派の代表)が「三つの頭」と言われる。政党は単なる「看板」ではなく、社会と国家をつなぐ実体のある組織であり、その長である党首独自の仕事も多い。そのため首相と党首を別の人が務めることも珍しくない[32]。 過激派の政党としては極左のドイツ共産党と極右のドイツ国家民主党が存在するが、国政レベルの影響を持つには至っていない。近年は欧州懐疑主義と反移民を掲げるドイツのための選択肢が急速に党勢を伸ばしている。 警察・司法 ドイツはゲルマン法の要素を加えたローマ法を基礎とする大陸法を法律において採用している(ドイツ法)。憲法に関しては第二次世界大戦後の1949年に西ドイツでドイツ連邦共和国基本法(Grundgesetz für die Bundesrepublik Deutschland)が暫定的な憲法(基本法)として定められたが、ドイツ民主共和国憲法を制定していた東ドイツとの統合後(ドイツ再統一)も正式憲法は制定されず、共和国基本法が継続している。 司法機関については連邦憲法裁判所(Bundesverfassungsgericht)が違憲審査権を有する憲法に関する事項の最高裁判所として機能している[27][33][34]。Oberste Gerichtshöfe des Bundesと呼ばれるドイツの最高裁判所制度は専門化がなされており、民事および刑事に関する裁判所は連邦通常裁判所、それ以外の事項に関しては連邦労働裁判所、連邦社会裁判所、連邦財政裁判所、連邦行政裁判所などがそれぞれ担当する[25]。また(Völkerstrafgesetzbuch)は人道に対する罪、ジェノサイドそして戦争犯罪について規定しており、幾つかの状況においてドイツの裁判所に対してを与えている[35]。刑法と民法は刑法典(Strafgesetzbuch)と民法典(Bürgerliches Gesetzbuch)に成文化されている。ドイツの刑法制度は犯罪者の更生と一般大衆の保護を主眼としている[36]。 治安維持については他国と同じく、基本的には警察(Polizei)によって行われる。その警察組織はナチスドイツ時代に設置されていた集権的な秩序警察(Ordnungspolizei)を廃止し、それぞれの州政府によって地方警察 (Landespolizei)が運営され、警察とは別に都市や地区レベルの治安組織もある。連邦全体の組織としては連邦刑事局 (BKA) 及び連邦警察局 (BPOL) があり、前者は複数の州や他国が関係する事件に介入して調整を行い、後者は国境警備やカウンターテロリズムを担当する。世界的に知られる特殊部隊であるGSG-9はBPOLの指揮下にある。集団警備が必要な場合は機動隊(Bereitschaftspolizei)が動員されるが、これについてはBPOLと地方警察がそれぞれ部隊を持ち、内務省が全体を管轄している。 他に警察組織以外の特殊な治安機関としては内務省直属の連邦憲法擁護庁(BfV)が存在し、政府直属の連邦情報局(BND)、軍直属の軍事保安局(MAD)と並んで諜報機関としても機能している。 軍事 ドイツには在欧アメリカ軍が常駐する。作戦指揮はアメリカ欧州軍から受ける。第二次世界大戦以降ドイツのラムシュタイン空軍基地に司令部を置いていて、ドイツ国内に何ヶ所か基地がある。ドイツはニュークリア・シェアリングのための核兵器を装備している。 ドイツ連邦軍(Bundeswehr)は陸軍(Heer)、海軍(Marine)、空軍(Luftwaffe)、救護業務軍(Zentraler Sanitätsdienst)そして戦力基盤軍(Streitkräftebasis)に分けられる。2005年時点においてドイツの軍事支出はGDP比1.5%で対GDP比としては世界99位だが[13]、軍事費自体は世界第8位である[37]。平時において連邦軍は国防大臣の指揮下に置かれる。ドイツが戦時に入れば(基本法は自衛のみを容認している)、首相が連邦軍の総司令官となる[38]。2011年の軍事支出も467億ドルと低めに抑えられている。 2011年5月現在、ドイツ連邦軍は職業軍人188,000と兵役最低6か月の18-25歳からなる徴集兵31,000を擁している[39]。ドイツ政府は職業軍人170,000、短期志願兵15,000へ縮小することを計画している[40]。各軍には予備役兵がおり、軍事訓練や海外派兵に参加している。予備役の将来の兵力や機能に関する新たなコンセプトが2011年に発表された[40]。 ドイツ連邦軍と国境警備隊が国防を担っている他、相互防衛条約に基づき6万強の米軍が駐留している。ドイツは欧州連合およびNATOの主要構成国であり、ロシアなど東方諸国を主たる仮想敵国としてきた。時代の移り変わりとともに、政府は連邦軍の主任務を、従来の国土防衛から「国際紛争への対処」に移行させる方針を発表。内容としては、2010年までに紛争地においてNATO即応部隊などに参加する「介入軍」、平和維持活動にあたる「安定化軍」、両軍の後方支援を担当する「支援軍」の3つに再編成するものである。 ドイツ連邦軍は、1996年から始まるコソボ紛争に投入され、セルビアへの空爆を実施して初陣を飾る[41]。以来、各地の戦争に参加しており、2011年現在、ドイツ兵約6,900人が国際平和維持活動に参加して国外に駐留しており、この中にはNATO主導の国際治安支援部隊(ISAF)に参加してアフガニスタンやウズベキスタンに駐留する4,900人、コソボ駐留の1,150人、国際連合レバノン暫定駐留軍の300人が含まれる[42]。 2011年まで、ドイツには18歳以上の男性に対する徴兵制度が存在し6か月の兵役期間が課せられていた。しかし、良心的兵役拒否者は同期間の(Zivildienst)と呼ばれる老人介護や障害者支援などの社会奉仕活動、または消防団や赤十字に対する6年間のボランティア活動を選択することができた。兵役拒否者は年々増加し、近年では兵役を選択する者は2割に過ぎなくなっていた[43]。このドイツの徴兵制度は2011年7月1日をもって中止となった[44][45][43]。しかし、徴兵制の廃止により、それまでボランティアとして慈善活動に従事させられた兵役拒否者がいなくなってしまい、老人介護などの福祉に多大な経済的負担が発生する懸念が持たれており[46]、ドイツ政府は補充対策を検討している[47]。 2001年以降、女性軍人に対する制限が廃止されて全ての軍務に従事できるようになったが、女性は徴兵制の対象ではなかった。2011年現在で約17,500人の女性の現役兵と予備役兵がいる[48]。 ドイツはアメリカ、ロシアに次ぐ世界第3位の武器輸出国である。人権弾圧国家や紛争地への武器輸出は禁止しているとされるが、実際にはサウジアラビアのような人権弾圧の疑いのある国や、イスラエルのように核保有の疑いがあり、パレスチナ問題のような不和を抱える国にも輸出されている[49][50]。ドイツの武器輸出は伸びており、2013年に輸出した武器の総額は、前年比24%増の58億5000万ユーロ(約8015億円)であった。一方、ドイツ国民の間には武器輸出に反対する声が強く、2012年の世論調査では、ドイツ人の3分の2が武器輸出に反対しているとする調査もある[51]。 ドイツ陸軍のレオパルト2主力戦車 ドイツ空軍のユーロファイター戦闘機 「不朽の自由」作戦に参加したドイツ海軍のブレーメン級フリゲート艦「カールスルーエ」がソマリア沖で難民の乗った船を保護している 国際関係 ドイツは190カ国以上との外交関係を結び、229ヵ所の在外公館を有している[52]。2011年現在、ドイツは欧州連合への最大の分担金拠出国であり(拠出額20%)[53]、国連に対しては第三位の分担金拠出国である(拠出額8%)[54]。ドイツはNATO、経済協力開発機構(OECD)、主要国首脳会議(G8)、G20、世界銀行そして国際通貨基金(IMF)に加盟している。ドイツは欧州連合発足当初から主要な役割を果たしており[55]、また第二次世界大戦以降はフランスとの緊密な同盟関係を保っている。ドイツは欧州の政治および安全保障面での統合を推進する努力を続けて来た[56][57][58]。 ドイツの開発援助政策は外交政策における独立した分野となっている。政策は(BMZ)が策定し、関係各機関が遂行する[59]。ドイツ政府は開発援助政策を国際社会における共同責任と位置つけている[60]。ドイツの開発援助支出額は米国、フランスに次ぐ世界第三位である[61][62]。 冷戦の時代、鉄のカーテンにより分断されたドイツは東西緊張の象徴となり、欧州における政治的戦場となっていた。しかしながら、東方外交を行ったヴィリー・ブラント首相は1970年代におけるデタント成功の鍵となった[63]。1999年にゲアハルト・シュレーダー首相がNATOのコソボ派兵への参加を決めたことにより、ドイツ外交の新たな基礎が定められ、第二次世界大戦以後、初めてドイツ兵が戦場へ送られた[64]。ドイツと米国は緊密な政治的同盟関係にある[27]。1948年のマーシャル・プランと強い文化的な結びつきが両国の絆を強めたが、シュレーダー首相のイラク戦争に対する強い反対意見は大西洋主義の終焉を示唆し、独米関係を冷却化させた[65][66]。両国は経済的に相互依存関係にあり、ドイツの対米輸出は8.8%であり、輸入は6.6%である[67]。 中華人民共和国 中華人民共和国はアジアにおける一番の貿易相手国である。 ドイツの武器輸出額は中国に次ぐ世界4位[68]。 日本との関係 1603年-1870年 江戸時代に来日したドイツ人の一人に、徳川綱吉とも会見した博物学者エンゲルベルト・ケンペルがいる。ケンペルが著した浩瀚(こうかん)な『日本誌』は詳細な紀行文にして博物誌であり、ゲーテも愛読したと伝えられる。日本に西洋医学を伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもドイツ人であり、徳川幕府が崩壊した後も、日本人は盛んにドイツから医学を学んだ。 直接の外交関係は、1850年代にプロイセン王国の軍艦が品川沖に来航した事に始まり、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーのように武力で外交を開こうとした。このため、1911年まで(即ち幕末から明治まで)の日独関係は、不平等条約で結ばれていた。しかし、後述のように文化交流では重要な国となった。さらに、歴史的経過を見ると、ドイツ帝国成立(1871年)と明治維新(1868年)が、ほぼ同じ時期に起こった点も大きい。 1871年-1945年 1873年に岩倉使節団はベルリン[69]、ハンブルク、ミュンヘン[70]を歴訪しており、その当時の様子は「米欧回覧実記」にも詳しく記載されている。明治維新を経た1870年代から1880年代までの日本では、ドイツ帝国の文化や制度が熱心に学ばれ、近代化の過程に大きな影響を与えた。この為、日本の近代化は「ドイツ的近代化」であるとも言われている。伊藤博文は、大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学の憲法学者ルドルフ・フォン・グナイストとウィーン大学のシュタインに師事し、歴史法学を研究している。当時の東京帝国大学がヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、明治9年(1876年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのを初め、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル、化学ではゴットフリード・ワグネルなどがいる。工学においては、大久保利通の命を受けた井上省三が、ザガン市(現・ポーランド領ジャガン)のカール・ウルブリヒト工場で紡績の生産技術を学び、日本に伝えている。その知識は現代の日本の製造業の礎となった。軍事においても、大日本帝国陸軍は、普仏戦争後、軍制をフランス式からプロイセン式へと変え、その制度と理論による近代化に努め、日露戦争の勝利に繋がった。 日清戦争後には、ドイツは、ロシア帝国や、フランスとともに、日本に対し三国干渉を行った。さらに第一次世界大戦が勃発すると日本が日英同盟により連合国側に与したため、ついにドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国など中央同盟国側とは山東半島やミクロネシア、地中海などで戦火を交えるに至った(→第一次世界大戦下の日本)。 第一次世界大戦敗戦後、ドイツ帝国は崩壊しヴァイマル共和制が成立し、ヴェルサイユ条約によって莫大な賠償金を課され、全植民地の喪失とともに、国内での軍事産業が制限された。そのためドイツは、ソ連や中国との密貿易関係を構築した。特に中国はタングステンを産出したため、中独合作を行い、日中戦争(支那事変)では蒋介石政権に最新の兵器と軍事顧問団を送り込み、日本軍を苦しめた。当時日本が高度に軍事成長を果たすのに対して、ドイツは黄禍論も背景にあり、脅威を感じていた。その後国際情勢の変動により、1936年には日独防共協定を締結、その後利害を共有する日独両国は親近感を深め、1940年には日独伊三国軍事同盟へと発展、第二次世界大戦では枢軸国(同盟国)として共に戦うこととなった。 1945年-現在 技術・経済面での交流は活発で、日本にとってヨーロッパ最大の貿易相手国となっている。特にドイツの自動車は日本でも高い人気を誇り、日本の輸入車の販売数上位3つはメルセデス・ベンツ、BMW、フォルクスワーゲンが占めている。文化や制度の面では第二次世界大戦前ほどの影響力を持たなくなったものの、クラシック音楽ではバッハやベートーヴェンをはじめとするドイツ(およびオーストリア)の作曲家の楽曲が愛好されている。 欧州連合が設立されてからは、欧州連合の中心国として交流してきた。 ドイツでは、1999年1月から2000年9月までは「ドイツにおける日本年」と定められて日本が総合的に紹介され、また日本では2005年と2006年に「日本におけるドイツ年」の諸企画が行われ、新しい形の日独交流が形成されている。 経済 2013年のドイツのGDPは3兆6359億ドルであり、アメリカ、中国、日本に次ぐ世界第4位の経済大国である[71]。EU加盟国では最大の経済力を持つ。工業製品輸出額などでは世界一である。ビスマルク統一直後にイギリスを抜いて世界最大の経済大国となり、1890年代にはアメリカに抜かれたものの、今度はアメリカ資本の集中的な投下を受けて充実を維持した。両国は第二次産業革命の牽引役と言われている。 ドイツ経済の主要産業は工業である(自動車・化学・機械・金属・電気製品)。大企業より中小企業の割合が他の先進国より高い。ドイツは戦前から科学技術に優れており、ガソリン自動車やディーゼルエンジンを発明したのはドイツ人であった。また現在見られる液体燃料ロケット(スペースシャトル、ソユーズ、アリアン、H-IIAなど、固体ロケットM-Vロケット等を除く)は戦時中にナチスが開発した技術が基礎となっている。現在でも技術力があり、自動車はメルセデス・ベンツ、ポルシェ、BMW、アウディ、フォルクスワーゲンといったブランドが世界的に有名である。その他、化学・薬品大手のバイエル、ベーリンガーインゲルハイム、電機大手のシーメンス、ボッシュ、航空会社のルフトハンザドイツ航空、金融のドイツ銀行、コメルツ銀行、経営管理ソフトウェア大手のSAP、光学機器メーカーのカール・ツァイス、ライカ、世界最大の映画用カメラメーカーであるアーノルド&リヒター、人工透析で世界シェア40%のフレゼニウス、化学メーカーのBASF、建設機械メーカーのリープヘルなど、世界的に活動している大企業は多い。近年は再生可能エネルギー産業が急成長している[72][73]。 また生活用品や日用品においても、家庭用・業務用洗剤のヘンケル、清掃機器のケルヒャー、高級キッチンのミーレ、電気シェーバーや電動歯ブラシのブラウン、スポーツ用品のアディダス、プーマ、高級時計のランゲ・アンド・ゾーネや軍用時計のチュチマ、世界最初の電波時計を作ったユンハンス、筆記用具のモンブラン、ペリカン[74]、ロットリング、ラミー、ファーバーカステル、ステッドラー、音響機器のゼンハイザー、ベリンガーや世界初のステレオヘッドフォンを発売したベイヤー、ぬいぐるみのテディベアで知られるシュタイフなど世界的に著名な企業が多い。 繁栄の基礎となるアメリカ資本をひきつけることができたのは、戦前にコンツェルンができるほど充実した保険制度のおかげかもしれない。 旧西ドイツは日本同様、第二次世界大戦後に急速な経済発展を成し遂げたが、1990年の東西統一以降旧東ドイツへの援助コストの増大、社会保障のためのコスト増大などが重荷となって経済が低迷。また旧東ドイツでは市場経済に適応できなかった旧国営企業の倒産などで失業が増え、旧東側では失業率が17.2%に達し、深刻な問題となっていた。また企業が人件費の安いポーランドやチェコなどへ生産拠点を移転させようとしているために、ますます失業が増えるのではないかとの懸念もある。しかしこの数年はGDPは増加傾向であり[75]、失業率も減少して2011年の時点では1991年以来の低水準となっている[76]。 かつてはすべての州で、「閉店法」(Ladenöffnungszeit)により、(空港や駅構内の売店、ガソリンスタンド併設のコンビニを除く)小売店は平日(月曜日から土曜日まで)は20時から翌朝6時まで、日曜・祝日は終日営業できないといった規則が定められていたが、2006年のFIFAワールドカップ開催をきっかけとして営業時間が延長された。同時に各州に閉店法に関する詳細を定める権限も移り、一部州では閉店法自体が撤廃されるところも出てきている。大型のショッピングセンターやトルコ・イタリア・ギリシャ・中国など外国人が経営する店は深夜や土日も開店している場合も多い。 社会保障 ドイツの医療は世界で初めて公的年金、公的医療保険制度を導入した。日本を含む多くの諸外国がこれを取り入れている。1883年にオットー・フォン・ビスマルクが成立させた疾病保険法に遡る世界最古の国民皆保険制度を有している[77]。現在、全住民には国家によって提供される基礎健康保険が適用され、保険者は公的・私的の中から自由に選択できる。世界保健機関によれば、2005年のドイツ国民医療費は77%が公費負担、23%が私費負担である[78]。GDPに占める医療費は11%であった。平均寿命は男性が77歳、女性が82歳で世界第20位であり、乳児死亡率は出生児1,000人当たり4人と非常に低い数値である[78]。 2009年現在の主な死亡原因は心血管疾患の42%、続いて悪性腫瘍の25%だった[79]。2008年現在、82,000人がHIV/AIDSに感染しており、1982年以降、合計26,000人がこの病気で死亡している[80]。2005年の統計では成人の27%が喫煙者である[80]。2007年の調査によれば、ドイツは肥満した人の数がヨーロッパで最大である[81][82]。 現在の年金制度は、連邦労働社会省が所管。強制加入の国営年金保険と、任意の企業年金、私的年金の3つにて構成される。国営年金は、雇用主と雇用者が折半して拠出し、2015年の保険料は18.7%であり、低所得者への減額制度がある[83]。 交通 ヨーロッパの中央部に位置するドイツは輸送機関の中枢となっている。このことは密集化され、かつ近代化された輸送ネットワークに反映されている。自動車大国であるだけに道路網も発達しており、アウトバーンと呼ばれる高速道路が主要都市を結んでおり、総延長は世界第三位である[84]。鉄道はドイツ鉄道(DB, Deutsche Bahn)が全国に路線を張り巡らせ、超高速列車ICEや都市間を結ぶインターシティ、ヨーロッパ各国との間の国際列車が多数運行されている[85]。また、都市部では近郊電車のSバーンや地下鉄(Uバーン)、路面電車の路線網が発達している。なおヴッパータールには、現在運行している世界最古のモノレールがある。トランスラピッドは世界金融危機で建設が断念された。 航空では、欧州でも屈指の大手航空会社ルフトハンザドイツ航空が世界各国に航空路線を持っている。また、などの格安航空会社もある。ドイツ最大のフランクフルト空港とミュンヘン国際空港はルフトハンザの国際ハブ空港となっており、とりわけフランクフルト空港は欧州で三番目に利用旅客数の多い空港となっている[86]。その他の主要空港にはベルリン・テーゲル、ベルリン・シェーネフェルト、デュッセルドルフ、ハンブルク、ケルン・ボン、ライプツィヒ・ハレがある[87]。 2008年現在、ドイツは世界第6位のエネルギー消費国であり[88]、主要エネルギーの60%を輸入に依存している[89]。政府はエネルギー効率改善と再生可能エネルギー活用を推進している[90]。エネルギー効率は1970年前半以降改善しており、政府は2050年までに国内電力需要を再生可能エネルギーのみで賄うことを目標に掲げている[91]。2010年時点でのエネルギー源は石油(33.8%)、褐炭を含む石炭(22.8%)、天然ガス(21.8%)、原子力(10.8%)、水力発電や風力発電(1.5%)、そしてその他の再生可能エネルギー(7.9%)となっている[92]。2000年、政府と原子力産業は2021年までに全ての原子力発電所を閉鎖することに合意した[93]。 ドイツは京都議定書や生物多様性、排出量規制、リサイクルそして再生可能エネルギーの利用などを推進するその他の諸条約に係わっており、世界レベルでの持続可能な開発を支持している[94]。ドイツ政府は大幅な排出量削減運動に着手しており、国内の排出量は低下している[95]。しかしながら、2007年時点でのドイツの温室効果ガス排出量は依然としてEU最大である[96]。 特に電力系統において、1990年から固定価格買い取り制度を採用、スマートグリッドを構築中である。1994年、基本法第20条a項として「国は未来の世代に対する責任という面においても生活基盤としての自然を保護するものとする」という条文が採用された。経済と環境は対立するものではない、大気、土壌、水質の保護は経済発展の前提条件とされた。背景には、国土が狭い上に、海岸線が短いため埋立地も十分に確保できず、その上、廃棄物の他国への越境移動が禁止されたため、自国内で処理せざるを得なくなったことである。環境保護に対する国民の意識が高まり、 1998年に同盟90/緑の党が連立政権に参加した。 1986年 廃棄物発生防止・処理規正法 産業廃棄物等の発生源によって規制する規則 1991年6月 包装材廃棄物政令 1994年10月 「リサイクル経済促進・廃棄物無公害処分確保法」(廃棄物リサイクル促進法) 1996年10月 同法施行 製造業者の関与を深める法体系を作った 2002年1月 デポジット制の制定 環境にやさしくない素材のすべての容器包装廃棄物にデポジットが課される 2011年7月 脱原発法の成立 2011年3月の福島第一原子力発電所事故の発生を機に反原発の声が高まり、2022年までに国内17基の原発を全て停止することになった。2015年3月現在、9基の原子力発電所が稼動中[97]。 科学技術 科学におけるドイツの業績は非常に大きく、研究開発活動はドイツ経済にとって不可欠な分野となっている[98][99]。これまでに103人のノーベル賞受賞者を輩出しており[100]、20世紀においては、物理学賞、化学賞、生理学・医学賞といった科学の分野で他のどの国よりも多くの受賞をしている[101][102]。非英語圏では群を抜いた受賞者数となっている。 アルベルト・アインシュタインやマックス・プランクの業績が現代物理学確立への重要な役割を果たし、ヴェルナー・ハイゼンベルクとマックス・ボルンがこれをより一層発展させた[103]。彼らの仕事はヘルマン・フォン・ヘルムホルツやヨゼフ・フォン・フラウンホーファーといった物理学者たちに引き継がれている。ヴィルヘルム・レントゲンはX線を発見し、1901年に第1回ノーベル物理学賞を受賞した[104]。また、カール・フリードリヒ・ガウス、ダフィット・ヒルベルト、ベルンハルト・リーマン、ゴットフリート・ライプニッツ、カール・ワイエルシュトラス、ヘルマン・ワイルそしてフェリックス・クラインといった数多くの数学者たちがドイツから生まれている。ドイツにおける研究機関にはマックス・プランク研究所やドイツ研究センターヘルムホルツ協会、フラウンホーファー協会がある[105]。毎年、10人の研究者にゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ賞が授与されており、最大250万ユーロの賞金は最も高額な学術賞の一つである[106]。 諸科学の中でも医学、薬学、化学はとりわけドイツが世界の先進的立場を占める分野であり、特に日本では徹底してドイツ医学に学ぶ傾向が強かったため、戦後かなり遅い時期まで日本の医師はドイツ語を学びカルテをドイツ語で書くことが常識とされていたぐらいである。森鴎外、北杜夫、手塚治虫といった医学者出身文化人がそろってドイツ文学に傾倒しているのもこの影響である。 ドイツは多数の著名な発明家や技術者の出身国であり、その中にはヨーロッパで初めて活版印刷を発明したとされるヨハネス・グーテンベルク[107]、ガイガー=ミュラー計数管を開発したハンス・ガイガーそして初めて全自動デジタルコンピュータを製作したコンラート・ツーゼがいる[108]。フェルディナント・フォン・ツェッペリン、オットー・リリエンタール、ゴットリープ・ダイムラー、ルドルフ・ディーゼル、フーゴー・ユンカースそしてカール・ベンツといったドイツの発明家、技術者、企業家たちが現代の自動車や航空輸送技術を形づくった[109]。史上初の宇宙ロケット(V2ロケット)を開発した航空宇宙工学技術者のヴェルナー・フォン・ブラウンは、後にNASAの主要メンバーとなり、サターンV型ロケットを開発してアポロ計画の成功に貢献している。ハインリヒ・ヘルツの電磁波分野での業績は現代の遠距離通信の発展にとって極めて重要である[110]。 また、ドイツは環境技術の開発と利用に関する主要国の一つである。環境技術を専門とする企業の総売上高は2005年時点で再生エネルギー分野で164億ユーロ、廃棄物処理分野は500億ユーロにのぼる[111]。ドイツ環境技術業界の重要市場は、発電、サステイナブル・モビリティ[112]、材料能率差、エネルギー効率、廃棄物管理とリサイクル、持続可能なである[113]。 グーテンベルク レントゲン アインシュタイン ブラウン ヘルマン・ワイル 国民 少子高齢化が進み、1人の高齢者を2.9人で支える高齢社会に突入しており(2012年)、OECD各国では日本の次に少子高齢化が進行している[114]。2010年1月現在のドイツの人口は8,180万人であり[115]、EU域内では最大、世界第15位である[116]。平均人口密度は229.4人/km²である。平均寿命は79.9歳。2009年の合計特殊出生率は女性一人当たり1.4人または1000人当たりでは7.9人となり、世界で最も低率の国のひとつである[117]。1990年代以降、死亡率が出生率を上回る状態が続いている[118]。ドイツは2060年までに人口は6,500万人から7,000万人に減少すると予測している(移民の程度による)[119]。 主要民族・少数民族 国民の8割はゲルマン系のドイツ語を母語とするドイツ民族である。ドイツ民族は欧州諸民族の例にもれず地域毎に文化的差異が大きいが、概ねゲルマン系の民族として認識されている。しかし南部のバイエルン地方については自己をドイツ民族ではなくバイエルン民族と定義する場合も多く、エスニックジョークの題材にもされる。他に北東部のラウジッツ地方には西スラヴ語群系の言語を話すソルブ人、バルト海沿岸部のフリースラント地方にはアングロ・フリジア語系の言語を話すフリジア人がそれぞれ存在する。またシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州には隣接するデンマーク王国の主要民族であるデンマーク人の居住区が広がる他、ポーランドと国境を接する歴史からポーランド系ドイツ人の定住も長い歴史を持っている。 1987年以降は約300万人の主に東ヨーロッパや旧ソ連から移民した民族ドイツ人(Aussiedler)がドイツに再定住する動きも起きている[120]。2000年以降、亡命と移民に対して無制限だった以前の法律が改正された結果、亡命地を求める移民や民族ドイツ人を主張する者たち(主に旧ソ連圏)の移住は減少している[121]。 これら少数民族の権利獲得や自治権を求める動きは様々な形で実施されており、ドイツ国家からの独立が主張される場合もある。2017年、国内最大の日刊紙ビルトとイギリスの調査会社はドイツ全土で「自分が住む州はドイツから独立するべきか」について世論調査を行い、バイエルン自由州で32%、ザールラント州・テューリンゲン州・ザクセン州・メクレンブルク=フォアポンメルン州の6州で20%の州民が「ドイツから独立すべき」と回答した[122]。 移民・難民 は、移民としての背景を持つ者の定義を「1949年以降にドイツ連邦共和国の領域に移民した者」「国内で出生した外国国籍者」「少なくとも一方の親が移民または国内で生まれた外国国籍者で、国籍保持者として生まれた者」としている。 2009年時点で連邦政府に登録されている外国人居住者は約700万人で、国内居住者の19%が外国人または両親の一方が外国人(送還された民族ドイツ人を含む)であり、これらの96%が西ドイツまたベルリンに居住している[123]。ドイツへのは、戦後復興期の西ドイツにおける外国人労働者の受け入れに始まり、ドイツ再統一、欧州連合のシェンゲン条約、欧州難民危機なども影響して2010年代も増加が続いている。近年では移民の総数はドイツ国民の約2割に達しつつあり、1945年以降最も移民の割合が高くなっている[124]。2012年の時点では、OECD加盟国中、ドイツは米国に次いで2番目の移民大国となっている[125]。国際連合人口基金の統計によれば、ドイツは全世界の1億9,100万人の移民人口のうち、約5%に相当する1,000万人を受け入れており、移民受け入れ数では世界第3位である[126]。 移民集団の規模は統計データによって異なるが、最大の移民集団はロシア人(350万名)であり[127]、ポーランド人(285万名)[128]、トルコ人(280万名)[129][130]、アラブ人(100万名)[131]がこれに続いている。100万名以下の移民集団としてはイタリア人(830,000名)[132]、ルーマニア人(489,000名)[133]、ギリシャ人(283,684名) [134]、オランダ人(350,000名)[135]などがある。 ロシア系移民は大部分が旧東ドイツ領に相当する東部ドイツに定住しており、ドイツ再統一とソヴィエト連邦崩壊という冷戦終結に伴う混乱が重なった事によって大量に増加した。また同じく旧東側諸国からの移民としてポーランド系移民も冷戦後に急増したが、こちらは東部ドイツに限らず南部や西部にも移り住んでいる。かつては最大の移民集団であったトルコ系移民(クルド人と自認する者も含む)は1960年代の西ドイツが労働力不足を補う為、トルコ共和国と移民協定を結んだ事で流入し、現在でも第3位の規模を持つ移民集団を形成している。2010年代にはシリア内戦など中東の政情不安によってドイツへの難民申請が続き、シリア人を筆頭とするアラブ系移民が100万名以上に膨れ上がっている。 東欧やトルコからの安価な労働力の流入がドイツ人の雇用悪化を招き、失業者の中には暴動に走る者も現れ、ネオナチなどの外国人排斥運動に賛同して外国人を襲撃するなど深刻な問題となっている。欧州難民危機以後は中東からの難民にも警戒感が広がり、PEGIDAやドイツのための選択肢などネオナチに代わる新たな排外運動が勢力を拡大している。 言語 ドイツ語は、ドイツの公用語であり支配的な言語である[136]。ドイツ語は欧州連合の23の公用語の一つであり、欧州委員会の三つのの一つである。ドイツで公認されている少数言語は、デンマーク語、低地ドイツ語、ソルブ語、ロマ語、そしてフリジア語であり、正式にヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(ECRML)により保護されている。移民の間で最も使用される言語はトルコ語、クルド語、ポーランド語、バルカン系諸言語、およびロシア語である。ドイツ国民の67%が2つ以上の言語を話し、27%は3つ以上の言語を話す。[136] 標準ドイツ語は西ゲルマン語群であり、英語、低地ドイツ語、オランダ語、そしてフリジア語と密接に関連し、分類されている。低い割合ではあるが、東ゲルマン語群(死語)と北ゲルマン語群とも関係する。ほとんどのドイツ語の語彙は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン分岐から派生している[137]。 単語の相当数がラテン語やギリシャ語からの派生であり、またフランス語そして最近の英語(デングリッシュとして知られる)からも含まれる。ドイツ語はラテン・アルファベットを使用して書かれる。ドイツ語方言(ゲルマン諸民族の伝統的な地方亜種にまで遡る)はその語彙、音韻や文法規則で標準ドイツ語からの言語変種に分類される[138]。 また、2011年現在、少数言語の研究団体エスノローグはドイツ連邦共和国内に以下を含む28言語の存在を認めている[139]。 ドイツ語(国家公用語) 低ザクセン語(北ドイツ) 上ザクセン語(ザクセン州) アレマン語(バーデン=ヴュルテンベルク州) バイエルン語(バイエルン州) リンブルフ語(ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部) マインツ語(マインツ市) 人名 18世紀ドイツにおいては、洗礼の際にミドルネームが与えられることがあった。また、女性のファミリーネームを記録する際には元の名前の最後に-inを付す習慣があった(例えば「Hahn」が「Hahnin」と書かれる)。また、一家で最初に生まれた男の子には父方の祖父の名を、一家で最初に生まれた女の子には母方の祖母の名をつけることがしばしば見られた。 また、伝統的には夫婦は同姓が原則で、日本の夫婦同姓のお手本になったとされる(1957年までのドイツの条文は、妻は夫の氏を称するとされており、日本の明治民法案(明治31年制定、それまでは日本は夫婦別姓)はそれと全く同じ。)。しかし、1957年、妻が出生氏を二重氏として付加できるとする改正が行われた。さらに、1976年の改正で、婚氏選択制を導入し、婚氏として妻の氏を選択する可能性を認め、決定されない場合は夫の氏を婚氏とするとされた。しかし、連邦憲法裁判所1991年3月5日決定が両性の平等違反としてこの条文も無効とし、人間の出生氏が個性又は同一性の現れとして尊重され保護されるべきことを明言した。その結果、1993年の民法改正で[140]、夫婦の姓を定めない場合は別姓になるという形で、現在は完全な選択的夫婦別姓制度を実現している()。 宗教 ドイツにおける最大の宗教はキリスト教で2008年現在で信者数5,150万人(62.8%)である [141]。この内30%がカトリック、29.9%がドイツ福音主義教会(EKD)に属する福音主義信徒であり、ドイツ福音主義教会には20の州教会が加盟しており、常議員会議長がドイツ福音主義教会 (EKD) を代表する。その他は小宗派(各々0.5%以下)である[142]。福音主義教会信徒は北部と東部、ローマ・カトリック教会信徒は南部と西部に多い。南部であっても、バイエルン州北部ニュルンベルクとその周辺やバーデン=ヴュルテンベルク州北部シュトゥットガルトとその周辺では福音主義教会信徒も多い。また、1.6%は正教会である[141]。 2番目に大きな宗教がイスラム教で、凡そ380-430万人(4.6-5.2%)[143]、次いで仏教徒が25万人、ユダヤ教が約20万人(0.3%)、ヒンドゥー教徒が9万人(0.1%)である。これ以外の宗教の信者は5万人以下である[144]。400万人のイスラム教徒のほとんどはトルコからのスンニ派またはアレヴィー派であるが、少数のシーア派や小分派も存在する[143]。ドイツのユダヤ人人口はフランス、イギリスに次いでヨーロッパで3番目である[145]。仏教徒の50%はアジアからの移民である[146]。34.1%が無宗教であり、旧東ドイツ地域と大都市圏に多い[142]。 宗教的多様性と国家干渉主義の両方の伝統を持つ中央ヨーロッパ、とりわけ旧東ドイツの各州においてゼクト(カルト)団体が増加しているドイツでは、予防啓発とゼクト脱退者保護の政策が、地方レベルで実施されている。ゼクト担当委員のポストが各州に創設された。中央レベルでは、教会法人格の取得に関する認証基準が定められた。情報交換を目的とした作業会議が、州職員と州代表者の間で何度も開かれた。とはいえ市民社会には秩序があり、国家宗教は揺らいでいないため、この問題への関心は限定的である。現在のところ、禁止されたゼクトはない。その上、国家権力の行動の幅は狭くなっている[147]。 教育 教育課程は初等教育4年、中等教育以降は職業人向けと高等教育進学向けの学校とに厳格に分けられている。前者の進路がいわゆる「マイスター制」である。12歳までは基礎学校(義務教育)で、子供の能力の見極めが重要になる。13歳から15歳では、就職のための専門的な職業教育が行われる。大学への進学を希望する場合は、ギムナジウムという進学校に進学し、大学進学に必要なアビトゥア資格の取得を目指す。 日本においては、俗に「ドイツでは工業職人がマイスターと呼ばれ、尊敬を受けている」という話がまことしやかに語られているが、正確ではない。第二次世界大戦後の高度成長の過程においては確かに事実であったが、近年では多くの子供たちがギムナジウムに進学する傾向が見られ、これがドイツの財政(教育費)を圧迫する原因にもなっている。また、工業職人のイメージが強いマイスター制度だが、これも近年ではコンピュータ技術者といった従来のイメージとは異なる職種の学校が増えつつある。近年、国際化によりマイスター制度が先進工業の発展に寄与しなくなったことや、12歳で人生が決まってしまう学校制度に疑問が上がり、近年は義務教育からアビトゥア資格取得まで一貫した中等教育を行うシュタイナー学校や総合学校が広まっている。 大学においても近年変革の時期を迎えている。ドイツの大学はほぼ全てが州立大学で、基本的に学費は納める必要がない(ただし、州により学費徴収を行うケースもある)。 しかし、近年の不況の影響を受け、大学は授業料を徴収するかどうか、検討を始めている。また、かつてのドイツは大学卒業した者はエリートコースを歩み、大学卒業資格は社会で相当に高い評価を得ていたと言える。しかし、近年における財政界からは、もっと柔軟な思考ができる学生が欲しいとの声が強まり、大学のカリキュラムも変革の時期を迎えている。 文化 歴史的にドイツは「詩人と思想家の国」(Das Land der Dichter und Denker)と呼ばれてきた[148]。連邦各州が文化施設を担当しており、ドイツには助成を受けた240の劇場、数百の交響楽団、数千の博物館そして25,000以上の図書館がある。これらの文化施設は多くの人々に利用されており、毎年延べ9,100万人のドイツ人が博物館を訪れ、20万人が劇場やオペラ、3,600万人が交響楽団を鑑賞している[149]。国際連合教育科学文化機関はドイツでは36件を世界遺産リストに登録している[150]。 ドイツは高いレベルの男女平等[151]、障害者の権利促進そして同性愛者に対する法的社会的寛容を確立している。ゲイとレズビアンはパートナーの遺伝的子供を養子とすることができ、2001年以降にはシビル・ユニオン(結婚に準じる権利)[152]が認められた[153]。1990年代半ば以降ドイツは移民に対する態度を変えており、ドイツ政府とドイツ人の過半数が移民の管理は資格基準に基づいて許可されねばならないと認識するようになった[154]。ドイツは2010年に世界で最も賞賛される国の統計で50カ国中第2位にあげられた[155]。2013年のBBCの世論調査によれば、ドイツは世界で最も肯定的な影響を与えている国と認められている[156]。 ドイツの祝日は啓蒙思想の犠牲となった歴史をもち、ドイツ連邦制を象徴する文化である。 ドイツはカトリック・プロテスタントが混在しているため、元日やドイツ統一の日のようにドイツ全土で祝日とされている日の他に、カトリック信者の多い州だけ、あるいはプロテスタント信者の多い州だけ祝われる日が存在するため、州によって祝日は異なっている。 美術 ドイツ・ロマン派のカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲなどの画家名やドイツ表現主義などの項目を参照。 第一次世界大戦中から戦後、ドイツは表現主義や新即物主義を生み出し、デザインや建築でもバウハウスを中心に革新的な動きを起こした。バウハウスに集ったヴァルター・グロピウス、ハンネス・マイヤー、ミース・ファン・デル・ローエ、ヨハネス・イッテン、ピエト・モンドリアン、ヴァシリー・カンディンスキー、モホリ・ナギといった美術家・建築家らは、合理主義・表現主義・構成主義といった美術観・建築観に基づくデザインを生み出し、今日のデザイン分野への影響は甚大である。 しかし既存のロマン派的流れを汲む美術団体との軋轢、およびナチスの「退廃芸術」排除の政策から、主だった美術家・建築家はアメリカ合衆国などに移民し、ドイツの芸術は壊滅的打撃を受けた。 1960年代以降、フルクサスやヨーゼフ・ボイス、アンゼルム・キーファー、ゲルハルト・リヒターなど、世界に影響を与える芸術家が多数登場し、ドイツの美術・建築・デザインは再び世界的存在感を高めている。 文学 ドイツ文学は中世のヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデやヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの作品にまで遡ることができる。著名なドイツ人作家にはかの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやフリードリヒ・フォン・シラー、ハインリヒ・ハイネがいる。グリム兄弟によって編纂出版された民話集はドイツ民話を国際レベルにまで知らしめた。20世紀の有力作家にはトーマス・マン、ベルトルト・ブレヒト、ヘルマン・ヘッセ、ハインリヒ・ベルそしてギュンター・グラスがいる[157]。ノーベル文学賞にはテオドール・モムゼン(1902年)、ルドルフ・クリストフ・オイケン (1908年)、パウル・フォン・ハイゼ (1910年)、ゲアハルト・ハウプトマン(1912年)、トーマス・マン (1929年)、ヘルマン・ヘッセ(1946年)、ハインリヒ・ベル(1972年)、 ギュンター・グラス(1999年)そして、ヘルタ・ミュラー (2009年)が選ばれている。エーリッヒ・ケストナー、オトフリート・プロイスラー、ミヒャエル・エンデなど児童文学界に影響を与えた人も多い。 ドイツ語圏の出版社は年間7億部を発行しており、出版タイトルは約8万で、その内6万が新刊である。ドイツ語書籍は英語圏市場や中華人民共和国に次ぐ第3位の市場規模を誇っている[158]。500年に及ぶ伝統を持つフランクフルト・ブックフェアは国際取引市場で最も重要な書籍見本市である[159]。ドイツは人口10万人当たりの図書館数がG7で一番多く、10万人当たり14.78館が存在する[160]。2005年にはドイツ語長編小説を対象とするドイツ書籍賞が創設された。 哲学 ドイツ哲学は歴史的に重要である。とりわけ影響力があったものには合理主義哲学に対するゴットフリート・ライプニッツの貢献、イマヌエル・カント、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、フリードリヒ・シェリングによる古典的ドイツ観念論の確立、アルトゥル・ショーペンハウアーの形而上学的厭世論の著作、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる共産主義思想の理論化、フリードリヒ・ニーチェによるの展開、分析哲学黎明期におけるゴットロープ・フレーゲの功績、存在(Being)に関するマルティン・ハイデッガーの著作そしてマックス・ホルクハイマー、テオドール・アドルノ、ヘルベルト・マルクーゼ、ユルゲン・ハーバーマスによるフランクフルト学派の発展がある。21世紀においてドイツはフランス、オーストリア、スイスそしてスカンジナビア諸国とともにヨーロッパ大陸における現代分析哲学の発達に貢献してきた[161]。 音楽 ・演劇  ドイツは、18世紀後半以降の音楽史で、同系国家であるオーストリア(1866年まではドイツ連邦議長国)とともに独占的ともいえる地位を築き、今もヨーロッパの歌劇場の過半数[162]、全世界のオーケストラの1/4以上[163]がドイツにあるといわれる。現在のドイツ連邦共和国の領域に限ってもヨハン・ゼバスティアン・バッハ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、ヨハネス・ブラームスの「ドイツ三大B」を初めとして、ロベルト・シューマン、フェリックス・メンデルスゾーン、リヒャルト・ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスなどクラシック音楽史上に名を残す作曲家や演奏家を多数輩出した。今日のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をはじめとする世界クラスのオーケストラや音楽祭も多い。オーストリアからはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、フランツ・シューベルト、アントン・ブルックナー、グスタフ・マーラーらが有名だが、マーラーを除いては完全にドイツ諸邦の盟主と見なされていた時代の出身であり、文学と同じく同言語同民族圏ひと括りで語られることが多い(相互の移動や各時代における国民意識など分離して考えることが困難なため、ベートーヴェンがドイツ音楽でブルックナーはオーストリア音楽というような分け方はほとんどされない。フランツ・リストら東欧植民ドイツ人から帰還活躍しドイツ楽派と呼ばれる存在もいる)。世界最大のクラシック音楽大国とされている。指揮者も同様に著名な人物を多数輩出している。 オペラ、コンサート、演劇への関心も強く、ある程度の規模の街には州立(国立と呼ばれる場合もある)ないし市立の劇場、オーケストラがおかれている。各地の放送局が所有しているオーケストラ(バイエルン放送交響楽団・北ドイツ放送交響楽団等)も総じてレベルが高い。オペラは、年間上演数がオーストリアとスイスのドイツ語圏をあわせるとイタリアの4倍近く、世界でも群を抜く中心国であり、諸外国からドイツ語を学んだ歌手が多く集まっている。逆にいえばドイツ人だけでは陣容を維持できない規模になっているともいえ、ポピュラー系のショービジネスや野球におけるアメリカに似た地位にある。その他、オペレッタ、ミュージカル、バレエ、ストレートプレイの上演も盛んである。特にストレートプレイについては、資本主義国では希少な、公務員並の待遇の俳優が多数存在する国であり(他にオーストリアなど)、自国語を捨ててでも安定した身分で演劇に専心できる生活を目指して入国してくる外国人も少なくない。バレエも、オーストリアを含めても目ぼしい歴史的作品を生んでいないにもかかわらず、上演活動に関してはロシアと並ぶ二大国の座を占めている。 ポピュラー音楽については、1979年、ジンギスカンの『Dschinghis Khan(ジンギスカン)』『めざせモスクワ(Moskau)』や、1980年代にNENA(ネーナ)がアメリカ合衆国などでもヒットさせた『99 Luftballons』(ロックバルーンは99)などが知られている。 また最近では、旧・東ドイツの都市ライプツィヒの聖トーマス教会の少年合唱団出身者などにより結成されたDie Prinzen(ディー・プリンツェン)が、2002年のサッカー「FIFAワールドカップ日韓大会」で活躍し、最優秀選手に選出されたドイツ代表のゴールキーパーであるオリバー・カーンをモチーフにした曲『OLLI KAHN』が話題を呼ぶ。 ロック音楽では、主なミュージシャンとしてプログレッシヴ・ロックのタンジェリン・ドリーム、テクノの元祖クラフトヴェルク、 ハード・ロックのスコーピオンズ、マイケル・シェンカー・グループ、フェア・ウォーニング、ヘヴィ・メタルのアクセプト、ハロウィン、ガンマ・レイ、ブラインド・ガーディアン、エドガイ、レイジ、プライマル・フィア、ラムシュタインなどの名が挙げられる。 テクノやトランスなどのクラブ系は、野外レイヴ『ラブパレード』や屋内レイヴ『メーデー』が開催されるなど、ドイツ国内に広く普及している。テクノではベルリンのトレゾアやケルンのコンパクトなどのレーベルから世界中のアーティストが曲をリリースしている。トランスの分野では、東ベルリン出身のDJ・Paul van Dykが「DJ Magazine」誌の人気投票で1位を獲得している。 電子音楽、エレクトロニカ、サウンドアートなども盛んであり、坂本龍一とのコラボレーションでも知られるAlva Notoが主催するレーベルRaster-Notonなど注目度が高い。 映画とテレビ ドイツ映画は草創期のに遡り[164]、ロベルト・ヴィーネやフリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウといったドイツ表現主義映画が影響力を持っていた[165]。1927年にはフリッツ・ラング監督によるSF映画の先駆たる大作『メトロポリス』が公開された[166]。1930年に公開されたオーストリア系アメリカ人のジョセフ・フォン・スタンバーグ監督『嘆きの天使』がドイツ初の大作トーキー映画である[167]。戦後はユダヤ系、反ナチ系の才能が多く流出したことや、巨大なウーファ撮影所が東ドイツの所属となったこともあり低迷。日本で紹介されるのもポルノ映画やB級西部劇ばかりという状態が続いた。1970年代から80年代にかけて、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーといったニュー・ジャーマン・シネマ監督たちが西ドイツ映画を国際的な舞台へと押し上げた[168]。毎年のヨーロッパ映画賞は隔年で(EFA)の本部のあるドイツで開催される。1951年以来、毎年開催されるベルリン国際映画祭は世界で最も重要な映画祭の一つである[169]。 近年では『グッバイ、レーニン!』(Good Bye, Lenin!;2003年)、『愛より強く』(Gegen die Wand;2004年)、『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(Der Untergang;2004年)、『バーダー・マインホフ 理想の果てに』(Der Baader Meinhof Komplex;2008年)が国際的な成功を収めている。ニュージャーマンシネマ勃興期と比べると、平明なエンタテインメント映画も豊富になってきた。また、1979年に『ブリキの太鼓』(Die Blechtrommel)、2002年に『名もなきアフリカの地で』(Nirgendwo in Afrika)、2007年に『善き人のためのソナタ』(Das Leben der Anderen)がアカデミー外国語映画賞を受賞している[170] 。 3400万世帯のドイツのテレビ市場はヨーロッパ最大であり、ドイツ世帯の90%がケーブルテレビまたは衛星放送を視聴している[171]。放送局はドイツ公共放送連盟(ARD)加盟の各地の公共放送局、第二の公共放送ネットワークである第2ドイツテレビ(ZDF)などがある。 食文化 料理は火を使わずに用意できるカルテス・エッセン (kaltes Essen、冷たい食事) と、調理してから出されるヴァルメス・エッセン (warmes Essen、温かい食事) とに大別される。よく知られているものとしては、前者にソーセージ (Wurst) 、ハム (Schinken) 、チーズ (Käse) などの冷製食品、後者に塩漬け肉アイスバイン(Eisbein)、キャベツの塩漬けザワークラウト(Sauerkraut)、肉や魚の団子クネーデル(Knödel)などがある。 ビールは16歳以上(保護者同伴ならば14歳から)の国民が飲めるアルコール飲料である(ただし、フランクフルトなど地方によってはリンゴのワインの方が人気)。ミュンヘンのオクトーバー・フェストは世界最大のビール祭りだといわれる。ドイツのワインは白ワインが主体。かつてはリースリング種をつかった甘口のワインが多かったが、食生活の変化に伴い辛口の白ワインや赤ワインが生産・消費ともに増加している。蒸留酒は18歳以上の国民が飲むことが出来る。 ドイツ料理は地域ごとに特色があり、バイエルンやシュバーヴェンといった南部はスイスやオーストリアと食文化が共通している。全ての地域で肉はしばしばソーセージのかたちで食べられる[172]。有機農産物が市場の約2%を占めており、今後も増加する見込みである[173]。ドイツの多くの部分でワインが親しまれているが、国民的酒類はビールである。ドイツ人のビール消費量は減少傾向にあるが、依然として年間一人当たり116リットルが消費されており、世界最大である[174]。 また、ビールの醸造では世界最古のヴァイエンシュテファン醸造所がミュンヘンから北東のフライジングにある。 ミシュランガイドは9件のレストランに三つ星を、15件に二つ星をつけている[175]。ドイツのレストランはフランスに次いで世界で二番目に賞を受けている[176]。 世界遺産 ドイツ国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が40件、自然遺産が4件で合計44件の世界遺産が現存する。イタリア・中国・スペイン・フランスに次ぎ5番目の登録件数である。 アーヘン大聖堂 1978年文化遺産登録 ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場 1981年文化遺産登録 シュパイアー大聖堂 1981年文化遺産登録 ベルリンのモダニズム集合住宅群 2008年文化遺産登録 メッセル採掘場の化石発掘現場 1995年自然遺産登録 スポーツ 近代オリンピックにおいて歴代ドイツ選手団は優秀な成績を収めており、獲得メダル数は旧東西ドイツ時代を含めるとアメリカ、ロシア(旧ソ連含む)に次いで世界第3位となる。2016年夏季オリンピックにおいてドイツはメダル獲得数第5位であったが[177]、2018年冬季オリンピックでは第2位である[178]。ドイツは夏季オリンピックを1936年のベルリンオリンピックと1972年のミュンヘンオリンピックの2回主催しており、冬季オリンピックは1936年にガルミッシュ=パルテンキルヒェンオリンピックを主催している。アディダスのホルスト・ダスラー(Horst Dassler)は金権政治でオリンピックを冒涜した。その後アディダスはベルナール・タピの手にわたった。 サッカー ドイツはサッカーが非常に盛んな国である。通常ドイツのスポーツ競技団体はドイツスポーツ連盟(DSB)に加盟しているが、ドイツサッカー連盟(DFB)は会員数630万人以上を数え、他の団体に比しても規模が大きい事で知られる。 FIFAワールドカップにおいてはドイツ代表が4度の優勝と4度の準優勝(旧西ドイツ時代を含む)をしており、現在も安定した強さを持つヨーロッパ屈指の強豪国である。優勝回数4回は、5回のブラジルに次ぎ、イタリアと並ぶ第2位の記録である。UEFA欧州選手権ではスペインと並ぶ最多の3度の優勝と3度の準優勝(旧西ドイツ時代を含む)をしている。2006年には1974年のワールドカップ・西ドイツ大会以来32年ぶりにワールドカップが地元開催され、3位入賞を果たした。ゼップ・マイヤーから始まり、ハラルト・シューマッハー、アンドレアス・ケプケ、ボド・イルクナー、オリバー・カーン、マヌエル・ノイアーなど、どの時代にもゴールキーパーに名選手が多いことから、PK戦では驚異的な強さである。女子代表も2003年、2007年のFIFA女子ワールドカップを連覇、UEFA欧州女子選手権では6連覇をしている強豪である。 国内のクラブチームの活動も盛んで、トップリーグであるフースバル・ブンデスリーガ(連邦リーグ)は欧州屈指のレベルにあり、バイエルン・ミュンヘンなどのクラブがしのぎを削っている。 バイエルン・ミュンヘンはチャンピオンズリーグでもドイツ最多の5回の優勝を果たしている。日本の選手ではドルトムントの香川真司、フランクフルトの長谷部誠らの多数の日本人選手らが在籍している(2018年現在)。 ウィンタースポーツ 寒さが厳しい地方ではウィンタースポーツが盛んで、冬季オリンピックにも毎回多数のすぐれた選手を輩出している。なお、1936年にはオーストリアとの国境付近の町ガルミッシュパルテンキルヒェンで冬季オリンピックが開催されている(ガルミッシュパルテンキルヒェンオリンピック)。また、西ドイツと東ドイツを含んだ冬季オリンピックでのメダル獲得数が1番であることでも知られている。 モータースポーツ 古くから自動車産業が盛んなことからモータースポーツの伝統国の1つとして知られ、1950年代までグランプリレースなどを席巻し、近年F1の世界でも再び活躍するメルセデス・ベンツ、1980年代を中心にスポーツカーの分野で数度のチャンピオンを獲得し、ル・マン24時間レースにおいては最多勝のポルシェ(近年ではアウディも)、1960年代から2000年代にかけヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)で最多勝(18勝)を挙げるなどツーリングカーの分野において圧倒的な強さを持つBMWの4社を筆頭に、自動車会社各社が目覚しい記録を残している。 二輪モータースポーツにおいてもその活動は顕著であり、古くはNSUや、ツェンダップ、クライドラー、旧東ドイツのMZモトラッド等が世界選手権を席巻した。その時代の代表格ともいえる選手がエルンスト・デグナーである。近年においては実力のある選手を輩出するもののドイツのメーカーがWGPに参戦していない時期が長かった関係から日本製オートバイでの活躍が目立つ。WGP通算42勝のアントン・マンク、スズキにタイトルをもたらしたハンス=ゲオルグ・アンシャイト、ダーク・ラウディス、ステファン・ブラドルとヘルムート・ブラドルのブラドル親子、タイトルには縁が無かったもののマーチン・ウィマーやラルフ・ウォルドマン、ラインハルト・ロス、スティーブ・イェンクナーなど個性派が多い。 また、近年はBMWがスーパーバイク世界選手権に参戦し好成績を収めている。 F1ドライバーのミハエル・シューマッハ、セバスチャン・ベッテルやDTMのベルント・シュナイダーを筆頭に優秀なレーシングドライバーを数多く輩出している国でもある。特に近年では多数のF1ドライバーを輩出している。また世界的に有名な難関コースを持つサーキット・ニュルブルクリンクがあるのはドイツである。 競泳 ドイツは1900年のパリオリンピックから競泳のドイツ人選手が参加しており、メダルを取り続けている。 平泳ぎのエルビン・ジータス、バタフライのミヒャエル・グロス、自由形のパウル・ビーデルマンなどが有名。 脚注 参考文献 『』-ドイツ政府刊行物のオンライン版、編集:Frankfurter Societäts-Medien GmbH, Frankfurt am Main Text "和書" ignored (help) 関連項目 ドイツ関係記事の一覧 ゲルマニア (擬人化) 肥沼信次 外部リンク 本国政府 (in German)(in English)(in French) on Twitter (in German)※連邦報道官公式アカウント on Flickr (in German) on YouTube (in German) (in German)(in English) (in German)(in English) (in Japanese) on Facebook (in Japanese) on Twitter (in Japanese) - ドイツ連邦外務省と「Societäts-Medien GmbH」の共同制作による情報ポータル※独・英・仏・西・中など9カ国語対応 (in German) on Facebook (in English)(in German)※使用言語は個々の投稿による(他に動画投稿有) on Twitter (in English)(in German)※使用言語は個々の投稿による(他に動画投稿有) (in English)(in German)※使用言語は個々の投稿による(他に動画投稿有) 日本政府内 (in Japanese) (in Japanese) 観光 (in Japanese) on Facebook (in English) on Twitter (in English) on Instagram (in English) on YouTube (in English) その他 (in Japanese) European Union
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 492, 1836, 2197, 3121, 3780, 4568, 5417, 6852, 7831, 8480, 9213, 9655, 10601, 10835, 11000, 12482, 13637, 15290, 16509, 17133, 18874, 19748, 20434, 20845, 21716, 22009, 23224, 24930, 25710, 26502, 27668, 29549, 30256, 31288, 32335, 33005, 33516, 34115, 36060, 36849, 37813, 38426, 39425, 40094, 40444, 41177, 41874, 42179, 42612, 43000, 43648, 44181, 44663, 45888, 47598, 48657, 49583, 49840, 50812, 51789, 53317, 54148, 55181, 55855, 56894, 57377, 57852, 58968, 59461, 59952, 60995, 62793, 63664, 65944, 67066, 67593, 69568, 70027, 70637, 71141, 72515, 75107, 75952, 76259, 77500, 78398, 78774, 79662, 80459, 81686, 82202, 82389, 83474, 83808, 84188, 84219, 84305, 84840, 85000, 85695, 86592, 87553, 89224, 92544, 93896, 94879, 95656, 96181, 96605, 97144, 99934, 102405, 103191, 103922, 104386, 104626, 105047, 105745, 106368, 106833, 107603, 108145, 108898, 109053, 109252, 109355, 109736, 110514, 110887, 111391, 112316, 113303, 114505, 117969, 118343, 118846, 119344, 120168, 120302, 121280, 122586, 124157, 125593, 126255, 127003, 128202, 131091, 131607, 132557, 133706, 134388, 135188, 135862, 136730, 137498, 138300, 138872, 139757, 140532, 140899, 141931, 142816, 144180, 144981, 146015, 146893, 147376, 147601, 148042, 148802, 149759, 149991, 153370, 154490, 155222, 155457, 156279, 156871, 157577, 158292, 159793, 160975, 161355, 162075, 162431, 162953, 163459, 164162, 164308, 165661, 166182, 166513, 167102, 167304, 167595, 167863, 169365, 170214, 171634, 173261, 173556, 174448, 175230, 175997, 176573, 176961, 177176, 178465, 178887, 179739, 180235, 181134, 182027, 182794, 183991, 185233, 185591, 187119, 187387, 188421, 189231, 189940, 190096, 190514, 191005, 191457, 191956, 192499, 192945, 193372, 193577, 194073, 194950, 195925, 196034, 197223, 197625, 197913, 198679, 199916, 200820, 201714, 202141, 202382, 202911, 203170, 203524, 203741, 206054, 206632, 206898, 207277, 207465, 207649, 208589, 208770, 208843, 209060, 209551, 209640, 210010, 210315, 210405, 210776, 210904, 211634, 211746, 214046, 214523, 216813, 217034, 217447, 217644], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 484, 1835, 2196, 3120, 3779, 4541, 5416, 6851, 7830, 8479, 9212, 9654, 10600, 10834, 10979, 12481, 13636, 15258, 16508, 17132, 18873, 19747, 20433, 20819, 21715, 22008, 23223, 24929, 25643, 26501, 27667, 29548, 30255, 31287, 32334, 32982, 33515, 34114, 36059, 36847, 37812, 38425, 39424, 40093, 40417, 41176, 41873, 42178, 42585, 42999, 43647, 44180, 44662, 45887, 47597, 48656, 49560, 49839, 50811, 51744, 53316, 54147, 55180, 55854, 56865, 57376, 57851, 58967, 59432, 59857, 60994, 62792, 63663, 65943, 67065, 67592, 69567, 70026, 70636, 71140, 72514, 75106, 75951, 76221, 77499, 78397, 78773, 79661, 80458, 81685, 82201, 82388, 83422, 83807, 84093, 84218, 84304, 84839, 84980, 85694, 86591, 87552, 89223, 92543, 93895, 94878, 95629, 96180, 96604, 97143, 99933, 102403, 103190, 103921, 104385, 104625, 105046, 105744, 106367, 106832, 107602, 108144, 108792, 109052, 109251, 109354, 109735, 110513, 110886, 111390, 112315, 113302, 114504, 117934, 118342, 118845, 119343, 120167, 120301, 121231, 122584, 124156, 125552, 126254, 127002, 128201, 131090, 131606, 132556, 133705, 134387, 135187, 135833, 136729, 137497, 138299, 138871, 139756, 140531, 140877, 141871, 142785, 144179, 144980, 146014, 146892, 147337, 147600, 148041, 148801, 149758, 149922, 153369, 154489, 155221, 155413, 156278, 156870, 157576, 158291, 159792, 160974, 161354, 161994, 162430, 162952, 163458, 164161, 164307, 165660, 166181, 166511, 167101, 167289, 167594, 167849, 169333, 170213, 171633, 173195, 173555, 174447, 175210, 175996, 176572, 176960, 177123, 178464, 178886, 179683, 180234, 181133, 182026, 182793, 183990, 185232, 185590, 187051, 187386, 188420, 189230, 189939, 190095, 190458, 191004, 191456, 191955, 192498, 192895, 193371, 193576, 194072, 194949, 195924, 196033, 197192, 197624, 197912, 198678, 199915, 200812, 201713, 202140, 202381, 202910, 203169, 203492, 203740, 206053, 206624, 206884, 207266, 207451, 207648, 208580, 208756, 208842, 209018, 209516, 209632, 209990, 210295, 210379, 210721, 210887, 211608, 211745, 214038, 214512, 216784, 217023, 217433, 217626, 218040], dtype=int32)}
リッジフィールドの戦いの死者の数は?
沖縄戦
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
沖縄戦(おきなわせん、沖縄の戦い)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。連合軍側の作戦名は<b data-parsoid='{"dsr":[5212,5226,3,3]}'>アイスバーグ作戦(、氷山作戦)。琉球語では、Ucinaaikusa (ウチナー(沖縄)いくさ(戦、軍)、の意)ともいう[1]。 概要 沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。連合国軍の目的は日本本土攻略のためのマリアナの基地と共同体制をとれる対日本本土爆撃のための航空基地確保と、日本本土進攻の補給基地の確保であった。日本軍の目的は、大本営(主に日本海軍軍令部)[2]が特別攻撃隊を主力とする航空攻撃により連合国軍に大打撃を与えて、有利な条件で講和を結ぼうという『一撃講和』を目指していたのに対し[3]、現地の第32軍司令部は当時想定されていた本土決戦[注 1]に向けた時間稼ぎの「捨石作戦[4]」(持久戦)を意図するという不統一な状況であった[3]。第32軍はサイパンの戦いなどで失敗した水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦い、特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となった。海上では大本営の決戦構想に基づき特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊が攻撃を繰り返し、戦艦「大和」などの日本海軍残存艦隊による「沖縄特攻」も行われた。 1945年5月末に第32軍の首里司令部は陥落し、日本軍は南部に撤退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、6月23日には牛島司令官らが自決。その後も掃討戦は続き、連合国軍は7月2日に沖縄戦終了を宣言し、最終的な沖縄守備軍の降伏調印式が行われたのは9月7日である。 陸海空において両陣営の大兵力が投入された。連合国軍のアメリカ軍側の最高指揮官であった第10軍司令官バックナー中将が日本陸軍の攻撃で戦死するなど、フィリピンの戦いや硫黄島の戦いと並び太平洋戦域のみならず第二次世界大戦における最激戦地のひとつとなった。使用された銃弾・砲弾の数は、連合国軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[5]。地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、「鉄の暴風()」などと表現される[注 2]。残された不発弾は、70年を経た2015年でも23トンにものぼり、陸上自衛隊などによる処理が続く。1トン爆弾も本土復帰の1972年以降だけでも6件見つかっている。 沖縄での両軍及び民間人を合わせた地上戦中の戦没者は20万人とされる[6]。その内訳は、沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄県外出身の正規兵が65,908人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である[7][8]日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は20,195人[9]、戦傷者 55,162人[10]イギリス軍の死者85人で[11]、アメリカ軍戦闘外傷病者は26,211人であった[12]。(日本側被害の詳細は#住民犠牲についてを参照) なお沖縄戦の特徴を表す端的な表現として戦後長らく「国内唯一の地上戦」が使われてきたが、正確な表現ではないため現在は使われなくなってきている。交戦時は日本領で日本本国(当時の表現での「内地」)であった北海道占守郡における「占守島の戦い」や樺太庁全域における「樺太の戦い」があり、また現在も日本領である東京都硫黄島村(現・小笠原村)の硫黄島における「硫黄島の戦い」もあるからである。このため2010年、日本政府は国会質問への答弁書をつくる際、「唯一の地上戦」という認識が「必ずしも正確ではない」と閣議決定している[13]。 背景 日本軍の戦略 1944年(昭和19年)に入りトラック島空襲など連合国軍の太平洋正面での反攻が本格化してくると、マリアナ諸島などを前線とする絶対国防圏での決戦を構想していた当時の日本軍は、後方拠点として南西諸島の防備に着手した[14]。1944年2月に日本陸軍は沖縄防衛を担当する第32軍を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。もっとも、この時点での第32軍の主任務は飛行場建設であり、奇襲に備えた警備程度の兵力であった[14]。同年4月には、海軍も沖縄方面根拠地隊を置いたが、その司令官は九州・沖縄間のシーレーン防衛を任務とする第4海上護衛隊司令官を兼務し、防衛戦力というより後方組織としての性格が強かった。 日本軍が本格的に沖縄地上戦の準備に取り組んだきっかけは、1944年7月にアメリカ軍の攻撃を受け絶対国防圏の要であるサイパン島が陥落したことであった。大本営は、捷二号作戦を立案して沖縄周辺海上での航空決戦を企図するとともに、陸上の第32軍の増強にも着手した[15]、1944年7月に第32軍の参謀長に就任した 長勇少将は、早速大本営参謀本部に乗り込むと「沖縄本島には5個師団を増強せよ!吾輩の意見を採用せず、ために沖縄が玉砕するようになれば、参謀本部は全員腹を斬れ」と怪気炎を上げている。参謀本部も長の要求に応えるかのように1944年7月に沖縄本島に第9師団、7月末に宮古島に第28師団、8月に第24師団と第62師団を増派、諸砲兵部隊を統括する第5砲兵司令部も配置、その司令官には砲兵の権威だった和田孝助中将が充てられるなど、沖縄本島を中心とする南西諸島には4個師団、混成5個旅団、1個砲兵団の合計18万人の大兵力が配置されることとなった[16]。その中で増援の独立混成第44旅団が乗った軍隊輸送船「富山丸」がアメリカ軍潜水艦に撃沈され、4,000人近くが死亡、到達したのは約600人という、先行きを不安視させる事件も起きている。 戦力増強が進む中で司令官の渡辺は疲労により持病の胃下垂が悪化、病床につくこととなってしまった。渡辺の希望により病状は中央に伏せられていたが、病状が一向に回復しなかったため、長らはやむなく軍中央に渡辺の病状を報告し、1944年8月11日に陸軍士官学校の校長であった牛島満中将が新たな第32軍司令官として着任した[17]。牛島は同郷(鹿児島県)の偉人西郷隆盛に例えられるような[18]泰然自若とした父親のような人物であり、部下将兵からは尊敬されていた。陸軍士官学校や陸軍公主嶺学校などの校長を歴任した教育畑の経歴ながら、歩兵第36旅団旅団長として日中戦争では武功を重ねており[19]、アメリカ軍からは「牛島将軍は、物静かな、極めて有能な人で、全将兵が心服していた。」と評価されている[20]。 第32軍の高級参謀は八原博通大佐であった。八原は最年少で入学した陸軍大学校(第41期)を優等で卒業し、アメリカに留学歴もあるエリート軍人で、尚且つ理性的で知己的な欧米型の思考を持つ軍人であり、理詰めで地味だが確実に成功する戦術を唱える日本陸軍では異端の軍人であった[21]。のちにその作戦に苦戦させられることになったアメリカ軍から八原は「すぐれた戦術家としての名声を欲しいままにし、その判断には計画性があった」と高く評価されることとなった[20]。 当初、八原は充実した戦力で、敵上陸時に主力を機動させての決戦を計画した[22]。連合国軍の上陸点を小禄、牧港、嘉手納のいずれかと想定、3か所の上陸予想地点にそれぞれ1個師団ずつを配置し、連合国軍が上陸してきたら、その担当師団が構築した陣地に立て籠もり上陸軍を橋頭堡にて阻止、その間に2個師団が上陸地点に向けて進軍し集結(移動は敵航空機の攻撃のない夜間)、上陸2日目の夜に砲兵の全力を結集し橋頭堡の殲滅射撃を実施、その後歩兵が突撃し上陸軍を粉砕するという作戦を考え、各師団に機動の猛訓練を行わせた[23]。 長は、海際で上陸軍を阻止する強固な陣地構築に必要な鑿岩機20台の支給を要求し、大本営も確約したが、いつまで待っても鑿岩機が到着しないため、長は大本営や陸軍中央から何らかの要求や連絡があるたびに鑿岩機をしつこく要求し続けた。その内大本営や陸軍中央では長と言えば鑿岩機が連想されるほど有名となった[24]。 第32軍首脳陣は、マリアナやフィリピン戦での航空作戦の経過を見て航空作戦に疑念や不信を抱いており、飛行場より地上戦備強化に注力していたが、航空作戦重視の大本営はそれを「手抜き」と厳しく第32軍を非難した。大本営陸軍部はまず作戦課航空班長の鹿子島中佐を沖縄に派遣、鹿子島は第32軍参謀を「今回、貴軍に強力な地上兵力を増加したが、航空作戦準備に十分な協力をされない場合は、増加した地上兵力を他に移さねばなりません。」と脅すと、第32軍もさすがに折れて、大本営の方針を受け入れることとした[25]。大本営は飛行場作りの名人と言われた飛行場設定練習部部員釜井中佐を第32軍参謀に補職し、戦闘部隊を建設作業へ大規模投入して飛行場設営が急ピッチで進められた[26]。 飛行場の扱いについては、航空決戦の為の飛行場重視の大本営などの中央と、地上戦備重視の第32軍の考えの違いが連合国軍上陸後の作戦にも大きく影響することとなった。 第32軍の作戦準備と並行して、沖縄島民の疎開も進められた。(#アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難)) 第9師団の転出 1944年10月にフィリピンでレイテ島の戦いが起きると、状況は変わった。レイテ島の戦いに先立つ台湾沖航空戦で日本海軍が誤報した連合国空母多数撃沈の過大戦果を前提に、大本営は捷一号作戦(フィリピン決戦)を決意し、レイテ島への戦力増派に進んだ[27]。大本営は沖縄から1個師団、姫路から1個師団、朝鮮から1個師団、満州から1個師団、台湾から1個師団の合計5個師団のレイテ投入を考え[28]、第32軍に「第32軍より、1兵団を比島(フィリピン)方面に転用することに関し、協議したきにつき、八原大佐を11月3日夕刻まで台北に参集せしめられたし」という電文を打った。受け取った第32軍は激高し、八原が作成し牛島が裁可した「沖縄から1兵団を抽出されたら、沖縄の防衛に責任は持てない」「抽出するなら宮古島の第28師団であれば可」「沖縄より1個師団抽出し他から1個師団を沖縄に補充する計画なら、その師団を直接比島に増派すべき」「沖縄から1個師団を抽出されるぐらいなら、むしろ第32軍主力が国軍の決戦場比島にはせ参じることを希望する」という返答を準備し、1944年11月3日に台北の第10方面軍司令部で開催された、大本営、第10方面軍、第32軍の会議に八原を出席させた[29]。 会議ではまず最精鋭の第10師団のフィリピン転出を打診されている第10方面軍の市川参謀が「台湾軍は既に1個師団引き抜かれており、さらに第10師団まで持っていかれたのでは、後に残るのは2流師団3個だけで、これでは戦えない。沖縄と比較して台湾は広大であるから、沖縄から1個師団引き抜くと言うなら台湾にいただきたい。」と意見を述べた。市川の次に八原は持参した返答を読み上げたが、その後は長から台湾への出発前に「黙っているのが最上」と訓示された通り、何の意見も言わなかった。この会議に大本営から出席した服部卓四郎第2作戦課長は、姫路の第84師団をフィリピンではなく、1個師団を抽出された後の沖縄に転用する腹案を持っていたが、八原ら第32軍の大本営の方針を一笑し一蹴する意見具申にその腹案を提示することもできず、また八原の態度で会議の場も気まずい抗立の空気のまま、何ら結論を出すことなく散開となった[30]。 台北会議後の1944年11月11日に、まず中迫撃第5、第6大隊(15cm迫撃砲24門)がフィリピン方面へ転用が命じられ、軍砲兵隊による橋頭堡殲滅射撃の構想に大きな影響を及ぼした[31]。 その後の11月13日、大本営から「沖縄島に在る兵団中、最精鋭の1兵団を抽出するに決せり。その兵団の選択は軍司令官に一任す。」という命令が届いた。八原は自分が作成した意見書が全く考慮されなかったことに激しい憤りを覚えたが、牛島と長は冷静に受け入れ、八原は不承不承、抽出する師団の選定を行った。沖縄の精鋭師団は第9師団と第24師団のいずれかであったが、第9師団は日清戦争・日露戦争でも活躍した歴史のある師団で、よく訓練行き届いた精鋭師団ながら山砲師団で、新設師団で兵士の訓練度では劣るものの野砲師団で四年式十五糎榴弾砲まで装備していた第24師団の方が砲火力が勝っていたため、八原は第24師団を残すこととし、第9師団を「最精鋭師団」として軍から手離すという意見書を作成した[32]。 八原の意見書に基づき、第9師団が1944年12月中旬から翌1945年1月中旬にかけて台湾へ移動し、第32軍は兵力の三分の一近くを失った[33]。第9師団は、台北会議での第10方面軍の要望通り、フィリピンに転用された第10師団の代わりに台湾に配置されることとなり、そのまま終戦を迎えることとなった[34]。 戦略持久作戦への転換 第9師団の台湾抽出により、第32軍は大幅な作戦変更を迫られる事となった。八原は、戦力補充はあてにせず現兵力をもって最善を尽くす方針で4つの作戦案を提案し、第32軍司令部はその中から、現有戦力に最も適した地形となる沖縄本島南部島尻地区に主防御陣地を構築し、持久戦術を取る作戦案を採用した[35]。今までの機動決戦方針を断念して本島南部での持久戦を行う作戦計画で、本島中部に配置されていた第24師団を南部に移動し、北部・中部の飛行場は小部隊による遅滞防御と砲撃による利用妨害程度にとどめることを決めた[22]。第32軍は度重なる作戦変更や兵力の増減により何度も部隊配備が変更になっており、その度に陣地の再構築を余儀なくされたが、この作戦案に基づき1944年(昭和19年)11月末から12月上旬にかけて行った再配備に伴う陣地構築が最終形となった[36]。作戦変更により、本島中部に位置する北・中飛行場は主陣地外となり、実質的に防衛を放棄している状況になった[37]。 大本営では、1944年12月、大本営陸軍部(参謀本部)作戦部長に宮崎周一中将が就任したが、この時にはアメリカ軍を中心としたレイテ島の戦いで日本軍は敗北し、ルソン島の戦いの最中でフィリピンの日本軍の敗勢は明らかで、宮崎は不眠不休で「本土決戦方針」の新作戦計画を作成すると、その新作戦案が基礎となった『帝国陸海軍作戦計画大綱』が陸海軍で決定されて、1945年1月19日に陸軍梅津美治郎参謀総長と海軍及川古志郎軍令部総長が列立奏上した[38]。 その頃に、台北会議で服部が持っていた第9師団の代わりの第84師団(姫路)の沖縄派遣という腹案は、宮崎中将の前任の真田穣一郎作戦部長を通して梅津の裁可を受けて上奏も終えており、1945年1月22日に第32軍に内示された。この内示を受けた第32軍幕僚らには久々の笑声が湧いた[39]。しかし、その内示を知った宮崎は梅津を訪ねるとすぐに第84師団の派遣を中止すべしと強硬に進言した。梅津は一度上奏までした派遣を中止するという前例はなかったため当惑したが、宮崎はさらに「沖縄への海上輸送はもう無理です。1兵たりとも惜しむべき本土防衛の戦力を、今ここで海没の犠牲にすることは、自分の理性が許しません。」と進言し、梅津は沈思黙考の上で宮崎の進言を受け入れた。これは梅津を含め日本軍の最高首脳部にも、本土決戦以外に道はないという考えが浸透していたことによるものと思われる[40]。その後に、宮崎が服部に第84師団派遣中止を告げると、それを聞いた服部の部下の作戦第2課の沖縄方面担当参謀の羽場安信少佐が、血相を変えて梅津の部屋に飛び込み「沖縄の1個師団は本土の2,3個師団に相当する、もう現地に内示している、海上輸送が危険と言っても全部はやられない、1/3の損害は覚悟している。」と激しく詰め寄ったが、梅津は派遣中止の決定を撤回することはなかった。その後、羽場は宮崎にも激しく意見したが、宮崎は羽場をいなすだけであった[41]。 第32軍にも、第84師団増派による作戦計画を考える間もなく1月22日の夜には派遣中止の電報が入った。この経緯から第32軍は大本営に不信感を抱き、その後の作戦に支障をきたした[42]。この後、第10方面軍参謀長諫山春樹中将が沖縄を訪れ、八原ら参謀に「今後、第32軍には増兵はされない。比島方面に輸送できなくなった軍需品を第32軍に与える。」と第10方面軍内での武器・弾薬の補給を約束した後で、「大本営は本土決戦準備に熱中しており、我々は現有の戦力で戦うだけである。」と軍中央の状況を説明した。結局、最後まで第32軍には軍中央から制式に本土決戦方針の企図が示されることはなく、諌山らから間接的に聞いただけであった[43]。 『帝国陸海軍作戦計画大綱』によれば、「南千島、小笠原諸島(硫黄島ヲ含ム)沖縄本島以南ノ南西諸島、台湾及上海附近」を「皇土防衛ノ為、縦深作戦遂行上ノ前縁」と位置づけ、「右前縁地帯ノ一部ニ於テ状況真ニ止ムヲ得ズ敵ノ上陸ヲ見ル場合ニ於テモ極力敵ノ出血消耗ヲ図リ且敵航空基盤造成ヲ妨害ス」としており、沖縄は硫黄島などと同様に、日本本土の前縁として敵の出血・消耗を強いる防波堤と想定していた。沖縄戦における日本軍の作戦は、これをもって「捨て石作戦」と呼ばれている。[44] 一方、海軍は天一号作戦を定めて、沖縄へ来攻する連合国軍を航空戦力主体で迎撃して大打撃を与え、有利な講和をもちかける一撃講和を考えていた[3]。そのため、大本営は飛行場確保を重視して第32軍に作戦変更を要求したが、第32軍は応じないまま連合国軍を迎えることになった[3]。 日本軍の戦力状況 沖縄本島地区における最終的な日本側の陸上兵力は、116,400人とされるが、日本本土から戦闘部隊として派遣されたのはその中で50,000名に過ぎなかった。他に海軍陸戦隊で実際に武器の操作ができるのが3,000名、軍の後方部隊が20,000名であり、残りの約35,000名が防衛召集された沖縄県民だった[45]。 第32軍は戦力不足を補うため、自力戦力増強として沖縄県民の17歳以上45歳未満の男子を召集して、第32軍の各部隊や「防衛隊」と俗称される補助兵力に編入したが、沖縄からは既に30,000名が召集され沖縄県外の部隊に従軍しており、合計65,000名が兵士として召集されたこととなり、沖縄の郷村に青年男子無しと言っても過言ではない状況となった[46]。 他に旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊や、女子生徒を衛生要員としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊なども組織され、その数は2,000名以上にも達している[47]。(現地住民の戦闘協力の詳細は#住民の戦争参加を参照) 本島守備隊の主力は、関東軍から転用された第24師団であった。前述の通り、第32軍の選定により沖縄に残存した部隊で、台湾に転用された第9師団と比較すると強力な師団砲兵を有していたことが、大きな選定理由となっていた[31]。もうひとつの本島所在師団である第62師団は師団砲兵を欠いた本来は警備用の編制であったが、大陸打通作戦に参加したことにより、実戦経験豊富な精強な戦闘部隊となっていた[48]。独立混成第44旅団は輸送船の撃沈で大損害を受けた部隊で、補充のため一〇〇式輸送機で空輸された独立混成第15連隊を受け取っていた。機甲部隊は30両に満たない戦車第27連隊があるだけだった。兵站部隊や船舶部隊も地上戦闘用に使うため6個の特設連隊として再編されている。また、八原は牛島に軍司令部要員などの冗員を第一線に回すよう進言している[49]。このように第一線の戦力の強化が進められたが、当時の第32軍の評価で真の陸戦兵力といえるのは約4万人に過ぎなかった[50]。 第32軍の歩兵戦力が戦力不足だったのに対し、砲兵戦力は当時の日本軍としては極めて充実していた。第5砲兵司令部指揮下だけで400門以上の火砲を擁すほか、砲兵師団1個と独立混成旅団砲兵隊および戦車第27連隊の機動砲兵、また歩兵部隊中の歩兵砲があった。生産力や補給力に劣る太平洋戦争時の日本軍において、このような大量の火砲が投入されたのは第1砲兵隊が投入された太平洋戦争緒戦の一連の南方作戦(香港の戦い、シンガポールの戦い、フィリピンの戦い(コレヒドール島砲撃戦)等)や、硫黄島の戦い等に限られる。アメリカ陸軍の公式戦史も、沖縄の日本軍について従前の日本軍と大きく異なる点として、日本軍相手では経験したことがない多数の火砲とその効果的な運用を指摘している[51]。アメリカ軍は戦訓広報誌「Intelligence Bulletin」において「日本軍が過去10年にわたって準備してきた沖縄防衛作戦は、那覇ー首里ー与那原防衛線強化のために用いられた火力支援の質、量の面で卓越したものであった。沖縄の日本軍砲兵は、連合軍が太平洋戦線で遭遇したなかでもっとも有効であった。」と評価していたが、実際には沖縄の防衛作戦が真剣に検討され準備を始めたのは、第32軍が沖縄に配置された1944年2月で、持久作戦に方針転換したのは第9師団が転出となった1944年末以降のことであり、10年ではなくわずか半年足らずの準備であった[52]。 特に日本軍火砲が効果を挙げた「シュガーローフの戦い」においては、アメリカ海兵隊員は「やつら(日本軍)は牛乳瓶の中にでも弾を撃ち込むことができた」とその正確性に驚愕し、後に編纂された第6海兵師団の戦史では「日本軍の砲撃はこれまで出会った事が無いほど、優れた統制と正確さの下で実施された」と纏められている[53]。ある時には観測地点で敵情観察中のアメリカ海兵隊将校らのど真ん中に砲撃を命中させ、大隊長と戦車隊将校ら5名を戦死させ、中隊長3名に重傷を負わせるといった正確性を発揮している[54]。 八原博通第32軍高級参謀の「寝技戦法」について 大本営陸軍部は、1944年(昭和19年)8月19日に、アメリカ軍を相手にしたサイパン島の戦いやグアムの戦いの戦訓を十分に取り入れ作成した「島嶼守備要領」を太平洋各地の島嶼守備隊に指示している。同要領では特に、アメリカ軍の猛烈な砲爆撃に対抗できる陣地の選定要領や戦闘要領が強調されていた[55]。 また、大本営陸軍部第一課が前線からの報告を纏め編纂した「戦訓報」でも、サイパンの失敗と対策やペリリュー島の戦いの善戦は各部隊に伝えられており、沖縄戦に先立つ硫黄島の戦いでは戦訓を活かして坑道陣地による持久戦術を徹底し、アメリカ軍を苦戦させている[56]。 八原の作戦計画も「島嶼守備要領」に沿うものであり、硫黄島と同様に戦訓を十分活かすべく、アメリカ軍やイギリス軍による砲爆撃対策として強固な陣地作りに心血を注いでいる[57]。八原は講道館柔道家がアメリカの屈強なボクサーを相手に試合したときに、柔道家は終始寝技でボクサーの強烈なパンチを封殺し、遂に快勝したという講談からヒントを得ており、この作戦を『寝技戦法』と自ら称した[58]。 寝技戦法の中心は築城であり、連合国軍艦艇の艦砲射撃や1トン爆弾などの強烈なパンチがあっても、それを跳ね返す堅固な築城があれば、敵の物量を無価値にできると考え、戦車も対戦車築城を徹底させれば恐れるに足らずとも考えた[59]。 八原参謀は「不可能を可能にする唯一の道は強固な築城であり、洞窟戦法である。」との『寝技戦法』の基本方針を記した「必勝の途」というパンフレットを作り全軍に布告し、全将兵に徹底した築城を命じた[59]。 対するアメリカ軍は、猛烈な砲撃で日本軍の反撃を封殺し、日本軍陣地の頂上に這い上がった歩兵が、日本軍陣地に黄燐弾を投げ込み、爆雷を投下し、ガソリンを流し込んで皆殺しにする『トーチ&バーナー戦術』で日本軍陣地を一つ一つ壊滅させていった。この対抗策として日本軍は、頂上を占拠された日本軍陣地に、隣接する友軍陣地の機関銃、擲弾筒、野砲で集中攻撃して、逃げ場のないアメリカ歩兵を殲滅する戦法で対抗した。これは、占拠された自軍の陣地をまな板のように見立てていることから『まな板戦法』と呼ばれたが、この戦法でもっとも猛威をふるったのが日本軍の擲弾筒であった[60]。擲弾筒は沖縄戦でアメリカ軍兵士がもっとも恐れた兵器の一つで、前線で戦ったアメリカ軍兵士の評価は「それ(擲弾筒)はあらゆる兵器のなかでもっとも猛威をふるった」「擲弾筒の弾丸の飛んでくる音は目標となっている者には聞こえず、聞こえたときには手遅れだった。非常に大きな損害をこうむったものだ」「その砲弾をアメリカ軍の頭上に落下させることができたし、それほど弾着が正確でとくに嫌われていた」であった。歩兵第22連隊第1大隊(大隊長小城正大尉)は特に擲弾筒を有効活用してアメリカ軍を苦しめており、日本軍は通常は小隊ごとに4筒の擲弾筒を配備して使用していたが、小城は合計36筒の擲弾筒を大隊直轄として集中使用した。アメリカ軍は、攻撃部隊の中・小隊に集中砲撃を浴びせたこの小城の戦法を「異例なほど効果的なやり方」と評価している[61]。 陣地構築に際しては、コンクリートなどの資材は不足していたが、沖縄の南部地域は、固くてツルハシも通らないような隆起珊瑚礁と柔らかい泥灰岩や砂岩で広く覆われており、それら地層をうまく活用して陣地が構築された。陣地構築については第32軍兵士の他、多くの沖縄県民も動員された[62]。それで完成した隆起珊瑚礁の陣地は、アメリカ軍の砲爆撃でも容易には破壊されなかった。また、多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓がその堅牢な構造からトーチカ代わりに使われ陣地の一部となった[63]。 実際に日本軍の陣地と対峙したアメリカ軍は、太平洋戦域の各戦場を戦い抜いてきた歴戦の兵士も多かったが、この沖縄の日本軍地下陣地が、今までの戦場で見てきた日本軍陣地における巧妙や複雑さなどの利点を全て兼ね備えていると痛感させられている。砲爆撃に耐える堅牢さだけでなく、陣地は網の目の様な地下坑道で連結されて地下移動による補給や兵員の補充も容易で、防御から攻撃への切り替えもできるなど巧妙な設計となっていた。出入り口は擬装されており、攻撃しているアメリカ軍の後方に不意に出現し、背後から攻撃する事も可能であった[64]。 アメリカ陸軍は沖縄の頑強な日本軍陣地を「小ジークフリート線」や[65]「常軌を逸して防衛された陣地」と評している[66]。海兵隊員のある士官は「土に埋まった戦艦のようだった」とも評した[67]。 シュガーローフの戦いで威力を発揮した『反斜面陣地』も多く構築されている。『反斜面陣地』とは、敵と相対する斜面ではなく反対斜面に構築された陣地であり、反対斜面にあるのでアメリカ軍の砲撃では中々破壊されず、アメリカ軍が山頂に達すると、反対斜面の陣地で砲爆撃をやりすごした日本軍が、迫撃砲や擲弾筒や手榴弾投擲で山頂のアメリカ軍を攻撃したり、網の目のように張り巡らされた地下坑道を伝ってきた日本軍が背後から攻撃してくるといったもので、今までのアメリカ軍が経験したことがない戦法であった[68]。シュガーローフでは、巧みな日本軍の陣地構築で「死傷者が続出しているのに日本兵の姿は全く見えない」「丘(シュガーローフ)から弾は飛んでくるが日本兵は全く見えないので、丘を相手に戦ってる気分だった」という状況であった[69]。 第32軍司令部も首里城地下に構築された。八原は司令部構築に莫大な労力と資材を投入することに反対したが、参謀長の長の強い主張により構築が決定された。多数の市民と沖縄師範学校生徒の協力により、総延長1,000m以上、深さ15m~35mで、戦艦の艦砲射撃や爆撃機の1トン爆弾に耐えられる構造の洞窟軍司令部が連合軍上陸直前の3月中旬に完成した。後にこの司令部は首里戦線の核心となり、防衛戦の要となったことから、八原は長の軍司令部構築の判断に敬服している[70]。 連合国軍の戦略 連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた[71]。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた[71]。他方、連合国軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。 1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた[72]。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway 日本語で土手道のこと) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた[73]。 ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた[74]。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した[74]。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島がその拠点に相応しいと考え、南太平洋地域陸軍司令官且つ第20空軍の副司令官中将がコーズウェイ作戦を中止し、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、コーズウェイ作戦の指揮官に内定していたバックナーも、南太平洋地域での補給部隊と支援部隊の不足を理由にハーモンの意見に同調した。陸軍の意見にアーネスト・キング海軍作戦部長も同意し、1944年10月2日にルソン島、小笠原ついで沖縄の順で攻略することが決定した[75]。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった[76]。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[77]。バックナーと沖縄攻略を主張したハーモンは、アメリカ軍が硫黄島に上陸した直後の1945年2月26日に、沖縄攻略を含む今後の太平洋方面の戦略を協議するため、グアムからハワイに向かう途中に搭乗していたB-24が墜落して行方不明となり、沖縄上陸を見ることなく死亡と認定された[78][79]。 さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合国軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍ととイギリス軍を中心とした機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった[80]。ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還と言う大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた[81]。 1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画からはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった[82]。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった[83]。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった[84]。 装備についても、陣地攻撃に絶大な威力を発揮してきた火炎放射器装備のM4中戦車の射程・火力強化型、暗視スコープ付きの狙撃銃、近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機、M18 57mm無反動砲、M20 75mm無反動砲、M2 107mm迫撃砲などの新型兵器が多数配備された[85]。アメリカの軍需産業はフル回転しており、軍事資材の面では全く懸念はなかった。従って第10軍は装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と見られていた[86]。 これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団と極東航空軍も直接支援を行った[87]。最大の問題はこれらの大部隊を養うだけの大量の物資を絶え間なく輸送する必要があることで、まずは当面の740,000トンもの物資をアメリカ本国やハワイなどから、沖縄上陸40日前から21回の輸送で、前線基地のあるレイテ島やウルシー環礁やマリアナ諸島に輸送された。その中には収容を見込んでいる沖縄の民間人の食糧として、米や大豆や魚の缶詰など70,000人分の食糧も含まれていた[88]。 ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している[89]。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた[90]。 アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった[91]。 戦闘経過 事前攻撃 アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母16隻を中心とした強力な機動部隊の第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月14日にウルシー環礁を出撃、3月18日から九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した[92]。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。 3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2,000機を出撃させた。24日には沖縄への増援部隊を乗せたカナ304船団を全滅させている。また、24日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い[93]、上陸予定地点の掃海作業も始まった[94]。このほか日本の海上輸送を破壊して戦争遂行能力を失わせるため、B-29爆撃機による日本本土空襲や関門海峡はじめ、主要港湾、航路や海峡などへの機雷投下も行われ(飢餓作戦)、今や沖縄は孤立させられてしまっていた[95]。 ガダルカナル島やラッセル諸島で訓練や編成を行っていたアメリカ軍部隊を満載した大量の輸送船団はウルシー環礁で合流すると、3月25日に沖縄に向け進撃を開始した。同様にサイパン島からも進攻部隊が進撃を開始した[96]。 一方日本軍では、硫黄島上陸作戦以降のアメリカ軍の次期侵攻の方面と時期について、連合軍の船舶の動き、航空基地の整備状況、通信諜報等で分析努力を行っていたが、確定させるには至らなかった。陸海軍で侵攻目標の予想が割れており、海軍は小笠原諸島と考え、陸軍は台湾と判断していた[97]。 慶良間諸島の戦い 3月23日に、沖縄本島に延べ355機の艦載機による空襲があり、その他先島諸島・大東島地区・奄美地区にも艦載機の空襲があった[98]。その後、日本軍の索敵機が、同日午前10時30分に沖縄本島南東90kmに機動部隊を発見、さらに夕刻沖縄本島東方100kmに艦艇群(艦種不詳)も発見している[98]。 これに対する日本側の情勢判断は、3月19日時点では、大本営陸軍部は次のアメリカ軍の侵攻地を台湾方面の公算大と判断しており[99]、第32軍も23日時点では大本営の判断もあって、沖縄への本格的な侵攻であるかの判断ができなかった。しかし、翌24日に沖縄本島南部へ戦艦以下30隻のアメリカ軍艦船が現れ艦砲射撃を開始、また延べ600機にも上る艦載機による激しい空爆が行われた為、第32軍司令部はアメリカ軍の上陸が沖縄に行われると判断し[100]、甲号戦備[注 3]移行を命じた。 日本海軍の連合艦隊司令長官も、近く沖縄へアメリカ軍が来攻するものと判断し、回天特攻「多々良隊」の潜水艦4隻にも出撃準備を命じた。また同日に天一号作戦の予令を発令、第3航空艦隊と第10航空艦隊に移動準備を指示している[101]。多々良隊の「伊44潜」「伊47潜」「伊56潜」「伊58潜」は3月28日から順次沖縄方面に出撃したが、戦果を挙げることなく「伊44潜」と「伊56潜」の2隻を失った。 空襲翌日の3月24日には早くも日本側の反撃が開始され、天山艦攻による雷撃、翌25日未明には陸攻銀河による爆撃でアメリカ艦隊を攻撃し、駆逐艦2隻、その他2隻を損傷させている[101]。また、沖縄の海軍根拠地隊司令官の大田実少将が、運天港の特殊潜航艇部隊である第2蛟龍隊に出撃を命じている。蛟龍はこの戦いが初陣となったが、を撃沈後に壊滅した。 3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島への上陸に先立ち泊地や水上機基地などを設置するため、第77歩兵師団を慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸させた[102]。日本軍は慶良間諸島は地形が険しい狭い島で航空基地の適地もなく、沖縄本島に先立っての侵攻を想定していなかったため[103]、地上部隊をほとんど配備していなかった。展開していたのは、本島防衛任務の四式肉薄攻撃艇(マルレ)部隊である陸軍海上挺進戦隊3個とその支援部隊程度であった。第32軍司令部は出撃困難と判断して機密保持のためマルレの処分を命じた。すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊は、命令に従って島の奥へ後退した。慶留間島所在のマルレのうち4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。アメリカ軍は29日までに慶良間諸島全島を占領した。アメリカ軍第77歩兵師団の記録によると、31日までに日本兵530人が戦死・121人が捕虜となり、アメリカ兵31人が戦死・81人が負傷した[104]。 アメリカ軍の慶良間諸島上陸と同じ3月26日に、日本側では陸軍第10方面軍司令官と海軍連合艦隊司令長官が、天一号作戦を発令した[105]。同日中には早速、陸海軍の通常攻撃機46機が薄暮にアメリカ機動部隊を攻撃、また第8飛行師団誠第17飛行隊の九九式軍偵6機とその他8機合計14機の特攻機が慶良間沖のアメリカ艦隊を攻撃した。本特攻隊は少数ながらも戦果は大きく、駆逐艦「オブライエン」大破・死傷者126名、駆逐艦「キンバリー」中破・死傷者61名、他に軽巡洋艦「ビロクシ」と駆逐艦2隻を損傷させている[106]。翌27日には沖縄本島の中飛行場から出撃した第8飛行師団誠第32飛行隊と海軍神風特攻隊の銀河や彗星合計26機が嘉手納沖のアメリカ艦隊を攻撃、戦艦「ネバダ」の第三主砲塔に1機が命中、14インチ砲を破壊し59名の死傷者を出させるなど、16隻の艦船に損害を与えている[107]。その後も沖縄本島や周辺諸島からの特攻出撃は続き、31日には誠第39飛行隊の一式戦「隼」が、レイモンド・スプルーアンス中将率いる第5艦隊の旗艦重巡「インディアナポリス」に命中、大破・航行不能にさせている[107][注 4]。しかし、陸海軍ともに本土や台湾からの本格的な航空攻撃は4月に入ってからとなり、沖縄本島上陸前の時点では日本側の航空攻撃は未だ散発的であった。また、29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈している。 3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸した。そのうち慶伊瀬島の神山島に第420野砲群(仮訳:420th Field Artillery Group)のM59 155mmカノン砲(愛称ロング・トム)24門を布陣させ、沖縄本島の日本側陣地の奥深くまでを射程圏内に収めた[108]。ロング・トムの射程は20,000m以上もあり、日本軍の火砲で神山島のロング・トムに対抗できそうなのは、長堂西側高地に配置してあった八九式十五糎加農砲2門のみで多勢に無勢であった。しかし、四六時中傍若無人に砲撃してくるロング・トムに手を焼いた日本軍はやむを得ず八九式十五糎加農砲に反撃を命じたが、結局、神山島までは砲弾が届かないことが判明した[109]。4月1日にも、日本軍は第420野砲群への反撃と、上陸準備のために岩礁上で障害物除去などの作業をしているアメリカ軍に対して砲撃をしたが、アメリカ軍に被害はなかった[110]。 那覇港内にある船舶工兵第26連隊長佐藤少佐から、ぜひ選抜隊をもって神山島に斬り込みをかけたいとの申し出が第32軍司令部にあった。アメリカ軍の絶対制海権下で斬り込みの成功は危ぶまれたが、打つ手のなかった第32軍はこの申し出を取り上げて、参謀薬丸兼教少佐を中心に準備を進めた。4月9日に西岡少尉以下半数が糸満漁夫で編成された50名の斬り込み部隊は、協力予定の海軍の大発動艇が故障で参加できなかったので、刳舟を人力で漕いで神山島に突入した。生還者は西村少尉以下わずか十数人と犠牲は大きかったが、ロング・トムの何門かが破壊されて、3日間に渡って神山島からの砲撃が止まったため、第32軍全軍が西村らの英雄的行為に感謝している[111]。 先島諸島の戦い ヨーロッパでドイツ海軍が壊滅したことから、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは太平洋の権益確保の意味合いもあり、かねてから太平洋戦域へのイギリス艦隊派遣を希望していた。 ダグラス・マッカーサーら米軍の指揮官の一部は、イギリス軍の今までの太平洋戦域での貢献度の低さもあり「我々が収めた成功報酬の分け前にあずかろうとして、この地域への出動を提案したのだ」と指摘し、太平洋への英艦隊派遣申し出を警戒していたが、太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将ら米海軍は、戦力増強を現実的判断で歓迎し、イギリスは英太平洋艦隊(en)としてキング・ジョージ5世級戦艦2隻(キング・ジョージ5世、ハウ)・イラストリアス級及びインプラカブル級空母4隻(イラストリアス、ビクトリアス、インドミタブル、インディファティガブル)・巡洋艦5隻・駆逐艦15隻の強力な機動部隊を沖縄戦に派遣している[112][113]。このイギリス艦隊は、先島諸島方面を担当することになった。 3月23日にウルシー環礁を出撃した英太平洋艦隊は、4月1日に日本軍が先島諸島に建設した航空中継基地に宮古島沖で発見され、特攻機による攻撃を受けた。零戦1機が空母「インディファティガブル」に命中、戦死21名・負傷27名の人的損害を受けたが、英空母は日米空母とは違い、航空甲板は戦艦並みの装甲板であり致命的な損傷を受けなかった。それでも艦橋構造物に大きな損傷を受けレーダーや無線装備も全て破壊された為、英本土に後退している[114]。その後も英太平洋艦隊は、宮古島沖で台湾方面から飛来する特攻機の迎撃や地上支援任務を行っていたが、後に増援された艦も含めて4隻の空母(前記「インディファティガブル」を含めると5隻)全てが特攻機により損傷を受けている。 沖縄本島へのアメリカ軍の上陸 4月1日朝、アメリカ軍は守備の薄い本島中西部で、第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した[115]。戦艦10隻・巡洋艦9隻・駆逐艦23隻・砲艇177隻が援護射撃をし、127mm以上の砲弾44825発・ロケット弾33,000発・迫撃砲弾22,500発が撃ち込まれた[116]。北飛行場(読谷村・後の読谷補助飛行場)と中飛行場(後の嘉手納飛行場)の占領が第一目標とされた。第32軍が宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、日本側が中西部沿岸地域に置いたのは賀谷支隊(1個大隊基幹)と急造の特設第1連隊だけであった[117]。日本軍が水際作戦を放棄したため、アメリカ軍はその日のうちに6万人を揚陸して北・中飛行場を確保。4月3日には第7歩兵師団が東岸の中城湾(アメリカ軍呼称:バックナー湾)へ到達し、第32軍は沖縄本島南北に分断された[118]。4月5日までにはうるま市石川周辺の東海岸一帯が占領下に入った。日本軍は飛行場を自ら破壊していたものの、作業期間が短く不徹底であった。アメリカ軍は1日夜には中飛行場を不時着場に使える程度まで復旧、8日には北飛行場へ戦闘機89機を進出させて上陸船団の防空任務を開始した。翌週には夜間戦闘機まで含む144機が展開して強力な防空網を形成してしまった[119]。 第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた[120]。アメリカ軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導[注 5]で攻勢移転が一時決定されたが[122]、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された[123]。この港川方面への「上陸部隊」は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸しなかった。 アメリカ軍はたびたび、沖縄南東側に陽動作戦をしかけており、沖縄本島上陸直前の1945年3月27日にも、沖縄本島東岸の中城湾に輸送船等からなる9隻の囮船団を近づけている。海軍根拠地隊の司令官大田実少将はこの囮作戦に引っかかってしまい、指揮下の特攻艇震洋に出撃を命じたが、囮船団は海岸近くまでは接近してこなかったため攻撃する機会はなく、そのまま基地に帰投した。その様子を偵察機で偵察していたアメリカ軍により震洋の発進基地は特定され、艦載機による空襲で、アメリカ軍上陸前に海軍の特攻艇はほぼ壊滅してしまった[124]。陸軍の特攻艇マルレは慶良間諸島占領で主力を失っていたが、残存艇が散発的な攻撃でアメリカ軍に打撃を与えており、1945年4月9日にはをキールが歪み大量浸水する甚大な損傷で大破航行不能に追い込んでいる[125]。 4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、菊水作戦と連動させる形で戦艦「大和」以下の第一遊撃部隊も出撃させることとした。大和の出撃前に連絡を受けた牛島は連合艦隊に「ご厚意は感謝するが、時期尚早と判断するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と自重を求める打電をしたが、出撃は決行された[126]。 特攻機の攻撃により連合軍艦艇40隻が撃沈破されたが、日本軍機も200機以上を喪失。「大和」以下は戦果なく一方的に空襲を受け撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も第10方面軍の指導で再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した[123]。同時期には中国方面航空作戦を担う陸軍第5航空軍から派遣された、独立飛行第18中隊分遣隊の一〇〇式司令部偵察機「新司偵」III型甲が、沖縄本島のアメリカ軍占領下飛行場および洋上の機動部隊に対する強行偵察に成功し、鮮明な航空写真を沖縄方面航空作戦を担う第6航空軍にもたらしたものの、これを攻撃するに十分な航空兵力や艦艇はなかった[127]。 沖縄本島北部の戦い 日本軍第32軍の作戦計画では本島南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。 この戦闘での第6海兵師団の損害は、戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[128]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定8万人[129]の住民が県内疎開してきており、アメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[130]。 4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場と海上防空用のレーダーサイトを設置するため上陸した[131]。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。島民は人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡し、3人が捕虜となった[132]。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、中戦車60両・自走砲6両が被撃破(うち完全喪失は5両)などの大きな物的損害を受けた[132]。アメリカ軍の戦死者には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。生き残った住民は、渡嘉敷島へ移された[133]。 日本軍が伊江島に保有していた陸軍飛行場は、3月のうちに徹底的に破壊のうえ放棄されていた。アメリカ軍は復旧作業を進め、5月10日までに最初の戦闘機隊を伊江島飛行場へ進出させた[133]。滑走路・誘導路・レーダーサイトが完成したのは5月中旬で、その後も工事は続き、6月14日までに3個の戦闘機隊と1個の夜間戦闘機隊が展開している[133]。 沖縄本島南部の戦い 第32軍の方針は前述の通り「軍主力は沖縄本島南半部を徹して国頭郡山岳地区に転位して戦略持久を策する」[35]との首里地下に置かれた司令部を中心とした沖縄本島南部での持久戦術であり、沖縄戦の殆どの期間が南部攻略に費やされた。その為、南部での戦いを前・中・後期に分け記述する。 沖縄本島南部の戦い前期 嘉数高地陥落まで 首里戦線前衛陣地の戦い 南部のアメリカ軍の進撃は順調で、当初は予定通りのスケジュールで前進していた。日本軍の抵抗が少なかった為、第10軍の現地指揮官の中には日本軍の抵抗が既に崩壊してると感じている者もいて、そのような現地の空気を反映してか、海軍上陸軍司令官リッチモンド・K・ターナー中将が太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ大将に「私の頭がおかしくなったのかもしれないが、当地における日本軍は戦闘を行う意思がない模様である」と冗談まじりに報告したほどであったが、ニミッツは報告書の訂正を求めている[134]。ニミッツはペリリューの戦いや硫黄島の戦いでの苦戦の経験から、日本軍の島嶼防衛の戦法を熟知しており、日本軍は艦砲射撃を浴びながら海岸線を防衛することを避けて、内陸部でアメリカ軍に出血を強いる戦法をとってくると確信していた[135]。 第32軍は飛行場付近の平地の防衛を実質的に放棄していたが、賀谷與吉中佐に率いられた第62師団独立歩兵第12大隊(賀谷支隊)をアメリカ軍の進撃を遅滞させる目的で配置している。賀谷支隊はわずか1,000名の戦力で数万のアメリカ軍と対峙することとなったが、指揮官の賀谷はこの戦いに際して部下将兵に「通常は防御は3倍の敵に対すると言うが、今度の戦闘は何十倍という常識を越えた敵に対する戦闘で、既に常識外れの戦闘だ」「自分と自分の部下の命、国を護るため最善を尽くさなければならない、大敵といえども恐れず、最善を尽くすことのみを考えよ」と訓示している。賀谷支隊の将兵は「酒と女には弱いが戦には強い」と指揮官の賀谷を慕っており、日中は既設の陣地に入って進撃してくるアメリカ軍と戦い、夜に移動して後方の新しい陣地に入って翌朝に進撃してくるアメリカ軍を足止めするといった戦術を粘り強く続けた。賀谷支隊は5日朝に第62師団の主陣地隊まで戻ったが、半数の将兵を失いながら、アメリカ軍の戦車10輌撃破と600名の敵兵を倒したと報告しており、同時に第62師団主力に「砲兵主力の協力さえあれば、米軍恐れるに足らず」との戦訓も報告し、師団の士気を大いに高めている[136]。このように、沖縄戦南部の戦いの序盤は賀谷支隊が孤軍奮闘し、圧倒的なアメリカ軍相手に4月2日〜5日まで野嵩及び新垣のラインでアメリカ軍の進撃をよく阻止して、十分に進撃遅滞の任務を全うしている[137]。 アメリカ軍は日本軍の抵抗を排除しながら首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、海岸線での防衛戦を避け内陸で上陸軍を待ち構えていた日本軍に丘陵地形で進撃を止められた。その前哨基地は、ピナクル(日本軍呼称「161.8高地」)にあったが[138]、4月5日にはアメリカ軍がピナクルに達した。同高地を防衛する独立歩兵第14大隊第一中隊(谷川中隊)を主力とするわずか150名の日本軍は、構築した地下陣地を活用し圧倒的なアメリカ軍の攻撃を7〜8回撃退したが、アメリカ軍は地下陣地に爆薬から黄燐手榴弾までを使用して攻撃、谷川中隊の生存者はわずか30名と為り撤退、6日にはピナクルはアメリカ軍の手に墜ちた()[139]。 アメリカ軍はその後全線に渡って進撃を開始したが、4月7日には各所で日本軍の頑強な陣地に阻まれ、進撃は停止した。第7歩兵師団はレッドヒル(日本軍呼称「北上原陣地」)を攻撃したが、歩兵と援護の戦車10両と装甲車5両のアメリカ軍部隊に対し、日本軍は対戦車地雷と梱包爆弾により戦車3両をたちまち撃破、アメリカ軍歩兵を擲弾筒などによる砲撃と機銃掃射で後退させ、戦車を孤立させたのちに戦車を肉弾攻撃し撃退している[140]。沖縄戦において、重火器を含む総合的な火力では、圧倒的優勢であったアメリカ軍だったが、こと近距離の歩兵戦では、日本軍に火力で遅れをとることもあった。日本軍の歩兵部隊が小隊規模で擲弾筒を装備していたのに対して、アメリカ軍歩兵は中隊規模でも同様な支援火器はなく、また分隊レベルの支援火器が日本軍は軽機関銃であったのに対し、アメリカ軍はブローニングM1918自動小銃であり、弾倉が20発の容量と少なく、また銃身交換が容易にできず、射撃の持続性で軽機関銃に劣っていた[141]。日本軍が沖縄戦で主に使用した九九式軽機関銃の1分間の発射速度は約800発で、M1918自動小銃やアメリカ軍の主力機関銃ブローニングM1919重機関銃の約2倍の発射速度であり、九九式軽機関銃の甲高い発射音はアメリカ軍兵士に女性の叫び声のように聞こえて恐れられた[142]。そして、第32軍には、フィリピンに送られるはずだったこの九九式軽機関銃や九二式重機関銃が第10軍より大量に支給されており、第32軍の各師団は通常の編制より火器の装備密度が高かった[143]。この豊富な火力によりアメリカ軍の歩兵と戦車を分離させて撃破する戦術は、沖縄戦では他の戦闘でも多用され[144]、アメリカ軍は速射砲や機銃陣地の火力支援を受け、その前面で爆薬で戦車に決死攻撃をかける日本兵が潜む塹壕を「蜘蛛の穴」と呼んで警戒することとなった[145]。 4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え[146]、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した[147]。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている[148]。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった[149]。夜襲失敗の状況などを考え、13日には第32軍の方針は一旦は八原高級参謀主張の持久方針に固まった[150]。 ジョン・リード・ホッジ少将率いる第24軍団の第96・第7・第27師団の3個師団は、日本軍の激しい抵抗に苦戦し、4月8日〜12日までに合計2,880名の死傷者を出したが[134]宇地泊高地、嘉数高地、和宇慶高地を結ぶラインに構築された日本軍の首里前面の防衛線に達していた。4月19日にホッジは配下の3個師団に嘉数と和宇慶高地を速やかに攻略し、首里の中枢まで一気に進撃する作戦を命じた[151]。 19日は夜が明けるやアメリカ陸海軍の航空機650機がナパーム弾で日本軍の陣地を爆撃、戦艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦6隻が艦砲射撃を加えた。限られた区域にこれほど激しい砲爆撃がくわえられたことは太平洋戦争では初めてであったが、その後さらに重砲による19,000発の砲撃が加えられた。第24軍司令部はこの集中砲爆撃で日本軍陣地を破壊できたものと確信していたが、実際は巧妙に構築された日本軍の陣地に殆ど損害はなかった。強固な日本軍の陣地の中でも、第96師団が攻撃した嘉数高地が、地形要因にも恵まれもっとも強固な陣地となっていた。(嘉数の戦い)第96師団は隣接して進撃する第27師団から戦車の支援を受けながら、嘉数高地および隣接して一体の陣地を形成している西原高地に猛攻を加えたが、日本軍の激しい砲撃と機関銃の射撃で歩兵に死傷者が続出し足止めされ戦車が孤立すると、巧みに隠され配置されていた一式機動四十七粍速射砲の集中砲撃を受け、反撃する間もなく次々と撃破された。特に嘉数村落附近が最大の激戦となり、日本軍は速射砲の他に、10㎏の爆薬を詰めた段ボール大の木箱を抱えた日本兵が戦車に体当たりしてきた。19日の1日だけで日本兵の体当たり攻撃で6輌のM4中戦車が撃破されたが、この体当りでキャタピラを破壊されて擱座した戦車に日本兵が群がり、ハッチを開けて車内に手榴弾を投げ込み戦車兵を全て殺傷したため、爆薬箱を抱えた日本兵はアメリカ軍戦車にとって大きな脅威となった[152]。結局この日に嘉数高地を攻撃した30輌の戦車の内22輌が完全撃破され、無事に帰還したのは8輌に過ぎなかった[153]。 和宇慶高地を攻撃した第7師団も日本軍の猛攻に殆ど進撃できず、この日唯一前進した第27師団の歩兵も、前進できたのは日本軍がいなかった低地帯のみで、日本軍の抵抗線に差し掛かると前進は止められた。結局この日のホッジの作戦は失敗に終わり、第24軍団全体では720名の死傷者を出す大損害を被って撃退される結果に終わった[154][67]。 この後も嘉数高地を強行を続けた第96師団は多大な出血を強いられる事になった。日本側はその強固な陣地を最大限活用し、主陣地を守備した第62師団が激しい抵抗をしている[155]。4月21日にホッジは第27副師団長ウィリアム・B・ブラフォード准将に嘉数高地攻撃の指揮を委ねたが、21日~22日にかけて日本軍は激しい砲撃を加え、陣地を出て夜襲をかけてきたため、逆にブラフォードは第24軍団に予備1個大隊の増援を頼み、戦線を辛うじて維持した[156]。 19日の総攻撃失敗以降、アメリカ軍は嘉数以外への日本軍陣地にも艦砲射撃を含む砲爆撃を徹底的に浴びせ、多数の戦車を伴い、防衛線全線に渡って攻撃を継続していた。特に、ペリリュー島の戦い以降、日本軍陣地の攻撃手段として行ってきた「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」 での陣地攻撃により、善戦していた日本の第62師団も大きな損害を被っていた。 第62師団は歩兵旅団を2個統合して編成された師団で、師団砲兵も持たず、日本軍の師団の中では三流と評されていたが、大陸打通作戦で実戦経験を積み、特に山岳戦の経験が深い精強な師団となっていた。師団将兵らの合言葉は「見敵必殺、玉砕御免」で、地下壕内の陣地で頑強に戦い、アメリカ軍3個師団を相手に善戦し大損害を与えていた[157]。牛島は第62師団に感状を授与し、中でももっとも善戦した第63旅団の旅団長中島徳太郎少将は中将に昇進している[158]。22日まで日本軍はアメリカ軍に1日あたり1mの進撃も許さなかったが、19日〜23日までの激戦で第32軍も戦死2,490名負傷2,665名の損害を被っており、日本軍の防衛線は全線で綻び始めていた[159]。第32軍司令部は、アメリカ軍が南部から再上陸し、防衛線の背後を突いてくるという懸念から、喜屋武半島の第24師団と知念半島の混成旅団ら軍主力を、警戒のため現地に留めていたが、八原は22日に、軍主力を首里防衛線に投入することを決断し、第24師団と独立混成第44旅団に北上を命じた。23日には戦線整理として、第62師団に撤収と陣地変換を命じている[160]。 その頃、ホッジは嘉数高地を一気に攻略するため、配下の3個師団から精強な4個大隊を選りすぐり、それに戦車、火炎放射戦車、自走砲、自走榴弾砲を支援につけ特別部隊を編成しブラフォードを指揮官とした。この部隊は指揮官の名前から『ブラフォード特攻隊』と呼ばれ、24日の朝から遮二無二嘉数高地を目指したが、日本軍は戦線整理のため既に撤退しており、ブラフォード特攻隊は大した抵抗も受けずに24日中に嘉数を確保した[161]。 撤退した第62師団はまた速やかに防衛線を構築しており、今までを上回る激戦が各地で戦われた。特に撤退した第62師団の3個大隊と増援の第24師団の歩兵第32連隊が護る前田高地が激戦地となった。4月26日に嘉数高地で痛撃を受けていた第96師団が猛烈な支援砲撃の後に前田高地を攻撃を開始したが、日本軍の防衛陣地は完璧に構築されており[162]、日本軍は丘の前面には陣地を置かず、アメリカ兵が丘を登り切ったところで猛烈な攻撃を加えてきたため、死傷者が続出し丘の麓に撃退された。「為朝岩」(米軍名ニードルロック)にもアメリカ兵が人間梯子をかけて登頂しようとしたが、日本軍の機関銃に狙い撃たれ、登りきることはできなかった。4月29日には日本軍が反撃に出てきて、アメリカ軍は戦車と火炎放射器で数百名の日本兵を殺傷したが、アメリカ軍の損害も大きく、前田高地を攻撃してきた第381連隊は戦闘能力60%を失い、死傷者も1,021名に上っており、中には通常40人の定員に対し、4人しか残っていない小隊もあるほどだった。あまりの損害にホッジは第96師団と予備の第77師団を交代させた。兵の多くは消耗しきっていて、彼らを後方に運ぶため、丘の下でトラックが待っているにもかかわらず、そこまで兵器をもっていく気力さえ失っていた。その後第77師団も大きな損害を被りながら5月6日にようやく前田高地を占領した。前田高地の戦闘でもっとも活躍したのはデズモンド・T・ドス衛生兵で、信教上より武器を持つことはなかったが、常に最前線で負傷兵の救護に当り多くの将兵の命を救ったため、名誉勲章(メダル・オブ・オナー)を授与されている[163]。 第27師団は城間北部の高地の攻略を目指していたが、城間北部の日本軍防衛線の中枢となる堅牢な地下要塞(アメリカ軍はアイテム・ポケットと呼称)の攻略に手間取っていた。アイテム・ポケットはアメリカ軍の激しい砲爆撃にもびくともしていなかったが、第27師団の第165連隊は多数の死傷者を出しながら、アイテム・ポケットを包囲し四方八方から攻撃してようやく4月26日に攻略した。第27師団長グリンナー准将は第165連隊のケーリー大佐の進撃速度の遅さと、その杜撰な指揮ぶりに憤慨し、ホッジにケーリーの連隊長解任を申し出し許可された[164]。第27師団も第96師団と同じように、この後第1海兵師団と交代している。 これらによりアメリカ軍はようやく首里防衛ラインの外郭を突破し、対する日本側第32軍は第24師団と独立混成第44旅団主力も順次防衛線に配置され、後退した第62師団と合わせて防衛線を再構築した。 アメリカ陸海軍の不協和音 嘉数高地で陸軍が苦戦している間、沖縄沖合でアメリカ海軍艦艇は日本軍の特攻を主力とした激しい攻撃に曝されており、4月中に20隻の艦船が撃沈、157隻が撃破されて、アメリカ海軍将兵の戦死・行方不明者1,853名、戦傷者2,650名に達する大きな損害を被っていた[165]。太平洋艦隊チェスター・ニミッツ司令は、1945年4月12日に戦況報告のため腹心のフォレスト・シャーマン太平洋艦隊司令部戦争計画部長を沖縄に派遣したが、その際にアーネスト・キング海軍作戦部長に「直衛艦艇と哨戒艦艇を1隻ずつ狙い撃ちにする特攻機により、現在受けつつあり、また将来加えられると予想される損害のため、スプルーアンスとターナーは2人とも、(アメリカが)投入可能な駆逐艦及び護衛駆逐艦全てを太平洋に移動する必要がある点を指摘している。我が軍の艦艇は特攻機に打ち勝って生き残ることができるような感じはするが、今後数か月入手可能な全直衛艦艇が我々にとって必要となるだろう。」と戦況報告している[166]。 ニミッツは、陸軍の進撃速度のあまりの遅さに、バックナーは陸軍の損害を軽減させるために、海軍を犠牲にしてわざと慎重な手法を使っていると疑っており、現場の指揮には口を挟まないという方針を崩して、バックナーの作戦指導に介入する為に4月22日にアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵隊総司令官を連れて、自ら沖縄に出向いている[167]。バックナーは慎重な作戦を好んだが、海軍や海兵隊よりは積極性に欠けるとの評価で不満が燻っており、普段温厚なニミッツも、会談中にあまりにも慎重なバックナーの姿勢に激高し「他の誰かを軍司令官にして戦線を進めてもらう。そうすれば海軍はいまいましいカミカゼから解放される」と詰め寄っている[67]。 この際にニミッツとヴァンデグリフトが提案したのは、頑強な日本軍防衛線の背後に、サイパンで待機中の第2海兵師団の残存部隊を上陸させて、防衛線の背後をつくというものであり、レイテ島の戦いのオルモック上陸作戦での成功を再現できると海兵隊も乗り気であった[168]。 しかし、バックナーは4月6日に特攻により2隻の弾薬を満載したビクトリー型輸送艦が撃沈されたことにより、火砲の弾薬が不足しており[169]、新たな上陸作戦で第2の戦線をつくりだすと、補給システムが崩壊することを懸念したため、この作戦提案に同意しなかった[170]なおも、第6海兵師団師団長は「第2海兵師団なら外部の補給線がなくとも30日間は持ち堪える」「彼らならやれる。やらしてほしい」と直談判したが、バックナーは、海兵隊が上陸を計画していた港川周辺の海岸は絶壁に阻まれており、日本軍砲兵隊の眼下に上陸することになると考え、「そんなことをしたらアンツィオ上陸作戦より酷い事になる」と説き、海兵隊の申し出を却下した[171]。 バックナーは1943年に司令官として、アッツ島の戦いといったアリューシャン列島奪回作戦を圧倒的物量の投入による正攻法で成功させた為、沖縄戦についても正攻法を貫き通す意向であった。 しかし、戦後にアメリカ軍から尋問された八原が「5月までには南部海岸の防衛の望みはなくなっており、米軍がなぜ上陸作戦を行わないのか、第32軍幕僚の中でも話題になっていた」と当時の日本軍の状況を語っており、このバックナーの選択はアメリカ陸軍戦史家から、戦況を一気に変える可能性がある日本軍防衛線背後への強襲上陸の提案を拒否したのは歴史上の転機になったと評された[172]。 スプルーアンスは、配下の艦隊のあまりの特攻被害に、「特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20空軍(アメリカ陸軍航空軍)を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する」 という戦況報告と、陸軍航空軍戦略爆撃機部隊のB-29などによる航空支援の要請を行っている[173]。カーチス・ルメイ少将は、B-29は日本の都市を焼夷弾で絨毯爆撃することが戦争遂行に最も寄与することと考えており、B-29を戦術爆撃任務に回すことに難色を示したが、スプルーアンスの懇願を受けたニミッツの強い要請により[174]、B-29の戦力の75%、延べ2,000機が、日本の都市や工業地帯への絨毯爆撃から、 九州の航空基地の攻撃に振り向けられ、一時的ではあったが、本土の大都市や工業地帯の爆撃による被害が軽減されている[175][176]。 しかし、B-29は分散していた特攻機に損害を与えることができず、九州や台湾の航空基地にすぐに埋め戻される穴を開けたに過ぎなかった。陸軍航空軍の働きに失望したスプルーアンスは「彼ら(陸軍航空軍)は砂糖工場や鉄道の駅や機材をおおいに壊してくれた」と皮肉を言い、5月中旬にはルメイへの支援要請を取り下げて、B-29は都市や産業への戦略爆撃任務に復帰している[177]。 スプルーアンスは、陸軍航空軍が殆ど成果を挙げなかったと考えており、下記のように自分らを苦しめている特攻と対比し非難している。 特攻機は非常に効果的な武器で、我々としてはこれを決して軽視することはできない。私は、この作戦地域にいたことのない者には、それが艦隊に対してどのような力を持っているか理解することはできないと信じる。それは、安全な高度から効果のない爆撃を繰り返している陸軍の重爆撃機隊のやり方とはまったく対照的である。 私は長期的に見て、陸軍のゆっくりとした組織的な攻撃法をとるやり方の方が、実際に人命の犠牲を少なくなることになるかどうか、疑問に思っている。それは、同じ数の損害を長期間にわたって出すに過ぎないのである。日本の航空部隊がわが艦隊に対して絶えず攻撃を加えてくるものとすれば、長期になればなるほど海軍の損害は非常に増大する。しかし、私は陸軍が海軍の艦艇や人員の損耗について考慮しているとは思えない。—レイモンド・スプルーアンス[178]。 一方で、スプルーアンスに非難されたルメイも「B-29は戦術爆撃機ではなく、そんなふりをしたこともない。我々がどんなに飛行場を叩いても、カミカゼの脅威をゼロにすることはできなかった。」と自らの飛行場爆撃の効果を疑問視していた[179]。 以上の通り、沖縄戦では海軍が特攻を主体とする日本軍の航空攻撃により大きな損害を被る一方で、陸軍が日本軍の激しい抵抗により容易に進撃できず、海軍に余裕がなくなり陸軍への不信感を増大させていた。 沖縄本島南部の戦い中期・日本軍総攻撃の失敗・首里防衛線崩壊まで 鈴木首相のラジオ放送 4月26日19時45分。鈴木貫太郎首相は次のようにラジオ放送した。 「沖縄全戦域に一致団結して全員特攻敢闘せらるる将兵各位並びに官民諸君、私たち一億国民は諸士の勇戦敢闘に対し、無限の感謝をささげている。中略。我が肉弾による特攻兵器の威力に対しては敵は恐怖をきたしつつたる。今後日本独特の作戦に対して、敵の辟易することは火を見るよりも明らかである。私は諸君らがこの神機をつかみ勝利への鍵を確かと握られることを期待してやまぬ。」 鈴木首相の放送は、特攻勇士と第32軍将兵を讃え、本土決戦に備える国民を奮え立たせる内容であった。 日本軍総攻撃 第32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀の持久戦術により、アメリカ軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した[180]。 八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢なアメリカ軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」「絶体優勢な米軍に攻勢をとれば、損害の比は日本軍がアメリカ軍の5倍となる」などを強く主張し反対したが[181]、他の参謀らは長を熱烈に支持した。日本軍の長年の伝統は攻勢至上主義であり、それを常々疑問に思っていた八原は、その伝統に捉われ攻勢に転じようとする司令部内の空気を「司令部内に、再び狂風吹き始めたり。警戒を要す」とメモに書き記している[182]。 司令官の牛島も、かねてからの中央からの督戦に気を病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている[183]。八原はこの牛島の叱責は長の策動によるものと察し、「これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、既に閣下がご決心になったことでありますので、私としては、その職責に鑑み、全力を尽くしております」と答えたが、牛島は八原の暴言に怒ることもなく「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振って突撃する考えである」と言葉静かに諭した[184]。 作戦会議決定により5月3日夜に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊により5,000発のかってない規模でアメリカ軍に砲撃を浴びせ、砲撃の支援下で第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊が残存の上陸用舟艇、大発動艇に乗船し海上を迂回してアメリカ軍背後に逆上陸を試みることとした。逆上陸作戦には、1945年4月27日にを大破放棄の戦果を挙げてからは、組織的な戦闘力を喪失していた海上挺進第26-29戦隊が、特攻艇のマルレの残存艇を使用して参加[185]の他に、沖縄の漁民が操縦するサバニ多数も投入することとした[186]。第5航空艦隊司令宇垣纏は総攻撃援護のため、九州及び台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定、同日「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」を発令し、大量の特攻機を出撃させた[187]。 日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された[188]。アメリカ軍の重砲隊は日本軍の退路にも激しく砲撃し、日本軍は退路を断たれて損害が増大した[189]。また、日本の戦車第27連隊は九七式中戦車(新砲塔型を含む)と九五式軽戦車の殆どが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅した[190]。 船舶工兵第23、26連隊、海上挺進第26-29戦隊などの逆上陸部隊は、東西2手に分れ逆上陸を目指すこととなったが、主力の西海岸上陸部隊(700名)が那覇桟橋を出港し、牧港と嘉手納に向け海上を進行中に、陸上のアメリカ軍の第1海兵師団の第1海兵連隊に発見された。第1海兵連隊は海上に向けて迫撃砲での砲撃を含め激しく攻撃してきたうえに、水陸両用戦車LVT(A)-1が海上まで進んできて、車載37㎜砲で兵士ごと船舶を撃沈していった。生き延びた日本兵はやむなく海岸から上陸したが、そこでも第1海兵連隊の激しい追撃により、合計443名の戦死者を出し壊滅した[191]。それでも、第1海兵師団は背後に日本軍が上陸すると孤立してしまうため、師団は混乱し、日本軍の空挺部隊が降下してくるという偽情報に振り回され、屈強な海兵隊兵士らも、夜間に上空に飛来する航空機の音に怯えながら、一睡もすることなく朝を迎えることとなった[192]。東海岸上陸部隊(200名)は70隻のサバニに分乗した上陸兵を20隻のマルレが援護する編成であったが、与那原を出発して中城湾を航行中に、パトロール中の駆潜艇に発見され、攻撃を受けて次々と撃沈された。その後に第7師団所属の水陸両用戦車LVT(A)-1も攻撃に加わり、サバニ部隊は壊滅した。生き残ったマルレは、中城湾に停泊していたに突入し大破させた。これが日本軍の特攻艇による最後の戦果となったが、西海岸上陸部隊も106名の兵士と多数の沖縄漁民の戦死者を出して壊滅し、東西海岸への逆上陸作戦は失敗に終わった[193]。 翌5月4日も日本軍の攻撃は続き、日本軍の砲撃は、アメリカ軍が太平洋戦線で受けたことがない規模となる13,000発にもなったが、アメリカ軍は日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録しており、大きな損害を被った日本軍の砲兵隊は、この後はまた隠匿した陣地に引き籠りざるを得なくなり、支援砲撃は大幅に弱体化した[194]。昨夜に引き続き日本軍はアメリカ軍の圧倒的な火力の前に膨大な死傷者を出しながらも、一部の部隊はアメリカ軍の前線の突破に成功している。中でも前田高地で活躍していた第24師団歩兵第32連隊の第1大隊が棚原高地を奪還した[195]。このため、アメリカ第7師団第17連隊は補給路を断たれることとなり、日本軍総攻撃での数少ない成果となった[196]。これまでに日本軍の戦死者は6,237名にも及び、殆ど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となるなど大損害を被った[197]。一方でアメリカ軍の損害は、陸軍師団で714人、第1海兵師団で352人の合計1,067人の死傷者であったが[198]、これは攻勢反対意見を述べた際の八原の予想通りの損害比率であった[199]。 5月4日夜には攻撃の失敗は明らかで、長をはじめ、攻勢を主張していた軍首脳部はうなだれて一言も発することができない状況だった。翌5日に、全軍玉砕覚悟し総攻撃を敢行するか否か牛島の決断がせまられたが、八原はこの時の司令部の状況を、「地上戦闘に対する認識が浅い。中国軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。死を賛美しすぎ、死が一切を美しく解決すると思いこんでいる。」と厳しく評価している[200]。5日に牛島は長を介さず、直に八原を呼ぶと、目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている[201]。牛島はその際に「今後は一切を貴官に任せる。思う存分やってくれ」と軍の指揮を八原の方針に一任するとし、これまで対立してきた長もこの日以降は「八原、俺の切腹の時期はまだ来ないか?」と冗談とも本気ともつかぬ口癖で、八原の方針に従うようになった。八原は牛島の一任を受けると直ちに総攻撃中止の軍命令を発し、棚原高地を確保していた第32連隊第1大隊も撤退した[202]。 総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この結果からアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し、「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている[203]。 一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」、軽巡洋艦「バーミングハム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した[204]。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた第1海兵師団からも目撃できたという[205]。 第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している[206]。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、アメリカ軍の損害が増大していった。 首里防衛線の崩壊 バックナー司令官は、日本軍が予備隊を使い果たした状況であるのを踏まえ、5月中が首里へ向けて総攻撃を行う好機と判断した[207]。第6海兵師団を中心とする第3水陸両用軍団は、島北部の掃討任務を第27歩兵師団と交代して5月11日までに南へ転進した。これによりアメリカ軍は、西から順に第6海兵・第1海兵・第77・第96師団を並べ、第7師団を予備隊に控えた態勢で総攻撃を開始した[208]。 バックナーは日本軍は精鋭部隊の殆どを総攻撃失敗で失ってしまった、という前提の上で「今度の攻勢では、特に変わった戦闘はない。新鋭師団も十分だから、1個師団は常に休養が取れる」と考え、幕僚らも「新鋭の海兵師団をもってすれば、迅速に日本軍陣地を突破できる」と楽観的な見通しを持っていた[209]。 しかし、日本軍は牛島司令官が、総攻撃の失敗の教訓として「首里を包含し、両翼を東西海岸に委託する現陣地に拠り、アメリカ軍の出血を強要しつつ、あくまでも持久し」[210]と徹底した持久作戦を指示、八原高級参謀も「我々はひたすら陣地内に潜み、可能な限り沢山の米兵を殺すべし」[201]と徹底しており、バックナーらの見通し通りとはならず、戦いはこれまでを遙かに上回る激戦となった。 バックナーの作戦は、首里防衛線の右翼を第3水陸両用軍団の第1海兵師団と第6海兵師団、左翼を第24軍団の第96師団と第77師団が突破し、中央の首里城にある第32軍の司令部を包囲しようというものであった[211]。 5月11日に第6海兵師団は日本軍の激しい抵抗を受けながらも安謝川を渡河し、首里西方の安里付近に進出したが、そこの三つの高地(シュガーローフ、ハーフムーン、ホースショア)の日本軍陣地に進撃を止められた。この三つの丘はシュガーローフを頂点、他の二つが底辺とする三角形を構成し侵攻軍に矛先を向け、三つの丘は相互に相補って強固な防衛線を構築していた[54]。シュガーローフは一帯は海兵隊史上最大の激戦となり、反斜面陣地を軸とした強固な陣地を守る日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と第6海兵師団が激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。 シュガーローフで一番の激戦となったのは5月16日であり、第6海兵師団は、2個連隊をつぎ込んでシュガーローフに対する最大規模の攻撃を仕掛けた[212]。第29海兵連隊がハーフムーンを攻略して、シュガーローフへの側面からの砲撃を遮断し、その後に第22海兵連隊がシュガーローフを攻略するという作戦であった[213]。シュガーローフを防衛していた独立混成第44旅団は8門の105mm野砲と4門の75mm山砲を装備し、他にも多数の速射砲(対戦車砲)や迫撃砲や擲弾筒などの火砲も併せて、進撃してくるアメリカ軍に激しい砲撃を加えている。激しい砲撃や射撃の中で、海兵隊はシュガーローフやハーフムーンに中々近づく事ができず、支援の戦車も次々に撃破された。シュガーローフの戦いでは主に対戦車地雷と一式機動四十七粍砲によって多数のM4中戦車が撃破された。M4中戦車は太平洋戦域では日本軍の対戦車装備の貧弱さもあり、理想的な働きをしてきたが、沖縄の日本軍は速射砲を巧みに擬装し、戦車を一旦やりすごした後に装甲の薄い後方から攻撃する戦法とり、M4中戦車の側面・後面装甲の薄さや、日本軍陣地に対する主砲の威力不足などの弱点が露呈した。海兵隊のM4中戦車はその弱点を補うため、ほぼ全部の車両に、鋼板やを溶接したり、土嚢を貼りつけたり[214]、縦列で進行するときは、最後尾の戦車は砲塔を後ろ向きにして警戒するなどの対策を講じていた[215]。 日本軍からの激しい攻撃の中で、海兵隊1個中隊がシュガーローフの山頂に達したが、反斜面陣地で激しい砲爆撃をやり過ごした日本軍が迫撃砲を浴びせ手榴弾を投擲してきた[216]。他の部隊は殆ど前進できていなかった為に海兵中隊は孤立状態となり、周囲の日本軍から激しい射撃や砲撃を浴び、山頂をそのまま確保することが困難となり退却を余儀なくされた。多数の負傷兵が出たため、戦車とLVTで搬出しようとしたが、戦車とLVTも次々と撃破されていった。この日は深夜まで日本軍の砲撃は止まず、第22海兵連隊は戦力が40%まで落ち込み、第6海兵師団の戦史では、この日が「師団史上もっとも打ちのめされた日」と表現している[217]。しかし日本軍の損害も多大で、この日は海軍の山口大隊が、大隊長以下殆どが戦死し生存者がわずか22名と言う状況になった[218]。 この後もシュガーローフを強攻し続けた海兵隊の損害も甚大であったが、日本軍の損害も大きく、日に日に日本軍の抵抗は弱まっていき、ついに5月19日の11回目の攻撃で陥落した。しかしアメリカ軍の払った代償は大きく、死傷者は2,622名にも及び、他1,289名の神経症患者も出すこととなった[219]。特に将校の死傷率が高く3名の大隊長が戦死、11名の中隊長が死傷するなど死傷率は70%にも及んだ[220]。海兵隊将校に多大な出血を強いたのは日本軍の狙撃兵であり、階級を示す微章や拳銃のホルスターなどの装備品で将校と認識すると、優先して眉間や胸の真ん中といった致死率の高い箇所を正確に狙撃してきた。特に中尉の死傷率が高く、次から次に交代となるので、兵士からは『トイレットペーパー』と揶揄されていたが、その内に狙撃されないように将校は微章や装備品を身につけないようになった。中には着任してわずか15分で戦死した将校もいて、兵士が名前を覚える暇もなかったという[221]。圧倒的なアメリカ軍を相手に、シュガーローフで10日間も足止めした日本軍の戦術は、戦後に第6海兵師団の教本で「教科書通りの陣地防御戦術」と称賛された[201]。 第6海兵師団の隣を進撃していた第1海兵師団も進撃の行く手には、安羽茶地区・沢岻高地・沢岻村・大名高地・大名村があったが、これらは全て堅く陣地化され、互いに支援しあえる様に緻密に設計された縦深防御の精巧な防衛システムが構築されていた[222]。第1海兵師団は5月6日に安羽茶地区のナン高地(日本軍呼称:50米閉鎖曲線高地)に達したが、日本軍は陣地に立て籠もり抵抗、一式機動四十七粍砲により3両の戦車が撃破されるなどで2回撃退されたが、9日にはアメリカ軍は得意の「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で陣地ごと爆破し、ナン高地を制圧した[223]。 第1海兵師団は14日に大名高地に達したが、大名高地とそれに隣接する高地は首里直前に位置し、首里防衛線の中核を成しており、その堅牢さはそれまでとは比較にならなかった[224]17日から大名高地に対して攻撃を開始したアメリカ軍は、艦砲や爆撃から野砲・迫撃砲・戦車による火炎放射に至るまであらゆる火器を集中し大名高地の日本軍陣地を攻撃したが、日本軍からの応射も凄まじかった。第1海兵師団はペリリューの戦いの激戦も潜り抜けてきたが、大名の戦いはペリリューとは別次元の激しさだったと海兵隊員らは感じたという[225]。 20日は第1海兵師団は2個大隊により二手から大名高地を攻撃、その内の第3大隊は一つ一つ陣地を「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で撃破しながら進撃、ナパームで高地を焼き払い、日本兵を炙り出して掃討しつつ一日でようやく60m進んだが、その後丘陵部を25m前進すると、日本軍の猛烈な反撃でまた元の陣地に押し返された[226]。 その後5月21日から、沖縄には10日間に渡って雨が降った。地面はぬかるみ、アメリカ軍の車両の運用が困難となった為に、大名高地を含みアメリカ軍の攻撃は一時停滞した[227]。 縦深防御システムは陸軍各師団の進撃路にも構築されており、陸軍も海兵隊と同様にもがき苦しんだ。第77師団は首里へ続く曲がりくねった道を前進したが、数メートルおきに日本軍の陣地があり、同師団の第305歩兵連隊は損害に構わず押し進んだ結果、5月11日〜15日の間に戦力が1/4まで落ち込んでしまった[228]。 アメリカ軍は通常、午前中に進撃して、午後から陣地を構築して、夜間は陣地に籠り日本軍の夜襲を警戒するというスケジュールであったが、第77師団は少しでも前進速度を上げる為に夜間攻撃を強行し、日本軍と激しい白兵戦を演じている[228]。第307歩兵連隊は日本軍の重要拠点石嶺丘陵の陣地に夜襲をかけ、頂上から日本軍の洞窟陣地を攻撃し、就寝していた日本兵多数を殺傷したが、その後日本軍の激しい反撃を浴び、3日間山頂に孤立し、救出された時には夜間攻撃に参加した204名の内156名が死傷していた[229]。 石嶺丘陵の内でもっとも頑強な陣地は、「チョコ・ドロップ」山(日本軍呼称:西部130高地)であったが、チョコ・ドロップを攻撃してきたアメリカ軍第77師団の第306歩兵連隊は、激しい砲火で歩兵の死傷も増大し、死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになった[230]。チョコ・ドロップの日本軍はこの後もアメリカ軍を何度も撃退したが、最後は洞窟を封鎖されて「ブロートーチ(溶接バーナー)と栓抜き作戦」で制圧された。 最初に首里戦線の突破口を開いたのは一番端を進んでいた陸軍第96師団であった。第24軍団長ジョン・リード・ホッジ少将は、首里により近い高地を攻撃し、一気に首里に近づく作戦を主張していたが、第96師団師団長ブラッドリー少将が地形を偵察の上で、より高いコニカルヒル(運玉森)の攻略が優先させた方がよいという意見であった[231]。 強力な艦砲射撃の後、5月10日に第96師団の第383歩兵連隊がコニカルヒルに対して攻撃を開始したが、第24師団の金山大佐率いる歩兵第89連隊が主力として布陣した日本軍の陣地は、他の戦場と同様に砲爆撃では破壊できなかった。第383歩兵連隊が前進すると日本軍から激しい砲撃を浴び、容易に前進できなかった。しかし大きな損害を被りながらも、同連隊は13日までにはコニカルヒルの頂上を望める点まで進撃してきた。その報告を受けたホッジは「これが成功したら首里の鍵を握ることができる」と喜び、総司令官バックナーも自ら連隊長の元を訪れ激励している[232]。 この頃に台湾の第10方面軍から、傍受したアメリカのラジオ・ニュースの内容が知らされたが「天久台での海兵隊の損害は甚大で、250名の中隊が炊事兵まで繰り出して戦い、ついには8名になった」と言うもので、第32軍は予想以上にアメリカ軍を苦戦させていることが判り狂喜したが八原高級参謀は「あのバカげた総攻撃さえなければ、今こそ米軍に甚大な損害を与え撃退できたのに」と悔やんだ[233]。 以上の通り、首里防衛線全線でアメリカ軍は日本軍の防衛線を突破したが損害は甚大であった。首里戦線の2ヵ月弱の戦闘で、第24軍団と第3水陸両用軍団の死傷者は合計で26,044名であったが、他に戦闘ストレス反応による傷病兵も海兵隊6,315名、陸軍7,762名の膨大な数に及んだ[234]。M4中戦車だけで陸軍221両[235]、海兵隊51両が撃破されたが[236]、これは沖縄戦に投入されたアメリカ軍戦車の57%にも上り、またその内には貴重で補充ができなかった火炎放射戦車も12両含まれていた[237]。 沖縄本島南部の戦い後期 首里陥落 第32軍撤退まで 天皇陛下より賜った御嘉賞 5月18日、沖縄を守備する第32軍の戦況が天皇陛下に上奏され、翌日、御嘉賞のお言葉が第32軍宛に電報発信された。 「第三十二軍カ来攻スル優勢ナル敵ヲ邀へ軍司令官ヲ核心トシ挙軍力戦連日克ク陣地ヲ確保シ、敵ニ多大ノ出血ヲ強要シアルハ洵ニ満足ニ思フ。」 天皇陛下からのお言葉は、長参謀長から各部隊に披露され士気を鼓舞した。 首里撤退 第32軍は運玉森方面(アメリカ軍呼称 コニカルヒル)にアメリカ軍が攻勢を強めていることを重く見て、運玉森が攻略されれば、一気に首里防衛線は崩壊すると憂慮していた。その為、5月21日に八原は軍参謀を召集し、今後の方針として下記の各案の利害得失を協議した[238]。 首里陣地に籠り最後の決戦を行う案。軍の構想は平素からこの案が元であり、各陣地もこの案で整備されている。しかし生存の将兵は未だ50,000名はいると推定され、この兵を圧迫された首里陣地内に配置すればアメリカ軍の砲爆撃の好餌となってしまう。 知念半島撤退案。知念半島は四方を海に囲まれ対戦車戦闘に有利である。しかし洞窟の数が少なく残存兵力を収容するのが困難であり、既集積物資も少ない。 喜屋武半島撤退案。海正面は30〜40mの断崖で防御地域として良好であり、自然・人工の洞窟が豊富で残存兵力の収容も可能で、第24師団の軍需品が集積されている。 八原の作戦案に対し、各兵団長が意見述べ、第62師団長藤岡武雄中将などは首里決戦案を主張したが、協議の結果、地形堅固な喜屋武半島への撤退による持久作戦継続案を採ることとなり、軍主力の後退は29日、その前に軍需品や負傷者の後送をただちに行うことと決した[239]。 喜屋武半島での持久案をもっとも強く主張したのは八原で、作戦協議も八原主導で進められたが、この案は戦火を逃れて南部島尻地区に避難している住民の安全を殆ど顧みない作戦であった。しかし、あがってきた作戦案に対し、参謀長の長は総攻撃失敗以降は八原の作戦に異論を挟む事はなかったし、牛島も今までと同様に八原らの作戦案を5月22日に黙って決裁した[240]。 アメリカ軍の進撃は、5月末から降り出した豪雨で一時停滞していたが、23日には、第96師団が制圧したコニカルヒルから、第7師団の第184・第32歩兵連隊が首里を包囲するため前進した。遭遇した日本軍は敗残部隊が多く、両連隊に幾度となく攻撃をしかけたが、撃退され両連隊の進撃を阻止できなかった[241]。しかし第32歩兵連隊が、首里と沖縄南部を結ぶ幹線道路と接する重要な高台地に達すると、日本軍は残存砲兵戦力の総力を挙げての激しい砲撃と、第24師団歩兵第89連隊の敢闘により、多数の損害を出させて撃退している[241]。24日には第6海兵師団の偵察部隊が那覇に進出している。既に砲爆撃により廃墟となっていた那覇には日本軍の姿はなく、同日にアメリカ軍の手に落ちた。 コニカルヒルを完全制圧した第96師団や、シュガローフやハーフムーンを突破した海兵隊が首里に近づき、首里包囲網が完成されつつあった26日に、海軍の偵察機が日本軍の大規模な移動を発見した。その報告を聞いたバックナー司令官は、日本軍の意図を察して徹底した追撃を厳命し、移動している日本軍45,000名に艦砲・空爆・砲撃で徹底攻撃を加えたが、全く撤退を予測しておらず効果的な追撃ができなかったこと、5月末から降り出した雨が激しくなった事などの要因で、完全に第32軍の撤退を阻止することはできず、第32軍の30,000名が南部で新たな陣地にまた防衛線を構築することができた。首里を包囲しつつあった第24軍と第3水陸両用軍団の脇をすり抜けての撤退であり、損害は大きかったが奇跡的な陣地移動であった[242]。 牛島司令官ら第32軍首脳は、5月27日、豪雨と夜陰に紛れて徒歩で首里を撤退し南風原町津嘉山の壕へ向かった。さらに30日未明には新しい司令部となる摩文仁に移動した[243]。 わずかばかりの守備隊が残った首里陣地はアメリカ軍の手に落ちたが、難攻不落の要塞だった首里陣地も、アメリカ軍の艦砲射撃などでいたる所が破壊されており、日本兵の遺体が散乱していた。その光景を見たバックナーは「牛島は首里戦線撤退にあたって船に乗り遅れた」とか、「もう戦いは終わった、後は掃討戦だ(中略)敵は二度と戦線を確立することはできない」とか、またもや楽観的な意見を述べ、参謀らも日本軍に秩序だった撤退はできないと思っていたが、これは全く根拠がない事が、日本軍が損害を被りながら見事に首里を撤退し、南部に新たな戦線を構築したことで明らかになった[244]。アメリカ軍は日本軍の組織的な抵抗を完全に制圧するためにあと3週間もの期間を要することとなった[245]。 南部への撤退に際しては、日本側で混乱も起きている。大田実少将率いる海軍沖縄根拠地隊は、5月26日に小禄の陣地を離脱して真榮平に移動したが、これは「第32軍主力の移動の援護をした後に6月2日以降撤退せよ」という第32軍命令を、命令書の表現が曖昧であった為誤解したものであった。誤解の判明で大田は28日夜に小禄の旧陣地に復帰したが[246]、6月4日には進撃速度を上げたアメリカ軍が海軍部隊の守る小禄海軍飛行場陣地まで進撃してきた。 海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、余剰となった航空機関砲を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備軍と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦していた。接近したアメリカ軍駆逐艦「ロングショー」と掃海艦とタンカーを海岸砲で砲撃して沈めるなどの戦果を挙げていたが[247]、5月26日の誤解による撤退の際に残存の重火器を破却しており、兵力もわずか2,000人と戦力は低かった。それでも大田は死守を決意し、6月5日には第32軍司令部に対し「海軍は包囲せられ撤退不能のため、小禄地区にて最後まで戦う」と打電している[246]。牛島は大田に南部への後退命令を再度発し、自ら懇切な親書を認めたが大田の決意は固く翻意は無理であった[248]。大田は6月6日に各所に訣別の打電をしており、中でも海軍次官宛の『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という打電は今日でも有名である。 小禄に侵攻した第6海兵師団は日本海軍部隊の激しい抵抗を受けて大きな損害を被ったが、6月11日には2個連隊により海軍部隊の陣地を包囲した。小祿の防衛戦は10日間も続き、アメリカ軍の死傷者は1,608名にも上った。大田率いる海軍陸戦隊の武器は対空陣地や破壊された航空機から外された機銃で、それも兵士3名につき1挺という貧弱なものであったが、アメリカ軍の死傷率は首里攻防戦を大きく上回るもので、まともな装備であったら、さらにアメリカ軍に甚大な損害を与えていたものと評価されている[249]。大田は6月11日に牛島司令官宛てに「敵戦車群は我が司令部洞窟を攻撃中なり、根拠地隊は今11日2330玉砕す、従前の厚誼を謝し貴軍の健闘を祈る」と打電した後に、海軍司令部壕内で13日に部下参謀5名と共に自決した[250]。小禄を制圧した第6海兵師団は大田の司令部の特別捜索を行い、数百の自決した日本兵の遺体が横たわる地下壕内の中央の部屋で大田と5名の上級将校の遺体を発見して、この司令部の地下壕があった丘を『提督の丘』と名付けている[251]。また、小祿では6月12日と13日に沖縄戦で初めて159名の日本兵がまとまった集団として投降し捕虜となっている[252]。 沖縄戦での特別攻撃隊 アメリカ海軍は4月23日に太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将が第10軍司令官バックナー中将に特攻対策の為の進撃督戦した以降も、日本軍の特攻に苦しめられており、この頃にニミッツはワシントンの海軍上層部に「もう持ち堪えられない」という弱気な報告を打電している[253]。 前線での苦戦の報告を受けた海軍省長官ジェームズ・フォレスタルは5月17日の記者会見で、海軍の死傷者が4,702名に達していることを明かし「海軍による上陸作戦への継続的な支援は困難な業務であり、高価な代償を伴うものであることをアメリカ国民の皆様に理解して頂きたい」と訴えたが、この会見にはバックナーへの非難の意味もこめられていたと言われている[254]。 この後、バックナーは首里防衛線を攻撃する各軍団長へ、苛立ちを隠そうともせずに進撃スピードの加速を指示しているが、このバックナーを見て第10軍の海兵隊副参謀長のオリバー・P・スミス大将は「バックナーには、沖縄近海に展開している海軍が、甚大な損害に耐えている間に進撃を加速させろという大きなプレッシャーが加えられていた。」と語っている[255]。 首里戦線の第32軍の危機に、大本営は菊水六号作戦(5月11日~5月14日)菊水七号作戦(5月23日・24日)を発動した。11日には第58任務部隊の旗艦「バンカーヒル」が2機の特攻を受け大破、396名の戦死者と264名の負傷者を出すという甚大な損傷を受け、戦線離脱を余儀なくされた。「バンカーヒル」は後にアメリカ本土のピュージェット・サウンド海軍工廠で修理を受けたが、同海軍工廠史上、最悪の損傷レベルであった[256]。翌日には旗艦は「エンタープライズ」に変更されたが、「エンタープライズ」にも富安中尉搭乗の特攻機が命中し大破、2日続けてアメリカ艦隊の旗艦が特攻で大破するという事態に陥った。 この当時のアメリカ艦隊の様子を1943年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者が取材している。 毎日が絶え間ない警報の連続だった。ぶっつづけに40日間も毎日毎夜、空襲があった。そのあと、やっと、悪天候のおかげで、短期間ながらほっと一息入れられたのである。ぐっすり眠る、これが誰もの憧れになり、夢となった。頭は照準器の上にいつしか垂れ、神経はすりきれ、誰もが怒りっぽくなった。艦長たちの目は真っ赤になり、恐ろしいほど面やつれした。(中略)時には攻撃の前夜に、乗員たちに戦闘準備の警報がラウンドスピーカーで告げられた。しかし、これはやめねばならなかった。待つ間の緊張、予期する恐怖、それが過去の経験によっていっそう生々しく心に迫り、そのためヒステリー状態に陥り、発狂し、あるいは精神消耗状態におちいった者もあったのである。—ハンソン・ボ―ルドウィン[257]。 第5艦隊は、日本軍の激しい特攻に対し、まったく防御一点張りのような戦術で常時作戦海域に留まっておらねばならず、上級指揮官らの緊張感は耐えられないくらい大きなものとなっており、ニミッツは前例のない戦闘継続中の艦隊の上級指揮官らの交代を行った。第5艦隊司令はスプルーアンスからウィリアム・ハルゼー・ジュニアに、第58任務部隊司令はマーク・ミッチャーからジョン・S・マケイン・シニアに交代となった[258]。スプルーアンス、ミッチャ―ともに沖縄戦中乗艦していた旗艦に2回ずつ特攻を受けており、いずれの艦も戦線離脱をしている。特にミッチャ―がバンカーヒルで特攻を受けた時、特攻機はミッチャ―の6mの至近距離に突入、奇跡的にミッチャーと参謀長のアーレイ・バーク代将は負傷しなかったが、艦隊幕僚や当番兵13名が戦死している。それらの心労で体重は大きく落込み、交代時には舷側の梯子を単独では登れないほどに疲労していた[259]。ミッチャ―はこの後も体調がすぐれず、戦争終結後まもなく1947年に他界している[260]。 アメリカ軍は占領した嘉手納飛行場や読谷飛行場や伊江島飛行場に、陸軍航空隊や海兵隊の戦闘機多数を配備し沖縄の制空権を確保しており[261]、特攻援護のために陸海軍の爆撃機や芙蓉部隊の彗星艦上爆撃機などが執拗に夜襲を繰り返していたが[262]、飛行場機能に支障が出るほどの打撃を与えることはできていなかった。そこで日本軍は、菊水七号作戦時には、一時的にでもアメリカ軍飛行場を制圧し、その間に特攻機でアメリカ軍艦船を攻撃させるべく[263]、陸軍空挺部隊から抽出したコマンド部隊「義烈空挺隊」をアメリカ軍制圧下の飛行場に強行着陸させ破壊活動を行わせる義号作戦も発動した。熊本から12機の九七式重爆撃機改造輸送機(第3独立飛行隊)が出撃し、うち1機が読谷飛行場に強行着陸に成功、搭乗していた隊員と乗員が機体から飛び出すと、着陸している航空機や燃料集積所を襲撃し、飛行場の守備隊と激しい銃撃戦を行い、アメリカ軍戦闘機・爆撃機・輸送機9機が破壊炎上、29機が撃破され[264]、アメリカ兵20名が死傷し、ドラム缶600本分70,000ガロンの航空燃料も爆破焼失するなど飛行場機能に打撃を与え、読谷飛行場を地獄さながらの大混乱に陥らせて[265]、半日に渡って飛行場を使用不能としたが[266]、戦況を動かすことはなかった。 特攻はこの後、本土決戦準備の航空戦力温存策による作戦機の枯渇もあり減衰していったが、アメリカ海軍が沖縄戦で特攻により受けた損害は甚大であり、公式記録上、沖縄戦でのアメリカ海軍の損害は、艦船沈没36隻、損傷368隻、艦上での戦死者は4,907名、負傷者4,824名と大きなものとなったが[267]、その大部分は特攻による損害で[268]、アメリカ海軍史上単一の作戦で受けた損害としては最悪のものとなっている[269]。アメリカ歴史学者の中でも最高の権威者と言われているサミュエル・モリソンは著書で「艦船90隻が撃沈され、または甚大な損害を受けた。この作戦は、大戦の全期間を通じ、もっとも高価についた海軍作戦となった」と沖縄戦がアメリカ海軍戦史上最大の損害であったと述懐し[270]、アメリカ軍も公式報告書で「十分な訓練も受けていないパイロットが旧式機を操縦しても、集団特攻攻撃が水上艦艇にとって非常に危険であることが沖縄戦で証明された。終戦時でさえ、日本本土に接近する侵攻部隊に対し、日本空軍が特攻攻撃によって重大な損害を与える能力を有していた事は明白である。」と総括している[271]。 日米両軍司令官の戦死と自決 5月25日に、それまで海軍連合艦隊の指揮下で沖縄方面で航空作戦を行ってきた陸軍第6航空軍は、連合艦隊の指揮下を脱した。その後6月9日をもって沖縄での主作戦を打ち切り、物資投下などの支援のみを行う事となった。[272] 陸軍機は喜屋武陣地上空に毎日のように単機〜数機飛来し、第32軍が要望していた対戦車爆雷の資材と15サンチ榴弾の砲弾などを投下していったが第32軍の手に届く量は微々たるものだった。しかしかすかな希望を断続的に第32軍将兵に与える効果はあったという。[273] 6月5日、アメリカ軍第24軍団が日本軍南部防衛線全線に渡って攻撃してきた。それを迎え撃つ日本軍は数は30,000名以上いたものの、正規の歩兵戦力はその内の11,000名に過ぎず、残りは火砲を失った砲兵や通信・整備・設営隊等の支援部隊や沖縄現地召集の防衛隊などであった[274]。日本軍は戦力不足ながら防衛線各所で善戦し、アメリカ軍を何度も撃退した。八重瀬岳を守備する独立混成第44旅団は、6月12日までアメリカ軍2個師団を3日間にわたり足止めし、13日に総攻撃を受け主力は壊滅したが、周囲の洞穴には多数の残存兵がおり、掃討戦が続けられた。 西側の戦線の国吉戦線では、歩兵第32連隊(連隊長北郷格郎大佐)以下1,500名前後の守備隊が、隣接する眞榮里高地を守備する歩兵第22連隊(連隊長吉田勝大佐)と共に、海兵師団相手に17日まで同丘陵地域を死守している。丘陵からの激しい射撃により、海兵隊に死傷者が続出13日には140名が死傷し撃退されている。丘の上では戦車の支援なしには立つこともできないぐらいの激しい日本軍の攻撃だったが、その戦車も速射砲で攻撃され、5日間で21両もの戦車が撃破された。それでも、アメリカ軍は1両の戦車に歩兵6名と弾薬を積み前線に送りこむ一方で、帰路に死傷者を積んで帰ってくるという強行で攻め続け[275]、激戦の結果、17日には「馬乗り攻撃」で眞榮里高地の歩兵第22連隊の司令部陣地を爆破、吉田連隊長が戦死、第32連隊第2大隊も残存兵力26名で大隊長以下突撃し全滅、5日間に渡る激戦の末に丘陵は制圧された。この間のアメリカ軍の死傷者は1,050名と大きいものになった[276]。 アメリカ軍は日本兵や住民に対してビラ800万枚を撒いて投降を促した。バックナー司令官自らも牛島司令官宛に親書で降伏勧告を行ったが、6月17日に親書を受け取った牛島は一笑に付して拒絶した。 降伏勧告を牛島に送ったバックナーは、翌6月18日、喜屋武半島の最前線視察に出向いた。途中で第6海兵師団第22海兵連隊長のハロルド・ロバーツ大佐より「これより前線へはいかれぬよう。第96歩兵師団の前面の日本軍陣地から、かなりの側射弾がとんできますから」との忠告を受けたが、バックナーはそれを無視してさらに前線に進んだ。ロバーツはバックナーに忠告した1時間後に自らも日本軍の狙撃で戦死した。バックナーは第2海兵師団第8海兵連隊が戦う最前線に到達し、珊瑚礁の岩の隙間から戦闘の様子を眺めていたが、バックナーを発見した日本軍から攻撃を受け、まずは一式機動四十七粍速射砲が近くの岩に着弾[277]、その後、砲弾数発が着弾しそのうちの1発の炸裂で吹き上げられた破片がバックナーの胸を抉った。バックナーはその10分後に牛島への降伏勧告の回答を聞くこともなく戦死した。このバックナーを倒した砲弾はアメリカ陸軍の公式記録上では『 』(両用砲)の砲弾とされ口径までは特定されていないが[278]、アメリカ海兵隊の公式記録では一式機動四十七粍速射砲の砲弾とされ[279]、バックナーの付近にいたハバード補佐官ら2名が負傷しなかったことからも[280]、小口径の砲弾との見做されて、アメリカの資料では海兵隊の記録と同様に47㎜とされていることが多い[281][282]。日本側では、2002年に野戦重砲兵第1連隊第2大隊の元中隊長が長年の沈黙を破り、自分の指揮による九六式十五糎榴弾砲の砲撃だったと証言している[283]。他方、日本側には東京都出身の「小野一等兵」が小銃で狙撃したという証言もあるが、厚生省によると該当する兵士の存在は確認されていない[284]。バックナーは第二次世界大戦中アメリカ軍で敵の攻撃で戦死した最高位の軍人となった[285]。日本側にとって将官クラスの敵軍部隊最高指揮官を死亡させる大戦果であったものの、アメリカ軍有利の状況には変化はなかった。奇しくも、バックナーの戦死により、沖縄戦開始前に飛行機で事故死したミラード.F.ハーモン中将と、沖縄優先攻略を主張した司令官クラスの2名の中将がいずれも沖縄戦の終結を目にすることはできなかった[286]。 バックナーが戦死した6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶し、軍としての組織的戦闘が不可能となっており、第32軍司令部は最後の命令を下達している。命令文は長野参謀が起案したが、長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、牛島が黙って署名している。その後に大本営と第10方面軍に訣別電報を送った[287]。 バックナーの死の情報を第32軍が知ったのは、第32軍の訣別電報に対し、大本営から返電された参謀総長・陸軍大臣連名の訣別電報で、「第32軍が人格高潔な牛島将軍の下、勇戦敢闘実に3か月、敵の首将シモン・バックナーを斃し、その麾下8個師団に痛撃を与え・・・貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり。敵もし本土に侵寇せば、誓って仇敵を撃滅し、貴軍将兵の忠誠に対えん」というものであった。長と八原ら参謀は、まるで沖縄戦に勝利したかのように錯覚するほどの喜びを覚えたが、八原が牛島を見ると、参謀らの狂喜を当惑した表情で見ており、敵将の死を悼んでいるようであった。八原はその牛島の様子を見て、牛島の人柄を再認識し自分も襟を正す気持ちになったという[288]。 アメリカ第10軍の指揮は、急遽ロイ・ガイガー少将が司令官代理を務め、同月23日にはジョセフ・スティルウェル大将が後任司令官となった。また、翌日には第96師団副師団長も日本軍の機銃掃射を頭部に受けて戦死している[289]。イーズリーはレイテの戦いでも日本兵の狙撃で負傷してパープルハート章を授与されていたが、続く沖縄戦では戦死することになった[290]。 日本軍の戦線崩壊は次第に進み、喜屋武地区を守備していた、軍主力の第24師団も、既に師団としての組織的抵抗が不能な状態となっていた。この頃になると、日本軍では野戦病院で横たわる治療の術のない多数の傷病兵に、毒薬を注射したり青酸カリを配布して自決を促したり[291]、動ける兵も、アメリカ軍に追い詰められると、手榴弾で自決することを選び、一日4,000名の兵士が亡くなっていた[292]。沖縄戦での日本軍の戦死者のうちで実に47%が6月の1か月間で戦死している[293]。 また、軍と行動を共にしていたひめゆり部隊も、6月19日に陸軍野戦病院の地下壕でアメリカ兵から投げ込まれた黄燐手榴弾と火炎放射器で多数が死亡、生き残った女生徒の一部も、6月22日にアメリカ軍の捕虜となれば暴行や拷問を受けると考えて、断崖から身を投げており、ひめゆり部隊の女生徒の犠牲者は125名にもなった[294]。軍の組織崩壊も始まり、今まで殆ど見られなかった集団投降も増えてきた。6月20日に摩文仁岳東端を占領したアメリカ軍第32歩兵連隊は977名もの大量の日本兵を捕虜にした[295]。 6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)、日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。24日頃には基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は、軍旗を奉焼し玉砕(全滅)。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。第32軍司令部の自決を知ったアメリカ軍は、第10軍の各軍団長や師団長・幕僚が整列し、軍楽隊が「星条旗よ永遠なれ」を奏でる中、星条旗をポールに高く掲げる戦勝のセレモニーを行っている[296]。 アメリカ軍からは軍事的視点で「見事に首里を撤退し、時をうつさず南部に新たな戦線を確立した」「アメリカ軍が全力をあげて集中攻撃を加えても、戦闘を終わらすまでに三週間以上を要したのである。」と評価された第32軍の南部撤退であったが[297]、戦火を逃れて南部に避難していた大量の住民との軍民の混交を招き、住民の犠牲を激増させる要因になり[298]、沖縄戦における住民の戦没者全体の6割が、第32軍が南部撤退した6月以降に南部地域において亡くなっている[299]。 その後の戦闘と終戦 第32軍司令部消滅後の6月23日から、アメリカ軍は沖縄南部の残存日本兵の掃討作戦を開始した。いまや孤立化し組織的抵抗ができなくなった日本軍の陣地を、ひとつずつ爆薬で日本兵ごと生き埋めにするか、火炎放射器で焼き払った。またサトウキビ畑や水田に隠れている日本兵も1名ずつ燻り出した。陣地から突撃しアメリカ軍の前線を突破しようとした日本軍部隊と激戦になることもあったが、6月30日までには日本軍の抵抗は微弱となった。この掃討作戦で日本兵8,975名が戦死し、2,902名が捕虜となったが、アメリカ軍の損害は783名であった。日本軍の組織的抵抗は終わったと考えたアメリカ軍は1945年7月2日に沖縄作戦終了を宣告した[300]。 しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、第32軍司令部の最後の命令が「悠久の大義に生きよ」であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかったためとされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。 陸軍の第8飛行師団隷下飛行第10戦隊の一〇〇式司偵は、沖縄方面に対する偵察飛行を8月に至るまで継続している[301]、海軍による特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられており、7月28日には九三式中間練習機の体当りで駆逐艦「キャラハン」を沈めているが、これは特攻による最後の撃沈戦果であった[302]。8月12日には第1戦艦戦隊旗艦戦艦「ペンシルベニア」を雷撃機による通常攻撃で大破させ、司令官のジェシー・B・オルデンドルフ中将に重傷を負わせている[303]。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が部下を引き連れて沖縄方面へ特攻出撃している。 また海軍は、沖縄とフィリピン、ウルシー、グァムといったアメリカ軍泊地との連絡路に対し回天特攻「多聞隊」の6隻の伊号潜を出撃させていたが、内「伊53潜」が勝山淳中尉の搭乗する回天で、7月24日に沖縄からフィリピンに航行中の護衛駆逐艦「アンダーヒル」を撃沈、また7月29日には「伊58潜」がテニアン島からフィリピンに向かって航行中であった重巡「インディアナポリス」を通常の魚雷攻撃で撃沈している[304]。 日本は8月15日にポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。沖縄戦初期の前田高地の激戦から末期の国吉高地まで、終始激戦の最前線で戦ってきた第24師団歩兵第32連隊は、約3,000名の将兵が200名にまで減りながらも終戦まで国吉の洞窟陣地内で抵抗を続けていた。8月22日にアメリカ軍軍師が連隊長北郷格郎大佐に接触し、第32連隊はここで終戦を知った。北郷は28日に軍旗の奉焼を命じ、29日に「天皇陛下の命により、米軍の方へ行く」と最後まで投降という言葉を使うことなく、アメリカ軍の武装解除を受けた[305]。9月3日には本島北部の海軍第27魚雷艇隊(運天港・隊長白石信次大尉)183名が、地元市長の投降の勧めに応じ、アメリカ軍に投降している[306]。 第32軍司令部の中では、高級参謀の八原が、牛島から命じられた戦訓伝達の任務のため日本本土への脱出途中で捕虜になったが[307]、同じ戦訓報告任務を受けていた航空参謀の神直道少佐(後に中佐)は、無事に本土に脱出して生き残っている[注 6]。一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死したか行方不明となっている[308]。轟の壕では、内務省沖縄特高課長佐藤喜一により、避難民に投降が勧告され多くの住民がアメリカ軍に収容されている[309]。 9月7日に南西諸島の軍を代表して第28師団司令官納見敏郎中将と高田利貞少将、加藤唯雄海軍少将の3名が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印し、ジョセフ・スティルウェル米国陸軍大将が日本軍の降伏を受諾し署名することで、沖縄戦が公式に終結した[310][311]。 終戦後の状況 戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県および鹿児島県口之島以南は米軍の占領下に入った。8月20日には琉球列島米国軍政府と沖縄住民の意思疎通を目的として、沖縄諮詢会が設置された。沖縄諮詢会は翌1946年(昭和21年)4月に沖縄民政府へ改組されたが、米軍による軍政は1950年(昭和25年)12月まで続いた。その後も沖縄では、米国の琉球列島米国民政府および下部機関である琉球政府による統治が行われ、沖縄が日本に復帰するのは1972年(昭和47年)5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村では、いくつもの集落で住民が全滅した上、生き残った住民も外国(特に南米)に移住する者が多かった。そのため人口の減少により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。 住民の戦争参加 陣地構築などのための徴用 沖縄戦では、多数の現地住民が「軍民一体の戦闘協力」のスローガンの下、飛行場建設や陣地構築など軍事活動の一部に参加した。沖縄戦前、日本は沖縄との海上交通を妨害されつつあり、沖縄守備隊は現地の人的・物的資源を戦力化する「現地自活」、「一木一草に至るまで戦力化」の方針で戦闘準備を進めていた。太平洋戦争期の日本には、国民徴用令や国民勤労報国協力令(1945年3月以降は国民勤労動員令)に基いて政府が国民を徴用して工場労働や農作業などに従事させる制度があり、これらの制度が根拠とされた。男女を問わず動員されたほか、対象年齢外の老人や国民学校の児童らも「自主参加」の形で作業に従事した。 戦闘員としての動員 #日本軍の戦力状況で前述のとおり、沖縄の日本軍は兵力不足を補うために戦闘員としても住民を根こそぎ動員した。飛行場建設や陣地構築などの後方任務が中心であったが、土地勘を活かしたゲリラ戦要員として遊撃隊(護郷隊)に配属された者もあり、地上戦開始後は所属を問わず前線での戦闘任務にも投入された。正規の制度に基づく陸海軍兵士としての動員以外に、軍の指導下で在郷軍人会(未召集の予備役兵)などによる自主参加が建前の義勇隊も組織された。中学校や女学校に在籍する生徒も防衛召集や「志願」による生徒隊として軍組織に組み込まれた。戦争末期当時、日本全国で「一億総特攻」による本土決戦の空気が醸成されており、沖縄住民の戦闘参加はそのような「一億総特攻」の始まりとされた。1945年6月23日には義勇兵役法が成立・施行され、本土決戦に備えて民間人を男女問わず補助兵力として大規模動員する国民義勇戦闘隊の制度が設置されたが、すでに組織的戦闘の終わっていた沖縄戦では適用されていない。同法は沖縄での住民戦闘参加を先例としたとものと考えられる[312]。 戦闘員としての動員の中心は、兵役法に基づく17歳から45歳の男性の防衛召集であった。日本の第32軍は、1944年10月の第1次と1945年1月の第2次の2回にわたって防衛召集を実施している[312]。第1次防衛召集は健康者が対象だったが、第2次防衛召集は対象年齢の男性のほぼすべてが召集されている。これら2回以外にも逐次防衛召集が実施されたが、正規の手続によらないものもあった。合計2万5千人以上が防衛召集されて一般陸海軍部隊や特設警備隊、遊撃隊などに配属され、1万3千人以上が戦死したとされる。これらの防衛召集兵は在郷軍人会による義勇隊と合わせて「防衛隊」と通称されている。 また、学徒隊として、1945年3月に14-17歳の旧制中学生ら1780人の男子生徒による鉄血勤皇隊が編成され、少年兵として防衛召集された。戦車に対する肉迫攻撃など戦闘行為にも従事し、約半数が戦死した。この鉄血勤皇隊の防衛召集のうち17歳未満の者については法的手続きに問題があり、戦後、遺族援護に関連して厚生省は、法的には無効な防衛召集であったとして、17歳未満の少年たちの軍籍を認めなかった(詳細は鉄血勤皇隊を参照)。また、女子についても14歳以上の女子生徒を従軍看護婦の代用としたひめゆり学徒隊・白梅学徒隊などが組織され、陸軍病院などで活動した。女子生徒の動員には法的根拠がなかったことから「志願」形式によるものとされた。女子学徒の動員は軍の要求だけではなく、沖縄県の教育関係者の軍への迎合によって実施された[313]。 防衛召集によらない形式での住民の直接戦闘参加も発生しており、伊江島の戦闘では妊婦や少女までもが竹槍や爆弾で武装して突撃した[314]。アメリカ軍上陸前、第32軍の長勇参謀長は沖縄県民に向けて「全県民が兵隊になる事だ。一人十殺の闘魂を持って敵を撃砕するのだ」と語ったとされ[315]、新聞を通じて、「老幼者は邪魔にならないよう避難し、稼働能力のある者は自主的に国民義勇軍などを組織し、神州護持のため一人一〇殺の闘魂をもって敵を撃破せよ」、「県民はナタでも竹槍でも身近なもので遊撃戦(ゲリラ戦)をせよ。土地勘を活かして夜間の斬込(敵陣地への潜入)などで立ち向かえ」と述べて、住民の戦闘参加を煽っていた[50]。 なお、戦後の戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用の関係では、直接の戦闘任務より広く日本軍に協力して死亡した者を「戦闘参加者」として、準軍属と認定している。戦闘参加者として48509人が認定されていた段階では、軍部隊への地下壕明渡しが11483人を占めた。その他、輸送や食糧提供などが理由に挙げられる[316]。 住民犠牲について 犠牲者数 沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人 A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人 B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人 C:戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)との関係で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数) 5万5246人 D:一般住民 3万8754人(推定) うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年(昭和20年)と1946年(昭和21年)の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとしたためである。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、1946年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、また海外からの引き揚げ者4万人以上や復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。 沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めた数値である[6]。なお、沖縄県平和祈念公園に設置された石碑の「平和の礎」には、1931年(昭和6年)の満州事変以降・南西諸島の日本軍の降伏調印1年程度経過の1946年(昭和21年)9月7日頃までに発生した戦争が主因の沖縄県出身者の死者と、1944年(昭和19年)3月22日の第32軍創設から1946年(昭和21年)9月7日頃までのアメリカ軍将兵などを含む県外出身の死者の名が記載されており、2006年(平成18年)6月23日時点で24万383人(うち沖縄県出身者14万9035人)となっている[318]。この「平和の礎」の数値を根拠に、沖縄戦の戦没者数を24万人と主張する者もある[319]。 また、日本側死亡者のうちに朝鮮半島出身の土木作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある[6]。 アメリカ軍上陸前の住民の動き(避難) 県外疎開 大本営が沖縄県民59万人の住民疎開、避難について検討を始めたのは、サイパン島にアメリカ軍が来攻した1944年6月のことである。7月1日に、研究要員として後に第32軍参謀長となる長勇少将(1945年3月に中将)が現地入りした。7月7日にサイパン島が陥落すると、東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断した。沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から、老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることが決定され、沖縄県に通達された[320]。 その後の通達で疎開目標は本土へ8万人と台湾疎開へ2万人の計10万人と決定された。対象者は、県内に29万人いた60歳以上と15歳未満の者、その看護者である婦女のみが許可され、警察署長の渡航証明書を受けることとされた(県外転出実施要綱)。また、学童集団疎開については、原則として国民学校3年生〜6年生を対象とし、1、2年生は付き添い不要の者に限られている[129]。 手段は沖縄に兵士や軍需物資を輸送する軍用輸送船の帰路を利用して、日本本土や台湾に疎開させようというものであったが、費用は全額国庫負担で行うことになり、大蔵省第2予備金から1500万円を拠出する予算措置が取られた[320]。一般住民の疎開は法的には強制力が無く、県を通じた行政指導による形式であった[321]。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学童疎開は沖縄県庁内政部教学課を主担当として、各市町村、各国民学校長、部落会、隣保班を通じて推進された[322]。 しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、本土では、貸し家の「琉球人お断り」など沖縄差別も根強く、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開することの不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。しかし、荒井退造沖縄県警察刑務部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である「天草丸」は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であった(本土出身者の引き揚げが多くを占めた[323])ものの、その後8月10日に出航した第4次の約9,000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあったが、1944年8月22日の学童疎開船「対馬丸」撃沈事件(約1500人死亡)でまた沖縄県民に不安が広がった[321]。そのため、疎開希望者の間で辞退する者が続出し、出発日に疎開者が集まらず、疎開船が空船のままで出航することもあるなど、疎開業務が一時頓挫することとなった[324]。 さらには、前任の第32軍司令官渡辺中将がやや神経質な性格で、沖縄県民への講演会などで危機感を煽りすぎて、かえって恐怖心を起こさせたのに対し、1944年8月に着任した後任の牛島の落ち着いた風格が、沖縄県民に安心感と軍に対する信頼を高めたことや[325]、続々到着する増援の大軍を見た沖縄県民の間に、日本軍の勝利という希望的観測が広まっていたことも疎開が進まない大きな要因となった。末端将兵の放言もその希望的観測を強めており、そのため、住民疎開を主導していた沖縄県警察刑務部長の荒井が第32軍に「軍隊が戦いに勝つ勝つと宣伝するので、住民が動かないので困る。なにとぞ駐屯の将兵は、景気のいい言葉を慎み、疎開に協力してもらいたい」と陳情している[326]。その後、皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのはアメリカ軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった[327]。 県外疎開は1944年7月から海上交通が途絶する翌年3月上旬まで続き、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5,586人を含む約80,000人が疎開した。内訳は、九州へは沖縄本島から約65,000人[327]、台湾へは沖縄本島から3,000人以上、先島諸島から9,000人以上の約12,500人となっている[328] (「台湾疎開」も参照)。3月上旬までの県外疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは「対馬丸」(約1500人死亡)一隻のみであるとされているが[327]、宮城博は沖縄県の独自調査で一般疎開者が乗船して航行中に撃沈された船舶が32隻と報告されたとしている。 九州に事前疎開できた沖縄県民については、沖縄県庁の機能停止後、1945年7月に福岡沖縄県事務所が正式発足して支援業務を引き継いでいる。 本島北部への避難(島内避難) 1944年10月10日の十・十空襲による沖縄県民の被害は大きく、那覇の市街地の90%が焼失したほか、県民の1か月分の食糧も焼失、生活必要物資がひっ迫し県民の生活は困窮した。当時、当時沖縄を管轄していた熊本財務局は、空襲被害による那覇市民の窮状を考慮して、空襲被害のあった地域の租税徴収を2年間免除するという特例を講じた[329]。また、1942年2月24日に施行された『戦時災害保護法』を適用し、那覇市民の罹災者救援のために現金給付を行ったが、アメリカ軍により日本本土から沖縄への海上輸送路は脅かされている状況で、現金で購入できる物資にも事欠いており、実質的な効果は薄かった[330]。 沖縄県の経済情勢が急速に悪化する中、1944年12月に軍中央より『皇土警備要領』が示達された。これは台湾と南西諸島を最前線と位置付けて、住民を戦力化できるものとできないものに選別し、戦力化できるものは戦闘や後方支援や食糧生産で軍に協力させ、戦力化できない老若婦女子はあらかじめ退避させるというものであったが[331]、第32軍の高級参謀八原はこれでは不足と考え、より具体化した「南西諸島警備要領」を作成した[332]。 およそ戦闘能力、もしくは作業力のある者はあげて戦闘準備及び戦闘に参加する。 60歳以上の老人、国民学校以下の児童、ならびにこれを世話するに必要な女子は、昭和20年3月までに、戦闘の予期せざる島の北半部に疎開させる。 各部隊は所属自動車、その他の車輌、並びに所属舟艇を以て極力右疎開を援助する。 爾余の住民中、直接戦闘に参加せざる者は、依然戦闘準備作業、農耕その他生業に従事し、戦闘開始直前急速に島の北半部に疎開させる。 県知事は島の北半部に、疎開民のための食糧や居住施設を準備する。 この要領を作成した八原には「サイパンの二の舞は厳に慎むべき、アメリカは文明国でよもや非戦闘民を虐殺することはないはず。主戦場となる島の南部に非戦闘民をとどめておけば、剣電弾雨のなかを彷徨する惨状になる」という考えがあったが[333][334]、この要領により、17歳~45歳までの青壮男子が根こそぎ防衛召集され戦力化され、中学生や沖縄師範学校の生徒、高等女学校生徒らも、疎開することを禁止され[335]、通信兵や看護婦として軍に協力させられて『鉄血勤皇隊』や『ひめゆり学徒隊』などに組み入れられた[336]。 1945年1月31日に島田叡新沖縄県知事が着任したが、第32軍参謀長の長と島田は上海事変のときからの旧知の仲であった[337]。長は泉守紀前知事のときの不遜な態度とはうって島田には変わり礼を尽くし、島田の着任早々に情報主任薬丸参謀を連れて自ら沖縄県庁を訪ねた。そこで長は島田に「ウルシー島を進撃した米機動部隊は、沖縄方面に向かっている。一週間後の、2月25日頃には、沖縄までやってくる」と詳細な軍事情勢を伝え、「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と要請した[338]。長の要請を受けた島田は、着任早々にも関わらず非常な熱意で食糧確保に奔走し[339]、2月には危険を冒して台湾に飛んで、台湾米を10万袋確保することに成功した。しかし、その後台湾と沖縄間の海上輸送がアメリカ軍潜水艦により断絶し、せっかく確保した台湾米も一部しか沖縄に届かなかった[340]。島田はそのほかにも、大蔵省専売局の出張所に自ら出向き、厳しく統制されていた酒や煙草の特別放出を指示するなど少しでも沖縄県民の心をなごやかにするような努力をおこなった[337]。 食糧の備蓄も少なく、また「やんばる」と呼ばれるマラリア発症地の沖縄北部山岳地帯にすすんで避難しようという住民は少なく、沖縄県の必死の呼びかけや、軍用車両を提供するなどの軍の努力にも関わらず、疎開は遅々として進まなかった。沖縄県は家畜の餌として豊富にあった甘藷を人用の食糧として転用するなどの策を講じ、戦闘開始前までに85,000名を沖縄北部に疎開させたが、これは予定の1/3に過ぎなかった[341]。北部は山岳地帯で耕作地も限られ、さらにはマラリア発症地帯であって、餓死やマラリアで死者を出すことになったが(沖縄市民の北部での死者は戦闘を含む全ての要因を合わせて約600名[342])。その後、上陸したアメリカ軍が沖縄北部を制圧した5月上旬までに130,000人の住民がアメリカ軍に収容されており、結果的に疎開した多くの住民が生存することができた[343]。沖縄本島北部疎開により救われた沖縄県民は150,000人に達したという推計もある[344]。 そのほか、本島から先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。八重山列島ではマラリア汚染地に多くの住民が疎開させられたため、16,884人がマラリアに感染し、うち3,647人が死亡している。これは後に戦争マラリアと呼ばれた[345]。 なお、アメリカ軍上陸2ヶ月前の1945年1月末、第32軍司令部では戒厳令の適用により行政権・司法権を軍司令官が掌握することを検討したが、着任した島田叡県知事との会議の結果、県と軍の協力体制が実現できたとして戒厳布告を見送った。同じく陸軍中央でも1944年6月頃から戒厳令の適用を研究していたが、結論が出ずに終わっている。戒厳布告が見送られたことで軍が民政に対する責任を負わず、無秩序な徴用やスパイ容疑での住民処刑につながったという説もある[346]。 アメリカ軍上陸後の住民の動き(避難) 本島南部への避難 第32軍司令部は、戦況の切迫を理由に沖縄本島へのアメリカ軍上陸直前の3月31日に北部への避難民の移動を禁止している[347]。その後アメリカ軍が本当に上陸すると、すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部への避難は不可能になった。 アメリカ軍上陸から約1か月経過した4月27日に、沖縄県島田叡知事は住民保護のため、南部地区の市町村長と警察署長を繁多川の地下壕内に移転していた県庁内に召集して会議を開いている。その場で避難民の受け入れ態勢の整備や食糧確策等が話合われたが[347]、第32軍も4月29日には島田叡沖縄県知事に対して住民を本島南部に避難させるよう要請し、多くの住民が南部に避難していた。 5月6日には「沖縄県後方指導挺身隊」(以下「挺身隊」)が組織された。挺身隊は島田知事を総帥とし、県職員と警察官で組織された。警察官は、首里戦線の末期においてもの召集を免除されていた400名を荒井県警察部長が掌握していた。彼らは後方で県民の士気を鼓舞し、住民の食糧確保や壕生活の指導などであったが、県による住民保護活動の実践部隊となっている。[347] しかし、その後、第32軍は首里防衛線の崩壊の懸念が高まると、持久戦を行うには一番条件がいい沖縄南部の喜屋武に撤退し戦略持久作戦をとることとした[348]。南部撤退決定後の5月22日に島田叡知事に知らされ、首里近辺の非戦闘員の南部島尻地区への撤収が指示された[349]。島田は「首里を放棄して、南端の水際に下るとなれば、それだけ戦線を拡大することとなり、勢い県民の犠牲を大きくする」と軍の転進に強く反対するも決定は覆らなかった[350]。南部地区は後退してくる軍と避難民が各所で溢れ混雑を呈した。 島田知事は25日に挺身隊に高嶺村與座方面への移動と住民保護を指示し、県庁も兼城の秋吉に移動した[351]。 第32軍は、軍が喜屋武に撤退すれば知念半島が戦闘区域外になるため、『知念半島避難命令』を発令することとしたが、発令されたのは、第32軍喜屋武撤退決定後7日も経った5月29日であった。第24師団と沖縄県の住民対策の会議の席で、第24師団の杉森参謀が県知事の島田に「戦場外になると思われる知念半島に、住民を避難させよ」と指示したが、この頃には連合軍は第32軍の撤退を認識し、激しい追撃を開始しており、住民が知念に避難する道は閉ざされていた。これに対して島田は、「なぜにもっと早くに知らせてくれなかったのか」と憤慨したが[352]、軍が南部撤退決定後まもなくこの指示を出していれば、島田は知念半島への住民避難を推進する時間はあったため、沖縄県民の犠牲を少なくできた可能性が高かった[350]。また同じ頃、具志頭村付近の街道(現在の国道331号)を南下する避難民に対して、憲兵隊が知念半島へ避難するよう誘導していたが、すでに知念半島が米軍の占領下にあることを知っていた避難民たちはこれを信用せず、そのまま摩文仁方面に向かったという証言もある[353]。 島田は3日に秋吉の壕を出て更に南下したが、その際に挺身隊に対し「もはや挺身隊は組織維持が困難となった為、3〜5名のグループに分散する態勢を取れ、今後も住民と共に行動し、知念・玉城地区に下って引き続き住民を保護せよ」と挺身隊の解散を指示している。島田らは5日に伊敷の轟の壕に移動し、9日にはもはや組織の体をなしていなかった県庁と警察の解散を命じている[351]。 この後、軍民混在により戦闘に巻き込まれながら、軍や行政の保護も受けられなくなった住民の犠牲は夥しい数に上っている。沖縄戦における住民の戦没者数は下記の通りであるが、第32軍が首里から沖縄南部に撤退した6月に集中している[354]。 なお、予想外の日本軍の南部撤退に、アメリカ軍では6月初旬の司令部作戦会議で避難住民保護が検討されたことが明らかになっている。バックナー司令官の側近として司令官の指示内容を記録していたジェームス・バーンズ曹長の陣中日誌には、「一時休戦を申し入れ(南部にいる)住民を保護すべきではないか」などの意見が出たと記されている。しかし、結局そうした施策はなされないまま、アメリカ軍は掃討作戦を開始した[315]。 最後まで住民保護に腐心した島田も、18日に行動を共にしてきた仲宗根官房主事らを壕から脱出させた後、荒井と壕内で殉職している[351]。 集団自決 サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[355])などが知られ、集団自決者の総数は1,000人以上とする研究者もいる[356]。 これらの集団自決を軍の命令によるものとする主張がある一方で、「集団自決は沖縄住民による戦傷病者戦没者遺族等援護法の給付を目的とした嘘である」との証言も一部に存在する[357]。 集団投降 日本軍がいなかった避難壕では、集団投降した例も多い。アメリカ軍が上陸後すぐに進攻した中城村では日本軍が4月2日には撤退してしまい住民だけが残されたが、島袋地区では4月3日に1500人が集団投降して地区住民のほとんどが生き延びた。日本軍の主陣地が構築された宜野湾村では、村南部のように日本軍とともに「軍民雑居」となった地域では、住民は投降を許されず、日本軍の指示で本島南部に逃げることとなり多くの犠牲者を出している。嘉数地区や佐間下地区などにいた住民の犠牲者率は48%に上る。一方で早々に日本軍が撤退した村中北部は、フトゥキーアブ壕で4月4日に500人など集団投降した例が多く、新城地区や喜友名地区などの住民の犠牲者率は13%と低めである[358]。なお、集団投降した避難壕では、移民帰りの人がいるなどして「鬼畜米帝」との洗脳にとらわれていなかった例も多い。「鬼畜米帝」を信じてアメリカ軍の投降勧告に応じなかった壕では、容赦のない攻撃を受け全滅したりしている。上述のフトゥキーアブ壕でも、数人の少女が「アメリカ軍に捕まったら、何をされるかわからない」と壕から出ることを拒否して、手榴弾を投げ込まれ犠牲になっている。 日本軍による住民殺害 アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があった。具体的な事例として、久米島守備隊住民虐殺事件(22人死亡)、渡野喜屋事件(35人死亡・15人負傷)、名護市照屋忠英学校長殺害[359]などが挙げられる。日本軍により殺害された住民の総数は明らかではないが、安仁屋政昭は1,000人と推定する見解を採り[360]、元沖縄県知事(元社民党参議院議員)の大田昌秀は、スパイ容疑での直接殺害だけで数百人から1,000人以上と推定している[361]。援護法との関係で戦闘参加者と認定された民間人のうち、14人は日本軍による射殺が理由となっているが、大田はこれも実数は数倍に上ると見ている[316]。 住民殺害の動機は、スパイ容疑での処刑が中心で、そのほか物資や壕を巡る日本兵と住民の争いで殺害された事例や、地下壕の探知を避けるために泣き声の止まない子供を殺害した事例などもある[362]。このような事態に至った原因について、極限状態で不可避というだけの問題ではないとの見方もある。一因として、日本兵が住民に対し、愛国心や武を尊ぶ精神に欠けると見て不信感を抱いていたことや、軍民一体化と防諜のため、沖縄語の使用が禁止され、その使用者を処分する方針であったこともある[363]。また、スパイ容疑での処刑については、アメリカ軍収容下に入った住民が食糧集めに駆り出されているのを、アメリカ兵を日本兵の隠れ家へ誘導しているものと戦場の混乱の中で誤解したことが一因ではないかと推定されている[364]。第32軍の沖縄南部への撤退は、戦火を逃れて避難していた沖縄市民の唯一の防護手段を奪うものであって、軍と民間人が混然となることにより、民間人に多くの災厄が降りかかることとなったが、この第32軍の失敗は、琉球人に対する日本の植民地主義的態度と政策に根差していたものという指摘もある[365]。 こういった事例が強調されていることに対し、沖縄戦に参加した日本軍兵士からの反論もある。嘉数の戦いに参加した兵士の一人(独立歩兵第13大隊所属)は、「戦後、日本軍は沖縄県民に犠牲を強いた悪い兵隊だと宣伝された。しかし私の知るほとんどの下級兵士は自分の命など眼中になく、洞窟に潜んで助けを求める県民のため身を挺して戦った。」[366]と述べている。いうまでもなく、すべての日本兵が残酷であったわけではなく、沖縄市民と仲良く付き合い善行も行い、犠牲を払った兵士もいた。例えば、沖縄本島の南端の海岸まで追い詰められた、ひめゆり学徒隊の与那覇百子らが手榴弾で自決しようとしたときに、日本軍の敗残兵数人から自決を止められている[367]。ひめゆり学徒隊の自決を思いとどまらせた日本兵は、彼女らが持っていた手榴弾で自決している[368]。泣き声でアメリカ軍に見つからないよう、「日本軍により幼児が殺された」とする教科書記述にも異説がある。「産経新聞」によると、匿名を条件に取材に応じたある地方議員は「老人会でのひそひそ話に耳を疑ったことがある。子供が軍命令で殺されたとして遺族年金をもらっている人について『あの人、本当は自分で殺したんだよね』と話し合っていた」と語っている[369]。 連合軍による住民の扱い 連合軍による住民殺害 既述のように沖縄地上戦での住民犠牲は約9万4千人とされているところ、集団自決者や日本軍により殺害された者はそれぞれ1,000人程度と推定されており、残りの約9万2千人は連合軍の攻撃により殺害されたことになる。 沖縄本島に上陸したアメリカ軍は宜野湾市の嘉数で激しく抵抗された。ここは丘陵が重なり天然の防塁だったため毒ガスを使用。壕に潜む非戦闘員まで殺害した。嘉数では住民の半数以上を殺し、浦添村の前田、南部の島尻などは人口の3分の2を殺した。前田丘陵四日間の戦闘は「ありったけの地獄を1つにまとめた」と米陸軍省が表現するほどすさまじいものだった。国吉では470人前後の住民のうち210人以上が戦死。ここはアメリカ軍司令官バックナーが戦死した報復として猛攻撃を加えた。国吉で捕虜になった住民のうち男子は全員銃殺された。南部の東風平村の小城(こぐすく)は戦前の人口が約750人だが戦死者は440人以上で全住民の約6割にのぼった[370]。 住民がスパイ容疑で処刑されることもあった。ある事例では、「民間人3人は、軍政府内の住民用尋問室で日系人通訳に暴力を振るわれながら尋問された後、身柄を2人の中尉に引き渡された。文書では「1人は敵兵(日本兵)である疑いがあった」と記述している。中尉は民間人3人のうち2人を約180メートル先にある墓穴のような穴を掘った場所に連行した後、そのうちの1人を上官の命令で銃殺した。殺害時、周囲には25-45人の米兵が取り囲んでいた。」という[371]。バックナー中将の戦死時には、住民が日本軍を手引きしたと疑われ、数十人の住民が銃殺された[372]。 民間人収容所 アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった[373]。 多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた[373]。 アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[374]。 なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のようにアメリカ軍管理下の民間人が殺傷された例がある。 連合軍兵士による性的暴行などの虐待 収容所およびアメリカ軍の占領地域では、アメリカ軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後から射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致・暴行・強姦も多数証言されている[370]。戦争の終結後も暴行は続き、例えば、「南部戦線の戦闘が終結してからはとくに米兵たちは横暴になり、昼夜を分かたず強姦事件が頻発していた。収容所では米兵がおそってくると、酸素ボンベの鐘をたたいて女性たちを避難させるさわぎが続いた。」とも[375]、「戦時中も戦局が追い詰められた状態になると、アメリカの軍隊そのものが集団で村の女性たちを襲ったといいます。なかには夫の目の前で犯された女性もいます。」ともいわれる[376]。アメリカ軍兵士により強姦された女性数を10,000人と推定する見解もある[377]。ニューヨーク・タイムズの記事によれば、強姦はあまりに多発したため、65歳以上(2000年時点)の沖縄の住民は誰しもこの連合軍による強姦について知っているか、あるいは聞いたことがあるという[378]。 アメリカ軍の報告書においても、収容所にいる女性に対し劣情を抱いた多数のアメリカ兵が周囲をうろつき中々立ち去らない為、警備する憲兵(MP)の数が足りなくなり、やむなく「強姦事件と病気予防のため」に軍の法務官に、収容所で発見された兵士を憲兵隊長に引き渡してよいという権限を与えている[379]。 沖縄戦時中にアメリカ兵が沖縄の住民女性を強姦し、軍法会議で有罪となりながら、戦後アメリカ海軍省で判決が破棄されていた。軍法会議で禁錮9年、不名誉除隊の判決が出たが、海軍法務総監が10月に有罪判決を破棄するよう勧告。11月に海軍長官が判決を破棄し、被告を釈放して軍務に復帰させるよう命じた。勧告文では、レイプ犯罪を「女性が能力の限りを尽くして抵抗したとみられるものでなければならない」と定義。「すごくおびえて叫ぶことができなかった」と証言した被害女性に対し、最大限の抵抗をしなかった、叫び声を上げなかった-などを理由に被告を無罪とした[380]。 沖縄戦についてのアメリカ軍による評価 圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。「沖縄作戦の主な戦訓」と題されたアメリカ軍の秘密報告書においては「この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつになった」とも評された[381]。 アメリカ陸軍省戦史局編集の公式報告書「OKINAWA: THE LAST BATTLE」での総括は「沖縄で支払った代償は高価なものであった。アメリカ軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上で「だが、アメリカ軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」と激戦を勝ち抜いた自信も示している[382]。 またアメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している[383]。シュガーローフの戦いで名誉勲章を受賞し、のちに在沖縄アメリカ軍司令官となった少将は、自分の経験から「日本軍の将兵は素晴らしい男たちであった。航空部隊による直接の支援もなければ、海軍部隊による支援もなく、事実上何の支援も受けられない状態で戦うには、非常に柔軟かつ巧妙な戦闘指導が要求される」と日本軍将兵及び前線指揮官の優秀さを評価している[384]。 前線のアメリカ軍兵士も、当初は人種差別と憎しみから「日本兵は、がに股で飛び跳ねながら猿のように金切り声を上げたり、豚のように鳴いたりする奴らと思っていた」という偏見を持つ兵士も多かったが、シュガーローフなどの激戦を経て「日本兵は極めて統率のとれた集団だ」とか「日本兵は実際に見ると落ち着き払っており、アメリカ軍海兵隊員と同じ顔つきだった」という印象に変わっていき、更に日本兵への畏敬の念が行き過ぎて「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいたという[69]。 アメリカ海軍は特別攻撃隊に沖縄戦中終始苦しめられ、アメリカ海軍史上最悪の損害を被ることになったが、太平洋艦隊司令長官のニミッツ大将は、「沖縄作戦は攻撃側にとってもまことに高価なものだった。約13,000名のアメリカ兵が戦死したが、その内3,400名が海兵隊で4,000名が海軍だった。艦隊における死傷者の大部分は日本機、主として特攻機により生じたものである」と回顧している[385]。また「日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援・艦砲射撃・砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。日本軍はまとまった人数で降伏したことはなく、わが軍が膨大な死傷者を出すことなく日本軍部隊を撃破する事は不可能である」と沖縄守備隊が非常に頑強であったとアーネスト・キング海軍作戦部長に報告している。[386] 歴史家ジョージ・ファイファーは、アメリカ側の沖縄戦書籍としては、最も詳細なものの一つとなる著書Tennozan: The Battle of Okinawa and the Atomic Bombの中で「前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にも関わらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった(中略)このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出ると言う悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう(中略)驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである」とノルマンディー上陸作戦のドイツ軍と沖縄戦の日本陸軍を対比し、日本陸軍が夥しい損失にも関わらず、最後まで組織的な戦闘を継続したことに驚嘆している[387]。 沖縄戦が終わると、大英帝国首相ウィンストン・チャーチルはハリー・S・トルーマン米大統領に向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている[388]。 従軍記者としてピューリッツァー賞を受賞し、沖縄戦も取材した経験を持つアメリカの軍事評論家は沖縄戦を振り返って「その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない。これほど短期間の内に(アメリカ)海軍がかくも多くの艦艇を失ったことはなかったし、これほど狭い地域でかくも短期間内に、これほどアメリカ軍の将兵の血が流された事もない。おそらく3ヶ月の間に敵(日本軍)がこれほど大きな損害を被った事もかつてなかったであろう。(中略)陸戦としては、もっと大きい会戦もあったし、もっと長期に渡る航空戦もあったが、沖縄作戦は最大規模の統合作戦であり、海上、海中、陸上において仮借のない戦闘が継続されたのである。」と評し[389][390]、「沖縄は人間の忍耐力と勇気の叙事詩であった。日本軍の攻撃は創意に満ち、決死的であった。これに対しアメリカ軍が防衛に成功し、沖縄攻略に成功したのは卓越した補給、作戦計画およびその断固たる実施によるものである。」と総括している[391]。 沖縄戦の作戦指揮に対するアメリカ国内での批判 沖縄戦には、戦死したアーニー・パイルを含む多くの従軍記者が軍の作戦に帯同しており、現地から詳細な報道を行っていたが、今日でもその記者らが残した写真や映像が大量に残されている[392]。 その数はカメラマンや映写技師などのスタッフも含めて「一個大隊」に達した[393]とも言われる大人数であったが、報道の自由はある程度保証されており、軍の指揮に対する批判も容認されていた。 中でもニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の従軍記者ホーマー・ビガードが首里防衛線での攻防でのアメリカ軍の苦戦を報道した際に、第10軍司令バックナー中将が海軍や海兵隊らの防衛線背後への再上陸案を採用せずに、正面からの正攻法を採ったことを、フットボールの試合に例えて、「エンド・ランの代わりに、ラインの真ん中に突っ込む様だ」と揶揄した事で、バックナーの指揮への批判が浮上し、ワシントン・スター紙がコラムで「沖縄での軍事的大失敗に関する真実(中略)なぜに揉み消されるのか」と痛切に批判したことから議論が白熱した[394]。 連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも論戦に加わり「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」とバックナーを非難している[395]。ヴァンデグリフト海兵隊総司令も 、保守系新聞「アメリカン・デイリー」の社主との対談ではバックナーに批判的な発言をしていた。また、この対談後にローレンスは沖縄作戦を失敗と断じ、「真珠湾を上回る、無能ぶりを示した事例」とバックナーを舌鋒鋭く批判している[396]。 一方で陸海軍の対立を懸念し、海軍はバックナー批判沈静化のため、フォレスタル海軍長官、ミッチャー第58任務部隊司令など中央から現場までの有力者がバックナーを擁護する声明を発表している。特にニミッツは、沖縄で作戦会議をした際に、バックナーの挑戦的で不遜な態度に激昂し、更迭を匂わす厳しい言葉を浴びせたこともあったが、グアム島で戦時中では異例となる76名の記者との沖縄戦での問題点の公開討議を開催し、その討議でバックナー擁護の姿勢を示し、陸海軍対立の芽を摘み取ろうと腐心している[397]。 沖縄戦による大損害は、後にアメリカ議会でも問題となり、議会は軍に作戦指揮に対する調査を指示している[398]。 以上の様に、アメリカの沖縄戦に対する軍事的な評価は思いのほか低く、政治学者五百籏頭真は戦後にアメリカの公文書を調査していた際に、アメリカが沖縄戦と先の硫黄島の戦いについては、アメリカの方が敗者意識を持っている事に驚いたと著書に書いている。[399] アメリカ軍の沖縄戦における戦闘神経症 沖縄でアメリカ軍を苦しめたのは、戦闘による戦死傷だけではなく、今までにない膨大な数の兵士に生じた戦闘神経症であった。[400] 5月末までに、アメリカ軍の戦闘によらない死傷者が、海兵隊で6,315名、陸軍で7,762名合計14,077名発生しているが、この内の多くが戦闘神経症による傷病兵であった[234]。そして、沖縄戦終結時点では26,211名に膨れ上がっていた[401]。 症状としては、軽いものでは感覚麻痩を呈する者が多く、さらに運動麻痩や涕泣、無言、無表情といったものであったが、パニック障害、精神錯乱を起こすものもいた。中には大小便でズボンを汚したり、機関銃を乱射する等の異常行動もみられたという[402]。戦闘神経症患者はこれら症状により「生ける死者」とも呼ばれていた[403]。 沖縄戦での戦闘神経症発生比率は7.8%と、ヨーロッパ戦線(1944年)の5.2%、太平洋戦線(1944年)の4.8%と比較してかなりの高率となっている[404]が、その理由としてアメリカ陸軍は「最大要因は日本軍の集中砲撃である、それはアメリカ軍が今まで経験したこともない物凄い量であった。この他には日本軍による狂信的で絶え間ない肉弾攻撃もあった」と分析している[405]。 アメリカ軍は、戦闘神経症対策として多くの精神科医を沖縄に送り込み、大規模な野戦病院も準備したが、その野戦病院は常に3,000名〜4,000名の戦闘神経症患者が詰め込まれていた。[406]野戦病院の治療により、沖縄戦初期の5月8日までは68.2%の患者が原隊復帰を果たしているが、戦闘が激しくなるにつれて復帰率は下がり、末期の6月28日には非戦闘任務復帰者も含めて復帰率は38.2%に落ち込んでいる。[407] 復帰出来なかった兵士はグアム島かアメリカ本土に後送されたが、そこでも完治せず終戦後も症状に苦しんだ兵士も多かった。戦後に追跡調査できた患者の内で2,500名が「現実と分離したまま」の生活を送っていたという調査結果もある。[408]また未だに症状を訴える元兵士も存在している[409]。 沖縄戦が太平洋戦争に及ぼした影響 上記の通り、日本側からは本土決戦の時間稼ぎとの意味合い、アメリカ側からは日本本土への進攻の前哨陣地確保が目的であった沖縄戦であったが、日米が大戦力を投入し互いに大損害を被る事となった為、沖縄戦の決着が着く頃には両陣営に厭戦気分が高まり、終戦に向けた具体的な動きを後押しする事となった。 日本側は上記の通り沖縄戦は本土決戦での時間稼ぎであったとしながらも、特に航空戦力の総力を結集し決戦を挑みながら敗北した衝撃は大きかった。 日本の指導層の内で、本土決戦を声高に叫ぶ陸軍ら主戦派に対して、終戦を画策していた講和派も『一撃講和』(連合軍に決戦を挑み大損害を与えた後に有利な講和を結ぼうという考え)として沖縄戦に大きな期待を寄せていたが、その期待が破れた事により『一撃講和』はもはや不可能という事を痛感させられ、早急な終戦に向けた動きを加速させることとなった。 終戦時の首相であった鈴木貫太郎首相も沖縄戦で勝機を掴む事を期待し、4月26日には首相官邸に陸海軍首脳部を召集し「今は何があっても沖縄の作戦を成功させる。(中略)沖縄の戦さに勝ってこそ外交政策も有効に行われるというものです」と檄を飛ばしていたが、その後、第32軍の総攻撃の失敗などで沖縄戦の敗勢が明らかになったこと、またナチス・ドイツの降服もあってもはや戦争継続は困難であると認識し、6月8日の最高戦争指導会議で、公式の場では日本の首相としては初めて、ソ連を仲介とした連合国との講和を口にしている。しかし、この時は陸軍の抵抗により一旦は棚上げされ、水面下での動きを余儀なくされることとなった。[410] 昭和天皇も『一撃講和』として沖縄戦に大きな期待を寄せていたが、奏上される沖縄の戦況が悪化する一方の事や、梅津参謀総長や長谷川清海軍大将らから報告された陸海軍の実情を聞くにつれ、現実認識は大きく崩れていた。[411]鈴木首相同様に『一撃講和』が困難と悟った昭和天皇は、6月9日に講和派木戸幸一内大臣の「時局収拾対策試案」として上奏されたソ連を仲介とした講和工作を了承した。沖縄での日本軍の組織的な抵抗が終わる前日の6月22日に、天皇臨席の許に開催された御前会議において、会議冒頭に昭和天皇自ら戦争終結実現に向けて具体的に動くように指示を行った。[412]強硬な本土決戦派であった陸軍もようやく同意し、政府の正式な方針として、終戦に向けた動きが具体化していく事となった。[413] 昭和天皇は戦後に沖縄戦の敗因とその影響について以下の通りに回想している。 之は陸海作戦の不一致にあると思ふ。沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。梅津は初め二ケ師団で充分と思ってゐたが、後で兵力不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思った時には巳に輸送の方法が立たぬといふ状況であった。所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざるを得ざる処に無理があつた。海軍は「レイテ」で艦隊の殆んど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた。之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。陸軍が決戦を延ばしてゐるのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった。詳い事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦已むを得ぬと思った。—昭和天皇独白録[414] 以上の様に沖縄戦の敗戦は日本に『一撃講和』は幻影にしか過ぎない事を知らしめたが、ソ連はヤルタの密約 で既に対日参戦を決めており、ソ連を仲介とした講和は実現せず、日本が降伏するまでには、なお8月の広島・長崎への原子爆弾投下、ソ連対日参戦などの悲劇を経なければならなかった。 勝者であったアメリカ軍も、当初の計画は1か月で沖縄を攻略する計画であったのに対し、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害を被る事になった。[415](詳細は#戦闘経過を参照) その為、日本本土上陸作戦を強硬に主張し、ハリー・S・トルーマン大統領にダウンフォール作戦を承認させていたアメリカ陸軍も、[416]硫黄島や沖縄の戦績を踏まえてダウンフォール作戦での推定死傷者をシミュレーションした結果、最大で400万名の死傷者が出るとの結果が出るなど甚大な損害が予想されたために[417]、トルーマンが「沖縄戦の二の舞いになるような本土攻略はしたくない」と日本本土侵攻に躊躇し[418]、強硬派のヘンリー・スティムソン陸軍長官らが軟化するなど、講和推進派のジョセフ・グルー国務次官らが巻き返しを図るきっかけとなった[419]。 スティムソンはグルーとの議論の後に、かつて訪れた日本本土の記憶をたどりながら「(日本列島は)硫黄島や沖縄で見られたような最後の望みをかけた防御がやりやすく、戦車による機動戦はフィリピンやドイツより困難」であり「日本人は極めて愛国心が強く、侵攻軍を撃退するためには狂信的な抵抗の呼びかけにすぐ応じるのは間違いなく、我々が侵攻を開始すれば、ドイツよりさらに苛烈な最後の戦いを経験することを覚悟せねばならない」と考えた。そこで「硫黄島や沖縄のような大量の流血から我々を救うためには、日本人の国家理論の下では唯一の威厳の源」である天皇を利用するため、対日侵攻に代わる無条件降伏に相当する「何らかの代案」が必要であると判断し、ジェームズ・F・バーンズ国務長官など関係者に説いて回った[420]。そしてスティムソンが纏めた『覚書』はこの後に日本への降伏勧告となるポツダム宣言の原案に組み込まれる事となり、終戦に向けての動きが加速する事となった。 それら沖縄戦での大損害を参考にした被害想定は、アメリカにおけるアジア史の権威イアン・ガウ教授のように「沖縄戦はアメリカ軍と日本軍の交戦の中でもっとも苛烈なものであった、沖縄の占領に莫大な人的、物的代価を払ったことが、原子爆弾の使用に関する決定に大きな影響を及ぼしたことは言うまでもない事である。アメリカの指導者たちは、アメリカ軍が日本本土に接近するにつれて人的損失が激増する事に疑問をもってはいなかった。沖縄での経験から、アメリカの指導者たちは日本本土侵攻の代価は高すぎて払えない事を確信していたのである。」とアメリカによる日本への原子爆弾投下の判断の大きな要因となったと指摘されることも多い[421]。 史跡 特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園や国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている。塔の手前の展望台の下に壕があり、内部は立ち入り禁止だが、入口までは階段で降りることができる。平和祈念公園内には沖縄県平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。 ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがねもり、方言名「クガニムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、2007(平成19)年6月から第20号壕が南風原町によって一部復元され、一般公開されている。 読谷村と北谷町には「アメリカ軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。 アメリカ軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。 これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔や慰霊碑が島内全域に多数現存している。 嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。アメリカ軍と日本人の共同で作ったとある。 参加兵力 日本軍 陸軍 以下は主要部隊のみで、ほかにも多数の兵站部隊、航空関係の地上部隊などがある。より網羅的なインターネット上の資料として沖縄振興局『』の「」も参照。 第32軍司令部(司令官:牛島満中将) 参謀長 長勇中将 高級参謀 八原博通大佐 参謀(後方担当)木村正治中佐 参謀(航空担当)神直道少佐 参謀(情報担当)薬丸兼教少佐 参謀(通信担当)三宅忠雄少佐 参謀(作戦担当)長野英夫少佐 第24師団(師団長:雨宮巽中将) - 歩兵第22連隊・第32連隊・第89連隊基幹 野砲兵第42連隊 - 四年式十五糎榴弾砲×12 九一式十糎榴弾砲×16 九五式野砲×8 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・砲兵隊(九一式十糎榴弾砲)・独立混成第15連隊[注 7]基幹 第5砲兵司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野砲兵第42連隊、独混44旅団砲兵隊、各歩兵連隊・歩兵大隊の連隊砲・大隊砲、師団および独混の速射砲を除く全砲兵部隊を軍砲兵として指揮下に置いた。 野戦重砲兵第1連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×12 野戦重砲第23連隊 - 九六式十五糎榴弾砲×24 重砲兵第7連隊 - 加式十二糎速射加農×2 三八式野砲×12 重砲兵第8連隊 独立重砲兵第100大隊 - 八九式十五糎加農×8 独立臼砲第1連隊 - 九八式臼砲×24 九七式軽迫撃砲×6 迫撃第42大隊 独立迫撃砲第1・第2大隊 - 九七式曲射歩兵砲×96 独立速射砲第3・第5・第7・第22大隊、独立速射砲第23・第32中隊 - 一式機動四十七粍砲×54 第21野戦高射砲隊司令部 野戦高射砲第79・第80・第81大隊、独立高射砲第27大隊 - 八八式七糎野戦高射砲×72 機関砲第103・第104・第105大隊 - 九八式高射機関砲×54 特設第47・第48・第49機関砲隊 - 九六式二十五粍機銃 戦車第27連隊[注 8] ‐ 九七式中戦車(新砲塔)×14 九五式軽戦車×12 砲兵中隊 - 機動九〇式野砲×4 電信第36連隊 第11船舶団司令部 船舶工兵第23・第26連隊 海上挺進第1・第2・第3・第26・第27・第28戦隊 第5海上挺進基地隊本部、海上挺進基地第1・第2・第3・第26・第27・第28・第29大隊 このほか、先島集団(宮古島に第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。 海軍 沖縄方面根拠地隊(司令官:大田実少将) 先任参謀 前川新一郎大佐 南西諸島航空隊(司令:棚町整大佐) 第951航空隊派遣隊(司令:羽田次郎大佐) 第2艦隊(司令長官:伊藤整一中将) 航空部隊 第6航空軍 - 在九州陸軍航空部隊(司令官:菅原道大中将) 第8飛行師団 - 在台湾陸軍航空部隊(師団長:山本健児中将) 第5航空艦隊 - 在九州海軍航空部隊(司令長官:宇垣纏中将) 第3航空艦隊 第10航空艦隊 第1航空艦隊- 在台湾海軍航空部隊(司令長官:大西瀧治郎中将) 連合軍 特に注意書きの無い場合、アメリカ軍の部隊を指す。出典は原則としてアメリカ陸軍公刊戦史“OKINAWA: The Last Battle”による[83]。 陸上部隊 各歩兵師団は歩兵3個連隊を基幹とし、砲兵4個大隊などを持つ。各海兵師団は3個海兵連隊を基幹とし、砲兵連隊と戦車大隊などを持つ。 第10軍司令部(司令官:サイモン・B・バックナー・ジュニア中将) 第24軍団(司令官:ジョン・リード・ホッジ少将) 第7歩兵師団 第711戦車大隊、第776水陸両用戦車大隊、第718・第536水陸両用トラクター大隊、第91化学中隊ほか配属。 第706戦車大隊、第708水陸両用戦車大隊、第715・第773水陸両用トラクター大隊、第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属。 第763戦車大隊、第780水陸両用戦車大隊、第728・第788水陸両用トラクター大隊、第88化学砲大隊の1個中隊ほか配属。 - 軍直轄。 第193戦車大隊ほか配属。 - 戦闘には不参加。 沿岸砲兵隊 第53沿岸高射砲兵旅団 第144沿岸砲兵群 - 155mm砲装備。 第3水陸両用軍団 - アメリカ海兵隊所属。 第1海兵師団 第6海兵師団 第2海兵師団 - 第8海兵連隊のみ参戦。 海軍 第5艦隊(司令官:レイモンド・スプルーアンス大将) 第58任務部隊(司令官:マーク・ミッチャー中将) (司令官:大将) 航空部隊 戦術支援用の航空部隊として、以下の部隊があった。 第301戦闘航空団 - アメリカ陸軍航空軍所属。 第7爆撃コマンド - アメリカ陸軍航空軍所属。 第2海兵航空団 - アメリカ海兵隊所属。 沖縄戦で失われた国宝 建造物 沖縄神社拝殿(首里城正殿)(大正14年4月14日指定) 首里城守礼門、歓会門、瑞泉門、白銀門(昭和8年1月23日指定) 園比屋武御嶽石門 (昭和8年1月23日指定) 崇元寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定) 円覚寺尚家霊廟(昭和8年1月23日指定) 冕嶽石門(昭和8年1月26日指定) 末吉宮本殿(昭和11年9月18日指定) 沖宮本堂(昭和13年7月4日指定) 沖縄戦を描いた映像作品 ひめゆり学徒隊を中心に描いたものはひめゆりの塔を参照。 映画 『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年東宝。岡本喜八監督作品) 『太陽の子 てだのふあ』(1980年、原作:灰谷健次郎、浦山桐郎監督作品) 『GAMA 月桃の花』(1996年、原作:嶋津与志、大澤豊監督作品) 『ハクソー・リッジ』(2016年、メル・ギブソン監督作品) テレビドラマ 『白旗の少女』(1990年・2009年、原作:比嘉富子) 『さとうきび畑の唄』(2003年) 『ザ・パシフィック』第9章(2010年) テレビ未来遺産『“終戦”特別企画 報道ドラマ 生きろ 〜戦場に残した伝言〜』(2013年) テレビアニメ 『ウミガメと少年』(2002年、原作:野坂昭如) ドキュメンタリー NHKスペシャル「昔 父は日本人を殺した〜ピュリツァー賞作家が見た沖縄戦〜」2011年6月19日放映。ピュリツァー賞作家デール・マハリッジが亡父の沖縄戦での体験を追跡する[422]。 NHKスペシャル 「沖縄戦 全記録」2015年6月14日放映[423]。 脚注 注釈 出典 関連文献(著者名順) 以下の文献は、本項目の執筆に使用した参考文献および発展的な関連文献を含む。 沖縄戦総説 Text "和書" ignored (help) 改訂版: 1985年/改訂版: 那覇出版社、2002年 Text "和書" ignored (help) 増刷版: 1994年 Text "和書" ignored (help); Text "CITEREF大田昌秀_『大田昌秀が説く_沖縄戦の深層』 " ignored (help) Text "和書" ignored (help) 『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』 朝日新聞社、1950年8月を改題 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) CS1 maint: multiple names: authors list (link) 和訳書:Text "和書" ignored (help) 和訳書:Text "和書" ignored (help) テーマ史・研究書 浅井春夫『沖縄戦と孤児院-戦場の子どもたち-』吉川弘文館、2016年、ISBN4642082921 安仁屋政昭 『沖縄戦学習のために』 平和文化、1997年、ISBN 4938585723 安仁屋政昭、徳武敏夫 『沖縄戦と教科書』 草の根出版会、2000年、ISBN 4876481539 石原昌家ほか 『争点・沖縄戦の記憶』 社会評論社、2002年、ISBN 4784514201 Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) 上原正稔 『沖縄戦トップシークレット』 沖縄タイムス社、1995年 大江健三郎 『沖縄ノート』 岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年、ISBN 4004150280 大城将保 『沖縄戦 民衆の眼でとらえる〈戦争〉』(改訂版)、高文研、1988年、ISBN 487498097X 大田昌秀 『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』 那覇出版社、2000年、ISBN 4890951296 大田昌秀 『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』 琉球新報社、2002年、ISBN 4897420482 大田昌秀 『沖縄戦下の米日心理作戦』 岩波書店、2004年、ISBN 400022381X 影山昇 『男たちの「ひめゆりの塔」 沖縄戦―知られざる悲劇の学徒たち』 大空社出版部、1997年、ISBN 4756804373 川平成雄『沖縄 空白の一年-1945-1946-』吉川弘文館、2011年、ISBN4642082662 曽野綾子 『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』 ワック、2006年、ISBN 4898315453 - 『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の改訂版 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 野村正起 『船工26の沖縄戦』 亜細亜書房、1998年、ISBN 4947727098 野村正起 『沖縄戦遺族の声』 叢文社、2002年、ISBN 4794704151 Text "和書" ignored (help) 林博史『沖縄戦 強制された集団自決』吉川弘文館、2009。ISBN4642056755 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) 伝記 Text "和書 " ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help)/中公文庫、2006年、ISBN 4122047145 野里洋 『汚名―第二十六代沖縄県知事泉守紀』 講談社、1993年、ISBN 4062067153 Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) 体験記 安里要江、大城将保 『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』 高文研、1995年、ISBN 4874981550 親里千津子 『ちーちゃんの沖縄戦』 ニライ社、1994年、ISBN 4931314104 小橋川千鶴子 『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』 耕文社、2002年、ISBN 4906456286 神直道 『沖縄かくて潰滅す』 原書房、1967年。 創価学会青年平和会議(編) 『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』 第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年、ISBN 4476012442 武田英子 『いくさ世(ゆー)にいのち支えて 沖縄戦を生きた助産婦の記録』 ドメス出版、1992年、ISBN 4810703436 富村順一 『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』 柘植書房、1995年、ISBN 4806803588 仲田精昌 『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』 晩声社、1999年、ISBN 4891882891 船越義彰 『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』 ニライ社、1998年、ISBN 4931314287 真鍋和子 『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』 講談社、2004年、ISBN 4062123584 宮城晴美 『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』 高文研、2000年、ISBN 4874982492 宮城巳知子 『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』 ニライ社、2002年、ISBN 4931314538 Text "和書" ignored (help); Check date values in: |date= (help) 松木謙治郎 『阪神タイガース 松木一等兵の沖縄捕虜記』 恒文社、1974年 山城高常 『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』 ニライ社、1995年、ISBN 4931314163 吉田久一 『八重山戦日記』 ニライ社、1999年、ISBN 4931314325 歴史を拓く女の会(編) 『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』 ドメス出版、2004年、ISBN 4810706273 Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) 旧独立行政法人平和祈念事業特別基金(総務省委託)『平和の礎 軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編)』(非売品) Text "和書" ignored (help) 第二次世界大戦全般 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) Text "和書 " ignored (help) その他 Text "和書" ignored (help) 大田昌秀(監修) 『沖縄戦 写真集』 那覇出版社、1990年 Text "和書" ignored (help) ひめゆり平和祈念資料館 『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年。 成沢未来 『沖縄哀歌』 里文出版、2007年。 山田もと 『首里の町がきえる日』 金の星社、1977年 ISBN 9784323005645 関連項目 沖縄県の歴史 沖縄のアメリカ陸軍航空軍 ラス・ビハリ・ボース…インドの独立運動家。陸軍中尉であった長男が沖縄戦で戦死した。 外部リンク - 内閣府沖縄振興局 - 沖縄県公文書館 - 沖縄気象台元職員個人サイト。戦時中の気象データなど ・ - グローバルセキュリティー(サイト第三者による和訳として「」) - アメリカの外交史専門家Nicholas Evan Sarantakesが収集・公開しているアメリカ軍の沖縄上陸から沖縄の日本復帰までの史料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E6%88%A6
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 519, 1503, 1993, 2315, 2710, 3048, 3568, 4051, 4669, 4912, 5724, 6693, 7165, 7760, 8471, 8828, 9710, 9889, 10898, 11000, 11473, 11717, 12217, 12874, 13203, 13879, 14185, 14680, 15370, 15873, 16610, 16707, 17023, 19511, 19619], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 510, 1502, 1982, 2314, 2709, 2992, 3567, 4007, 4668, 4911, 5723, 6692, 7164, 7759, 8470, 8827, 9709, 9888, 10884, 10999, 11472, 11716, 12216, 12873, 13183, 13878, 14184, 14679, 15369, 15848, 16596, 16681, 16988, 19489, 19593, 20076], dtype=int32)}
台湾がオリンピックに出る際、中国とは別チーム?
チャイニーズタイペイ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)}
チャイニーズタイペイ(英語:Chinese Taipei、漢字表記:中華台北、IOCコード: TPE)は、オリンピックをはじめとした国際スポーツや国際機関など国際的な場で用いられる呼称で、中華民国(台湾)を指す。同国が国際連合から事実上追放されるなど外交的孤立に追い込まれていく1970年代以降、国際社会に参加するための妥協策として主権・国家承認問題を棚上げしたものである。 概要 背景には「中華民国」が中国全土を代表するという建前と同時にその建前が国際社会に受け入れられていない実情と、中華人民共和国の「一つの中国」論の兼ね合いから「台湾」も「中華民国」も名乗れないことがある。最初にこの名称が使われたのは、台北市に本部を置く中華民国の国内オリンピック委員会 (NOC)「中華奧林匹克委員會」の英文名称とオリンピックの参加名義としてである。「中華民国」ではなく「Chinese Taipei(中華台北)」名義を用い、国旗である青天白日満地紅旗を使用せずに国際的な場に参画することを「オリンピック方式(奧運模式)」または「オリンピック委員会方式(奧會模式)」と称する。オリンピックでは、国旗の代わりにオリンピック委員会旗を使用し、一般に順序はIOCコード「TPE」による。 その後アジア太平洋経済協力 (APEC)、関税及び貿易に関する一般協定 (GATT) へのオブザーバー参加、世界貿易機関(WTO)での加入名義の略称、経済協力開発機構 (OECD) の一部委員会への参加など、国際機関(政府間組織)でも用いられるようになった。オリンピック以外の国際競技大会や国際的な民間組織でも、オリンピック方式で参加している事例がある。 梅花旗 チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗(中華奧林匹克委員會旗)は、その意匠から梅花旗と呼ばれることがあり、オリンピックに中華民国の選手が「中華台北代表」として出場する際に中華民国の国旗の代わりに使用、掲揚される。 白地の旗で、国旗に使われる青白赤で中華民国の国花(中華民國國花)である梅をかたどり、その中に中華民国の国章(青天白日</b>の紋章)とオリンピックシンボルである五輪をあしらったオリンピック委員会のエンブレムを中央に配置している。大会の表彰式などでは国旗歌が演奏される。 チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗は、オリンピックと直接関係しない大会でも使用される場合がある。アジア競技大会やバレーボール世界選手権、ワールドベースボールクラシックなどの例がある。 総合競技大会・個別競技の統括団体の旗 パラリンピックやデフリンピック、ユニバーシアードといった特定の人々のための総合競技大会や、個別競技の統括団体・代表チームの旗・エンブレムも、多くがこのオリンピック委員会旗と共通するデザイン要素を有している。チャイニーズタイペイオリンピック委員会ウェブサイト内のページ[1]に各競技の統括団体のエンブレムとそれぞれのサイトへのリンクがまとめられている。 中華民國殘障運動體育總會(チャイニーズタイペイパラリンピック委員会)の旗 中華民國聽障者體育運動協會(中華民国ろう者スポーツ協会)の旗(デフリンピック) 中華民國大專院校體育總會の旗(ユニバーシアード) 2006年まで使用された中華民国サッカー協会の旗 中華民國排球協會(中華民国バレーボール協会)の旗 オリンピックにおける両岸問題 中華民国(中国)におけるオリンピック委員会の歴史は、1922年に上海に創設された「中華業餘運動聯合會(China National Amateur Athletic Federation=中華アマチュアスポーツ連合会)」が、同年パリで行われた国際オリンピック委員会 (IOC) 年次総会でNOC「中國奧林匹克委員會(China Olympic Committee=中国オリンピック委員会)」として認められたことに始まる。1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン、1948年ロンドンの3大会では、中国代表選手はこの体制の下で参加した。 国共内戦の結果、1949年、中国大陸に中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台北に逃れた。1951年に「中国オリンピック委員会」は台湾に移転したと通知され、IOCに認められた。 1953年には中華人民共和国の首都・北京に中国オリンピック委員会が設立された。1954年にはアテネで開かれたIOC総会で、台湾海峡両岸の二つの「中国オリンピック委員会」がともに承認された。1956年のメルボルンオリンピックでは、中華民国が国旗・青天白日満地紅旗を掲げて参加することに抗議して、中華人民共和国が直前に参加を取りやめた。1958年には北京のオリンピック委員会が「二つの中国」をつくる動きに抗議するとして、IOCと複数<!-- 資料により団体数にばらつきあり -->の主要な国際競技連盟 (IF) を脱退、関係断絶を宣言した。IOCに不満を持つ国々と共に独自に新興国競技大会も行った。 一方、1959年5月28日、IOC総会で台北のオリンピック委員会について、全中国を代表・統括していないとして、「中国オリンピック委員会」名義で承認し続けることはできないとの決議が採択された。台北のオリンピック委員会は、これを受けて即座に「中華民國奧林匹克委員會 (Republic of China Olympic Committee)」と改称しIOCに申請した。IOCは1960年にこれを認めたものの、試合には「台湾 (Taiwan)」または「フォルモサ (Formosa)」の名義を使用することを求めた。台北側はこれら台湾名義の使用を受け入れず、同年のローマオリンピックでは入場式で「フォルモサ」の呼称が使われたことに対して抗議デモを行っている。1968年、IOCでは中華民国の英語表記Republic Of Chinaの略称であるR.O.C.という名称を使うことで一応の決着を見た。 1971年、国際連合総会が中国の唯一の合法的代表は中華人民共和国であり「蔣介石の代表」を即時追放するという内容の国連総会決議2758を採択したことにより、中華民国は国際連合脱退を宣言した。1970年にカナダと国交を樹立したことをはじめとして、中華人民共和国は西側諸国との関係改善を続け、中華民国とこれらの国との国交断絶が相次いだ。 こういった動きに対応するため、1973年台北のオリンピック委員会は、日本の日本体育協会に相当する「中華民國體育協進會」を分離して「中華奧林匹克委員會」に改組した。一方、1975年4月、北京側はIOCに復帰を申請した。書類不備を理由に棚上げされたが、国連と同様に一国一代表の前提に立ち台湾追放を条件(「国連方式」)としていたために難航し、「中国復帰問題」は当時のIOCと国際スポーツ界における最大の懸案の一つとなった。 1976年のモントリオールオリンピックで、開催国のカナダは、「R.O.C.=中華民国」の呼称とその国旗である青天白日満地紅旗を使う限り、台湾からの選手団を受け入れられないとの方針をとった。IOCは1969年に交わした取り決めに反するとして非難したが、カナダは態度を変えず、この問題によりモントリオール開催の中止も検討された。IOCが示した「台湾」という呼称を使い五輪旗を掲げる妥協案を台北の中華奧林匹克委員會(R.O.C.オリンピック委員会)は受け入れず、アメリカでカナダ入国を待っていた選手団を呼び戻した。 中華人民共和国側はIOCとIFへの復帰交渉を通じて、段階的に譲歩した。「国連方式」を断念し台湾除名の主張を撤回、台湾を含む統一チームでの参加を主張して態度を軟化させた。最終的には「中国の一地域」という前提で台湾を別個のチームとすることを認めた。 1979年10月25日、名古屋で開かれたIOC理事会の決議で、台北の中華奧林匹克委員會が「Chinese Taipei Olympic Committee」の名称のもと、旗・歌についてはそれまでのもの(中華民国の国旗・国歌)と異なるIOCが認めたものを使うという条件で残留し、中華人民共和国が「Chinese Olympic Committee(中国奥林匹克委员会=中国オリンピック委員会)」の名義で国旗五星紅旗と国歌義勇軍進行曲を使用してオリンピックに復帰することが認められた(名古屋決議)。その後、現行のシンボル、他のNOCとの対等な権利・地位、IOCや関連IFでの会員資格の保証が認められたことにより、1981年3月23日、中華奧林匹克委員會は名称(英文名称)・旗・エンブレムの変更を受け入れた。 1984年のサラエボ(冬季)・ロサンゼルス(夏季)両大会から、台湾海峡両岸の選手団が共にオリンピックに参加するようになった。 Chinese Taipeiの中国語名称については、1989年になるまで、台北側が主張する「中<b data-parsoid='{"dsr":[5442,5449,3,3]}'>華</b>台北」にするか、北京側の主張する「中<b data-parsoid='{"dsr":[5467,5474,3,3]}'>国</b>台北」にするか結論が出なかった。1990年の北京アジア大会をはじめとする北京で開催される複数の国際大会を控えてとりまとめる必要があった。1989年4月6日、チャイニーズタイペイオリンピック委員会秘書長(事務局長)李慶華と中国オリンピック委員会主席(会長)何振梁が香港で行った協議で、台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。同月20日に開会したアジアユース体操選手権大会に参加するためチャイニーズタイペイ代表選手が初めて北京に向かったことで、台湾海峡両岸のスポーツ直接交流が始まった。 呼称問題 Chinese Taipeiを中国語でどう表記するかは政治的にデリケートな問題である。 チャイニーズタイペイオリンピック委員会の名称は、対外名称である英語名称はChinese Taipei Olympic Committeeとされるが、国内向けの中国語名称では「台北」の文字を使わず「中華奧林匹克委員會」としている。他の競技統括団体では、オリンピック委員会同様、英語名称にChinese Taipeiを使うが、中国語名称を「中華民國○○協會」としている場合が多い。 台湾では、代表チームを「中華隊(隊=チーム)」と呼ぶのが一般的である。台湾本土化を支持する泛緑系のメディア(自由時報など)では「台湾隊」という呼称を使用している。 一方中国大陸では、試合会場などの公式な場では「中華台北」を使用する一方で、報道などでは「中<b data-parsoid='{"dsr":[6154,6161,3,3]}'>国</b>台北」と呼ぶべきであるとされた[2]。大陸では同じ文脈で香港は「中国香港」、マカオは「中国澳門」と呼ばれる。公式・対外的な場で中国語での呼称として「中国台北」が使われた場合には、台湾側が抗議を申し入れたことがある。 北京オリンピック直前の2008年7月、台湾側がこの呼称問題により、開会式・大会のボイコットを示唆したこと[3]を受けて、大陸側も譲歩し新華通訊社、華僑向けの中国新聞社(中新社)といった国営通信社をはじめ、大陸メディアの配信記事にも「中華台北」の名称が見られるようになった。北京オリンピック以前、「中華台北」という名称がメディアによって使われたのは、香港などに限られた。ただし香港においても大公報・文匯報といった大陸系メディアは「中国台北」を使った。 日本語では、公式な場面では「チャイニーズタイペイ」「中華台北」も用いられるが、それ以外では単に「台湾」と表記されることが多い。また、地名ではない「チャイニーズタイペイ」を開催地として記載している団体もある。 台湾での状況 蔣介石・蔣経国政権時代、中華民国政府こそが中国全土を代表する正統政府であると主張していた。中華民国(つまり建前上、中国全土)を代表するのに、台湾を称することはその正統性をおびやかすこと(「法理独立」)に繋がる。そのため当時の中華民国には「台湾」や「フォルモサ」という名義名称は受け入れられなかった。当時中華民国では民間団体であっても全国的なものの名称に「台湾」を使用することはできず、「中華民国」、「中国」または「中華」を使用しなければならなかった。 本省人である李登輝総統が政権基盤を固め始め、「來自台灣的總統(台湾から来た総統)」としてシンガポールを訪問し「務實外交(現実外交)」を展開するようになる1989年3月以降、状況に次第に変化が見られるようになる。 2007年4月、陳水扁総統は、台湾在外ビジネス団体の帰国訪問団との会見で「中華台北(チャイニーズタイペイ)」について「奇妙な名称」とし、オリンピックで台湾の名を使用できないことについて「歴史的な要素があり、また当時もさまざまな現実を考慮してのことだった」としながらも「不公平な待遇」と述べ、台湾への改称(台湾正名運動)に意欲を見せた[4]。 2008年4月、馬英九は総統就任を前に中央通訊社とのインタビューで世界保健機関 (WHO) 加盟問題について、「外交部は『中華台北』を用いるなと言うが、問題は『中華台北』以外の名称で(加盟に)成功したことがあるのか。『中国台北』というさらに受け入れがたい名称のほか、現在『中華台北』より適切な(参加可能な)ものがあるだろうか」と述べ、「中華台北 (Chinese Taipei)」について国際社会で受け入れられる「適切な名称」であるとの認識を示し、台湾名義の使用は今後推進しないとの考えを述べた[5]。 2018年11月24日、2020年東京オリンピック・パラリンピックにおける選手団名称を「台湾」に変更し、IOCへ申請する是非を問う住民投票が、中華民国統一地方選挙と合わせ行われた。結果、反対票が賛成票を100万票近く上回り、否決された。投票前には、IOCは「1981年に中華民国側も合意して決定した名称である」として、変更を認めない方針を示していた[6]。 使用例 スポーツ 国際オリンピック委員会 (IOC) 国際パラリンピック委員会 国際大学スポーツ連盟(ユニバーシアード) 国際アイスホッケー連盟 (IIHF) 世界空手道連盟 (WKF) 国際剣道連盟 (FIK) 国際サッカー連盟 (FIFA) 国際自転車競技連合 (UCI) [7] 世界シャンチー連合会 (WXF) 国際柔道連盟 (IJF) 国際ソフトボール連盟 (ISF) 国際綱引連盟 (TWIF) 国際テニス連盟 (ITF) 国際バスケットボール連盟 (FIBA) 国際バドミントン連盟 (IBF) (PDF) 国際バレーボール連盟 (FIVB) 世界野球ソフトボール連盟(WBSC) ワールド・ベースボール・クラシック (WBC) ワールドラグビー (WR) 国際機関 経済協力開発機構 (OECD) アジア太平洋経済協力 (APEC) ミス・コンテスト ミス・アース ミス・インターナショナル [8] ミス・ユニバース … 台湾代表の名称の変遷がWikipedia中国語版「環球小姐」にまとめられている。2004年を最後に<!-- 2011年大会時点 -->代表の派遣は行われていない。 同趣旨で用いられる名称 中国台北 (Taipei,China) アジア開発銀行 中華民国は創設以来のメンバーだったが、1986年に中華人民共和国が加盟した際、「中国台北」名義に変更された。これに抗議して中華民国側は1986年、1987年の総会をボイコット、1988年のマニラ総会から復帰、1989年には北京総会に出席。 台澎金馬個別関税領域 (Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu) 世界貿易機関 日本語には「台湾、澎湖諸島、金門及び馬祖から成る独立関税地域」などとも訳される。英文略称として「TPKM」以外に「Chinese Taipei」も使われる。中華民国は、前身であるGATTの1948年創設時のメンバーだったが、1950年に脱退し、国連脱退までオブザーバー参加を続けた。1990年GATT復帰を申請する際、「政治問題化するのを避けるため」として、この名称を使用した。申請から12年後の2002年に加盟。 台湾(中華民国)の国民が作成した著作物が日本の著作権法により保護されるかどうかについて、台湾が「台湾、澎湖諸島、金門及び馬祖から成る独立関税地域」としてWTO協定に加入し、これにより著作権を含む知的財産権を保護するTRIPS協定が台湾について効力が生じているため、日本においても保護される旨日本の裁判所で判示されている。 「台澎金馬」は、中華民国の実効支配地域としての「台湾地区」「中華民国自由地区」を指す名称として、民間で使われることもある。例えば東立出版社が出版する日本漫画の翻訳本には、販売を台湾地区に限定する旨「僅限台澎金馬地區發行販售」と注記されている。ただし併記されている英文では「TAIWAN」となっている。 中国台湾省 (Taiwan, Province of China) 国際標準化機構 ISO 3166-2:TWは「中国台湾省」と登録されている[9]。また「中華人民共和国台湾省」としてはCN-71で登録されている。台湾ではISOに修正を求める運動が起きている[10]。 世界保健機関 2011年5月に内部通達で「中国台湾省」と呼んでいたことがわかり、中華民国側から抗議を受けている[11]。なお、台湾はWHOには「中華台北」の名義でオブザーバー加盟している。 出典 関連記事 台湾問題 中華民国の在外機構の一覧 - 台北経済文化代表処 各競技代表チーム オリンピックのチャイニーズタイペイ選手団 野球チャイニーズタイペイ代表 サッカーチャイニーズタイペイ代表 サッカーチャイニーズタイペイ女子代表 バレーボールチャイニーズタイペイ女子代表 バレーボールチャイニーズタイペイ男子代表 バスケットボールチャイニーズタイペイ代表 バスケットボール女子チャイニーズタイペイ代表 外部リンク ()
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%9A%E3%82%A4
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 335, 554, 805, 1117, 1434, 2063, 2629, 3611, 3965, 4436, 5165, 5481, 5875, 6736, 7338, 7597, 8027, 8418, 8812, 9210, 9623, 10069, 10405, 11384, 12101, 12522, 12896, 13616, 14664, 15200, 15536, 16692, 17459, 17860, 17919, 17971, 18099], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 334, 553, 804, 1045, 1433, 2062, 2628, 3610, 3884, 4435, 5164, 5480, 5874, 6735, 7337, 7574, 8026, 8417, 8811, 9209, 9622, 10043, 10404, 11383, 12100, 12521, 12881, 13615, 14663, 15199, 15535, 16691, 17436, 17846, 17918, 17970, 18081, 18183], dtype=int32)}
ナチス・ドイツの発起人は誰?
水晶の夜
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
水晶の夜(すいしょうのよる、German: Kristallnacht、クリスタル・ナハト)とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害である。ユダヤ人の居住する住宅地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。 暴動の主力となったのは突撃隊(SA)のメンバーであり、ヒトラーや親衛隊(SS)は傍観者として振る舞った。ナチス政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。 事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた[1]。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。 因みに、水晶の夜という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにきらめいていたところにヨーゼフ・ゲッベルスが名付けた事にあるとされている。 事件の原因 ナチスによるポーランド系ユダヤ人追放 1933年1月30日に、反ユダヤ主義を掲げるものの、多くのドイツ国民からの支持を受けてドイツの第一党となったナチス党の党首のアドルフ・ヒトラーが、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクからドイツ国首相に任命された。 ヒトラーの首相就任後、ドイツではユダヤ系ドイツ人が激しい迫害にさらされることとなった。しかしドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていた。たとえ夜中の3時にゲシュタポがやってきても、彼らはポーランドの旅券を見せることで在住外国人としての権利主張ができた。いかにドイツ政府といえどポーランドと国交を結ぶ限りは彼らに正当な権利を認めねばならなかった。また旅券を有する彼らはいつでもポーランドへ帰ることもできた。 ところがポーランド政府は1938年10月6日、全てのポーランド旅券につき検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告した[2]。これによりドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍が無効とされた[3]。ドイツに勝るとも劣らず反ユダヤ主義的だったポーランドは、ドイツの反ユダヤ主義政策が激化していく中、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人がポーランドへ帰って来ることを嫌がっていたのだった[4]。 逆にポーランド系ユダヤ人をポーランドへ送り返したがっていたドイツ政府はこのポーランド政府の決定に激怒した。ドイツ政府はポーランドの旅券法が発効される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人を強制的にポーランドへ送り返してしまおうと企図した[5]。1938年10月28日に保安警察(Sipo)長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将の指揮の下にドイツ警察が1万7000人のポーランド系ユダヤ人を狩りたて、彼らをトラックや列車に乗せてポーランドとの国境地帯に移送した[3][6]。これに対抗してポーランド国境警察は国境を封鎖してユダヤ人の受け入れを拒否した。まだ旅券法が正式に発効していないにも関わらずポーランド政府は未だ有効な旅券を持つポーランド系ユダヤ人の受け入れを無法に拒否したのだった[5]。 ドイツ政府からもポーランド政府からも受け入れを拒否されたユダヤ人たちは国境の無人地帯で家も食料も無い状態で放浪することとなり、彼らは窮乏した生活を余儀なくされ、餓死者も大勢出た[3][7]。 ポーランド系ユダヤ人青年によるドイツ大使館員暗殺テロ センデル・グリュンシュパンの一家もこの時ドイツ政府によって追放されたポーランド系ユダヤ人家庭のひとつであった。センデルはパリにいる当時17歳の息子のヘルシェル・グリュンシュパンに惨状を訴えた。ヘルシェルはドイツ政府の非人道的なやり方に激昂し、ドイツ大使館員を暗殺して世界にユダヤ人の惨状を訴えることを企図した[6][3][7]。 1938年11月7日、ヘルシェルは、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んだ[8]。ヘルシェルは大使館員によって捕えられ、大使館前で警備していたフランス警察に引き渡された[9]。ヘルシェルはフランス警察の尋問に対して「自分の家族がドイツ警察から非道の仕打ちを受けたと聞き、抗議のためにドイツ大使館員を殺害しようと決めました。ドイツで起きている事に対し、世界に訴えたかった。迫害されるユダヤ人に代わって復讐したかった」と語った[10]。 ラートが撃たれたという事件の報を受けて、ナチス党の中でも狂信的な層は早くも11月8日にローテンブルク・アン・デア・フルダ(de)、ベブラ(de)、ゾントラなどのユダヤ人商店街やシナゴーグに対して反ユダヤ暴動を開始している[11]。 ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはゲオルク・マグヌス(de:Georg Magnus)教授と自らの侍医カール・ブラント博士の2人を11月8日早朝にパリに派遣し、ラートの治療にあたらせた[9]。フランス在郷軍人たちもラートへの輸血に応じた[10]。しかし結局ラートは11月9日午後4時30分に死去している[6][12]。 ラートが死亡した11月9日にヒトラーはミュンヘンの市役所で催されていたミュンヘン一揆15周年記念式典に出席していた。その場に使いが入ってきてヒトラーにラートの死亡を耳打ちした。ヒトラーは隣に座っていたヨーゼフ・ゲッベルスの方へ向き直り、数分間何か話をした[13]。この時ヒトラーは「SA(突撃隊)を解き放つべき時がやって来た」と告げたという[14]。その後、ヒトラーは演説を中止して早々に会場を退席し、私邸に戻った[15]。ラート死亡後にヒトラーが突然私邸にこもったのは恐らく自分が暴動に関与していないことを示すためのアリバイ作りと思われる。ヒトラーは事件後、暴動にやたら驚いた様子を見せていた[16]。 ヒトラー退席後、代わってゲッベルスが出席者達に対して「すでに報復行動が11月8日にクーアヘッセンとマグデブルク=アンハルト管区で国家第一の敵であるユダヤ人に対して行われた」と宣言した[15][17]。これを聞いた聴衆は「党が示威行動の発起人として前面に出ることはないにしても、実際には党がそれらを組織し、最後までやり通すのだろう」という印象を持ったという(ヴァルター・ブーフのヘルマン・ゲーリングへの報告書)[17][18]。 集会は午後10時30分に解散となり、大管区指導者や突撃隊指導者たちはミュンヘンから電話で暴動に関する多少なりとも具体的な指示をそれぞれの管轄地区執行部に下した[18]。 水晶の夜 暴動 ラート暗殺事件を受けて11月9日夜から11月10日かけて組織化された反ユダヤ主義暴動がドイツ各地で発生した。あわせて177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊された[1]。特にフランスとの国境に近いドイツ西部で暴動が多発した[1]。併合されたばかりのオーストリアやズデーテン地方でも暴動が発生した[19]。 暴動中、ユダヤ人は殴られたり、辱められたりした。運の悪い者はそのまま殴り殺された[20]。少なくとも96人のユダヤ人が殺害されている[21]。『我が闘争』を朗読させられたり、『ホルスト・ヴェッセルの歌』を暗誦できるまで歌わされた者[22]、果ては強姦されたユダヤ人女性もいた[20]。 シナゴーグやユダヤ人住宅・企業の他、ユダヤ人居住地域の墓地、病院、学校、家などが破壊された[21]。ベルリンでは12あったシナゴーグのうち9つまでが焼き払われた[20]。略奪も多数発生し、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒはヘルマン・ゲーリングに800件の略奪を報告している[23]。 ハイドリヒや保安警察ゲシュタポ局局長ハインリヒ・ミュラーの電報での「邪魔をしないように」との命令に基づき警察は暴動を全く取り締まらなかった。さらに消防隊も炎上するシナゴーグを見ているだけだった。消火活動をするのは非ユダヤ人の建物に延焼する恐れがある時だけだった[19]。 割られて路上に散らばったショーウィンドウの破片が月明かりに照らされて水晶のように輝いていたことから<b data-parsoid='{"dsr":[6345,6355,3,3]}'>水晶の夜(クリスタルナハト)と呼ばれた[24]。実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったという。 ナチス党政権はこのような暴動を「煮えたぎる民族精神の正当な蜂起」などと正当化した[22]。殺人に関与した者は一応逮捕されているが、そのほとんどは不起訴になるか、無罪判決だった[25]。一方ユダヤ人女性を強姦した者については「ドイツ人の血と名誉を守る法律」の「人種汚辱罪」で処罰されている[26]。 「官製暴動」疑惑 自然発生した暴動ではなく、ナチス党政権による「官製暴動」の疑いがかけられている事件である。特に関与が確実視されているのが宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルスである。ゲッベルスが突撃隊員や各管区の指導部を動員して行ったとされる[27][28]。 もう1人、疑いがかかっているのは保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒである[29]。11月9日深夜にはハイドリヒの部下であるゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーが各地のドイツ警察に「まもなくユダヤ人とシナゴーグに対する攻撃が始まるが、邪魔をしてはならない」と電報で命令している[30]。さらに10日にはハイドリヒ自身が、全警察とSDに向けて次のように電報で命令した。「ドイツ人の生命と財産を危険にさらさないユダヤ人への攻撃は許すものとする」「ユダヤ人の商店や住居はただ破壊するのみとせよ。略奪は認めない」「商店街の非ユダヤ系商店が被害を受けないように留意せよ」「外国籍の者はたとえユダヤ人でも被害を受けないよう留意せよ」[13][31]。この電報のためにハイドリヒの関与が疑われている。 一方、ラインハルト・ハイドリヒの妻リナによると、「水晶の夜」が発生した際にハイドリヒは自宅で寝ていたが、ハイドリヒ家の警備をしていた親衛隊員に起こされて暴動事件を聞かされて、驚いて急きょ出勤したという。帰宅した後、ハイドリヒは妻リナに向かって「ゲッベルスがやったんだ。なんでゲッベルスはこんなことをしたんだろう?」と語ったとリナは証言している[32]。ハイドリヒの代理ヴェルナー・ベストも「ゲッベルスの行動であり、ハイドリヒや私にとって全くの不意打ちの事件だった」と証言している[33]。 ゲッベルスの部下である国民啓蒙・宣伝省映画部長フリッツ・ヒップラー(de:Fritz Hippler) によると、ヒップラーは11月9日夜の暴動を目撃しており、暴動を起こしている者たちが純粋な「住民」ではないことを見抜き、11月10日朝に宣伝相ゲッベルスにその旨を報告したが、ゲッベルスは報告をはねのけたという[28]。 ゲッベルスがナチ党幹部の中でもずば抜けて過激な反ユダヤ主義者であった事は事実である[34]。ただ警察や親衛隊の協力なしでゲッベルスだけで為し得ることができたかは疑問である[35]。それを考えるとハイドリヒの電報による助力もかなり大きい関与と思われる。 事件処理 この暴動でドイツ警察に逮捕されることになったのは被害者であるはずのユダヤ人であった。3万人ものユダヤ人が警察に逮捕され、彼らを収容するためにダッハウ強制収容所、ブーヘンヴァルト強制収容所、ザクセンハウゼン強制収容所が拡張されることとなった[36]。ブーヘンヴァルトに1万人、ダッハウに1万1000人、ザクセンハウゼンに5,000人から1万人が送られた[26]。ただこの際に逮捕されたユダヤ人は数週間で釈放された者が多い[37]。ユダヤ人が暴動で受けた被害額はガラスの交換だけでも600万ライヒスマルクに及ぶという[26]。 この損害に対してドイツの保険会社が損害を負担せねばならないことへの対策会議が、アドルフ・ヒトラー総統の同意を経て11月12日にヘルマン・ゲーリング国家元帥の空軍省で行われた。会議には四ヵ年計画責任者でもあるゲーリングのほか、経済相ヴァルター・フンク、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、法相フランツ・ギュルトナー、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス、秩序警察長官クルト・ダリューゲ、保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ、また保険業界代表でヒルガルドという人物が招かれた。四ヵ年計画責任者としてドイツ経済に最終的責任を負うゲーリングは、ドイツ経済への打撃という観点からこの暴動騒ぎを嫌悪しており、この会議の席上、ゲーリングは一連の暴動による破壊活動を批判した。この会議には議事録が残っている[38][39]。 議事録によるとゲーリングは会議の席上、「こんなに物を破壊するぐらいならユダヤ人をものの二百人ほどバラした方がよほどよかったぞ」などと言い放っている[40]。この一件によりゲッベルスはユダヤ人問題から撤退を余儀なくされ、ゲーリングがユダヤ人問題の責任者となった[41]。さらに1941年にはこの権限がハイドリヒに委譲され、ハイドリヒがホロコーストを実行していくこととなる[42]。 この会議でドイツ保険の国際的信用を失墜させぬために一応保険を支払うことが決定された[43]。外国籍ユダヤ人には損害賠償請求も認められたが、一方ドイツ国籍ユダヤ人は損害賠償請求が認められず、さらに支払われた保険も結局没収された[44]。 ゲーリングはこの会議の後、同日の11月12日に「ドイツ国籍ユダヤ人の贖罪給付に関する命令」(罰金10億ライヒスマルクをドイツ国籍ユダヤ人団体に課す)、「ドイツの経済活動からユダヤ人を排除する命令」(ドイツ企業は年末までにユダヤ人労働者をすべて解雇しなければならない。1939年からユダヤ人の小売業も禁止)、「ユダヤ人商店・工場における街路美観修復のための命令」(破壊された建物の修復はすべてユダヤ人が修復する。ドイツ国籍ユダヤ人が受ける損害保険金はすべて国が没収する)の三政令を定めた[41]。ゲッベルスも11月23日にユダヤ人を文化生活から追放する政令を定めた(劇場・映画館・音楽会・ダンス場などへユダヤ人が立ち入ることを禁止する)[41]。11月15日にはユダヤ人が学校へ通うことが禁止され、その2週間後にはユダヤ人夜間外出禁止命令も出された。12月になると公の場からユダヤ人は完全に消されてしまった[44]。 暴動の際に盗難や略奪も多数発生したが、この取り戻しだけはドイツ警察も「熱心」であった。11月12日の会議でもゲーリングが秩序警察長官ダリューゲと保安警察長官ハイドリヒに「大々的手入れで宝石類は取り戻さねばならん」「だれか店に宝石を売りに来たら有無を言わさず取り上げねばならん。合法的に入手したと言い張っても構わん」などと無法な警察活動を命じている[43]。これに対してダリューゲも「隣近所の者が急に毛皮を着るようになったり、指輪をするようになったら警察に届けるよう命令を出す必要があります」などと応じた[43]。 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) CS1 maint: unrecognized language (link) 関連項目 ドイツ国会議事堂放火事件 長いナイフの夜 ドイツの歴史における11月9日の大事件 ドイツ革命(1918年) ミュンヘン一揆の終息(1923年) ベルリンの壁崩壊(1989年) 外部リンク : les dates qui comptent dans la montée en puissance de l'antisémitisme nazi.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%99%B6%E3%81%AE%E5%A4%9C
{'plaintext_start_byte': array([ 10, 494, 750, 1021, 2204, 3112, 3749, 4337, 5269, 6213, 7034, 7543, 8087, 9496, 10754, 12222, 14038, 15071, 15253, 15469, 15750, 16082, 16350, 16641], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 493, 742, 1020, 2203, 3111, 3693, 4335, 5255, 6198, 7033, 7542, 8072, 9481, 10739, 12207, 14023, 15038, 15137, 15468, 15749, 16066, 16339, 16616, 16688], dtype=int32)}
『ダウントン・アビー』は日本でテレビ放映されましたか?
ダウントン・アビー
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([18], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['YES'], dtype=object)}
Main Page 『ダウントン・アビー』(ダウントン・アビー、原題:Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)は、ジュリアン・フェロウズによって製作され、とによって共同制作された[1]。2010年9月26日にイギリスのITVで放送が開始され、2011年1月9日にアメリカ合衆国のPBSでマスターピース・クラシック名作集の一環として放送された。 なお『ダウントン・アビー 〜貴族とメイドと相続人〜』はスター・チャンネルで一時期に使用された邦題であり、NHKでの邦題は『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』である。 概要 イギリスでは2010年からシーズン1の放送が開始され、2015年にシーズン6をもって終了した。通常回の他、シーズンごとの最終回となるクリスマススペシャルを含め、全部で52エピソードが放送された[2]。 ドラマの舞台は1912年から1925年のイギリス、ヨークシャーの架空のカントリー・ハウスであるダウントン・アビーで、当時の史実や社会情勢を背景に物語は進む。時代以降の貴族クローリー家とその使用人たちの生活を描いており、歴史上の出来事が彼らの生活やイギリス社会階層に影響を与える。 シーズン1の冒頭ではタイタニック号沈没事故が起きる。シーズン2では第一次世界大戦や汚職スキャンダルである、スペインかぜの流行、シーズン3ではアイルランド独立戦争、シーズン4ではアメリカ政治のスキャンダルであるティーポット・ドーム事件、シーズン5では英国史上初の労働党政権となるマクドナルド政権の発足や、アムリットサル事件、ミュンヘン一揆がそれぞれ描かれ、最終のシーズン6では、戦間期の労働者階級の台頭を取り上げ、貴族が経済的に逼迫して、領地やカントリー・ハウスを手放し、使用人を削減せざるをえない状態に追い込まれる様が描かれる。 「ダウントン・アビー」は、テレビ評論家から称賛を得て、ゴールデングローブ賞テレビドラマ部門作品賞ミニシリーズ・テレビ映画部門やプライムタイム・エミー賞作品賞ミニシリーズ・テレビ映画部門を受賞。ギネス世界記録には、2011年の最も高い評価を受けたイギリスのテレビシリーズとして認められた。プライムタイム・エミー賞の歴史上最も候補を獲得した国際的なテレビシリーズになった(2シーズン後、合計27)[3]。ITVとPBSの両方で最も視聴されたテレビシリーズであり、1981年のテレビシリーズ「」以来、最も成功したイギリスのコスチュームドラマシリーズとなった[4]。第3シーズンでは、世界で最も広く視聴されているテレビドラマ番組の1つになった[5]。 2015年3月26日、カーニヴァル・フィルムズとITVは、第6シーズンが最後になると発表し、2015年9月20日から11月8日までITVで放送された。クリスマススペシャルとしての最終エピソードは2015年12月25日に放送された。その後、映画化の噂があり、エグゼクティブプロデューサーのは「非常に興味がある」と発言している。ブックメーカーのラドブロークスは、「映画が発表されるまでには時間の問題のようにしか見えない」としている[6]。 クローリー家を中心とした家系図 製作 製作会社のカーニヴァル・フィルムでは、エドワード朝期のカントリー・ハウスでのドラマの構想を持ち、同時代の貴族と使用人を描いた『ゴスフォード・パーク』でアカデミー脚本賞を得ていたジュリアン・フェロウズにアプローチした。フェロウズは、当初ゴスフォード・パークと類似の作品に抵抗を示したが、数週間でシーズン1の骨格を作り上げた。フェロウズが脚本を書き、妻のエマが非公式にストーリーの監修者となった。 カントリー・ハウスの「ダウントン・アビー」は、ヨークシャーにある設定となってる。ダウントン・アビーの屋内シーン、および館を背景とした野外シーンはハンプシャーのハイクレア・カースルで撮影されている。ハイクレア・カースル城主のカーナーヴォン伯爵はフェロウズの友人でもあり、戦争中の病院への転用など、城と伯爵家の歴史はドラマのストーリーのヒントとなっている。ダウントン村の屋外シーンは、オックスフォードシャーのバクストン村で撮影されている。第一次大戦の塹壕シーンは、歴史ドラマおよびドキュメンタリー撮影用に設けられたサフォークの専用塹壕施設で撮影された。その他、多くの歴史的景観において、数々のシーンが撮影されている。 あらすじ イングランド北東部、ヨークシャーのダウントン村[12]にあるカントリー・ハウス「ダウントン・アビー」。その持ち主のロバート・クローリーは、グランサム伯爵でありクローリー家の当主である。彼には先代グランサム伯爵夫人である母バイオレット、アメリカの富豪の娘である妻コーラ、妻との間に生まれたメアリー、イーディス、シビルの三人の娘がいる。当時の法律では、最近縁の男系男子一人だけに爵位と財産のすべてを相続させる「限嗣相続制」[13]が定められていたため、ロバートの後継ぎはいとこのジェームズであり、娘たちは爵位も財産も継ぐことはできない。そこで長女のメアリーはジェームズの一人息子パトリックと婚約し、財産と爵位は子孫が継ぐ予定であった。 シーズン1 1912年春、タイタニック号沈没事故によって、ジェームズとパトリックが死亡したとの知らせが届く。伯爵家の財産と爵位は、次位の相続人である、中流階級出身で遠縁の青年弁護士、マシュー・クローリーが継ぐことになる。突然の報を受けて、母親のイザベルとともにダウントン村へ渋々移住したマシューは、初めのうちこそ貴族のしきたりに反発を覚え、これまでの生活を変えず、家督の相続も回避しようとする。しかし、マシューは、当主としての職務を全うしようと努める伯爵ロバートの人柄に触れ、領地管理の仕事に携わる中で考えをあらため、また、気位の高いメアリーとも惹かれあって行く。 クローリー家の人々が相続を巡って慌ただしく動いていた頃、ダウントン・アビーの使用人たちの間にも新たな動きが生じる。ボーア戦争のときにロバートの従卒を務めた元軍人のベイツが使用人として雇用され、従者に任じられたことがその引き金となる[14]。ベイツは執事のカーソンやメイド長のアンナと信頼を育み、第一下僕のトーマスや侍女のオブライエンと反目する。 マシューはメアリーに求婚するが、コーラが妊娠したために後継問題は複雑になり、メアリーは返事を引き延ばす[15]。結局、コーラは不慮の事故により流産するが、メアリーの態度に不信感を抱いたマシューはダウントンを離れ、軍に志願入隊する。ダウントン・アビーでガーデン・パーティーが行われる最中、イギリスとドイツの間で戦争(第一次世界大戦)が始まったとの知らせが届く。 シーズン2 1916年、戦争(第一次世界大戦)は長引いていた。マシューは、医療隊に志願していた下僕のトーマスと、ソンムの戦いの戦場で再会する。三女のシビルは看護婦として傷病兵の世話をする。マシューが弁護士の娘ラヴィニアと婚約する一方、メアリーはマシューへの思いが捨てられないまま、新聞社主のリチャードと婚約する。ベイツはアンナと恋仲になるが、別居した妻から、メアリーの醜聞を種に脅迫されてダウントンを去る。メアリーはリチャードの力で醜聞を抑え込む。シビルはアイルランド出身の運転手ブランソンと恋に落ちて結婚を宣言し、家族を驚かせる。出征していた第二下僕のウィリアムは戦傷を負い、瀕死の床で厨房メイドのデイジーと結婚する。マシューは戦場で受けた傷により下半身不随となるが、奇跡的に回復する。戦争が終結した直後、スペインかぜが流行してラヴィニアの命を奪う。トーマスは人手不足となったダウントンに復帰する。ベイツはアンナと結婚するが、元妻が変死したため、殺人罪で逮捕されて死刑判決を受ける。1920年、メアリーはマシューと婚約し、ベイツは終身刑に減刑される。 シーズン3 1920年、メアリーとマシューは結婚する。シビルを連れてアイルランドに戻っていたブランソンは、アイルランド独立戦争のさなかに貴族の館の放火容疑をかけられる。伯爵の尽力により逮捕は逃れるが、帰国できなくなり、シビルと共にダウントンに住む。次女イーディスは父親より年上の男と婚約するが、結婚式で花婿に逃げられる。伯爵ロバートは無謀な投資で妻コーラの持参金を失い、ダウントンは財政危機に見舞われる。マシューが亡き婚約者ラヴィニアの父親から相続した財産を投じて危機を逃れ、財産の半分を所有することになる。シビルはブランソンとの間に子をもうけるが、出産の直後に産褥死を遂げる。ブランソンは生まれたばかりの娘と共にダウントンにとどまり、マシューと領地の管理を行うことになる。ベイツは妻アンナの助力により無実の証拠を得て釈放される。トーマスは男色の罪で逮捕されそうになり、ベイツの尽力で逃れる。メアリーは息子を出産するが、マシューが交通事故で死ぬ。 シーズン4 1922年、マシューの死から半年が経っている。メアリーはマシューの死を嘆いて殻に閉じこもるが、執事のカーソンの助言で立ち直る。マシューの遺言状が発見され、息子が成人するまでマシューの所有分の領地の管理はメアリーに任される。メアリーはブランソンの助けで領地の経営に参加する。メアリーには、ギリンガム卿とチャールズ・ブレイクの二人の求婚者が現れる。イーディスは既婚者のグレッグソンと関係を深めて妊娠する。だがグレッグソンはドイツで失踪し、イーディスは秘密裏にスイスで娘を出産して養子に出す。ロバートの従姉妹の娘のローズがダウントンに同居し始め、奔放な行動で周囲を心配させる。マシューの執事兼従者であったモールズリーは失職した後に伯爵の下僕として再雇用され、侍女のオブライエンはダウントンを去る。アンナはギリンガム卿の従者であるグリーンから暴行を受けるが、夫ベイツが暴行犯に復讐することを恐れて沈黙する。アンナに避けられるようになったベイツは真相を知り、暴行犯は不自然な死を遂げる。コーラの侍女となった元メイドのエドナが再びブランソンに言い寄るが、家政婦長のヒューズに解雇される。 シーズン5 1924年、ブランソンは社会主義者の女教師バンティングと親しくなる。料理人助手のデイジーは、形式的に結婚した亡きウィリアムの父から、将来的に農場を相続するよう頼まれたため、バンティングの指導で勉強を始め、社会や政治に関心を持つ。執事のカーソンはダウントンの村人から、戦争記念碑建立の委員長就任を求められる。料理人のパットモアは、相続した遺産で家を買い、引退後には宿屋の経営を計画する。この計画に刺激を受けたカーソンとヒューズは、宿屋共同経営のための家を探す中でお互いの気持ちを知り、結婚の約束をする。警察は謎の死を遂げたグリーン殺人容疑でアンナを逮捕する。アンナを釈放するため、ベイツは偽の自白をして逃亡するが、侍女のバクスターと下僕のモールズリーが尽力してベイツの無実を証明する。メアリーはギリンガム卿とリバプールのホテルで一週間を過ごすが、求婚を断る。バイオレットはロシアから亡命した元恋人のクラーギン公爵の行方不明の妻を探し出す。イザベルはマートン卿に求婚され一度は承諾するが、卿の息子たちの反発を受けて断る。ローズはシンダービー卿の息子アティカスと親しくなる。アティカスがユダヤ人であるためにローズの母は反対するが、二人はロンドンで結婚式を挙げる。グレッグソンの死が確認されてイーディスは出版社を相続し、娘のマリゴールドを養女とする。ブランソンは娘のシビルを連れて、アメリカの従兄のもとに移住する。 シーズン6 1925年、制度や社会情勢の変化で多くの貴族の財政が破綻する中、伯爵家も使用人の削減を検討し、副執事のトーマスは新たな職を探す。イーディスは出版社の経営に深く関わるようになる。バイオレットとイザベルは地元の病院の買収を巡って争い、コーラがイザベルの味方につく。グリーンの殺人事件は解決し、アンナは不妊治療を受けて妊娠する。カーソンとヒューズの結婚を皆で祝っているところにブランソンが娘を連れて戻り、再びダウントンに住むと言う。イザベルはマートン卿と結婚する。メアリーは地位も財産もないカーレーサーのヘンリーと結婚する。イーディスの交際相手が親戚の侯爵位を継ぐことになり、大晦日に結婚式が行われる。カーソンは引退し、トーマスが後の執事を引き継ぐ。アンナが無事に男の子を産む。 エピソード キャスト 「俳優」欄のカッコ内は、日本語吹き替え声優。 メインキャスト クローリー家 使用人 その他 ゲスト・リカーリング 日本での放送 日本では、2011年秋から『ダウントン・アビー 〜貴族とメイドと相続人〜』としてスターチャンネルで放送が始まり、2016年10月までに全シーズンが放送された。 2014年春からNHK総合テレビジョンでも『ダウントン・アビー 華麗なる英国貴族の館』として2017年7月までに全シーズンが放送された。2015年夏からはAXNミステリーでも放送され、またHuluとNetflixで配信もされた。 シーズン2のクリスマススペシャルは、スターチャンネルでは第9話として放送されたが、NHKでは第9話と第10話に分割されて放送された。 シーズン3、4、5、6のクリスマススペシャルは、スターチャンネルとNHKでは分割されて放送された。 受賞 受容 服飾ブランドのラルフ・ローレンは、2012年秋冬コレクションのテーマに「ダウントン・スタイル」を掲げており、デザイナーはこのドラマからインスピレーションを受けたと語っている[17]。 映画化 2018年7月13日、映画の製作が発表された[18]。撮影は2018年の夏から始まり[19]、公開は2019年9月の予定である[20]。脚本はジュリアン・フェロウズが担当し、ドラマシリーズに続くストーリーを描く[21]。 出典 外部リンク on IMDb at stv.tv on PBS Masterpiece
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%93%E3%83%BC
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 380, 758, 1040, 1219, 1359, 1488, 1638, 1755, 2174, 2703, 3031, 3312, 3390, 5813, 7932, 8447, 10170, 10485, 11272, 11313], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 372, 757, 1039, 1218, 1358, 1487, 1637, 1754, 2173, 2702, 2977, 3127, 3389, 5811, 7903, 8433, 10147, 10464, 11247, 11311, 11595], dtype=int32)}
バンダイナムコアミューズメントの創業者は誰?
バンダイナムコアミューズメント
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
株式会社バンダイナムコアミューズメント(BANDAI NAMCO Amusement Inc.)は、アミューズメント機器の製造・開発・販売、ゲームセンターやテーマパーク等のアミューズメント事業を運営する日本の企業。バンダイナムコホールディングスの完全子会社。本社は東京都港区にある。 概要 2006年3月31日、株式会社ナムコ(初代、法人としては現在のバンダイナムコエンターテインメント)よりアミューズメント部門および新規開発事業部門が独立し、株式会社ナムコ(2代)として設立された。初代ナムコと社名は同じだが、法人の連続性としては別法人となっている。 なお「ナムコ」「namco」ブランドは、以上の改編後のバンダイナムコゲームス → バンダイナムコエンターテインメントにおいても引き続きゲーム類のブランドとして、2014年のブランド統合まで使われていた。 「ナムコ」の由来は、旧ナムコの前身である「中村製作所」の英語表記 N</b>akamura A</b>musement M</b>anufacturing Co</b>mpany の略称である[1]。 旧ナムコ時代の会社名ロゴであるnamcoの縦と横の比率が1:7.65であるデザインをそのまま使用している。 2008年3月、湯の川観光ホテルの株式を株式会社スタディーへ売却し、グループから離脱させた。 2008年4月、バンプレストの事業再編により、株式会社プレジャーキャスト、株式会社花やしきを子会社化した。 2014年9月、本社を旧ナムコ時代から構えていた大田区矢口から港区三田に移転した[2]。 2018年4月1日、バンダイナムコエンターテインメントのアミューズメント機器部門を吸収分割で承継の上、バンダイナムコアミューズメント</b>に社名変更。バンダイナムコアミューズメントはリアルエンターテインメントユニットの主幹企業となり、企業ロゴもバンダイナムコグループ共通のものとなる[3][4][5]。 なお、2018年10月には当社のVRアクティビティや最新技術を駆使した業務用ゲーム機の研究と企画開発を専門に行う新会社「バンダイナムコアミューズメントラボ(英:BANDAI NAMCO Amusement Lab Inc.)」を設立[6]。バンダイナムコスタジオの業務用企画、ソフト、ハードの開発、ネットワーク開発、運営までの一連の機能を分社化して当社に再構築、リアルなエンターテインメント体験の進化を図る。 2018年10月25日、バンダイナムコアミューズメント、セガ・インタラクティブ、コナミアミューズメントの3社による共通ICカードサービスである「アミューズメントICカード」サービスが開始された[7][8][9]。 主な事業 アミューズメントマシン事業 旧:ナムコ、バンダイナムコエンターテインメント時代の製品も含む。 ビデオゲーム・トレーディングカードゲーム型アーケードゲーム メダルゲーム その他のアーケードマシン アミューズメント施設事業 旧ナムコ創業当時から展開してきた、同社の主幹事業。 namco・ナムコランド・プラボ・プレイシティキャロット・プリッズ</b>等 アミューズメント施設(ゲームセンター)を運営。2011年頃から、新規に出店する店舗は「namco」ブランドに統一されており、一部の既存店でも変更が行われている[10]。なお、「キャロット」ブランドは最後まで残っていた横浜の1店舗が2014年1月25日をもって閉店した[11]ことで消滅した。東急プラザ蒲田の観覧車(namco東急プラザ蒲田店の一施設)や丸広百貨店川越店の屋上遊園地の運営なども行っている[12]。なお、岩手県、鳥取県、島根県の3県には店舗は存在しない。 公式HPの店舗情報には設置ゲームの機種が掲載されているが、販売元を基準にメーカー名を掲載しているため、スクウェア・エニックスのタイトルは販売元のタイトー名義での掲載となっている(ドラゴンクエスト モンスターバトルスキャナーのみマーベラス)。 2018年7月21日、約3年ぶりにスタッフの制服を新しくした[13]。 ナムコイン コイン型のアミューズメント施設向けプリペイド式電子マネー。ナムコと旭精工が共同開発した[14]。10円単位でのプレイ料金の設定が可能で、現金と別の料金設定も可能。 使用方法 アミューズメント施設にあるナムコイン発行機に現金を投入し、発行ボタンを押すことで金額がチャージされたナムコインが発行される。 ナムコインを通常の硬貨と同様にゲーム機の投入口に投入するとゲームにクレジットが投入され、硬貨返却口にプレイ料金が減算されたナムコインが排出される。複数回投入することで、現金同様クレジットサービスを受けることが可能。 使用終了後は発行機で残金の清算ができる。使用・清算期限は「当日限り」となっている。 ワンダーボウル - ボウリング場を運営。 なぞともCafe - リアル系脱出ゲームの常設会場。 アニON STATION - アニメ作品とのタイアップメニューを中心とする飲食店。 キャラポップストア - 人気アニメやゲームの世界観を楽しめるショップとしてグッズの販売などを行う。 VR ZONE Shinjuku - 2017年7月14日に、東京都新宿区にオープン[15]。2016年に、半年間限定でお台場で実験的に運営した「VR ZONE Project i Can」を本格展開させたもの。元々はバンダイナムコエンターテインメント運営施設だったが、2018年4月1日に当社へアミューズメント機器部門を吸収分割で承継したことで当社運営となる。東急電鉄と東急レクリエーションによる「歌舞伎町一丁目地区開発計画(新宿TOKYU MILANO再開発計画)」のため、2019年3月31日で閉館予定[16]。 VR ZONE Portal - 前述のVR ZONEを全国のナムコ系の施設でも展開できるようコンパクト化したもの。 プリキュアなりきりスタジオ - プリキュアの世界観を演出した遊具やアトラクションを備えた遊戯施設。 VS PARK - 大阪のEXPOCITYに2018年4月7日に開業した体感施設。テレビのバラエティ番組に参加しているかのような体験が出来る。 J-WORLD TOKYO - 週刊少年ジャンプの45周年を記念して、同誌の世界観で遊べる屋内型テーマパーク。オープン当初から6年間の期間限定営業の予定だった為、2019年2月17日をもって営業終了予定[17]。 SPACE ATHLETIC TONDEMI - トランポリンを中心としたスポーツアクティビティ施設。イオンモール幕張新都心に店舗がある。 VR ZONE Osaka - 2018年9月13日に梅田のHEP FIVEにオープン[18][19]。関西圏初のVR ZONEフラッグシップショップ。 屋内・冒険の島ドコドコ - プロジェクションマッピング等を使って本当にジャングルの中に居るかのような臨場感を体験しつつも、安全に遊べる遊戯施設。立川髙島屋S.C.に施設がある。 あそびパークPLUS - インドアプレイグラウンドとして全国展開する店舗。アトラクションの一つであるエコライドでは、西日本鉄道及び東急電鉄とコラボレーションした店舗もある。 フードテーマパーク ナムコがテーマパーク事業に初めて進出したのは、ナムコ・ワンダーエッグが開園した1992年のことである。続いて1996年にナンジャタウンを開園。2002年にナンジャタウン内に池袋餃子スタジアムをオープンして以降はフードテーマパーク路線を明確にし、ナンジャタウン運営に関わるプロデュース集団・チームナンジャの下、各地にフードテーマパークを開設していった。 店舗一覧 ナンジャタウン(池袋)内 池袋餃子スタジアム アイスクリームシティ(終了) 東京デザート共和国(終了) りらくの森(終了) ナムコ(チームナンジャ)がプロデュースし、他の会社が運営 札幌ら〜めん共和国(札幌市) - 札幌駅総合開発 津軽ラーメン街道(五所川原市) - 五所川原街づくり 自由が丘スイーツフォレスト(東京都目黒区) - 岡田不動産 東京ミートレア(八王子市) - 京王電鉄 なにわ食いしんぼ横丁(大阪市) - 株式会社 海遊館 ラーメンスタジアム(福岡市) - 福岡地所 閉鎖した店舗 函館湯の川らーめんブギ(函館市) -湯の川観光ホテル(現 湯の川観光ホテル祥苑) 宇都宮餃子共和国(宇都宮市) 東京パン屋ストリート(船橋市) - ららぽーとマネジメント運営 横濱カレーミュージアム(横浜市) 玄創工房(横浜市) 金沢デザートフォレスト(金沢市) アイスクリームシティ イオン各務原(各務原市) 名古屋デザートフォレスト(名古屋市) 名古屋麺屋横丁(名古屋市) 桑名ラーメン街道(桑名市) - マイカル 浪花餃子スタジアム(大阪市)- 2010年1月11日終了。 浪花麺だらけ(大阪市) コバランチ(大阪市) 大阪デザートフォレスト(守口市) 神戸スイーツハーバー(神戸市) 明石ラーメン波止場(明石市) - マイカル 福岡デザートフォレスト(福岡市) 三越スイーツ庭園 in kagoshima(鹿児島市) - 三越 ネットショップ ハムリーズ事業 2018年5月、イギリスの玩具店であるハムリーズとフランチャイズ契約を締結。2018年11月30日に横浜(ワールドポーターズビブレ)、翌12月1日に博多(キャナルシティ博多)でハムリーズのフランチャイズ店を開店[20][21]。 終了した事業 しましまタウン - ベネッセコーポレーションと共同で運営する、しまじろうが主役のコミュニケーションパーク。最盛期は7店舗が営業していたが、2009年3月末で全て閉店している。 ハッスル倶楽部 - 高齢者向けの生活支援器具・リハビリ器具の開発・販売。2009年にバンダイナムコゲームスへ移管。 高齢者介護事業 - 2009年にバンダイナムコHDの子会社・かいかやへ移管。 旅エンタテインメント事業 - 写真とクチコミの旅情報サイト・『ナムコトラベル』の運営。2009年にサービス終了。 知・好・楽 - ナムコが直営していたネットカフェ、ランシステムへ事業を売却。 脚注 外部リンク - 公式ウェブサイト on Twitter * カテゴリ:バンダイナムコグループ カテゴリ:日本のコンピュータゲームメーカー・ブランド カテゴリ:日本の工業製品メーカー カテゴリ:日本の娯楽産業 カテゴリ:東京都港区の企業 カテゴリ:2006年設立の企業
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 275, 462, 710, 1170, 1376], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 267, 461, 687, 1141, 1375, 1792], dtype=int32)}
イタリアには何社自動車ブランドがありますか?
イタリア車
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
イタリア車(イタリアしゃ)とは、イタリアで生産される自動車(イタリア製自動車)、もしくはイタリアを本拠とするメーカーやブランドが販売する自動車(イタリアブランド車)のことである。 特徴 フランス車同様、時には奇抜、時には流麗と評されるデザインが特徴である。イタリアの交通環境もフランスに近いため、小型車が多い。 一方で大規模な高級車・スーパーカーメーカーが複数存在するなど、実用性重視と評されることもあるフランス車に比べると一層趣味性・デザイン性が強い車が多い。 主なイタリア車 フィアット(FIAT) フェラーリ(Ferrari) アルファロメオ (Alfa Romeo) ランチア(Lancia) マセラティ(MASERATI) イヴェコ(Iveco) アバルト(ABARTH、フィアットの一部門として存続) ランボルギーニ(Lamborghini) カヴァーリ (QVALE、消滅) パガーニ・アウトモビリ (Pagani Automobili) マイクロ・VETT(MICRO-VETT) ピアッジオ(Piaggio) 主なカロッツェリア カロッツェリア(伊: carrozzeria)は、イタリア語で自動車(四輪車)製作所(製作場)もしくは四輪車を製造すること、または四輪車の車体を意味する。 カロッツェリア・ギア(Carrozzeria Ghia SpA、米フォード・モーター傘下) ピニンファリーナ(Pininfarina) ベルトーネ(Bertone) ザガート(Zagato) イタルデザイン・ジウジアーロ(Italdesign Giugiaro、独フォルクスワーゲングループ) イデア(I.DE.A)(I-DE-A INSTITUTE) フィオラヴァンティ(FIORAVANTI) ストーラ(STOLA) 関連項目 コーチビルダー 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%BB%8A
{'plaintext_start_byte': array([ 4, 1413, 2066, 2217, 3214, 3868, 4036, 4405, 4765, 5720, 7242, 9107, 9661, 9859, 10026, 10373, 10972, 11896, 12422, 12808, 13576, 14513, 15041, 16679, 16980, 17432, 18011, 18820, 19702, 20807, 21038, 21412, 22528, 23116, 24394, 25250, 25715, 26832, 27528, 28148, 28537, 28978, 29713, 29969, 31105, 31570, 32445, 33086, 33446, 33773, 34326, 34838, 35755, 36740, 37097, 37866, 39053, 39791, 40215, 40380, 42972, 44210, 44819, 45846, 47099, 47451, 47829, 47940, 48838], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 1405, 2065, 2216, 3213, 3867, 4006, 4391, 4764, 5675, 7241, 9090, 9660, 9829, 10009, 10372, 10971, 11895, 12421, 12807, 13575, 14512, 15040, 16678, 16957, 17431, 18010, 18819, 19701, 20790, 21021, 21411, 22527, 23115, 24393, 25249, 25701, 26831, 27527, 28147, 28536, 28977, 29696, 29968, 31104, 31569, 32444, 33085, 33435, 33772, 34325, 34837, 35754, 36739, 37096, 37852, 39033, 39790, 40214, 40357, 42957, 44189, 44808, 45844, 47079, 47450, 47806, 47923, 48820, 49256], dtype=int32)}
雲仙岳が噴火した最古の記録はいつ
雲仙岳
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([6], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([4048], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([4059], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
雲仙岳(うんぜんだけ)は、長崎県の島原半島中央部にそびえる火山である。半島西方の橘湾を中心とする千々石カルデラの外輪に位置する。広義では、火山学上の「雲仙火山」と同義で、最高峰の<b data-parsoid='{"dsr":[933,943,3,3]}'>平成新山</b>をはじめ、三岳(三峰)とも呼ばれる<b data-parsoid='{"dsr":[960,969,3,3]}'>普賢岳・国見岳・妙見岳、五峰(五岳)とも呼ばれる<b data-parsoid='{"dsr":[1002,1010,3,3]}'>野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山</b>を含め、東の<b data-parsoid='{"dsr":[1050,1060,3,3]}'>眉山から</b>西の<b data-parsoid='{"dsr":[1062,1071,3,3]}'>猿葉山</b>まで、総計20以上の山々から構成される。雲仙岳の形の複雑さは、三岳五峰(三峰五岳)、八葉、二十四峰、三十六峰など様々な数字で表現されたが、観光上のキャッチフレーズとして「三峰五岳の雲仙岳」が多用されるようになった結果、狭義として八つの山(ときには三つの山)のみを指す用法も生まれたが、歴史的には海上にそびえる山並み全体を指す名称である。行政区分では島原市、南島原市、雲仙市にまたがる。しばしば、旧最高峰の普賢岳(雲仙普賢岳)の名称と混同して用いられる。 概要 最高峰の平成新山(1,483m)を中心に、周囲に、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)、野岳(1,142m)、九千部岳(1,062m)、矢岳(943m)が存在する。普賢岳や平成新山の溶岩は千々石カルデラ由来である。つまり、小浜温泉沖合いの橘湾地下のマグマだまりから供給されている[1]。主峰は普賢岳(ふげんだけ)だが、1990年(平成2年)から1995年(平成7年)にかけての火山活動で平成新山(へいせいしんざん)が出来、こちらの方が標高が高くなった。また平成新山は長崎県の最高峰でもある。 火山噴火予知連絡会によって火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山に選定されている[2]。 古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述がある。雲仙はもとは「温泉」の表記で「うんぜん」と読んでいたが、国立公園指定の際に現在の表記に改められた。大乗院満明寺は行基が大宝元年(701年)に開いたと伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。また、行基は同時に四面宮(温泉神社)を開いたといわれている。祭神は、『古事記』にて筑紫島をあらわす一身四面の神である。この神社は上古には温泉神社、中古には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻した。島原半島中に10数の分社がある。 雲仙温泉としては、1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯した延暦湯が始まりといわれている。水蒸気が噴出して硫化水素の臭いがたちこめる光景が「地獄」と形容される。キリシタン弾圧の舞台にもなった。天気のいい日には西彼杵半島東岸および長崎半島東岸、佐賀県南部、福岡県筑後地方、熊本県西部など見通しのいい場所でその姿を眺めることができる。標高が高いことから通信の要衝でもある。雲仙野岳には、長崎県防災行政無線や警察庁などの中継所が設置されている。 普賢岳の山頂付近には、太平洋戦争中に陸軍のレーダー基地が建設され、100名ほどが駐留していた[3]。 火山活動史 有史以前 噴火は約50万年前に始まったとされる。最初に高岳・絹笠岳・矢岳などが形成され、九干部岳火丘群となった。やがて噴火活動は北側に移動し九干部岳、吾妻岳が形成された。10万年前より、野岳、妙見岳、普賢岳の順で火山活動が推移し地形が形成されていった。 有史以後 1663-1664年の噴火 12月より普賢岳の北北東の900mに位置する飯洞岩(はんどういわ)から溶岩が流出し[4]、全長1kmにわたって森林を覆った。翌年春には普賢岳南東山腹600mの低地、九十九(つくも)島火口より出水があり[4]、安徳川原へ流れ込み氾濫が起きる[4]。死者30余名[4]。 1792年の噴火 1791年11月から地震があった。1792年2月10日普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火が始まった[4]。2月28日穴迫谷(あなさこだに)の琵琶の首から噴煙、土砂噴出した[4]。3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続した[4]。3月22日にはの窪からも噴煙、溶岩も流出した[4]。3月25日には古焼頭からも噴煙が上がった。普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し、全長は2.7kmとなった[4]。また1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)に雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、島原大変肥後迷惑と呼ばれる、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という、有史以来日本最大の火山災害となった[4]。その後も噴火は継続し、6月-7月になっても時折噴煙を吹きあげた[4]。 平成新山の噴火と災害 噴火活動 現在の平成新山を形成した噴火活動は、1989年(平成元年)11月からの橘湾群発地震[5][6]に始まったとされる。しかし、その後の観測データの再検討により、実は1968年頃より雲仙火山は活動期に入っていたことが判っている[7]。最初の群発地震は1968年頃より始まり1975年まで継続し[7]、1973年には眉山付近でも震度3を最高に有感地震が11回発生している[7]。この活動の最終段階で普賢岳東側の板底(おしが谷)で大量の火山性ガスが噴出し、30本ほどの杉が被害を受けた[7]。1975年には周囲に鳥獣の死骸が散見され[7]、岩の割れ目からは高濃度の二酸化炭素が検出[7]。この一帯は1792年の噴火のときにも火山性ガスが噴出しており[7]、この岩場は毒石と呼ばれていた[7]。1975年以降も低調ながら地震は散発的に発生しており、1979年6-9月には眉山東麓を震央とする最大震度5相当の強い揺れを筆頭に89回の有感度地震が発生している。島原温泉では溶存炭酸ガス濃度が1975年より急上昇し30%も増えた場所もあった[7]。1984年4月より橘湾で群発地震が相次ぐようになり[7]、 葉山南側付近を震央とするM5.7、震度5の地震が8月に起きている[7]。この地震を契機に島原半島の隆起が観測され始めており[7]、橘湾からのマグマ供給が始まったとされる[7]。 1990年(平成2年)11月17日に山頂付近の神社脇の2か所より噴煙が立ち上り噴火。この噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみであった。同年12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われたが、1991年(平成3年)2月12日に再噴火、さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していった。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想された。5月20日には地獄跡火口から溶岩の噴出が確認。溶岩は粘性が高かったために流出せず火口周辺に溶岩ドームが形成された。溶岩ドームは桃状に成長しやがて自重によって4つに崩壊。その後も溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給されたため、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に第1-第13ローブと命名された。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落することにより発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こした。噴火活動は途中一時的な休止をはさみつつ1995年(平成7年)3月頃まで継続した[8][9]。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として<b data-parsoid='{"dsr":[6068,6078,3,3]}'>継続的に</b>記録された噴火活動である(過去には、プレー山などの火砕流が写真としては多く記録されており、小規模なものの映像も撮影されている)。 災害の様態 噴火活動は島原半島、特に島原市と深江町に大きな被害をもたらした。被害をもたらす主たる要因は火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中島原大変肥後迷惑の原因となった眉山の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。 島原市・深江町以外の地域については風向きによって降灰があり、熊本空港では航空機の発着に影響を与えたこともあった。 1991年6月3日の火砕流 特に大規模な人的被害をもたらしたのは1991年(平成3年)6月3日16時8分に発生した火砕流である[10][11][12][13][14]。 直前の状況 雲仙岳裾野を水源とする水無川の土石流は5月15日に最初に発生して以来、19日、20日、21日と立て続けに発生した。島原市はその都度、水無川流域の町に対して土石流の避難勧告[15]を行った結果、住人の避難はスムーズに行われ、人的被害は発生しなかった。 だが5月20日、普賢岳に溶岩ドームが出現すると日に日に成長を続け、24日にはドームの一部が崩落、最初の火砕流が発生した。これ以降、小規模な火砕流は頻繁に発生し、その到達距離は26日に溶岩ドームから東方に2.5km、29日には3.0kmに達し、次第に長くなる傾向が見られた。火砕流の先端が民家から500mに迫った26日、水無川流域にある北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町に対して、島原市から火砕流の避難勧告が出された。 メディアはこの火砕流の様子を捉えるため、避難勧告地域内ではあるが、溶岩ドームから4.0kmの距離があり、さらに土石流が頻発していた水無川からも200m離れていた上、40mの高台となっていた北上木場町の県道を撮影ポイントとするようになった。この場所は普賢岳を真正面に捉えることが出来たこともあってメディアに好まれ、いつしか「定点」という呼び名が定着した。こうして最初の火砕流が発生した24日以降、「定点」には10数台もの報道関係者の車両が並ぶ状況となった。1991年当時、報道各社は紙面にカラー写真を多用し始めており、普賢岳災害においても各社はカラー写真で競い合っていた。5月28日に毎日新聞が火砕流の夜間撮影に成功すると、競争は更に激しくなった。 また火砕流が初めて鮮明な映像として記録されたことは世界中から大きな注目を集め、多くの火山学者や行政関係者も避難勧告地域に立ち入って取材・撮影を行っていた。5月28日、建設省(当時)土木研究所の職員が溶岩ドームから500m下の火砕流跡に入域して撮影した写真を公表、6月2日午後には別の学者グループが火砕流跡の先端部に入り、約1時間現場を調査、その模様を撮影し公開した。 さらに多くの見物客が噴煙を見ようと雲仙岳周辺に押しかけるようになった。特に6月2日は日曜日だったこともあり、他府県からやって来た多くの見物客が水無川の周辺に集まって火砕流を双眼鏡で覗いたりビデオカメラで撮影する姿が見られ、国道57号では渋滞が発生するほどだった。 その一方で5月26日、朝日新聞の記者が「定点」とは別の避難勧告地域内で噴煙に巻き込まれそうになり、一時行方不明になる騒ぎが発生、安全対策が問題になった。ヘリコプターから溶岩ドームの空撮を続けていた写真部員による「水無川の砂防ダムから下は扇状地となっており、大規模な火砕流が発生すれば「定点」を襲う可能性が強い」との指摘もあり、朝日新聞は筒野バス停から上の範囲での張り込みを断念、代替として28日から避難勧告地域外の深江町にポイントを設け、ここからの24時間撮影に切り替えることで、「定点」付近の取材は巡回程度に留めた[16]。 日本放送協会(NHK)は、5月下旬から避難勧告地域内からの撮影を中止し、上木場地区には無人カメラを置く手配をしていたものの、無人カメラの準備ができるまでの措置として、6月1日、いったん後ろへ下げた撮影スタッフを上木場地区まで前進させた[17]。この一連の動きの要因としては、5月30日、31日に民放各社が真っ赤な溶岩をアップで撮影して以来、ニュース番組の担当者が前線の撮影スタッフに映像の迫力の無さについて注文をつけるようになったことが挙げられる。やがて撮影スタッフの間には避難勧告地域にどんどん入って取材を行う民放への対抗意識が芽生え、避難勧告地域が縮小されたのを契機として、再び取材ポジションを避難勧告が解除されなかった上木場地区に置いた[18]。 上木場地区を担当する消防団は土石流の避難勧告が出された5月15日以来、南上木場町の消防団詰所、もしくは北上木場町の農業研修所に泊まり込みつつ、土石流への警戒、住人の避難誘導に当たっていた。5月29日、火砕流が頻発したため南上木場町の消防詰所から水無川下流の白谷公民館に退避したものの、6月2日、再び北上木場町の農業研修所に戻った。これには以下の理由が挙げられる。 梅雨前線の活動が一時的に弱まったことで土石流発生が小康状態となり、さらに「火砕流の出てきた地域は傾斜の急な地域で、緩やかな下方までには至らない」と判断され、6月1日、駐在していた白谷町の他、天神元町、札の元町の避難勧告が解除された。そのため避難勧告が解除されなかった上木場地区より下流側にあるこれらの町に留まる事は消防団の立場的に許されなかった。 5月29日、梅雨入りに備えて、それまで一旦中止されていた水無川の土砂除去作業が再開されたが、土石流発生を知らせるワイヤーセンサーが相次ぐ火砕流で5月26日に切断され復旧の目途が立たないため、人手による水無川上流部の監視は必要不可欠になっていた。それには南上木場町の消防詰所より高台にある北上木場町の農業研修所が有利だった[19]。 6月2日、数社のテレビ局クルーが避難して留守になっている民家に無断で侵入したり、電話やコンセントを借用したり、周囲にゴミを散らかすといった事例が島原署長の記者会見により発覚したため[20]、「定点」により近い農業研修所が報道陣の行動を監視するには便利だった。また5月26日以降も住人が自宅から家財道具を持ち出したり、さらに家事や農作業を行うため上木場地区にしばしば立ち入っており、いざという時は彼らの避難誘導を行う必要があると考えられていた。 6月2日は日曜日であったことから、上木場地区消防団の20人全員が農業研修所で寝泊まりしたが、翌3日は会社勤めの者が一旦引き揚げたため、農業従事者らが引き続き農業研修所に残り、警戒を行っていた。 大火砕流の発生 6月3日15時30分以降、小・中規模の火砕流が頻発し、15時57分には最初の大規模な火砕流が発生した。この火砕流と(火砕流から発生する)火砕サージは報道陣が取材に当たっていた「定点」には至らなかったものの、朝から降り続いた降雨に加えて火砕流から発生した火山灰が周囲を覆ったため、「定点」付近の視界は著しく悪化した。 続く16時8分、1回目を上回る大規模な火砕流が発生し、溶岩ドームから東方3.2kmの地点まで到達する。火砕サージは更に溶岩ドームから4.0km先にある北上木場町を襲い、筒野バス停付近(5.0km先)でようやく止まった。火砕流は赤松谷川方面にも流れたが、南からの突風で火砕サージは「定点」方面に流れたため、この方面の住民と消防隊員、さらに撮影スタッフもカメラを据え置いて即座に風上に逃げたこともあり難を逃れた[21]。 一方、火砕流の襲撃を受けた「定点」の報道関係者は不測の事態に備えて即座に逃げられるよう、チャーターしたタクシーや社用車を南に向けてエンジンをかけたまま道路に止めていたものの視界が悪く、逃げ道となるべき風上からも、前述の赤松谷川方面から流れてきた火砕サージの襲撃を受けたため、ほとんど退避できなかった。「定点」から数百m離れた農業研修所の消防団員は火砕流の轟音を土石流が発生したものと判断し、水無川を確認するため研修所から出たところを火砕サージに襲われ、多くの団員はそのまま自力で避難勧告地域外へ脱出したものの、重度の熱傷と気道損傷を負った。 結果、報道関係者16名(アルバイト学生含む)、火山学者ら3名(クラフト夫妻と案内役のアメリカ地質調査所のハリー・グリッケン)、警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に傭車され独断で避難できなかったタクシー運転手4名、避難誘導を行うためパトカーで来ていた警察官2名、市議会選挙ポスター掲示板を撤去作業中だった作業員2名、農作業中の住民4名の合わせて43名の死者・行方不明者と9名の負傷者を出す惨事となったが、被害は避難勧告地域に収まっていた。死亡した読売新聞のカメラマンは、愛機のニコンF4を抱えるようにして亡くなっており、カメラからは熱により変色していたものの火砕流の写真が7コマ記録されていた[22][23]。 なお、火砕流で死亡した日本テレビのカメラマンが使用していた業務用ビデオカメラが、2005年(平成17年)6月になって発見された。カメラは火砕流による高熱で溶解し高度に破損していたが、内部のテープを取り出し、慎重にはがして修復することに成功した。ビデオには、最初の火砕流の様子を伝える記者たちの様子や、二番目の大火砕流の接近に気付かないまま、「定点」が襲来される直前まで取材を続ける記者や、避難を広報するパトカーの姿や音声が記録されていた(映像は、カメラマンが火砕流のものと思われる音に気付いて「何の音?やばいな」と言って普賢岳方向へカメラを向けたところで終わっている)。この映像は、同年10月16日に「NNNドキュメント'05 解かれた封印 雲仙大火砕流378秒の遺言」として放送され、現在では溶けたカメラと共に雲仙岳災害記念館(島原市)に展示されている。 被害の背景 このように火砕流による多数の犠牲者が発生したのは、その危険性について当時、充分な認識が広まっていなかったことが背景にある[24]。詳細は以下の通り。 報道関係者 5月24日に発生した最初の火砕流は衝撃的だったものの、当時の報道関係者の認識は「かなりの高温ではあるが、熱風(火砕サージ)を伴うものとは知らず、車で逃げ切れるだろうと思っていた」「熱いと知っていたが焼け焦げるまでとは知らなかった」という程度であった[25]。 これは翌25日の気象庁臨時火山情報にて火山学者や専門家が議論の末、「24日の崩落は小規模な火砕流」と発表したものの、住民の混乱を恐れたため火砕流の危険性について具体的な言及が一切無く[26][27]、報道関係者には本来の「地質学的に小規模」の意味が「人的被害を出さない程度の規模」と受け取られたことによる[12]。5月26日には水無川上流の砂防ダム工事関係者が火砕流により腕に火傷を負ったが、「火傷程度で済むならば長袖のシャツを着ておれば大丈夫」という噂が流れるなど、危険性について情報が広まらなかった。さらに5月25日から6月2日までの火砕流の発生回数は小規模なものを含めて165回に達したが、その中で比較的規模の大きな火砕流であっても全て水無川上流の砂防ダム付近でせき止められていた[28]。6月2日以前の火砕流では最大規模][29])。こうしたことから報道関係者に火砕流への馴れが生じた。 さらに梅雨入りしたことで報道関係者の関心は火砕流から土石流に向けられ始めていた。報道関係者の中には火砕流と土石流を混同している者も多く、さらに彼らの大半が「火砕流は土石流同様に水無川に沿って来るため、避難勧告地域内ではあるが水無川から200m離れた上、40mの標高差がある定点が襲われることはない」と認識していた。こうした「定点」への過度の安心感も手伝って、この一帯への取材が過熱することになった[30]。 一方、5月29日の火砕流で山火事が発生したことで、火砕流が高温化していることに気付いた九州大学地震火山観測所の所長は、続く5月31日に火口視察のためヘリコプターに搭乗したところ、火砕流跡先端から200m離れた付近に報道関係者と住人がいるのを上空から発見、直ちに島原市災害対策本部、島原警察署、長崎県島原振興局に対して「マスコミなどが入っている。誰も入らせてはならない」と伝えた。それを受けた市災害対策本部は報道関係者に「傾斜計の数値が普段と違うので、筒野バス停から上には絶対に入らないようにしてほしい」と要請した。この「データに異常がある」と切迫した表現で伝えられたことにより「山に何か異変が?」と直感した報道関係者らは地震火山観測所の所長に取材したところ「おかしな数字が出た訳ではないが、(避難勧告地域に)マスコミが入ると住人も入ってしまうので控えてほしい」との回答を得た。しかし「異常」ではなく「変化」と言い直したことで報道関係者には危機感が伝わらなかった[31]。 同じく5月31日には、火山噴火予知連絡会が気象庁にて「今後も噴火活動が続き、溶岩の噴出、火砕流、土石流の発生が続くと思われるので厳重な警戒が必要」「これ以上大きな規模の火砕流が起きないとの保証はない」との統一見解を発表した。しかし、この警告も火砕流の危険性について具体的な言及は無かったため、25日付の気象庁臨時火山情報の認識に引きずられていた報道関係者には深刻なものと受け取られなかった。火山学者は火砕流の危険性が高まりつつあったことを認識していたが、この時点においてもなお、住人のパニックを恐れる心理が働いたことが、こうした警告としてはやや弱い表現になった要因であった[32]。 また長崎県警は避難勧告地域の境界線に警官を多数配置していたものの、報道関係者を示す旗が立っている車両については入域規制を全く行わなかった。5月31日からは長崎県が報道関係者に対して「緊急輸送車両標章」の発行を始めており、これ以降はこの標章を付けた報道関係者の車両が自由に避難勧告地域に入ることができた[33]。 地域住人 島原市は5月26日に火砕流に対する避難勧告を出したものの、「(避難の長期化に備えて)自宅へものを取りに帰る時、警察官の規制が厳しい」という住人の要望に応える形で、同日から「地区名ステッカー」を交付しており、このステッカーをつけた自家用車は優先的に避難勧告地域に入ることができた。そのため昼間には避難勧告地域内の自宅で洗濯や畑仕事をする住人の姿が多く見られた。特に上木場地区は葉タバコ耕作で生計を立てていた農家が多かったが、5月15日から始まった土石流による避難勧告以来、長期間の避難生活を強いられたため葉タバコの成長を促す花摘み作業が滞っており、彼らの多くがこれを気にかけていた。そのため6月4日には、避難勧告の対象外であった安中町の葉タバコ耕作農家と協同して、上木場地区の住人総出で避難勧告地域に立ち入り、例年より遅れた花詰み作業を行う予定であった[34]。 このように5月26日以後も住人の多くが生活のために避難勧告地域に立ち入っていた状況を受けて、当初はパニックを恐れて火砕流の危険性について語らなかった火山学者らは、徐々に島原市やマスコミを通じて避難勧告地域に立ち入らないよう住人に警告を発するようになった。だが5月以降、大きな被害を出していた土石流に比べると火砕流の危険性については具体的なイメージが伝わっておらず、ほとんどの住人は警告を真剣に受け止めていなかった。火砕流を単なる土煙だと誤解した住人も少なくなかった[35]。 平成4年に実施された「平成3年雲仙岳噴火における災害情報の伝達と住民の対応の調査」[36]によると、地域住人の75%が6月2日以前は火砕流より土石流が危険と認識しており、火砕流の方が危険であると認識していたのは15%に過ぎなかった。さらに上木場地区において火砕流を「とても危険」と認識していた住人はわずか5%しかいなかった。この調査結果から分かるように、火山学者の警告は最も危険性が大きい地区の住人にすら理解されていなかったのである。 一方、6月3日は朝から降り続いた雨により土石流発生が警戒されたことに加え、2日に行われた島原市議会選挙の当選者を祝う会が白谷町で催されていたため、大火砕流発生時には殆どの住人が避難勧告地域から引き揚げており、結果的に住人の犠牲者が減ったのは不幸中の幸いだった[12]。 この火砕流以降、島原市など地元自治体は強制力を伴う警戒区域を設定し、更に対象地域を順次拡大していった結果、最大11,000人が避難生活を余儀なくされたが、以降の犠牲者は1名に抑えられている。被災地域では1990年代半ばから堤防や地面のかさ上げ工事が開始され、一部地域を除いて住民が再び住める環境が整えられた。 だが噴火活動が1995年頃まで続いたため、これらの復興事業の完了は2000年となった。被災地域は前述した上木場地区同様、農業従事者が多い地域であったが、彼らの多くがその間は農業を再開できず、更に被災農地の一部が砂防用地として買収されたため作付面積も減少した。様々な支援策が行われたものの、後継者に悩んでいた多くの農業従事者が被災を契機として離農していった[37]。そのうち葉タバコ耕作農家は被災前(1990年)は上木場・安中地区を中心に149戸を数えたが、農業再開時点(2000年10月)では26戸まで減少した[38]。 防災関係者 前述のとおり報道関係者や地域住人の避難勧告地域内への立ち入りに対して明確な規制が行われないまま、5月29日には火砕流により一旦中止されていた水無川の土砂除去作業が再開された。 これは相次ぐ火砕流によって水無川上流に火山灰や土砂が堆積しつつあったこと、さらに梅雨が迫っていたことから、島原市の防災関係者は火砕流による直接災害よりも土石流を強く警戒していたことによる。加えて6月2日には一部のテレビ局関係者が避難して無人となった人家に不法侵入しコンセントを借用したことが発覚したため、上木場地区消防団は南上木場地区の消防詰所ではなく、水無川を見下ろす高台にあり、かつ「定点」に近く報道機関の行動を把握しやすい北上木場地区の農業研修所にて土石流発生を監視していた[39]。6月2日までは5月29日を上回る規模の火砕流が発生しなかったため、「火砕流はこの(5月29日に到達した溶岩ドームから東方約3.0km)辺りで止まるだろう」とする見方が拡がり、溶岩ドームから東方約4.5kmに位置する農業研修所が火砕流に伴う火砕サージに襲われる懸念を抱いた消防団員は殆どいなかった[40]。 しかし地元の防災対策協議会では、消防団は南上木場地区の消防詰所で土石流監視を行っているものと認識されており、既に農業研修所に移動していたことは知られていなかった。そのため大火砕流が発生する1時間前、防災対策協議会は天候が悪く西風で視界が悪化したことから注意するよう消防団に伝えようとしたが連絡が取れなかった[41]。 大火砕流の直前には、気象庁雲仙岳測候所が「非常に危険な状態になった。(避難勧告地域から報道陣や消防団を)避難させてほしい」と長崎県島原振興局に電話通報しており、情報を受けた長崎県警は上木場地区にいた警察官13名に避難指示を出すと同時に、誰かいれば避難誘導も行うよう連絡した。その結果、ほとんどの警察官は上木場地区から避難したものの、パトカーで巡回していた警察官2名は報道陣らの避難誘導を行うために「定点」に向かった。この時、北上木場地区には土石流で流され水無川の橋などに詰まってしまった市議会議員選挙のポスター掲示板について、島原市から二次災害防止のため撤去を委託された作業員2名もいた。 一方、雲仙岳測候所の情報は、島原市と島原広域消防団本部を経て農業研修所の上木場地区消防団にも電話(口頭)で伝えられたが、その時点で情報は「山の様子がおかしい。注意するように」という内容に変質しており、北上木場地区が危機的な状況であり緊急避難を要することが伝わらなかった。火砕流の危険を知らせた雲仙岳測候所と土石流への警戒を強めていた島原市、消防関係者との間には危険度に関する認識のズレがあったことも情報が歪んだ要因であった[42]。 テレビ局関係者によるコンセントの無断借用が無かった場合、消防団員が農業研修所に立ち入らなかったかどうかは不明である。しかし住人の中には「マスコミのせいで消防団員が犠牲になった」とする声が多々あり、その感情が長期間残ることになった[43]。 その後 こうして6月3日に発生した火砕流は「定点」で撮影を行っていた報道陣のみならず、消防団員、選挙ポスター掲示板を撤去作業中の作業員、更に前述した島原振興局の通報を受けて「定点」からの避難を呼び掛けに来た警察官をも呑み込んだ。 6月4日、長崎県警は島原市に対して、「避難勧告では住民や報道陣に協力をお願いするだけ」として、災害対策基本法63条に基づく警戒区域を設定するよう要請したが、島原市は「市街地を警戒区域に設定してしまうと住人が全く立ち入れなくなり、ゴーストタウンと化す」ため[44]、当面の間は「溶岩監視カメラの情報を遂次チェックすることで2次災害は防げる」として、避難勧告を維持する方針を表明した。 6月6日、陸上自衛隊のV-107が各社報道関係者を取材搭乗させたが、火山灰によるエンジントラブルのために、タバコ畑に緊急着陸(不時着)する結果となった。この時は「上空からハンディ無線で記者を安全な方向に誘導して、各社報道陣は駆け足で水無川河川敷の安全地帯まで逃げ、全員火砕流には遭遇せず全員無事であった」(朝日新聞社のベテラン常原機長の証言による)。 6月7日、島原市は長崎県と長崎県警による度重なる説得を了承し、既に火砕流の避難勧告が出されていた北上木場町、南上木場町、白谷町、天神元町、札の元町に対して警戒区域を設定、以後は無許可の立ち入りが禁止された。これら5町の住人の避難所の準備は警戒区域が設定された直後から急ピッチで行われ、8日夕方までには全住人の避難が完了した。そして、その数時間後の午後7時51分、3日を上回る規模の大火砕流が発生した。この大火砕流は6月2日に雲仙岳見物客による渋滞が発生していた国道57号線を越え、海岸線まで2キロの地点に達する凄まじいものであったが、直前に住人避難は完了していたため人的被害は無かった。9月10日には千本木町も警戒区域に追加された。 だが警戒区域が設定された地域は外部から様子を窺い知ることが出来なくなったため、これ以降、住民の間では「窃盗団が警戒区域に侵入して狼藉している」等、多くの流言飛語が飛び交うようになった。避難生活を送る住人にとって最大の関心事は「火山活動の見通し」と「警戒区域の解除時期」であり、その情報源としてはテレビと新聞が頼りであった。そのため、それまで興味本位的な報道が多かったことに加え、避難勧告地域内での取材マナーの悪さから評判が悪かった報道関係者に住人は次第に期待するようになった。報道関係者も6月3日に多大な人的被害を出したことにより、これまでの取材活動への自省が生まれ、以後は災害実態を正確に報道するよう徹したこともあって、住人の評判は徐々に好転していった[45]。 その後、ルポライターらが許可なく警戒区域内に侵入し週刊誌で現地リポートを発表した結果、書類送検される事例があったが(後に不起訴)[46]、容易に窺い知れない警戒区域内の様子が分かったことで、ルポライターに感謝する住人の声が寄せられたという[47]。 大災害から20年後の2011年6月5日に雲仙市で開かれた「2011雲仙集会」(新聞労連、長崎マスコミ・文化共闘会議など主催)の中で、日本テレビの谷原和憲映像取材部長は「土石流撮影用の無人カメラを設置するため、外に電源があった家から電気を引いた。住んでいる人の許可を得ようと断り書きのメモを置き、避難所を探し回ったが、見つけられなかった」と弁解し、「住民に『マスコミがいるから安全』との誤解を与え、消防団に『報道陣よりも後ろにいては地域の安全は守れない』と思わせたことなどが、犠牲者を増やす結果になった」と謝罪した[48][49]。 防災活動 前兆現象が観測されていたため事前に対策会議が開かれており、関係機関の関係はおおむね良好であった。特に長崎県、島原市、島原に観測所を持つ九州大学と被災者救助のために派遣された陸上自衛隊(第16普通科連隊など)との関係はきわめて緊密であった。報道、学術、防災機関のすべてが火砕流で犠牲になったため、当時唯一火山近傍で行動できる能力を保有していた自衛隊への期待は高く、自衛隊も救援活動のため九州大学などの指導を受けつつ協同で火山観測を行い、その成果を関係機関及び地元住民への24時間のリアルタイムな情報提供したことで、民心の安定と復旧作業の進展および火山研究に大きく貢献した。自衛隊は火山観測と地元に対する支援のシンボルとして以降1995年(平成7年)12月まで1,653日間(史上最長)にもわたり災害派遣を継続した。また、福岡市消防局の消防ヘリコプターが眉山に取り残された放送局員10名をホイスト救助した。 支援・見舞い 天皇・皇后は最大の火砕流発生後の1991年(平成3年)7月10日に被災地を見舞った。その際、側近を最低限の人数にとどめ、昼食も簡素な食事とした上で(被災者と同様、救援資材のインスタントカレーを食べた)、時間の許す限り被災者を見舞う時間を設けた。その際に、天皇は床に膝をついて直接被災者と言葉をかわしたが、歴代天皇で言葉をかわす際に床に膝をついたのは初めてであった。これは天皇が皇太子時代から行われているものだったが、その後の天皇の被災地の見舞いでも続けられ、平成になってからは皇族もこれにならっている。 国・県・市などは基金を設立し、避難所生活の改善や住宅再建補助など約100項目の生活支援を行っている。また、直接間接被害額は約2300億円に達したが(1996年(平成8年)、島原市調べ)、長崎県や日本赤十字社などに230億円の義援金が寄せられた。こうした義援金も、被災者の住宅再建等や復旧事業に使われた。 また、日本放送協会では被災者を勇気付ける目的も込めて、土曜ドラマ「がんばらんば」を制作した[50]。 復旧作業・現在 火砕流によって破壊された地区のうち、平成新山周辺、水無川上流部は山体崩壊のおそれがあるため、未だ警戒区域に指定されたままである。 土砂によって完全に埋まった水無川は浚渫され、堤防や橋梁が強化された。下流域においては、土砂があまりにも多いため、土砂の上に新しい住宅街が建設された。また国道251号線には道の駅みずなし本陣ふかえが設置された。 沿岸においては運び出された土砂によって埋立地(平成町)が造られ、そこに雲仙岳災害記念館と島原復興アリーナ・島原勤労者総合福祉センターが建設された。 持ち家の全壊世帯には1000万円の支援が実施された。高台には被災者向けに「仁田団地」のような住宅地が新たに造成された。 農業従事者の離農を防ぐため、様々な支援が行われた。農業改良普及センターでは被災農家全世帯(667戸)への聴き取り調査を行うとともに、1999年まで5回に渡り農業再開希望者を対象とした相談会を催した。取扱作物の転換を図る者には研修手当が支給され、復興基金からはビニールハウス設置費用、または移転費用の助成金が支払われている。さらに並行して被災地域の灌漑施設整備も行われた。2000年の農業再開時において被災地域の農家は374戸まで減少していたが、こうした支援策が功を奏し、島原市と深江町の農業生産額は2005年に被災前とほぼ同水準まで回復した[51]。 島原市水無川沖の有明海海底には、火山灰などが20から80センチ泥状化して堆積し、自然回復が困難となっていたので、底質地盤改善工事が進んでいる。 平成新山については、何度か調査登山が行われ(警戒区域のため一般者は登山禁止)、溶岩ドームの詳細な観察が実施されている。現在でも山頂数箇所から活発な噴気を観察することができる。 被災区間を通っていた島原鉄道線は一部高架化の上で復旧したが、2008年に被災区間を含む島原外港駅-加津佐駅間が廃止された。 2016年に、普賢岳の溶岩ドームに「ようこそ溶岩ドームへ」などの落書きがされているのが発見された。島原市は、地元警察に文化財保護法違反容疑での被害届を提出することを検討している[52]。 資料展示 火砕流によって破壊された旧大野木場小学校の校舎は資料として保存されている。体育館などは倒壊の危険があり、撤去されている。直ぐ横に「大野木場砂防みらい館」が建設され、資料展示や防災活動が行われている。3階の展望室からは普賢岳を正面に眺められる。 道の駅みずなし本陣ふかえには、土石流被災家屋保存公園が併設されている。公園の面積は約6,200平方メートルで、大型テント内に3棟(内1棟移築)、屋外に8棟、合計11棟の被災家屋を保存展示(無料)している。大火砕流体験館・火山学習館(有料)も設置されている。 普賢岳を西に臨む、垂木大地森林公園にも普賢岳に関する資料展示が行われている。 雲仙岳災害記念館には最も多数の資料展示がなされている。屋外には自衛隊の装甲車とヘリコプターが展示されている他、メディアライブラリーも併設されている。 雲仙温泉の「雲仙お山の情報館」には、島原半島の地下構造やマグマの供給路などの客観的な資料展示[53]がある。 火山調査研究 2002年から2004年にかけて、雲仙火山火道掘削プロジェクトチーム[54]により、火道(マグマが地下から上昇した経路)を探しだし掘削する調査が行われた。その結果、普賢岳山頂の北約1km、標高840mの箇所から山頂直下に向かって斜めに掘り進んだ掘削に於いて、掘削深度1977m(標高約-150m)の位置で平成噴火の火道溶岩を掘り当てサンプルを採集した[55]。このサンプル採集により火道のでき方や噴火機構の解明がされることが期待されている[56]。 開発史 701年(大宝元年) 行基による開山 1657年(明暦3年) 噴火説がある[57]。 1663年(寛文3年) 噴火。輝石安山岩質の古焼溶岩流が山腹から流出。 天和年間 噴火説がある[57]。 1792年(寛政4年) 噴火。山腹からデイサイト質の新焼溶岩流が北東に流下。その後、眉山が山体崩壊を起こし、「島原大変肥後迷惑」の発生。 1798年(寛政10年) 秋に噴煙が生じたと伝えられる[57]。 1913年(大正2年) 雲仙ゴルフ場開業 1922年(大正11年)(月日不明)島原半島の西側、橘湾(当時の千々石湾)で島原半島大地震が発生する。 1928年(昭和3年)3月31日 「温泉岳」として国の文化財(名勝)に指定。 1934年(昭和9年)3月16日 雲仙国立公園(現雲仙天草国立公園)として日本で最初の国立公園に指定。 1952年(昭和27年)3月29日 「温泉岳」として国の文化財(特別名勝)に指定。 1957年(昭和32年)7月15日 雲仙ロープウェイ開業。 1990年(平成2年)11月17日 噴火活動を開始 1991年(平成3年)5月20日 地獄跡火口から溶岩ドームの出現が確認される。 1991年(平成3年)6月3日 火砕流が発生。報道、消防関係者を中心に死者43名の大惨事に。この中には有名な火山学者クラフト夫妻も含まれる。 1993年(平成5年)6月23日 千本木地区を襲った火砕流に地元住民1名が巻き込まれて死亡。当時この地区は警戒区域に指定されていた。 1995年(平成7年)2月 溶岩ドームの成長が停止 1995年(平成7年)12月 陸上自衛隊島原災害派遣隊が撤収 1996年(平成8年)5月20日 島原市と小浜町(現雲仙市)が溶岩ドームを「平成新山」と命名。 1996年(平成8年)6月3日 「噴火活動の終息宣言」が出される。 2004年(平成16年)4月5日 平成新山が国の天然記念物に指定される。 2007年(平成19年)日本の地質百選に選定(「雲仙」)。 2009年(平成21年)8月22日 日本初の世界ジオパークに認定される(「島原半島ジオパーク」)。 雲仙岳の防災 山頂付近になお不安定土砂(火砕流堆積物)が多数存在しており、豪雨時には土石流となり下流の集落、国道などへ流下してくることから、山麓では治山、砂防事業によるダムの設置、緑化工事、導流堤の設置など、大規模な防災施設の設置が進められている。 気象庁では2003年(平成15年)に雲仙岳をランクA「とくに活動度が高い火山」に分類し、2007年(平成19年)からは噴火警戒レベルを導入している[58]。ただし1997年(平成9年)以降は、小さな噴気活動や火山性地震は継続しているものの、噴火活動は発生していない。 脚注 参考文献 国立天文台編 『理科年表 平成20年』 丸善、2007年、ISBN 978-4-621-07902-7。 関連項目 2 島原大変肥後迷惑:1792年(寛政4年)の普賢岳の噴火と眉山の山体崩壊、それに起因する津波災害。 各都道府県の最高峰(長崎県) 74式戦車:夜間の火砕流警戒監視には車載されていたアクティブ投光器が有効だったが、取り外せなかったため車両ごと派遣された。後に同種の装置が到着したため出番は無く、駐屯地に返された。 クラフト夫妻 地質・鉱物天然記念物一覧 日本の地質百選 日本新八景 雲仙ゴルフ場 雲仙岳災害記念館 雲仙ロープウェイ 鐘ヶ江管一 - 普賢岳噴火当時の島原市長。被災に関し陣頭指揮を行った。 ピナトゥボ山 - 雲仙岳と同じく1991年に大噴火を起こしたフィリピンの火山。雲仙岳と同じく火砕流による被害がもたらされた。 外部リンク - 気象庁 - 産業技術総合研究所 地質調査総合センター 防災関連 防災科学技術研究所 噴火災害の対策と継承 国土交通省 九州地方整備局 内閣府 農水省 東京大学総合防災情報研究センター「廣井アーカイブス」より 毎日新聞 防災科学技術研究所ライブラリー 産業技術総合研究所 - 日本放送協会(NHK)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E4%BB%99%E5%B2%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 340, 993, 1721, 2621, 3102, 3541, 3808, 5164, 5816, 6203, 6676, 7226, 8060, 8808, 9511, 10234, 10880, 11292, 11628, 12100, 12534, 13162, 14008, 14456, 15353, 15743, 16550, 17267, 17748, 18337, 18656, 19050, 19642, 20087, 20510, 20997, 21448, 22301, 22888, 23349, 26510, 27042, 27388], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 339, 972, 1713, 2620, 3101, 3540, 3791, 5163, 5815, 6202, 6675, 7203, 8059, 8807, 9473, 10233, 10879, 11290, 11627, 12099, 12511, 13161, 13976, 14455, 15352, 15723, 16549, 17259, 17747, 18320, 18655, 19049, 19641, 20086, 20509, 20996, 21447, 22300, 22887, 23332, 26487, 27028, 27371, 27581], dtype=int32)}
ホー・チ・ミンのベトナム語での意味は何?
ホー・チ・ミン
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ホー・チ・ミン(Vietnamese: Hồ Chí Minh/胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日)は、ベトナムの革命家、政治家。植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した建国の父である。初代ベトナム民主共和国主席、ベトナム労働党中央委員会主席。 幼名は<b data-parsoid='{"dsr":[1330,1345,3,3]}'>グエン・シン・クン(Vietnamese: Nguyễn Sinh Cung/阮生恭)、成年後は<b data-parsoid='{"dsr":[1389,1405,3,3]}'>グエン・タト・タイン(Vietnamese: Nguyễn Tất Thành/阮必成)。第二次世界大戦までに使用していた変名の<b data-parsoid='{"dsr":[1464,1481,3,3]}'>グエン・アイ・クォック(Vietnamese: Nguyễn Ái Quốc/阮愛國)でも広く知られる。ベトナム人民からは、親しみを込めて『ホーおじさん(バック・ホー、Vietnamese: Bác Hồ/伯胡)』の愛称で呼ばれている。 経歴 生い立ち ホー・チ・ミンは、フランスの植民地(フランス領インドシナ)であったベトナム中部のゲアン省の貧しい儒学者、グエン・シン・サックの子として生まれた。父の影響を受けたホー・チ・ミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると、ホー・チ・ミンも父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった[1]。しかし、在学中に農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に携わったため、フランス当局に目を付けられて退学処分となった。 訪欧 その後、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号という船の見習いコックとして採用されたホー・チ・ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへと向かった。同年7月6日にマルセイユに到着し、初めての外国暮らしを体験する。マルセイユのカフェでコーヒーを注文した際に、従業員から人生で初めてフランス語で「ムッシュ」とフランス人から敬語で呼びかけられて感激するなど、このときの生活はホーにとって全てが物珍しかった。またフランス本国にも、植民地の原住民として虐げられているベトナム人と同様に貧しいフランス人が存在し、フランス人も一様ではないことも発見した[2]。この体験は、後のホーの新国家建設にも影響することとなる。 9月15日に植民地学校の入学願書を提出した後、ホーはラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号でいったんサイゴンへ戻った。役人を罷免されてコーチシナに移り、カンボジア国境近くのゴムのプランテーションの労働者や薬の行商人として生活していた父を探すためである。ホーはコーチシナに数週間滞在し、再び同じ船会社の船でマルセイユへ向かった。 マルセイユに戻ったホーは、植民地学校の入学願書が不受理となっていたことを知り、入学を断念した。その後、ホーは「世界を見てみたい」と思い、船員として働くことを希望した。以後、ホーは船員としてアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地とアメリカ合衆国、ラテンアメリカ、ヨーロッパ諸国を回った。 1913年、アメリカ合衆国を離れたホーは、英語を本格的に学ぶためにイギリスに移住した。1917年12月にパリに戻ったが、この年に起こったロシア革命は、彼の思想に大きな影響を与えた。 共産党入党 パリに戻ったホー・チ・ミンは政治活動を本格化し始めていった。1919年初頭、ホーはフランス社会党に入党。同年、安南愛国者協会(Association des Patriotes Annamites)を組織して事務局長となった[3]。この年、第一次世界大戦の講和会議であるパリ講和会議が開催されたが、ホーは安南愛国者協会を代表して会議に出席し、8項目からなる「」という請願書を提出した。これは、全ての政治犯の釈放、報道と言論の自由の保障、結社と集会の自由の保障など、植民地のベトナム人も本国のフランス人と同等の権利を保障することを要求するもので、植民地独立を要求するものではなかった[4]。ホーはこの請願書を提出する時、本名の「グエン・タト・タイン(阮必成)」ではなく、「グエン・アイ・クオック(阮愛國)」として署名した。以後、ホーは本名を名乗らずにグエン・アイ・クオックとして政治活動を行うことになる。そして、パリ講和会議で「安南人民の要求」は採択されなかったものの、グエン・アイ・クオックの名は穏健なナショナリスト(民族主義者)として世界に知られることとなった。 1920年7月、フランス社会党の機関紙『リュマニテ』に、フランス語に翻訳されたウラジーミル・レーニンの『民族問題と植民地問題に関するテーゼ原案』が掲載された。これに感銘を受けたホーは、同年12月、フランス共産党の結成に参加した。1923年にソビエト連邦に渡り、コミンテルン第5回大会でアジア担当の常任委員に選出された。こうして、ホーは共産主義者となった。しかし、ホーにとっての主要な課題は共産社会の実現よりも、民族自決すなわちベトナムの独立であった。 中華民国で第一次国共合作が成立し北伐が開始されると、彼も広東に赴き、ベトナム青年革命同志会を創立した。1930年にイギリス領香港でそれまでに組織されていた3つの共産主義組織の代表を集めて、それらを統一してベトナム共産党(間もなくインドシナ共産党と改称)を創立した。 だが、ホーの民族解放を重視する姿勢は、民族問題をあくまで副次的なものと捉えるコミンテルンからは異端視され、1930年代のコミンテルン内部のベトナム人の共産主義者のグループでは、ホーは権力の中枢から疎外されていた。そのため、日常の「実践」活動から外され、国際レーニン学校や民族植民地問題研究所での「学習」生活を強いられた。 その後、コミンテルンが1935年の第7回大会で反ファシズム統一戦線に路線転換して民族問題を重視するようになり、ホーの姿勢はコミンテルンの主流となった。そして、ホーのライバルとなるベトナム人共産主義者の指導者たちがフランスによって弾圧され、コミンテルンを代表するベトナム人共産主義者がホーただ一人となったことにより、ホーは政治活動の第一線に復帰したのである[5]。 第二次世界大戦 1939年に第二次世界大戦が勃発し、1940年6月にはドイツがフランスを占領したため、世界各地のフランスの植民地政府は親独のヴィシー政権につくか、反独かつ親連合国の亡命政権である自由フランスにつくか選択を迫られた。フランス領インドシナ(仏印)は最終的にヴィシー政権につくことを選択したこともあり、ドイツ政府と手を結んだ大日本帝国との対立を免れたが、大日本帝国はヴィシー政権の承認の下で「南方進出」の一環として1940年には仏印北部に、1941年には仏印南部に進駐し(仏印進駐)、ヴィシー政権との関係を維持するため、植民地政府(フランス・インドシナ政庁)との共同統治体制を布いた。 これに先立ちホー・チ・ミンは、イギリス領香港、ソビエト連邦のモスクワ、中華民国の延安(中国共産党の中央根拠地)や雲南省などで活動を展開していたが、インドシナ半島情勢の急展開で、1941年に雲南省から国境を越えて祖国ベトナムに30年ぶりに帰国し、カオバン省に入った。ホーはここで、ベトナム独立のための統一戦線組織「ベトナム独立同盟会」(通称ベトミン)を組織してその主席に就任し、これまでベトナムを支配してきたフランスに替わり、新たにベトナムの事実上の宗主国的存在になった日本に対する武装闘争の準備に着手した。 しかし、ベトミンは軍事的にあまりにも弱体であったため、ホーは1942年8月に中華民国に赴いて、日本軍と戦っていた蒋介石に協力を求めようとした。このときよりホーは従来の「グエン・アイ・クオック」ではなく、「ホー・チ・ミン」の名を使うようになった。だが、中華民国との協力関係を結ぼうとしたホーは、中国共産党の勢力拡大を嫌う中国国民党の地方軍閥政権によって逮捕されてしまう。13ヶ月間も各地の牢獄をたらい回しされたあと釈放され、1944年にようやく根拠地に帰った。 ベトナム民主共和国の成立 大日本帝国軍の敗北が決定的になった1945年8月、ホー・チ・ミンは政権奪取にむけて行動を開始した。8月13日から8月15日にかけて、ホーはタンチャオでインドシナ共産党全国大会を開き、全国的な総蜂起を決議する。8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受諾した旨、玉音放送を通して短波放送で伝え、ベトナムが事実上無政府状態となると、ホーは8月16日、国民大会[6]を開催して臨時政府となるベトナム民族解放委員会を選出し、国際的に知られた名前である「グエン・アイ・クオック」の名を以て、全国総蜂起のアピールを発した。 こうして、ベトミンの指導下に全国的な民衆蜂起すなわちベトナム八月革命が始まった。8月19日、フランス領インドシナの中心都市であるハノイで蜂起が起き、8月23日には阮朝の首都であるフエでも蜂起が発生してベトミン軍が権力を掌握した。南部の中心都市であるサイゴンでも8月25日に民衆蜂起が発生。ホー率いるベトミンはベトナム全土を掌握していった。8月27日、民族解放委員会が改組されてベトナム民主共和国臨時政府が成立し、ホーは首相兼外相に選出された[7][8]。 8月30日にバオ・ダイ帝が退位し、日本の傀儡国家となっていた阮朝・ベトナム帝国が滅亡した。かくして、大日本帝国政府が停戦に署名して第二次世界大戦が終わった同年9月2日、ホー・チ・ミンはハノイにおいてベトナム独立宣言を発表し、ベトナム民主共和国を建国して国家主席兼首相に就任した[9]。 この間、ホーはベトナム民主共和国の国家建設を進めていく。国家主席兼首相に就任[10]したホーは、社会主義を国家運営の原則とした。しかし、建国の際に発表された閣僚名簿では、閣僚15名のうち共産党員は6名で残りの9名は非共産党員であった。 また1945年11月には、民族統一を優先して共産党が前面に出ることを避け、諸勢力を糾合するためにインドシナ共産党の解散とベトミンへの合流を宣言した。当然、共産党解散は「偽装工作」であり、ベトミン内に共産党組織は温存されたものの、1951年2月に共産党が再建されてベトナム労働党が結成されるまで、公然と共産党は活動できなかった[11]。 1946年に、ホーが中心となって制定された憲法には、社会主義国家にみられる共産党組織による国家の指導規定は見られず[12]、人権規定や私有財産権については、フランスやアメリカの憲法を参照したと見られる[13]。つまりホーは、ベトナム民主共和国の『社会主義化』を漸進的に行おうとしたのである。 インドシナ戦争 独立を主張するベトナム側とフランス領インドシナの主権を主張するフランス側の交渉は難航を極めた。この間にもフランス軍がベトナム南部へ増派されていった。ホー・チ・ミンは粘り強くフランス政府と交渉を続け、1946年3月にハノイ暫定協定を成立させてベトナムの独立を認めさせた。本協定調印のために渡仏したが、ここでフランス政府がコーチシナを分離してそこに親仏政権(コーチシナ共和国)を樹立したことを知らされ、交渉は妥結直前で決裂した。 同年12月17日、フランス軍はハイフォンでベトナム民主共和国軍への攻撃を開始。12月19日、ホー・チ・ミンは『全国民に抗戦を訴える』を発表して徹底抗戦に入った。これが7年間にわたる第一次インドシナ戦争の始まりである。民主共和国軍は平野部から撤兵して、北部山岳地帯ディエンビエンフーに籠り抵抗を続けながら、装備に勝るフランス軍をやがてヴォー・グエン・ザップ率いるゲリラ戦で圧倒し、1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に致命的な打撃を与えた。その結果、ジュネーヴ協定が締結されて、フランス軍は70年に及ぶ植民地支配の末に、インドシナ半島から駆逐された[14]。 ジュネーヴ協定調印後 第一次インドシナ戦争中の1951年2月、第2回党大会において共産党組織が復興し、ベトナム労働党が結成された。ホーは労働党主席に就任し、党と国家の最高指導者としてベトナム民主共和国を統治した。しかし、日常的な党務は第一書記のチュオン・チンに委ね、戦争終結後の1955年9月には首相職をファム・ヴァン・ドンに譲った。 チュオン・チンが急進的に行った土地改革が失敗し、1956年に党第一書記を解任されると、ホーは第一書記を兼任したが、1957年にはレ・ズアンを第一書記代理として再び党務を委ねた。だが、ベトナムの統一方法をめぐって、ジュネーヴ協定の完全実施という平和的な方法をとろうとするホーと、武力による統一をめざすズアンは対立し、ズアンが党指導部を掌握すると、ホーの影響力は外交の面に限定されていった。ホーは国家主席兼党主席として国政の重要問題について最終的な決裁を下す立場にあったが、集団指導の原則に従って党政治局の決定を裁可するだけで、党内人事・国内問題などの決定にはほとんど関与せず、ズアン指導部の決定を容認していた。 国内の統治を党と政府に委ねたホーは、国家主席としてソ連や中華人民共和国などの友好国との交渉や、交戦国のフランスや、フランスを支援していたアメリカなどとの駆け引きといった外交問題を担当し、集会やラジオ演説で国民を励ます役割を果たすことに専念した[15]。 ベトナム戦争 フランスが撤退した後にベトナム進出を企図していたアメリカ合衆国は、ジュネーヴ協定に調印せず、南部に親米的なベトナム共和国が成立すると積極的な経済的、軍事的支援を開始した。ベトナム共和国政府がジュネーヴ協定で定められた統一選挙をボイコットし、反対派に厳しい弾圧を加えたため、その独裁政治に対する抵抗運動が広がり、1960年に南ベトナム解放民族戦線(通称:ベトコン)が結成された。解放戦線はベトナム労働党の支援の下、ジョン・F・ケネディ大統領の指示を受けて大規模な軍事介入を始めたアメリカ軍と南ベトナム軍と激しく戦い、ここにベトナム戦争が始まった。 1965年2月7日に、トンキン湾事件を起こしたアメリカ軍がベトナム民主共和国への爆撃(北爆)を行い、50万もの大軍を投入したことでベトナム戦争は全面戦争に広がった。しかし、南ベトナム解放民族戦線は主要都市と幹線道路を除く農村地帯をほぼ完全にその勢力下に置き、1968年のテト攻勢で国際世論もアメリカに批判的となると、ケネディの拡大路線を次いでさらなる軍事介入拡大をすすめたリンドン・ジョンソン大統領は再選不出馬に追い込まれ、翌1969年に就任したリチャード・ニクソン大統領は撤収を模索し始めた。 死去 第一次インドシナ戦争の時とは違い、ホー・チ・ミンはベトナム戦争で強力なリーダーシップを発揮することはなかったが、1966年7月17日にラジオ演説で『抗米救国檄文』を発表して「独立と自由ほど尊いものはない」と呼びかけるなど、国家元首としてベトナム人民を鼓舞し続けた。戦争終結に向けた動きが始まった1969年9月2日、心臓発作で死去。79歳没。 1973年にアメリカ軍が全面撤退し、南ベトナム軍対北ベトナム軍の戦いとなったベトナム戦争は、1975年4月30日のサイゴン陥落によって終結した(現在では「解放記念日」として祝われている)。その後ベトナム民主共和国が主導して南北統一が実現し、1976年7月2日、ベトナム社会主義共和国が成立した。南ベトナムの首都だったサイゴンは、戦争終結直後の1975年5月1日、ホー・チ・ミンにちなんでホーチミン市に改称された。 死後の評価 ホー・チ・ミンの遺書には、遺骸を火葬して北部、中部、南部に分骨して埋葬すること、戦争勝利後は農業合作社の税金を1年間免除することなどが記されていた。しかし、ベトナム労働党政治局はこの部分を削除して遺書を公開した。 ホーは、個人崇拝につながる墓所や霊廟の建設を望んでいなかったが、その意向は無視されたのである。政治局の決定により、遺骸はウラジーミル・レーニンにならって、永久保存(エンバーミング)され、南北統一後、ハノイ市のバディン広場に建設されたホー・チ・ミン廟に安置された。 死後20年に当たる1989年、ベトナム共産党(南北統一後の1976年12月、ベトナム労働党から改称)政治局は遺書の全文を公開、削除部分は死去当時実行できないため公表しなかったこと、全人民、特に生前に直接会うことが出来なかった南ベトナムの人民のために遺骸の保存を決定したこと、実際の命日(9月2日)が国慶節(独立記念日)と重なったために1日遅らせて発表したことを説明し、農業税の減免について政府に提議すると発表した。 ホー・チ・ミンはその一生を通じて、ベトナムの民族自決と国家の独立を最大の政治目標としており、その姿勢は時に国際共産主義運動の中で、階級闘争を軽視する「右派」的態度と批判されることがあった。インドシナ共産党時代から、党が綱領・規約においてマルクス・レーニン主義以外の基本指針を掲げることはなかった。 しかし、1989年の東欧革命や1991年末のソ連崩壊によって、社会主義が没落し、アメリカナイゼーションと反共主義が世界を席巻すると(一極体制)、ベトナム共産党はマルクス・レーニン主義と並ぶ党の指針として「ホー・チ・ミン思想」を掲げるようになり、ホー・チ・ミン個人への依存を強めるようになった。 政治思想や手法には賛否両論あるが、特筆すべきは、ソ連のヨシフ・スターリン・中華人民共和国の毛沢東・北朝鮮の金日成など、革命によって権力を握った共産党指導者が独裁的になって反対派を粛清する例が多いのに対し、ホー・チ・ミンは、腐敗や汚職に無縁で、禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを嫌っていたことである。 ホー・チ・ミンの指導下において、政策議事は徹底的な討議を前提とした非公開の全会一致制とされた。またホー・チ・ミンは自伝の類を残さずに死んだため、後継指導者層や軍人達の間でも「ホー・チ・ミンが何も語らずに逝ったのに、我々が何を言えるだろう」として自己の業績についてほとんど語らないという伝統が生まれた。 ホーの慈愛に満ちた飄々たる風貌、また腐敗や汚職、粛清に手を染めなかった高潔な人柄は、民衆から尊崇を集め、そして愛された。晩年は南北ベトナムの両国民から「ホーおじさん」(Bác Hồ、伯胡)と呼ばれ親しまれた。一方、反共の南ベトナムからの難民が大多数を占めるベトナム系アメリカ人や他国のベトナム系移民からは、「ベトナムを武力によって共産化した首謀者」として憎悪の対象と見られている。例えば現ベトナム政府の要人が訪米する際には「ホー・チ・ミンは殺人者」などというプラカードを掲げられたりする。死後40年以上経過するが、ホーの評価は二極に分裂してまだ定まっていないのが現状である[16]。 共産政権の犯罪を検証した『』[17]に、統一後現在までのベトナムでの粛清などによる死者は100万人に上るという記載があるため、この記述のみを根拠に、ネット上などで、ホー・チ・ミンが大量粛清をしていたとする記述も見られるが、実際には、これはベトナム戦争の死者数であるうえ、この他にも、同書の上げている数値については裏付けのないものが多く、数多くの疑問や批判の声が上がっている(前出の英語版記事を参照)。 1950年代にホー・チ・ミンは北ベトナムの土地改革の過程で軍隊を動員して地主や農民の蜂起を鎮圧し、 約1万5000人の国民を殺害した。しかし、犯した大規模殺人という罪に比べ、今のベトナムへの功を重視されて1980年には生誕90周年、1990年に100周年、2000年に110周年、2010年には120周年、節目ごとに記念切手を発行されている[18]。 エピソード 1950年の時、極秘にソビエト社会主義共和国連邦を訪問したホー・チ・ミンは、ヨシフ・スターリンに会った。感激したホー・チ・ミンは、フランスでは誰もがそうするように、スターリンにサインを求めた。スターリンは差し出された『ソ連邦の建設』という雑誌にしぶしぶサインをしたものの、人間不信からただちにこれを後悔し、秘密警察に命じて雑誌を秘密裏に回収させた。後にスターリンは、よく笑いながら「ヤツはまだあの雑誌を探しているか。見つけることはできんぞ」と嘲笑のネタにしていたという。ニキータ・フルシチョフは、自伝記の中で、「純粹で共産主義的な人物に酷い接し方をしたものだ」と、スターリンの行為を批判している。 ホー・チ・ミンの人柄を示す以下の逸話がある。ベトナム初の民間警備会社の創業者であるファン・ヴァン・ソアンが、ホーのボディガードを務めていた頃の話である。1960年のテト(旧正月)の際にホーは、人々のありのままの生活を見たいとのことで、「ハノイで一番貧しい家庭を訪問したい」と言った。ソアンが案内した4人の母子家庭は、テトにも拘らず、母親があくせくと働いており、亡父の仏壇の供え物もない状態だった。ホーが驚いて理由を尋ねると母親は、食べ物がないので、テトも働かなければならないと言った。ホーは母親を抱きしめて一緒に泣き、近所の人に彼女を助けてあげてほしい旨を伝え、仕事や子供の就学のサポートをしたという。その他にも「人民の生活を知るために市場を見たい」といって、ばれないように、護衛とともに変装して市場にいき、衣服や食品の値段を確認して回ったとの話もあるという[19]。 作家の開高健はエッセーの中で「フランスで政治活動 をしていた"阮愛國"と独立後の政治指導者"ホー・チ・ミン"は別人である」との見解を示している。 現代のベトナム政府は、「ホー・チ・ミンはその生涯において誰かと恋愛関係にあったことはなく、結婚もしていない」(=生涯の全てを革命に捧げた)としているが、革命の同志であるグエン・チ・ミンカイや中国人のなどとの恋愛・結婚があったとの研究もある。また、これらの研究を報道したメディアが処分を受ける[20] など、1990年代に入っても本人の意志に反した個人崇拝が政府によって強要されている。 若かりし頃、ボストンで歴史ある「オムニ・パーカー・ハウス・ホテル」でシェフを務めていた。このホテルは後にジョン・F・ケネディがジャクリーン・ケネディ・オナシスにプロポーズし、マルコムXがテーブル片付け係として働いていた場所でもある[21]。 脚注 参考文献 木村哲三郎『ベトナム ― 党官僚国家の新たな挑戦』(アジア経済研究所、1996年) 白石昌也『ベトナム ― 革命と建設のはざま』(東京大学出版会、1993年) 千葉文人『リアル・ベトナム ― 改革・開放の新世紀』(明石書店、2004年) 坪井善明『ヴェトナム現代政治』(東京大学出版会、2002年) 坪井善明『ヴェトナム新時代 ― 「豊かさ」への模索』(岩波書店〈岩波新書〉、2008年) 関連項目 ホー・チ・ミン思想(en:Ho Chi Minh Ideology) ホー・チ・ミン作戦 ホーチミン市(都市) ホー・チ・ミン廟 ドン (通貨) ホーチミン共産青年同盟 大勝利の喜ばしい日にホーおじさんがいるようだ ホーチミン・ルート グエン・チ・ミンカイ 国民の父 外部リンク From Spartacus Educational at Marxists.org. Quotations related to ホー・チ・ミン(in Vietnamese) at Wikiquote Works related to ホー・チ・ミン(in Vietnamese) at Wikisource
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 444, 906, 1258, 2010, 2740, 3200, 3883, 4646, 5309, 5904, 6310, 6940, 7364, 7947, 8956, 9717, 10249, 10910, 11070, 11710, 12473, 12839, 13495, 13662, 13841, 13929, 14365, 14708, 15448, 16185, 16508, 16604], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 418, 905, 1257, 2009, 2739, 3175, 3882, 4645, 5278, 5903, 6309, 6939, 7339, 7946, 8941, 9716, 10248, 10875, 11069, 11709, 12472, 12838, 13448, 13661, 13828, 13917, 14353, 14696, 15436, 16173, 16485, 16592, 16931], dtype=int32)}
ミュージカル映画の起源はいつ
ミュージカル映画
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([474], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([490], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ミュージカル映画()は、映画のジャンルの一つで、物語に混在して俳優が歌を歌う形式を指す。一般的に歌によって筋を発展させたり、映画上の配役を特徴付けたりする。ミュージカル映画のサブジャンルはミュージカルコメディであり、通常の音楽、ダンス、筋書きに加えて、強いユーモアの要素を持つ。 歴史 1927~1930年代 ミュージカル映画は、1920年代末期にトーキーが発明され、映画に音楽をあわせることが可能となったことを期に出現した。最初のトーキーとされるアル・ジョルスン主演の『ジャズ・シンガー』(1927) からして、音楽映画である。当初は舞台作品をそのまま映画にしたものが多く、ストーリーそのものが無いレビュー短編なども多く作られた。 しかしトーキー当初は歌もダンスも未熟な役者が多く駆り出され、粗製濫造の感もあった。そのような中で人気を集めたのは、洗練された魅力を持った欧州風オペレッタ映画であり、ハリウッドでもドイツ出身のエルンスト・ルビッチら欧州の人材が活躍した。 世界恐慌によってブロードウェイも不況に巻き込まれた1930年代前半、ダンサーのフレッド・アステアをはじめとする一流の人材が仕事を求めてハリウッドに流れこみ、ここで本格的なミュージカル映画の製作される土台が形作られることになった。アステアはRKO映画の女優ジンジャー・ロジャースとコンビを組み、一連のヒット作でテクニカルかつロマンティックなダンスシークエンスを披露して人々の喝采を浴び、世界的な人気者となった。このアステア&ロジャースのコンビは、息のあった男女のダンサーの代名詞として現在でも使われることがある。 他にも、天才的な振付師であるバスビー・バークレイは、映画ならではの演出・特撮・カット割りを駆使し、ミュージカル映画に舞台とは違う独自の発達をもたらした。具体的には、ダンサー達をその真上からカメラで見下ろし、その隊列で万華鏡のような映像を造り出す、いわゆる<b data-parsoid='{"dsr":[1066,1082,3,3]}'>バークレー・ショット</b>の創造がある。そうして形作られた人気を背景に、30年代末期以降のミュージカル映画はテクニカラーの導入、高品質の録音再生システムの導入など、技術革新の恩恵をいち早く受ける分野ともなった。 この黎明期をはじめ20世紀前半のミュージカル映画のストーリーは、突然歌い踊りはじめても違和感の少ない歌手やダンサー、ミュージカルスターを登場人物にして、その舞台裏や私生活を描いたものがもっぱらであり、それらは後に<b data-parsoid='{"dsr":[1286,1301,3,3]}'>舞台裏ミュージカル</b>と呼ばれる伝統的ジャンルとなる。 1940~1950年代中頃 1940~1950年代はスター・システムによるミュージカル映画の最盛期で、特にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー社は、ジュディ・ガーランドやジーン・ケリー、前述のフレッド・アステアなど数多くの優れたミュージカル俳優の出演する、豪奢な作品群で一世を風靡した。他社も20世紀フォックスはベティ・グレイブル、パラマウント映画はビング・クロスビー、コロムビア映画はリタ・ヘイワースといった看板スターを擁したものの「星の数よりも多い」と謳われるMGMの圧倒的な質量にはかなわなかった。 『巴里のアメリカ人』と『恋の手ほどき』ではアカデミー作品賞を受賞し、芸術的にも評価が高かったMGMミュージカルは、この時代の娯楽映画の代名詞と言っても過言ではなく、他にも『踊る大紐育』『錨を上げて』『私を野球につれてって』『雨に唄えば』『バンド・ワゴン』『イースター・パレード』『オズの魔法使』『若草の頃』といった数々の名作を後世に残している。またこの時期はいわゆるティン・パン・アレーの作詞家・作曲家が最後の輝きを見せた時期でもあり、現在までスタンダード・ナンバーとして愛唱されるミュージカル映画の曲も数多い。 小規模な所では、1940年代のアメリカ合衆国でサウンディーズと呼ばれるジュークボックス映画が多く作られている。レストランやナイトクラブ等に置かれたパノラムと呼ばれる専用装置にコインを投入すると、デューク・エリントンら人気ジャズマンの登場する約3分間の短篇音楽映画を楽しむ事ができた。テレビの登場により一時的な流行で終わるが、サウンディーズ向けに作られたフィルムは、当時のミュージシャンの姿を今に伝える貴重な映像資料となっている。 1950年代中頃~1960年代 40年代半ばにブロードウェイで公開された『オクラホマ!』は、脚本を練ったドラマティックなストーリーでブロードウェイ・ミュージカルに革命をもたらしたが、その流れは50年代になって映画にも流れ込んだ。以後、主にロジャース&ハマースタインの作品に代表されるストーリー重視のミュージカルが主流を担うようになり、それまでの歌や踊りなど個人芸重視の舞台裏ミュージカル、スター・システムの映画は影を潜めるようになった。 このストーリー重視の新しい流れのミュージカルには、物語と音楽を高度に結びつける困難な作業とセンスが必要であるため、映画製作者達は元々完成度の高いブロードウェイ・ミュージカルに題材を求めるようになり、以後映画オリジナルのシネ・ミュージカルは製作頻度が激減することになった。 時を同じくしてシネマスコープの導入にともない映画は大型化。たださえ制作費が多額なミュージカル映画は、それに見合った収益が見込める超大作志向に活路を見出す。それが花開いたのが60年代であり、『サウンド・オブ・ミュージック』をはじめ『メリー・ポピンズ』『マイ・フェア・レディ』など現在でもスタンダードとなっている大作名画が、ハリウッド各社、あるいはフランスやイギリスなど各国からも誕生。ミュージカル映画は最大の黄金期を迎える。 また舞台の世界と同様、『ウエスト・サイド物語』以降には社会性を強く打ち出した作品が出現し、高く評価されるようになった。但しそれは同時にそれまでハリウッド・ミュージカルが標榜していた「夢の世界」を色褪せた物とさせる諸刃の剣であり、現在からすれば評価の分かれる所である。 1970年代~1980年代 1960年代の終り頃には、肥大化したミュージカル映画は超大作の商業的失敗が相次ぐようになり一気に退潮。台頭してきたアメリカン・ニューシネマやSFX映画に娯楽映画の主流を譲ることになり、以後30年近くにわたって主流から外れたままの存在となる。特に題材と人材の発掘場であるブロードウェイの低調が大きく影響し、俳優・監督・その他スタッフに人を得られなくなり、質的に優れた作品は散発的に作られるのみとなった。 そうしたメインストリームの退潮の一方、エルヴィス・プレスリーやビートルズなど特定の人気ミュージシャンをフィーチャーしたジュークボックス・ミュージカルと呼ばれる小規模なミュージカル映画が1950年代半ばから作られ始め、サントラとの相乗効果でヒットを挙げるなどしていた。この路線が'70~80年代になって、特定歌手にこだわらず若者向けのキャッチーな曲をサントラに満載し、ポップス市場と強く結びついた映画を作る動きとなった。殊更に『アメリカン・グラフィティ』『サタデー・ナイト・フィーバー』らの大ヒットを手本とするもので、批評家らに高く評価される事はなかったものの、その後のミュージック・ビデオ時代の礎ともなり、また『ロッキー4』などミュージカル以外の映画の造り方にも影響を与えた。 1990年代~ 1990年代に入ると『美女と野獣』をはじめとするディズニーのアニメミュージカル映画が、大人にも受け入れられて大ヒットを記録。それを嚆矢として2000年代に入った近年、実写の本格ミュージカル映画もブロードウェイのヒット作を映画化する形で復調を見せるようになった。2003年には『シカゴ』がミュージカル映画としては34年ぶりとなるアカデミー作品賞を受賞。その後「RENT/レント」(2005年)「プロデューサーズ」(2005年)「ヘアスプレー 」(2007年)「マンマ・ミーア!」(2008年)など、ブロードウェイミュージカルが次々と映画化されるようになった。 ミュージカル映画では劇中で披露される歌は事前にスタジオで録音した曲を撮影現場で再生し、役者は口パクで演じるという方法が多いが、「レ・ミゼラブル」では、歌唱はすべてその場で撮影しながら録音したものである。現場ではピアノの生伴奏を役者にイヤホンで聞かせながら撮影した(ピアノの音はリズムのためであり、後にオーケストラのサウンドに変えられているものもある)[1]。 一方ボリウッドを中心として映画製作が年間800本行なわれているインドにおいては、その作品の大多数にミュージカル要素が組み込まれている。製作本数から鑑みてミュージカル映画の本場はインドであるとする見方もある程だが、ただしその作風はアクション映画など他のジャンルの要素まで雑多に詰め込んだ独特のものである。これらの映画も1990年代以降、ラジニカーント主演『ムトゥ 踊るマハラジャ』など一部の人気映画が海外進出をするようになった。 日本のミュージカル映画 日本の最初のトーキーである『マダムと女房』も、ハリウッドのそれと同様にミュージカルの要素が強い作品である。 日本のミュージカル映画の特徴として挙げられるのが、七五調を違和感なく使える時代劇との相性の良さであり、戦前の危機的な世相の中作られた名作『鴛鴦歌合戦』をはじめ、エノケンこと榎本健一や美空ひばりといったスターの主演する時代劇ミュージカルが戦中から昭和30年代にかけてヒットを飛ばしている。『狸御殿』シリーズも戦中戦後にかけて映画会社をまたがって幾作も作られ、2005年にも最新作『オペレッタ狸御殿』が作られる、息の長いシリーズとなった。 一方時代劇以外の分野では『素晴らしき男性』『アスファルト・ガール』などハリウッドに範をとった野心的ミュージカル大作も作られてはいたものの、それらは観客の失笑を買う結果となった。フランキー堺主演の『君も出世ができる』は批評的には数少ない成功例として挙げられるが、それすら興行的には失敗する有様であった。現代劇におけるミュージカルは、もっぱらその当時の流行歌を主題とした歌謡映画として、あるいは加山雄三やクレイジー・キャッツらが主演するコメディ映画のワンシークエンスとして、といった形で観客に受け入れられていた。 現在、ブロードウェイの翻訳作品が強い舞台の世界と同様、日本の映画界においてもオリジナルのミュージカル作品が作られることは稀(「嫌われ松子の一生」など)で、時折製作されても幼年層を対象にしていることが多く、一般層に受け入れられにくいことは否めない。 最近では「SKIPシティ国際Dシネマ映画祭 2012」の短編部門において、角川裕明監督のミュージカル作品『ユメのおと』が最優秀作品賞を受賞。日本に和製ミュージカル映画を根付かせるという目的で「Japanese Musical Cinema」という団体を立ち上げている。翌年の2013年には、埼玉県×松竹共同製作のオムニバス映画『埼玉家族』の中の一作品として、鶴見辰吾主演/角川裕明監督によるミュージカル作品『父親輪舞曲(ちちおやロンド)』が劇場公開された。 代表的なミュージカル映画の一覧 (舞台作品の映画化は「stage = S」で示す。括弧内は舞台の初演年度) 代表的なミュージカル映画の基準は以下のものです。 アメリカ映画協会がミュージカル映画ベストに選出した25作品 アカデミー作品賞受賞作品 世界三大映画祭の最高賞受賞作品 1920年代 ブロードウェイ・メロディー (1929)  アカデミー作品賞 1930年代 四十二番街 (1933)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第13位 トップ・ハット (1935)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第15位 ショウボート (1936) S (1927)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第24位 巨星ジーグフェルド (1936)  アカデミー作品賞 オズの魔法使 (1939)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第3位 1940年代 ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ (1942)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第18位 若草の頃 (1944)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第10位 踊る大紐育 (1949) S (1944)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第19位 イースター・パレード (1948) 1950年代 巴里のアメリカ人 (1951)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第9位 アカデミー作品賞 雨に唄えば (1952)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第1位 バンド・ワゴン (1953)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第17位 掠奪された七人の花嫁 (1954)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第21位 スタア誕生 (1954)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第7位 野郎どもと女たち (1955) S (1950)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第23位 王様と私 (1956) S (1951)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第11位 恋の手ほどき (1958)  アカデミー作品賞 1960年代 ウエスト・サイド物語 (1961) S (1957)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第2位 アカデミー作品賞 シェルブールの雨傘 (1964)  パルム・ドール マイ・フェア・レディ (1964) S (1956)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第8位 アカデミー作品賞 メリー・ポピンズ (1964)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第6位 サウンド・オブ・ミュージック (1965) S (1959)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第4位 アカデミー作品賞 オリバー! (1968) S (1960)  アカデミー作品賞 ファニー・ガール (1968)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第16位 1970年代 キャバレー (1972) S (1966)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第5位 グリース (1978)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第20位 オール・ザット・ジャズ (1979)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第14位 パルム・ドール 1980年代 1990年代 美女と野獣 (1991)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第22位 2000年代 ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer in the Dark (2000)  パルム・ドール ムーラン・ルージュ Moulin Rouge! (2001)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第25位 シカゴ Chicago (2002) S (1975)  アメリカ映画協会選出ミュージカル第12位 アカデミー作品賞 2010年代 出典 関連項目 ミュージカル 映画 演劇
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%AB%E3%83%AB%E6%98%A0%E7%94%BB
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 375, 925, 1188, 1405, 1637, 1974, 2191, 2894, 3525, 4061, 4219, 4563, 4834, 5362, 5984, 6588, 6893, 7182, 7426, 7596, 8504, 8911, 9596, 9873, 10142, 10922, 11120, 11330, 11919, 12415, 12961, 13202, 13446, 13669, 13807, 14214, 14699, 14902, 15299, 16077, 17848, 19029, 19804, 20751, 21158, 21795, 22590, 22848, 23573, 24716, 25508, 25791, 26007, 26185, 26376, 26829, 27015, 27545, 28404, 28837, 29687, 29791, 30129, 30561, 30677, 30768, 31617, 31679, 33411], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 374, 924, 1180, 1404, 1636, 1954, 2190, 2893, 3524, 4060, 4218, 4534, 4833, 5339, 5983, 6587, 6873, 7181, 7425, 7573, 8503, 8910, 9595, 9872, 10125, 10921, 11119, 11329, 11918, 12414, 12960, 13201, 13445, 13668, 13775, 14213, 14698, 14885, 15298, 16076, 17840, 18997, 19803, 20750, 21157, 21794, 22589, 22847, 23572, 24715, 25470, 25790, 26006, 26184, 26375, 26828, 26977, 27544, 28403, 28836, 29686, 29774, 30128, 30526, 30663, 30767, 31616, 31665, 33389, 33520], dtype=int32)}
情報処理技術者という職業が誕生したのはいつ
技術者
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
技術者(ぎじゅつしゃ)とは、工学に関する専門的な才能や技術を持った実践者のことである。類義語で日本の名称独占資格である「技術士」および「技能士」と比べて明確な定義のない呼称で、スキルを持つものの呼び名として工学以外の分野も含め広く用いられている[1]。 技術者に対応する英語として、または同じ意味合いの外来語として、エンジニア (engineer) の呼称も用いられる[1][2]。ただし、日本以外の国においては「エンジニア」の称号には工学士の学位が必要とされるなど明確な制限がある場合が多く、日本語での「技術者」「エンジニア」は、こうした国においては別の職種とみなされる「テクニシャン」(技能者)に相当することも多いため注意が必要である[1][3]。 また別の類義語として「技師」や「技士」も存在するが、こちらは日本では役職名や資格名に用いられることが多い(例、臨床工学技士、臨床検査技師、診療放射線技師、施工管理技士)。 概説 技術者は製造業一般、サービス産業など製品やシステムなど、また農林水産分野など、モノやことを生み出される、生産が伴うすべての産業に存在している。 通常、工学(機械工学、電子工学、情報工学、化学工学など)や理学(数学、物理学など)の分野の知識を持ち、有用な物・工程・システムなどを設計・開発・製造する。 20世紀後半以降、物のなかには具体的な形をもつハードウェアだけでなく、それを使うためのソフトウェアが含まれるようになっている。また、技術者が製作したものを正しく動作させるための運用・保守に関わる職種も技術者に含む。 各種の技術者 技術者は製造業一般、サービス産業など製品やシステムなど、また農林水産分野など、モノやことを生み出される、生産が伴うすべての産業に存在している。 電気工学分野に電気技術者、機械工学分野に機械技術者などと工学分野の数だけ分野ごとの技術者が存在し、自動車技術者、銃器設計者、情報技術者、鉄道技術者、土木技術者などとテクノロジー産業ごとに技術者が存在する。またそれぞれの分野ごとに、調査計画から分析、設計から製作や施工という一連の工程においてそれぞれ技術者が存在するほか、製品の品質管理、維持管理、製造のための設備保守、メンテナンス、ものの修理修繕および修復、施設の運営のためといった業務などに従事する技術者も数多い。 技術者の一例としてパンや菓子を製造する製パン・製菓技術者、被服分野の縫製技術者、ボウリングのドリラー、照明技術者、環境分析技術者、環境保全技術者、搭乗運用技術者、農業技術者、森林・林業技術者、食品製造に従事する食品技術者、洋服など仕立ての技術者、和装式服のしみ抜き技術者、細菌検査技術者、レントゲン技術者、検品技術者、ビル管理技術者(建築物環境衛生管理技術者、ビル管理士、ビル管理者試験)などといった具合で様々である。 さらにはメカニック、そして汎用機オペレータ、CADオペレータなどの「オペレーター」やコンピュータ技術者としてシステム監査技術者、ソフトウェア開発者もソフトウェア技術者という技術者であるほか、コンピューター分野のプログラマー、デザイナーも、他に、ピアノ調律師、楽器製作者、PAミキサー、MAミキサーなど、さらに医療分野の義肢装具士、歯科技工士なども技術者と認識される。 また、技術部門以外の接客業などにおいても「接客技術者」のように技術者という表現を使うケースがみられる[4] 。 その他公務員として奉職する各種の技術者、例えば技術陸曹・海曹・空曹など特殊な任務を負う技術者も存在するほか、宇宙飛行関係者や宇宙飛行士、消防士、警察官(例えば交通管理分野の技術者)などでも、技術者の場合がある。 技術者の定義と実情 「技術者」という呼称に明確な定義は存在しないが[1]、国語辞典『デジタル大辞泉』では技術者を「科学上の専門的な技術をもち、それを役立たせることを職業とする人。技術家」と記述している[5]。 技術者に対応する英語としては「エンジニア」が用いられる。「エンジニア」は、直訳するとエン=拡大する・実践するの接頭語、ジーニア=才能ある人・閃く人の意で、エンジニアリングに対応する語句である。エンジニアリングが工学と翻訳されることからエンジニアを「工学者」とする場合もあるが、日本語においては「技術者=エンジニア」とされることが多い[1][2]。 技術者と技能者 技術者に類似した概念に「技能者」がある[1]。技能者とは、機械の組み立てや精密加工などの、ものづくりの実作業を担当する者を指す。専門知識を応用して成果を出すことは求められない反面、極めて高度な技能が要求されることから、伝統的な職人の概念に近い。技能者の国家資格に技能士がある。ただし技術者は試作といった作業の必要性から、実質的に技能者であることを求められることもあり、優れた技術者は同時に優れた技能者であることが多い。 技能者に対応する英語としては「テクニシャン」が用いられる。テクニシャンは、マニュアルなどにより定められた経験的な実務を行う職種で[1]、新たな問題に挑むエンジニアとは明確に異なる職種とみなされる[2]。エンジニアの指示のもと、エンジニアの補助や実務を行う人々と称されることもあり、例えばアメリカにおいてはエンジニアとテクニシャンでは給与体系も大きく異なり、エンジニアがテクニシャンの仕事をすることは通常ない[3]。 またエンジニアとテクニシャンの中間のポジションとして「テクノロジスト」という職種も存在する[1][2]。テクノロジストに対応する日本語の定訳は存在せず、日本においては技術者の一部とみなされている[1]。 技術者と職階 企業の一部には、日本国内外を問わず、下記の技術者の職階を有することが多い(組織によって名称や階級は一部変わる。)。また旧内務省では、技師・主任技師(現行の技官に相当)という職階が存在していた。 一例として、所長(または工場長) 技師長(所長級技術者) 副所長(または副工場長) 主幹技師(部長級技術者) 主任技師(課長級技術者) 技師(係長級技術者)技師補 など。 組織に所属する技術者は、職場においては横断的に仕事をこなすため、明確な職名が存在しないことが多い。 技術者と科学者 ヨーロッパでは研究者の方が工学技術者より格上であるという風潮がある。これは、もともと貴族が趣味として自然科学を探求し、先導してきた歴史背景があるためと言われ、実際、応用技術より基礎研究に対する関心が強い。 逆にこのような歴史的背景が存在しないアメリカでは、社会での実践を担う技術者(エンジニア)は大きな影響力を持つため地位が非常に高く、管理職(マネージャー)よりも重視される。指導者的な役割を果たすことが期待され、最高経営責任者(CEO)の多くが技術者出身となっている。国内では、学会と社会が断絶構造となっているため、社会的に科学者は名誉しか存在しない。また技術者は手先の器用な低級労働者として認知されている。 近年では学者・研究者であると同時に技術的・実働的な作業も兼ねる現場派 の学者・研究者も増加してきている。技術者は理論的・実験的アプローチにより事前に設定された目標を達成する製品の設計・製作などを目指し、科学者は実験などから得た事象を系統的に整理し、理論体系の構築を目指す。 技術者は、産業界(主に企業)において実用的な技術を担う職務を担う一方で、研究者と言った場合、実用性以前に実現性の有無すら未知の領域を探求する職務であり、技術者とは棲み分けがなされている。技術者は主に産業界に属しているが、研究者といった場合は必ずしも属する組織が限定されない。これは産業界で必要とされる研究と学術界で価値のある研究にも差異があるためである。さらに企業における新製品の研究開発と言う場合は、研究者というより高度な技術者が必要とされる傾向が強い。 学者と言った場合、企業ではなく大学などの学術・教育機関に属している研究者を指すことが多い。これは、教育サービスを提供するがどうかも学者・研究者を区別する一つの基準であることを意味する。 公的な学術機関の場合は、学者ではなく研究者と呼称される。私企業の場合、基礎研究に近い事業に関わっている場合のみ、研究者と呼称される(例: 日亜化学工業 勤務時の中村修二)。 エンジニア 音楽業界においては、レコーディング・スタジオなどでレコード/CD/DVDなどの音楽制作物における音響操作系技術者である「レコーディング・エンジニア」や「マスタリング・エンジニア」の事を単に「エンジニア」と呼称及び表記する事がある。他にも補佐役のアシスタント・エンジニア、ライヴ及びコンサート会場や各種ステージなどでの音響操作担当者は「PAエンジニア」、音響機器製作は「オーディオ・エンジニア」、映像制作関連で画像編集などの作業担当者は「VE(ビデオエンジニア)」などがあり、その場合もエンジニアとだけ呼称及び表記されている場合がある。 音響技術者の一形態でCD-DA(CD)の制作工程においてプリ・マスタリングとよばれる作業に従事する技術者はマスタリング・エンジニアと呼ばれる。 航空従事者のうち、航空機の運航に携わる航空機関士は、航空エンジニア、フライトエンジニア(Flight Engineer,FE)とも呼ばれる。ISSフライトエンジニアなど。 製品等の開発責任技術者をチーフエンジニア、企業に属していない独立したエンジニアをフリーエンジニア、フリーランスエンジニア、その逆をインハウスエンジニア、その他フィールドエンジニア、ファクトリーエンジニア、セールスエンジニア、ゲストエンジニアとそれぞれ呼称される。技術コンサルタントとして従事しているのが、コンサルティングエンジニアであり、これをコンサルティング技術者とは、あまり呼称されない。 またバイオテクノロジーの分野に従事する技術者をバイオ・エンジニア、医療分野に従事するメディカルエンジニア、モータースポーツの世界のエンジニアはレースエンジニア、またラリーなどでのトラック・エンジニアがエンジニアと呼称される。建築分野では、構造部門の構造エンジニア、金融業ではフィナンシャルエンジニアと呼ばれるエンジニアが存在する。 コンピュータの分野では、総称してコンピュータエンジニア、コンピュータ技術者、ITエンジニアなどと呼ばれる。職種によりインフラエンジニア、システムエンジニア、組込みエンジニア(組み込みシステムエンジニア)、ネットワークエンジニア、ウェブ・エンジニア、データベースエンジニア、カスタマーエンジニアなどもある。その他ナレッジエンジニアについてはエキスパートシステムを参照。 生態系エンジニアは、特定の職業人物を表しているのではなく、生物分野のたとえで、エンジニアのような生物、の意味である。ある生物をエンジニアに見立てて呼称している。 シビルエンジニアは建設分野のエンジニアのことであるが、日本では土木分野の技術者の意味で呼称されている。エンジニア・アーキテクトは日本では建築分野の構造家にあたる。 3次元エンジニアは 、日本では3次元をもちいた技術者の呼称のひとつ。モデル・エンジニアリングの分野にも、優れたモデル・エンジニアと称された人物らがいる。 PCエンジンの熱狂的なユーザーのことをかつて「PCエンジニア」と呼んでいた。 インハウスエンジニア 従来は、事業者側にも技術担当が必要な場合は当該技術者がいて、施設管理等の場合自ら一定のメンテナンスをする。これをインハウスエンジニアという。その上で、法定検査等手に余るものについては外部に委託するという体制であった。 つまり、発注者側の技術者として、技術の渉外担当となる。 近年日本で起きた原発事故でみるとおり電力などエネルギー業界等の管理施設では、施設を所有する管理者側のエンジニアと、必要に応じ委託を受けて業務に当たるエンジニアと多重構図をなしている。 昨今では事業者内の技術者はコスト削減の大号令の中でどんどん削減され極端な場合は廃止し、すべてを外部の業者に任せるといった形態になりつつある。 建設業界では、建設サービスの高度化時代、詳細設計は施工業者に設計担当のインハウスエンジニアを抱え、設計を行う場合も多々ある。 技術公務員 官庁にいる技術公務員、インハウスエンジニアは官庁技術者と呼ばれる。日本の場合こうした技術者が、本庁出先あわせ中央官庁内の他地方自治体と地方公共団体、公団や公社、特殊法人、官庁外郭団体である公益法人等々でおり、また組織外からの出向者も多々おり、多重構造をなしている。 日本の公共調達法は明治期の官直営方式時代からの枠組みを戦後もなんとか変化する時代の要請に合わすべく運用面で対処し、会計法規を裁量解釈、拡大解釈で進めてきた経緯がある。戦後は各種技術コンサルタントを誕生させ、官庁での技術業務のアウトソーシングを進ませ、その後も世界中でも官の技術の民間への移行も加速化して進み、官庁技術者集団のスリム化を進行させた。日本においては官内技術者集団でなければ基本的に実施しえないあるいは法規上なければいけない技術業務以外は、今日民間の技術・能力が、実績が積まれ向上していったという経緯がある。 『建設産業事典』(2008年、建設産業史研究会、鹿島出版会)の巻末に掲載されている「用語解説」Technical terminology、インハウスエンジニア(官庁技術者)の項で、旧建設省出身の松浦茂樹東洋大学国際地域学部教授が、社会基盤整備工事にともなう土木事業などは、直轄での河川、砂防、海岸、多目的ダム、国道系道路、国営都市公園、港湾、空港など国土整備と、交通施設整備を担当する国土交通省を中心に上水を担当する厚生労働省、発電工業用水を担当する経済産業省などに工学技術職の技官がおり(その他は文部科学省の文部技官として教育施設の営繕など担当や、農林水産省などの農業土木系・林業土木系・水産土木系の施設を扱うさらには防衛施設庁、警察庁や機構等と、他に各省庁研究所などの研究職での技官がいる)、国土交通省でみると、本省では河川局、道路局、港湾局、都市整備局を中心に配置され、各局長、都市整備局では下水道部長らは、土木技官であり、全国の出先機関として8つの地方整備局や北海道開発局に配属される大多数の技官から技術系の部の部長や局長も技官であること、本省において局長以上の技官ポストは旧建設省の技監と旧運輸省の技術総括審議官があること、建設省発足以来事務次官は事務と交互に就任していること、この省に入省後、基本的に河川、道路、ダム、港等、背番号がつけられ、それぞれ専門家としての道を歩んでいくことを明記している。 参考 国土交通省ホームページ 「国土交通省直轄事業の建設生産システムにおける発注者責任に関する懇談会:中間とりまとめ」2006 年9 月  土木学会編 「日本土木史 昭和16 年~昭和40 年」 国土交通省 関東地方整備局 「オンラインマガジン50年のあゆみ シリーズ2」   国土技術政策研究所 研究総務官兼総合技術政策研修センター長 西川和廣「公共工事の品質確保の取組の方向について」平成18年度 西川和廣「報文:インハウスエンジニアのモデルチェンジ」 財団法人国土技術研究センター「建設生産システムにおける品質確保のための方策検討 報告書」 平成19 年度 財団法人国土技術研究センター「平成18 年度 監督検査体制に関する米国調査」 「カリフォルニア州企業・職業法」 韓国建設管理研究室 先任研究員 朴煥杓 「公共事業における責任監理と建設事業管理(CM)の役割の確立による今後の中長期発展のあり方」 2007 年  世界のエンジニア資格 英語圏の国で名称では、チャータード・エンジニア(Chartered Engineer、CE)とプロフェッショナルエンジニア(Professional Engineer、PE) の二つの勢力がある。CEの方はイギリスでの資格のため、イギリス本土の他アイルランド、また、インド、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アラブ諸国といった旧植民地で、CEが使用される。ただし旧英連邦のうちオーストラリア、ニュージーランドでの名称は「Chartered Professional Engineer」とチャータードとプロフェッショナルの言葉を重ねている。他英連邦ではカナダは隣国アメリカ合衆国同様に、PEとしている。 アメリカのPEでは多くの技術部門があるが、独占業務は日本で言う土木分野で、建築分野は構造エンジニアリングだけをPEにしている。プロフェッショナルエンジニアはアメリカの各州が州ごとに設けているエンジニアの公的資格となっており、第1グループ:①化学工学、②土木工学、③電気工学、④機械工学、⑤環境工学と第2グループ:①農業工学、②制御システム工学、③防火工学、④産業工学、⑤製造工学、⑥冶金工学、⑦鉱業/鉱物工学、⑧原子力工学、⑨石油工学 とがある。これを日本ではNPO法人日本プロフェッショナルエンジニア協会日本PE・FE試験協議会がこの資格試験を主催している。プロフェッショナルエンジニアに関連する資格は他に、FE試験と国際認定生産技術者を設けている。 ほとんどの国は技術者資格の英訳自体は「Professional Engineer」を当てている。自国語の技術者資格、例えば韓国は「技術士」、中国は「高級工程師」で英語は「Professional Engineer」としている。日本の技術士も、発足時に英名は「consulting engineer」としていたが、現在は「Professional Engineer」と表現している。 中国語では技術の職を「工程師」と呼ぶが、中華人民共和国で工程師を4段階にしており、エンジニアに相当しているのは高級工程師で、また一種の名誉称号である技術職名制度でエンジニア相当の高級工程師と、建築分野の高級建築師などが、国家工程技術職務条例で定められている。 1985年より名誉称号から仕事の独占資格に適時移行しているが、名称は従来と同様にしている。ただし、独占業務としているのはやはりアメリカや日本同様、建築、土木分野だけである。 中国では、日本の技術士総合管理部門と同等くらいの建設設計技術者は教授級階高級エンジニア、日本の技術士やRCCMなどと同等くらいの高級エンジニア、そしてエンジニア、副エンジニアという具合であり、専門知識人員として国家1級登記構造エンジニア、日本の建築設備士にあたる国家登記公用装置エンジニア、日本の電気設備士にあたる国家登記電気系エンジニア、国家登記の土木(岩土)エンジニア、中国政府認定の予算管理士となる国家登記造価エンジニアといった各専門エンジニアを定めている。なお、建築士に当たるものは国家1級登記建築士と国家2級登記建築士がある。 プロフェッショナルエンジニア(PE)の制度は、分野として機械の専門技術者であるメカニカルエンジニア部門、電気の専門技術者であるエレクトリカルエンジニア部門などが含まれている。 アメリカ合衆国では建設分野では早くから建築家・アーキテクトの制度を存在させているが、それと平行して、土木や建築構造全般に渡る建設エンジニアであるシビルエンジニア部門は、シビルエンジニアリング専門分野として構造エンジニアを表すストラクチュラルと地質のそれを表すソイルの各分野がある。 このストラクチュラルエンジニア(structural engineer)の資格を取る場合は、シビルエンジニア部門の資格を取った上で、さらに2年間の実務経験を積み、各自専門に関する2日間にわたる試験を受け、試験に合格する必要がある。 なお、アメリカのアーキテクト資格は日本の建築士と同様に、建築に関するすべての設計に携わることが認められるが、プロフェッショナルライアビリテイの関係上、実際には小規模建物の場合以外はすべて上記それぞれの専門家に専門分野の部分を任せるのが通常となっている。 このため、州によって異なるが、前述のシビルエンジニア資格者が建築構造の設計をする場合には制限が課せられ、一定高さ以上の建物などは、ストラクチュラル・エンジニアの関与が求められている。事実建築家には、建物の構造が確かかどうかについての責任はなく、建築構造設計技術者であるストラクチュラル・エンジニアの役割となる。 このため建築家は、構造エンジニアを呼んで、かつ建物には電気と機械系の技術者も必要となる。建築業務の場合建築家はチーム内の専門家の内のひとりであっても、建築家だけがクライアントとのやり取り把握をなす。 一方英国では、構造技術分野では、構造技術者の集まりである構造技術者協会は1908年に設立され、1934年に英国王室から正式な認知を受けた王立協会となり、会員数約22000人を有する世界的構造エンジニアの組織となっている。また、英国では建築の見た目の意匠から一歩踏み込み、ファサードデザインと統合させようとする「ファサード・エンジニア」というエンジニアもおり、多岐にわたるエンジニアリングを結集させ構造・構法や材料、設備の選択に際して耐久性や地球環境に配慮し、かつ居住環境や都市環境に良い影響を与えることを目的としている。 世界における技術者の称号 大陸ヨーロッパやラテンアメリカの幾つかの国やトルコなどでは、工学技術者の称号は工学部の学位を持っている者に限り許されている。例え職歴が十分であっても、それ以外の者が使用する事は違法である。 イタリアでは、工学部の学位を持っている者以外では、プロフェッショナルとしての能力試験(Esame di Stato)を課し、これを通過した者がその称号を許される。 ポルトガルでは、プロフェッショナルな技術者の称号と、認定されるその工学学位は「Ordem dos Engenheiros」によって認定されている。 チェコ共和国においては、技術者の称号(lng.)は、化学、工学、さらには歴史的事情により経済学で学士か修士を修めたものに与えられる。 アメリカの全ての州、カナダ、そして南アフリカでは、幾つかの技術者の称号の使用を、法によって規制している。特に"Professional Engineer"、さらに工学分野から派生した工学、例えば土木工学や機械工学専門技術者に対する称号等を規制している。アメリカの州でほぼ全てにおいて、無許可の者が「技術者」を称する事等を禁じている。 IEEEの公式な見解は、工学学位を持ち、十分な技術者としての経験を持った者等が技術者である、としている。 日本においての資格の名称 日本の建設に関する資格一覧、日本の免状一覧、日本の情報に関する資格一覧、日本の工業に関する資格一覧、日本の環境に関する資格一覧、日本の通信に関する資格一覧 などをみてもわかるとおり、技術者資格の名称として、名前の末尾に技術者と付けるものも多く存在する。情報処理技術者(システム監査技術者、応用情報技術者、基本情報技術者)、バイオ技術者、シスコ技術者など。 音響技術者の音響技術者能力検定、下水道管理技師の下水道管理技術認定試験、その他給水装置工事主任技術者、ガス主任技術者、電気主任技術者(電気工作物全般を扱う技術者)、電気通信主任技術者(電気通信ネットワーク全般を扱う技術者)、ダム管理主任技術者、ダム水路主任技術者、ネオン工事技術者、ボイラー・タービン主任技術者などの他、業務遂行するべく定められる主任技術者、管理技術者、監理技術者、電気管理技術者、給水装置工事主任技術者、薬事の責任技術者、搭乗科学技術者、有線テレビジョン放送技術者、原子炉主任技術者、自家用発電設備専門技術者、浄化槽清掃技術者、防火安全技術者などがある。 また統括管理者、無線従事者、清掃作業監督者、貯水槽清掃作業監督者、工事担任者、核燃料取扱主任者、放射線取扱主任者、空調給排水管理監督者、防火管理者、公害防止管理者、エネルギー管理士、冷凍機械責任者など、こうした責任者、主任者、監督者としているものも、技術者が資格取得し従事することが多い。 さらに、自動車整備士、航空整備士、航空機関士、陸上無線技術士、測量士、電気工事士、施工管理技士(土木施工管理技士、造園施工管理技士、建設機械施工技士、建築施工管理技士、電気工事施工管理技士、管工事施工管理技士)ダム管理技士、ボイラー技士、環境計量士、検査分析士、認定眼鏡士、消防設備士、建築設備士など士のつくものに関しても、これらなどは技術者の資格であり技術者が取得している。建築士、ビオトープ管理士も、技術者の資格として認識されている。防火管理技能者は資格条件として、消防法施行令条則第11条の4で防火安全技術者などが講習を受け、効果測定に合格した者と規定されている。 資格取得に際しては、技術士など実務経験を要するものがある。 技術資格者 技術資格者という名称もあり、例として交通工学技術者の資格として、日本では交通工学研究会認定交通技術資格者TOP(Traffic Operations Practitioner certified by JSTE)、交通工学研究会認定交通技術上級資格者TOE(Traffic Operations Engineer certified by JSTE)がある。 米国ではPEとは別にPTOE(Professional Traffic Operations Engineer)があり、全国レベルの資格制度として1999年1月に第1回の資格試験が行われている。資格の認証は,米国交通工学会(ITE)の関連組織であるTPCB(Transportation Professional Certification Board, Inc.)という独立の非営利団体(NPO:nonprofit organization)が行っている。 エンジニアの名称の場合 ほかに末尾に「エンジニア」を付けた名称の資格試験も技術者資格である。 国家資格 過去の情報処理技術者試験にあった。( )内は現行の相当試験。 プロダクションエンジニア試験 システム運用管理エンジニア試験(ITサービスマネージャ試験) アプリケーションエンジニア試験(システムアーキテクト試験) マイコン応用システムエンジニア試験(エンベデッドシステムスペシャリスト試験) テクニカルエンジニア(エンベデッドシステム)試験(同上) テクニカルエンジニア(システム管理)試験(ITサービスマネージャ試験) テクニカルエンジニア(データベース)試験(データベーススペシャリスト試験) テクニカルエンジニア(ネットワーク)試験(ネットワークスペシャリスト試験) テクニカルエンジニア (情報セキュリティ)試験(情報セキュリティスペシャリスト試験) 情報処理技術者試験の変遷も参照。 民間資格 情報通信エンジニア : 日本データ通信協会認定 国家資格である工事担任者の一部有資格者を対象とする。 CGエンジニア検定 : CG-ARTS協会が実施。文部科学省後援。 家電製品エンジニア : 家電製品協会認定 AV情報家電エンジニアおよび生活家電エンジニアの2種があり、両方を取得すると家電製品総合エンジニアの称号を得ることができる。 CQE(品質エンジニア)資格認定制度 計測制御エンジニア : エンジニアとしての能力を計測自動制御学会が認定する。 医療の世界ではメディカルエンジニアなるエンジニアがおり、国家資格の臨床工学技士の英語標記もMedical Engineerであるが、日本生体医工学会がME(メディカル・エンジニアリング)を検定するME技術実力検定を実施している。これは第1種と第2種に分かれ、検定に合格すると、臨床ME専門認定士という名称の資格が与えられる。この検定は、人工透析機器や人工心肺装置、人工呼吸器といった生命維持管理装置やその他の医療機器の管理・操作・保守に関し、特に保守・安全管理に対する専門知識・技術をもっているかどうかを認定するものである。専門知識をもっているかどうかを認定するものであり、生命維持管理装置に関し実際の現場管理者としての専門家資格は、臨床工学技士であり、装置の取扱い自体は看護師でもでき、ME技術実力検定は看護師、診療放射線技師、臨床検査技師なども受験している。 脚注 関連項目 工学者 日本技術者教育認定機構 生産技術 技術者不足 セールスエンジニアリング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%80%E8%A1%93%E8%80%85
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 88, 264, 569, 800, 1390, 1903, 2010, 2909, 3032, 3562, 4268, 4351, 4387, 4452, 4618, 4702, 4945, 5213, 5308, 5381, 5434, 5491, 5616, 6462, 6614, 6811, 6891, 6942, 7044, 7395, 7816, 8124, 8256, 9396, 9595, 9772, 9995, 10300, 10572, 10934, 11060, 11300, 11735, 12682, 13006, 13212], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 80, 263, 561, 792, 1379, 1864, 1975, 2901, 3014, 3542, 4257, 4336, 4386, 4407, 4589, 4670, 4774, 5171, 5285, 5380, 5413, 5466, 5598, 6441, 6593, 6790, 6883, 6915, 7017, 7375, 7723, 8077, 8239, 9385, 9560, 9761, 9994, 10286, 10571, 10920, 11059, 11237, 11626, 12644, 12982, 13194, 13477], dtype=int32)}
島根県雲南市の主要産業は何
雲南市
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
雲南市(うんなんし)は、島根県の東部に位置する市。 概要 2004年(平成16年)11月1日に、大原郡大東町、加茂町、木次町、飯石郡三刀屋町、掛合町、吉田村の6町村が新設合併して誕生した。 島根県で唯一海に面していない内陸の市である(中海を海とした場合)。中華人民共和国雲南省と同名であるが、当市名は令制国の出雲国南部に位置することに由来する。雲南市の人口は全国の市町村で第607位である[1]。 地理 雲南市は島根県の東部に位置し、松江市、出雲市等に隣接し、南部は広島県に接している。 総面積は553.4km2で島根県の総面積の8.3%を占め、その大半が林野である[2]。 地形 市の南部は毛無山(1,062m)を頂点に中国山地に至り、北部は出雲平野に続いていることから、市の南北で標高差が大きい。市内には、斐伊川本流と支流の赤川・三刀屋川・久野川、その他の支流である阿用川、吉田川などが流れている。加茂町から大東町、木次町、三刀屋町にかけて、斐伊川と赤川、三刀屋川の合流地点を中心とした平野部が広がっているが、吉田町、掛合町では中国山地に至る広範な山間部を形成している[2]。 気候  北部と南部とで標高差があるため、北部の平均気温は14℃前後であるが、南部では12℃から13℃と平均気温にして2℃程度の差が生じる。年間降水量は約1,700mmから1,900mm程度で、冬季には北部でも降雪があり、南部や大東町、木次町の山間部等では降霜や積雪により農作物や交通へ影響が生ずることもある。旧掛合町、旧吉田村は豪雪地帯となっている[3]。 隣接している自治体 島根県 出雲市 松江市 安来市 飯石郡 飯南町 仁多郡 奥出雲町 広島県 庄原市 歴史 沿革 2004年(平成16年)11月1日 大原郡大東町、加茂町、木次町、飯石郡三刀屋町、掛合町、吉田村の6町村が新設合併。島根県下で9番目に市制を施行して雲南市が発足。 2007年(平成19年)7月 雲南ブランド化プロジェクトの開始。プロジェクトシンボルは、『幸運なんです。雲南です。』 2008年(平成20年) 11月9日 速水雄一が無投票で雲南市市長に再選(立候補者が一人だったため)。 11月16日 雲南市議会委員一般選挙の開票。 2012年(平成24年)4月、平成17年から続いていた財政非常事態宣言の解除を発表。[4][5] 2013年(平成25年)3月30日、松江自動車道三次東JCT/IC - 吉田掛合IC間開通により、雲南市と三次市・広島市間が高速でつながり、所要時間が40分短縮される。 行政 市長:速水雄一(はやみ ゆういち、2004年11月28日就任、4期目) 市の日 11月1日 庁舎 市役所 本庁舎 - 政策企画部、総務部、市民環境部、健康福祉部、子ども政策局、産業振興部、建設部、会計課、議会事務局、農業委員会、教育委員会 (〒699-1392 雲南市木次町里方521番地1) 里方分庁舎 - 総務部情報システム課、市民環境部国土調査課、教育委員会文化財課 (〒699-1311 雲南市木次町里方952番地5) 水道局 - 水道局、上下水道部 (〒699-1333 雲南市木次町下熊谷1107番地) 総合センター 大東総合センター - 自治振興課、市民福祉課(〒699-1251 雲南市大東町大東1673番地1) 加茂総合センター - 自治振興課、市民福祉課 (〒699-1334 雲南市加茂町加茂中972番地5) 木次総合センター - 自治振興課、市民福祉課 (〒699-1106 雲南市木次町新市379番地) 三刀屋総合センター - 自治振興課、市民福祉課 (〒690-2404 雲南市三刀屋町三刀屋144番地1) 吉田総合センター - 自治振興課、市民福祉課 (〒690-2801 雲南市吉田町吉田1066番地) 掛合総合センター - 自治振興課、市民福祉課 (〒690-2701 雲南市掛合町掛合1262番地1) 市議会 雲南市議会 (〒699-1392 雲南市木次町里方521番地1) 経済 産業 主な産業 産業人口 16,045人 ※平成13年現在 商業施設 ショッピングセンター マルシェリーズ(サン・チェリヴァ後継の複合商業施設。平成28年3月9日オープン) グリーンシティー スーパーマーケット Aコープ グッディー みしまや マルマン コンビニエンスストア ポプラ ローソン ファミリーマート ヤマザキショップ 家電量販店 エディオン ホームセンター ジュンテンドー いない コメリ ナフコ ドラッグストア ウェルネス コスモス 主要企業 島根三洋電機本社・工場 ホシザキ島根工場 島根ナカバヤシ掛合工場 NTN鋳造木次工場 ネスター島根工場 島根イーグル本社・工場 デルタ・シー・アンド・エス 雲南工場 姉妹都市・提携都市 姉妹都市 リッチモンド市 (アメリカ合衆国 インディアナ州) 地域 人口 健康 人口 総人口 44,124人 男性  21,243人 女性  22,881人 ※2009年1月末現在の情報 世帯数 13,648戸 ※2009年1月末現在の情報 教育 小学校 市立 海潮小学校 木次小学校 寺領小学校 西日登小学校 斐伊小学校 吉田小学校 中学校 市立 大東中学校(旧大東町)校区は、大東小学校、佐世小学校、阿用小学校、西小学校の通学区域となっている。 海潮中学校(同上)校区は、海潮小学校の通学区域となっている。 加茂中学校(旧加茂町)校区は、加茂小学校の通学区域となっている。 木次中学校(旧木次町)校区は、木次小学校、寺領小学校、西日登小学校、斐伊小学校の通学区域となっている。 三刀屋中学校(旧三刀屋町)校区は、三刀屋小学校、鍋山小学校の通学区域となっている。 吉田中学校(旧吉田村)校区は、吉田小学校、田井小学校の通学区域となっている。 掛合中学校(旧掛合町)校区は、掛合小学校の通学区域となっている。 高等学校 県立 三刀屋高等学校(旧三刀屋町) 三刀屋高等学校掛合分校(旧掛合町) 大東高等学校(旧大東町) 交通 鉄道路線 西日本旅客鉄道(JR西日本) 木次線 加茂中駅 - 幡屋駅 - 出雲大東駅 - 南大東駅 - 木次駅 - 日登駅 - 下久野駅 中心となる駅:木次駅 道路 高速道路 松江自動車道:雲南吉田IC - 吉田掛合IC - 三刀屋木次IC 国道 国道54号 国道314号 県道 Colombia 道の駅 掛合の里 たたらば壱番地 さくらの里きすき おろちの里 バス路線 高速バス 出雲ドリーム博多号(福岡・北九州~雲南・松江・出雲)(中国ジェイアールバス・JR九州バス) グランドアロー号(広島~三次~雲南~松江)(広島電鉄・一畑バス) みこと号(広島~三次~雲南~出雲)(中国ジェイアールバス・一畑バス) 一般路線バス 雲南市民バス:雲南市の大部分を担当。 一畑バス:大東線(松江しんじ湖温泉駅~松江駅~乃木駅~出雲大東駅) 谷本ハイヤー:出雲市駅~三刀屋バスセンター スサノオ観光:出雲市駅~根波車庫 飯南町生活路線バス:赤名〜たたらば壱番地 名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事 名所・旧跡・観光スポット 三刀屋城:県指定史跡 海潮温泉 斐伊川河川敷公園 加茂岩倉遺跡 出雲湯村温泉 龍頭八重滝(日本の滝百選) 龍頭が滝 八重滝 斐伊川堤防桜並木(日本さくら名所100選 ) 尾原ダム 加茂中央公園 コンサート・コンベンション施設 雲南市加茂文化ホール ラメール 雲南市三刀屋文化体育館 アスパル チェリヴァホール 出身有名人 景山俊太郎(政治家:元参議院議員) 竹下登(政治家・元内閣総理大臣他) 竹下亘(政治家:衆議院議員、元復興大臣、竹下登の異母弟) 樽床伸二(政治家:衆議院議員、元総務大臣・沖縄・北方担当大臣) 世良譲(ジャズピアニスト) 永井隆(医学博士) 田部長右衛門 (23代)(実業家、政治家) 田部長右衛門 (24代)(実業家) 南Q太(漫画家) 琴三 (ことぞう) 都間壮 大相撲幕内格呼出し 佐渡ヶ嶽部屋所属 江角英明(俳優、声優、ナレーター、木次町出身) 大津田裕美(ナレーター・ラジオパーソナリティ) 木野村尚子(山陰放送元アナウンサー、現在は同局報道部記者) 野々村直通(高校野球指導者) 古居みずえ(フォトジャーナリスト、映画監督、掛合村出身。ただし、出雲市(旧今市町)出身説もある) 福山博之(プロ野球選手:東北楽天ゴールデンイーグルス所属) 糸原健斗(プロ野球選手:阪神タイガース所属) 特産品 卵かけご飯専用醤油「おたまはん」 (株式会社吉田ふるさと村) パスチャライズ牛乳 (木次乳業有限会社) 焼きさば 雲南市を舞台とした作品 曲「吹奏楽のための『青雲』」 (母里由美子 〔六子〕 作曲) 映画『うん、何?』(2008年) ドラマMR.BRAIN第6話(2009年6月27日) その他 旧吉田村の山林の大部分である6500haは、日本三大山林王の一人、田部家(代々、当主は田部長右衛門を名乗る)の所有で、戦国時代以来近世まで製鉄で財を成した。 雲南市発足に参加した町村の一つである大原郡木次町は一時期大原郡<b data-parsoid='{"dsr":[8269,8280,3,3]}'>雲南木次町</b>と称していた時期があった(1955年~1957年)。「雲南」という地名を用いた自治体はそれ以来になる。 電話番号 市外局番は、大東・加茂・木次・三刀屋地区が0854(40~59) 、掛合・吉田地区が0854(60~79) となっている。但し、天気予報は0852-177である。(市外局番0854の地域が島根県東部と西部に複数存在するため。) 0854エリア 木次営業所管轄(40,42) 出雲大東電話交換所管轄(43) 三刀屋電話交換所管轄(45) 大東下久野電話交換所管轄(47) 温泉電話交換所管轄(48) 加茂電話交換所管轄(49) 掛合電話交換所管轄(62) 波多電話交換所管轄(64) 吉田電話交換所管轄(74) 田井電話交換所管轄(75) 郵便番号 郵便番号は以下の通りとなっている。2006年10月16日、2016年3月7日の再編に伴い、変更された。 木次郵便局:699-13xx 出雲大東郵便局:699-12xx、699-11xx 三刀屋郵便局:690-24xx、690-25xx、690-26xx 掛合郵便局:690-27xx 吉田郵便局:690-28xx、690-23xx 市職員による活動 雲南市役所バドミントン部 地元大東高校のOB職員を中心に活動する。インターハイや国体経験者から初心者まで幅広いレベルの選手で構成される。 練習には職員以外も参加可能で地域のスポーツ活動の一助を担っている。 市役所対抗の大会等では常に好成績を残す。 雲南市役所ソフトボール部 雲南市役所トロンボーン4重奏団 トロンボイジャー グループ名の由来<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[9095,9101,6,0]}'/>楽器の名前のトロンボーンと海を渡る航海士の意味や昔の宇宙船などの名前にもなったボイジャーこの2つをたして<b data-parsoid='{"dsr":[9173,9187,3,3]}'>トロンボイジャー</b>というグループ名がついた。 主な活動 地元のイベントへの出演 など... 大会結果 第31回(2007年度)全日本アンサンブルコンテスト中国大会 職場の部:金賞 第31回(2007年度)全日本アンサンブルコンテスト島根県大会 職場の部:金賞および県代表 第30回(2006年度)全日本アンサンブルコンテスト中国大会 職場の部:出場(結果不明) 第30回(2006年度)全日本アンサンブルコンテスト島根県大会 職場の部:金賞および県代表 など... 雲南市役所ソフトテニス部 構成メンバーは中高経験者から初心者まで様々。 斐伊川河川敷公園テニスコートを活動拠点にしており、練習には職員以外も参加可能。平成23年には第4回中国地方市町村職員ソフトテニス大会に出場した。(8チーム中7位) 脚注 関連項目 雲南夢ネット - ケーブルテレビ局。島根県内には無いテレビ朝日系列のテレビ局の広島ホームテレビが視聴可能。 雲南警察署 雲南消防本部 外部リンク 行政 No URL found. Please specify a URL here or add one to Wikidata. 観光 地図 Geographic data related to at OpenStreetMap - Geoshapeリポジトリ(左側基準年月日のチェック操作で</small>行政区域の変遷を見ることができる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E5%8D%97%E5%B8%82
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 569, 1060, 1472, 1724, 1940, 2738, 3003, 3493, 4343, 5011, 5306, 5734, 6622, 7131, 8463, 9364, 10468, 11839, 12052, 12573, 13658, 13793, 14289, 15144, 15539, 15919, 16321, 17059, 17360, 17620, 17918, 18820, 19249, 20463, 20775, 21491, 21708, 22017, 22382, 22851, 23344, 24080, 25254, 26099, 26227, 26324, 26966, 28559, 29024, 29913, 31298, 31663, 31952, 32214, 32673, 32698, 33707, 34218, 34514, 35070, 35711, 36407, 36898, 37865, 38322, 38914, 39228, 39406, 39489, 40610, 40667, 40736, 40840, 41189, 41283, 41725, 41770, 41869, 41966, 42017, 42065, 42170, 42311, 42418, 42504, 42592, 42611, 42804, 42826, 42845, 42935, 42963, 43027, 43052, 43484, 43532, 43731, 43888, 44695, 45161, 45516, 45865, 46271, 46734, 46780, 46937, 46987, 47105, 47151, 47261, 47311, 47527, 47625, 47655, 47741, 48124, 48870, 48912, 49019, 49517, 49622], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 568, 1059, 1471, 1703, 1939, 2737, 2980, 3492, 4342, 5010, 5305, 5688, 6621, 7105, 8462, 9363, 10466, 11838, 12035, 12572, 13657, 13792, 14288, 15143, 15530, 15918, 16320, 17058, 17349, 17619, 17917, 18819, 19222, 20462, 20755, 21480, 21707, 22016, 22381, 22821, 23330, 24050, 25240, 26098, 26210, 26323, 26945, 28538, 29023, 29912, 31288, 31662, 31937, 32203, 32672, 32697, 33698, 34217, 34513, 35069, 35709, 36406, 36881, 37856, 38321, 38913, 39211, 39405, 39488, 40609, 40666, 40735, 40839, 41188, 41282, 41724, 41769, 41868, 41965, 42016, 42064, 42169, 42310, 42417, 42503, 42584, 42610, 42787, 42825, 42844, 42934, 42962, 43026, 43051, 43483, 43505, 43714, 43874, 44694, 45160, 45515, 45814, 46251, 46717, 46779, 46936, 46986, 47104, 47150, 47260, 47310, 47526, 47571, 47654, 47740, 48110, 48869, 48911, 49005, 49503, 49603, 49840], dtype=int32)}
亀田 史郎の三男はメキシコに移住した?
榎本武揚
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
榎本 武揚(えのもと たけあき、1836年10月5日〈天保7年8月25日〉 - 1908年〈明治41年〉10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。最終階級は海軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。通称は<b data-parsoid='{"dsr":[1712,1721,3,3]}'>釜次郎、号は<b data-parsoid='{"dsr":[1831,1839,3,3]}'>梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた[1][2]。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。 伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口[3]の牢獄に2年半投獄された。 敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。 また、殖民協会を創立し、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会、電気学会など数多くの団体を創設した。 生涯 生い立ち 1836年(天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる[4]。 近所に住んでいた田辺石庵に入門し儒学を学んだ[5]後、1851年(嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった[6]。1854年(安政元年)、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行[7]。1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)[6]が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学。海軍伝習所では、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだ[8]。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。 翌1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる[9]。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う[6]。 オランダ留学 1861年(文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良・田口俊平・津田真道・西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった[10]。 同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着[11]。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える[12]。セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した[13]。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ[14]。 1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学した。プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した[15]。その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した[16]。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉した[17]ほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した[18]。 1866年(慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した[19]。 5月10日に幕府に召し出され[20]、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる[21]。7月8日に軍艦頭並[22]となり、布衣を許される[23]。9月19日に軍艦頭となり、和泉守を名乗る[21]。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した[24]。 戊辰戦争 阿波沖海戦・大坂撤退 1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた[25]。翌1868年(慶応4年)1月2日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張[26]。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利した[27]。鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、1月7日に大坂城へ入城した[28]。しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた[29]。 榎本は大坂城に残された什器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を富士山丸に積み、新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した[30]。1月23日、海軍副総裁に任ぜられる[31]。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した[32]。 旧幕府艦隊の脱走 同年4月11日、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊を乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走した[33]。勝海舟の説得により4月17日に品川沖へ戻り[34]、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した[35]。榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される[36]。5月24日に徳川宗家の駿河・遠江70万石への減封が決定[37]。榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して館山藩の陣屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真鶴へ輸送したほか、輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した[38]。7月には奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出した[39]。 8月に入ると密かに脱走準備を進め[40]、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされる[41]が、8月15日に徳川家達が駿府に移り移封が完了する[37]と、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった[42]。この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していた[42]。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している[43]。 檄文<br/>王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。[44] 房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した[42]。9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する[45]。翌日以降、仙台藩の軍議に参加する[46]が、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した[47]。これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた[48]。旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加え、桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約3,000名を収容。新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。このとき、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している[49]。10月11日には横浜在住のアメリカ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている[50]。 その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古湾で補給の後、蝦夷地へ向かった[51]。 箱館戦争 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸した[52]。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日に五稜郭を占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した[53]。その後、松前藩を攻撃するが、開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失する[54]。12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となった[55]。 この間、イギリスとフランスは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した[56]。イギリス公使ハリー・パークスとフランス公使ウトレー(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「交戦団体」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『事実上の政権(Authorities de facto)』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した[57]。それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した[58]。 また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される[59]。 12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった装甲艦・甲鉄が、翌1869年(明治2年)1月、新政府に引き渡された[60]。旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる(宮古湾海戦)[61]。 4月9日、新政府軍は蝦夷地・乙部に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の七飯町)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される[62]。 新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・高松凌雲の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送る[63]が、5月14日、榎本らは拒否。榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った[64]。これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状[65]と酒と肴を送っている[66]。 5月15日に弁天台場が降伏し、16日に千代ヶ岱陣屋が陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習の大塚霍之丞に制止された[67]。17日、榎本ら旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆らと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した[68]。 投獄 榎本ら旧幕府軍幹部は、熊本藩兵の護衛の下、5月21日に箱館を出発し、東京へ護送された[69]。6月30日に到着し、辰ノ口(現在の千代田区丸の内1丁目)にあった兵部省軍務局糾問所の牢獄に収監[70]。榎本らは一般の罪人と同じ牢獄に一人ずつ入れられ、それぞれ牢名主となった[71]。 政府内では榎本らの処置に関して対立があり、木戸孝允ら長州閥が厳罰を求めた一方、榎本の才能を評価していた黒田清隆、福沢諭吉らが助命を主張[72]。糾問正・黒川通軌らによりフランス軍人の参加とガルトネル開墾条約事件に関する尋問が行われた[73]以外、何も動きがないまま拘禁が続いた。 後年榎本を批判する福澤諭吉も助命活動を行っている。榎本の母と福澤の妻は遠縁ながら本人同士はさほど面識がなかったが、榎本の妹婿であり福澤の元上司であった元外国奉行・江連堯則から榎本の状況把握を依頼された福澤は糾問所に掛け合っている。そして、静岡にいた榎本の母と姉を江戸に呼び寄せ、榎本の母のために面会請願文を代筆した[74]。なお福澤から化学の本を借りているが、日本一の化学者だと自負していた榎本は家族への手紙に、福澤の本は幼稚なもので、大勢の弟子を抱える福澤も大したことが無いと書き残している[75]。 獄中では、洋書などの差し入れを受け読書に勤しみ、執筆や牢内の少年に漢学や洋学を教えたりしていた[76]。また、兄の家計を助けるため、孵卵器や石鹸、蝋燭など様々な物の製造法を手紙で詳細に教えている[77]。 開拓使 1872年(明治5年)1月6日、特赦により出獄、親類宅で謹慎する[78]。3月6日に放免となり、同月8日、黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた[79]。 5月末、北垣国道らとともに海路北海道に向かう[80]。翌月から函館周辺を手始めに日高、十勝、釧路方面の資源調査を行い帰京。石炭隗を開拓使に持ち込んだ札幌在住の早川長十郎の情報を元に石狩炭田に関心を示す[81]。 1873年(明治6年)1月、中判官に昇進[82]。同年1月から3月にかけ、東京の開拓使仮学校で黒田・榎本・ケプロンは地質調査方針策定のために三者会談を行う[83]。榎本は調査を進めるため、黒田がアメリカから招聘したホーレス・ケプロンとともに来道したが、ケプロンに更迭されていたトーマス・アンチセルを再登用しようとした。しかし、別途、ベンジャミン・スミス・ライマンに地質調査を行わせていたケプロンに反対される[84]。同年夏、榎本は再度北海道に行き、熊石(現在の八雲町)の石炭山を調査した後、石狩山地に入り空知炭田を発見、良質な炭層であると分析結果を出した[85]。しかしケプロンは、榎本の調査結果を認めず、「未熟の輩」と誹謗した[86]。 北海道土地売貸規則が制定されると、1873年、早川長十郎に案内された石狩川沿いの対雁(ついしかり。現在の江別市)の土地10万坪、それと小樽(現在の小樽駅周辺)の土地20万坪を北垣国道とともに払い下げを受けた。対雁には「榎本農場」を開き、小樽は「北辰社」を設立し土地を管理した[87]。 駐露特命全権公使 ロシア帝国との樺太の国境画定交渉と、ロシア皇帝アレクサンドル2世が仲裁することとなったマリア・ルス号事件に対処するため、駐露特命全権公使に決まった澤宣嘉が1873年10月に病死[88]。榎本が代役として1874年(明治7年)1月10日の閣議で領土交渉使節に決定し、18日、駐露特命全権公使に任命された。併せて1月14日、日本最初の海軍中将に任命された[89]。同年3月10日に横浜を出発、パリ・オランダ・ベルリンを経て、6月サンクトペテルブルクに着任[90]。6月18日、アレクサンドル2世に謁見し、20日にはクロンシュタット軍港を視察した[91]。領土交渉については、交際の広いポンペを日本公使館付属医師の名目で顧問に招きロシアの内部情報を探り[92][93]、ロシア外務省アジア局長との交渉の末、1875年(明治8年)5月7日、外務大臣アレクサンドル・ゴルチャコフと樺太・千島交換条約を締結した[94]。また、マリア・ルス号事件は同年6月13日、アレクサンドル2世の裁定が下り、日本が勝訴した[95]。 その後、同年8月から9月にかけて西欧を視察。ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問した[96]。またロシア滞在中、幕末の遣日使節であったエフィム・プチャーチンらと親睦を深めた[97]。 シベリア横断 1878年(明治11年)7月26日、サンクトペテルブルクを出発し帰国の途に向かう[98]。榎本は当時日本に広まっていた「恐露病」を克服するため、ロシアの実情を知ることを目的にシベリアを横断した[99]。モスクワを経てニジニ・ノヴゴロドまで鉄道で行った後、船と馬車を乗り継ぎ、9月29日にウラジオストックに到着[100]。そこで黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船し、10月4日小樽に帰着。札幌滞在の後、10月21日に帰京した[101]。このとき、山内堤雲とともに小樽の手宮洞窟にある古代文字を調査し報告している[102]。 帰国後 1879年(明治12年)2月12日、条約改正御取調御用掛を命じられ、同年9月10日に外務省二等出仕、11月6日に外務大輔となる。さらに11月18日、議定官を兼任した[103]。 1880年(明治13年)2月28日、海軍卿に就任[103]。海上法規である日本海令草案を作成する[104][105]が、海軍人事に介入したため薩摩出身者の怒りを買い[106]、1881年(明治14年)4月7日、海軍卿を免ぜられ[107]、同年予備役へ退いた[103]。 当時、政府は明治宮殿の建設を計画しており、榎本は公使時代のロシア宮廷での経験を買われ[108] 、1881年5月7日に皇居造営御用掛、翌1882年(明治15年)5月27日、皇居造営事務副総裁に就任[107]。このときから、皇室との関係が他の顕官に比べてより深いものとなった[108]。 同年8月12日、駐清特命全権公使となり、妻子を連れて北京へ赴任[109]。1883年(明治16年)末に李鴻章と大沽で会談、親交を深める[110]。1884年(明治17年)に朝鮮で甲申事変が発生すると、日本側全権の伊藤博文を支え李鴻章と度々会談し、天津条約締結に貢献した[111]。1885年(明治18年)10月、清国駐在を免ぜられ帰国した[112]。 大臣を歴任 逓信大臣 1885年12月22日、内閣制度が発足。第1次伊藤内閣の逓信大臣に就任する[113]。1887年(明治20年)5月24日、勲功をもって子爵に叙される[114]。1888年(明治21年)4月30日に黒田内閣が誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣を井上馨が後任となる7月25日まで臨時兼任した[115]。同年、電気学会を設立、初代会長となる[116]。 文部大臣 1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めた。同日暗殺された文部大臣・森有礼の後任として、3月22日、逓信大臣から文部大臣へ横滑りする[117]。第1次山縣内閣で留任し、明治天皇の希望であった道徳教育の基準策定を命じられる。大臣親任式で天皇から特に希望されたにもかかわらず、積極的に取り組まなかった。そのため1890年(明治23年)2月の地方官会議で知事たちから突き上げられ、5月17日に更迭、枢密顧問官となった[118][119]。また、同年開催された内国勧業博覧会の副総裁を務めた[120]。 育英黌農業科の開校 1885年、榎本と伊庭想太郎らが中心となり、旧幕臣の子弟に対する奨学金支給のため徳川育英会を設立[121]。この徳川育英会を母体に、1891年(明治24年)3月6日、東京・飯田橋に「育英黌」を設立し管理長に就任した(校長は永持明徳)[122]。育英黌は、農業科(現在の東京農業大学)、商業科、普通科の3科があった[122]が、甲武鉄道の飯田橋延伸に伴う敷地の買収話が持ち上がり、農業科は翌1892年10月23日、小石川区大塚窪町(現在の文京区大塚三丁目)に移転し、育英黌分黌農業科と改称した(校長は伊庭想太郎)[123]。更に1893年、私立東京農学校と改称し、榎本は校主となった(校長は伊庭)[124]。1894年に徳川育英会から独立した[125]が、毎年の入学者が50人を超えず[126]生徒が集まらない状況に榎本は廃校を決意。しかし農学校の評議員であった横井時敬が反対し運営を引き継ぐ。榎本は手を引き、1897年(明治30年)、農学校は大日本農会に移管された[127]。 外務大臣 1891年5月11日に大津事件が発生すると、榎本は、5月15日、ロシアへの謝罪使節・有栖川宮威仁親王の随行員を命じられた[128]が、17日にロシア公使が使節派遣は不要と表明したことから中止となる[129]。但し外務大臣・青木周蔵が引責辞任すると、5月29日、榎本が後任に任命され[129][130]、義弟の林董を次官とした[131]。青木が取り組んでいた条約改正交渉を継続し、1892年(明治25年)4月12日、条約改正案調査委員会を立ち上げ[132]、同年、ポルトガルが経費削減のため総領事を廃止したのを機に同国の領事裁判権を撤廃した[133][134]。また、以前から私的に取り組んでいた海外殖民を政策として進めた(メキシコ殖民の項を参照)。 1892年8月8日、第1次松方内閣総辞職に伴い外務大臣を辞任、枢密顧問官となる[135]。 農商務大臣 1894年(明治27年)1月22日、第2次伊藤内閣の農商務大臣に就任する[136]。 当時、日本は鉄鋼需要の大半を輸入に依存しており[137]、政府は新たに製鉄所(後の八幡製鐵所)の建設を計画していた。製鉄所は民営とすることで1893年に閣議決定していたが、榎本は大臣に就任すると官営を主張し先の閣議決定を覆した[138]。1896年(明治29年)、製鉄所建設の予算が成立し、3月29日に製鉄所官制が公布。榎本は製鉄所初代長官に腹心の山内堤雲を就けた[138]。なお、荒井郁之助による浦賀船渠の設立(1897年(明治30年))を後援している[139]。 足尾鉱毒事件 かねてより足尾銅山の鉱毒被害は問題となっており、1895年(明治28年)には、栃木県知事・佐藤暢と群馬県知事・中村元雄は連名で政府に足尾銅山に関する要望書を提出するが、榎本はこれを放置[140]。1896年9月の大洪水で鉱毒被害が拡大・激化。翌1897年2月、田中正造が国会で鉱業停止を命じない理由の回答を求める質問書を提出し、政府の取り組みを非難する演説を行った[141]。これに勢いづいた被害農民は1千名を超える陳情団(第1回大挙東京押出し)を上京させ、榎本は3月5日、被害農民と面談した[142]。3月18日、先の田中の質問に対して、政府は榎本と内務大臣・樺山資紀の連名で、「示談契約は古河鉱業と被害農民の民事上の問題であり政府は関与しない。鉱業停止も鉱業条例に適合するか断言できない。但し政府は黙視していたわけではない」という回答書を出した[142]が、この回答は被害農民の反発を招き、第2回大挙東京押出しを引き起こす[143]。3月23日、榎本は谷干城や津田仙の助言を受け入れ、津田の案内で現地を視察。同日夜、大隈重信に相談し、24日に鉱毒調査委員会を設置した[143]。27日に再度陳情団と面談[144]の後、29日に大臣を引責辞任、前官礼遇を受ける[145]。なお辞表では「脳症に罹り激務に耐えがたい」ことを辞任理由としている[146]。 メキシコ殖民 榎本は長年、海外殖民への関心を抱き、駐露特命全権公使時代には、岩倉具視に日本領が確定したばかりの小笠原諸島へ罪人を移住させたり、スペイン領のラドローネン諸島(マリアナ諸島)とペリリュー島を購入し、更にニューギニア島の一部とソロモン諸島などを日本領として、それらを拠点に貿易事業を推進することを建言していた[147]。 1879年、渡辺洪基らと東京地学協会を立ち上げ、ボルネオ島とニューギニア島を買収し、日本人を移住させることを発案する[148]。1891年、外務大臣に就任すると「移民課」を新設し[149][150]、ニューギニア島やマレー半島などに外務省職員や移住専門家を派遣し、植民地建設の可能性を調査させた[151]。そこへ在サンフランシスコ領事館からメキシコ政府が開発のため外資と移民を歓迎している話が入り、在米特命全権公使の建野郷三にメキシコ殖民の可能性を調査させた。建野がメキシコの地代は安く日本の農民を送って事業を興せば莫大な利益が得られるとの報告を上げると、榎本はメキシコ殖民に傾き、早速、メキシコに中南米初の領事館を開設した[152]。 外務大臣辞任後の1893年(明治26年)、榎本が会長となり殖民協会を設立[153]。根本正をメキシコに派遣し、コーヒー生産が期待できるという報告を受けた[154]。続いて1894年、アメリカ留学帰りの橋口文蔵をメキシコ南部のチアパス州へ派遣し、が入植に最適との報告を受けた[155]。殖民団の資金集めのため、1895年の墨国移住組合設立に続き、1896年12月、榎本が社長となり日墨拓殖株式会社を設立したが、1株50円で4,000株、20万円の資本金を集める計画に対し、1,919株しか売れなかった[156]。榎本は資金調達が不調であるにもかかわらず、1897年1月、メキシコ政府とエスクイントラ官有地払下げ契約を締結[156]。3月24日、36名の殖民団が横浜を出発した[157]。殖民団は5月19日にエスクイントラに到着する[158]が、マラリアが蔓延したことに加えて、雨季に入っていたためジャングルの伐採が進まず、入手したコーヒー苗も現地の環境に合わないものであったことなどで資金が尽き、逃亡者が発生して僅か3ヶ月で殖民地は崩壊した[159]。榎本は1900年(明治33年)、事業を殖民協会会員で代議士の藤野辰次郎に譲渡し手を引いた[160]。 晩年 1898年(明治31年)、富山県で発見された隕石から製作させた日本刀・「流星刀」を皇太子に献上。流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した[161]。また同年、工業化学会の初代会長となる[162]。1900年、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた[163]。 1905年(明治38年)10月19日、海軍中将を退役となる[164]。1908年(明治41年)7月から病気となり、10月26日、腎臓病で死去[165]。享年73。同月30日、海軍葬が行われた[166]。墓所は東京都文京区の吉祥寺にある。 栄典 位階 明治5年10月8日 - 従五位[167] 1874年(明治7年)2月18日 - 従四位[167][168] 1880年(明治13年)5月24日 - 正四位[167] 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位[167][169] 1896年(明治29年)10月10日 - 正二位[170] 勲章等 1878年(明治11年)2月6日 - 勲二等旭日重光章[167] 1886年(明治19年)3月11日 - 勲一等旭日大綬章[167][171] 1887年(明治20年)5月24日 - 子爵[167][172] 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[167][173] 1890年(明治23年)10月11日 - 銀杯一個[167] 1905年(明治38年)1月20日 - 御紋付御杯[167][174] 1908年(明治41年)10月26日 - 旭日桐花大綬章[167][175] 外国勲章佩用允許 1878年(明治11年)11月24日 - ロシア帝国:神聖スタニスラフ第一等勲章(en)[103][167] 1879年(明治12年)12月3日 - イタリア王国:マウリシオエラツァーロ勲章グランオブヒシアル[167] 1881年(明治14年)7月29日 - ガージャール朝:オンエチエソレール第一等勲章[167] 1884年(明治17年)5月15日 - 大清帝国:二等第一双竜宝星[167][176] 1887年(明治20年)10月3日 - ポルトガル王国:サンベノァダウィ勲章コマンデール[167][177] 1888年(明治21年)1月28日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章(en)[167][178] 1892年(明治25年) 3月14日 - ハワイ王国:カラカウワ勲章ナイトグランドクロス[167] 6月29日 - ロシア帝国:白鷲大綬章(en)[167][179] 1893年(明治26年)6月21日 - 安南帝国:龍星第一等勲章[180] 1894年(明治27年)3月7日 - オスマン帝国:美治慈恵第一等勲章[181] 人物 鳥谷部春汀に「江戸っ子の代表的人物[182]」と評されたように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。親交のあった新門辰五郎の孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していたが[183]、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している[184]。 投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、清元節や都々逸など粋な趣味を持った[185]。晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、門付の新内語りを玄関先に呼び入れたりしていた[182]。 酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた[186]。洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている[187]。また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた[188]。 堂上たちには腹がない 鍋島さまにはしまりがない 参議の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨 向島に屋敷を構えていた榎本は向島百花園を気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた[189]。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという[190]。また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた[189]。園内には俳人・其角堂永機の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌)[191]。 政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され[192]、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている[129]。しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉[193]」や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。 瘦我慢の説 榎本を大々的に批判した人物に、福澤諭吉がいる。1887年、榎本は清水次郎長らとともに清水・清見寺に咸臨丸の慰霊碑を建て、史記淮陰侯列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕え華族となった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『瘠我慢の説』を書いた。福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。瘠我慢の説は1900年(明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった[194]。 逸話 オランダ留学中に電信術を学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、沖牙太郎が古道具屋で購入した。榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。この電信機は現在、郵政博物館に収蔵されている[195]。 逓信大臣のとき、逓信省の「徽章(郵便記号)」を決定。1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した[196]が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」[197]と変更した。その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「〒」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある[198]。郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。 徳川慶喜が公爵となったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している[199]。 系譜・親族 榎本家の先祖は相模国から武蔵国へ移り住んだ郷士であり、江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった[4]。家紋は丸に梅鉢。 父:武規(1790年(寛政2年) - 1860年(万延元年)8月6日[200]) 旧名は<b data-parsoid='{"dsr":[34201,34211,3,3]}'>箱田真与(しんよ)、通称・良助、源三郎。榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫[201]。備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川(箱田)園右衛門直知の次男[202]。菅茶山の廉塾に学び、数学を得意としていた。17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともに伊能忠敬の弟子になる[203]。1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献した[204]。伊能の死後、1818年(文政元年)に御家人の榎本家の株を買い、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る[205]。1826年(文政6年)12月1日、天文方に出仕[201]。1833年(天保4年)7月23日に西丸御徒目付、1840年(天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、1844年(弘化元年)に勘定となり、1846年(弘化3年)に小普請入りとなった[206]。 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日[200]) 武規の後妻。一橋家馬預・林代次郎正利の娘[207]。 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日[200][208]) 林洞海とつる(佐藤泰然の長女)の長女で、林研海の妹。妹に赤松則良の妻となった貞、弟に西周の養子となった西紳六郎、母方の叔父に松本良順、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に山内作左衛門(山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。 長男:武憲(1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日[209]) 幼名・金八。黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日[209])と結婚。2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日[210])は、黒田清隆の養子・常清に嫁いでいる[103]。1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。東京農業大学客員教授の榎本隆充は武憲の孫。 長女:きぬ - 幼少時に死亡[200]。 次男:春之助(1880年(明治13年)1月20日 - 1966年(昭和41年)6月21日[209]) 三男:尚方(1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日[200]) 次女:不二子 - 石川章雄に嫁ぐ[200]。 三女:多賀子 - 幼少時に死亡[200]。 長姉:端清 - 母は武規の最初の妻・みつ。御徒・安香助次郎民堯に嫁ぐ[201]。 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・鈴木金之丞経正に嫁ぐが若くして未亡人となる。武揚が慕っていた[207]。 兄:武与(與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日[200]) 幼名・鍋太郎。通称・勇之丞。大番格歩兵指図役を務めた[23]。 妹:歌 - 目付、外国奉行等を歴任した江連堯則に嫁ぐ[211]。 著作 『渡蘭日記』 オランダ留学時のバタビアからセントヘレナ島までの日記。同島で榎本が破棄しようとしたものを澤太郎左衛門が貰い受けた[212]。 『獄中詩』 投獄中の日記。 『開成雑爼』 投獄中に執筆した、油、石鹸、蝋燭などの製造法を記した書[213]。 『北海道巡回日記』 開拓使で北海道の資源調査を行った際の記録。 『西比利亜日記』 シベリア横断時の日記。大小の冊子2冊に記された。長らく存在は知られていなかったが、関東大震災で倒壊した榎本の屋敷を整理していた同家の執事・近松虎蔵(新門辰五郎の孫)が1935年(昭和10年)、武揚の次男・榎本春之助に見せ、世間に明らかになった[214]。1939年(昭和14年)、南満州鉄道により出版された[215]。 『流星刀記事』 翻訳 『朝鮮事情』 フランス人宣教師シャルル・ダレ著『朝鮮教会史』のうち国内事情を記した序論を、駐露特命全権公使時代にポンペとともに翻訳[216]。 『千島誌』 ロシア人・ポロンスキー(A.S.Polonsky)の著作を駐露特命全権公使時代に市川文吉・花房義質らと翻訳[217]。 海律全書 フランス人のジャン・フェリーチェ・テオドール・オルトラン(Jean Felieché Théodore Ortolan)著の海洋法に関する本。原題は"Régles Internationales et diplomatie de la Mer"(「海の国際法と外交」)。榎本が高松凌雲に宛てた手紙で"Régles Internationales"に「海律」という日本語を当てたことから、『海律全書』または『万国海律全書』と呼ばれるようになった。1845年に初版が発行され、榎本留学中の1864年に第4版が出版されている。上下2冊で構成され、第1冊は総論、序論と平時法規、第2冊は戦争状態を扱っている[218]。日本では、1899年(明治22年)に海軍参謀本部により『海上国際条規』として和訳された[219]。 榎本が所持していた「本」は、化学の師であるハーグ大学フレデリクス教授が蘭訳し自筆筆写したもので、オランダ語で"Diplomatie der Zee"(「海の外交」)という題名が付けられていた[220]。なおオルトランの原書の完全訳ではなく、榎本用に内容を取捨かつ判りやすくしたものであり、後に榎本により原書と対比した書き込みがなされている[221]。 箱館戦争の際に榎本から受け取った黒田清隆は、維新後、本書を海軍省に納めたが、榎本は海軍卿時代に本書を海軍省の書庫で発見し、再び自分の蔵書とした[222]。その後、孫・武英が1916年(大正5年)に宮内省に献上、現在は宮内庁書陵部に保管されている[223]。 なお、榎本の投獄中に福沢諭吉が本書の翻訳を依頼されている。福澤は本書の序文4-5頁だけ翻訳して、これは貴重な本だが講義録であるから講義を聞いた本人でなければ判らないとして、暗に榎本の助命を求めていた[74]。 榎本武揚を題材とする作品 文学作品 安部公房『榎本武揚』(1964年。長編小説と戯曲がある。舞台では高橋昌也、永島敏行らが演じた) 門井慶喜『かまさん』 佐々木譲『武揚伝』 子母澤寛『生きゆきて峠あり』 綱淵謙錠『航-榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯』 童門冬二『小説 榎本武揚』 中薗英助『榎本武揚シベリア外伝』 テレビドラマ 『獅子の時代』(1980年、NHK大河ドラマ、演:新克利) 『五稜郭』(1988年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:里見浩太朗) 『勝海舟』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:吉岡祐一) 『新選組!』(2004年、NHK大河ドラマ、演:草彅剛) 『新選組!! 土方歳三 最期の一日』(2006年、NHK正月時代劇、演:片岡愛之助) ゆかりの地 榎本公園(北海道江別市工栄町) 1873年(明治6年)に10万坪の払下げを受けて造った「榎本農場」の跡地に整備された。佐藤忠良作の銅像がある[224]。 龍宮神社(北海道小樽市稲穂3丁目) 榎本が北垣国道と共同で払下げを受けた地所の一角に建立された。榎本の銅像がある。 梁川公園(北海道函館市梁川町) 榎本の銅像がある。なお、函館市には榎本町、梁川町と由来する町名が2つある。 梅若公園(東京都墨田区堤通2丁目) 防災団地である都営白鬚東アパートの一角にある。元は榎本がよく散策していた木母寺があった場所であり、1913年(大正2年)に建てられた榎本の銅像がある。 榎本武揚像(函館市梁川公園) 脚注 注釈 出典 参考文献 著作・資料 Text "和書 " ignored (help)  「シベリア日記」、「渡蘭日記」、親族への書簡4通を収録。 『現代語訳 榎本武揚 シベリア日記』 諏訪部揚子・中村喜和編訳、平凡社ライブラリー、2010年、ISBN 9784010705599   『榎本武揚未公開書簡集』 榎本隆充編、新人物往来社、2003年、ISBN 9784582766974、書簡126通を収録 『資料 榎本武揚』 加茂儀一編・解説、新人物往来社、1969年 伝記研究 Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |origdate= ignored (|orig-year= suggested) (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); URL–wikilink conflict (help) Text "和書 " ignored (help)を収録。 木立順一 『日本偉人伝』メディアポート 2014年。 ISBN 978-4865580150。 関連文献 「」(国立公文書館所蔵 「枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一」) 『枢密院高等官履歴 第1巻』 東京大学出版会、1996年10月、ISBN 4130987119 学習院大学史料館編 『旧華族家史料所在調査報告書 本編1』 学習院大学史料館、1993年3月 榎本隆充 「榎本武揚」(伊藤隆、季武嘉也編 『近現代日本人物史料情報辞典 2』 吉川弘文館、2005年12月、ISBN 4642013466) 関連項目 東京地学協会 日系メキシコ人 - 榎本移民団を組織した。 興亜会 外部リンク - 国立国会図書館 - 国立国会図書館リサーチ・ナビ - 早稲田大学図書館。大隈関係文書の榎本武揚書翰などが閲覧できる。 - 国立国会図書館 - 国立国会図書館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E6%8F%9A
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 804, 1309, 1567, 2876, 2978, 3123, 3868, 4181, 4621, 5116, 5820, 6254, 6939, 7318, 7465, 7665, 7941, 8122, 9114, 9692, 10141, 10894, 11789, 12036, 12781, 13032, 13219, 14058, 14887, 15368, 16411, 16672, 17351], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 803, 1308, 1559, 2875, 2970, 3122, 3867, 4180, 4576, 5115, 5800, 6253, 6938, 7283, 7464, 7651, 7940, 8090, 9106, 9684, 10140, 10880, 11788, 12010, 12780, 13031, 13202, 14017, 14858, 15367, 16410, 16649, 17298, 17442], dtype=int32)}
ハプティクスを開発したのは誰?
ハプティクス
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ハプティクス(英: haptics)とは、利用者に力、振動、動きなどを与えることで皮膚感覚フィードバックを得るテクノロジーである[1]。触覚技術(英: haptic technology)とも。そのような機械的刺激をコンピュータシミュレーション内で仮想オブジェクトを作る補助として使うことができ、仮想オブジェクトを制御したり、機械などの遠隔制御()を強化したりできる。「視覚におけるコンピュータグラフィックスと同じ役割を皮膚感覚で果たす」と説明されてきた[2]。ハプティクスを応用したデバイスは、そのインタフェース上にユーザーが与える力を計測するセンサを組み込んでいることもある。 ハプティクスを使って微妙に制御された触覚を伴う仮想オブジェクトを作ることができ、それによって人間の触覚がどのように働くのかという研究を可能にした。そういったオブジェクトで、それまで困難だった人間の触覚機能を体系的に精査できるようになった。そうした研究ツールは、触覚とその背後にある脳機能がどのように働くのかを理解することに貢献している。 haptic という語はギリシア語の ἅπτικός (haptikos) に由来し、「触覚について」という意味であり、さらにはギリシア語の「触る」を意味する動詞 ἅπτεσθαι (haptesthai) が語源である。 歴史 初期のハプティクスの応用例として、大型航空機で動翼を操作するのにサーボ機構を使った例がある。そのようなシステムは「一方向」の傾向があり、動翼に空気力学的外力が加わっても制御側では感知できないことが多い。そこで、そのような外力をシミュレートするためにばねと錘が使われた。それ以前のサーボ機構を使っていない軽量な航空機では、失速しそうになると空気力学的バフェッティング(振動)がパイロットの操縦桿で感じられていたため、それが危険な飛行状態への便利な警報になっていた。この操縦桿の震えはサーボ機構では感じられない。この感覚刺激の代替として迎角を測定し、それが失速の危険のある角度にまで達したとき "stick shaker"(アンバランスな回転する錘)が起動して操縦桿を振動させる。これを「フォースフィードバック」と呼ぶ。フォースフィードバックは試験的に油圧ショベルにも実装されており、土や粘土の中に大きな岩が埋まっているような場合に操縦者にそれを感じさせることができ、作業効率向上に寄与している。 1973年、Thomas D. Shannon が触覚電話の特許をアメリカで取得している[3]。 設計 ハプティクスでは、触覚フィードバックやコントローラに力を加えるのにアクチュエータを利用している。 アクチュエータは電気信号に応じて機械的動きを生じる。初期の触覚フィードバックは振動モーターなどの電磁技術を採用しており、携帯電話のバイブレータなどがある。そういった電磁モーターによるフィードバックは強いことが多く、広範囲な感覚を生み出すことはできない。その後、新世代のアクチュエータ技術が登場し、素早い応答特性によってより広範囲な触感を生み出せるようになってきた。次世代のハプティクス用アクチュエータ技術として、人工筋肉、圧電式・静電式・亜音速音響波によるサーフェスアクチュエーションなどがある。 アクチュエータには制御が必要であり、初期のハプティクス応答システムではデバイス全体を振動させることが多かった。第二世代の触覚制御アルゴリズムとチップが開発され、位置ごとに固有の応答を生成できるようになった[4]。 アクチュエータを必要としない新たな技法を reverse-electrovibration と呼ぶ。デバイスからユーザーの身体に弱電流を流す方式である。指先の皮膚の周辺で発振する電界を生じさせると、アクチュエータがなくとも振動する触感が得られ、その触感は信号の形状・周波数・振幅によって変化する[5]。 実用例 遠隔操作とシミュレータ 遠隔操作 (teleoperation) や遠隔制御ロボットで、接触力が操縦者側で複製される場合、「触覚遠隔操作」(haptic teleoperation) と呼ぶ。世界初の電気駆動の遠隔操作機械は、1950年代にアルゴンヌ国立研究所のが放射性物質を遠隔から取り扱うために開発した。その後、水中探索機などのさまざまな遠隔操作機械でフォースフィードバックが広く使われるようになっていった。 そのような遠隔操作機械をコンピュータでシミュレートする場合(操縦者の訓練用)、実際の操縦において感じられるフォースフィードバックを提供できればより有効である。その場合、操縦対象の物体は物理的には存在しないので、力はフィードバックされるのではなく、制御装置内で生成される。そのようにハプティクスを使い、触覚を表すデータをセーブしたり、再生したりできる。ハプティクスを応用したシミュレータとして、医療用シミュレータやパイロット訓練用フライトシミュレータがある。 ビデオゲーム ハプティクスは、アーケードゲーム、特にレースゲームでよく見られる。1976年のセガのバイクゲーム Moto-Cross[6]、またの名を Fonz[7] は、別のバイクと接触・衝突するとハンドルが振動するというハプティクスを採用している[8]。1983年には辰巳電子工業の TX-1 でカーレースゲームにフォースフィードバックが導入された[9]。 単純なハプティクスは、ゲームコントローラやジョイスティックなどに採用されている。初期の実装形態はオプションであり、NINTENDO64用コントローラの「振動パック」がある。その後当初からコントローラやジョイスティックにフィードバック装置を組み込むようになった。ソニーの DUALSHOCK などがある。自動車のハンドル型のコントローラには、道路の状態を感じられるような仕組みを持つものもある。ターンや加速の際にしっかりグリップしているかスリップしていかをハンドルから感じられるという。 2007年、がリリースした世界初のコンシューマ向け3Dタッチデバイス Falcon は高解像度の3次元フォースフィードバック機能を備えている。オブジェクトの表面の手触りや動きをシミュレートでき、ゲーム内のオブジェクトの存在を感じることができる[10][11]。 パーソナルコンピュータ 2013年09月04日、ミネベアは、Touching Feedbackを実現したCOOL LEAFキーボード</b>を発表[12]、同年10月より発売した。 2015年3月9日、アップルは MacBook[13]と MacBook Pro[14]で<b data-parsoid='{"dsr":[5749,5767,3,3]}'>感圧タッチトラックパッド (Force Touch) を導入した[15][16]。 携帯機器 ハプティクスは携帯電話でもよく使われている。LGやモトローラなどのメーカーはそれぞれ異なる種類の触覚技術を採用している。これは多くの場合、画面のタッチに対する振動という形で使われている。 iPhone 6s/6s Plusでは、圧力検知機能の3D Touchと触覚フィードバック機能を実現するTaptic Engineが組み込まれている。 バーチャルリアリティ ハプティクスはバーチャルリアリティシステムの重要な部分を担いつつあり、それまで視覚一辺倒だったバーチャルリアリティに触覚が加わっている。多くの場合スタイラスベースの触覚再現を行っており、仮想世界とのユーザインタフェースにツールまたはスタイラスを使い、今日のハードウェアで計算量的に現実的な相互作用の形態を実現している。3Dモデリングやデザインのインタフェースにハプティクスを利用するシステムが開発されており、物理的な造形の仮想体験をアーティストに与えることを意図している。東京大学では、3Dホログラムに超音波によるフィードバックで触感を与える研究がなされた[17]。篠田裕之をリーダーとする研究チームがこの技術をニューオーリンズで開催された2009年のSIGGRAPHで発表した[18]。 研究 高速振動などの刺激を使い、様々な触感をシミュレートする研究がなされてきた。例えば振動するピンを格子状に配置したパッドで、表面に触ることで様々な触感を生じさせるというものである。それらは現実味のある触感は生み出せなかったが、フィードバックとしては便利であり、様々な形・きめ・弾力を識別することができる。研究用にハプティクスAPIもいくつか開発されており、Chai3D、OpenHaptics、H3DAPI などがある。 医療 医療シミュレーションのためのハプティクスインタフェースは、腹腔鏡検査やといった身体に負担が少ない医療行為の訓練に特に有効であり[19]、にも有効である。これには、外科医があまり疲れずに似たような手術の回数をこなせるようになるという利点もある。ハプティクスはリハビリテーション用ロボットでも応用されている。 オハイオ大学のオステオパシーのカリキュラムでは、Virtual Haptic Back (VHB) というハプティクスを利用した医療シミュレーションが採用されている[20]。研究によれば、VHBは触診の学習に多大な効果があったという。VHBは人間の背中の外形と堅さをシミュレートし、2つの触覚インタフェースを使って触診を訓練できる。ハプティクスは義肢や装具にも適用されてきた。義肢から着用者に必須なフィードバックを提供すべく研究が続けられてきた。アメリカ合衆国教育省とアメリカ国立衛生研究所は、この分野の研究プロジェクトをいくつか行っている。 ロボット は人間の手の強さ・繊細さ・複雑さを再現すべく、触感・圧力・位置などを把握するロボットハンドである[21]。ロンドンの Richard Greenhill のチームが The Shadow Project の一部として開発したもので、今では Shadow Robot Company として企業化している。現在も進行中の開発計画は、誰もが納得する世界初の人工ヒューマノイドを完成させることを目標としている。初期のプロトタイプはNASAのヒューマノイド型ロボットあるいはロボノートのコレクションで見られる[22]。Shadow Hand には各関節と指の腹に触覚センサがあり、それらの情報が中央コンピュータに送られ、処理・解析される。カーネギーメロン大学とドイツのは、触覚についての研究に Shadow Hand を利用している。 バーチャルリアリティ内のオブジェクトに触ることができるという初期の技術 PHANTOM は、MITの Ken Salisbury の指導する学生だった Thomas Massie が1993年ごろ開発した[23]。 アートとデザイン 触覚は単なる感覚ではなく、仮想オブジェクトとのリアルタイムの相互作用を可能にする。そのためハプティクスは、音響合成、グラフィックデザイン、コンピュータアニメーションといったバーチャルアートでも使われている。触覚デバイスにより、アーティストはリアルタイムで音響や画像を生成する仮想機器と直接的接触を持つことができる。例えば、バイオリンの弦のシミュレーションでは触覚デバイスとしての弓をアーティストが持ち、仮想の弦への圧力や表現性によってリアルタイムの振動を生み出す。この場合は物理モデル音源を使う。 高い自由度のある入力機器に触覚フィードバックを備えたもので、デザイナーやアーティストが作っている仮想の「表面」を感じさせることで、素早くかつ自然な造形が可能となる[24]。 ハプティクスを制作に使っている著名なアーティストとしては、Christa Sommerer と Laurent Mignonneau[25]、Stahl Stenslie[26] などがいる。 将来の応用 ハプティクスは今後、人間とテクノロジーの様々な領域での相互作用に関わっていくと考えられる。21世紀初頭の現在は、ホログラムや遠隔のオブジェクトとの触覚による相互作用に熟達することが研究の中心であり、それが成功すればゲーム・映画・製造業・医療をはじめとする様々な産業での応用が生まれる。医療業界では仮想手術や遠隔手術が可能になれば、医療の幅が広がる。衣料の小売業界では、インターネット経由で衣服に触ることができれば、インターネット販売の可能性が広がる[27]。ハプティクスが将来発展すれば、従来は現実的でなかった新産業が生まれるかもしれない。 ホログラフィーとの相互作用 東京大学の篠田裕之の研究チームでは、ホログラフィーの投影に触覚フィードバックを加える研究を行っており、2008年に発表した。このフィードバックによってユーザーはホログラムで投影された物体に触っているかのような感覚を得ることができる。この研究では超音波のを使って触感を生み出している[18]。ハプティクスはホログラム自体には影響せず、単に触覚を加えるだけである。2008年の時点では、この技術はまだ製品化できていないが、産業界からの反応もある[28]。この技術はユーザーが特殊なグローブなどを装着する必要がなく、通常の姿でそのまま使えるという利点がある[28]。 将来の医療への応用 医療の分野では、遠隔手術への応用の研究が進んでいる。現場の看護スタッフがマシンをセットアップし、患者の準備をし、外科医は手術室には行かずに手術するという形になる。それによって専門医の治療を受ける可能性が広がり、専門の外科医がどこにいても働けるようにする。ハプティクスは遠隔手術の際に外科医に触覚フィードバックを提供する。 2003年、スタンフォード大学の研究者らが訓練目的で手術のシミュレーション技術を開発した。手術のシミュレーションにより、外科医や外科の学生がより多くトレーニングできるようになる。ハプティクスは手術のシミュレーションでリアルな触感を生み出すのに使われる。遠隔手術でもシミュレーションでも、リアルな触感がなければメスを入れるのも困難である。計算機科学と外科の教授である J. Kenneth Salisbury Jr. が率いるチームは、手術のシミュレーションのためにリアルな内臓を創りだすことを目標としているが Salisbury はそれが容易ではないと語っている[27]。この研究の背景には、旅客機のパイロットが実際に旅客を乗せる前にフライトシミュレータで訓練するように、外科医も実際に誰かの身体を切る前に訓練できるようにすべきだ、という考え方がある[27]。 ランセットに掲載されたボストン大学の論文によれば、靴の内底がノイズのように無作為に振動するようにすると、年齢に従って衰えていくバランス制御が改善するという[29]。 脚注 参考文献 Klein. D, D. Rensink, H. Freimuth, G. J. Monkman, S. Egersdörfer, H. Böse & M. Baumann. Modelling the Response of a Tactile Array using an Electrorheological Fluids. Journal of Physics D: Applied Physics, vol 37, no. 5, pp794–803, 2004. Klein. D, H. Freimuth, G. J. Monkman, S. Egersdörfer, A. Meier, H. Böse M. Baumann, H. Ermert & O. T. Bruhns. Electrorheological Tactile Elements. Mechatronics Vol 15, No 7, pp883–897. Pergamon, September 2005. Monkman. G. J. An Electrorheological Tactile Display. Presence (Journal of Teleoperators and Virtual Environments) Vol. 1, issue 2, pp.219–228, MIT Press, July 1992. . 関連項目 データグローブ 外部リンク at HowStuffWorks (on telerobotic manipulators) - Kraft TeleRobotics at CES 2007.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B9
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 170, 460, 1193, 1523, 2035, 2313, 2447, 2857, 3359, 3991, 4971, 5236, 6482, 7503, 8638, 10125, 11010, 12663, 14275, 17283, 19089, 21195, 22014, 22746, 24821, 25611, 28280, 28608, 29506, 30440], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 169, 452, 1192, 1522, 2034, 2312, 2446, 2856, 3325, 3979, 4970, 5235, 6457, 7502, 8637, 10124, 10986, 12662, 14274, 17282, 19088, 21194, 21994, 22745, 24820, 25582, 28279, 28594, 29505, 30418, 30758], dtype=int32)}
オットー・カリウスが軍人になる前の職業は?
オットー・カリウス
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
オットー・カリウス(Otto Carius, 1922年5月27日 - 2015年1月24日)は、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の軍人。最終階級は中尉。 戦車長として150両以上の敵戦車を撃破したカリウスは、ミハエル・ヴィットマン親衛隊大尉やクルト・クニスペル曹長、エルンスト・バルクマン親衛隊曹長と共に、最も優れた戦車兵の一人として認められる。 経歴 当時バイエルン州の飛び地にあった町ツヴァイブリュッケン(現在はラインラント=プファルツ州内)に生まれる。ギムナジウムを卒業した頃に第二次世界大戦が勃発し、カリウスは1940年5月25日に第104歩兵補充大隊(ポーゼン)に志願入隊した。訓練を終えると彼は第21装甲連隊へ配属され、1941年のバルバロッサ作戦では38(t)戦車に搭乗し初の戦闘を経験した。1942年10月1日に少尉に昇進、1943年には戦車長として第502重戦車大隊へ転属する。この部隊はティーガーIを装備し、レニングラードの正面からエストニアといった激戦区に投入された。 1944年7月22日、「マリナーファの戦い」でアルベルト・ケルシャー曹長と共に2両のティーガーIで、IS-2を10両、及びT-34/85を7両撃破した。 カリウスは1944年7月24日偵察中に重傷を負い、3日後の7月27日に535人目の柏葉付騎士鉄十字勲章受章者となる。 負傷から回復すると、1945年初頭に第512重戦車駆逐大隊のヤークトティーガー中隊の指揮官となる。ヴァルター・シェルフ大尉を長とし、第1中隊長にアルバート・エルンスト中尉が、第2中隊長にカリウスが任命された。部隊は訓練を完了しないまま1945年3月8日に西部戦線へ投入される。ライン川防衛戦に参加するものの、戦果はほとんどなく1945年4月15日にアメリカ軍に降伏した。 戦後、1952年に薬剤師の免許を所得。1956年に搭乗したティーガー戦車に因んで「ティーガー・アポテーケ(Tiger-Apotheke、虎薬局)」(ラインラント=プファルツ州ペッタースハイム)という薬局を開業した。 2015年1月24日に死去し[1]、虎薬局のサイト上に追悼文が掲載された。その内容は下記の通りである。 Apotheker Otto Carius entschlief am 24.01.2015 nach kurzer schwerer Krankheit im Kreise seiner Liebsten in seinem Zuhause und seiner vertrauten Umgebung. Wir dankem Ihm für viele wunderbare Jahre und die Existenz der Tiger-Apotheke. Von telefonischen Beileidsbekundungen bitten wir höflichst Abstand zu nehmen. Für ihre Kondolenzen dürfen sie aber natürlich gerne den Postweg oder unsere E-Mail benutzen. 訳: 「薬剤師のオットー・カリウスは2015年1月24日、短く重い闘病生活を経て彼が愛した人々と、親しい方々に見守られつつ亡くなりました。我々は素晴らしい年月と、虎薬局の存在を彼に感謝します。電話でのお悔やみはご遠慮下さいますよう、謹んでお願い申し上げます。弔辞のご送付には、もちろん郵便やEメールを使って頂いて結構です。」 戦歴 戦車部隊への志願 1940年春、18歳のオットー・カリウスは第104補充歩兵大隊に入隊した。小柄な彼にとって歩兵の勤務は人一倍苛酷であった。50kmの行軍演習では機関銃を担いで行軍し、カリウスの足の裏に小さな卵ぐらいのマメができるのは日常茶飯事であった。ポーゼンでの歩兵基礎訓練後、彼は戦車部隊へ志願し受理された。彼はファイヒンゲンの第7戦車補充連隊に移動、装填手として新兵教育をうけた。同年11月、第21戦車連隊に配属。乗車はチェコ製の38(t)戦車であった。 独ソ戦 1941年6月21日、ドイツは対ソ戦を開始した。カリウスの東部戦線での戦いの始まりであった。カルヴァラーヤ南方で国境を越え、オリータで支援戦闘を行った。さらにニーメン川での強行渡河を支援した。7月初めまでに先鋒部隊と合流し、昼夜兼行で前進した。カリウス自身も操縦席に座り、何時間も行軍した。目標はデューナ川であった。ミンスクの北部で戦闘に参加。進撃のペースは極めて速く、歩兵部隊の追従を待たなかった。7月8日、カリウスの搭乗する戦車は45mm対戦車砲から射撃され、被弾した。前部装甲板が貫通され、通信手は左腕を失った。カリウスの顔面にも破片が当たり歯を砕かれた。7月11日から8月4日にかけ、部隊はヴィテブスク、スモレンスクおよび周辺地域で、包囲されたソ連軍の殲滅戦に参加した。 1941年8月4日から1942年2月1日まで、カリウスは士官候補生課程に参加した。結果は点数に満たず資格は得られなかった。カリウスらは古巣の連隊へ再び移動し、カリウスは一個小隊の隊長となった。 1942年3月から6月までカリウスはグシャツクの冬季陣地周辺、およびウャージマ東方でソ連軍と交戦した。ソ連軍が後退するとビエーロイ東方の攻撃に参加した。カリウスは手薄な陣地(対戦車砲1門とわずかな歩兵)を防衛する任に就いた。食事中の隙を突いて攻撃してきたソ連軍に慌てたカリウスは、操縦席に飛び込み後退を開始、小隊の戦車もこれに倣って後続した。カリウスが数百メートル走ってから思いなおして現場へ戻ると、塹壕に留まった歩兵は敵の攻撃を撃退していた。たった1門で攻撃を撃退した対戦車砲の砲長はカリウスを叱責し、この事件を苦い教訓としてカリウスは忘れることがなかった。この事件の後、カリウスは少尉に昇進し、数週間、連隊本部中隊の工兵小隊長を命じられた。この任務は地雷除去であった。カリウスは古巣の第1中隊に復帰し、ベリヤエワの突破戦を成功させた。ソ連軍は対戦車銃を大量に装備しており、装甲の薄い戦車にとって決して楽な戦闘ではなかった。 第502重戦車大隊 1943年1月、カリウスは第500補充大隊へ異動した。この補充大隊は新鋭ティーガー戦車の搭乗員を練成する部隊であった。訓練終了後、カリウスは第502重戦車大隊第2中隊へ配属された。1943年7月22日、第2中隊は東部戦線へ投入された。カリウスの率いる小隊はラドガ湖周辺の戦闘に出撃。9月末まで地域における主導権を争い、ソ連軍と戦闘を続けた。この戦いは消耗戦となり、両軍とも勝利は得られなかった。やがてラドガ湖の広い範囲で戦線は膠着し、カリウスの部隊には攻撃命令が発令された。ネーヴェリ周辺にソ連軍が侵攻、ヴェリキーエからヴィテブスク間の街道の交通を確保する必要があった。この時期、中隊長が異動となり、フォン・シラーが副官から新たに中隊長となった。ネーヴェリ周辺は湿地帯であったがソ連軍はこれを突破し侵攻した。 11月4日、街道の確保にあたったカリウスは街道を前進してくるソ連戦車隊12輌と遭遇、間の悪いことにカリウスの戦車は右の履帯を修理中であった。全員が戦車に飛び乗り、60mの至近距離から最初の車輌を砲撃してこれを撃破した。カリウスと搭乗員にとって幸いなことにソ連軍戦車隊はこの修理中のティーガーを放棄車輌と判断していたため、攻撃されるとは予測していなかった。この一撃で敵戦車隊はパニックを起こし、10輌の戦車が撃破された。11月7日、さらに街道を攻撃してきた敵戦車の5輌中3輌を撃破。敵戦車隊はソ連軍から見て右手の丘に設置された88mm高射砲ばかりを警戒していたため、カリウスの戦車と僚車に気付かなかった。残余は高射砲が破壊した。同日夕刻、周辺の村を攻撃。戦車4輌と20mm4連装対空機銃3台の支援のもとに夜襲を行った。ティーガーはソ連対戦車砲3門を撃破。ドイツ軍はこののち戦線を整理し後退した。 11月10日、カリウスはプガーチィナで反撃、浸透してくるソ連軍を叩いた。この途中、放棄された88mm高射砲を2門見付けてこれを爆破処分した。野砲によりティーガーが1輌破損した。ティーガーが移動中、前を横切った騎馬兵の馬が、エンジン音に驚いて暴れ出し、カリウスの戦車がこれを轢いてしまった。馬には止めを刺さねばならなかった。翌日からしばらく馬肉が食事に供された。ソ連歩兵が4輌の戦車と共に攻撃発起、カリウスはこれを撃退。4輌とも撃破。11月25日、歩兵の支援を行う。この戦闘でヨハンマイヤー大隊長が狙撃され重傷を負った。12月2日、ゴールシカ周辺の高地一帯を攻撃。ソ連軍は正確な迫撃砲火で迎撃した。ティーガーは橋梁が渡れず、カリウスは工兵指揮官の大尉に補強を要請するも拒否された。砲火の続く中、さらに大尉は自説を曲げず頑強に補強を拒否したため、ティーガーは工兵大尉の目前で深々と泥沼にはまり込んだ。カリウスは額を負傷、工兵大尉はカリウスに詫びた上で夜間に橋を補強した。翌早朝、ティーガーは地雷原を通過し攻撃に出るも、敵の対戦車銃と対戦車砲の砲撃に阻止された。夕刻、カリウスのティーガーはラジエーターが破損し、後退した。 12月12日から14日、ティーガー中隊はローヴェツにて陽動。街道を何度も往復し、大部隊がいるよう見せかけた。12月16日、ソ連軍が攻撃発起。カリウスらのティーガー中隊は敵戦車多数を破壊し、ソ連歩兵の進撃を阻止した。さらにクラーマー伍長が戦車砲で敵機を撃墜した。襲来ルートに沿って戦車砲を向け、カリウスの指示によりクラーマーが発砲。2発目が敵機の翼を直撃し撃墜した。こののち、カリウスのティーガーはロケット弾1発を被弾するも無傷であった。ネーヴェリでは戦線を維持することが困難になり、部隊は後退した。カリウス達は街道を後退する歩兵と砲兵を援護し、これ以後、街道を塞ごうとする敵を排除し続けた。 ナルヴァの戦い エストニアのナルヴァ河の陣地に到着したカリウスらは夕刻頃ソ連軍前哨部隊と接触し、敵部隊は損害を受けて後退した。夜間になり戦車部隊との遭遇戦が発生。ツヴェティの車輛は50mの近距離で敵戦車を撃破、しかし戦況確認のため照明弾を打ち上げたところ、中隊長フォン・シラーの搭乗するティーガーのすぐ右に敵戦車を発見。シラーの戦車は至近から砲撃を受けたが、反撃によりこれを撃破した。ツヴェティはさらに3輌を撃破した。混乱は著しく、後退中の師団司令部さえ迂回突破したソ連軍に包囲され、これをティーガーで撃退した。さらにオポーリエ付近でカリウス以下4輌のティーガーが味方部隊の後退を支援。しかし夜に入ってソ連軍が街道を前進、後退中のドイツ軍軽歩兵大隊が戦闘に巻き込まれて大損害を負った。攻撃を撃退するもさらに2輌のティーガーが破損し、カリウスはこれを牽引して後退した。このとき全車輌の機関室上には重傷者が満載されていたが、ティーガーのエンジンからの排気ガスを吸い込んだことが原因で一酸化炭素中毒を発症、3名が死亡した。4輌は渋滞を極めたヴォーロソヴォからさらに北へ大回りして西へ突破、ソ連軍の追撃を逃れ、最終的に自軍対戦車砲から味方撃ちまで受けたものの、後退に成功した。ドイツ軍は後退に成功、ナルヴァに橋頭保を築き戦線を整理した。 1944年2月16日までの間、ティーガー戦車隊はナルヴァ橋頭堡を防衛。第11SS師団ノルトラントと協同してソ連軍の攻撃を排除した。2月16日から24日までリーギィ村地区の戦闘に参加。ナルヴァ河の凍結を利用して前進するソ連軍を阻止した。ソ連軍は夜間に十数回の渡河を決行したが全て排除した。ここでの戦闘には歩兵との緊密な連携が重要であった。カリウスと歩兵は簡単な手信号で意思を疎通し、精密砲撃と歩兵の占領とを円滑に行った。2月28日、ナルヴァ河に築かれたレンビツ周辺の防衛にあたる。一帯は湿地帯で、東西に走る鉄道土手に沿って北側に3軒の家屋があり、これにドイツ歩兵は拠って戦っていた。その北側周辺に拠点として「高地69.9」(69.9 Höhe)、「擲弾兵の丘」(Grenadierhöhe)、連隊本部の置かれた「孤児院の丘」(Kinderheimhöhe)があり、さらに北側にナルヴァ軍集団の生命線とも言える重要な街道があった。カリウスの担当した戦区では鉄道土手南側は既にソ連軍の手に落ちており、対戦車砲を引き込んで強化されていたため、カリウスはこれの排除にあたった。この時期は寒気が厳しく周辺の湿地帯は硬く凍っており、陽気で土がぬかるんだ場合には水浸しとなったためドイツ側は塹壕を構築しなかった。しかし、ソ連歩兵は超人的努力によって塹壕を構築していた。 3月15日、カリウスの指揮する2輌のティーガーが故障した。3月16日、入れ替わりに派遣された3輌が次々に故障し、カリウス達は前線に戻された。わずか24時間の休暇であった。3月17日、夜明け少し前にソ連軍が攻勢発起。30分以上の戦区全体を覆う猛砲撃ののちに、戦車と歩兵戦力が前進した。この時点で最前線のドイツ軍将兵は撃破され、カリウスが到着した時には味方歩兵は戦意を失って逃走中であった。一方のソ連軍は連隊規模の兵力を突破させ、先行した1輌のT-34は「孤児院の丘」に到達しようとしており、5輌のT-34が鉄道土手を越えて街道へ向かっていた。カリウスとケルシャーの2輌のティーガーは、まず鉄道土手の上に配置された5門の対戦車砲を撃破した。カリウスの戦車は対戦車砲との射撃戦で走行装置に数発被弾したものの損傷は軽微であった。撃ち合いのさなか、カリウスは僚車のケルシャーの後方から接近する敵戦車を発見した。T-34は30mの近距離まで接近するも、ケルシャーはこれを撃破、残る5輌も撃破された。カリウスとケルシャーは適切な射撃位置を素早く占め、街道を前進する敵戦車は撃破掃討された。しかし鉄道土手に沿う3軒の家屋(前日の空爆により土台のみとなっていた)は放棄され、うち2軒をソ連軍が占拠した。午後には30分の準備砲撃の後、ソ連軍は歩兵とともに5輌のT-34と1輌のKV-1を投入、カリウスのティーガーはこれを撃破した。カリウスの上官フォン・シラー中隊長はこの時点でようやく来援に応じ、さらに砲兵へ砲撃支援を要請した。砲兵はソ連軍の攻撃準備拠点を粉砕した。ただしシラーの戦車が戦場に現れることはなかった。さらに1時間後、3輌のT-34と一個大隊の戦力が投入されたが、カリウスのティーガーはこれも撃破した。夜になり、混乱の続く最前線の状況を知らせるためにカリウスは「孤児院の丘」の連隊本部へ向かい、連隊長であるハーゼ大佐に直接状況を報告した。全戦区へのソ連軍の陽動攻撃により連隊本部は忙殺されており、カリウスの戦区では歩兵部隊が戦車と協同で拠点を保持していると思いこんでいたため、戦車2輌だけで踏みとどまっていることを把握できていなかった。カリウス達は午後10時に補給を受け、払暁にわずかな歩兵と共に家屋2軒の再占拠を試みた。家屋1軒の占拠には成功したが、もう1軒にはソ連軍により8門の対戦車砲・歩兵砲が配備されていたため難航した。T-34を2輌撃破し砲は全損させたが、歩兵の被害が大きかったため後退した。 3月18日の正午過ぎ、ソ連軍は15分の準備砲撃に続き中隊規模の歩兵で攻勢に出た。ティーガーはT-34を1輌と、T-60を1輌破壊して撃退した。3月19日昼頃、ソ連軍は攻勢をかけた。この戦いでT-34を6輌、T-60を1輌、76.2mm野砲を撃破した。さらに鉄道土手の踏切に6輌の自走砲と戦車が出現したが、ティーガーはこれらを撃破し食いとめた。さらに3時間後、連隊長であるハーゼ大佐自ら大隊を率いて反撃、長靴と呼ばれる33.9地点の陣地を奪回した。このとき2輌のT-34を撃破。3月20日払暁、ソ連軍は中隊規模の兵力でレンビツを襲撃。正午、夜間と攻撃は続いた。ティーガーは応戦した。3月21日未明、カリウス達は戦車2輌と45mm対戦車砲を撃破したが家屋を占拠された。2時間後にカリウスのティーガーが歩兵10名と共に反撃し、家屋に配備された76.2mm野砲を2門撃破し再占拠した。家屋は幾度も主を変えた。午後には2輌の戦車を破壊した。カリウスの戦車部隊にも被害が出た。損傷戦車を牽引中に迫撃弾が命中し、通信手一名が重傷を負った。3月22日、ソ連軍は33.9地点に攻撃をかけたが、反撃により戦車2輌を失った。ソ連軍は戦車38輌と17門の野砲が破壊され、歩兵部隊に多大な損害を負った。ここに至ってソ連軍は陸上からの攻撃を諦め、海上からの攻撃を試みたが、フェルトヘレンハレ師団の対戦車砲により撃退された。3月末、カリウスの戦車と隊員はジラーメへ後退した。全車にオーバーホール、および疲労困憊した搭乗員に休暇が必要だった。 整備が完了したティーガー中隊は、ヒアツィント・シュトラハヴィッツ大佐の指揮による掃討作戦に参加した。3月26日から3月29日の間に行われた第一次シュトラハヴィッツ作戦は、湿地帯を通る農道を戦車戦力で打通し、ナルヴァ河周辺のソ連軍を排除する作戦である。カリウス達は9門の野砲を撃破した。第二次シュトラハヴィッツ作戦は4月6日から4月7日に行われ、戦車隊が攻勢に出るも前進は阻止され後退した。ただしソ連軍師団司令部の攻撃に成功し、ナルヴァ河に沿って浸透してきたソ連軍戦力に打撃を与えた。4月19日、第三次シュトラハヴィッツ作戦が開始された。フォン・シラーがティーガー中隊の指揮を執ったものの、攻撃開始後に地雷を踏んで先頭車輌が立ち往生し、湿地帯のために他のルートを取れず、攻撃は頓挫した。最終的にシュトラハヴィッツ大佐は、有効な対策を打てないシラーから指揮権を取りあげ、カリウスにこれを渡した。カリウスは戦車をどかせ(下士官兵の間で前線に出ないシラーへの反目が深く、暗黙の抵抗の意があった)、第一線は越えたが大量の地雷と対戦車壕に阻まれ攻撃に失敗した。4月20日、対戦車壕を工兵が埋め、放棄された敵戦車を爆破した。しかし、続いてのネーベルヴェルファーによる射撃が味方歩兵の待機場所に着弾し、このことで決定的に戦意がくじかれ攻撃は再び頓挫した。この攻撃中、カリウスのティーガーはキューポラに被弾し綺麗に吹き飛ばされたが、たまたまその時カリウスはタバコに火をつけており、首を持っていかれずに済んだ。さらに自走砲からの砲弾を受けてカリウスのティーガーは撃破され、乗員は脱出した。4月22日、作戦はティーガーと歩兵部隊に損害を出して終了した。 4月末、部隊はプレスカウへ移動した。カリウスの部隊は、ソ連軍に奪取されたユーデンナーゼ高地への攻撃を行ったものの、指揮官同士の打ち合わせの時間を与えられないまま投入されたことから歩兵と戦車の連繋を欠いて失敗した。また高地の頂上は敵自走砲、野砲の射線下に置かれており、長時間そこを占拠することは難しかった。ティーガー中隊は次々に損傷車輛を出し、放棄して後退した。翌日の攻撃では歩兵、砲兵との打ち合わせのもと、塹壕にこもる対戦車砲を撃破し、歩兵が旧陣地を取り戻して辺り一帯の制高を回復した。こののち、カリウスらはデューナブルクへ移動した。 ラトビア戦線 7月11日、ティーガー中隊はカラシノ付近の歩兵支援で、敵戦車1輌を撃破した。7月13日、ティーガー中隊は第380擲弾兵連隊に配備され防御戦闘を行った。7月15日、高地を攻撃。カリウス以下ティーガー中隊は8時に攻撃を下令されるも、歩兵部隊との打ちあわせの結果10時に攻撃を開始。地形について段取りを決めてから攻撃を開始したことにより、連繋によって歩兵は容易に陣地を奪回した。またケルシャーが戦車砲2門を撃破、高地を制圧した。しかし後続の突撃砲部隊が適切な位置まで前進、支援を与えなかったためティーガーは後退した。 7月20日、ソ連軍はデューナブルク北東に対し戦車兵力を結集、攻撃発起した。侵入したソ連軍を押し戻して戦線を復元するためにティーガーが投入された。デューナブルクへ移動する最中で、後退する輜重部隊と出会う。街道はパニックを起こした部隊であふれていた。カリウスはキューベルワーゲンで偵察に出かけ、途上、戦車を目撃した下士官の案内でマリナーファ村に敵戦車が集結しているのを確認した。カリウスは自ら偵察した敵情を元に中隊の戦車長と作戦を打ち合わせ出撃した。カリウスとケルシャーのティーガーが村に突入して奇襲、ニーンステット少尉は6輌を率いて待機。カリウスはマリナーファ村入口に2輌の戦車を発見、これを無視して突入し、村の真ん中を走り抜けた。150m離れて突撃したケルシャーはこの2輌を粉砕した。村にいたT-34の7輌とIS-2が10輌撃破された。たやすく撃破できた理由は、ソ連軍戦車の搭乗員たちが戦車を出て、村で徴発を行っていたためであった。同時刻、ニーンステット少尉はカリウスの指示により、高地を占めてソ連軍の挙動の監視にあたった。ソ連軍を逃さず、本隊との連絡を遮断するためであった。村にいたのは敵戦車の先遣部隊であり、主力はさらに後方に位置し、マリナーファ村に向かいつつあった。カリウスは、死亡したソ連将校が持っていた地図から敵の攻撃企図を読み取り、東へ10キロほど移動して待ち伏せ攻撃を加えた。攻撃はティーガー6輌で行われ、縦列を組んで街道を前進する主力部隊は打ちのめされた。敵戦車28輌が撃破され、トラックが全て破壊された。7月22日、カリウスのティーガーは、IS-2戦車と砲撃戦により起動輪を破損。88mm砲を命中させるも弾かれた。 7月24日、カリウスはデューナブルク周辺の敵情偵察のためにオートバイのサイドカーに乗り、2輌の戦車と共に出発した。途中分岐点でティーガーと別れ、森を観察に行く。不運なことにカリウスとオートバイの運転手はソ連軍に遭遇し、カリウスは銃弾5発を受ける重傷を負った。発砲音を聞いたティーガーが救助に駆け付けたものの、ソ連将校が至近距離からカリウスに向け拳銃を3発発砲。うち1発が命中、カリウスの首の脊髄をかすった。奇跡的に動脈などの重要器官は外れた。カリウスは病院へ後送された。7月中にシラーは中隊長から訓練学校へ転属された。 第512重戦車駆逐大隊 1944年12月、傷の癒えたカリウスはパーダーボルンの補充大隊へ移動。翌1945年2月に、ヤークトティーガー装備の独立重戦車駆逐大隊として新編された第512重戦車駆逐大隊へ配属され、第2中隊の中隊長となった[2]。3月14日には第512重戦車駆逐大隊第2中隊のヤークトティーガーはジークブルクへ鉄道輸送された[2]。末期ドイツ国内は混乱状態で、鉄道は至るところで爆撃されて止まり、移動は困難であった。以後、カリウスは駆逐戦車の中で指揮は執らず、キューベルワーゲンに乗り、点々と配備された車輌から車輌へと命令伝達を行い、あるいは作戦指揮のために連隊本部から本部へと移動した。士気は低下し、ドイツの住民にも厭戦気分が漂う中での指揮であった。カリウスの部隊はルール包囲網の中に囚われた。この時期、カリウスは故障続きのキューベルワーゲンの変わりに、アメリカ軍からジープを奪取し、任務に用立てた。カリウスは士気、練度の低下した部隊のヤークトティーガーで幾度かの戦闘を指揮したが、いずれも満足な戦果は上がらなかった。ヤークトティーガーの乗員には、攻撃の拒否、不適切な機動から横腹を曝し撃破されるなどの行動が見られた。ヤークトティーガー自体が不具合の洗い出しが終了していない車輌であり、変速機の故障や重すぎることによる行動不能が多発した。これらのことも士気低下に拍車をかけた。カリウス自身、自分たちの兵器をどうしても360度旋回させたかったと著述し、鈍重で怪物的な駆逐戦車に不満を表している。ルール包囲網の環は最終段階に達した。最後の戦闘で、カリウスはルール包囲の袋小路の要衝となる村を防御した。アメリカ軍は警戒も薄く前進してきたため、ヤークトティーガーは最初の数輌を簡単に撃破した。これに対し、カリウスは村にある病院の医師たちから猛抗議を受けた。病院は負傷兵で一杯であった。アメリカ軍とドイツ軍との交渉の結果、村は明け渡され、ヤークトティーガー部隊は後退した。その二日後、包囲は最終段階に達した。アメリカ軍が村へ入ったとの情報を受けたカリウスは、残存するヤークトティーガーの主砲を爆破し、中隊を解散させた。カリウスの戦争は終了した。 カリウスは捕虜収容所からすぐに釈放された。その後、伯父が勤めるウェストファーリアの病院を頼りそこで7年間雑役夫をした後、1952年薬剤師の資格を取得して1956年「ティーガー・アポテーケ(Tiger-Apotheke、虎薬局)」を開業した。 戦車戦術 カリウスは歩兵と戦車の連携を重視し、また事前に地形の偵察を欠かさなかった。奇襲となったマリナーファの戦いでもまず事前に敵情と地形を確認している。また、要求された攻撃時間を無視してでも、歩兵部隊の指揮官と打ち合わせを行い、段取りを決めた上で攻撃を行った。指揮官の顔も氏名も分からない状況、何をするべきかを決めていない状況で歩兵と戦っても、それはただそばで別々の兵科が戦っているにすぎず、連繋をとっているとは言い難い状況であるためであった。仮に歩兵が戦意を失っても、誰に連絡を取るべきか分からなくては歩兵の攻撃を再起させることは難しかった。カリウスは連携によって、歩兵の攻撃を再起させることに成功した。 カリウスは戦車同士の緊密な連携にも気を配っており、単独攻撃はとらなかった(疲労から、誤って僚車を一両きりで夜間警備させたことに対し、もってのほかの行為だったと述べている)。この点は、ヴィレル・ボカージュの戦いで勝機を逃さぬためには単独攻撃も辞さなかったミハエル・ヴィットマンと対照的である。また索敵の重要性、周囲の状況の把握の重要性を説き、ソ連軍の戦車長がハッチを閉じたままでいることを批判している。キューポラの限られた視界、密閉された戦車内では、対戦車砲による攻撃を把握するまでにはかなりの時間がかかった。また、ソ連軍の車長と砲手を兼務する配置に対し、指揮と索敵に専念できる乗員配置の優位性を指摘している。 脚注 関連書籍 (カリウス自身による戦車戦の回顧録。題名は「泥の中の虎」の意。) (日本語訳。上巻。) (日本語訳。下巻。) (『ティーガー戦車隊』を再構成した漫画作品。エストニア現地取材記やカリウス本人との対談も収録されている。) 外部リンク (in Japanese)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 443, 1532, 2197, 3173, 4358, 5021, 6278, 7045, 7663, 7838, 8828, 9433, 11081, 12529, 13090, 13687, 15046, 15721, 16106, 16902, 17630, 18287], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 442, 1531, 2189, 3172, 4357, 5020, 6277, 7044, 7658, 7818, 8827, 9425, 11080, 12528, 13089, 13686, 15045, 15707, 16105, 16901, 17629, 18265, 19941], dtype=int32)}
ホーズショップの戦いによる戦死者は?
ホーズショップの戦い
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ホーズショップの戦い(ホーズショップのたたかい、[4]、または<b data-parsoid='{"dsr":[1293,1307,3,3]}'>エノン教会の戦い、)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である グラントは5月23日から26日に行われたノースアンナの戦いに続く膠着状態を放棄し、再度リー軍の右翼を大きく回り込んで、パムンキー川を遮蔽にして南西に動いた。リー軍は真っ直ぐ南に動き、トトポトミー・クリークの南岸に陣地を採った。南軍はウェイド・ハンプトン少将の指揮する騎兵隊を派遣して、グラントの次の動きに関する情報を集めさせた。5月28日、ハンプトン隊がデイビッド・マクマートリー・グレッグ准将の指揮する北軍騎兵隊に遭遇した。それに続いた戦闘で騎兵が馬を降り、防御のために土盛り工作物を使ったものとなり、両軍とも勝利に繋がるものを得られなかった。グレッグはアルフレッド・T・A・トーバート准将師団の2個旅団、およびジョージ・アームストロング・カスター准将の旅団の援軍を受け、渾身の攻撃を掛けたが、その時にハンプトンは撤退の命令を出していた。 7時間続いた戦闘では決着が付かなかったが、オーバーランド方面作戦の中では2番目に重要な騎兵戦となり、この戦争の中でも犠牲の多いものとなった。両軍ともに勝利を主張した。北軍フィリップ・シェリダン少将が指揮する騎兵軍団は、ハンプトン隊を戦場から駆逐し、北軍騎兵隊の優秀さを示したと豪語した。しかし、ハンプトンは北軍騎兵隊の攻撃を7時間持ち堪え、その偵察対象に当たることを阻止し、グラント軍の配置についての貴重な情報をリー将軍に伝えることができた。 背景 ノースアンナの戦い後、グラント軍とリー軍はその対面する土盛り工作物の中で膠着状態となった。グラントはこの方面作戦の中で、荒野の戦い(5月5日-7日)とスポットシルバニア・コートハウスの戦い(5月8日-21日)の後で2回やっていた様に、リー軍の右翼を回り込み、南軍の首都リッチモンドに近づいて、リー軍を会戦に引き込もうと期待していた。まず真東に動いてパムンキー川を渡った。直接南に動いていたならば、リトル川、ニューファウンド川、サウスアンナ川と3つの川を渡らねばならず、リーが操作できる小さな障害になっていたはずだった。パムンキー川の東岸では南軍から効果的に遮蔽され、さらに川沿いに新しく作られた基地であるホワイトハウス・ランディングから補給を受けることもできた[5]。 しかしグラントは、移動を始める前に、リー軍から離れるという問題に直面することになった。両軍は接近して対峙していただけでなく、グラント軍は当初ノースアンナ川を越えて北に動く必要があったので、攻撃を受ければ大変脆弱な状況になるはずだった。グラントはその意図を隠すために一連の偽装工作を行うことにした。5月26日、ジェイムズ・H・ウィルソン准将の指揮で騎兵師団をリトル川に送って南軍前線の西端を探らせ、一方でアルフレッド・T・A・トーバート准将とデイビッド・グレッグ准将の騎兵師団の兵士を、グラントが渡河を計画するパムンキー川の地点の10マイル (16 km) 上流にあるリトルペイジ橋とテイラーの浅瀬に派遣した。リーはノースアンナの戦いのときに下痢を発症して起き上がれなくなっていたために、このときもテントの中に居り、グラントの行動に幻惑され、北軍はこの方面作戦で初めて西に動こうとしていると想定することになった[6]。 北軍の歩兵隊は5月26日の日暮れ後に密かに撤退し、27日の朝までには無事にノースアンナ川の北に出ていた。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する第9軍団と、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する第2軍団が川の渡河地点を守る位置に留まり、一方ガバヌーア・ウォーレン少将の第5軍団とホレイショ・ライト少将の第6軍団は、フィリップ・シェリダン少将の騎兵隊に引導され、南東に約34マイル (54 km) のハノーバータウンに近い渡河地点に向かって行軍を始めた[7]。 リーは敵軍が離れてしまったことに気付くと、その軍を速やかに反応させて動かした。リチャード・H・アンダーソン少将とリチャード・イーウェル中将、A・P・ヒル中将指揮下の3個軍団を、リッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に沿って南下させ、その後は陸路をバージニア・セントラル鉄道のアトリー駅に向かわせた。そこはリッチモンド市の北僅か9マイル (14 km) の地点だった。そこではトトポトミー・クリークと呼ばれる水流の背後に都合よく陣取ることができ、グラント軍が鉄道あるいはリッチモンド市に向かって動いても守ることができた。パムンキー川の南岸下流にノースカロライナ騎兵隊の小さな旅団を派遣して、可能な限り北軍の前進を偵察し、嫌がらせを掛けさせもしていた。この行軍の間、リーはその病気のために荷車で運ばれていた。イーウェルも同様な症状で寝ており、救急車で運ばれていた。その状態は重篤であり、一時的にジュバル・アーリー少将に指揮権を渡していた[8]。 5月27日、北軍騎兵隊がパムンキー川の南岸、ダブニーの浅瀬に橋頭堡を構築した。ジョージ・カスター准将のミシガン騎兵旅団が、浅瀬を守っていた南軍騎馬哨戒兵を蹴散らし、工兵1個連隊が舟橋を構築した。カスターの部隊はセイラム教会の北で、南軍フィッツヒュー・リー少将の騎兵隊、ブラッドリー・T・ジョンソン大佐のメリーランド第1連隊、ジョン・A・ベイカー大佐のノースカロライナ旅団と活発な戦闘を行った。南軍は多勢な敵の圧力に屈して後退した。このときトーバート師団の残りが川を渡り、その後にグレッグの騎兵師団、歩兵の師団と続いた[9]。 リーは、グラントに対抗する最良の防御陣地がトトポトミー・クリーク南岸にある低い尾根だと分かったが、グラントの具体的作戦について確信が持てなかった。グラントがハノーバータウンで力づくでパムンキー川を渡る意図でなければ、北軍が南軍の側面を衝き、直接リッチモンド市に向かうことができるはずだった。リーは、ウェイド・ハンプトン少将の騎兵隊に威力偵察を行って北軍騎兵隊の遮蔽を破り、北軍歩兵隊を見つけるよう命令した[10]。 ホーズショップの戦いの指揮官 北軍 デイビッド・マクマートリー・グレッグ准将 南軍 ウェイド・ハンプトン少将 対戦した戦力 ウェイド・ハンプトンは戦死したJ・E・B・スチュアートの跡を継いで騎兵軍団を指揮する候補者2人のうちの1人であり、トマス・ロッサー准将の指揮するローレル旅団を連れて来ていた。もう一人の候補者とはフィッツヒュー・リー少将であり、ウィリアムズ・C・ウィッカム准将の旅団を伴っていた。ハンプトン隊の残りは、ジョン・R・シャンブリス准将の1個旅団と、ジョン・A・ベイカー大佐の旅団の一部(どちらもW・H・F・リー少将の師団から来ていた)、マシュー・C・バトラー准将の新しい旅団(新しく結成され、経験の無いサウスカロライナ第4および第5騎兵連隊、一時的にB・フーガー・ラトリッジ大佐が指揮、およびジョン・M・ミレン大佐のジョージア第20大隊)、および騎馬砲兵隊の幾らかの部分で構成されていた[11]。 ハンプトンの騎兵隊に直接対抗した北軍騎兵隊は、デイビッド・マクマートリー・グレッグ准将指揮下の第2師団であり、ヘンリー・E・デイビーズ・ジュニア准将とJ・アービン・グレッグ大佐(グレッグ准将の従弟)の2個旅団で構成されていた。この戦闘の後半で到着した援軍は、アルフレッド・T・A・トーバート准将の師団、ジョージ・カスター准将とウェズリー・メリット准将の旅団、トマス・C・デビン大佐の旅団から1個連隊だった[12]。 戦闘 5月28日午前8時、ハンプトンはアトリーの駅から出陣した。グラントの歩兵隊がパムンキー川に架かる舟橋を渡る間に、グレッグがその騎兵師団を率いてハノーバータウンから西を探ってリーを探し、一方でトーバートの師団はハノーバー・コートハウスの方向にあるクランプのクリークに沿って哨戒を始めた。ハノーバータウンの西3マイル (5 km) で、ホーの店と呼ばれる大きな鍛冶屋の先1マイル (1.6 km) に、エノン教会の所でグレッグの部隊がハンプトン隊に遭遇した。南軍の騎兵は林のある地域で下馬しており、急ぎ丸太やレールを使って胸壁を作っているところであり、砲兵から十分に援護を受けていた。デイビーズがハンプトン隊の前面にニューヨーク第10騎兵隊の哨戒部隊を配置したが、ハンプトン隊の前衛であるバージニア第2騎兵隊がその哨戒部隊を後退させた。南軍はエノン教会の背後にある森でウィッカムのバージニア騎兵4個連隊に前線を作らせ、ロッサーの部隊と騎馬砲兵をその左翼に置いた。その部隊は浅い射撃壕を掘り、丸太とフェンス用レールの胸壁で対峙した。北にはクランプ・クリークの湿地がある支流、南はミル・クリークがあったので、陣地を変えるのは不可能だった。ハンプトンは勢力に劣る北軍を眺めて、「我々は今望む所にヤンキーを捕まえたぞ」と言ったと伝えられている[13]。 ハンプトン隊が攻撃できる前に、アービン・グレッグの旅団が到着し、デイビーズ隊の右手に移動しその側面を伸ばした。北軍騎馬砲兵2個大隊がホーの家「オーク・グローブ」の真西で大砲を据えた。南軍の乗馬しての突撃の後を下馬した兵士が追い、ペンシルベニア第1騎兵隊に撃退されたが、ペンシルベニア部隊は間もなく両側面を衝かれた。ニュージャージー第1騎兵隊の下馬した兵士がその救援に駆けつけ、戦線を安定させた。ハンプトンはサウスカロライナ第4騎兵隊の新兵をその右手に送り出し、デイビーズの次の突撃に銃火の壁で応じた。これら南軍兵はエンフィールド・ライフル銃を携行しており、北軍騎兵が装備していたカービン銃よりも射程が優れていたので、256名を戦死または負傷させた。デイビーズが戦場に乗り入れたときに、そのサーベルがミニエ銃弾によって2つに折られ、馬の尾が切り取られた。北軍兵は7連発のスペンサー連発銃を装備していたので、その反撃も激しかった。あるペンシルベニア兵は、その部隊200名で18,000発を発砲したと推計した。そのカービン銃が大変熱くなったので、それを冷ますために時々発砲を休むしかなかった[14]。 デイビース隊の最初の攻撃が急停止させられたので、アービン・グレッグ旅団の攻撃が南軍を押しのけられなかった。デイビッド・グレッグが、トーバートの師団から2個旅団を抜いていたシェリダン隊から援軍を派遣した。ウェズリー・メリット准将指揮下のトーバートの予備旅団がグレッグの前線を右方向に伸ばし、ハンプトンが新しく到着したシャンブリスの旅団で側面を衝かせようとした動きを阻止した[15]。 ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の第2軍団が北に約1マイル (1.6 km) に控えていたので、援軍に呼ぶことのできる歩兵部隊は豊富にあった。シェリダンがそのような援助を要請したという文書による証拠は無いが、シェリダンは何年も後の備忘録でジョージ・ミードの指揮するポトマック軍から2個旅団を求めたと主張していた。ミードはハンコックの部隊兵があまりに「疲れていた」ので、その要請を断ったと考えられている[16]。 ジョージ・カスター准将が指揮するトーバートのもう1つの旅団が午後4時頃に到着した。カスター隊は下馬して、あたかも歩兵であるかのように長い2列の戦闘隊形を組んだ。しかし、カスターはその部隊を前進させる時に乗馬したまま、帽子を振って敵軍に十分に見せるようにし、その鼓笛隊に「ヤンキードゥードゥル」を演奏させることで兵士を鼓舞した。北軍騎兵はこの攻撃で激しい銃火と砲撃を受けて41名を失い、向こう見ずなカスターの場合はこの戦争で7頭目となる馬を失った。カスターは後にその旅団が、ホーズショップの戦いで、この方面作戦のどの戦闘よりも多くの損失を受けたと主張していた。一方、戦場の北端では、南軍が北軍の下馬した騎兵を歩兵だと見誤り、これをハンプトンに伝えていた。ハンプトンはその騎兵隊が歩兵の攻撃で孤立し圧倒されることを心配し、撤退を始めさせる命令を出した。ハンプトンは捕虜から、パムンキー川を渡っていた北軍2個軍団の位置に関する情報を得たところであり、それは自分に与えられた偵察任務が十分に果たされたことを意味していた[17]。 南軍の各旅団は北から南に後退した。シャンブリス、ロッサー、ウィッカムの旅団が離れると、ラトリッジとジョージア第20大隊が発見された。カスター隊が突撃を掛けることでその状況の有利さを生かし、ジョージア部隊を圧倒し、その指揮官であるジョン・M・ミレン大佐を殺し、多くの兵士を捕虜にした。デイビースの旅団がこの攻撃に合流したので、残っていた南軍の戦列が崩れて潰走したが、夜が来るまでにハンプトンの騎兵隊は無事トトポトミー・クリークの西に移動できた[18]。 戦闘の後 ホーズショップの戦いは7時間以上継続し、1863年に起きたブランディ・ステーションの戦い以来となる損失の多い騎兵戦となった。ほとんどが下馬した騎兵によって戦われ、その多くが土盛り工作物で守られていたので、東部戦線で以前にあった騎兵戦と比べて異常な戦闘となった[19]。 北軍の損失は、グレッグの師団で256名、カスターの旅団で41名だった。この中にはミシガン第5騎兵隊の兵卒ジョン・ハフが含まれており、イェロータバンの戦いでJ・E・B・スチュアートに致命傷を負わせた兵士だった。南軍の損失が公式に報告されることはなかったが、北軍は戦闘後に敵兵の死体187体を埋葬し、負傷兵40ないし50名を改修し、サウスカロライナ兵80名を捕獲したと主張していた[20]。グレッグは「超えることのできないような勇気とやけくそで抵抗した」南軍に敬意を表した。後にこの戦闘は「第2師団が最大級に厳しかったと常にみなしていた」ものだったと記していた[21]。 両軍がこの戦闘での勝利を主張した。シェリダンはハンプトン隊を戦場から駆逐し、再度北軍騎兵隊の南軍騎兵隊に対する優秀さを示したと豪語した。しかし歴史家のゴードン・レイは、ハンプトン隊がトトポトミー・クリークの前で孤立し脆弱になっている間に、シェリダンがその部隊を破壊する機会を逃しており、その騎兵軍団全軍を宛てておればそれを成就できたかもしれないと、批判していた。またハンプトン隊の後に回る道路の幾つかに部隊を動かすよりも、損失を出すことになる正面攻撃に労力を使っていたともしていた[22]。 ハンプトンの勝利の主張もそれなりのものがある。シェリダンがリー軍の配置を知ることを阻止し、北軍の前進を7時間遅らせていた。リー将軍は求めていた貴重な情報を手に入れていた。このときリーは、グラントが力づくでパムンキー川を越えたことを知ったが、グラントが採る次の手段についてはまだ不明のままであり、それゆえにその後の展開を待った。両軍は5月30日のトトポトミー・クリークの戦い(ベセスダ教会の戦いとも呼ばれる)で戦うことになった[23]。 脚注 参考文献 Eicher, David J. The Longest Night: A Military History of the Civil War. New York: Simon & Schuster, 2001. ISBN 0-684-84944-5. Furgurson, Ernest B. Not War but Murder: Cold Harbor 1864. New York: Alfred A. Knopf, 2000. ISBN 0-679-45517-5. Grimsley, Mark. And Keep Moving On: The Virginia Campaign, May-June 1864. Lincoln: University of Nebraska Press, 2002. ISBN 0-8032-2162-2. Jaynes, Gregory, and the Editors of Time-Life Books. The Killing Ground: Wilderness to Cold Harbor. Alexandria, VA: Time-Life Books, 1986. ISBN 0-8094-4768-1. Kennedy, Frances H., ed. The Civil War Battlefield Guide. 2nd ed. Boston: Houghton Mifflin Co., 1998. ISBN 0-395-74012-6. Longacre, Edward G. Lee's Cavalrymen: A History of the Mounted Forces of the Army of Northern Virginia. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2002. ISBN 0-8117-0898-5. Rhea, Gordon C. Cold Harbor: Grant and Lee, May 26 – June 3, 1864. Baton Rouge: Louisiana State University Press, 2002. ISBN 0-8071-2803-1. Salmon, John S. The Official Virginia Civil War Battlefield Guide. Mechanicsburg, PA: Stackpole Books, 2001. ISBN 0-8117-2868-4. Starr, Stephen Z. The Union Cavalry in the Civil War. Vol. 2, The War in the East from Gettysburg to Appomattox 1863–1865. Baton Rouge: Louisiana State University Press, 1981. ISBN 978-0-8071-3292-0. U.S. War Department. : a Compilation of the Official Records of the American Civil War of the Union and Confederate Armies. Washington, DC: U.S. Government Printing Office, 1880–1901. Welcher, Frank J. The Union Army, 1861–1865 Organization and Operations. Vol. 1, The Eastern Theater. Bloomington: Indiana University Press, 1989. ISBN 0-253-36453-1. Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 133, 208, 1070, 1689, 2425, 2870, 2945, 3009, 3142, 3715, 7029, 7086, 7375, 7447, 7739, 7790, 7878, 7993, 8112, 8162, 8385, 8681, 8893, 8969, 9157, 9454, 9642, 9747, 9859, 9959, 10229, 10341, 10623, 10687, 11190], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 125, 207, 1069, 1688, 2400, 2820, 2944, 3008, 3141, 3714, 6985, 7085, 7374, 7446, 7738, 7789, 7877, 7992, 8111, 8161, 8384, 8680, 8892, 8968, 9156, 9453, 9641, 9746, 9858, 9958, 10228, 10340, 10622, 10686, 11139, 11362], dtype=int32)}
エニグマの大きさは?
23エニグマ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
23エニグマ(23 enigma)とは、23という数が、特別かつ特殊な重要性を持つという思想である。 思想 23エニグマは、特に災害に関して大きな重要性を持つ。 23に関わる特殊な状況は、作家ウィリアム・S・バロウズによって言及されている。23年間にわたり無事故で同じ航路を辿っていると主張する、クラークという名前のフェリーの船長との会見の物語を、バロウズは伝えている。しかしながら、正にその日にそのフェリーは沈没した。その後にニューヨーク・マイアミ航路上の23便の墜落事故を耳にした時、クラークのフェリー事故について考えていた事をバロウズは書き記している。バロウズによれば、その便のパイロットの名前もまたクラークであった。バロウズはスクラップブックに数字の23にまつわる出来事の発生率の記録を集め始め、著作の中でそれらの記録について言及している。 更に、23エニグマは、ロバート・アントン・ウィルソンとロバート・シェイのイルミナティ三部作 The Illuminatus! Trilogy や、同様に『プリンキピア・ディスコルディア』 The Principia Discordia でも触れられている。これらの作品では、23とは運勢を代替する数であり、不和の女神エリスに捧げられた数字であり、明白に奇怪な数であると見做されている。『プリンキピア・ディスコルディア』はこの説明に際して、2+3=5としてロウ・オブ・ファイブズに言及している。 ある特定の数は、長い間特殊な一致性に関連付けられてきたが(13と17も同様に好まれている)、23エニグマは、正にアポフェニア(訳註:無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出す知覚作用)の一例と見做しうる。更にメディアや最新の出来事、日常生活の中で、非常に低い数である23は、頻繁に現れるという事実がある。23エニグマの信者が23の存在が「啓示」される過程の捜索を楽しんでいる一方で、懐疑論者は災害や偶然の一致において、23という数字が22や24よりも頻繁に現れない事を指摘している。 23エニグマの一覧 以下に示すのは、一般に23エニグマの実例とされている特殊な出来事や状況の一覧である。このリストにある事例の多くは、精度や立証性において曖昧である事を指摘せねばならない。他の事例は、十進法での計算や端数の無視、現代の暦を古代の暦と同期させるような牽強付会の結果である。 部分的には事実も含まれているもの 両親は、子供のDNAに、各々23本の染色体を寄与する[1]。 但し、染色体異常の結果増減することもある。 2012年12月23日はマヤ暦最後の日付であり、黙示的事件が予言されていた。2012年人類滅亡説も参照。 計算によれば、マヤの暦である長期暦は、実際に2012年12月21日あるいは23日で終わっている。これは冬至頃がそう設定されているのであって、グレゴリオ暦に直した場合の日付である。それ以外のユリウス暦や東洋の各種の旧暦などに換算すれば、当然、23日になどならない。ちなみに2012年の冬至はグレゴリオ暦12月21日であって、23日ではない。いずれにせよ、2012年12月21日から23日にかけて、特筆すべき事件は起きていない。 地球の自転周期(恒星日)は23時間56分である。太陽日との4分の違いは、地球の公転のためである。 ユリウス・カエサルは、暗殺された際に、23回突き刺された。勿論、23回以外の回数突き刺されて刺殺された著名人も存在する。 テンプル騎士団には23人の総長が存在し、最後の1人がジャック・ド・モレーである。勿論、リーダーが23以外の人数存在した組織は数多い。 ジョン・F・ケネディは1963年11月22日に暗殺され、刺客であると思われるリー・ハーヴェイ・オズワルドは1963年11月24日に殺害された。これらの中間の日付は23日である。 シカゴ・ブルズ時代のマイケル・ジョーダンは、背番号23だった。勿論、23以外の背番号を持つ有力選手は数多い[2]。 デビッド・ベッカムの、レアル・マドリードでの背番号は23番である。勿論、23以外の背番号を持つ有力選手は数多い[3]。 一般的なアラビック・アルファベット(QWERTY配列)キーボードで、23番目のアルファベット「W」は2と3の真下にある。但し、この位置関係を「真下」と表現できるのなら、1番目のアルファベット「A」は1の真下の真下に、3番目のアルファベット「C」は3の真下の真下の真下に、4番目のアルファベット「D」は4の真下の真下にあることになってしまう。 フランクリン・デラノ・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt)は、23文字のアルファベットから構成されている。勿論、23文字のアルファベットで構成されない人物は数多い。 円周率の、最初の小数点以下五桁までの数字(3.14159)の合計は23である。勿論、四桁までの合計は14であり、六桁までの合計は25であり、23ではない。 ローマ皇帝アウグストゥスは9月23日に生まれた。勿論、23日生まれでない偉人も、23日生まれの偉人もたくさん存在している。 ジョン・ロックフェラーは、5月23日に死んだ。勿論、23日に死去した偉人も、23日以外に死去した偉人もたくさん存在している。 スパイウェア・トロイの木馬の発明者であるドイツのハッカー、カール・コッホは、5月23日に死んだ。23日に死んでいないハッカーは多数存在している。 フォルクスワーゲンのロゴ「VW」は、ローマ数字の「V」(2+3=5)と、23番目のアルファベット「W」を含んでいる。フォルクスワーゲン社は、23番目のアルファベットから始まるヴォルフスブルク市(Wolfsburg)で設立された。フォルクスワーゲンは、ドイツで最も一般的な自動車である。が、日産はニッサン(23)、トヨタは14(トヨ)で、本田(本=十+八+一=19)、GM(G+M=7+13=20)、と如何様にも適当な数字と結びつけることは可能である。 東京都区部は23の特別区で構成している。だが、昔の東京市の区は15個であり、その後35個となり、最終的には現在の23になった。 嘘または確認されていないもの 人間のバイオリズムの長さは23日である。 最初にバイオリズムを仮定した2人の医師ヘルマン・スヴォボダとヴィルヘルム・フリースは、人間の「身体リズム」は23日であると定義しているが、バイオリズムは非常に思弁的かつ主観的な研究分野に過ぎない。 血液が全身を循環するのに要する時間は23秒である。 血液は懸濁液であり、血液を構成する血球が全てが同じ速度で流れているわけではない。更に付け加えれば、血液が循環する際に唯一の経路など存在しない。これらの理由により、上の立証は困難かつ無意味である。 人間の腕には、23の関節が存在する。 これは確認されておらず、確認の結果も関節の定義に依存する。 平均して、海岸に打ち寄せる波の23個にひとつは、標準的な波の2倍の大きさになる。 これは誤りである。この発想は、世界各地で2倍になる波の数を違えた形で見出される。 地球の地軸の傾きは23度24分である。 これは曖昧なものでしかない。1つには、この発想は牽強付会であり、この発想で23に近い答を見つけ出すためには、360度の角度を持つ円を使用しなければならない。 最初の月着陸において、アポロ11号は、東経23度37分48秒にある静かの海に着陸した。二回目の月着陸では、アポロ12号が西経23度25分12秒の嵐の大洋に着陸した。更に、アポロ計画のナンバーである11と12を加すと23となる。 この発想も又、360度の角度を持つ円への牽強付会である。又、負の整数や零を計算に入れなくとも、その和が23となる整数のペアは少なくとも11組存在する。 古代エジプトとシュメールの暦は、7月23日から始まる。 明らかにどちらの暦も、シリウスが1年を通じて太陽と共に昇る日から計算されている。シリウスは、この時期に太陽と同じ緯度から昇る。 ウィリアム・シェイクスピアは、4月23日に生まれて4月23日に死んだ。そして、彼の最初のポートフォリオは1623年に発表された。シェイクスピアの最初の戯曲『タイタス・アンドロニカス』は、1594年1月23日に上演された。 後の3点の事例は事実であるが、シェイクスピアの実際の生年月日は未確認のままである(詳細についてはシェイクスピアの記事を参照)。 預言者ムハンマドは、23年間に渡って神の啓示を授かり、それを伝え述べた。 この数字はハディースの中に見られるが、これ以外の数字も多く伝えられている。 ビートルズのファーストアルバムA面の最初の曲は、23テイク収録された。 これはおそらく、『プリーズ・プリーズ・ミー』の「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」であると思われるが、実際にもっとも繰り返し収録された曲は、「ラヴ・ミー・ドゥ」の15回である。 アメリカ同時多発テロ事件の日付、2001年9月11日の中にある数字の合計は23である。 これは不正確であり、牽強付会である。23を作るに際して、「11」は普通の数として加算されているにも関わらず、「2001」は「2」と「1」として加算されている。2001が23の倍数(2001 = 23×87)であるに過ぎない。 獣の数字666は、2÷3の概数0.666として導かれる。 牽強付会である。「端数処理」を参照。確かに2÷3を切り捨てれば概数は0.666となるが、切り上げや四捨五入など他の端数処理を施した場合、概数は0.667となる。従って、この23エニグマは「2÷3を小数点第4位以下切捨てると0.666になる」というごく当たり前のことを、「概数」という単語を用いて巧みに飾り付けただけのものに過ぎない。 脚注 23エニグマをテーマにした作品 『ナンバー23』 The Number 23 (2007年 監督:ジョエル・シュマッカー) 「23」が持つ謎に取りつかれていく男の運命を描く映画。  関連項目 シンクロニシティ エニグマ
https://ja.wikipedia.org/wiki/23%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E
{'plaintext_start_byte': array([ 10, 76, 219, 497, 983, 1405, 1820, 2781, 3609, 4216, 4625, 5285, 5746, 6721, 7031, 8265, 8782, 9358, 10115, 10562, 12138, 12810, 13068, 14590, 15583, 15638, 15699, 15747, 15795, 15905, 16796, 16905, 18977, 19506, 19886, 22185, 22368, 22699], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 74, 205, 496, 982, 1404, 1819, 2780, 3608, 4215, 4624, 5259, 5745, 6720, 7017, 8264, 8781, 9344, 10114, 10561, 12124, 12777, 13067, 14579, 15566, 15636, 15677, 15745, 15793, 15841, 16738, 16897, 18971, 19505, 19872, 22168, 22357, 22662, 22809], dtype=int32)}
アニメ『聖闘士星矢』はいつ放送された
聖闘士星矢 (アニメ)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([336], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([415], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
Main Page Template:Infobox animanga/TVAnime Template:Infobox animanga/Cast 『聖闘士星矢』(セイントセイヤ)は、車田正美の同名漫画を原作としたテレビアニメである。 作品解説 東映動画(現・東映アニメーション)制作で、テレビ朝日系列にて毎週土曜日に放映。1986年(昭和61年)10月11日から1989年(平成元年)4月1日までの長期にわたるシリーズになり、日本国外でも放映された。 ナレーションは田中秀幸が担当[注 1]。冒頭で前回までのあらすじなどが説明されたあと、星矢役の古谷徹によるサブタイトルのタイトルコールが入る。古谷は次回予告ナレーションも担当し、最後に「君は小宇宙(コスモ)を感じたことがあるか」というキャッチで締めくくられる(最終話の1話前となる第113話での次回予告は「君は今、伝説の中にいる」)。 雑誌連載直後に東映動画、バンダイ、集英社の本作の担当者の間でアニメ化の企画が動き出していたため、連載開始から1年と経たずしてテレビアニメ化が実現した。さらに単行本第1巻発売を待たずして、雑誌上でアニメ化の決定が発表された。このアニメ化の早さは当時のWJ作品では異例のことといわれる[1][2]。 バンダイがスポンサーの東映動画が手がけたテレビアニメは多くのファンを獲得。原作漫画とともに星矢人気の原動力となった。バンダイがスポンサーをした理由は、当時のバンダイの開発担当の村上克司によると、当時の開発本部長・杉浦幸昌が息子から原作漫画の面白さを薦められたことがきっかけ[3]。 キャラクターデザインと作画監督を務めた荒木伸吾、音楽担当の横山菁児は、原作者車田の全面的な信頼を得て、後の再アニメ化でも起用された。キャラクターデザインに関して車田は「自分よりも画がうまい」と絶賛し、アニメが原作のエピソードの新たなアイデアの源になっただけでなく、自身の原作で聖衣の装着描写、必殺技の表現等をアニメ版の物を取り入れたりもしており、原作とアニメがいい相互作用を生み出していたと発言していた。声優のキャスティングにも満足していたという。またアニメのオリジナルエピソードが描かれるにあたり、車田は原作をアニメのオリジナルエピソードに合わせることを敢えて行なっていなかったため、氷河の師匠がアニメと原作で異なるといった違いもある[4]。 テレビアニメ『聖闘士星矢』は、商業的にも成功。特に原作漫画でも人気の高い黄金聖闘士が多数登場する十二宮編において、その人気は不動のものとなった[2]。1987年度の東映動画の版権収入でトップに立つが、1988年の年末商戦で大きく売上が落ち込み[5]、1989年の4月初めに放映を終了。旗野義文によれば、「原作の展開に追いついたことが最大の理由です。それと、シリーズが長期にわたったことで、スタッフも疲れていることも考え合わせ、ひとまず休ませてもらうことにしました」と答えている[6]。約3年近くの放映で、平均視聴率は11%を記録し、放映開始当時の小学生男子から多くのファンを獲得した[2]。 村上克司によると聖衣のデザインが原作では「毎回変わる」のが問題となり、アニメ用にデザインし直す必要が出た。東映動画とバンダイが打ち合わせをして、集英社と車田の意見を取り入れてアニメ用の聖衣のデザインが決定した[7]。またキャラクターデザインの姫野美智によれば、企画当初はほぼ原作準拠で聖衣をデザインしていたところが、バンダイから「もっと見栄えの良い形に」との要望を受け、アニメ用の聖衣をデザインしたという[8]。 こうして主人公である星矢たちの青銅聖衣のデザインは、十二宮編まではアニメ版オリジナルのアレンジが施され、頭パーツがヘルメットタイプだったり、腰がアーマーで覆われていたり、脚部が腿から爪先までを覆うほどだったりと重装備だったが[9]、アスガルド編から原作準拠のデザインになった。 森下孝三は本作の直前にアメリカのアニメ映画『トランスフォーマー ザ・ムービー』を制作しており、日本とは比較にならないほどの製作費をかけていた[10]。その余波が本作に出た結果、高いクオリティになった[3]。また、『スター・ウォーズ・シリーズ』の合成技術を研究し[10]、当時としては最新技術とされていたフィルム合成などの映像技術が多用されたことも、品質の向上に繋がったが[2]、予算を使いすぎた森下は終盤になって企画へ異動することになった[11]。 国内と海外の反響 本作のヒットをきっかけに、“バトルスーツもの”“装着もの”などと呼ばれる、特殊能力を伴うバトルスーツを装着した若者たちが戦うテレビアニメ、OVAが相次いで制作された。1980年代後半、本作成功の影響下で制作された“バトルスーツもの”作品の代表的なものとしては『鎧伝サムライトルーパー』『天空戦記シュラト』などがある。 本作品は“美少年アニメ”と称されることもある。美形キャラクターが多数登場するため、メインターゲットを小学生の男子児童層に置いた作品ながらも、実際に放映してみると10代から20代の女性の中にもファンとなる者がいた。これら女性ファンの支持も成功の原動力の一つとなる。主に美形キャラクターなど担当しない声優が、この作品の美形キャラクターで出演した結果、普段は来ない層からのファンレター等が来たというケースもあった。本作はその嚆矢となった作品であり、特に一部の女性ファンにより"やおい同人誌"なども制作され、これらは1990年代の同人アンソロジーコミックやボーイズラブジャンルが隆盛する礎となった。当時の同人活動に参加していたことを明かしている著名人に高河ゆんがいる[12]。 ヨーロッパを中心とした日本国外でも人気があり[13]、世界的なヒット作品となった。現在でも輸出アニメの主力作品のひとつである。主題歌も国際的に人気が高く、国外においても日本語のまま歌われることがある[14]。 商品展開 当アニメのスポンサーであるバンダイからは、アニメに登場する聖闘士と彼らが装着する聖衣(クロス)を再現したフィギュアシリーズ「聖闘士聖衣大系」が主力商品として展開され、その他にもプラモデルやファミリーコンピュータ用ゲームソフトなどが発売された。「聖衣大系」が好セールスを記録し、アニメも好評だったことからバンダイは素体となるフィギュアにプロテクターを装着させる同様コンセプトの商品に「クロス」という呼称を用いて様々な商品展開を行った。『ガンダムシリーズ』のキャラクターに彼らの乗機として登場したモビルスーツの装甲を装着させる「ガンダムクロス」や、同時期に放映されていたアニメ『ビックリマン』では「ビックリクロス」が発売されている。このほか、『ウルトラシリーズ』や『仮面ライダーシリーズ』、『機動警察パトレイバー』のキャラクターを用いた「ディフォルメクロスシリーズ」、『世界忍者戦ジライヤ』では「マグネクロス」を発売している。 同じくバンダイがスポンサーとなり、登場するメカなどの商品を発売している「スーパー戦隊シリーズ」の『超獣戦隊ライブマン』では、合体可能なロボット玩具を開発する過程で本作の聖衣装着のシークエンスを参考としており、素体となる1号ロボに2号ロボがパーツ単位で合体するスーパーライブロボが登場した。このスーパー合体は以降の同シリーズでは定番となっている[15]。 テレビアニメ放映終了後も2003年11月から「聖衣大系」のコンセプトを受け継ぐ「聖闘士聖衣神話」で商品展開が行われている。また、バンダイは『聖闘士星矢』関連のフィギュアシリーズとは別に「アーマープラス」を立ち上げ、放映当時はスポンサーでなかったために関連商品を発売しなかった『サムライトルーパー』の商品展開も行うなど、この「聖衣神話」で培ったノウハウは他の商品にも活かされている[16]。 あらすじ 原作の展開になぞりつつ、原作にはなかったギャグテイスト、鋼鉄聖闘士、神闘士などオリジナル要素を盛り込み、海皇ポセイドン編までがアニメ化された。暗黒聖闘士編直後にはアニメ独自のキャラクターが登場するオリジナルのエピソードが挿入され[17]、十二宮編と海皇ポセイドン編の間には、海皇ポセイドン編が一部関わるテレビアニメ版オリジナルの北欧アスガルド編が入る[注 2]。この時期のオリジナルエピソードにギリシア神話を用いていないのは、原作者の作り出す世界観を邪魔しないようにするためのアニメスタッフ側の配慮の結果である[18]。 原作での暗黒聖闘士編と白銀聖闘士編の間に挿入された完全オリジナルのエピソード。聖域を掌握したアーレス教皇が黄金聖衣奪回のため、星矢たちのもとへ次々に刺客を差し向ける。敵側のキャラクターとして非正規の聖闘士や幽霊聖闘士、星矢たちの味方として鋼鉄聖闘士など、アニメオリジナルの聖闘士が多数登場した[17]。 北欧神話とオペラ『ニーベルングの指輪』をモチーフにした物語。魔の指輪ニーベルンゲン・リングの魔力によって邪悪の化身となってしまったオーディーンの地上代行者ヒルダと彼女を守護する神闘士(ゴッドウォーリアー)たちと、アテナと地上世界を救おうとする青銅聖闘士の戦いを描く。アスガルドの厳しい身分制度や悲惨な食料事情、また神闘士たちの悲壮感に満ちた生い立ちなどが、ストーリーの根幹にある。ヒルダが邪悪に操られたために、彼女の力によって保たれていた北極の氷が解け始めてしまう。アテナの力をもってしても世界水没を食い止められるのはわずか半日に過ぎない。その間にヒルダの指にはめられたニーベルンゲン・リングを外さなくてはならないが、指輪の魔力は伝説の名剣・バルムングの剣でのみ断ち切ることができ、しかもバルムングの剣を手に入れるには、神闘士達をすべて打ち倒し、その守護石である7つのオーディーンサファイヤを集めなければならないため、屈強の神闘士たちと星矢たちとの死闘が繰り広げられる。最後は伝説のバルムングの剣の力によって指輪は破壊され、ヒルダは邪悪から解き放たれて平和が訪れる。直後、アテナは海皇ポセイドンに津波でさらわれることで海皇ポセイドン編へ続く。 スタッフ 原作 - 車田正美 (集英社「週刊少年ジャンプ」連載[注 3]) プロデューサー - 籏野義文、横山和夫 → 森下孝三 シリーズ構成 - 小山高生、菅良幸 キャラクターデザイン - 荒木伸吾、姫野美智 音楽 - 横山菁児 美術デザイン - 窪田忠雄(1 - 99話) → 鹿野良行(100話以降) 美術 - 窪田忠雄、鹿野良行、大河内稔 音響効果 - 今野康之(スワラ) 選曲 - 佐藤恭野 シリーズディレクター - 森下孝三 → 菊池一仁 テレビ朝日プロデューサー - 加藤守啓、川田方寿 制作 - テレビ朝日、東映 主題歌・挿入歌 主題歌 三洋物産のパチンコ『CR聖闘士星矢』でテレビアニメのオープニング楽曲を使用したアニメーションの演出は、テレビアニメのアニメーションをベースに新規作画したものが使用されている。 オープニングテーマ(OP) 「ペガサス幻想」(第1話 - 第73話) 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 松澤浩明、山田信夫 / 編曲・歌 - MAKE-UP 「聖闘士神話 〜ソルジャー・ドリーム〜」(第74話 - 最終話) 作詞 - 只野菜摘 / 作曲 - 松澤浩明 / 編曲 - BROADWAY / 歌 - 影山ヒロノブ&BROADWAY アスガルド編開始となる第74話より使用されたOP。 ポセイドン編開始となる第100話からはストーリー進行に合わせ、敵側の登場キャラクターがヒルダと神闘士からポセイドン(ジュリアン・ソロ)と海闘士に置き換えられた。 『CR聖闘士星矢』でこのOPアニメをベースにした新作映像では、アニメの黄金聖闘士編をモチーフとしていることから敵側の登場キャラクターはアーレスと黄金聖闘士になっている。また、聖衣のデザインもアスガルド編でリニューアルされる前のものとなっている。 後年『聖闘士星矢 黄金魂 -soul of gold-』では本曲はROOT FIVEのカバー版でOP(第1話のみED)として使用されている。 エンディングテーマ(ED) 「永遠ブルー」(第1話 - 第73話) 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 松澤浩明、山田信夫、河野陽吾 / 編曲・歌 - MAKE-UP 「夢旅人」(第74話 - 最終話) 作詞 - 許瑛子 / 作曲 - 影山ヒロノブ、須藤賢一 / 編曲 - BROADWAY / 歌 - 影山ヒロノブ&BROADWAY 挿入歌 「さよならのかわりに-CAN'T SAY GOOD-BYE-」(第13話) 作詞 - 竜真知子 / 作曲 - 池田育義 / 編曲・歌 - MAKE-UP 「ビューティフル・チャイルド-BEAUTIFUL CHILD-」(第16話) 作詞 - 園部和範 / 作曲・編曲 - 藤田大土 / 歌 - 堀江美都子 「ファイナル・ソルジャー-FINAL SOLDIER-」(第20話) 作詞 - 竜真知子 / 作曲・編曲 - 藤田大土 / 歌 - 堀江美都子 / コーラス - MAKE-UP 「女神(アテナ)の子守歌〜Lullaby〜」(第30話) 作詞 - 園部和範 / 作曲 - つのごうじ / 編曲・演奏 - MAKEUP PROJECT / 歌 - 堀江美都子 「ネビュラチェーン、兄弟の絆〜Nebula Chain〜」(第46話) 作詞 - 小山高男、園部和範 / 作曲 - 松澤浩明 / 編曲・歌 - MAKEUP PROJECT 「氷原の貴公子〜Diamond Dust〜」(第108話) 作詞 - 小山高男、園部和範 / 作曲 - 松澤浩明 / 編曲・歌 - MAKEUP PROJECT 各話リスト サブタイトルの基本は「○○! □□」。 銀河戦争編(青銅聖闘士編) 暗黒聖闘士編 オリジナル(黄金聖衣争奪編[19]) 教皇の刺客編(白銀聖闘士編[20]) 聖域十二宮編[21](黄金聖闘士編) 北欧アスガルド編 海皇ポセイドン編 放送局 ANB テレビ朝日(現・EX) ABC 朝日放送 NBN 名古屋放送→名古屋テレビ(現・メ〜テレ) HTB 北海道テレビ[放送について 1] RAB 青森放送 IBC 岩手放送(現・IBC岩手放送) KHB 東日本放送 ABS 秋田放送 YBC 山形放送 KFB 福島放送 NT21(現・UX) 新潟テレビ21 UTY テレビ山梨 TSB テレビ信州 ITC 石川テレビ FBC 福井放送 SKT 静岡けんみんテレビ(現・SATV 静岡朝日テレビ) BSS 山陰放送 HOME 広島ホームテレビ[放送について 2] KRY 山口放送[放送について 3] KSB 瀬戸内海放送 JRT 四国放送[放送について 4] RNB 南海放送 RKC 高知放送[放送について 5] KBC 九州朝日放送 NBC 長崎放送 TKU テレビ熊本 OBS 大分放送 MRT 宮崎放送 KKB 鹿児島放送 RBC 琉球放送 放送について 放送局 (地上波放送終了後) 東映チャンネル キッズステーション アニマックス テレ朝チャンネル AbemaTV 映画 聖闘士星矢 邪神エリス(1987年7月18日公開、東映まんがまつり) 邪神エリスによって死の世界から蘇った亡霊聖闘士たちとアテナの聖闘士たちの戦い。劇場公開時には『聖闘士星矢』とだけ題されていたが、後のDVD化時に「邪神エリス」とサブタイトルが付けられた。 聖闘士星矢 神々の熱き戦い(1988年3月12日公開、東映まんがまつり) アスガルドでオーディーン地上代行者のドルバル教主および配下の神闘士たちとアテナの聖闘士たちとの戦い。テレビシリーズのアスガルド編の原案となった。 聖闘士星矢 真紅の少年伝説(1988年7月23日公開) アテナの兄・太陽神アベル、3人のコロナの聖闘士そして死んだはずの黄金聖闘士が復活。地上を支配することを目論み、アテナの聖闘士たちと戦う。 聖闘士星矢 最終聖戦の戦士たち(1989年3月18日公開、東映まんがまつり) 堕天使ルシファーと4人の聖魔天使、ルシファーによって復活したアベルら三神が現れ、アテナの聖闘士たちと戦う。 聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜(2004年2月14日公開) 全能の神アポロン率いる天界軍とアテナの聖闘士たちの戦い。冥王ハーデス編の正式な続編として公開された。 本作の設定の一部が『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』に流用されている。 聖闘士星矢 Legend of Sanctuary(2014年6月21日公開) 2011年の聖闘士星矢誕生25周年記念作として制作が発表[22]。2013年10月に正式な題名が発表された。 監督はさとうけいいち、脚本は鈴木智尋。フル3DCGアニメーションで声優陣もテレビアニメやOVAとは異なる。2013年のサイト公開時より「車田正美 熱血画道40周年」記念作品と位置付けられ、原作者である車田も「製作総指揮」としてクレジットされている。 OVA テレビアニメでは、原作の最終エピソードである「冥王ハーデス編」が残され終了したことから、アニメ化待望論が根強く、東映動画側にも以前から企画があり、2003年よりオリジナルビデオアニメーション (OVA) として実現した。第2作「冥界編」制作の際に、オリジナルキャストによる声優陣の声質の変化などを理由とし、主役陣を含んだ多くのキャラクターが一度に若手声優へ変更された。 聖闘士星矢 冥王ハーデス十二宮編(2003年1月25日 - 2003年7月25日) 聖闘士星矢 冥王ハーデス冥界編 前章(2005年12月17日 - 2006年2月18日) 聖闘士星矢 冥王ハーデス冥界編 後章(2006年12月15日 - 2007年2月6日) 聖闘士星矢 冥王ハーデスエリシオン編(2008年3月28日 - 2008年8月22日) 音楽作品 音楽集 聖闘士星矢 音楽集 (1987年1月21日発売) 32CC-1368 聖闘士星矢 音楽集II (1987年8月1日発売) 32CC-1689 聖闘士星矢 音楽集III (1987年12月21日発売) 33CC-2074 聖闘士星矢 音楽集IV.神々の熱き戦い (1988年4月1日発売) 32CC-2224 聖闘士星矢 音楽集V.真紅の少年伝説 (1988年8月21日発売) 32CC-2572 聖闘士星矢 音楽集VI.黄金の指輪篇 (1988年10月1日発売) 32CC-2656 聖闘士星矢 音楽集VII.ポセイドン篇 (1988年12月21日発売) 32CC-2999 聖闘士星矢 ピアノファンタジア (1989年2月21日発売) 32CC-3217 聖闘士星矢 音楽集VIII.最終聖戦の戦士たち (1989年4月8日発売) CC-3295 聖闘士星矢 冥王ハーデス篇 (1990年12月21日発売) COCC-7089 ボーカルアルバム 聖闘士星矢 銀河戦争・夢の対決編 (1987年11月1日発売) 30CC-1880 聖闘士星矢 1996 SONG COLLECTION (1996年3月20日発売) COCC-13258 聖闘士星矢 1997-少年記- (1997年1月21日発売) COCC-13980 聖闘士星矢 主題歌&BEST (2006年6月21日発売) COCX-33746 聖闘士星矢 〜ヒット曲集〜 (1986年12月21日発売) 30CC-1349 聖闘士星矢 ヒット曲集II.いかなる星の下に (1987年7月1日発売) 30CC-1682 聖闘士星矢 ヒット曲集III.BOYS BE/君にあげるために (1988年8月1日発売) 30CC-2534 その他 聖闘士星矢 メモリアルBOX (1991年3月21日発売) COCC-7321/5 聖闘士星矢 THE GOLD COLLECTION BEST SONGS and SYMPHONIC SUITES (1997年12月20日発売) COCC-14747/51 聖闘士星矢 コンプリート・ソング・コレクション (2002年11月21日発売) COCX-32020/2 聖闘士星矢 ETERNAL EDITION (2003年3月29日発売)COCX-32056/7 (2003年5月1日発売)COCX-32077/8 (2003年6月25日発売)COCX-32166/7 (2003年8月27日発売) COCX-32358/9 (2003年10月29日発売)COCX-32431/8 聖闘士星矢 天界編 序奏〜overture〜 オリジナルサウンドトラック (2004年3月17日発売) COCX-32648 聖闘士星矢 冥王ハーデス編 スペシャルアルバム (2008年3月26日発売) COCX-34811 聖闘士星矢 ETERNAL CD-BOX (2008年7月30日発売) COCX-35079/91 ネット配信 2018年9月16日より、集英社がYouTubeに開設した「週刊少年ジャンプ50周年公式チャンネル」から本作が期間限定で配信されている。 その他 アメリカで2012年2月に、商標権侵害の疑いで東映アニメーションのアメリカの子会社を相手に、個人が賠償金額10億ドル(約820億円)の提訴をしたが[23]、請求原因についての十分な記載がないとして却下されている[24]。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help)CS1 maint: others (link) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%97%98%E5%A3%AB%E6%98%9F%E7%9F%A2%20%28%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%A1%29
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 276, 1173, 1937, 2168, 2233, 2348, 2436, 2761, 3617, 4523, 6055, 7203, 7335, 7514, 7702, 8153, 8853, 9269, 9742, 10157, 11577, 11758, 11959, 12644, 13420, 13598, 14104, 14146], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 275, 1162, 1936, 2160, 2231, 2339, 2435, 2760, 3609, 4502, 6054, 7202, 7334, 7513, 7685, 8145, 8836, 9249, 9731, 10149, 11576, 11744, 11942, 12643, 13419, 13572, 14073, 14129, 14682], dtype=int32)}
新潟地震の犠牲者は何名ですか?
新潟地震
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
新潟地震(にいがたじしん)は、1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒(JST)、新潟県の粟島南方沖40km(北緯38度22.2分、東経139度12.7分、深さ34km)を震源として発生した地震である。地震の規模はM7.5(Mw7.6)。 日本の歴史上、最大級の石油コンビナート災害をもたらした地震で、化学消防体制が脆弱な時代背景もあり[注 1]、143基の石油タンクが延焼し、その火災は12日間続いた[1]。以後、石油コンビナート防災の指標の一つとなっている[2]。そして、この地震を機に住宅地や工業地帯の液状化現象への本格的な研究が始まった[3]。また、日本で地震保険ができる直接的な要因となった震災としても知られ、この2年後、1966年(昭和41年)に地震保険制度が誕生した[注 2]。なお、1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始から4年後に発生したこの地震は、日本において数多くのカラー映像で被害状況を残すことができた初めての大規模地震である(「#報道」参照)。 地震像 サハリンから新潟沖へとつながる日本海東縁変動帯で発生した地震の一つ。余震は震央の北北東-南南西方向の約80 kmの範囲に分布しているが、震源断層の傾斜方向は明らかになっていない。当時周辺の陸上の地震計(地震観測点)設置箇所は少なく海底地震計は設置されていなかったことから、余震の震源決定の精度は悪い[4]。震源近くの粟島はこの地震によって約 1m隆起した[5]。粟島の海岸にはいくつかの段丘が形成されており過去の活動歴を残していて、活動間隔は段丘の高さから約2000年間隔とする説と海底の活断層の解析から約3000年間隔とする説がある[4]。 先行する静穏化現象があり、震央を中心として半径約50kmの範囲では16年間に渡って地震活動が低調で、地震の約2年半前からやや活発な活動の後に本震が発生した[6]。 震度 ※震度の基準、及び観測した市町村名は当時。 当時は地震計は気象台のみであり、震源付近の自治体では震度6相当であった。 被害 死者:26名 家屋全壊:1,960棟 家屋半壊:6,640棟 家屋浸水:15,298棟 被害は新潟県・山形県・秋田県など日本海側を中心として9県に及んだ。激しい被害で、海外のメディアも「日本の北西部で大地震が起きる」と伝えるほどの地震ではあったが、死者が僅か26名だったことから「奇跡」と評されたこともある。 山形県の庄内地方は新潟県に次いで被害が大きく、庄内地方を襲った地震としては、1894年(明治27年)の庄内地震に次ぐ激震であった。鶴岡市の大山・水沢・西郷地区では家屋の倒壊が相次いだ。児童生徒が犠牲になる事態も多く、同市にある京田幼児園(現・ほなみ保育園)では園舎が倒壊し園児3名が圧死、園児14名と保育士1名が生き埋めとなった[7]。この事故は園舎の老朽化も原因とされた。この事態を6月18日付の地元紙荘内日報では「まさに生きながらの地獄絵図であった」と報じている。酒田市の市立第三中学校では、グランドに生じた亀裂に2年生の女子生徒が転落しすぐに病院へ搬送されたが死亡する事故も起きた。 津波 地震発生から約15分後には津波の第一波が来襲、新潟市では高さ4mに達し、その他にも佐渡島や粟島・島根県の隠岐諸島でも冠水被害が出るなどした。押し波から始まって、佐渡島両津港では3m、塩谷間で4m、直江津で1〜2m、岩船港付近4m。砂浜への駆け上がり現象で 6mを観測した地点も報告されている。第一波の波高が最も高かった地点もあるが、第三波が最も高かったとの目撃情報もある。また地震から数時間経過した後に最大波高を観測している。震幅の周期は20分程度のものと、50分程度の物が重複していた[8]。津波による浸水被害は、信濃川右岸の山ノ下地区など信濃川流域を中心に広範囲に亘り、特に栗ノ木川周辺など一部の冠水は1ヶ月にも及ぶ。 火災と液状化 1955年に発生した新潟大火から復興を遂げてきたばかりだった新潟市内は大きな被害を受けた。信濃川左岸では、液状化現象により河畔の県営川岸町アパート8棟のうち3棟が大きく傾き、特に4号棟はほぼ横倒しになった。震源に近い信濃川右岸では、新潟空港の滑走路が津波と液状化により冠水し、新潟港内では火災が発生した。特に空港と港の間にある昭和石油新潟製油所(現昭和シェル石油新潟石油製品輸入基地)のガソリン入りタンクNo.33の配管が地震動で損傷し、漏出したガソリンが液状化により湧出した地下水と津波による海水の上を広がり、地震から約5時間後に爆発炎上した。火は水上の油に燃え移って広がり周囲のタンクも誘爆炎上させ拡大した火災は12日間に渡って炎上し続けた。火災は周辺民家にも延焼して全焼した建物は347棟、半焼6棟、被災347世帯、罹災者1407人[9]。この火災は国内で起きたコンビナート火災としては史上最大・最悪のものであると言われている。この石油タンクの火災は当時、液状化現象が原因と言われていたが、後に(他の大地震などの研究によって)長周期地震動によるものであることが解明された。また、液状化によって側方流動現象[10]によって、万代橋付近の川幅は23mほど狭まった[11]。 当時、新潟市には、水では消火できない石油コンビナートや航空事故などの油脂火災に対応出来る化学消防車が未配備で原油タンクの消火活動が出来なかったため、自治省消防庁経由で東京消防庁に応援要請があり、蒲田消防署を主力とする応援隊が派遣され消火に当たった。一時はガソリン用添加物のタンクや水素タンクにも類焼危険が発生したが、東京から駆けつけた化学消防車5台と隊員の20時間に及ぶ消火活動で類焼を免れた。もしこのタンクに類焼していた場合、新潟市全域に爆発被害が及ぶ危険があった。消火作業のため県内の民間企業にある自衛消防隊が所有する化学消防車に出動要請をかける事にしたが連絡手段が壊滅していたため、新潟放送ラジオ[注 3]で「○○会社の関係者の方に対策本部からの出動要請です、化学消防車を新潟市に派遣してください」との放送を行い、その放送を聞いた関係者によって駆け付ける一幕もあった。 液状化は破壊だけでなく、想定していなかった幾つかの被害を軽減する作用も生じていた[12][13]。 噴出した水により延焼が食い止められた。 液状化した地層が免震装置のアイソレーターとして機能し、上の構造物の揺れを弱めた。 なお、新潟地震当時はまだ「液状化現象」の言葉は使われておらず、行政やマスコミは「流砂現象」という言葉を使っていた。 橋梁や建物 交通・ライフラインも長期に渡って麻痺するなど、被害を受けた箇所は広範囲に及んだ。地震発生が平日昼過ぎということもあり、学校施設にも多大な影響を及ぼした。なお、新潟駅および新潟市役所は液状化の可能性を予見し、当時の耐震基準を上回る耐震性を持って設計と建築されたため大きな被害は生じなかった[12][注 4]。 橋梁 信濃川に架かる橋梁は、コンクリート橋の萬代橋(当時の一般的表記は「万代橋」)が、取付部の破損・沈下のみで、車両の通行が唯一可能であったものの、八千代橋は橋脚が倒れるなど深刻な被害を受けた。開通直後だったにも拘らず橋桁が倒れ、単スパンごとに傾いた昭和大橋の写真は被害の象徴として有名。竣工したばかりの昭和大橋(一端ピン支承、他端ローラー支承の単純梁)と昭和4年に架けられた万代橋(鉄筋コンクリート製、多スパンのアーチ橋)の被害の差は構造の差に起因している[12]。 石油タンク 昭和石油新潟製油所の石油タンクは12日間に渡って延焼し「地盤の液状化現象」と「石油タンク火災」が注目されたが、1948年福井地震の経験を生かし地盤をバイブロフローテーション工法(緩い砂質地盤の締固めの地盤改良工法)によって締め固めていたタンクは殆ど被害を生じていなかった。 行事への影響 この年は新潟国体が4日前まで開催されていたが、夏季大会(水泳競技会中心)はこの地震の影響で復旧作業を優先することになったことから、開催取りやめとなった。よって国体の天皇杯・皇后杯争いは春季大会(通常の秋季大会の開催時期が1964年東京オリンピックの開催と重複するため、6月に繰り上げて開催した)までの成績で決定した。 その他 また、東京から新潟へ護送中の囚人が地震で行方不明、新潟県見附警察署で確保したものの新潟からの警察無線を東京で受けられなかったが、山根一眞がこれを傍受し出発地の中野刑務所へ連絡し通信確保に協力した事もあった(週刊文春『スーパー書斎の遊戯術』第31回より。当時の周波数は短波)。 報道 新潟地震の発生時期は、1960年(昭和35年)のテレビのカラー放送開始[注 5]から4年後であり、ちょうど、カラーテレビが普及しはじめた時期でもあった。豊富な記録映像が残った初めての地震としても知られる。これらの被害を収めた衝撃的な映像は、全国ニュースなどで日本各地に伝えられた。ただし、地震発生時は新潟県内の局はマイクロウェーブ回線がどの方面(3方向4回線)も切れてしまっており、NHKでは夕刻に自力で放送を再開した新潟放送局の映像を富山放送局が辛うじてとらえ、ようやく全国に映像が流れるという混乱ぶりであった。新潟放送では14時15分からテレビ放送再開、被災した局舎屋上からの実況放送中に局舎の真横を流れる信濃川を遡上する津波を放送し2インチVTRにも録画された。また、空撮の為に新潟空港に居た同局のカメラマンは滑走路上で発生した液状化現象を8mmフィルムカメラで撮影し、使用不能寸前の新潟空港から羽田空港へ向かい待機していた東京放送(現:TBSテレビ)のスタッフにフィルムが渡され全国放送された。映像は研究資料などとしても活用され、その後の地震対策などに大きな貢献を果たしている。 なお、2014年には新潟映画社が地震直後の万代橋の復旧工事を撮影・記録していた映像ネガフィルムが新たに発見された[14]。 地殻変動 粟島は島全体が約1m隆起[5]。日本海海岸では5 - 20cm沈下した。家屋の全壊は新潟市、村上市、鶴岡市、酒田市など各地において発生した。 地震の痕跡 新潟市周辺では1950年代以降、都市化の進捗と生活様式の近代化などによって、地下水に含まれる水溶性天然ガスを採取するため地下水の揚水量が急増し、それによる地盤沈下が深刻化していた。1959年(昭和34年)以降、新潟県や各市町村が天然ガスや地下水の採取規制を実施したことで、大規模な地盤沈下は沈静化したが、それまでの間、新潟市をはじめとする各市町村では1年間平均で約20cmの地盤沈降が観測されていた。この地盤沈下も、新潟市中心部の液状化や津波による浸水などの被害を大きくした。 連続するアーチが特徴の萬代橋は、信濃川の新潟市中心部に架かる道路橋梁で唯一、この地震を耐え抜いたが、地震の痕跡が周辺に残っている。橋梁部の両端部、信濃川の堤防沿いに並行している市道(信濃川右岸通り、信濃川左岸通り)がある。両市道は上流側から下流側に向かって、いずれも一直線に橋の下をくぐるが、橋梁下の人道函渠(ボックスカルバート)の前後の線形は緩やかな鈎の手状のカーブを描いており、上流側と下流側とは約1mの高低差がある。萬代橋の橋梁本体は新潟地震では約10cm沈降したが、地震前には前述の地盤沈下などによって約1.2m沈降した。 なお、萬代橋から1km程上流に、この地震の1ヶ月前の5月に完成した昭和大橋も橋桁が落ちるなどの被害を受けた。 法制度等への影響 地元選出の国会議員(衆議院新潟三区)であり、当時の池田勇人政権の大蔵大臣でもあった田中角栄は地震保険の必要性を感じて保険審議会に諮問、審議を経て1966年6月、地震保険に関する法律が制定された。また、この地震で新潟市臨海部に存在していた石油コンビナートで大規模な火災が発生したこともあり、1965年には消防法の改正も行われた[15]。 注釈 出典 関連項目 新潟-神戸歪集中帯 外部リンク 防災科学技術研究所 新潟地震を含む過去の新潟県内の災害 失敗知識データベース 新潟市 新潟地震の被災者などの証言集 新潟地震対策連絡会 公益社団法人 日本地震工学会 水道施設を中心とした被害状況写真 (株)エイト日本開発 吉見吉昭 「自分の目で現場を見ればいい」 地震、津波、長周期地震動、液状化、危険物タンク火災などの同時多発的な災害 日本経済新聞2013年3月5日夕刊
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E5%9C%B0%E9%9C%87
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 476, 994, 1875, 2692, 3783, 4706, 6649, 8110, 9187, 9984, 11231, 12585, 14685, 15524, 16974, 18083, 19111, 23133, 23243, 25155], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 468, 986, 1849, 2675, 3742, 4677, 6614, 8066, 9186, 9983, 11193, 12574, 14668, 15507, 16963, 18082, 19103, 23132, 23242, 25141, 25436], dtype=int32)}
ヘルマン・シュミッツはどこの州で生まれた?
ヘルマン・シュミッツ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([501], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([516], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ヘルマン・シュミッツ(Hermann Schmitz, 1928年5月16日 - )は、ドイツの哲学者であり、全5巻10分冊の大著『哲学体系(System der Philosophie)』(1964-1980)により、〈新しい現象学〉を展開した。身体と感情の現象学で知られるが、その業績は、存在論、認識論、時間論、空間論、宗教論、芸術論、法哲学、自由論、共同体論など、きわめて多岐にわたる。 略歴 1928年に、ドイツのザクセン州ライプツィヒで生まれる。ギムナジウム時代の1939年、家族とともにボンに居を移す。1948年から53年にボン大学で哲学を専攻し、エーリッヒ・ロータッカーに師事。1955年に博士号、1958年に教授資格を取得し、キール大学哲学研究室の助手になる。1971年に正教授に就任、1993年まで教鞭をとり、退官を迎える。現在もなお、旺盛な著作活動をしている。 思想 シュミッツの〈新しい現象学〉の特徴は、フッサールのように自己の経験とそこに現れる事象を反省的に分析するのではなく、日常の何気ない体験、反省以前に否応なく迫り来るような体験を出発点とし、それをできる限りそのまま捉えようとするところにある。身体的・情動的経験は、その典型にして基礎である。その意味で彼の哲学は、まさに身体と感情の現象学と言える。しかし私たちの生における身体的・情動的経験の位置づけと、その哲学的な意義ゆえに、シュミッツの身体と感情の現象学は、きわめて広範な射程をもち、伝統的な哲学の諸問題に新たな光を当てている(以下、重要なトピックを挙げて簡略に説明する)。 身体的感知と身体 シュミッツ現象学が身体や感情の経験にアプローチするとき、視覚や触覚に定位するのではなく、「身体的感知(leibliches Spüren)」というのを手がかりにする。これは特定の感覚器官による知覚ではなく、自己の身体において自発的に現れる感覚であり、広がりや狭まり、方向などをもち、たえず変動している。このようにして自らの存在において感知される全体が「身体(Leib)」であり、それは見たり触ったりできる「物体的な身体(Körper)」とは異なる構造をもつ。以下に挙げるトピックのほとんどが、直接的にせよ間接的にせよ、この身体的感知という独特の経験を通して探求される。 主観的事実 伝統的な哲学の問題との関連でとりわけ重要なのは、シュミッツの主観性理論である。彼によれば、主観性とは主観と呼ばれる基体の性格ではなく、事実の性格である。シュミッツによれば、近代のいわゆる主観性の哲学は、主観と客観の区別は初めから前提されてその関係を論じるが、そこでは主観の主観としての資格、言い換えれば、「私が他の誰でもなく、私であるのはなぜか」が問われていない。主観的事実とは、この私の存在や経験の比類なさを指し、これは身体的・情動的体験に根ざしている。人間の世界と自己の存在は、この主観的事実において開かれる。そして客観性は、この根源的な事実から主観性を希薄化していったところに成立する。シュミッツによれば、主観的事実を発見したのはフィヒテであり、これは古代ギリシャ以来の哲学の大転換点とされる。 内的世界としての自己の否定 シュミッツによれば、古代ギリシャにおいて、自己の自立性を守るために外的世界と内的世界が分離された。すなわち、感情や思考は、内的世界としての魂の中の出来事として、理知的な力によってコントロールし、外的世界には、大きさや形、位置、数など、いつでも誰でも同定できて操作しやすいものだけが存在するものと見なされた。しかし、自己の固有な存在である主観的事実は、その根源的なレベルにおいて、主体と客体の区別を含まない。自己の内部と外部の断絶もない。これによってヨーロッパの哲学を現代まで支配してきた、内的世界としての自己の捉え方が打破される。そしてまたそのさい、身体と感情の空間性がとりわけ重要な意味をもつ。 身体と感情の空間性 シュミッツによれば、身体と空間には、いわゆる伝統的な空間概念、すなわち、三次元的な分割・測定が可能な空間とは別種の、固有な空間性がある。身体自身は、まず自らが現われ、存在する場として感知されるが、これは「身体の狭さ(Enge des Leibes)」と呼ばれる。この狭さがとりわけ明瞭に現れるのが、激しい痛みや恐れのように、身体が一気に縮まるのが感じられる経験である。この狭さは、そのつどさまざまな明瞭さで現れるが、それだけで孤立して現れるのではなく、その周りには、茫洋とした広がり、分割も測定もできない独特なヴォリュームが感じられる。これが「広さの空間(Weiteraum)」である。また身体には、動きに伴って方向が生じる。「広さの空間」が、この身体的な方向に応じて分節化されると、「方向空間(Richtungsraum)」が生じる。この二つの空間は、次元をもたない広がりであり、三次元空間のような安定した構造をもたない。三次元空間は、シュミッツにおいて「場所空間(Ortsraum)」と呼ばれ、自己の身体を対象化することで成立する。また、「広さの空間」は、感情の広がりでもある。シュミッツは感情を「襲いかかる雰囲気」と捉える。彼において感情は、内面状態ではなく、春の陽気や秋の憂愁、葬儀の場の沈鬱、ロックコンサートの熱狂のように、空間的に広がり、外的に知覚されるものである。人間と空間のこうした開放的で力動的な関係は、自己がけっして自閉的な内面世界ではなく、周囲の世界や他者へと開かれた存在であることを、何より如実に示している。 原初的現在と現在の展開 上記のように、主観的事実の根源的なレベルにおいては、主客の対立を含まないが、それと同様、そこには「かつて」-「今」-「いつか」という時間的分節も、「ここ」-「あそこ」という空間的分節、「ある」-「ない」や「あれ」-「これ」といった存在と個体性の対比もない。それは、「私」、「今」、「ここ」、「ある」、「これ」が未分化に融合した状態である。シュミッツはこれを「原初的現在(primitive Gegenwart)」と呼び、人間のあらゆる存在様態、経験の基層にあるとする。通常は目立たないが、強烈な痛みや恐怖のように身体が極度に狭まるような場合に露わになる。人称、時間、空間、存在、個体の分節化は、原初的現在からこれらの要素が分岐し、それぞれがある程度の自由度を獲得しつつ関連しあうような状態へ移行することで起こる。これが「現在の展開(Entfaltung der Gegenwart)」である。ここで初めて、私、あなた、彼・彼女という人称的区別、過去、現在、未来の時間的分節、「ここ」を起点とするパースペクティヴや、相対的な位置の体系、存在と非存在、現実と仮定、虚構の差異、さまざまな個体の区別が生じる。 カオス的多様性と状況の存在論 シュミッツによれば、多様性は数多性と混同されてきた。しかし数多性は、個体の区別を前提としている。しかしシュミッツによれば、個体性は原初的現在が展開することで初めて成立する。それ以前は、何と何が同じで何と何が異なるのか、すなわち、同一性と差異性が未決定な状態にある。これをシュミッツは「カオス的多様性(chaotische Mannigfaltigkeit)」と呼ぶ。それに対して、個体性を前提にした多様性は「個体的多様性(individuelle Mannigfaltigkeit)」ないし「数多的多様性(numerische Mannigfaltigkeit)」と言われる。私たちの経験、知覚は、常に多かれ少なかれカオス的な性格をもち、どこかに同一性と差異性が未決定な部分を含んでいる。それはまどろみのようにほとんどがカオス的なものから、目覚めた状態で何かを観察しているときのように、個体性がかなり明瞭な場合までいろいろある。 カオス的多様性との関連で重要な存在論的概念が、「状況(Situation)」である。これはそれ自身が一つの明瞭なまとまりをもちつつも、内部にカオス的多様性を含むもので、典型的なのは「印象」である。人の印象は、服装や髪型など、そのつどさまざまに変わっても、その人に特有のものがある。それは、印象自体の内部は漠然としていて、前と何が同じで何が違うかが未規定でありながら、全体として統一性をもっているからである。その他、世界観や個性も、同じく状況の一種とされる。状況の対概念となるのが「複合体(Konstellation)」であり、これは個別的な要素の集合体である。 伝統的に存在論は個体を前提としているので、何らかの集合や全体(世界、社会、人間の存在様態、人生観、文化など)は、複合体として論じられてきた。しかしシュミッツによれば、それは現実を適切に捉えていない。さまざまな集合や全体は、むしろ状況としての性格をもっていることが多い。状況は、内部の同一性と差異性に未決定な余地があるため、矛盾に対して寛容であるという特性をもつ。他方、複合体は、内部の要素間の関係に柔軟性がなく、緻密で首尾一貫した連関であるとされるので、矛盾や齟齬を含んでいると、全体が脅かされる。しかし世界にせよ、社会にせよ、人生観にせよ、それほど脆弱ではなく、細かく見れば矛盾したところがあっても、全体としては安定しているのが普通である。このようにカオス的多様性と状況の概念を提示したことは、シュミッツの存在論のもっとも重要な意義であり、またこれらは、彼の共同体論においても、基本的な概念になっている。 身体的コミュニケーション シュミッツにとって、人間は、身体と感情の空間的広がりによって、世界へと開放された力動的存在である以上、周囲の事物や他者との関わりは、初めから互いを巻き込み、たえず変化するものである。それをシュミッツは「身体的コミュニケーション(leibliche Kommunikation)」と呼ぶ。これは物体としての身体と他の物や人との間の物理的な相互作用ではなく、身体的に感知される動きであり、知覚、会話、肉体的な共同作業、集団行動、道具や機械の使用など、きわめて多様な経験が身体的コミュニケーションとして捉えられる。これには一方的な場合と相互的な場合がある。一方的な事例は、何かに目が引き付けられたり、場の雰囲気に呑まれたりする経験、相互的な事例は、視線のやり取り、サディズムやマゾヒズム、すれ違う人をよけたり、何人かで家具を運んだりする場合、パニックや集団的熱狂、スポーツのチームプレイなどが挙げられる。身体的コミュニケーションは、シュミッツにおいて他者論のみならず、行動や知覚など、人間の実践的なあり方一般を基礎づけるものである。 法感情 シュミッツにおいて、正(Recht)と不正(Unrecht)は、「法感情(Rechtsgefühl)」に基づく。従来、正不正や法を基礎づけるのは、理性や知性であって、感情ではなかった。それは感情が個人的で不安定で、普遍性に欠け、正不正や法のように社会性と普遍性が求められるものには不向きだと考えられたからである。しかし、シュミッツの感情理論は、そうした難点を克服する。彼によれば、感情は空間的に広がり、集団で共有される客観的なものであり、その安定度も普遍性も、実際には思考や理知に劣るわけではない。しかも感情は、ただ客観的なだけではなく、個々人を捉えることで、主観的事実の源にもなる。そうなることで初めて、正不正は、集団の成員にとってと同時に、個々人にとって切実な問題となる。また法感情論は、私たちの実際の経験にも即している。理性的に正不正を基礎づける場合、自由や平等、幸福などの究極的価値が原理とされ、そこから説明されるが、私たちは通常、そのような回りくどい難解なプロセスを経ることなく、正不正を判断している。正不正や法を感情によって基礎づけるのは、現象学的な正当性をもっているのである。シュミッツによれば、主要な法感情には、不正なことが起きたことを示す「憤怒(Zorn)」と、自分が不正な状態に置かれていることを示す「羞恥(Scham)」がある。そのどちらに比重を置くかによって、社会や時代ごとの道徳意識や法体系の違いが理解できる。シュミッツの法感情論は、たんに正不正のみならず、名誉やその毀損、道徳や倫理、規範一般、復讐、犯罪と刑罰など、きわめて多様な事象を包括しており、彼の身体と感情の現象学の実践的応用として注目に値する。 心性の自由 自由論もまた、シュミッツ現象学の射程の広さを示す重要なテーマである。私たちはそのつど何らかの身体的・情動的経験に捕らえられているが、他方で常に同時にそれに対して何らかの態度を取っている。こうしたその時々の身体的・情動的経験への関わりは「心性(Gesinnung)」と呼ばれる。シュミッツにおいて身体的・情動的経験は、人間存在を根底から規定しているので、自由や道徳的責任なども、根本的には意志に関わるのではなく、心性に関わるとされる。シュミッツは自らの自由論によって、決定論、非決定論、自己決定のあいだで袋小路に陥った自由をめぐる伝統的な難問も解決できるとする。 神的なもの シュミッツにおいて、宗教は神との関わりではなく、その根源にある「神的なもの(das Göttliche)」との関わりから捉えられる。この神的なものは、オットーのヌミノーゼをより一般化したもので、抗えないほど圧倒的な力をもって襲いかかる雰囲気である。そうした雰囲気には、畏怖、戦慄、荘厳、激しい羞恥心、法悦などいろいろなものがあり、また神的な雰囲気として、どのような感情がどれくらい強烈に体験されるかは、人によっても時と場合によっても異なる。したがってシュミッツにとって神的なものは、永遠不変でもなければ、普遍的に妥当でもなく、体験する主体や状況によって異なる。しかし雰囲気自身は、個人を超えて集団でも体験されるものであり、ある社会や時代で共有されるものでもある。また神的雰囲気は、その強烈さゆえに関わりあうのが困難であるが、それを具象化して「神」とし、様式化した関係を結ぶことで、いわゆる制度としてのより安定した宗教が成立する。このような立場をとるシュミッツの宗教論は、神的なものの原初的体験や、神秘体験から、儀礼や慣習まで幅広く柔軟に扱うことができるという点で特異であろう。 芸術論 雰囲気との不安定な関わりをある程度でもコントロールする人間の営みには、大きく分けて三つある。一つは「居住(Wohnung)」であり、これは家や身の回りの調度を整え、周囲から襲いかかるさまざまな雰囲気と選択的に関わり、安定して心地よい空間を作り出すことである。広い意味では街づくりもこれに含まれよう。他の二つの雰囲気との関わりは特殊なもので、一つが上述した宗教、もう一つが芸術である。シュミッツによれば、芸術とは雰囲気を対象化し、それと適度な距離をとりつつ安定した関係をもつ営みである。建築にせよ絵画や彫刻にせよ、さまざまな事物を加工し、色彩を施し、光を加減しつつ作品を作ることで、身体的・情動的に特定の仕方で働きかけるようにする。それは雰囲気を巧みに制御することであり、これを享受することは、作品を通じてその意図された雰囲気を受け取ることなのある。 シュミッツは、身体と感情から人間の経験、自己と世界、自己と社会、自己と他者との関わりを捉え、それらが相互にどのように連関し合っているか、それらが人間の生のうちでどのように位置づけられ、どのような意義をもっているのかを示す。彼の思想の特徴は、きわめて具体的かつ詳細に事象を追求しつつ、全体を緻密に連関づけていくその体系性にある。彼の主著のタイトル『哲学体系』は、たんなる概念的、理論的な体系ではなく、まさに経験、現象の体系をも提示していると言える。『哲学体系』第一巻の冒頭に挙げられているゲーテの言葉は、シュミッツ現象学の本質を表している――「もっとも重要なのは、事実的なもののすべてがすでに理論であると悟ることだ。現象の背後に何も求めてはならない。現象そのものが理論なのである。」 著作 Hegel als Denker der Individualität(個体性の哲学者としてのヘーゲル)Meisenheim 1957.(教授資格論文) Goethes Altersdenken im problemgeschichtlichen Zusammenhang(問題史的連関におけるゲーテ壮年期の思想)Bonn 1959.(博士論文の要約版) System der Philosophie(哲学体系)Bonn 1964-1980 第1巻 Die Gegenwart(現在)1964. 第2巻 Der Leib(身体) 第1部 Der Leib(身体)1965. 第2部 Der Leib im Spiegel der Kunst(芸術に映し出された身体)1966. 第3巻 Der Raum(空間) 第1部 Der leibliche Raum(身体空間)1967. 第2部 Der Gefühlsraum(感情空間)1969. 第3部 Der Rechtsraum. Praktische Philosophie(法空間 実践哲学)1973. 第4部 Das Göttliche und der Raum(神的なものと空間)1977. 第5部 Die Wahrnehmung(知覚)1978. 第4巻 Die Person(人格)1980. 第5巻 Die Aufhebung der Gegenwart(現在の止揚)1980. Subjektivität. Beiträge zur Phänomenologie und Logik(主観性 現象学と論理学への寄与)Bonn 1968. Nihilismus als Schicksal ? (ニヒリズムは宿命か)Bonn 1972. Neue Phänomenologie(新しい現象学)Bonn 1980. Die Ideenlehre des Aristoteles(アリストテレスのイデア論) 第1巻 Aristoteles(アリストテレス) 第1部 Kommentar zum 7. Buch der Metaphysik(『形而上学』第7巻への注解)Bonn 1985. 第2部 Ontologie, Noologie, Theologie(存在論、精神論、神論)Bonn 1985. 第2巻 Platon und Aristoteles(プラトンとアリストテレス)Bonn 1985. Anaximander und die Anfänge der griechischen Philosophie(アナクシマンドロスとギリシャ哲学の始原)Bonn 1988. Der Ursprung des Gegenstandes. Von Parmenides bis Demokrit(対象の起源 パルメニデスからデモクリトスまで)Bonn 1988. Was wollte Kant ? (カントは何を意図したか)Bonn 1989. Leib und Gefühl. Materialien zu einer philosophischen Therapeutik(身体と感情 哲学的治療学 hg. v. H. Gausebeck und G. Risch)Paderborn 1989.(改訂増補第2版1992) Der unerschöpfliche Gegenstand. Grundzüge der Philosophie(汲み尽くし難きもの 哲学の根本性格)Bonn 1990. Hegels Logik(ヘーゲルの論理学)Bonn 1992 Die entfremdete Subjektivität. Von Fichte zu Hegel(疎外された主観性 フィヒテからヘーゲルへ)Bonn 1992. Die Liebe(愛)Bonn 1993. Neue Grundlagen der Erkenntnistheorie(認識論の新しい基礎)Bonn 1994. Selbstdarstellung als Philosophie. Metamorphosen der entfremdeten Subjektivität(哲学としての自己呈示 疎外された主観性の変容)Bonn 1995. Husserl und Heidegger(ハイデガーとフッサール)Bonn 1996. Höhlengänge. Über die gegenwärtige Aufgabe der Philosophie(洞窟を歩む 現代における哲学の課題)Berlin 1997. Der Leib, der Raum und die Gefühle(身体、空間、感情)Ostfildern 1998.(第2版Bielefeld/Locarno 2007) Adolf Hitler in der Geschichte(歴史の中のアドルフ・ヒトラー)Bonn 1999. Der Spielraum der Gegenwart(現在の広がり)Bonn 1999. Begriffene Erfahrung. Beiträge zur antireduktionistischen Phänomenologie(経験の概念的把握 反還元主義的現象学への寄与)(Gabriele Marx, Andrea Moldzioとの共著)Rostock 2002. Was ist Neue Phänomenologie ? (新しい現象学とは何か)Rostock 2003. Situationen und Konstellationen. Wider die Ideologie der totalen Vernetzung(状況と複合体 隙のない網の目のイデオロギーに抗して)Freiburg/München 2004. Hermann Schmitz im Dialog. Neun neugierige und kritische Fragen an die Neue Phänomenologie(対話におけるヘルマン・シュミッツ 新しい現象学への九つの問い)(Wolfgang Sohstとの対話)Berlin 2005. Freiheit(自由論)Freiburg/München 2007. Der Weg der europäischen Philosophie(ヨーロッパ哲学の道)Freiburg/München 2007. 第1巻 Antike Philosophie(古代哲学) 第2巻 Nachantike Philosophie(古代から現代まで) Logische Untersuchungen(論理学研究)Freiburg/München 2008. Kurze Einführung in die Neue Phänomenologie(新しい現象学への入門) Freiburg/München 2009 (3. Aufl. 2012). (イタリア語訳) Nuova Fenomenologia. Una introduzione, a cura di T. Griffero, Milano 2011. (ポーランド語訳)Nowa Fenomenologica. Krótkia wprowadzenie. prezl. A. Przylebski, Warschau 2015. (フランス語訳)Brève introduction à la nouvelle phénoménologie. Trad. de Jean-Louis Grosos et Philippe Georget, Paris 2016. (デンマーク語訳)Kort indføring i den nye fænomenologi. Oversat af Sune Frølund, Aalborg 2017. Jenseits des Naturalismus(自然主義の彼方) Freiburg/München 2010. Bewusstsein(意識. Freiburg/München 2010. Der Leib(身体. Berlin/New York 2011. (デンマーク語訳)Kroppen. Oversat af Malthe Strandby Nielsen, Aalborg 2017. Neue Phänomenologie(新しい現象学) Hermann Schmitz im Gespräch. Hrsg. v. H. Werhahn, Freiburg/München 2011. Das Reich der Normen(規範論).Freiburg/München 2012. Kritische Grundlegung der Mathematik. Eine phänomenologisch-logische Analyse(数学の批判的基礎――現象学的.論理的分析) Freiburg/München 2013. Phänomenologie der Zeit(時間の現象学) Freiburg/München 2014. Atmosphären(雰囲気) Freiburg/München 2014. Gibt es die Welt?(世界は存在するか ) Freiburg/München 2014. Momentaufnahmen der Reflexion(反省の瞬間を撮る). Bernhard Langerock/Hermann Schmitz. Freiburg/München 2014. selbst sein. Über Identität, Subjektivität und Personalität(自己自身 アイデンティティ、主観性、人格性)Freiburg/München 2016. Ausgrabungen zum wirklichen Leben(現実の生への発掘) Eine Bilanz. Freiburg/München 2016. Zur Epigenese der Person(人格の後発的生成) Freiburg/München 2017. 関連文献 小川侃編『身体と感情の現象学』産業図書、1986年。 小川侃・梶谷真司共編『新現象学運動』世界書院、1999年。 梶谷真司『シュミッツ現象学の根本問題 身体と感情からの思索』京都大学学術出版会、2002年。 外部リンク (ドイツ語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%84
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 466, 1010, 2009, 2619, 3128, 3921, 4120, 4265, 4408, 4907, 5001, 5795, 6155, 7600], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 458, 1009, 2008, 2618, 3127, 3920, 4119, 4251, 4407, 4906, 4966, 5775, 6131, 7592, 7927], dtype=int32)}
中山星香のデビュー作は何
中山星香
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([1102], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([1126], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
中山 星香(なかやま せいか、1954年(昭和29年)3月6日 - )は、日本の漫画家。岡山県倉敷市出身。矢吹れいこ</b>名義で『日ペンの美子ちゃん』を執筆していたことでも知られる。実兄は、同じく漫画家の中山蛙。ペンネームは実家の「中山青果」に由来する[1]。日本の少女向けファンタジー・コミックの開拓者であり、第一人者である[2]。 経歴 岡山県岡山市生まれ、倉敷市に育ち、小学生の頃から兄から漫画の描き方を教わる。岡山県立倉敷青陵高等学校卒業後に上京、飯塚よし照のスタジオに勤務し、また和田慎二らの同人誌「あぴいる」に参加。1975年(昭和50年)に『高二時代』に「窓からこんにちわ」を掲載。『りぼん』『花とゆめ』などに投稿し、またこの時期から1977年(昭和52年)デビューまで、『日ペンの美子ちゃん』を執筆した。 1977年(昭和52年)、秋田書店『ビバ・プリンセス-春-』で、投稿作『ヤーケウッソ物語』で本格デビュー。続いて『月刊プリンセス』でファンタジー作品「はいどうぞ!」「ファンタムーシュ」や、学園ラブコメディ「聖祈苑へようこそ!」などを連載。デビュー当時は、少女向けコミックの世界では読者も編集者も「ファンタジー」という形式を読み解くリテラシーがなく、中山が温めていたハイ・ファンタジーのアイデアは、最初『ヤーケウッソ物語』「はい どうぞ!」などのギャグコメディ作品のキャラクターとして世に出され、その後本格的なハイ・ファンタジー作品を連載した[2]。北欧神話やケルト民話、J・R・R・トールキンなどの影響の濃い作風で、独自の世界観に基づくハイ・ファンタジーの分野を少女漫画において開拓した。 代表作は、『月刊プリンセス』誌上において16年以上にわたり連載された、「妖精国(アルフヘイム)の騎士」(2005年(平成17年)1月号より『プリンセスGOLD』に移動・掲載された)。この作品はライフワークとしている『三剣物語』(みつるぎものがたり)の第三部に相当する。秋田書店や作家本人によって宣伝文句の一つでもあった、いわゆる“Nonstop連載”「妖精国の騎士」本編が、2006年(平成18年)10月16日発売の(通算238話)にて完結となった。 2007年(平成19年)4月に刊行された「妖精国の騎士」文庫版27巻にて雑誌掲載+数ページ加筆がなされ、本編には『プリンセスGOLD』誌掲載版とコミックス54巻版と文庫27巻版の3種類の完結が並行して存在している事になる。また文庫版26巻・作者本人による「あとがき」5ページ半にて、「妖精国の騎士」は、手塚治虫の「双子の騎士」が着想のヒントになった事も明らかにされた。 2007年(平成19年)、本編完結はしたものの、いくつかの伏線解消がなされていなかったためか、編集部より後日譚4話の読み切り形式での掲載依頼があった。「妖精国の騎士Ballad」と命名され、不定期で『プリンセスGOLD』に掲載完了。しかし、「妖精国の騎士」の双児の兄妹の兄王子ローラント(後の新生アルトディアス国王ローラント1世)と「月魂(つきしろ)の騎士」のハイリオン王子が描き手が同じというだけではなく瓜二つであるため、ダブるのを避けるためにと「月魂の騎士」は執筆が中断されたが、「妖精国の騎士」完結後も「月魂の騎士」の執筆が再開される兆しはない。 2007年(平成19年)9月にYahoo!オークションのページで20年ぶりに『日ペンの美子ちゃん』が特別編として復活した(2008年(平成20年)2月29日まで)。 2008年(平成20年)5月9日には日本漫画家協会より、『妖精国の騎士』に対して優秀賞が贈られた。 三剣物語 『三剣物語』は以下の4部構成となっており、三振りの魔剣にまつわる物語が展開する予定となっている。 第1部 三剣創生の物語 第2部『妖精国の騎士』(既刊:単行本全54巻及び文庫版全27巻) 上述の後日談『妖精国の騎士Ballad』(コミックス全1巻、2007年8月16日発売) 『妖精国の騎士Ballad』の続編として『ロビン-風の都の師弟-』(単行本 全3巻、『FlexComixフレア』にてweb連載終了) 第3部『はるかなる光の国へ』(既刊:単行本全1巻) 第4部予告タイトル『アルディアの炎』 作品化されているものは第2部と第3部のみ。 妖精国(アルフヘイム) 三剣物語をはじめ、中山の殆どの作品に某かの形で登場する妖精国である。この国からの使者は黒い蝙蝠様の羽を持つ“ネコノテ”と呼ばれる猫科の生き物であり、普段は手のみが地面から出ているが、その手を引っぱり上げると猫本体が出現する。様々な有象無象の善悪入り乱れた妖精妖獣達が跳梁跋扈し、幾らかの妖獣は偶に人間界に出没したりしている。尚、この国は極めて厳格な魔法規則に従っている為に、魔法が増幅される『魔法使いたちの休日』と呼ばれる期間には人間界に避難する事もある。作者にとって理想郷(ユートピア)の一つの形であると思われる。 ネリマドール 作者の居住する地が基となった架空世界。作者にとってある種の理想郷(ユートピア)的な世界であり、その名前は公式サイトのタイトルともなっている。様々な作品世界とつながっている、いわば中継地点のような地であると言えるかもしれない。 作品リスト 漫画 秋田書店 はいどうぞ! ファンタムーシュ 6月国の王子さま アンリ・ランディの銀の鳥 夏荘の姫君 グリフォン・ガーデン 魔法使いたちの休日 はるかなる光の国へ フィアリーブルーの伝説 花冠の竜の国[3] 聖祈苑(セントイノリエン)にようこそ! ミッドナイト☆シンディ 空の迷宮 13枚綴りのお客人 月魂の騎士 妖精国(アルフヘイム)の騎士 花冠の竜の姫君 夜天の星特急 エイリエルとエアリアンの詩 妖精国の騎士Ballad 花冠の竜の姫君 招魔の旋律 中山星香セレクション 1 花冠の竜の国へ 中山星香セレクション 2 白魔法使いの集い 中山星香セレクション 3 コイスルオトメ 花冠の竜の国2nd 花冠の竜の国encoreー花の都の不思議な一日ー  東京三世社 エルブラントの青い瞳 朝日ソノラマ(現朝日新聞出版) 東は南 西は北 沈黙の声 ゾーイ 水底の恋人 新書館 蒼空にある林苑(ソラニアルモリ) 夜天の星特急 主婦と生活社 ボンジュールベースボール 化身の都 宙出版 7番目の少年 〜アーサー・ロビン物語〜 ボンジュール・ベースボール ソフトバンククリエイティブ ロビン-風の都の師弟- 学研 学研まんが早わかり入門シリーズ3 クッキング入門(監修:林廣美) 挿絵 早川書房 白馬の王子 - 著:タニス・リー ※カバーのみ 月と太陽の魔道師 - 著:タニス・リー 水晶の涙 - 著:ジェイン・ヨーレン アイルの書 - 著:ナンシー・スプリンガー 魔法の歌 - 著:ロバータ・A.マカヴォイ トヴィウスの森の物語 - 著:井辻朱美 参考文献 脚注 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%98%9F%E9%A6%99
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 573, 1360, 1837, 2323, 2577, 3104, 3438, 3842, 4470, 6053, 6328, 9081, 9452, 10177, 10529, 11135, 13843, 14900, 15803, 18015, 18973, 19489, 19668, 20200, 20641, 21332, 22028, 25080, 25365, 25453, 25729, 26841, 28756, 30300, 30547, 31544, 32098, 33136, 34026, 37798, 38158, 38878, 39188, 40652, 42769, 45288, 46183, 46977, 47579, 48094, 51108, 51305, 51926, 52146, 53087, 53591, 54179, 54322, 54591, 54855, 56475, 56803, 57096, 57415, 57960, 58220, 59206, 59569, 60065, 60447, 62518, 63599, 65025, 65307, 66022, 66924, 67240, 67922, 68419, 68814, 68928, 69660, 70023, 70985, 71524, 71895, 72940, 73352, 73961, 74079, 74168, 74223, 74881, 74951, 75399, 75496, 75826, 76512, 76849, 76898], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 565, 1359, 1836, 2322, 2576, 3096, 3437, 3841, 4455, 6052, 6311, 9080, 9428, 10176, 10528, 11134, 13842, 14899, 15802, 17976, 18972, 19488, 19667, 20199, 20640, 21331, 21948, 25079, 25294, 25452, 25678, 26832, 28755, 30299, 30489, 31543, 32089, 33135, 34025, 37797, 38149, 38877, 39118, 40651, 42768, 45287, 46182, 46976, 47514, 48085, 51099, 51304, 51925, 52145, 53086, 53583, 54178, 54321, 54590, 54854, 56467, 56770, 57095, 57414, 57959, 58205, 59198, 59568, 60064, 60446, 62517, 63598, 65011, 65306, 66021, 66923, 67239, 67902, 68409, 68813, 68927, 69659, 70014, 70984, 71523, 71894, 72939, 73351, 73960, 74078, 74135, 74222, 74880, 74950, 75398, 75495, 75815, 76495, 76819, 76884, 77244], dtype=int32)}
ユーゴスラビアは共産主義国家?
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NO'], dtype=object)}
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国[* 1](ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語・セルビア語・クロアチア語・ボスニア語・スロベニア語[* 2]・マケドニア語:Socijalistička Federativna Republika Jugoslavija[* 3] / Социјалистичка Федеративна Република Југославија[* 4])は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。 概要 マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国の6つの国家からなる連邦国家であった。1992年までにセルビアとモンテネグロを残して連邦を離脱し、残された2国は新たにユーゴスラビア連邦共和国を結成し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はその歴史に幕を閉じた。ユーゴスラビア連邦共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家であると主張したものの、アメリカ合衆国をはじめ主要各国からその主張は認められなかった。 2008年以降、かつてユーゴスラビアであった地域には、マケドニア共和国、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニア、モンテネグロの6つの国際連合加盟国、およびコソボがある。なお、コソボはもとはセルビアの自治州であるが、コソボの国家承認を行っていない国々からは、今もなおセルビアの自治州であるとみなされている。 第二次世界大戦前のユーゴスラビア王国の領域を元に結成され、1943年に<b data-parsoid='{"dsr":[5090,5107,3,3]}'>ユーゴスラビア民主連邦</b>として建国を宣言した。1946年には<b data-parsoid='{"dsr":[5129,5149,3,3]}'>ユーゴスラビア連邦人民共和国[1]として正式に国家として歩み始め、1963年には<b data-parsoid='{"dsr":[5345,5367,3,3]}'>ユーゴスラビア社会主義連邦共和国</b>に改称された。 ヨシップ・ブロズ・チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦下において中立政策を維持し、第1回非同盟諸国首脳会議の開催国となるなど、非同盟諸国のなかで中核的な役割を果たした。 1980年代から1990年代の民族主義の伸張によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は民族間の不一致が進行し、民族間の不調和と分断、暴力を伴った異民族排斥の流れが進んだ[2] 。その後には、ユーゴスラビア連邦は解体へと進み、ユーゴスラビアからの離脱や新しい国の枠組みをめぐって異民族に対する憎悪が噴出し、大規模な暴力を伴う一連のユーゴスラビア紛争へと発展した。 領土 ユーゴスラビア王国同様に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はイタリア、オーストリアと北西で、ハンガリーと北東で、ルーマニアおよびブルガリアと東で、ギリシャと南で、アルバニアと南西で国境を接し、西にはアドリア海に面している。 もっとも目立ったユーゴスラビア王国との領土の違いとしては、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、1954年に隣接するトリエステ自由地域がオージモ条約によって解体されたのに伴って、南部のユーゴスラビア軍の管理下にあった「B地区」に属する515.4平方キロメートルを領土としたことである。 1991年から1992年にかけて、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の領土は、スロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、そしてボスニア・ヘルツェゴビナの独立によって大幅に減少した。これらが独立した後も、ユーゴスラビア軍はクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの一部に留まって占領を続けた。1992年、依然連邦に留まっていた2つの国セルビア共和国とモンテネグロ共和国は連邦を維持することを決定し、ユーゴスラビア連邦共和国を結成した。 歴史 建国 第二次世界大戦中、ユーゴスラビアはナチス・ドイツやイタリア王国などの枢軸国の支配下に置かれていた。枢軸側との戦いを進めていた共産主義者のパルチザンたちは、ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の会合をボスニア・ヘルツェゴビナのヤイツェ(Jajce)にて1943年11月29日から12月4日まで行った。ユーゴスラビア民主連邦は、このときのAVNOJの会合にて制定されたものである。一方で、枢軸国から逃れていた王党派のユーゴスラビア王国亡命政権との交渉も続けられた。ユーゴスラビアのパルチザンたちは、ゲリラ戦を主体として、第二次世界大戦における枢軸国との苛烈な戦争を戦い抜いた。ナチス・ドイツが1945年に降伏すると、パルチザンたちはユーゴスラビア全域の支配権を確立した。1945年11月29日、ベオグラードで結成された共産主義者主導による内閣の初の閣議によって、ユーゴスラビア連邦人民共和国は連邦国家として制定された。1946年1月31日、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められた[1]。ユーゴスラビア連邦の初代首相にはヨシップ・ブロズ・チトーが選ばれ、国民議会幹部会議長(国家元首に相当)にはイヴァン・リヴァル(Ivan Ribar)が選出された。1953年、チトーは大統領に選出され、1974年からは終身大統領となった。 このときのチトーともっとも近しい政治家は、エドヴァルド・カルデリ(Edvard Kardelj)、アレクサンダル・ランコヴィッチ(Aleksandar Ranković)、ミロヴァン・ジラス(Milovan Đilas)であった[3]。 親ソ連時代 ユーゴスラビアが建国されたころ、世界は冷戦に突入していた。冷戦の初期において、ユーゴスラビア連邦は、ヨシフ・スターリンの指揮下にあるソ連と手を組み、1946年8月9日と8月16日にはユーゴスラビアの領空を飛行していたアメリカの航空機を撃墜した。これらは冷戦期において初めての西側諸国の航空機の撃墜であり、アメリカはチトーに対して強い不信感を持ち、アメリカは軍に対してユーゴスラビア侵攻を求めた[4][5]。しかし、ユーゴスラビアとソ連の盟友関係にもかかわらず、スターリンもまたチトーに対して不信感を持ち、それぞれ互いの手法に同意しなかった[4]。ユーゴスラビアは、当時スターリンが唱えていた一国社会主義を支持していた周辺の他東側諸国とは異なり、国境を越えた国際的な革命(国際社会主義希求組織)を組織し、ユーゴスラビアの人々はチトーがふさわしい指導者であり英雄であると見ていた。このことは、故トロツキーにより唱えられていた国際共産主義を思い起こさせ、政敵・故レーニン後継者レース勝者であったスターリンを大きく苛立たせていた。スターリンは、ソ連が全ての東側諸国を支配することを望んでいた[4]。チトーとスターリンの不和は、ユーゴスラビアの経済をソ連や他の東側諸国と結びつけることをチトーが拒否したことによって、いっそう高まっていった。ソ連のプロパガンダ映画製作者たちが、ユーゴスラビアのレジスタンスを描いた映画を作製し、その中でのチトーの果たした役割を矮小化したことが明らかになるに至り、チトーとスターリンの関係は終わった[4]。しかし、映画製作に関連したこの状況は、映画製作者らがソ連のスパイであったことが明らかになった時点でさらに悪化した。このことにチトーは激怒し、1948年、ユーゴスラビアとソ連の危機はスターリンからの最終警告が発されて緊張感が高まった。最終警告では、ユーゴスラビアはソ連の衛星国であったブルガリア人民共和国と直ちに連邦を結成することを求めていた。チトーは自国の独立を損ねるこの求めを拒絶し、スターリンはこれに対してユーゴスラビアの共産主義者をコミンフォルムから追放することで応じた。これによって、ユーゴスラビアとソ連の残されていた関係は全て絶たれた。 土地改革が導入され、多くの人々が土地を獲得した。収穫量の80%の固定価格での強制買取は少なくなった[6]。議会では、農民の利益はドラゴリュブ・ヨヴァノヴィッチ(Dragoljub Jovanović)の手によって守られていたが、ヨヴァノヴィッチは後に逮捕された[7]。 ソ連との決別後 ソ連の勢力圏と決別してから、ユーゴスラビアでは独自の共産主義社会の構築をはじめ、ティトー主義(Titoism)と呼ばれるようになった。チトー主義の政府の指導の下、一定の自由市場経済が認められ、はじめ市場社会主義と呼ばれた。また、ユーゴスラビアはまたワルシャワ条約機構への加入を拒否し、冷戦下において中立の立場をとることになった。ユーゴスラビアは、インドやエジプト、インドネシアなどとともに、非同盟運動の創設メンバーのひとつとなり、アメリカに対する対決姿勢をとらない中道左派の政策を採り続けた。 ソ連との決別は、ただちに抑圧の終わりを意味するものではなかった。むしろ、ソ連との決別はスターリンに同調的とされた者たちに対する新しい抑圧の嵐を巻き起こした。彼らは、再教育の場とされたゴリ・オトク島(Goli Otok、「不毛の島」)に送られた[8]。 ユーゴスラビアの経済は市場社会主義の下で、比較的、自律的であった[2]。共産主義者の政府は私有の自動車会社ザスタバの操業を続けることを認め、ザスタバは国際的に有名な自動車ザスタバ・コラル(Zastava Koral、広く「ユーゴ」として知られる)を生み出した。1960年代初頭、ユーゴスラビアの経済は繁栄し、外部から見て、ユーゴスラビアの人々はソ連やワルシャワ条約機構の国々よりもはるかに自由であることが知れるところとなった[2][9]。 チトーの指導の下、ユーゴスラビアの標語でありそして政治概念である「兄弟愛と統一」は、民族間の緊張緩和のために国家の要として導入された[2]。「兄弟愛と統一」は、「ユーゴスラビア人」(南スラヴ人)は民族的に同質であり、外国による支配の下で単に宗教によって分けられていたに過ぎないものであるとする概念であった。ユーゴスラビアの人々は、ユーゴスラビア王国時代、そして第二次世界大戦下において、民族間の緊張によって分断されていた。ユーゴスラビア王国は、セルビア人主体の、セルビア人の王家の下での国家であった。王国時代、クロアチア人やボシュニャク人(ムスリム人)の政治家らの中には、セルビア人による多数派を維持するために彼らをセルビア人に同化しようとするものだとして、セルビア人主体の国家運営に反発していた。彼らは時としてセルビア人たちに対して暴力的な反発を見せ、国王アレクサンダル1世の暗殺へとつながった。第二次世界大戦では、ユーゴスラビアはナチス・ドイツ、イタリア王国、その他の枢軸国によるユーゴスラビア侵攻によって破壊された。ナチスとイタリアのファシストらはウスタシャが支配するクロアチア独立国をつくり、クロアチア独立国はセルビア人を大規模に虐殺した。また、アルバニア人のファシストは、イタリア軍の支援の下、当時イタリアの保護国となっていたアルバニアやコソボで兵員を集め、セルビア領のコソボの奪取と当地のセルビア人追放を試みた。これに対して、セルビア人の王党派はクロアチア人やボシュニャク人、アルバニア人に対して、セルビア人が受けた損害に対する復讐を求めて虐殺などを行った。これらの民族間の緊張を解消するため、終戦の後、チトーが推進した「兄弟愛と統一」では、いかなる民族も、ひとつの民族だけでユーゴスラビアの中で支配的な立場を築くことができない体制を目指した。また、「兄弟愛と統一」のもうひとつの側面はより現実的なもので、これによって、特定民族の立場からの不満の訴えに対して、これを受け入れたり交渉することを共産主義政権は拒絶した。特定民族の立場からの不満の訴えに対しては、投獄や処刑で応じることが一般的であった。 1960年代初期の問題は、経済的に矛盾のない「政治的な」生産体制の確立と、共産主義政権の内部に生じた一層の地方分権化を求める勢力の拡大であった[10]。これらの勢力は、アレクサンダル・ランコヴィッチ(Aleksandar Ranković)周辺の勢力と対峙した[11]。1966年、分権派の勢力(スロベニアのエドヴァルト・カルデリ Edvard Kardelj、クロアチアのヴラディミル・バコリッチ Vladimir Bakarić、セルビアのペタル・スタンボリッチ Petar Stambolićなどがその中心)はチトーの支持を取り付けた。クロアチアのブリユニで行われた党会合で、ランコヴィッチは、入念に準備された非難の訴状と、ランコヴィッチが権力奪取のために結社を組織したとのティトーによる批判に直面した。ランコヴィッチは全ての党の役職を退くことを余儀なくされ、ランコヴィッチの支持者らも党から追放された[12]。 1971年、「クロアチアの春」として知られる大規模なクロアチア人による抗議行動が起こった。抗議行動では、ユーゴスラビアの権力構造をセルビア人が独占しようとしているとして政府を非難した[13]。クロアチアの出身であるチトーは、これに対して硬軟両面の対処を取った。抗議行動に参加して民族主義を訴えた多数のクロアチア人を逮捕する一方で、同種の危機の再発を避けるための改革をはじめる政策を打ち出した[14]。ユーゴスラビア国外に逃れていたウスタシャの同調者らはユーゴスラビアでテロやゲリラを通じて分離主義を煽ろうと試みたが[15]、この試みは失敗に終わり、むしろ支持母体であったユーゴスラビアのカトリック教徒たちの反発を招いた[16]。 1974年、新しい連邦憲法が批准され、連邦を構成する共和国に対してより強大な権限を認めた。1971年の「クロアチアの春」騒動の目的は基本的に達成された。新しい憲法の条項のひとつでは、憲法によって制約をつけられてはいるものの、それぞれの構成共和国が、連邦からの独立を宣言する権利を認めていた。また、新しい憲法ではセルビアの領内に、構成共和国とほぼ同等の権限を持つコソボ自治州とヴォイヴォディナ自治州を設け、事実上セルビアを分断した。コソボではアルバニア人が多数派となっており、またヴォイヴォディナではセルビア人が多数ではあったもののマジャル人をはじめとする多くの少数民族が混在している。この1974年の改革は概ね、それぞれの共和国、とくにクロアチアの要求や、セルビア領内のアルバニア人やヴォイヴォディナの少数民族たちの要求に応じるものであった。しかし、1974年の憲法はセルビア人からの強い反発を招いた。セルビア人の共産主義者らは改革に反発し、セルビア人たちはこの改革に対して大きく不信感を持った。多くのセルビア人たちは、この改革を、クロアチア人やアルバニア人の民族主義者への譲歩と受け取った。セルビア領内の少数民族地域には構成共和国と同等の地位を持った自治州が設置された一方で、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア人地域には同種の自治州は設置されることはなく、また連邦政府がマケドニア人やモンテネグロ人をセルビア人とは異なる民族として認めたことに対してもセルビア人の民族主義者らは強い不快感を持った。セルビア人の民族主義者らは、マケドニア人やモンテネグロ人が本当に存在していることを示せるような、彼らをセルビア人と区別する民族的・文化的な要因はないと主張した。 チトーの死後と連邦の解体 1980年5月5日、チトーは没し、その死は公営放送によってユーゴスラビア全土に伝えられた。チトーの体調が次第に悪化していたことは以前より知られていたものの、その死はユーゴスラビアにとって衝撃的であった。チトーは第二次世界大戦における反ファシズム闘争の英雄とみなされており、戦後のユーゴスラビアの指導的な人物でありユーゴスラビアの象徴であった。チトーを失ったことでユーゴスラビアは一変し、多くの人々がその死を悲しんで泣いた。スプリトのサッカー競技場では、セルビア人とクロアチア人によるサッカーの試合が行われていたが、チトーの死が伝えられると皆、動きを止めて、賛歌「同志チトー、われらはあなたの道を離れないことを誓う(Druže tito Mi Ti Se Kunemo)」を歌った[17]。 チトーの葬儀はユーゴスラビアの国を挙げて行われ、その棺はベオグラードに埋葬される前に鉄道によってユーゴスラビア各地を回り、多数の人々が国内を巡回するチトーの棺を見に集まった[18]。棺を見に訪れた人々や、葬儀の参加者の中には、共産主義者同盟に動員された者も含まれているが、大多数は動員とは無関係に、自発的にチトーの死を悲しんで訪れた人々であった[19]。 チトーの死後、1980年代のユーゴスラビアでは、それぞれの構成共和国や自治州の共産主義指導者による集団指導体制がとられた[2]。 チトーが死去したとき、ユーゴスラビア連邦政府の首班であったのは大統領のヴェセリン・ジュラノヴィッチ(Veselin Đuranović、1977年より在任)であった。ジュラノヴィッチは、外国からの債務の増大によるユーゴスラビアの国家予算の削減をめぐって、各共和国の指導者たちと対立していた。ジュラノヴィッチはチトーが国家の威信のために拒絶していた通貨の切り下げについて議論した[20]。 チトー後の1980年代のユーゴスラビアは、債務の額の増大に直面していたが、ユーゴスラビアとアメリカや、アメリカ主導の「ユーゴスラビアの友邦たち」との良好な関係によって、1983年と1984年にユーゴスラビアは債権放棄を受けることができた。しかし、その後も1990年代に連邦が解体されるまでの間、経済問題は続いた[21]。 ユーゴスラビアは1984年、サラエボで行われた1984年冬季オリンピックの開催国となった。ユーゴスラビアにとってこの大会は、多民族が結束してひとつのチームを組む、チトーの目指した「兄弟愛と統一」の理想が維持されていることを内外に示すものとなった。そして、ユーゴスラビアはソ連によるモスクワオリンピックに次いで、2国目のオリンピックを開催した共産主義国となった。その上、モスクワオリンピックでは西側諸国はボイコットしたものの、サラエボオリンピックでは西側諸国も参加している。 1980年代後半に入ると、ユーゴスラビア政府は共産主義の道から離れ、首相アンテ・マルコヴィッチ(Ante Marković)の主導のもと、市場経済を目指すようになる。マルコヴィッチは「ショック療法」戦略と称し、ユーゴスラビア経済の民営化を進めた。マルコヴィッチは、連邦を自由経済化、民主化へと移行させるもっとも有能な政治家として人気を得た。しかしながら、ユーゴスラビアが解体を始めた1990年代、マルコヴィッチの政策は未完のまま終わった。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体 1980年-1989年 チトーの死後、民族主義は再びユーゴスラビアで勢力を増した[2]。特に、コソボにおいてアルバニア人とセルビア人の間で緊張が高まった[2]。これに、コソボの経済問題が加わり、セルビア人たちはセルビア政府に対して、1974年のコソボの自治権付与を撤回するよう求めた。一方で、1980年代、コソボのアルバニア人たちは、1974年憲法によって与えられた自治州としての地位から、セルビアなどと完全に対等でユーゴスラビア連邦からの離脱権も持った共和国の地位に格上げすることを求めていた[2]。セルビア人にとって、コソボがセルビアの一部でなく連邦の構成共和国となることは、セルビアのコソボにおける歴史的・民族的・文化的なつながりを奪われることになる。もしコソボが連邦からも離脱することになれば、その喪失感はより一層大きいものになる。1987年、セルビアの共産主義指導者であるスロボダン・ミロシェヴィッチは、アルバニア人主導のコソボ州政府に対するコソボのセルビア人の抗議運動を沈静化するためにコソボに送られた。ミロシェヴィッチはかつては強固な共産主義の守護者であり、あらゆる民族主義は裏切り行為であるとして非難していた。ユーゴスラビアはクロアチア人等に牛耳られており、セルビア人は抑圧されていると主張する「セルビア科学芸術アカデミーの覚書」に対してもミロシェヴィッチはこれを非難し、「暗黒の民族主義以外の何物でもない」と切り捨てた[23]。しかし、コソボの自治権は、セルビアでは常に不快なものとして嫌われ続けており、ミロシェヴィッチはこの状況を利用して支持を集めるため、それまでの伝統的な共産主義者としてのコソボ問題に関する中立性を放棄した。ミロシェヴィッチはセルビア人たちに対して、「アルバニア人によるセルビア人への迫害は止められるべし」と約束した[2]。ミロシェヴィッチは、セルビアやユーゴスラビアの伝統的な共産主義の指導者たちを非難し、コソボおよびヴォイヴォディナの自治権縮小を求めた。これらの動きによってミロシェヴィッチはセルビア人の間で大きな人気を獲得し、ミロシェヴィッチはセルビアの指導者の地位を獲得した。ミロシェヴィッチとその同調者たちは、ユーゴスラビアの枠内で奪われたセルビアの力を取り戻すとして攻撃的な民族主義政策をとり、セルビアとセルビア人を守ることを約束した[2]。1988年の集会で、ミロシェヴィッチはユーゴスラビアの中でセルビアの置かれた立場について、自身の見解を明確に語った。 「祖国でも異国でも、セルビアの敵は束になって我らに立ちはだかっている。彼らに対して伝えよう、『我らは恐れていない』、『我らは戦いを辞さない』と!—スロボダン・ミロシェヴィッチ、1988年11月19日[24] また別のとき、ミロシェヴィッチは個人的に次のように語った。 我々セルビア人は、セルビアの利益のために、合憲・違憲の別に関わらず、合法・違法の別に関わらず、党則に従う・従わないの別に関わらず、あらゆる行動をとる。—スロボダン・ミロシェヴィッチ[25] セルビアとモンテネグロで発生した「反官憲革命」と呼ばれる一連の反乱によって、ミロシェヴィッチおよび、ヴォイヴォディナ、コソボ、モンテネグロにおけるミロシェヴィッチの同調者たちがそれぞれ権力の座についた。ミラン・クチャン率いるスロベニアは、このミロシェヴィッチの一派による「反官憲革命」に強く反発し、1988年にこの「革命」を非難するメディア・キャンペーンを展開した。スロベニアの国営新聞はミロシェヴィッチをイタリアのファシスト独裁者ベニート・ムッソリーニと比較する記事を掲載した。ミロシェヴィッチは、これらの批判には根拠がなく、「セルビアに対する恐怖を煽るものだ」として非難した[26]。ミロシェヴィッチの支配下となったセルビアの国営メディアは、クチャンがスロベニアとコソボの分離主義を扇動しているとする主張によって、スロベニア側の動きに応じた。 1989年 1989年2月、コソボ代表のアルバニア人アゼム・ヴラシ(Azem Vllasi)が排除され、ミロシェヴィッチの同調者に取って代わられた。コソボのアルバニア人らはヴラシの地位を回復することを求めて抗議行動をし、ヴラシはこの抗議行動を支持した。これに対してミロシェヴィッチとその支持者らは、セルビアやユーゴスラビアに対する反動革命であるとし、ユーゴスラビア政府に対して抗議行動をするアルバニア人を武力で制圧するよう求めた。ミロシェヴィッチのもくろみどおりに、ベオグラードのユーゴスラビア議会の外では、ミロシェヴィッチを支持するセルビア人らによる抗議行動が行われた。この抗議行動は、ユーゴスラビア軍がコソボに入り、セルビア人を保護しアルバニア人の抗議行動を鎮圧することを求めるものであった。2月27日、ユーゴスラビア大統領評議会のスロベニア代表ミラン・クチャンは、セルビア人らの要求に反対してベオグラードを去り、ヴラシの地位を復することを求めたアルバニア人の抗議運動を公然と支持した[2]。1995年に放送された英国放送協会(BBC)のドキュメンタリー「ユーゴスラビアの死」によると、1989年、セルビアとその両自治州、そしてモンテネグロでのミロシェヴィッチによる「反官憲革命」の成功にクチャンは懸念を持ち、コソボでの動きを食い止められなければ、クチャンの率いる小国がミロシェヴィッチ支持者による次の標的となるだろうと指摘した。セルビアの国営放送はクチャンを分離主義者、裏切り者、コソボ分離主義の支持者であるとして非難した[2]。 ベオグラードでは、コソボへの介入を求めるセルビア人による抗議行動が続いた。ミロシェヴィッチは、大統領評議会のセルビア代表ペタル・グラチャニン(en:Petar Gračanin)に対して、コソボ問題について議論をしている間、抗議運動を途切れさせないよう命じた。これによって、コソボのアルバニア人の運動を鎮圧するよう求めるミロシェヴィッチの側に多くの支持があることを印象づけ、他の評議会のメンバーたちに同意圧力をかけることを狙っていた。セルビア議会の議長でミロシェヴィッチの強力な盟友であったボリサヴ・ヨヴィッチ(Borisav Jović)は、ユーゴスラビア大統領評議会の議長であるボスニア・ヘルツェゴビナ代表のライフ・ディズダレヴィッチ(Raif Dizdarević)に会い、ユーゴスラビア連邦政府がセルビア側の要求に従うよう求めた。ディズダレヴィッチはヨヴィッチとの話し合いの中で、「あなたたち(セルビア人の政治家)がデモを組織し、あなたがたがこれをコントロールしている。」と指摘した。ヨヴィッチは抗議行動への関与を否定した。ディズダレヴィッチは抗議運動の参加者たちとの対話を通じて事態を自ら沈静化するよう試みた。ユーゴスラビアの統一を訴え、ディズダレヴィッチは次のように演説した: 我らの父祖たちはユーゴスラビアを建国するために死んだ。我らは民族対立の道へ歩みだしてはならない。我らは兄弟愛と統一の道を行く。—ライフ・ディズダレヴィッチ、1989年[24] この声明によって、ディズダレヴィッチは大きな賞賛を受けたものの、セルビア人による抗議運動はなおも続いた。ヨヴィッチはセルビア人の抗議者らに対して情熱的に呼びかけ、ミロシェヴィッチが抗議運動の支援に訪れると告げた。ミロシェヴィッチが到着すると、抗議者らに対して賞賛の意を持って呼びかけ、セルビアの人々が旧来の官憲に対して勝利を収めつつあると述べた。群集の中からは、「ヴラシを逮捕しろ!」との叫び声があがった。ミロシェヴィッチはその声をはっきりと聞こえなかったかのように振舞ったが、群集らに対して、ユーゴスラビアの統一を阻害するいかなる者も逮捕され、処罰を受けると述べた。翌日、党評議会はセルビアの要求を受け入れ、ユーゴスラビア軍はコソボに送られ、ヴラシは逮捕された。 ヴラシの逮捕に続いて、ミロシェヴィッチを支持してヴラシを引きずりおろす動きに加わったコソボのセルビア人たちは、「真実の集会」(en)のためにスロベニアに向かい、クチャンをユーゴスラビアに対する裏切り者として非難し、その退陣を迫るとした[2]。セルビア人の抗議者たちは鉄道でスロベニアに向かったが、クロアチアが国境の移動を封鎖し、抗議者たちがスロベニアに向かうのを阻んだ。 1990年 セルビア人の抗議者がスロベニアに向かうのをクロアチアが阻止したことによって、1990年の共産主義者同盟の会合では政治的危機に直面した。ミロシェヴィッチ支配下のセルビアはセルビア人の権利を強く主張し、共産主義者同盟の会合における党員1人1票の制度を求めた[2]。数の上で多数を占めるセルビア人は、1人1票制度によって大きな力を得ることになる。スロベニアとクロアチアはこの動きに反対したものの、セルビアとモンテネグロの代表者らは、スロベニアによる改革案すべてに反対票を投じることでスロベニアに圧力をかけ、新しい投票方式を認めるよう迫った。スロベニアとクロアチアの代表者らはこれを拒否し、共産主義者同盟を去ることを宣言した。その後、共産主義者同盟は崩壊し、ユーゴスラビアの全ての構成国で複数政党制が導入された[2]。 1990年以降、ユーゴスラビアのそれぞれの構成共和国で複数政党制による選挙が行われ、共産主義の諸政党は選挙での勝利を収めることができず、政権の座を降りた。代わってほとんどの共和国では民族主義に基づいた勢力が政権を掌握した。各共和国の新しい政府は、ユーゴスラビア内外の自民族を守ることを約束した。クロアチアでは、民族主義者のフラニョ・トゥジマンが政権を握り、クロアチアをミロシェヴィッチから守ると約束した[2]。トゥジマンはその著書によって多くの批判のある民族主義者である。トゥジマンの著書の中では、第二次世界大戦においてウスタシャに殺害されたユダヤ人やセルビア人の死者の数を他の説よりも少なくしていた。 クロアチアに住むセルビア人たちはトゥジマンによる民族主義者の政府を嫌い、1990年にクニンにてクライナと称する分離主義的な地域政府を組織した。クライナの政府は、クロアチアがユーゴスラビアから分かれるならばクライナはクロアチアから分離してセルビアとともにユーゴスラビアに留まることを求めていた。セルビア政府は、クロアチアのセルビア人による分離主義運動を支持し、セルビア人にとってトゥジマン政権はファシストのクロアチア独立国に等しいと主張した。クロアチア独立国は、第二次世界大戦中にファシストのウスタシャによって支配され、多くのセルビア人を殺害したナチスの傀儡国家である。ミロシェヴィッチは、トゥジマンをクロアチア独立国に関連づける論法を、クロアチア政府に反発するセルビア人の運動を支援する上で用い、セルビアの新聞は、2百万のセルビア人たちが、いかにクロアチアと戦うために備えができているかを書き始めた[27]。クニンのセルビア人たちは、トゥジマンが支配するクロアチア政府に対する反乱を成功させるために、現地の警察官ミラン・マルティッチ(Milan Martić)の指導に従って、武器の入手ルートの確保を試みた。クニン市長をはじめとするクロアチアのセルビア人政治家らは1990年8月、ユーゴスラビア議会の議長となったボリサヴ・ヨヴィッチに会い、クロアチアのユーゴスラビアからの分離阻止のための行動を連邦議会にとらせるよう求めた。彼らは、トゥジマンの民族主義政権下でセルビア人が危険にさらされると主張した。会合では、軍の指揮官であるペタル・グラチャニンはクロアチアのセルビア人政治家らに対して、分離運動を組織し、バリケードを築き、あらゆる武器を結集する術を伝え、「もし他の武器を集められないのならば、猟銃を使うように」と伝えた。クロアチアのセルビア人による蜂起は「丸太革命」と呼ばれた。これは、彼らが木を切り出して道路を封鎖し、クロアチア人たちがクニンに入るのを阻止し、クロアチア沿岸部(ダルマチア地方)との交通路を遮断したことによる。BBCのドキュメンタリー「ユーゴスラビアの死」では、このときクロアチアのテレビ局は「丸太革命」を「酔いどれのセルビア人が、深刻な問題を矮小化させようとしている」として非難した。しかし、封鎖によってクロアチアの観光業は大きく損害を受けた。クロアチア政府はセルビア人の分離主義者との交渉を拒否し、武力をもってこの動きを鎮圧すると決定した。クロアチアは、反乱の鎮圧のために、武装した特殊部隊をヘリコプターで送った。しかし、彼らがクニンに装備を持ち込もうとしたところ、ユーゴスラビア空軍が妨害に現れ、ヘリコプターの進入を阻むために戦闘機が来て、基地に戻らなければ撃墜すると警告したと、ヘリコプターのパイロットたちは述べた。クロアチア人たちはザグレブの基地に戻ることを余儀なくされた。クロアチア政府から見れば、ユーゴスラビア空軍によるこの動きは、ユーゴスラビア政府がセルビア人による反乱を支援していることを明らかにしたものであった。 1990年12月、スロベニアで住民投票が行われ、住民の大多数はスロベニアの独立を支持した。セルビアは、いかなる保障もユーゴスラビア中央銀行の許可もないまま、18億ドル相当の紙幣を印刷した[28]。これによって、ユーゴスラビア解体の初期段階が始まった。 1991年 1991年初頭、クニンでの危機とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、スロベニアで選挙によって独立寄りの政府が誕生した。スロベニアは住民投票に従っての独立を求めた[2]。クロアチアでは戦闘が発生していた。また、クロアチアの独立路線も明確化してきた。ユーゴスラビアは切迫した崩壊の危機に直面していた。ヨヴィッチは緊急議会を召集し、この中でヨヴィッチとユーゴスラビア軍の参謀総長ヴェリコ・カディイェヴィッチは共同で、国家を破壊する企てが進行中であるとして、次のように述べた: ユーゴスラビアを破壊するための卑劣な計画が作り上げられている。その第一段階は内戦であり、第二段階は外国の介入である。そして傀儡政権がユーゴスラビア各地に作られる—ヴェリコ・カディイェヴィッチ、1992年3月12日[29] この声明は、独立を志向する各共和国の政府は西側諸国の手先であり、排除されなければならないということを意味している。クロアチア代表のスティエパン・メシッチはこれに怒って反発し、ヨヴィッチとカディイェヴィッチは大セルビアを実現するために軍の力を使おうとしているとし、「それは戦争だ」と非難したヨヴィッチとカディイェヴィッチは各共和国の代表者らに戒厳令に賛成するよう求め、戒厳令なしではユーゴスラビアは崩壊するだろうとした。この会合では、クロアチアでの危機を終わらせるために、セルビア人を守るための軍事行動をとることを認めさせるための、戒厳令の実施の可否を問うた。採決では、ボスニア代表のセルビア人の反対によって否決された。ボスニア代表は、武力によらない平和的解決の可能性はまだ残されているとして、戒厳令に反対した。評議会はその後まもなく閉会された。ヨヴィッチが大統領評議会議長としての任期を終えるとヨヴィッチは、次の議長となったクロアチア人のスティエパン・メシッチを妨害し、代わりにミロシェヴィッチに近しいモンテネグロ政府のブランコ・コスティッチ(Branko Kostić)を議長の座にすえた。 1991年5月、クロアチアの独立を問う住民投票が実施された。クロアチア人の多数はユーゴスラビアからの独立を支持する一方、クロアチアに住むセルビア人たちは投票をボイコットした[2]。スロベニアとクロアチアの両国はともに1991年6月25日に独立を宣言した。スロベニアでの衝突は短期間に終わり、ユーゴスラビア連邦はスロベニアの独立を認めた。しかしクロアチアでは、クロアチアに住むセルビア人たちが住民投票をボイコットし連邦に留まることを望んだため、連邦政府は独立を認めなかった。このため、クロアチアとユーゴスラビア連邦の間での戦争が始まった。また、ユーゴスラビア連邦を復旧する交渉は欧州共同体の加盟国とピーター・カリントン(Lord Peter Carington)による議論の間に失敗に終わった。カリントンの計画では、ユーゴスラビアは解体段階にあるものとして、連邦を構成する共和国の独立を他の共和国は認め、代わりにミロシェヴィッチ政権に対してはセルビア国外のセルビア人の保護は欧州諸国が保障するとした。しかしミロシェヴィッチはこの計画に同意せず、欧州共同体はユーゴスラビアを解体する権利を持たず、またこの計画はセルビア人たちをセルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアの4国に分断するものであり、セルビア人の利益に反するものとして反対した。カリントンは、この計画を全ての構成共和国で住民投票にかけることを提案して応じた。モミル・ブラトヴィッチ(Momir Bulatović)政権下のモンテネグロもはじめはこの計画に同意していた。しかし、セルビアのミロシェヴィッチからの圧力によって、モンテネグロはその立場を変化させ、ユーゴスラビア解体を進めるこの計画に反対した。 ユーゴスラビア分解における異民族嫌悪と民族間の緊張はクロアチアの独立戦争で明確化した。クロアチアとセルビアの双方によるプロパガンダはそれぞれお互いに対する恐怖を与え、彼らが自分たちの中で支持を得るために我々の民族を弾圧し、彼らの死者数を誇張していると宣伝した[30]。戦争初期の数ヶ月の間、セルビア人に支配されたユーゴスラビア陸軍や海軍は、UNESCOの世界遺産に登録されているクロアチアのドゥブロヴニクの町や周辺の村々を包囲した[31]。セルビア側のプロパガンダとして、ユーゴスラビアのメディアは、ドゥブロヴニクの町に「ウスタシャ」の軍や国際テロリストがいることを攻撃の理由として宣伝した[32]。国連の調査では、そのような戦力はドゥブロヴニクにはいないことが明らかにされた[31]。クロアチア軍の戦力は後に増加していった。当時ミロシェヴィッチと盟友関係にあったモンテネグロの首相ミロ・ジュカノヴィッチ(Milo Đukanović)はモンテネグロの民族主義に訴え、ドゥブロヴニクの制圧によって、モンテネグロの領土をドゥブロヴニクへと拡大できると喧伝した[31]。モンテネグロの民族主義者らは、ドゥブロヴニクは歴史的にモンテネグロに属すると主張していた。そして、現在のモンテネグロの国境は古く無教養なボリシェヴィキの地図製作者によって引かれたものであるとした[31]。同時に、セルビアの政府は、その盟友であるモンテネグロの政府のこのような言説を否定した。セルビアの首相ドラグティン・ゼレノヴィッチ(Dragutin Zelenović)は、ドゥブロヴニクは歴史的にセルビアであり、モンテネグロではないとした[31]。各国のメディアはドゥブロヴニクへの爆撃に強い関心を寄せ、ミロシェヴィッチがユーゴスラビア解体の中で大セルビア建設を目指している証拠として報じた。これらの報道では、ミロシェヴィッチはモンテネグロにおける自派の盟友であるブラとヴィッチとセルビア民族主義者らの支援の下、ドゥブロヴニクの奪取のためのモンテネグロの支援を取り付けようとしているとされた[31]。 ヴコヴァルでは、クロアチア人とセルビア人の民族間の緊張は、ユーゴスラビア軍が町に入ったときに暴力に発展した。ユーゴスラビア軍とセルビア人の準軍事組織は市街戦によって町を制圧し、クロアチア人の資産を破壊した。セルビア人の武装勢力はクロアチア人たちに対して蛮行を働き、200人以上を殺害し、その他のクロアチア人たちはヴコヴァルからの脱出を強いられた。これは後にヴコヴァルの虐殺として知られる事件である。このヴコヴァルで行われた蛮行に対して、クロアチア人たちはセルビア人に対する蛮行で応じ、ゴスピチ虐殺と呼ばれた。クロアチア人、セルビア人双方による相手民族に対する蛮行はこの後数年にわたって続くことになる。 1991年から1992年にかけて、多民族が暮らすボスニア・ヘルツェゴビナでも民族間の緊張が高まった。ボスニア・ヘルツェゴビナ議会は多数派のボシュニャク人(ムスリム人)と少数派のセルビア人、クロアチア人の党派によって分断された。1991年、セルビア人の党派で最大の勢力となったセルビア民主党の指導者で過激な民族主義者のラドヴァン・カラジッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナのボシュニャク人の大統領に対して、ボスニア・ヘルツェゴビナのユーゴスラビアからの分離は、同国と同国に住むボシュニャク人にとって破局的なものとなるとして直接警告し、次のように述べた: この、あなた方のしていることは、良いことではない。ボスニア・ヘルツェゴビナを我が物としようとするあなた方の歩む道は、スロベニアやクロアチアがたどったのと同じ、地獄への高速道路だ。あなた方がボスニア・ヘルツェゴビナを地獄へと導くことはないなどと思っていたら、ムスリム人たちは絶滅に向かうことになるだろう。もしここで戦争になったら、ムスリム人たちに自衛の術はない—ラドヴァン・カラジッチ、1991年10月14日[33][2] 1991年、セルビアのミロシェヴィッチ大統領とクロアチアのトゥジマン大統領が、ボスニア・ヘルツェゴビナをセルビア人とクロアチア人の支配地に分割することでボスニア・ヘルツェゴビナでの戦争を回避しようと秘密裏に交渉をしていた。トゥジマンは、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアのクロアチア人たちから、ミロシェヴィッチと交渉したことを非難された[34]。 1992年 1992年1月、クロアチアとユーゴスラビアは国連の監視の下での休戦に合意した。ボスニア・ヘルツェゴビナの分割をめぐるセルビア人とクロアチア人の交渉は続けられた[35]。公に対しては、セルビアの親体制派のメディアは、ボスニア・ヘルツェゴビナが民主的な政治に基づいて、新しいユーゴスラビアの枠内での新たな有志連合に加わるであろうと報じた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナではこれは真剣に受け取られることはなかった[36]。1992年は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の命運を決定的にした最後の一撃の年であった。この年、セルビア、モンテネグロとともに最後まで連邦に留まっていたボスニア・ヘルツェゴビナの政府が、独立を問う住民投票を実施し、同国のセルビア人たちは投票をボイコットしたものの、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府はユーゴスラビアからの分離独立を一方的に宣言した。ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立した後、セルビアとモンテネグロは新しいユーゴスラビア国家である「ユーゴスラビア連邦共和国」を結成することを決め、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国はその歴史に幕を下ろした。新しいユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国のみから成り、複数政党制による民主国家とされた。これによって、社会主義体制の古いユーゴスラビアは最終的に消滅した。多くの西側諸国は、ミロシェヴィッチの支配下にある新しいユーゴスラビア連邦共和国を、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の正当な継承国家ではないと見ていた。ユーゴスラビア連邦共和国はむしろ、ミロシェヴィッチの志向した大セルビア主義の実現でしかなく、その証にミロシェヴィッチはセルビア大統領の地位にありながら1997年までユーゴスラビアを実質的に支配し、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナにおけるセルビア人の民族自決権を訴え、これらの国々のセルビア人たちがユーゴスラビアに留まる権利を主張しながら、同時にミロシェヴィッチはセルビア領コソボ・メトヒヤ自治州のアルバニア人の民族自決権を認めず、その独立主張を無効としていた。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体後の地域における対立民族間の戦争は1990年代を通して旧ユーゴスラビア地域各地で発生し続け、その中で最後の紛争はマケドニア共和国の政府と同国で少数派のアルバニア人の民族主義者によるマケドニア紛争であり、2001年に戦闘が終結した。 憲法 ユーゴスラビアの国家像を定めるのはユーゴスラビア社会主義連邦共和国憲法であり、1946年の憲法制定以来、1953年、1963年、1974年に改正された。 ユーゴスラビア共産主義者同盟は1945年に行われた最初の選挙に勝利し、連邦が存続する間、権力の座に留まった。ユーゴスラビア共産主義者同盟は、ユーゴスラビアを構成する各共和国の共産主義者政党によって構成されている。ユーゴスラビア共産主義者同盟はその政治的立場を党会合で決定する。党会合はそれぞれの構成共和国の共産主義者の代表によって構成され、それぞれの代表による投票によって党の政策を変更する。最後の会合は1990年であった。 ユーゴスラビアの議会は連邦議会と呼ばれ、その庁舎は現在ではセルビア共和国の議会となっている。連邦議会の議員は全て共産主義者によって構成されている。 長らくユーゴスラビア国家の最高指導者の地位にあったのは、ヨシップ・ブロズ・チトーであったが、その他にも、特にチトーの死後は重要な政治家たちが居た。1953年に大統領に就任したチトーは、1974年には終身大統領とされた。1980年にチトーが死去した後、単一の大統領職は廃止され、大統領評議会による集団指導体制へと移行した[2]。大統領評議会は連邦の各構成体の代表者から成り、それぞれ各共和国の国益を代表していた。大統領評議会によって連邦全体の政治目標が定められた。大統領評議会議長は、各国の評議会議員による持ち回り制であった[2]。大統領評議会の議長はユーゴスラビア連邦の国家元首とみなされた。大統領評議会は1991年のユーゴスラビア解体によって廃止された。 1974年、ユーゴスラビア憲法は大幅に変更された。その変更の中には、それぞれの共和国に連邦からの離脱の権利を認めたものや、セルビアを事実上分割し、ヴォイヴォディナとコソボの両自治州に、ひとつの共和国とほぼ同等の権利を認めたものも含まれている[2]。ただし、自治州は共和国とほぼ同等の権利をもつものの、連邦からの離脱権は認められていなかった。 外交 チトーの指導の下、ユーゴスラビアは冷戦において中立を維持した。ユーゴスラビアは東西両陣営に属さない発展途上国(非同盟諸国)との親密な関係を築いたほか、アメリカや西側諸国とも良好な関係を作った。スターリンはチトーを裏切り者とみなし、公然とティトーを批判した。1968年、ソ連によるチェコスロバキア占領(チェコ事件)の後、チトーはユーゴスラビアとワルシャワ条約機構の国々との国境の防衛線を増強した[37]。 1967年1月1日、ユーゴスラビアは、共産主義国として初めて全ての外国人にビザなしでの入境を認めた[38]。 同じ年、チトーは中東戦争の平和的解決を推進した。チトーの計画はアラブ諸国にイスラエル承認を求め、代わりにイスラエルは占領地を手放すよう求めた[39]。アラブ諸国はこの和平案を拒絶した。 1967年、チトーはチェコスロバキアの指導者アレクサンデル・ドゥプチェクに対して、このときチェコスロバキアを占領していたソ連を鎮めるために自らプラハに赴く用意があることを伝えた[40]。 ユーゴスラビアはエンヴェル・ホッジャが率いるアルバニア社会主義人民共和国とは複雑な関係にあった。初期の頃、ユーゴスラビアとアルバニアの関係は前向きであり、アルバニアはユーゴスラビアと共通の市場に加わり、高等学校の生徒たちにセルビア・クロアチア語を教えることを義務付けた。このとき、バルカン連邦構築計画についてアルバニアとユーゴスラビア、ブルガリアの間で議論されていた。アルバニアはこのとき、自国の脆弱なインフラを整備するために、ユーゴスラビアからの経済援助に重度に依存していた。ユーゴスラビアとアルバニアとの間で摩擦が生じたのは、アルバニアが、自国産の天然資源の対価としてユーゴスラビアから受ける支払いの額が少なすぎると主張し始めたときであった。アルバニア人が多数派を占めるユーゴスラビア領のコソボに関しては、ユーゴスラビアとアルバニアの双方が民族主義者たちの対立の沈静化に努めた。アルバニアのホッジャは、民族主義心情は、国際的な友好関係を希求する共産主義者の理想に反するものとした。しかし、アルバニアの一般世論ではコソボのアルバニア人への強い支持があり、1980年代、ホッジャは時に、ユーゴスラビア政府に反抗するコソボのアルバニア人を支持する旨の扇情的な演説をすることもあった。 軍事 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の戦力は、ユーゴスラビア人民軍(JNA)、領土防衛軍(TO)、民間防衛(CZ)、ミリツィア(警察機関)からなり、戦時には戦力を大幅に拡大することができる。(全人民防衛も参照) ユーゴスラビア人民軍 ユーゴスラビア王国と同様に、社会主義のユーゴスラビアでも強力な軍事力を保持した。実際に、チトー統治下のユーゴスラビアではソ連、イギリス、フランスについでヨーロッパで4番目に大きな戦力を持っていた。 ユーゴスラビア人民軍(JNA)はユーゴスラビアの軍事力の中核となる組織であった。ユーゴスラビア人民軍は陸軍、海軍、空軍からなる。ほとんどの軍事装備や部品は(ライセンス生産を含めて)ユーゴスラビア国内で製造されていた。 常備軍は、第二次世界大戦中のパルチザンによって構成されている。ユーゴスラビアにはまた強力な軍需産業があり、クウェート、イラク、ミャンマーなどの国々に武器を輸出していた。ザスタヴァなどのユーゴスラビアの企業はソ連が設計した兵器をライセンス生産するとともに、自ら設計した武器も生産していた。SOKOはユーゴスラビア紛争以前のユーゴスラビアで設計生産された兵器の一例である。 1991年から1992年のユーゴスラビアの解体に伴って、軍は民族ごとに分裂し、末期のユーゴスラビア人民軍はほとんどがセルビア人とモンテネグロ人によって占められるようになった。 領土防衛 ユーゴスラビア人民軍のほかに、それぞれの構成共和国は独自の領土防衛軍(セルビア・クロアチア語:Teritorijalna obrana、スロベニア語:Teritorialna obramba、マケドニア語:Територијална одбрана、略称:TO)を保持した。領土防衛軍は、全人民防衛(セルビア・クロアチア語:Opštenarodna odbrana、スロベニア語:Splošna ljudska obramba、マケドニア語:Општонародна одбрана、略称ONO)と呼ばれる新しい戦闘教義の枠組みによって設置され、各共和国の防衛を担っていた。これは、チェコスロバキアのプラハの春にソビエト連邦をはじめとするワルシャワ条約機構諸国が軍事介入したチェコ事件の結果を受けて、防衛力の強化のために導入された。全人民防衛は、連邦にあるそれぞれの共和国、自治州、自治体ごとに組織された。 文化 ユーゴスラビアで著名な作家としては、ノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチや、ミロスラヴ・クルレジャ(Miroslav Krleža)、メシャ・セリモヴィッチ(Meša Selimović)、ブランコ・チョピッチ(Branko Ćopić)、マク・ディズダル(Mak Dizdar)などの名が挙がる。 著名な画家にはジョルジェ・アンドレイヴィッチ(Đorđe Andrejević Kun)、ペタル・ルバルダ(Petar Lubarda)、メルサド・ベルベル(Mersad Berber)、ミリッチ・オド・マチュヴェ(Milić od Mačve)などがいる。彫刻家では、アメリカのニューヨークにある国際連合本部ビルの前にあるモニュメントを製作したアントゥン・アウグスティンチッチ(Antun Augustinčić)が知られる。 ピアニストのイーヴォ・ポゴレリチとヴァイオリニストのステファン・ミレンコヴィッチ(Stefan Milenković)は国際的に知られたクラシック音楽の演奏家であり、ヤコヴ・ゴトヴァツは作曲家、指揮者である。ボバン・マルコヴィッチ(Boban Marković)はジャズ音楽家として名声が高い。 ユーゴスラヴィアの映画には、ダニロ・バタ・ストイコヴィッチ(Danilo Bata Stojković)、リュバ・タディッチ(Ljuba Tadić)、ファビヤン・ショヴァゴヴィッチ(Fabijan Šovagović)、ムスタファ・ナダレヴィッチ(Mustafa Nadarević)、バタ・ジヴコヴィッチ(Bata Živojinović)、ボリス・ドヴォルニク(Boris Dvornik)、リュバ・サマルジッチ(Ljubiša Samardžić)、ドラガン・ニコリッチ(Dragan Nikolić)、ミレナ・ドラヴィッチ(Milena Dravić)、ネダ・アルネリッチ(Neda Arnerić)、ラデ・シェルバジヤ(Rade Šerbedžija)、ミラ・フルラン(Mira Furlan)、エナ・ベゴヴィッチ(Ena Begović)などの俳優が登場した。映画監督にはエミール・クストリッツァ、ドゥシャン・マカヴェイェヴ、ゴラン・マルコヴィッチ(Goran Marković)、ロルダン・ザフラノヴィッチ(Lordan Zafranović)、ゴラン・パスカリェヴィッチ(Goran Paskaljević)、ジヴォイン・パヴロヴィッチ(Živojin Pavlović)、ハイルディン・クルヴァヴァツ(Hajrudin Krvavac)などがいる。ユーゴスラビアの映画では外国の著名な俳優も起用し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされた『ネレトバの戦い』ではオーソン・ウェルズやユル・ブリンナーを、『スティエスカ』(Sutjeska)ではリチャード・バートンを起用した。また、多くの外国の映画がユーゴスラビア国内で撮影された。ハリソン・フォード、ロバート・ショウ、フランコ・ネロなどが演じた『ナバロンの嵐』や、ジャッキー・チェンが演じた『サンダーアーム/龍兄虎弟』、アラン・アーキン、ジョアンナ・パクラ、ルトガー・ハウアーの演じた『脱走戦線 ソビボーからの脱出』(Escape from Sobibor)は、ユーゴスラビア国内で撮影された。 ユーゴスラビアで開催される文化的催し物には、ドゥヴロヴニク夏祭り(Dubrovačke ljetne igre)、プーラ映画祭(Pula Film Festival)、ストルガ詩の夕べ(Struga Poetry Evenings)などがある。ユーゴスラビア・ニュー・ウェイヴ(Yugoslav New Wave)は、ユーゴスラビアの流行音楽を席巻し、また、本物志向のサブカルチャー運動はニュー・プリミティヴス(New Primitives)と呼ばれた。ユーゴスラビアは、社会主義国で唯一、ユーロビジョン・ソング・コンテストに参加し続けた国であり、1961年から参加していた古参であった(ユーゴスラビアのユーロビジョン・ソング・コンテストも参照)。流行音楽のフェスティバルとしてはスプリト・フェスティバル(Split Festival)が有名であった。伝統音楽で名声のあるアーティストにはタネツ(Tanec)合唱団や、ロマ音楽のエスマ・レジェポヴァ(Esma Redžepova)などがいる。 1990年代のユーゴスラビア崩壊の前は、ユーゴスラビアは基づいた多文化主義の社会であった[2]。そして、それは「兄弟愛と統一」の概念や、ユーゴスラビア人民をよみがえらせたパルチザンによるファシストや民族主義者に対する勝利の記憶によるものであった。ユーゴスラビアでは、第二次世界大戦におけるユーゴスラビアの歴史は、単にユーゴスラビアのパルチザンたちによるファシストに対する勝利であるのみならず、多民族社会のユーゴスラビアを害する「悪」の民族主義者、クロアチア人のウスタシャやセルビア人のチェトニックに対する、「正義」であるユーゴスラビアの人民の勝利であるとされた[2][41]。ユーゴスラビアは自国民に対し、自国を非同盟諸国の指導者と位置づけ、ユーゴスラビアが、正しく、友好的な、マルクス主義の世界を作るためにあるとしていた[42]。アーティストたちは特定の民族を超えて多くの人々の人気を得ており、ボシュニャク人のターボ・フォーク歌手でボスニア・ヘルツェゴビナ出身のレパ・ブレナはセルビアなどでも大変人気がある。映画界では1990年代まで民族主義的なものは避けられていた[43] スポーツ ユーゴスラビア社会主義連邦共和国には、多くの強いスポーツ社会があった。サッカー、バスケットボール、そして1984年の冬季オリンピックの開催地にサラエボが選ばれたときも、人々はこれに熱中した[44]。 サッカーの分野では、ユーゴスラビア代表は1960年[45]と1968年[46]にUEFA欧州選手権で準優勝となったほか、年齢別の大会ではUEFA U-21欧州選手権の1978年大会、1987 FIFAワールドユース選手権での優勝経験[47]もあるサッカー強国であった。1980年代後半には、イヴィツァ・オシム監督の下、ドラガン・ストイコビッチ、デヤン・サビチェビッチ、ロベルト・プロシネチキ、ズボニミール・ボバン、スレチコ・カタネッツ、ダルコ・パンチェフを擁し、1990年イタリア大会では準々決勝でアルゼンチンを相手にPK戦に持ち込む健闘を見せた[48]。 しかし、この時既にユーゴスラビアの民族・地域間の対立が先鋭化し、ユーゴスラビアの解体が始まっていた。1991年までに行われたUEFA欧州選手権1992の予選を通過したが、同年にはクロアチア、スロベニア、マケドニアが独立を宣言した。本大会を目前とした1992年の春にボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言すると、オシム監督の故郷のサラエボも攻撃を受け、これに抗議してオシムは監督を辞任した。残されたセルビアとモンテネグロから成るユーゴスラビアに対して国際連合は制裁を決め、ユーゴスラビア代表は国際大会への参加を禁じられた。これによってユーゴスラビア代表は、欧州選手権を目前にしながら、一戦も戦うことなくその歴史に幕を下ろした。 ユーゴスラビアはハンドボールの強豪国でもあり、ハンドボールユーゴスラビア代表(Yugoslavia national handball team)は世界男子ハンドボール選手権で1986年に優勝したほか、1970年と1974年に第3位、1982年に第2位となる好成績を残している。 水球でも顕著な成績を残しており、水球ユーゴスラビア男子代表(en)はオリンピックで3度の金メダル(1968年、1984年、1988年)、4度の銀メダル(1952年、1956年、1964年、1980年)を獲得し、世界水泳選手権では金メダル2つ(1986年、1991年)、銅メダル2つ(1973年、1975年)、FINAワールドカップでは金メダル2つ(1987年、1989年)、銀メダル2つ(1981年、1991年)、銅メダル1つ(1979年)、欧州選手権(European Water Polo Championship)でも1991年の金メダルをはじめ毎回メダルを獲得する常勝チームであった。 連邦の構成体 「ユーゴスラビアの構成体一覧」も参照 1944年、ユーゴスラビア連邦には6つの社会主義の共和国が設けられ[49]、さらにセルビア国内に2つの自治州が置かれた。連邦の首都はベオグラードであった。同じ社会主義連邦のソビエト社会主義共和国連邦との違いは各構成国の自治権の違い。ユーゴスラビアの方がソ連に比べて強い。連邦の構成体は以下の通りである: 人口 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、主要民族(narodi)と少数民族(narodnosti)を区別して認識していた。主要民族にはスロベニア人、クロアチア人、セルビア人、マケドニア人、そしてモンテネグロ人とムスリム人があった。それ以外のマジャル人やアルバニア人などは少数民族とされた。 ユーゴスラビアを構成する6つの共和国それぞれに住む、主な民族は次の通りである: スロベニア - スロベニア人 クロアチア - クロアチア人、セルビア人 ボスニア・ヘルツェゴビナ - ムスリム人、セルビア人、クロアチア人 セルビア - セルビア人、アルバニア人、マジャル人、ムスリム人 中央セルビア - セルビア人、ムスリム人 コソボ - アルバニア人、セルビア人、トルコ人、ムスリム人、モンテネグロ人 ヴォイヴォディナ - セルビア人、マジャル人、スロバキア人、ルーマニア人、ルシン人、クロアチア人 モンテネグロ - モンテネグロ人、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人 マケドニア - マケドニア人、アルバニア人 また、このほかに民族自認として「ユーゴスラビア人」があった。これは、自身をユーゴスラビア全体に属するものと位置づけたい者によって使われ、民族間の混血によって生まれた者や、その地方では少数民族となる者などが「ユーゴスラビア人」を自認した。 経済 ユーゴスラビアの経済システムは、はじめはソビエト連邦やその他の東側諸国と同様であったが、次第に差異が大きくなり、特に1948年のユーゴスラビアとソビエト連邦の決別後は大きく異なっている。企業は国家が保有するよりもむしろ、社員の協同組合が保有する形をとり、イスラエルのキブツのように、労働者による自主管理によって運営された[2]。ソビエト連邦や東側諸国とは異なり、ユーゴスラビアの社会主義経済は完全な計画経済ではなかった。第二次世界大戦におけるユーゴスラビア占領と解放闘争によって、ユーゴスラビアのインフラストラクチャーは壊滅的な損害を受けた。戦前のユーゴスラビアでもっとも発展していた地方でも田舎的であり、国内の産業は大きく損害を受けるか破壊された。 1960年代の経済復興にともなって、ユーゴスラビアの経済は大きく繁栄した。失業率は低く、労働力人口の教育水準は漸増していった。ユーゴスラビアの冷戦における中立と非同盟諸国における指導的な役割のため、ユーゴスラビアの企業は西側諸国、東側諸国の双方に製品を輸出した。ユーゴスラビアの企業はアフリカ、ヨーロッパ、アジアでの重要なインフラ整備や産業プロジェクトに携わった。 ユーゴスラビアでは1960年代より出入国の自由が認められていたため、多くの労働者が西側諸国、特に西ドイツなどに出稼ぎ労働に行った。西側諸国への出稼ぎ労働は、ユーゴスラビアの失業率を低く保つ上で一役買っていたほか、新たな資金、外貨の獲得源ともなっていた。 1970年代、エドヴァルド・カルデリ(Edvard Kardelj)の理論に基づいて、経済の再編が行われた。この理論では、企業の自己決定権や、労働者の働きによって公有企業の収益を分配することが認められた。全ての企業は「労働組織」へと改組された。「基礎組織」は企業を構成する最小単位であり、小企業や、大企業の部署がこれに相当する。それぞれの基礎組織があつまって「労働組織」となり、それらは「連合労働組織」に組み入れられた。連合労働組織は大企業や、産業の特定分野すべてを代表するものであった。もっとも重要な決定はそれぞれの労働組織によって決められ、これによって一定の企業間競争が生まれる。管理職の任命や、労働組織の戦略方針の決定は、その重要性に応じて、時に政治的、あるいは個人的な影響力拡大のために持ち出されることがあった。 企業の意思決定に対して全ての労働者に平等な権利を与えるために、「基礎組織」の制度は厚生、教育などの公共サービスにも適用された。基礎組織を構成する人数は通常、数十人を上回ることはなく、労働者たちによる委員会を持ち、企業は公共サービスの運営管理には労働者たちの同意を必要とした。 ユーゴスラビア紛争と一連の市場縮小、マネジメントの失敗や不透明な企業の私有化によって、1990年代の旧ユーゴスラビア諸国はいずれも大きな経済問題を抱えることとなった。スロベニアだけはユーゴスラビア崩壊期のショックと落ち込みからすぐに立ち直り、経済成長を続けた。クロアチアが1990年の国内総生産の水準を回復したのは2003年のことであった。それ以外の多くの国々では、2008年に至るも、いまだに1990年の経済水準を回復していない。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の通貨は、ユーゴスラビア・ディナールであった。 域内総生産(GDP) (出典: IMF/World Bank - 1990) 多様性を内包した国家 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、 七つの国境(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニア) 六つの共和国(スロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア) 五つの民族(スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人) 四つの言語(スロベニア語、セルビア語、クロアチア語、マケドニア語) 三つの宗教(正教、カトリック、イスラム教) 二つの文字(ラテン文字、キリル文字) 一つの連邦国家 といわれるほどの多様性を内包した国家であった。 さらに、「五つの民族」には含まれていない主要民族であるボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア南西部・モンテネグロ西部(サンジャク地方)に多いムスリム人、セルビア南部のコソボ自治州やマケドニア共和国西部に多いアルバニア人、セルビア北部のヴォイヴォディナ自治州に多いハンガリー人、またロマ人などが存在した。 セルビア語とクロアチア語は、言語学上は同一言語とみなされている。 「七つの国境」については「七つの隣国」や「七つの不安[50]」、「一つの連邦国家」については「一人のチトー」、「五つの民族」については「五つの主要民族」とした上で「八つの少数民族」が追加されるなど、様々な表現があった。 その他 ユーゴスラビアの国歌は、1926年以降のポーランド国歌「ドンブロフスキのマズルカ」(Mazurek Dąbrowskiego)とメロディが同じであった。国歌「スラヴ人よ」(Hej, Slováci)は、1834年に作られ、以来汎スラヴ主義の象徴歌、ソコル(Sokol)体育教育と政治運動の象徴歌、第二次世界大戦期のスロバキア共和国、セルビア、モンテネグロ、ユーゴスラビアの国歌であった。この曲はまたスロバキアの非公式の第二の国歌とみなされている。なお、ユーゴスラビアの「スラヴ人よ」のほうがテンポが遅い[51] ギャラリー ボスニア・ヘルツェゴビナ、モスタルのスタリ・モスト。 ベオグラードの象徴、ポベドニク(Pobednik) クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園 クロアチアのドゥブロヴニク。UNESCOの世界遺産に登録された、国際的な観光地。 脚注 出典 関連文献 Check date values in: |date= (help) 関連項目 バルカン半島の歴史 ユーゴスラビア 兄弟愛と統一 ユーゴスラビアの音楽 ユーゴノスタルギヤ 約束の国 - カルロ・ゼンが執筆したライトノベル。星海社FICTIONSより出版。ユーゴスラビアをモデルとした多民族国家「ヒルトリア社会主義連邦共和国」が舞台。 外部リンク Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%80%A3%E9%82%A6%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 199, 661, 929, 1334, 1904, 2103, 2652, 3514, 4094, 4929, 5134, 5334, 5823], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 198, 653, 928, 1320, 1896, 2102, 2651, 3506, 4093, 4928, 5133, 5320, 5797, 5848], dtype=int32)}
バーデン=ヴュルテンベルク州で一番高い山は何?
シュヴァルツヴァルト
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
シュヴァルツヴァルト(German: Schwarzwald)は、ドイツ・バーデン=ヴュルテンベルク州に位置する森・山地。シュワルツワルト</b>とも表記する[1]。 総面積は約5180平方キロ。「シュヴァルツヴァルト」とは、ドイツ語で「黒い森」を意味する。森の多くは植林されたドイツトウヒの木であり、「黒い森(シュヴァルツヴァルト)」という名称も、密集して生えるトウヒの木によって、暗く(黒く)見えることがその由来である[2]。その他、低地においてはオークやブナも生育している。 地理 バーデン地方に属し、北はバーデン=バーデン、東はシュトゥットガルト、南はフライブルク、西はライン川の流れを挟んでフランス中東部のアルザス地方(アルザス=ロレーヌ)との国境にある。 南北で約160キロに広がる。一番高い箇所は、フェルトベルク(Feldberg)の山頂で、海抜1493メートルである。ドナウ川、ネッカー川など多くの川が、シュヴァルツヴァルトに水源を有している。地質学的には、この森は片麻岩を基盤として砂岩がその上に覆いかぶさった地面から構成される。 主要な山 フェルトベルク(Feldberg 1,493 m) ゼーブック(Seebuck 1,448 m) ヘルツォーゲンホルン(Herzogenhorn 1,415 m) ベルヒェン(Belchen 1,414 m) トーター・マン(Toter Mann 1,321 m) シュピースホルン(Spießhorn 1,349 m) ベーアハルデ(Bärhalde 1,317 m) ブレースリング(Blößling 1,309 m) シャウインスラント(Schauinsland 1,284 m) ハープスベルク(Habsberg 1,274 m) ヴィースヴァルトコップフ(Wieswaldkopf 1,270 m) ホーホコップフ(Hochkopf 1,263 m) 歴史 シュヴァルツヴァルトはフランスに隣接しておりフランスの政治的影響が強く、他のドイツ諸邦とは異なる慣習や伝統的法体系を形成してきた[3]。 シュヴァルツヴァルトは紀元前4000年頃の居住跡が考古学的に発見されており、紀元前800年の鉄器時代頃にはケルト人の入植があった。ガイウス・ユリウス・カエサルのガリア戦争勝利によるガリア・ゲルマニア征服でローマの版図に加えられた地域の1つで、深い森に覆われ高地で冬季には厳寒となるシュヴァルツヴァルトは啓開の範囲から外れ、東方のハイデンハイムがリーメス後背地として選択された。 10世紀の終わりから11世紀にかけて修道院による定住が行われ、聖ペーター、聖メルゲン、聖ブラージェンらの修道院が設立された。11世紀にツェーリンゲンの勢力が伸張したが、その衰退と共に多くの封建領主の支配に服することになった。18世紀初頭のスペイン継承戦争では周辺地域がフランス軍とドイツ軍の係争地となり、18世紀末から19世紀初頭のナポレオンの時期にバーデン辺境伯カール・フリードリヒがバーデン地方を統一し、1806年にバーデン大公国を成立させた。バーデン大公国は1919年3月21日に国民議会によって憲法が制定され、バーデン共和国となった。第二次世界大戦後、アメリカとフランスにより分割占領された。 経済 林業・観光業が発展している。シュヴァルツヴァルトのいくつかの町では、春を祈願した古ゲルマンの祭典である「愚者のパレード」が行われ、多くの観光客を集める。鳩時計(郭公時計)、おもちゃの製造などの精密産業でも知られる。これらの産業は、厳しい冬の降雪期に屋内で作業を行えることから発展していったと考えられ、フルトヴァンゲンにあるドイツ時計博物館では、時計産業と時計職人の歴史が紹介されている。 シュヴァルツヴァルトの代表的な都市としては、シュヴァルツヴァルト西部沿いに北部の温泉保養地として知られるバーデン=バーデン、中南部で大学都市でドイツの環境首都でもあるフライブルク・イム・ブライスガウなどが挙げられる。東部沿いの都市では、バーデン=バーデンの東にあたるカルフは、ヘルマン・ヘッセの出身地として知られる。カルフはヘッセの博物館があるほか、『車輪の下』など彼の代表作の中でも描かれている。ライン川沿いのオッフェンブルクから、シュヴァルツヴァルトに入り、フィリンゲン、ドナウエッシンゲンを経由して、スイス国境沿いのコンスタンツまで鉄道が走っている。 他にも、ハイキングやサイクリング、乗馬、クロスカントリー・スキーなどの野外スポーツには格好の場所でもあり、高原は農業や牛の飼育に適する。 特産品として、燻製ハムのシュヴァルツヴェルダー・シンケン[4]や、サクランボから作られた蒸留酒であるキルシュヴァッサー[5]がある。 環境問題 第二次世界大戦後、酸性雨の被害によって、多くのシュヴァルツヴァルトの木々が枯死した。こうした状況を受けて、バーデン=ヴュルテンベルク州や、同州に属するフライブルクやカールスルーエなどの都市で、環境問題への本格的な取り組みが進んでいった。1980年代以降、緑の党と称される環境政党が台頭したこともこの動きを促進した。 出典 外部リンク (in German)(in English)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 827, 1045, 1388, 2890, 3485, 6100, 6864, 8525, 10142, 10671, 11745, 13120, 13820, 14520, 14704, 16501, 16746, 17474, 17699, 18359, 19107, 19783, 20085, 20757, 21253, 21749, 22161, 23107, 23486, 24641, 25090, 25165, 25387, 25478, 25561, 25711, 25778], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 819, 1025, 1387, 2889, 3484, 6099, 6863, 8524, 10141, 10670, 11744, 13119, 13819, 14519, 14703, 16500, 16732, 17419, 17698, 18337, 19106, 19782, 20084, 20702, 21252, 21748, 22139, 23106, 23462, 24640, 25055, 25164, 25386, 25464, 25547, 25684, 25753, 25843], dtype=int32)}
オビ=ワン・ケノービの師匠は誰ですか?
オビ=ワン・ケノービ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([1048], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([1075], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
オビ=ワン・ケノービ(Obi-Wan Kenobi、ベン・ケノービ)は、アメリカのSF映画『スター・ウォーズ』シリーズに登場する架空の人物で、ジェダイである。「オビ=ワン・ケノビ」と書かれることもある。「エピソード4~6」ではアレック・ギネスが、「エピソード1~3」ではユアン・マクレガーが演じた。アニメ作品『スター・ウォーズ クローン大戦』『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』『スター・ウォーズ 反乱者たち』ではジェームズ・アーノルド・テイラーが声を担当した。オビワンの役アレックギネスは、スターウォーズシリーズに携わることができ、とても光栄である。と言葉を残している。 人物 アナキン・スカイウォーカーとルーク・スカイウォーカーの二世代の主人公に師としてフォースの道を教えた、シリーズ中でも重要な人物である。 ジェダイ騎士 師クワイ=ガン・ジンと同じく、誠実で穏やかな人柄で対話による交渉に長けている。師が多用していた手をかざしてフォースで他人の心を操る技、“マインド・トリック”を得意とする。戦闘技能も超一流であり“過激な交渉”も数多くこなしている。 ジェダイの中でも特に強力なフォースを持つヨーダや、剣技に優れたメイス・ウィンドゥなど大きく突出した能力は無いが、代わりに弱点といえる弱点が存在せずバランスよく全ての能力に優れている。アナキンは『エピソード2』劇中でパドメに、オビ=ワンについて「マスター・ウィンドウの様に強く、マスター・ヨーダの様に賢い」と評している。突出していないとは言え、各種の能力は経験に裏打ちされた高いレベルに達しており、師を失った後も独自にフォースの修練をしていたため、強力なフォースを使いこなし、実戦を経た剣の腕も相当なものである。剣技の型が防御持久型だったため、最強の戦闘能力を誇りかつ攻撃型の剣技シエンを使うアナキンとの一騎討ちでは終始防戦一方だったが、地の利を巧みに使い、彼の一瞬の隙を突くことで辛くも勝利を収めた。航空機のパイロットとしても優れた腕を持ち、数多くの危機を卓越した操縦技術で切り抜けているが、飛行や操縦自体は好きではないらしく、本人曰く、「飛ぶのは嫌い」「飛ぶのはドロイドの仕事」とのこと。また、ブラスターなどの銃火器を「野蛮な武器」と嫌っており、ジェダイとしてライトセーバーとフォースでの戦いを好む。 最も狡猾にして洞察力のある、最も粘り強いジェダイ・マスターと言われ、銀河の調停者であるジェダイ騎士団のなかでも特に交渉事に長けたジェダイ騎士として、ヨーダやメイス・ウィンドゥらジェダイ評議会の古参のマスターたちからも一目置かれている。そのため、オビ=ワンのことを“交渉人(ネゴシエーター)”と呼ぶ者も多い。事実、パドメ・アミダラ護衛の任に就くまでは、国境紛争の調停という外交的な任務に就いていた。 得意とする剣技の型は守りに重点を置いたソーレスであり、ジェダイの騎士最高の剣士と称えられるメイス・ウィンドゥにさえも「ザ・マスター」(ソーレスを極めた者)と言わしめるほどの実力を持つ。元々は師のクワイ=ガンと同じアタルの使い手だったが、アクロバティックな動きから来る防御不足と体力消費量が裏目に出てクワイ=ガンがダース・モールに殺された事から防御持久型のソーレスに切り替えた。ただしアタルの修行自体は継続していた様子で、『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』では弟子のアナキンがアタルの型を披露する場面があるほか、『反乱者たち』で再びダース・モールと対峙した際には敢えてアタルを(ソーレス→シャイ=チョーの構えを経て)使用し、勝利している。劇中の戦闘では、師を倒したダース・モールを仕留めたのを皮切りに、完全武装のジャンゴ・フェットをライトセーバーを落とした状態ながら飛び蹴りで追い詰め、ジオノーシスの闘技場に牽き立てられた際は、手錠をかけられ両手が不自由ながらも猛獣や番兵を圧倒。クローン大戦では4本のライトセーバーを同時に操るグリーヴァス将軍と双刃の武器を振るうマグナガードも難なくあしらっており、極めて高い戦闘技術と経験からくる順応性を見せている。とりわけ、絶壁に追い詰められたときに持ち前の危機回避能力を発揮しており、幾度となく生還を果たしている。ダース・モールやダース・ベイダー(アナキン)といった、自分以上の実力者に対しても、奇策や地の利を利用することで最終的に勝利を獲得した。ただし、師の師にあたるドゥークー伯爵とは戦法の相性が悪いのか、その能力を最大限に発揮することができず早々に負傷、または気絶によって戦闘不能にさせられており、苦手としている。『シスの復讐』の小説では、アナキンと共にドゥークーと互角に戦っているが、「紳士らしくない戦い方」をされ、フォースにより壁に叩き付けられ、負傷している。また、「エピソード1~3」において戦闘中にライトセーバーを落とすという致命的な失態も演じており、そのせいで幾度と無く危機に陥っている。 戦闘の際は他のジェダイ同様、ライトセーバーのみを使用するが、応急的にブラスターを使用したこともある。が、『エピソード3/シスの復讐』や『エピソード4/新たなる希望』ではブラスターを「野蛮な(優雅でない、無粋な)武器」と称していることから、戦闘には一種の美学も持ち合わせているようである。『エピソード4』ではライトセーバーを「宇宙で最も洗練された武器」と語っている。『スター・ウォーズ クローン大戦』や『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』とそのTVシリーズのシーズン3までではクローン・トルーパーの装甲服を使用している。 独自の信念に従って行動し、評議会との対立も顧みなかった師クワイ=ガン・ジンの背を見て育ってきたせいか、奔放な弟子アナキンに対し、ジェダイの掟に従うよう説教する場面が多く、弟子や他のジェダイと行動を共にするときは、自制して模範的なジェダイとしての行動に努めている。だが本人は自覚していないものの、オビ=ワン自身も師の異端的な性格を確実に受け継いでおり、単独任務や緊急事態ではジェダイらしからぬ考えや行動を見せることも多かった。『エピソード2』では、自分の任務は護衛と言いつつ、暗殺ドロイドに飛び掛って追跡したり、ジェダイ公文書館の情報よりもデクスター・ジェッスターのような一般庶民からの情報に基づいて行動したりと、ジェダイとしては一風変わった側面も見せており、任務遂行のためには手段を選ばない柔軟性も持っている。ただし、前者は何かと命を狙われて実際に周りのたくさんの人物が死んでいることから、憂いを断つためという正義感からくるものであり、後者に関しても、実際に相手側が想定したよりも早く真相にたどり着けたので正しい手段であったことが証明されている。若い頃は奇妙な存在として苦手としていたジャー・ジャー・ビンクスとも、師の持っていた分け隔てのない包容力を自ずと身につけたためか、数年後には親しい間柄になっている。 無念の死を遂げた師クワイ=ガンの遺志を継ぎ、クワイ=ガンが見出したアナキンを弟子として指導することになったオビ=ワンは、評議会の計らいで、通例より若干早く騎士に昇進している。しかしながら、師であるオビ=ワンよりフォースの素質に恵まれ、周囲から「選ばれし者」として注目を浴びていた弟子アナキンの指導は、難儀を極めた。亡き師であれば、自分よりもよりよい指導を行ったのではないか、という苦悶や、師よりも恵まれた能力に慢心を抱くアナキンの傲慢さをたしなめるときなど、評議会との板ばさみに追い込まれることも多く、悩み多き指導者となった。元々は生真面目な性格であったが、何かと評議会に盾突く師クワイ=ガンと評議会の間でも苦労してきており、この長年の経験に揉まれたせいか、やや皮肉っぽく飄々とした性格になってしまった。特に、行き過ぎたアナキンの行動を窘める度に「いつかお前に殺されそうだ」と痛烈な皮肉を飛ばしている。だが一方で、弟分でもあるアナキンとは冗談交じりの談笑を交わすなど、厳しい中にもユーモアを解する面を持つ、よき兄、よき父親代わりでもあった。また、『エピソード2』ではアナキンに「慎重すぎる」と非難された性格も、『エピソード3』では敵の罠に敢えて飛び込むなど多少軟化したようである。 クローン戦争に巻き込まれるまでは、ジェダイの関わる範囲外のことに関しては比較的ドライに受け止めており、徐々にパルパティーンとの関わりが目立つようになるアナキンに対し、オビ=ワンは一貫して「所詮、政治家は信用できない」というスタンスを通している。親しい友人であったパドメですら例外ではなく、特別視しようとするアナキンに対し「彼女も政治家だ」と語っている。 クローン大戦では、将軍としてクローン軍を統率し銀河系を転戦した。飛行技術に長けた弟子アナキンとの華麗な連係プレーも功を奏し、数々の戦場で戦功を上げ一躍戦争の英雄となる。直属の部下であるクローン・トルーパー、コマンダー・コーディとは、特に深い信頼関係を築いており、単なる上下関係を超えて戦友として互いを認め合う間柄だった。しかし、グリーヴァス将軍討伐に赴いたウータパウにて、パルパティーンが発したオーダー66に従ったコーディは躊躇なく部下にオビ=ワンへの砲撃を命じ、戦車砲の直撃は免れたものの、砲撃のあおりを受けたオビ=ワンは崖から水面へと転落した。不幸中の幸いか、水に落ちたことで無傷でジェダイ狩りを逃れることに成功し、ウータパウを離れたオビ=ワンはこちらも難を逃れていたヨーダに合流し、混乱の中で情報収集にあたった。 突然のクローン戦争終戦の後、それに代わってジェダイ狩りが始まった。パルパティーンによる体制転覆と、議会召集の混乱に紛れて聖堂に戻ったオビ=ワンは、アナキンがシスに寝返り、暗黒卿ダース・ベイダーになっていたという驚愕の事実にショックを受ける。最愛の弟子であり、家族同然のアナキンを取り戻すため、皇帝となったパルパティーンを討ち取ると息巻くオビ=ワンだったが、ヨーダは「お前の力では敵わん、相手が強すぎる。」と制止されてしまい、非情にも堕落したアナキンの始末を言い渡されてしまう。皇帝の暗殺をヨーダに任せると、オビ=ワンはアナキンの動向を探るため、アナキンの恋人であると薄々感づいていたパドメに真相を告げ、動転したパドメの宇宙船に忍び込んでアナキンのいるムスタファーに向かった。パドメの乗った宇宙船からオビ=ワンが姿を現したことに憤慨するアナキンは、パドメが自身を殺すために連れて来たと誤解。オビ=ワンの行動は、アナキンがフォースグリップによって最愛の人であるはずのパドメに危害を加えるという最悪の事態を招いてしまった。 壮絶な戦いの末、かつての弟子であり、愛する弟でもあるアナキンを始末するという、ジェダイとして最も非情な任務を果たした。しかし自らの手でとどめを刺すことはできず、三肢を斬り落とされ憎悪に満ちたアナキンが溶岩で焼かれるのを断腸の思いで振り切ったオビ=ワンは、アナキンのライトセーバーを拾うと力なくムスタファーを去った。アナキンへのショックで生きる気力を失ってしまったパドメを惑星ポリス・マサに運び込み、アナキンの遺した双子の出産に立会うと、力尽きたパドメの死を看取った。 全てが絶望的な状況の中、オビ=ワンはヨーダ、ベイル・プレスター・オーガナと今後の方針について協議したのち、ヨーダからかつての師クワイ=ガンがフォースの冥界から戻ったと聞かされる。クワイ=ガンは「生き返った」わけではなく、死後フォースと一体になりながらも意思を保っており、そのクワイ=ガンの意思と交信できるようになったということである。生まれたばかりのルーク・スカイウォーカーをタトゥイーンのラーズ家に預けると、自身もルークの成長を見守るべくその地で隠遁生活を始めた。 その後ほどなくして、ムスタファーで倒したアナキンが生きており、サイボーグの暗黒卿ダース・ベイダーと化していたことを知る[1]。 約20年の隠遁生活の間も修行を積み、フォースと一体となった亡き師と交信する術を体得し、自身も死後フォースと一体になる術を身に付けた。この隠遁生活の間、“ベン・ケノービ”と名乗っていた。その後、レイア・オーガナからの救援要請を受け取り訪れたルーク・スカイウォーカー一行を引き連れ、モス・アイズリーの宇宙港へ赴く。そこで、ハン・ソロとチューバッカの二人をルークと巡り合わせた。一路、オルデランへ向かうも、惑星オルデランはすでにデス・スターの攻撃を受け消滅していた上、彼らの乗るミレニアム・ファルコンも拿捕されてしまう。その後、首尾よくデス・スターの内部に侵入し、牽引ビームの電源を切った後かつての弟子ダース・ベイダーと因縁の再戦を果たす。決闘の末、ルーク達を逃がすために自ら防御を解き敵の刃にかかると、フォースと一体化することで肉体を消し去った。霊体化の秘技によって、その後も声や霊体を通し、ルークに助言を与え導いた。来るべき決戦に備え、ルークに惑星ダゴバに住むヨーダの下で修業をこなすよう命じ、オビ=ワン自身の魂もヨーダと共に、ルークの成長を見守り続けた。だが唯一度だけ、フォースで予見したレイア達の危機を救うべくダゴバでの修行を後にして彼女達の救出に向かうルークに対し「ベイダーと戦う時は加担できん」と宣告しており、宣告通りルークがライトセーバーでベイダーと対決する時は終始彼への助言を行わなかった。 やがて、ルークがベイダーを暗黒面から救い出したのと同時に皇帝を倒して銀河に平和が訪れると、オビ=ワンは霊体となったヨーダ、アナキンと再会を果たすのだった。 師弟関係 『エピソード5/帝国の逆襲』でヨーダを「私の師だ」と語っているが、ヨーダからオビ=ワンに至る間にはドゥークー伯爵とクワイ=ガン・ジンを介しており、一対一の師弟関係はない。しかし、ジェダイ候補生たちは『エピソード2/クローンの攻撃』で描かれたように幼少時にヨーダからフォースの手解きを受ける。さらにオビ=ワンの場合、師クワイ=ガンの死後はヨーダに直接助言を受けることも多く、隠遁生活に際してヨーダに訓練を与えられていることから、弟子と言っても過言では無い。 略歴・各作品での活躍 エピソード1以前 ヤヴィンの戦いの57年前に、惑星スチュージョンで生まれたとされている。生後まもなく、ジェダイの素質を認められ、コルサントにあるジェダイ聖堂で育てられる。 レジェンズ(非正史)では、ジェダイはジェダイ候補生としての期間を経て普通13歳までに特定のマスター(師匠)のパダワン(弟子)にされるのだが、オビ=ワンの場合マスターがなかなか見つからなかったため、惑星バンドメアにあるジェダイ・アグリカルチャラル・コープス(農場)に送られた。しかしクワイ=ガンのかつての弟子で、フォースの暗黒面に触れ堕落したダーク・ジェダイ・ザナトスの陰謀を協力して解決したことを機に、クワイ=ガンの弟子となる。 エピソード1~3 『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』ではまだ生意気な若い頃が描かれた。この頃はまだジェダイ・ナイトではなく、クワイ=ガンのパダワン(弟子)であった。クワイ=ガンと共に、通商連合とナブーの紛争を解決すべく派遣され、通商連合の裏で暗躍するシスの暗黒卿ダース・モールと戦う。オビ=ワンはこの戦いで敬愛する師を失いながらも、冷静さを失わずに一瞬の隙をついて暗黒卿を倒し、その功績が認められたことで、晴れてジェダイ・ナイトへと昇格する。また、クワイ=ガンの遺言により、アナキンのマスターとなる。 『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』では一人前のジェダイ・ナイトとして弟子のアナキンを指導する立場に。無鉄砲で反逆児的なアナキンに対して、ジェダイの秩序に忠実なオビ=ワンはついつい窘める側に回っている。とはいいつつ惑星マンダロアの公爵サティーン・クライズやレジェンズ(非正史)では同期のジェダイ騎士シーリー・タチといったオビ=ワンに思いを寄せる女性達もいた。クローン・トルーパーを発見しクローン大戦最初の戦いジオノーシスの戦いにも参加した。 『スター・ウォーズ クローン大戦』や『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』とそのTVシリーズではジェダイ・マスターとなりジェダイ評議会の一員となっている。また、共和国軍の将軍としてクローン大戦で活躍した。 『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』ではオーダー66を生き残った数少ないジェダイの一人となった。コルサントで全ジェダイに身を隠すようメッセージを送信した後、惑星ムスタファーでダース・ベイダーと対峙する。ベイダーとの死闘の末に勝利するも、友人であり弟同然の存在であったかつての弟子の転落した姿に嗚咽をもらす。パドメの出産に立ち会い、アナキンの息子ルーク・スカイウォーカーの成長を見守りながら長い隠遁生活に入る。 『エピソード3』と『エピソード4』の間 この期間内に名前をベン・ケノービと変え、オビ=ワンは死んだという情報を流している。ウィルハフ・ターキンやダース・ベイダーも(ベイダーはミレニアム・ファルコンがデススターに漂着するまで)それを信じていた。また、すでに死んでいるかつての師クワイ=ガンの霊と交信する方法をヨーダから教わり、死を克服する修行をクワイ=ガンのもとで続けた。 正史においては、『反乱者たち』の時期にシスを倒す鍵となる人物としてエズラ・ブリッジャーによって探し出される。そしてエズラの後をつけてきたダース・モールにも発見されるが、これを撃退。エズラには帰るよう諭し、自身は再び隠遁生活に戻る。『ローグ・ワン』には登場しないが、モン・モスマとベイル・オーガナの会話の中でその存在が語られている。 レジェンズ(非正史)ではパダワン時代のアナキンのライバルであり、ナイトになることなくジェダイ・オーダーを去ったフェラス・オリンが帝国軍から追われていることを知り、フェラスを助け出し、ルークを守るためタトゥイーンを長期間離れられない自分に代わって抵抗運動を託す。 エピソード4~6 『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』では成長したルークと再会し、自身とルークの父親がジェダイの騎士であることを明かし父親のライトセーバーを渡す。レイア・オーガナの求めに応じて、ルークやドロイドと共に惑星オルデランへ向かうも帝国軍に拿捕されてしまう。その後、かつてのアナキン・スカイウォーカーこと(サイボーグとなって蘇生した)ダース・ベイダーと再会し戦うが、二人の力は拮抗していた。戦いが長引けば新たなる希望であるルークがデス・スターから脱出する機会を失うと判断し、決死の覚悟でわざとベイダーに斬られて敗北する。その際自ら肉体を消滅させ、フォースと一体となる。反乱軍兵士としてデス・スター攻撃作戦に参加するルークに助言する。 『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』ではオビ=ワンはフォースとひとつになっており、守護霊のような存在でルークを支える。また最後にはジェダイに戻ったアナキンとヨーダの3人でルークを見守る。 エピソード6以後 『エピソード7』に当たる『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』では、レイがルークのライトセーバーに触れ、フラッシュバックを体感する際に、オビ=ワン・ケノービの声が挿入されている。その中の「Rey.... These are your first steps.(レイ…これが君にとっての最初の1歩だ)」というセリフの「Rey....」の部分は故人であるアレック・ギネスの旧作でのセリフの「Afraid(アフレイド)」を分解したものであり、残りの「These are your first steps.」はユアン・マクレガーによって新たに録音された声となる[2]。当初は、3DCGアニメシリーズ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』などでオビ=ワンの声優を務めたジェームズ・アーノルド・テイラーによって収録が行われていた。日本語吹替では、アレックス・ギネスのオビ=ワンを担当した納谷悟朗が故人のため、どちらのセリフもユアン・マクレガーのオビ=ワンを担当した森川智之によって収録されている。 レジェンズ(非正史)のスピンオフ作品では、エンドアの戦い後もルークに対して助言を与え続けるが、一人前となったのを見届けるとスローン3部作の冒頭で別れを告げ、以後はルークが呼びかけても現れなくなる。しかし、ニュージェダイオーダーシリーズの完結編で約20年ぶりにルークと接触している。 日本語吹き替え版の声優 アレック・ギネス(エピソード4~6、フォースの覚醒) ソフト版:納谷悟朗 劇場公開版:河原崎國太郎 初放映版:久米明 日本テレビ旧版、日本テレビ新版:滝田裕介 テレビ朝日版:宮川洋一 フォースの覚醒:森川智之 ユアン・マクレガー(エピソード1~3、フォースの覚醒) 森川智之 ジェームズ・アーノルド・テイラー(アニメ作品) 森川智之 マイケル・ドノヴァン、サムエル・ビンセント(若い頃)(アニメレゴ・スターウォーズ) 小松史法 関連項目 スター・ウォーズ登場人物一覧 出典 外部リンク in the StarWars.com Databank on Wookieepedia, a Star Wars wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%93%EF%BC%9D%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%93
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 537, 1042, 1541, 1766, 1867, 2129, 2457, 2543, 2832, 3024, 3098, 3270, 3617, 3676, 3829, 3925, 4325, 4384, 4453, 4614, 5621, 5858, 6720, 7057, 7378, 7474], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 520, 1037, 1536, 1765, 1862, 2128, 2456, 2542, 2606, 3023, 3097, 3269, 3616, 3675, 3828, 3919, 4324, 4383, 4415, 4613, 5620, 5817, 6719, 6891, 7364, 7449, 7528], dtype=int32)}
ANSIはいつ設立した?
ANSI C
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([1042], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([1049], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ANSI C、ISO C、または<b data-parsoid='{"dsr":[70,79,3,3]}'>標準Cとは、米国規格協会(ANSI)および国際標準化機構(ISO)が発行したC言語の標準の総称である。歴史的にこれらの名前は特に、オリジナルであり、最もサポートされているバージョンであるC89およびC90のことを指す。C言語でプログラムを作成するソフトウェア開発者は、コンパイラ間の移植性のために、標準に準拠することが推奨される。 歴史と概要 Cの最初の標準はANSIによって発行された。この文書は後にISOによって採択され、ISOによって公表されたその後の改訂版もANSIによって採択されているが、「ISO C」ではなく「ANSI C」という名称がより広く使用されている。一部のソフトウェア開発者は「ISO C」という用語を使用しているが、他のソフトウェア開発者は発行組織に中立的な「標準C」という用語を使用している。 C89 1983年、ANCIがC言語の標準仕様を確立するための委員会・X3J11を設立した。この規格は1989年に完成し、ANSI X3.159-1989「プログラミング言語C」として採択された。このバージョンは、しばしば「ANSI C」と呼ばれる。その後、C99が発表されてからは、それ以前のバージョンについても同様の命名法で呼ばれるようになり、このバージョンは「C89」とも呼ばれるようになった。 C90 C89のフォーマットを変更しただけ[1]の標準が、ISOによってISO/IEC 9899:1990として採択された。この標準はC90と呼ばれることがある。C89とC90は本質的には同じ言語である。 この標準は後に、ANSI/INCITS[2]、ISO/IEC[3]の双方によって撤回されている。 C95 1995年、ISOはANSI-C標準の拡張、Amendment1を発行した。正式名称はISO/IEC 9899/AMD1:1995であり、C95というニックネームを付けた。誤りの訂正の他、以下のような言語の能力のさらなる変更があった[4][5]。 <wchar.h> と <wctype.h> およびマルチバイトI/Oの導入による、標準ライブラリでのマルチバイトおよびワイド文字対応の改善 言語へのダイグラフの追加 演算子の代替仕様のための標準マクロの仕様化(&&→andなど) 標準マクロ __STDC_VERSION__ の仕様化 この改訂に加えて、2つのC90の正誤表がISOによって発行された。 ISO/IEC 9899 TCOR1(1995年) ISO/IEC 9899 TCOR2(1996年) C95互換性を確認するプリプロセッサテスト #if defined(__STDC_VERSION__) && __STDC_VERSION__ >= 199409L /* C95 compatible source code. */ #elif defined(__ANSI__) /* C89 compatible source code. */ #endif C99 2000年3月、ANSIはISO/IEC 9899:1999を採択した。この規格は、一般に「C99」と呼ばれている。この標準での注目すべき追加点は、以下の通りである。 新しい組み込みデータ型: long long, _Bool, _Complex, _Imaginary 静的配列インデックス、指定初期化子、複合リテラル、可変長配列、、可変長マクロ、キーワードなどの、新しいコア言語機能 stdint.h, <tgmath.h>, fenv.h, <complex.h> などの新しいライブラリヘッダ インライン関数、一行コメント、宣言とコードのミックス、ユニバーサルキャラクタ名などの、C++機能との互換性の向上 暗黙的な関数宣言や暗黙の int など、いくつかの危険なC89言語機能を削除 3つのC99の正誤表がISOによって発行された。 ISO/IEC 9899:1999/Cor.1:2001(E) ISO/IEC 9899:1999/Cor.2:2004(E) ISO/IEC 9899:1999/Cor.3:2007(E) - 標準ライブラリ関数 gets を非推奨とした この規格は、C11によって[6] と ISO/IEC[7]の双方によって廃止された。 C11 「C11」はC言語の最新の標準である。このバージョンで導入された注目すべき機能には、改良されたUnicode対応、新しい _Generic キーワードを使用するタイプジェネリック式、クロスプラットフォームのマルチスレッドAPI(threads.h)、コア言語とライブラリ(stdatomic.h)の両方でのアトミック型対応がある。 1つのC11の正誤表がISOによって発行された。 ISO/IEC 9899:2011/Cor 1:2012[8] その他の関連するISO発行物 ISOは、標準化プロセスの一環として、C言語に関連する技術レポート(technical report)と仕様書(specification)も公開している。 ISO/IEC TR 19769:2004[9] - Unicode変換フォーマットに対応するライブラリ拡張について。C11に統合 ISO/IEC TR 24731-1:2007[10] - 境界チェックされたインタフェースに対応するライブラリ拡張について。C11に統合 ISO/IEC TR 18037:2008[11] - 埋め込みC拡張について ISO/IEC TR 24732:2009[12] - ISO/IEC TS 18661-2:2015に代わる演算について ISO/IEC TR 24747:2009[13] - 特殊な数学関数について ISO/IEC TR 24731-2:2010[14] - 動的割り当て機能に対応するライブラリ拡張について ISO/IEC TS 17961:2013[15] - Cの安全なコーディングについて ISO/IEC TS 18661-1:2014[16] - IEC 60559:2011に準拠した二進浮動小数点演算 ISO/IEC TS 18661-2:2015[17] - IEC 60559:2011と互換性のある十進浮動小数点演算 ISO/IEC TS 18661-3:2015[18] - IEC 60559:2011互換のインターチェンジおよび拡張浮動小数点型 ISO/IEC TS 18661-4:2015[19] - IEC 60559:2011に準拠した補助機能 TS 18661の5番目と最後の部分、ソフトウェアトランザクショナルメモリ仕様、ライブラリ拡張などの多くの技術仕様が開発中で承認待ちである[20]。 主要なコンパイラによる対応 ANSI Cは現在広く使用されているほとんどのコンパイラが対応している。現時点で書かれているC言語のソースコードのほとんどは、ANSI Cをベースにしている。標準Cで書かれ、ハードウェアに依存する仮定を持たないプログラムは、準拠したC実装のプラットフォームで正しくコンパイルされることが保証されている。このような予防措置を講じないと、ほとんどのプログラムはGUIライブラリなどの非標準ライブラリの使用やコンパイラ固有の属性やプラットフォーム固有の属性の使用などにより、特定のプラットフォームまたは特定のコンパイラでしかコンパイルされないことになる(特定のデータ型の正確なサイズやエンディアンなど)。 K&R CとANSI Cの違いを緩和するために、__STDC__ マクロを使用してコードをANSIセクションとK&Rセクションに分割することができる。 #if defined(__STDC__) && __STDC__ extern int getopt(int, char * const *, const char *); #else extern int getopt(); #endif ANSI Cに対応するコンパイラ (C K&R と C89/90) ARM RealView Clang(LLVM バックエンドを使用) GCC(C89/90, C99, C11完全対応) HP C/ANSI Cコンパイラ (C89, C99)[21] (C11, starting with version 12.1)[22] Intel C++ Compiler (C89/90 and some C99) Microsoft Visual C++ (C89/90 and some C99) (C99, Windows only.) 関連項目 C++17, C++14, C++11, , - C++のバージョン C++ Technical Report 1 脚注 外部リンク (May 13, 1988), (Nov 18, 1988) (May 27, 1992)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ANSI%20C
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 300, 414, 960, 1860, 2383, 2992, 4227, 5089, 7043, 8193, 8332], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 299, 406, 959, 1859, 2382, 2981, 4216, 5078, 7014, 8180, 8310, 8439], dtype=int32)}
ニューヨーク州で女性知事が誕生したことはある?
歴代ニューヨーク市長の一覧
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NO'], dtype=object)}
ニューヨーク市長( -しちょう、Mayor of New York City)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の市長である。 ニューヨーク市憲章 (en) においてニューヨーク市政府 (en) の最高経営責任者として規定されている[1]。 2014年現在のニューヨーク市長は、第109代ビル・デブラシオ(民主党)である。 概要 ニューヨーク市長はアメリカで大統領任務に次いで「二番目にタフな(きつい)仕事」と表現されてきた[2]。何人かの歴代市長(最近ではジョン・リンゼイおよびルドルフ・ジュリアーニ)が大統領選に立候補したが、未だ誰も両方の地位を得た者はいない。これまで女性市長は一度も誕生しておらず、また黒人のデイヴィッド・ディンキンズ以外は、全員が白人(ユダヤ人系も含む)の市長ばかりである。 ニューアムステルダムと呼ばれていた時代の1624年から1664年までは、オランダのニューネーデルラント総督 (en) がその任にあたっていた。1665年にニューヨーク市長職が誕生した当時のニューヨーク州知事はニューヨーク植民地のイギリス軍総督リチャード・ニコルズであり、彼によってトーマス・ウィレットが初代ニューヨーク市長として任命された。 指名議会 (Council of Appointment) がニューヨーク州によって設立される1777年まで、ニューヨーク市長は州知事によって指名されていた。1821年、ニューヨーク市長はニューヨーク市議会(Common Councilと呼ばれていた)によって指名されるようになった。さらに1834年からは、市民の直接選挙によって選ばれるようになった。 最も長く在任した市長はフィオレロ・ラガーディア(1934–1945)、en:Robert F. Wagner, Jr. (1954–1965), エド・コッチ(1978–1989)そして、マイケル・ブルームバーグ(2002–2013)の12年(三期連続)である。1834年以降で最も短い在任期間はen:Thomas Coman代理市長(1868年11月30日月曜日から1869年1月4日月曜日までの五週間)およびen:Samuel B. H. Vance代理市長(1874年11月30日から12月31日の一ヶ月)である。 以下の一覧は、1965年の初代市長から記してあり、ニューヨーク市の領土が現在よりも小さかった時代の市長も含んでいる。1874年以前は、マンハッタン島以外にニューヨーク市の領土はほとんどなかった。1898年にブロンクス区にあたる領土を併合した。1898年に、五つの行政区(マンハッタン区、ブルックリン区、クイーンズ区、ブロンクス区、スタテンアイランド区)が合併し、現在と同じ領土となった。ニューヨーク市の歴史も参照のこと。 17世紀 リチャード・ニコルズ 1664年 - 1665年 トーマス・ウィレット 1665年 - 1666年 トーマス・デラバル 1666年 - 1667年 トーマス・ウィレット 1667年 - 1668年 コーネリアス・ヴァン・スティーンウィック 1668年 - 1671年 トーマス・デラバル 1671年 - 1672年 マティアス・ニコル 1672年 - 1673年 ジョン・ローレンス 1673年 - 1675年 William Dervall 1675年 - 1676年 ニコラス・デ・メイヤー 1676年 - 1677年 ステファヌス・ヴァン・コートランド 1677年 - 1678年 トーマス・デラバル 1678年 - 1679年 フランシス・ロンバウツ 1679年 - 1680年 William Dyre 1680年 - 1682年 コーネリアス・ヴァン・スティーンウィック 1682年 - 1684年 Gabriel Minvielle(*) 1684年 - 1685年 Nicholas Bayard(*) 1685年 - 1686年 ステファヌス・ヴァン・コートランド 1686年 - 1688年 ピーター・デラノイ 1688年 - 1691年 ジョン・ローレンス(*) 1691年 - 1692年 Abraham DePeyster 1692年 - 1694年 Charles Lodwik 1694年 - 1696年 William Merritt 1696年 - 1698年 ヨハネス・デ・ペイスター 1698年 - 1699年 デイビッド・プロボスト 1699年 - 1700年 18世紀 アイザック・デ・ライマー 1700年 - 1701年 Thomas Noell 1701年 - 1702年 Thomas Hood 1702年 Phillip French 1702年 - 1703年 William Peartree 1703年 - 1707年 Ebenezer Wilson 1707年 - 1710年 ヤコブス・ヴァン・コートランド 1710年 - 1711年 Caleb Heathcote 1711年 - 1714年 John Johnstone 1714年 - 1719年 ヤコブス・ヴァン・コートランド 1719年 - 1720年 Robert Walters 1720年 - 1725年 Johannes Jansen 1725年 - 1726年 Robert Lurting 1726年 - 1735年 Paul Richard 1735年 - 1739年 ジョン・クルーガー 1739年 - 1744年 Stephen Bayard 1744年 - 1747年 Edward Holland 1747年 - 1757年 John Cruger, Jr. 1757年 - 1766年 Whitehead Hicks 1766年 - 1776年 デイヴィッド・マシューズ 1776年 - 1784年 ジェイムズ・デュアン 1784年 - 1789年 Richard Varick 1789年 - 1801年 19世紀 エドワード・リヴィングストン 1801年 - 1803年 デウィット・クリントン 1803年 - 1807年 Marinus Willett 1807年 - 1808年 デウィット・クリントン 1808年 - 1810年 Jacob Radcliff 1810年 - 1811年 デウィット・クリントン 1811年 - 1815年 John Ferguson 1815年 Jacob Radcliff 1815年 - 1818年 Cadwallader D. Colden 1818年 - 1821年 Stephen Allen 1821年 - 1824年 William Paulding Jr. 1825年 - 1826年 Philip Hone 1826年 - 1827年 William Paulding Jr. 1827年 - 1829年 Walter Browne 1829年 - 1833年 Gideon Lee 1833年 - 1834年 Cornelius Van Wyck Lawrence 1834年 - 1837年 Aaron Clark 1837年 - 1839年 Isaac L. Varian 1839年 - 1841年 Robert Morris 1841年 - 1844年 James Harper 1844年 - 1845年 William Havemeyer 1845年 - 1846年 Andrew H. Mickle 1846年 - 1847年 William Brady 1847年 - 1848年 William Havemeyer 1848年 - 1849年 Caleb Smith Woodhull 1849年 - 1851年 Ambrose Kingsland 1851年 - 1853年 Jacob Westervelt 1853年 - 1855年 Fernando Wood 1855年 - 1858年 Daniel F. Tiemann 1858年 - 1860年 Fernando Wood 1860年 - 1862年 George Opdyke 1862年 - 1864年 Charles Godfrey Gunther 1864年 - 1866年 John T. Hoffman 1866年 - 1868年 Thomas Coman(**) 1868年 Abraham Oakey Hall 1869年 - 1872年 William F. Havemeyer 1873年 - 1874年 Samuel B. H. Vance(**) 1874年 William H. Wickham 1875年 - 1876年Democratic Smith Ely, Jr. 1877年 - 1878年Democratic Edward Cooper 1879年 - 1880年Democratic ウィリアム・ラッセル・グレース 1881年 - 1882年 フランクリン・エドソン 1883年 - 1884年Democratic ウィリアム・ラッセル・グレース 1885年 - 1886年 エイブラム・ヒューイット 1887年 - 1888年Democratic Hugh L. Grant 1889年 - 1892年 トーマス・フランシス・ギルロイ 1893年 - 1894年Democratic William L. Strong 1895年 - 1897年 Fusion Robert A. Van Wyck 1898年 - 1901年 Democratic 20世紀 セス・ロウ w:Seth Low 1902年 - 1903年共和党/Citizens Unionジョージ・B・マクレラン・ジュニア w:George B. McClellan, Jr. 1904年 - 1909年 民主党ウィリアム・ジァイ・ゲイナー w:William Jay Gaynor 1910年 - 1913年 民主党アルドルフ・ロングス・クライン w:Ardolph Loges Kline 1913年 共和党ジョン・P・ミッチェル w:John Purroy Mitchel 1914年 - 1917年 FusionJohn F. Hylan 1918年 - 1925年 民主党ジミー・ウォーカー 1926年 - 1932年民主党Joseph V. McKee 1932年 民主党John P. O'Brien 1933年 民主党フィオレロ・ラガーディア 1934年 - 1945年 共和党/FusionWilliam O'Dwyer 1946年 - 1950年 民主党Vincent R. Impellitteri 1950年 - 1953年 民主党ロバート・F・ワグナーJr w:Robert F. Wagner, Jr. 1954年 - 1965年民主党ジョン・リンゼイ 1966年 - 1973年共和党→民主党/Liberalエイブラハム・ビーム 1974年 - 1977年民主党エド・コッチ 1978年 - 1989年民主党デイヴィド・ディンキンス 1990年 - 1993年民主党ルドルフ・ジュリアーニ 1994年 - 2001年共和党 21世紀 マイケル・ブルームバーグ2002年 - 2013年共和党→無所属ビル・デブラシオ2014年 - 民主党 脚注 関連項目 ニューヨーク市長選 (en)(1897年以降) ニューヨーク市の歴史 タマニー・ホール 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%AF%E5%B8%82%E9%95%B7%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 289, 1023, 1368, 1901, 2343, 2796, 3797, 4502, 5305, 6032, 6901, 7950], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 288, 1015, 1367, 1900, 2342, 2795, 3796, 4501, 5304, 6031, 6900, 7919, 8103], dtype=int32)}
ブランデンブルク=プロイセンとは国ですか?
ブランデンブルク=プロイセン
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ブランデンブルク=プロイセン(ドイツ語:Brandenburg-Preußen)は、ドイツ・ポーランドのホーエンツォレルン家による領邦国家連合。1618年にプロシア公領とブランデンブルク選帝侯領の同君連合として成立した。 この国家連合はブランデンブルク選帝侯がプロシア公領を相続したことで成立した。1701年にプロイセン公が王に昇格すると、その他の地域もプロイセン王国の一部と見なされるようになり、ポーランド分割により主要な領土が地続きになるとその傾向は一層強くなった。しかし、ブランデンブルクなどの地域は依然として神聖ローマ帝国内にあり、形式上は同君連合であるため、ブランデンブルク=プロイセンという呼称は1701年以降も用いられる。1806年の神聖ローマ帝国解散により、名実ともにプロイセン王国として一つの国家となる。 歴史 1415年に神聖ローマ皇帝ジギスムントが、自ら兼ねていたブランデンブルク選帝侯位をニュルンベルク城伯であったフリードリヒ1世に授けて以来、ホーエンツォレルン家の宗家はこの選帝侯位を継承し、神聖ローマ帝国における有力な権利を享受していた。 一方のプロシア公領は、カトリックの騎士修道会国家であったドイツ騎士団領が前身である。ホーエンツォレルン家の分家であるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯家出身の騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが、配下の騎士とともにプロテスタントに改宗し、ポーランド王の宗主下で騎士団領を世俗の領邦へと改めることが認められ、1525年に世襲の公領として成立した。 アルブレヒトが1568年に死去すると、鬱病を患っていたと言われる息子アルブレヒト・フリードリヒがプロシア公位を継承した。公領は、その従兄であるアンスバッハ辺境伯兼クルムバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒが1603年まで、次いで宗家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒが1608年まで摂政として治めた。 アルブレヒト・フリードリヒの娘アンナはヨアヒム・フリードリヒの息子ヨハン・ジギスムントと結婚し、ホーエンツォエルン家宗家にプロシア公領を継承する権利が譲渡された。ヨハン・ジギスムントはアルブレヒトの死去した1618年にプロシア公位を獲得した。しかし、プロシア公領は1657年までポーランド王の宗主下にとどまった。 ゲオルク・ヴィルヘルムの1619年から1640年までの治世の間に、ホーエンツォレルン家の領地は三十年戦争の被害を受けた。スウェーデンはゲオルク・ヴィルヘルムに同盟を強いて、ブランデンブルク=プロイセンの領土を事実上占領した。ゲオルクの後継者フリードリヒ・ヴィルヘルムはスウェーデンとの間に講和を締結した。また、スウェーデンはポメラニア公国を占領していたが、ブランデンブルク=プロイセンはポメラニアの幼公ボキスラフ14世が1637年に夭折すると、その継承権を得た。しかし、ボキスラフ14世はスウェーデンとシュテッティン同盟を結んでおり、帝国全体でも継承権が容認されず、ブランデンブルク=プロイセンとスウェーデンはその継承権を巡り、国境協定が結ばれた後も領有権を巡って争い続けることとなった。 その後、フリードリヒはネーデルランド連邦共和国との同盟を求めた。1648年のヴェストファーレン条約で勢力均衡が重視された結果、フリードリヒはヒンターポンメルン公領(東部ポメラニア)、ハルバーシュタット司教領、ミンデン司教領を属領とし、マクデブルク大司教領の継承権を獲得するという漁夫の利を得た。正確なスウェーデンとブランデンブルクの国境はポメラニアに定められ、シュテッティン条約でほぼ確定した。1680年からはこれらの領域とカミン司教領はブランデンブルク=プロイセンに併合された。 スウェーデンがポーランドに宣戦し、ポーランドの大洪水時代といわれる内戦に介入すると、北方戦争が開始された。フリードリヒ・ヴィルヘルムはこの戦争につけこんだ。1657年、ブランデンブルク=プロイセンはでポーランド王ヴワディスワフ4世からプロシア公領の完全な独立を獲得した(1660年のオリヴァ協定によって確定し、プロイセン公国となった)。条約ではポーランド王権下の権利としてホーエンツォレルン家の血筋が絶えたとき、プロイセン公国は合法的にポーランド領に復帰するとされた。この条項は、互いの国の統治変更で更新されるとされたが、1700年に期限切れになった。 1675年、ポーランド王ヤン3世ソビェスキはフランスと密約を結び、ポーランドがプロシアを攻撃し、フランスはその間にオスマン帝国にポーランド=リトアニア共和国の領土の返還を求めるとした。オスマン帝国への敵対行為の結果、ポーランドはブランデンブルクか、フランスの敵対国オーストリアを攻撃するはずだった。しかしヤン3世は教皇に逆らい、ポーランドの上流貴族(マグナート)はオスマン帝国を大脅威として捉えており、ポーランドの有力者はベルリンやウィーンからの賄賂を受けていたために、この提案は破綻した[1]。 フリードリヒ・ヴィルヘルムの治世の下で、ブランデンブルク=プロイセンは飛躍的に成長した。内政においてはポツダム勅令を発し、フォンテーヌブローの勅令によって追放されたフランスのユグノーを受け入れたことで人口が増加し、高度な技術や文化がブランデンブルク=プロイセンに伝えられることとなった。また、オランダ侵略戦争に付随するスウェーデンとの戦争に勝利し、神聖ローマ帝国内における影響力を高めることに成功した。これらの事績によって、フリードリヒ・ヴィルヘルムは<b data-parsoid='{"dsr":[4700,4710,3,3]}'>大選帝侯</b>と称されるまでになり、ブランデンブルク=プロイセンの強大化の基礎を築いた立役者となった。 神聖ローマ帝国内ではボヘミア王国を除いて、王号の使用を認められた諸侯はいなかった。しかし、プロイセン公国は帝国の領域外にあった。そこで選帝侯フリードリヒ3世は、スペイン継承戦争でハプスブルク家を支援する見返りとして、皇帝レオポルト1世からプロイセンにおける王号の使用を認められ、1701年に「プロイセンの王」フリードリヒ1世として戴冠した。これはポーランドとの全てのつながりを断ち切ることを意味し、それを端的に示すものとして、フリードリヒ1世はポーランド語を流暢に喋る最後のプロイセン統治者となった。1773年、かつての公国は東プロイセン州に、ポーランド王領プロシアは西プロイセン州に再編された。1815年、旧ブランデンブルク選帝侯領は、それ自体がプロイセン王国のブランデンブルク州に変わっていった。 脚注・参照 関連項目 ブランデンブルク辺境伯 プロシア公領 プロイセン ドイツ騎士団 ドイツ騎士団国 プロイセンの王 プロイセン国王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%EF%BC%9D%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 616, 1438, 1579, 2256, 3134, 3933, 4937, 5945, 7572, 8147, 9714, 11218, 11528, 12216, 12748, 14111, 14581, 15812, 16106], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 615, 1437, 1570, 2255, 3133, 3915, 4936, 5936, 7571, 8146, 9705, 11217, 11527, 12207, 12747, 14102, 14580, 15811, 16075, 16169], dtype=int32)}
デヴォンシャー・ハウスは現存する?
デヴォンシャー・ハウス
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NO'], dtype=object)}
デヴォンシャー・ハウス () はイギリス、ロンドンのピカデリー通りにある18世紀及び19世紀にデヴォンシャー公爵の邸宅 (タウンハウス) として使われていた建物である。この建物は第3代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャベンディッシュ(William Cavendish, 3rd Duke of Devonshire、1698年-1755年)(英語版) がウィリアム・ケント(William Kent、1685年-1748年)の設計によりパラディオ様式で建てたもので、1740年頃完成し第一次世界大戦で被災して1924年に取り壊された。 イギリスの多くの有名な貴族達は自分の名前を冠したロンドンの邸宅を持っていた[注釈 1]。公爵家の建物としてデヴォンシャー・ハウスは、バーリントン・ハウス (Burlington House) 、モンタギュー・ハウス (Montagu House) 、ランズダウン・ハウス (Lansdowne House) (英語版) 、ロンドンデリー・ハウス (Londonderry House) 、ノーサンバーランド・ハウス (Northumberland House) (英語版) 、ノーフォーク・ハウス (Norfolk House) (英語版) 等と並び称される最大級かつ壮大な邸宅の一つであった。これらの建物はバーリントン・ハウスとランズダウン・ハウスを除いてすべて取り壊されており、残った二つも大きな改変が加えられている。 現在この邸宅があった敷地には、デヴォンシャー・ハウスと呼ばれるオフィスビルが建っている。 敷地 デヴォンシャー・ハウスはバークレー・ハウスの敷地内に建てられたが、これはジョン・バークレー、初代バークレー・オブ・ストラットン男爵(John Berkeley, 1st Baron Berkeley of Stratton、1602年-1678年)(英語版) が彼のアイルランドの副王領 (viceroyalty) での任期終了後、30,000ポンドを超える予算で1665年から1673年にかけて建てたものであった。バークレー・ハウスにはその後チャールズ2世(Charles II、1630年-1685年)のミストレス (妾) だったバーバラ・パーマー(Barbara Palmer、1641年-1709年)が住むようになった。 ヒュー・メイ (Hugh May、1621年-1684年、イギリスの建築家) (英語版) によって建てられたこの古風な邸宅は、1696年にウィリアム・キャヴェンディッシュ、初代デヴォンシャー公爵(William Cavendish, 1st Duke of Devonshire、1640年-1707年)によって購入され、デヴォンシャー・ハウスと改名された。売買契約条件の一つとしてバークレー男爵 (第2代バークレー・オブ・ストラットン男爵) は、邸宅のすぐ裏にある彼が保有している土地には建物を建てないことを承諾し、これにより公爵邸からの見晴らしは確保された。この約束はバークレーの土地が開発された1730年以降も継続し、バークレー広場 (Berkeley Square) (英語版) の庭園部分が未開発部分の終端に相当する[1]。 1733年10月16日、改修が続いていた旧バークレー・ハウスは火災にあい、ウィレム・ヴァン・ケッペル 、第2代アルベマール伯爵(Willem van Keppel, 2nd Earl of Albemarle、1702年-1754年)(英語版) 率いる警護隊や、フレデリック・ルイス王太子(Frederick Louis, Prince of Wales、1707年-1751年)率いる人々による消火活動にもかかわらず全焼した。原因は改修作業に従事していた作業員の不注意であった[2]。皮肉なことにブルームスベリー、ボズウェル通りにあった公爵が以前住んでいた邸宅、旧デヴォンシャー・ハウス (Old Devonshire House) (英語版) は、第二次世界大戦のロンドン大空襲まで残っていた。 文化的背景 18世紀に入ると、それまでの娯楽の形態に変化が現れ始め、大規模で洗練されたレセプションが流行し、それはしばしば演奏会 (concert) や舞踏会 (ball) という形式を取った。当初、主催者達はそういった流行を楽しむ用途で作られた数多くの新しい部屋を借り上げていたが、それは長くは続かなかった。何故なら、より頻繁にレセプションを開催する裕福な主催者たちは自分の邸宅にダンスホールを追加し始め、さらに裕福な者たちは純粋に楽しみのために設計された新しく広大な邸宅を手に入れようと、手狭な居宅を手離し始めたからである。デヴォンシャー公爵は広大な不動産を所有しており、後者のカテゴリーに該当した。そういう意味で1733年のデヴォンシャー・ハウスの火災は、当時の最先端の流行の邸宅を建築するいい機会となった。 第3代デヴォンシャー公爵(William Cavendish, 3rd Duke of Devonshire、1698年-1755年)(英語版) は建築家として当時流行のウィリアム・ケントを指名し、ウィリアムにとってこれがロンドンに邸宅を作る最初の仕事となった。邸宅は1734年から1740年頃までにかけて建築された[3]。ケントは第3代バーリントン伯爵のお抱えで、伯爵が1729年に建てたチジック・ハウスや、デヴォンシャー・ハウスと同時代で1741年頃完成したホウカム・ホールの仕事をしており、両方ともパッラーディオ様式だった。当時、これらの建築物は流行と洗練性の集大成であると考えられていた。チジック・ハウスは第4代公爵 がバーリントン伯爵の娘シャーロット(Charlotte Elizabeth Cavendish、1731年-1754年)と結婚したため、後に他の不動産と共にデヴォンシャー家の財産となった[4]:52。 建築 デヴォンシャー・ハウスは典型的なパッラーディオ様式で、来客用の両翼のあるコール・ドゥ・ロジ (Corps de logis、大邸宅や宮殿の母屋を指す建築用語) (英語版) を持っていた。3階建てで11の梁間 (bay) を持つという厳格なパラディオ様式による設計は、当時の批評家に邸宅を倉庫になぞらえさせ[5]、現代のケントの伝記作家にはその「自然な厳格性」(plain severity)を指摘させた[6]。とはいえ、その奇妙に平坦な外観はケントの手による豪華な内装を隠し、イギリスで最も素晴らしいものの一つと考えられていたデヴォンシャー家のアートコレクションの大部分を収容し[7]、有名なライブラリーも40フィートの長い部屋に収容することができた。その中でも最も大切な所蔵品はクロード・ロラン (Claude Lorrain、1600年頃-1682年、フランスの画家) の生涯の作画の記録である「Liber Veritatis」(真実の書) であった。公爵のリビングルームにはマントルピース (暖炉の周りの装飾) の上にガラスケースがあり、その中には彫刻が施された天然石 (Gemstone) (英語版) やルネサンス期・バロック期のメダル形の宝石 (medallion) のコレクションの内最も素晴らしいものが飾られた[8]。このように際立っていたケントの仕事は当然のようにコーレン・キャンベルの「ウィトルウィウス・ブリタニクス」(Vitruvius Britannicus) に掲載された[9]。 デヴォンシャー・ハウスの設計は、18世紀の大規模なタウンハウスのなかでも最も初期の部類に入る。当時の大きなタウンハウスのデザインは同時代のカントリーハウスと同じであり、またその建設の目的もやはり同じで、財力とそれに伴う権力の誇示であった。したがって、広大なタウンハウスは、そのサイズとデザインで、周辺の狭小で単調なテラスハウス (低層集合住宅) との比較において、所有者の権勢を強調した[10]。 デヴォンシャー・ハウスのケントの設計による外付け階段は、ピアノ・ノビーレ (piano nobile、大きな家屋の主たる階) に続いていて、2階部分まで吹き抜けとなっているのはエントランスホールだけであった。2階は厳然たるプライベート空間だったため、目立たない一対の階段はそれぞれ奥まったところに配置された。縦並びに繋がった部屋は最大のスペースをライブラリーに占められており、中央ホールに隣接していて、左右対称のバロック様式の伝統通りに配置されていた。そのデザインは大規模な集会には向いていなかった。数年後マシュー・ブレッティンガム (Matthew Brettingham、1699年-1769年、イングランドの建築家、ホウカム・ホールの建設で知られる。) 等の建築家は、中央ホールの周りにレセプション用の部屋と繋がったスイートルームを配置することで、よりコンパクトなデザインのパイオニアとなった。これによりゲストは各部屋を行き来することが可能となった。このデザインは1756年に完成し現在は取り壊されているノーフォーク・ハウス (Norfolk House) (英語版) で初めて採用された。したがってデヴォンシャー・ハウスはその完成の瞬間から既に時代遅れで、使用目的に合致していなかった。そこで18世紀後半から内装は大幅に変更された。 活用 デヴォンシャー・ハウスの改築は1776年から1790年という長い期間をかけてジェームズ・ワット (James Wyatt、1746年-1813年、イギリスの建築家[注釈 2]) (英語版) により行われ[3]、さらにその後、1843年にデキムス・バートン (Decimus Burton、1800年-1881年、イギリスの建築家・造園家) (英語版) によって行われた。バートンは第6代公爵(William Cavendish, 6th Duke of Devonshire、1790年-1858年)(英語版) のために新しい柱廊と玄関ホールと正面大階段 (grand staircase) を作った[3]。この時外付けの二つの階段は取り外され、正面玄関から新しい柱廊を通って一階に行くことができるようになった。従来一階は二級の部屋とされ、18世紀には使用人が使うものとされていた。新しい階段によりゲストは低い玄関ホールから直接ピアノ・ノビーレに行けるようになった[11]。新しい階段は「クリスタル階段」(Crystal Staircase) と呼ばれ、ガラス製の手すりと支柱を備え付けていた[12]。バートンはいくつかの主要な部屋を合体させた。彼は元客間だった部屋を二つ合わせて、広くて金箔で輝くダンスホールを作り、階上の寝室を犠牲にして2倍の高さの部屋を作った。それらは邸宅を生活のためというより誇示や楽しみのための場所としているものだった。 デヴォンシャー・ハウスは、第5代公爵(William Cavendish, 5th Duke of Devonshire、1748年-1811年)(英語版) と彼の妻ジョージアナ(Georgiana Cavendish, Duchess of Devonshire、1757年-1806年)を取り巻く華麗で社交的で政治的な世界のための舞台だった。 1897年、デヴォンシャー・ハウスはヴィクトリア女王の在位60周年 (ダイアモンド・ジュビリー) (英語版) を祝う大仮装舞踏会の会場となった。アルバート・エドワード皇太子(Albert Edward、後にエドワード7世、1841年-1910年)やその妻アレクサンドラ・オブ・デンマーク(Alexandra of Denmark、1844年-1925年)等のゲストたちは、歴史的な肖像画に生命が宿したかのような衣装を身につけていた。舞踏会で撮影された多くの肖像写真は、ヴィクトリア朝時代後期の社会史を記録した無数の本に収載されている[13][14]。 解体 第一次世界大戦の後多くの貴族がロンドンの邸宅を手放した。デヴォンシャー・ハウスもその例外ではなく、1919年に手放された。その解体は様々な文献でノスタルジックに言及された。有名なものにジークフリード・サスーン (Siegfried Loraine Sassoon、1886年-1967年、イギリスの詩人、作家) (英語版) の「デヴォンシャー・ハウス解体に捧げる追悼詩」(Monody on the Demolition of Devonshire House) 等がある[15]。 手放した理由は、第9代公爵(Victor Cavendish, 9th Duke of Devonshire、1868年-1938年)(英語版) が一族で初めて相続税を支払わなければならなくなったからである。その額は500,000ポンドを超えた。さらに彼は第7代公爵(William Cavendish, 7th Duke of Devonshire、1808年-1891年)(英語版) の債務を継承していた。二重の負担で彼はウィリアム・キャクストン (William Caxton、1415年頃-1492年頃、イングランドで初めて印刷業を始めた人物とされる。) 刊行のシェイクスピア (William Shakespeare、1564年- 1616年、イングランドの劇作家) 初版本多数などを売り[注釈 3]、そしてデヴォンシャー・ハウスをさらに価値のある3エーカーの庭園と共に売った。売却は1920年に750,000ポンドで決済され、邸宅は解体された[4]:54[16]。購入したのはシューマー・シブソープ ( Shurmer Sibthorpe) とローレンス・ハリソン (Lawrence Harrison) の二人の裕福な実業家で、彼らはこの土地を開発し、その後ホテルを建て宅地を作った。解体するときにシブソープは、「考古学者達が私の周りに集まって暴挙だと言ったが、個人的にはこの建物は目障りだと思う。」と述べた[17]。 跡地 1924年、ホーランド、ハネン&キュービッツ (Holland, Hannen & Cubitts) (英語版) によりピカデリー通りに面した新しいオフィスビルが建てられた[18]。これはデヴォンシャー・ハウスと呼ばれ、第二次世界大戦中は「戦災委員会」(War Damage Commission、イギリス政府が土地・建物の戦災に対して補償金を支払う目的で設立した組織) (英語版) の本部が置かれた。 デヴォンシャー・ハウスにあった絵画や家具のうちいくつかは、現在デヴォンシャー家の主要な邸宅であるチャッツワース・ハウスにある。現存するデヴォンシャー・ハウスの遺構としては、グリーンパークに移設された門 (後述) やワインセラー (現在はグリーンパーク駅の切符売り場) などがある。その他、ドアやマントルピース (暖炉の周りの装飾) 、家具などがチャッツワースに移転され残っている。これらのうちいくつかが2010年10月のサザビーズのオークションに出品された。売り出されたウィリアム・ケントによるデヴォンシャー・ハウスのマントルピース5つには、特別に興味深く価値のあるものとして、競売主のハリー・プリムローズ伯 (Harry Primrose, Lord Dalmeny) (英語版) が「あなたはこれらを買うことはできません。何故なら全て指定建造物 (Listed building) (英語版) に保管されているからです。それはルーベンス にあなたの家の天井の絵を描いてくれと言うようなものです。」とコメントを付けた[19]。 ルスティカ仕上げのクオイン (英語版) を持ち、頂部にスフィンクス座像が載っている門柱を備えた錬鉄製のゲートは、ピカデリー通りに面したグリーンパークの入口の1として再利用されている。 注釈 脚注 参考文献 Trease, George (1975). London. London: Thames & Hudson. p. 161. Coordinates:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 172, 751, 967, 1605, 1877, 2271, 2696, 3960, 4340, 4630], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 171, 725, 966, 1576, 1876, 2270, 2695, 3959, 4317, 4616, 4668], dtype=int32)}
神仏分離を命じたのは誰
神仏分離
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
神仏分離(しんぶつぶんり)は、神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。 その動きは早くは中世から見られる[1]が、一般には江戸時代中期後期以後の儒家神道や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された<b data-parsoid='{"dsr":[578,589,3,3]}'>神仏判然令(神仏分離令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達[2]の総称)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。 前近代の神仏分離 江戸時代に入ると、岡山藩や水戸藩、淀藩、会津藩等の儒教が興隆した藩を中心に神仏分離政策が行なわれた。出雲大社でも17世紀に神仏分離が行われている。 また、宮中では東山天皇の時代に古式に則った大嘗祭を復興させようとした際に歴代天皇の位牌や仏像・仏画類を宮中から排除すべきとする方針に対して、長年宮中に定着した神仏習合の観念から反対論が唱えられて論争になったが、その後大嘗祭が繰り返されて奉幣使再興などが行われるたびに宮中のみならず京都市中や他地域に対しても仏教排除が命じられた。そして、孝明天皇即位の際には公家たちの間で即位灌頂に反対する意見も出された[3]。 明治時代の神仏分離 明治元年(1868年)、明治新政府は「王政復古」「祭政一致」の理想実現のため、神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、神仏分離令を発した[4]。 神道国教化のため神仏習合を禁止する必要があるとしたのは、平田派国学者の影響であった[5]。政府は、神仏分離令により、神社と寺院を分離してそれぞれ独立させ、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じたほか、神道の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた[5]。 神仏分離令は「仏教排斥」を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。地方の神官や国学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった。 これにより、歴史的・文化的に価値のある多くの文物が失われた。 新政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行なったが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫した。これは特に平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行が現実的には困難であったからである。神道の国教化は宣教経験に乏しい神道関係者のみでは難しく、仏教界の協力がなくては遂行できないことは明白であった。そこで、浄土真宗の島地黙雷の具申をきっかけとして、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命されて、神道国教化への神仏共同布教体制ができあがった。神道国教化にはキリスト教排斥の目的もあったが、西洋諸国は強く反発、信教の自由の保証を求められた。結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する禁教令が廃止され、明治8年(1875年)には大教院を閉鎖、明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、神道国教化の政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が採用された[6]。 神仏分離政策は、「文明化」への当時の国民の精神生活の再編の施策の一環として行われたものであり、修験道・陰陽道の廃止を始め、日常の伝統的習俗の禁止と連動するもので、仏教界のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、伝統的宗教者が打撃を受けた[6]。 脚注 参考文献 Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |seriesn= ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書" ignored (help) Text "和書 " ignored (help) 関連項目 廃仏毀釈 神仏習合 神社合祀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 126, 383, 771, 1551, 2451, 2648, 2917, 3223, 3326, 4037, 4668, 4911, 6306, 7733, 7977, 8173, 8939, 9606, 19262, 19479, 22903, 35627, 43961, 52652, 65453, 71381, 71704, 73028, 74077, 74906, 75248, 75505, 78241, 78566, 78717, 78799, 79007, 79110, 79479, 79620, 79994], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 118, 382, 770, 1550, 2428, 2647, 2916, 3206, 3325, 4036, 4667, 4872, 6274, 7698, 7960, 8172, 8924, 9598, 19230, 19478, 22880, 35619, 43919, 52635, 65442, 71380, 71650, 72988, 74051, 74895, 75247, 75493, 78199, 78552, 78706, 78798, 78987, 79096, 79478, 79619, 79969, 80028], dtype=int32)}
寺沢武一の漫画『コブラ』が掲載されたのはいつ?
コブラ (漫画)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([2], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([416], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([423], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
『コブラ』(COBRA THE SPACE PIRATE)は寺沢武一の漫画作品。および作品内の主人公の名称。 概要 左腕に特殊な高性能銃「サイコガン」を付けた、一匹狼の宇宙海賊・コブラの活躍を、アメコミ風タッチで描く痛快SFアクション(スペースオペラ)。原型となる作品に『シグマ45』がある。 『週刊少年ジャンプ』で1978年から1984年にかけて断続的に連載され、その後も『スーパージャンプ』、『コミックフラッパー』と掲載誌を変えながら、断続的にではあるが作品を継続している(現時点での最新エピソードは2006年に完結しているが、作品自体の完結は宣言されていない)。 寺沢が癖の強い人物で、さらに作画に極めてこだわることから週刊連載が不可能になるが、当時の編集長であった西村繁男のお気に入りの作品であったことから優遇され、第2部「黒竜王」編(1981年)以降、ジャンプでは珍しい描き溜めシステムがとられ、ある程度執筆が進んだ段階で連載再開→エピソード終了による連載休止が繰り返された[1]。西村によると、せっかく人気が上昇してもすぐに中断になることから、なかなかスムーズにいかなかったらしい。西村がジャンプの編集長を退任し、新たに『スーパージャンプ』を創刊し編集長に就任すると、寺沢も共に移籍した。 既刊作品がたびたび版を変えて再発売されるロングセラーになっている。ジャンプ系雑誌の発刊社である集英社で連載をしていた当時には同社から単行本が刊行されていた(現在集英社によるコミックは全て絶版)。コミックフラッパーに移籍後は発売元であるメディアファクトリー(MF社。現・KADOKAWA)からジャンプ時代のコミックスより「黒竜王」「ラグボール」「神の瞳」編などが完全版コミックスおよびフルカラー版と成り発売。2014~2015年には廉価版(いわゆるコンビニコミック版)が刊行されている(なおMF/KADOKAWA社に移行後、英語表記が SPACE ADVENTURE COBRA から COBRA THE SPACE PIRATE となった)。また、eBookでほとんどのエピソードの購読が可能。 他メディア展開 1982年に長編アニメ映画化、翌年にはテレビアニメ化され、その後も数回アニメが作られ、漫画同様に人気を得た(詳細はアニメ版の項目参照)。 1989年にはテレビゲーム化、当時としては大容量のCD-ROMを用いている(詳細はコブラ (PCエンジン)を参照)。この他、いくつかのデジタル機器にてゲーム化されている(詳細は#ゲームの副節を参照)。 2010年9月にはフランス人アレクサンドル・アジャ(Alexandre Aja)監督による「コブラ」映画化の企画が進行しているとの報道が成された[2]。しかし、その後は特に進展は見られない(詳細は#実写映画の副節を参照)。 ストーリー はるか未来、人類が自家用宇宙船で外惑星に行くことが可能となった時代。 貿易会社に勤め、平凡な日々を過ごすサラリーマンのジョンソンは、退屈しのぎにT.M.株式会社のアミューズメントを体験する。脳に信号を与えて夢を見させるトリップ・ムービーの中には左腕にサイコガンを持つ海賊コブラが登場、波乱万丈のストーリーは最後に主人公が海賊ギルドに追われ賞金首となり姿を消したところで終わった。満足したジョンソンはT.M.社の担当に自分の夢の概要を語ると共に礼を言うが、担当は、ジョンソンが見た「夢」はプログラムしたトリップ・ムービーの内容とは異なっていると首をひねる。 帰路についたジョンソンだが偶然の事故で夢の中に登場した海賊バイケンとそっくりな男と出会い、バイケンの名を口にしたため殺されかける。その瞬間、自分の左手が銃に化けて撃ち倒し、危機から逃れた。彼は、自分が本物のコブラであること、血なまぐさい過去から逃れるため記憶を消し顔を整形し、世間にはコブラは死んだことにし、数年前から別の人生を送っていたことを思い出していく。しかしサイコガンを見せたことでギルドには顔が割れてしまった。 記憶と本能を呼び起こされた男は、相棒の女性型アーマロイド「レディ」と共に、スリリングで危険に満ちた人生に戻るため、宇宙へ飛び出していく。 沿革 週刊少年ジャンプ時代 増刊号読み切り(1977年) 読み切りで2回掲載される。エピソードは週刊連載開始後にリメイクして再掲載された([サイコ・ガンの秘密][黄金の男])。設定、登場キャラクターは同じだが、ストーリー上は以降発表された作品と連続性がない(エピソードが週刊連載に吸収されたため)。 第1部:連載開始より「サラマンダー(シドの女神)」編まで(1978年 - 1980年) ここまでのエピソードが『スペースコブラ』としてTVアニメ化(1982 - 1983年)。 第2部:「黒竜王」編(1981年) 『黒竜王の伝説』としてゲーム化(1989年)。 第3部:「異次元レース」編(1981年) 第4部:「黄金の扉」などの中編(1982年) うち「黄金とダイヤ」、「神の瞳」を除く5編が『COBRA THE ANIMATION』にてTVアニメ化(2010年)。 第5部:「6人の勇士」編(1983年-1984年) 第6部:「地獄の十字軍」編(1984年-1985年):ここまでが週刊少年ジャンプ連載分。 ここまでのエピソードがジャンプ・コミックス(全18巻)、ジャンプ・コミックスデラックス(全10巻)に収録。 リターンコブラ(1984年):ジャンプ・コミックス版最終18巻に描き下ろしの短編。 スーパージャンプ時代 聖なる騎士伝説(1986年 - 1988年) B5判のジャンプ・コミックスデラックスとして刊行された。ここまでのエピソード(週刊少年ジャンプ時代を含む)が創美社愛蔵版(全12巻)、集英社文庫コミック版(全12巻)、完全版(MFコミックス全12巻)に収録されている。 「バラ」「魔法の船」(1988年):短編 画集「COBRA WONDER」に収録されたが、その他の単行本には未収録。 ザ・サイコガン(1995年):前後編2冊で刊行 以降、ジャンプ・コミックスデラックス(B5判フルカラー、のちにブルーローズまでB6判のHANDY EDITIONが刊行)。 『COBRA THE ANIMATION』にてOVA化(2008年)。寺沢自ら監督を務めた ギャラクシーナイツ(1996年) 『COBRA THE ANIMATION』にてTVアニメ化(2010年)。 タイムドライブ(1997年) 『COBRA THE ANIMATION』にてOVA化(2009年)。 ブルーローズ(1997年 - 1998年) マジックドール(2000年 - 2002年中断) スーパージャンプにて連載されるが、作者の体調不良により6話で中断。2002年に連載が再開されるが、9話目で再度中断した。ジャンプ・コミックスデラックスでは前編のみ刊行された。2004年には別作品である『GUNDRAGON II』が連載される。 コミックフラッパー時代 マジックドール(2005年 - 2006年) 2005年5月号より第1話より再掲載され連載再開。全16話の予定を1話延長し、2006年9月号で完結した。前後編の2冊がMFコミックスより刊行。 デジタル化 作者の寺沢武一は漫画執筆にパソコンを取り入れた先駆けであり、ネット配信などデジタルコンテンツとしての販売も積極的に進められている。 1989年、1991年のPCエンジン用ゲーム『コブラ』『コブラ II』に脚本・原画と積極的に参加。 1995年の「ザ・サイコガン」よりフルカラーのデジタルマンガに移行。 1996年、旧エピソードをデジタル彩色したものをリリース開始。 1998年に「ザ・サイコガン」、1999年に「ギャラクシーナイツ」(ボイスあり)がプレイステーションコミックとして発売。 2001年、携帯電話、PDA用DLコンテンツ配信開始。 2003年、eBook配信開始。 2007年、コブラ30周年を記念して単行本未収録作品「バラ」「魔法の船」を公式ページで無料公開開始。 2010年、iPhone用コンテンツ配信開始。 登場人物 スター・システムを採用しているため、外見は同一でも名前や設定が異なるキャラクターが多数登場している。また、本作に登場する女性キャラクターは肉感的かつセクシーな衣装を着ている者が多い。こうした衣装のモデルなどについて、原作者の寺沢は小学校の時に見たSF映画『バーバレラ』のファッションが斬新かつ印象的だったことを語っている[3]。なお、この映画に登場するバーバレラ役のジェーン・フォンダは、ロイヤル三姉妹の長女のジェーン・ロイヤルのモデルでもある。 用語 トリップ・ムービー コブラの時代における、科学技術を利用した娯楽の1つ。現代の映画やアトラクションのような娯楽に相当するものらしい。ジョンソンとして生活していたコブラと、メイドロボットに扮していたレディとの会話ではそれなりに値段が掛かるようだが、TV版でのレディ(メイドロボット扮装時)の弁によれば「お値段手ごろ」とのこと。T・M株式会社(TRIP MOVIE CORPORATION)が運営する娯楽施設内で、自分の望む夢を見ることができる。 施設の中に入ると美人の案内係が入場客の見たい夢のコースを聞いてくれる。そして希望の夢を見るための装置が設置されている個室に案内されると、ガラスのフードに覆われた床の上に寝かせられ、入場者の要望に適うように宇宙活劇や恋愛もの、スパイもの等、入場者の見たい夢の内容が入っているカートリッジ状のトリップ・カードを構成し、夢を見せる装置にかけると入場者は電子的に見たい夢を見られるように意識を誘導させられる。 案内係の説明によれば、トリップ・カードで大脳古皮質を刺激して入場した客の夢、すなわち願望を潜在意識の中から引き出すもので、体験している当人には夢ではなく、実際に体験しているように感じるとのことである。超最先端のバーチャルリアリティ(仮想現実)技術を利用して、あたかも映画やドラマの主人公のような活躍を実体験しているような気分になれる装置である。 3年前(TV版では5年前)より以前の記憶を消してサラリーマンのジョンソンとして生活していたコブラが、退屈な日常生活に飽き飽きしていたところロボットのような外見のアンドロイドのメイドの格好をしていたレディの提案でこの装置を利用。過去の記憶を取り戻し、伝説の宇宙海賊・コブラとして海賊業を再開するきっかけを作った。 海賊ギルド 様々な犯罪組織を抱える巨大組織で宇宙海賊に代表される犯罪組織のギルドである。利益確保のためなら手段を選ばない凶悪さから、一匹狼で正統派の海賊であるコブラを含めて嫌っている人間は多い。その一方、組織の規模の大きさから、メンバーであることは裏社会におけるある種のステータスでもある。 最終兵器 古代火星人が作り出した兵器。その正体は目のついた卵型の緑色の石であり、目が視認した兵器の能力をコピーして取り込むもの。どんな兵器で対抗しようにも破壊不能な強度を持ち、しかも兵器の能力を目で見ただけで全てコピーし進化してしまうため、理論上能力の上限がない。ただし兵器の能力をコピーして次の姿に変貌するまでに10秒ほど時間が掛かる欠点やサンドラの性格を見抜いたコブラの作戦により使用者のサンドラが殺害されたため、元の卵の形に戻り、砂漠に投げ捨てられた。 銀河パトロール 銀河系全域の治安維持を司る国際機関。警察と軍隊を合わせたような組織で、階級制度は軍隊と同じ。平時は警察的な職務に励むが非常時には大規模な艦隊を動かすこともある。あらゆる惑星・国家に対して捜査権を有しているが、例外として「ラグ・ボール」編に登場するラル星のランド競技場のように、銀河パトロールの勢力圏外で治外法権となっている区域も存在する。 コブラはお尋ね者である以上、銀河パトロールは煩わしい存在だが、「ラグボール」編のように協力する場合もある。銀河パトロール隊員のドミニクやシークレットとの縁と、海賊ギルドが絡んでいることが理由である。「黄金の扉」編におけるコブラ本人の言を借りれば、「パトロールは嫌いだが、ギルドはもっと嫌い」とのこと。 正統派の宇宙海賊 コブラのポリシーを表した言葉。「無益な殺生はしない」、「貧乏人から搾取しない」といった義賊の禁忌に遵うアウトローのこと。「6人の勇士」編に登場する海賊船団「氷の牙」を率いるドブスンも、それを体現している1人。 財宝を狙う際は金銭的価値を重視し、劇中でも「6人の勇士」編冒頭でシルバー・ストーンに関するレディとの会話で、光明神の伝説云々より「何百万ドルで売れるか」と語っている。逆に、「三姉妹(刺青の女)」、「地獄の十字軍」編における「最終兵器」、「光りの谷」といった負の要素をもつ物は、金銭的価値の大小に関係なく放置、場合によっては破壊する。 また、正統派の宇宙海賊から見て許されない行動を取った者は率先して殺しにかかる(「マジックドール編」のバルガスは仲間を売ったことでコブラに殺される理由がある)。 クレジット 劇中での通貨。ジョンソンとして働いていたコブラの給料と、初期エピソード「三姉妹(刺青の女)」編でのネルソン・ロイヤルの財宝の総額がこの通貨で表されているが、それ以外は特に登場していない。この時代でも依然として基軸通貨はドルのようで、物の価値やら賞金首の値段やらで出ている。他に共通通貨として銀河紙幣「レンゼ」も。 劇場版アニメ『コブラ SPACE ADVENTURE』では「ビート」という単位が使用されている。TV版『スペースコブラ』6話でも、コブラに懸けられた賞金の総額をこれで表している。 ロド麻薬 「ヘロイン以上の中毒性」を有する麻薬で、その効果はコブラ曰く「20倍」。ロド鉱石を精製して作られる。「地底の客」編で初登場。依存性が強い上に精神崩壊を経て最終的には廃人化する危険な麻薬。摂取量が少ない場合、運動機能や思考機能にあまり障害は出ないが、過剰に摂取した場合は死亡する。海賊ギルドの収入源として重宝されている。 ラグ・ボール ベースボールとアメフトを一緒にしたスポーツ。詳しくはラグ・ボールを参照。 ロド麻薬の密売ルートを探るため、銀河パトロール隊員・ドミニクからの依頼でコブラはラグ・ボールの選手、ジョー・ギリアン</b>としてランド競技場をホームグラウンドにしているレッド・サクソンズに入団した。 異次元空間 様々な特徴を持つ別世界として描かれたり、物理的に通行不可能な場所同士を通行するワープ通路として描かれる。 異次元レース 大手自動車メーカーGRモータースの主催する、異次元空間に移動して行われるレース。コブラが隠れ家兼財宝の保管場所としていた惑星が、このレースの景品にされたことがきっかけで、コブラは惑星確保のためレースに参加する。ところが、企業スパイのジェイソンがレース妨害のために異次元転送装置「ウサギ」を暴走させたことでコブラは異次元世界を彷徨うことになった。 ウサギ GRモータースが開発した異次元転送装置。二つの長い耳の付いた「ウサギ」の頭のような形をしている。異次元空間へ行くには、4桁のナンバーを入力する仕組み。「異次元レース」では本来、ウサギをX-03世界に転送してから追尾装置を付けた出場者達が遅れて転送され、追尾装置を頼りにウサギを見つけた上で確保し、000のナンバーを入力して元の世界に戻ることになっていた。しかし、ジェイソンの起こした騒動によってウサギは全く別の世界への道を開くことに。 ヘル・クルセイダース(地獄の十字軍) 「地獄の十字軍」編で登場する外人部隊。十字軍の名前通り、十字架を部隊章としている。依頼次第でどのような戦いにも参加し、勝利のために手段を選ばぬ冷酷な存在。入隊に際しては完全実力主義で、過去の経歴は一切問われない。しかし、自分に降りかかる火の粉を自力で落とせないような者は必要とはされず、入隊試験で実力の無い者を殺して「落第させる」ことすら辞さない。傭兵部隊だけに兵卒・下士官の服装は自由だが、将校や一部の部隊は制服や戦闘服など軍人らしい服装をしている。 サウンド・ウェーブ・ボンバー(起振爆弾発射砲) 「ザ・サイコガン」編にてユートピアが化石虫を捕獲するために用意した装置。強力な音波を射出することで人工地震を引き起こす。これによって、化石虫が寄生している砂クジラが地中から出てくる。ユートピアのブーツに備えられている他、彼女の助手エルザが使用したハンマー型のものもある。なお、学術目的で開発されたものだが、兵器としての殺傷力もある。 作中に登場する武器類 ここでは、主に個人携帯用の兵器を中心に解説する。コブラの使用武器・サイコガンおよびパイソン77マグナムの詳細は、コブラ (架空の人物)#使用武器を参照。 光線銃(レイガン・レーザーガン) 個人携帯小火器のスタンダード。レイガン・レーザーガンは高熱を伴う光エネルギーをビームとして発射する。実弾火器に比べて発砲時の反動が小さい、弾数が多い等の理由で海賊ギルド・銀河パトロールなど多方面で幅を利かせている。サイコガンも一応この部類に入るが、精神力を高熱を伴う光エネルギーに変換しビームとして発射するもののため、光線銃としては非常に特殊なものである。クリスタル・ボーイなどの特殊な相手には効果が無いが、「6人の勇士」編ではコブラがボーイを倒すための「裏技」を披露して倒した。 初期エピソード「刺青の女編」では、「大気中では減衰する」というレーザーの特性を意識した弱点として「歪んだ大気の中ではレーザー光線は直進できない」というものがあったが、その後のエピソードではこの設定は特に反映されていない。 実弾銃 コブラ第2の愛銃パイソン77マグナムを含めた、実体弾を発射する銃。現在の銃器類である。単純な殺傷・破壊兵器である光線銃と異なり、多種多様な弾丸を発射できるため「地獄の十字軍」編のゲッペル少佐や「ギャラクシーナイツ」編のクイーンなどが愛用している。また、地域や勢力によっては光線銃に比べてこちらがポピュラーな場合もある。 短針銃(ニードルガン) 針を弾体として射出する銃で、劇中では「2人の軍曹」編のシエラが使用。戦闘ではレイガンの方が威力が大きいということもあり、コブラの弁によれば珍しい銃とのことである。 ブラスター(熱線銃) 光学兵器の一種。『スター・ウォーズ』などで光エネルギーのボルトを発射するという形で描写されているため、先述の光線銃と混同されがちだが、こちらは熱エネルギーをビームとして発射する。レイガン・レーザーガンの場合、光が主で熱が従なのに対し、ブラスターは熱が主で光が従となる。劇中ではレイガンに比べて火力は強力だが、反動や消費エネルギーが大きい模様。そのため、個人携帯小火器としては使い勝手が悪くむしろ他分野で使用される兵器として描かれている。タートル号のスーパーブラスターがその例。ただし、「シドの女神(サラマンダー)」編のドーベルは、体をサイボーグ化した状態で右腕に連射ブラスターを装着しており、「地獄の十字軍」終盤ではサイボーグのアイアン・ブル軍曹がタートル号のスーパーブラスター用の弾帯を右腕のハンドキャノンに装着して使用する場面がある。 ハンタースネイク 蛇型のロボットを使用した、暗殺用兵器。これは相手の体内に侵入して内臓を食い荒らすというものである。「刺青の女編」でターベージに操られたジェーンがコブラ暗殺に使用したほか、「地獄の十字軍」編ではブラックソード・ゼロが使用した。 最終兵器 「用語」の項を参照。 登場種族・生物 地球人 地球出身の人類。コブラは生粋の地球人であり、他に「ラグボール」編のザック・シモンや「神の瞳」編の不知火鉄心、ゆう子父子が該当。また、ロイヤル三姉妹は長女ジェーンがコブラと初遭遇した際、倒した賞金首の代金振込先を地球の口座にするよう発言していることからして、地球人と推測される。 金星人 金星出身の人類。美の女神・ビーナスに由来する惑星ということもあってか美人が多くいることで有名。これはE・E・スミスやエドガー・ライス・バローズなどのSF作品描写に倣ったと見られる。ジョンソンとして過去の自分の活躍をトリップ・ムービーで見たコブラは、金星の女性達を「水蜜桃のように甘い」と評している。「サイコガンの秘密」編に登場するビビとその姉、「神の瞳」編に登場するマダム・ドローレが該当する。また、「異次元レース」編序盤で登場するモデル、ミランダ・ショーもコブラとの会話で金星出身を匂わせる発言をした。 木星人 木星出身の人類。怪力だが悲観主義者。ゾウのような口吻を持つ。「ソード人の秘密」編にて、1人の木星人の男がコブラと一緒にサンド・ルーク艦内の牢獄に入れられるが、彼の力をもってしてもビクともしない鉄格子をコブラはあっさりねじ曲げて脱走してしまった。 ソラリス人 人間に近い外観だが、両目のみ上下に2つ並んだ計4つの目を持つ異星人。「ラグ・ボール」編のダン・ブラッドや「6人の勇士」編のバルドウ将軍、「ザ・サイコガン」編のレッドボーンなどが該当。レッド・サクソンズのユニフォームを身に着けていたダン・ブラッドを除き、古代ギリシャやローマの男性に似た服装をしている。 ダック人 その名の通り、ダック(アヒル)の姿をした小柄な種族。「三姉妹(刺青の女)」編のダック、「2人の軍曹」編のダック、「ザ・サイコガン」編のダック、カイ、プーシンなどが該当。 ドナルド星人 ドナルド星出身の、鳥のような顔が特徴の種族。地球人に比べて若干小柄な体格で、身体能力ではパワーよりスピード方面に秀でている。「ラグ・ボール」編のクラーク一族であるゲック・サンダ・ガイラの三兄弟、「地獄の十字軍」編のザッパや、「ギャラクシーナイツ」編のジャックなどが該当。 名前の由来はドナルドダックから。 ソード人 「ソード人の秘密」編にて登場する、惑星ザドスの原住異星人。一見すると甲冑と剣を纏った人間だが、実は剣が本体であり、それ以外の部位は念動力で動いている。剣には顔があり、人間との会話も可能。剣を獲物に突き刺すことで生命エネルギーを吸収する狩猟民族だが、人間のような知的生命体を獲物にしてはいけないという掟がある。 古代火星人 かつて火星を拠点に高度な文明を築き上げた異星人。レディやブラックソード・ゼロの肉体を構成するライブメタルや、「三姉妹(刺青の女)」編で登場するネルソン・ロイヤルの遺産である最終兵器を生み出した。地球ではモアイと呼ばれている。ナスカの地上絵も関係していた。 「地獄の十字軍」編ではかつて人口増加によって死に瀕していたエルラゴ星を人口抑制のためルビーを生命の源とした。これによって生まれてくる方法は「生命の樹」でしか生まれない。なお、人口抑制を管理している場所はエルラゴ星の小の月(エルラゴ星人曰く「光の谷」)。 だが、ルビーが原因でエルラゴ星では戦争が発生した。コブラがムーンレンズを小の月にはめたことで小の月は消滅し、ルビーをめぐる争いは無くなった。 メガラ人 亀のような甲羅を持った種族。「2人の軍曹」編に登場する、モートン二等兵が該当する。その甲羅の重さからか、一度ひっくり返ると自分で起き上がることができない。 名前はガメラから。 雪クジラ その名の通り、雪原地帯に生息するクジラ。初出は「シドの女神(サラマンダー)」編だが、この時は名前が挙がるだけで、ネプチューラ星の北極地帯に生息する生物という設定止まりだった。その後、「異次元レース」編の3番目の世界においてその姿を披露。牛のごとく牧場で飼われており、大きさも牛と同じくらいである。また、現実のクジラ同様、雪の中に潜っている状態から潮ならぬ雪を吹き上げる。 穴居人 「黄金の扉」編で登場する火星出身の種族。その名の通り光の届かぬ地下を生活圏にしている種族であり、暗闇の中で優れた視覚を発揮するので遺跡発掘等に重宝する。その反面、光のある地上は彼らにとって眩し過ぎるため、光を遮断するバイザー付きヘルメットを着用しなければならない。なお、劇中でコブラやシークレットの前に姿を現した穴居人はブラックボーンの部下が変装した偽者であり、本物は既に全員殺されていた。 バッファロー 本来なら牛の一種だが、ここでは「黄金とダイヤ」編の舞台であるダスト惑星のアスファルト・ヒルに生息するものを指す。硬く平らな地面に適応進化した結果、タイヤのように体を丸めて走ることが可能。 「ザ・サイコガン」編では火星の荒野に全く同じ外見のバッファローが生息している。 ランドマスター アスファルト・ヒルの原住種族。上半身は人間と変わらないが、足はアスファルト・ヒルを高速で走れるようタイヤに進化しており、普通の人間と比較して速く走れる。彼等は獰猛で自分の土地に足を踏み入れる者に対しては武器を手に襲い掛かってくるが、反面ヤズプーの神を信仰する信心深い面もあり、また相手が銃を手にした軍人の類であっても決して女性を殺さないという掟を持つ。 エルラゴ星人 「地獄の十字軍」編の舞台となるエルラゴ星の人間。いくつもの種族がそれぞれに都市国家を築き、後述するパウ族やポル族等の例外を除いてお互いに争いを繰り広げている。ただし、どの種族も共通して女性は皆額にルビーを生まれながらに有しており、成長と共にルビーも大きくなる。ゴールドマンの言を借りれば「あたかも真珠貝が体の中で真珠を育てるよう」とのこと。このルビーは額の皮膚に覆われていて直接目にすることはできないが、処女を失うと同時にルビーは額の表面に現れる。オフェーリアも劇中でコブラと一夜を共にした後、額にルビーが現れたため、コブラはレディからそれを詮索された。 もう1つの共通点は、子供が母胎ではなく大木「生命の樹」から誕生すること。生命の樹が光る時、その根元で光の塊が発生しそこから子供が生まれる。オフェーリアいわく「誕生の儀式」。なお、生まれた子供は種族全体が育てるため、老若男女の概念はあっても父母の概念は無い。 メドゥサ族 「地獄の十字軍」編にて、ヘル・クルセイダースやエルラゴ星の各種族と対立している種族。この種族の女は肉体が死亡しても首さえ無事ならば新たな肉体を得ることで再生する、オフェーリアいわく「彷徨える首の種族」。肉体再生の際、確保する首から下からの肉体はある程度健康ならば男女どちらでもかまわない。男性にこの能力はないが、劇中で男性の司令官が登場しているのを見る限り、性別ではなく知能や実績を重視する実力主義が基本の模様。ボウガン型の光線銃や砂漠潜水艦サンドウルフを用いるなど、技術力は高い。 パウ族 エルラゴ星においては中立国を構成する穏健派の種族。外見は女性の額のルビーを除けば、人間と変わらない。能力的にも同様。パウ族の土地は砂漠地帯のため、砂上サーフィンを楽しむサーファーがいる。 ブラギュ族 カエルを大きくしたような外観の種族。舌の先端部は小さな口となっており、好物の人間の脳ミソを吸い出す。 ズル族 二足歩行するブタのごとき外観の種族。ズル族の戦士は皆アメフトのヘルメットやプロテクターそのままの装備を身に付けており、肉弾戦ではアメフトそのままの攻撃を仕掛ける。 ポル族 顔立ちは人間にそっくりだが、長い耳が特徴の友好的な種族。彼らの土地には伝説の聖地「光の谷」に通じる入り口「バブ・イルの塔」があり、そのためポル族の長老は「光の谷」の真実を知っていた。 この他にハグロ族という種族が存在する模様。また、種族名は不明だがメドゥサ族を信奉する種族が劇中で登場している。 化石虫 「ザ・サイコガン」編に登場する巨大な巻貝で、コブラ曰く「デンデン虫のお化け」。火星に生息する砂クジラの体内に寄生している。貝殻が年輪となっており、その大きさと数から年齢を測定することができる。これにより、調査に当たっていた科学者のユートピアが捕獲した化石虫の寿命は32億7560万年であることが判明している。また、その貝殻に刻まれた模様は古代火星文字であり、宇宙の歴史が記されている。その中に記されている最も古い歴史「宇宙誕生の秘密」を解き明かすべく、ユートピアが解読を試みていた。 砂クジラ 火星の砂漠に生息するクジラ。クジラ同様に巨大で、水の中を泳ぐように空を飛ぶことができる。 シバ一族 カオス兵に滅ぼされたシバ大国を統治していたシバの大王の一族。20年後、怪我と妻・家臣を殺されたショックで記憶喪失に陥った大王がキングと呼ばれて義勇兵「スペードナイツ」の一員としてシバ城に戻り、なおかつ失われていた記憶を取り戻してカオス兵がコブラにより一掃されたので大王による統治が再開される。 カオス兵 「ギャラクシーナイツ」編で登場する種族。女王蜂と兵士の関係のようなカオス王を頂点とする精神生命体で、カオス兵はカオス王の意思の元に動いており、人間のような欲望は本来持ちえない。また、彼等は母星以外では自らの精神を入れた精神保存球を常に回転させなければならず、人の姿を模した器で人間に偽装しても保存球を回転させるための潤滑オイルの匂いで正体がバレてしまう。そのため、クイーンは力強く官能的とコブラが評したジャン・ポール・ギャランの香水「パリュール」を使用している。 ロッグ人 「ギャラクシーナイツ」編で登場する、川や水辺を生活圏とする種族。カエルをそのまま大きくした外観で、独自の言語を話す。劇中で登場するのはカオス軍に抵抗するパルチザンの戦士であり、彼等は全員背中に砲塔を背負い、体には認識番号と思しき3桁の数字がペイントされている。シバ城を目指す「スペードナイツ」に妖精族のエリスが同行していたことから情報を提供し、なおかつ、窮地に陥った彼らを援護した。コミュニケーションが可能なのはエリスだけだが、捕らわれたエリスを救おうと暴走したキングを追ったコブラが追ってくれと頼んだら快く応じてくれた。そのため、言葉は通じないものの意思の疎通は可能である。 名前はカエルの英語訳「フロッグ」から。 舞台 地球 太陽系の第3惑星。コブラの時代では数々の惑星との交流が盛んだが、部分的に旧時代の要素も残っている。「ザ・サイコガン」編の星条旗がその1つ。また、ネズミをモチーフとした有名キャラクターを主役とする遊園地も健在らしい。 ニューヨーク 地球有数の大都市。コブラのセリフに頻繁に登場する他、「地獄の十字軍」編序盤ではニューヨーク沖の豪華客船が、そして「ザ・サイコガン」編前半ではニューヨーク市街が舞台となった。「ザ・サイコガン」編では星条旗もちょっとした役割を果たす。 エーゲ海 「サイコガンの秘密」編中盤から終盤の舞台。奴隷商人のジゴバはエーゲ海の島に基地を築き、奴隷の保管場所としていた他コピーサイコガンの製造を行っていた。コブラの性格から必ずここにやって来ると踏んだジゴバは、コピーサイコガンを装備した部下達を配して待ち構えていた。 バミューダ海域 「異次元レース」編序盤の舞台。大手自動車メーカーGRモータースによって異次元世界への入り口であることが判明し、マッシュ教授設計による「異次元トンネル」が建設された。レースに際してはコブラを含めた総勢500人の出場者とレースカーが集結している。 「異次元トンネル」の所在地にしてレースの出発点である海上基地は、映画『007 私を愛したスパイ』に登場する悪役、海運王カール・ストロンバーグの基地アトランティスに似たデザインとなっている。 日本 「神の瞳」編中盤の舞台。ハリウッド映画などに見られる、日本人から見ると奇異に映る「外国人のニッポン像」を漫画に置き換えたような描写となっている。サイコガンを失ったコブラは2代目のサイコガンを手に入れるべく、製作者・不知火鉄心の娘であるゆう子のいる日本を訪れた。 バレンタイ星域 銀河系の辺境星域。大小合わせて3万もの惑星が存在する。「シドの女神(サラマンダー)」編にてコブラはこの星域にサラマンダーの基地があるという情報を得た上で、ドグ・サバラス、パンプキン、バットと協力して基地を探す作戦を考える。しかし、パンプキンとバットの周囲にサラマンダーの罠が張り巡らされていたため、ギルドのカジノステーションでの会合にサラマンダーが出席するのを待ち構える作戦に切り替えた。ところが、倒したサラマンダーが影武者だったため、コブラは改めてバレンタイ星域に足を踏み込むことに。 エルラド教国 バレンタイ星域にある宗教国家で、キリスト教会と並んで大勢の信者を抱えるエルラド教会の総本山。その影では、サラマンダーが海賊ギルドをまとめるのに不可欠な連絡網が構築され、教団にも信者や幹部の皮を被ったサラマンダーの部下が大勢入り込んでいた。 金星 太陽系の第2惑星。「黄金の扉」編序盤の舞台。コブラとシークレットが初めて出会った場所でもある。この他、「黄金の男」編では金星政府が地球政府に金塊を譲与したり、「地獄の十字軍」編では贅沢暮らしをしているロム王国の王族が登場したりと裕福に見えるが、そのロム王国では革命を狙う反政府ゲリラと内戦に陥っているという、政治的に不安定な部分もある。 ガロン星 「黄金の扉」編中盤から終盤までの舞台。地球の60倍のサイズを持つ星。これまでは太陽の周囲を楕円軌道で回る彗星だと考えられていたが、トポロ教授の調査により、人工の星で、かつて繁栄を極めた古代ガロン人が作り上げた巨大な宇宙船であることが判明した。 地下宮殿 トポロ教授が発掘した古代遺跡。古代ガロン人の宮殿で、中の水路にはかつて古代ガロン人と共存していた人面魚族が生息している。この宮殿の奥に、ガロン星を動かす推進器に通じ、「黄金の鍵」を持つ女王シバだけが通ることのできる「黄金の扉」がある。 地下都市 約3000年前に細菌兵器で大打撃を受けた古代ガロン人が地表から地下へと避難し、推進器のある地下発電所のさらに下層に建設した都市。古代ガロン人の末裔が暮らし、複数のブロックに分かれている。 地下発電所 ガロン星を動かす推進器の本体と制御装置がある場所。現在では推進器は動いておらず、地下都市への電力供給源でしかなかったが、「黄金の扉」編より1カ月前、突如として推進器が動き出し、ガロン星を太陽との衝突コースに乗せてしまった。 エスカープ王国 「聖なる騎士伝説」編の舞台となる国。かつては7つの国に分かれて内乱を繰り広げていたが、グルフォルム大王の手によって内乱は治められ、大帝国として統一された。しかし、魔界より現れた3人の鬼の手によって危機的状況に陥っている。 聖地 エスカープ王国辺境に位置する雪原地帯。ジハドより20歳を迎えた時に聖地に天より救世主が現れるという予言を受けていたエスメラルダが、現地に生息する生き物の研究をしながら小屋で暮らしていたが、スカルヘッドにより旅客機より落とされたコブラを発見し、救世主こと「伝説の騎士」と思い保護する。 シー・バラヤン 聖地より程近い町で、雪原地帯に近いながらも気候は温暖で街中にはビーチリゾートがある。エスメラルダが帰還するのに用意していた空中船が停泊しており、コブラはここよりエスメラルダと共に首都サンドリアのスカイキープ城へと向かう。 サンドリア エスカープ王国の首都。3人の鬼がやって来て以来荒廃を続け、街中では鬼達の兵同士で殺し合いが起こるのも珍しくない。町を縦断する街路の東に青竜鬼の塔、街路の西に白虎鬼の塔、そして町の北に玄武鬼の塔が存在する。 スカイキープ城 エスカープ王家の城で、その名の通りサンドリアの上空に浮かぶ空中城。多くの衛兵によって守られており、サンドリアが荒廃してからは多くの住民が避難しているが、青竜鬼の念による攻撃もあって決して安全な場所ではない。 青竜鬼の塔 青竜鬼の本拠地。門の奥の異世界には東洋風の巨大な城があり、城内には忍者のごとき姿をした兵や、鬼の面を被った侍女(もしくは女性戦闘要員)が詰めている。コブラが最初に訪れる塔でもある。 白虎鬼の塔 白虎鬼の本拠地。門の奥の異世界には森が広がり、古代遺跡を思わせる外観の塔が立っている。この中では白虎鬼の意向により昼夜終わらぬ酒宴が催され、尽きることの無い美酒や贅を尽くした料理、鳴り止まぬ音楽の調べに満ち溢れている。 玄武鬼の塔 玄武鬼の本拠地。門の奥の異世界には首長竜のごとき容貌の塔と、巨象のごとき容貌の「巨象の塔」が立っている。前者にはアンモナイトの化石が飾られている玄武鬼の私室や世界中の武器を集めたコレクションルーム、そしてロックバードのコントロール施設があり、後者は宴の会場として使われている。 教会 エスカープ王国の教会。スカイキープ城と同じく空中に浮かんでいるが、3人の鬼によるサンドリアの荒廃に対しては空高く浮かんだまま一切の行動を起こさなかった。エスメラルダの戴冠式が行われる場所でもある。 登場メカニック コブラサイド タートル号 「刺青の女編」でのコブラの台詞によれば「宇宙戦艦1隻分[4]の費用がかかっている」という、コブラ専用の快速宇宙船であり本作の主役メカ。「地底の客」編によると、金鉱探しを趣味とするジンゴロウが製作者である。コブラが記憶を消していた間は、ヘドバ・シティー郊外にある彼自身の墓の下に隠されていた。「タートル」(海亀)の名前に反して銀河一の高速を誇る。反加速装置により減速なしで空中に急停止ができ、これによって相手の宇宙船に後ろを取られてもそのまま追い越しをさせて逆に後ろに回ることができる。これを用いて追いすがっていたスノウ・ゴリラ宇宙艇に追い抜かせて、後ろから攻撃するという離れ業を披露した。 攻撃用兵器として船体正面にはスーパーブラスターが装備されているほか、左右の側面にも複数ビーム砲が実装されている。「刺青の女編」でコブラがギルドのゲルファイター部隊を峡谷に誘い込んだ際には、タートル号を操縦しているレディが左右の崖に向け船体側面に配置されたビーム砲を照射、落石を発生させてこれを壊滅させた。防御では20-30分の間、シールド(バリア)を張ることが可能。着陸時に使用するランディングギアは、鳥の爪のような形をしている。 船内にはモニターが上についたグランドピアノ型の最新式コンピューターが設置され、データやコマンド入力を行うキーボード部分が文字通り鍵盤となっている。その上操作すれば実際に音が出るので、データ解析などに使うときはさながらピアノ演奏を行っているかのようである。ピアノの形をしているものの、コンピューターなので中に弦などは使われておらず、電子オルガンやエレクトーン、電子ピアノなどのキーボードの構造に近いとみられ、アニメでは弾いたときにこれらの電子楽器のような音が出る。また、コンピューターを使用して解析を行う場面では、コブラがクラシックの曲を演奏し、それに合わせて船内のイルミネーションパネルが光り輝くという演出がなされた。 TV版でのコブラの弁によれば、コンピューターのデータベースには魏志倭人伝からポルノ、果ては流行歌まであらゆる情報が登録されているとのことだが、「最終兵器」にまつわる火星古代史の第3章の情報は登録されていなかった。 また、操縦席にも入力端末があり、TV版ではコブラが見た情報をそこにあるモニターパネルで再生、これをもとに火星古代史第3章をレディが解読した(第12話)。 タートル号の制御システムには人工知能が組み込まれており、無人でもコブラからの信号に応じて駆けつけるなど自律航行が可能。また、「タイムドライブ」編ではコブラと会話をした。 下部の円筒はコンテナ(小型艇)で作戦に応じて様々な装備を納める。「海底の墓標」編では潜航艇として使用されたほか、「地獄の十字軍」編ではコンテナの自爆ボタンを入れてから切り離してミサイル代わりにした。なおコクピットは射出座席となっている。 「ザ・サイコガン」編では、コブラに命を救われたエンジニア達によって恩返し的に異次元潜行能力を付加された。 アニメ版ではデザインが異なっている。TV版のタートル号は通常時、機首の部分だけ突き出したデザインで首だけを出した亀のような形態をしている上に変形機構を有していた。この変形システムを劇中では<b data-parsoid='{"dsr":[18118,18133,3,3]}'>フォーメーションCと呼ぶ。CはABCの連番ではなく、COBRAのCと推測される。 フォーメーションCによるタートル形態からコブラ形態への変形プロセスは以下の通り。 機首を右にスライドさせ、右側のブロックに連結する。 左右のブロックのロックを解除し、機首を連結している右側ブロックを前方に、左側ブロックを後方にスライドさせ、一直線に伸ばす。 上記のプロセスと並行して上部パネルの左右を折りたたみ、長方形の棒の形をした中央ブロックの側面にくっつけて変形完了。 タートル形態のときに中央ブロックをはさんでいる左右のブロックは多関節となっており、これによりコブラ形態時は船体を蛇のようにくねらせることが可能となっている。また、コンテナは中央ブロックに収納されている。このTV版タートル号は、DXコブラタートル</b>としてポピーより商品化された。玩具では船体をN字型に開いていき、一直線に伸ばす形で変形を実現している。 原作のタートル号も、「ザ・サイコガン」編以降デジタルカラー作品として本作が発表されるようになってからは従来のイメージを残しつつ、デザインがリニューアルされ3DCGでモデリングされている。TV版および映画版を完全収録したDVD-BOXはタートル号BOXと銘打たれ、このリニューアル版タートル号を模したフィギュアにDVDを収納できる仕様となっている。 このリニューアル版タートル号の上部には、コブラ科のヘビ(インドコブラなど)の背中に見られる斑紋を図柄化したマークが描かれている。 エアーバイク 空中を飛行可能なバイクで、車体カラーは赤。コブラが好んで使用する乗り物で、「刺青の女」編で初登場。以来数々のエピソードで登場する本作の準主役メカ。「6人の勇士」編や「地獄の十字軍」編では訳あってタートル号とは別行動することになったコブラが、宇宙服を着用した状態で宇宙空間を飛ぶ場面がある。ジャンプコミックス版ではタンク部に「HONDA」のロゴが入っていたが、デジタルカラーによる連載版以降は「COBRA」に変更されている。 TV版ではこれとは別に、地上走行時は普通のバイクと変わらない形状だが、空中を飛行する際には車輪が開いて飛行形態になるタイプも登場している。レディも時々このバイクに乗ることがある。 モグラ 「地底の客」編で登場する、削岩用マシン。ライフル星で鉱脈を探すためにジンゴロウが生前設計していたものだったが、劇中では彼の死後にこの星を訪れたコブラにより使用された。 岩山の洞窟内に格納庫があり、その場所を記憶させていたロボット・ハービィの案内でコブラはそこに隠されていたモグラを使用してギルドの地底基地に侵入した。 モグラとは採掘用マシンを指す言葉であり、ギルドが使用している採掘用マシン・モビル=ライダーもジンゴロウが生前残していたビデオレターにおいて彼がこの言葉で呼んでいるため、正式名称は不明。 ギルドのモビル=ライダーが削岩用ポッドといった感じのデザインに対し、こちらは地中艇といった趣のデザインになっており、コクピットは複座式。劇中でコブラがハービィにも操縦させていることから、どちらの操縦席からでも操縦可能な模様。前面には先がすぼまった形をしたロック・クラッシャーが2基、左右の側面にはモビル=ライダーと同型のロック・クラッシャーがそれぞれ2基で計6基のロック・クラッシャーが配置され、背面には強力なロケットエンジンが配置されている。前面側に配置されたこのロック・クラッシャーを高速回転させて地中を掘り進むことができる。武装はビーム砲発射口が前面側に配置されており、射程距離はモビル=ライダーよりも長い。 このマシンを使ってギルドの地底基地に潜入できたものの、地下坑内に配置された侵入者監視用のリフトから放たれたビーム砲により破壊された。 海賊ギルド エアー・リフト シド刑務所の保安隊が使用する、小型飛行兵器。武装は機銃とミサイル。不法侵入者や脱走者への追跡・攻撃目的で配備されている模様。劇中ではキャサリン救出のため刑務所内に潜入したコブラに対して使用されるも、その内の1機を奪われ、コブラとキャサリンの脱出手段となった。 ゲルファイター 「刺青の女」編で、クリスタル・ボーイ配下の部隊が使用していた戦闘機。コブラとボーイのシド宇宙港の戦い終盤では、ボーイが自ら操縦してコブラに襲い掛かった。戦闘機としては頑丈な構造で、劇中では銀河パトロールのパトカーを正面から弾き飛ばし、ボーイが使用した機体はコブラのパイソン77マグナムの銃弾を跳ね返している。 TV版では、曲面を多用したデザインに変更された。 ピラゲーター スノウ・ゴリラで使用されている裏切り者の処刑用マシンで、侵入者対策のための「番犬」としての役割も果たす。ピラニアとアリゲーターを併せたような名前をしている。サイクロプスのように大きな目玉が付いた箱といったデザインで、処刑の対象を複数で取り囲み口を開けて襲い掛かる。スノウ・ゴリラに潜入していたドミニクの仲間はこれで処刑され、ドミニクも処刑されかけたがギルドの使者を装っていたコブラにより窮地を免れた。 サイドワインダー 「刺青の女」編後半で、サンドラ率いる「スノウ・ゴリラ」がコブラ達をルールジュ星から惑星ザドスまで追跡するのに使用した宇宙船。「最終兵器」のあるピラミッドを確認するや、用済みとなったコブラ達の乗るタートル号に攻撃をかけるも、タートル号に反加速装置で背後を取られてしまう。しかし、サンドラの命にて搭載していた戦車ブラックシープを出撃させて注意を引き、その隙にサンドラ自身はピラミッドに向かった。 ブラックシープ(戦車) サイドワインダーに搭載されている戦車。火力や装甲の強力さもさることながら、地中に潜ることで奇襲攻撃を仕掛けてくる厄介な存在。惑星ザドス特有の鉄分を多く含む砂質の砂漠での戦いでは、地中に潜られるとレーダーによる探知が不可能となり、タートル号に大打撃を与えた。ところが、「最終兵器」を手にして現れたサンドラによって、最終兵器の進化のモデルにされた末、破壊された。ブラックシープとは原作者・寺沢武一による漫画製作スタジオの名前であり、その後のエピソードとなる「6人の勇士」編に登場する宇宙戦艦にもこの名が使用されている。 TV版ではこれに搭乗していたサンドラの部下2人は死亡したものの、破壊されておらずコブラ達が使用している。 モビル=ライダー 「地底の客」編で、ギルドがライフル星でロド鉱石の採掘に使用していた削岩用ポッド。地中を掘り進めることから、モグラと呼ばれている。 ボールのような形をしており、ロック・クラッシャーと呼ばれるパラボラアンテナのような形をした削岩機が前面と背面に3基ずつ、計6基配置されている。武装はコクピット前面にある2門のビーム発射口。 削岩用マシンというだけあり、ロック・クラッシャーを高速回転させることで硬い岩場を走破できるが、砂漠などの砂地を渡るときはそのままの形態では走破できないため、玖珠(くすだま)を割るようにしてポッド下部から補助輪を出して渡る。 SS合金製のボディーは2000度までの高熱に耐えられるため、溶岩の中に放り出されてもしばらくの間は溶解しない。そのため、地底にあるロド麻薬精製工場のエネルギー炉の制御装置を破壊したコブラ達は、奪ったモビル=ライダーで排気口に突っ込み、吹き上がったマグマの圧力を利用して脱出ボッド代わりとした。 バラクーダ 「海底の墓標」編で、海底要塞を築いたアイアンヘッド一味が使用していた魚型のロボットおよび水中用の乗り物。大人2人ぐらいを乗せられる大きさで、目の部分はサーチライトとなっており、武装は牙を持った口と、そこから放たれるミサイル。ロボットタイプはコンピューター制御がなされており、制御用プログラムの入ったカートリッジを取り外すと狂いだして無差別攻撃を始めてしまう。 乗り物として使用可能なタイプにはバイクのようなハンドルとブレーキが付いており、手動運転が可能。ドミニクを救出し、海底要塞を破壊したコブラの脱出手段となった。また、その後を追ってきたアイアンヘッドが使用していたバラクーダは、彼女の口笛で呼び出すことが可能となっている。 キングダム 4本足で歩行する重戦車。武装として機銃を装備し雪中への潜行も可能。潜行中は足を折り畳み、箱のような形態をとる。「サラマンダー(シドの女神)」編では、ネプチューラ星の北極地帯で指揮をとっていたヘルガ大佐率いるキングダム戦車隊として初登場。その後のエピソードである「6人の勇士」編ではギルド第7機甲師団のキングダム戦車大隊として再登場し、クリスタル・ボーイ率いるギルド親衛隊・ブラックシープに第2キングダム戦車連隊隊長・フォス中佐が傘下に下った際はその戦力として使用された。サラマンダー軍の戦力として使われていた機体には、X字型のクロスボーンの上に頭蓋骨がついたマーキングが施されていた。 「サラマンダー(シドの女神)」編でヘルガ大佐自らコブラ達を葬ろうとした際、全面が300mmのメタライトの重装甲でコブラのサイコガンを耐え抜くという驚異的なタフさを見せたが、サイコガンのビームによる高熱でコックピット内の温度を上昇させ、操縦しているヘルガを蒸し焼きにして死亡させることで辛くも勝利することができた。 TV版では車体の色はピンクで、デザインも角ばったものから球形のものに変更されている。 シドの女神 サラマンダーが宇宙支配のための最終手段として開発した巨大宇宙兵器。本来はエルラド教国前首長、サドロン・ジュドの発案した宇宙灯台だったが、サラマンダーがエルラド教会の実権を握るべくサドロンを暗殺して以降、ラシッド大司教等サラマンダーの送り込んだ者たちによってエルラド教会のある全ての惑星で合計20547機が建造、打ち上げられた。 本来灯台としての照明部である、女神の両手に持たれた球体は一万光年という長大な射程距離と水爆700個分の破壊力を有するレーザー砲となっており、一撃で艦隊・惑星規模の目標を殲滅可能な火力を有する。 頭部には自律思考能力を備えた高性能コンピューターが内蔵され、プログラムの入力が終了次第サラマンダー以外のいかなる束縛を受けない存在となる。 ヘルキャット 海賊ギルドの戦闘機で、逆三角形型(正四面体)の形状をしている。元々はTV版のオリジナルメカだが、その後原作でも「黄金の扉」編から登場した。後のエピソード「6人の勇士」編ではブラックシープに配備されている。機動力と空戦能力に秀でているため、ブラックシープの尖兵としてゴクウの村を襲撃したほか、ドブスンの元へ向かうタートル号の追跡に投入される。火炎林2度目の戦いでは、真っ先にコブラ達「6人の勇士」を迎え撃った。 トマホーク ギルド第7機甲師団で使用されている、巻貝の殻のような装甲でタイヤ部分が覆われた一輪バイク。というより、殻のような装甲を施された巨大なタイヤという感じのデザインである。座席はタイヤの後ろ側にあり、トマホーク装甲車大隊の隊長・アーシュラ中佐はバイザー(風貌)を使用しないで搭乗しているが、一般兵はバイザーを閉じた状態で搭乗している。装甲車という分類上、キングダムに比べて装甲・火力は劣るが機動性に関してはこちらの方が断然上。初登場時はキングダムをジャンプして追い越しており、アーシュラ曰く「キングダム隊はノロマ」とのこと。 アーシュラが使用している車体には第7機甲師団を示す牙のついた頭蓋骨のマーキングが施されている。 重装歩兵 ギルド第7機甲師団で使用されている、1人乗りのロボット兵器。飛行して移動し、戦闘時には人間と同型の両手に持った銃で攻撃する。火炎林2度目の戦いにて、フォス中佐率いるキングダム第2戦車連隊がコブラ達を迎え撃つのにキングダム共々投入された。 この重装歩兵自体は比較的ポピュラーな兵器なのか、「ザ・サイコガン」編や「ブルーローズ」編では銀河パトロール所属のものが登場。 ブラックシープ ギルド親衛隊の旗艦。クリスタル・ボーイ率いる海賊ギルド親衛隊の名を冠する宇宙戦艦(バトル・シップ)。巻貝やアンモナイトなどの貝殻を超巨大にしたようなデザインをしており、艦底のキャタピラで地上走行も可能。 艦内はいくつものセクションに分かれており、全てがチューブによって繋がっている。 管理センターでは、いくつものモニターと目がケーブルによって直結しているレーダーマンによってどんな細かい変化も把握され、艦内の兵士達に注意を呼びかけている。 船体の正面側の中央部あたりに窓がある。そこに管制室があり、ブリッジ(艦橋)としても使用されている模様。また、船体正面側のキャタピラ部の上にも周囲を展望できる窓があり、ゴクウの村を襲撃した時に地上を走行する際にはここでボーイが指揮を執っていた。 コブラとボーイが最終決戦を行ったレベル5のセクションは、船体の正面から見て右側面中央部の渦巻きの真中に位置する部分であり、台座の設置された大きな丸型の窓から外を展望できる。 レベル5の入り口には左右対称に海賊ギルド親衛隊の紋章であるブラックシープが配され、水路を通じてコブラがここに来たときには、レディそっくりの姿になったアーシュラがここで待ち伏せしていた。 ダスト星に不時着し、ブラック・ストーンとシルバー・ストーンが合わさったことによる影響を受けた際には、巨大なデンデン虫のような姿に変化した。 次元潜行艦 クリフ・ボールド伯爵(ジプシードッグ)に雇われたダック人のエンジニア、ダック、プーシン、カイ、ミゲルが作り上げた艦。潜水艦をそのまま巨大にしたような外観。敵が迫っている状態でも異次元空間に潜行してワープすることで、素早く脱出することが可能。また、壁等に囲まれていて物理的に入ることが不可能な場所に対しても、異次元空間からその場所の内部に実体化することで侵入可能。武装としてビーム砲多数を装備しており、切り札として強力な火力を持つサンダーボルト砲を有する。 ボールド伯爵は次元潜行艦の1番艦を使い、2番艦は彼の部下が艦長を務めている。また、ボールド伯爵に指示を出していたレッドボーンの元でも同型艦が多数建造されて艦隊を構成し、レッドボーン自らが座乗する巨大戦艦はデザインこそ次元潜行艦とは大きく異なるものの、同様の機能を有している。 その他 エアカー 空中を飛行可能な車で、SF作品では一般的な移動手段であり、本作でも登場。コブラも第1話でハイウェイを、「黄金の扉」編序盤で金星の道路を走るのに使っている。これらの車はオープンカー。 「シドの女神(サラマンダー)」編では暴走族やそれを取り締まる警官のドーベルのパトカーなどの車も登場している。「シドの女神」編でコブラ達が使用した車や、「黄金の扉」編前半のタクシー等、宇宙空間を走行可能な車も登場しており、コブラ自身も「神の瞳」編にてマダム・ドローレの館を出入りするのに使っている。こちらの車は屋根のあるクローズド・タイプで、外観はS130型フェアレディZに酷似している。 なお、「死の商人」編のトレーラーのように全く飛行するシーンのない車も劇中登場する。 岩盤溶解機 「刺青の女」編で登場する、採掘用マシン。前方に配置された2基のバーナーによる強力な熱で岩盤を溶解し、地下を掘り進むことができる。レーザー砲による狙撃から逃れようと、コブラが逃げ込んだ先の廃坑にいた老人が金を採掘するのに使用していた。廃坑は行き止まりで逃げ場を失ったコブラだったが、「レーザー光線は歪んだ大気の中を直進できない」という弱点に気付き、これを使用して周囲の空気を歪めることでレーザーを曲折させ、窮地を逃れることができた。 サンド・ルーク 「ソード人の秘密」編で登場する、巨大な陸上船。ソード人にとっての「動く城」であり、長きに渡ってソード人は獲物を求めてあてのない放浪を続けていた。地中へ潜行する機能と自衛用の武装が施されているが、バベル王が王座に就いてからは人間を襲う私掠船と化した。 ファイアーバード 「ラグ・ボール」編で登場する、銀河パトロールの中型宇宙船。海賊ギルドの一員にしてロド麻薬密売に関わるランドを逮捕するためにラル星の上空軌道上に赴くも、ランドのいるランド競技場が治外法権で、確かな証拠が無い限り手出しは不可能だった。しかし、コブラが機転を利かせてドミニクにロド麻薬密売の情報を収めたマイクロフィルムを渡し、ドミニクがマイクロフィルムのデータを電送したので、試合終了後にファイアーバードは堂々とランドの元へ乗り込み、彼を逮捕した。名前の由来はポンティアック・ファイアーバードから。 ジゴル 「黒竜王」編に登場。全長300kmにも及ぶ巨大なクジラあるいはサメの様な形状で、スター・シードを食い荒らすゲイターを退治するために古代のエルボ人が造った捕鯨船。現在では「消化液」は枯れており、腹の内部にはスタマックス(胃の英名より)と呼ばれる都市が形成され、ゲイターと一緒に飲み込まれた人々とその子孫、およそ30万人以上が生活している。 エレファント ヘル・クルセイダースで使用される主力兵器。名前の通り、ゾウのような外見をしている。一人乗りの飛行兵器で、象の鼻の形をした105mm砲を主砲としている他、機銃や爆雷を装備している。このエレファントを乗りこなせることが、ヘル・クルセイダース入隊の絶対条件である。操縦自体は1人で十分だが、もう1人や2人位なら一緒に乗せることが可能。 「コブラ・ザ・アーケード」では、海賊ギルドの兵器として登場。 デス・クロッサー ヘル・クルセイダース本部突撃隊「クロス・エンジェルス」が主に使用する、十字架の姿をした一人乗りの飛行兵器。エレファントに比べて小型な上、瞬間加速装置を装備しているため機動力はエレファントとは段違いである。 ムーンフォーカット ヘル・クルセイダースの本部母船。ゴールドマン総統や本部突撃隊「クロス・エンジェルス」が乗船する、移動可能な巨大基地。巨大な十字架の姿をしており、月夜に姿を見せると月(ムーン)が4つに(フォー)割れる(カット)ように見える。船内には他に人間の感覚を遮断して外部からの刺激を絶つことで、自我を消して従順化させる装置があるが、コブラには通用しなかった。 サンドウルフ メドゥサ族が砂漠地帯で使用している潜水艦。イメージ的には砂漠を浮上・潜行可能な潜水艦。砂の中で使用可能な魚雷が主武装。現実のディーゼル潜水艦と同様に燃料補給が欠かせないが、給油基地はメドゥサ族にとっての重要拠点であり、外部の人間に目撃されたときは抹殺するのが普通。 潜水艦 「ギャラクシーナイツ」編にてコブラ達がシバ城へ移動するための手段として現地調達した潜水艦。カオス人の奴隷商人ザールの館の地下に停泊していたので、本来はカオス軍で使用されている潜水艦と推測される。ただし、劇中でカオス人が同型の潜水艦を使うシーンはない。 パトロール船 「ブルーローズ」編冒頭でパトロール任務中のシークレットが操縦していた、銀河パトロールのパトロール船。武装はガトリング砲が1基。パイロットが船内に乗り込むのではなく、宇宙服を身に着けた状態で船外の操縦席にうつ伏せの状態で乗って操縦する。 コブラのメカデザインにおいてはシド・ミード(工業デザイナー)の影響が大きく、シド・ミード作品画集『SENTINEL』からのデザイン流用と思しきメカやインテリア、アイテム等が多数見受けられる。 書籍 コミック・文庫・愛蔵版・完全版 ジャンプ・コミックス・『コブラ』全18巻(集英社) 『週刊少年ジャンプ』掲載分、描き下ろし「リターンコブラ」を収録。 JCデラックス版『コブラ』全10巻(集英社) 『週刊少年ジャンプ』掲載分を収録。 JCデラックス版『コブラ ~聖なる騎士伝説』全1巻(集英社) 「聖なる騎士伝説」編を収録。 上製本愛蔵版『コブラ』全12巻(創美社) 『週刊少年ジャンプ』掲載分、描き下ろし「リターンコブラ」、「聖なる騎士伝説」編を収録。 コブラ - COBRA THE SPACE PIRATE -(文庫版)全12巻(集英社) 『週刊少年ジャンプ』掲載分、描き下ろし「リターンコブラ」、「聖なる騎士伝説」編を収録。 コブラ - COBRA THE SPACE PIRATE -(完全版)全12巻(メディアファクトリー)B6判 収録順や校正を限りなく連載当時に近づけ、カラーや2色カラーのページもそのまま再現。傷んだ原稿に訂正を加えたもの。 COBRA WONDER ―Concept design arts of Cobra world イラスト・データ集、その他の単行本には未収録であるサイドストーリー2編「魔法の船」「バラ」もオールカラーで収録。 フルカラー・フルCGコミック JCデラックス COBRA ザ・サイコガン 前編 COBRA ザ・サイコガン 後編 COBRA マンドラドの伝説 - 「マンドラド」「黄金とダイヤ」「さまよえる美女の伝説」 COBRA ギャラクシーナイツ COBRA 雷電の惑星 - 「黄金の男」「サイコガンの秘密」「雷電の惑星」「地底の客」 COBRA タイム・ドライブ COBRA 戦場にて - 「戦場にて」「死の商人」「ロボットはいかが?」「黒い弾丸」 COBRA ブルーローズ COBRA ソード人の秘密 - 「ソード人の秘密」「海底の墓標」「リターンコブラ」 COBRA 黄金の扉 - 「宇宙の大魔王」「黄金の扉」 COBRA マジックドール 前編 MFコミックス COBRA ザ・サイコガン 前編 修正版 COBRA ザ・サイコガン 後編 修正版 COBRA ラグボール COBRA マジックドール 前編 COBRA マジックドール 後編 COBRA 黒竜王 - 「黒竜王」「カゲロウ山登り」 COBRA 神の瞳 COBRA タイムドライブ 廉価版コミックス MFR MFコミックス - 16冊 30周年を銘打ったコンビニコミック。完全版コミックス全12巻をもとにしたものを刊行後、MFコミックスで復刊されていないCGコミック版3編を軽装・モノクロ化した、ギャラクシーナイツ、タイム・ドライブの2冊(ブルー・ローズは前述の2冊に分けて収録)、間にGOKU全3巻、鴉天狗カブト全2巻を挟みさらに2ヵ月の間を置いてザ・サイコガン、マジックドールの2冊のモノクロ化版を刊行。これまでのシリーズは不定期で増刷されていたが、その後1巻目から巻末に次巻の発売日を記載してのアンコール発売も開始、この再版ではこれまで表記されていなかった巻数が追加表記されている。 アニメ 映画版が『コブラ SPACE ADVENTURE』として1982年7月3日に東宝洋画系で公開され、その後TV版が同年10月7日から1983年5月19日まで『スペースコブラ』としてフジテレビ系で全31話が放送された。コブラの声優は映画版が松崎しげる、TV版が野沢那智となっている。 その後、2008年よりコブラ生誕30周年を記念して新作アニメ作品『COBRA THE ANIMATION』としてOVAとTVシリーズで製作。コブラの声優はOVA版が野沢那智、TVシリーズが内田直哉となっている。 ゲーム 1982年 『スペースコブラ ザ・サイコガン』(LCDゲーム ポピー) 後年に『ルパン三世 暗闇の城』(1983年)としてキャラを置き換えた同様のシステムで発売された。 1982年 『スペースコブラ プロフェッショナル』(LCDゲーム ポピー) 後年に『ゴルゴ13 シークレットキラー』(1983年)としてキャラを置き換えた同様のシステムで発売された。 1987年 『Cobra』(Amstrad CPC Loriciels) 1987年 『Cobra II』(Atari ST Loriciels) 1989年 『コブラ 黒竜王の伝説』(PCエンジン CD-ROM2 ハドソン) アドベンチャーゲーム。ストーリーは原作の黒竜王のエピソードをアレンジ。コブラの声優は山田康雄で、後述の『コブラII』も担当。 1991年 『コブラII 伝説の男』(PCエンジン CD-ROM2 ハドソン) アドベンチャーゲーム。原作の刺青三姉妹のエピソードを下敷きにしたオリジナルストーリー。 2008年5月、携帯アプリでリメイク(ボイスは無し)。 1996年 『コブラ・ザ・シューティング』(プレイステーション タカラ) FPS。ストーリーは「ザ・サイコガン」。コブラの声優は屋良有作。 1998年 『コブラ ザ・サイコガン』(プレイステーション ソニー・コンピュータエンタテインメント) プレイステーションコミック第1弾。着色された取り込みCGを使用しコマごとに吹き出しや演出が表示される音声付コミック。Vol.1、VoL.2の2つが発売されている。 1999年 『コブラ ギャラクシーナイツ』(プレイステーション ソニー・コンピュータエンタテインメント) プレイステーションコミック第5弾。コブラの声優は野沢那智。 2001年 『魂打~タイピング・ザ・サイコガン』(Win & Macハイブリッド SSIトリスター 開発:スティング) タイピングソフト。ストーリーは「ザ・サイコガン」。2004年に廉価版発売。 2005年 『コブラ・ザ・アーケード』(アーケードゲーム ナムコ) タイムクライシスの派生作品でオリジナルストーリー。登場キャラクターの配役はTV版『スペースコブラ』に準拠しているが、これに登場しないキャラクターは、今作オリジナルの配役となっている。 2006年 『ジャンプアルティメットスターズ』(ニンテンドーDS 任天堂) 参戦作品の1つとして登場。 2012年 『COBRA the DUEL─コブラ─』(Mobage ダーツライブゲームズ) パチンコ・パチスロ パチンコ CRコブラ(2003年、ニューギン) CRコブラ〜終わりなき劇闘〜(2008年、ニューギン) CRコブラ3〜新たなる出発〜(2012年、エキサイト) CRコブラ THE ドラム(2014年、ニューギン) CRコブラ4〜追憶のシンフォニア〜 (2017年、ニューギン) パチスロ コブラII(1996年、オリンピア) COBRA -THE SLOT-(2009年、藤商事) パチスロコブラ(2015年、SNKプレイモア) アプリ スペースコブラ(アニメ版)(2011年3月10日、アニメコミック) 他に、ゲーム(前述)の「COBRA the DUEL─コブラ─」や、きせかえツールといったウィジェットが携帯電話の端末の利用者に提供されている。 タイアップ等 2007年9月より、蒲郡競艇の開催日告知ポスターに起用されている。 実写映画 日本の漫画文化に深い理解を示すフランス人プロデューサーが、コブラを「大きな映画」として実現させる構想を2004年頃より打診。フランスに多いコブラフリークの一人、アレクサンドル・アジャ監督とハリウッドでの実写映画化を企画[5]。2010年に映画化権を正式に取得。 2011年から参加する仏で制作されたコブラのイメージ・イラストが、同年5月に米バラエティ誌の表紙に。 2014年、企画は進行中でありながら映画化への道のりは困難とも伝えられる[6]。 と脚本を共同執筆するアジャ監督は「(原作に忠実に描くには)1億5000万ドル(150億円)以上かかる」「ハリウッドの大スターとの製作だけが、唯一それを可能にする」とに語る。 脚注 外部リンク (寺沢武一サイト配下)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%A9%20%28%E6%BC%AB%E7%94%BB%29
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 1094, 1455, 1899, 1951, 2073, 2746], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([1093, 1441, 1898, 1936, 2072, 2724, 3122], dtype=int32)}
クロスカウントリー・スキーの発祥はどこ?
冬季オリンピック
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
冬季オリンピック(とうきオリンピック、仏:Jeux olympiques d'hiver、英:Winter Olympic Games)は、近代オリンピックの一種で、4年に1度、冬期に行われる総合スポーツ大会。1924年に開催された第1回大会の1924年シャモニー・モンブランオリンピックから1992年に開催された第16回大会[1]の1992年アルベールビルオリンピックまでは夏季オリンピックと同じ年に開催していたが、1994年リレハンメルオリンピック以降、夏季オリンピック開催年の中間となる年(4で割れない偶数年、FIFAワールドカップ、バスケットボール、バレーボール、ハンドボールなどの世界選手権と同年)に開催されるように改正された。したがって、リレハンメルオリンピックは例外的に<b data-parsoid='{"dsr":[732,756,3,3]}'>前大会の2年後に行なわれた唯一の大会</b>である。日本語での正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[770,788,3,3]}'>オリンピック冬季競技大会。 主な競技は、スキー、スケート等、冬期にしか出来ない競技である。なお冬季オリンピックの開催に先駆けて、1908年ロンドンオリンピックにはフィギュアスケート、1920年アントワープオリンピックにはアイスホッケーが夏季オリンピックで競技されている。 大会一覧 第16回までは夏季オリンピックと同年開催。第17回から夏季オリンピックの中間年に開催されるようになった。なお1940年と1944年は第二次世界大戦のため取り止めとなったが、夏季五輪と違い開催された大会のみを回次としてカウントする。2018年現在、南半球での開催は一度も行われていない(夏季では3度行われたことがある)。 「国」は 参加国・地域数。 正式競技 オリンピック冬季大会競技団体連合(AIOWF)に国際競技連盟(IF)が加盟しているスポーツ バイアスロン(国際バイアスロン連盟) ボブスレー・スケルトン(国際ボブスレー・スケルトン連盟) カーリング(世界カーリング連盟) アイスホッケー(国際アイスホッケー連盟) リュージュ(国際リュージュ連盟) スケート(国際スケート連盟、フィギュアスケート・スピードスケート・ショートトラックスピードスケート) スキー(国際スキー連盟、クロスカントリースキー・スキージャンプ・ノルディック複合・アルペンスキー・フリースタイルスキー・スノーボード) 脚注 関連項目 近代オリンピック 国際オリンピック委員会 オリンピック招致 日本の冬季オリンピック金メダル 日本の冬季オリンピック銀メダル 日本の冬季オリンピック銅メダル 冬季オリンピックの競技一覧 冬季オリンピックの熱帯諸国 アジア冬季競技大会 パラリンピック 夏季オリンピック 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%AC%E5%AD%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 216, 950, 1701, 2149, 2635, 2931, 3811, 4430, 5480, 6170, 6271, 6629, 7252, 8313, 8628, 9115, 9359, 9678, 10653, 11307, 12232, 12505, 13087, 14339, 15600, 16381, 16823, 17180, 17630, 18990, 19840, 20436, 21470, 22119, 22354, 22704, 22836, 23069, 23295, 24343, 24638, 25085, 25467, 25909, 26218, 26909, 28188, 28353, 28917, 29864, 30332, 30735, 30788, 32332, 32743, 32956, 33310, 33381, 33517, 33904, 34070], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 208, 949, 1700, 2106, 2634, 2911, 3794, 4416, 5456, 6169, 6270, 6628, 7207, 8278, 8605, 9098, 9358, 9660, 10606, 11306, 12231, 12504, 13073, 14319, 15592, 16380, 16685, 17166, 17616, 18976, 19784, 20401, 21469, 22087, 22340, 22703, 22835, 23068, 23280, 24342, 24615, 25084, 25441, 25908, 26186, 26888, 28187, 28352, 28893, 29863, 30318, 30682, 30787, 32331, 32731, 32955, 33309, 33380, 33516, 33865, 34053, 34120], dtype=int32)}
地球が丸いと証明したのは誰
地球球体説
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([786], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([879], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
地球球体説(ちきゅうきゅうたいせつ、)とは、地(大地)は球体である、とする説、考え方のことである。大地球体説(だいちきゅうたいせつ)とも。 概説 大地球体説(地球球体説)とは、我々の足元にある地(大地)[注 1]は球体である、とする説である。その起源は紀元前6世紀頃の古代ギリシア哲学に遡るが[1]、紀元前3世紀にヘレニズム天文学によって自然学的に所与の事として確立されるまでは哲学的考察の対象であり続けた。このヘレニズムのパラダイムが古代末期から中世にかけて旧世界全体に徐々に取り入れられていった[2][3][4][5]。大地が丸いことの実際的な証明はフェルディナンド・マゼランとフアン・セバスティアン・エルカーノの世界一周旅行(1519年−1521年)によってなされた[6]。 歴史的にみると、地球球体説に取って代わられるまでは、地球平面説が主流であった。古代のメソポタミア神話では、世界は平らな円盤状で大洋に浮いており、球状の空に包まれているように描かれており[7]、こういった世界観が、アナクシマンドロスやミレトスのヘカタイオスによる初期の世界地図の前提となっていた。地球の形状に関するその他の考察としては、アヴェスターや古代ペルシアの著作物で言及されている七層から成るジッグラトあるいは世界山、リグ・ヴェーダで言及されている車輪、お椀、あるいは四角い平面といったものがある[8]。 地球の形状は18世紀により精確に回転楕円体(扁球)として理解された(モーペルテュイ)。19世紀初期には、地球楕円体の扁平率が概ね1/300程度と決定された(ドランブル、エベレスト)。アメリカ国防総省の世界測地系により1960年以降決定されている現代の扁平率の値は1/298.25近くになっている[9]。 歴史 古典古代 古典期ギリシア 地球球体説を示す最古の史料は古代ギリシアの文献に遡るが、大地が球体であることがどのようにして発見されたのかの説明はそこにはない[10]。それは、東地中海沿岸の、特にナイル川デルタとクリミアの間の「ギリシア人の移住の際の劇的な変化、周極する星々の測定しうる高度と位置の変化に対する説明を提案する旅行家の提案」であると考えられる[11]。 ディオゲネス・ラエルティオスによると、「ピュタゴラスは大地が丸いと言った最初のギリシア人であった。しかしテオフラストスはこれをパルメニデスに帰し、エレアのゼノンはヘシオドスに帰した。」 ピュタゴラス 初期のギリシア哲学者達は地球球体説を唱えたが、いくらか曖昧なやり方でそれに言及した[12]。彼らの中でも特にピュタゴラス(紀元前6世紀)が球体説の創始者とされるが、これは、あらゆる発見を古代の賢者の数人に帰そうとする古代ギリシア人の慣習による可能性がある[10]。ある程度の地球球体説は紀元前5世紀のパルメニデスやエンペドクレスにも知られており[13]、高い信頼性をもって球体説をピュタゴラスに帰することはできないが[14]、それにもかかわらず、球体説は紀元前5世紀にピュタゴラス派によって明文化された[10][13]。紀元前5世紀以降、声望あるギリシア人著述家で大地が球形以外の形だと考える者はいなくなった[12]。 ヘロドトス ヘロドトスは紀元前431年-紀元前425年に書いた『歴史』において、太陽が北から照らしたという報告を疑っている。この疑いは、エジプトのネコ2世の治世(紀元前610年-紀元前595年)にフェニキア人達がアフリカ周航を行ったことを論ずる条(『歴史』、4.42)で起こっている。フェニキア人達は時計回りに就航していた際に太陽を右手側に見つつ進んだと報告しているのである。近代の歴史家にとってはこれは彼らの報告の真実性を確かにするものである。 プラトン プラトン(紀元前427年-紀元前347年)はピュタゴラス数学を学ぶために南イタリアへと旅した。アテネへと戻って学院を立てた際、プラトンは弟子に大地は丸いと教えたが彼はそれを証明する用意をできていなかった。もし人が雲より高く舞い上がれれば、大地が似ているのは「これらの12片の革で包まれたボールの一つであり、様々な色で飾られており、大地に塗るのに使われた色はある意味で見本である[15]。」 中世を通じてラテン語で読めたプラトンの作品『ティマイオス』には、創造主が世界を「中心から端までの距離がどこも等しい球形に、まるく仕上げたのですが、これこそ、すべての形のうちで、最も完結し、最も自分自身に相似した〔どの部分も相似した、つまり一様な〕形で[16]」あったと書かれているが、「世界」という言葉は通常宇宙を指す。 アリストテレス アリストテレス(紀元前384年-紀元前322年)はプラトンの随一の弟子であり、「学派の心髄」であった。アリストテレスは「エジプトやキュプロスでは見えるが北寄りの地方では見えない[17]」星があることに気付いた。これは大地の表面が湾曲していないと起こらないので、彼も「大地はまるいばかりでなく、あまり大きくない球だということも明らかである。さもなければ、ほんの僅か移動するだけで、それほど早く明らかな相違を呈するはずがなかろう[17]」(『天体論』、298a2–10)として地球球体説を主張した。 アリストテレスは地球球体説を支持する物理的・観察的な論拠を提出した: 地上のあらゆるものは圧縮・集中によって球を形成するまで中心に向かおうとする傾向をもっている(『天体論』、297a9–21) 南へ向かう旅行家は南方の星座が地平線より上に上るのを見られる; そして 月食時に月面にみられる大地の影は円い(『天体論』、297b31–298a10) 対称性・平衡性・周期的反復性といった概念がアリストテレスの著作に充満している。『気象学』では彼は世界を五つの気候帯に分けている: 赤道付近の炎熱帯から分けられた二つの温帯地域、二つの寒く荒れ果てた地域、「一方は我々より上つまり北極側でもう一方は[...]南極側」にあり、両方とも人を寄せ付けず氷に閉ざされている(『気象学』、362a31–35)。極寒帯では人は生きていけないが、南側の温帯の住民は生きられる。 ヘレニズム時代 エラトステネス キュレネのエラトステネス(紀元前276年-紀元前194年)は紀元前240年頃に地球の周長を概算した。シエネでは夏至の日に太陽が真上にくるのに対してアレクサンドリアでは夏至でも影ができることを彼は聞いた。三角法によって導出するために様々な角度の影を用いて、彼は周長を250000スタディオンだと概算した。1スタディオンの長さは精確には知られていないが、エラトステネスの出した値は5-15%程度しか実際とずれていないという[18][19][20]。エラトステネスは大雑把な概算と大雑把な数値を用いたが、スタディオンの長さによって、彼の概算結果は実際の子午線の長さ40,008 kilometres (24,860mi)とは2-20%程の差がある。エラトステネスは、太陽までの距離が非常に大きく太陽光は基本的に平行だという仮定に基づいて、地球の周長を計算できたにすぎないことに注意。 セレウキアのセレウコス メソポタミアのセレウキア周辺に生きたセレウキアのセレウコス(紀元前190年頃)は大地が丸いと述べ(、また、サモスのアリスタルコスの太陽中心説の影響を受けて、実際には地球が太陽の周囲を回っていると唱え)た。 ポセイドニオス アパメアのポセイドニオス(紀元前135年頃-紀元前51年)は地球の周長を確かめるうえで、エラトステネスの手法を信頼したが、太陽よりもむしろカノープスを観察した。プトレマイオスの『地理学』において、彼の概算結果はエラトステネスのそれよりも強く賛意を示されている。さらにポセイドニオスは地球の半径を用いて太陽までの距離を表した。 ローマ帝国 地球球体説はギリシアを起源としつつ、多くのギリシア天文学思想とともに、ゆっくりと世界へ広がっていき最終的に全ての主な天文学派に受け入れられた見解となった[2][3][4][5]。 西方では、地球球体説はヘレニズム文明との長期にわたる相互交流を経て自然とローマ人に伝わった。キケロや大プリニウスといった多くのローマの著述家は自身の著作で大地が丸いことを当然のこととして述べている[21]。 ストラボン 船乗りたちが水平線の観察に基づいて最初に大地が平面でないことの証拠を最初に見出したのではないかと主張されてきた。この主張は地理学者ストラボン(紀元前64年-24年)によって推進されたが、少なくともホメロスの時代から地中海周辺の船乗りたちに大地が丸いことが知られていたと彼は主張しており[22]、ホメロスが紀元前8-7世紀にはすでにこのことを知っていたことを示すものとして『オデュッセイアー』の一節を引いている[23]。ストラボンは大地が丸いことを象徴するものとして海洋で見られる様々な現象を挙げている。彼は、地上型灯器や陸域は船乗りからは低い灯器よりもずっと遠くから見えることを観察し、明らかに海の湾曲がこういったことの原因だと述べている[24]。 クラウディオス・プトレマイオス クラウディオス・プトレマイオス(90年-168年)は2世紀に学問の中心地だったアレクサンドリアに住んでいた。1400年間にわたって天文学の標準的著作であり続けている『アルマゲスト』において、彼は大地の球状性に関する様々な主張を提出した。その中には、山に向かって船を進める際山が海から昇ってくるように見えるのは、山が海の湾曲した表面に隠されていることを示しているというものがある。他にも、大地は南北にも東西にも湾曲しているという主張を彼は提示している[25]。 彼は八巻から成る『地理学』をも著し、大地について取り扱っている。『地理学』第一部は彼が使ったデータ・方法に関する議論である。『アルマゲスト』にみられる太陽系のモデルとともに、プトレマイオスは全ての情報を大きな枠組みの中に含めている。彼は自分の知っている全ての場所や地理的名所に、大地全体に広がる格子目の中で座標を割り振った(がその多くは失われている)。緯度は今日と同様に赤道から計られたが、プトレマイオスはそれを角度よりもむしろ最も長い昼の長さで表すことを好んだ(夏至の日の昼の長さは赤道上から北極に移動する間に12時間から24時間まで増加する)。彼は経度0度たる子午線を彼の知る限り最も西にあるカナリア諸島を通るように定めた。 『地理学』は「セーレース」(中央アジア東部)と「シナエ」(中国)を、「タプロバネ」(スリランカ、ただし大きすぎる)や「アウレア・ケルソネスス」(東南アジアの半島部)を超えて最も右に置いている。 プトレマイオスは、人の居住地全体の地図 (oikoumenè) とローマ諸州の地図の作り方の教えを考案・提示してもいる。『地理学』第二部で彼は必要な地誌の一覧を挙げ、地図に説明を加えている。彼の「oikoumenè」は大西洋のカナリア諸島から中国までの東西180度をカバーし、北極から東インド諸島やアフリカ深くまでの南北81度をカバーしている。プトレマイオスは自身が地上の4分の1しか知らないことをよく自覚していた。 古代末期 大地が球状であるという知識は当然のことながら古代末期のネオプラトニズムやキリスト教の中の学問にも受け入れられていた。 旧約聖書に示された地球平面説により形成された神学的疑問にラクタンティウス、ヨハネス・クリュソストモス、アレクサンドリアのアタナシオスといったキリスト教徒の学者が影響を受けたが、これは常識はずれの傾向に留まり、カイサリアのバシレイオス、アウレリウス・アンブロシウス、ヒッポのアウグスティヌスといった教養あるキリスト教著述家は大地が丸いことを明らかに知っていた。地球平面説は、旧約聖書の文字通りの解釈を非常に重要視したシリアのキリスト教に長くとどまり、この派閥から出てきたコスマス・インディコプレウステースのような著述家が6世紀に至っても大地を平面形に表し続けていた。この、世界の古いモデルの最後の残滓は7世紀中に消滅し、8世紀から中世にかけて「言及に値する宇宙学者で地球球体説を疑問に付した者はいなかった[26]。」 東方への拡散 東方でのギリシア文化の興隆に伴って、ヘレニズム天文学は東方に向かって古代インドまでを覆うようになり、インドではヘレニズム天文学の大きな影響が紀元後すぐに明らかとなった[27]。大地が惑星の天球に覆われているというギリシアの地球球体説はヴァラーハミヒラやブラーマグプタに熱烈に支持され、大地が円盤状であるというインドの長年にわたる宇宙論に取って代わった[27][28]。古典時代のインド天文学者・インド数学者のアリヤバータ(476年550年)は大地の球状性や惑星の運行を扱った。彼のサンスクリットでの代表作『アーリヤバティーヤ』のうち、「カラクリヤ」(時間の計算)と「ゴラ」(天体)と名付けられた最後の二連は、大地が丸く、その周長は4967ヨージャナ(39968kmに相当) と述べているが、この値は紀元前3世紀エラトステネスの概算値に近い[29]。 アリヤバータは天体の見かけ上の回転は実際は大地の回転によるものだとも述べている。『アーリヤバティーヤ』は逆に中世イスラームの学問に影響を与えた。 中世 大地が丸いという知識は、古典ギリシアの文献(アリストテレス)の直接の伝播によって、あるいはセビリャのイシドルスやベーダ・ヴェネラビリスのような著述家を通じて中世の知識の一部として生き残った。 スコラ学など中世の学問の興隆により、時代が下るにつれて地球球体説を示す史料は増える[21]。 ギリシア・ローマの学問に接する領域への球体説の拡大は必然的に漸進的なものであり、ヨーロッパのキリスト教化の勢いと連動している。例えば、スカンディナヴィアで地球球体説が知られていた最初の証拠は『エルキダリウム』の古アイスランド語への翻訳である[30]。 大地が丸いと知っていた古典古代から中世にかけてのラテン語あるいは口語での百人以上の著述家の余す所のない一覧が、シュトゥットガルト大学のロマンス語文学教授ラインハルト・クリューガーにより編纂されている[21]。 クリューガーによる、名を知られている79人の著述家の一覧を見るには「表示」をクリック: 古代末期 アンペリウス、カルキディウス、マクロビウス、マルティアヌス・カペッラ、 カイサリアのバシレイオス、ミラノのアンブロシウス、ヒッポのアウグスティヌス、パウルス・オロシウス、ヨルダネス、カッシオドルス、ボエティウス、西ゴート王シセブト 初期中世 セビリャのイシドルス、ベーダ・ウェネラビリス、オルレアンのテオドゥルフス、ザルツブルクのヴェルギリウス、 アイルランドの修道士ディクリ、ラバヌス・マウルス、アルフレッド大王、オセールのレミギウス、ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナ、ナポリのレオ、オーリヤックのジェルベール(教皇シルウェステル2世) 盛期中世 ザンクト・ガレンのドイツ人ノートカー、ライヘナウのヘルマン、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、ペトルス・アベラルドゥス、オータンのホノリウス、メスのゴーティエ、ブレーメンのアダムス、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナス、レーゲンスブルクのベルトホルト、コンシュのギヨーム、ターンのフィリップス、イドリースィー、ベルナルドゥス・シルヴェストリス、ペトルス・コメストル、シャルトルのティエリ、シャティヨンのゴーティエ、アレクサンダー・ネッカム、リールのアラン、イブン・ルシュド、スノッリ・ストゥルルソン、モーシェ・ベン・マイモーン、サントメールのランベルトゥス、ティルベリーのゲルヴァシウス、ロバート・グロステスト、ヨハネス・ド・サクロボスコ、カンティンプレのトマス、コルビアックのペイレ、ボーヴェのヴィンセンティウス、ロベルトゥス・アングリクス、フアン・ギル・デ・サモラ、レストロ・ダレッツォ、ロジャー・ベーコン、ジャン・ド・モーン、ブルネクトゥス・ラティヌス、カスティーリャ王アルフォンソ10世 後期中世 マルコ・ポーロ、ダンテ・アリギエーリ、マイスター・エックハルト、アエネアス・シルウィウス・ピッコローミニ(ローマ教皇ピウス2世、ガルバレイのペロ(『世界の区分』)、チェッコ・ダスコリ、ファツィオ・デリ・ウベルティ、レヴィ·ベン·ゲルション、コンラドゥス・メンゲルベルゲンシス、ニコル・オレーム、ピエール・ダイイ、アルフォンソ・デ・ラ・トッレ、トスカネッリ、ブロカルト・デア・ドイチェ、ジェハン・ド・マンドヴィユ、クリスティーヌ・ド・ピザン、ジェフリー・チョーサー、ウィリアム・カクストン、マルティン・ベハイム、クリストファー・コロンブス キリスト教世界 セビリャのイシドルス セビリャ大司教のイシドルス(560年-636年)はよく読まれた百科事典『語源』で大地は丸いと教えている。これについて、彼が地球球体説に言及したのだと考える著述家もいるが;[31]、これや他の著作により、彼は大地が円盤や車輪の形をしていると考えていたことは明らかである[32]。 対蹠点で人が生きるのは可能だと彼は認めず、これを伝説にすぎないと考え[33]、対蹠人の存在を示す証拠が何もないと述べている[34]。 ベーダ・ヴェネラビリス 修道士ベーダ・ヴェネラビリス(672年頃-735年)は、コンプトゥスを扱った影響力の高い論文『時間の計算』で、大地は丸いと述べ、日照時間の違いを「大地が丸いことによるのであって、聖典や一般文学に記された『世界の宝珠』などというものによるのではない。実際は大地は世界の中心に置かれた球状のものなのである」(『時間の計算』(、32)と説明した。カロリング朝が全ての司祭にコンプトゥスを学ぶよう要求したために『時間の計算』の写本が非常に多く作成され、また非常に多くが現存しているが、このことが、ほとんど全員ではないにしても多くの司祭が地球球体説に触れたことを示している[35]。エインシャムのエルフリクスがベーダの著作を古英語訳し、「大地の丸さと太陽の軌道が、日照時間がどこでも等しいことを妨げている[36]」と述べている。 ベーダは明らかに大地が丸いと考えており、「私たちが大地を地球と呼ぶのは、丸い形が平地と山地の多様さに表されているかのようにというわけではなく、万物がその外形に含まれるならば大地の外周が完全な球形を示すからである。[...]それが本当に宇宙の中心に坐する球体であるならば; それは広い宇宙の中で、盾のように円形なのではなくボールのように球形をしており、中心から等距離に広がった完全な球形をしているのである[37]」と書いている。 アナニア・シラカツィ 7世紀のアルメニアの学者アナニア・シラカツィは世界を「球形の卵黄(地球)が白い層(大気)に取り囲まれ堅い殻(天界)で包まれた卵[38]」というように説明している。 盛期中世 中世盛期には、キリスト教ヨーロッパにおける天文学的知識は、中世イスラーム天文学による研究の伝播で齎された古代の著述家の直接的流入の上に発展した。この研究の初期の受取人としてオーリヤックのジェルベール、後の教皇シルウェステル2世がいる。 ビンゲンのヒルデガルト(1098年-1179年)は『神の業の書』で大地が丸いことに何度か言及している。 (c. 1116/1117年 – 1202/1203年)は詩『アンティクラウディアヌス』(羅:Anticlaudianus)で自由七科を擬人化して登場させているが、その中でも幾何学に地球の周長を計らせている[39]。 サクロボスコのヨハネス (1195年頃-1256年頃)はプトレマイオスに基づいて『天球論』と呼ばれる著名な天文学書を著し、その中で地球は丸いと考えている[40]。 中世後期 14世紀初期のイタリアで書かれたダンテの神曲では大地が球状に描かれ、南半球で見られる星が異なることや、太陽の位置の変化、そして地上の時間帯の違いといったことの意味について論じられている。また、オータンのホノリウス(1120年頃)の『エルシダリウム』は下級聖職者教育の重要な手引書であって、中英語・古フランス語・中高ドイツ語・古ロシア語・中期オランダ語・古ノルド語・アイスランド語・スペイン語・いくつかのイタリア語方言に訳されたが、地球球体説に明らかに言及している。同様に、レーゲンスブルクのベルトルドゥス(13世紀中頃)が地球球体説を説教的な絵画で用いたという事実は、彼が自分の説教を聞く会衆に対して球体説を前提知識とみなせたことを示している。説教は口語たるドイツ語で行われており、教養人に向けたものではなかった。 ポルトガル人によるアフリカ・アジアの探検や、コロンブスのアメリカ州到達(1492年)、そして最終的にフェルディナンド・マゼランの世界周航(1519年–21年)により地球球体説の実際的な証明が得られた。 イスラーム世界 イスラーム天文学は地球球体説をギリシアの天文学から受け継いだ[41]。イスラームの理論的枠組みはアリストテレス(『天体論』)やプトレマイオス(『アルマゲスト』)の基礎的な功績に大きく依拠していたが、アリストテレスもプトレマイオスも地球が球体であることと宇宙の中心に存在すること(地球中心説)を前提としていた[41]。 ムスリムの学者は初期から地球が丸いと認識しており[42]、地上のあらゆる位置からメッカの方角・距離を計量できるようになるために、イスラーム数学者は球面三角法を発達させることになった[43]。これによりキブラ、つまりムスリムが祈る向き、が決められる。 アル・マームーン 830年頃、カリフアル・マームーンがイスラーム天文学者やイスラーム地理学者達に、タドムール(パルミュラ)からラッカ(現在のシリアに位置する)までの距離を測るように委任した。彼らは、両都市が緯度にして1度、子午線弧長測量で66​2⁄3マイル離れていることを発見して、それゆえ地球の周長は24000マイルだと計算した[44]。 アル・マームーンの別の天文学者による測量では緯度1度が56​2⁄3アラビアマイル(111.8km)であり、周長は40248kmと計算され、現在用いられている1度あたり111.3kmで周長40068kmという値にそれぞれ非常に近い[45]。 アル・ファルガーニー アル・ファルガーニー(ラテン語名アルフラガヌス)は9世紀のペルシア人天文学者で、アル・マームーンに委任されて地球の直径の算出に携わった。彼による上記の緯度の値(56​2⁄3アラビアマイル)の算出はプトレマイオスによる60​2⁄3ローママイル(89.7km)という値よりもずっと正確であった。クリストファー・コロンブスは、プトレマイオスが提出したよりも地球が小さいことを証明するために、アル・ファルガーニーの値をアラビアマイルではなくローママイルに当てはめて無批判に使った[46]。 ビールーニー アブー・ライハーン・アル・ビールーニー(973年-1048年)は地球の周長を計算するために新たな手法を用い、現在用いられているものに近い値に到達した[47]。彼の算出した6339.9kmという地球の半径の値は現在用いられている6356.7kmという値に16.8km足りないだけにすぎない。二つの異なる場所から同時に太陽を見ることで地球の周長を算出した先達たちとは違い、ビールーニーは平地と山頂の角度に基づいて三角法による計算を使った新しい手法を発展させ、それによってより精確な地球の周長の値を得て、一人の人間が一か所から測量するだけでその値を算出できるようにした[48][49]。 ビールーニーの手法は「暑く、埃っぽい砂漠を歩くこと」を避けようとしたものであり、彼がインドの高山に上った際に思いついたものである。彼は山頂から地平線を見た際に、それが(既に計ってある)山の高さとともに大地の曲率を計るのに使えることに気づいたのである[50][51]。 彼は代数学をも用いて三角方程式を立て、アストロラーベを用いて角度を測った[52]。 ジョン・J・オコナーとエドマンド・フレデリック・ロバートソンは『マックチューター数学的発見史』にこう書いている: 「ビールーニーは測地学と地理学に対する重要な功績も成している。彼は地球を計測する新しい方法を導入して、それによって三角法を用いて計った。彼は地球の半径として6339.6㎞という値を確立したが、これほど正確な値は西欧では16世紀まで得られなかった。彼の『マスウード宝典』には600以上の場所の座標の表が掲載されているが、彼はそのほぼ全ての値を自身による測量から導いていた[53]。」 近世 世界一周 地球球体説の最初の直接的な証明は史上初の世界周航、つまりポルトガルの探検家フェルディナンド・マゼランに統率された航海、によりもたらされた[54]。この航海はスペイン王室の資金援助を受けた。1519年8月10日にマゼランの指揮の下セビリアから5艘の船が出港した。彼らは大西洋を横断してマゼラン海峡を通過し、太平洋を通ってセブ島に到達したが、そこでフィリピン人先住民との間に戦闘が起こり、マゼランが殺されてしまった。そのためフアン・セバスティアン・エルカーノが跡を継いで航海を続け、1522年9月6日にセビリアに帰還して世界一周を完了した。カルロス1世はエルカーノの功績を認めて彼に「汝は初めて私を巡った」(羅:Primus circumdedisti me)という標語が入った紋章を授けた[55]。 ただし、世界一周単体では地球球体説を証明できない。円筒状であったり不規則な球形をしていたりといった別の形をしている可能性があるからである。さらに、エラトステネスが1700年以上前に用いた三角法による証拠を組み合わせることで、マゼランの航海はヨーロッパの知識人の間から全ての合理的に考えられうる疑問を除去した。 明朝中国 17世紀には、以上のように西洋天文学によって研究された地球球体説が最終的に明朝中国に広がったのは、帝国の宮廷の天文学者の中で高い位置を占めたイエズス会士達が、地球は平面上で四角いという中国古来の思想に挑戦して成功したためである[56][57][58]。 地球が球体であることの根拠のまとめ ほぼ歴史的に考察された順序に並べた: 海で、低い地面の前の空間や船体の前の船の帆に高山や地上型灯器が見えた場合。船の上の方に上った場合か、陸地なら高い崖の上にいる場合に、さらに遠くが見える。 北国へ旅すると太陽は低く上るが、北極星のような北にある星は高く上るようになる。エジプトで見えるカノープスのような他の明るい星は空に見えなくなる。 地球は月食の際に月に円形の影を投じる。 月食が報告される時刻(月食の起こる時間帯自体はある特定の時間帯のはずである)が、東方(例えばインド)では西方(例えばヨーロッパ)よりも数時間遅れている。時差はクロノメーターや電信を用いた旅行によって後に確かめられた。 エチオピアやインドなど非常に南へ行くと、1年の内ある時期には影が南側に生じる。さらに南(例えばアルゼンチン)に行くと常に南側に影が生じる。 世界周航が可能である; つまり、世界を一周して自分が元いた位置に戻ってくることが可能である。 世界を一周する旅行家は、していない人と比べて一日の長さが増減する。国際日付変更線を参照。 人工衛星は地球の周囲を回り続け、さらに静止軌道にある衛星は地球から見て不動でありつづけられる(静止衛星)。 宇宙から地球の写真を撮ると、観点に関わらず円形に見える。 以上の主張のうち、いくつかは単体では別の説明をすることができる。例えば月食の際の影は円盤状の地球によって投じられることが「ありうる」。同様に旅行に伴う空の星の南北への移動はそれらの星が地球に非常に近いことを意味することが「ありうる」。しかし、各主張は互いを強化する。 測地学 測地学とは、三次元時変空間における地球やその重力場、地球力学的現象(極運動、地球の潮汐、地殻運動)について測量したり論じたりする学問領域である。 測地学は重力場の位置決定やその時間変化の幾何学的側面を主に扱うが、地球の磁力場の研究をも含む。特にドイツ語圏の測地学は、地球を全体として測量することに関わる地理計測()と、地表の一部を測量することに関わる調査(独:Ingenieurgeodäsie)に分けられる。 地球の形状は少なくとも二つのやり方で考察される; ジオイドとして、世界の海洋の平均的な海水面として; あるいは 海面まで上下したような地表として 測地学では地球をさらに正確に計測するため、まずジオイドの形状は完全な球とはされず、楕円体の一種回転楕円体としてほぼ正確に表される。さらに近年の測定によって未だかつてない正確さでジオイドが計られ、地表下の質料濃度が明らかになっている。 脚注 注釈 出典 関連項目 天球 地球の半径 地球の図案 地球平面説 地理的距離 地球平面説という神話 物理測地学 メガラニカ 世界測地系 外部リンク (from The Straight Dope) , educational web site
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%90%83%E4%BD%93%E8%AA%AC
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 287, 514, 839, 1308, 1819, 2330, 2712, 4032, 4264, 4366, 4905, 5194, 5730, 6348, 6780, 8163, 9208, 9851, 10329, 10911, 11117, 11455, 12575, 13444, 13798, 14371, 14843, 15320, 15667, 15836, 16310, 16644, 16931, 17140, 17818, 18002, 18692, 18778, 18921, 19427, 22023, 26641, 29342, 29930, 30650, 31295, 31909, 32142, 33788, 34671, 34934, 35112, 37062, 37294, 37702, 37922, 38680, 40047, 41510, 42655, 43221, 45099, 45689, 47173, 47610, 48701, 49930, 50540, 51650, 52388, 52855, 53636], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 286, 506, 838, 1307, 1818, 2301, 2711, 3994, 4262, 4365, 4904, 5193, 5729, 6302, 6779, 8139, 9207, 9850, 10328, 10910, 11079, 11454, 12574, 13443, 13772, 14370, 14842, 15285, 15666, 15835, 16309, 16643, 16905, 17139, 17817, 18001, 18632, 18744, 18887, 19393, 21989, 26607, 29270, 29896, 30557, 31283, 31908, 32141, 33787, 34670, 34933, 35111, 37050, 37293, 37701, 37921, 38679, 40046, 41498, 42654, 43209, 45087, 45688, 47113, 47576, 48667, 49896, 50506, 51616, 52325, 52841, 53613, 54114], dtype=int32)}
アイドル文化はいつ誕生した?
アイドル
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
アイドル</b>とは、「偶像」「崇拝される人や物」「あこがれの的」「熱狂的なファンをもつ人」を意味する英語([idol]error: {{lang}}: text has italic markup (help))に由来し[1]、文化に応じて様々に定義される語である。 稲増龍夫やカネコシュウヘイは、日本の芸能界における「アイドル」を『成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物』と定義している。[2]。 概説 キャラクター性を全面に打ち出し、歌・ダンス・演技・お笑いなど幅広いジャンルで活動を展開しやすいのが特色である[2]。外見が最も重要視されるモデルとは異なり、容姿が圧倒的である必要はなく親しみやすい存在であることが多い[2]。 一方で、はっきりと目には見えない“華”や“人間的魅力”が強く求められるため、一流のアイドルは手が届きそうで届かない存在となる[2]。日本国内において一義的には「アイドル歌手」の意味で使用されるが、後述のように「グラビアアイドル」など歌手活動を伴わないアイドル、「アイドルレスラー」など広義では芸能界以外でも使用する。 “存在そのものの魅力”よりも“音楽的スキル”が主たる職業能力である場合には、「アイドル」には分類されず「アーティスト」や「ミュージシャン」などと呼ばれる。ただし本人や所属事務所などの意向により、どちらの立場をとるか決めることもでき、線引きはあいまいである。そのため本人が「アーティスト」と名乗っていても、「アイドル」に分類されることがある[3] かつての主流は20代でアイドルを休止し、アーティストや俳優(女優)などに転向することであったが、2000年代以降は様相が変わってきている。本人が30代以降になっても新たなチャレンジなどをし続ければ、“成長過程”や“存在そのものの魅力”が問われるアイドルという職業を継続することが可能であり、世間からもそれが認められるようになった[4]。 「アイドル」の起源 アイドル([idol]error: {{lang}}: text has italic markup (help))の本来の意味は、偶像、すなわち神や仏などの宗教的存在をかたどって造られた像で、かつ崇拝の対象となっているもののことである[5]。この用語が転用され、20世紀前半のアメリカで「若い人気者」としての意味で使われ始めた。 アメリカでは、戦前の1927年に「マイ・ブルーヘブン」をヒットさせた歌手のジーン・オースティン[6]や、1940年代に「女学生のアイドル(bobby-soxer's idol)」と呼ばれて熱狂的な人気を生んだフランク・シナトラらが[idol]error: {{lang}}: text has italic markup (help)と呼ばれ始めた[7]。その後、アネットやファビアン、ボビー・ライデル[8]らのアイドルが人気となり、マイケル・ジャクソンやバックストリート・ボーイズなどもアメリカを代表するアイドルである。デビュー時のエルヴィス・プレスリー(1950年代)やビートルズ(イギリス・1960年代)らは、日本でも「アイドル」として認知されていた[9]。イギリスでは、クリフ・リチャード、ベイ・シティ・ローラーズ、スパイス・ガールズらのアイドルが存在した。その後「若い人気者」という意味における[idol]error: {{lang}}: text has italic markup (help)という言葉は死語となり、[icon]error: {{lang}}: text has italic markup (help)や[pop star]error: {{lang}}: text has italic markup (help)などの言葉で置き換えられるようになっていった[10]。 日本型「アイドル」の誕生 日本においては当初「アイドル」という言葉は、主に日本国外の芸能人を対象にした呼称として用いられ[11][12]、日本の人気芸能人は一般的に「スター」と呼ばれていた。 明日待子は「日本で最初のアイドル」(の一人)として挙げられる[13][14]。 テレビが登場する前の主力産業は映画だったことから、スターの大半は映画俳優であり、特に加山雄三、吉永小百合、浜田光夫らは「青春スター」と呼ばれた(東映ニューフェイスも参照)。女性においては美空ひばりや吉永小百合らの時代であり、そのひばりに江利チエミ、雪村いづみを加えた「三人娘」、あるいは、中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりから成る「スパーク3人娘」らが人気を博した。 しかし、1960年代には、産業としての映画の衰退、本格的なテレビ時代の到来、グループ・サウンズのブーム[15]が巻き起こる過程で、徐々に「スター」と並行して「アイドル」の呼称が用いられるようになった[16]。 1970年代に至り、未成熟な可愛らしさ・身近な親しみやすさなどに愛着を示す日本的な美意識を取り入れた独自の「アイドル」像が創造された[17]。また1968年に設立されたCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)が、それまでレコード会社が楽曲制作を自社の専属作家に任せていたのを、無所属の作家に開放したことが切っ掛けで、「アイドル歌謡」が隆盛するようになった[18]。 その後、現在に至るまで女性アイドル産業が特に盛んな背景として、「元来女性は、男性にはない『感動しやすい習性』『精緻なる感受性』をもつがゆえに、巫女的な妹の力(いものちから)を得て、生きる力、幸福への道を伝えることができる」とする、民族学者・柳田國男の評論が持ち出されるケースがある[19]。なお、日本におけるアイドルの隆盛時期は、不況の期間とほぼ完全に一致している、という分析もある[20]。 女性アイドル史 アイドル黎明期 1971年デビューの新三人娘(小柳ルミ子・南沙織・天地真理)らがアイドル歌手の源流とされるが、それ以前にも西野バレエ団から派生したガールズユニット「レ・ガールズ」(金井克子、原田糸子、由美かおる、奈美悦子、江美早苗が所属)が1967年に結成され、若者を中心に熱狂的な人気を博すといった事例もあった。 1970年代には『スター誕生!』や「ミスセブンティーンコンテスト」、「ホリプロタレントスカウトキャラバン」などの大規模なオーディションが相次いで開催されるようになり、森昌子、桜田淳子、山口百恵から成る「花の中三トリオ」やピンク・レディー(『スター誕生!』)、松田聖子や国生さゆり、工藤静香(「ミスセブンティーンコンテスト」)ら、後の人気アイドルを輩出した。但馬オサムによると、当時はまだアイドルという単語自体が定着しておらず(「新人歌手」「新人女優」「新人モデル」といった肩書が付けられていた)、この時代に量産される女性タレントを多少の揶揄の意味を込めて「可愛い子ちゃん歌手」と呼ぶ風潮があったとのことである[21]。小学館の学年別学習雑誌の表紙は、それ以前に子供の写真か子供を描いた水彩画が用いられていたのに対し、1970年代後半から主に高学年向けにてアイドルの写真、いわゆる表紙グラビアになりはじめ、1975年にはグラビアアイドルの先駆者と称されるアグネス・ラムがデビューを果たした(ただし当時の彼女の肩書は「CMモデル」)。 アイドル全盛期 1980年代に入り、松田聖子・小泉今日子・中森明菜[22]ら若年層に向けたポップスを主とする歌手が活躍を始め、「アイドル」の呼称が市民権を得るようになった[23][24]。1980年の時点では松田のレコード売上は新人部門4位で、ニューミュージック勢が優勢であったが[24]、1982年に小泉と中森がデビューし、女性アイドルの黄金時代となった[25]。1980年代の後半には、「女性アイドル四天王」と呼ばれていた中山美穂、工藤静香、南野陽子、浅香唯の4人の他、高い歌唱力を持つ本田美奈子や森川美穂や長山洋子などの実力派アイドルも登場した。そのような中、ライジングプロダクションが擁する荻野目洋子は歌唱力だけでなくダンスにも力を入れたスタイルで人気を博した。これは、1990年代後半以降に台頭するダンスボーカルアーティストのスタイルを先取りする形であった。 彼女らは、レコードリリースと歌番組を軸として活動しており、バラエティー番組出演や女優業などは、いわゆる「副業」という位置づけであった。シングルレコードは、おおよそ3か月程度で一枚を出すのが常で、とりわけデビュー前後においては、レコード会社及びプロダクションが最も力を注ぎ[26]、多大な宣伝効果を期待していた[27]。年度始めのデビューが多く、「豊作の82年組・85年組」「不作の83年組」など、年度単位でアイドルがカテゴライズされることもあった。 日本レコード大賞を筆頭に数々の賞を賭けた歌番組が80年代に勃興し、各賞を獲得することが当時のアイドルにとってのステータスであり、その激しさから「賞レース」などとも呼ばれた[28]。また、『ザ・ベストテン』『歌のトップテン』等のランキング番組は、その宣伝効果から、オリコンチャートに匹敵、むしろそれを上回る重要性さえ持っていた。 80年代アイドルは、基本はまず「歌うこと」が仕事のメインという前提があったが、「角川三姉妹」と呼ばれた薬師丸ひろ子、原田知世、渡辺典子のように女優業をメインとして、歌手業が副業的な場合もあった。歌番組出演は当時のアイドルの生命線でもあったが、このようなタイプのアイドルはむしろ乱発的に出演せず、最小限のテレビ出演に留め、映画公開と併せたプロモーション効果としてシングル曲を巧く利用していた。 コンサートやイベントなどでは、「親衛隊」と呼ばれる、事務所側から公認・支援を受けた全国的応援組織が複数存在した。 本来の「アイドル」の消滅 1980年代後半から、レコードの売り上げが頭打ちになる。『ベストテン』『トップテン』『夜のヒットスタジオ』などの生放送歌番組が相次いで打ち切りになり、日本レコード大賞などの権威も失墜。アイドルがアピールできる媒体が消滅していった。 一方で、フジテレビ『夕やけニャンニャン』から生まれたおニャン子クラブや、井森美幸、島崎和歌子、松本明子、森口博子、山瀬まみら、主にテレビのバラエティ番組で活動するバラエティーアイドル(略して「バラドル」)と呼ばれる存在が派生し、同時期にかとうれいこ、細川ふみえ、C.C.ガールズといった、雑誌のグラビアを中心に活動する「グラビアアイドル」と呼ばれる存在もデビューしはじめ、他方で後藤久美子、小川範子、坂上香織、喜多嶋舞、宮沢りえらローティーンの子役やモデルらが美少女ブーム[29]の中クローズアップされて歌手デビューするなど、以降アイドルという存在が急速に多様化していった。また、アダルトビデオの普及に伴い、黒木香、桜木ルイ、飯島愛などのアイドル的な人気を誇るAV女優が登場するようになり、それらの中にはAV女優引退後にタレントに転身して活動する者も現れ始めた。 それまでのアイドルは一般的に歌手や俳優、グラビア写真モデルなど1人で様々な分野で活動し、“成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物”を目指していた。しかし、素人同然の「バラエティーアイドル」やビジュアル重視の「グラビアアイドル」の出現により、人間的魅力と成長過程を追い求める「アイドル」という概念が崩壊。女性アイドルはそのファンも含めて、あまりいいイメージで捉えられなくなっていく。90年代初頭において、高橋由美子が「最後のアイドル」と呼ばれたのが象徴的事象であったように、アイドルそのものは存続していたが、本来の「アイドル」は、この時期に終焉を迎えたと言える[30]。 またこの時期、第3次声優ブームが起こり、桜井智、岩男潤子といった本来アイドルとして活動していたタレントが声優に転身する、あるいは國府田マリ子、椎名へきるといったアイドル的な活動を行う声優が現れるといった事例も増え始める。 アイドル冬の時代 1990年代に入ると、歌手活動を中心とするアイドルはWink、CoCo、高橋由美子、ribbon、東京パフォーマンスドールらの活動が見られたものの、テレビ歌番組の減少と共に「アイドル冬の時代」「アイドル氷河期」[31]と呼ばれる時代を迎えた。一方で森高千里、渡瀬マキ、森川美穂、松田樹利亜、山口由子などGiRLPOPやバンドなどアーティスト路線へ移行しヒットした者もいた。また、長山洋子は演歌路線に移行し大成功を収めた。 1990年代終盤、小室哲哉のプロデュースによる華原朋美や篠原涼子などのアイドル出身者(いわゆる小室ファミリー)、安室奈美恵やSPEEDなどの沖縄アクターズスクール出身者などがミリオンセラーを連発。アイドル的な存在が再びスポットを浴びたが、彼女らはアーティスト的要素を強く打ち出していたので、アイドルとはみなされない場合もある。 2000年代前半にかけて、テレビ東京『ASAYAN』の企画でデビューしたモーニング娘。や鈴木あみ、松浦亜弥らが台頭した。これにより本来の「アイドル」が再興する予感をうかがわせたが、あくまでつんく♂プロデュースによるハロー!プロジェクトの一人勝ち状態で、邦楽界全体に波及しなかった点では、80年代の状況とは異なる。 グループアイドルの勃興 2000年代に入ると、ハロー!プロジェクトに℃-ute、Berryz工房らが加わり規模が拡大するとともに、メンバーがグループから「卒業」することが一般化[32]。これにより各アイドルグループは、メンバーを入れ替えながら存続を計ることが選択肢の一つとなった。 2005年にはAKB48が結成され、2007年の紅白歌合戦に中川翔子、リア・ディゾンと共に「アキバ系アイドル」枠で出場した[33][34]。 この時期には、フジテレビ『アイドリング!!!』から誕生したアイドリング!!!(2006年)や、スターダストプロモーション所属のももいろクローバーZ(ももいろクローバーとして2008年)、ディアステージのでんぱ組.inc(でんぱ組として2008年)、ハロー!プロジェクトのアンジュルム(S/mileageとして2009年)、PASSPO☆(ぱすぽ☆として2009年)らが始動した。 アイドルはソロよりもグループの形態が主流となり、前述の中川翔子や小倉優子、木下優樹菜、里田まい、スザンヌらは、「アイドル」としてではなく「バラエティタレント」というスタンスでテレビ出演しており、これ以降も同様の傾向が続く。 また、2000年にアイドルとして活動をスタートしたPerfumeは、2007年にテクノポップユニットとして音楽面から人気を獲得し海外へも進出。一方、KARAや少女時代らK-POP勢も来日して活動を展開した。 アイドル戦国時代 2010年代に入ると、「アイドルを名乗るタレントの数が日本の芸能史上最大」[35]という状況になり、「アイドル戦国時代」と呼ばれるようになった[36][37]。 エイベックス・グループ所属のSUPER☆GiRLSや東京女子流のデビュー、さくら学院から派生したBABYMETALの世界進出、ももいろクローバーZの女性グループ初となる国立競技場ライブ開催[38]など、多数のグループが次々と活躍した(同時期にブレイクしたE-girlsはアイドルグループではなくダンス&ボーカルグループに分類されることが多い)。AKB48グループの拡大に付随して「坂道シリーズ」が誕生。ももいろクローバーZとその姉妹グループによるプロジェクト「STARDUST PLANET」(通称:スタプラ)も始動した。 2010年から始まった、女性アイドルの大規模フェスTOKYO IDOL FESTIVAL(TIF)の規模も、200組以上もの出演者が参加するまでになっている[39]。 さらには、新潟のNegicco、宮城のDorothy Little Happy、愛媛のひめキュンフルーツ缶、福岡のLinQなど、ローカルアイドル(ロコドル)と呼ばれる、地域に密着したアイドルも相次いで全国デビュー[35][36]。中には福岡のRev. from DVLに所属する橋本環奈のように、個人で全国区の人気を集めたケースもある。日本ご当地アイドル活性協会代表の金子正男[40][41]によると東京拠点のアイドル500組を除いた全国46道府県のアイドルは、2017年6月17日現在で942組存在する[42][43] [44][45][46]。 主な女性アイドル 1940年代 歌手デビュー年 1946年…明日待子[47] 1949年…美空ひばり 1950年代 歌手デビュー年 1952年…江利チエミ 1953年…雪村いづみ 1958年…伊東ゆかり 1959年…ザ・ピーナッツ 1960年代 歌手デビュー年 1962年…吉永小百合、中尾ミエ、園まり、木の実ナナ、梅木マリ 1963年…九重佑三子 1964年…いしだあゆみ、水前寺清子 1965年…奥村チヨ、中村晃子、森本和子 1966年…山本リンダ 1967年…黛ジュン、佐良直美、今陽子、泉アキ 1968年…小川知子、和田アキ子、ピンキーとキラーズ、小山ルミ、はつみかんな 1969年…由紀さおり、辺見マリ、ベッツィ&クリス 1970年代 歌手デビュー年 1970年…岡崎友紀、吉沢京子、ゴールデン・ハーフ、津々井まり、純エリ子、渥美マリ、平山みき ら。 1971年…天地真理、小柳ルミ子、南沙織、アン・ルイス、五十嵐じゅん、牧葉ユミ、フラワー・メグ ら。 1972年…森昌子、麻丘めぐみ、アグネス・チャン、坂口良子、山口いづみ、小林麻美、岩渕リリ、ニュー・キラーズ ら。 1973年…山口百恵、桜田淳子、キャンディーズ、浅田美代子、夏木マリ、安西マリア、石川さゆり、朝倉理恵、栗田ひろみ、杉田かおる ら。 1974年…太田裕美、伊藤咲子、浅野ゆう子、林寛子、木之内みどり、松本ちえこ、相本久美子、小林美樹、しのづかまゆみ、シェリー、優雅、石江理世、池上季実子、風吹ジュン、リンリン・ランラン ら。 1975年…岩崎宏美、片平なぎさ、岡田奈々、黒木真由美、目黒ひとみ、山本由香利、池田ひろ子、青木美冴、浅野真弓、小川順子、讃岐裕子、竹田かほり、三東ルシア、マッハ文朱、ザ・リリーズ ら。 1976年…ピンク・レディー、三木聖子、大竹しのぶ、早乙女愛、手塚さとみ、東てる美、多岐川裕美、神保美喜、秋野暢子、森田つぐみ、吉田真梨、浦部雅美、三谷晃代、桜たまこ、北村優子、秋本圭子、芦川よしみ、榊みちこ、中山圭以子、山本百合子、ビューティ・ペア、ゴールデンハーフスペシャル ら。 1977年…榊原郁恵、大場久美子、高田みづえ、清水由貴子、荒木由美子、香坂みゆき、五十嵐夕紀、神田広美、岸本加世子、夏目雅子、谷ちえ子、久木田美弥、北原由紀、梓真由美、木原光知子、ナンシー久美、アグネス・ラム、アパッチ、キャッツ★アイ、ギャル ら。 1978年…石野真子、石川ひとみ、畑中葉子、金井夕子、高見知佳、秋ひとみ、天馬ルミ子、久我直子、中野知子、大橋恵里子、岩城徳栄、森まどか、桂木文、加山麗子、堀川まゆみ、朝風まり、トライアングル、スリーヤンキース ら。 1979年…倉田まり子、能瀬慶子、比企理恵、川島なお美、桑江知子、沢田聖子、井上望、大滝裕子、朝比奈マリア、藤真利子、横山みゆき、斉藤とも子、さとうあき子、壺井むつ美、BIBI(早坂あきよ・小西直子) ら。 1980年代 歌手デビュー年 1980年…松田聖子、河合奈保子、柏原よしえ、岩崎良美、三原順子、浜田朱里、甲斐智枝美、石坂智子、鹿取洋子、パティ、日高のり子、佐藤恵利、中川みどり、兵藤まこ、舟倉たまき、原めぐみ、熊谷美由紀 ら。 1981年…薬師丸ひろ子(1978年から女優として活動しているが歌手として1981年デビュー)、松本伊代、伊藤つかさ、川上麻衣子、島田歌穂、沢田富美子、沢村美奈子、中島めぐみ、林紀恵、寺島まゆみ、矢野良子、石毛礼子、壇まゆみ、中島はるみ、横須賀よしみ、ヘレン笹野、野宮真貴、宮崎美子、真行寺君枝、Sugar ら。 1982年…中森明菜、小泉今日子、早見優、堀ちえみ、石川秀美、原田知世、三田寛子、伊藤かずえ (神奈かずえ名義で1978年に歌手デビューしており、再デビューとなる) 、新井薫子、松居直美、白石まるみ、つちやかおり、斉藤慶子、坂上とし恵、川田あつ子、中野美紀、川島恵、伊藤さやか、水谷絵津子、渡辺めぐみ、水野きみこ、大竹かおる、百瀬まなみ、山田由紀子、吉成香、熊谷真実、美保純、スターボー、Lady oh!、シャワー、パンジーからソロで北原佐和子、真鍋ちえみ、三井比佐子、佐東由梨ら。 1983年…わらべ、岩井小百合、富田靖子、伊藤麻衣子、武田久美子、松本明子、飯島真理、大沢逸美、森尾由美、桑田靖子、徳丸純子、小林千絵、横田早苗、原真祐美、高橋美枝、木元ゆうこ、小出広美、吹田明日香、河上幸恵、松尾久美子、太田貴子、小久保尚美、山口由佳乃、トライアングルからソロで小森みちこ ら。 1984年…菊池桃子、荻野目洋子、岡田有希子、安田成美、長山洋子、工藤夕貴、渡辺典子、渡辺桂子、宇沙美ゆかり、山本ゆかり、田中久美、辻沢杏子、渡辺千秋、加藤香子、青田浩子、長谷川真弓、少女隊、セイントフォー、麻生真美子&キャプテン、おかわりシスターズ、わらべからソロで倉沢淳美 ら。 1985年…おニャン子クラブ、中山美穂、森川美穂、本田美奈子、斉藤由貴、南野陽子、浅香唯、芳本美代子、森口博子、井森美幸、いしのようこ、松本典子、大西結花、宮崎ますみ、佐野量子、江原由希子、森田まゆみ、橋本美加子、岡本舞子、山本理沙、奥田圭子、森下恵理、志村香、村田恵里、高橋里奈、網浜直子、藤原理恵、おニャン子クラブからソロで河合その子、吉沢秋絵、シャワーからソロで矢野有美 ら。 1986年…西村知美、島田奈美、杉浦幸、山瀬まみ、相原勇(本名の小原靖子としてデビュー)、水谷麻里、藤井一子、勇直子、真璃子、森恵、浅倉亜季、佐藤恵美、芹沢直美、八木さおり、清水香織、中沢初絵、中野みゆき、川島みき、おニャン子クラブからソロで国生さゆり、新田恵利、渡辺美奈代、渡辺満里奈 ら。 1987年…森高千里、酒井法子、立花理佐、渡瀬マキ、石田ひかり、中村由真、後藤久美子、小川範子、仁藤優子、真弓倫子、つみきみほ、畠田理恵、牧野アンナ、小沢なつき、伊藤美紀、伊藤智恵理、白田あゆみ、五十嵐いづみ、守谷香、金子美香、佐倉しおり、BaBe、おニャン子クラブからソロで工藤静香、ゆうゆ(『夕やけニャンニャン』終了と同時期)ら。 1988年…Wink、西田ひかる、高岡早紀、田中律子、深津絵里、中山忍、藤谷美紀、喜多嶋舞、杉本彩、本田理沙、坂上香織、小高恵美、国実百合、仲村知夏、相川恵里、北岡夢子、吉田真里子、姫乃樹リカ、安永亜衣、円谷優子、麻田華子、川越美和、小林彩子、山口由子、島崎路子、レモンエンジェル、おニャン子クラブからソロで生稲晃子、山崎真由美(『夕やけニャンニャン』終了後)ら。 1989年…宮沢りえ(1985年にモデルデビュー)、田村英里子、CoCo、ribbon、島崎和歌子、田中美奈子、細川直美、千葉美加、里中茶美、増田未亜、山中すみか、河田純子、山口弘美、星野由妃、佐藤忍、咲浜小百合、田山真美子、日原麻貴 ら。 1990年代 歌手デビュー年 1990年…高橋由美子、桜井幸子、宍戸留美、和久井映見、千堂あきほ、田中陽子、寺尾友美、西野妙子、早坂好恵、駒村多恵(当時は佐月亜衣の名前で活動)、中野理恵、杉本理恵、薬師寺容子、中嶋朋子、武田雅子、東京パフォーマンスドール、BABY'S、Lip's(加藤貴子が所属)、Cotton、乙女塾からソロで花島優子 ら。 1991年…Mi-Ke、中江有里、横山知枝、諸岡なほ子、江崎まり、KEY WEST CLUB(中谷美紀が所属)、乙女塾からソロで三浦理恵子、瀬能あづさ、羽田惠理香、中嶋美智代、堀川早苗、乙女塾からグループでQlair、東京パフォーマンスドールからソロで篠原涼子、穴井夕子、市井由理、桜っ子クラブからソロで井上晴美、中條かな子、胡桃沢ひろ子 ら。 1992年…SUPER MONKEY'S、小田茜、新島弥生、貴島サリオ、遠野舞子、鈴木ユカリ、MANISH、W-NAO、桜っ子クラブさくら組、乙女塾からソロで宮前真樹、大野幹代、桜っ子クラブからソロで加藤紀子 ら。 1993年…坂井真紀、酒井美紀、梨花、柳原愛子、藤原久美、木内美歩、電波子、山崎亜弥子、山口リエ、KaNNa、ブカブカ(はしのえみが所属)、Melody、黒BUTAオールスターズ、乙女塾からソロで永作博美、桜っ子クラブからソロで持田真樹、桜っ子クラブさくら組/KEY WEST CLUBからソロで中谷美紀、BABY'S解散後ソロで松田樹利亜 ら。 1994年…内田有紀、hitomi、辺見えみり、葉月里緒菜、宝生舞、千葉麗子、笹峯愛、大橋利恵、水野あおい ら。 1995年…SUPER MONKEY'Sからソロで篠原ともえ、雛形あきこ、奥菜恵、鈴木蘭々、村田和美 ら。 1996年…SPEED、知念里奈、ともさかりえ、上原さくら、矢部美穂、中山エミリ、D&D ら。 1997年…モーニング娘。、広末涼子、鈴木紗理奈、Folder、吉川ひなの、平家みちよ、松田純、山田まりや、野村佑香、浜丘麻矢、ABYSS ら。 1998年…八反安未果、tohko、遠藤久美子、山口紗弥加、木村由姫、未来玲可、吉野紗香、柳明日香、大森玲子、小畑由香里、チェキッ娘、モーニング娘。からソロで中澤ゆうこ ら。 1999年…前田亜季、須藤温子、希良梨、shela、三佳千夏、y'z factory、太陽とシスコムーン、SPEEDからソロでhiro、HITOE、上原多香子、チェキッ娘からソロで下川みくに ら。 2000年代以降のソロアイドル 2000年代 歌手デビュー年 2000年...SPEED解散後ソロで今井絵理子 ら。 2001年...松浦亜弥、あびる優、モーニング娘。からソロで後藤真希、Ace Fileからソロで奈良沙緒理 ら。 2002年...榎本加奈子、Folder5からソロでAKINA、EE JUMP解散後ソロでソニン ら。 2003年...モーニング娘。からソロで安倍なつみ ら。 2004年...モーニング娘。からソロで飯田圭織 ら。 2005年... 2006年...中川翔子、平野綾、y'z factory解散後ソロで山田優 ら。 2007年... 2008年... 2009年... 2010年代 歌手デビュー年 2010年... 2011年...きゃりーぱみゅぱみゅ、AKB48からソロで板野友美、前田敦子 ら。 2012年...春奈るな、竹達彩奈、AKB48からソロで指原莉乃、渡辺麻友、AKB48を卒業後ソロで小野恵令奈 ら。 2013年...武藤彩未、アイドリング!!!からソロで横山ルリカ ら。 2014年...寺嶋由芙、フェアリーズからソロで伊藤萌々香 ら。 2015年... 2016年...橋本環奈、NMB48からソロで山本彩 ら。 2017年...ももいろクローバーZからソロで有安杏果・佐々木彩夏 ら。 2018年...AAAからソロで宇野実彩子 ら。 2000年代以降のグループアイドル 男性アイドル史 「アイドル」以前 1950年代の映画の全盛期には、日活映画や歌で活躍した石原裕次郎ら東宝や日活などのニューフェイス、1960年代に「御三家」と呼ばれた橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦ら、中盤には三田明が台頭し、御三家に三田を加えて「四天王」と呼ばれた。他にスリーファンキーズ、或いは、日劇ウエスタンカーニバルに代表されるロカビリー歌手、グループ・サウンズ、1970年代の新御三家ら、そして、初代ジャニーズのあおい輝彦ら、折々の時代に即した多くのスターが登場した。 1970年代 郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎から成る「新御三家」は、3人とも主に歌手として活動した。更に、ザ・タイガースの後もソロないしバンドとして活動を続けた沢田研二も『ザ・ベストテン』など歌番組の常連として人気を保った。ザ・スパイダースの堺正章、井上順はソロとなった後、ヒット曲を数曲出したが、俳優、司会やバラエティ番組出演に軸足を移した。ザ・テンプターズの萩原健一、オックスの田浦幸こと夏夕介は俳優に転身し人気となった。 新御三家の他にはフォーリーブス(ジャニーズ事務所所属)やフィンガー5、にしきのあきら、野村将希、伊丹幸雄、荒川務らが登場した。アイドル百花繚乱時代であった。 この時代の男性アイドルのレコードジャケットやブロマイド、アイドル雑誌のグラビアではヨーロッパの城のような建物をバックに撮られた「白馬に乗った王子様」というような非現実的なイメージのものも多く、女性アイドル同様、手の届かない別世界のスターとして記号化される事例も見られた[48]。一例として、ギリシャ神話の彫像のような恰好をした郷ひろみの「裸のビーナス」のジャケットやメルヘンチックなタイトルの「イルカにのった少年」の大ヒットで知られる城みちるが挙げられる。また、豊川誕(ジャニーズ事務所所属)や三善英史のように「不幸な生い立ち」が売り出しの際に喧伝されたものもいた。これらどこかおとぎ話の中の人物のような人々とは一線を画し、テレビが社会に広く浸透したことから、『笑点』の「ちびっ子大喜利」出身のグループずうとるびや情報番組『ぎんざNOW!』出身の清水健太郎や、オーディション番組『スター誕生!』出身の城みちる、藤正樹、新沼謙治や、『スター・オン・ステージ あなたならOK!』出身のあいざき進也、『レッツゴーヤング』の「サンデーズ」出身の太川陽介、渋谷哲平、川崎麻世(ジャニーズ事務所所属)らのように素人、あるいは素人同様のタレントとしてテレビ番組に出演し、その成長とともに視聴者のアイドルとなっていく者たちもいた。 一方、若手俳優の中からも山口百恵とのコンビで一世を風靡した三浦友和、石橋正次、桜木健一、近藤正臣、星正人、草川祐馬、国広富之、広岡瞬などテレビドラマからブレイクし、アイドル的人気を博す者も多く現れた。石橋は紅白歌合戦にも出場するほどの大ヒット曲「夜明けの停車場」(1972年度年間ランキング第11位)に恵まれている。沖雅也は日活ニューフェイス出身だが、映画の斜陽化により、テレビドラマに進出してからアイドル的人気を得た。森田健作と仲雅美や井上純一は元々は歌手として売り出されたが、テレビドラマでの活躍によってアイドルとなった。井上はヒット曲に恵まれなかったが、森田、仲はそれぞれ大ヒット曲を持つ。 この時代はまだロック・ミュージックが一般化していなかったため、のちに本格的なロックギタリストとして名声を博すCharやシンガーソングライターの原田真二もアイドルとして売り出された。 アイドルの多様化の中、この時期から高校野球の選手がアイドル視される現象も起こった。太田幸司、原辰徳、荒木大輔らである。 1970年代初頭には西欧の古代や中世の格好をする日本人アイドルやGSグループには飽き足らず、本物の欧米人の歌手や俳優が招かれ、テレビコマーシャルに出演し、そのタイアップとして、日本語でレコードをリリースしヒットさせた例もある[49]。イタリア映画『ガラスの部屋』で人気となったイタリア人俳優レイモンド・ラブロックやイタリア映画『ベニスに死す』の美少年俳優ビョルン・アンドレセン[50][51]らが該当する。また、アメリカの人気ファミリーグループ「オズモンズ」のジミー・オズモンドが他の兄弟とともに出演し[52]、テレビコマーシャルの影響は大きく、日本語で歌ったカルピスのCMソング「ちっちゃな恋人」は1970年の年間28位の大ヒットとなった。レイフ・ギャレットは日本でのコマーシャル出演がきっかけで曲を日本でも大ヒットさせた[53]。 他には1970年代当時TBSで放送され、高視聴率を得ていた『東京音楽祭』で1974年にグランプリを受賞した当時13歳のカナダ人歌手ルネ・シマールは日本で大人気となり、トンボ学生服や旺文社の学習参考書の広告に出演した[54][55]。世界的に人気のあったイギリスのアイドルグループ、ベイ・シティ・ローラーズは日本では本国に1年遅れで1975年に火が付き、翌年にはアルバムがチャート1位となる成功を収め、1970年代後半に欧米での人気が低調になった後も高い人気を保ち、個々のメンバーが単独で日本のアイドル雑誌の表紙を飾ったり[56]、イアン・ミッチェル、パット・マッグリンら脱退した主要メンバーがシングルやアルバムをリリースし、日本でヒットさせた[57][58]。 1980年代 1979年の『3年B組金八先生』で生徒を演じた田原俊彦、近藤真彦、野村義男から成るたのきんトリオ(ジャニーズ事務所)がソロ歌手デビューし、次々とヒットを飛ばした。 ジャニーズ事務所は、その後も、本木雅弘、薬丸裕英、布川敏和から成るシブがき隊や、少年隊、光GENJI、男闘呼組、忍者といった人気あグループを次々と輩出した。ソロではひかる一平、中村繁之がデビューした。また、『金八シリーズ』からは他に竹の子族出身の沖田浩之が人気アイドルとなった。 ソロ歌手としては他に竹本孝之、『レッツゴー・ヤング』のサンデーズ出身者からは堤大二郎、新田純一、映画やテレビドラマで活躍した山本陽一が挙げられる。 アイドルの多様化の中で、横浜銀蝿の弟分としてデビューした嶋大輔、紅麗威甦(グリース)が人気アイドルとなり、原宿の歩行者天国の路上ダンスパフォーマーだった風見慎吾は萩本欽一の番組でブレイクする。風見のように萩本の番組からアイドルとなった者も多い。イモ欽トリオ、CHA-CHA(勝俣州和がメンバーだったことで知られるが、他にメンバー数名が当時ジャニーズ事務所所属)など。他のバラエティ番組からは『笑っていいとも!』のいいとも青年隊(羽賀研二、野々村真ら)、ABブラザーズ(中山秀征ら)、とんねるずがアイドル的な人気を得た。 また、ロック志向のチェッカーズ、吉川晃司、本田恭章もアイドルとしてデビューさせる時代だった。チェッカーズは70年代に日本でも大人気だったイギリスのアイドルグループ・ベイ・シティ・ローラーズ風に、本田はデヴィッド・ボウイや80年代前半に特にイギリスと日本で人気を博したデュラン・デュランのようなニューロマンティック風にそれぞれビジュアルを強調して売り出された。ジャニーズ事務所からも野村義男がロックバンドTHE GOOD-BYEの一員としてレコードデビューした。1970年代同様に「日本でのみデビューする洋楽アイドル」も存在し、イギリス人のロックバンドG.I.オレンジが成功を収めている。ボン・ジョヴィも本国よりも日本で先に人気が出たバンドで、当初はアイドル的に[59]、80年代後半には高い人気と知名度を獲得し、ハードロック/ヘヴィメタルブームの中心となった。時流に乗る形で、ジャニーズ事務所からはテレビドラマでも活躍した岡本健一、前田耕陽、高橋和也、成田昭次ら男闘呼組がボン・ジョヴィなどに影響を受けたスタイルのハードロックバンドとしてデビューした。 この頃はまだ俳優もアイドル風に売り出されるものがいた。JAC出身の真田広之、中井貴一、石黒賢、角川映画の野村宏伸、『金八シリーズ』出身の鶴見辰吾、映画『ビー・バップ・ハイスクール』でブレイクした清水宏次朗、仲村トオル、西川きよしの息子西川弘志、モデル出身の阿部寛、子役出身の坂上忍、菊池健一郎らである。歌うアイドル俳優として特筆すべきなのは『太陽にほえろ!』の「ラガー刑事」役で人気を博した渡辺徹で、シングル「約束」が自身も出演したグリコ「アーモンドチョコレート」のCMのタイアップソングとなり、1982年の年間ランキングでは33位にランクインする大ヒットとなっている[60]。他にヒット曲を出した俳優としては、湯江健幸、横山やすしの息子の木村一八、子役アイドルとして人気を博した高橋良明がいる。特に複数のヒット曲に恵まれた木村と高橋はジャニーズ事務所所属者に席巻された80年代後期の男性アイドルシーンにおいて健闘を見せた。しかし、木村は1988年に自身の起こした傷害事件で少年院送致となり、アイドルとしての前途が断たれた。高橋は交通事故で1989年1月に16歳で夭折、と共に不幸な結果に終わってしまった。 1990年代 主にジャニーズ事務所が送り出したグループの時代であり、当初は光GENJIが他を圧倒する人気を見せたが、バンドブームの到来や元ジャニーズ事務所所属のタレントの暴露が続くなどのあおりで失速。女性アイドル同様に冬の時代を迎えていたが、中盤からは、デビュー当初からバラエティー分野での活躍が目立ったSMAPが現在に至る人気を確立し、更に、KinKi Kids、TOKIO、V6など後続者も人気を得て自身が冠バラエティ番組も持つようになった。また、木村拓哉は俳優として、中居正広はバラエティー番組の司会のみならず、NHK紅白歌合戦等の司会を務めるなど、従来のアイドルには無かった地位を確立し、その他のメンバー個人も個々の活動で成功した。また、SMAPがテレビの第一線で長期で活躍する影響もあり、30代、40代でもアイドルとして活躍でき、男性アイドルの寿命が伸びた。一方でジャニーズの寡占状態で、アイドルの多様性は失われた。 そういった90年代のジャニーズ全盛期に対抗して、ライジングプロダクションから結成されたDA PUMPやw-inds.なども、グループの構成や音楽スタイルで差別化を図り、大衆から人気を集めた。また若手俳優からは織田裕二、福山雅治、1980年代後半にジャニーズ事務所所属の経歴を持つ反町隆史、いしだ壱成、「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」出身の武田真治、柏原崇は歌手としても一定の成功を収めた。 2000年代 女性アイドルと同じく『クイズ!ヘキサゴンII』などのクイズ番組から無知を逆手に売りにする羞恥心のメンバーや、あくまでも「俳優集団」を称するD-BOYSのメンバー、或いは、「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」でグランプリを獲得してデビューした小池徹平や溝端淳平ら、また、ウルトラシリーズ出身の杉浦太陽、仮面ライダーシリーズ出身のオダギリジョーや要潤、水嶋ヒロや佐藤健、スーパー戦隊シリーズ出身の松坂桃李がブレイクする。かつて1990年代に一世を風靡したZOOのメンバーだったHIROを中心に結成されたEXILE、或いは女性アイドルと同じくK-POP組など、バラエティーからでなく音楽の方面から人気を博す事例も再び見られた。また、男女混合グループではavexからAAAも活躍する。ジャニーズは、2000年代半ばから後半に入って活力が低下した。 一方で、2000年前後の頃から「アイドルのファン、追っかけイコール中高生」というイメージは変わり、年配女性の追っかけ行為が盛んに報道されるようになった。先んじて1990年代にアイドルの先駆けであった舟木一夫の復活[61]、2002年にはフォーリーブスが再結成した。とりわけ2000年デビューの氷川きよしは久々に演歌界に大ヒットをもたらしたのみならず、熱心な年配女性のファンを生み、「きよ友」と称したファン仲間たちの交流はマスメディアに紹介されるのみならず[62]、年配の視聴者をターゲットにしたテレビドラマの題材にもなった[63]。更に2004年頃からの韓流ブームは中高年女性によって牽引された[64]。 2010年代 2010年代現在、ジャニーズの中で大衆的な人気を得ているのは嵐が事実上最後であり、それ以後デビューさせたNEWS、KAT-TUN、Hey! Say! JUMPなどは、脱退メンバーも出始めるなど、大きな成果を出せずにいる。LDHのEXILE系列グループは、もともとはアイドルではなかったが、若年メンバーが数多く登場してきてアイドル性が強化されている。これらのグループは、ジャニーズに比べて男性的なイメージと大衆の志向に合致する楽曲で好評を得た。 さらに、2012年に入って日韓の政治的関係が、徐々に冷却され、これによりK-POP男性アイドルが日本のテレビ番組などに出演することが、非常に困難となった。その代わりにLDH系列グループが従来の韓流アイドルの需要を吸収し、その代替材として置き換えられたとされている。しかし、韓流固定ファン層と市場を確保しているため、SEVENTEEN、SHINee、EXO、IKON、防弾少年団などをはじめとする、さまざまなグループが、そうした状況の中、安定的に活動している。一方、ライジングプロダクションの男性アイドルも活動が多く減り、スターダストプロモーションなどからも男性アイドルグループが多数デビューしているが、こちらもまだ明確な成果はない。現在の男性アイドルは、嵐、三代目 J Soul Brothersを筆頭に、関ジャニ∞、Hey! Say! JUMP、Kis-My-Ft2、Sexy Zone、A.B.C-Z、ジャニーズWEST、King & Prince、超特急やDISH//、BOYS AND MENなどが活動している。韓流アイドルでは、東方神起とBIGBANGが人気を保持しており、宮野真守や神谷浩史、Kiramuneといった声優アイドルも人気を獲得している。年配女性をターゲットとした演歌アイドルとしては山内惠介や純烈が挙げられる。 主な男性アイドル 1960年代 歌手デビュー年 1960年…橋幸夫 1961年…坂本九 1962年…北島三郎 1963年…舟木一夫 1964年…ジャニーズ、西郷輝彦 1965年…ザ・スパイダース 1966年…加山雄三 1967年…ザ・タイガース、ザ・テンプターズ 1968年…千昌夫、森進一、フォーリーブス、ジャニーズ解散後ソロであおい輝彦 1969年…森田健作、永田英二、ピーター 1970年代 歌手デビュー年 1970年…にしきのあきら、仲雅美、野村将希、ザ・ワンダース解散後ソロで尾崎紀世彦、石橋正次、桜木健一 1971年…野口五郎、ザ・タイガース解散後ソロで沢田研二、ザ・スパイダース解散後ソロで堺正章、井上順 ら。 1972年…西城秀樹、郷ひろみ、フィンガー5、伊丹幸雄、三善英史、近藤正臣、沖雅也、ザ・テンプターズ解散後ソロで萩原健一 1973年…城みちる、藤正樹、葵テルヨシ、黒沢浩 1974年…あいざき進也、ずうとるび、荒川務、八田英士(永田英二が改名して再デビュー) 1975年…草川祐馬、加納竜、井上純一、JOHNNYS' ジュニア・スペシャル、豊川誕、リトル・ギャング ら。 1976年…新沼謙治、三浦友和、清水健太郎、太川陽介、ギャングス ら。 1977年…狩人、レイジー、川﨑麻世、フォーリーブスからソロで青山孝 1978年…渋谷哲平、川崎龍介 ら。 1979年…国広富之 ら。 1980年代 歌手デビュー年 1980年…田原俊彦、近藤真彦、真田広之、ANKH 1981年…沖田浩之、竹本孝之、ひかる一平、堤大二郎、松村雄基、時任三郎、清水宏次朗、広岡瞬、美木良介、斉藤康彦、水谷大輔、直江喜一、イモ欽トリオ 1982年…シブがき隊、新田純一、本田恭章、嶋大輔、渡辺徹、宮田恭男、初代いいとも青年隊からソロで羽賀健二 1983年…チェッカーズ、C-C-B、風見慎吾、永瀬正敏、麻見和也、矢吹薫、北川剛、THE GOOD-BYE(野村義男のバンド)、イモ欽トリオからソロで長江健次 1984年…吉川晃司、一世風靡セピア、山本陽一 1985年…少年隊、中村繁之、石黒賢、野村宏伸、鶴見辰吾、長島ナオト、井浦秀知、初代いいとも青年隊からソロで野々村誠 1986年…中山秀征、湯江健幸、池田政典、木村一八、息っ子クラブ 1987年…光GENJI、織田裕二、仲村トオル、高橋良明、斉藤隆治、息っ子クラブからソロで沢向要士 1988年…男闘呼組、CHA-CHA、西川弘志、宮下直紀、阿部寛、江口洋介 1989年…吉田栄作、幕末塾 1990年代 歌手デビュー年 1990年…忍者、菊池健一郎、福山雅治 1991年…SMAP 1992年…音松くん(SMAPの別名義)、葛山信吾 1993年…高橋克典、原田龍二、保阪尚希 1994年…TOKIO、いしだ壱成、藤重政孝、B☆KOOL、E.M.U 1995年…V6、武田真治(サックスプレイヤーとしてデビュー)、グレートチキンパワーズ、LAZY KNACK 1996年…T.M.Revolution、Iceman 1997年…KinKi Kids、DA PUMP、反町隆史、pool bit boys 1998年…柏原崇、LAZY KNACKからソロでRED 1999年…嵐、藤木直人、初代J Soul Brothers 2000年代 歌手デビュー年 2000年…氷川きよし、コタニキンヤ.、DOGGY BAG、オダギリジョー 2001年…EXILE、CHEMISTRY、w-inds.、INSPi、FLAME、RUN&GUN、The Seeker、WEST SIDE、山内惠介 2002年…タッキー&翼、押尾学、RAG FAIR、Lead、松田悟志、KinKi Kidsからソロで堂本剛 2003年…NEWS、ORANGE RANGE、DAIGO 2004年…関ジャニ∞、玉木宏 2005年…修二と彰 (山下智久と亀梨和也) 、トラジ・ハイジ、WaT、AAA、GRANRODEO(谷山紀章)、永井大、Folder5からソロで三浦大知 2006年…KAT-TUN、NEWSからソロで山下智久、NEWSからの派生ユニットでテゴマス、w-inds.からソロで橘慶太 2007年…Hey! Say! JUMP、宮野真守、Club Prince、HotchPotchi、PureBoys、WaTからソロでウエンツ瑛士、小池徹平 2008年…羞恥心、悲愴感、矢島美容室、小野大輔、二代目J Soul Brothers 2009年…新選組リアン、入野自由、神谷浩史、スノープリンス合唱団、羞恥心からソロでつるの剛士、遊助 (上地雄輔の別名) 2010年代 歌手デビュー年 2010年…三代目J Soul Brothers、純烈、サーターアンダギー、50TA 2011年…Kis-My-Ft2、Sexy Zone、斎藤工、KAT-TUNからソロで赤西仁 2012年…GENERATIONS、中山優馬、鈴木福、BOYS AND MEN、DISH//、はやぶさ、星屑スキャット 2013年…桐谷健太、ディーン・フジオカ、PrizmaX、Hey! Say! JUMPからソロで山田涼介、Kis-My-Ft2からの派生ユニットで舞祭組 2014年…ジャニーズWEST、A.B.C-Z、ブレイク☆スルー、Da-iCE、SOLIDEMO、AAAからソロでNissy 2015年…さくらしめじ、MAG!C☆PRINCE、M!LK、RADIO FISH、X4 2017年…菅田将暉、THE RAMPAGE 2018年…King & Prince 女性アイドルを取り扱うメディア テレビ番組 アイドルお宝くじ(テレビ朝日、2014年10月4日 - 2017年9月23日) アイドリアル〜アイドルの今を切り取る〜(フジテレビ、2017年3月31日放送終了) 楽遊の高層アイドル!!(東京MXテレビ、2017年4月7日 - ) この指と〜まれ!(フジテレビ、2017年5月6日 - 9月16日) 東京アイドル戦線(テレビ東京、2017年7月6日 - ) ラストアイドル(テレビ朝日、2017年8月13日-) 文献情報 青木一郎[65]「絶対アイドル主義」(プラザ、1990年3月)ISBN 9784915333675、「炎のアイドルファン ―絶対アイドル主義2―」(青心社、1990年12月)ISBN 9784915333859 稲増龍夫 「アイドル工学」 (ちくま文庫、1993年) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |naid= ignored (help) Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |naid= ignored (help) 濱本和彦「1/f ゆらぎを用いた松浦亜弥の「国民的アイドル度」の客観的評価に関する研究」(東海大学情報理工学部情報メディア学科)[66] 竹中夏海 「IDOL DANCE!!! ―歌って踊るカワイイ女の子がいる限り、世界は楽しい―」ポット出版、ISBN 9784780801927 脚注 関連項目 日本の女性アイドルグループの一覧 日本の男性アイドルグループの一覧 ソロアイドル グラビアアイドル アイドル声優 ライブアイドル ローカルアイドル アイドルレスラー アキバ系アイドル 癒し系アイドル エンドル バンドル ネットアイドル お菓子系アイドル ジュニアアイドル ナマドル バーチャルアイドル フードル 歴ドル AVアイドル 韓国のアイドル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 318, 1275, 1430, 2933, 3680, 4463, 5172, 6543, 7457, 8083, 10365, 11068, 11914, 12837, 13351, 13993, 14385, 15161, 15957, 16189, 16541, 17115, 17496, 18013, 18739], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 317, 1274, 1383, 2932, 3679, 4462, 5170, 6542, 7456, 8081, 10364, 11067, 11913, 12836, 13350, 13992, 14384, 15144, 15956, 16188, 16540, 17114, 17495, 17991, 18722, 18771], dtype=int32)}
幻視芸術の発祥はどこ
幻視芸術
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
幻視芸術(げんしげいじゅつ、English: Visionary art, French: L'art Visionnaire)は、幻視(ヴィジョン)で見たこと、あるいはそれを基とした芸術である[2][3]。瞑想で見たヴィジョンや[4]、通常の知覚を超越した幻視の状態が反映されている[5]。 または、幻視芸術はアウトサイダー・アートに含まれたり[2][6]、やシャーマニズムから生まれたアートも広く意味することがある[2]。あるいは、美術界の外側であることが強調されるアウトサイダー・アートの定義と同様にして、幻視に由来するものであり、精神障害者や霊的幻視者が生み出した芸術も意味することがある[2][7]。1994年の日本における『現代パリの幻想芸術家たち展』にて、5人のフランス人画家によるラール・ヴィジョネールという芸術が幻視芸術と和訳されており、巌谷國士による『「幻想」と「幻視」』と題された論考の中で、これらの画家は幻想(ファンタスティック)という言葉で説明されることを好まないとし、幻想芸術という言葉では説明し難い幻視芸術の本質が解説された[3]。 欧州での幻視的な絵画には宗教画や霊的な絵画としての長い歴史がある[8][3][9]。 幻視的な芸術の初期からその展開 アレックス・グレイの画集『聖なる鏡』において、思想家のケン・ウィルバーが解説するヨーロッパ芸術における神秘的で幻視的な絵画の伝統は、初期には12世紀の修道女ヒルデガルト・フォン・ビンゲンがそのヴィジョンを記した書物であり、さらにはミケランジェロ、ヒエロニムス・ボッシュ、もっと後のウィリアム・ブレイク、象徴派のジャン・デルヴィルといった名が挙げられている[8]。トマス・アクィナス(13世紀の神学者・哲学者)による「幻視」という語の考察によれば[10]。幻視は第一に視覚器官による知覚であり、第二に想像力と知性による内面における知覚である。神秘主義においては必ずしも幻視は視覚体験ではないものの、イメージの知覚であることには変わりがない[10]。超越的なものとの出会いは表象不可能だということは大半の神秘家達の同意するところである[10]。しかしながら幻視を主題とする無数の美術作品が歴史的に積み重ねられてきた。[9]。1401年にはジャン・ジェルソンが『真の幻視と偽の幻視の識別について』を著し、異端審問の活動の多くは幻視の現象に向けられ、16世紀、17世紀の神秘主義では、いかなる幻視も完全に確実なものではないという結論に到達した。[11]。 詩人であり画家であるウィリアム・ブレイク(1757年 - 1827年)は、強烈な神秘的なヴィジョンを定期的に経験し、幻視芸術を描いた[2]。『』において「知覚の扉が除かれるならば、人間にはすべてがありのままにみえる」という趣旨で述べている[8]。ブレイクについて1970年代に「幻視芸術」と言及した日本の書籍[13]、visionary artと言及したイギリスの書籍が見られる[14]。霊(スピリット)の表現のための観想の眼を開くには、瞑想は確実な方法のひとつである[8]。あるいは、シャーマンは霊の世界と交信するために、幻覚剤、性交、苦行などを試す[15]。 神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは 高度な霊視力で絵画や建築を創造し、1918年の講演会で、芸術における二つの源泉について述べている。一つは病的な幻視(ヴィジョン)を健全な仕方で魂の深層に据えるための表現主義的芸術形態であり、もう一つは自然の内部にある秘密を解放し、直接的な感覚的生命自体を思い切って感じ、再統合するための印象主義的芸術形態である。常に人間の魂の欲求が向かう二つの芸術形態は近未来において全く独特な形で成し遂げられるだろうと予測している。(W・クグラー『シュタイナー 危機の時代を生きる』久松重光 訳 105P〜109P) 画家のフィリップ・ルビノブ・ジェーコブソンによれば、Visionary Art の言葉は1933年に心理学者のカール・グスタフ・ユングが造語したものであり、ユングは幻視芸術を啓示として説明しそれは非日常的な意識の状態に由来する[4]。そしてユングは1940年代にヴィジョンについての講義を行っており、その取り組みにはの実験や(その結果としてヴィジョンを描いた)『赤の書』がある[16]。ジェーコブソンによれば、幻視芸術とは、観想の眼によって現れた「見えている」ヴィジョンであるか、そうした経験に基づいている[4]。 メスカリンを体験したイギリスの作家のオルダス・ハクスリーは、1953年に「幻視体験と幻視芸術」に関する一連の講義を行なったが、後にハクスリーは関心を失っている。芸術における幻覚剤の可能性が過剰に宣伝されたことが批判されており、幻覚剤による芸術創造の限界が指摘されている。[17]ハクスリーのような幻覚剤に根強い関心のある作家たちの活動の影響は美術には及ばず、幻覚剤なしに想像力までを含めた幻視の産物としての美術が、特にそれはシュルレアリスム(超現実主義)の時代に顕著に認識された[18]。とはいえ民族文化の伝統では、メキシコのウイチョル族の毛糸絵であるニエリカは「神の顔」「鏡」という意味であり、メスカリンを含むサボテンのペヨーテを摂取することで出現する至高の神タテワリによってもたらされた神話的なヴィジョンを反映したものである[18]。ペルーのパブロ・アマリンゴは、アヤワスカによるヴィジョンに現れる神と聖霊が伝える世界を絵画を通じて表現した[18]。21世紀に入っても芸術活動と幻覚剤の関連は持続しており、幻視芸術の名で紹介されている[19]。 1972年にアウトサイダー・アートという用語を確定させ、デュビュッフェによるアール・ブリュット(主に障害者の作品を集めたデュビュッフェが提唱した概念)をさらに定義しなおしたは、適した用語を探し求めた時のことを詳述している。無数の用語の中の一つにヴィジョナリー・アート(『パラレル・ヴィジョン』訳書では「幻視する美術」に読みとしてふられている)を挙げているが、アウトサイダー・アートという用語も含めてどれもが十分には鋭く射抜いたものではないと述べている。[7]。アメリカ合衆国メリーランド州のボルチモアに所在するにおける幻視芸術の定義は、以下のようになっている[2]。この定義は、アウトサイダー・アートの定義と同じである[2]。 Visionary art as defined for the purposes of the American Visionary Art Museum refers to art produced by self-taught individuals, usually without formal training, whose works arise from an innate personal vision that revels foremost in the creative act itself. アメリカン・ビジョナリーアート・ミュージアムのための幻視芸術の定義は、通常は正式な美術教育を受けていない独学の個人によって生み出された芸術であり、創造的な活動そのものの中でも何よりの楽しみである、その人本来のヴィジョンから生まれた作品である。 1989年に創刊されたアウトサイダー・アートの専門誌である Raw Vision は、アール・ブリュット、コンテンポラリー・フォーク・アート、幻視芸術のような同類の分野も取り扱ってきた[20]。同誌のウェブサイトの「アウトサイダー・アートとは何か」では、幻視芸術や INTUITIVE ART とは、宗教体験やヴィジョンに基づくものだけでなく、第三世界の多くの都市の民俗芸術までを含めることができると説明されている[21]。イギリスのアウトサイダー・アートの研究者によれば、アウトサイダー・アートという言葉は大衆芸術、幻視芸術のような他の用語を取り込んでいっている[6]。1992年から1993年にかけて、欧米3か国と日本の世田谷美術館でアウトサイダー・アートの展覧会である「パラレル・ヴィジョン」展が開催され、アウトサイダー・アートの中のひとつとして幻視者の作品が紹介された。それにあわせて展覧会の著作が翻訳されており、主に精神障害者による作品が提示されているが、アウトサイダー・アートの中のひとつとして幻視芸術が紹介され、精神障害者以外の幻視者、霊媒者、心霊術師の作品も少数ではあるが展示された[22]。そこで集められたのは「強迫的幻視者」たちの作品である[7]。なお、主催したロサンゼルス・カウンティ美術館では1986年に、「芸術における霊的なもの:抽象絵画1980-1985」が開催されている[7]。芸術における神秘主義についての文献は膨大であり、95人の芸術家すべてについて125冊の本から「霊的な」伝記を裏付け、専門家に依頼した論文でも、認識の「別種の方法」への関心が見られた[7]。そして、1995年には、アメリカのボルチモアに国立美術館としての認可を受けた、前述のアメリカン・ヴィジョナリーアート・ミュージアムが創設されており、乱用されているアウトサイダーという言葉の代わりにヴィジョナリーという言葉を用いたのである[23]。 1994年に放送されたNHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体II 脳と心』(第6集:果てしなき脳宇宙―無意識と創造性)はアレックス・グレイを取材し、 人間の骨や筋肉を正確に描きつつもその魂を描き出そうとする独自の作風を生み出し、心の眼で見ているものを形にしていると解説された。グレイの1993年の作品『変容』Transfigurationは、最初は夢の中で描いていた絵であり、後にDMT(幻覚剤)を吸ったことでそのインスピレーションが強調されたし、1997年の『ヴィジョン・クリスタル』Vision Crystalは瞑想で観たものである[24]。 1994年、朝日新聞社主催の東京、大阪、神戸における巡回展、『現代パリの幻想芸術家たち展』において5人のフランス人画家によるラール・ヴィジョネールが幻視芸術として紹介された[3]。また自らをファンタスティック(幻想的)と呼ぶことを好まないジェラール・ディマシオやアラン・マルゴトンといった画家達の芸術のために使用されたことがある。展覧会の名称には幻想の言葉が使われているが、フランス語では幻視を指すヴィジョネールが表記されており、この幻視芸術は従来の幻想芸術(ファンタスティック)という概念では説明し難く、展覧会の解説書は、全ての解説者たちが幻想と幻視の区別について論じた。 ミシェル・ランドンが1979年に出版した『ヴィジョネール美術』の引用を含む、厳谷國士の解説によれば、幻想芸術は超自然的なるものの自然的な世界への侵入によって裂け目や撹乱を起こそうとするものである。それに対して幻視芸術は明確なヴィジョンを探求するものであるがために、中心点における唯一者、あるいは統一性への探求に向かうものであり、螺旋状をなす一点からの拡大の可能性を自然的世界を前提にせず試みるものである。続けて厳谷によれば、ヴィジョネールの絵画には、宗教的な幻視の形をとった長い歴史があるが、ディマシオの芸術は宗教的な啓示から出発したものではなく、魂や精霊といった個人を超えた集合無意識を通して異様な表現に到達している。 主な解説者である画商のエルヴェ・セランによれば、幻視的絵画は鑑賞者が自ら幻視者となって作品の世界に入り込んで鑑賞すべく描かれているものであり、単に幻想的な芸術やサイエンス・フィクション、あるいはシュルレアリスムと安易に混同されるべきではないと述べ、幻視絵画の基本的な三つの基準を挙げている。それらは、霊的な奥行き、無時間性、完璧な技法である。 吉村良夫の論考ではイギリスの19世紀美術の専門家の言葉を引用して、ヴィジョナリー・アートとは宗教性とそれを超えることや、時間を超えたものといった特徴があり、フランスでは幻視絵画の基盤が不十分であったために、今そうした芸術家に注目が集まっていると述べている。巻末のインタビューの中では、画家のジャン・ポール・ランデが唯一、現実の幻視(幻覚)体験を描写したことがあると答えている。他の画家たちは彼のような体験とは無関係に制作している。 幻視芸術家のは、2010年に『幻視芸術の第一宣言』(未訳)を出版している[25]。2001年の『幻視芸術の第一宣言』の草稿における「幻視芸術とは何か?」という一章おいて、これは決定的なものではないと断りながらも、幻視芸術の本質についてカルアナは以下のような内容を公開している。 超現実主義者(シュルレアリスト)が、(薬物を用いず)高次のリアリティへと至る夢幻状態の高みに登ろうと試み、幻視芸術家達もまた意識の異なる状態へと至りヴィジョン(幻視)が現れる。これを美術にするということは、夢、トランスなど変性状態を通した通常の知覚を超えた幻視の状態―視界の限界を越えた、芸術家の得たヴィジョンを誰にでも見える形にして人々に伝えるということである。幻視芸術の営みとは、芸術と、神話、夢想、様々な文化的象徴などが結びつけられることによって、視覚言語の新たな形が見いだされるという歴史である[5]。 現代の動向 現代の幻視芸術の動向そのものは、インターネットという新しいメディアを手段の一つとして国際的な広がりと輪郭を形成しつつある。そしてどのような芸術家が影響力があるのかも次第に明らかになってきている。抽象表現主義、ミニマリズム、コンセプチュアル・アート、ポップアートといった欧米における戦後の現代美術が上流階級による経済支援と公的な美術館によって大規模に喧伝されてきたのに対して、幻視芸術の動向の多くは一般庶民によって支援されてきている。アーティスト達は公的な美術館や出版の領域に対して新たな参入の余地を見いだすために活動を続けている。 現代の芸術家は、ヨーロッパの古典芸術や象徴主義、超現実主義あるいはサイケデリック・アートなどを自らの先駆とみなし、幻視芸術の美術史的な意義を主張している。 現代の幻視芸術家にとって影響力のある過去の巨匠はヒエロニムス・ボス、ウィリアム・ブレイク、ギュスターヴ・モローといった画家達であり、また神話や民族芸術、あるいはアーティスト自身の霊的体験などが幻視芸術を創造するための源泉になっている。 ウィーン幻想派はや[4]、、らによって構成されていた。現在活躍しているニューヨークの幻視芸術家の大半は、1964年から1974年にかけてフックスから技術を学んでいる[4]。、ロバート・ヴェノーサ、ローレンス・カルアナ、アンドリュー・ゴンザレス (A. Andrew Gonzalez) 、フィリップ・ルビノブ・ジェーコブソン (Philip Rubinov-Jacobson) らは、北アメリカにおいて、入れ替わり立ち代り、ウィーンでの研鑽をもとに後進を教えている。 1960年代初頭にによって設立された幻想芸術のための組織、(AOI)は幻視芸術に関わるための重要な入り口を提供している。さらに最近ではLilaといったウェブマガジンや、Beinartが代表するオンラインギャラリーがインターネットや自主出版を手段として幻視芸術家をサポートしている。 西洋文学ではオルダス・ハクスリー、アンリ・ミショー、ウィリアム・バロウズなどが幻覚性の植物を試したが、西洋美術ではそうした関心はしばらく沸き起こっていなかった[18]。は1990年代以降、定期的にアマゾン熱帯雨林を訪れ、アヤワスカを試し、神々しく神秘的なアヤワスカによって見ることのできる美しい世界を描き、今日では幻視芸術と呼ばれている[19]。 出典 参考文献 Text "和書" ignored (help) Visionary Experience in the Golden Age of Spanish Art, 1995. Text "和書" ignored (help); Unknown parameter |month= ignored (help) Parallel Visions: Modern Artists and Outsider Art, 1992. Text "和書" ignored (help) 先行翻訳は『セークレッド・ミラーズ―聖なる鏡』1994年、河出書房新社。 Sacred Mirrors: The Visionary Art of Alex Gray, 1990. 『現代パリの幻想画家たち』、朝日新聞社、1994。 (展覧会カタログ) 『Les Visionnarires Contemporains de Paris』. 『シュタイナー 危機の時代を生きる』W・クグラー著 久松 重光 訳 1987年 Walter Kugler 『Rudolf Steiner und Anthoroposohie』 外部リンク (in English) (エロウィド)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BB%E8%A6%96%E8%8A%B8%E8%A1%93
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 965, 1804, 2487, 2929, 3646, 4784, 5055, 7556, 7962, 8532, 8852, 10871, 12189, 12621], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 929, 1803, 2473, 2928, 3645, 4783, 5019, 7514, 7906, 8505, 8764, 10825, 12174, 12604, 12675], dtype=int32)}
ステュアート朝は何年続いた?
ステュアート朝
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ステュアート朝(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead. または Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)は、1371年から1714年まで続いたスコットランド起源の王朝。1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国(イギリス)を成立させた。「ステュアート」は、スコットランド語の宮宰(Transclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.)に由来する。メアリー女王のとき綴りをTransclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.からTransclusion error: {{En}} is only for use in File namespace. Use {{lang-en}} or {{en icon}} instead.に改めた。 スコットランド王朝時代 存在が知られているステュアート家の最も古い祖先はフランスのブルターニュ地方のブリトン人小貴族フラールド(Flaald, ? - 1099年)で、孫のフラールド2世がヘンリー1世に従ってイングランドに移住した。その孫のウォルター・フィッツアラン(? - 1177年)は、イングランドの無政府時代に女帝モードを支持し、その叔父であるアサル家のスコットランド王デイヴィッド1世に仕えて王室執事長(Lord High Steward)に任命された。この地位は世襲され、ステュアートが家名となる。第6代執事長のウォルター・ステュアートがブルース家のロバート1世の娘マージョリーと結婚したことによって、スコットランド王室に連なった。 1371年、デイヴィッド2世が没してブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、ステュアート朝が始まり、以降、ロバート3世からジェームズ6世まで、続いて計8人がスコットランド王として統治した。多くの王が幼少にして即位したこともあり、有力貴族間の政争や貴族との対立に巻き込まれ、王が殺害・連行される事態が相次いだ。対外的には、イングランドとはおおむね険悪な関係で、同盟国フランスを巻き込んでしばしば戦いがおこった。 王冠連合 イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た(ただし、ジェームズ4世の祖父ジェームズ2世はヘンリー7世の大おばジョーン・ボーフォートの子であり、すでにイングランド王家との血のつながりはあった)。 イングランドでエリザベス1世が即位すると、スコットランド女王メアリー(ジェームズ5世の長女)はエリザベスが庶出であるとしてイングランド王位を要求し、スコットランドとイングランドの関係は悪化した。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就き、アン女王の時代にグレートブリテン王国として統合されるまで、両国は共通の王と独自の政府・議会を持つ同君連合体制をとった。これをイギリス史では王冠連合と呼ぶ。 ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を唱えて国王の絶対性を説き、議会と対立した。ピューリタン革命が起こるとチャールズ1世は処刑され、イングランドでは王制が廃止された。チャールズ2世が王政復古を果たすが、ジェームズ7世/2世は名誉革命でカトリック王として追放された。後、ジャコバイトがジェームズ7世/2世やその長男の家系による王位の奪還を目指したものの、彼らが正式に王としてイングランド、スコットランドに迎えられることはなかった。イングランドとスコットランドの王位はチャールズ1世の孫に当たるウィリアム3世、およびジェームズ7世/2世の2人の娘によって継承され、アン女王の死後はジェームズ1世の曾孫に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(ハノーファー選帝侯)ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王ジョージ1世として迎えられてハノーヴァー朝が成立した。 なお、ピューリタン革命期にイングランドでは王のいない空位時代があったが、スコットランドでは王太子のチャールズ2世がただちに即位して空位時代はなかったとされる。 ステュアート家関連年表 12世紀 ウォルター・フィッツアラン、アサル朝王室執事長に就任。 14世紀 第6代王室執事長ウォルター・ステュアートとロバート1世の娘マージョリー結婚。 1371年 マージョリーの子ロバート2世即位、ステュアート朝成立。 1390年 ロバート2世死去、ロバート3世即位。 1406年 ロバート3世死去、ジェームズ1世即位。国政は摂政オールバニ公に握られ、ジェームズはイングランドに滞留。 1424年 ジェームズ1世帰国、戴冠。 1437年 ジェームズ1世暗殺、ジェームズ2世即位。 1460年 ジェームズ2世事故死、ジェームズ3世即位。 1468年 ジェームズ3世、デンマーク王クリスティアン1世の王女マーガレットと結婚。オークニー諸島とシェトランド諸島を獲得。 1488年 貴族による反乱の末、ジェームズ3世がソーキバーンの戦いで殺害され、ジェームズ4世即位。 1502-13年 スコットランド・イングランド間で「恒久和平」成立。 1503年 ジェームズ4世、イングランド王ヘンリー7世の娘マーガレット・テューダーと結婚。 1513年 ジェームズ4世、「恒久和平」を破棄しイングランドに侵攻。フロッドンの戦いで落命、ジェームズ5世即位。 1542年 ジェームズ5世がソルウェイ・モスの戦いの後に死去。メアリー即位。 1567年 内乱によりメアリー譲位。ジェームズ6世即位。 1603年 エリザベス1世死去。ジェームズ6世/1世即位、スコットランドとイングランドは同君連合となる。 1625年 チャールズ1世即位。 1629年 チャールズ1世議会を解散。 1642年 ピューリタン革命起こる。 1649年 オリバー・クロムウェル、チャールズ1世を処刑し共和制樹立。 1653年 クロムウェルが終身護国卿となる。 1660年 護国卿リチャード・クロムウェルが退位し、王政復古。チャールズ2世即位。 1688年 名誉革命。ジェームズ7世/2世、フランスに亡命。メアリー2世・ウィリアム3世の共同統治。 1689年 権利章典の制定 1707年 イングランド・スコットランド正式に合併し、グレートブリテン王国成立。 1714年 アン女王死去、ステュアート朝断絶。 歴代国王 スコットランド国王 ロバート2世(1371年 – 1390年) ロバート3世(1390年 – 1406年) ジェームズ1世(1406年 – 1437年) ジェームズ2世(1437年 – 1460年) ジェームズ3世(1460年 – 1488年) ジェームズ4世(1488年 – 1513年) ジェームズ5世(1513年 – 1542年) メアリー1世(1542年 – 1567年) スコットランドおよびイングランド国王 ジェームズ6世/1世(スコットランド:1567年 – 1625年、イングランド:1603年 - 1625年) チャールズ1世(1625年 – 1649年) チャールズ2世(スコットランド:1649年 – 1685年、イングランド:1660年 – 1685年) ジェームズ7世/2世(1685年 – 1688年) メアリー2世(1689年 – 1694年) ウィリアム2世/3世(1689年 – 1702年) アン(スコットランドおよびイングランド:1702年 – 1707年、グレートブリテン:1707年 - 1714年) ジャコバイトの王 ジェームズ7世/2世(1685年 – 1688年) ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート チャールズ・エドワード・ステュアート ヘンリー・ベネディクト・ステュアート 系図 スコットランド:ジェームズ6世まで ウォルター1世・フィッツアラン<br/>初代王室執事長アラン・フィッツウォルター<br/>第2代王室執事長ウォルター2世・ステュアート<br/>第3代王室執事長アレグザンダー・ステュアート<br/>第4代王室執事長ジェームズ・ステュアート<br/>第5代王室執事長イザベラ・オブ・マーロバート1世エリザベス・ド・バラジョン・ステュアート・オブ・ボンキルウォルター3世・ステュアート<br/>第6代王室執事長マージョリージョン・ドラモンドマーガレット・ドラモンドデイヴィッド2世ジョーン・オブ・ザ・タワーエリザベス・ミュアロバート2世 (1)ユーフェニア・ドゥ・ロスロバート3世 (2)アナベラ・ドラモンドロバート<br/>オールバニ公デイヴィッド<br/>ロスシー公ジェームズ1世 (3)ジョーン・ボーフォートジェームズ・ステュアート<br/>ローンの黒騎士メアリー・オブ・グエルダースジェームズ2世 (4)(ステュアート・オブ・ダーンリー家)マーガレット・オブ・デンマークジェームズ3世 (5)ヘンリー7世 イングランド王アレグザンダー<br/>オールバニ公メアリージェームズ・ハミルトン<br/>ハミルトン卿ジェームズ4世 (6)マーガレット・テューダーアーチボルド・ダグラスジョン<br/>オールバニ公エリザベス・ハミルトンマシュー・ステュアート<br/>レノックス伯マデリン・オブ・ヴァロワジェームズ5世 (7)メアリー・オブ・ギーズマーガレット・ダグラス(孫) マシュー・ステュアート レノックス伯ジェームズ マリ伯フランソワ2世 フランス王メアリー1世 (8)ヘンリー・ステュアート ダーンリー卿チャールズ・ステュアート レノックス伯ジェームズ6世 (9)アーベラ・ステュアート 同君連合から合同まで ジェームズ1世/6世 (9)アン・オブ・デンマークアンリ4世 フランス王ヘンリー・フレデリックフリードリヒ5世 プファルツ選帝侯エリザベスチャールズ1世 (10)ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスルイ13世 フランス王キャサリン・オブ・ブラガンザチャールズ2世 (11)ヴィレム2世 オラニエ公メアリー・ヘンリエッタアン・ハイドジェームズ2世/7世 (12)メアリー・オブ・モデナヘンリー<br/>グロスター公ヘンリエッタ・アンフィリップ1世 オルレアン公ルイ14世 フランス王ジェームズ・スコット モンマス公ウィリアム3世/2世 (13)メアリー2世 (13)アン (14)ジョージ・オブ・デンマーク カンバーランド公ジェームズ (老僭王)マリア・クレメンティナ・ソビエスカルイーザ・マリア・テレーザマリー・ルイーズ・ドルレアンアンヌ・マリー・ドルレアンカール1世ルートヴィヒ プファルツ選帝侯ルパート カンバーランド公ゾフィーエルンスト・アウグスト ハノーファー選帝侯チャールズ (若僭王)ヘンリーカール2世 プファルツ選帝侯エリザベート・シャルロッテジョージ1世 関連項目 ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート 王権神授説 ピューリタン革命 名誉革命 権利の章典 アン女王戦争 人身保護法 (イギリス) 審査法 ジャコバイト 1701年王位継承法 イギリス君主一覧 スコットランド君主一覧 イングランド君主一覧 ウィリアムとメアリー ジャコビアン時代 スチュワート氏族 外部リンク Media related to House of Stuart at Wikimedia Commons
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E6%9C%9D
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 192, 479, 821, 1821, 2114, 2694, 3402, 4246, 4582, 4914, 5110, 6169, 6424, 7178, 7613, 8315, 9007, 9568, 9900, 11023, 11814, 12516, 13290, 13556, 13677, 14949, 16560], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 191, 478, 820, 1820, 2097, 2693, 3401, 4245, 4581, 4895, 5109, 6168, 6423, 7177, 7612, 8314, 9006, 9567, 9881, 11004, 11813, 12515, 13289, 13555, 13676, 14924, 16559, 16792], dtype=int32)}
ボクスホール・クレスタはいつ完成した?
ボクスホール・クレスタ
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ボクスホール・クレスタ(Vauxhall Cresta)は、イギリスの自動車メーカー、ボクスホールが1954年から1972年まで製造した上級中型乗用車である。 クレスタには世代によりE(1954-1957)、PA(1957-1962)、PB(1962-1965)とPC(1965-1972)の各モデルがあり、ヴァイカウント(1966-1972)はクレスタ PCの上級モデルであった。メカニズムは一貫して保守的なものであった。 当初は1951年に戦前設計からの全面改良を受けて市販開始されたボクスホール・ヴェロックス(Vauxhall Velox 4気筒量産車、ボクスホール・ワイバーンとボディシェルを同じくする6気筒エンジン搭載車であった)のデラックスバージョンとして導入された。 1956年-1957年のモデルチェンジでボクスホールの4気筒小型モデルと6気筒大型モデルが別々のボディ・クラスに分離されると、新しい大型のヴェロックスのうち上級モデルに独立したクレスタという名称が与えられた。コードネームPAというこの車は、ボクスホールの親会社である米国・ゼネラルモーターズの影響が強いスタイルのアッパーミドル級モデルであり、1950年代後期の英国車としては強い個性を持った華美なデザインを備えていた。それ故に労働者階級上がりのロック・スターが乗り回してもおかしくないが、法廷弁護士や医師のような英国の保守的エリート層は運転しないような特異なキャラクターを備えたモデルとなった。とはいえ、皮肉なことにエリザベス2世女王は、長年この車のエステート版を私用車として愛用していた。 1962年にモデルチェンジされたPB以降は平凡堅実なデザインとなりつつも、同じGM系のオペルの影響を受けない設計・デザインを継続し、1970年代初頭までボクスホール車最上級クラスとしての地位を保った。 クレスタ E 第二次世界大戦前から中級モデル以下にモノコック構造を採用していたボクスホールは、戦後の生産再開も戦前型の部分改良でしのぎ、1948年にはボディ外装を1940年代初頭のアメリカ車並にリデザインしたモデルのうち6気筒車に戦前からの上級モデルネームである「ヴェロックス」の名を与えた。この時点ではエンジンこそ刷新されたものの、トーションバー式デュボネ独立懸架を備えた戦前以来の旧式設計を脱していなかった。 ボクスホールが、乗用モデルのヴェロックスとワイバーンに、アメリカで流行し始めたフラッシュサイド型フルワイズボディと、第二次大戦後の前輪独立懸架の主流構造であるウィッシュボーン式独立懸架を与えてフルモデルチェンジさせたのは1951年であった。デザインモチーフは同時代のシボレー車に酷似していたが、英国車の寸法に押し縮めたスタイルのために鈍重さを免れなかった。ボンネットフード上にはボクスホール車が1905年以来受け継いできた「フルート」(前後方向の凹んだ帯)のモチーフが刻まれていた。 大戦直後の自動車不足需要期を脱し、平時の販売競争が本格的になってきた1954年に、ヴェロックスの上級バージョンとしてクレスタが追加された。最初のクレスタ Eは、ヴェロックスと同一出力の同じ2262 cc の直列6気筒エンジンを搭載していたが、車体先端のV(VauxhallのV)バッジ上に特別オーナメントを備えていて区別できた。革か織物が選択できる内装、オプションの2色塗装、標準装備のヒーター、ダッシュボードへの時計/シガーライターの装備、開くと自動的に点灯するトランク内照明といった細かな電気装置、助手席のサンバイザー裏に仕込まれたヴァニティミラーを共に備えていた。ラジオはオプションであった。 もっとも、フラッシュサイド型としては初期に当たる1950年の腰高なデザインのボディは、1955年頃になると既に陳腐化は免れず、延命のために余分なクロームメッキパーツや不似合いなツートーンカラーも追加されたが、ちぐはぐさは否めなかった。 1956年、英国の『ザ・モーター』誌(The Motor)がクレスタをテストし、最高速度82.2 mph (132.3 km/h) と0-60 mph (97 km/h) 加速に 20.2 秒、23.5 ml/英ガロン (12.0 L/100 km; 19.6 mpg-US) の燃料消費率を記録した。テスト車は、税込みで£931であった[1]。 クレスタ PA 1957年に発表されたPA型のクレスタ(と姉妹モデルのヴェロックス)は、おそらく戦後の上級ボクスホール車では最も広く知られたモデルである。 この車は、巨大なテールフィン、ラップアラウンド・ウインドウ(側面まで回りこんだ窓)、ホワイトリボン・タイヤといった当時最新の米国車スタイル様式を取り入れており、1955年モデルのパッカード・カリビアン(Packard Caribbean)への近似性が強かった。キャデラックやビュイックと比べれば控えめであったが、ここまで英国的伝統を逸脱してアメリカ風にデザインを振られた英国製サルーンはほとんど他例がなく(同じく米国資本であるイギリス・フォード「コンサル」「ゼファー」の同時期モデルもアメリカ風ではあったが、PA系ボクスホールほど極端なスタイルは用いていない)、特異な存在となった。ボクスホール伝統のボンネット上の「フルート」は、当初、フェンダーのサイドパネルを細い帯状に凹ませる事で継承されたが、このモデル途中でついに廃止されている。 メーカー製の全てのPAは4ドア・サルーンであったが、ハンプシャーのベージングストーク(Basingstoke)にあるフリアリー(Friary)が改装したエステート版もあり、現在この車は希少である。 メカニズムについては先代のEシリーズ同様に英国車ではありふれた平凡なもので、前輪にコイルバネを使用したウィッシュボーン式独立懸架、後輪にスタビライザーを備えたリジッドアクスルを半楕円リーフスプリングで吊るごく一般的な設計である。全輪共にAPロッキード製9 in (230 mm) ドラムブレーキであった。先代から受け継いだ2,262 ccの6気筒エンジンは、プッシュロッドで作動するOHVで、圧縮比は7.8:1(6.8:1の低圧縮比版もあった)で82.5 bhp (61.5 kW) /4400 rpmの出力を発生した[2]。ゼニス製キャブレターを1基装備し、トランスミッションは前進3速であった。 PA型のクレスタは生産期間中に様々な変更が施され、その最も大きなものは2,262 ccのエンジンが全面刷新され、ショートストローク高速型の2,651 ccに変更されたことであった[3]。この新しいエンジンは、直列6気筒という点では以前のものと同じであったが、その出力は72 PS/4400 rpm から 104 ps/4800 rpmへと劇的に向上していた[3]。 この車は、革とナイロン製表皮を持つ前後席のベンチシートとパイル織りカーペットといった上等な内装を備えていた。ヒーターは標準装備であったが、ラジオは英国市場ではオプション品であった。その他のオプション品にはフォグライト、バックライト、鍵付き給油口、サイドミラー等があった。6名が乗車できるよう前席の床を空けるために、サイドブレーキ・レバーはダッシュボードの下に備え、シフト・レバーはコラムシフトとなっていた。塗色は、単色か2トーン・カラーのどちらかを注文することができた。 1958年に『ザ・モーター』誌がPA型クレスタをテストし、最高速度89.8 mph (144.5 km/h) と0-60 mph (97 km/h) 加速に 16.8 秒、25.2 ml/英ガロン (11.2 L/100 km; 21 mpg-US) の燃料消費率を記録した。テスト車は、£358の税込みで£1,073であった[2]。1960年にはオーバードライブ付きの2.6 L エンジン版をテストし、最高速度が94.7 mph (152.4 km/h) と0-60 mph (97 km/h) 加速が15.2 秒に向上し、燃費は26.8 ml/英ガロン (10.5 L/100 km; 22.3 mpg-US) に改善されていることを確認した。テスト車は、£317の税込みで£1,077で、オーバードライブ無しは£1,014であった[4]。 1970年代に多くのPA型クレスタが改造されカスタマイズの素材とされた。このモデルはフィフティーズ文化の隆盛と共に人気となり、テディボーイ(teddy boy)達により運転され、ロックンロールのイメージと重ね合わせて見られることが非常に多かった。1981年のスペシャルズによる『ゴースト・タウン』(Ghost Town)のビデオ内でフィフティーズの服装をしたメンバーと共に1960年型のPA型クレスタを見ることができる。 現在ではPA型クレスタはクラシックとして認識されており、その他のモデルへの評価はそれよりも幾分低いかもしれないが注目度は上がってきている。1950年代終わりのPA型クレスタの有名なオーナーにドン・ラング(Don Lang)がいる。 クレスタ PB 1962年にモデルチェンジされたPB型は、PA型のテールフィンを取り去り、平らなボンネットを持つように大幅に外観を変更された、全体的に保守的なスタイリングの車であった。当初は2.6 L エンジンを搭載しており、生産最終年に3.3 L エンジンに換装されたが、特定の輸出市場では税金の関係から最後まで2.6 L エンジンであった。変速機は依然として3速コラムシフトであったが、オーバードライブ付きも選べるようになった。3.3 L モデルは3速コラムシフトが標準で、4速フロアシフトがオプションであった。GM系列車に相応しく、3速式のGM「ハイドラマチック」オートマチックトランスミッション(AT)が両エンジンで共に選択できたが、3.3 L モデルの末期にはATユニットは同じくGM製ながらなぜか旧式で効率も劣る2速「パワーグライド」(Powerglide)に変更された。前輪には倍力装置付きのディスクブレーキが装着された。 クレスタ PC シリーズ最後のPCは、1965年10月のロンドン・モーターショー(London Motor Show)で発表された[5]。下級モデルのヴェロックスは既に廃止され、PCS(standard)、PCD(Deluxe)とPCE(Executive)の3モデル構成となり、最後のモデルは独自名称の「ヴァイカウント」となった。PCは前モデルとは異なり、先行してFD型ヴィクターで取り入れられたコークボトル形のスタイリングとなり、かなり明確にサイズを縮小したシボレー・インパラと言える車となった。ボディデザイン刷新に比し、ホイールベースやサスペンション構造などのスペックはPBからのキャリーオーバーで保守的設計は変わらなかった。 オーストラリア製のホールデン・HR(Holden HR)とも似ていたが、より大型で豪華な内装を持ち、その7年間の生産期間を通じて3.3 L の直列6気筒エンジンを搭載していた。シボレー・スモールブロックのV8エンジンがそのままエンジンルームに入ったが、このオプションはヨーロッパでは提供されなかった。当初はオーバードライブ付きもオプションで選べる3速コラムMTが標準で、4速MTと2速パワーグライドはオプションであった。後に1971年頃から4速MTか3速ATのフロアシフトがバケットシートと共に提供されるようになった。 ゼネラルモーターズ・ニュージーランドは、1966年から1971年までウェリントン近郊のトレンサム(Trentham)の自社工場でこの車の組み立てを行った。1つの「ベース」モデルのクレスタのみを組み立て、生産期間中の変更点は極僅かであり、英国市場では1971年頃に施されたフェイスリフトも行われなかった。しかし、生産期間中にブレーキ性能向上のためにブレーキがタンデム・マスターシリンダーに改善され、この改善はニュージーランド仕様では標準となった。4灯ヘッドライトのクレスタ デラックス、ヴァイカウントやエステートが完成車として英国から輸入もされた。 ニュージーランド市場では提供されなかったフェイスリフト後のモデルでは、4灯ヘッドライトが標準となりダッシュボードが一体型となった。コラムシフトに替わりフロアシフトが標準となった。 デラックス(De-Luxe)・モデルではベース・モデルの2灯ヘッドライトに対し4灯となった。 1967年1月に英国市場ではエステート版の納入が開始された[6]。この車は、ドーモビル(Dormobile)・キャンピングカーの改装(主にベッドフォード製)で知られるフォークストン(Folkestone)のマーティン・ウォルター(Martin Walter)製となった[6]。このエステート版は、強化型の後輪サスペンション、大径タイヤ(5.90-14inから7.00-14 in)とルーフラインの改装によりサルーンよりも2½ in (5 cm) 高くなっていた[6]。当初クレスタ エステートは、英国市場で£1,507で発売され、これは同等のサルーンに比べ40%近く高い価格であった[6]。長年市場で地位を保っていたハンバー・ホーク(Humber Hawk)のエステートと当時発売されて間もないフォード・ゼファー(Ford Zephyr)のエステートの英国での価格は各々£1,342と£1,379であった。クレスタ エステートは、通常は47 in (119 cm) で後席を折り畳むと76 in (193 cm) まで拡大できる荷室を持っていた[6]が、ボクスホールの競合車は多量に売れるような価格では無くエステートの生産は1968年で終了した。 ヴァイカウント 1966年6月[5]にクレスタ PCと同一エンジンと同一の機械機構を持った超高級モデルとしてヴァイカウントが導入された。この車は、パワーステアリング、パワーウインドウ、リクライニングシート、ビニール貼りの屋根、ウォールナット仕上げのダッシュボード、前席と「後席」の巻き取り式シートベルトと熱線入りリヤウインドウも標準で装備していた。黒塗りにされたグリルとヘッドライト周りが高級な雰囲気を出しており、テールライトにはクロームが被せられていた。深緑、紺、マルーンといったボディ色の側面にハンドペイント風の細い線が入れられ、この車に特別仕上げの雰囲気を持たせていた。2組の2灯式5 in 径のシールドビーム・ライトの外側は2つのフィラメントを持っていたため、この車は4灯のメインビームを持っていた[5]。ヴァイカウントはクレスタよりも幅広タイヤ(5.90-14 inに対し7.00-14 in)を履いていた[5]。ヴァイカウントと同様の2本出しテールパイプは、同時期の3.3 L 版のクレスタ PCではパフォーマンス・オプションであった。標準のトランスミッションはGM製の2速パワーグライド(Powerglide)であったが、英国市場では£85廉価に[5]その他の地域では追い金無しでオプションの4速MTも選択することができた。1970年の秋に2速パワーグライドは、GM製3速ATに更新された[5]。 南アフリカ版ではクライスラー製のV8エンジンをオプションで搭載した車もあり、これはGM系製品が直接の競合となるメーカーのエンジンを使用した数少ない一例であった。 出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 284, 856, 1720, 3231, 4461, 5516, 6300, 7190, 8278, 9057, 10380, 10843, 11727, 12449, 13092, 14144, 14344, 14799, 15877, 17747, 24415, 25177, 25542, 26046, 27181, 28915, 29317], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 283, 842, 1670, 3230, 4460, 5515, 6262, 7189, 8277, 9034, 10324, 10842, 11726, 12448, 13060, 14124, 14343, 14776, 15830, 17718, 24398, 25176, 25541, 26011, 27180, 28892, 29303, 29410], dtype=int32)}
芸能人親族生活保護受給騒動を初めて取り上げた雑誌は何?
芸能人親族生活保護受給騒動
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([3], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([1807], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([1822], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
芸能人親族生活保護受給騒動(げいのうじん しんぞくせいかつほごじゅきゅうそうどう)とは、2012年に、複数の芸能人の親族が生活保護を受給していたことが周知されたことにより生じた一連の問題である。 生活保護を不適正もしくは不正に受給したのではないかという疑惑としてモラルが問われたが、正規の申請による受給であったため不正受給と認定されてはおらず、騒動中の現行法においては違法ではなかったが、一部の政治家やマスコミは「生活保護は不正だらけ」「受給は恥ずかしいこと」という制度の実態や意義に反するメッセージを発し、生活保護制度そのものや受給者に対するバッシングが起こった[1]。 現行法規 民法877条1項は、直系血族間の扶養義務を定めており、他方で生活保護法4条2項は、「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶助は、すべてこの法律による保護に優先して行われるものとする」と定めている(ただし、生活保護法4条3項において、「急迫した事由」があれば、「必要な保護を行うことを妨げるものではない」)。また、「被保護者に対して民法の規定により扶養の義務を履行しなければならない者があるときは、その義務の範囲内において、保護費を支弁した都道府県又は市町村の長は、その費用の全部又は一部を、その者から徴収することができる」(生活保護法77条)。 次長課長・河本準一の親族のケース 一連の騒動の発端となったのは、小学館が発行する女性週刊誌『女性セブン』の2012年4月26日号の記事である。記事では、あるお笑い芸人の母親と親族がそれぞれ生活保護を受給しているのだが、当該タレントは当時レギュラー・準レギュラー出演を合わせておよそ10本の番組に出演、その年収は5000万円とも推定されるほどの人気者であるにもかかわらず親族の扶養を怠っており、親しい後輩や友人にも「今、おかんが生活保護を受けていて、役所から“息子さんが力を貸してくれませんか?”って連絡があるんだけど、タダで貰えるんなら、貰っておけばいいんや」と語っていたことなどが報じられた。誌面では名前が伏せられていた[2][3]が、『サイゾー』がインターネット上で繰り広げられていた“犯人捜し”の情報を基に、その芸人とは、よしもとクリエイティブ・エージェンシー(吉本興業グループ)所属のお笑いコンビ「次長課長」の河本準一であるとする実名報道に踏み切った[4][5]。同月24日、本田技研工業は、当時河本ら吉本芸人数名がPRメンバーを務めていたホンダ・ステップワゴン『ススメ!家族の冒険プロジェクト』のキャンペーンサイトから河本の名前・写真・コラム全文を削除する措置を講じる[6]。 5月2日、自民党の参議院議員で、同党『生活保護に関するプロジェクトチーム』のメンバーでもある片山さつきが自身のブログにおいて、厚生労働省社会・援護局の生活保護担当課長にこの“不正受給”疑惑の調査を依頼した旨を発表、自身もこの問題を追求していくことを表明した[7]。片山は、自身がかつて旧大蔵省で厚生省担当主査を務めていた頃とは比較にならないほど不正受給が横行し、かつ受給者のモラルが低下している現状を問題視したとしている[7][8]。これに続いて、同プロジェクトチーム座長の世耕弘成参議院議員も、自身のブログやTwitter上で「看過できない問題だ。苦しい家計の中から家族を扶養している人からすると、納得のいかない話である」などと不快感を示し、河本に説明責任を果たすよう求めた[9]。同じ頃、河本は自身のTwitterのプロフィール欄を「人の嫌なことを生きがいにしてる人たちがどうかなくなりますようになぁ」というものに変更し、「逆ギレ」とも報じられた[10][4]。 5月16日、よしもとクリエイティブ・エージェンシーは自社の公式ホームページに声明を発表。マスコミ報道や片山・世耕両議員らによる追及を「重大な人権侵害であると考える」との遺憾の意を示し、河本には様々な事情から生活の援助を行わなければならない親族が複数おり、なおかつ親族全員に対して将来に亘って安定的な援助を行えるかどうか、見通しが非常に難しかったという事情があること、母親への生活保護費の支給は、河本が無名で収入の低かった頃に開始されたものであり瑕疵はないこと、河本本人は、いつかは生活保護に頼ることなく自身の力だけで養っていけるよう、担当の福祉事務所などとも相談しながら、懸命に努力してきたことなどを説明、河本本人及びその親族に、生活保護費の不正受給のそしりを受けるような違法行為の存在を改めて否定した[11]。 5月18日、片山・世耕両議員のもとに吉本興業の代理人弁護士が訪れ、吉本側は河本の母親が生活保護の受給に至った経緯を説明したが、所得証明や納税証明などの証拠書類は一切提示されなかった。また、当初吉本側代理人から「(母親とは別の)親族が海外での治療を必要としており、それには多額の費用が掛かる」との説明を受けていたため、片山らがその人物の続柄を訪ねたところ、代理人はこの発言を翻している。この説明では両議員が納得せず、世耕は「不適切な受給に関しては全額を返納すべき」と提案、吉本側はそれを持ち帰った[12][13]。 謝罪会見〜生活保護費返還 5月25日、河本は都内で会見を行い、不正受給の疑惑については完全に否定したものの、「本来は自分がしなければならなかったものを、岡山の福祉の方にやってもらっていた。認識が甘かった。むちゃくちゃ甘い考えだった」と涙ながらに謝罪。母親への援助がなおざりだった点については、「全て福祉の方と相談して決めていたことなので、問題があるとは思わなかった」「収入が安定せず、不安を抱えながら毎日を送っていた。自分も(2010年10月に)急性膵炎に罹り、長期間休んだ。芸人には保険も無いし、パニックになった」と説明している。今後は自身の収入が増え始めた5〜6年前からの受給分(2006年もしくは2007年以降)を返還することを表明した。 会見によると、スーパーで働いていた母親は1997年頃に病気を患い、医師から働くことを止められる。母親は自分で生活保護の受給を決め福祉事務所に相談、受給にあたって事務所側は実子である河本に母への援助を打診するも、「(自分の)年収が100万円にも満たず、申し訳ないが面倒を看られない」との報告を受けたため、受給が認められる。やがて、河本の出演番組が次第に増えたことにより、収入が増加したと判断した担当職員から再度援助が求められ、2006〜2007年頃に母への援助を始める。これにより生活保護費は減額されたが、母親はその後も受給を続けたため、担当職員は再度河本に仕送りの増額を打診し、2012年1月より増額。なお、同じ頃に母親は脳梗塞を患っている。4月に入り、前述の女性セブンによってこの受給が批判的に報じられると、母親は自ら受給を停止したという[14][15][10][16]。 6月26日、所属先のよしもとクリエイティブ・エージェンシーが、河本が母親の受給していた生活保護費の一部を返還したことを発表。5月の会見後、当該福祉事務所と返還に向けた協議を行い、提示された金額を支払うことを約束。金額は明らかにしていないが、6月20日に全額を払い終えているという。河本は、「自分の未熟さで、皆様にご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。皆様のお叱りをしっかり受け止め、これからはご迷惑をお掛けした皆様に恩返しをさせてもらい、親孝行もしていきたいと思います」とのコメントを寄せている[17][18]。 問題視された点 生活保護の受給が認められる条件は、預貯金や持ち家などの資産及び一定以上の収入が無いこと、保護申請者を扶養出来る親族がおり、なおかつ援助に際して障壁となる家庭問題が存在しないこと、本当に就労が困難であるかなどが基準とされているが[2][3]、河本は都内の一等地にある高級賃貸マンションに居住し、190万円相当のペア時計の購入や高級クラブでの豪遊、正月のハワイ旅行などのエピソードをテレビ番組で披露したことがあるため[19][20]、母1人を養う余裕が無いようには見えなかった。もう1つ、民法第877条では「親族間の扶養義務」が規定されているが、虐待による親子断絶などの諸事情により親子関係の破綻が認められれば、扶養を拒否することが出来る[21]。しかし河本は、やはりテレビ番組の中で度々母親の面白エピソードを披露したり、2007年に発表した自伝本『一人二役』(ワニブックス刊)の中でも母との秘話を綴っているなど、親子関係が良好なのは誰の目にも明らかであったことが更なる批判を招いた[5][22]。 キングコング・梶原雄太の親族のケース 河本と同じくよしもとクリエイティブ・エージェンシーに所属するお笑いコンビ「キングコング」の梶原雄太の親族についても、同様の生活保護受給が問題視された。受給していたのは梶原の実母で、梶原はスポーツ紙の取材に「誤解をされたくないし、隠すこともないので、ありのままを全てお話ししたい」と述べ、経緯と事情を説明した。 母親への受給が始まったのは2011年3月で、当時母は祖母の介護をしながら弁当店で働いていたが、勤め先が倒産し収入が無くなる。年齢的にも働き口が見つからず、同じ頃に足を骨折してしまい、現状で就労が困難と判断した母親は知人に相談、知人から福祉事務所へ行くことを勧められる。そこで担当者から、「祖母ではなく、あなたが生活保護を受給した方がいい」とのアドバイスを受けたため、息子をはじめとする親族の経済状況の申告書類を提出後、受給が決まった。当初の受給額は毎月11万6000円で、祖母が同年12月に他界後はパートタイマーとして再就職し、毎月およそ4万円の収入を得るようになったことから、受給額は5万円に減額された[23]。 この時梶原は、2002年に『紳助の人間マンダラ』(関西テレビ放送)の企画で母親のために購入したマンションのローンを支払っていたが、その後の収入増加に伴い、2008年頃に当初の35年ローンから短期ローンに組み替えたため、共益費と合わせて毎月40万円余りを負担していた。ローンは12年8月に完済予定だったこともあり、完済後に受給の辞退を決めていたという。しかし、河本の問題が波紋を広げる中で、「こういう状況になったので心苦しい。誤解もされかねない」として、母親自らが申し出て5月28日に受給を停止している[24]。 およそ1年3か月間の受給額は計約140万円で、梶原は「母が苦しんでいたので“助かった”というのが率直な気持ち」と述べている[23]。所属先の吉本興業も、「生活保護受給の手続きには何らの瑕疵もなく、母親への精一杯の援助を続けている中での止むを得ない経緯があった」とコメント、今後は同社が支援し、その上で受給を辞退するとした[25]。5月30日、梶原は都内で会見を行い、不正受給を否定した上で、世間を騒がせたことについて謝罪した[24]。 自民党議員による追及 6月12日の衆議院予算委員会で、自民党の馳浩衆議院議員が本件に関する質疑を行う。馳は、梶原の実兄が国家公務員(航空自衛官)という立場で安定収入がありながら母親の扶養を怠っていることや、母親の居住するマンション隣の棟に居住し、意図的に別居をすることで“別世帯”を装い、母親の生活保護受給を黙認しているのでは、とする疑義をぶつけた[26]。答弁に立った小宮山洋子厚生労働大臣(当時)は、「個別の事案については把握をしていない」とした上で、「生活保護は利用出来る資産や能力、その他を活用することが前提。例えば、保護費の受給を目的として意図的に資産・収入を減少させた上で支給を受けるのは認められない」「マンションの写真などを見れば、国民もこれはおかしいんじゃないか、と感じると思う」との見解を述べた[27][28]。 本件への反応 この問題については、政府・厚生労働省に対しても、国民からの様々な意見や苦情が寄せられ[29]、衆参両院の委員会でも取り上げられた[30][27][31]。 テレビ視聴者からは、河本・梶原両名に刑事罰や芸能界追放などを求める辛辣な意見、起用を続けるテレビ局や一部番組の2人を擁護する姿勢などへの苦情が多数寄せられている一方で、本件のような有名タレントのケースを俎上に載せて生活保護制度そのものが悪いとの印象を抱かせる報道を懸念する声もあった[32][33]。 保守系市民団体 保守系市民団体の在日特権を許さない市民の会(在特会)は、一連の受給問題を「反日的行為」と見なし[34][35]、予てよりブログで抗議行動を呼びかけていた政治運動家の瀬戸弘幸[36]らとともに6月3日、東京・新宿区にある吉本興業運営のお笑い劇場『ルミネtheよしもと』が入居するLUMINE2の前で、河本・梶原両名を非難する抗議街宣を行う。その後は同社東京本社にも赴き、所属タレント及び親族の不正受給の有無の徹底調査と、その保護費を返還するよう求める抗議文を直接手渡した[37]。 7月1日にはやはり在特会が中心となり、一連の問題を追及していた片山さつきへの「応援デモ」が新宿駅前で行われ、集合場所には片山本人も来訪した。片山は「日本版ティーパーティー運動が始まった。皆さんは本当に素晴らしい愛国者だ」などと、参加者を激励した[38]。 生活困窮者支援団体・当事者など 2012年9月、生活保護費削減の見直しなどを求める法律家や支援者、当事者らで構成される市民団体『生活保護問題対策全国会議』は、民放テレビ局の6番組・8件の報道について、「全体的に生活保護制度を正しく理解していない報道が目立ち、人気お笑いタレントの母親の生活保護利用というレアケースを俎上に載せて、制度や利用者全般に対するバッシング報道を繰り返すなど、重大な“放送倫理違反”があった」として、NHKや日本民間放送連盟加盟各社で組織される『放送倫理・番組向上機構』(BPO)の放送倫理検証委員会に対し、当該放送内容を審議するよう要請する[39][40]。しかし、同委員会は翌月、「各放送局の編集権の範囲内」として、審議入りを見送った[41]。この判断について、同団体は「審議入りしない、というのは、いわば“門前払い”であり、この決定に大きく失望した。我々が公平性を指摘した報道の中には、誤報のまま訂正しなかったものや、裏が取れないデマのような伝聞情報を、さも事実であるかのように報道したものもある。それらが“編集権の範囲内”として許されるのならば、報道において守るべき放送倫理など無いに等しいのではないか」「また、冷静さを欠いて、生活保護制度や受給者に対する偏見を煽り、誤解を広げるばかりの感情的な報道も許されてはならない」「個々の報道の中身を検証することさえ回避したのは極めて遺憾であり、BPOに求められている社会的責任を放棄したものである」との抗議声明を出した[42]。 著名人の発言・見解 放送プロデューサーのデーブ・スペクターは、「“認識が甘かった”では通用しない。モラルが低下している。仕事が不安と言っても、河本さんのように売れて数年が経ち、大手事務所に所属している場合は通用しない。いつリストラされるか分からないサラリーマンの方が不安だ」と厳しく批判し[22]、梶原のケースについても、「マンションのローンを払う以前にすべきことがあったのではないか」と批判した。ただし河本に関しては、「蓋を開けてみたらグレーゾーンだった。収入を誤魔化して受給していた張本人でもないし、親族と別居している振りをしていたわけでもない。もっと早くにお母さんに生活保護の打ち切りをさせ、“母親の面倒は自分で見るんだ”というプライドと、グレーなことをしてはいけないというモラルを早くに自覚すべきだった」とし、「河本さんや梶原さんだけが槍玉に挙がってしまったのは気の毒だが、それは影響力の大きい有名人だから仕方がない」「この報道で、生活保護制度の問題点が明らかになった。今後、政府が改善しなくてはならないことを、世間に知らせた功績はあった」と結んだ[43]。 漫画家のやくみつるは、自身が本件に中立的な立場であることを表明した上で、「正直、このケースでもダメなのかなと感じた。(母親らと)同居はしていないし、独立した世帯を持っている。収入が5000万円あるから余力があるなんていうのは別次元の話だと思う」「もちろん、国会議員である片山さんがこれを問題視するのは当然だ。とはいえ、河本さんよりもっと悪質な不正受給もあったはずで、それを調査する人の数が足りないというのであれば、そちらを是正する、法改正をするというベクトルに向かって初めて、河本さんが槍玉に挙げられたことが生きてくるのではないか」と述べ、梶原のケースについても、「マンションを買い与えられた母親が贅沢していると言われれば贅沢かもしれないが、そもそもどういう所帯なら生活保護を受けるに相応しいのか。これは親孝行のしすぎが仇となったケースで、悪質とも違って気色ばむほどじゃないと思う」とし、「報道の意義はあったと思うが、河本さんらを人身御供にしてはならない」と結んだ[44]。 シンガーソングライターの河口恭吾は自身のブログに、「河本さんの謝罪会見。鬼の首でも取ったかのようにマスコミは繰り返し朝から晩まで会見時の映像を流しているが、いちタレントの事を国会でまで取り上げることか。アホかっつーの。国会では議論すべき問題がその他に沢山あるでしょうが。ていうか議員さん達なんて今回の件の額なんて笑い飛ばせるような利権をむさぼり食ってきたんでしょうが。それを今更なにを平然と…。まぁ、それが政治家か。政治も人気獲りのマスコミのまねごとをしてきているのだとしたらこの国は本当に末期ですね」などと綴った[45]。 河本の事務所の後輩で、プライベートでも親交のある「オリエンタルラジオ」の藤森慎吾は、河本のTwitter上での謝罪に対し、「笑わせてくれればいいです!」と返信した[46]。すると、一般のユーザーから「身勝手で無責任な事ホザくな!」などと反発を買い、藤森も「少なくともあなたよりは社会人としての自覚はあります。あなたのような乱暴で幼稚な言葉使いはしないからー」「芸人全般に対する侮辱ですかー?」などと切り返し、口論に発展した[47]。 河本と同期の「ブラックマヨネーズ」の吉田敬も自身のTwitterで、「勧善懲悪。俺は嫌い。いじめられてる奴の話を少しは聞けよ」[48]という、暗に河本を気遣うようなツイートをした。すると、一般のユーザーが「カスがいきがんな。(生活保護の受給が認められずに)命奪われた人もいる」などと反発、これに対し吉田は「このての人って、なぜこんな物言いしかできひんのやろ。でもおかげで普通の人に感謝できる。ありがとう、頑張れよ、食物連鎖の一番下の人!」[49]などと返したが、このユーザーのツイートには、2007年に北九州市で生活保護を打ち切られて餓死した男性の写真が添付されていたことから、吉田が餓死者を揶揄したと歪曲されてしまい、ネット上に拡散される事態となった[50]。後に吉田は「いきなりカス呼ばわりしてくる無礼な人間にいかつい一言で返すのは、俺は悪いと思わない。でも強い言葉すぎた。他の人にまで強い不快感を与えてしまい、申し訳ありませんでした」という謝罪文をツイートした[51]。なお、このユーザーは直後にアカウントを削除している(いわゆる「捨てアカ」)。この騒動を受けてカルビーは、ブラックマヨネーズが出演中の『うま辛ポテト ヒ~ハー!!』の公式サイトからCM動画を一時削除する措置を講じた。同社広報部は、「お客様から様々なご意見が寄せられたことを受けた結果」と説明[52]、その後CMキャラクターにタレントの鈴木奈々を新たに加えて再開している。 この他にも、河本よりも芸歴の長いお笑い芸人の、「実際に売れて大金を稼げるようになっても、滞納した年金を払ったりしたら残らないんじゃないか?たとえ収入が5000万円になったとしても、(人気が)いつまで続くかは分からない。売れてからまた落ちてしまうこともある」との意見[53]や、芸能評論家の、「関西芸人のがめつさが出たという印象。稼いでなんぼ、貰えるものは何でも貰うといった印象で、公人としての社会的責任や後ろめたさがない。何より、2人から自分の力で親の面倒を看ようという気持ちが感じられない」[54]との意見など、様々な見方がある。 騒動の余波 本件以後、生活保護受給に関する報道が過熱気味となり、一部メディアにおいては有名人とその親族の“生活保護暴き”を行うなど、様々な形で波紋を広げている。まず、『週刊文春』がアイドルグループ・AKB48のメンバー数名の親が現在生活保護を受給している、もしくは過去に受給していたとする記事を掲載した[55]。このうちの1人とされた秋元才加(2013年8月にグループを卒業)は、自身のブログでこれを否定している。秋元は、スタッフから「お前のことではないのか?」と指摘され、インターネット上でもそのような噂が立っていたことを明かしている[56]。 この他にも、陸上ハンマー投選手・室伏広治の実母(元オリンピックやり投ルーマニア代表のセラフィナ・モリッツ。現在も日本に在住)[57]や、元スノーボードハーフパイプ選手・今井メロ本人の受給などが報じられたが[58]、特に室伏のケースは賛否が分かれた[59][60]。 さらには、2007年に一部週刊誌で報じられた舛添要一(当時参議院議員)の実姉に関する生活保護受給の是非[61]が、一連の騒動に蒸し返される形で再燃した。奇しくも舛添の前妻は今回の騒動を追及し続けてきた片山さつきであり、片山は自身のTwitterで、「(元夫であることは関係なく)何の躊躇なく追及させていただきます」と宣言している[62]。 片山さつき脅迫誤認騒動 片山は、2012年5月27日放送のテレビ朝日系報道番組『報道ステーション SUNDAY』に中継で出演。一連の問題追及に関するインタビューを受けていた際、「大阪の番組で(千原兄弟の)千原せいじさんという方が一方的に私たちを批判した上に、“片山の夫の会社を潰す”とおっしゃったんです」と話し、その後新幹線で居合わせた乗客からも「『ああいうこと(不正受給の追及)あったけど、怖いで!』みたいなことを言われて。これはもう脅迫ですよ」などと涙ながらに訴えた。片山が指しているのは、5月25日に放送された読売テレビの情報番組『かんさい情報ネットten.』(関西ローカル放送)だと言われており、千原は片山の夫について「旦那さんって、(以前に)結構でかい会社潰してはったんとちゃう…(以下不明瞭)」とコメントしている[63][64]。しかし、この“脅迫”を巡っては、片山の事実誤認を指摘する声が多く上がっている。 お笑い芸人のカンニング竹山は「(千原が)同じ芸人だから守るために言ってるわけじゃないし、片山さんを好きとか嫌いとかではない」と前置きした上で、「内容を確認もせずに(千原が片山を脅迫したという)ネットの情報を信じ、マスコミに出てきて“脅迫された”と言っている。確認したら分かるでしょ?」「(片山は)生活保護問題を追及するというけど、真実ではないことを言ってる人に真実を追究できるか?」と憤りを見せた[65]。コラムニストのマツコ・デラックスも、片山を「ちょっと奇怪な行動を取る方」と評し、「個人の発言にいちいち泣いてる国会議員ってのがおかしい」「河本さんがいけないことをして公金を貰っていたのなら、私は今彼女に払ってる公金(税金)から出ている給料もあげたくない」と批判した。また、「こんなワイドショーの茶番的なことをやらせるために、彼女をわざわざ番組に呼んで発言させているのだとしたら、ある意味国民への冒涜行為だと思う」と、番組に対しても批判を加えた[66]。ネット上でも見解が分かれており、『報ステ SUNDAY』メインキャスターの長野智子が開設しているTwitterに直接、事の真相を尋ねる者もいた。これに対し長野は、「あのあと当該番組を確認しましたが、片山さんに一部事実誤認があると感じました。生放送で突然発言されたため我々も確認を取るすべが無かった」と答えている[67]。 脚注 参考文献 『週刊ダイヤモンド』2012年6月30日号 (要定期購読) 『週刊東洋経済』2012年7月7日号18-21頁 『ニューズウィーク日本版』2012年7月18日号70頁 『世界』2012年8月号71-80頁 (一部抜粋・修正) 『Voice』2012年8月号130-139頁 片山さつき、城繁幸、赤木智弘「本当に生活保護を受けるべきは誰か 」 関連項目 生活保護問題 生活保護の不正受給 モラル・パニック モラルハザード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B8%E8%83%BD%E4%BA%BA%E8%A6%AA%E6%97%8F%E7%94%9F%E6%B4%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E5%8F%97%E7%B5%A6%E9%A8%92%E5%8B%95
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 220, 297, 406, 1620, 1891, 2460, 2896, 3050, 3363, 3742, 4596, 5076, 5708, 6207, 7201, 7562, 14084, 14467, 14882, 15228, 15447, 16887, 17476, 17564, 18051, 18217, 18725, 19116, 19465, 20395, 20493, 22040, 26310, 26480, 26695, 26921, 27124, 27678], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 219, 289, 405, 1619, 1890, 2459, 2887, 3049, 3362, 3741, 4595, 5075, 5707, 6193, 7184, 7561, 14076, 14426, 14881, 15227, 15405, 16842, 17417, 17560, 17990, 18216, 18678, 19115, 19323, 20240, 20491, 21979, 26309, 26386, 26694, 26920, 27123, 27655, 27715], dtype=int32)}
遠隔教育が始まったのはいつ
大学通信教育
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([10], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([3887], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([3916], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
大学通信教育(だいがくつうしんきょういく、)は、大学(本項では短期大学、大学院も含む)が行う、学位を取得するために設けられた通信教育のことである。 本項では、主に日本における制度について述べる。 概要 日本においては、大学通信教育は、学校教育法に定められた正規の大学である。 大学通信教育は、主に「印刷教材等による授業」(自己学習)と「面接授業」(スクーリング)によって行なわれることが多く、単位修得試験などの審査に合格することで単位を修得する。単位修得試験は、同じ大学の通学課程に比べて難易度が高いことが多い。長い歴史を持つ郵送手段を用いた大学通信教育課程は、社会人の場合は仕事との折り合いをつけスクーリングに出向く必要があるなどハードルが高く、時間の自由度の高い学生の場合でも卒業後の就職サポートが存在しないなどの点があったが、通信教育課程の学生に対しても就職サポートを行う大学が現われ、2010年代に入り高速インターネットインフラが日本全国で整備されたことにより、スクーリングをインターネットを通じた講義で代替できる大学が出現するなどの変化が起きている。大学独自のSNSを開設し、通信教育の課題であった「友人を創ることの難しさに伴う孤独」による学習意欲の低下の緩和を図っている大学もある。 学べる分野は、主に文科系の領域であるが、文科系以外の領域も徐々に学べるようになってきている。また大学によっては、一定の単位を取得し通学課程へ編入するための試験を受けることができる。 入学者選抜については、学部(学部以外の教育研究上の基本となる組織を含む)の課程では出願時の書類による審査(入学資格があるかどうかなど)が主であり入学試験が行われることが少ない。但し、出願段階で「小論文」・「志望理由書」等の提出を要求する大学もある。 また大学院の課程では、専門科目の筆記試験・実技試験を始め、研究計画書の提出を通じた選考及び面接試験が行われることがほとんどである。 規定の単位数を全て修得し、卒業にあたり卒業論文、卒業制作が受領され、また、卒業試験に合格すると、教授会の選考を経て卒業が決定される。卒業が決定されると当該大学の卒業生として学位を取得できる。 卒業率・修了率は、各大学の各学部・学科・課程ごとに異なっており、かなりの開きがあるといわれる。 歴史 日本において大学通信教育の嚆矢と見なされているのは、明治期に各学校によって刊行されていた講義録である。 その最初期の代表例として、法律系では1885年(明治18年)に東京法学校(現法政大学)と英吉利法律学校(現中央大学)がそれぞれ刊行したもの、文科系では1888年(明治21年)に哲学館(現東洋大学)が刊行したものが挙げられる。 ただし、講義録とは実際に行われた講義の内容を編纂して刊行するというものであり、今日の大学通信教育課程のようにスクーリングや試験によって単位や卒業が認定されるものではなく、その意味で双方向的ではなくいわば「知識の伝授」という一方的な性格のものであった[1]。 現在のような形態の大学通信教育は、1946年(昭和21年)3月に学校教育法によって制度化されたものである。1947年(昭和22年)10月には法政大学で初めて大学通信教育課程が開講した。1948年(昭和23年)には法政大学・慶應義塾大学において初めて大学通信教育課程のスクーリングがおこなわれている。当初はまだ社会通信教育的な性格のものであったが、1950年(昭和25年)3月に正規の大学教育課程として認可された(この時認可されたのは法政大学・慶應義塾大学の他、中央大学・日本大学・日本女子大学・玉川大学の各課程)。1952年(昭和27年)には、法政大学・慶應義塾大学から初めて通信教育課程による卒業生が輩出された。 以降、1960年代、1970年代と通信教育を開講している大学は関東地区の大学が多く、関西圏および首都圏以外では一部の大学が実施している他はあまりなかった。1981年(昭和56年)にはテレビ・ラジオ放送による教育をおこなう放送大学が設立され、各地に学習センターが設置されたものの、それ以外にはあらたに通信教育をおこなう大学の数は伸び悩んだ。 しかし1990年代に入り、少子化による学校経営への影響や生涯学習への意欲の高まりからか、少しずつ日本全国の大学で通信教育を開講する大学が増加した。また2000年代になってからは、ブロードバンドインターネット接続が広範囲な地域で利用できるようになったことに伴い、新たな試みとしてインターネットを活用し、動画・音声配信にて講義を視聴させたり、各種プログラムを演習させたりというe-ラーニングによる通信教育を提供する大学が現出してきている。 大学院の通信教育課程については長らく認定されていなかったが、1998年(平成10年)3月に大学院設置基準が改正され、通信制大学院の開設が可能となった。1999年(平成11年)4月に修士の学位を授与する課程が設置された(最初に設置したのは日本大学・佛教大学・明星大学・聖徳大学)。次いで2003年(平成15年)には博士の学位を授与する課程も設置された。 専攻分野 日本における大学通信教育が行われている学問領域は、郵便による通信添削により学修成果の評価が可能である「教養学」・「経済学・経営学・商学」・「法学」・「文学」・「教育学(主に教員養成)」・「臨床心理学」等の人文科学系・社会科学系、及び「芸術学」系が中心になっている。 また、インターネットの普及等による通信技術の進歩・大学等設置基準の緩和・各大学のカリキュラム編成の工夫等により、旧来の郵便による通信では学修成果を評価することが困難であった学問領域についても適正な学修評価が可能となった事により大学通信教育による学問領域は拡大し、「情報科学」・「建築学」・「自然科学」・「環境学」・「栄養学」・「社会福祉学」その他多様な学問領域が学べるようになっている。 授業の方法 授業の方法には次のものがあり、大学通信教育設置基準や短期大学通信教育設置基準に定めがある。大学は、次の授業を日本国内または日本以外の国において履修させることができる。ただし、単位認定試験やスクーリングなどは日本国内のみで実施する大学も多い。 印刷教材等による授業(印刷授業・通信授業) 「印刷教材等による授業」とは、印刷教材その他これに準ずる教材を送付もしくは指定し、主としてこの教材により学修させる授業のことである。「印刷教材等による授業」の実施にあたっては、教員から提示された課題に対するレポートを作成・提出し、添削等による指導をあわせおこなうものとされている。レポートが合格すれば単位認定試験の受験資格が与えられ、この試験に合格すれば当該科目の単位が認定される。なお、芸術系の大学では、レポートや単位認定試験の代わりに作品を提出する科目もある。 また当該通信教育の教材等は第四種郵便物として通常の郵便物に比べ安い郵便料金が適用される。最近は、ワープロ書きによるレポートをプリントアウトして提出することや、インターネットによるレポート提出を認めている大学もある。 放送授業 「放送授業」とは、主として放送その他これに準ずるものの視聴により学修させる授業のことである。 放送大学によるテレビ・ラジオ放送での講義を視聴させる授業(テレビ授業・ラジオ授業)が該当[2]する。「放送授業」の実施にあたっては、添削等による指導をあわせおこなうものとされている。 会場での実施であるものの、講師が直接その場で講義するのではなく、あらかじめ録画された講義を会場で放映する形式で行う「ビデオスクーリング」も、ここに含まれる。ここで得られるスクーリング単位は、法令上は10単位までが卒業要件にすることができ、後述の面接授業で必要な30単位のうちの10単位までをこれに代えることができる。 面接授業(スクーリング) 「面接授業」とは、講義、演習、実験、実習、もしくは実技のいずれかにより、またはこれらの併用によりおこなう授業のことである。面接授業は、教室等における授業のことであり、「印刷教材等による授業」と並んで大学における伝統的な授業形態である。「スクーリング」と呼ばれている授業の大半は、面接授業に該当する。大学通信教育のスクーリングでは原則として全ての時間に出席することを条件に、実施科目の最終授業時間に単位認定試験が行われ、この試験に合格すれば当該科目の単位が認定される。4年制大学では卒業までに30単位以上[3]、短期大学では卒業までに15単位以上履修する必要がある(放送授業・メディア授業を履修する場合を除く)。スクーリングの実施時期や会場は、従来は大学が夏休みになる夏季に実施する大学が多かったが、最近は多様化する傾向にある(詳細はスクーリングを参照)。大学や科目により、科目の単位数としては2単位科目であっても、レポート学習との併用により、スクーリング授業時間を、単位数分相当まで行わないケースもあり、この場合は、スクーリングで習得した単位としては、2単位中1単位分あるいは0.5単位分としてカウントする(おもに、各大学では、SR科目等と称しているものが相当)。 メディアを利用しておこなう授業(メディア授業) 「メディアを利用しておこなう授業」とは、文部科学大臣が定めるところにより、講義、演習、実験、実習もしくは実技のいずれかによる授業またはこれらの併用による授業を、多様なメディアを高度に利用して、当該授業をおこなう教室等以外の場所で履修させる授業のことである。これは現状、インターネットを活用し、動画配信[4]にて講義を視聴させたり、各種プログラムを演習させたりというe-ラーニングによる授業(インターネット授業 )が該当する。 法令上「メディアを利用しておこなう授業」は、面接授業(スクーリング)と同等に位置付けられ、卒業の要件とされている。つまり当該授業をおこなう教室に出席をしなくても、卒業の要件として修得すべき単位数(30単位以上)をメディアを利用しておこなう授業により修得することで、卒業することができる(メディア授業を実施しているものの、面接授業を必修としている大学もある)。「オンライン授業」はネットで小テストやレポートの提出、ディスカッションが行われ、「面接授業」扱いとなる。 なお、放送大学でネット配信を行っている放送科目は、あくまでも「放送授業」の扱いであり、「面接授業」にはならない。 実習 教員免許状を取得する場合は原則として教育実習が必修なので、教職課程を設置している大学では通学課程と同じように実施している。また、社会福祉士などの国家試験受験資格を取得する場合も社会福祉施設における実習が必修である。それらの事前事後指導の設定がある場合は、ほとんどがスクーリング必修となる(勤務経験等の条件を満たせば、スクーリング免除となる場合があるが、科目自体の履修が必須の場合はスクーリング受講者と同等のレポート提出となる場合もある)。なお、事前事後指導の科目は、スクーリング受講として認定されるが、一般的に、実習本体の単位は、スクーリング受講による単位としては看做されない。 卒業論文・修士論文 大学・大学院で学習した成果を論文にまとめるものである(芸術系の大学では卒業制作を課す学科・専攻もある。一般的に、卒業研究を進めるにあたり、規定回数以上の面接指導が必要だが、スクーリング単位にカウントされない)。ただし、最近は卒業論文を必修科目としない大学・学部も増加している。代わりに、何らかの卒業試験を課すケースも存在する。 学費 学費は、各大学によってまちまちであるが、一般的な私立大学の通学課程に比べると格段に低くなっている[5]。但し、早稲田大学eスクールは4年間の学費モデルとして460万円弱と案内しており、通学課程と同等の学費が必要な大学もある。(2016年8月現在)。 通信教育を運営している大学 以下のリストは便宜上、財団法人私立大学通信教育協会(“通信教育課程を設置する私立大学相互の協力によって、大学通信教育の振興を図ることを目的とする”団体)の加盟校・非加盟校に分けているが、加盟か非加盟かを問わず、全て文部科学省に認可された正規の教育課程であることに注意されたい。 私立大学通信教育協会では、通信教育を希望する人を対象に加盟校による合同入学説明会を各地で行なっている。説明会では各校の職員による相談を受けられるほか、案内資料を入手することができる。実施予定については同協会のサイトを参照されたい。 なお、私立大学通信教育協会への加盟にあたっては、学部の課程・大学院・短期大学というように、それぞれ別個に扱われている。 私立大学通信教育協会加盟校 愛知産業大学・愛知産業大学短期大学 桜美林大学大学院 大阪学院大学 大阪芸術大学・大阪芸術大学短期大学部 大手前大学 環太平洋大学 吉備国際大学・吉備国際大学大学院 九州保健福祉大学・九州保健福祉大学大学院 京都産業大学大学院 京都造形芸術大学・京都造形芸術大学大学院 京都橘大学 近畿大学・近畿大学短期大学部・近畿大学九州短期大学 慶應義塾大学 神戸親和女子大学 産業能率大学・自由が丘産能短期大学 星槎大学・星槎大学大学院 聖徳大学・聖徳大学大学院・聖徳大学短期大学部 創価大学 玉川大学 中央大学 中部学院大学 帝京大学・帝京大学大学院 帝京短期大学 帝京平成大学・帝京平成大学大学院 東京福祉大学・東京福祉大学短期大学部・東京福祉大学大学院 東京未来大学 東北福祉大学・東北福祉大学大学院 東洋大学....2018年度より募集停止 豊岡短期大学 名古屋学院大学大学院 奈良大学 日本大学・日本大学大学院 日本女子大学・日本女子大学大学院 日本福祉大学・日本福祉大学大学院 姫路大学 佛教大学・佛教大学大学院 法政大学 北海道情報大学 武蔵野美術大学 明星大学・明星大学大学院 早稲田大学 私立大学通信教育協会非加盟校 SBI大学院大学 岐阜女子大学大学院 倉敷芸術科学大学大学院 神戸常盤大学短期大学部 高野山大学大学院 サイバー大学 東亜大学大学院 東京通信大学 日本ウェルネススポーツ大学 人間総合科学大学・人間総合科学大学大学院 ビジネス・ブレークスルー大学・ビジネス・ブレークスルー大学大学院 放送大学・放送大学大学院 武蔵野大学・武蔵野大学大学院 明治国際医療大学大学院 八洲学園大学 かつて通信教育課程が設置されていた大学 (学生の在籍はあるものの、新規募集を停止したものを含む) 2 川崎医療短期大学 順正短期大学(現:吉備国際大学短期大学部) 倉敷芸術科学大学 協同組合短期大学 淑徳大学 中京大学大学院 LEC東京リーガルマインド大学(現:LEC東京リーガルマインド大学院大学) PL学園女子短期大学 富士短期大学(現:東京富士大学短期大学部) 福岡医療福祉大学 武蔵野美術大学短期大学部 通信教育課程の設置が構想されていた大学 (文部科学省へ通信教育課程の設置認可申請を行なったものの、不認可あるいは申請取り下げで設置に至らなかったもの) 近畿医療福祉大学 - 2006年度開設を目指して設置認可申請を行なったが、その後申請を取り下げた。 旭インターネット大学院大学 - 2006年度開設を目指して設置認可申請を行なったが、結局不認可となった。 映画専門大学院大学 - 2006年度開設を目指して通学課程と同時に設置認可申請を行なったが、その後通信教育課程のみ申請を取り下げた。 大学の提供するその他の通信教育 以上の記述は学校教育法に基づく正規の大学教育課程を行う通信教育であるが、この他にも生涯学習のニーズに応え、大学の知的成果を社会に還元する目的などから、社会教育法に基づく社会通信教育などの各種通信教育を大学あるいは大学設置法人の事業として実施しているものがある。 これらの通信教育は、大学の実施する通信教育ではあるが、学校教育法に基づく大学通信教育(学校通信教育)とは別のものであり、注意が必要である。 その他の通信教育を実施している大学・大学設置法人 社会通信教育を実施している大学・大学設置法人 秋田大学理工学部通信教育講座 学校法人香川栄養学園女子栄養大学社会通信教育部 学校法人川口学園生涯学習センター早稲田速記講座(同一法人により埼玉女子短期大学等を設置) 学校法人産業能率大学総合研究所(同一法人により産業能率大学等を設置;上記の通り学校教育法に基づく大学通信教育も行っている) 学校法人杉野学園ドレスメーカー学院通信教育部(同一法人により杉野服飾大学等を設置) 学校法人東京農業大学社会通信教育部(同一法人により東京農業大学等を設置) 学校法人文化学園文化服装学院生涯学習部(同一法人により文化学園大学等を設置) 大学・大学設置法人が実施する通信教育による社会福祉士養成施設・精神保健福祉士養成施設・正看護師養成施設 (学校教育法に基づく大学通信教育として設置されているものを除く) 学校法人江戸川学園江戸川学園おおたかの森専門学校 社会福祉士養成学科通信課程(同一法人により江戸川大学等を設置) 学校法人弘徳学園豊岡短期大学通信教育部 社会福祉士養成通信課程(同短大は上記の通り学校教育法に基づく大学通信教育も行っているが、本課程は学校教育法に基づく大学通信教育ではない) 学校法人北海道星槎学園星槎道都大学通信教育科 社会福祉士養成課程、精神保健福祉士養成課程 学校法人上智学院上智社会福祉専門学校 精神保健福祉士通信課程(同一法人により上智大学等を設置) 学校法人栴檀学園東北福祉看護学校 正看護師養成通信課程(准看護師資格保有者のみを対象。同一法人が運営する東北福祉大学の仙台駅東口キャンパス2Fにキャンパスを設置;上述のように、東北福祉大学にて学校教育法に基づく大学通信教育も行っており、社会福祉士・精神保健福祉士の養成は、大学側で実施している) 学校法人日本社会事業大学通信教育科(同一法人により日本社会事業大学等を設置) 学校法人日本福祉大学日本福祉大学中央福祉専門学校 社会福祉科通信課程(同一法人により日本福祉大学等を設置;上記の通り学校教育法に基づく大学通信教育も行っている) 通信教育課程を経て学位を取得した著名人 3 大山俊輔(早稲田大学人間科学部) 岡本昌弘(早稲田大学人間科学部) 井上裕大(早稲田大学人間科学部) 森岡亮太(早稲田大学人間科学部) 梅井大輝(早稲田大学人間科学部) 菅沼駿哉(早稲田大学人間科学部) 輪湖直樹(早稲田大学人間科学部) 松本翔(早稲田大学人間科学部) 中丸雄一(早稲田大学人間科学部) 佐藤夏希(早稲田大学人間科学部) 旭鷲山昇(早稲田大学人間科学部) 中野友加里(早稲田大学人間科学部) 田辺徳雄(早稲田大学人間科学部) 阿保順子(慶應義塾大学文学部) 家田愛子(慶應義塾大学文学部) 池田運(慶應義塾大学文学部) 稲川素子(慶應義塾大学文学部) 今高城治(慶應義塾大学文学部) 齋藤ゆみ(慶應義塾大学文学部) 鷹司誓玉(慶應義塾大学文学部、佛教大学) 高部知子(慶應義塾大学文学部、東京福祉大学) 内藤みか(慶應義塾大学文学部) 古川俊治(慶應義塾大学文学部、慶應義塾大学法学部) 本間千代子(慶應義塾大学文学部) 水野晴郎(慶應義塾大学文学部) 三好京三(慶應義塾大学文学部) 森雅子(慶應義塾大学文学部) 矢口敦子(慶應義塾大学文学部、中央大学法学部) ルイ・フランセン(慶應義塾大学文学部) わぐりたかし(慶應義塾大学文学部) 秋場信人(慶應義塾大学経済学部) 加納時男(慶應義塾大学経済学部) 河合常則(慶應義塾大学経済学部) 坂口光治(慶應義塾大学経済学部) 柳川範之(慶應義塾大学経済学部) 石原典子(慶應義塾大学法学部) 木村三浩(慶應義塾大学法学部) 熊谷盛広(慶應義塾大学法学部) 志賀こず江(慶應義塾大学法学部) 当摩好子(慶應義塾大学法学部) 平山幸司(慶應義塾大学法学部) 松村豊大(慶應義塾大学法学部、放送大学大学院) 鈴江晴彦(慶應義塾大学) 油井喜夫(慶應義塾大学) 藤田恵(中央大学法学部) 五十嵐義三(中央大学法学部) 石田榮一(中央大学法学部) 桑原功(中央大学法学部) 鹿毛継雄(中央大学法学部) 梅本正行(中央大学法学部) 安西愈(中央大学法学部) 開山憲一(中央大学法学部) 國松善次(中央大学法学部) 神崎満治郎(中央大学法学部) 寺前武雄(中央大学法学部) 中尾友昭(中央大学法学部) 古瀬卓男(中央大学法学部) 古谷義幸(法政大学経済学部) 佐藤有香(法政大学法学部) 岩切秀雄(法政大学法学部) 小西誠(法政大学法学部) 山内康伸(法政大学法学部) 中江有里(法政大学文学部) 長谷川潮 (法政大学文学部) 桜庭吉彦(法政大学) 井上義行(日本大学経済学部) 糸山英太郎(日本大学経済学部) 田村岳斗(日本大学経済学部) 升田重蔵(日本大学文理学部) 山本聖子(日本大学商学部) あまんきみこ(日本女子大学) 中村惠子(日本女子大学) 古旗照美(日本女子大学) 渡川浩美(日本女子大学) わかつきひかる(近畿大学法学部) 小林建樹(近畿大学) 旭富士正也(近畿大学) 上杉光弘(東京農業大学) 魚住汎英(東京農業大学) 大島杏子(明星大学人文学部) 原江里菜(東北福祉大学総合福祉学部) 柴田宋休(佛教大学) 萱野志朗(佛教大学) 上崎洋一(大手前大学現代社会学部、日本福祉大学福祉経営学部、佛教大学) 榎本よしたか(大阪芸術大学) 金子哲雄(京都産業大学大学院) 柏木宏之(奈良大学文学部) 家田荘子(高野山大学大学院) 小川邦和(玉川大学文学部) 藤本聡(創価大学経済学部) 福嶋隆史(創価大学教育学部) 岩槻秀明(人間総合科学大学) 宮子あずさ(武蔵野美術大学、産業能率大学、明星大学大学院) この他に、放送大学卒業者は放送大学の人物一覧を参照 通信教育課程を設置する日本国外の大学 日本国内で学修可能な大学 イスラエル・オープン大学 - ISR FENUオープン大学 - RUS オープン大学 - GBR アメリカン・パブリック大学(en) - USA ウォルデン大学(en) - USA 南アフリカ大学 - ZAF これらの大学は実際に現地に渡航しなくても卒業は可能だが、勉学を進めるためにはそれぞれの国の言語を読み書きができる程度にまでマスターしている必要がある。 特にアメリカ国内にあるアメリカン・パブリック大学とウォルデン大学は、外国人学生の入学はTOEFLもしくはIELTSで一定以上の点数を取る必要がある。 文章でのやり取りがほとんどのため、理解できない単語や文法は辞書や文法書を引けばよい。会話が可能なまでのレベルにまでマスターしている必要は無いであろう。ただ、何らかの要件で大学から自分に電話がかかってきた場合にどうするか、と言う問題などはある。その際は、英語、もしくは大学のある国の言語で「私は話せないのでメールをください」と伝えるなどの方法が考えられる。 脚注 参考文献 External link in |publisher= (help) 関連項目 インターネット大学 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%80%9A%E4%BF%A1%E6%95%99%E8%82%B2
{'plaintext_start_byte': array([ 37, 608, 1238, 1865, 2078, 2517, 2979, 3586, 4475, 4760, 4954, 5205, 5314, 5812, 7242, 8310, 9291, 9506, 11179, 11753, 12546, 13129, 14120, 14907, 15824, 16625, 17241, 17582, 17917, 18613, 18850, 19018, 19345, 20486, 21205, 21969, 22861, 24431, 24727, 25478, 26720, 27933, 28932, 29486, 30409, 30690, 30728, 30763, 30853, 32222, 33333, 34768, 34955, 35117, 35306, 36111, 36534, 36650, 37039, 38127, 38543, 39527, 40292, 41232, 41600, 42503, 42919, 43387, 43661, 44485, 44796, 45082, 45359, 46098, 47310, 47517, 48668, 49942, 50487, 51082, 51785, 52349, 53759, 54625, 55336, 55805, 56413, 57323, 57784, 58190, 58819, 59568, 60246, 60606, 60787, 61040, 61182, 61619, 62136, 62625, 62785, 63371, 63746, 64290, 64752, 65210, 65369, 65732, 66598, 66759, 66989, 67153, 67226, 67452, 68045, 68728, 69265, 69347, 69629, 69920, 73129, 73484, 73952, 74549, 74948, 75301, 75678, 76181, 77256, 77687, 78052, 78245, 79251, 79770, 80119, 81854, 82400, 83681], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 605, 1237, 1864, 2063, 2516, 2967, 3585, 4474, 4725, 4930, 5191, 5305, 5781, 7240, 8309, 9290, 9473, 11178, 11752, 12544, 13088, 14118, 14906, 15823, 16624, 17203, 17580, 17916, 18612, 18849, 18977, 19344, 20485, 21204, 21968, 22860, 24423, 24726, 25477, 26709, 27916, 28910, 29485, 30408, 30689, 30726, 30761, 30828, 32221, 33319, 34760, 34943, 35109, 35298, 36110, 36520, 36649, 37038, 38126, 38502, 39518, 40291, 41231, 41591, 42502, 42918, 43373, 43660, 44484, 44795, 45081, 45320, 46067, 47309, 47508, 48650, 49930, 50479, 51055, 51750, 52310, 53738, 54611, 55324, 55804, 56411, 57322, 57783, 58188, 58818, 59567, 60244, 60605, 60773, 61039, 61181, 61618, 62135, 62624, 62761, 63328, 63722, 64289, 64737, 65209, 65355, 65715, 66584, 66758, 66988, 67152, 67225, 67429, 68043, 68727, 69264, 69346, 69628, 69909, 73120, 73483, 73951, 74531, 74947, 75300, 75677, 76180, 77255, 77638, 78041, 78236, 79250, 79769, 80106, 81833, 82386, 83680, 83867], dtype=int32)}
デトモルトの面積は?
デトモルト
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([9], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([4829], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([4839], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
紋章地図<br data-parsoid='{"stx":"html","selfClose":true,"dsr":[137,143,6,0]}'/>(郡の位置)基本情報連邦州:ノルトライン=ヴェストファーレン州郡:リッペ郡緯度経度:標高:海抜 134 m面積:129.39 km²人口:[1]人口密度:Expression error: Unrecognized punctuation character "[". 人/km²郵便番号:32701 - 32760市外局番:05231, 05232ナンバープレート:LIP自治体コード:05 7 66 020行政庁舎の住所:Marktplatz 5 32756 Detmoldウェブサイト:首長:ライナー・ヘラー (Rainer Heller)郡内の位置 デトモルト(Detmold, 'dɛtmɔlt, 低地ドイツ語:Deppelt)は、ドイツ連邦共和国ノルトライン=ヴェストファーレン州オストヴェストファーレン=リッペ地方(デトモルト行政管区)のリッペ郡に属す市である。この街はハノーファーの南西約 100 km、ビーレフェルトの東約 30 km に位置している。人口およそ 73,000人のデトモルトは大規模郡所属都市に分類され、リッペ郡最大の都市である。この地のとオストヴェストファーレン=リッペ大学はこの街を大学都市としている。 デトモルトは、1468年から1918年までリッペ家、リッペ伯およびリッペ侯領の宮廷都市で、その後 1918年から 1947年までリッペ自由州あるいはリッペ州の州都であった。リッペ州は 1947年にノルトライン=ヴェストファーレン州に併合された。1947年以降、デトモルトはデトモルト行政管区の本部所在地となった。1932年から1972年まではデトモルト郡の郡庁所在地でもあった。その後は、デトモルト郡とレムゴー郡が合併して成立したリッペ郡の郡庁所在地となっている。 屋外博物館、音楽大学、オストヴェストファーレン=リッペ大学、州立劇場、ヘルマン記念碑がこの街を全国的あるいは国際的に有名にしている。 地理 位置 デトモルトは、ノルトライン=ヴェストファーレン州東部のオストヴェストファーレン=リッペ地域、トイトブルクの森/エッゲ山地自然公園辺縁部に位置している。市域の南部はトイトブルクの森に覆われているが、本来の市域はその北部である。この街は、ビーレフェルトの東約 30 km、ハノーファーの南西約 100 km にある。 市域の排水は、市内でクノーヒェンバッハ川およびハイデンバッハ川が合流するを介してなされている。クノーヒェンバッハ川は、ハイリゲンキルヒェン地区でヴィームベッケ川とベルレーベッケ川が合流して成立する。大きな静水面としては、ヘイデンオルデンドルフ地区のメーシェゼーやヒッデゼン地区のドノパータイヒがある。 地質学 市域は、他のリッペ地域全域と同様に、大きな地質学的多様性を示している。デトモルト内市街南部にはオスニングの尾根が延びており、エッゲ山地とともにトイトブルクの森を形成している。この幅の狭い山地は、三畳紀の石灰砂岩で形成されており、多くの沼沢や起伏が見られる。この亀裂は、多くの保養地や鉱泉源の基となっている。ヒデーゼン地区は庇護性気候(高地などで庇護されており、寒暖の差が小さい温暖な気候)の保養地である。 土地は中程度から大変良好な土壌である。最終氷期の終わりまでに、トイトブルクの森の北斜面沿いに泥灰岩が堆積し、黄土が形成された。氷河がこの辺りまで延びていた。主要な地盤は、中生代の砂岩と粘土岩からなっている。さらにポドゾル・や擬灰・褐色土がある。市域北西部はリッパーラントの丘陵が広がっている。ヴェレ川に沿って南東から北西に氾濫原の土壌が見られる。オスニングの尾根の高地にはの表土があり、多彩な化石が見られる。トイトブルクの森の砂岩を研究した有名な地質学者が、ギムナジウムのオットー・ヴェールトである。デトモルトの地質学に関する展示品は、リッペ地方博物館に展示されており、またはその場所にある。 地熱ゾンデによる地熱源や熱ポンプによる地熱利用の適性について、デトモルトは地域によって大きく異なっている。わずかではあるが、大変に良好な適性の場所がある(右図参照)[2]。 市域の広がりと土地利用 「大きな中規模都市」に分類される本市の面積は、129.39 km2 である。市の東西の最大幅は、南北のそれと同じ約 15.5 km である。 隣接する市町村 デトモルトはリッペ郡のみに囲まれている。北から時計回りに、レムゴー、ブロムベルク、ホルン=バート・マインベルク、シュランゲン、アウグストドルフ、ラーゲである。 市の構成 基本条例 § 3 Abs. 1 によれば、デトモルトは以下の 27地区で構成される[4]。 気候 デトモルトの市域は、北西ドイツの海洋性気候地域に位置している。年間平均気温は約 9 ℃である。市の中央部に比べて、南周縁部は気温が低く、北辺縁部は気温が高い。月間平均気温は、1月の約 0 ℃から7月/8月の 17 ℃の間で変動する。年間降水量は約 900 mm で、トイトブルクの森ではこれよりも多い。年間平均日光照射量は、955 kW 時/m2である。 歴史 中世と市の創設 デトモルトは、783年に Theotmalli として初めて記録された。アインハルトや他の記録者によれば、この古高ドイツ語・古ザクセン語の名称はディングの開催地(Theot は民族、民衆を意味し、mahal は裁判、裁判所を意味する)を表している。ザクセン戦争を戦っていたカール大帝はこの年、この付近でザクセン人に襲撃された。1005年からこの地は、古ザクセン語で Tietmelli ガウまたは Theotmalli ガウと呼ばれた。799年に聖別された祭壇石を1023年にパーダーボルンのアプディングホーフ修道院に譲渡したと伝えられている。パーダーボルンからレムゴーへの古い通商路の徒渉地に面し、洗礼堂や農家が点在するフランク時代からの入植地である Detmelle 村は、1263年にリッペの領主ベルンハルト3世によってリッペの都市権を与えられた。市の創設の過程で、Detmelle は 971 ha のささやかな土地と助祭を得た。現存する最も古い市の印章が押された文書は 1305年のもので、パーダーボルン市文書館にある[7]。1265年の辺境特権はデトモルトのさらなる発展や年の市の創設に寄与した。1300年頃からマルティーニの日(11月11日)の前の日曜日に2つめの市が開かれるようになった。 中世の都市計画は、交差する通りと、それを囲む直径約 500 m のほぼ円形の環状路で構成されている。2つの主要な街道はこの集落を4つの地区に分割している。その北西部に位置する区画に領主の城が設けられた。1305年頃に全市が堀、土塁、壁で護られ、市壁の内側に細い通りがあった。その痕跡は市壁の遺構と同じように一部分が現在まで遺っている(ブルーフマウアー通り、アウグスト通り、アドルフ通り、カール通り)。南北軸は、北側にレムゴー門と南側にホルン門の2つの堅牢な市門を持つランゲ通りが構成している。東西軸は、現在のシューラー通りとブルーフ通りで構成されている。この通りの東側にはビュルガー門があったが、壁の反対側にはヴェレ川低地の沼沢地が広がっていた。西はブルーフ門がデトモルトの都市農民の家畜のための都市放牧地に向かって開いていた[7]。 城は 14世紀に領主の代官によって利用されていた。この城に封ぜられたフォン・デム・ブーシェ家、フォン・デア・ボルフ家、フォン・エクステルデ家、シュヴァルツ家といった貴族家の宮廷活動や豪奢な生活は、市民たちの努力による算段の上に成り立っており、市民生活の自立的発展は他の都市と同程度であった。1450年頃にやっと 350人の人口となった本市は、17世紀になるまでリッペで最も小さな市であった。掠奪、破壊、火災によってその後の発展は控えめなものであった。特に1447年のゾーストのフェーデでは、デトモルトはケルン軍によって占領された。その後、本市の防衛施設は拡充され、1468年にリッペ伯ベルンハルト7世がデトモルトを恒常的な居住地に選んだ。1590年頃のデトモルトの人口は約 700人であった。 1547年、70戸以上の家屋を破壊する大火がこの街を襲った。豊かな破風装飾をもつヴェーザールネサンス様式の城館は 1557年に完成した。 宗教改革と三十年戦争 デトモルトはレッペ地方教会の所在地となった。リッペの宗教改革は伯の治世下で行われた。最初はレムゴーで、1522年にルター派の信仰が説かれた。宗教改革以前のデトモルトはパーダーボルン司教区に属していた。ジーモン・フォン・エクスターは、1536年にデトモルトで最後のカトリック主任司祭で最初のルター派牧師となった。カルヴァン主義を信仰する伯は改革派の信仰を浸透させ、空席となった牧師職に改革派の牧師が就いた。この時代から、上巻とマルクト広場との中央に位置する救世主教会が改革派教会の教会堂となった。中世後期にドミニコ会のハインリヒ・クラーマーとが、広く流布した魔女信仰を要約した『魔女に与える鉄槌』を上梓した。「魔女の巣」レムゴー(この伝統的なニックネームは、否定的な意味合いではなく、現在のレムゴーに対しても使われている)ほどではないが、デトモルトにおける魔女信仰も教会に隠れて流布していた。1599年から1676年までの間にデトモルトでは 19 人が魔女あるいは魔法使いとして領主裁判所で炎と刀による死刑に処せられた。この裁判記録はデトモルト市立文書館に収められている。1654年から 52人の子供が魔法を使ったとして逮捕された。子供たちは刑務所に改築された旅館に拘禁され、大人や同世代の人間を密告するよう強いられ、5つの裁判で原告側の証人となった[8]。 1604年、6月に最初の歳の市が開催された。第2回は11月30日の使徒アンドレアスの祭日に移され、3日間に延長された。これ以後、このマーケットはアンドレアスメッセと呼ばれるようになった。1616年に、が営む帝国郵便の責任者としてヨハン・フォン・デン・ビルグーデンがデトモルトに郵便馬車ケルン - ハンブルク線の駅亭を設けた。デトモルトはこれにより、ミュンスター上級郵便管区内で最も古い郵便局所在地となった。 1625年から1637年まで、何度もペスト禍がこの街を襲い、900人が犠牲となった。三十年戦争の勃発に伴ってリッペ伯は中立となり、デトモルトは宮廷都市として特別な権利を有していた。その後この街は何度も軍隊の行軍や掠奪に苦しめられた。皇帝軍の将軍であるフォン・ヴァールによる、1640年のデトモルト城の占領はリッペ侯子誘拐に続く一連の事件であった。伯家内部で起こったこの誘拐事件とは、伯妃カタリーナが武力でこの城を獲得し、その後子供を安全な場所に連れ去ったというものであった。三十年戦争終戦後の1648年に市壁内に住んでいたのはわずか 900人ほどであった[7]。 デトモルトは、長い戦争の間に起こった経済的衰退から、17世紀後半に立ち直ることができた。市壁の内側に小さく不規則な木組み建築をもつ、現在も良好な状態で保存されているアドルフ通りが造られた。1663年/1665年頃にエーリアス・ファン・レネプとハインリヒ・ファン・レネプは、デトモルトの城と市の光景を銅版画に描いた。この風景版画は、細部の忠実さにおいてメーリアンの版画を上回る。 市壁の開放と啓蒙主義の時代 フリードリヒ・アドルフ伯は、市壁を破壊した後、1701年から市の南に計画的なノイシュタット(新市街)の建設を行った。彼は、国庫の資金で、宮殿とフリードリヒスタールの離宮を建設した。さらに城館からこの町を経由してゴンドラと閘門を使って離宮に至る運河を掘削した。1720年に土塁と堀を解体する許可が得られたが、市門と市壁の塔の撤去は 1780年からやっと行われた。19世紀に、市域は特に南部が宅地のために開発されたが、旧市壁内でも街の光景は変化していった。前世紀に建設された木組みの切妻建築も遺ってはいたが、その時代流行の古典主義様式の新しい建築物も出現した。この時代の最も印象的な建造物がマルクト広場沿いの市庁舎である。この市庁舎建設のために、16世紀に建てられた旧庁舎は解体された。 啓蒙主義の時代のリッペの学制は、模範的な基礎学校制度として広く知られていた。リッペ侯妃は、優秀な協力者の助力を得て、一般的な市民教育の向上および困窮者、病人、孤児、老人たちの生活環境改善に努めた。彼女の主導下で、デトモルトに養護施設、孤児院、病院、失業者のための授産所といった一連の教育的社会施設が設けられた。1802年、デトモルトにドイツ初の幼稚園が創られた。この幼稚園は、1856年に「パウリーネンアンシュタルト」の名を与えられ、現在も存続している[7]。パウリーネ侯妃は、1908年に 26基のオイルランプを用いてデトモルトに街灯を設置した。 1818年にレオポルト通りとホルンシェ通りが造られ、1825年には邦有劇場が建設された。1835年のこの街の人口は 4,137人で、リッペで最も人口の多い街であった。この街はクリスティアン・ディートリヒ・グラッベやアルベルト・ロルツィングといった精神世界の傑出したリーダーと縁があったにもかかわらず、文化生活は田舎の風情を遺していた。侯の宮廷、廷臣、官吏を社会の頂点とする階級差別や教育格差は大きかった。三月革命では、デトモルトでも市民運動が起こり、城館前や通りでデモが行われた。当局は市民の要求を容れ、グラッベの友人であった市民運動指導者のモーリッツ・ペトリを内閣に入れた。この措置と1850年の反動によって市民の騒乱は速やかに霧散した。 音楽と演劇を愛好したレオポルト3世 (リッペ侯)は、1851年から1875年まで統治し、本市の演劇・音楽活動を奨励した。彼は、クララ・シューマンや若き日のヨハネス・ブラームスを侯家のピアノ教師として招き、しばしば彼らをソリストとしたコンサートをデトモルトで開催した。これによりデトモルトはミューズの都(芸術都市)として発展を始めた。しかし後継者のヴォルデマール (リッペ侯)は全く逆の性格で、1875年の登位直後に文化活動に対する支出を完全に打ち切った。彼は1875年に宮廷楽団を解散させ、財政引き締め措置を発動したが、同時に社交・家格維持のための出費は増加した。 デトモルトは歌曲「Lippe-Detmold, eine wunderschöne Stadt …」(リッペ=デトモルト、素晴らしく美しい街・・・)で多くの人に知られている。この曲の作曲者は不明だが、1807年のアイラウの戦いと関係している。この曲は最初はデトモルトと関係づけられてはおらず、韻律に合う25以上の町が自分の町の歌であるとしていた。1880年頃から学生歌、行楽曲、軍歌として、リッペ=デトモルトという現在の形のみが流布するようになった。 工業化の時代とドイツ帝国 19世紀末頃に市民が裕福になり、町の景観にもそれが現れた。デトモルトの人口は、1880年の 8,053人から 1910年には 14,294人となるまでに急速に増加した。デトモルトはこの時代に、手工業者や農耕市民の街から近代的な侯国の首都へと発展していった[7]。 1898年、摂政エルンスト・ツア・リッペはデトモルト市にベルレベッカー泉の永久使用権を授けた。水道管網は、909軒、4,000の蛇口につながった。これを記念して、1907年に彫刻家ハインリヒ・ヴェフィングにより摂政記念碑が城館広場に建立された。 1907年5月17日にデトモルトに新しいシナゴーグが完成した。落成式には、政治、教会、コミュニティーの代表者とともにリッペ侯レオポルト4世と侯妃ベルタも出席した。デトモルトとその周辺地域の苦情によってアンドレアスメッセが廃止され、その替わりに同じ期間に遊園地を設けることが決定された。しかしこれは住民にとって満足できる解決策ではなく、わずか1年後に遊園地は廃止され、アンドレアスメッセが再開された。このメッセは11月の最終水曜日から次の日曜日まで、毎年多くの訪問客を集めている。 第一次世界大戦では、デトモルトに駐屯していた第3大隊第55歩兵連隊の隊員、4,000人以上が死亡した。1917年5月31日の弾薬工場の爆発事故で、その多くが若者の72人が死亡した。 デトモルトは1918年までリッペ家の宮廷所在地であり続けたが、侯の廃位後はの州都となった。 ヴァイマル共和政と第三帝国 レオポルト4世が爵位を放棄した1918年11月12日から国家社会主義者による権力掌握がなされた1933年2月7日までの間、社会民主党 (SPD) が政治的権力を行使し、ハインリヒ・ドラーケが4期以上にわたってデトモルトにおける州行政の首相を務めた。 ヴァイマル共和制の経済的な問題を背景に左右の過激政党が勢力を著しく拡大し、SPDは州議会における絶対多数を失った。NSDAPのリッペ地方グループは1923年に創設された。1933年にナチスは州選挙に全力を投入し、アドルフ・ヒトラーは政治集会で 16回演説を行った。ナチスは1933年1月15日のリッペでの選挙に勝利するため多くの有望な新人を投入した。この選挙は国際的な関心を惹いた。ヒトラーを含め国家社会主義の指導者たちは、一堂に会し、権力掌握を思わせる示威行動をこの地で初めて行った。NSDAP 39.5 %、SPD 30.2 %、KPD 11.2 % の票を獲得した。NSDAP、DNVP、DVPは、リッペ州議会で連立与党を形成した。この街は1933年にはすでに共産主義者や労働組合役員を逮捕し、その一部を殺害するといった「強制的同一化」を始めた。ナチスは、ドイツの他の地域でそうであったようにリッペにおいても労働組合組織を壊滅させ、州に恐怖政治を布いた。 ナチス政権に対する最も有名なレジスタンス運動家がフェリックス・フェーヒェンバッハである。デトモルトのSPD機関紙「フォルクスブラット」の編集者であった彼はナチスに対抗する記事を執筆した。「ナチ=ユースケン」という偽名で起草された批評は強烈な敵愾心を引き起こした。彼は1933年3月11日に逮捕され、1933年8月7日にダッハウ強制収容所への移送途中、デトモルトとヴァールブルクとの間のクライネンベルクの森で「逃走中に」射殺された。フェリックス・フェーヒェンバッハの墓はリムベックのユダヤ人墓地にある。 1938年11月10日「水晶の夜」にシナゴーグが全焼し、国家社会主義者の弾圧によってユダヤ系デトモルト市民 162人が命を落とした。リッペのユダヤ人 600人のほとんどが絶滅収容所に収容された。それ以前にドイツを離れることができたのはわずか 52人だけであった。移送は1941年12月13日に始まり、まず 25人がリガに送致された。2回目の移送では1942年3月31日に 34人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーに送られたが、1942年7月11日には7人がアウシュヴィッツ絶滅収容所へ直接送られた。リッペからの最後の移送では 79人のユダヤ人がテレージエンシュタットに送られた[9]。 は北ヴェストファーレン大管区指導者で、リッペのであり、ユダヤ人に対する計画的なジェノサイドについて責任がある。リッペにおけるナチスの最高指導者はアドルフ・ヴェッダーヴィレであった。彼はNSDAPのクライスライターおよびリッペの国務大臣代理として統治した。だが、最も血に汚れた手の持ち主は疑いなくユルゲン・シュトロープである。彼は1895年にデトモルトの警官の息子として生まれた。シュトロープは1932年にナチスに入党し、急速にキャリアを積み重ねていった。やがて親衛隊少将に昇進し、1943年4月19日にワルシャワ・ゲットの反乱蜂起の鎮圧を命じられた。この時、シュトロープ自身の証言によれば 56,000人以上のユダヤ人を殺害した。 第二次世界大戦中、デトモルトが爆撃の標的となることはほとんどなかった。1945年4月1日にアメリカ軍がトイトブルクの森に侵攻し、1945年4月2日の復活祭の月曜日から、特に街道の交差点や周辺家屋が榴弾の砲撃を受けた。4月4日の19時頃、アメリカ軍はバンデル通り、ハンス=ヒンリヒス通り、シラー通りを通って戦車で市内に入場し、夜までに全域を占領した。国家社会主義の指導者は逃亡したため、占領軍の司令官は政庁舎とデトモルト市庁舎の整備を行い、早くも4月5日にはクリンゲンベルク兄弟社のオーナーであったアレックス・ホフマンを市長に据えた。彼の主たる業務は、何よりもまず、占領軍の命令を遂行することであった。わずか数日後、アメリカ軍は撤退し、指揮権はイギリス軍に移された。移行期にデトモルト飛行場は補給基地に改造された。このため滑走路は鉄板で補強され、延長された。重量の重い貨物輸送機が分刻みで離着陸を行った。冷戦時代、本市にはイギリス陸軍ライン軍団の第20機甲旅団(アーマード旅団)の兵舎と単に「ホーバルト兵舎」とも呼ばれるヘリコプター用飛行場が置かれた。後者は後に垂直離着陸機ホーカー・シドレー ハリアーも利用した。イギリスは1995年7月に兵舎と飛行場をデトモルトに返還した[9]。 戦後 新たに創設されたノルトライン=ヴェストファーレン州の州都であるデュッセルドルフの行政府は、デトモルトを引き続き同名の行政管区の本部所在地と定めた。1972年からデトモルトはリッペ郡の郡行政本部となった。 森林、御料地、邦有浴場、社会・文化施設といった領邦財産はリッペの国民に継承され、新たに創設されたリッペ地域連盟にその保存・運営を委託した。ハインリヒ・ドラーケは変化の過程で大きな利益を得た。難民や疎開民は、1938年に 23,000人だったデトモルトの人口を、1950年には約 30,000人となるまで増加させた。このうち多くの部分をシュレージエンからの追放者が占めた。そのためデトモルトは1954年にニーダーシュレージエンのジャガン市およびと保護協力関係を結んだ。さらに1967年にはフランス北部のサントメールと姉妹都市協定を締結した[7]。 冷戦時代、「ホーバート兵舎」と呼ばれていた空軍基地にイギリス軍が駐留した。1960年代から70年代には、近隣のヘルバーハウゼンにイギリス軍兵士やその家族のための住居やサービス業者が設けられた。1995年7月のイギリス軍撤退に伴い、値打ちの空き家が遺され、その後、主に当時のソヴィエト連邦や他地域からの移民住宅に供された。現在、住民の約 90 % が 20の異なる国からの移民で構成されている。62 % が移民、20 % がクルド人、10 % が他の国籍、7 % がドイツ人である。ヘルバーハウゼンは現在、社会問題の焦点となっている。住民の 40 % 以上が子供や若者で、その多くが自分の意志とは別に両親とともにドイツに来た者である。彼らは、言葉が不自由なため学校で問題を起こし、学習不足となり、失業率の悪化やアルコール依存症および薬物依存症の原因となっている。こうした若者たちの社会適応は、市に重大な問題を突きつけている。特に若者のアルコール依存症は、近年さらに蔓延しつつある[10]。 鉄道史 1880年12月31日にヘルフォルトからラーゲを経由してデトモルトに至る鉄道が開通した。これによりデトモルトはビーレフェルトやヘルフォルトから約40年遅れてではあるが、鉄道網に接続した。この鉄道路線は、1895年6月11日にアルテンベーケンまで延長され、パーダーボルンやカッセルへの路線に接続するようになった。数年後には、エルリングハウゼン経由でもビーレフェルトへ行けるようになった。1900年から1954年までの間、市内を路面電車が運行しており、その路線網は最盛期には市域を越えて広がっていた。PESAGの市電は、ホルンを経由してバート・マインベルク、ブロムベルク、バート・リップシュプリンゲやパーダーボルン行きの郊外電車を走らせていた。別の路線はピヴィッツハイデ V. L. 地区のハイデンオルデンドルフやハイリゲンキルヒェン地区を経由してベルレベックやヒデーゼンまで運行した。全ての路線は1954年までに徐々に廃止され、バス路線に切り替えられた。 市町村合併 ノルトライン=ヴェストファーレン州の地域再編に伴って、1970年1月1日にデトモルト市と 25町村、すなわちバルクハウゼン、ベントルプ、ベルレベック、ブロークハウゼン、デーレントルプ、ハーケダール、ハイデンオルデンドルフ、ハイリゲンキルヒェン、ヒデーゼン、ホムオルデンドルフ、イェルクセン=オルプケ、ライストルプ=マイアースフェルト、ロスブルーフ、モーゼベック、ニーダーシェーンハーゲン、ニーエンハーゲン、ニーヴァルト、オーバーシェーンハーゲン、エッテルン=ブレムケ、ピヴィッツハイデ(フォクタイ・ハイデン)、ピヴィッツハイデ(フォクタイ・ラーゲ)、レミヒハウゼン、シェーネマルク、シュポルク=アイヒホルツ、ファールハウゼンは、新たな市デトモルトとして合併した[11]。 住民 人口推移 中世および近世のデトモルトの人口はわずか数百人であった。人口はゆっくりと増加し、しかし戦争、疫病、飢饉によって絶えず減少した。1447年、ゾーストのフェーデによって荒廃し、多くの死者が出た。1625年から1637年まで何度もペストが流行し、900人以上が犠牲となった。三十年戦争(1618年 - 1648年)でも人口が減少した。19世紀に工業化が始まるとやっとデトモルト市の人口は、はっきりと増加に転じた。 1835年にはじめて約 4,000人となり、1900年には早くも 12,000人となった。1939年までにさらに倍の 23,000人近くにまで達した。1970年1月1日に数多くの町と合併したことで、前年の 29,552人から 63,000人を超えるまでに増加した。2007年6月30日の人口は、ノルトライン=ヴェストファーレン州データ管理・統計局の公式推計値は、73,714人であった。この 52.6 % が女性、47.4 % が男性であった。外国人比率は 6.0 % で、ドイツ全体の平均よりも低い[12]。人口統計報告によれば、移民由来の人は 21.2 % で、ドイツ全体の平均を上回る[13]。デトモルトには 18歳以下の未成年が暮らす家庭が 8,562世帯あった。子供が一人の家庭が一番多い(子供がいる全家庭の 49 %)。2008年1月の失業率は、9 から 10 % であった。 以下の表には、各時点の市域における人口と、現在の市域にあたる地域の人口を示している。1818年以前の数値は推定値(1)、それ以後は人口調査(2)[14][15][16]または州データ管理・統計局の公式推計値(3)である。 各時点の市域における人口 現在の市域における人口 1 推定値 2 人口調査結果 3 公的推計値 * 未確定 宗教 キリスト教 キリスト教化は 8世紀のザクセン統治時代に始まった。リッペは中世にはパーダーボルン大司教区およびミンデン司教区に属していた。16世紀のリッペ伯ベルンハルト8世の治世(1536年 - 1563年)に、デトモルトとその周辺地域で宗教改革がなされ、ルター派の信仰が流布した。1684年に、領主がその臣下の信仰を決定するという教会法が確立された。リッペでは、1918年までこの規定が有効であった。17世紀初め、改革派の信仰が影響力を持ち、領主がこの信仰を選択した。リッペ領邦教会の首長はリッペ侯国の歴代領主が教会統治者(summus episcopus)として君臨していた。信仰面の最高指導者として監督が置かれていた。第1次世界大戦後の1918年にリッペ候レオポルト4世は退位し、リッペ自由国として再出発することになった。リッペ自由国の教会統治者の座も州教会常議員会議長になった。1931年にはリッペ州教会は新教憲を制定した。デトモルトに本部を置く現在のリッペ州教会が改革の基盤となった。この教会は福音主義改革派と福音主義ルター派の教会を包含している。両者間に説教会と聖餐会が設けられている。 ラウレンツ・ハンニバル・フィッシャーが主導し、カトリック教会が福音主義教会と対等であると侯の勅令によって認められたのは1854年であった。1892年にパーダーボルン司教フーベルトゥス・ジーマーによってデトモルトに初めてカトリックの首席司祭区が設けられた。最初の首席司祭はカール・リロッテで、1892年から1897年までこの職を務めた。1897年にラスベルク男爵マクシミリアンによってカトリック教会組織が再興され、早くもその 4年後には固有の教会税を徴収した。1946年の時点には、6,500人のカトリック教徒がデトモルトに住んでいたが、その多くは旧ドイツ東部領土からの戦争難民であった。1953年には「ボニファティウス」という名前のカトリックの老人ホームが創設された。1973年にデトモルトに住んでいたカトリック教徒は約 11,000人であった。2002年にカトリック教会は、設立150年祭を祝った[9]。 ユダヤ教 中世、ユダヤ人が定住するためには、リッペの領主から保護状と通行証を購入しなければならなかった。最も古いユダヤ人保護状は、1500年に発行された。明らかに経済的な理由からジーモン6世は約30家族のユダヤ人をリッペに受け容れ、1603年にシナゴーグの建設を許可した。彼の死後、ユダヤ人が法を犯しているという名目で、大規模なユダヤ人迫害運動がリッペで起こった。その後ユダヤ人が戻ってきたのは 1647年になってからであった。1780年頃、リッペには 900人以上のユダヤ人が住んでいた。デトモルト出身のレーオポルト・ツンツはユダヤ人の権利拡大に取り組み、1858年に同権化のための法整備モデルを提唱した。しかし、その後ユダヤ人はリッペにおいてもたびたび犯罪者の身代わりとして無実の罪を着せられた。1938年11月10日の排斥運動(水晶の夜)では、ドイツ全土のシナゴーグ、ユダヤ人墓地、商店が破壊された。デトモルトでは、1907年に建立されたロルツィング通りのシナゴーグが完全に焼き払われ、5軒のユダヤ人の商店が破壊された。現在分かっている範囲で162人のユダヤ人デトモルト市民が、ナチスの権力掌握時代に連行された[9]。 行政 デトモルトは、州議会選挙ではリッペ3区(第99選挙区)、連邦議会選挙ではヘクスター=リッペ2区(第137選挙区)に属している。 市議会 市議会は46議席からなる。これに市長が議長として加わる[17]。2014年現在、固定した政党連合は形成されていない。 市長 デトモルト市長は、ライナー・ヘラー (SPD) である。彼は2004年の市長選挙で初当選し[18]、2009年[19]、2014年[20]の選挙で再選されている。 紋章 図柄: 赤地で、5つの凸部を持つ胸壁が貫いている。壁の両端にはラテン十字が取り付けられている。最初と最後の狭間の位置に頂部が3つの凸部を持つ胸壁となっている3階建ての塔が描かれている。塔の各階ごとに黒く窓が開かれている。その間は大きなアーチ型の門で、その上に尖った屋根を戴いている。その先端には先広十字が掲げられており、屋根の両端にはそれぞれ珠が載っている。アーチ門内には円形の盾に萼のない大きなリッペのバラ(黄色い蘂と赤い花弁)が描かれている。その下部の胸壁中央の2つの凹部に小さな盾があり、その中にやはり萼のないリッペのバラが描かれている。 解説: 1970年に新たに作成されたデトモルト市は、1955年11月24日に旧デトモルト市に与えられた紋章を受け継ぐことを、1970年2月23日に許可された。この紋章は、1305年、1350年、1428年の3つの古い市の印章に基づいて議会によって確定された。建物は市のシンボルであり、バラは領主の紋章によるものである。 姉妹都市 デトモルトは以下の 5都市と姉妹都市協定、1都市と友好都市協定を締結している[21]。 姉妹都市 サントメール (パ=ド=カレー県)(フランス、パ=ド=カレー県) ハッセルト(ベルギー、リンブルフ州) (ドイツ、ザクセン=アンハルト州) サヴォンリンナ(フィンランド、南サヴォ県) (ギリシャ、中央マケドニア) 友好都市 ヴェローナ(イタリア、ヴェネト州) 最も古い姉妹都市協定は、1969年6月29日に締結されたフランスのサントメール (パ=ド=カレー県) とのものであるが、これは 1963年1月22日のエリゼ条約に基づいて締結された。ベルギーのハッセルトとの姉妹都市協定は 1976年5月6日に締結された。また、 2004年6月11日にフィンランドのサヴォリンナと姉妹都市協定を結んだ。これら3都市との間では、交換留学や文化・スポーツサークルの交流などが行われている。ドイツ国内の姉妹都市は、ツァイツとの間で 1990年8月18日に成立した。この姉妹都市関係は市議会や行政の共同作業から始まり、サークルの相互訪問やその他の面で交流を深めている。ギリシャのオレオカストロとの姉妹都市協定は、2013年6月15日に締結された。これは、2004年の「スポーツを通しての教育ヨーロッパ・イヤー」プログラムの枠組みで開催されたサッカーの試合が機運となった[22]。 イタリアのヴェローナとは、国家社会主義とファシズムの時代のドイツ - イタリア史の総合的研究を行う長年にわたる学校プロジェクトが機縁となり、2006年5月20日に友好都市協定を結んだ。もう一つの友好都市関係はギリシャの都市カリテアとの間で 2006年6月16日に締結された。 文化と見所 博物館・美術館 ヴェストファーレン野外博物館は、90 ha の敷地に約 100 棟の歴史的建造物がある、この種のものとしてはヨーロッパ最大の博物館である。この博物館は、かつての侯の旧動物園跡に 1966年に開園した。毎年4月1日から10月31日まで開園しており、平均 25万人が訪れる[23]。リッペ州立博物館は、地方史、文化史、博物学、先史時代の文物を展示している。この博物館は 1985年に創設 150年を祝った[24]。デトモルトで最も新しい博物館・美術館が凧芸術のためのアート・カイト博物館で、2000年に開館したのだが、早くも 5年後には閉館した。あまり知られていないが、地域を超えて重要なのが、ドイツ系ロシア人文化史博物館である。この博物館は、この種のものとしてはドイツで最初で唯一の博物館で、現在も拡充を続けている。 演劇 デトモルト州立劇場はデトモルト市内の5つのステージを本拠としている。州立劇場自身は 650席、グラッベ=ハウスに小ステージが 80席、毎年一つの演目を屋外で上演する内市街のホーフテアターが 250席、それにデトモルト・ゾンマーテアターと新しく建設された青少年演劇用の「カシュルプ」ビューネがある。デトモルト州立劇場はヨーロッパ最大の客演劇団で、演劇シーズンの 600公園のうち約半数をデトモルトの外で上演している。上演地域はノルトライン=ヴェストファーレン州全域を含み、国境を越えてベルギー、ルクセンブルク、スイスにまでおよぶ[25]。 デトモルト州立劇場は、レオポルト2世 (リッペ侯)侯の命令により、1825年に設立された。劇場はマルクト広場や城館から離れたローゼンタールに建設された。7か月の工期の後、早くも1825年11月に初めて幕が開けられた。この劇場は1912年2月5日に基礎壁まで焼失したが、第一次世界大戦中の1914年から1915年にベルリンの建築家の設計に基づき古典主義様式で新たに建設された。この新築工事の資金調達は、デトモルト市民の寄附と侯家の資金によってなされた。他のドイツの劇場と同じように、この劇場も第二次世界大戦中の 1944年9月1日に閉館した。戦後、イギリス軍政府はここにカジノを開いた。演劇上演はデトモルト・ゾンマーテアターに移された。1952年7月5日に開放され、状況は正常化した。 本市は 1991年から定期的にヨーロッパ・ストリートシアター・フェスティバル・デトモルトを開催している。このイベントは、デトモルト内市街や、かつてライン軍団のヘリコプター格納庫であったハンガー21でドイツ内外の演劇グループによって上演されている[26]。 音楽 デトモルトで音楽イベントが豊富に行われているのは主にの存在による。市外でも有名なのは、マイスターケーレ・カメラータ・ヴォカーレ、リッペ・フィルハーモニー合唱団、デトモルト・シュロスシュパッツエンがある。リッペ・フィルハーモニー合唱団は 1990年から国際合唱フェスティバルを組織している。デトモルトには合唱文化が根付いており、NRW合唱連盟に 11の合唱団体が加盟している。デトモルトで活動した作曲家アルベルト・ロルツィングの合唱作品はデトモルトの合唱団に愛唱されている。音楽学校のビッグバンドとデトモルトのオーケストラがこの街の重要な器楽演奏団体である。この他に、教会組織内の教会合唱団やブラスアンサンブルがある。 もう一つの音楽シーンの中心が、文化・コミュニケーションセンター「アルテ・パウリーネ」である。ここでは、コンサートの他に政治集会も開かれている[27]。アルテ・パウリーネを運営する協会は、この市有不動産の使用料を支払っていない。市議会の一部にはこの建物を売却を再考すべきだとしている。 アルテ・パウリーネを発足の地とするバンド「Speed Niggs」は1989年から1992年までの間に 3枚のアルバムをリリースし、ドイツ全土で数多くのコンサートを行った。バンド「Maria Perzil」は、ユーロビジョン・ソング・コンテスト1998のドイツ予選にエントリーし、10位を獲得した。中世バンド「Duivelspack」は 2000年にドルトムントで結成された。 スポーツ 2007年現在、デトモルトには 69のスポーツクラブがあり、80のスポーツ種目が楽しまれている。最も有名なクラブは、TSV デトモルト・フォン 1911とデトモルダー・トゥルンフェライン・フォン 1860 である。 1911年に FC トイトニア・デトモルトとして設立されたTSV デトモルトの黄金期は第二次世界大戦後の1946年に始まった。そのピークとなったのが1950年6月10日の西ドイツ・サッカー選手権の獲得であった。この日 TSV は、シュポルツプラッツ・ウンター・デン・ピンナイヘンの14,000人の観客の前で、ヴッパータール=クローネンベルクを相手に 5対1 で勝利した。その後 TSV が再びビッグクラブと肩を並べることはなく、多くの選手が去っていった。その結果、このクラブはランデスリーガやベツィルクスリーガにまで降格した。2010/11年シーズン、このクラブのトップチームは、クライスリーガAでプレイしている[28]。 TSV デトモルトの他に、ポスト SV デトモルトがある。このクラブは市内中心部にあるヴェレシュポルトプラッツ(人工芝)を使用している。ポスト SV デトモルトとTSV デトモルトとの試合は、しばしばローカルダービーと呼ばれる。 ジュニアサッカーでは、SV アイントラハト・イェルクセン=オルプケが、この街で最も強いリーダー格である。C-ユニオーレンはランデスリーガ、B-およびA-ユニオーレンはベツィルクスリーガでプレイしている。 デトモルダー・トゥルンフェライン・フォン 1860 は会員数約 1,000人のデトモルト最大のクラブで、体操、バスケットボール、ハンドボール、フェンシングなどの種目がある[29]。 リッペ州立図書館と文書館 40万点を超える蔵書を有するリッペ州立図書館デトモルトは、ノルトライン=ヴェストファーレン州の非学校系図書館で最も重要な施設の一つである。この図書館の重点は、隣接するデトモルト文書館とともにリッペおよびオストヴェストファーレンに関する文学、古文書、記録類の収集と提供にある。図書館は、デトモルトの商人で建築業者のヴィルヘルム・エーベルトが 1842年から 1843年に建造した古典主義様式の豪壮な館に入居している。第二次世界大戦後、図書館は新たに設立されたリッペ地方協会の所有に移された。 建造物 歴史的旧市街 歴史的旧市街は、直径約 550 m の円形であり、その中心がマルクト広場である。旧市街は、南と東は、ブルーフマウアー通り、アウグスト通り、アドルフ通り、カール通りをその境界としており、旧市壁の断片の遺構を今も見ることができる。旧市街の北と西はローゼンタールとアルマイデである。旧市街内には約 350 棟の歴史的建造物があり、その一部は良好な保存状態にある。特にランゲ通り、クルンメ通り、マイアー通りに多く遺されている。これらの建物は、おおむね 3つの時期に建設された。1547年の大火以降の中世末期に建てられた市民の木組み建築、ビーダーマイアー時代(1830年 - 1860年)の後期古典主義建築、の歴史的な性格を強調した装飾的なファサードをもつ建造物である。ウンター・デア・ヴェーメ通りには、フェルディナント・フライリヒラートの生家やクリスティアン・ディートリヒ・グラッベが亡くなった家がある。グラッベの生家も遺されており、ブルーフ通りにある。 ランゲ通り マイアー通り フェルディナント・フライリヒラートの生家 クリスティアン・ディートリヒ・グラッベの生家 グラッベが亡くなった家 城館 「リッペ侯のデトモルトの居城」とも呼ばれるデトモルト城は、歴史的旧市街の北西部にあり、城館広場と堀を合わせると、市街中核部の 1/4 を占める。このリッペ侯の居城は、本市の最も重要な歴史的建造物であり、の傑出した建築作品である。この城館は、中世の塔を中心に、1550年から1557年に建造されたルネサンス様式のファサードを持つ 4つの翼棟が接続している。城館の中庭には4つの階段塔と紋章石が掲げられた古典主義様式のアーチの回廊がある。8枚の大きなタペストリー、ヴェネツィアン・グラスのシャンデリア、狩猟道具のコレクションを収めた王の部屋を含む西翼は17世紀に建設された。城館広場は、長く延びた翼棟と隅櫓で囲まれており、馬車置き場、厩舎、馬場として利用された。かつての馬場は、1950年代に市立ホールに建て替えられた。城館前の噴水のある泉は1898年に建造され、1957年に照明装置が設けられた[30]。 救世主教会 福音主義改革派の救世主教会(マルクト教会)は、後期ゴシック様式の教会建築である。この教会は、1547年に大火により破壊された後、市の中心部に再建された。数年後に市は大きな教会塔の建設に着手した。入場できるようになったのは 1564年であった。この年号は塔が完成した年を示している。1596年頃に 2人の塔守が置かれた。塔守は火事番として塔に住んだ。16世紀の古い警鐘(変ホ音)は第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも救い出され、デトモルトで最も古い銅製の鐘となっている。失われた金の代わりに、鐘の鋳造業者リンカーは 1200 kg の「平和の鐘」(ヘ音)を鋳造した。1555年に教会堂にオルガンが設置された。現在のバロックオルガンはヨハン=マルクス・エステライヒによって1795年に製造されたもので、1962年に改造、拡張された。簡素な内部には、印象的な尖頭アーチのゴシック様式の窓や、葉状の装飾が施された砂岩製のがある。五角形の講壇は円柱で支えられており、講壇の上には六角形の反響天板がある。 市庁舎 市庁舎は、1828年から1630年に建設された古典主義建築で、その北面がマルクト広場に向いている。特徴的なのは、建物前の砂岩製ドーリア式ポルチコをもつ 2連の外階段である。市庁舎内には、市議会場、市長や行政指導者の執務室がある。市庁舎は、1902年に増築され、裏側が拡張された。市庁舎前の「ドノープの泉」は、1902年に建設され、ベルレベッケ川をニュンペーとして表現したものである。 宮殿 宮殿(新宮殿とも呼ばれる)は、1706年から1708年にリッペ伯フリードリヒ・アドルフによって建造された。この宮殿は 3階建ての本館と、翼棟風の付属建造物からなる。この宮殿は元々リッペ伯妃の未亡人隠居所として使われていた。1849年から1864年まで改築がなされた。南側面の前に、1857年からトリトンとイルカを象った噴水が造られた。現在この建物は音楽大学の本部になっている。宮殿には宮殿庭園が付属している。 クリストゥス教会 カイザー=ヴィルヘルム広場のリッペ侯家の墓所があるクリストゥス教会は建築家オットー・クールマンの設計に基づいて 20世紀初めにネオゴシック様式で建設された教会堂である。戦争の影響により、1960年代に大規模な修復がなされ、1980年代に外観の徹底的な更新と内装の修繕がなされた。一年のうち温かい月には、昼間ずっと訪問者に開放されている。クリストゥス教会は、デトモルト西部の福音主義改革派のキリスト教徒にとっての故郷である。この教会は2008年1月に設立 100年を迎えた。 マルティン=ルター教会 シューラー通りの福音主義ルター派マルティン=ルター教会は、かつてバロック教会があった場所に、1897年から1898年にネオゴシック様式で建設された。1721年まで改革派のデトモルトではルター派の教会を設けることは禁止されていた。ルーター派の侯妃ヴィルヘルミーネ・フォン・ナッサウ=イーデンシュタインが最初の教会を建設した。この教会の模型が近くの教区集会所で観られる。 フリードリヒスタール運河 フリードリヒスタール運河は技術的建築文化財であり、一部は1701年から1704年に当時のフリードリヒ・アドルフ伯の命令で建設された水利工事を遺している。フリードリヒスタール運河は現存していない別荘、、バロック庭園を備えた離宮と居城とを結んでいた。この運河はコッヒェンバッハ川から水を引き、市壁の南側と西側を流れて城の池を満たしていた堀に排水していた。建設責任者はヒンドリック・コックであった。この運河は、経済活動を目的に使われたことはなく、専ら船遊びのゴンドラがこれを利用した。1748年に船の航行は廃止された。合流点に水車が建設され、別の用途に使われるようになった。1752年から1753年に建設されたオベーレ・ミューレ(上流の水車)は1958年まで稼働しており、調理に用いられた。高低差を克服するために建設された 3つの水門は現在も滝として見ることができる。運河の建設は、宮殿の建設や新市街東部の運河沿いの家屋群建設と関連していた。これは中世の都市境界を越える最初の拡大であった。この運河施設は、バロック時代の水利技術を示す重要で類例のない文化財である[31]。 公園 城館公園 城館広場とも呼ばれる「城館公園」は18世紀後半に造営された。この公園には4つの入口がある。ランゲ通りの正門から、劇場前広場から、マルクト広場から教会のアーチを抜けて、そしてローゼンタールから広い階段を通るルートである。ライトアップ装置を備えた噴水を持つ城館前の大きな泉は、1900年頃に設けられた。公園の西にある八角形の小さな池はおそらくフリードリヒスタール公園の名残である。正門の近くにはヨハネス・ブラームスの胸像がある。城館公園は、長く延びた翼棟と隅櫓で囲まれており、城館の住人の馬車駐車場、厩舎、馬場に利用されていた。かつての馬場は1950年代に市立ホールに建て替えられた[32]。 宮殿庭園 宮殿庭園は、18世紀初めにフランス式のとして造営され、19世紀半ばに拡張され、イギリス式の風景式庭園に改造された。宮殿庭園は、建築文化財として保護されており、セコイアやその他のエキゾチックな樹木の古木や、多くの泉、人口滝が保存されている。近くに八角形の建物があるが、これは水流を動かすためのタービンで、1855年に建設された。同じくその裏のビューヒェンベルクの斜面に格子がつけられた砂岩の門がある。これは山の貯蔵庫として用いられ、ビール醸造業者に氷の貯蔵庫として利用された[33]。 行楽地 は、高さ 386 m のグローテンブルクに建てられており、トイトブルクの森の戦いとの首長アルミニウスを記念したものである[34]。高さ 54 m のこの記念碑は、1838年から1875年にによって建立され、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世によって聖別された。これ以後この記念碑は年間約100万人が訪れる、ドイツで最も訪問者の多い記念碑の一つとなっている[35]。 ヴェストファーレン野外博物館は、90 ha の敷地に約 100棟の歴史的建造物が建つ、この種のものとしてはドイツ最大の博物館である。この野外博物館は、かつて侯爵の動物園だった場所に 1966年に開園し、毎年 4月1日から 10月30日までの開園期間中に年間平均 25万人が訪れる。建物は、オリジナルに忠実に再建された歴史的な建物、たとえば農家、手工業者の家、旅館、村の学校などであり、完全に時代考証された調度品や典型的な庭を備えている[23]。 ドノパータイヒ(池)は、広さ 132 ha の自然保護区であり、ヒデーゼン地区の近くにある人気の行楽地である。ドノパー池は、魚の養殖用にジーモン・ハインリヒ伯によって1683年に造営されたもので、伯の侍従ドノープにちなんで名付けられた。そのすぐ隣には、ワタスゲ属、、ミズゴケ属、モウセンゴケ属、ツルコケモモといった特徴的な植物相をもつ高層湿原のヒデザー・ベントがある。ヒデザー・ベントは1950年には既に自然保護区に指定されていた[36][37]。1時間ほどあるくと、ハイデンタールを越えてビールシュタインに至る。ビールシュタインは高さ 393 m のデトモルト市内最高地点である。その山頂にはビールシュタイン送信所の高さ 300 m の送信塔が建っている。 ベルレベック鷲園は、ベルレベック地区のベルク・ケラーにある。この施設は鷹匠のアドルフ・デッペによって1930年代に 5羽の猛禽類のために創設された。鷲園は現在ヨーロッパで最も古く、最も大きな猛禽園で、約 180羽の猛禽を飼育している。2月16日から 11月15日まで毎日開園されており、鷲、ハゲワシ、鷹の飛行実演が行われている[38]。 やはり鳥類・植物園のハイリゲンキルヒェン鳥類園には、120基のケージに、世界中の 2000羽の鳥類が飼育されている。最大のアトラクションは、オウムや雛はマルハナバチほどの大きさしかない世界最小のニワトリと触れ合えることである。この鳥類園は 3月11日から 11月4日まで毎日開園している[39]。 ファルケンブルク城趾は、トイトブルクの森の最高峰の一つであるベルレベック地区の高さ 373 m の場所にある。ファルケンブルクは、1190年頃にリッペ貴族家のベルンハルト2世の最初の城として建設され、何度も包囲戦を持ちこたえた。この城塞は1453年に完全に焼け落ち、その後新たに建設されたのだが、重要性を回復することはなかった。やがて19世紀の初めまでに城趾は荒廃し、その石材はトイトブルクの森を越える峠道のガウゼケーテの建設に転用された[40]。 ライストルプの森のオプファーシュタインは、森の東端のディーステルブルーフ地区にある。オプファーシュタインは、年代不明の人類によって加工・配置された岩石群あるいは岩石列である。おそらく礼拝所であったと思われるが、その意味や目的は分かっていない。オプファーシュタインの近くには、考古学研究がなされている青銅器時代の墳丘墓がある。ブナ、オーク、針葉樹で覆われたライストルプの森の高地(288 m)からは、リッペ地方全域の良好な眺望が得られる。見所は、1962年に設けられた森の学習路や学習用のミツバチの巣箱である[41]。 ビールシュタイン地区の近くにあるドライフルスシュタイン(直訳すると「3本の川の石」)は、デトモルトの地理上の重要なポイントを示している。トイトブルクの森の高台にあるこの地点は、ライン川、エムス川、ヴェーザー川の3つ川の流域が接する場所である。ドライフルスシュタインへの散策路は、ヒデーゼンの旅館前から出発し、2009年に建立された記念碑[42]までハイデンタールを登る。レジデンツヴェークやレンスプファートといった遊歩道もドライフルスシュタインの近くを通っている。 隣の市ホルン=バート・マインベルクのホルツハウゼン=エクステルンシュタイネ地区近郊にエクステルンシュタイネがある。これはドイツ最大の天然の名勝の一つである。数百万年の間ヴィームベッケ川が洗った岩の周辺、約 140 ha が自然保護区に指定されている。 ベルレベック鷲園 ハイリゲンキルヒェン鳥類・植物園 ライストルプの森のオプファーシュタイン ドライフルスシュタイン 年中行事 内市街歩行者専用区域やカイザーケラーで、毎年春にデトモルト国際ジャズナイトが開催される。たとえば、などの客演があり、デトモルト音楽大学のビッグバンドが定期的に出演する。 初夏には、短編映画祭の国際ショート・フィルム・フェスティバル(ISFF デトモルト)が開催される[43]。 夏には、デトモルト・ゾンマービューネとリッペ・クリナーリッシュが開催される。ゾンマービューネは、マルクト広場のメインステージで数日間にわたって行われる無料の野外イベントである[44]。リッペ・クリナーリッシュは、7月または8月の週末に城館庭園で、地元のレストランが郷土料理や国際的な料理を供する[45]。 2年に1度、聖霊降臨祭に公道や公共の広場でヨーロッパ・ストリートシアターフェスティバルが開催される。デトモルトの最初のストリートシアターフェスティバルは1991年に「1. デトモルダー・ビルトシュテルング」という名前で開催された。20年以上にわたって定期的に開催されていることで、このストリートシアターフェスティバルは、この街の文化生活の一部となっている[46]。 秋には、毎年懺悔と祈りの日後の水曜日から次の日曜日まで、約250人の出展者が参加してアンドレアスメッセが開催される。1604年の文書に記録されたこの歳の市にはメリーゴーランドや屋台がたつ。会場は、歩行者専用区域とクローネン広場である。歩行者専用区域では毎年クリスマスマーケットも開かれる。かつてこのマーケットは小さな農民市であった[47]。 4月から11月までの毎月第1土曜日にフリードリヒスタール運河の骨董品専門のノミの市が開催される。 名物料理、食材 デトモルトの最もよく知られた郷土料理は、小麦粉、マッシュポテト、卵、レーズン、イースト、ミルク、水で作られたジャガイモのパンケーキ、リッピシェ・ピッケルトである。これは、伝統的にテンサイのシロップまたはもう一つのリッペ名物であるレバーペーストとともに食される。リッピシェ・ピッケルトは、この地域の有名な民謡「ディー・リッピシェン・シュッツェン」にも歌われている。 経済と社会資本 交通 道路交通 デトモルトは連邦道 B238号線、B239号線および州道を経由して連邦アウトバーン網に接続する(A2号線 デトモルト – ハノーファー、A33号線 ビーレフェルト – パーダーボルン)。この規模の都市にもかかわらず、市内に4車線の道路がないことは、特筆に値する。 鉄道・バス交通 デトモルト駅は、ヘルフォルト – アルテンベーケン線の駅である。この駅には、1時間ごとに、ヘルフォルト – ラーゲ – デトモルト – アルテンベーケン – パーダーボルン線のローカル列車(「オストヴェストファーレン・バーン」)および(アルテンベーケン - )デトモルト – ラーゲ – エルリングハウゼン – ビーレフェルト線(「デア・ライネヴェーバー」、日曜日は2時間ごと)が発着する。 道路旅客交通に関しては、デトモルトは地方バス網で結ばれている。市内交通は、デトモルト都市交通 GmbH が1994年に設置した市バスシステムが利用できる。このバス網は 8つの路線からなり、その一部は1954年まで運行していた市電網の路線を引き継いでいる。デトモルトは運賃連合「デア・ゼクサー」(OWL交通 GmbH)に属している。 航空交通 かつてのイギリス軍ライン軍団の航空基地は、1995年7月31日に閉鎖され、デトモルト市に移管された。市はこの土地を売却し、建物や敷地は新たな用途に供された。現在の飛行場は、民間のゾンダーランデプラッツ(定期便が発着しない、航空スポーツなどのための特殊飛行場)であり、デトモルト航空スポーツクラブ e.V. が利用している。 最寄りの国際空港は、(デトモルトの南西約 60 km)であり、アウトバーン A33号線を経由してアクセスする。 自転車道 自転車道の、ウェルネス=ラートルート、バーンラートルート・ヴェーザー=リッペが市域を通っている。この他に、カレー(フランス)からタリン(エストニア)に至るヨーロッパ自転車道 R1 が市域近くの南側(エクステルンシュタイネ)を通っている。 歩行者道路 デトモルトの歴史的中心部に歩行者専用区域が設けられている。その主要道路であるランゲ通り、ブルーフ通り、シューラー通りはマルクト広場で交差する。歩行者専用区域から、城館公園や、乗り換え停留所のローゼンタールに出ることができる。歩行者道路は、市内中心部と他の市区とを結んでもいる。またフリードリヒス運河沿いの自転車・歩行者道を経由して、内市街は遊歩道網とも結ばれている。主要な遊歩道には、スウェーデンを出発し、レムゴーからデトモルトを通りエクステルンシュタイネに抜けて、最終はシチリアにまで至る E1、トイトブルクの森の鞍部を通るヘルマンスヴェーク、レジデンツヴェークがある。 メディア 民営のラジオ放送局であるラジオ・リッペはデトモルトからリッペ郡向けのローカル・プログラムを放送している[48]。 (WDR) は、この街にWDRスタジオ・ビーレフェルトに属す地域事務所を構えており、WDRおよびARDの全てのラジオおよびテレビプログラムにリッペ郡から情報を提供している。 リッピシェ・ランデス=ツァイトゥングはデトモルトに本社を置く地方新聞で、唯一の郡全域向け地方日刊紙である[49]。 市内では、以下のフリーペーパーが配布されている。 リッペ・アクトゥエル(水曜日と土曜日) リッピシェ・ノイエステ・ナハリヒテン(土曜日) デトモルダー・アンツァイガー(2009年の実績は年13回) 公共施設・機関 デトモルトは地元では、官庁と官僚の街と呼ばれている。この街には市の行政機関の他に、400人の官僚が働くリッペ郡の郡行政機関、約600人の職員を擁するデトモルト行政管区の管理機関がある。郡庁所在地および行政管区本部所在地であるデトモルトにはその他の役所も存在している。たとえば、イェルクセン=オルプケのリッペ郡獣医局などである。この他の重要な官庁としては、連邦労働局の職業安定所やデトモルト税務署がある。 デトモルトには4つの裁判所がある。カイザー=ヴィルヘルム広場の地方裁判所、労働裁判所、社会裁判所、区裁判所である。社会裁判所の管轄区域は行政官区全域であるが、地方裁判所と労働裁判所の管轄は郡の領域内である。これに対して区裁判所の管轄区域は、デトモルト、ラーゲ、エルリングハウゼン、アウグストドルフ、シュランゲン、ホルン=バート・マインベルクである。この他、デトモルトにはデトモルト検察局やデトモルト刑務所もある。これらの管轄区域は地方裁判所のそれに準ずる。 デトモルトはリッペ商工会デトモルト (IHK) の本部所在地である。このIHKの管区はリッペ郡である。また、本市はドイツユースホステル活動の本部所在地でもある。デトモルト市立図書館は、ホルンシェン門の近くにある。この街にあるクリーニクム・リッペ=デトモルトの経営者は、リッペ郡である。これはクリーニクム・リッペ連盟 GmbH に属す 755床の病院で、本市の重要な雇用者の一つである。 デトモルトはリッペ地方教会の地方教会本部所在地である。 ドイツ連邦軍は、かつてのデトモルト連邦軍病院の敷地において専門病院群を運営している。アウグストドルフ専門衛生センターはこの下位に属す。ヘルトマン通りの敷地は2014年第1四半期に閉鎖予定である。 デトモルトのBundesanstalt Technisches Hilfswerk は、ビーレフェルト経営者地域連合によって運営されている。救護班、照明専門班、水害/ポンプ専門班を持つ技術部隊が、指揮・通信班とともにここに常駐している。 教育 基礎課程学校 フライリグラート=シューレ、ヘルバーハウゼン基礎課程学校、ハイデンオルデンドルフ基礎課程学校、バッハシューレ、ハイリゲンキルヒェン基礎課程学校、ヒデーゼン基礎課程学校、ヴェールトシューレ、ヴェレタールシューレ・レンミヒハウゼン、クッセルベルクシューレ・ピヴィッツハイデ、エッテルンバッハ基礎課程学校、ディーステルブルーフ基礎課程学校、ハッセルバッハシューレ・ピヴィッツハイデ、フライエ・クリストリッヒェ・基礎課程学校デトモルト 本課程学校 ジュートホルツシューレ: この学校は1958年に国民学校として設立され、1968年の学制変更後は本課程学校となった。2007年の学校改革のために閉鎖された。 市立ハイデンオルデンドルフ本課程学校 私立福音主義アウグルト=ヘルマン=フランケ本課程学校 実科学校 ハインリヒ=ドラーケ実科学校: 1969年に第二実科学校として設立された。その後、デトモルトの政治家ハインリヒ・ドラーケの栄誉を讃えて改名された。 第一実科学校: この学校は、レオポルディヌムやグラッベ=ギムナジウムとともに、内市街のすぐ近くに位置するいわゆる「デトモルト小学校センター」にある。校舎は1950年代の初めに建設されたもので、初めはレオポルディヌム 2 が入っていた。1970年代末に新たに創設された第一実科学校がこの建物に入り、レオポルディヌム 2 のためには新しい建物が建てられた。 ギムナジウム クリスティアン=ディートリヒ=グラッベ=ギムナジウム[50] デトモルト市立ギムナジウム: この学校は1830年に女学校として設立された。1871年から高等女学校となり、その後様々な変遷を経た後、最終的に1950年から市立女子ギムナジウム、1966年から市立ギムナジウムとなった[51]。 ギムナジウム・レオポルディヌム[52] アウグスト=ヘルマン=フランケ=ギムナジウム[53] 総合学校 市立ゲシュヴィスター=ショル総合学校[54] 私立福音主義スグスト=ヘルマン=フランケ総合学校[55] 自由ヴァルドルフ学園デトモルト: かつてのビール醸造所ファルケンクルークの建物を利用している。 養護学校: グスタフ=ハイネマン=シューレ、レーゲンボーゲンシューレ、シューレ・フュア・エルツィーフングスヒルフェ 職業高等専門学校: ディートリヒ=ボーンヘファー職業高等専門学校、フェリックス=フェーヒェンバッハ職業高等専門学校 デトモルトの学校教職員のための学習セミナー 単科大学: デトモルト音楽大学、オストヴェルトファーレン=リッペ単科大学(デトモルト、レムゴー、ヘクスター、ヴァルブルクにキャンパスがある) 研究機関: 栄養および食品の連邦研究所 経済 1850年頃、リッペの工業的発展はビーレフェルトから半世紀ほど遅れていた。19世紀末になってやっと、手工業の産業的発展という形でわずかな発展が始まった。リッペの領主の制限的な政策が、伝統的な経済形態の固持や鉄道網への接続の遅れの主要因であった。 リッペにおける工業企業の創設は、澱粉加工業、絹糸紡績業、ビール醸造業、タバコ製造業や印刷業から始まった。デトモルトで最大の企業は、1865年に設立されたクリンゲンベルク兄弟印刷社であった。この会社は、石版印刷によるタバコ箱の蓋で名声を獲得した。子供の労働は当然だった。1878年にリッペでは、54社で 431人の子供が働いていた。 20世紀の初めに、木材生産を背景に家具産業が発展した。ヒルカー、ブラント、テムデといったメーカーがあった。ドイツ初の家具職人専門学校はデトモルトで設立された。食品産業の会社も 2社創業した。デトモルト・ケークスヴェルク・アウグスト・フリッケとケークスファブリーク・ペヒャーである。第二次世界大戦後は、たとえばヴァイトミュラーのような金属加工業の設立が増大した。家具産業は20世紀末に衰退した[9]。 現在の企業 最大の雇用主の一つがヴァイトミュラーである。この会社は、エネルギー、信号、データの転送のための電子的接続技術のコンポーネントを製造している。デトモルトの本社には約 2,000人、全世界では 4,400人の社員がいる。この会社は、2012年の営業年度に 6億2,100万ユーロの売り上げを記録した。 ヴォルトマン・シュー=ホールディングKG は靴の製造販売業者である。この企業グループは、ヨーロッパの 8カ所と極東の 11カ所の事業所を運営しており、国際的に 1,028人の社員がいる。この会社は 2011年/2012年の営業年度に 9億9,930面ユーロの売り上げがあった。 1919年に設立された Jowat AG は木工・家具産業、製紙・包装業、グラフィック産業や製本業者、乗物製造業、自動車製造および自動車部品製造、織布産業が用いる接着剤を製造している。この会社は、世界14カ国に製造・販売のための子会社を有しており、600人以上の従業員がいる。 サービス産業では、保険業がデトモルト市にとって重要である。この街には、保険会社 3社の本社がある。1つは従業員数約 480人のリッペ地方火災保険会社である。教会地域保健、家庭保護生命保険、パックス家庭保護疾病保険の企業共同体の子会社が 2社ある。デトモルトに約 450人の社員を擁する保険仲介業者のエクレシア・ホールディング GmbH も保険業部門に含まれる。 この他の大企業には、年間売り上げ約 7,000万ユーロ、8万人にライフラインを提供し(2005年現在)、レジャープール「アクアルップ」を運営するデトモルト都市施設局 GmbHや、2006年現在796人の従業員を擁し、29億500万ユーロの売り上げを計上したデトモルト貯蓄銀行がある。リッピシェ・ツァイトゥング出版ギースドルフ GmbH & Co. KG は地方日刊紙の「リッピシェ・ランデス=ツァイトゥング」を刊行している。1863年に創立され、5代続いたファミリー企業ブラウエライ・シュトラーテによってデトモルトは、伝統豊かなビールブランドを保持している。デトモルトには2005年からもう一つのブルワリーがある。リープハルツ・プリヴァート・ブラウエライ GmbH & Co. KG である。この会社は、デトモルトのジュースメーカーであるドクトール・バルケ GmbHを含むリープハルトの企業グループに属している。 かつてデトモルトにあった企業で有名なものとして、1907年に設立されたフランツハルトマン・ジナルコ株式会社があった。この会社はオーナーや名称が替わりながらも1987年までデトモルトで操業していた。現在はヘーヴェルマン飲料グループでレモネード「」を販売している[56][57]。 商業 「ルストガルテン」建設計画 21世紀の初めにデトモルト市は、内市街に近代的なショッピングセンターを建設する計画を始動させた。この計画は、市民から攻撃され、市行政は意見が分かれた。2006年6月11日に住民投票が行われたが、投票率が低く、反対票が少なかったため不成功に終わった。 週の市 伝統的な週の市は、毎週3回(火曜日、木曜日、土曜日)にマルクト広場およびラートハウス広場のドノープの泉付近で開催されている。 人物 デトモルト出身の著名な人物としては、詩人で作家のフェルディナント・フライリヒラート(1810年 - 1876年)や(1822年 – 1856年)が挙げられる。三月革命前夜()の最も重要な詩人の一人であるクリスティアン・ディートリヒ・グラッベ(1801年 – 1836年)も同じくデトモルト出身である。国際的に有名な人物に、ユダヤ学の創始者で、ドイツにおけるユダヤ人解放運動家のレーオポルト・ツンツ(1794年 – 1886年)がいる。ヨーゼフ・プラウト(1879年 – 1966年)は俳優、朗読家、歌手、郷土詩人である。美術史家でベルリンの館長ハンス・オットマイヤー(1946年生まれ)、女優の(1950年生まれ)、SPDの政治家フランク=ヴァルター・シュタインマイアー(1956年生まれ)および連邦憲法裁判所総裁の(1963年生まれ)もデトモルト生まれである。 デトモルトで長期にわたり生活し、活動した重要な人物としては、作曲家のアルベルト・ロルツィング(1801年 – 1851年)やヨハネス・ブラームス(1833年 – 1897年)、政治家で行政管区長のハインリヒ・ドラーケ(1881年 – 1970年)、レジスタンス運動家のフェリックス・フェーヒェンバッハ(1894年 – 1933年)、バス=バリトン歌手のトーマス・クヴァストホフ(1959年生まれ)がいる。 名誉市民には、政治家の他にデトモルトで活動した学者や芸術家もいる。中でも有名なのは、ヘルマン記念碑の制作者(1871年)、帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク(1895年)、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク(1917年)である。 出身者 ジーモン・フィリップ(1632年 - 1650年)リッペ=デトモルト伯 (1683年 - 1729年)神学者、賛美歌作詞者 ジーモン・アウグスト(1727年 - 1782年)リッペ=デトモルト伯 レオポルト1世 (リッペ侯)(1767年 - 1802年)初代リッペ侯 レーオポルト・ツンツ(1794年 - 1886年)ユダヤ学の創始者 レオポルト2世 (リッペ侯)(1796年 - 1851年)リッペ侯 クリスティアン・ディートリヒ・グラッベ(1801年 - 1836年)劇作家 フェルディナント・フライリヒラート(1810年 - 1876年)詩人 レオポルト3世 (リッペ侯)(1821年 - 1875年)リッペ侯 (1822年 - 1856年)作家 ヴォルデマール (リッペ侯)(1824年 - 1895年)リッペ侯 グスタフ・ヴァリス(1830年 - 1878年)植物学者 アレクサンダー (リッペ侯)(1831年 - 1905年)リッペ侯 ユルゲン・シュトロープ(1895年 - 1952年)親衛隊中将 ジークフリート・シューレンベルク(1900年 - 1993年)俳優 ヴェルナー・ブーフホルツ(1922年 - )エンジニア、「バイト」という新しい単位を発明した。 マンフレート・フールマン(1925年 - 2005年)古典語学者 ハインツ・バート(1942年 - 2000年)歌手、ベーシスト (1950年 - )女優 フランク=ヴァルター・シュタインマイアー(1956年 - )政治家、外務大臣 (1963年 - )障害飛越競技選手 (1963年 - )法学者、連邦憲法裁判所総裁 ヴォータン・ヴィルケ・メーリング(1967年 - )俳優 スヴェーン・モンゴメリー(1976年 - )自転車競技選手 ゆかりの人物 (1800年 - 1876年)ヘルマン記念碑の制作者 アルベルト・ロルツィング(1801年 - 1851年)作曲家 ヨハネス・ブラームス(1833年 - 1897年)作曲家、ピアニスト (1904年 - 1973年)作曲家 (1907年 - 1995年)作曲家 ヴォルフガング・フォルトナー(1907年 - 1987年)作曲家 ギュンター・ヴァント(1912年 - 2002年)指揮者 (1935年 - 2007年)作家、翻訳家 トーマス・クヴァストホフ(1959年 - )バス=バリトン歌手 参考文献 Heinz Stoob, Wilfried Ehbrecht (Hrsg.): Westfälischer Städteatlas. Band: V – 2. Teilband: Bevergern, Detmold, Freienohl, Hallenberg, Rietberg. Im Auftrage der Historischen Kommission für Westfalen und mit Unterstützung des Landschaftsverbandes Westfalen-Lippe. Altenbeken 1997, ISBN 3-89115-142-X. Herbert Stöwer: Stadtmappe Detmold. Dortmund-Altenbeken 1996, ISBN 3-89115-139-X. Christian Kuhnke: Lippe Lexikon. Boken Verlag, Detmold 2000, ISBN 3-935454-00-7. Stadt Detmold (Hrsg.): Detmold in der Nachkriegszeit. Dokumentation eines stadtgeschichtlichen Projekts. Aisthesis-Verlag, Bielefeld 1994, ISBN 3-925670-94-7. Dokumentationsstelle für regionale Kultur- und Schulgeschichte (Hrsg.): Lippe im Dritten Reich. Die Erziehung zum Nationalsozialismus. Detmold 1984. Heinz Meyer: Damals. Der Zweite Weltkrieg zwischen Teutoburger Wald, Weser und Leine. Verlag K. W. Schütz, Preußisch Oldendorf 1980, ISBN 3-87725-094-7. Wilhelm Rinne (Hrsg.): Lippe – Landeskunde in Nordrhein-Westfalen. Im Auftrag des Lippischen Heimatbundes. Verlag Ferdinand Schöningh, Paderborn 1993, ISBN 3-506-76111-0. Detmold: Ein Spaziergang durch Detmold – Geschichte und Kunst mit Stadtplan./A walk through Detmold with town map. 2. Auflage. Decard-Verlag, Juni 2006. (deutsch, englisch) これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。 引用 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%88
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 111, 185, 611, 1524, 2373, 2817, 3649, 4222, 4896, 5880, 6506, 6650, 7374, 7540, 8033, 8227, 8853, 9693, 10264, 10746, 11580, 12254, 13006, 13403, 13965, 14656, 15078, 15524, 15916, 16221], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 110, 184, 603, 1523, 2372, 2816, 3648, 4221, 4895, 5879, 6505, 6642, 7373, 7539, 8032, 8192, 8852, 9692, 10263, 10745, 11579, 12253, 13005, 13402, 13964, 14655, 15077, 15516, 15894, 16207, 16294], dtype=int32)}
田村 駒治郎の生まれはどこ
田村駒治郎
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([3], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([621], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([636], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
田村 駒治郎(たむら こまじろう、1904年2月21日 - 1961年1月21日)は日本の実業家。 繊維商社田村駒[1] の経営者。松竹ロビンスオーナー。 なお「田村駒治郎」の名前は世襲で、本項に記載するのは二代目である。以下の文中では断りがない限り「駒治郎」は二代目を指し、その他の駒治郎については「×代」を前に付けて区別する。また、文献によっては「田村駒<b data-parsoid='{"dsr":[421,428,3,3]}'>次</b>郎」の表記が見られる場合があるが、誤りである。 生涯 1904年、大阪市東区(現・中央区)に、田村駒創業者である初代駒治郎の長男として生まれる。出生時の名前は「駒太郎」であった。少年時代より野球を愛好する。大阪市立天王寺商業学校を1921年に卒業すると、田村駒に入社して社業に従事する。当初は丁稚であったが、2年後から販売の仕事に就き、優秀な成績をあげる。1926年8月、希望していた欧米旅行が父に認められ、翌年1月にかけて、西回りのルートでヨーロッパとアメリカを訪れる。この旅行でアメリカの社会や風俗に多大な影響を受けたとされる。また、当時日本にはなかったプロ野球に接し、球団のオーナーが社会的に尊敬されることを知る。帰国後、安田財閥一門の安田善助(安田善次郎の甥)の次女と結婚。 1931年3月に父が死去し、二代目駒治郎を襲名。2ヶ月後に社長に就任すると、船場の商家のスタイルを残していた田村駒を近代的な企業にするための改革に取り組む。住み込みだった従業員のために社員寮を建設し、番頭・手代などの職制を部課長などの役職に改め、従業員の服装も着物から洋装に変えさせた。さらに1936年には本社を6階建てのビルディングに建て替え、古い木造の商家がまだ多く残っていた船場の中でひときわ目立つ存在となった。このような急進的な改革には社内の批判もあり、伊藤萬に対抗して開かれて間もない御堂筋沿いに本社を移す構想は「初代の意志に背く」との反対から断念を余儀なくされている。 駒治郎は製販一体の事業をめざして1934年に繊維製造の太陽レーヨンを設立。翌年に岡山県玉島町(現・倉敷市玉島)にレーヨン工場を建設して操業を開始した。1936年には岐阜県大垣市にもスフの工場を建設したものの、後発メーカーのために伸び悩む。新たな仕入先と市場を求めて満州や中国への進出を企図したこともあった。 1937年夏、プロ野球のライオン軍に資本参加。同年シーズン終了後にチームを買い取り、オーナーとなった。また、田村駒と太陽レーヨンでクラブチームを結成した。田村駒は1938年の都市対抗野球で大阪府代表(大阪市)。翌1939年の大会では庄内田村駒(庄内町、現豊中市)と太陽レーヨン(大阪市)が大阪府代表となり、庄内田村駒は準優勝となった[2]。プロ野球への参入についても社内には「社長の道楽」と反対する意見があったが、駒治郎はそれに従うことはなかった。先の社屋の件でも不満を抱いていた初代の片腕であった叔父の平松徳三郎とそれに従う社員が、これを原因にすべて退職することとなった。 1941年、太陽レーヨンは戦争による企業統合に伴い、義父の安田善助が社長を務めたこともある帝国製麻と合併し、帝国繊維に改称。駒治郎は副社長に就任する。帝国繊維は国の指定工場となったが、太陽レーヨンから引き継いだ岡山のレーヨン工場は指定を受けられずに休業、政府の命で航空機のエンジン製造工場への転換を図り「帝繊航空」を名乗るも、生産に至る前に終戦を迎えた(のちにGHQの命令により1949年解散)。 田村駒は本社が大阪大空襲で損壊、駒治郎自身の西宮市の邸宅(「一楽荘」という名称があった)も空襲の被害を受けた[3]。駒治郎は社業の復興とプロ野球の再開に力を注ぐが、1946年2月に物資隠匿の嫌疑を受けて逮捕拘禁され、釈放後も1947年2月に公職追放の対象となる。同年春に帝国繊維の会長(戦後に副社長から異動)を辞任、8月には田村駒の代表取締役も辞任し、球団オーナーのみが肩書きとなった。1949年9月、公職追放の解除や隠匿容疑に対して無罪が確定したことから代表取締役に復帰。 1950年、松竹ロビンスが最初のセントラル・リーグ優勝チームとなった。この時期、田村駒の社業も復興の軌道に乗り、さらなる拡大と総合商社化を目指して1951年、24年ぶりとなるアメリカ視察をおこなう。その目的は、繊維材料の買い付けと非繊維部門での輸入品目買い付けだった。このとき、駒治郎は材料として大量の毛屑を買い付けたが、帰国後に朝鮮特需が一段落して過剰在庫と化した。しかもより高級な材料へのシフトで毛屑は大きく価値を下げていた。これが引き金になって子会社が倒産、繊維業界の不況も相まって緊縮経営へと転換を余儀なくされる。この業績悪化は、松竹ロビンスの経営を圧迫することとなった。1952年のシーズン終了後、ロビンスは大洋ホエールズと合併し、駒治郎はオーナーの地位を去った。 駒治郎は社業に専念することとなったが、1954年の金融不況で融資が引き締められ、田村駒は経営の危機に瀕した。三和銀行が支援に入り、その後第一物産(現・三井物産)や常盤鋼材からも支援を受けて再建が進められる。各社からは代表取締役も送り込まれ、駒治郎は社長にはとどまったが繊維部門の責任者という立場で働いた。1961年1月、社長在職のまま心臓発作で死去。享年58(56歳没)。晩年は経営悪化のストレスと長年の大食から胃の異常を抱えていた。 没後の1970年、生前のプロ野球と社会人野球に対する功績が認められ、野球殿堂の特別表彰を受けた。 人物 幼少時より間食を好んだため肥満体で、終戦直後の食糧難の時代にも恰幅のよい体躯を誇った。野球の他にも多趣味で、戦前は一楽荘内でドイツから輸入したシェパードを飼育し、広い犬舎とドイツから招いた調教師を備えていた。しかし日中戦争中にシェパードはすべて軍に寄贈している[4]。ほかに、能楽も若い頃から稽古をしており、関西の財界人では野村徳七と並ぶ腕前といわれた。能楽は、観世流能楽師職分の山本博之に師事し、大阪市中央区にある公益財団法人山本能楽堂の創設および再建に貢献したことでも知られている。 アメリカへの憧れから、公式の場には野球観戦も含めて夫人を同伴し、自家用車もアメリカのビュイックに乗っていた[5]。 田村駒の社史には「自分のしたいと思うことは、熱意と努力でとことんやり遂げるきかん気は初代駒治郎ゆずり」「性格的には人情の機微にたけていたため、同僚や取り引き先の人に好まれた」「庶民的でしかも行動力のある人物であった」という人物評が記されている[6]。一方、反対意見を述べる人間を遠ざけたことを「ワンマン社長の悲劇」と指摘している[7]。 癇癪持ちで短気なところがあり、プロ野球に関してはこれが原因で喧嘩別れとなったケースもひとたびならずあった。 プロ野球オーナーとして プロ野球との関わりは、1937年夏に義弟(妻の妹の夫)である共同印刷専務の大橋松雄から、ライオン軍に資本参加してほしいという依頼を受けたところから始まる。訪米時よりプロ野球に関心を持っていた駒治郎はこれを引き受け、同年のシーズン終了後にはチームを買い取った。邸宅の一楽荘には合宿所と練習用のグラウンドを設け、関西の試合では夫人を伴って必ず観戦した。チーム名は戦争中の英語使用禁止により、ライオン軍から朝日軍へと変更となる。 太平洋戦争末期、戦争の激化でプロ野球の中止が決まった際にも最後までこれに抵抗し、戦後はいち早く田村駒の東京別邸(赤坂に所在。後に日本銀行総裁公邸となる)を各球団実務者の会議場に提供するなど、リーグの維持・再開に尽力した。一方、自らのチームであった朝日軍は、奈良県御所市(当時は御所町)の疎開先から独断でゴールドスターとしてリーグに加盟申請したため、改めてチーム作りを余儀なくされるなど波乱の中での復興となる。1946年よりパシフィックとして再開。戦争による選手の帰属問題にも悩まされ、1946年には白石勝巳・藤井勇を出場させたために没収試合を命じられる憂き目にもあった。 中野晴行の著書『球団消滅』では、電鉄会社や新聞社などの公益企業が運営する球団が大半の中で、個人オーナーである駒治郎は他の球団関係者と立場が違っていたこと、人気チームの巨人や阪神の意向が優先する連盟に駒治郎が不満を抱いていたことが記されている。駒治郎はプロ野球に関しては、ライオン軍への出資以来のつきあいであった鈴木龍二に頼らざるを得ず、鈴木の巧妙な立ち回りに翻弄される面もあった。 1948年には大阪市北区玉江橋に球場を建設する構想を立てるが、阪神や阪急がこれに反対。やがて南海が難波に新球場を建設する構想を表明して、これに競合する形となる。連盟はいずれか一つを認めることとなり、現地視察の後に南海の構想を認めた。駒治郎は「南海が一年で球場を作らなければ、独自に球場を作る」と抵抗したが建設はかなわなかった。 「験直し」でチーム名を変更したこともよく知られており、1947年にかつての子会社太陽レーヨンと駒治郎の「駒」に因んで「太陽ロビンス」とした(ロビンは駒鳥の意)。翌1948年には「野球は点を取らなあかん、野球選手が太いのはあかん」と「太」の点を取って「大陽ロビンス」としたが、いずれも成績は上向かなかった。ただし、駒治郎はオーナー在任中、田村駒を初めとする自らの経営する企業の名前を宣伝目的でチーム名に入れたことはなかった(太陽レーヨンはその時点では存在していなかった)。ライオンや松竹はいずれもスポンサーとして命名権を募ったものである(松竹は運営にも多少関与した)。 「プロ野球は百年の森林事業のようなもの」と大所高所から発展を望み、地元密着のホームグラウンド制を提唱したり、経営安定化のため球団数の急激な増加に反対した。大映の永田雅一が参入を企図したときにも「それだけの覚悟があるとは思えない」と反対している[8]。戦後に横行した選手の引き抜きなどに手を焼いた駒治郎は、1951年の訪米時に、サンフランシスコ・シールズを通じてアメリカの野球協約である「ブルーブック」を持ち帰り、これが今日の日本の野球協約の基礎になっている。 一方で監督や選手のタニマチとして振る舞うワンマンオーナーの側面も見せ、思い通りにチームが勝たないと監督との対立によって辞任を引き起こすことも一度ではなかった。中野晴行は、駒治郎は選手を「好きな選手とそうでない選手」に分け、好きな選手はとにかくかわいがり、そうでない選手は「所有物」という意識しか持てなかったのではないかと記している。「好きな選手」としては、合宿所ではなく一楽荘の離れに住み込ませた真田重蔵がその例である[9]。監督ではあるが藤本定義も巨人の監督退任後に田村駒の秘書として面倒を見ていた[10]。 球団経営の安定化のため、選手の年俸アップには消極的だった。松竹ロビンス監督に就任した小西得郎がリーグ優勝の際の年俸アップを申し出たときには(関西弁の拒絶の意味で)「考えとく」と返答したが、江戸っ子の小西はこれを字義通り受け取り、シーズン終了後の退任の一因となった。 1950年のシーズン終了後、2軍を整理して田村駒に移籍させ、クラブチームを結成すると発表した。経営合理化の上に戦争中に解散したチームが復活でき、見込みのない選手には会社員として給与を与えながら野球をさせた方が生活が楽になって一石二鳥だという考えからであった。しかし、選手育成のため2軍の充実を図っていた他球団の関係者はこの話に呆れ、慰留していた小西からは辞任の口実にされてしまった。 また、自分の感情を害するような事態に遭遇すると、上記の「大所高所の発言」とは矛盾するような行動や言動に出ることもあり、しかもそれを矛盾と考えない点があった。毎日新聞が球界参入に向けて動いていた折、駒治郎は毎日新聞側にロビンスのスポンサーになることを持ちかけるが、毎日側は拒否。まもなく「田村駒は経営難で球団売却を考えている」という噂が出ると、駒治郎はその出所が毎日新聞かその周囲の関係者と考え、「毎日を潰せ」という考えで朝日新聞にスポンサーを持ちかけたという。 リーグ分裂の原因となり、松竹ロビンスが出場した最初の日本シリーズで敗れた毎日オリオンズに対するこだわりは後年まで残った。1960年の日本シリーズで松竹ロビンスの合併先だった大洋ホエールズが大毎オリオンズにストレート勝ちを収めた際には、悪化していた体調が持ち直したという逸話が残っている。 駒治郎が晩年、病を抱えていた折には「自分が死んでも生活は心配しなくていい。鈴木(龍二)さんとの約束でもう一度球団を持つ権利がある。また球団を作れば何とかやっていける」という言葉を家族に伝えた。家族は「約束」の真偽を確認しなかったが、最後まで野球チームを持つ思いを抱き続けたことがうかがわれる。 親族 駒治郎の公職追放中は実弟の田村寛次郎が田村駒の代表を務めた。寛次郎の妻の田村枝津子は、甲南高等女学校の同級生だった坂野惇子に誘われ、ファミリア創業者の一人になる。 駒治郎の妹の一人田村光子も坂野惇子や義妹の枝津子と共にファミリア創業者の一人になる。 脚注 参考文献 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房、2001年。 田村駒『繊維専門商社は生きる 田村駒九十年史』田村駒、1984年。 永井良和『ホークスの70年』ソフトバンククリエイティブ、2008年。 関連項目 藤本定義 小西得郎 真田重蔵 プロ野球再編問題 (1949年) 外部リンク ( より)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%A7%92%E6%B2%BB%E9%83%8E
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 411, 1172, 2130, 2994, 4299, 5538, 6653, 8062, 8455, 9308, 10507, 10858, 11818, 12497, 13003, 14160, 14834, 15438, 16232, 16722, 18615, 18711, 19468], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 410, 1139, 2098, 2993, 4246, 5537, 6635, 8061, 8435, 9307, 10506, 10799, 11798, 12496, 12970, 14159, 14833, 15437, 16206, 16696, 18601, 18696, 19454, 19543], dtype=int32)}
ウィリアム・ジョン・"ビリー"・カニンガムの現役時代の身長は?
ビリー・カニンガム
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([5], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([4646], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([4651], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ウィリアム・ジョン・"ビリー"・カニンガム (William John "Billy" Cunningham, 1943年6月3日 -) はアメリカ合衆国の元バスケットボール選手、指導者、解説者。プロリーグNBAのフィラデルフィア・76ersを選手として、あるいはヘッドコーチとして長年支えてきた人物として知られ、76ersの2度の優勝に大きく貢献した。 ノースカロライナ大学卒業後、1965年のNBAドラフトで全体5位指名で76ersに入団。1967年の優勝に貢献して以後はチームのエースとして76ersを率い、またNBAオールスターゲーム出場4回、オールNBAチーム選出4回を誇るリーグを代表するスモールフォワードとして活躍した。キャリア中盤にはABAのカロライナ・クーガーズでプレーし、1973年にはMVPを受賞している。現役引退後はヘッドコーチとして、76ersを1983年の優勝に導いた。1986年には殿堂入りを果たし、NBA50周年記念オールタイムチームにも選ばれ、背番号「32」は76ersの永久欠番となっている。 選手キャリア 生い立ち ニューヨークのブルックリンで生まれたウィリアム・ジョン・カニンガムは、5回目の誕生日を迎えた時に、初めてバスケットボールを与えられた。それからというもの、彼は毎日のように家を抜け出しては、3ブロック先の聖リマ・ローサ中学校のバスケットコートに通い詰めるバスケット少年となった。プレーグラウンドでは常連となり、その圧倒的な跳躍力から"カンガルー・キッド"の異名を与えられた。またエラスムス・ホール高校では学校のスターとして同校バスケットボールチームをニューヨークのシティ・チャンピオンシップに導き、自身は1961年のブルックリンリーグのMVPを受賞。ニューヨークのオール1stチームやパレード誌選出のオールアメリカチームにも選ばれている。 ノースカロライナ大学 ノースカロライナ大学ターヒールズをNCAAチャンピオンに導いた名将、フランク・マクガイアはコーチを後任のディーン・スミスに譲る際、この新米コーチにブルックリンから連れてきた少年を預けた。スミス新米コーチは、1961年の秋、ノースカロライナ大のキャンパスがあるチャペルヒルのバス停に降り立った、前任コーチの贈り物を見てたまげたものである。骨と皮だけのようなほっそりとした身体に、そばかすが残る顔、内股気味に歩くまだあどけなさを残した赤毛の少年。「ああ、なんてことだ」カニンガムを見たスミスの第一印象である。「一体全体どうしたらこの少年が試合に出られるんだ。彼は歩くことさえできやしない」。 しかし彼はもちろん歩くことができたし、そして素晴らしいバスケットボール選手だった。1年目の1961-62シーズンから平均20.7得点12.7リバウンドという数字を叩き出し、ターヒールズのエースとしてチームを牽引。1963年2月16日のクレムゾン大学戦では27リバウンドをあげ、1964年12月10日のチューレーン大学戦ではノースカロライナ大の記録を塗り替える48得点を記録している。大学4シーズンの通算成績は通算1,709得点(平均24.8得点)1,062リバウンド(15.4リバウンド)であり[1]、通算1,062リバウンドは同校の新記録とだった。大学在学中には、オール・ACCチームに3回、ACC年間最優秀選手(1965)、オールACCトーナメントチームに3回、オールACCアカデミック(1965)、全米バスケットボール記者協会選出オールアメリカ(1965)、The Sporting News選出オールアメリカ2ndチーム(1965)など様々な賞を受賞。また1965年のユニバーシアードにも出場している。2002年にはACC50周年を記念して発表されたACC50周年記念オールタイムチームにも選ばれた。 フィラデルフィア・76ers キャリア初期 大学での活躍が認められたカニンガムは、1965年のNBAドラフトで全体5位指名でNBAのフィラデルフィア・76ersに入団した。同期にはビル・ブラッドリー、ゲイル・グッドリッチ、リック・バリー、ジェリー・スローンらがいる。76ersは当初、6フィート6インチ(約198cm)と長身ながら痩身だったカニンガムを、ガードとして起用しようとした。そしてプレシーズンのエキシビジョンゲームでボストン・セルティックスのガード、K.C.ジョーンズのマッチアップを経験。リーグ屈指の好ディフェンダーとして知られるジョーンズのマークを受け、カニンガムは「ハーフコートラインまでが1マイル半あるかのように思えた」と語っている。結局カニンガムにはガードとしての適性は認められず、彼の才能である粘り強さや跳躍力を活かせるスモールフォワードとしてルーキーイヤーの1965-66シーズンを迎える事になった。そしてカニンガムは平均14.3得点7.5リバウンドのシーズン成績を残し、オールルーキーチームに選ばれている。 当時の76ersはカニンガムが入団する前年に、怪物センターのウィルト・チェンバレンを獲得し、中堅チームから脱皮しようとしている時期だった。チェンバレンに得点力に優れたガードのハル・グリア、スモールフォワードのチェット・ウォーカー、そして新人のカニンガムと充実したメンバーが揃った76ersは、カニンガムが入団した1965-66シーズンにデビジョン1位となる55勝25敗の成績を収めた。デビジョン1位の座が当時NBAファイナル7連覇中だったボストン・セルティックスから他のチームに移るのは、実に9年ぶりのことであり、76ersには長らく続いたセルティックスのリーグ支配に終止符を打つことが期待された。しかしNBAプレーオフではデビジョン決勝でのセルティックスとの対決で1勝4敗と完敗を喫している。ルーキーのカニンガムはこのシリーズで平均5.3得点と、チームの助けになることは出来なかった。 1967年の優勝 76ersは新シーズンを迎える前にアレックス・ハナムを新コーチに招聘した。ハナムはチェンバレンに集中し過ぎてきた76ersのオフェンスを改めさせ、チーム全体で得点を分け合うよう指示した。これが奏功し、76ersのオフェンスは劇的に向上。76ersは1966-67シーズンに勝率8割を超える68勝13敗の成績を残し、新しい戦術の恩恵を受けたカニンガムもベンチスタートながら平均18.5得点7.3リバウンドまで成績を伸ばした。そしてプレーオフ・デビジョン決勝にて歴史が変わる場面が訪れた。セルティックスとのシリーズを3勝1敗でフィラデルフィアでの第5戦を迎えた76ersは、140-116でセルティックスに完勝。10年に及んだセルティックス支配が終わった瞬間の興奮は、観客がコートに溢れ、半暴動状態となったほどである。ファイナルではカニンガムとは同期のリック・バリーがエースを務めるフィラデルフィア・ウォリアーズと対決。76ersはチェンバレンの古巣でもあるウォリアーズを4勝2敗で破り、優勝を遂げた。ファイナルでは第1戦で26得点、第2戦で28得点と活躍したカニンガムは、NBA2年目にして早くもチャンピオンリングを手に入れる事になった。 しかし76ersの栄華は長続きしなかった。76ersは翌1967-68シーズンもリーグ1位となる62勝20敗の好成績を収めたが、プレーオフではデビジョン決勝でセルティックスに3勝4敗で敗れ、ボストン王朝の復活を許してしまった。カニンガムは平均17.9得点7.4リバウンドの成績を残している。 エースとして 1968-69シーズンを前に76ersを優勝に導いたチェンバレンがロサンゼルス・レイカーズに移籍。さらにアレックス・ハナムもコーチ職を辞したため、76ersは新シーズンの苦戦が予想された。しかしチェンバレンの移籍を機にいよいよカニンガムの才能が発揮され、彼はこのシーズンに得点とリバウンドの二つの部門でチームトップとなる平均24.8得点12.8リバウンド3.5アシストの成績を残し、NBAオールスターゲームに初出場を果たし、オールNBA1stチームにも選ばれた。カニンガムの活躍で76ersの地位も大きく揺らぐことなく、このシーズンは55勝27敗の成績を残した。しかしプレーオフでは因縁の相手であるセルティックスに1勝4敗で敗れた。 翌1969-70シーズンにカニンガムは得点とリバウンドでキャリアハイとなる平均26.1得点13.6リバウンド4.3アシストを記録するが、カニンガムが選手としてのピークを迎えるのと同時に、76ersは衰退期に入った。チェット・ウォーカーも放出した76ersは、このシーズンに前年度を大きく下回る42勝40敗を記録。プレーオフでは1回戦で大物新人ルー・アルシンダー擁するミルウォーキー・バックスに敗れた。1970-71シーズンにカニンガムは平均23.0得点11.7リバウンド4.9アシストを記録し、3年連続のオールスターとやはり3年連続のオールNBA1stチームに選ばれる。76ersはアーチー・クラークの成長やジム・ワシントンの加入を受けて前年度を上回る47勝35敗を記録した。しかし翌1971-72シーズンにはクラークが移籍した上に、長年76ersを支えてきたハル・グリアも衰えを隠せなくなり、カニンガムは平均23.3得点12.2リバウンド5.9アシストを記録したものの、30勝52敗と負け越した76ersはプレーオフ出場も逃した。 カニンガムはこのシーズンを限りに76ersを去ることを決意するが、彼の移籍により、翌1972-73シーズンの76ersは悪夢のようなシーズンを経験する。76ersは9勝73敗という、NBA史上最低となる勝率を記録してしまうのである。 ABAと76ersへの帰還 カロライナ・クーガーズ カニンガムが選んだ移籍先は1967年に誕生したばかりの新興リーグであり、NBAのライバルリーグだったABAのカロライナ・クーガーズだった。NBAでは一流選手だったカニンガムは、ABAでも一流だった。彼はABAでの1年目となる1972-73シーズンに平均24.1得点12.0リバウンド6.3アシスト2.6スティールの成績を記録し、クーガーズをリーグ1位となる57勝27敗の成績に導いたのである。プレーオフではデビジョン決勝でダン・イッセル、アーチス・ギルモア擁するケンタッキー・カーネルズに敗れるが、カニンガムはシーズンMVPを受賞している。翌1973-74シーズンは足の怪我で出場を32試合に制限されるも平均20.5得点10.3リバウンドの成績を残したが、彼の欠場が響いたクーガーズのチーム成績は47勝37敗に留まった。 古巣での引退 カニンガムは1974-75シーズンに古巣フィラデルフィア・76ersに復帰する。カニンガムのクーガーズ移籍で泥沼を這いずり回った76ersだが、カニンガムの復帰に対するファンの反発はそれほど大きくはなかった。すでにハル・グリアは引退しており、76ersはフレッド・カーターやダグ・コリンズ、スティーヴ・ミックスらが主力を成すチームとなっていた。カニンガムは復帰1年目で平均19.5得点9.1リバウンド5.5アシストの成績を残し、チームもカニンガムの復帰で前年度の25勝を上回る34勝38敗の成績を残した。 カニンガムの引退は突然訪れた。1975-76シーズンの試合中に膝を故障。この怪我が元で、彼は2度とプロのコートに立つことは叶わなくなった。しかし彼は強制的な引退を強いられたことにそれほどショックを受けなかったようであり、本人は「私は全てのスポーツマンが苦しむ事になるその決定(引退)について悩む必要がなかったよ」と語っている。 引退後 コーチキャリア カニンガムの選手としてのキャリアは、1975年に終わったが、しかしそれで彼のバスケットキャリアが終わったわけではなかった。カニンガムは彼が選手として9年間所属したフィラデルフィア・76ersにヘッドコーチとして招かれ、1977-78シーズンから指揮を採ることになった。76ersは生え抜きのダグ・コリンズと元ABAのジョージ・マクギニス、そしてやはり元ABAの大スター、ジュリアス・アービングらを主力とするチームとなり、カニンガムのコーチ就任1年目から55勝27敗を記録したが、プレーオフではカンファレンス決勝でエルヴィン・ヘイズ、ウェス・アンセルド擁するワシントン・ブレッツの前に敗れた。その後マクギニスはチームを離れ、ダレル・ドーキンスやモーリス・チークス、ボビー・ジョーンズらが加入した76ersはイースタン・カンファレンスを代表する強豪チームとなるが、1979年にNBA入りした2人の新人が彼らの前に立ちはだかることになる。 一人は76ersと同じイースタン・カンファレンスに所属するボストン・セルティックスに入団したラリー・バードである。1979-80シーズンに59勝23敗をあげた76ersは、カンファレンス決勝でバードのセルティックスを4勝1敗で退けたが、ファイナルではもう一人の新人、マジック・ジョンソンが入団したロサンゼルス・レイカーズに2勝4敗で敗れた。1980-81シーズンには62勝をあげるが、今度はカンファレンス決勝でセルティックスに、58勝をあげた翌1981-82シーズンにはファイナルで再びレイカーズに敗れた。 どうしても優勝できない76ersは1982-83シーズンを前に思い切った補強を行った。過去2回のシーズンMVPに輝くリーグを代表するセンターのモーゼス・マローンを獲得したのである。マローン獲得効果は絶大で76ersは新シーズンに65勝17敗の成績を収め、マローンは3回目のMVPを受賞。プレーオフも圧倒的な強さで勝ち上がり、ファイナルでもレイカーズを4戦全勝で破って優勝を果たした。カニンガムにとっても76ersにとっても、1967年以来の優勝となった。 優勝以後の76ersも毎シーズン50勝以上をあげる強豪として80年代中盤を過ごしたが、優勝には手が届かなかった。カニンガムは少しずつNBAでの生活に疲れ始め、チャールズ・バークレーが入団した1984-85シーズンを最後にコーチから退いた。コーチキャリアは8シーズン650試合で454勝196敗(勝率 .698)、全シーズンでプレーオフ出場を果たし、ファイナル進出は3回、優勝は1回である[2]。カニンガムはNBA史上最速で200勝、300勝、400勝に達したコーチである。コーチとしてのカニンガムはその情熱的な采配ぶりで有名であり、コートのサイドラインを誰よりも動き回ったという。 ブロードキャスト コーチ職から離れたカニンガムは、トム・ヘインソーンの後を継いでCBSのスポーツ解説者となり、人気を博した。その後マイアミへのNBAチーム誘致活動のためにCBSを離れ、1988年にはマイアミ・ヒートが誕生。カニンガムは小口オーナーとしてヒートの誕生に関わった。その後カニンガムは1994年にヒートの株式を売却し、CBSの解説者に復帰した。 選手像とその業績 元フィラデルフィア・76ersゼネラルマネージャーのパット・ウィリアムスはこう語る。「ビリーの人生を振り返ることは素晴らしいことだ。彼は高校でスーパースターだった。そしてノースカロライナ大学に行き、オールアメリカンになった。ドラフトでは1巡目指名だ。オールスターにもなった。彼はコーチになって最も素晴らしい勝率を残した。解説者としても成功したし、NBAのエクスパンションも成功させた。信じがたい。注目に値する人生だ」。彼は正に伝説を歩むための教則本を読んだかのようなキャリアを過ごしたのである。素晴らしい跳躍力と多彩な才能を持つカニンガムは、毎シーズン得点、リバウンド、アシスト、スティールで高い数字を残す優れたオールラウンドプレーヤーだったが、彼の最大の特徴はその勝利への強い意志と激しい気性だった。得点やリバウンド以外にもパーソナルファウル数でも毎シーズン、リーグの上位に入っており、テクニカルファウルの数や失格退場の回数も非常に多い選手だった。あるシーズンでは32回のテクニカルファウルを貰い、その度に50ドルの罰金を払った。カニンガム自身、「私は感情的な人間だ。感情をリリースしない私は、もはや私ではない」と自身について語っている。一方で選手としてのカニンガムは確かな実力の持ち主だった。ジョン・ハブリチェックはカニンガムのプレー振りをこう評している。「彼は一所に留まることが不可能なほどに速く、高く跳べた。それに彼は良いチームプレーヤーで、パスも素晴らしい」。 通算成績 得点、リバウンド、アシストの成績は下記の通りである。[1] 主な業績 アマチュア ACC年間最優秀選手:1965 NCAAオールアメリカ3rdチーム:1965 ユニバーシアード出場 ACC50周年記念オールタイムチーム:2002 NBA選手キャリア オールルーキー1stチーム選出:1969 オールNBA1stチーム選出:3回 (1969、1970、1971) オールNBA2ndチーム選出:1972 NBAファイナル制覇:1967 NBA50周年記念オールタイムチーム:1996 ABAキャリア ABAオールスターゲーム出場:1973 オールABA1stチーム選出:1973 ABA最優秀選手:1973 ABAオールタイムチーム NBAコーチキャリア NBAファイナル制覇:1983 バスケットボール殿堂:1986 背番号「32」はフィラデルフィア・76ersの永久欠番 関連項目 フィラデルフィア・セブンティシクサーズのチーム記録 脚注 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%A0
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 763, 1044, 2561, 3067, 4737, 5732, 6069, 7236, 7478, 7626, 8047, 8440, 8763, 9186, 9931, 10236, 10777, 11520, 12333, 12636, 13077, 13479, 13738, 14193, 14750, 15066, 15645, 15972, 16320, 16505, 16880, 17648, 17966, 18403, 19397, 19551, 19906, 20094, 20514, 21162, 21400, 21584, 21910, 22132, 22743, 23221, 24396, 24966, 25262, 25894, 26250, 26507, 27111, 27790, 28255, 28807, 29480, 30065, 30341, 30790], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 762, 1036, 2560, 3059, 4736, 5731, 6068, 7235, 7461, 7625, 8046, 8439, 8762, 9185, 9930, 10235, 10712, 11480, 12332, 12628, 13076, 13478, 13666, 14192, 14724, 15065, 15576, 15971, 16266, 16504, 16879, 17647, 17892, 18402, 19359, 19515, 19905, 20093, 20503, 21139, 21399, 21583, 21886, 22131, 22720, 23194, 24379, 24965, 25261, 25892, 26215, 26506, 27110, 27773, 28254, 28806, 29479, 30064, 30303, 30715, 31366], dtype=int32)}
アイルランドにキリスト教が伝来したのはいつ?
ハロウィン
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
ハロウィン、あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[480,492,3,3]}'>ハロウィーン( または Hallowe'en[※ 1][※ 2])とは、毎年10月31日に行われる、古代ケルト人が起源と考えられている祭のこと。もともとは秋の収穫を祝い、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であったが、現代では特にアメリカ合衆国で民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっている。カボチャの中身をくりぬいて「ジャック・オー・ランタン」を作って飾ったり、子どもたちが魔女やお化けに仮装して近くの家々を訪れてお菓子をもらったりする風習などがある[1]。 キリスト教の祭ではない[※ 3][※ 4][※ 5]。ハロウィンに対しては、本体キリスト教にとっては異教徒の祭りであったことから、キリスト教教会においては、容認から否定まで様々な見解がある(後述)。 概要 ケルト人の1年の終わりは10月31日で、この夜は秋の終わりを意味し、冬の始まりでもあり、死者の霊が家族を訪ねてくると信じられていた。時期を同じくして出てくる有害な精霊や魔女から身を守るために仮面を被り、魔除けの焚き火を焚いていた。これに因み、31日の夜、カボチャ(アメリカ大陸の発見以前はカブが用いられた。スコットランドではカブの一種ルタバガを用いる[2]。)をくりぬいた中に蝋燭を立てて「ジャック・オー・ランタン(Jack-o'-lantern)」を作り、魔女やお化けに仮装した子供たちが近くの家を1軒ずつ訪ねては「トリック・オア・トリート(Trick or treat. 「お菓子をくれないと悪戯するよ」または「いたずらか、お菓子か」)」と唱える。家庭では、カボチャの菓子を作り、子供たちはもらったお菓子を持ち寄り、ハロウィン・パーティを開いたりする。お菓子がもらえなかった場合は報復の悪戯をしてもよい、とされている[3][4][5]。玄関のライトを点けていると訪問してもよいという意思表示になっており、それにもかかわらず断る家主とは悪戯の攻防戦が繰り広げられる[6]。これはあくまでも電気が点いている家に対してであり、そうでない場合はがっかりして立ち去るのがほとんどである[7]。 カトリック教会の諸聖人の日がハロウィンに重なる形で設定されており、これを「カトリック教会が(キリスト教からみて)異教の祭を取り込んだ」とする見方と、「カトリック教会が(キリスト教からみて)異教の祭を潰すために設定した」とする見方がある。いずれにしてもハロウィンは元々キリスト教の祭では無かったことが両見解の前提となっている(後述)。 歴史 古代ケルトのドルイドの信仰では、新年の始まりは冬の季節の始まりである11月1日のサウィン(サオィン/ˈsaʊ.ɪn/、サワーン/ˈsaʊn/、サーウィン/ˈsɑːwɪn/[8]または、サウィーン、サーオィン、サムハイン、Samhain)祭であった。ちょうど短い日が新しい年の始まりを示していたように、日没は新しい日の始まりを意味していた。したがって、この収穫祭は毎年現在の暦で言えば10月31日の夜に始まった。アイルランドと英国のドルイド祭司たちは、かがり火を焚き、作物と動物の犠牲を捧げた。また、ドルイド祭司たちが火のまわりで踊るとともに、太陽の季節が過ぎ去り、暗闇の季節が始まった。11月1日の朝が来ると、ドルイド祭司は、各家庭にこの火から燃えさしを与えた。各家族は、この火を家に持ち帰り、かまどの火を新しくつけて家を暖め、悪いシー(Sí、ケルト神話の妖精。ちなみに「バンシー」とは「女の妖精」の意。)などが入らないようにする。1年のこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたからである。祭典ではかがり火が大きな役割を演じた。村民たちは、屠殺した牛の骨を炎の上に投げ込んだ。かがり火が燃え上がると、村人たちは他のすべての火を消した。その後、各家族は厳粛にこの共通の炎から炉床に火をつけた。 従来、ローマ人は11月1日頃に果実・果樹・果樹園の女神でリンゴをシンボルとしていた女神ポーモーナを讃える祭りを祝っていたと考えられており、紀元1世紀にブリテン島に侵入した以降はケルト地域にポーモーナの祭りをもたらしたと言われていた。ハロウィンの行事としてダック・アップルが行われるのはその由縁からと考えられ、またハロウィンのシンボルカラーである黒とオレンジのうち、オレンジはポーモーナに由来するとの説がある[9]。しかしながらこうしたポーモーナの祭りとの関連性について、新しい研究は否定的見解をとっており、そもそもポーモーナの祭りが古代ローマにおいて盛大に祝われていたかについてすら疑義が差し挟まれている[10]。また古代ローマの祖霊祭(Parentalia)からの影響も指摘されている[11]。 ハロウィンの習慣は、イングランド南部では17世紀以降、11月5日の火薬陰謀事件の記念日(ガイ・フォークス・ナイト)に置き換わり、廃れた。しかしながら、スコットランド・アイルランド・マン島・ウェールズでは引き続き広く普及していた[12]。 ハロウィンがアメリカの年鑑に祝祭日として記録されたのは19世紀初頭以降のことである。ニューイングランドのピューリタンなどはハロウィンに強く反対する立場であり、19世紀になりアイルランドおよびスコットランドから大量に移民が到着するまでは、ハロウィンが本格的に定着することはなかった[13]。ハロウィンは19世紀半ばまで特定の移民共同体の内でだけの行事として行われていたが、徐々にアメリカの「主流社会」に受け容れられるように、20世紀初頭には、社会的、人種的、宗教的背景に関係なく、アメリカのほとんどの人々に受け入れられ、東海岸から西海岸へ広まった。1950年代には「トリック・オア・トリート」の合言葉が製薬会社や映画会社、テレビ局などの仕掛けもあり普及した[14]。そして、世界各国で軍事的・経済的に活動するアメリカ人が増えるのにともない、そうした場所で、アメリカ風のハロウィンの風習も広がることになった。 カナダでは、製菓会社がハロウィン用の宣伝を1860年代から始め、1980年以降には現在のハロウィンと差異はなく、クリスマスの次に大きなイベントになっていった[15]。 各国の現況 文化圏によってかなり扱いが異なっている。興味を示している地域と、興味が無く無視している地域がある。 現代でハロウィンが大々的に行われているのは主に英語圏であり、例えばアイルランド・イギリス、およびイギリスが進出・侵略して植民地化するなどして「イギリス帝国」の一部に組み込みイギリス流の文化を広めた場所(アメリカ・カナダ・ニュージーランド、そしてオーストラリアなど)に広まっている。 特に、もともとケルト人の国であるアイルランドに色濃く残っている。アイルランドでは10月最後の月曜が祝日となっており、ハロウィンを祝う習慣が最も純粋な形で残っている。この祝日に続く週は、学期の半ばであるがすべての学校が休みになり、一般に「ハロウィン休み」と呼ばれる。 上述の旧イギリス帝国系の国々ではハロウィンが盛大に祝われるが、アメリカの一部キリスト教系学校では、ハロウィンがキリスト教由来の行事ではないことから、「ハロウィンを行わないように」という通達が出されることがある[※ 6]。 上述の国々でアイルランド以外はプロテスタント信者が多いせいもあって、その翌日にあたる諸聖人の日には、通常これといった行事は催されない。宗教改革以降、プロテスタント諸国ではカトリック教会の祝日である諸聖人の日が徐々に廃れたため、ハロウィンのみが残された格好になっているのである[※ 7]。 カトリック信者の多いラテン民族諸国(すなわちローマ帝国時代にラテン語が広まり、その後、口語ラテン語の地域方言が歴史的に変化した言語が話されることになった地域)、主にイタリア・スペイン・ポルトガル・フランス、および植民地となった南アメリカ諸国のブラジル・ペルー・アルゼンチン、ラテンアメリカのコスタリカ・ニカラグア等々では、人々はハロウィンに興味を持っておらず、無視している状況にある。これらの国家においては『諸聖人の日』の方が重要視されており、諸聖人の日を祝日に制定して休日にしている国家もある。 東方教会(正教会・東方諸教会)が広まる地域(東欧・中東など)においてもハロウィンをほぼ無視している。ロシアにおいてはロシア教育省が「ハロウィンは子ども達の壊れやすい心には有害である」との見解を出した[16]。 (同じゲルマン語系言語を話すという点で、何かと英語圏の接点の多い)ドイツ、また、19世紀に英語圏の諸国に植民地化されたり、敗戦によって占領されるなどして、イギリス・アメリカ風の文化が流入されたり交流が深くなった)東南アジア諸国、日本などにおいては「アメリカの大衆文化」として一部受容されている(日本については後節参照)。 ハロウィンの行事 ジャック・オー・ランタン ジャック・オー・ランタン、あるいは、ジャック・オ・ランタン[17][18]([※ 8][※ 9])は、「お化けカボチャ」「カボチャちょうちん」とも言えるもので、オレンジ色のカボチャをくりぬき、ナイフで目・鼻・口をつけ、内側に火のついたろうそくを立てるもので、最もハロウィンらしいシンボルである。ハロウィンを祝う家庭では、カボチャを刻んで怖い顔や滑稽な顔を作り、悪い霊を怖がらせて追い払うため、ハロウィンの晩、家の戸口の上り段に置く。これは「ウィル・オー・ザ・ウィスプ」を象徴したものである。 トリック・オア・トリート 英語圏では、子供たちが「Trick or Treat(トリック・オア・トリート)」 という言葉、直訳では「いたずらか、ごちそうか」で、聞いている側としては「ごちそうをくれないと、いたずらしちゃうぞ」というニュアンスに聞こえる言葉を唱えながら家々を訪ね、菓子を集めて回る習慣があるが、これは古い英語で wassailing と呼ばれるクリスマスの時期の酒宴の習慣に似た、ソウリング(souling)と呼ばれるヨーロッパの習慣から発展したという。子供たちに訪問される側の大人たちは、子供たちのためにあらかじめお菓子を大量に用意して待つ。地域の大人たちと子供たちが交流できる機会になっている。 ティーンエイジャーになると、お菓子を集めるよりもむしろ庭木の枝にトイレットペーパーをかけたり家や車に鶏卵を投げつけるといったいたずらをすることがある。それを防止する方法もいろいろ考えられている[19]。 仮装 ハロウィンで仮装されるものには、アメリカでは基本的には「恐ろしい」と思われているものが選ばれる傾向があり、たとえば幽霊・魔女・コウモリ・悪魔・黒猫・ゴブリン・バンシー・ゾンビなどの民間で伝承されるものや、吸血鬼や狼男・フランケンシュタインのような欧米の怪談や恐怖小説に登場する怪物が含まれる。 20世紀後半のアメリカでは、お姫様・海賊などといった人物、しかもあまりリアルな姫や海賊ではなく、ディズニー的でアメリカ流にアレンジしてステレオタイプ化されキャラクター化された登場人物や、スパイダーマンやバットマンなど漫画・映画のキャラクターの仮装も行われるようになった。 1992年10月17日にはアメリカ合衆国ルイジアナ州で、ハロウィンの仮装をし他人宅を訪れた16歳の日本人留学生が射殺される事件が発生した。 ニューヨーク・ヴィレッジ・ハロウィン・パレード ニューヨーク・ヴィレッジ・ハロウィン・パレード(New York's Village Halloween Parade)は、毎年ハロウィンの日にニューヨークで行われる世界最大規模のハロウィンの仮装パレードである。1974年に始まったイベントは、夜7時にグリニッジ・ヴィレッジ付近をスタートし、6番街を中心とした決められた経路を1マイル以上にわたって練り歩く。 仮装をした者であれば誰でも参加することができ、毎年6万人の参加者と200万人の見物人が訪れるニューヨーク最大のイベントの1つでもある。仮装する参加者には、市民や観光客のほか、ダンサー・アーティスト・大道芸人などが含まれ、数十の山車やバンドも登場する。世界中にテレビ中継もされ、約1億人の人々が視聴する。この日のニューヨークの街は、仮装した者で深夜まで溢れかえる。 ダック・アップル 「ダック・アップル (Duck Apple)」または「アップル・ボビング (Apple Bobbing)」(リンゴ食い競争)はハロウィン・パーティで行われる余興の1つで、水を入れた大きめのたらいにリンゴを浮かべ、手を使わずに口でくわえてとるゲーム[2]。 アガサ・クリスティ著『ハロウィーン・パーティ』の中ではこのリンゴ食い競争の他[※ 10]、昔から代々伝わってきたゲームとして、小麦粉の山から6ペンス硬貨を落とさないよう小麦粉を順番に削り取る「小麦粉切り」や、皿に盛った干しブドウにブランデーをかけて火をつけ、そこから干しブドウをつまみ取る「スナップ・ドラゴン」(ブドウつまみ)などが紹介されている。 キリスト教との関連 教会の祭としては祝われない 教会暦を教会全体で使用するカトリック教会[※ 3]・聖公会[※ 4]・ルーテル教会[※ 11]・正教会[※ 5]・東方諸教会[20]の全てで[※ 12]、ハロウィンは教会暦上の祭としては祝われない。先述の通り、元々ハロウィンの起源はキリスト教では無い。 ただし地域によっては教会でも、この日に合わせてパーティ等のイベントを行うことがある。しかしながらそうした場合でも教会は、キリスト教の趣旨に合わない要素は出来る限り取り除くように努めている(後述)。 ハロウィンに重なっている諸聖人の日 教会暦では日没から翌日日没までを一日と数える。したがって10月31日の夜は、教会暦においては「11月1日の始まりとしての夜」になる。 カトリック教会では11月1日を「諸聖人の日」(古くは「万聖節」とも)としているが、英語の「ハロウィン」は「諸聖人の日(万聖節)の夜」を意味する "All-hallow Evening" の短縮形をその語源としており[21]、現在確認されている使用例は、16世紀にみられるものが最古である[22]。 ハロウィンに重なるように設定されている諸聖人の日は、もともと東方教会の衆聖人の主日に由来するもので、カトリック教会では609年に導入され、当初は5月13日に祝われていた。しかし8世紀頃から英国やアイルランドでは11月1日にすべての聖人を記念するようになり、同時代のローマ教皇グレゴリウス3世(在位731年 - 741年)によって、11月1日に祝う習慣がローマ教会に広く導入された[23]。これについては、ケルト人が自然崇拝からケルト系キリスト教を経てカトリックへと改宗する過程で、ケルトの収穫祭に合わせて11月1日に設定したとされている[23][24][25][26][27]。 カトリック教会では、諸聖人の日は祭日としているが、ハロウィンは祭日ではなく典礼暦(教会暦)にも入っておらず、教会の宗教行事・公式行事として行われることはない[※ 3]。 諸聖人の日がハロウィンに重ねられた目的:二つの説 小澤克彦は、ケルト人への宣教にあたり、ケルトのサウィン祭はアイルランドのキリスト教会に影響を与え、カトリック教会も、民族の根幹にかかわる祭りは民衆から取り去ることはできなかったため、「諸聖人の祝日」の日を11月1日に変更したことで、その前夜祭がハロウィーンとして民衆に残されたと説明している[27]。 他方、キリスト教についてのメルマガも発行している映画評論家、服部弘一郎[28]は、古代の冬至祭に対抗してクリスマス、ケルトの祭に対抗して諸聖人の祝日を持って来た教会の戦略を「ライバル店舗の目と鼻の先に新店舗を作って盛り上げ、ライバル店を潰そうとする外食チェーン店やコンビニみたいな戦略」と喩えている。その上で、クリスマスを「ライバル店側が消えた(異教側の祭が消えた)」例として、ハロウィンを「ライバル店側が残った(異教側の要素が残った)」例として挙げており、「教会には民衆の祭(ハロウィン)を残す意図があった」とする小澤とは違い、教会は先行する異教の祭(ライバル店)を完全に潰そうと考えていたが、それが挫折して残ったものであると捉えている[29]。 容認する見解と批判的見解 キリスト教各派によるハロウィンの評価・対応は、由来を考慮して様々に分かれる[30]。 西方教会 カトリック教会 先述の通り、カトリック教会の教会暦にある祭ではない。カトリック中央協議会のウェブサイトを検索しても、「ハロウィン」「ハロウィーン」はヒットしない[※ 3]。Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典)にも、ハロウィンの独立項目自体が存在しない[※ 13]。 カトリック教会においては、「ハロウィンは世俗のイベントである」として、特に肯定的評価も否定的評価も言及されないことがある[31]。 一方、ポーランドのカトリック教会の首都大司教は信徒たちに宛てたメッセージの中で、ハロウィンについて「子どもたちに世の悪魔や闇を『楽しみ』として誤った方向に導くもの」等と厳しく批判。ポーランドのカトリック教会はこれに賛意を示し、ハロウィンについて「オカルト」であるとした[32]。 聖公会 イングランド国教会のウェブサイトでは、由来はキリスト教からみて異教のものであること、最近のハロウィンの祝われ方はアメリカから入って来た習慣であることを指摘しつつ、「ハロウィンは、悪魔を些細なものとする力を持ち、悪の善に対する勝利を祝うものとして描写されるかもしれないが、その際、私たちはキリスト教徒として、実際にはその反対こそが正しい、すなわちキリストにおいて善は悪を征服するのであると信じている」と表明している[33]。 プロテスタント そもそもプロテスタントの大半には、聖人崇敬の概念自体が存在しない。したがって、諸聖人の日を祝う習慣も存在しないし、ハロウィンもまた教会の行事とはなっていない。 プロテスタントにおいて、10月31日はむしろ宗教改革記念日として記憶される。ハロウィンの「危険性」が訴えられることもある[34][35]。 一方でプロテスタントのウェブ媒体において信者に対し、ハロウィンの諸行事に参加することを全否定はしないものの、キリスト教の信仰生活に悪影響がないよう、細心の注意を払うように呼びかけられることもある[36][37]。 東方教会 正教会 元々正教会では西方教会の諸聖人の主日に相当する「衆聖人の主日」は五旬祭の翌主日に祝われていてこれは6月に当たり、ハロウィンは正教会とは関係がない[38]。 ロシア正教会はハロウィンを「死のカルト」であると批判している[39]。英語圏の正教会では、ハロウィンを「カルト」と批判する主教の文章が紹介される一方で、「ハロウィンに家に来た子どもには、お菓子と一緒に、衆聖人のイコンをプレゼントする」という、正教会の教えに沿った形に替えるためのアイデアが紹介されることもある[40]。また、この日に晩課やパラクリシスといった奉神礼を行うよう推奨されていることがある[38]。 非カルケドン派 非カルケドン派正教会であるコプト正教会のロサンゼルス主教区からは、由来と趣旨の中にあるキリスト教と対立する部分を指摘し、その「危険性」(と教会が考える)部分について注意を喚起しつつ、ハロウィンの日に教会に子どもたちを集めるにあたって、教会の教えに沿った形で祈りと食事の集会を開く方針が示されている[20]。 日本とハロウィン 日本では馴染みのなかったハロウィンであるが、後述の1990年代後半より始まった東京ディズニーランドのイベントを筆頭として、各地でのハロウィンイベントの開催が増えたこと、さらに2000年代後半より菓子メーカーが相次いでハロウィン商戦に参入したことなどを契機としながら、2010年代中盤にはソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の普及にも後押しされて市場規模が拡大[41][42][43][44]。同時期、店頭・街中でのハロウィン装飾が見られるようになったほか、仮装・コスプレのイベントとして日本式にアレンジされたハロウィンが行われている[45]。近年では幼稚園や保育園の恒例行事になっているほか、大人も仮装をして参加するイベントが大都市圏を中心に各地で行われている。ただし、後述のように様々な問題も起きており、8割の人がハロウィンに関心を示していない、もしくは好まないという2016年のアンケート結果などもある[46][47]。 行事の開催 日本では、キデイランド原宿店が1970年代にハロウィン関連商品の店頭販売を開始し、1983年10月には同じくキデイランド原宿店が販売促進の一環として日本初とされるハロウィン・パレードを開催した[48]。アメリカで行われる娯楽行事の多くがそうであるように、近年では日本でもハロウィンが広く行われるようになってきた。ただしクリスマスなどと同様に、日本で行われるハロウィンの催しには宗教的色彩はより薄い。 ハロウィンのパレードとしては神奈川県川崎市のJR川崎駅東口一帯の「カワサキ・ハロウィン・パレード」が知られる。このパレードでは約3000人による仮装パレードで約10万人の人出を数える(1997年より毎年開催)[49]。 東京ディズニーランドでは1997年10月31日、園内に仮装した入園者が集まるイベント「ディズニー・ハッピー・ハロウィーン」が初めて開催され、2000年10月31日には400名の仮装した入園者とディズニーのキャラクターが園内をパレードする「Happy Halloween Twilight Parade」が開催された。2001年からは10月中に開催されるイベントとして園内パレードも行われるようになり、次第に秋のイベントとして恒例化していった。現在では9月初旬から始まる大きなイベントとなっている。 一方、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)で2011年より毎年開催されている「ハロウィーン・ホラー・ナイト」(en:Halloween Horror Nights)のように、ハロウィンのイメージになぞらえてホラー系のイベントを開催するケースも見られる。 各地でのイベントの開催 歴史的経緯から 欧米系島民が集住している東京都小笠原村父島では[50]、島民の秋のイベントとして定着しており、幼年の子どもたちの大多数が参加するほどの盛況ぶりを見せている[51][52]。 欧米系村民が多数存在し、海外からの観光客も多い長野県北安曇郡白馬村では、毎年10月の最終日曜日に、村民ボランティアによって「白馬deハロウィン」が行われていて、トリック・オア・トリートやジャック・ランタンコンテスト、仮装コンテストなどが行われ、地元の人気店による屋台も出店され、当日は歩行者天国になった村道に仮装した大勢の子供たちが家々を訪ね歩いてお菓子をもらっている光景が見られる(2005年より毎年開催)[53]。 他にも、鉄道の街として知られる新潟県新潟市秋葉区の新津地域では、毎年10月の最終土曜日に地元商店主や地元大学生たちによって「にいつハロウィン仮装まつり」が行われていて、仮装パレードや仮装コンテスト、スタンプラリーやナイトパーティなどが行われ、そのほか移動販売車や地元業者による屋台出店があり、当日は歩行者天国になった商店街のメインストリートには仮装した大勢の人(常時約1,000人、延べ約5,000人)がひしめく光景が定着しつつある(2007年より毎年開催)[54]。 事件・騒動 2007年10月27日には日本のJR山手線、大阪環状線に外国人など数十人のグループが押し寄せ、車内の蛍光灯を外す、網棚の上に寝転ぶ、他の乗客とトラブルを起こすなどして電車を遅延させるなど暴徒化する者もいた。2008年にはJR側が警視庁と連携を取りながら事前にビラを配り、ガードマンを配置するなど対応を強化するなどの対応をとった[55]。 2014年のハロウィンでは渋谷に多数の仮装者が集まったため混乱状態となり、機動隊が出動し駅前の交差点などに総勢約200人配置するなどの態勢で警戒にあたり、逮捕者も2名出るなど未明まで騒ぎが続いた[56]。また、同年のハロウィンでは更衣室の不足やごみの散乱などが問題視され、翌2015年のハロウィンでは神宮通公園などに仮設更衣室が設けられたほか、ゴミ袋の配布やゴミ拾いイベントも行われた[57]。 2015年10月13日、熊本県内で「仮面をかぶりチェーンソーを持った男が歩いていた」と110番通報があり、複数のパトカーが集まるなど一時は騒然となった。犯人は熊本市内の商業施設で勤務している20歳代の男で、「ハロウィーンの仮装で職場を驚かそう」と考えたとのことで、チェーンソーはおもちゃだった[58]。同年10月31日には渋谷のスクランブル交差点付近の路上で、迷彩服姿に仮装した20代の無職の男が警戒中の警察官をエアガンのようなもので殴打し、公務執行妨害の現行犯で逮捕された[59]。 2018年のハロウィン直前の週末には、渋谷に集まった人々により軽トラが横転させられる騒動が起きるなど行為がエスカレートして逮捕者が続出したことから、渋谷区長が「到底許せるものではない」という旨の声明を発表し、ハロウィン当日<!--(10月31日)-->の自制を呼びかける事態となった[60]。渋谷センター商店街の理事長もゴミが散乱するなどの迷惑行為等があったことから、この騒動を「変態仮装行列」と呼称し非難した[61]。 以上のようにハロウィン参加者によるごみの散らかしといった非常識行為、犯罪行為などが問題視されており、日本においてハロウィンに対する批判や非難も増加している[62]。 ハロウィンと類似した行事 オマーンではラマダン月の中間日、満月の夜にカランカショーと呼ばれるものが行われる。変装こそしないが着飾った子どもたちが歌を歌いながら近所を練り歩き、菓子や小遣いをねだる[63]。留守の家には「「お前の家はジン(アラブ圏の精霊)に包まれるぞ!」と叫ぶ」[64]。 ハロウィンが題材の作品 脚注 注釈 出典 関連項目 ペイガニズム クリスマスプレゼント 死者の日 日本人留学生射殺事件 - 日本人留学生がアメリカでハロウィンの仮装で他人の敷地に誤って侵入し、射殺された事件。 ローソクもらい - 北海道にて七夕に行われる当行事と類似した行事。 節分お化け - 京都と大阪で立春の節分に行われる仮装。理由がハロウィンと同じである。 ヴァルプルギスの夜 - ケルト民族の司祭による寒期の行事であるハロウィンと対になった暖期の行事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 426, 1410, 2331, 3144, 3728, 4343, 5054, 5584, 6191, 7319, 8516, 9307, 9988, 10576, 11084, 11338, 11798, 12345, 12791, 13044], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 418, 1409, 2330, 3143, 3727, 4313, 5053, 5583, 6190, 7318, 8486, 9306, 9987, 10575, 11076, 11337, 11797, 12344, 12790, 13007, 13420], dtype=int32)}
フメリニツキーの乱のターニングポイントは何?
カール・グスタフ戦争
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
カール・グスタフ戦争(デンマーク語:Karl Gustav-krigene)は、1657年から1660年に及ぶ、デンマークとスウェーデン間の戦争を指す。しばしばこの戦争は、スウェーデンを中心とした「北方戦争」の一戦役に数えられる。当時のスウェーデン王カール10世グスタフによって起こされた為、デンマークから命名された。 前史 デンマーク・スウェーデン間の戦争に至る経緯は、当時スウェーデンが王位継承問題を巡り、カール10世がポーランド・リトアニア共和国(俗に「ポーランド」と呼ばれる)にポーランド・スウェーデン戦争を仕掛けた事から始まっている。当時のポーランド・リトアニア連合、すなわちポーランドはウクライナ・コサックの首領ボフダン・フメリニツキーの大規模な反乱(フメリヌィーツィクィイの乱)を契機として「大洪水時代」と呼ばれるモスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)を巻き込んだ大戦乱に陥っていた。スウェーデン王カール10世は、スウェーデン王位継承権を持つポーランド国王ヤン2世にスウェーデン王位を諦めさせさせプファルツ王朝によるスウェーデン王位を確固とする為、ポーランドの戦乱に介入した。 スウェーデン軍は緒戦はワルシャワの戦いなどで大勝し、ポーランド・リトアニア王国のうちのポーランド王国の最南部を除く大半を席巻し、リトアニア大公国の大貴族(マグナート)ともケダイネイ合同を結び共和国を分裂させ、プロイセン公兼ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムにカール10世に忠誠を誓わせた。さらにブランデンブルク=プロイセンやロシアを含めポーランド分割を企てたものの、スウェーデンの強大化を警戒した近隣諸国はスウェーデンとの共闘関係を打ち切り、ポーランド人はヤスナ・グラ修道院を中心にレジスタンスを行った。この蜂起に勇気付けられポーランドは反撃を開始し、スウェーデンとリトアニア大公国との合同を阻止する。 その後ウクライナでの内乱が静まったポーランドは、チェンストホヴァのヤスナ・グラの戦いでスウェーデン軍の進撃をくい止めた。元々スウェーデンに比べてはるかに人口の多かったポーランド・リトアニア連合は、共和国全土を挙げ、それ以降は防衛戦争として軍事的にも外交的にも全力で大反撃を開始した。共和国のいまだ強大であった底力を見せ付けられ、スウェーデン軍はそれ以後あっけない連敗を重ね、カール10世はスウェーデン軍がかろうじて勢力を維持していた最北部バルト海沿岸のポメラニア地方のうちの狭い地域にまで追い詰められ、孤立して非常に危険な状態に陥ることとなる。 フリードリヒ・ヴィルヘルムは再びポーランドに忠誠を誓い、ロシアもまたスウェーデンに宣戦布告した。スウェーデンの同盟国、トランシルヴァニア公ラーコーツィ・ジェルジ2世もポーランド軍に敗れ故国に戻された。北方戦争に対し中立的であったデンマークは、ポーランドにおけるスウェーデン軍の失敗を見逃さず、これをバルト海における覇権奪回と失地奪還の好機と捉え、オランダと結び、スウェーデンに宣戦布告した。 1658年、カール10世はポーランドに再侵攻を試みるも共和国の厚い守りに遮られ、ロシア・デンマーク(カール・グスタフ戦争)との交戦も本格化、戦況の暗転と共に1659年に最終的に撤退した。しかし共和国もこの戦争で国力を消耗し、スウェーデンの撤退後にロシアとの戦争が再開された。ポーランドは、カール10世のポーランド併合の野心を阻止したものの、ポーランド=ヴァーサ家は最終的にスウェーデン王位請求権を放棄した。 第1次デンマーク戦争 カール・グスタフ戦争はこうして開始された。しかし予想に反してスウェーデン軍は迅速で、陸戦に関してスウェーデンは優位の状態であった。ただしスウェーデン海軍はデンマーク海軍の強固な護りに支えられ、首都への上陸は不可能であった。戦争初期、ドイツにおける反スウェーデンの立場を取った神聖ローマ帝国軍とブランデンブルク=プロイセン軍は静観の立場であった。またデンマークの従属国であるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国もカール10世と婚姻関係にある事から、デンマークへの侵入を黙認した。 一方この年、スウェーデンの海外の植民地は大きな転機を迎える事となった。スウェーデンの唯一とも言える入植地、ニュースウェーデンは敵対するオランダ軍の侵攻を受け陥落。これによって、スウェーデンの植民地は事実上喪失した。この頃、モスクワ大公国も属領フィンランドへ侵攻し、一時的ながらスウェーデン東部領土を占領する事に成功した(1661年にカディス条約により返還)。 カール10世率いるスウェーデン軍は、対デンマーク戦でデンマーク領のユトランド半島を制圧した。開戦からわずか数ヶ月の事である。デンマークの首都は、1654年以降ユトランド半島のオーデンセに置かれていたが、カール10世の侵攻を見たデンマーク王フレデリク3世は、対岸のシェラン島にあるコペンハーゲンに戻した。防衛するには余りにも脆弱すぎたからである。シェラン島であれば、スウェーデン軍の上陸は事実上不可能であると思われた。 しかしデンマーク側に突如、青天の霹靂が訪れた。1657年から翌1658年にかけて大寒波がデンマークを襲ったのである。シェラン島とユトランド半島は凍結し、デンマーク艦隊も氷に閉ざされた。カール10世はこれを好機と捉え、侵攻を断行した。これは後年「氷上侵攻」と呼ばれる戦術であった。これは大いなる賭けであったが、カール10世は躊躇わなかった。1658年1月30日、スウェーデン軍の第一陣が海峡を渡り切った。一部の人馬は割れた結氷に飲み込まれたものの作戦は成功を収め、2月5日に全軍が島々を経由してシェラン島上陸に成功した。そしてスウェーデン軍は首都コペンハーゲンを包囲した。デンマーク軍は戦意を喪失し、フレデリク3世は降伏した。この時カール10世は、デンマークをスウェーデンに併合しようとしたが、イングランドとフランスが説得に入り、カール10世はこの時は譲歩し、デンマークと和睦交渉に入る。 2月26日、デンマークとスウェーデンは、ロスキレ条約を結び和睦した。この条約でデンマークはスウェーデンに屈服し、ボーンホルム島とスコーネ地方、ノルウェーのトロンハイム地方を割譲した。これらの割譲により、デンマークの人口はスウェーデンの半分に減少することとなった。しかも肥沃な穀倉地帯であったスコーネの割譲は、デンマークにとって痛手となった。この結果、スウェーデンが北欧の超大国の座を占めることとなった。しかし北欧以外に目を向けると、スウェーデンの状勢は好転したとは言えなかった。新大陸の植民地を失い、スウェーデンは植民地戦争には敗れた。ポーランドでは戦闘は収まったが軍事的には敗北し、フィンランドやリヴォニアでは、ロシアの占領状態が継続していた(1658年末の休戦協定によって交戦状態からは免れていた)。また、カール10世は国内における治政はまま成らず、北方戦争終結には程遠い状況であった。 第2次デンマーク戦争 カール10世はスウェーデンに帰国したものの、デンマークから不穏な情報がもたらされた。フレデリク3世がオランダと密議を交わし、スウェーデンと対決すると言う。デンマークの動きを不快視したカール10世は、この期に乗じてデンマーク征服を決意する。1658年暮れ、カール10世はロスキレ条約を一方的に破棄し、デンマークへと侵攻した。デンマーク側はこの事を全く予期しておらず、戦闘準備も為されていないまま翌1659年にコペンハーゲンを包囲された。しかしデンマークは徹底抗戦を厳命、フレデリク3世の元、全コペンハーゲン市民がスウェーデンに対し猛烈な抵抗を試みた。 ここでカール10世は一つの作戦ミスを犯した。戦闘準備が整っていないコペンハーゲンへの強襲作戦を退け、包囲戦を仕掛けたのである。これは結果的に失敗に終わり、デンマーク側の戦闘態勢を整えさせてしまう。スウェーデン軍は長期に渡る包囲網戦に疲弊して行った。しかもスウェーデン、デンマークとも著しい死者を出し、コペンハーゲンは陰惨な地獄と化した。この間にデンマークはオランダ、ハプスブルク家、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムとの同盟を締結させていた。 デンマークはひたすら同盟国の援軍を待ちわびた。そしてオランダは海軍をバルト海へ派遣し、神聖ローマ帝国軍、ブランデンブルク軍はユトランド半島へ進駐した。1658年にスウェーデン領となったスコーネでも大反乱が勃発した。予期せぬ戦況にカール10世は驚愕し、スウェーデン軍の撤退を決意した。ポンメルン、ポーランドに進駐するスウェーデン軍も引き上げさせた。戦争はカール10世に思わぬ展開を招来し、戦況は暗転した。 カール10世はスコーネに撤退し、そこで戦陣を張った。戦争の継続を掲げたカール10世は、劣勢の打開を試み作戦を再考する為にであった。しかしカール10世は戦陣で熱病に冒されて急死した。戦争の中心人物が突如消えた事で和平の機運は高まった。こうしてカール10世の開始した北方戦争は、自身の死により完結した。それはスウェーデンの軍事国家の終焉でもあった。 終結 スウェーデン国内は北方戦争の戦費負担により経済が大きく疲弊していた。1660年、イングランド、オランダ、フランスがスウェーデンに対し和平を進め、スウェーデンもそれに同意した。 和議は、まずカール・グスタフ戦争の当事者となったデンマークから行われ、4月23日にコペンハーゲン条約が締結された。デンマークはスコーネ以外の失地を取り戻し、スウェーデンはスコーネ地方、バルト海の支配権を確立した(ボーンホルム島とトロンハイム地方は、スコーネにあるデンマーク貴族の封土への代償として返還された)。 次いでポーランドとも5月27日にオリヴァ条約が結ばれ、ポーランドのスウェーデン王位継承権は永久に放棄され、プファルツ王朝のスウェーデン王位継承が認められた。代りにスウェーデンが占領していた貿易港はポーランドに返還された。ただ重要な貿易港リガを含めたリヴォニア()は正式にスウェーデン領となった。また、ハプスブルク家、ブランデンブルク=プロイセンともこの条約で和解した。 翌1661年6月21日には、カディス条約でモスクワ大公国がフィンランド、バルト地方から撤退した。カール・グスタフ戦争の終結は、即ち、北方戦争の終結であった。北方戦争においてスウェーデンは、バルト海世界に強いインパクトを与えたが、同時に財政も限界に達しており、結果的にスウェーデンは国力を消耗する事となった。 こうしてカール10世の企図したスウェーデン絶対主義体制は事実上完成の芽を見た。しかしスウェーデンは、1660年を境に緩やかな低調の時代へと転換して行く。 脚注 参考文献 関連文献 武田龍夫 『物語 北欧の歴史』 中公新書、1993年。ISBN 4-12-101131-7 武田龍夫 『物語 スウェーデン史』新評論、2003年。ISBN 4-7948-0612-4 百瀬宏、熊野聰、村井誠人編 『北欧史』 山川出版社、1998年。ISBN 4-634-41510-0 入江幸二 『スウェーデン絶対王政研究』 知泉書館、2005年。ISBN 4-901654-62-4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%95%E6%88%A6%E4%BA%89
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 454, 1165, 1865, 2330, 2876, 3198, 3807, 4344, 5335, 7756, 8743, 9483, 10464, 11480, 12087, 12513, 13269, 14305, 14643, 15079, 15417, 15572, 15868], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 446, 1164, 1864, 2329, 2859, 3197, 3806, 4312, 5334, 7755, 8735, 9482, 10463, 11479, 12086, 12481, 13268, 14304, 14635, 15056, 15388, 15534, 15844, 15993], dtype=int32)}
サブカルチャーが学問的な研究対象になり始めたのはいつから
サブカルチャー
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
サブカルチャー()とは、メインカルチャーの逆の概念の事である。かつては、大学で学問、研究対象にならない、新聞、雑誌などで論評の対象にならなかった。社会の支配的な文化の中で異なった行動をし、独自の信条を持つ人々の独特な文化である。「サブカル」と略されることが多い。カウンター・カルチャーとは異なる。 概論 主流文化に対し、一部の集団を担い手とする文化を指す用語で、副次文化ないし下位文化とも訳される。用語の起源は1950年に社会学者のデイヴィッド・リースマン[1]が使用したのが最初である。意味は「主流文化に反する個人のグループ」というもの。「サブ」とは、社会的マジョリティの文化・価値観から逸脱した、エスニック・マイノリティやLGBTといった「少数派集団」のことである。また、サブカルチャーは、マス・メディアの商業主義文化以外の価値観、行動様式、話し言葉など、本来の「文化」に近いものを指す。 ハイカルチャーが受け手側にある程度の素養・教養を要求するのに対し、サブカルチャーは必ずしも受け手を選別しない。サブカルチャーのサブは補う、第二のといった意味もある。つまり、漫画、イラスト、アニメ、ライトノベル、ポップミュージック、商業主義に走ったロック、娯楽映画などは大量生産・大量消費される商品だった。そのため、低く見られる傾向が強かった。しかし、1980年代、90年代以降にはサブカルチャーは既に、ハイカルチャーやメインカルチャーと同程度の影響力を持つようになってきた。 日本では「ハイカルチャー対サブカルチャー」という文脈においてサブカルチャーという言説が用いられているが、欧米ではむしろ、社会の支配的な文化(メインカルチャー)に対する、マイノリティの文化事象を指す言葉として使われている(この用語としてはTheodore Roszakが1968年The Making of a Counter Cultureにおいて用いたのが早い用法である)。 日本では特撮、アニメ、アイドルといった趣味を指す場合において用法が見られる。それらは1980年代に一般化しており、サブカルチャーとして定義するのは当初、拡大解釈だった。現在では大衆文化され、大衆文化の一つとしてあげられる。欧米の研究ではこうした文脈での日本のサブカルチャーは、サブカルチャー研究の領域というよりも、むしろ「メディア文化」研究の領域に含まれる。 歴史的変遷 かつて文化と考えられたものは、ハイカルチャー(学問、文学、美術、音楽、演劇など)であり、ブルジョア階級や知識人、教養ある人々に支持されるものであった。文化を享受するには一定の教養が必要であり、少数者のものであった。 20世紀になって、大衆文化の時代になると、こうした文化観は次第に変化していった。大衆の一部はハイカルチャーを身に付けようと努力し、例えば文学全集を応接間に並べることが流行する、といった現象が見られた。第二次世界大戦後には知識人と呼ばれる人たちも次第に大衆文化(映画、マンガ)に注目するようになった。例えば映画のジャンルも分化し、大衆向けの娯楽に徹するものと、芸術性を主張し表現するものが並存するようになった。 1960年代には、アメリカのベトナム反戦運動や公民権運動、ヒッピー文化を始め、各国で既成の体制や文化に対する「異議申立て」が行われた(ヒッピームーヴメント)。これはカウンターカルチャーと呼ばれた。しかし社会の保守化にともない、文化の意味付けが変化してきた結果、カウンターカルチャーが衰退し、それに代わるサブカルチャーが注目されるようになった。 日本のサブカルチャー 上述のように日本におけるサブカルチャーと海外、特に英米におけるサブカルチャーはその意味する所が大きく異なる。これはカルチュラル・スタディーズが切実な問題であったアメリカやイギリスとは異なり、日本では社会学や民族学の一環として国内のマイノリティが研究対象となることがほとんど無かったためである。少なくとも、英米において、マイノリティー文化の研究が実施された1960年代、1970年代に、日本で同様の研究が日本国内に対して行われることはなかった。サブカルチャーという概念が日本に輸入されるのは1980年代になってから、しかも本来の社会学・民族学を離れてのことである。民俗学では、「山の民」概念をきっかけとしたサンカ論が現代に至っているが、サブカルチャーの文脈に乗ることは無かった。 1980年代に入ると、ニュー・アカデミズムが流行し、専門家以外の人間が学問領域、特に社会学や哲学、精神分析などの言葉を用い学際的に物事を語るようになった。サブカルチャーという言葉もこの頃日本に輸入され、既存の体制、価値観、伝統にあい対するものとして使われた。これらの流れは多くの若い知識人や学生を魅了し、「80年代サブカルチャーブーム」と呼ばれる流行を作り出した。この頃のサブカルチャーは現在よりも多くの領域を包含し、漫画、アニメ、コンピュータゲーム以外にも、SF、オカルト、ディスコ、クラブミュージック、ストリートファッション、アダルトビデオ、アングラなどもサブカルチャーと見なされていた。しかし、1980年代サブカルチャーに共通していえることはマイナーな趣味であったということであり、この段階で既に本来のサブカルチャーの持っていたエスニック・マイノリティという要素は失われていた。確かに幾つかの要素は公序良俗に反すると見なされたという点で既存の価値観に反抗していたが、それらは1960年代のカウンターカルチャーが持っていた公民権運動や反戦運動などの政治的ベクトルとは無縁であった。もともと社会学におけるサブカルチャーという用語は若者文化をも含んでいたが、エスニック・マイノリティという概念の無い1980年代の日本においては少数のサークルによる若者文化こそがサブカルチャーとなっていた。この含意の転回には日本における民族問題意識の希薄さ以外にも、サブカルチャーという概念の輸入が社会学者ではなく、ニュー・アカデミズムの流行に乗ったディレッタント(英、伊: dilettante。好事家。学者や専門家よりも気楽に素人として興味を持つ者)によって行われたことも関連している。研究者ではない当時の若者たちにとっては学術的な正確さよりも、サブカルチャーという言葉の持つ、差異化における「自分たちはその他大勢とは違う」というニュアンスこそが重要であったともいえる。 この頃のサブカルチャーは複数の要素を内包しつつも、ジャンル間に横の繋がりは未発達で、場合によっては複数の分野を掛け持ちすることはあったものの、基本的に愛好者たちは別々の集団を形成していた。しかし1990年代に入るとこの群雄割拠に転機が訪れる。メディアミックスの名の下に漫画、アニメといったジャンルの統合が進んだのである。漫画がアニメ化され、アニメが小説化されるという現象によってこれらのジャンルは急速に接近し、俗に「おたく文化」と呼ばれる、その他サブカルチャーから突出した同質性を持つ集団を形成するようになる[2]。現在では、この「おたく文化」が、過半数を占めるかはさておいて、サブカルチャーの最大与党であり、サブカルチャーそのものという見方すらされている[3][4]。 論争 現在の日本におけるサブカルチャー論で最大の問題は言説の乖離である。本来のカルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャーは民族や階級に関連した政治的色彩を帯びたものであった。1980年代に一世を風靡した日本のサブカルチャーはそこから政治色を表面的に無視して、趣味の領域への限定を装ったものである。これは(実際はともかくとして)「一億総中流」「単一民族国家」という言説が大きな抵抗も無く通用したことを考えると致し方のないことにも思われる。その後おたく文化=サブカルチャーという見方がされるようになる。 この様に、大別するとサブカルチャーという言葉は3つの用法を持っているが、これらの乖離があまり意識されることは無く、サブカルチャーという言説が一人歩きしている。無論、言説の回収と再統合がまったく試みられていないわけではない。特にカルチュラル・スタディーズの専門家からは1980年代サブカルチャーブームを、日本において独自進化を遂げたものとして、その意義を認めようとする動きが出ている[5]。しかし、それもストリート・カルチャーやテクノ、ヒップホップなど、カルチュラル・スタディーズにおけるサブカルチャー研究で既に経験済みであった要素までである。研究者サイドは未知の分野であるオタク文化の形成等に興味が無く、漫画、アニメをサブカルチャーから切り離しているようである[6]。 一方、1980年代サブカルチャーの側はそもそもカルチュラル・スタディーズの概念などは眼中にないようである。もともと正規の学問の場を離れることを特徴の一つとしたニューアカデミズムの影響もあり、彼らのサブカルチャーは、起源を切り捨て独自進化を遂げたサブカルチャーの概念からメインカルチャーをも規定しており[7]、従来の社会学が持っていた用法とは異なる、別の意味をもった概念となっている。そこでは「サブカルチャーとメインカルチャー(≒ハイカルチャー)」という概念のみを利用し、政治的・民族的な要素を排除し、単純化した「少数者による趣味」として、積極的な意味を付与している。また彼らにとって、おたく文化とされる一群は「サブカルチャーの一部に過ぎない」か、「サブカルチャーですらない」か、である。 上記の2つの例とは異なり、おたく文化としてのサブカルチャーは単純である。おたく文化こそがサブカルチャーであり、そこには何の留保も存在しない。メインカルチャーという概念が持ち出されることもない。彼らにとってはカルチュラル・スタディーズなどはどうでもよいことであり、1980年代サブカルチャーブームも眼中には無い。むしろクラブミュージックやストリートカルチャーなど一部の1980年代サブカルチャーを敵視する場合すらある。 この様にサブカルチャーという語は大きく分けて3通りの用法を持っているが、厄介なのはいまだにそれぞれの用法が現役で使われているということである。そのため、同じサブカルチャーという言葉を用いているにもかかわらず、まったく別の事柄について論じている場合が多々見られる[8]。 サブカルチャーの位相 70年代に注目された音楽文化としては、例えばレゲエがあげられる。ジャマイカ音楽であるが、欧米の白人文化に対する抵抗であり、対抗文化(カウンターカルチャー)として評価された。ただし、日本においてはレゲエも対抗文化として受け入れられるよりは目新しい音楽ジャンルの一つとして受容されている。また、カウンターカルチャーは反動的な政治主張と結びついている場合も多い。欧米のサブカルチャーが政治的あるいは人種的対立を背景にしており、一定の主張を持ったグループが担うものである点は、日本におけるサブカルチャーとは異なる。 近年では、教養そのものが揺らいでおり、従来ハイカルチャーを支えてきた知識人も大衆文化やオタク文化に注目しているのが現状である。趣味・嗜好の多様化・細分化や価値観の転倒により、従来サブカルチャーと見られていたものが一般に広く評価されるようになったり、ハイカルチャーの一部であったものがサブカルチャーとして台頭するという逆転現象も見られるようになっている。例えばかつては、歴史や古典文学について最低限の知識を持つことは当然で、そうした知識に精通することはハイカルチャーと考えられていた。しかし、近年では知らないことを恥じるどころか、歴史や古典文学について無知であることも、恥ずかしくないとする傾向が指摘されている。このように、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界、色分けは曖昧となってきている。 一般にサブカルチャーは、個々の主観によって自立して成立する行動様式の理念として昇華した、「顔の見える文化」だといえる。とはいえインターネットの普及によって、このサブカルチャーは「顔の見えない」側面も持っていることがある。 類語 オタク文化とサブカルチャーが同一視される場合もあるが、両者の微妙な差異にこだわる向きもある(例: 「ユリイカ」2005年8月増刊号 オタクvsサブカル!)。また、オタク文化は大槻ケンヂのように、大衆文化とは逆にお坊ちゃん文化という場合がある。寺山修司のように、サブカルの方が大衆文化に近い。 脚注 参考文献 マーティン A.リー、ブルース・シュレイン 越智道雄訳『アシッド・ドリームズ―CIA,LSD,ヒッピー革命』(第三書館) 宮沢章夫編著・「ニッポン戦後サブカルチャー史」制作班『NHKニッポン戦後サブカルチャー史』(NHK出版 2014年) 関連項目 発信者 丸尾末広 根本敬 つげ義春 戸川純 大槻ケンヂ 寺山修司 横尾忠則 宇田川岳夫 村崎百郎 発信地・出版社・媒体 月刊漫画ガロ ナゴムレコード 新宿ロフトプラスワン 太田出版 青林堂 黒猫堂 筋肉少女帯 ランク王国 アックス コミックビーム 青林工藝舎 彩図社 ヴィレッジヴァンガード (書籍・雑貨店) ペヨトル工房 概念・その他 現代アート ネオペイガニズム セカイ系 ガロ系 電波系 インド ヘタウマ アンダーグラウンド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC
{'plaintext_start_byte': array([ 2, 478, 1453, 2242, 2447, 2590, 3159, 3803, 4208, 5035, 5780, 6424, 6908, 7087, 8297, 9026, 10716, 11556, 12721, 13852, 15139, 15750, 16106, 17846, 18544, 19387, 19752, 19978, 20535, 20880, 21947, 22702, 24248, 25284, 25405, 25602, 27502, 28480, 31312, 32403, 32532, 32634, 32698, 33008, 33231, 33395, 33675], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 454, 1452, 2241, 2427, 2589, 3158, 3802, 4207, 5034, 5779, 6423, 6907, 7085, 8283, 9025, 10715, 11555, 12720, 13851, 15125, 15749, 16105, 17813, 18543, 19386, 19735, 19977, 20534, 20872, 21939, 22694, 24147, 25283, 25368, 25594, 27484, 28463, 31292, 32402, 32521, 32623, 32697, 32997, 33210, 33375, 33653, 33942], dtype=int32)}
坪井 智哉の現役事態のポジションは何
小笠原道大
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
小笠原 道大(おがさわら みちひろ、1973年10月25日 - )は、千葉県千葉市美浜区出身の元プロ野球選手(内野手、捕手)。右投左打。愛称は「ガッツ」、「北の侍」。現役時代は日本ハムファイターズ・北海道日本ハムファイターズ、読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズに所属。2016年シーズンより中日ドラゴンズ二軍監督を務めている。 経歴 プロ入り前 7歳から野球を始め、千葉西リトルリーグでプレーする。 1989年に暁星国際高等学校に進学したが、入学時は全く無名の選手で、当時の監督曰く「千葉西リトルの(中学)2年生で欲しい選手がいて、その選手を獲る代わりに頼まれたのが、どこからも声のかからない小笠原だった」という[1]。それまでは遊撃手・三塁手・外野手の複数のポジションをこなしていたが、高校進学後に二塁手にコンバートされ、翌1990年にはチーム事情から捕手を兼ねる(ただし本人は「捕手は一番嫌なポジション」だったという)[1]。2年生の時には同期のエース北川哲也を擁し、二塁手、五番打者として1990年夏の千葉大会決勝に進むが、成田高校に敗れ甲子園出場を逸する。高校通算本塁打は0本で、県内でも注目された選手ではなかった[2]。 卒業後はNTT関東に入社。ポジションは「仮に選手としてダメでもカベ(ブルペン捕手)で残れるから」という理由[1]で捕手を続ける。沖原佳典とともに中心打者として活躍し、後に日本ハムでも同僚となる立石尚行とバッテリーを組む。1996年の第67回都市対抗野球に、沖原、立石とともに新日鐵君津の補強選手として出場。JR東海との1回戦では二番打者として起用され、3本の二塁打を放つなど活躍、立石、森慎二らの完封リレーで勝ち上がる。ヤマハとの2回戦でも勝ち越しの本塁打を放ち、準々決勝に進むが朝日生命に敗退した。この時のチームメートに四番打者の松中信彦がいる。 1996年ドラフト会議で日本ハムファイターズから3位指名を受ける。入団会見では「首位打者を取れるような打者になりたい」と宣言した。 日本ハム時代 1997年(1年目)に開幕一軍入りを果たし、内野手登録だったものの23試合で捕手として先発出場している。 1998年に、それまでの内野手登録から捕手登録に変更される。主に代打での出場だったが、打率.302と好成績を残す。5月22日に捕飛を取ろうとして左手人差し指を骨折し、登録抹消されたが、傷が完治する前の7月7日に一軍登録されると、その日の試合で代打本塁打を放つ(この時折れた指は当然バットを握れず、指を真っ直ぐに立てて固定した状態だった。)。このことがきっかけで「ガッツ」の愛称が定着した(後述)。 1999年に打撃を活かすために一塁手に転向し西浦克拓とのポジション争いの結果、一塁手の座を勝ち取る。足の速さを買われ2番に定着し、一切バントをしないことから「バントをしない2番打者」として開幕からレギュラーに定着しブレイク。西武ライオンズのルーキー・松坂大輔のプロ初登板初先発の試合では8回に松坂のプロ初失点初被弾となる2点本塁打を浴びせた。打率.285(リーグ7位)、25本塁打(リーグ5位)、83打点(リーグ6位)などリーグ内でも上位の成績を残す[3]。 2000年に打率.329(リーグ3位)、31本塁打(リーグ4位)、102打点(リーグ4位)、リーグ新記録(当時)の126得点、球団新182安打(当時)をマークして最多安打のタイトルを獲得。また、リーグ3位の24盗塁を記録、トリプルスリーにあと6盗塁と迫った。二桁盗塁を記録したシーズンはこの年のみである。 2001年、シーズン当初の打順は主に2番や3番であったが、後半戦から1番に定着。千葉ロッテマリーンズの福浦和也との首位打者争いには敗れたが、打率.339(リーグ2位)を記録[4]。ただ本塁打数は32本と前年を上回ったものの同年から試合数が増加したことや飛ぶボールの影響かリーグ総本塁打数が1000本を超える打高年になったこともあり順位を落とし(リーグ8位)、打点も86打点と前年を下回った(リーグ13位)。しかしながら前年に続きパ・リーグ最多安打を記録(195安打)。195安打はシーズン安打数両リーグで歴代2位の数字(当時)であり、イチロー以来、史上2人目となる複数年での180安打以上も記録した。 2002年も、阪神タイガースへ移籍した片岡篤史が抜けた打線の柱として3番に定着。同年の新ストライクゾーン導入もあり(翌年以降は廃止された)リーグ平均打率が.255(00年代最低値)と他の打者が成績を落とす中でそれを物ともせずに打ちまくり、打率.340で前年逃した首位打者を獲得[5]。打率傑出度(RBA)や攻撃力の傑出度を測るRCWIN等は同年の数値が自身最高記録である。本塁打は32、打点は81と数値自体は前年と同程度だったが、それぞれリーグ6位、リーグ8位と順位を上げた。しかし、前年まで3年連続で記録したフル出場が故障のため途絶えた。 2003年にはチーム事情から三塁手に転向。シーズン通して首位打者争いを繰り広げ、シーズン序盤は西武の和田一浩と争い、阪神から日本ハムに移籍してきた坪井智哉やオリックス・ブルーウェーブの谷佳知とシーズン終盤まで繰り広げた。坪井・谷らを退けて打率.360という高打率で2年連続で首位打者を獲得すると同時に最高出塁率(パ・リーグ歴代3位)のタイトルも獲得。また、31本塁打(リーグ7位)、100打点(リーグ7位)を記録し2000年から4年連続で3割・30本塁打を達成。 2004年は、右第12浮肋骨骨折で約2週間登録抹消され、またアテネ五輪出場による離脱の影響もあり、本塁打・打点は規定打席到達年で過去最低を記録。それでも、打率は.345(リーグ2位)で5年連続3割を記録した[6]。7月24日に社会人野球出身のプロ選手では史上最速で通算1000本安打を達成。また、打率.345を記録したことで4年連続で打率.330以上を記録している。 2005年には、自己最多の37本塁打を記録するも、6年ぶりに打率3割を切った。三振も自己最多の114三振を記録。チームも5位に沈んだ。 2006年3月3日から3月20日、第1回WBCに出場。第1ラウンドで日本代表チーム初本塁打を放ち、決勝のキューバ戦では押し出し四球や犠牲フライで3打点を挙げ、日本の優勝に貢献した。レギュラーシーズンでは主に一塁を守り、打率.313・32本塁打・100打点で本塁打・打点の二冠王ならびに自身初のパ・リーグMVPにも輝き、ファイターズ25年ぶりの優勝・44年ぶりの日本一に貢献した[7]。5月15日にFA権を取得し、シーズン終了後にFA権を行使。日本ハムから残留要請を受ける一方、読売ジャイアンツからも入団の誘いを受け、11月5日に契約年数(日本ハムは3年に対し、巨人は4年)、家族との同居が可能であること(日本ハムの札幌移転後は家族を市川市の自宅に残し、単身で札幌に渡っていた)が決め手となり巨人入団を正式に発表。背番号は日本ハム在籍時と同じ2。日本ハム時代のトレードマークだった髭を「新しいことの始まり」「男のけじめ」として自ら剃り落として入団会見に臨んだ[8]。 巨人時代 2007年の開幕は「三番・三塁」として先発出場。4月3日の中日戦(東京ドーム)にて、山本昌から巨人移籍後初本塁打を放った。5月28日のオリックス・バファローズ戦(東京ドーム)では自身初の1試合3本塁打を記録。7月24日には移籍後初めて四番を任され、9月15日には史上4番目の速さで通算1500本安打を達成。最終的には二年連続の3割30本を達成。前年に続いての2年連続MVPを獲得した。なおセ・パ両リーグでのMVP受賞は江夏豊以来2人目であり、野手としては史上初の受賞となった。加えて、リーグを跨いでの2年連続MVP獲得も史上初である。 2008年前半戦は左膝の手術の影響もあり、打率は.250前後に低迷していたこともあり、1999年から9年連続で出場していたオールスターゲーム出場も逃すとともに、2008年北京オリンピックの野球競技・日本代表メンバーにも選出されなかった。しかし、試合に出場し続けることで7月頃に「(本人曰く)スイッチが入った」ように復活。シーズン終盤9月の月間MVPを受賞したり、7月8日にチームが阪神に最大13ゲーム差をつけられた翌日からの残り66試合で11本の<b data-parsoid='{"dsr":[6632,6643,3,3]}'>オガラミ弾[9](自分自身とアレックス・ラミレスのアベックホームランの事で2008年は王貞治・長嶋茂雄のアベックホームランON弾をも凌ぐ15本)を記録したりする等調子を取り戻した。チームも小笠原の復調そのままに最大13ゲーム離されていた阪神に追いつき、逆転優勝を達成。前年・前々年に匹敵する成績を残した。6月8日、プロ入り後初の犠打を記録。9月3日の対広島東洋カープ戦(大阪ドーム)で史上62人目(史上66度目、球団史上5人目)となるサイクル安打を達成。更に9月19日には史上35人目となる通算300号本塁打を放った(球団史上8人目)。10月23日のクライマックスシリーズ第2ステージの対中日ドラゴンズ戦で、朝倉健太から1回裏に2ラン本塁打、2回裏には満塁本塁打と2打席連続で本塁打を放ち、クライマックスシリーズ新記録となる1試合6打点を記録した。 2009年3月5日から3月24日、第2回WBCに2大会連続で出場。背番号は9(城島健司が「2」を付けたため)。1次リーグでは不振だったが、2次リーグに入ると復調。適時打を放つなど主に5番打者として全試合に出場し、決勝でも先制打を打って日本の2連覇に貢献した。シーズンでは年間通して3番に座り安定した働きを見せ、チームのリーグ3連覇に貢献。オールスターゲームにも選出された。移籍後初の3割30本塁打100打点を記録した。東京ドームでの通算本塁打数が松井秀喜の146号を上回る147号本塁打を打ったことで、現役最多となった。8月27日の対中日戦で通算1000打点を、9月8日の対横浜ベイスターズ戦で通算1000得点を達成した。 2010年4月7日の阪神戦で久保康友から本塁打を放つ。阪神甲子園球場での初本塁打となり、ヒーローインタビューでは、前年に引退してこの年から一軍内野守備走塁コーチに就任した木村拓也が亡くなった日であることも受けて「本当に一人一人思うところがあって、そのなかでゲームをしたと思います。そういう意味で全員で勝利を掴みとれました。木村コーチに勝たせてもらったと思います」と語った。.359 9HR29打点の好成績で通算8度目となる3、4月の月間MVPを授賞。5月30日の対西武戦で、岸孝之から史上24人目の通算350本塁打を達成。6月4日の対日本ハム戦で金森敬之からバックスクリーンへ本塁打を放ち、史上18人目となる全球団から本塁打を達成した。最終的には3割30本を記録し、移籍後4年連続の3割30本と、王貞治の18年連続、落合博満の13年連続に次ぐ11年連続のOPS.900以上を達成した。この年で4年契約が終わり、11月29日の契約更改で新たに2年契約を結ぶ。 2011年は、新外国人のラスティ・ライアルの加入・原監督の意向で三塁手に挑戦した亀井義行の起用・小笠原の負担軽減などを視野に入れ、一塁手に固定された[10]。5月5日には、対阪神戦の8回裏に小林宏之から中前安打を記録し、通算2000本安打を達成した。通算1736試合での2000本安打達成は川上哲治、長嶋茂雄、張本勲に次ぐ歴代4番目の早さとなる[11]。しかし5月14日に左脹脛負傷で登録抹消され、8月14日にも左手首はく離骨折で登録抹消されるなど故障や不調に苦しみ、83試合の出場にとどまり、打率.242、5本塁打、20打点で、1998年以来13年ぶりに規定打席に到達しなかった。2012年は開幕スタメンで出場するも前年同様打撃不振に苦しみ、プロ入り最少の34試合の出場に留まり、打率.152、15年ぶりにシーズン無本塁打となった。2年契約が終わり、12月5日の契約更改では当時のNPB史上最大の減額となる3億6000万円減の年俸7000万円で更改した。 2013年春季キャンプ中の2月17日、フリー打撃で左手の人さし指を15針縫う怪我を負った事もあり[12]開幕を2軍で迎えたが、5月18日の対西武戦(西武ドーム)で4回に2死満塁の場面で代打で今季初出場し、三振に倒れる[13]。6月5日の対日本ハム戦(東京ドーム)では延長11回裏無死ニ、三塁の場面で代打で出場、増井浩俊からサヨナラ3ラン本塁打を放つ。小笠原の本塁打は2年ぶりであった。[14]。しかし同月29日に一軍登録抹消されると、怪我などもあってこの後の1軍昇格はなく、この年は22試合出場で打率.250、本塁打1本に終わり、日本シリーズの出場資格枠40人にも入らなかった[15]。シーズン終了後の11月10日にFA宣言する意思を表明[16]。球団としては構想外ではあったが、功労者を戦力外として出て行かせてはならないと、残留を勧めた上で出場機会のある他球団への移籍も考えていた[17]。9月より球団と話し合いを重ね、宣言の数日前に「新しいところで挑戦」とし決断した[18]。11月26日に中日への入団が発表され、同日入団会見が行われた[19]。 中日時代 2014年は、代打の切り札として起用される場面が多かったが、開幕直後は森野将彦が休養日の際のスタメン、交流戦は指名打者での出場もあった。4月9日の対ヤクルト戦で押本健彦から移籍後初の2ラン本塁打を放ち、また代打6打数連続安打(歴代3位)・代打9打席連続出塁(歴代2位)を記録するなど、打席数は100打席に満たなかったものの打率.301をマークする活躍を見せた。また、巨人時代に剃っていた髭もトレードマークとして再び生やしている[20]。 2015年7月に入って出場選手登録を抹消され同28日に再び一軍に昇格したが、わずか2試合で再び二軍へ降格した。一部スポーツ紙から来季以降の去就が注目される報道がなされる中9月12日に一軍に復帰し、その日の対ヤクルト戦で小川泰弘より適時打を放った[21][22]。 2015年9月15日、中日新聞の紙上において谷繁元信監督兼選手とともに今季限りで現役を引退することが報じられ[23]、同17日に名古屋市内で記者会見を行い、正式に引退を表明[24]。引退試合となった9月21日の古巣・巨人戦では5番一塁手としてスタメン出場し、4回の第2打席で遊撃への内野安打(通算2120本目の安打)を放って前田智徳を上回る歴代通算安打数単独26位となる。7回の第3打席ではスコット・マシソンの155km/hを強振し、左翼線に安打性のライナーを放ったが左翼を守っていた亀井に好捕され、これが最終打席になった。ベンチに戻る前に「現役引退」のアナウンスが流れると、三塁ベンチから出た巨人・高橋由伸(後に現役引退を表明、巨人監督に就任)から花束を贈呈され、握手を交わした。さらに2人の娘からも花束を受け取ると、マシソンら巨人の選手らも拍手で小笠原を見送った[25]。10月3日には2016年シーズンからの二軍監督就任が決定し、10月5日のフェニックスリーグより指揮を執ることが発表された[26]。背番号は82[27](この時点では背番号「36」を着用して指揮を執っていた)。ちなみにこの10月5日の時点では、一軍は対広島最終戦が7日に雨天順延となっていたため、全日程を完了していなかった(7日は同じく同年で引退の山本昌の引退登板であり、やはり同年で引退する兼任監督の谷繁ももう一度だけ選手登録されたものの出場はしていない)。 選手としての特徴 打撃 2000年から2010年まで、2005年のみを除き打率3割以上を記録したアベレージヒッターでありながら、コンスタントに30本塁打以上を記録する長打力も持ち合わせる[28]。統一球が導入されていた2011年からの数年の間は成績が落ち込んだが、通算打率では歴代9位、通算RCWIN、RC27傑出度(4000打席以上)では歴代10位を記録している[29][30]強打者である。 3割30本を9回達成しており、これは王貞治に次ぐ歴代2位の記録である。 また11年連続OPS.900超えという成績を残しており、これは王貞治、落合博満に次ぐ歴代3位の記録である。 打席においては日本ハム時代の打撃コーチだった加藤英司から影響を受けた大きな構え(神主打法)からフルスイングする[31]。試合前などの打撃練習では左方向への打撃を繰り返すなどボールを手元に呼び込むことを意識しているため引っ張るだけの大味なスイングにならず[32][33]、広角に長打を放つことができる[28]。ただ、本人曰く神主打法においては日本ハム時代に同僚だった落合博満の影響は少ないという[31]。例年.070以上のIsoD(出塁率-打率)を記録するなど選球眼にも優れている。巨人移籍以降2010年までの対右打率.320と右投手に強い他、同じく得点圏打率.334とチャンスにも強く、苦手なコースも少なかった[34]。 日本ハム時代は当時監督だった上田利治の方針もあり[31]、2番で起用された時期も含めて2008年6月8日の西武戦まで公式戦で犠牲バント成功が一度もなく、1997年から1999年の間で7度の指示があったが失敗している。2006年のWBCでは送りバントを試み、成功させた。 守備・走塁 プロ入り当初は捕手、内野手の両方をこなせることから「コンビニルーキー」などと称されていた[35]。1998年の落合の引退後には、捕手から一塁手に転向している[35]。 三塁守備では三塁線のベース際の打球などにもうまく対処し[33]、ゴールデングラブ賞を1度受賞しているが、2010年はUZR-2と平均を下回り[36]、2011年は前述の事情、2012年以降は正三塁手の村田修一の加入、中日移籍以降はエクトル・ルナや高橋周平らの存在もあり、主に一塁手として出場した。その一塁守備ではグラブ捌きが巧みで[33]、ゴールデングラブ賞を1999年から2002年までの4年連続を含めて5度受賞している。 走塁面では一塁到達4.2秒台前半を記録するなど平均以上の脚力を備え[37]、2000年にはキャリア唯一の二桁盗塁となる24盗塁も記録しているが、2002年の故障後は盗塁数が減少し、晩年は年齢的なスピードの衰えもあり一塁到達4秒台後半が多くなった[33]。 人物 愛称は「ガッツ」。日本ハム時代につけられた愛称である。名づけ親は当時チームメイトだった岩本勉、上田佳範、片岡篤史、建山義紀、金村暁、金子誠の6人で、合コンの席で飲み食いにしても、女性に対してもがっつくことから「ガッツ君」と呼んだのが始まりだという[38]が、その後小指を骨折した状態でホームランを打ったことで「ガッツがある」としてこの愛称が定着することになる。 野球以外では、名字が「小笠原」である縁から東京都小笠原村の観光親善大使に1999年12月25日に就任し、島の少年野球チームにユニフォームをプレゼントしたり、同村の交流事業に参加したりするなどの活動を行っている[39]。他にも2008年の開幕前に巨人と同じく宮崎でキャンプを行っていたJリーグ・鹿島アントラーズの小笠原満男と対談し、それぞれのチームのユニフォーム交換を行った。 応援 東京都小笠原村の観光親善大使であることから、日本ハム時代には小笠原の本塁打時に小笠原村のザトウクジラの映像がバックスクリーンに表示されていた。この事から、一部のファイターズファンは小笠原が打席に入ると小笠原村のシンボルであるイルカの風船(または、浮き具)を持って応援していた。応援歌のイントロ部分に入るコールも小笠原村に因んだものであり、チームの札幌移転時に削除・変更が検討されたが、小笠原が観光親善大使であることから引き続き使用されていた。巨人・中日移籍後も、一部のファンが同様の応援をしている。 影響 巨人ファンの間では「小笠原が来てから2003年から06年まで続いていた低迷期から脱することができた」「小笠原は救世主だ」という声が多く聞かれる。それはもちろん小笠原の選手としての貢献に依るところが非常に大きいのだが、当時の選手たちはそれ以外にも彼の影響は多大であったと考えている。2013年のシーズン中に日刊スポーツ紙上で行われた、当時巨人生え抜き最年長の高橋由伸と同じく生え抜きで当時キャプテンであった阿部慎之助の対談[40]では、小笠原が巨人というチームに吹き込んだ新しい風は、二人がルーキーの頃から伝統のように続いていた、試合に負けたら誰もしゃべらずクライマックスシリーズなどの一発勝負に負けたような空気になってしまうというチームの特質を一変させるものであったと述べている。これはつまり負けても「また明日だ!」という野球哲学であり、小笠原のみならず谷佳知 や古城茂幸らといった巨人に移籍してきたパリーグ出身選手達によってもたらされたのだが、以来負けても「明日打てばいい」という気構えで全員が臨むようになったことが、2003年から4年間続いた低迷期から巨人が脱出できた理由であるとした。 詳細情報 年度別打撃成績 日本ハム44989472110203571001300102.223.245.372.61771988672650134911011110173.302.378.395.77313560854790156344252738334045610846.285.349.499.84813563555412618223431306102246057422916.329.406.552.9591406435761081954023233586160063741028.339.407.582.989135574486771652723229281810676146776.340.430.6011.03112854644583160341312891008303931256513.360.473.6491.122101452377781301921820770310270337010.345.449.549.998133580514911452723728792210161341148.282.362.558.920135579496771553113228410043087352858.313.397.573.970巨人142617566951773313130588400443549810.313.363.539.9021445895209316127136298960215568710514.310.381.573.9541395805147815925131279107210260241078.309.384.543.927137591510831572413428590100573231019.308.394.559.9538331428121681205952013022714664.242.315.338.6533499924143001740011500221.152.194.185.37922403629201148010120172.250.300.389.689中日819983425601341800011411161.301.404.410.8145359512153001880001710101.294.373.353.726NPB:19年199278016828112621203852437836871169633325386768501247120.310.389.540.932 各年度の<b data-parsoid='{"dsr":[20233,20241,3,3]}'>太字</b>はリーグ最高 年度別守備成績 タイトル 首位打者:2回 (2002年・2003年) 本塁打王:1回 (2006年) 打点王:1回 (2006年) 最多安打:2回 (2000年・2001年) 最高出塁率:1回 (2003年) 表彰 MVP:2回 (2006年・2007年) 両リーグでのMVP獲得は江夏豊以来2人目、リーグを跨いでの2年連続は史上初。 ベストナイン:7回 (一塁手部門:1999年・2001年・2006年 三塁手部門:2003年・2004年・2007年・2009年) ゴールデングラブ賞:6回 (一塁手部門:1999年-2002年・2006年 三塁手部門:2003年) 月間MVP:8回 (2000年8月、2001年8月、2002年4月、2003年5月、2004年7月、2008年9月、2009年5月、2010年3,4月) 「ジョージア魂」賞:1回 (2013年度第5回) 東京ドームMVP:6回 (1999年、2000年、2001年、2002年、2003年、2008年)[41] パ・リーグ連盟特別表彰:1回 (会長特別賞:2000年) リーグ最高記録のシーズン126得点により受賞(両リーグ歴代5位) セ・リーグ連盟特別表彰:1回 (功労賞:2015年) IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (2000年) 出身地別東西対抗戦優秀選手:1回 (2001年) 報知プロスポーツ大賞(野球部門セ・リーグ):1回 (2008年) ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」 (2008年) ゴールデンスピリット賞 (2009年) ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回 (2008年)[42] 月間アットホームクラッチヒーロー賞:1回 (2013年6月[43]) 千葉市市民栄誉賞:3回 (2004年、2006年、2009年)[44] アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得、第1回・第2回WBC日本代表メンバーとして優勝を称えて 市川市民栄誉賞 (2004年)[45] アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて 千葉県知事賞 (2004年) アテネ五輪野球日本代表メンバーとしての銅メダル獲得を称えて 記録 初記録 初出場:1997年4月8日、対福岡ダイエーホークス1回戦(福岡ドーム)、9回表に金子誠の代打で出場 初打席:同上、9回表に木村恵二の前に凡退 初先発出場:1997年4月10日、対福岡ダイエーホークス3回戦(福岡ドーム)、7番・捕手で先発出場 初三振:1997年5月1日、対千葉ロッテマリーンズ4回戦(千葉マリンスタジアム)、6回表に竹清剛治から 初安打・初打点:1997年5月10日、対西武ライオンズ7回戦(西武ライオンズ球場)、7回表に石井丈裕から適時二塁打 初盗塁:1997年9月21日、対福岡ダイエーホークス27回戦(東京ドーム)、4回裏に二盗(投手:木村恵二、捕手:城島健司) 初本塁打:1998年7月7日、対大阪近鉄バファローズ15回戦(東京ドーム)、7回裏に井出竜也の代打として出場、盛田幸妃から右越同点2ラン 節目の記録 100本塁打:2002年5月4日、対福岡ダイエーホークス7回戦(東京ドーム)、2回裏にブレイディー・ラジオから中越3ラン ※史上220人目 150本塁打:2003年9月14日、対西武ライオンズ27回戦(西武ドーム)、7回表に張誌家から右越ソロ ※史上127人目 1000本安打:2004年7月24日、対オリックス・ブルーウェーブ16回戦(東京ドーム)、5回裏に具臺晟から中前安打 ※史上223人目(862試合目での達成は、社会人経験者では史上最速) 1000試合出場:2005年8月24日、対西武ライオンズ16回戦(インボイスSEIBUドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上408人目 200本塁打:同上、8回表に松坂大輔から右越ソロ ※史上85人目 250本塁打:2007年5月27日、対オリックス・バファローズ1回戦(東京ドーム)、6回裏にユウキから右越ソロ ※史上51人目 1500本安打:2007年9月15日、対広島東洋カープ23回戦(東京ドーム)、6回裏に宮崎充登から右線二塁打 ※史上93人目(1288試合目での到達は歴代4位の速さ) 300二塁打:2008年7月29日、対広島東洋カープ14回戦(広島市民球場)、1回表にベン・コズロースキーから右中間適時二塁打 ※史上49人目 300本塁打:2008年9月19日、対阪神タイガース20回戦(東京ドーム)、7回裏にジェフ・ウィリアムスから左越2ラン ※史上35人目 1500試合出場:2009年6月13日、対福岡ソフトバンクホークス3回戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)、3番・三塁手で先発出場 ※史上165人目 1000打点:2009年8月27日、対中日ドラゴンズ18回戦(ナゴヤドーム)、3回表に吉見一起から右越2ラン ※史上36人目 1000三振:2009年9月2日、対横浜ベイスターズ20回戦(福井県営球場)、1回裏に三浦大輔から ※史上45人目 1000得点:2009年9月10日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、3回表に阿部慎之助の3ラン本塁打で生還 ※史上36人目 350本塁打:2010年5月30日、対埼玉西武ライオンズ4回戦(西武ドーム)、1回表に岸孝之から左越ソロ ※史上24人目 350二塁打:2010年8月7日、対広島東洋カープ16回戦(東京ドーム)、5回裏にジャンカルロ・アルバラードから右越二塁打 ※史上29人目 3500塁打:2010年9月21日、対横浜ベイスターズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に田中健二朗から右越ソロ ※史上24人目 2000本安打:2011年5月5日、対阪神タイガース6回戦(東京ドーム)、8回裏に小林宏之から中前安打 ※史上38人目 その他の記録 両リーグでMVP獲得:江夏豊以来2人目 通算打率 歴代9位(4000打数以上):.310 2000安打以上では歴代5位 通算長打率 歴代11位(4000打数以上):.540 4年連続3割30本塁打 パ・リーグ記録タイ:(2000年-2003年・史上7人目) 3割30本:9回 歴代2位(両リーグで4回以上達成は史上初) 打席連続出塁 14(2003年8月23日-8月27日) 試合連続得点 日本記録:17(2001年8月5日-8月27日) 試合連続出塁 歴代4位:60(2001年6月13日-9月9日) オールスターゲーム出場:11回(1999年-2007年、2009年、2010年) サイクルヒット:1回(2008年9月3日、対広島東洋カープ19回戦、京セラドーム大阪) ※史上62人目(66度目) 勝利打点:22点(2009年) ※非公式記録 両リーグをまたいで2年連続MVP ※史上初 全球団から本塁打:2010年6月4日、対北海道日本ハムファイターズ3回戦(東京ドーム)、3回裏に金森敬之から右越ソロ ※史上19人目 2004年限りで消滅した大阪近鉄バファローズを含めた計13球団からの本塁打は史上6人目。 背番号 2 (1997年 - 2013年) 9 (2009年WBC) 36 (2014年 - 2015年) 82 (2016年 - ) 登場曲 「Batdance」Prince(2005年 - 2006年、2012年 - 2013年) 「Switch On」Paul Oakenfold(2007年 - 2012年) 「James Bond Theme」Paul Oakenfold(2009年 - 2010年) 「サクラ咲ケ」嵐(2011年) 「Happiness」嵐(2011年) 「James Bond Theme Remix」David Arnold(2012年) 「全力少年」スキマスイッチ(2014年 - 2015年) 代表歴 2004年アテネオリンピックの野球競技・日本代表 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 関連情報 著書 『魂(ガッツ)のフルスイング:泥臭く、ひたすら振りぬく!』(KKロングセラーズ・2006年8月 ISBN 4845420864) 関連映像作品 『北海道にはばたけ小笠原道大 ファイターズ強力打線とともに:北海道日本ハムファイターズオフィシャルDVD』(DVD、ジェネオンエンタテインメント、2004年3月、品番:GNBW-7029、ISBN 4894527952) 脚注 関連項目 オリンピックの野球競技・メダリスト一覧 千葉県出身の人物一覧 北海道日本ハムファイターズの選手一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%A4%A7
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 283, 1195, 1279, 1686, 2244, 2455, 2903, 3350, 3480, 5085], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 282, 1194, 1270, 1685, 2243, 2454, 2902, 3349, 3457, 5074, 5958], dtype=int32)}
日本に西洋医療が伝わってきたのはいつ
西洋医学
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([7], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([2920], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([2929], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
西洋医学(せいよういがく)は、欧米において発展した医学を指す用語である。明治初期から、欧米医学を指す言葉として用いられた[1]。正式な医学用語ではなく、俗語であり[1]、文脈によって意味が異なる。 ヨーロッパ、アラビア(西洋)には、中国医学(東洋医学)とは異なる概念・理論・治療体系をもつ伝統医学(ギリシャ・アラビア医学、ユナニ医学)がある。これは古代ギリシャに始まり、四体液説・プネウマ論など基礎とするもので、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)・中国医学と同じように全体観(ホーリズム)の医学である[2]。各地の伝統医学は交流しながら発展した。西洋医学は、古代から現代までの西洋の医学を指す場合もあるが、ルネサンスに端を発し、その後自然科学と結合し19世紀後半に発展した<b data-parsoid='{"dsr":[565,575,3,3]}'>近代医学[3]または<b data-parsoid='{"dsr":[627,637,3,3]}'>現代医学(正式名称は<b data-parsoid='{"dsr":[643,651,3,3]}'>医学)を指すことが多い。 欧米では、医学を応用科学に含めるのが一般的である。 歴史 ヨーロッパにおいては、「医」の起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。その後古代ローマのガレノスがアリストテレスの哲学(学問の集大成)を踏まえ、それまでの医療知識をまとめ、学問としての医学が確立されたと言われている。ガレノスはその後、数百年ものあいだ権威とされた。 中世では、外科はキリスト教徒の職業とはみなされていなかった。病気は神の恵みであり、医療は神への冒涜とされた。当時は理容師(英Barber surgeon:理容外科医とも言われた)によって外科手術やまじない的な瀉血治療などが行われていて、これは学術的な医学が発達するまで広く行われていた。このように、ヨーロッパにおいては、古代ギリシア等の知識が継承されることなく、学問としての医学は低迷した。 古代ギリシャの医学知識は、イブン・スィーナーやイブン・ルシュドに代表される、イスラム世界において継承された。 (→ユナニ医学、イスラム科学) ルネサンス期のヨーロッパでは、上記のイスラーム世界の(アラブ語の)医学書籍が(欧州の言語に)翻訳され、パドヴァ大学などで研究され始めた。それにつれて、人体に対し(部分的ではあるが)実証的研究がはじまり(→実証主義)、それまでの医学上の人体知識が徐々に否定されはじめ、近代科学としての医学が萌芽した。 日本では1543年に鉄砲伝来した以降、西洋医学が伝えられ、宣教師はキリスト教布教に医術を利用した[4]。ポルトガル人、アルメイダは豊後に日本最初の洋式病院を設立した[5]。幕末には蘭学とともに西洋医学書の翻訳などが行なわれた。明治維新後には漢方医学を廃し、西洋医学を「医学」とするようになった、とも言われる。 20世紀になると、医者は患者の人体に劇的に作用する技術の向上に力を注いだ。 関連文献 書籍 小川政修『西洋医学史』日新書院、 1943 矢部 一郎『西洋医学の歴史』恒和選書、1983年 インファンテ・ビエイラ セルソ『アディオス(さようなら)西洋医学―KI(気)がつけばハッピーライフ』さわやか出版社、1990、ISBN 4795214077 ヒポクラテス、常石敬一 『ヒポクラテスの西洋医学序説』小学館、1996 ISBN 4092510268 ディーター・ジェッター『西洋医学史ハンドブック』朝倉書店、1996、ISBN 4254101376 ジョン・Z. バワース『日本における西洋医学の先駆者たち』慶應義塾大学出版会、1998 ISBN 4766407237 加藤 文三、平尾 真智子、石井 勉『西洋医学がやってきた―近世(日本人 いのちと健康の歴史) 』 農山漁村文化協会、2008、ISBN 454007217X 吉良枝郎『日本の西洋医学の生い立ち: 南蛮人渡来から明治維新まで』築地書館、2000、 ISBN 4806711977 梶田昭『医学の歴史』講談社学術文庫、2003、ISBN 4061596144 吉良枝郎『幕末から廃藩置県までの西洋医学』築地書館、2005、ISBN 4806713066 石原結実『間違いだらけの医学・健康常識―西洋医学を過信すると早死にする』日本文芸社、2005、ISBN 4537253029 河村 攻『「なぜ治らないの?」と思ったら読む本第3の医学“ハイブリッド医療”』ハート出版、2008、ISBN 4892955612 石内 裕人、織部 和宏『各科の西洋医学的難治例に対する漢方治療の試み』たにぐち書店、2009、ISBN 4861290880 論文類 河本重次郞「日本と西洋醫學との關係」千葉醫學會雜誌 Vol.11 no.1 page.20-33、1933 平野 智治「漢法医学と西洋医学」日本数学教育会誌Journal of the Mathematical Educaional Society of Japan 46(8) pp.121 1964 中川 定明「東西医学の接点: (2) 中国伝統医学の病理学と西洋医学の病理学の対比: 東西両医学に共通する「疾患分類」の提唱」日本東洋醫學雜誌 Japanese Journal of Oriental Medicine 45(3) pp.625-631、 1995 板垣英治2005「金沢医学館:北陸での西洋医学教育の始まり」 Nancy Midol & Wei Guo Hu, Médecine occidentale, médecine orientale: un dialogue intéressant pour penser la santé en Europe, Le Détour, No.5, 2005, p.171-183 金澤 一郎「西洋医学と東洋医学の統合」日本東洋医学雑誌 Vol. 59、2008 、 No. 6 pp.765-774 出典・脚注 関連項目 医学 蘭方 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E5%8C%BB%E5%AD%A6
{'plaintext_start_byte': array([ 1, 507, 661, 1168, 1251, 1299, 1619, 1675], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 499, 660, 1159, 1250, 1291, 1618, 1659, 1782], dtype=int32)}
スペイン議会はどこにある?
国会 (スペイン)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
国会(こっかい、Spanish: Cortes Generales)は、スペインの立法府であり、スペイン下院(Congreso de los Diputados)とスペイン上院(Senado)で構成されており、立法権を行使し、主権者であるスペイン国民の意志を代表する機関である。また、議会君主制(Monarquía Parlamentaria)であるスペイン王国の最高意志決定機関としての役割も担っており、議員の任期は両院とも4年である。 概要 年に2回、通常国会が行われており、会期は2月から6月、9月~12月に行われ、必要に応じて臨時国会が召集される。 国会の権限 以下に掲げられた法律の承認・制定 政府提出法案(Projecto de Ley) 議員提出法案(Proposiciones de Ley del Congreso o del Senado) 各地方の自治州議会(Asambleas de las Comunidades Autónomas)提出法案(Proposición de Ley) 住民発案(Iniciativa Popular)-市民50万人以上の署名と一定の要件の下に提出される法案 内閣を監督 予算の承認 上記以外の憲法によって付与された権限の行使 下院 議員定数:350人 選挙制度:県単位の比例代表制(ドント式) 詳細はスペイン下院を参照。 上院 議員定数:264名 直接選挙選出:208名 間接選挙選出:56名-州の人口に比例して配分されるので、変動あり 選挙制度: 直接選挙:中選挙区制(制限連記式)-各県に一律で議席を配分 間接選挙:各自治州議会の議員の中から任命される。 詳細はスペイン上院を参照。 脚注 出典 自治体国際化協会編集『スペインの地方自治』財団法人自治体国際化協会発行
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BC%9A%20%28%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%29
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 922, 1960, 2467, 3275, 4076, 5019, 5583, 5992, 6660, 7640, 8595, 10023, 10891, 12833, 14371, 15701, 17602, 18033, 19524, 21125, 21829, 23604, 25501, 26781, 27675, 28228, 28880, 29824, 31058, 32364, 33124, 34947, 35706, 36508, 37823, 39299, 41285, 42112, 43245, 44469, 46131, 47770, 49029, 49851, 50541, 51863, 53628, 54315, 55988, 57309, 58212, 58938, 59265, 60635, 60881, 61137, 61275, 61453, 61674, 61871, 62581, 62689, 62897, 63877, 64206, 64534], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 921, 1959, 2446, 3274, 4074, 5018, 5582, 5965, 6659, 7611, 8594, 10022, 10853, 12832, 14370, 15700, 17601, 17962, 19523, 21124, 21828, 23593, 25499, 26780, 27674, 28219, 28879, 29823, 31057, 32363, 33123, 34946, 35676, 36507, 37822, 39298, 41284, 42111, 43224, 44468, 46130, 47752, 49028, 49850, 50540, 51834, 53627, 54314, 55987, 57308, 58211, 58937, 59227, 60614, 60880, 61136, 61274, 61445, 61642, 61845, 62550, 62688, 62895, 63863, 64178, 64526, 64585], dtype=int32)}
アイン・ランドの最期の作品は何
アイン・ランド
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
アイン・ランド(Ayn Rand、/ˈaɪn ˈrænd/;[1]、1905年2月2日 - 1982年3月6日)は、ロシア系アメリカ人の小説家、思想家[2]、劇作家、映画脚本家である。本名アリーサ・ジノヴィエヴナ・ローゼンバウム()。2つのベストセラー小説『水源』(The Fountainhead)および『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)で知られる。また自ら「オブジェクティビズム」と名付けた思想体系の創出者としても知られる。ロシアで生まれロシアで教育を受け、1926年にアメリカ合衆国に移住した。ハリウッドで映画脚本家として働き、劇作品の一つは1935年から1936年までブロードウェイで上演された。初期の小説2作品は当初それほど評判にならなかったが、小説『水源』(The Fountainhead、1943年)で名声を得た。 1957年には代表作の小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)を出版。その後は自らの思想を伝播するノンフィクションに転向した。自ら雑誌を刊行し、いくつかのエッセー集を発表し、1982年に死去した。ランドは理性を知識を得る唯一の手段として擁護し、信仰や宗教を拒絶した。合理的かつ倫理的なエゴイズムを支持し、倫理的利他主義を拒絶した。政治においてはInitiation of Force(自分の側からの強制力の行使)を非難し[3]、集産主義および国家主義に反対した。また無政府主義にも反対した。最小国家主義および自由放任資本主義を、個人の権利を守る唯一の社会システムと信じ、支持した。芸術においてはロマン主義的写実主義を唱道した。一部のアリストテレス派哲学者や古典的自由主義を除き、ほとんどの思想家および思想的伝統を辛辣に批判した[4]。 文芸評論の世界では、ランドのフィクションはほとんど認められていない[5]。アカデミズムの世界では、ランドの思想はほぼ無視または否認されている。オブジェクティビズム運動は、ランドの思想を一般およびアカデミズム界に広めることを目指す運動である[6]。リバタリアンおよびアメリカ保守主義者の間では、ランドは大きな影響力を持ち続けている[7]。 生涯 生い立ち ランドは1905年2月2日にサンクトペテルブルクに住む中産階級の一家の、3人姉妹の長女として生まれた。父はジノヴィ・ザハーロヴィチ・ローゼンバウム、母はアンナ・ボリソヴナ(旧姓カプラン)で、2人はほぼ非順守派のユダヤ人であった。父ジノヴィ・ローゼンバウムは薬剤師として成功し、薬局一店舗とこの薬局が入るビルを所有するに至った[8]。ランドは学校には退屈し、彼女自身によれば8歳の時には映画の脚本を書き始め、10歳の時には小説を書き始めた[9]。ランドが12歳の時、二月革命(1917年)が起きた。この時はニコライ2世よりもアレクサンドル・ケレンスキーに好感を持っていた。 その後の十月革命と、ウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキの独裁確立により、ランドの一家はそれまでの快適な生活を破壊された。父の薬局事業は没収され、一家は転居を強制された。ランド一家はロシア内戦中白軍の支配下にあったクリミアに逃れた。ランドの回想によれば、ランドは高校時代に無神論の立場を取ることを決め、理性を他のあらゆる人間的価値の上位に置くことに決めた。ランドが16歳でクリミアの高校を卒業した後、一家はペトログラード(旧サンクトペテルブルク)に戻った。ペトログラードでの生活条件はひどく、時に飢餓寸前の状態に陥った[10][11]。 ロシア革命後、大学が女性に解放され、ランドはペトログラード大学に入学した最初の女性の一人になった[12]。ランドは、この大学の社会教育学部で歴史を専攻した[13]。大学ではアリストテレスおよびプラトンの著作に出会った[14]。アリストテレスには最大の影響を、プラトンには最大の反面教師としての影響を、それぞれ受けることになった[15]。アリストテレスとプラトンに次いでランドが熱心に著作を研究した思想家は、フリードリヒ・ニーチェであった[16]。フランス語、ドイツ語、ロシア語を読むことができたランドは、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドモン・ロスタン、フリードリヒ・シラーなどの作家にも出会い、これらの作家の作品を長く愛読した[17]。 卒業直前、ランドは他の多くの「ブルジョア」学生と共に大学から追放された。しかし海外から訪れた科学者グループからの抗議を受け、追放された学生の多くは学業の修了と卒業を許可された[18]。ランドも1924年に大学を卒業した[19]。その後1年間レニングラードの国立映画専門学校で学んだ。学校の課題の一つとしてポーランド人女優ポーラ・ネグリに関する評論を書き、これがランドの最初の刊行作になった[20]。 この頃までに筆名としてアイン・ランドを名乗ることを決めていた[21]。名前の由来は諸説あるが、「ランド」は本名の姓Rosenbaumのキリル文字での短縮形[22]、「アイン」はフィンランド語での名前、もしくは「目」を意味するヘブライ語「 עין」(アイン)から取った[23]と言われる。 アメリカへの移住 1925年、ランドはアメリカの親類を訪問するビザを取得した。ニューヨーク港に着いたランドは、マンハッタンの摩天楼群が織りなすスカイラインに、感激のあまり「光輝の涙」を流したと後に回想している[24]。米国に留まり映画脚本家になることを決心していたランドは、最初にシカゴの親類を訪れた。親類の一人は映画館を1つ所有しており、彼女が数十の映画を無料で見ることを許した。数ヶ月の滞在後、ランドはシカゴの親類の家を後にし、カリフォルニア州ハリウッドへと出発した[25]。 当初ハリウッドでの生活は苦しく、生活費を稼ぐために雑多な仕事に従事した。著名映画監督セシル・B・デミル (Cecil B. DeMille) との面識を得て、彼の映画「キング・オブ・キングス」(The King of Kings)でのエキストラに採用され、その後も下級シナリオライターとしての仕事を獲得した[26]。「キング・オブ・キングス」での仕事中、若く野心的な俳優フランク・オコナー(Frank O'Connor)と出会い、1929年4月15日に結婚。1931年にはアメリカ市民権を取得した。1930年代、ランドは作家業の補助として様々な職業に就いた。その中には、当時の5大映画会社の一つ、RKOスタジオの衣装部門の責任者の仕事もあった[27]。両親と2人の妹を米国に呼び寄せようと何度か試みたが、彼らは移住許可を取得できなかった[28]。 初期のフィクション ランドが作家として最初に成功した作品は、1932年に映画会社ユニバーサル・スタジオに買い取られた脚本「レッドポーン」(Red Pawn)であった。ただしこの脚本は結局映画化されなかった[29]。次に書かれた法廷ドラマ「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、まず1934年にハリウッドでエドワード・E・クライヴ (Edward E. Clive) によって映画化され、1935年にはブロードウェイで上演され成功を収めた。劇場版の「1月16日の夜に」では、毎晩観客の中から「陪審員」が選ばれ、陪審員の「評決」に応じ、2つ用意された別々の結末の一方が演じられた[30]。1941年には、映画会社パラマウント・ピクチャーがこの劇の映画版を制作した。ランドはこの映画の制作に参加せず、その結果に対しきわめて批判的だった[31]。 ランドの最初の小説は、1936年に出版された半自伝的作品『われら生きるもの』(We the Living)である。ソビエト政権下のロシアを舞台にしたこの小説は、個人と国家の対立に焦点を当てている。この小説の1959年版のまえがきでランドは、「(『われら生きるもの』は)私の小説の中で最も自伝に近い作品である。文字通りの意味での自伝ではないが、知的な意味での自伝とは言える。筋書きは創作だが、背景は創作ではない[‥‥]」[32]と述べている。出版当初の売れ行きは悪く、アメリカの出版社はこの作品を絶版にした[33]。ただしヨーロッパでは売れ続けた[34]。後に『水源』等がベストセラーになったことにより、ランドは1959年にこの小説の改訂版を出版できた。以来『われら生きるもの』の販売部数は300万部を超えている[35]。1942年にはイタリアでこの小説を元にした2部作の映画、『ノア・ビビ』(Noi vivi)および『アディオ・キラ』(Addio, Kira)が制作された。ランドはこの映画化について知らなかった。この2部作映画は1960年に再発見され、ランドの承認の下、1本の映画『われら生きるもの』(We the Living)に再編集され、1986年に発表された[36]。 次の大作『水源』(The Fountainhead)を書いた後の休み中には、短篇小説『アンセム』(Anthem)を書いている。『アンセム』には、全体主義的な集産主義が勝利した結果、「I(私)」という言葉さえ忘れ去られ「We(私たち)」という言葉に取って代わられた、ディストピア的な未来像が描かれている[37]。この小説は1938年にイングランドで出版されたが、アメリカでは当初この小説を出版してくれる出版社が見つからなかった。『われら生きるもの』の場合と同様、その後『水源』がベストセラーになったおかげで、ランドは1946年にこの小説の改訂版を出版できた。『アンセム』の販売部数は350万部を超えている[38]。 『水源』と積極的政治活動 1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった[39]。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである[40]。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている[41]。 執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『水源』(The Fountainhead)は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった[42]。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』はボブスメリル社 (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである[43]。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名のアンフェタミン(中枢神経刺激薬)の処方を受けていた[44]。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった[45]。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある[46]。 『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした[47]。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある[48]。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された[49]。 ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった[50]。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった[51]。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した[52]。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した[53]。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった[54]。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている[55]。 『水源』(The Fountainhead)の映画版(邦題「摩天楼」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた[56]。 『肩をすくめるアトラス』とオブジェクティビズム 『水源』(The Fountainhead)出版後、ランドは数年にわたり読者から多数の手紙を受け取った。読者の中には、この小説から深い影響を受けた者もいた。1951年、ランドはロサンゼルスからニューヨークに転居した。ニューヨークでランドは、こうした崇拝者たちのグループを自分のそばに集めた。このグループは、社会主義国家における集産主義組織を意味する「The Collective」(集団)を(冗談で)自称した。このグループには、後の連邦準備制度理事会議長アラン・グリーンスパン (Alan Greenspan) や、若い心理学学生ネイサン・ブルメンタル(Nathan Blumenthal、後のナサニエル・ブランデンNathaniel Branden)とその妻バーバラ (Barbara) や、バーバラの従兄弟レナード・ピーコフもいた。当初このグループは、週末にランドのアパートを訪れ思想的な議論をする友人同士の、形式張らない集まりだった。その後ランドは、新しい小説『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)の原稿を書きながら、この小説の草案をこのグループに読ませるようになった。1954年には、年下のナサニエル・ブランデンとの親密な関係が愛人関係に発展した。この関係はランドとプランデンそれぞれの配偶者の同意に基づくものだった[57]。 1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)はランドの最高傑作になった[58]。ランドはこの小説のテーマを「人間存在における精神の役割と、そこから導き出される新しい道徳思想、すなわち合理的利己の道徳の提示」と説明している[59]。『肩をすくめるアトラス』では、ランドのオブジェクティビズム思想の中心テーゼが唱道され、人間による達成に関する彼女の考えが表現されている。この小説では、ディストピア化したアメリカ合衆国で、トップレベルの創造性を持つ実業家、科学者、芸術家がストライキを決行し、山岳地の奥に密かに独立自由経済社会を建設する。この小説の主人公でストライキの指導者であるジョン・ゴールトは、このストライキを、国家の富と達成に最も貢献をしている人々の精神を引き揚げることにより、「世界のモーターを止める」ことと述べる。この架空のストライキを通じランドが表現しようとしたのは、合理的で生産的な人々の努力がなければ、経済は崩壊し社会は瓦解するということである。『肩をすくめるアトラス』は恋愛小説[60][61]、ミステリー、およびSF[62]の要素を含んでいる。主人公ジョン・ゴールトが行う長大な演説は、ランドの小説作品の中で、彼女のオブジェクティビズム思想を最も詳しく述べたものである。 多くの否定的なレビューにもかかわらず、『肩をすくめるアトラス』は国際的ベストセラーになった。ジャーナリストのマイク・ウォレス (Mike Wallace) によるインタビューの中で、ランドは自分自身を「存命する中で最も創造的な思想家」と表現している[63]。この小説を完成後、ランドは深刻な抑鬱症に陥った[64]。『肩をすくめるアトラス』はランドの最後のフィクション作品であり、彼女の人生の転換点であった。この作品をもってランドの小説家としてのキャリアは終わり、大衆的思想家としての役割が始まった[65]。 1958年、ナサニエル・ブランデンは、ランドの思想の普及を目的とする「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」(Nathaniel Branden Lectures) を設立した。「ナサニエル・ブランデン・レクチャーズ」は、後に「NBI: ナサニエル・ブランデン研究所」 (Nathaniel Branden Institute) として法人化された。NBIのメンバーは、同研究所の講演会で講演し、ランドが編集する定期刊行誌に論文を寄稿した。ランドは後にこれらの論文のいくつかを書籍化して出版した。NBIの文化は知的馴れ合いであり、ランドへの阿諛追従であったと批判する者もいる。NBIの批判者には、NBIの元研究生や、ブランデン自身が含まれる。NBIやオブジェクティビズム運動自体が、カルトもしくは宗教であると述べる者もいる[66]。ランドは、文学や音楽から性、 髭に至るまで、幅広いトピックについて意見を表明した。ランドの追従者の中には、彼女の好みを模倣したり、彼女の小説の登場人物に合う服を着たり、彼女と同じような家具を買ったりする者もいた[67]。NBIの研究生の多くは、ランドの眼鏡に適わなかった[68]。ランドは研究生たちを厳格な基準に従わせた。自分に同意しない者には、冷たく対応したり、怒りを向けたりすることもあった[69]。ただし、かつてのNBI研究生たちの中には、これらの行動は誇張して伝えられており、問題があったのは、ニューヨークでランドと特に親しかった追従者との関係に限られていたと信じる者もいる[70]。 後半生 1960年代から1970年代にかけ、ランドはオブジェクティビズム思想の発展と普及のため、ノンフィクション作品の執筆や学生向けの講演を精力的に行った。ランドが講演した大学には、イェール大学、プリンストン大学、コロンビア大学[71]、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学[72]などが含まれる。1963年にはルイス & クラーク大学から名誉博士号を授与された[73]。フォード・ホール・フォーラム (Ford Hall Forum) で毎年講演するようにもなり、講演後は聴衆からの質問に応じた[74]。これらの講演や質疑応答で、ランドは当時の政治的・社会的問題について、しばしば議論の的になる立場を取った。たとえばランドは、人工妊娠中絶の権利を支持し[75]、ベトナム戦争と徴兵に反対し(ただし多くの徴兵忌避者を「クズ」(bum) と糾弾している)[76]、1973年の第四次中東戦争でパレスティナおよびアラブと闘うイスラエルを「野蛮人と闘う文明人」[77]と呼んで支持し、アメリカに入植したヨーロッパ人にはアメリカ先住民から土地を奪う権利があったと述べ[78]、同性愛は「不道徳」(immoral) で「胸が悪くなる」(disgusting) と述べながら、同性愛を規制するすべての法律の廃止を唱えた[79]。また、米国大統領選挙において何人かの共和党候補者を支持した。中でも最も強く支持したのは1964年の大統領選に出馬したバリー・ゴールドウォーターであった。ランドはゴールドウォーターの立候補を、刊行誌「ザ・オブジェクティビスト・ニューズレター」(The Objectivist Newsletter)で数回にわたり後押ししている[80]。 1964年、ナサニエル・ブランデンは若い女優パトリシア・スコット (Patrecia Scott) と愛人関係になった(後にブランデンは彼女と結婚した)。ナサニエル・ブランデンと妻バーバラはこの愛人関係をランドに隠し続けた。1968年にランドがこの愛人関係を知ったとき、ブランデンとの愛人関係は既に終わっていたが[81]、ランドはブランデンおよびバーバラと絶縁した。これによりNBIは終焉を迎えた[82]。ランドは「ザ・オブジェクティビスト」(The Objectivist)誌でナサニエル・ブランデンとの絶縁を発表した。絶縁の理由は、ナサニエル・ブランデンの不誠実、およびその他の「彼の個人的生活における非合理的な行動」[83]であるとした。ブランデンは後にあるインタビューで、「アイン・ランドの神秘性を永続化したこと」および「オブジェクティビズム運動に浸透したあの恐ろしい知的抑圧の雰囲気に寄与したこと」を、「すべてのオブジェクティビズム学徒」に対し謝罪している[84]。その後数年間で、ランドは複数の盟友と交際を絶っている[85]。 1974年、ランドは肺ガンの手術を受けた。ランドは数十年にわたるヘビー・スモーカーだった[86]。1976年にはニューズ・レターの執筆から退いた。またこの年、(社会保障および公的医療保障には当初反対していたにもかかわらず)周囲の説得に応じ、彼女の弁護士の所属事務所のコンサルタントであるエヴァ・プライアーが、社会保障および公的医療保障の利用を申請することを許した[87]。1970年代末にはオブジェクティビズム運動におけるランドの活動は徐々に沈滞し、特に1979年11月9日に夫が死去してからは沈滞が顕著になった[88]。ランドが最後に取り組んだプロジェクトの一つに『肩をすくめるアトラス』のテレビ化があったが、これは未完に終わった[89]。 1982年3月6日、ランドはニューヨーク市の自宅で心不全により死去した[90]。遺体はニューヨーク州ヴァルハラのケンシコ墓地に埋葬された[91]。ランドの葬儀にはアラン・グリーンスパンを含む複数の著名追従者が参列した。ランドの柩のそばには、ドルマークをかたどった高さ180センチのフラワーアレンジメントが添えられた[92]。遺言状で、ランドはレナード・ピーコフを遺産相続人に指名していた[93]。 思想 ランドは自らの思想を「オブジェクティビズム」 と呼んだ。ランドによれば、オブジェクティビズムの本質は「人間を英雄的存在と見なす人間観」であり、この人間観によれば、「自己の幸福の追求が人生の正しい目的であり、生産的な達成が人間にとって最も崇高な活動であり、理性が人間にとって唯一の絶対的基準である」とされた[94]。ランドはオブジェクティビズムを一つの思想体系と見なし、自らの主張を形而上学、認識論、倫理学、政治思想、および美学に展開した[95]。 形而上学においては実在論を支持し、神秘主義あるいは超自然主義(と彼女が見なす立場)には、あらゆる形態の宗教を含め、すべて反対した[96]。認識論においては、感覚を通じた知覚、および理性を、すべての知識の基礎と見なした。ランドは、感覚を通じた知覚の妥当性を、自明と見なした[97]。理性を、「人間の五感を通じて提供される素材を識別し、統合する能力」と説明した[98]。「直覚」、「直観」、「啓示」、あるいは「ただわかる」といった、非知覚的知識あるいは先験的知識の存在を主張する立場を、すべて拒絶した[99]。ランドは「オブジェクティビズム認識論入門」(Introduction to Objectivist Epistemology)において概念形成の理論を提示し、分析/総合の二分論の否認を支持した[100]。 倫理学においては、道徳原理として合理的エゴイズム(合理的利己)を主張した。ランドは、個人は「自己を他者の犠牲にすることも、他者を自己の犠牲にすることもなく、自己自身のために存在する」べきであると述べた[101]。ランドは『利己主義という気概』(The Virtue Of Selfishness)という著書で、エゴイズムを「自己本位であることの美徳」(the virtue of selfishness) と呼んだ[102]。この著書でランドは、is-ought問題(「-である」という命題からの推論で「-すべき」という命題を導く矛盾)に対する彼女の解決を示した。その解決は、道徳の基盤を「人間が人間として生存する必要性」[103]に置くメタ倫理学に依拠するものであった。ランドは道徳的利他主義を、人間の生命および幸福に対する要求と相容れないとして、非難した[104]。自分の側からの強制力の行使 (the initiation of force) は邪悪かつ不合理であると考え、『肩をすくめるアトラス』の中で「強制と精神は相反する」 (Force and mind are opposites) と書いた[105]。 ランドの政治思想においては、財産権を含む個人の権利が強調された[106]。ランドは、自由放任資本主義を唯一の道徳的な社会システムと見なした。彼女の見解では、自由放任資本主義が、個人の権利を保護を基盤とする唯一の社会システムだったからである[107]。国家主義には反対した。ランドが考える国家主義には、神権政治、絶対君主制、ナチズム、ファシズム、共産主義、民主社会主義、独裁制も含まれた[108]。ランドは、強制力による権利の実現は、憲法による制限を受けた政府のみが行うべきであると信じた[109]。政治に関するランドの見解は、しばしば保守またはリバタリアニズムに分類されるが、彼女自身が好んだ呼称は「資本主義徹底派」(radical for capitalism) であった。ランドは政治運動で保守派と協働したが、宗教や倫理などの問題では、保守派に同意しなかった[110]。リバタリアニズムを無政府主義と同類視して非難した[111]。無政府主義は、主観主義に基づくナイーブな理論であり、実践においては集産主義にしかつながらないとして退けた[112]。 ランドの美学は、「芸術家による形而上学的価値判断に基づく、現実の選択的再創造」(selective re-creation of reality according to an artist's metaphysical value-judgments)として定義される。芸術は、哲学的概念を、人々が把握しやすい形式に具現化することによって、人間の意識のニーズを満たすものであると述べた[113]。作家としてランドが最も力を注いだ芸術形式は文学であり、ロマン主義を、文学において人間の自由意志の存在を最も正確に反映するアプローチと見なした[114]。ランドは自分の文学へのアプローチを「ロマン主義的写実主義」(romantic realism) と称した[115]。 ランドはアリストテレスに最も大きな影響を受けたと認めている[116]。哲学の歴史上推薦できるのは、アリストテレス、アクィナス、アイン・ランドの「3人のA」だけだとも述べた[117]。事実ランドがアリストテレスに負うところは大きく、マイク・ウォレスによる1959年のインタビューで、ランドは「私が精神的に恩義を受けていることを認めるのは、アリストテレスだけです。アリストテレスは、私がこれまで影響を受けた唯一の哲学者です。アリストテレスの影響による部分を除き、私は自分の思想を、自分自身で築き上げました」と答えている[118]。ただしランドは、若い頃にフリードリヒ・ニーチェからインスピレーションを受けてもいる[119]。研究者によると、ニーチェの影響は、ランドの日記の初期の記述や[120]、後にランドが改訂した『われら生きるもの』(We the Living)の初版の文章や[121]、彼女の叙述スタイル全体などに見いだされる[122]。ただしランドは、『水源』(The Fountainhead)執筆時までには、ニーチェの考えを拒絶するようになっている[123]。また、初期ランドがどの程度ニーチェの影響を受けたかについては、疑問が出されている[124]。ランドが特に軽蔑した哲学者の中には、イマヌエル・カントもいた。ランドはカントを「モンスター」と呼んでいる[125]。ただし、哲学研究者のジョージ・ウォルシュ (George Walsh)[126]とフレッド・セドン (Fred Seddon)[127]は、ランドがカントを誤解し、見解の相違を誇張していたと主張している。 ランドは、哲学への自分の最も重要な貢献は、「概念論と、倫理学。それから悪、すなわち権利の侵害は、自分の側から強制力の使用によって存立するという、政治学上の発見」であると述べている[128]。認識論は哲学の根本をなす部門の一つと信じ、理性の賞揚を自分の哲学の最も重要な側面と見なした[129]。「私は資本主義の擁護者というよりはエゴイズムの擁護者であり、エゴイズムの擁護者であるというよりは理性の擁護者である。理性の至高性を認め、これを一貫して適用すれば、残りは当然のこととして導かれる」と述べた[130]。 反響と遺産 レビュー ランドの作品は、彼女の存命中から、強烈な賞賛と非難の両方を巻き起こした。最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)は、文芸評論家H.L.メンケン (H.L. Mencken) に賞賛された[131]。ブロードウェイで上演された演劇「1月16日の夜に」(Night of January 16th)は、批評家からも観客からも好評だった[132]。『水源』(The Fountainhead)は、「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙のレビューアーから「偉大」(masterful) と評された[133]。ランドの小説の出版当時には、冗長でメロドラマ的であると嘲る批評家もいた[5]。それでもランドの小説は、主に口コミを通じてベストセラーになった[134]。 ランドが最初にレビューを受けた作品は「1月16日の夜に」(Night of January 16th)だった。この劇に対しては、おおむね肯定的なレビューが寄せられた。しかしランドは、肯定的なレビューにも決まりの悪い思いをしていた。この劇の上演にあたり、プロデューサーが彼女の脚本を大幅に変更していたからである[132]。ランドは、最初の小説『われら生きるもの』(We the Living)には多くのレビューが書かれなかったと信じていた。しかしランド研究者のマイケル・S・ベルリナーは、この小説に対して、200以上の出版物で約125件のレビューが公開されていることを明らかにした。ベルリナーは、「『われら生きるもの』はランドの作品の中で最も多くのレビューが書かれた小説である」と述べている。『われら生きるもの』に対するレビューは、全体として、後のランドの作品に対するレビューよりも肯定的だった[135]。1938年に出版された短篇小説『アンセム』(Anthem)は、イングラントで出版された初版も、その後の改訂版も、レビューアーにはほとんど注目されなかった[136]。 ランドの最初のベストセラー『水源』(The Fountainhead)は、『われら生きるもの』に比べ、書かれたレビューの数がはるかに少なかった。レビューアーの意見もまちまちだった[137]。「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された肯定的なレビューの一つは、ランド自身も高く評価した[138]。このレビューの書き手は、ランドを「きらびやかに、美しく、痛烈に」書く「すばらしい力を持つ作家」と呼び、「この偉大な作品を読めば、我々の時代における基本的な概念のいくつかについて考え抜かずにはいられないだろう」と述べた[133]。他にも肯定的なレビューはあったが、ランドはそれらのほとんどを、自分のメッセージを理解していない、もしくは掲載紙誌がマイナーであるとして、無視した[137]。否定的なレビューのいくつかは、この小説の長さを批判していた[5]。たとえば、あるレビューアーはこの小説を「本の鯨」と呼び、別のレビューアーは「この小説に入れ込む人間には、紙の配給に関する厳しい授業を受けさせる必要がある」と書いた。登場人物に同情心がないと批判するレビューアーや、ランドの文体を「不快なほど単調」と批判するレビューアーもいた[137]。 1957年に出版された『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)には多数のレビューが書かれた。多くのレビューが、この小説にきわめて否定的だった[5][139]。保守派の批評家ホイタッカー・チェンバース (Whittaker Chambers) は、「ナショナル・レビュー」(National Review)誌でこの小説を「青臭く」「とんでもなく愚かしい」と評した。チェンバースは、この小説が「救済のない刺々しさ」に貫かれていると述べ、ランドが神を排した体制(チェンバースによればソビエトに類する体制)を支持していると非難し、「『肩をすくめるアトラス』のほぼすべてのページから、痛ましい必然による命令として聞こえてくる声がある。『ガス室に行け!』の声だ」と述べた[140]。『肩をすくめるアトラス』に対する肯定的なレビューも、いくつかの出版物で書かれた。たとえば著名な書評家ジョン・チェンバレン (John Chamberlain) は、この小説を賞賛した[139]。しかし、後にランド研究者のミミ・リーセル・グラッドスタイン (Mimi Reisel Gladstein) が書いたところによれば、「レビューアーたちは、まるで酷評の巧みさを競い合うかのようだった。彼らは『肩をすくめるアトラス』を“忌むべきはったり”と評したり、“悪夢”と評したりした。この小説が“憎悪によって書かれている”と述べたり、“無慈悲な弱い者いじめと冗長さを示している”などと述べたりした」[5]。作家のフラナリー・オコナー(Flannery O'Connor)は、友人への手紙で「アイン・ランドのフィクションはおよそ考えられる中で最低のフィクションだ。地下鉄で拾い上げたらすぐそばのクズ箱に直行だろう」と書いた[141]。 ランドのノンフィクションについて書かれたレビューは、彼女の小説について書かれたレビューより、ずっと少なかった。ランドの最初のノンフィクション『新しい知識人のために』(For the New Intellectual)に対する批判の趣旨は、『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)に対する批判の趣旨と、ほぼ同じだった[142][143]。哲学研究者シドニー・フック (Sidney Hook) は、ランドの確信を「ソビエト連邦での哲学の書かれ方」になぞらえた[144]。作家ゴア・ヴィダル (Gore Vidal) は、ランドの見解を「その不道徳性においてほぼ完璧」と評した[145]。その後の著書は、発刊するたびにレビューアーから注目されなくなった[142]。 2005年、アイン・ランド生誕100年にあたり、評論家のエドワード・ロスタイン (Edward Rothstein) は「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙で、ランドのフィクションは古風でユートピア的な「レトロ・ファンタジー」であり、理解され損ねた芸術家によるプログラム的新ロマン主義であると述べた。またロスタインは、ランドの小説の登場人物たちによる「民主社会に対する孤立した拒絶」を批判した[146]。2007年、書評家のレスリー・クラーク (Leslie Clark) はランドのフィクションを「擬似哲学の青さびが付いたロマンス小説」と評した[147]。2009年、男性向けファッション・ビジネス・カルチャー誌「GQ」コラムニストのトム・カーソン (Tom Carson) は、ランドの著書を、『ベン・ハー』(Ben-Hur)や『レフトビハインド』(Left Behind)シリーズと同類の、「資本主義版のミドルブロー(中程度知識層向け)宗教小説」と評した[148]。 大衆への浸透 1991年、アメリカ議会図書館と米国最大の書籍通販組織「ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ」(the Book-of-the-Month Club) は、同クラブ会員に「人生で最も影響を受けた本」を尋ねる調査を行った。この調査でランドの『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)は、聖書に次ぎ2番目に多くの票を集めた[149]。また、1998年のランダムハウス/モダンライブラリーの「アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100」[150]で『肩をすくめるアトラス』が第一位、『水源』が第二位を獲得し、また10位内に4つの作品がランクインした[151]。ランドの著書は現在も幅広い読者に購入され、読まれ続けている。販売総部数は2013年時点で2,900万部を超える。なお販売総部数の約10%は「アイン・ランド協会」(The Ayn Rand Institute) による学校への寄贈用である[152]。ランドの影響が最も大きいのは米国であるが、彼女の作品は世界中で関心を引いている[153]。インドでは現在もランドの作品がベストセラーに名を連ね続けている[154]。 同時代でランドを賞賛した作家には、アイラ・レヴィン (Ira Levin)、ケイ・ノルティ・スミス (Kay Nolte Smith)、L.ニール・スミス (L. Neil Smith) などがいる。後の世代の作家であるエリカ・ホルツァー (Erika Holzer) やテリー・グッドカインド (Terry Goodkind) も、ランドの影響を受けている[155]。人生や思想の上でランドに重要な影響を受けたことを公言しているアーチストには、他に漫画家のスティーヴ・ディッコ (Steve Ditko) や[156]、ハードロック/プログレッシブ・ロックバンドのラッシュ (Rush) のドラマー、ニール・パート (Neil Peart) などがいる[157]。ランドはビジネスを肯定的に描いて見せた。このため経営者や起業家の中にも、ランドの作品を賞賛する者や、ランドの作品の普及に努める者は多い[158]。銀行持株会社BB&Tのジョン・アリソン (John Allison)や、スポーツ・エンタテイメント会社コムキャスト・スペクタカー (Comcast Spectacor) のエド・スナイダー (Ed Snider) は、ランドの思想の普及活動に資金を拠出した[159]。他にもプロバスケットボールチームのダラス・マーベリックス (Dallas Mavericks) のオーナー、マーク・キューバン (Mark Cuban) や、食料品スーパーマーケットチェーンのホールフーズ・マーケットのCEO、ジョン・P.マッキー (John P. Mackey) など様々な経営者・起業家が、自分の成功にランドが重要な役割を果たしたと述べている[160]。 ランドとその作品は、アニメ、ライブコメディ、ドラマ、ゲームショーを含むテレビ番組[161]や、映画、ビデオゲーム[162]など、様々なメディアで取り上げられている。ランドやランドをベースにしたキャラクターは、米国の著名な作家達による様々な文芸作品やSFに登場し、(肯定的であれ否定的であれ)大きな存在感を示している[163]。「リーズン」(Reason)誌の編集主幹であるニック・ギレスピー (Nick Gillespie) は、「ランドの名声は、虐げられた形で不滅になっています。様々な作品に登場しているランドには、まるで主人公のようなインパクトがあります」、「ランドを冷酷で非人間的と非難することは、大衆文化に浸透しきっています」と述べている[164]。ランドの生涯については2本の映画が制作されている。ドキュメンタリー映画「アイン・ランド:ア・センス・オブ・ライフ」(Ayn Rand: A Sense of Life、1997年)は、アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされた[165]。1999年に制作されたテレビドラマ「ザ・パッション・オブ・アイン・ランド」(The Passion of Ayn Rand)は、バーバラ・ブランデン (Barbara Branden) による同名の伝記(1986年)をドラマ化したもので、複数の賞を受賞した[166]。ニック・ガエターノ (Nick Gaetano) がデザインしたランドの肖像画は、米国の切手にもなった[167]。 政治的影響 ランド自身は「保守」や「リバタリアン」に分類されることを拒否していたにもかかわらず[168]、ランドは右派政治運動やリバタリアニズムに強い影響を与え続けている[7]。ケイトー研究所 (Cato Institute) の上級研究員、ジム・パウエル (Jim Powell) は、近代におけるアメリカのリバタリアニズムにおいて最も重要な3人の女性として、ローズ・ワイルダー・レイン (Rose Wilder Lane)、イザベル・パターソンと共にアイン・ランドを挙げている[169]。リバタリアン党の創設者の1人、デヴィッド・ノーラン (David Nolan) は、「アイン・ランドがいなかったら、リバタリアン運動は存在しなかっただろう」と述べている[170]。ジャーナリストのブライアン・ドハティ (Brian Doherty) は、リバタリアン運動の歴史を記述する中で、ランドを「20世紀のリバタリアンの中で社会全体に最も大きな影響を与えた人物」と呼んでいる[149]。伝記作家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) は、ランドを「右派の人生への究極のゲートウェイドラッグ」と呼んだ[171]。 ウィリアム・F.バックリー・ジュニア(William F. Buckley, Jr.)をはじめとする「ナショナル・レビュー」(National Review)誌の寄稿者達は、ランドを厳しく批判していた。1950年代から1960年代にかけて、同誌にはウィテカー・チェンバース (Whittaker Chambers)、ゲイリー・ウィルズ (Garry Wills)、およびM.スタントン・エヴァンズ (M. Stanton Evans) による多数の批判が掲載された。しかしランドの保守派への影響があまりにも大きかったため、バックリーをはじめとする「ナショナル・レビュー」誌寄稿者達も、伝統的価値観念やキリスト教的精神と資本主義の擁護をどうすれば統合できるか、再検討することを迫られた[172]。 妊娠中絶合法化を支持し、神の存在を否定するなど、ランド自身は保守派としては典型的ではない立場も取っている[173]。しかし政治の世界でランドからの影響を公言する人物は、一般に保守派で、米国共和党の党員であることが多い[174]。1987年に「ニューヨーク・タイムズ」(The New York Times)紙に掲載された記事で、ランドはレーガン政権の「桂冠小説家」(novelist laureate) と呼ばれていた[175]。共和党連邦議会議員や保守派の政治評論家も、ランドの影響を受けたことを認め、ランドの小説を推薦している[176]。 2000年代末の金融危機は、ランドの作品、特に『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)への新たな関心を呼び起こした(この金融危機が『肩をすくめるアトラス』で予見されていたと見る者もいた)[177]。現実の世界の出来事とこの小説のプロットを比較する、様々な論説が書かれた[178]。同じ時期、ティーパーティー運動参加者の中に、ランドや彼女の小説の主人公ジョン・ゴールトに言及するプラカードを掲げる者が多く見られた[179]。同時に、ランドの思想に対する批判も、政治的左派を中心に高まった。批判者達は、ランドによる利己主義と自由市場の擁護が、特にアラン・グリーンスパンへの影響を通じ経済危機を引き起こしたと非難した[180]。たとえば「マザー・ジョーンズ」(Mother Jones)誌は「伝統的なヒエラルキーを逆さにし、 富や才能や権力を握る人々を被抑圧者に変えて見せるのが、常にランドの特殊な才能だった」と論じ[173]、「ザ・ネイション」(The Nation)誌は「ランディアニズムの道徳構文法」とファシズムの類似性を主張した[181]。 アカデミズムの反応 ランドの存命中、彼女の作品はアカデミズムの世界の研究者からはほとんど注目されなかった[6]。ランドの思想に関する最初の学問的書物は、1971年に出版された。その著者は、ランドについて書くことは、ランドを真剣に取り扱ったことでランドとの「連座による罪」に問われかねない「危険な企て」であると述べた[182]。1982年にランドが死去する前に、ランドの思想に関するいくつかの論文が学術誌に掲載されているが、その多くは「ザ・パーソナリスト」(The Personalist)誌に掲載されたものだった[183]。リバタリアンの哲学研究者ロバート・ノージック (Robert Nozick) による「ランディアンの主張について」(On the Randian Argument)はその一つである。この論文でノージックは、形而上学におけるランドの主張に不備があり、デイヴィッド・ヒューム (David Hume) が提起したis-ought問題が解決されていないと論じた[184]。「パーソナリスト」誌には、ノージックに対する他の哲学研究者からの反論も掲載された。反論者達は、ノージックがランドの立場を誤って述べていると主張した[183]。ランドの存命中、文学者としてのランドを学問的に検討した論考は、さらに限られていた。演劇研究者のミミ・グラッドスターン (Mimi Gladstein) が1973年にランドの研究を開始した当時、ランドの小説に関する学術論文は1本も見つからなかった。1970年代を通じて発表された文学者としてのランドの研究論文は3本だけだった[185]。 ランドの死去後、ランドの作品への関心は徐々に高まった[186]。歴史家のジェニファー・バーンズ (Jennifer Burns) によれば、これまでランドに対する研究者達の関心には「重なり合う3つの波」があり、その内最も新しい波は2000年以来の「学問的研究の爆発」(an explosion of scholarship) である[187]。ただし現在、ランドやオブジェクティビズムを哲学上の専門や研究分野に含める大学はほとんど存在しない。多くの文学科や哲学科では、ランドは大衆文化現象と見なされ、真剣な研究の対称として扱われていない[188]。 学術機関でランドの作品について教授している研究者としては、グラッドスタイン (Gladstein)、クリス・マシュー・スカバラ (Chris Matthew Sciabarra)、アラン・ゴットヘルフ (Allan Gotthelf)、エドウィン・A.ロック (Edwin A. Locke)、タラ・スミス (Tara Smith) などがいる。スカバラは、ランドの哲学的および文学的業績の研究に貢献する超党派の査読付き定期刊行誌である「ザ・ジャーナル・オブ・アイン・ランド・スタディーズ」(The Journal of Ayn Rand Studies)の、共同編集者を務めている[189]。1987年、ゴットヘルフは、ジョージ・ウォルシュ (George Walsh)およびデヴィッド・ケリー (David Kelley) と共に「アイン・ランド・ソサイアティ」(Ayn Rand Society) の創設を支援した。ゴットヘルフは、ランドおよびランドの思想に関するセミナーを積極的に後援している[190]。スミスはランドの思想に関する学術的な本および論文を複数書いている。ケンブリッジ大学出版局 (Cambridge University Press) から出版されたランドの倫理論に関する書籍、『アイン・ランドの規範倫理:有徳のエゴイスト』(Ayn Rand's Normative Ethics: The Virtuous Egoist)はその1つである。ランドの思想は、クレムゾン大学およびデューク大学でも研究対象になっている[191]。英米文学の研究者はランドの作品をほぼ無視している[192]。ただし1990年代以降は、ランドの作品に注目する研究者が増えている[193]。 ランド研究者のダグラス・デン・アイル (Douglas Den Uyl) とダグラス・B.ラスムッセン (Douglas B. Rasmussen) は、ランドの思想の重要性と独自性を強調する際、ランドの文体が「文学的、誇張法的、かつ感情的」であると述べた[194]。哲学研究者のジャック・ホイーラーは、ランドの倫理学には「絶え間ない大言壮語とランディアンの噴怒の絶え間ない発散」があるが、この倫理学は「きわめて巨大な業績であり、その研究は他のどの現代思想の研究よりはるかに有益である」と述べた[195]。2001年にジョン・デヴィッド・ルイス (John David Lewis) は、オンライン文学百科事典「リテラリー・エンサイクロペディア」(Literary Encyclopedia)のランドの項で、「ランドは同世代の作家の中で最も知的に挑戦的なフィクションを書いた」と断言した[196]。「ザ・クロニクル・オブ・ハイアー・エジュケーション」(The Chronicle of Higher Education)紙の1999年のインタビューで、スカバラは「彼らがランドを笑うことはわかっている」と述べながら、学術界でもランドの業績への関心が高まると予言した[197]。 哲学研究者のマイケル・ヒューマー (Michael Huemer) は、ランドの思想、特に倫理学は、解釈が困難で論理的な一貫性に欠けており[198]、これに説得される人は非常に少ないと主張した[199]。ヒューマーは、ランドが注目を集めるのは、特に小説家として「人を引き込まずにはいない文章を書く才能」のためであるとしている。『肩をすくめるアトラス』(Atlas Shrugged)がルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises)、フリードリヒ・ハイエク (Friedrich Hayek)、フレデリック・バスティア (Frederic Bastiat) といった他の古典的自由主義哲学者の作品だけでなく、ランド自身のノンフィクション作品よりもよく売れるのは、ヒューマーによればランドのこの才能のためである[199]。 政治学者のチャールズ・マーレイ (Charles Murray) は、ランドの文学的業績を賞賛する一方で、ランドが自分の思想をジョン・ロックやフリードリヒ・ニーチェなどの先行する思想家達からも受け継いでいることを認めず、哲学的にアリストテレスにのみ負っていると主張したことを批判している。マーレイによれば、「アリストテレスにわずかばかり助けられただけで、オブジェクティビズムが自分の頭脳から生まれ全面開花したと主張することによって、ランドは現実から乖離しただけでなく、子供じみることにもなってしまった」[200]。 ランドはオブジェクティビズムが統一された思想体系であると主張したが、哲学研究者のロバート・H.バス (Robert H. Bass) は、ランドの中心的な倫理思想が彼女の中心的な政治思想と一貫せず矛盾すると主張した[201]。 オブジェクティビズム運動 1985年、ランドの相続人レナード・ピーコフは、ランドの思想および作品の伝播を目的とする非営利組織「アイン・ランド協会」(Ayn Rand Institute) を設立した。1990年、哲学研究者のデヴィッド・ケリー (David Kelley) は、「アトラス・ソサイエティ」(The Atlas Society) として知られる「オブジェクティビズム研究所」(Institute for Objectivist Studies) を設立した[202]。2001年、歴史家のジョン・マカスキー (John McCaskey) は、アカデミズムの世界で行われる学問的なオブジェクティビズム研究に資金を提供する「オブジェクティビストの奨学のためのアンセム基金」(Anthem Foundation for Objectivist Scholarship) を組織した[203]。BB&T社の慈善基金も、ランドの思想や作品の教授に資金を提供している。資金の提供を受けている学校には、テキサス大学オースティン校 (The University of Texas at Austin)、ピッツバーグ大学 (University of Pittsburgh)、およびノースカロライナ大学チャペルヒル校 (University of North Carolina at Chapel Hill) などがある。これらの資金提供がランドに関連する研究や教授を条件としていることが、議論になるケースもある[204]。 主な著作 小説 1936年 We the Living 『われら生きるもの』(脇坂あゆみ訳、ビジネス社、2012年12月)ISBN 978-4828416908 1943年 The Fountainhead 『水源』(藤森かよこ訳、ビジネス社、2004年7月)ISBN 978-4828411323 『水源』は、1949年にゲイリー・クーパー主演、ランド自身の脚本によって映画化(オリジナルタイトルは、The Fountainhead であるが、日本では、『摩天楼』という日本語の題で公開)された。 1957年 Atlas Shrugged 『肩をすくめるアトラス』(脇坂あゆみ訳、ビジネス社、2004年10月)ISBN 978-4828411491 改訳文庫版(全3巻) アトランティス 第一部 2014年 ISBN 978-4908222016 、第二部 2014年 ISBN 978-4908222023 、第三部 2015年 ISBN 978-4908222030 映画 1942年 Noi Vivi Addio Kira (著者の許諾を得ずにイタリアで制作、1986年米国で復刻版公開) 『われら生きるもの』(アトランティス、2013年11月) その他のフィクション 1932年 Red Pawn 「レッドポーン」 1934年 Night of January 16th 「1月16日の夜に」 1938年 Anthem 『アンセム』 2015年 Ideal 『イデアル』 ノンフィクション 1961年 For the New Intellectual 『新しい知識人のために』 1964年 The Virtue of Selfishness 『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』(藤森かよこ訳、ビジネス社、2008年12月)ISBN 978-4828414669 1966年 Capitalism: The Unknown Ideal 『資本主義: 知られざる理想』 1969年 The Romantic Manifesto 『ロマン主義宣言』 1971年 The New Left: The Anti-Industrial Revolution 『新左翼: 反産業革命』 1979年 Introduction to Objectivist Epistemology 『オブジェクティビズム認識論入門』 1982年 Philosophy: Who Needs It 『哲学: 誰がそれを必要とするか』 脚注・参照 参考文献 古藤晃 『ビジネス英語を速く読む』、光文社新書、2001年10月。ISBN 978-4-334-03108-4 日本のビジネスマンがアメリカを理解する上で読むべき本として、『Atlas Shrugged(肩をすくめるアトラス)』を紹介。また、多くの文章を引用している。 CS1 maint: extra text: editors list (link) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) CS1 maint: extra text: editors list (link) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) Cite uses deprecated parameter |deadurl= (help); Unknown parameter |deadlinkdate= ignored (help); Check date values in: |archivedate= (help) 関連項目 教訓主義 オブジェクティビズム (映画化された『肩をすくめるアトラス』の第1部) (映画化された『肩をすくめるアトラス』のの第2部) (『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』) ジミー・ウェールズ 外部リンク 日本語 :『水源』の翻訳者のサイト :アイン・ランドの作品を感銘を受けた著書として、NHKの「やさしいビジネス英語」のテキストなどで紹介。 山形浩生による『肩をすくめるアトラス』の書評: :『インターコミュニケーション』 2002年Spring 英語 entry in the Stanford Encyclopedia of Philosophy
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 454, 821, 1008, 1108, 1499, 1796, 4498, 5181, 5488, 5937, 6137, 7135, 7323, 7461, 7577, 8170, 8514, 8641, 8793, 9250], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 446, 820, 1007, 1107, 1498, 1788, 4487, 5159, 5474, 5917, 6117, 7127, 7297, 7457, 7560, 8169, 8513, 8633, 8785, 9236, 9639], dtype=int32)}
市川 團十郞には何人の子どもがいる?
市川團十郎 (12代目)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
十二代目 市川 團十郎(じゅうにだいめ いちかわ だんじゅうろう、1946年(昭和21年)8月6日 - 2013年(平成25年)2月3日)は、日本の歌舞伎役者。屋号は成田屋、定紋は(みます)、替紋は(ぎょようぼたん)。日本芸術院会員。本名は<b data-parsoid='{"dsr":[1017,1028,3,3]}'>堀越 夏雄(ほりこし なつお)、俳名に柏莚(はくえん)がある。 人物 十一代目市川團十郎の長男として誕生。父が早世した後は自らの努力で芸を磨く。スケールの大きい骨太な芸格が魅力。重厚な存在感と独特な愛嬌を併せ持つ。市川宗家お家芸の歌舞伎十八番はもとより、荒事、世話物、義太夫狂言、新歌舞伎と多彩な役々を演じ分けた。 円熟期を迎えて歌舞伎界の柱として期待されていたが、晩年には白血病を発症、健康に不安を抱え、治療を受けながら舞台を務めていた。 従兄弟に二代目松本白鸚、二代目中村吉右衛門、初代尾上辰之助がいる。 一方では小学生時代から天体観測を趣味としていたために、宇宙への関心が深く[1]、『宇宙の渚』(日本放送協会)など、宇宙関連のテレビ番組や各種イベントへの出演も積極的に行っていたこともあった。そうしたことから若田光一や野口聡一など日本人宇宙飛行士とも親交が厚かった。 生前には「おいおい時期を見て團十郎の名を倅に譲り、自分は隠居名を名乗る考えがある」ことを明かしていたという[2]。その場合には2代目團十郎の俳名である「栢莚」を名乗るつもりでいたと考えられている[2]。 年譜 東京都に生まれる。十一代目市川團十郎の長男。 1953年10月 歌舞伎座にて『大徳寺』の三法師公で市川夏雄を名のり初舞台。 1958年5月 歌舞伎座にて『風薫鞍馬彩』の牛若丸で六代目市川新之助を襲名。 1965年3月 青山学院高等部卒業(13期) 1969年3月 日本大学藝術学部を卒業。 1969年11月 歌舞伎座にて『助六由縁江戸桜』の助六、『勧進帳』の富樫などで十代目市川海老蔵を襲名。 1985年4月-6月 歌舞伎座の3ヵ月に亘る襲名披露興行で『勧進帳』の弁慶、『助六』の助六ほかを勤め、十二代目市川團十郎を襲名。 1986年1月 日本俳優協会理事に就任。 1999年4月 伝統歌舞伎保存会理事に就任。 2002年 文化審議会委員に就任。 2002年11月 歌舞伎座にて『義経千本桜』の三役を演じる。 2004年5月 長男の十一代目市川海老蔵襲名前後に白血病を発症、治療に専念。治療後約半年、10月パリ公演で復帰する。 2005年6月 白血病が再発、療養生活に入る。自家末梢血幹細胞移植の治療を受け、壮絶な闘病生活をおくる。慢性の貧血状態が続く「骨髄異形成症候群」と診断され、輸血を継続する治療を受けた。 2006年3月 歌舞伎座で復帰会見。5月復帰[3]。 2008年7月ヒト白血球型抗原(HLA)の型が一致した妹から骨髄移植を受ける。10月 三越劇場で舞台復帰会見。その際に白血病の影響で血液型がA型からO型に変わったことを告白した[4]。 2010年10月27・28日 浄土宗総本山知恩院「法然上人800年大遠忌記念 総本山知恩院奉納歌舞伎」にて<b data-parsoid='{"dsr":[3246,3258,3,3]}'>三升屋 白治(みますや はくじ)の名で書いた新作『黒谷(『一谷嫩軍記』の「熊谷陣屋」の後日譚)』を上演[5]。 2011年7月1日 特定非営利活動法人全国骨髄バンク推進連絡協議会会長に就任。 2013年2月3日 肺炎のため死去[6]。。團十郎(堀越夏雄)は神道(神習教)信者であるため[7]、同年2月5日に通夜祭、2月6日に葬場祭と神式に則った葬儀が東京都目黒区の邸にて近親者による密葬の形で営まれると共に、12世團十郎には『瑞垣珠照彦命』の諡号が贈られた[8]。 2013年2月27日 東京・青山葬儀所に於いて本葬が執り行われた。尚、本葬に先立ち、生前の功績により没日の2月3日付で日本政府より正五位並びに旭日中綬章が追贈されることが閣議決定された[9]。 受賞歴 1986年3月 第7回松尾芸能賞大賞 1989年6月 第45回日本芸術院賞 1995年 眞山青果賞大賞 1998年 歌舞伎座『極付幡随長兵衛』にて芸術祭賞演劇部門優秀賞 2000年 博多座『恋湊博多諷』、国立劇場『本朝廿四孝』、歌舞伎座『大杯觴酒戦強者』にて第7回読売演劇大賞優秀男優賞受賞 2000年 歌舞伎座『江戸城総攻-麟太郎と吉之助』にて第19回眞山青果賞大賞 2007年 フランス芸術文化勲章コマンドゥール、紫綬褒章をそれぞれ受章 2011年 第27回浅草芸能大賞 2012年 日本芸術院会員 2013年 正五位、旭日中綬章 出演歴 歌舞伎 『義経千本桜』 - 佐藤忠信・平知盛・いがみの権太の三役(国立劇場) 『勧進帳』 - 武蔵坊弁慶 『助六由縁江戸桜』 - 花川戸助六<small data-parsoid='{"stx":"html","dsr":[4872,4889,7,8]}'>実は曾我五郎 『与話情浮名横櫛』 - 与三郎 海外公演 1982年6月-7月 アメリカ公演(ニューヨーク) 1985年7月-8月 アメリカ公演(ニューヨーク・ワシントン・ロサンゼルス) 1988年7月-8月 オーストラリア公演(ブリスベン・メルボルン・バース) 1989年9月 ヨーロッパ公演(ブリュッセル・東ベルリン・ドレスデン・ウイーン) 2004年10月 パリ公演 2007年3月 パリ・オペラ座公演 その他の舞台 『春の雪』(1973年 日生劇場、1979年 京都・南座) - 松枝清顕役 『華岡青洲の妻』 - 華岡青洲役 『眠り王』 - 月の大王実は日本の帝役 テレビドラマ 若さま侍捕物帖(1967年、日本テレビ) - 若さま役 遠山の金さん(1967年、日本テレビ) - 遠山金四郎 役 春の雪(1970年、フジテレビおんなの劇場) - 松枝清顕役 春の坂道(1971年、NHK大河ドラマ) - 徳川家光 役 宮本武蔵(1975年、フジテレビ) - 宮本武蔵 役 午後の恋人(1979年、フジテレビ) - 樋口浩之 役 花道は炎のごとく(1985年、日本テレビ) - 初代團十郎 役※襲名記念作品 天下の副将軍水戸光圀 徳川御三家の激闘(1992年、テレビ東京) - 水戸光圀 役 花の乱(1994年、NHK大河ドラマ) - 足利義政 役 炎の奉行 大岡越前守(1997年、テレビ東京) - 大岡忠相 役 元禄繚乱(1999年、NHK大河ドラマ) - 歌舞伎役者 役 仲蔵狂乱(2000年、朝日放送) - 中村仲蔵 役 あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機(2008年、TBS) - 山本五十六 役 映画 花のお江戸の釣りバカ日誌(1998年12月23日、松竹) - 庄内藩藩主 役 利休にたずねよ(2013年12月7日、東映) - 武野紹鴎 役 ドキュメンタリー 『開局7周年特別企画 THE MOON〜人類の夢・月世界の未来〜』(2008年、BSジャパン) - ナビゲーター[10] CM キリンビール(1986年) 三井生命『大樹暖家族(あったかぞく)R』(1997年) 社会的活動 「国際化社会になるにあたって、日本人のアイデンティティの拠り所の1つとして歌舞伎を役立てて欲しい」[11]との思いから、青山学院大学文学部客員教授[12]や早稲田大学特命教授[13]を務めるなど、大学教育の場で歌舞伎を通した日本文化の啓蒙・教育活動に熱心に取り組み、文化庁文化審議会委員として日本文化発展を願う立場から積極的に発言を行っていた。また、長男:海老蔵と共に歌舞伎の海外公演にも積極的に取り組んでいた。 また、九世市川團十郎が神奈川県茅ヶ崎市に別荘を所有していた縁や、茅ヶ崎市出身の宇宙飛行士:野口聡一との親交などもあって茅ヶ崎駅北口ペデストリアンデッキに十一世團十郎の手形モニュメントが設置され、2010年4月17日に除幕式が執り行われた。 2011年7月1日より、2年の任期で全国骨髄バンク推進連絡協議会の会長に就任していた[14]。 役職 文化庁文化審議会委員 同 国語分科会委員 全国骨髄バンク推進連絡協議会会長(2011年7月1日 - 2013年2月3日) 著書 『童の心で 歌舞伎と脳科学』(小泉英明との共著、工作舎、2012年)ISBN 978-4875024446 『團十郎復活 六十兆の細胞に生かされて』 (文藝春秋、2010年) ISBN 978-4163723808 『團十郎の歌舞伎案内』 (PHP新書、2008年) ISBN 978-4569699295 『歌舞伎十八番』 解説・服部幸雄/写真・小川知子 (河出書房新社、2002年) ISBN 978-4309265872 参考文献 服部幸雄 『市川團十郎代々』 (講談社、2002年) 『十二代市川團十郎』 写真・薄井大還 (マガジンハウス 2001年) 『海老蔵から団十郎へ 十二代目市川団十郎襲名』 写真・薄井賢三 (集英社、1985年) 『襲名全記録 十二代目市川團十郎』 写真・富山治夫 (平凡社、1985年) 脚注・出典 外部リンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E5%B7%9D%E5%9C%98%E5%8D%81%E9%83%8E%20%2812%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29
{'plaintext_start_byte': array([ 203, 623, 869, 1074, 1485, 1915, 1973, 2673, 3296, 3627, 3835, 4169, 4593, 4883, 5603, 6217, 6561, 6995, 7495, 8256, 8624, 10155, 11122, 11281, 11946, 12665, 13288, 13803, 14002, 14537, 14990, 15286, 16257, 16769, 17205, 17530, 17725, 18646, 19095, 19371, 19575, 19962, 20364, 21164, 21538, 22185, 22840, 23608, 23917, 24293, 24598, 25033, 25200, 25448, 25897, 26462, 27374, 27877, 28275, 29278, 29520, 29582, 29719, 30761, 31277, 31587, 31739, 32182, 33014, 33522, 33805, 34421, 34684, 35377, 35924, 36422, 37463, 37877, 38220, 38506, 38981, 39210, 39500, 39861, 40107, 40268, 40783, 41162, 41520, 41969, 42802, 43173, 43659, 44297, 44608, 45568, 45713, 46685, 46900, 47140, 47664, 47938, 48288, 48476, 49631, 50571, 51271, 51796, 52029, 52197, 53031, 53287, 53569, 53679, 53936, 54480, 54770, 54998, 55480, 55943, 56469, 56957, 57625, 57717, 58845, 59228, 59647, 59955, 60056, 60460, 61060, 61847, 62292, 62450, 62680, 62877, 63366, 63883, 64247, 65074, 66342, 66630, 66979, 67510, 67880, 68039], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 622, 868, 1073, 1484, 1914, 1964, 2672, 3295, 3626, 3750, 4168, 4592, 4882, 5602, 6184, 6560, 6994, 7469, 8242, 8623, 10154, 11121, 11280, 11945, 12664, 13287, 13802, 13988, 14536, 14927, 15285, 16256, 16768, 17204, 17504, 17724, 18623, 19094, 19370, 19503, 19961, 20363, 21163, 21537, 22184, 22799, 23607, 23916, 24255, 24597, 25032, 25174, 25373, 25896, 26461, 27373, 27876, 28274, 29277, 29462, 29581, 29718, 30760, 31229, 31586, 31738, 32181, 33013, 33521, 33804, 34420, 34658, 35376, 35923, 36421, 37440, 37876, 38219, 38505, 38980, 39209, 39499, 39860, 40061, 40267, 40782, 41161, 41519, 41968, 42801, 43172, 43649, 44296, 44607, 45567, 45711, 46684, 46892, 47139, 47663, 47937, 48287, 48475, 49630, 50557, 51270, 51795, 52028, 52196, 53030, 53286, 53546, 53678, 53935, 54479, 54769, 54977, 55479, 55935, 56468, 56939, 57624, 57716, 58828, 59211, 59646, 59954, 60039, 60443, 61030, 61821, 62291, 62449, 62679, 62876, 63339, 63882, 64239, 65060, 66328, 66607, 66968, 67473, 67866, 68022, 68215], dtype=int32)}
LSDが初めて販売されたのはいつですか?
LSD (薬物)
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([-1], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([-1], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
Error in template * unknown parameter name (Template:Infobox_drug): 'JGlobalID; 日化辞番号' (See parameter list). This message only shows in Preview, it will not show after you do Publish changes. リゼルグ酸ジエチルアミド(リゼルグ酸ジエチルアミド、リゼルギン酸ジエチルアミド、)は、非常に強烈な作用を有する半合成の幻覚剤である。ドイツ語「L</b>yserg<b data-parsoid='{"dsr":[2419,2426,3,3]}'>s</b>äure<b data-parsoid='{"dsr":[2430,2437,3,3]}'>d</b>iethylamid」の略称であるLSD(エルエスディー)として広く知られている。 開発時のリゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質であったことからLSD-25とも略される。また、アシッド、エル、ドッツ、パープルヘイズ、ブルーヘブンなど様々な俗称がある。 LSDは化学合成されて作られるが、麦角菌やソライロアサガオ、ハワイアン・ベービー・ウッドローズ等に含まれる麦角アルカロイドからも誘導される。 純粋な形態では透明な結晶[注釈 1] であるが、液体の形で製造することも可能であり、これを様々なものに垂らして使うことができるため、形状は水溶液を染みこませた紙片、錠剤、カプセル、ゼラチン等様々である。日本では吸い取り紙のような紙にLSDをスポットしたペーパー・アシッドが有名である。 LSDは無臭(人間の場合)、無色、無味で極めて微量で効果を持ち、その効用は摂取量だけでなく、摂取経験や、精神状態、周囲の環境により大きく変化する(セッティングと呼ばれる)。一般にLSDは感覚や感情、記憶、時間が拡張、変化する体験を引き起こし、効能は摂取量や耐性によって、6時間から14時間ほど続く。 日本では1970年に麻薬に指定された。 構造 LSDはインドール核を有し、セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンによく似た構造を持つ[注釈 2]。そのためLSDはセロトニン受容体に結合し、5-HT2のアンタゴニストとして、5-HT1Aと5-HT1Cのアゴニストとして働き、セロトニンの作用を阻害するために幻覚が起こると考えられている。逆にLSDの服用後にセロトニンを服用することで幻覚の発現を抑えることができる。ただし、2-ブロモ-LSDはLSDよりもセロトニンに拮抗するものの、かなり大量に投与してもサイケデリック効果は生じないため、確定的な説とは言えない[3]。 LSDには立体異性体が存在し、それぞれd-LSD (d-lysergic acid diethylamide)、l-LSD (l-lysergic acid diethylamide)、d-イソ-LSD (d-iso-lysergic acid dithylamide)、l-イソ-LSD (l-iso-lysergic acid dithylamide) がある[4]。普通にLSDというときは右旋性のd-LSDを指し、他のものは薬理学的に不活性である[4]。また、LSDに似た働きをするリゼルグ酸アミドもいくつかあり、l-アセチル-LSD (ALD-52) はLSDの91%の効力を持ち、LSDの代用品としてしばしば売られる[5]。l-メチル-LSD (MLD-41) もLSDの36%の効力を持っている[6]。 LSD分子は非常に脆弱なことで知られている。ごく微量の塩素によっても破壊されてしまい、空気中の酸素等の影響を受けると、iso-LSDへと変化し、光に晒されたことで分解されてできる物質lumi-LSDは、LSDと区別が非常に難しい上に不活性である[7]。 ブラックライトに当てると強く青白く発光するため、本物かどうかの検定に使用される[8]。 変遷 LSD誕生以前のリゼルグ酸化合物 宗教的儀式における使用 薬物が化学合成される以前、向精神物質(化学合成のない当時、向精神物質は植物もしくは植物から製造されたものである)は世界のいたるところで宗教的儀式において使用され、崇拝の対象になり、その酩酊作用から神話や民話の題材になった。 北シベリアやオビ川、イェニセイ川流域に住む諸部族はイボテン酸を含むベニテングタケを神聖な物として崇め、シャーマン儀式に用いていた(ベニテングタケには幻覚の他にも酔いを引き起こす作用もあり、ロシア人の征服によりアルコールが伝えられる以前まではアルコールの地位を占めるものであった)[9]。 メキシコ北部ではメスカリンを含むペヨーテが、メキシコ南部ではリゼルグ酸アルカロイドが含まれるオロリウキ(バドーネグロ)等、アサガオとその近縁種は神聖の植物とされ、シャーマンに用いられていた[10]。 特にLSDに関係あるものとして、古代ギリシアのアテネ郊外で西暦5世紀までの2000年間続けられたエレウシスの秘儀で使用されていた、情緒的作用を引き起こす飲み物キュケオンは、小麦、水、ミントから製造され、この小麦に麦角菌に由来するリゼルグ酸アルカロイドが含まれていたと考えられている(この儀式の秘密を漏洩した者は死刑に処されたため、儀式の詳細は分かっていない[11])[11]。紀元前415年にアテナイのアルキビアデスが友人を楽しませるためにキュケオンを振舞ったとして罰金刑を受けた事実が確認されている[12]。 また、15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地で行われた魔女裁判について、裁判が行われた地域の多くが麦角の発生しやすいライ麦に依存していた地域であり、特に裁判数が増加した年の春と夏は湿度が高く、気温が低く麦角の生育に適した環境であったこと、魔術や覚醒によって引き起こされたとされる症状や体験が麦角中毒の症例に似ていること等から、魔女裁判が麦角中毒を原因として引き起こされたとする説がある[13]。 民間療法における使用 イネ科、その他穀物に発生する麦角は麦角アルカロイドという物質を含み、麦角中毒を引き起こす。麦角中毒はヨーロッパではペスト、コレラとともに最も恐れられた病気の1つであった。麦角は主食である麦を侵し、流行するたびに数千人の死者が出た。 麦角中毒は筋肉のけいれんやけいれん性のひきつりが起こり、皮膚に水疱が生じ、麦角アルカロイド中のリゼルグ酸アルカロイドにより目眩や幻覚、てんかんのような発作を起こす。また、強烈な血管収縮作用により、四肢に焼けるような感覚(聖アントニウスの火と呼ばれた)が続いた後、手足が黒ずんで壊死する[14]。 麦角の存在は紀元前より知られ、たびたび文献に記述が見られ、紀元前7世紀ごろのアッシリアの古文書にある「穀類に付着した有毒な小結節」という記述が記録に残された麦角の最初の例であるといわれる[15])。当初、その毒性から恐れられていたが、やがてその血管収縮作用に着目し、各地で陣痛促進剤や分娩後の止血剤として用いられていた[16]。 化学の進歩と抽出 19世紀後半になると、麦角から有効成分を抽出する研究が盛んとなり、1907年にはG・バルガーとF・H・カールがエルゴトキシンを抽出するのに成功し、A・シュトルとE・ブルックハルトらがエルゴバシンを抽出した。その後、W・A・ジェイコブズとL・C・クレイグらはエルゴバシンの科学的分析を行い、麦角アルカロイドの基本的構造分子を分離しリゼルグ酸と名づけた[17]。 1918年、A・シュトルが抽出したエルゴタミンは偏頭痛薬や産科での止血剤になっていた。1930年代頃にはイギリス、アメリカの化学界は麦角アルカロイドの研究が主要となっていた[18]。 LSDの誕生 LSDは1938年11月にスイスのバーゼルにあるA・Gサンド社(現・ノバルティス)の研究室でスイス人化学者アルバート・ホフマン(Albert Hofmann, 1906年1月11日 - 2008年4月29日)によって合成された。その幻覚剤としての発見は1943年4月16日になされ、これがLSD発見の日とされている。 当時、サンド社は薬用植物の有効成分を分離、もしくは植物から僅かしか得られない有効成分を化学合成する研究計画を始めていた。ホフマンは麦角アルカロイドについて研究班をつくらず単独で研究し始めた[19]。ホフマンはまずリゼルグ酸とプロパノールアミンを結合させることによってエルゴバシンの合成に成功した[20]。また、麦角アルカロイド精製物は血管の平滑筋系にも影響を与えることがわかった。とくに、脳の血管に与える影響は大きく、脳血管性頭痛・片頭痛に対する治療薬として「エルゴタミン」が開発された。また、子宮の平滑筋収縮、子宮止血剤として麦角アルカロイド精製物「メチルエルゴメトリン」(製品名メテルギン)も開発された[21]。ホフマンはさらにリゼルグ酸化合物の研究を進め、1938年11月、リゼルグ酸誘導体の系列における25番目の物質、LSD-25を合成した。ホフマンはこの化合物を循環器及び呼吸促進の作用が得られると予測したが、エルゴバシンの70%の子宮収縮作用を示しただけで、動物実験では動物達が「落ち着かなくなる」程度の効果しか認められずその研究は中止された[21](ただし、虫よりもイヌやネコ、イヌやネコよりもサルというように高等な動物であるほど効果は大きかった[22])。 しかし、ホフマンは「奇妙な予感めいたもの」により、1943年に再びこの物質を取り扱うことにした。そして4月16日、LSDを結晶化している際に非結晶性のごく微量のLSD溶液が指先につき、LSDが指先の皮膚を通して吸収されることによって、ホフマン自身によりLSDの効果が確認された。ホフマンは眩暈を感じ、実験を中断せざるを得ない状態に陥ってしまった。そして実験を中断して帰宅した後も軽い眩暈に襲われていた。帰宅するなり横になっていたが、極めて刺激的な幻想に彩られていた。日光が異常に眩しく感じ、意識がぼんやりとし、異常な造形と強烈な色彩が万華鏡のようにたわむれるといった幻想的な世界が目の前に展開していた。その状態は2時間ほど続いた。これがLSDの幻覚作用発見の瞬間であった[23]。 そしてホフマン博士は4月19日、再び(1度目は意図したものではなかったが)LSDを0.25mg服用して自己実験を行った[24]。 ホフマンは以前と同質かあるいはさらに変化に富んだ奥深いものを体験することができた。しかし、感覚の変化が深まるにつれて供述することが困難となり、自己実験の供述を記録していた女性助手に家に送ってくれるよう頼まざるを得なかった。自転車で送ってもらっている途中も、視野にある全ての像は揺れ動き、歪曲化され、自転車が一向に進んでいるように感じられなかった[24](後にこの日は「LSD自転車旅行の日 (Bicycle Day)」と呼ばれ、ホフマンは創始者としても有名になった[25])。 家に着いても症状は一向に治まらなかったため、助手に医者を呼んでもらっていたが、その間に隣に住んでいる婦人が牛乳を差し入れてくれた。空間が全て回転し、部屋の中のものや家具がグロテスクに変化し、まるで命を持っているかのように絶えず揺れ動き、隣の婦人も色の黒い醜い顔をした意地の悪そうな魔女に見えた。医者はホフマンがとてもしゃべれる状態ではなかったため、研究助手から実験のあらましを聞いていたが、瞳孔以外には異常は認められず、ホフマンをベッドまで運ぶとそばで観察しているだけだった[24]。 やがてその感覚が消えると、ホフマンは感謝と幸福な気分が満ちてくるのを感じた。そして万華鏡のように幻想的な現象が起こり始めるのを見た。視界は環状と螺旋状が開いては閉じ、あたかも色彩の噴水のようであり、絶え間ない流れの中に新しい配列と交差が形作られ、戸の掛け金の音や自動車の音とともに視覚的世界が変容し、それぞれの音にふさわしい色と形で生き生きと変化に富んだ形象となった。ホフマンはそのまま疲れ果てて眠ってしまった[24]。 翌朝、目が覚めたときはまだ疲労が残っていたが、快適な気分と新鮮な生命力がホフマンを満たしていた。朝食はとりわけ美味しく、朝食後の散歩ではあらゆるものがきらきらと光り輝き、世界は再び創造されたかのようであった。LSDはバラエティに富みしかも刺激的な酩酊を生み出しながら、後に残ることなく、実験の後でホフマンが感じたのは肉体的、精神的爽快であった[24]。 この後、ホフマンの報告書の提出を受け、薬理学部門の責任者と彼の2人の共同研究者によっても実験が行われ、効果が確かめられた[24]。 LSDの研究 1947年、チューリッヒ大学で統合失調症とボランティアの健康な被験者を対象にLSD投与実験の結果が「リゼルグ酸ジエチルアミド―麦角類から抽出された幻覚剤」という論文で報告された。投与量は0.02mgから0.13mgであったが、改めてLSDの効果が極めて大きいことが確認され、LSDが精神病の発病素因になる可能性や、そのことによってLSDを精神病の研究手段として利用できる可能性が指摘された[26]。 その後、サンド社はヨーロッパやアメリカ(1949年に紹介)のいくつかの研究施設にサンプルを送るとともに、「デリシッド (Delysid)」という商標で研究機関や医療機関に試験用薬剤として販売された。日本では京都大学、金沢大学、大阪大学等の大学病院においてLSDの研究が始められた[27]。 医療分野における研究 LSD使用による精神療法 1950年代に入ると世界各地でLSDを使用したことによる強烈な体験を精神医療に利用しようとする研究が盛んになった。主なLSD療法として、サイコリティック (Psycholytic) 療法とサイケデリック (Psychedelic) 療法が挙げられる。 サイコリティック療法はヨーロッパで発達し、1960年代半ばにはヨーロッパ各地に18の治療センターが存在した[28]。サイコリティック療法はLSDを比較的少量(多くても0.15mg未満)を服用してセッションを行う。トリップによって神経症的な障害の無意識的な起源が明らかになるため、精神分析志向の精神療法の中で使用された[28]。この療法は精神分析の理論で5時間のセッションを行い、患者はLSDの助けによって覚醒したまま自我の防衛を選択的に緩め、体験の追想や再体験、象徴的なサイコドラマを如実に思い出すことが可能で、そのヴィジョンを解釈していくことで無意識を探求する[29]。この療法は主に不安神経症、強迫神経症、自閉症、性的問題や神経症的な抑鬱症、心身症的な症候群の患者に対して使用された。 1953年から1965年までにサイコリティック療法について書かれた42本の論文によれば、68%のケースが重症の慢性であった患者達にサイコリティック療法として平均4.5ヶ月、12.5回のセッションを行った。成功率は不安神経症の患者が70%、抑鬱反応の患者では62%、強迫神経症の患者が42%であり、平均2年後に行われた追跡調査によればこの内62%が治療直後よりもさらに良くなっていた[30]。 サイケデリック療法は1953年にカナダのA・M・ハバードが開発したもので、主にアメリカで使用された。サイケデリック療法は1度のセッションでLSDを大量(0.2mg以上)に服用し、世界が反転する圧倒的な体験により、治療効果を狙うものである。この療法は主に生き方の改善や、アルコール依存、犯罪者の更生に使用された。 1960年の報告でサイケデリック療法を受けた(セッションは延べ25000回)5000人の患者と被験者の内、HPPDは患者1000人あたり1.8人であったが実験被験者では0.8人であった。自殺率は患者が0.4人、実験被験者では0人であった[31]。 末期患者への使用 末期患者にサイケデリック体験を提供する実験は1965年からアメリカのメリーランド州立スプリング・フィールド病院において行われ始めた[32]。 LSD投与実験自体は末期患者の痛みを和らげようとする試みの中で行われた。エリック・カストとヴィンセント・J・コリンズは激痛を伴う癌と壊疽の患者に対して、LSDとハイドロモルフィネとメフェリダインの効果を比較した(モルヒネの平均的な消費は減らさなかった)。他の2つの数時間に対し、LSDは数日間苦痛を和らげることに成功した(ただし、LSDの効果はあまりに予測不可能なために鎮痛剤としては不適格である)。さらには緊張の軽減や抑鬱、死への恐怖という基準から見て、患者の3分の2を改善させ、投与を行った被験者達は互いに薬効と連帯感を共有した[33]。LSD体験が残す宗教的、哲学的妄想が死をより耐えやすいものにすると考えられている[33][34]。 精神病との関係 LSDが発表された当初より、LSDによるサイケデリック体験と内因性精神病(特に急性の統合失調症)の類似性が指摘されていた。そのため、精神病のモデルとしての利用、もしくは精神病の原因を異常な脳と神経組織が発生させる物質によるものとする考えから、LSDは内因性精神病研究の可能性を秘めた物質として研究されていた[35]。 しかし、1955年に行われた統合失調症の患者にLSDを与えた実験では、患者達はLSDによるサイケデリック体験と自分達の妄想と幻覚を見分けることができた上、慢性の患者には何の反応も見られなかった[36]。 また、精神病の原因となる物質の研究も行き詰った状態であり、現在でも解明には至っていない。 軍事分野における研究 諜報活動における利用の研究 1940年代からOSS(CIAの前身)では敵のスパイや捕虜から機密事項を吐き出させることのできる自白剤の研究をしていた。アルコールやバルビツール、カフェイン、コカイン、マリファナ、メスカリン、ヘロイン等、様々な薬品を研究したが有用なものを見つけ出すことはできなかった[37]。 1950年代に入り、ついにCIAはまだ当時あまり知られていなかったLSDを入手した。そして行われた最初の模擬尋問の実験は非常な好結果(被験者は機密の詳細を吐いてしまった上、トリップ終了後には機密を洩らしてしまったことを覚えていなかった)であったため、以降LSDは研究の中心となった[38]。 しかし、研究はすぐに暗礁に乗り上げてしまった。LSD投与が引き起こす結果を予測するのは非常に難しく、ある時は無際限に情報を吐き出すが、LSDが引き起こす様々な体験をした被験者の内、猜疑心をつのらせたり、壮大な幻想を経験して尋問者に無限の力で対抗できると思い込んでしまった被験者からは何も聞き出すことができなかった。そして何よりも致命的だったのは、著しい不安や現実感の喪失により必ずしも正確な情報を引き出せないことであった。そのため尋問の際に自己投与することで正確な情報を引き出せないようにする「反自白剤」としての研究も始まることになった[38]。 そして1953年4月13日から、当時のCIA長官アレン・ウェルシュ・ダレスの命により、当時の冷戦体制において、攻撃面での可能性を研究することにより、敵側の理論的潜在力を把握するとともに先制攻撃的防御体制を作り上るため、精神操作計画、MKウルトラ作戦が始動された[39]。 MKウルトラ作戦はCIAの中のTSSによって運営された[39]。この計画の様々な研究の中の、薬物による精神操作の研究として、当初はスタッフ内でLSD投与実験を行っていたが、LSDを投与されたことを前もって知ってしまっては本当に必要としている実験結果が得られないと考え、やがて他の部局の職員を対象とした抜き打ち投与実験を開始した。この実験が行われていく中で、投与実験の数週間後に迫害を受けていると妄想し自殺するフランク・オルスン博士のような犠牲者がでた[40]。 そして研究の最終段階としてジョージ・ハンター・ホワイトにより、サンフランシスコとニューヨークにおいて、娼婦が何も知らない一般人を対象にLSDを投与するという実験が開始された。しかし1963年、CIA監察官ジョン・イアマンはMKウルトラ作戦の責任者リチャード・ヘルムスが当時のCIA長官ジョン・アレクサンダー・マコーンに計画の全容を知らせていなかったとして責任を追及、ホワイトが1966年に麻薬局を辞め、実験は中止されたと考えられる[40]。 陸上戦闘における利用の研究 冷戦期、対立する両大国が核兵器を持ってしまったことで核戦争の危機が生まれてしまった。その状況下でLSDは、軍用機で敵領土に侵入して一帯に散布するか、都市の水道に注入すれば敵の抵抗力を奪い、死傷者をほとんど出さないうえに都市の経済活動にもほとんど影響を与えない、とアメリカ陸軍に限定的局地戦闘の新たな方法として着目された[41]。1959年5月、ウィリアム・クリーシー少尉は記者会見で「化学薬品により一時的に発狂させられるのと焼夷弾により生きたまま焼き殺されるのとどちらを選ぶのか」と精神操作化学兵器の開発に理解を求めている[41]。 1950年代後半、ノースカロライナ州フォートブラッグで行われた実験では兵士はLSDを投与された状態で様々な実戦活動を行ったが、兵士は完全な活動不能から戦闘能力の著しい低下に至り、LSDの威力を見せ付ける結果となった[41]。 しかし、LSDは噴霧状のものを吸い込むよりも体内に注入するほうがずっと効果的であり、大規模な戦闘でLSDを使用することができなかった。そのため、CIAのように尋問の道具としての研究が始まったが、1960年代前半にはLSD実験は行われなくなった[41]。 その他の分野における研究 LSDは、動物への影響を調べるために動物に大量に投与する実験や創造性に与える影響を調べるために画家に服用させて絵を描かせる実験、魔界との交信実験[42]等、医療分野や軍事分野以外でも様々な分野において研究された。 その中でもジョン・カニングハム・リリーによる、LSDを用いたイルカやクジラとの異種間コミュニケーション実験やアイソレーションタンクによる身体と精神の分離実験[43]、それらのLSD実験によって得られた「生命体は複雑なコンピュータであり、LSDは再プログラミング物質として役に立つ」との説が特に有名である[44]。 日本ではオウム真理教が「キリストのイニシエーション」と称して、信者に対しLSDの投与を行っていた。 酩酊薬としてのLSD 様々な分野で行われていたLSDの研究の多くは1950年代中にはピークをむかえ、1960年代に入ると代わって一般大衆の間に広がった。 フラワーパワージェネレーション LSDカルチャーの出現 ティモシー・フランシス・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、心理学者は被験者や生徒を一律で評価の定まった基準で調べるのではなく、実生活の中の人々を対象に微細に行動を観察しなければならない、と交流分析的な心理学の方法を提唱し、臨床心理学のホープとしてハーバード大学に迎えられた[45]。 リアリーが1960年にメキシコ、クエルナバカにて休暇を過ごしていたところ、メキシコ大学の人類学者、ゲルハート・ブラウンがサンペドロで手に入れたテオナナカトルを持ってきて、そこで初めてトリップを経験した[46]。トリップに衝撃を受けたリアリーは帰国後、ドラッグによる精神拡大(あくまでリアリーは幻覚剤を、精神拡大するのを助けるための道具、補助的手段として見ていた)の研究に取りかかった[46]。 当初、リアリーはテオナナカトルの幻覚成分であるシロシビン(この幻覚成分はアルバート・ホフマンにより特定された[47])の錠剤を数百人の被験者(ハーヴァード大学の学生が多かった)に投与し、その後にマサチューセッツ州立コンコード刑務所において、まずはハーヴァード大学の心理学者と受刑者によるセッションを行い、次は受刑者がセッションに参加する受刑者を選んでセッションを行い、大学院の新入生には経験豊かな受刑者が指導をする、というプログラムを行い、この刑務所における再犯率を70%から10%まで低下させた[48]。 そして1962年、マイケル・ホリングスヘッドはリアリーのもとにLSDを持って訪れ、リアリーはLSDトリップを体験することになった[49]。 この後、リアリーはLSDを使った精神拡大の研究に取りかかり始め、学内や学外でLSDセッションを行った。しかし、LSDを無秩序に学生に使っているとの批判が学内から起き、1963年にリアリーとともに研究に取り組んでいたリチャード・アルパート(Richard Alpert, 1931年4月6日 -)が学生にLSDを与えたとして大学を追われ、すぐにリアリーも大学を追われることとなってしまった。 ニューヨークの社交界の有名人、ペギー・ヒッチコックはミルブルックに土地を買ったところであったが、リアリーのLSD研究に魅せられていたヒッチコックはそこのバンガローを研究所としてリアリーに提供した。リアリーはヘルマン・ヘッセのガラス玉演戯からカスタリア協会と名乗った[50]。 オーガスタス・オーズリー・スタンリー3世(Augustus Owsley Stanley III, 1935年1月19日 - 2011年3月12日)はカリフォルニア大学バークレー校在校中、麻薬を嗜むうちにLSDを体験した[51]。そして1965年、大学を中退するとバークレーバージニアストリート1647にLSD工場を設立した[51]。そこが警察に踏み込まれると、次にロサンゼルスラフラーロード2205に移り、再びLSD工場を設立してベア・リサーチ・グループと名乗り、新ドラッグとしてLSDを大量に製造した(オーズリー製のLSDは品質保証された高級品として世界的に有名であった。ビートルズが口にしたLSDもオーズリー製だったと言われている[51])。また、オーズリーはグレイトフル・デッドもバックアップをしており、西海岸のサイケデリック文化やヒッピー文化の隆起は彼によるところが大きい[51]。 このような経緯により、東海岸では研究的、瞑想的なコミューン、西海岸では陽気で快楽的なコミューンが形成されることになった[50]。 フラワーパワージェネレーションの出現 1960年代のアメリカでは市民運動が過熱した。 1950年代から黒人差別廃止を訴えた公民権運動、女性差別廃止を訴えた女性解放運動が高まっていた。 これに加え1960年代に入ると、1965年より始まったベトナム戦争に対しての反戦運動(テト攻勢中に起こった、南ベトナム警察庁長官グエン・ゴク・ロアンが報復のために路上で南ベトナム民族解放戦線の兵士を射殺した事件やソンミ村虐殺事件が報じられるとさらに強まることになった)やベトナム戦争が長期化したことによって起こったインフレーションによってさらに生活の苦しくなった貧困層からの生活改善や就職先を求める運動、そしてレイチェル・ルイーズ・カーソンが1962年に「沈黙の春」を刊行して先陣を切った環境保護運動(敵味方や兵士民間人関係なく甚大な被害をもたらした枯葉剤を製造したモンサントやザ・ダウ・ケミカル・カンパニーに対する抗議や訴訟等、これもベトナム戦争とは全くの無関係ではなかった)等、様々な市民運動が展開された。 これらを背景として、フラワーパワージェネレーション、ラヴジェネレーション、フラワーチルドレン等と呼ばれる人々が出現した。彼らは歌と愛と花を一つのものとし、武器を捨て、争いをやめ、花を持って生きようと呼びかけ、「Love and Peace(愛と平和《ただし、これを『性の解放』と『反戦』とする見方もある[52]》)」を標語として掲げた。 ヘイト・アシュベリーとヒッピー アメリカカリフォルニア州サンフランシスコのヘイト・アシュベリー(ヘイト・ストリートとアシュベリー・ストリートの交差点を中心とした地区)はもともとヴィクトリア朝時代に上流階級の住宅地として発展した地区である。 しかし、1930年代に世界恐慌のために人が離れ始め、地価や家賃が下がり、労働者階級の人々が流れ込み始めた。 1950年代になるとサンフランシスコの再開発により追い出されたり、住んでいるところが観光地化して住みにくくなってしまったボヘミアンやビート達が主にノースビーチから移り住み始めた。彼らは借りた古いヴィクトリア朝の建物を鮮やかに彩色して住み、ペインテッドレディース(彩色された家)ムーブメントが起こった。 そして1960年代に入ると、フラワーパワージェネレーションのムーブメントに動かされた若者達も市内や全米各地からこの地区に移り住み始めた。この頃には近くのサンフランシスコ州立大学の学生も多く住んでいた。周りの地区の住民は、この地区に住む若者達を、長髪で、髭をはやし、だらしない格好をしたおかしい奴、はずれた奴と見なし、「ヒップ(尻)のように汚い奴ら」という意味を込め、「ヒッピー」と呼び始めた[50]。後に既成の制度、慣習、価値観念に縛られることに反抗したヒッピーは大きなムーブメントとなり、世界中に広まることになる(日本ではフーテンやみゆき族等の現象を生んだ[53])。 ヒッピー達はアメリカの生活に深く浸透しているキリスト教的価値観に反発し、それとは反対である(とヒッピー達は考えていた)東洋趣味、神秘主義へと行き着いた。そのようなヒッピー達にとって禅や瞑想は自分達のニーズに合致するものであった。ゴールデンゲートパーク内には日本庭園(ジャパニーズ・ティー・ガーデン)があり、ヒッピー達はそこで瞑想をした。 そしてLSDが出回り始めるとヒッピー達はLSDによるトリップが宗教的体験、意識拡大をさせるものとしてLSDを「インスタント禅」と呼んで使用した。ステート大学ではLSDについての講演が行われるようになった。 ジェイ・シリンはサンフランシスコ州立大学の学生であったが、1964年にリチャード・アルパートの講演に刺激されLSDを体験する。そして、兄のロン・シリンとともにLSD体験を広めるために、1966年にサイケデリック体験のための本や資料を売る店をヘイト・アシュベリーに開いた[54]。その後この通り沿いには英国や東洋、メキシコの品物を売るエキゾチックな店や24時間営業のレストラン等が立ち並び始め、ますますこの地区の若者の数は増えていった[50]。 ヒッピー達は各地にコミューンを形成し、共同生活を送った(中には自然への回帰を訴えて自給自足の生活を送ろうとしたコミューンもあったが成功例は非常に少なかった)。 アシッド・テスト ケン・エルトン・キージー(Kenneth Elton Kesey, 1935年9月17日 - 2001年10月10日)は自らのLSD体験をもとにして書いた『カッコーの巣の上で』がヒットし、その印税でラ・ホンダに土地を買うと、そこには若者達が集まり始めコミューンが形成された。コミューンは「メリー・プランクスターズ(陽気ないたずら者、Merry Pranksters)」と呼ばれ、ドラッグもフリーでどんな人物(ヘルズ・エンジェルズも出入りしていた)でも出入りしていたため、地元住民と対立していた(後に何度も警察に踏み込まれることになる)[55]。 キージーはサンフランシスコ周辺で「あなたはアシッド・テストにパスできるか?」とのビラを撒き、アシッド・テストを各地で何度も行った。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアは1回目のアシッド・テストの際にキージーと出会い、キージー達はグレイトフル・デッドを様々な面でバックアップをするようになった[56]。しかし後に、キージーは逮捕を逃れるためにメキシコに去ってしまう[56]。 ティモシー・フランシス・リアリーは「Turn on, Tune in, Drop out(LSDに陶酔して意識を拡張せよ、高次元の意識に同調せよ、体制から脱落せよ)」とのスローガンを掲げ、LSDによる意識革命を進めようとした。このことによりリアリーはマスコミの強い批判を浴びたが、これを逆にうまく利用して自分の計画の宣伝をしたため、リアリーの名は全米に知れ渡ることになった。 しかし、ヒッピー達の教祖的存在となり存在感を増していくリアリーは危険思想であると政府から目を付けられ、1968年ラグナ・ビーチにおいて自動車を運転していたところ、マリファナを使用していたという口実で逮捕されてしまう[57]。リアリーはでっち上げであると訴えたが、その時の同乗者が実際にマリファナやハシシ、LSDを所持していたこと、裁判時にLSDを使用していた[注釈 3] 人物による殺人事件が起きてしまい、LSDで有名であるリアリーに対して陪審員のイメージが悪化してしまったことにより有罪判決(連邦法と合わせて懲役20年)を受け、上訴なしに拘留されることになってしまった。しかし、リアリーは拘留先であるサン・ルイス・オビスポにあるカリフォルニア男子西収容所からの脱獄を成功させ、さらに名を馳せることになった[57]。 サマーオブラヴ 1967年1月14日、ヒューマンビーインの集会が行われた。この集会にはティモシー・フランシス・リアリー等のLSDによる意識革命を訴える者やヒッピーの代表、学生運動家、グレイトフル・デッド等のロックバンド、宗教家、ヘルズ・エンジェルズ等、様々な分野からの参加があり、反体制の大集会となった。 マスコミはこの集会やヘイト・アシュベリーを大々的に報道し、ヒッピーが社会現象となった。ドロップアウトをする若者は激増し、若者はヘイト・アシュベリーを目指した。また、ヘイト・アシュベリーやヒッピーを目的とした観光ツアーも行われた。 ヘイト・アシュベリーの若者の数は増え続け(高校生も目立つようになっていた)、1967年の春には10万人以上となっていた。寝るところや食物が不足し、ゴールデンゲートパークは野宿をする者やゴミで溢れた。 サマーオブラヴ委員会は様々なイベントを企画した。ベトナム戦争への抗議集会や松明を持っての行進やロック・フェスティバル等、各地で様々なイベントが行われ、町全体が舞台と化した。今までのヒューマンビーインとは違い、カリスマが観衆を引っ張り、演説をするというよりはそれぞれが集まって、集団として行動するイベントが多くなった。 また、資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指したディガーズにより、無料の食料配給が行われ、ホテルの数十室が開放された。 7月にはイベントやヒッピー達を見に来た観光客も大勢押しかけ、歩くことができないほどの大混雑となった。また、この大勢を相手にしたドラッグマーケットも大きくなり、それをめぐっての抗争も激しくなった。 ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロックバンドやジャズバンド等による演奏や詩の朗読、LSD革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われた。 9月に入ると若者や観光客の数は大きく減った。そして9月21日にはサマーオブラヴ終結の公式の集会が行われ、サマーオブラヴ終結が宣言された[50]。 LSDとサイケデリック文化 アート 1960年代LSDが大衆の間に広まると、LSD摂取時におこる幻覚に影響を受けたアート、サイケデリック・アートが起こった。 LSDを体験した画家180人の調査では、ほとんどの画家がLSD影響下で書いた自分の絵を「技術は損なわれているが、線が大胆になり、色が鮮やかになり、情緒的により拡張されたものである」と評価し、114人が「LSDを体験してからは自分の作品が色をより大胆に使用し、情緒的な深みを獲得し、より熱狂的に創作できるようになった」とLSDが自分の作品に影響を及ぼしたと評価した[58]。 サイケデリック・アートの中でも特にポスターが人気を集めた。このポスターは鮮やかで強烈な色彩、隣の色とぶつかる配色、余白を埋め尽くす装飾的な線やパターン(曼荼羅模様やペイズリー模様等をモチーフとした)、波うち、引き伸ばされて変形された文字等を特色とする。 もともとヘイト・アシュベリーに住んでいたヒッピー達が政治的、宗教的、精神的なメッセージを発信するために手作りでポスターを作ったのが始まりである。そのLSDによる幻覚に影響を受け、既成のポスターの手法に反逆したデザインは非常に斬新なものだった。 ポスターはタイム誌に「サンフランシスコ版アール・ヌーヴォー」と評され、爆発的な人気を集めた。そしてやがてそれらはポスターからファッション(当時の百貨店にはペイズリー柄やサイケデリック風の色彩を施された商品で溢れていた)等へと広がっていき、当時、西海岸で盛んであった前衛映画にも大きな影響を与えた[50]。 ヒッピーは、権力に抵抗する若者の典型的な例として捉え、ファッションとしては長髪にビーズの首飾りをして、極彩色の衣装を身に付け、LSDやマリファナをやっていたが、当初の意味を失い、商業主義的なものに取り入れられていった。「サイケデリックブーム」をマスコミの報道で知った若者達は、サイケデリックを台頭した若者文化のファッションとして受け止め、そしてスリルを求めてヘイト・アシュベリーへと向かった。こうしたサイケデリック・アートやヘイト・アシュベリーへの好奇の目がヘイト・アシュベリーの治安をさらに悪化させ、体制側やマスコミからの攻撃は激しさを増すことになった[59]。 日本でも1967年頃から「サイケ」として流行語となり、日本の若者達もアメリカの若者達に倣い長髪にビーズの首飾りをし、極彩色の衣装を身につけ、ストロボや轟音、多色光線を駆使したディスコ等に屯し、日本各地でアメリカに倣ったロック・フェスティバルを開催した。 しかし、これらはアメリカにおいて「サイケデリック」が知られるようになってから起こったブームのように形だけの適応に過ぎず、日本にはアメリカにおけるようなLSD体験やそれに伴う社会的な断絶は存在していなかった。そのため「サイケ」は単なる流行として非常に短命に終わり、1970年代中頃にはすっかり忘れ去られたものとなってしまった[60]。 音楽 一般大衆の間に広がったLSDは創造力を増すとしてミュージシャン達にも多用され、LSDを使用したミュージシャンからLSDへの反応として「サイケデリック・ロック」(アシッド・ロックとも呼ばれた)が生み出された。歪み、リバーブが深くかかったギターによる浮遊感溢れ、空間的な音作りや幻想的な歌詞(当初はベトナム戦争への反対やサイケデリック革命等、社会問題を歌詞にしていたが、やがてLSDによる幻覚自体を歌詞とすることが多くなった[61])等を特徴とする。 サイケデリック・ロックの隆起には音響機器や照明機器の進歩(光が音楽に同調する装置もこの頃に開発された)も大きく関わっていた。これらはアメリカ軍の払い下げ品や横流し品が多く出回っている西海岸が中心であった[50]。 代表的なアーティストと曲として、アムボーイ・デュークス「Journey To the Center of My Mind」やエリック・バードンとアニマルズ「A Girl Named Sandoz」、エレクトリック・プルーンズ「I Had Too Much To Dream Last Night」、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズマジックバンド「Ah Feel Like Ahcid」、グレイトフル・デッド「Dark Star」、ジェファーソン・エアプレイン「White Rabbit」、ジミ・ヘンドリックス「Purple Haze」「The Stars That Play With Laughing Sam's Dice」、 ドアーズ「The Crystal Ship」、バーズ「Eight Miles High」、ビーチ・ボーイズ「Good Vibration」、ビートルズ「Lucy in the Sky with Diamonds」「Tomorrow Never Knows」、ファンカデリック「Maggot Brain」等(ただし、この中にはLSDについての曲かどうか諸説ある曲も含まれている)が挙げられる。 サイケデリック・ロックは音楽シーンに多大な影響を与え、70年代ロックへと繋がっていくことになった。 1982年、ローランドから発売されたTB-303はベース音色に特化したシンセサイザーとして発売された(兄弟機であると同時に使用することでリズムの演奏が可能とされていた)が、当初はベース音色の再現が不十分であるとして不人気機種であった。しかし、TB-303に搭載されたフィルターやシーケンサーによる独特の粘り気のある音色とグルーヴが「アシッド(LSDを指すスラング)の幻覚を思い起こさせる」として一部のミュージシャンが使い始めると、この未知の音は熱狂的に受け入れられ、多くのミュージシャンが挙って使用した。このTB-303を使用したダンス音楽は「アシッド・ハウス」と名づけられ、1980年代後半から世界中で大流行した(TB-303は一転して大人気機種となり、現在ではプレミアム価格がついている)。 世界各地でレイヴが開催され、新たなドラッグ文化を形成すると、ヒッピーによるムーブメントになぞらえて、「セカンドサマーオブラヴ」と呼ばれた。 文学 「阿片服用者の告白」を著したトマス・ド・クインシー 「LSD-25」を創作したアレン・ギンズバーグ 「知覚の扉」を著したオルダス・ハクスリー 臨終の際にもLSDを使用している 歴史上、ヴィクトル・ユゴーやオノレ・ド・バルザックのコーヒー、アルフレッド・ド・ミュッセやポール・ヴェルレーヌのアルコール、ギ・ド・モーパッサンのエーテル、ジャン・ロランのコカイン、テオフィル・ゴーティエやシャルル・ボードレールのハシシ、トマス・ド・クインシーの阿片等、創作上の霊感を得るために薬物や嗜好品を用いた作家、詩人、評論家は少なくない[62]。 LSDの登場はこのような薬物や嗜好品を用いていた文学者に少なからずの影響を与えた。研究用途に限定されて一部の人間しか持てなかったLSDが一般に広まると文学者による体験記がいくつか発表された。 アンリ・ミショー(Henri Michaux, 1899年5月24日 - 1984年10月19日)は『みじめな奇蹟 (Misérable miracle)』などの著作で幻覚剤について言及しているが、『荒れ騒ぐ無限 (L'Infini turbulent)』ではLSDやメスカリン、ハシシによる幻覚を比較し、絵画と文章で表現している[63]。 アーウィン・アレン・ギンズバーグ(Irwin Allen Ginsberg, 1926年6月3日 - 1997年4月5日)は自身のLSD体験を表現した「LSD-25」という詩を発表した。 オルダス・レナード・ハクスリー(Aldous Leonard Huxley, 1894年7月26日 - 1963年11月22日)は著書『知覚の扉』や『天国と地獄』において自身のメスカリンなどの幻覚剤による体験やLSDについて紹介し、「人間は宇宙のどこかで起こったこと等も知覚しているが、その膨大な情報量によって日常生活に支障をきたさないよう、脳や神経は日常生活において特に有益な情報のみを選り抜く『バルブ』の役割を担っている。薬物は脳細胞へグルコースを供給をする酵素の生産を抑制させ、脳や神経とその『バルブ』の働きを低下させるために、今まで知覚できなかった様々な情報、いわゆる幻覚が見えるようになる」という説を展開した[64]。癌を患ったハクスリーは死の直前、妻に「LSD0.1mgを」と紙に書いて渡し(この時は既にしゃべれなかった)、妻はそれに応えてハクスリーにLSDを注射するとハクスリーは翌日死亡した。これがハクスリーの事実上の遺書となった。 また、LSD体験記だけでなくハクスリーによる「不満や不安な気分になっても飲むと快楽を得られる薬」が登場するディストピア小説として有名な『すばらしい新世界」やケン・エルトン・キージーの復員兵病院の精神科病棟でのアルバイト経験や自身のLSD体験を基にして書いた『カッコーの巣の上で』、トム・ウルフによる当時のヒッピー達やキージー率いる「陽気ないたずら者 (Merry Pranksters)」の、サイケデリックに着色したバスに乗ってLSDをばら撒きながらのアメリカ横断旅行を取材したニュージャーナリズム的なノンフィクション、『クール・クール LSD交感テスト (The Electic Koon-Aid Acid Test)』等、LSD体験を基にした作品からヒッピー文化に題材に求めた作品まで非常に多岐にわたる。 LSDの終焉 アメリカでは、LSDは1960年代初頭には薬局に置かれるようになっていた。しかし、LSDは具体的な処方法と具体的な効果がはっきりしていない「新種の薬」であった(西欧の薬に対する一般的なコンセプトからはずれるものであった)。そのため、1962年にこのような薬を規制するために「安全性と有効性が条件に合致しない限りはマーケットに出せない」とする旨の法案が提出され、下院を通過した。また、LSDを「実験ドラッグ」と規定することでFDAは使用を研究目的に限定し、一般治療には使用できないようにした[65]。 LSDは強烈な効果を有するために、ひとたび一般大衆の間に広がってしまったことにより服用中の事故が多発したことは当然の結果と言えた[66](錯乱によって引き起こされた死亡事故がほぼ全てであり、LSD自体の毒性で死亡した例はほとんど報告されていない。ただし、LSDの毒性で死亡したとされる例もその多くは粗悪な密造LSDに入っていた不純物による中毒であると考えられている[67])。 若者、ヒッピーや反戦・反政府主義者等のLSD使用が報道されると、LSDの有害性を誇張する報道が盛んになされるようになり、LSDを排除しようとする世論が高まってきた[68]。 そして世論を受ける形で1965年にはドラッグ乱用規制修正条項が下院を通過し、LSDの非合法な製造販売は軽犯罪となった[69]。 そのため、サンド研究所は1966年4月に「1943年に開発、発売したLSD-25は現代の精神医学や精神薬理学の研究において特別な意味を有し、世界中の病院、研究所に調査依頼をすることで可能な限りの厳格な注意規定を課すことが出来たが、近年の若者達の濫用の増加やLSDを興味を持つ層に対しての無責任な生産、密売はこの限りでない。さらには1963年以降、LSDに関してのサンド社の特許権は失効した。薬剤に対する正しい研究への認識が深められ、誤った濫用を阻止するためにサンド社が当然行わなければならない事柄として、LSD-25のすべての販売を中止する」というコメントを出し、LSDの販売中止と回収を開始した[70]。 1968年にはドラッグ乱用規制修正条項が修正され、LSDの所持も軽犯罪となり、販売は重罪とされた[69]。その後、世界中でLSDは規制されることとなった(日本では1970年に麻薬に指定された)。 ヘイト・アシュベリーでは「ヒッピーの死」と題する「LSDの葬儀」が行われた。数百人のヒッピーがパレードをした後、シリン兄弟のサイケデリックショップの看板が外され、埋葬された[71]。 現在のLSDの状況 世界中で規制され、ヒッピーのムーブメントが去った後、LSDの使用は激減した。 日本では、LSDが麻薬に指定された次の年である1971年においてはLSD事犯が麻薬取締法違反で検挙された人員のうち45.5%を占めるものであったが[72]、1986年においては1.2%にまで減少している[73]。 しかし、1980年代後半にスペインのイビサ島のクラブでプレイされていた楽曲をイギリスのDJ達が本国に持ち帰ったことから起こったセカンドサマーオブラヴのムーブメントや1990年代前半に起こったアシッド・ハウスリヴァイバル等において再びLSDは(多幸系のドラッグとともに)多用されるようになった。現在LSDはクラブで使用されるドラッグとして、覚醒剤や大麻、MDMAと並ぶ地位を確立している[74]。 LSDの多くはアメリカ、ドイツ、スペインで作られており、アメリカで作られたものはイギリスに、ドイツで作られたものはイスラエルに、そしてスペインで作られたものが世界中に流通していると言われている[74]。 また、医療分野においては再びLSDを治療薬として活用するための実験が、NPO組織「幻覚研究協会 (MAPS)」の支援の下、スイスで2008年より始まっている[75]。 薬理効果 用量 LSDはこれまでに知られている向精神薬の中でも最も強力なものの1つであり(メスカリンの1万倍の作用)、わずか0.001mgの微量で(砂粒の10分の1ほど)穏やかな多幸感、抑制の解除、高い感応性が生じ、0.05mgでサイケデリック体験を起こす。作用の強度と深さは0.5mgまで増加する[76]。これ以上は持続時間が伸びるのみで体験内容に変化が起きることはない[76]。 体内に吸収されたLSDの濃度は10分で最高潮に達し(小腸のみ2時間)、その後急速に降下する。LSDは肝臓と胆嚢を経て腸に至り、80%が排泄され、残りはほぼ全て有機物に分解されてしまう[77]。連続服用しても薬耐性の形成に至るまでの量に比べて効果を得るための常用量が極めて少なく、そのためLSDは中毒性の強い薬物とは区別される[78]。 毒性 死亡事例が少ないため、人間の致死量は分かっていない。動物実験の結果、LD50はラットで16.5mg/kg、ウサギは0.3mg/kg、ゾウでは0.06mg/kgである。過量は呼吸麻痺をおこす。また、脳血管に蓄積性に影響を与えることがわかっており、過量投与では脳血管障害により死に至る。過度使用によると推定されている死亡例によれば、LSDの血中濃度から、320mgのLSDを静脈注射したためだと推定された[76]。 また、LSDは染色体に影響を与える遺伝物質である、胎児の形成異常を生じさせる、脳に永続的な損傷を与える、と言われていたが、LSDが禁止されるまでに数多く行われた実験(この時期に書かれたLSDに関する論文は1000本以上、開かれた国際会議は6つ、何十冊もの著作が出版され、投与された患者は4万人にものぼった[79])に一部肯定されている[80]。 身体的作用 LSDを服用すると、精神症状発現前に散瞳、深部反射の亢進、心拍数や血圧や体温の上昇、軽い目眩あるいは吐き気、悪寒、疼き、振戦、緩徐な深い呼吸、食思不振、不眠等、交感神経系の症状が起こる[76]。これらの症状はこれから起こる危機に対して身体を準備する交感神経の活動だと考えられており、使用量の多少に相関しない[76]。ここで起こった身体的作用は発現する精神症状に影響を及ぼすことが多い[76]。 また、子宮収縮作用があるので妊婦は服用に際し注意を払わなければならない。 なお、身体依存は全く無いか、あってもごく僅かとされている[81]。 なぜLSDが幻覚を引き起こすのかについては未だに分かっていない。多くの支持を集め、アルバート・ホフマンも支持をしていたセロトニン阻害説であるが、セロトニンを阻害するもののサイケデリック体験を引き起こさない物質(2-ブロモ-LSD)が存在するために確定的とは言えず、縫線核のセロトニンニューロンの電気活動抑制説も同様に、ニューロン発火を抑制しないもののサイケデリック体験を引き起こす物質(メスカリン)やサイケデリック体験を引き起こさないもののLSD程度にニューロン発火を抑制する物質(リスリド)が存在するために確定的とは言えない[3]。現在では青斑核のノルアドレナリンニューロンの知覚刺激反応を間接的に増強させるため、との説が有力視されており、また最近ではLSDがセロトニン受容体のサブタイプS2に強く働くことが発見され、幻覚発現と何らかの形で関係している可能性がある[3]。 精神的作用 LSDを服用した時の非常に多彩な作用は様々な文献を生み出してきた。もし今回が恍惚とした喜びを感じても、次回あるいは次の瞬間には恐怖や悲嘆を感じる可能性もあり、人によっては幻覚や妄想、恍惚が起こる量を使用しても、身体的な不快感を持つだけのこともある。 知覚の変化 特定の知覚が、増幅されたり、鈍化したり、多岐多様な非日常的になる。例えば、 知覚が先鋭化し、遠近の感覚がゆがみ、残像が長引き、視界が揺れて波のようにうねる。色彩はより強烈になり、輪郭はより鋭利になり、音楽はより情感を帯び、そして周囲のものが重大な意味を持つもののように思えてくる。 また、幾何学模様や象徴的な物体が見える。これはLSDの作用により、赤血球等が網膜の毛細血管を流れるときに落とした影が見えることやニューロンが網膜と視覚皮質で放電した結果(眼内閃光と呼ばれる)引き起こされる[82]。 さらには、共感覚(色彩を聞き、音色を見る等)が出現する。 感情の変化 LSDを服用すると、被暗示性が高まり、人の表情や態度、周囲の環境の変化に鋭敏な反応を起こす。感情は日常では経験することがないほどの強さと純粋さを持ち、至福の喜びを感じることがあれば、想像を絶する恐怖にパニックを引き起こすこともあり、効用を特に感じない場合もある。 意識の変化 さらに強く作用した場合、思考や知覚や感情に影響を与え、意識が変化する。記憶を再体験し、夢のようなイメージに自己を投影し、象徴的なドラマを見る。古代の儀式や歴史上の出来事、神話の世界に自分が登場していると感じることもある。また、自分と周囲との境界が完全に溶解し、動物や物、宇宙全体と同一化したように感じられる。宗教的または哲学的な妄想はこのレベルまで深化したときに起こることが多い。 リスク パニック反応 LSD服用者はトリップにより、固定された強い感情反応や思考の歪曲(被害妄想や自分が発狂したまま戻れないという不安等)、万能感の空想や非人間的な宇宙への溶け込みの妄想(自分が救世主であり、あらゆる能力を持っているという妄想や自分が宇宙あるいは生命の起源と融合しているという妄想等)が引き起こされ、無謀な行動や自傷行為に走ってしまうケースがあり、LSD服用による死亡例の大多数はこのようなケースにおいて事故死や自殺に至ってしまったものである[83]。また、トリップ後の抑鬱や幻覚、狂気への恐怖が自殺を引き起こすこともある[83]。 フラッシュバック LSDの使用をやめたにも拘らず、通常の生活において突然、LSD影響下で体験された感情や知覚が数秒から数分あるいは数時間蘇ることがある。質的にはLSDによるトリップと何ら変わることはなく、視覚や時間間隔の変容、身体症状、自我境界の喪失、強い感情体験が引き起こされる。これはフラッシュバックと呼ばれる現象である。 LSD使用者の2割がフラッシュバックを経験し、その内4割がフラッシュバックに恐怖を感じ、3割は多幸感を味わう[84]。 フラッシュバックは情緒的なストレス状況や自我の働きが変容している時、疲労やマリファナ等による酩酊状態、トリップ時と似た状況に対峙したときに起きやすい[85]。 フラッシュバックの有無や頻度、作用時間は様々であるが、一般的には時間とともに量も強さも減少し、数ヶ月も経てば滅多に起きなくなる[86]。 幻覚剤持続性知覚障害(HPPD)とは、DSMにおけるこの名称の後ろに「(フラッシュバック)」とあるように、フラッシュバックである[87]。HPPDでは現実検討は障害されないためそれが幻覚であることの自覚があり、診断基準Aにより色や動きに関する視覚的なものであり、診断基準Bにより、著しい苦痛や社会的な機能の障害を伴う場合である[87]。 法規制の状況 日本 LSDは1970年より麻薬及び向精神薬取締法による取締りの対象となり、非営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上10年以下の懲役、譲受・譲渡、所持、使用は7年以下の懲役となる。営利目的であった場合、輸出・輸入、施用は1年以上の有期懲役、情状により500万円以下の罰金を併科、譲受・譲渡、所持、使用は10年以下の懲役、情状により300万円以下の罰金を併科される[88]。 また1991年より、薬物犯罪に対する国際的な協力への対応を主な目的とし、薬物犯罪収益の剥奪等を定めた国際的な協力の下に規制薬物に係る不正行為を助長する行為等の防止を図るための麻薬及び向精神薬取締法等の特例等に関する法律の適応対象ともなった[89]。 中国 LSDは刑法各則第6章第7節により規制されており、販売や密造や輸出入等、行為内容自体よりも取扱量により罰則が違う点に特色がある(使用に関しては行政処分はあるものの刑法上の処罰はない)。取扱量が極少量であった場合は3年以下の懲役、罰金を併科、情状により3年以上7年以下の懲役、罰金を併科となる。取扱量が少量であった場合は7年以上の懲役となり、罰金を併科される。取扱量が大量であった場合、または逮捕される際に武装して抵抗した場合、麻薬犯罪組織の首謀者または国際的麻薬犯罪組織に関わっていた場合は15年の懲役または無期懲役もしくは死刑となり、財産を没収される[90]。 アメリカ アメリカでは連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが(例えば1967年当時、アリゾナ州の州法ではLSDの所持は1年以下の懲役もしくは1000ドル以下の罰金または併科、使用は初犯の場合は1年以下の懲役または1000ドルの罰金、累犯の場合は1年以上10年以下の懲役もしくは5000ドルの罰金または併科、売買は1年以上15年以下の懲役もしくは10000ドル以下の罰金または併科となっていた。これに対しミシシッピ州の州法では所持と製造は1回目の場合は2年以上5年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、2回目の場合が5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、3回目以上の場合は10年以上20年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、売買は初犯の場合は5年以上10年以下の懲役と2000ドル以下の罰金、累犯の場合は終身刑、ただし売買相手が未成年者であった場合は最高で終身刑と20000ドル以下の罰金となっていた[91])、LSDは1970年に規制物質法のスケジュール1、「濫用の可能性があり、かつ医学的用途のない薬物」に分類された[92]。 イギリス LSDは1971年薬物乱用法においてクラスAに定められている。所持は7年以下の懲役もしくは無制限の罰金、または併科となり、売買や生産は最高で終身刑もしくは無制限の罰金、または併科となる[93]。 オーストラリア オーストラリアには連邦法や州法等、様々な法が存在するために運用は複雑であるが、LSDは薬物及び毒物の画一的分類基準においてスケジュール9、「研究用途に限定され、使用、所持、販売や譲渡、製造は一切禁止される薬物」に分類されている[94]。 カナダ LSDは規制薬物及び物質法おいてスケジュール3に分類されている。所持、使用は3年以下の懲役、略式起訴による場合は、初犯は1000ドル以下の罰金もしくは6ヵ月以下の懲役または併科、累犯の場合は2000ドルの罰金もしくは1年以下の懲役または併科となる。施用、売買、輸出入または営利目的の所持は10年以下の懲役、略式起訴による場合は18ヵ月以下の懲役となる[95]。 脚注 注釈 出典 参考文献 Text "和書 " ignored (help)(原著 LSD-MEIN SORGENKIND, 1979) Text "和書 " ignored (help)(原著 FLASHBACKS, 2nd edition, 1ed:1983, 2ed:1990) Text "和書 " ignored (help)(原著Electric Kool-Aid Acid Test, 1969) Text "和書 " ignored (help)(原著 , 1985) Text "和書 " ignored (help)(原著 Psychedelic Drugs Reconsidered, 1979) 関連項目 ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ トランスパーソナル心理学 - スタニスラフ・グロフ 外部リンク - サンド研究所のホームページ - アルバート・ホフマンの誕生100年を記念したシンポジウム - LSDやその他薬物に関する情報サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/LSD%20%28%E8%96%AC%E7%89%A9%29
{'plaintext_start_byte': array([ 0, 293, 679, 1068, 1439, 1594, 1757, 2014, 2441, 2709, 3665, 4837, 5955, 6805, 7155, 7411, 7804, 8181, 8340, 9479, 10453, 11465, 12179, 12294, 12920, 13178, 13528, 15635, 15729, 16481, 16949], dtype=int32), 'plaintext_end_byte': array([ 285, 678, 1067, 1431, 1586, 1756, 2013, 2440, 2708, 3642, 4836, 5954, 6804, 7154, 7410, 7803, 8180, 8339, 9478, 10406, 11464, 12129, 12293, 12919, 13177, 13505, 15634, 15728, 16458, 16934, 17367], dtype=int32)}
遊牧民とは何ですか?
遊牧民
japanese
{'passage_answer_candidate_index': array([0], dtype=int32), 'minimal_answers_start_byte': array([62], dtype=int32), 'minimal_answers_end_byte': array([159], dtype=int32), 'yes_no_answer': array(['NONE'], dtype=object)}
遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは<b data-parsoid='{"dsr":[89,99,3,3]}'>遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。 概念 似た概念に<b data-parsoid='{"dsr":[192,201,3,3]}'>移牧民</b>があるが、こちらは季節ごとに移動しても定住地を持つ点が異なる。英語では、ノマド(nomad)がほぼ相当する言葉だが(語源はギリシア語のノマデス νομάδες)、牧畜以外の生業を取る移動型の人々(ジプシーなど)を含んでいる。 遊牧民の存在は人類の歴史に大きく影響を与えてきた。特にユーラシア大陸の歴史においては、西アジアで牧畜の場を定住集落から離れて拡大する集団、すなわち遊牧民が誕生したことと、中央ユーラシアで遊牧民が騎馬技術を獲得したことの2つは、歴史の流れを大きく変えたと言える。 農耕民に比べて人口がはるかに少ないにも関わらず、生まれながらの騎兵である遊牧民は古代から中世にかけて強大な軍事力を誇った。特にモンゴル帝国は太祖チンギス・カンが没した時点でユーラシア大陸の大半を版図におさめるという、空前絶後の大帝国であった。 遊牧 家畜を時間と空間的に移動させながら植生、水、ミネラルなどの自然資源を利用する生活と生産様式である。 特徴 遊牧民は、一箇所に定住することなく、居住する場所を一年間を通じて何度か移動しながら主に牧畜を行って生活する。 多くの場合、1家族ないし数家族からなる小規模な拡大家族単位で家畜の群れを率い、家畜が牧草地の草を食べ尽くさないように、その回復を待ちながら、定期的に別の場所へと移動を行う。 遊牧民は定住型の人々からは一般にあてどもなく移動しているかのようなイメージを抱かれやすいが、実際には拡大家族ごとに固有の夏営地、冬営地などの定期的に訪れる占有的牧地をもっていることが普通で、例年気候の変動や家畜の状況にあわせながら夏営地と冬営地をある程度定まったルートで巡回している。 遊牧民の生活している地域は乾燥帯、ツンドラなどおおよそ農耕には向かない厳しい気候であるため、もっとも厳しい冬を越すための冬営地では数十から数百の家族単位で集団生活を営む例が多い。 遊牧民のもうひとつの特徴は、生活に交易活動が欠かせないことである。そもそも遊牧生活では、ミルク、毛皮、肉などを入手することは容易だが、穀類や、定住を要する高度な工芸品を安定的に獲得することが困難である。そのため、多くの場合、遊牧民の牧地の近辺には定住民、特に農耕民の居住が不可欠である。そのため、遊牧民は移動性を生かして岩塩や毛皮、遠方の定住地から遊牧民の間を伝わって送られてきた遠隔地交易品などを隊商を組んで運び、定住民と交易を行ってこれらの生活必需品を獲得してきた。一見素朴な自給自足生活を送っているような印象を受ける遊牧民の牧畜も、ヤギやヒツジ、ウマといった商品性の高い家畜の売買によって成り立ってきた部分は大きい。 歴史上の遊牧民 騎馬遊牧民は、銃砲の時代の到来まで、その人口に比して極めて大きな軍事力を発揮した。農耕民族は、農地や地場産業を維持する必要上、外征戦においてはその人口の1/30の動員がせいぜいであり、またそのような大量動員の際には非熟練兵士を多く抱えることとなる。騎馬部隊は少数の補助戦力にとどまるため、機動力を発揮しにくい。対して遊牧民は老幼の者と奴隷以外のほとんどの男性が熟練した騎兵となり、生活習慣上、移動を常としていた為、女性と非戦闘員男性もその後方から随伴し、生産と補給を並行して行っていた。また一箇所に留まらないため、その根拠地を掃討することも困難である。生身の人間には到底太刀打ち出来ない、圧倒的な速度と重量を併せ持つ騎兵の一斉突撃は、歩兵の陣形を容易に蹴散らすことが可能であった。当然、騎射にも優れ(パルティアンショット)、これを用いた一撃離脱戦法は彼等の最も得意とするところであった。 世界史上、もっとも大きな影響を及ぼした遊牧民は、北アジアのモンゴル高原から中央アジア、イラン高原、アゼルバイジャン、カフカス、キプチャク草原、アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカン半島まで至るY字の帯状に広がるステップ地帯にあった騎馬遊牧民たちである。彼らは、匈奴、サカ、スキタイの時代から、パルティア、鮮卑、突厥、ウイグル、セルジューク朝、モンゴル帝国などを経て近代に至るまでユーラシア大陸全域の歴史に関わり、遊牧生活によって涵養された馬の育成技術と騎射の技術と卓越した移動力と騎兵戦術に裏打ちされた軍事力で歴史を動かしてきた。中世以降は軽装騎兵が騎射で敵軍を混乱させ、重装騎兵が接近戦で敵軍を打ち破る戦法が用いられた。遊牧民を介してユーラシア大陸の東西はシルクロードなどを用いて交流し、中国で発明されたと言われる火薬などの技術が西に伝わった。 まとまった勢力として文献資料に初めてあらわれるのはキンメリア人であり、紀元前8世紀頃、南ロシア平原に勢力を形成したとされる。これに次ぎ、同じく南ロシア平原にスキュタイ人が現れる。スキュタイ人については、ヘロドトスの書物の記載が有名である。同じく歴史に登場するペルシアのアケメネス朝もまた遊牧民を支配層とした国家である。アケメネス朝は後に続く広域国家の源流といわれる。紀元前4世紀頃から匈奴が中国の文献に登場し始め、紀元前3世紀には後へ続く遊牧国家の源流となる広域国家を形成した。西暦元年前後にイラン・イラクを支配した遊牧民系国家のパルティアは優れた騎射技術を持っていた。 4世紀頃に遊牧民族のフン族が引き起こしたゲルマン民族の大移動が西ローマ帝国が滅亡した大きな要因であると言われている。その後も、遊牧民族の柔然、突厥、回鶻、契丹が強大な軍事力でモンゴル高原からキプチャク草原に至るステップ地域を席巻した。 中世の中央アジア西部や東ヨーロッパでは、遊牧民族のテュルクやモンゴルやアヴァールやブルガールやハザールやキプチャクやペチェネグやマジャルなどの諸勢力・部族が覇権を争った。 13世紀頃、モンゴル帝国はモンゴル高原、中国、中央アジア、イラン、イラク、アナトリア、東ヨーロッパを支配するなど、強大な軍事力でユーラシア大陸を席巻した。モンゴル高原に割拠した遊牧民の部族は「モンゴル」「メルキト」「ナイマン」「ケレイト」「タイチウト」などである。 モンゴル帝国はやがて分裂・崩壊していったが14世紀後半になるとその後継を自負するティムール朝がトゥーラーン、マー・ワラー・アンナフル、ホラーサーン、ヒンドゥースタン、イラン、イラクを支配し、16世紀には更にその後継政権としてムガル帝国がインドに建国された。 14世紀にはアナトリアにオスマン帝国が興り、東ヨーロッパ、黒海沿岸、シリア、エジプト、イラクなどを支配した。 秦以降の長期間にわたり中国を統一した中華帝国は、前漢、新、後漢、晋(西晋・東晋)、明以外の元、清などは遊牧民の王朝そのものか、その援助によって成立していた。匈奴は1世紀に南北に分裂し、南匈奴は後漢に服属し、北匈奴は後漢、烏桓、鮮卑に圧迫されてその姿を消した。ゲルマン民族の大移動を引き起こしたフン族が北匈奴の残党であるという説は有名である。西晋は南匈奴系の劉淵、劉聡に滅ぼされた(永嘉の乱)。この頃、東アジアで鐙が発明され、騎兵の戦闘力は向上した。南北朝時代を経て北朝の各王朝は北魏(東魏、西魏)、北斉、北周および隋を成立した楊堅と唐を成立した李淵も漢化した鮮卑系と言われている[1][2][3]。また、ある学者は趙匡胤が成立した宋(北宋・南宋)漢族王朝に疑問を持っている[4]。元は遊牧民の帝国であるモンゴル帝国の一部である、軍事力として多くのモンゴル集団を従属させている。 しかし、これら遊牧民の軍事的活躍は、鉄砲や大砲などの銃砲火器が発達するに連れて、下火となっていく。技術の進歩によって、射程距離、連射速度を伸ばした鉄砲の一斉射撃は、騎兵の突撃を騎射の射程外からも返り討ち出来るほどの水準となった。また大砲は軽量化、高性能化していって様々な場所に展開できるようになり、遊牧民の陣地も素早く、遠距離から一方的に攻撃できるようになった。戦術も発達し、三兵戦術の概念が編み出され、騎兵のみに偏った遊牧民の戦術は時代遅れなものとなっていった。また、農耕民は経済、科学力を発達させ、合理性に則って都市を建設していった。こうして出来上がった都市の行政機構は、遊牧民の略奪を容易に許さなくなっていった。 中央ユーラシア遊牧民の民族概念 遊牧民の集団では同盟の締結、指導者家系の婚姻による成員及び家畜群の持参金的分割合流、あるいは政治・軍事的理由での他集団の配下への統合など言語や祖先系譜を異にする他集団との融合が頻繁に生じる。また、指導者家系における新世代の独立などによる集団の分裂も日常的である。そのため、歴史的に祖先、言語、文化を共有するとされる近現代的民族観と、遊牧民における集団の統合意識、同族意識にはきわめて異質なものがある。例えば、現在中央アジアに分布する多くのテュルク系「民族」、例えばウズベク人、タタール人といった遊牧民に由来する「民族」の多くが中世のモンゴル帝国においてチンギス・カン一族やモンゴル高原出身の武将の指揮下に再編成された中央アジアのテュルク・モンゴル系の遊牧民集団に起源を持つ。 実際には個々の遊牧集団は上記のように移動生活成員自体が複合的な種族構成を持つのみでなく、冬営地における夏季の留守番要員や農耕要員を包含する。さらに遊牧国家クラスの大集団になると支援基地として都市を建造してそこに行政事務をつかさどる官僚組織や手工業組織を配するなど多種族複合的な性格が強い。この種の遊牧国家の人造都市の特徴は権威の象徴としてのモニュメント的な見せる都市としての意味合いが強い。その典型がウイグルのオルド・バリクや元の大都である。 中央ユーラシア遊牧民の文化的特徴 中央ユーラシアの遊牧騎馬民共通の文化的特徴として、数々の点が指摘されている。 実力主義 指導者は、能力のある者が話し合いで選出される 農耕民に比べて女性の地位が高い 能力があれば異民族でも受け入れて厚遇する 男女を問わず騎馬と騎射に優れる、必然的に機動性に富むあり様がそのまま武力に直結している 人命(人材)の尊重 情報を重視し、勝てない相手とは争わない 実際の戦闘はなるべく行わず、指導者間の交渉で解決する 非完結の社会 社会の維持に非遊牧世界の技術・製品・税を必要とするため領域内に農耕都市を抱え込む などである。これらは人口が少ないがゆえの合理性に基づく。 抱え込む農耕都市が増加し支配下の都市間が交易などにより文化的・経済的に一体化することによって広域国家が発生する[5]。 これらの文化は、遊牧に起源をもつものであるが、現代の国民国家、産業社会においてその遊牧的慣習は抹殺される傾向にある。その一因として、現代型の民族観、国家観と遊牧民の持つ集団編成原理に相容れない性格がある事が挙げられる。 遊牧民の食生活 モンゴルでは人間は「赤い食べ物」と「白い食べ物」で生きているという考えがあり、赤が肉、白が乳製品を指す。冬場は肉を食べる。干し肉等に加工して保存する。乳からはバター、チーズ、ヨーグルト、馬乳酒なども作る。朝は乳茶も飲む[6]。肉食中心の遊牧民の生活において、馬乳酒は貴重な野菜の替りにビタミンやミネラルを補うものとして夏場を中心に大量に飲まれている。酒とはいうものの、アルコール分は1-3%程度であり、水分、エネルギー、ビタミンC補給源として赤ん坊から年寄りまで飲用する[7]。酒というよりは限りなくヨーグルトに近い乳酸飲料であり、これだけで食事替りにしてしまうほどの夏のモンゴルの主食的存在である。大体1日に0.5 - 1.5リットル位を摂っているという報告が殆どだが、中には1人1日平均4リットルを飲んでいるという驚くべき調査結果もある。馬乳酒を1日3リットル飲むと1,200キロカロリーに相当し、基礎代謝に相当する。発酵の過程で増殖する酵母や乳酸菌は、モンゴルでの乏しい食物繊維の替わりに、菌体が腸管老廃物を吸着して排出させている可能性がある[8]。北京農業大学の研究では、馬乳酒には12種類の人体必須微量元素、18種類のアミノ酸、数種類のビタミン群が含まれていた。乳酸菌がビタミンCを生成し、野菜を摂らない遊牧民のビタミンC補給源となっている[6][8]。馬乳酒にはビタミンCが100 mlあたり8-11 mg含まれている[9]。馬乳中の乳糖は発酵によりその多くがアルコール、乳酸または炭酸ガスに変換されるので乳糖不耐症の問題も起こりにくい。[10]。夏季に遊牧民が食事を摂らず馬乳酒のみで過ごしていることが旅行記[11]に記されている[10]。ただ乳糖不耐症のモンゴル人もなかにはいる[12][13][14]。 淡水魚、野菜、果物は通常入手できないため、ほとんど食べない[6]。 上記のように肉(馬肉や山羊肉。ホルホグなど伝統料理がある)、乳製品、馬乳酒が必要なエネルギーとタンパク質を提供し、不足している糖分は体内でのアミノ酸からの糖新生で補われ、ミネラル、ビタミン類は馬乳酒が提供し、酵母と乳酸菌が食物繊維の代替を果たしている。必須脂肪酸については、家畜が自然の草を餌とするため肉、乳製品、馬乳酒にω-3脂肪酸とω-6脂肪酸がほどよいバランスで含まれている。偏った食事ではあるが、必要な栄養素はすべてそろっていて健康を維持できることになる。また魚を食べることもある[15]。 脚注 参考文献 Alain Romane, nomades in the world, cambridge London 2004. Gérard Chaliand, Les Empires nomades de la Mongolie au Danube: Ve siècle av. J.-C. - XVIe siècle, Perrin, 1995 (2e éd. revue et corrigée) J-M.Durand, Les Documents épistolaires du palais de Mari, 3 vol., Le Cerf, LAPO, Paris, 1997, 1998, 2000. GOGUEL, Frédéric. «Les chrétiens sous la férule des ayatollahs» dans Résister et Construire, Lausanne, nos 37-38, janvier 1997, p. 58-62. 関連項目 農耕民族 騎馬民族 ベドウィン スズキ・エスクード - 同車の初代(1990年の5ドア車の追加から1996年のマイナーチェンジまで)のサブネームに与えられた「ノマド」の由来。1990年代に放映されたエスクードのコマーシャルで、同車が「『遊牧民』という名の車」というキャッチコピーが話題になったこともある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E7%89%A7%E6%B0%91